悪魔の発明
ジュール・ヴェルヌ作/大久保和郎訳
目 次
一 ヘルスフル・ハウス
二 ダルチガス伯爵
三 二重誘拐事件
四 スクーナー船エッバ
五 ここはどこか?
六 デッキで
七 二日間の航海
八 バック・カップ
九 内部
十 ケル・ケラジェ
十一 五週間
十二 セルコ技師の忠告
十三 無事に行き着け
十四 「ソード」の死闘
十五 待つ
十六 なお数時間
十七 一対五
十八 「ル・トナン」号の上で
あとがき
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一 ヘルスフル・ハウス
その日――一八九…年六月十五日――ヘルスフル・ハウスの院長が受け取った名刺には、紋章や冠の押印はなく、次のような名前だけがきちんと書かれてあった。
「ダルチガス伯爵」
この名の下の方の、名刺の片隅に、鉛筆で次のようにアドレスが書いてあった。
「スクーナー船『エッバ』内(パムリコ・サウンド、ニューバーンに停泊)」
ノースカロライナ――当時のアメリカ合衆国の四十五州の一つ――の首都は、州内におよそ百五十マイルほど入ったかなり大きな町ローリーだった。この都市が立法府の所在地になったのはその位置が中心にあるためだった。なぜなら工業や商業上の重要性でこの町に匹敵するものはほかにもあったからだ――ウィルミントンとかシャーロットとかファイエットヴィルとかエデントンとかウォシントンとかソールズベリとかターバロとかハリファックスとかニューバーンとか。この最後のニューバーンの町は、カロライナ海岸の島や小島から成る自然の堤防で守られた広大な海中湖というべきパムリコ・サウンドに注ぐヌース河の河口の奥にあった。
この施設を見学することを許してほしいという短い手紙が名刺に添えられていなかったとすれば、どういう理由で名刺を受け取ることになったのか、ヘルスフル・ハウスの院長には見当がつかなかっただろう。その人物は院長がこの訪問に同意を与えてくれることを期待しており、スクーナー船「エッバ」の船長スパードをともなってその日の午後参上するというのであった。
当時ひじょうに有名で、合衆国の金持ちの病人からひじょうにもてはやされていたこのヘルスフル・ハウスのなかに入ってみたいと外国人が思うのは、誰が見てもきわめて当然なことだった。ダルガチス伯爵のような立派な名の持ち主ではなかったが、すでに他に多くの人々が訪れていた。そして彼らはヘルスフル・ハウスの院長に讃辞を惜しまなかったのである。そこで院長は急いで願いの件に許可を与えることにし、ダルチガス伯爵に喜んで門を開きましょうと答えた。
最も有名な医師たちが協力し、選り抜きの職員がきりまわしているこのヘルスフル・ハウスは、個人の創立によるものだった。施療院や救済院とは関係がなかったが、政府の監督下にあって、富裕な患者の収容にあてられるこの種の病院に要求される快適と保健のいっさいの条件をそなえていた。
ヘルスフル・ハウスの条件ほどいい立地条件はなかなか見つかるものではなかった。一つの丘のかげに二百エーカーにわたる庭園がひろがり、カナリー群島やマデイラ諸島と同緯度にある南アメリカのこの地方にふんだんにあるあのさまざまの種類の樹木がそこには植えられている。庭園の下手《しもて》に、パムリコ・サウンドからの微風と、海岸の狭い砂洲《リド》を越えて沖から来る海の風が涼しく吹いている前述のヌース河の広い河口が開いていた。
金持ちの病人たちが最上の衛生条件のなかで看護されるヘルスフル・ハウスは、広く言えば慢性の病気の治療にあてられていた。しかし経営者は知能の障害をきたした患者にも、その疾患が治療不可能の性格のものでない場合には入院を拒んでいなかった。
ところで、ちょうど――これが人々の関心をヘルスフル・ハウスに集めずにはおかぬ、そしておそらくダルチガス伯爵の訪問の理由になっているらしい事情なのだが――一人のひじょうに高名な人物がそこで一年半前から特別の保護観察下に置かれていたのである。
その人物は、名はトマ・ロック、年齢四十五歳のフランス人であった。この人物にある精神病の気味があるということについては疑う余地はなかった。けれどもそのときまで精神医師たちは彼の知的能力が決定的に失われているのを確認してはいなかった。事物についての正しい観念が日常生活の最も単純な行為にも欠けていること、この点はあまりにも明白だった。けれども、人が彼の天才に訴えるときには、彼の理性はすこしも害《そこな》われた様子もなく、強力で、非の打ちどころがなかった。事実、天才と狂気があまりにもしばしば境を接していることは周知の事実ではないか! 彼の情意能力もしくは感覚能力がひどくそこなわれていることは確かだった。これらの能力を働かさねばならぬとなると、それは譫妄《せんもう》と意想奔逸《いそうほんいつ》となってしかあらわれなかった。記憶の喪失、注意能力の欠如、意識も判断も失われているのだ。このトマ・ロックはそうなると、理性を奪われ、自立することができず、動物にすらも欠けていないあの本能――自己保存の本能――さえ奪われた人間にすぎなくなり、目を離すことのできない子供のように世話をやいてやらねばならないのだった。それゆえ、ヘルスフル・ハウスの庭園の下手の彼の占めている十七号病棟では、看護人は夜昼問わず彼を見ていなければならなかった。
ふつうの狂気は、それが不治でない場合にも精神的方法によってしか癒《いや》され得ない。医学や治療学はここでは無力であり、その無効性はもうずっと昔から専門家によって認められている。この精神的方法はトマ・ロックの場合に適用可能であるか? たといヘルスフル・ハウスのあの静かな健康な環境にあっても、それについては疑うべき理由があった。事実、不安、気分の変化、いらだちやすさ、性格の偏窟《へんくつ》さ、憂鬱《ゆううつ》、無関心、まじめな仕事も楽しむことも好まないこと、こういうさまざまの症状がはっきりとあらわれていた。いかなる医者もこれを見誤ることはなかったろう。いかなる治療もこれを癒し、または緩和することはできないように見えた。
狂気は主観の過剰である。すなわち、心が内面の作用に適応しすぎ、外からの働きかけに適応しなさすぎる状態であると言われたのは正しい。トマ・ロックにあっては、この無関心はほとんど絶対的であった。彼は一つの固定観念に捉われ(それに取り憑《つ》かれて今のような状態になってしまったのだが)ながらもっぱら彼自身の内部で生きていた。やや厳密な言葉を使うとして、彼を「外向させる」なんらかの状況、なんらかの反動が生ずるということ、これはありそうもなかったが、しかしまた全然考えられぬことではなかった。
どんな状況でこのフランス人がフランスを去り、どんな理由が彼をアメリカに連れて来、なにがゆえに連邦政府は彼をこの療養所に入れることが賢明であり必要であると判断したのかということを、そろそろ説明しておくべきだろう。療養所では、発作時に無意識に彼の口から洩《も》れることはすべて綿密に記録されていたのである。
一年半以前ワシントンの海軍大臣は、前記のトマ・ロックから知らせたいことがあるから面会させてほしいという申し出を受け取った。
その名を見ただけで大臣はどんな用事か分かった。情報がどんな性質のものか、それにはいかなる要求がともなうものか知っていたが、大臣はためらわなかった。そして面会はただちに許された。
事実、トマ・ロックの名声たるや非常なものだったので、自分が責任を負うことになる利害得失に無関心でいられない大臣としては請願者を迎え、相手が直接会って申し出ようという提案を検討してみることをためらうわけには行かなかった。
トマ・ロックは発明家――天才的な発明家だった。すでにさまざまの重要な発明によって彼の事は世に喧伝《けんでん》されていた。彼のおかげでそれまで純粋理論にすぎなかった多くの問題が実際に適用されたのである。彼の名は学界で知られていた。彼は学界で最高の地位の一つを占めていたのだ。どんな不愉快な事件、どんな幻滅、どんな失望、それのみか、ジャーナリズムのちゃかし屋どもが彼に浴びせかけたどんな侮辱《ぶじょく》の結果として、ヘルスフル・ハウスに彼を収容することを余儀なくしたようなこの狂気の時期に至ったかはこれからあきらかになるだろう。
兵器に関する彼の最近の発明はロック式フュルギュラトゥール〔フランス語のフュルギュレという動詞の名詞化、「閃き・電光を発するもの」という意味〕と名づけられていた。この機械は、彼の言うところを信じれば、他のいかなるものよりもはるかに優《すぐ》れていて、それを買い取った国家は多くの大陸と海の絶対的な支配者になるというのであった。
事が自分の発明に関する場合、とりわけそれを政府委員会に採用させようとなると、発明家がどんななさけない困難に直面するかはあまりにもよく知られている。無数の実例――しかもきわめて有名なものを含んで――がまだ記憶になまなましい。このことについてはくどくど述べても意味がない。なぜならこういった種類の事件は往々にして、解明することが困難な裏面を持っているからである。それにしてもトマ・ロックについては、彼より以前にあらわれたたいていの連中と同様に彼もはなはだ法外な要求をつきつけて、自分の新兵器の価値にだれも手の出せないような値段をつけ、そのため彼と交渉することはほとんど不可能になったということは認めておくべきだろう。
それというのも、――このことは注意しておかなければならないが――採用されて多くの成果を挙げたこれまでのいろいろな発明のことで、彼はちょっと例のないような厚かましさで|ぼら《ヽヽ》れた経験がすでにあったからだ。当然期待していいはずの利益を得ることができなかったので、彼は気むずかしくなった。疑い深くなった彼は、自分は充分納得した上でなければ秘密を売らない。相手が引き受けられそうもないような条件を押しつける、自分の言ったことはそのまま信じねば駄目だなどと言い出し、しかもどんな場合にも莫大な金額を要求した。それもいっさいの実験の前によこせという。このような要求はとても認められないというほどの金額だった。
はじめこのフランス人はロック式フュルギュラトゥールをフランスに売ろうとした。彼はその兵器の構造を、彼からの通告を受くべき権限を持った委員会に知らせた。それはまったく特殊の製法にかかる一種の自動推進式機械で、新しい物質を配合した爆薬を装填《そうてん》しているが、これまた新式の起爆薬によらなければ爆薬は威力を発揮しないのであった。
この兵器はどんな方法で発射されたにせよ、炸裂《さくれつ》したとき狙《ねら》った目標に打撃を与えるばかりでなく、数百メートルの距離を置いても大気層にきわめて大きな圧力を与え、そのため独立した堡累《ほるい》であれ軍艦であれあらゆる建造物は一万メートル四方にわたって壊滅するはずだった。これはこの時代にすでに実験されていたザリンスキー式圧搾空気砲によって発射された砲弾の原理と同じだったが、その効力はすくなくとも数百倍にも及んだ。
そこでもしトマ・ロックの発明がこれだけの力を持っていれば、彼の国は攻撃についても防禦についても確実に優位に立つことができるわけだった。それにしてもこの発明家は、彼の製作になる、しかもその性能に関して異論の余地のないさまざまの機械についてこれまでいかにその力量の程を示して来たとはいえ、今度の場合は誇張しているのではなかろうか? それをはっきりさせられるのは実験だけだった。ところが、まさに彼は自分のフュルギュラトゥールの価値として見積っている数百万フランの金額を受け取ってからでなければ、そうした実験に同意しないと主張しているのだった。
一種のアンバランスがこのころトマ・ロックの知能にあらわれたことは疑いない。彼はもはやその頭脳を完全に統制してはいなかった。徐々に本格的な狂気へむかう軌道の上に、彼がはまりこんでしまったことを人々は感じた。彼の押しつけようとする条件のもとでは、いかなる政府も快く交渉に応ずることはできなかったろう。
フランスの委員会はいっさいの交渉を打ち切らなければならなかった。そして徹底的に政府反対の立場にあるものも含めて新聞界は、この件を実行に移すのは困難だということを認めないわけには行かなかった。トマ・ロックの提案はしりぞけられた。それにまた、そうしたところで、ほかの国がこの提案を取り上げはしないかと心配する必要もなかったのだ。
極度の衝撃を受けたトマ・ロックの心のなかでますます昂進《こうしん》してやまない例の主観性の過剰を考えれば、だんだんとゆるんできた愛国心の琴線《きんせん》がついには響きを発しなくなってしまったとしても驚くにあたるまい。人間性の名誉のためにくりかえしこれは言っておかねばならぬが、トマ・ロックはこのころにはまったく無意識状態におちいっていたのだ。彼がまったく正気をとどめていたのは、彼の発明に直接関係する事柄のなかでだけだった。この点については、彼はその天才的能力をいささかも失っていなかった。しかし日常生活のごく平凡な些事に関することとなると、彼の精神の衰弱は日に日に目立ってきて、自分の行為についての完全な責任能力を奪った。
こうしてトマ・ロックはていよく追いはらわれた。おそらくその時は、彼が発明品を他の所へ持ってゆくことは妨げようという申合せができていたのだろう……。だが実際にはその申合せはおこなわれなかった。そしておこなわなかったのは間違いだったのだ。
来たるべきことが来た。しだいに癇癖《かんぺき》が募って来て、公民の愛国心――公民というものは、自主独立の存在である前に国家に属する存在なのだが――そういう愛国心は、期待を裏切られた発明家の心のなかから消えてしまった。彼は他の国のことを考え、国境を越え、忘るべからざる過去を忘れて、フュルギュラトゥールをドイツに持ちこんだ。
ドイツでも、トマ・ロックの法外な要求がいかなるものであるかを知るやいなや、当局は彼の通告を受理することを拒絶した。そのうえ、軍部は新しい弾道兵器の製造の研究にとりかかったばかりだったので、フランスの発明家の兵器を無視することができると信じた。
そこで彼の心中の怒りは、人類に対する本能的な憎悪によっていよいよ強められた、――とりわけ大英帝国の海軍省の省議で彼の運動が無に帰した後では。イギリス人は実際的な国民であるから、最初からトマ・ロックをはねつけはせず、さぐりを入れ、籠絡《ろうらく》しようとした。トマ・ロックは全然耳をかそうとしなかった。自分の秘密には数百万の値がある、その数百万をもらえなければ秘密は洩《も》らさないというのである。英海軍省はけっきょく彼と手を切った。
こうした状態で思考の混乱が日に日に募るうちに、彼はアメリカにむかって最後の試みをしたのである。――それはこの物語の発端よりも一年半ほど前のことであった。
イギリス人よりもさらに実際的なアメリカ人たちは、このフランス人化学者の名声があるのでロック式フュルギュラトゥールの特別な価値を認めて、値切るようなことはしなかった。当然ながら彼を天才として遇し、そして彼の病状からして当然と見られる措置を取った。――後になってしかるべき金額の賠償を払うことに決めた上で。
トマ・ロックがあまりにも明白な精神|錯乱《さくらん》の症状を示したので、当局は彼の発明を保護するためにも彼を閉じこめるのが当を得ていると判断したのだ。
もう一度言っておくが――この点については強調しておかねばならないから――、トマ・ロックはいかに意識を失っていたとはいえ、ことが彼の発見の領分になれば我《われ》にかえるのである。そのときは彼は活気をとりもどし、自信を持っている人間らしい決然たる態度、人を威圧する権威をもってしゃべった。熱弁をふるって彼は自分のフュルギュラトゥールのすばらしい性能、それから生ずる真に驚くべき効果を説いて聞かせた。しかし爆薬や起爆剤の性質、それを構成する元素、その製法、またその製造に必要なコツといったこととなると、彼はすっかり口が固くなってしまって、何ものをもってしても口を割らせることはできなかった。一度か二度、発作の山のとき、彼が秘密を洩らすのではないかと思われたことがあり、ありとあらゆる警戒措置が取られたものだった……。が、その必要はなかった。トマ・ロックは自分の生命の保存欲はもはや持っていなかったが、すくなくとも自分の発明を守る点では強固なものがあった。
ヘルスフル・ハウスの園内の十七号病棟は生垣にかこまれた庭のなかにあり、この庭のなかをトマ・ロックは看護人に見守られて散歩することができた。その看護人は彼と同じ病棟に住み、彼と同じ部屋に寝て、夜昼となく彼を見張り、一刻も離れることはなかった。
その看護人はゲイドンといった。トマ・ロックの収容後ほどなく、発明家と同国語を自在に話す監視者を求めていることを知って、ゲイドンはヘルスフル・ハウスに出頭し、そしてこの新患者の看護人の資格で採用されたのである。
実は、この自称ゲイドンはシモン・アールという名のフランス人の技師であり、数年前からニュージャージーに在る化学製品会社に勤めていたのだった。シモン・アールは年齢四十歳、額《ひたい》は広く、観察者らしい皺《しわ》が一本走り、断固たる態度は精力に加えてねばり強さを示していた。近代の軍備改善に関係あるさまざまの問題、兵器の価値の変化を来たすような種類のいろいろな発明に精通していたシモン・アールは、当時千百種以上数えられる爆発物について知り得べきことのすべてを知っていた。――だからトマ・ロックのような男の値うちをあらためて知らねばならないなどということは彼にはなかったのだ。ロック式フュルギュラトゥールの威力を信じる彼は、攻撃たると防禦たるとを問わず、陸上たると海上たるとを問わず戦争条件を一変させてしまうことのできる機械がこの男の手中にあることを疑わなかった。狂気もこの男の内の科学者を傷つけていないこと、部分的に狂ったこの男の胸中にはまだ光が、焔が、天才の焔が輝いていることを彼は知っていた。そこで彼はこう考えたのだ。もし発作のあいだに彼の秘密が洩れたならば、フランス人のこの発明をフランス以外の国が利用するかもしれない、と。フランス語を流暢《りゅうちょう》に使えるアメリカ人というふれこみでトマ・ロックの看護人になりたいと申し出ようという肚《はら》はこれできまった。彼はヨーロッパに旅行するという口実で辞表を出し、名前を変えた。手短に言ってしまえば、いろいろな事情が有利に働いて彼の申し出は受諾された。こうしたいきさつで二か月以前からシモン・アールがこのヘルスフル・ハウスの入院患者の監視人の役を勤めていたのである。
この決心はたぐい稀《まれ》な献身、気高い愛国心の現れだった。というのは、シモン・アールのような階級に属し彼ほどの教育のある者にとってはこれはつらい仕事だったからである。しかし――このことは忘れないでいただきたいが――技師には、たといトマ・ロックの発明を盗むことに成功したとしても、どんな形ででも彼の利益をまき上げようとする意向は毛頭なかった。そしてトマ・ロックは正統な利得を得るべきものと彼は考えていたのだ。
さて、一年二か月以来、シモン・アールは、というよりむしろゲイドンは、この精神錯乱者のかたわらで観察し、見張り、質問さえしながらこうして暮らしていたが、何一つ得るところはなかった。そのうえ彼は、トマ・ロックの発見の重要性を今までにもまして確信するようになったのだ。したがって彼の何よりも恐れていたのは、彼の受け持つ患者の部分的狂気が全面的な狂気にまで昂進するか、もしくは最後の発作でロック自身もロックの秘密も無に帰してしまうことだった。
これがシモン・アールの立場だった。これが、彼が自分の国のためを思って自己のすべてを捧げた使命だったのだ。
ところが、あれほどの失望、あれほどの幻滅をなめさせられたにもかかわらず、頑強な体質のおかげでトマ・ロックの健康状態は悪化することはなかった。神経過敏な素質にもかかわらず、彼はこれらのさまざまな破壊的要因に抵抗することができた。中背、肥満した顔、広く抜け上がった額、大きな頭蓋《ずがい》、半白の髪の毛、往々にして凶暴に見える、しかしいちばん彼の心を占めている観念によって一条の光がそこに閃《ひらめ》くときには生き生きとし、見据えられ、威圧的になる目、両端がぴくぴく動く鼻の下の濃《こ》い髭《ひげ》、秘密を洩《も》らすまいとして閉じられたかのような固く結ばれた唇、考え深い顔つき、長いあいだ闘って来た、そしてなおも闘う決意をもつ男の態度――それがヘルスフル・ハウスの病棟の一つにとじこめられながらおそらくこの監禁を意識せず、看護人ゲイドンに身を変えた技師シモン・アールの監視下に置かれている発明家トマ・ロックだった。
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二 ダルチガス伯爵
そもそもダルチガス伯爵とは何者だろうか? スペイン人か?……とにかく彼の名はスペイン人たることを示しているように思われる。けれども彼のスクーナー船の艫《とも》の板には「エッバ」という金文字がはっきりと浮き出しているが、この名は純粋なノルウェー系なのだ。そして「エッバ」の船長は何という名かとこの人物にきいたとすれば、彼はスパードと答えただろう。そして水夫長はエフロンダ、コックはエリムだ、と――すべて奇妙にちぐはぐな人名で、まったく異なった国籍を示しているのだ。
ダルチガス伯爵の示しているタイプからなんらかのもっともらしい推定を下せるであろうか?……それはむずかしい。彼の皮膚《ひふ》の色、真っ黒な髪の毛、物腰の典雅《てんが》さがスペインの生まれを示しているとしても、全体の容姿はイベリア半島生まれの人々に特有な人種的特徴をすこしも見せてはいなかったのだ。
どちらかといえば長身の、ひじょうに頑健な体格で、せいぜい四十五歳ぐらいの男だった。物静かで尊大な物腰のためマレーシアのすばらしいタイプの血が混っているインドの貴族か何かに似ていた。冷やかな性質ではないとしても、威圧的な身振りと簡潔な言葉によって、少なくとも冷やかに見えるように気をくばっていた。乗組員と彼が使っている言葉は、インド洋およびそのまわりの海域の島々で使われている方言の一つだった。ただし、航海の都合で旧世界あるいは新世界の沿岸に来たときには、軽い訛《なまり》で外国生まれであることがわかるだけで、驚くほど流暢《りゅうちょう》に英語で話していることは事実だったが。
ダルチガス伯爵の過去、世にも不可解な生活のさまざまな有為転変《ういてんぺん》がどんなものであったのか、また現在はどうしているのか、彼の財産――豪奢《ごうしゃ》なジェントルマンとして生活することができる以上それはもちろん莫大なものに相違ないが――は何から来ているのか、彼の平生の住所はどこにあるのか、すくなくとも彼のスクーナー船の常泊地はどこなのか、そういうことは誰一人知らなかったろうし、誰一人そういうことについてあえて彼に質問しはしなかったろう。それほど彼は無口だったのだ。たといアメリカの新聞記者のためであろうと、インタビューなどしてやるような人間ではなさそうに見えた。
伯爵について人々の知っていることといえば、「エッバ」がどこかの港に、特に合衆国の東海岸の港に来ていると報道する新聞の伝えることに限られていた。事実合衆国東海岸にはスクーナー船はほとんど定期にやって来て、長い航海のために欠かせぬすべての物資を調達した。粉、ビスケット、貯蔵食糧、乾肉、生肉、また生きている牛や羊、葡萄酒《ぶどうしゅ》、ビール、アルコール飲料等の食糧だけでなく、衣類、器具類、贅沢品《ぜいたくひん》や日用品をも補給する。――そのすべてに対して、あるいはドルで、あるいはギニーその他さまざまの国の貨幣で高価に支払われた。
その結果、人々はダルチガス伯爵の私生活については何一つ知らなかったとはいえ、フロリダ半島からニューイングランドまでアメリカ沿岸のさまざまな港で彼はやはりひじょうに有名だったのである。
それゆえ、ヘルスフル・ハウスの院長がダルチガス伯爵の要求をはなはだ名誉として慇懃《いんぎん》に彼を迎えたとしても驚くにあたらない。
スクーナー船エッバがニューバーンの港に寄ったのはこれがはじめてだった。そしておそらくこの船の持ち主の気まぐれ一つで船はヌース河の河口にやって来たのに相違ない。そうでなければ、いったいこんなところへ何をしに来たのか?……補給のためか?……そうではない。なぜならパムリコ・サウンドは、ボストン、ニューヨーク、ドーヴァー、サヴァンナ、ノースカロライナのウィルミントンやサウスカロライナのチャールストンのような他の港の提供する物資を与え得なかったからだ。このヌース河の河口のニューバーンのそう大きくもない市場では、ダルチガス伯爵はピアストル貨や紙幣をもってどんな品物を買うことができたろう? このクレイヴン郡の首都にはまあ五千から六千の住民しかいないのだ。ここでは商業といえば穀物、豚、家具、海軍用の軍需品の積み出しにかぎられているのだ。のみならず、数週間前チャールストンに十日ほど帰港した際、例によってどこへ行くとも知れぬ航海のためにスクーナー船は何もかも積み込んでいたのである。
してみると、この謎《なぞ》の人物はただヘルスフル・ハウスを訪問するだけの目的でここへやって来たのだろうか?……あるいはそうかもしれない。そうだとしてもなにも驚くことはない。なぜならこの療養所は紛うかたなき、しかもまったく正当な名声を得ていたからである。
あるいはまたダルチガス伯爵はトマ・ロックに会ってみたいとふと思い立ったのかもしれないではないか。このフランス人技師の世界的な著名さからすればそういう好奇心も当然であろう。なにしろ天才的な狂人であり、その発明は近代の軍事技術の方法に革命をもたらすことを約束しているというのだから!
手紙にあったように午後、ダルチガス伯爵は「エッバ」の船長スパードをともなってヘルスフル・ハウスの門前にあらわれた。
あらかじめ命令があったので、二人は中に入れられ、院長の部屋に通された。
院長はいそいそとダルチガス伯爵を迎え、伯爵の案内役たるの名誉を余人に譲ろうとせずに彼の御用をつとめたので、その親切さについて心からの感謝を受けた。一般室や特別室を訪れている間も、院長は病人に与えられる手当てについてとめどもなくしゃべりつづけた。――彼の言うところを信じるとすれば、患者が家庭で受ける手当てよりもはるかにまさるものだという。贅沢な治療で――と彼はくりかえした――、それが成果を上げたためヘルスフル・ハウスは、当然ながらもてはやされるようになったのだ、と。
いつもの冷静さを失わずに聞いていたダルチガス伯爵は、この尽きることのないおしゃべりに興味をいだいているように見えた。それはおそらくここへ彼が来た理由である希望を隠すためであったろう。けれどもこの一時間あまりの散歩の後で、彼はもうそろそろこう言わねばなるまいと思った。
「近ごろしきりに話題になっていた患者がここにいませんか? しかもこの患者は一般の関心をヘルスフル・ハウスに集めるのにひじょうに大きな役割を果たしたそうですが?」
「伯爵のおっしゃるのはトマ・ロックのことだろうと思いますが?……」と院長はきいた。
「いかにも……そのフランス人……理性がひどくそこなわれているらしい、その発明家のことですが……」
「そのとおりです、伯爵。そしてそのほうがむしろ、しあわせなのかもしれません! 私の意見では、人間はああした発見から得るものは何一つありません。それを実用に供すれば、すでにもう多すぎるほどの破壊の手段をさらに増すことになるのですからね……」
「それは賢明な考え方です、院長。そしてその点については私もあなたと同意見です。真の進歩はその方向にはありませんし、そういう方向に歩む人々を私は社会に有害な天才とみなしています。……しかしその発明家はそれでは知的能力を全然働かすことができなくなったのですか?……」
「全然……ではありません……、伯爵、日常生活のごく普通の事に関する場合は別ですが。そういうことについては彼にはもう理解力も責任能力もないのです。にもかかわらず発明家としての天才は無疵《むきず》のままで、精神的な退化の後も生きつづけています。そしてもし彼の非常識な要求に応ずるものがいたとしたら、新しい兵器がまた彼の手から出てきたものと私は信じて疑いませんね……そんな兵器なんて誰も必要としていないというのに……」
「まったくです、院長さん」とダルチガス伯爵はそれに応じ、スパード船長もこれに同意するように見えた。
「そのうえ、伯爵、それについてはあなた御自身で判断なさればいいでしょう。ちょうどトマ・ロックのいる病棟の前に来ました。彼を監禁することが公共の安全という見地からすればしごく当然だったとしても、やはり彼を遇するには当然彼に払われていい敬意が払われ、彼の病状が必要とする手当てもおこなわれているのです。それにまたヘルスフル・ハウスでは、彼は無遠慮な連中から守られていますが、こうした連中は……」
院長はきわめて意味深長に頭を振ることによって彼の言葉を補った。――それを見て異国人は口もとにかすかな微笑をうかべた。
「しかしトマ・ロックはけっして一人ぼっちにしておかれることはないのでしょう?……」とダルチガス伯爵はたずねた。
「そうですとも、伯爵、そうです。彼のそばには絶対に信用のおける彼と同国語を話す看護人が絶えず監視しています。何かのことで発明についてなんらかの情報が彼の口から洩れた場合には、ただちにその情報は報告され、どういうふうにそれを利用すべきか考えることになっているのです」
このとき、ダルチガス伯爵はすばやくスパード船長に一瞥《いちべつ》をくれた。船長は「了解」という意味らしい身振りでそれに答えた。そして事実、この訪問のあいだ船長を観察しているものがあったとすれば、彼が十七号病棟の周辺の庭園や、そこにあるいろいろな入口を特別念入りに調べていた――おそらくそれ以前に立てられていた計画のために――ことに気づいたはずである。
この病棟の庭はヘルスフル・ハウスを囲む塀で限られていた。外がわは丘の麓《ふもと》に接し、その丘の向う側はゆるい傾斜をなしてヌース河の右岸にまで達していた。
この病棟はイタリアふうのテラスのある平屋建てであった。建物には二つの寝室と一つの控えの間《ま》が有り、窓は鉄格子《てつごうし》でかためられてあった。建物の両側にはみごとな木々がそびえ、ちょうどそのときは青々と葉が茂っていた。前方は、ビロードのような芝生《しばふ》がいきいきとした緑色を呈し、さまざまな灌木や咲き誇る花々もあった。全体の面積は半エーカーほどに及び、まったくトマ・ロックだけのものであり、彼は看護人の見張りのもとに自由にこの庭を歩きまわることができたのだ。
ダルチガス伯爵とスパード船長、それに院長がこの囲いのなかへはいったとき、まず病棟の入口に見かけたのは看護人ゲイドンであった。
たちまちダルチガス伯爵の視線はこの看護人に注がれた。そして彼は妙に執拗《しつよう》に看護人を観察していたようだが、院長は全然それに気がつかなかった。
それはともかく、十七号病棟の主《あるじ》を外国人が訪れたのは、それがはじめてではなかった。このフランスの発明家は、当然ながらヘルスフル・ハウスの最も好奇心をそそる入院患者とされていたからである。けれどもゲイドンは、国籍のわからない二人の人物の示すタイプが普通と変わっていることに注意をそそられた。ダルチガス伯爵という名は未知のものではなかったが、東部の諸港に伯爵が寄港したときにこの富裕なジェントルマンに会う機会は彼には一度もなかったし、またスクーナー船「エッバ」がこのごろヌース河の河口の、ヘルスフル・ハウスの丘の裾《すそ》のところに投錨《とうびょう》していることを彼は知らなかったのである。
「ゲイドン」と院長はたずねた。「今トマ・ロックはどこにいるかね?……」
「あそこです」と看護人は、病棟の裏の木々の下を考え深げな足どりで散歩している男を指さしながら答えた。
「ダルチガス伯爵はヘルスフル・ハウス見学の許可を得られたのだが、最近ひじょうに取り沙汰されているトマ・ロックに会ってからでなければ帰りたくないとおっしゃっているのだ……」
「のみならず、連邦政府がこの療養所に彼を閉じこめるという措置を取らなかったとすれば、もっと取り沙汰されていることでしょうがね……」とダルチガス伯爵は言った。
「その措置は必要だったのです、伯爵」
「たしかに必要です、院長さん。そして社会の安寧のためにはこの発明家の秘密が彼自身といっしょに消えてしまったほうがいいでしょう」
ダルチガス伯爵のほうへ目をやったゲイドンは、それまで一言も口をきかないでいたのだが、二人の外国人の前に立って囲いの奥の植込みのほうにむかった。
訪問者たちはほんの数歩でトマ・ロックの前に立った。
トマ・ロックは彼らが来るのを見ていなかった。そして彼らがまぢかまで来たときにも、その存在に気がついていないと思って間違いなさそうだった。
その間スパード船長は、人に怪《あや》しまれないように気をつけながらあたりの地形やヘルスフル・ハウスの庭園の内奥部にある十七号病棟の位置を調べつづけていた。坂になっている小道を登ると、彼は囲いの塀の上に帆柱の先がそびえているのをすぐに見て取った。それがスクーナー船「エッバ」の帆柱であると認めるには一瞥《いちべつ》で足りた。これによって彼は、こちら側の塀がヌース河の右岸に沿っていることを確かめることができた。
いっぽうダルチガス伯爵はフランス人の発明家を見まもっていた。この男はまだ逞《たくま》しく――伯爵にはすぐそれがわかった――その健康状態はすでに一年半もつづいている監禁で害《そこな》われているようには見えない。けれども彼の奇怪な態度、支離滅裂《しりめつれつ》な動作や身振り、すさまじい目つき、周囲の事すべてに無関心なことなどは、彼の正気がまったく失われ精神能力がはなはだしく低下していることをあまりにもはっきりと示していた。
トマ・ロックはベンチに来て腰をおろしたところで、手にしていた細いステッキの先で路上に要塞の形を描いていた。それから膝《ひざ》をついて小さな砂山をつくったが、それはもちろん稜堡《りょうほ》をあらわすものだった。それから近くの灌木の葉を幾枚かちぎって、その砂山の先にまるで小さな旗のように立てた。自分を見まもっている人々のことなど全然問題にせず、まじめにそれだけのことをしたのだ。
これはまるで子供の遊びだった。が、子供ならばこのような独特の重々しさはないはずだった。
「それでは完全に狂っているのですか?……」とダルチガス伯爵はたずねた。平素ものに動じないにもかかわらず、彼は何かの失望を感じているように見えた。
「前にも申し上げておいたように、伯爵、この男から何一つ引き出せませんでした」と院長が答えた。
「せめてわれわれに多少注意を向けることもできないのでしょうか?」
「その気にならせることはおそらく困難でしょうな」
それから看護人のほうを向いて、
「ゲイドン、一言話しかけてごらん、君の声を聞いたら返事をする気にならないだろうか?」
「私には返事するでしょう、院長、それは確かです」とゲイドンは言った。
それから入院患者の肩にさわって、
「トマ・ロック?……」と、なるべくやさしい口調で言った。
トマ・ロックは頭を上げた。そして、伯爵と今もどって来たスパード船長と院長が彼をとりまいていたにかかわらず、その場にいた人びとのうち彼には自分の看護人しかおそらく目に入っていなかった。
「トマ・ロック」とゲイドンは英語で言った。「こちらはあなたに会いたいという外国の方々です……。この方々はあなたの健康に……あなたの仕事に関心があって……」
発明家を無関心状態から引き出したように見えるのはこの最後の言葉だけだった。
「私の仕事?……」と、彼はやはり同じ英語で答えた。母国語同様に英語を話せたのだ。
それから子供が指ではじき玉をつまむように人差指と親指を曲げて石をつまみ上げ、砂山の一つに投げつけてそれをこわした。喜びの叫びがほとばしった。
「やっつけたぞ!……稜堡をやっつけたぞ!……私の爆薬は一撃ですべてを破壊してしまったぞ!」
トマ・ロックは立ちあがった。その目には勝利の炎が輝いていた。
「ごらんのとおりです」と院長はダルチガス伯爵にむかって言った、「自分の発明のことが決して頭からはなれないのです」
「そして死ぬまでそれはつづくでしょう!」と看護人ゲイドンは断言した。
「ゲイドン、フュルギュラトゥールについて話をさせるようにはできないかね?……」
「あなたがそう命令なさるのならば、院長……ためしてみますが……」
「そうしてくれたまえ、ダルチガス伯爵にとっては面白いかもしれないから……」
「まったくです」とダルチガス伯爵は答えたが、その冷やかな顔つきは彼の心を打ち揺っている感情をいささかものぞかせなかった。
「ことわっておかなければなりませんが、そのためにまた発作を引き起こすかもしれませんよ……」と看護人は注意をうながした。
「適当と思われるところで会話を打ち切ってくれたまえ。フュルギュラトゥールの買い取りの件で、ある外国人が交渉したいと言っているとトマ・ロックに言うのだよ」
「しかしうっかり秘密を洩らしてしまう心配はないのですか?」とダルチガス伯爵はすぐ異議をはさんだ。
それがかなり激しく言われたので、ゲイドンは思わず疑惑の目を向けずにはいられなかったが、そのえたいの知れない人物はそれを気にするようには見えなかった。
「心配することは全然ありません」とゲイドンは答えた。「どんな約束をもってしてもトマ・ロックから秘密を引き出せはしないでしょうから!……彼の要求する数百万の金を彼の手に渡さないかぎり……」
「そんな金は持ち合わせていませんよ」とダルチガス伯爵は平然として答えた。
ゲイドンは自分の患者のほうへもどって、前のときと同じように肩に触れながら、
「トマ・ロック、ここにおいでの外国の方々があなたの発見を買おうとおっしゃるが……」
トマ・ロックは胸を反らした。
「私の発見を……」と彼は叫んだ、「私の爆薬……私の起爆薬を?……」
ますます募る昂奮がゲイドンの言っていたあの発作の迫ったことをはっきり示していた。この種の質問はいつも発作をひきおこしたのだ。
「いくらで買いたいというのだ……いくらで?」とトマ・ロックはさらに言った。
どんなに莫大な金額を約束してやってもべつに困ることはなかった。
「いくらだ……いくらだ?……」と彼はくりかえした。
「一千万ドル」とゲイドンは答えた。
「一千万だって?……」とトマ・ロックは叫んだ。「一千万だって?……これまで人が作ったどんなものより一千万倍も優れた力をもつフュルギュラトゥールが!……一千万だって?……爆発すれば一万メートル四方にわたって破壊力をふるうことのできる自動推進弾丸が!……一千万だって?……それを爆発させることのできる唯一の起爆薬が!……だが世界のあらゆる富を積んでも私の機械の秘密を買うには不充分だろう。そんな値段で引き渡すぐらいならむしろ自分の歯で舌を噛み切ったほうがましだ!……一千万だって? 十億の値うちがあるというのに……十億……十億だ!……」
なるほどトマ・ロックは、取引きするということになるとすべての物事がわからなくなって来る人間らしかった。しかもゲイドンが百億出すと言ったとすれば、この分別を失った男はそれ以上を要求しただろう。
ダルチガス伯爵とスパード船長は、この発作のはじまったときからずっと彼を見守っていた――伯爵は顔を曇らせはしたものの終始冷静に、――船長は「まったくこの哀れな男は始末に負えない」と言っているもののように頭を振りながら。
しかもトマ・ロックは逃げ出していた。そして憤怒のあまり絶え絶えの声で次のように叫びながら庭園を走って行った。
「数十億だ……数十億だ!」
ゲイドンはこのとき院長のほうを向いて言った。「私が言ったとおりではありませんか!」
そうして彼は患者の後を追い、追いつくとその腕をつかんで、抵抗を受けることもなく病棟に連れもどし、病棟の扉はただちに閉ざされた。
ダルチガス伯爵は院長と二人だけになり、いっぽうスパード船長は下手の塀に沿って最後にもう一度庭園を端から端まで歩いた。
「私の言ったのは全然誇張ではないのです、伯爵」と院長は言った。「トマ・ロックの病気が日ごとに昂進していることは確実です。私の見るところ彼の狂気はもう治りませんね。彼の要求する全額を提供したとしても、彼からは何一つ引き出すことはできますまい……」
「おそらくそうでしょう」とダルチガス伯爵は答えた。「それにしても、彼の金銭的要求は非常識なまでになっているにしろ、彼がほとんど無際限なまでの力を持つ機械を発明したことには変わりはない……」
「専門家たちもそう考えていますよ、伯爵。しかしその彼の発見したものも、いずれ間もなく例の発作とともに消えてなくなるでしょう。あの発作はますます強く、ますます頻繁になるばかりですからね。利益というものが彼の心のなかにまだ生きているように見える唯一の動力ですが、やがてそれすらも消えてしまうでしょう……」
「おそらく憎しみという動力は残るだろう!」とダルチガス伯爵はつぶやいた。ちょうどそのとき、スパード船長が庭園の入口の前で伯爵に追いついた。
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三 二重誘拐事件
半時間後ダルチガス伯爵とスパード船長は、ヌース河の右岸とヘルスフル・ハウスの建物とを距てている樹齢数百年のブナの並木道を進んでいた。二人とも院長と別れて来たところだった――院長は彼らの訪問を非常に名誉に思い、二人のほうは院長の親切なもてなしに感謝しながら別れたのだ。療養所の職員へと言って渡した百ドルばかりの金は、ダルチガス伯爵の気前のよい性質の証拠だった。もし気前のよさというものによって品位が測れるものならば、この人は――どうしてこれを疑い得よう?――最も高い品位を持った外国人だった。
丘の中腹にあるヘルスフル・ハウスの格子門を出ると、ダルチガス伯爵とスパード船長はとてもよじのぼることはできそうもないほど高い囲いの塀に沿って歩いた。伯爵は思いに耽《ふけ》り、そしてたいてい船長は彼が言葉をかけるまで待つのを習慣としていた。
ダルチガス伯爵が相手に言葉をかける気になったのは、路上にたちどまって、そのうしろに十七号病棟のあるあたりの塀の高さを目測することができたときだった。
「あの場所の地理をくわしく調べる時間があったか?……」と伯爵がたずねた。
「ええ、くわしく、伯爵」とスパード船長は、この外国人に与えた伯爵という肩書きにいやに力を入れて答えた。
「何一つ見逃さなかったろうな?……」
「知っていて役に立つことは何一つ見逃しません。あの塀の裏の状況からすると病棟へは容易に近づけます。そして、あなたがあの計画を変えなければ……」
「変えないよ、スパード」
「トマ・ロックの精神状態があんなでも?……」
「かまわんよ。そしてもし奪い出すことができれば……」
「そいつは私の仕事です。夜になったら、私が誰にも見つからぬようにヘルスフル・ハウスの庭に、それからあの病棟に忍びこんで見せますよ……」
「正門から?……」
「いや……こちらから」
「だがこちらには塀がある。一度は乗り越えても、トマ・ロックといっしょのときはどうやってまた越えるんだ? もしあの狂人が叫んだら……もしなんらかの抵抗をしたら……もし看護人が急を報じたら……」
「そんなことは心配しなくてもいい……。私たちはあの門から出入りしさえすればいいんだから」
スパード船長は数歩離れた狭い門を指さした。その門は囲いのまんなかに設けられていて、用事でヌース河の岸のほうに行かねばならない療養所の職員だけが使うものらしかった。
「あそこからならば」とスパード船長は言葉をついだ。「庭園にはいりこめる。しかも梯子《はしご》を使うような手間をかけずに」
「あの門はしまっているが……」
「開くでしょう」
「では内側に閂《かんぬき》はないのかね?……」
「庭園の下手《しもて》のほうを散歩しているあいだに私がはずしておきました。院長は全然それに気づいちゃいない……」
ダルチガス伯爵は門に近づいて言った。
「これをどうしてあけるかね?」
「ほら、ここに鍵《かぎ》がある」とスパード船長は答えた。
そして彼は受け座から錠《じょう》から引き抜いておいた鍵を見せた。
「申し分なしだよ、スパード」とダルチガス伯爵は言った。「それならおそらく誘拐にはたいした困難はないだろう。スクーナーへ帰ろう。八時ごろ、暗くなってから、ボートでおまえとほかの五人を送らせる……」
「そう……五人ね」とスパード船長は答えた。「それだけいれば、看護人が目を覚ましたとしても、そして看護人をかたづけねばならないとしても充分でしょうな……」
「かたづけるって……」とダルチガス伯爵は引き取った。「それもよかろう……絶対にそうすることが必要ならば……。しかしあのゲイドンという奴《やつ》も引きさらって『エッバ』に連れて来るほうがいいね。あの男がトマ・ロックの秘密の一部をすでに知ってしまっているということも考えられる……」
「それはそうだ」
「それにまた、トマ・ロックはあの男になじんでいるからな。私は彼の習慣は全然変えさせぬつもりなんだよ」
この言葉とともにダルチガス伯爵はまことに意味ありげな笑い方をしたので、スパード船長もヘルスフル・ハウスのあの看護人にどういう役割を演じさせようとしているかについては思い誤るはずがなかった。
この二重誘拐の計画はこうして決定されたが、この計画はどう見ても成功しそうに思えた。夜までにまだ二時間あったが、そのあいだに庭園の門の鍵がなくなっていること、門の閂がぬかれていることに先方が気がつかないかぎり、スパード船長とその部下がヘルスフル・ハウスの庭園の内部に忍びこめることは確実と思うことができた。
なおそのうえ、特別に監視されているトマ・ロックは別として、療養所のほかの在院患者には全然そのような措置が取られていないということもここで指摘しておくべきだろう。彼らは庭園の上手《かみて》の病棟か主棟の病室にはいっていた。あらゆる点からして、トマ・ロックと看護人ゲイドンをべつべつに襲って、なんら見るべき抵抗をなし得ない、救いを呼ぶことさえできないようにしてしまえば、スパード船長がダルチガス伯爵のためにおこなおうとしているこの誘拐は成功するものと考えられた。
外国人とその仲間はそこで、「エッバ」のボートの一つが待っている小さな入江のほうにむかった。スクーナー船は、帆を黄色っぽい覆《おお》いに納め、遊覧用のヨットではこうするものなのだが、帆桁《ほげた》を規定どおり斜めにして、四百メートル足らずのところに停泊していた。船尾上部にはどんな国旗もかかげられていなかった。メインマストの頂きには軽い長旗が揺れているだけだったが、それも凪《な》ぎかけた東風によってわずかにひろがっているにすぎなかった。
ダルチガス伯爵とスパード船長はボートに乗りこんだ。四本のオールがたちまちのうちに彼らをスクーナー船まで運び、彼らは舷側の梯子から舟に昇った。
ダルチガス伯爵はただちに後部の自分の船室にはいり、いっぽうスパード船長は最後の命令をくだすために前部へ行った。
船首楼のそばまで来ると、彼は右舷の手摺《てすり》の上に体を乗り出して、数ブラス〔ブラスはおよそ一・六メートル〕のところに浮いている何かを目でさがした。
それはヌース河の引き潮に洗われてこまかく揺れている小型のブイだった。
徐々に日は暮れていった。曲りくねった河の左岸のほうでニューバーンの町のぼんやりとしたシルエットは薄れはじめた。
八時ごろには、ニューバーンの灯《ひ》がともりだして家々の各階にきらめき、いっぽう下町のおぼろなあかりは長いジグザグを描きながら、ほとんど揺ぎもせずに岸の下の河面に映じた。夕べとなって風は弱まったのだ。漁舟が舟着き場の浦へかえろうとして静かに滑って行く、あるものは帆をひろげてわずかに残ったそよぎを受けようとし、またあるものはオールで漕《こ》ぎながら。そのオールの水を叩く無表情なリズミカルな音は遠くまで響いて行く。二隻の汽船が黒っぽい煙をてっぺんに載せた二本の煙突から火の粉を吐き散らしながら通る。その強力な外輪は水を打ち、いっぽう動力を伝えるビームは上甲板の上で海の怪物のように唸《うな》りながら上下する。
八時になるとダルチガス伯爵は、五十歳前後の一人の男といっしょにスクーナー船の甲板に姿をあらわし、その男に言った。
「もう時間だよ、セルコ……」
「スパードに知らせて来る」とセルコは答えた。
そこへ船長がやって来た。
「出発の準備をしろ」とダルチガス伯爵は彼に言った。
「準備はできている」
「ヘルスフル・ハウスの奴《やつ》らが目を覚まし、トマ・ロックと看護人が『エッバ』に連れて行かれたのではないかと疑うようなことがけっしてないようにやるんだぞ……」
「もっとも、『エッバ』に捜しに来たところで二人を見つけることはできまいがね」とセルコはつけくわえた。
そうして彼は上機嫌《じょうきげん》に笑いながら肩をすくめて見せた。
「それにしたって疑いをよびおこさないほうがいいさ」とダルチガス伯爵は答えた。
ボートは準備ができていた。スパード船長と五人の男はそれに乗り込んだ。そのうちの四人がオールを握った。もう一人はボートの番をすることになっている水夫長のエフロンダで、彼はスパード船長のそばで舵《かじ》を取った。
「成功を祈るぜ、スパード」とセルコはにやりと笑って叫び、恋人をさらって行く男のようなしぐさを声を立てずにして見せた……。
「うん……あのゲイドンが……」
「ロックとゲイドンがわれわれには必要なんだぞ」とダルチガス伯爵は言った。
「わかってる!」とスパード船長は答えた。
ボートは舷側を離れ、船の水夫たちは闇のなかに没してしまうまでボートを見送った。
ここで注意しておくべきであろうが、ボートが帰って来るまでのあいだ「エッバ」のほうは全然出帆の準備をしなかった。おそらく誘拐してからもニューバーンの停泊地を去るつもりは毛頭なかったのだろう。それにまた実際のところ、逃げようとしたところでどうして沖へ出られたろう? 風はもはや全然感じられず、しかも上潮は三十分以内にヌース河の数マイル上流にまで影響をおよぼすだろう。それゆえスクーナー船では錨を上げる準備をしなかった。
岸壁から四百メートル足らずのところに投錨しているのだから、「エッバ」はもっと岸に近づいても水深はまだ二十フィートはあったろう。そうすれば、ボートがもどって来て接舷したとき乗り移るのに都合がよかったはずである。にもかかわらず船は岸に近づくことは全然しなかったが、それは近づけろという命令を下さない理由がダルチガス伯爵にあったからなのだ。
ボートは人に見られずに進んで数分のうちに岸に着いた。
岸には人影はなかった。――ヘルスフル・ハウスの庭園に沿うブナの大木におおわれた並木道にも同じく人影がない。
岸に投げた鉄鉤《てつかぎ》はしっかりと固定された。スパード船長と四人の水夫は水夫長を残して上陸し、木下闇《このしたやみ》のなかに消えていった。
庭園の塀の前にくるとスパード船長はたちどまり、部下のものは門の両側にならんだ。
スパード船長はあらかじめ手を打っておいたので、療養所の使用人の誰かが門がいつものようにしまっていないのに気がついて内側から錠をかけたのでもないかぎり、後は鍵を錠にさしこみ、それから門をあけさえすればいいのだった。
しかし錠がかけられていた場合には、たとい塀を乗り越えることができると仮定したところで誘拐は困難だったろう。
何よりもまずスパード船長は門の扉に耳を押しつけた。
庭園のなかには足音は聞こえず、十七号病棟のまわりには人の往き来は全然なかった。道を蔽っているブナの枝では一枚の葉も動かない。風のない夜の広々とした平原のあの息をひそめたような沈黙《しじま》ばかりだ。
スパード船長はポケットから鍵を取り出して錠にすべりこませた。錠の舌は動いて、軽く押すと扉は外から内へ開いた。
してみると、ヘルスフル・ハウスの中は、例の見学者たちが去った時のまま変わっていないのだ。
スパード船長は病棟のあたりに誰もいないのをたしかめてから囲いのなかにはいり、水夫たちは後につづいた。
扉は框《かまち》によせてあるだけだった。ということは、事が終わってからスパード船長と水夫たちは駆け足で庭園の外へ飛び出せるということになる。
高い木々の陰になり、植込みで仕切られている庭園のそのあたりはひじょうに暗く、もしも窓の一つがどぎつい光で輝いていなかったならば病棟を見分けにくいほどだった。
その窓がトマ・ロックと看護人ゲイドンのいる部屋の窓だということは疑いなかった。ゲイドンは昼となく夜となく自分の監視にゆだねられた入院患者から離れることはなかったのだから。だからスパード船長はそこでゲイドンとぶつかるものと覚悟していた。
部下の四人の者と彼は、石につまずいたり木の枝を折ったりする音で自分たちの存在を気づかれないように用心しながら慎重に進んだ。こうして彼らは、脇の扉に行き着けるように病棟の側面に近づいた。この扉のそばの窓がカーテンの襞《ひだ》のあいだから光っていたのだ。
それにしても、もしこの扉がしまっていたとしたら、どのようにしてトマ・ロックの部屋に忍びこめたろう? まさにこのことをスパード船長は考えてみたに相違ない。この扉をあける鍵を彼はもっていなかったのだから、窓ガラスを一枚割って、手を伸ばして掛け金をまわし、部屋に飛びこみ、不意打ちでゲイドンを押え、彼が救いを呼べないようにすることがその場合必要になったろう。そして実際、ほかにどのようなやりかたがあったろうか?
