地の果ての燈台
ジュール・ヴェルヌ/大友徳明訳
目 次
一 発端
二 エスタードス島
三 三人の燈台守
四 コングレ一味
五 スクーナー船〈マウレ〉号
六 エルゴール湾へ
七 洞窟
八 修理中の〈マウレ〉
九 バスケス
一〇 難船のあとで
一一 海岸荒らし
一二 エルゴール湾を出るとき
一三 三日間
一四 通報艦〈サンタ・フェ〉
一五 大団円
訳者あとがき
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主要登場人物
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バスケス……志願してエスタードス島の「地の果ての燈台」の主任燈台守に着任したアルゼンチン人のベテラン船乗り。
ジョン・デイヴィス……アメリカからオーストラリアに向かう途中、マゼラン海峡の入り口にあるエスタードス島沖で難破した帆船≪センチュリー≫の副船長。
コングレ……エスタードス島を根城にする海賊の首領。船乗りをしていたらしいが、本名や国籍などはいっさい不明。
カルカンテ……チリ人でコングレの腹心の部下。プンタ・アレナスで警察に追われる身となり、今はコングレとともに海賊稼業に励んでいる。
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一 発端
太陽は西側の視界をさえぎっている丘陵の背後に消えようとしていた。天気はよかった。反対側の北東と東の空にまじりあっている海上では、いくつかの小さな雲が最後の残照をとどめていた。南半球の南緯五十五度という高緯度にあってはかなり長く続くこの残照も、まもなく黄昏《たそがれ》の闇《やみ》の中に消えてしまうことだろう。
太陽の円い表情がもはや上半分しか見えなくなったとき、通報艦〈サンタ・フェ〉号の艦上で大砲がとどろき、アルゼンチン共和国の旗がそよかぜにはためきながら、後斜桁帆《こうしゃこうはん》の斜桁《しゃこう》に掲げられた。
同時に、〈サンタ・フェ〉が停泊していたエルゴール湾の海岸からほど遠からぬところに建てられた燈台の頂きに、強烈な光がほとばしりでた。燈台守のうちの二人と作業員たちは砂浜に集まり、一方、艦の乗組員たちは船首に集合して、本国から遠く離れたこの海岸に最初にともった燈台の灯をしばし歓呼で迎えた。
二発の大砲がそれに応え、それが周囲に騒々しくこだまして幾重にも反響した。それから通報艦の旗が戦艦の規定にしたがっておろされ、大西洋と太平洋とが出会う地点に位置するこのエスタードス島にまた沈黙がもどった。
作業員たちはすぐに〈サンタ・フェ〉に乗船し、島には三人の燈台守だけが残った。
燈台守の一人は当直室で任務についていたが、ほかの二人はすぐには宿舎にもどらず、海岸に沿ってぶらぶら歩きながら話をかわした。
「バスケス、いよいよ」と若い方が言った。「明日は船がここを出るんだな……」
「そうだ、フェリペ」とバスケスは答えた。「向こうの港に着くまで何ごともなければいいんだが……」
「遠いな、バスケス!……」
「帰りの方が島に来るより近いものさ、フェリペ」
「そんなものかな」フェリペは笑いながら答えた。
「それに」バスケスはつづけた。「風向きが一定でなければ、帰りの方が来るときよりも時間のかからないこともあるし……いずれにしても、千五百マイルくらい、船の機関が上等で帆がしっかりしているかぎり、何でもないさ」
「それから、ラファイエット艦長は行路を充分知っているし……」
「行路はまっすぐだからな。来るときは南に船首を向けたわけだけれど、帰りは北に向ければいいんだ。陸から風が吹きつづければ、海岸にぶつかる心配もなく、まるで川の上をいくようなものさ」
「片方しか岸のない川をね」フェリペは言い返した。
「具合のよい岸なら、それもいいじゃないか。海岸が風上になっていれば、いずれにしてもうまくいくさ!」
「その通りだ」フェリペは賛成した。「でも風がたまたま反対に変わったら……」
「そうしたら運がないんだ。フェリペ、〈サンタ・フェ〉がそんなことにならないといいんだが。三週間もすれば、千五百マイルの海を乗りきって、ブエノス・アイレスの港にまた錨《いかり》をおろすことができる……でも東風に変わりでもしたら……」
「海上にも、陸地の方にも、避難場所が見あたらない!」
「お前の言う通りだよ。フェゴ島にもパタゴニア地方にも、ただひとつも寄港地がないからな。海岸には近づかずに沖合を進まなくてはならない!」
「でも、バスケス、おれはきっと好天気がつづくと思うよ」
「おれだって同じ意見さ、フェリペ。これから先は好天気に恵まれる頃だからな……三か月先のことなら、あぶないけど……」
「すると」フェリペは答えた。「いい時期に仕事が終わったわけだ」
「そうさ、そうなんだ、十二月初旬だからな。北の船乗りにとっては六月初旬みたいなものさ。この季節になれば、突発的に風が吹くようなことはずっと少なくなるし、防水帽を吹き飛ばされたり、船を海中に沈められたりすることもないさ!……それに〈サンタ・フェ〉が向こうの港に着きさえすれば、もうどんなに風が吹き、悪魔の気に入るほど力を強めて荒れ狂おうとかまいやしない!……おれたちの島が燈台もろとも沈むなんていう気づかいはないからな!」
「まったくだ、バスケス。それに、向こうでおれたちについての報告をすませてしまえば、通報艦は交代の燈台守を乗せてもどってきてくれる……」
「三か月後にな、フェリペ……」
「そしてまたこの場所に島を見つける……」
「それからおれたちのこともな」バスケスはパイプをひと息ふかく吸いこんだのち、両手をこすり合せながら答えた。パイプの煙が厚い陰となって彼をつつんだ。「いいかい、この島は、突風によって押されたり押しもどされたりする船に乗っているのとはわけがちがうんだ。つまりこの島が船だとすれば、これはアメリカ大陸の尻尾にしっかりと錨をおろしている船なんだ。しかも錨を引きずったりはしない船なのさ……この辺一体が危険なことは、おれだって承知している! ホーン岬の海域に不幸な評判が立ったというのも当然だ! まったくのところ、もうエスタードス島での難破船の数がつかめなくなっていることも、難破船の残骸をくすねる輩《やから》が身代を作るのにここ以上の場所はないことも、やはり認めなくちゃならん! だがそうしたことはすべて変わるんだ、フェリペ! 今やエスタードス島には燈台がついたんだから、どんな方向から旋風が吹いてこようが灯りは消えはしない! 海をいく船は折りよく燈台を目にして、自分の航路を見きわめる!……燈台の灯りをたよりに進めば、どんなに暗い闇夜のなかでも、サン・ジュアン岬、サン・ディエーゴス小岬、ファローズ小岬などの岩礁に突きあたる危険はないんだ!……この燈台の灯りを守るのはおれたちだし、また事実おれたちはこの灯りを立派に守ってみせる!」
仲間を力づけずにおかない、こうしたバスケスのきびきびした口調は聞きものだった。おそらくフェリペは、実のところ、この無人島で長い月日を過ごさねばならないことをバスケスよりも深刻に考えていたにちがいない。三人に代る燈台守がくる日まで、同胞たちと音信もできないのだ。
最後に、バスケスはつけ加えた。
「なあ、この四十年というもの、おれは旧大陸・新大陸の海をほとんどすべて駆けめぐってきた。少年水夫、見習水夫、水夫、水夫長としてな。そして今こうして退職する年齢になってみると、燈台守以上のものになりたいとは思わなくなった。それも何とすばらしい燈台だ!……≪地の果ての燈台≫とはな!……」
事実、人の住んでいる土地、人の住める土地からこれほど離れた辺鄙《へんぴ》な島の先端にいると、この名称がいかにもぴったりだった!
「おい、フェリペ」バスケスは話をつづけ、消えたパイプを自分の手のひらに叩いた。「何時にモリスと交代するんだ?」
「十時だよ」
「そうか。そのあとこのおれが朝の二時にお前と交代して、夜明けまで番をするからな」
「了解、バスケス。そうなるとおれたち二人にとっていまいちばん必要なことは寝ておくことだね」
「さあ寝た、寝た、フェリペ!」
バスケスとフェリペは、中央に燈台のそびえ立った狭い構内へとつづく道をのぼり、宿舎にはいった。彼らが中にはいるとすぐにドアはぴたりと閉まった。
夜は静かだった。そして夜明けが訪れるとすぐ、バスケスは十二時間前から輝いていた灯りを消した。
太平洋では、とくにその広大な海原の水が洗うアメリカとアジアの沿岸部では、潮はふつう穏やかだが、反対に大西洋ともなれば、これはきわめて激しく、はるかマゼラン海峡付近の海域にまで荒々しく押し寄せてくる。
干潮はこの日、朝六時にはじまったから、通報艦はこれを利用して、曙光《しょこう》がさしこむやいなや出向準備をする予定になっていた。だが準備が整わなかったので、艦長は夕方の潮を待ってエルゴール湾を出ることにした。
アルゼンチン共和国海軍に所属する〈サンタ・フェ〉は、総量二百トン、出力百六十馬力、各班長を含めて五十名ほどの乗組員を擁し、ラ・プラタ川の河口からメール海峡までの沿岸警備に当たっていた。当時はまだ船舶技師たちも、巡洋艦、駆逐艦などの快速船をつくるには至らなかった。だから〈サンタ・フェ〉はスクリューを使っても、一時間九マイル以上の速力を出すことはできなかったが、もっぱら漁船の往き来するパタゴニア沿岸やフェゴ島沿岸の警備には、その速度で充分だった。
この年、通報艦は、アルゼンチン政府がルメール海峡の入り口に立てることにした燈台の建設工事を援助するよう指令されていた。そこでこの船で、ブエノス・アイレスの熟練技師たちが綿密に練りあげたプランに従って、この仕事に必要なスタッフや機械が運ばれたのである。
約三週間前から、〈サンタ・フェ〉はエルゴール湾の奥に錨をおろしていた。今回は四ヵ月分の食糧を陸揚げし、交代要員が来る日まで新しい燈台守たちに何一つ不自由のないことを確かめたうえで、ラファイエット艦長はエスタードス島に送り込んだ作業員を本国につれ帰ろうとしていた。いくつか予想外の事態が生じて工事の落成が遅れたが、それがなかったら、〈サンタ・フェ〉はすでに一ヵ月前に母港に帰りついていたことだろう。
とはいえ結局のところ、ラファイエット艦長は、エルゴール湾に寄港しているあいだじゅう北風からも、南風からも、西風からも上手く庇護されているこの湾の奥で、何一つ怖れるものはなかった。ただ沖合で時化《しけ》に出会ったらと、それだけが彼の気がかりだった。だが春は穏やかな天候だったし、いまや夏の初旬に入っているので、せいぜいマゼラン海峡付近でちょっとした支障が起こるくらいなものだと艦長は考えていた。
七時になると、ラファイェット艦長と副館長のリエガルは、通報艦の船尾高甲板の舵側にある士官室から出てきた。水夫達は甲板の掃除を終わろうとしており、当番の水夫が捨てた最後の水が排水口を通って流れだしていた。同時に一等兵曹が準備万端ととのえるように手配をはじめた。準備ができたら出航の時間になるのだ。出航は午後の予定だったが、すでに帆の覆いが取りはずされ、通風筒、羅針函、甲板の明かり窓などが磨かれ、ボート釣りには大型のボートが引きあげられ、艦上で使われるこまごまとしたものも積みあげられていた。
太陽が登ったとき、旗が後斜桁帆の斜桁にあがった。
十五分後、船首の鐘が四度うち鳴らされ、当番の水夫が交代した。
朝食をすませたあと、二人の士官はまた船尾高甲板にあがり、陸地から吹く微風のおかげでかなり晴れ間をみせている空の具合を調べ、それから二人の下船準備をするよう水夫長に命じた。
この日の午前中、艦長は、燈台および、燈台守の宿舎とか、食糧や燃料を入れた倉庫とかの付属施設を最終的に視察し、また燈台の各装置が正常に働いていることを確認しようと思っていた。
そこで彼は副館長をともなって砂浜に降りたつと、燈台のある構内へと向かった。
途中二人は、エスタードス島の陰鬱《いんうつ》な孤独のなかにとり残される三人の燈台守の身を案じた。
「ほんとうに辛いことだ」艦長は言った。「だが、あの立派な男たちがこれまでもずっと、たいていはもと水夫として厳しい生活をしてきたことを考えておかなければいかんよ。彼らにとって燈台の仕事は、言うなれば息抜きのようなものだ」
「おそらくそうでしょう」リエガルは答えた。「でも、船の出入りが多く、陸地と簡単に連絡の取れる海岸に建てられた燈台の燈台守になるのと、船から眺められるだけの、しかもはるか彼方《かなた》から望見されるだけの無人島で生活するのとは、別問題です」
「それはそうだ。リエガル。だからこそ三か月後に交代を予定しているのだよ。バスケスとフェリペとモリスは、まずいちばん楽な時期から仕事をはじめるわけだしね」
「その通りですね、艦長。三人はホーン岬のあの恐ろしい冬をぜんぜん体験しないですむでしょう……」
「恐ろしい冬だ」艦長も同意した。「数年前から、フェゴ島やデゾラシオン島の海峡、ビエルジュの岬からピラール岬にかけて踏査してきたが、わしはそれ以来|嵐《あらし》について何ひとつ教わる必要がないほどだ! でもあの燈台守たちには堅固な住居《すまい》があるから、暴風でもそれを崩《くず》すことができまい。たとえ見張りの仕事がさらに二か月延びたところで、彼らの食糧や炭がなくなることもなかろうし。元気いっぱいのまま彼らを島に残していって、また元気いっぱいの彼らに再会できるだろう。空気は肌《はだ》をさすようだが、少なくともきれいに澄んでいるからね。この大西洋と太平洋の入口では!……それに、リエガル、海軍が≪地の果ての燈台≫に赴任する燈台守を募集したとき、選ぶのに困ったほどじゃないか!」
二人の士官は燈台の入口までやってきたが、そこにはバスケスとその同僚たちが待ちかまえていた。ドアが開けられた。士官達は三人の男の軍規通りの敬礼に答えたあと、立ちどまった。
ラファイエット艦長は三人に言葉をかけるまえに、彼らの姿をじろじろ眺めた。海軍用の頑丈な長靴を履いたその足もとから、防水|外套《がいとう》のフードを被った頭の先まで。
「昨夜は万事うまくいったかね?」彼は燈台守のチーフに訊《き》いた。
「はい、艦長」バスケスは答えた。
「沖には一隻も船が通らなかったのかな?」
「一隻も通りません。霧は晴れていましたから、少なくとも四マイルまではどんな燈火でも見逃すことはなかったでしょう」
「燈台の灯はちゃんとついていたかね?」
「日の出まで休みなく、艦長」
「当直室は寒くなかったかね?」
「はい、艦長。きちんと閉まっておりますし、窓ガラスが二重になっているので風もさえぎられますから」
「諸君の宿舎と、それから燈台に回ってみよう」
「かしこまりました、艦長」バスケスは答えた。
燈台守の宿舎は、塔の下に分厚い壁に囲まれて建てられていたから、マゼラン海峡を吹きわたるどんな突風をもはねつけることができた。二人の士官はそれぞれきちんと整理された部屋を見てまわった。南極にほど近いこんな緯度では猛烈をきわめる雨も、寒さも、吹雪《ふぶき》も、ぜんぜん恐れるに足らなかった。これらの部屋は廊下で隔てられ、その廊下の奥には塔の内部へとつづくドアが開いていた。
「あがってみよう」ラファイエットが言った。
「かしこまりました」バスケスが答えた。
「きみだけ案内してくれればいい」
バスケスは二人の仲間にそのまま廊下の入り口にいるように合図した。それから彼は階段の入り口を押し、二人の士官がそれにつづいた。
この狭い螺旋階段の内側には石段がはめこみになっており、暗くはなかった。また銃眼がいくつもあって、一段一段を明るく照らしていた。
当直室(この部屋の上にランプや、照明に使う装置が置かれている)に彼らが辿《たど》りついたとき、二人の士官は海に向かって固定された円形のベンチに腰をおろした。この部屋の壁にあけられた四つの小さな窓からは、あらゆる方向に視線を走らせることができた。
風は穏やかだったはずだが、この高さまで来るとかなりの強さで吹いていた。それでも、大きく羽ばたいて通りすぎる、カモメやグンカンドリやアホウドリの鋭い鳴き声をかき消すほどではなかった。
ラファイエット艦長と副館長は、島や周囲の海をもっとよく眺めようと、燈台の燈火をとり囲んでいる回廊へと通じる梯子《はしご》を登った。
眼下に現れた島の全容は、西方が海のように荒涼としていた。二人の視線は北西から南へと大きく円を描いてめぐっていったが、ただ北東の方角だけはサン・ジュアン岬に連なる丘によって視界をさえぎられていた。塔の足もとにはエルゴール湾が深くくぼみ、海岸は〈サンタ・フェ〉の水夫の往来で賑わっていた。沖には一隻の船も、ひと筋の煙もなかった。あるのはただ、無限に広がる大洋だけだった。
燈台の回廊に十五分ほどいたあと、二人の士官はバスケスにつづいて下におり、船にもどった。
昼食後、ラファイエット艦長とリエガル副艦長はふたたび地上に向かった。出航前の合間をみて湾の北側を散歩しておこうというのだ。艦長は、すでに何度も、水先案内人もつけずに――無人のエスタードス島に水先案内人などいようはずがないことは、理解していただけるだろう――この島を訪れていたが、その場合はいつもこの燈台のふもとの小さな入江に錨をおろしたものだった。だが彼は慎重を期して、まだよく知られていないこの地域の踏査を決して等閑《なおざり》にしなかったのである。
二人の士官はこうして踏査をつづけた。サン・ジュアン岬と島の残りの部分とを結んでいる狭い地峡を横切るとき、彼らはやはりサン・ジュアンという名をもつ湾の海岸を調べた。この湾は岬の反対側にあって、エルゴール湾と好対照をなしていた。
「このサン・ジュアン港はすばらしいな」と艦長は口をはさんだ。「どんなに大きい船をつけても大丈夫なほど、どこも水深がふかい。ただ本当に残念なことに、湾の入口がきわめて厄介だ。どんなに弱い光であれ、エルゴールの燈台と並べて灯火が置かれていれば、難破しそうな船もやすやすとここに避難できるのだが」
「そうすれば、マゼラン海峡を出るときに見える最後の灯りとなるのですがね」副艦長のリエガルは指摘した。
四時に二人の士官は帰途についた。彼らはバスケスとフェリペとモリスに暇乞《いとまご》いをしたあと、また乗船した。燈台守たちは出航の時を待って砂浜に残った。
五時に、通報艦のボイラーの圧力があがりはじめた。煙突からは黒煙がもくもくと吐き出された。潮はまもなく静止するだろう。干潮がはじまる気配をみせればすぐに、〈サンタ・フェ〉は錨を上げるのだ。
六時十五分前、艦長はウィンチを回し、エンジンを動かすよう命令をくだした。排気管から充満した蒸気がほとばしりでた。
船首では副官が作業操作を監視していた。錨鎖がまもなく垂直になり、揚錨架に巻きあげられ、舷側に結びつけられた。
〈サンタ・フェ〉は三人の燈台守の別れの挨拶《あいさつ》を受けながら動きだした。バスケスがどのような感慨をもったにしても、また二人の仲間が通報艦の遠ざかる光景をある種の感動なしには眺めなかったとしても、船の士官や乗組員にしたところでやはり、アメリカ大陸の先端にあるこの島にこれら三人の男を残していくことには、深い感慨をおぼえていたのだ。
〈サンタ・フェ〉はゆっくりとした速度で、エルゴール湾の北西で切れている海岸に沿って走った。八時にならぬうちに、船は沖合にでた。そしてサン・ジュアン岬を回ると、西に海峡を見やりながら全速力で進んだ。とっぷりと日は暮れ、≪地の果ての燈台≫の灯も、いまや水平線の端に現われた星のようにしか見えないなかった。
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二 エスタードス島
エスタードス島は新大陸の東南端にある。マゼラン海峡付近の島々のなかでも最後の、そしてもっとも東方の断片的存在であり、地質時代の地殻変動によって、南極圏より七度少ない南緯五十五度の地点に出現したものである。二つの大洋の波に洗われるこの島は、一方の大洋から他方へと移動する船の目標となっているが、これらの船は北東からやってくるものもあれば、ホーン岬を回って南西からやってくるものもある。
ルメール海峡は、十七世紀に同名のオランダ人の船乗りによって発見されたもので、フェゴ島とエスタードス島をわけ隔てているが、その間隔は二十五キロから三十キロである。船にとってはこの海峡を通ったほうが近道だし、また楽な航路でもあり、そのおかげでエスタードス島の沿岸地方に逆まく恐ろしい大波をかぶらないですむのである。海峡の東側は、サン・タントワーヌ岬からケンプ岬まで約十マイル〔原注 約十九キロ〕にわたって島と境を接しているわけだが、蒸気船や帆船はこの海峡を通るほうが島の南側を通るより危険が少ない。
エスタードス島の西端から東端まで、すなわちサン・バルテレミイ岬からサン・ジュアン岬までは三十九マイルであるのに対し、ウェブスター岬からコルネット岬までの幅は十一マイルである。
エスタードス島の沿岸地域はきわめて凹凸が激しい。湾や小湾や入江が連なっており、そこに船ではいろうとしても、小島や暗礁が突きだしていて不可能なこともある。だから、ここに切り立った断崖《だんがい》が立ちはだかるかと思うと、あちらは巨大な岩が点在しているといったこの島の海岸では、これまでに多くの遭難事故が生じた。穏やかな天候の日でも、波は岩にぶつかり、譬《たと》えようもない激しさで砕け散っているのである。
島は無人島だったが、少なくともよい季節になれば人が住めなくはなかったろう。すなわち、この高緯度の地域では夏にあたる十一月、十二月、一月、二月、の四ヵ月間は。動物たちの群れも島の内部に広がる大きな平原に行けば充分|えさ《ヽヽ》を見出すことができるだろう。この平原はとくにパリー港の東部、コンウェイ小岬とウェブスター岬にまたがる地域にある。厚い雪の層が南極の太陽の光によって溶かされると、かなり青々とした草が顔をだし、地面も冬まで健康によい湿度を保つことになる。マゼラン海峡付近の地方に住みなれた反芻《はんすう》動物なら、この島で繁殖できるだろう。だが、寒波が来襲すれば、これらの動物を、パタゴニアとかフェゴ島などもっと温暖な平原に連れもどさなければならなくなる。
とはいえ、実際とても寒さに強い、シカに似たグアナコの|つがい《ヽヽヽ》が幾組かこの未開の場所に生息しているのである。その肉は適当に焼くかあぶるかすると、かなり美味しい。これらの動物が長い冬の期間中も餓死することがないというのは、彼らが雪の下に樹の根や苔《こけ》などを見つける術《すべ》を知っており、彼らの胃にはそれらの食料で充分だからである。
島の中央部にはあちらこちらに平野が広がり、またいくつかの林は痩《や》せた枝を誇示し、一時期ではあるが、青というよりも黄色味がかった葉むらを見せてくれる。これらの木はおもに、幹が六十フィートあまりになることもある南極ブナ(枝は水平にはえる)や、木質がとっても固いヒロハヘビノボラズ、それにバニラに似た特性をもつウィンテルナセなどである。
だが実際のところ、これらの平原や林の表面積はエスタードス島の四分の一にも達しない。残りはただ岩の多い台地にすぎず、石英が深い峡谷をつくっていたり、漂石として長い筋をつけていたりする。これは大昔の噴火によってあちらこちらに散らばったものである。だからいまや、フェゴ諸島ないしマゼラン海峡のあたりに死火山の火口をさがしてみても無駄だろう。島の中央部のあたりに大きく広がった平原はステップのようだが、八ヶ月にわたる冬のあいだ、そこをおおう一面の雪をふりはらって顔を出すものは何ひとつない。そこから西に進むにしたがって、島の起伏は激しくなり、沿岸の断崖もますます高く、切り立ってくる。そびえ立つ峰や絶壁がいくつもならび、その標高は海抜三千メートルにも達するものがあって、そこに立てば島全体を一望のもとに見わたせる。ここは、北から南へと新大陸の巨大な骨組みのように走っているあの驚くべきアンデス山脈の最後の砦《とりで》となっているのだ。
確かに、こうした激しく恐ろしい暴風の吹きすさぶ気象状況では、島の植物群の数もごくかぎられ、マゼラン海峡の土地かフォークランド諸島(フェゴ島から百海里ほど離れている)にしか移植できない種類が多い。たとえばカルセオラリア、エニシダ、ワレモコウ、スズメノチャヒキ、オオイヌフグリ、染料になる物質がわずかに含まれているハネガヤなどの類である。林の木陰や草原の草のあいだに色の薄いそれらの小花が、咲いたかと思うとすぐにしおれてしまう花冠をみせている沿岸にある岩石の下部の、少し腐植土がついているようなところでは、博物学者だったら苔などを採集できるだろうし、また木の根本をさがせば、何か食べられる根、たとえばツツジの根(フェゴ島の人たちはこれをパン代わりに食べている)を採集することもできよう。だがこれらの根はどれを取ってもあまり栄養はない。
エスタードス島のどこを歩いてもいわゆる川の流れを見つけることはできない。こんな石の多い土地では、流れが外に溢れだして小川になったり、川になったりすることはないのである。だが雪は幾重にも積み重なって厚い層をなしている。一年のうち八ヶ月はこの状態で、暑い季節になると――寒くなくなると、と言ったほうが正確かもしれない――雪は斜めに当たる太陽の光線で溶け、いつも湿気を保ってくれる。その頃になると、島のあちこちに小さな水溜まりや池ができ、それは最初の寒波が襲うまで凍ることがない。だからこの物語がはじまる時期は、まさに大量の水が燈台付近の丘から流れ落ち、岩に躍りながらエルゴール湾の小さな入江やサン・ジュアン湾へと姿をかき消そうという頃だった。
この島では動物や植物があまり多く見られないのに反して、魚は島の沿岸地帯のどこにも豊富にいる。だからフェゴ島の人たちは、ひどい危険を冒しながらも船を駆ってルメール海峡をわたり、ときどきこの島へやってきてはかなりの漁をしていく。種類はタラ、マス、メンタイ、カツオ、イシラ、ハゼ、ボラと非常に多様である。この辺なら遠洋漁業の船がたくさん集まってきても大丈夫だろう。というのも当時は、少なくともナガスクジラやマッコウクジラ、さらにはアザラシやセイウチもこの付近の海をよく泳ぎ回っていたからである。だがその後これらの動物を不用意に追い回したので、いまやこれらの動物は、航海がむずかしく危険である南極の海域へと逃げ去っている。
砂浜と入り江と暗礁が交互に現れるこの島の周囲を歩いてみるとすぐにわかるが、いろいろな貝――ニマイガイの類、イガイ、マキガイ、カキ、ジンガサガイ、バイなどがひしめきあうほどたくさんいるし、また甲殻類も無数にいて、暗礁のあいだを走り回っている。
また鳥の数もおびただしく、おもにハクチョウのように白いアホウドリ、アオシギ、チドリ、アカアシシギ、イソシギ、騒々しいカモメ、甲高い鳴き声のセグロカモメ、耳を聾するばかりのトウゾクカモメなどがいる。
だが、こう書いてきたからといって、エスタードス島がチリとアルゼンチン共和国に羨望の念を起させる島だった、と結論づける必要はなかろう。要するにこの島は巨大な岩のかたまりにすぎないし、ほとんど人も住めないのである。この話がはじまる頃、ここはどこの国に所属していたのだろうか?……ここで言えるのはただ、この島がマゼラン海峡付近の一部をなしていて、当時はアメリカ大陸の末端を支配していた二つの共和国の共有物であったということである〔原注 その後、マゼラン海峡地区の分割が行なわれ、一八八一年エスタードス島はアルゼンチン共和国のものとなっている〕。
季節がよくなっても、フェゴ島の人たちはあまりこの島に姿を見せることはない。来るとしても時化《しけ》でこの島に寄港せざるをえないときだけだ。商船も多くは、きわめて正確な海図のできているマゼラン海峡への航路をえらぶことになる。そこなら危険なく航海できるし、蒸気船の発達のおかげで、東からでも西からでも一方の大洋から他方へとわたれるからである。ただホーン岬をこれから回ろうとする船、すでにそこを回った船だけが、エスタードス島の姿を認めることになるのだ。
ここで一言述べておいたほうがいいと思うが、この≪地の果ての燈台≫を建てようという英断をくだしたのは、アルゼンチン共和国なのである。だから諸国はアルゼンチンに対してこれを感謝しなければならない。実際、この当時、マゼラン海峡の入口になっている大西洋側のビエルジュ岬から、その出口である太平洋側のピラール岬にいたるマゼラン海峡付近の地点には、海を照らす灯火は何ひとつなかった。だからエスタードス島の燈台は、この危険海域の航海に絶対役立つものだった。ホーン岬にも燈台はなかったが、ここは、太平洋からの船がメール海峡にはいるためにずっと安全を確保しやすく、多くの災害を避けることができた。
アルゼンチン政府はそこで、エルゴール湾の奥にこの新しい燈台を建設しようと決意したのだった。そして一年にわたる工事を順調に終え、一八五九年十二月九日に竣工したところなのである。
湾のいちばん奥にある小さな入江から百五十メートルの土地が、面積四、五百メートル平方、高さ三、四十メートルの隆起をみせていた。燈台の塔の土台に使われることになったこの台地を、この岩の多い高台を、空積《からづ》みした石の壁が、取りかこんでいた。
塔はこの台地の中央に、宿舎や倉庫といった付属家屋を見いだしそびえていた。
付属家屋には以下のものがあった。
(1)まず燈台守たちの部屋。そこにはベッド、タンス、テーブル、椅子が備えられ、暖房用の石炭ストーブもあって、煙は煙突を通って屋根から出るようになっていた。
(2)同じく暖房器具を備えた共同部屋。ここは食堂として使われており、中央にはテーブルが置かれ、天井にはランプが吊されている。戸棚には、望遠鏡、気圧計、温度計などいろいろな器具がはいっていて、事故の場合に燈台の灯火の代用となるランプもある。振子時計が横手の壁にさがっている。
(3)一年分の食糧を貯蔵してある倉庫。食糧の補給と燈台守の交代は三か月後に行なわれる予定ではあるが、一年分のものがはいっている。いろいろな種類の罐詰《かんづ》め、塩づけの肉、コーンビーフ、ラード、乾燥野菜、堅パン、紅茶、コーヒー、砂糖、ウィスキーとブランデーの樽《たる》、ふだん使う何種類かの薬など。
(4)燈台の灯火をつけるために必要な油の貯蔵庫。
(5)燃料を置いた倉庫。南極の厳しい冬のあいだずっと、燈台守に必要なだけの燃料を用意してある。
これらが高台に円形に建てられた建物のすべてである。
塔はエスタードス島で調達できた材料を用いて、特別堅固に建てられていた。非常に固い石を鉄材で支え、それをきちんと正確に積みあげ、ひとつひとつ蟻継《ありつ》ぎにしてあるので、激しい嵐にも耐えられる壁面ができあがっている。この地球上で一番広大なふたつの大洋がぶつかる遠隔の地に、しばしば襲いかかるあの恐ろしい暴風さえものともしないのだ。バスケスの言うように、この塔が風によって吹きとばされることはないだろう。バスケスと二人の仲間は燈台の灯を守るだろうし、マゼラン海峡にどんな嵐が吹きまくろうとこれを守りぬくだろう。
塔の高さは三十二メートルあり、これに台地の高さを加えると、燈台の灯りは海抜二百二十三フィートのところに点《とも》されることになるのだった。そこで、十五マイル(この高さの視界距離)の沖合から灯火は見えるはずである。だが実際には、光の届く範囲は十マイル〔原注 約十九キロ〕にすぎなかった。
当時、帰化ガスや電気を使った燈台はまだなかった。だが、いちばん近い国々ともなかなか連絡のとれない、この人里離れた島では、どうしてもできるだけ簡単な、なるべく修理をしなくてすむ装置が必要だった。そこで灯油を用いた灯火の採用が決まった。それも、当時の科学技術に許されているもっととも立派な装置が備えられたのだ。
結局、十マイル照明能力があれば充分だった。北東とか、東とか、南東からやってくる船にとっては、ルメール海峡にはいるにせよ、島の南を回るにせよ、充分に見とどけられる。それに海軍が出している航海指導書を忠実に守れば、どんな危険も回避できよう。すなわち、島の南を回る場合は北北西に燈台を見るようにし、ルメール海峡にはいる場合は南南西に燈台を見るようにしていればいいのだ。サン・ジュアン岬ならば左舷に、セベラル小岬(別名ファローズ小岬)ならば右舷に見ていけば、風にも潮にも流されることなく、うまくこれらの岬を回れるはずである。
さらに、めったにないと思われるが、船がエルゴール湾に寄港せざる得なくなったようなときでも、燈台の光に導かれて無事錨をおろせるだろう。だから〈サンタ・フェ〉がまたこの島に戻ってくるときには、夜でも難なくこの小さな入江にはいることができよう。湾はサン・ジュアン岬の端まで三マイルほどの距離があったが、燈台の灯りは十マイル先までとどくから、通報艦は島の突端の絶壁からさらに七マイルの地点で灯火を認めるはずだ。
かつて燈台には放物面鏡がとりつけられていたが、これは光の少なくとも半分は吸収してしまう重大な欠陥があった。だが、どの分野でもそうだが、鏡も大いに進歩してきた。そこでこのころからは反射鏡が使われだしていたが、これだとランプの光をわずか失うだけですむのである。
≪地の果ての燈台≫の灯火が固定されていたということは言うまでもない。沖を通る船の船長がこれをほかの火とまちがえる心配はなかった。同じ話をくり返すことになるが、この近辺には、そしてホーン岬にすら、燈台の灯りはひとつもなかったからである。それゆえここの燈台の灯りを、明暗燈をつけたり、閃光燈をつけたりして、他のものと区別する必要はまったくなかったように思えた。このため壊れやすい装置を備える必要がなくなった。だいいち、ただ三人の燈台守が住むだけのこんな島で、そんな装置を修理するのは容易ではなかったろう。
こうして灯火には、二重の空気調節ができる巻心《まきしん》ランプが備えられた。その炎は、小さいながらも強い光を発し、レンズのほぼ中心にくるように工夫されていた。油はカルセル燈〔訳注 フランスの時計屋ベルトラン・ギョーム・カルセル(一七五〇〜一八一二)の発明した歯車つき石油ランプ〕に似た方法でどんどん送りこまれた。灯火の内側につけられた反射装置は、段になったレンズでできていて、まん中は普通のガラスなのだが、その周囲をそれほど厚くないレンズがつぎつぎと輪になって取りかこみ、その一つひとつがすべて同じ焦点に合うようになっている。このようにして、一組のレンズの裏側でつくられた同じ光の束《たば》が、いちばん見やすい状態で外へ送りだされるのである。事実、通報艦の艦長は、まだかなり空の明るい天候のもとで島を離れるとき、この新しい燈台の設備と機能に何ら修正すべき点がないと判断した。
燈台の機能が順調に運ぶというのも、燈台守の几帳面《きちょうめん》さと注意力に負うているのは当然である。ランプを完全な状態にたもち、注意深く芯をとりかえ、油が必要な分量だけはいるように監視し、ガラスの火屋《ほや》におおわれた白熱筒を伸ばしたり短くしたりして空気調節をおこない、日没と日の出の際には灯火の点検をし、細部の注意をけっして怠ることがなければ、この燈台は、はるかなるこの大西洋の海域を行く船に多大の貢献をすること請合いだった。
さらに、バスケスと二人の仲間の誠意と熱意を疑う必要などなかった。多数の志願者の中から燈台守として厳選された彼らは、三人とも、前の職場で、彼らの誠意と勇気と忍耐が本物であることをすでに証明していた。
エスタードス島がいかに孤独な島とはいえ、三人の燈台守の安全については多分心配ご無用なことは、くり返しておいていいだろう。この島がブエノス・アイレスから千五百マイル離れ、そこからしか物資の補給や救助を受けられないとしてもである。季節がよくなると、ときにフェゴ島の人たちが少数ここに渡ってくることもあるが、彼らはけっして長く滞在したりしないし、さらにこれらの人々は攻撃的なところがまるでない。漁を終えると、彼らはまた急いでルメール海峡をわたり、フェゴ島沿岸やその近辺の諸島にもどっていくのである。他のよそ人《びと》については、これまでこの島を訪れたという話を聞いたことがない。船乗りにとってこの島の沿岸は恐ろしすぎて船をここに避難させる気になれないのである。マゼラン海峡付近の沿岸に行けば、もっと安全に、もっと簡単に避難場所は見つかるだろう。
とはいえ、エルゴール湾にあやしい輩《やから》がやってくるのに備えて、あらゆる予防策がとられた。付属施設の戸は頑丈にできていて、内側から閂《かんぬき》がかかるようになっていたし、倉庫や宿舎の窓の格子をこじ開けるなどできはしなかった。その上、バスケスとモリスとフェリペは騎兵銃とピストルを所持していたし、弾薬も不足することはあるまい。
さらに、塔の下に通じる廊下の奥には、打ち砕くことも、打ち破ることもできない鉄の扉《とびら》が据えられていた。他の手段で塔の内部へはいろうとしても、頑丈な横木でさえぎられている階段の狭い銃眼をどうしてくぐり抜けられよう? また避雷針についた鎖をよじ登るのでもなければ、どうして灯火をめぐっているあの回廊にたどりつけよう?
