氷海越冬譚
ジュール・ヴェルヌ作/大久保和郎訳
目 次
一 黒旗
二 ジャン・コルンビュットの計画
三 希望の光
四 水路で
五 リヴァプール島
六 氷の地震
七 越冬地の設営
八 探索計画
九 雪の家
十 生き埋め
十一 一筋の煙
十二 船に帰る
十三 二人のライヴァル
十四 絶体絶命
十五 白熊
十六 むすび
訳者あとがき
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一 黒旗
ダンケルクの古い教会の司祭は一八……年五月十二日の朝、いつもの習慣のとおり何人かの信心深い漁夫が出席する第一回の低誦ミサを唱《とな》えるために五時に目を覚ました。
司祭服を着て祭壇へ行こうとしていると、一人の男がうきうきしながらしかも取り乱して聖具室にはいって来た。六十歳ぐらいの、しかしまだ逞《たくま》しく頑健そうな、実直な顔つきの船乗りだった。
「司祭さん、ちょと待ってください!」と男は叫んだ。
「こんな朝っぱらからいったいどうしたんだね、ジャン・コルンビュット?」と司祭は答えた。
「私がどうしたかって?……とにかくあなたの首ったまにかじりつきたくてたまらなくってね!」
「それじゃ、ミサの後でな、あんたもミサに出るんだろう……」
「ミサだって!」と老船乗りは笑いながら答えた。「あんたは今からミサを唱えるつもりですかい、わしがそんなことさせると思っておいでですかね?」
「では、どうしてわしはミサを唱えられんのかね?」と司祭はきいた。「説明してもらおう! もう三つ目の鐘が鳴ってしまった……」
「三つ目が鳴ろうが鳴るまいがそんなこたあどうでもいい」とジャン・コルンビュットは言い返した。「どうせ今日は鐘はたくさん鳴るでしょうよ、司祭さん。だってあなたは、わしの息子のルイと姪《めい》のマリの婚礼を自分で執りおこなうとわしに約束してくれたんだから」
「それでは帰って来たのかい?」と司祭は嬉しげに叫んだ。
「もう帰って来たも同然ですわい」とコルンビュットは手を揉《も》みながら言った。「望楼から東のほうに|うち《ヽヽ》の二檣船《ブリック》が見えると言って来ましたからね。あんた自身が|『大胆娘』(ラ・ジュンヌ・アルディ)と命名してくれたあの船が!」
「心からお祝いを申し上げよう、ジャン・コルンビュット」と司祭は祭袍《シヤジユブル》と頸帯《エトル》を脱ぎ捨てながら言った。「その約束のことは忘れてはいないよ。助祭に代理をしてもらって、わしは息子さんを迎えるために何でもあんたの望みどおりにしてさしあげよう」
「それに、約束しますが、倅《せがれ》はそんなに長いことあなたの食事を遅らせるようなことはしますまいよ! 結婚公示はすでにあなたの手で出されているんだから、後はもう北洋の空と海のあいだで犯したかもしれない罪に赦免を与えてくれさえすりゃあいいんだ。まったくこいつはいい思いつきだったな、婚礼を帰港当日におこない、ルイの奴は船を降りるなり教会に行くということにしたのは!」
「それでは準備万端ととのえて来るんだ、コルンビュット」
「ひとっ走り行って来ますよ、司祭さん。それではまた!」
船乗りは急いで自分の家に帰った。家は商港の岸壁の上にあり、北海が見え、彼はそれをひじょうに自慢していた。
ジャン・コルンビュットはその職業によって多少の身代を作っていた。ル・アーヴルの豊かな船主の持ち船で長いこと船長をつとめた後、彼はその生まれ故郷の港に腰を据え、自分のものとして二檣船「ラ・ジュンヌ・アルディ」を造らせた。北洋への何度かの航海は図に当たり、船は材木や鉄やタールの積荷をいつもいい値段で売ることができた。ジャン・コルンビュットはそこで船の指揮を息子のルイに譲ったが、この息子は三十歳のまじめな船乗りで、沿岸航路の船長たちのこぞって言うところではダンケルクでいちばん勇敢な船乗りだった。
ルイ・コルンビュットは父親の姪《めい》であるマリに非常な愛情を感じながら出発し、マリは彼の留守のあいだを実に長く感じた。マリは二十歳になるかならずだった。オランダ人の血が少々混じっている美しいフラマン娘で、母親は死に臨んで兄弟のジャン・コルンビュットに彼女を託したのである。だからこの実直な船乗りは血を分けた娘のようにこの子を愛し、今度おこなわれるはずの結婚によって本当の永続的な幸福が得られるものと見ていた。
水路の沖で発見されたブリックが到着すれば、ジャン・コルンビュットが多額の利潤を見込んでいる大きな商取引が終わるのだった。三か月前に出帆した「ラ・ジュンヌ・アルディ」はとうとうノルウェー西岸のボドエから帰って来る。しかも船はひじょうに速く行って来たのだ。
ジャン・コルンビュットが帰ってみると家全体が活気づいていた。マリは顔を喜びにかがやかせて花嫁《はなよめ》の衣装《いしょう》を着ていた。
「あたしたちが行く前に船が着かなければいいんだけど!」と彼女は言った。
「急ぐんだよ、娘や」ジャン・コルンビュットは答えた。「風は北から吹いてるし『ラ・ジュンヌ・アルディ』は斜めうしろの風を受けるとよく走るからな!」
「皆さんにはもう知らせてあるの、伯父《おじ》さん!」とマリは訊《き》いた。
「知らせてあるさ!」
「公証人にも? 司祭さんにも?」
「安心しなよ! わしらを待たせるのはどうせおまえだけだろうさ!」
ちょうどこのとき親しい仲間のクレルボーがはいって来た。
「なあおい、コルンビュット、何て間がいいんだろう!」と彼は叫んだ。「ちょうど政府が海軍への大量の木材納入を入札できめることにしたときにおまえさんの船は帰って来た」
「そんなことがわしに何の関係がある?」とジャン・コルンビュットは答えた。「そんなのは政府の話じゃないか!」
「ほんとに、クレルボーさん」とマリも言った。「今あたしたちの頭にあるのはたった一つ、ルイが帰って来るということだけなのよ」
「それはまあ悪いとは言わんが……。しかしとにかくこの納入は……」
「そしてあんたにも婚礼に出てもらうよ」とジャン・コルンビュットは商人の言葉をさえぎって、砕けるほど相手の手を握りしめた。
「この木材の納入は……」
「陸と海のわしらの友人といっしょにな、クレルボー。親族知人にはもう知らせてあるし、船の乗組員一同も招待する!」
「そうして桟橋に迎えに行くんでしょう?」とマリがきいた。
「そうともさ。二列になって進んで行くんだ、ヴァイオリンを先頭にしてな!」
ジャン・コルンビュットに招かれた人々は遅れずにやって来た。早朝だったにかかわらず一人として招きに応じぬものはなかった。皆は競ってこの実直な船乗りに祝いを言った。彼は皆に好かれていたのだ。そのあいだマリはひざまずきながら、神の前で祈りを感謝の言葉に変えていた。やがて彼女は着飾って美しく広間にもどって来、おかみさんたちは皆彼女の頬に接吻《せっぷん》し、男どもはすべてしっかりと彼女の手を握った。それからジャン・コルンビュットは出発の合図をした。
この喜々《きき》とした一隊が明け方の海のほうへ進んで行くのは奇妙な光景だった。二檣船《ブリック》が帰ったという知らせは港にひろまり、窓や半開きの戸口にはナイトキャップをかぶった頭がたくさんあらわれた。四方八方から心からの祝辞や好意的な挨拶《あいさつ》がやって来た。
婚礼に列する人々は賛辞や祝福の合唱に包まれて桟橋にさしかかった。天候はすばらしく、太陽すら仲間入りしようとするかに見えた。こころよい北風が波を泡立たせ、港を出ようとして追い風を背に受けた数隻の漁船が桟橋と桟橋のあいだにするすると水尾《みお》を曳いていた。
ダンケルクの港の岸壁から伸びる二本の突堤は海へずっと突き出ていた。婚礼に列する人々は北の突堤の幅いっぱいにひろがり、まもなく港務長がそこで見張りをしている突端の小屋のところまで来た。
ジャン・コルンビュットの二檣船《ブリック》はますますはっきりと見えるようになっていた。風は強くなり、「ラ・ジュンヌ・アルディ」はトップスル、フォースル、スパンカー、トガンスル、ロイヤルとすべての帆を上げて、斜めうしろから風を受けながら走っている。陸と同じく船の上にももちろん喜びがみなぎっているに相違ない。ジャン・コルンビュットは望遠鏡を手にして友人たちの質問に快活に答えていた。
「ほら、わしの立派《りっぱ》なブリックが見えた!」と彼は叫んだ。「ダンケルクから出帆したときみたいに汚れもなくきちんとしているぜ! 全然損傷はない! 綱一本欠けておらんよ!」
「息子さんの船長は見えますかね?」と人々はきく。
「どうして旗を揚げないんだろう!」とクレルボーはきいた。
「わしにもあんまりよくわからないがね、しかし何か理由があるんだろうさ」
「その望遠鏡を貸してよ、伯父さん」とマリは彼の手から眼鏡をひったくりながら言った。
「あたし、誰よりも先にあの人を見たいの!」
「だがわしの倅《せがれ》なんですぞ、お嬢さん!」
「あの人はもう三十年もあなたの息子なのよ」娘は笑いながら答えた。「でもあたしのいいなずけになってからは、わずかな二年なんですもの!」
「ラ・ジュンヌ・アルディ」はもうはっきり見えていた。すでに乗組員は投錨の準備をしている。高い帆は絞《しぼ》られていた。操帆装置に飛びかかって行く水夫たちが見分けられた。しかしマリもジャン・コルンビュットもまだブリックの船長にむかって手を振ることはできなかった。
「やあ、あれはどう見ても、航海士のアンドレ・ヴァスランだぞ!」とクレルボーが叫んだ。
「あれは大工のフィデール・ミゾンヌだ」と集まった人々の一人がそれに応じた。
「そしておれたちの仲間のプネランが!」と、その名を名乗る水夫を指《さ》して別の誰かが言った。
「ラ・ジュンヌ・アルディ」はもはや港から五百メートルばかりのところまで来ていたが、そのとき黒い旗がスパンカーの斜桁に上がった……。船で誰かが死んだのだ!
恐怖の念がすべての人々の頭を、そして若いいいなずけの心をよぎった。
ブリックは悄然《しょうぜん》として港に着き、冷え冷えとした沈黙が甲板の上を蔽っていた。まもなく船は桟橋の突端を通り過ぎた。マリとジャン・コルンビュット、そして友人一同は船の着こうとする岸壁にかけつけ、あっというまに彼らは船に上がっていた。
「倅!」とジャン・コルンビュットは言った。この言葉しか彼は言えなかったのだ。
ブリックの水夫たちは帽子を脱いで弔旗を示した。
マリは悲嘆の叫びを発し、老コルンビュットの腕のなかに倒れた。
アンドレ・ヴァスランが「ラ・ジュンヌ・アルディ」を指揮して帰った。しかしマリのいいなずけルイ・コルンビュットはもはやその船の上にいなかったのだ。
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二 ジャン・コルンビュットの計画
娘が親切な友人たちの手にゆだねられて船を去ってから、航海士のアンドレ・ヴァスランはジャン・コルンビュットに、息子との再会の喜びを彼から奪った恐ろしい事件のことを知らせたが、航海日誌はこの事件について次のように述べていた。
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四月二十六日メールストロム〔ノルウェーのロフォーテン諸島の水路に見られる大渦巻き〕の沖で船は時化《しけ》と南西風のため帆をできるだけ絞っていたが、風下にいたスクーナー船がこちらへ遭難信号を送っているのを認めた。前檣《ぜんしょう》を砕かれたこのスクーナー船は帆を上げずに渦巻きのほうにむかって走っていた。ルイ・コルンビュット船長はこの船が破滅にむかって急いでいるのを見ると、助けに行こうと決心した。乗組員が諫止《れんし》したにもかかわらず彼はボートをおろさせ、水夫コルトロワと舵手ピエール・ヌーケとともにそれに乗りこんだ。彼らが霧のなかに姿を消した瞬間まで乗組員は彼らを見送った。夜になり、海はますます荒れて来た。『ラ・ジュンヌ・アルディ』はこの海域の近くを流れる潮流に引きずられて行ってメールストロムに嚥《の》みこまれる危険があった。追い風に乗ってそこから逃げざるをえなかった。その数日後この遭難の場所を遊弋《ゆうよく》してみた甲斐《かい》もなく、ブリックのボートもスクーナー船もルイ船長と二人の水夫も姿を見せなかった。アンドレ・ヴァスランはそこで乗組員を集め、船の指揮を取り、ダンケルクにむかって船を進めた。
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ジャン・コルンビュットは航海中の単なる事実としてそっけなく書かれたこの記述を読んだあと長いこと泣いた。もし彼に何か慰めがあったとすれば、それは息子が人間を救おうとして死んだのだというこの考えから来た。それから哀れな父親は、それを見るだけでも胸の痛くなるこのブリックを去って、悲しみに沈んだ自分の家に帰った。
この悲しい知らせはたちまちダンケルクの町全体にひろがった。老船乗りの多くの友人たちは心からの弔意を述べにやって来た。それから「ラ・ジュンヌ・アルディ」の水夫たちはあの事件についてできるだけくわしく説明し、またアンドレ・ヴァスランはマリに彼女の婚約者の献身的行為を詳細にわたって話さねばならなかった。
ジャン・コルンビュットは泣いた後でいろいろ考え、そして早くも船の投錨した翌日、アンドレ・ヴァスランが家に来たときにこう言った。
「アンドレ、あんたはわしの倅がたしかに死んだと思っているのかね?」
「お気の毒ですがそう思います。ジャン旦那!」とアンドレ・ヴァスランは答えた。
「で、見つけるためにありとあらゆる捜索をしたのだね?」
「しましたとも、もちろんです、コルンビュットさん! しかし二人の水夫とあの人がメールストロムの渦に呑みこまれてしまったのは、残念ながら確かすぎるほど確かだったので」
「アンドレ、あんたはこれからも航海士をつづけてくれる気があるかい?」
「それは船長によりますよ、コルンビュットさん」
「船長にはわしがなるのだ、アンドレ」と老船乗りは答えた。「急いで積荷をおろさせ、乗組員を選び、倅を捜しに駆けつけるのだ!」
「息子さんはなくなったんですよ!」とアンドレ・ヴァスランは執拗《しつよう》に言った。
「そうかもしれないがね、アンドレ」とジャン・コルンビュットは激しく言い返した。
「しかしまた、あいつは危険を脱したかもしれないのだ。わしは奴《やつ》が流されたかもしれないノルウェーのすべての港をさがしてみたいのだ。そしてもうけっして奴に会えないという確信を得たら、そのときはじめてここに帰って来て死ぬつもりだ!」
アンドレ・ヴァスランはこの決意がけっして動かぬものであることを悟って、意地を張ることをやめて引き取った。
ジャン・コルンビュットはただちに娘に自分の計画を告げたが、涙のかげにいくらかの希望の光がかがやくのを見た。いいなずけの死は疑えば疑えるのだという考えは、この娘の頭にはまだ浮かんだことがなかったのである。しかしこの新しい希望が心にきざすやいなや彼女は全面的にこの希望に身をゆだねてしまった。
老船乗りは「ラ・ジュンヌ・アルディ」をただちに出港させることに決めた。頑丈に造られたこのブリックには修理しなければならぬ損傷などは全然なかった。ジャン・コルンビュットは水夫たちが船にもどる気があるなら乗組員の構成は全くもとのままにすると公表した。ただ自分が息子にかわって船の指揮を取るだけだというのである。
ルイ・コルンビュットの仲間は一人としてこの呼びかけに応じないものはなく、アラン・チュルキェット、大工フィデール・ミゾンヌ、ピエール・ヌーケに代わって「ラ・ジュンヌ・アルディ」の舵を取るブルターニュ人プネランといった大胆な船乗り、さらに勇敢で熟練した水夫のグララン、オーピック、ジェルヴィックが集まった。
ジャン・コルンビュットはあらためてアンドレ・ヴァスランに船で以前の地位につくようにすすめた。このブリックの航海士は操船にたくみな男で、「ラ・ジュンヌ・アルディ」を無事に帰港させてその実力の程を示していた。けれども、どういう理由でかはわからないがアンドレ・ヴァスランは少々難色を示し、考えさせてくれと言った。
「あんたの好きなようにするさ、アンドレ・ヴァスラン」とコルンビュットは答えた。「ただ、受諾してくれればあんたは仲間として歓迎されるのだということをよくおぼえていてくれ」
ジャン・コルンビュットには、長いあいだいっしょに航海したブルターニュ人プネランという忠実な男がいた。小さなマリは昔、この舵手が陸《おか》にいるときは彼に抱かれて長い冬の夜を過ごしたものだった。だからプネランはこの娘に対して父親のような愛情をいつも抱いており、娘はまた親に対するような愛情でこれに答えていたものだった。プネランは全力をあげてブリックの出帆準備を急がせた。彼の見るところでは、たぶんアンドレ・ヴァスランは遭難者を見つけるためになし得るかぎりの捜索をしていない――ヴァスランには船長としての彼の肩にかかっている責任という口実があったけれども――と思えるだけによけいそうだった。
一週間もたたないうちに「ラ・ジュンヌ・アルディ」の出帆の準備はととのった。貨物のかわりに塩漬け肉、ビスケット、小麦粉の樽《たる》、ジャガイモ、豚肉、葡萄酒《ぶどうしゅ》、火酒、コーヒー、茶、煙草《たばこ》が充分に積みこまれた。
出帆は五月二十二日に予定された。その前夜、それまでまだジャン・コルンビュットに返事をしていなかったアンドレ・ヴァスランは彼の家にやって来た。まだ心がきまらず、どう決心していいかわからないでいた。
家の扉は開かれていたけれども、ジャン・コルンビュットは留守だった。アンドレ・ヴァスランは娘の部屋の隣にある広間にはいったが、昂奮したやりとりが彼の耳を打った。注意深く耳をすますと、プネランとマリの声だとわかった。
たぶん議論がこれまでかなりつづいていたのだろう。娘はブルターニュ人の水夫の忠告に頑として反対しているように見えたからだ。
「コルンビュットの伯父はいくつなのよ?」とマリは言った。
「六十くらいのもんだろう」とプネランは答えた。
「ほら、それでも伯父さんは息子を見つけるために危険に挑もうとしているじゃないの」
「船長はまだ頑丈な男だよ。槲《オーク》のようにしっかりした体と、予備の舵のように堅い筋肉を持っている! だからわしもあの人がまた海に出るといってもいっこうに驚かないがね!」
「プネランおじさん、愛しているときは人間は強いものなのよ! それだけじゃなく、あたしは神さまの加護を全面的に信じているわ。あなたもあたしの言うことを理解してくれ、あたしに加勢してくれるでしょうね!」
「いや! それは駄目だよ、マリ! どこへ漂流するか、どんな苦しみをなめねばならないかわかったものではないからね! 屈強な男であの海で命を落としたものをわしは何人見たかわからないんだよ!」
「プネラン、今度はそんなことはなくってよ。そしてあたしの願いを拒むなら、あなたはもうあたしを愛していないんだと思うわよ!」
アンドレ・ヴァスランは娘の決意を悟った。ちょっと考えてから彼の心はきまった。
ちょうど入って来た老船乗りのほうへ進み寄って彼は言った。
「ジャン・コルンビュット、仲間に入れてもらいましょう。船に乗ることを妨げていた理由はなくなりました。一所懸命やりますから期待してください」
「わしはおまえさんのことを一度も疑いはしなかったよ、アンドレ・ヴァスラン」と、ジャン・コルンビュットは彼の手を取って答えた。「マリ! 娘や!」とコルンビュットは声を高めて言った。
マリとプネランはすぐあらわれた。
「明日の明け方、潮が引きはじめると同時に帆を上げる」と老船乗りは言った。「かわいそうなマリ、これがわしらがいっしょに過ごす最後の夜だ!」
「伯父さん」とマリはジャン・コルンビュットのふところに倒れかかりながら叫んだ。
「マリ! 神さまのお助けを得ておまえのいいなずけを連れて帰るよ」
「そうだ、私たちはルイを見つけ出しますよ!」とアンドレ・ヴァスランも言葉を添えた。
「それではあんたも仲間に入るのかい?」とプネランはたたみこむようにきいた。
「そうだ、プネラン、アンドレ・ヴァスランはわしの下で航海士になるんだ」とジャン・コルンビュットが答えた。
「おやおや!」とブルターニュ人は奇妙な口調で言った。
「それに、ヴァスランの助言はわしらにとって有益だろう。老練で果敢な男だから」
「しかし、船長、あなた自身がわれわれすべての手本になるでしょう。あなたにはまだ知識に劣らぬだけの体力もありますから」
「さあ、それではまた明日。船に行って最後の手配をしてくれ。さようなら、アンドレ! さようなら、プネラン!」
航海士と水夫はいっしょに出て行った。ジャン・コルンビュットとマリは二人だけ残った。この悲しい夜のあいだどれほどの涙が流されたことか。ジャン・コルンビュットはマリがこんなに悲嘆にくれているのを見て、翌日思い切りよく彼女に知らさずに家を出てしまおうと決心した。
この出帆のために老船乗りの友人はすべて桟橋に集まって来ていた。マリとルイの結婚を祝福するはずだった司祭は船に最後の祝福を与えに来た。力強い握手が沈黙のうちに交わされ、ジャン・コルンビュットは船に上がった。
乗組員は全部そろっていた。アンドレ・ヴァスランは最後の指図《さしず》を与えた。帆は揚げられ、ブリックは北西の快適な微風に乗ってみるみるうちに遠ざかって行き、いっぽう司祭はひざまずいた見物人たちのまんなかに立ってこの船を神の御手に委ねた。
この船はどこへ行くのか? 多くの難船者が命を落としたあの危険な航路をたどるのだ! はっきりとした行先はなかった! あらゆる危険を予想し、たじろぐことなくそれらの危険に立ち向かうことができなければならないのだ! どこに行き着くことになるかは神のみぞ知る! 神がこの船を導きたまわんことを!
