ヴェルヌ作/木村庄三郎訳
八十日間世界一周
目 次
一 フィリアス・フォッグとパスパルトゥーとが主従の契約を結ぶこと
二 パスパルトゥーがついに理想の人物を発見したと信じること
三 フィリアス・フォッグにとっては高価につくであろう会話が始まること
四 フィリアス・フォッグが従僕パスパルトゥーをびっくり仰天させること
五 新しい有価証券がロンドン取引所に現われること
六 フィックス刑事が当然な焦燥を示すこと
七 規則上旅券の提出は不要なことを繰り返し話すこと
八 パスパルトゥーがしゃべること、あるいは、しゃべりすぎること
九 紅海とインド洋とがフィリアス・フォッグの企てに幸いすること
十 パスパルトゥーは幸運にも靴をなくしただけでまぬがれたこと
十一 フィリアス・フォッグが信じられない値段で乗物を買うこと
十二 フィリアス・フォッグの一行がインドの森林を突破して事件に出会うこと
十三 運命は大胆な者にほほえみかける、ということを一度ならずパスパルトゥーが示すこと
十四 フィリアス・フォッグはガンジス川のすばらしい渓谷に沿って下ること、ただしそれを見ようとはしないこと
十五 札束のはいった鞄がさらに数千ポンドだけ軽くなること
十六 フィックスはまるで知らぬふりをして話を聞くこと
十七 シンガポールからホンコンへの航海中いろいろなことが問題になること
十八 フィリアス・フォッグ、パスパルトゥー、フィックスが、それぞれ自分のために用事を果たすこと
十九 パスパルトゥーはあまりに主人に関心を持ち、そして、それにつづいて起こったこと
二十 フィックスがフィリアス・フォッグと接触すること
二十一 タンカディア号の船長は百ポンドの賞金を危うく失いそうになること
二十二 パスパルトゥーは地球上の反対側の地点においても若干の金を持たなければならないと気がつくこと
二十三 パスパルトゥーの鼻が途方もなく長くなること
二十四 太平洋横断航海を果たすこと
二十五 政治的集会の日にサンフランシスコを瞥見すること
二十六 フィリアス・フォッグとその連れたちとが太平洋急行で旅行すること
二十七 パスパルトゥーが一時間二十マイルの速力で運ばれながらモルモン教の由来を聴かされること
二十八 パスパルトゥーは道理を述べたがだれをも説得できなかったこと
二十九 合衆国の鉄道にしか起こらないさまざまな出来事が語られるであろうこと
三十 フィリアス・フォッグが躊躇なく義務を行なうこと
三十一 フィックス刑事がフィリアス・フォッグの利益を真剣に考えること
三十二 フィリアス・フォッグが不運に対して敢然と戦いを挑むこと
三十三 フィリアス・フォッグは事に臨んで善処することができること
三十四 パスオアルトゥーがいつになく辛辣な酒落をとばすこと
三十五 パスパルトゥーは主人の命令を二度と主人に繰り返させないこと
三十六 フィリアス・フォッグ株がふたたび市場で額面以上になること
三十七 結末……フィリアス・フォッグは世界一周旅行から何物も得ず、ただ幸福だけを得たこと
解説
一 フィリアス・フォッグとパスパルトゥーとが主従の契約を結ぶこと
一八七二年のことである。
その邸宅は、ロンドン、バーリングトン・ガーデンズ地区、サヴィル街七番地にあった。かつて一八一六年、シェリダンがそこで亡くなった邸宅である。
その邸宅には、いま、フィリアス・フォッグなる紳士が住んでいた。彼はロンドンの改革クラブの会員であった。このクラブの会員たちの中には、とかく世間の噂の種になる一風変わった人物が多かった。フィリアス・フォッグも、そういう人物のひとりにちがいなかったが、しかし彼としては、できるだけ、そういう奇矯《ききょう》な行為は避けるように心がけていた。
イギリスの誇る大雄弁家のひとり、シェリダンのあとをついで、フィリアス・フォッグはこの邸宅に住んだわけである。世人は彼がきわめて信義を重んじる人物、イギリス上流社会の中でももっとも紳士らしい紳士のひとり……ということは知っていた。しかし、その他については何も知らなかった。いわば謎の人物であった。
彼はバイロンに似ているといわれていた。ただし似ているのは顔だけで、足は非の打ちどころのないほど端正であった。彼は口ひげと頬ひげとのあるバイロン……情熱に身をほろぼさず、それどころか、すこしも年をとらずに千年でも生きたであろう泰然たるバイロンであった。
フィリアス・フォッグは、たしかにイギリス人にちがいなかったが、たぶんロンドン人とはいえなかったであろう。株式取引所でもイングランド銀行でも、シティーのいかなる会社でも、彼の姿を見た者はなかった。ロンドン港の碇泊区やドッグがフィリアス・フォッグ所有の船を入れたことは一度もなかった。彼はいかなる管理者の会議にも出席したことがなかった。彼の名は弁護士学校でも聞かれなかった。四法学院でも聞かれなかった。彼が大法院や、女王座部や、財務裁判所や、教会裁判所で弁護したことは一度もなかった。
彼は工業家でもなく、貿易業者でもなく、商業や農業の経営者でもなかった。彼は王立大英協会、ロンドン協会、手工業者協会、ラッセル協会、西方文学協会、法学協会、そして、あの女王陛下直接の保護下にある芸術・科学綜合学会……そのいずれにも属していなかった。彼はまた当時イギリスの首都ににわかにふえつつあった雑多な協会……たとえばハーモニカ協会から、害虫駆除を目的として設立された昆虫協会にいたるまで、そのいずれにも属していなかった。
要するにフィリアス・フォッグは改革クラブの会員であった。そのほかの何者でもなかった。
では、どうして、この謎のような紳士が名誉あるクラブの会員に加えられていたのか、不思議に思う人があるかもしれないが、理由はこうだ。
彼はベアリング兄弟商会の推薦によってクラブへの入会を許されたといわれていた。とにかく彼はベアリング兄弟商会に当座預金があった。彼の振り出す小切手は、いつも貸し方にある彼の当座預金から即座に正確に決済された。そのことによって彼は確実な「信用」を得ていたのである。
フィリアス・フォッグは金持ちだったのか? たしかに金持ちだった。だが、それなら、どうして金持ちになったのか? そうなると、もっとも事情に通じた者にもわからなかった。フォッグ氏自身にたずねてみるのは無駄だった。というのは、そういう問題に関して彼ほど口の堅い人はなかったからである。
いずれにせよ、彼はけっして浪費家ではなかった。といって吝嗇家《りんしょくか》でもなかった。吝嗇家どころか、彼は高尚、有益、あるいは慈善的な事業に対しては、いたるところでひっそりと、ときには匿名《とくめい》でさえ、かならず寄付を怠らなかった。
事実、この紳士ほど打ち解けない人はなかった。話さない人はなかった。そして、話さなければ話さないほど彼は神秘的にみえた。しかも一方では、彼ほど公明正大に暮らしている人はなかった。しかし、その公明正大さとは、毎日々々、数学的に……といってもいいほど正確に同じ行為を繰り返していることであった。それを見る想像力のゆたかな人は、その目に見える表面にあきたらず、ついその裏面を考えずにはいられないくらいであった。
彼には旅行の経験があったであろうか? たぶん……。というのは、彼ほど世界地理に精通《せいつう》している者はなかったからだ。彼は世界のどんな遠隔な土地についても彼独自の知識を持っているようにみえた。行く方不明になった旅行者たちに関して、改革クラブではよく噂が飛びかったが、そういう場合、彼はしばしば、しかし一言で、簡潔明瞭に、それらの噂のあやまりを指摘した。彼はまるで千里眼のように、起こり得るあらゆる事態を推理した。そして結局、事件の結末はつねに彼の推理の正しさを証明した。彼は世界じゅう、到るところを旅行したのにちがいなかった。すくなくとも頭の中では……。
しかし、今日まで長いあいだフィリアス・フォッグがロンドンを離れなかったことも事実であった。
彼について他の人々より、いささか余計に知っている人たちは次のように断言した。「クラブ以外で、あるいは彼が毎日自宅を出てクラブへ通う道筋以外で、彼に会ったといえる人はだれもないだろう」
彼のもっとも好む気晴らしは、新聞を読むことと、ホイストをすることとであった。ホイスト、この沈黙のゲームには、彼は天性の才能を持っていた。彼はしばしば勝った。しかし彼は、その勝った金を、けっしてポケットには入れなかった。それは慈善事業に対する彼の予算の中に組み込まれた。それは相当な金額にのぼった。それに……これは言っておかなければならないが、フォッグ氏は、あきらかに金を儲《もう》けるために賭をするのではなく、賭のために賭をするのであった。賭は彼にとっては戦い……困難に対する戦いであったが、しかし、それは彼の性格には、もっとも適したものであった。というのは、それは運動もともなわず、移動もともなわず、したがって肉体的疲労もともなわない戦いだったからである。
フィリアス・フォッグに妻子があるかどうか、だれも知らなかった。……妻子がないということは生真面目な人間には、往々にしてあり得ることであるが……しかし彼に親類があるか友達があるか、それさえだれも知らなかった。そして、これはたしかに異常なことにちがいなかった。
フィリアス・フォッグはサヴィル街の邸に、たったひとりで住んでいた。彼の邸にはいった者はだれもなかった。まして彼の家庭について知っている者はだれもなかった。
彼には彼に仕えるひとりの従僕がいれば、それで十分であった。彼はクラブで同じ時間に、同じ部屋で、同じテーブルで昼食をとり、晩餐《ばんさん》をとった。……精密機械の正確さだ。けっしてクラブの会員を供応しなかった。クラブの会員以外を招待しなかった。夜、帰邸して午前零時に就寝した。改革クラブには会員が自由に使える快適な部屋がたくさんあったが、彼はけっしてそれらを使わなかった。二十四時間のうち、十時間は邸にいた。眠るためと身支度をするためとだ。邸の中を散歩するときには、かならず規則正しい歩調で、玄関の広間、円形の歩廊……そのどちらかを散歩した。玄関の広間の床は寄せ木細工で張られていた。円形の歩廊の上には青ガラスの円屋根があり、それはイオニア式の赤斑岩《せきはんがん》の円柱の列で支えられていた。
彼がクラブで昼食や晩餐をとるとき、彼のテーブルには栄養豊富な珍味佳肴《ちんみかこう》が並べられたが、それらはすべてクラブの調理室や食料品室、あるいはクラブ出入りの魚介商や牛乳・乳製品商を通じて提供されたものであった。燕尾服《えんびふく》、メルトン底の靴、風采《ふうさい》堂々たるクラブのボーイたちが給仕した。料理は特製の磁器に盛られ、特製のザクセンのテーブルクロスの上に並べられた。酒類は、クラブでもいまはめったに使わない、これも特製のグラスにつがれた。シェリー酒、ポートワイン、それから肉桂《にくけい》、ホーライシダ、シナモンなどの香料入りのボルドー酒。しかも、それらの酒類をいつも適当な冷たさに保っておくためには、クラブが多額の費用をかけてアメリカの湖水から取り寄せた氷が使われた。
もしフィリアス・フォッグの、こうした生活が偏屈《へんくつ》なものだとしたら、偏屈もまた楽しいかな、である。
サヴィル街の邸は華美ではないが、すこぶる便利にできていることでは有名であった。しかも邸の借り主、フィリアス・フォッグの生活が簡素をきわめていたから、彼に仕える者は幸いであった。彼はいつも、ただひとりの従僕しか使わなかった。そして、その従僕に次のことしか要求しなかった。時間厳守と、極端なまでの正確さ……。
その日……一八七二年十月二日、フィリアス・フォッグは新しい従僕の来るのを待っていた。というのは、いままでいた従僕のジェームズ・フォスターは、きょうかぎり解雇《かいこ》したからだ。(フォスターはまだ邸にいたが)フォスターは過失をおかした。主人のひげ剃り用の湯は華氏八十六度にきまっているのに、八十四度の湯を持ってきたからである。
新しい従僕は十一時から十一時半までのあいだに来ることになっていた。
フィリアス・フォッグは肘《ひじ》掛け椅子に四角に腰かけていた。まるで衛兵勤務についている兵士のように両足をそろえ、両手を膝に置き、頭をまっすぐに立てていた。そして振り子時計の針の進むのを見つめていた。この時計は精巧きわまるもので、何時・何分・何秒はもとより何年・何月・何日まで示す。十一時半が鳴ったら毎日の習慣どおり邸を出て改革クラブへ行かなければならない。
フィリアス・フォッグは小さなほうの客間にいた。ドアをノックする音が聞こえて、解雇されたジェームズ・フォスターが現われた。
「新規の者がまいりました」と、彼は言った。
新参者がはいってきた。三十歳ぐらい、といっても、まだ若者と呼んでもいい感じの男であった。挨拶をした。
「きみはフランス人で、名前はジョンだね?」と、フィリアス・フォッグがたずねた。
「失礼ですが、ジャンでございます」と、若者は答えた。「ジャン・パスパルトゥー。このパスパルトゥーは、わたくしが天性、どんな難関でも、わけなく打開できるので世間がつけた緯名《あだな》でございます。わたくしは自分では、まじめな人間だと思っておりますが、正直なところ、いろいろなことをして世間を渡り歩いてまいりました。旅回りの歌うたい、サーカスの曲馬師……レオタールのように軽業《かるわざ》もやりましたし、ブロンタンのように綱《つな》渡りもやりました。わたくしの才能をいっそう生かすために体操の教師もやりました。それから最後にはパリで消防士をやりました。たびたび有名な火災にも会いましたので、消防士としてのわたくしの経歴は相当なものでございます。しかし結局、いまから五年前、フランスを去ってイギリスにまいり、従僕として主人に仕える身になりました。いわゆる家庭生活を味わってみたくなったのでございます。ところで、ただいま、たまたま勤め口がないところへ、フィリアス・フォッグ氏が連合王国で、もっとも厳格な、またもっとも孤独を好む紳士だとうかがいましたので、本日、参上したしだいでございます。お邸で静かな生活をさせていただき、パスパルトゥーなどという緯名を忘れてしまいたいのが、わたくしの念願でございます」
「パスパルトゥーとは気に入った」と、紳士は答えた。「雇うことにする、紹介状で、きみのことはよくわかっている。こちらの条件は知っているね?」
「はい、旦那さま」
「よろしい。ところで、いま何時だね?」
「十一時二十二分でございます」と、パスパルトゥーはチョッキのポケットから大型の銀時計を取り出しながら答えた。
「きみの時計は遅れている」とフォッグ氏は言った。
「失礼ですが、けっして、そんなことは……」
「四分遅れている。が、まあ、それはどちらでもいい。必要なのは、きみがその遅れを確認しておくことだ。……では、いまから、すなわち一八七二年十月二日、水曜日、午前十一時二十九分から、きみはわたしの従僕になる」
そう言うと、フィリアス・フォッグは立ちあがり、左手で帽子を取り、かぶり、一語も残さずに部屋を出ていった。まるで機械人形の動作である。
パスパルトゥーは玄関のドアの閉まる音を二度聞いた。一度は新しい主人の出かける音、二度目はジェームズ・フォスターの帰っていく音であった。
パスパルトゥーはサヴィル街の邸宅にひとり残された。
二 パスパルトゥーがついに理想の人物を発見したと信じること
最初、パスパルトゥーは、ひどく面くらった。そして思った。(たしかに、こんどの主人はタッソー夫人の生き人形だ)
ちなみにテュソー夫人の生き人形とは、蝋細工《ろうざいく》の人形で、ほんとうの人間そっくり。違っているのは口をきかないだけ。ロンドンにあるその展示館には見物人がたえない。
パスパルトゥーは、ほんの数分間フィリアス・フォッグに会っただけだが、そのあいだに素早く、しかし入念に未来の主人を観察した。四十歳ぐらい。容姿端整。長身だが、痩《や》せすぎてもいず太りすぎてもいない。髪と頬ひげとはブロンド。額はなめらかで、こめかみのあたりにも皺《しわ》ひとつない。顔は血色がいいとはいえず、むしろ青白い。歯は輝くように白い。彼は観相家のいわゆる「動中静」を最高度にそなえ、すなわち不言実行型の人間に共通な秘めたる能力を比類なく持っているようにみえた。泰然自若《たいぜんじじゃく》、澄んだ目、動かない瞼《まぶた》、それは連合王国でしばしば見うけられるところの冷静沈着なイギリス人の完璧な典型であった。彼のアカデミックな風貌は、アンジェリカ・カウフマンが驚くべき巧みさで描いた肖像画をも思わせた。
フィリアス・フォッグの日常生活を見ていると、それはルロワやアーンショーの創ったクロノメーターを思わせた。つまり正確で誤差がなく、あらゆる部分が完全に均衡のとれている存在、という感じがした。まったく、この紳士の精神は正確そのもので、それは彼の両手両足の動きにもあきらかに見てとれた。というのは人間も動物と同じく、四肢そのものも内なる精神の表現器官であるからだ。
フィリアス・フォッグは、あの数学的に正確な人々のひとりであった。そういう人々は、けっして急がず、けっして遅れない。その歩度や運動をつねに調整している。フィリアス・フォッグは最短の距離を行くが、けっして大股には歩かなかった。けっして必要以上に目を高めなかった。けっして余分な動作はしなかった。彼が感動したり困惑したりするのを見た人はだれもなかった。彼は世の中で、もっとも急がない人、しかも、もっとも時間を厳守する人であった。
それはともかく、彼は孤独で暮らしていた。社会と無縁で暮らしていた。そして、そのことは彼としては当然なことといえたであろう。もちろん彼といえども人生においては、ある程度、他人との交流が必要なことは知っていた。しかし交流は一朝一夕に成るものではない。煩《わずら》わしい。だから彼はあらゆる人間関係を避けていたのである。
一方、ジャン、綽名《あだな》パスパルトゥーは正真正銘のパリっ子であった。五年このかたイギリスに住んで従僕を職業としていたが、まだ、これこそ真の主人と思える人には出会わなかった。
パスパルトゥーはけっして、あのフロンタンやマスカリーユのともがらではなかった。つまり人を小馬鹿にしたように肩をそびやかしたり、ツンと鼻を上向けたり、ジロジロと横柄な目つきで人を眺めたり、そして、あげくの果ては笑止千万な出過ぎたまねばかりする、そういう連中のひとりではなかった。それどころかパスパルトゥーは、正直の上に馬鹿がつくような、律義一徹《りちぎいってつ》な若者であった。愛嬌《あいきょう》のある顔だち。唇はちょっと突き出ていて、それはさながら、いつも味わい楽しもうと、あるいは愛撫しようと用意しているかのようにみえる。丸い恰好のいい頭は、見るからに優しい親切な人柄を思わせる。そういう頭が友達の肩の上にのっているのを見ると、人はだれでも嬉しくなるものだ。
青い目、血色のいい顔。かなり太っていて、自分で自分の頬のふくらみが見えるくらいだが、脂肪ぶとりではなく、頑健そのものだ。胸幅は広く、背は高く、筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》、とくに多年の運動によって鍛えあげたヘラクレスのような腕力を持っている。褐色の髪は、すこぶる強い。もし古代ローマの彫刻家たちが女神ミネルバの髪の形を造るのに十一の方法を心得ていたとすれば、パスパルトゥーは自分の髪を整えるのにただ一つの方法しか知らない。大きな櫛《くし》で三度梳く。髪はできあがる。
ところで、この若者の外向的な性格が、フィリアス・フォッグの孤独を好む性格と調和するかどうか、そこまでいくと、どんな口の軽いものでも、とっさには断言できない。パスパルトゥーが主人にとって完全に正確な従僕になり得るかどうか、それは今後の経験だけが教えてくれるであろう。
前述したとおり、パスパルトゥーは放浪の青春を過ごしたあとで安息を求めた。イギリスはメソディスト教徒の国、冷静沈着な紳士の国として誉れ高い。その国にあこがれて彼は故国フランスに別れをつげ、一旗《ひとはた》あげるつもりでイギリスへやってきた。しかし、事、志《こころざし》とちがった。どこにも安住の地は見出せなかった。十軒の家に勤めたが、それらの家の主人たちは、あるいは気まぐれで落ち着きがなかったり、あるいは冒険や旅行を好んだりした。つまり、パスパルトゥーの期待に反する連中ばかりであった。最後の主人、若い国会議員のロングスフェリー卿《きょう》にいたっては、毎晩、ヘイ・マーケットの牡蛎《かき》料理店で酔っぱらって、しばしば警官の肩にすがって帰宅する始末であった。パスパルトゥーは主人を尊敬したい一心で、たびたびロングスフェリー卿に、礼儀正しく、しかし断固として忠告したが、かえって主人の感情を害したので、やむなく暇をとった。そこへフィリアス・フォッグ氏が従僕を求めていることを聞き、そして氏がどんな人物であるかを知った。氏の生活はきわめて規則正しい。外泊をしない。旅行をしない。パスパルトゥーは、これこそわが望む主人だと思い、すでに読者の知られるとおり氏を訪ねて、その従僕となったのである。
こうしてパスパルトゥーは、十一時半が鳴ったとき、サヴィル街の邸宅にひとり残された。
彼はさっそく邸じゅうを調べはじめ、地下室から屋根裏部屋まで見て回った。この邸は、いかにも清潔で整然としていて、すべての物が在るべきところに在り、働くのにはまったく好都合にできていた。彼はすこぶるわが意を得た。彼にはこの邸が美しいカタツムリの殻《から》のように思われた。ガスで照らされ暖められている美しいカタッムリの殻……一酸化炭素と水素との化合物があらゆる照明および暖房に用いられている美しいカタツムリの殻のように思われた。
彼は三階にある従僕用の部屋をすぐ見つけた。部屋は気に入った。部屋は、二階および中二階の部屋々々と電鈴と通話管とでつながれていた。従僕用の部屋の暖炉の上にある電気時計はフィリアス・フォッグの寝室にある電気時計に通じていて、それら二つの時計は同時同分同秒を示していた。
申し分ない、とパスパルトゥーは思った。
気がつくと、自分の部屋の時計の上に、なにか小さな紙が張ってあった。日々の勤務の時間表だ。フィリアス・フォッグは午前八時起床、午前十一時半に外出。改革クラブで昼食をとるためだ。起床から外出までの三時間半のあいだに、パスパルトゥーは、いろいろ細かなサービスをしなければならない。午前八時二十三分には、お茶とトーストを持って行く。九時三十七分には、ひげ剃り用の湯を持って行く。九時四十分には主人の調髪をする。以後、深夜十二時……この機械のような紳士が就寝する時間までの、あらゆることが予測され、整理されている。パスパルトゥーはおおいに愉快な気持ちになった。さあ、きょうから、この時間表の項目を暗記して実行しよう。
主人の衣裳戸棚を開けてみた。驚くべきほど整理されていた。ズボン、上着、チョッキなどは、その通し番号がノートに記入され、それによって、それらの衣裳は季節にしたがって順番に用いられるようになっていた。靴についても同様であった。
要するに、このサヴィル街の邸宅は、不羈奔放《ふきほんぽう》な名士シェリダンが住んでいた頃には、なにもかも減茶苦茶だったのにちがいないが、いまは室内の装飾、家具、いっさいが快適で、見るからに住み心地がよさそうであった。ただし図書室もなければ、一冊の本さえなかった。フォッグ氏にはそれらは必要がなかったからだ。というのは改革クラブには文科関係、法科関係、二つの図書館があって、氏はそれらを自由に利用することができたからである。……寝室には中型の金庫があって、それは火災や盗難に対して、きわめて堅固な構造であった。武器は狩猟用にせよ戦闘用にせよ、邸じゅう探しても一つもなかった。この邸では、すべてのものが平穏無事な習慣を表わしていた。
パスパルトゥーは、邸のどんな細部をも調べ終ると、さも嬉しそうに手をこすり合わせ、顔をほころばせながら繰り返し思った。(ありがたい、ありがたい! このうちこそ、おれにふさわしい! おれたちは……フォッグ氏とおれとは、いずれ一心同体になるだろう。フォッグ氏には、むら気がない。いつも同じだ。まったく機械そのものだ! ところで、おれは機械に仕えて後悔しない人間だ!)
三 フィリアス・フォッグにとっては高価につくであろう会話が始まること
フィリアス・フォッグは午前十一時半、サヴィル街の邸を出た。左足の前に右足を五百七十五たび踏み、右足の前に左足を五百七十六たび踏んだ。改革クラブに着いた。改革クラブはペルメル街にある宏壮な建物で、建築費は百二十万ポンドを要した。
フィリアス・フォッグは、すぐ食堂にはいった。食堂には九つの窓があり、それらの窓は美しい庭園を見晴らし、樹木の葉は……すでに秋だ、黄ばみかけていた。彼はいつもと同じ食卓についた。テーブルクロスと、その上の一揃いの食器とが彼を待っていた。
昼食が次々と運ばれた。オードブル、最高級のリーディング・ソースをかけたボイルドフィッシュ、香り高いマッシュルームを付け合わせた血のしたたるようなローストビーフ、大黄《だいおう》の地下茎やスグリの実をまぜたパイ、チェシャーチーズ。……食後には、改革クラブの食料品貯蔵室とっておきの極上の紅茶が数杯。
十二時四十七分に彼は席を立つと、大広間へ歩を運んだ。大広間は、豪華な額縁《がくぶち》に入れられた多くの名画で飾られていた。ひとりの給仕が、まだページの切られていないタイムズ紙を持ってきた。フィリアス・フォッグは注意ぶかく、そして器用にページを切った。見事な手つきだ。それはこの厄介な仕事に対する彼の長年の習慣を表わしていた。彼は三時四十五分までタイムズ紙を読み、それから晩餐《ばんさん》の時刻までスタンダード紙を読んだ。晩餐は昼食と同じコースであったが、王室用ブリティッシュ・ソースが用いられた。
五時四十分、彼はふたたび大広間へ戻り、モーニング・クロニクル紙に読みふけった。
三十分後、改革クラブの会員たちが数人、大広間にはいってきて暖炉に近づいた。暖炉には石炭が燃えていた。彼らはフィリアス・フォッグ氏のトランプ仲間で、いずれもフォッグ氏同様、大のホイスト狂であった。技術家のアンドリュー・スチュアート、銀行家のジョン・サリバンとサミュエル・ファレンティン、ビール醸造業のトマス・フラナガン、イングランド銀行副総裁のゴーシャー・ラルフ。彼らは、産業界・金融界の巨頭が会員になっているこのクラブでも有数の、富あり地位ある人々であった。
「ところで、ラルフ」とトマス・フラナガンがたずねた。「例の窃盗事件だが、あれはどうなるだろう?」
「うん、あれか」と、アンドリュー・スチュアートがかわって答えた。「結局、損をするのは銀行だろう」
「とんでもない!」と、ゴーシャー・ラルフが言った。「犯人はつかまるよ。すでに腕ききの刑事たちがアメリカやヨーロッパの主な港に派遣された。彼らは乗降客に目を光らせる。その目を逃れることは、とてもできない」
「しかし、その泥棒の人相や風体《ふうてい》はわかっているのかね?」と、アンドリュー・スチュアートがたずねた。
「第一、そいつは泥棒なんかではない」と、ゴーシャー・ラルフは、真面目な口調で答えた。
「なんだって! 銀行紙幣で五万五千ポンド盗んだ男が、泥棒ではないと言うのか?」
「そうだ」と、ゴーシャー・ラルフは答えた。
「では、そいつは、れっきとした実業家とでも言うのか?」と、ジョン・サリバンが言った。
「紳士だよ、モーニング・クロニクル紙によれば……」と、いきなり答えたのは、ほかならぬフィリアス・フォッグであった。新聞紙の波の上に顔を出した。顔を出すと、仲間たちに挨拶をした。仲間たちも挨拶を返した。
目下、連合王国の諸新聞を賑わしているこの事件は、三日前、すなわち九月二十九日に起こった。山のような札束が……五万五千ポンドが、イングランド銀行の支配人の机から忽然《こつぜん》と消え失せたのだ。
あり得べからざることだ、と言う人に対して、イングランド銀行副総裁のゴーシャー・ラルフは、ただ単にこう答えていた。
「当時、支配人は三シリング六ペンスの入金を記入するのに忙しかった。そして人間は、だれしもすべてのことに目を配ることはできないものだ」
しかし、この事件をいささかわかりやすくするためには、次のことを指摘しておかなければならない。イングランド銀行という壮麗な建物は、極端なまでに公衆の名誉を重んじているようにみえる。守衛もいない、退役兵士もいない、格子もない! 金貨・銀貨・紙幣は置きっ放しで、いわば、だれでもありがたく頂戴できるようになっている。人を見たら泥棒と思え、などとは、とんでもないことだ。こういうイギリス的風習をもっともよく観察している者のひとりは、次のようなことを話す。
ある日、ひとりの男が、イングランド銀行の一室にいた。重さ七、八ポンドもしそうな金塊が、支配人の机の上に置いてあった。その男は好奇心から、それをもっとよく見たいと思い、手に取ってさんざん眺めた。それから、それを隣の人に手渡した。隣りの人も、またその隣りの人に手渡した。こうして金塊は手から手へと渡って薄暗い通路のはずれまで行き、もとの場所に戻ってくるまでには三十分かかった。しかも、そのあいだ支配人は一度も目をあげて金塊のほうを見ようとはしなかった。
しかし九月二十九日の場合は、こうはうまくいかなかった。札束は戻ってこなかった。応接室の豪華な大時計が五時を打って閉店を告げたとき、イングランド銀行は五万五千ポンドを損益勘定《そんえきかんじょう》の借り方に記入せざるを得なかった。
盗難が確認されると、選り抜きの刑事たちが主要な港へ……リヴァプール、グラスゴー、ルアーブル、スエズ、ブリンジジ、ニューヨークなどへ急派された。彼らのうち事件の解決に成功した者には、賞金二千ポンド、および回収された金額の十五パーセントが与えられる、と約束された。こうしてただちに開始された捜査が情報をもたらすまで、刑事たちは出入国する旅行者たちにきびしい監視の目を光らすことになった。
ところで、モーニング・クロニクル紙の報じるところによれば、犯人はイギリスのいかなる盗賊団にも属していなかった。そして、この推理には確かな根拠があった。というのは事件当日、すなわち九月二十九日、容姿端整、人品いやしからざる紳士が、イングランド銀行の広い支払い室を……事件の現場を、行きつ戻りつしているのを目撃した人があるからだ。
目撃者の証言によって、この紳士の、できるだけ正確な人相書きが作られ、それらは連合王国および大陸のあらゆる刑事たちに送られた。こうして事件に対して楽観的な人々は……ゴーシャー・ラルフもまたそのひとりであったが……犯人はかならず逮捕されると信じていた。
当然、この事件はロンドンはもとよりイギリスじゅうの話題になった。人々は首都の警察が成功するかしないかについて熱中し、議論した。まして改革クラブの会員たちが同じ問題について大いに論じ合ったのは……というのはゴーシャー・ラルフがその関係者のひとりであったから……怪しむにたりなかった。
ゴーシャー・ラルフは、提供された賞金が刑事たちの熱意と機敏とをいっそう煽《あお》るであろうことを期待して、捜査の成功を信じて疑わなかった。ところが仲間のアンドリュー・スチュアートは、そんなことはまったく信じなかった。そこでホイストのテーブルに向かい合っていた紳士たちのあいだでは、また議論が始まった。スチュアートはフラナガンと相対して掛け、ファレンティンはフィリアス・フォッグと相対して掛けていた。三番勝負が始まると、みんな黙ったが、それが終ると、中断されていた会話は、いっそう熱をおびてつづけられた。
「軍配は賊のほうにあがるだろう。ぼくはそう思うよ」と、アンドリュー・スチュアートは言った。「なにしろ相当なしたたか者らしいからね」
「ばかな!」と、ラルフが答えた。「やつが逃げ込む国なんて、もうどこにもないよ」
「なんだって!」
「では、どこへ逃げ込むんだね?」
「そんなことは知らないが」と、アンドリュー・スチュアートが答えた。「しかし、とにかく世界は広いからね」
「昔は広かった……」と、フィリアス・フォッグがなかば独り言のように言った。そして、トマス・フラナガンの前にカードを置きながらつけ加えた。「さあ、切りたまえ」
議論は三番勝負のあいだ中断されたが、それがすむと、またすぐアンドリュー・スチュアートが始めた。
「昔は広かったって! では、地球はだんだん狭くなったのかね?」
「たしかに狭くなった」と、ゴーシャー・ラルフが口を出した。「ぼくはフォッグ君の意見に賛成だ。地球は狭くなった。なにしろ今日では、百年前にくらべると十倍も早く地球を一周できるようになったからね。したがって、こんどの事件でも捜査は非常に早くなるはずだよ」
「ということは、それだけ賊の逃げ足も早くなったということだよ!」
「さあ、スチュアート君、また、きみの番だ。カードを切りたまえ」と、フィリアス・フォッグが言った。
しかし、スチュアートは懐疑派だった。人の言うことに、すぐ、うんとは言わない質であった。勝負がすむと、また始めた。
「ラルフ君、失礼だが、地球が狭くなったなどとは冗談もいいところだ。もっとも今日では、三か月もあれば地球を一周することができるかもしれないがね」
「三か月どころか、八十日だ」
「そのとおり、諸君」と、ジョン・サリバンがつけ加えた。「ロタールからアラハバートまで大インド半島鉄道が開通して以来、八十日になった。ここにモーニング・クロニクル紙がある。正確な旅程表が出ているよ」
ロンドンからモンスニ峠およびブリンジジ経由スエズまで、鉄道ならびに商船で七日。
スエズからボンベイまで、商船で十三日。
ボンベイからカルカッタまで、鉄道で三日。
カルカッタからホンコンまで、商船で十三日。
ホンコンからヨコハマ(ニッポン)まで、商船で六日。
ヨコハマからサンフランシスコまで、商船で二十二日。
サンフランシスコからニューヨークまで、鉄道で七日。
ニューヨークからロンドンまで、商船ならびに鉄道で九日。
合計、八十日。
「なるほど八十日だ!」と、アンドリュー・スチュアートは無意識に切り札を出しながら叫んだ。「しかし、そう理屈どおりにはいかないよ。悪天候、逆風。船が遭難したり、汽車が事故を起こしたりしたら!」
「そういうことも、すべて計算に入れてのことだ」と、フィリアス・フォッグはゲームをつづけながら言った。いまやホイストよりも議論のほうが重要だ、というような口調であった。
「しかし、万一ということがあるじゃないか! もしヒンドゥー教徒やインド人が線路を破壊したら!」と、アンドリュー・スチュアートはなおも叫んだ。「もし、彼らが汽車を止めたり荷物を略奪したり、旅行者の頭の皮をはいだりしたら!」
「それもすべて計算に入れてのことだ」と、フィリアス・フォッグは自分のカードをテーブルの上に並べながらつづけた。「さあ、切り札二枚。こんどは、きみの番だ」
アンドリュー・スチュアートはカードをまぜ合わせて取りあげながら言った。
「計算ではそうだろうが、さて実際となると……フォッグ君?」
「実際にもそうだよ、スチュアート君」
「では、一つ実際にやってみたら……フォッグ君?」
「きみがやるなら、ぼくもやる。どうだ、いっしょに出かけるとしようか?」
「とんでもない!」と、スチュアートは叫んだ。「でも、ぼくは四千ポンド賭けてもいい……そんなスケジュールで、そんな旅は、とてもできないというほうにね」
「できないどころか、できるよ」と、フォッグ氏は答えた。
「では、やってみたまえ!」
「八十日間で世界一周だね?」
「そうだよ」
「よし、やってみる!」
「いつ出かける?」
「これから、すぐ!」
「気ちがい汰沙《ざた》だ!」と、アンドリュー・スチュアートは叫んだが、相手の強気には、いささかたじたじとなった。「とにかくゲームをつづけよう」
「では、もう一度、カードをまぜたまえ」と、フィリアス・フォッグは答えた。「いまのは配りそこないだったからね」
アンドリュー・スチュアートは、心ここにあらず、というような手つきでカードを取りあげたが、ふいにカードをテーブルの上に置いてしまった。
「よし、フォッグ君」と、彼は言った。「ぼくは賭けるよ。四千ポンド賭けるよ」
「スチュアート君」と、ファレンティンが言った。「落ち着きたまえ。そうむきになることではないよ」
「いや、ぼくは賭けると言ったら賭ける」と、アンドリュー・スチュアートは答えた。「男子に二言はない」
「よかろう」と、フォッグ氏は言った。そして仲間たちを見回した。「ぼくはベアリング兄弟商会に二万ポンド預金がある。賭に負けたら、それを出す。あとで文句は言わないよ」
「二万ポンド!」と、ジョン・サリバンが叫んだ。「不測の事態が起きて約束の時間に遅れたら、きみは二万ポンド損するんだよ」
「不測の事態なんて起きないよ」と、フィリアス・フォッグは平然と答えた。
「しかし、フォッグ君、この八十日間というのは最短期間だよ」
「最短期間だって十分だよ、うまくやれば……」
「うまくやる? でも、それには汽車から汽船へ、汽船から汽車へ、まるで軽業のように飛び移らなければならないよ」
「軽業《かるわざ》のように飛び移るよ」
「冗談言うのはよしたまえ」
「真のイギリス人は、けっして冗談は言わない。ことに、これは賭《かけ》だ。真剣だ。冗談どころではない!」と、フィリアス・フォッグは答えた。「八十日間といえば千九百二十時間……十一万五千二百分だ。そのあいだに、ぼくは世界を一周してみせる。もし、ぼくが失敗したら二万ポンド出す。そのかわり、もし成功したら二万ポンドもらう。だれか賭けないか?」
「賭けるとも!」とスチュアート・ファレンティン、サリバン、フラナガン、ラルフの五人は異口同音に叫んだ。
「よろしい!」と、フォッグ氏は言った。「ドーバー行きの汽車が、今夜、八時四十五分に出る。それに乗る」
「今夜?」と、スチュアートがきいた。
「今夜!」と、フィリアス・フォッグは答えた。そしてポケット用のカレンダーを見て、つけ加えた。「きょうは十月二日、水曜日だから、旅を終えてロンドンに着き、この改革クラブの広間に帰ってくるのは十二月二十一日、土曜日、午後八時四十五分だ。もし、それまでに帰ってこなかったら、ぼくの名義でベアリング兄弟商会に預けてある二万ポンドは事実上および法律上、きみたちの所有になる。……さあ、これが二万ポンドの小切手だ」
賭の契約書が作製されると、すぐに関係者六人が署名した。フィリアス・フォッグは、相変わらず落ち着き払っていた。というのは、彼は勝つために賭をしたのではなかった。彼はただ単に二万ポンドを……彼の全財産の半分を賭けたのであった。なぜなら彼は、たとえ賭に勝ったにせよ、この困難を克服し、この計画が実行不可能なものでないことを証明するためには、財産の残り半分を費やしても惜しくはない、と覚悟していたからである。
一方、相手方は動揺の色を隠しきれなかった。というのは、賭の金額は問題ではなかったが、こういう条件で賭をすれば勝つにきまっているので、なんとなく、うしろめたかったからである。
そのとき七時が鳴った。相手方はフォッグ氏に、出発の用意もあろうからホイストはこのへんでやめにしよう、と言った。
「心得ている!」と、このいつも泰然自若たる紳士は答えた。そして、カードを配った。
「ダイヤが切り札だ。さあ、きみの番だ、スチュアート君」
四 フィリアス・フォッグが従僕パスパルトゥーをびっくり仰天させること
七時二十五分、フィリアス・フォッグはホイストで二十ギニばかり儲《もう》けたあとで、仲間たちに別れを告げて改革クラブを出た。七時五十分、玄関のドアをあけて邸の中にはいった。毎日の時間表を念には念を入れて暗記していたパスパルトゥーは、フォッグ氏が、こんな思いもかけない時間に帰邸したのを見て、びっくりした。時間表によれば、主人の就寝は午前零時だからだ。
フィリアス・フォッグは、そのまま自分の寝室にあがって 行った。そして呼んだ。
「パスパルトゥー」
パスパルトゥーは返事をしなかった。時間外だから呼ばれるはずはなかった。
「パスパルトゥー」と、フォッグ氏はまた呼んだ。声は高めなかった。
パスパルトゥーは姿を現わした。
「二度、呼んだよ」と、フォッグ氏は言った。「でも、いつもの時刻ではございません」と、パスパルトゥーは自分の時計を手にしながら答えた。
「わかっている。とがめはしない。われわれは十分後に、ドーバー、カレーへ出発する」
フランス人の丸い顔には、瞬間、怪訝《けげん》な表情がうかんだ。主人の言葉の意味がわからなかったのだ。
「どちらへお出かけでございますか、旦那さま?」
「出かける」と、フィリアス・フォッグは答えた。「きみといっしょに世界を一周する」
パスパルトゥーは目を丸くし、眉をつりあげ、腕をひろげた。驚きのあまり卒倒しそうになった。
「世界一周!」と、彼はやっとつぶやいた。
「八十日間で……」と、フォッグ氏は答えた。「だから一刻の猶予《ゆうよ》もならない」
「ですが、トランクは?」と、パスパルトゥーは思わず頭を左右に振りながら言った。
「トランクはいらない。小さな旅行|鞄《かばん》一つあればいい。入れるのは毛のシャツ二枚と靴下三足。きみも同じだけ入れたまえ。あとは途中で買えばいい。ぼくのレインコートと旅行用の膝掛けを持ってきてくれたまえ。ああ、それから丈夫な靴をはいていきたまえ。歩くことは、あまりないと思うがね。さあ、急ぐんだ」
パスパルトゥーは返事をしたいと思ったが、声が出なかった。主人の寝室を出、自分の部屋にあがると椅子にくずおれ、下品な国言葉でつぶやいた。
「ちくしょう! いやんなっちゃうな。せっかく静かに暮らしたいと思ったのに……」
それから機械的に立ちあがると、言いつけられた旅の支度を始めた。八十日間世界一周! 主人は、頭が狂ったのではなかろうか! まさか! それなら冗談か? ドーバーへ直行、それからカレーへ直行……しかし、結局のところ、それはパスパルトゥーにとっては、けっしていやなことではなかった。というのは、この律義な若者は五年間、パリの土を踏まなかったからだ。
いずれにしても主従はパリまではいくのにちがいなかった。なつかしいパリがまた見られることは、パスパルトゥーにとって嬉しくないはずはなかった。しかし、フォッグ氏のように出歩くことのきらいな紳士なら、パリまでで旅をやめるであろう、パリより先へはいかないであろう、と予想するなんの理由もなかった。……しかも、そうだ、この出不精の紳士は、まさに旅立とうとしているのだ!
八時、パスパルトゥーは小さな旅行鞄に自分と主人との衣類を詰め終った。まだ狐《きつね》につままれたような気持ちであったが、自分の部屋のドアにしっかり鍵をかけると、主人の寝室へいった。
フォッグ氏は待っていた。もうブラッドショーの「大陸鉄道案内」をかかえていた。この本は、こんどの旅行に必要な、あらゆる指示を与えてくれるものだ。フォッグ氏はパスパルトゥーの手から旅行鞄を受け取ると、それを開いて、あらゆる国で通用するイングランド銀行発行の真新しい紙幣の大きな束を詰め込んだ。
「なにも忘れ物はないね?」と、彼はたずねた。
「なにもございません、旦那さま」
「ぼくのレインコートと膝掛けとは?」
「ここにございます」
「よろしい。さあ、鞄を持ちたまえ」
フォッグ氏はパスパルトゥーに鞄を渡すとつけ加えた。「気をつけてくれたまえ。この中には二万ポンドはいっているからね」
パスパルトゥーは、危うく鞄を落としそうになった。まるで二万ポンドがすべて金貨で非常に重い、とでも感じたかのように……。
主人と従僕とは階下におりた。玄関のドアには二重に鍵をかけた。辻馬車のたまり場はサヴィル街のはずれにあった。フィリアス・フォッグと従僕とは辻馬車に乗った。辻馬車はチャリングクロス駅に急いだ。駅は南東鉄道の支線の一つに接している。
八時二十分、辻馬車は駅に着いた。パスパルトゥーが飛び降りた。つづいてフィリアス・フォッグが飛び降りて御者に払った。
そのとき、ひとりの女乞食が子どもの手を引いてフォッグ氏に近づいてきて施《ほどこ》しを乞うた。ぼろぼろな服と肩掛け、破れた帽子からはよじれた羽根飾りがたれ、はだしで泥の中に立っている。フォッグ氏は、さっきホイストで勝った二十ギニを女乞食に渡した。
「さあ、おかみさん」と、彼は言った。「いいところであんたに会った!」
そして行き過ぎた。
パスパルトゥーは目のうるむのを感じた。主人は一歩、彼の心に近づいたのだ。
フォッグ氏と彼とは駅の広いホールにはいった。フィリアス・フォッグは彼にパリ行きの一等切符を二枚買ってくるように言いつけた。そして振り向くと、改革クラブの仲間が五人、立っていた。
「諸君、ぼくは出発する」と、彼は言った。「ぼくのパスポートには各国のビザが押されるから、ぼくが帰ってきたとき、それらを見れば諸君はぼくの旅程を検査することができるわけだよ」
「いや、フォッグ君!」と、ゴーシャー・ラルフが丁重に答えた。「それにはおよばない。きみは紳士だ。ぼくらはきみを信じているよ」
「ありがとう」と、フォッグ氏は言った。
「そのかわり約束どおり帰ってくるんだね」と、アンドリュー・スチュアートが念をおした。
「帰ってくるとも、八十日たったら……」と、フォッグ氏が答えた。「一八七二年十二月二十一日、土曜日、午後八時四十五分。忘れないよ。……では諸君、ごきげんよう」
八時四十分、フィリアス・フォッグと従僕とは同じ車室に席を占めた。八時四十五分、汽笛が鳴り汽車は動きだした。
暗い夜だった。小雨が降っていた。フィリアス・フォッグは座席の隅にゆったりともたれて黙っていた。パスパルトゥーのほうは、まだ夢に夢見る心地で無意識に、紙幣の入った鞄を抱きしめていた。
汽車がシドナムにかかろうとしたとき、パスパルトゥーは絶望的な叫びをあげた。
「どうしたのだ?」と、フォッグ氏がきいた。
「それがその……急ぎましたもので……つい忘れてまいりました」
「何を?」
「わたくしの部屋のガス燈を消しますのを……」
「では、きみ」と、フォッグ氏は冷然と答えた。「ガス代はきみの負担だ」
五 新しい有価証券がロンドン取引所に現われること
フィリアス・フォッグはロンドンを出発するに当たって、彼の計画が世間の大評判になる、などとは思ってもみなかった。賭のニューズは、まず改革クラブ内に伝わり、会員たちを非常に驚かせた。ついで、このニューズは新聞記者たちによって各新聞社に伝わり、ロンドンはもとより、連合王国じゅうを興奮の渦《うず》に巻きこんだ。八十日間世界一周問題について人々は、またもやアラバマ号賠償問題が起こったかのように熱烈に議論し、検討し、批評した。ある人々はフィリアス・フォッグを支持し、別の人々は……これらの人々のほうが、のちには圧倒的に多くなったが、フィリアス・フォッグに反対した。後者は、原則論や机上の空論ならともかく、実際に、このような最短期間で、しかも現在の交通機関によって世界一周をすることなど、不可能なばかりでなく狂気の沙汰だ、というのであった。
タイムズ紙、スタンダード紙、イブニング・スター紙、モーニング・クロニクル紙をはじめとして多くの主な新聞は、いっせいにフォッグ氏に反対の意見をかかげた。ただデーリー・テレグラフ紙だけが、ある程度、フォッグ氏を支持した。しかし世間一般はフォッグ氏を偏執狂《へんしゅうきょう》扱いし、のみならず改革クラブの友人たちをもフォッグ氏の精神異常を示すにすぎない賭に応じた、と言って非難した。
この問題については非常に熱烈な、しかし理路整然たる記事も現われた。周知のとおりイギリス人は、とくに地理に興味を持っている。それゆえ、あらゆる読者は階級のいかんにかかわらず、フィリアス・フォッグ事件を取り扱った記事となると貧《むさぼ》るように読んだ。
大胆な人々は……婦人たちに多かったが、最初はフィリアス・フォッグを支持した。ことにイラストレイテッド・ロンドンニューズ紙が改革クラブの書庫にあったフォッグ氏の写真を転載してからは、彼の人気は上昇した。紳士たちのなかには、あえてこう言う人々もあった。
「ふん、結局のところ、どうして一周してはいけないんだ? もっと奇想天外なことだって行なわれたじゃないか!」
こういうことを言う人々は、とくにデーリー・テレグラフ紙の読者に多かった。しかし、この新聞さえ二、三日たつと、その論調が軟化するのを人々は感じた。
ところへ十月七日、すなわちフィリアス・フォッグの出発後五日、王立地理学会会報に長い論文が掲載された。この論文は、あらゆる見地から問題を検討して、この計画が無謀なことを徹底的に証明した。この論文によれば、すべてのことが旅行者に不利であった。この計画を成功させるためには各交通機関の発着時間が奇跡的に一致しなければならなかったが、そういう一致は存在せず、また存在し得なかった。ヨーロッパの比較的短距離を走る汽車なら定刻どおり到着することもあり得るが、汽車でインドを三日間で、アメリカ合衆国を七日間で横断するとなると、その正確さを期待して、このようなスケジュールを組むことはとてもできなかった。機関車の故障、脱線、衝突、悪天候、積雪。フィリアス・フォッグはあらゆることと戦わなければならなかった。汽船についても同じことが言えた。なにしろ時候は冬に向かうことだし、風や霧に妨げられることもあるのにちがいなかった。大西洋横断の快速船でも、往々二日や三日は遅れる。錨鎖が切れて、すぐには修理できないだけのことでも一日の遅れには十分だ。ましてフィリアス・フォッグが汽船の出帆に数時間でも遅れると、彼は次の汽船を待たなければならず、そうなったら彼の旅行は決定的に失敗するのにちがいなかった。
この論文は大きな反響を呼んだ。ほとんどあらゆる新聞がこの論文を転載し、それによってフィリアス・フォッグ株は急遠に下落した。
彼の出発後、最初のうちは彼の計画の成否に対して大きな賭が行なわれた。周知のようにイギリスでは、賭をするある種の人々は、いわゆる一般的な賭博者《とばくしゃ》より、より知識的な、より高い階級に属している。それはとにかくイギリス人は天性、賭好きだ。それゆえ改革クラブのさまざまな会員たちはもとより一般大衆までも、この気運に巻き込まれ、争って賭をした。
フィリアス・フォッグは、さながら馬匹血統台帳に登録された競馬馬であった。彼の名の記載された証券は市場価値を生じ、たちまちロンドン取引所で売買されるようになった。「フィリアス・フォッグ株」は額面通りで、あるいは額面以上で売買された。取引高は莫大になった。しかし、彼の出発後五日、前記王立地理学会の論文が公表されると、売り手がふえ始めた。「フィリアス・フォッグ株」は下落した。株は束で売られた。最初は一束五枚で買われたが、それが十枚となり、ついには五十枚、百枚でなければ買う者がなくなった。
そのとき、たったひとりの人だけがフィリアス・フォッグを信頼し支持していた。それは中風病みで、いつも肘掛け椅子に釘づけになっている老人アルビマール卿であった。この貴族は、たとえ十年かかっても世界を一周することができたら全財産を与えてもいいと、かねて思っていた。彼はフィリアス・フォッグに五千ポンド賭けた。そして、人々がフィリアス・フォッグの企てが愚かであるばかりでなく、なんの役にもたたないと言うたびに、ただこう答えるばかりであった。
「もし、この企てを成しとげることができたら、最初にやったのはイギリス人だということになる。それだけでもいいではないか!」
情勢は、このようであった。フィリアス・フォッグの支持者は日に日に減少した。やがて、すべての人が……無理からぬことではあったが、彼に対して反対の立場をとった。フィリアス・フォッグ株は額面の百五十分の一、いや二百分の一でも引き受け手はほとんどなくなった。ところへ彼の出発後七日、晴天の霹靂《へきれき》ともいうべき事件が起こり、彼の株はまったく無価値になってしまった。
その日、午後九時、警視総監は次のような電報を受け取った。
スエズ発ロンドン宛
ロンドン、スコットランドヤード
ロウアン警視総監殿
銀行|窃盗《せっとう》犯人フィリアス・フォッグを追跡中。ただちにボンベイ(英領インド)へ逮捕状送られたし。
この電報の効果は間髪《かんはつ》を入れなかった。名誉ある紳士は、たちまちイングランド銀行発行紙幣の窃盗犯人に早変わりしてしまった。改革クラブに保管されていた彼の写真が……改革クラブには全会員の写真が保管されていた……子細に検討された。それは捜査のため作られ配られた容疑者の人相書きと寸分ちがわなかった。人々は彼が神秘的だったこと、孤独だったこと、そして突然出発していったことを思い浮かべた。彼が世界一周などと言いだして、しかも気違いじみた賭までしたことは、イギリスの警察当局の裏をかくためで、それ以外に彼にはなんの目的もなかった、と人々は信じるようになった。
六 フィックス刑事が当然な焦燥を示すこと
フィリアス・フォッグなる者に関し、前記の電報が発せられた事情は次のとおりである。
十月九日、水曜日、午前十一時、半島・極東汽船会社のモンゴリア号はスエズに入港する予定であった。同船は二千八百トン、名目五百馬力、上甲板を備えた、スクリューで進む鋼鉄蒸気船であった。定期航路はスエズ運河を通ってブリンジジからボンベイまで。……モンゴリア号は半島・極東汽船会社の快速船の一つで、正規の速力はブリンジジ〜スエズ間は時速十マイル、スエズ〜ボンベイ間は時速九マイル半であったが、いつも時速を上回って航海していた。
モンゴリア号の到着を待ちながら、ふたりの男が埠頭《ふとう》をぶらぶらしていた。あたりには現地人や外国人が群れていた。スエズは最近までは小さな町にすぎなかったが、レセップスの偉業によって急に人口がふえ、将来の繁栄を約束されていた。
ふたりの男のひとりはスエズ駐在のイギリス領事で、毎日、スエズを通るイギリス船に注意していた。この運河は、イギリス政府が判断をあやまり、かつイギリスの技術家ステファンソンが成功見込みなしと予言したのにもかかわらず開通され、イギリスから喜望峰を回ってインドへ行く旧航路の距離を半減したのである。
もうひとりは頭のよさそうな、神経質らしい容貌の、痩せた小男で、しきりに眉をぴくぴくさせていた。長いまつげをとおして鋭い目が光っていたが、彼はその目の光を思いのままに消すことができた。いま、彼はじっと一つところに立っていられず、さも、苛《いら》だたしそうに行ったり来たりしていた。この男の名はフィックス。イングランド銀行窃盗事件後、各国の港に派遣されたイギリスの刑事たちのひとりであった。フィックスの任務は、スエズを通過するあらゆる旅客を厳重に監視して、もし彼らの中に怪しい者がいたら、逮捕状のくるまで、その者を尾行することであった。
フィックスが警視庁から事件の容疑者の人相書きを受け取ったのは、ちょうど二日前であった。この人相書きは、イングランド銀行の現金支払い室で目撃された容姿端整、人品いやしからざる人物のそれであった。
刑事は成功のあかつきに与えられる莫大な賞金に目がくらんでいた。モンゴリア号の到着を待ちかねていることは、ひと目でわかった。
「領事殿」と、彼はまたもやたずねた。「船は延着しない、と言われましたね?」
「けっして延着しません、フィックスさん」と、領事は答えた。「船はきのうポートサイドから電信を打ってきました。運河の全長百六十キロメートルは、あの快速船にとっては物の数でもありません。それに、さっきも言ったとおり、モンゴリア号は、いつもかならず二十五ポンドの奨励金を政府からもらいます。規定の時間より二十四時間早く航海すると、政府は奨励金を出すことにしているのです」
「船はブリンジジから直行してくるのですね?」
「そうです。ブリンジジでインド向け貨物を積んで、土曜日の午後五時に出帆したのです。ご心配にはおよびません。しかし、犯人がモンゴリア号に乗っているとしても、あなたの受け取った人相書きだけで犯人と断定できるかどうか、わたしにはまったくわかりませんね」
「領事殿」と、フィックスは答えた。「断定ではなく、嗅《か》ぎつけるのです。必要なのは勘《かん》です。この勘は、耳よりも目よりも鼻よりも正確な、一種特別な感覚です。わたしはいままでに何度も、紳士づらをした犯人を逮捕したことがありますから、もし、やつが船に乗っていたら、のがしっこありません。きっと、逮捕してご覧に入れます」
「よろしくお願いします。なにしろ重要容疑者ですからね」
「大泥棒です」と、刑事はしだいに興奮しながら言った。「五万五千ポンド! こんな大物には、めったにお目にかかれません! 当節は泥棒も、すっかりみみっちくなってしまいましたからね。ジャック・シェパードのように肝っ玉のすわったやつはひとりもいません! なにしろ、この頃の泥棒ときたら、わずか数シリングのことで首をくくられる始末ですからね!」
「フィックスさん」と、領事は答えた。「お話をうかがっていると、ぜひ成功を祈らずにはいられません。しかし、失礼ながら繰り返して申しあげると、こういう情況で、あなたが成功なさることは、かなり困難ではないかと思います。あなたの受け取った人相書きでは、その泥棒は、どこから見ても堅気な人間に見えますからね」
「領事殿」と刑事は、てんで受けつけようとはしなかった。「大泥棒は、いつも堅気な人間に見えるものです。ご承知でしょうが、ひと目で悪党と知れる面《つら》つきのやつらには、一つの方法しか残されていません。つまり堅気《かたぎ》な人間をよそおうことです。そうしないと、つかまってしまいます。堅気そうに見える人間の正体を見破るのが、われわれの仕事です。おっしゃるとおり困難な仕事です。しかし、これはもはや職業ではありません。一種の芸術です」
このフィックスという男は、なかなかの自信家、あるいは自惚《うぬぼ》れ屋らしかった。
ところで埠頭は、だんだん混雑してきた。各国の水夫たち、商人たち、仲買人たち、荷揚げ人足たち、それからエジプト人の農民たちが集まってきた。汽船の到着が近づいたのだ。
天気はよかったが、いつもの東風が吹いていて寒かった。町のところどころに回教礼拝堂の塔がそびえ、それらは太陽の光に鈍く光っていた。南に向かって二千メートルの突堤が一本、腕のようにスエズ湾に延びていた。紅海には点々と漁船や沿岸航海船が浮かび、それらの沿岸航海船のいくつかは古代のガリー船の優美な実物大模型を思わせた。
フィックスは群集の中をぶらつきながら、職業上の習慣で鋭い視線を通行人のひとりひとりに注《そそ》いでいた。
ちょうど十時半。
港の大時計が鳴るのを聞きながら、彼は「船は着かない!」 と思わず叫んだ。
「船は、すぐそこまできているはずです」と、領事が答えた。
「スエズには何時間、碇泊《ていはく》しますか?」と、フィックスがたずねた。
「四時間。石炭を積み込む時間です。スエズから紅海のはずれのアデンまでは千三百十マイルありますから、燃料を補給する必要があるのです」
「船はスエズからボンベイへ直航するのですか?」と、フィックスがまたたずねた。
「直航します。途中で積み荷をおろすことはありませんから」
「それでは」と、フィックスが言った。「もし犯人が船に乗っていたら、かならずスエズで降りるはずです。スエズから別の船で、アジアのオランダ領かフランス領へ行くでしょう。インドへ行くのが危険だということは知っているのにちがいありません。インドはイギリス領ですからね」
「その男は非常なしたたか者かもしれませんね。それでなければ海外へは逃げませんよ」と、領事が答えた。「イギリスでは、普通、犯人はロンドンに潜伏します。ロンドンにいるのが、いちばん目立ちませんからね」
そう言われると、フィックスは大いに考え込まずにはいられなかった。領事は埠頭のすぐ近くにある領事館へ戻って行った。刑事はひとり取り残され、神経をいらだたせながら一種異様な固定観念にとらわれていた。やつはかならずモンゴリア号に乗っている。アメリカに渡るためイギリスを抜け出したとすれば、大西洋航路よりインドを鉄道で横断する経路を選ぶのにきまっている。インドを鉄道で横断する経路のほうが、大西洋航路よりも警戒が手薄、いや、ほとんど警戒されていない、といってもいいからだ。
しかし、フィックスはそう長く考えに耽《ふけ》ってはいられなかった。汽笛が鳴り響き、モンゴリア号の到着を知らせたからだ。荷揚げ人足たちやエジプト人の農民たちが一団となって埠頭を駆けて行った。通行人を突き飛ばそうと、その服を破ろうと、おかまいなし。時をうつさず十艘ばかりの艀《はしけ》がモンゴリア号に向かって進んで行った。
やがてモンゴリア号の大きな船体が、運河の両岸のあいだを滑るように進んでくるのが見えた。十一時が鳴った。汽船は排気管から蒸気を噴出させながら、まさに投錨《とうびょう》しようとした。
船客は非常に多かった。上甲板に立って絵のような町の風景を眺めている人々もいた。しかし船客の大部分は、モンゴリア号に横付けになった艀《はしけ》に乗り移った。
フィックスは上陸してくる人々のひとりひとりに疑いぶかい目をそそいでいた。突然、彼らのひとりが近づいてきた。若者だ。若者は、なにかサービスしてチップにありつこうとうるさくつきまとってくる現地人たちを、荒々しく押しのけながら近づいてきた。そして、非常に礼儀正しく、「イギリスの領事館は、どこでございます?」と、たずねながら旅券を差し出した。それに査証を求めている、ということは明らかであった。
フィックスは本能的に旅券を受け取ると、それに書き込まれている身体的特徴の記述を素早く読んだ。
フィックスは驚きのあまり、危うくよろめきそうになったが、やっと自分を抑えた。旅券が彼の手の中でふるえた。旅券に書き込まれている身体的特徴の記述は、ロンドン警視庁から受け取った犯人の人相書きと完全に一致していたからだ。
フィックスは相手の顔と見くらべて、「この旅券は、あなたのものではありませんね?」と、たずねた。
「はい」と、若者は答えた。「主人の旅券でございます」
「ご主人はどこに?」
「船におります」
「それなら、ご主人が領事館に出頭しなければなりません。この旅券が、ご主人の物かどうか証明するために……」
「あのう、そんな必要がございますでしょうか?」
「絶対、必要です」
「で、領事館はどこに……?」
「ほら、あそこに……広場のはずれです」と、刑事は答えて、二百歩ばかり離れた建物を指さした。
「では、主人を連れてまいります。性来の不精者で、さぞ億劫《おっくう》がると思いますが……」
そう言うと、相手は一礼して、船のほうへ戻って行った。
七 規則上旅券の提出は不要なことを繰り返し話すこと
刑事は埠頭から降りると、領事館へ急いだ。すぐ領事の部屋に通された。
「領事殿」と、いきなり彼は言った。「犯人はモンゴリア号に乗っています。たしかな証拠があります」
そして、旅券について、犯人の従僕と話したことを告げた。
「よかったですね、フィックスさん」と、領事は答えた。「わたしも、犯人の顔が見たいくらいです。しかし、犯人は領事館には出頭しないでしょう。あなたの思惑どおりにはいきませんよ。犯人は足跡を残したがらないものです。まして旅券を提出する義務はないのですから」
「領事殿」と、刑事は答えた。「やつは、したたか者にちがいありません。きっとやってきます!」
「旅券に査証を受けるためにですか?」
「旅券は善良な旅客たちにはうるさいものですが、悪党どもには逃走するのに便利なものです。やつの旅券は正式なものでしたが、どうか査証をしないでください」
「どうして査証をしてはいけないのです? もし、そいつの旅券が正式なものなら」と、領事は答えた。「わたしには査証を拒む権利はありません」
「しかし、領事殿、わたしはぜひ、やつを当地に引き留めておきたいのです。ロンドンから逮補状がくるまでは……」
「ああ、それはフィックスさん、あなたの仕事です」と、領事は答えた。「わたしには、まったく関係のないことです」
とたんにドアにノックの音がして、給仕がふたりの男を案内してきた。ひとりは、さっき刑事が話を交した従僕であった。
ふたりはまさしく主人と従僕とであった。主人は領事に旅券を差し出すと、ただひと言「査証を……」と言った。
領事は旅券を受け取ると、注意ぶかく読みだした。そのあいだフィックスは部屋の片隅に立って、じっと、その見知らぬ男を見つめていた。領事は読み終ると、
「あなたがフィリアス・フォッグさんですね?」と、たずねた。
「そうです」と、紳士が答えた。
「では、この人は、あなたの従僕ですね?」
「そうです。フランス人で、パスパルトゥーといいます」
「ロンドンから来られたのですね?」
「そうです」
「で、これからどちらへ!」
「ボンベイへ……」
「なるほど。……、ところで、査証は不要です。旅券を提出なさる必要もありません。ご承知でしょうが……」
「承知しています」と、フィリアス・フォッグは答えた。「しかし、わたくしがスエズを通過した証拠に査証して頂きたいのです」
「ああ、それでしたら……」領事は旅券に署名し、日付を記入して捺印《なついん》した。フォッグ氏は手数料を支払うと、冷ややかに一礼し、従僕を従えて部屋を出て行った。
「ところで?」と、刑事が領事にたずねた。
「ところで、さよう……」と、領事が答えた。「見たところ、申し分のない紳士ですね!」
「見たところ! たしかにそうです。しかし、やつの正体は、そんなことには関係ありません。あの落ち着きはらった紳士が、わたしの持っている人相書きの犯人と寸分たがわぬことは領事殿、あなたもお認めになるでしょう?」
「それは認めますよ。しかし、言うまでもありませんが人相書きというものは……」
「その点は、これから、わたしが究明いたします」と、フィックスが答えた。「さいわい従僕のほうが主人より扱いいいようです。それにフランス人ですから口も軽いでしょう。ではまた、領事殿」
そう言うと、刑事は部屋を出て行った。パスパルトゥーを探すためだ。
一方、フォッグ氏は領事館を出ると、埠頭へ歩いて行った。埠頭で二、三の命令を従僕に与えると、艀《はしけ》でモンゴリア号に帰り、船室に閉じ込もった。ノートを取り出した。そこには次のように書いてあった。
十月二日、水曜日、午後八時四十五分、ロンドン発。
十月三日、木曜日、午前七時二十分、パリ着。
十月四日、金曜日、午前六時三十五分、モンスニ経由トリノ着。
同日、金曜日、午前七時二十分、トリノ発。
十月五日、土曜日、午後四時、ブリンジジ着。
同日、土曜日、午後五時、モンゴリア号乗船。
十月九日、水曜日、午前十一時、スエズ着。
消費時間合計 百五十八時間三十分(六日半)。
フォッグ氏は、これらの日付を旅程表のそれぞれの欄に書き込んだ。この旅程表には……十月二日から十二月二十一日までの……月や日や曜日が記され、またパリ、ブリンジジ、スエズ、ボンベイ、カルカッタ、シンガポール、ホンコン、ヨコハマ、サンフランシスコ、ニューヨーク、リヴァプール、ロンドンの各主要地に予定日時より早く到着したか、遅く到着したかが書き込まれるようになっていた。そして、それによって各主要地において得をした、あるいは損をした日数・時間数が差し引き計算できるようになっていた。
この一定の方式に従った旅行では、すべて一目瞭然《いちもくりょうぜん》となっていた。フォッグ氏にとっては自分が定刻より進んでいるか、遅れているか、いつもわかるようになっていた。
彼は、きょう、十月九日、水曜日、予定どおりスエズに到着したことを書き込んだ。時間的に損得なし、というわけであった。
彼は昼食を船室に運ばせた。町を見物する興味はさらになかった。イギリス人の中には旅行の途中、通り過ぎる土地を自分の代りに従僕に見物させる人があり、彼もまたそのひとりであったのだ。
八 パスパルトゥーがしゃべること、あるいは、しゃべりすぎること
フィックス刑事は、すぐパスパルトゥーを見つけた。パスパルトゥーは埠頭をぶらつきながら方々眺めていた。主人はとにかく、自分が見物するのは自由だ、と思っているからだ。
「ああ、あなた!」 と、フィックスは近づいて行った。「旅券の査証はすみましたかね?」
「ああ、あなた!」と、パスパルトゥーは答えた。「すべて、うまくいきました。お手数をかけました」
「で、町をご見物ですか?」
「ええ、そのつもりですが、主人があまり先を急いでいますので、わたしとしては夢の中を引っ張り回されているような気持ちです。ところで、ここはスエズですか?」
「スエズです」
「エジプトですね?」
「そうです、エジプトです」
「アフリカですね?」
「アフリカです」
「アフリカ!」と、パスパルトゥーは繰り返した。「とても信じられません! パリより先へ行こうとは想像もしていませんでした。わたしは懐かしいパリをまた見たんですが、たったひと目だけでした。朝の七時二十分から八時四十分まで、つまり北停車場からリヨン停車場へ行くまで、辻馬車の窓ガラスごしに、それも雨の中のパリを見ただけです。残念です! わたしはペール・ラシェーズ墓地やシャンゼリゼーのサーカスを見たかったんです。わたしは以前、パリに住んでいたことがあるんです」
「ずいぶん急ぐのですね?」と、刑事がたずねた。
「急ぎに急いでいるんです。ところで、わたしはソックスとワイシャツが買いたいんです! なにしろ、われわれはトランクを持たずに、下着を入れた小さな鞄だけを持って飛び出してきたんですから……」
「では、市場へご案内しましょう。なんでも売ってますよ」
「ありがとうございます」と、パスパルトゥーは答えた。「ご親切なことで!」
ふたりは歩きだした。歩きながら、パスパルトゥーはしゃべりつづけた。
「船に乗りおくれたら大変です」と、彼は言った。「これだけは、くれぐれも用心しています」
「時間なら、まだありますよ」と、フィックスが答えた。「いま正午ですから!」
パスパルトゥーは例の大きな懐中時計を取り出した。
「正午ですって?」と、彼は叫んだ。「違います!九時五十二分です!」
「あなたの時計は遅れています」と、フィックスは答えた。
「わたしの時計が! これは曽祖父から伝わった家宝の時計です。一年に五分しか狂いません。これこそ、ほんとうの精密時計です」
「そりゃそうでしょう」と、フィックスが答えた。「でも、それはロンドン時間で、スエズでは約二時間の遅れになっています。どこの国でも、いちいち正午に合わせなければなりません」
「えっ、時計を合わせるんですって!」と、パスパルトゥーは叫んだ。「とんでもないことです!」
「それなら、あなたの時計は太陽と合わなくなりますよ」
「太陽? 太陽なんか、どうでもいいんです。狂うのは太陽のほうでしょう!」
そう言うと、この馬鹿正直な若者は、ていねいに時計をチョッキのポケットにしまった。
フィックスが、ひと息ついて言った。「ずいぶん急いでロンドンを発ったんですね?」
「そうです! フォッグ氏は先週の水曜日、午後八時にクラブから帰ってきました。そんなことは、いままで一度もなかったようですが……それから四十五分後に出発しました」
「ところで、ご主人は、どこへ行かれるんです!」
「どこへって、先へ先へと。……世界を一周しようとしてるんです」
「世界一周ですって?」と、フィックスは叫んだ。
「そうです、八十日間で! 賭をした、と主人は言ってます。しかし、ここだけの話ですが、わたしには主人の言葉が信じられません。あまり突飛《とっぴ》ですから。……なにか訳があるにちがいない、と思ってます」
「あなたのご主人は、いわゆる奇人なんでしょう?」
「そうかもしれません」
「大金持ちなんでしょう?」
「そうです。大金を持っています。新しい、手の切れるようなお札で。……旅の途中、ふんだんにお金を使っています。ああ、そうでした! モンゴリア号が予定より早くボンベイへ着いたら莫大な賞金を出す、と機関士に約束していました」
「ご主人とは長いお知り合いですか?」
「どういたしまして!」と、パスパルトゥーは答えた。「出発の日に雇われました」
これらの返事が、すでに思い詰めていた刑事の心にどんな効果を与えたかは容易に想像できる。窃盗事件からわずか三日後ロンドンを出発したこと、大金を持っていること、遠い国々へ急いでいること、そして奇妙な賭を口実にしていること……それらがフィックスの疑いを深めたのは当然であった。彼はパスパルトゥーに、なおもいろいろなことをしゃべらせて次のことを確認した。
パスパルトゥーは主人については何も知らない、主人はロンドンで独り暮らしをしていた、大金持ちだと噂《うわさ》されているがどうして財産をつくったかはだれも知らない、要するにフィリアス・フォッグは外部からはうかがい知れない謎の人物である。……同時にフィックスは、フィリアス・フォッグがスエズで下船しないでボンベイへ行くことも確認した。
「ボンベイまでは遠いのですか?」と、パスパルトゥーがたずねた。
「かなり遠いですよ」と、刑事が答えた。「船で十日ほどかかります」
「どこにあるのです?」
「インドに」
「アジアですか?」
「もちろんアジアです」
「いやはや! そうなると、じつは困ることが一つあるんです。……栓《せん》です」
「栓?」
「ガス燈の栓を締めるのを忘れてきたんです。ガス代は、わたし持ちです。計算してみると、ガス代は一昼夜二シリングで、わたしの日当より六ペンス多いんです。旅行が長くなればなるほど……おわかりでしょう?」
フィックスにはガス燈うんぬんがわかったであろうか? たぶんわからなかったであろう。ろくに聞いていなかったからだ。それよりも一つのことを思い詰めていた。
フィックスはパスパルトゥーを市場に案内して、買い物の世話をした。そして、モンゴリア号に乗りおくれないようにくれぐれも注意すると、急いで領事館に戻ってきた。
フィックスは、もう落ち着き払っていた。確信にみちていたからだ。
「領事殿」と、彼は言った。「とうとう、尻尾をつかまえました。やつは八十日間で世界一周するなどと言って、変人を装っているだけです」
「とすると、なかなか狡《ずる》いやつですね」と、領事は答えた。「両大陸のあらゆる警察の目をくらまして、またロンドンに舞い戻ろうとしているんですね!」
「いずれ、わかります」
「しかし、あなた、まさか勘違いしているのではないでしょうね?」と、領事は念を押すように、ふたたびたずねた。
「勘違いなんかしていません」
「とすると、査証を取ることによって、どうしてあんなにスエズを通過したことを証明したがったのでしょう?」
「どうして、とおっしゃられると、ご返事ができませんが、領事殿」と、フィックスは答えた。「しかし、どうか、お聞きください」
フィックスは、フォッグなるものの従僕と交した会話の要点を手短かに話した。
「なるほど」と、領事は言った。「そうすると、あらゆる状況証拠は、あの男に不利ですね。で、これから、どうします?」
「まず、逮捕状を至急ボンベイへ送るようにロンドンへ打電します。それからモンゴリア号に乗ってインドまで尾行します。そして、インドで……インドはイギリス領ですから逮捕するのに犯人引き渡しなどの手続きはいりません。逮捕状さえあれば、わたくしは、そっとやつに近づいて行って肩に手をかけます。それだけです」
いかにも成算ありげに言うと、フィックスは領事に別れを告げて電信局へ行った。そして、ロンドン警視庁宛に打電した。
十五分後、フィックスは、わずかな荷物と、たっぷりした旅費とを持ってモンゴリア号に乗り込んだ。まもなく快速船は紅海《こうかい》を全速力で走っていた。
九 紅海とインド洋とがフィリアス・フォッグの企てに幸いすること
スエズ〜アデン間の距離は正確にいえば千三百十マイルで、この会社の船は百三十八時間で航海するのが規定である。モンゴリア号は、盛んに石炭を焚き、全力で機関を活動させて、予定より早く到着しようと突進していた。
ブリンジジで乗った旅客の大部分は、インドへ行くのが目的であった。ある者はボンベイへ行き、ある者はカルカッタへ行く。カルカッタへ行く者もボンベイで下船する。というのはボンベイ〜カルカッタ間に、インド半島を横断する鉄道が敷かれ、もはや船でセイロンを回る必要はなくなったからである。
モンゴリア号の船客の中には大勢の役人や、あらゆる階級の軍人がいた。軍人たちの中には正規のイギリス軍人たちのほか、インド土民軍の指揮官たちもいた。インド土民軍の指揮官たちは東インド会社に雇われていたときと同様、現在ではイギリス政府によって高給が支払われ、身分が保証されている。年俸、陸軍少尉二百八十ポンド、旅団長二千四百ポンド、将官四千ポンド。
最初、モンゴリア号上の生活は快適であった。役人や軍人にまじって、イギリスの青年も何人かいた。彼らのポケットには大金がはいっていた。遠い国々へ行って一旗あげるつもりなのだ。モンゴリア号の事務長は船長と同格で、会社の信任が厚く、とくに乗客に対するサービスは至れり尽くせりであった。朝食、二時の昼食、五時半の夕食、八時の夜食には、ご馳走が山のように並んだ。肉料理、アントルメ。それらの新鮮な肉は、船の食料品室に貯蔵され、調理室から運ばれたものであった。乗客たちの中には婦人たちもいた。彼女たちは一日に二度、服を着替えた。スエズ出帆の日は、海は凪《な》いでいた。音楽会や舞踏会が開かれた。
しかし紅海は、細長い海がすべてそうであるように非常に気紛《きまぐ》れで、しばしば荒れる。モンゴリア号は、風がアジア側から吹いてくるときも、アフリカ側から吹いてくるときも、その風をまともに船腹にうけて恐ろしいほど横揺れがした。婦人たちは姿を消した。ピアノは黙り、歌やダンスもやんだ。しかし、船は荒れ狂う風波を物ともせず、その強力な機関に推進されて、すこしも遅れることなく、バブ・エル・マンデブ海峡めざして突進していた。
そのときフィリアス・フォッグはどうしていたであろう? 当然、不安に駆られているのにちがいなかった。風が船の進行を妨げないであろうか? 波が機関に故障を起こさせないであろうか? 要するに、あらゆる事故がモンゴリア号を、やむなくどこかに寄港させ、結局、この旅行を不成功に終らせるのではなかろうか?