以上述べたように、きわめて重要な作業がいま、アルゼンチン共和国の胆《きも》入によってエスタードス島で首尾よく完了したのである。
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三 三人の燈台守
一年のうちのこの時期、十一月から三月にかけてこそ、マゼラン海峡の海域はいちばん船でにぎわう季節である。海は相変わらず荒れている。だが、二つの大洋から押し寄せる大波をさえぎり、鎮めるものはないにしても、少なくとも気候状態はずっと落ち着き、大気圏の上層を荒らし回るほどの暴風は一時的なものとなる。蒸気船や帆船も天候がこうして静まってくると、進んでホーン岬を通って新大陸を回るようになるのである。
とはいうものの、船がルメール海峡を通るにせよ、エスタードス島の南を通るにせよ、その往来によって、この季節の長い一日の単調さが破られることはないだろう。船の往来はこれまでもけっして多いとはいえなかったが、ますます少なくなっているのだ。それは蒸気船が発達したり、海図が完全なものになってきたおかげで、マゼラン海峡(もともと近道の、より簡単な航路である)の方がずっと危険性が少なくなって以来の現象だった。
しかしながら、燈台の生活にはつきもののこうした単調さも、ふだん自分たちの仕事に従事している燈台守にとっては、それほど気にかからないものだ。彼らはたいてい元船員か元漁師である。月日や時間に追われている人種ではないのだ。彼らは、時間をつぶし、気を紛らわす術《すべ》を知っている。それに、彼らの仕事は日没から日の出までのあいだ、しっかりと灯火を照らしつづけるというだけではない。バスケスと二人の仲間にもいろいろな仕事が委ねられていた。エルゴール湾周辺を注意深く監視すること、週に何回かサン・ジュアン岬に行くこと、東海岸をセベラル小岬まで調べること、三、四マイル以上は絶対に離れないことなど。彼らは≪燈台日誌≫をつけて、突発的に生じることをみな記入しておかなくてはならなかった。帆船や蒸気船の往来、それらの船が信号旗で送ってくる国籍や船名、潮の高さ、風向きと風力、天候の変わり具合、雨の降り具合、雷雨の頻度、気圧計のあがりさがり、気温の状態や他の気象状況など、すべてである。こうして日誌をつけておけば、この近辺の海域の気象図をつくることができようというものだ。
バスケスはフェリペやモリスと同じく生粋《きっすい》のアルゼンチン人で、主任燈台守としての任務をこのエスタードス島で果たすつもりだった。彼は当時四十七歳。百八十度の緯度の大部分を何度も往き来した船乗りにふさわしく、頑強で、どんな試練にも元気いっぱいでぶつかり、驚くべき忍耐力を示し、決断力があり、エネルギッシュで、危険に慣れ親しんだ彼は、これまでにも生命にかかわる幾多の難関を切り抜けてきた。彼が燈台守の主任として選ばれたのは、単に年齢のためだけでなく、彼の性格がまったく信頼感をいだかせるほどしっかりしていたからである。バスケスは共和国海軍で一等兵曹までしか昇級しなかったが、みんなから惜しまれて兵役を離れた。だから、彼がエスタードス島でこの仕事につきたいと願いでたとき、海軍当局は何らためらうことなく、彼にこの職を委ねたのだった。
フェリペもモリスもまた海員だったが、一人は四十歳、もう一人は三十七歳だった。バスケスはずっと以前から彼らの家族を知っていたから、彼らを推薦して政府の選択にまかせた。フェリペはバスケスと同様に独身者だった。三人のうちでモリスだけは結婚していたが、子供はなく、三ヶ月後に彼が再会するはずの妻はブエノス・アイレスの港の宿舎で働いていた。
三ヶ月たてばバスケスとフェリペとモリスは、他の三人の燈台守を引き連れてエスタードス島にやってくる〈サンタ・フェ〉に乗船し、さらに三ヶ月後にまた交代要員としてこの島にもどってくることになろう。
六月、七月、八月、すなわち冬たけなわの頃、彼らはふたたび仕事につくわけである。そこで、この最初の滞在ではそれほど気候不順に苦しめられはしないのだから、こんど島へ帰ってくるときには辛い生活を覚悟しておかなくてはならないのだ。しかし、すぐ想像がつくように、そんな事情も彼らにとって何ら心配の種とはならなかった。バスケスと二人の仲間はすでにこの島の気候に慣れていたようだし、寒さや、嵐や、南極の気候のあらゆる厳しさに勇敢に立ち向かい、これを克服することができるだろう。
十二月十日、この日から仕事は規則正しくはじまった。毎晩ランプは、当直室で任務についた燈台守のひとりの監視のもとにともり、他の二人はその間宿舎でからだを休めていた。日中も、種々の装置は点検され、必要があれば新しい芯《しん》が取りつけられ、そして日没には強烈な光を投げかけるように整備された。
その間、勤務規定に従い、バスケスとその仲間たちは、エルゴール湾にくだって海に出た。そこここの海岸を徒歩で歩くこともあれば、燈台守たちが自由に使えるボートに乗ることもあった。このボートは前檣帆と三角帆を備え、半分甲板のある大型ボートで、小さな入江に待避していた。この入江なら何も恐れるものはなかった。高い断崖が、唯一の危険物である東風を防いでくれたからである。
バスケスとフェリペとモリスが湾内や構内付近を回る場合、彼らのうち一人がいつも燈台の上にある回廊で見張りに残っていたことは言うまでもない。事実、ある船がエスタードス島を目ざしてやってきて、信号を送りたいということだってあるのだ。だから燈台守のひとりがいつも持ち場にいることは大切だった。台地からは、東から北東にかけての海しか見えなかった。他の方向は、構内から数百トワーズ〔訳注 一トワーズは一,九四九メートル〕のところで絶壁が視界をさえぎっていた。そんなわけで、船舶と連絡をとるためには、誰かいつも当直室に詰めている必要があったのだ。
通報艦が出航してから数日間は、別に取りたてて言うほどの出来事もなかった。天候は相変わらず良かったし、気温もかなりあがった。温度計は摂氏十度を示すこともあった。風は沖合から吹き、ふつう日の出から日没までの間は微風だった。そして夕方になると、地上からの風に変わった。すなわち北西に変わって、パタゴニアの広大な平原やフェゴ島から吹き渡ってくるのである。けれども二、三時間雨が降ることがあったし、暑さがつのると、大気の状態を一変させるような雷雨がまもなくやってくることを覚悟しなければならなかった。
太陽の光のために活力が与えられると、植物群はある程度顔を出しはじめた。構内近くの草原は、冬の白いマントをすっかり脱ぎとって、薄い緑の絨毯《じゅうたん》を見せていた。南極ブナの林にはいって、新しい葉むらの下でからだを伸ばせば、きっと気持ちがいいことだろう。たっぷり水量を含んだ小川は、溢れんばかりにして入江に流れこんでいた。苔《こけ》や地衣《ちい》類が再び木の根元に現われ、岩の側面を覆い、同時に壊血病にとてもよく効くトモシリソウも出てきた。つまり、この季節は春――この美しい言葉はマゼラン海峡付近では通用しない――ではなく、夏なのであって、ここ数週間はアメリカ大陸の最果ては夏一色となるのである。
一日が終わると、燈台の灯をつけるまでの間、バスケスとフェリペとモリスは、三人とも灯火をめぐる円形のバルコニーに坐《すわ》って、いつものように話しこんだ。当然のことながら、主任燈台守が会話をリードし、その継ぎ穂をつくった。
「なあ、みんな」パイプに丹念に煙草《たばこ》をつめた――他の二人もそれに倣《なら》った――あと、彼は言った。「ここの新生活はどうだい?……慣れてきたかい?」
「たしかに慣れたとも、バスケス」フェリペは答えた。「まだこれくらいでは、退屈したり疲れたりする間が全然ないけれどね」
「本当だね」モリスがつけ加えた。「でも、三か月なんて思ったより早く過ぎそうだな」
「そうさ、モリス。三か月なんて、最上檣帆や後檣第二接檣帆や第三マスト上帆や補助帆のあるコルベット艦のように早くすぎてしまうさ!」
「船といえば」とモリスが口をはさんだ。「今日もただの一隻も船を見かけなかったね。水平線にも……」
「いまに来るさ、フェリペ、いまに来るよ」とバスケスは、自分の眼に手を丸めてあてがい、望遠鏡に見たてながら答えた。「一隻の船もこの燈台を利用しないとしたら、エスタードス島にこんな立派なものを建てるには及ばなかったよ。沖合十マイルまでも照らす燈台をね」
「それに、まったくの新品だからね。うちの燈台は」とモリスが言った。
「その通りだ!」バスケスは答えた。「現在この海岸に燈台のあることがいろいろな船の船長にわかるには、時間がかかるよ。でも事情がわかれば、ためらわずにもっと沿岸ぞいに走るようになるし、大いに有利な航海をしようと海峡にはいるようにもなるさ! でも燈台があることを知ってもらうだけでは駄目なんだ。さらに、燈台の灯が日没から日の出までずっとついていることを確かめてもらわなくてはな」
「充分に知ってはもらえないよ」フェリペが指摘した。「〈サンタ・フェ〉がブエノス・アイレスに帰り着くまではね」
「まったくな」バスケスはうなずいた。「ラファイエット艦長の報告が発表されれば、当局はすぐにもそれを海軍全体に広めてくれるにちがいない。だが、すでにたいていの船乗りはこの島で行われた工事のことを知らないはずはないのだがなあ」
「〈サンタ・フェ〉といえば、五日前に出発したところだから」とモリスがまた話しはじめた。「いまごろはまだ……」
「いや、そうでもないさ」バスケスが口をはさんだ。「あと一週間とかからないと思うよ! 天気はいいし、海は穏やかだし、風向きはいいときてる……通報艦は昼も夜も横風を帆に受けているわけだし、これにエンジンのスピードが加われば、九ノットから十ノット出ていなければおかしい」
「いまごろは」とフェリペが言った。「マゼラン海峡を越えて、十五マイルほどつづくビエルジュ岬を回ったにちがいない」
「きっとね」バスケスはうなずいた。「いまはパタゴニアの海岸にそって進んでいるよ。あの船ならパタゴニア人たちが乗り回す馬と競走しても勝てるさ……あの地方の人たちと馬が、追い風を受けている第一級の快速帆船みたいに走るかどうかは、神様だけが御存知だ!」
あの〈サンタ・フェ〉の思い出が、まだこれら律気な人たちの念頭にあったことは理解していただけるだろう。彼らのもとを離れて母国に向かったばかりのあの船は、彼らにとって故郷の一部のようなものではなかったろうか。頭の中で、彼らは船が旅を終えるまでの姿を思い描いていたのだ。
「今日はよく釣れたかい?……」バスケスがフェリペにまた言葉をかけた。
「かなりよく釣れたよ、バスケス。釣り竿で数ダース分もハゼをとったし、手で三ポンドもあるイチョウガニを一匹つかまえたんだ。岩のあいだに隠れていたやつをね」
「そいつはよかった」とバスケスは答えた。「この湾を空っぽにしたっていいんだぜ!……魚なんていうのは、よく言うように、つかまえればつかまえるほど、ふえるものだ。それにおかげで、乾燥肉や塩漬けのラードといった貯蔵品を倹約できるからね!……野菜の方は……」
「おれは」とモリスが自分の話をはじめた。「ブナの林までくだっていったんだ。そして根っこを何本か掘ってきたんだけれど、こいつにくわしい通報艦のコックがその根を料理するのを見たことがあるから、皆さんにとびきりのやつをひと皿ご馳走《ちそう》することにするよ!」
「そいつはありがたい」バスケスは言った。「罐詰めを食べすぎないですむからね!……いくら上等の罐詰めだって、新鮮な肉とか、釣りあげたばかりの魚とか、とってきたばかりの野菜類にはかなわないからな!」
「ねえ!」フェリペは言った。「島の奥から何か反芻動物でもやってきたとしたら……グアナコの番《つが》いとか、ほかのやつが……」
「グアナコのヒレ肉やもも肉がまずいはずはないからな」バスケスは彼に応じた。「シカみたいに美味《うま》い肉をひと切れ出されたら、胃のやつ大喜びするぜ!……だからグアナコが現れたら、なるべくそいつを仕とめることにしよう。でも、いいかい。でかいやつを追うにしろ、小さいやつを追うにしろ、あまりこの構内から離れないようにしようぜ。大事なのは、命令に従って燈台からけっして離れないことだからな。エルゴール湾や、サン・ジュアン岬とディエーゴス小岬とのあいだの海がどうなっているか見回る場合は別だけれど」
「でも」と狩り好きなモリスは言った。「立派なやつが射程距離内にやってきたら……」
「射程距離内へくれば、二頭だろうと、三頭だろうと、かまいやしないさ」バスケスは答えた。
「だがグアナコってやつは、ひどく野性的な動物だから、人のいるところへはめったにやってこないよ……俺たちのところだって敵にはわかっているさ。だから、ブナの林のそばや、この構内の近くの岩場ごしに、グアナコの二本の角《つの》だけでもお目にかかれたら、めっけものだと思うな」
事実、燈台の工事が始まって以来、エルゴール湾の近辺にただの一匹たりとも動物の姿は見あたらなかった。〈サンタ・フェ〉の一等機関士をしていた、豪胆なネムロッドが何度かグアナコをつかまえようとしたことがあった。彼は島の五、六マイル内部まではいっていったが、その努力も徒労に帰した。大きな獲物が全然いなくはなかったのだが、遠く離れたところにしか姿を見せず、鉄砲の弾は届かなかった。丘をいくつも越え、パリー港をわたり、島のもう一方の先端まで行けば、この一等機関士はもっと上首尾な結果を得ただろう。しかし、島の西部には高い断崖がそそり立ち、歩行はきっと困難をきわめるにちがいなかったから、ネムロッドにしても、〈サンタ・フェ〉の他の乗組員にしても、いまだサン・バルテレミイ岬の付近を踏査したものはなかった。
十二月十六日から十七日にかけての夜半、モリスが六時から十時まで当直室で見張っていると、東の沖合五マイルか六マイルの海上に灯りが見えた。明らかに船のあかりで、燈台が建ってこのかた海上に見えたはじめてのものだった。
仲間がこれを見たら喜ぶにちがいないとモリスが考えたのはもっともだった。二人の仲間はまだ眠っていなかったので、モリスは彼らに知らせにいった。
バスケスとフェリペはすぐにモリスとともに階段をのぼり、東方に開いた窓の前に陣どって望遠鏡に目をあてた。
「無色の灯りだ」バスケスが言った。
「すると」フェリペが言った。「舷燈ではないな。緑でも赤でもないのだから」
この指摘は正しかった。この灯は、ひとつは船の左舷に、ひとつは右舷に、それぞれ色を変えてついている舷燈ではなかった。
「あれは無色だから」とバスケスがつけ加えた。「前檣の支柱にさがっているやつだよ。蒸気船だということを島に知らせているんだ」
これも確かだった。その船はまさしく蒸気船で、サン・ジュアン岬に近づいていた。ルメール海峡にはいるのか、それとも島の南を通るのか、燈台守たちは議論しあった。
彼らはどんどん近づいてくる船の姿を目で追った。そして三十分後、彼らには船の進路がはっきりわかった。
蒸気船は左舷をみせて、南南西に燈台を見やりながら海峡へとまっすぐ進んだ。サン・ジュアン港の沖合を通ったとき、船の赤い舷燈が見えた。それから船はまもなく暗闇のなかへと消えていった。
「あれが≪地の果ての燈台≫を測定することになる最初の船だ!」フェリペは叫んだ。
「だが、最後の船というわけではないぞ!」バスケスは断言した。
翌日の午前、フェリペは大きな帆船が水平線を通ったことを報告した。天候は明るく、南東からそよ風が吹いていたので大気には|もや《ヽヽ》がなく、少なくとも十マイルは離れていた船の姿を見ることができたのだ。
バスケスとモリスは知らせを受けて、燈台の回廊にあがっていた。件《くだん》の船は、エルゴール湾の少し右手、ディエーゴス小岬とセベラル小岬とのあいだの沿岸につらなる高い絶壁のかなたに見えた。
この船は、ちょうど風上にいて、スピードをだして走っていた。十二、三ノット以下とは思えない速さだ。いっぱいに横風を受けて、左舷開きで進んでいる。しかし、一直線にエスタードス島に向かっているので、島の北を通るのか南を通るのかまだ断言できなかった。
船乗りなら誰でも常にこうした問題に興味をもつものだが、バスケスとモリスも、船の進路についてあれこれと意見をだした。結局、帆船は海峡の入口には向かわないと主張したモリスが正しかった。実際、船は島の海岸から一マイル半ほどの海上にくると、今度は風上に向かうようにして、セベラル小岬を回るために船首をめぐらした。
それは少なくとも千八百トンはある大きな船だった。アメリカでつくられたあの快速船のように三本マストを備え、スピードはまことにすばらしい。
「あの船がアメリカの造船所でできたことは絶対|賭《か》けてもいいぞ」バスケスが叫んだ。
「船の名を知らせてくれるだろうね?」モリスが言った。
「当然の義務だからね」燈台主任はこともなげに答えた。
快速船がセベラル小岬を回ろうというとき、その義務は果された。後斜桁帆の斜桁に旗がつぎつぎとあがり、バスケスはこの信号を、当直室にある本を調べたあとすぐ仲間に伝えた。
船はアメリカのボストン港からやってきた〈モンタンク〉号だった。燈台守たちは避雷針の支柱にアルゼンチンの旗を掲《かか》げて船に答えた。三人は船の姿を見守りつづけたが、やがて帆柱の先端は、島の南岸につらなるウェブスター岬の丘々の背後に消えた。
「さて」バスケスは言った。「〈モンサンク〉号の航海の無事を祈るとしよう。ホーン岬の沖合で悪天候に見舞われないようにね!」
それから数日間は、海上にはほとんど船の姿は見られなかった。ただ東の水平線に一、二隻の帆船がかすかに望まれただけだった。エスタードス島の沖合十マイルほどの海上を通る船は、勿論アメリカ大陸を目ざすものではなかった。バスケスの意見によれば、それは南極の漁場に向かう捕鯨船にちがいなかった。それに実際、ずっと南の方からやってくる何頭かのクジラの姿も目撃できた。クジラはセベラル小岬からずっと離れたところを太平洋のほうに向かっていた。
十二月二十日までは、気象状況を別にすればなんら特記すべきことはなかった。天候はかなり変わりやすくなっていて、風向きも北東から南東に急に変わることがあった。何度もかなり強い雨が降り、ときには雹《ひょう》をともなったが、これは大気中にある種の雷雲が生じたことを物語っている。そこでとくに一年のうちのこの時期には、人を恐れさせずにはおかない雷雨の発生を心配しなければならないのである。
二十一日の午前、フェリペが煙草をふかしながら台地を散歩していたとき、彼は一頭の動物がブナ林のそばにいるのに気づいた。
しばらくその姿を見守ったあと、彼は共同部屋に望遠鏡をとりにいった。
フェリペは苦もなく、それが大型のグアナコであるとわかった。たぶんいまがそいつを仕とめるチャンスだ。
すぐに知らせを受けたバスケスとモリスが二人そろって部屋からとびだし、台地にやってきた。
三人とも狩りにでかけるべきだという意見だった。うまくグアナコを仕とめれば、新鮮な肉を供給してくれることになるし、おきまりの食事に楽しい変化をあたえてくれるだろう。
話はつぎのように決まった。モリスが騎兵銃を一丁もって構内をでて、気づかれないように、じっとしている動物の背後に回り、湾の方に追いつめる。するとそこにはフェリペが待ち伏せているという段取りだ。
「とにかく、充分気をつけてくれよ」バスケスは二人に頼んだ。「あの動物は耳がいいし、鼻もきくからな! 遠くからでも、モリスの姿が目にはいるか、感づくかすれば、素早く逃げ出すから、引き金を引くこともあいつの背後に回ることもできはしないよ。そうなったらそのまま逃がしてやるんだな。おたがい離ればなれになるとまずいから……いいかい?……」
「わかった」モリスは答えた。
バスケスとフェリペは台地に陣どり、望遠鏡を使って、グアナコが最初姿を見せた場所から動いていないことを確かめた。彼らはつぎにモリスに目を向けた。
モリスはブナ林の方に向かっていた。彼は身を潜めながら、たぶんグアナコに覚られずに岩場に辿りつき、獲物を背後から襲って、うまく湾におびきよせることができるだろう。
二人の仲間はモリスが林につくまでその姿を追った。モリスは林の中へと消えた。
三十分ほどたった。グアナコは依然としてからだを動かさなかったから、そろそろモリスは獲物に弾丸《たま》をお見舞いできるはずだった。
バスケスとフェリペはそこで、銃声が鳴りひびき、グアナコが重傷でも負って倒れるか、一目散《いちもくさん》に逃げだすかするのを待った。
だが、一発の銃声すら起こらなかった。そしてバスケスとフェリペが非常に驚いたことには、いまやグアナコは逃げるどころか、脚をぶらつかせ、からだをのめりこむようにさせたかと思うと、岩の上に倒れてしまったのだ。もうからだを支える力もないといわんばかりに。
そうこうするうちに、岩場のうしろにすべるように近づいてきたモリスが姿を現わし、グアナコに飛びかかったが、動物の方は動こうとしなかった。モリスは身をかがめ、グアナコに手をふれると、すぐまたからだを起こした。
それから構内の方を向いて、意味のはっきりわかる仕草をした。明らかに彼は、仲間にできるだけだけ早く来てくれと言っているのだ。
「何か変わったことがあったんだ」バスケスは言った。「いこうフェリペ」
二人は台地を駆けおり、ブナ林に向かって走った。そこまで行くのに十分とかからなかった。
「どうしたんだ……グアナコは?……」バスケスは尋ねた。
「ここにいる」とモリスは、足もとに倒れた動物を示しながら答えた。
「死んだのかい?」フェリペが尋ねた。
「死んだ」モリスは答えた。
「老衰かな?」バスケスは叫んだ。
「ちがう……負傷のせいだ!」
「負傷のせいだって! 傷を受けているのか?」
「そうだ……脇腹に一発見舞われている!」
「一発見舞われているって!……」バスケスは言葉をくり返した。
これ以上確かなことはなかった。からだに弾丸《たま》を受け、この場所までうろついてきたあと、グアナコはここで倒れて死んだのだ。
「それではこの島に狩人がいるのか?」バスケスつぶやいた。
身じろぎもせず、考えこんで、彼はあたりに不安な目を走らせた。
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四 コングレ一味
バスケスとフェリペとモリスがエスタードス島の西端に赴いていたとしたら、そこの沿岸地帯が、サン・ジュアン岬とセベラル小岬といかにちがうか確かめることができただろう。そこはもっぱら、高さ二百フィートもある断崖が連なっていて、それも大部分が垂直に切りたっており、深い海中へと没している。そして波は穏やかな天候のときですら、絶えず激しく断崖に打ちよせているのである。
その裂け目や割れ目や断層に無数の海鳥が巣くっているこれらの断崖の前面には、数多くの岩礁が突き出ていて、干潮のときは沖合二マイルの海上までのびているものもある。これらの岩礁のあいだを狭い水路がくねくねと走っているが、手軽なボートでもなければそこを通ることはできない。そこここに砂浜や砂洲があって、なにやら痩せた海草が密生し、沖から押し寄せる波の重さに打ち砕かれた貝殻がまき散らされている。断崖には多くの洞窟《どうくつ》があったが、それらは入口が狭く、奥行きが深く、下が乾いていて、暗い。その内部は、春分・秋分の頃の天候のあれるときでさえ、突風に吹き払われることもなかった。時に大きな上げ潮のため途中邪魔されることもあるが、石の多い嶮《けわ》しい坂道や崩れ落ちた岩場を通っていくと、そうした断崖にぶつかる。さらに、登りに骨の折れる谷間をあがれば山頂に出られる。だが島の中央の高原に辿《たど》りつくには、標高九百メートル以上の峰をいくつも越えなければならないし、そこまでの距離も約十五マイルをくだらないだろう。結局のところ、島の西側は、エルゴール湾が開けている東の海岸地帯よりも、荒涼とした無人境の感じを強く与えるのである。
エスタードス島の西部は、フェゴ島やマゼラン海峡諸島の丘の連なりのため、北西風を受けるのはいくらか少なくてすんだが、そこの海上は、サン・ジュアン岬、ディエーゴス小岬、セベラル周辺と同じく猛烈に荒れ狂っていた。それゆえ、大西洋側に燈台を建てたのであれば、ホーン岬を回ってからルメール海峡にはいる船のために、太平洋側にもやはりもうひとつ燈台を建てる必要があったろう。おそらく当時チリ政府は、いつの日かアルゼンチン共和国を模範として燈台を建てる予定であったと思われる。
いずれにせよ、もし燈台の工事がエスタードス島の両端で同時にはじまっていたなら、サン・バルテレミイ岬の近くに逃れていた盗賊の一味の状態はまったく危機にさらされることになったろう。
すでに半年前、これら悪人どもはエルゴール湾の入口に居をかまえていたのだ。彼らはそこの断崖に深く穴をあけた洞窟を見つけた。この洞窟は安全な隠れ家だったし、エスタードス島へ寄港する船はまるでなかったので、彼らはまったく安全にそこで暮らしていた。
これらの一味は、手下だけで十二人あまり、コングレという名の男を首領にいただき、カルカンテとかいう男が副首領となっていた。
彼らは皆南アメリカ生まれだった。そのうち五人はアルゼンチンかチリの国籍をもっていたが、その他のものはコングレに勧誘された、おそらくはフェゴ島出身者たちだった。彼らが一味に加わるには、ただルメール海峡を渡るだけでよかった。以前にも季節がよくなると釣りをしにやってきていたから、すでにこの島のことを知っていたのである。
カルカンテの身許について知られていることといえば、彼がチリ人であることだけだった。だがチリのどの町で、あるいはどの村で生まれたのか、何という家族の出か、などの点に関しては詳《つまび》らかではなかった。三十五歳から四十歳ぐらいの年配で、中背、むしろ痩せすぎの感じだが、筋骨は隆々としていた。したがって並はずれた力の持主であり、性格は陰険、心は邪《よこしま》ときているから、盗みを働くことになろうと殺人を犯すことになろうと、けっしてたじろぎはしなかった。
一味の首領については、まったく未知だった。国籍に関しても、彼はこれまでひとことも触れたことがなかった。自らコングレと名乗っていたのだろうか? それもわからなかった。ただ確かなことは、その名がマゼラン海峡近辺やフェゴ島にすむ土地の者たちにはかなり広まっていたということである。〈アストロラーブ〉号や〈ゼレ〉号で航海していたとき、船長のデュモン・デュルビル〔訳注 ジュール・セバスチアン・セザール・デュモン・デュルビル(一七九〇〜一八四二)フランスの航海者、南極地方などを探検した〕は、マゼラン海峡にあるペケット港に寄港して、このコングレという名のパタゴニア人を船に迎えたことがあった。だが盗賊のコングレがパタゴニア生まれであるかどうかは疑わしい。彼は、その地方の土地っ子に見られるような、顔の上部が狭く下部が広いといった容貌ではないし、また狭くそりかえった額《ひたい》も、細長い目も、しし鼻も、ふつう見られるような高い背丈も、持ちあわせていない。さらに、彼の表情には、その地方の人たちの大部分にうかがえるあの柔和さが、まるで現れていないのだ。
コングレの気質はエネルギッシュであると同時に荒っぽかった。それは彼の残忍な顔立ちを見れば容易に認められた。彼は四十歳ぐらいの年輩にすぎなかったが、すでに白くなった髭《ひげ》の下にも、その残忍さは隠しおおすことができなかった。これこそ正真正銘の悪漢、あらゆる罪を犯してきた恐るべき悪人だった。その彼も、沿岸地方しか知られていないこの無人島以外に避難場所が見つからなかったのである。
しかし、ここに隠れ家を探しあてて以来、コングレとその一味はどうやって生活してきたのであろうか? それをこれから簡単に説明するとしよう。
コングレとその共犯者であるカルカンテが絞首刑になるほどの大罪を犯して、マゼラン海峡の主要な港町であるプンタ・アレナスを逃れてから、彼らはまず追手の目をくらませやすいフェゴ島に辿りついた。島で、フェゴ島の人にまじって暮らしているうちに、彼らはエスタードス島(まだ≪地の果ての燈台≫は灯っていなかった)でいかに難破がたびたび起こるかを知った。その島の海岸にはあらゆる種類の残骸・遺品が打ちあげられるにちがいない。その中には高価なものもあるだろう。コングレとカルカンテはこうして、フェゴ島でであった彼ら同様の二、三人の悪漢とともに、漂流物をくすねる盗賊一味を組織しようと思いついたのである。さらに、それほど働きのよくなさそうなフェゴ島住民が十人ほど加わった。土地の人間が使うボートで、彼らはルメール海峡の向こう岸に渡ろうとした。だが、コングレとカルカンテが船乗りで、長らく太平洋のあやしげな海域を航海してきたとはいえ、やはり破局を避けるわけにはいかなかった。彼らは突風によって島の東に押し流された。海は荒れ狂い、ボートをカルネット岬の岩に叩きつけ、打ち砕いてしまった。彼らがパリー港の静かな入り江にはいろうと懸命に努力していた矢先のことであった。
だが彼らはどうにか徒歩でエルゴール湾に辿りついた。彼らはまるで失望などしていなかった。サンジュアン岬とセベラル小岬とのあいだの砂浜には、古いものや最近のものやら、難破船の残骸が打ちあげられていた。まだ無疵《むきず》の荷物、何ヶ月ものあいだ一味の食糧を確保してくれそうな食料品ケース、かんたんに元通りになそうなピストルや銃などの武器、鉄の箱にきちんと保管された弾薬、オーストラリアの金持ちの船荷から出てきた高価な金や銀の棒、装飾品、船の被覆板、板切れ、あらゆる種類の木材、さらにはここそこに骸骨の姿も見られた。だが、これらの海難事故の生存者はただの一人もいなかったのである。
この恐るべきエスタードス島は航海者にはよく知られた島だった。嵐によってこの海岸に押し流されれば、どんな船もかならず船体と船荷もろとも難破してしまうのだ。
コングレが仲間たちと居を定めたのは、エルゴール湾の奥ではなく入口だった。その方がサン・ジュアン岬を見張れるし、彼の計画に好都合だったのである。それに彼は偶然洞窟を見つけた。洞窟の入口は海草など海辺の植物が密生して外からは見えなくなっており、内部は一味の者が全部住めるほどの広さがあった。湾の北部に断崖がそびえているため、沖からの風はなんら恐れる必要がなかった。洞窟の中には、難破船から拾いあげた、生活に役立ちそうなものすべて――寝具、衣服、また大量の肉の罐詰、堅パンの入った箱、ブランデーやブドウ酒の樽などが運ばれた。初めの洞窟の近くにある第二の洞窟は、浜で見つかった高価な金、銀、宝石のような、特に価値のある拾得物をしまいこむのに使われた。将来コングレが策略を用いてこの湾に船をおびき寄せ、それをうまく乗っ取ったときには、彼はこれらの略奪品をすべて船に乗せ、彼が最初に海賊行為を働いたあの太平洋の島々にもどるつもりだった。
これまでその機会が到来しなかったので、これらの悪人一味はエスタードス島を離れるわけにはいかなかった。だが実のところ、二年間のうちに、彼らの財産は増えつづけた。いろいろと難破事故が起こって、彼らは莫大な利益をせしめたのだ。それに、旧大陸や新大陸の危険な海岸に巣くう難破船の略奪者を手本として、彼らはよくこれらの事故を挑発した。夜、暴風が猛威をふるっているようなときに、島の前面を通る船があると、彼らは火をつけて船を暗礁のある方へおびきよせるのだった。そして、めったにないことだが、難船者の一人がうまく荒波をのがれたとしても、すぐに一味の手で虐殺されてしまった。これが、その存在さえも知られていなかった悪漢どもの犯罪行為だった。
とはいえ、一味は島で幽閉生活をつづけていた。コングレはたくみに数隻の船を難破させたが、それらの船を無疵でエルゴール湾におびき寄せることはできなかった。この湾で船を乗っ取るつもりだったのだが。それに、船長たちにあまり知られていないこの湾の奥に、みずから寄港してくる船など一隻もなかった。しかも一味にとっては、船の乗組員が彼ら十五人ほどの悪党に太刀打ちできないという条件も必要だったにちがいない。
時は流れ、洞窟は高価な略奪品で溢れていた。コングレやその手下たちの焦燥や怒りがいかほどだったかは理解できよう。カルカンテと首領の話はいつもそこに落ち着いた。
「この島に座礁したようなもんでさ、海岸にぶつかった船みたいにね!」カルカンテはくり返した。「十万ピアストル以上の値打ちのある荷物を積み込まなくちゃならんというのに!」
「そうだ」コングレは答えた。「ぜひともここを出なきゃならん!」
「いつ、どうやってです?」カルカンテは尋ねた。この質問にはいつも答えが返ってこなかった。
「食糧もいずれ底をつきますぜ」カルカンテはくり返した。「漁がうまくいっても、狩りの獲物は減るかもしれない!……それに、この島で何回冬をすごすんですかい! まったく! いくつも冬を堪えなくちゃならんことは覚悟してますがね!」
こうした言葉に対して、コングレは何が言えただろうか? 彼はほとんどしゃべらず、人との話を避けていた。だが、自分の無力ぶりを悟って、彼の胸のうちにはどんな怒りが煮えたぎっていたことだろう!
そうだ、彼は何もできなかった……何も!……停泊中の船は襲えないとしても、フェゴ島の人たちの乗ったボートが島の東部まできてくれたら、コングレはそれほど苦労せずにそいつを掠奪できただろう。そうすれば、彼は別にしても、せめてカルカンテとチリ人ひとりぐらいは、そのボートを使ってマゼラン海峡に行けたはずだ。そこまで事が運べば、ブエノス・アイレスかバルパライソにも辿りつくチャンスは生まれたろう。金はたっぷりあるのだから、百五十トンか二百トンの船を買いこみ、それに船乗りを何人か乗せて、カルカンテはまたエルゴール湾に帰って来れたにちがいない。船がひとたび入江にはいったら、その船乗りたちを片付けてしまえばいい。その後は、一味の者全員が自分の財産をもちこんで船に乗りこみ、ソロモン諸島かニューヘブリジーズ諸島に辿りつけたのに!……
ところで、彼らの事情がそんな具合になっていたとき――この物語がはじまる十五か月前のことだが――事態は急変した。
一八五八年十月初旬、アルゼンチンの旗を掲げた一隻の蒸気船が島の前面に現われ、エルゴール湾めざして進んできた。コングレとその仲間はすぐに、それが彼らにはまるで手出しできない戦艦であることがわかった。自分たちが生存していた痕跡を全く消し去り、二つの洞窟の穴も隠しおえてから、彼らは島の内部に身を隠して、船の出航を待った。
この船こそ〈サンタ・フェ〉号であった。船には、エスタードス島の燈台建設の任を担い、その用地を見定めにきた技師が乗っていたのである。
通報艦はエルゴール湾に数日しか停泊せず、コングレとその手下たちの隠れ家を発見することなくまた出航していった。
しかしながらカルカンテは、夜入江まで忍びよって、〈サンタ・フェ〉が何の目的でエスタードス島に寄港したのかをつきとめた。燈台がエルゴール湾の奥に建てられるのだ!……一味にはこの島を離れる以外に方策がないと思えたし、確かに、できることなら、島を離れたでもあろう。
コングレはそこで、選ぶべき唯一の道を決めた。彼はすでに島の西部の、サン・バルテレミイ岬付近を知っていた。そこへいけばまた洞窟があって安全に避難できるにちがいない。まもなく通報艦は燈台の工事をはじめるために作業員を乗せてもどってくるはずだから、一日も無駄にはできない。彼は一年間生活できるだけの必需品をすべて運ぼうと懸命だった。サン・ジュアン岬からそれだけ離れていれば見つかる心配はまったくない、と彼が考えたのはもっともだった。だが、二つの洞窟から荷物を全部運び出す暇はないように思われた。そこで大部分の食料品、罐詰、飲み物、寝具、衣類、それに何がしかの貴重品ぐらいに荷物を限定せざるをえなかった。それから洞窟の入口を石や枯れ草で注意深くふさぎ、残りの荷物は悪魔の手にゆだねた。
彼らが洞窟をあとにして五日後の朝、〈サンタ・フェ〉はエルゴール湾の沖合に、また姿を現わし、入江にはいって停泊した。乗船していた作業員、積み込まれていた機材がおろされた。燈台の用地は台地の上と決まり、建設工事もすぐにはじまって、すでに見たように、素早く進行した。
かくして、コングレ一味はサン・バルテレミイ岬に身を避けなければならない羽目になった。小川が雪解けで水量を増し、必要な水を供給してくれた。漁と、ある程度は狩の収穫があって、彼らがエルゴール湾を発つまえに用意した食糧の節約が出来た。
しかし、コングレとカルカンテとその仲間たちは、どれほど苛立った気持ちで燈台工事の終了と〈サンタ・フェ〉の出航を待ったことか。三か月後には交代の燈台守を連れてもどってくる予定になっていたこの船の出航を。
コングレとカルカンテには、湾の奥で何が行われているか逐一わかっていたことは当然である。島の南岸か北岸かを沿岸づたいに近づくにせよ、島の内部から近づくにせよ、ニュー・イヤー港の南に接している丘から眺めるにせよ、彼らは工事の進捗状態を確かめ、それがいつごろ終わるか知ることができた。工事が終わったときこそ、コングレは長らく暖めてきた計画を実行に移すだろう。それに、燈台に照明がともることになれば、エルゴール湾に船が寄港しないはずはない。そうすれば、彼は船を襲い、乗組員を虐殺したあと、まんまとそれを乗取れるのだ。
通報艦の士官たちが島の西端まで遠征してきはしまいかという懸念を、コングレたちは何らもつ必要がないと考えていた。少なくとも今年は、ゴメス岬付近まで危険を冒してやってくるようなやつは誰ひとりいないだろう。やってくるとしたら、ひどい疲労を味わって、あのむきだしの高原や、ほとんど通行不能の谷、それにどうしても山岳地帯を越えなければならないのだ。実際のところ、通報艦の艦長が島をひとめぐりしようと考えつくことはあるかもしれない。だが、岩礁のそそり立った海岸に足を踏みいれてきそうな気違いはたぶんいないし、いずれにせよ万一の場合は、みんなでまったく見つからないような手段を講じればいいのだ。
しかし、そんな不測の事態も起こらぬまま、十二月となり、燈台の竣工を間近にひかえる頃となった。いまに燈台守たちだけになる。燈台が闇に投げかける最初の光で、コングレにはそれとわかる時がくるのだ。
だから、ここ数週間というもの、一味の誰かひとりが、七、八マイル離れた距離から燈台を望める丘に偵察にやってきていた。彼らは、燈台に最初の灯りがともったら、できるだけ早く知らせにもどるようにと命令を受けていたのである。
十二月九日から十日の夜にかけて、サン・バルテレミイ岬にそのニュースをもたらしたのは、あの腹心のカルカンテだった。
「そうなんでさあ」洞窟のなかでコングレに会ったとき、彼は叫んだ。「悪魔のやつがとうとうあの燈台に灯りをつけましたぜ。どうせまた悪魔が消すんでしょうが!」
「おれたちに悪魔の助けなどいらねえ!」とコングレは答え、人を脅かすような手を東の方へと差しのべた。
数日が過ぎた。そして翌週のはじめ、カルカンテはパリー港の周辺で狩りをしていて、グアナコに弾を一発打ちこんだ。すでに見たように、そのグアナコは彼の手をのがれ、モリスと出会うことになった場所、あの岩の多いブナ林のはずれ近くにやってきて倒れたのだ。その日から、バスケスと二人の仲間は、島にいるのが彼ら三人だけではないのを知って、エルゴール湾の周囲をいっそう厳重に見張った。
コングレがサン・バルテレミイ岬をあとにしてサン・ジュアン岬にもどる日がやってきた。悪漢一味は洞窟に物資を置くことに決めていた。三、四日の行程に必要な食糧をもっていくだけで、あとは燈台の貯蔵物を当てにすればよい。十二月二十二日だった。夜明けになったらすぐに出発し、山岳地帯を通って、彼らの知っている島の内部へとつづく道を辿れば、一日目で全行程の三分の一は進めるだろう。山地を十マイルほど歩くその日の行程が終われば、木蔭でも窪みのようなところでも、からだを休める場所が見つかるにちがいない。
休息が終わったら、翌日も日の出まえから、コングレは前日とほぼ同じ、二日目の行程をはじめることになろう。そして翌々日の最後の行程で、彼らはエルゴール湾に辿りつけるはずだ。つまり三日目の夕方には湾につけるのだ。
コングレは、燈台の任務についている燈台守は二人だと推測していた。もちろん実際は三人だったのだが。しかし、二人でも三人でも大差はない。バスケスとフェリペとモリスは、構内周辺に怪しい輩《やから》がいるのではないかと考えていたが、いずれにせよ三人では悪漢に刃向かえはしない。最初の二人は宿舎で倒され、三人目も当直室で仕事についているところを簡単に片付けられてしまうだろう。
こうなればコングレが燈台の主《あるじ》となる。彼らはそれからゆっくりと、残してきた物資をサン・バルテレミイ岬から持ち帰り、エルゴール湾の入口の洞窟にまた収めることにすればいい。
以上が、このおそるべき悪漢が心に決めた計画だった。その計画が成功まちがいないことは、火を見るより明らかだった。だが、そのあとも後に幸運がついてまわるかどうかは、それほど確かとは言えなかった。
実際のところ、その後のことは彼の力ではもはや如何《いかん》ともしがたかった。どうしてもエルゴール湾に船が寄港してくれなければ困る。事実、〈サンタ・フェ〉が航海を終えれば、この寄港地のことは航海者たちにすぐしれるだろう。だから、船が、それもとくに中型船が、これからは燈台にみちびかれ湾へ避難しようと考えても、何ら支障はないのだ。荒れ狂う海を突切って海峡や島の南を遁走するよりも、むしろそう考えるだろう……コングレはそうした船を手に入れようと決意していた。船が略奪できれば、太平洋を渡って逃亡するという待ちに待ったチャンスが生まれるし、太平洋に出れば彼の罪もきっと帳消しになろうというものだ。
しかし、通報艦が交代要員を連れてもどってくるまでに、事はすべて見込みどおりに運ぶ必要があるのだ。それまでに島を離れていなければ、コングレもその手下も、またサン・バルテレミイ岬に帰らざるをえなくなる。
そうなったら、もはや状況はこれまでどおりというわけにはいかない。ラファイエット艦長が三人の燈台守の失踪を知れば、三人が誘拐されたか殺害されたと考えるにきまっている。島全体に捜査網がしかれるだろう。島の隅々《すみずみ》が調べあげられるまで、通報艦は出航しまい。一味はどうやってその探索をまぬがれることができよう? またそんな状況がつづいたら、どうやって生活を維持していけばいい?……必要とあれば、アルゼンチン政府は別の船を送りこむだろう。たとえコングレがうまい具合にフェゴ島の人たちの使うボートを手に入れたとしても――そんなチャンスはまるでなさそうだが――、海峡には厳しい監視の目が光ることになるから、そこを突破して、フェゴ島に逃げこめるはずもない。はたして、時機を失しなわないうちに島を離れるという幸運が、これら悪漢どもに訪れるだろうか?