けれども、この実力行使にはいくつかの危険があった。スパード船長は、一般に暴力よりも術策のほうに長《た》けている人間としてこのことを完全に理解していた。しかし今は選択の余地はなかった。のみならず、いちばんかんじんなことがトマ・ロックを――そのうえさらにダルチガス伯爵の意向に従えばゲイドンをも――誘拐することであり、これはなんとしても成功しなければならなかった。
窓の下まで来るとスパード船長は爪先立ちで背伸びした。するとカーテンの隙間から部屋全体が一目で見えた。
ダルチガス伯爵が去った後もまだ発作がおさまっていないトマ・ロックのそばにゲイドンはいた。この発作には特別な手当てが必要であって、看護人はもう一人の人物の指示にしたがいながらその必要とされる手当てを病人にほどこしていたのだ。
その人物と言うのは、院長がさっそく十七号病棟にやったヘルスフル・ハウス所属の医師の一人だった。
この医者がそこにいるということはもちろん、事態を複雑にし誘拐を困難にする以外の何ものでもあり得なかった。
トマ・ロックは服を着たままで長椅子に横になっていた。ちょうどこの時はかなりおちついているように見えた。発作はすこしずつ鎮まってゆき、これから数時間の麻痺状態と半睡状態におちいろうとしていた。
ちょうどスパード船長が窓の高さまで背伸びをしたとき、医師は立ち去る用意をしていた。聞き耳を立てると、今夜はべつに心配もなく過ぎるだろう、自分がもう一度来なければならぬようなことはあるまい、とゲイドンに言っているのが聞こえた。
そう言ってから医師は扉のほうにむかった。読者もお忘れではあるまいが、この扉はその前でスパード船長とその部下が機を窺《うかが》っている窓のそばで開くのだ。身をかくさなかったら、病棟のかたわらの植込みのなかに身をひそめなかったら、彼らは医師だけではなく、医師を送って行こうとしている看護人にも見咎《みとが》められたろう。
二人が石段の上にあらわれる前にスパード船長は合図し、水夫たちはあたりに散らばり、スパード自身は壁の根もとにうずくまった。
まことにありがたいことにランプは部屋のなかに残されていたので、光線に照らし出される心配は全然なかったのだ。
ゲイドンと別れるとき、医師はいちばん上の段の上にたちどまって行った。
「今度のはあの患者を襲った最も激しい発作の一つだったね!……今わずかに残っている理性を失わせるには、あの種の発作が二度三度起こる必要もないくらいだろう!」
「ですから」とゲイドンが答えた。「どうして院長はいっさいの訪問者にこの病棟にはいることを禁止しないんでしょうか?……この患者がごらんのような状態に陥ったのは、ダルチガス伯爵とかいう人物のため、この人物がトマ・ロックにむかって言ったことのためなんですよ」
「その点は私が院長に注意しておこう」
医師はそれから階段を降りて行き、ゲイドンは病棟の扉を半開きにしておいたまま登り坂になっている通路の奥まで医師を送って行った。
二人が二十歩ほど行くやいなやスパード船長は立ち上がり、水夫たちも彼のところへ集まった。
偶然与えられたこの事態につけこんで部屋に忍びこみ、今半睡状態に陥っているトマ・ロックを拉《らつ》し、そうしてゲイドンが帰るのを待って彼を捕えるべきではなかったか?……
しかし看護人はトマ・ロックのいないことに気づくやいなや捜しはじめるだろうし、人を呼び急を報ずるだろう……。医師はすぐ駈けつけて来るだろう……。ヘルスフル・ハウスの職員も出て来るだろう……。囲いの門まで駈けて行って、門を出、後をしめる時間はスパード船長にはないだろう……。
それにまた、今はこの問題について考えてみる余裕はなかった。砂を踏む足音はゲイドンが病棟に帰って来たことを告げた。いちばんいいのは、彼に飛びかかり、彼が警戒の声をあげる間もなくその叫び声を押し殺し、抵抗することができないように押さえつけることだった。四人、それどころか五人もいるのだから、造作《ぞうさ》もなく彼の抵抗を抑え、庭園の外へ引きずり出せたろう。トマ・ロックの誘拐についてはなんらの困難もあるまい。この不幸な狂人は何をされているかすらも意識しないだろうから。
そうする間にゲイドンは植込みをまわって正面階段のほうへ歩いて来た。が、彼がその足を第一段にかけたとき、四人の水夫が彼に襲いかかり、叫び声一つあげる暇もなく打ち倒して、ハンカチで猿轡《さるぐつわ》を噛ませ、目かくしをし、腕と脚を縛った。それもぎりぎりに縛りあげたので、彼はもう屍体も同様のありさまになってしまったほどだ。
二人の部下が彼のそばに残り、いっぽうスパード船長と残りのものは部屋にはいりこんだ。
船長が予想したとおりトマ・ロックはいくら物音がしても麻痺から醒めないような状態にいた。長椅子の上に横たわり、目を閉じて、もしその荒い息づかいがきこえなかったとすれば死んでいると思われるほどだった。縛ったり猿轡をかませたりする必要は全然ないように見えた。二人のうちの一人が足を握り、もう一人が頭を支えるだけで充分で、二人でスクーナー船の水夫長が番をしているボートまで運んで行けたろう。
事実それはあっという間になされた。
スパード船長は注意深くランプを消してから、最後に部屋を出て、ドアを閉めた。こうすれば、誘拐の事実が発見されるのはどうしても翌日になり、早くてもその早朝になるものと考えてよかった。
ゲイドンも同じようにして運ぶことになったが、この仕事も何の困難もなくかたづいた。残った二人の水夫が彼を持ち上げ、植込みを迂回して庭を降りて行き、囲いの塀のほうへむかった。
依然として人影のない庭園のこの部分では闇はいっそう濃くなっていた。丘のかげの庭園の高い部分にある建物の光や、ヘルスフル・ハウスのほかの病棟の灯さえ見えなくなった。
扉の前まで来てしまえば、スパード船長はもうそれを手前に引きさえすればよかった。
看護人を抱えた連中が先に出た。トマ・ロックは二人の男に抱かれてその次に出、それから今度はスパード船長が出て、鍵で扉をしめた。「エッバ」のボートに乗ってしまったらすぐ、鍵はヌース河の水のなかに捨てるつもりだった。
道には誰もいなかった。川の土手にも誰もいない。
二十歩ほど行くと、土手の斜面に腰をおろして待っていた水夫長エフロンダに出逢《であ》った。
トマ・ロックとゲイドンはボートの後部におろされ、スパードと水夫たちも乗りこんで来た。
「鉄鉤を投げろ、早く」とスパード船長は水夫長に命じた。
水夫長は命じられたことをし、土手の斜面をすべりおりていちばん最後にボートに乗った。
四本のオールが海面を打ち、ボートはスクーナー船のほうにむかった。前檣《ぜんしょう》の頂きにともった光がスクーナー船の停泊地を示していた。二十分ほど前に船は潮に乗って錨をおろしたまま位置を変えたのだった。
二分後、ボートは「エッバ」号と接舷した。
ダルチガス伯爵は舷梯《げんてい》の近くのデッキの欄干《らんかん》によりかかっていた。
「すんだか、スパード?……」と彼はきいた。
「すんだよ」
「二人とも?……」
「二人とも……看護人も患者も!……」
「ヘルスフル・ハウスでは誰も怪しんでいないだろうな?……」
「いないね」
耳も目も布で蔽われているゲイドンにダルチガス伯爵とスパード船長の声を聞き分けることができたものとは考えられなかった。
その上、ここで注意しておいたほうがいいだろうが、トマ・ロックもゲイドンもすぐにはスクーナー船の上に引き揚げられなかった。船体に何か触れる音がしていた。三十分ほどしてから、すっかり冷静さを保っていたゲイドンは体が持ち上げられ、それから船艙《せんそう》の底におろされるのを感じた。
誘拐がなしとげられたので、後はもう「エッバ」は停泊地を去って河口を下り、パムリコ・サウンドを横切って沖に出るだけだと思われるだろう。ところが甲板では出帆に伴う作業はぜんぜんおこなわれなかった。
してみると、宵のうちに二重の誘拐をおこなった後もなおこの場所にとどまるのは危険ではなかったのだろうか? ヘルスフル・ハウスのそばに「エッバ」がいることが怪しまれてニューバーンの官憲の臨検を受けたとしても発見されるおそれがないほどまでに、ダルチガス伯爵はその捕虜を完全にかくしてしまったのであろうか?……
それはともかく、ボートが帰って来てから一時間後には、ヌース河の静かな河口に静止している「エッバ」の上では――船首に横になっている当直のものたちを除いて――乗組員はその部屋で、ダルチガス伯爵、セルコ、スパード船長はそれぞれの船室で眠っていた。
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四 スクーナー船エッバ
翌日になってはじめて、しかも全然急ぐ気配もなしに「エッバ」は準備を始めた。乗組員たちが甲板を洗ってから、出帆のために水夫長エフロンダの指図《さしず》によって帆を覆いから取り出し、括帆索を解き、動索をととのえ、ボートを引き揚げるのが、ニューバーンの岸壁の突端から見られた。
「エッバ」は北アメリカやイギリス王国の試合には一度も出場したことはなかったけれども、はっきりと競走用に作られたヨットだった。高いマスト、帆の面積、帆桁《ほげた》の交叉の具合、安定性をよくするように考えた吃水《きっすい》、帆に蔽われているときすら船首がすらりと伸び船尾はほっそりとしているその形態、美しく引かれた吃水線、そうしたすべてが、快速で、どんな荒天でも航行できるひじょうに航海性のいい船であることを示していた。
事実、かなりの風が吹いているときにうまくそれを受ければ、スクーナー船「エッバ」は時速十二海里は容易に出すことができた。
たしかに帆船というものはいつも気象の変化に従属している。凪《なぎ》が来ればそれ以上進めないものとあきらめねばならない。それゆえ、帆船は蒸気機関つきヨットよりも優れた航海性能を持つにもかかわらず、蒸気のおかげでいつでも進めるという保証は帆船のほうにはけっしてないのである。
そうなると、あらゆる点を考慮した上でやはり帆とスクリューの両方の利点を併《あわ》せ持つ船のほうが優れているということになりそうだ。しかし、ダルチガス伯爵の意見はおそらくそうではなかったのだろう。大西洋の域を越えて出るときすらも、彼はその海上漫歩にスクーナー船で満足していたからである。
この朝は風は西からの微風だった。だから「エッバ」がまずヌース河の河口から出、さらにパムリコ・サウンドを通って湖と沖とをつなぐあのインレット――海峡のようなもの――に入るには有利だったわけである。
二時間たっても「エッバ」は錨をおろしたまま波に揺られており、錨鎖《びょうさ》は引き潮とともにぴんと張りはじめた。潮の流れで位置を移したスクーナー船はヌース河の河口にその船首を向けていた。前日は左舷に浮かんでいた小さな繋留《けいりゅう》ブイは、夜のうちに揚げられたのにちがいない、もはやさざめく河水のなかには見られなかった。
突然、一マイルほど離れて砲声が一発響いた。薄い煙が海岸の砲台の上に立ち昇った。沖のほうに連なった細長い島々に…と配置されてある大砲からいくつかの砲声がそれに答えた。ちょうどそのときダルチガス伯爵とセルコ技師が甲板に姿をあらわした。
スパード船長が二人のところへ来た。
「大砲の音が……」と彼は言った。
「するものと思っていたよ」とセルコ技師はちょっと肩をすくめて答えた。
「あれは、ヘルスフル・ハウスの連中がわれわれのやったことを発見したということだ」とスパード船長が言った。
「確かに」とセルコ技師は言い返した。「そしてあの砲声は航行閉鎖の命令なんだよ」
「そんなことがわれわれに何の関係がある?……」ダルチガス伯爵はおちついた口調でたずねた。
「全然ありません」とセルコ技師が答えた。
スパード船長が今ごろはトマ・ロックとその看護人の失踪《しっそう》がヘルスフル・ハウスの職員に知られていると言ったのは正しかった。
事実、明け方いつもの回診のために十七号病棟におもむいた医師は部屋が空《から》になっているのを見いだしたのである。すぐさま知らせを受けた院長は塀のなかを捜させた。調査の結果、丘の裾をめぐる部分の囲いの塀の扉は鍵がかかっていたけれども、鍵そのものは錠についていないこと、錠の舌はその受座からはずされていることが判明した。
疑う余地はなかった。宵のうちか夜中にこの扉から攫《さら》って行ったのだ。犯人は誰と見るべきか?……この点については単なる推定を下すことさえ不可能であり、誰かに嫌疑をかけることも不可能であった。わかっていることはただ、前夜の七時半ごろに療養所の医師の一人が激しい発作に襲われているトマ・ロックを見に行ったということだった。医師は手当を加えてから、自分の行為についていっさいの意識を失っている状態のままに彼を残して病棟を去った。看護人ゲイドンは脇の並木道のはしまで送って行った。
それから何が起こったか?……誰もそれを知らなかった。
この二重誘拐の知らせは電信でニューバーンへ、そこからさらにローリーに送られた。ノースカロライナ州知事はただちに、厳重な臨検をおこなった上でなければいかなる船もパムリコ・サウンドから出してはならないとう命令を電報で与えた。別の電報で哨戒《しょうかい》警備中の巡洋艦「フォールコン」に、この措置の実施の準備にかかるよう通達された。それと同時に、その地方一帯の町や田舎を監視するための厳重な指図がなされた。
それゆえ、この布告の結果として、河口の東二マイルの所で、「フォールコン」が出帆準備を始めるのをダルチガス伯爵は見ることができた。それにしても、軍艦が汽罐の圧力を上げるに必要な時間のうちに、スクーナー船は――すくなくとも一時間は――追跡される恐れなく進むことができたろう。
「錨を揚げましょうか?……」とスパード船長はきいた。
「ああ、風がいいからな。だが、急ぐ気配は全然見せてはならぬ」とダルチガス伯爵は答えた。
「たしかに」とセルコ技師も言った。「パムリコ・サウンドの水路は今は監視されているはずだ。そしてどんな船も沖へ出る前に、例の好奇心が強くて無遠慮な紳士たちの来訪を免れることはできまいて!……」
「それにしても出帆準備をするんだ」とダルチガス伯爵は命令した。「巡洋艦の将校か税関の係官が『エッバ』の船内を捜索してしまえば、この船に対しては出港停止令は解かれるよ。奴《やつ》らが航行を許さなかったとすれば私は驚くね……」
「さんざんお詫びを言い、さんざん航海の無事を祈ったり早く帰って来てくださいと言いながら許してくれるさ!」とセルコ技師がそれを受けて、最後に長々と笑って見せた。
知らせがニューバーンに伝えられたとき、当局はまずトマ・ロックと看護人が逃走したのか、それとも誘拐されたのかと考えた。逃走はゲイドンとの共謀なしにはおこなわれ得ないから、この考えのほうは捨てられた。院長と事務局の考えでは、ゲイドンの行状にはなんら疑いをはさむ余地がなかったのだ。
それゆえ誘拐ということになる。この事件が町のなかにどんな印象を与えたかは察するにあまりあろう。なんだって! あんなに厳重に監視されていたフランス人技師が、そして彼とともに何人《なんぴと》もまだ窺い知ることのできなかったあのフュルギュラトゥールの秘密が消え失せたって!……これはひじょうに重大な結果にならないだろうか?……あの新兵器の発見がアメリカにとってはもうけっして手のとどかぬものになってしまったのか?……犯行がどこかの国のためにおこなわれたと仮定すれば、その国は自己の掌中に落ちたトマ・ロックから、合衆国政府が聞き出せなかったものをついに獲得したのではなかろうか?……そして率直に言って、この誘拐の犯人が一個人のためにこんなことをしたなどということをどうして認められよう?……
それゆえノースカロライナ州の各郡にわたっていろいろの措置が取られた。道路や鉄道に沿って、また町や村の人家のまわりに特別警戒が張られた。海のほうは、ウィルミントンからノーフォークにいたるまでの沿岸一帯が遮断されることになっていた。いかなる船舶も将校または警官の臨検を免れることはできず、ほんのちょっとでも疑わしいところがあれば抑留されるはずだった。そして「フォールコン」が出動準備をしていたのみならず、パムリコ・サウンドの水域に控えていた幾隻かの蒸気艇も、商船であれ遊覧船であれ漁舟であれ――停泊地にとどまっていると外洋にむかおうとしているとを問わず――船艙の底まで捜索せよという命令を受けて、まさに四方八方へ飛び出して行こうとしていたのである。
そのあいだにスクーナー船「エッバ」は錨を揚げる仕事にかかった。けっきょくのところダルチガス伯爵は当局の命じた警戒措置をも、また船内でトマ・ロックと看護人ゲイドンが見つけられたときに自分がどんな目にあうかということをもいっこう苦にしていないように見えた。
九時ごろ最後の作業が終わった。スクーナー船の乗組員はカプスタンを巻き上げた。鎖は錨鎖孔のなかを上がって来て、錨が垂直に吊されたとたんに、帆は手早く風上に向けてぴんと張られた。
しばらく後には、二つの船首の三角帆、前檣《ぜんしょう》二帆、前檣帆、主檣帆、主檣上帆を張った「エッバ」はヌース河の左岸をまわって行こうとして船首を東に向けた。
ニューバーンから二十五キロメートルほどのところで河口部は急に彎曲《わんきょく》し、だいたい同じくらいの長さにわたって幅をひろげながら北西へむかっている。クロータンとハヴロックの前を通って「エッバ」は彎曲部に到達し、左岸に沿って風上に間切りながら北へ進んだ。十一時には、風に恵まれ、巡洋艦にも蒸気艇にも出逢わずにシーヴァン島の突端をまわった。島のむこうにはパムリコ・サウンドがひろがっている。
この広大な水面はシーヴァン島からロードオーク島までおよそ百キロメートルに及ぶ。海の側には細長い島々がつながっている――それらすべてが自然の防波堤であって、ルックアウト岬からハッタラス岬まで南北に伸び、さらにまたこのハッタラス岬から、ノースカロライナに接するヴァージニア州内にあるノーフォーク市の向かいのヘンリ岬までつづいている。
パムリコ・サウンドは小島や島にともっている無数のあかりに照らされており、そのため夜も船が航行できる。したがって、大西洋の大波から待避する場所を求めようとする船は、ここでよい投錨地を見いだせることは確実なのだから、ひじょうに都合がいいわけなのだ。
いくつもの水路がパムリコ・サウンドと大西洋とを結んでいる。シーヴァン島の灯台からちょっとはずれたところにはオクラコーク・インレット、その向こうにはハッタラス・インレット、さらにその上のほうにはロッガヘッド・インレット、ニュー・インレット、オレゴン・インレットという名の三つの水路が開いているのだ。
こうした配置の結果、「エッバ」の前にある水路はオクラコークのそれであるから、針路を変えないですむように「エッバ」はその水路に入るものと当然推定すべきだった。
たしかに「フォールコン」はこのときパムリコ・サウンドのこのあたりを監視し、外洋に出ようとしている商船や漁舟を臨検してはいた。そして事実この時刻には、当局からのいろいろの命令を誰も同じように理解して、すべての水路は軍や官の船に監視されており、のみならず砲台は外洋に睨《にら》みを利かしていたのである。
オクラコーク・インレットに対して直角の位置に進んで来た「エッバ」は、パムリコ・サウンドを縦横に走りまわっている蒸気ランチを避けようとも特にそれらに近づこうともしなかった。この遊覧ヨットはいわば朝の散歩をしようとしているにすぎないように見え、ハッタラス海峡のほうにむかってのんびりと進みつづけた。
彼なりの理由はあるのだろうが、まさにこの水路からダルチガス伯爵は出て行くつもりらしかった。斜めからやって来た彼のスクーナー船はこのときその方向にむかったからだ。
このときまで「エッバ」は、目をくらまそうとするようなことは何もしていなかったにもかかわらず、税関の役人にも巡洋艦の将校にも乗り込まれていなかった。それにしても、彼らの監視の目を欺くことなどどうしてできたろう?
それならば当局は特典として彼には面倒な臨検を免れさせることに同意したのであろうか?……わずか一時間たりともその航海を妨げてはならないほどやんごとない人物とダルチガス伯爵は見られていたのだろうか?……そんなことはありそうもなかった。幸運に恵まれた人間らしい豪勢な暮らしをする外国人とは見られていても、けっきょくのところ誰一人として彼が何者であるか、どこから来てどこへ行くのかは知らなかったからである。
スクーナー船はこうしてパムリコ・サウンドの静かな水の上を軽やかな速い船脚で進みつづけた。斜桁《しゃこう》にひるがえるその旗――赤い布の隅に金色の新月を浮き模様にしたもの――は風を受けて大きくひろがっていた。
ダルチガス伯爵は艫《とも》のほうで、遊覧船でよく用いられるあの柳を編んだ肘掛椅子《ひじかけいす》に坐《すわ》っていた。セルコ技師とスパード船長は彼とおしゃべりしていた。
「なかなかわれわれに帽子を振ってくれそうもないな、合衆国海軍の士官さんたちは」セルコ技師が言った。
「好きなときに船に来るがいいさ」とダルチガス伯爵はもうまったく気にしていないという口調で答えた。
「たぶん奴らはハッタラス・インレットの入口で『エッバ』を待っているんだろう」とスパード船長が意見を述べた。
「待つがいいよ」と言って金持ちのヨットマンは会話を結んだ。
そして彼はいつものあのものに動じない無頓着さにかえった。
それにしても、スパード船長の推定は現実になるものと思わねばならなかった。「エッバ」が先ほど言われたインレットにむかうことははっきりしていたからだ。「フォールコン」はまだスクーナー船に「停止命令」を発するために動き出していないとしても、スクーナー船が水路の入口にあらわれたときにはそうするにちがいなかった。その入口では、パムリコ・サウンドを出て沖へ行こうとするかぎり「エッバ」が命じられた臨検を拒むことは不可能だった。
そのうえまた、「エッバ」は全然臨検を避けたいと思っているように見えなかった。そうなると、トマ・ロックとゲイドンは役人がなんとしても見つけることができないようにたくみに船内にかくされているのだろうか?……
この推定は妥当であったが、もし「エッバ」のことが巡洋艦と税関のランチに特別に通報されていることを知っていたならば、ダルチガス伯爵もおそらくこれほど自信を示さなかったろう。
事実この外国人は、ヘルスフル・ハウスを訪れたため目をつけられてしまっていたのだ。もちろん院長には彼の訪問の動機についてなんら疑う理由はなかった。けれども彼が帰ってからわずか数時間後に患者とその看護人は誘拐されたのだし、彼が帰って以来|何人《なんぴと》も十七号病棟には入れられず、何人《なんぴと》もトマ・ロックと接触していないのである。こうして疑いをかきたてられた当局は、この人物の手が一件のなかに動いていると見るべきではないかと考えた。地取りを調べ病棟の周辺を偵察してしまってから、ダルチガス伯爵といっしょに来た男は扉の錠をもとにもどして鍵を抜き取っておき、宵の口にまたやって来て庭園のなかに忍びこみ、わりに有利な条件であの誘拐に取りかかることができたのではあるまいか? なぜなら「エッバ」は庭園の囲いから四、五百メートルのところに停泊していたからだ……。
ところで、捜査のはじまったばかりのときには院長も職員もこんな疑いを抱いていなかったのだが、スクーナー船が錨を揚げてヌース河の河口を降り、パムリコ・サウンドから出る水路の一つへむかう態勢を取るのが見られたとき、この疑惑は募《つの》りはじめた。
それゆえニューバーンの官憲の命令によって巡洋艦「フォールコン」と税関のランチは、スクーナー船「エッバ」を追跡し、どこかのインレットを通過する前に停止させ、厳重をきわめた捜索をおこない、甲板上および甲板下の船室、船員室、船艙を残るくまなく調べ上げるべしということになったのである。トマ・ロックとゲイドンが船内にいないという確信が得られないかぎり、航行の許可は与えないというのだ。
たしかにダルチガス伯爵には、特別の嫌疑が自分の上にかかっており、自分のヨットのことが海軍士官や税関の役人に特別に通報されているなどということは予感することもできなかった。しかしたといそれを知っていたところで、これほど傲然《ごうぜん》と人を見下し尊大にふるまっているこの男が、それをほんのすこしでも気に病むようなことがあったろうか?……
午後三時ごろ、ハッタラス・インレットから一海里足らずのところを走っていたスクーナー船は水路の中央を行けるように船首を向けた。
沖へむかう幾隻かの漁舟を臨検した後「フォールコン」はインレットの入口で待っていた。どう考えても「エッバ」は、パムリコ・サウンドにいるすべての船に適用される手続きを免れるために、見つからぬように逃げ出したり全帆を揚げて強行突破したりする気はなさそうだった。普通の帆船が軍艦の追跡を逃れられるものではなかったし、もしスクーナー船が停泊命令に従わなかったとすれば、いずれ一発か二発の砲弾で強制的に停船させられてしまうだろう。
ちょうどそのとき、二人の士官と十人あまりの水兵をのせたボートが巡洋艦から離れた。そしてオールを上げて「エッバ」の針路を断つようにするすると滑《すべ》って来た。
ダルチガス伯爵は純粋のハバナの葉巻に火をつけて、船尾に位置したままそのボートの動きを眺めていた。
ボートが百メートル足らずしかないところまで来ると、一人の水兵が立ちあがって旗を振った。
「停泊の合図だ」とセルコ技師が言った。
「たしかに」とダルチガス伯爵は答えた。
「待てと命じている……」
「待とうじゃないか」
スパード船長はただちに停船の手配をした。前檣帆、三角帆、大檣帆は風を受け、風下へ舵を切って中檣帆は引上げられた。
スクーナー船の船足は落ち、まもなく進行をやめ、もはや水路のほうへ流れて行く引き潮に引かれているだけだった。
オールを数度かくと、「フォールコン」のボートは「エッバ」に接舷した。爪竿《つめざお》が主檣の索留めにかかった。タラップが繰り出され、二人の士官が水兵八人を従えて甲板に上がってきた。水兵二人がボートの番に残った。
スクーナー船の乗組員は船首楼のそばに一列にならんだ。
先任士官――海軍少尉――が今立ち上がった「エッバ」の持ち主のほうへ進み出、次のような遣り取りが彼らのあいだに交わされた。
「ダルチガス伯爵とお見受けしますが、このスクーナー船は伯爵のものですか?……」
「さようです」
「船名は?」
「エッバ」
「で、指揮をするのは?」
「スパード船長です」
「国籍は?……」
「インドネシア」
士官はスクーナー船の船旗を見、いっぽうダルチガス伯爵はさらに言った。
「この船においでくださったのは何のためか、おっしゃっていただけますか?」
「現在パムリコ・サウンドに投錨中の、もしくはそこから出ようとするすべての船舶を臨検せよという命令が下されたのです」と士官は答えた。
「エッバ」はほかの船以上に厳しい捜査をうけることになっているのだということを特に強調する必要があるとは士官は思わなかった。
「伯爵、拒絶するおつもりではありますまいな……」
「いっこうに」とダルチガス伯爵は答えた。「マストのてっぺんから船艙の底まで船じゅう自由にごらんになって結構ですよ。ただ私としては今日パムリコ・サウンド内にある船についてそうした手続きがおこなわれねばならぬ理由を教えていただきたいのですが……」
「お教えしないでおく理由は全然ないと思いますから言いますが」と士官は答えた。「ヘルスフル・ハウスで誘拐があったと先ほどカロライナ州知事に通報されたので、当局は誘拐された人物が夜のあいだに船に乗せられてしまっていないかどうかを確かめようというのです……」
「そんなことがあり得るでしょうか?……」とダルチガス伯爵は驚きを装って言った。「それで、ヘルスフル・ハウスからそんなにして消えたのはどんな人です?……」
「発明家です。狂人です、看護人といっしょにこの襲撃に遭ったのですが……」
「狂人ですって!……もしかしてそれはフランス人のトマ・ロックのことでは?……」
「まさにその人ですよ」
「私が昨日あの療養所を訪れたときに会ったあのトマ・ロックが?……院長の面前で私はあの人に質問したもんだが……ちょうどスパード船長と私が立ち去るときには激しい発作におそわれていました……」
士官は伯爵の態度か言葉のうちに何か疑わしいものをかぎつけようとして、極度の注意をこらしてこの外国人を見まもった。
「そんなことは信じられない」とダルチガス伯爵はつけくわえた。
しかも彼はこれを、今はじめてヘルスフル・ハウスの誘拐の話を聞いたかのように言ったのだ。
「あなた」と彼は言葉をついだ。「あのトマ・ロックがどんな人物かを考えれば、当局の不安がどんなものかも察せられます。そして私は決定された措置に同意します。『エッバ』の船内にはフランス人の発明家もその看護人もいないとあなたに断言したところで無駄でしょう。それに、あなた自身で必要と思われるだけ綿密に船を検査すればそのことは確かめられるのですから。――スパード船長、この方たちを案内しなさい」
こう答えて、ダルチガス伯爵は「フォールコン」の少尉に冷やかに会釈《えしゃく》してから自分の肘掛椅子にかえって腰をおろすと、ふたたび葉巻を口にくわえた。
二人の士官と八人の水兵はスパード船長に案内されてただちに捜索をはじめた。
まず最初に彼らは甲板の昇降口の覆《おお》い戸から後部の客間へ降りた、――家具調度を入れた、珍貴な木材の羽目板、高価な美術品、とほうもない値段の絨毯《じゅうたん》やつづれ織りの壁掛けをそなえた豪奢《ごうしゃ》なしつらえの客間だった。
この客間、隣接するいくつかの船室、ダルチガス伯爵の寝室が、最も老練な警察官しか示し得ないような入念さで捜索されたことは言うまでもない。そのうえスパード船長はこの捜査にこころよく応じた。「エッバ」の所有者について士官たちにほんのわずかな疑念もいだかせたくなかったからである。
客間と後部の部屋がすんでから、一同は豊かに飾られた食堂に移った。配膳室、料理室、それから全部のスパード船長と水夫長のそれぞれの船室、次いで水夫たちの部屋がひっかきまわされたが、トマ・ロックもゲイドンも見いだされなかった。
そこで残されたのは船艙とそこのいろいろの小部屋だけとなった。ここにはきわめて精密な捜査が必要だった。だからハッチが揚げられたとき、スパード船長は、調べの便をはかって二つの角灯に火をつけさせなければならなかった。
その船艙にあったのは水槽や各種の食糧品、葡萄酒《ぶどうしゅ》の大樽、アルコールの大樽、ジンやウィスキーの樽、ビールの樽、予備の石炭だけだったが、すべてふんだんにあって、まるでこの船は長途の航海のために備えているかのようだった。アメリカの水兵たちは梱《こり》や袋の隙間に入りこんで積荷のあいだを縫って内竜骨のところまで行った……。それも無駄骨に終わった。
ヘルスフル・ハウスの入院患者とその看護人の誘拐を画策したものとダルチガス伯爵を疑ったのは間違いだったのだ。
ほぼ二時間つづいたこの捜索は何の成果も挙げずに終わった。
五時半、「フォールコン」の士官と水兵たちは船内を綿密に捜したあげく、トマ・ロックもゲイドンもここにはいないとの確信を得てスクーナー船の甲板の上に帰った。外のほうでは船首楼とボートを調べたが、これも徒労だった。それゆえ彼らは、「エッバ」を疑ったのは誤りだったという心証を得たのである。
これでもう二人の士官はダルチガス伯爵に別れを告げるほかなかったので、伯爵のほうへ進み寄った。
「お邪魔してすみませんでした、伯爵」と、少尉は言った。
「あなたがたは命令を受け、その執行を委ねられていたのだから、それに従うほかはなかったのです……」
「それに、これは単なる手続きにすぎなかったのですから」とそう言うのが礼儀だと考えて士官の一人がつけくわえた。
ダルチガス伯爵はかるくうなずいて、今相手の言ったことを容認する気持ちを示した。
「私はあの誘拐には全然関係がないと申し上げておいたでしょう……」
「もう私たちもそれを疑っておりませんよ、伯爵。後はもう帰鑑するだけです」
「どうぞご自由に。――それでは『エッバ』は自由に通過できるのですね?……」
「もちろんです」
「それではまた、諸君、また会いましょう。私はこの地方にはよく来ますからな。もうじき帰って来るはずです。そして帰って来たときにはあなたがたの手でこの誘拐の犯人が発見され、トマ・ロックがヘルスフル・ハウスにもどされているものと期待します。そうなることはアメリカ合衆国のために、さらに言えば全人類のために望ましいことですから」
この言葉が終わると二人の士官は丁重にダルチガス伯爵に敬礼し、伯爵は軽く頭を下げてそれに答えた。
スパード船長は舷門まで彼らを送って行き、水兵たちを従えて彼らは四百メートル足らずのところで彼らを待っていた巡洋艦に帰り着いた。
ダルチガス伯爵の合図によってスパード船長は、スクーナー船が停止する前の状態に帆をもどせと命じた。
半時間後には、水道を越えてヨットは大洋を航行していた。
一時間のあいだ船首はずっと東北東に向けられていた。しかし、これはいつもあることだが、陸地からの風は海岸から数海里離れるともう感じられなくなった。マストの上で帆は垂れ、舵も全然動かぬ「エッバ」は、波を立てるほんのわずかの風もない海面に停止した。
こうなってはスクーナー船は一晩じゅう前進することが不可能になったように見えた。
スパード船長は前部にとどまって見張っていた。インレットから出て以来彼の視線は、そのあたりの海に浮かんでいる何かを見つけようとするかのように、あるいは左舷、あるいは右舷に絶えず向けられていたのだ。
ちょうどこのとき彼は強い声で叫んだ。
「帆を絞《しぼ》れ!」
命令に応じて水夫たちは急いで動索を弛《ゆる》めた。だらりとしていた帆はわざわざ覆いをかける手間もなく帆桁の上で絞られた。
ダルチガス伯爵はこの場で夜明けを、それとともに風を待つつもりなのだろうか? それにしても、順風が吹き出したらすぐにそれに乗るために帆を上げたままにしておかないということは稀なものなのだが。
ボートが海へおろされて、スパード船長が水夫を一人連れて乗りこんだ。水夫は艪《ろ》を操《あやつ》ってボートを左舷二十メートルほどのところに浮かんでいる物体のほうに向けた。
その物体は「エッバ」がヘルスフル・ハウスの土手の近くに停泊していたとき、ヌース河の水面に浮かんでいたものに似た小さなブイだった。
そのブイをそれについていた繋索とともに引き揚げるやいなや、ボートはそれをスクーナー船の前部に運んだ。
水夫長の命令で曳綱が舷側から出され、さきほどの繋索に結びつけられた。それからスパード船長と水夫はスクーナー船の甲板にもどり、ボートは吊艇柱に吊り下げられた。
ほとんど時を移さず曳綱がぴんと張り「エッバ」は帆を張らぬまま、十ノット以下とは考えられぬ速度で東のほうにむかった。
日はとっぷり暮れ、アメリカ沿岸の灯火はやがて水平線の靄《もや》のなかに消えてしまった。
[#改ページ]
五 ここはどこか?
――技師シモン・アールの手記――
ここはどこなのか?……私が病棟から数歩のところでふいに襲われて以来どんなことが起こったのか?……
あのとき私は医者と別れたところで、階段をのぼり、部屋に帰って扉をしめ、トマ・ロックのそばの自分の場所にもどろうとしていたが、あたかもそのとき数人の男が私を襲い、打ちのめしたのだ。奴《やつ》らは何者だろう?……目隠しされていたので私は彼らを認めることはできなかった……。猿轡《さるぐつわ》を噛まされていたので救いを呼ぶこともできなかった……。奴らは私の腕と脚を縛ってしまったので抵抗することができなかった。持ち上げられ、百歩ほどのあいだ運ばれ……引き揚げられ……下げられ……おろされたのを私は感じた。
……どこに?……どこに?……
そしてトマ・ロックは、彼はどうなっているか?……彼らが狙ったのは私よりもむしろ彼ではないのか?……これはきわめて真実性のある仮定だ。誰の目にも私は看護人ゲイドンにすぎず、技師シモン・アールではなかったし、ほんとうの身分、ほんとうの国籍をけっして疑われるようなことはしなかった。病院の単なる看護人をぜひとも奪い去ろうとする理由がいったいどこにあったろう?……
したがって、おこなわれたのはフランス人の発明家の誘拐だった。このことは疑いを容れない……。彼をヘルスフル・ハウスから奪い去ったのは、彼からその秘密を引き出せると思ったからではなかろうか?……
しかし私はトマ・ロックも私といっしょに失踪したものと仮定して推理している……。事実そうなのだろうか?……そうだ……それにちがいない……そうなのだ……。この点について私は狐疑《こぎ》するわけに行かない……。私を捕らえたのは盗みだけを目的としている悪人なのではない……。そうだったとしたらこんなやりかたをしなかったろう……。私が叫べないようにし、庭の片隅の植込みのまんなかに投げこんでしまったら……トマ・ロックを攫《さら》ってしまったら、奴らは私を閉じこめたりはしなかったろう……今私がいるこんなところに……。
どこなんだ?……もう数時間も私はこの同じ疑問を解けないでいるのだ。
何はともあれ、これで私は異常な冒険のなかに投げこまれたのだ。とにかく私は、時々刻々、どんな些細な事実をも自分の記憶に刻みこむつもりだ。そのうえでもしそれが可能ならば、日々の印象を書き止めておくのだ……。今後どんなことが私を待ちかまえているかわかるものではないし、今度おちいったこの新しい状況のなかでいつかロック式フュルギュラトゥールの秘密を発見しないともかぎらないではないか……。いつか救出されるものとすればそれを、その秘密を知っておかねばならないし、またその結果ははなはだ重大なものとなりかねないこの暴行の首謀者(単数または複数の)は誰かということをも知っておかなければならない!