もしフィリアス・フォッグが、これら不測の事態を考えていたとしても、彼はその不安を顔に表わすことは絶対にしなかった。彼はいつも泰然自若としていた。どんな事件が起ころうともびくともしない冷静沈着な紳士であった。船のクロノメーター同様、いつも正確であった。甲板には出なかった。紅海を……人類の歴史の最初の舞台にして、さまざまな過去にみちている紅海を、眺める気がなかったからだ。
紅海の両岸には奇妙な町々が点在し、それらは美しい影のように、しばしば水平線上に浮かびあがったが、それらをも見ようとしなかった。ばかりでなく、いずれは通らなければならないアラビア海の危険さえ思わなかった。アラビア海の危険は古来有名だ。すでにストラボン、アリアノス、アルテミドロス、イドリシが、その恐怖を語っている。それゆえ昔の航海者たちはアラビア海を渡るときには、かならず神に犠牲をささげて航海の無事を祈ったものである。
それはさておき、モンゴリア号に閉じ込められているこの奇妙な人物は、どうして時を過ごしていたのであろう? 一日に四度、元気に食事をした。横揺れにも縦揺れにも平然たる、すばらしい体質にめぐまれていたからだ。そして、いつもホイストをして時を過ごした。
そうだ、彼は彼同様のホイスト狂たちに出会ったのだ! ゴアへおもむく税務署の役人、ボンベイへ帰るデシムス・スミス師、それからベナレス駐屯《ちゅうとん》軍へ戻るイギリス陸軍の代将。この三人の船客は、ホイストに対してはフォッグ氏同様、異常な趣味を持ち、何時間でも無言で勝負に熱中した。
一方、パスパルトゥーはといえば、海が荒れても、いっこう平気であった。船首の一室を占め、主人と同様、きちんきちんと食事をした。彼にとって、こういう状態で船旅をつづけることは、けっしていやではなかった。よい食事、よい部屋、未知の国々を眺める喜び。それにボンベイへ着けば、この気まぐれ旅行も終るだろう……。
スエズを出帆した翌日、十月十日、彼は甲板で、はからずもひとりの男に出会った。スエズに上陸したとき、親切に世話をしてくれた男だ。
「やあ、あなたでしたか!」と、パスパルトゥーは満面に笑みをたたえて近づいて行った。「たしかに、あなたでしたね、スエズで、ご親切に案内してくださったのは……?」
「……そうそう」と刑事は答えた。「覚えています。あなたは、あの変人のイギリス人のお供でしたね?」
「そうです。……えーと、あなたのお名前は?」
「フィックスです」
「ああ、フィックスさん」と、パスパルトゥーは答えた。「また船でお会いできるなんて光栄です。で、どちらへ?」
「ボンベイへ……あなたと同じです」
「ますます光栄です! ところで、あなたは、いままでにも、この航海をなさったことがおありですか!」
「ええ、何度も」と、フィックスは答えた。「わたしは、この半島・極東汽船会社の者ですから」
「じゃあ、インドは、ご存じですね?」
「知ってますとも」と、フィックスは答えたが、それ以上は話したくないらしかった。
「珍しい国でしょう、インドは?」
「珍しい国です。モスク、ミナレ、テンプル、ファキアー、パゴダ、それから虎、蛇、舞い姫! しかし、インドを見物するお暇がおありでしょうか?」
「あればいいんですが、フィックスさん。八十日間世界一周などと言い立てて汽船から汽車に、汽車から汽船に飛び移る……まともな精神の人間には、とても耐えられることではありません! いや、こんな軽業《かるわざ》もボンベイで打ち切りになるでしょう。あなたもそうお思いになるでしょう?」
「で、あの人は元気ですか?」と、フィックスは、何気ない様子でたずねた。
「しごく元気です。じつは、わたしもしごく元気なのです。まるで餓鬼《がき》のようにガツガツ食べています。海の空気がいいからです」
「ご主人を甲板で見かけたことは、一度もありませんがね」
「そうでしょう。景色を眺める、なんて気はまるでないんです」
「ところで、パスパルトゥーさん、ご主人のいわゆる八十日間世界一周には、なにか秘密な目的が……たとえば外交上の使命というようなものが、隠されているのではないでしょうか?」
「ああ、フィックスさん、そんなこと、わたしにはまったくわかりません。嘘ではありません。そんなことを知ろうとは、夢にも思ったことがありません」
この出会い以来、フィックスとパスパルトゥーとは、たびたび話し合うようになった。刑事はフォッグなる者の従僕と、なるべく親しくなろうとした。そうしておけば何かのときに役にたつだろう、と思ったからだ。フィックスはしばしばパスパルトゥーをモンゴリア号のバーに誘い、ウイスキーやビールを二、三杯おごった。疑うことを知らぬ若者は遠慮なくご馳走になり、時にはおごり返した。それは単なる返礼ではなかった。フィックスを立派な紳士と思って好意を感じていたからだ。
船は快速に進んでいた。十三日にはモカが見えてきた。それは崩れた城壁に取り巻かれた町で、城壁の上には緑したたる棗椰子《なつめやし》が並んでいた。遠く、山と山との間には、コーヒー畑が広がっていた。パスパルトゥーは、この有名な町を、しばらく、うっとりと眺めていた。彼には円形の城壁と、その把手のような形をした要塞《ようさい》の廃虚とが、さながら巨大なコーヒー茶碗のように思われた。
その夜、モンゴリア号はバブ・エル・マンデブ海峡を通過した。バブ・エル・マンデブとは、アラビア語で「涙の門」という意味だ。
翌朝、十四日、アデンの北西部のスティーマー・ポイントに仮泊した。燃料を補給するためである。
汽船に燃料を補給することは、燃料の各生産地からこのように遠く離れたところでは非常に費用がかかる。この半島・極東汽船会社だけについて言っても、その費用は年間八十万ポンドにのぼる。というのは、石炭貯蔵庫をいくつかの港に造らなければならなかったし、それを計算に入れると、これらの遠い海では、石炭はトン当たり四ポンドにつく。
モンゴリア号がボンベイに着くまでには、なお千六百五十マイル航海しなければならなかった。そして、石炭で船艙を満たすためには、スーティーマー・ポイントに四時間仮泊しなければならなかった。
しかし、この四時間の仮泊は、フィリアス・フォッグの旅程には、なんらの支障もきたさなかった。この四時間はもともと予定していたからだ。しかも、モンゴリア号は十月十四日の夕方、入港した。予定は十五日の朝だったので、十五時間、得をしたわけである。
フォッグ氏とその従僕とは下船した。フォッグ氏は旅券に査証を受けるため下船したのだ。フィックスは隠れて彼を尾行した。査証を受けると、フォッグ氏はすぐ船に戻って、また中断されていたホイストをつづけた。
パスパルトゥーは例によって町をぶらついた。行き交うソマリ人、インド人、パーシー人、ユダヤ人、アラビア人、ヨーロッパ人。……それらの人々がアデンの人口二万五千を構成している。パスパルトゥーは要塞や巨大な貯水池を驚嘆して眺めた。この要塞は、アデンをして地中海のジブラルタルたらしめたものであり、この巨大な貯水池は三千年の昔、ソロモン王の技術者たちが建設したものであり、いまなおイギリスの技術者たちが工事をつづけているものである。
「すばらしい、すばらしい!」と、パスパルトゥーは船へ戻りながらつぶやいた。「うん、なるほど旅もまんざらではない。珍しい物が見られるからな」
午後六時、モンゴリア号はスクリューで、アデン湾の水を打ち始めた。ついには全速力でアラビア海を走っていた。アデン〜ボンベイ間は、百六十八時間で航海できる。しかも、いまアラビア海は平穏であった。風は北西から吹いていた。あらゆる帆が揚げられた。それらの帆は蒸気機関と力を合わせて、いっそう速く船を走らせた。
船は安定し、ほとんど揺れなかった。婦人たちは、また服をあらためて甲板に現われた。ふたたび歌やダンスが始まった。船旅は快適だった。パスパルトゥーは、フィックスとの交遊を楽しんだ。偶然知り合ったフィックスという男は、まったく感じがよかった。
十月二十日、日曜日、正午頃、はるか彼方にインドが見え始めた。一時間後、水先案内人がモンゴリア号に乗り込んできた。水平線上には丘が連なり、それらは空の色と溶けあって美しい背景をなしていた。やがて椰子《やし》の群れがくっきりと浮かびあがった。それらは町をおおっていた。船はサルセット、コラバ、エリファンタ、バッチャーの諸島に囲まれたボンベイ湾にはいって行き、午後四時十五分、岸壁に横づけになった。
ちょうどそのとき、フィリアス・フォッグは、その日のホイストの三十三回目の勝負を終ったところであった。彼も相手方も善戦したので、結局、各人それぞれ十三枚の札を取り全勝という結果でこんどの愉快な船旅を終ったのである。
モンゴリア号は、十月二十二日、ボンベイに着く予定であった。ところが二十日に着いたので、ロンドン出発以来二日の得になった。フィリアス・フォッグは、さっそく旅程表の得の欄にそれをきちんと書き込んだ。
十 パスパルトゥーは幸運にも靴をなくしただけでまぬがれたこと
周知のとおり、インドは巨大な逆三角形で、底辺は北、頂点は南、面積は百四十方平方マイルで、そこに一億八千万の人口が雑然と分布している。イギリス政府が、この広大な土地の一定の部分を統治していて、カルカッタには総督を、マドラス、ボンベイ、ベンガル、アグラには副総督を置いている。
しかし厳密にいうと、イギリス領インドの面積は七十方平方マイル、人口は一億ないし一億一千万。すなわち、この国の相当な部分が、まだ英国女王の権威に服していない、ということは確かである。事実、内陸には剽悍《ひょうかん》で残忍な王たちが割拠していて、彼らの領土内ではヒンドゥー教徒はいまなお完全な独立を保っている。
イギリスの最初の植民地は一七五六年、今日マドラス市のある場所に築かれたが、その年以来、インド土民兵の大反乱のあった年まで、有名な東インド会社が絶対の統治権を持っていた。会社は設立の当初から徐々に王たちの領土を併合した。王たちに年金を支給するという約束によってであるが、年金はほとんど支給されず、あるいは、まったく支給されなかった。会社は総督を任命し、またそれに付属する文官と軍人とを任命した。しかし今日、東インド会社はもはや存在しない。インドにおけるイギリスの領土は、直接、王冠の支配のもとにある。こうしてインド半島の概観は……その風俗習慣の差異や民族学的区分は、日々に変わりつつある。
昔は人々は旅をするのに、あらゆる古代の移動方法を用いたものだ。徒歩で、馬に乗って、二輪荷車に乗って、一輪手押し車に乗って、輿《こし》や轎《かご》に乗って、人の背に負われて、郵便馬車に乗ってなど……。ところが現在では、インダス川やガンジス川には快速蒸気船が走っている。汽車に乗れば、わずか三日間で半島を……ボンベイからカルカッタまで横断することができる。幹線はその全線で多くの支線に連結している。
鉄道は直線でインドを横断しているのではない。ボンベイ〜カルカッタ間の直線距離は千ないし千百マイルで、汽車は普通の速力で走っても三日はかからないであろう。しかし、汽車は直線距離よりも、すくなくとも三分の一以上多く走る。半島北部のアラハバードを迂回《うかい》しなければならないからである。
要するに、大インド半島鉄道は次のような路線を走る。ボンベイ島始発。サルセット島を過ぎ、ターナの前面で大陸へ渡る。西ゴート山地を過ぎ、北東へブルハンプルまで走り、さらにブンデルカンドの半独立地帯を走ってアラハバードまでのぼる。そこから東に転じ、ベナレスでガンジス川に出会い、さらにガンジス川から離れて、ブルドワンと、フランスの建設した町チャンデルナゴールとを過ぎて南東へくだり、カルカッタへ着く。
モンゴリア号の乗客がボンベイに上陸したのは午後四時半であった。カルカッタ行きの汽車は八時に出る。フォッグ氏はホイストの仲間たちと別れて下船すると、パスパルトゥーにこまごまとした買い物をいいつけ、そして、かならず八時前に駅に戻ってくるようにと言った。それから彼は例のとおり、天文学用時計が秒をきざむような整然たる歩調で領事館へ歩いて行った。
ボンベイには見るべきものが多い。市役所、立派な図書館、要塞、ドッグ、綿花市場、バザー、モスク、シナゴーグ、アルメニア教会、マラバル・ヒルの上にあるニつの多角形の塔で飾られた壮麗なパゴダ。しかしフォッグ氏は、それらのいずれをも見ようとはしなかった。さらにエレファンタ島の傑作や、ボンベイ湾の南東に隠されている神秘な地下納骨所や、仏教建築の驚嘆すべき遺跡であるサルセット島の美しい洞窟《どうくつ》なども、まったく見ようとはしなかった。
絶対に無関心! フィリアス・フォッグは旅券に査証を受けると、ゆっくり駅に歩いて行って食堂にはいり、昼食を命じた。食堂の主人は、数ある料理の中から、当地産の兎《うさぎ》のシチューがきっとお気に召します、と言ってすすめた。
フィリアス・フォッグはシチューを注文した。一口ずつ味わって食べた。香辛料入りのソースはともかく、シチューはひどいものであった。
彼は主人を呼んだ。
「きみ」と、主人の顔を見ながら言った。「これは兎かね?」
「さようでございます」と、主人は何食わぬ顔で答えた。「森の兎でございます」
「この兎は殺されるとき、ニャーニャーと鳴かなかったかね?」
「ニャーニャー! とんでもございません! 兎でございます! 嘘は申しません」
「ご主人」と、フォッグ氏は冷ややかに言った。「嘘でなければいい。でも、ご承知のとおり、昔、インドでは猫は神聖な動物と見なされていた。思えば、いい時代だったね」
「猫にとって、いい時代だったとおっしゃるんで?」
「旅行者にとっても、いい時代だったよ」
こう言うと、フォッグ氏はまた平然と食べつづけた。
フォッグ氏がモンゴリア号から下船すると、つづいてフィックス刑事も下船した。急いでボンベイ警察署長のもとに駆けつけると、自分の身分と任務とを打ち明け、そして、いよいよいま容疑者を目前にしていると話した。
「ロンドンから逮捕状がきているでしょうか?」
「きていません」……当然であった。フォッグを追って発せられた逮捕状が先回りしてきているはずはなかったからだ。
フィックスは非常に狼狽《ろうばい》した。ややあって、フォッグなる者に対する逮捕命令を与えてくれるようにと署長に懇願したが、署長は拒絶した。事件はロンドン警視庁の管轄《かんかつ》下にあり、したがって逮捕命令を出すのもロンドン警視庁の権限内にある。このような原則の厳守、遵法《じゅんぽう》精神の厳守は、イギリス人の生活に深く根をおろしていて、個人の自由に関する場合、いかなる専断の行為も許されないのである。
フィックスは固執しなかった。逮捕状を待つほかはない、と思った。しかし、あの、どうにも得体の知れぬ男から……やつがボンベイに滞在しているあいだ……けっして目を離すまい、と決心した。フィックスはパスパルトゥーと同様、フィリアス・フォッグがしばらくボンベイに滞在するだろう、と信じた。そのあいだに逮捕状がくるだろう、と思った。
しかし、パスパルトゥーはモンゴリア号から下船するとき主人が言った言葉を……かならず八時前に駅に戻ってくるようにと言った言葉を思い出した。パリやスエズで起こったことは……つまり旅行が先に延びることは、ボンベイでも起こるかもしれない。旅行は、あるいはカルカッタまでつづくかもしれない。いや、もしかすると、もっと遠くまでつづくかもしれない。……パスパルトゥーは、そう思い始めていた。フォッグ氏のこんどの賭は、ほんのその場の思いつきで、しかし、運命のおもむくままに心ならずも……というのは、氏はほんとうは静かな生活を望んでいるのだ……八十日間世界一周をせざるを得なくなったのではなかろうか、と思い始めていた。
パスパルトゥーはシャツや靴下を買い、まだ時間があったので、ボンベイの町をぶらついた。町はさながら人種の大きな展覧会のようであった。各国のヨーロッパ人にまじって、先のとがったトークをかぶったペルシア人、まるいターバンをかぶったバニア人、四角い帽子をかぶったシンド人、長衣のアルメニア人、黒い僧帽のパーシー人。きょうは、ちょうどパーシー人すなわちゾロアスター教徒の有名な祭りの日であった。彼らはゾロアスターの信徒の直接の後裔《こうえい》で、ヒンドゥー人の中では、もっとも勤勉で、利口で、厳格で、文明化された人々である。今日、ボンベイの原住民で、もっとも富んだ商人たちは、すべてこれらペルシア系の人々である。きょう、彼らは一種の宗教的ばか騒ぎをしているのであった。行列あり、余興あり、そこには金糸銀糸でぬいとりした桃色の薄物をまとったインド人の舞姫たちの姿もあって、彼女たちはヴィオラやタンバリンの音に合わせて、じつに巧みに、じつに上品に踊っていた。
パスパルトゥーが目を丸くし、口を大きくあけて、これらの余興に眺め入ったことは言うまでもなかった。あらゆるものを見落とすまいとして、あまりに夢中になったので、彼の態度と表情とは「とんま」を絵に描いたようであった。
それは彼にとっても、彼の主人にとっても不幸なことであった。彼の主人にとっても、というのは、こんなことでは旅行が失敗するかもしれないからだ。しかし、パスパルトゥーのとんまはなおもつづき、とんだところへ彼を運んで行った。
とはいえ、パスパルトゥーがパーシー人のお祭りを見物したあとで駅へ向かったことは事実である。ところが途中、マラバル・ヒルの壮麗なパゴダの前を通りかかると、彼はちょっと内部を覗《のぞ》いてみたいという不幸な好奇心に駆られた。
彼は一つのことを知らなかった。まず第一には、ヒンドゥー教のいくつかのパゴダでは、キリスト教徒が内部に立ち入ることを絶対に禁止していること。第二には、ヒンドゥー教徒でも中にはいるときには、かならず入り口で靴をぬぐこと。……ここで注意しなければならないのは、イギリス政府は、その政策を完全に行なうために、この国の宗教を、どんな些細な点までも尊重し、また尊重させ、その慣習を破るものがあれば、だれにせよ厳重に処罰するということである。
そんなこととはすこしも知らず、単に観光客として、パスパルトゥーはパゴダの中にはいって行った。そして、バラモン教の、あの安っぽく金色に光る装飾を感心して眺めていた。とたんに彼は神聖なる石畳の上に引っ繰り返された。三人のバラモン教の僧侶が怒りの形相ものすごく飛びかかったのだ。彼らはパスパルトゥーの靴と靴下とを奪い、異様な叫び声をあげながら拳《こぶし》の雨を降らせ始めた。
しかし、パスパルトゥーは強くて敏捷《びんしょう》だ。はね起きると、片手でひとりを殴りつけ、片足でもうひとりをけとばして、ふたりの敵をその場に打ち倒した。ふたりの敵は長衣の中でまごまごした。パスパルトゥーは、いちもくさんにパゴダの外に飛び出した。三人目の敵が追いかけてきて、群集をけしかけようとしたが、若者はたちまち走り去った。
七時五十五分、発車数分前、パスパルトゥーは駅に飛び込んだ。さっきの乱闘で、はだしで無帽、買い物包みもどこへやら。
フィックス刑事は駅のプラットフォームに立っていた。フォッグを駅まで尾行してきて、フォッグがボンベイを出発しようとしているのを見てとると、すぐに決心したのだ。カルカッタまで追って行こう。いや、必要とあらば、もっと遠くまでも追って行こう。……パスパルトゥーには柱のかげにいるフィックスが見えなかったが、フィックスのほうでは、パスパルトゥーがさっきの出来事を手短かに主人に話しているのを聞いた。
「そんなことは二度とやってもらいたくないね」と、フィリアス・フォッグはひとこと言うと、車室の中に席を占めた。哀れなパスパルトゥーは物も言わず、はだしで、すごすごと主人のあとに従った。フィックスは別の車室に乗ろうとしたが、とたんにある考えが浮かんだので、出発するのをやめてしまった。
(いや、ここにいよう)と、彼は思った。(インドでなら、いつでも、つかまえられる。どっちみち袋のねずみだ)
機関車が鋭い汽笛を鳴らした。汽車は夜の中に消えて行った。
十一 フィリアス・フォッグが信じられない値段で乗物を買うこと
汽車は定刻に発車した。旅客の中には、かなり多くの軍人や官吏《かんり》や商人がいた。商人は阿片や藍《あい》の取り引きのためインドの東部へ行くのである。
パスパルトゥーも主人と同じ車室に乗った。車室には、もうひとり旅客がいて向こう側の席を占めていた。
フランシス・クロマーティ代将であった。スエズからボンベイまでフォッグ氏とホイストをしてきた仲間のひとりで、ベナレス附近にある旅団へ帰る途中であった。フランシス・クロマーティは長身、金髪、五十歳ぐらい。十数年前のインド土民軍の反乱に勇名を轟《とどろ》かせた人であった。ごく若いときからインドに住み、イギリス本国には、めったに帰ったことがないという、インド育ち同様の人であった。博学で、もしフィリアス・フォッグが質問好きの人間だったら、その質問に応じて、インドの風俗、歴史、制度などについて、とうとうと弁じてくれたであろう。しかし、フィリアス・フォッグは何も質問しなかった。彼は旅行をしているのではなかった。ただ一周しているのであった。彼は合理的な力学の法則に従って地球の周囲の軌道を回転している一個の物体にすぎなかった……いま、彼はロンドンを出発していらい消費した時間を頭の中で計算して満足を感じていた。しかし、それを面《おもて》に現わして、両手をこすり合わせるようなことはしなかった。彼は性来、そんな無用な動作はしない質《たち》だった。
フランシス・クロマーティ代将は、モンゴリア号上でホイストをしながら、その合い間合い間に観察したのにすぎなかったが、この旅の道連れがひどい変人であることに感づいていた。いったいフィリアス・フォッグ氏は、その冷たい外観の下に人間らしい暖かな心を持っているのであろうか? 自然の美しさを愛し、道徳を求める魂を持っているのであろうか? フランシス・クロマーティ代将がそう思ったのも無理ではなかった。いままでに会ったあらゆる変人の中でも、この正確無比な科学的産物に匹敵できる人は、ひとりもなかったからである。
フィリアス・フォッグはフランシス・クロマーティに世界一周旅行の計画を、それも、どんな条件で旅行しようとしているかを、包み隠さずに話した。フランシス・クロマーティは思った。(そんな賭は、なんら有益な目的を伴わない単なる気まぐれで、したがって、それには、あらゆる人間を善に向かわせる「善行免許証」のようなものが必然的に欠けている。こんなことをしていては、この奇妙な紳士は自分のためにも他人のためにも、あきらかに無為に過ごすだろう)
ボンベイ出発後一時間、汽車はいくつかの高架橋を渡り、サルセット島を横切ったあとで、大陸を走っていた。カリヤン駅からは支線が出ている。カンダラ、プーナを経てインドの南東部へ通じる支線だ。その支線を右に見て、汽車はポーウェル駅に着くと、そこから山地にはいった。西ガーツ山脈で、それは多くの支脈に分かれ、それらの支脈の底部は緑岩や玄武岩《げんぶがん》だが、高い峰々は深い森におおわれている。
フランシス・クロマーティ代将とフィリアス・フォッグとは、ともすれば途絶えがちになる短い会話を交していたが、そのとき代将はまた新しく話し始めた。
「数年前ならフォッグさん、この辺でなにか故障が起こって、あなたの旅行計画がだめになったかもしれません」
「と、おっしゃいますと、フランシスさん?」
「汽車が動かなくなるのです。轎《かご》か馬で山を越してカンダラ駅まで行かなければなりません。駅は山の向こう側の斜面にあるのですから」
「そんな故障は、わたくしの計画を狂わせはしません」と、フォッグ氏は答えた。「ときとして不測の障害が起こることは、前もって計算に入れているのです」
「しかし、フォッグさん」と代将は言った。「不測の障害は、もう起こっているかもしれませんよ。まったく、この若者ときたら、とんだことをしでかしたものですな」
パスパルトゥーは両足を旅行用の毛布にくるんで眠りこけていた。自分のことが話されている、などとは夢にも知らなかった。
「イギリス政府は、この種の犯罪にはとくに厳しく、また、それが当然のことです」と、フランシス・クロマーティ代将はつづけた。「政府はインド人の宗教的慣習を、なによりも尊重しています。もし、あのとき、あなたの従僕が、つかまえられたとしたら……」
「つかまえられたとしたら、フランシスさん」と、フォッグ氏は答えた。「この男は罰せられるでしょう。しかし刑を終えたら、おとなしくヨーロッパへ帰って行くでしょう。この男のしでかしたことで、わたくしの旅行が遅れるなどということは、絶対にないと思います!」
会話は、また途絶えた。汽車は夜のうちにガーツ山脈を越え、ナシクを過ぎ、翌日、十月十日、カンディシュ地方の比較的平坦な地域にはいった。よく耕された田園のところどころには村があり、それらの村には、ヨーロッパならさしずめ教会の鐘楼というところだが、パゴダのミナレがそびえている。ゴダバリ川の支流や、そのまた支流が、豊かな土地をうるおしている。
パスパルトゥーは目を覚まし、窓の外を眺めていたが、いま自分が大インド半島鉄道の汽車に乗ってヒンドゥー教徒の国を横断しているとは、どうしても信じられなかった。どうしても、これが現実とは思えなかった。しかし、現実はやはり現実であった……イギリス人の運転士、イギリス産の石炭、それらによって驀進《ばくしん》する汽車は、綿、コーヒー、ニクズク、丁字《ちょうじ》、赤胡椒《あかこしょう》などの木の栽培場の上に黒い煙をなびかせた。煙は椰子の林のまわりで渦巻き、舞いあがる。それらの椰子の林の中には、美しいバンガローや廃虚になったヴィハーラや、インド建築の枠《すい》ともいうべき装飾に満ちた壮麗な寺院が見え隠れした。やがて、はるか彼方に広大なジャングルが現われた。ジャングルは虎や蛇の住処《すみか》だ。もっとも、いまでは彼らは汽車の響きに恐れおののいているが。……ついに汽車はジャングルにはいった。ジャングルは線路によって分断されていた。ジャングルには、いまもなお象たちが出没していた。彼らは髪のように煙をなびかせて走る汽車を、憂鬱《ゆううつ》そうな目で眺めていた。
旅客たちは、その日の午前中にマレガウン駅を過ぎると、かつてカーリ女神の信徒たちによってしばしば血塗られた、あの不吉な地方を横切った。旅客たちは、近くにエローラーの遺跡と壮麗なパゴダ群がそびえているのを見て、有名なアウランガバードに着いた。ここは、かつてはあの凶暴なアウランジーブ皇帝の首都であったが、現在では、ニザームの王国から分離した数州のうちの一州の首邑《しゅゆう》にすぎない。この地方は、またかつてサッグ団の首領・「絞殺者の王」・フェリンジーが支配した土地でもあった。暗殺者どもは結社をなして神出鬼没、「死の女神」の栄光のために、あらゆる老若男女の犠牲者を、血を流させずに絞殺して地に埋めた。それゆえ、この地方の、いずれの土地を掘っても、かならず死体のみつかるという時代があった。イギリス政府は、これらの暗殺者どもを、ほとんど全滅させることができたが、しかし、いまなお、この恐るべき結社は存在し、活動している。
午後零時半、汽車はブルハンプル駅でとまった。駅で、パスパルトゥーは模造真珠の飾りのついたインド式のサンダルを買うことができた。法外な値で買わされたが、それを履《は》いた彼はいかにも得意そうであった。
旅客たちは駅で急いで食事をすると、またアスルグール駅に向かって出発した。しばらくタプチ川に沿って走った。この川はスラト附近でカンベイ湾に注いでいる。
いったい、いま、パスパルトゥーは、どんなことを考えているのであろう? よい機会だから彼の心の中をのぞいて見よう。ボンベイに着くまでは、万事はそこで終ると信じ、また信じることができた。ところが、全速力でインドを横断するようになると、彼の心は変わってしまった。ふいに彼本来の性質が目覚めたのだ。若いときの空想的な彼に戻ったのだ。彼は主人の計画を真剣に受け取った。超過してはならないぎりぎりの時間で世界を一周するという賭の真実さを、もはや信じて疑わなかった。途中で事故が起こって旅行が遅れ、計画がだめになることに、早くも不安を感じていた。彼は、まるで自分自身が賭《かけ》をしているような気持ちになっていた。……突然、ハッとした。きのう、好奇心に駆られて町をうろついたことを思い出したからだ。もうすこしで、主人の賭を失敗させてしまうところであった!
冷静さの点では、パスパルトゥーはフォッグ氏の足元にも及ばなかった。心配になると、ますます心配になりだした。いままで費やした日数を繰り返し指折り数えてみた。汽車がとまったり速度を落としたりするたびに、いらいらしたり、ぶつぶつ言ったりした。口に出しては言わなかったが、フォッグ氏が汽車の運転士に賞金を与えると約束しなかったことが、残念でたまらなかった。この馬鹿正直な若者は、汽船では速度をあげることができるが、汽車では速度に制眼があるので、汽船同様にはいかないことを知らなかったのだ。
夕方、汽車はサトプラ山脈の渓谷《けいこく》にはいった。この山脈はカンディシュ地方とブンデルカンド地方とを分けている。
翌十月二十二日、フランシス・クロマーティ代将が、いま何時かときいたので、パスパルトゥーは時計を出して午前三時と答えた。たしかに、この家宝の時計は、いつもグリニッジ標準時に合っている。しかしグリニッジは、ここから西方約七十七度にあるのだから、この時計は四時間遅れているはずであり、また実際、遅れていたのである。
フランシス代将はパスパルトゥーに、その時間は違っていると言って、訂正させようとした。そして、すでにフィックスが説明したことを繰り返した。つまり、われわれは、こうして絶えず東へ……太陽の昇るほうへ進んでいるのであるから、経度を一度越すごとに四分ずつ日が短かくなると注意した。しかし、この注意は、なんの効果もなかった。この頑固な若者は代将の注意がわかったのか、わからなかったのか、時計の針を進めようとせず、いぜんとしてロンドン時間のままにしておいた。頑固者《がんこもの》、しかし無邪気で、だれにも害を与えない頑固者である。
午前八時、ロタール駅を過ぎて十五マイルの地点で汽車がとまった。そこは森の中の広い空地で、周囲には点々とバンガローや労働者の小屋があった。車掌が汽車の外を叫びながら通った。
「みなさん、降りてください、降りてください」
フィリアス・フォッグはフランシス・クロマーティ代将の顔を見た。代将も、汽車がタマリンドやカジュールの森の中でとまったことには、さっぱり合点がいかないようであった。
パスパルトゥーはびっくりして車室から飛び降りたが、すぐ戻ってくると叫んだ。
「閣下、鉄道がございません!」
「えっ、なんだって?」と、フランシス・クロマーティ代将も叫んだ。
「汽車は、これ以上行けません」
代将は、すぐに客車から降りた。フィリアス・フォッグが、ゆっくりと、あとにつづいた。ふたりは車掌にたずねた。
「ここはどこかね?」と、フランシス・クロマーティ代将が言った。
「コルビー村です」と、車掌は答えた。
「ここでとまりかね?」
「そうです。鉄道が出来ていませんから……」
「なんだって! 鉄道が出来ていないって?」
「はい、ここからアラハバードまで、まだ五十マイルばかり線路を敷かなければなりません。アラハバードから先には線路がありますが……」
「しかし新聞には、全線開通とあったじゃないか!」
「それは閣下、新聞が間違えたんです」
「それならなぜ、ボンベイからカルカッタまでの切符を売ったのだ!」と、フランシス・クロマーティ代将は腹を立てて叫んだ。
「ごもっともです」と、車掌は答えた。「しかし、お客様がたは、ここからアラハバードまでは、ご自分で行かなければならないことはご承知のはずです」
フランシス・クロマーティ代将は、いよいよ腹を立てた。パスパルトゥーは車掌を殴《なぐ》ってやろうかと思った。しかし、よく考えてみると車掌のせいではなかった。パスパルトゥーは主人の顔を見ることができなかった。
「フランシスさん」と、フォッグ氏は落ち着き払って言った。「さあ、アラハバードまで行く方法を考えましょう」
「フォッグさん、こんなところで遅れるのは、あなたにとっては取り返しのつかない損失ですね」
「いや、こういうことがあることは前もって思っていたのです」
「では、ご承知だったのですか、鉄道が……」
「全然、知りませんでした。しかし途中で遅かれ早かれ、なにか事故が起こるとは思っていたのです。そのつもりで二日間、余裕を取っておいたのです。二十五日正午、カルカッタからホンコン行きの汽船が出ます。きょうは二十二日です。大丈夫、汽船に間に合うようにカルカッタへ着けるでしょう」
いかにも自信ありげな返事であった。反問のしようがなかった。とはいえ鉄道工事がここで中止されていることは、あくまで事実であった。そもそも新聞というものは、進み癖《ぐせ》のある時計のようなもので、それゆえ工事の完成を、いち早く報じてしまったのだ。大部分の乗客は鉄道の中断を知ると、汽車から飛び降りて、われがちに村にかけつけた。村にあるあらゆる種類の乗物を利用しようとしたのだ。四輸馬車、瘤牛《こぶうし》の引く二輪車、動き回るパゴダとでも形容すべき旅行車、轎《かご》、小馬など。……ところでフォッグ氏とフランシス・クロマーティ代将とは村じゅうを探し回ったが、なにも発見できないで戻ってきた。
「歩いて行こう」とフィリアス・フォッグは言った。
このとき戻ってきたパスパルトゥーは、その主人の言葉を聞くと、酒落《しゃれ》た、しかし、なんの役にも立たないインドサンダルに目を落としながら顔をしかめてみせた。幸運にも、彼は彼なりに発見したものがあったのだ。ためらいながら言った。
「旦那さま、じつは、うまい乗物をみつけたのでございます」
「なんだ?」
「象でございます! この近くに住んでいるインド人の持っている象でございます」
「見に行こう」と、フォッグ氏は答えた。
五分後、フィリアス・フォッグとフランシス・クロマーティ代将とパスパルトゥーとは、小屋のところに行った。小屋は、高い柵《さく》に取り巻かれた小さな囲い地に隣り合っていた。小屋の中にはひとりのインド人が、囲い地の中には一頭の象がいた。インド人は頼まれると、フォッグ氏と、そのふたりの連れとを囲い地の中に案内した。
彼らは象の前に立った。象はあまり家畜化されていなかった。貨物運搬用としてではなく、サーカスで戦わせるように訓練されていた。主人は、生来おとなしい象の性質を変えて、しだいに、ヒンドゥー語でいうムッチ、すなわち狂暴な発作を起こさせるように仕向けていた。このためには一か月間、砂糖とバターとで飼育する。この方法は目的を達するには不適当のように思われるが、飼育者はいつもそれで成功する。……ところでフォッグ氏にとって、はなはだ幸いだったことには、いま目の前にいるこの象は、こういうふうに飼育されてから間がなかったので、まだムッチを起こすことはなかったのである。
キウニ……この象の名である……は、その仲間たちと同様、長時間、疾走することができた。 他に乗物がなかったので、フィリアス・フォッグは、この象を雇うことに決心した。
しかし象は、インドでは高価だ。数がだんだん減りつつあるからだ。ことに雄《おす》は貴重だ。雄だけがサーカスで戦わせるのに適するからである。それでなくても象は飼育して家畜の状態にすると、なかなか繁殖しない。象の数を増やすためには狩りをしなければならない。こうして象は非常に大切に扱われる。フィリアス・フォッグ氏が象を借りたいと申し出ると、インド人はきっぱりと断わった。
フォッグは、あきらめなかった。象が借りられるなら金は思いきって払う、と言った。毎時間十ポンド!インド人は、かぶりを振った。二十ポンド! やはり、かぶりを振った。四十ポンド! それでも、うんと言わなかった。パスパルトゥーは値段の釣りあがるたびに飛びあがった。しかし、インド人は、どうしても承知しなかった。なおも値段を釣りあげた。一時間四十ポンドでも、象がアラハバードまで行くのに十五時間かかるとすれば、インド人のふところには六百ポンドはいることになるのだが。
フィリアス・フォッグはすこしも動じないで、とうとうインド人に、千フランで象を買おう、と切り出した。それでもインド人は売ろうとはしなかった。この狡猾な男は、たぶん一攫千金《いっかくせんきん》を夢見ていたのであろう。
フランシス・クロマーティ代将はフォッグ氏をわきへ連れて行って、これ以上出す前に、よく思案されるように、と注意した。フィリアス・フォッグは、わたくしには思案しないで行動する習慣はありません、結局は二万ポンドの賭の成否に関することです、この象はどうしても必要です、いまの値段の十倍出しても手に入れます、と答えた。
フォッグ氏はインド人のところに戻った。インド人の小さな目は貪欲《どんよく》そうに輝いていた。その目を見ると、すぐにわかった。象は売ってもいい、ただし値段が問題だ。フィリアス・フォッグは、つぎつぎに値段を釣りあげていった。千二百ポンド、千五百ポンド、千八百ポンド、ついに二千ポンド! いつも血色のいいパスパルトゥーの顔が真っ青になった。
二千ポンド! インド人は手を打った。
「わたくしのスリッパのせいでございます。丈夫な靴を履いていれば、わけなく歩けるのでございますが」と、パスパルトゥーは叫んだ。「象のステーキのために二千ポンド取られるなんて!」
取り引きは終った。あとは案内人を見つけるだけであった。すぐに見つかった。若い利口そうなパーシー人が案内を申し出た。フォッグ氏は頼むと言った。たくさんの礼金が約束されたので、若いパーシー人は、いっそう利口そうに、はきはきと振る舞った。
象は引き出され、すぐに装具をつけられた。パーシー人は熱練した象使いであった。彼は象の背中を鞍下《くらした》毛布のようなものでおおうと、象の左右の横腹に、それぞれ、あまり快適でなさそうな一種の椅子つき輿《こし》を垂らした。
フィリアス・フォッグは例の小さな旅行鞄の底から札束を引き出して、インド人に支払った。パスパルトゥーは見ていられなかった。なんだか自分の臓腑《ぞうふ》から、それらが引き出されるような気持ちがした。
フォッグ氏はフランシス・クロマーティ代将に、アラハバード駅まで同行したいと申し出た。代将は喜んで申し出を受け入れた。ひとりぐらい余計に旅客を乗せても、この巨大な動物を疲れさせることはないのである。
コルビー村で食糧を買い入れた。フランシス・クロマーティ代将は椅子の一つに腰かけ、フィリアス・フォッグはもう一つの椅子に腰かけた。パスパルトゥーは主人と代将とのあいだに挟《はさ》まって毛布にまたがり、パーシー人は象の首にまたがった。
午前九時、象は村を出発し、近道をしてラタニアの深い林の中にはいって行った。
十二 フィリアス・フォッグの一行がインドの森林を突破して事件に出会うこと
案内人は走行距離を縮めるため、工事中の鉄道線路を右に見て、それから別れた。この線路は、ビンジア山脈がいたるところに支脈を延ばしているので、それらに妨げられて最短距離をとることができない。この最短距離をフィリアス・フォッグは、ぜひとりたいと思った。パーシー人は、この地方の道は大小となく知っていた。林を横切って行けば二十マイルばかり近道できると言った。一同は彼の言棄に従った。
フィリアス・フォッグとフランシス・クロマーティ代将とは、輿《こし》の中に首までうずめて、ひどく揺られていた。象はどんどん走っていた。象使いが急《せ》きに急かせているからだ。しかし、フィリアス・フォッグとクロマーティ代将とは、いかにもイギリス人らしい沈着さで、じっと耐えていた。ほとんど口をきかなかった。第一、互いに顔を見合わせることもできなかったのだ。
パスパルトゥーは象の背中の上で揺られに揺られていたが、それでも主人の注意をよく守って、舌を歯のあいだから出さないようにしていた。舌を出すと噛み切ってしまうからだ。この健気な若者は、ときには象の首のほうに投げ出され、ときには尻のほうに投げ出されて、さながら踏み切り板の上の道化師よろしく、たえず跳ねあがっていた。しかし明るい男だ。たえず冗談を言っていた。鯉《こい》のように跳ねながら笑っていた。ときどき袋の中から一|塊《かたまり》の砂糖を出して象にやった。利口なキウニは、それを鼻の先で受けとめた。しかし、そのあいだも足をゆるめなかった。
二時間後、案内人は象をとめて一時間の休息を与えた。象はまず近くの沼で喉をうるおすと、潅木《かんぼく》の枝や葉をむさぼり食った。フランシス・クロマーティ代将は、この休息がありがたかった。疲れきっていたからだ。フォッグ氏のほうは、いまベッドから飛び起きたように元気だった。
「まるで鉄のような人だ!」と、代将はフォッグ氏を見て感嘆して言った。
「鉄も鉄、鋼鉄です」と、パスパルトゥーは、簡単な昼食の支度をしながら言った。
正午、案内人は出発合図をした。土地はたちまち原始的な様相を呈し始めた。大森林、次にはタマリンドや背の低い棕櫚《しゅろ》の林、その次には痩《や》せた潅木がまばらに生え、黒|花崗《かこう》岩の大きな塊がごろごろしている広漠たる不毛の原野。このブンデルカンド高原地帯全域は人跡《じんせき》まれだ。この地方にはヒンドゥー教のもっとも奇怪な風習を固執している狂信的な種族が住んでいる。このように王たちの勢力下にある地方には、イギリス政府も、まだその支配権を確立することができない。ビンディア山脈の堅固な要塞《ようさい》に立てこもる王たちに近づくことは、おそらく容易なことではないだろう。
しばしば凶暴なインド人の群れに出会った。彼らは巨象が疾走するのを見ると、激しい怒りの身振りを示した。パーシー人は、できるだけ彼らに出会わないようにした。出会ったら危険な連中だ、と思っているからだ。その日、動物たちには、ほとんど出会わなかった。ただ猿たちだけが顔をしかめ、大あわてにあわてて逃げて行った。パスパルトゥーは大いに笑った。
パスパルトゥーには、いろいろな心配があったが、その中でも、とくに一つの心配がいま彼の心を占めていた。アラハバードに着いたら、フォッグ氏は象をどうするだろう? どこまでも連れて行くのか? そんなことは不可能だ! 大金を出して買ったうえに、また費用をかけて連れて行く、そんなことをしたら身代《しんだい》限りをしてしまう。売るか? それとも捨てるか? 捨てるなんて、この高価な動物を! ……パスパルトゥーはハッとした。もしフォッグ氏が自分に象をくれると言ったら? ……ああ、どうしよう! 心配でたまらなくなった。
一行はビンディア山脈の主脈を越えて午後八時、北側の山麗に達し、荒れ果てた無人のバンガローで一夜を明かすことにした。
その日、走破した距離は約二十五マイルであったが、アラハバード駅まではまだ同じくらいの距離があった。
夜は寒かった。しかし、パーシー人がバンガローの中で焚火《たきび》をしたので、一同、大いに助かった。コルビー村で買った食糧で夕食をとることになったが、みな疲れているので、あまり食べられなかった。会話もはずまなかった。たちまち大きないびきが聞こえはじめた。パーシー人は、キウニの見張りに行った。キウニは大木の幹にもたれて立ったまま眠っていた。
その夜は、なんの事件も起こらなかった。チータや豹《ひょう》の吠え声と猿の鋭い鳴き声だけが、ときどき夜の静寂を破った。しかし、豹どもも吠えるだけで、バンガローに仮泊している人々をおびやかそうとはしなかった。フランシス・クロマーティ代将は疲労|困憊《こんぱい》した勇敢な軍人らしく熟睡した。
パスパルトゥーは浅い眠りの中で、きょう一日、象の上でとんぼ返りをした夢を見ていた。フィリアス・フォッグは、サヴィル街の静かな自邸におけると同様、安眠した。
午前六時、ふたたび出発。案内人は夜までにアラハバード駅に着きたいと思った。もし夜までに着けば、フォッグ氏としては、この世界一周旅行に出発していらい節約しておいた四十八時間のうち、その一部を失うだけですむことになる。
ビンジア山脈の最後の斜面を下った。キウニは、また走りだした。正午頃、案内人はカレンゲル村を避けて通った。カレンゲル村はガンジス川の支流の一つであるカニ川のほとりにある。案内人は人の住んでいるところは、かならず避けた。人の住んでいるところよりも、ガンジス川の流域の、この最初の荒涼たる低湿地帯を行くほうが安全だ、と思ったのである。アラハバードは、すでに北東十二マイルの彼方にあった。バナナの木の茂みの下で休息した。バナナの実はパンのように栄養があり、旅人たちはみな、クリームのようにうまい、と言う。フォッグ氏たちも舌鼓《したつづみ》を打った。
午後二時、案内人は、うっそうたる森にはいり、その中を数マイル行った。彼は森の中を行くほうを選んだ。果たして何事も起こらなかった。旅行は無事に終りそうになった。そのとき突然、象が何かにおびえたらしく、ぴたりと立ちどまった。
まさに四時。
「どうしたんだ?」と、フランシス・クロマーティ代将が輿《こし》から首を出してたずねた。
「わかりません」と、パーシー人は答えて耳をすました。森の茂みの中を、何かわからぬざわめきが伝わってくる……。
ざわめきは、しだいにはっきりしてきた。まだかなり遠いが、それは人声と銅の楽器との音らしかった。
パスパルトゥーは全身を目にし耳にした。フォッグ氏は無言のまま、じっと待っていた。パーシー人は地面に飛び降り、フォッグ氏たちをのせた象を木につなぐと、森のもっとも深い茂みの中に姿を消した。しばらくして戻ってくると言った。
「バラモンの行列がやってきます。みつけられないようにしましょう」
案内人は象を木からほどくと、深い茂みの中へ連れて行って、一同に象から降りないようにと固く注意した。そして彼自身も、いざとなったらすぐ象に飛び乗って逃げられるように身構えていた。しかし彼は、狂信者たちが自分に気づかずに行ってしまうだろう、と思っていた。茂みにすっぽり隠れているからだ。
人声と楽器との喧騒は、だんだん近づいてきた。単調な歌声に、太鼓《たいこ》と鐃鉢《にょうはち》との音がまじり合っていた。まもなく行列の先頭が木々の下に現われた。フォッグ氏たちの隠れているところからは五十歩ほど先だ。フォッグ氏たちは枝葉をすかして、この奇怪な宗教的行列を見ることができた。
先頭に僧侶たちが進んできた。僧帽をかぶり、けばけばしい僧衣の裾を引きずっていた。そのまわりを男たち、女たち、子どもたちが取り巻いていた。僧侶たちは陰気な聖歌をうたい、聖歌は同じ間隔で太鼓や鐃鉢の音に打ち切られた。そのあとからは二輪車が進んできた。大きな車輪で、箍《たが》や輻《や》はからみ合った蛇の形をしていた。二輪車の上には、見るもゾッとするような醜悪な像が立っていて、二輪車は飾りたてられた四頭の瘤牛にひかれていた。像は四本の腕を持ち、胴は赤黒く塗りたくられていた。荒々しい目、振り乱した髪、だらりとたらした舌、ヘンナやキンマで色どられた唇。首は、いくつかの死人の首をつないだ首飾りで取り巻かれている。腰には、いくつかの切られた手をつないだ帯が巻きついている。像は倒れた大男の上に立っていて、大男には頭がない。
フランシス・クロマーティ代将は像を見ると、
「カーリの女神だ」と、つぶやいた。「愛と死の女神だ」
「死の女神というならわかりますが、愛の女神などとは、とんでもないことです!」と、パスパルトゥーは言った。「汚らわしい婆《ばば》あめ!」
パーシー人は黙るように会図した。
像を取り巻いて、年とったバラモン僧の一団が踊り狂っていた。彼らの体は黄土で縞《しま》をつけられ、十字形の傷におおわれ、その傷からは血がぽたぽたと落ちていた。これらの愚かな狂信者たちは、ヒンドゥー教の大祭のときには、いまなお、われから進んでクリシュナの像をのせた山車《だし》の車輪の下に身を投ずるのである。
彼らのうしろからは東洋風の豪華な衣装に身を包んだ幾人かのバラモン教徒が、一人の婦人を引き立ててきた。婦人は歩くのもやっとの思いであるらしかった。 婦人は若くて、ヨーロッパ人のように色が白かった。
彼女の頭、首、肩、耳、腕、手、足の指は宝石や首輪や腕輪や耳輪や指輪で重そうに飾られていた。軽やかな寒冷紗《かんれいしゃ》を羽織った、金箔や銀箔をおいた長い服は体の輪郭をえがいていた。
この婦人のあとには……その対照が見る者の目を驚かせたが、抜き身のサーベルを腰にさげ、金銀を象嵌《ぞうがん》した長いピストルを持ち、死体をのせた輿《こし》をかついだ護衛兵たちが従った。
輿に乗っているのは、王の豪奢《ごうしゃ》な服を着た老人の死体であった。生きていたときと同じように、真珠で飾ったターバンをかぶり、絹糸と銀糸とで織った長衣をまとい、ダイヤモンドをちりばめたカシミヤ織りの帯をしめ、いかにもインドの王にふさわしい立派な武器をおびていた。
行列の最後には音楽隊と狂信的な後衛隊とがつづいた。後衛隊の叫喚《きょうかん》は、ときに音楽隊の耳を聾《ろう》する大騒音さえ圧倒した。
フランシス・クロマーティ代将は、これらすべての行列を、世にも悲しげな顔つきで眺めていたが、案内人を振り返ると、
「これはサッティーだ!」と、叫んだ。パーシー人はうなずくと、指を唇に押し当てた。長い行列は、のろのろと木々の下を遠ざかり、ついに最後の列も森の奥に消え失せた。
歌声も、しだいに遠ざかった。まだかすかに叫び声が聞こえていたが、ついにはそれも消え、あたりには、ふたたび深い静寂がただよった。
フィリアス・フォッグはフランシス・クロマーティ代将の言った言葉を耳にとめていた。行列が消えると、
「サッティーとは、なんですか?」と、たずねた。
「サッティーとは、フォッグさん」と代将は答えた。「人間が犠牲になることです。自分からすすんで犠牲になることです。しかし、いま、ごらんになったあの女は明日、日の出とともに、否応《いやおう》なく焼き殺されるのです」
「ああ、人非人どもめ!」と、パスパルトゥーは憤然として叫んだ。
「で、あの死体は?」とフォッグ氏がたずねた。
「王……あの女の夫です」と、案内人が答えた。「独立した王です、ブンデルカンド地方の……」
「なんですって!」と、フィリアス・フォッグは言ったが、その声は例によって、なんらの驚きも表わしていなかった。「まだインドには、こんな野蛮な習慣が残っているのですね。イギリス政府は、やめさせることができなかったのですか?」
「インドの大部分では」と、フランシス・クロマーティ代将は答えた。「こういう人身御供《ひとみごくう》は、もう跡を絶ちました。しかし、野蛮な地方では……ことに、このブンデルカンド地方では、イギリス人はなんの権威も持っていないのです。ビンドヤ山地の北側一帯は常に殺人と掠奪《りゃくだつ》との舞台です」
「かわいそうに!」と、パスパルトゥーはつぶやいた。「生きながら焼き殺されるなんて!」
「そうだよ」と代将は答えた。「焼き殺されるのだ。しかし、もし、あの女がいやだと言ったら、一族からどんなひどい目に会わされるか、きみには想像もできないよ。たぶん頭をくりくり坊主にされ、ひとつかみの米で命をつなぐほかはないだろう。いずれ追い払われ、汚《けが》らわしい女として、だれからも相手にされず、結局は疥癬《かいせん》にかかった犬のように野垂《のた》れ死にしてしまうだろう。だから不幸な女たちは、夫への愛情でもなく、あるいは宗教的な狂信でもなく、ただ、こうした恐ろしい運命が待っていることを思って、しばしば火あぶりの刑に服すのだ、もっとも、ときには例外もある。すすんで、わが身を犠牲にする女もある。こういう風習をやめさせるには、政府の強力な指導が必要だ……思い出したが数年前、わたしがボンベイに駐在していたとき、ひとりの若い寡婦《かふ》が夫の遺骸《いがい》といっしょに焼かれたいと総督に願い出たことがあった。もちろん許されなかったが、すると、その女はボンベイから逃げだして、ある王が独立して統治している地方へ行き、そこで思いどおり焼き殺されてしまったんだよ」
代将の話しているあいだ案内人は、さもかわいそうに、というように首を横に振っていたが、話が終ると、
「あの女は、あす、日の出とともに、むりやり犠牲にされるんです」と、言った。
「どうして知っているんだね?」
「ブンデルカンド地方では、知らない者はありません」
「しかし、あの不幸な女は、すこしも抵抗する様子がないじゃないか?」
「大麻と阿片の煙を吸わされて朦朧《もうろう》となっているんです」
「で、どこへ連れて行かれるんだね?」
「ここから二マイルばかり離れたピラジのパゴダへ連れて行かれるんです。そこで処刑の時を待って夜を明かすんです」
「処刑は行なわれるんだね?」
「あす、日が出るとすぐ……」
こう返事をすると、案内人は茂みの中から象を引き出して、その首の上に飛び乗った。口笛を吹いて象に出発を命じた。とたんにフォッグ氏が案内人をとめ、フランシス・クロマーティ代将に言った。
「あの女を、助けてやれないでしょうか?」
「助ける? フォッグさん!」と、代将は叫んだ。
「わたしには、まだ十二時間の余裕があります。その十二時間を、あの女を助けるために使うことができます」
「なんですって! …… しかし、 なんという親切な人でしょう、あなたは!」と、フランシス・クロマーティ代将は言った。
「たまには親切なこともします」と、フィリアス・フォッグはあっさり答えた。「時間の余裕さえあれば……」
十三 運命は大胆な者にほほえみかける、ということを一度ならずパスパルトゥーが示すこと
この企ては大胆で、困難に満ちていて、おそらく実行不可能にちがいなかった。フォッグ氏は生命を危険にさらすかもしれなかった。すくなくとも自由を……したがって旅行の成功をも危険にさらすかもしれなかった。しかし、彼は躊躇《ちゅうちょ》しなかった。一つにはフランシス・クロマーティ代将が、断固、協力する、と言ったからだ。
パスパルトゥーは? もとより否《いな》やを言うはずがなかった。主人の企てに奪い立った。彼は主人の氷のような外見の下に、一つの心を、一つの魂を感じていた。フィリアス・フォッグを愛し始めていたのだ。
あとは案内人の気持ちしだいであった。彼はこの企てに、どう決心するであろうか? ヒンドゥー教徒に味方するのではなかろうか? フォッグ氏たちとしては、自分たちに協力しないまでも、せめて中立を守ってもらわなければならなかった。
フランシス・クロマーティ代将は率直にたずねてみた。
「閣下」と、案内人は答えた。「わたしはパーシー人です。そして、あの女もパーシー人です。お指図《さしず》に従います」
「ありがとう」と、フォッグ氏は答えた。
「でも、申しあげておかなければなりませんが」と、パーシー人は言った。「これは命がけの仕事です。そのうえ、もし、つかまったら、恐ろしい刑罰に処せられます。覚悟しておいてください」
「承知のうえだ」と、フォッグ氏は答えた。「ところで、行動を起こすには、夜まで待たなければならないと思うが?」
「わたしも、そう思います」と、パーシー人は答えた。この健気《けなげ》な案内人は、犠牲になる女について、いろいろ詳しいことを話した。彼女はパーシー族のインド人で、有名な美人で、ボンベイの裕福な商人の娘だ。ボンベイで完全にイギリス風の教育を受けたので、その作法、教養はヨーロッパ人とまったく変わるところがない。名をアウダという。早く両親に死に別れて、心ならずも、あのブンデルカンドの老王に嫁したが、三か月後、寡婦になった。自分を待つ運命を知っているので逃げだしたが、すぐつかまった。王の一族は彼女を人身御供にすることを望んでいたので死刑を宣告した。もはや逃れることはできないだろう。
この話を聞いたので、フォッグ氏たちは、いよいよ、その勇敢な決心を固めた。案内人が象を駆ってピラジのパゴダに向かい、できるだけそれに近づく、ということにきまった。
半時間後、森の中で……パゴダから五百歩の手前でとまった。パゴダは見えなかったが、狂信者たちの叫び声は、はっきり聞こえてきた。
どういう手段で犠牲者に近づくか? 案内人はピラジのパゴダをよく知っていた。若い女は、その中に監禁されているのにちがいない、と断言した。やつらが麻薬に酔いしれて眠っているあいだに、入り口の一つからはいるか、それとも壁に穴を開けて忍び込むか? いずれにしても、それはその場になってみないとわからないことであった。ただ一つわかっていることは、今夜じゅうに犠牲者を奪い返さなければならない、あす、日の出とともに犠牲者が刑場へ運ばれるときになっては間に合わない、ということであった。そのときになっては、どんな人間の力も彼女を助けることはできないであろう。
フォッグ氏たちは夜になるのを待った。午後六時、あたりが暗くなると、彼らはパゴダの周囲を偵察してみようと決心した。その瞬間、バラモン僧たちの最後の叫び声が消えた。これらのインド人たちは、その習慣に従って、バング……液体にした阿片に大麻の煎《せん》じ汁をまぜたものに酔いしれて、もはや、ぐっすり眠っているのにちがいなかった。いまなら彼らのあいだをすり抜けてパゴダに近づくこともできそうだ。
パーシー人はフォッグ氏、フランシス・クロマーティ代将、パスパルトゥーの先頭になり、音をたてないようにして這い始めた。十分間ばかり這って行くと、小さな川のふちに出た。鉄製の松明の尖端で樹脂が燃えていた。その光で見ると、向こうに薪《まき》の山があった。火刑台だ。薪は貴重な白檀《びゃくだん》で、香油を染み込ませてあった。薪の山の上には防腐香料を焚き込めた王の遺骸が横たわっていた。生きている妻といっしょに焼かれる遺骸だ。火刑台の向こう百歩ばかりのところにパゴダが立っていて、そのいくつかの尖塔は暗い空を背景に木々の梢《こずえ》の上にそびえていた。
「さあ!」と、案内人は低く言った。
そして、三人を従えて用心の上にも用心しながら、音を立てないようにして、背の高い草の中を這って行った。
あたりはしんと静まり返っていた。枝葉の中で風のささやきが聞こえるばかりであった。
やがて空地のはずれに出たので、案内人はとまった。いくつかの樹脂の炎が空地を照らしていた。そこには麻薬に酔いしれて眠っている連中が、ごろごろと地面にころがっていた。さながら死体の散乱している戦場を思わせた。男、女、子どもまでがまじり合っていた。まだ半睡半醒《はんすいはんせい》の数人が、あちらこちらで唸《うな》っていた。
広場の向こう、木立ちに囲まれて、ピラジの寺院がぼんやり見えた。しかしパーシー人は、ひどくがっかりした。松明の煤《すす》けた光の中に、王の護衝兵たちを見たからだ。彼らは抜き身のサーベルを手にして、寺院のいくつかの入り口を守ったり、あたりを歩き回ったりしている。寺院の中でも、僧侶たちが同じく警戒しているのにちがいなかった。
パーシー人は、もはや進まなかった。寺院に押し入ることは不可能だ、と思ったのだ。仲間たちを、うしろにさがらせた。
フィリアス・フォッグもフランシス・クロマーティ代将も、パーシー人と同様、こちら側から忍び込むことは、とうてい不可能だと思った。
四人はじっとしていた。低い声で話し合った。
「待とう」と、代将が言った。「まだ八時だ。護衛兵どもが眠りこけてしまうかもしれないから」
「そうかもしれません」と、パーシー人が答えた。
フィリアス・フォッグと仲間たちは、一本の木の下に横たわって待った。
なんと長い時間がたったであろう! パーシー人は、ときどき立って行っては森のはずれから広場を見た。いつ行ってみても、王の護衛兵たちは松明《たいまつ》の煤けた光の中で警戒していた。寺院の窓々からに光がぼんやり射していた。
夜中まで待った。状態はなんら変わらなかった。外部の警戒は、相変わらず厳重をきわめていた。護衛兵どもが眠りこけてしまう、ということは期待できなかった。おそらく彼らは用心してバングを飲まなかったのであろう。侵入するには別の方法を考えなければならなかった。寺院の壁に穴を開けて、そこから忍び込まなければならなかった。しかし、僧侶どもが犠牲者を厳重に見張っているのにちがいなかった。ちょうど護衛兵どもが寺院の入り口を見張っているように……。まず、それを探《さぐ》ってみなければならなかった。
最後の打ち合わせをすますと、パーシー人は、いよいよ出発の合図をした。フォッグ氏とフランシス代将とパスパルトゥーとは彼に従った。寺院の裏手に達するためには、かなり長い回り道をしなければならなかった。
午前零時半ごろ、だれにも見とがめられずに裏手に達した。この方面は、まったく警戒されていなかった。しかし、寺院の裏側は一面の壁で、入り口もなければ窓もなかった。
さいわい夜は暗かった。下弦の月がのぼりかけていたが、空は大きな雲におおわれているので、まだ高い木立の闇は濃かった。
しかし、寺院の壁の下に達しただけでは、どうにもならなかった。壁に穴を開けなければならなかった。穴を開ける道具としては、一同、ポケットナイフしか持っていなかった。しかし非常に幸いなことには、寺院の壁は木と煉瓦《れんが》とでできていたので、穴を開けるのは、それほど困難ではないらしかった。最初の煉瓦を取り除けば、あとは次々に外せるのにちがいなかった。
パーシー人とパスパルトゥーとが近づいて、できるだけ音を立てないようにして煉瓦を外しにかかった。幅二フィートほどの穴を開けるつもりだ。
仕事は、はかどった。突然、寺院の内部で一つの叫び声が起こった。ほとんど同時に、外部でも別の叫び声が起こった。叫び声と叫び声とは呼応した。
パスパルトゥーとパーシー人とは仕事をやめた。彼らは見つけられたと思ったのか? それとも危険を感じたのか? とにかく彼らは、もっとも平凡な安全策をとった。つまり逃げだした。と同時に、フィリアス・フォッグとフランシス・クロマーティ代将も逃げだした。四人はまたもや森の茂みの下にうずくまった。あの叫び声は警報だったのか? 四人は様子を見て、また仕事にかかるつもりであった。ところが、護衛兵どもが寺院の裏手にやってきた。そして、人っ子ひとり近づけまいとするように、その場を動かなかった。
仕事を中断された四人の失望落胆は筆紙に尽くしがたかった。もはや犠牲者に近づくことはできない。どのようにして彼女を救ったらいいだろう? フランシス・クロマーティ代将は拳《こぶし》を噛んだ。パスパルトゥーは地団駄《じだんだ》踏んだ。案内人は怒りに我を忘れた。ただフォッグだけは、相変わらず冷静で、感情を表わさず、じっと待っていた。
「もう出発するほかないだろうね?」と、代将は低い声でパーシー人に言った。
「もう出発するほかありません」と案内人は答えた。
「待ってください」と、フォッグが言った。「わたしは、あす、昼前にアラハバードに着けばいいのです」
「しかし、どんな希望があるのです?」と、代将が言った。「数時間で夜が明けます。そうすれば……」
「機会は去ったようですが、しかし最後に、また機会がないとはかぎりません」
代将はフィリアス・フォッグの目を探るように見た。
いったい、この冷静なイギリス人は、なにを考えているのであろう? 処刑の瞬間、若い女めがけて飛び出して行って、公然と、死刑執行人の手から彼女を奪い返そうとでも考えているのであろうか?