二十二日の晩、コングレとカルカンテはサン・バルテレミイ岬の先端を話をかわしながら散歩し、船乗りの習慣で、空と海の模様を調べていた。
天候は特に良くも悪くもなかった。雲が水平線にわきあがっていた。風はかなりの強さで北東から吹いていた。
夕方の六時半だった。コングレと仲間たちは以前の隠れ家へと出発する準備をしていた。その時カルカンテは言った。
「もちろんサン・バルテレミイ岬に物資を全部置いていくんでしょうな?」
「そうだ」とコングレは答えた。「あとから運んだほうが簡単だからな……俺たちがあそこの主《あるじ》になったときにな……それに……」
言葉は途中でとぎれた。目を沖のほうへ向けると、彼は立ちどまり、言った。
「カルカンテ……ほら、見てみろ……あそこだ……ちょうど岬の向こうだ……」
カルカンテは指し示された海上を見つめた。
「ああ!」彼は言った。「まちがえねえ……船だ!……」
「島に近づこうとしているらしい」コングレは言葉をついだ。「ちょっと回り道をしているのは、逆風を受けているからだ」
実際、一隻の船が帆をいっぱいにはらみ、サン・バルテレミイ岬の約二マイル沖を風上に向かって、ジグザグ進んでいた。
逆風を受けてはいたが、船は少しずつ進んでいたから、海峡にはいるつもりなら、夜までにはそこに辿りつけるだろう。
「スクーナー船ですぜ」カルカンテが言った。
「そうだ……百五十トンから二百トンぐらいのスクーナー船だ」とコングレは答えた。
その点については疑問の余地がなかったが、このスクーナー船はサン・バルテレミイ岬を回るよりむしろ海峡に出ようとしていた。問題はとにかく、とっぷりと日の暮れるまでにこの船がそこに辿りつける力があるかどうかにかかっていた。風のために船の速度は落ちていたから、潮に流されて暗礁に叩きつけられる危険はないだろうか?
一味の者は全部、岬の先端に集まった。
彼らがここに居をかまえてから、船がエスタードス島のすぐ沖合に現れたのは、これがはじめてではなかった。そんな場合、これらの盗人たちは火を振って船を岩場におびきよせようとしたことは、前に触れたとおりである。
今度もまた、この手段に訴えようという意見がだされた。
「だめだ」コングレが答えた。「あのスクーナー船を難破させてはならねえ……おれたちの手にはいるようにするんだ……風と潮の向きは反対だ……それにもうじき暗くなる。あいつは海峡にはいれやしないぜ。明日になってもまだ、岬の先にぐずぐずしているにちがいねえ。その時になったら、どんな手にでればいいかわかろうというものさ」
一時間後、船は深い闇の中に消え、沖の海上に船の存在を示す灯火もまったく見あたらなかった。
夜のあいだに、風の向きが急に南西に変わった。
翌日、夜が明けて、コングレとその仲間が浜におりたってみると、サン・バルテレミイ岬の暗礁に乗り上げたスクーナー船の姿があった。
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五 スクーナー船〈マウレ〉号
コングレはいまはもういわゆる船乗りとしての経験に富んだ人物とはいえなかった。以前に船の指揮をとったとしても、それはどんな船だったのか? そしてどこの海域だったのか? 彼と同様に船乗りだったカルカンテ(このエスタードス島でもそうであるように、かつての放浪生活中もコングレの腹心だった)が、それに答えられる唯一の人物であったろう。だが彼はその点に触れようとしなかった。
しかしきっと、この二人の卑劣な男たちの顔に海賊という言葉を投げつけてやっても、彼らを中傷することにはならなかったろう。そうした罪深い生活を、彼らはソロモン諸島やニューヘブンリジーズ諸島で送っていたにちがいない。当時はまだその付近でよく船が襲われたものだ。きっと彼らは、太平洋のこの海域で連合王国とフランスとアメリカの組織した巡航隊の監視をまぬがれたのち、マゼラン海峡付近に逃亡し、さらにエスタードス島にわたって、海賊から漂流物の略奪者へと鞍《くら》がえしたのだ。
コングレとカルカンテの手下のうち五、六人は、やはり漁師とか商船の船員として海の生活を経験していた。つまり海できたえられた輩である。さらにフェゴ島出身者についても、スクーナー船がうまく一味の手にはいれば、海賊仲間に加わるだろう。
このスクーナー船は、その船体とマストから判断して、百五、六十トン以上はないように思えた。昨夜の西からの突風によって、船は岩の点々と突きだした砂洲の上に押しあげられていた。岩にじかにぶつかっていたら、こなごなになっていたにちがいない。船体は疵ついているように見えなかった。だが船は左舷に傾き、船首もななめ陸の方を向いており、右舷の船腹は海面にさらされていた。こういう状態だから、前甲板から後甲板の船室まで船の姿を見てとることができた。前檣、主檣、第一斜檣などのマストは無事だった。操舵装置も付いているし、帆は前檣を別にすれば半分だけ巻かれており、小さな最上檣と第一接檣帆とはきちんと巻おさめられていた。
前夜、一味の者たちがサン・バルテレミイ沖にいるこのスクーナー船に気づいたとき、船はかなり強い北東の風とたたかっていた。帆をいっぱいに張り、右舷開きにして、スクーナー船はルメール海峡にはいろうと努めた。コングレとその仲間が闇のなかに船の姿を見失ったそのとき、風はおさまる気配をみせはじめ、まもなく船にスピードを与える力を失ってしまった。そこで、船は潮によって暗礁のごく近くまで押し流され、どうしても沖にとってかえすことができなくなったのだろう。風も夜のうちに、この地域ではいつもそうなのだが、突然それまでとはまったく向きを変えてしまっていた。帆桁を転桁していることからも、船員たちがどんなに風を受けて進もうと努力したかがわかる。だが、きっと時すでに遅かったのだ。結局スクーナー船は砂洲のただ中に乗り上げてしまったのだから。
船長や乗組員がどうなったかは、推測の域をでない。だが彼らはおそらく、風と潮のために船が暗礁の突きだした危険な海岸の方へ押し流されるのをみて、海にボートをおろしたのだ。スクーナー船が岩にぶつかれば、最後のひとりまで全滅すると考えたにちがいない。なんと痛ましい思いちがいだろう。船にとどまっていれば、船長も船員たちも無事命拾いしたはずなのに。いずれにせよ、彼らが非業《ひごう》の死をとげたことはまちがいない。彼らのボートが、北東二マイルほどのフランクリン湾の奥に、風で押し流され、竜骨を宙に向けた姿を見せていたのだから。
スクーナー船のところまでいくのは、潮がまだ干《ひ》いているうちは、別にむずかしくなかった。サン・バルテレミイ岬から、せいぜい半マイルほどの座礁地点までは岩づたいに歩いていけるのである。コングレとカルカンテ、それに二人の部下がいっしょに船までいくことになった。あとの連中は断崖の下にいて、難船の生存者でもいないかと見張りの役を仰せつかった。
コングレと仲間たちが砂洲についてみると、スクーナー船はそこに完全に乗りあげていた。だが、こんどの潮で海面は七、八フィートあがるはずだから、船底が破損していなければ船はまた浮かびあがるにちがいない。
コングレがこのスクーナー船のトン数を百六十トンと見積もったのは間違っていなかった。彼が船の周囲をめぐって、後部の銘船名板のとこへくると、〈マウレ、バルパライソ〉と読めた。
つまり、十二月二十二日から二十三日の夜にかけてエスタードス島で座礁したのは、チリ船だったのである。
「こいつは、おれたちの役に立つぜ」とカルカンテは言った。
「船に穴があいていなけりゃのことですぜ」手下のひとりが文句をつけた。
「穴があいていようと、どんな疵を受けていようと、直すまでさ」コングレはただそう答えた。
それから彼は海面側の船底を調べにいった。外皮板には破損箇所がないように見えた。船首も少し砂に突っこんではいたが、船尾と同じく無疵のようだし、舵はそのまま鉄具についていた。砂洲に横たわった船腹については、外側から点検できないので、はっきりわからなかった。これも二時間後潮がさしてくれば、どういう処置にでたらよいかわかるだろう。
「船に乗るんだ!」コングレは言った。
船が傾いているので左舷から簡単に乗船できたが、甲板の上は歩けなかった。甲板の手すりにそって這うようにして進まなければならないのだ。コングレと他の仲間は手すりを越え、主檣の網張台によりかかった。
座礁はそれほど激しくはなかったものと思われる。つなぎとめておかなかった何本かの円材を別にすれば、みな元のままだった。このスクーナー船の造りはそれほどほっそりとしておらず、船底の肋板もこれまでほとんど代えた様子がなかった。船はひどく傾斜しているわけではなかったから、潮が満ちてくれば、きっと自然に起きあがるだろう。ただし、吃水部に損傷があってし浸水すれば話は別だが。
コングレはまず最初に甲板室まで忍びよることにしたが、そこの扉はなかなか開かなかった。食堂の上が船長室になっていた。彼は間仕切りにしっかりもたれかかって中にはいると、戸棚の引出しから船の関係書類をとりだし、またカルカンテの待っている甲板にひき返した。
二人は海員名簿などを調べ、次のことを知った。
スクーナー船〈マウレ〉は、総トン数一五七トン、パイラ船長のほか乗組員六名で、チリのバルパライソ港から十一月二十三日、フォークランド島をめざして、積荷なしで出航したのであった。
ホーン岬を無事回ったあと、〈マウレ〉はルメール海峡にはいろうとした。その際エスタードス島で坐礁したわけである。パイラ船長も、他の乗組員も、誰ひとりとしてこの遭難をまぬがれたものはいなかった。というのも、ひとりでも生存者がいたのなら、サン・バルテレミイ岬に避難できたはずだ。だが夜が明けて二時間たっても、まだ人影ひとつ見あたらないのである。
いま触れたように、このスクーナー船は空船で、フォークランド諸島に向かっていたから、船荷はまったく積んでいなかった。しかし、コングレにとって肝心なのは、船を手に入れ、それに略奪品を積んで島を離れることだった。この〈マウレ〉をうまく離礁させれば、それが可能となるのだ。
船倉の内部を調べるには底荷を移す必要があるように思われた。
底荷としては古鉄を使っていたが、それが乱雑に散らばっていた。これを片付けていたのでは結構時間もかかるだろうし、沖から風が出てきたりするとスクーナー船はきわめて危険な状態になるだろう。なによりも、船が浮かんだらすぐ、この砂洲の外にスクーナー船を引きだした方がいい。ところでまもなく潮がでてきて、数時間後には満潮になるはずだった。
コングレはカルカンテに言った。
「竜骨の下に海水が満ちてきたらすぐ、スクーナー船を引きだすことにするぜ……おそらくひどい破損箇所もないようだから、水浸しになりはしめえ……」
「どうなるかすぐわかりますぜ。潮が差しはじめやしたからね。あとはどうするんです、コングレ?」
「この暗礁地帯から〈マウレ〉を引きだすのさ。そして岬にそって船を動かし、洞窟のすぐまえの≪ペンギン島≫の入江の奥にいれるんだ。あそこなら干潮になっても船底が触れたりしないだろう。船は吃水線まで六フィートしかないのだから」
「そのあとは?」カルカンテは言った。
「気をつけるまでさ」コングレは簡単に答えた。
こんどの潮をのがさないように、みんなは仕事にとりかかった。この機会を逸するとスクーナー船の離礁は十二時間遅れてしまう。是か非でも、昼までに入江に停泊するようにしなくてはならない。そこに入れば海上に浮かんだままいられるし、天候が変わらなければ比較的安全なはずだ。
まずはじめに、コングレは部下に手伝わせて、右舷にある揚錨架から錨をとりだし、鎖をいっぱいに延ばして、これを砂洲の外側に固定した。こうしておけば、竜骨の重みが砂にかからなくなったらすぐ、その錨架をたぐってスクーナー船を進ませ、海底の深い地点まで導くことができよう。潮がひきはじめるまでには、ゆっくり入江に辿りつけるだろうし、午後は船底を徹底的に点検するのだ。
錨を固定する作業は敏速に行なわれ、最初の潮があがってきたときにはすでに終わっていた。砂洲は一瞬のうちに海水で覆われようとしていた。
そこで、コングレとカルカンテと半ダースほどの仲間が船に乗りこみ、他の者たちは断崖の下の地点にまたもどった。
いまはただ待つだけだった。よく上げ潮とともに沖から風が吹くことがあったが、この風はとくに注意しなければならなかった。なぜなら、風はいっそう〈マウレ〉の坐礁をひどくし、陸地の方へ三角形に切りこんでいる砂洲へとさらに船を押しあげる危険性があったからである。ところで、その日はほぼ、干満の差の少ない小潮にあたっていたから、たとえほんのわずかでも風のために船が海岸方向に押し流されれば、潮はスクーナー船が浮かび上がれるほどの水位に達しないのではなかろうか?
しかし、状況はコングレの計画に幸いしているように思えた。風が少し強まり、それも南風に変わったから、〈マウレ〉の脱出を手伝う格好になったのである。
コングレとその仲間たちは、船尾より早く浮かぶはずの船首に集まっていた。これはあながち期待できなくはないのだが、もしスクーナー船が竜骨の後端で回転できれば、あとはキャプスタン(絞盤)を巻いて船首を海面におろしさえすればいい。そうすれば約百|尋《ひろ》ぐらいに延びた鎖に引かれて、船は完全に水に浮くだろう。
ところで海は少しずつ水位を高めていた。船に身震いに似たものが走り、船体が潮の作用を受けてきたことがわかった。海面の波は大きなうねりとなってひろがり、こまかく砕け散る波はひとつもなかった。これ以上好ましい状態はないくらいだった。
いまやコングレは、スクーナー船を救出し、フランクリン湾の入江のひとつに無事船を導きいれる自信はあったが、それでも万一の不運を考えると心配だった。砂洲に面していて調べられなかった、〈マウレ〉の左舷の船腹には穴があいていないだろうか? 水漏れ箇処があっても、底荷の下にそれを探し、ふさぐ暇などない。穴があいていればスクーナー船は砂洲を離れられず、浸水するにちがいないから、この場所に船を置きざりにせざるをえなくなる。そしてつぎの嵐でこなごなになってしまうのだ……。
大きな心配の種はそこにあった。だから、コングレと仲間たちはじりじりした面持ちで潮が満ちてくるのを見守っていた! 外皮板のどこかに穴があいていたり、つなぎ目に詰めこまれた槇皮《まいはだ》がはずれていたりすると、まもなく船首に水が浸水してきて、〈マウレ〉は立ちあがることもできないだろう。
しかし徐々に彼らは安堵《あんど》の気持ちを強めていった。潮は差していた。刻々と水が船体を包んでいった。海水は船腹にそって這いあがってきたが、内部に浸みこんではこなかった。揺れがでてきて、船体の無疵を証明し、甲板もまたいつものように水平になった。
「水漏れはないぞ!……水漏れはないぞ!……」カルカンテは叫んだ。
「キャプスタンに気をつけろ!」コングレが命じた。
クランクの準備はととのっていた。手下はただ操作の指令を待っていた。
コングレは揚錨架に身をかがめ、すでに二時間半前から満ちつつあった潮を見つめていた。船首が揺れはじめ、竜骨の前部はもう砂に触れていなかった。しかし船尾はまだ砂に埋まっていて、舵は自由にならなかった。船尾を離すには、おそらくあと三十分はかかるはずだ。
コングレはいよいよ離礁作戦を速めようとし、船首にとどまったまま、叫んだ。
「キャプスタンを巻け」
クランクが力いっぱい回されたが、鎖はぴんと張っただけで、船首は水をいっぱいにたたえた海中へおちこんでいかなかった。
「がんばれ!」コングレが叫んだ。
実際のところ、鎖がきかなくなるおそれもあった。そんなことになれば、つぎの停泊に支障をきたすことになる。
スクーナー船はすでに完全に起きあがっていた。カルカンテは船倉を走り回って、どこにも水漏れがないことを確かめた。外皮板に疵らしきものはあったが、少なくともそれはぴったりとくっついていた。〈マウレ〉は坐礁のときにも、砂洲に十二時間ほど乗りあげていたときにも、被害を蒙《こうむ》らなかったとみえる。この状態なら、≪ペンギン島≫の入江に停泊するのもそう長いことではあるまい。
午後には荷を積み込んで、翌日ただちにまた沖にでるのだ。それにしても、うまく天候を利用しなければなるまい。ルメール海峡をさかのぼるにせよ、エスタードス島の南岸ぞいに大西洋に出るにせよ、風をうまく使って〈マウレ〉の航海を進めることだ。
だいたい九時に、潮はとまるはずだった。くりかえすことになるが、小潮のときはそれほど水位があがるものではない。だがこのスクーナー船の吃水線は比較的低かったから、船が再び浮かびあがると考えていいはずである。
事実、八時半をすこしすぎると、船尾がもちあがりはじめた。〈マウレ〉の竜骨がこの静かなうねりのために砂洲に触れたが、疵はつかなかった。
コングレは船の状態を調べたあとで、この好条件のうちにまた船をひっぱるべきだと判断した。彼の命令で、男たちは鎖を巻きはじめた。十二|尋《ひろ》ほど巻きもどすと、〈マウレ〉の船首はついに海面の方を向いた。錨はどうにか持ちこたえていた。錨の爪は岩の間隙にしっかりとはめこまれ、キャプスタンの牽引によって、曲がるというよりもむしろ折れてしまいそうだった。
「がんばるんだぞ!」コングレが叫んだ。
みんな必死だったし、カルカンテもがんばった。一方コングレは船尾上部に身をかがめ、スクーナー船の船尾を見守っていた。竜骨の後半分は相変わらず砂を引っ掻いていた。
だから、コングレも他の仲間も強い不安を覚えずにはいられなかった。海はあと二十分くらいしか満ちていないのだから、〈マウレ〉はどうしてもその前に離礁する必要があった。さもないと、つぎの潮までこの場に釘づけにならざるをえないのだ。ところで、あと二日間、潮の水位は減る予定だったから、四十八時間後でなければ、上げ潮にめぐり会えないのである。
最後の努力をする時がきた。自分たちの無力ぶりを知らされたら、これらの男たちの怒りが、いや怒りというよりも激怒が、どんなものになるかは想像できよう。自分たちの自由とおそらく無処罰を保証してくれる船、長らく切望していたその船を目前にしながら、この砂洲から引きだせないとしたら!……
そこでキャプスタンにしがみつき息せき切っているあいだも、彼らは錨がこわれるか、きかなくなりはしまいかと思って、罵《ののし》りと呪《のろ》いの言葉を浴びせかけた! 錨が使えなくなると、夜の潮を待ってあらためて錨を投げこみ、さらにそれに補助の錨を結びつけなくてはならない。ところで、これから一日の行動予定はついていたが、天候状態は今と同じように順調にいくだろうか?……
ちょうど、かなり厚い雲がいくつか北東に姿を見せたところだった。雲がその方向にとどまっていれば、沿岸の高い断崖によって砂洲は庇護されているから、実際には船の状況が悪化することはあるまい。だが海は荒れてきはしないだろうか? そして大波が、昨夜手につけた坐礁作業を完成させはしないだろうか?……
それからあの北東へと吹く風は、ほんの微風でも、海峡を渡る船にとってはもともとありがたくない存在だった。帆に横風を受けて進めなくなるから、〈マウレ〉は、たぶん何日も詰め開きで帆走しなければならなくなるだろう。航海の場合、遅れをだすということは、つねに重大な結果をひき起しかねないのだ。
海はいまやほとんど静止状態となった。もう少したてば干潮がはじまるだろう。砂洲はすっかり水につかっていた。暗礁が海面すれすれにいくつか頭をみせているだけだった。サン・バルテレミイ岬の先端の岩場はもう姿をかき消していた。浜では最後まで残った寄洲《よりす》が、一瞬波に洗われはしたが、まだその地肌をみせていた。
明らかに海はゆっくりと水位をおとしはじめていた。砂洲の周囲にまもなく岩が現われることだろう。
またしても罵りの言葉が投げかけられた。男たちは疲れ切り、息を切らして、もはや成功の見こみのないこの仕事を投げ出す寸前だった。
コングレは目をむいて彼らのもとに駆けつけ、泡を吹いて怒った。斧《おの》をつかむと彼は、持ち場を離れるやつはこれで殴りつけてやる、とみんなをおどした。彼がためらわずに殴りかかることを、手下の連中はよく知っていた。
彼らは一人のこらず、またクランクにしがみついた。彼らの努力で、鎖はたち切れんばかりにぴんと張り、錨鎖孔の銅裏を押しつぶした。
ついに何か音が聞こえた。キャプスタンの留め金が切り込みにはまったのだ。スクーナー船は深みへ少し動いた。舵柄《だへい》も動くようになり、船が少しずつ砂から抜けだしているのがわかった。
「やった!……やった!……」みんなは〈マウレ〉が自由になったのを感じて、叫んだ。竜骨の後端がいま、坐礁した砂洲を滑り離れたのだ。キャプスタンの巻きとり操作はスピードを増し、スクーナー船は錨に引っぱられ、数分で砂巣の外側に浮かびあがったのである。
ただちに、コングレは舵輪《だりん》に突進した。鎖がたるみ、錨は抜きとられ、そしてまた揚錨架に引き揚げられた。あとはもう澪《みお》にはいり、暗礁のあいだを通ってフランクリン湾の入江に辿りつくまでだった。
コングレは船首に大きな三角帆を張らせた。これだけで航行には充分なはずだ。海がこうして満ちていると、どこへでも航行可能なのである。三十分後、浜にそって最後の岩場を回ったあと、スクーナー船は、サン・バルテレミイ岬の突端から二マイル離れた≪ペンギン島≫の入江に錨をおろした。
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六 エルゴール湾へ
かくして離礁作業は完全に成功した。しかし、すべてが終わったわけではなかった。スクーナー船をサン・バルテレミイ岬の沿岸にあるこのくぼんだ入江で、完全に安心できる船にしておかなくてはならない。だがこの入江も、沖からの大波や北西からの暴風雨をまともに受ける危険性がきわめて多かった。春分・秋分の高波のでる頃だったら、一日としてこんな入江に寄港してはいられないだろう。
コングレもこの事実を知らないではなかった。だから彼は、翌日の干潮時に入江を離れるつもりだった。干潮を利用して少しでもルメール海峡にでておこうという考えなのだ。
とはいうものの、その前に船を徹底的に点検し、船体内部の状態も調べておかなくてはなるまい。水漏れがないことは確かめられたが、外皮板にしても、少なくとも坐礁によって肋材に疵《きず》がついているかもしれないし、今後かなり長い航海にでるのだから小さな修理もしておかなくてはならぬ。
コングレはすぐ手下たちを仕事につかせ、左舷と右舷の肋板の高さまで船倉いっぱいに積みこまれた底荷を移動することにした。だが底荷を船から降ろす必要はないように思われた。そのほうが時間と労力の(とくに時間の)節約になる。〈マウレ〉がこのように不安定な状況におかれている場合、無駄をはぶくことこそ肝要だった。
底荷として使われていた古鉄をまず、船首から船尾の船倉へと運び、船首の部分に張られた羽目板を調べた。
この点検はコングレとカルカンテ、それに二人の手伝いをするバルガスという名のチリ人によって、注意深く行なわれた。バルガスは、かつてバルパライソの造船所で船大工として働いていたので、こうした仕事にはくわしい男である。
船首から前檣の檣座までの箇処は、どこにも破損は認められなかった。肋板も肋材も外皮板も無事だった。それらは銅でしっかりとめられ、船が砂洲に乗りあげたときの影響を受けていなかった。
ふたたび底荷は船首の方へ移されたが、前檣から主檣までの船体はやはり無疵だった。船梁の支柱はたわみも、ゆがみもしていなかったし、中央のハッチへつづく梯子《はしご》の位置もずれてはいなかった。
そこで、船尾突出部のはじまる場所から船尾材そのものまで、いわば船のうしろ三分の一を占める船倉を調べることになった。
そこにはかなり大きな破損箇所があった。水漏れはないのだが、左舷の肋材が一、五メートルにわたって折れ曲がっているのである。この損傷は、スクーナー船が砂洲に押し流されるまえに、岩礁の頭に衝突してできたものにちがいない。外皮板が完全にゆるんでしまっているわけではなかったし、板のあいだの詰め物はそのままだったから船倉に海水がはいる心配はなかったが、この破損はやはり重大なものといってよかった。船乗りなら当然この疵を気にかけるにちがいない。
ふたたび海へ出るのならどうしても修理が必要だった。穏やかな天候のなかを少しばかり航海するのとはわけがちがうのだ。しかしながら、この修理にはまるまる一週間かかりそうな気配だった。仕事に必要な材料や道具があったとしてもである。
コングレとその仲間は目の前に立ちはだかった難関がどんなものかを知ったとき、当然こうした状況に置かれたことを呪った。〈マウレ〉の離礁を迎えたあの喚声のあとに、祝いの言葉が投げつけられたのだ。このスクーナー船は使えないのか?……結局おれたちはエスタードス島を離れられないのか?……
コングレがみんなを制してこう言った。
「疵が重いのはほんとうだ……このままでは〈マウレ〉を当てにはできない。天候が悪いと、二つに裂けてしまうかもしれないからな……太平洋の島に辿りつくには数百マイルも走るんだ!……途中で沈没されてはたまらねえ。でもこの疵は治るぜ。おれたちの手で直すんだ」
「どこでやるんですかい?」と、チリ人のひとりが不安を隠しきれない様子で尋ねた。「ここじゃできませんぜ、とにかく」仲間のひとりが口をはさんだ。
「そのとおりだ」コングレはきっぱりと答えた。「エルゴール湾でやるのさ」
実際二日かければ、スクーナー船はここからエルゴール湾までいきつけるだろう。島の南を通るにせよ北を通るにせよ、沿岸ぞいに走ればいいのだ。向こうの洞窟のなかには、漂流物からくすねた物資をすべてそのままにしてあるから、船大工が修理に必要な材料や道具を思いのままに使えるはずだ。二週間でも三週間でも寄港していなければならないというなら、〈マウレ〉はそうしたってかまいはしない。夏の穏やかな季節はあと二か月つづく予定だし、少なくともコングレとその一味がエスタードス島を離れるときには、破損箇所を徹底的に修理し直した、まったく安全な船に乗り込めるだろう。
それにコングレは以前からずっと、サン・バルテレミイ岬を離れたあとはエルゴール湾にしばらく立ち寄りたいと考えていたのである。燈台工事のため一味が島のもう一方の端に逃がれざるをえなくなったとき、彼はどんなことがあろうと、洞窟に置いてきたあのあらゆる種類をふくんでいる品物を失うようなまねはすまい、と考えたのだ。だから彼の計画も、寄港期間が予定より長くなるという点で変更があるだけのことなのである。
一味の者には自信がわいてきた。翌日ちょうど干潮のときに出航できるよう準備がはじまった。
燈台守の存在など、これら海賊の一味には気にならなかった。この点について、コングレは自分の計画を簡単に披瀝《ひれき》した。
「このスクーナー船がやってくるまえから」と二人だけになったとき彼はカルカンテに言った。「おれはエルゴール湾をもう一度自分のものにしようと心に決めていたんだ。おれの考えは変わっていない。ただ、相手に見つからないよう陸地を通っていくかわりに、堂々と海からいくまでさ。スクーナー船が入江に錨をおろせば、やつらは何の疑いも持たずにおれたちを迎えてくれるぜ……そのときは……」
カルカンテもとりちがえようのない仕草で、コングレは自分の考えに終止符を打った。事実、この卑劣な男の計画は百パーセント成功するだろう。奇跡でも起こらないかぎり、バスケスとモリスとフェリペは、どうやって彼らを脅かしている運命の手をのがれることができよう?……
午後は出航準備にあてられた。コングレは底荷をもとの場所にもどさせ、サン・バルテレミイ岬に持ってきていた食料品、武器、その他の品物などを船に積む仕事に没頭した。
船積みは迅速に行なわれた。エルゴール湾をでてから――すでに一年以上になるが――、コングレとその一味は、主として自分たちの食糧を消費してきたから、船の食料庫に積み込まれる食料品はほんのわずかしか残っていなかった。寝具、衣類、道具、金銀の品物などは、それぞれ〈マウレ〉の調理場、船員室、船尾甲板室、船倉などにおさめられ、あとはエルゴール湾の入口の洞窟に隠してある物資を余《あま》すだけだった。
とにかく、仕事はてきぱき運んだので、夕方の四時ごろには荷物は船に積みこまれていた。スクーナー船はすぐにでも出航準備できたのだが、コングレは暗礁の立ちならぶ沿岸を夜航海する気にはなれなかった。サン・ジュアン岬まで船を進めるのに、ルメール海峡を通るか否かも彼は決めかねていた。それは風向き次第なのだ。南風に変われば海峡にはいろう。だが北風のままで、しかも強い風になりそうだったらそうはいかない。その場合は、島の南端を通った方がいいとコングレは思った。〈マウレ〉が陸地に護られて走れるからだ。それに、どのルートを選ぼうと、今度の航海が夜間どこかに寄港する時間を含めても三十時間以上かかることはあるまい、というのが彼の計算だった。
夕刻になったが、気象状況はいっこうに変わらなかった。日没のとき霧はまったくなかったし、空と海が非常にはっきりと見え、日輪が水平線の背後に姿をかき消そうというときには、緑の光が天空をよぎった。
穏やかな夜を迎えるのはまちがいないと思われたが、事実夜は静かだった。大部分の連中が、あるものは船室に、あるものは船倉にと、船で夜をすごした。コングレは食堂の右側のパイラ船長の船室をひとりじめにし、カルカンテは左側の副艦長室をもらった。
何度も彼らは甲板にでて、空と海の具合を調べ、干潮の最中でも〈マウレ〉になんの危険もないことや、明日の出航を遅らす理由はなにもないことを確かめた。
実際、日の出はすばらしかった。この緯度の地点で、太陽が水平線上にこんなにはっきり姿を見せるのはめずらしい。
早朝からコングレはボートに乗って陸にあがり、狭い谷をわたって、まるでサン・バルテレミイ岬におびき寄せられるように、断崖の頂にでた。
この高さからだと、三方の方角の広大な海の広がりに目を走らせることができた。東側だけは、サン・タントワーヌ岬とケンプ岬とのあいだに山塊が立ちはだかり、視界をさえぎっていた。
南の洋上は穏やかだったが、海峡の沖合はかなり波立っていた。風が力を増し、強く吹きはじめているのだ。
その上、沖合にはひとつの帆も、ひと筋の煙も見えなかった。きっと〈マウレ〉は、サンジュアン岬までの短い航海のあいだ一隻の船に出会うこともないだろう。
コングレはすぐ決意を固めた。彼は、強い風が来るかも知れないという正当な判断をしていたし、スクーナー船が海峡にはいった場合、潮流の向きが変わる際にいつも荒れ狂う大波にさらされて船が打撃を受けることを何よりも恐れていたから、島の南岸ぞいに、ケンプ岬、ウェブスター岬、セベラル岬、ディエーゴス岬を経てエルゴール湾に辿りつこうと心に決めたのだ。島の南を通ろうと、北を通ろうと、距離はほぼ同じだった。
コングレは崖をおり浜にでると、洞窟に向かった。そして何ひとつ忘れ物がないことを確かめた。これでエスタードス島の西端に一味のものが暮らした痕跡はまったく残るまい。
七時を少し回っていた。干潮がすでにはじまっていたので、入り江をでるには都合がいい。
錨はただちに揚錨架におさめられ、前檣支索三角帆と船首の三角帆とが張られた。北東から微風が吹いていたから、〈マウレ〉をこの暗礁地帯から出すにはこれで充分なはずだ。
コングレが舵をにぎり、一方カルカンテは船首で見張っていた。暗礁の散らばったこの入江を抜けだすには十分とかからなかったし、ほどなくスクーナー船には少し横揺れと縦揺れが感じられるようになった。
コングレの命令で、カルカンテは、スクーナー船の装具のなかでも大きな帆に属する前檣帆と後檣桁帆とをかかげさせ、さらには中檣帆も充分に張らせた。これらの帆を風上に向けてしっかり綱でとめ、斜めから風をいっぱいに受けた〈マウレ〉は、サン・バルテレミイ岬の先端を回るため、進路を南西にとった。
三十分ほどすると、〈マウレ〉は岬の先端の岩場を迂回した。いまや船は船首をまともに風上に向け、東に進んだ。なんとかして斜めに風を受けて走ろうというのだ。だがこの風はかえって船の進行には好都合だった。島の南岸から三マイルほど離れたまま航海できたからである。
この間、コングレとカルカンテには、この軽快な船がどんなにスピードを上げても立派に持ちこたえられることがわかった。きっと穏やかな季節なら、マゼラン海峡付近の諸島を背後に見やりながら、太平洋の海域へと飛びこんでいっても大丈夫だろう。
これならおそらく夕方にはコングレ一味はエルゴール湾の入口につけるはずだった。だがコングレは、太陽が水平線のうしろに姿をかき消すまでに、沿岸のどこかの海上に船をとめたいと考えていた。彼は無理に帆を使おうとせず、前檣の小さな第二接檣帆もメーン・マストの上檣帆も用いずに、一時間五、六マイル平均で走るだけにとどめていた。
この一日目の航行で、〈マウレ〉は一隻の船にも出会わなかった。まもなく日が暮れようというとき、彼らはウェブスター岬の東側に停泊することにした。これで全行程のほぼ半分を走ったわけである。
ここは巨大な岩がひしめき合い、島でもいちばん高い断崖がそびえ立っていた。スクーナー船は、小さな岬の鼻が無数に突きだした入江の、海岸からほど近い場所に錨をおろした。港には停泊しても、ドックに横づけしていても、船がこれほど静かな状態でいられることはなかったろう。だが、もし南風に変わると、こんなところに停まっていてはきっと〈マウレ〉はひどく危険な目にあうにちがいない。南極圏の嵐が波をかき立てるとき、海はホーン岬周辺と同じほど荒れ狂うのである。
しかし北東の風が吹きわたっている天候は、このまま変わらないように思えた。コングレとその一味の計画が有利に運ぶよう幸運がついて回っていた!
十二月二十五日から二十六日にかけての夜は非常に穏やかだった。風は夜の十時ごろに止《や》んだが、日の出の近づく明方の四時ごろにまた出てきた。空が白んでくるとすぐ、コングレは出航準備を始めた。夜のあいだ絞帆索《しぼりほづな》にたたまれていた帆がふたたび張られた。キャプスタンが錨を所定の場所に引きあげた。〈マウレ〉は進みだした。
ウェブスター岬は、北から南へ向かって約四、五マイル海上に突きでていた。したがってスクーナー船は岬をさかのぼり、約二十マイルほど先のセベラル小岬まで、東へとつづいている海岸ぞいに走らなければならない。
〈マウレ〉は、沿岸地帯に近づくとすぐ、前日と同じ状態でまた航行をはじめた。船は高い断崖から身を避けて静かな波の上を進んだ。
なんと恐ろしい海岸だろう! 海峡付近よりなお恐怖を感じさせる海岸だ。巨大な岩といまにも崩れそうな岩戸が折り重なるようにつづいている。びっしりと連なるこれらの岩は浜を埋め、波打ち際の砂洲のところまで這いだしている。海面には黒ずんだ暗礁がとてつもない広がりをみせ、岩の突き出ていない場所はない。だからただのボート以外のどんな船も、ここに接岸するのは無理というものだ。停泊できそうな入江も、足を置けそうな砂洲も、ただのひとつたりともないのだ! 南極の海域から押し寄せる恐るべき大波に対して、エスタードス島はこの怪物のような砦《とりで》を向かい合わせたのだろうか。
スクーナー船は沿岸から三マイル以内の海上をふつうの速度で進んでいた。コングレはこの海岸を知らなかったから、慎重に考えてあえて船をあまり岸に近づけようとしなかった。また、〈マウレ〉にちょっとでも疵をつけないようにと、沖合でもいちばん静かな海上のただ中を走りつづけた。
だが十時ごろ、ブラッサム湾の沖合にでたとき、完全に船はうねりを避けきれなくなった。風は、島を深くえぐっている湾にまで吹きこみ、海を大きく波立たせた。〈マウレ〉はこの波を真横に受けてあえいだ。コングレは湾の東側に張り出した岬の鼻を回ろうと航路を転じた。それから岬の先端をすぎると、うまく斜めに風を受けて走り、左舷開きで船を沖へと出した。
コングレは自分で舵をとっていた。船は帆脚索をぴんと張って、できるだけ向かい風を斜めに受けて航行していた。午後の四時ごろやっと、一挙に目的地を目指せるだけ風上に出たとコングレは判断した。今度は追い風を受けるように舵を回すと、彼は進路を転じ、まっすぐエルゴール湾に向かった。セベラル小岬はいまや北西四マイルの地点にあった。
この位置からだと、サン・ジュアン岬までの海岸を完全に見渡すことができた。
同時に、ディエーゴス小岬の背後に、コングレの初めて目にする≪地の果ての燈台≫が現れた。パイラ船長の船室にあった望遠鏡で、彼は燈台守のひとりを認めることもできた。燈台守は回廊にいて海を見張っていた。あと三時間ほど太陽は水平線上にあるはずだから、〈マウレ〉はきっと夜までには停泊地に辿りつけよう。
スクーナー船が燈台守たちに視線の触れたことも、エスタードス島の海上への船の出現が記録されたことも、確実だった。バスケスとその仲間は、沖に向けて進んでいる船の姿を目にしていたかぎりでは、船がフォークランド諸島を目ざしているものと当然考えただろう。だが、スクーナー船が右舷開きで風を斜めに受けて走り出してからは、逆にこの船が湾にはいるつもりなのだと確信したにちがいない。
しかしコングレにとっては、〈マウレ〉が誰かの目に触れようと、寄港するつもりらしいと思われようと、どうでもよかった。そんなことは彼の計画になんの影響もないのである。
この航海がかなり好都合な状態で終わろうとしているのを見て、コングレはすこぶる上|機嫌《きげん》だった。東風が少し吹きだしていた。帆をしっかりと風上に向け、風をまともに受けるようにして、スクーナー船は進んでいった。ディエーゴス小岬を回るのにも、べつに斜航する必要もなかった。
まさに幸運な状況だった。船体の状態が思わしくなかったら、たぶんたびたび方向転換したりはできなかったはずだ。そんなことをしたら、船体をゆがませ、入江につくまえに水漏れが生じかねなかった。
ところが、その水漏れが生じたのである。〈マウレ〉が湾まであと二マイルという海上にきたとき、船倉におりていった一味のひとりが、外皮板の割れ目から浸水していると叫びながら、駆けあがってきた。
明らかに船体のこの部分の肋材が、先に岩と衝突したさい、ゆるんでいたのだ。そして、これまでどうにかもってきた外皮板が、ついに隙間を空けてしまったのである。だが割れ目は数インチにすぎなかった。
結局、この疵はそれほどたいしたものではなかった。底荷をどかすと、バルガスはあまり苦労もせず、槇皮《まいはだ》をうまくつめて水漏れをふせいだ。
しかし、おわかりいただけると思うが、こんな事があってはどうしても修理に慎重を期さねばならぬ。サン・バルテレミイ岬で坐礁したままの状態では、スクーナー船は墓穴を掘るだけで、太平洋の波に立ち向かえはしないだろう。
六時に、〈マウレ〉はエルゴール湾から一マイル半の沖合にいた。コングレはいまや必要のなくなった大型の帆をたたませた。中檣帆と大きな三角帆と後斜桁帆だけはそのままにしておいた。これだけ帆を張っていれば、〈マウレ〉はコングレの指揮のもとで、エルゴール湾の奥の入江にやすやすと停泊できるだろう。くり返すことになるが、コングレはこの湾のどこを走ればいいか完全に知っていたし、水先案内人の役をつとめられるほどだったのだ。
しかも、夕方六時半ごろ、明るい光線が海面に投げかけられた。燈台に灯りがともったのである。燈台によって湾に導かれる最初の船が、海賊の一味の手に落ちたチリのスクーナー船であったとは。
七時近くになった。太陽がエスタードス島の高い絶壁の背後に傾きかけたとき、〈マウレ〉はサン・ジュアン岬を右舷に見やった。湾が船の前方に開けていた。コングレは追い風を受けて湾にはいった。
コングレとカルカンテは洞窟の前を通ったとき、その入口に石が積まれ、口をふさいでいた草木もそのままなを見てとり、人がふみ入った形跡はないという確信をえた。島のその地点で彼らが暮らしていた事実はまったく露見していないわけだ。これなら略奪品も、以前しまいこんだままの状態になっているにちがいない。
「うまくいってますぜ」船尾にいたカルカンテが、そばのコングレに言った。
「もうじき、もっとうまいことになるさ!」コングレが答えた。
あと三十分もすれば、〈マウレ〉は入江にはいり、そこに錨をおろせるだろう。
ちょうどその頃、台地から浜に降り立ったばかりの二人の男が、この船のことを≪あれこれ話して≫いた。
それはフェリペとモリスだった。彼らはスクーナー船に乗り込もうと大型ボートの用意をしていた。
バスケスといえば、当直室で仕事についていた。
スクーナー船が入江の中央にやってきたとき、後斜桁帆と中檣帆はすでにたたまれ、船には大きな三角帆が張られているだけだったが、その三角帆もカルカンテがおろさせた。
錨が海中に沈められたそのとき、モリスとフェリペは〈マウレ〉の甲板にとび乗った。
すぐに、コングレの合図で、モリスの頭部に斧《おの》が振りおろされ、彼は倒れた。同時に、二発のピストルが発射されて、フェリペも仲間のそばに打ち倒された。二人とも即死だった。
当直室の窓を通して、バスケスには銃声が聞こえ、仲間が殺害される光景が目にはいった。
彼自身もつかまったら、同じ運命が待っているのだ。あの人殺したちに情《なさ》けを期待したところでまったく無益なことだ。かわいそうなフェリペ、かわいそうなモリス。二人を救うためになにもしてやれなかったとは! 一瞬のうちに終わったあのおぞましい犯罪にただ身震いし、燈台の上に釘付けになっていたとは!