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三 希望の光
一年のうちのこの時期は好い季節で、乗組員は遭難の場所に早く着けるものと期待することができた。
ジャン・コルンビュットの計画はもちろんきまっていた。北風のため遭難者が流されているかもしれないフェロー島に彼は寄港するつもりだった。そしてその近海のどの港にも遭難者が収容されていないということが確かめられたら、北海の向こうまで捜索をひろげ、遭難地点にいちばん近いボドエにいたるまで、いや、必要とあらばその先まで、ノルウェー西岸一帯を捜すことにしていた。
アンドレ・ヴァスランは船長の考えとは反対に、むしろアイスランドの沿岸のほうを捜索しなければならないと考えた。しかしプネランは、事故があったときには突風は西から吹いていたと指摘した。このことは、あの不幸な人々がメールストロムの渦のほうへ引きずられて行きはしなかったのではないかという希望を与えると同時に、彼らがノルウェー沿岸に乗り上げたという推測を可能にするものだった。
そこで、彼らが通ったなんらかの形跡を見つけるために、できるだけ近づいてこの沿岸を辿《たど》ることに決定された。
出帆の翌日ジャン・コルンビュットは海図の上にうつむいていろいろと思いに耽《ふけ》っていたが、そのとき小さな手が彼の肩におろされ、やわらかい声が彼の耳もとで言った。
「元気を出してね、伯父さん!」
彼は振り向いて茫然《ぼうぜん》とした。マリが両腕で彼に抱きついていた。
「マリ! おまえが船に!」と彼は叫んだ。
「父親が息子を救うために船に乗るんですもの、妻が夫を捜しに行ってもいいじゃないの!」
「困った子だ、マリ! わしらのする苦しい生活にどうしておまえが堪えられるだろう? おまえがいることはわしらの捜索の妨げになるかもしれないということがわからないのかい?」
「そんなことはないわ、伯父さん、あたしは丈夫ですもの!」
「われわれはどこへ引っぱられて行くかわからないんだぞ、マリ! この海図を見てごらん! 海上のありとあらゆる苦労に鍛えられたわれわれ男の船乗りにとってすら危険なこと夥《おびただ》しいこの海域にわしらは近づくのだよ! それなのにかよわい女の子のおまえが!」
「でも、伯父さん、あたしは船乗りの家のものなのよ! 苦しい闘いや嵐の話には慣れているわ! あたしはあなたと古いお友だちのプネランのそばにいます!」
「プネランだって! あいつがおまえを船のなかにかくしたのか?」
「そうよ、伯父さん。ただ、あの人が手をかさなくてもあたしはやりたいようにする決心をしているということを知ったうえでだけれど」
「プネラン!」とジャン・コルンビュットは叫んだ。
プネランがはいって来た。「プネラン、できてしまったことは取り返しがつかないが、マリの一身についてはおまえに引き受けてもらうからな、忘れるなよ!」
「安心してください、船長」とプネランは答えた。「この子は体力も胆力もある。そして、われわれの守護天使になってくれるでしょう。それにまた、船長、この世では何事も申し分なしというわしの考えをあんたは知っているでしょう」
水夫たちがあっという間にかたづけ、できるだけ住みよくしてくれた一つの船室に娘は入れられた。
一週間後「ラ・ジュンヌ・アルディ」はフェローに寄港した。しかしどれほど丹念に探索してみても成果はなかった。沿岸では遭難者一人、船の破片一つ見いだされていなかった。事故のニュースすらそこでは全然知られていないのだ。ブリックはそれゆえ十日間の寄港の後六月十日ごろまた航海に出た。海の状態はよく、風は変わらなかった。船は快速でノルウェーの沿岸にむかって走ったが、この沿岸の探索も今まで以上の成果はなかった。
ジャン・コルンビュットはボドエに行こうと決心した。おそらくそこに行けば、ルイ・コルンビュットと二人の水夫がその救援に駈けつけた遭難船の名がわかるかもしれない。
六月三十日にブリックはこのボドエの港に碇《いかり》をおろした。
この土地の当局は海岸で拾われた壜《びん》をジャン・コルンビュットに渡したが、壜には次のような文面の書類がはいっていた。
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本四月二十六日、フローエルン丸乗組みのわれわれは、ラ・ジュンヌ・アルディのボートが接舷した後、潮流によって氷海のほうへ流されている。神よ、われらを憐れみたまえ!
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ジャン・コルンビュットが何よりもまず思ったのは、神に感謝することだった。これで息子の跡を追っているとわかったのだ! この「フローエルン」はノルウェーのスクーナー船で、消息不明になっているが、北のほうへ流されたことはあきらかだった。
一日も無駄にすることはできなかった。「ラ・ジュンヌ・アルディ」はたちまち極洋の危険に挑めるように準備された。大工のフィデール・ミゾンヌは綿密に点検して、その堅固な作りは氷塊との衝突に堪え得ることを確かめた。
北極海で捕鯨に加わったことのあるプネランの配慮で、毛布や毛皮服や多数のあざらし皮の靴や氷原を走るための橇《そり》を作るのに必要な木材が船に積みこまれた。アルコールと石灰の貯えも大量に追加された。グリーランドの海岸のどこかで越冬することを余儀なくされるかもしれなかったからだ。同じくまた、高い金を払って、しかもさんざん苦労して相当量のレモンをも買い入れた。これは氷に閉ざされた地方で多くの船員の命を奪うあの恐ろしい病気、壊血病を予防し、もしくは治療するためだった。塩漬け肉、ビスケット、火酒の貯えも万一に備えて追加されて、ブリックの船艙の一部を満たしはじめた。食糧庫だけではもう間に合わなかったからだ。同じくまたペミカンも大量に用意された。これは少量で多くの栄養分を含んでいるインディアンの食糧である。
ジャン・コルンビュットの命令によって氷原を切断するための鋸《のこぎり》も氷塊を押し分けるのに役立つ先の尖った棒や楔《くさび》も「ラ・ジュンヌ・アルディ」に積みこまれた。船長は橇を曳くのに必要な犬をグリーンランドで買うことも予定した。
乗組員はすべてこれらの準備のために使われ、皆は大活躍した。水夫のオーピック、ジェルヴィック、グラランは、北極圏の上にある緯度ではもう気温は低かったにもかかわらず、ウールの服に体を慣らしてはいけないという舵手プネランの忠告にこころよく従った。
プネランは何も言わずにアンドレ・ヴァスランの一挙一動を見守っていた。オランダ系のこの男は素性は知れなかったが、とにかく優れた船乗りで、「ラ・ジュンヌ・アルディ」では二度航海をしていた。あまりマリにつきまといすぎるということのほかにはプネランはまだ何一つ彼を非難することはできなかった。
乗組員の活躍のおかげでブリックは、ボドエ到着から二週間後の七月十六日ごろには出帆準備をととのえた。この時期は北極海の探検を試みるには好適だった。解氷は二か月前からはじまっており、捜索はずっと遠くまで進めることができた。「ラ・ジュンヌ・アルディ」はそれゆえ帆をひろげて、北緯七十度のグリーンランド東岸にあるブルースター岬にむかった。
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四 水路で
七月二十五日ごろ、海の上に立っている反射光で大浮氷があらわれはじめたことがわかった。浮氷はこのころデイヴィス海峡を出て大西洋へ急ぐのである。この時から見張所では監視を厳しくするように命じられた。あの巨大な量塊に絶対にぶつからぬようにしなければならなかったのだ。
乗組員は二班に分かれて見張りをすることになった。一つの班はフィデール・ミゾンヌ、グララン、ジェルヴィック、もう一つの班はアンドレ・ヴァスラン、オーピック、プネランだった。この当直は二時間とされた。寒冷な地方では人間の体力は半減するからである。「ラ・ジュンヌ・アルディ」の位置はまだ北緯六十三度でしかなかったのに、温度計はすでに零下九度を示していた。
雨と雪はしばしば大量に降った。晴れ間の、風があまり激しく吹かないときには、マリはデッキにとどまっていた。そして彼女の目も極海のこの厳しい光景に慣れて行った。
八月一日、彼女はブリックの後部を歩きまわりながら伯父やアンドレ・ヴァスランやプネランとおしゃべりをしていた。「ラ・ジュンヌ・アルディ」はこのとき、割れた氷塊が次々と非常な速度で南下して行く幅三海里ほどの水路にはいった。
「いつになったら陸がみえるんでしょう?」と娘はきいた。
「遅くとも三日か四日後には」とジャン・コルンビュットは答えた。
「でも、かわいそうなルイが通った証拠がそこでまた見つかるかしら?」
「たぶんな、娘や。しかしわしは、まだまだこの航海の終りは遠いのではないかと思う。『フローエルン』がもっと北のほうへ流されたのではないかという危惧《きぐ》もあるのだ!」
「それにちがいありませんよ」とアンドレ・ヴァスランが言い添えた。「われわれをあのノルウェー船から隔てた例の突風は三日もつづいたんだし、風に逆らえないほど故障した船ならば三日のうちにずいぶん行ってしまいますからね!」
「失礼だが、ヴァスランさん」とプネランが反駁した。「あれは四月だったし、解氷はまだ始まっていなかった、だから『フローエルン』はたちまち氷に阻まれてしまったはずだ……」
「そしておそらく|木っ端微塵《こっぱみじん》に砕かれたろう、乗組員は船を操ることができなかったんだから!」
「しかしあの氷原のおかげで陸地に上がるのは容易だったろうよ。陸地から遠くなかったはずだし」
「希望を失うまい!」とジャン・コルンビュットは、毎日航海士と舵手のあいだにくりかえされる論争をさえぎって言った。「近いうちに陸地が見えるものとわしは思う」
「陸だわ!」とマリが叫んだ。「あの山をごらんなさい!」
「ちがうよ、娘や」とジャン・コルンビュットは答えた。「あれは氷山だよ、今度遭遇した最初の氷山だ。あのあいだに挟まれたら氷山はわけもなくこの船を呑みこんでしまうのだ。プネラン、ヴァスラン、操船に気をつけていてくれ」
これらの漂う塊はこのとき五十以上も水平線にあらわれていたが、だんだんとブリックに近づいて来た。プネランは舵を取り、ジャン・コルンビュットは前檣のトガンの横木の上に昇って針路を指示した。
夕刻ごろブリックはすさまじい破砕力を持ったこの漂う暗礁のなかにすっかりはまりこんでしまっていた。こうなってはこの氷山群のなかを突っ切らねばならなかった。どう考えても前に進む意外になかったからだ。さらに別の困難がこの危険に加わった。周囲の標準点が絶えず動いて行って一定した展望を与えないので、船の方向を有効に確認することができないのである。暗さはやがて霧が出るとともに深まった。マリは自分の船室へ降りたが、船長の命令によって八人の乗組員はデッキにとどまらねばならなかった。彼らは氷が船にぶつかるのを防ぐために先に鉄のついた爪竿《つめざお》を持っていた。
「ラ・ジュンヌ・アルディ」はまもなく非常に狭い水路にはいったので、帆桁のはしが漂う氷山に触れ、ブームを引っこめねばならなかった。それどころかメイン・マストの下桁の方向を変えて支檣索に触れるほどにすることを余儀なくされた。さいわいそうしても船の速度は全然失われなかった。風は上部の帆にしか当たらなかったが、上部の帆だけで充分大きなスピードが出たからだ。船体がほっそりしていたおかげで、氷塊が不気味に軋りながらぶつかり合う中で船は渦巻く雨のしぶきが満たすこの氷山と氷山のあいだの谷に分け入った。
ジャン・コルンビュットはデッキに降りた。彼の視線もあたりの闇を見透すことはできなかった。上部の帆を絞らねばならなくなった。船は坐礁《ざしょう》する危険があったし、坐礁したらおしまいだったから。
「ひどい航海だ!」と、爪竿を持って危険きわまる衝突を防ごうとしていた前部の水夫たちのあいだでアンドレ・ヴァスランはつぶやいた。
「まったくの話、ここを逃れられたらノートルダム・デ・グラース寺院に立派な大蝋燭《だいろうそく》を捧げなくちゃなりませんや!」とオーピックは答えた。
「この後どれほど氷山のあいだを分けて行かねばならないかわかるものか!」と航海士はさらに言った。
「それに、うしろのほうにだって何がいるかわかったもんじゃない」と水夫はまた言った。
「無駄口ばかりたたくなよ、おしゃべり」とジェルヴィックが言った。「そっちの舷側をよく見張っていろ。ここを通り越してから不平を言うがいいや! 爪竿に気をつけろ!」
ちょうどこのとき、「ラ・ジュンヌ・アルディ」の行く狭い水路に突っ込んだ巨大な氷塊が向こうから非常な速度で流れて来、よけることは不可能と見えた。氷塊は水路を幅いっぱいにふさいで、ブリックは身をかわすことが不可能な状態にあったのだ。
「舵の手ごたえはあるか?」とジャン・コルンビュットはプネランにきいた。
「いや、船長! 舵はもうきかない!」
「おーい、みんな」と船長は乗組員たちに叫んだ。「こわがるんじゃないぞ。爪竿をしっかりと船縁《ふなべり》に突き立てるんだ!」
氷塊の高さはおよそ六十尺ばかりで、もしこれがブリックにのしかかって来たら船は砕かれたろう。名状しがたい不安の一瞬があった。そして船長の命令にもかかわらず乗組員たちは持ち場を離れて後部へどっと退いた。
ところが、氷塊が「ラ・ジュンヌ・アルディ」からもうわずか百メートル足らずになったとき、鈍い音が聞こえ、本物の竜巻《たつまき》がまず船の前部にざあっと落ちかかり、船はそれから大きな波の背に乗って持ち上がった。
恐怖の叫びがすべての水夫の口から飛び出した。しかし彼らの視線が前方にむかったときには、氷塊は消え失せ、水路に障害物はなく、そしてその向こうの無限の水面は夕暮れの最後の光に照らされて、何の困難もなく船を進めて行けることを保証していた。
「何事も申し分なしだ!」とプネランは叫んだ。「トップスルとフォースルを張ろう!」
今起こったのはこのあたりではごく普通な現象だったのである。これらの漂う氷塊は解氷期に分離したときには、それぞれ完全に平衡を保って流れて行く。しかし水温がわりに高い大洋に出ると、それらの氷塊はまもなくその基部から痩《や》せ細って行く。基部はすこしずつ溶け、それにまたほかの氷塊との衝突でゆるがされるのだ。そのためこの塊の重心が移る時が来る。そうなると塊は完全にひっくりかえるのである。ただ、もしあの氷塊がもう二分早くひっくりかえったとしたら、ブリックの上に落ちかかり、そうして船を打ち砕いたであろうが。
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五 リヴァプール島
ブリックはこのときほとんど障害物のない海を走っていた。ただ水平線に白っぽい光が――ただしこれは動かない光だったが――不動の平原の存在を示していた。
ジャン・コルンビュットは依然としてブルースター岬へ船を向け、気温が極度に低い地方にすでに近づいていた。太陽の光線がここではその傾斜角のためひじょうに弱められて届くからだ。
八月三日、ブリックはたがいにくっついて動かぬ氷の前に出た。水路はしばしばわずか二百メートル足らずの幅になることもあり、「ラ・ジュンヌ・アルディ」は何度となく迂回を強いられ、そのためときどき風に逆らうことになった。
プネランは父親のような心づかいでマリの世話をやき、寒さにもかかわらず毎日二時間か三時間はデッキの上に出て過ごすようにさせた。体を動かすことは健康のために欠かせない条件の一つとなって来たからだ。
それにしてもマリの勇気は衰えなかった。彼女はその言葉でブリックの水夫たちを励ましさえしたし、誰もが彼女に対して真の敬愛をおぼえた。アンドレ・ヴァスランは今までにもまして彼女の機嫌《きげん》をとり、何につけても彼女と話をする機会を求めた。しかし娘のほうは一種の予感といったものによって、彼の心づくしをある冷ややかさをもってしか受けつけなかった。現在のことよりもこれから先のことがアンドレ・ヴァスランの話題になり、遭難者の救出の可能性はあまりないということを彼がかくそうとしなかったことは容易に察せられよう。彼の考えでは、遭難者たちの死は今では既成事実であり、こうなってはもう娘は誰か他のものの手に頼って生きねばならないのであった。
けれどもマリはまだアンドレ・ヴァスランのもくろみを悟っていなかった。なぜなら、ヴァスランにとってははなはだ憂鬱《ゆううつ》なことに、こうした会話は長くつづくことがなかったからだ。機を見てプネランがいつも口をはさみ、希望的な言葉を耳に入れてアンドレ・ヴァスランの話の効果を無にしてしまったのである。
そのうえマリは何もしないで遊んではいなかった。舵手の忠告にしたがって彼女は自分の冬の服を作った。そして彼女はそれまで着ていたものをすっかり替えねばならなかった。彼女の婦人服の仕立てはこの高緯度の寒さには適しなかったのだ。そこで彼女は脚の部分にあざらしの毛をつけた一種の毛皮ズボンを作った。そして彼女のぴったりとしたスカートも、冬になると氷原を蔽う厚い雪に触れないように脚の半分までの長さにちぢめられた。胴にぴったりとまきつく頭巾つきの毛皮のマントが彼女の上半身を蔽った。