(ここはどこか?……)
私は何かちょっとしたことでそれに解明が与えられはしないかと期待して、絶えずこの疑問にたちもどる。
そもそものはじめからもう一度考えてみよう。
ヘルスフル・ハウスから人手で運び出されてから、私は傾斜する小舟――たぶんボート、しかも小型の――の腰掛けの上に置かれた――ただし手荒くはなかった――のを感じた……。
このときすこし揺れたが、ほとんど時を移さずまた舟は揺れた――誰かがまた舟に乗せられたためだと私は推定した。このときすでに私はこれがトマ・ロックだと感づくことができたのではなかろうか?……彼については、猿轡をかませたり目かくししたり手足を縛ったりするような用心をしていなかったようだ。彼はまだ、抵抗することも自分に対しておこなわれている暴力的行為を意識することも全然不可能な虚脱状態にとどまっていたに相違ない。それが間違っていない証拠は、エーテル特有の匂いが私の猿轡の下に忍びこんで来たことだ。実は昨日、医師は立ち去る前に患者にエーテルを二、三滴|嗅《か》がせて行ったのだった。だからその匂いが残っていたとしても、また私の嗅覚がはっきりそれを感じたとしても何の不思議もない。そうだ……トマ・ロックはそのボートのなかの私のかたわらに横たわっていたのだ……。そして私があのとき病棟にもどるのがほんのちょっと遅れたら、彼と再会することはできなかっただろう……。
考えてみると……どうしてダルチガス伯爵はヘルスフル・ハウスを訪問しようなどという迷惑千万な気まぐれをおこしたのであろうか? 私の担当の入院患者が彼の前に出て来なかったら、こんなことは全然起こらなかったろう。彼にむかってその発明の話をしたことが、トマ・ロックがあのめったにないほど激しい発作をおこす原因になったのだ。第一に非難されねばならないのは、私の警告を考慮に入れなかった院長である……。院長が私の言うことを聞いていたら、医師は私の患者を手当するために呼ばれなかったろうし、病棟の戸は閉ざされていたろうし、犯行は失敗したろう……。
トマ・ロックの誘拐が、個人にとってにしろ国家にとってにしろどんな利益をもたらし得るか――このことについてはくどくど言う必要はなかろう。だがこの点については私は安心していていいと思う。この一年のあいだ私が失敗して来た企てに、ほかの誰かが成功するはずはない。私の同国人はあれほどまでに精神が衰えているのだから、彼から秘密を聞き出そうとするすべての試みは効果がないだろう。実は、彼の病状はもはや悪化するのみであろうし、彼の狂気は完全なものとなってしまうとしか考えられないのだ。これまで理性がそこなわれないでいた領域においてすらも。
けっきょくのところ今問題なのはトマ・ロックではなく、私自身なのだ。そして以下が私の確認したことだ。
かなり激しい動揺が幾度かあってから、ボートはオールの力で動きだした。漕いで行ったのはほんの一分たらずだった。軽く何かにぶつかった。たしかにボートは何かの船体に打ち当たってから、それに横づけになったのだ。あたりはこのときざわざわとしはじめた。人々は話し合い、命令し、作業した……。目隠しされていたし、何もわからなかったが、はっきりしないささやき声が耳にはいった。この声は五、六分つづいた。
このとき頭にうかんで来たのは、自分がボートから、そのボートの所属する船に移され、船が沖に出てしまうまで船艙の奥深く閉じこめられるだろうという考えであった。船がパムリコ・サウンドの水域のなかを航行しているかぎり、トマ・ロックやその看護人が甲板にあらわれることを許さないのは明白であろう。
事実、あいかわらず猿轡をされたまま私は脚と肩をつかまえられた。人々は私を舷側の欄干の上に運び上げるのではなく、反対に下へおろしているような感じだった……。投げ出そうとするのか……厄介な証人をかたづけるために水に落とそうとするのか?……こういう考えが一瞬頭をよぎり、不安の戦慄《せんりつ》が頭から爪先まで走った。……本能的に私は大きく息を吸いこみ、私の胸は空気で膨《ふく》らんだ。いずれおそらく奪われてしまうことになる空気で……。
いやそうではなかった!……人々はかなり用心して私を堅い板の上におろした。その板は金属の冷たい感じがした。私は長々と寝かされていた。はなはだ驚いたことには、私の自由を奪っていた繩がゆるめられていた。周囲の足音は止んだ。一瞬後、よく響く音をたてて扉が閉まるのが聞こえた。
私のいるところはどこか?……第一、私はひとりなのか?……私は口から猿轡を、目から目かくしをむしりとる……。
すべて闇、深い闇である。かすかな光線の一条もない。ぴったり閉ざされた部屋のなかでも瞳のなかに痕跡をとどめるあのぼんやりとした光の知覚すらないのだ。
私は呼ぶ……何度も呼ぶ……。何の応答もない。まるで音を伝えるのに不適な空間を横切るもののように私の声は消える。
そのうえ、私の呼吸する空気は暑く重くどんよりしている。もうじき肺の働きは困難になり、不可能になるだろう。この空気を新しくしなければ……。
そこで腕を伸ばして、次のようなことを私は触覚で知ることができた。
私のいるところは鉄板張りの壁の部屋で、三メートル立方から四メートル立方以上の広さではない。鉄板の上に手を這《は》わせてみて、船の防水隔壁のようにボルトでしめられていることを私は確かめた。
出口としては、隔壁の一つの上に扉の枠が浮き出し、その蝶番《ちょうつがい》は二、三センチ隔壁より高くなっているように思われる。その扉は外から内へ開くのにちがいない。そしておそらくそこからこの狭い部屋に私を入れたのだろう。
ドアに耳をぴったりくっつけても何も聞こえない。沈黙は闇と同じく完全だった――。私が動くと金属板の音で乱されるだけの奇怪な沈黙。普通は船の上にみなぎっている鈍いざわめきも、船体をかすめて行くぼんやりとした流れの音も、船底を洗う水のざわめきも全然しない。さらにまた、ヌース河の河口では潮のためいつもごくはっきりとした波立ちがある以上起こってもいいはずの軽い揺れも全然感じられないのだ。
だが実際に、私の閉じこめられているこの部屋は船のものであろうか? ボートに乗せられてほんの一分間ほど運ばれて来はしたものの、この部屋がヌース河の水面上にあると断言できるだろうか?……事実あのボートは、ヘルスフル・ハウスの下手《しもて》で待っていたなんらかの船に帰ったのではなく、河岸のどこかに行ったものとどうして考えられないか?……そしてもしそうだとすれば、どこかの洞窟《どうくつ》か何かのなかの地面に置かれているということもあり得るのではなかろうか?……そうだとすればこの部屋が全然動かない理由もわかるというものだ。なるほど、この金属製の隔壁、このボルトでしめた鉄板、さらにまた身のまわりにひろがっているぼんやりした塩気を含んだ空気――その匂いは一般に船の空気にしみこんでいて、この匂いの性質については私は誤ることはあり得なかった――もあったが……。
四時間ぐらいと推定される時間が監禁されてから過ぎた。だから夜の十二時近いはずだ。朝まで私はこうしているのか?……ヘルスフル・ハウスの規則どおり六時に夕食しておいたのは幸運だった。私は空腹は感じなかった。むしろ眠りたくてたまらない。けれども睡気《ねむけ》に負けぬだけの力はありそうだと思う……。うかうかと眠りこんだりはしないだろう……。何か外部のものにすがりつかねばならない……。何に?……音も光もこの鉄板の箱のなかにははいって来ない……。待つのだ!……もしかすると、ごくかすかではあれ何かの物音が聞こえて来はしないだろうか?……それゆえ私の生命力のすべては聴覚に集中した……。そうして私は――もしここが陸地でないとしたならばだが――何かの動き、何かの振動がいつか感じられはしないかと絶えず注意していた……。船がまだ錨をおろしていると仮定しても、やがて出帆準備をはじめないことはあり得ないし……そうでないとすれば……いったいどういうわけでトマ・ロックと私が誘拐されたのかもはやわからなくなる……。
とうとう……これは幻覚ではない……。軽いローリングに揺られて私は陸上にいるのではないとはっきりとわかった。ただし衝撃もなく急な動きもなく、ほとんど感じられないほどの揺れだったが……。むしろ海面を滑って行くような軽い感じだった……。
冷静に考えてみよう。私はヌース河の河口に停泊中の船の一つにいる。船は帆を上げ、もしくは汽罐《かま》を焚《た》いて、誘拐の結果どんなことが起こるかと様子を見ているのだ。ボートは私をその船へ運んだのである。しかし、くりかえして言うが、私は舷側の上に引き上げられたのは全然感じなかった……。それでは私は船腹に舷窓から入れられたのだろうか? が、所詮そんなことはどうでもいい! 船艙の底へおろされたにしとそうでないにしろ、とにかく私は水上で動く何かの上にいるのだ……。
おそらく奴らはもうじき私に自由を返すだろう。同じくトマ・ロックにも――彼も私同様注意ぶかく閉じこめられているとしての話だが――。ここで自由というのは、自分の好きなときにこの船のデッキに出られるということでしかないのだ。それにしてもまだ数時間は駄目だろう。われわれの姿が見られては困るのだから。してみると、われわれが外気を吸えるのは船が沖に出てからだろう。もしこれが帆船であれば、風がちゃんと吹き出すまで待たねばならぬはずだった、――夜明けとともに陸から吹いて来てパムリコ・サウンドを行く船を助けるあの風が。それにしても、もしこれが汽船ならば……。
ちがう! 蒸気船の上ならばどうしても、石炭や油から発するガス、燃焼室から洩れた匂いがひろまって、私のところまで達せずにはいないはずだ……。それにまた、スクリューか外輪の横板の動き、機械の振動、ピストンの衝撃を私は感じたはずだ……。
けっきょく、いちばんいいのは気を長く持つことだ。私がこの穴から引き出されるのは明日になってからだろう。それにまた、自由は返してくれなくとも、何か食べ物は持って来てくれるだろう。私を飢《う》え死にさせようとしているようななんらかの形跡があるだろうか?……もしそうだとすれば、いちばんてっとりばやいのは私を河の底へ沈めること、こんな船に乗せたりしないことだ……。沖に出てしまえば私のことを心配する理由は何もないだろう……。私の声はもう誰にも聞こえない……。私が抗議したって無駄だし、非難するのはなおさら無駄なのだ!
それにまた、この犯行をおこなった連中にとっていったい私は何者であろうか?……単なる看護人、取るに足りない一ゲイドンにすぎない……。ヘルスフル・ハウスから攫《さら》わねばならなかったのはトマ・ロックなのだ……。私のほうは……私のことはついでに捕えたにすぎないのだ……ちょうどあのときに私が病棟へ帰ったから……。
いずれにしろ、何が起ころうと、この一件を仕組んだのがいかなる人物であろうと、私が運びこまれたのがどこであろうと、私はこの決心だけはあくまでも変えない。それは、看護人という役割を演じつづけるということだ。何びとも、そうだ、何びともこの扮装《ふんそう》の下に技師シモン・アールが隠れていることを疑いはしないだろう。このことには二つの利点がある。第一に、つまらぬ看護人など誰も警戒しないだろう。そして第二に、おそらく私はこの陰謀の謎を見抜くことができ、もしうまく逃げ出すことに成功すればその謎を逆手に取って利用できるだろう……。
いや、私は何て先走りして考えているのだろう……。逃げ出すより前に、目的地に着くのを待たねばならない。なんらかの機会が来たときに逃げることを考えても遅くはあるまい……。それまでいちばんかんじんなことは私が誰であるかを知られぬことだ。そして事実知らしてやるまい。
これはもうまったく確かなことだが、今船は走っている。それにしても、ときどき私は最初の考えをあらためる。いやいや!……われわれを運んでいる船は蒸気船ではないが、また帆船でもないはずだ。強力な機械によって推進させられていることは疑いの余地がない。蒸気機関がスクリューもしくは外輪を動かすときのあの特別な音がすこしも聞こえないこと、それはたしかにそのとおりだ。この船が気筒内のピストンの往復のため揺れていないことも私は認めざるをえない。推進機がどんな種類のものであるかは別として、その推進機に伝えられているのは、持続的で規則的な運動というより、むしろ直接の廻転運動といったものなのだ。この点は絶対に間違いないはずだが、この船は特別なメカニズムで動いている……。どんなメカニズムか?……
水面下の管のなかで廻転してスクリューの代わりをし、スクリューよりも水の抵抗をうまく利用してずっと大きな速度を出させる、ここしばらく話題になっているあのタービンなのだろうか?
あと数時間すれば、完全に等質の外部条件のなかで進められているように思えるこの種の航海がどんなものか私にもわかるだろう。
のみならず――これもそれに劣らず奇妙なことだが――ローリングやピッチングは全然感じられないのだ。そうなると、いったいどういうわけでパムリコ・サウンドはそれほどまでに静かなのであろうか? 普通は潮の干満だけで水面が乱れるものなのだが。
そういえば、今の時刻には潮が静止しているのかもしれない。そして、思い出したが、陸からの風は昨日は夕方になるとやんだのだった。が、そんなことは問題ではない。私にはどうも不可解だ。なぜなら、速度がどれほどであれ推進機で動く船というものにはかならずなんらかの振動があるものだし、そういう振動があればそのどんな微かな兆候でも私にはわかるのだから。
まったくのところ、こうした執拗《しつよう》な観念に今私の頭は満たされているのだ! 眠りたくてたまらないにもかかわらず、この窒息するような雰囲気《ふんいき》のなかで麻痺状態におちいって行くにもかかわらず、私はけっして眠りに身を委ねまいと決心していた。夜が明けるまで目をつぶるまい。そして私にとっては、この室に外光がはいって来たときでなければ夜が明けないのだ。いや、おそらく扉が開かれるだけでは足りないだろう。この穴から出され、デッキに連れて行ってもらわねばならない……。
私は仕切り壁の一つの隅によりかかった。坐ろうとしても腰掛け一つなかったのだ。しかし瞼《まぶた》が重くなり、一種の半睡状態に陥りかけるのを感じたので、私はまた立ち上がった。むらむらと怒りが湧き出し、私は拳《こぶし》で壁を叩き、人を呼んだ……。いたずらに私の手は鉄板を止めるボルトで傷つき、私の叫びは何びとをも呼びよせなかった。
そうだ……こんなことは私にふさわしくない。私は自制しようと心に誓っていた。ところが最初から私は自己統制を失い、子供のようにふるまっている……。
これはまったく確実なことだが、ピッチングもローリングもないのは、船がまだ大洋に達していないことの証拠だ。パムリコ・サウンドを横切らないでヌース河の河筋をさかのぼっているのだろうか?……そんなことはない! 郡の中心部にはいって行こうとする理由がどこにあろう?……トマ・ロックがヘルスフル・ハウスから攫われたのは、その犯人どもに彼を合衆国から、――おそらくは大西洋上の遠い島へ、もしくはヨーロッパ大陸のどこかへ連れて行く意図があったからだ。となると、この海洋航行船はあまり長くもないヌース河を溯っているのではない……。船は今パムリコ・サウンドにあり、パムリコ・サウンドは完全に凪《な》いでいるに相違ない。
船が沖に出たらば、大波のうねりを免れることはできないはずだし、そのうねりは風が落ちているときですら中型の船には常に感じられるものだ。巡洋艦か戦艦に乗っているのならば話は別だが。……そして今はそうではないと私は思う!
ちょうどこのとき私には何か……やはりそうだ……間違いではなかった……内部で物音がしたのだ……足音が……。その足音は部屋の扉がある鉄板の隔壁に近づく……。水夫たちだ、きっと……。このドアもやっと開くのか?……私は耳をそばだてる……。連中はしゃべっている、その声が私に聞こえる……。だが私には何をしゃべっているのかわからない……。私の知らない言葉を用いている……。私は呼ぶ……叫ぶ……一つも応答はない!
それならば待つよりほかはない、待つ、待つのだ! この待つという言葉を私は何度も自分にくりかえす。私の哀れな頭のなかでこの言葉は鐘の舌のように揺れ動く。
過ぎ去った時間を計算してみよう。
けっきょく、船が動き出してから四、五時間以下とは考えられない。私の推定では時刻は夜の十二時過ぎだ。あいにく時計はこの深い闇のなかでは用を弁じない。
ところで、五時間このかた航行しているとすれば、船はオクラコーク・インレットとハッタラス・インレットのいずれを通ったにせよ現在パムリコ・サウンドの外にある。それゆえ私は、船は沿岸の沖――すくなくとも一マイルたっぷりの所にいるはずだと結論する……。ところが沖のうねりをぜんぜん感じないのだ……。
これこそ説明できないことであり、ありそうもないことである……。いや……私は思い違いしていたのか?……錯覚に瞞《だま》されていたのか?……私は動いている船の船艙の奥に閉じこめられているのではないのか?……
また一時間が過ぎた。と、突然機械の振動がやんだ……。私を乗せている船が静止しているのがはっきりとわかる……。では目的地に着いたのか?……そうだとすれば、沿岸の港の一つでしかあり得ないではないか。……しかしヘルスフル・ハウスから攫われたトマ・ロックが陸に連れもどされるような可能性があるだろうか?……誘拐事件はまもなく知れるはずだし、その犯人は合衆国の官憲に発見されるかもしれないではないか……。
のみならず、船が現在停泊しようとしているとすれば、錨鎖孔のなかの鎖の音が私にまもなく聞こえるはずだ。そして船が錨鎖いっぱいに動いたならばショックがあるだろう……そのショックを私は待ちかまえていた……私にはすぐそれとわかるはずだ……。数秒のうちに来るに相違ない……。
私は待つ……耳をすます……。
陰鬱《いんうつ》な、不安な沈黙が船の上を蔽っている……。この船には私以外に生きた人間がいるのかと疑問になってしまうほどだ……。
今私は麻痺のようなものが自分を浸すのを感じる……。部屋の空気は濁っている……。呼吸が困難だ……。胸は何かの重みに押しつぶされているようだ。その重みから逃れることはできない……。
頑張りたい……。だがそれは不可能だ……。私は一隅に横たわって、衣服の一部を脱がなければならなかった。それほど温度が上がっている……。瞼《まぶた》は重くなり、閉ざされ、私は虚脱状態におちいる。やがて重い抗しがたい眠りに沈められるだろう……。
どれほどの間眠ったのか?……それはわからない。夜だろうか、日中だろうか?……それもわからない。第一に気づいたのは、呼吸が楽になっていることだ。私の肺はもはや炭酸に毒されていない空気で満たされる。
この空気は、私の眠っているあいだに入れかえられたのか?……部屋は開かれたのか?……この狭い奥の片隅に誰かがはいって来たのか?……
そうだ……その証拠がある。
今私の手は――偶然に――何かをつかんだ――いやに気を引く匂いのする液体で満たされた容器だ。私はそれを唇へあてる。燃えるような唇だ。塩水を与えられてすら嬉しいと思うくらいの渇きに私は苦しめられていたのだ。
それはエール――上等のエール――だった。これは私の渇《かつ》をいやしてくれ、元気づけてくれ、私は一パイントをそっくり飲みほした。
だが、私を渇きで死なせることに決定したのでないとすれば、飢えで死なせることもしないのではなかろうかと思うのだが……。
そうだ……。片隅に籠《かご》が置いてあった。その籠にはパンと一切れの冷肉がはいっている。
で、私は食べた……むさぼるように食べた。すると力がすこしずつもどってきた。
たしかに私は、私が恐れていたように見捨てられていたのではなかった。誰かがこの暗い穴のなかに忍びこみ、しかもそのとき扉から外の酸素がわずかなりと入って来たのだ。この酸素がなかったら私は窒息していたろう。そうして、開放されるまでのあいだ渇と飢えをしずめられるだけのものをその誰かが私の手もとに置いて行ってくれたのである。
この監禁はまだどれくらいつづくのだろうか?……何日も?……何か月も?……
私が眠っていたあいだに流れ去った時間を計算することも、いまの時刻についておおよその見当をつけることも私には不可能だ。私は忘れずに時計を捲いておいたが、この時計は時を打つものではない……。もしかすると、針に手でさわってみたら?……そうだ……。短針は八の数字のところにあるような気がする……。おそらく午前だろう……。
私にとって確実なことは、たとえば、船はもう動いていないということだ。船内にはほんのわずかの振動も起こらない――これはスクリューが停止していることを示している。そのあいだにも時間は過ぎていく、長く長く感じられる時間が。そして私は考えた、彼らは夜を待って、先ほど私が眠っている間にしてくれたように換気し、食べ物を補給するため部屋に入って来るのではなかろうか、と……。そうだ……私の睡眠を利用しようとしているのだ……。
今度は私は肚《はら》を決めていた……頑張ってみせよう……。それのみか眠っているふりまでしてみせよう……。そして入ってきたのがどんな人間であろうと何としてでも私の問いに答えさせてやる!
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六 デッキで
今私は外の空気のなかにいて、肺いっぱいにその空気を吸いこむ……。とうとうあの息づまるような狭い室から引き出されて、甲板に上げられたのだ……。まず第一に私は水平線をずっと見まわしたが、陸地はもう全然認められなかった……。四方をとりまいて海と空を限るあの線のほかには何もない!
そうだ!……西のほうには、アメリカの沿岸が数千マイルにわたってひろがっている方角には、大陸の影すら見えない。
このときは、落ちかけた太陽はもはや傾いた光線しか洋上に送っていなかった……。午後六時前後だったろう……。時計を見る……。事実六時半だ……。
この六月十七日の夜起こったのは次のようなことだ。
さきに言ったように、私は眠りに負けまいと固く決心しながら部屋の扉が開くのを待っていた。扉があけば光がさして来るものと私は信じて疑わなかった。そして時がたったが、誰も来ないのだった。私のところにあった食べ物はもう全然残っていなかった。私は空腹をおぼえはじめた、エールをすこし残しておいたので渇きのほうは感じなかったが。
目が覚めたときから、船体がある揺れ方をするので私は船がふたたび動き出したのではないかと思っていた。船は前夜から静止していたのだ――投錨の作業にともなうショックを感じなかったからおそらく沿岸の人気のない入江にでもあろうが。
さて、六時に部屋の金属製仕切り壁のむこうに足音がひびいた。はいって来るのか?……そうだ。……錠のきしる音がして扉は開いた。角灯の光が、私が船へ来て以来ずっと投げこまれていた場所の深い闇を追い散らした。
二人の男があらわれたが、私にはその顔を見る暇はなかった。その二人の男は私の両腕をつかみ、厚い布切れで私の頭をおおった。そのため私は何も見ることができなかった……。
この用心は何を意味したろうか?……私をどうしようとするのか?……私は暴れまわろうとした……。が、しっかりおさえつけられている……。私は質問した……。どんな返事も得られなかった。男たちは二言三言ことばを交わしたが、私の知らない国語で、どこの国かも知ることができなかった。
どう考えても、奴らは私に対してあまり敬意を払ってはいない! なるほど、こちらは狂人の看護人だ、そんな取るに足らぬ人物に遠慮する必要があろうか?……とはいえ、技師シモン・アールならもっと良い待遇を受けたろうという確信も私にはないのだが。
今度はしかし、猿轡ははめられなかったし、腕も脚も縛られなかった。しっかりとおさえつけて私が逃げられないようにするだけにとどめていたのだ。
一瞬の後、私は例の部屋の外へ引き出され、狭い通路を引き立てられて行った。足の下で金属の階段が鳴り響く。やがて新鮮な空気が私の頬を打ち、そして布切れ越しに私はむさぼるように呼吸した。
それから私は抱き上げられ、二人の男は私を板の上におろした。今度はそれは鋼鉄板ではなくて、甲板にちがいない。
やっと私を締めつけていた腕がゆるむ。これで自由に動ける。さっそく私は頭をおおっている布をはぎとり、そしてながめた……。
私は長く白い筋をうしろに残して航行中のスクーナー船の船上にいる。
倒れないように私は後支索につかまらねばならなかった。完全な闇のなかに四十八時間閉じこめられていた後で日光のなかに出たので目がくらんだのだ。
甲板上には荒っぽい顔つきの男が十人あまり行ったり来たりしている。――そのタイプはさまざまで、どこそこの生まれなどと断言することは私にはできないほどだ。そのうえ彼らはほとんど私などに注意していなかった。
スクーナー船は、私の見たところでは二百五十トンから三百トンほどであろうか。横幅はかなり広く、マストは頑丈で、帆の面積からすると順風のときには高速が出るに相違ない。
後部で日に焼けた顔の男が舵を取っている。舵輪の握りの上に片手を置いて、スクーナー船がかなり激しく横流れしそうになるのを防いでいた。
遊覧ヨットのように見えるこの船の名が読めないものかと私は思った。だがその名が記されているのは船尾の銘板なのか、それとも船首の舷牆《げんしょう》なのだろうか?……
私は水夫の一人に近寄り、彼に言った。
「これはどういう船なんだ?……」
何の答えもない。しかもその男には私の言った事がわからないのだと見てさしつかえない。
「船長はどこにいる?……」と私はさらに言った。
前と同様水夫はこの質問にも答えなかった。
私は前部のほうへ行った。
前部の錨の捲き上げ機の台脚に鐘が吊してある……。このブロンズの鐘にもしかすると何かの名が――このスクーナー船の名が――彫ってないだろうか?……
どんな名も彫ってなかった。
後部へもどる。そして舵を取っている男にむかってもう一度同じ質問をしてみる……。
その男はあまり感じのよくない視線を私に投げ、肩をすくめ、左のほうへ猛烈に逸れて行った船を立て直そうとしてぐっとふんばった。
トマ・ロックがいるかどうか捜してみようと私は思いついた……彼の姿は見当たらない……。この船にはいないのだろうか?……だとすればわけがわからない。何のため奴らはヘルスフル・ハウスから看護人ゲイドンだけを攫ったのか……私が技師シモン・アールであることには何びとも感づくはずがない。それに、よしそれを知ったところで、私を捕らえてどんな利益になるのだ? 私から何を期待しているのだ?……
で、トマ・ロックが甲板に閉じこめられていない以上、彼は船室の一つに閉じこめられているのだと私は推測した。彼がその前看護人よりは手厚くもてなされたとすればいいが!
ところで――なぜすぐにこのことが私の目につかなかったのか――何という走り方をしていることか、このスクーナー船は!……帆は捲かれている……一インチといえども外に出ていないのだ……風は落ちている……東から時折り吹くいくらかの風は逆風だ。船首はその方向に向いているのだから……。それでいながらスクーナー船は、船首を水に突っ込み気味にしてスピードを上げ、舳《みよし》は海水を分け、その泡が吃水線に沿って滑って行く。そうして波打つ毛織物のような航跡が後方にずっと伸びている。
するとこの船は機帆船なのか?……ちがう!……主檣と前檣とのあいだには煙突は一本も立っていない……。いったいこれは、スクリューを動かし、しかもこのような速度を出させる強力な蓄電機もしくは電池をそなえて電力で動く船なのであろうか?……
実際、この船の走り方は私にはそうとよりほかは説明しようがない。いずれにせよ、推進機はスクリューでしかあり得ないのだから、船尾上部から身を乗り出せばスクリューの動くのが見えるだろう。そうなれば、後はただこの廻転がどんな動力によるかということだけが問題になるだけだ。
舵手は皮肉な視線を私に投げはしたが、私が近づくのを止めはしなかった。
私は身を乗り出して観察した……。
スクリューの廻転が起こすはずのあの泡立ちは全然ない……。強力な帆で引っぱられる船が残すような、八百メートルも九百メートルもひろがるなめらかな航跡も全然ない。
それでは、このスクーナー船にこんなすばらしい速力を与えている推進機は何だろう? さきに言ったように風はむしろ逆風であり、海には散って砕けることのない長い波が持ち上がっているだけなのだ……。
しかしいずれはつきとめてやる。そうして乗組員たちが私のことを気にしないうちに、私は船首のほうにもどった。
船員室の昇降口の覆い戸のそばまで来ると、そこに一人の男がいた。その顔には私は見覚えがある……。すぐそばに肘《ひじ》をついて、私が近づくまま私を見まもっている……。私が言葉をかけるのを待っているように見えた……。
記憶がよみがえった……。それはダルチガス伯爵がヘルスフル・ハウスを訪問したときいっしょだった人物だ。そうだ……それに間違いない……。
してみると、トマ・ロックを奪ったのはあの金持ちの外国人であり、私がいるここは東アメリカの沿岸ではひじょうに有名な彼のヨット「エッバ」の上なのだ!……それならそれでいい! 私の前にいる男は、私に知る権利があることを話してくれるだろう。私はダルチガス伯爵と彼が英語を話していたことをおぼえている……。この男は私の言うことがわかるだろうし、私の質問に答えることを拒み得ないだろう。
私の考えでは、この男はスクーナー船「エッバ」の船長でなければならない。
「船長」と私は彼に言った。「ヘルスフル・ハウスで私が見たのはあなただ……。私をおぼえていますね?……」
彼は私の顔を見ただけで、答えてくれなかった。
「私は看護人ゲイドンだ。トマ・ロックのつきそいの。私を攫ってこのスクーナー船に連れて来た理由を私は知りたい」
船長は身振りで私の言葉をさえぎった。が、実はこの身振りは私に向けられたのではなくて、船首楼の近くの部署についている数人の水夫に向けられたものだった。
水夫たちは駈けつけて私の腕を取ると、私が思わず憤然とするのをほとんど気にもかけずに、むりやり私を乗組員用の昇降口の階段からおろした。
この階段は、実を言えば、垂直に隔壁に取りつけられた鉄の小梯子《こばしご》にすぎなかった。踊場の両側に扉が開いており、船員室と船長室と隣接する他の部屋部屋とを繋いでいる。
奴らはまた私を、私が前にいた船艙の奥の暗い片隅に入れようとするのか?……
左のほうへ折れて私は一つの船室のなかに連れて行かれた。船体に穿った舷窓から(今はそれは閉ざされているが)光を採るようになっており、その窓から涼しい風もはいる。家具としては寝具をそなえた寝床、机、肘掛椅子、洗面台、箪笥《たんす》などが一つずつあった。
机の上には私の食器が出ていた。私としてはもうその前に腰をおろすだけだった。そしていろいろと料理をならべてからコック助手が引き下がろうとしているときに、私は言葉をかけた。
やはり唖《おし》だった。この男も――。黒人種の若者で、多分私の言葉がわからないのだろうか?……
どうせいつまでたっても返事をもらえないにきまっている質問を後まわしにして、私はもりもりと食べた。
いかにも私は捕われの身だ、――が、今は居心地はずっとよくなっているし、この状態は船が目的地に着くまでつづくものと私は期待する。
そこでそれからそれへとさまざまのことを考えはじめたが、その最初の考えはこういうことであった。この誘拐事件をたくらんだのはダルチガス伯爵であり、トマ・ロックを拉致した張本人は彼である。そしてこのフランス人技師は「エッバ」船内のこれと同じく快適な部屋に入れられていることは疑いない。
けっきょくのところ何者なのだろう。あの人物は?……どこから来たのだろう。あの外国人は?……彼がトマ・ロックの身柄を奪ったのは、どれほどの代価を払ってもフュルギュラトゥールの秘密を自分のものにしたいと思っているからではあるまいか?……それはあり得ることだ。だから私はけっして自分の身分を知られぬように注意しなければなるまい。私に関する真相が知られたら、自由をとりもどす可能性はまったく絶たれてしまうのだから。
見破らねばならない謎、説明しなければならぬ不可解事がどれほどあることか――あのダルチガスの素姓といい、将来についての彼の意図といい、スクーナー船の向かう方角といい、常泊の港はどこかということといい……そしてまた、帆もスクリューも使わないですくなくとも時速十海里の速度を出すこの船の進み方といい!……
ようやく夕べになるにつれて、涼しさの増した空気が船室の舷窓からはいってくる。私はねじで舷窓をしめた。そしてドアは外から閂《かんぬき》がおろされているのだから。寝床に身を投げて、大西洋上のこの奇怪な「エッバ」号のゆるやかな動揺に身をゆだねて眠るに越したことはない。
翌日私は明け方に起きて、洗面をし、服を着て待った。
が、船室の扉がしまっているかどうか見てやろうとすぐに思いついた……。
いや、しまっていなかった。私はドアを押し、鉄の梯子を登り、こうして甲板に出た。
水夫たちが甲板洗いにとりかかっているあいだ、船尾では二人の男が話している。その一人は船長だ。彼は私の姿を見てもいっこうに驚いた様子もなく、顎《あご》をしゃくってその仲間に私を示した。
その相手というのは、私は今まで一度も見たことがなかったが、五十歳くらいで、黒い髭《ひげ》と髪には銀線がまじり、皮肉な細面《ほそおもて》の、きびきびした目をした知的な顔つきの男だ。古代ギリシャ人のタイプに近く、私はもはや彼がギリシャ系だと信じて疑わなかったが、そのとき「エッバ」の船長がその男のことを「セルコ」――「セルコ技師」と呼ぶのが聞こえた。
船長のほうはスパード――スパード船長という名だが、この名は、いかにもイタリア系のように見える。こうして一人のギリシャ人、一人のイタリア人、世界の各地で募られた連中から成る乗組員、それらがノルウェーふうの名のスクーナー船に乗っているとなると……こういうごった混ぜは当然ながら私にはうさんくさく思われた。
しかもスペインふうの名前のダルチガス伯爵、アジア人的なそのタイプ……いったいこいつはどこから来たのか?……
スパード船長とセルコ技師は低い声で話している。船長は舵手を厳しく見張っているが、この舵手は自分の眼前の羅針函のなかにおさまっている羅針儀の針を気にしているようには見えない。むしろ船首にいる水夫たちの一人の合図に従っているらしい。この水夫が右へ行けとか左へ行けとか指示しているのだ。
トマ・ロックが昇降口の覆い戸のそばにいた……。水平線上にまったく陸地の影も見えないこの広大な茫々とした海を彼は眺めている。二人の水夫がそばに控えていて彼から目を離さない。この狂人は何をしでかすかもわからないではないか――船縁《ふなべり》から身を投げることすらしかねないのだ……。
私がこの私のもとの患者と話をすることが許されるかどうかわからない……。
私が彼のほうに向かって行くあいだ、スパード船長とセルコ技師は私を見守っていた。
私はトマ・ロックに近づいた。彼は私の近づくのを見ず、こうして私は彼の横に立った。
トマ・ロックは私のことを知っているような様子は全然なく、身動き一つしない。きらきらと輝く彼の両眼は絶えず空間を見まわしている。この塩気をふくんだ爽快な大気を呼吸する喜びに、長々と息を吸いこんで彼の胸はふくれ上がる。この過剰なまで酸素を含んだ空気に加えて、雲のない空から溢れ出すような、その光線で彼の全身を浸しているすばらしい太陽がある。自分の身の上に生じた変化のことが彼にはわかっているのだろうか?……ヘルスフル・ハウスのこと、自分が閉じこめられていた病棟のこと、看護人ゲイドンのことなどもはや彼は忘れていはしないか? それは大いにありうることだ。過去は彼の記憶から消え、彼はひたすら現在に没入しているのだ。
しかし私の見るところでは、この「エッバ」のデッキの上でも、大海原に囲まれたこの場所にあっても、トマ・ロックは依然として私が十四か月にわたって看護して来た意識喪失者だった。彼の知能の状態には変化はなく、理性は彼の発明のことが話題になったときしか帰って来ないだろう。ダルチガス伯爵は例の訪問のときに試してみたから、こういう心理傾向のことはよく承知している。そしてあきらかにこの傾向に頼って彼は早晩技師の秘密をさぐり出そうとしているのだ。いったいその秘密をどうしようというのか?……
「トマ・ロックじゃありませんか?……」と私は言った。
私の声に驚いて、彼は一瞬私をじっとみつめたが、さっとその目をそらした。
私は彼の手を取り、握りしめた。彼は乱暴に手を引っこめ、そうして遠ざかった――私が誰かも知らぬまま――。そして彼はセルコ技師とスパード船長がいる船尾のほうへ歩いて行った。
それでは彼は、その二人のどちらかに何か言うつもりなのか、そして彼らが話しかけたら、――私に対しては答えなかったけれども――彼らに答えるだろうか?……
ちょうどこのとき彼の顔に知的な光がかがやきはじめ、彼の注意は――私にはこれは疑いなかったが――スクーナー船の奇妙な進み方にひきつけられた。
事実、彼の視線は「エッバ」の帆柱に向かった。その帆は捲きおさめられているが、船は穏やかな海面を快速で滑っている……。
と、トマ・ロックは後もどりし、右舷の通路を昇って、「エッバ」が機帆船だったとすれば煙突が――黒い煙の渦を吐いている煙突が立っているべき位置にたちどまった。
私にあれほど不思議に思われたことが、トマ・ロックの目にも不思議に見えたのだ……。私に不可能と思われたことが彼にもわからないのだ。そして私がしたように、彼も船尾に行ってスクリューの動きを見ようとした。
スクーナー船の両側に|いるか《ヽヽヽ》の一群が跳ねていた。「エッバ」がどんなに速く進もうとも、この敏捷《びんしょう》な動物は跳ねまわったりもんどりうったり、驚くべき柔軟さでこの彼らの本来の活動領域のなかで遊び戯れながら、苦もなく「エッバ」を追い越して行く。
トマ・ロックは彼らを見送ろうとはしなかった。彼は舷側の手摺《てすり》の上に身を乗り出した……。
すぐさまセルコ技師とスパード船長が彼に近づき、彼が海に落ちるのを恐れて二人はしっかり彼をつかまえ、それから甲板に引きもどした。
そのうえ私は――なにしろ長い経験があるから――トマ・ロックが激しい昂奮状態に陥っているのを見守った。彼はぐるぐるまわり、さかんに身振りをし、誰に言うのでもない支離滅裂《しりめつれつ》な文句が彼の口から飛び出す……。
それはあまりにもあきらかだった。発作がはじまろうとしているのだ、――ヘルスフル・ハウスでの最後の夜彼を襲った、そしてかくまで不幸な結果をもたらしたあの発作と同じようなものが。いずれ彼を取り押え、船室に連れもどさねばならなくなるだろう。もしかすると船室から私を呼んで、いつもやっている特別の手当てを彼にほどこさせようとするかもしれない……。
さしあたってスパード船長とセルコ技師は彼から目を離さなかった。おそらく彼らは好きなようにやらせておくつもりだったのだろう。そうして彼がしたのは次のようなことだった。
いくら見まわしても帆の張っているのが見られない主檣のほうにむかって行き、そこまで行くとその柱を両腕でかかえ、倒そうとでもするかのようにゆすぶって動かそうとする……。
それから、いくらやっても駄目だとわかると、主檣にしたのと同じことを今度は前檣に試みようとする。それとともに彼の神経はだんだんたかぶって来る。はっきりしない言葉を洩らし、それがやがて言葉にならない叫びに変わる……。
突然彼は左舷の支檣索にむかって突進し、それにしがみついた。私は彼が段索に飛び上がり、檣頭の横材に登って行くのではないかと思った……。もし人が引き止めなかったとすれば、彼は甲板の上に倒れるか、船の急激な横揺れで海に投げこまれたかもしれない……。
スパード船長の合図で水夫たちが駈けつけ、彼の腰に抱きついたが、支檣索から引きはなすことはできなかった。それほどしっかりと彼はそれを握っていたのだ。発作のあいだは、このことは私は知っているが、彼の体力は倍加するのだ。彼を取り押さえるのに他の看護人たちに加勢を求めなければならないことが私にはよくあった……。
このときは、スクーナー船の水夫たち――皆たくましい体躯《たいく》の男たちだった――がこの気の毒な男を組み伏せた。トマ・ロックは甲板上に寝かされ、二人の水夫が猛烈な抵抗を受けながらもおさえつけていた。
後はもう船室におろして、この発作が終わるまで休ませておくだけだ。まさにそのことが新たにあらわれた人物の下した命令に従ってなされようとした。が、それより先にその男の声が私の耳を打った……。
私はふりかえった。その男は見覚えがあった。
ヘルスフル・ハウスで見たのと同じ陰鬱な顔つきに傲然たる態度のダルチガス伯爵だった。
すぐさま私は彼のところへ行った。私には説明を聞く必要がある。何としても説明させてやる。
「どんな権利でこんなことを?……」と私はたずねた。
「強者の権利ですよ!」とダルチガス伯爵は答えた。
そうして彼は船尾のほうへ歩き出し、いっぽうトマ・ロックは船室へ運ばれた。
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七 二日間の航海
もしかすると――事態がそれを必要とすれば――私はダルチガス伯爵に自分は技師シモン・アールであると言ってしまうことになるかもしれない。看護人ゲイドンのままでいるよりもそうしたほうがもっと敬意をはらわれるかどうかはまったくわからない……。それにしても、それを言うべきか否かは一考に価する。事実私は、「エッバ」の船主がこのフランス人技師を攫ったのは、ヨーロッパ大陸でもアメリカ大陸でもその価値として要求されている途方もない価格を受け容れようとするもののなかったロック式フュルギュラトゥールを確実に自分のものにしようとしてだという考えに今もって支配されている。ところで、トマ・ロックがその秘密を売り渡すことになった場合、私が彼と接触を保ち、看護者としての役割をつづけさせてもらい、彼の病状に応じて必要とされて手当をほどこすことを委任されているほうがいいのではなかろうか?……そうだ、すべてを見、すべてを聞くことができるというこの可能性を私は保持しておくべきだろう……もしかすると……ヘルスフル・ハウスでは見破ることのできなかったものをここで知る可能性を!
ところで今、「エッバ」はどこへ行くのか?……これが第一の問題。
ダルチガス伯爵とは何者か?……これが第二の問題。
第一の問題はおそらく数日中には解決されるだろう。この不思議な遊覧ヨットはこれほどの速度で進んでいるのだから。その速度を出す推進機の機能もいつかは私にはわかるはずだ。
第二の問題については、いつかあきらかにできるという確信はそれほどない。
私の考えでは事実この謎の人物は自分の素姓をかくすことを絶対に必要としているに相違ない。そして彼の国籍を推定することができるようないかなる手がかりもないのではないかと私は思う。このダルチガス伯爵は――彼が十七号病棟を訪れたとき私はこれを確認したのだが――流暢《りゅうちょう》に英語を話すが、それには荒々しく震えるような訛《なまり》がある。これは北方の民族にはないものだ。これまで私が欧米を旅行してまわって聞いた言葉のどれにもこうしたものはない――もしかすると、マレーシアの地方語の特色をなすあの荒っぽさなのかもしれないが。そういえば実際、銅色を帯びたほとんどオリーブ色の生き生きした顔色、漆黒《しっこく》のちぢれた髪の毛、深い眼窩《がんか》の奥の動かぬ瞳から矢のようにひらめき出る視線、高い上背、いかった肩、非常な体力をうかがわせるもりもりと盛り上がった筋肉を見れば、ダルチガス伯爵が極東のいずれかの人種に属することもあり得ないことではないと思われた。
私の考えでは、このダルチガスという名は偽名である。伯爵というその肩書も同じく偽りのものに相違ない。彼のスクーナー船にはノルウェーの名がついているが、彼自身はたしかにスカンディナヴィア系ではない。冷静な顔つきや金髪や淡青色の眸《ひとみ》から洩れるあのおだやかな眼差《まなざし》といった北欧人らしいところは全然彼にはないのだ。
彼がどんな人間であれ、とにかくこの男はトマ・ロックを――彼といっしょに私をも――攫わせたのだ。そしてこれは悪事を働こうとしてそうしたのだとしか考えられない。
次に、ダルチガス伯爵はどこかの強国のためにあのような挙に出たのか、それとも自分自身のためにか?……トマ・ロックの発明を彼は一人占めしようとしているのか、そして事実一人占めし得る立場にいるのか?……これが私にはまだ答えられそうもない第三の問題である。脱走に成功するまでに――脱走が可能であるとして――、これ以後見たり聞いたりすることによってあるいはこの問題を解くことができるだろうか?……
「エッバ」は前に言ったような不可解な状態で進みつづけている。私はデッキを歩きまわることはいくらでもできるが、乗組員室より先へ行くことは許されていない。乗組員室へ下る昇降口の覆い戸は前檣の前部にあるのだ。
事実一度私は前方斜檣の基部まで行ってみようと思った。そこから外へ身を乗り出してみれば、船の舳《みよし》が水を切るのが見られただろう。ところが、あきらかに命令が与えられていたらしく、見張りの水夫たちが私を通させまいとし、そのうちの一人が嗄《しわが》れ声の英語で乱暴に言った。
「もどれ……もどれ!……運転の邪魔だよ!」
運転?……運転なんてしていないじゃないか。
このスクーナー船がどんな推進力によって動いているのかを知ろうとしていることが悟られたのであろうか?……そうかもしれない。そしてこの場面を見ていたスパード船長は、私がこの航法がどんなものかを納得しようとしていることを見て取ったにちがいない。たとい病院の看護人といえども、船が帆もスクリューもなしにこれほどの速度で動いていれば猛烈に驚かずにはいられないだろう。要するに、どういう理由でかは知らないが、「エッバ」の船首部は私には立入禁止になっているのだ。
十時ごろ風――まことに都合のいい北西風――が吹き出し、そしてスパード船長は水夫長に指示を与えた。
すぐさま水夫長は号笛をくわえて、主帆、前檣帆、三角帆を揚げさせた。軍艦の上でもこれ以上整然と規律正しく行動しはしなかったろう。
「エッバ」号はわずかに左のほうに傾き、スピードはひじょうに上がった。それにしても動力装置はいっこうに停止した様子はない。なぜなら、スクーナー船が帆にだけ頼っているとすれば帆はもっとふくらんでいたはずだからだ。ただし、風が一定の方向から吹き出したので、帆もやはり船の進行を助けてはいたが。
空は晴れ、西のほうにあった雲も天頂に達すると消えてしまい、海は燦々《さんさん》と降りそそぐ日の光のもとにかがやいた。
そこで私は船の針路をできるだけ突き止めようと頭をひねった。私はかなり航海したので船の速度を見つもるくらいのことはできる。私の見るところ「エッバ」の速度は十ノットから十一ノットのあいだにちがいない。進行方向のほうはずっと変わらない。このことは、舵手の前にある羅針函に近づけばすぐに確かめることができた。「エッバ」の船首に近づくことは看護人ゲイドンには禁じられていたが、船尾はそうでない。私は何度も羅針盤にさっと目をやることができた。その針は変わることなく東を、もっと正確には東南東を示している。
こういった状態でわれわれの船は、西側はアメリカ合衆国の沿岸で限られた大西洋のこの水域を航行していたのだ。
私は記憶を呼びおこそうとした。この方向でヨーロッパ大陸より手前にあるのは何という島か、何という群島か?