はじめのうちは茫然としていたが、バスケスはすぐに冷静さをとりもどし、素早く状況を見きわめた。どんなことがあろうと、あの卑劣漢たちの攻撃の手を逃れなければならない。たぶん連中は彼の存在に気づいていないだろうが、停泊作業が終われば、あのうち数人が燈台にのぼろうとするのではないか? そして少なくとも明日の朝まで灯りを消して、湾を使用不能にするつもりではないのか?……
ためらうことなく、バスケスは当直室をあとにし、階段を駆けおりて一階の宿舎へと急いだ。
一瞬たりとも無駄にはできなかった。すでに、スクーナー船を離れる大型ボートの音がし、数人の連中が上陸しようとしていた。
バスケスは二丁のピストルをとりだしてバンドにはさみこみ、袋にいくらか食料品をつめこんでから、それを肩にかついだ。あとは、宿舎を抜けだし、急いで構内の坂を駆けおりると、見とがめられることなく闇のただなかへと消えていった。
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七 洞窟
何と恐ろしい夜を、不幸なバスケスは過ごそうとしているのだろう! 何という境遇に陥ったのだろう! ころされた不運な仲間たちは船から投げ棄てられ、いまや引き潮がその死骸を沖へと運んでいるのだ!……彼が燈台で見張りをしていなかったら、彼らと同じ運命を辿る羽目になったなんて、彼には考えられなかった。彼はただ、失ったばかりの友だちをしきりに想った。
「かわいそうなモリス、かわいそうなフェリペ! 二人はまったく信頼しきって、あのならず者たちの役に立とうとしていたんだ。それなのにピストルの返礼をするなんて!……もうおれは二人に会えやしない……それにあの二人は自分たちの故郷や家族をふたたび目にすることもできないんだ!……それにモリスの奥さんは……二か月後に彼のことを待っているというのに……彼の死を知らされたら!」
バスケスは深く悲しんだ。この二人の燈台守に真底から愛情を抱いていたのだ、彼、バスケスは……彼はずっと以前から二人と知り合いだった!……二人が燈台守になりたいと言いだしたのも彼の勧めだったし……それがいまや彼はひとりだった……たったひとりぼっちだ!……
ところで、あのスクーナー船は一体どこから来たのだろう? それに船に乗っている悪漢一味は何者なのだ?……どこの国の旗を掲げて航海しているか?……なぜエルゴール湾に寄港したのだろう?……この湾のことを知っているのか?……それに、何をしにやってきたのだ?……なぜ上陸するとすぐ、燈台の灯を消したのだ?……他のどんな船にも、やつらの後を追って湾にはいるような真似《まね》はさせまいとしているのか?……
こうした疑問がバスケスの胸のうちにひしめいたが、彼には答えられなかった。彼個人も危険にさらされていることすら考えつかなかった。だが、あの悪人どもはまもなく、宿舎に三人の燈台守がいた事実をつきとめるだろう……やつらは三人目の燈台守をさがしはじめるのではないか?……最後まで見つからないでいられるだろうか?……
湾の岸辺の、入江からほど近い場所に身を避けたバスケスは、そこから、ある時はスクーナー船の船上で、ある時は燈台の構内や宿舎の窓を通して、角燈の光が揺れ動くのを目にした。彼はまた、男たちが大声で、しかも彼の母国語でたがいに話しあっているのを耳にした。ではやつらは同国人なのか、それともやはりスペイン語を話す、チリ人か、ペルー人か、ボリビア人か、メキシコ人か、あるいはブラジル人なのか?
十時ごろになってやっと、光は消え、もはやどんな物音も夜の沈黙《しじま》を乱すことはなかった。
だが、バスケスはこの場所にじっとしてはいられなかった。ここにいては夜があければ見つかってしまうだろう。あの悪漢達はひとかけらの情けも期待できないから、どうしても彼らの手の届かぬところに逃れる必要があった。
どちらに足を向ければいいだろう?……島の内部へ向かった方が比較的安全ではないか? それとも反対に湾の入口にいこうか? そうすれば島の前を通る船に拾ってもらえるかもしれない。でも、島の中に入るにせよ、海岸にでるにせよ、交代の燈台守がくる日までどうやって生活したらいいのだ? 食べ物はすぐ底をつくだろう。二日以内に完全に切れてしまうはずだ。そのあとはどうやって食糧を獲得したらいいのか? 釣り道具さえひとつもないというのに! それにどんな方法で火を起そう? 軟体動物や貝類を食べて生きながらえる羽目に追いやられるのか?
彼は意志の力を奮いたたせた。いずれにせよ決断をくださなければならない。その決断を彼はくだした。サン・ジュアン岬の海岸にでて、そこで夜をすごそうと。夜が明けたら、また周囲に気を配ればいい。
バスケスはこうしてスクーナー船の見える場所をあとにした。船からはもう物音ひとつ聞こえず、ひと筋の光も漏れていなかった。あの悪漢どもはこの入江にいるかぎり安全だと知って、船上にも誰ひとり見張りにでていない様子だった。
バスケスは断崖の下にそって北岸を歩いていった。聞こえるものといえば、ただ引き潮の波のぶつかる音と、ねぐらに帰るのが遅れた、たまに鳴く鳥の声だけだった。
十一時に、バスケスは岬の突端で立ち止まった。ここの浜には狭いくぼみしかなかったが、彼は日の出までここで過ごすことにした。
太陽が水平線を照らすまえに、バスケスは海岸に降りたち、燈台の方向と、サン・ジュアン岬のはじまる断崖の角《かど》から、誰かがやってきはしないかと視線をこらした。
沿岸には湾の両側とも、人影ひとつなかった。また一隻のボートも見えなかった。いまや、スクーナー船の連中は、〈マウレ〉のボートと燈台守が使っていた大型ボートの二隻を思いのままにできたのだが。
島の沖には一隻の船の姿も見えなかった。
バスケスは、今後のエスタードス島の付近の航海がどんなに危険なものかを思った。燈台はもはや働いていないのだ。実際のところ、沖合からやってくる船は自分の位置を正確につかめなくなるだろう。エルゴール湾の奥に灯りがともったことを確かめようと、船は信頼して西へ進路をとるだろうが、そうすればサン・ジュアン岬とセベラル岬のあいだにある、あの恐るべき海岸に体当たりしかねない。
「あの卑劣な連中が燈台の灯りを消したのは」とバスケスは叫んだ。「それをつけないほうがやつらの利益になるからだ。やつらはこれからも灯りをつけようとはしまい!」
まったく、燈台の明かりが消えたというのはきわめて由々しき事態だった。それによって難破が起こるかもしれないし、あの悪党どもはここにいながらにして、事故から利益をむさぼることができるのだ。もう前みたいに火をつけて船をおびきよせる必要もない。船の方で何ら不審を抱かずに燈台めざしてやってくるのだから。
バスケスは大きな岩の上に腰をおろし、前日起こったことをあれこれ考えていた。彼は潮の流れが二人の不運な仲間の死体を運んできはしまいかと目をこらした……だめだ、すでに干潮によって流されて、いまごろは海の深みに呑みこまれているにちがいない!
自分がまったくひどい状況に陥ちこんでいると彼には思えた。どうしたらいいのだ?……何もできはしない……何も。〈サンタ・フェ〉の帰りを待つ以外は。しかし通報艦がエルゴール湾の沖合に姿を見せるのは、まだ二ヶ月も先のことだ。バスケスがそれまで発見されずにすむとしても、どうやって食料を補ったらいいのだろう?……隠れ家は断崖の洞窟のなかにでも見つければいいし、それに、交代要員がくるまでは少なくともしのぎやすい季節がつづくはずだが――。これが冬の最中だったりしたら、気温が零下三十度から四十度にも下がるので、バスケスは耐えられはしなかったろう。餓死するまえに凍死してしまうにちがいない。
とりあえず、バスケスは隠れ家を捜しはじめた。燈台の宿舎を調べてみれば、海賊たちはきっと、燈台には三人の燈台守が働いていた事実をつきとめるだろう。連中の手を逃れた三人目の燈台守を、悪漢どもがどうしても片付けようと考えるのはわかりきっていたし、そのうちサン・ジュアン岬周辺にも探索の目を向けるはずだ。
だがバスケスにはまた力が甦ってきた。この不屈の人物は絶望することがなかったのである。
いろいろ隠れ家を捜したあと、ついに彼は非常に狭い穴を見つけた。奥行きは十フィート、幅は五、六フィートで、断崖とサン・ジュアン岬の浜とがぶつかる付近にあった。穴の内部にはこまかな砂がしきつめられていたが、どんな高波もここまで押しよせることなく、沖からの風をまともにくらうこともなかった。バスケスはこの穴のなかにはいりこみ、宿舎から持ってきたいくつかの品物と、袋に残っているわずかばかりの食糧をおろした。飲み水については、雪解けで水量を増し、断崖の下を湾に向かって流れている小さな川があるので、喉が渇いたときも安心だった。
バスケスは堅パンとひと切れのコンビーフで飢えを癒した。彼が水を飲みに外に出ようとしたとき、ほど遠からぬところで物音が聞こえ、彼は立ちどまった。
「やつらだ」彼は考えた。
見つからないように入口の壁のそばに寝そべると、彼は湾のほうを見やった。
一隻のボートが四人の男を乗せ、潮の流れをくだっていた。二人が前に座ってボートを漕いでいる。あとの二人はうしろに坐っていたが、そのうち一人は舵《かじ》をにぎっている。
それは燈台守たちの大型ボートではなく、スクーナー船についていたボートだった。
「何しにやってきたのだ?」バスケスは自問した。「おれを捜しにきたのか?……スクーナー船が湾にはいってきた様子をみると、あの卑劣な輩がすでに湾のことを知っているのは確かだし、はじめてこの島に足を踏み入れたのでないことも確かだ……やつらがここまでやってきたのも海岸を調べるためじゃないんだ!……おれをつかまえるつもりでないとしたら、やつらの目的はなんだ?……」
バスケスは男たちを見守っていた。ボートの舵をとっている、四人のうちでいちばん年長の男が首領で、スクーナー船の船長らしかった。その男がどこの国の人間か正確には指摘できなかったが、他の仲間についてはスペイン系南アメリカ人のタイプだと彼には思えた。
いまやボートは湾の北岸ぞいに走ってきて、湾のほぼ入口、バスケスが隠れているくぼみからほど遠からぬところにきていた。彼にはボートを見失う気づかいは全然なかった。
首領が合図をすると、オールが止まった。舵が回され、ボートはいままでの船脚を利用して浜に乗りあげた。連中のうちのひとりが捕鈎を砂に埋めこむとすぐ、みんなは浜におり立った。
すると、彼らの話し声がバスケスの耳もとまで達した。
「ここで大丈夫か?」
「ああ、洞窟はそこですぜ、すぐそこの、断崖の曲がり角のところでさあ」
「燈台のやつらに全然見つからなかったとは、本当にうまくいったぜ!」
「一年三か月も燈台の建設工事をやっていて、誰ひとり気がつかねえなんて!」
「湾の奥で働くのに大わらわだったというわけよ」
「それに入口を完全にふさいでおきましたから、簡単には見つかりっこありませんぜ」
「さあ、でかけようぜ」首領は言った。
首領と仲間のうちの二人が浜を斜めに突っ切って歩いていった。浜はこの辺りでは広くひろがっているが、断崖の下まではそれほど遠い距離ではなかった。
隠れ家から、バスケスは彼らの一挙手一投足に目をくばり、ひと言も聞きもらすまいと耳をそばだてた。彼らの歩む足もとで、砂にまき散らされた貝殻がきしんだ。しかしその音はまもなく止《や》み、バスケスにはもはや、ボートの近くを行ったり来たりする男の姿しか目にはいらなくなった。
「あそこにやつらの洞窟があるんだ」と彼は考えた。
バスケスはもう疑いはしなかった。燈台工事のまえにエスタードス島を根城としていた海賊一味、略奪者一味があのスクーナー船に乗ってもどってきたことを。あそこの洞窟に略奪品を隠していたのか?……スクーナー船にそれらを運ぶつもりなのか?……
突然、彼の頭に、そこには食料品が貯蔵されているはずだから、そいつを利用できるという考えがひらめいた。それは彼の心にひらめいた希望の光のようなものだった。ボートが岸を離れて船の停泊地へもどったらすぐ、隠れ家をでて、洞窟の入口を捜し出し、中へはいるのだ。そして通報艦が到着するまで、食料を見つけるのだ!……
彼の生活が数週間保証されるとしたら、つぎは、あの悪漢どもが島を離れられないようにしてやれないものか?
「そうだ! 〈サンタ・フェ〉がもどってくるとき、まだやつらがこの島でぐずぐずしてさえすれば! ラファイエット艦長がやつらに正当な制裁を加えてくださるのだが!」
だがこんな望みが叶《かな》えられるだろうか? よく考えてみると、あのスクーナー船は二、三日しかエルゴール湾に停泊していないにちがいないと思われた。洞窟の中にしまってある荷物を船に積みこんだら、船はエスタードス島を捨てさり、二度と帰ってくることはあるまい。
バスケスはまもなくその点を確信することになった。
洞窟のなかに一時間ほどいたあと、三人の男はまた姿を現し、浜を散歩した。身をひそめた隠れ家にいながらにして、バスケスはまた、彼らが大声で交わしているいろいろな話を聞き取ることができた。聞き出した話をすぐにでも利用してやらなければならない。
「湾にいるあいだ、おれたちの持ち物に手を触れなかったんですぜ。あのお人好したちは!」
「〈マウレ〉が出航するときには、たっぷり荷を積んでいけるな」
「食料も今度の航海には充分ですぜ、これで一安心というもんです」
「まったくな。スクーナー船の食料だけじゃ、太平洋の島まで飲み食いできなかったろうからな!」
「ばかなやつらだ! 一年三か月もかかって、おれたちの宝物を見つけることもできなけりゃ、サン・バルテレミイ岬まで俺たちを追いかけても来なかったなんて!」
「やつらのために万歳でも唱えてやるか! 島の暗礁に船をひきつけて、そいつをそっくり頂くまでもなかったらしいな!」
悪漢どもが大笑いしながら口にするこうした言葉を耳にし、バスケスは心から怒った。彼はピストルを手にして悪漢どもに飛びかかり、三人の頭をぶち抜きたい気持ちにかられた。だが彼は堪えた。いまややつらの会話をひと言も聞きのがさないでいるほうが大事だ。彼は、この悪人たちが島のこの一体でどんなに卑劣な行為をやってきたかを知った。だから連中が次のような話を交わしても、もう驚きはしなかった。
「いまにいろいろな船の船長が、≪地の果ての燈台≫を探しにやってきますぜ! そうしたらやつらは盲目《めくら》同然というわけだ!」
「めくらめっぽうに島をめざして進んできて、そのあとこなごなになるという寸法だ」
「〈マウレ〉の出航までに、一、二隻サン・ジュアン岬の岩場にぶつかりにやってこねえものかな! スクーナー船にはぎりぎりいっぱい積みこんでおかねえと……せっかく船を悪魔にもらったのだから」
「そうさ、悪魔がうまくことを運んでくれるさ!……立派な船をサン・バルテレミイ岬に送ってくれたじゃねえか。それに、船長とか水夫とかの乗組員が誰もいないやつをな。最も乗っていたら、俺たちが片付けてしまうまでだが……」
これらの会話から、〈マウレ〉というあのスクーナー船がどんな状態で島の西端において一味の手に陥ったか、また数隻の船がどんな方法でこれら漂流物あさりの一味の術策ひっかかり、島の暗礁にぶつかってこなごなに砕けたか、バスケスにはわかった。
「さてと、コングレ」三人のうちのひとりが尋ねた。「これからどうするんで?」
「〈マウレ〉にもどるんだ、カルカンテ」とコングレは答えた。バスケスがまさに一味の首領と目星をつけた男だ。
「洞窟の荷物を移さなくていいんですかい?」
「船の疵を直してからだ。修理に数週間かかることはまちがいない……」
「では」カルカンテは言った。「ボートに道具をいろいろ運んでおきましょうや」
「そうだな、必要になったらまたくればいいが。仕事に必要な道具はバスガスが全部この洞窟で見つけてくれるさ」
「時間を無駄にしないようにしましょうぜ」カルカンテが言葉をついだ。「まもなく潮が満ちてきますから、うまくそいつに乗りましょうや」
「わかった」コングレは答えた。「スクーナー船が走れるようになったら、荷を積めばいいんだ。盗まれる心配もないしな」
「いや、コングレ。燈台守が三人いたことをお忘れになっちゃ困りますぜ。やつらのひとりが逃げだしたってことを」
「そいつのことならあまり心配いらないぜ、カルカンテ。二日もすれば餓死してしまうさ。苔や貝でも食っているのじゃなけりゃな……でも洞窟の入口は閉めておくか」
「それにしても」カルカンテは言った。「船の疵を修理しなけりゃならねえなんて癪《しゃく》ですぜ。明日にでも〈マウレ〉はまた海にでられたというのに……でも本当に湾にいるあいだに、どこかの船が海岸にぶつかってくるかもしれねえ。おびき寄せるまでもねえんだ……そしてやつらの損害がおれたちの利益になるときてる!」
コングレとその仲間たちはふたたび洞窟からでてきた。彼らは道具、外皮板、肋材を直すための木材などをもちだした。それから注意深く入口をふさぐと、ボートのところまで道をくだった。彼らがボートに乗ったとき、潮が湾に差してきた。
ボートはすぐに海岸を離れ、オールでスピードを増し、やがて海岸の突端を回って姿を消した。
もはや見つかる心配がなくなると、バスケスは浜に降りたった。いまや彼は、知りたいと思っていたことをすべて、とりわけ二つの重要な事柄を知りえた。ひとつは、このさき二、三週間は充分まにあう食糧が手にはいるということであり、もうひとつは、スクーナー船には破損箇所があって、その修理には少なくとも二週間、あるいはそれ以上かかること、だがきっと彼らは通報艦の帰還まで湾にとどまるような真似はしないということである。
スクーナー船がふたたび海に出られる状態になっても、なんとかしてその出帆を遅らす手だてはないものだろうか?……そうだ、どこかの船がサン・ジュアン岬のすぐ近くを通ってくれれば、その船に合図をしてやれるのだが……必要とあれば、海に飛びこんで船まで泳ぎわたってやろう……船に乗れば、あとは船長に事情を知らせるまでだ……船長の手もとに充分な数の乗組員がいれば、すすんでエルゴール湾にはいり、スクーナー船をつかまえてくれるだろう……あの悪者どもが島の奥地に逃げこむようなら、結局やつらは島を離れられないわけだ……そして〈サンタ・フェ〉がもどってくれば、ラファイエット艦長はあの一味を捕らえる術《すべ》を心得ているし、一人のこらず征伐してくれるだろう!……だがそんな船がサン・ジュアン岬のまえに立ち現れるだろうか?……それにやってきたとしても、バスケスの合図に気づいてくれるだろうか?……
あのコングレとかいう男は三人目の燈台守のいることを疑っていなかったが、バスケスは自分自身については心配していなかった……やつらの追及の手はなんとかのがれられる……さしあたって肝心なのは、通報艦の到着まで自分の食糧を確保できるかどうかにあったから、彼はこれ以上ぐずぐずせずに洞窟へと向かった。
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八 修理中の〈マウレ〉
スクーナー船の破損箇所を直して、太平洋での長旅に耐えられるように修復すること、そして洞窟にためこんだ荷物をすべて船に積みあげ、できるだけ早くまた出航すること――コングレとその一味は時間を惜しんでそれらの作業にとりかかった。
結局のところ、〈マウレ〉の船体の修理はかなり大がかりな仕事となった。だが船大工のバルガスが技術に長《た》けていたから、修理は順調に運ぶだろう。
まずはじめに、スクーナー船の底荷をおろし、船を入江の浜にひっぱりあげなければならなかった。そして右舷を寝かし、修理作業を外側からとり行えるようにしてから、船体の肋材や外皮板をとりかえるのだ。
おそらくそれにはかなりの日時を要するだろう。だがコングレには、たっぷり時間があった。夏の季節が少なくともあと二か月はつづく、と彼はふんでいた。
交代の燈台守がやってくることについてどう考えたらいいかも、コングレは知っていた。
実のところ、宿舎で見つけた燈台日誌のおかげで、知っておかなくてはならぬ肝心な点はすべて、彼にはお見通しだったからである。燈台守の交代が三か月ごとにしか行われないこと、通報艦〈サンタ・フェ〉は三月初旬まではエルゴール湾にもどる気づかいはないこと、などの事実である。いまはまだ、十二月の下旬なのだ。
同時に、この日誌にはモリス、フェリペ、バスケスという三人の燈台守の名が記載されていた。それに、部屋の設備からも燈台には三人の燈台守が暮らしていたことが窺えた。だから、残りのひとりは、不幸な仲間たちの運命をまぬがれているにちがいない。そいつはどこに隠れているのか? だが前に触れたように、コングレはその点あまり気にかけていなかった。たったひとりで、必要な物資がなくては、やがて逃亡者も病気と飢えに屈してしまうだろう。
とはいえ、スクーナー船の修理には充分時間があるとしても、やはり仕事が遅れることも当然考慮しておくべきだった。事実当初から、やっと仕事が始まったか始まらないかのうちに、彼らの作業は中断のやむなきに至ったのだから。
〈マウレ〉の荷下ろしも終わり、コングレが翌日は船を傾けることにしようと考えていた一月三日から四日の夜にかけて、天候状態が急変したのである。
その夜のうちに、厚い雲が南の水平線上に重なった。温度は十六度まで上がったのに、気圧計は急に嵐《あらし》の様相を示すまでさがっていた。稲妻がいくつも走り、空を照らした。雷鳴がいたるところでとどろいた。風はとてつもない激しさでたけり狂った。荒れすさぶ海は暗礁を大きく越え、断崖にぶつかっては砕け散った。〈マウレ〉がこの南東の風をうまくさえぎっているエルゴール湾に錨をおろしていたというのは、まったく幸運だった。こんな天候では、重量トン数の帆船や蒸気船でも島の海岸に流される危険があった。まして〈マウレ〉のような小型の帆船では当然のこと海岸に押し流されていただろう。
この突風の激しさも、沖の大洋の荒れぶりも、きわめて並はずれていたから、名にしおう大波が入江全体に押しよせてきた。満潮時に、波は断崖の下にまで達し、燈台の下の浜も完全に海水に洗われていた。波はさらに燈台守の宿舎にまで押しよせ砕け散り、その飛沫《しぶき》はそこから半マイル先の小さなブナ林にもとんだ。
コングレとその仲間たちは、何とか〈マウレ〉を投錨地につなぎとめておこうと必死だった。何度も船は錨を引きずり、浜に打ちあげられそうになった。はじめの錨に加え補助錨を投げこまなくてはならなかった。サン・バルテレミイ岬のときに加えて二度までも、彼らは完全な破滅を気づかう羽目になったのだ。
だが一味のものは、〈マウレ〉を昼夜見張りながらも、暴風をまるで恐れなくていい燈台の屋内に陣どっていた。船の士官室や船員室の寝具も建物内に移された。そこは十五人ほどの人間が住めるだけの広さがあった。これまでエスタードス島にいて、彼らはこれほどの暮らしを経験したことがなかったほどだ。
食料についても心配なかった。燈台の倉庫にあるだけで充分だったし、たとえ彼らの数が二倍に増えたところで間にあったろう。それに必要とあれば、洞窟の貯蔵品に手をつければいい。要するに、スクーナー船の食料は、太平洋の海原で長い航海をするに足りるだけ確保されていたわけである。
悪天候は一月十二日までつづき、やっと十二日から十三日の夜にかけてやんだ。まるまる一週間を無駄にしたわけだ。その間まるで仕事にならなかったのだから。コングレは慎重に事を運んで、ボートのように揺れるスクーナー船に少し底荷をもどしておいた。海底の岩に突き当たらないようにといろいろ手段が講じられたのだ。岩にぶつかれば、エルゴール湾の入口で遭難する船と同様に、完全にこなごなになってしまうだろう。
その夜、風が変わり、突然西南西から吹きこんできた。こんどはサン・バルテレミイ方面の海がひどく荒れた。もし〈マウレ〉があの岬の入江にいたなら、確実に崩壊していたにちがいない。
その週のうちに、一隻の船がエスタードス島のまえを通った。昼間だった。だから船は燈台の存在を知る必要がなかったし、燈台の灯りが日没から日の出まで、いまは消えている事実にも気づかなかった。船は北東からやってきて、帆をすぼめルメール海峡にはいっていった。フランスの旗が斜桁にひるがえっていた。
なお、この船は三マイル沖合を通ったから、その国籍を確かめるには望遠鏡を覗かなければならなかった。だから、バスケスがサン・ジュアン岬から船に合図を送っても、フランス船の船長はそれと気づかなかったろうし、また事実気づかなかったのだ。合図が目にはいれば、船長はすぐボートを海におろして、遭難者を救いに来てくれたはずだからである。
十三日の朝、底荷の鉄屑はふたたびスクーナー船からおろされ、波のうちよせない砂上にばらばらに投げだされた。これで船倉内部の点検がサン・バルテレミイ岬のときより完全に行われることになった。船大工は予想以上に大きな破損があることを指摘した。〈マウレ〉はその航海中に、かなり荒れた海とじかに闘い、だいぶ痛めつけられていたのだ。船尾にあの水漏れができたのも、そのときなのだ。このままでは明らかに、エルゴール湾をでてさらに航海をつづけるなどできない相談だった。だからこそ、船を陸にあげて、二枚の肋板と、三本の肋材と、約六フィートに及ぶ外皮板を取り替える必要があったのである。
ご承知のように、洞窟に貯めこんでおいたあらゆる種類の、何にでも使える品々のおかげで、材料には何一つ不自由しないはずだった。船大工のバルガスは、仲間に手伝ってもらって、仕事をやり遂げる確信があった。この仕事がうまくいかなかったら、修理の不完全な〈マウレ〉は太平洋の海上に乗りだすことなど不可能なのだ。彼らにとってさらに幸運と思われたのは、マストと帆と操舵装置がまったく無疵であったことだった。
最初の作業としては、スクーナー船を砂上に曳きあげ、右舷の方向に傾かせねばならない。だが船を曳きあげるほどの装置はなかったので、どうしても潮の流れに頼らざるをえなかった。ところで、またしてもここで二日の遅れをだす羽目に陥ったのだ。新月の大潮を待たなければ、太陰月のあいだずっと船を陸にとどめておくほど、スクーナー船を深く浜に曳きあげることはできないからである。
コングレとカルカンテは仕事が延びたのを利用して洞窟に向かった。こんどは〈マウレ〉についているボートより大きな、燈台の大型ボートに彼らは乗っていた。このボートで、略奪品のなかにまじった金・銀などの貴重品、宝石、その他の高価な品々を運び出し、燈台構内の倉庫に納めておこうというのだ。
大型ボートは一月十四日の朝出発した。すでに二時間前から干潮がはじまっていたが、午後には満潮に乗ってもどる予定だった。
天候はかなりよかった。太陽の光が、微風のため南から這いだしてきた雲のあいだから洩れていた。
出発のまえに、毎日そうするのだったが、カルカンテは燈台の回廊にあがり、水平線を眺めた。沖はただ一面に海がひろがり、一隻の船も、ときにはニューイヤー諸島の東部まで遠出することもあるフェゴ島の人たちの小舟さえも、まるで見あたらなかった。
島にもまた、見わたすかぎり人影ひとつなかった。
大型ボートが潮の流れに乗ってくだるあいだ、コングレは湾の西岸を注意深く見やった。虐殺をまぬがれたあの三人目の燈台守は、いったいどこにひそんでいるのか?……それはコングレにとって不安の種とはならなかったが、片付けておいた方がいいにきまっているし、チャンスがあれば、もちろんそうするつもりでいた。陸地も湾と同様に人影がなかった。ただ、断崖に巣くう無数の鳥の飛翔と鳴き声だけが賑々《にぎにぎ》しかった。
十一時ごろ、大型ボートは、単に引き潮だけではなく風にも助けられて、洞窟のまえの海岸についた。
コングレとカルカンテは、部下の二人を見張りにたて、船を下りると、洞窟に向かった。三十分ほどしてから彼らはまた洞窟からでてきた。
品物は前に見たときと同じ状態だと彼らは思った。それに、いろいろな物が乱雑をきわめて置かれていたから、角燈で照らしたところで、何がなくなっているか確かめようもなかったのである。
コングレと仲間は念入りに蓋《ふた》の閉まっている二つの箱を運びだした。これは三本マストのイギリス帆船からの収穫物で、なかには金貨や宝石類がどっさりはいっていた。彼らの大型ボートに箱を積みこむと、出発準備をした。その時コングレは、サン・ジュアン岬までいってみようと言いだした。岬からは沿岸の南も北も見わたせるからである。
カルカンテと彼はこうして断崖の上まであがると、こんどは岬の先端までくだった。この先端からは、一方には、ルメール海峡のほうへと約二マイルにわたって延びる海岸が目にはいり、他方には、セベラル小岬までが臨める。
「誰もいませんぜ」カルカンテは言った。
「ああ……誰もな!」コングレは答えた。
それから二人とも大型ボートへもどった。上げ潮がはじまったので、ボートはその流れに乗った。三時前に、彼らはまたエルゴール湾の奥に帰った。二日後、十六日の朝、コングレとその一味は〈マウレ〉の陸揚げ作業にとりかかった。十一時ごろ満潮になる予定だったので、それに備えてあらゆる準備がなされた。舫索《もやいづな》が陸地につながれ、その策《つな》によってスクーナー船は、水深が充分になったときに浜まで曳きあげられる予定だった。
作業自体はむずかしくも、危険ではなかった。潮がすべての仕事を請け負ってくれるのだ。
潮が静止状態になるとすぐ、大策《おおづな》がぴんと張られ、〈マウレ〉はできるだけ浜の奥まで曳きあげられた。
あとは干潮を待つばかりだった。一時ごろ、潮は断崖にいちばん近い岩礁の顔を徐々にむきだしにさせ、〈マウレ〉の竜骨が砂に触れた。賛辞、完全に砂に乗りあげた船は、右舷に傾いた。
これでいよいよ仕事にとりかかれる。ただ、スクーナー船を断崖の下まで引きあげることができなかったので、仕事はどうしても毎日二、三時間中断されるだろう。満潮になると船が浮いてしまうからだ。しかしながら、一方、この日から潮は毎回その水位をさげていくから、仕事が中断される時間も少しずつ減るはずである。そして二時間ぐらいは、休みなく作業をつづけられるにちがいない。
船大工は仕事にかかった。一味のなかでもフェゴ島の出身者は当てにならなかったが、コングレやカルカンテを含めて、他のものはせめてもバルガスの手助けをしてくれるはずだ。
被害を受けた外皮板の部分は、被服用の銅板を取りのぞくとすぐにはずれた。これで替えなければならぬ肋材と肋板とがむき出しになった。洞窟から運んだ、小割や梁曲材などの材木を使えば修理には間にあうだろう。ブナ林にいって木を伐り倒し、これを挽いたり、刻んだりする必要はなかろう。そんなことをしては大仕事になること請合いだった。
それからの二週間、バルガスとその協力者たちは、晴天つづきにも助けられて順調に仕事を運んだ。いちばん骨の折れたのは、取り替える予定の肋板と肋材をはずすときだった。それらのひとつひとつが銅でとめられ、楔《くさび》でつながっているである。船全体は頑丈にできていた。どう考えても、このスクーナー船〈マウレ〉はバルパライソの中でも優秀な造船所でつくられたにちがいない。バルガスはこの最初の作業工程をたやすく終えたわけではなかったが、たしかに、洞窟に貯めこんでおいた大工道具がなかったなら、仕事を首尾よくやりとげることはできなかったろう。
はじめの頃は満潮になると仕事を中断せざるをえなかった経緯は先に述べた。それから潮はどんどん減って、浜の最初の勾配にやっと届くほどになった。だが少なくともまた大潮に向かうまえに、外皮板を張り直しておく必要があった。
コングレは慎重に、銅でとめられた板をはずすまえに、吃水線の下の板の継ぎ目をすべて直させた。漂流物から拾い集めたタールや槇皮《まいはだ》で隙間を埋め直したのである。
作業はこうして一月末まで、ほとんど休みなくつづけられた。その間ずっと天候も幸いした。数日をのぞいて、少なくとも二、三時間、時にはかなり激しい雨が降ったが、結局その雨も長続きしなかった。
この期間、エスタードス島の海域を二隻の船が通った事実に、一味の者は気づいた。
二隻のうちはじめの船は太平洋側からやってきたイギリスの蒸気船で、ルメール海峡をさかのぼったあと、船首を北東に向けて、おそらくはヨーロッパのどこかの港へと遠ざかつていった。この船は真昼間に、サン・ジュアン岬の沖合を通った。日の出後に姿を現わしたこの蒸気船は、日没前に視界から消えた。これでは船長も燈台の灯が消えていることを疑問に思うはずがなかった。
つぎの船は三本マストの大きな帆船で、国籍はわからなかった。ちょうど日の暮れかかる頃、船はサン・ジュアン岬の沖合に姿を見せ、セベラル小岬まで島の東海岸に沿って進んだ。カルカンテは燈台の当直室にいて、船の右舷に灯ったグリーンの舷燈だけを目にした。だがこの帆船の船長や乗組員にしても数か月前から航海にでているとすれば、この期間燈台の建設がすでに終わっていようとはご存知あるまい。
岬の先端で何か信号、たとえば火でもつければ船員がこれに気づいたにちがいないと思えるほど、三本マストの帆船は海岸の近くにそって走った。はたしてバスケスは船の注意を惹こうと努めたろうか?……それはともかくとして、この帆船も日の出には南方洋上へとその姿をかき消していた。
他の帆船や蒸気船も、たぶんフォークランド諸島へ向かうのであろうが、水平線上にかすかに姿を見せることがあった。だがそれらの船はエスタードス島の存在さえ認めなかったにちがいない。
一月の末日、満月で潮が高まっているとき、天候が急変した。また東風がでて、エルゴール湾の入口をじかに襲ってきたのである。
修理作業は全部済んだわけではなかったが、幸いにして、肋材、肋板、外皮板だけは取り替えてあったので、〈マウレ〉の船体の側面から水が入る気遣いはなかった。船倉内部への浸水をもはや恐れる必要はなかったのである。
彼らが喜んだのももっともだった。それから二日間、満潮になると海水が船腹にそって這いあがり、スクーナー船は平衡状態にもどったからである。ただし、竜骨は砂地についたままだった。
コングレとその仲間は新たな破損を避けるべく十分注意を払わなければならなかった。また疵がつけば出航はますます遅れてしまうのだ。いちばんお誂《あつら》え向きの状態で、スクーナー船は船底をつけたままからだを支えつづけた。けっこう激しく左右にと揺れはしたが、入江の岩礁に突きあたる心配はなかった。
それに、二月二日から潮は低くなりはじめ、〈マウレ〉はふたたび浜に身を横たえることになった。これで船体上部に槇皮《まいはだ》を詰める作業が可能になった。木槌の音が朝から晩まで絶え間なく聞こえた。
さらに、船荷の積み込みで〈マウレ〉の出航が遅れるような仕儀にはならないだろう。バルガスの手伝いからはずされた男たちが、大型ボートを使ってひんぱんに洞窟に足を運んでいたからだ。時にはコングレかカルカンテが、彼らに同行することもあった。
洞窟へいくたびに、ボートはスクーナー船の船倉に積みあげる予定の品々を、少しずつ運んできた。これらの品物はとりあえず燈台の倉庫に納められた。こうしておいた方が、〈マウレ〉を湾の入口にある洞窟の前まで走らせるより、積荷が簡単かつ正確にできようというものだ。洞窟の前では天候次第で作業に支障をきたすかもしれない。サン・ジュアン岬が延びている海岸一帯では、燈台の下のこの小さな入江以外に、船の避難場所はないのである。
あと数日、修理作業を徹底的に行なえば、〈マウレ〉はまた航海に乗り出せるだろうし、船荷の積みこみも終わるだろう。
事実、十二日には、甲板と船体の板の継ぎ目にする最後の槇皮詰めの仕上げ作業も完了していた。また難破船の残骸から見つかったいくつかのペンキ壺《つぼ》を利用して、〈マウレ〉の船首から船尾までの塗り直しを行なったほどだった。コングレはこの機会を選んでスクーナー船の名を変えることにし、自分の腹心に敬意を表してこれを〈カルカンテ〉と命名した。彼は索具を点検したり、帆を簡単に繕《つくろ》う仕事もなおざりにしなかった。このスクーナー船がバルパライソの港を出たとき、帆は新品と取り替えてあったはずなのだが。
こうして〈マウレ〉は、二月十二日にはすでに入江の投錨地にもどり、積荷作業に取りかかれる予定だった。だが、スクーナー船を海上に浮き上がらせるには、つぎの新月の潮を待たねばならなかったのだ。コングレとその一味はエスタードス島を離れたい一心でじりじりしていたが、どうにも仕方がなかった。
この潮は二月十四日に生じた。その日、船の竜骨が今まで身を横たえていた浜の砂上から浮きあがり、スクーナー船は水位の深い海中へと苦もなく滑っていった。
予期せぬ事態でも起こらないかぎり、〈カルカンテ〉は二、三日で出航準備をし、エルゴール湾をでて、ルメール海峡をくだることができるだろう。そして船首を南西に向け、太平洋の大海原をめざして全速力で走るのだ。
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九 バスケス
エルゴール湾にスクーナー船が停泊してからというもの、バスケスはサン・ジュアン岬の沿岸に腰をすえて、そこから動こうとしなかった。もしどこかの船が湾に寄港してきたら、少なくともその沿岸から目のまえを通る船に呼びかけることもできようというものだ。
船が彼を拾い上げてくれれば、船長に、燈台に向かっては危険であると知らせ、そこには悪漢一味が巣くっていると告げられもしよう。船長に、一味を捕らえたり、彼らを島の奥地に追い払うだけの力がなくとも、沖へと逃げだす余裕ぐらいはあるだろう。
それにしても、はたしてそんなにうまく事が運ぶものか? 無理強いでもされなければ、どうして船が、航海者にはほとんど知られていないこんな湾の入江に寄港しにくるというのか?