狂気の沙汰だ! しかし、この冷静な男が、そんな無謀なまねをするとは、どうしても思えなかった。フランシス・クロマーティ代将は、とにかく、この恐ろしい場面の結末がどういうことになるか、それを待とうと決心した。けれども案内人は、三人をそのまま、その隠れ場所に置いておこうとはしなかった。森のはずれ、広場の見えるところまで連れて戻った。一同は茂みのかげから、眠りこけている連中を見守った。
パスパルトゥーは、低い枝にのぼって隠れていたが、ふと、ある考えが光のように心をよぎった。その考えは、しだいに彼の心のなかで動かしがたいものになっていった。
最初は(なんて気ちがいじみたことだ!)と思った。しかし、しだいにその考えに憑《つ》かれていった。(一か八《ばち》か、どうしてやってみてはいけないんだ! いまが機会じゃないか! たぶん唯一の機会じゃないか! しかも、やつらは麻薬で頭がしびれている!)
しかしパスパルトゥーは明確な計画を立てたわけではなかった。漠然と、あることを考えながら木の低い枝から枝へと、まるで蛇のように移って行った。その枝の先は地面のほうへ垂れていた。
時間がたった。やがて、夜明けの近づいたことを思わせるように、あたりは薄明るくなったが、茂みの闇はまだ濃かった。
時がきた。眠りこけていた群れの中に一種の復活が訪れた。彼らは立ちあがった。ふたたび太鼓が響き、歌声と叫び声とが起こった。いよいよ不幸な女の死ぬべき時がきたのだ。
パゴダのあらゆる出口が開かれた。強い光が中から射してきた。フォッグ氏とフランシス・クロマーティ代将とは、犠牲者を見ることができた。彼女は強い光に照らされながら、ふたりの僧侶に引っ張られて外に出てきた。彼女は生きようとする強烈な本能によって、麻酔から覚めようとし、死刑執行人たちから逃れようとしているように見えた。アランシス・クロマーティ代将の心臓は激しく打った。体をおののかせながら思わずフィリアス・フォッグの手をつかんだ。そして、フィリアス・フォッグの手が抜き身のナイフを握りしめているのを感じた。
そのとき群集がざわめきだした。若い女は大麻の煙を吸わされて、ふたたび失神状態におちいった。彼女はバラモン僧どものあいだを運ばれて行った。バラモン僧どもは宗教的な叫び声をあげながら彼女を護送して行った。
フィリアス・フォッグとその仲間たちとは、群集の最後の列に紛《まぎ》れ込んでついて行った。
二分後、フォッグたちは小川のふちに出た。そこは火刑台から五十歩とは隔たっていなかった。フォッグたちは、そこでとまった。火刑台の上には王の遺骸が横たわっていた。フォッグたちは薄暗がりのなかで、犠牲者がその亡き夫のそばに微動さえしないで横たわっているのを見た。
やがて一本の松明が近づいた。油を染み込ませた薪は、たちまち炎をあげはじめた。
その瞬間、フランシス・クロマーティ代将とパーシー人とは、必死にフィリアス・フォッグを引き留めなければならなかった。フォッグが高潔な狂気にかられて、火刑台めがけて走り出そうとしたからだ。
フォッグは引き留めるふたりの手を振り払った。間一髪、情景が一変した。恐怖の叫び声が起こった。あらゆる群集は、おののきながら地にひれ伏した。
見よ! 老王は死んではいなかった! 彼は突然、両腕で若い女を抱きながら立ちあがった。もうもうたる煙の中を、火刑台から降りてきた。その姿は、この世のものとは思えなかった!
バラモン僧、護衛兵、群集、すべてが恐怖のあまり地にひれ伏していた。だれひとり目をあげて、この奇跡を見ようとするものはなかった。
意識不明の犠牲者は、力強い両腕の中に軽々と抱かれていた。
フォッグ氏とフランシス・クロマーティ代将とは、じっとその場に立ち尽くしていた。パーシー人は、さっきから顔を伏せたままであった。パスパルトゥーは、どこにいるのであろう? やはり、さぞ驚いているのにちがいない!
生き返った老王は犠牲者を抱いたまま、フォッグ氏とフランシス・クロマーティ代将とが立っているほうへ近づいてきた。とたんに低い声が聞こえた。
「逃げるんです!」
声の主は、なんとパスパルトゥーであった! もうもうたる煙に囲まれた火刑台に忍んで行き、薄闇に紛れて若い女を死から救い出してきたのは、なんとパスパルトゥーであった! 大胆といおうか幸運といおうか、彼は恐れおののいて地にひれ伏している群集の中をゆうゆうと戻ってきたのだ!
時を移さず、四人、いや五人は森の中に消えた。象が全速力で彼らを運んだ。しかし、叫び声が、大騒音が、たちまち彼らを追いかけてきた。ばかりでなく、一発の弾丸がフィリアス・フォッグの帽子をつらぬいた。計略が見破られた、と彼らは思った。
事実、赤々と燃えあがった火刑台の上には老王の遺体がはっきり見えた。しかし犠牲者の姿はなかった。恐怖から覚めた僧侶どもは、あの瞬間、略奪《りゃくだつ》が行なわれたことを知ったのだ。
僧侶どもは森の中を追ってきた。護衛兵どもも追ってきた。一斉射撃の音が起こった。しかし略奪者たちは全速力で逃げた。まもなく、弾丸も矢も届かないところまで逃げおおせた。
十四 フィリアス・フォッグはガンジス川のすばらしい渓谷に沿って下ること、ただしそれを見ようとはしないこと
大胆な略奪は成功した。一時間たっても、まだパスパルトゥーは自分の離れ業に笑いがとまらなかった。フランシス・クロマーティ代将は、この勇敢な青年に握手を求めた。フィリアス・フォッグは「よくやった」と言った。
この冷静な紳士の口から出た「よくやった」は最上級の賛辞であった。それに対してパスパルトゥーは、あらゆる名誉は、ご主人様のもので、自分はただちょっと「おかしな」考えを起こしたのにすぎない、と答えた。しかし彼は、元はたかが体操教師・消防士であった自分が、たとえ一瞬でも芳香|馥郁《ふくいく》たる老王になったこと、とくに美人の夫になったことが嬉しくてたまらなかった。
若いインド人の女は、まだ意識を回復していなかった。何が起こったか知らなかった。旅行用の毛布にくるまって、象の背中の輿《こし》の一つの中にぐったりとなっていた。
象は、まだ暗い森の中を駆けに駆けた。パーシー人は、じつに巧みな御者であった。ピラジのパゴダを逃げ出してから、すでに一時間たっていた。象は広い平原を横切っていた。午前七時、一同は休息した。若い女は、相変わらず完全な虚脱状態にあった。パーシー人は彼女に少量のブランデーと水とを飲ませたが、麻酔から醒めるには、まだ時間がかかりそうであった。
フランシス・クロマーティ代将は、太麻の煙による麻酔の効果についてはよく知っていたので、それだけならすこしも心配しなかった。
しかし、代将はいかにも心配そうであった。彼女がふたたび元気を取り戻すことはわかっていたが、それよりも彼女の将来を思うと心配でたまらなかったのだ。代将はさっそくフィリアス・フォッグに言わずにはいられなかった。もしアウダ夫人がインドにとどまるとすれば、彼女はかならず、またもや死刑執行人どもの手に落ちるであろう。狂信者どもはインドじゅうに根を張っている。いくらイギリスの警察が警戒しても、かならず彼女を捕えるであろう、マドラスで、ボンベイで、カルカッタで……。代将は自分の言葉を裏書きするために、最近起こった同じような事件を話した。彼の意見によれば、アウダ夫人はインドを離れないかぎり安全を確保することはできないのである。
フィリアス・フォッグは、ご注意を忘れないで用心します、と答えた。
午前十時ごろ、案内人は、さあ、アラハバード駅に着きました、と言った。中断された鉄道は、ここで再開されていた。汽車はアラハバード〜カルカッタ間を約一昼夜で走る。それゆえフィリアス・フォッグはカルカッタで汽船に間に合うのにちがいなかった。汽船は明日、十月二十五日、正午、ホンコンに向かって出帆するはずであった。
アウダ夫人は駅の一室に寝かされた。パスパルトゥーは彼女のために、いろいろな買い物に行くことをいいつかった。見つかりしだい化粧品、服、ショール、毛皮など。パスパルトゥーがうまく買い物をしてくることについてはフォッグはすこしも心配しなかった。
パスパルトゥーは、すぐ出かけて町を歩き回った。アラハバード、それは神の都だ。インドで、もっとも崇《あが》められている町の一つだ。というのは、それは聖なる二つの河……その水が全インドの巡礼者をひきつけているガンジス川とジャムナ川との合流点にあるからだ。しかもラーマーヤナの伝説によれば、ガンジス川の水源は天に在り、ブラーマの恵みで、その水は地に下っているのである。
パスパルトゥーは買い物をしながら町を見て回った。町は昔は大きな要塞に守られていたが、その要塞は、いまは国立の監獄になっている。かつては商業や工業が栄えていたが、いまは衰えて見る影もない。パスパルトゥーは、ロンドンのファーマー商会にほど近いリージェント通りを歩いているようなつもりになって、最新流行の品を売っている店を探して歩いたが、そんな店があるはずばなかった。ただ一軒、ユダヤ人の気難しそうな爺さんのやっている古着屋があった。しかし、そこにはとにかく探している物があったので、碁盤縞《ごばんじま》の毛織物の服と、大きなマントと、かわうその毛皮裏のついた豪勢なコートとを買い、気前よく七十五ポンドを支払った。そして意気揚揚《いきようよう》と駅に帰ってきた。
アウダ夫人は意識を回復しはじめていた。ピラジの僧侶どもにむりやり吸わされた麻薬の酔いからしだいに醒《さ》め、彼女の美しい目は、ふたたびインド人らしい優しさを取り戻していた。
詩人王ウサフ・ウダールは王妃アメナガラを称《たた》えて次のように言っている。
「艶やかな髪は真ん中からきちんと二つに分けられ、それは、白くて肌理《きめ》こまかな両頬のなだらかな輪郭を縁どっている。黒い眉はカーマの弓に似て、形よく力強い。長い絹糸のような睫《まつげ》のかげには、大きな澄んだ目があって、その黒い瞳の中には、ヒマラヤの聖なる湖水さながら天の清らかな光がただよっている。よく揃った小さな歯は、微笑をたたえた二つの眉のあいだで輝いている。それはちょうど半開きの石榴《ざくろ》の花の中で露の玉が輝いているようだ。たがいによく均整のとれた可愛らしい耳や、ばら色の手や、ふくよかで優美な小さな足は、セイロンのもっとも美しい真珠のように……ゴルコンダのもっとも美しいダイヤモンドのように、光り輝いている。抱くには片手で事足りる細いすんなりとした胴は、ふっくらとした曲線美を描く腰と、若さの二つの見事な宝をあらわに見せる豊かな胸とを引き立たせている。彼女は絹の服の襞《ひだ》に包まれた、永遠の彫像師ヴィクヴァカルマの妙手によって作られた純銀像を思わせる。
しかし、このような誇張はさておき、ヨーロッパ風の表現によっても、ブンデルカンド王の寡婦《かふ》アウダ夫人は確かに魅力ある女性であった。彼女は純粋な英語を話す。案内人は、この若いパーシー人の女は教育によって変えられた、と断言するが、それはけっして誇張ではない。
ところで汽車は、まもなくアラハバード駅を発車しようとしていた。パーシー人は待っていた。フォッグ氏は彼に約束の報酬を払ったが、それ以上一ファーシングも与えようとしなかった。パスパルトゥーはびっくりした。主人はパーシー人に、たいそう世話になったではないか。事実パーシー人はピラジの事件では命を賭けたのだ。もし将来、ヒンドゥー人たちがそのことを知ったら、彼は彼らの復讐をまぬがれることは困難であろう。
さて、もう一つ、キウニをどうするかという問題が残っていた。あんなに高く買わされた象を、どう処分するか?
しかし、このことについては、フィリアス・フォッグの腹はすでにきまっていた。
「きみ」と、彼はパーシー人に言った。「きみは、じつによくやってくれた。ぼくは約束の報酬は払ったが、まだきみの献身に対してはお礼をしていない。この象を受け取ってくれたまえ。この象はきみのものだ」
パーシー人は目を輝かせた。
「あなたさまは、こんな財産を、わたくしにくださるんでしょうか?」と、彼は叫んだ。
「受け取ってくれたまえ」と、ふたたびフォッグ氏は言った。「これでもまだ、きみには借りがあるくらいだ」
「よかった、よかった、おめでとう!」と、パスパルトゥーは叫んだ。「ありがたく貰っておきたまえ。キウニは善良で、勇気のある象だよ!」
そして象のところへ行って「さあ、お食べ、キウニ、お食べ」と言いながら砂糖をやった。象はさも満足そうに何度も唸った。と思うと、いきなりパスパルトゥーの腰のあたりに鼻を巻きつけて、頭の高さまで持ちあげた。パスパルトゥーはすこしもあわてなかった。象の頭をやさしくなでてやった。象はパスパルトゥーをそっと地上におろした。善良な象は鼻で、善良な若者は手で、たがいにしっかり相手を握りしめた。
数分後、フィリアス・フォッグ、フランシス・クロマーティ代将、パスパルトゥー、それからアウダ夫人は、快適な車室の中にいた。アウダ夫人はもっともよい席を占めていた。汽車は全速力でベナレスに向かって走っていた。アラハバード〜ベナレス間は、せいぜい八十マイルで、二時間の行程だ。この行程のあいだに、アウダ夫人は完全に意識を取りもどした。バングの酔いが醒めたのだ。彼女は、どんなに驚いたか! ヨーロッパ風の服を着て、まったく見知らぬ旅行者たちといっしょに汽車に乗って走っている!
彼女が目を覚ますと、同行者たちは、さっそく、なにくれとなく世話をした。すこしばかりリキュール酒を飲ませて元気をつけさせた。やがて代将が事の次第を話した。まず命がけで彼女を救おうと決心したフィリアス・フォッグの献身を話した。それから事件を首尾よく解決したパスパルトゥーの大胆きわまる奇知《きち》を、とくに強調した。
フォッグ氏は代将の話のあいだ一言も発しなかったが、パスパルトゥーは、すっかり照れて、「いや、なんでもなかったんです!」と繰り返した。
アウダ夫人は自分を助けてくれた人たちに心の底から……言葉よりも涙で感謝した。その美しい目が、その唇よりも、いっそうお礼を言ったのだ。やがてサッティーの恐ろしさを思い浮かべた。彼女は車窓にひろがるインドの土地を眺めて、そこにまだ自分を待ちかまえる数々の危険を想像すると恐怖に身をふるわせた。
フィリアス・フォッグは、アウダ夫人の心中を見抜くと、表面は例によってひどく無愛想に、一つの申し出をした。ホンコンまでお供をしたい、事件のほとぼりがさめるまでホンコンに滞在したらいかがでしょう、と申し出た。
アウダ夫人は喜んで、この申し出に従った。幸いなことに、彼女の親類のひとりがホンコンに住んでいた。同じパーシー人で、ホンコンの有力な商人だ。ホンコンは中国沿岸の一点を占める完全にイギリス的な町である。
十二時三十分、汽車はベナレス駅に着いた。ベナレスは、バラモン教の伝説によれば、往古のカーシーの地に立っていて、それはマホメットの墓のように、かつては天頂と天底とをつなぐ空間に浮かんでいた、というのである。しかし現実的な現代では、東洋学者のいわゆるインドのアテナイであるベナレスは、はなはだ平凡に地上に立っている。パスパルトゥーは、ちらりと、煉瓦《れんが》の家や網代《あじろ》の小屋を見た。それらは地方色などなにもない、ただ荒れ果てた町に思われた。
フランシス・クロマーティ代将は、ここで下車しなければならなかった。彼が赴任する軍隊は、この町の北方数マイルのところに駐屯している。彼はフィリアス・フォッグに別れをつげた。そして今回の旅行の成功を祈るとともに、次回には、もっと平凡な、しかし有益な旅行で、ふたたびこの地にきていただきたいと望んだ。フォッグ氏は軽く代将の手を握った。アウダ夫人は代将に対し、もっと心のこもった挨拶をした。閣下のご恩は一生忘れません、と言った。代将は自分のほうからパスパルトゥーに手を差し伸べ、しっかりと握った。パスパルトゥーは、すっかり感激して、こんどは、いつ、どこで代将のために献身できるだろうか、と自問した。代将は下車した。
ベナレスを出発した汽車は、しばらくガンジス川の渓谷に沿って走った。晴天だったので、窓ガラスをとおしてビハール地方の変化にとんだ風景が現われた。やがて次々に、青々とした山々、大麦・小麦・玉蜀黍《とうもろこし》の畑、緑がかった鰐《わに》の群れている川や沼、手入れの行き届いた家々、緑したたる森や林。……象たちや瘤牛《こぶうし》たちが聖なる川にやってきて水浴びしている。季節は遅く、すでに肌寒いのに、男女のインド人たちも、禊《みそ》ぎの行事を敬虔《けいけん》に行なっている。彼らインド人の中でも、仏教を不倶戴天《ふぐたいてん》の敵とする熱烈なバラモン教徒で、偶像化された三つの神を信じている。ヴィシュヌは太陽の化身、シヴァは造化の化身、そしてブラーマは僧侶と立法者との最高支配者である。しかし、ブラーマとシヴァとヴィシュヌとは、現在のイギリス化されたインドをどのような目で見ているのであろうか? 蒸気船が音立てて往来し、聖なるガンジスの水を掻き乱しているのを、どのような目て見ているのであろうか? その蒸気船の音は、水面を舞う鴎《かもめ》を驚かし、岸辺に群がる亀を驚かし、長い土手に横たわる信者たちを驚かせている。
すべてこれらの光景は稲妻のように過ぎ去り、ときには白い蒸気の煙がそれらを隠した。フォッグ氏とパスパルトゥーとは、チュナールの町をちらりと見た。それはベナレスの南東二十マイルにあって、昔はビハール地方の王たちの城砦だったのである。やがてガジプルと、そこの有名なバラ香水の製造場とが望まれた。コーンウォリスの墓は、ガンジス川の左岸に立っていた。次には要塞のある町バクサル。次には商工業の盛んな町で、インドにおける阿片の主要な市場であるパトナ。さらにはモンギール。ここはヨーロッパ風の町というよりはイギリス風の町で、マンチェスター、あるいはバーミンガムを思わせる。鋳物《いもの》工場、刃物製作所、刀剣製作所で有名だ。高い煙突から吐き出される煤煙は、ブラーマのいます天を汚している。これこそ、この夢の国に対する一大痛撃と言わなければならないだろう。
夜がきた。機関車に追われて逃げて行く虎や熊や狼の吠え声の中を、汽車は全速力で走った。
ベンガルの驚異……珍しい町々も、もうどれも見えなかった。ゴルコンダも、廃墟になったグールも、昔の首都だったムルシダバードも、ブルドワンも、ウグリも、チャデルナゴルも見えなかった。これらの町はインドにおけるフランスの些細《ささい》な領土だ。祖国の旗がひるがえっているのを見たら、パスパルトゥーは、さぞ感激したであろう。しかし、夜がこれらの町を隠していた。
午前七時、ついにカルカッタに到着した。ホンコン行きの船が出帆するのは正午なので、フィリアス・フォッグにとっては、まだ五時間の間があった。
彼の旅程表によれば、カルカッタ……インドの首都に着くのは、ロンドンを発ってから二十三日目の十月二十五日、すなわち、きょうだ。遅速なく、彼は予定どおり到着したわけだ。ロンドン〜ボンベイ間で得をした二日間を、インド半島を横断するとき失ったことは読者のすでにご承知のとおりであるが、この損失をフィリアス・フォッグがすこしも苦にしていないことも、また容易に想像されるのである。
十五 札束のはいった鞄がさらに数千ポンドだけ軽くなること
汽車がとまると、まずパスパルトゥーが降り、つづいてフォッグ氏が降りた。フォッグ氏はプラットホームに降り立つ若い婦人に手を貸した。彼はホンコン行きの汽船まで、まっすぐにアウダ夫人を案内し、無事に乗り込ませるつもりであった。彼女にとってインドは危険にみちた国である。フォッグ氏は、この国にいるかぎり彼女から目を離さないつもりであった。
フォッグ氏が駅から出ようとすると、ひとりのイギリスの巡査が近づいてきて言った。
「フィリアス・フォッグさんですね?」
「そうです」
「この人は、あなたの召し使いですな?」と、巡査はパスパルトゥーを見ながらつけ加えた。
「そうです」
「ふたりとも、わたしといっしょにきてください」
フォッグ氏は、なんらの驚きも示さなかった。この巡査は法律の代弁者で、そして、あらゆるイギリス人にとって法律は神聖だからである。しかし、パスパルトゥーは、いかにもフランス人らしく、ひと理屈こねようとした。巡査は彼を警棒で軽く押した。フィリアス・フォッグは従僕に何も言わずについて行くんだ、と目顔で知らせた。
「この若い婦人も、いっしょに行っていいですか?」と、フォッグ氏はたずねた。
「よろしい」と、巡査は答えた。
巡査は、フォッグ氏、アウダ夫人、パスパルトゥーを、パルキ・ガリ……二頭の馬にひかせた四人乗りの四輪馬車に乗せて出かけた。二十分ばかり馬車に揺られているあいだ、だれも口をきかなかった。
馬車はまずブラック・タウンと呼ばれている狭い道を通った。道の両側には小家が並び、それらの中には、ぼろを着た汚ならしい、あらゆる人種がうごめいていた。……それから馬車はヨーロッパ風の町にはいった。町には煉瓦建ての明るい家々が立ち並び、椰子《やし》の木の街路樹が影を落とし、港に林立しているマストが望まれた。まだ朝だというのに、町には馬に乗った酒落《しゃれ》た人たちや贅沢《ぜいたく》な馬車が行き交っていた。
パルキ・ガリは、ある建物……外観は簡単だが、しかし普通の住宅とは見えない建物の前でとまった。巡査は囚人たちを降ろした。囚人……見たところは、たしかにそういえた。巡査は三人を格子窓のついている一室に連れて行って言った。
「八時半に、オバディア裁判官の前に出てもらいます」
巡査はドアを開めて出て行った。
「とうとう罠《わな》にかかってしまった!」と、パスパルトゥーは、がっくりして椅子に腰をおろした。
アウダ夫人はフォッグ氏に、できるだけ感情をおさえた声で言った。
「どうぞ、わたくしにかまわないでください。あなたがつかまったのは、わたくしのせいです。わたくしを救ってくださったからです」
フィリアス・フォッグは、そんなばかなことはありません、と答えただけであった。あのサッティー事件で逮捕されるなんて、あり得ないことだ! あの連中が訴え出るなんて! どうしてやつらに、そんなことができるだろう! ……これはなにかの間違いです。フィリアス・フォッグはアウダ夫人に、さらに付け加えて、どんなことが起こっても、けっしてあなたを見捨てません、かならずホンコンまでお送りします、と言った。
「でも、船はお昼に出るんです」と、パスパルトゥーが横から言った。
「正午まえに乗船できる」と、フィリアス・フォッグは、きっぱり答えた。
その声があまりに自信に満ちているので、パスパルトゥーは引き込まれて、思わず自分自身につぶやいた。
「もちろんだ! 正午まえに、きっと乗船できる!」しかし、心の底から信じているわけではなかった。
八時半、ドアが開いた。巡査が、またはいってきた。三人を隣室に連れて行った。そこは法廷で、傍聴人たち……ヨーロッパ人や現地人がたくさんいた。
フォッグ氏、アウダ夫人、パスパルトゥーは、裁判官席、書記席に相対したベンチに腰かけた。ほとんどすぐにオバディア裁判官が書記を従えてはいってきた。裁判官は、まるまると太った男で、釘にかけてあった鬘《かつら》を素早くかぶった。
「第一訴訟事件」と、彼は言った。
とたんに頭に手をやって、
「おや! わしの鬘じゃない!」
「さようで、裁判官殿、それは、わたくしのでございます」と、書記が答えた。
「いかんよ、オイスタープッフ君、裁判官が書記の鬘をかぶって名判決が下せると思うかね?」
鬘は交換された。こうした幕あきのあいだ、パスパルトゥーは、いらいらしていた。法廷の大時計の針が文字盤の上を恐ろしい速さで進んでいるように見えたからだ。
「第一訴訟事件」と、オバディア裁判官はふたたび言った。
「フィリアス・フォッグは?」と、オイスタープッフ書記がたずねた。
「わたしです」と、フォッグ氏が答えた。
「パスパルトゥーは?」
「わたしです」と、パスパルトゥーが答えた。
「よろしい!」 と、オバディア裁判官は言った。「被告人たちは、この二日間、ボンベイから列車が到着するたびに見張られていたのです」
「でも、どういう理由で、われわれは告訴されたんです?」と、パスパルトゥーは思わず叫んだ。
「いまにわかります」と、裁判官は答えた。
「裁判官殿」と、フォッグ氏が言った。「わたしはイギリス人です。わたしには権利が……」
「あなたは不当に扱われたのですか?」と、オバディア裁判官がさえぎった。
「けっして、そんなことはありません」
「よろしい! 原告人たちを入廷させなさい」
裁判官の命令で、ドアが開かれた。三人のヒンドゥー教の僧侶が廷丁に導かれてはいってきた。
「やつらだ!」 と、パスパルトゥーがつぶやいた。「アウダ夫人を焼き殺そうとした悪漢どもは!」
僧侶たちは裁判官の前に立った。書記が大声で訴状を読みあげた。フィリアス・フォッグおよび彼の従僕パスパルトゥーは、バラモン教の聖地を汚して涜神《とくしん》の罪を犯した、という訴えである。
「訴えを聞きましたか?」と、裁判官がフィリアス・フォッグにたずねた。
「聞きました、裁判官殿」と、フォッグ氏は自分の懐中時計を見ながら答えた。「訴えは事実であると認めます」
「ああ、認めるのですね?」
「認めます。と同時にわたしは、これら三人の僧侶が、ピラジのパゴダでしようとしたことも自白することを要求します」
僧侶たちは顔を見合わせた。被告の言うことが、さっぱり分らないらしかった。
「そうだ!」と、パスパルトゥーが激しく叫んだ。「ピラジのパゴダだ、こいつらが人身御供《ひとみごくう》の婦人を焼き殺そうとしたのは!」
僧侶たちは、まだ、なんのことかわからないらしかった。オバディア裁判官は驚いてたずねた。
「人身御供? だれを焼き殺そうとしたのです? しかし本件はボンベイの町中で起こったことです」
「ボンベイですって?」とパスパルトゥーは叫んだ。
「そうです、ボンベイです。ピラジのパゴダには関係ありません。ボンベイのマラバル・ヒルのパゴダです」
「証拠品として」と、書記がつけ加えた。「ここに涜神罪を犯した被告の靴があります」
そして、一足の靴を自分の机の上に置いた。
「ぼくの靴だ!」と、パスパルトゥーはびっくり仰天して叫んだ。
フィリアス・フォッグとパスパルトゥーとの心に起こった動揺は、傍目《はため》にも、あきらかに見てとれた。ふたりはボンベイのパゴダの事件を、すっかり忘れていた。ふたりがカルカッタの裁判官の前に引き出されたのは、まさしく、あの事件が原因だったのだ。
ところで、話は前に戻るが、フィックス刑事は、パスパルトゥーがボンベイのパゴダで暴れた事件を利用しようと思いついた。そこでボンベイ出発を十二時間おくらせ、マラバル・ヒルの僧侶たちをたずねた。そして、イギリス政府はこの種の犯罪に対しては厳格だから、訴えれば多額の損害賠償がとれる、とそそのかした。フィックス刑事が次に打った手は、僧侶たちに犯人を追わせることであった。フィックスと僧侶たちとは、次の汽車でボンベイを発ってカルカッタに向かった。……ところが、フィリアス・フォッグとパスパルトゥーが若い寡婦を救うため途中で手間どっていたので、フォッグたちより先にカルカッタに着いてしまった。一方、カルカッタの警察は電報で事件を知らされていたので、フィリアス・フォッグとパスパルトゥーとが汽車から降りてきたら、その場で逮捕しようと待ちかまえていた。
カルカッタへ着いたフィックス刑事は、フィリアス・フォッグがまだカルカッタに着いていない、と聞かされた。そのときの彼の失望落胆が、どんなに大きかったかは想像にあまりある。盗賊が大インド半島鉄道の途中の、どこかの駅で下車して、北部地方へ逃亡することは、じゅうぶんにあり得るからだ。……フィックス刑事はカルカッタ駅に着いてから二十四時間、極度の不安に駆られながら駅で張り込みをつづけた。そして、ついにけさ、フィリアス・フォッグが若い婦人といっしょに汽車から降りてくるのを見たのである。この若い婦人が何者で、どうしてここに現われたかは、まったくわからなかった。しかし、とにかくフィリアス・フォッグを見つけたフィックス刑事は、それこそ天にものぼる心地であった。さっそく巡査を差し向けた。こうしてフィリアス・フォッグどパスパルトゥーと、それからブンデルカンドの王の若い寡婦との三人が、オバディア裁判官の前に出頭することになったのである。
さて、いま、パスパルトゥーが自分の事件にばかり興奮していなかったら……もうすこし冷静さを保っていたら、法廷の片隅にフィックス刑事がいることに気がついたであろう。刑事は手に汗にぎる気持ちで裁判の経過を見守っていた。なぜなら彼はスエズやボンベイにおいてと同様、カルカッタにおいても、まだ逮捕状を手にしていなかったからである。
ところで、すでにオバディア裁判官は、さっきパスパルトゥーが口走った自白を記録していた。パスパルトゥーは、もし気がついたら全力を尽くして、その軽率な言葉を取り消したであろう。
「事実を認めるのですね?」と、裁判官は言った。
「認めます」と、フォッグ氏が冷然と答えた。
「イギリスの法律によれば」と、裁判官はつづけた。「インド人民のあらゆる宗教は、公平かつ厳正に保護されるべきです。しかるに被告パスパルトゥーは、十月二十日昼、ボンベイ、マラバル・ヒルのパゴダの敷石を土足にかけるという涜神《とくしん》の罪を犯したと自供しました。よって該《がい》パスパルトゥーに禁固十五日、罰金三百ポンドを宣告します」
「三百ポンド!」と、パスパルトゥーは大声で叫んだ。罰金のことしか頭にこなかったのだ。
「静かに!」と、廷丁《ていてい》が叱りつけた。
「次に」と、裁判官はつづけた。「主人が従僕と共謀した事実は立証できませんが、しかし、いずれにせよ主人たるものは、その使用人の行為に対して責任を負うべきです。よって該フィリアス・フォッグに禁固八日、罰金百五十ポンドを宣告します。……書記、次の訴訟関係者を呼び入れてくれたまえ」
フィックスは傍聴席の片隅で、言うに言われぬ満足を感じた。フィリアス・フォッグを八日間力ルカッタに引き留めておけば、そのあいだに逮捕状は、かならず手にはいるからである。
パスパルトゥーは、しょげ返っていた。この判決で主人は二万ポンドの賭に負けてしまった。破産してしまった。それというのも、みんな自分のせいだ。弥次馬根性を出して、あんな寺にはいりこんだからだ!
フィリアス・フォッグは、この判決に対して、まるで第三者のように眉ひとつ動かさず落ち着き払っていた。しかし書記が次の訴訟関係者を呼び入れようとしたとき、立ちあがって言った。
「保釈金を払います」
「あなたには、その権利があります」
フィックス刑事は背筋に冷たいものが走るのを感じた。しかし、裁判官の次の言葉を聞いたとき、胸をなでおろした。
「フィリアス・フォッグならびにその従僕は他国人たるによって、保釈金は、それぞれ千ポンドとします」
フォッグ氏が刑罰をまぬがれるためには二千ポンドという大金を要することになったのだ。
「払います」と、フォッグ氏は言った。
そして、パスパルトゥーの持っている鞄から札束を取り出すと、書記の机の上に置いた。
「この金は、被告たちが刑を終えたとき返却されます。ただし望むなら、被告たちは刑に服する必要はありません。その際は保釈金を没収します」
「さあ、行こう」と、フィリアス・フォッグが従僕に言った。
「おい!」と、パスパルトゥーは腹を立てて叫んだ。「せめて靴だけでも返してくれ!」
靴は返された。
「ちえっ、高い靴だった」と、パスパルトゥーはつぶやいた。「一足が千ポンド! おまけに罰金三百ポンド! しかも、もともと足に合わなかった靴だ!」
パスパルトゥーは、見るも哀れなありさまだった。フォッグ氏のあとにつづいた。フォッグ氏は、アウダ夫人に腕をかした。フィックス刑事は、まだ望みを失わなかった。盗賊は、まさか二千ポンドという大金を、むざむざ捨ててはしまわないだろう、八日間、禁固の刑に服すだろう、と思っていた。そこで、すぐフォッグを追って表に飛び出した。
フォッグ氏は辻馬車を呼びとめて、アウダ夫人、パスパルトゥーと乗り込んだ。フィックスは馬車のあとから走って行った。馬車は、やがてカルカッタ港の埠頭《ふとう》の一つでとまった。
ラングーン号は、沖合半マイルばかりのところに碇泊していた。マストの先に、出帆の近いことを知らせる旗が揚がっていた。十一時が鳴った。フォッグ氏には、まだ一時間の余裕があった。フィックスは、フォッグ氏がアウダ夫人、パスパルトゥーといっしょに小舟に乗るのを見ると、地団駄踏んでくやしがった。
「畜生め! 行ってしまいやがる! 二千ポンド捨てて! 気前のいい泥棒だ! よし、必要とあらば、世界の果てまでも追いかけてやるぞ!……でも、この調子でいくと、やつは盗んだ金を、みんななくしてしまうだろう!」
刑事が、こう結論したのも、むりではなかった。事実フォッグはロンドン出発以来、旅費のほかに賞金、象の代金、保釈金、罰金で、すでに五千ポンド以上を費やしてしまっていた。つまり、この分でいくと将来、回収する金額によって決定される刑事の賞金の歩合は、ますます減少するからである。
十六 フィックスはまるで知らぬふりをして話を聞くこと
ラングーン号は、半島・極東汽船会社がシナおよび日本航海用に使用している商船のうちの一隻で、総トン数千七百七十トン、公称四百馬力の、スクリューつき鋼鉄製蒸気船であった。速力はモンゴリア号に匹敵したが、快適という点では劣っていた。それゆえアウダ夫人は、フィリアス・フォッグが望んだほど上等な船室を占めることはできなかった。しかし要するに十一、二日間、三千五百マイルの航海にすぎず、それに彼女は、それほど口やかましい客ではなかった。
この航海の最初の数日間に、アウダ夫人はフィリアス・フォッグとかなり近付きになることができた。機会あるごとに、彼女は彼に心からなる感謝の言葉を述べた。しかし、この冷静な紳士は、すくなくとも表面は非常に冷淡な態度を守っていた。声の抑揚、身振り、その一つにも、なんらの感動も示さずに、ただ彼女の言うことを聞いていた。ただし彼は、彼女に何ひとつ不自由な思いをさせないようにと細心の注意を払っていた。ある時間になると規則的に彼女の船室を訪れて、たがいに話し合うか、それでなければ、むしろ彼女の言葉に耳を傾けた。彼は彼女に対して、きわめて厳しい、と同時に、きわめて優しい礼儀正しさで、そして……ここがいかにも彼らしいところだが、その動作がつねに目的にかなうように仕掛けられた自動人形よろしくのぎごちなさで、すべての義務を尽くした。
この彼の態度に、アウダ夫人は、いささかとまどった。パスパルトゥーは彼女に、主人の一風変わった性格を、ある程度説明した。どんな賭《かけ》で世界を一周しているかも打ち明けた。アウダ夫人は微笑を禁じ得なかった。しかし、彼女にとって、フィリアス・フォッグは、なんといっても命の恩人であった。彼女は、つねに感謝のまなざしで彼を見た。その彼は彼女にとって、どんなことがあろうと尊敬すべき人物であった。
アウダ夫人は、パーシー人の案内人が彼女について話した悲しい物語を聞かれると、そのとおりですわ、と答えた。彼女自身もパーシー人で、パーシー族は、現地人の種族の中では最高の地位を占めていた。多くのパーシー人の商人は綿の貿易で、インドで大きな財産をきずいていた。彼らのひとりジェームズ・ジェジーブホイ氏は、イギリス政府によって従男爵の位を授けられ、ボンベイに住んでいた。アウダ夫人は、この富豪の親類であった。彼女がこれから頼って行こうとするホンコンのジェジー氏も、ジェジーブホイ従男爵の従兄弟《いとこ》で、名誉ある紳士であった。彼女はジェジー氏の助力が得られるであろうか? ジェジー氏のおかげで安全な隠れ家が得られるであろうか? それは彼女にもわからなかった。しかし、フォッグ氏によれば、そんなことは心配するにはおよばなかった。万事は「数学的に」処埋されるにちがいなかった……「数学的に」と、フォッグ氏は言ったのだ。
「数学的に」……なかなか思いきった副詞である。それをどこまでアウダ夫人は信じたろうか? それは不明だ。それはとにかく彼女は、いつも、その大きな目を……「ヒマラヤの聖なる湖のように澄んだ目」を、フォッグ氏の目にそそいでいた。しかし、いかなる場合にも胸襟《きょうきん》をひらいたことのないフォッグ氏は、相も変わらず自分の中に閉じこもっていて、けっして、その湖に身を投ずるような人間には見えなかった。
ラングーン号の航海は、最初のうちは順調だった。天候にも恵まれていた。巨大なベンガル湾のこの部分は……船乗りたちが「ベンガルの道」と呼んでいるこの部分は、ラングーン号の進行を喜び迎えているようだった。やがて大アンダマン島が見えてきた。大アンダマン島は、アンダマン諸島の中ではいちばん大きな島で、絵のように美しいサドル・ピークは標高二千四百フィート、航海者にとっては非常に遠くから見える目標であった。
船は長い海岸線に沿って進んだが、原住民の姿は見えなかった。この原住民は世界でもっとも未開の種族だが、食人種と言うのは誤りだ。
島が次から次と現われる景観はすばらしかった。それらの島の前景は、いずれも、棕櫚《しゅろ》、檳榔《びんろう》、竹、ニクヅク、チーク、巨大なミモザ、喬木《きょうぼく》のような羊歯《しだ》などの深いジャングルであった。そして背景は、いずれも優雅な山の線であった。海岸には、あの貴重なウミツバメが、何千羽となく群れていた。その巣は食用になり、とくにシナでは珍味として賞味されている。しかしアンダマン諸島の千変万化する風景も、たちまちにして過ぎ去り、ラングーン号はマラッカ海峡めざして快速をつづけた。マラッカ海峡は、シナ海への関門である。
ところで、心ならずも世界一周のお供をすることになったフィックス刑事は、この航海のあいだ、どうしていたであろう? 彼はカルカッタを出発するまえ、もしあとから逮捕状がきたらホンコンへ回送するようにと頼んでおいて、パスパルトゥーに見られないようにしてラングーン号に乗り込んだ。彼としては船がホンコンに着くまでは、なんとしてでも姿を隠しておきたかった。パスパルトゥーはフィックス刑事がボンベイにいるとばかり思っているのにちがいなかった。それなのに船中にいるとわかったら、これにはなにかわけがある、と思わずにはいないだろう。その疑いを起こさせないようにパスパルトゥーに説明するのは、フィックス刑事には困難なことにちがいなかった。ところが、そのフィックス刑事が事の成行きで、またもやパスパルトゥーと交際することになるのである。どういう事情で? いずれ読者諸君は知られるであろう。
いまやフィックス刑事のあらゆる希望、あらゆる期待は、世界の中のただ一点、ホンコンに集中していた。というのは、船はシンガポールには数時間しか寄港しないので、そこでは手も足も出ないことはわかっていた。ホンコンこそ、そこで盗賊を捕えてしまうか、逃がしてしまうか……それも永久に逃がしてしまうか、勝負をつける土地なのである。
事実、ホンコンは、この行程では、なお英領であるが、同時に最後の英領でもある。ホンコンの先はシナ、ニッポン、アメリカで、それらはいずれもフォッグにかなり安全な隠れ場所を提供するのにちがいない。もしフィックス刑事がホンコンで彼のあとを追いかけてきた逮捕状を手に入れることができたら、彼はただちにフォッグを捕え、土地の警察に渡すだろう。なんの造作もない。しかしホンコンより先では、逮捕状だけでは不十分だ。その国の政府に対して犯人引き渡し手続きをとらなければならない。そうなれば、いろいろな停滞、緩慢《かんまん》、障害が生じ、犯人はかならずそれらを利用して逃亡してしまうだろう。ホンコンで犯人に逃げられたら、ふたたび犯人を捕えることは……不可能、とは言えないまでも、よほどの幸運にめぐまれないかぎり非常に困難になるのにちがいない。
(そこで)と、フィックス刑事は、毎日、船室で長い時間を過ごしながら考えた。(もし逮捕状がホンコンにきていれば、有無《うむ》を言わさず引っとらえる。しかし、もし、きていなかったら、そのときは、なんとしてでも、やつの出帆を引き留めなければならない! ボンベイでも失敗した! カルカッタでも失敗した!またホンコンでも失敗したら、おれの面目は丸つぶれだ! どんな犠牲を払ってでも、こんどこそ成功しなければならない。しかし、もしまた、やつを引き留めなければならなくなったら、どんな手を打てばいいだろう?)
さんざん考えたあげく、とうとう決心した。(そうだ。すべてをパスパルトゥーに打ち明けてやろう。パスパルトゥーはフォッグの従僕だが、共犯者ではない。主人がどんな男だかわかれば、あの若造は係り合いになることを恐れて、おれと手を握るだろう)
しかし、またフィックス刑事は思い返した。(パスパルトゥーに話すのは、最後の手段だ。他になんの手段もなくなったときに初めて取るべき手段だ。もし、パスパルトゥーが、おれの言ったことをひとことでも主人に洩《も》らしたら、それこそ方事休すだ)
フィックスがあれやこれやと思い迷っているときに、若い女がフィリアス・フォッグといっしょにラングーン号に乗っていることがわかったのだから、フィックス刑事は、いよいよ混乱してしまった。(いったい、あの女は何者だろう? どういう風の吹き回しで、フォッグといっしょにいるのだろう? やつらが出会ったのは、ボンベイとカルカッタとのあいだであることは間違いない。しかし、それならそのあいだの、どの地点で? そもそもフィリアス・フォッグとあの若い女とが出会ったのは偶然だったのか? それともインド横断旅行は、もともとフィリアス・フォッグが、あの女に再会するために企てたものではなかったのか? そんなこともないとは言えない。というのは、あの女は、カルカッタの法廷で見たとおり、まったく美人だからだ)
フィックス刑事が好奇心に駆られて、いよいよまごまごするのは、これからである。(フィリアス・フォッグと若い女。このつながりには、なにか犯罪のにおいがする。……誘拐《ゆうかい》ではないだろうか?)ふと彼はそう思った。思ったとたんに、その想像は彼の頭の中で事実に……固定観念になってしまった。(しめしめ!そうなれば、こちらには打つ手がある。あの若い女が結婚しているにせよ、いないにせよ、誘拐は誘拐だ。よし、こんどこそホンコンで、やつをとっちめてやるぞ! どんなに金を積んでも、こんどこそ、のがしはしないぞ!)
しかし、ラングーン号がホンコンに着くのを待ってはいられなかった。(あのフォッグめは、いつも船から船へ飛び移るという小癪《こしゃく》な早業を演ずる。いざ、つかまえようとするときには、もう、とっくに向こうへ飛んでいる)
そこで重要なのは、ホンコンのイギリス当局に前もってラングーン号が行くことを知らせ、犯人が下船してしまうまえに手配しておくようにと頼むことであった。それは難しいことではなかった。というのはラングーン号はシンガポールに寄港するし、シンガポールからはシナ沿岸の諸港に電信が通じているからである。
しかし、事を確実に運ぶためにはパスパルトゥーに会って、それとなく様子を探ってみる必要がある、と思った。パスパルトゥーに話をさせることは、それほど難しいことではないだろう。いままでは隠れて尾行していたが、ここらでひとつ姿を現わしてやろう、と決心した。それにもう、ぐずぐずしてはいられなかった。きょうは十月三十日。あす、ラングーン号はシンガポールに入港するのだ。
そこでフィックス刑事は船室を出て、甲板へのぼって行った。パスパルトゥーを見かけたら、ひどくびっくりした顔をして、こちらから近づいて行くつもりであった。パスパルトゥーは船首のほうを散歩していた。フィックスは駆け寄って叫んだ。
「やあ、またラングーン号で!」
パスパルトゥーは、声の主がモンゴリア号で船旅をともにした相手だとわかると、これまた、ひどくびっくりして「やあ、フィックスさん!」 と叫んだ。「あなたとはボンベイでお別れしたとばかり思っていましたが、また、このホンコン行きの船でお会いするなんて! じゃあ、あなたも世界一周をなさっているんですか?」
「とんでもありません」と、フィックスは答えた。「わたしはホンコンに滞在するつもりです、すくなくとも数日は……」
「なんですって! 」と、パスパルトゥーは一瞬、けげんそうに言った。
「カルカッタを出て以来、船の中で、どうして一度もお目にかからなかったんでしょう?」
「じつは、からだのぐあいが悪かったんです。船酔いで……ずっと船室で寝ていたんです。インド洋もそうですが、ベンガル湾も、どうも、わたしには性が合わないんです。ところで、ご主人は? フィリアス・フォッグさんは、お元気ですか?」
「健康そのもの、正確そのものです! 旅程表は、きちんと守られていて、一日の遅れもありません……ところで、フィックスさん、あなたはご存知ありませんが、われわれはひとりの若い婦人といっしょに旅行してるんです」
「若い婦人と?」とフィックスは、相手の言うことがまったくわからない振りをしてたずねた。
待ってましたとばかり、パスパルトゥーは一部始終を物語った。ボンベイのパゴダで乱闘を演じたこと、二千ポンドで象を買ったこと、サッティー事件、アウダ救出、カルカッタ裁判所の判決、保釈金による拘留中止。……フィックスは、この物語の最後の部分、カルカッタ裁判所の一件は知っていたが、知っているとは、そぶりにも見せなかった。パスパルトゥーは、相手が熱心に聞いているのを見ると、いよいよ興にのってしゃべりまくった。
「ところで」と、フィックスが探りを入れた。「つまり、ご主人は、その若いご婦人をヨーロッパまで連れて行くつもりなんですか?」
「いや! われわれは、あの人をホンコンまで案内するだけです。ホンコンには、あの人の親類で、大金持ちの商人がいます。その親類のところに匿《かくま》ってもらうために送り届けるだけです」
(なあーんだ!)と、刑事は思った。しかし失望を隠しながら言った。
「どうです、パスパルトゥーさん、ジンを一杯?」
「結構ですな、フィックスさん。ラングーン号上の再会を祝して乾杯……これくらいは、まあ、いいでしょう」
十七 シンガポールからホンコンへの航海中いろいろなことが問題になること
この日以来、パスパルトゥーと刑事とは、しばしば顔を合わせた。しかし、刑事は相手に対してできるだけ慎重な態度をとった。パスパルトゥーから何か聞き出してやろう、そういう気振りはすこしも見せなかった。刑事がフォッグ氏をかいま見たのも一度か二度だった。フォッグ氏は、たいていラングーン号の大サロンにいた。あるときはアウダ夫人といっしょに、あるときは例の習慣でホイストをしていた。
一方パスパルトゥーは、フィックスが一度ならず二度までも主人と同じ船に乗っていることを、なんという不思議な偶然だろう、と真剣に考え始めた。フィックスは主人と同じ行程をたどっている。じつに驚くべき符合であった。
フィックスは、たしかに愛想のいい親切な紳士だ。最初はスエズで会った。彼はモンゴリア号に乗った。ボンベイで降りた。ボンベイに滞在すると言いながら、またラングーン号に乗っている。今度はホンコンまで行くと言う。一言にして言えば、一歩一歩フォッグ氏のあとからついてくる。どういうわけだろう? いったいフィックスとは何者だろう? たぶんフィックスはわれわれと同時に、しかも同じ船でホンコンを出帆するだろう。それにちがいない。おれの大事なトルコスリッパを賭けてもいい、とパスパルトゥーは思った。
パスパルトゥーは、たとえ一世紀間、考えに考え抜いたとしても、フィックスがどんな役目を帯びているか、わからなかったろう。フィリアス・フォッグが盗賊として地球の果てから果てまで追い回されている、そんなことは夢にも思わなかった。
しかし何事によらず自分なりに納得したい、というのも人の情である。そこでパスパルトゥーも、とつぜん一種の直感で、フィックスがどこまでもついてくることを了解した。そして、この了解は、いかにももっともらしいものであった。すなわち改革クラブの会員たちは、フォッグ氏が約束どおりの旅程にしたがって世界一周旅行をなしとげたかどうか、それを確認するためフィックスに依頼してフォッグ氏を尾行させているのであろう。
(それにちがいない! それにちがいない!)と、この単純な若者は、自分の頭のよさに満足しながら断定した。(フィックスは、改革クラブの旦那がたが、われわれにつけたスパイだ! フォッグ氏のように誠実な紳士にスパイをつけて、その行動を探らせるなんて、なんて卑怯なまねをするんだろう! ああ、改革クラブの旦那がたよ、いずれ高い請求書をつきつけられるのは、あんたがただ!)