スクーナー船がもう四十八時間も前にここを離れたノースカロライナは北緯三十五度の緯度線で横切られており、この線を東方へ延長すれば、私の間違いでなければ、おおよそモロッコの高さでアフリカの海岸を切るはずである。しかしその線上には、アメリカからおよそ三千マイル離れたアゾレス群島が横たわっている。ところで、「エッバ」はこの群島に帰るものと、この船の常泊地はポルトガルの領土をなすこの島々の一つにあるものと推定しうるであろうか?……いや、私はこの仮定を認めることはできない。
そのうえ、アゾレスの手前の北緯三十五度の線上には、わずか千二百メートルの距離のところにイギリスに属するバーミュダ群島があるのだ。ダルチガス伯爵がヨーロッパのある強国のためにトマ・ロックの誘拐を引き受けたとすれば、その強国は英帝国であるとするほうが真実性があろう。実は、この人物がまったく自分の利益のためだけにああいう行動をしたという場合も依然としてあり得るのだが。
この日のうちにダルチガス伯爵は三、四回船尾に立った。そこから彼は水平線上のあちらこちらを注意ぶかく眺めているように私には見えた。遠くのほうに煙があらわれると、彼は強力な双眼鏡を用いて長いこと観察する。なお言えば、私が甲板上にいることなど彼は全然眼中においていなかった。
ときどきスパード船長が彼のところへやって来た。そして二人は二言三言ことばを交わすのだが、それは私には理解もできず、どこの国語とも見当のつかない言葉なのだ。
「エッバ」の船主がいちばんよく話をするのはセルコ技師とだった。彼は船主とひじょうに親しくなっているようだ。かなりおしゃべりで、船にいるほかの連中ほど粗野でも無口でもないのだが、どういう資格でこの技師はスクーナー船に乗っているのだろう?……ダルチガス伯爵の特別の友人なのか?……伯爵とともに金持ちのヨットマンらしいこの羨《うらや》むべき生活をしながら四海を馳《は》せめぐっているのだろうか?……けっきょくのところ、私に対して同情ではないまでも興味を多少なりと示すように見えたのはこの男だけだった。
トマ・ロックはといえば、私は午前中彼の姿を見かけなかった。昨日の発作がまだ終わっていないので、船室に閉じこめられているにちがいない。
午後三時ごろダルチガス伯爵が昇降口から降りようとしながら、私にこちらへ来いと合図したときに私ははっきりそうだとわかった。
この男が、このダルチガス伯爵が私にどんな用事があるのかは私は知らない。しかし彼に何と言ってやるかについては私の肚《はら》ははっきりときまっている。
「トマ・ロックの例の発作はいつも長く続くのか?……」と彼は英語で私にきいた。
「ときとして二昼夜も」と私は答えた。
「ではどうしたらいい?……」
「眠るまで静かにさせておくしかない。一晩眠れば発作は終わる。そうしていつもの放心状態にかえるのだ」
「よろしい、君は看護人だから、ヘルスフル・ハウスにいたときと同じように看護を続けたまえ、その必要があるとすればだが……」
「看護を?……」
「そうだ……この船にいるあいだ……到着するまでだよ」
「どこに?……」
「明日の午後にはわかるさ」とダルチガス伯爵は答えた。
明日か……と私は考えた。してみると、目的はアフリカ海岸でも、アゾレス群島ですらもないのか……。それなら残るのは、「エッバ」はバーミュダ群島に寄港するという仮定だ……。
ダルチガス伯爵が昇降口の第一段に足をおろそうとしたとき、こんどは私のほうから言葉をかけた。
「失礼ですが、自分がどこへ行くのか……私は知りたい、……知る権利がある……そして……」
「ゲイドン君、ここでは君には何一つ権利はない。たずねられたときに答えるだけにするんだ」
「私は抗議する……」
「抗議するがいいさ」とこの横柄《おうへい》な尊大な男は言い、その目は険悪な視線を私に投げた。
そして彼は昇降口から降りて行って、私はセルコ技師の前に残された。
「私が君だったら、私は諦めるね……」と技師はにやにや笑いながら言った。「何かの歯車にまきこまれたら……」
「叫んだっていいだろう……と私は思うがね……」
「それが何の役にたつ……誰一人君の声がきこえるところにいないというのに?……」
「いつか誰かが聞くでしょう……」
「いつかとは……気の長い話だな!……まあいい……好きなだけ叫びなさい!」
この皮肉な忠告を与えてセルコ技師は私を物思いに沈ませたまま行ってしまった。
四時ごろ一隻の大型船が東方六海里のところをこちらとは反対の方向に走っているのが認められた。進み方が速く、みるみるうちに大きくなる。黒っぽい渦が二本の煙突から出ている。軍艦だった。細い長旗が主檣の頂きに流れているのだから。そして斜桁にほかの旗は一つもひるがえっていなかったにもかかわらず、これはどうも合衆国海軍の巡洋艦らしいと私は思った。
そこで私は、その船とすれちがうとき「エッバ」が慣例の挨拶《あいさつ》を送るだろうかと考えた。
が、そうはならなかった。ちょうどそのときこちらの船はあきらかに相手から遠ざかろうとする動きを見せた。
これほどうさんくさいヨットのことだから、こういうやりかたも特別私を驚かせはしなかった。ただいちばん私に意外の感を起こさせたのはスパード船長の操船ぶりだった。
実際、彼は前部の錨捲上機のそばに行くと、汽船の機関室に命令を送るのに用いられるものに似た小さな信号機の前に立ちどまった。彼がその機械のボタンの一つを押すやいなや「エッバ」は南東のほうへ九十度方向を変え、それと同時に帆足索《ほあしづな》は水夫たちによって静かにゆるめられた。
あきらかに「なんらかの」命令が「なんらかの」機械の担当者に伝えられ、その担当者はまだ私にはその原理のわからぬ「なんらかの」動力によるこの不可解な動きを船に与えたのだ。
巡洋艦の進行方向は全然変わらなかったから、この操作の結果「エッバ」は巡洋艦から斜めに遠ざかった。相手に疑惑を抱かせるはずのないこの遊覧ヨットが、軍艦を見たからといってどうして航路からそれる必要があるのか?……
ところが、夕方六時ごろ別の船が船首の左舷の方にあらわれたときには、「エッバ」は以前とはまったく異なる行動に出た。今度はその船を避けるかわりに、スパード船長は機械で命令を送ってからふたたび東へ船を向けたのだ。このためこちらは向こうの船の航路にはいることになる。
一時間後には二隻の船はおよそ三、四海里の距離を置いてたがいに直角の位置にあった。
このときは風はすっかり落ちていた。向こうの船は遠洋航路の三本マストの商船だったが、高い帆をたたもうとしていた。夜のうちに風がまた吹き出すものと期待するわけには行かず、明日になってもこの三本マストの船はどうせ静まりかえった海上の同じ位置にいるにちがいない。謎の推進機でうごく「エッバ」のほうは依然としてその船のほうに進みつづけていた。
もちろんスパード船長は帆をおろせと命じたし、エフロンダ水夫長の指揮のもとにその作業は競走用ヨットとしては感歎するほどの迅速《じんそく》さでおこなわれた。
暗くなりはじめたときには二隻の船の距離はもう一海里半しかなかった。
それからスパード船長が私のほうへやって来て右舷の舷門の近くで私に声をかけ、船室に降りろと何の会釈《えしゃく》もなしに命じた。
私はそれに従うしかなかった。けれども私は甲板を去る前に、水夫長が標識燈を一つもつけさせないのに気がついた。三檣船のほうは、――右舷には緑、左舷には赤と――舷燈をつらねているのに。
スクーナー船が向こうの船のそばを気づかれずに通ろうとしているのだと私は信じて疑わなかった。進行速度のほうは少々落ちていたが、方向は変わっていない。
昨日以来「エッバ」は東のほうへ二百海里ほど進んでいたと私は思う。
私は何か気がかりな感じを持ちながら自分の船室にもどった。夕食はテーブルの上に置いてある。しかしなぜということもなく不安で、私はほとんどそれに手をつけなかった。そして眠ろうとして横になったが、眠りは訪れて来ない。
この不安な状態が二時間ほどつづいた。静寂は、スクーナー船の振動と船腹を滑って行く海の水のつぶやきと、この静かな海面を行く船がときどき思い出したように軽く揺れることで乱されるだけだった。
この二日間に起こったさまざまの事柄の記憶にとりつかれていた私の精神は、全然安らぎを見いだすことができなかった。明日の午後には着くという……。明日、トマ・ロックのそばでの私の職務は陸上でまたはじまるのだ、「もしそれが必要ならば」とダルチガス伯爵は言ったが。
最初私が船艙の底に閉じこめられたとき、私はスクーナー船がパムリコ・サウンドの沖で動き出したのに気がついたが、今度は――十時前後だったろう――私は船が今しがた止まったのを感じた。
なぜ止まったのか?……スパード船長が私に甲板を去るように命じたとき、視界にはぜんぜん陸地はなかった。この方向には、地図で見るとバーミュダ群島しかない。そして夜になってしまえばなお五、六十海里行かなければ見張りにもその島影を認められないはずだった。
のみならず、「エッバ」は進行を停止しているばかりでなく、ほとんど完全に動きを止めているのだ。ひじょうに静かな、まったく|むら《ヽヽ》のない弱い横揺れがやっと感じられるだけだ。波のうねりはほとんど感じられない。海面には風一つそよがない。
私の思いは、ちょうど私が船室へもどるとき一マイル半のところにあったあの商船にまた向かった。もしスクーナー船があの船のほうに進みつづけたならもう追いついているはずだ。今は停止しているが、もはや両船のあいだの距離は二百メートルから四百メートルまででしかないだろう。日没時にはすでに凪で動けなくなっていた三檣船が西方に移動したなどということは考えられない。すぐそこにいるのだ。明るい夜だったとすれば舷窓から見えたはずだ。
うまくつけこめるような好機が生ずるかもしれないという考えがふと浮かんだ。このままでは自由をとりもどす望みはすっかり絶たれているのだから、脱出を試みない理由はないではないか……いかにも、私は泳げない。しかし舷側にある浮き袋の一つをもって海にとびこめば、あとは当直水夫の監視の目を欺きさえすれば、三檣船に達することも不可能ではないのではないか……。
だから、まず第一に船室から出て昇降口の梯子を登らねばならない……。「エッバ」の船員室にも甲板上にも物音一つ聞こえない……。この時刻にはみんな眠っているにちがいない……。やってみよう……。
私は船室のドアをあけようとしたとき、外部から閉ざされてあることに気がついた。しかもこんなことは予想しておくべきことだったのだ。
私は計画を放棄しなければならなかった。そもそもこんな計画では成功しないほうの公算がひじょうに多かったのだから!……
眠るに越したことはなかろう。肉体的にはそうでなくとも、精神的にはひどく疲れているのだから。絶えることのない偏執観念、相矛盾する観念の連合に捉えられているのだから、それらの観念を眠りのなかに沈めてしまえたら……。
どうにか私は眠れたらしかった。物音で――このスクーナー船の上ではまだ一度も聞いたことのないような奇妙な音でいま目が覚めたのだから。
東に向いた舷窓のガラスが日の光で白みはじめていた……。私は時計を見た……。朝の四時半を示している。
私が最初に考えたことは、「エッバ」がふたたび進行を開始しているのかということだった。
いや、たしかに進んでいない……帆でも推進機でも。進んでいるとすれば、間違えるはずのないある振動が生じているはずだ。そのうえ、海は昨日の日没時と同様にこの夜明けも静からしい。私が眠っていた数時間のあいだに「エッバ」は進んだとしても、今は全然動いていない。
今言った物音は、甲板の上を足ばやに行ったり来たりするためだ、――重い荷を持った人々の足音だ。同時に、同じ種類の騒音が私の船室の床板の下の船艙を満たしているように思われた。この船艙には前檣の後部の大きなハッチからはいる。さらにまた私は、スクーナー船の船腹の水から出ている部分が外からこすられていることを確認した。艀《はしけ》が横づけになったのか?……水夫たちは荷積みもしくは荷揚げの仕事をしているのだろうか?……
それにしても、船が目的地に着いているとはとても考えられない。ダルチガス伯爵は、「エッバ」は二十四時間以内には着かないと言っていた。ところで、もう一度言うが、船は昨夜、いちばん近い陸地、つまりバーミュダ群島から五、六十海里離れていたのだ。西にもどってアメリカ沿岸の近くに来ているなどということは、距離からしても考えられない。さらにまた、スクーナー船は一晩じゅう停止していたと信ずべき理由がある。眠りこむ前に私は船が今しがた停止したことを確認したのだった。そして今、船がまだ動き出していないことを私は確認する。
そこで私はふたたびデッキに出ることを許されるのを待った。私の船室の扉はあいかわらず外からしめられている。それは今確かめたところだ。すっかり夜が明けてしまってもなお私を外に出すまいとするとは私にはあまり考えられない。
一時間たった。朝の光が舷窓からさしこむ。私は舷窓からながめる……。軽い靄《もや》が大西洋をおおっている。しかし間もなくその靄も最初の日の光とともに消えて行くだろう。
私の視線は半海里の範囲まで及ぶはずなのだが、三檣船が見えないのは、私には見えない「エッバ」の左舷のほうに停まっているからに相違ない。
今何かが軋《きし》る音が聞こえる。鍵が錠のなかでまわる。私はドアを押した。ドアはあいた。私は鉄梯子をよじのぼり、甲板に足をおろす。ちょうどそのとき水夫たちが船首の昇降口の覆い戸を閉ざしていた。
私の目はダルチガス伯爵を求めた……。いない。自分の船室から出ていないのだ。
スパード船長とセルコ技師が見張っていくつかの包みの荷が積み上げられている。これはたぶん今船艙から出して船尾に移したばかりのものなのだろう。私が目を覚ましたとき耳にした行ったり来たりする足音の原因はこの作業だったのだ。乗組員が荷物を揚げている以上は、船はまもなく目的地に到着することはあきらかだ……。
もう港から遠くはないのだ。そしてスクーナー船はおそらく数時間後にそこに投錨するのだろう……。
さてそれでは……こちらの船の左舷後半のところにいたあの帆船は?……前夜以来風は吹き出していないのだから、あの帆船はもとのままの位置にいるにちがいない……。
私の視線はその方向にむかった……。
三檣船は消え失せて、海上には何もない。沖合にも船はなく、水平線上の北にも南にも帆影はない……。
いろいろと考えたあげく、制限つきでしか承認できないとしても自分で納得できる唯一の説明は次のとおりだった。つまり、私は気づかなかったけれども、「エッバ」は私の眠っているあいだに三檣船を後に残してふたたび動きはじめたのだ。そしてそれがゆえにこちらに直角の位置にあったあの船はもう見えないのだ。
それはともかく、私はこの問題についてスパード船長にもセルコ技師にすらもたずねに行くことはさしひかえた。どうせ一言も答えてくれないだろうから。
それに、ちょうどそのときスパード船長は信号機のほうに行き、上のほうの板についているボタンの一つを押した。ほとんど時を移さず「エッバ」はかなりはっきりとした振動をおこした。それから、帆はあいかわらずたたんだまま東に向かって非常なスピードで進み出した。
二時間後ダルチガス伯爵は船尾上部近くのいつもの位置についた。セルコ技師とスパード船長とが、すぐ伯爵のところへ行って二言三言交わす。
三人ともそれぞれ双眼鏡を目に当てて南東から北東へと水平線を偵察する。
私の視線もじっとその方向へ注がれたと言っても、誰も驚かないだろう。しかし私のほうは眼鏡がないので沖合に何一つ認めることができない。
昼食を終えるとわれわれはまたデッキへ出た――船室から出て来ないトマ・ロックを除いて皆が。
一時半ごろ、前檣の横材によじのぼっていた水夫の一人が陸地を認めた。「エッバ」は非常な速度で走っていたのだから、まもなく陸地の輪郭が浮き出してくるのが見えるだろう。
事実二時間後、八海里足らずのところにぼんやりしたシルエットが丸く盛り上がった。スクーナー船が近づくにつれてそのプロフィールははっきりとあらわれてきた。それは山の、すくなくともかなり盛り上がった陸地のプロフィールだ。その頂きから煙が出て天空に立ちのぼっている。
このあたりに火山が?……してみると、これは……。
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八 バック・カップ
私の考えでは、「エッバ」は大西洋のこの海域ではバーミュダ群島以外のいかなる群島にもぶつかるはずはなかったのだ。これはアメリカの沿岸から走って来た距離からしても、またパムリコ・サウンドを出て以来取って来た方向からしても当然の成行きである。この方向は一定して東南東だった。そして距離は、船の速度を考え合わせると、大体のところ九百キロから千キロまでと見るべきであろう。
それにしてもスクーナーはこの高速を落とそうとはしなかった。ダルチガス伯爵とセルコ技師は後部の舵手のそばを離れなかった。スパード船長は前部に行って位置についた。
ところで船は、孤立しているものらしいこの小島を通り過ぎてもっと東のほうへいくのであろうか?……
どうもそうらしくはない。「エッバ」がその常泊地に着くと予定されているのは今日の今ごろなのだから……。
ちょうどこのとき水夫たちはすぐ作業にかかれるようにしてデッキにならび、水夫長のエフロンダはまぢかな投錨にそなえて手筈をする。
どうなることかは二時前にはわかるだろう。そうなれば、スクーナー船が外洋に乗り出して以来私の心を捉えていた疑問の一つに解答が与えられる。
けれども、「エッバ」の常泊地がほかでもなく英領諸島のまんなかのバーミュダの一つにあるなどということはあまり真実性がない――ダルチガス伯爵がイギリスのためにトマ・ロックを誘拐したのでないかぎり。そしてこれはまず認められない仮定なのだ……。
疑う余地がないのは、この奇怪な人物が現在すくなくとも一風変わった執拗《しつよう》さで私を観察していることだ。私が技師シモン・アールだと彼が感づくことはあり得ないにもかかわらず、私がこの一件についてどう考えているのかと彼は推測をめぐらしているに相違ない。看護人ゲイドンは取るに足りぬ哀れな奴にすぎないが、その哀れな奴だって自分の今後の運命についてはいかなる貴族にも――その貴族がこの奇妙な遊覧ヨットの所有者であるとしても――劣らぬくらい関心を持たずにはいられまい。だから私は、彼の視線が私につきまとうそのしつっこさには少々不安だった。
そしてもしダルチガス伯爵が今私が心ひそかにどんなことに思い当たったかを悟ったとすれば、私を海へ投げこむことに躊躇《ちゅうちょ》したとは保証し得ない……。
これゆえ今までにもまして注意深くするのが賢明だった。
実際、人に疑惑を起こさせることはなかったが――あれほど敏感なセルコ技師の心のうちにすらも――、謎のヴェールの一隅がかかげられたのだ。これから先のことがほんのわずかながらわかってきた。
「エッバ」が近づくにつれてその進行方向にある島の、もっと正確に言えばその小島の形は、明るい空を背景にくっきりと浮かび上がってきた。最高点をすでに過ぎた太陽が島の西側をいっぱいに照らしている。小島はぽつんと離れている。すくなくとも、小島の所属する群島の姿は北にも南にも見えないのだ。距離がちぢまるにつれて島の見える角度は開いて来、島のうしろの水平線は下がって来る。
奇妙な形状のその小島はかなり正確にカップをひっくりかえした形をしていて、その底にあたる所から煤色《すすいろ》の煙が立ち昇っている。島の頂上――つまりカップの底――は海抜百メートルほどだろう。そして側面は一様な急傾斜の斜面をなし、大浪が絶えず打ちつける底辺の岩と同じく草木に蔽《おお》われてはいないのだ。
しかし、西のほうから来てこれを見る航海者にとってこの小島を識別することをひじょうに容易にしている自然の奇観が一つあるのだが、それは中が透けている岩なのだ。この自然のアーチはカップの把手をなしているように見え、渦巻く波のしぶきをも、太陽が東の水平線を離れるときにはその光をも通す。こうしたところを見ると、この小島は|逆さ茶碗《バック・カップ》というその名にまことにふさわしい。
ところで、私はまさにその小島をひじょうによく知っているのだ! それはバーミュダ群島の前方に位置している。数年前私が訪れる機会のあったあの「逆さ茶碗」なのだ……。いや、これは見間違いではない!……あのとき私の足はあの石灰岩を踏み、東のほうの山裾をまわって行ったものだ……。そうだ、あのバック・カップだ……。
これほど自制力がなかったとすれば私は驚きの……そしてまた喜びの叫びをあげただろう。そうすれば当然ながらダルチガス伯爵の注意をひいたはずだ。
私はバーミュダにいたころ、次のような事情でこのバック・カップ島を探査することになったのである。
ノースカロライナから約千キロメートルの位置にあるバーミュダ群島は数百の大小さまざまの島から成っている。その中心部で経度六十四度と緯度三十二度が交わっている。イギリス人ローマーが難船して一六○九年にここへ投げ出されて以来、バーミュダはイギリス王国に属し、その結果としてイギリスの移民人口は一万に殖えた。英国がこの群島を併合――奪取と言ってさしつかえあるまいが――しようとしたのは、綿花、コーヒー、インディゴ、葛《くず》を生産するからではない。アメリカ合衆国に近いこの大西洋の水域にまったくあつらえむきの海軍基地があったからなのだ。領有は他の強国からなんらの抗議を受けることなしにおこなわれ、バーミュダは現在参事会と住民総会の協賛を得たイギリス人総督によって統治されている。
この群島の主立った島の名は、セイント・デイヴィッド、サマセット、ハミルトン、セイント・ジョージである。この最後の島には自由港があり、そして同じくセイント・ジョージという町が群島の首都でもある。
これらの島のなかでいちばん広いものでも長さ二十キロ幅四キロを越えない。中くらいの大きさの島々を除くと、十二里四方の面積に散在する小島と岩礁《がんしょう》の集まりしか残らない。
バーミュダの気候はひじょうに健康に適しているにもかかわらず、これらの島々は大西洋の冬の大嵐にものすごく叩かれ、その近海は航行する船にとって難所となっている。
何よりもこの群島に欠けていたのは小川や河《リオ》だった。けれども雨がよく降るので、雨水を集めて住民の需要や農耕の必要に供して水不足に対処していた。そのため大きな貯水池を作ることが必要になった。貯水池があれば驟雨《しゅうう》が気前よくいくらでも満たしてくれるのだ。この工事は当然感歎されてしかるべきものであり、人間の工夫《くふう》の力にとって名誉となるものであった。
当時私がそこへ行く気になったのはこの貯水池の建設のため、そういう立派な工事を見学したいという好奇心のためだった。
私は技師をしていたニュージャージーの会社から数週間の休暇を得た。そしてバーミュダ行きの船にニューヨークで乗った。
ところで、私がハミルトン島にある大きなサザンプトン港に滞在しているとき、地質学者の興味をひくような自然現象が起こった。
ある日のこと、妻子を引き連れた漁民の小舟隊がサザンプトン・ハーバーにやって来た。
五十年このかた、これらの家族はバック・カップ島の東に面した海岸に住みついていたのだった。木造の小屋や石造の家がそこに建てられた。魚の多いこの水域で漁獲するのはひじょうに有利な条件のもとに――とりわけ三月と四月にはバーミュダ海域にふんだんにいる抹香鯨《まっこうくじら》を獲るには――彼らはここに住んでいたのだ。
それまではこの漁民たちの平和な暮らしや生業を乱すようなことは何も起こらなかった。彼らはかなり辛いこの生活に不平を言わなかった。それにまた、ハミルトンやセイント・ジョージとの連絡が容易なことで助かっていたのだ。カッターふうに仕上げた彼らの頑丈な小舟は魚を積み出し、それと引き替えに家族の生活を維持するに必要なさまざまの消費物資を運んで来たのである。
ではなにがゆえに彼らはその島を見捨てたのか? しかも、これはまもなくわかったことだが、もう二度とそこへ帰る意志を持たずに?……それは身の安全がもはや以前のように保証されていないからだった。
二か月以前に、漁民はバック・カップの内部に生じた鈍い爆発音にまず驚かされ、ついで不安をそそられた。それとともに小島の頂き――つまり逆さ茶碗の底――は水蒸気と焔におおわれた。ところで、この小島が噴火によって生じたものであること、その頂が噴火口をなしていることに人々は全然気づいていなかった。山腹の傾斜があまりにも急で、よじのぼることが不可能だったからだ。しかし今は、バック・カップが古い火山であり、近いうちに噴火があって村を襲うかもしれないということはもう疑えなかった。
この二か月のあいだ、内部の轟音《ごうおん》は増し、島の土台がかなりはっきりと揺れ、頂から――特に夜間――長い焔が噴き出し、ときどきものすごい爆発音がした。これらすべては海面下の地下構造で火山活動がはじまっているという兆候、いずれ近く噴火運動がはじまるという疑う余地ない前兆だった。
熔岩の流出から身をかくす場所の全然ないこの狭い海岸地帯で切迫した災禍に怯《おび》え、しかもバック・カップが完全に崩壊するのではないかという不安すら抱いたこの家族たちは、ぐずぐずせずに逃げ出した。すべての所有物を各自の漁船に積みこむと船を出して、サザンプトン・ハーバーに避難して来たのだった。
バーミュダの人々は、群島の西の端で数世紀間眠っている火山が活動を再開したというニュースにある恐怖を感じた。しかし一部の人々の恐れと同時に他の人々は好奇心をあらわした。私は後者だった。のみならず、この現象を検討し、その現象の行き着くところを漁民が誇張して考えているのではないかどうかをつきとめることも重要なことだった。
群島の西に、忽然《こつぜん》と姿をあらわしているバック・カップは、東のほうからは近づくことのできぬ小島や岩礁の気まぐれな連なりによってこの群島とつながっている。セイント・ジョージからもハミルトンからもバック・カップは見えない。その頂は標高百メートルばかりしかないからだ。
サザンプトン・ハーバーを出発した一隻のカッターが数人の調査員とともに私を岸に上げた。岸にはバーミュダの漁民が捨てて行った小屋が立っていた。
内部の爆鳴はあいかわらず聞こえ、一団の蒸気が火口から立ちのぼっていた。
われわれにとってはもはや疑う余地はなかった。バック・カップの古い火山が地下の火をふたたび吐き出したのだ。いずれ近いうちに噴火が起こり、それにともなういろいろの影響も生ずるものと危惧すべき状態にあった。
火口まで登って行こうとしたが駄目だった。なめらかで滑りやすく、足がかりも手がかりもなく、七十五度から八十度の傾斜をなすこのけわしい斜面を登ることは不可能だった。この亀《かめ》の甲のような岩以上に生命のないものには私は今までぶつかったことがなかった。少々腐植土のあるあたりに野生の|うまごやし《ヽヽヽヽヽ》の類がまばらに生えているだけなのだ。
何度か登攀《とうはん》を試みて不成功に終わったあげく、一同は島の一周を試みた。しかし漁師たちが村をつくった一部を除いて、山裾は北も南も西も岩石の崩れ落ちた堆積ばかりで通れなかった。
それゆえ島を調査するといってもこのはなはだ不充分な手さぐりだけで終わってしまった。要するに、鈍いごろごろという音、ときには爆発音が内部をゆるがす一方、焔を混えた煙が火口から噴き出すのを見て、島が近く破壊されるものと予想して漁民が島を去ったことを是認するほかはなかったのである。
以上が、私がバック・カップを訪れることになった事情である。この島の奇怪な形状が私の目に映ずるやいなや私がこういう名をこの島につけたとしても驚くにはあたらないだろう。
そうだ! くりかえして言うが、「エッバ」がここに寄港するものと仮定して――ただし港がないのだからそんなことは考えられないと私は思うのだが――、看護人ゲイドンがこの小島を知っていることはダルチガス伯爵にとっては好ましくないことだろう。
スクーナー船が接近するにつれて私は島を観察した。バーミュダ人はそこを去ったまま一人として帰ろうとしなかった。漁場は現在見捨てられている。何のために「エッバ」がここに寄港するのか、私には合点が行かない。
けっきょくのところ、ダルチガス伯爵とその仲間はバック・カップの岸に上陸するつもりはないのではあるまいか? スクーナー船がどこか狭い入江の奥の岩のあいだに一時的な隠れ場を見つけたとしたところで、西大西洋の恐ろしい嵐にさらされたこの不毛の円錐形の島に住居を定めようと金持ちのヨットマンが思いついたなどということがどうして考えられよう? この場所に住むのは粗野な漁師たちにはいいが、ダルチガス伯爵やセルコ技師やスパード船長とその船員たちには向かない。
バック・カップはもう半マイルしか離れていなかった。暗緑色の丘のつらなる群島のほかの島々の景観に似たものはここには全然ない。でこぼこした岩の凹みなどに幾本かの杜松《ねず》が生えているのと、バーミュダの重要な財源であるあのシーダーの痩《や》せたのが見えるだけだ。基部の岩はといえば、波によって絶えず新たに打ちよせられて来る|ひばまた《ヽヽヽヽ》の厚い層と、さらにまたカナリー群島とカポ・ヴェルデのあいだの、この名を取ってサルガッソ海と呼ばれる海に無数に見られるあの|ほんだわら《サルガッソ》という繊維質の植物に蔽われているが、これは潮流が大量にバック・カップの岩礁に打ちつけて来るのである。
荒涼としたこの小島に住んでいるのは幾種かの鳥に限られてしまったが、鴎《かもめ》の種類が何億羽となく火口を渦巻く水蒸気を横切ってすばやく飛んでゆく。
もう数百メートルというところでスクーナー船は速度を落とし、水面すれすれの高さに散在する島々のまんなかにできている水路の入口に文字どおりぴたりと停止した。
「エッバ」はこの曲りくねった水路を通ろうとするのだろうかと私は疑った……。
いや、いちばん正しそうな仮定は、数時間立ち寄った後――それもどういう目的でかは私にはまだわかっていないのだが――ふたたび東にむかって出発するということだ。
はっきりしているのは、何一つ投錨の準備が見られなかったことだ。錨は揚錨架《ようびょうか》に置かれたままであり、鎖は用意されず、水夫たちはいっこうにボートを海におろそうとはしていない。
ちょうどこのときダルチガス伯爵とセルコ技師とスパード船長が船首の位置につき、それから私にはわけのわからない作業がはじまった。
左舷の、だいたい前檣のあたりの位置にある手摺《てすり》を見まもっていると、水に漂っている小さなブイを水夫の一人が船首の上へ引き揚げようとしているのを私は見たのだ。
と、ただちに、このあたりではひじょうに澄んでいる海水が薄黒くなり、まるで海底から何かの黒いかたまりが上がって来るように見える。いったいこれは呼吸をしようとして水面に上がって来た巨大な抹香鯨であろうか?……「エッバ」はすさまじい尾鰭《おびれ》の一撃を受けようとしているのではないのか?……
これで何もかも私にはわかった……。どんなエンジンによればスクーナーが帆もスクリューもなしにこれほどの速度で進むか私にはわかっている……。それが今姿をあらわすのだ、アメリカ沿岸からバーミュダ群島まで船を引っぱって来た疲れを知らぬその推進機が……。それは今船の横にただよっている……。近頃使われている蓄電機もしくは強力な電池から取った電流を動力とするスクリューで動く、水中牽引船、「タグボート」なのだ……。
このタグボート――鉄板でできた細長い紡錘形のもの――の上部には甲板があり、その中央にあるハッチで中に入れるようになっている。この甲板の前部にはペリスコープが、「ルック・アウト」が突き出している。これは運転席のようなもので、その壁にはレンズ形のガラスをはめた窓があいており、水中を電気で照らすことができるのだ。今タンクの水を出してタグボートは水面にもどっている。上部ハッチは今にも開かれようとしている――澄んだ空気がタグボート全体に充満するだろう。そしてまた、このタグボートは昼間のうちは水にもぐっていても、夜は姿をあらわして水面に浮上したままで「エッバ」を曳航するものと考えられないだろうか?……
それにしても疑問が一つある。このタグボートの動力を生み出すのは電気であるとすれば、どんなエネルギー源によるにもせよ発電工場によって電力が供給されねばならない。ところで、その工場はどこにあるのか?……このバック・カップの小島の上ではあるまいと思うのだが。
さらにまた、なぜスクーナー船は水中で動くこんな種類の曳船に頼るのであろう?……なぜこのスクーナーは、他の多くの遊覧ヨットと同様にそれ自身で推進力を持っていないのだろうか?……
しかし今のところ私には、そういった考察に耽《ふけ》る、というよりも、かくも多くの不可解な事柄を解明しようとする余裕はなかった。
タグボートは「エッバ」によりそっている。ハッチが今開かれたところだ。数人の男が甲板の上にあらわれた――水中船の乗組員だ。スクーナーの前部に取りつけて電線でタグと結ばれている電気信号機によって双方のあいだの連絡ができる。取るべき針路についての指示は事実「エッバ」から発せられるのだ。
セルコ技師は私に近づき、ただ一言こう言った。
「乗りましょう」
「乗るって?……」と私は言い返した。
「そう……タグに……早く!」
例によって例のごとく私はこの有無《うむ》をいわさぬ言葉に従うほかはなかった。あわただしく私は舷側をまたいだ。
ちょうどそのときトマ・ロックが水夫を一人連れてデッキに上がって来た。彼は非常に平静に、それのみかのんきそうに見え、曳船に移されることに全然抵抗しなかった。彼がハッチの口のそばの私のかたわらにいたときダルチガス伯爵とセルコ技師がやって来た。
スパード船長と乗組員たちはどうかといえば、スクーナー船に彼らは残った――ただ今しがた海におろされた小さなボートに乗り移った四人の男は別だが。この男たちは長い大綱を持って行った。たぶん岩礁を縫って「エッバ」を牽《ひ》いて行くためのものだろう。してみるとこの岩のまんなかに、ダルチガス伯爵のヨットを沖の大波から安全に守ってくれる入江があるのだろうか?……それが彼の常泊地なのだろうか?……
「エッバ」はタグから離れ、ボートと結ばれた大綱はぴんと張り、およそ九十メートルばかり離れたところで水夫たちはそれを岩礁に固定した鉄鐶にゆわえつけた。すると乗組員はその綱をたぐってゆっくりとスクーナーを進める。
五分後には「エッバ」は累々たる岩のかげに消えており、沖からはマストのてっぺんさえ見えなかったろう。
この隠れた入江にいつも一隻の船が寄って行くなどということを考えるものがバーミュダ群島のどこにいるだろう?……東岸のすべての港であんなに知られている金持ちのヨット所有者が人気のないバック・カップに身をひそめているなどと考えてみるものがアメリカのどこにいるだろう?……
二十分ほどしてボートは四人の男を乗せてタグのほうへ帰って来た。
水中船が彼らを待っていたのは明白だった。それからまた出かけるのだろう……どこへかはわからないが。
事実乗組員は一人の欠員もなく甲板に移り、ボートは引かれ、スクリューはこまかくまわり出し、そしてタグは南のほうから岩礁を迂回して水面上をバック・カップに向かった。
そこから六百メートル足らずのところで二番目の瀬戸がはじまり、小さな島がその奥にあるがタグはその島の曲がりくねった岸に沿って進んだ。島の基部の最初の岩層に船がさしかかるやいなや、狭い砂浜にボートを引き上げろと言う命令が二人の男に下された。そこは大波や磯波に襲われるおそれがなく、しかも「エッバ」がまた海に乗り出すときには簡単に取りに来られるところだった。
その仕事が終わると二人の水夫はタグにもどり、セルコ技師は下へ降りろと私に合図した。
鉄の階段を数段降りると中央船室に出る。すでにいっぱいになっている船艙には入りきらなかったらしいさまざまの荷がそこに積みかさねられていた。私は横の船室のほうに押しやられ、扉はしまり、こうして私はまたしても深い闇のただなかに沈んだ。
私はここにはいる瞬間、この船室に見覚えがあると思った。ヘルスフル・ハウスからさらわれた後何時間も入れられていたあげく、パムリコ・サウンドの沖に来てはじめてそこから出されたあの船室なのだ。
トマ・ロックも私と同じだったこと、つまり別の船室に入れられていたことはあきらかだ。
よく響く音がした――ハッチをしめる音だ。そして船はすぐに潜航しはじめた。
事実私は、水がタグのタンクのなかに入って来て下降がはじまるのを感じた。
この動きにつづいて別の動き――水中船を水の層を横切って推進させる動きがはじまった。
三分後船はストップした。浮上しているのではないかという感じがした……。
またハッチの音、今度は開く音だ。
私の船室の扉は開かれて、二、三段飛び上がるともう私は甲板に出ていた。
私は見まわした……。
タグはバック・カップの小島の内部にはいりこんでいた。
これこそダルチガス伯爵がその仲間たちとともに――いわば――人間社会の外によって暮らしているあの隠れがなのだろうか?
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九 内部
あくる日、私が行ったり来たりするのを誰も妨げないので、私はバック・カップの広い洞窟のなかの最初の偵察をおこなうことができた。
奇怪なヴィジョンに責められながら私は何という夜を過ごしたことか。そしてどれほど夜が明けるのを待ちこがれたことだろう!
タグが停止した場所のそばの崖から百歩ほど離れた洞窟の奥に私は連れて行かれたのであった。白熱電球で照らされている十フィートに十二フィートほどのこの洞窟に通ずる扉は、私がはいると閉ざされた。
電気がこの洞窟のなかで光源に用いられていることには私は驚く必要はなかった。水中曳船のなかでも電気は同じく用いられていたのだから。しかしどこで発電するのか?……どこから電気が来るのか?……この巨大な洞窟のなかには、機関室やダイナモや蓄電池をそなえた工場が設けられているのか?……
私の部屋には食べ物をならべたテーブルと簡易寝台およびそれに附属する寝具、柳細工の肘掛椅子、下着やいろいろの着替えをおさめた箪笥《たんす》がそれぞれ一つずつそなえつけてある。テーブルの引出しには紙とインキ壺《つぼ》とペン。右の隅には洗面台とそれに附属の道具。何もかもひじょうに清潔だった。
新鮮な魚、罐詰の肉、上質のパン、エールとウィスキー、これがこの最初の食事の献立《こんだて》だった。私はしかしいやいやながら食べたにすぎない。――歯の先でと言ったところだ。それほど私は気が立っていたのだ。
けれども私はいつもの自分にかえり、頭と心の平静をとりもどし、精神力が優位を回復するようにしなければならない。小島の胎内に身をひそめているこの幾人かの男の秘密、私はそれをあばきだしてみたい……私はそれをあばきだして見せるだろう……。
それでは、ダルチガス伯爵が居を定めたのはこのバック・カップの堅い殻の中なのだ。誰一人そんなものがあるとは想像してもみないこの空洞が、「エッバ」が新世界の沿岸に沿って、それのみかおそらくは旧世界の近海にいたるまで航海していないときの、彼の平常の住居となっているのである。これは彼が発見した人に知られぬ隠れがであり、あの水中の入口、大西洋の水面下十フィートから十二フィートにあるあの海水の門を通らねばそこへは行き着けないのだ。
どうして陸地の住民から隔絶するのだろう?……この人物の過去にはなにがあるのだろうか?……このダルチガスという名、この伯爵という肩書きが私の想像するように偽りのものにすぎないとすれば、自分の身分をかくすどんな理由がこの人物にはあったのか?……被追放者、おかまい者であって、他のどこよりもこの流謫《るたく》の地を選んだのであろうか?……むしろこの男は、発見されるおそれのないこの地下工事の底にひそんで、自分の犯した罪に対する罰を免れ、司直の追求の手が自分に及ばぬものという確信を得たいと思っている悪人なのではあるまいか? このうさんくさい外国人に関するかぎり私にはあらゆる想像を働かす権利があるし、事実あらゆることを想像しているのだ。
そこで私の頭には、いまだに満足すべき答えを見いだし得ないでいる次のような疑問がよみがえってきた。なにがゆえにトマ・ロックはあのような具合にして誘拐されたのか?……ダルチガス伯爵は彼からそのフュルギュラトゥールの秘密を奪い、たまたまこの隠れがの秘密が知られた場合バック・カップを守るためにそれを利用しようと考えているのか?……しかしそういうことが起こったとしても、タグボートでは充分補給することはできないだろうから、飢餓《きが》によってバック・カップ島を窮地に追いこむことができるはずだ!……それにまた、そうなればスクーナー船には封鎖線を突破できる可能性はないし、第一すべての港にこの船のことは通報されているだろう!……となると、トマ・ロックの発明はダルチガス伯爵の手中にあって何の役に立ち得よう?……まったく私にはわけがわからない!
午前七時ごろ私はベッドから飛び出した。私はこの洞窟の岩の壁のなかに監禁されているにしても、すくなくとも自分の部屋のなかでは監禁されているわけではない。私が自分の部屋を出ることを妨げるものは何もなかった。そして私は外に出た……。
三十メートルほど前方に岩の棚のようなものが延びている。左右にひろがっている波止場みたいなものだ。
「エッバ」の幾人かの水夫が荷物を陸に揚げタグの船艙を明けるために立ち働いている。タグは石造りの小さな突堤に沿って水面すれすれに浮かんでいるのだ。
洞窟のなかの薄明に私の目はだんだん慣れて行ったが、この洞窟は天井の中央の部分が開いているのだった。
「三海里か四海里へだててわれわれに島の所在を教えたあの蒸気、いや、あの煙が洩れていたのは、あそこからなんだな」と私は心に思った。
と、それと同時に一連の思考が私の脳裡を横切った。
「それじゃこのバック・カップは人々が考えていたような噴火山じゃないんだ、おれ自身もそう考えたもんだが……。数年前に人々の目に留まった蒸気や炎は人間の立てたものだったんだな……。バーミュダの漁民を怯《おび》えさせた轟《とどろ》きも、地下のいろいろな力のせめぎあいによるものじゃ全然なかった……。そういうさまざまの現象は人為的なものだったんだ……。それらの現象があらわれたのはひとえに、この小島の主人、つまり、島の沿岸に居を定めた住民をここから遠ざけようとしたその人間の意志によるものでしかないのだ……。そしてそれに成功した、あのダルチガス伯爵は……。奴はずっとバック・カップのただ一人の主《あるじ》なのだ……。爆発音だけで、潮流が運んで来る|ひばまた《ヽヽヽヽ》や|ほんだわら《ヽヽヽヽヽ》を焼いた煙をこの贋《にせ》の噴火口のほうへ立ち昇らせることだけで、奴は火山の存在を、火山が思いがけなく活動を再開し、噴火の迫っていることを人々に信じさせることができたのだ。実は噴火などは一度も起こったことがないのに!……」
事の次第はそうだったにちがいない。そして事実、バーミュダの漁民が去って以来バック・カップはその頂きに濃い煙の渦を立ち昇らせることをやめてしまったのだ。
そうするうちに内部の明るさは増し、太陽が地平線の上に昇るにつれて光が贋の火口からさしこんで来た。だからこの洞窟の大きさをかなり正確に見積ることができるようになるだろう。とにかく、後になってはっきりさせることのできた数字をここに書いておく。
おおよそ環状をなしているバック・カップ島は外周千二百メートル、内部の面積は五万平方メートルもしくは五へクタールを算する。その岩壁は基部で五十メートルから百メートルの厚さを持っている。
したがって、岩壁の厚みを除けばこの空洞が海上にそばだつ岩塊のすべてを占めていることになるのだ。海中トンネルが外と内とをつなぎ、タグはそれを通ってはいって行くのだが、このトンネルの長さはおおよそ四十メートルほどであろうと私は思う。
このおおよその数字によって洞窟の広さを思いうかべることができよう。しかしこれがどれほど広いものであろうと、私の記憶するかぎり旧大陸にも新大陸にももっと大きな規模の洞窟がいくつかあって、ひじょうに精密な洞窟学的研究の対象とされたことがある。
事実カルニオル、ノーサンバランド、ダービーシア、ピエモンテ、ペロポネソス半島、バレアレス諸島、ハンガリー、カリフォルニアには、バック・カップのそれよりも容積の大きな洞窟が穿《うが》たれているのだ。ベルギーのアン=スュル=レスの洞窟もそうだし、アメリカではケンタッキー州のマンマスにあるいくつかの洞窟もそうで、このマンマスのは二百二十六以上の穹窿《きゅうりゅう》、七本の川、八つの滝、深さは不明の三十二の井戸、五里か六里におよぶ面積の海を蔵し、探検家たちもまだその果てを究めることができないでいるのである。
私はこのケンタッキーの洞窟は知っている。数千の遊覧客と同様に私もここを見物したことがあるのだ。このなかで最大のものはバック・カップとの比較の対象となるだろう。マンマスでもここと同じく、穹窿は形や高さはさまざまの石柱によって支えられ、正副の身廊や側廊をそなえたゴチック式のカテドラルのような様相を呈している。もっとも宗教的建造物のあの建築学的規則性は全然ないのだが。唯一の相違は、ケンタッキー州の洞窟の天井は百三十メートルもの高さにあるにひきかえ、バック・カップのそれは中央に円形の穴があいている――その穴から煙や炎が洩れていたのだが――穹窿部の高さがおよそ六十メートル以上ではないということだ。
指摘しておくべきもう一つの事実――ひじょうに重要な――は、私がその名を挙げた洞窟の大部分は簡単に近づくことができ、それゆえいずれそのうちその秘密をあばかれるに相違ないということだ。
ところがバック・カップはそうではない。このあたりの海図にはバーミュダ群島の一小島と誌されているのだから、この岩塊の内部に巨大な洞窟が開けているなどとどうして人が想像し得たろう? それを知るには中にはいらねばならなかったし、中にはいるためにはダルチガス伯爵が所有するタグのような潜航機を持たねばならなかったのだから。
私の考えるところでは、この奇怪なヨットマンがこのトンネルを発見したのはもっぱら偶然によるものだったろう。そしてそのトンネルのおかげで彼はこの薄気味の悪いバック・カップの部落を作ることができたのだ。
さて、この洞窟の内壁に囲まれた海を眺めてみた私は、その大きさがそれほどではないことを確認した。円周はせいぜい三百もしくは三百五十メートルにすぎない。実を言えばこれは、垂直の岩に囲まれた礁湖《しょうこ》にすぎないのだ。それでもタグの操作にはまったくさしつかえがない。というのは、私の聞いたところでは、その水深は四十メートル以下ではないそうだから。
その位置と形状からして、この洞窟が海水の浸蝕《しんしょく》によって生じたものの部類に属することは明白である。水成でもあれば火成でもあるというのが、フランスのドゥアルヌネ湾のグロゾンやモルガの洞窟、コルシカの海岸のボニファチオのそれの性質だし、高さ五百メートル以下ではないと見られているノルウェー海岸のトールガッテンのそれも、ギリシャのカタヴォートルも、スペインのジブラルタル、交趾支那《こうししな》のトゥーランの洞窟も同じである。要するにその外殻の性質は、これらのものが水と火の二つの地質学的作用の所産であることを示しているのだ。
バック・カップの小島は大部分が石灰岩から成っている。礁湖の岸からこの岩はゆるい傾斜の斜面をなして内壁のほうへ上がって来、その間にひじょうにこまかな砂利を敷きつめた隙間がある。そしてその隙間のそこここには|ゆきのした《ヽヽヽヽヽ》の黄色っぽい固い密生した花々が群がっているのだ。それから|ひばまた《ヽヽヽヽ》や|ほんだわら《ヽヽヽヽヽ》が厚い層をなして積みかさなっている。あるものはすっかり乾き、あるものはまだ湿ったままで、それも潮によってトンネルから運びこまれて礁湖の岸へ打ち上げられたばかりのときには鋭い磯の匂いを放っているのだ。もっともこの海藻《かいそう》だけがバック・カップのいろいろな必要のために使われる唯一の燃料なのではない。私は石炭の莫大なストックを見かけたが、これはタグとスクーナーで運んで来たものにちがいない。しかしくりかえして言うが、小島の火口から吐出される煙は、あらかじめ乾かしておいたこの大量の海藻を燃やして立てているのだ。
散歩をつづけながら私は礁湖の北側の岸にこの穴居民の――そう呼んでしかるべきではないか?――集落の住居を認めた、洞窟のこの部分はビーハイヴ、つまり「蜜蜂の巣」と呼ばれているが、この名称はまことにうってつけだ。実際そこには岩壁の石灰岩に何列もの巣孔が人力で穿たれており、その巣孔のなかにあの人間蜂どもが住んでいるのだから。
東のほうでは洞窟の状態は全然違っている。そちらのほうでは、自然にできた数百の石柱が実に複雑にねじれたり分岐《ぶんき》したりしながら林立して穹窿の内弧を支えている。まさに石の樹木の森林で、洞窟のいちばん端までこの森林はひろがっているのだ。これらの石柱を縫って曲がりくねった小道が交叉し、これらの小道を辿《たど》ってバック・カップのいちばん奥まで行くことができる。
ビーハイヴの巣孔を数えてみると、ダルチガス伯爵の仲間は八十人から百人までと見ることができる。
ほかのものとは離れたこれらの小房の一つの前にちょうど例の人物が立っており、スパード船長とセルコ技師がつい今しがたそこへやって来たところだった。二言三言ことばを交わしてから三人は岸のほうへ降りて行き、タグがそのそばに浮いている突堤の前でたちどまった。
このときは十人以上の男が陸揚げしてしまった貨物を向う岸へボートで運んでいた。横手の岩の密集したところにくりぬいた大きな穴がバック・カップの倉庫となっているのだ。
礁湖の水面下のトンネルの口はどうかといえば、それは目に見えない。事実私は、沖から来てこれに入りこむとき、曳船は数メートル水面下にもぐらねばならなかったのに気がついていた。それゆえこのバック・カップの洞窟は、満潮のときでさえいつも自由に入れるスクーファやセルガのそれとは違うのだ。外側の岸と連絡する別の通路が、自然の、もしくは人工の廊下が存在するのだろうか?……この点をはっきりさせておくことはぜひ必要である。
実際このバック・カップという小島はその名にふさわしい。まさにひっくりかえした巨大な茶碗《ちゃわん》なのだ。単に外形がそうだというのではなく、――これは一般には知られていないが――内部の形も茶碗そっくりなのである。
すでに言ったようにビーハイヴは礁湖の北側で、すなわちトンネルから入って左側で洞窟が丸くなっている部分にある。その反対側には倉庫が設けられ、ありとあらゆる種類の貯蔵物資、商品の包み、葡萄酒《ぶどうしゅ》や火酒の樽、ビール樽、罐詰の箱、いろいろの生産地のマークがついているさまざまの梱包がそこに納めてある。まるで二十隻の船の積荷がこの場所に陸揚げされたかのようだ。もうすこし先に板壁で囲まれたかなり重要な建物がある。その上にそびえている電柱から幾本もの太い銅線が伸び、穹窿の下に吊してある強力な電燈やビーハイヴの各巣孔にある白熱電球に電流を供給するのだ。それのみかこうした照明器具はふんだんにあり、洞窟の石柱のあいだに取りつけられていて、どんな深いところも照らすことができるのである。
そこで次のような疑問が出てくる。私はバック・カップのなかを自由に歩きまわることを許されるだろうか?……そうあることを私は期待する。ダルチガス伯爵が私の自由を拘束し、彼の謎の領土を歩きまわることを禁ずるなどという理由がどこにあろう?……私はこの島の内壁のなかに閉じこめられているではないか……。トンネルを通る以外にここから出ることがはたしてできるのか?……それにしても、いつも閉ざされているあの水の扉をどのようにして通り抜けられようか?……
それにまた、私自身に関して言えば、トンネルを通り抜けることができたと仮定したところで、私の失踪はたちまち確認されてしまいはすまいか?……そうなればタグは十人ばかりの男を外の岸に運び、彼らはどんなに人目につかない岩の凹みをもしらみつぶしに捜すだろう……。どうしてもまたつかまってしまい、ビーハイヴに連れもどされ、今度は行ったり来たりする自由を奪われてしまうだろう……。
それゆえ、成功の可能性が本当にあるということにならないかぎり逃げ出そうなどという考えは捨てねばならなかった。好都合な状況が生じさえすれば、私はそれを見逃したりはしないだろうが。
並んだ巣孔の前を歩きながら、バック・カップの奥でのこの単調な生活に同意したダルチガス伯爵の仲間たちの幾人かを私は観察することができた。くりかえして言うが、ビーハイヴの室の数からして彼らの人数は百人ぐらいと見つもってよかったろう。
私が通っても、この連中は私に全然関心を払わなかった。注意してよく見ると、彼らはいたるところから連れて来られているように見えた。彼らのあいだには共通の血筋など全然認められない――北アメリカ人なりヨーロッパ人なりアジア人なりを形造るあの血筋すらも。彼らの皮膚の色は白から銅色や黒色まであった――アフリカの黒よりもむしろオーストラリアの黒だ。要するに、彼らのほとんどはマレイ人種に属しているように見えた。そしてこのタイプは大多数のものにひじょうに顕著にあらわれてすらいる。さらに言えば、ダルチガス伯爵はたしかに西太平洋の蘭領諸島のあの特別の人種出身であるし、いっぽうセルコ技師はレヴァント人、スパード船長はイタリア系だった。
しかしバック・カップのこれらの住民たちは人種の絆《きずな》によって結ばれていないにしても、本能と欲望の絆ではたしかに結ばれていた。何という薄気味の悪い人相、なんという獰猛《どうもう》な面がまえ、何という徹底して野蛮なタイプであろう! こいつらは乱暴な性質の人間で、これまで激情を制することもなんらかの残虐行為の前でたじろぐこともけっしてなかったに相違ない。そして――これは今ふと思いついたのだが――彼らがここなら絶対に罰を蒙《こうむ》るおそれがないと安心していられるこの洞の奥に身をひそめようなどと考えたのは、皆で盗みや放火や殺人やありとあらゆる種類の傷害などの犯罪を長々とつづけて来た結果ではないとどうして考えられようか?……そうなるとダルチガス伯爵はもはやスパードとセルコという二人の兄貴分を従えた悪党一味の頭目にほかならず、バック・カップは海賊の巣窟《そうくつ》にほかならない……。
こういう考えが私の脳髄《のうずい》に決定的にこびりついてしまったのだ。これが私の思い違いだったことが他日証明されたとすれば私は驚くだろう。のみならず、この最初の探求のあいだに気づいたことは、私のその意見を裏づけ、どれほど真実性がないように見える仮定をも許すていのものだった。
それはともかく、彼らが何者であれ、また彼らをこの場所に会せしめた事情がどのようなものであれ、ダルチガス伯爵のこの仲間たちは彼の絶対的な支配を無条件に受け容れているように私には見える。そのかわり、厳格な規律が彼らを鉄の手でつかんでいるにしても、その償《つぐな》いとなるいくつかの利点があるからこそ彼らはこの奴隷状態というべきものに同意していると考えられる……。それはどのような利点か?……
岩壁の、ちょうどその下にトンネルの口が開いている部分をまわって行くと、礁湖の反対側の岸に出た。この岸にはスクーナー船「エッバ」が航海のたびごとに持ち帰った貨物の倉庫ができている。岩壁に穿った大きな穴は厖大《ぼうだい》な数の荷物をおさめることができるし、また事実おさめている。
そのむこうに電力工場がある。窓の前を通ったとき私はいくつかの機械を見たが、新式のもので、あまり嵩《かさ》ばらず、ひじょうに完備していた。石炭を使用しなければならず、複雑なメカニズムを必要とするあの蒸気発電機ではない。そうだ、私の予感していたように、洞窟の電燈にもタグのダイナモにも電流を供給していたのは驚くべき出力の電池だった。おそらくまたこの電流は、ビーハイヴの煖房《だんぼう》や食べ物の加熱などのさまざまの家事的な用途にあてられもするのだろう。私が確認したのは、この電流が隣の穴で真水を作るための蒸溜器にも使われていることだ。バック・カップの住民たちは飲料のために島の沿岸にふんだんに降る雨水を溜めねばならぬような羽目には陥っていないのだ。電力工場から数歩のところに丸い大きな貯水池があった。それは私がバーミュダ群島で見学したものと、規模は別としてそっくりだった。なにしろバーミュダでは一万の住民の需要に応じねばならないのだが……ここでは百人ばかりの……。
いや、この連中のことをどう性格づけたらいいのか私にはまだわからないのだ。彼らの首領と彼らがこの小島の胎内に住まねばならぬ深刻な理由があるということ、これはまったく明白だが、しかしいったいどんな理由なのか?……修道士が浮き世から離れようとして修道院のなかにとじこもるという場合ならば、その理由はわかる。が、実際のところ、ダルチガス伯爵の配下どもはベネディクト会の修道士のようにもシャルトルー会の修道士のようにも見えないのだ!
