グラント船長の子供たち(中)
ジュール・ヴェルヌ/大久保和郎訳
目 次
第二部
一 船に帰る
二 トリスタン・ダ・クーニャ
三 アムステルダム島
四 ジャック・パガネルとマクナブズ少佐の賭け
五 インド洋の怒り
六 ベルヌーイ岬
七 エアトン
八 出発
九 ヴィクトリア州
十 ウィメラ・リヴァー
十一 バークとステュアート
十二 メルボルン・サンドハースト鉄道
十三 地理学者の優等賞
十四 アレクサンダー山の金鉱
十五 オーストラリアン・アンド・ニュージーランド・ガゼ ット
十六 少佐、あれは猿だと言い張る
十七 大金持の牧畜業者
十八 オーストラリア・アルプス
十九 局面一転
二十 アランド・ジーランド
二十一 不安の四日間
二十二 イーデン
[#改ページ]
第二部
一 船に帰る
最初のしばらくのあいだは、人々は再会の喜びに浸っていた。ロード・グレナヴァンは不成功のために友人たちの心の喜びが冷却することを欲しなかったのである。それゆえ彼が最初に言った言葉はこうだった。「自信を持つんだ、諸君、自信を持つんだ! グラント船長は連れて来ていないが、われわれには彼を見つけ出せる確信がある」
これだけの保証があれば〈ダンカン〉の二人の女船客に希望をとりもどさせるのに充分だった。
実はレイディ・ヘレナとミス・グラントはボートがヨットに帰って来るあいだ、やりきれない期待と不安を味わっていたのである。船尾楼の上から彼女らはヨットに帰って来る人数を数えようとしてみた。あるときは少女は絶望した。あるときは反対にハリー・グラントを認めたと思った。彼女の心臓は高鳴った。口をきくこともできず、体を支えていることもようやくだった。レイディ・ヘレナは彼女の体を両腕で包んだ。彼女のそばで見張っていたジョン・マングルズは沈黙した。遠くのものを見分けるのに慣れた船乗りの目には船長は見えなかったのだ。
「あすこにいるわ! 来ますわ! 父が!」と少女はつぶやいた。
しかし大型ボートが徐々に近づくにつれて幻想を抱くことは不可能になった。旅行者たちがヨットから二〇〇メートル足らずまで来ると、レイディ・ヘレナとジョン・マングルズだけではなくメァリ自身も一切の希望を失って目に涙をためていた。早くロード・グレナヴァンが到着して安心させる言葉を聞かせねばならなかったのである。
最初の接吻の後でレイディ・ヘレナとメァリ・グラントとジョン・マングルズは探検中の主な事件を知らされたが、何よりもまずグレナヴァンはパガネルの烱眼《けいがん》のおかげで得られたあの文書の新しい解釈の仕方を彼らに教えた。彼はまたロバートを褒めそやして、メァリが彼のことを自慢しても当然だと言った。ロバートの勇気、その献身、彼のくぐりぬけて来たすべての危険、すべてがグレナヴァンの口から生き生きと語られ、姉のふところが隠れ場所を提供してくれなかったとすれば少年はどこに隠れていいかわからないほどだった。
「何も赤くなることはないよ、ロバート」とジョン・マングルズは言った。「君はグラント船長にふさわしい息子らしく振舞ったんだからね」
彼はメァリの弟に両腕をさしだし、そして少女のまだ涙に濡れている頬に唇を押し当てた。
少佐と地理学者が受けた歓迎と、あの高潔なタルカーヴに捧げられた思い出のことは、ここではただ忘れぬために書いておく。レイディ・ヘレナはその誠実なインディアンの手を握れないことを残念に思った。マクナブズは最初の感激のやりとりが終ると自分の船室に引き揚げておちついたしっかりした手で髯を剃った。パガネルはといえば、彼は蜜蜂のようにあちこちへ飛びまわって祝辞や笑顔の蜜を拾い集めた。彼は〈ダンカン〉の乗組員すべてに接吻しようとし、レイディ・ヘレナもメァリ・グラントも乗組員だからと言って、まず彼女たちから接吻をはじめて最後にはミスタ・オルビネットに至った。
ステュワードはこれほど礼儀正しい挨拶に対して謝意を表明するには朝食ができたと知らせるにしくはないと思った。
「朝食だって!」とパガネルは叫んだ。
「はい、パガネル先生」とミスタ・オルビネットは答えた。
「ほんとの皿とほんとのナプキンをほんとの食卓にならべたほんとの朝食かね?」
「もちろんでございます」
「で、チャルキや固めた卵や駝鳥のヒレ肉を食べるんじゃないんだね?」
「おお、先生!」自分の料理術にけちをつけられたような気がして司厨長は答えた。
「いや君、私は君の心を傷つけようと思って言ったんじゃないんだよ」と学者はにこにこしながら言った。「しかしこの一ヵ月そういうのがわれわれの常食だったんだからね、そうして食卓にむかって坐るのではなく、木にまたがってでなければ地面に寝ころがって晩餐をしていたんだ。だから君が今予告してくれたこの朝食は私には夢みたいに、フィクションみたいに、幻覚みたいに思えたのさ!」
「よろしゅうございます、ではそれが現実だということを確認しに行きましょう」とレイディ・ヘレナは答えたが、彼女も笑わずにはいられなかったのだ。
「では私の腕をお取りください」と女性に親切な地理学者は言った。