パスパルトゥーは、この思いつきにすっかり気をよくしたが、しかし、このことを主人には内緒にしておこうと決心した。万一にも主人が相手がたの猜凝心《さいぎしん》を知って侮辱を感じるようなことがあってはならない、と思ったからだ。けれども、いつか折があったらフィックスを遠回しに、からかってやろう、と思った。
十月三十日、水曜日、午後、ラングーン号は、マラッカ半島とスマトラ島とのあいだにあるマラッカ海峡を通過した。それぞれに険しい山地をなしている、絵のように美しい小さな島々が、スマトラ本島を旅客の目から隠していた。
翌日、午前四時、ラングーン号は予定より十二時間早くシンガポールに寄港した。石炭を補給するためだ。
フィリアス・フォッグは、この十二時間の利益を例の旅程表の得の欄に記入すると、アウダ夫人といっしょに下船した。夫人が数時間、地上を散歩してみたい、と言ったからである。
フィックスは、見られないようにしてフォッグのあとをつけた。フィックスには、フォッグのあらゆる行動が、うさんくさく思えるのだ。パスパルトゥーは、フィックスがうろうろするのを見るたびに人知れず笑止に思うのだが、いまも、そう思いながら自分は例によって買い物に出かけた。
シンガポール島は、それほど広くはなく、また風景も壮大さに欠けていた。山がない、ということは輪郭がない、ということでもあった。しかし、その平凡さにもかかわらず、島はやはり美しかった。さながら、きれいな道があちらこちらで交差している公園を思わせた。フィリアス・フォッグとアウダ夫人とは、二頭だての馬車を雇った。ニューホランドから輪入されるあの優雅な馬にひかれる華美な馬車である。馬車は彼らを緑かがやく棕櫚の茂みや、半開のつぼみをつけた丁字《ちょうじ》の木の林の中へ案内した。胡椒《こしょう》の木の茂みは、ヨーロッパの田舎なら、さしずめイバラの生垣というところであった。サゴヤシや、茂りに茂った大きな羊歯は、この熱帯地方の風景に特殊な変化を与えていた。葉のつやつやしたニクヅクの木は、目にしみるような香気で空気をみたしていた。森の中には、敏捷《びんしょう》で、しかめっ面をした連中が……猿の群れがいた。ジャングルの奥には虎もいるらしかった。この比較的小さな島に、虎という恐るべき肉食獣が、いまもって跡を絶たないと聞けば驚く人がいるかもしれないが、答えはこうだ。たぶん虎どもはマラッカ半島から海峡を泳いで渡ってくるのだろう、というのである。
二時間、郊外を馬車で見物したあとで、フィリアス・フォッグはアウダ夫人を連れて町へ戻ってきた。フィリアス・フォッグにとっては、見物は従《じゅう》で、彼女の身辺警戒が主であった。町は、平たい低い家々の大きな集まりで、どの家も、きれいな庭に取り巻かれ、庭にはマンゴスチンの実やパイナップルなど、この世でもっとも美味な果物が生っていた。
十時に彼らは船に戻った。刑事に尾行されていたとは知らなかった。刑事のほうもまた馬車賃を無駄に払ったわけである。パスパルトゥーはラングーン号の甲板で、ふたりを待っていた。この好人物は、マンゴスチンの実を数ダース買ってきていた。マンゴスチンの実は中ぐらいのリンゴの大きさで、皮の外側は濃|褐色《かっしょく》、中側は鮮紅色、果肉は口に含むと溶けて、どんな食通にも言うに言われぬ喜びを与える。パスパルトゥーは、さも嬉しそうに、それらをアウダ夫人に差し出した。夫人はていねいにお礼をのべた。
石炭を積み終ったラングーン号は、十一時に、ともづなを解いた。数時間後に、マラッカ半島の高い山々は視界から消えた。それらの山々には、世界でもっとも美しい虎が住んでいるのである。
シンガポールとホンコン島との距離は約千三百マイル。ホンコン島はシナ沿岸にある点のように小さな英領である。フィリアス・フォッグは、この距離を最大限六日で、ぜひ越えなければならないと思っていた。そうでないと、十月六日、ニッポンの要港の一つであるヨコハマに向かって出帆する船に間に合わないからである。
ラングーン号は満員だった。シンガポールで多数の旅客が……インド人、セイロン人、シナ人、マラヤ人、ポルトガル人などが大勢乗り込んだからである。彼らの大部分は二等船客であった。
それまでの好天が、月が下弦になると同時にくずれた。海が荒れだした。しばしば強風が吹いてきた。しかし幸いにも、その強風は南東から吹いてきたので、かえって船の進行を助けた。海は、ときには、それほど荒れないこともあった。そういうときには、船長は帆をあげさせた。二本マストのラングーン号は、その中マストの帆と前マストの帆とで走ったので、蒸気機関と風との二つの力で、その速力は倍加された。こうして船は波にもまれ、ときには大波に呑まれそうになりながら、アンナンとコーチシナの海岸にそって進んで行った。
乗客の大半は病人になってしまった。しかし、それは荒天によるというよりは、むしろラングーン号自体の欠陥によるのであった。
事実、南シナ海を航行する半島・極東汽船会社の船は、すべて構造上に欠陥があった。満載喫水線と通常喫水線との比率の計算にミスがあった。したがって海に対する抵抗力が弱かった。密閉された、水の浸入しない体積が不十分だったので、船乗りの言葉をかりれば、船はすぐ「溺《おぼ》れた」。大波が甲板を洗うようなときには、船の操縦は、きわめてきびしく用心しなければならなかった。船の速度を制限したり変更したりしなければならなかった。これらの船は……発動機や蒸気機関はともかくとして、すくなくとも造船技術の上では、フランス郵船会社のアンペラトリス号やカンボジア号よりは、はるかに劣っていた。技術家の計算によれば、フランス郵船会社の船は、その重量とひとしい水が浸入しても沈まないが、半島・極東汽船会社のゴルゴンダ号、コレア号、それから、このラングーン号は、その重量の六分の一の水が浸入すれば、まず沈没はまぬがれないだろう。
そこでラングーン号は、悪天候のときには非常に警戒した。しばしば速力を落とし、船を風上に向け、風を帆に逆にうけて進まなければならなかった。これは時間の損失だったが、フィリアス・フォッグは、すこしも心配しないようにみえた。しかしパスペルトゥーは非常に憤慨《ふんがい》した。船長や機関士や会社や、さては、すべての乗組員をののしった。ひとつにはサヴィル街の邸宅で、ガス燈がいまも自分の費用で燃えつづけていることを思って、気が気ではなかったのであろう。
ある日、刑事は彼に言った。
「ホンコンに着くのを、いやに急いでいるんですね」
「非常に急いでいるんです!」と、パスパルトゥーは答えた。
「すると、あなたは、フォッグ氏がヨコハマ行きの船に乗ろうと急いでいる、と思ってるんですね?」
「主人は、たいそう急いでいます」
「世界一周なんていう妙な旅を、いまでも、あなたは信じてるんですか?」
「信じていますとも! で、あなたは、フィックスさん?」
「わたしですか? 信じていませんよ!」
「とぼけていますね!」と、パスパルトゥーは、ちょっと、からかうような目つきをして見せた。
フィックスは考え込んだ。不安になった。「とぼけている」とは、どういう意味だろう? このフランス人は、おれの正体を見抜いているのだろうか? それなら、まずいことになったもんだ。しかし、おれが刑事だということは、だれも知らない。パスパルトゥーにも、わかるはずはない。けれどもパスパルトゥーは「とぼけている」と言う。なにか底意《そこい》がなければ、こんな言葉は使わないだろう。
また、ある日、このお人好しの若者は、さらに口をすべらせた。おしゃべりは、彼にとっては持って生まれた病いなのである。
「ところで、フィックスさん」と、彼は皮肉な調子でたずねた。「ホンコンに着いたら残念ながら、いよいよお別れですな、あなたを置いてきぼりにして?」
「さあ」と、フィックスは、ひどくあわてて答えた。「なんとも言えませんよ! たぶん、そんなことは……」
「おや!」と、パスパルトゥーは、言った。「そうすると、もっと先まで、ごいっしょに行けるんですな。光栄です。もっとも半島・極東汽船会社のかたなら、途中でとまることはできませんからね! 最初の目的地はボンベイでした。ところが、もうじきホンコンです! こうなると、アメリカだって遠くはありません。ましてアメリカからヨーロッパまでは一足です!」
フィックスはギクリとして相手の顔を見つめたが、相手の顔が、いかにも満足そうに笑っていたので、彼自身もいっしょに笑おうとした。しかし相手は、ますます調子づいて、あなたのご商売は、ずいぶん実入りのあるものでしょうな、とたずねた。
「さあ、なんとも言えませんね」と、フィックスは、さあらぬ体で答えた。
「儲《もう》かることもあるし、儲からないこともあります。ただし旅費がただなことは、ご想像のとおりです」
「ああ、それはもちろん、そうでしょうとも!」と、パスパルトゥーは、いっそうおかしそうに言った。
会話は終った。フィックスは船室に戻って、あれやこれやと思案した。あきらかに正体は見抜かれた。あのフランス人は、どうして知ったのかわからないが、おれが刑事であることを知っている。そして、それを主人に知らせただろう。いったい、こんどの事件で、あの男はどんな役割を演じているのだろう? 共犯なのか、それとも無関係なのか? もし、こちらの腹が見すかされているとしたら、おれの計画は失敗するかもしれない。フィックスは息苦しい数時間を過ごした。万事休すとあきらめたり、いやフィリアス・フォッグはまだ何も知らないと、いささか希望を持ったり……結局、今後どうしていいかわからなくなってしまった。
しかし、やがて頭の中の嵐はおさまった。彼はパスパルトゥーに対して、ざっくばらんに振る舞おうと決心した。もしホンコンでフォッグを逮捕するとき何か障害が起こったら、そしてフォッグが永久に英国領を去ろうと準備したら、そのときこそパスパルトゥーに何もかも打ち明けよう。もし従僕が主人の共犯者で、主人がすべてを知っていたら、おれの計画は決定的に失敗する。しかし、もし従僕が主人の一味でなかったら、従僕は当然、盗賊の主人を見限るだろう。
以上がパスパルトゥーとフィックスとの、それぞれの立場であったが、フィリアス・フォッグは超然と、これらふたりの男を俯瞰《ふかん》していた。彼は彼の周囲を旋回する小惑星たちには無関心に、世界一周という彼自身の軌道を正確に飛んでいた。
しかし彼のかたわらには別に一つの惑星があった。この惑星は……天文学者のいわゆる摂動《せつどう》を、この紳士の心に起こさせないとはかぎらなかった。ところが事実は……アウダ夫人が美人であることは、この際、なんの関係もなかった! それにはパスパルトゥーも驚いているくらいであった。そして、かりに摂動があったとしても、それは海王星を発見する手がかりになった天王星の摂動を計算するよりも、いっそう計算するのがむずかしいのにちがいなかった。
まったくだ! アウダ夫人の目の中に、フィリアス・フォッグに対する深い感謝の念を日々に読み取っているパスパルトゥーにとっては、それは非常に驚くべきことであった! つまりフィリアス・フォッグは英雄的に振る舞うのに必要な心は持っているが、恋愛的に……ということになると、そういう心はまったく持っていない、とパスパルトゥーは思わずにはいられなかった。
この旅行が成功するかどうかについては、フィリアス・フォッグは、なんにも心配していないらしかった。かえってパスパルトゥーのほうが、たえず心配していた。
ある日、彼は機関室の手摺《てすり》によりかかって、船が大きく縦揺れするとスクリューが空中ではげしく回転し、蒸気がバルブから噴出し、強力な機関がともすれば空転するのを眺めていた。……ふいに、この善良な若者は怒りを感じた。
(これらのバルブは圧力に弱い)と、彼は思った。(船は、すこしも進まない! これがイギリス人どものやることだ! ああ、もし、これがアメリカの船なら、乗客たちは跳ね飛ばされるだろう! だが、もっと速く進むだろう!)
十八 フィリアス・フォッグ、パスパルトゥー、フィックスが、それぞれ自分のために用事を果たすこと
航海の最後の日々は悪天候がつづいた。風が非常に強くなった。風はいつも北西から吹いてくるので、ラングーン号は遅々として進まなかった。そのうえ船体が非常に不安定に出来ているので、ひどく揺れた。乗客たちは、風が沖から吹き寄せてくる長いうねりを、胸をむかむかさせながら恨めしげに眺めた。
十一月三日、四日は一日中、とくに風が強かった。暴風といってよかった。突風がはげしく海を打った。ラングーン号は半日のあいだ、船首を風上に向け、わずかに十回スクリューを回転させ、波を斜めに受けるようにして停船していなければならなかった。すべての帆はおろされた。おびただしい索具が強風の中で鳴った。
船の速度は非常に減少した。もし風がやまなかったら、ホンコン到着は予定より二十時間、あるいはそれ以上も遅れるのにちがいなかった。
フィリアス・フォッグは、まるで自分に対して戦いをいどんでいるような荒海の光景を、例のとおり平然と眺めていた。彼の額は一瞬間でも曇《くも》らなかった。しかし、二十時間の延着はヨコハマ行きの船の出帆に間に合わず、旅行を不成功に終らせるかもしれなかった。しかし神経というものがまったくないようなこの男は、なんの焦燥も憂慮《ゆうりょ》も示さなかった。あたかも、この暴風は最初から予想して旅程表に入れておいたかのようであった。アウダ夫人は彼と、この不時の故障を話しあったが、彼女もまた彼が相変わらず平静をきわめていると思った。
フィックスは、この状態を別の目で……まったく反対の目で見ていた。彼にとっては、この暴風は願ってもない幸いであった。もしラングーン号が、この暴風を避けようとして急いで針路を変えでもしたら、満足このうえもなかったであろう。船の延着は彼には好都合であった。フォッグが数日間ホンコンに滞在せざるを得なくなるからだ。とうとう天は突風や狂風で彼の味方になってくれたのだ。船酔いも、なんのその! 吐き気をもよおし、からだをよじらせながらも、彼の心は大きな満足を味わった。
一方パスパルトゥーのほうは……読者も想像されるであろうが、悲憤やるかたなく、この試練の時を過ごしていた。いままでは万事がいかにも順調だった! 大地も海も主人に献身した。汽船も鉄道も主人の意のままになった。風も蒸気も主人の旅行を成功させるために協力した。
ところが、いまや誤算を告げる鐘の音が響き渡ったようであった。パスパルトゥーは、あたかも二万ポンドの賭金を自分のふところから出さなければならないかのように、生きた心地もなかった。この突風! この暴風! 彼は激昂《げっこう》せずにはいられなかった。この不従順な海を鞭《むち》打ってやりたかった……哀れな若者よ……フィックスはパスパルトゥーに自分の満足感を、ひた隠しに隠していた。そして、それはそうするほうがよかった。もしパスパルトゥーがフィックスのひそかな満足感を見抜いたとしたら、フィックスはただではすまされなかったであろう。
パスパルトゥーは、ずっと時化《しけ》のつづいているあいだ、ラングーン号の甲板を離れなかった。とても部屋の中にじっとしてはいられなかったのだ。しばしばマストに登った。そして猿のような敏捷さで船員たちといっしょに働いた。その身軽さに船員たちは驚いた。彼は船長や船員たちや水夫たちの顔を見るたびに、いつになったら嵐がやむだろう、とたずねた。どうしてこの若者は、こんなにあわてているのだろう、と彼らは笑いをこらえることができなかった。しかしパスパルトゥーは、嵐がいつまでつづくか、そればかり知りたがった。そのたびに彼らは彼を気圧計のところへつれていった。気圧計はいつもさがりっぱなしであった。彼は気圧計を揺すぶった。しかし気圧計は、どんなに揺すぶられようと、ののしられようと、そんなことは自分の知ったことではないと、いつも平気な顔をしていた。
そのうちに海はかなり静かになった。風は羅針儀《らしんぎ》の上で二点、南に変わり、ふたたび順風になった。
パスパルトゥーの心も天気とともに晴れあがった。すべての帆が、またあげられた。ラングーン号は、ふたたび非常な速力で進みはじめた。
しかし、遅れた時間を取り戻すことはできなかった。それは不可能だった。陸地は六日午前五時になって、やっと望まれた。フィリアス・フォッグの旅程表では五日着港となっていた。それが六日になったのだから二十四時間の遅れであった。当然ヨコハマ行きの汽船には間に合わないわけであった。
午前六時、水先案内人が乗り込んできて船橋に立った。水路を通って船をホンコン港までみちびくためである。
パスパルトゥーは水先案内人に、ヨコハマ行きの船がすでに出帆したかどうか、ききたくてうずうずしていた。しかし、思いきってきく気にはなれなかった。最後の瞬間まで希望をつないでおきたかったからだ。彼はフィックスに心配を打ち明けた。フィックスは……この狡猾《こうかつ》な男は、さあらぬ体で、いやフォッグ氏は次便を待てばよい、たいしたことはない、と言ってパスパルトゥーを慰めようとした。パスパルトゥーは内心、フィックスに対して非常な怒りを覚えた。
しかし、それでもパスパルトゥーは意を決して水先案内人にたずねてみようとはしなかった。フォッグ氏は持参のブラッドショーを参照してから水先案内人に、ヨコハマ行きの船はいつ出ますか、とたずねた。
「明朝、満潮時に出ます」と、水先案内人は答えた。
「そうですか」と、フォッグ氏は、すこしも表情を変えずに言った。その場にいたパスパルトゥーは、思わず水先案内人を抱きしめたくなった。反対にフィックスは、水先案内人の首を絞めあげたくなった。
「その船の名は?」と、フォッグ氏はたずねた。
「カルナティック号です」と、水先案内人は答えた。
「その船は、きのう出帆するはずではなかったのですか?」
「そうです。しかし汽罐《きかん》を修理しなければならなくなったんで、出帆を明日に延ばしたんです」
「ありがとう」と、フォッグ氏は答えた。そして例の機械的な足どりでラングーン号のサロンに降りていった。
パスパルトゥーは水先案内人の手を握りしめながら言った。
「ありがとう、ありがとう。あなたは、ほんとにいい人です!」
水先案内人は自分の言ったことが、どうしてこんなに喜ばれたのか、さっぱりわけがわからなかった。汽笛が鳴ると、また船橋に立って船をみちびいた。ホンコン港の中は、ジャンクやタンカや漁船の群れや、その他あらゆる船で混雑していた。
午後一時、ラングーン号は埠頭《ふとう》についた。旅客は上陸した。
こんどの場合、運命は奇妙なまでにフィリアス・フォッグに味方した。それは認めなければならなかった。汽罐を修理する必要がなかったら、カルナティック号は十一月五日に出帆してしまい、ニッポン行きの旅客は次の船の出帆まで八日間待たなければならなかったであろう。たしかにフォッグ氏は二十四時間遅れたが、その遅れは、今後の旅行に決定的に不利な結果はもたらさないのにちがいなかった。
事実、ヨコハマからサンフランシスコまで太平洋を横断する船は、ホンコンからくる船に直接連絡していて、ホンコンからの船がこなければ出帆しないのである。たしかにヨコハマにおいては二十四時間遅れているだろう。しかし、太平洋を横断するに要する二十二日のあいだには、それくらいの遅れを取り戻すことは容易であろう。いずれにしてもいま、フィリアス・フォッグはロンドン出発以来三十五日で、旅程表より二十四時間遅れているだけである。
カルナティック号は翌朝五時にならなければ出帆しないので、フォッグ氏には十六時間の余裕があり、そのあいだに用事を果たすことができる。用事とは、もちろんアウダ夫人に関することである。下船すると、彼は彼女に腕をかして轎《かご》のところへいった。そして轎かきたちに、どこのホテルがよいかとたずねると、クラブ・ホテルがよいと言われた。彼らはそれそれ轎に乗った。パスパルトゥーがあとに従った。二十分後にホテルに着いた。
一室が彼女のために借りられた。フィリアス・フォッグは彼女が何一つ不便を感じないように、いろいろ気をくばったあとで彼女に言った。すぐにこれから、ご親類をさがしに出かけます。この土地で、あなたのお世話を願うご親類です。そう言うと、それからパスパルトゥーに、厳しく言いつけた。アウダ夫人を一人にしておいてはいけない、自分が帰ってくるまでホテルを出てはいけない……。
フォッグ氏は株式取引所に轎を乗りつけた。ここでなら、ホンコンで指折りの富商にかぞえられているジェジー氏は、かならずよく知られている、と思ったからだ。
フォッグ氏が話しかけたひとりの仲買人は、たしかに、このパーシー人の商人のことを知っていた。しかし、その人なら二年前からシナに住んでいなかった。財産ができると、ヨーロッパに移住した、たぶんオランダに……というのはオランダとは、それまでずいぶん取引をしていたから、と答えた。
フィリアス・フォッグはクラブ・ホテルに戻ってきた。すぐにアウダ夫人に会うと、いきなり言った。ご親類は、もうホンコンには住んでいません。オランダに住んでいるようです。
アウダ夫人は最初は何も答えなかった。しばらく額に手をあてて考えていたが、それから静かな声で、
「どうしたらよろしいでしょう、フォッグさん?」と言った。
「簡単です」と、彼は答えた。「われわれといっしょにヨーロッパへいらっしゃることです」
「でも、そこまで、ご親切にしていただいては……」
「親切でもなんでもありません。第一、あなたが同行されることは、わたくしの旅行には、なんらの支障もありません。……パスパルトゥー」
「はい」と、パスパルトゥーは答えた。
「カルナティック号へ行って、船室を三つ予約してくれたまえ」
パスパルトゥーは嬉しくなった。自分に対して優しくしてくれる若い女性と、これからまたいっしょに旅行ができるからだ。いそいそとクラブ・ホテルを出て行った。
十九 パスパルトゥーはあまりに主人に関心を持ち、そして、それにつづいて起こったこと
ホンコンは小さな島にすぎないが、イギリスは一八四二年の戦争後、ナンキン条約によって、この島を領有した。それからわずか数年にして、天才的な植民者たちは、そこに重要な町をつくり、ヴィクトリア港をつくった。この島は珠江《チュコウ》の河口にあり、対岸の町、ポルトガル領のマカオとは六十マイルしか離れていない。この二つの町のあいだでは商業の競争が行なわれたが、当然、イギリスの町が勝った。現在では、シナ貿易の貨物の大部分が、このイギリスの町を通過する。ドッグ、病院、埠頭、倉庫、ゴシック式の大聖堂、総督官邸、砕石《さいせき》で舗装された街路など。……ホンコンはケント州やサリ州にある活気に満ちた一つの町が、地球をつらぬいて、ほとんどその反対側にあるシナの一地点に現われたような感じを与える。
パスパルトゥーは両手をポケットに突っ込んで、ぶらぶらとヴィクトリア港のほうへ歩いて行った。轎《かご》や、幌つきの運搬用一輪手押し車や……これらは、いまだにシナ帝国では一般に用いられている……それから街路にひしめくシナ人やニッポン人やヨーロッパ人を眺めながら、ぶらぶらと歩いて行った。それはボンベイやカルカッタやシンガポールの街路で見た光景と、ほとんど同じであった。つまり世界じゅう、いたるところでイギリスの都市が連続しているのであった。
パスパルトゥーは、ヴィクトリア港にきた。そこは珠江《チュコウ》の河口にあって、世界じゅうの船が蟻《あり》のように集まっていた。イギリスの船、フランスの船、アメリカの船、オランダの船、軍艦、商船、ニッポンやシナの小舟、ジャンク、サンパン、タンカなど。花を満載した船も水上の花壇のように点々と浮かんでいた。パスパルトゥーはぶらぶら歩きながら、黄色い服を着た、非常に年取った現地人をたびたび見かけた。シナ人の床屋にはいった。「シナ風」にひげをそってもらうためだ。ホンコンのフィガロは英語を上手に話した。そして、パスパルトゥーがいま見てきた老人たちは、いずれも八十歳以上で、その年になると帝国の色である黄色を身につける特権を与えられている、と話した。パスパルトゥーは、この話を、なんとなく非常に面白いと思った。
ひげをそってもらうと、パスパルトゥーはカルナティック号が横づけになっている埠頭に行った。埠頭をフィックスが行きつ戻りつしているのを見た。パスパルトゥーは、すこしも驚かなかった。しかしフィックスは、パスパルトゥーの姿に気がつくと、ありありと失望の色を浮かべた。
(しめた!)と、パスパルトゥーは思った。(改革クラブの旦那がたの顔が見たいもんだ!)
そして、フィックスの渋面《じゅうめん》には、いっこう気がつかない振りをして、にこにこと近づいて行った。
ところで刑事だが、彼が自分につきまとう不運に腹を立てているのには、それ相当の理由があった。逮捕状がこないのだ! 逮捕状が彼のあとを追っているのは確かだが、それを手にするにはもう数日間、この町に滞在しなければならないのだ。しかもホンコンは、この旅行の最後の英領だ。もしここでフォッグをつかまえないかぎり、永久に逃がしてしまうだろう。
「やあ、フィックスさん、とうとう決心して、アメリカくんだりまで同行なさるんですか?」
「そうです」と、フィックスはムッとして答えた。
「それは結構!」と、パスパルトゥーはわざと高笑いすると言った。「じつは、あなたがわれわれと離れられないことは、とっくにわかっていたんです。さあ、いっしょに船室を予約しに行きましょう、さあ早く」
ふたりは船会社の事務所にはいった。船室を四つ予約した。……ところで事務員は、こう言った。カルナティック号は修理が思ったより早くすんだので、あす朝出帆の予定を変えて、今夜八時に出帆します。
「ようよう!」と、パスパルトゥーは手を打って、それからフィックスに言った。「主人にとっては願ってもない幸いです。さっそく知らせに行きます」
この瞬間、フィックスは覚悟をきめた。いよいよ洗いざらいパスパルトゥーに打ち明けよう。フィリアス・フォッグを数日間ホンコンに引き留めておくには、もうこれよりほかに手がないのだ。
事務所を出ると、フィックスはパスパルトゥーに、居酒屋で一杯やろう、と言った。パスパルトゥーには、まだ時間があった。フィックスの誘いに応じた。
埠頭のそばに一軒の居酒屋があった。見た目には、きれいな店構えだ。ふたりははいった。ごてごてと飾りたてた広い部屋だ。奥には一台の大きなキャンプ用のベッドがあり、いくつかのクッションがのっていた。ベッドの上では数人が眠っていた。
広い部屋の中には、三十人ばかりの客がいて、編んだ藺草《いぐさ》で作った小さなテーブルを、それぞれ囲んでいた。イギリス製のビールや黒ビールのジョッキをあおっている者もあり、ジンやブランデーをちびちびやっている者もあった。彼らの大部分は、赤い粘土製の長い煙管《きせる》をくわえていた。煙管の中には、バラ油をまぜた阿片《あへん》の小さな玉が詰め込まれている。ときどき吸飲者のひとりが正気を失ってテーブルの下にころがり落ちる。すると、ボーイたちが手とり足とりその男を、奥のキャンプ用のベッドで眠っている仲間たちのところへ運んで行く。そこには二十人ばかりが麻酔のどん底におちいって、肩を並べて横たわっている。
フィックスとパスパルトゥーとは、ここが阿片宿であることに気がついた。阿片宿には悲惨な人々が……感覚が鈍《にぶ》り、痩せ衰え、白痴同様になった人々が集まる。ところが彼らに対して、強欲非道な商人であるイギリス人は、阿片という名の恐るべき毒薬を、毎年一億四百万ポンドも売りつけている。人間の悪徳の中でも、もっとも忌まわしい悪徳から吸いあげる。これは、なんという憎むべき儲《もう》けであろう!
シナ政府は、きびしい法律によって、この悪習慣におちいった人々を救済しようと努力したが、効果はあがらなかった。阿片の常用は、最初はきびしく制限されて、富裕階級にだけ許されていたが、それが下層階級におよぶにいたって、その弊害《へいがい》はもはやとどまるところを知らないありさまになった。阿片の吸飲は、シナ帝国では常に、そして、いたるところで行なわれている。男も女も、この厭《いと》うべき快楽を知り、その吸飲が習慣になると、もはや阿片なしにはすまされなくなり、しいてそれをたつと、はげしい胃痙攣《いけいれん》を起こす。大量の吸飲者になると一日に八服も吸うことができる。そのかわり五年内に死ぬ。
フィックスとパスパルトゥーとが一杯やるつもりではいったここは、ホンコンでさえ急速にふえつつある阿片宿の一つであった。パスパルトゥーは金を持っていなかった。しかし、いつか返礼しようと思ったので、ためらわず相手の友情を受けることにした。
ポートワインが二びん注文された。フランス人は遠慮しないで、ガブガブ飲んだ。一方フィックスは、ちびりちびり飲みながら子細に相手を観察していた。ふたりは、それからそれへと、いろいろなことを話し合った。とくにフィックスがカルナティック号に同乗することになったのは、おたがいに、うまいことを思いついたものだ、と興じ合った。カルナティック号の話から、同船の出帆が数時間早くなった話になった。パスパルトゥーは……びんも空になっていたし……では、これから主人に出帆が早くなったことを知らせに行ってくる、と言って立ちあがった。
フィックスはパスパルトゥーを引き留めた。
「まあ、もうちょっと……」と、フィックスは言った。
「なにかご用で、フィックスさん?」
「大事な用があるんです」
「大事な用?」と、パスパルトゥーは、コップの底に残っていた最後の数滴を飲みほすと叫んだ。
「大事な用なら、あした、ゆっくり伺いましょう。きょうは、暇がないんです」
「まあ、聞いてください」と、フィックスは言った。「あなたのご主人に関することです」
そう聞くと、パスパルトゥーは、じっと相手の顔を見つめた。フィックスの表情が、いつもと違っているのを見ると、パスパルトゥーはふたたび腰をおろした。
「どんなご用でしょう?」と、彼はたずねた。
フィックスは相手の腕に自分の手を置くと、声を低めて、
「わたしが何者だか、もう、ご承知なんでしょう?」と、たずねた。
「さあ、どうですか……」と、パスパルトゥーは微笑しながら言った。
「それじゃあ残らず、お話しましょう。じつは……」と、フィックスが言った。
「まあまあ、そうあわてないで。……じつは、わたしのほうでも知ってるんです……いや、たいして知ってるわけじゃあありませんが。……結構です、どうかあなたはあなたで、仕事をつづけてください。でもこれだけは言わせてもらいますが、旦那がたは、無駄なお金を使いすぎますよ!」
「無駄な?」と、フィックスは言った。「なんとでも勝手に言ってください。でも、あなたは、どんなに大金だか知らないんです!」
「いや、知ってます」と、パスパルトゥーは答えた。「二万ポンドです」
「五万五千ポンドです!」 と、フィックスはパスパルトゥーの手をしっかり抑えながら言った。
「えっ!」とパスパルトゥーは叫んだ。「そんなに賭けたんですか、フォッグ氏は! 五万五千ポンド!……それじゃあ、ますますゆっくりしてはいられない。一刻も早く……」と、パスパルトゥーはまた立ちあがった。
フィックスはパスパルトゥーをむりに坐らせると、ブランデーを一びん注文して「五万五千ポンドです!」と、ふたたび言った。「いいですか、もし成功したら、わたしは千ポンドの賞金がもらえるんです。わたしに味方してくれたら、五百ポンドあげますよ」
「味方するんですって?」と、パスパルトゥーは目をまるくして叫んだ。
「そうです、フォッグを四、五日ホンコンに留めて置くために、手をかしてくれれば……」
「なんですって!」と、パスパルトゥーは叫んだ。「とんでもない! あの連中は主人のあとをつけさせたり、主人のまじめな心を疑ったり、おまけに主人の旅をじゃましようとしたり! 何という恥知らずな!」
「えっ、あなた、なにを言おうとしてるんです? わたしには、まるでわかりませんよ!」
「厚顔無恥《こうがんむち》もはなはだしい、と言ってるんです。やつらは主人のポケットに手をねじこんで、有り金全部、盗もうとしているも同様です!」
「そうですとも! それがわれわれの 目的なんです!」
「そうなると賭じゃない、詐欺《さぎ》ですよ」と、パスパルトゥーは叫んだ。フィックスのすすめるままにブランデーをがぶ飲みしながら、ますます興奮してきた。「正真正銘の詐欺師どもですよ、あの紳士づらをしているやつらは! 改革クラブの会員どもは!」
フィックスは、ますます、なんのことかわからなくなってしまった。
「会員どもは!」と、パスパルトゥーはつづけた。「それにひきかえ主人は、じつに立派な人ですよ。賭をした以上、正々堂々と勝つ、そればかり思ってるんです」
「いったい、あなたは、わたしをだれだと思ってるんです?」と、フィックスはパスパルトゥーの顔をじっと見ながら言った。
「わかってますよ! 改革クラブの会員どもの手先になって、主人の旅行のじゃまをしてるんです。恥ずかしい役目ですよ! そんなことは、とっくにわかっていましたが、わたしだけで承知していて、主人にはなんにも話してないんです」
「ではフォッグは、なんにも知らないんですか?」と、フィックスは勢い込んでたずねた。
「なんにも知りません」と、パスパルトゥーは、また一ぱい、ぐっとあおって言った。
刑事は額に手をあてた。どう話したらいいだろう、どう行動したらいいだろう、と考えた。パスパルトゥーは本気で思い違いをしているらしい。それだけに、こちらの計画を押し進めるには、なお始末がわるい。この若者が、しんから主人を信じていることは確かであった。しかも主人の共犯者でないことも確かであった。……パスパルトゥーが共犯者であることを、フィックスは、もっとも恐れていたのであるが。
(そうか)と、彼は思った。(共犯者でないのだから、おれを助けてくれるだろう)
刑事は最後に決心した。第一、もう待っている時間はなかった。なんとしてでもフォッグをホンコンで逮捕しなければならなかった。
「ねえ、あなた」と、フィックスは息をひそめて言った。「聞いてください。わたしは、あなたが思っているような人間ではありません。つまり改革クラブの会員たちの手先じゃありません……」
「ふん!」と、パスパルトゥーは、からかうようにフィックスを眺めた。
「わたしは刑事です、ロンドン警視庁から特別の命令を受けて派遣された……」
「あなたが刑事!」
「そうです。証明しましょう。これが命令書です」
そう言うと、刑事は紙入れの中から一枚の紙を取り出して相手に見せた。警視総監の署名のある命令書である。パスパルトゥーはあっけにとられて、ひとことも口がきけなかった。
「フォッグの賭は」と、刑事はつづけた。「人目をくらます口実にすぎないんです。改革クラブの会員たちは、その口実にだまされているんです。フォッグは、あなたがなんにも知らずに共犯者になってくれるほうが都合がいいと思ってるんです」
「しかし、どういうわけで?」と、パスパルトゥーは叫んだ。
「いいですか、先月……九月二十八日にイングランド銀行で五万五千ポンド盗まれたんですが、犯人の人相はわかっているんです。さあ、これが人相書きです。ほら、何から何までフォッグにそっくりでしょう!」
「なにをばかな!」と、パスパルトゥーは、大きな拳固《げんこ》でテーブルをたたきながら叫んだ。「主人は、この世でいちばん正直な人です!」
「どうして、そんなことが言えるんです?」と、フィックスは答えた。「あなたはやつをまったく知らなかった。出発の当日に雇われたにすぎなかった。やつは気違いじみた口実をもうけて、トランクも持たず、ただ巨額の紙幣だけを持って、あわただしく出発した……それでも、まだ、あなたは、やつが潔白だと言うんですか?」
「言いますとも、言いますとも!」と、哀れな若者は機械的に繰り返した。
「では、あなたは、やつの共犯者として逮捕されたいんですか?」
パスパルトゥーは両手で頭をかかえてしまった。思いきって刑事の顔が見られなかった。フィリアス・フォッグが盗賊だって! アウダ夫人を救った、あの高潔で勇敢な紳士が盗賊だって! しかし、いま、フォッグ氏は疑われている。パスパルトゥーは自分の心に忍び込む疑いを一生懸命追い払おうとした。主人が罪を犯しているとは、どうしても思いたくなかったのだ。
「結局、あなたはわたしにどうしろというんです?」と彼は、いきりたつ心を必死に抑えながら刑事にたずねた。
「それですよ」と、刑事は答えた。「わたしはこのとおり、やつを追ってここまできている。ところが、ロンドンからくることになっている逮捕状が、まだ届いていません。だから、やつをホンコンに引き留めておくために、あなたに手伝ってもらいたいんです」
「このわたしに! ……」
「イングランド銀行から二千ポンドの賞金がもらえることになってます。あなたにも分けてあげますよ」
「とんでもない!」と、パスパルトゥーは叫んで立ちあがろうとしたが、理性も気力も一時に抜けて、また腰をおろしてしまった。ぼそぼそとつぶやくように言った。
「フィックスさん、たとえあなたの言うことがほんとうでも……たとえ主人があなたのつかまえようとしている泥棒でも……そんなことはけっしてありませんが……あの人は、いまもやっぱりわたしの主人です。あの人は、いつもわたしに情け深くて親切でした。あの人を裏切るなんてそんなこと、とてもとても……たとえ世界じゅうのお金を積まれたってできません。わたしは、そういうパンは食べない村の人間です!」
「あなたは拒絶するんですか?」
「拒絶します」
「じゃあ、いままで言ったことは聞かなかったことにしてください。さあ、飲みましょう!」
「ええ、飲みましょう!」パスパルトゥーは、だんだん酔いがまわってくるのを感じた。フィックスは、どんな手段を講じても絶対にパスパルトゥーをフォッグに会わしてはならない、と思った。そうだ、こいつを動けなくしてやろう、と決心した。テーブルの上には阿片をつめた煙管が数本、置いてあった。フィックスは、その一本を、そっとパスパルトゥーに手渡した。パスパルトゥーは、それを唇へ持っていき、火をつけて数服吸った。たちまち麻薬がきいて意識を失い、バッタリ床に倒れてしまった。
(やれやれ)と、フィックスは、その場にのびているパスパルトゥーを見ながら思った。(これでフォッグのやつ、カルナティック号の出帆が早くなったことに気がつかないだろう。たとえ気がついて出帆に間に合ったとしても、このろくでなしのフランス人を残して、ひとりで出発するだろう)
二十 フィックスがフィリアス・フォッグと接触すること
こうしたことが行なわれて、これからどんなに困ることが起こるか、フォッグ氏は夢にも知らなかった。アウダ夫人と連れだって、ホンコンの町を散歩していた。アウダ夫人がヨーロッパまで同行しようという彼の提案に従ったからには、彼としては、その長い旅に必要な、いろいろなものを用意しなければならなかった。彼のようなイギリス人の男なら、鞄《かばん》一つ持っただけで世界一周旅行ができるが、婦人ではそうはいかない。服、その他、こまごました物を買わなければならない。フォッグ氏は例の冷静さで自分の務めを果たした。そして、そのあまりの親切さに若い寡婦がとまどって、遠慮したり断わったりすると、相も変わらずこう言った。
「わたしの旅行に必要なのです。予定の計画にあることなのです」
買い物をすますと、フォッグ氏と若い婦人とはホテルに帰って豪華な晩餐を共にした。アウダ夫人は、すこし疲れたからと言って、いつも冷静な命の恩人の手を「イギリス風」に握ると、自分の部屋に引き取った。
この尊敬すべき紳士は、それからタイムズ紙や絵入りロンドン・ニューズに読みふけって、その晩を過ごした。
もし彼が物に驚きやすい人だったら、寝る時刻になっても従僕が帰ってこないことで、さぞびっくりしたであろう。しかしヨコハマ行きの船は、あす朝にならなければ出帆しないことを知っていたので、べつに気にもとめなかった。
朝になった。フォッグ氏はベルを鳴らした。パスパルトゥーは現われなかった。この尊敬すべき紳士が、ゆうべ従僕がホテルに帰らなかったことを知ったとき、どんなことを考えたか、それは知る術《すべ》もなかった。さあらぬ体でフォッグ氏は鞄を取り上げた。アウダ夫人に、さあ出かけましょう、と合図した。そして轎《かご》を注文した。
ちょうど八時であった。カルナティック号が満潮にのって水路を出るのは、九時半ということであった。轎がホテルの玄関にきた。フォッグ氏とアウダ夫人とは、この快適な乗物に乗った。荷物が一輪手押し車にのせられて、あとにつづいた。
三十分後、旅客たちは乗船埠頭に降り立った。そこでフォッグ氏はカルナティック号が前夜出帆したことを知った。フォッグ氏は、ここで汽船とパスパルトゥーとを、同時に見出せるとばかり思っていた。ところが、どちらも、影も形もなかった。しかし、彼の顔に失望の色は浮かばなかった。ばかりでなく、アウダ夫人が心配そうに彼を眺めると、あっさり答えた。
「たいしたことではありません。ちょっとしたおまけです」
そのとき、彼を注視していたひとりの男が近づいてきた。会釈して言った。
「あなたは、きのう着いたラングーン号に乗っていたかたではありませんか? わたしもいっしょに乗っていたのですが……」
「そうです」と、フォッグ氏は冷ややかに言った。「しかし、どなたです? わたしはあなたを……」
「失礼しました。ですが、わたしはあなたのお供のかたに、ここで会うつもりだったのです」
「あの人、どこにいるか、ご存知でしょうか?」と、アウダ夫人は勢い込んでたずねた。
「えっ!」と、フィックスは、びっくりした振りをして聞き返した。「あの人、あなたがたといっしょではないのですか?」
「ええ」と、アウダ夫人は答えた。「きのうから見えませんの。わたしたちを待たずにカルナティック号に乗ったのでしょうか?」
「あなたがたを待たずに!」と、刑事は答えた。「ところで失礼ですが、あなたがたはカルナティック号で出発なさるご予定だったのですが?」
「ええ、そうですわ」
「わたしもです、奥さま。それで、このとおり、がっかりしているのです。カルナティック号は修理が終ったので予定より十二時間も早く、しかも、だれにも知らせずにホンコンを出帆したのです。こうなると次の船が出るまで一週間、待たなければならないでしょう」
「一週間」と言いながら、フィックスの心は喜びにはずんだ。一週間! フォッグは一週間、ホンコンに釘づけにされる! その間には逮捕状がくるだろう。いよいよ勝利は法律の代表者のものになるだろう!
とつぜんフィックスは、頭をガーンとやられた気がした。フィリアス・フォッグが落ち着き払って、こう独り言のように言ったからだ。
「しかし、ホンコン港内には、カルナティック号のほかにも船はたくさんあるだろう」
そして、フォッグはアウダ夫人に腕をかして、出帆間際の船を探すためにドックのほうへ歩きだした。
フィックスは茫然《ぼうぜん》として、あとからついていった。まるで一本の糸によってフォッグにつながれているようであった。
しかし、いままでフォッグに味方していた運命も、ついに彼を見放したようにも思われた。フォッグ氏は三時間、港を歩き回った。とうとう、もし必要なら、ヨコハマへいくため船を一|艘《そう》、賃借りしようと決心した。しかし、どの船も荷物を降ろしたり積んだりしているさいちゅうで、すぐに出帆できる船はなかった。フィックス刑事は希望を取り戻した。
けれどもフォッグ氏は、けっしてあきらめなかった。ホンコンでだめならマカオへいってでも、と思いながら、なおも探しつづけた。港のはずれまでいくと、ひとりの船員が近づいてきた。
「旦那、船を探していらっしゃるんで?」と、彼は帽子をぬぎながら言った。
「すぐに出帆できる船がありますか?」と、フォッグ氏はたずねた。
「ございますとも、旦那、水先案内船で……四十三号。この手の船としては、いちばん優秀なもので……」
「速力は?」
「出そうと思えば、時速八マイルないし九マイル……。ごらんになりますか、船を?」
「見ましょう」
「お気に入りますよ。ご遊覧で?」
「いや、旅行です」
「旅行?」
「ヨコハマまでいってもらいたいのです」
水先案内は、あっけにとられた。両腕をひろげ、目をまるくして、
「旦那、ご冗談を!」
「冗談ではありません! カルナティック号に乗りおくれたのです。遅くも十四日までにヨコハマへ行かなければなりません、サンフランシスコ行きの船に間に合うために……」
「残念ですが」と、水先案内人は答えた。「そんなことは、とても、できません」
「一日百ポンド、出しましょう。そのうえ、もし間に合ったら二百ポンド、お礼をします」
「本気ですか?」と、水先案内人は聞き返した。
「本気ですとも」と、フォッグ氏は答えた。水先案内人は、すこし離れたところに行って、じっと海を眺めた。大金はほしい、しかし、そんな冒険は恐ろしい……あきらかに思い迷っているらしかった。フィックス刑事は息を詰めていた。
フォッグ氏はアウダ夫人を振り返った。
「こわくはありませんか?」と、たずねた。
「こわくはありません、あなたとごいっしょなら……」と、若い婦人は答えた。
水先案内人は、またフォッグに近づくと、両手の中で帽子をくるくる回した。
「どうします、あなた?」と、フォッグ氏は言った。
「……さよう、旦那」と、水先案内人は答えた。「やっぱり、できません。そんな危ない目には、わたしも、わたしの部下たちも、それから旦那がたも、会わせるわけにはいきません。どだい、無理です、二十トンたらずの船で、この季節に、そんな長い航海をするなんて……たとえ無事に航海できたとしても、とても間に合いません。なにしろホンコンからヨコハマまでは千六百五十マイルありますからね」
「千六百マイルですよ」と、フォッグ氏は言った。
「同じことです」
フィックス刑事は息をついた。
「でも」と、水先案内人はつけ加えた。「ほかに手段がないこともありません」
フィックスは、また息を詰めた。
「どういう?」と、フィリアス・フォッグはたずねた。
「日本の南端のナガサキまでは千マイルですが、シャンハイまでは八百マイルです。このシャンハイ航路は、だいたいシナ海岸に沿っていますし、おまけに潮流が北へ向かっていますから、なおさら好都合です」
「あなた」と、フィリアス・フォッグは言った。「わたしはヨコハマでアメリカ船に乗るつもりです。シャンハイではありません。ナガサキでもありません」
「どうしてシャンハイ航路ではいけないんです?」と、水先案内人は言った。「サンフランシスコ行きの船はヨコハマからは出ません。ヨコハマやナガサキに寄港はしますが、船が出るのはシャンハイです」
「あなたの言うことは間違いありませんか?」
「間違いありません!」
「で、その船は、いつシャンハイを出るのです?」
「十一日、午後七時です。ですから、まだ四日、つまり九十六時間あります。もし途中なんの故障も起こらなければ……もしいつも南東風が吹いているなら……もし海が穏やかなら、一時間平均八ノットで、ここからシャンハイまでの八百マイルを乗りきることができるわけです」
「で、いつ、出帆できるのです?」
「一時間以内に……。食料を買って、船の支度をするだけです」
「よろしい、約束しました! ……あなたは船長ですね?」
「そうですジョン・バンスビー……タンカディア号の船長です」
「手付け金は?」
「もし、頂けるなら……」
「さあ、二百ポンド、内金として。……ところで、あなた」と、フィリアス・フォッグは、フィックス刑事を振り返って付け加えた。「よろしかったら、いっしょに乗られたら?」
「あなた」と、フィックス刑事は思いきって言った。「ご好意にあまえます」
「結構です。では、三十分後に船でお目にかかります」
「でも、あの人は……」と、アウダ夫人は言った。パスパルトゥーのいなくなったことが心配でたまらないのだ。
「パスパルトゥーについては、できるだけのことをします」と、フィリアス・フォッグは答えた。
フィックス刑事は、どうにもやりきれない気持ちであった。いらいらしながら水先案内船のほうに歩いて行った。フォッグ氏はアウダ夫人をともなってホンコン警察署へ行った。パスパルトゥーの人相の特徴を詳しく話し、彼を本国へ送還させるための金をたっぷり預けた。さらにフランス領事館でも同じ手続きをした。そして轎で、いったんホテルに戻り荷物を受け取ると、外港に戻ってきた。
ちょうど三時が鳴った。水先案内船四十三号は、船員も乗り込み、食料も積み込んで、出帆を待つばかりになっていた。
タンカディア号は二十トン、小さい船だが、酒落た船首、すらりとした船体、いかにも軽快な二本マストの帆船であった。競走用のヨットのようにも見えた。ピカピカにみがかれた銅、電気|鍍金《メッキ》をした鉄、象矛のように白い甲板、それらは船長のジョン・バンスビーが、いかによく船の手入れを心得ているかを語っていた。二本のマストは、ややうしろに傾いていた。後檣《こうしょう》の梯形帆、前檣の四角帆、前檣支索三角帆、船首の三角帆、檣頭帆は、揚げられるばかりになっていた。追風を利用するための準備は整っていた。これなら、すばらしい速力が出せるのにちがいなかった。事実夕ンカディア号は水先案内船の競走で、たびたび賞を得ていたのである。
タンカディア号の乗組員は、船長のジョン・バンスビーと四人の船員とであった。彼らはシナ海のことならなんでも知っていて、そして、どんな悪天候をも恐れずに、助けを求めている船を捜索しに行く勇敢な船乗りたちであった。ジョン・バンスビーは四十五歳ぐらいの屈強な男で、顔は黒く日に焼け、目つきは鋭く、その性質は豪気果断で、仕事に熟練し、どんな臆病者でも彼を見れば心強さを感じずにはいられなかった。
フィリアス・フォッグとアウダ夫人とは甲板にあがった。フィックスは、すでにそこに立っていた。彼らはハッチから四角な船室に降りた。船室のぐるりには長椅子があり、その頭の上には夜、寝台のかわりにする板が取り付けられていた。部屋のまん中にはテーブルがあり、釣りランプの光がそれを照らしていた。部屋はたいして広くはなかったが、すべては清潔だった。
「こんなところで、さぞお気に入らないでしょうが」と、フォッグはフィックスに言った。フィックスはムッとして、ちょっと頭をさげただけだった。
刑事はフォッグの世話になることが、しゃくにさわってたまらなかった。
(まったく、いんぎんきわまる悪漢だ。だが、いくらいんぎんでも悪漢は悪漢だ!)
三時十分、あらゆる帆が揚げられた。イギリスの国旗がマストの上ではためいた。三人の乗客は甲板に出てベンチに腰かけた。フォッグ氏とアウダ夫人とは最後の視線を埠頭に送った。もしやパスパルトゥーが現われるかもしれない、と思ったからだ。
フィックスも気がかりでないことはなかった。自分が卑劣にも、あんなぺてんにかけた若造が、万一ここに突然、飛び出してきたら? そうしたら、あいつは事情を説明し、さぞ憤概しておれを非難するだろう。おれは窮地におちいるだろう。しかし、フランス人は現われなかった。まだ麻薬に酔いしれているのにちがいなかった。
船長のジョン・バンスビーは、ついに船を沖に出した。タンカディア号は後檣の梯形帆、前檣の四角帆、船首の角帆に追風を受けて、波の上を飛ぶように走った。
二十一 タンカディア号の船長は百ポンドの賞金を危うく失いそうになること
わずか十トンのスクーナーで八百マイルを航海する、しかも、よりによって、この季節に……それは危険な冒険であった。南シナ海は、秋分の季節には突然のスコールで、しばしば荒れがちであった。そして、いまはまだ十一月初旬なのだ。
船長にとっては旅客たちをヨコハマまで運ぶほうが、あきらかに利益であった。ばかばかしいほどいい日当がもらえるからだ。しかし、こんな悪条件で、そんな長い航海をするのは、あまりといえばあまりな冒険であった。いや、シャンハイまで行くのさえ無謀とはいえないまでも、大胆きわまる行為であった。しかし、ジョン・バンスビーはタンカディア号を信頼していた。事実、タンカディア号はカモメのように波を乗り越え乗り越え、進んで行った。船長の決断は正しかった、というべきであったろう。
その日最後の数時間、タンカディア号は風向きの変わりやすいホンコン水道を航行した。ときには風に向かい、ときには風を受け、あらゆる帆走をこころみて、みごとに進んでいった。
船がいよいよ沖に出ると、フィリアス・フォッグは船長に言った。
「いうまでもないが、できるだけ速力を出してほしいのです」
「わたしを信用してください」と、船長は答えた。「風を受けるかぎり、あらゆる帆を張らせます。もっとも檣頭帆《しょうとうほ》だけは揚げさせません。そんなことをしたら、かえって船は揺れて速力が落ちてしまいますから」
「船のことは、あなたの仕事で、わたしの仕事ではありません。あなたを信用します」
フィリアス・フォッグは、からだをまっすぐに、両足をふんばって、まるで船乗りのように、よろめきもしないで大きなうねりを眺めていた。若い婦人は船尾のほうに腰かけて、大海を……すでに暮色のせまった大海を、じっと身動きもせずに眺めていた。木の葉のような船で荒海にいどむ、彼女は、そんな一種の恐怖を感じていた。彼女の頭の上には、たくさんの白い帆がひろがり、それらは大きな翼のように彼女をのせて空間を走っていた。事実、船は風に運ばれて空を飛んでいるかのようであった。
夜がきた。上弦の月が出ていたが、そのほのかな光はまもなく水平線の霧の中に消えてしまうのにちがいなかった。雲が東からわきあがっていて、それはすでに空の一部をおおっていた。船長は位置表示灯をつけさせた。……入港する船の行き来のはげしいこの海域では、絶対必要な措置であった。船の衝突もまれではなかった。タンカディア号のように速力を出していれば、ちょっとした接触でも事故はまぬがれないであろう。
フィックスは船首で思案にふけっていた。フォッグが天性無口なことは知っている。それに、おめおめ世話になったこんな男に、こちらから話しかけるのは業腹《ごうはら》なので、わざと離れていたのだ。彼は、これから先のことをいろいろ考えていた。フォッグのやつはヨコハマではぐずぐずしていないだろう。アメリカへ行くために、すぐサンフランシスコ行きの船に乗るだろう。広大なアメリカにもぐりこめば、安全と無罪とを確保できるだろう。フィリアス・フォッグの計画は、フィックスには火を見るよりも明らかであった。
普通の犯罪者なら、イギリスから直接アメリカ合衆国へ渡るであろう。ところが一筋縄《ひとすじなわ》ではいかないフォッグは、より安全にアメリカ大陸へ達するために、わざわざ大回りをして、地球の四分の三を横切る。アメリカで警察の目をくらますと、それからは盗んだ大金で面白おかしく、この世を暮らすであろう。
ところで、アメリカ合衆国に一歩を踏み入れたとき、フィックスとしては、どうしたらいいであろうか? フォッグを見捨ててしまうべきか? とんでもない! そんなことは絶対にできない! 犯罪人を本国政府に引き渡す許可を得るまでは、ぴたりとフォッグについていくだろう。それはフィックスの義務であり、彼はその義務は完遂するであろう。
いずれにしてもパスパルトゥーが主人のそばにいないことは、もっけの幸いであった。こちらの手の内を見せた以上、フィックスとしては、どうしてもパスパルトゥーとフォッグとを会わせるわけにはいかなかった。
フィリアス・フォッグもまたパスパルトゥーのことを考えていた。どうしてあいつは雲隠れしてしまったのだろう? どうにも解《げ》せなかった。もしかすると、なにか勘違いをしたあげく、出帆間際のカルナティック号に飛び乗ってしまったのかもしれない。いろいろ考えたすえ、そんなこともないとはいえないと思った。アウダ夫人の思いも同じであった。命の恩人、といってもいいほどの、あの善良な若者の失踪《しっそう》を、彼女は深く悲しんでいた。万一にも、ヨコハマで彼に再会できるかもしれない。そうすれば、彼がカルナティック号に乗ってきたかどうかはすぐにわかるだろう。
十時ごろ、風がますます強くなった。用心すれば、帆をちぢめるほうがよかったが、船長は空模様を注意ぶかく眺めると、帆はそのままにさせておいた。事実タンカディア号の帆は非常に安定していた。吃水線が深いからだ。それに、いざ暴風となると、帆はすぐにおろせるようになっていた。
夜中、フィリアス・フォッグとアウダ夫人とは船室に降りた。フィックスは、すでに降りていた。寝台用の板の上で横になっていた。船長と船員たちとは終夜、甲板にいた。
翌日、十一月八日、日が出たときには、すでに船は百マイル以上も走っていた。ときどき測定器を海に投げて船の速力をしらべた。平均速力は八ないし九マイルであった。あらゆる帆にななめに風をうけて、船は最高速度を出していた。風がこのままの状態でつづくなら、タンカディア号は成功するのにちがいなかった。
船は一日中、海岸線からあまり離れないようにした。そのへんの潮流は申し分がなかった。海岸線は左舷《さげん》の船尾からせいぜい五マイルのところにあった。それは不規則に入り組んでいて、ときどき霧が晴れると現われた。風が陸から吹いてくるので、海はわりに穏やかであった。タンカディア号にとっては、ありがたい状態であった。なぜなら、こういう小さな船は、とくに大きなうねりには悩まされ、速度を落とされ、つまり船乗りの言葉でいえば「船を殺される」からである。
正午ごろ、風はしずまり、南東風に変わった。船長は檣頭帆《しょうとうほ》をあげさせた。しかし二時間後には、おろさせなければならなかった。風がまた強くなったからだ。
フォッグ氏と若い婦人とは、幸いなことに船に強かった。船にたくわえてある罐詰《かんづめ》やビスケットをおおいに食べた。フィックスは食卓を共にするようにと招かれると、承諾せざるを得なかった。船に底荷をつけなければならないように、胃にもおもりをつけなければならないことを知っていたからだ。が、なんという屈辱! この男の費用で旅行し、そのうえ飯まで食わせてもらう。男子たるもののすることじゃない! しかし、食べた。大急ぎで食べたことはたしかだが、しかし結局、たらふく食べた。けれども食事をすますと、フォッグをわきへ呼んで、こう言わなければ気がすまなかった。
「ムッシュー」
「ムッシュー」と言ったとたん、フィックスは唇に火傷《やけど》をしたように感じた。この「ムッシュー」の首っ玉をとっつかまえたくなるのを、やっとの思いでがまんした。
「ムッシュー、わたしを船に乗せてくださったのは、あなたのご親切です。しかし……わたしは、あなたのように、たくさんお金の使える身分ではありませんが……わたしの割り前だけはぜひ払わせていただきます」
「ああ、そんなことはおっしゃらないでください!」と、フォッグ氏は答えた。
「しかし、わたしとしては……」
「いけません」と、フォッグは二度とは言わせない、というような調子で繰り返した。「船を雇ったのは、こんどの旅行の総費用のほんの一部です」
フィックスは、ちょっと頭をさげた。息が詰まった。船首へいって仰向けにひっくりかえった。その日一日じゅう、口をきかなかった。
ところで、船は相変わらず快速でとばしていた。ジョン・バンスビーは希望にふくれた。なんどもフォッグ氏に、このぶんなら予定どおりシャンハイに着けるだろう、と言った。期待している、とフォッグ氏は簡単に答えた。事実、船員たちすべては一丸《いちがん》となって働いていた。賞金が、これら勇敢な海の男たちをいっそう奮発させていたのだ。ぴんと張られていない帆は一つもなかった。操舵室にいる船長が非難される一つの針路のミスもなかった。ロイヤル・ヨット・クラブのレガッタでも、こんなきびしい操縦は、たぶんされないだろう、とさえ思われた。
夜になった。船長は速度測定器を投げ入れた。ホンコンからすでに二百二十マイル航行していた。さすがのフォッグも希望をいだきはじめた。この調子でいくと、ヨコハマに着いたとき、旅程表に延着を書き込む必要はないだろう、ロンドン出発以来、初めて経験する重大な故障もなんらの損害も与えないだろう、と思いはじめた。
翌朝、未明、タンカディア号はシナの福建省《フーチェン》とタイワンとのあいだにあるタイワン海峡にはいった。北回帰線を越した。海峡は波が荒かった。逆流によってつくられる渦巻きがいたるところにあった。波にもまれて、船は難行した。甲板の上に立っていられないくらいであった。
夜があけると、風はますますはげしくなった。空には突風のくる気配がみえた。気圧計は毎日不規則に作用し、水銀柱はたえず上下しているが、その気圧計も天候がまもなく変化することを予告していた。南東のほうで海が持ちあがるのが見えた。長い大きなうねりだ。暴風雨の前兆であった。昨夜、太陽は真っ赤な霧の中に……燐光《りんこう》のようにきらめく洋上に姿を没したのである。
船長は長いあいだ険悪な空模様を眺めていたが、やがて聞きとれない声でなにかつぶやいた。たまたま乗客がそばにいるのに気がつくと言った。
「お話してもいいでしょうか?」
「なんでも話してください」と、フィリアス・フォッグは答えた。
「暴風雨がきそうです」
「北から、それとも南から?」と、フォッグ氏は平然とたずねた。
「南からです。台風が発生したのです」
「南からくる台風なら追風になるわけですね」
「そこまでおっしゃるなら」と、船長は答えた。「もう何も言うことはありません」
ジョン・バンスビーの予測はちがわなかった。もっと早い季節なら台風は雷雨ぐらいですむが、秋分の前後になると恐ろしい災害をもたらす……と、これはある有名な気象学者の説だ。
船長はあらかじめ用心した。あらゆる帆を捲《ま》かせ、帆桁を甲板におろさせた。檣頭帆をかかげるマストは抜きとられた。風が弱いとき補助帆を張るための舷側に突き出た帆桁はひっこめられた。ハッチはしっかり締められて、船体には一滴も浸水しないようにされた。ただ一つの三角帆……強靭《きょうじん》な荒天支索帆だけが前檣支索三角帆のかわりにあげられた。うしろからくる台風に船尾がゆるがぬようにしておくためだ……準備はできた。あとは待つだけであった。
ジョン・バンスビーは旅客たちに、ぜひ船室へはいるようにとすすめた。しかし、空気のわるい狭い部屋で大波に揺られていることは愉快なことではなかった。フォッグ氏もアウダ夫人も、フィックスまでも、船長のすすめには従わなかった。甲板を去ろうとはしなかった。
八時ごろ、暴風雨が船におそいかかった。切れっぱし、といってもいいほどの小さな帆を一つあげているだけだが、タンカディア号は、まるで羽のように風にもてあそばれた。ドッと吹きつけてくるときには、なんと形容することもできないような風である。その風速は全速力で走る機関車の四倍、といっても言いたりないくらいである。
一日じゅう、船は巨大な波に運ばれて北に進んだ。さいわい波の速度におくれることはなかった。たびたび船は、うしろからおそいかかる波をかぶろうとしたが、そのたびに船長は、たくみに舵をあやつって難をかわした。乗客たちはしばしば波しぶきを頭からかぶったが、平然と耐えていた。フィックスは内心、気が気ではないらしかった。しかし大胆なアウダ夫人は、じっとフィリアス・フォッグを見つめていた。フォッグの毅然《きぜん》たる態度には感心せずにはいられなかった。自分も彼にふさわしく振る舞おうとし、彼のかたわらで、吹き荒れる風を物ともしないような顔をしていた。フォッグにいたっては、この台風は最初から予定表に組み入れていたかのようにさえみえた。
タンカディア号は、相変わらず北上をつづけていた。ところが夕方になると、恐れていたことがやってきた。風が四分の三、向きを変え、北西から吹きつけてくるようになったのだ。船は一方の舷側に大波をうけ、はげしく動揺した。海は猛烈に船を攻撃した。その猛烈さは、船というものが各部分いかに堅固に結合されているかを知らないものには生きた心地を与えないほどのものであった。
夜になると、風はいっそうはげしくなった。闇が濃くなるにつれて風がますます荒れ狂ってくるのを見ると、ジョン・バンスビーは深刻な不安を感じた。どこかの港に避難すべきではないか、と思った。乗組員たちに相談した。
相談をすますと、フィリアス・フォッグに近づいて言った。
「沿岸のどこかの港に避難したほうがいいと思いますが……」
「わたしも……」とフィリアス・フォッグは答えた。
「ああ、あなたも!」と、船長は言った。「でも、どこの港へ?」
「港は一つしか知りません」と、フォッグ氏は静かに答えた。
「それは?」
「シャンハイ」
船長は、ちょっとのあいだ、その返事の意味がのみこめなかった。その返事の中には執拗なまでの強固な意志がこめられていた、それがわからなかったのだ。ややあって叫んだ。
「わかりました! あなたのおっしゃるとおりです。……さあ、シャンハイだ!」
タンカディア号は敢然と北へ進んで行った。
恐ろしい夜! 奇跡であった、小さな船が転覆しなかったことは! 二度、船は波をかぶった。もし繁《つな》ぎ綱《づな》が切れたら、甲板上の物はすべて流れ去ってしまったであろう。アウダ夫人は疲れきってしまったが、ひとことも弱音ははかなかった。一度ならずフォッグ氏は彼女のところに駆け寄って、大波から彼女を守らなければならなかった。
夜があけた。まだ大時化《おおしけ》はつづいていた。しかし風は向きが変わって、南東から吹いてくるようになった。有利な変化であった。タンカディア号は、相変わらず荒れすさぶ海を進んだ。波は、風向きが変わったことによって起こる波とぶつかりあって、海はいっそう荒れ狂うのだ。逆波《さかなみ》の衝撃は、これほど強固に建造されていない船なら、おそらく粉砕してしまっただろう、と思えるくらいであった。
ときどき海岸が、霧の切れ目から見えた。しかし、一隻の船も見えなかった。航行しているのはタンカディア号だけであった。
正午、暴風は、やや衰える気配を見せはじめた。日没ごろになると、その気配はいっそうはっきりした。
それにしても台風の暴威は、あまりに長すぎた。乗客たちは、すっかりへとへとになっていた。すこしばかり食べ、しばらく休息した。
ゆうべとは大違い、夜はわりに静かになった。船長は低く帆をあげさせた。船はぐんぐん速度をました。翌十一日、夜明け、ジョン・バンスビーは海岸線を子細に眺めたあとで、船はもうシャンハイから百マイルとは離れていない、と確信した。
百マイル! 今日じゅうに走破しなければならなかった! フォッグ氏としては、ヨコハマ行きの汽船に間に合うためには、どうしても夕方までにシャンハイに着かなければならなかった。台風で数時間損をしなかったら、いまごろはシャンハイから三十マイルとは離れていないところにいたのであるが。
風が落ちるとともに海は凪《な》いだ。船はあらゆる帆を……檣頭帆も、支索帆も、船首の三角帆もあげ、白波を蹴《け》たてて進んだ。
正午、タンカディア号はシャンハイから四十五マイル近くまできていたが、ヨコハマ行きの汽船の出帆するまでにシャンハイに着くためには、まだ六時間かかるはずであった。
不安は大きかった。どんなことをしてでも間に合いたかった。みんなは……フィリアス・フォッグだけは、たぶん例外だったろうが……焦燥の極に達していた。船は絶対に平均時速九ノットで走らなければならなかった。ところが風は、相変わらず弱かった! それは不規則な微風で、ときには陸から一陣の強風がいきなり吹いてくることもあったが、それが過ぎると、海はまた静まった。
しかし、船は軽く、帆は高くしなやかで、気紛れな微風をかき集めることができた。それに潮の流れもあったので、午後六時、ジョン・バンスビーは、シャンハイ河口までもうあと十マイルだと思った。ただしシャンハイの町は、河口からすくなくとも十二マイルのぼったところにある。
七時、シャンハイまでは、まだあと三マイルあった。……ちえっ! 船長は思わずつぶやいた。二百ポンドの賞金をふいにしてしまったからだ。彼はフォッグ氏を見た。フォッグ氏は平然としていた。フォッグ氏にとっては全財産を失うか失わないかの瞬間だったのであるが……。
同じ瞬間、煙を高々と吹きあげた黒い長い煙突が、前方、水平線上に現われた。定刻に出帆したアメリカ船だ。
「ちくしょう!」と、ジョン・バンスビーは叫ぶと、乱暴に操舵した。
「信号!」と、ひと声、フィリアス・フォッグが叫んだ。
小さな青銅の大砲が一門、船首にそなえつけてあった。濃霧のときの信号用だ。砲口まで火薬が詰められた。船長が火口に点火しようとした。
「半旗にしたまえ」と、フォッグ氏が言った。
旗がマストの中間までおろされた。遭難の信号だ。それを見たら、アメリカの汽船は針路を変えて接近してくるかもしれなかった。
「撃て!」と、フォッグ氏は言った。
爆音がとどろいた。
二十二 パスパルトゥーは地球上の反対側の地点においても若干の金を持たなければならないと気がつくこと
カルナティック号は、十一月七日、午後六時半、ホンコンを出帆すると、全速力で一路ニッポンに向かった。貨物と旅客とを満載していたが、船尾の一つの船室だけが空いていた。フィリアス・フォッグ氏が予約しておいたものである。
翌朝、船首で働いていた水夫たちは目を見張った。酔っぱらったような目つきをして、髪を振り乱した、ひとりの若い男が、二等船室に通じるハッチから現われると、ふらふらしながら、近くに置いであった船具用の円い材木のところへ行って腰を落としたからだ。
男はパスパルトゥーその人であった。事の次第は次のとおりだ。
フィックスが阿片宿を出ると、すぐふたりのボーイが、ぐったり眠りこけているパスパルトゥーをかかえあげて、阿片吸飲者用のベッドへ運んだ。……三時間たった。悪夢の中でも一つの固定観念にとらわれていたパスパルトゥーは、とうとう目を覚ました。なんとかして麻薬の麻酔作用から抜け出ようと苦闘した。義務を果たしていないという思いが、麻痺《まひ》を振り払った。泥酔者のベッドから這い降り、壁につかまって、ころんだり起きあがったり、一種の本能にみちびかれて、われにもあらず、よろめいていた。ついに阿片宿から出ると、夢の中でのように叫んだ。
「カルナティック号! カルナティック号!」
すぐ近くで、汽船が煙をあげていた。出帆間際だ。パスパルトゥーは埠頭から舷門に渡してある歩み板を渡り、舷門にはいると、船首の甲板に、へたへたと倒れて正気を失ってしまった。船は、いかり綱をあげていた。
水夫たちは、こんな光景には慣れているので、このやっかいな乗客を二等船室に降ろしてやった。パスパルトゥーは翌朝まで目を覚まさなかった。目を覚ましたときには、船はシナ本土から百五十マイルのところを走っていた。
パスパルトゥーは甲板に出た。新鮮な海の風を胸いっぱい吸い込んだ。酔いはもうすっかり醒めていた。記憶をよびもどそうとした。それはなかなか困難であった。しかし、ついに、きのうのことを、はっきり思い出した。フィックスが秘密をうち明けたこと、阿片宿のこと……。
(いやはや)と、彼は思った。(たしかに、ひどく酔っぱらったもんだ! フォッグ氏は、なんと言うだろう? しかし、とにかく船には間に合った。不幸中の幸いだ)
それからフィックスのことを考えた。(とうとう、あいつを追っ払ってしまった。あんなうち明け話をしたあとでは、まさかカルナティック号までは追いかけてはこないだろう。あの刑事め、イングランド銀行で盗みを働いた罪をきせて、主人を追いかけてくるなんて! ばかもいいかげんにしろ! 主人が泥棒なら、おれはさしずめ人殺しというところだ!)