石柱の林のなかの散歩をつづけているうちに、私は洞窟のはしまで来てしまった。誰一人私の邪魔をしなかったし、誰一人私に話しかけもしなかったし、私のことを気にするようなそぶりをするものすら一人もいなかった。バック・カップのこの部分は、ケンタッキーやバレアレス諸島の洞窟のなかの最も驚くべきところにも比肩し得るきわめて珍奇なものだった。いうまでもなく人工の加わった跡はどこにも見えない。ただ目につくのは自然のたくみだけである。そして、かくも不可思議な地下建築物を生み出すことのできたこの大地の力を思うと、畏怖の混ったある驚きを感じずにはいられないのだ。礁湖の向う岸には中央の火口からの光線はごく傾《かし》いでしかさして来ない。夜になれば電燈に照らされてそのあたりは幻想的な様相を呈するにちがいない。いくら調べてみても外への出口はどこにも見当たらなかった。
この小島が各種の鴎や海燕《うみつばめ》――バーミュダ群島の海岸の常連たち――のような鳥の番《つがい》のねぐらになっていることは注目に価する。ここでは誰もけっして彼らを狩らず、思うままに繁殖させている。そして彼らも人間がそばに住んでいることに怯《おび》えないのである。
のみならず、バック・カップにはこの海洋性の鳥類以外にも動物がいるのだ。ビーハイヴのあるほうには牝牛、豚、羊、鶏のための囲いができている。それゆえ食べ物は、外の岩礁のあいだやひじょうに多種の魚がたくさんいる礁湖のなかでの漁獲もあるから、ひじょうに豊富でもあり多様でもあるのだ。
要するに、バック・カップの住民にはどんな物資も欠けていないことを確認するには、彼らを見さえすればいいのである。すべて屈強な男どもであり、熱帯の日に焼けて赤銅色《しゃくどういろ》になり、大海の風から酸素を充分に吸収した血の気の多い頑健な船乗りのタイプなのだ。子供も年寄りもいない――三十歳から五十歳までの男ばかりなのだ。
なにがゆえに彼らはこんなふうな生活を甘んじて受けいれているのか?……それにまた、いったい彼らはこのバック・カップの隠れ場からけっして去らないのだろうか?……
たぶん遠からず私はそれを知ることになるだろう。
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十 ケル・ケラジェ
私が住む穴は、ビーハイヴのこのならびのいちばん端のほうにあるダルチガス伯爵の住みかから百歩ほど離れている。この穴にトマ・ロックといっしょに住むことは許されないとしても、彼の穴が私のそれの隣にあるのではないかとは想像している。看護人ゲイドンがヘルスフル・ハウスの入院患者に対する看護をつづけるためには、二つの部屋が接していなければならぬはずだ……。いずれ近いうちにこのことははっきりするものと私は思う。
スパード船長とセルコ技師は別々にダルチガスの屋敷の近くに住んでいる。
屋敷?……そうだ、この住まいはかなり手をかけてととのえられているのだから、そう呼んでいけない理由がどこにあろう? 玄人《くろうと》はだしに岩を刻んで装飾的なファサードの感じを出している。入り口は大きな門になっている。光は石灰岩に穿ったいくつかの窓からさしこみ、その窓には色ガラスのはまった枠がついている。内部にはいろいろな部屋と食堂とサロンがあり、ガラス窓から光を採っている――その全体が、通風が申し分なくおこなわれるようにしつらえられているのだ。家具はいろいろの国で作られたもので、まことに奇抜な恰好《かっこう》をし、フランス、イギリス、アメリカの商標がついている。あきらかにその所有者はいろいろの様式のものが集まるように心がけているのだ。配膳室や調理室には、ビーハイヴのうしろの附属の部屋があてられている。
午後になって、ダルチガス伯爵の「接見を得よう」と固く決意しておもてに出たとき、私は当の人物が礁湖の岸を蜂の巣にむかって登って行くところを見かけた。私が全然目にはいらなかったのか、私を避けようとしたのか、彼は足をはやめ、私は彼に追いつくことができなかった。
「とにかくあの男に会わせてもらわなくちゃ!」と私は自分に言った。
私は脚をはやめ、今閉ざされたばかりの住まいの扉の前に立ちどまった。
色のいやに黒いマレイ系の背の高い野郎がたちまち戸口にあらわれた。つっけんどんな声で私にむこうへ行けと言う。
私はこの命令に逆らい、二度もはっきりとした英語で次のような文句をくりかえして頑張った。
「今すぐ会わせていただきたいと私が言っているとダルチガス伯爵に伝えてくれ」
バック・カップの岩にむかって物を言ってもこれと同じだったろう! この野蛮人はおそらく英語を一言も解さぬらしく、威嚇的な叫び声で答えるだけだった。
そこで私は、むりやり押し入り、ダルチガス伯爵に聞こえるようにどなってやろうかと思った。しかしそんなことをしたところで、超人的な腕力を持っているらしいこのマレイ人の怒りをかきたてる以外にはまず何の効果もあるまい。
そこで私は、当然私に対してなさるべき説明を聞くことは別の機会まで延ばすことにした――遅かれ早かれ聞き出して見せるが。
ビーハイヴの列に沿って東の方へ歩きながら、私の考えはまたトマ・ロックのほうにむかった。この最初の一日のあいだまだ彼の姿を見ていないことに私はひじょうに驚いていた。また発作に襲われているのではなかろうか?……
この仮定はまず認められそうもなかった。そうだとすればダルチガス伯爵は――彼が私に言ったことを信ずるとすれば――あの発明家のところへ看護人ゲイドンを呼びよせたに相違ない。
百歩も行かぬうちに私はセルコ技師に出逢った。
いつものように愛想のいい態度で上機嫌にこの皮肉屋は私を見ると微笑をうかべ、私を避けようとは全然しなかった。私が彼の同業者であり技師である――彼自身技師であると仮定しての話だが――ということを知っていたとすれば、あるいは彼は私に対してもっと愛想よくしたであろうか?……が、もちろん私は自分の本名や資格を彼に言ったりするようなことはすまい。
セルコ技師は目をかがやかせ、からかうような口をしてたちどまって、きわめて上品なしぐさをして見せながら今日はと私に言った。
私は彼の挨拶に冷やかに答えた――彼は全然それに気づかなかったような顔をした。
「あなたに聖ジョナサンの加護がありますように、ゲイドンさん。世にもすばらしいこの洞窟を見物する機会を与えた幸運な事態を、あなたは歎いてはいらっしゃらんでしょうね……とびきりすばらしい……ええ、いちばん立派な洞窟の一つですからな……それでいて地球というこの廻転球体上で、最も知られていない……」
こんな学術用語が一介の看護人相手の会話のなかに出て来たことは正直な話私を驚かせた。そして私はただこう答えるにとどめた。
「この洞窟を見物させてもらってから自由にここから出て行けるというのならば、私も全然歎くことはありませんがね、セルコさん……」
「何ですって! あなたはもう私たちから別れることを考えているんですか、ゲイドンさん……ヘルスフル・ハウスの陰気な病棟へ帰ろうと?……あなたはまだほとんどわれわれのすばらしい領地を見てまわってもいないし、自然のみがようやく作り得たここの比類ない美観をまだほとんど鑑賞し得ていないではありませんか……」
「これまでに見たものだけで私には充分です」と私は答えた。「そしてもしあなたが本気でおっしゃっているのならば、私はもうこれ以上見たくはないと本気でお答え申しましょう」
「まあまあ、ゲイドンさん、失礼ながら言わせていただくが、世にも稀なこの環境のなかでいとなまれる生活の持つ美点をあなたはまだ味わっていられないんだ!……いっさいの煩いから解放されたおだやかな静かな生活、将来についての心配はなく、物質条件はほかのどこにも見られぬほどだし、気候はおだやかだし、大西洋のこの水域を荒らす嵐も、冬の氷も夏の炎暑も心配する必要がない!……季節の推移とともにこの温和で健康な気象が変わることもほとんどない!ここではプルートンやネプトゥーヌスの怒り〔ギリシャ神話の冥界の神と海の神の怒り、つまり天変地異〕を恐れる必要は全然ないのですよ……」
このように神の名を引き合いに出すことなどはきわめてこの場にふさわしくないように私には思えた。セルコ技師が私をからかっていることはあきらかだった。看護人ゲイドンがプルートンやネプトゥーヌスの話を聞いたことがあるはずはないではないか……。
「セルコさん」と私は言った。「この気候があなたに合うこともあり得るでしょうし、あなたがこの……洞窟の奥で生きることの利点を正当に評価していらっしゃることも考えられますが……」
私は今もうすこしでこのバック・カップという名を口に出してしまうところだった。……あぶないところで私は言葉を押しとどめた。私がこの小島の名を、したがってまたこの島がバーミュダ群島の西端に位置することを知っているのではないかと疑われたら、いったいどんなことになったろうか!
そこで私はこう言葉をつづけた。
「しかしこの気候が私には合わないとすれば、私はほかのところへ行く権利があると思いますが……」
「なるほど、権利がね」
「ということは、ここから出て行くことを許され、アメリカへ帰る便をはかってもらうということですよ」
「それに反対する理由は全然私にはありませんよ、ゲイドンさん」とセルコ技師は答えた。「それどころか、あなたの要求はあらゆる点で正当です。それにしてもこのことは御記憶願いたい。われわれはここで高貴な堂々とした独立の生活をいとなんでおり、いかなる外の権力にも属さず、いっさいの外部の権威にわずらわされず、旧世界および新世界のいかなる国家の植民者でもないということを……。いやしくも誇りある精神、高邁《こうまい》な心情を持つ人ならば誰でもこのことを尊重してしかるべきでしょう……。それにまた、神々の手で掘られたもののように見え、昔トロフォニオス〔古代ボイオティアの英雄、デルフォイのアポロ神殿を弟とともに建てたが、その弟を後に殺したため、罰として地中にのみこまれ、地面の割目から予言をおこなったという〕の口を通して神々が予言をおこなったこのような洞窟は、教養ある人間の心にどんな記憶を呼びおこすことか……」
たしかにセルコ技師は神話を引き合いに出して悦に入っているのだ! プルートンとネプトゥーヌスの後にトロフォニオスか! ふん! この男は病院の看護人がトロフォニオスのことなど知っていると思っているのか?……このからかい好きの男がからかいつづけているのはあきらかで、私は彼に対して同じ調子で返事をすまいとして、一所懸命に腹の虫をおさえねばならなかった。
「今しがた」と私は無愛想な声で言った。「私はあの家にはいろうとした。私の間違いでなければあれはダルチガス伯爵の家でしょう。ところが私は止められましたよ……」
「誰に止められたのです?……」
「伯爵に仕える男です」
「それはきっと、その男があなたのことについてはっきりした命令を受けていたからでしょう」
「しかし、伯爵にその気があろうとなかろうと何としても私の話を聞いてもらわねばなりません……」
「そいつはむずかしい……どころか、不可能じゃないかと私は思う」とセルコ技師はにやにや笑いながら答えた。
「どうして」
「ここにはもういませんからね、ダルチガス伯爵なんて人は」
「冗談をおっしゃっているのですね!……今しがた見かけたばかりですから……」
「ゲイドンさん、あなたが見かけたのはダルチガス伯爵ではない……」
「それじゃあ誰なんです、言ってください……」
「あれは海賊ケル・ケラジェですよ」
この名は荒々しい声で私に投げつけられ、そして私が引き留めようと思いもしないうちにセルコ技師は行ってしまった。
海賊ケル・ケラジェ!
そうだ!……この名は私にとって一つの啓示だった!……この名はそれ一つだけで、それまで私が説明不可能と思っていたことを説明してくれる!……自分がどんな人間の掌中に陥ったのかをこの名は教えてくれる!……
私のすでに知っていたこと、バック・カップに到着以来セルコ技師の口を通じて知ったことから、このケル・ケラジェの過去と現在について私は語ることができる。
あれからもう八年か九年になるが、西太平洋のあちこちの海は数限りない暴行、稀に見る大胆不敵さでおこなわれる海賊行為で荒らされた。そのころ、植民地軍要員からの脱走兵や徒刑場からの逃亡者や船を見捨てた水夫などのさまざまの素姓の悪人どもの一味が恐るべき頭目を戴《いただ》いて活動していた。この一味の中核は最初、オーストラリアのニューサウスウェールズの諸地方で豊かな金鉱床が発見されたのに引きつけられて来た、ヨーロッパ系およびアメリカ系住民の屑というべきこうした輩《やから》によって作られたのであった。これらの金を求める連中のなかにスパード船長とセルコ技師もいた。この二人の落伍者は、考え方や性格にどこか共通点があってまもなくひじょうに親密な仲になったのだ。
教養もあり決断力もあるこの男たちは、どんな職業にあってもその知力だけで成功したにちがいない。しかし良心もなければ躊躇《ちゅうちょ》することも知らず、どんな手段を持ってしても富を得ようと決心し、辛抱づよいまじめな労労働によって獲得し得たはずのものを投機と賭博《とばく》によって得ようとした彼らは、まったく真実とは思えぬような冒険のただなかに身を投じ、金の鉱床に富を求めに来たあの流れ者たちの大部分と同様、今日は大金を握っているかと思えば明日は破産しているという始末だった。
当時ニューサウスウェールズの金鉱には大胆不敵なこと無類の一人の男がいた。どんなことでも――犯罪すらも――たじろぐことなくやってのけ、兇暴な、また邪悪な人間にとっては抗《あらが》いがたい影響力を持っているあの果敢な人間の一人だった。
その男はケル・ケラジェと名乗っていた。
この海賊の生まれと国籍がどこであるか、その経歴がどのようなものであるかは、命令によって彼についておこなわれた調査においてもついにあきらかにされなかった。しかし彼自身はありとあらゆる追跡の手を逃れ得たが、彼の名――すくなくとも彼が自称していた名――は世界に知れわたった。伝説的な、姿も見えず捕らえられない人物の名のように、彼の名を口にするときには人々は戦慄《せんりつ》と恐怖をおぼえずにはいなかった。
私自身は今、このケル・ケラジェはマレイ人種に属すると見ていいと思う。が、けっきょくのところそんなことはどうでもいい。確実なことは、彼が恐るべき海賊とされ、遠くの海でおこなわれた数多くの暴行の犯人とされていることも故《ゆえ》なしとはしないということだ。
オーストラリアの金鉱で数年を過ごし、そこでセルコ技師とスパード船長を知ってから、ケル・ケラジェはヴィクトリア州のメルボルン港で一隻の船を奪うことに成功した。三十人ほどの悪党――この数はまもなく三倍にもなるはずだが――が彼の仲間となった。海賊行為がまだまことに容易にでき、しかも、あえて言うが、実に金になる太平洋のこの海域では――どれほど多くの船が掠奪《りゃくだつ》に遭《あ》い、どれほどの乗組員が惨殺され、植民者たちが防衛能力を持たなかった西部の若干の島ではどれほどの侵入暴奪が組織的におこなわれたことか。スパード船長の指揮するケル・ケラジェの船を見かけたという報告は何度もあったが、それを捕らえることはけっしてできなかった。この船は多くの群島の入り乱れた迷宮のただなかに思うままに姿を消す能力を持っているかのようだった。海賊はここらへんのすべての水路、すべての入江を知りつくしていたのである。
それゆえ恐怖がそのあたりを支配した。イギリス人、フランス人、ドイツ人、ロシア人、アメリカ人が船をくりだして、どこからとも知れず躍《おど》り出し、掠奪と虐殺をおこなった後どこにとも知れず身をひそめるこの幽霊船というべきものを追わせた甲斐《かい》もなく、その掠奪虐殺を阻止し、もしくは罰することはもはや不可能だと人々はあきらめていた。
ところが、ある日こうした犯罪行為は終わった。ケル・ケラジェの噂《うわさ》はもう聞かれなくなった。彼は太平洋を去ってほかの海へ行ったのだろうか?……海賊の活動はこれからほかのところで再開されるのか?……しばらくのあいだその活動が見られなかったので、人々はこう思った。らんちき騒ぎや遊蕩《ゆうとう》に使いはたしたものは別としても、あれほど長いこと盗みをおこなって来たのだから、まだ莫大な値の財宝をなすだけのものは残っていよう。そして今おそらくケル・ケラジェとその仲間たちは、彼らだけが知っている安全な場所にかくしたうえで、それを使って楽しんでいるのだろう、と。
姿をくらました後、一味はどこに逃げこんだのだろうか?……それについてのいっさいの探索はむなしかった。危険が去るとともに不安も失せて、西太平洋を舞台とした暴虐行為も忘却に包まれた。
実はこうだったのである、――ただこの事実も、私がバック・カップから逃れることに成功しなかったとすれば永久に人の知るところとはなるまいが。
太平洋の西の海から去ったときには、この悪人どもは莫大な富を手に入れていた。使っていた船を解体してしまってから彼らは方々に散って行ったが、アメリカ大陸で再会しようという申合せは忘れなかった。
そのころ、自分の専門についてはひじょうに造詣《ぞうけい》が深く、ひじょうに敏腕な機械技師で、特に水中船の工法を特に研究したセルコ技師は、そうした船舶を一つ建造させるようにケル・ケラジェに提案した。いっそう人目につかない、いっそう恐るべき遣口《やりくち》であの兇悪な生活をふたたびはじめるためである。
ケル・ケラジェは共犯者の思いつきのうち実行可能なことをすべて取り上げて、金には全然事欠かなかったから、後はもう仕事にとりかかるだけだった。
自称ダルチガス伯爵はスウェーデンのイェーテボリの造船所にスクーナー船「エッバ」を発注するいっぽう、アメリカのフィラデルフィアのクランプス造船所に水中船の設計図を渡したが、この建造は人々の疑念を呼ぶことは全然なかった。そのうえ、いずれわかるように、まもなくこの船はすっかり姿を消してしまうのである。
セルコ技師の作った模型に則《のっと》り、彼の特別の監督のもとに、この船は当時の航海学のいろいろな新鋭技術を採り入れて作られたのであった。新型の電池から生ずる電流がスクリューの軸にとりつけた羽をまわして、モーターに巨大な推進力を与えることになっていた。
ダルチガス伯爵のうちに元の太平洋の海賊ケル・ケラジェを、セルコ技師のなかに彼の最も果敢な共犯者を見ることは、もちろん誰にとっても不可能であった。人々は彼を、この一年来スクーナー船「エッバ」に乗って合衆国の諸港によく姿をあらわす高貴な家柄の出で財産家の外国人としか見ていなかったのだ。スクーナー船のほうはタグの建造の終わる前に航海をはじめていたからである。
このタグを作る仕事は一年半以下では終わらなかった。完成すると、この新しい船は水中航行に関心を持つすべての人々の感歎をよびおこした。その外形といい、内部の合目的性といい、換気装置といい、居住性といい、安定性といい、潜航速度といい、操縦性といい、水上水中の旋廻の容易さといい、舵の取りやすさといい、驚くべき速力といい、この船は後にあらわれた「グーベ」「ジムノート」「ゼデ」などをも、またそのころすでにひじょうに改良されていた他の型の船をも凌駕《りょうが》していたのである。
のみならず、このことは実際に判定し得ることになった。というのは、いろいろの試験に非常な成功をおさめてから、チャールストンの沖四海里の海のまんなかで、そのためにわざわざ召集されたアメリカその他の軍艦、商船、遊覧船など無数の船の見守るなかで、公開実験がおこなわれたのである。
「エッバ」がそれらの船のなかにまじっていたことは言うまでもない。ダルチガス伯爵、セルコ技師、スパード船長とその配下――ひじょうに大胆で有能なイギリス人の機関士ギブスンの指揮下に水中船を操る六人ばかりの男は別にして――を「エッバ」は乗せていた。
この最後の実験の予定表には、大洋の水面でのいろいろな操船、次いで数時間にわたる潜航が含まれており、そうして何海里も沖に敷設されたブイのところまで到達してから浮上するように船は命じられていた。
いよいよその日が来て、上部ハッチが閉ざされると船はまず水上で動きはじめたが、出された速力や旋回試験は観覧の人々に当然の感歎をよびおこした。
次に、「エッバ」から信号が発せられると、水中船はゆっくりと潜水して誰の目にも見えなくなった。
幾隻かの船は浮上に予定されている目標地点にむかった。
三時間たった……水中船はまだ海面に上がっていなかった。
人々の知るはずのないことだが、実はダルチガス伯爵およびセルコ技師との申合せで、スクーナーを水中で曳くものとされていたこの船はその地点から数海里離れたところで浮上することになっていたのである。しかしこの秘密を知っているものを除いては、水中船が船体もしくは機会に生じた故障の結果遭難したことは何びとにとっても疑う余地はなかった。「エッバ」の連中はみごとに驚愕《きょうがく》を装って見せたが、ほかの船の人々の驚愕はまったく正真正銘のものだった。水中調査がおこなわれ、潜水夫が水中船のコースと推定されるところへおろされた。捜索はむなしく、水中船が大西洋の深海に呑みこまれてしまったことはあまりにもあきらかに思えた。
それから二日してダルチガス伯爵は船出し、さらに四十八時間後には彼はあらかじめ定められていた地点であの牽引船に再会したのである。
このようにしてケル・ケラジェは、スクーナー船を曳くこととほかの船を襲うことというこの二つの役割を持ったすばらしい機械を所有することになったのだ。誰一人としてそのようなものが存在するなどとは考えてみたこともないこの恐るべき破壊の道具をもって、ダルチガス伯爵はいっそう安全を保障され、捕えられるおそれなしにその海賊業を再開することができるようになったのである。
こうした一部始終を私は、自分の作品を大いに誇っている――しかもバック・カップの囚人が秘密を洩らすことなど断じてあり得ないと固く信じているセルコ技師から聞いた。なるほど、ケル・ケラジェがどれほどの攻撃力を持っているかは誰にもわかる。夜のうちにタグは、遊覧用のヨット一隻などに対して警戒するはずのない他の船に襲いかかる。タグがその衝角で相手の船に穴をあけると、スクーナー船が横づけになって、配下のものたちが乗組員を虐殺し、積荷を奪うのだ。このようにして多くの船が、海事日報の「船体貨物とも行方不明」というあの人を絶望させる欄にしか記載されないことになったのだ。
チャールストン湾のあの悪辣《あくらつ》な喜劇の後一年間というもの、ケル・ケラジェはアメリカ合衆国沖の大西洋海域を荒しまわった。彼の富はものすごい勢いでふくれ上がった。彼に使い道のない品物は遠いところで売り払われ、こうした掠奪の収穫は金銀に変えられた。しかし今なお欠けていたのは、海賊どもが分配の日までこれらの財宝をしまっておくことのできる秘密の場所だった。
偶然が彼らに手をかしてくれた。バーミュダ群島の近くの海底地層を調べていたとき、セルコ技師とギブスン機関士は小島の基部にバック・カップの内海に通ずるこのトンネルを発見したのである。ここ以外のどこにケル・ケラジェは、いかなる捜索を受ける気づかいもないこのような隠れ場所を見いだし得ただろうか?……昔の海賊どもの巣窟《そうくつ》だったあのバーミュダ群島の一小島が、別の意味でもっと恐るべき一味の巣窟となったのはこうしたいきさつによるのである。
このバック・カップの隠れがを選んでしまうと、私が観察することのできたようなあのダルチガス伯爵とその仲間たちの新生活が広い丸天井の下で営まれはじめたのだ。セルコ技師は電力工場を作ったが、外国でそれを作らせたら人々の疑いを買うことになったろうと思われる機械は使わなかった。「エッバ」がアメリカに寄港中に入手することのできる金属板や化学薬品しか必要としない、組立ての容易なあの電池だけで作ったのだ。
十九日から二十日にかけての夜に何が起こったかは簡単に推察できる。無風状態のため動くことのできなかった三檣船が夜明けには姿を見せなかったのは、タグに横づけされ、スクーナーに襲われ、掠奪され、乗組員もろとも沈められたからなのだ……。そして三檣船が大西洋の底知れぬ深みに没し去ったとき、「エッバ」の船上にあったのはその積荷の一部だったのだ!……
何ものの掌中に私は落ちたのか、そしてこの冒険はどのような結末にいたるのであろうか?……いつか私はこのバック・カップの牢獄から逃れ、あの贋伯爵ダルチガスを告発し、ケル・ケラジェの海賊どもを諸方の海から一掃することができるだろうか?……
そして、現在すでにどれほど恐るべき存在であるかわからないのに、ロック式フュルギュラトゥールを所有することになったならばケル・ケラジェはなおいっそう恐るべきものになりはしないだろうか?……そうだ、百倍も恐るべきものになる! もし彼があの新しい破壊の機械を用いたとすれば、どんな商船も彼に抵抗し得ないだろうし、どんな軍艦も完全な破壊を免れ得ないだろう。
ケル・ケラジェという名を明かされて頭にうかんだこのような考えに、私は長いこと取りつかれていた。この有名な海賊について自分の知っていることのすべてが――太平洋の水域を荒らしまわっていたころの彼の生活、諸国海軍が彼の船を追うために軍艦を派遣したこと、そしてその作戦のむなしかったことなどが記憶によみがえった。ここ数年来アメリカ大陸の沖で理由もわからず船が姿を消すのもやはり彼の仕業《しわざ》とすべきだったろう……。彼はその犯行の舞台を変えたにすぎないのだ……。彼から解放されたものと人々は思っていたが、実は彼はチャールストン湾の水中にのみこまれてしまったものと思われているあのタグの応援を得て、交通の頻繁なこの大西洋の諸海域で海賊をつづけているのであった……。
「これで自分は」と私は心に思った。「奴の本名と本当の隠れがを――ケル・ケラジェとバック・カップを知っている! しかしセルコがおれの前でこの本名を言ったのは、言うことを許されていたからだろう……。ということは、自由をとりもどすことを永久にあきらめなければならないとおれに言い含めたことではないのか?……」
セルコ技師はあきらかにこの啓示が私に及ぼした効果を見ていたのだ。私から離れて――今思い出したが――彼はケル・ケラジェの住いのほうにむかったが、おそらく事の次第を彼に知らせようと思ったのだろう。
礁湖の岸をかなり長いあいだ歩きまわってから、部屋に帰ろうとしかけたとき、私のうしろで足音が聞こえた。
私は振り返った。
ダルチガス伯爵がスパード船長を伴ってそこにいた。彼はさぐるような視線を私に投げた。と、そのとき抑えられない腹立たしさのあまり次のような言葉が私の口をついて出た。
「伯爵、あなたは無法にも私をここにとどめていられる!……トマ・ロックの世話をさせるために私をヘルスフル・ハウスから引きさらったのだとすれば、私はそんな世話などはしない。私を送りかえしてもらいたい……」
海賊の頭目は身振り一つせず、一言もいわなかった。
と、私は我を忘れて激昂してしまった。
「返事をしてもらおう、ダルチガス伯爵、――いや、それよりあなたが誰だか私は知っているのだからこう言おう……返事をしてもらおう、ケル・ケラジェ……」
すると彼は答えた。
「ダルチガス伯爵はケル・ケラジェだ……看護人ゲイドンが技師シモン・アールであるように。そしてケル・ケラジェはけっして自分の秘密を知った技師シモン・アールを解放したりはしない!……」
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十一 五週間
事態はあきらかだった。ケル・ケラジェは私が誰かを知っている……。トマ・ロックとその看護人の二重誘拐をおこなわせたとき、彼は私のことを知っていたのである……。
どうしてこの男は知ることができたのだろう。どうしてこの男は私がヘルスフル・ハウスの職員すべてに隠しおおせていたことを知ったのだろう、どうしてこの男はフランス人技師がトマ・ロックの看護人の役をつとめているのを知ったのだろう?……どのようにしてそういうことになったのかは私は知らないが、とにかくそれは事実なのである。
あきらかにこの男は情報を集める手段を持っていたのだ。それはずいぶん高くついたに相違ないが、しかし彼はそこから非常な利益を引き出しているのだ。それにまたこれほどの人物だから、自分の目的を達するためにとあれば金に糸目はつけない。
そうなると今後発明家トマ・ロックに対して今までの私の役割をつとめるのは、このケル・ケラジェ、というよりもその共犯者のセルコ技師なのだ。かれの努力は私のそれ以上に成功するだろうか?……そんなことにならないように、文明世界がそんな不幸に遭わないように神に祈りたい!
私はケル・ケラジェの最後の文句に答えなかった。それは私には銃口をつきつけて一発射ちこまれたような打撃だった。けれども私は、おそらく自称ダルチガスが期待していたように倒れはしなかった。
いや、私の視線はまっすぐに彼の目に注がれた。だが彼の目はうつむかず、火花を発していた。私は彼に倣《なら》って腕を組んだ。それにしても彼は私に対して生殺与奪の権を握っていたのだ……。彼が一つ目くばせしさえすれば、拳銃の一撃で私は彼の足許に倒れたかもしれないのだ……。それから私の屍体はこの礁湖のなかに投げこまれ、トンネルを通ってバック・カップの沖へさらわれて行ったことだろう。
この場面の後、私はまた以前と同様に自由にされた。私に対してなんらの処置も取られなかった。私は石柱のあいだを縫って洞窟のいちばん端まで歩きまわることができた。洞窟には――これはあまりにもあきらかなことだったが――あのトンネル以外に出口はなかった。
この新事態に促されてさまざまの物思いに沈みながらビーハイヴのいちばん端の自分の巣孔に帰ると、私はこう自分に言った。
(おれがシモン・アール技師だということはケル・ケラジェにわかってしまっても、すくなくともおれがこのバック・カップの小島の正確な位置を知っているということを悟らしちゃならん)
トマ・ロックを私の看護に委ねる計画についていえば、私が誰かということが知られていた以上、ダルチガス伯爵が本気でそんなことを考えたことは一度もないのだと私は想像した。あの発明家がこれから休む間もなく教えろ教えろと責めたてられるだろうということ、セルコ技師があらゆる方法を用いて爆薬と起爆薬の組成や構造を知ろうとするだろうことは疑う余地がなかった。今後海賊をはたらくときには、彼は悪辣《あくらつ》きわまるやりかたでそれらを利用して見せるだろう……。そうだ! 私が……ヘルスフル・ハウスにおけると同様ここでも……トマ・ロックの看護人でありつづけたほうがよかったのだが……。
これにつづく二週間のあいだ、私はただの一度も私の元の患者を見かけなかった。くりかえして言うが、誰一人私の毎日の散歩を妨げはしなかった。生活の物質的な面では私は何一つ心配することはなかった。私の食事はダルチガス伯爵――もうこの名と称号にすっかり慣れてしまっているので、まだときどきこう言ってしまうのだ――の厨房《ちゅうぼう》からきちんきちんと運ばれて来る。食べ物のことについて私がうるさい人間ではないことは確かだ。しかしそうでなかったにしろ、食べ物について多少なりとも不平を言うことは正しくないだろう。「エッバ」が航海のたびに補給して来るおかげで食料品にはいささかも不足はないのだ。
何時間もの無聊《ぶりょう》のあいだ、ものを書くことを全然妨げられなかったことも幸運だった。それゆえヘルスフル・ハウスからの誘拐以来のことを委細にわたって手帖に書きつけ、日々の日記を書くことができた。ペンを手から奪われないかぎりこの仕事はつづけよう、もしかするとこれが将来バック・カップの謎を発《あば》くのに役立つかもしれない。
――七月五日から二十五日まで――。二週間が過ぎたが、トマ・ロックに接近しようといういかなる試みも成功しなかった。これまでのところ私の影響力などはまったく効果のないものだったにしろ、彼をその影響力から引き離すためいろいろの手が打たれていることはあきらかだ。私の唯一の希望は、ダルチガス伯爵、セルコ技師、スパード船長があの発明家の秘密を奪おうとしていくら時間をかけ労力を費《ついや》しても無駄になるだろうということだ。
三度か四度――すくなくとも私の知るかぎりでは――トマ・ロックとセルコ技師は礁湖のまわりをめぐっていっしょに散歩した。私の判断し得たかぎりでは、トマ・ロックは技師の言っていることをある程度注意を払って聞いているように見えた。技師は洞窟じゅうを彼に見せて歩き、電力工場に案内し、タグの機関室をこまかく彼に見せてやった……。あきらかにトマ・ロックの精神状態はヘルスフル・ハウスを出て以来よくなっているのだ。
ケル・ケラジェの住居のなかにトマ・ロックは自分一人の部屋を持っている。彼が始終とりわけセルコ技師からちやほやされているものと私は信じて疑わない。彼の発明した機械に対して彼の要求するだけの法外な代価を――しかし彼は金の値うちというものがわかっているのだろうか?――支払おうという申し出に抵抗する力が彼にあるだろうか?……あの卑劣漢どもは多年のあいだにたくわえた略奪品に由来する多額の金でもって彼の目をくらませることができるのだ!……現在の彼の精神状態では、あのフュルギュラトゥールの作り方を唯々《いい》として教えてしまうことにならないだろうか?……そうなれば必要な原料をバック・カップへ運びさえすればいいのだ。そうすればトマ・ロックはいくらでも時間をかけて化学的に調合することができよう。機械のほうはどうかといえば、ある数量を大陸の工場に註文し、しかも疑いをかきたてぬように部品ごとに製作させることは、しごく容易なことではないか……。そしてあのような破壊力がこの海賊どもの手中に落ちればどんなものになるか、それを考えただけで恐怖のあまり私の髪の毛はさかだつのだ!
こういうやりきれない危惧《きぐ》のため私は一刻も心の休まる時がなく、絶えず心をさいなまれて健康にまで影響があらわれて来た。澄んだ空気がバック・カップの島の内部に満ちていたにもかかわらず私はときどき窒息に襲われた。この厚い壁がその全重量をもって私を押しつぶすように思われた。それにまた、海の向こうで何が起こっているか全然わからず、ほかの世界から切り離されている――まるで地球の外にいるかのように――ような感じがする!……ああ、礁湖の上に開いているあの穹窿の穴から逃げ出し……島の頂上から脱出して……また麓《ふもと》へ降りて来ることができたら!……
七月二十五日の午前中に私はとうとうトマ・ロックに出逢った。彼は対岸にただ一人でいた。そして私は、前日から彼らの姿を見ていなかったので、ケル・ケラジェ、セルコ技師、スパード船長はバック・カップの沖へ「遠征」にでも出かけたのではないかと思いさえしたものだ……。
私はトマ・ロックのほうにむかって行った。そして彼がまだ私に気づかぬうちに注意深く彼の様子をさぐった。
真剣な物思わしげなその容貌はもはや狂人のものではない。目を伏せ、あたりを見まわすことなく彼はゆっくりと歩き、さまざまの設計図が書かれている紙をその上にひろげた小さな板を脇にかかえている。
突然彼は頭を上げ、一歩前に進み、私に気づいた。
「ああ、君じゃないか……ゲイドン!……」と彼は叫んだ。「ほら、私は君の手から逃れたんだ!……私は自由なんだよ!」
事実彼は自分が自由だと思っているのかもしれない、――ヘルスフル・ハウスにいたときよりも自由だと。しかし私の姿は彼にいやな記憶を呼び醒ませかねないものであり、おそらくやがて発作を起こさせるだろう。なぜなら、彼は異常に昂奮してこう私にどなりつけたのだ。
「そうだ……君だ……ゲイドン!……近づくな……近づくな!……私をまたつかまえよう……あの監禁室に連れもどそうというのだろう……まっぴらだ!……ここには私の味方がいて私を守ってくれる!……この連中は強いぞ、金持ちだぞ!……ダルチガス伯爵は私の出資者だ!……セルコ技師は私の事業の協力者だ!……みんなで私の発明を事業化するのだ!……ここでわれわれはロック式フュルギュラトゥールを製造するんだぞ……。行ってしまえ!……行ってしまえ!……」
トマ・ロックはほんとうに憤怒《ふんぬ》に駆られていた。声が高まるとともに彼は両腕を振りまわし、ポケットからドル紙幣や銀行券を引っぱり出す。それからイギリス、フランス、アメリカ、ドイツの金貨が彼の指のあいだからこぼれ落ちる。ケル・ケラジェの手から渡ったのでなく、また秘密を売った代価としてでなければ、これほどの金がいったいどこから来たというのか?……
そのあいだに、この悲しい争いの声を聞いて幾人かの男が駈けつけ、近くに寄ってわれわれを見守った。彼らはトマ・ロックをつかまえ、押え、引っぱって行った。そのうえ、私の姿が見えなくなるやいなや彼はおとなしく男たちのするがままに任せ、体も精神も平静をとりもどした。
――七月二十七日――。それから二日して、朝早いうちに岸のほうへ降りて行った私は、石造りの突堤のはしへ出てしまった。
タグはもう岩に沿ったいつもの停泊地になく、また礁湖のどこにもその姿は見えなかった。いっぽうケル・ケラジェとセルコ技師は私の想像したように出発したのではなかった。昨日の夜私は彼らを見かけたのだから。
しかし今日は、彼らがスパード船長およびその部下たちとタグに乗りこみ、小島の入江のなかでスクーナー船に移って、その「エッバ」は今ごろは航海中だと信ずべき理由があった。
また掠奪でもしに行ったのだろうか?……それはあり得ることか。しかしまた、ケル・ケラジェが遊覧ヨットの上でダルチガス伯爵にもどって、ロック式フュルギュラトゥールの製造に必要な原料を入手するためにアメリカ沿岸のどこかへ行こうとしたのだということもあり得る……。
ああ、タグのなかに身をひそめ、「エッバ」の船艙のなかに忍びこみ、港に着くまでそこにかくれていられたとすれば!……そうしたら私は脱出し……この海賊団から世界を救うことができたかもしれなかったのに!……
どのような想念に私が執拗に身をまかせていたかこれでわかるだろう……逃げる……どんなことがあってもこの巣窟から逃げるんだ、と!……しかし脱走は水中船に乗ってあのトンネルを通って行かないかぎり不可能なのだ!……そんなことを考えるのは狂気の沙汰だろうか?……そうだ!……狂気の沙汰だ……。けれどもやはり、それ以外にバック・カップから脱出するどんな手だてがあるだろうか?……
そういう考えに耽っていたとき、突堤から二十メートルほどのところで礁湖の水面が割れてタグがあらわれた。ほとんど時を移さずに上部のハッチがあき、ギブスン機関士と水夫たちが甲板に上がって来る。ほかの連中が舫索を受けとめようとして岩の上に駈けて来る。彼らは綱をつかみ、曳き、船は停泊地にもどった。
してみると今度はスクーナーは曳船の力をかりずに航海するのだ。曳船が出て行ったのは、ケル・ケラジェとその仲間を「エッバ」に乗せ、そして「エッバ」を小島の水路から引き出すためだけだったのだ。
これによって私は、この航海はアメリカのどこかの港に行くことだけを目的にしているのだという考えを固めさせられた。ダルチガス伯爵が爆薬を作る原料を入手し、どこかの工場にあの機械を註文することのできるような港に行くのだ。そうして彼の帰還の予定の日にタグはまたトンネルを抜けてスクーナー船を迎え、ケル・ケラジェはバック・カップに帰るのだ……。
たしかにこの悪人の計画は実行に移されつつある。しかもこれは私が推定していたよりも急速に進んでいる!