仕事の合間に乗組みの男たちも寒さを防ぐことのできる服を自分でこしらえた。彼らはあざらしの皮の長靴をたくさん作った。これがあれば探索旅行のあいだ雪のなかを平気で歩くことができるはずだった。彼らは船がこの水路を通って行くあいだじゅうこのようにして働いた。
射撃のひじょうにうまいアンドレ・ヴァスランは無数の群れをなして船のまわりを舞う水鳥を何度も撃ち落した。綿毛鴨《わたげがも》と雷鳥の一種が乗組員にすばらしい生肉を供給し、彼らは塩漬け肉からしばらく開放された。
とうとうブリックは何度となく迂回した後にブルースター岬の見えるところへ出た。大型ボートが海におろされた。ジャン・コルンビュットとプネランは岸に上がったが、岸にはまったく人気《ひとけ》はなかった。
ただちにブリックは一八二一年にスコアズビー船長の発見したリヴァプール島にむかい、乗組員は土人が浜に駈けて来るのを見て歓声をあげた。プネランが知っている原住民のいくつかの単語と原住民のほうがこの海域に出没する捕鯨船の漁夫から教えられていたいくつかの慣用句のおかげで、すぐさま意志の疎通はできた。
このグリーンランド人たちは背が低くずんぐりしていた。彼らの身の丈は四フィート十インチ以上にはならなかった。皮膚《ひふ》の色は赤みがかり、丸顔で額《ひたい》は狭かった。なめらかな黒い髪の毛は肩の上に落ちていた。歯は虫歯だらけで、肉食部族に特有のあのレプラみたいな病気にかかっているように見えた。
彼らのひじょうにほしがっている鉄片や銅片と交換にこの貧しい住民は熊の毛皮や、海仔牛《ヴォー・マラン》、|海 犬《シャン・マラン》、|海  狼《ルー・ド・メール》その他、一般に|あざらし《ヽヽヽヽ》という名称のもとに総括されているすべての獣の皮を持って来た。ジャン・コルンビュットはこれから先ひじょうに役に立つことになるこれらの品物をごく安価に入手することができた。
船長はそれから原住民たちに、自分は遭難船を捜しているのだということを理解させ、遭難船について何か聞いていないかと質問した。彼らのうちの一人がさっそく雪の上にある種の船の形を描き、こういう種類の船が三か月ほど前、北のほうへ流されて行ったと告げた。彼はまた、解氷と氷原の割れ出したことのためその船を見つけに行くことができなかったとも告げた。事実彼らが櫂で漕ぐひじょうに軽い小舟はこうした状態の海には出られないのであった。
この消息は不完全なものではあったが水夫たちの心のうちに希望をよみがえらせ、ジャン・コルンビュットが彼らを連れてなお極海の奥に分け入ることに困難はなかった。
リヴァプール島を出発する前に船長は六匹のエスキモー犬を買い入れ、これらの犬はまもなく船の生活に慣れた。船は八月十日の朝、錨を揚げ、力強い風を受けて北の水路に入って行った。
このころは一年じゅうでいちばん日の長いころになっていた。この高緯度にあっては、沈むことのない太陽は水平線の上で描く螺旋の頂点に達していたからだ。
このように夜というものが全然ないことも、しかしそれほど痛切には感じられなかった。霧や雨や雪が往々にして船を真の闇で包んだからだ。
できるかぎり奥深く行こうと決心していたジャン・コルンビュットは健康維持のための措置を取りはじめた。中甲板は完全に閉ざされ、毎日朝だけ風を通して空気を換えることになった。ストーヴが据えられ、煙突はできるだけ熱を出すように配置された。乗組員たちには木綿のシャツを着ること、そして革外套をぴったりと締めるように命じられた。ただし火はまだ焚かれなかった。酷寒にそなえて薪や石炭の貯えを残しておくことが必要だったからだ。
コーヒーや茶のような温い飲み物が朝夕規則的に乗組員にくばられ、肉を食べることは体によかったので、このあたりにふんだんにいる鴨《かも》や小鴨の猟がおこなわれた。
ジャン・コルンビュットはまたメイン・マストのてっぺんに、「鴉《からす》の巣」と言われる、底が抜けた樽《たる》のようなものを取りつけさせた。氷原を偵察するためにここに絶えず見張りがのぼっているのである。
リヴァプール島が視界から去って二日後、気温は乾いた風のために急激に低下した。冬の兆候がいくつか認められた。「ラ・ジュンヌ・アルディ」はもう一刻もおろそかにすることはできなかった。まもなく通路は完全に閉ざされてしまうはずだったから。船はそれゆえ、もう三十フィートもの厚さになった氷原のあいだに残る水路を縫って進んだ。
九月三日の朝、「ラ・ジュンヌ・アルディ」はガエル・ハムケス湾の沖に達した。陸はこのとき風下三十海里のところにあった。ここではじめてブリックは、全然通路のない、幅はすくなくとも一マイルにひろがる浮氷の前に停止した。そこで氷を切るために鋸《のこぎり》を用いねばならなかった。プネラン、オピック、グララン、チュルキエットが、船の外に据えられたこの鋸を動かす組にまわされた。大浮氷から離れた塊を潮流が運び去って行くような具合に切って行くことになった。乗組員が全員揃ってこの作業に二十時間近く費した。男たちは氷の上に立っているのにひどく骨を折った。しばしば彼らは体の半分まで水につからねばならず、彼らのあざらし皮の服も水を防ぐことはごく不完全にしかできなかった。
そのうえこの高緯度のもとでは、すべて過度の労働をした後ではまもなく徹底的な疲労が来た。たちまちのうちに息が切れ、どれほど頑健な人間でもたびたび休まざるを得なかったのだから。
とうとう船はまた自由に動けるようになり、ブリックはあんなに長いあいだそれを引き留めていた大浮氷の向こうへ引っぱり出された。
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六 氷の地震
なお数日のあいだ「ラ・ジュンヌ・アルディ」は手に負えない障害とたたかった。乗組員はほとんど四六時中鋸を手放さず、それどころか道をさえぎる巨大な氷の塊を爆破するのに火薬を使わねばならぬこともしばしばだった。
九月十二日、海はもはや出口もなく通路もないしっかりと固まった平原となりおおせた。この平原は四方から船を取りかこみ、船はもう進むこともしりぞくこともできなかった。温度は平均して零下十六度のところにとどまっていた。越冬の時期となったのだ。冬の季節がその苦痛と危険とをともなってやって来たのである。
「ラ・ジュンヌ・アルディ」はこのときおおよそ西経二十一度、北緯七十六度のガエル・ハムケスの湾口にいた。
ジャン・コルンビュットは越冬の最初の準備をした。彼はまず、突風と氷の崩壊から船を守るような位置にある入江を見つけることを心がけた。西のほう十マイルほどのところにある陸にしか安全な避難所はなかったので、彼は偵察に行くことに決めた。
この九月十二日、アンドレ・ヴァスランとプネラン、その他にグラランとチュルキエットという二人の水夫を連れて彼は出発した。各自が二日分の食糧を持っていた。それ以上の日数になることは考えられなかったからだ。また彼らは、下に敷いて寝るために水牛の皮を用意した。
それまで雪がふんだんに降り、しかも雪の表面は凍っていなかったので、彼らの歩みはずいぶん遅れた。しばしば体の半ばまで雪にもぐり、そのうえクレヴァスに落ちたくなければ極度に慎重に進まねばならなかった。先頭に歩いていたプネランは地面の凹んだところがあるたびに鉄の石突きのついた杖で丹念にさぐってみた。
午後五時ごろ霧が濃《こ》くなりだし、この小さな一隊は停止しなければならなかった。プネランは風から身を守ってくれそうな氷塊を捜すことを引き受け、そして何か温い飲み物を持って来なかったことを後悔しながら少々腹をふくらませたうえで、彼らは雪の上に水牛の皮をひろげ、それに身を包み、たがいに体を寄せ合い、やがて眠りが疲労に打ち克った。
明くる朝ジャン・コルンビュットとその仲間は一フィート以上もの厚みの雪の層に埋められていた。さいわい全然水を通さぬ水牛の皮が彼らを守ってくれたし、それのみかこの雪は彼ら自身の体熱が外へ発散するのを防ぎ、体熱を保持するのに役立った。
ジャン・コルンビュットはさっそく出発の合図をした。そして正午ごろ一同はようやく海岸を認めた。海岸は最初は少々見分けにくかった。垂直に切り立った高い雪の塊が岸にそばだっている。形状も高さもさまざまなそれらの塊の頂きは、結晶という現象を拡大して見せていた。数知れぬ水鳥が船乗りたちの接近につれて飛び立ち、氷の上にものうげに寝そべっていたあざらしはあわただしく水にもぐった。
「まったくね!」とプネランは言った。「毛皮や肉には事欠くまいて!」
「この動物たちはすでに人間の訪問を受けたことがあるとしか思えないぞ」とジャン・コルンビュットが答えた。「全然人の住んでいないあたりだったら動物はこんなに人を恐れないはずだ」
「この土地によくやって来るのはグリーンランド人だけですよ」とアンドレ・ヴァスランは言った。
「それにしては彼らが通った形跡は全然見えない、野営の跡も小屋も全然ない!」と、小高い氷のピークによじのぼりながらプネランは答えた。――「おーい、船長、来てくれえ!」と彼は叫んだ。「小さな岬が見えるが、あれなら北東の風をうまくよけてくれるだろう」
「こっちだ、みんな!」とジャン・コルンビュットは言った。
仲間は彼のあとにつづき、一同はまもなくプネランのところに着いた。プネランの言ったのは正しかった。小高い突起が岬のように突き出し、岸のほうにむかって折れて、奥行きはせいぜい一マイルほどの小さな湾を作っている。この地面の突き出したところで割られた氷がいくつか湾の中央に浮かび、いちばん冷たい風から守られたそこの海面はまだ完全には氷結していなかった。
この越冬地点は申し分なかった。残る問題は船をそこに持って来ることだけだった。ところが、ジャン・コルンビュットはこの湾に接する氷原がひじょうに厚いことに気がついた。こうなるとブリックを目的地に進めるために運河を穿《うが》つことはすこぶる困難のように見えた。それゆえ別の入江を捜さねばならなかった。ジャン・コルンビュットが北のほうに行ってみたが、それも無駄だった。海岸は相当の長さにわたって切り立ってまっすぐにつづき、突出部の向こうは東の突風をもろに受けていた。アンドレ・ヴァスランが決定的な論拠にもとづいてこの位置がどんなに悪いかを力説していただけに、この事情はよけい船長を当惑させた。プネランといえども、事ここにいたってなおすべては申し分なしだということを自分自身に納得させるのはひじょうに困難だった。
ブリックにはそれゆえ、海岸の南側に越冬地点を見つける可能性しかもはや残されていなかった。それは引き返すことだったが、ぐずぐずすることはできなかった。小さな一隊はそこでまた船にむかって足を速めた。食糧がなくなりかけたからだ。ジャン・コルンビュットは船の通れる水路、あるいはせめて氷原に通路を穿てるような割れ目か河かを道々ずっと捜して行ったが、何も見つからなかった。
夕刻船乗りたちは前夜野宿した氷塊のそばまで来た。この一日は雪が降らなかったので、彼らの寝た体の痕《あと》がまだ氷の上に見分けられた。それゆえ寝るには万事都合よくなっており、彼らは水牛の皮の上に身を横たえた。
探索の不成功にひじょうに気を腐らせたプネランは熟睡できないでいたが、その不眠の一時《いっとき》、彼の注意は何か鈍く轟《とどろ》く音にひきつけられた。彼はこの音にじっと耳を澄ました。このごろごろという音はひじょうに奇怪に思われたので、彼は肘《ひじ》でジャン・コルンビュットを突いた。
「どうした?」と、船乗りの常として体と同じく頭のほうも機敏に目覚めるジャン・コルンビュットはきいた。
「よく聞いてみな、船長!」とプネランは答えた。
音はいちじるしい激しさをもって高まった。
「こんな高緯度だから雷ではありえない!」とジャン・コルンビュットは起き上がりながら言った。
「それよか白熊の群れが襲って来るんじゃないかと思いますがね!」とプネランは答えた。
「ちくしょう! それにしてもまだ姿は見えないが」
「遅かれ早かれ奴らがやって来るものと思わなくちゃなりませんよ」とプネランは言った。
「だからまず立派に迎えてやろうじゃありませんか」
プネランは銃を持って、彼らを守っている氷塊に身軽く登った。闇は深く空は曇っていたので、彼は何も見つけることができなかった。しかしまもなく新しい事態が生じて、この物音の原因は周囲にあるのではないことを証明した。ジャン・コルンビュットは彼に追いつき、その激しさで今は仲間たちも目を覚ましてしまったこの轟きは彼ら自身の足もとで起こっていることに気がついて愕然《がくぜん》としたのだ。
別の種類の危険が彼らをおびやかしに来たのである。その音はまもなく雷鳴と思えるようになったが、それとともに氷原がひじょうにはっきりと波を打ち出した。何人かの水夫は平衡を失って倒れた。
「気をつけろ!」とプネランは叫んだ。
「合点!」と皆は答えた。
「チュルキエット! グララン! どこにいる?」
「ここだ!」とチュルキエットは体を蔽った雪を振り落としながら答えた。
「ヴァスラン、ここへ」とジャン・コルンビュットは航海士に叫んだ。「で、グラランは?」
「ここです、船長!……しかしもう駄目ですぜ!」とグラランは怯《おび》えあがって叫んだ。
「そんなことがあるか!」とプネランが言う。「もしかすると救われるかもしれんぞ!」
彼がそう言い終えたか終えぬかのうちに、凄まじいぎしぎしという音が聞こえた。氷原は完全に砕け、水夫たちは自分らのそばで震えている氷塊にしがみつかねばならなかった。舵手の言葉にもかかわらず彼らは極度に危険な状態にあった。地震がはじまったのだ。氷塊は今、船乗り流に言えば「錨を揚げた」。この動きは二分近くつづき、まさに不幸なこの水夫たちの足の下にクレヴァスが開けるおそれもあった! そこで彼らは絶えず戦々兢々としながら夜の明けるのを待った。死ぬのを覚悟してでなければ一歩も踏み出すことはできなかったからだ。呑みこまれぬように彼らは体をいっぱいに伸ばして横たわっていた。
最初の微光がさして来ると、まったく一変した風景が彼らの目の前にあらわれた。前日は平坦につづいていた広大な氷原はそこらじゅうで截《た》ち切られ、海底のなんらかの激動でまきあげられた波が、それを蔽っていた厚い氷の層を砕いたのだった。
ブリックのことがジャン・コルンビュットの念頭にのぼった。
「わしの船!」と彼は叫んだ。「あいつもやられてしまったに相違ない!」
このうえなく暗い絶望が彼の仲間たちの顔の上にあらわれて来た。船を失ったことは必然的に彼ら自身遠からず死なねばならぬことを意味した。
「元気をだせ、みんな!」とプネランはまた言った。「船を越冬地点の湾まで進めることができるような通路が、昨夜の地震のおかげで氷のなかに開かれたものと思ってみるんだ! やっ! ほら、わしの言ったとおりだぞ! 『ラ・ジュンヌ・アルディ』があすこにいる、一マイルもこちらに寄って!」
一同は前に飛び出した。しかもあまり無鉄砲に飛び出したので、チュルキエットは割れ目にはまりこみ、ジャン・コルンビュットが彼の頭巾をつかまえなかったとすれば間違いなく命を落とすところだった。この場合は少々冷たい水浴だけで済んだのだが。
事実ブリックは風上二海里のところに浮かんでいた。測り知れぬ苦労の後にこの小さな一隊は船にたどりついた。船は無事だった。しかし取りはずすことを怠っていた舵は氷に砕かれていた。
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七 越冬地の設営
プネランはまたしても正しかった。万事は申し分なく、この氷の地震は湾まで進むことのできる道を船のために開いていたのだ。船員たちはたくみに潮の流れを見て氷塊をそこへ流しこみ、道を切りひらいて行けばよかった。
九月十九日、ブリックはとうとう越冬地の湾のなかの陸から四百メートル足らずのところに停められ、適度な水深にしっかりと錨をおろした。翌日には早くも船体のまわりに氷が張った。やがてその氷は人間一人の重さに堪えるほど固くなり、陸地と直接連絡することができるようになった。
極洋の航海者の習慣にしたがって彼らは船の索具はそのままにしておいた。帆は帆桁の上に丁寧にたたんで覆《おお》いをかけられ、「鴉の巣」は遠方を見張ることができるように、同時にまた人の注意を船にひきつけるようにそのままの位置に残された。
すでに太陽は水平線の上にほとんど昇らないほどになった。夏至《げし》以来太陽の描く螺旋はだんだんと下がり、まもなく完全に没してしまうはずだった。
乗組員は準備を急いだ。プネランはこうした準備をみごとに指揮して見せた。船のまわりの氷はまもなく厚くなり、氷の圧力が危険をもたらすおそれがあった。しかしプネランは、漂う氷塊の往来とその粘着力によって氷の厚さが二十フィートばかりにまでなるのを待った。それから彼は船体の周囲をななめに切り取らせ、こうして氷が船の形に添って船底の下でくっつくようにした。床にぴったりはまりこんでしまうと、その後はブリックは全然動くことのないこの氷の圧力をもはや恐れる必要はなくなってしまった。