委細《いさい》を主人に話すべきであろうか? フィックスがこんどの事件で演じた役割を主人に話すべきであろうか? それとも主人がロンドンに帰ってくるまで待っていて、それからロンドン警視庁のとんまな刑事が主人を追い回して世界一周したことを話すべきであろうか? そうしたら主人は、腹をかかえて笑うだろう。そうだ、それがいいかもしれない。しかし、いずれにしても、もう一度考えてみる必要がある。それよりも、もっと急を要するのは主人に会って、なんとも弁解のしようもない不始末について主人の許しを得ることだ。
パスパルトゥーは立ちあがった。うねりは強く、船はひどく揺れていた。まだふらつく足を踏みしめ踏みしめ、やっと船首にたどりついた。甲板にはフォッグ氏もアウダ夫人も……それらしい影さえ見えなかった。
(そうだ)と彼は思った。(アウダ夫人はまだ寝ている時間だ。フォッグ氏はホイストの相手をみつけて、さっそく例のとおり……)
パスパルトゥーはサロンに降りた。そこにもフォッグ氏はいなかった。こうなれば事務長にたずねてみるほかはなかった。事務長は、そういう名の乗客は知らないと答えた。
「くどいようですが」と、パスパルトゥーはつづけた。「背の高い、落ち着いた、無口な紳士です。若い婦人の連れがあります」
「若いご婦人のお客さんはありません」と、事務長は答えた。「なお念のため、ここに乗客名簿がありますから、ご自分でお調べください」
パスパルトゥーは名簿を調べた。……主人の名はなかった。パスパルトゥーは目の前が暗くなったような気がした。とたんに思い直した。
「ああ、ばかな! この船はカルナティック号ではありませんね?」と、彼は叫んだ。
「いや、カルナティック号です」と事務長は答えた。
「ヨコハマ行きですか?」
「そうです」
パスパルトゥーは一瞬、船を間違えた、と思ったのだ。しかし、船はたしかにカルナティック号であった。それなら主人は、カルナティック号に乗っていないのだ!
パスパルトゥーは、かたわらの椅子に身を投げた。雷に打たれたような感じであった。……突然、思い出した。カルナティック号の出帆時間は予定より早くなった。それを主人に知らせるべきであった。ところが、知らせなかった。つまりフォッグ氏とアウダ夫人とが出帆に間に合わなかったのは、まさしく自分の過ちだったのだ。
自分の過ち、たしかに、それにはちがいない。しかし根本は、あの悪漢の仕業なのだ! 主人をホンコンに引き留めておくために、自分を主人から引き離して泥酔させた、あの悪漢の仕業《しわざ》なのだ! パスパルトゥーは、ようやく、あの刑事の策略に気がついた。ああ、フォッグ氏は賭に負けた。破産した。いまごろはつかまって留置場にぶちこまれているだろう!……パスパルトゥーは髪をかきむしった。ああ、もし、いつかフィックスをとっつかまえたら、この決済はかならずつけてやるぞ!
最初は、どうしていいかわからず頭をかかえるばかりであったが、やがて平静さを取り戻すと、前途のことを考えはじめた。それはどうにもありがたいものではなかった。なるほどニッポンに向かっているのだから、いずれニッポンに着くにはちがいない。しかし、それから先どうしたらいいだろう? ふところは空っぽ。一シリングも一ペニーもなかった。しかし、さいわい船賃と、航海費とは前払いしてあった。だから決心するには、まだ五、六日、間があった。そのあいだ、パスパルトゥーは、じつによく食べ、よく飲んだ。なんとも形容できないくらい、よく食べ、よく飲んだ。まるで主人のために、アウダ夫人のために、そして自分のために食べるかのようであった。さながらニッポンは……これから行くニッポンは、砂漠同様、食べるものはなんにもないかのように彼は食べまくった。
十三日朝、上げ潮にのって、カルナティック号はヨコハマに入港した。
ヨコハマは太平洋に面する重要な港で、北アメリカ、シナ、ニッポン、マラヤ諸島間の旅客や郵便物を運ぶあらゆる汽船がここに寄港する。ヨコハマはエドと同じ湾にのぞんでいて、エドからやや離れている。エドはニッポン帝国の第二の首都で、広大な町だ。俗界の皇帝である将軍が存在した時代には、将軍の居城のあった土地である。そして、それは神々の裔《すえ》なる霊界の皇帝、ミカドの住んでいる巨大な町……ミヤコと対立していたものである。
カルナティック号は港の突堤や税関の倉庫に近く、あらゆる国籍に属する船が群がるなかにはいって、桟橋《さんばし》に横づけになった。
パスパルトゥーは、「太陽の息子」といわれるこの不思議な国に、なんの感激もなく一歩を印した。これぞといって、したいことはなにもなかった。いわば足の向くままに当てもなく通りから通りを歩いていった。
最初にきたのは、完全にヨーロッパ風の繁華な地区であった。家々の正面はあまり高くなく、それぞれにベランダがあって、その下には優雅な柱廊が並んでいた。この地区は「条約岬」から川までのあいだを占め、そこにはいたるところに街路や広場やドックや倉庫があった。ホンコンでもカルカッタでもそうであったが、あらゆる人種が……アメリカ人やイギリス人やオランダ人が群がっていた。商人たちは、あらゆるものを売ろうとし、また買おうとしていた。そういう雑踏の中で、パスパルトゥーは、まるでホッテントット人の国にひとり投げ出されたようであった。
パスパルトゥーにも一つの手がないわけではなかった。イギリスまたはフランスの領事館へ行って助けを求めるのだ。しかし、自分の身の上話をするとなると、どうしても主人のそれも話さなければならない。それは気が進まなかった。それをするくらいなら、その前にあらゆる機会をためしてみたかった。
ヨーロッパ風の地区を歩き回ったが、思わしいことはなにもなかったので、ニッポン人の町へはいっていった。いざとなったら、エドまで足をのばそうとさえ決心していた。
ヨコハマのニッポン人居住地はベンテンと呼ばれていた。ベンテンとは近隣の島々で信仰されている海の女神の名である。ベンテン地区には樅《もみ》や杉の美しい並木道があった。奇妙な建築の神聖な門がいくつかあった。竹や葦のおおいかぶさった橋がいくつかあった。数百年をへた巨大な陰気な杉の木立におおわれた寺々があった。それらの寺々の中には仏教の僧侶たちや儒教の信奉者たちがひっそりと暮らしていた。街路は限りなく延び、どこへ行っても、血色のいい真っ赤な頬をした子どもたちが群れていた。ニッポンの屏風《びょうぶ》から抜け出してきたような背の低い、お人好しらしい男たちが、足の短い狆《ちん》や、黄色がかった、尻尾のない、いかにもずるそうで怠けものらしい猫と遊び戯れていた。
往来はどこもごった返していた。単調な太鼓をたたきながら列をなしてねり歩いていく僧侶たち。漆《うるし》ぬりの、先のとがった陣笠をかぶり、腰帯から両刀をぶらさげた役人たちや税関吏たちや警官たち。白い縞のはいった青い綿布の服を着て、旧式の撃発銃を肩にかついだ兵士たち。ミカドの軍人たち……彼らは絹の胴衣の下に鎖《くさり》かたびらを着こんでいる。そのほかにも多くの、あらゆる階級の軍人たち。……なぜなら軍人という職業はシナでは軽蔑されているが、ニッポンでは尊敬されているからだ。それから喜捨《きしゃ》を求めて歩く托鉢《たくはつ》僧たち。長い衣を着た巡礼たち。さらに一般の市民たち。……彼らは、髪はなめらかで黒檀《こくたん》のように黒く、頭は大きく、胴は長く、足は細く短く、背は低く、顔色は銅のように赤黒いのから艶《つや》のない白いのまでさまざまだが、シナ人のように顔色が黄色ではなく、その点では、この二つの民族は本質的にちがっている。
行き交う馬車、輿《こし》、馬、運搬車、幌つきの一輪手押車、側面を漆で塗ったノリモン、しなやかなカンゴすなわち竹製の駕篭《かご》。……それらのあいだを小さな足がちょこちょこと歩いている。それらの足は布製の短靴や、藁《わら》で編んだサンダル、細工をほどこした木靴をはいている。婦人たちはあまり美しいとはいえない。ぼんやりした力なげな目、平べったい胸、時代の好みで歯を黒く染めている。しかし国民的衣服であるキリモンをたくみに着こなしている。それは一種の部屋着で、絹の幅広い飾り帯で締められ、背中にあるその途方もなく大きな結び目は、まるで花がひらいたようである。流行を追う現代のパリジェンヌは、このニッポン婦人のまねをしているようである。
パスパルトゥーは数時間、これら色さまざまな群集の中をさまよい歩いた。珍奇な、豪奢《ごうしゃ》な品を商う店。ニッポン式の安ぴか物の金銀細工を山と積んだ市場。のぼりや旗で飾りたてた小料理屋。
パスパルトゥーは金がないので、もちろんそこにはいることはできなかった。それから茶店。そこでは香ばしい湯を、茶碗になみなみとついで飲ませている。サキも飲ませる。サキは米から発酵させた酒精飲料だ。さらにまた快適な喫煙所もあって、人々は非常にこまかくきざんだタバコを吸っているが、阿片は吸わない。阿片の使用は、ニッポンではほとんど知られていないのである。
やがてパスパルトゥーは郊外に出た。あたり一面、稲田であった。ところどころに輝くばかり真っ赤な椿《つばき》が咲いて、その最後の色と匂いとをまき散らしていた。椿の花は潅木にではなく、もっと背の高い木に咲いていた。竹垣の中には桜の木、梅の木、林檎の木が植えられていた。ニッポン人は実を取るよりも花を見るために植えるのだ。それらの木々は、しかめっ面をした案山子《かかし》やガラガラ鳴る風車で、スズメやハトやカラス、その他の貪欲《どんよく》な鳥どものくちばしから守られていた。大きな杉の木にはワシがいた。しだれ柳の葉の中には、サギが一本足で憂鬱そうに立っていた。いたるところにコガラス、アヒル、ハヤブサ、ガンがいた。それから、たくさんのツルがいた。ツルはニッポンでは「殿さま」扱いされている。それはニッポン人にとっては長寿と幸福との象徴である。
こうして、あちらこちら、さまよっているうちに、パスパルトゥーは草のなかに菫《すみれ》を見つけた。
(しめた!)と、彼は思った。(これで晩飯にありつけた)
しかし、かいでみると、匂いは全然なかった。
(運がない)と、彼は思った。
たしかに、この愉快な若者は、前もってこのことあるを思って、カルナティック号をおりる前に、たらふく朝飯を食べておいた。しかし一日じゅう歩き回っていたあとでは、腹はぺこぺこ。彼はニッポンの肉屋の陳列台には羊の肉も山羊の肉も豚の肉もまったくないことに気がついていた。ばかりでなく、牛はただ農業に使うだけのもので、牛を殺すことは神をけがす所業であることも知っていた。だからニッポンにはあまり肉がないと結論していた。このパスパルトゥーの考えは間違っていなかった。しかし肉屋に肉がないのなら、そのかわりに彼の胃は猪や鹿、シャコ、ウズラ、ニワトリや魚に適応していかなければならなかった。事実、ニッポン人は一般に、米といっしょにそれらを常食としているのである。パスパルトゥーは敢然として運命に耐えていこうとした。きょうがだめなら、あしたこそ栄養補給のために努力しようと決心した。
夜になった。パスパルトゥーはまた町に戻って色とりどりの明りのちらつく通りから通りを歩いて行った。曲芸師たちがまるで魔術のような業を演じているのを眺めた。易者たちが露天で、その天眼鏡のまわりに人びとを集めているのを眺めた。パスパルトゥーはまた港を見た。海面には点々と漁火《いさりび》が映っていた。漁師が魚を集めるために燃す松明の光だ。
とうとう人影がまばらになった。すると、役人たちの夜回りがはじまった。正装に威儀を正し、多くの供を連れて、まるで使節のようであった。パスパルトゥーは、こういう華美な巡邏隊《じゅんらたい》に出あうたびに、ふざけてつぶやいた。
「やあ! また使節団がヨーロッパへお出かけだ!」
二十三 パスパルトゥーの鼻が途方もなく長くなること
翌日、パスパルトゥーは空腹のあまり、いまにも倒れそうになってしまった。どんなことをしてでも食べよう、それも一刻も早く、と思った。たしかに時計を売るという手はあった。しかし、時計を売るくらいなら飢え死にしたほうがましであった。この若者は天性強く大きな声を……節まわしはあまりうまくなかったが……持っていた。いまは、その声を利用する機会であった。
彼はフランスやイギリスの歌をいくらか、すくなくともリフレインぐらい知っていた。それらを歌ってみようと決心した。ニッポン人は音楽ずきにちがいない。あらゆることを饒鉢《にょうばち》や銅鑼《どら》や太鼓の伴奏でするからだ。……たぶん彼らはヨーロッパの名人の歌を大いに感心して聞いてくれるのにちがいない、と思った。
しかし演奏会をひらくには朝が早すぎた。いくら音楽愛好家でも、いきなりたたき起こされては、ミカドの似姿を彫った銭を投げてはくれないだろう。
そこでパスパルトゥーは数時間、待とうと決心した。しかし歩いていくうちに気がついた。流しの芸人としては服装がよすぎる。商売相応のボロに着替えよう。いま着ている服をボロに着替えれば釣銭《つりせん》がもらえ、それでさっそく朝飯が食べられるだろう。
こう決心すると、あとは実行するだけであった。しばらく探し回ったあげく、ニッポン人のやってる古着屋をみつけたので、中にはいって話した。ヨーロッパの服は古着屋の気に入った。やがてパスパルトゥーはニッポンの古着を着、紐《ひも》のついた、古びて色のあせた一種の頭巾をかぶって店を出た。見られたざまではなかった。そのかわり小銭がたもとの中で鳴っていた。
(結構だ)と、彼は思った。(いまは謝肉祭の最中だと思えばいい!)
こうしてニッポン人になりすましたパスパルトゥーが最初に考えたことは、どこかそこらの飯屋によることであった。飯屋にはいって、いくらかの鶏肉と飯とで朝飯を食べた。しかし、そのあいだも晩飯はどうしよう、いずれ解決しなければならない問題だ、という考えは頭から離れなかった。
とにかく大いに元気は回復した。(さあ)と、彼は思った。慎重、慎重。あわててはいけない。もう、このボロを売って、もっとひどいボロを買うわけにはいかない。だから一刻も早く、この太陽の国を立ち去る手段を思いめぐらすべきだ。これ以上、この国に滞在しても、ろくな思い出しか残らないだろう!
パスパルトゥーはアメリカ行き出帆間際の船をたずねてみようと思った。船に乗せてもらえ食べさせてもらえれば報酬はいっさいいらないから、コックかボーイに使ってもらいたい、そう頼もうと思った。サンフランシスコに着きさえすれば、なんとかこの窮境を脱することができるであろう。重要なことは、ニッポンと新大陸とのあいだに横たわる太平洋四千七百マイルを渡ることだ。
パスパルトゥーは、あることを思いついたら、いつまでもそれをぐずぐず考えている人間ではなかった。ヨコハマ港へ直行した。しかしドックに近づくにつれ、彼の企ては最初に思いついたほど簡単なものでなく、それどころか、ますます実現不可能なもののように思われてきた。アメリカ船はコックやボーイを求めているであろうか? こんな風体で信用してもらえるであろうか? 有利な紹介状があるというのか? 身元を明示する証明書があるというのか?
こんなことを考えながら歩いていくと、突然、サーカスの道化師が外人町を持ち歩いている大きな木のポスターが目についた。ポスターには英語でこう書いてあった。
ニッポン人|軽業《かるわざ》団
団長ウィリアム・バタルカー氏
***
天狗神《てんぐしん》の庇護のもとに
長い、長い鼻の曲芸
アメリカ合衆国出発を前にした最後公演
絶対お見のがしなく!
「アメリカ合衆国か!」と、パスパルトゥーは思わず叫んだ。「おあつらえ向きだ」
彼はポスターを持った男のあとからついて行った。日本人町にはいった。十五分ばかり歩くと、大きな建物の前で立ちどまった。屋根には、細長い旗がいくつか立っていた。前面の壁には、団員たちが演技をしているところが、遠近のない、どぎつい色彩で描かれていた。それはバタルカー氏……アメリカの大|山師《やまし》のひとりの小屋であった。氏は軽業、手品、道化、曲芸、綱渡りなどをするニッポン人の芸人たちの親方で、ポスターによればアメリカ合衆国へ帰るに当たって、太陽の国で最後の公演をするのである。
パスパルトゥーは、小屋の前に並んだ柱のあいだから中にはいった。バタルカー氏に面会を申し込んだ。バタルカー氏自身が現われた。
「なんの用だね?」と、彼はパスパルトゥーに言った。彼はパスパルトゥーをニッポン人だと思ったらしかった。
「下男はいりませんか?」と、パスパルトゥーはたずねた。
「下男だって?」と、大山師は白髪まじりのあごひげをなでながら叫んだ。
「下男なら、めっぽうおとなしくて正直なのがふたりいる。ただ食べさせておいてやるだけで、どこにも行かず、おれのためならなんでもする」
そして、節くれだったたくましい腕をあげると、「ほら、あそこにいる」と、付け加えた。
「なにかわたしにできる仕事はないでしょうか?」
「なんにもないね」
「いやはや! でも、親方といっしょに出発できれば、もっけの幸いなんですがね」
「おや!」と、バタルカー氏は言った。「おまえはニッポン人じゃないんだね、おれが猿でないように! それにしちゃあ、またなんでそんな服装をしてるんだ?」
「どんな服装をしようと勝手でさあ」
「そりゃそうだ。おまえはフランス人だね、そうだろう?」
「チャキチャキのパリっ子でさあ」
「じゃあ、おまえ、百面相はどうだ? できるだろう?」
「できますとも」と、パスパルトゥーは答えたが、フランス人というと、すぐに百面相とくる……ムッとした。「たしかにフランス人は百面相ができますがね。でもアメリカ人ほど、うまくはありませんよ!」
「ふん、そうかもしれない。ところで、下男としては雇えないが、道化としてなら雇ってやるよ。わかるだろう、若い衆。フランスでは外国人を道化に使うが、外国ではフランス人を道化に使う。ね、そうだろう?」
「おやおや!」
「ときに、おまえは力持ちかい?」
「力持ちでさあ。ことにご馳走を食べたあとではね」
「歌は歌えるかい?」
「歌えますとも」とパスパルトゥーは答えた。彼は以前、大道芸人の仲間にはいっていたことがあるのだ。
「でも逆立ちして、左の足の裏で独楽《こま》をまわし、右の足の裏で刀を立てながら歌うことができるかい?」
「できますとも!」と、パスパルトゥーは駆け出しの時分、そんな芸当をやらされたことを思い出して答えた。
「よし、じゃあ、きめた!」と、バタルカー氏は言った。
契約は即座に成立した。
ついにパスパルトゥーは職にありついた。なんでもやるという条件で、日本人曲芸団に加入したのだ。あまりありがたいことではなかったが、とにかく、これで一週間以内にサンフランシスコに立てる。
三時開演……バタルカー氏は口上を叫びつづけた。すぐに木戸で日本式オーケストラが……太鼓や銅鑼が鳴りだした。もちろんパスパルトゥーには、これからなにか役を覚える時間はなかった。天狗連の演じる「人間ピラミッド」をささえるために、その強い肩をかすことになった。「人聞ピラミッド」は終幕に演じられる最大の呼び物だ。
三時にならない前から、見物人は広い小屋にどっと押し寄せた。ヨーロッパ人、シナ人、ニッポン人の男、女、子どもたち。彼らは桟敷《さじき》の狭いベンチや、舞台の前の土間に先を争って席を占めた。客寄せのため木戸にいたオーケストラ連中は、すでに中にはいっていた。全員そろって、熱狂してやりだした。銅鑼、太鼓、笛、その喧噪《けんそう》は耳を聾《ろう》するばかりであった。
曲芸団のすることは、いずこの国も似たり寄ったり。しかし、ニッポン人は世界屈指の曲芸師と言わなければならない。ある者は扇子《せんす》と小さな紙きれとで、蝶、花にたわむれる……美しい芸を披露した。他の者はキセルから吸い込んだ香ばしいタバコの煙を吹きながら、素早く空中に青っぽい文字を連ねて見せた。その文字は満員御礼という意味である。またある者は、火のついた蝋燭に次から次と唇を持っていき、火を吹き消す。ところが、それらの蝋燭は消えたと思うとまたたちまち、あとからあとからと火がついていく。さながら魔術である。また他の者は独楽《こま》で驚くべき妙技を演じた。彼の手にかかると、いくつかの独楽はブンブンうなりながら、まるでそれ自身生きているように無限に旋回する。独楽はキセルの羅宇《らう》の上を走り、刀の刃の上を走り、舞台の端から端に渡された一本の髪の毛のように細い針金の上を走る。それらはまた大きなガラスの鉢のふちを駆け回り、竹の梯子を駆けあがり、四方八方に飛び散り、ブーン、ブーン、高く低く、いろいろな調子が集まって、世にも不思議な調和音をたてる。独楽回しの芸人はひとりではない。彼らは独楽で曲芸をする。独楽は空中でまわっている。彼らは木のラケットで羽子をつくように、独楽をはねあげる。やはり、独楽はまわっている。彼らは独楽をポケットの中に入れる。ポケットから出す。それでも、独楽はまわっている。最後に、いっせいに独楽を高くほうりあげる。独楽は空中で花のようにひらく。
この一座の軽業師たちの至芸にいたっては、ここに述べるまでもない。梯子乗り、棒乗り、玉乗り、樽乗りなど、いずれもすばらしい正確さで行なわれた。しかし、この興行で、もっとも見るべきものは、天狗連……驚嘆すべき軽業師たちの演技で、それはヨーロッパではまだ知られていないものであった。
これらの天狗連は、天狗神の直接の加護のもとにある特殊な団体をつくっている。彼らは中世紀の軍使のように両肩に一対の立派な翼を持っている。しかし、とくに彼らを特徴づけているのは、彼らが顔の上に飾っている長い鼻と、その鼻の使い方とである。それらの鼻は要するに竹であるが、長さは五、六フィート、ないし十フィート。真直ぐなのもあれば曲がったのもあり、なめらかなものもあれば、瘤《こぶ》だらけなのもある。あらゆる曲芸は、しっかりと結びつけられた、それらの鼻の上で演じられる。十二人ばかりの天狗連が舞台に仰向けに寝た。すると仲間の天狗連がやってきて、避雷針のように直立したそれらの鼻の上をはねまわった。あちらからこちらへ、こちらからあちらへ、飛びあがり、舞いあがる。まったく見事な離れ業である。
最後は前口上よろしくあって、いよいよ人間ピラミッドが演じられることになった。人間ピラミッドとは、五十人ばかりの天狗連がクリシュナ神の像をのせた山車《だし》を組み立てることである。しかし組み立てるには肩を使わず、バタルカー氏の軽業師たちは鼻だけ使う。ところで、山車の土台となる部分をつくる軽業師たちのひとりがたまたま退団したので、パスパルトゥーが選ばれて、その代りを勤めることになっていた。頑強で器用であればいいからである。
しかし、この誇り高き若者としては、その年少の日の悲しい思い出も手伝って、自分を哀れまずにはいられなかった。色さまざまな翼で飾られた中世紀の軍使の衣裳をまとい、顔の上に六フィートもある鼻をつけるなんて! しかし、この鼻をつければこそパンにありつけるのだ。しようがない、とあきらめた。
パスパルトゥーは舞台に出て、山車の土台となる部分をつくる仲間たちと並んだ。一同、仰向けに寝て鼻を立てた。すると軽業師の第二群が出てきて、それらの鼻の上に横たわった。つづいて第三群が……第四群が出てきて同じようにした。鼻の先だけで支えられて、やがて人間ピラミッドがそびえ立った。高さは天井に達するくらいだ。
割れるような拍手喝采とともにオーケストラが雷のように轟《とどろ》いた。とたんに人間ピラミッドがぐらりと揺れ、平均を失って、たちまちカードの城のように崩れてしまった。土台の部分をなす鼻の一つが欠けたのだ。
犯人はパスパルトゥーであった。彼は自分の持ち場を離れ、翼をつけたまま手すりを飛び越え、舞台に向かって右手の桟敷席によじ登ると、ひとりの観客の足もとにひれ伏して叫んだ。
「旦那さま! 旦那さま!」
「おまえか?」
「わたくしです」
「うん、よし! とにかく船へ行こう!」
フォッグ氏と、その連れのアウダ夫人と、パスパルトゥーとは、小屋の外へ出ようと通路を急いだ。しかし、そこにはバタルカー氏が立っていた。カンカンに怒っていた。人間ピラミッドを倒してしまいやがって、この損害はどうしてくれるんだ!
フィリアス・フォッグは、ひと握りの紙幣を投げつけるように与えた。バタルカー氏は機嫌をなおした。六時半……ちょうど出帆の時間だ、フォッグ氏とアウダ夫人とはアメリカの汽船に乗った。そのあとからパスパルトゥーは背中に翼をつけたまま……まだ顔からはずすひまのなかった六フィートの鼻をつけたまま、乗り込んだ。
二十四 太平洋横断航海を果たすこと
シャンハイを目のあたりにして、なにが起こったか、すでに読者の知られるとおりである。ヨコハマ行きの汽船はタンカディア号の信号に気がついた、船長は半旗を見ると、小さな船……タンカディア号のほうに針路を向けた。数分ののち、フィリアス・フォッグは約束の船賃として五百五十五ポンドを船長のジョン・バンスビイに払うと、アウダ夫人とフィックスとを伴って汽船へ乗り移った。汽船はすぐにナガサキとヨコハマとに向かって走りだした。
十一月十四日の朝、予定どおりフィリアス・フォッグはヨコハマに着いたので、フィックスにはしたいようにさせておいてカルナティック号にいってみた。そして、そこでフランス人のパスパルトゥーなる者がたしかに前日ヨコハマに着いたことを知った。アウダ夫人はたいそう喜んだ。フィリアス・フォッグも喜んだのにちがいなかったが、例によって顔にはあらわさなかった。
フィリアス・フォッグはその晩、すぐにサンフランシスコに立たなければならなかったので、すぐにパスパルトゥーを探しに出かけた。フランス領事館とイギリス領事館とにいって問い合わせたが、わからなかった。ヨコハマの町々を歩き回ったが、皆目《かいもく》行方は知れなかった。パスパルトゥーをみつけることはできないであろう、とあきらめかけた。
そのとき、ふと思いついてバタルカー氏の小屋にはいってみた。偶然、あるいは虫の知らせでもあったろうか? もちろん昔の軍使という異様ないでたちをした男が自分の従僕だとわかるはずはなかった。しかし従僕のほうは仰向けに寝たまま、桟敷席にいる主人に気がついた。鼻を動かさずにはいられなかった。ピラミッドがぐらりと揺れた。それから起こったことはすでに述べたとおりである。
さてパスパルトゥーは、アウダ夫人の口から、どういうふうにしてホンコンからヨコハマまできたかを聞いた。それから、フィックスをタンカディア号に乗せてやったことも聞いた。
フィックスという名を聞いたが、パスパルトゥーは素知らぬ顔をした。いまはまだ刑事とのあいだに起こったことを主人に知らせる時ではない、と思ったからだ。それどころかホンコンの阿片宿で阿片に昏睡《こんすい》してとんだことをした、とばかり話して、ひたすらあやまった。
フォッグ氏は冷然と聞いていた。返事もしなかった。金を渡して、これで適当な服装を船中でととのえるようにと言った。事実、一時間後にパスパルトゥーは翼も鼻もどこへやら、天狗連の一味であったことを思い出させる何物もつけていなかった。ふたたび忠実な従僕に返ったのだ。
ヨコハマ発サンフランシスコ行きの汽船は、太平洋郵船会社に属していて、グラント将軍号という名であった。二千五百トンの大きな外輪船で、設備、速力、ともにすぐれていた。巨大な槓桿《こうかん》が甲板の上で規則正しく上下していて、その槓桿の一端にはピストン棒が、他端には連結棒が継ぎ合わされていた。そして、その槓桿は直線運動を旋回運動に変え、外輪車の軸に直接作用していた。グラント将軍号は三本マストで、帆も大きかったので、風力も非常に蒸気力を助けた。一時間に十二マイルの速力で走るから、太平洋を横断するのに二十一日以上はかからないはずであった。それゆえフィリアス・フォッグは十二月二日にサンフランシスコに着き、十一日にニューヨークに着き、そしてロンドンに二十日に着き、すなわち約束の十二月二十一日にはまだ数時間を残す、と信じてもいいと思った。
乗客は多かった。イギリス人、とくにアメリカ人、アメリカへ移住する苦力《クーリー》たち。それからインド軍の将校たちもいくらかいた。彼らは休暇を利用して世界一周を楽しんでいるのだ。
航海中、船にはなんの事故も起こらなかった。大きな外輪と強い帆の力によって、ほとんど揺れなかった。太平洋は、その名にそむかず穏やかであった。フォッグ氏もそれに劣らず落ち着いていた。例によって、ほとんどしゃべらなかった。若い女性の同伴者はますます彼に惹かれた。それは感謝の情とはまた別なものであった。無口で、しかも内に暖いものを蔵しているその天性に、彼女はわれともなく感動し、そして、ますますその感動に身をまかせていった。しかし、この謎の人物、フォッグは、そのことにはまったく心を動かさないようにみえた。
そのうえアウダ夫人は、この紳士の今回の計画に異常な関心を寄せていた。旅行を失敗に終らせるような不測な事態が起こらないかと心配していた。彼女はしばしばパスパルトゥーと話した。パスパルトゥーといえども彼女の言葉から、その言外の意味をじゅうぶん察することができた。この朴訥《ぼくとつ》な若者は、いまや主人に徹頭徹尾心服していた。フィリアス・フォッグの誠実、寛容、献身、パスパルトゥーは、いくら褒《ほ》めても褒めつくせなかった。それから彼はアウダ夫人に、こんどの旅行の結末については、けっして心配しないようにと繰り返して話した。もっとも困難なことは克服した。シナやニッポンのような得体《えたい》の知れぬ国からは脱出した。これからは一路文明世界に戻って行く。そして、サンフランシスコからニューヨークまでの汽車と、ニューヨークからロンドンまでの大西洋横断汽船とは、もちろん、この不可能な世界一周を約束された期間内に完成させるのにちがいないのである。
ヨコハマを出帆して九日後、フィリアス・フォッグは正確に地球を半周した。
というのは、グラント将軍号は十一月二十三日、東経百八十度を通過したからである。こことは地球上正反対の地点にロンドンがある。世界を八十日で一周する予定だったのに、フォッグ氏はすでに五十二日を使ってしまったので、あますところわずかに二十八日しかないわけであった。しかし、ここで注意しなければならないのは、いまはまだ半周といっても、それは経度の上でのことで、実際には全行程の三分の二を達成したのであった。ロンドンからアデンへ、アデンからボンベイへ、カルカッタからシンガポールへ、シンガポールからヨコハマへと、まったく回り道をしたものだ! ロンドンから北緯五十度の線に沿って地球を一周すれば、その拒離は一万二千マイルにすぎないが、フィリアス・フォッグは移動の方法の曲折によって、いやおうなく二万六千マイルを通過しなければならない。しかし、そのうちすでに約一万七千五百マイルを、きょう十一月二十三日、通過したのだ。これからは直線で、しかもフィックスがいないので、このうえ妨害を加えられることはないのである。
パスパルトゥーも、きょう十一月二十三日、大きな喜びを味わった。読者は記憶されているであろうが、この頑固者は先祖伝来のいわく付きの時計をロンドンの時間に合わせ、そして通過した国々の時間はみな間違っていると思い込んでいた。ところが、きょう彼の時計は進めもせず遅らせもしないのに船のクロノメーターにきっちり合っていたのである。
パスパルトゥーの得意さは、おして知るべきであろう。もしフィックスがこの場にいたら、なんと言うか、聞いてやりたかった。
(やつは、やれ子午線《しごせん》がどうの、太陽がどうの、月がどうのと、さんざん吹きゃあがった!)とパスパルトゥーは思った。(ふん! あんなやつらの言うことなんか真に受けたら、さぞいい時計ができるだろう!おれは、いつか太陽が、おれの時計に合うと信じてたんだ!)
これはパスパルトゥーが次のことを知らなかったからだ。もし彼の時計の文字板がイタリアの大時計のように二十四時間に分かれていたら、こんなに得意にはなれなかったろう。なぜなら船中で彼の時計が午前九時のとき、その針は実際には午後九時を、つまり零時から二十一時間目をさしているのにちがいなかった。そして、この差は、ロンドンと現在の東経百八十度とのあいだにある差とまったく同じなのである。
しかし、もしフィックスが、この純粋に物理的な現象を説明できたとしても、おそらくパスパルトゥーは頭ではわかっても、けっして「うん」とは言わなかったであろう。
ところで、そんなことはともかく、もし万一にも刑事がこの船中でふいに姿を現わしたとしたら、パスパルトゥーは当然恨みをはらすために、まったく別な問題について、まったく別の方法によって刑事と対決するのにちがいなかった。
さて、いまフィックスはどこにいるのだろう?
フィックスは、まさしくグラント将軍号に乗っていた。
刑事はヨコハマに着くと、フォッグ氏から離れた。その日のうちに、また会えると思ったからだ。彼はすぐイギリス領事館へいった。そこでついに待望の逮捕状を手に入れた。逮捕状はボンベイ以来、彼を追っていたもので、日付はすでに四十日を経過していた。それはホンコンから例のカルナティック号で送られてきたものにちがいないと彼は思った。カルナティック号、それこそ彼が乗るはずになっていた船だ。……刑事はどんなにがっかりしたことだろう! 逮捕状は無駄になったのだ! フォッグめはイギリスの領土から出てしまった! いまとなっては、やつを逮捕するには犯人引き渡しの手続きが必要であった!
(まあまあ!)と、フィックスは思った。しだいに怒りがしずまったのだ。(逮捕状はここでは役にたたないが、いずれイギリスへ帰れば物を言う。あの悪党は警察の目をごまかしたと思っているらしい。どうやら本国へ帰る気配だ。よし、最後までつけてやるぞ! ところで、やつの金だが、なるべくたくさん残っていればいいが! しかし、やつも旅費や賞金や訴訟費用や科料や象の購入費や、その他もろもろで五千ポンド以上を使ってしまった。が、まあいいや。イングランド銀行は大金持ちだ!)
こう決心すると、彼はすぐにグラント将軍号に乗り込んだ。甲板にいると、フォッグ氏とアウダ夫人とが乗ってきた。フィックスはびっくり仰天した。パスパルトゥーがいっしょじゃないか! しかも昔の軍使のような変な服装をしているじゃないか! フィックスは素早く船室に隠れた。いくら弁解をしたところで、ひどい目に会うだろう、そんなことは避けたかったのだ。……さいわい乗客が多いので、敵には見つからないだろう、と高をくくっていた。ところが、どっこい、きょう、船首で、ばったり会ってしまった!