だがこれまでにそんな船が出現して、フォークランド諸島へ向かってくれでもしたら、これ以上望ましい話はなかったのであるが――二、三日もすれば船は、フォークランド諸島に辿りつき、当地のイギリス当局はエスタードス島を舞台にどんな事件が起こっているかすぐに察知してくれたはずだ。ただちに軍艦がエルゴール湾に派遣され、〈マウレ〉の出航前に湾に到着し、コングレとその手下どもを一網打尽にしたうえ、燈台の機能がまた正常に働くよう必要処置を講じてくれたにちがいない――。
「そんな結果を望むにはやはり」とバスケスは繰りかえし考えた。「〈サンタ・フェ〉の帰還を待たなければならないのか?……二か月も!……それまでには、あのスクーナー船は遠くに行ってしまうんだ……太平洋の数ある島々のなかの、どこであの船を見つけられよう?……」
すでにおわかりのように、善良なバスケスは、自分の身の上はさて置いて、いつも、むざんに殺された仲間や、島を離れたあとたぶん罪もうけずに逃げきることになる悪漢一味や、≪地の果ての燈台≫が消えて以来この海域の航海にふりかかっている危険の重大さに思いを馳せるのだった。
それに、海賊の洞窟に行くようになってからというもの、物資の点については、彼の隠れ家が見つからないかぎり安心だった。
一味の広い洞窟は断崖の奥深くはいりこんでいた。この洞窟で、やつらは数年間も身をひそめていたのだ。ここに、干潮のとき海岸で拾い集めた、金、銀、貴重な品々など、あらゆる漂着物を積みこんだのだ。ここで、コングレとその手下の輩《やから》は、当初は自分たちが上陸したとき持ち込んだ物資で、つぎには非常に多くの難破船(そのなかの数隻は彼らの手によって難破したものだ)からせしめた物資で、長い月日を生きながらえてきたのだ。
これらの貯蔵品のなかから、バスケスは、コングレやその手下にまったく気づかれないよう、必需品しか取りださなかった。堅パンの小箱、コーンビーフの樽《たる》、火が起こせるようなコンロ、やかん、茶碗《ちゃわん》、毛布、着代えのシャツやはき替えの靴下、防水外套、二丁のピストルと二十発ほどの弾薬、火打ち金、角燈、火口《ほぐち》などである。彼はまたパイプ用に二ポンドほど煙草《たばこ》を手に入れた。一味のものから耳にした話によれば、スクーナー船の修理は数週間かかる模様だから、あとはまた必要な品を補充すればいいだろう。
ここで読者の方がたにお知らせしておいた方がいいと思うが、バスケスは、自分の住んでいたあの狭い洞穴《ほらあな》が一味の洞窟とあまりにも近すぎて発見されるおそれがあると考え、慎重に、もう少し離れた場所にもっと安全な隠れ家を探しだしていた。
彼の見つけた隠れ家は、悪漢一味の洞窟からだいぶ離れた、サン・ジュアン岬を回った沿岸の裏手にあって、海峡沿いの海岸に面していた。断崖を支えている二つの高い岩壁のあいだに、入口を見分けられないほどの洞穴が切りこんでいた。そこまでいくには、山のように立ちはだかる巨岩のあいだの、ほとんど気が付かないような隙間に這い入らねばならならぬ。満潮時には、波はほぼ巨岩の下まで押しよせたが、この洞穴のまえを何回通りすぎようと、だれかが、その存在に気づく恐れはなかった。バスケスは数日前、まったく偶然そこを発見したのである。
こうして彼は、一味の洞窟からもってきた、役に立ちそうな品物を自分の洞穴に運んだ。
それに、コングレやカルカンテ、その他の一味がこちら側の海岸まで足をのばすことはめったになかった。ただ一度だけバスケスは、一味の輩が二度目に洞窟を訪れたあとで、サン・ジュアン岬の先端に立ち止まっている姿を見かけたことがあった。だが岩の隙間の奥にうずくまっているバスケスの姿は、先方から見えようはずもなかったし、また事実見えはしなかった。
外出するときはいつも細心の注意を払い、とくに一味の洞窟に赴くときは夕方を選んだことは付け加えるまでもあるまい。湾の入口にそびえる断崖の角を曲がるまえに、彼は、小型ボートも大型ボートも海岸につながれていないかどうか確かめてみるのだった。
しかしながら、孤独な生活のなかで、バスケスにとって時はどんなに無限に思えたことか! 彼の脳裏にいつもどんなに苦しい思い出が浮かんだことか! 彼がまぬがれたあの虐殺場面。殺し屋の襲撃のもとに倒れたフェリペとモリス――一味の首領に会い、自分の手で不運な仲間の死の償いをしてやろうという、やむにやまれぬ思いが、バスケスの心をとらえていた。
「いや……だめだ!……」彼はくり返した。「やつらは遅かれ早かれ罰を受けるのだ!……罰をまぬがれるなど神が許されるはずはない……自らの生命《いのち》で罪の償いをするがいい!……」
バスケスは、スクーナー船がエルゴール湾につながれているかぎり、彼の生命も危うい淵に置かれているのを忘れていた。
「それにしても……」彼は叫んだ。「この島を立ち去れないようにしなくては! あの卑劣漢たちが!……〈サンタ・フェ〉の帰還までやつらをここに釘づけにしておかなくては……神よ、やつらの出航をおとどめください!……」
彼の望みは叶えられるだろうか? 通報艦が島の沖合に姿を見せるには少なくともあと三週間はあるというのに!……
だが一方、船がこんなにも長く湾に滞在しているのをみて、バスケスは驚かずにいられなかった。スクーナー船の破損は一か月かかっても完全に直りきらないほどひどいものだったのか……燈台に残してきた日誌のおかげて、コングレは燈台守の交代が行なわれる日付を承知しているにちがいない。三月初旬までに海にでられなければどうなるか知らないはずもなかろうに……。
二月十六日になっていた。バスケスは、焦燥感と不安感に急《せ》きたてられ、今後の方針をどうするべきか探ってみようと心に決めた。そこで陽が沈むと、彼は湾の入口に出て、北岸をのぼり燈台へと向かった。
夜はすでに深い帳《とばり》をおろしていたが、やはり誰か一味の者とばったり出くわさないかと気がかりだった。彼は、闇を見すかし、怪しい物音でもすると立ちどまって、注意深く断崖にそい滑るように進んだ。
湾の奥までは約三マイル歩かなければならなかった。仲間が殺害されたあと逃げてきたのとは反対の方向を辿って進むわけだ。あの晩と同様に、バスケスは見とがめられることはなかった。
九時頃、彼は燈台の構内のほど近いところで立ちどまると、建物の窓からいくつかの光が漏れている光景を目にした。すると思わず知らず怒りの動作、威嚇《いかく》の仕草がおもてに現われた。ころされたバスケスの仲間に代って、また、やつらの手中に陥れば殺されることになるバスケス自身に代って、悪漢一味があの建物を占領していると考えるとたまらなかったのだ!
身を潜めていた場所からは、スクーナー船は闇に包まれて見えなかった。バスケスは待ち受ける危険も顧みず、さらに、近寄ってみることにした。一味の者はみな宿舎に引きこもっていた。きっと外へは誰も出てきはしないだろう。
バスケスはなおも近づいた。そして小さな入江の砂浜まで滑るようにおりた。前々日潮が生じたとき、スクーナー船は砂洲から引き離されたのだ。いまや船は錨をおろし、海上に浮かんでいた!
ああ! いままでに、もしできたら、自分だけの力でできたら、喜び勇んであの船体に穴をあけ、あいつを入江の底に沈めてやったのだが。
船が海上に漂っているところをみると、疵は直ったのだ。だがバスケスは、船が浮かんでいるにしても、吃水線が普通より少なくとも二フィート低いことを目にとめていた。この事実からすると、船にはまだ底荷も積みこまれていないわけだ。だから出航も二、三日遅れるかもしれない。とはいえ、もちろんこれが最後の猶予期間だ。たぶん二日後には、〈マウレ〉は出航準備をととのえ、サン・ジュアン岬を巡って、水平線の彼方《かなた》に永遠に姿をかき消すだろう。
バスケスの手もとにはもはやわずかの食糧しか残っていなかった。そこで、翌日、彼は必需品補給のため例の洞窟に赴いた。
夜が明けたばかりだった。だが、その日の朝は一味の者が大型ボートを使ってスクーナー船に積みこむ物資をすべて片付けにくるのではないかと考え、バスケスは万遍なく警戒の眼をくばりながらも、歩みを早めた。
断崖の角を曲がってみたが、大型ボートの影は認められず、沿岸には人っ子ひとりいなかった。
バスケスは洞窟のなかへはいった。
まだかなりの品々が残っていたが、値打ちのなさそうなものばかりだった。コングレはきっとこんな品物を〈マウレ〉の船倉に積みこむつもりがないのだろう。けれども堅パンと肉をこれ以上捜しても無駄だと知ったとき、バスケスはどんなに絶望に打ちひしがれたことか!
食料品はすべて持ち運ばれてしまったのだ!……バスケスにはあと二日分しか食糧がないというのに!……
いつまでも物思いに沈んでいるわけにはいかなかった。この時、水を打つオールの音が聞こえたからだ。大型ボートにカルカンテと二人の仲間が乗りこんで洞窟にやってきたのだ。
バスケスはすばやく洞窟の入口に駆け寄ると、頭をのばし外を見やった。
大型ボートが海岸についたところだった。バスケスは洞窟のなかに引きこもらざるをえなかった。彼は洞窟のいちばん暗い片隅――スクーナー船に積み込めないままに放って置かれてある帆や長いモミ材の山の背後に身を潜めた。
見つかったときは、敵に痛手を負わせて死ぬ覚悟だった。バンドにいつも携帯しているピストルを使ってやるのだ。それにしても一対三では!……
カルカンテと船大工のバルガスだけが入口からはいってきた。コングレはいっしょではなかった。
カルカンテは火のついた角燈をもち、バルガスを後に従えて、スクーナー船に持ちこむいろいろな品を選んだ。品物を捜しだしているあいだも、彼らは話を交していた。船大工が言った。
「もう二月十七日ですぜ。そろそろ出航しなくては」
「その通りだ、出航するぜ」カルカンテは答えた。
「明日ですかい?」
「たぶん明日にもな。それまでには準備もできてるはずだ」
「でも天気の具合によりますぜ」バルガスは言った。
「たぶんな。今朝もちょっとぐずついている様子だが……でもいまに晴れあがるさ」
「八日か十日ぐらい引きとめられたとしたら……」
「そうさ」カルカンテは言った。「交代にやってくる燈台守たちと出くわすおそれがある……」
「とんでもねえ……真っ平でさあ!」バルガスは叫んだ。「軍艦をひっとらえるなんてできねえ相談だ」
「あたりまえよ。やつらの方がおれたちをひっとらえるさ、たぶん洗いざらいな!」カルカンテはそう答えたあと、恐ろしい罵りの言葉を吐き散らした。
「まったく……」片方が相づちを打った。「一刻も早く海の向こうへずらかりてえもんだ」
「明日だ、いいか、明日だ!」カルカンテはきっぱりと言いきった。「グアナコの角《つの》をへし折るような風でも吹かねえかぎりな!」
バスケスはじっと、息を凝《こ》らして、彼らの言葉を聞いていた。カルカンテとバルガスは角燈を手にして行ったり来たりしていた。品物を移しては、何か選びだし、前に動かしたものを片付けている。ときに彼らは、バスケスがうずくまっている片隅のごく近くまでやってきた。腕を伸ばせばやつらの胸もとにピストルをつきつけられるほどの距離だった。
荷物の選択は三十分ほどで済んだ。カルカンテはボートにいる仲間を呼んだ。そいつはすぐ駆けつけ、荷物の持ち出しに手を貸した。
カルカンテは洞窟に最後の一瞥《いちべつ》を与えた。
「こんなに残していくなんて惜しいことですぜ!」バルガスが言った。
「まったくだ」カルカンテは答えた。「スクーナー船が三百トンあればな!……だが金目《かねめ》のものは運んだからな。向こうへ行けばうまい商売でもできようというものさ」
彼らは外に出た。まもなくボートは追い風に乗り、岬の鼻を回って消えた。
バスケスはやっと外に出ると隠れ家へ帰った。
この様子では、二日後にはもう食べ物が切れる。出航の際、コングレとその一味は燈台の貯蔵品をすべて攫《さら》っていくにちがいない。燈台にいってもどうしようもなくなるのだ。通報艦がもどってくるまでどうやって生きのびればいい? 予定どおり着くとしても、あと二週間はかかるというのに。
事態はまさに深刻をきわめていた。バスケスの勇気をもってしても、こればかりはどうなるものでもない。ブナ林に行って木の根を掘り出すか、湾の魚をとるかして、はたして食いつなげるだろうか? だが、そんな生活をするにしても、〈マウレ〉がエスタードス島を決定的に離れたあとでなければできはしない。何かの事情でもう数日湾に停泊せざるをえないようなことにでもなると、バスケスは否応なしにサン・ジュアン岬の洞穴《ほらあな》で餓死する羽目になろう。
時が経つにつれ、空模様はますます怪しくなってきた。厚い鉛色《なまりいろ》の雲が、東の空に重なるように這い出していた。風は向きを変え沖から吹き込んでくるにつれて、その力を増していた。海面を走る疾風はまもなく、波頭を泡立てた大きなうねりをともなって押しよせてきた。ほどなく波は岬に連なる岩に凄まじい音を立てて砕け散るだろう。
こんな天気がつづけば、スクーナー船はきっと、明日の潮を利用して湾を出るわけにはいくまい。
ところで、夕方になっても天候状態はいっこう変わる様子を見せなかった。むしろ逆に、状況は悪化した。二、三時間で収まるような嵐ではなかったのだ。突風の起こる兆《きざし》があった。空と海の色を見ても、速度を増して走る切れぎれの雲を見ても、潮流とぶつかる波のざわめきや、岩礁に砕け散るその怒号を耳にしても、その兆しは窺い知ることができた。バスケスのような海の男なら間違えようはずもなかった。燈台の宿舎の気圧計は、きっとふつうの暴風雨のときより低い気圧を示しているにちがいない。
だが、風が猛威をふるっているにもかかわらず、バスケスは自分の洞穴にじっとしてはいられなかった。彼は浜辺に出て、徐々に暗くなっていく水平線に視線を投じていた。西に没しかかっているに相違ない太陽の最後の明るみがまさに消え去ろうとするとき、バスケスは沖に何か黒い|かたまり《ヽヽヽヽ》が動いているのに気づいた。
「船だ!」彼は叫んだ。「船が島に向かっているらしい!」
それはまさしく船だった。海峡にはいるにせよ、島の南を通るにせよ、とにかく東から進んでくる船だ。
暴風は並はずれた激しさで荒れ狂っていた。単なる突風とは言えぬ、ハリケーンのような激烈さだったから、何ものも刃向かいできず、どんなに堅固な船も遭難の憂き目にあわされるをえないほどだった。船員用語をつかえば、船に≪抜け口≫がない場合、つまり風下に陸地を控えている場合、めったに難船を避けられるものではない。
「それにやつらが燈台の灯を消しているときている!」バスケスは叫んだ。「あの船がいくら燈台を捜したところで、見つかりっこないんだ……! 海岸から二、三マイルしか離れていないのも知らずに……風によって沿岸に押しやられれば、岩礁に突きあたって砕けてしまうのがおちだ!……」
そうだ! コングレと手下たちによって例の陰険な計画がたくらまれているかもしれない。やつらはおそらく燈台の高みから、帆を縮小することもできずに荒れ狂う海面でただ追い風を避けようとしているだけのあの船の姿を認めたにちがいない。燈台の輝き(あの船の船長はそれを西方にむなしく捜し求めているのだ)に導かれないとしたら、船は絶対確実に、サン・ジュアン岬を回って海峡にも出られなければ、セベラル小岬を回って島の南岸にも出られはしないのだ。
三十分もすれば、船は、夕方の薄明かりのとき方位のつかめなかった陸地の存在に気づかずに、エルゴール湾の入口の暗礁に突入するだろう。
嵐はいまや頂点に達していた。夜、いや夜が明けて翌日になったとしても、嵐は猛烈をきわめそうな気配をみせていた。一日ぐらいでは鉾《ほこ》をおさめそうにない大暴風だった。
バスケスは隠れ家にもどることも忘れ、目を凝らして水平線を見つめていた。もはや深い闇のただ中に船の姿を追うことはできなかったが、波をうけて船が右に左にと大きく身を傾《かし》げると、時たま舷燈がちらっと見えた。あの様子では、舵《かじ》を自由に動かせないのだろう。やっとの思いで航海しているにちがいない。たぶん、帆柱も一部破損して航行不能になっているのではないか。いずれにせよ、船が帆を張っていないことは疑うべくもなかった。荒れ狂う風とあのように必死に闘っていては、せいぜい荒天支索帆をつけておくぐらいが関の山だったろう。
バスケスには緑か赤の燈火しか見えなかったから、あの船は帆船なのだ。蒸気船なら、前檣の支索に吊した無色の燈火が見えるはずである。帆船ということになれば、風と対抗できる機関など備わっていないわけだ。
バスケスはこの難船を食い止められないわが身に絶望して、浜辺を行きつ戻りつしていた。どうしても必要なのは、この暗闇に燈台の光を投じることなのだ……バスケスはエルゴール湾の方へとからだを振り向けた。彼の手はむなしく燈台へと差しのべられた。燈台はこの二か月来の夜と同じく、今夜もその灯りをともすことはないだろう。そこで船はサン・ジュアン岬の岩礁にぶつかって、こなごなに砕け散る運命にあった。
その時バスケスにある考えが浮かんだ。陸地の存在に気づけば、あの帆船はまだ岩礁を避けられるのではなかろうか? 船を停めることはできないにしても、いくらかでも速度を落とせば、この沿岸への衝突は避けられるかもしれない。サン・ジュアン岬からセベラル小岬までは距離にして八マイル足らずである。そこを何とか切り抜ければ、船首には大洋が開けるはずだ。
浜には漂流物の残骸や、船材の破片などの木材が散らばっていた。この木切れをいくつかの岬に運び、薪《まき》の山をつくり、乾いた海草をこれに加えて火をつけ、あとは風の吹くまま火勢を強めたら? そうすれば難船を避けられるのではないか? おそらくまだ海岸を回避する時間的余裕もあるはずだ。
バスケスはただちに仕事にとりかかった。彼は数個の木切れを拾い集め、これを岬の先端に運んだ。乾燥した海草にはこと欠かなかった。風は吹いていたが、まだ雨は落ちてこなかったからである。こうして火床が用意されると、彼はいよいよ火をつけにかかった。 だが遅すぎた……そのとき巨大な|かたまり《ヽヽヽヽ》が闇をついて現れたのだ。とほうもない波に押し上げられ、その|かたまり《ヽヽヽヽ》は恐るべき激しさで突進してきた。バスケスが手を振る間もなく、船は疾風の如く岩礁に乗りあげた。
恐ろしい音響と、一瞬、悲痛な叫び声がいくつか起こったが、すぐかき消された……あとはただ、突風の唸《うな》り声と、岸に砕け散る波のとどろきが聞こえるだけだった。
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一〇 難船のあとで
翌日の明け方も、嵐はまだいっこうに治まる気配もなく荒れ狂っていた。海は水平線の彼方までまっ白に見えた。岬の先端では、十五フィートから二十フィートの高さまで波が泡だち、波しぶきが風に散って、断崖の上までとんでいた。引き潮と疾風がエルゴール湾の沖合で出会い、凄《すさ》まじい勢いでぶつかりあっていた。いかなる船も湾にはいることも、そこから出ることもできなかったろう。相変わらず険悪な空模様からすると、この暴風は二、三日つづく気配が濃厚だった。だがこれもマゼラン海域ではべつに驚くほどのことではないのだ。
とにかく、スクーナー船がその日の朝、停泊地を離れられないのは明白だった。この思いがけぬ事態がコングレとその一味をどんなに怒りに駆りたてたかは、容易に想像できた。
夜が白みはじめるとすぐ、うずまく砂のまんなかに降りたったバスケスに理解できたのは、以上のような状況だった。
次に彼の面前に広がる光景を述べるとしよう。
岬の北岸、つまり湾の外側の、二百歩ほど離れたところに、難破船が横たわっていた。約五百トンぐらいの、三本マストの帆船である。だが帆柱は舷檣《げんしょう》と同じ高さにへし折られて、ただ三本の木材の断片と化していた。船長が窮地を脱するために帆柱をおらなければならない必要に迫られたのか、坐礁の際に折れたかしたのだろう。海面には漂流物はまったく浮かんでいなかった。猛烈な風の力で、おそらくさまざまな破片はエルゴール湾の底ふかく沈められてしまったのだ。
こういう事情だから、いまやコングレは、船がサン・ジュアン岬の暗礁で難破した事実を知っているにちがいない。
そこでバスケスは慎重に振舞《ふるま》わなければならなかった。彼は、湾の入口に一味の者が誰もいないのを確かめてから進んだ。
数分で、彼は破局の場所にたどりついた。潮は引いていたので座礁した船をひと巡りできた。後部の船名板には、〈センチュリー号、モビール〉とあった。
するとこの帆船はアメリカ船で、メキシコ湾に面した、合衆国南部アラバマ州の首都モビールに母港があるのだ。
〈センチュリー〉は完全に難船していた。遭難の生存者はひとりとして見あたらず、船は不格好な骨組みを残しているだけだった。衝突した際、被覆部分は二つに引き裂かれてしまっていた。外皮板、肋材、円材、帆桁《ほげた》などの残骸が、激しい突風にいまも晒《さら》されて、岩礁のあちこちに点在していた。箱、小包、大樽などは岬に沿った浜辺に散らばっていた。
〈センチュリー〉の骨組みは陸地に打ちあげられていたので、バスケスは中にはいることができた。
完全な壊滅状態だった。波のためすべてが荒らされてしまっていた。波は甲板の板を引きはがし、後甲板船室を打ち壊し、船首楼を砕き、舵を取りはずしていた。その上暗礁への衝撃が船の崩壊作業を完成したのである。
生存者は誰もいなかった。ひとりの航海士も、ひとりの船員たりとも!
バスケスは大声で叫んでみたが、答えは返ってこなかった。彼は下の船倉までおりていったが、ひとりの死体も見あたらなかった。彼ら不幸な船員たちは、海の荒波にさらわれたか、〈センチュリー〉が岩礁に打ち砕かれた際、溺《おぼ》れ死んだかしたのであろう。
バスケスはまた浜辺に引き返すと、コングレもその手下もこの難船現場へ向かってこないことをふたたび確かめ、風が荒れ狂っていたが、サン・ジュアン岬の先端まで道をのぼった。
「もしかしたら、まだ息のある〈センチュリー〉の船員を見つけられるかもしれない。おれに救えるだろうか?……」彼は考えていた。
だが探索はむなしかった。海岸にもどると、バスケスは大波に打ちあげられたあらゆる種類の漂着物を調べはじめた。
「二、三週間、おれの食糧を確保できるような罐詰めの箱でも見つけられるはずだ!……」
彼はまもなく、実際、波によって暗礁に打ちあげられた樽と箱をひとつずつ拾いあげた。中身の品目は外側に書き込まれていた。箱には堅パンが、樽にはコーンビーフが詰めこまれているらしい。これで少なくとも二か月間はパンと肉の代用ができたことになる。
バスケスは、せいぜい二百メートルほどの距離の洞穴《ほらあな》に、まず箱を運び、つぎに樽をころがしていった。
それから彼は岬の先端にとって返し、湾の方へ視線を向けた。コングレが難船を知っているのは確実だ。前日、日が暮れるまえ、やつは燈台の高みから陸地に向かって走っている船の姿を認めたはずだ。そこで〈マウレ〉を入江につなぎとめたらすぐ、一味の者は難船の分け前を頂戴《ちょうだい》しに駆けつけてくるにちがいない。残骸の中から必要な拾得物、それもだいぶ高価な品物が出てくるとすれば、あの盗賊達がどうしてそんな機会を見逃すはずがあろう?
断崖の曲がり角のところまで行ったとき、バスケスは湾に吹きこむ風の激しさに驚いた。
スクーナー船はこの風に逆らって進むことはできないだろう。サン・ジュアン岬まではやってこれても、沖合の波を乗り切れはしまい。
このとき、風がちょっと小止《こや》みになる間をついて、叫び声が聞こえた。
バスケスは声の方向に飛ぶように走った。例の洞窟に近い、彼がはじめて隠れていた洞穴《ほらあな》の方角だ。
五十歩ほど進むと、彼は岩の下にひとりの男が横たわっているのを目にした。男の手は助けを求めるかのように揺れていた。
またたくまに、バスケスは男に近づいた。
身を横たえた男は三十五歳から四十歳ぐらいの年輩で、がっしりとしたタイプだった。船乗りの服装をし、右脇を下にして寝ている。そして目を閉じ、息をはずませ、痙攣《けいれん》でからだを引きつらせている。だが負傷している様子はなかった。服にも全然血痕はついていなかった。
〈センチュリー〉の唯一の生存者と思われるこの男には、バスケスの近づく足音も聞こえなかった。だがバスケスが胸に手を当てると、男は起きあがろうとむなしい努力を見せ、そして過度の衰弱のためまた砂に身を落とした。しかし一瞬目を開けると、「助けてくれ!……助けてくれ!……」という言葉が唇からもれた。
バスケスは彼のそばにひざまずき、そっと彼を岩に近づけると、何度もくり返した。
「おい……しっかりしろ……助けにきたぞ……さあ目をあけるんだ!……助けてやるぞ……」
この気の毒な男にとっては、手を差しのべるのがせいいっぱいだった。彼はすぐ意識を失った。
すぐにも、この極度の衰弱状態に必要な手当を施してやらねばならない。
「神よ、間にあいますように!」バスケスは祈った。
まずはこの場を離れることだ。刻一刻と、一味の輩が大型ボートか普通ボートで、あるいは海岸沿いに徒歩でやっとくる恐れが強まっている。安全な彼の洞穴《ほらあな》にこの男を運んでやることこそ、バスケスのなすべき仕事だった。彼はこれを実行に移した。
約百トワーズ〔訳註 一トワーズは約二メートル〕の距離を、ぐったりした男を背負って歩いたあと(十五分ほどかかった)、彼は岩のすきまに滑りこみ、毛布の上に男を寝かしつけ、衣料品の包の上に頭を乗せてやった。
男の意識は回復していなかったが、呼吸は確かだった。しかし、見た目には全然負傷がないとしても、暗礁の上を押し流されたとき腕か足を折っているのではなかろうか? それをバスケスは恐れていた。もしそうならなす術《すべ》がない。それを調べてやろうと、彼は男の四肢を動かしてみた。だがからだのどこにも支障はないように思えた。
バスケスは茶碗に少し水を入れ、まだ水筒に残っていたブランデーをそれに数滴たらし、遭難者の唇のあいだにこの飲み物をひと口流しこんだ。それから彼は、びしょぬれの服を海賊の洞窟で見つけた服と着換えさせたあと、男の腕と胸をさすってやった。
これ以上の手当は彼には無理だった。
病人の意識がもどるのを見て、やっとバスケスは安心した。男は身を起こすこともできるほどになり、自分の体を腕に抱えてくれているバスケスを見やって、弱々しい声で言った。
「飲み物……飲み物を!」
バスケスは水とブランデーをいっぱいついだ茶碗を男に差しだした。
「よくなったかね?」バスケスは訊いた。
「ああ!……大丈夫です!……」遭難者は答えた。
男はまだぼんやりとしている記憶を頭で整理しようとしているようだった。
「ここは?……あんたは?……ここはどこです?」彼は生命《いのち》の恩人の手を弱々しく握りしめながら言葉をつづけた。
男の言葉は英語だった――だがバスケスにも英語はわかるので、彼は答えた。
「もう大丈夫だよ。あんたを浜で見つけたんだ、〈センチュリー〉の難破のあとでね」
「〈センチュリー〉……そうか、思い出した……」
「あんたの名前は?」
「デイビス……ジョーン・デイビス」
「あの帆船の船長かね?」
「いや……副船長です!……ほかの仲間は?」
「みんな死んだ」バスケスは答えた。「みんな。あんただけが難破をまぬかれたんだよ!」
「みんな?」
「みんなだ」
ジョーン・デイビスはいましらされた事実に驚愕《きょうがく》した様子だった。自分一人だけが生存者だなんて! どうしておれだけが生き残ったんだろう! その事情は理解できた。心配そうにおれに屈みこんでいるこの見知らぬ人のおかげなのだ。
「ありがとう、ありがとう!……」彼は言った。大粒の涙が目から溢れた。
「腹がへっているだろう? 何か食べたくはないかね?……堅パンと肉をすこし?」バスケスは尋ねた。
「いや……いりません……もっと飲み物を!」
ブランデーをまぜた冷たい水はジョージ・デイビスを甦《よみがえ》らせた。というのも、彼はまもなくどんな質問にも答えられるようになったからだ。
彼の語った話を要約するとつぎのようになる。
五百五十トンの三本マストの帆船〈センチュリー〉は三十日前、アメリカ沿岸のモビールをあとにした。乗組員は船長のハリー・スチュワード、副船長のジョーン・デイビス、それに少年水夫とコックを含めた十二人の水夫だった。帆船はニッケルと無賃輸送品を積みこんで、オーストラリアのメルボルンに向かうところだった。航海は大西洋の南緯五十五度までは平穏だった。と、突然、前日来この海域を荒らしている激しい嵐が襲いかかってきた。はじめから〈センチュリー〉は、最初の疾風《はやて》に不意打ちをくらって、後檣と後部の帆をすべて失った。それからすぐ、巨大な波が左舷の舷側に打ち寄せ、甲板を洗い、船尾楼を壊し、二人の水夫を押し流した。二人は助からなかった。
スチュワード船長はエスタードス島の背後の、ルメール海峡に避難するつもりでいた。日中、船の位置を測定してあったので、方位については確信があった。ホーン岬を回ってから、オーストラリア沿岸へと向かうのに、船長がこの航路をえらぼうと考えたのはもっともである。
夜にはいると突風は激しさを増した。前檣帆と下段の縮帆部の小さな中檣帆をのぞいて帆はすべてたたまれ、三本マスト船は追い風を受けて走った。
このとき、船長は陸地からまだ二十マイル以上沖合にいると考えていた。燈台の灯が見えるまでは、帆を揚げていても何ら危険はないと思っていたのだ。灯が見えたら、南方にあるはずの燈台との距離を充分にとっていけば、サン・ジュアン岬の暗礁に乗りあげる危険もなく、やすやすと海峡にはいれるだろう。
〈センチュリー〉はそこで追い風を受けて走りつづけた。ハリー・スチュワードは一時間以内に燈台がみえるものと考えていた。燈台の灯は十マイル先まで届くはずだから。
ところが燈台はいっこうに姿を現わさなかった。島にはまだ充分距離があると船長は思っていたのに、突然恐ろしいばかりの衝撃が起こった。帆柱にかかりきりになっていた三人の水夫は、前檣とメーン・マストもろとも姿をかき消した。同時に、波が船体に襲いかかると、船体は口をひらき、船長、副船長、その他の乗組員たちは船外の、逆巻く大波のただ中に投げだされ、誰も助かる見こみがないように思われた。
こうして〈センチュリー〉はこなごなに砕け散った。ただ副船長のジョーン・デイビスだけが、バスケスのおかげで、死をまぬかれたというわけである。
そしていま、三本マスト船がどこの海岸で坐礁したかが、デイビスにとって理解しかねるところだった。
今度は彼がバスケスに尋ねた。
「ここはどこなんです?」
「エスタードス島だよ」
「エスタードス島!」ジョーン・デイビスはバスケスの答えにびっくりして叫んだ。
「そうなんだ……エスタードス島にある、エルゴール湾の入口なんだ!」バスケスは言葉をついだ。
「でも燈台は?」
「灯がついていなかった!」
ジョーン・デイビスの顔にはいかにも深い驚きの色が現われ、彼はバスケスの説明を待っていた。だがそのとき、バスケスは突然立ち上がると、耳をそばたてた。怪しい物音が聞こえたような気がしたのだ。彼は一味の者がこの近くまでうろつきにきたのではないかと思った。
彼は岩のすき間からそっと這いだし、サン・ジュアン岬の先端までつづく海岸に目を走らせた。
人っ子ひとり見あたらない。暴風はその力を全然弱めていなかった。波は相変わらず猛烈な激しさで砕け散り、ますます荒れ模様の雲が、霧をふくんで水平線を走っていた。
バスケスの耳にした物音は〈センチュリー〉が解体したため生じたものだった。風の力で船尾の被覆部分がひっくり返り、内側に吹き込んだ突風がこれを砂浜の奥にまで押しあげたのだ。その被覆部分は底の抜けた巨大な樽のように転がり、ついに断崖のかどにぶつかって完全に押しつぶされた。たくさんの漂着物で埋まった坐礁地点には、三本マスト船の残骸しか残っていなかった。
バスケスは洞穴《ほらあな》の奥へもどり、ジョーン・デイビスのそばの砂の上に身を横たえた。この〈センチュリー〉の副船長には活力が甦っていた。立ち上がることも、友の腕を借りれば浜に降りることもできただろう。だがバスケスは彼を引きとめた。このとき、デイビスはなぜ昨夜燈台の灯りがともっていなかったかを尋ねた。
バスケスは、七週間前にエルゴール湾で起こった忌まわしい出来事を彼に語った。通報艦〈サンタ・フェ〉が出航してはじめの二週間は、燈台の仕事はバスケスと二人の仲間フェリペとモリスに委ねられ、何事につけ支障はなかったのに。その頃は、数隻の船が島のそばを通りかかり信号を送ってきたし、燈台もきちんとそれに答えたものだった。
ところが十二月二十六日、一隻のスクーナー船が湾の入口に夕方の八時頃姿を見せた。勤務についていた当直室から、バスケスは舷燈にじっと視線を注ぎ、その操縦ぶりを逐一眺めていた。彼の考えでは、船の指揮をとっている船長は航路を充分にわきまえているように思えた。船はなんの躊躇《ちゅうちょ》も見せず進んだからである。
スクーナー船は燈台の構内のすぐ下に広がる入江までやってきて、錨をおろした。
そのとき、フェリペとモリスは宿舎を離れ、スクーナー船の乗組員に力を貸そうと乗船した。ところが二人は乗組員一味の卑劣な襲撃のもとに打ち倒され、刃向かうこともできずに死んだ。
「可哀そうに!」ジョーン・デイビスは叫んだ。
「ああ!……可哀そうな仲間だった!」バスケスは繰りかえした。激しい悲しみがそのときの痛ましい思い出を呼び覚ましていた。
「それで、あんたは、バスケス?」ジョーン・デイビスは訊いた。
「わたしは回廊の高みから、仲間の叫び声を聞いた……それで何が起こったかわかった……海賊船だったんだ。そのスクーナー船は……われわれ燈台守は三人だった……やつらはそのうち二人を殺したものだから、三人目のわたしのことなど気にかけなかった」
「どうやって、やつらの手を逃れたんです?」またデイビスは訊いた。
「燈台の階段を素早くおりてから、宿舎へと急いだんだ。それから身の回りの品をいくつかと、食料を少し持ちだすと、スクーナー船の連中が上陸するまえに逃げた。そして海岸ぞいにここへ避難したというわけだ」
「なんていうやつらだ!……なんて卑劣なんだ!」ジョーン・デイビスは繰りかえした。「それではやつらが燈台の主《あるじ》となって、もう灯りをつけていなかったわけか。〈センチュリー〉を難船させたのも、船長や仲間を死に追いつめたのも、やつらの仕業なんですね」
「そうなんだ、やつらが燈台の主に納まっているからね。それにわたしは、首領と手下のひとりとの会話を盗み聞きして、やつらの計画もわかった」
ジョーン・デイビスはこうして、あの盗賊一味が数年前からエスタードス島を根城にし、ここに船をおびき寄せては難船の生存者を虐殺していたこと、コングレが船を略奪するまで、どんな漂流物であろうと少しでも価値があれば洞窟に運んでいた経緯などを知らされた。さらに、燈台の建設工事が急に始まって、一味はエルゴール湾をあとにし、エスタードス島のもう一方の端にあるサン・バルテレミイ岬に引きこもらざるをえなくなったことも。そんなところに海賊どもがいようとは誰も気づかなかったのであるが。
工事が終わると、もう一月半以上前のことだが、やつらはもどってきた。それも、サン・バルテレミイ岬で坐礁し、乗組員の全滅したスクーナー船に乗りこんで――。
「どうしてまだ連中は、略奪品を積んで出航しないのだろう?」ジョーン・デイビスは尋ねた。
「船に大がかりの修理箇所があったため、いままで出るに出られなかったんだ……でも、わたしが自分で確かめたことなのだが、デイビス、船の修理工事も終わったし、積荷作業も終了している。やつらは今朝にも出発する予定だったんだよ」
「どこへ?……」
「太平洋の島へ向けてね。そこなら一味は安全だと思っているんだ。そして海賊の仕事をつづけるつもりでいる」
「でも、この暴風が吹きつづくかぎり、スクーナー船は湾から出られやしない……」
「その通りだ」バスケスは答えた。「この天候の様子では、まるまる一週間は出航が遅れるだろう」
「やつらが湾にいるかぎり、燈台の灯りはつかないわけですね?……」
「そうだよ、デイビス」
「すると〈センチュリー〉が難破したように、他の船も難破する危険がありますね?」
「当然ね」
「では、夜間陸地に近づく船に、海岸の存在を知らせてやれないものでしょうか?」
「そう……たぶんできるだろうね。サン・ジュアン岬の先端の砂浜で、火を焚けば。実はわたしもそうやって、〈センチュリー〉に危急を告げようとしたんだよ、デイビス。漂着物の切れ端や枯れ草を集めて火をつけようとしたのだが。風があまり猛烈に吹くものだからうまくいかなかった」
「それでは、あんたにできなかったことを、バスケス、二人でやってみましょう」ジョーン・デイビスはきっぱりと言った。「材木にはこと欠かないし。うちの船の破片と……不幸にして坐礁したほかの多くの船の破片を合わせれば、充分にまにあうはずです。とにかく、スクーナー船の出航が遅れて、エスタードス島の燈台が沖からやってくる船に気づかれないとしたら、今後難船の起こらない保証などないわけですから」
「いずれにしても」バスケスは説明した。「コングレとその一味はこの島での滞在を引きのばすわけにはいかないのだよ。天候が納まって航海できるようになればすぐ、スクーナー船が出航することは請合いなんだ……」
「それはまたなぜ?」ジョーン・デイビスは訊いた。
「燈台の勤務交代がまもなく行われることをやつらは知っているからね」
「勤務交代?」
「そう、三月初旬にね。今日は二月十八日だから……」
「そのころ船がやってくるのですね?」
「そうなんだ、通報艦の〈サンタ・フェ〉号がブエノス・アイレスからやってくる予定になっている……三月十日ごろか、もしかしたらもう少し早くね」
ジョーン・デイビスは、バスケスが思い浮かべたのと同じ考えを抱いた。
「ああ、そうすれば」彼は叫んだ。「状況がまったく変わりますね! それまで悪天候がつづいてくれればいいのだが。〈サンタ・フェ〉がエルゴール湾に錨をおろすまで、どうかその卑劣な一味が湾を出られませんように!」
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一一 海岸荒らし
一ダースほどの手下にコングレとカルカンテを加えた一味は、本能的に略奪行為に走る輩《やから》だった。
前日、太陽が水平線に沈もうとしているとき、カルカンテは燈台の回廊から、東方より進んでくる三本マスト船に気づいた。知らせを受けたコングレは、この船が嵐を避けるため、ルメール海峡にはいり、それから島の西岸に避難するつもりだと考えた。日が沈むまで、彼は船の動きを追い、夜に入ってからは船の舷燈を追った。まもなく彼には、船が半ば航行不能になっているのがわかって、闇に隠れた陸地に坐礁するにちがいないと思った。コングレが燈台の灯りをつけさえしたら、危険はすべて解消しただろう。けれどももちろん彼はそんなことをするはずがなかった。〈センチュリー〉の舷燈が突然消えたとき、船がサン・ジュアン岬とセベラル小岬のあいだで座礁しこなごなになったことを彼は疑わなかった。
翌日、暴風は相変わらず猛烈に吹きすさんでいた。これではスクーナー船を外海に出せるものではない。出航の延期、たぶん二日、三日の延期が、どうしても必要だった。燈台の交代要員がやってくる危険性に絶えず晒《さら》されているのだから、これはまさに重大な事態にちがいない。だがコングレと手下たちがどんなにくやしがってみても、待つ以外に手はなかった。とはいうものの、まだ二月十九日になったところではないか。暴風も月末にはきっと治まるだろう。天気が回復次第、〈カルカンテ〉は錨を上げ、海に乗りだせばいいのだ。
ところで、見知らぬ船が海岸に乗りあげたとあっては、この難船から利益を得ない手はあるまい。漂着物の中から、値打ちのありそうなものを集め、スクーナー船が運び出す予定になっている積荷の価値を殖やすのだ。利益が殖えれば、少なくとも危険の増大を帳消しにしてくれようというものである。
この点はかれこれ論議するまでもなかった。猛禽類《もうきんるい》の群れがいっせいに飛び立った、といっても差し支えなかろう。すぐ大型ボートが用意され、一ダースほどの男達とその首領がそこに乗りこんだ。稲妻のように吹きおろし、湾へ海水を押しもどす風と、彼らはオールを戦わせねばならなかった。断崖のはずれに行きつくまでに、一時間半かけても足らぬほどだった。だが、帰りには帆を使えば、ずっと早くもどれるだろう。
大型ボートは湾の北側にある、例の洞窟の前についた。みんなはボートを降り、難船現場へと急いだ。
ジョーン・デイビスとバスケスの会話を中断させる叫び声が起こったのは、この時だった。
バスケスはすぐさま、見つからないように気を配りながら洞穴の入口まで這って進んだ。
「きみか!」彼はデイビスに言った。「ひとりで大丈夫だよ!……君は休んでいなくては」
「いいや」デイビスは答えた。「もう完全によくなりました。わたしにもその悪漢どもの群れを見せてください」
この〈センチュリー〉の副船長も、気力のある、バスケスに負けず劣らぬ不屈な男だった。鉄の意志を持ったあのアメリカ人のひとりなのだ。三本マスト船が遭難したあとでも精神と肉体がばらばらになっていないところをみると、確かに彼は、俗に言うあの≪不死身の男≫なのであろう。
同時にデイビスは優秀な船乗りでもあった。商船で海を乗り回す以前、彼はアメリカ合衆国海軍の一等兵曽としての任務についていた。〈センチュリー〉がモビールに帰還したら、ハリー・スチュワードは引退することになっていたので、船主はデイビスに船の指揮を委ねることに決めていた。
彼にとってこうした事情も、怒りと憎しみの原因になっていたのだ。彼がまもなく船長になろうとしている当の船が、いまやただの醜悪な残骸となって盗賊一味の手に渡っているのだから。
バスケスはこれまで自分の勇気を掻きたててくれる人物を必要としていたが、このデイビスこそ打ってつけだった!