「閣下、〈ダンカン〉のことで私にお命じになることはございませんか?」とジョン・マングルズはきいた。
「朝食の後でわれわれの新しい探検計画を内輪で相談しよう、ジョン」とグレナヴァンは答えた。
ヨットの乗客たちと若い船長は食堂に降りた。機関士には命令一下出発できるように気圧を落さないでおくように命令が下された。顔を剃りたての少佐と手ばやく身仕舞いをした旅行者たちは食卓のまわりの席についた。
人々はミスタ・オルビネットの朝食に舌鼓《したづつみ》を打った。食事はまことにおいしい、いや、パンパでの一番豪華な饗宴よりも上等だということになった。パガネルはどの皿もおかわりした。「うっかりしてね」と彼は言った。
この運の悪い言葉がきっかけでレイディ・グレナヴァンは、愛すべきフランス人がときどき例の失敗をやらかしたのではないかときいた。少佐とロード・グレナヴァンはにやにや笑いながら顔を見合わせた。パガネルはといえば、彼は思いっきり哄笑して、これからは旅行のあいだじゅうもうただの一度もうっかりしないと、〈名誉にかけて〉誓った。それから彼は自分の|へま《ヽヽ》とカモンイスの作品についての深い研究の次第をまことに面白おかしく話して聞かせた。
「要するに」と彼は最後につけくわえた。「不幸も何かの役に立つものでしてな。私は自分の誤りを悔んでおりませんよ」
「どういうわけでだね?」と少佐はきいた。
「なぜなら私は今スペイン語だけではなくポルトガル語をも知っているからね。一ヵ国語でなく二ヵ国語話せるんだ!」
「いや、まったくの話、私はそんなことには思い及ばなかったよ」とマクナブズは答えた。「おみごとだ、パガネル、ほんとにおみごとだよ!」
人々はパガネルに拍手し、パガネルは平然として食べつづけた。彼は食べながらしゃべった。しかし彼はグレナヴァンが見逃さなかったある事実には気がつかなかった。それは彼の横に坐っているメァリ・グラントに対してジョン・マングルズが示す特別の関心だった。レイディ・ヘレナは夫にむかってちょっと合図して見せたが、その合図は「そうなのよ」と教えた。グレナヴァンは愛情をこめた共感をもって若い二人を眺めた。そして彼はジョン・マングルズを呼んだが、それはまったく別の話題のためだった。
「で、君の航海は、ジョン、どんな風だったかね?」
「万事上々でした」と船長は答えた。「ただ申し上げておきますが、マジェラン海峡の航路は今度は取りませんでした」
「おや!」とパガネルが叫んだ。「では君はホーン岬をまわったんだな。それなのに私は船にいなかったんだ!」
「首でもくくるんだな!」と少佐が言った。
「君がそんなことを言うのは私の首を吊った繩を取るためなんだ、エゴイスト」(溢死《いっし》に使った繩は幸福をもたらすと言われている)と地理学者は応酬した。
「まあまあ、パガネル君、遍在能力を与えられているのでもないかぎり、あらゆるところにいるわけには行かないよ」とグレナヴァンが答えた。「そして君はパンパスの平原を横断していたんだから、同時にホーン岬をまわることなんてできるはずがない」
「それでもやはり私は残念だ」と学者は答えた。
しかし人々はそれ以上彼を追いつめず、今の答で彼を放免した。そこでジョン・マングルズがまた口を開いて航海の話をした。アメリカ大陸の岸に沿って行くあいだ彼は西側の群島を残らず観察したが、〈ブリタニア〉の痕跡は全然見なかった。海峡の入口にあるピラレス岬まで来ると向い風だったので船首を南へ向けた。〈ダンカン〉はデソラシオン諸島に沿って進み、南緯六七度まで上り、ホーン岬の前をまわってフエゴ島沿いに航行し、ルメール海峡を通過し、パタゴニアの沿岸を北上した。そのとき彼はコリエンテス岬の沖で凄まじい突風に出逢ったが、これはまさにあの嵐のあいだ旅行者たちをあのように猛烈に襲ったのと同じものだったのだ。しかしヨットはちゃんと動いた。そして三日前からジョン・マングルズの船は沖を間切りながら遊弋《ゆうよく》していたのだが、そのうちカービン銃の銃声が一日千秋の思いで待っていた旅行者の到着を知らせたのであった。レイディ・グレナヴァンとミス・グラントについて言えば、彼女らの稀に見る勇敢さを無視したとすれば〈ダンカン〉の船長は間違っているというべきであろう。嵐にも彼女らは怯《おび》えなかった。そして彼女らがいささかの不安を示したとすれば、それは当時アルゼンチン共和国の平原をさまようている彼女らの友人たちのことを考えたときだった。
ジョン・マングルズの物語はこのようにして終った。つづいてロード・グレナヴァンが賞讃の言葉を述べた。それから彼はメァリ・グラントにむかって言った。
「お嬢さん、ジョン船長はあなたのすぐれた長所を褒めそやしていますが、私はあなたが船長の船で満足していらっしゃると考えるとうれしい」
「だって満足しないでいられますかしら……」とメァリはレイディ・ヘレナへ、そしておそらく若い船長へも視線をやりながら答えた。
「おお、姉さんはほんとにあなたが好きなんですよ、ジョンさん」とロバートが叫んだ。「それに僕だってあなたが好きなんだ!」