パスパルトゥーは、いきなりフィックスの首っ玉を取っつかまえた。そばにいたアメリカ人たちは大いに面白がって、たちまち若者のほうに賭けた。勢いに乗ったパスパルトゥーは有無を言わせず、ぽかぽかと殴りつけた。哀れな刑事はフランスの拳闘術のほうがイギリスの拳闘術よりも、はるかにまさっていることを身をもって証明する羽目《はめ》になった。
パスパルトゥーは殴るのをやめた。気が晴れ、前よりも、かえって落ち着いた気分になった。フィックスは見るも無残な恰好で立ちあがると、相手を見ながら、ぶっきらぼうに言った。
「これで気がすんだか?」
「まあ、きょうのところはね」
「じゃあ、きみに話があるんだ」
「なにを?」
「きみの主人のことだよ」
パスパルトゥーは、刑事がいやに冷静なのに先手を取られたような気持ちになって、その言うなりについていき、船首のほうに並んで腰をおろした。
「きみはおれを殴ったね」と、フィックスは言った。「まあ、いいだろう。たぶん、そうくると思っていた。ところで、こんどはおれの言うことを聞いてくれ。いままでおれはフォッグ氏の敵だった。しかし、これからは仲間だよ」
「とうとう、きみも!」と、パスパルトゥーは叫んだ。「フォッグ氏が紳士であることを認めたのかい?」
「おかど違いだ」と、フィックスは冷たく言った。「おれはいまでもやつを悪党だと思っている。……おい! 動くな。おれの言うことを聞け。やつがイギリス領にいるあいだは、おれは逮捕状を待って、なんとしてでも、やつを引き留めようとした。そのためあらゆる手を打った。ボンベイの坊主どもをたきつけた。きみをホンコンで麻酔にかけた。主人から引き離した。主人がヨコハマ行きの汽船に乗りおくれるようにした……」
パスパルトゥーは拳を握りしめながら聞いていた。
「ところで、いま、フォッグ氏はイギリスへ帰ろうとしているらしい。ご勝手だ。とにかく、おれはやつをつけていく。ただし、これからはやつの旅行の邪魔はしない。いままでは、これでもか、これでもかというように邪魔をしたが、これからはできるだけ邪魔しないように気をつける。つまり、ぼくはやつの仲間になった。そのほうが、ぼくの利益だからだ。……ついでに言うが、ぼくの利益はまたきみの利益だ。やつが無事に旅行を終えてイギリスへ帰れば、きみだって自分が悪党の子分だったか、それとも立派な紳士の忠実な召し使いだったか、わかろうというものだからね!」
パスパルトゥーは熱心にフィックスの言うことを聞いていた。フィックスが正直に話していることはよくわかった。
「友だちになってくれないか?」と、フィックスがたずねた。
「友だち? そいつは願い下げだ」と、パスパルトゥーは答えた。「同盟、そうだ同盟ならいい。ただし条件つきだ。すこしでも裏切るそぶりを見せたら、すぐに首っ玉を絞めあげるぞ!」
「わかった」と、刑事は穏やかに言った。
十一日後、十二月三日、グラント将軍号は金門海峡を通ってサンフランシスコに着いた。
フォッグ氏は、まだ一日も得をしなかった。さりとて、まだ一日も損をしなかったわけである。
二十五 政治的集会の日にサンフランシスコを瞥見すること
フィリアス・フォッグ、アウダ夫人、パスパルトゥーがアメリカ大陸に一歩を印したのは、午前七時であった。アメリカ大陸……もし、彼らが下船した浮き桟橋をそう呼べば、である。この浮き桟橋は潮の干満によって沈み、また浮くから、船の荷積み、荷おろしに便利である。そこには、あらゆる国籍の大小さまざまな船が錨《いかり》をおろす。サクラメント川とその支流とを上下する、あの甲板が幾層にもなった蒸気船も、そこに錨をおろす。そこにはまたメキシコ、ペルー、チリ、ブラジル、ヨーロッパ、アジア、および太平洋の諸島に輸出される産物が山のごとく積まれている。
パスパルトゥーは、ついにアメリカに着いた喜びのあまり、船から降りるのに、とんぼ返りをして大いにいいところを見せたいと思った。ところが桟橋に飛び降りると、板が腐っていたので、危うく板をぶち抜きそうになった。新大陸への第一歩にこのざまだ。彼はあわてた。大きな叫び声をあげた。この浮き桟橋を住処としている無数の鵜《う》やペリカンがパッと飛び立った。
フォッグ氏は上陸すると、すぐ、ニューヨーク行きのいちばん早い汽車の出発時間を問い合わせた。午後六時ということであった。それゆえフォッグ氏は、まる一日、ここカリフォルニア州の首都で過ごせることになった。馬車を雇って、アウダ夫人といっしょに乗った。パスパルトゥーは御者台に乗った。馬車は三ドルの約束でインターナショナル・ホテルに向かった。
パスパルトゥーは高い御者台から珍しそうにアメリカの大都市を眺めた。広い往来、低い家々の平らな連なり、アングロ・サクソン式ゴシック建築の教会や礼拝堂、巨大なドック、大邸宅のような倉庫……倉庫は木造のもあれば煉瓦建てのもある。往来には馬車、乗り合い馬車、電車など、おびただしい乗物。歩道には人が溢《あふ》れている。アメリカ人やヨーロッパ人ばかりでなく、シナ人やインド人……要するに二十万人の人口を構成している人たちである。
パスパルトゥーはびっくりして、その光景を眺めた。彼は一八四九年の伝説的な町を、そこに見るだろう、とひそかに思っていた。金鉱発見のため殺到してきた盗賊と放火者と暗殺者との町。片手にピストル、片手に短刀、砂金を賭ける落伍者たちの一大|塵芥《ごみ》捨て場。しかし「よき時代」はすでに去っていた。……いまやサンフランシスコは大商業都市の様相を呈していた。見張り人のいる市役所の高い塔は、直角に交わる町や通りの全景を見渡し、それらの町や通りのあいだには緑の小公園が点々とのぞまれた。シナ人町は、さながら玩具箱《おもちゃばこ》に入れられてシナ帝国からそっくりそのまま持ってこられたように見える。……カウボーイのつば広のフェルト帽、砂金亡者の赤シャツ、インディアンの頭の羽は、ともに見えない。見えるのは行き交う紳士たちのシルクハットと燕尾服とで、それらの紳士たちは天性、貪欲《どんよく》なまでの活動力を持っている。通りの中でも、とくにモンゴメリー街は……ロンドンならリージェント街、パリならイタリア並木通り……両側に立派な店が並んでいて、世界じゅうのあらゆる商品が陳列されている。
パスパルトゥーはインターナショナル・ホテルに着いたとき、イギリスを離れて外国へきているような気はしなかった。
ホテルの一階には大きなバーがあって、それはすべての通行人たちが無料で通り抜けられる駅や列車の食堂のようなものであった。干し肉、牡蛎《かき》のスープ、クラッカー、チェシャーチーズは客が勝手に取るにまかせてある。客はビールであろうとポートワインであろうとシェリー酒であろうと、ただ飲み物の代を払えばいいのである。このことはパスパルトゥーには、いかにもアメリカ的に思えた。
ホテルの食堂は快適であった。フォッグ氏とアウダ夫人とは食卓についた。リリパット人の皿がふんだんに並び、美しく黒光りする黒人たちが給仕した。朝食をすますと、フィリアス・フォッグはアウダ夫人といっしょにホテルを出た。イギリス領事館へいって旅券に査証をしてもらうためだ。歩道でパスパルトゥーに会った。パスパルトゥーは大平洋鉄道に乗る前に、用心のためエンフィールド銃やコルト式自動拳銃を二、三ダース買っておくほうがよくはないか、と言った。スー族やポーニー族がスペインの山賊さながら汽車を襲うことがある、と聞いたからだ。フォッグ氏は、無駄な用心だ、しかし、しいてそうしたいなら、してもいい、と答えた。そして領事館へ歩いていった。
二百歩も歩かないうちに……類《たぐい》まれな偶然だ……ぱったりフィックスに出会った。刑事はひどく驚いた振りをして見せた。なんということだ! フォッグ氏とフィックスとは、いっしょに太平洋を横断したが、船中では顔を合わさなかったのだ! フィックスはフォッグ氏に、その節はいろいろお世話になりました、またお目にかかれて光栄です、用事ができてヨーロッパへ帰ることになりましたが、またもやお供ができて、かえすがえすありがたい仕合わせです、と言わずにはいられなかった。
フォッグ氏も、お目にかかれて光栄です、と答えた。フィックスは、いつもこの男から目を離してはいけないと思っているので、サンフランシスコご見物ならお供をしたい、と頼んだ。どうぞ、とフォッグは答えた。
アウダ夫人、フィリアス・フォッグ、フィックスの三人は連れ立って町から町へと歩いた。モンゴメリー街にきた。人出でごった返していた。民衆は、馬車や乗り合い馬車がたえず行き交っているのにもかかわらず、歩道、車道、電車の軌道の上、さらには立ち並んだ店々のショーウインドーの前から屋根の上にまで群がっていた。プラカードを持った男たちが人々を掻き分けて歩き回っていた。旗がなびき、のぼりが揺れた。あらゆるところで叫び声が爆発していた。
「フレー、ブレー、カマーフィールド!」
「フレー、フレー、マンディボーイ!」
政治的集会、それがすくなくともフィックスの意見で、彼はフォッグ氏にそう言うと、付け加えた。
「混雑に巻き込まれないようにしましょう。殴られるのは真っ平ですからね」
「まったく」と、フィリアス・フォッグが答えた。「政治的な挙骨《げんこつ》でも、拳骨は拳骨ですからね!」
面白い言い方だ、とにかく微笑しておこう、とフィックスは思った。彼とアウダ夫人とフィリアス・フォッグとは、雑踏に巻き込まれずに見物するために、台地に通じる段々の上のほうに陣どった。そこからはモンゴメリー街が見おろせた。モンゴメリー街の向こう側、石炭商の倉庫と石油商の店舗とのあだに露天の広場があった。その広場に向かって人波が押し寄せているようであった。
ところで、これはどういう理由の集会であろう? どういう目的の集会であろう? フィリアス・フォッグには、まったくわからなかった。高級の武官や文官、または 州知事、 または 国会議員の選挙ででもあろうか? 市民の異常な興奮や熱烈な関心が、そういうことを推測させた。
このとき、群集の中に大きな動揺が起こった。すべての手があげられた。いくつかの手は固く拳を握りしめ、喚声《かんせい》の中で急速に振りあげられ、また打ちおろされたようであった。あきらかに一票を投じようとする力強い動作のように思われた。群集は渦を巻いて逆に流れてきた。旗が揺れ動き、しばらくのあいだ見えなくなったと思うと、ずたずたになって、また現われた。人波は台地に通じる段々の下まで押し寄せてきた。あらゆる頭が、まるで海が突風で波だつように揺れ動いた。黒い帽子の大部分は見る見るうちに遠ざかり、低くなってしまったように見えた。
「たしかに、なにかの集会ですね」と、フィックスは言った。「きっと重大問題でしょう。いったん話のついたアラバマ号事件が、また揉《も》めだしたのかもしれませんね」
「そうかもしれません」と、フォッグ氏は簡単に答えた。
「いずれにしても」と、フィックスはつづけた。「ふたりの候補者が……カマーフィールド氏とマンディボーイ氏が顔を合わせているのにちがいありません」
アウダ夫人はフィリアス・フォッグの腕にすがり、びっくりして、この騒ぎを眺めていた。フィックスは近くに立っている人のところに行って、この騒ぎの原因をたずねた。そのとき群集の動揺が、さらに激しくなった。罵声《ばせい》のまじった喚声が一段と高まった。旗竿《はたざお》は武器に変わった。手は消え、いたるところで拳骨が振りあげられた。停まっていた馬車や乗り合い馬車の上でも殴り合いが始まった。あらゆるものが投げられた。長靴や短靴が空中で飛び交った。群集の叫び声の中には数発のピストルの音さえまじったように思われた。
群集は段々に近づき、下の数段をのぼってきた。というよりは押しあげられてきた。単なる見物人にはマンディボーイ派とカマーフィールド派と、どちらが優勢なのかわからなかったが、どちらかが押しまくられていることは明らかであった。
「引き上げたほうがよさそうです」と、フィックスが言った。彼は自分の手中にある「犯人」が殴られたり、めんどうなことに巻き込まれることは望まなかった。彼はつづけた。「もし、これがイギリスに関する問題で、しかも、われわれがイギリス人だとわかったら、騒ぎに巻き込まれて、ひどい目に会うでしょう」
「イギリス国民たるものが……」と、フィリアス・フォッグが言いかけたとたん、彼の後方、段々の上にある台地から、すさまじい喚声が聞こえてきた。
「万歳! 万歳! マンディボーイ万歳!」
マンディボーイ支持派がカマーフィールド派の側面を衝《つ》いて、救援に駆けつけたのだ。
フォッグ氏とアウダ夫人とフィックスとは、上からも下からも火の手に囲まれてしまったわけだ。逃げようとしても、もはや遅かった。手に手に鉛《なまり》を仕込んだ杖や棍棒《こんぼう》を持った群集には抵抗すべくもなかった。フィリアス・フォッグとフィックスとは若い婦人を護ろうとして、めちゃくちゃに押しまくられた。フォッグ氏は、こんな場合でも落ち着き払って、自然があらゆるイギリス人に防御のために与えた天然の武器……拳骨を振るったが、かなわなかった。突然、赤髭《あかひげ》赤面の、肩幅の広い、一団の頭分らしい大男が、フォッグ氏めがけて鉄拳を振りあげた。あわやフォッグ氏は打ちのめされそうになった。とたんにフィックスがフォッグ氏の前に飛び出した。犠牲的精神だ。刑事のシルクハットはペチャンコになり、その下には、みるみる大きなこぶがふくれあがった。
「ヤンキーめ!」と、フォッグ氏は言うと、さも軽蔑にたえない、という目で相手を見た。
「イギリス人め!」と、相手は叫んだ。
「もう一度、お目にかかりましょう!」
「いつでも、きさまのいいときに! 名は、なんという?」
「フィリアス・フォッグ。あなたの名は?」
「スタンプ・プロクター大佐」
そこで一団は引きあげて行った。フィックスは、その場に倒れていた。しかし、ひどい怪我はしていなかった。ひとりで起きあがった。彼の旅行外套は二つに、不揃いに引き裂かれていた。彼のズボンは、ある種のインディアンが……それが流行で、裾《すそ》をまくりあげて穿《は》く、あの半ズボンそっくりになっていた。しかし結局、アウダ夫人は難をまぬがれた。ただフィックスだけが鉄拳を見舞われたのだ。
群集の外に抜け出すやいなや、
「ありがとう」と、フォッグ氏は刑事に言った。
「とんでもないことです」と、フィックスは答えた。「でも、いっしょに行ってくださいますか?」
「どこへです?」
「既製服を売っている店にです」
既製服を売っている店へ行くことは、まったく時宜《じぎ》に適していた。フィリアス・フォッグとフィックスとの服は、ずたずたになっていた。まるでこのふたりの紳士が、片やカマーフィールド氏のために、片やマンディボーイ氏のために、殴り合ったかのようであった。
一時間後、彼らは服も帽子もきちんと整えていた。アウダ夫人といっしょにインターナショナル・ホテルへ帰ってきた。
パスパルトゥーは主人の帰りを待っていた。六連発の拳銃を半ダース、手に入れていた。彼は主人がフィックスと連れ立って帰ってきたのを見ると、額をくもらせた。しかし、アウダ夫人が手短かに先ほどの事件を話して聞かせると、晴ればれした顔になった。たしかにフィックスは、もはや敵ではない。味方だ。約束を実行したのだ。
晩餐後、旅客と荷物とを駅まで運ぶために馬車が呼ばれた。馬車に乗るとき、フォッグ氏はフィックスに言った。
「あれから、プロクター大佐を見かけませんでしたか?」
「見かけませんでした」と、フィックスが答えた。
「あの男に会うために、わたしはまたアメリカへくるつもりです」と、フィリアス・フォッグは、いつもの冷静な口調で言った。「イギリス国民たるものが、あんな扱いを受けるとは! 許せません」
刑事は微笑しただけで、なにも答えなかった。しかし、さすがにフォッグ氏は、イギリス人たちのひとりだと思った。本国ではイギリス人たちは決闘することに徹底的に反対する。しかし、外国では、名誉を守るためには、いつでも決闘を辞さないのである。
六時十五分前、一同は駅に着いた。汽車は間もなく出発するところであった。フォッグ氏は汽車に乗ろうとしたが、ふと駅員を呼びとめてたずねた。
「きょう、サンフランシスコでは、なにか騒ぎがあったのですか?」
「集会がありました」と、駅員は答えた。「しかし、町はずいぶん賑やかなようでしたが?」
「選挙の集会があっただけです」
「大統領の選挙ですか?」
「いや、治安判事の選挙です」
この答えを聞くと、フィリアス・フォッグは車室に席を占めた。汽車は全速力で出発した。
二十六 フィリアス・フォッグとその連れたちとが太平洋急行で旅行すること
「大洋から大洋へ」と、アメリカ人は言う。この言葉はアメリカ合衆国のもっとも幅広い部分を横断する大幹線の一般的な名称である。しかし実際には、このパシフィック鉄道は二つの部に分かれている。サンフランシスコ〜オグデン間のセントラル・パシフィック、およびオグデン〜オマハ間のユニオン・パシフィックである。オマハからは五つの線が出ていて、それらによってオマハ〜ニューヨーク間の交通は頻繁《ひんぱん》に行なわれている。
それゆえ現在のところ、サンフランシスコ〜ニューヨーク間は切れ目のない一本の線路によってつながれていて、その全長は三千七百八十六マイルを下らない。太平洋岸からオマハに至る鉄道の沿線には、いまなおインディアンや野獣が出没する。この広大な地域は、モルモン教徒がイリノイ州を追われてから、一八四五年ころ、初めて植民した土地である。
かつてはニューヨークからサンフランシスコへ行くには、もっとも好条件にめぐまれても六か月を要した。ところが、いまは七日で行ける。
一八六二年、南部選出の議員たちが、もっと南のほうへ敷こうとして反対したのにもかかわらず、この鉄道は緯度四十一度と四十二度とのあいだに敷かれることに決定した。それを決定したのは、あの永久に愛惜されるリンカーン大統領で、彼はネブラスカ州オマハを新線路網の起点とした。工事はただちに開始された。それはアメリカ流の積極さで……書類、書類のお役所風ではなく、活発に進められた。人力による突貫工事は線路の完全な敷設に、なんらの欠点も及ぼさなかった。平原では一日一マイル半の割で工事が進んだ。機関車は前日造ったレールを走って明日造るレールを運び、こうして次々に新しく敷かれたレールを走った。
パシフィック鉄道は、アイオワ、カンザス、コロラド、オレゴンの諸州において、いくつかの分岐点を持っている。本線はオマハを出るとプラット川の左岸に沿って北プラット川が湖水に注ぐあたりまで行き、それから南プラット川に沿ってララミー地方とウォサッチ山脈とを横切り、グレートソルト湖畔を回り、モルモン教徒の本拠地ソルト・レーク・シティーに着く。さらにチェイラ渓谷にはいり、砂漠にそって走った後、シーダー山地、ハンボルト、ハンボルト川、シエラネバダ山脈に沿い、サクラメントを経て太平洋岸に下る。ロッキー山脈を越えるときでも線路の勾配は一マイル平均百十二フィート以上ではない。
以上が、汽車が一週間に走る長い幹線で、それによってフィリアス・フォッグは遅くも十一日、ニューヨークで、商船リヴァプール号に間に合うはずであった。
フィリアス・フォッグの乗った客車は、四つの車輪が二列に並んだ上にのった長い乗り合い馬車の車体のようなもので、その可動性は急力ーブに耐えることができた。内部は、座席が区切られていなかった。二列の座席が向かい合い、そして、それらの座席は車軸に対して垂直になっていた。座席と座席とのあいだには通路があり、その通路は、どの客車にもある化粧室その他に通じていた。列車の全長にわたって、各客車にはデッキがあり、それらのデッキは、たがいに連結しているので、それらを渡れば旅客たちは列車の端から端まで行くことができた。サロン車、展望車、食堂車、喫茶車があった。ないのは劇場車だけであったが、これも将来は取り付けられるのにちがいなかった。
デッキを通って、たえず各客車の中を物売りが歩いていた。本、新聞、飲み物、食べ物、タバコ。お客は多く、商売は繁盛していた。
オークランド駅を発車したのは午後六時。すでに夜であった。寒い暗い夜であった。空は雲にとざされ、雪が降ってきそうであった。汽車はあまり速くは走らなかった。ときどき停車する時間も含めると、時速二十マイルぐらいであった。しかし、時刻表に従って合衆国を横断するには、ちょうど適当な速度であった。
フィリアス・フォッグの乗っている客車の中では、旅客たちはみなあまり話さなかった。ばかりでなく、まもなく眠くなった。パスパルトゥーは偶然、刑事と隣り合って腰かけていたが、彼も刑事に話しかけなかった。このあいだの事件以来、彼らの関係は目に見えて冷たくなっていた。共感もなければ親密感もなかった。フィックスの態度は以前とまったく変わらなかったが、パスパルトゥーのほうは非常に注意ぶかくなり、すこしでも疑わしい点が見えたら首を絞めてやろうと待ちかまえていた。
発車一時間後、雪が降りだしたが、幸いにも小雪で、汽車を遅らせるほどのものではなかった。窓から見えるのは白一色。その上を灰色に、機関車の煙が渦巻き、ひろがって行った。
八時、列車ボーイがはいってきて、就寝時間が鳴ったことを告げた。この客車は寝台車であった。数分にして共同寝室になった。座席の背がうしろに倒され、きちんと覆《おお》いをかけられた簡易寝台が巧みな工夫でひろげられ、客車は寝室に早変わりした。おのおのの旅客は自分専用の快適な寝台を持ち、その寝台には不遠慮な目を避けるため厚いカーテンが垂らされた。シーツは白く、枕は柔らかかった。もはや横になって眠るほかなかった。さながら汽船の船室にいるような快適さであった。……その間、汽車はカリフォルニア州を疾走していた。
サンフランシスコとサクラメントとのあいだは土地が非常に平坦であった。セントラル・パシフィックと呼ばれるこの部分の鉄道は、最初、サクラメントを起点として敷設され、東に進んだ。オマハを起点として逆に敷設されてくる鉄道に出合うためであった。……サンフランシスコからカリフォルニア州の州都サクラメントまでは、汽車はサンパブロ湾に注ぐアメリカ川に沿って一路北東に走った。これら二つの主要都市間の距離は一日二十マイル。汽車は六時間で走るので、真夜中ごろ、旅客たちがぐっすり眠っているあいだにサクラメントを通過した。それゆえ旅客たちは、この州都の立派な停車場も、広い街路も、すばらしいホテルも、公園も、教会も、なに一つ見なかった。
サクラメントを出発した汽車はローチン、オーバーン、コルファックスの各駅を経てシエラネバダ山脈に分け入った。シスコ駅を通過したのは午前七時であった。一時間後、共同寝室はまた普通の客車になり、旅客たちは窓ガラスごしに、この山国の美しい風景を次々に見ることができた。線路はシエラ山の目まぐるしい山形に従って走り、あるときは山腹に寄り添い、あるときは断崖の上にかかり、鋭い突端を急力ーブをえがいて避けながら、見たところでは、どこにも出口のないような狭い渓谷へと下っている。機関車は聖遺物《せいいぶつ》箱のように光り輝き、その大きなヘッドライトは黄色い光を投げ、その銀色の鐘の汽笛と、拍車のように突き出た排障器の咆哮《ほうこう》とは渓流や瀑布《ばくふ》の音とまじり合い、その煙は樅の木の暗い茂みにまつわりついた。
この路線にはトンネルも鉄橋もほとんどなかった。最短距離を行くために直線コースをとるようなことはなく、どこまでも自然にさからわず、山から山を回って行った。
九時頃、汽車はカーソン川に沿ってネバダ州にはいり、相変わらず北東に進んで正午ごろリノに着いた。リノで旅客たちは二十分の朝食時間を持った。
リノ駅を発車すると、汽車はハンボルト川に沿って進み、やがて川に沿って数マイル北に登り、それから東に転じて川のすぐふちを走り、ついにハンボルト山脈に達した。川はこの山脈から流れ出ていて、山脈はネバダ州の北境に近い。朝食をすますと、フォッグ氏やアウダ夫人の一行は、ふたたび客車に戻った。フィリアス・フォッグ、若い婦人、フィックス、パスパルトゥーは楽々と座席に腰をおろして、窓外の過ぎ行くさまざまな風景を眺めた。どこまでもつづく広い草原、地平線にそびえる山々、水の逆巻き泡だつ急流また急流。ときどき野牛の大群が遠くに見えた。それは生きている堤防のようであった。これら無数の反芻《はんすう》動物の大軍は、しばしば汽車の通過に対して打ち勝ちがたい障害となる。これらの動物が何千頭もぎっしり隊を組んで数時間、汽車の線路を横切ることがある。すると、汽車は線路が通れるまで待たなければならない。
事実、このようなことが起こった。午後三時ごろ、一万頭から一万二千頭におよぶ野牛の群れが、線路をさえぎった。機関車は速力をゆるめたあとで、巨大な縦隊の横腹めがけて、拍車に似たその排障器を突っ込もうとした。しかし、大群に対しては歯が立たなかった。機関車は停まった。
これらの反芻動物たちは……アメリカ人は彼らをバッファローと呼ぶが、この呼び方は適当ではない……ゆっくり歩きながら、ときどき恐ろしい吠え声をあげた。ヨーロッパの牡牛より大きく、足と尾とは短く、背中は瘤《こぶ》のように盛りあがり、角と角とは広く隔たって生え、頭や首や肩は長いふさふさした毛でおおわれている。
この移動をとめることは、だれにもできないことであった。野牛たちが、いったん方向をきめて歩きだすと、地上の何物もその進路をはばんだり、変えたりすることはできなかった。彼らの列は、どんな堤防も防ぐことのできない生きた肉の流れであった。
旅客たちは、それぞれの客車のデッキに立って、この珍しい光景を眺めた。フィリアス・フォッグは……ほんとうは旅客たちの中でもっとも急いでいるのは彼であったが……座席に腰かけて、いずれ野牛の群れが線路を渡りきってしまうのを落ち着き払って待っていた。パスパルトゥーは、動物どもの塊《かたまり》が汽車を停めてしまったことを、おおいに憤慨していた。できることなら、やつらに向かって拳銃を撃ちまくってやりたかった。
「なんという国だ!」と彼は自分に向かって叫んだ。「たかが牛どもで汽車が停まるなんて! しかも、やつらときたら列を組んで悠々と歩いていやあがる、汽車が停まったことなんか、どこ吹く風で! いったいフォッグ氏は、こんな故障を予定して旅程表を組んでいるのだろうか! それに機関士も機関士だ! なぜ、やつらの塊に機関車を突っ込ませていかないんだ!」
機関士は邪魔物を引っ繰り返そうなどとはしなかった。慎重に行動した。排障器で最初の数頭は跳《は》ねとばすことができるかもしれなかった。しかし、機関車がいくら強力でも、すぐ脱線してしまうだろう。そうなれば汽車は動けなくなり、それこそ取り返しのつかないことになるだろう。
結局、辛抱強く待っていて、それから汽車の速力を増して失った時間を取り戻すほかはなかった。野牛の行列は、たっぷり三時間かかったが、まだ、えんえんとつづいていた。夜が近づいた。それでもまだ……行列の最初の部分は南の地平線に消えてしまっていたが……最後の部分は線路を横切っていた。
午後八時、汽車はハンボルト山脈の隘路《あいろ》を抜けた。九時半、ユタ州にはいった。ユタ州の、グレートソルト湖とモルモン教徒の根拠地とのある地方へはいったのである。
二十七 パスパルトゥーが一時間二十マイルの速力で運ばれながらモルモン教の由来を聴かされること
十二月五日の夜から六日の朝にかけて、汽車はまず南東に約五十マイル走り、さらに北東に同じくらい走り、グレートソルト湖に近づきつつあった。
九時ごろ、パスパルトゥーは新しい空気を吸うためデッキに出た。寒かった。霧が立ちこめ、しかし雪は止んでいた。霧の中の太陽は大きな金貨に見えた。何ポンドぐらいの金貨だろう、とパスパルトゥーは下らないことを、さも大事なことのように一心に考えていた。そこへ奇妙な人物が現われた。パスパルトゥーは我に返った。
エルコ駅から乗り込んできた男であった。背が高く、色黒く、黒い口髭《くちひげ》、黒い靴下、黒いシルクハット、黒いチョッキ、黒いズボン、白いネクタイ、犬の皮の手袋……一見、宣教師風であった。列車の端から端まで歩いて行き、各客車のドアに、手で書いた|びら《ヽヽ》を糊《のり》で張りつけた。
パスパルトゥーは、自分の客車のドアに張りつけられた|びら《ヽヽ》に近づいて読んだ。
「モルモン教宣教師、長老ウィリアム・ヒッチ師は、本日、四十八号列車に乗り合わせるを機会に、午前十一時より正午まで、百十七号車において、モルモン教について講義する。モルモン教の奥義《おうぎ》を学ばんとする諸君は、よろしく来聴されたし」
「よし、行こう」と、パスパルトゥーはつぶやいた。モルモン教については、彼は実際には何も知らなかった。ただモルモン教徒の社会では一夫多妻の習慣がその根底をなしている、ということを知っているくらいであった。
この通知は、たちまち列車じゅうに伝わった。列車の乗客は全部で百人ぐらいであったが、そのなかの三十人たらずが講義を聴こうとして、十一時が近づくと、百十七号車に集まってきて座席を占めた。
パスパルトゥーは、聴講者の最前列の座席に腰かけた。しかし、彼の主人もフィックスもわざわざ出かけて行くような面倒くさいことはしなかった。
定刻になると、長老ウィリアム・ヒッチ師は立ちあがった。最初から反駁《はんばく》を予想した喧嘩腰の口調で叫んだ。
「予はあえて諸君に告げる。ジョセフ・スミスは殉教者であり、その兄弟のハイラムも殉教者であり、かかる預言者たちに対する合衆国の迫害は、ついにはブリガム・ヤングをもひとしく殉教者にするであろう、と。それに対して、だれが反抗するであろうか?」
聴衆中、だれひとりとして宣教師に反駁する者はなかった。彼は天性おだやかな表情の持ち主らしかったが、それと対照的に、その口調は激越をきわめていた。おそらく彼の怒りは、モルモン教が目下、厳しい試練のもとに立たされているからであろう。事実、合衆国政府は、さんざん手を焼いたあとで、これら独立|不羈《ふき》の狂信者たちを、ようやく服従させた。政府はブリガム・ヤングを反逆と一夫多妻との罪名のもとに投獄したあとでユタ州を統治し、国法に従わせた。以来、預言者の弟子たちは努力を倍加し、時節を待ちながら言論をもって国会の要求に反抗していた。
長老ウィリアム・ヒッチ師が汽車の中でまで改宗勧誘の演説をするのは、こういう事情によるのである。
彼はいよいよ大声で、いよいよ激しい身振りで、情熱的に、聖書の時代からのモルモン教の歴史を説き始めた。
「いかにしてイスラエルで、ヨセフと同じ部族に属するモルモン教の一預言者が新しい宗教の記録を著わし、そして、それをその息子モロムに伝えたか……いかにして後代、このエジプト文字で書かれた貴重な文書が、バーモント州の農夫にして一八二五年、神秘的な預言者に変身したジョセフ・スミス・ジュニアによって翻訳されたか……しかして、いかにして、ついに天使が光り輝く森の中で彼の前に現われ、神の記録を彼に授けたか……」
このとき数人の聴衆が、宣教師の昔話に退屈して客車から出て行った。しかし、ウィリアム・ヒッチはつづけた。
「いかにしてスミス・ジュニアは彼の父と、ふたりの兄弟と、数人の弟子とを集めて、『末日聖徒《まつじつせいと》』の宗教を創始したか、しかして、この宗教はアメリカのみならず、イギリス、スカンジナビア、ドイツにも弘布《ぐぶ》され、その信者の中には労働者のみならず自由業者も多かった……いかにしてオハイオ州に根拠地が設けられたか……いかにして教会が二十万ドルで建てられ、カークランドに町が造られたか……いかにしてスミスが大胆不敵な銀行家になり、しかして卑賎なミイラの見世物師から、アブラハムその他高名なエジプト人たちが書いた物語のパピルスを手に入れたか……」
こんな話が長々とつづいたので、聴衆はしだいにまばらになった。残っているのは二十人ぐらいになった。
しかし、長老は人々が立ち去るのを意に介せず、なおもくどくどと話しつづけた。
「いかにしてジョセフ・スミス銀行が一八三七年に破産して、損害をこうむった株主たちがスミスのからだにタールを塗って羽毛の中をころがしたか……いかにして、その後数年、スミスはミズーリ州インデペンデンスにふたたび姿を現わして、以前に倍する尊敬と名誉とをかちえたか、しかして、すくなくとも三千人の信徒を擁する繁栄をきわめた共同体の長となったか……しかし、そのとき、いかにして非モルモン教徒の憎悪に追われてアメリカ合衆国西部に逃亡したか……」
まだ十人ほどの聴衆がいた。その中には律義者のパスパルトゥーもいて、熱心に耳を傾けていた。長老の話はつづいた。
「いかにして、長い迫害のあと、スミスはふたたびイリノイ州に姿を現わして、一八三九年、同州ミシシッピ河畔のノーブー・ラ・ベルに新しい町をつくったか……いかにして町の人口は二万五千に達し、スミスは町の行政、裁判、軍事の長になったか……いかにしてスミスは一八四三年、合衆国の大統領選挙に立候補し、しかして、ついに奸計《かんけい》によってニューヨーク州力ーセジにおびき寄せられ投獄されて、覆面の一団によって暗殺されたか……」
このとき客車に残っていたのはパスパルトゥーひとりであった。長老は彼の顔をじっと見つめ、その雄弁で彼を幻惑しようとしながら話しつづけた。
「スミス暗殺二年後、その後継者にして、霊感を得たる預言者であるブリガム・ヤングは、ノーブーを捨ててグレートソルト湖畔に移り、新しい町を建設した。そこは豊饒《ほうじょう》な地方の中心にある風光明媚な土地で、ユタ州から新しい植民地カリフォルニアへ行く移民の通路に当たっていた。グレートソルト湖畔に建設された新しい町は、モルモン教の一夫多妻制によって非常に発展し膨張した……」
「しかるがゆえに」と、ウィリアム・ヒッチは、さらにつづけた。「合衆国議会は嫉妬して、われらモルモン教徒を弾圧したのだ! 合衆国の兵士はユタ州を蹂躙《じゅうりん》したのだ! あらゆる法を無視して、われらの指導者、預言者ブリガム・ヤングを投獄したのだ! われらはこの暴力に屈すべきか? 否《いな》! 断じて否! バーモント州を追われ、イリノイ州を追われ、オハイオ州を追われ、ミズーリ州を追われ、ユタ州を追われたわれらは、いずれの日か、ふたたび自由の地を求めて、そこにわれらのテントを打ち立てるであろう……」
「ところで、信仰心あつき貴殿」と、長老は唯一の聴聞者であるパスパルトゥーに刺すような視線を送りながらつけ加えた。「貴殿もまたいつの日か、われらの旗のもとに貴殿の旗をかかげるであろう」
「いいえ」と、パスパルトゥーは答えると、こんどは自分の番だとばかり、熱狂した説教者を、だれもいなくなった客車にひとり残して、すたこら逃げだした。
しかし、この説教のあいだに汽車は快速で進んでいた。十二時半ごろ、グレートソルト湖の西北端に達した。そこからは一望のもとに、この内海を見渡すことができた。この湖水はアメリカの死海であり、アメリカのヨルダン川がそそいでいる。壮大な湖水で、その周囲はすべて奇石怪巌の高い懸崖《けんがい》で、その懸崖は白い塩でおおわれている。湖面は、かつてはもっと広かったが、時の流れとともに、しだいに湖岸が高まり、湖面を狭くすると同時に水深を増したのである。
グレートソルト湖は南北の長さ約七十マイル、東西の幅三十五マイル。海抜は三千八百フィートで、その点では、湖底が海面下千二百フィートにある死海とは非常に違っている。ソルト湖は塩分がはなはだ多く、その水の重量の四分の一は堅い物質が溶解したもので、蒸溜水との比重は千対千百七十である。それゆえ魚は湖水の中では生きていられず、アメリカのヨルダン川やウェーバー川やその他の川から湖水に流れ込んだ魚はすぐ死ぬ。しかし、水の密度は人が潜《もぐ》ることができないくらいだ、というのは事実ではない。
湖水を取り巻く平野はよく耕されている。モルモン教徒は巧みな農夫だからだ。もし半年後にここを訪れたら、次のような風景が見られるであろう。牧場、家畜小屋、畑、玉蜀黍《とうもろこし》畑、蜀黍《もろこし》畑、繁った草原、そして至るところに野生のバラの木の生垣やアカシヤの林や、タカトウダイの茂みがある。しかしいまは、それらすべての上に、うっすら雪が積もっていた。
午後二時、汽車はオグデンに着いた。オグデンを出発するのは午後六時なので、旅客たちは下車した。フォッグ氏とアウダ夫人と、ふたりの連れとは、オグデン駅から分かれている小さな支線に乗って、モルモン教の聖者たちの町へ行くことにした。二時間もあれば、この町をすっかり見物することができる。この町は、アメリカ合衆国のすべての町と同じ雛型《ひながた》によって造られている。すなわち長い冷たい線を持った大きな将棋盤で、そこにはヴィクトル・ユゴーの表現をかりれば「直線の悲しみ」が、そこはかとなくただよっている。このモルモン教の聖者たちの町の建設者もまた、アングロサクソン民族の特質である左右均整趣味からまぬがれることはできなかったわけだ。この奇妙な国では制度が優先し、人々は、まだ明らかにその水準に達していないので、あらゆる物が……町も家も「四角四面」に造られ、そこで日常繰り返される愚行さえも「四角四面」に行なわれるのである。
三時ごろ旅客たちは町の通りをぶらぶら歩いていた。町はアメリカのヨルダン川の岸と、ウォサッチ山脈の最初の高まりとのあいだにある。教会らしいものはなく、目につくのは預言者の家、裁判所、兵器廠《へいきしょう》ぐらいであった。ベランダや回廊のついた青味がかった煉瓦造りの家々は庭で囲まれ、アカシヤや棕櫚《しゅろ》やイナゴマメの木でふちどられていた。一八五三年に建てられた、粘土と小石とで造られた壁がぐるりと町を取り巻いていた。市場の開かれる大通りにはテントで飾られたいくつかのホテルが立っていて、その中でもレーク・ソルト・ハウスがもっとも目をひいた。
フォッグ氏たちの見たところでは、この町の人口は少ないらしかった。通りには人影がまばらであった。ただし礼拝堂の付近には人が多かった。フォッグ氏たちは矢来に囲まれたいくつかの地区を通って礼拝堂へ行ったのだ。婦人たちの姿が多かった。このことはモルモン教徒の奇妙な家族構成を語っていた。とはいっても、すべてのモルモン教徒が一夫多妻であると思うのは早計であった。ユタ州の婦人たちは結婚しようと独身でいようと自由であった。しかし、彼女たちが概して結婚したがっていることは事実であった。というのは、モルモン教の神は、独身の女性には至福を与えないからであった。哀れな独身の婦人たちは貧しく不幸そうであった。幾人かの、たしかにもっとも富んだ婦人たちは、慎《つつし》み深く頭巾をかぶったり質素なショールをまとったりしていたが、腰のところがゆったりとした黒い絹の上着を着ていた。これに反して他の婦人たちは、更紗《さらさ》模様の木綿の服を着ていた。
パスパルトゥーは、いまは一夫多妻の問題について自分なりの考えを持っていた。これらのモルモン教徒の女たちは、ふたり、あるいは数人がかりで、ひとりのモルモン教の男を是が非でも幸福にしてやろうとする。そういう女たちをパスパルトゥーは、一種、うとましい気持ちで眺めた。男のほうこそ気の毒だ、と思わずにはいられなかった。男は同時に多くの妻を引き連れて浮き世の波風をしのいで行き、ついには、ふたたびモルモン教の天国で聖なるスミスの住む光り輝く国で彼女たちと落ち合い、そして永遠に彼女たちといっしょに暮らさなければならない。……いやはや、まったくおれの性には合わない、と彼は思った。……そして、これはたぶん彼の思い違いであったろうが、グレート・ソルト・シティの婦人たちは、みんな彼の風体を、うさん臭そうに見ているような気がした。
幸いなことに、そういつまでも聖者たちの町にいることはできなかった。四時すこし前に旅客たちはオグデン駅に戻り、ふたたび客車の中に席を占めた。
汽笛が鳴った。しかし、機関車の車輪が線路の上をすべりだし、汽車に速度を加えようとしたとき、「待ってくれ! 待ってくれ!」という大きな叫び声が聞こえた。汽車は停まるわけがなかった。叫び声をあげたのは、あきらかにモルモン教徒の男であった。彼は息もたえだえに駆けてきた。幸い駅には入り口も柵《さく》もなかったので、男は線路に沿って走り、最後の客車のデッキに飛びついた。座席の上に死んだようになって倒れてしまった。
パスパルトゥーは、この突然の離れ業《わざ》にびっくりしたが、やがて立って行って、汽車に乗りおくれた、この頓馬《とんま》な男を眺めた。そしてこのユタ州の男は家庭のいざこざから、まっしぐらに逃げてきたのだ、ということを聞くと、非常に興味を持った。
パスパルトゥーは、モルモン教徒の男が、いくらか楽に息がつけるようになると、思いきって、しかし、ていねいにたずねた。いったい何人の奥さんをお持ちですか?……こんなふうに逃げてくるからには、たぶん二十人ぐらい持っているだろう、と思ったのだ。すると、モルモン教徒の男は、
「ひとりです」と両腕を天に差し伸べながら答えた。「ひとりでも、たくさんです!」
二十八 パスパルトゥーは道理を述べたがだれをも説得できなかったこと
汽車はオグデン駅とグレート・ソルト湖とをあとにして一時間、北へ向かい、ウーバー川に達した。サンフランシスコから約九百マイル走ったわけだ。汽車はウェーバー川を渡ると、変化にとんだウィサッチ山脈を横切って、ふたたび東に進んだ。アメリカの鉄道技術者たちが最大難関を克服したのはこの地域で、正確に言うと、西はウォサッチ山脈、東はロッキー山脈、その中間の地域であった。それゆえ合衆国政府も、この地域に鉄道を敷設するためには、平地では一マイルにつき一万ドルの補助金を、一マイルにつき四万八千ドルに増額した。しかし、すでに述べたように技術者たちは自然にさからわず、いわば地勢をだましだましするようにして難所を迂回《うかい》した。大盆地に達するためには、一万四千フィートのトンネルを一つ、貫通させただけであった。
線路の標高がもっとも高いところは、なんとソルト湖であった。そこから線路は非常に長いカーブをえがいてビター・クリークの渓谷《けいこく》のほうへと下って行き、さらに大西洋と太平洋との分水嶺へと上って行った。この山岳地帯には流れの急な川が多かった。マッディー川やグリーン川や、その他の川を小さな橋で渡らなければならなかった。パスパルトゥーは目的地に近づけば近づくほど焦燥にかられていた。フィックスもまた、この障害に満ちた国からのがれたいと思っていた。遅延を恐れ、事故を心配し、一刻も早くイギリスの土を踏みたいと、当のフィリアス・フォッグよりも、もっと望んでいた。
午後十時、汽車はフォート・ブリッジャー駅に停車したが、数分にして発車した。二十マイル走って、以前のダコタ地方であるワイオミング州にはいり、それからはずっとビッター川の渓谷に沿って行った。この川から分かれた川はコロラド州の水路網の水源となっている。
翌十二月七日、グリーン川駅に十五分停車した。昨夜はかなり雪が降ったが、雨まじりの淡雪だったので、汽車の進行の妨げにはならなかった。しかし、パスパルトゥーは天気の悪いことを、いつも心配していた。雪が積もって車輪が動かなくなれば、かならず旅行は失敗するからだ。
「どういうつもりで」と、彼はつぶやいた。「ご主人さまは、こんな冬に旅行をするんだろう! もっと陽気のいいときなら、いくらか勝味もあったのに!」
しかし、この律義な若者が空模様や寒さばかり気にしているときに、アウダ夫人は、まったく別な、非常な心配にとらわれていた。というのは、グリーン川駅で数人の旅客が下車して、汽車の出発を待ちながらプラットホームを散歩していたが、アウダ夫人は窓ごしに彼らのなかにスタンプ・プロクター大佐の姿を認めたからであった。サンフランシスコの集会で、フィリアス・フォッグに乱暴を働いた、あのアメリカ人だ。彼女は彼に見られたくなかったので、窓から、つと身を引いた。
彼女の心は、ひどく動揺した。外見は冷たいが、日に日に深い献身のしるしを示してくれるフィリアス・フォッグは、もはや彼女にとって、なくてはならぬ人になっていた。
この命の恩人が彼女のなかに引き起こした感情が、どんなに深いものであるかは、彼女自身気がつかなかった。彼女はこの感情を感謝の気持ちだと思っていた。しかし、この感謝の気持ちは、彼女の知らないうちに、それ以上のものになっていた。あの乱暴者に対して、いずれフィリアス・フォッグが決闘を申し込むであろうと思うと、彼女の胸は締めつけられた。もちろんプロクター大佐がこの汽車に乗り込んだのは、たんなる偶然であった。しかし、とにかく、あの男は汽車の中にいる。どんなことをしてでもフィリアス・フォッグがあの男に出会うことは防がなければならない、と彼女は思った。
汽車はふたたび出発した。フォッグ氏は、うとうとしていた。いまだ、とアウダ夫人は思った。フィックスとパスパルトゥーとに事情を話した。
「あのプロクターが汽車にいるんですって!」と、フィックスは叫んだ。「ご安心ください。フォッグ氏には関係のないことです。わたしが相手になります。なにしろ、もっとも重大な侮辱《ぶじょく》を受けたのは、わたしなんですから!」
「いや、あいつは」と、パスパルトゥーが付け加えた。「わたくしが引き受けます、大佐だかなんだか知りませんが」
「フィックスさん」と、アウダ夫人がまた言った。「フォッグさんは復讐するのに人手を借りるような人ではありません。あの人は男です。あの乱暴者に会うために、もう一度アメリカへくる、と言いましたわ。ですから、もしフォッグさんがプロクター大佐を見つけたら大変なことになります。どうしてもフォッグさんを大佐に会わさないようにしなくてはなりませんわ」
「おっしゃるとおりです、奥さん」と、フィックスが答えた。「決闘ともなれば、万事休すです。勝っても負けても、フォッグ氏は遅れてしまいます。そして……」
「そして」と、パスパルトゥーが付け加えた。「改革クラブの紳士方との賭に負けてしまいます。あと四日でニューヨークに着きます。そうです、もし四日間、ご主人さまが車室から出なかったら、あのアメリカ人と……ほんとに、いまいましいやつです……顔を合わせないですむかもしれません。なんとしてでも、ご主人さまをここから出さないようにしなければ……」
会話は、そこでとだえた。フォッグ氏が目を覚ましたからだ。彼は雪がまだらについている窓ガラスごしに外の景色を眺めていた。しかし、しばらくすると、パスパルトゥーは主人にもアウダ夫人にも聞こえないように、小声でそっと刑事にささやいた。
「きみはほんとにご主人さまのかわりに戦うつもりなのかね?」
「もちろん! あいつが死んでしまったら玉なしだ。わしはどうしてもあいつを生きたままイギリスまで連れて行く」と、フィックスは静かに、しかし断固たる口調で答えた。パスパルトゥーは一種の戦慄が背筋を走るのを感じた。しかし、主人に対する信頼は、すこしも変わらなかった。
ところで、フォッグ氏を大佐に会わせないため車室に引き留めておく、何かいい方法があるだろうか? 車室に引き留めておく、それは、それほど困難なことではなかった。フォッグ氏は好寄心にかられて、そこらを動き回る人ではなかったからだ。結局、刑事はいい方法を思いついた。ややあって、フィリアス・フォッグに言った。
「こうして汽車の中にいると、時間のたつのが長いですね」
「長いです」と、フォッグは答えた。「しかし、結局、時間はたちます」
「船では」と、刑事はつづけた。「いつもホイストをしていらしたようですね?」
「そうです」と、フィリアス・フォッグは答えた。「しかし、汽車ではゲームをすることができません。カードもなければ相手もいませんから」
「ああ、カードならアメリカの汽車の中では、なんでも売っています。相手も……たとえば、アウダ夫人が……」
「お相手いたします」と、若い婦人は身を乗り出すようにして答えた。「ホイストもイギリス人の教養の一つで、わたくしも習って知っております」
「じつは、わたくしも」と、フィックスが言った。「ホイストの腕前には、いささか自信があります。われわれ三人と、もうひとり相手がいるつもりで、カードをさらしておけば……」
「なるほど、なるほど!」と、さすがのフィリアス・フォッグも、ちょっと浮き浮きして答えた。好きなゲームが、汽車の中でもまたできることになったからだ。
さっそくパスパルトゥーは列車ボーイを探しにやられた。まもなくトランプをふた組と、得点伝票と、数取りと、布でおおわれた板とを持って戻ってきた。準備はととのった。ゲームは始まった。アウダ夫人は、かなりよくホイストを知っていた。ホイストに関しては厳しい批評家であるフォッグ氏も、本気で、ある程度の賛辞を彼女に呈した。刑事は文句なく一流の腕前を持っていて、フォッグ氏の好敵手であった。(安心、安心)と、パスパルトゥーは思った。(これで、ご主人さまを引き留めることができた。もうどこへも行かれはしない)
午前十一時、汽車は両大洋の分水嶺に達した。ブリッジャー・パスと呼ばれる地点で、海抜七千五百二十四フィート、ロッキー山脈を越える線路のなかでは、もっとも高いところにある一つである。そこから約二百マイル走ると、ついに旅客たちは大西洋岸まで長くつづいている大平原の上に出た。ここから先は非常に容易に鉄道を敷設することができた地帯であった。
大西洋側の盆地に向かって、汽車は斜面を下って行った。そこにはすでに北プラット川の支流、もしくは、そのまた支流があった。ロッキー山脈の北部が半円形の巨大なカーテンとなって、北と西との空をおおっていた。ロッキー山脈の中では、とくにララミー山頂が一段と高くそびえていた。ロッキー山脈の湾曲と鉄道線路とのあいだは小川や沼の多い広い平原になっていた。線路の右手には、密林におおわれた山岳地帯の、段々に重なり合った最初の傾斜が現われ、それは南方、アーカンソー川の水源にまで延びていた。アーカンソー川はミズーリ川の大支流の一つである。
十二時半、旅客たちは、この地方の警備に当たっているハレック要塞をちらりと見た。あと二、三時間で、ロッキー山脈を完全に横切ることができるはずであった。それゆえ旅客たちは、もはや、なんらの鉄道事故も起こらず、無事にこの険阻《けんそ》な地方を通過できると思った。雪はやんでいた。空気は寒くて乾いていた。大きな鳥どもが機関車に驚いて遠くへ逃げて行った。いかなる野獣も、熊も狼も姿を見せなかった。見渡すかぎり不毛な荒涼たる原野であった。
昼食は車内に運ばれた。フォッグ氏とその仲間とは快適な食事をすますと、またもやホイストを始めた。そのとき鋭い汽笛が聞こえた、汽車はとまった。
パスパルトゥーは窓から顔を出した。しかし、どうして汽車がとまったのか、その原因はさっぱりわからなかった。前方に停車場は見えなかった。アウダ夫人とフィックスとは、フォッグ氏が汽車から飛び降りて見に行きはしないかと、瞬間、心配したが、紳士はただ従僕に「行って見てきたまえ」と、言っただけであった。
パスパルトゥーは汽車から飛び降りた。すでに四十人ぐらいの旅客が地上に立っていた。そのなかにはスタンプ・プロクター大佐の姿もあった。
汽車は赤になった信号機の前でとまっていた。すなわち前進停止だ。地上に立った機関士と車掌とが、保線係りと言い争っていた。保線係りは、この次の駅メディシン・バウ駅の駅長が汽車に向かって派遣したものだ。旅客たちもそばへ行って議論に加わっていた。旅客たちのなかでは、プロククー大佐が一段と目立った。その言葉も高飛車なら、その態度も横柄であった。パスパルトゥーもその仲間に加わって、保線係りがこう言うのを聞いていた。
「いや、通過できません! メディシン・バウ橋は落ちかかっていて、汽車の重みに耐えられません」
この橋は急流にかかっている釣橋で、汽車がとまっているところから一マイル先にある。保線係りの言うところでは、橋を釣っている鉄線がいくつか切れていて、とても危なくて渡れない。彼はけっして誇張して言っているのではなかった。アメリカ人は天性、楽天的だ。そのアメリカ人がこんなに慎重を期しているのを無視するのは、気違い沙汰もいいところだと言うべきであった。
しかし、パスパルトゥーは、この事故を主人に告げに行く気になれなかった。歯を食いしばり、銅像のように立っていた。
「なんだって!」 と、プロクター大佐がどなった。「これ以上、進めないと言うのか! じゃあ、雪の中に根っ子でも生えたように、ここにじっとしていろと言うのか!」
「大佐殿」と、車掌が言った。「オマハ駅へ電信を打って、列車を回してもらうことにしました。しかし、列車がメディシン・バウ駅へ着くのは、どうしても六時ごろになると思います」
「六時だって!」と、パスパルトゥーが叫んだ。
「やむを得ません。たとえ、ここから歩いてオマハ駅へ行くとしても、やはり、それくらいの時間はかかります」
「歩いて!」と、旅客たちは叫んだ。「オマハ駅までは、どれくらいの距離があるんだ?」と、旅客のひとりが車掌にたずねた。
「川向こうから十二マイルです」
「十ニマイル、雪の中を!」と、スタンプ・プロクターがどなった。
大佐は悪罵《あくば》のかぎりを尽くした。機関士の責任だ、車掌の責任だ、と当たり散らした。パスパルトゥーも憤慨して、大佐に負けず劣らずどなり立てた。こんどこそ、この事故で、ご主人さまのお金は消えてしまうだろう、と思った。
ふたりばかりでなく、旅客は全部、失望した。旅行が遅れるのはともかくとして、雪の原を十五マイルも歩かなければならないからだ。わめいたり叫んだり、大変な騒ぎになった。もしフィリアス・フォッグがすこしでもホイストから注意をそらしたら、この騒ぎを聞きつけるであろう。パスパルトゥーは仕方がない、やはりこの事故を主人に告げなければならない、と思った。うなだれて客車のほうへ行きかけた。そのとき、この汽車の機関士で、フォスターという純粋のアメリ力人が、一段と声を高めて叫んだ。
「みなさん、ひょっとすると通れるかもわかりません!」
「橋の上をか?」と、ひとりの旅客が言った。
「橋の上をです」
「汽車に乗ったままでか?」と、大佐がたずねた。
「汽車に乗ったままです」と、機関士が答えた。
パスパルトゥーは立ち止まった。機関士の声に聞き入った。
「しかし、橋は落ちるぞ、きっと」と、車掌が機関士に言った。
「万一ということがある」と、機関士は答えた。「全速力で突っ走れば、うまく通れるかもしれないよ」
「いやはや」と、パスパルトゥーはつぶやいた。
しかし、何人かの旅客は、すぐ、この提案に賛成した。ことにプロクター大佐に至っては大乗り気であった。この気違い同様な男には、橋を渡る、そんなことはわけのないことであった。彼はこんなことまで言った。かつて技師たちは重い列車を全速力で走らせて、橋のない川を渡らせようと思いついた。……結局、賛成派の旅客たちは、機関士の意見に従うことにした。
「成功率は五十パーセントだな」とひとりが言った。
「六十パーセントだ」と、もうひとりが言った。
「八十パーセント、いや九十パーセントかな」
パスパルトゥーは、びっくりしてしまった。なんとしてでもメディシン川を渡らなければならないと覚悟はしていたが、それにしてもこの企ては、いかにもアメリカ的だと思わずにはいられなかった。
(あるいは)と、彼は思った。(もっといい方法があるかもしれない。しかし、この連中は、そんなこと思ってみないんだ!)
「あなた」と、彼は旅客のひとりに話しかけた。「機関士の考えは、いささか当たって砕《くだ》けろ式だと思いますが……」
「八十パーセント」と、その男は言って、背中を向けてしまった。
「わたしも賛成ですが」と、パスパルトゥーは、また他の男に話しかけた。「しかし、もうすこし考えてみたほうが……」
「考えるなんて無用です!」と、そのアメリカ人は肩をそびえさせながら言った。「機関士が言ってるんですから、渡れるにきまってます!」
「もちろん」と、パスパルトゥーは答えた。「渡れるでしょう。しかし、用心の上にも用心して……」
「用心だって!」と、ふと、この言葉を耳にしたプロクター大佐が飛びあがって叫んだ。「全速力で、と言ってるんだ! わからないのか? 全速力、 全速力!」
「なるほど……なるほど……」とパスパルトゥーは繰り返した。だれも彼の意見に耳を傾けようとする者はなかった。しかし彼はつづけた。「お気にさわったら、用心とは言いません。でも、なるべく自然な……」
「あいつ、なにを言ってるんだ、あの青二才!」と、周囲の連中が叫んだ。「自然な、とはどういう意味なんだ? 余計なことを言ってやがる!」
哀れな若者は、だれにも自分の考えを聞かせることができなかった。
「貴様、こわいんだろう?」と、プロクター大佐が言った。
「こわい、おれが!」と、パスパルトゥーは叫んだ。「よしきた! こいつらに見せてやるぞ、フランス人がどんなに強いか! アメリカ人なんかに負けるもんか!」
「ご乗車ねがいます……ご乗車ねがいます!」と、車掌が叫んだ。
「よし!」と、パスパルトゥーは言った。
「乗ろう! 乗るとも! しかし、おれは断じて言うぞ! まずおれたちが歩いて橋を渡り、それから汽車を渡すんだ。これがいちばん自然な方法なんだ!」 しかし、だれも、この道理にかなった言葉を聞こうとする者はなかった。正論に耳を傾けようとする者はなかった。
ふたたび旅客たちは、それぞれの客車に席を占めた。パスパルトゥーも自分の席に戻ったが、いままでのことはなにも言わなかった。フォッグ氏たちはホイストに夢中になっていた。汽笛が鋭く鳴った。機関士は汽車を一マイルばかり後退させた。跳躍《ちょうやく》者が踏み切る前に走路のうしろに立つのと同じ理屈だ。
ふたたび汽笛が鳴った。前進が始まった。速力が増した。と、たちまち速力は恐るべきものになった。もはや機関車の音しか聞こえなかった。ピストンは一秒間に二十回も往復した。車軸はグリースの罐《かん》の中で煙を吹いた。時速百マイルか? 汽車はさながら線路の上を走っているのではなく、その上を飛んでいるようであった。
通過! 電光一閃《でんこういっせん》の間であった。だれも橋を見たものはなかった。汽車は川を飛び越えた、と言ってよかった。機関士は駅の向こう五マイルまで行って、やっと汽車をとめた。
もともと墜落寸前だった橋は、汽車が飛び越えるやいなや、バラバラにこわれてメディシン・バウの急流に落ち込んだ。
二十九 合衆国の鉄道にしか起こらないさまざまな出来事が語られるであろうこと
その夜、列車は、なんの事故もなく走りつづけた。フォート・ソンダースを過ぎ、チェイエン峠を越え、エバンス峠を登りつめた。ここは、この大幹線のなかで、もっとも高いところで、海抜八千九十一フィート。ここからは地勢に従って、一路、大西洋岸平地まで下って行けばよいのであった。
この地点はまたデンバーからくる支線に接続していた。デンバーはコロラド州の首邑である。コロラド州は金山銀山の多い富裕な地方で、すでに住民は五万人以上に達している。
汽車はサンフランシスコをたってから三日三晩で千三百八十二マイルを走破し、この地点に着いた。この分では四昼夜でニューヨークに達することができるから、フィリアス・フォッグとしては、なお予定の制限時間内にいるわけであった。
その夜、汽車は左手にあるワルバ駐屯地を過ぎた。ポール川が線路に平行して流れ、さらに、それはワイオミング州とコロラド州との一直線の境界に沿って流れていた。午後十一時、汽車はネブラスカ州にはいり、セジウィッチの近くを過ぎ、南プラット川に沿ったジュレスバークに着いた。
一八六九年十月二十三日、ユニオン・パシフィック鉄道の開通式がこの地で行なわれた。工事の総監督者はJ・M・ドッジ将軍であった。二|輌《りょう》の強力な機関車が、それぞれ九輌の客車を引いてここで相会した。客車には多数の招待客が乗っていて、そのなかには副大統領のトマス・C・デュラント氏もいた。歓呼の声が轟《とどろ》き、スー族とポーニー族とが招待客に模擬戦を披露し、花火が打ち上げられた。この機会を記念して、移動印刷機によって「開拓鉄道」紙の第一号が発行されたのも、この地であった。未開の原野を横断し、まだ存在しない町や市を将来たがいに結びつけるであろう進歩と文明との手段「大幹線」の開通式は、このようにして盛大に行なわれたのであった。機関車の汽笛の音はアンフィオンの竪琴の音よりも強く、それはやがてアメリカの土地に町や市を築くのにちがいなかった。
午前八時、フォート・マックパーソンを過ぎた。オマハまで三百五十七マイルの地点だ。汽車は屈曲しているプラット川の左岸を走った。九時、ノースプラットに着いた。ノースプラットは南北両プラット川に挟まれた重要な町で、二つの川はこの町を取り巻くようにして合流し、それからは一つの川になってオマハの附近で、さらにミズーリ川に合流する。
ノースプラット町の東で百一度の子午線を越えた。
フォッグ氏とその相手たちとは、またホイストに熱中していた。だれも……カードをひろげている架空の相手さえも、道のりの長いのに飽きあきする者はなかった。
フィックスは最初、数ギニ勝ったが、やがて落ち目になり負けつづけた。しかし、その闘志はすこしも衰えず、フォッグ氏同様、意気さかんに戦った。その午前、フォッグ氏はふしぎに運がよかった。切り札や役札が雨のように手の中に降ってきた。やがて思い切った手を考えついて、スペードで勝負と出た。とたんに椅子のうしろで声がした。
「わしならダイヤでいくね」
フォッグ氏、アウダ夫人、フィックスは、いっせいに顔をあげた。プロクター大佐が立っていた。スタンプ・プロクターとフィリアス・フォッグとは、すぐ相手を認め合った。
「ああ、きみだったのか、イギリス人の!」 と、大佐は言った。「きみはスペードで勝負するんだね!」
「勝負します」と、フィリアス・フォッグは冷ややかに言うと、スペードの十を出した。
「ダイヤのほうがよかったな」と、プロクター大佐はいらいらした声で言った。そして、フィリアス・フォッグが出したカードを横合いから取り上げようとしながら付け加えた。
「きみは、からきし下手《へた》だね、ホイストは!」
「下手かもしれない」そう言うと、フィリアス・フォッグは立ちあがった。「たしかに、もう一つのほうが、はるかに上手だ。なんならご覧に入れようか?」
「いつでも相手になってやる、ジョンブルめ!」と、乱暴者は答えた。
アウダ夫人の顔は真っ青になった。心臓はとまりそうになった。彼女は思わずフィリアス・フォッグの腕を押さえたが、その彼女の手を彼はそっと外した。プロクターは、さも軽蔑したようにフィリアス・フォッグを眺めていた。パスパルトゥーはアメリカ人に飛びかかろうとした。瞬間、フィックスが立ちあがって、一歩、アメリカ人に近づいた。
「見当違いをしないでください。あなたが相手にするのは、このわたしです。あなたは、わたしを罵《ののし》ったばかりでなく殴ったのです!」
「フィックスさん」とフォッグ氏が言った。「失礼ですが、プロククー大佐の相手は、あなたでなく、わたしです。大佐はスペードを出すのは下手だと言って、また、わたしを侮辱しました。大佐はわたしに償《つぐな》いをしなければなりません」
「いつでもいい、どこでもいい」と、アメリカ人は答えた。「武器も好きなのにしろ!」
アウダ夫人はフォッグ氏を引き留めようとしたが、無駄であった。刑事は自分がかわって決闘しようとしたが、これも無駄であった。パスパルトゥーは大佐を昇降口のドアから放り出してやろうとしたが、主人の身振りによって果たせなかった。
フィリアス・フォッグは客車から出て行った。そのあとを追ってアメリカ人もデッキに出た。
「大佐」とフォッグ氏は言った。「わたしは非常に急いでいるのです。一刻も早くヨーロッパへ帰らなければなりません。遅れると、大損害をこうむるのです」
「ふん、そんなこと、おれの知ったことじゃない!」と、プロクター大佐は答えた。
「大佐」と、ふたたびフォッグ氏は非常に丁重に言った。「サンフランシスコでお会いしたとき、わたしはヨーロッパで用事をすませたら、すぐアメリカへ引き返して、あなたにお目にかかろうと決心したのです」
「ほんとかね?」
「六か月後に、お会いくださらないでしょうか、お願いします」
「なぜ六年後と言わないんだ?」
「六か月後、と申しているのです」と、フォッグ氏は答えた。「かならずお目にかかりにまいります」
「うまいことを言うな!」と、スタンプ・プロクターは叫んだ。「いま、すぐやるか、それでなければやめろ!」
「やむを得ません」と、フォッグ氏は答えた。「あなたはニューヨークへ行かれるのですか?」
「いや」
「シカゴですか?」
「いや」
「オマハですか?」
「うるさい! 貴様、プラム・クリークを知ってるか?」
「いいえ」と、フォッグ氏は答えた。「次の駅だ。一時間で着く。そこで汽車は十分間停車する。十分間あれば、ピストルの撃ち合いにはじゅうぶんだ」
「よろしい」と、フォッグ氏は答えた。「プラム・クリークで下車しましょう」
「下車か! 永久に下車するんだな!」と、アメリカ人は傲慢《ごうまん》無礼も極《きわ》まれり、という態度で言った。
「永久か永久でないか、やってみなければわかりません」と、フォッグ氏は答えると、自分の客車に戻った。冷静そのもの、いつもとすこしも変わらなかった。
紳士は椅子に掛けると、まずアウダ夫人に、弱い犬ほどよく吠えるものです、と言った。それからフィックスに、決闘の立ち合い人になってもらいたい、と頼んだ。フィックスは断わるわけにはいかなかった。フィリアス・フォッグは落ち着き払って、またスペードで、中断されたホイストを始めた。
十一時、機関車の汽笛が、プラム・クリーク駅が近づいたことを知らせた。フォッグ氏は立ちあがると、フィックスを従えて客車のデッキへ出て行った。パスパルトゥーがピストルを二挺持って、あとにつづいた。アウダ夫人は生きた心地もなく、真っ青になって客車の中に残っていた。
そのとき、向こう側の客車のドアが開いて、プロクター大佐がデッキに姿を現わした。アメリカ人の立ち合い人を連れていた。立ち合い人は一見して大佐同様、暴れ者らしかった。双方は車から降りようとした。車掌が急いでやってきて言った。
「下車できません」
「どうしてだ?」と、大佐がたずねた。
「列車は二十分延着しました。ですから、すぐ発車します」
「でも、わしは、こいつと決闘しなければならないんだ」
「お気の毒ですが」と、車掌は答えた。「すぐ発車します。ほら、ベルが鳴っています」
たしかにベルが鳴っていた。汽車は動きだした。
「まことに皆さん、申し訳ありません」と、車掌が言った。「ほかの場合でしたら、わたくしがなんとでもお取り計らいいたしますが、ここでは時間がありません。なんでしたら車中で決闘なさいましたら?」
「たぶん、この紳士は、いやだとおっしゃるだろうよ」と、プロクター大佐は言って、にやりとフォッグ氏を見た。
「いや、望むところだ」と、フノリアス・フォッグは答えた。
(なるほど、ここはアメリカだ!)と、パスパルトゥーは思った。(なんでも杓子定規《しゃくしじょうぎ》だ。汽車の車掌までが決闘の規則を守る。まるで上流紳士なみだ!」
そう思いながら、彼は主人のあとについて行った。
車掌は、ふたりの敵手と、ふたりの立ち合い人とを案内して汽車の中を通り抜け、最後の客車に連れて行った。そこには十人ばかりの乗客しかいなかった。車掌は乗客たちに向かって決闘をするふたりの紳士のために、もしよろしかったら、しばらくこの車室を貸してください、と頼んだ。
乗客たちの返事やいかに! ところが乗客たちは、ふたりの紳士のために喜んでお役に立ちたい、と答えた。そして、客車を出てデッキに立った。
客車の長さは約五十フィート、おあつらえ向きの長さであった。ふたりの敵手は客車の両端から座席のあいだの通路を通って近づき、撃ち合うことができた。これほど簡単に取り決めのできた決闘はなかった。フォッグ氏とプロクター大佐とは、それぞれ六連発のピストルを持って客車にはいった。立ち会い人たちは、ふたりを客車の中に閉じ込めると、自分たちはデッキに立った。機関車の汽笛が鳴ったら撃ち合い開始、そして、それから二分たったら、どちらでも、やられたほうを客車から運び出す手筈であった。これほど簡単なことがあろうか? あまりに簡単すぎるので、フィックスとパスパルトゥーの心臓は、いまにも破裂せんばかりであった。
彼らは汽笛の鳴るのを固唾《かたず》をのんで待っていた。そのとき突然、異様な叫び声が起こった。と同時に、銃声がとどろいた。しかし、その銃声は、ふたりの決闘者のいる客車の中から聞こえてきたものではなかった。それどころか、その銃声は絶え間なくとどろき、機関車のほうから汽車全体を包んだ。恐怖の叫び声が車内で起こった。
プロクター大佐とフォッグ氏とはピストルを握ったまま客車の中から飛び出してくると、汽車の前部に向かって走って行った。銃声と叫び声とは、いまや、そのほうでいっそう激しくなっていた。
プロクター大佐とフォッグ氏とは、とっさに思った。スー族の一団が汽車を襲ったのだ! これらの大胆なインディアンが汽車を襲うのは、これが最初ではなかった。いままでにも何度か、彼らは汽車をとめた。百人ぐらいが一団となって、汽車のとまる前から、サーカスの曲馬師が走っている馬に飛びつく、あの恰好で汽車の昇降台に飛びつき、登ってくる、それが彼らのやり方であった。
これらのスー族は、みんな小銃を持っていた。しかし、旅客たちも、ほとんどすべてピストルを持っていた。攻防の銃撃戦が展開された。
まずインディアンは機関車に襲いかかった。まさかりを振りあげて、機関士と火夫とを昏倒させてしまった。スー族の頭目が汽車をとめようとしたが、速度を調整するハンドルの操縦を知らなかったので、機関車に蒸気を送る弁を締めないで、すっかり開けてしまった。機関車は猛烈に速度をあげた。
同時にスー族は各客車によじ登り、まるで怒り狂った類人猿のように屋根を駆け回り、客車のドアから侵入しようとして旅客たちと肉弾戦を演じた。貨物車を荒らし、荷物を道に放り出した。叫喚《きょうかん》と銃声とは、いつ果てるともなくつづいた。
しかし、旅客たちは勇敢に防戦した。いくつかの客車の入り口には腰かけが積みあげられ、バリケードが造られた。それらの客車は、さながら一時間百マイルの速度で移動する要塞《ようさい》のようであった。
襲撃の最初から、アウダ夫人は勇敢に戦った。壊れた窓ガラスから撃ちまくって、彼女に襲いかかろうとする数人のインディアンを見事に撃退した。
二十人ばかりのインディアンが撃ち殺されて線路に倒れた。なかにはデッキから線路に墜落している者もあった。汽車の車輪は彼らを虫けらのように圧しつぶした。
数人の旅客が銃弾やまさかりで重傷を負い、客車の腰かけの上に横たわっていた。戦いは、すでに十分以上つづいていた。もし汽車がとまらなければ、勝利はインディアンのものになるであろう。というのは、次のキアニー駅にはアメリカの守備隊がいるが、ここからの距離は二マイルしかない。もし汽車がキアニー駅てとまらず、さらに、その次の駅まで走るとすれば、途中で汽車はインディアンに完全に占領されてしまうからだ。
車掌はフォッグ氏のそばで戦っていたが、弾に当たって倒れた。倒れながら叫んだ。
「五分以内に汽車をとめることができなければ、もうだめだ!」
「とめよう」と、フィリアス・フォッグは言いながら客車から走り出ようとした。
「お待ちください!」と、パスパルトゥーが叫んだ。「わたくしがいたします」
言うなり、止める間もあらばこそ、彼はインディアンに見つけられないように客車のドアを開けて客車の下にもぐりこんだ。頭の上では戦いがつづき、弾が飛び交っていたが、彼は昔取った杵柄《きねづか》、大いに軽業師の敏捷さを発揮した。鎖につかまったり、ブレーキに足をのせたり……で身をささえ、車体の下を一つの客車から次の客車へと伝わって行った。まったく驚くべき見事な離れ業であった。とうとう見つけられずに列車の前部に達した。片手で貨物車と炭水車とのあいだにぶらさがり、もう一方の手で連結器を外そうとした。しかし牽引《けんいん》力によって連結器の栓は固く、なかなか緩《ゆる》めることはできなかった。
そのとき幸運にも機関車がひどく揺れ、栓を弾き飛ばした。機関車はいっそう暴走して飛び去った。あとに残された汽車は、しだいに速力を落とした。
加速度で、汽車は数分間とまらなかった。しかし客車の下でブレーキが働き、やっと汽車はキアニー駅の手前百ヤードでとまった。銃声を聞いて守備隊が走ってきた。しかし、スー族の一団は、汽車がすっかりとまりきらないうちに逃げ去った。
しかし、駅のプラッホームで旅客たちが自分たちの数を確かめ合ったとき、呼んでも答えない者が二、三人あった。その数人のなかには、身をもって旅客たちを救ったパスパルトゥーもあった。
三十 フィリアス・フォッグが躊躇なく義務を行なうこと
パスパルトゥーも含めて三人の旅客の姿が見えなかった。戦闘中に殺されたのであろうか? それともスー族の捕虜になったのであろうか? 皆目《かいもく》わからなかった。
負傷者は多かったが、致命傷を負った者はいなかった。重傷者のひとり、それはプロクター大佐であった。大佐は勇敢に戦い、鼠蹊《そけい》部を貫通されたのだ。彼は、すぐ治療を要する他の負傷者たちといっしょに駅舎に運ばれた。
アウダ夫人は怪我をしなかった。フィリアス・フォッグも身を挺《てい》して戦ったが、かすり傷一つ負わなかった。フィックスは腕をやられたが、これもたいしたことはなかった。しかし、パスパルトゥーはいなかった。若い婦人の目からは涙が流れていた。
旅客一同は汽車から降りた。車輪は血によごれ、車軸や車輻《しゃふく》には肉片がぶらさがっていた。眼路《めじ》の果て、白い雪原には赤い長い列が見えた。インディアンの一隊は南方、リパブリカン川のほうへ消えつつあった。
フォッグ氏は腕を組んで、じっと立っていた。重大な決心をしているらしかった。アウダ夫人は彼のかたわらに立って、じっと彼を見つめていた。一語も発しなかったが、彼には彼女の言おうとすることがわかった。彼は思った。(そうだ、どんな危険をおかしてもパスパルトゥーをインディアンから奪い返さなければならない!)
「生死にかかわらず、かならずあいつを見つけます」と、彼は静かにアウダ夫人に言った。
「ああ、フォッグさん!」と、彼女は叫ぶと、彼の両手を取って、その上に涙を落とした。
「生きて取り戻せます」と、フォッグ氏は言った。「一刻も猶予《ゆうよ》しなければ……」
こう言った以上、彼はすでに一身を犠牲にしようと覚悟していた。自分も殺されるかもしれない、などとは思ってもみなかった。一日遅れれば、ニューヨークで汽船に間に合わないであろう。賭に負けるのは必定《ひつじょう》だ。しかし、いま彼の念頭には次のことしかなかった。(これは、わたしの義務だ。躊躇《ちゅうちょ》してはならない!)
キアニー守備隊長の大尉がそばにいた。彼はスー族が直接駅を攻撃してくる場合に備えて、すでに白人ばかりの兵に防御態勢をとらせていたのだ。
「大尉殿」と、フォッグ氏は言った。「三人の乗客が行方不明です」
「殺されたのですか?」と、大尉がたずねた。
「殺されたのか捕虜になったのか……とにかく、このままにしておくわけにはいきません。スー族を追撃されるつもりですか?」
「それは重大問題です」と、大尉は答えた。「やつらは遥かアーカンソー川の向こうまで遁走をつづけるでしょう。わたしとしては、ここを無防備にしてまで追撃することはできません」
「しかし」と、フィリアス・フォッグは言った。「三人の生命に関することです」
「おっしゃるとおりです」と、大尉は答えた。「しかし、三人を助けるために、ここにいる五十人の生命を危険にさらすことはできません」
「危険にさらすかどうかはわかりません、大尉殿。しかし、これはあなたの義務です」
「義務?」と、大尉は答えた。「ここでは、だれも、わたしの義務について、うんぬんすることはできません!」
「そうですか」と、フィリアス・フォッグは冷ややかに言った。「では、わたしひとりで行きます」
「フォッグさん」と、フィックスが近づいてきて言った。「一人でインディアンを追いかけるのですか?」
「あの男を、このまま放っておけ、と言われるのですか? ここにいるみんなが生きていられるのは、あの男のおかげです。わたしは行きます」
「待ってください。あなた一人では行かせません!」と、思わず大尉が感動して叫んだ。「失礼ですが、なんという信義に厚いかたでしょう! ……三十人の決死隊を募《つの》ります!」
大尉は兵士たちのほうを向いた。即座に全員が進み出た。大尉のしなければならなかったことは、これら勇敢な兵士たちの中から三十人を選ぶことだけであった。
三十人が選ばれた。老|軍曹《ぐんそう》が隊長になった。
「感謝に耐えません、大尉殿!」と、フォッグ氏が言った。
「わたしも同行させて頂けるでしょうか?」と、フィックスが紳士にたずねた。
「どうぞ」と、フィリアス・フォッグは答えた。「しかし、そのご親切があったら、アウダ夫人のそばにいて頂きたいのです。もし、わたしの身に万一のことがあった場合……」
急に刑事の顔が青ざめた。いままで一歩一歩執拗に追ってきたこの男をむざむざ手離してしまうのか! あの荒野の冒険に放してしまうのか! フィックスは探るようにフォッグ氏を見た。この男は悪人にちがいない。まさか自分の思い違いではないだろう。……しかし、フォッグ氏の冷静明朗な目を見たとき、フィックスは、われにもあらず自分の目を伏せてしまった。
「では、ここに残りましょう」と、フィックスは言った。
フォッグ氏は若い婦人の手をしっかり握った。彼女に例の貴重な鞄を渡した。そして、老軍曹のひきいる決死隊とともに出発しようとした。出発に当たって、彼は兵士たちに言った。
「諸君、もし捕虜たちを無事に救出することができたら、わたしは諸君に千ポンド提供することを約束します」
正午をすこし過ぎていた。
アウダ夫人は駅舎の一つの部屋にはいった。ひとり待ちながらフィリアス・フォッグのことを思いつづけた。単純率直な義侠《ぎきょう》心、沈着な勇気! 賭に負けて財産を失うばかりでなく生命をも犠牲にしようとしているのだ! しかも、それは義務感によってのみ。一語も発せず、一瞬の躊躇《ちゅうちょ》も示さず、ただ義務を遂行しようとしているのだ! フィリアス・フォッグは彼女の目には一個の英雄であった。
フィックス刑事は、そうは思わなかった。焦燥を抑えることができなかった。熱に浮かされたようにプラットホームを歩き回っていた。いったんはフォッグの人格のようなものに気圧《けお》されたが、いまは彼自身に戻っていた。むざむざあいつを逃がしてしまうなんて、なんというへまをやったんだろう! 世界を股にかけて追い回してきたあの男を、どうして、いまさら手離す気になったんだろう! 彼はふたたび本来の性質に返った。彼は自分を責めた。自分を非難した。彼自身まるで部下の警官の愚劣な失策を譴責《けんせき》している警視総監のようになっていた。
(なんて、おれは馬鹿なんだろう!)と彼は思った。(だれかが、おれの職掌をこっそり、やつに告げたにちがいない。そこで、やつは、ずらかったんだ! こうなったら、こんどは、いつ、どこで、やつを見つけることができるだろう! いったい、どうして、おれは一ぱい食わされたんだろう、このおれとしたことが、フィックスとしたことが! しかも逮捕状まで持っているというのに! いやはや、なんておれは馬鹿なんだろう!)