だが彼ら二人がいかに血気盛んで、勇気に溢れていようとも、コングレとその一味に対抗できるだろうか?
岩の背後に身をひそめて、バスケスとジョーン・デイビスは、サン・ジュアン岬の先端までつづく沿岸を慎重に見やった。
コングレとカルカンテ、それに手下の者どもは、〈センチュリー〉の船体の半分が暴風によって断崖の下までばらばらに吹きあげられた場所に、まず立ちどまった。
盗賊達は洞穴から二百歩たらずの所にいたので、彼らの様子は簡単に見てとれた。彼らは蝋引《ろうびき》をほどこした布地の外套を着こみ、風にはためかないようにそれをぴったりと身につけ、じょうぶなバンドで顎《あご》にしっかりとめた防水帽を被っていた。突風の力にかろうじて身を支えている様子だ。時には、吹きとばされないように、漂着物や岩にしっかりとつかまっていなければならぬほどだった。
バスケスは、はじめて洞窟に行ったとき一味の者を知っていたので、ジョーン・デイビスに教えてやった。
「〈センチュリー〉の船首材のそばにいる、あの背の高いのが、コングレとかいうやつだ」
「首領ですか?」
「首領だ」
「そいつとしゃべっている男は?」
「カルカンテという副首領だよ……燈台の上からちゃんと見えたのだが、あいつもわたしの仲間に襲いかかったひとりなんだ」
「やつの頭をぶち割ってやりたい気持ちでしょうね?」ジョーン・デイビスが言った。
「やつとあの首領をね、狂犬みたいに!」
盗賊どもはこの部分の船体を捜索しおえるのに一時間ほど費やした。彼らは隅から隅まで漁ろうとしていた。〈センチュリー〉の船荷であるニッケルは、一味の者にとっては必要ないから、浜にそのまま放って置かれるだろう。けれども、やはり三本マスト船に積みこまれていた無賃輸送品のなかには、たぶん彼らの好みにあった品物が含まれているにちがいない。実際のところ二、三の箱や、多くの小包を運ぶ彼らの姿が目にはいった。コングレはそれらを大型ボートに積みこませた。
「あのならず者たちは、金・銀・高価な宝石とかピアストル銀貨などを捜しているのでしょうが、そんなものは見つかりっこない」デイビスは言った。
「もちろん、そういったものが欲しいわけだろうがね」バスケスは答えた。「洞窟にも貴重品があったのをみると、この沿岸で座礁した船にはだいぶ高価な品々が積まれていたにちがいない。だからきっと、今やスクーナー船には値の張る船荷が詰めこまれているはずだよ、デイビス」
「それで、早くそいつを安全圏に運びだそうというわけか……」デイビスは言葉をついだ。「でも、そう簡単に問屋がおろさないぞ」
「やつらにそうさせないためには、この悪天候が二週間ほどつづかなくてはね」バスケスは懸念を示した。
「さもなければ、われわれの手で何らかの手段を見つけるまでです……」
ジョーン・デイビスは自分の考えをこれ以上|披瀝《ひれき》しなかった……だが結局のところ、スクーナー船が沖に出るのをどうやって食い止めるのか? この嵐の力も尽きはて、天候がふたたび回復し、海も穏やかになり次第、船は出航するだろう。
この時、盗賊達は半分になった〈センチュリー〉の船体を離れ、岬の先端の、坐礁地点にあるもう半分の船体へと向かった。
バスケスとジョーン・デイビスのいる場所からは、まだ彼らの姿を見ることができたが、これまでより少し遠くなった。
潮は引いていた。その潮も風で押しもどされたが、暗礁の表面は大部分姿を現していた。だから三本マスト船の骨組みのあるところまで行くのはかなり簡単だった。
コングレと、他の二、三人のものが残骸の内部にはいっていった。船尾の、後甲板室の下は、ジョーン・デイビスがバスケスに言ったように、食料庫だった。
おそらくこの食料庫も甲板を洗う大波の猛威に屈したのにちがいない。けれどもまだいくらか食料がそのまま残っているのかもしれない。
実際のところ、数人の男がそこから罐詰めの箱と二、三の大小の樽を運びだし、それを砂の上に転がして、大型ボートの方へと向かった。後甲板室の残骸の中から取りだした衣料品も同じ方角へと運ばれた。
捜索は二時間つづいた。それから、カルカンテと二人の部下が斧《おの》を手にして、船尾上部に回った。そこは船が傾斜しているため、地上から二、三フィートしかなかった。
「いったい何をしようというのだろう?」バスケスは尋ねた。「船がまだ毀《こわ》れ足りないというつもりかな? いったいぜんたい、なぜこのうえ船を毀そうというのだ?」
「何を仕出かすつもりか、わたしにはわかる」ジョーン・デイビスは答えた。「船の名も国籍も、まったく何ら痕跡を残すまいとしているんだ。〈センチュリー〉がこの大西洋のこの地で坐礁したことを誰にも知られないように!」
デイビスの考えは間違っていなかった。少し立つと、コングレは船長室で見つけたアメリカ国旗をもって、後甲板から出てきた。そして国旗をびりびりに引き裂いたのだ。
「ああ、畜生!」デイビスは叫んだ。「国旗を……わが国の国旗を!」
もはや自分を制しきれずに浜へとび出そうとしたデイビスの腕を、バスケスはやっとの思いで引きとめた!……
略奪をおえると――大型ボートがいっぱいになったのだろう――コングレとカルカンテは断崖の下まで引きかえした。ぶらぶら歩きながら、彼らは奥が洞穴になっている岩のすき間のまえを二、三度通った。バスケスとデイビスはだから、彼らの会話を耳にすることができた。
「明日出発するのはまだ無理のようですぜ」
「そうだな。この悪天候は数日つづくんじゃねえかな」
「でも、遅れても損にはなりませんでしたぜ……」
「たぶんな。それにしても、あれだけのアメリカ船ならもっとましなものが見つかると思ったのにな!……この前暗礁に乗りあげた船からは五万ドル相当もせしめたんだぜ……」
「難船がつづいて起こったからって、みな同じというわけにはいきませんや!」カルカンテはしたり顔で答えた。「こんどはしけた船にめぐり合ったというだけのことでさあ」
ジョーン・デイビスは激昂し、ピストルを握りしめていた。バスケスがまたとり抑えなければ、彼は衝動的に怒りに身をまかせ、一味の首領の頭を射ち抜いていたことだろう。
「まったく、あんたの言う通りだ!」デイビスは認めた。「でもわたしには、あんな卑劣な輩《やから》がこのままですむなんて考えられない……けれども、スクーナー船がまんまと島を脱したら、あとはどこを捜せばいいのだろう?……どこに追跡の手をのばせばいいのだろう?」
「嵐は治まりそうにないし」バスケスは口をはさんだ。「たとえ南風に変わったところで波のうねりはまだ数日高いはずだよ……やつらは湾から出られはしないさ、そうだろう?」
「ああ、バスケス。でも通報艦は来月初旬までやってこない、とあんたは言いましたね」
「たぶんもっと早いと思うが……デイビス、こればっかりはね……」
「運を天にまかせよう、バスケス、運を天に!」
この上なくはっきりしているのは、暴風の力が全然衰えていないということだった。この地方では夏の季節でも、こうした荒天が二週間もつづくことがある。南風に変わっても、その風は南極の海から煙霧をもたらすだろう。そろそろ南極では冬の季節がはじまろうとしているのだ。すでに捕鯨船も南極海域を離れようと考えているにちがいない。三月ともなれば、大浮氷群の前にあらたな氷が出現するからだ。
しかし結局のところ、四、五日後に、一時的にせよ天候が回復し、そこを狙《ねら》ってスクーナー船が航海に乗りだす心配があった。
コングレと手下どもがボートに乗ったのは四時だった。帆を掲げた大型ボートは、湾の北岸ぞいに進み、しばらくして姿を消した。
夜になるとともに、疾風は力を増した。冷たく、殴りつけるような雨が、南東より走ってきた雲から滝のように落ちてきた。
バスケスとデイビスは洞穴から出られなかった。それに寒さもかなり厳しかったので、火を焚《た》いて暖をとる必要があった。狭い岩溝の奥で小さな焚火が起こされた。沿岸は人っ子ひとり見えず、深い闇に包まれているので、何も恐れることはなかった。
ひどい夜だった。波は断崖の下まで打ち寄せていた。高波か津波が島の東岸に押しよせたかと思えるほどだった。きっと、ものすごい大波が湾の奥にも打ち寄せているはずだから、コングレは〈カルカンテ〉を停泊地に繋《つな》ぎとめようと必死になっていることだろう。
「願わくは船が砕け散って、その残骸がつぎの潮で沖に流れだしてくれればいいのだが!」デイビスは繰りかえした。
〈センチュリー〉の船体も明日になればただの破片となって、岩のあいだに押しこめられるか、砂浜にちりぢりになっていることだろう。
暴風の激しさはすでに絶頂に達しているのだろうか? バスケスとその仲間は夜が明けるとすぐ急いで天候状態を調べた。
そんな様子は全然なかった。これほどの悪天候になろうとは想像もできなかった。空から振りつける雨は海水とまじりあい渾然《こんぜん》としていた。その日いっぱいとその夜も、事情は変わらなかった。この二日間というもの、船はただの一隻も島の前面に姿を現さなかった。直接嵐に見舞われているこの危険なマゼラン海域をぜひとも避けようという腹なのだろう。マゼラン海峡でもルメール海峡でも、これほどの暴風の来襲を避けうる場所は見つかるはずもないのだ。船にとっての救いの道とはただ逃亡のみであり、それも目の前に大海原が広がっていなければならないのである。
デイビスとバスケスが予測したように、〈センチュリー〉の船体は完全に崩壊し、無数の破片が断崖の下まで浜辺を埋めていた。
幸いにして、バスケスとその仲間には食糧の心配はなかった。〈センチュリー〉から運びだした罐詰めで、一ヶ月以上は食べていけるだろう。それまでには、いやおそらく十二、三日もすれば、〈サンタ・フェ〉が島の前面に姿を現すだろう。そのころは荒天も治まり、通報艦は難なくサン・ジュアン岬の存在を認めることができようというものだ。
二人の男の口にのぼったいちばんの話題はこの通報艦であったし、この船こそ二人の強く待ち望むものであった。
「嵐がつづいてスクーナー船の出航をさまたげ、〈サンタ・フェ〉がやってくるときには嵐が止《や》んでいる――事はそう運ばなければならないな」バスケスは素直に自分の気持ちを語った。
「まったく!」デイビスは答えた。「われわれに風と海が自由になったら、そんなことは容易なんだが」
「あいにく、そいつは神の御心《みこころ》次第だからね」
「神はあんな卑劣な一味の罪をこのまま見過ごされようはずがない」デイビスはきっぱりと言い放った。以前にバスケスが言ったのと同じ言葉を使って。
二人とも一味の者に同じ憎しみ抱き、同じ復讐心《ふくしゅうしん》に燃えていたから、当然同じ考えに結ばれていたのである。
二十一日と二十二日も、状況は変わらなかった。少なくとも目に見えては。風は北東に変わるような様子を見せた。だが一時間ほどぐずぐずして、また風は島に襲いかかり、あの猛烈な突風を続けざまに送りこんできた。
言うまでもなくコングレもその手下もまるで姿を見せなかった。彼らはきっと、あの入江でスクーナー船に少しでも疵がつかないように懸命になっているにちがいない。暴風で水嵩《みずかさ》のました海面は船べりいっぱいに押し寄せているだろうから。
二十三日の朝、天候状態はいくらか回復した。風はいくらか逡巡《しゅんじゅん》したあと、北々東に定まったようだった。雲の切れ目もはじめのうちは少なかったが、徐々に広がって、南の水平線を明るくした。雨はやんだ。風は相変わらず激しく吹き荒れていたが、空はしだいに明るくなっていった。だがもちろん、海は荒れ狂い、波はたけだけしく海岸に砕け散っていた。だから、湾の入口を航行するのはまったく無理だった。スクーナー船がこの日も翌日も出航できないのは確実だ。
コングレとカルカンテはこのちょっとした小康状態を利用して、海の具合を調べにサン・ジュアン岬にやってくるだろう。おそらく、いや確かなところ、彼らはやってくる。だから慎重に振る舞わなければならなかった。
とは言っても、早朝なら彼らの到来を気づかう必要はなかった。そこでデイビスとバスケスは、二日間閉じこめられていた洞穴の外に思い切って出てみた。
「風はこのまま吹きつづけてくれるかな?」バスケスは尋ねた。
「あやしいものですね」と、ほとんど外れることのない船乗りの本能を持ちあわせているデイビスは答えた。「もうあと十日、悪天候がつづいてくれなければいけないのだが……あと十日!……そうはいかないな」
腕を組み、彼は空と海を眺めた。
バスケスは数歩先を歩き、デイビスはその後ろを断崖沿いに進んだ。
突然、デイビスの足が、岩のそばの砂に半ば埋まっている或る物体にぶつかった。するとそれは金属製の音を立てた。彼が身をこごめてみると、それは船に積んであった火薬入りの箱だった。マスケット銃〔訳注 火縄銃の一種〕用の火薬と、〈センチュリー〉が信号を送るときに用いた二門の四インチ口径|艦砲用《カロナード》の火薬である。
「こんなものがあってもどうしようもない」彼は言った。「ああ! あの無頼漢が手にしているスクーナー船の船倉にこの火薬を仕掛けられるなら話は別だが!」
「そこまで考えなくてもいいよ」バスケスは頭を振りながら答えた。「それでもやはり、この箱を帰りにもらって、洞穴に隠しておこう」
彼らは浜をくだりつづけ、岬に向かった。だが今は潮が満ちており、大波が猛烈な勢いで砕け散っているので、岬の先端まで行きつくことはできかねた。そのとき、岩礁におり立ったバスケスが、岩のくぼみに小さな火砲がひとつ横たわっているのに気づいた。〈センチュリー〉が坐礁したあと、砲架とともに、ここまで転がってきたのだろう。
「これは君たちの船のものだね」彼はデイビスに言った。「それに砲弾もいくつか波に運ばれてきているよ」
けれどもデイビスは、さっきと同様にくりかえすだけだった。
「こんなものがあってもどうしようもない!……」
「そうかな?」バスケスは答えた。「この火砲につめる火薬をもっているのだから、機会があればこれを使えるかもしれないよ……」
「疑わしいものですね」仲間は答えた。
「どうしてだい、デイビス? 燈台はもう灯りがついていないのだから、夜、〈センチュリー〉の場合のような状況下で船がやってきたら、大砲を打って海岸のありかを知らせてやれるじゃないか?」
ジョーン・デイビスは奇妙に思えるほどじっと仲間を見やった。彼の心をまったく異なった考えがよぎったように見えた。だが彼はこう答えただけだった。
「あんたの思いつかれたのはそのことですか?……」
「そうだよ、デイビス。悪くないと思うがね。たしかに、砲声は湾の奥まで聞こえるだろうし……ここにわれわれがいることもわかってしまう……一味のやつらはわれわれを捜しはじめ……たぶんわれわれはやつらに見つかってしまうだろう……そいつは生命とりだ!……でもわれわれの生命と引きかえに、多くの人たちが助かるんだ。そうすれば、われわれの義務を果たしたことになるんだ!」
「ほかにも義務を果たす手段があると思いますよ」とデイビスはつぶやいたが、これ以上は説明しなかった。とはいうものの、彼はもう反論せず、バスケスの意見に従って、火砲を洞穴まで引っぱっていった。それから、砲架と砲弾、それに火薬の箱も運んだ。この仕事はずいぶん骨が折れたし、非常に長い時間を要した。バスケスとデイビスが朝食にもどったときは、太陽はずいぶん高く水平線上にあがっており、だいたい十時頃であることを示していた。
ところで、彼らが浜から姿を消すやいなや、コングレとカルカンテ、それに船大工のバルガスが断崖の角を曲がってきた。大型ボートで風と潮(湾に満ちはじめていた)に逆らって進むのは難儀だったのだろう。彼らは海岸ぞいに歩いてきたのである。こんどは略奪が目的ではなかった。
朝、晴れ間が見えてからと言うもの、バスケスが予想していたとおりに、空模様と海の状態を調べに行こうと、彼らは決めていたのだ。〈カルカンテ〉が湾を出ようとすれば大きな危険を冒さなければならないことも、沖から押し寄せる大波に船が刃向かえないことも、彼らは見てとるだろう。西に進んで追い風を受けようというのなら、海峡にはいるまえにサン・ジュアン岬を回らなければならない。とすると浅瀬に乗りあげる危険性があるし、さもなければ少なくともたちの悪い大波をかぶるおそれがある。
これがコングレとカルカンテの意見だった。〈センチュリー〉の船尾の残骸がほんのわずかしか残っていない坐礁地点の近くに立ちどまって、彼らはやっと風に身を支えていた。彼らはさかんに話を交わし、しきりに身振りを織りまぜ、手で水平線を示していた。そして、波頭をまっ白く泡だって波が岬の先端で砕け散ると、時にはうしろへ退いたりした。
バスケスもその仲間も、コングレ一味が湾の入口で三十分あまり海を見張っているあいだ、彼から目を離さなかった。やっと一味は、たびたび後ろを振り返りはしたが、そこを立ち去り断崖をめぐって燈台の方へと消えていった。
「やつらはいってしまった」バスケスは言った。「でもこれからも何回となく、まだ数日間は沖の海の具合を見にやってくるよ!」
しかしジョーン・デイビスは頭を振った。嵐が二日後にはやんでしまうことは、彼にとってこの上なく明白だったのだ。そのときは大波も、まったくとは言えないにせよ、少なくともかなり鎮まり、スクーナー船はサン・ジュアン岬を回ることができるだろう。
その日の昼間、バスケスとデイビスはまた少しの時間を海岸ですごした。天候状態はどんどん変わっていた。風は北北東に定まった様子だった。船はまもなく前檣帆と中檣帆との縮帆部の綱をとき、ルメール海峡へと乗りだすだろう。
夕方になると、バスケスとデイビスは洞穴にもどった。彼らは堅パンとコーンビーフで空腹をみたし、水にブランデーをまぜて喉を癒した。それからバスケスは毛布をかけて寝ようとした。そのとき、デイビスはそれをとめた。
「寝るまえに、バスケス、聞いてもらえまいか? どうしても話しておきたいことがあるんだ」
「話してみたまえ、デイビス」
「バスケス、あなたはわたしの命の恩人だ。だから、あなたの同意が得られないことをやろうとは思わない……実は思いついたことがあるのだが、あなたに裁決してほしいんだ。じっくりと考えて、わたしの気を悪くすることなど恐れずに答えてほしい」
「わかったよ、デイビス」
「天候は回復し、嵐は治まった。海もまもなく鎮まるだろう。スクーナー船はどう見ても二日以内には出航準備をすると、私は踏んでいるんだ」
「不運なことだが、当然そう考えられるね」バスケスは答えて、≪でもどうしようもない!≫という素振りをそれにつけ加えた。
デイビスは言葉をついだ。
「そう、二日後には、船は湾の入口に姿をみせ、そこから外海にでて岬を回り、西方に姿をかき消し、海峡をくだって、ついにはわれわれの手のとどかぬところにいってしまうんだ。バスケス君の友人たちの恨みも、わたしの船長や〈センチュリー〉の仲間たちの恨みも、晴らすことができないんだ!……」
バスケスは頭を垂れていた。それからまた頭を上げるとデイビスを見やった。彼の顔は焚火の残り火で照らされていた。
デイビスはつづけた。
「スクーナー船の出航を止めるには、せめて通報艦がくるまで出航を引き延ばすには、船に事故を起こすしかない。湾の奥に帰らざるをえないような疵を負わしてやるしかない……ところで、われわれには大砲も、火薬も、砲弾もある……断崖の角に砲架と大砲を据えつけ、火薬をつめこもう。そしてスクーナー船が通ったらそのどてっ腹に砲弾を打ちこんでやろう……砲弾を食らっても沈まないかもしれない。だが長い航海にでるつもりなのだから、やつらも新しい疵をかかえてまで無理はしまい……そうすれば修理のために停泊地にもどらざるをえなくなる……船荷もおろさなくてはならない……修理にはまるまる一週間はかかるだろう……そのときまでには〈サンタ・フェ〉が……」
ジョーン・デイビスは黙った。彼は仲間の手を取り、握りしめた。
ためらわずに、バスケスはただこう答えた。
「やってみよう!」
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一二 エルゴール湾を出るとき
激しい嵐のあとよく見うけられるように、二月二十五日の朝は水平線に霧のベールがかかっていた。だが風は南に変わって衰えをみせ、天候回復の兆しは明瞭だった。
この日、スクーナー船は停泊地を離れることに決まり、コングレは午後に決行する出航の準備をおえた。明け方たちこめていた濃霧も、そのときになれば太陽によって一掃されると思われた。潮は夕刻の六時に引きだす予定であったから、エルゴール湾の脱出を手伝ってくれるだろう。スクーナー船は七時頃サン・ジュアン岬の前まで進み、この高緯度ではなかなか日が暮れないので暗くなるまでに岬を回れるはずだ。
たしかに、霧がなかったら、船はその日の朝の干潮を利用して湾を出ることもできた。事実、積荷は完了していたし、食糧も〈センチュリー〉から運んだものと、燈台の倉庫から頂戴したものとで船に多量に積みこまれていたから、用意は万端整っていたのである。燈台の建物には家具類と道具類しか残っておらず、コングレは荷でいっぱいに埋まった船倉をこれ以上塞ぐ気にはならなかった。底荷を一部取り除いて軽くしたのだが、それでもスクーナー船は正常の吃水線より二、三インチよけいに海水を被っていた。吃水線をこれ以上あげたりしたら、軽率の謗《そし》りをまぬかれないだろう。
正午を少しまわったとき、構内を散歩しながらカルカンテはコングレに言った。
「霧があがりはじめたから、沖まで見えるようになりますぜ。こうして霧が薄くかかっていると、ふつう風も凪《な》ぎ、海もずっと早く治まるもんでさ」
「今度こそいよいよ出発できるな」コングレは答えた。「海峡にでるまでおれたちの航海を妨げるものは何もありはしねえ」
「海峡にはいってからでも大丈夫でさ」カルカンテは言った。「でも夜は暗くなりますぜ、コングレ。やっと上弦の月になったところだから、三日月は太陽とほとんど同時に消えてしまいまさあ……」
「どうってことねえさ、カルカンテ。この島の沿岸を進むのに、おれには月も星も必要ねえんだ!……ここの北岸はどこだって知っているからな。おれはニューイヤー諸島とコルネット岬は充分距離をとって回り、岩礁を避けていくつもりさ!……」
「明日はだいぶ遠くを走っていることになりますぜ、コングレ、北東の横風を帆に受けて、」
「明日になればサン・バルテレミイ岬も見えなくなっているさ。そして明日の夕方には、エスタードス島もおれたちの背後二十マイルほどの地点に取り残されるという寸法だ」
「この島にきてから、けっこう月日もたちましたぜ、コングレ」
「懐かしいのか、カルカンテ?」
「とんでもねえ、やっとこれで終わりだということでさあ、財産とかいうやつもできたし、立派な船がその財産と一緒におれたちを運んでくれようというのだから!……でも一時は、まったくこれでおじゃんだと思いましたぜ。〈マウレ〉が……いや、そうじゃねえ、〈カルカンテ〉が水漏れ箇所をかかえたまま湾にはいったときは! 疵がなおせなかったら、まだどのくらいこの島にいなければならないか、わかったもんじゃねえ! 通報艦がやってきたら、サン・バルテレミイ岬に引き返さなくてはならねえだろうし……おれはもううんざりだ、サン・バルテレミイ岬なんて!」
「その通りだぜ」コングレは獰猛《どうもう》な顔を曇らせて答えた。そんなことになったら、状況はまるでちがって、ひどいものになってしまうさ!……燈台に燈台守たちのいないことがわかったら、〈サンタ・フェ〉の艦長はいろいろ手段を講じてくる……懸命になっておれたちを捜し……島の全土をしらみつぶしに歩き回るぜ。そうすりゃおれたちの隠れ家だってあぶねえもんだ……それに、おれたちの手を逃れたあの三人目の燈台守と艦長が出会うかもしれねえし」
「そいつは心配ありませんや、コングレ。やつが生きている痕跡などこれまで見つかっていねえし、だいいち、全然食べ物もなくてどうやって二か月近く生きていられるんですかい! もうじき二か月になるんですぜ――エルゴール湾に停泊しにやってきてから。あのとんでもねえ燈台守が、相変わらず生魚や木の根でも食って生きのびていねえかぎり……」
「まあとにかく、おれたちは通報艦がもどってこないうちに出発してるさ」コングレは言った。
「この方が確実な話だ」
「燈台の日誌によれば、一週間ぐらい後でなければ通報艦はやってこないはずですぜ」カルカンテは伝えた。
「一週間もすれば」コングレはつけ加えた。「おれたちはもう遠くホーン岬を離れて、ソロモン諸島かニューヘブリジーズ諸島へ向かっているさ」
「まったくだ、コングレ。海を見に、最後に燈台の回廊にのぼってきますぜ。もしどこかの船が見えたら……」
「かまうものか!」コングレは肩をすくめて言った。「大西洋と太平洋はみんなのものさ。〈カルカンテ〉には規定にかなった書類があるんだ。その点、必要なものは整っている、おれを信用してくれていいぜ。たとえ海峡の入口で〈サンタ・フェ〉に出会ったって、答礼してやるだけさ。礼儀は人のためならず、というわけだ!」
すでにおわかりのように、コングレは自分の計画の成功を疑っていなかった。それに、すべてが計画を順調に運んでくれるように思えた。
船長が入江の方におりていくあいだ、カルカンテは階段をのぼった。回廊につくと、一時間ほどそこで海を見守った。
空は今や完全に晴れあがり、水平線は十二マイルほども後退して、くっきりとした線を描いていた。海はまだざわめき立っていたが、もはや波が白く砕け散ることはなかった。大波も依然としてかなりの力を保っていたが、スクーナー船の航行に差し支えるほどのことはなかろう。しかも、海峡に出ればすぐに海は穏やかになるだろうし、陸地に守られ追風を受けて、まるで川を航行するようなものだ。
だが一時間後、実はカルカンテに不安の種が生じ、彼はコングレに相談したものかどうかと考えあぐねていた。
まだ遠く離れた海上ではあるが、すこし前から北北東にひと筋の煙が見えだしたのだ。すなわち、この船は、エスタードス島かフェゴ島沿岸をめざしてくだっている蒸気船だということになる。
やましい心というものは物事をすぐ悪いほうにとるものだ。この煙も、カルカンテの気持ちを動転させるのに充分だった。
「通報艦ではないだろうか?……」彼は考えた。
だって、まだ二月二十五日になったばかりだし、〈サンタ・フェ〉は三月初旬じゃなければやってこないはずではないか!……出発を早めたのだろうか?……もし通報艦なら、二時間後にあの船はサン・ジュアン岬の沖合までくる……そうしたら万事休すだ……やっと自由の身になれるという時に、これを断念しなければならないのか? サン・バルテレミイ岬の忌まわしい生活にもどらなければならないのか?
カルカンテは眼下に、まるで彼を軽蔑《けいべつ》するかのように、スクーナー船が優美に揺れている姿を眺めた。船上の準備はすべて完了していた。錨をあげさえすれば出航できるのだ……ところが、逆風でもあるし、潮が満ちはじめているのでこれに逆らって進むことができないのだ。
だから、あの蒸気船がやってくるまでに沖に出るなど不可能だった。あの船が通報艦だとすると……。
カルカンテは自分の喉をしめつける呪いの言葉を口にした。だが、事実を確かめてからでなければ、最後の支度に大童《おおわらわ》のコングレを煩わす気になれなかった。彼はそのまま燈台の回廊にひとり残って見張りをつづけた。
船は潮の流れを風に乗ってスピードをあげ近づいてきた。船長はさかんに火を焚いて蒸気機関を活動させているらしい。というのも大きく張られた帆の背後にあってカルカンテにはまだ見えない煙突から、もくもくと煙が吐きだされていたからである。だからこの船は右舷にかなりの傾斜をみせていた。この速度で進みつづければ、まもなくサン・ジュアン岬の海上に達するだろう。
カルカンテは望遠鏡を離さなかった。蒸気船との距離が縮むにつれて彼の不安は増した。この距離はやがて二、三マイルとなり、船体も一部はっきりと見えるようになった。
カルカンテの懸念が最高潮に達したとき、突然それは解消した。
蒸気船が航路を転じたのだ。船は海峡に出ようとしていた。今やカルカンテの視野に船の全貌が映った。
それは十二トンから十五トンほどの蒸気船だった。この点をとってみても〈サンタ・フェ〉であろうはずもなかった。
カルカンテは、コングレとその仲間同様、通報艦をよく知っていた。エルゴール湾に船が長らく寄港していた間、何度も見ていたからである。通報艦はスクーナー船と同じ装備が施されていたが、近づいてきた蒸気船は三本マスト船の装備だった。
カルカンテは、ほっと安堵《あんど》の胸を撫でおろした。そして仲間一味の平穏をむやみに乱さなかったことを喜んだ。彼はなおも一時間ほど回廊にいて、島の北を進む蒸気船を眺めた。だが船は島から三、四マイル離れたところを走っていたので、信号を送ってこなかった。もっとも信号を送ってきたところで、返礼を返すわけもなかろう。
少なくとも時速十二ノットで走っていたこの蒸気船は、四十分後、コルネット岬の沖合に姿を消した。
カルカンテは水平線まで一隻の船も見えないことを確かめたうえ、燈台をおりた。
潮の方向が変わる時間が近づいていた。いよいよスクーナー船の出航時間だ。準備は終わり、帆も掲げられようとしていた。ひとたび下隅索がぴんと張られると、帆は、東南東に向きを変え直した風を真横から受けた。〈カルカンテ〉は帆にいっぱい風をはらんで大洋へと走りだすだろう。
六時、コングレと一味の大部分が船に乗りこんだ。燈台の下に待っていた手下の者たちは小型ボートで運ばれ、それからボート自体もボート釣りに引き掲げられた。
潮はゆっくりと引きはじめた。すでに、スクーナー船が修理中引き揚げられていた砂浜はその姿を現していた。入江のもう一方でも、岩はその光った先端を見せていた。風は断崖の切れ目から吹き込み、弱い磯波《いそなみ》が浜に砕けては消えていた。
出発の時がきた。コングレはキャプスタンを巻くよう命令をくだした。鎖がぴんと張り、錨鎖孔はきしんだ。鎖が垂直になると、錨は揚錨架に引きあげられ、長時間に及ぶ航海に耐えられるようにきちんと舷側に結びつけられた。
穂は風の方向に向けられた。するとスクーナー船は、前檣帆、大檣帆、中檣帆、第三接檣帆、三角帆の力を集めて、大洋めがけて船脚を早めだした。
風は東南東から吹いてくるので、〈カルカンテ〉はたやすくサン・ジュアン岬を回れるだろう。それに絶壁の連なったこの沿岸すれすれに航海してもなんの危険もなかった。
コングレにはそれがわかっていた。湾についてはくわしいのである。だから舵柄の前に立って、できるだけスピードをあげようと、彼は大胆にもスクーナー船を四分の一ほど傾けたまま走った。
だが〈カルカンテ〉の船脚は、実際のところかなり不規則だった。風が弱まると速度が落ち、かなり強い突風が吹きよせるとまた速度を早めた。それでも船は干潮を上回る速力で進み、背後にかなり平らな航跡を残していた。この状態は、航海の好調さを物語っており、これで今後の旅も安心できようというものだった。
六時半、コングレは岬の先端まであと一マイルという海上に達していた。彼は海が水平線まで広がっているのを目にした。太陽は反対の方角に没しようとしていた。薄闇を濃くしている天頂では、まもなく星が輝きだすだろう。
この時、カルカンテがコングレに近づいた。
「とうとう、おれたちもじきに湾を出られますぜ!」彼は満足気に言った。
「二十分後だ」コングレは答えた。「そしたら帆脚索を弛め、舵を右にとってサン・ジュアン岬を回ることにする……」
「海峡にはいったら間切って走らなければならねえんですかい?」
「そうは思わねえ」コングレはきっぱりと言った。「サン・ジュアン岬を回ったらすぐ、下隅索を変えるからな。でもホーン岬までは下隅索を変えないで左舷開きのまま帆走できると思うぜ。夏の季節もそろそろ終わりだ。きっとこの東風はこのまま吹きつづいてくれるだろうぜ。とにかく海峡にはいったら、必要なことはみんなでやるんだ。間切って進まなければならんほど逆風になるなんて、いまは考える必要はないからな」
コングレが望んでいるように、もし下隅索を変えないで進ませられれば、かなり時間を稼げることになろう。必要とあらば、横帆を下ろして、大小の三角帆、つまり後斜桁帆、前檣支索三角帆、船首の三角帆だけを使えばいい。こうすればスクーナー船は風をまともに受けても大丈夫だろう。
このとき、揚錨架のそばにいたひとりの乗組員が叫んだ。
「前方注意!……」
「どうしたんだ?」コングレが尋ねた。
カルカンテは乗組員のもとへ走り、舷側から身を乗りだした。
「船首を風下に向けて……ゆっくりと風下に!」彼はコングレに叫んだ。
スクーナー船はこのとき、一味が長らく住んでいたあの洞窟の向かいにいた。
湾のこの辺《あた》りに、干潮のため海に押しもどされた、〈センチュリー〉の竜骨の一部が流れだしていたのである。こんなものにぶつかれば、どんなひどい結果が生じるかわかったものではない。いまはとにかくこの漂流物を避けることだ。
コングレはそこで少し舵を左にとった。スクーナー船は四分の一ほど進路を風下に向け、この竜骨を危うくかわした。竜骨は船の吃水下の部分をかすめただけだった。
この騒ぎの結果、〈カルカンテ〉は少し北岸に近寄ることになった。すぐに航路はまた修正されはしたが。あと二十トワーズで断崖の角を越え、コングレは舵を放したままで、北に進路をとれるのだ。
まさにその瞬間、鋭い唸《うな》りが大気を引き裂き、衝撃がスクーナー船の船体を震わせた。そのあとすぐに激しい爆音が起こった。
同時に、ひと筋の白い煙が海岸から立ちのぼり、風によって湾の方へ押し流された。
「いったい何だ?」コングレが叫んだ。
「船に弾をぶちこみやがった」カルカンテは答えた。
「舵をとっていろ!」コングレは命じた。
左舷に突進すると、彼は舷側から身を乗りだし、吃水線より半フィートほど上の船体に穴が開いているのを見つけた。
乗組員すべてがすぐに、スクーナー船の船首部分に駆けつけた。
海岸のあんな場所から攻撃をしかけるとは!……〈カルカンテ〉がまさに湾を出ようというときに、一発の砲弾を船腹にくらったのだ。もう少し下に当たっていたら、否応なしに沈没していただろう!……一味のものがこのような襲撃に肝をつぶしたと同時に、当然意表をつかれたことはお認めいただけるだろう。
コングレとその仲間たちは、どんな行動にでることができただろうか?……ボートの繋止索を解いて、これに乗りこみ、硝煙の立ちのぼった海岸へと突進し、砲弾を打ちこんだやつらをひっ捕らえ、みな殺しにするか? それともとにかく、そいつらをあの場所から立ち退かせるか?……しかし、襲撃者が数の上で一味のものより上回っているかもしれないではないか? 最良の策は、とりあえず損傷の大きさを調べるためにここを離れることではないか?……
このときまた二発目の砲弾の火の手があがったため、どうしてもひとまずここを離れるという決断を下さざるえなくなった。海岸の同じ場所で硝煙はまるく輪を描いた。スクーナー船は新たな衝撃を受けた。二発目の弾が最初のときより少し後の船腹に命中したのだ。
「風上に舵をとれ!……帆桁を前方直角に向けろ!……旋回用意!……」コングレはわめき立て、船尾で彼の命令を果たそうと飛び回っているカルカンテのところに走っていった。
スクーナー船は舵の力によってすぐ、船首を風上に向け、右舷に身を傾けた。五分以内で、船は沿岸から離れはじめ、やがて船体に狙いをつけたあの大砲の射程距離を脱した。
しかし、その後砲声はぴたりと止《や》んだ。岬の先端までつづく浜辺には、人っ子ひとりいなかった。ふたたび襲撃される気配は感じられなかった。
いちばんの急を要するのは、船体の状態を調べることだ。内部からの点検は、船荷を動かさなくてはならぬからできない。だが疑いようもなく、二発の砲弾が外皮板をつき抜け、船倉に達しているのだ。
そこでボートが卸された。その間、〈カルカンテ〉は停止し、引き潮の力だけに身をまかせていた。
コングレと船大工がボートに乗り込み、破損箇所がこの場で直るものか確かめようと船体を検査した。
二人は、四センチ口径の砲弾が二発スクーナー船に命中し、外皮板を貫いている事実を認めた。幸いにして吃水部ではなかった。二つの穴が最初の被覆板の個所と、ちょうど吃水線のところにひらいていた。もう二、三センチ低かったら水漏れが生じ、乗組員はたぶんこれを塞ぐひまもなかったろう。きっと船倉はみずびたしとなり、〈カルカンテ〉は湾の入口で海中に没したにちがいない。
そんな状態が起こってもたしかに、コングレとその一味のものはボートで海岸に逃れ去ることができただろう。だがスクーナー船は完全に消滅してしまったかもしれないのだ。
点検の結果、損傷は決定的なものとは思えなかった。けれどもこれ以上〈カルカンテ〉を沖合に向けるのはたしかに無理だった。左舷にほんの少し傾いても、浸水する。だから航海をつづける前に、砲弾があけた二つの穴をどうしても塞いでおかなければならない。
「それにしても、どんな野郎がこんなものを撃ちこんだんだ?」カルカンテは言いつづけた。
「たぶん、おれたちの手を逃れたあの燈台守ですぜ!……」バルガスは答えた。「それにおそらく、その燈台守が救った。〈センチュリー〉の生き残りも数人いるかもしれねえ。というのも、砲弾を撃ちこむには大砲がいりますぜ。まさか大砲が月から落ちてくるはずもないし」
「その通りだ」カルカンテはうなずいた。「三本マスト船から運んだ物に間違いねえ。漂着物のあいだを捜したとき見つけられなかったのは失敗だったな」
「そんなことはどうでもいい」コングレが急に話をさえぎった。「できるだけ早く修理することだ!」
実際、スクーナー船の攻撃状況などについてとやかく言っている場合ではなかった。必要な修理を行なうことこそ肝要なのだ。場合によっては湾の正反対にある海岸近くの、ディエーゴス小岬に船を導いてもいい。それには一時間あれば充分だろう。けれどもそこは、沖からの風をまともに船が受けることになる。セベラル小岬までは、沿岸には全然避難場所がない。天候が荒れだすとすぐ、船は暗礁にぶつかり砕け散るだろう。コングレはそこで、今晩のうちにエルゴール湾の奥に帰ろうと決意した。そこにもどれば仕事は全く安全に、しかもできるだけ早く行えるにちがいない。
しかしながら、いまは潮が引いていた。スクーナー船がこの干潮にさからって進むことは無理だった。とすると上げ潮を待つしかない。だが潮は三時間たたなければ満ちてこないのだ。
ところで、〈カルカンテ〉は大波の影響を受けてかなり激しく揺れ始めた。これでは流れに乗ってセベラル小岬まで運ばれ、浸水する危険がある。すでに、これまでより強い横揺れがあるたびに、船体の穴から浸水する水の音が聞こえた。コングレは諦めて、ディエーゴス小岬から数百メートルのところに錨をおろした。
事態は結局、かなり深刻だった。夜が訪れた。まもなく闇は深さを増すだろう。海岸への接近を困難にしている数多くの暗礁に乗りあげないためには、どうしてもこの辺の沿岸に詳しいコングレに頼らなければならない。
ついに十時頃、潮が上げだした。錨が船に引きあげられ、〈カルカンテ〉は十二時前、いくつかの危険もなくはなかったが、エルゴール湾の入江の、もとの停泊地にもどった。
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一三 三日間
コングレ、カルカンテ、そのほか一味のものたちの激昂ぶりがどれほどのものであったかは、容易に想像できよう。決定的に島を離れようという、まさにその瞬間に、最後の邪魔が入っていく手をさえぎられたのだから!……四、五日後、あるいはそれ以前に、通砲艦がエルゴール湾の入口に姿を見せるかもしれないというのに!……たしかに、スクーナー船の疵がもっと軽くてすんでいたら、コングレはためらいなく他の場所に停泊していただろう。たとえば、サン・ジュアン港に避難してもよかった。そこは岬のちょうど裏側にあって、島の北岸に深くえぐられていたから。しかし、船がいまの状態では、そんな航海を企てるのは狂気の沙汰だった。岬まで行きつくまでに沈没してしまっているだろう。途中、追い風を受けて走らざるをえないから、スクーナー船は左右に揺れてじきに浸水するにきまっていた。少なくとも、船荷が完全に消滅するのは避けられるはずがなかった。
こうして、一味は燈台のある入江に帰還せざるをえなかった。コングレは考えに考えたすえ、この選択に甘んじたのである。
その夜、船上では男たちはほとんど眠らずに当直につき、たえず周囲に監視の眼を配ることになった。あらたな攻撃が仕掛けられないと決まったものではない……コングレ一味を上回る数の軍勢が、島のどこかに最近上陸したかもしれないではないか?……彼ら海賊一味の存在がすでにブエノス・アイレスに知られてしまっているのではないか?……そしてアルゼンチン政府が一味を倒しにきたのではないか?