「そして僕も君が好きだよ、ちび君」と、メァリ・グラントの顔をほんのり赤く染めさせたロバートの言葉に少々はにかみながらジョン・マングルズは答えた。
それから話題をそれほど切実でないところへ持って行ってジョン・マングルズはつけくわえた。
「私の〈ダンカン〉の航海の話は終りましたから、今度は閣下がアメリカ横断とわれわれの少年英雄の武勲についてもうすこしくわしく話してくださいませんか?」
どんな物語もレイディ・ヘレナとミス・グラントにとってこれ以上楽しいものではあり得なかったろう。そこでロード・グレナヴァンは早速彼女らの好奇心を満たそうとした。彼は一つの大洋からもう一つの大洋への彼の旅行を、事件を一つずつ追ってくわしくまた語った。アンデス山脈通過、地震、ロバートの失踪、コンドルにさらわれたこと、タルカーヴの射撃、赤狼の一件、少年の犠牲的行為、マヌエル軍曹、洪水、オンブーへの避難、雷、火事、カイマン、竜巻、大西洋岸の一夜、こうしたあるいは愉快な、あるいは恐ろしいさまざまの事実が、聞き手たちの喜びと驚愕を煽りたてた。いろいろな事件が報告され、それのおかげでロバートは姉やレイディ・ヘレナからやさしく撫ぜられた。少年はこれほど接吻されたことはかつてなかった。それもこれ以上熱狂した女性の接吻を受けたことは。
ロード・グレナヴァンはその物語を終えるとこうつけたした。
「それでは、諸君、現在のことを考えよう。過去は過去のものだ。しかし未来はわれわれのものなのだ。グラント船長のことにもどろう」
朝食は終っていた。食事をした人々はレイディ・グレナヴァンの個人用サロンに帰った。彼らは地図や海図をいっぱいのせた机のまわりに坐り、話し合いはただちにはじまった。
「ヘレナ」とロード・グレナヴァンは言った。「船に上って来たとき私はあなたに言ったね、〈ブリタニア〉の遭難者たちを連れては来なかったが、私たちは今までにもまして彼らを見つけ出す希望を持っている、と。われわれのアメリカ横断の結果この信念、いや、もっと正しく言えばこの確信は生まれたのだ。遭難は太平洋岸または大西洋岸で起こったのではない、と。そこで当然、あの文書から引き出した解釈はパタゴニアに関する点では間違っているという結論が出て来る。まことにさいわいなことに、われわれの友人パガネルが不意にインスピレーションに打たれて誤りを発見してくれた。われわれが間違ったコースを取っていることを彼は証明してくれ、もはやいかなる狐疑逡巡《こぎしゅんじゅん》もわれわれの心に残らぬように文書を解釈し直してくれた。問題になっているのはフランス語で書かれた文書なのだが、この点に関していささかの疑念も残らないようにパガネルにここで説明してもらいたいのだ」
発言を促された学者はただちにしゃべり出した。彼は gonie と indi いう語についてきわめて説得的な議論を展開した。austral という言葉から厳密な手続きでオーストラリアという語を導き出した。グラント船長がヨーロッパに帰ろうとしてペルー沿岸を去った後、船が航行不能に陥ったため太平洋の南の潮流によってオーストラリアの岸まで流された可能性があることを論証した。しまいには彼のすぐれた仮説、きわめて巧妙な演繹《えんえき》は、こうした問題についてはうるさい批判者で空想に引きずられることのないジョン・マングルズその人の全面的な賛同をさえかちえたのである。
パガネルがその論証を終えると、グレナヴァンは〈ダンカン〉はただちにオーストラリアにむかうと告げた。
けれども少佐は、船首を東にむける命令が下される前に一つだけ意見を言わせてもらいたいと言った。
「言いたまえ、マクナブズ」とグレナヴァンは言った。
「私の目的は友人パガネルの議論を弱めることでも、いわんや反駁することでもない。この議論はまじめであり洞察に満ちていて、われわれとして当然関心を払うべきである。そして当然われわれの今後の捜索の基礎をなすべきだろう。しかし私は、その価値が疑いを容れ得ぬものとなるように、また実際疑いをはさむ人間がないように、もう一度最後の検討をこれに加えてもらいたいのだ」
慎重なマクナブズが何を言おうとしているのかわからず、一同はある不安をもって彼の言葉に耳を傾けた。
「つづけたまえ、少佐」とパガネルは言った。「私は君のすべての質問に答える用意がある」
「これ以上とはなく簡単なことだ。五ヵ月前クライド湾でわれわれが三つの文書を検討したとき、その解釈はわれわれには自明のもののように思えた。パタゴニアの西岸以外のどこの沿岸も遭難の場所ではあり得なかった。われわれにはその点については一点の疑念もなかったんだ」
「まさに仰せのとおりだ」とグレナヴァンは言った。
「その後パガネルがあの奇蹟的な粗忽のためにわれわれの船に乗りこんだとき、文書を彼に見てもらい、彼もわれわれがアメリカ海岸を捜すことに全面的に賛成したんだ」
「それは認めるよ」と地理学者は答えた。
「にもかかわらずわれわれは間違っていたんだ」と少佐は言った。