――八月三日――、今日、礁湖を舞台としてある事件が起こった、――ひじょうに奇妙な、そしてきわめて稀であるにちがいない事件が。
午後三時ごろ、激しく泡が立って一分間ほど水はかきみだされ、二分か三分中絶してからまた礁湖の中央部で泡が立ちはじめた。
このどうも不可解な現象に注意をひかれた十五人ばかりの海賊が岸の上に降りて来た。いくぶんの恐怖をまじえた――と私には見えたが――驚きの色がやはり彼らの様子にあらわれていた。
このように水が揺れるのはタグのためではなかった。タグは突堤のそばに繋がれているのだから。ほかの潜水船がトンネルから侵入に成功したなどということは、何よりもまずありえそうなことではない。
ほとんどそれと同時に対岸で叫び声が起こった。別の男たちがわけのわからぬ言葉で最初の男たちに呼びかけたのだ。そして嗄《しわが》れた声でものの十回ばかり応酬があってから、最初の男たちは大急ぎでビーハイヴのほうへひきかえした。
それでは彼らは礁湖の水中にはいりこんだ海の怪物か何かを見つけたのだろうか?……それを攻める武器、それを捕獲するための漁具を彼らは取りに行くのか?……
私の推測は当たっていた。そして瞬時の後には彼らが炸裂銃弾《さくれつじゅうだん》用の銃と長い綱のついた銛《もり》を持って崖の上にもどって来るのが見えた。
事実それは――バーミュダにきわめて多いあの抹香鯨の種類に属する――鯨で、トンネルを通って来て今礁湖の深いところでばたばたしているのだ。この動物がバック・カップのなかに避難所を求めることを強いられたからには、それまで追跡されていたものと、捕鯨船が彼を追っていたものと結論すべきではないか?……
数分たってから鯨は礁湖の水面に上がって来た。てらてらした緑色がかった巨大なその塊りが何か恐るべき敵とたたかっているかのように動いているのがちらちらと見える。水面にあらわれるときには二本の水柱が大きな音を立てて潮吹き穴からほとばしる。
「この動物がトンネルのなかに飛びこんで来たのが捕鯨漁師の手を逃れる必要からだったとすれば」と私はこのとき思った。「なんらかの船がバック・カップのそばに……おそらく岸から数百メートルのところに……いるわけだ……。そしてその船のボートは西の水路を通って島の裾《すそ》、まで来たのだ……。それなのにそのボートと連絡することができないとは!……」
たといそうだとしたって何になろう。このバック・カップの壁を抜けてそのボートのところへ行くことが私にできたろうか?……
その上まもなく私には抹香鯨の出現した理由がはっきりした。それは容赦《ようしゃ》なく彼を追いまわす漁師なのではなく、鱶《ふか》の――バーミュダ群島周辺を荒しまわっているあの恐るべき鮫《さめ》の一群だったのだ。私は彼らの姿を難なく水中に認めた。五、六尾で、馬櫛に棘がついているような具合に歯の生えた巨大な顎《あご》を開きながら横ざまに身をひるがえす。彼らは鯨に襲いかかるが、鯨は尾を叩きつける以外に身を守るすべがない。鯨はすでに大きな疵《きず》をいくつか受けており、水は赤みがかった色を帯び、そして鯨は沈み、浮かび、またもぐるが、鮫の歯を逃れることはどうしてもできない。
けれども、この闘争の勝利者となるのはこれらの貪欲《どんよく》な動物ではないだろう。この獲物は彼らの手に入らないだろう。なぜなら道具を持った人間は彼らよりも強いからだ。岸の上にはケル・ケラジェの仲間たちが大勢いた。この連中には鱶よりましなところはない。海賊といい鯨といい、けっきょく同じではないか!……彼らは抹香鯨を捕えようとしていた。そしてこの動物はバック・カップの住人たちにとってはいい獲物だろう!……
ちょうどそのとき鯨は、ダルチガス伯爵に仕えるマレイ人とそのほかの屈強きわまる連中が何人か陣取っている突堤に近づいた。
そのマレイ人は長い綱のついた銛《もり》を持っていた。かれは逞《たくま》しい手でそれを振り上げ、力強くしかも巧みにそれを投げた。
左の鰭《ひれ》に重傷を負った鯨はいきなり水にもぐり、それを追って鮫たちも沈んだ。銛の綱は五十メートルから六十メートルの長さにくりだされた。後はもうそれを引っぱるだけだった。そして動物は水面で最後の息を吐くために底から上がって来るだろう。
マレイ人とその仲間たちは、あまり急がずに、銛が鯨の横腹から抜けないようにして綱を曳いた。鯨はまもなくトンネルの口があいている壁のそばに姿をあらわした。
致命傷を受けた巨大な哺乳類は、湯気の束を、ほとばしる血の混った空気と水の柱を立てながらすさまじい苦悶《くもん》にのたうつ。そうしながら彼は猛烈な一撃でふらふらになった一尾の鮫を岩の上に投げ上げた。
その衝撃のために銛は彼の横腹からはずれ、抹香鯨はまた水中にもぐった。最後にまた浮き上がったとき、鯨は尾をふるって水を打った。その力のあまりの激しさに水面が大きく凹み、トンネルの入口の一部が見えたほどだった。
鮫たちはこのとき獲物に躍《おど》りかかった。しかし銃弾が霰《あられ》のように注がれてあるものは打ち倒され、あるものは逃げ去った。
鮫の群は穴を見つけて、バック・カップから出、沖に帰ることができたであろうか?……おそらくそうだろう。けれどもこれから数日のあいだは、用心して礁湖の水にはいらないほうがいいだろう。鯨のほうは、二人の男がボートに乗って縄をかけに行った。そうして突堤のほうへ曳き寄せられると、こういう仕事に無経験ではないらしい例のマレイ人によって解体された。
けっきょく私がはっきりと知ったのは、西の岩壁を貫いてトンネルが口をあけているその正確な位置である……。その穴は崖のわずか三メートル下にあるのだ。それにしても、この事実が私にとって何の役に立つかはわからないが……。
――八月七日――、ダルチガス伯爵とセルコ技師とスパード船長が航海に出てもう今日で十二日だ。スクーナー船の帰還が近いという兆候はまだ全然ない。けれども私は、タグが汽罐《かま》を焚《た》きつづけている汽船のように出帆準備をととのえており、その電池はギブスン機関士の手で常に電圧を保たれているのに気がついた。スクーナー船「エッバ」はアメリカの港に真昼間入るのを恐れないが、バック・カップの水路に入るには特に夕刻を選ぶだろうと思う。そこで私はケル・ケラジェとその一行は夜帰って来るだろうと考える。
――八月十日――、昨夜八時ごろ、タグは潜水し、「エッバ」を水路から曳航するのにちょうど間にあうようにトンネルをくぐりぬけ、そして「エッバ」の乗客と乗組員を連れて帰った。
今朝外に出ると、トマ・ロックとセルコ技師が話しながら礁湖のほうへ降りて行くのを見かけた。二人で何を話しているのかは察しがつく。私は二十歩ほどのところに立ちどまっていた。こうすればかつて私が療養所で世話したあの男を観察することができる。
セルコ技師が彼の質問に答えているあいだに、彼の目はかがやき、顔は明るくなり、相貌は一変した。彼はその場にじっとしていられないほどだった。それゆえ彼は急いで突堤に上がった。
セルコ技師は彼について行き、二人は斜面の上でタグのそばに立ちどまった。
積荷をおろしていた乗組員が、中くらいの大きさの箱を十個ほど岩のあいだに置いて行った。
箱の蓋《ふた》には赤い文字で特別のしるしが書いてある。――頭文字だ。トマ・ロックはそれを注意深くみつめた。
それからセルコ技師は、それぞれ中身は一ヘクトリットルぐらいと見られるそれらの箱を左岸の倉庫に運びこむように命じた。運搬は即座にボートでおこなわれた。
私の見るところ、これらの箱の中身は組み合わせるか調合すれば爆薬や起爆薬になる物質に相違ない……。機械のほうは大陸のどこかの工場に註文してあるにちがいない。その製作が完了してからスクーナー船が取りに行き、バック・カップに持って帰るのだろう……。
それゆえ今度は「エッバ」は盗品を持って帰ったのではなく、新しい海賊行為を犯して来たのではなかったのだ。しかしこれからケル・ケラジェは海上で攻めるにしろ守るにしろどれほど恐るべき威力をそなえることになるだろうか! トマ・ロックの言を信用すれば、フュルギュラトゥールは一撃で地球を破壊する力があるというではないか?……そしていつか彼がそれを試みないと誰が言えるか?……
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十二 セルコ技師の忠告
仕事にとりかかったトマ・ロックは実験室に変えられた左岸の小屋のなかに長時間とどまっている。彼以外に誰もそこには入らない。誰にもその方式を教えずに一人だけで彼は調合にかかろうというのか?……それは大いにありそうなことだ。
ロック式フュルギュラトゥールを使用するために必要な準備については、私はそれがきわめて簡単なものだと信ずべき理由がある。事実この種の抛射体《ほうしゃたい》は大砲も臼砲も、ザリンスキー式弾丸のように発射管も必要としない。自動推進式であるという事実からしてそれ自体のなかに発進力を内蔵しており、ある区域を通るすべての船は空気層の恐ろしい激動だけで破壊される危険があるのだ。ケル・ケラジェがいつかこのような破壊の機械を所有したら彼に対して人は何をなし得るだろう?……
――八月十一日から十七日まで――、この一週間トマ・ロックの仕事は休みなくつづけられた。毎朝発明家は自分の実験室へ出かけ、日が暮れなければ帰らない。彼のところへ行き、彼に話しかけることは、私は試みさえしていない。自分の仕事に関係ないことに対しては依然として無関心であるが、彼は完全に正気にかえっているように見える。それにまた、彼が自分の頭脳の力をフルに使っていないはずがあるだろうか?……彼は自己の天才をようやく充分に満足させ得ているのではないか?……ずっと前に思いついた自分のプランを現在彼は実行しているところではないか……。
――八月十七日から十八日にかけての夜――、午前一時、爆発音が外から聞こえて来て私ははっと目を覚ました。
「バック・カップへの攻撃だろうか?……」と私は心に思った。「ダルチガス伯爵のスクーナー船の動きが怪《あや》しまれ、水路の入口で追跡されているのではなかろうか?……砲撃でこの小島を破壊しようとしているのではあるまいか?……トマ・ロックがその爆薬の製造を仕上げぬうちに、機械がバック・カップに運ばれて来ないうちに、ついにあの悪人どもに対する裁きが下されようとしているのだろうか?……」
このひじょうに激しい爆発音は規則正しい間隔を置いて何度となくくりかえされた。そして私は、「エッバ」が沈められてしまったとすれば大陸との連絡はいっさい不可能になるから、島への補給はもはやおこなわれなくなるということに思い当たった……。
いかにも、タグだけでもダルチガス伯爵をアメリカ沿岸のどこかに運ぶには充分であろうし、そしてまた新しい遊覧船を作らせる金には彼は不足しまい……。だがそんなことはどうでもいい!……ケル・ケラジェがロック式フュルギュラトゥールを自分のものにする前にバック・カップが破壊されることを許し給うたとすれば、神の御名は讃《たた》えられてあれ!……
あくる日起き抜けに私は自分の房から飛び出した……。
ビーハイヴのあたりには何も変わったことはない。
男たちはいつもの仕事をしている。タグはその停泊地にいる。私はトマ・ロックが実験室へむかうのを見た。ケル・ケラジェとセルコ技師はおちつきはらって礁湖の岸を大股に歩きまわっている。夜のあいだにこの島が攻撃されたなどということはなかったのだ……。やつぎばやな爆発音が私を眠りから覚ましたのだったが……。
ちょうどこのときケル・ケラジェは自分の住いのほうへ上がって行き、セルコ技師は例のごとくからかうような顔つきでにやにやしながら私のほうへやって来た。
「どうです。シモン・アールさん、まことに静かなこの環境でのわれわれの生活にあなたもとうにお慣れになりましたかな?……この魔法の洞窟の長所をその真価どおりに認めてくださいますか?……いつか自由をとりもどす……このすばらしい洞穴から逃げ出すという希望を捨てましたか?……」それから彼はフランスの古いロマンスを口ずさんでつけくわえた。
「わが心は酔い痴《し》れて
シルヴィーを眺めて喜びし
あのいみじき場所を……
去る希望をね?」
このからかい好きな男に対して怒ってみたところで何になるだろう? そこで私は静かに答えた。
「いや、捨てませんよ。そして今もって自由を返してもらえるものと期待しています」
「何ですって! アールさん、われわれが皆そろって尊敬している人と別れる、――そして私自身は、もしかするとトマ・ロックの言い散らした支離滅裂《しりめつれつ》な言葉から彼の秘密の一部を悟ってしまっているかもしれない同業者と別れることになるわけだ!――、いや、そんなことは本気でおっしゃっているのではありますまい!……」
ああ、奴らが私をバック・カップの牢獄にあくまでもとどめておこうとするのはそのためなのか?……
トマ・ロックの発明が部分的に私に知られているものと奴らは想像している……。トマ・ロックがしゃべるのを拒んだら私にしゃべらせようと思っているのだ……。だからこそ私は彼とともに攫《さら》われたのだ……だからこそ私はまだ首に石を結びつけて礁湖の底へ沈められていないのだ!……このことは心得ておいて無駄ではない!
そこで私はセルコ技師の最後の言葉に次のように答えた。
「まったく本気ですよ」と私は明言したのだ。
「いいですか」と私の相手は言った。「失礼ながらもし私がアール技師だったとすれば、私は次のように自分に言って聞かせますな。一方ではケル・ケラジェはああいう人物であり、この洞窟ほど謎めかしい隠れがを選ばねばならなかった理由や、この洞窟がどんなことがあっても発見されてはならないという事情、それも単にダルチガス伯爵だけではなく、彼の仲間の利益のためにも……」
「こう言ってよければ、彼の共犯者の……ですね」
「彼の共犯者、結構!……また他方では、あなたがダルチガス伯爵の本名を知っており、どのような秘められた金庫にわれわれの富がおさめられているかも知って……」
「盗んだ、血で汚れた富がでしょう、セルコさん!」
「それも結構!……そうだとなると、その自由の問題はけっしてあなたの意に添うようには解決されないことがおわかりのはずです」
こういった状態で議論するのは無益だった。そこで私は話題を別のほうへ持って行った。
「看護人ゲイドンが技師シモン・アールであるということをどのようにして知ったのか教えていただけませんか?」と私はきいた。
「お教えしても何のさしつかえもありませんよ、同業者さん……。それはある程度偶然の結果です……。われわれはあなたの勤めていた工場と多少関係がありましたが、あなたはいつかその工場をかなり奇妙な条件で辞《や》められた……。ところで、ダルチガス伯爵より数か月前に私がヘルスフル・ハウスを訪問したとき、私はあなたを見……あなただとわかった……」
「あなたが?……」
「私がですよ。そしてこのときから私は、あなたに『エッバ』に乗ってもらおうと固く心に期したのですよ……」
ヘルスフル・ハウスでこのセルコに逢った事実は私の記憶にはなかった。しかし彼が事実をいっていることはあり得る。
私は自分の考えを口に出した。
「その気まぐれがあなたには高いものにつくと思いますよ、いつかは!」
それから唐突に私は言った。
「私の思い違いでなければ、あなたはトマ・ロックにフュルギュラトゥールの秘密を明かす決心をさせることができたのですな?……」
「そうです、アールさん、数百万の金と引替えに……。いや、数百万といっても、われわれにとってはそれを手に入れる手間だけのものでしかない!……だからわれわれは彼のポケットにいっぱいつめこんでやりましたよ!」
「だがその数百万という金も、それを持ち出して外で使う自由がないのならば、いったい彼にとって何の役に立つでしょう?……」
「そんなことはまあ彼は気にしていませんな、アールさん!……未来というものがあの天才をわずらわすことはないのです!……彼は現在に没入しているじゃありませんか……。アメリカのほうでは彼の設計図に従って機械が作られている一方、こちらで彼はふんだんに与えられている化学原料を一所懸命調合している。そうそう……すばらしいもんだ、あの自動推進機は。自力で速度を維持し、目的に到達するまで加速することができたのですからね、徐々に燃焼するある火薬の特性のおかげで!……これこそ戦争技術に根本的な変化をもたらす発明です……」
「防衛戦にですか、セルコさん?……」
「攻撃戦にもですよ、アールさん」
「それはもちろんだ」と私は答えた。
そしてセルコ技師の体をつかまえて私はつけくわえた。
「それでは……まだ何びともロックから聞き出せなかったことを……」
「私たちはたいした困難もなく聞き出したのです……」
「その代価は……」
「途方もない金額ですよ……そのうえ、彼の心のなかできわめて敏感な感情にうったえて……」
「それは何です?」
「復讐心ですよ!」
「復讐?……誰に対する?……」
「彼を失望させ、彼をはねつけ、彼を追い立て、誰もが認めざるを得ないほど優れた発明の代価を国から国へと乞食《こじき》のように乞《こ》うて歩かねばならぬ羽目におとしいれることによって彼の敵となったすべての人間に対する! 今は彼の心のなかにはいっさいの愛国的観念は消え失せている! 彼にはもはや一つの想念、一つの熾烈《しれつ》な渇望しかない。それは自分を無視した奴らに……それどころか人類全体に復讐するということだ!……実際、アールさん、ヨーロッパやアメリカのあなたがたの政府がロック式フュルギュラトゥールに対してそれ相応の値段を払おうとしなかったのは何としても許せぬことですよ!」
そしてセルコ技師は新しい爆薬のさまざまの長所を熱狂的に私に話して聞かせた。当時ひじょうに評判になっていた、水素原子三のうちの一つをナトリウム原子一で代えてニトロメタンから製した爆薬よりも、こちらのほうが文句なしに優れていると彼は言うのだ。
「しかも何という破壊力でしょう!」と彼はつけくわえるのである。「ザリンスキー式砲弾に似たようなものですが、百倍も威力がある。しかも射出装置を全然必要としないのです。いわば自分の翼で空間を飛翔《ひしょう》するのですからな!」
私は秘密の一部でもさぐりだせないかと思って耳を傾けていた。いや!……セルコ技師は自分の言おうと思ったこと以上は言わなかった……。
「トマ・ロックはその爆薬の成分をあなたに知らせたのですか?」と私はきいた。
「ええ、アールさん――あなたには悪いが――、そうしてわれわれはまもなく大量にその爆薬を所有し、確実な場所に貯蔵することになるでしょう」
「それでは、その物質をそんなに大量に積み上げておいて、危険が……絶え間のない危険がありませんか?……一度事故が起こったら、爆発でこの……島全体が破壊されてしまうでしょう……」
またしてもバック・カップという名が口から洩れるところだった。ケル・ケラジェが誰かということも洞窟の位置も知っているとなれば、シモン・アールは必要以上に情報に通じていると思われるかもしれない。
さいわいセルコ技師は私が言葉をにごしたのに全然気づかず、こう答えた。
「われわれには何も恐れることはありませんよ。トマ・ロックの爆薬は特殊の起爆薬によらなければ発火し得ない。ショックでも火でも爆発しないのです」
「では、トマ・ロックはその起爆薬の秘密をも同じくあなたがたに売ったのですか?……」
「まだです、アールさん」とセルコ技師は答えた。「しかし取引は近いうちに妥結するでしょう。だから、もう一度言うが、全然危険はない、あなたも枕を高くして眠っていられますよ!……いや、まったくの話、われわれにはこの洞窟や財宝とともに吹き飛ばされたいなんて気持ちは毛頭ありませんからな! まだ後、何年かぼろい商売をつづけてから、その利潤を分配しますよ。しかもこの利潤は莫大なもので、各人に与えられたものは相当の財産になり、各人は好きなようにそれを使えるのです……ケル・ケラジェ会社の清算の後でね! つけくわえておきますが、われわれは爆発を恐れる必要がないのと同様、密告をも恐れていませんよ……親愛なアールさん、それができるのはあなた一人だけですがね! だからあなたも覚悟をきめて、実際家らしくあきらめ、会社の清算のときまで辛抱なさるように私は忠告します……。そのときになったら、われわれの安全のためにあなたの一身をどう処置しなければならぬか考えますよ!」
これは認めねばなるまい。今の言葉は全然人を安心させるものではなかった。もちろんそれまでにはまだ時間がある。この会話のなかで私の頭に残ったのは、トマ・ロックはケル・ケラジェ会社に爆薬は売ったとしても、すくなくとも起爆薬の秘密は守っており、この起爆薬なしには爆薬は路傍の塵ほどの値うちもないということだ。
けれども私はこの対話を終える前に、セルコ技師に一つのことを指摘しておかねばならないと思った。けっきょくのところそれはごく当然のことなのだが。
「セルコさん」と私は言った。「あなたはロック式フュルギュラトゥールの爆薬の成分を現に知っておいでだ、それはよろしい。が、けっきょくのところその爆薬は、発明家が思っているほどの破壊力を実際に持っているでしょうか?……一度でも試してみたことがありますか?……一つまみの煙草《たばこ》の粉と同じくらい力のない化合物を買ったのではありませんか?……」
「その点についてはあなたは、自分でそう見せようと思っているほどに懐疑的ではないのかもしれませんな、アールさん。いずれにしても私はあなたがわれわれの問題について関心を抱いてくださることに感謝します。だが御心配は全然無用ですよ。前夜私たちは一連の最終的な実験をしました。この物質のほんの数グラムだけでこの島の岸の巨大な岩の塊りが手にも触れぬほどの粉になってしまったのです」
あきらかにこれは私の聞いたあの爆発音の説明になるものだ。
「そういうわけで、親愛なる同業者さん」とセルコ技師はつづけた。「われわれはなんらの幻滅を味わわなかったとあなたに言明することができます。この爆薬の効果は人間の想像の限度を超えていますよ。これが数千トン装填されていたら、充分われわれのこの廻転天体を粉砕して、その破片をかつて火星と木星のあいだで爆発したあの惑星のそれのように空間にばらまいてしまうでしょう。これは信じてもらわねばならんが、現存の砲弾の最大射程も及ばないほどの距離でどんな船でも破壊することができるし、しかもその危険区域は優に一マイルに及ぶのですよ……。この発明の弱点はやはり照準にある。修正するのにかなり時間がかかるのでね……」
セルコ技師はそれ以上言う気はないらしく言葉を切り、それからつけくわえた。
「で、アールさん、私は最初に言ったのと同じ言葉で結びますがね、あきらめなさい!……何の下心も持たずにこの新しい生活を受け容れなさい!……この地下生活の平穏な幸福に順応しなさい!……もともと健康なら、ここではその健康を維持することができるし、健康がそこなわれていたら回復することができる……。あなたの同国人もそうなったのだ!……自分の運命に甘んじなさい……。それがあなたの取り得る最上策ですよ!」
そう言うとこの立派な助言者は親しげな身振りで会釈して私から別れて行った。その様子は、充分感謝されてしかるべき善意を持った人間といったところだ。が、彼の言葉、目つき、態度にはどれほどの皮肉が含まれていたことか。いつか私は彼に仕返しをしてやることができるだろうか?……
それはともかく、私はこの会話のなかで照準がだいぶ面倒だという話は忘れなかった。してみると、ロック式フュルギュラトゥールが猛威をふるうこの一マイルの範囲は簡単に移動させることができず、この範囲の手前でも向こうでも船はその威力を蒙《こうむ》ることがないということも考えられる……。関係者にこのことを教えることができたら!……
――八月二十日――、二日間何事も起こらない。私は毎日の散歩の足をバック・カップのいちばん端までのばした。夜、電燈が長々とつづくアーチを照らし出すと、自分の牢獄となったこの洞窟の自然の驚異を、ほとんど畏怖するような気持ちをもって私は眺めずにいられないのだ。そこを通って私が逃げ出すことのできるような、海賊どもの知らない割れ目か何かを岩壁のなかに見つけ出せるのではないかという希望を、私は一度も失ったことがない!……いかにも、いったん外に出たら、船が視界を通るのを待たねばなるまい……。私の脱出はすぐにビーハイヴで知られてしまう……。どうせすぐ私はつかまってしまうだろう……ただし……そうだ……あのボート……入江の奥にしまってあるあの「エッバ」のボートを……。もし首尾よくあれを手に入れ……水路から出……セイント・ジョージかハミルトンにむかうことができたら……。
夜――九時ごろだったが――私は礁湖から東へ百メートルほどのところの柱の根もとの砂の褥《しとね》の上に行って横になった。しばらくすると、最初に足音が、つづいて人の声が近くから聞こえた。
できるだけ石柱の基部のかげに身をちぢめて、私は一心に耳をすました……。
その声は聞き覚えがあった。それはケル・ケラジェとセルコ技師の声だった。二人の男は立ちどまって、バック・カップで一般に用いられている英語で話し合っていた。それゆえ私は彼らの言っていることを理解することができた。
まさにトマ・ロックのことが、というよりも彼のフュルギュラトゥールのことが問題になっている。
「一週間後に私は『エッバ』で航海に出るつもりだ」とケル・ケラジェは言った。「そうしてヴァージニア州の工場でできあがっているはずのいろいろな部品を持って帰る……」
「ではその部品が手にはいったら、ここでそれを組み立て、射出台を据えることは私が引き受ける。だがその前に一つ仕事に取りかからなくちゃならない。こいつはどうしても必要だと私には思えるんだが……」とセルコ技師が答えた。
「じゃあ、それはどんな仕事なんだ?……」とケル・ケラジェがきく。
「島の岩壁に穴をあけるのさ」
「穴をあける?」
「いや、何のことはない。人間が一人しか通れないくらいの狭い廊下だよ。簡単にふさぐことのできる交通壕みたいなもんだ。外側の口は岩のなかにかくしておく」
「何のためだ、セルコ?……」
「水中トンネルによる以外に外と連絡することができたらどんなものかと私はよく考えてみた……。将来どんなことが起こるかわからんからな……」
「しかしあの壁はやけに厚いし、岩質はひどく硬いぞ……」とケル・ケラジェが注意した。
「ロック式爆薬が幾粒かあれば、おれは岩を一吹きしさえすれば飛び散ってしまうようなこまかい埃に変えてやるよ!」
この話題が私にとってどんなに興味のあるものだったかは理解されるだろう。
バック・カップの内と外にトンネル以外の通路を開くことが問題になっているのだ……。そうなればなんらかのチャンスが到来しないものでもないではないか……。
ところで、私がちょうどそう考えたときに、ケル・ケラジェが答えた。
「承知した、セルコ。いつかバック・カップを守り、ほかの船が島に近づくのを防ぐ必要が生じたら……。たしかにこの隠れ場が発見される場合もあるだろう、偶然に……あるいは密告によって……」
「われわれは偶然をも密告をも恐れる必要はないよ」とセルコ技師は言った。
「仲間の誰かが密告するということはたぶんないだろう、しかしシモン・アールが……」
「あいつが!」とセルコ技師は叫んだ。「それはあいつが脱出に成功したときだ……。そしてバック・カップから脱出するものはいない!……そのうえ、実を言えば、あの正直な男に私は興味をおぼえるよ……。何といってもあいつは同業者なんだし、それに私は、あいつは自分で認めている以上にトマ・ロックの発明について知っているのではないかとずっと思っているんだがね……。おれが説教して、いつかは話が通じるように、友人同士として物理学や工学や弾道学の話をし合えるようにしてやるつもりだ……」
「そんなことはどうでもいい!」とこの鷹揚《おうよう》で感受性のこまやかなダルチガス伯爵は答えたものだ。「こちらがすべての秘密を知ってしまったときには、かたづけてしまったほうが……」
「時間はいくらでもあるよ、ケル・ケラジェ……」
(悪党め、神がきさまらにそんなことをさせておくものか!……)と私は激しく鼓動する心臓を抑えて心に思った。
しかし神意がまもなく働かないとしたら私にはどんな期待が持てたろう?……
会話はそこで方向を変え、ケル・ケラジェが次のような意見を述べた。
「もうわれわれは爆薬の成分を知ったのだから、セルコ、今度は何としてもトマ・ロックに起爆薬の成分を吐かせなければならんよ……」
「まったくだ」とセルコ技師は応じた。「私は奴にその決心をさせようとして大童《おおわらわ》なんだがね。困ったことにトマ・ロックはそれについては話合いを拒むんだ。もっとも奴は爆薬の試験に使ったあの起爆薬をすでに数滴作っている。廊下を掘ることになったらそれをおれたちに提供するだろう……」
「しかし……おれたちが海の仕事に行くためには?……」とケル・ケラジェはきいた。
「まあ我慢するんだ……いつかは奴のフュルギュラトゥールの火力のすべてがわれわれのものになるんだから……」
「それは確かか、セルコ?……」
「確かさ……それだけの値段をつけてやればな、ケル・ケラジェ」
対話はこの言葉で終わり、それから二人の男は――まことにありがたいことに――私に気づかずに立ち去って行った。セルコ技師は少々同業者の弁護をしてくれたが、ダルチガス伯爵は私に対してそれほど好意的でない意図を抱いているように見える。ほんのちょっとでも疑いがかかったら私は礁湖の底へ沈められるだろう。そして私があのトンネルをくぐるとしても、屍体となって引き潮にさらわれて行くことになるのだ。
――八月二十一日――、翌日セルコ技師は、外からその存在が感づかれないように廊下を掘るにはどこがいいかを調べにやって来た。綿密に調査したあげく、北の岩壁の、ビーハイヴの房のはじまるところから二十メートルほど先で掘鑿《くっさく》をおこなうことに決定した。
私はこの廊下が早く完成すればいいと思う。私の逃走の役に立つかもしれないではないか……。ああ、泳ぐことができたらおそらくすでに私はトンネルから逃げ出そうとしていただろう。その口のありかを私は正確に知っているのだから……。実際、礁湖であの闘争がくりひろげられた際、鯨の尾の最後の一撃で水面が上下したときに、あの穴の上部が一瞬あらわれた……。私はそれを見た……。それなら……干潮のときに穴はあらわれないだろうか?……満月の時期と新月の時期、海面が平均潮位下の最低位に達したときには、もしかすると……。こいつは確かめておこう!
それを確認しておくことが私にとって何の役に立つかはわからない。しかしバック・カップから逃れるためにはどんなこともおろそかにしてはならないのだ。
――八月二十九日――、今朝私はタグの出航を目撃した。これはおそらく、製作されることになっているあの機械を受け取るためアメリカのどこかの港にむかったのだろう。
ダルチガス伯爵はしばらくセルコ技師と話していた。技師は伯爵と同行することになっていないらしく、私には伯爵が彼に何かの命令を与えているように思えたが、それは私に関することだったかもしれない。それから伯爵はタグの甲板に足をかけて内部へ降り、スパード船長と「エッバ」の乗組員がそれにつづいた。ハッチが閉ざされるやいなやタグは水中に没し、軽い波紋が一瞬水面を乱した。
時間はたち、日は暮れた。タグがいつもの位置にもどっていないので、私はこの航海のあいだスクーナー船を曳航し……おそらくはまたこの近海ですれちがった船を破壊しに行ったのだと推定した……。
けれども、スクーナー船の不在は短期間のものであることも考えられる。およそ一週間で往復に充分のはずだから。
そのうえ、洞窟の内部の空気の静けさから判断すれば、「エッバ」は天候に恵まれる可能性がある。第一、バーミュダ群島の緯度を考えれば今は好季節なのだ。ああ! この牢獄の壁を通り抜ける出口を見つけることができたら!……
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十三 無事に行き着け
――八月二十九日から九月十日まで――、十三日が過ぎたが、「エッバ」はまだ帰っていない。それではアメリカの岸へまっすぐに行ったのではないだろうか?……バック・カップの沖で海賊行為に時を費やしていたのだろうか?……けれども私には、ケル・ケラジェは機械を持ち帰ることしか念頭になかったように見えた。もっともヴァージニアの工場がまだその製作を終えていないかもしれないのだが……。
そのうえ、セルコ技師はかくべつやきもきしているようには見えない。私にはいつも例の人のよさそうな顔で今まで通りに接するが、私はこれをいっこうに信ずることができない。それも当然だろう。彼は私の健康状態をきくような顔をし、もっとさっぱり諦めてしまえとすすめ、私をアリ・ババと呼び、この千一夜物語の洞窟よりも人の心を魅する所はこの地上にはない、税金も料金も払わずに衣食住を与えられて温くしていられるじゃないか、モナコにおいてさえ、あの楽園のような公国の住民もこれ以上苦労のない生活はしていないなどと断言したものだ……。
ときどきこの皮肉な饒舌《じょうぜつ》の前で私は顔に血が上って来るのを感じた。この容赦《ようしゃ》なくからかう男の喉に飛びかかって一気に締め殺してやりたいという誘惑を私は感じた……。どうせ自分も後で殺されるだろう……。が、かまいはしない……。バック・カップのこの忌《いま》わしい環境のなかに何年も何年も生きねばならない運命よりも、そのようにして果てたほうがましではないか?……
けれどもやはり理性が力をとりもどし、けっきょく私は肩をすくめて見せるにとどめた。
トマ・ロックのほうはどうなったかというと、「エッバ」が出帆してから数日のあいだ私はほとんど彼を見なかった。実験室にとじこもって複雑な薬品調合に没頭しているのだ。提供されたあの原料のすべてを使ったとすると、彼はバック・カップはおろか、バーミュダを吹き飛ばしてしまうほどのものを持つことになろう。
私は彼がけっして起爆薬の成分を明かすことはせず、セルコ技師の努力をもってしてもこの最後の秘密を買うことはできないだろうという希望にあいかわらずしがみついている……この希望は裏切られはしないだろうか?……
――九月十三日――、今日私はこの目で、爆薬の威力を確認し、起爆薬がどのように使われるのかをも同時に見て取ることができた。
午前中男たちは、島の外側の基部と連絡するためにあらかじめ選定されていた場所から岩壁を掘りはじめた。
技師の指図のもとに労働者たちはまず壁の根もとを掘りはじめたが、そこの石灰岩は極度に硬く、大理石ともくらべられるほどだった。逞しい腕が鶴嘴《つるはし》をふるって最初の幾撃かが加えられた。鶴嘴だけしか使わなかったとすれば、仕事はひじょうに長くかかり、はなはだ辛いものになったろう。なぜならバック・カップの裾のこの場所では厚さは二十メートルから二十五メートルは優にあったからである。しかしロック式フュルギュラトゥールのおかげでかなり短い時間のうちに工事を完了することができるだろう。
私の見たことは本当に私を唖然とさせた。鶴嘴ではよほど力を費さねば掘れない岩壁が、まったく驚くほど容易に崩されて行くのである。
そうだ! あの爆薬の数グラムで、大きな岩の塊を砕き、粉々にし、ほんのちょっと風が吹けば湯気のように散ってしまうほんの微細な埃に変えてしまうのに充分だったのである! そうだ!――くりかえして言うが、五グラムか十グラムの爆薬だ。それが爆発すると、空気のすさまじい震動によって大砲の砲声にも比すべき大音響がして、一立方メートルほどの穴ができてしまうのだ。
最初この爆薬が用いられたとき、ほんのわずかの量しか使わなかったにもかかわらず、壁に近づきすぎていた何人かの男はぶったおれた。そのうちの二人は相当の怪我《けが》をして立ち上がり、数歩押し返されたセルコ技師すらもひどい打撲傷を受けずにはすまなかったものだ。
これまで発明されたすべてのものにまさる破壊力を持ったこの物質は次のようにして使われる。
断面一センチ、深さ五センチほどの穴があらかじめ岩に斜めに穿《うが》たれる。爆薬が数グラムそのなかにさしこまれる。詰め物で穴の口をふさぐ必要さえないのだ。
それからトマ・ロックが出て来る。彼の手には、一見油状の、空気に接触するやいなやたちまち凝固する青みがかった液体のはいった小さなガラスの容器がある。それを穴の口に一滴注ぐと、彼はそうたいして急ぎもせずにうしろへさがる。実際、起爆薬と爆薬の化合が生ずるにはいくらかの時間、およそ三十五秒ばかりかかるのだ。分裂の力は、私はこれを力説するが、無限と思われるほどであって、いずれにしても今日知られているいろいろの爆薬の数千倍にはなろう。
こうした条件では、これは誰しも想像するだろうが、この厚く硬い壁の掘鑿《くっさく》も一週間以内に終わっているだろう。
――九月十九日――、しばらく前から私は、水中トンネルを通じてひじょうにはっきりとあらわれる潮の干潮が、二十四時間内に二度、内へと外への流れをひきおこすのに気がついていた。してみれば、水に浮くものを礁湖の水面に投げたとすれば、トンネルの口の上部が水面上にあらわれたとき干潮によって外へ流れ出すことは疑いない。ところで、秋分の最低潮位のときには口の上部があらわれるのではなかろうか?……もうじきそれが確かめられる。今ちょうどその時期なのだから。あさっては九月二十一日だ。そして九月十九日の今日、すでに私は潮が引いたときの水面上に穴の頂点があらわれてくるのを見た。
さてそれならば、私自身トンネルから抜け出ようとしてみることはできなくても、礁湖の水面に壜《びん》を投げれば、干潮の最後の数分間のあいだに壜はそこを通り抜ける可能性がいくらかありはしないか?……そして偶然――奇蹟中の奇蹟というべき偶然だとは私も認めるが――その壜がバック・カップの沖で船に拾われないとどうして言えようか?……それどころか、潮流によってバーミュダ群島のどこかの砂浜に打ち上げられないともかぎらないではないか?……そして、その壜のなかに何かちょっと書きつけた紙がはいっていたとすれば。
私の念頭につきまとっている考えはこれなのだ。次いでいろいろと反論が出てくる――たとえは次のようなのもその一つだ。壜はトンネルのなかを通っているうちに、あるいは外の岩礁にぶつかって、沖まで出ぬうちに割れてしまう危険がある……。そうだ……しかし、壜のかわりに密閉した樽《たる》だったら、漁網を吊している桶みたいなものだったら、その樽は脆《もろ》い壜と同じほど砕ける可能性はなかろうし、海のまんなかにまで出られるかもしれない……。
――九月二十日――、今夕私は、船から掠奪してきたいろいろの物品を山と積んである倉庫の一つに気づかれぬように忍びこんで、私のもくろみにうってつけの桶を手に入れることができた。
その桶を服の下にかくしてから私はビーハイヴにひきかえし、自分の部屋にはいった。それから一瞬も無駄にせずに私は仕事にかかった。
紙、インキ、ペン、何一つ欠けているものはない。なにしろもう三か月も私は日誌を書くことができたのだから。それがこの物語となっているのだ。
私は一枚の紙に次のような文章をしたためた。
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トマ・ロックおよびその看護人ゲイドン、正しくはフランス人技師シモン・アール、右はアメリカ合衆国ノースカロライナ州ニューバーン近郊ヘルスフル・ハウス十七号病棟にいたが、六月十五日におこなわれた二重拉致事件の後、同十九日以降ダルチガス伯爵の隠れがとなっている洞窟内に幽閉されているが、このものは本名ケル・ケラジェといい、以前西太平洋海域で悪事を働いていたもの。この恐るべき悪人の一味をなす百人ほどの男もここを隠れがとしている。ほとんど無限というべき威力を持つロック式フュルギュラトゥールを入手したあかつきには、ケル・ケラジェはその犯罪についていかなる罰も加えられるおそれのない状態で海賊行為をつづけられることとなろう。
それゆえ関係諸国ができるだけ早くその巣窟を破壊することがぜひとも必要である。
海賊ケル・ケラジェが身をひそめた洞窟はバック・カップ島の内部に作られているが、この島は誤って活火山と見られている。島はバーミュダ群島の西端に位置し、東は岩礁で守られているが、南、西、北は接岸可能である。
外と内との連絡は、西の狭い水路の奥の、平均水位より数メートル下に開かれているトンネルによってしか今のところなし得ない。それゆえバック・カップの内側にはいるためには水中航行機を待たねばならぬ――すくなくとも現在北西部に開鑿されている通廊が完成するまでは。
海賊ケル・ケラジェはこの種の水中航行機――これはダルチガス伯爵が建造させ、実験中にチャールストン湾のなかで沈んだと思われているあの水中機にほかならない――を保有している。このタグはトンネルから出入りするだけではなく、スクーナーの曳航のためにもバーミュダ海域を通う商船を攻撃する際にも使われている。
アメリカ西部沿岸でよく知られているこのスクーナー船『エッバ』は、島の西方に位置する累々たる岩のかげにかくれて沖からは見えない小さな入江を唯一の常泊地としている。
バック・カップの、とりわけバーミュダ島漁民がかつて住みついていた西側の部分に上陸をおこなう前にまずなすべきことは、メリナイト爆薬を用いた最も強力な砲弾をもってその岩壁に穴をあけることである。上陸後この穴によってバック・カップの内部に突入することが可能となろう。
ロック式フュルギュラトゥールが作動し得る状態にある場合のことも予想しておかねばならぬ。ケル・ケラジェが思いがけぬ攻撃に驚いて、バック・カップを守るためにこれを使用することも考えられる。このことははっきり心得ておかねばならぬが、このフュルギュラトゥールの破壊力はこれまで考えられたいっさいのものを越えているけれども、千七百メートルから千八百メートルまでの区域にしか及ばないのである。その着弾距離はさまざまであるが、いったん射程をきめると修正するのにひじょうに時間がかかる。それゆえ危険区域を通り過ぎてしまった船は無事に島に近づくことができよう。
この文書は本九月二十日午後八時、ここに署名する本人が認《したた》めた。
技師 シモン・アール
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私が認めた覚え書の内容はこのようなものであった。これは近代の海図にはその正確な位置が記されているこの小島についても、ケル・ケラジェがこれから組織しようとするものと思われる島の防禦のことについても、早急に行動に出ねばならぬ必要についても、言うべきことはすべて言っている。これに私は洞窟の図を添え、内部の状況、礁湖の位置、ビーハイヴの配置、ケル・ケラジェの住居や私の部屋やトマ・ロックの実験室の占める位置を図示した。しかし何はともあれこの覚え書きが拾われることが必要である。事実いつか拾われるだろうか?
最後にこの文書を丈夫な防水布で包んでから、およそ縦十五センチ横八センチばかりの鉄の箍《たが》をはめた桶のなかにそれを入れた。桶は私の確かめたところではけっして水が漏《も》れることはなく、トンネルを通るときにも外の岩礁にぶつかっても衝撃に堪え得るようにできていた。
いかにもそれは、確かな人間の手にはいるかわりに、逆流によって島の岩の上に投げ上げられたり、「エッバ」が入江の奥にむかうときその乗組員に見つかったりする危険があるかもしれない……。もしこの文書がケル・ケラジェの手にはいったならば、私の署名があり、彼の本名を明かしているのだから、もはや私はバック・カップから逃れる手段について心を労する必要もなく、私の運命はたちまち決せられてしまうだろう。
夜になった。私が熱に浮かされたように夜を待ち焦《こが》れていたことは言うに及ぶまい! これまでの観察にもとづいて私の計算したところによれば、干潮が静止するのは八時四十五分になるはずだった。そのとき穴の上部はおおよそ五十センチメートルほどあらわれるだろう。水面とトンネルの天井との間隔は桶を通すには充分という以上である。そのうえ私は、内側から外へとなおひろがって行く引き潮に乗って行けるように、潮の静止する三十分前に桶を流すつもりだった。
八時ごろ、薄闇のなかで私は部屋を出た。岸には誰もいない。私はトンネルの通じている岩壁にむかって歩き出した。その方角についている最後の電燈の光で、穴がその上部の弧を水の上に出し、流れがその方向にむかっているのが見えた。
岩の上を礁湖の水位まで降りて行ってから、私は貴重な覚え書を、そしてそれとともに私のいっさいの希望をおさめている桶を投げた。
フランスの船乗りたちが言うように、「無事に行き着け! 無事に行き着け!」と私はくりかえして言った。
小さな桶ははじめは停止していたが、波の打ち返しに押されて崖のほうへもどって来た。波がまたそれをさらって行くように私は強くそれを押しかえさなければならなかった……。
押しかえしてしまうと、二十秒足らずのうちに桶はトンネルのなかに姿を消した……。
無事に行き着いてくれ!……小さな桶よ、神がおまえを導いてくれればいいが!……ケル・ケラジェの脅威下にあるすべての人をこの桶が守ってくれ、そしてあの海賊一味がてきめんに人類全体から罰せられればいいのだが!