船員たちはそれから船のまわりにめぐらしてある帯板に沿って甲板の手摺《てすり》の高さまで、五フィートから六フィートまでの厚さの壁を作ったが、この壁もまもなく岩のように固くなった。こうした蔽いのために内部の熱は外に発散することができなくなった。獣皮で蔽ってぴったりと閉ざされたズックのテントが甲板のはしからはしまで張りめぐらされ、乗組員にとっていわば散歩場といったものになった。
同じくまた陸に雪で倉庫が作られ、船のなかで邪魔になるものはそのなかに積み上げられた。船室の仕切りは取り払われ、前部から後部まで一つの大きな部屋でしかなくなった。それにまたこうした一室のほうが温めるのに容易だった。そのほうが氷や湿気のひそむ隅《すみ》がすくなくなるからである。同じくまた、外にむかって開く麻布のホースのようなもので適度に換気するにもこのほうが都合がよかった。
各人はこうしたいろいろ準備のために大車輪で働いた。そして九月二十五日ごろ準備はすっかり完了した。アンドレ・ヴァスランはこれら各種の整備についても人後に落ちぬ腕前を見せた。とりわけ彼は娘の世話をやくことには極端すぎるほどの熱心さを示した。そして、娘自身は不幸なルイのことで頭がいっぱいでそんなことに気づかなかったとしても、ジャン・コルンビュットはまもなくそのあたりの事情を悟った。これについて彼はプネランと話し合った。この航海士の肚《はら》の内がそれによってすっかりさらけ出されたいくつかの事実を彼は思い出した。アンドレ・ヴァスランはマリを愛しており、遭難者たちの死んだことについてもはや疑う余地がなくなり次第、伯父に彼女をくれと頼むつもりなのだ。そうなったら一行はダンケルクへ帰り、アンドレ・ヴァスランは、そのときはジャン・コルンビュットの唯一の相続人となる美しい金持ちの娘を娶《めと》って大満悦ということになろう。
ただアンドレ・ヴァスランはもどかしさのあまりしばしば|へま《ヽヽ》をやった。遭難者を見つけようとする捜索のことを彼は何度となく無駄だと言ってのけた。そしてしばしば新しい証拠があらわれて彼の言葉を打ち消し、プネランはそれを見せつけて喜ぶのであった。それがため航海士は心底から舵手を憎み、舵手のほうもお返しとして航海士を憎んだ。舵手の恐れることはただ一つ、アンドレ・ヴァスランが乗組員のあいだに何か不和の種を播《ま》くことに成功しはしないかということだった。そして彼はジャン・コルンビュットに、最初相手が何か言って来たときにははぐらかした返事しかしないようにすすめた。
越冬の準備が完了すると船長は乗組員の健康を維持するためのいろいろな措置を取った。毎朝男たちは換気をして丁寧に室内の壁を拭き、夜の湿気が残らないようにすることを命じられた。朝と夕方熱い茶かコーヒーが与えられたが、これは寒さに対抗する最上の刺戟剤の一つであった。それから彼らは狩猟班に分けられて、各班は船の上での食事のためにできるだけ多くの新鮮な獲物を毎日|稼《かせ》ぐこととされた。
各人はまた毎日健康体操をおこなわねばならず、体を動かすことなく外の気温に身をさらすことは許されなかった。零下三十度の寒さでは体のどこかに突然凍傷ができることもないと言えなかったからだ。そうなった場合は雪で摩擦《まさつ》しなければならない。これだけが患部を救い得るのだった。
プネランはまた毎朝冷水で洗面することを強くすすめた。室内で溶かした雪のなかに手と顔をつっこむには相当の勇気が必要だった。しかしプネランは勇敢に手本を示し、そしてマリも彼に倣《なら》うことにかけては人後に落ちなかった。
ジャン・コルンビュットはまた、読むことと祈祷《きとう》のことも忘れなかった。心のうちに絶望や倦怠《けんたい》の忍び入る隙《すき》を残してはならなかったからだ。このような荒涼とした地方ではこれ以上危険なものはなかったのである。
依然として暗い空は人の心を憂愁《ゆうしゅう》で満たした。激しい風にたたかれる厚い雪はいつもの恐怖感をいやが上にも煽《あお》った。太陽はもうじき没しようとしていた。雲が船乗りたちの頭上に吹き寄せられていなかったとすれば彼らは月の光を楽しめただろう。月は極地のこの長い夜のあいだ実際彼らにとっての太陽になろうとしていたのだ。しかしこの西風とともに雪はいっこうやまなかった。毎朝彼らは船のまわりの雪を掻《か》き、氷原に降りるのに必要な階段をあらためて氷に刻まねばならなかた。雪削り用のナイフでこの仕事は簡単にできた。削って段々を作ってしまうと、その表面に水をすこしかける。するとたちまち段は固く凍ってしまうのである。
プネランはまた船から遠くないところで氷に穴を掘らせた。毎朝穴の上部に新しくできた氷のかさぶたを割り、その穴のかなり深いところから水を汲むのだが、この水は表層の水ほど冷たくなかった。
こうしてすべての準備はだいたい三週間かかった。それからもっと奥へ捜索を進めることになった。船は今後六か月か七か月閉じこめられ、来年の解氷によってはじめて氷のあいだを縫う新しい水路が開かれるのである。それゆえこの強いられた休止期間を利用して北のほうへ探索を向けねばならなかった。
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八 探索計画
十月九日、ジャン・コルンビュットは作戦計画を立てるために会議を開いたが、連帯によって各人の熱意と勇気が高められるようにこの会議に全員を出席させた。地図を手に彼は明確に現在の位置を説明した。
グリーンランドの東岸は垂直に北上している。いろいろの航海者の発見によってこの海域ははっきりと輪郭がわかっていた。グリーンランドとスピッツベルゲンを隔てる五百里のこの空間にはこれまでまだ陸地は全然認められていなかった。シャノン島というただ一つの島は、「ラ・ジュンヌ・アルディ」がこれから冬を越そうとしているガエル・ハムケス湾の北方百海里ばかりのところにあった。
だから、例のノルウェー船はどう考えてもその方向にむかって流されたらしいのだが、シャノン島まで船は達し得なかったとしても、ルイ・コルンビュットと遭難者たちが冬にそなえて避難したのはこの島に相違なかった。
この意見はアンドレ・ヴァスランの反対にもかかわらず他を圧し、シャノン島のほうへ探索を進めることに決せられた。
準備はただちにはじめられた。ノルウェーの沿岸でエスキモー式の橇《そり》が手に入れてあった。これは前部と後部の反った板で作り、雪の上でも氷の上でもよく滑《すべ》れた。長さ十二フィート、幅四フィートもあって、それゆえ必要とあれば数週間分の食糧を運ぶことができる。フィデール・ミゾンヌがたちまちこれを整備してしまった。この仕事は、彼の道具が運びこまれていた雪の倉庫のなかでおこなわれたのである。この倉庫には石炭ストーヴがはじめて据えられた。それなしにはどんな仕事も不可能だったからだ。ストーヴの煙突は、側壁の一つの雪に穴をあけて外へ出された。しかしこのやりかたでは重大な不都合が生じた。煙突の熱がだんだんと煙突に接する場所の雪を溶かし、穴は目に見えて大きくなったのだ。ジャン・コルンビュットは煙突のこの部分を断熱性の金網で包むことを思いついた。これは大成功だった。
ミゾンヌが橇にとりかかっているあいだ、プネランはマリに手伝ってもらって旅行用の着替えの衣服を準備した。あざらし皮の長靴はさいわいたくさんあった。ジャン・コルンビュットとアンドレ・ヴァスランは食糧の手配をした。携帯|焜炉《こんろ》を焚くためのアルコールの小樽を選び、茶とコーヒーは充分に持って行くこととし、ビスケットの小箱とペミカン二百ポンド、火酒を詰めた水筒いくつかが食糧を補った。毎日猟で生鮮食料を供給することとされた。相当量の火薬がいくつかの袋に分けられた。羅針盤、六分儀、望遠鏡はけっして何かにぶつかることのないような場所に置いた。
十月十一日には太陽はもう水平線の上に昇らなかった。一同の部屋には絶えずランプをともしておかねばならなかった。もう時間を無駄にすることはできず、探索をはじめねばならなかった。その理由は――
一月には寒気は激しくなって、生命の危険を冒さずには外へ出ることはできなくなる。すくなくとも二か月間は一同は完全に蟄居《ちつきょ》せざるを得ないのである。その後解氷がはじまり、それは船が氷を離れねばならぬ時期までつづく。この解氷はそれゆえいっさいの探索を不可能にするのである。他方ではまた、もしルイ・コルンビュットとその仲間がまだ生きているものとしても、極地の冬の厳しさに堪え得るものとは考えられない。だからその前に彼らを救い出さねばならない。そうしなければすべての希望は失われるのだ。
アンドレ・ヴァスランはこうしたことすべてを誰よりもよく知っていた。それゆえ彼はこの探索をありとあらゆる仕方で妨害しようと決心した。
旅の準備は十月二十日ごろ完了した。そこで参加する人間を選ぶ段階になった。娘はジャン・コルンビュットなりプネランなりの保護から離れるわけに行かなかった。ところがこの二人はどちらも探索隊に欠けてはならない。
問題はそこで、マリがこのような旅の疲労に堪え得るかどうかだった。これまで彼女はたいして苦しみもせずに厳しい試練を通り抜けてきた。幼いころから海の辛苦に親しんできた船乗りの娘だったからだ。実際プネランは、彼女がこの恐ろしい気候のただなかで極海の危険とたたかうところを考えても恐怖は感じなかった。
そこで長い論議のあげく、娘は探検に加わること、必要とあれば彼女のために橇の上に席をもうけ、しかも橇の上に密閉した小さな木の小屋を作ることに決定された。マリ自身はといえば、彼女はこれで念願を満たされた。二人の保護者から離れることは彼女にはたまらなかったのだから。
探検隊はこうして、マリ、ジャン・コルンビュット、プネラン、アンドレ・ヴァスラン、オーピック、フィデール・ミゾンヌで構成された。アラン・チュルキエットはブリックの番をすることを特に命じられており、ジェルヴィックとグラランも船に残った。あらゆる種類の食糧があらたに持ち出された。ジャン・コルンビュットは探索をできるだけ遠くまで進めるために、途中でおよそ一週間行程ごとにデポを置くことに決めていたからである。橇の整備が成るやいなやただちに荷を積みこみ、その上を水牛の皮のテントで蔽った。全体でおよそ七百ポンドほどの重さになり、五匹の犬でやすやすと氷上を曳くことができた。
十月二十二日、船長の予想どおり唐突な気温の変化が生じた。空は晴れ、星はきわめてあざやかなきらめきを発し、月は水平線の上にかがやいてそれ以後二週間ばかり落ちようとしなかった。温度計は零下二十五度に下がった。出発は翌日に予定されていた。
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九 雪の家
十月二十三日午前十一時、一行は美しい月光を浴びて出発した。今度は必要とあらば旅行がずっと延びてもかまわぬように用意ができていた。ジャン・コルンビュットは北上しながら海岸に沿って行った。歩行者の足跡はこの固い雪の上には全然残らなかった。そこでジャン・コルンビュットは遠くのほうに目標点を定めて、それによって方向を定めて行かねばならなかった。あるときは圧力によって氷原の上に押し上げられた氷塊の上を彼は進んだ。
十五マイルばかり進んでから最初に休止した地点でプネランは野営の準備をさせた。テントは氷の塊によせかけて立てられた。マリはこの厳しい寒さにそれほど苦しめられなかった。さいわい風はしずまってずっと凌《しの》ぎやすくなっていたからだ。しかし何度となく娘は橇から降りて、体がかじかんで血行が止まってしまうのを防がねばならなかった。ただしプネランの心づかいで獣皮を張った彼女の小屋はこんな場合考え得るかぎりの快適さを与えてくれた。
夜が、というよりも休息の時間が来ると、この小さな小屋はテントの下に運ばれて娘の寝室となった。夕食は新鮮な肉とペミカンと温い茶だった。ジャン・コルンビュットは壊血病の有害な影響を予防するために全員にレモンの液汁を何滴かくばらせた。それから皆は神の加護に身をゆだねて眠りについた。
八時間の睡眠の後に各人はそれぞれの行進の位置についた。滋養に富んだ朝食が人間と犬たちに与えられ、それから一行は出発した。氷はひじょうに平坦で、犬たちは楽々と橇を曳くことができた。人間たちはときとして後について行くのに骨を折るほどだった。
しかし何人かの船乗りをやがて襲った苦痛がある。それは目まいだった。目の炎症がオーピックとミゾンヌにあらわれた。この果てしない白い平原に照りつける月の光が視覚を刺戟し、堪えられぬほど目をひりひりさせるのだった。
それにまた光の屈折のひじょうに奇妙な効果が生じて来た。歩きながら足をちょっと高くなったところにおろしたつもりなのに、足はもっと下に落ちる。そのためよく人々はころんだ。さいわいそれはたいしたことにはならず、プネランはそのことで冗談を言っていた。それでも彼は、めいめいが持っている鉄の石突きのついた杖で足もとをさぐらずにはけっして足をおろさないように命じた。
出発から十日後の十一月一日ごろ、一行は北にむかって五十里ばかり進んでいた。疲労は誰にとっても堪えがたいほどにまでなっていた。ジャン・コルンビュットはものすごい目まいをおぼえ、視力はいちじるしく減退した。オーピックとフィデール・ミゾンヌはもはや手さぐりでしか進めなかった。彼らの目の縁は赤くなり、白い反射によって目が焼かれてしまったように見えた。マリはできるだけ小屋のなかにいたせいでこうした予期しない症状から免れていた。プネランは粘り強い気力に支えられてこうした疲労にもちこたえていた。しかしそれ以上に、いちばん元気でこうした苦痛や寒さや目まいにいっこう悩まされるように見えないのは、アンドレ・ヴァスランだった。彼の不死身の体はこれらすべての疲労に堪えるようにできていた。そこで彼はいちばん屈強な連中までも意気沮喪に陥るのを見て喜び、もうじき引き返さねばならぬときが来るぞと早くも予想していた。
ところで、この十一月一日には疲労のため一日か二日休止することがどうしても必要となった。
野営地が選ばれるとさっそく人々は設営にかかった。岬の岩の一つにもたせかけた雪の家を作ることに決められた。フィデール・ミゾンヌがすぐその土台の線を引いたが、それは長さ十五フィート幅五フィートとなった。プネランとオーピックとミゾンヌは小刀を使って大きな氷の塊を切り取り、指定された場所に運び、石工が石の壁を作るような具合に積み上げた。まもなく奥の壁は五フィートほどの高さと同じくおおよそ五フィートの厚さになった。なにしろ材料には事欠かない。数日は保《も》つだけの堅牢さがどうしても必要だった。四方の壁はおよそ八時間で仕上げられた。南側に出入口がもうけられ、この四つの壁の上にひろげたテントの布は出口のある側に落とされてこの出口をかくした。後はもう全体を、この一時|凌《しの》ぎの建造物の屋根を作る大きな氷の塊りで蔽うだけだった。
三時間の苦しい労働の後に家はできあがり、皆は疲労と気落ちを感じながら、そのなかにもぐりこんだ。ジャン・コルンビュットは一歩も歩けぬほどまでまいっており、アンドレ・ヴァスランは彼のこうした苦しみにうまくつけこんで、この恐ろしい荒涼の地のなかでこれより先まで捜索をつづけないという約束を遮二無二させてしまった。
プネランはもうまったく途方にくれていた。彼は実証されない推定にもとづいて自分の仲間を見捨てるのは見下げた卑怯なことだと思った。だから彼はそのような推定を打ち破ろうとしたが、その甲斐《かい》はなかった。
しかしまた、帰ることに決定されはしたものの、休息はどうしても必要だったので、三日間人々は全然出発の準備をしなかった。
十一月四日にジャン・コルンビュットは、もはや必要でなくなった食糧を海岸のある地点に埋めさせることをはじめた。新しい探索のためまたこちらのほうへやって来るという万が一の場合のために、デポに目じるしが置かれた。これまでの四日間行程ごとに彼は道々にこのようなデポを置いてきた――それがため橇で運ばなくても帰り路の食糧の心配はなかったのである。
出発は十一月五日の朝十時に予定された。これ以上とはない悲しみがこの小さな一隊をとらえた。マリは伯父が落胆しているのを見てほとんど涙をとどめ得なかった。これほどの苦しみを嘗《な》めて来た甲斐もなく! これほどの苦労も無駄になって! プネランといえば、彼は猛烈に機嫌《きげん》が悪くなった。彼はすべての人に当たりちらし、何かといえば仲間たちの弱さと卑怯さに腹を立ててやまなかった。マリよりも臆病でだらしがない、彼女ならば愚痴もこぼさず世界の果てまでも行ったろうと彼は言うのだった。
アンドレ・ヴァスランは、この決定を喜んでいることをかくすことはできなかった。彼は今までにもまして娘の機嫌を取り、それどころか、冬が過ぎたらまた新しい捜索がおこなわれるという希望さえも彼女に抱かせた――そのときには捜索しても手遅れだということを充分承知しながら!