「われわれは間違っていたんだ」とパガネルは鸚鵡《おおむ》返しに言った。「しかし間違うのには人間でありさえすればいい、マクナブズ、しかし誤りを改めないのは狂人なんだ」
「待ちたまえ、パガネル」と少佐は答えた。「昂奮しないでくれ。私はわれわれの捜索がなおアメリカでつづけられねばならないと言おうとしているんじゃない」
「では何を君は求めているんだ?」とグレナヴァンがきいた。
「何のことはない、はっきり認めることさ。アメリカ大陸がつい先頃までそう見えていたように現在オーストラリアが〈ブリタニア〉遭難の場所と見えると認めることだよ」
「われわれは喜んでそれを認めるよ」とパガネルは叫んだ。
「私はそれを確認しておく」と少佐は答えた。「そしてこのついでに言うが、君が空想に駆られてこのように次々と相矛盾する明白な事実とやらに迷わされないように忠告する。オーストラリアの次に別の国が前と同じく確実なものとして浮かび上って来ないかどうか、そしてその新しい捜索が成果もなく終ると、別のところでそれを為すべきだったことが〈明白〉に思われて来やしないか、わかったものではないからね」
グレナヴァンとパガネルは顔を見合せた。少佐の指摘はその適切さで彼らの心を打ったのだ。
「そこで私は」とマクナブズはつづけた。「オーストラリアにむかって出発する前に最後にもう一度点検をおこなってほしいと思う。ここに文書がある、地図もここにある。三七度線が通っているすべての地点を順々に調べてみよう。そして文書が正確な指示を与えている国がどこかほかに見当らないか見てみようじゃないか」
「それはいたって容易なことだし、いっこう手間も取らない」とパガネルは答えた。「さいわいこの緯度には陸地はあまりたくさんないからね」
「さあ」と、メルカトール投影法で作成された地球全体を一目で見られるイギリス版の平面球形図をひろげながら少佐は言った。
図はレイディ・ヘレナの前に置かれ、各人はパガネルの論証をたどることができるような席をしめた。
「すでにこのことは君に言ったが、南アメリカを離れた後三七度線はトリスタン・ダ・クーニャにぶつかる。ところで私は、文書には一語としてこの諸島に関係する言葉はないと断言する」
文書を丹念に調べたあげく人々はパガネルが正しいと認めねばならなかった。トリスタン・ダ・クーニャは満場一致でしりぞけられた。
「つづけよう。大西洋をはずれると喜望峰の二度下を通り、インド洋に入る。針路上にはただ一つの群島しかない。アムステルダム島だ。これもトリスタン・ダ・クーニャと同じように検討してみよう」
注意深く調べたあげくアムステルダム諸島もまた除外された。フランス語、英語、ドイツ語の完全な、もしくは欠けた語のどれ一つも、インド洋のこの群島にはあてはまらなかった。
「それでは今度はオーストラリアだ」とパガネルはつづけた。「三七度線はこの大陸にはベルヌーイ岬でぶつかって、トゥーフォールド・ベイへ抜ける。英語の stra というのとフランス語の austral というのがオーストラリアにあてはまるということは、テクストにこじつけを加えなくても私と同様諸君も認めるだろう。事柄はまことに明白だから、私はこれ以上言わない」
各人はパガネルの結論に賛同した。このやりかたでやって行くと彼に有利な蓋然性が次々に出て来た。
「その先へ行こう」と少佐が言った。
「よろしい。航海は簡単だ。トゥーフォールド・ベイを出るとオーストラリアの東にひろがる細長い海を横切ってニュージーランドにぶつかる。まず私は指摘しておくが、フランス語の文書の contin という語は決定的に〈大陸《コンチナン》〉を意味している。それゆえグラント船長が島にすぎないニュージーランドに避難したとは考えられない。とにかく単語を検討し、比較し、ためつすがめつ見てみたまえ。そして万が一にもこの地方に該当するかどうか見てもらいたい」
「どうしても該当しません」と文書と平面球形図を綿密に観察してジョン・マングルズが答えた。
「そうだ」と少佐をも含めてパガネルの言葉を聞いていた人々は言った。「そうだ、ニュージーランドではあり得ない」
「今度は、この大きな島とアメリカ沿岸を隔てているこの広大な空間の上で、三七度線が横切っているのは不毛で無人の小島一つだけだ」
「その名は?……」と少佐はきいた。
「地図を見たまえ。マリア・テレジアだ。三つの文書のなかにこの名は影も形も見えない」
「そのとおりだ」とグレナヴァン。
「すべての確実性といわないまでも、すべての可能性がオーストラリア大陸を指向していないかどうか、これで君たちに判断してもらいたい」
「たしかに」と、〈ダンカン〉の乗客も船長も異口同音に答えた。
そこでグレナヴァンは言った。
「ジョン、食糧と石炭は充分あるかね?」
「ええ、閣下、タルカウアノでたっぷり補給しておきましたし、それにケープタウンで燃料はごく容易に補給できるでしょう」
「よし、それでは……」
「もう一つ言うことがある」と、友をさえぎって少佐が言った。
「言いたまえ、マクナブズ」