彼にとっては、時間のたつのが非常に長かった。どうしていいのかわからなかった。ときどきアウダ夫人に何もかも打ち明けてしまいたくなった。しかし、そんなことをしたら若い婦人は自分をどんな目で見るだろう? そう思うと、それもできなかった。どう決心したらいいだろう? よっぽどフォッグを追って長い雪原を横切って行こうかと思った。彼を見つけるのは不可能ではないように思われた。雪の上には、まだ部隊の足跡が残っているのにちがいない! ……しかし、やがて気がついた。あとからあとから降ってくる雪が、それらの足跡を消してしまうだろう。
フィックスは絶望してしまった。いっそのこと、こんどの勝負は放棄してしまおうか? そうしたくて、たまらなくなった。ところが、そのとき突然、状況が一変した。キアニー駅を出発して、この多難だった旅行をふたたびつづけることができるようになったのだ。
というのは午後二時頃、降りしきる雪を衝《つ》いてキアニー駅の前方、東のほうから長い汽笛が聞こえてきたのだ。青ざめた光を先立てて、大きな影がゆっくり近づいてきた。影は雪の中で妙に大きくボーッと見えた。
しかし、いま頃、東のほうから汽車がくるはずはなかった。電信で救助を求めたが、それにしても早すぎた。もとよりオマハ発サンフランシスコ行きの汽車は明日でなければここを通過しないのだ。……しかし、事情はまもなくわかった。
汽笛を鳴らしながら、ゆっくり近づいてきたのは、汽車から切り離された機関車であった。機関車は、生きた心地もない運転士と火夫とをのせたまま恐るべき勢いで走って行った。しかし、数マイル走ると、石炭がたりなくなり、火力が衰え、蒸気の力が弱まった。機関車はしだいに速力を減じ、一時間後、ついにとまった。キアニー駅の前方二十マイルの地点であった。
機関士も火夫も、しばらくは気を失っていたが、やがて意識を回復した。
機関車は、じっと立っていた。荒野の中だ。機関士は、機関車のうしろに列車がないのを見ると、何が起こったかはわかったが、どうして機関車が切り離されたかはわからなかった。しかし、とにかく、うしろに残された列車が危険に瀕《ひん》していることは疑わなかった。
機関士は躊躇しなかった。安全からいえば、前方、オマハへ行くほうがいい。引き返すのは危険だ。列車はまだインディアンに掠奪《りゃくだつ》されているのにちがいないからだ。……しかし、彼はすぐ決心した。恐れることはない! 汽罐《きかん》にどんどん薪や石炭を投げ込んだ。ふたたび火力があがった。圧力が高まった。機関車は午後二時頃、キアニー駅へ戻ってきた。降りしきる雪の中で汽笛を鳴らしたのは、この機関車であった。
機関車が列車の先頭に連結されたのを見ると、旅客たちの中から歓声があがった。九死に一生を得て、また旅行をつづけることができるからだ。
機関車が到着すると、アウダ夫人は駅を出て車掌に近づいた。
「出発するのですか?」と、彼女はたずねた。
「すぐに出発します」
「でも、捕虜になった人たちは……あの気の毒な人たちは……?」
「列車の運行を中止するわけにはいきません。それでなくても三時間の遅延になっているのですから」
「サンフランシスコからくる次の汽車は、いつ、ここを通るのですか?」
「あすの晩です」
「あすの晩! それでは遅すぎます。ぜひ、待ってくださらなければ……」
「残念です」と、車掌は答えた。「もし出発なさるなら、ご乗車ください」
「出発しません」と、若い婦人は答えた。
フィックスは、この会話を聞いていた。ついいましがた、乗物の便がなかったときには、歩いてもキアニーを出発しようと決心していた。ところがいま、列車が編成され、発車しようとし、客車に座席を占めさえすればよくなると、かえって抗しがたい力によって彼の足はプラットホームに釘づけになってしまった。どうしても足を引き離すことはできなかった。彼の心の中で、ふたたび闘争が始まった。不成功に終ると思うと、むらむらと怒りが湧きあがった。最後までやり抜くぞ、と覚悟をきめた。
しかし、旅客たちと負傷者たちとは……プロクター大佐は重傷であった……それぞれの客車に席を占めた。過熟された汽罐はゴーゴーとうなった。蒸気が弁からほとばしった。機関士は汽笛を鳴らした。汽車は動きだした。白い煙が吹雪の中に残った。
フィックス刑事は、じっと立っていた。
数時間すぎた。天候はますます悪くなり、寒気はきびしかった。フィックスは駅のベンチに掛けていた。身じろぎもしなかった。眠っているように見えた。アウダ夫人は突風を物ともせず、ときどき自分の部屋から出て、プラットホームのはずれまで行った。視界をさえぎる吹雪をとおして人影を見ようとし、物音を聞こうとした。しかし、なにも見えず、なにも聞こえなかった。骨まで凍《こご》えて部屋に戻った。が、しばらくすると、また出て行った。いつも徒労であった。
日が暮れかけた。派遣隊は帰ってこなかった。いま、どこにいるのであろうか? インディアンに追いついたのか? 戦ったのか? それとも兵士たちは吹雪の荒野で道に迷っているのであろうか? キアニー守備隊の隊長も、外見には現わさなかったが、極度の不安に駆られていた。
夜になった。雪はやや小降りなったが、寒さはいっそう烈しくなった。どんなに大胆な目でも、恐怖なしにはこの大きな闇を見つめることはできなかったろう。絶対の沈黙が荒野を支配していた。鳥も飛ばず、獣も走らず、この無限の静寂を乱すものは何もなかった。
一晩じゅう、アウダ夫人は居ても立ってもいられない不安に駆られていた。プラットホームから降りて、野のふちをさまよった。想像は彼女を遠くに運び、数限りない危険を見せた。夜の長い時間、彼女がどんなに苦しんだか、それは筆紙に尽くしがたかった。
フィックスは駅のベンチから動かなかった。彼もまた眠らなかった。一度、ひとりの男が近づいて話しかけようとしたが、返事のかわりに首を振って遠ざけてしまった。
こうして夜は過ぎていった。明け方、ぼんやりした太陽が霧のかかった地平線の上に出た。あたりはまだ薄暗かったが、二マイル先まで見ることができた。フィリアス・フォッグと派遣隊とは南方に向かって出発したのだが、その南方には何も見えなかった。午前七時であった。
大尉はますます不安に駆られていたが、どう決心してよいかわからなかった。最初の隊を救援するために第二の隊を出すべきか? 最初の隊は全滅したかもしれない。それを助ける望みはほとんどない。それなのに第二の隊を出して、また兵士たちを犠牲にすべきであろうか? しかし、彼の躊躇は、あまり長くはつづかなかった。彼はひとりの中尉を呼んで、南方に向かって斥候《せっこう》隊を出すように命じた。……そのとき、数発の銃声が聞こえた。信号? 兵士たちは、いっせいに屯営《とんえい》の外に飛び出した。半マイル先に見えた。一小隊が整然と隊伍を組んで、こちらに向かって歩いていた。フォッグ氏が先頭になり、スー族から奪い返されたパスパルトゥーと、ふたりの旅客とが、そのかたわらを歩いていた。
戦闘はキアニーの南方十マイルの地点で行なわれたのであった。救援隊が到着する前に、パスパルトゥーとふたりの旅客とは、すでに見張りのインディアンたちと戦っていた。パスパルトゥーは拳を振るって三人を殴り倒した。そこへ彼の主人と兵士たちとが駈けつけてきたのである。
駐屯地に帰ってきた者たちは……救った者たちと救われた者たちとは、歓呼で迎えられた。フィリアス・フォッグは約束した賞金を兵士たちに分配した。それを見ながらパスパルトゥーは、いかにもすまなそうにつぶやいた。「ああ、また、ご主人様に大金を使わせてしまった……」
フィックスはフォッグ氏をじっと見た。その複雑なフィックスの心理は、なかなかひと口では言えなかった。アウダ夫人は口がきけず、ただ両手でフォッグ氏の手を握りしめるだけであった。
パスパルトゥーは駅に着くと、すぐ汽車を目で探した。オマハ行きの汽車が停車しているのにちがいない、それに乗れば遅れた時間を取り戻すことができるだろう、とばかり思っていた。
「汽車は、汽車は!」と、彼は叫んだ。
「発車してしまった」と、フィックスが答えた。
「すると、次の汽車はいつ、ここを通るのですか?」と、フィリアス・フォッグがたずねた。
「今晩まで待たなければなりません」
「ああ、そうですか」と一言、この冷静な紳士は言っただけであった。
三十一 フィックス刑事がフィリアス・フォッグの利益を真剣に考えること
フィリアス・フォッグは二十時間遅れた。パスパルトゥーは、わが身を悔やんでも悔やみきれなかった。たとえ不本意の過失にせよ、この遅れの責任はすべて自分にある。ご主人様に取り返しのつかない損害を与えてしまったのだ!
そのとき、刑事がフォッグ氏に近づいて、まともに相手の顔を見た。
「真剣に」と、彼は相手にたずねた。「あなたは急いでいられるのですか?」
「きわめて真剣に」と、フィリアス・フォッグは答えた。
「とすると」と、フィックスはつづけた。「あなたは十一日午後九時以前にニューヨークへ着かなければならないのですね、リヴァプール行きの船に間に会うように?」
「ぜひとも着かなければならないのです」
「もしインディアンに襲われて手間どらなかったら、十一日午前中にニューヨークへ着けたはずですね」
「そうです。そうすると、船の出るまでに十二時間、間があるわけです」
「なるほど十二時間。すると、こういうことが言えますね。あなたはいま二十時間遅れています。二十時間と十二時間との差は八時間です。この八時間の差を埋めなければならないわけです。やってみますか?」
「歩いて?」と、フォッグ氏はたずねた。
「いや、橇《そり》で」と、フィックスは答えた。「帆を張った橇です。ある男が、わたしに、すすめたのです、この乗物に乗って行かないかと……」
ある男とは、昨夜フィックスに話しかけ、フィックスがその申し出を断わった男のことであった。
フィリアス・フォッグは、フィックスに答えなかった。しかし、フィックスが、その問題の男が駅前をぶらぶらしているのを指し示したので、フィリアス・フォッグはその男のほうへ歩いて行った。そして、まもなく、名をマッジという、そのアメリカ人と連れ立って、キアニー屯営の下に建っている小屋へ行った。
その小屋でフォッグ氏は、すこぶる奇妙な乗物を見た。一種の大きなスキーだ。先の反《そ》った二本の木材の上に枠《わく》の付いた台がのっていて、その台の上には五、六人が坐れるようになっている。台の前方、三分の一のところには高いマストが立っていて、それには大きな後帆《こうはん》を張るための綱が付いている。マストは左右から鉄索でしっかりと支えられ、その鉄索は前部の大きな三角帆を張るために用いられる。後部には、船ならば舵《かじ》の役をする一種の櫓《ろ》が取り付けられている。
すなわち、これはスループ船式に装備された橇《そり》である。これらの橇は、冬、汽車が雪で立ち往生したとき、駅から駅へと非常な速さで氷原を走る。帆を張って走るのだが、その帆の大きさは驚くべきほどで、転覆しやすい競走用カッターの帆の比ではない。追風をうけると、急行列車以上ではないまでも、それと同じ速力で氷原の表面を滑走する。
ほどなくフォッグ氏と橇の持主とのあいだに契約が結ばれた。風向きはよかった。強い西風だ。雪は固くなっていた。マッジは、かならず数時間でフォッグ氏をオマハ駅へ連れて行けると受け合った。オマハからはシカゴやニューヨークに多くの鉄道が通じていて、各線とも汽車は頻繁《ひんぱん》に出ていた。遅れを取り戻すことは不可能ではなかった。冒険を躊躇すべきではなかった。
フォッグ氏は、しかしアウダ夫人をいっしょに連れて行きたくはなかった。寒天の下を横断する、速く走るために寒さはいっそう耐えがたいものになる……そんな苦痛に彼女をさらさせたくはなかったからだ。パスパルトゥーにお供をさせるからキアニー駅に残ったら、とすすめた。この律義な若者は、かならず彼女をもっと快適な旅程でヨーロッパへ案内するのにちがいなかった。
アウダ夫人は、フォッグ氏と別れることはどうしても承知しなかった。パスパルトゥーは、この彼女の決心を聞くと非常に喜んだ。フィックスが主人と同行する以上、絶対に主人のそばを離れたくなかったからだ。
そのとき、刑事はどう思っていただろう? それを説明することは容易でない。ずらかったと思ったフィリアス・フォッグがまた舞い戻ってきたので、彼を犯人なりとする刑事の確信はくずれてしまったのであろうか? それとも、こいつは世界を一周したあとでイギリスへ帰り、ぬくぬくと暮らそうとたくらんでいる、よほど不敵な悪漢だ、と思ったのであろうか? しかし、とにかくフィリアス・フォッグに対する刑事の考えは、前とはいささか変わったことは確かであった。けれどもフィックスは、相変わらず自分の義務は果たそうと決心していた。フォッグが一日も早くイギリスへ帰るように全力を尽くそうと思っていた。一行四人のうちではフィックスが、いまもっとも旅の遅れに焦燥《しょうそう》を感じていた。
八時、橇は出発の用意ができた。一行は……乗船者たちと言ったほうがいいかもしれないが……橇に乗り込むと、旅行毛布でしっかり体をくるんだ。二つの大きな帆が揚げられ、帆は風に押されて、橇は時速四十マイルで固い雪の上を走りだした。
フォート・キアニーとオマハとの距離は、直線で……アメリカ人の表現を借りれば密蜂の飛ぶ道で……せいぜい二百マイルであった。もしこの風向きが変わらなければ、この距離は五時間で横断できるであろう。もし、事故が起こらなければ、橇は午後一時までにオマハに着くはずであった。
なんという旅であったろう! 旅客たちは、たがいに体を寄せ合って、黙っていた。速く走るので寒さはいっそう厳しく、口をきくことができなかったのだ。橇《そり》は波のない水面を走る小艇のような軽快さで、氷原の表面を滑って行った。風が氷原を払うように吹いてくると、巨大な翼のような帆に当たり、橇はフワッと地上から持ちあがるように思われた。マッジは舵をとり、橇を真直ぐに進めていた。そして、すこしでも方向が曲がると、舵……一種の櫓《ろ》で、針路を訂正した。すべての帆はぴんと張られ、もはや前部の三角帆が、後部の梯形帆《ていけいほ》と触れ合うことはなかった。マストは引き揚げられ、そのいちばん上に三角帆が張られ、それは他の帆に推進力を加えた。橇の速さは正確には計算できなかったが、時速四十マイル以下ということはあり得なかった。
「これでどこも故障しなかったら、時間どおりに着けます」と、マッジが言った。
マッジは約束した時間内に着こうと張り切っていた。フォッグ氏は自分のやり方には忠実な人であった。例によって莫大な賞金でマッジの心を誘っていたからだ。
橇が一直線に突っ切って行く氷原は、海のように平らであった。海、というよりも、凍った大きな池と言ったほうがよかった。この地方を通っている鉄道は、南西から北東へ登りになっていて、それはネブラスカ州の重要な町……グランド・アイランドやコロンバスに達し、さらにシュイラーやフレモントを経てオマハに達する。全線プラット川に沿っている。橇は鉄道が孤を描いているのに反し、その弦の部分を通ることによって、その走行距雄を短縮した。マッジはプラット川がフレモントの手前で小さく屈曲している、そこのところで橇が行く手をさまたげられる、などとはすこしも心配しなかった。川が凍っているからだ。道にはなんの障害もなく、それはどこまでも坦々《たんたん》としていた。それゆえフィリアス・フォッグは二つの場合しか懸念しなかった。一つは橇が故障を起こすこと、もう一つは風が弱まるか、まったく落ちてしまうことである。
しかし、風は衰えなかった。それどころかマストもたわむほどに吹いていた。二本の鉄索は、いまマストをしっかり支えていた。これらの鉄索は風に鳴る。ちょうど弦楽器の弦が弓によって震動し、音響を生じるようなものである。橇は一種特別に鋭いところのある、しかし訴えるような悲しいような調和音に包まれて疾走した。
「この弦は五度音程と八度音程だ」と、フォッグ氏は言った。
これがこの行程中で彼の言った唯一の言葉であった。アウダ夫人は毛皮と旅行毛布とにすっぽりくるまって、身を切るような寒さからできるだけ自分を守っていた。
パスパルトゥーは、霧の中に沈む太陽のような真っ赤な顔をして、ふんふん鼻を鳴らしながら刺すような空気を吸っていた。嬉しくてしようがなかった。天性、度しがたいほどの楽天家だ。また希望に燃えていた。朝、ニューヨークに着くことはできないが、夜までには着けるであろう。そうすればリヴァプール行きの船にはきっと間に合うだろう……。
彼はまた協力者のフィックスの手を握りたくてたまらなくなった。帆のある橇を手に入れることができたのは、ひとえに刑事のおかげである、ということは忘れることができなかった。この橇こそオマハへ有効な時間内に着ける唯一の手段なのだ。しかし何か、いわゆる虫の知らせというようなものがあったのであろうか、いつもの控え目を守って、あえて刑事の手を握ろうとはしなかった。
しかし、パスパルトゥーがもっとも肝《きも》に銘じているのは、フォッグがためらわずスー族の手から自分を奪い返してくれた、その犠牲的精神であった。そうすることによってフォッグ氏は生命も財産も投げ出してくれた。ああ、フォッグ氏の従僕たる者、どうしてそれを忘れることができようか!
旅客たちが、このように、それぞれ自分の思いにふけっているときに、橇は無限の雪の敷き物の上を文字どおり飛ぶように走っていた。リットル・ブリュー川の支流とか、そのまた支流とか、たくさんの川を渡ったが、だれもそれらに気づかなかった。野も川も白一色の下に姿を消していた。見渡すかぎり、なにもなかった。ユニオン・パシフィック鉄道と、キアニー〜セント・ジョゼフ間の支線とのあいだの平原は、さながら大きな無人島のようで、村もなく、駅もなく、守備隊の屯営さえなかった。ときどき、ゆがんだ木々が電光のように走り過ぎた。それらは烈風の中で身をねじっている白い骸骨《がいこつ》のように見えた。ときには野鳥の群れがいっせいに飛び立った。ときには痩せて飢えた狼のおびただしい群れが凶暴な欲望に駆られて、橇と速さをきそうように追いかけてきた。パスパルトゥーは拳銃を片手に、もっとも近づいてきたやつに一発食らわせようと身構えていた。もし、なにか故障が起こって橇がとまったら、旅客たちは、これら獰猛《どうもう》な肉食獣に襲われることになり、それゆえ非常な危険に瀕《ひん》しているわけであった。しかし、橇にはなんの故障も起こらなかった。飛ぶように前進した。やがて咆哮《ほうこう》する群れは、はるかうしろになってしまった。
正午、マッジは氷結したプラット川を渡ったと思った。何か手応えがあったからだ。彼は何も言わなかったが、あと二十マイルでオマハへ着くことを確信した。
事実、この巧みな操縦者が舵から離れ、橇の前部に走って帆綱に飛びつき、帆を低くしたのは、まだ一時すこし前であった。しかし、橇は非常な加速度によって、帆をたたんだまま、なお半マイル走った。そして、とうとう停止した。マッジは白く雪の積もった一群の屋根を指して言った。
「着きました」
オマハだ! 一日に何本となく出る汽車によって合衆国東部と結びついているオマハだ! パスパルトゥーとフィックスとは地上に飛び降りて、しびれた手足をのばした。そして、フォッグ氏とアウダ夫人とが橇から降りるのに手をかした。フィリアス・フォッグはマッジにたっぷり払った。パスパルトゥーは、まるで友だちに対するようにマッジの手を握った。一同はオマハ駅に急いだ。
オマハ駅は鉄道の……正しく言えばパシフィック鉄道の始発駅であり、終着駅であり、オマハはネブラスカ州の重要な市である。この鉄道はミシシッピ大盆地と大洋とを結んでいる。オマハはまたシカゴ……ロックアイランド鉄道によってシカゴと結ばれ、この鉄道は東に向かって五十の駅を通りシカゴに達している。
シカゴ行き急行列車が発車しようとしていた。フィリアス・フォッグとその一行とは時間がないので、すぐ客車に乗り込まなければならなかった。オマハでは何も見物することができなかった。
パスパルトゥーは、それを残念がるべきではないと自分に言いきかせた。一行は見物などとは比較にならない重要な目的を持っているからである。
汽車は快速で、コネイルブラックス、デモイン、アイオワシティを経てアイオワ州を横切った。夜、ダヴェンポートでミシシッピ川を渡り、対岸のロックアイランドでイリノイ州にはいった。翌日、十日、午後四時、シカゴに着いた。シカゴはすでに災害から立ちあがり、美しいミシガン湖畔に、以前にも増した堂々たる威風を誇っていた。
シカゴ〜ニューヨーク間は九百マイルだ。シカゴからは、たくさんの汽車が出ていた。フォッグは、すぐ他の汽車に乗り換えた。ピッツバーグ〜フォートウェーン〜シカゴ鉄道の機関車は猛烈な速力でシカゴを出発した。あたかも名誉ある紳士が一刻をも惜しんでいるのを知っているかのようであった。汽車は閃光《せんこう》のようにインディアナ州、オハイオ州、ペンシルヴァニア州、ニュージャージー州を通過した。古風な名を持った町々も通過したが、それらの町のいくつかには、すでに街路や、市街鉄道が設けられているのに、まだ人家がなかった。ついにハドソン川が見えてきた。十二月十一日、午後十一時十五分、汽車は駅に着いた。駅はハドソン川の右岸にあり、キュナード・ライン、すなわちブリティッシュ・アンド・ノースアメリカン・ロイヤル・メイル・スチーム・パケット・コンパニーの埠頭《ふとう》の前面にある。
リヴァプール行きのチャイナ号は、すでに四十五分前、出帆していた。
三十二 フィリアス・フォッグが不運に対して敢然と戦いを挑むこと
チャイナ号は、言ってみればフィリアス・フォッグの最後の希望を運び去ってしまったのだ。事実、アメリカ〜ヨーロッパ間の定期船で、いまフォッグ氏の計画に役立つ船は一|艘《そう》もなかった。フランス大西洋汽船会社、ホワイト・スター汽船会社、イマン汽船会社、ハンブルク汽船会社、その他、どの汽船会社の船も、すぐには出帆しなかった。
フランス大西洋汽船会社の船は、いずれも例外なく優秀船で、その速力と快適さとは他のいかなる汽船会社の船にも匹敵《ひってき》した。しかし、このフランス大西洋汽船会社のペレール号は、十四日でなければ出帆しなかった。そのうえペレール号は、ハンブルク汽船会社のすべての船と同様、ロンドンまたはリヴァプールに直航せず、ルアーブルに直航するので、ルアーブルからサウサンプトンまで余分に航海することは、フォッグ氏の最後の努力を水泡に帰せしめるものであった。
イマン汽船会社のパリ市号は明日出帆するが、同社の船は、すべて問題にならなかった。というのは、それらの船は、もっぱら移民を輸送するためのもので、機関の力が弱く、帆と蒸気とを併用し、速力が鈍かった。ニューヨークからイギリスに直航するが、時間がかかり、フォッグ氏が賭に勝つには、とうてい用いられないものであった。
フォッグ氏には、すべてこれらのことが完全に明らかになった。ブラッドショーの案内記によって、大西洋横断汽船のその日その日の発着を、すっかり調べたのである。パスパルトゥーは失望落胆してしまった。四十五分遅れたために船に間に合わなかったことは、すべて彼の責任であった。彼はこんどの旅行中、主人のためになんの役にも立たなかった。それどころか、かずかずの失策をおかして主人に迷惑をかけた。彼は途中のあらゆる事故を思い返した。なんの得るところもなく無駄に費やしてしまった金を数えた。とくに彼自身が原因で無駄に費やしてしまった金を数えた。莫大な賭金と、無益になってしまった巨額の旅費とが、フォッグ氏を完全に破滅させてしまったことを考えた。彼は自分を責めに責めた。
フォッグ氏は、しかし、非難めいたことは一言も言わなかった。大西洋横断汽船会社の埠頭を歩み去りながら、ただこう言っただけであった。
「あす、なんとかしよう。さあ、行こう」
フォッグ氏、アウダ夫人、フィックス、パスパルトゥーは、ジャージーシティ・フェリー・ボートでハドソン川を渡り、馬車に乗ってブロードウェーのセント・ニコラス・ホテルに着いた。それぞれ自室に泊まった。フォッグ氏は熟睡したので、あっという間に夜が明けたが、アウダ夫人たちは心配のためよく眠れなかったので夜は長かった。
翌日は十二月十二日であった。十二日午前七時から二十一日午後八時四十五分までには、九日十三時間四十五分の間があった。それゆえ、もしフィリアス・フォッグが昨日チャイナ号で……キュナード・ラインの最優秀船の一つで出帆していたとすれば、リヴァプール経由ロンドンへは、かならず予定の時間に到着したはずである!
フォッグ氏は従僕に、どこにも行かず待機しているようにと言い付け、アウダ夫人には、いつでも出発できるように用意しておいてくださいと言って、ひとりでホテルを出た。
フォッグ氏はハドソン川の両岸を歩き回った。埠頭に碇泊《ていはく》したり、川に投錨《とうびょう》している船の中で、すぐ出帆するのがあるかもしれないと入念に探し回った。ニューヨークというこの巨大な良港では、日に百隻の船が世界の各方面に向かって出航する。実際、数隻の船がいま出帆の信号旗をかかげ、午前の満潮に乗って外洋へ出ようとしていた。しかし、それらはみな帆船なので、フィリアス・フォッグの目的にはそわなかった。
最後の努力も空しくなった、と、さすがのフィリアス・フォッグも観念しかけた。そのとき一隻のスクリュー船が砲台の手前、二百メートルばかりのところに投錨しているのが見えた。ほっそりした船体の商船で出港直前、煙突からモクモクと煙を吐いていた。
フィリアス・フォッグは大声でボートを呼んだ。それを雇って乗り込み、ちょっと漕《こ》がせて、アンリエッタ号のタラップに着いた。アンリエッタ号は下部が鉄製で上部が木造の船であった。
フィリアス・フォッグは甲板に登り、船長に会いたいと言った。船長はすぐ出てきた。
五十歳ぐらいの、いかにも老練な船乗りといった感じの男であった。頑固なやかまし屋らしく、大きな目、錆《さ》びた銅色の肌、赤毛、太い首、どう見ても世故にたけた人間とは思えなかった。
「船長ですか?」と、フォッグ氏はたずねた。
「船長は、わしだが……」
「わたしはフィリアス・フォッグ、ロンドンに住む……」
「わしはアンドリュー・スピーディ、カージフに住んでる……」
「出帆するのですか?」
「一時間以内に」
「どこへ行くのです?」
「ボルドーへ」
「船荷はなんです?」
「船荷なんかない。バラストだけで、つまり空船でさあ」
「乗客は?」
「客なんかいない。客はご免だ。あんな邪魔っけな、文句ばかり言う荷物はのせませんよ」
「船の速力は?」
「十一、二ノット。アンリエッタは速いんで、ちったあ知られた船ですぜ」
「どうでしょう、リヴァプールまで乗せて行ってくれないでしょうか、わたしと三人の連れとを?」
「リヴァプール? シナじゃないのかい?」
「リヴァプールです」
「断わる!」
「断わる?」
「断わる。ボルドーに向かって出帆しようとしてるんだから、ボルドーへ行く」
「いくら金を出しても?」
「いくら金を出しても!」
問答無用、という口調であった。
「しかし、アンリエッタ号の船主は?」と、フィリアス・フォッグはつづけた。
「船主は、わしさ」と、船長は答えた。「船は、わしのものだ」
「では、船を雇わせてください」
「いやだよ!」
「では、船を売ってください」
「いやだよ!」
フィリアス・フォッグは、びくともしなかった。しかし、事態は重大であった。ニューヨークはホンコンではなく、アンリエッタ号の船長は、タンカディア号の船長ではなかった。いままでは金があらゆる困難を解決したが、こんどはそうはいかなかった。
けれども、どうしても大西洋を横断する方法を見つけなければならなかった。もちろん船である。軽気球という手段もあるが、それは成功疑わしく、というよりも第一、実行不可能だ。
フィリアス・フォッグは、なにか思いついたらしかった。船長に言った。
「では、ボルドーまで連れて行ってくれませんか」
「断わる、たとえ二百ドル出しても!」
「二千ドルでは?」
「ひとりにかね?」
「ひとりにです」
「四人と言ったね?」
「四人です」
スピーディ船長は、額の皮を剥《は》ぎ取らんばかりに額をこすり始めた。航路を変更せずに八千ドル手にはいる! もはや乗客はきらいだ、などとは言っていられなかった。第一、ひとり二千ドルの乗客は、もう乗客ではない。貴重な商品なのだ。
「九時に出帆する」と、スピーディ船長がぽつんと言った。「お前さんたち、間に合うかね?」
「九時に乗船します」と、フィリアス・フォッグもぽつんと答えた。
八時半であった。フォッグ氏はアンリエッタ号から降り、馬車に乗って、セント・ニコラス・ホテルに取って返すと、アウダ夫人、パスパルトゥーを急がせ、そして、いつもくっついて離れないフィックスにも親切に同行をすすめた。どんな場合でも冷静さを失わないこの紳士は、すべてこれらのことを、あわてず騒がず、しかも手早く行なった。
アンリエッタ号は、まさに錨《いかり》を揚げようとしていた。四人は船に乗った。
パスパルトゥーは、この最後の旅行にかかる費用のことを考えると、思わず「ああ、ああ、ああ……」と、長い、そして、だんだん低くなる嘆息の声をもらした。
フィックス刑事のほうは、こんなことを思った。こんどの事件では、かならずイングランド銀行も損害をまぬがれないだろう。というのは、フォッグのやつがうまくイギリスに着くとしても、そして、この最後の航海で、もう金をつかんで海に投げ捨てるような真似をしないとしても、やつの紙幣袋からは七千ポンド以上の金が消えてなくなるからだ……。
三十三 フィリアス・フォッグは事に臨んで善処することができること
一時間後、アンリエッタ号はハドソン河口を示す灯船のそばを過ぎ、サンデーフック岬を回って外海に出た。その日、船はロングアイランド島に沿い、ファイア島の灯台を近くに見て沖に出、一路東に進んで行った。
翌十二月十三日正午、ひとりの男が船橋に立って、船の方向を見定めていた。もちろん、この男はスピーディ船長にちがいなかった……と思うのは間違いで、なんとそれはフィリアス・フォッグであった。
では、スピーディ船長はどうしていたのであろう? 自分の船室に鍵を掛けられ監禁《かんきん》されていた。怒り、吼《ほ》え、狂っていた。
どうして、こんなことになったのか? 事情はしごく簡単であった。そもそもフィリアス・フォッグはリヴァプールへ行きたかったが、船長は行きたがらなかった。そこでフィリアス・フォッグは一計を案じてボルドー行きの船に乗り込み、乗船後三十時間のうちに例のとおり銀行紙幣に物言わせて乗組員たちを……水夫たちや火夫たちを買収したのである。とくに都合のよかったことには、乗組員たちは、かなり悪い条件で船長に雇われた、いわばもぐりの連中だったので、たちまちフィリアス・フォッグの味方になったのである。こういうわけで、いまやフィリアス・フォッグはスピーディ船長に代って乗組員たちに命令し、船長は自分の部屋に監禁され、アンリエッタ号はリヴァプールに向かって進んでいる、という次第であった。ただ、ここで一つ明らかになったことは、フォッグ氏がかつて船員だったことである。船を操縦する彼の手腕は、まことに堂に入っていた。
さて、この冒険の結末はどうなるであろう? それは運命だけが知っている。アウダ夫人は何も言わなかった。何も心配しなかった。フィックスは、びっくりしていた。パスパルトゥーは、うまくいった、とほくそ笑んでいた。
「十一、二ノット」と船長は言ったが、たしかに、それは平均速力であった。もし……もし、がなんと多いことだろう……もし海が荒れなかったら、もし風が真東に変わらなかったら、もし船になんの事故も起こらなかったら、もし機関になんの故障も起こらなかったら、アンリエッタ号は十二月十二日から二十一日までの九日間で、ニューヨーク〜リヴァプール間三千マイルを走破することができるであろう。ただし到着した瞬間、銀行事件にアンリエッタ号事件が重なって、この紳士が希望したとはまったく違った状態に陥ることも、じゅうぶん想像されるのである。
最初の数日間、航海はすこぶる順調に行なわれた。海はあまり荒れなかった。風はいつも北東に向かって吹いているようであった。帆が揚げられ、それらの帆の力も加わって、アンリエッタ号は本来の大西洋横断船のように快走した。
パスパルトゥーは嬉しくてたまらなかった。さすがにご主人だ、よくぞおやりになった、と熱狂した。その主人の最後の努力がどんな結果をもたらすか、そんなことはもともと考えない質《たち》であった。乗組員たちは、パスパルトゥーほど愉快で身軽な若者には、いままで会ったことがなかった。彼は彼らと非常に仲良しになった。いろいろな軽業をして見せて、彼らを驚かせた。彼らにさんざん愛嬌《あいきょう》をふりまき、大好物の酒をたらふく飲ませた。彼には、水夫たちは紳士のように仕事をし、火夫たちは勇士のように火を焚いているように思われた。底抜けに明るい性分なので、彼はだれにも親しまれ、打ち解けられた。成功は目前にあり、ただそのことだけしか考えず、ときには待ち遠しさのあまり、まるでアンリエッタ号の汽罐のように燃え立った。またときにはフィックスの回りをうろついたが、冷然と、意味ありげな視線をそそぐだけで、話しかけようとはしなかった。これらふたりの古い友だちのあいだには、もはや友情は存在しなかったからである。
フィックスのほうは……これは事実であるが、何もわからなかった。アンリエッタ号を乗っ取ったこと、乗組員たちを買収したこと、フォッグが熟練した船乗りのように船を操縦すること、何もかもわからず、まるで狐につままれたような気持ちであった。いったい、どう考えたらいいだろう! しかし、五万五千ポンド盗んだやつが、汽船の一隻ぐらい盗むのは朝飯前だ、結局、そう思った。やつは絶対にリヴァプールへは行かない。世界のどこか他の場所へ行く。そして、そこで、この銀行泥棒、変じて海賊となったやつは、世間の目をくらまして、のうのうと暮らそうとしている。フィックスがこう仮定したのは、正直なところ、いかにも当然であった。彼はこの事件に首を突っ込んだことを心から後悔し始めていた。
スピーディ船長は自室でわめきつづけていた。彼に食事を運ぶのはパスパルトゥーの役目であった。パスパルトゥーは力持ちだ。しかし、おおいに用心しなければならなかった。フォッグ氏にいたっては、この船には船長がいる、などとは、てんで思ってもみない様子であった。
十三日、船はニューファンドランド島の付近を通過した。そこは危険な場所であった。とくに冬のあいだは霧が深く、風が烈しかった。昨夜、気圧計が急に下り、まもなく荒天が襲ってくることを予告していた。事実、気温が変化し、寒さがきびしくなり、風が南東へと吹きだした。
不測の事態であった。フォッグ氏は針路から外れないために帆を巻き、蒸気の力をあげなければならなかった。しかし、海が荒れ、大波が船首に打ち寄せるので、船は遅々として進まなかった。ひどい縦揺れのため、速力はいっそう鈍《にぶ》った。風はしだいに暴風となった。アンリエッタ号が横倒しになる事態さえ、すでに予想された。もし針路を変えなければ、どんな不幸が起こるか、だれにもわからなかった。
パスパルトゥーの顔は、空同様|曇《くも》った。この律義な若者は、二日間、生きた心地もなかった。しかし、フィリアス・フォッグは大胆な船乗りであった。海と戦う方法を知っていた。蒸気の力だけで、すこしも針路を変えず船を進めていた。アンリエッタ号は、まともに大波をかぶるようになったが、それでも、その大波の真っただ中に突っ込んで行った。甲板は洗われ、また洗われたが、針路は変えなかった。ときには山のような波が船尾を持ちあげ、スクリューは海面高く、狂ったように空転したが、しかし船は絶えず前進した。
ところが、風は恐れていたほど強くはならなかった。ハリケーン……風速一時間九十マイルに達するハリケーンではなかった。つまり強風にすぎなかったが、不都合なことには、それはいつも執拗に南東へと吹いていたので帆を揚げることができなかった。まもなく蒸気の力以外には、なんにも頼れるものはなくなるのにちがいなかった。
十二月十六日はロンドン出発以来、七十五日目に当たった。結局、アンリエッタ号は取り返しのつかないほど遅れてはいなかった。行程のほとんど半ばにあった。難所は通り過ぎた。夏ならば、もはや成功といえるところだが、冬だから天候しだいだ。しかし、パスパルトゥーは口にこそ出さなかったが、希望をよみがえらせた。風がなくても蒸気の力がある、まずは安心だ、と思っていた。
ところが、その日、機関士が甲板にあがってきて、フォッグ氏と何やらしきりに話していた。何を話しているのか、パスパルトゥーにはわからなかったが、一種の予感で漠然とした不安を感じた。耳をそばだてたが、話は、とぎれとぎれに聞こえてくるだけであった。主人は言った。
「その話は確かなんですね?」
「確かですとも」と、機関士は答えた。「出帆以来、精いっぱい罐《かま》を焚きつづけてきたことは、ご承知のとおりです。ニューヨークからボルドーまで普通の速力で行く石炭は十分あったんですが、ニューヨークからリヴァプールまで全速力で行くとなると、石炭はもともとたりなかったんです」
「なんとかしよう」と、フォッグ氏は答えた。
パスパルトゥーは察した。またもや生きた心地もないような心配にとらわれた。
石炭がないのだ!
(ああ、もし、ご主人様が)と、パスパルトゥーは思った。(この難関を切り抜けたら、それこそほんとうに偉いおかただ!)
パスパルトゥーはフィックスに会うと、目下の事情を話さずにはいられなかった。
「ふん」と、フィックスはせせら笑った。「きみはこの船がリヴァプールへ行くと思ってるのか!」
「もちろんだ!」
「ばかばかしい!」 と、刑事は言うと、肩をそびやかして行ってしまった。
なにを! 手前《てめい》こそ馬鹿だ! パスパルトゥーは、よっぽど相手を怒鳴りつけてやろうと思った。ただし相手が何を言ったのか、そのほんとうの意味はわからなかった。結局、まあまあと思いとどまった。可哀そうなフィックスめ! 勘違いして、ご苦労にも世界一周について回ったあげく、どんなにがっかりするだろう! 自惚《うぬぼ》れの鼻をへし折られるだろう! いまは勘弁しておくさ……。
ところで、フィリアス・フォッグは、これからどうするであろう?
それを想像するのは困難であった。しかし、どんな場合でも泰然自若たる紳士は何か決心したらしかった。その夜、機関士を呼び寄せて言った。
「石炭がなくなるまでどんどん焚いて、進んでくれたまえ」
まもなくアンリエッタ号の煙突は、さかんに煙を吐くようになった。
船は蒸気の力を最大限に用いて前進しつづけた。しかし、すでに機関士が予告したとおり、二日後、十八日、彼はフォッグ氏に、いよいよきょうで石炭がなくなります、と言いにきた。
「火力をさげないてくれたまえ」とフォッグ氏は答えた。「いや、むしろバルブを全開にしてくれたまえ」
その日の正午頃、フィリアス・フォッグは船の位置を測定すると、パスパルトゥーを呼び寄せて、船長のスピーディを連れてくるようにと言った。それはまるで虎の鎖を解け、と命じたようなものであった。パスパルトゥーは後甲板に降りながらつぶやいた。
「いやはや、どんなに暴れるだろうな!」
実際、しばらくすると後甲板のほうから怒号や罵声が聞こえてきた。爆弾が破裂したのだ。その爆弾はアンドリュー・スピーディ船長であった。
「いま、どこにいるんだ!」と、彼はフォッグ氏の顔を見るやいなや、喉《のど》を詰まらせながら叫んだ。もし、この傲慢《ごうまん》な男に、すこしでも卒中の気《け》があったら、そのままになってしまったであろう。
「いま、どこにいるんだ!」と、彼は顔を真っ赤にして繰り返した。
「リヴァプールから七百七十マイルのところです」と、フォッグ氏は平然と答えた。
「海賊め!」と、スピーディーは叫んだ。
「お願いがあるのです」
「海賊め!」
「お願いがあるのです」と、フォッグ氏はつづけた。「船を売ってくださいませんか?」
「何を言う! ふざけるな!」
「あなたの船を焼かなければならないからです」
「おれの船を焼く!」
「そうです。すくなくとも船の上部は焼かなければなりません。燃料がなくなったからです」
「おれの船を焼く!」と、スピーディ船長は叫んだ。もはや一語々々はっきり発音することができなかった。急《せ》きこんで言った。
「この船……五万ドルも……するんだぞ!」
「では、六万ドルで……」と、フィリアス・フォッグは答えると、札束を差し出した。アンドリュー・スピーディは一瞬ひるんだ。六万ドルを見て心を動かさないアメリカ人はひとりもいない。スピーディ船長は、たちまち怒りを忘れてしまった。監禁されたことも……フォッグに対するあらゆる恨みも忘れてしまった。この船は出来てから二十年になる。それが金になるとは! ……爆弾は、もはや破裂しなくなった。フォッグ氏が、その導火線を抜き取ってしまったからだ。
「鉄の部分は、わたしのものですね?」と、船長は打って変わった穏やかな口調で言った。
「鉄の部分……船体も船底も、それから機関も、あなたのものです。わかりましたね?」
「わかりました」
アンドリュー・スピーディは紙幣の束を受け取ると数え、ポケットにしまった。一部始終を見ていたパスパルトゥーは、顔が青ざめてしまった。フィックスは卒倒しそうになった。フォッグめ、二万ポンド近くも使ってしまった上に、さらに船体も船底も、機関までもくれてやる。これでは船全体をくれてやるも同じではないか! こいつが銀行から盗んだ金が五万五千ポンドにもなることは明白だ!
アンドリュー・スピーディが金をポケットにしまうと、「船長」と、フォッグ氏が言った。「わたしがこんなことをするのを不思議に思わないでください。じつは十二月二十一日、午後八時四十五分までにロンドンへ帰らないと、わたしは二万ポンド損をするのです。ところが、わたしはニューヨークで船に乗りおくれ、そしてあなたがリヴァプールへ行くのを承知しなかったので……」
「そこで、わしは思いがけない拾い物をしたわけだ」と、アンドリュー・スピーディは叫んだ。「畜生、五万ドル! すくなくとも四万ドルは儲《もう》かる」
それから、せいぜい言葉を改めて付け加えた。
「申すまでもありませんが……えーと、なんという船長で?」
「フォッグです」
「ではフォッグ船長、申すまでもありませんが、あなたにはヤンキー気質《かたぎ》があります」
褒《ほ》めたつもりでそう言うと、帰りかけた。フィリアス・フォッグは呼び止めた。
「これで、この船は、わたしのものですね?」
「もちろんです。竜骨からマストの先まで、木の部分は全部!」
「よろしい。……では、まず内部の装備をばらばらにして、燃やしてしまいましょう」
蒸気の力を最大限に維持するためには、当然、これらの木材を消費しなければならない。その日、後甲板、甲板室、船室、船室の寝棚《ねだな》、上甲板と次々にこわした。
翌十二月十九日は、マスト、筏《いかだ》、帆桁《ほげた》が燃された。マストは倒され、小さく切られたのだ。乗組員たちの働きは目ざましかった。パスパルトゥーも切ったり挽《ひ》いたり、ひとりで十人分の活躍をした。まるで一同、破壊に熱狂しているかのようであった。
二十日には、甲板の欄干、舷檣《げんしょう》、乾舷《かんげん》、それから甲板の大部分が燃された。アンリエッタ号は廃船同様、平らになってしまった。
その日、アイルランドの海岸とファストネットの灯台が視界にはいってきた。
しかし午後十時、船はまだクイーンズタウンの沖合を通っているのにすぎなかった。ロンドンへ着くためには、あと二十四時間しかなかった! しかも、この二十四時間は、アンリエッタ号が……全速力を出しても、リヴァプールへ着くのに要する時間であった。そのうえ、ついに燃料が尽きそうになった!
「フォッグ船長」と、アンドリュー・スピーディが言った。スピーディも、いまやフォッグ氏の計画に非常な関心を持つようになっていた。「お気の毒ですが、形勢は思わしくありません。まだクイーンズタウンの沖合です」
「ああ」と、フォッグ氏が言った。「あの明りの見えるところがクイーンズタウンですか?」
「そうです」
「あの港へはいれますか?」
「三時にならないと……。満潮でなければ、はいれません」
「では、待ちましょう」と、フィリアス・フォッグは静かに答えた。なんら変わった表情は見せなかったが、すばらしい考えが閃《ひらめ》いたのだ。彼は不運を克服するため最後の努力をしようと決心していた。
クイーンズタウンはアイルランドの南端にある港で、アメリカ合衆国からくる大西洋横断船が郵袋《ゆうたい》を陸揚げするため寄港する。急行列車が待ちかまえていて、これらの郵便物はダブリンに運ばれ、ダブリンからは快速船でリヴァプールに運ばれる。この方法によれば郵便物は、汽船会社のもっとも速い船で運ばれるよりも十二時間早く着く。
フィリアス・フォッグは、この方法を取って十二時間、得をしようと思った。アンリエッタ号で行けば、明晩でなければリヴァプールへ着けないが、この方法を取れば正午に着ける。したがって午後八時四十五分までには、じゅうぶんロンドンに着けるわけである。
午前一時頃、アンリエッタ号は潮に乗ってクイーンズタウン港にはいることができた。スピーディ船長はフィリアス・フォッグの手を固く握りしめた。フィリアス・フォッグは残骸《ざんがい》になったアンリエッタ号をスピーディ船長に与えた。残骸になったとはいえ、船はなおフィリアス・フォッグに売った金額の半分の値打ちはあった。
一行はすぐ下船した。その瞬間、フィックスは、悪党フォッグを逮捕したいという残忍な衝動に駆られた。しかし、逮捕しなかった! なぜだったのか! 心に迷いを生じたのか? フォッグ氏に対する考えを改めたのか? あるいは結局、自分のほうが間違っていた、と思ったのか?
しかし、フィックスはフォッグ氏を捨てなかった。どこまでも付いて行ってやろう! フィックスは、フォッグ氏、アウダ夫人、それから焦《あせ》りに焦っているパスパルトゥーといっしょに汽車に乗り込んだ。汽車は午前一時半クイーンズタウン出発、夜明けにダブリンに着いた。一行はすぐ船に乗った。それは機関の力だけで走る、あの正式の紡錘《ぼうすい》形の鋼鉄船で、烈風を物ともせず荒海を直進するものであった。
十二月二十一日、午前十一時四十分、フィリアス・フォッグは、ついにリヴァプールの埠頭《ふとう》に立った。ロンドンまで、あとわずかに六時間だ。そのとき、フィックスがフォッグ氏に近付いて、その肩に手を置き、逮捕状を見せながら言った。
「きみはフィリアス・フォッグだね? 間違いないね?」
「そうです、わたしは……」
「女王陛下の名において、きみを逮捕する!」
三十四 パスオアルトゥーがいつになく辛辣な酒落をとばすこと
フィリアス・フォッグは投獄された。リヴァプール税関の留置場に禁固されたのだ。たぶん今夜はここに留められ、明日、ロンドンへ送られるのであろう。
主人が逮捕されるのを見ると、パスパルトゥーは刑事に飛びかかったが、すぐ警官たちに押えられた。
眼前の乱暴|狼籍《ろうぜき》に、アウダ夫人は恐れおののいた。パスパルトゥーが事情を説明した。彼女にとっては命の親……この高潔にして勇気ある紳士が盗賊とは! なんの証拠があって、そう断定するのか! 若い婦人は怒って抗議したが、命の親を救うために何もできず、何を企てることもできないのを知ると、ただ涙を流すばかりであった。
フィックスとしては職務上、義務の命じるままにフォッグを逮捕しただけだ。この紳士が有罪か無罪か、それは裁判所の断定することであった。
パスパルトゥーは、居ても立ってもいられない自責の念にかられていた。こんな不幸が起こったというのも、すべて自分のせいだ! なぜ、こうなるかもしれないことをフォッグ氏に隠していたのであろう? フィックスから、その身分と職務とを打ち明けられたとき、なぜ主人に知らせずに、自分の胸ひとつに納めてしまったのだろう? もし主人がそれを知ったら、すぐ手を打ったであろう。すなわち自分が潔白なこと、フィックスが誤解していること、それを証明したであろう。イギリス本土に着いたらすぐ自分を逮捕しようと待ちかまえている男に自分のあとをつけさせ、しかも、わざわざ旅費まで出してやってここまで連れてくるようなことを、主人はけっしてしなかったであろう。ああ、なんという過ちを、無分別を、おかしてしまったのであろう! ……不幸な若者は、いくら後悔してもしきれなかった。とめどなく涙を流した。見るに耐えないありさまであった。たぶん石に頭をたたきつけてしまいたいような気持ちであったろう。
アウダ夫人とパスパルトゥーとは、もう一度フォッグ氏に会いたい一心で、寒さなど物ともせず、税関の柱廊に立ち尽くしていた。
一方フォッグ氏は、こんどこそ決定的に失敗してしまったのだ! しかも目的地を眼前にしてである! この逮捕は何物もつぐなうことのできない打撃を彼に与えた。十二月二十一日、午前十一時四十分、リヴァプールに着いたのであるから、午後八時四十五分、改革クラブへ現われるためには、なお九時間五分の間があった。リヴァプール〜ロンドン間は六時間。それなのに!
しかし、もし、このとき税関の留置場にはいってきた者があったら、彼は、フォッグ氏が憤慨しているどころか、身動きひとつしないで平然と木のベンチに腰かけているのを見たであろう。フォッグ氏はあきらめていたのか、それとも、あきらめていなかったのか? しかしこの最後の打撃も、すくなくとも見たところではフォッグ氏に、なんの動揺も与えなかったように思われた。けれどもフォッグ氏の胸中には、しだいに怒りが湧きあがっていたのであろうか! いままで抑えに抑えていただけに、いざ爆発するとなると、ものすごい様相を呈する怒りが。……しかし、フォッグ氏は、相変わらず平然として待っていた。待っていた、何を? この期《ご》におよんで、なお希望を持っていたのか? 留置場の扉によって自由を奪われながら、なお成功を夢みていたのか!
確かなことは、フォッグ氏がテーブルの上に静かに時計を置いて、その針の進行を異常なまでに凝視《ぎょうし》していることであった。その唇からは、つぶやき一つもれなかった。
いずれにしても目下の状況は容易ならぬものであった。フォッグ氏の正体を知らない人々にとっては、この状況は、次の二つのうちのどちらかに思えた。
紳士フィリアス・フォッグは破産した。
悪漢フィリアス・フォッグは逮捕された。
彼は脱出を考えたであろうか? この留置場のどこかに脱出口があるかもしれない、それを探そう、と考えたであろうか? 事実、彼は立ちあがって留置場内を一周した。しかし、扉は固く締められ、窓には鉄格子が嵌《はま》っていた。彼はベンチに戻った。ポケットから旅程表を取り出した。最後の行に、
「十二月二十一日、土曜日、リヴァプール」
とあった。それに付け加えた。「八十日目、午前十一時四十分」
それから、また待った。
税関の大時計が一時を打った。彼は自分の時計を見た。大時計より二分進んでいた。
二時!
(いま、急行列車に間に合えば、今夜八時四十五分までにロンドンに着いて改革クラブへ行けるのだ!)と、彼は思った。額が、かすかに曇った。
二時三十三分、留置場の外で騒ぎが起こり、扉がガタガタ鳴った。パスパルトゥーの声が聞こえた。フィックスの声が聞こえた。
フィリアス・フォッグの目は一瞬、キラリと光った。
扉が開いた。アウダ夫人が、パスパルトゥーが、フィックスが飛び込んできた。
フィックスは髪を振り乱し、息せき切っていた。とぎれとぎれに言った。
「まったくもって申し訳ない……人違いでした……賊は三日前、つかまっていました……あなたさまは無罪です……」
フィリアス・フォッグは釈放されたのだ! 彼は刑事に詰め寄った。刑事の顔を真正面から見|据《す》えた。右手で拳を固めた。左手で拳を固めた。その両腕をうしろに引いて弾《はず》みをつけ、右、左、立てつづけに二度、機械のような正確さで哀れな刑事の顔を殴りつけた。いつも泰然自若たるフィリアス・フォッグにとっては、おそらく空前にして絶後の早業《はやわざ》であった。
「命中!」と、パスパルトゥーは思わず叫んだ。そして、いつもの遠慮深さを忘れて、いかにもフランス人らしい辛辣《しんらつ》な酒落を飛ばした。
「ざまあみろ! これこそイギリスのレースの見事なアップリケというもんだ!」
フィックスは、その場に引っ繰り返っていた。当然の報いだ、と観念していたのだ。フォッグ氏、アウダ夫人、パスパルトゥーは、すぐ税関を出た。馬車に乗った。数分でリヴァプール駅に着いた。ロンドン行きの急行列車に間に合うだろうか?
時刻は午後二時四十分であった。すでに急行列車は三十五分前に発車していた。
フィリアス・フォッグは臨時列車を増発してくれるようにと頼んだ。快速の機関車が数台、蒸気をあげていた。いつでも出発できた。しかし、車両の編成上、臨時列車は三時前には発車させることができなかった。
三時、フィリアス・フォッグは機関士にささやいた。賞金はじゅうぶん出す。……彼は若い婦人と忠実な従僕とをともなって、全速力でロンドンに走った。
もし途中、一度も停まる必要がなかったら、リヴァプール〜ロンドン間を五時間半で走ることは、むしろ容易なことといえたろう。しかし、やはりそうはいかなかった。紳士が終着駅に着いたとき、ロンドンじゅうの時計は八時五十分を示していた。
フィリアス・フォッグは世界一周旅行を完遂した。ただし五分遅れた。
彼は破産した。
三十五 パスパルトゥーは主人の命令を二度と主人に繰り返させないこと
翌日、フィリアス・フォッグが帰宅した、ということを、だれかがサヴィル街の人々に告げたとしたら、人々はさぞ驚いたであろう。フォッグ邸は、見たところは、きのうとすこしも変わらなかった。ドアというドア、窓という窓は、すべて締められていた。昨夜、フィリアス・フォッグは駅に着くと、パスパルトゥーになにか食料品を買ってくるようにと命じ、自分は自邸に直行した。
この紳士は恐ろしい打撃を受けたにもかかわらず、あい変わらず平然としていた。いまや破産しているのだ! しかも、へぼ刑事がへまをやったばかりに! 長い道中を確かな足どりで、一歩々々踏んできた。ありとあらゆる障害を乗り越え、ありとあらゆる危険に打ち克ってきた。しかも途中、時間に余裕があったときには、いささかの善行もした。そのあげくの果てにリヴァプール港で逮捕された。つまり、まったく予想もしなかった、それゆえに防ぐこともできなかった暴力行為の犠牲になったのだ。思えば恐ろしいことであった。
旅行に持参した大金は、ほとんど使い果たしていた。ベアリング商会に預けてある二万ポンド……全財産も、いまは自分のものではなかった。改革クラブの仲間たちのものであった。たとえ賭に勝ったとしても、このように大金を費やしてしまった以上、儲《もう》かるはずはなかった。もともと彼は、儲けるためではなく、名誉のために賭をする人間であった。……しかし、とにかく彼は賭に負けた。完全に破産してしまったのである。
しかし、フォッグ氏は、とっくに覚悟していた。これから何をなすべきかを知っていた。サヴィル街の邸宅の一室が、アウダ夫人のためにしつらえられた。若い婦人は悲嘆のあまり途方にくれていた。フォッグ氏が口にした二、三の言葉から、彼女は氏が何か不吉なことを考えているのではないか、と思わずにはいられなかった。
事実、ある種のイギリス人は偏執狂《へんしゅうきょう》者で、固定観念に圧迫されて、しばしば悲惨な最期をとげる、ということは知られている。パスパルトゥーもまた、それとなく主人の行動を監視した。
しかし、このばか正直な若者は邸に戻ると、すぐ自分の部屋に馳けあがって行って、八十日間燃えつづけていたガス燈を消した。郵便箱の中にガス会社の請求書がはいっていた。それを見ると彼は、やれやれ、ちょうどよかった、これ以上は自分では払えなかった、と思った。
夜は過ぎていった。フォッグ氏は寝室にはいった。眠れたであろうか? アウダ夫人は一睡もできなかった。パスパルトゥーは、まるで番犬のように主人の寝室の外で夜を明かした。
翌朝、フォッグ氏はパスパルトゥーを呼んで、アウダ夫人のために朝食を用意するようにとひと言、しかし、きっぱりと命じた。自分はお茶とトーストでよい、と言った。そして、アウダ夫人に伝言するように命じた。きょうは失礼して、朝食も晩餐もともにしない。整理しなければならぬいろいろの仕事があるので一日中忙しい。階下にも降りて行かない。ただし今夜、ちょっと、お目にかかってお話したいことがある。
パスパルトゥーは、きょうの日程について主人の指図に従うほかはなかった。しかし、主人の言葉も耳にはいらないように、その場に立って主人の顔を見詰めていた。部屋を出て行く気にはなれなかった。いまほど後悔の念に責められている時はなかった。なんという取り返しのつかない不幸を招いてしまったのであろう? そうだ! もしフィックス刑事の正体を、その秘密の意図を、フォッグ氏に打ち明けていたとしたら、フォッグ氏は間違えてもフィックスをリヴァプールまで連れてくるようなことはしながったであろう。そうしたら……。
パスパルトゥーは、もはや耐えられなくなった。
「旦那さま! フォッグさま!」と、彼は叫んだ。「どんなお咎《とが》めを受けても厭《いと》いません。みんな、わたくしが至らなかったばかりに……」
「だれのせいでもない」と、フィリアス・フォッグは冷静そのものの口調で言った。「早く行きなさい」
パスパルトゥーは主人の部屋を出て若い婦人のところへ行き、主人の意向を伝えた。そして、
「奥さま」と、つけ加えた。「わたくしは、もうどうすることもできません。ご主人さまのお気持ちを、すこしでも変えたいと思っておりますが、たぶん奥さまなら……」
「わたくしにも、そんな力はありません」と、アウダ夫人は答えた。「フォッグさんは、だれがなんと言おうと、ご自分のお気持ちを変えるかたではありません! わたくしの心は、あのかたに対する感謝の気持ちでいっぱいです。でも、そのわたくしの心を一度でもわかってくださったでしょうか! 一度でも、わたくしの心を察してくださったでしょうか! ……パスパルトゥーさん、どうか、あのかたからすこしでも目を離さないようにしてください。あのかたは今夜、わたくしに何か話したいことがある、とおっしゃったそうですね?」
「そうです、奥さま。旦那さまは、奥さまがこれからイギリスでどうお暮らしになるか、ご心配になっていらっしゃるのにちがいございません。たぶん、そのご相談です」
「どうなることか、おたがいに待って、様子を見ているほかはありませんね」と、若い婦人は答えた。それきり物思いにふけった。
こうして、この日……日曜日じゅう、サヴィル街の邸宅は、だれも住んでいないようにみえた。フィリアス・フォッグは、ビッグ・ベンが午前十一時半を告げたけれども、クラブへ出かけようとはしなかった。この邸宅に住んで以来、初めてのことであった。
どうして、この紳士は改革クラブへ行かなかったのか? クラブの伸間たちは、もはや彼を待っていなかった。昨夜、運命の時間に、すなわち十二月二十一日、土曜日、午後八時四十五分に、彼は改革クラブのサロンに姿を現わすことができず、それゆえ賭に負けてしまったからだ。彼は二万ポンドのために銀行へ行く必要もなかった。というのは、すでに相手方は、彼の署名した小切手を持っているからであった。相手方は、その小切手に裏書きしてベアリング兄弟商会へ送り、そこに記載されている金額を彼らの貸し方に記入させれば、それでよかったのである。
それゆえフォッグ氏には外出する必要がなかった。自分の部屋に閉じこもって用事を片付けていた。
パスパルトゥーは、サヴィル街の邸宅の階段を、たえず登ったり降りたりしていた。この哀れな若者にとっては時間は無限に長く思われた。主人の部屋のドアに耳をつけたり、鍵穴からのぞいたり……それらをすこしも不謹慎《ふきんしん》とは思わなかった。むしろ自分の義務だと思った。いつ破局が起こるかもしれない。戦々競々としていた。ときどきフィックスのことを考えたが、その考えは、いままでとはまるで変わっていた。もはや刑事を恨んではいなかった。刑事はフィリアス・フォッグについて、世間のだれでもがするように思い違いをした。尾行して逮捕した。職務上の義務を果たしただけだ。……ところが自分は……。とても生きてはいられない気持ちであった。浅ましいやつ、卑しむべきやつ、いくら自分で自分を罵《ののし》っても足りない気持ちであった。
あまりに自分がみじめであった。とうとう、一人でいるのに耐えられなくなった。アウダ夫人のドアをノックして中にはいると黙って片隅に腰かけ、若い婦人を眺めた。彼女は、相変わらず物思いにふけっていた。
夜になった。七時半頃、フォッグ氏はパスパルトゥーを呼んで、アウダ夫人に伝えさせた。これから、お訪ねしたい。……間もなくフォッグ氏とアウダ夫人とは彼女の部屋でふたりきりになった。
フィリアス・フォッグは椅子を引き寄せて暖炉の前に腰かけ、アウダ夫人と向かい合った。彼の顔は、どんな感情も示していなかった。帰国後のフォッグは、出発前のフォッグであった。同じ冷静さ。同じ沈着さ。
彼は五分ばかり黙っていた。それから目をあげてアウダ夫人を見た。
「マダム」と、彼は言った。「イギリスまで、おいで頂いたことを、お許しくださるでしょうか?」
「ああ、許すなんて、フォッグさま!」 と、彼女は胸のときめきを抑えながら答えた。
「それなら先をつづけさせて頂きます。あなたにとって非常に危険になったお国から、あなたをお連れして遠くここまでご案内しようと思ったとき、わたくしには財産がありました。わたくしは失礼ながら、わたくしの財産の一部をあなたに差しあげて、あなたが幸福に、自由に、お暮らしになれるようにと、ひそかに考えました。ところが、わたくしは破産してしまいました」
「存じております、フォッグさま」と、若い婦人は答えた。「わたくしのほうこそ、お詫《わ》びいたさなければなりません。たとえ心ならずもとは申しながら、あなたのお供をして、ご計画を狂わせたため、こんな目にお会わせしたことは、わたくしのせいでこざいます。お詫びの言葉もございません」
「マダム、あなたはインドにとどまることはできませんでした。狂信者どもにつかまらないためには遠い外国に逃げて、安全を確保なさらなければなりませんでした」
「フォッグさま」と、アウダ夫人は答えた。「つまりあなたは、わたくしを恐ろしい死から救ってくださったばかりでなく、外国での生活を保証しようとしてくださいました」
「そうです、マグム」と、フォッグは答えた。「ところが事、志《こころざし》と違ってしまいました。しかし、わたくしには、まだすこしばかりのものが残っています。それをあなたのために使いたいと思っています。お許しくださるでしょうか?」
「でも、フォッグさま、あなたは……あなたはどうなさいます?」
「わたくしですか」と、紳士は落ち着き払って答えた。「わたくしは何もいりません」
「でも、どうなさいます? これから、いろいろなことが、お身の上に……」
「適当にやっていきます」と、フォッグ氏は答えた。
「どちらにいたしましても」と、アウダ夫人は言った。「あなたのようなかたが、お困りになることはないと存じますが。それに、お友達が……」
「わたくしには友達はありません」
「お身内は?」
「身内もありません」
「まあ、お気の毒に! 独りぼっちということは、悲しいことでございますからね。でも、どうして、そんなことが! お悲しみを慰める人が、ひとりもないなんて! 世間では、よく申しますね、ひとりでは耐えられない不幸も、ふたりなら耐えられるって……」
「そういうことを言いますが」
「フォッグさま」と、アウダ夫人は言うと、立ちあがって紳士に手を差し伸べた。「ああ、お友達とお身内! あなたは、その両方を同時にお望みになりませんか! わたくしを、あなたの妻にして頂けないでしょうか?」
この言葉を聞くと、フォッグ氏も立ちあがった。彼の目にはかつてない輝きが現われた。唇はかすかにふるえた。アウダ夫人は彼を見詰めた。その目には誠実さ、純粋さ、堅固さ、やさしさが、あふれていた。命の恩人に報いるためには、どんな苦しみもあえて辞さない……それは気高い婦人の美しい目であった。フォッグ氏は驚き、胸迫った。目をつぶった。彼女の視線がこれ以上、心の奥にしみこむのを避けようとするかのようであった。目を開けると、単純に言った。
「わたくしは、あなたを愛します。神に誓って愛します。わたくしのすべては、あなたのものです!」
「おお!」と、アウダ夫人は叫ぶと、片手をあげて胸を押えた。
呼鈴の音に、パスパルトゥーが現われた。フォッグ氏は、まだアウダ夫人の手を握っていた。パスパルトゥーには、すぐわかった。彼の大きな顔は熱帯の真上の太陽のように輝いた。
フォッグ氏はパスパルトゥーに言った。
「これからメリールボーン教区のサミュエル・ウィルソン師のところへ行って、あす、結婚式をあげたい、と知らせておいてくれたまえ。時刻は、まだ遅くはないだろう」
パスパルトゥーは、いかにも嬉しそうに微笑した。
「けっして遅くはございません」と、彼は答えた。
八時五分であった。
パスパルトゥーは付け加えた。
「式は明日でございますね、月曜日に!」
「明日、月曜日に?」と、フォッグ氏は若い婦人の顔を見ながらたずねた。
「明日、月曜日に!」と、アウダ夫人は答えた。
パスパルトゥーは鉄砲玉のように飛び出して行った。
三十六 フィリアス・フォッグ株がふたたび市場で額面以上になること
さて、ここで一言しなければならないのは、銀行事件の真犯人ジェームズ・ストランドなる者が十二月十七日エジンバラで逮捕されて以来、連合王国の世論が急変したことである。三日前まで、フィリアス・フォッグは警察が厳しく追求していた犯人であったが、いまは世界一周という奇妙な旅行を正確無比に完成しつつある世にも誠実な紳士であった。新聞は、いっせいに書きたてた。成功、不成功、いずれに勝けた人々も、もうとっくに賭のことは忘れていたが、突然、魔法にでもかかったように息を吹き返した。あらゆる取り引きが、ふたたび有効となり、あらゆる契約が、ふたたび価値を生じた。ばかりでなく、賭はまた盛んに行なわれるようになった。フィリアス・フォッグ株は額面以上で売買されるようになった。
改革クラブの五人の紳士は、三日このかた、不安の中で過ごした。忘れていたフィリアス・フォッグが、また眼前に立ち現われたからだ! いま、彼はどこにいるのであろう? 十二月十七日……ジェームズ・ストランドが捕えられた日は、フィリアス・フォッグが出発してから七十七日目であった。彼からは一度の便りもなかった。失敗してしまったのか? 勝負を断念してしまったのか? それとも予定に従って旅行をつづけているのか? そして、十二月二十一日、土曜日、午後八時四十五分、改革クラブの広間の入り口に神のごとき正確さで現われるであろうか?