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十 生き埋め
出発の前日夕食のとき、プネランは空《から》の箱をこわしてストーヴにつっこもうとしていたが、そのとき突然彼は濃い煙に巻かれて息がつまった。と同時に雪の家は地震のときのように揺れた。皆は恐怖の叫びをあげ、プネランは外へ飛び出した。
文目《あやめ》もわかぬ闇だった。恐ろしい嵐が――というのは、これは解氷ではなかったから――このあたりで急に起こったのだ。雪の渦が極度の激しさで襲いかかり、寒気は非常なもので、舵手は自分の手がたちまち凍えて行くのを感じた。雪で強く手を摩擦してから引き返さなければならなかった。
「嵐になった」と彼は言った。「この家がもちこたえてくれりゃいいが。暴風で家が倒されたらわしらはおしまいだからな!」
突風が宙を吹きまくると同時に、すさまじい音が凍った地面の下に生じた。岬の突端で割れた氷塊は大音響をあげてぶつかり、ころがり合った。風は猛烈に吹き、ときどき家全体が動いて行くように思えた。こんな緯度では原因のわからない燐光が雪の渦のなかを走っていた。
「マリ! マリ!」とプネランは娘の両手をつかんで叫んだ・
「こいつはひどい目に遭《あ》うぞ!」とフィデール・ミゾンヌは言った。
「逃げられるかどうかわからんぞ!」とオーピックがそれを受けた。
「この雪の家を出よう!」とアンドレ・ヴァスランが言った。
「そいつは駄目だ!」とプネランは答えた。「外の寒さはものすごいぞ、ここにいればもしかすると寒さに堪えられるかもしれないが!」
「温度計をよこせ!」とアンドレ・ヴァスランは言った。
オーピックは計器を彼に渡したが、火が燃えているというのに室内で零下十度になっている。アンドレ・ヴァスランは出入口の前に垂れた布を揚げたが、あわただしくまた外側へ落とした。風に捲き上げられて本物の雹《ひょう》のように飛んで来る氷片に打たれたからだった。
「どうだね、ヴァスランさん」とプネランは言った。「まだ外へ出るつもりかね?……ここにいるのがいちばん安全だということがわかったろう!」
「そうだ」とジャン・コルンビュットも口を添えた。「そしてわれわれは全力をあげてこの家を内側から補強しなければならん」
「しかしわれわれを脅しているもっと恐ろしい危険があるんだ!」とアンドレ・ヴァスランは言った。
「どんな?」
「風のためわれわれのいるこの氷塊が砕かれることです、岬の氷塊が砕かれたように。そうなればわれわれは流されるか溺《おぼ》れてしまう!」
「そいつはわしはありそうもないと思うね」とプネランが答えた。「水の表面全体が凍るほど|しばれ《ヽヽヽ》ているからな!……どれ、温度を見てみよう」
彼は腕だけしか出ないくらいに布を揚げ、雪のなかで温度計を見つけるのにちょっと手間がかかったが、ようやくそれをつかむとランプのそばに持って来て言った。
「零下三十二度! われわれがこれまで経験したいちばんひどい寒さだ!」
「もう十度下がったら水銀さえも凍っちまう!」とアンドレ・ヴァスランはつけくわえた。
陰鬱な沈黙がこの言葉の後つづいた。
午前八時ごろプネランは状況を判断するためにもう一度出ようとしてみた。そのうえ、風のため煙が何度も家のなかへ押しもどされるので、煙のはけ口を作る必要があったのだ。船乗りは服を全然隙間のないようにぴったりとしめつけ、ハンケチでゆわえて頭巾が頭から飛ばされないようにし、布を揚げた。
出入口は固い雪ですっかりふさがっていた。プネランは鉄のついた杖を取り、どうにかそれを固く締まった塊のなかに刺しこむことができた。しかし杖の先が外に出ず、固いものにぶつかって止まるのを感じたとき、彼は恐怖のため血が凍るのをおぼえた!
「コルンビュット!」と彼はそばに来ていた船長に言った。「われわれはこの雪の下に埋められてしまいましたぜ!」
「何だって?」とジャン・コルンビュットは叫んだ。
「まわりにも頭の上にも雪が積って凍ってしまった、わしらは生き埋めになってしまったのさ!」
「この雪の塊を押しのけてみよう」と船長は答えた。
二人は出口をふさいでいる障碍物にむかって足を踏んばって挑んだが、動かすことはできなかった。雪は五フィート以上の厚さのある氷塊を形づくり、家と一体になってしまっていたのだ。
ジャン・コルンビュットは思わず悲鳴をあげ、それを聞いてミゾンヌとアンドレ・ヴァスランが目を覚ました。ヴァスランの顔はゆがみ、罵声が彼の歯のあいだから洩れた。
「ちくしょうめ!」とミゾンヌは叫んだ。「ストーヴの煙突も氷でつまっている!」
プネランはまた杖を取り、雪を燃えさしの上にかけて火を消してからストーヴを分解したが、このためランプの薄い光もほとんど見えないほど煙が出た。それから彼は杖で煙突の孔をきれいにしようとしたが、どうやっても氷のかたまりにぶつかるばかりだった。
もはや恐ろしい苦悶のあげくの惨《むご》たらしい死を待つしかなかった! 煙はこの人々の喉《のど》に入りこんで堪えがたい苦痛をかきたて、空気がなくなるのも遠くないにちがいない!
マリがこのとき起き上がった。彼女の姿はジャン・コルンビュットには絶望の種だったが、プネランには多少勇気をよみがえらせた。この気の毒な女の子がそんな無慙《むざん》な死に方をするはずはないと舵手は心に思ったのだ。
「まあ、どうしたの!」と娘は言った。「火を燃やしすぎたのね? 部屋が煙だらけだわ!」
「うん……うん……」と舵手は口ごもりながら答えた。
「なるほどね」とマリはつづけた。「寒くはないし、それどころかこれまでずっとこんなに温かさを感じたことはなかったもの!」
誰も彼女に真実を告げる勇気はなかった。
「さあさあ、マリ」とくどくどと言わずにプネランは言った。「食事を作るのを手伝っておくれ。外に出るには寒すぎる。ほら焜炉《こんろ》だ、ここにアルコール、これがコーヒー。――さあ、おまえたちはペミカンをすこし食べろ。このひどい天気じゃ猟に行けないから!」
この言葉は仲間たちに元気をとりもどさせた。
「まず食おうじゃないか」とプネランはつけくわえた。「そのあとでここから出ることを考えよう」
プネランはさっそく自分の言ったことを実行して、自分の分の食糧をほおばった。仲間たちは彼に倣い、それから熱いコーヒーを一杯飲んだ。おかげで少々心に勇気が湧いてきた。そのうえでジャン・コルンビュットは、今からただちに脱出の手段を講じることにすると決然たる態度で言った。
このときアンドレ・ヴァスランはこういう意見を述べた。
「嵐がまだつづいているとすれば――どうもそうらしいが――われわれはもう十フィートも氷の下になっているに相違ない。外の音がもう全然聞こえないじゃありませんか!」
プネランはマリへ目をやった。彼女は真相を悟ったがびくりともしなかった。
プネランはアルコールの焔で鉄のついた杖の先を赤熱させ、次々に四つの壁に突き立ててみたが、どこにも逃げ道は見いだされなかった。ジャン・コルンビュットはそこで今までの出入口そのものに穴を掘ることに決めた。氷はひじょうに固く、大ナイフでもなかなか歯が立たないほどだった。どうにか削り取ることのできた破片がまもなく小屋のなかにいっぱいになった。二時間の苦しい労働の後にも穿《うが》たれた坑道は深さ三フィートに及んでいなかった。
それゆえもっと渉《はか》の行く、そしてもっと家を揺がすことのない方法を見つけねばならなかった。というのは、前進するにつれて氷は固くなって、切り取るには激しい力をよけいに必要とするからだった。プネランはアルコール焜炉を使って所期の方向へ氷を溶かして行くことを思いついた。これは思い切った方法だった。幽閉が長引くことになれば、少量しか持って来ていないアルコールは食事を作るときに不足してしまうからだ。にもかかわらずこの計画は全員の賛同を得、実行に移された。氷の溶けた水を溜めるためあらかじめ深さ三フィート直径一フィートの穴を掘ったが、この用心をしておいたことは徒労ではなかった。氷はやがてプネランが雪の塊りのなかに持ちまわる火のためにじくじく流れてきた。
穴はすこしずつ穿たれて行ったが、この種の仕事を長くつづけることはできなかった。水が服の上に落ちて来て裏まで透ってしまうのである。プネランは十五分もすると中断して、自身の体を乾かすために焜炉をひっこめなければならなかった。すぐにミゾンヌが彼に代わって、彼に劣らず元気に仕事にかかった。
二時間こうして働き、穴はもう五フィートも深くなっていたのに、鉄のついた杖はまだ外へ突き抜けなかった。
「雪がそんなに大量に降るということはあり得ない!」とジャン・コルンビュットは言った。
「風でこんなに吹き寄せられたに相違ないぜ。別の場所から逃げることを考えるべきだったんじゃあるまいか?」
「わかりませんな」とプネランは答えた。「しかし仲間たちを落胆させないためだけでも、わしらは同じ方向へ壁を掘りつづけなけりゃなりますまいて。出口が見つからないなんてことはあり得ないんだから!」
「アルコールが不足して来ないだろうか?」と船長はきいた。
「そんなことはまあないでしょう。ただし、コーヒーや熱い飲み物なしで我慢するという条件でですがね! それに第一、わしにとっていちばん心配なのはそんなこっちゃない」
「それでは何なのだ、プネラン?」とジャン・コルンビュットはきいた。
「油が切れてランプが消えること、そして糧食が尽きることですよ!」
「やれやれ! 運を天にまかすさ!」
それからプネランは、皆で脱出できるように懸命に働いていたアンドレ・ヴァスランと交代しに行った。
「ヴァスランさん」と彼は言った。「わしが代わろう。ただ、崩壊の気配がちょっとでもあるかどうか気をつけていてくださいよ、逃げる時間がなくちゃ困るからね!」
休息の時刻が来ていた。そしてプネランはなお一フィートほど坑道を穿つと、仲間のところへもどって寝た。
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十一 一筋の煙
翌日船乗りたちが目を覚ましたときには、完全な闇が彼らを包んでいた。ランプが消えていたのだ。ジャン・コルンビュットはプネランを起こして火打ち石をよこせと言い、プネランはそれを手渡した。プネランは起き上がって焜炉に火をつけようとした。しかし身を起こすと彼の頭は氷の天井にぶつかった。彼はぎょっとした。前日はまだ立っていることができたのだ。焜炉に火がつくと、彼は天井が一フィートも低くなっているのを認めた。
プネランは狂ったように仕事にかかった。
このとき娘は焜炉が舵手の顔に投げているぼんやりとした光で、絶望と意志とが彼のごつごつした相貌の上でせめぎあっているのを見て取った。彼女は舵手のそばに来て、彼の両手を取り、やさしく握りしめた。プネランは勇気がまた湧いて来るのを感じた。
「この子がこんな死に様をすることはあり得ない!」と彼は叫んだ。
彼はまた焜炉を取り、ふたたび狭い穴のなかを這い出した。そうして逞《たくま》しい手で鉄のついた杖を突き刺したが、抵抗は感じられなかった。それではやわらかい雪の層まで来たのだろうか? 彼は杖を手もとへ引いた。すると輝かしい光が氷の家のなかへさしこんだ。
「おーい、来てくれ!」と彼は叫んだ。
そして両手両足を使って雪を押しのけたが、外の表面は彼が信じたように溶けてはいなかった。光線とともに身を切る寒さが小屋のなかへ侵入し、ありとあらゆる湿った部分を襲ってあっという間に氷結させた。短刀を使ってプネランは穴をひろげ、とうとう外の空気を吸うことができた。彼はひざまずいて神に感謝したが、やがて娘や仲間たちもそこへやって来た。
すばらしい月が大気を照らしており、船乗りたちはこの外気の厳しい寒さに堪えられなかった。彼らはまた中へもどったが、その前にプネランはあたりを見まわした。岬はもうなくなっていた。そして小屋は広大な氷原のただなかにあった。プネランは食糧を残した橇のほうへ行ってみようとした。橇は消え失せていた!
気温のため彼はもどらねばならなかった。仲間たちには彼は何も言わなかった。何よりもまず衣服を乾かさねばならない。そしてアルコール焜炉で乾かした。一瞬外気中に置かれた温度計は零下三十度に下がった。
一時間の後アンドレ・ヴァスランとプネランは外気に立ちむかおうと決心した。彼らはまだ湿っている服を着こみ、すでに内壁が岩のように固くなっている穴から出た。
「われわれは北東へ流されたんだ」とアンドレ・ヴァスランは異様なきらめきを発して光っている星を見て方位を定めながら言った。
「橇もいっしょに流されたのならべつに困りはしないのだが!」とプネランは答えた。
「橇がないのか!」とアンドレ・ヴァスランは叫んだ。「それじゃわれわれはもうおしまいだ!」
「捜しましょう」とプネランは答えた。
彼らは十五フィート以上の高さの塊をなしている小屋のまわりを歩いた。嵐のつづいたあいだに膨大な量の降雪があり、風はこの氷原にある唯一の高まったものに雪を吹き寄せたのだ。この塊全体が風によって砕けた氷塊のあいだを縫って二十五マイル以上も北東へ流され、そして幽閉された人々はその漂う牢獄と運命をともにしたのだ。別の氷塊にのっかっていた橇は、全然その痕《あと》も見えない以上おそらく別の方角へ流され、そして犬たちもあの恐るべき嵐のなかで斃《たお》れたに相違なかった。
アンドレ・ヴァスランとプネランは絶望が心に忍びこむのを感じた。彼らは雪の家へもどる勇気がなかった! 不幸をともにする人々にこと凶報を伝える勇気がなかった! 彼らはそのなかに小屋が穿たれている氷の塊によじのぼったが、四方から彼らを包む白い無限の広がりしか見えなかった。早くも寒さが彼らの四肢を硬ばらせ、衣服の水分は氷に変わって彼らの身体のまわりに垂れた。
プネランは氷の山から降りようとするときアンドレ・ヴァスランのほうへちょっと目をやった。ヴァスランが急にある方角をむさぼるようにみつめ、それから体をふるわせて蒼《あお》ざめるのを彼は見た。
「どうしたんだね、ヴァスランさん!」と彼はきいた。
「何でもない!」とヴァスランは答えた。「できるだけ早くこのあたりから離れることを考えよう。まったくこんなところへ来るんじゃなかった!」
しかし彼の言葉に従うかわりにプネランはもう一度登って、航海士の注意をひきつけた方角へ目を向けた。彼が見せた反応は全然別だった。喜びの声をあげて彼は叫んだのだ。
「ああ、ありがたい!」
かすかな煙が一筋北東に上っていた。見誤るはずはなかった。そこには人間が生きているのだ。プネランの喜びの叫びは仲間たちを引きつけ、そして皆は舵手が誤っていないことを自分の目でたしかめることができた。
煙は北東に立っていた。そして小さな一隊はあわただしくその方向へむかった。目的の場所は六マイルか七マイル先にあり、確実に方向を取って行くことははなはだしく困難になった。煙は消えてしまい、何かの高まりを見つけて目じるしとすることもできない。なぜなら氷原は完全に平坦だからだ。しかしとにかく直線コースから逸《そ》れないことがぜひとも必要なのだ。
「遠くにあるものによって方向を定めることができない以上、今から言うような方法によらなければならん」とジャン・コルンビュットが言った。「プネランが先頭に立ち、ヴァスランがその二十歩後、わしがヴァスランの二十歩後を行く。そうすればわしはプネランが直線から逸《そ》れたかどうか判断することができるだろう」
このようにして行進が三十分ほどつづいてから、プネランは突然たちどまって耳をそばだてた。船乗りたちは彼に追いついた。
「何も聞こえないか?」と彼は船乗りたちにきいた。
「何も」とミゾンヌが答えた。
「おかしいな!」とプネランは言った。「わしには叫び声がこっちの方角からしたように聞こえたが」
「叫び声が?」と娘は言った。「それじゃもう目的に近いことになるわ!」
「そういうことにはならない」とアンドレ・ヴァスランが答えた。「この高緯度でこんなひどい寒さでは、物音は驚くほど遠くまで聞こえるものです」
「いずれにしても歩こう、でなけりゃ凍えてしまう!」とジャン・コルンビュットが言った。
「いや!」とプネランが反対した。「聞きなさい!」
弱い、しかしそれとわかる何かの音が聞こえた。その叫びは苦痛と不安の叫びであるように思えた。それはまた二度くりかえされた。誰かが助けを呼んでいるようだった。それからまたすべては沈黙にかえった。
「聞き違いじゃなかった」とプネランが言った。「前進!」
そして彼はその叫びの方向へ駈け出した。こうして彼はおよそ二マイルほど行ったが、氷の上に一人の男が横たわっているのを見たときの彼の驚きは大きかった。彼は男に近づき、抱き起こし、そして絶望的に両腕を上げた。
ほかの水夫たちとともにすぐ後から彼を追っていたアンドレ・ヴァスランが駈けつけて叫んだ。
「これは遭難者の一人だ! われわれの船の水夫のコルトロワだ!」
「死んでいる」とプネランは答えた。「凍死している!」
ジャン・コルンビュットとマリも氷ですでに凍結している屍体のそばにやって来た。絶望がすべてのものの顔に浮かび出た。死人はルイ・コルンビュットの仲間の一人だったのだ!