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十四 「ソード」の死闘
眠れぬこの一夜のあいだ私はその桶の跡を頭のなかで追っていた。何度私は、桶が岩にぶつかり、入江に流れ寄り、どこかの岩の凹みか何かのなかにひっかかってしまうのを見たような気がしたことか……。冷汗が頭から足まで流れた……。ああ、神よ、もし波があれをトンネルの入口へ、それからバック・カップのなかへ引きもどしたら……夜が明けてあれが私の目に入ったら……。
夜が明けはじめたばかりの時刻に起き出して私は浜のほうへ歩いて行った……。
浜に来て私は目をやった……。礁湖の静かな水の上には何もうかんではいなかった。
その後の数日、読者もすでにごぞんじのようなやりかたで廊下の開鑿作業はつづけられた。セルコ技師は九月二十四日の午後四時に最後の岩を爆破させた。連絡は成った、――その中では身をかがめねばならぬような狭い坑道にすぎないが、それで充分なのだ。外に開いた口は島の岸の崩れた岩の堆積のなかに紛《まぎ》れている。そしてそうすることが必要となったら簡単に塞ぐことができるのだ。
この日からこの廊下が厳しく守られることは言うまでもなかろう。誰も許可なしにこれを通って洞窟にはいることも洞窟から出ることもできまい……。それゆえここから脱出することは不可能だ……。
――九月二十五日――、今日の午前、タグが礁湖の底から水面に上がって来た。ダルチガス伯爵、スパード船長、スクーナー船の乗組員は突堤に降りた。「エッバ」で運んで来た荷の積みおろしがはじまった。若干の包みはバック・カップへの補給であり、肉の箱や罐詰、葡萄酒や火酒の樽だということに私は気がついた。――ほかにいくつかのトマ・ロックあての荷があった。それと同時に男たちは、円盤状になっているいろいろの機械の部品を陸揚げした。
トマ・ロックはこの作業に立ち会っていた。彼の目は異様な光に燃えていた。部品一つをひっつかみ、それを調べ、満足のしるしにうなずいた。彼の喜びが支離滅裂な言葉となって爆発しないこと、彼の中にはもう昔のヘルスフル・ハウスの入院患者らしいところは全然ないことに私は気がついた。不治と信じられていたあの部分的な精神錯乱が根治してしまっているのではなかろうかと私は考えさえした……。
最後にトマ・ロックは礁湖用のボートに乗りこみ、セルコ技師が彼につきそって実験室へ出かけた。一時間のうちにタグの運んだ荷はすべて向う岸に運ばれた。
ケル・ケラジェといえば、彼は技師と二言か三言しか交わさなかった。その後午後になって二人は落ち合って、ビーハイヴの前を散歩しながら長いあいだ話し合った。
会話が終わると彼らは廊下へむかい、スパード船長をしたがえてその中に入って行った。彼らの後から私も入って行くことができないものか!……たとい一瞬でも、バック・カップにはいわば気息|庵々《えんえん》といったふうにしか吹いて来ない大西洋のあの生気をよみがえらせる空気を呼吸しに行けないものか!……
――九月二十六日から十月十日まで――、二週間たった。セルコ技師とトマ・ロックの監督下に機械の組立ての作業がおこなわれた。それから射出台の組立てにとりかかった。これは遊底のついた単なる台架で、射角は変えることができ、「エッバ」の上にも、それのみか水面すれすれに浮かんだタグの甲板上にも容易に据えつけられるようになっている。
そういうわけだから、ケル・ケラジェは例のスクーナー船を持っているだけで四海の支配者になれるわけだ!……いかなる軍艦も危険区域を横切ることはできないし、「エッバ」はいつも相手の射程外にいることになる!……ああ! せめて私のあの覚え書が拾われたら……このバック・カップの隠れがのことがわかったら!……破壊するとまでは行かなくとも、島への補給を妨害することぐらいはできるだろうに!……
――十月二十日――、これは私には非常な驚きだったが、今朝タグはいつもの場所に見られなかった。前日電池を新しいのと取り替えていたのを私は思い出した。しかし私は、電池をいつでも使える状態においておくためだと思っていたのだ。新しい廊下が通れるようになっている現在タグが出て行ったとすれば、この近海で海賊をするためだ。事実バック・カップにはトマ・ロックにとって必要な部品も原料ももう全然欠けていないのだ。
それにしても、今は秋の彼岸のころだ。バーミュダ海は頻繁な嵐に荒らされている。疾風は猛烈ないきおいで荒れ狂う。それはバック・カップの火口から吹き降りてくる激しい突風や、広い洞窟を満たす雨を混えた渦巻く煙霧や、そのしぶきで岸の岩を洗う礁湖の波の騒ぎ方で感じられる。
しかしスクーナー船がバック・カップの入江から去ったことは確かだろうか?……このように荒れた海に乗り出すには――たといタグに助けられてであろうと――このスクーナー船は脆《もろ》すぎるタイプなのではあるまいか?……
かといって、数メートル水面下に下れば水は静かになるのだから波を全然恐れる必要はないにしても、タグがスクーナー船を伴わずに航海に出たなどということがどうして考えられよう?……
水中船のこの出航――その日のうちに帰って来ていないから、これは長びくらしいが――がどんな理由によるのか私にはわからない。
今度もセルコ技師はバック・カップに残った。ケル・ケラジェとスパード船長と、タグおよび「エッバ」の乗組員だけが島を去ったのだ……。
壁のなかにとじこもった連中のこのコロニーのなかで、生活はいつものような索漠とした単調さでつづく。私は自分の穴の奥で、あれこれと考えたり希望や絶望を味わったり、海の波の心に委ねられたあの桶に日に日に弱って行く絆《きずな》によってすがりついたり、――そしてたぶん私の亡き後に残されることのないこの手記を認めたりしながら何時間も過ごすのだ……。
トマ・ロックは彼の実験室のなかで――その起爆薬の製造という――仕事にしょっちゅうかかりきっている。この液体の成分はどんな値段でも彼は売ろうとすまいという考えに私はあいかわらず必死ですがりついている……。しかしまた、彼が躊躇《ちゅうちょ》なくその発明をケル・ケラジェに用立てることも私にはわかっているのだ。
散歩の折りにビーハイヴのそばまで足が向いたときには、よく私はセルコ技師に逢う。この男はいつも私とおしゃべりするのを拒む様子はない……いかにもそれはぶしつけで軽薄な口調でだが。
われわれはあれこれのおしゃべりをする――が、私の今の状況のことはめったに話にならない。このことについて非を鳴らしても無駄で、新たなからかいの的にされるのが|おち《ヽヽ》だろう。
――十月二十二日――、今日私は、スクーナー船がタグとともに出航したのかとセルコ技師にきいてみなければならないと思った。
「そうです、シモン・アールさん」と彼は答えた。「沖はひどい悪天候で、ほんとの大|しけ《ヽヽ》というやつですが、われわれの『エッバ』のことなら全然御心配には及びませんよ!……」
「長いこと島を留守にするのですか?……」
「四十八時間以内に帰るものと思っています……。冬の嵐のためこの辺の航海が全然不可能になってしまいますから、これがそれ以前にダルチガス伯爵がすることに決めた最後の航海ですよ」
「遊覧ですか……それとも仕事?……」と私は言い返してやった。
セルコ技師はにやにや笑って私に答えた。「仕事ですよ、アールさん、仕事ですよ! 現在われわれの機械はできあがっています。そうして天気がよくなればまた攻撃を開始するばかりですよ……」
「不幸な船に対する……」
「不幸な……そうしてたくさん荷を積んだ!」
「海賊行為ですな。そんなことをしていていつまでも罰せられないでいるものとはかぎらないと私は思うが!」と私はどなってしまった。
「おちつきなさい、親愛な同業者さん、おちついてください! あなただってごぞんじではありませんか、われわれのバック・カップの隠れがはけっして発見されない、何びともけっしてその秘密を発《あば》き得ないということを!……のみならず、操作はきわめて簡単でしかもあれほど恐ろしい威力を持ったあの機械があれば、この島から一定距離内を通るどんな船でもわれわれは容易に沈めることができるでしょう……」
「ただし」と私は言ってやった。「トマ・ロックがフュルギュラトゥールの構造を売ったように起爆薬の成分をもあなたがたに売ったとすればの話ですな……」
「もう売ってしまいましたよ、アールさん。その問題についてはあなたの御心配は無用だと申し上げねばならん」
この断乎《だんこ》たる答を聞けば不幸な事態はいよいよ決定的なものとなったと結論すべきだったろうが、私は彼の声の淀みがちな調子を聞いて、セルコ技師の言を信用すべきではないと感じた。
――十月二十五日――、私がまきこまれることになった恐るべき事件。しかも、どうしてそのなかで私は命を失わないですんだのだろうか?……四十八時間のあいだ中断されていたこのノートを今日また書きつづけられるのは奇蹟なのだ!……もうすこし運がよかったら私は解放されていたのに!……今ごろ私はバーミュダ群島の港の一つにいただろう……セイント・ジョージかハミルトンに……。バック・カップの謎はあばかれていたろう……。スクーナー船のことはあらゆる国に通報されて、どの港にも姿を見せることができず、バック・カップへの補給は不可能になったことだろう……。ケル・ケラジェの海賊どもは島で餓死するほかはなかっただろう!……
事の次第は次のとおりである。
十月二十三日の午後八時ごろ、何か重大な事件が迫っていることを予感したかのように言うに言われないいらいらした気持ちで私は自分の部屋から出た。眠りによって多少心を安めようといくら思っても駄目だったのである。眠れぬものとあきらめて外へ出たのだ。
バック・カップの外はひどい荒天らしかった。火口から疾風が吹きこみ、礁湖の水面に一種のうねりをかきたてていた。
私はビーハイヴのある岸のほうにむかった。
この時刻には人っ子一人いない。気温はかなり低く、湿気が多い。蜂の巣の蜂たちはみんなその小房のなかに身をひそめていた。
一人の男が廊下の口で番をしていた。もっとも念には念をいれて廊下の外の岸への出口はふさがれていたのだが。その男のいるところからは岸は見えなかった。そのうえ私には礁湖の右岸と左岸にともった二つの電燈しか見えず、石柱の林の下は深い闇に沈んでいた。
私はこうして闇のなかを歩いて行ったが、そのとき誰かが私のそばを通りすぎた。
私にはトマ・ロックだとわかった。
トマ・ロックは想像力を常に緊張させ知力を始終働かしていつものように考えごとに気を取られながらゆっくりと歩いていた。
彼に話しかけ、彼が知らないらしいことを教えてやる絶好の機会がここにあらわれたのではなかろうか?……自分の一身がどんな人間の手中にあるのかを彼は知らない……知らないに相違ない……。ダルチガス伯爵が海賊ケル・ケラジェにほかならないということなど彼は考えてみるはずもない……。どんな悪漢の手に自分の発明の一部を委ねたかなどということを彼は疑ってもみない……。与えられた数百万の金を自分で使うことはけっしてできないのだと彼に知らせてやらねばならぬ……。このバック・カップの牢獄を出る自由を彼は私以上に持っているわけではないのだ……。そうだ!……私は彼の人道的感情に、もし彼が最後の秘密を守らなければその責任を負わねばならぬ不幸にうったえてやろう……。
そこまで考えてきたとき、私はうしろからむんずとつかまれるのを感じた。
二人の男が私の腕をおさえ、もう一人が私の前に立ちはだかった。
私は人を呼ぼうとした。
「叫ぶな!」と英語でしゃべるその男は行った。「あなたはシモン・アールではありませんか?」
「どうして知っている?……」
「あなたの部屋から出るのを見たのです……」
「いったいあなたは誰だ?……」
「英海軍のデイヴォン中尉、バーミュダに停泊中の軍艦『スタンダード』の当直将校」
私は答えることができなかった。それほど感動に胸がふさがれていたのだ。
「われわれはケル・ケラジェの手からあなたを救出し、フランスの発明家トマ・ロックを奪うために来ました……」とデイヴォン中尉はつけくわえた。
「トマ・ロック?……」と私はつぶやいた。
「そうです……。あなたの署名のある文書がセイント・ジョージの砂浜で拾われました……」
「桶に入っていたのでしょう、デイヴォン中尉……私がこの礁湖に投げこんだ桶の……」
「そしてその中にあった覚え書で、われわれはバック・カップ島がケル・ケラジェとその一味の隠れ場となっているのを知ったのです……。ダルチガス伯爵と詐称《さしょう》していた、ヘルスフル・ハウスの二重拉致事件の犯人であるケル・ケラジェの……」
「ああ、デイヴォン中尉!……」
「さあ、今はもう一瞬も無駄にすることはできない……。夜陰に乗じなければなりません……」
「ちょっと一言、デイヴォン中尉……。どのようにしてあなたはバック・カップの内部に忍びこむことができたのですか?」
「半年前からセイント・ジョージで実験中の水中船『ソード』で……」
「水中船ですって?……」
「ええ……水中船はこの岩の下のところでわれわれを待っています」
「そこに……そこに?……」と私はくりかえした。
「アールさん。ケル・ケラジェのタグはどこです?……」
「三日前に出航しました……」
「ケル・ケラジェはバック・カップにいないのですか?……」
「ええ……しかし今日にも、いやそれどころか、今すぐにでも帰って来るかもしれない……」
「かまいませんよ!」とデイヴォン中尉は答えた。「問題はケル・ケラジェのことではない……われわれが連れ去るように……あなたといっしょにですよ、アールさん……命令を受けているのは、トマ・ロックなのですから……。『ソード』はあなたがた二人を乗せないかぎり礁湖を去りますまい……。『ソード』がセイント・ジョージに姿をあらわさないとすれば、それは私たちが失敗したことを意味します……そして誰かがまたやりなおすでしょう……」
「『ソード』はどこにいるのです、中尉?」
「こちらのほうです……砂浜の暗いところですから、誰にも見えません。あなたの指示のおかげで私と私の部下は水中トンネルの入口を見つけることができた……。『ソード』は首尾よくトンネルを通り抜けた……。今から十分前に『ソード』は礁湖の水面に浮上しました……。二人の部下が私についてこの崖の上に来た……。あなたが図の上に記された部屋から出るのを私は見たのです……。今トマ・ロックがどこにいるかごぞんじですか?」
「ここから数歩のところです……。今しがたここを通って、実験室のほうにむかって行きました……」
「それは天佑《てんゆう》だ、アールさん」
「そのとおりです、デイヴォン中尉!」
中尉とその二人の部下と私は礁湖をめぐる小道を進んだ。十メートルばかり行ったか行かぬかのうちに私はトマ・ロックを認めた。彼に飛びかかり、叫び声をあげぬうちに猿轡《さるぐつわ》を噛ませ、身動き一つできぬうちに縛りあげ、「ソード」の繋がれているところへ運ぶ、これはほんの一分間の仕事だった。
この「ソード」は十トン少々くらいしかない――したがってあのタグよりはるかに大きさも力も劣る――潜水船だった。十二時間ほど前セイント・ジョージの港で充電した蓄電池で動く二つのダイナモがスクリューを廻転させる。しかしいずれにしても、この牢獄からわれわれを出してくれ、われわれに自由を――もはや私には信じられなくなっていた自由を返してくれるには、この「ソード」で充分のはずだった!……とうとうトマ・ロックもケル・ケラジェとセルコ技師の手から奪い返されようとしていたのだ。……この悪漢どもも彼の発明を利用することはできまい……。そして軍艦が島に近づき、上陸をおこない、廊下を突破し、海賊どもを捕えることを妨げるものは何もないだろう……。
二人の男がトマ・ロックを運んで行くあいだわれわれは誰にも会わなかった。われわれは皆「ソード」の船内に降りた……。上部のハッチは閉ざされた……水タンクは満たされた……「ソード」は潜航した……われわれは脱出した……。
防水隔壁によって三つの部分に仕切られた「ソード」は次のような具合になっていた。蓄電池と機関のある第一の部分は中央船梁から船尾まで。第二の部分は運転室で中央にあり、レンズのついたペリスコープがその頭上にあって、ここから電燈の光線が発せられ、水中で方向を見ることができる。第三の部分は前部にあって、トマ・ロックと私が入れられたのはそこだった。
言うまでもなく私の連れは、呼吸を妨げる猿轡ははずされていたが、縛《いまし》めは解かれていなかった。そして私は彼が何が起こったかを意識しているのではないかと思った……。
しかしわれわれは、全然障碍がなければ今夜にもセイント・ジョージに着けるものと期待して、早く出発したかった。
隔壁の扉をあけて私は、二番目のコンパートメントで操舵に当たっている男のそばにいるデイヴォン中尉のところへ行った。
後部のコンパートメントでは機関手を含めた三人が、推進機を始動させようとして中尉の命令を待っていた。
「デイヴォン中尉」と、そこで私は言った。「トマ・ロックを一人残して来てもべつにさしつかえはないと思います……。トンネルの口に辿《たど》り着くのに私が何かお役に立てれば……」
「ええ……アールさん、私のそばにいてください」
そのときは八時三十七分――きっかりだった。ペリスコープから発せられる電燈の光線は、「ソード」が進んでいる水の層をぼんやりとした光で照らしていた。停泊していた岸からだと、礁湖をいちばん長く横切らねばならない。トンネルの穴を見つけることはもちろん困難だが、さりとて絶対に不可能ではない。岸の傾斜面に沿って行かねばならぬとしても、穴が発見されない――それも比較的短い時間のうちに――ということはありえなかった。この後で、壁にぶつからないように低速でトンネルを通り抜けたならば、「ソード」は水面に浮上し、セイント・ジョージにむかって進むのだ。
「船の深度は?……」と私は中尉に尋ねた。
「四メートル五十」
「それ以上沈む必要はありません」と私は答えた。「秋分の大潮のときに観察したところによれば、船はトンネルの延長線上にあるはずです」
「オール・ライト!」と中尉は答えた。
そうだ! オール・ライトだ、私には神がこの士官の口を借りてこの言葉を言ったかのように思えた……。実際神はその意志を実現するのにこれ以上の働き手を見いだすことはできなかったろう!
私は照明燈の仄明《ほのあか》りで中尉を見やった。三十歳ぐらいの、冷静沈着な、決然とした顔つきの男――生まれつき物に動じない性格そのままの英国士官――だ。「スタンダード」の船上にいるのと同じように無感動に、驚くほど落着きはらって操作している。いやそれどころか、機械のような正確さでと言いたいほどだ。
「トンネルを横切るとき、その長さは四十メートルばかりだと私は見ましたが……」と彼は私に言った。
「そう……はしからはしまでなら、デイヴォン中尉、……四十メートルほどでしょう」
スクリューの回転開始の命令が機関手に下された。「ソード」は崖にぶつかることをおそれてきわめてゆっくりと進んだ。
ときどき崖に接近すると、黒っぽい塊りが照明燈から発する紡錘形の光の先端にぼんやりと見えて来る。すると舵をさっと動かして方向を修正する。それにしても、水中船の操船は外洋のただなかでもすでにむずかしいのだが、この礁湖の水中ではそれよりどれほどむずかしいかわからないのだ!
五分ほど前進しても、四メートルから五メートルのあいだに深度を保っていた「ソード」はまだトンネルの口に到着しなかった。
このとき私は言った。
「デイヴォン中尉、口の開いている岩壁をよくたしかめるために浮上したほうが賢明かもしれませんな……」
「私もそう思います、アールさん、あなたが正確に指示することができるのならばですが」
「できますよ」
「よろしい」
用心のため照明燈のスイッチが切られ、周囲の水は暗くなった。機関手は命令を受けてポンプを働かせ、身が軽くなった「ソード」はすこしずつ礁湖の水面に浮上した。
私はペリスコープのレンズを通して壁の位置を測定するためにもとの場所にとどまった。
やがて「ソード」は上昇をやめ、せいぜい一フィートほど水上に姿をあらわした。
崖の燈火に照らされているその方角に私はビーハイヴを認めた。
「どう思います?……」とデイヴォン中尉がきいた。
「北に寄りすぎている……。口は洞窟の西にあるのです」
「崖の上には誰もいませんか?……」
「いません」
「それならば申し分ない、アールさん。このまま水面すれすれに行きましょう。あなたの指図に従って『ソード』が壁の前に出たら沈むことにします……」
それが最上策だった。崖に近づきすぎていたので、そこを離れてから操舵手は「ソード」をトンネルの延長線に持ってきた。舵柄はわずかに上げられ、スクリューに推進されて船は正しい方向を取った。
あと十メートルばかりというところで私は停止を命じた。電流が切られるやいなや「ソード」は停止し、取水口を開き、タンクを満たし、ゆっくりと潜没した。
するとペリスコープの照明燈は動きはじめた。壁の薄暗い部分にある、照明燈の光線を反射しない黒い円のようなものを指さして私は叫んだ。
「そこで……そこだ……トンネルだ!」
「ソード」は口にむかって静かに動き出した。
ああ!……恐ろしい運の悪さ! どうして私はこのショックに堪え得たのか?……どうして私の心臓はこのとき破れなかったのだろう?……
二十メートル足らずの前方のトンネルの奥からぼんやりとした光があらわれてきた。われわれのほうにむかって来るこの光は、ケル・ケラジェの水中船の覗《のぞ》き窓から投射されている光以外のものではあり得なかった。
「タグだ!……」と私は叫んだ。「中尉……タグがバック・カップに帰って来たんだ!……」
「後退!」とデイヴォン中尉は叫んだ。
そして「ソード」はトンネルに入りこむ寸前で後退した。
あるいは逃れるチャンスがまだ私たちに残っていたのかもしれない。なぜなら中尉はすばやくこちらの船の燈火を消したし、スパード船長もその仲間も「ソード」を見なかったということがあり得ないではないからだ……。もしかすると横へそれてタグをやりすごすことができるかもしれない……。もしかすると「ソード」の黒い塊りは礁湖の深みの水に紛れてしまうかもしれない……。タグはこちらを認めずに行ってしまうかもしれないではないか?……相手がその停泊地に着いてしまってから「ソード」ははじめの方向にもどり……そして穴に入って行くだろう……。
「ソード」のスクリューは逆廻転し、船は南岸の崖のほうへ引き返した……。あとしばらくで「ソード」は停止しさえすればよかった……。
いや……スパード船長は一隻の水中船がいてトンネルを通り抜けようとしているのに気づいていたのだ。そして彼は礁湖の水中でその水中船を追いつめる態勢を取った……。ケル・ケラジェの強力な船に襲われたならこのかぼそい水中船に何ができるだろう?……
デイヴォン中尉はこのとき私に言った。
「アールさん、トマ・ロックのいるコンパートメントに帰ってください……。扉をしめてください、私は後部のコンパートメントの扉をしめに行きますから……。攻撃されても、この隔壁のおかげで『ソード』は沈没しないですむかもしれません……」
このような危険に面しても沈着さを失わない中尉の手を握って私は前部のトマ・ロックのところへもどった……。扉をしめて私は完全な闇のなかで待った。
このとき私は、「ソード」がタグを逃れようとしてする動き、その効果、その旋回、潜降を感じた、というよりも感じたような気がした。あるいはショックを避けるために急激に転廻し、あるいは水面に浮上したり礁湖のいちばん深いところまで沈むのだ。力に差のある二頭の海の怪物のように動きまわりながらこの濁った水の下でおこなわれる二隻の船のこの闘争を人々は想像し得るだろうか?
数分が過ぎた……。追跡が中止され、「ソード」はようやくトンネルのなかを突っ走ることができたのではないかと私は思った……。
それにつづいて衝突が起こった……。このショックはひじょうに激しいものだったように私には思われた……。しかし誤った希望を抱くことはできなかった――たしかに「ソード」は右舷の後半部に衝突を受けたにちがいなかった……。しかしもしかすると鉄板を張ったその船体は衝撃に堪えてくれたのではなかろうか?……よしんば堪えなかったとしても、おそらく水はコンパートメントの一つにしか侵入しなかったのではないか?……
ほとんど時を移さず第二のショックが、今度はものすごく激しく「ソード」を押し返した。「ソード」はタグの衝角によって持ち上げられた恰好《かっこう》になり、ずり落ちながら衝角でいわば鋸《のこぎり》で挽《ひ》くように切断された。それから私は「ソード」が前部を高く上げて立ち上がり、後部コンパートメントに充満した水の重さのため垂直に沈んで行くのを感じた……。
壁につかまることができなかったので、トマ・ロックと私は激しくもんどり打っていっしょに倒れた……。最後の衝突とともに鉄板の破れる音がして「ソード」は水底をガリガリと掻き、静止した。
この時から後いったい何が起こったのか?……気を失ってしまったので私はそれを知らなかった。
それから何時間も――長い時間が――たったと、今私は知らされたところだ。私の記憶に今よみがえって来るのは、私が最後に考えたのは次のようなことだったということだけだ。
「おれが死ぬとしても、すくなくともトマ・ロックとその秘密もおれといっしょに死ぬのだ……そしてバック・カップの海賊どもはその悪業に対する罰を免れないだろう!」
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十五 待つ
意識をとりもどすやいなや私は、自分の部屋のなかの簡易寝台に横たえられているのに気がついた。もう三十時間もここで寝ていたらしい。
そこにいたのは私一人ではなかった。セルコ技師が私のかたわらにいた。彼は私に必要な手当てをすべてしてくれ、自分で私の看護をしたのだ――私を友人と見てではない(と私は思う)、皆の利益が要求すればかたづけてしまうという前提の上で、必要なことを教えてくれるものと期待できる人間として看護してくれたのだ。
まだかなり衰弱していたので、歩こうと思っても一歩も歩けなかったろう。「ソード」が礁湖の水中に横たわっているあいだに、私はもうすこしであの狭いコンパートメントのなかで窒息してしまうところだったのだ。セルコ技師は私に質問したくてうずうずしているが、その質問に私は答えることができるだろうか?……できる……が、できるだけ用心して答えよう。
そして何よりもまず私はデイヴォン中尉と「ソード」の乗員はどこにいるかと考えた。あの勇敢なイギリス人たちは衝突の際に死んだのだろうか?……私たちと同様――というのは、トマ・ロックも私と同じくタグと「ソード」の衝突から生き残ったと思うから――無事だろうか?
セルコ技師の最初の質問は次のようなものだった。
「何が起こったのか説明してください、アールさん」
答えるかわりに問いかえしてやろうという考えがうかんだ。
「で、トマ・ロックは?……」と私はきいた。
「ぴんぴんしていますよ、アールさん……。何が起こったんだ?……」と彼は横柄《おうへい》な口調でくりかえした。
「何よりもまず、どうなったか教えてください……ほかの連中が?」と私は言った。
「ほかの誰です?……」とセルコ技師は言い返し、その目は険悪な視線を私に投げはじめた。
「私とトマ・ロックに躍りかかって来た男たち、われわれに猿轡を噛ませ……引きさらい……閉じこめた男どもですよ……どこに閉じこめたのか……それは私は知らないが!」
いろいろ考えてみたあげく、いちばんいいのはあの夜私がだしぬけに襲われたと主張することだった。その際私は自分がどうなっているかもこの攻撃をしかけた連中をも見分けるひまがなかったとするのだ。
「あの男たちなら」とセルコ技師は答えた。「奴らがどんなことになったかはあなたにもいずれわかる……。その前にどんなふうに事件が起こったのか話してください……」
こうして三度もくりかえされたこの問いを発する声の脅迫的な響きから、私は自分にどんな嫌疑がかけられているかを悟った。だがそれにしても、外部との連絡を私に咎《とが》めることができるためには、覚え書をおさめた桶がケル・ケラジェの手にはいっていなければならぬはずである……。ところが事実はそうでない。あの桶はバーミュダの官憲に回収されたのだから……。そのようなことを私に責めるとしても、それにはなんら動かしがたい根拠があるはずはないのだ。
そこで私は、前夜八時ごろトマ・ロックがその実験室のほうへむかうのを見た後、崖の上を散歩していると、三人の男がうしろから私を捕えたと語るにとどめた……。口には猿轡、目には目隠しをされて私は引き立てられ、次いで穴みたいなものに降されるのを感じたが、そのときいっしょだったもう一人の人物は、その呻《うめ》き声からしてヘルスフル・ハウスでの私の患者だと思った……。水上の船に乗せられているような気がし……もちろんそれは帰って来たタグに違いないと思ったのだが……。それから船は水中に沈むように思えた……。それからショックがして私はその狭い穴のなかで倒れ、まもなく空気がなくなり……しまいに私は意識を失った……それ以上のことは何もわからない……。
セルコ技師は厳しい目をして額に皺《しわ》をよせながら注意深く私の言葉に耳を傾けた。しかしそれにしても、私が真実を言っていないと信じる理由も彼には全然ないのだ。
「三人の男があなたに襲いかかったと言うのですね?……」と彼は言った。
「そうです……しかも私のことをあなたの部下だと思ったのだ……。奴らが近づいて来るのを私は見なかったし……。いったい何者なのだろう?……」
「外国人ならあなたには言葉でわかったはずだが?……」
「奴らは口を利きませんでした」
「何国人か心当たりはありませんか?」
「全然」
「どんな了簡《りょうけん》で洞窟のなかにはいって来たのかあなたは知らないのですね……」
「知りません」
「ではこのことについてあなたはどう思います?」
「私の考えというと、セルコさん……。くりかえしますが、あなたの部下の海賊のうち二人か三人が、ダルチガス伯爵の命令で私を礁湖に投げこむ役目を引き受けた……トマ・ロックをも同じようにする……彼の秘密を知ってしまった以上――そうあなたはおっしゃったが――彼はもうロックをも私をもかたづけてしまえばいいのだ、そう私は思ったのです」
「ほんとに、アールさん、そんな考えがあなたの頭にうかんだのですか?」とセルコ技師は答えたが、このときはしかしいつものからかうような口調はなかった。
「そうです……が、実を言えば、目隠しを引っぱずして自分がタグのコンパートメントの一つに入れられているのを見たときには、その考えを捨てましたがね」
「あれはタグではなかった、トンネルから忍びこんだ同じ種類の船だったのです……」
「水中船ですか?……」と私は叫んだ。
「そうだ……しかもトマ・ロックとともにあなたを連れ去る任務を帯びた男たちが乗っていた……」
「われわれを連れ去る?……」と、あいかわらず驚きを装いながら私は言った。
「では」とセルコ技師はさらに言った。「この件についてどう考えるか言ってください……」
「どう考えるかって?……とにかくこれには、妥当と見られる説明は一つしかないように私には思えますがね。この隠れ場の秘密が洩らされたのでないとしたら――そして私には、そんな裏切りがどのようにしておこなわれたのかも、あなたやあなたの仲間がどんな軽率な真似をしたのかも見当がつかないが――、私の考えでは、その水中船はこのあたりで実験中にトンネルの口をたまたま発見し……その中にはいりこんでから礁湖の水面に浮上した……乗組員は人が幾人か住んでいる洞窟の内部に出たのに気がついてひじょうにびっくりして、最初にぶつかった島の住人をつかまえた……トマ・ロックと……私……おそらくほかの誰でも……とにかく私は何も知らないので……」
セルコ技師はひじょうにまじめになっていた。私が彼に吹きこもうとしている仮定が成り立たないことを彼は感じているのか……私が口に出して言おうとしている以上のことを知っていると思ったのか?……それはともかく彼は私の答えを認める様子を見せ、こうつけくわえた。
「実際、アールさん、事実はそのとおりだったにちがいありません。そしてよその船がちょうどタグが出ようとするときにトンネルにはいろうとしたので、衝突が起こった……その船は衝突の犠牲になってしまったのです……。しかしわれわれは同胞が死ぬのを手をこまねいて見ているような人間ではない……。そのうえあなたとトマ・ロックの失踪はほとんど時を移さず確認されていた……。まことに貴重な二人の命を何としても救わねばならなかった……。皆はさっそく仕事にかかった……。われわれの部下のなかには老練な潜水夫がいます……。彼らは礁湖の底にもぐり……『ソード』の船体の下に綱をまわした……」
「『ソード』?……」と私は口をはさんだ。
「あの船が水面に引き揚げられたとき、船の前部にそういう名が書いてあるのが見えたんです……。あなたがたを見いだしたときには何という喜びだったでしょう――いかにも気を失ってはいましたが、――まだ息をしていた。そしてあなたがたをよみがえらせることができたのは何という幸福だったことか!……不幸にして、『ソード』の指揮官だった将校とその乗組員については、われわれの手当てもむなしかった……。ショックは彼らがいた中央と後部のコンパートメントを破壊したので、……あなたのおっしゃるとおりまったく偶然なんでしょうが……このわれわれの謎のかくれがに踏みこんだという悪運のおかげで命を失ってしまったのです」
デイヴォン中尉とその仲間の死を知って私は堪えがたい悲しみに胸がふさがれた。しかし自分の役割を守りつづけるために、この人々は私の知らない……知らないということになっている人だったから……私は自分の心を抑えねばならなかった……。実際何よりもかんじんなことは、「ソード」の将校と私が共謀していたのではないかと疑わせるような動機をけっして与えぬことだった……。
けっきょくのところ、真実は誰にもわからないが、セルコ技師は「ソード」の来たことを「純然たる偶然」の結果としているのではないが、私のでっち上げた説明をすくなくともさしあたっては認めておく理由が彼にはあったのではないか?……
要するに、自由をとりもどす思いがけないこの機会は失われてしまった……そしてふたたびこのような機会は訪れて来るであろうか?……いずれにしても、私の覚え書が群島のイギリス官憲の手にはいってしまった以上、海賊ケル・ケラジェの正体は人に知られてしまっている……。「ソード」がバーミュダに帰らなければ、バック・カップ島に対して新しい手が打たれるだろう。あの運の悪いめぐりあわせ――ちょうど「ソード」が出て行くときにタグが帰って来たという――がなければ、私も今ごろはこの島に閉じこめられていなかったはずなのに!
私はまたこれまでと同じ生活をはじめたが、全然警戒心を起こさせることはなかったので、洞窟の内部をあいかわらず自由に行き来することができた。
今回の冒険がトマ・ロックにも好ましからぬ影響を全然与えなかったことはあきらかだ。行き届いた手当てが私を救ったように彼をも救った。その知的能力をいささかもそこなわれずに彼はまた仕事にかかり、一日じゅう実験室で過ごす日々がつづいた。
「エッバ」はどうかといえば、今度の航海から包みや箱やいろいろの国でできた無数の品物を持ち帰った。そして私は、今度のこの海賊行のあいだにたくさんの船が掠奪されたものと推定した。
そのあいだにも、射出台の設置のための作業は活溌につづけられた。ケル・ケラジェとセルコ技師がこの島の防備をしなければならぬと思ったとしても、三人か四人もいればこの小島に何ものも寄せつけないようにするには充分だろう。なにしろどんな船でもそこに入って来ればかならず破壊されてしまうという範囲内の海面を監視すればいいのだから。それに、私は思うのだが、おそらく次のように推論した上で彼らはバック・カップの防備にとりかかるのではないか。
「『ソード』が礁湖のなかに出現したのは偶然にすぎないのならば、われわれの立場は全然変わらないし、いかなる国も、イギリスですらも、島の固い殻をやぶって『ソード』を捜しに行こうとは考えないだろう。もし反対に、理由はわからぬが秘密が洩れた結果バック・カップがケル・ケラジェの隠れ場になっていることが知られ、『ソード』の派遣が島への攻撃の最初の試みだったとすれば、遠距離攻撃であれ上陸の試みであれ、別の条件のもとにその試みがくりかえされるものと予想しなければならない。だから、われわれが財宝を持ち出してバック・カップを去ることができるまで、防禦のためにロック式フュルギュラトゥールを使用しなければなるまい」
けれども、真相のすべてが知られていたと仮定すれば、危険がどれほど大きかろうと相手は尻込みはしまいということをケル・ケラジェは理解していたに相違ない。公益が、公安と人道の義務が、彼の巣窟を破壊することを要求しているのだ。かつては西太平洋の海を掠奪してまわった後、今この海賊とその一味は西大西洋の水域を荒らしている……。どんな犠牲を払っても彼らを掃滅しなければならない!
いずれにしても、この後のほうの仮定を考慮しただけでも不断の警戒がバック・カップの洞窟に住む連中には必要となって来る。それゆえこの日から厳格きわまる警戒体制がしかれた。廊下のおかげでトンネルを使う必要なしに海賊どもは絶えず外側で監視していた。沿岸の低い岩のあいだに身をかくして彼らは水平線の四方を日夜見張り、十二名の班で朝と夕方交替した。沖にどんな船があらわれても、どんな小舟が近づいてもただちに報告された。
その後の何日かは全然異状はなく、やりきれない単調さで日々は過ぎた。だが実際には、バック・カップがもはや以前のように安全ではないことが感じられた。ぼんやりとした、意気を沮喪させる不安のようなものが島にみなぎっていた。沿岸の見張りの発する「敵だ! 敵だ!」という叫びが聞こえはしないかと皆は絶えずびくびくしていた。状況は「ソード」の出現以前とはもはや違っていた。勇敢なデイヴォン中尉、勇敢な乗組員よ、イギリスは、文明諸国は、人類のためにあなたがたが一命をなげうったことを永久に忘れまい!
彼らの防禦手段がどれほど強力であろうと、――機雷原よりもなお強力なものであろうと、今やケル・ケラジェ、セルコ技師、スパード船長がかくそうとしてもかくしきれない憂慮に悩まされているのは明白だった。だから彼らはしきりに集まって相談していた。おそらく彼らはその財産を持ってバック・カップを引き揚げるか否かという問題をさかんに論じていたのだろう。なぜならこの隠れがのことを知ってしまえば、飢餓封鎖《きがふうさ》だけでも土壇場《どたんば》に追い込むことができるのだ。
こうしたことについて何が真実かということは私はわからない。しかし何よりもかんじんなことは、まったく奇蹟的にバーミュダで拾われたあの桶をトンネルから放ったのは私ではないかと疑われないようにすることだ。このことについてはセルコ技師は一度も私に何かをほのめかすようなことはしなかった。これは確かである。そうだ、私は疑われてもいない、疑わしいところもない。もしそうでなかったとすれば、私はダルチガス伯爵の性格をよく知っている、彼は今ごろはもう私を海底に沈めてデイヴォン中尉や「ソード」の乗組員の後を追わせていることだろう。
この海域はこれ以後毎日冬の大嵐に襲われる。恐ろしい疾風《しっぷう》が島の頂きで咆《ほ》え哮《たけ》っている。
石柱の林のなかのそこここで起こる空気の渦は、まるでこの洞窟が巨大な楽器の響胴ででもあるかのようにえもいえぬ響きを発する。そしてまたときにはその咆哮《ほうこう》は、一艦隊の砲声をもかきけしてしまうほどにまでなるのだ。無数の海鳥が嵐を避けて内部に入って来、たまに嵐がしずまった間もその鋭い鳴き声でわれわれの耳を聾せしめる。
このような悪天候ではスクーナー船は海に出られないものと思わねばならない。第一そんな必要はない。バック・カップの貯えはこの季節じゅう確保されているからだ。それにまた私は、今後ダルチガス伯爵はアメリカの岸に沿ってそのスクーナー船を走らせに行くことにあまり熱心でなくなるものと思う。そちらのほうへ行けば、もはや豊かなヨットマンに対して払うべき敬意をもってではなく、海賊ケル・ケラジェにふさわしいあしらいをもって迎えられるかもしれないのだ!
けれども私は考えるのだが、もし「ソード」の出現が司直に告発されたこの小島に対する攻撃作戦のはじまりだったとすれば、一つの問題が――バック・カップの将来にとって決定的な重要性を持つ問題がここに出てくる。
それゆえ、ある日私は――どんな疑いもよびおこしたくなかったからごく慎重に――この点についてセルコ技師にさぐりを入れてみた。
彼と私はトマ・ロックの実験室のそばにいた。会話はもう数分つづいていたが、セルコ技師は英国籍の水中船の礁湖のなかへのあの不思議な出現の話を私にむかってまたむしかえした。今度は彼は、ケル・ケラジェの一味を襲おうとする試みがもしかするとそこにあるのかもしれないと見るほうへ傾いているように見えた。
「私はそうは思いませんな」と、自分が発したいと思っている質問へ持って行くために私は答えた。
「では、どうして?……」
「あなたがたの隠れがが知られているとすれば、もうすでに新しい試みがなされていたはずです。洞窟に入りこもうとはしないまでも、ここを破壊しようというような」
「破壊するって!……」とセルコ技師は叫んだ。「破壊する!……われわれが今持っている防禦手段を相手とすれば、そいつはすくなくともすこぶる危険なことでしょうよ!……」
「そのことは先方にはわかっておりませんよ、セルコさん。新大陸でも旧大陸でも、ヘルスフル・ハウスからの誘拐があなたがたのためにおこなわれたこと……あなたがたがトマ・ロックとその発明について取引きするにいたったことは知られていませんからね……」
セルコ技師はこの指摘には何も答えなかった。第一これは反駁の余地のないものだったのだ。
私はこうつづけた。
「だから、この小島を破壊したいと思う海軍国の派遣した艦隊は、躊躇《ちゅうちょ》なく島に近づき……島に砲弾を浴せようとするでしょう……。ところが、まだそういうことが起きていないのは、起こるはずがないから、ケル・ケラジェについて何も知られていないからです……。そして、このことはあなたも認められるだろうが、これはあなたがたにとって最も好都合な仮定ですよ……」
「そうかもしれない」とセルコ技師は答えた。「しかし事実は……事実なんだから。人が知っていようが知っていまいが、島から四海里か五海里のところまで近づいた軍艦は、大砲を放つこともできぬうちに沈められるでしょう!」
「そうかもしれない」と今度は私が言った。「で、それから?……」
「それから?……たぶんほかの軍艦はもはやあえて近づこうとしないでしょう……」
「そうかもしれない! しかしそれらの軍艦は危険区域外であなたがたを包囲するでしょうし、他方『エッバ』のほうも以前ダルチガス伯爵を乗せてよく行っていた港にもう行くことはできますまい!……となれば、どのようにしてあなたがたは島への補給を確保することができますか?」
セルコ技師は沈黙を守った。
この問題はすでに彼の頭を悩ましていたに相違ないのだが、彼がこれを解決し得ないでいることは明白であった……。そして私はこの海賊どもはバック・カップを去ることを考えているものと推測した……。
けれども、私の指摘によってぎりぎりまで追いつめられまいとして彼は言った。
「とにかくタグは残りますよ。そして『エッバ』のできなくなったことはあれがやります……」
「タグですって!……」と私は叫んだ。「もしケル・ケラジェの秘密がわかってしまったとすれば、ダルチガス伯爵の水中船の存在も知られぬはずがあるでしょうか?……」
セルコ技師はうさんくさそうな視線を私に投げた。
「シモン・アールさん、あなたは少々結論を急ぎすぎているように見えますね……」
「私が? セルコさん……」
「そう……私にはどうも、あなたのそうした言い方を聞くと、必要以上にいろいろなことを知りすぎていらっしゃるとしか思えませんな!」
この言葉にはっとして私は口をつぐんだ。私の議論には最近のあの事件に私が一役買っているかもしれぬと思わせる危険があることはあきらかだ。セルコ技師の目は執拗に私に注がれており、私の頭骨を突き抜けて私の脳のなかをさぐりまわしていた……。
それでも私はすこしも冷静を失わず、平静な口調で答えた。
「セルコさん、職業柄からも趣味からしても、私にはあらゆることについて推理する習慣がある。だから私は自分の推理の結果をあなたに申し上げたまでで、それを考慮に入れるか入れないかはあなたの自由です」
この言葉を最後にしてわれわれは別れた。しかし私は充分自制していなかったため、もしかすると疑惑を抱かせてしまったかもしれないし、そうなるとその疑惑に抗することは容易ではなかろう……。
この話合いから結局私は次のような貴重な情報を得ている。つまり、ロック式フュルギュラトゥールのために船が近づけぬ範囲は四マイルから五マイルのあいだだということだ……。もしかしたらこの次の春分の大潮のときに……もう一度桶に覚え書を入れて……? いかにも、トンネルの口が干潮のときにあらわれるまでとなると何か月も待たねばならない!……そしてまた、この第二の覚え書が最初のそれと同様にうまく行き着くであろうか?……
悪天候はつづき、疾風はそれまでなかったほどものすごかった――これは冬季のバーミュダでは普通なのだが。してみるとバック・カップへの再度の攻撃を遅らせているのはこの海の状態なのか?……それにしてもデイヴォン中尉は、自分の任務が失敗し、「ソード」がセイント・ジョージに帰らないとなれば、海賊どものこの巣窟を絶やす試みが別のやりかたでくりかえされるだろうと私に明言していたのだ……。遅かれ早かれ正義の事業はなしとげられ、バック・カップの完全な破壊にいたらねばならぬ……私自身がその破壊から生き伸びられぬということになっても!……
ああ、どうしてほんの一瞬でもいいから外のすがすがしい空気を吸いに行けないのか!……どうしてバーミュダ群島の遠い水際に一瞥《いちべつ》を投げることができないのか!……私の全生命はこの熱望に――廊下を抜け、岸に出、岩のあいだに身をひそめたいという熱望に集中している……。そしてこの私が誰よりも先にこの島にむかって進む艦隊の煙を発見しないものでもないではないか!……
不幸にしてこの計画は実現不可能だった。廊下の両端に昼夜監視のものが立っているからだ。セルコ技師の許可なしには誰も廊下にはいることはできない。万一入ろうとしたら、私は洞窟の内部を歩きまわる自由を奪われるかもしれない――いや、もっとひどい目に遭《あ》うかも……。
事実、彼とのこの前の会話以来、セルコ技師は私に対する態度を変えたように見える。それまでからかうようだった彼の目つきは警戒的に、疑わしげに、穿鑿的《せんさくてき》になり、ケル・ケラジェのそれと同じくらい厳しくなった!
――十一月十七日――、今日の午後、猛烈な騒ぎがビーハイヴで起こった。人々は部屋から飛び出す……。そこらじゅうから叫び声が起こる。
私は簡易寝台から飛び降り、大急ぎで外に出た。
海賊どもは廊下のほうへ駈けて行く。その入口にはケル・ケラジェ、セルコ技師、スパード船長、水夫長エフロンダ、機関士ギブスン、ダルチガス伯爵に使えるマレイ人がいた。
この騒動をひき起こした理由を私はまもなく知った。見張りが警戒の叫びを発しながら帰って来たからだ。
多数の船が北西に認められたのだ、――全速力でバック・カップの方向へ進んで来る軍艦が。
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十六 なお数時間
この知らせが私にどんな印象を与えたことか、そして何という形容に絶した感動が私の全心を捉えたことか!……現在の事態の結末が迫っている。私はそれを感じた……。この結末が文明と人類の要求するようなものであってくれればいいが!
現在まで私は日々に日誌をしたためていた。今からは時々刻々に控えておかねばならない。トマ・ロックの最後の秘密を私が知るかもしれないし、それを書きとめる時間が私になかったということになるかもしれないのだ!……攻撃のあいだに私が死んだとすれば、私がバック・カップの洞窟のなかで過ごした五か月間の記録が私の死体のそばで発見されるように祈る!
まず第一に、ケル・ケラジェ、セルコ技師、スパード船長、そして他の幾人かの彼らの仲間たちは島の外側の裾のそれぞれの位置についた。彼らの後について行き、岩のあいだにうずくまり、沖に認められたという艦を眺めることができるとすれば私は何ものも惜しまなかったろうが……。
一時間後、監視のために二十人ほど残して皆はビーハイヴにもどって来た。この時期には日はもうずっと短くなっていたので、翌日までは何の心配もなかった。上陸しようというのではない以上、しかも攻め手のほうがバック・カップの防備について予想しているところからすれば、彼らが夜襲を考えるなどということはあり得なかった。
夕方まで沿岸のいろいろな地点に発射台を据える作業がおこなわれた。発射台は六基あって、あらかじめ選定されている場所へ廊下を通って運ばれた。
それが終わるとセルコ技師は実験室のトマ・ロックのところへ行った。それでは彼は、何がおこったかをトマ・ロックに知らせよう……艦隊がバック・カップから見えるところにいることを教え……フュルギュラトゥールが島の防禦に役立つと言おうと思ったのか?……
疑いのないことは、それぞれ数キログラムの爆薬を装填し、確実に他のいかなる砲弾よりも優れた軌道を描いて飛ばせる燃焼剤をそなえた五十個ばかりの機械が、その破壊力を発揮すべく準備を終わっていたということだ。
起爆薬の液体はどうかといえば、トマ・ロックはそれを入れたいくつかの容器を作っていた。そして彼は――私にはこれはわかりすぎるほどわかっていたが――ケル・ケラジェの海賊どもに対する協力を拒むまい!
この準備のあいだに夜になってしまった。洞窟のなかは薄暗かった。ビーハイヴの電燈しかつけなかったからだ。
私はできるだけ人前に姿を見せぬほうがいいので、自分の房に帰った。私はセルコ技師の心に疑惑をかきたてたかもしれぬが、艦隊がビーハイヴに迫っている今、この疑惑はふたたびかきたてられるのではなかろうか?……
しかしその姿を認められた艦隊はあいかわらずこの方向にむかって来るのであろうか?……バーミュダの沖を通って水平線に姿を没するのであるまいか?……一瞬こういう疑いが頭にうかんだ……。いや……そんなことはない!……のみならずスパード船長の観測によれば――今しがた私は彼の独り言を聞いたのだ――軍艦が依然として島の見えるところにとどまっていることは確実だ。
その軍艦はどの国に属するものだろう?……「ソード」を破壊されたことに対して報復しようとするイギリス軍が独力でこの作戦を引き受けたのであろうか?……ほかの国の巡洋艦が彼らと合流していないだろうか?……何もわからない……私には何も知ることができないのだ!……いや、かまうものか!……必要なことはこの洞窟が破壊されることだ、私自身が崩れた岩で潰《つぶ》されねばならぬとしても、私自身があの英雄的なデイヴォン中尉や彼の勇敢な部下たちのように命を落とさねばならないとしても!
防戦準備はセルコ技師の監督のもとに沈着に秩序正しくつづけられている。この海賊どもが敵が危険区域に入って来次第かならず粉砕することができると信じていることはあきらかだ。ロック式フュルギュラトゥールへの彼らの信頼は絶対的である。これらの軍艦は自分らに対しては何ごともなし得ないのだという狂暴な考えのほかは何一つ頭になく、彼らは今後の困難も脅威も考えようとしない!……
私の推定では、発射台は海岸の北西部に据えられていて、遊底は例の機械を北、西、南へ送り出すように方向づけられているはずである。島の東方はどうかといえば、すでに知られているようにバーミュダのはしの島々のほうへ伸びている岩礁によって守られているのだ。
九時ごろ私は思い切って自分の部屋から出てみた。私のことなど誰も注意しないだろう。そしておそらく闇のなかで人の目につかないですむだろう。ああ、廊下に忍びこみ、海岸に出、岩のかげにでも隠れることに成功したら!……夜明けに岸にいることができたら!……そしてケル・ケラジェもセルコ技師もスパード船長も海賊たちも外の部署についている今、それに成功しないはずはないではないか?……
ちょうどこのとき礁湖の岸には人影はなかったが、廊下の入口にはダルチガス伯爵のマレイ人が番をしていた。けれども私は外に出、はっきりとした考えもなくトマ・ロックの実験室のほうにむかった。私の考えはこの同国人のことに集中していたのだ!……彼のことを考えているうちに、私はバック・カップの水域に艦隊がはいって来ていることを彼は知らないのだと信じたい気になった。おそらくセルコ技師は最後の瞬間になって、唐突に彼にこれから復讐をさせてやると言い出すのだろう!……
そのとき突然、この私がトマ・ロックの面前に彼の行為の責任をつきつけてやろう、このぎりぎりの土壇場で、自分らの犯罪計画に協力させようとしているこの男たちが何者であるかを彼に明かしてやろうという考えが心にうかんだ……。
そうだ……そうしてみよう、そして他人の不正を怒っているこの人間の魂の底にわずかに残った愛国心を動かすことができればいいのだが!