船尾に腰をおろして、コングレとカルカンテはそうした懸念を話題にしていた。いや、むしろカルカンテだけが話していた。コングレの方は自分の考えに没頭し、短い受け答えしかしなかったからである。
カルカンテはまずつぎのような仮定を披露した。つまり、コングレとその一味を追跡するために派遣された兵隊がエスタードス島に上陸したというのである。しかしながら、いくらこの上陸にみんなが気づかなかったとしても、正規軍ならあんな振舞いにでることはなかったろう。軍隊なら正々堂々と一味の陣地に攻撃をしかけてきただろうし、あるいはそのひまがないとしても湾の入口に数隻の小舟を配し、スクーナー船を取り押さえ、力ずくで舷側に近づくか、船の航海を続行不可能にするかして、その晩のうちに一味の者たちを一網打尽にしてしまったろう。いずれにせよ、軍隊であったら、あの未知の襲撃者がしたように、ただ一度ちょっとした攻撃をしかけただけで雲隠れするようなことはあるまい。あの用心深さは襲撃者の無力さを示すものだ。
カルカンテはそこではじめの仮設を捨て去り、バルガスが述べた推測にもどった。
「そうにちがいねえ……砲弾《たま》を打ってきやがったやつらは、ただスクーナー船を島から出さねえことだけを目的としてやがったんだ。やつらが数人いるとしたら、そいつは〈センチュリー〉の生き残りですぜ……そして例の燈台守に出会って、もうじき通報艦がやってくるのを聞き出したものにちがいねえ……あの大砲も、やつらが漂着物の中から見つけたんだ!」
「通報艦なんてまだきやしねえ」コングレは怒りに声を震わせて言った。「そいつがもどってくるまでに、スクーナー船は島を遠く離れているぜ」
実際、燈台守が〈センチュリー〉の漂流者に出会ったと仮定しても、その漂流者が最大限二、三人以上いたとはとうてい考えられない。あれほどの激しい嵐をかいくぐって、どうしてそれ以上の生存者がでるはずがあろう? こんな一握りの男達が、大勢の、しかも武装した盗賊一味に対して何ができるというのか? スクーナー船の修理が終われば、また出航し、今度は湾のまん中を進んで沖合に出てやる。最初に犯した失敗を二度とくりかえしたりするものか。
あとはただ時間の問題が残るだけだった。新しい損傷の修理には何日ぐらいかかるのか?
その夜は何らあやしい影はなかった。翌日、みんなは仕事にとりかかった。
まず最初の仕事は、船倉の左舷におかれた船荷をうつすことだった。甲板にこれら大量の品物を運びあげるには、やはり半日かかった。だが、荷を陸揚げしたり、スクーナー船を砂洲に引きあげる必要はないと思われた。砲弾の穴は吃水線の上にあったから、ボートを船側に横着けすれば、それほど苦労しないでも穴をうまく塞げるだろう。かんじんなのは、肋材が砲弾によって被害を蒙っていないかどうかという点だった。
コングレと船大工はそこで船倉におりていった。その検査結果は以下の通りである。
二発の砲弾は外皮板に達しているだけだった。それはこの外皮板のほとんど同じ高さの個所をぶち抜いているのである。船荷をどかしてみると、これらの砲弾は発見された。肋材にもわずかに掠《かす》めてはいたが、肋材は丈夫にできていてなんの疵もついていなかった。二つの穴は、たがいに二、三フィートしか離れておらず、両者ともまるで鋸《のこぎり》で切り落としたように、吃水線上の舷側に口をあけていた。これらの穴には、肋材と肋材のあいだに木片を何枚も組みこみ、きっちりと詰めものをして塞いでから、さらにそのうえに一枚の被服板を張るようにすればいい。
結局のところ、これはたいした損傷ではなかった。じょうぶな船体はこの破損によって何ら決定的な打撃を受けたことにはならないし、すぐにも修理が可能だからだ。
「いつになる?」コングレは尋ねた。
「これから穴を塞ぐ内側の防材を準備して、今晩にも張ることにしますぜ」バルガスは答えた。
「詰めものは?」
「詰めものは明日の午前中にこしらえて、明晩には穴を塞ぎまさあ」
「ではその夜のうちに船荷を船倉に積み直して、明後日の朝には出航できるな?」
「大丈夫ですとも」船大工は断言した。
するとこの修理工事には六十時間あれば充分ということになる。〈カルカンテ〉の出発は要するに二日遅れるだけですむのだ。
このときカルカンテはコングレに、明日の午前か午後、サン・ジュアン岬に行ってみる気はないか尋ねた。
「そこで何が起こったのかちょっと調べてみては」彼は言った。
「何になるんだ」コングレは答えた。「どんなやつが相手かわかったもんじゃねえ。そうなると隊を組んで、十人か十二人くらいで行かなくてはならねえぞ。つまり、スクーナー船の見張りに二、三人しか残らねえっていうことだ。おれたちの留守に何かあったらどうするんだ?……」
「ちがいねえ」カルカンテはうなずいた。「それに、岬へ行ったって別に収穫があるわけじゃなし。おれたちに発砲したやつらなど、他の場所に首を吊りに行くがいいや! 大事なのは、島を離れることですぜ、一刻も早く」
「明後日の朝は、海へ乗りだすぜ」コングレはきっぱりと言った。
通報艦は数日後でなければやってこないはずだから、一味の出航前にあの襲撃者たちから通報を受ける気遣いはまったくなかった。
それに、もしコングレとその仲間がサン・ジュアン岬に足を向けたとしても、バスケスとジョーン・デイビスのいた痕跡を見つけることはできなかったろう。
事の次第はこうである。
昨日の午後、デイビスが言いだした提案のおかげで、二人はともに夜まで忙しくたち働いた。大砲を据えることに決まった場所は断崖のちょうど角だった。曲がり角を塞いでいる岩のあいだに、デイビスとバスケスは簡単に砲架を据えつけることができた。これはとにかく容易な仕事だった。しかし、そこまで大砲を引きずり上げるのに、彼らはひどい苦労をした。浜辺の砂の上を引っぱり、さらに引きずることもできない、岩のゴツゴツ突きでた場所を横切らなければならなかった。そこで梃子《てこ》を使って大砲を引きあげたりしたので、どうしても時間がかかり、疲労の度合いも強かった。
湾の入口に照準が合うように大砲を砲架に据えたときは、六時近くになっていた。
デイビスはそれから装填にとりかかり、強力な弾薬筒をさしこんだ。この弾薬筒にはさらに乾いた海草が詰めこまれ、その上に砲弾が置かれた。つぎに大砲の砲口に雷管が取りつけられた。あとはお望みのときに火をつけさえすればいいのだ。
このときデイビスはバスケスに言った。
「どうすればいいか、いろいろ考えてみたのだが、必要不可欠なのはスクーナー船を沈没させることではない。あのならず者達はみな岸にたどりつくだろうし、われわれもたぶん、やつらの手を逃れられない。大事なのは、スクーナー船がまた停泊地にもどり、そこでしばらく疵の修理をする羽目に陥ることだ」
「確かにそうだ」バスケスは認めた。「しかし、砲弾の穴は明日の朝にも塞がれてしまうかもしれないよ」
「いや、ちがう」デイビスは答えた。「船荷を移さなくてはならないからね。修理に少なくとも二日はかかると、おれは踏んでいる。今日はもう二月二十八日だから……」
「でも、通報艦が一週間たたねばやってこないとしたら?」バスケスは反論した。「船体よりもマストを狙った方がよくはないかな?」
「もちろんだよ、バスケス。前檣かメーン・マストをやっつけたら――これを取りかえることなど、たぶんできない相談だからね――スクーナー船は長いこと湾に釘づけにされるだろう。でも、マストに砲弾を命中させるのは、船体に当てるよりもむずかしいんだ。砲弾は確実に当たらなければならない」
「そうだな」バスケスは答えた。「あのならず者の連中はたぶん、夕方の潮に乗って湾を出ることになるだろうから、もう周囲は薄暗くなっているにちがいない、だからなおのこと船体を狙った方がいいわけだ。最善を期してやってくれよ、デイビス」
準備はすべて整い、バスケスとデイビスはただ待つだけとなった。スクーナー船が舷側を見せてやってきたらすぐ発射できるように、彼らは大砲のそばに身がまえた。
この大砲がどんな結果をもたらしたか、そして〈カルカンテ〉がどんな状態で停泊地に辿りついたかは、すでに述べたところである。デイビスとバスケスは湾の奥に船がもどるのを見とどけるまでその場を離れなかった。
今や、二人は慎重に、島のほかの場所に隠れ家を見つけなければならなかった。
実際、バスケスの言うように、翌日はコングレとその手下の何人かが、サン・ジュアン岬にやってくるかもしれない。二人のあとを何処までも追跡しようとするかもしれない……。
彼らはすぐ今後の方針を決めた。洞穴を離れ、そこから一、二マイルのところに新しい避難所を見つけるのだ。この避難所は、北からやってくる船をすべて目撃できるような場所でなくてはならぬ。〈サンタ・フェ〉が姿を現わしたら、サン・ジュアン岬にもどってから船に合図を送ってやればいい。ラファイエット艦長はボートを出して、彼ら二人を船に連れもどしてくれるだろう。そして彼らの置かれている状況を知るだろう――そうすれば、スクーナー船が入江にいるところを拿捕《だほ》されるにせよ、海賊一味が海上に逃れ去るにせよ(不幸にして、そういう事態が生じるかもしれない)、とにかくこの状況は終わりを見るのだ。
「神よ、願わくば一味の者が逃れ去ることなどありませんように!」デイビスとバスケスはくりかえし祈った。
夜の最中《さなか》、彼ら二人は、食糧、武器、火薬の残りを持って出発した。彼らはサン・ジュアン港をめぐり、約六マイルものあいだ海岸線にそって歩いた。いくつか隠れ家を探しあぐねたあと、彼らはついに、この湾の反対側に、通報艦がかえってくるまで隠れていられるような空洞を見つけた。
だが、もしスクーナー船が出航するようなことがあれば、また前の洞穴にもどってもいい。
次の日は一日じゅう、バスケスとデイビスは見張りについていた。潮が満ちているあいだは、スクーナー船が出航できないのがわかっていたから、二人は心配しなかった。けれども、干潮がはじまると、修理作業が昨夜のうちに終了しているのではないかという不安が起こってきた。コングレはきっと、出発が可能になったら、たとえ一時間たりとも出航を遅らすことはあるまい。デイビスとバスケスが通報艦の到来を心から待ち望んでいるのと同様に、逆にコングレが〈サンタ・フェ〉の出現を恐れていないはずがないではないか?
二人は同時に、沿岸地帯にも警戒の目を走らせていた。しかし、コングレもその手下も誰ひとり姿を見せなかった。
実のところ、すでにご存知のように、コングレは無益とわかっているような追跡に、時間を費やす真似はしまいと心に決めていた。できるだけ短時間に修理作業を終えることこそ、いまはいちばん肝心なのだ。彼はそれを実行に移していた。船大工のバルガスが言っていたように、木片はその日の午後に肋材のあいだにはめこまれた。翌日は、彼の約束どおり、詰めものが用意され、仕事は完了するだろう。
バスケスとデイビスはだから、この三月一日は何の警戒もいらなかったわけだ。それにしても一日が彼らにとっては何と長く感じたことだろう!
その日の夕方、スクーナー船の動静をうかがって、船が停泊地を離れる様子がないのを見てとると、二人は空洞に身をひそめた。眠りは彼らにとってきわめて必要な休息を与えてくれた。
翌日、夜が明けるとすぐ、彼らは起きあがった。
二人の最初の視線は外海へ向けられた。
一隻の船も見あたらない。〈サンタ・フェ〉の姿は見えず、水平線にはひと筋の煙たりともなかった。
スクーナー船は朝の潮に乗って沖に出るだろうか? すこし前に干潮がはじまっていた。これを利用していれば、船は一時間後にはサン・ジュアン岬を回るだろう……。
前日と同じ攻撃をしかけようとは、デイビスは考えていなかった。どうせコングレは警戒して、砲弾の射程距離外を通るだろう。そうすれば射っても、砲弾はスクーナー船に届きはしない。
干潮の終わるまで、デイビスとバスケスがどれほど焦燥に駆られ、どれほど不安に苛《さいな》まれたか、おわかりいただけるだろう。ついに七時頃、潮は変わった。こうなれば、コングレも、次の夕方の潮まで出航できまい。
天気はよく、風も変わって、北東に定まった。海はもうあの嵐の名残りを留めてはいなかった。風も届かないほどの高みに浮かんだ薄い雲のあいだから、太陽が輝いていた。
バスケスとデイビスにとって、また無限につづく一日がはじまった。前日同様、二人は別に周囲に警戒の目を向けなかった。一味は入江に釘づけになっていた。海賊の一人が午前や午後、そこを離れることがあろうとは思えなかった。
「あのならず者たちは仕事にかかりきりになっているんだ」バスケスは言った。
「その通りだ、やつらは急いでいる」デイビスは答えた。「まもなくあの砲弾の穴も塞がれるだろう。そうなればやつらを引き止めるものは何もない」
「おそらく……今晩か……干潮のはじまりは遅いのだが」とバスケスはつけ加えた。「実際、やつらはこの湾を知っているからな! 光で照らしてもらう必要などないんだ。先夜もこの湾を走っているし……今度だって夜に湾をくだっても、スクーナー船は無事やつらを運んでいくだろう……マストを倒さなかったのは、実に残念だった!」彼は絶望的な思いで話を結んだ。
「仕方がないよ、バスケス」デイビスは答えた。「できるだけのことはやったんだ!……あとは神にお任せするしかない!」
「神の手伝いをしなければ」バスケスは口の中でつぶやいた。彼はとつぜん力強く決意を固めた様子だった。
デイビスは物思いにふけり、目を北に向けて、浜辺を行ったり来たりしていた。水平線にはなにひとつなかった……何ひとつ!
とつぜん、彼は立ちどまった。彼は仲間の近くにもどってくると、言った。
「バスケス……やつらがあそこで何をしているか見にいっては?」
「湾の奥でかい? デイビス」
「そうだ……そうすればスクーナー船の具合がどうなっているか……出発できる状態かどうかもわかるし……」
「それがわれわれの役に立つかな?」
「わからない、バスケス」デイビスは叫んだ。「ただ、じっとしていられないんだ。我慢がならないんだ……私の力ではどうすることもできない!」
まったく、この〈センチュリー〉の副船長はもはや自分を抑えられないのだった。
「バスケス」彼は言葉をついだ。「燈台まではどのくらいあるだろう?」
「せいぜい三マイルだ。丘の上を通って、まっすぐ湾の奥までいけば」
「それじゃ、わたしは行くことにする、バスケス……四時頃発つよ……そうすれば六時までにはつくだろう……できるだけやつらから離れて偵察してくる。まだ日は明るいけれど……やつらに見つかりはしない……おれの方で見てやるんだ!」
デイビスは思い止まらせようとしても無駄だったろう。それに、バスケスはべつにとめようとしなかった。だがデイビスが彼に、「あなたはここにいてくれ。海を見張っていてほしいんだ……夕方には帰ってくるから……ひとりで行ってくるよ……」といったとき、バスケスは彼なりに計画を秘めているように、こう答えた。
「きみと一緒に行くよ、デイビス。わたしも燈台のあたりをひと回りしてくることに不賛成なわけではないんだ」
話はまとまって、これを実行に移すことになった。
出発までの時間、バスケスは仲間を浜にひとり残して、隠れ家に使っていた空洞に閉じこもり、なにやら意味ありげな仕事に打ちこんでいた。〈センチュリー〉の副船長は、一度は、バスケスが岩の影で自分の大型ナイフを念入りに研《と》いでいるところに出くわし、もう一度は、彼がシャツを細長く帯状に引き裂き、それを目の粗い網のように編んでいる姿を見かけた。
問いかけられた質問に、バスケスはあいまいな態度で、夜になればはっきり説明するとだけしか答えなかった。デイビスはそれ以上固執しなかった。
四時に、堅パンとひと切れのコーンビーフを食べたあと、二人はピストルに身を固めて、出発した。
狭い峡谷をたどると、たやすく丘を登れ、彼らはあまり苦もなく峠に達した。
彼らの前には不毛な高原が大きく広がっていた。そこにはただヒロハヘノボラズの茂みがわずかに生えているだけだった。見わたすかぎりただ一本の木もない。騒々しく、耳をつんざくような声の海鳥が数羽、群れをなして南の方へと飛び去っていった。
エルゴール湾の奥までいくのにどの方向に進めばよいかは、はっきりわかっていた。
「あっちだ」バスケスは言った。
彼は手で、二マイル足らずの地点にそびえ立つ燈台を示した。
「歩こう!」デイビスは答えた。
二人とも足早に歩いた。いろいろ用心しなければならないのは、入江の近辺にいってからだ。
三十分ほど歩いてからやっと、彼らは息を切らして立ちどまった。しかし疲れは感じなかった。
もう三十分ほどの道程を歩まねばならぬ。コングレか手下のだれかが燈台の回廊で見張りについているとすれば、今度は用心してかかる必要がある。
空はとても明るかったので、回廊を完全に望むことができた。いまはそこに誰もいなかったが、おそらくカルカンテか他の誰かが当直室にいるだろう。東西南北に向けられた当直室の狭い窓からは、島の広大な地域を一望のもとに見わたせるのである。
デイビスとバスケスは、無秩序にあちこちに散らばっている岩のあいだに身をすべらせた。彼らは、からだを潜めたり、むきだしの場所を横切る場合は時に這ったりしながら、岩から岩へと進んでいった。この最後の行程では歩みがかなり遅れた。
六時近く、二人は入江を取りまく丘々に突き出ているいちばん先端の場所にたどりついた。彼らは眼下の光景を見おろした。
一味の者が誰か丘をよじ登ってこないかぎり、二人が見とがめられることはなかろう。燈台の上にいても、岩のあいだに忍び込んでいる彼らの姿は見えようはずがなかった。
スクーナー船は、マストと帆桁を整え、操帆装置もきちんと手入れをして、入江に浮かんでいた。乗組員は修理期間のあいだ甲板に置いておいたらしい船荷をまた船倉に運び込むのに大わらわだった。ボートが舫綱《もやいづな》に引かれて、船尾に漂っていた。左舷の船腹につながれていないところをみると、作業は完了し、砲弾の穴は塞がれたのだ。
「やつらは用意できている」デイビスは爆発するばかりの怒りを抑えながら、つぶやいた。
「潮が引く前に、これから二、三時間後に出航するかもしれないぞ」
「だが何もできないんだ……何も!」デイビスはくりかえしていた。
事実、船大工のバルガスは約束を守った。仕事は順調にすばやく片付いた。船にはもう傷痕は残っていない。船荷をもとの場所に納め、ハッチを閉じれば、〈カルカンテ〉は出航できるのだ。
けれども時間はそのまま経過した。太陽はひくく落ち、そして消えた。夜が訪れたが、スクーナー船がすぐに出航する気配はみじんも感じられなかった。身を潜めていたバスケスとデイビスは、湾から彼らのところまで登ってくる物音に耳を傾けた。笑い声、叫び声、罵り声、それに甲板を引きずられる荷物の軋《きし》む音などに。十時頃、彼らははっきりとハッチをしめる音を耳にした。そのあと沈黙がやってきた。
デイビスとバスケスは、胸を締めつけられる思いで、待った。きっと、仕事が終われば、出発の時なのだ……ちがう、スクーナー船は相変わらず入江の奥で漂っていた。錨はやはり海に沈んだままだし、帆も絞帆索で結んだままだ。
一時間がすぎた。〈センチュリー〉の副船長はバスケスの手を握った。
「潮が変わった。上げ潮だ」
「やつらは出発しないんだ」
「今日はね。でも明日は?……」
「明日も、その後もずっとさ」バスケスはきっぱりと言った。「きてくれ」
彼らは身を隠していた岩のくぼみを出た。
デイビスは好奇心に駆られて、バスケスのあとに従った。バスケスは用心深く燈台の方へと向かった。少しすると、彼らは燈台の土台の役を果たしている丘のふもとについた。そこまでくるとバスケスは、周囲をちょっと捜してから、ある岩を見つけ、これをさほど苦もなく転がしてどかした。
「この中にすべりこんでくれ」彼は岩の下を手で指し示しながらデイビスに言った。「燈台にいたころ偶然見つけた隠れ場所なんだ。いつかはここが役に立つことがあると思っていたんだよ。洞窟といえるほどのもんじゃない。やっと二人はいれるぐらいの、ただの穴にすぎんが。でも、誰だってこんなところに人が隠れていようとは思わないから、絶対気づかれることはないだろう」
デイビスは勧められるままに、洞穴《ほらあな》の中に身をすべらせ、そのあとからすぐにバスケスもはいってきた。身動きがならぬほどたがいにくっつきあい、彼らは面と向かいあって小声で話を交わした。
「わたしに計画がある」バスケスは言った。「きみはここに残っていてくれ」
「ここに残るだって?」デイビスはおおむがえしに答えた。
「そうだ。わたしはスクーナー船までいってくる」
「スクーナー船へ?」デイビスはまたびっくりして言った。
「あのならず者たちが出発できないようにしてやるんだ」バスケスはきっぱりと言い切った。
彼は上着から二つの包みと一本のナイフを取りだした。
「ひとつは例の火薬とシャツの布で作った弾薬筒だよ。もうひとつの方は、やはりシャツの布と火薬の残りで導火線をこしらえたんだ。これらをすべて頭の上にのせ、スクーナー船まで泳いでいく。舵に沿って這いあがり、このナイフで、舵と船尾材のあいだにある船尾突出部に穴をあける。この穴に弾薬筒を仕掛け、導火線に火をつけてからもどってくる。これがわたしの計画だ。誰がなんと言ったって、おれはやり遂げてみせるよ」
「そいつはすばらしい!」デイビスは熱中して叫んだ。「でもあんた一人をそんな危険にさらしておくわけにはいかない。おれもついていくよ」
「何になるんだ?」バスケスは答えた。「ひとりの方が事が運びやすいんだ。この計画はひとりで充分なんだよ」
デイビスがいくら主張しても、バスケスは自説を曲げなかった。この思いつきは彼が考えだしたものだし、どうしてもひとりで実行したいというのだ。この言い争いに困憊《こんぱい》して、デイビスはついに屈服せざるをえなかった。
夜も一段と更けたところ、バスケスは服を脱ぎすて、穴から這いだすと、丘の斜面をおりはじめた。浜辺につくと、彼は海にはいり、力強い腕でスクーナー船をめざして泳いだ。船は海岸から二百メートルほどのところに静かに揺れていた。
近づくに従って、船体の塊《かたまり》はより黒く、よりいかめしい感じになった。船上で動くものは何もなかった。だがやはり見張りはいたのだ。まもなく泳いできたバスケスにも、見張り番のシルエットがはっきり認められた。前甲板に腰をおろして、足を舷側に垂らして、ひとりの海賊仲間が船乗りの歌を静かに口笛で吹いていた。そのメロディーが夜の沈黙《しじま》の中にはっきりと流れていった。
バスケスはカーブを描いて船尾の方に近づき、船尾突出部の投げかけるより深い影のなかに身を隠した。舵が彼の頭上に大きな姿を見せていた。彼は手を広げてそのぬるぬるした表面につかみかかると、超人的な努力をしてやっとのことでその上によじ登り、鉄具にしがみついた。それからどうにか舵の下縁の先端に馬乗りになると、騎手が馬を足で締めつけるように、膝《ひざ》のあいだにその先端をはさんだ。これで手の自由がきくようになったので、彼は頭上に結わえ付けた袋をとり、これを歯でくわえ、中身を探った。バスケスはナイフを取りだし、すぐ仕事にとりかかった。舵の下縁と船尾材のあいだに掘られた穴は、だんだんと大きく、深くなった。一時間ほど掘りつづけると、ナイフの刃が反対側にとびだした。この充分大きく穿たれた穴に、バスケスは用意した弾薬筒をすべりこませ、それに導火線をつけてから袋の底にある火打ち金を探った。
この瞬間、疲労しきった膝が一瞬弛んだ。彼は足をすべらしそうになった。すべったら、この計画は取り返しのつかぬことになる。火打ち金が濡れたら、もはや火はつけられない。平衡を取りもどそうとうっかりからだを動かしたため、袋は揺れ、仕事が済んでまたしまいこんでおいた中身がすべり落ちた。音をたてて水がはねた。
見張り番の歌が急にやんだ。バスケスは船首楼をおり、甲板を歩いて、船尾後甲板にのぼる見張り番の足音を聞いた。それから見張り番の影が海面に浮かびあがるのが見えた。その水夫はきっと、異様な物音を聞きつけて、その原因が何か探ろうとしているにちがいない。長いこと水夫はその場を動かなかった。一方バスケスは、足をこわばらせ、ぬるぬるの木材に爪を立てていたが、しだいに力が衰えていくのを感じていた。
とうとう、周囲の静けさに安心して、水夫はその場を離れ、船首に引き返して、また歌を口ずさみだした。
バスケスは袋から火打ち金を取りだし、それで火打ち石をこつこつと叩いた。火花がほとばしりでた。導火線に火がつき、ぱちぱちと気味悪い音をたてはじめた。
すぐさまバスケスは舵に沿ってすべり落ち、また海中にはいると、静かに大きく水を掻いて、陸地めざして逃げだした。
洞穴にひとり身を隠していたデイビスにとって、時間は無限に思えた。三十分、四十五分、一時間が過ぎだ。デイビスは我慢しきれず、這うようにして穴から出ると、心配そうに海を眺めた。バスケスの身に何か起こったのではないか? 彼の計画は失敗したのではないか? だがいずれにせよ、何の物音もしないところをみると、見つかってはいないようだ。
突然鈍い爆発が夜の沈黙《しじま》をついて起こり、丘に反響した。爆発につづいてすぐ、耳を聾《ろう》するような足音と叫び声がいり乱れた。それから少したって、ひとりの男が、水びたしのからだを泥だらけにして走ってくると、デイビスを押しやり、穴の奥の、彼のかたわらに身をすべらせた。それからまた石の塊をずらして、入口を隠した。
ほどなく、集団をなした男達が叫びながら前を通った。騒々しく岩にぶつかる大きな靴音も彼らの声をかき消しはしなかった。
「しっかり追うんだ!」誰かが言った。「やつは袋のネズミだぞ」
「やつの姿をはっきり見たぜ」もう一人が言った。「ひとりだけだ」
「百メートルも離れてやしねえ」
「畜生! やっつけてやるぞ」
物音は弱まり、そして消えた。
「やったのかい?」デイビスは小声で尋ねた。
「ああ」バスケスは言った。
「成功した様子かい?」
「そう思うよ」バスケスが答えた。
明け方、槌《つち》を打つ騒音が二人の強い不安を消してくれた。スクーナー船でああして仕事をしているところをみると、船は疵ついたのだ。バスケスの試みは成功したのだ。しかし、その損傷の大きさがどれほどのものかは二人とも知りえなかった。
「やつらを一ヶ月ほどこの湾に引きとめておけるぐらいの疵だといいのだが!」デイビスは、そんなことになったら、仲間も自分もこの隠れ家の奥で餓死するかもしれないことを忘れて、そう叫んだ。
「しっ!」バスケスは、彼の手をつかんでささやいた。
新しい一団が、今度は口を閉ざしたまま近づいてきたのだ。おそらく、収穫のないままに追跡からもどってきた連中だろう。とにかく、これらの男達はひと言もしゃべらなかった。
ただ地面を打つ踵《かかと》の音で、それとわかったのである。
午前中いっぱい、こうしてバスケスとデイビスは周囲をうろつきまわる足音を耳にした。一味の連中はいまだつかまらない侵略者を追い求めて、右往左往していた。だが、時を経るに従って、この追跡は緩慢になるようだった。もうだいぶ前から、穴の周囲の静寂を乱すものは何もなかった。だが昼ころ、三、四人の男達が、デイビスとバスケスのうずくまっている穴のすぐそばに立ちどまった。
「どうしても、見つからねえな!」ひとりが、穴の入口を塞いでいる岩の上に腰かけて言った。
「あきらめた方がよさそうだぜ」もうひとりが言った。「ほかの仲間はもう船に帰っているし」
「おれたちもみんなと同じように帰るとするか。どうせ、あの|ろくでなし《ヽヽヽヽヽ》の狙いもはずれたことだしな」
穴にひそんでいたバスケスとデイビスは、どきっとして、もっと注意を傾けようと耳をそばだてた。
「その通りだ」四人目の男もうなずいた。「やつは舵を吹きとばすつもりだったろうにな」
「船の心臓部だからな!」
「結局、やつの狙いは何の役にも立たなかったんだぜ」
「やつの弾薬筒がせいぜいちょっとした爆発だけを起こしただけで、燃えつきたのは幸運だったな。損害は船尾突出部に穴が開いたのと鉄具がもぎとられただけだぜ。舵の心棒だって、その材木がちょっと焦げついたくらいのものだからな」
「今日中にみな修理がつくな」最初に話した男が言葉をついだ。「そして、今晩、上げ潮がくる前に、錨を巻きあげろ、野郎ども! というわけだ。そのあとは、おれたちの船を攻撃したやつなど、勝手に餓死でもするがいいや!」
「さあ、ロペス! 充分休んだろう!」荒々しい声が急に話を中断させた。「そんなにしゃべりたくって何になるんだ。帰ろうじゃねえか。」
「帰るとしよう!」
隠れ穴にうずくまって、バスケスとデイビスはいま耳にしたばかりの話に意気消沈し、たがいに黙って見つめ合っていた。バスケスの目には大粒の涙があふれ、睫毛《まつげ》をぬらして落ちた。荒々しい海の男も、自分の空しい絶望感を証明するこの涙を隠そうとはしなかった。あんなにもヒロイックな行動が、なんと取るに足らぬ結果に終わってしまったのだろう。海賊一味の受けた損害は、結局あと十二時間の出航延期となったにすぎないのだ。破損個所が直ったら、今晩にも、スクーナー船は広い海の彼方に遠ざかり、水平線に姿をかき消してしまうのだ!
海岸から聞こえてくる槌《つち》の響きは、コングレが〈カルカンテ〉を元通り修復しようとやっきになって仕事をさせていることを証明していた。五時十五分頃、バスケスとデイビスの大きな落胆をよそに、この物音が急にやんだ。二人は最後の槌が打たれて、仕事が終わったことを理解した。数分後、錨鎖孔を引っかくように鎖が軋り、二人の予想が正しいことを裏書きした。コングレは錨鎖を垂直にしたのだ。出航のときが近づいている。
バスケスは耐えられなかった。岩をどかすと、彼は慎重に外に視線を走らせた。
太陽は西に傾き、西方の視界をさえぎっている山の頂に達していた。秋分に近い今日この頃では、太陽が沈むまでもう一時間とかからないだろう。
反対側には、スクーナー船が入江の奥に相変わらず停泊していた。昨夜の破損個所は、跡もかたちもなくなっていた。船上では用意万端整っているように見えた。バスケスの予想どおり、錨鎖は垂直になっていて、あとは、お望みのときに錨を引き揚げればいい状態になっていることを示していた。
バスケスは注意を払わなければならないのも忘れて、穴から半ば身を乗りだしていた。デイビスも、彼の背後から肩を押しつけてきた。二人とも、息も荒々しく、視線をこらしていた。
海賊は大部分すでに乗船していた。だが、数人はまだ地上にいた。バスケスは彼らのあいだに、明らかにコングレの姿を認めた。コングレは燈台の構内をカルカンテと行ったり来たりしていた。
五分後、彼らは別れ、カルカンテは建物の入口に向かった。
「気をつけろ」バスケスは小声で言った。「やつはきっと燈台にのぼるぞ」
二人とも隠れ家の奥に身をすべりこませた。
やはりカルカンテは、最後に燈台にのぼっておこうというのだ。スクーナー船はもうすぐ出発する。彼はその前にもう一度水平線を見張り、どこかの船でも島の前面に現れやしないか見てこようとしているのだ。
それに、夜は穏やかになりそうだった。風は日暮れとともに和らいでいたし、明日の朝の晴天を約束していた。
カルカンテが回廊につくと、デイビスとバスケスには彼の姿がはっきりと目にはいった。彼は回廊をめぐりながら、水平線のあらゆる方向に望遠鏡を向けていた。
突然、真に迫った叫び声がカルカンテの口をついてでた。コングレと他の連中は彼の方へ頭を上げた。みんなに聞こえる声で、カルカンテは叫んでいた。
「通報艦だ……通報艦だ!」
[#改ページ]
一四 通報艦〈サンタ・フェ〉
そのとき湾の奥でわき起こった動揺をどう描いたらよいだろう?……≪通報艦だ……通報艦だ!≫というあの叫びは、落雷のように、死刑宣告のように、卑劣漢たちの頭上にふりかかった。〈サンタ・フェ〉は、島を訪れた正義の裁き、かずかずの罪に対する、もはや免れるべくもない懲罰だった!
それにしても、カルカンテは見誤ったのではなかろうか? 近づいてきたその船は本当にアルゼンチン海軍の通報艦なのだろうか? それはただ単に、ルメール海峡に向かう船か、それともセベラル小岬に向かって島の南を通る船ではないのか?
カルカンテの叫びを聞きつけるとすぐ、コングレは台地の上まで駆けのぼり、燈台の階段に急ぐと、五分以内に回廊についた。
「どこだ、その船は?」彼は尋ねた。
「あそこ……北北東に」
「どのくらい離れてる?」
「約十マイル」
「それでは夜までに湾の入口にはこれないな?」
「ああ」
コングレは望遠鏡を奪いとった。彼はきわめて注意深くその船を眺めていたが、ひと言も口をきかなかった。
そいつが蒸気船であるのは確かだった。厚い煙がもくもく立ちのぼっているので、さかんに火を焚いて蒸気機関を活動させているのがわかった。
この蒸気船が通報艦にちがいないことは、コングレもカルカンテも疑いようがなかった。燈台の工事中、このアルゼンチンの船がエスタードス島に近づくにつけ、離れるにつけ、彼らは幾度もお目にかかっていたのである。その上、この蒸気船はまっすぐ島をめざしていた。船長の意図がルメール海峡にはいろうとするものだったら、もっと西に進路を向けているだろう。
「ちがいねえ」ついにコングレが言った。「まさしく通報艦だ!」
「こんなときまで島に引きとめられたとは、なんてついてねえんだ!」カルカンテは叫んだ。「二度までおれたちに足止めを食わせやがったあの畜生さえいなければ、いま頃はもう太平洋のただ中に出ているっていうのに」
「そんなこと言ったって、何の足しにもなりはしねえ」コングレがたしなめた。「決断をくださなければならねえんだ」
「どんな?」
「出航するのさ」
「いつ?」
「いますぐだ」
「でも、おれたちが遠くへ行きつくまでに、通報艦が湾の正面に姿を見せるんじゃねえですかい?……」
「そうだ……でも湾の中にははいらないさ」
「なぜです?」
「燈台の灯りがどこにあるかわからねえからさ。まっ暗闇の中を入江めざしてさかのぼってくるような真似はしめえ」
コングレの行ったこのきわめて正当な推論を、デイビスとバスケスも同じように立てていた。二人は回廊の高みから見とがめられる危険性のあるかぎり、この場を離れまいとしていた。この狭くるしい隠れ家の中で、彼らは海賊の首領とまったく同じ考えを語り合っていた。太陽が沈んだころだから、いつもならすでに燈台に灯りはついているはずなのだ。いかに島に詳しいとはいえ、燈台の灯りが見えなければ、ラファイエット艦長は航海の続行をためらうのではなかろうか?……灯りの消滅の理由がわからずに、沖で一晩じゅう遊弋《ゆうよく》しているのではなかろうか?……実のところ、すでに十回も艦長はエルゴール湾にはいっている。ところがそれはもっぱら日中だった。進路を示してくれる燈台の灯りがなければ、彼はあえてこの暗い湾内にはいることはあるまい。それにしても、燈台守が任務についていないのだから、島が重大な事件の舞台になったのだと、艦長は考えるにちがいない。
「ところで」そのとき、バスケスは言った。「艦長に陸地が見えず、そのまま燈台の灯りが見つかるはずだと船を進めたら、〈センチュリー〉に起こった事態が通報艦にも生じはしないだろうか?」
デイビスは答えを避けるような仕草しか見せなかった。バスケスの語った偶発事故は、まさしく、起こる可能性があったからである。確かに、嵐のような風が吹いているわけではないし、〈サンタ・フェ〉は〈センチュリー〉と同じ状況に置かれているわけではない。しかし、結局のところ、最悪の場合には、破局の可能性はあるのだ。
「海岸まで駆けつけよう」バスケスは言葉をついだ。「二時間あれば、岬につける。たぶんまだ、火をつけて陸地の存在を知らせてやる時間はあるよ」
「いや」デイビスは答えた。「遅すぎるよ。一時間以内に、おそらく通報艦は湾の入口に姿を見せるにちがいない」
「ではどうしたらいい?」
「待つのみだ!」デイビスは答えた。
もう六時を過ぎて、夕闇が島を包みはじめていた。
その間〈カルカンテ〉の船上では出航準備が猛烈なスピードで進められていた。コングレは是が非でも出航しようとしていた。不安に駆られて、彼はすぐにも停泊地を離れる決意を固めたのだ。朝の潮を待っていたら、通報艦と鉢合わせする羽目になろう。このスクーナー船が湾を出る姿を見つけたら、ラファイエット艦長はみすみす通させはしまい。停船命令をだして、船長を訊問するだろう。そして、燈台の灯りがついていない理由を聞きだすに決まっている。〈カルカンテ〉の存在は、当然彼にとって怪しいものに思えるだろう。スクーナー船が捕らえられれば、司令官は船に乗り移り、コングレを呼び、さらにはその乗組員たちも取り調べることになろう。そしてこの男たちの人相を見ただけで、しごく当然の疑惑を抱くにちがいあるまい。彼はスクーナー船の船首を回すように強制命令をくだし、船を見張り、より詳しい情報を入手するまで一味を入江に引きとめることになるのだ。
こうして、〈サンタ・フェ〉の艦長が三人の燈台守の不在に気づいたら、彼は燈台守たちが誰かの襲撃の犠牲になったとしか考えないだろう。脱出を企てようとしたスクーナー船の乗組員がこの襲撃の張本人にちがいないと、すぐに艦長が気づかないはずがないではないか?