「進め!」とプネランは叫んだ。
彼らは一言もいわずにさらに三十分ほど歩き、小高くなっているところを見つけた。陸地にちがいなかった。
「シャノン島だ」とジャン・コルンビュットは言った。
さらに一マイルも行くと、木の扉を閉ざした雪の小屋から洩れている一筋の煙を彼らははっきりと見た。彼らは叫び声をあげた。二人の男が小屋から飛び出したが、そのなかにプネランはピエール・ヌーケを認めた。
「ピエール!」と彼は叫んだ。
ピエール・ヌーケは周囲に起こっていることがわからず茫然自失している様子だった。アンドレ・ヴァスランは残酷な喜びの混った不安をもってピエール・ヌーケの仲間たちをみつめた。ルイ・コルンビュットの姿が見えなかったからだ。
「ピエール! わしだよ!」とプネランが叫んだ。「みんなおまえの友達だぜ!」
ピエール・ヌーケは我《われ》にかえり、年取った仲間のふところに飛びこんだ。
「ではわしの倅は? ルイは?」とジャン・コルンビュットはこれ以上とはない絶望を声にあらわして叫んだ。
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十二 船に帰る
このとき、ほとんど死にかけているような一人の男が小屋から出て、氷の上を這って来た。
それはルイ・コルンビュットだった。
「倅!」
「あなた!」
この二つの叫びは同時に発せられ、ルイ・コルンビュットは失神して父親と娘の腕のなかに倒れた。二人は小屋のなかへ彼を引っぱりこみ、二人の介抱で彼は蘇生した。
「お父さん! マリ!」とルイ・コルンビュットは叫んだ。「では死ぬ前にあなたがたに会えたのだ!」
「死にはせん!」とプネランは答えた。「友達がみんなおまえのそばにいるじゃないか!」
アンドレ・ヴァスランがルイ・コルンビュットに手を差し出さなかったとすれば、彼はよほど憎しみを抱いているのでなければならない。しかし事実彼は手を差し出さなかったのである。
ピエール・ヌーケは喜びのあまり我《われ》を忘れていた。彼は誰でもかまわず接吻した。それからストーヴに薪を投げこみ、まもなく小屋のなかはどうにか凌《しの》げるくらいの温度になった。
そこにはジャン・コルンビュットもプネランも知らない男がまだ二人いた。
それは「フローエルン」の乗組員のなかで残った二人のノルウェー人水夫、ヨッキとヘルミングだった。
「皆さん、それではわれわれは救われたんだ!」とルイ・コルンビュットは言った。「お父さん! マリ! あなたがたはどれほど多くの危険に身を挺して来たことだろう!」
「わしらはそれを後悔しておらんよ、ルイ」とジャン・コルンビュットは答えた。「おまえの船『ラ・ジュンヌ・アルディ』はここから六十里ほど離れた氷の上にしっかり繋留されている。みんなで船に帰るのだ」
「コルトロワが帰って来たら」とピエール・ヌーケは言った。「あいつも同じように大喜びだろう」
陰鬱な沈黙がこの言葉につづき、それからプネランがピエール・ヌーケとルイ・コルンビュットに寒さに殺された彼らの仲間の死を告げた。
「いいかね」とプネランは言った。「寒さがやわらぐのをここで待つんだ。食糧や薪はあるかね?」
「うん。『フローエルン』の残骸を燃やしているのだ!」
「フロェーエルン」は実はジャン・コルンビュットが越冬しているこの地点から四十マイルのところへ流されたのであった。そこで解氷によって漂っている氷塊に砕かれ、遭難者たちはシャノン島の南岸へ、今のこの小屋を作るのに使った船の破片といっしょに運ばれたのである。
遭難者はそのときは、ルイ・コルンビュット、コルトロワ、ピエール・ヌーケ、ヨッキ、ヘルミングの五人だった。ほかのノルウェー人乗組員はといえば、難破のときに大型ボートとともに沈められていたのである。
ルイ・コルンビュットは氷のなかへ流されて、周囲を氷が閉ざしはじめるのを見るやいなや、冬を過ごすためいっさいの準備をした。彼は果断な、ひじょうに勇敢でもあればひじょうに活動的でもある男だった。しかしその剛毅《ごうき》さにもかかわらず彼はこの恐ろしい気候に負けた。そして父親が彼を見つけ出したときには彼はもう死のみしか予期していなかった。そのうえ彼がたたかわねばならなかったのは自然に対してだけではなく、彼のために命を救われた二人のノルウェー人水夫の悪意ともたたかわねばならなかったのである。この二人は人間本来の感情をほとんど受けつけない一種の野蛮人だった。それゆえルイ・コルンビュットはプネランと二人だけで話すことができたとき、彼らのことは特に警戒するようにと勧告した。それに対してプネランのほうもアンドレ・ヴァスランのふるまいを彼に知らせた。ルイ・コルンビュットはそれを信じることができなかったが、プネランは彼が消息不明になって以来アンドレ・ヴァスランは娘を確実に自分の妻にしようとして始終ふるまっていたことを証拠をあげて彼に説明した。
この日一日は休息と再開の喜びにあてられた。フィデール・ミゾンヌとピエール・ヌーケは、小屋からあまり離れることは賢明ではないので、小屋のそばで何羽か海鳥を殺した。この新鮮な肉とさかんに燃やされた火のおかげでいちばんまいっていたものもついに体力をとりもどした。ルイ・コルンビュット自身も目に見えて気分がよくなったのを感じた。これはこの正直な連中が味わった最初の喜びの時間だった。それゆえ彼らは、六百里も北洋に入ったところのみすぼらしいこの小屋で、零下三十度という寒さのなかで大はしゃぎでお祝いをしたのだった!
この温度はその月齢の終りまでつづき、再会後一週間の十一月十七日ごろになってはじめてジャン・コルンビュットとその仲間たちは出発のことを考えることができた。方角を定めるにはもはや星のおぼろな光しかなかったが、寒さはそれほど厳しくなく、雪さえ少々降った。
この場所を去る前に人々は哀れなコルトロワのために墓を掘った。悲しい儀式であり、彼の仲間たちは悲痛の思いに打たれた! 仲間たちのなかでふたたび故郷を見ることができなくなったのはこの男が最初だった。
ミゾンヌが食糧を運ぶための橇のようなものを小屋の板で作っていたので、水夫たちは交代でそれを曳いた。ジャン・コルンビュットはこれまで通って来た道によって一行を導いた。休むときには設営はひじょうに手速くおこなわれた。ジャン・コルンビュットは食糧のデポが見つけられるものと期待していた。四人も人数がふえたため、これはほとんど不可欠だった。それゆえ彼はこれまでの道筋から逸れないように努めた。
奇蹟的な幸運で橇をとりもどすことができた。皆があれほど多くの危険を冒した岬のそばに打ち捨てられていたのである。犬たちは革紐《かわひも》を食って飢《う》えを満たした後、橇に積んだ食糧を襲った。それがために彼らはそこから離れることができず、しかも一行を橇のほうへ案内したのはこの犬たちだったのだ。橇にはまだ食べ物はたくさん残っていた。
小さな一隊はふたたび越冬地の湾にむかって進み出した。犬は橇につけられ、その後の行程は何の事故もなかった。
ただオーピックとアンドレ・ヴァスランとノルウェー人が皆と離れ、仲間たちとまじわろうとしないことははっきりわかった。しかしそれと知らずに彼らは厳しく監視されていたのだ。それにしても、この不和の種はルイ・コルンビュットとプネランの心に一度ならず激しい不安をかきたてたものだった。
再会後二十日たった十二月七日ごろ、彼らは「ラ・ジュンヌ・アルディ」が越冬している湾を認めた。ブリックが氷の塊の上にほとんど四メートルも宙に浮いているのを見たときの彼らの驚きはどれほどだったろう! 仲間のことが心配でたまらなくなって彼らは駈けつけたが、ジュルヴィック、チュルキエット、グラランの歓呼で迎えられた。三人とも元気ではあったが、彼らもまた大きな危険に見舞われていたのだった。
あの嵐は北極海全体に猛威をふるったのであった。氷は砕かれ、動かされた。そして上になり下になりして滑り落ちるうちに、船ののっかっている基盤を囲んでしまった。氷塊はその比重のため水面上に浮き上がる傾向があるから、氷の圧力は側り知れぬものとなった。そしてブリックは不意に海面上に押し上げられてしまっていたのである。
最初のうちは皆は帰還の喜びに耽った。探索行に加わった船乗りたちはすべてのものがちゃんとしているのを見て嬉しく思った。これならば、いかにも厳しいものではあろうがどうにか堪えられる冬を過ごせる。船は押し上げられても揺いではおらず、申し分なくしっかりしていた。解氷の季節が来たときに、傾斜面を滑らせれば、――要するに、氷のなくなった海へ進水さえすればよかったろう。
しかし悪い知らせが一つあってジャン・コルンビュットとその仲間たちの顔を曇らせた。凄まじい暴風のあいだに、海岸に作っておいた雪の倉庫がすっかりこわされてしまったのだ。そこに入っていた食糧は吹き散らされ、ほんのわずかの部分も回収することはできなかったという。この不幸なできごとを聞くと、ジャンとルイ・コルンビュットは残った貯えがどれくらいあるかを見ようとして船の船艙と食糧を調べに行った。
解氷は五月にならなければはじまらぬはずだった。そしてブリックはその時期以前にはこの越冬地の湾を離れることができなかった。それゆえ冬期の五か月を氷のただなかで過ごさねばならず、その五か月のあいだ十四人の人間に食わさなければならないのだ。いろいろと計算をやった上で、ジャン・コルンビュットには全員の割当てを半減すればどうにか出発のときまで保《も》つことがわかった。そこで栄養物をより豊富に得るために猟はかならずおこなわなければならぬことになった。
こういう不幸な事件が二度と起こってはと考えて、貯えはもはや陸に置かないことに決定された。すべてはブリックの上に置き、そしてまた新しく加わった連中のためのベッドが水夫の大部屋に置かれた。チュルキエットとジェルヴィックとグラランは仲間たちの留守のあいだに、船のデッキに簡単に上がれるような階段を氷に刻んでおいた。
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十三 二人のライヴァル
アンドレ・ヴァスランはノルウェー人の二人の水夫と親しくなっていた。オーピックもまた、たいていみんなから離れて、新しい措置に大声で反対しているこの一派に加わった。しかし、父親からブリックの指揮をふたたび委ねられて船の主《あるじ》となったルイ・コルンビュットはこの点に関してはあくまでも頑強で、おだやかに出ることをすすめるマリの助言にもかかわらず、自分の命令にはどんなことでも従ってもらわねばならぬという態度に出た。
にもかかわらず、二日後二人のノルウェー人は塩漬け肉の箱を一つかっぱらうことに成功した。ルイ・コルンビュットは即座に返すように要求したが、オーピックは彼らの肩を持ち、アンドレ・ヴァスランは食べ物に関する措置はもうこれ以上守って行けるはずがないと匂わせさえしたものだ。
そうするのはみんなの利益のためだとこの悪党どもに説明する必要はなかった。彼らはそんなことは承知しており、反抗する口実を求めていたにすぎなかったのだから。プネランは二人のノルウェー人にむかってつめ寄り、彼らは短刀を抜いた。しかしミゾンヌとチュルキエットの加勢を得て彼は短刀を彼らの手からもぎとることに成功し、塩漬け肉の箱を取り返した。アンドレ・ヴァスランとオーピックは形勢が自分らに不利になるのを見て全然手を出さなかった。けれどもルイ・コルンビュットは航海士一人を特にそばに呼んで言った。
「アンドレ・ヴァスラン、君は見下げはてた男だ。おれは君のふるまいをすべて知っているし、君の策動が何を目ざしているかもわかっている。しかし全員の救いがおれの手に委ねられている以上、もし君らのうちの誰かがそれをそこなおうと企てたら、おれはこの手でその男を刺し殺すぞ!」
「ルイ・コルンビュット」と航海士は答えた。「権威をふりまわすのはあんたの自由だ。しかし階級による服従はここにはもうない、強いものが命令するのだということをおぼえておくがいい!」
娘は極海のいかなる危険の前でもこれまで一度も慄《ふる》えなかったが、自分が原因になっているこの憎しみには恐怖を感じ、ルイ・コルンビュットの果断さえも彼女の不安をほとんど拭わなかった。
この宣戦布告にもかかわらず食事は同じ時刻にいっしょにおこなわれた。猟で何羽かの雷鳥と白兎がなお補給された。しかし迫って来る酷寒とともにこの供給源もやがてなくなってしまうだろう。この寒さは十二月二十二日の冬至にはじまり、この日は温度計は零下三十五度に下がった。越冬者たちは耳、鼻、体のすべてのはしばしに痛みを感じた。彼らは頭痛を混えた極度の感覚麻痺に襲われ、呼吸はだんだんと困難になった。
こんな状態では彼らももう猟に出て行ったり体操したりする元気はなかった。乏しすぎる熱しか発散しないストーヴのまわりに彼らはうずくまったままでいた。ちょっとでもストーヴから離れると血が急に冷えるのを感じた。
ジャン・コルンビュットは自分の健康がひどくそこなわれているのを知った。彼はすでに自分の部屋を離れることができなかった。壊血病の直前の症候があらわれて来、足は白斑に蔽われた。娘は元気で、慈善事業にたずさわる修道女のようにかいがいしく病人たちの看護に当たった。だから善良な船乗りたちはみな心から彼女に感謝した。
一月一日は越冬中の最も暗澹たる日の一つだった。風は激しく、寒さは堪えがたかった。凍傷の危険を冒さずには外に出ることはできなかった。いかに勇気あるものもテントを張ったデッキの上で散歩するだけにとどめねばならなかった。ジャン・コルンビュットとジェルヴィックとグラランはベッドから出なかった。二人のノルウェー人とオーピックとアンドレ・ヴァスランは健康を保っており、この仲間たちが衰えてゆくのを見て彼らの上に残忍な視線を投げた。
ルイ・コルンビュットはプネランをデッキに連れ出し、燃料の貯えはどうなっているかときいた。
「石炭はずっと前になくなってしまった」とプネランは答えた。「最後の薪をこれからもやすところさ!」
「この寒さに打ち克《か》つことができなければわれわれはおしまいだぞ!」とルイ・コルンビュットは言った。
「最後の手があるよ」とプネランはそれに応じて言った。「船の燃やせるところを燃やすのだ舷側から吃水線まで。それどころか、必要によっては全部をこわして、もっと小さな船を作ることもできるよ」
「そいつは極端な方法だ」とルイ・コルンビュットは答えた。「こっちの味方が元気になればそいつはいつでも実行できるだろう。というのは(と彼は声を落として言った)味方の体力は衰えて行くのに、敵の体力は増して行くように見えるからね。これはやはりだいぶおかしいよ!」
「それは事実だ」とプネランは言った。「そうしてわれわれが日夜気をつけていないなら、どんなことになるかわしにはわからん」
「斧《おの》を取って薪を集めて来よう」とルイ・コルンビュットは言った。
寒さを冒して彼らは前部の舷側へ行き、船にとって絶対に必要なもの以外のすべての木材をぶちこわした。そうして彼らはこの新しい燃料を持って帰った。ストーヴにはまた薪がつめられ、誰かが火が消えないように番をすることになった。
けれどもルイ・コルンビュットとその味方たちはまもなく疲労|困憊《こんぱい》してしまった。共同生活のどんな些細なことでも敵にまかせることはできない。日常のすべての仕事を引き受けて、まもなく彼らは力が尽きるのを感じた。ジャン・コルンビュットに壊血病が発病し、彼は絶えがたい苦しみを味わった。ジェルヴィックとグラランにも同じ病気があらわれだした。レモンの液汁をふんだんにあたえられなかったならば、この不幸な人々はたちまちのうちに病苦にたおれてしまったことであろう。それゆえ人々は彼らにはこの特効薬を惜しまなかった。
しかしある日――一月十五日だったが――ルイ・コルンビュットはレモンを補給しようとして食糧庫に降りてみて、レモンのはいっている樽が消え失せているのを見て茫然とした。彼はプネランのところへもどってこの新しい災難を知らせた。盗みがおこなわれたのだ。そしてその犯人が誰かは容易にわかった。ルイ・コルンビュットは敵が健康を保っている理由をこのとき悟った! 今は彼の味方には、彼と仲間たちの生命がそれにかかっているこのレモンの貯えを奪い返す力はなかった。そしてこのときはじめて彼は暗い絶望に沈んだのだ!