この三日間、イギリス人たちが、どんな不安に駆られていたか、それを描くことはむずかしい。フィリアス・フォッグの消息を求めて、電報がアメリカやアジアに打たれた。サヴィル街の邸宅の前には朝となく夜となく人々が集まった。……何事も起こらなかった。不幸にも勘違いして長々と尾行していたフィックスは、どうなってしまったのであろう? 警察さえ知らなかった。しかし、そんな状況にもかかわらず、賭は以前に増して行なわれた。競馬《けいば》馬フィリアス・フォッグは、いよいよ最後のコーナーにかかっていた。もはや彼の負け百パーセントと思う者はなかった。しかし二十パーセント、十パーセント、あるいは五パーセントは、なお彼の負けと思った。その中で、老|中風《ちゅうぶう》患者アルビマール卿だけは、相変わらず彼の勝利を信じて疑わなかった。
ついに土曜日の夜になった。ペルメル街、およびその周辺の街路は大群集でうずまった。仲買人たちは改革クラブを取り巻いて動かなかった。交通はとどこおった。人々は議論し、口論し、フィリアス・フォッグ株の値を、まるで公債の値のように叫んだ。警官たちは群衆を整理するのに大童《おおわらわ》であった。フィリアス・フォッグが到着する予定の時間が迫るにつれて、群集の興奮は異様なまでになった。
その日の夕方、フィリアス・フォッグの五人の仲間は、改革クラブの大広間にいた。すでに九時間、彼らはそこにいたのだ。ふたりの銀行家ジョン・サリヴァンとサミュエル・ファレンティン、技師アンドリュー・スチュアート、イングランド銀行副総裁ゴーシャー・ラルフ、ビール醸造業トマス・フラナガン……五人は心ここにあらずという体《てい》で待っていた。
大広間の時計が八時二十五分を指すと、アンドリュー・スチュアートが立ちあがって言った。
「諸君、あと二十分だ。二十分たつと、フィリアス・フォッグ君とわれわれとが約束した期限が切れる」
「何時に着くのかね、リヴァプール発の汽車で期限内に着くのは?」と、トマス・フラナガンがたずねた。
「七時二十三分だ」と、ゴーシャー・ラルフが答えた。「次のは午前零時十分だ」
「それなら諸君」と、アンドリュー・スチュアートがふたたび言った。「もしフィリアス・フォッグが七時二十三分の汽車で着いたとしたら、もうとっくにここにくるはずだ。どうやら、われわれの勝ちらしいぞ」
「まあ、待ちたまえ。まだそう決めるのは早い」と、サミュエル・ヴァレンティンが答えた。「なにしろあいつは、あのとおりの変人だ。正確の権化《ごんげ》と言っていい。毎日ここへくるのにも、一分……いや一秒たりとも、早くもこなければ遅くもこない。今夜も、ぎりぎり決着の時間に現われるだろう。ぼくは驚かないね」
「しかし、ぼくは」とアンドリュー・スチュアートは言った。彼は相変わらず神経質だ。「たとえフォッグが現われたとしても、ぼくはぼくの目を信じないね」
「まったく」と、トマス・フラナガンが答えた。「フィリアス・フォッグの計画は気違いじみている。いかに彼が正確でも、不可抗力の遅れはあり得る。二、三日遅れれば、それだけで旅行は失敗だ」
「そのとおり」と、ジョン・サリヴァンが付け加えた。「第一、彼からはなんの便りもない。旅行の途中、電報を打とうと思えば、いくらでも打てるのだ」
「彼は失敗したのだ」と、アンドリュー・スチュアートが答えた。「徹底的に失敗したのだ。ご承知のとおり、チャイナ号はきのうニューヨークからリヴァプールに着いた。期限に間に合うためには、彼はどうしても、この船に乗っていなければならない。ところがだ。シッピング・ガゼット紙の発表した船客名簿には彼の名がない。よほどの幸運に恵まれたとしても、せいぜいアメリカに着いたか、着かないかぐらいのところだ! わが親愛なる仲間は、すくなくとも二十日は期限に遅れる、と、ぼくは思っている。老アルビマール卿もまた、これで五千ポンド損するわけだね」
「もう議論の余地はないね」と、ゴーシャー・ラルフが答えた。「あした、フォッグ氏の小切手をベアリング兄弟商会に提出するだけだね」
広間の時計が八時四十分を告げた。
「あと五分だ」と、アンドリュー・スチュアートが言った。
五人の仲間は、たがいに顔を見合わせた。たぶん彼らの心臓は多少とも鼓動を早めたのにちがいなかった。いずれも賭には剛《ごう》の者だが、それにしても金額が大きかった。しかし、だれも、そ知らぬ顔をしていた。というのは、サミュエル・フラナガンが言い出したので、一同カードのテーブルに向かったからである。
アンドリュー・スチュアートは椅子にかけながら言った。
「たとえ、いま現金で三千九百九十九ポンド貰うとしても、四千ポンドの券は譲れないね」
時計の針は、八時四十二分を指していた。
一同、カードを取りあげていたが、さすがに時計から目を離すことはできなかった。自信はあった。しかし、時間がいまほど長く感じられたことはなかった。
「八時四十三分」と、トマス・フラナガンが言った。そしてゴーシャー・ラルフが差し出したカードの束をめくった。
一瞬、沈黙がきた。クラブの大広間は静まり返った。しかし、クラブの外は騒がしかった。その騒ぎのなかには、ときには鋭い叫び声も響いた。時計の振り子は着々と時を刻んだ。六十で一区切り。その区切りは彼らの耳を打った。
「八時四十四分!」と、ジョン・サリヴァンが言った。その声には無意識の感動があった。
いよいよ、あと一分で賭は勝ちだ。アンドリュー・スチュアートと、その仲間たちとは、それぞれ手にしていたカードを放り出してしまった! 一秒、二秒。数えた。
四十秒たった。何事も起こらなかった。五十秒たった。何事も超こらなかった! 五十五秒。クラブの外で万雷《ばんらい》の拍手が起こった。万歳、万歳! しかし、そこには「畜生!」と叫ぶ声もいくらかまじった。
五人の仲間は立ちあがった。
五十七秒、大広間のドアが開かれた。まさに六十秒、フィリアス・フォッグが現われた。あとにはクラブに押し入った熱狂した群集がつづいた。彼は冷静な声で言った。
「諸君、帰ってきました」
三十七 結末……フィリアス・フォッグは世界一周旅行から何物も得ず、ただ幸福だけを得たこと
たしかに、フィリアス・フォッグその人であった。
読者諸君は午後八時五分フィリアス・フォッグの一行がロンドンに着いてから約二十五時間後……パスパルトゥーが主人の命令でサミュエル・ウィルソン師のもとに駆けつけたことを記憶しておられるであろう。用件は、もちろん明日結婚式を挙げたいから、その用意を、ということであった。
パスパルトゥーは手の舞い足の踏むところを知らず、という気持ちであった。しかし、駆けつけてみると、師はまだ帰っていなかった。待った。たっぷり二十分は待った。
師の家を出たのは八時三十五分であった。しかし、その恰好といったら! 帽子はどこへやら、髪は振り乱して! 走りに走った。通行人を引っ繰り返した。龍巻のように歩道を疾駆《しっく》した。
三分間で、サヴィル街の邸宅に戻った。息を詰まらせながら主人の部屋によろめき込んだ。口をきくことができなかった。
「どうしたのだ?」と、フォッグ氏がたずねた。
「旦那さま……」と、パスパルトゥーは、あえぎながら言った。
「ご結婚は……できません」
「できない?」
「できません……明日は」
「なぜ?」
「明日は……日曜日です」
「月曜日だ」
「いいえ……今日は……土曜日です」
「土曜日? そんなはずはない!」
「いいえ、いいえ、いいえ」と、パスパルトゥーは叫んだ。「一日、日を間違えていらっしゃるのです! わたくしたちは二十四時間前に着いたのでございます。……でも、あと十分しかございません」
パスパルトゥーは主人の襟首《えりくび》をつかむと、無双の強力で、むりやり引きずった。
フィリアス・フォッグは何も考える暇がなかった。部屋を出た。邸を出た。馬車に飛び乗った。御者に百ポンドはずんだ。二匹の犬をはね飛ばした。五台の馬車にぶつかった。改革クラブに着いた。
大広間に現われるや、時計は八時四十五分を指した。
フィリアス・フォッグは八十日間世界一周を果たしたのだ! 二万ポンドの賭に勝ったのだ!
しかし、こんなに正確な、こんなに慎重な男が、どうして一日、間違えたのであろう? どうしてロンドンに着いたのを、十二月二十一日、土曜日の夜と思ったのであろう? 実際には十二月二十日金曜日、すなわち出発以来七十九日目であったのに……?
彼の間違いは容易に説明できる。
フィリアス・フォッグは旅程表の上で、知らず知らず一日得をした。というのは、東へ向かって世界一周をしていたからで、もし反対に西へ向かっていたら一日損をしたわけだ。東に向かって行くことは、太陽に向かって行くことだ。つまり東経を一度越すたびに四分ずつ日が短くなる。地球の円周は三百六十分されているから、三百六十掛ける四分は、ちょうど二十四時になる。すなわちフィリアス・フォッグは無意識のうちに一日得をしたのだ。……別の言い方をすれば、フィリアス・フォッグは東に進みながら太陽が子午線を通過するのを八十回見た。一方、ロンドンに住んでいる仲間たちは七十九回しか見なかった。それゆえ、きょうは土曜日で、フォッグ氏が考えていたように日曜日ではなく、さらに、それゆえに仲間たちは改革クラブの広間で彼を待っていたのである。
なお、パスパルトゥーの時計……先祖伝来のいわく付きの時計は、いつもロンドン時間に合っていた。もし、この時計が時間ばかりでなく、日も示していたら、こんな誤りは起こらなかったのにちがいない。
フィリアス・フォッグは、こうして二方ポンドの賭金を得たが、旅行の途中で一万九千ポンドを使ってしまったので、残りは千ポンドにすぎなかった。しかし、前述したとおり、この風変わりな紳士の目的は運命への挑戦であって、金銭ではなかった。彼は残った千ポンドも、律義者のパスパルトゥーと、不運なフィックスとに分けた。彼はもはやフィックスを憎むことはできなかった。ただし規則は規則であった。彼はパスパルトゥーが不注意にも消費したガス代、千九百二十時間分は、パスパルトゥーの分け前から差し引いた。
その日の夜、フォッグ氏はアウダ夫人に言った。相変わらず冷静そのものであった。
「やはり結婚してくださいますか?」
「フォッグさま」と、彼女は答えた。「そうおたずねしたいのは、わたくしのほうでございます。あなたは破産なさいました。でも、いまはお金持ちでいらっしゃいます……」
「失礼ですが、わたくしが破産しなかったのは、あなたのおかげです。つまり、わたくしの財産は、すべてあなたのものです。もし、あなたが結婚なさろうと思わなかったら、パスパルトゥーはサミュエル・ウィルソン師のもとに行かなかったでしょう。したがって、わたくしは日を間違えていたのに気がつかなかったでしょう。そして……」
「ああ、フォッグさま……」と、若い婦人は言った。
「おお、アウダ夫人……」と、フィリアス・フォッグは答えた。
結婚式は、当然、四十八時間後に挙げられた。堂々として輝くばかりのパスパルトゥーが、若い婦人の介添え人として式に列した。
彼は彼女の命を救わなかったか! 今日、この晴れの式に列する名誉は、当然彼のものではなかったか!
ところで、翌朝早く、パスパルトゥーは主人の部屋のドアを割れんばかりにたたいた。
ドアがあいた。冷静な紳士が現われた。
「どうしたのだ、パスパルトゥー?」
「旦那さま! 気が付きました、たったいま……」
「何を?」
「世界一周は七十八日しかかからなかったのでございます」
「もちろんだ」と、フォッグ氏が答えた。「インドで遅れなかったらね。……しかし、インドを通らなかったら、アウダ夫人を助けることはできなかったし、彼女がわたしの妻になることもなかったのだ……」
そう言うと、フォッグ氏は静かにドアをしめた。
こうしてフィリアス・フォッグは賭に勝った。八十日間世界一周を成し遂げた。そのためには、あらゆる乗物を利用した。定期船、鉄道、馬車、商船、橇《そり》、象。この風変わりな紳士は、彼の特質を……冷静さを、正確さを、遺憾《いかん》なく発揮した。ところで、結局? この旅行から彼は何を得たのであろう? 何を持ち帰ったのであろう?
何も! そうかもしれない。何も! しかし彼は……実に偶然ではあったが……美しい女性を得て、もっとも幸福な男性になったのである。
こう考えると、たとえ、もっと得るところは少なくても、世界一周を試みる人は、これからもないとはいえないであろう。 (完)
解説
ジュール・ヴェルヌ……人と作品
海へのあこがれ
ジュール・ヴェルヌは一八二八年(わが国の文政十一年。明治維新前四十年)、二月八日、フランス大西洋岸の港町ナントで生まれた。父はプロヴァンス出身で、ナントで弁護士を開業していたピエール・ヴェルヌ。母はナントの名家ラ・フュイ家出のソフィー・アロット。ジュールは長男で、翌年、弟のポールが生まれ、のち三人の妹が生まれた。
幼いジュールはナントの埠頭に立って海からの風に吹かれ、三本マストの外航船が出入りするのを眺めた。町には異国の産物があふれていた。南方の果物。篭の中には猿やオウムもいた。
六歳、サンブラン夫人の経営する小学校に入学。夫人の夫は船長で、三十年前海へ行ったきり帰ってこなかったが、夫人はなおも夫の生還を信じ、絶えずそれを子どもたちに話して聞かせた。この小学校からジュールの得たのは「海へのあこがれ」だけだったと言ってもいい。後年、ジュール・ヴェルヌは言っている。
「子どもたちよ、あまり勉強するのはよしたまえ。あまり勉強する子どもは、たいてい馬鹿な青年になり、間抜けな大人になる」
十一歳、夏のある朝、ジュールはインド行きの帆船コラリ号にもぐり込んだ。船室のボーイとして使ってもらうつもりであった。ナントはロワール川の河口から約三十マイルの上流にある。コラリ号が河口のパンブフに着くと、そこの埠頭に父が立っていた。ジュールは一種の安堵を覚えた。冒険はやはり恐ろしかったのだ。父に殴打《おうだ》され叱責され、泣きわめいた。母に誓った。「ぼくはもう空想の中でしか旅行しません」
サンゴの首飾り
ジュルは母に告白した。「コラリ号に乗り込んだのは、カロリーヌにサンゴの首飾りを持ってきてやりたかったからです」
子どもらしい空想であるが、しかし、おない年のいとこカロリーヌ・トゥロンソンに対するひそかな愛は年とともにジュールの中で生長していった。陽気なばかりで、なんの取り柄《え》もない娘が、ジュールには天使のように見えた。
二重の傷心
十六歳、ナントのリセに入学。十八歳、カロリーヌにささげる十四行詩と、一幕物の韻文悲劇とを書いた。ラ・フュイ家の出である母親は親類や知人が多かった。彼らの集まりで、ジュールは彼の「傑作」を読みあげた。拍手は起こらなかった。かわりに嘲笑が起こった。その席にはカロリーヌもいた。カロリーヌもまた嘲笑した。ジュールにとっては二重の傷心であった。作品が拒絶され、それにもましてカロリーヌに軽蔑されたからである。
十九歳。カロリーヌはナントで結婚した。二十歳、また一篇の戯曲を書いたが、ナントの文学グループで読まれたにすぎなかった。二重の傷心は、その極に達した。のちにジュールの母は息子の容貌について言っている。「はっきりした目鼻立ち、人をひきつけるような眼差し、額に垂れたブロンドの房、どちらかといえば美男子です」
しかし当時のジュールは、いつも顔をしかめ背をこごめ、服装もだらしなく、人に不快な感じを与える少年であった。パリに出たい、と父に頼んだ。父は許してくれなかった。ジュールはついに決心して、パリで法律の勉強をし、弁護士試験に合格したらナントに帰って父の職業をつぐ、と父に警った。父はやっと許してくれた。ジュールは同郷の旧友で、すでにパリで音楽の勉強をしているアリスティード・イニャアールに手紙を書いた。「このナントで、ぼくはもうだれからも必要とされていない。だから、ぼくは行く」
父が上京を許してくれたのは、厄介払いがしたかったからだ、そんな気さえした。弟のポールは兄と同じリセを卒業すると、すでに船員として身を立てていた。西インド諸島へ行く船に乗っていた。
パリへ
一八四八年(二十歳)、十一月十二日午後九時、パリに着いた。小雪が舞っていた。ナント出身の老婦人が経営している下宿屋に落ち着いた。ランシェーヌ・コメディ街にある下宿屋の窓からは、オデオン座が見えた。
ジュールは母を愛していた。父は厳格であったが、父を尊敬していた。初めから父母の期待を裏切る気にはなれなかった。法律の本を読んだ。しかし、それよりもしばしばラシーヌを読み、シェークスピアを読んだ。欲望は無限であった。あらゆる本が読みたかった。あらゆる劇が観たかった。しかし家からの仕送りは限られていた。シャルパンティエ版十六フランのシェークスピア全集を買うのに三日間食事を節した。飢えもまた二重であった。
幸運
のちに大作家になる無名の青年に対して、文学の都パリは常に幸運を用意する。幸運とは普通、貴婦人の主宰する文学サロンに紹介されることだ。ジュールは、おじのシャトーブールによって、ジェミニ将軍〔一七七九〜一八二〇。有名な「戦術論」の著者〕の未亡人に紹介され、その縁故で二、三の文学サロンに出入しているうちに、アレクサンドル・デュマ・ペールの知遇を得るという驚くべき幸運をつかんだ。当時デュマは劇作家として、小説家として、名声の絶頂にあった。ジュールは、この「パリの王様」の家の若い常連のひとりになった。デュマが手ずから焼いてくれた暖いオムレツを食べた。「歴史劇場」〔一八四七年、デュマが創設した〕のデュマの桟敷で、デュマ作「若き三銃士」の初演を観た。
ジュールは劇作に熱中した。三つの戯曲を書いた。そのうちの一つ、一幕物の韻文喜劇「麦わらの賭」はデュマの気に入った。それはパリにきた翌々年、一八五〇年(二十二歳)、六月十二日、「歴史劇場」で脚光を浴び、十二回上演された。十一月にはナントでも上演された。評判はまずまずであったが、あとがつづかなかった。
まぼろしの栄光
デュマの知遇を得て、いったんは近づいたと思われた栄光は、どこかへ消えてしまった。ジュールはわれに返ったように法律の勉強に取り組んだ。やる気になれば、やれる質なのだ。弁護士試験に合格した。しかし、どうしてもナントに帰る気にはなれなかった。胸が痛んだが、ついに決心して父に書いた。「ぼくは別の道を進もうと思っています。この道は険しく、非常な忍耐と時間とを要しますが」
彼の作品は、上演されたものさえ物質的には何ももたらさなかった。生活は苦しかった。しかし、彼はもはやナントの憂鬱な少年ではなかった。快活で親切で人好きのする青年であった。文学や音楽や絵画に志すボエームたちとの交遊を楽しみ、たがいに励まし合った。憂鬱から快活へ……しかし、これは変化ではなく分裂であった。ヴェルヌの中には常に憂鬱と快活とが同居していた。
ジュールはまたいくつかの戯曲や小説を書いた。アイディアは次から次へと湧きあがった。ジュールは生まれながらの多作家であったが、多作は粗雑と隣り合っていた。いくら書いても認められなかった。生活のため、エドモン・スヴェストの秘書になった。スヴェストはデュマの「歴史劇場」が破産したあとを受けて「オペラ劇場」を経営していた。
この劇場で一八五三年(二十五歳)、四月二十七日、ジュール・ヴェルヌとミッシェル・カレとの合作になる一幕物のオペレッタ「目隠し鬼ごっこ」が上演された。音楽は、かつてナントを去るとき手紙を書いた旧友のアリスティード・イニャアールが担当した。この作品は小さな成功をおさめた。四十回上演され、ミッシェル・レヴィ社から出版された。
結婚
一八五六年(二十八歳)、友人の結婚式に列席するためアミアン〔パリの北約百二十キロ。ソンム県の首都〕へ行った彼は、自分より二歳年下で二女の母である未亡人、オノリーヌ・アンヌ・エベ・モレルと知り合い、翌年一月十日に結婚した。四年後、男の子が生まれ、ミッシェルと名づけられた。ヴェルヌにとっては一人子である。
結婚したとなると、生活の安定を計らなければならなかった。義父の縁故によりパリのエグリ株式仲買店に外交員の職を得た。保証金の五万フランは父が出してくれた。
空へのあこがれ
ジュールはもちろん株式取引所の近辺を駆けまわるだけでは満足しなかった。一八六〇年(三十二歳)、フェリックス・ナダール〔一八二〇〜一九一〇〕と知り合った。ナダールは通俗作家・漫画家・写真家としてジャーナリズムの上で活躍し、とくにそのサロンは多くの名士の集まりで有名であった。当時、ナダールは気球の建造を計画していた。空中から地形写真をとるのが目的だったが、同時に何か奇想天外なことをして世間をあっと言わせたかったのだ。フランスは気球においては先進国であった。当時から七十七年前、一七八三年、ピラートル・ド・ロージェニ〔一七五六〜八五〕が千七百立方メートルの気球に乗り、人間が初めて空にあがった記録をつくった。しかしその後、気球の利用はイギリスで急速にひろまり、フランスは取り残された。ナダールは六千平方メートルの大気球をつくり、完成のあかつきは「巨人号」と名づけようと思った。
ヴェルヌは、この計画に非常な関心を持った。製作の現場を見、また気球に関する科学知識を得るため熱心に図書館に通った。しかし「巨人号」はなかなか完成しなかった。計画倒れになるおそれさえあった。
天啓
ヴェルヌはふと思った。そうだ、自分で気球をあげよう、もちろん本の中で……。天啓であった。ヴェルヌは「気球の旅五週間」の想を得た。しかし、これはいままでのヴォードヴィル作者にとっては、まったく新しい小説であった。ペンは遅々として進まなかった。想を得てから早くも二年目、一八六二年(三十四歳)になった。ヴェルヌは自信を失った。あるときは原稿を火に投げ入れようとして、妻のオノリーヌが夫の手から原稿を奪うこともあった。しかし、同年五月末のある朝、オノリーヌは夢中で階段を駆け降りて、イチゴ売りの女からイチゴを買った。それを夫の机の上に置いた。夫はそれを食べながら原稿に最後のピリオドを打った。「気球旅行の五週間」が完成されたのだ。
最後の努力
しかし、新しい困難が待ちかまえていた。ヴェルヌは原稿を持って、出版者から出版者へと歩き回ったが、どこでも相手にされなかった。空しく半年ばかりが過ぎた。しかし、ヴェルヌは勇気の人であった。最後の努力!
同年秋のある朝、ジュール・エッツェル〔一八一四〜八六。作家・出版者〕を訪ねた。 夜、 仕事をするエッツェルは、まだベッドにいた。ヴェルヌは寝室の椅子の上に原稿を置いて黙って帰った。十五日後、ふたたび訪ねた。エッツェルはベッドから起き直って言った。「なかなかよく書けている。しかし残念ながら……」ヴェルヌはみなまで聞かず、原稿を持って帰ろうとした。すると、エッツェルが言った。「まあ、待ちたまえ」
エッツェルは原稿の書き直しを命じ、いくつかの部分について適切な助言を与えた。ヴェルヌはエッツェルの指示に忠実に従った。図書館に通って、たりない科学知識をおぎなったりもした。五週間後、新しい原稿を持って行った。エッツェルは叫んだ。「これだ!」
当時、エッツェルは青少年や大衆向けの雑誌「教育と娯楽」の発刊を計画していた。「教育と娯楽」とは、エッツェルに従えば「教えながら楽しませ、楽しませながら教える」ことであった。「気球旅行の五週間」こそ、このエッツェルが長いあいだ求めていたものであった。エッツェルは出版を引き受けた。ばかりでなく、このような本格的長編小説を年に二編書いてくれれば、年に二万フラン、すなわち一編について一万フラン払う、そして、この契約を向こう二十年にわたって結びたい、と言った。
天才的な編集者といってもいいエッツェルは、このほとんど無名の作家の中に無限の「水源」を発見したのだ。
成功
「気球旅行の五週間」は、同年、一八六二年十二月、エッツェル社から出版され、それは翌一八六三年(三十五歳)のフランス出版界において驚異的な成功をおさめ、たちまち各国語に翻訳され、ヴェルヌは一躍流行作家になった。
ところでナダールの「巨人号」はどうなったであろう。ヴェルヌの「ヴィクトリア号」が決定的に成功した年、一八六三年、十月四日、ようやくパリで初の飛行を試みたが失敗し、第三回目のハノーヴァー《プロシア》では、ナダール夫妻は危うく墜死するところであった。空想は現実に勝ったのだ。しかしヴェルヌは彼に天啓を与えてくれたナダールに終生感謝を忘れなかった。
苦難の前半世が終り、栄光の後半世が始まった。「気球旅行の五週間」につづいて「アトラス船長の冒険」を書き、それは翌一八六四年三月二十日創刊された「教育と娯楽」誌の第一号から連載され、完結と同時に本になった。ヴェルヌは次々に書いた。今日、われわれのもっともよく知っている作品だけをあげても次のとおりだ。
「地底旅行」(一八六四年)、「地球から月へ」(一八六五年)、「グラント船長の子どもたち」(一八六七年)、「月世界旅行」(一八六九年)、「海底二万リーグ」(一八七二年)、「八十日間世界一周」(一八七三年)、「十五少年漂流記」(原題「二年間の休暇」)(一八八八年)。
一九〇五年、七十七歳で亡くなるまでに、ヴェルヌは長短編小説約八十冊を書き、その他の著作を含めると約百冊書いた。そして、それらの小説の約半数は発表と同時に各国語に翻訳され、過去一世紀にわたって世界の人々に読まれ、いまも読まれている。
ヴェルヌは、すべての作品に時代の要請するあらゆるものを取り入れた。産業革命による自然科学の急速な進歩、将来の植民地獲得競争につながる未知の世界の発見。アフリカ探検史においてもそれは新紀元をひらいた時代であった。デイヴィッド・リヴィングストンの「南アフリカ伝道旅行記」(一八五七年)が出たのは、ヴェルヌがアフリカの上空に「ヴィクトリア号」を飛ばせた五年前。ヘンリー・スタンレーの「リヴィングストン邂逅記」(一八七二年)が出たのは「ヴィクトリア号」から十年後であった。
一八八九年(ヴェルヌ六十歳)、パリで万国博覧会が開かれ、エッフェル塔が建てられた。そのとき博覧会を見物したモーパッサンは次のように書いている。(「放浪生活」一八九〇年)
「わたしは深い感動をもって機械の陳列や、近代的な化学・力学・物理学における夢のような諸発見を目のあたりにした。……そこには従来の階級や家系とは別な秩序による貴族階級が、すなわち科学という貴族階級が、さらに言えば科学工業という貴族階級が生まれ、勝利を得ていた」
エッフェル塔に象される現代物質文明の「非芸術」に腹を立ててフランスから逃げ出し、原始の国アフリカへ旅立ったモーパッサンにして、この言ありだ。これは当時の時代に対する重要な証言と言わなければならない。ヴェルヌは、この新しい貴族階級の勝ち得た成果に梯子をかけ、それを一段々々登って行った。成果が頂点に達しても、梯子はさらに無限に伸びて行った。空想によって……と言っても、それは厳密な科学的訓練を経た空想であった。それなればこそヴェルヌは、ついに今日の月ロケット(「月世界旅行」)を、原子力潜水艦(「海底二万リーグ」)を創造した。
旅
最初の成功後、一八六六年(三十八歳)、ソンム川の河口にあるクロトワに家を借り、ヨットを買って、息子の名をとってサン・ミッシェル号と名づけた。それに乗ってイギリス海峡のフランス側沿岸を巡航したり、セーヌ川を上下したりした。しかし、沿岸や川では満足できなくなった。たまたま大西洋横断海底電話敷設用の大きな外輪船グレート・イースタン号が建造された。ヴェルヌは弟のポールとともに同船に便乗してアメリカ合衆国へ出発、ニューヨークに着き、ナイアガラまで旅した。帰国するとすぐ、この船旅の回想記「浮かぶ都市」を書き、つづいて翌一八六八年(四十歳)、「海底二万リーグ」を書き始めた。
普仏戦争(一八七〇〜七一)が起こり、フランス人は本が読めなくなり、エッツェルも出版を中止せざるを得なかった。しかし、そのあいだもヴェルヌは「海底二万リーグ」を書きつづけた。そして戦後、人々の生活が平常に戻り、エッツェルが出版を再開したとき、ヴェルヌは「海底二万リーグ」の原稿をエッツェルの前に置いた。そればただちに出版され(一八七二年)、翌一八七二年(四十五歳)には「八十日間世界一周」が出版された。戦争中の空白もあって、人々は争ってヴェルヌを読んだ。翌一八七四年には「八十日間世界一周」が劇化され、同年十一月八日、ポルト・サン・マルタン座で初演され、二年間続演された。劇の成功は小説の売れ行きを倍加させた。
ヴェルヌにとって、もっとも幸福な時代が始まった。一八七四年(四十六歳)、妻の故郷のアミアンに広壮な邸宅を買って移り住み、サン・ミッシェル三号を買い、さらに一八七七年(四十九歳)、サン・ミッシェル三号を買った。乗組員十人の大型ヨットで、ヴェルヌはそれに乗って、一八八〇年(五十二歳)にはノルウェー、アイルランド、スコットランドを、一八八一年には北海、バルト海を、一八八四年(五十六歳)には妻オノリーヌ、弟ポール、息子ミッシェルを伴って地中海を航海した。
しかしヴェルヌの生活は、世界的流行作家のそれとは、およそ縁遠いものであった。海に出ていないときは、アミアンで家族とともに過ごした。規則正しい毎日であった。朝五時に起きて午後一時まで書き、午後七時になると寝室に引き取って夜中まで、あらゆる科学書を読んだ。名声と富、それに健康。「わたしの生活は満ち足りていた。そこには、わたしの要求するほとんど全部のものがあった」とヴェルヌは書いている。彼は人々に親切で思いやりがあり、陽気で雄弁でユーモラスであった。しかしその半面、敬虔なカトリック教徒で、自他に厳しく、ときには憂鬱におそわれることもあった。若い日、快活と同居した憂鬱だ。幸福な時代は十数年で終りに近づいた。弟のポールに書いた。「いっさいの陽気さがやりきれなくなった。この気分から、わたしはもう立ち直れないだろう」
晩年
一八八六年(五十八歳)、三月九日夜、外出から自邸に帰ってきたヴェルヌは、闇の中で二発の銃声がとどろくのを聞いた。一発はヴェルヌの足に当たった。ヴェルヌはよろめいたが、立ち直って襲撃者からピストルを奪い、倒れた。たびたびの手術、長いあいだの治療。しかしヴェルヌは終生ステッキをついて歩かねばならなくなった。襲撃者が甥のガストン・ヴェルヌであると知ったときのヴェルヌの衝撃は大きかった。ガストンは過度の勉強の結果、精神病、被害妄想狂になっていた。しかしヴェルヌは悩んだ。ガストンは、なぜ自分を撃ったのだろう? もしかすると自分の厳しさが、この神経質な青年に長いあいだ鬱懐《うっかい》を与えていたのではなかろうか?「ヴェルヌ撃たる」と新聞は報じたが、すぐ沈黙してしまった。たぶん他人の不幸には触れたくなかったのであろう。それゆえ、この事件の真の原因は今日に至るも不明である。
事件の二日後、エッツェルが病気療養先のモンテ・カルロで亡くなった。ヴェルヌのために炬火《きょか》をかかげて不死の栄光へ導いたエッツェルの死は、ピストル事件と同様の衝撃をヴェルヌに与えた。
ヴェルヌはすでに一八七一年(四十三歳)、父を失い、事件の翌年一八八七年(五十九歳)、母を失った。同年、サン・ミッシェル三号を売った。過去への訣別だ。ヴェルヌの心身は、あきらかに衰えを示し始めた。あらゆる訪問者を恐れ、世界のほとんどあらゆるところからくる手紙を恐れた。以前はときどきパリへ出て、彼がその名誉ある会員である地理学協会に出席し、その図書館で科学的資料を集めたが、一八九二年(六十二歳)、彼は妹のひとりに書いた。「わたしは二度とパリを見ないであろう」
一八九四年(六十六歳)、甥たちがジュール・ヴェルヌ号と名づけた帆船をナントで進水させたが、出席しなかった。一八九七年(六十九歳)、弟のポールが亡くなった。
しかし、ヴェルヌの晩年をあまり悲劇的に色どることは危険である。ピストル事件の翌々年一八八八年(六十歳)には、「十五少年漂流記」(「二年間の休暇」)を書いた。一八九二年(六十四歳)には「カルパチアの城」を、一八九五年(六十四歳)には「プロペラ島」を、一九〇一年(七十三歳)には「空中の村」を書いた。初めは事件の衝撃で言葉が出なくなった、と彼は嘆いた。しかし言葉が出ようと出まいと、彼は書いた。書けば、また言葉が出た。不屈な闘志と豊富な才能とを、彼はまだ失っていなかった。一九〇二年(七十四歳)、白内障になった。翌年から翌々年にかけては難聴になり、糖尿病になった。しかし彼は書きつづけた。「書いていないときのわたしは、生きていないも同然だ」と、彼は言った。しかし、ついに右腕に麻痺がきた。彼の右手は永久に動かなくなってしまった。一九〇五年(七十七歳)三月、彼は死の近いことを悟った。妻に言った。「医者よりも司祭を呼んでおくれ」彼は司祭に懺悔《ざんげ》した。司祭は毎日訪れた。彼は司祭に言った。「わたしは幸福です。わたしは再生しましたから」
家族や親族が枕頭に集まったのを見ると彼は言った。「みんながきてくれたから、わたしはもう行く」
三月二十三日木曜日の朝、彼は生きている最後のしるしを見せた。妻と息子とに手を差し伸べようとしたのだ。しかし麻痺は、すでに全身におよんでいた。翌三月二十四日金曜日午前二時、昏睡状態におちいり、午前八時永眠した。
新聞は日露戦争(一九〇四〜一九〇五)のニューズで忙しかったが、ヴェルスの死を大々的に報じた。世界中から弔辞が寄せられ、アミアンのマドゥレーヌ墓地で行なわれた葬式には儀丈《ぎじょう》兵が参列した。一九〇七年、同墓地にヴェルヌの半身像をのせた記念碑が建てられた。
「八十日間世界一周」について
一八六九年、スエズ運河が開通した。「ル・マガザン・ピトレスグ」誌は、運河を利用すると八十日間で世界一周ができるという記事をかかげ、その詳細な旅程表をのせた。この記事からヴェルヌはヒントを得たといわれる。「八十日間世界一周」は一八七二年(ヴェルヌ四十四歳)、「ル・タン」紙に連載され、翌年エッツェル社から出版された。
従来の作品では、ヴェルヌは主人公たちを月へ、海底へ、地中へ送った。しかし、こんどの作品では、主人公たちは常道を行く。現実の乗物に乗って、現実の国々を旅する。ただ問題なのは、その常道を、いかに速く旅するかだ。読者は主人公たちとともに、はらはらしながら先を急ぐ。成功するかしないかは神のみぞ知る。読者は一気に結末まで読まずにはいられない。例によってヴェルヌの見事な、むしろ抜け目がないと言ってもいい手腕である。
「八十日間世界一周」は、それまでヴェルヌの書いた科学小説、あるいは冒険小説とは類を異にする。一言にして言えば、ユーモア小説だ。ただしユーモア小説といっても、ここにはいわゆるドタバタはない。全編を貫いているのは非常に洗練された、抑制されたユーモアの感覚だ。これあるがためこの小説は、大衆小説から救われている。文学の匂いさえ持っている。その点で、ヴェルヌの数ある小説の中で「八十日間世界一周」は傑作の部類に属する、と言うことができるであろう。
フィリアス・フォッグは人間ではない。機械である。機械は笑わない。笑うのはヴェルヌのほうである。しかし、そのヴェルヌの笑いには意地悪なところはすこしもない。ヴェルヌは機械を愛している。フィリアス・フォッグを愛している。上品なおかしみは、そこから出る。
しかも、そのおかしみを語るヴェルヌの語り口が、また見事である。人を笑わせる職業の人は、なにかおかしなことを言うと口をつむぐ。自分が笑ってしまってはお仕舞いだ。笑うのは聴衆のほうである。その笑っている聴衆を、笑わせるほうは、とぼけた顔をして眺めている。だから聴衆はますます笑う。……この人を笑わせるコツのようなものを、ヴェルヌはこの小説の中で随所に用いている。一例をあげよう。フォッグたちはサンフランシスコで民衆のデモに巻き込まれ、やっとの思いで駅にたどりつく。騒ぎの原因は、とフォッグは駅員にたずねる。駅員は答える。
「選挙の集会があっただけです」
「大統領の選挙ですか?」
「いや、治安判事の選挙です」
ここで、この章は終る。ヴェルヌのとぼけた顔が目に見えるようだ。
もう一つ。ひとりのモルモン教徒の男が、走り出した汽車を追いかけてきて飛び乗り倒れてしまう。パスパルトゥーは、この男に同情する。たぶん奥さんは二十人ぐらいいるのでしょう? すると、男は答える。
「ひとりです! ひとりでも、たくさんです!」
ここでまた、この章は終る。
ヴェルヌはアングロサクソンには酷すぎると言われている。しかし、それはアングロサクソンの側からの非難で、すくなくとも「八十日間世界一周」では、その非難は当たらない。アングロサクンンを見るヴェルヌの目は公平だ。なるほどイギリス人はフィリアス・フォッグによって象徴される機械人間で、アメリカ人はスタンプ・プロクター大佐によって代表される無頼漢だ。しかしヴェルヌは悪ふざけはしない。イギリス人もアメリカ人も、ともに優秀な国民であることはヴェルヌにとっては自明である。とくに新興の意気に燃えるアメリカ人の積極性を、ヴェルヌは高く評価する。アメリカ合衆国を東西から延びてきた鉄道が相会し横断新幹線が完成する、このアメリカ史上の輝かしい一ページを、ヴェルヌは感動をもって書く。
と同時に、当時としては開発途上国であったアメリカの後進性も、ヴェルヌは指摘する。アメリ力人はフランス人のように曲線の美を解さない。町でも家でも四角に建てる。制度が文化に優先しているからである。この鋭いヴェルヌの目からは、イギリス人といえども免れることはできない。とくに、その植民地政策を痛烈に告発する。阿片戦争の真の挑発者はイギリス人である。悪徳の中でも、もっとも忌まわしい悪徳で儲けるイギリス人は極悪非道な商人だ、とヴェルヌは裁断する。
パスパルトゥーは、フォッグとは対蹠《たいしょ》的である。機械ではない。人間だ。あまりにも人間だ。フランス人はイギリス人と違って知識で煩わされない。偏見に陥らない。いつも陽気で愛想がいい。しかも勇気があり、義務に忠実だ。しかしヴェルヌは、フランス人がアングロサクソンからどういう目で見られているかも知っている。アメリカ人の大山師バタルカー氏は横浜でパスパルトゥーに言う。
「おまえはフランス人だね?」
「チャキチャキのパリっ子でさあ」
「じゃあ、おまえ、百面相はどうだ? できるだろう?」
パスパルトゥーはムッとする。フランス人というと、すぐ百面相とくる。しかし、バタルカー氏は笑う。
「フランスでは外国人を道化に使うが、外国ではフランス人を道化に使う」
アウダ夫人の登場は、この小説に色彩をそえるためエッツェルが提案したものだと言われる。しかし、彼女はまったくの作り物だ。もともとヴェルヌは人間を書く作家ではない。そのタイプを書く作家だ。それにしても、このアウダ夫人はひどすぎる。気の毒なほどヴェルヌは生きた人間が書けない。しかし、ここでも例によって登場人物に対するヴェルヌの愛情が、小説の味気なさから読者を救っている。アウダ夫人はヴェルヌにとっては、もっとも好ましい女性のタイプだ。ヴェルヌは晩年、アミアンで婦人たちに講演している。「婦人たちは何よりも慎ましくしていなければいけません。外を出歩いてもいけません。婦人たちの居場所は家庭の暖炉の前です。自転車に乗ってもいけません。ローラースケートの靴をはいてもいけません」そして付け加える。「さあ、みなさん、拍手してください。この拍手は、わたしの話が面白かったからではありません。わたしの話がやっと終ったからです」
ヴェルヌは未亡人と結婚した。フォッグも未亡人と結婚する。ヴェルヌのほかの作品にも未亡人が登場する。ヴェルヌはオノリーヌとの結婚生活に満足しているからだ。そのようにフォッグもアウダとの結婚生活に満足するであろう。ヴェルヌが保守的なのは、女性に対してばかりではない。生活のあらゆる面において保守的だ。ヴェルヌは一生、妻に対して潔白だった。無限に書き、無限に読んだヴェルヌにとっては、恋愛は時間の空費だ。その点でも、ヴェルヌはフォッグを冷たく笑うことはできない。
エッツェルによって開眼された「教えながら楽しませ、楽しませながら教える」精神を、ヴェルヌは生涯信奉した。従来の作品では、科学、およびその可能性を教えたが、「八十日間世界一周」では、主人公たちのたどる世界各国の歴史、地理、風俗、文化を教える。ヒンドゥー教徒の奇怪な風習、阿片に中毒した香港中国人の悲惨、文明によって滅びゆくインディアン、狂信によって疎外されるモルモン教徒。それらをヴェルヌは非常な熱意をこめて書く。もし、それらの叙述がなかったら、この小説は、汽車から汽船へ、汽船から汽車への軽業になってしまう。青少年を楽しませることはできても、知的な鑑賞に耐え得るものにはならなかったであろう。
ヴェルヌの作品の翻訳には、いわゆる縮訳が多い。縮訳して不純物を取り去らないと、読むに耐えないからである。しかし「八十日間世界一周」は完訳しなければならない。一行でも省略したら、作品全体の意義が失われてしまう。それほどに、この作品は完璧である。これもこの作品が傑作である所以であろう。
フィックス刑事は職掌がら小策を弄《ろう》するが、根は間抜けなお人好しだ。最後にフォッグは彼を許す。このように「八十日間世界一周」に登場する四人の人物は、すべて善良だ。それゆえに、この作品の読後感は爽やかだ。清潔である。
ヴェルヌの作品は過去一世紀にわたって広く世界の人々から読まれ、将来も長く読まれるだろう。毎年、外国で出版されるヴェルヌの翻訳は、一国だけでもおびただしい数にのぼる。ヴェルヌの評判はますます高い。しかし、その多くの評論の中には、いわゆるひいきの引き倒しもないではない。ヴェルヌの作品は、たしかにいわゆる世紀のベストセラーだ。しかし、世紀のベストセラーとは? 頼山陽の「日本外史」は江戸末期から明治時代にかけてのベストセラーだが、山陽がもうすこし学者であり芸術家であったら、こんな本は書かなかったろうと、すでに昌平黌《しょうへいこう》学派は言い、それは今日の定説になっている。フランスでいえば、たとえばユゴーの「レ・ミゼラブル」だ。芥川龍之介は、「レ・ミゼラブル」はフランス全土をおおう大きなパンだが、バターの分量はたっぷりとは言いかねる、と言っている。このことを考えると、世紀のベストセラーを書いたジュール・ヴェルヌの作家としての評価にも、おのずから限界があるであろうことを付け加えておく。 木村庄三郎
代表作品解題
数多いヴェルヌの作品のうちから、最初の戯曲『麦わらの賭』、出世作『気球旅行の五週間』、地、空、海の三つの科学旅行の物語『地底旅行』『月世界旅行』、『海底二万リーグ』、冒険小説『皇帝の密使(ミシェル・ストロゴフ)』、幻想的な怪奇な物語『カルパチアの域』を選んで、若干紹介しよう。なにぶんにも百ほどの作品を残した多作家のヴェルヌだが、不十分にもせよ、これでその多面的な活動をほぼうかがえるだろう。
『麦わらの賭』(一八五〇年)
昔ゲルマン人のあいだに、約束ごとをした印《しるし》に、麦わらを投げたり、折ったりする風習があった。フランスにも古くこの風習が生き残っていて、「麦わらを折る」ことはある種の賭の印を意味した。それは、相手の手から、うっかりなにかを受け取った方が負けになるという賭なのである。
老人のデスバール伯爵は疑り深くて、十八歳の若い妻アンリエットに虫がつきはしないか心配でならない。お城の奥に妻を閉じこめきりにしたいと思っている。いっぽう、アンリエットは夫に首飾りをねだっているが、疑り深いだけでなく、けちな伯爵は断固拒絶である。両々譲らず、ついに二人は「麦わらを折る」ことになった。戦闘開始だ。二人は相手になにかを受け取らせてやろうと秘術をつくすが、たがいに巧妙で、なかなかヘマをしない。そこへ、以前アンリエットに求愛していた従兄の竜騎兵が登場、彼女に言いよって、不幸にも伯爵の分別を失わせる。アンリエットの部屋に彼がはいるのを見た伯爵は不埒《ふらち》者を捕えにやってきた。ところが間一髪、侍女が男を戸棚に隠してしまった。伯爵は怒って、鍵をよこせとどなる。アンリエットはしぶしぶ鍵を差しだす。夫がそれをひったくったとたん、妻は「勝った。首飾りはわたしのものよ」と大喜び。
十八世紀の劇作家マリヴォー(一六八八〜一七六三)の芝居は、優雅で気取った表現を特徴としているが、それをマリヴォダージェ(マリヴォー趣味)と呼ぶ。このヴェルヌの最初の芝居も、マリヴォダージェの気のきいた、だが軽い芝居だ。のちのヴェルヌは文飾の少ない作家になるが、それは、一つには、かならずしも不評ではなかったこの最初の作品への反省からきているといわれる。しかし、ヴェルヌが若いころ、このような喜劇やオペレッタやヴォードヴィルの台本を書いたことは無駄ではなく、こうした経験が、のちの作品に、たとえばオッフェンバッハの喜歌劇で代表されるような、第二帝政期風の軽妙な陽気さや、上機嫌な諧謔《かいぎゃく》の味を与え、それが、彼の作品が単に少年や科学好きの人々だけでなく、広く一般の人気を呼んだ大きな理由にもなっている。
この芝居は一八五〇年六月十二日、パリの「歴史劇場」で初演された。
『気球旅行の五週間』(一八六三年)
疲れを知らない旅行家で、ジャーナリストでもある医師のサミュエルは、気球に乗って冒険旅行をすることを思い立った。旅行の目的地は、アフリカの東海岸ザンジバルからナイル上流におよぶ地方だ。彼はみずから気球を設計し、完成する。このヴィクトリア号は単に風まかせではない、思いのままに昇降のできる気球である。同行者は、友人のディック・ケネディと下男のジョー。旅行はまさに波瀾《はらん》の連続であった。蕃族におそわれて死にかけている宣教師を救助したりしているうちはまだよかった。やがて、飲み水がなくなって、猛烈な喉の渇きに苦しむ。ケネディは頭がおかしくなって、自殺をはかり、サミュエルたちを困らせる。とうとう気球のガスが欠乏して、動きがとれなくなり、あわや死を覚悟したとき、フランスの兵隊に助けられ、三人はやっと故国イギリスに帰ることができた。
イギリスの宣教師リヴィングストン(一八一三〜七三)が、南アフリカを横断して、ヴィクトリア瀑布《ばくふ》を発見した、その探検記『伝道旅行記』が出たのが一八五七年のことである。いままで文明人を寄せつけなかった暗黒大陸アフリカの秘境が、はじめてちょっぴりヴェールを脱いだのだ。こうしてヨーロッパに高まったアフリカ熱に、ヴェルヌは、気球による空からの探検という斬新な着想を加えたのである。ヴィクトリア号という気球の名前といい、宣教師救出の挿話といい、ヴェルヌの機を見るに敏な才気が、まさに図に当たり、この一作でヴェルヌの人気作家としての地歩は確立された。この小説は明治十六年、井上勤訳『亜弗利加内地三十五日間空中旅行』(絵入自由出版社)で、わが国にはじめて紹介された。
『地底旅行』(一八六四年)
高名なドイツの鉱物学者リデンブロック教授は、偶然手に入れた古本のページのあいだから、十六世紀の錬金術師アルネ・サクヌッセンムが謎の文学を書き残した羊皮紙を発見した。教授と甥のアクセルが苦心のすえ解読したこの暗号文には、アイスランドの火山スネッフェルスの噴火口から地球の中心に達することができると書いてあったのだ。かくて、教授とアクセルと山案内人のハンスとは、前代未聞の地底旅行に出発する。
地底に下った三人は、途中、道に迷ったり、飲み水がなくなったり、アクセルが闇のなかにはぐれたり、さまざまな苦労のすえ、四十七日ののち、地底の大洞窟に出た。大洞窟というより地下の大陸である。そこには、きのこの森があり、前世紀の怪獣や地底人が住み、海があり、空(?)まであった。
この驚異の旅から彼らが地上にもどることができたのは、彼らの乗った筏《いかだ》が活火山の噴火に噴きあげられたおかげだった。彼らが出たところは、イタリアのシシリー島、エトナ火山の山腹だったのである。地底にあること十三週間の不可思議な旅行だった。
この小説は、数多いヴェルヌの作品のなかでも、もっとも想像力のたくましい、怪奇なイメージに満ちた、本格的なS・Fの代表であろう。明治十八年に出た三木愛花、高須治助共訳の『柏案驚奇地底旅行』(九春社)がこの小説のわが国での最初の刊本のはずだ。
『月世界旅行』(一八六九年)
南北戦争も終った一八六…年十一月三十日の午後十時四十七分、アメリカのボルチモアから、九百フィートもある大砲を使って、人類最初の月ロケットが発射された。乗り組んだのは二人のアメリカ人、この企画の発案者である大砲クラブの会長バービケーンと、この計画の不成功を主張する彼の宿敵ニコル大尉と、陽気なフランスの芸術家ミシェル・アルダンの三人である。計算では、四日後、正確には九十七時間十三分二十秒後に、満月の月世界に到達するはずであった。
月に向かって、一路地球の引力圏を脱した三人のまえには、流星との衡突や、酸素の欠乏、耐えがたい空気、軌道の修正など、予想外の事態や、克服しなければならない困難が控えていたが、それがかえって幸いして、彼らは不帰の客となることなく、月を目のあたりに見る最初の人類となって、地球にもどることができた。大西洋上に落下した彼らのロケットは、合衆国の軍艦サスクハンナ号に救出され、彼らは人類に貴重な報告をもたらすことができたのである。
ソヴィエトとアメリカとが、月世界旅行への先陣を競っている今日、百年まえのヴェルヌのこの空想小説は、意外に古くない。むろん、現代のわれわれからみれば、細部では明らかにおかしいところもあるが、全体としては現代科学の常識から大きくはずれていない。彼の予見の正確さとその巧みなプロットは、われわれが現実のものとして、まぢかにみている宇宙旅行の予測とほぼ合致し、彼の小説の成功の理由をうなずかせるのである。
なお、この『月世界へ行く』は、一八六五年の『地球から月へ』の続編にあたるものであり、直訳すれば、『月をめぐる』という表題である。この小説も早く翻訳されて、筆者は現物を見ていないから、どちらがどちらとも断言できないが、おそらく明治十三年の井上勤訳『九十七時二十分間月世界旅行』(大阪二書楼)が『地球から月へ』の、明治十六年の同人訳『月世界一周』(博聞社)が『月世界へ行く』の本邦初訳であろう。
『海底二万リーグ』(一八六九年)
一八六六年、大洋上に謎の怪物が出没して、航海がおびやかされた。パリ科学博物館教授のアロナックスは召使いのコンセイユと、怪物追跡のアメリカの軍艦に乗りこむ。やがて北大平洋上で怪物と遭遇したが、二人と、銛《もり》うちのカナダ人ネッドとは、軍艦が怪物と衝突したとき、海にふり落とされてしまった。気がつくと、彼らは怪物の背に乗っていたが、驚いたことに、それは近代科学の粋を集めた巨大な潜水艇だったのである。
こうして、なぜか抑圧者への復讐を誓って全社会と縁と切った自由人、ネモ船長の指揮するナウティルス号に乗せられて、彼らの海底二万里の旅が始まる。海底墓地や海抵大陸アトランティスの訪問、まっこう鯨や大だことの戦い、また南極の氷に閉じこめられるなど、驚異と魅惑に満ちた経験を重ねたすえ、彼らは人類社会への脱出をはかり、メールストルムの大渦巻から陸地に打ちあげられた。
この『海底二万リーグ』は、自由と音楽と海を愛する不思議な反逆者ネモ船長を軸にして、『グラント船長の子供たち』(一八六七〜六八)、『神秘の島』(一八七五)と三部作をなす作品だが、その多彩な想像力でこれはヴェルヌの作品中、最大の成功をおさめたものである。たしか、ディズニーによる映画化もあった。わが国では、明治十三年、鈴木梅太郎の『二万里海底旅行』(山本)が初訳である。
『皇帝の密使(ミシェル・ストロゴフ)』(一八七六年)
ロシア皇帝の伝令隊の隊長ミシェル・ストロゴフは、重大な連絡の使命をおびて、東部シベリアのイルクーツクへ向かう。彼が越えていく広大なシベリアの原野には、きびしい自然と、皇帝に反抗する獰猛《どうもう》なダッタンの遊牧民が待っている。そして、かつて皇帝の士官であったが、官位を剥脱されたために、皇帝にはげしい憎悪を燃やすイヴァン・オガレフが、ダッタン人を解放して、その首領となっているのだ。
ミシェル・ストロゴフは、一度はオガレフの手に落ち、残酷な拷問を受け、盲にする刑を宣告されるなど、波潤万丈の運命をたどるが、超人的勇気と努力によって、ついに使命を達成するという、冒険大活劇の物語である。
これはヴェルヌの作品のなかで、科学物とは別の一面を示す冒険小説の代表的作品である。たとえばデュマの『三銃士』のような、息もつかせぬおもしろい物語を、ヴェルヌは書いてやろうと思い、そしてみごとに書きあげたのである。わが国での翻訳は、明治二十年、報知新聞に載った羊角山人(森田思軒)訳『盲目使者』というのが、おそらくこの小説のことだと思うが、まだ調査の機を得ない。また、ダッタン人をアイヌ人に、ミシェルを朝廷から遣わされた武士に仕立てた、この小説からの翻案少年読物などが、これまでいくつもあったようだ。
『カルパチアの城』(一八九二年)
トランシルヴァニアといえばルーマニア北部のカルパチア山脈をのぞむ僻地《へきち》だが、ここのヴェルスト村の牧夫が、ある夕方、遠くの古城に煙のあがっているのを見たのが、この物語の発端である。それはゴルツ男爵家の城館で、音楽狂の当主ロドルフが打ちすてたままで、永らく住む人がない。村の林務官ニック・デックはこの話を聞いて、探検を思い立つ。すると不思議なことに、村人の集まる宿屋「マティアス王」の広間で「ニックよ、城へ行くな」という声が鳴り響いた。しかし、ニックは医者のバタクと城に向かう。その夜、山を登ってやっと城の下にどりついた二人を、すさまじい唸り声や気味悪い悲鳴、恐ろしい怪物の影がおそった。そして、屈せず城にニックがはいろうとしたとき、二人は電撃に打たれた。
数週間後、たまたまこの地を旅行中のフランツ・ド・テレク伯爵がこの話を聞いた。フランツは、城がロドルフ・ド・ゴルツの所有と知ると、異常な興奮にかられて、探索を決意した。実は、五年前、彼はロドルフと、ナポリで美しい歌手ラ・スティラの愛を争ったことがあったのだ。異様な執心でラ・スティラを追うロドルフに打ち勝って、フランツは彼女の愛を得、結婚の約束をした。ところが引退の最後の公演の晩、ラ・スティラは歌劇オルランドの終幕を詠唱中、胸の血管が破裂して死んだ。葬儀の翌日「あれを殺したのは君だ。君に不幸あれ」と書いた手紙がロドルフから彼にとどいた。以来フランツは彼女の思い出を胸に生きてきたのである。そして、彼はいま、「マティアス王」の広間でうとうとしていたとき、ラ・スティラの歌を耳にしたような気がしたのだ。
フランツは城へ出かけた。そして、不思議や、城壁にラ・スティラを見たのだ。彼女を追って、城にはいると、たちまち轟音《ごうおん》とともにはね橋があがり、彼は閉じこめられてしまった。しかし、ふとしたことから、彼は、城中の一室でロドルフがオルファニックという学者と話しているのを立ち聞いた。
すべての奇怪な現象はオルファニックが発明した電気の仕掛けなのだ。宿屋の声も、城の不可思議も。そしてロドルフはフランツがヴェルストへ来たことを知って、ラ・スティラの声と幻像を使って、彼をこの城に永久に閉じこめて、恋のうらみをはらそうと企んだのである。
怒ったフランツは、短刀をかざしてロドルフに躍りかかろうとした。そのときまた懐しいスティラの姿が彼のまえに現われて、あの最後の歌を歌うのだった。茫然と立ちつくすフランツ。
「スティラ、生きているお前にまた会えるとは」
「生きているだと」
せせら笑ったロドルフは彼女の胸に短剣を刺す。ガラスの砕ける音とともにスティラの姿は消えた。「あれの声だけは永遠に私のものだ」と言ってロドルフが逃げようとしたとき、一発の弾丸が、彼の手にした録音の小箱をたたき落とした。警官が来たのだ。「彼女の声、あれの魂が砕けた」一大爆発が起こって、ロドルフは廃墟の下に死んだ。かろうじて助かったフランツは気が狂っていた。
怪奇仕立てのおかしな物語の筋を長々と記したのは、愛する女を永遠の形象に閉じこめようとするピグマリオン以来の人間の奇異な情念、そして、現実の女よりも架空の女に恋して非現実界に足を踏みいれるホフマンやリラダンの幻想や、アン・ラドクリフの怪奇の世界と、この物語が意外に近いことを知ってほしかったからだ。今後ヴェルヌの再評価が進むとすれば、それはこの辺から照明が与えられてくるかもしれぬ。(金子博)
〔訳者紹介〕
|木村 庄三郎《きむら・しょうざぶろう》
一九〇二年東京に生まれる。慶應義塾大学文学部卒。主著訳書「ポールとヴィルジニー」「世界逸話全集日本編、およびその続編」、デュマ「厳窟王」、モーパッサン「ベラミ」、ガストン・ルルー「黄色い部屋の秘密」他多数。
◆八十日間世界一周
ヴェルヌ作/木村庄三郎訳
二〇〇三年一月二十日