「オーストラリアにどれほど成功の見込みがあろうとも、トリスタン・ダ・クーニャ諸島とアムステルダム島に一日か二日寄港してみるほうがよくはないかね? それらの島はわれわれの針路上にあって、全然コースからはずれていない。そうすれば〈ブリタニア〉が遭難の手がかりをそこに残していないかどうかわかるんだ」
「疑い深い男だな」とパガネルは叫んだ。「まだそんなことに固執している!」
「何より私が固執するのは、たまたまオーストラリアがわれわれに抱かせた希望を実現してくれなかった場合、同じ道を引き返さないですむようにという点なんだよ」
「その用心は私は悪くないと思う」とグレナヴァンは答えた。
「それに私としても、そういう用心をすることを思いとどまらせたりはしないよ」とパガネルは言った。「その反対だ」
「それでは、ジョン」とグレナヴァンは言った。「船首をトリスタン・ダ・クーニャにむけさせるんだ」
「はい、早速」と船長は答え、デッキに昇ったが、一方ロバートとメァリはこれ以上とはなく熱烈な感謝の言葉をロード・グレナヴァンに注いだ。
やがて〈ダンカン〉はアメリカ海岸を離れて東へ走りながら、その快速な舳先《へさき》で大西洋の大波を切っていた。
[#改ページ]
二 トリスタン・ダ・クーニャ
もしヨットが赤道を辿ったとすれば、オーストラリアをアメリカから隔てる、より正確に言えばベルヌーイ岬をコリエンテス岬から隔てる一九六度の経度は、一万八七二〇キロメートルに相当する。しかし三七度線では同じ一九六度は地球の形状の結果一万五一八〇キロメートルにしかならない。アメリカの海岸からトリスタン・ダ・クーニャまでは三四〇〇キロメートルを算するが、ジョン・マングルズは東の風がヨットの船脚を遅らせなければ一〇日でこれを横切れると思っていた。ところで、まさに満足すべき成行きになった。夕刻になって風はいちじるしく鎮まり、次いで方向を変え、〈ダンカン〉は静かな海上でその比類のない長所をことごとく発揮することができたのだ。
乗客たちはその日のうちからもう船上生活の習慣をとりもどしていた。彼らが一ヵ月も船から離れていたようには見えなかった。太平洋の水を見た目の下に大西洋の水がひろがっていたが、ちょっとしたニュアンスを除けばどの海の水も似ていた。自然は彼らを恐ろしい試練に遭わせた後、今では力を合わせて彼らを助けていた。大海原はおだやかで、風はいい方角から吹き、西の微風にむかって張った帆ははためいて、ボイラーのなかにたくわえられた疲れを知らぬ蒸気と協力した。
この快速の航海はそれゆえ、事故も故障もなくおこなわれた。一同は安心してオーストラリアの岸が見えるのを待っていた。可能性は確実性に変った。人々がグラント船長のことを話す口ぶりは、どこかのはっきり決っている港へ彼を迎えに行く時のようだった。彼の船室と二人の水夫の寝台もヨットのなかに準備された。メァリ・グラントは自分の手でその船室を整えたり飾ったりして喜んだ。この船室はミスタ・オルビネットが譲ったもので、ミスタ・オルビネットは今はミシズ・オルビネットと部屋をともにしていた。この船室は、ジャック・パガネルが〈スコシア〉に予約していたのと同じ例の六号室の隣だったのである。
博識な地理学者はほとんどいつもその船室にとじこもっていた。彼は朝から晩まで『アルゼンチン領パンパシアで一地理学者の得た崇高な印象』という著述に励んでいた。彼が思いうかんだ高雅な文章のいくつかを、ノートの白いページに書き下す前に感動をこめた声で口に出しているのが聞こえた。そして彼が歴史の女神であるクリオにそむいて、感激に溺れて敍事詩的な壮大な事績をつかさどるカリオペイアの加護を求めることも一再ではなかった。
その上パガネルはそれをかくしはしなかった。アポロの清らかな娘たちは喜んで彼のためにパルナソスの、あるいはヘリコンの頂から降りて来るのだった。レイディ・ヘレナは心からそれを彼に祝した。少佐もまたこうした神の訪れについて彼に祝詞《しゅうじ》を述べた。
「しかし何よりもうっかりしないでくれよ、パガネル君」と彼はつけくわえた。「もしかしてオーストラリア語を勉強しようという気になったとき、シナ語の文法書でオーストラリア語を勉強したりしないでほしいね!」
こうしたわけで船の上では何もかも上々に行っていた。ロード・グレナヴァンとレイディ・グレナヴァンはジョン・マングルズとメァリ・グラントを興味をもって観察していた。彼らは何一つ文句を言わねばならぬところは見出さなかった。そしてたしかに、ジョンが何も言わない以上、特別気にかけないでいるほうがよかった。
「グラント船長はどう思うだろう?」とある日グレナヴァンはレイディ・ヘレナに言った。
「ジョンはメァリにふさわしいと思うでしょう、エドワード。そしてそれは誤りではないわ」
そうするあいだにもヨットは目的地にむかって高速で走りつづけた。コリエンテス岬が見えなくなって五日後、一一月一六日に、快い西風が感じられはじめた。これは、南東から絶えず吹く風に逆らってアフリカの先端をまわって行く船には非常に具合のいい風である。〈ダンカン〉はすべての帆を張り、フォースル、スパンカー、トップスル、トガンスル、スタディングスル、檣頭帆、ステースルを左舷開きにして思い切ったスピードで走った。スクリューは船首に切られて逃げて行く水をほとんど噛まず、そうなると船はロイヤル・テイムズ・クラブの競争用ヨットと勝負しているように見えた。