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十四 絶体絶命
一月二十日、この不幸な人々の大部分はもはやベッドから起き上がる力がなかった。彼らはそれぞれ毛布とは別に、寒さから身を守る水牛の皮を持っていた。しかし腕を外へ出そうとするやいなやひどい痛みを感じてすぐにまた引っこめねばならなかった。
それでもルイ・コルンビュットはストーヴに火をつけプネランとミゾンヌとアンドレ・ヴァスランはベッドから出て火のまわりに来てうずくまった。プネランは熱いコーヒーを作り、ほかの連中も、さらに彼らといっしょに食事をしに来たマリもそれで少々力をとりもどした。
ルイ・コルンビュットは、ほとんど身動きをしない病気で足の萎えている父親のベッドに近づいた。老船乗りはまとまりのない言葉をいくつかつぶやき、それが息子の心を抉《えぐ》った。
「ルイ! わしはもうじき死ぬ!……おお苦しい!……助けてくれ!」
ルイ・コルンビュットは最後の決意を固めた。彼は航海士のところへもどり、ようやくのことで自制しながら言った。
「レモンがどこにあるか知っているか、ヴァスラン?」
「食糧庫だと思うがね」と航海士はなにくわぬ顔をして答えた。
「食糧庫にはもうないことは承知のはずだ、君が盗んだんだから!」
「あんたは主人だからな」とアンドレ・ヴァスランは皮肉に言った。「あんたは何を言おうと何をしようとご随意さ!」
「後生だ、ヴァスラン、おやじは死にかかっている! 君はおやじを救えるんだ! 返事をしてくれ」
「何も答えることはないよ」とヴァスランは答えた。
「悪党め!」とプネランは短刀を手に航海士に躍りかかりながら叫んだ。
「来てくれ、味方の連中!」とアンドレ・ヴァスランもあとずさりながら叫んだ。
オーピックと二人のノルウェー人水夫はベッドから飛び出し、彼のうしろにならんだ。ミゾンヌ、チュルキエット、プネラン、ルイはそうはさせぬと身構えた。ピエール・ヌーケとグラランも病気だったにかかわらず助勢しようと立ち上がった。
これを見てアンドレ・ヴァスランは言った。「おまえらはまだおれたちの手に余る! 勝てるとわかってなけりゃおれたちはたたかいたくない!」
船乗りたちはひどく弱っていたのであえてこの四人の悪党に飛びかかることはしなかった。失敗した場合には彼らの命はなかったからだ。
「アンドレ・ヴァスラン」とルイ・コルンビュットは無気味な声で言った。「おやじが死んだら、きさまが殺したのだ。そしておれはきさまを犬のように殺してやるぞ!」
アンドレ・ヴァスランとその一味は部屋の反対の隅へ退き、答えようとしなかった。
それからまた薪を補給しなければならなくなり、寒さにもかかわらずルイ・コルンビュットはデッキに上がって船の舷側の一部を切りはじめたが、十五分もするともどらねばならなかった。寒さに打たれて倒れてしまいそうだったからだ。通りがかりに彼は外の温度計に目をやったが、水銀は凍っていた。寒さはそれゆえ零下四十二度を越えているのだった。天気は乾いて空は澄み、風は北から吹いていた。
二十六日に風は変わって北東から吹き、外では温度計は三十五度を示した。ジャン・コルンビュットは瀕死の状態にあり、息子は父の苦痛を癒すものが何かないかと捜しまわったが何もなかった。けれどもこの日は、彼は不意打ちにアンドレ・ヴァスランに飛びかかって、この男が啜《すす》ろうとしかけていたレモンを奪い取ることに成功した。アンドレ・ヴァスランはとりもどそうとして一歩踏み出ることもしなかった。彼はその醜悪な計画を実現する好機を待っているらしく見えた。
レモンの汁でジャン・コルンビュットはいくらか力をとりもどしたが、この薬は飲みつづけねばならなかった。娘はアンドレ・ヴァスランのところへ行ってひざまずいて哀願したが、彼は答えなかった。そしてプネランはやがてこの悪党が仲間たちにむかってこう言うのを聞いた。
「じじいは死にかけているぞ! ジュルヴィックとグラランとピエール・ヌーケもそれとたいして変わりはない! ほかの奴《やつ》らも日一日と体力が衰えてゆく! 奴らの命がこちらの手に握られるときはもうじき来るぞ!」
そこでルイ・コルンビュットの仲間たちのあいだでは、もはやこれ以上待たず、残ったわずかの力で事に当たろうということに話が決まった。彼らは次の夜行動を起こし、自分らの命を守るためにこの悪党どもを殺そうと決心したのである。
温度は多少上がっていた。ルイ・コルンビュットは何かを獲《と》って来ようとして銃を持って思い切って外へ出た。
彼は船から三マイルほど離れた。そして幻視や光の屈折のためにしばしば欺かれて、思ったよりも遠くへ来てしまった。これは無謀なことだった。猛獣の新しい足跡が地面に見えたからだ。ルイ・コルンビュットはしかし何かの新鮮な肉を持たずにはもどりたくなかったので、なお歩きつづけた。が、そのとき彼は奇妙な感覚をおぼえて目がまわった。それはいわゆる「白い目まい」だったのだ。
実際氷の堆積《たいせき》や氷原の反射光が彼の全身を包み、彼はこの白い色が自分の体のなかに入りこみ、どうにもしようのない倦怠をひきおこすように感じた。目にもこの色が沁《し》みこみ、視線はぐらついた。この白光で気が狂ってしまいそうだと彼は思った。これがどんな恐ろしいことになるかを意識せぬままに彼は歩みをつづけて、まもなく一羽の雷鳥を狩り出し、夢中になってそれを追いまわした。鳥はやがて下へ落ち、ルイ・コルンビュットはそれを取りに行こうとして氷の塊から飛び降りてどさっと落ちた。光の屈折のためわずか二フィートしかないと思ったのに、実は十フィートのところを飛んだからだ。それから彼は目がくらみ、体はどこも怪我《けが》していなかったにかかわらず、自分でも理由がわからずに数分間救いを呼びつづけた。寒さが彼の体を侵しはじめ、自己保存の欲望がよみがえってようやく彼は立ち上がった。
突然、何が何だかわけがわからなかったが、脂肪の焼ける匂いが彼の嗅覚を襲った。そこは船の風下だったので彼はこの匂いが船から来るものと思ったが、どんな目的で脂肪を焼いているのか彼にはわからなかった。この匂いは白熊の群れをひきつけることがあるので、脂肪を焼くのはひじょうに危険だったのだから。
ルイ・コルンビュットはそこで心配しながら船のほうへ引き返したが、極度にたかぶった彼の心のなかでこの心配はまもなく恐怖にまでたかまった。巨大な塊が地平線に動いているような気がし、氷の地震でもまたはじまったのではないかと彼は思った。それらの塊のいくつかは船と彼のあいだにあり、しかもそれは船の横腹に登って行くように見えた。彼はもっと注意深く見ようとして立ちどまった。そして巨大な熊の群れを見たとき彼の恐怖はこれ以上とはないものとなった。
これらの動物はルイ・コルンビュットを驚かせたあの脂肪の匂いにひきつけられて来たのだった。彼は小高くなった氷のかげに身をかくし、「ラ・ジュンヌ・アルディ」がのっかっている氷の塊にためらうことなく攀じ登って行く三匹の熊を認めた。
どう見てもこの危険に船内のものが気づいていると思える兆候はなかった。堪えがたい不安に彼の心臓はすくんだ。この恐るべき敵にどのようにして立ち向かうか? アンドレ・ヴァスランとその仲間はこの共同の危険に際して全員と力をあわせるだろうか? ろくろく食べ物もなく寒さに体の自由を失っているプネランその他の連中は、癒されぬ飢餓《きが》に駆りたてられているあの恐るべき野獣に対抗しうるだろうか? のみならず彼らは予期しない襲撃に不意を打たれていないだろうか?
ルイ・コルンビュットは一瞬のうちにこれらのことを考えた。熊たちは氷塊に登り、船への襲撃にかかった。ルイ・コルンビュットはそこで今までかくれていた氷の塊から離れることができ、氷の上を這いながら近づいた。そしてまもなく彼にはこの巨大な動物たちが爪でテントを引き裂き、デッキに飛び上がるのが見えた。ルイ・コルンビュットは仲間たちに警告するために銃を一発射とうかと考えた。しかし仲間たちが武器を持たずに出て来たら八裂きにされるのは必定《ひつじょう》だし、彼らがこの新しい危険に気づいていることを示す兆候は一つもなかった。
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十五 白熊
ルイ・コルンビュットが出て行った後、プネランはデッキからの階段の下にある部屋の扉を丹念にしめた。彼は自分が番をすることになっているストーヴのそばにもどり、いっぽう彼の仲間たちはベッドに帰って多少なりと暖を取ろうとした。
時刻は午後六時で、プネランは夕食の準備にとりかかった。塩漬け肉を熱湯で柔らかくしようと思って肉を取るために彼は食糧庫に降りた。帰って来ると彼の席をアンドレ・ヴァスランが占領して、脂肪の塊を鍋《なべ》で煮ている。
「わしが前からそこにいたんだぞ」とプネランは乱暴にアンドレ・ヴァスランに言った。「わしの席をどうして取った?」
「あんたが返せというのと同じ理由でさ」とアンドレ・ヴァスランは言った。「こちらも夕食を作らなくちゃならんからさ!」
「そいつをとっとと引っこめてもらおう、でなけりゃひどいことになるぞ!」とプネランは応酬した。
「何にもならんさ。そしてあんたがどうしようとこいつはひとりでに煮えるよ!」
「おっと、そいつは食わせないぞ!」とプネランはアンドレ・ヴァスランに飛びかかりながら叫び、アンドレ・ヴァスランのほうは、
「来てくれ、ノルウェー人! 来てくれ、オーピック!」と叫びながら短刀をつかんだ。
呼ばれた連中はたちまちピストルと匕首《あいくち》を握って立ち上がった。計画的なやりかただったのだ。
プネランはアンドレ・ヴァスランに躍りかかった。この男は一人で彼を引き受けるつもりでいたに相違ない。彼の仲間たちはミゾンヌ、チュルキエット、ピエール・ヌーケのベッドに走り寄ったからだ。ピエール・ヌーケは病気で衰弱して身を守るすべもなく狂暴なヘルミングの手に委ねられた。大工のほうは斧を手に取り、ベッドから出てオーピックの前に飛び出した。チュルキエットとノルウェー人ヨッキは激しく打ち合っていた。猛烈な苦痛に襲われていたジュルヴィックとグラランは身近に起こっていることを意識さえしなかった。
ピエール・ヌーケはまもなく横腹に匕首《あいくち》を受け、ヘルミングは必死になってたたかっていたプネランのほうへもどって行った。アンドレ・ヴァスランが彼の腰に抱きついていた。
しかし争いがはじまったばかりのときに鍋はストーヴの上でひっくりかえり、脂肪は燃えた石炭の上にこぼれて空気は悪臭で満ちていた。マリは絶望の叫びをあげて立ち上がり、老ジャン・コルンビュットが喘《あえ》いでいるベッドのほうへ駈け寄った。
プネランより力の劣るアンドレ・ヴァスランはまもなく自分の腕が舵手の腕で押しのけられるのを感じた。二人の体はあまりにも接近していたので武器を使うことはできなかった。航海士はヘルミングを見て叫んだ。
「加勢してくれ、ヘルミング!」
「こっちに加勢してくれ、ミゾンヌ!」とプネランのほうも叫んだ。
しかしミゾンヌは短刀で彼を刺そうとするオーピックと床《ゆか》をころげまっていた。大工の斧は防禦には都合の悪い武器だった。自由に使えなかったからだ。そして彼はオーピックが突き出す短刀をかわすのにさんざん苦労していた。
そのうちに怒号と悲鳴のさなかに血が流れ出した。なみなみならぬ力を持ったヨッキに打ち倒されたチュルキエットは肩に匕首を受け、このノルウェー人の帯にさしたピストルを掴もうとしたが果たせなかった。ノルウェー人は彼を万力《まんりき》のように締めつけ、彼は全然動くことができなかった。
プネランに入口の扉に追いつめられたアンドレ・ヴァスランの叫びにヘルミングは駈けつけた。彼がこのブルターニュ人の背中に短刀を突き出そうとした刹那に、プネランのがっしりした足が彼を床に蹴倒した。プネランがそれに力を奪われた隙に、アンドレ・ヴァスランはプネランに押さえられた右腕を抜き取ることができた。が、彼が全身の重みをかけていた扉が急に破れ、アンドレ・ヴァスランは仰向けにひっくりかえった。
突然すさまじい咆哮《ほうこう》が響きわたり、一頭の巨大な熊が階段にあらわれた。アンドレ・ヴァスランは誰よりも先にそれに気がついた。彼と熊とのあいだは四フィートもなかった。その瞬間一発の銃声が響き、熊は傷ついたか怯えたかして引き返した。ようやく立ち上がることのできたアンドレ・ヴァスランは、プネランをほったらかしてその後を追い出した。
舵手はそこで破れた扉をもとへもどし、あたりを見まわした。ミゾンヌとチュルキエットが敵に負けてぎりぎりと縛り上げられ、片隅に投げ出され、縄を切ろうといたずらにもがいていた。プネランは彼らを助けに飛び出したが、二人のノルウェー人とオーピックに倒された。力尽きた彼にはこの三人の男に抵抗することができず、三人は彼をも全然身動きできないように縛りつけた。それから航海士の叫び声を聞いて、この連中はルイ・コルンビュットが来たのだと思ってデッキに飛び出して行った。
デッキではアンドレ・ヴァスランが一頭の熊とたたかっており、すでに二度匕首で熊を刺していた。獣は恐るべき前足をふりまわしてアンドレ・ヴァスランを撲《なぐ》ろうとする。ヴァスランはしだいに舷側に追い詰められてあわや最後というとき、第二の銃声が響いた。熊は倒れた。アンドレ・ヴァスランは顔を挙げ、ルイ・コルンビュットが銃を手にして前檣の段索のところにいるのを見た。ルイ・コルンビュットは熊の心臓を狙い、熊は死んでいた。
ヴァスランの心のなかでは憎しみが感謝の念に勝った。しかし憎しみを満足させる前に彼はあたりを見まわした。オーピックは前足の一撃で頭を割られてデッキの上に息絶えて横たわっていた。ヨッキは斧を手にして、オーピックを今しがた殺した第二の熊の腕から身をかわしているが、それも楽々というわけには行かない。熊は匕首で二突きされていたが、それでも猛然とたたかっていた。第三の熊は舳《みよし》のほうへむかって行く。
それゆえアンドレ・ヴァスランはこの第三の熊にはかまわず、ヘルミングを従えてヨッキを救いに行った。しかしヨッキは熊の両足に抱きこまれて押し潰され、アンドレ・ヴァスランとヘルミングのピストルに射たれて熊が倒れたときには、その両腕にかかえられていたのは屍骸《しがい》でしかなかった。
「もう二人だけになってしまった」とアンドレ・ヴァスランは陰鬱な兇暴な顔で言った。「が、おれたちが死ぬとしても、その前に復讐はしてやる!」
ヘルミングはそれに答えずにピストルに弾をこめた。何よりもまず第三の熊をかたづけねばならなかった。アンドレ・ヴァスランは前部のほうへ目をやったが、熊は見えない。目を上げて見ると、熊は舷側に立ち上がり、ルイ・コルンビュットを襲おうとしてすでに段索を登って行くところだった。アンドレ・ヴァスランは獣に向けた銃をおろし、残忍な喜びが彼の目にあらわれた。
「ああ!」と彼は叫んだ。「そういう復讐をされるだけのことをおまえはおれにしているんだ!」
いっぽうルイ・コルンビュットは前檣のトップへ逃れていた。熊はずんずんと登り、もはやルイから六フィートばかりのところへ迫ったとき、ルイは銃を構えて動物の心臓を狙った。
アンドレ・ヴァスランのほうも、もし熊が倒れたらルイを射とうとして銃を構えた。
ルイ・コルンビュットは引き金を引いた。しかし熊に命中したようには見えなかった。熊は一躍して檣楼に飛び乗った。マスト全体がそのために揺いだ。
アンドレ・ヴァスランは喜びの叫びをあげた。
「ヘルミング!」と彼はノルウェー人の水夫にむかって叫んだ。「マリを連れて来てくれ! おれのいいなずけを連れて来てくれ!」
ヘルミングは部屋への階段を降りて行った。
いっぽう猛り狂った獣はルイ・コルンビュットに躍りかかり、彼はマストの反対側に逃げた。しかし熊の巨大な前足が彼の頭を打ち砕くべく振りおろされようとする刹那、ルイ・コルンビュットは後支策のうちの一本をつかんで下まで滑り降りたが、このとき危険を冒さずには済まなかった。途中で銃弾が彼の耳もとをかすめたからだ。アンドレ・ヴァスランは彼を狙って射ち、弾はそれたのだった。こうして敵対する二人は短刀を手にして面と向かい合った。
この闘いは決定的なものにならずにはすまなかった。復讐心をたっぷりと満たし、娘にいいなずけの死ぬところをみせつけてやろうとして、アンドレ・ヴァスランはヘルミングの助力がえられぬことになったのだ。だから自力にたのむ以外になかった。
ルイ・コルンビュットとアンドレ・ヴァスランはたがいに相手の襟首をつかみ、もはや相手がしりぞけないようにおさえつけた。どちらかが死ななければならなかったのだ。たがいに激しく突き合い、どちらもうまく身をかわすことはできなかった。血がまもなく双方の体から流れはじめたのだ。アンドレ・ヴァスランは右腕を相手の首に捲きつけて倒そうとした。倒れたほうが負けだということを心得ていたルイ・コルンビュットは先手を打ち、相手を両腕で抱き込むことに成功した。が、そのはずみに匕首は彼の手から落ちた。
恐ろしい悲鳴がちょうどこのとき彼の耳まで聞こえてきた。それはヘルミングが引き立てて来ようとするマリの声だった。憤怒がルイ・コルンビュットの心を捉えた。彼は力をこめてアンドレ・ヴァスランを前に押し倒そうとした。が、ちょうどそのとき闘い合う二人は何かに力強く抱きこまれるのを感じた。
前檣の檣楼から降りて来た熊が二人の男に飛びかかったのである。
アンドレ・ヴァスランは獣の体に押しつけられていた。ルイ・コルンビュットは巨獣の爪が肉に分け入るのを感じた。熊は二人をしめつけていた。
「助けてくれ、助けてくれ、ヘルミング!」と航海士は叫ぶことができた。
「助けてくれ、プネラン!」とルイ・コルンビュットも叫んだ。
階段で足音がした。プネランがあらわれ、ピストルの打ち金を起こし、熊の耳に射ちこんだ。熊は一声わめいた。痛みのため熊は一瞬手を開き、ルイ・コルンビュットは力尽きてずるずるとデッキに倒れかかった。しかし熊は断末魔の苦悶のうちにも力強く彼らを抱いていたが、卑しむべきアンドレ・ヴァスランといっしょに倒れ、ヴァスランの屍体は熊の体の下になって押しつぶされた。
プネランはルイ・コルンビュットを助けに駈けつけた。生命にかかわるような重傷は全然なく、ただ一時的に息が止まったにすぎなかった。
「マリは!……」と彼は目をあけながら言った。
「救われたよ!」と舵手は答えた。「ヘルミングは腹を匕首で一突きされてそこに倒れている」
「ではあの熊は……」
「みんな死んでしまった。ルイ、あんたの敵と同じように死んでいるよ! しかしこの獣たちが来なかったらわしらはやられてしまったと言えよう! ほんとに! 熊どもはわしらを救いに来てくれたのさ! だから神に感謝しよう!」
ルイ・コルンビュットとプネランは部屋に降り、マリは彼のふところへ飛びこんだ。
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十六 むすび
致命傷を受けたヘルミングは、縛《いまし》めを解くことに成功したミゾンヌとチュルキエットの手でベッドへ運ばれた。この悪党はすでに喉をごろごろさせていた。そして二人の船乗りはピエール・ヌーケの手当てをしたが、彼の傷はさいわい重大なものでなかった。
しかしそれよりも大きな不幸がルイ・コルンビュットを襲うことになっていた。彼の父はもはや全然生命のしるしを見せなかったのだ。息子が敵の手に落ちたのを見て不安のあまり死んだのか? あの恐ろしい場面の以前にすでに息絶えていたのか? それはわからない。とにかく哀れなこの老船乗りは病いに勝てずにこときれていたのだ!