それにもしかしたら一味にとって他の面倒が生じるかもしれない。
コングレとその一味が島の沖合に〈サンタ・フェ〉の姿を見つけたのだから、〈カルカンテ〉が湾を出ようとしたまさにそのときに二度までも船に攻撃をしかけたあの連中も、おそらく通報艦の姿を目撃しているだろう。いや、目撃しているのは確かだ。その未知の仇敵は通報艦の行動をつぶさに見守り、〈サンタ・フェ〉が入江に入れば、その場に立ち現れるにちがいない。そして、そこにある三人目の燈台守が加わっていれば(当然いると考えなければならない)、コングレとその手下はもはや、自分たちの罪への懲罰を免れることはできないのだ。
コングレはこうして、起こりうるあらゆる状況とその結果を予測してみた。そしてついに、選ぶべき唯一の決断、すなわち、ただちに出航するという決断をくだしたのである。風は北から吹き好条件だったから、夜陰に乗じ、帆をいっぱいに掲げて、沖に出るのだ。そうすればスクーナー船の目の前には大洋が広がるだろう。通報艦は、燈台の在所《ありか》もわからぬままに、闇の最中《さなか》を陸地に近づこうとはしまいから、夜はエスタードス島からかなり離れた海上に停まるだろう。必要とあらば、コングレは、もっと慎重を期し、ルメール海峡に向かわずに南に進路をとってセベラル小岬を回り、島の南岸ぞいに遁走してもいいのだ。そこで彼は出航を急いでいた。
デイビスとバスケスは、海賊たちのもくろみがわかり、それをどうしたら阻止できるか考えあぐねていた。自分たちにはまったく手出しができないことに、二人は絶望していた!
七時半頃、カルカンテはまだ地上に残っている数人の男たちを呼んだ。乗組員がすべて乗船すると、すぐボートが引きあげられ、コングレは錨を抜くよう命令をくだした。
デイビスとバスケスは、留め金の規則正しい音を耳にし、一方、錨鎖は揚錨機によって引きあげられていった。
五分後、錨は揚錨架に収められた。すぐスクーナー船は進みだした。弱まっていた風を少しでも受けとめようと、船上では、低い帆も高い帆もすべて掲げられた。ゆっくりと船は入江をで、なるべく風を受けようと、湾の中央を走りつづけた。
ところが、まもなく航行はきわめて困難になった。ほぼ干潮も終わりに近づいているため、スクーナー船は潮の流れの助けを借りるわけにはいかなかった。こんなスピードで、ほぼ横風を受けてしまっていては、船はなかなか進まなかった。これ以上先へはまったく進めないかもしれない。二時間後に潮が本格的に上げだしたら、押し流されてしまうことさえ考えられる。いちばん順調に運んだところで、真夜中までにはサン・ジュアン岬に行きつけないだろう。
だが、そのこと自体はそれほど気にならなかった。〈サンタ・フェ〉が湾にはいってこなければ、通報艦と出会う気遣いは全然なかったからである。たとえつぎの潮になろうとも、夜明けまでにはきっと湾を出るのだ。
乗組員たちは〈カルカンテ〉の歩みを早めようと手を尽くしていた。しかしながら、船の漂流によって生じたきわめて現実的な危険に対してはお手上げだった。徐々に、風は船をエルゴール湾の南岸に押しやった。この沿岸についてはコングレもよく知らなかったが、ただそこは、海に突き出した岩が長くうねっていて、たいへん危険であることは承知していた。出航してから一時間たっていたが、彼はあまりにこの南岸に近づきすぎたと判断し、ここを避けるには船首を回さなければあぶないと考えた。
夜になるとしだいに風が落ちてきたので、この進路転換はそうたやすくは行かないように思えた。
だが、操作は急を要するのだ。下手舵にして、船尾の帆脚索がぴんと張られた。一方、船首の帆脚索は弛められた。しかし、スクーナー船は速度を失って、うまく風上に船首を向けられぬまま、海岸の方へ流されつづけた。
コングレは危険を悟った。もはや唯一の手段しか残されていない。彼はこれを実行に移した。ボートをおろし、六人の男が大索《おおなわ》に伝わってこれに乗りこんだのである。そしてオールの力によって、どうにかスクーナー船を旋回させることができた。船は右に針路を変えた。十五分後スクーナー船は、南岸の暗礁にぶつかる心配なく、また最初の針路にもどった。
あいにくもはや、そよとの風も感じられなくなった。帆はマストを打つだけだった。ボートで湾の入口まで〈カルカンテ〉を引っぱるというのも無理な相談だろう。せいぜい、ボートでできることといえば、満ちはじめている潮に船が押しもどされないようにするぐらいのところだ。上げ潮をさかのぼることなど、考えられるはずもない。コングレは、入江から二マイル足らずのこんな場所に、停泊せざるをえないのだろうか?
スクーナー船の出航後、デイビスとバスケスは穴から這いだし、ほとんど海岸のそばまでおりていって、スクーナー船の動きを追っていた。風は完全にやんでいたので、二人は、コングレがその場にとどまり、つぎの干潮を待つしか手がないことがわかった。しかし依然として、夜明けがやってくるまでに、コングレには湾の入口に達する時間的余裕があるわけだし、見とがめられずに逃げ去るチャンスは大いにあるのだ。
「そうはさせない! おれたちの思いどおりにしてやる!」突然バスケスが叫んだ。
「どうやって?」デイビスは尋ねた。
「こっちへ来てくれ……さあ!」
バスケスは仲間をすばやく燈台の方へ引き連れていった。
〈サンタ・フェ〉が島の前面で遊弋《ゆうよく》するにちがいないというのが、バスケスの意見だった。船は島に極度に近づくことがあるかもしれない。でも結局は、こうして海が穏やかなかぎりそれほど危険なことはあるまい。ラファイエット艦長が、燈台の消灯を非常に意外に思って、日の出まで島の入口で少しずつ走り回っているのは疑いの余地がない。
これはまさにコングレの予想と同じだった。だがコングレの方は、さらに通報艦の目をくらますチャンスが充分にあるとも考えていたのだ。干潮が湾の海水を外海の方へ押し流しはじめたらすぐ、風の力などに頼らなくとも、〈カルカンテ〉はまた航海に乗りだし、一時間以内には外洋に出られるだろう。
ひとたび湾外に出たら、コングレは沖に向けて遠ざかる気持ちはなかった。例のちょっとした突風が吹き(どんなに静かな夜でも、ときどきは必ずといってもいいほど吹く)、南へ向かう潮流に乗れば、このまっ暗闇の最中《さなか》を沿岸沿いに無事に逃げおおすことができるだろう。せいぜい七、八マイルの距離のセベラル小岬を回ったらただちに、スクーナー船は連なる絶壁によって庇護されるだろう。そうなれば恐《こわ》いものなしだ。唯一つの危険は、〈サンタ・フェ〉がサン・ジュアン岬側ではなく、湾の南側にいた場合、スクーナー船がその監視員から見とがめられたときのことだ。ラファイエット艦長はきっと、〈カルカンテ〉の湾外脱出を知らされれば、黙って船を見逃してはくれないだろう。たとえコングレに燈台の状況を訊問するだけにしても一味を引きとめるものにきまっている。スクーナー船が逃げだしたりしたら、それが南岸の丘の背後に姿を消す前に、通報艦は蒸気機関の威力を発揮して追いついてしまうにちがいない。
すでに九時を回っていた。コングレは、つぎの干潮がやってくるまで、潮に流されないようにその場に投錨せざるをえなかった。しかし、つぎの干潮までにはまだ六時間近くもあるのだ。つまり午前三時までは、船を助けてくれるような潮はやってこないのである。スクーナー船は潮に逆らい、船首を沖に向けていた。ボートは引き揚げられていた。コングレは、出航の時がきたら、一分たりとも無駄にしないでスタートするつもりなのだ。
突然、乗組員から、湾の両岸にいても耳にできるような叫び声が起こった。
長い光の矢が、闇をついて投げかけられたのである。燈台の灯りが煌々《こうこう》と輝き、島から遠く離れた海をも照らしていた。
「あっ! 畜生! やつらだ!」カルカンテは叫んだ。
「上陸しろ!」コングレは命じた。
実際、この突如襲いかかった危険を避けるためには、コングレのとるべき策はただひとつしかなかった。それは、わずかな手下だけをスクーナー船の船上に残して上陸し、燈台構内めざして駆けあがり、建物に侵入し、塔の階段をよじ登り、当直室に押し入り、あの燈台守に、それにもしいるなら、そいつの仲間にも躍りかかり、そいつらを片付けて、燈台の灯りを消すことだった。通報艦が湾にはいろうと進み始めていたとしても、また灯りが消えればきっと立ちどまるだろう……すでに湾にはいっているとしても、入江まで船を導いてくれる灯りがまた消えたとなれば、湾外に出ようとするだろう。最悪の場合を考えても、とにかくその場に停泊して明るくなるのを待つにちがいない。
コングレはボートをおろした。カルカンテと十二人の手下たちが首領とともに、銃とピストルと短剣に身をかため、ボートに乗りこんだ。すぐさま彼らは海岸におりたち、燈台の構内めざして突進した。そこまでは、せいぜい一マイル半しかない。
構内に行きつくまでに十五分かかった。彼らはたがいに離ればなれになることはなかった。船に残してきた二人の男をのぞき、一味のものすべてが、台地の下に勢ぞろいした。
そう……燈台にはジョーン・デイビスとバスケスがいたのである。彼ら二人は、もはや誰に出会うこともないのを承知していたから、駆け足で、何ら周囲にも気を配らずに、丘をよじ登り、この構内にはいってきたのだ。バスケスの望みは、通報艦が朝を待たずに入江にやってこれるように、燈台の灯りをつけることにあった。だが彼には心配もあった――どんなにその心配に責めさいなまれたことか――。それは、コングレが燈台のレンズを破壊し、ランプを砕いてはいまいか、照明装置はもう使いものにならないのではないか、ということだった。すべてを破壊していれば、スクーナー船は十中八、九、〈サンタ・フェ〉に見つかることなく逃げ去ることができるのだ。
二人とも宿舎へと突進し、廊下に飛びこみ、階段につづく扉を押しあけ、それを閉め、すべての錠前にかたく鍵をかけ、階段を駆けあがり、当直室についた……。
灯火は無事だった。ランプは元のままで、まだ巻心《まきしん》を備え、灯りが消された日からそのままになっている油を貯えていた。そうだ! コングレは、灯火の反射装置をまったく壊していなかったのだ。彼は、エルゴール湾の奥に滞在しているあいだじゅう、燈台の機能を麻痺させることのみ考えていたのである。燈台を離れざるをえなくなったとき、どうして彼はその後の状況を予測しなかったのだろう。
とにかく、いまやふたたび燈台の灯りは輝いているのだ! これで通報艦は苦もなく古巣の停泊地にもどることができるはずだ。
塔の下では激しくぶつかる音が響いた。一味の輩が、回廊にのぼり灯りを消そうと、束になって扉に飛びかかっているのだった。〈サンタ・フェ〉の到着を遅らせるためなら、みんな生命を投げうつ覚悟なのだ。台地の上にも、宿舎にも、誰も見あたらなかった。当直室に大勢の人間がいるはずはない。海賊一味は容易に相手を打ち破れるだろう。上にいるやつらを叩きのめし、燈台があの忌まわしい光を夜の闇に投げられないようにしてやるのだ。
ご存知のように、廊下の奥にある扉は、厚い鉄板でできていた。階段へとつづくこの扉を閉ざしている錠前をこじ開けるのは、無理というものだった。また、金梃子《かなてこ》や斧《おの》を用いても扉を叩き破れなかった。カルカンテは実際にそうした手段に訴えてみて、それが不可能なことをすぐに呑みこんだ。いろいろ無益な努力をくりかえしたあとで、彼は構内にいるコングレと他の仲間たちのところへもどった。
どうしたらいい? 燈台の灯火のある場所まで外側からのぼっていく方法はないものだろうか? その方法がなければ、もはや一味には、島の奥に逃げ去り、ラファイエット艦長とその乗組員の手に陥るのを避けるしか術はない。スクーナー船にもどったところで、どうなるものではない。それに時間的にもまにあわないだろう。通報艦がいまや湾内にはいり、入江に向かっているのは疑問の余地がないからだ。
反対に、もし数分後に燈台の灯りが消えれば、〈サンタ・フェ〉は航行をつづけられないばかりか、引き返さざるをえなくなるだろう。そうすれば、スクーナー船は脱出できるのではなかろうか?
ところで、回廊にいきつく方法があったのだ。
「避雷針の鎖だ!」コングレは叫んだ。
事実、塔に沿って、鉄鎖が張られ、三フィートごとに鈎釘で止められていた。手首の力を使ってこれをひとつずつ登っていけば、きっと回廊にたどりつき、たぶん当直室にいるやつらを急襲できる。
コングレはこの最後の救済手段に訴えることにした。カルカンテとバルガスがまず登ることになった。二人は付属家屋の上に這いあがり、鎖をつかむと、暗闇の中を見つからないように気を配りながら、ひとりずつよじり登りはじめた。
彼らはついに回廊の手すりへと達し、その支柱にしがみついた……あとはこれを乗り越えるだけでいいのだ……。
その瞬間、ピストルの音が鳴り響いた。
デイビスとバスケスが、守りを固めていたのだ。
二人の悪漢は頭を射ち抜かれ、支柱から手を離し、付属家屋の屋根へと落ち、砕けた。
そのとき燈台の下方で汽笛が聞こえた。通報艦が入江にはいってきたのだ。汽笛は周囲に鋭い音を投げかけていた……。
一味は逃げだすしかなかった。数分後には、〈サンタ・フェ〉は元の停泊地に乗りいれるだろう。
コングレと手下たちは、他になす術《すべ》がないのを悟って、台地の下へと突進し、島の奥地へと逃げ去った。
十五分後、ラファイエット艦長が錨を海に沈めたそのとき、奪い返した例の燈台守の大型ボートが、オールの音を響かせて軍艦に横づけした。
ジョーン・デイビスとバスケスは通報艦の人となった。
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一五 大団円
通報艦〈サンタ・フェ〉は、エスタードス島の交代要員をのせて、二月二十九日、ブエノス・アイレスを発った。風も海も幸いして、航海はきわめて順調だった。一週間近くもつづいたあのひどい嵐も、マゼラン海峡の先までは力が及ばなかった。だから、ラファイエット艦長も嵐の影響をまったく蒙《こうむ》らずに、予定より数日早く目的地についたのである。
到着が十二時間遅れたら、スクーナー船は島を遠く離れ、コングレ一味の追跡を諦めなくてはならなかったろう。
ラファイエット艦長はこの夜すぐ、三か月この方エスタードス島で何が起こったのかを聞きだそうとした。
バスケスは乗船してきたが、その相棒であるフェリペとモリスはどうしたのか? バスケス同伴者については、誰も見覚えがなかったし、名前も知らなかった。
「燈台の点灯が遅れたね、バスケス」
「灯りがつかなくなってから、九週間になるのです……」バスケスは答えた。
「九週間だって!……いったいどういうことだね?……君の二人の仲間たちは?……」
「フェリペとモリスは死にました!……〈サンタ・フェ〉が出航して二十一日後、燈台守はただひとりとなったのです、艦長!」
バスケスは、エスタードス島がその渦中に置かれた事件の経緯《いきさつ》を物語った――コングレと名乗る首領の配下にある海賊一味が、数年前からエルゴール湾に住みついて、サン・ジュアン岬の暗礁に船をおびき寄せては、漂着物をあさり、難船の生存者を虐殺していた。燈台の工事期間中は誰も彼らの存在に気づかなかった。なぜなら一味は、島の西端にあるサン・バルテレミイ岬に逃れていたから。〈サンタ・フェ〉が出航し、燈台守だけが島で仕事につくようになると、コングレ一味は、偶然手に入れたスクーナー船に乗りこんで、エルゴール湾へもどってきた。彼らが入江にはいるやいなや、モリスとフェリペはその船上で襲撃され、殺害された。バスケスが逃げおおせたのは、そのとき彼は当直室にいたからである。燈台をあとにすると、彼はサン・ジュアン岬の沿岸に身をひそめた。それから、海賊たちが貯蔵物を貯めこんでいた洞窟で食糧を発見し、それを食べながら隠れ家で生きながらえていた――。
つぎにバスケスは、〈センチュリー〉が難船したあと、この船の副船長を助けることができてどんなに嬉しかったか、そして、二人が〈サンタ・フェ〉の到着までどうやって暮らしてきたかを語った――彼ら二人の最大の望みは、三月初旬の通報艦の帰還までに、スクーナー船がいろいろ大きな修理作業のため遅れをだして、太平洋海域へ向かう航行が不可能になることであった……。
……それにしても、ジョーン・デイビスがその船体に二発の砲弾を射ちこんで数日船を引きとめなかったとしたら、スクーナー船は島をあとにしていただろう――。
バスケスはこの話を打ち切り、自分の名誉ある行動については口をつぐんだ。デイビスが話しに加わった。
「バスケスが話し忘れていることがあります、艦長。その二発の砲弾だけでは、全くのところ、決定的な打撃を与えるにはいたらなかったのです。船体に穴を開けられたにもかかわらず、〈マウレ〉は今朝にも出航したことでしょう。もし昨夜、バスケスが生命がけで船に泳ぎつき、舵と船尾材のあいだに弾薬筒を仕掛け、これを爆発させなかったなら……実を言うと、それは期待したほどの効果を生みませんでした。船の損害は軽微でしたし、十二時間で修理できるほどのものだったのです。ところが、この十二時間のおかげで、閣下はこうしてスクーナー船を捕らえることができたわけです。この功績はバスケスひとりに負うものですし、また、通報艦に気づいて燈台に駆けつけ、長らく消えていた燈火を今夜点灯しようと思いついたのも、彼なのです」
ラファイエット艦長は真心をこめて、デイビスとバスケスの手を握りしめた。この二人の大胆な行動によって、〈サンタ・フェ〉はスクーナー船の出航前に湾にたどり着けたのだ。それから、艦長は、日没一時間前に、通報艦がエスタードス島の姿を認めたときの状況を物語った。
ラファイエット艦長は、すでに午前中に船の位置を測定してあったから、どの位置を船が走っているかについては確信があった。あとはただ、サン・ジュアン岬をめざしさえすればいいのだ。岬は夜になるまでに認められることができよう。
事実、夕闇が空を暗くおおいはじめるころ、ラファイエット艦長は、島の東岸は別にしても、少なくとも島の内部にそびえる高い山頂をきわめてはっきりと認めた。そのときはまだ十マイルほど沖合にいたが、二時間後には停泊地に行きつけると考えていた。
ちょうどそのころ、〈サンタ・フェ〉がデイビスとバスケスの目にとまったのである。それはまた、燈台の高みから、カルカンテが通報艦の到来をコングレに知らせたときでもあった。これを聞きつけてコングレは、〈サンタ・フェ〉の入港前に湾を出ようと、大急ぎで出航準備にとりかかったのである。
その間〈サンタ・フェ〉は、サン・ジュアン岬めざして走りつづけていた……海は穏やかで、沖合から吹くそよ風がわずかに感じられる程度だった。
たしかに、≪地の果ての燈台≫がエスタードス島に建てられる以前だったら、ラファイエット艦長も、夜間これほど陸地に近づいたり、ましてやエルゴール湾の入江に辿りつこうとする軽挙にはでなかったであろう。
しかしながら、沿岸も湾内もいまや燈台の灯りで照らされていることになったのだから、何も翌日まで待つ必要はないと、彼には思えた。
そこで通報艦は南西への航海をつづけ、日がとっぷりと暮れたときには、エルゴール湾の入口から一マイル足らずの地点にたどりついていた。
通報艦は、燈台の灯りのつくのを待って、そのあたりの海上をゆっくりと走り回っていた。
一時間が経過した。島にはどんな灯火も見えなかった。ラファイエット艦長が船の位置を間違えようはずがない……エルゴール湾はたしかに前に開けているのだ……たしかに灯りの届く範囲内にいるはずなのだ……それなのに灯火がついていないなんて!……
照明装置に事故が生じたという以外に、通報艦の船上で何が考えられたというのだろう? 先日の非常に激しい嵐のとき、もしかしたら装置が壊れたか、ランプが使えなくなったのかもしれない。三人の燈台守が海賊一味に襲われ、そのうち二人までが敵の刃《やいば》に倒れ、三人目が同じ運命に陥るのを避けて逃げ出ざるをえなかったなどとは、誰ひとり考えるものはいなかった。まったく、誰ひとり考えつかなかったのだ。
「わしはどうしていいものやら、わからなかったよ」ラファイエット艦長はそのとき言った。「闇は深かったしね。思い切って湾にはいることもできなかった。だから、夜明けまで沖にいなくてはならぬものと思っておった。部下の士官や乗組員もふくめて、わしらはひどく心配していたのだ。虫の知らせというやつじゃな。やっと九時過ぎに、燈台は輝いた……どうやらこの遅れもただの故障だったらしいと考えて……蒸気機関の気圧を上げ、湾の入口に船首を向けた。そして一時間後、〈サンタ・フェ〉は湾にはいった。入江から一マイル半のところで、わしは、乗り棄てられたような投錨中のスクーナー船に出くわした……数人の部下をその船に差し向けようとしていたそのとき、銃声が鳴り響いたんだ。しかもこの銃声は燈台の回廊で響いたものではないか!……燈台守が襲撃され、抵抗しているのがわかった。たぶん、あのスクーナー船の船員達に対してね……わしが汽笛を鳴らしたのは、襲撃者達を威《おど》すためじゃった……こうして十五分後、〈サンタ・フェ〉は停泊地に着いたというわけだよ」
「まさにピッタリでした、艦長」バスケスが言った。
「そうはいかなかったろうね」ラファイエット艦長は答えた。「きみが命がけで燈台の灯りをともしてくれなかったならば――。とにかくいまごろスクーナー船は外海にでているよ。わしらは湾を出ていく船の姿に気づかなかったろうし、あの海賊一味はまんまとわしらの手を逃れてしまったにちがいない!」
こうした経緯はすべて、たちまち通報艦の船内に知れわたり、バスケスにもデイビスにも、熱狂的な賞賛の声が浴びせられた。
夜は静かに過ぎた。翌日、バスケスは、〈サンタ・フェ〉によってエスタードス島に連れてこられ、彼と交代することになる三人の燈台守と知り合った。
もちろん、前夜のうちに、スクーナー船には屈強の選抜隊が送りこまれ、この船を拿捕《だほ》していた。こうして置かなくては、きっとコングレはまた船に乗り込み、干潮を利用してすばやく沖合に出てしまうだろう。
ラファイエット艦長は、新任の燈台守の安全を確保するためには、ただ一つの目標を果たすだけでよかった。すなわち、島を荒らし回る悪漢ども(カルカンテとバルガスは死んだが、絶望の淵に追いつめられている首領をふくめ、まだ十三人残っていた)をエスタードス島から一掃しようという目標である。
島全体に及ぶとなると、追跡は長期にわたるかもしれないし、成功しない可能性すら孕《はら》んでいた。〈サンタ・フェ〉の乗組員たちは、どうやれば島を隅なく探し回ることができようか? きっと、コングレとその仲間たちは、サン・バルテレミイ岬へもどるような失策《へま》を仕でかしはしないだろう。この秘密の隠れ家はいつ襲撃されるかわかったものではないからだ。ところで、島内の他の場所にいくらでも隠れることができるわけだから、一味の最後のひとりが逮捕されるまでには、何週間も、何ヶ月も、かかるかもしれない。けれどもラファイエット艦長は、あらゆる攻撃から燈台守を擁護し、燈台の機能が正常に復するのを確かめるまで、けっしてエスタードス島を離れるつもりなかった。
実際のところ、ことをいちばん早く解決してくれるのは、むしろ一味の窮乏生活かもしれなかった。コングレとその手下たちが無一物になるのは目に見えていたからである。サン・バルテレミイ岬の洞窟にもエルゴール湾の洞窟にも、もはや食糧は残っていなかった。ラファイエット艦長はバスケスとデイビスの案内を受けて、翌日夜が明けるとすぐ、とにかくエルゴール湾の洞窟の方には、堅パン、塩漬け食品、罐詰めなどの食料品が一切ないことを確認した。残っていた食料はすべて、スクーナー船(通報艦の船員の手によって、また入江まで引きもどされた)の船上に運びこまれていたのだ。洞窟には、もはや寝具、衣類、道具類など、たいした値打ちのない漂着物だけが仕舞いこまれていた。これらの品々は、燈台の宿舎に運ばれることになった。コングレが昨夜のうちに、かつて分捕り品の倉庫として使っていたこの洞窟に戻ったとしても、一味の輩が食いつなげるものは何も発見できなかっただろう。〈カルカンテ〉の船上には多量の銃や弾薬が発見されたから、コングレは狩猟に用いる武器さえ自由にならなかったに相違ない。こんな生活状態では、彼も手下たちも降伏を余儀なくされて姿を現すか、おそかれ早かれ餓死してしまうだろう。
しかしながら捜索はすぐに開始された。選抜隊が、士官や兵曹の指揮のもとに、ある隊は奥地へ、ある隊は沿岸地帯へと向かった。ラファイエット艦長自身もサン・バルテレミイ岬へ赴いたが、一味の足跡はまったく発見されなかった。
数日が経過したが、ひとりの海賊の行方も定かでなかった。けれども三月十日の朝、七人のフェゴ島出身の卑劣漢たちが、飢えのあまりに、憔悴《しょうすい》し、痩せ衰え、疲労困憊して、燈台の下に姿を見せた。〈サンタ・フェ〉に収容され、食事を与えられた彼らは、船上に監禁された。
四日後、副船長のリエガルが南岸のウェブスター岬付近を捜索していたとき、五人の死体を発見した。その中には二人のチリ人の海賊がいることも、バスケスにはわかった。周囲に散らばっている食べ物の残骸を調べてみると、彼らは魚や甲殻類を食べながら生きながらえようとしていたことが窺えた。しかしどこにも、火を燃やした痕跡も、木の燃えがらも、灰も、見あたらなかった。つまり、火を起こす手段《てだて》すらなかったわけである。
ついに翌日の夕刻、日の沈む少しまえに、燈台から五百メートル足らずの、入江に接した岩壁のまん中に、ひとりの男が姿を見せた。
それは、デイビスとバスケスが、通報艦のやってくる前日、スクーナー船が出発しないかと心配して見守っていた場所の近くだった。当日の夕方、バスケスは最後の努力を試みる決意をしたのだった。
その男こそ、コングレだった。
バスケスは新任の燈台守と構内を散歩していたが、すぐ男の姿に気づいて、叫んだ。
「やつだ!……やつがいるぞ!……」
この叫びを聞きつけると、浜辺を副艦長と大股に歩いていたラファイエット艦長は急いで駆けだした。
デイビスと数人の船員も艦長につづいて突進した。みんなは台地の上に集まると、ただひとり生き残ったこの盗賊一味の首領の姿を目にした。
あんな場所へ何をしにやってきたのか? なぜ姿を見せたのだろう? 降伏するつもりではないのか? それにしても、この一味の首領は、自分を待ち受けている運命について思い違いをするようなことはけっしてあるまい。ブエノス・アイレスに連れていかれれば、彼はこれまでの窃盗と殺人の罪を贖《あがな》って、首を刎《は》ねられるのだ。
コングレは一段と高くなった岩壁の上で不動の姿勢をくずさなかった。岩壁の下では静かに波が砕け散っていた。通報艦のそばに浮かぶスクーナー船の姿が目にはいっていることだろう。幸運の女神が非常に折りよくサン・バルテレミイ岬に送りこみ、今度は不運の神が彼の手から奪いとってしまったあのスクーナー船……どんな想いが彼の脳裏を横切っていることだろう!
なんという口惜しさだろう! 通報艦さえやってこなければ、すでに太平洋にあって、あらゆる追跡の手を逃れることも、罪を受けずに済むことも容易なことだったというのに……。
もちろんのこと、ラファイエット艦長はコングレを逮捕しようとした。
彼の命令により、リエガル副艦長は六人ほどの船員を率いて、構内の外にすべるように這いだした。ブナ林に出てから、岩壁を登れば、たやすく悪漢のところまで行きつけるのだ。
バスケスはこの小隊の案内をして、いちばんの近道を選んだ。
彼らが大地を超えていくらも進まないうちに、銃声がとどろき、男のからだは宙に舞って、泡だつ海の深みへと落ちていった。
コングレはバンドからピストルを取りだすと、自分の額《ひたい》にこれを押しあてたのだ……。
この卑劣漢は自らに制裁を加えたのだった。いまや引き潮がその死体を沖へと運んでいった。
以上が、エスタードス島の悲劇の結末である。
いうまでもなく、三月三日の夜以来、燈台はまた活動をつづけた。新任の燈台守たちはバスケスに詳しく仕事を教えてもらった。
いまは、海賊一味はただのひとりもいなくなった。
ジョーン・デイビスとバスケスは、二人ともブエノス・アイレスに帰還する通報艦に乗船することになった。デイビスはそこからさらにモビールへと向かうのだ。故郷で彼はきっと、ほどなく船長の地位を獲得するだろう。彼の力と勇気をもってすれば、充分船長としてつとまるにちがいない。
一方、バスケスは、彼が決然と耐え抜いてきた数多くの体験の骨休めに、生まれ故郷の町に帰ることになった……それにしても、彼はひとりで帰るのだ。あの不幸な友人と一緒には帰れないのだ。
三月十八日の午後、ラファイエット艦長は、あとに残る燈台守の安全を確認してから、出航の合図をした。
通報艦が湾を出るとき、まさに太陽は沈もうとしていた。
するとすぐ、遠くの海岸一帯にまで光がほとばしり、その反射光が航跡に躍った。通報艦は、暗くなった海上を遠ざかりながら、≪地の果ての燈台≫がまた投げかける無数の光線のいくつかを、そのまま引きずっていくかに見えた。(完)
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訳者あとがき
ペーパー・バックとして世界的に知られているイギリスの≪ペンギン・ブック≫やアメリカの≪ポケット・ブック≫に相当するものとして、フランスには≪リーヴル・ド・ポッシュ≫があるが、古今東西の名著を集めたこの文庫の中でも、ジュール・ヴェルヌは特異な地位を与えられている。というのも、≪リーヴル・ド・ポッシュ≫は、いわゆる現代の小説、戯曲、詩を収めた分野のほかに、古典、歴史、宗教、推理小説、実用書などのジャンルに分類されているが、さらにそれに加えて≪リーヴル・ド・ポッシュ、ジュール・ヴェルヌ≫というシリーズがあるからだ。じつに一個人でひとつのジャンルを独占するという栄誉を担っているのである。これほどの得点を頂戴している作家はほかに見あたらない。このシリーズ(既刊三十九点)の刊行から推しても、ヴェルヌの読者層の厚さが窺えようというものである。
こうして現在のフランス出版界の中でも高い評価を与えられているヴェルヌ、世界でもっとも数多く翻訳されたフランス作家のひとりであるヴェルヌの名が、実は多くのフランス文学史家によって不当なまでに黙殺されてきた事実をみるとき、われわれは奇異の念を抱かざるをえない。いまや古典とされているランソンやチボーデの文学史にしても、比較的新しいカステックスやラガルドの文学史にしても、ヴェルヌの項は忘れられたように脱落しているか、単なる児童文学者として二、三行で片付けられるといった、つれない仕打ちを受けている。周知のように十九世紀のフランス文壇には、バルザック、スタンダールをはじめ、シャトーブリアン、ラマルチーヌ、ユゴー、ヴィニィ、ミュッセ、サンド、フロベール、モーパッサン、ゾラ……と、いずれ劣らぬ〈大家〉が目白押しにうち揃い、〈少年向け作家〉の割り込む余地などないかもしれない。なにはともあれ、ヴェルヌに対する従来の過小評価を思い合わせると、一九六六年にはじまったという≪リーヴル・ド・ポッシュ、ジュール・ヴェルヌ≫の刊行(当初『海底二万リーグ』など十点を、各巻十万部、すなわち合計百万部刷り、文字どおりのミリオン・セラーとなった)は、それ自体がヴェルヌの〈復権〉を物語っているといえよう。これは、お声がかりの、強制的復興ではなく、まさに自然発生的なヴェルヌ・ルネッサンスなのである。
ジュール・ヴェルヌが一八二八年二月八日にロワール河口の町ナントで生まれたこと、不遇な時期を経てから科学冒険小説家として脚光を浴び、永眠するまでに約八十編の小説と約十五編の劇作をものにしたこと――それらについてのより詳細な経緯は、すでに角川文庫の他の訳書の〈あとがき〉に適切に解説されているので、ことさら繰りかえすまでもなかろう。ただここでは、ヴェルヌに関する二、三のエピソードを紹介するにとどめておきたい。
父の要請により法律を学ぶためパリにでるが、当の勉強には身がはいらず放浪生活を送っていた時代。そのころ彼は、まずテレーズ街の「空気も酒もないあばら屋」に、それからランシェヌ・コメディ街の屋根裏部屋へと移り住んでいるが、その貧困ぶりはそうとうなものであったらしい。家賃に三十フランをつぎこむと、残り四十スーが食費、それに十五スーが洗濯代と娯楽費というありさまだったが、洗濯屋は十スーの代金しか受けとらなかったという。シャツの前の部分がすでにちぎれており、後の部分もやっとついている――つまりカラーだけと化したシャツを持ち込んでいたからだ。また、芝居に情熱を燃やしていたその当時、シェイクスピア全集を買うために、牛乳に浸したパンだけで一週間近くすごした話も知られている。のちにエッツェルというパトロンにめぐり会い、功なり名をとげて、サン・ミッシェル一号、二号、三号と名づけるヨット(正確には一号がいわゆる釣り船、二号が帆船、三号は二十五馬力のエンジンを備え、船長と十人の乗組員までいる豪華船だ)を買いこんだヴェルヌと、いまの貧困物語を照らしあわせてみると興味深い。
ヴェルヌの生涯には、たしかにペシミスチックな時期もあったろう。SF作家の名が確立してからも船を駆っていろいろ旅に出たというのは、疲労度の濃い現実生活からの逃避手段でもあったようだし、晩年もそれほど満ち足りた日々を送っていたわけではないらしい。しかし、彼の裡に一貫して流れているのは、貧困などの生涯をものともしない不屈で強靱《きょうじん》な意志、自分の未来にかける素朴にすぎるほどの信頼かと思われる。「この世で行われた偉大なことはすべて、極度の期待から生まれたものだ」とか、「ある人間によって想像されうるものはすべて、他の人間によって実現可能なものとなろう」とかの言葉の裏には、思考=行動、希望=実現というヴェルヌの心情が透けて見えるようだ。とにかくここでは、この作家の磊落《らいらく》な意志力といった側面を強調しておきたい。蛇足になるが、ヴェルヌ(Verne)の名は vergne に通じ、それは l'aulne つまり〈榛《はん》の木〉を意味するから、春に芽吹くこの樹木になにやら象徴的な意義を持たせるのも一興であろう。また、臨終のさい、ヴェルヌは周囲の人たちに対して Soyez bons!(善良であれ!)とつぶやいたというが、これなどいかにも面目躍如といった感じがする。けれどもその反面、あまりにも穿《うが》ちすぎていて、|まやかし《ヽヽヽヽ》の臭いがしないでもない。
ヴェルヌを論じるときに、〈旅〉はつねに重要なテーマとなりえよう。現実の旅に出向いていないとき、彼は夢の中の、空想の中の旅に発ち、それが作品となって凝縮した。その意味で、ヴェルヌは永遠の旅人であった。実際の旅は、イギリス、スコットランド、アイルランド、ノルウェー、アメリカ合衆国、北海、地中海、バルチック海と北半球に限られ、南半球、とくに南アメリカの先端などにはもちろん足を向けていない。しかし、この『地の果ての燈台』においても、彼は一流の執拗さでエスタードス島、およびその周辺のことを調べあげている。ヴェルヌは良心的|職人《アルチザン》でもあった。
『地の果ての燈台』はいわゆる勧善懲悪の冒険小説で、あまりといえばあまりに簡明|直截《ちょくさい》、単純明解にすぎるかもしれない。しかしながら、現代人の複雑怪奇さ、不可解な心理の|あや《ヽヽ》の、|ひだ《ヽヽ》のという能書きに悩まされているわれわれにとっては、バスケスと燈台仲間の友情、バスケスとデイビスの不屈の精神、コングレとカルカンテの悪役ぶりさえ、いかにも直線的で小気味いい。なにがしかの郷愁を感じさせる所以《ゆえん》であろう。
最後に、訳者みずからの浅学非才を暴露しなければならないが、じつは本書の執筆年代・刊行年代が詳《つまび》らかでないのである[※]。先に文学史家たちがヴェルヌを黙殺している事情について触れたが、そこには、この作品の書かれた年代が不明であることに対する訳者の狡猾な弁解と、さらには恨み、辛みさえ含まれていたことを白状しなければならない。例の≪リーヴル・ド・ポッシュ≫には巻末にかなり詳細なヴェルヌ伝が付されていて、相当数におよぶ作品の刊行時期が判明しているのだが、本作品についての記述は見あたらない。また≪ウーロップ《ヨーロッパ》誌≫のヴェルヌ特集号(一九五五年、四月〜五月号)をも瞥見《べっけん》する機会をえたが、ここでもやはり『地の果ての燈台』という文字を捜しだせなかった。ただ、本書を注意深く読みすすめば気づくように、原注に一八八一年に関する記述があるので、執筆年代も当然それ以後、つまり比較的晩年に近く書かれた作品かと推察される。いずれにせよ、読者諸賢のご教示を心からお願いするしだいである。
[※]一九〇一年に書かれ、ミシェルという人の補筆を待って一九〇五年に刊行されたことが判明した。
ヴェルヌの作品の映画は『八十日間世界一周』『悪魔の発明』『海底二万リーグ』、さらに日本では未公開かと思うが、ジャン=ポール・ベルモント主演の『中国における一中国人の苦悩』(原題)など数多く、本書『地の果ての燈台』も撮影が終わって、近く公開されるという噂を耳にしたことを付言しておく。
一九七二年