あくる日になると大洋は巨大な海藻に蔽われて、草が一杯にはびこった広い池のように見えた。近くの大陸からさらわれて来た樹木や植物の残骸から成るあのサルガッソの海のようだった。モーリー艦長がこのサルガッソのことを特に航海者たちに注意している。〈ダンカン〉はパガネルが適切にもパンパスに比した長々とつづく草原の上を滑って行ったが、その速度は多少鈍らされた。
二四時間後、夜明けに見張りの水夫の声が聞こえた。
「陸だ!」
「方角はどちらだ?」と当直のトム・オースティンがきいた。
「船から風下の方向に」
いつ聞いても人を感動させるこの叫びにヨットのデッキはたちまち人で一杯になった。間もなく船尾楼から望遠鏡が持ち出され、それにすぐつづいてパガネルが出て来た。
学者は望遠鏡を教えられた方向にむけたが、陸みたいなものは全然見られなかった。
「雲のなかを見てごらんなさい」とジョン・マングルズが彼に言った。
「なるほど、尖った山みたいなものだね、まだほとんど見えないが」
「それがトリスタン・ダ・クーニャです」
「それなら、私の記憶が間違っていなければ、三〇キロメートルほど離れている。トリスタンのピークは高さ二一〇〇メートルだから、この距離から見えるのだ」
「そのとおりです」とジョン船長は答えた。
数時間後には、非常に高く聳《そび》え、非常に切り立った島の群れが水平線にはっきりと見えた。トリスタンの円錐形の高峰は旭日の光線にさまざまの色に輝く空を背景に黒く浮き出した。間もなく主島は岩の堆積から、北東にむかって傾いた三角形の頂をもってあらわれた。
トリスタン・ダ・クーニャは南緯三七度八分、グリニッジ基準西経一〇度四四分に位置する。南西三四キロメートルにはイナクセシブル島、北東一〇キロメートルにはロシニョル島があって、一緒になって大西洋のこの部分に孤立したこの小さな群島を構成している。正午頃、船乗りにとって標識点になる二つの主要な目標が見つかった。それはイナクセシブル島の一隅にある帆を上げた船そっくりの岩と、ロシニョル島の北の突角の荒廃した砦に似た二つの小島であった。三時に〈ダンカン〉はヘルプ岬もしくはボン=スクール岬と呼ばれる岬によって西風から守られているトリスタン・ダ・クーニャのファルマス湾に入った。
そこには、ここらの海岸に無数の種類が見られるアザラシやその他の海獣の猟をしている幾艘かの捕鯨船が錨をおろしてまどろんでいた。
ジョン・マングルズは良い投錨地を見つけようと一生懸命だった。というのは、ここの外国船用の泊地は北西風や北風のときにはすこぶる危険で、一八二九年にイギリスの二檣船《ブリック》〈ジュリア〉が船体積荷ともに失われたのはまさにここだったのだ。〈ダンカン〉は岸から一〇キロメートルまで近づいて、深さ三六メートルの岩の底に錨をおろした。たちまち男女の乗客は大型ボートに乗りこみ、島の焼けた岩が粉砕されて手に掬《すく》えぬほどになっている細かい黒い砂に上陸した。
トリスタン・ダ・クーニャ群島全体の首府は、湾のどんづまりの非常に高い水音を立てている川に沿った小さな村だった。そこには五〇戸ばかりのかなり小綺麗な家が、イギリスの建築学の最後の極手《きめて》であるらしいあの幾何学的な規則正しさでならんでいた。このミニアチュア式の都市のうしろには広大な熔岩の台地に劃された一〇〇ヘクタールの平地がひろがり、この台地の上に円錐形の高峰が二一〇〇メートルの空に聳えていた。
ロード・グレナヴァンはケープイギリス領植民地の所管に属する行政官に迎えられた。彼は早速ハリー・グラントと〈ブリタニア〉のことをきいてみた。この二つの名は全然知られていなかった。トリスタン・ダ・クーニャの島々は航路からはずれており、それゆえあまり訪れる船もない。一八二一年にイナクセシブル島の岩に衝突した〈ブレンドン・ホール〉の有名な遭難以来、二艘の船が主島の浅瀬に乗り上げた。一八四五年に〈プリモーゲ〉が、一八五七年にアメリカの三檣船〈フィラデルフィア〉が。クーニャの海難事故統計はこの三つの悲劇に限られていたのだ。
グレナヴァンはそれ以上はっきりした情報を予期していなかったので、念のために島の行政官にきいてみたにすぎなかった。それのみか彼はヨットのボートを出して島を一周させたが、この島の周囲はせいぜい二七キロメートルにすぎなかった。ロンドンあるいはパリは、たとい島が三倍大きかったとしても、島のなかにはおさまらないのだ。
この偵察のあいだ〈ダンカン〉の乗客たちは村のなかと近くの海岸を散歩した。トリスタン・ダ・クーニャの人口は一五〇人にも満たない。彼らは黒人の女や、醜さという点では申し分のないケープのホッテントットの女と結婚したイギリス人とアメリカ人だった。この雑婚家庭の子供たちはサクソン風の堅苦しさとアフリカ人の黒さのまことに不愉快な混合を示している。