この思いがけない打撃にルイ・コルンビュットとマリは深い絶望に沈んだ。それから彼はベッドのそばにひざまずき、ジャン・コルンビュットの霊のために祈りながら泣いた。
プネラン、ミゾンヌ、チュルキエットはその部屋に彼らを二人だけにしてデッキに出た。三頭の熊の屍体は舳に引っぱって行った。プネランは熊の毛皮を取っておくことに決めた。これはひじょうに役に立つはずだったからだ。しかし熊の肉を食うことは彼は一瞬も考えなかった。それにまた、食わさなければならぬ人間の数は今はずっと減っていた。アンドレ・ヴァスラン、オーピック、ヨッキの死体は海岸に掘った穴のなかに投げこまれ、まもなくヘルミングの屍体もそれに加わった。このノルウェー人は狂憤のあまり口に泡を吹きながら悔悟もせず悔恨もなしに夜のうちに死んだのである。
三人の船乗りは、何か所も引き裂かれてデッキへ雪を落とすテントを修繕した。気温は極度に下がり、この寒さは太陽が帰って来るまでつづいた。太陽は一月八日になってようやく水平線の上に顔を出したのである。
ジャン・コルンビュットはこの海岸に埋められた。彼は息子を見つけようとして国を出、そしてこの恐ろしい気候のもとで死んだのであった。彼の墓穴はある丘の上に掘られ、船乗りたちは簡素な十字架をその上に立てた。
この日以後もルイ・コルンビュットとその仲間たちはなおさまざまの試練に遭った。しかし取りもどされたレモンは彼らの健康をよみがえらせてくれた。
ジェルヴィック、グララン、ピエール・ヌーケはあの恐ろしい事件の後二週間たつと、起き上がって多少体を動かすことができた。
まもなく猟は前より容易になり、獲物も豊かになった。水鳥たちは大挙して帰って来た。一種の野鴨《のがも》がよく射ち落とされたが、これはすばらしい食べ物になった。猟師たちは犬を二匹失ったほかは何一つ失ったものはなかった。これらの犬は、二十五マイルほど南の氷原の状態を偵察しようとして出かけたときに失われたのであった。
二月には特に激しい嵐と多量の降雪とが見られた。平気温度はまだ零下二十五度だったが、越冬者たちはそれまでのことがあるのでこんな寒さに苦しみはしなかった。そのうえ、水平線の上にますます高く昇って来る太陽の姿は、苦難の終わりを予告して彼らを喜ばせた。それに神は彼らをあわれんでいると思わねばならなかった。温かさはこの年は早く来たからだ。早くも三月に幾羽かの鴉《からす》が船のまわりを飛びまわっているのが認められた。ルイ・コルンビュットはこんなところまで北方への遍歴をつづけて来た鶴をつかまえた。雁《がん》の群れも南のほうにちらほら見えた。
この鳥たちの帰来は寒気の弛《ゆる》んだことを示していた。しかしあまりそんなことを信用するわけには行かなかった。なぜなら風が変わるとともに、また新月になったり満月になったりするにつれて、温度は急に低下し、船乗りたちは寒さにそなえるためにできるかぎりの策を講じねばならなかったからだ。彼らは暖を取るためにすでに船の甲板の手摺のすべてと、彼らの住まない甲板上船室の仕切板、さらに最下甲板の大部分を燃やしてしまっていた。だからもうこの越冬は終わらねばならなかった。さいわい三月の平均気温は零下十六度以下にはならなかった。マリはこの早く来た夏季のために新しい服を作るのに忙しかった。
春分以来太陽は始終水平線の上に出ていた。昼の八か月が始まっていたのだ。ごくかすかなものではあったが、この間断のない明るさと温かさはまもなく氷に影響を与えはじめた。
船をとりまいている氷塊の高い台から「ラ・ジュンヌ・アルディ」を海に押し出すにはひじょうに慎重に準備しなければならなかった。それゆえ船にはしっかりと支柱がかわれた。そうして氷が解氷で崩れるのを待つのがいいように見えた。しかし下のほうの氷塊はすでに温かくなった水の層に漬かっているのでだんだんと離れて行き、ブリックは目に見えず下がって行った。四月の初めごろには船は本来の高さにかえっていた。
四月になるとともに豪雨がやってきて、氷原にざあざあと降り注いだ雨はさらにその溶け方を速めた。温度計は零下十度に上がった。何人かの男はあざらしの皮の服をぬいだし、昼も夜も部屋にストーヴを燃やしておく必要はなくなった。アルコールは尽きていなかったが、もはや食物を煮るためにしか使われなかった。
まもなく氷は鈍い音を発して割れはじめた。みるみるうちにクレヴァスができ、道をさぐるために杖を持たずに氷原の上を進むことは無謀なまでになった。割れ目がそこらじゅうに走っていたからだ。何人かの船乗りが水に落ちることもあったが、少々冷たい水浴をしただけで済んだ。
あざらしもこのころ帰って来た。そして皆はよくあざらし猟をした。あざらしの脂肪は利用できるからだ。
一同の健康はあいかわらず申し分なかった。出発の準備と狩猟だけで時間はたって行った。ルイ・コルンビュットはしばしば水路を調べに行った。そして南岸の地形からして彼はいちばん南を通過するということに決めた。氷の崩壊はすでにいろいろな場所で起こっており、いくつかの氷塊は外洋へむかっていた。四月二十五日、船の整備は終わった。覆いから出された帆は完全な形で保存されていた。その帆が風のそよぎに揺れているのを見るのは船員たちにとって真の喜びだった。船は身をふるわせた。吃水線まで水が来たからだ。そしてまだ走ることはできないとはいえ、船はその本来の場所に身を置いているのだった。
五月になると解氷はますます速度を増した。岸を蔽っていた雪はそこらじゅうで溶け、厚いぬかるみを作って、海岸にほとんど近づけぬほどになった。桃色の、また白っぽい小さなヒースが残雪のあいだにおずおずと姿をあらわし、このわずかの暖気にむかってほほえんでいるように見えた。温度計はとうとう零度の上に昇った。
船から二十マイルほど南では、すっかりばらばらになってしまった氷塊が今大西洋にむかって流れて行った。船のまわりの海はまだすっかり開けたわけではなかったが、ルイ・コルンビュットが通るつもりでいた水路はできあがった。
五月二十一日、父の墓に最後に詣《もう》でてからルイ・コルンビュットはついに越冬地の湾を後にした。この善良な船乗りたちの心は喜びと同じく悲しみにも満たされた。一人の友が死んだ場所を去るときには哀惜の心なしにはいられないものだからだ。風は北から吹き、ブリックの出帆を助けた。船はしばしば大浮氷に阻まれ、鋸で氷を切らねばならなかった。しばしば氷塊は船の前に立ちはだかり、ダイナマイトを用いてそれを爆破しなければならなかった。なお一月《ひとつき》のあいだ航海は危険に満ちていて、船はしばしば間一髪で難破するところだった。しかし乗組員は大胆であり、こうした危険な操船に慣れていた。プネラン、ピエール・ヌーケ、チュルキエット、フィデール・ミゾンヌは彼らだけで十人分の水夫の働きをし、そしてマリはその一人一人に感謝の笑顔を見せた。
「ラ・ジュンヌ・アルディ」はとうとうジャン・メイヤン島の沖で氷から開放された。六月二十五日ごろブリックはあざらしや鯨《くじら》を獲るために北にむかう船に行き逢った。極洋から脱出するのに一か月近くかかったのであった。
八月十六日、「ラ・ジュンヌ・アルディ」はダンケルクが見えるところまで来た。船の着いたことは望楼から報告されており、港の全住民は波止場に駈けて来た。ブリックの船員たちはまもなく友人たちの腕に飛びこんでいた。老司祭はルイ・コルンビュットとマリを胸に抱いた。そしてつづく二日間に二つのミサがとりおこなわれた。最初のはジャン・コルンビュットの魂の安息のため、そしてもう一つのは、すでにもう長いこと不幸によって結ばれていたあの二人の婚約者を祝福するためだった。(完)
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訳者あとがき
ジュール・ヴェルヌは一八二八年二月八日に裁判官を父としてフランス西部のナントに生まれた。この古い港町に生まれたことが幼いときから彼の心に大航海の夢をはぐくんだのだろう。なぜなら、わずか十二歳で彼は父に内緒で見習水夫の契約を結び、インド向けの遠洋航路船≪コラリー≫に乗りこんだからである。父親は無断で家を抜け出した息子をパンブーフの港に碇泊中の≪コラリー≫から引きずりおろして大目玉を食わせ、哀れな少年は「もう夢のなかでしか航海しません」と父親に約束した。この苦しまぎれの約束が、数々の海洋冒険小説をものすることになる彼の未来を占っていたとは、失意のこの少年には考えも及ばぬことだったにちがいない。
法官の職務をやめて公証人になっていた父親はこの長男に自分の後を継がせようと思った。ジュールはナントの高等中学からパリ大学の法学部に進むが、このころすでに彼は劇作に筆を染めていた。当時の彼の演劇への熱中ぶりは大変なものだったらしい。シェイクスピアの戯曲集を買うために三日間断食したと彼の伝記作者は書いているほどである。そればかりか彼は歴史小説と史劇で名声の高かったアレクサンドル・デュマを知り、デュマの開いた「歴史劇場《テアトル・イストリーク》」に出入し、彼の作品の一つは一八五○年にこの劇場で上演された。この同じ年、彼は一応法学部に卒業論文を提出しているが、文筆で身を立てようという決意はすでに彼の心中で不動のものとなっていたのである。
デュマの事業としてテアトル・イストリークは失敗で、六月にヴェルヌの劇を上演したこの劇場は、同じ年の十二月に破産し、デュマの手を離れてテアトル・リリークとなったが、ヴェルヌはこの新しい劇場の支配人エドモン・スヴェストの秘書となった。これ以後テアトル・リリークでは彼の作品がなおいくつか上演されることになるが、ヴェルヌはこのころから小説にまで手をひろげていた。後に『オックス博士』と題する短編集に収められることになるいくつかの短編はこれ以後数年のあいだに書かれている。本書『氷海越冬譚』もこの中に含まれている作品である。スヴェストは一八五四年にコレラで死に、ヴェルヌは職を失ったが、一八五七年に二人の子を持つ若い未亡人と結婚し、義父の縁故と父親の出資のおかげでパリの株式取引所に出入する証券業者の資格を得た。一八六一年にただ一人の息子ミッシェルが生まれ、ヴェルヌの家庭生活は幸福であった。
一八六二年の秋のある日、「熊」という好ましからぬ渾名《あだな》をつけられていたエッツェル書店の主の寝室に、一包みの原稿を脇にかかえたヴェルヌがおずおずと入って来た。原稿を持ちこんで来る無名の作家たちを例外なしにベッドに寝たまま迎えるという評判の無愛想なこの書店主を訪れる決心をするまでに、ヴェルヌはすでに十数軒の出版社を空しくまわって来ていたのである。運命の宣告を聞こうとするもののように緊張し切っていたヴェルヌの耳に、しばらく原稿を黙読していた「熊」の口からでた「こいつはいい《セ・ボン》という」言葉は何と響いたことであろうか。
ヴェルヌの持ちこんだ原稿は早くもその年末に『気球旅行の五週間』という表題でエッツェル書店から発売された。一か月後にはこの小説は男女老若の区別なく無数のフランス人を熱狂させていた。三か月後には英訳があらわれ、欧米の広い読者たちの心をつかんだ。エッツェルは昨日まで無名だったこの通俗劇の作者を手放すことができず、二十年間の長期契約を彼と結び、ヴェルヌは株屋というあわただしい商売からさっぱりと足を洗うことができた。これは作家としての彼の新しい生涯の出発点であり、つづけて出版された『地底旅行』(一八六四年)、『月世界旅行』(一八六五年)はますます彼の人気を高めて行った。これ以後彼の死後の一九○七年に出版された『金の火山』にいたるまで、彼の小説作品は五十編をはるかに上まわる。
一八六六年に彼はパリを去ってソンム河の河口のクロトワに移り、一艘の漁船を買い入れた。愛児の名を取って彼はその船に「サン・ミッシェル」という名をつけたが、少年時代の彼の航海の夢はこれで現実にも満たされたわけである。もちろんこの小さな船では河川や沿岸の航行しかできなかったから、一八六七年に彼が弟ポールとともにおこなったアメリカへの旅は海底電線敷設用のグレート・イースタン号という大型蒸気船によるものだった。しかし彼の愛する「サン・ミッシェル」は、彼自身の言葉によれば「水上の書斎」であり、同時にまた航海の実際の知識を得る場所でもあったのである。
普仏戦争後の一八七二年、彼は妻の故郷であるソンム県の首府アミアンに移り住み、間もなく本物のヨットを買って「サン・ミッシェル二世」と名づける。名声と富、そして平和な家庭、波風のない十九世紀後半の市民生活のなかで一人の個人の幸福を保証するもののすべてを彼は得ていた。「私の生活は充実しており、倦怠の忍びこむ余地は全然ない。これは私の求めるもののほとんどすべてだ」と、そのころ彼は満足し切って書いている。
そのように生活を楽しみ、旺盛な仕事をつづけながら老境に入って行った彼の身に、突然不可解な事件が起こった。一八八六年三月のある夜、外出先から帰って自分の家の扉をあけようとしていた彼にむかって不意に短銃が二発放たれたのである。この犯行の理由は知られていないし、犯人は精神に異状を来たした彼の甥の一人だったとされているだけである。一弾を脚に受けたヴェルヌはもはや以前のように海上生活を楽しむことはできなかったが、創作力は依然として衰えなかったし、一八八九年にはアミアン市議会に選出されて社会的活動にまで足を踏みこんでいる。それにしても、実はあの事件の犠牲になる以前からすでに彼の心は深い憂愁に彩られていたように見える。一八八四年に彼は弟ポールにあてて、「すべての陽気さは私には我慢ならぬものとなった。私の性格は根本的に変わった。私は打撃を受けたが、これから立ち直ることは永久にないだろう」と書いているが、前に引用した彼の言葉とのこの対照を、彼の言うその打撃をわれわれは何と考えたらいいのだろうか?
事件の翌年の一八八七年に彼は生涯の恩人というべきエッツェルと母ソフィを失った。その十年後の一八九七年弟ポールに先立たれた。彼自身は一九○二年に白内障《そこひ》にかかった。不自由な目でなお創作をつづけながら、一九○五年三月二十四日に彼はアミアンで死んだ。
ヴェルヌの再評価というようなことが近ごろ時として言われる。これがどういうことを意味するか、消息に暗い私にはよくわからない。何よりもヴェルヌは、第二帝政期から世紀末までの成熟し切った市民社会文明の代表者の一人のように私には思われる。彼を劇壇に導き入れてくれたロマン主義者アレクサンドル・デュマが豊かな想像力を過去に向けて絢爛たる歴史の絵巻をくり広げたのに対して、飛躍する科学技術を持った後期市民社会の住人にふさわしくジュール・ヴェルヌはその空想の翼を一方では横へ地理学的空間にはばたかせ、他方では縦に技術文明の未来に翔《か》けさせようとした。この壮大な夢はあるいは彼の作品の持つプラスの遺産であるかもしれず、たとえば一九六六年にパリで催されたヴェルヌ展にアメリカが原子力潜水艦の船内の模型を、ソ連が宇宙空間のカラーフィルムを送ったという事実が語るように、このヴェルヌが現代の一般の人々が描くヴェルヌ像なのだろう。だがもう一つのヴェルヌ像も見落とすわけには行かない。それは特に彼の後期の作品にはっきりと見て取れる、科学の進歩は人間の本性を変えることはできないと認識したペシミスト・ヴェルヌである。一八九六年という彼の晩年に発表された『悪魔の発明』にもこのペシミズムの片鱗は見いだされるだろう。実は文学的にはこちらのほうのヴェルヌこそわれわれの興味をひくのだ。なぜならこのペシミズムは、現代のすべてのSF作家に共通する発想であり、そのためにこそ真の意味でヴェルヌはSFの始祖という資格を持つのだから。(訳者)