トマ・ロックは実験室にとじこもっている。一人でそこにいるに相違ない。彼が起爆薬の調合をしているときには何びとも入ることを許されないのだから。
私はそちらのほうへ行った。そして礁湖の岸のそばを通るとき、タグが依然として小さな桟橋のところに停泊しているのを確認した。
そこまで来ると、横から実験室に行けるように――そうすれば誰かがトマ・ロックといっしょにいないかどうか見ることができる――石柱の最初の列のあいだを忍んで行くのが賢明だと思った。
この暗いアーチの下に入り込むやいなや、礁湖の向う岸にともっている煌々《こうこう》とした光が見えて来た。この光は実験室の電球の発するもので、前面の小さな窓から光線が放たれているのだった。
その場所を除けば南側の岸は暗く、いっぽうその反対側のビーハイヴの一部は北の壁のところまで照明がついている。暗い礁湖の上の穹窿上部の穴からいくつか星がまたたいている。空は澄み、嵐はしずまり、突風の渦はもはやバック・カップの内側に入って来なかった。
実験室のそばまで来ると私は岩壁に沿って這って行き、窓ガラスまで頭をもたげるとトマ・ロックが見えた……。
彼は一人だった。ぎらぎらとした光を浴びている頭が四分の三ほど見えた。顔はやつれ、額の皺《しわ》は以前よりも目立っていたが、すくなくともその表情は完全な平静さを、完全に正気であることをあらわしていた。
いや、これはもうヘルスフル・ハウスの十七号病棟の患者ではなかった。そして私は、彼がもう全治しているのではあるまいか、彼の理性が最後の危機に落ちこむような心配はもうないのではあるまいかと考えた……。
トマ・ロックは台の上に二つのガラスの容器を置いた。もう一つの容器はまだ手に持っていた。それを電球の光に当てて彼は容器のなかの液体の透明度を調べていた。
私は一瞬、実験室に飛びこみ、そのチューブをひったくり、叩き割ってやりたいと思った……。しかしトマ・ロックはまた別のを作ることができるではないか?……最初の計画に従ったほうがいい。
私はドアをあけ、中にはいって言った。
「トマ・ロック?……」
彼には私が目にはいらず、私の声も耳にはいらなかった。
「トマ・ロック……」と私はくりかえした。
彼は頭を上げ、振り向き、私をみつめた……。
「ああ、君か、シモン・アール!」と、静かな――それどころか興味のなさそうな口調で彼は答えた。
彼は私の名を知っている。セルコ技師は、ヘルスフル・ハウスで彼を監視していたのは看護人ゲイドンではなくシモン・アールだったということを彼に教えていたのだ。
「知っているのですか?……」と私は言った。
「君がどういう目的で私のそばであんな役割をつとめたかも知っているよ!……そうだ! 誰も相応の価で買おうとしなかった秘密を君は盗めると思っていたのだ!」
トマ・ロックは何もかも知っているのだ。そして私がこれから彼に言おうと思っていることを考えれば、たぶんそのほうがいいのかもしれない。
「ところが君は成功しなかった、シモン・アール、そしてこれのことでは」と彼は、ガラス管をふりまわしながらさらに言った。「誰もまだ成功していないし……今後成功することはあるまい!」
トマ・ロックは、私もそうではないかと思っていたのだが、それでは起爆薬の成分を教えてなかったのだ!……
私はまっこうから彼の顔を見据えてから答えた。
「トマ・ロック、私が誰かあなたはごぞんじだ……。だが、ここは誰のところかあなたは知っていますか?……」
「私の家さ!」と彼は叫んだ。
いかにも! ケル・ケラジェは彼にそう信じさせていたのだ!……バック・カップでこの発明家は自分の家にいるつもりでいる……。この洞窟に山と積まれた財宝は彼のものなのだ……誰かがバック・カップを攻撃しに来るなら、それは彼の富を奪うためなのだ……そして彼は自分の富を守るだろう……守る権利がある!
「トマ・ロック」と私は語を継いだ。「私の言うことを聞いてください……」
「何か私に言うことがあるのか、シモン・アール?……」
「われわれ二人が引きずりこまれたこの洞窟は海賊の一味に占領されているのです……」
トマ・ロックは私に最後まで言わせずに――彼が私の言うことを理解したかどうかも私にはわからない――、猛烈ないきおいで叫んだ。
「くりかえして言うが、ここに積まれている財宝は私の発明に対する代価なんだぞ……。これは私のものだ……。ロック式フュルギュラトゥールに対しては私の要求しただけのものが支払われた……このことはほかではどこでも拒絶されたことなのだ……私自身の国でさえも……君もその国の人間だがな……私はおとなしく裸にされていたりはしないよ!」
こんな筋の通らぬ言い分に何と答えたらいいものだろう?……それでも私はつづけた。
「トマ・ロック、あなたはヘルスフル・ハウスのことをおぼえていますか?」
「ヘルスフル・ハウス……私の片言隻句も聞きもらすな、私の秘密を盗めと看護人ゲイドンに命じた上で、奴らはそのヘルスフル・ハウスに私を監禁したのだ……」
「その秘密のことだが、トマ・ロック、私はあなたがそれから利益を得ることを妨げようとは一度も考えたことはない……。そんな使命なら私は引き受けなかったでしょう……。しかしあなたは病気だった……。あなたの理性はそこなわれていたのです……そしてあのような発明が無駄になってしまうなどということがあってはならなかった……。そうです……もしあなたが発作中に私に秘密を明かしたとしても、そのすべての利益を名誉をあなたは保持したはずです!」
「なるほどね、シモン・アール!」とトマ・ロックは軽蔑的に答えた。「名誉と利益か……それを言うのはすこし遅すぎたな!……君は忘れているよ、私が監禁室に投げこまれたことを……狂気という名目でね……そうさ、名目だよ。私はけっして理性を失ったことはないんだからな、一時間たりとも。そして私が自由になって以来して来たことを見れば君にもはっきりそれがわかるはずだ……」
「自由!……あなたは自分が自由だと思っているのですか、トマ・ロック!……この洞窟の岩壁のなかに、ヘルスフル・ハウスの壁のなかにいたときよりももっと窮屈に閉じこめられているではありませんか!」
「自分の家にいる人間は好きなときに好きなように外出するものだ!」とトマ・ロックは怒りのためにやたらに声を張り上げて答えた。「私が一言いいさえすればすべての扉は私の前に開かれる!……この家は私のものだ!……ダルチガス伯爵はこの家とその中にあるすべてのものの所有権を私に与えたのだ!……ここを襲って来る奴らはひどい目にあうぞ!……そんな奴らを皆殺しにしてしまうだけのものがそこにあるのだ、シモン・アール!」
そのように言いながら発明家は手に持ったガラス管を熱に浮かされたように振りまわした。
そこで私は叫んだ。
「ダルチガス伯爵はあなたを瞞《だま》したのだ、トマ・ロック、ほかの多くの連中を瞞したのと同様に!……太平洋と大西洋の海を荒しまわった最も恐るべき悪漢がこのダルチガス伯爵という名のかげにひそんでいるのだ!……犯罪に犯罪をかさねた強盗です……憎むべきケル・ケラジェですよ……」
「ケル・ケラジェ!」とトマ・ロックはくりかえした。
そして私は、この名が彼にある驚きを与えたのではないか、この名を名乗るものがどんな人物かが記憶によみがえったのではないかと思った……。が、いずれにしてもその驚きはほとんどたちまち消え去った。
「そのケル・ケラジェなどという人間は私は知らない」と、扉のほうへ腕を伸ばして私に出て行けと命じながらトマ・ロックは言った。「私が知っているのはダルチガス伯爵だけだ……」
「トマ・ロック」と私はせいいっぱいの努力をして言った。「ダルチガス伯爵とケル・ケラジェは同一人物にほかならない!……この男があなたの秘密を買ったのは、罪に対する報いを受けまいとするため、新しい犯罪をおこなう便宜のためなのです。そうです……あの海賊の頭目は……」
「海賊か……」とトマ・ロックは叫んだ。自分がますます追い詰められるのを感じるにつれて彼の怒りはたかまった。「海賊というのは、あえてこの隠れ場にまで迫って私を脅迫しようとするもの、『ソード』に乗って……セルコが私に何もかも教えてくれたからな……それを試みた奴らのことだ……私のものを……私の発明の当然の代価にほかならぬものを、私のところから盗もうとした奴らのことだ……」
「ちがう、トマ・ロック、海賊というのは、あなたをこのバック・カップの洞窟にとじこめ、自分らの身を守るのにあなたの天才を利用しようとし、そしてあなたの秘密を完全に自分のものにしてしまった暁にはあなたをかたづけてしまおうとしている奴らのことです!……」
トマ・ロックはこの私の言葉をさえぎらなかった……。
彼はもはや私の言うことなど全然耳に入らないように見えた……。私の考えを追うのではなく、自分自身の考えのみを彼は追っていた――セルコ技師がたくみに利用している、そして彼のありとあらゆる憎悪がそのうちに凝縮している、あの偏執的な復讐の観念を。
「強盗というのは」と彼は語を継いだ。「私の言うことを聞こうともせずに私をしりぞけた奴ら……私に対してさんざん非道な真似《まね》をし……軽侮と拒絶で私を押しつぶし……私が優位を、不敗の力を、全能の力を与えようとしてやったのに次々にその国から私を追い出した奴らのことだ!」
そうだ! 例によって例のごとき、人に容れられぬ発明家、無関心な連中や羨望者たちからその発明を実験することや自分の評価した値段で購うことを拒まれる発明家の話だ!……私はそんな話は承知している……しかもそこにある誇張までも私は充分知っているのだ……。
実を言えば、今はトマ・ロックと議論している時ではなかった……。私にわかっているのは、この混乱した魂、さまざまの失望によってこれほどの憎悪をたきつけられたこの心、ケル・ケラジェとその共犯者に瞞されているこの不幸な男には、私の議論などはもう全然効果がないということだ!……ダルチガス伯爵の本名を教え、この一味とその頭目のことを彼にあばくことによって、私はこの男どもの影響から彼を救い出し、彼がその方へ押しやられて行く犯罪的な目的を彼に知らせてやれるものと思っていたのだ……それは私の誤りだった!……彼は私を信じない!……それにまた、ダルチガスであれケル・ケラジェであれ、そんなことは問題ではない!……バック・カップの主人は彼トマ・ロックではないのか?……二十年の殺人と掠奪がここに積み上げたこれらの富の所有者は彼ではないのか?……
このような道徳心の退化に失望し、この憎悪に固まったこの性格のどこを衝いたらいいかもはやわからずに、私はだんだんと実験室の扉のほうへあとずさった……。もはや私には引きさがるよりほかなかった……。起こるべきことは起こるだろう、後わずか数時間もないほどに迫った恐るべき結末をとどめることは私の力ではできないだろうから。
そのうえトマ・ロックはもう私を見てすらいなかった……。私たちのあいだで言われたことのすべてを忘れてしまったと同様、私がそこにいることも忘れてしまったように見えた。自分が一人だけでいるのではないということなど気にもかけずに彼はまた仕事にとりかかった……。
目睫《もくしょう》に迫った破局を防止するにはただ一つの方法しかなかった……。トマ・ロックに飛びかかること……彼が害を与え得ないようにすること……打ちのめし……殺すこと……。そうだ……彼を殺す!……それは私の権利だった……。私の義務だった……。
私は武器を持っていなかったが、あの仕事台の上に道具があるのを見た……。鑿《のみ》、ハンマー……。私が発明家の頭を打ち砕くのを引き留めるものはいないではないか……。彼が死んだら私は彼のガラス管をぶちこわす。そして彼の発明は彼とともに死んでしまう!……軍艦は接近し……バック・カップに兵隊を揚げ……大砲でこの小島を粉砕することもできるだろう!……ケル・ケラジェとその共犯者は一人残らず殺されるだろう……。かくも多くの殺人に対する罰をもたらす以上、この殺人の前で私は躊躇していいだろうか?……
私は仕事台のほうに近づいた……。鋼の鑿《のみ》がそこにあった……。私の手はそれをつかもうとした……。
トマ・ロックが振り向いた……。
もう打ちかかるには遅すぎた……。そうしたら格闘が起こったろう……。格闘があれば物音がする……。叫び声が聞こえてしまう……。このあたりにはまだ数人の海賊がいる……。見咎められるのがいやならば逃げ出す時間しかもうなかった……。
それでも最後にもう一度私は発明家の心に愛国心をよびおこそうとしてみた。そして私は言った。
「トマ・ロック、軍艦はもう見えるところまで来ている……。このかくれがを破壊するために来たのだ!……もしかするとそのうちの一隻はフランスの国旗をかかげているかもしれないではありませんか……」
トマ・ロックは私をみつめた……。バック・カップが攻撃されようとしていることを彼は知らなかった。私が今それを彼に教えたのだ……。彼の額の皺は深く刻まれた……。目は光を放った……。
「トマ・ロック……あなたは自国の国旗に……三色旗に弓を引くようなことをするのですか?」
トマ・ロックは頭を上げ、その頭を神経質に振り、それから軽蔑的な身振りをした。
「私にはもう祖国はないのだ、シモン・アール!」と彼は叫んだ。「しりぞけられた発明家にはもはや祖国はない!……身を寄せる場所が見つかったところが彼の国なのだ!……皆は私の財産を奪おうとする……私は抵抗するぞ……そして……そしてあえて私を襲おうとするものはひどい目にあうのだ!……」
それから実験室の扉のほうへ飛んで行き、乱暴にそれを開いて、
「出て行け……出て行け!……」と、ビーハイヴの崖からも聞こえるに相違ないほど激しい声でくりかえした。
一秒間も無駄にすることはできず、私は逃げ出した。
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十七 一対五
一時間というもの私はバック・カップの暗いアーチの下を石の樹木を縫って洞窟のいちばん端までさまよった。私がこれまで何度となく出口がないか、くぐりぬけて島の外の岸まで出られるような壁の断層か亀裂《きれつ》でもないかと捜したのはこのあたりだった。
私の探究は徒労だった。今は、何とも言いようのないさまざまの錯覚に捉われているこうした状態の私には、この岩壁がさらに厚みを増し……私の牢獄の壁がすこしずつ狭まり……今にも私を押しつぶすように思えるのだ……。
この理性の混乱はどれほどのあいだつづいただろうか?……私にはわからない。
このとき私はビーハイヴのほうにもどっていた、もはや安息も眠りもそこでは得られる当てのないあの房の前に……。どうして眠れよう、これほど頭のなかが沸きかえっているというのに……。どうして眠れよう、長い年月つづくのではないかと思われていた状況が結末に近づこうとしているというのに……。
だがその結末は、私に関してはいったいどのようなものになるであろうか?……バック・カップに対して準備されている攻撃から私は何を期待すべきであろうか? トマ・ロックが手を出せないようにしてこの攻撃が間違いなく成功するようにすることに私は失敗しているのだ……。軍艦が危険区域に侵入するやいなや、彼の機械は飛び出せる態勢になっている。そしてたといそれが命中しなかったとしても軍艦は海の藻屑《もくず》となるだろう……。
それはともかく、夜明けまでのこの数時間を私は自分の房の奥で過ごさねばならなかった。もうそろそろ房に帰らねばならなかった。夜が明けたら何をなすべきかわかるだろう。のみならず、爆発音がその夜バック・カップの岩を揺がすかどうかもわかるのではないか……軍艦が島のそばに錨《いかり》をおろす前にその軍艦を轟沈《ごうちん》するロック式フュルギュラトゥールの爆発音が?……
このとき私は最後にもう一度ビーハイヴのまわりを見まわした。対岸には光が……ただ一つの光……実験室の光がかがやいており、その反映が礁湖の波間にちらちらしている。
岸には人影はない。突堤にも誰もいない……。この時刻にはビーハイヴはがらんとしているはずだ、海賊どもはそれぞれの戦闘部署に行ったのだとふと私は思いついた……。
そこで、抑えがたい本能に促されて私は、自分の部屋に帰るかわりに壁に沿ってそっと進みはじめた、耳をすまし、あたりをうかがい、足音が聞こえたらすぐどこかの岩の凹みに身をひそめるように身構えて……。
こうして私は廊下の入口の前まで来た……。
ありがたい!……この場所には誰一人見張りはいなかった……。通るのを妨げるものはなかった……。
あれこれ考える遑《いとま》もあらばこそ、私は暗黒の坑道に飛びこんだ……。手さぐりで壁に沿って行く……。まもなく前より涼しい空気が顔いっぱいに当たった、――潮を含んだ空気、海の空気、これまで五か月の長きにわたって吸うことのなかったあの空気だ……この生気をみなぎらす空気を私は胸いっぱいに吸いこんだ……。
廊下の向こうの端が星をちりばめた空を画している。それをさえぎる人影は全然ない……そしておそらく私はバック・カップから出ることができよう……。
腹這いになってから私は音をたてずにゆっくりと這った。
口まで来て頭だけ突き出すと、私は見まわした……。
誰もいない……誰も!……
西側のほうの、岩礁のため接近不可能になっていて見張られているはずのない方角の島の基部をつたって、私は小さな岩の凹みに達した――岬が北西にむかって突き出ている場所からおおよそ二百メートルほどのところだ。
とうとう……私はあの洞窟の外に出た、――まだ自由とはいえなくとも、これはやはり自由の始まりだった。
岬の上には岩と見まがいかねないような幾人かの見張りのシルエットが浮き出している。
大空は澄み、あちこちの星座は冬の寒空に見られるあの強烈なきらめきを発していた。
北西のほうの水平線には軍艦の舷燈が光の筋のように見えていた。
東の方角でそちこちが白みかけてきたのを見て私はだいたい午前五時ごろだろうと思った。
――十一月十八日――、もう充分明るい。これから私は、トマ・ロックの実験室を訪れたときの委細を述べてこの覚え書を補足することができるだろう――もしかすると私の手で書く最後の文章になるかもしれないが……。
私は書きはじめる。そして攻撃中にいろいろと事件が起これば、それらはすべて私のノートに書きとめられるだろう。
海を包んでいる微かな湿った靄《もや》はまもなくそよぎはじめた風に散らされる。やっと問題の軍艦が見分けられた……。
これらの軍艦は五隻で、すくなくとも六海里の距離に――それゆえロック式フュルギュラトゥールの射程外に――一列にならんでいる。
私の抱いていた不安の一つはそれゆえ解消した、――それらの軍艦がバーミュダ群島の見えるところを通ってさらにアンティーリャス諸島とメキシコの海域にむかうのではないかという不安は……。いや、軍艦はそこに停止している……バック・カップを攻撃するために夜の明けきるのを待ちながら……。
ちょうどこのとき、何かの動きが岸に起こった。三、四人の海賊がいちばんうしろの岩のあいだからあらわれる。岬の見張りのものたちは引きかえす。一味のものは全部そろっている。
大口径砲の砲弾が島にとどくほどの距離まで軍艦が近づくことはできないのを知っていたので、一味は全然洞窟の内部に待避しようとはしない。
私はこの岩の凹みのなかに頭までもぐっているので、見つけられる危険はない。そして誰かがこちらのほうへ来ることも考えられない。それにしても一つ好ましからぬ事柄が起こるかもしれない。というのは、セルコ技師かほかの誰かが私が自分の房にいるかどうかを確かめ、必要とあれば私をそこへ監禁しようとすることだ……。それにしても、私について何を恐れることなどあろうか?……
七時二十五分にケル・ケラジェとセルコ技師とスパード船長は岬の突端に出て行き、北西の水平線をさぐっている。彼らのうしろには六台の発射台が据えられ、その遊底にはあの自動推進式の機械がのせられている。起爆薬によって点火されると、この機械はそこから長い抛物線《ほうぶつせん》を描いて飛び、その爆発によって周囲の大気圏がめちゃめちゃにかきまわされるような地域にまで達するのだ。
七時三十五分、――発進してバック・カップの火器の射程内に入ろうとしている軍艦の上に幾筋かの煙がたなびいている。
すさまじい歓呼、異口同音の万歳の叫び――野獣の咆哮と言うべきか――がこの悪党の群から発せられる。
そのときセルコ技師はケル・ケラジェをスパード船長といっしょに残して、廊下の入口にむかい、それから洞窟にはいって行く。トマ・ロックを迎えに行ったにちがいない。
彼の発明した機械を軍艦にむかって放つようにケル・ケラジェが命じたとき、トマ・ロックは先ほど私が言ってやったことを思い出してくれるだろうか?……いや……そうでないことは私にはわかりすぎるほどわかっているのだ!……これについて私がむなしい希望を抱きつづける理由がどこにあろうか?……発明家はここが自分の家だと思っているではないか……。彼はくりかえしてそう言い……そう信じている……。敵が攻撃に来る……彼は防ぐだろう!
そのあいだにも五隻の軍艦は舳《へさき》を島の突端に向けて低速で進んでいる。たぶん軍艦の連中は、トマ・ロックはその最後の秘密をバック・カップの海賊どもにまだ売っていないと考えているのだろう。――そして事実、私が桶を礁湖の水に投じたときは売っていなかったのだ。ところが、もし艦長たちが島に上陸をおこなう意向を持ち、彼らの艦が幅一海里ほどのこの水域にあえて入って来たとすれば、まもなく海面にただよう醜い残骸以上に何ものも残さぬこととなるだろう!……
今トマ・ロックがセルコ技師にともなわれてあらわれた。廊下から出ると二人は、発射台のうち先頭の軍艦の方向に向けられている一基のほうにむかった。
ケル・ケラジェとスパード船長は二人ともそこで彼らを待っている。
私の判断し得たかぎりではトマ・ロックはおちついている。自分がこれからすることを彼は自覚している。憎悪に狂ったこの不幸な男の魂はいかなる躊躇もおぼえないだろう!
彼の指のあいだには起爆薬の液体のはいっているあのガラスの容器の一つがきらめいている。
彼の視線はこのとき、いちばん手前の、おおよそ五海里ばかりの距離にある軍艦に向けられた。
それは中型の――せいぜい二千五百トンぐらいの巡洋艦だった。
旗はかかげられていなかった。しかしその艦型から、私にはこの軍艦はフランス人にとってはあまり好意を持てない国のものであるように思えた。
ほかの四隻の軍艦はうしろにとどまっている。
島に対する攻撃の火蓋《ひぶた》を切る任務はこの巡洋艦に与えられていたのだ。
さあ、艦砲を放つがいい、海賊どもは接近するにまかせているのだから。そして射程内にはいったらさっそくその第一弾がトマ・ロックを打ち倒さないものか!……
セルコ技師が巡洋艦の進み方を正確に測定するあいだ、トマ・ロックは発射台の前に陣取った。この発射台には、爆薬を装填し、廻転運動を与える――このことは発明家チュルパンがそのジャイロスコープ弾を作るときに考えたことなのだが――必要なしに燃焼剤によって長い軌道を飛べるはずのフュルギュラトゥールが三個載っていた。その上このフュルギュラトゥールは船から数百メートル離れて炸裂しても、船を一撃のもとに破壊してしまうには充分なのだ。
いよいよその時が来た。
「トマ・ロック!」とセルコ技師は叫ぶ。
彼は巡洋艦を指差す。巡洋艦はゆっくりと北西の岬に近づき、距離はもはや四海里から五海里までしかない……。
トマ・ロックはよしという合図をし、ほかのものは発射台の前に来るなと身振りで知らせる。
ケル・ケラジェ、スパード船長、その他の連中は五十歩ほど引きさがる。
するとトマ・ロックは右手に持っていたガラスの容器の栓を取り、次々に三つのフュルギュラトゥールに、その軸にあけられた口から例の液体を数滴注ぎ、液体は燃焼剤と混る……。
四十五秒経過する――化合がおこなわれるに必要な時間だ――。この四十五秒のあいだ、私の心臓は鼓動を停止したかに思える……。
空気を引き裂くような恐ろしい音が起こり、三つのフュルギュラトゥールは空中百メートルのところをひじょうに長く伸びた弾道を描いて巡洋艦を飛び越す……。
それでは命中しなかったのか?……危険は去ったのだろうか?
いや! 砲兵少佐シャペルの発明した円盤状砲弾の要領でフュルギュラトゥールはオーストラリアのブーメランのように逆もどりして来た……。
ほとんど時を移さず、メリナイトかダイナマイトの火薬庫の爆発にも比すべき激しさで空間は打ち揺すられる。低い空気層はバック・カップの島まで押し下げられ、島は土台から揺れる……。
私は目をやった……。
巡洋艦はばらばらにされ、大穴をあけられ、打ち沈められてその姿はなかった。
この悪漢どもは岬の突端にむかって駈け出しながら何というすさまじい喚き声をあげたことか。ケル・ケラジェとセルコ技師とスパード船長は身じろぎもせず、自分の目が見たことを信じられないでいる。
トマ・ロックのほうは、腕を組み、目をきらめかせ、喜びの顔をかがやかせながら立っている。
私は彼に嫌悪を感じながらも、発明家のこの得意さを理解することができる。復讐をし遂げたことによって彼の憎悪はかえって倍加されたのだ!……
そしてもしほかの軍艦が近づけば、巡洋艦と同じ目に遭うことであろう。運命を逃れるすべもなく、同じようにしてかならず破壊されるだろう!……そうだ、たとい私の最後の望みがその軍艦とともに消え去ってしまわねばならぬとしても、逃げ出してくれないものか、沖に出てくれないものか、無用な攻撃をやめてくれないものか!……諸国は協力して別の方法で島を破壊しようとするだろう!……海賊どもが突破できないように船を連ねてバック・カップを包囲し、そして海賊どもは野獣がその巣孔で餓死するようにこの隠れ家で飢えて死ぬだろう!……
しかし――私にはわかっている――、たとい敗れることは確実であるとしても、軍艦にむかって退却することを要求すべきではない。大海の底に嚥《の》みこまれねばならぬとしても、舳艫《じくろ》相ふくんでためらうことなく戦闘を開始することであろう。
そして実際、艦から艦へといろいろな信号が交わされはじめる。ほとんど時を移さず北西の風に吹きおろされた前よりも濃い煙が水平線を黒く染め、四隻の軍艦は動き出す。
そのうちの一隻が早くその大口径砲の火蓋を切るために射程にはいろうとして、しゃにむに馬力をあげてほかの艦より先に出る……。
危険を承知で私は自分の穴から出る……。熱っぽい目で私はみつめる……。それをとどめる手だてもなく私は第二の災禍を待つ……。
みるみるうちに大きくなったその軍艦は、先ほどのそれとだいたい同じくらいのトン数の巡洋艦だった。斜桁《しゃこう》には全然国旗がひるがえっておらず、私にはどの国のものか全然見分けられない。ふたたびフュルギュラトゥールが放たれる前に危険地帯を通り抜けようとして馬力を上げていることはあきらかだ。しかしフュルギュラトゥールは逆転して攻撃を加えることができるのだから、どのようにして巡洋艦はその破壊力を免れることができるだろうか?……
トマ・ロックは二番目の発射台の前に陣取っていた。いっぽう軍艦は、いずれさきほどの艦の後を追ってみずからも没し去るべき海の上を走って行く……。
沖から多少風が吹いて来るにもかかわらず、この空間の静けさを乱すものは何もない。
突然巡洋艦の上で太鼓が打ち鳴らされる……。ラッパの音が聞こえて来る。その金管の音は私の耳までとどく……。
私にはそれがわかった、このラッパの号音……フランスの号音……。ああ!……ほかの軍艦の前を行くのは、そしてフランスの発明家が撃沈しようとしているのは、私の国の軍艦なのだ!……
いや!……そんなことはさせない……。私はトマ・ロックのほうへ駈け寄ろうとした……。あの船はフランスの船だと彼に叫ぼうとした……。彼は気づいていなかったのだ……いずれ気づくだろう……。
あたかもこのとき、セルコ技師の合図でトマ・ロックはガラスの容器を持った手を上げる……。
と、ラッパがいっそう高らかな響きを発した。それは国旗に対する栄誉礼だった……。旗が微風にひるがえる……三色旗だ。その青、白、赤の彩《いろど》りが輝かしく空に浮き出す。
ああ! どうしたのだろう?……わかった!……自分の国の国旗を見てトマ・ロックは呪縛《じゅばく》されたようになっているのだ!……その旗がゆっくりと空に上って行くにつれて彼の手はだんだん降りて行く!……それから彼は後ずさる……三色のモスリンの襞《ひだ》から守ろうとするかのように彼は手で目を蔽う……。
ああ神よ! 自国の旗を見てなおもこのように強く鼓動する以上、怨恨に傷ついたこの心臓からすべての愛国心が消え去っているわけではなかったのだ!……
私の感動も彼のそれに劣らなかった!……見られる危険を冒して――見られたところで何になる!――私は岩を伝って這う……。私はトマ・ロックのそばにいて彼を支えてやり、彼の心が挫《くじ》けるのを引きとめたい!……たとい彼のために自分の命を犠牲にしなければならぬとしても、祖国の名において最後にもう一度彼の心にうったえてみよう……。「フランス人よ、あの軍艦の上にかかげられているのは三色旗だぞ!……フランス人よ、こちらにやって来るのはフランスの一部なのだぞ!……フランス人よ、君はそれを攻撃しようとするほどの極悪人なのか?……」と彼に叫んでやろう。
しかし私が出て行く必要はなくなりそうだった……。トマ・ロックはかつて彼を打ちのめしたあの発作に襲われているのではない……。彼は完全に正気なのだ……。
そして自分が国旗に面しているのを見たとき、彼は理解した……彼はうしろへ飛びのいた……。
数人の海賊が彼を発射台の前に引きもどそうとして近づく……。
彼はその連中を押しのける……あばれまわる……。
ケル・ケラジェとセルコ技師が駈けつける……。高速で前進して来る軍艦を指差して見せる……。フュルギュラトゥールを放てと彼に命じているのだ……。
トマ・ロックは拒否する。
スパード船長やほかの連中は憤怒のあまり彼を脅迫し……罵倒し……なぐる……。彼の手からガラスの容器をもぎとろうとする……。
トマ・ロックは容器を地面に投げ捨て、踵《かかと》で踏みつぶす……。
いかばかりの驚愕《きょうがく》がそのときこの悪人どもを襲ったことであろう!……例の巡洋艦は危険区域を突破していた。そして彼らには島に落下しはじめた砲弾に応酬するすべもないのだ。島の岩は砕けて飛び散った……。
それにしてもトマ・ロックはいったいどこに行ったのか?……飛んで来る砲弾の一つにやられたのだろうか?……いや、ちがう……。廊下に駈けこむ瞬間の彼の姿を、私はこれを最後に見た……。
ケル・ケラジェもセルコ技師もほかの連中も彼の後を追ってバック・カップの内部に避難しようとする……。
私は……どんなことがあっても私は洞窟に帰りたくはない、――たといこの場で殺されようとも! 私は最後の手記を書きつけ、そしてフランスの水兵が岬に上陸したら私は……。
シモン・アール技師の手記、終
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十八 「ル・トナン」号の上で
ディヴォン中尉が「ソード」に乗ってバック・カップの内部に侵入せよという使命を与えられておこなった試みの後、イギリス当局はあの大胆な水兵たちが死んだことをもはや疑うことはできなかった。事実「ソード」の姿はバーミュダにふたたびあらわれなかったのである。トンネルの入口をさがすうちに海面下の岩礁にぶつかって砕けたのであろうか? ケル・ケラジェの海賊どもに破壊されたのであろうか? それはわからなかった。
セイント・ジョージの砂浜にあった桶のなかに見いだされた文書の指示に従っておこなわれたこの派遣の目的は、フュルギュラトゥールの製作が完了する前にトマ・ロックを攫《さら》うことだった。このフランス人発明家を――同じくシモン・アール技師も――取りもどして、バーミュダ当局の手に預ける。そうしてしまえば、バック・カップ島に近づく際ロック式フュルギュラトゥールを恐れる必要はもう全然ないだろう。
しかし数日たってなお「ソード」が帰らないので、この船は沈んだものと見ねばならなかった。当局はそこで攻撃の仕方を変えてもう一度同じ試みをすることに決した。
事実、シモン・アールがその覚え書を桶に託した日以来の時間の経過――八週間近く――を考慮に入れねばならなかった。もしかすると今はケル・ケラジェはトマ・ロックの秘密を手に入れているのではないか?
諸海軍国のあいだで結ばれた協定によって五隻の軍艦をバーミュダ近海に送ることに決せられた。バック・カップの岩塊の内部に広い洞窟があるのだから、堡塁の壁と同様にこの洞窟の壁を近代的な強力な大砲で打ち崩すことに努める。
艦隊はヴァージニア州チェサピーク湾の入口に集結し、バーミュダ群島にむかい、十一月十七日の宵に群島の見えるところまで到着した。
翌朝、最初の攻撃に選ばれた軍艦が発進した。艦が島からまだ四海里半も離れているときに、いったん通り越した三つのフュルギュラトゥールが反転してうしろからその艦を襲い、五十メートルほどのところで炸裂して艦は数秒で沈んだ。
空気層のすさまじい激動、新式爆薬によってこれまで生ぜしめられたこの種のものすべてを上まわる振動によるこの爆発の効果は瞬間的であった。後方にとどまっていた四隻の艦は、それだけの距離にありながら恐ろしい余波を感じたのである。
この突然の悲劇から二つの結論が引き出されねばならなかった。
一、海賊ケル・ケラジェはロック式フュルギュラトゥールを所有している。
二、この新兵器はその発明家が主張する破壊力を実際に持っている。
先鋒《せんぽう》の巡洋艦がこうして姿を消した後、他の軍艦は浮遊物にしがみついている生存者を救うためにボートを送り出した。
軍艦が信号を交わしバック・カップの島へ突進し出したのはこのときである。
いちばん高速の「ル・トナン」――フランスの軍艦――はフルスピードで先頭に立ち、他の艦もさかんに汽罐《かま》を焚《た》いてその後を追った。
「ル・トナン」は新たなフュルギュラトゥールに撃沈される危険を冒して、今の爆発の余波を残す区域に半海里ほど突っこんだ。大口径砲の砲口を向けるために変針するときに「ル・トナン」は三色旗をかかげたのだ。
艦橋の上から士官たちは島の岩の上に散らばったケル・ケラジェの一味を見ることができた。
いずれ砲撃で彼らの隠れがに大穴をあけてやることにして、今こそこの悪人どもを撃滅する好機だった。それゆえ「ル・トナン」は最初の斉射を送り、それとともに海賊どもはバック・カップの内部へあわただしく逃げこんだ。
それから数分後、天の穹窿が大西洋の底に崩れ落ちるかと思えるほどの衝撃で空間は震蕩《しんとう》された。
島のあったところにはもはや煙を上げている岩の堆積しかなく、その岩も次から次に石なだれのように崩れていく。さかさにした盃《さかずき》ではなく、こわれた盃だ!……バック・カップではなく珊瑚礁《さんごしょう》の堆積で、爆発で巨大な津波をおこした海がその上に泡立っている!……
この爆発の原因は何だったのだろう?……いかなる抵抗も不可能であると知って海賊らが自分の意志でこの爆発をひきおこしたのか?……
「ル・トナン」は島の岩の破片で軽い損傷を受けたにすぎなかった。艦長はボートを海におろさせ、ボートは海上にわずかに残ったバック・カップの残骸にむかった。
将校らの指揮のもとに上陸した乗組員たちはこの残骸を調べまわった。バーミュダ群島の方角ではこの残骸は岩礁と区別がつかなくなっていた。
あちらこちらで恐ろしく損壊されたいくつかの屍体、散乱する四肢、どろどろした血なまぐさい人肉が拾い集められた……。洞窟はもう影も形もなかった。すべてはその残骸の下に埋められていた。
珊瑚礁の北東部でただ一つだけ無疵《むきず》の体が見いだされた。この体はわずかに息をしているだけだったが、生き返らせる望みを人々は失わなかった。横に寝かしてみると、引きつった手に一冊の手帳を握っており、そこには未完に終わった最後の一行が読み取れた……。
それはフランス人技師シモン・アールであり、彼は「ル・トナン」号に運ばれた。いろいろと手当てしたにもかかわらず、意識をとりもどさせることはできなかった。
けれども、洞窟の爆発の起こった瞬間にいたるまで書きつづけられた手記によって、バック・カップの最後の数時間のあいだに起こったことの一部を再構成してみることが可能になった。
のみならず、シモン・アールはこの災厄から生き伸びることになる、――当然すぎるほど当然の罰を蒙った連中を除いて彼一人が生き伸びたのだ。彼が質問に答えられる状態になるとさっそくおこなわれた陳述から、次のように推定しても間違いではなかろう――事実またこれが真相なのであったが。
三色旗を見て心の底から震撼《しんかん》され、自分の犯そうとしていた祖国に対する反逆の罪をようやく自覚して、トマ・ロックは廊下を駈け抜け、自分の発明した爆薬が大量にたくわえられていた倉庫に行った。そうして引きとめる間もあらばこそあの恐ろしい爆発をひきおこし、バック・カップ島を破壊したのである。
そして今、ケル・ケラジェとその部下の海賊たちは消え失せた――そして彼らとともにトマ・ロックと彼の発明の秘密も!(完)
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あとがき
不遇のために世をすねて突飛な行動に出る学者はどの時代にもどの国にも事欠かないが、フランスの生んだ優れた化学者ユジェーヌ・チュルパンもその一人だった。一八八五年にメリナイト火薬を発明した彼は、この発明が自分の知らぬ間に外国に売られたものと信じて『メリナイトはどのようにして売られたか?』と題する本を書いたが、これが彼の不運のはじまりだった。この本によって国防に関する機密を漏らしたとして訴追された彼は、ますます世を呪い人を呪った。――そういう逆境にあった彼が、一八九六年に出版されたヴェルヌの小説『国旗に面して』を読んで激昂したことはいかにもと納得が行く。作中の狂った天才発明家に彼は自分の姿を見、この小説を自分の名誉を毀損《きそん》するものと見たのである。憤然として彼はその作者を告訴した。常軌を逸したこの学者を相手としてはどんな話し合いも妥協も不可能だった。被告のほうは自分の小説の愛読者である若い弁護士見習を法廷に立てたが、この白面の青年の周到な弁論に対して原告は為《な》すすべもなかった。取り乱した化学者は恨みに悶えながら法廷から飛び出してしまったのである。この青年弁護士は第一次世界大戦時のフランス共和国大統領レイモン・ポワンカレの前身だった。問題の小説『国旗に面して』はここに訳した『悪魔の発明』の原作にほかならない。
このような逸話がこの小説の解説として何ほどの役に立つかは言えない。はっきりしているのは、いかに相手が狷介《けんかい》で頑迷な奇人とはいえ告訴されても仕方がないほどに、この実在の化学者と作中の化学者がよく似ているということだ。事実ヴェルヌはチュルパンをモデルにしたのだろう。ヴェルヌはたしかに奔放な空想を馳せめぐらせた小説家であるが、調べてみればほかにもいろいろとこうしたモデルが隠れているに相違ない。親しくつきあっていた有名な写真家ナダールを、その綴りを変えてアルダンと名づけて作中に登場させているヴェルヌなのである。
ジュール・ヴェルヌは一八二八年二月八日に裁判官を父としてフランス西部のナントに生まれた。この古い港町に生まれたことが幼いときから彼の心に大航海の夢をはぐくんだのだろう。なぜなら、わずか十二歳で彼は父に内緒で見習水夫の契約を結び、インド向けの遠洋航路船『コラリー』に乗りこんだからである。父親は無断で家を抜け出した息子をパンブーフの港に碇泊中の『コラリー』から引きずりおろして大目玉を食わせ、哀れな少年は「もう夢のなかでしか航海しません」と父親に約束した。この苦しまぎれの約束が、数々の海洋冒険小説をものすることになる彼の未来を占っていたとは、失意のこの少年には考えも及ばぬことだったにちがいない。
法官の職務をやめて公証人になっていた父親はこの長男に自分の後を継がせようと思った。ジュールはナントの高等中学からパリ大学の法学部に進むが、このころすでに彼は劇作に筆を染めていた。当時の彼の演劇への熱中ぶりは大変なものだったらしい。シェイクスピアの戯曲集を買うために三日間断食したと彼の伝記作者は書いているほどである。そればかりか彼は歴史小説と史劇で名声の高かったアレクサンドル・デュマを知り、デュマの開いた「歴史劇場《テアトル・イストリーク》」に出入し、彼の作品の一つは一八五○年にこの劇場で上演された。この同じ年、彼は一応法学部に卒業論文を提出しているが、文筆で身を立てようという決意はすでに彼の心中で不動のものとなっていたのである。
デュマの事業としてテアトル・イストリークは失敗で、六月にヴェルヌの劇を上演したこの劇場は、同じ年の十二月に破産し、デュマの手を離れてテアトル・リリークとなったが、ヴェルヌはこの新しい劇場の支配人エドモン・スヴェストの秘書となった。これ以後テアトル・リリークでは彼の作品がなおいくつか上演されることになるが、ヴェルヌはこのころから小説にまで手をひろげていた。後に『オックス博士』と題する短編集に収められることになるいくつかの短編はこれ以後数年のあいだに書かれている。スヴェストは一八五四年にコレラで死に、ヴェルヌは職を失ったが、一八五七年に二人の子を持つ若い未亡人と結婚し、義父の縁故と父親の出資のおかげでパリの株式取引所に出入する証券業者の資格を得た。一八六一年にただ一人の息子ミッシェルが生まれ、ヴェルヌの家庭生活は幸福であった。
一八六二年の秋のある日、「熊」という好ましからぬ渾名《あだな》をつけられていたエッツェル書店の主の寝室に、一包みの原稿を脇にかかえたヴェルヌがおずおずと入って来た。原稿を持ちこんで来る無名の作家たちを例外なしにベッドに寝たまま迎えるという評判の無愛想なこの書店主を訪れる決心をするまでに、ヴェルヌはすでに十数軒の出版社を空しくまわって来ていたのである。運命の宣告を聞こうとするもののように緊張し切っていたヴェルヌの耳に、しばらく原稿を黙読していた「熊」の口からでた「|こいつはいい《セ・ボン》という」言葉は何と響いたことであろうか。
ヴェルヌの持ちこんだ原稿は早くもその年末に『気球旅行の五週間』という表題でエッツェル書店から発売された。一か月後にはこの小説は男女老若の区別なく無数のフランス人を熱狂させていた。三か月後には英訳があらわれ、欧米の広い読者たちの心をつかんだ。エッツェルは昨日まで無名だったこの通俗劇の作者を手放すことができず、二十年間の長期契約を彼と結び、ヴェルヌは株屋というあわただしい商売からさっぱりと足を洗うことができた。これは作家としての彼の新しい生涯の出発点であり、つづけて出版された『地底旅行』(一八六四年)、『月世界旅行』(一八六五年)はますます彼の人気を高めて行った。これ以後彼の死後の一九○七年に出版された『金の火山』にいたるまで、彼の小説作品は五十編をはるかに上まわる。
一八六六年に彼はパリを去ってソンム河の河口のクロトワに移り、一艘の漁船を買い入れた。愛児の名を取って彼はその船に「サン・ミッシェル」という名をつけたが、少年時代の彼の航海の夢はこれで現実にも満たされたわけである。もちろんこの小さな船では河川や沿岸の航行しかできなかったから、一八六七年に彼が弟ポールとともにおこなったアメリカへの旅は海底電線敷設用のグレート・イースタン号という大型蒸気船によるものだった。しかし彼の愛する「サン・ミッシェル」は、彼自身の言葉によれば「水上の書斎」であり、同時にまた航海の実際の知識を得る場所でもあったのである。
普仏戦争後の一八七二年、彼は妻の故郷であるソンム県の首府アミアンに移り住み、間もなく本物のヨットを買って「サン・ミッシェル二世」と名づける。名声と富、そして平和な家庭、波風のない十九世紀後半の市民生活のなかで一人の個人の幸福を保証するもののすべてを彼は得ていた。「私の生活は充実しており、倦怠の忍びこむ余地は全然ない。これは私の求めるもののほとんどすべてだ」と、そのころ彼は満足し切って書いている。
そのように生活を楽しみ、旺盛な仕事をつづけながら老境に入って行った彼の身に、突然不可解な事件が起こった。一八八六年三月のある夜、外出先から帰って自分の家の扉をあけようとしていた彼にむかって不意に短銃が二発放たれたのである。この犯行の理由は知られていないし、犯人は精神に異状を来たした彼の甥の一人だったとされているだけである。一弾を脚に受けたヴェルヌはもはや以前のように海上生活を楽しむことはできなかったが、創作力は依然として衰えなかったし、一八八九年にはアミアン市議会に選出されて社会的活動にまで足を踏みこんでいる。それにしても、実はあの事件の犠牲になる以前からすでに彼の心は深い憂愁に彩られていたように見える。一八八四年に彼は弟ポールにあてて、「すべての陽気さは私には我慢ならぬものとなった。私の性格は根本的に変わった。私は打撃を受けたが、これから立ち直ることは永久にないだろう」と書いているが、前に引用した彼の言葉とのこの対照を、彼の言うその打撃をわれわれは何と考えたらいいのだろうか?
事件の翌年の一八八七年に彼は生涯の恩人というべきエッツェルと母ソフィを失った。その十年後の一八九七年弟ポールに先立たれた。彼自身は一九○二年に白内障《そこひ》にかかった。不自由な目でなお創作をつづけながら、一九○五年三月二十四日に彼はアミアンで死んだ。
ヴェルヌの再評価というようなことが近ごろ時として言われる。これがどういうことを意味するか、消息に暗い私にはよくわからないが、たとえば「悪魔の発明」フュルギュラトゥールが今日のミサイルを予告しているからといって、彼の科学技術上の光明を讃《たた》える気には私はなれない。何よりもヴェルヌは、第二帝政期から世紀末までの成熟し切った市民社会文明の代表者の一人のように私には思われる。彼を劇壇に導き入れてくれたロマン主義者アレクサンドル・デュマが豊かな想像力を過去に向けて絢爛たる歴史の絵巻をくり広げたのに対して、飛躍する科学技術を持った後期市民社会の住人にふさわしくジュール・ヴェルヌはその空想の翼を一方では横へ地理学的空間にはばたかせ、他方では縦に技術文明の未来に翔《か》けさせようとした。この壮大な夢はあるいは彼の作品の持つプラスの遺産であるかもしれず、たとえば一九六六年にパリで催されたヴェルヌ展にアメリカが原子力潜水艦の船内の模型を、ソ連が宇宙空間のカラーフィルムを送ったという事実が語るように、このヴェルヌが現代の一般の人々が描くヴェルヌ像なのだろう。だがもう一つのヴェルヌ像をも見落とすわけには行かない。それは特に彼の後期の作品にはっきりと見て取れる、科学の進歩は人間の本性を変えることはできないと認識したペシミスト・ヴェルヌである。一八九六年という彼の晩年に発表された『悪魔の発明』にもこのペシミズムの片鱗は見いだされるだろう。実は文学的にはこちらのほうのヴェルヌこそわれわれの興味をひくのだ。なぜならこのペシミズムは、たとえば今日のピエール・グールなどにいたるまでのフランスの、――いやむしろ現代のすべてのSF作家に共通する発想であり、そのためにこそ真の意味でヴェルヌはSFの始祖という資格を持つのだから。
『国旗に面して』を原作とするアメリカ映画が日本で封切られてから、この小説はわが国ではその映画の題名をそのまま採って『悪魔の発明』と呼びならされて来た。あえて異を樹《た》てるにも及ばないのでここでもそれに倣《なら》うことにする。
『悪魔の発明』の前半の翻訳には山口年臣さんが手助けしてくださった。
ここに記してお礼を申し上げたい。
一九六八年九月六日