足の下にしっかりした大地を感じて楽しんでいる観光客たちは、島のこの部分にしか存在しない耕された平地に接する海岸でこの散歩をつづけた。ここ以外はどこでも岸は切り立った不毛の熔岩の断崖から成っている。そこには巨大な阿呆鳥や間の抜けたペンギンが何十万羽と数えられるのである。
これらの火成岩を調べてみてから訪問者たちは平地のほうへ引き返した。円錐形の峰の万年雪から源を発する無数の泉があちこちで水音をあげている。花とほとんど同じくらいたくさんの雀がとまっている緑の叢林が地を彩っている。フィリックの一種で高さ六メートルもある一本だけの木と、木質の茎を持った巨大な Arondiaceae 科の〈テュセー〉という植物が緑の牧草地からそばだっている。棘のある種子を持った蔓性のアセーヌ、錯綜した繊条を持った木竜骨科の羊歯《しだ》、幾種かの非常に強靱な灌木性の植物、その香油性の香が微風を強烈な匂いで満たしているアンセリーヌ、苔、野生セロリ、羊歯が、数は多くないが豊かな植物相をなしていた。永久の春がその穏やかな影響をこの恵まれた島に注いでいるように感じられた。これこそフェヌロン〔ルイ一四世時代のフランスの司教。ホメーロスのオデュッセイアから題材を借りて『テレマックの冒険』を書いた。オジジーはイオニア海にある島で、ここに住むニンフであるカリュプソは漂着したオデュッセウスを迎えて一〇年間ここに引き留めた〕が歌ったあの有名なオジジーであるとパガネルは感激して言った。彼はレイディ・グレナヴァンに洞窟を一つさがして愛すべきカリュプソの後を継いではどうかと勧め、彼自身は「カリュプソにかしずくニンフの一人」である以外に何らの役割も求めないと言った。
このようにしておしゃべりしたり感嘆したりしながら人々は夜になる頃ヨットに帰った。村のまわりでは牛や羊が草を食んでいた。麦やとうもろこしや四〇年前から移入されている野菜の畑が首府の街路のなかまでもその豊かさをくりひろげていた。
ロード・グレナヴァンが船に帰ったときに〈ダンカン〉のボートも母船にもどって来た。〈ブリタニア〉の痕跡は一つとしてそれらのボートのまわって来たところでは見られなかった。この周航はそれゆえ、捜索の予定表から決定的にトリスタン島を抹殺させるという以外に何らの成果も挙げなかった。
こうなれば〈ダンカン〉はこのアフリカの群島を去って東へのコースをつづけることができた。その夜のうちに出帆しなかったのは、海の仔牛、海の獅子、海の熊、海の象などと名づけられてファルマス湾の岸にうようよしている無数のアザラシ類の猟をすることをグレナヴァンが乗組員に許したからである。昔は本物の鯨がこの島の水域に好んで来ていた。しかしあまり多くの漁師が追いまわし銛《もり》を投げたので、鯨はもうほとんど残っていなかった。それに反して水陸両棲の獣たちは群れをなしてここに集まった。ヨットの乗組員は夜間を利用して彼らを狩り、翌日は大量の油を作ることに決めた。そこで〈ダンカン〉の出帆は翌々日の一一月二〇日に延ばされた。
夕食のあいだパガネルはトリスタンの島々について少々話したが、この話は聞き手の興味をひいた。一五〇六年にアルブケルケの僚友の一人であるポルトガル人トリスタン・ダ・クーニャによって発見されたこの群島は、その後一世紀以上にもわたって未踏査のままだったということを彼らは聞かされた。これらの島々は嵐の発生地と見られており――それも理由のないことではなかったが――バーミュダ諸島に劣らぬ悪評を得ていた。それゆえ人々はほとんどここに寄りつかず、大西洋のハリケーンで心ならずも吹き寄せられる船のほかは決して船はここに近づかなかったのだ。
一六九七年にインド会社の三艘のオランダ船がここに寄港し、その経緯度を測定したが、大天文学者ハレーが一七〇〇年になって彼らの計算を検証した。一七一二年から一七六七年まで幾人かのフランスの航海者がここを訪れたが、中でも特にラ・ペルーズは一七八五年の彼の有名な航海の際指令によってここに来た。
それまで訪れるもののほとんどなかったこれらの島々は無人のままだったが、一八一一年にアメリカ人ジョナサン・ランバートがここに植民することを計画した。彼とその二人の仲間は一月にここに上陸し、植民者として勇敢に活動した。喜望峰のイギリス人総督は彼らがうまくやっているのを聞いてイギリスの保護を彼らに申し出た。ジョナサンは承諾し、その小屋の上にイギリス国旗をかかげた。彼は年取ったイタリア人一人とポルトガル系の黒白混血児一人から成る彼の〈人民〉を平穏に統治していたものと見えたが、ある日自分の帝国の海岸を巡視していたときに水に溺れて、もしくは溺らされて死んだ。一八一六年になった。ナポレオンはセント・ヘレナに幽閉され、彼に対する監視を厳にするためにイギリスはアセンション島に駐屯部隊を置き、トリスタン・ダ・クーニャにももう一つ駐屯部隊を置いた。トリスタンの駐屯部隊はケープの砲兵中隊とホッテントット人の分遣隊から成っていた。駐屯部隊は一八二一年までそこにとどまり、セント・ヘレナの囚われ人《びと》の死後ケープに送還された。
「ただ一人のヨーロッパ人が」とパガネルはつけくわえた。「一人の伍長、スコットランド人が……」
「ああ、スコットランド人が!」と、同国人のことになるといつも特別興味をそそられる少佐が言った。
「ウィリアム・グラスという名だったが、その男が女房と二人のホッテントットとともに島に残った。間もなく二人のイギリス人が、一人は水夫で、もう一人はアルゼンチンで竜騎兵を勤めたことのあるテイムズ河の漁師だが、例のスコットランド人と一緒になった。最後に一八二一年に〈ブレンドン・ホール〉の遭難者の一人が若い細君を伴ってトリスタン島に避難した。そういうわけで一八二一年には島には男が六人と女が二人いた。一八二九年には男七人、女六人、子供一四人になっていた。一八三五年には人数は四〇になり、今はその倍になっている」
「国民というものはそのようにして始まるんだ」とグレナヴァンが言った。
「トリスタン・ダ・クーニャの歴史を補足するためにさらに言うと」とパガネルはつづけた。「この島はホアン・フェルナンデス島と同じくロビンソンの島という名にふさわしいと私は思う。実際二人の船員が相次いでホアン・フェルナンデス島に置き去りにされたように、二人の学者がもうすこしでトリスタン・ダ・クーニャに置き去りにされるところだった。一七九三年に私の同国人である博物学者オベール・デュプチ=トゥアールが植物採集に夢中になっているうちに道に迷い、船長が錨を揚げるときになってようやく船に帰ることができたんだ。一八二四年には、グレナヴァン君、君の同国人の一人ですぐれた図案家であるオーガスト・アールが八ヵ月にわたって島に取り残された。乗っていた船の船長が彼が上陸しているのを忘れてケープにむかって船を出してしまったのだよ」
「そいつはうっかり船長と言ってもいいな」と少佐は答えた。「たぶん、パガネル、君の親戚じゃないかね?」
「親戚ではなかったが、親戚になる資格はじゅうぶんあったね!」
この地理学者の答で会話は終りを告げた。
夜のあいだに〈ダンカン〉の乗組員はすばらしい猟をした。そして五〇匹あまりの大きなアザラシが殺された。猟を許可した以上グレナヴァンはその獲物を利用することを禁ずることはできなかった。次の一日はそれゆえこれらの金になる水陸両棲獣の油を採り皮を剥ぐのに費された。乗客たちはもちろんこの寄港第二日を島をまた見て歩くために用いた。グレナヴァンと少佐はクーニャでちょっと猟をしてみるつもりで銃を持って行った。この散歩のときは山麓の、分解した岩屑や火山岩|滓《さい》や多孔質の黒い熔岩やその他すべての火山の屑に蔽われた地面にまで足をのばした。山の裾はぐらぐら揺れる岩の錯綜のなかから抜き出ていた。巨大な円錐形の山の性質は見誤るはずがなかった。そしてイギリスの船長カーマイケルがこれを死火山と認めたのは正しかったのである。
ハンターたちは幾匹かの猪を認めた。このうち一匹は少佐の放った弾に当って倒れた。グレナヴァンは黒鷓鴣《くろしゃこ》を何|番《つがい》か射ち落すだけで満足したが、ヨットの料理人にこれですばらしいサルミ(野鳥の焼肉をワインで煮たシチュー)を作らせることにした。多数の山羊が高い台地の頂に見えた。犬さえも恐れる勇猛で大胆で逞しい山猫、これは急速に繁殖していて、いつかは非常に目立つ猛獣になるものと思われた。八時に一同は船に帰り、その夜〈ダンカン〉は二度と見ることのないトリスタン・ダ・クーニャ島を離れた。
[#改ページ]
三 アムステルダム島
ジョン・マングルズは喜望峰で石炭を積む意向でいた。それゆえ三七度線からちょっと外れ、二度ほど北上しなければならなかった。〈ダンカン〉は貿易風帯の下にいて、航行にとって非常に有利な強い西風(反対貿易風)に出逢った。六日足らずで〈ダンカン〉はトリスタン・ダ・クーニャとアフリカの先端を隔てる二四〇キロメートルを走破した。一一月二四日午後三時にテーブル・マウンテンを見参《けんざん》し、それからすこし後にジョンは湾の入口を示すシグナル山を認めた。八時ごろ彼は湾に船を入れ、ケープタウンの港に錨をおろした。
パガネルは地理学会の会員たる以上、アフリカの先端がポルトガルの提督バルトロメウ・ディアスによって一四八六年にはじめて瞥見《べっけん》され、ようやく一四九七年になって有名なヴァスコ・ダ・ガマがそれを廻航したことを知らないはずはなかった。それにまた、カモンイスが『ルジーアダス』のなかでこの偉大な航海者の栄光を歌っている以上、どうしてパガネルがそれを知らないはずがあろう? しかしこの点に触れて彼は奇妙な指摘をした。というのは、ディアスが一四八六年、つまりクリストフ・コロンブスの第一回航海の六年前に喜望峰をまわっていたとすれば、アメリカの発見は無期限に延期されたかもしれないというのである。事実東インドへ行くには喜望峰まわりのルートが一番短く一番直通しているのだ。ところで、西へ突き進む際あのジェノヴァの偉大な船乗りは、香料の国々への航海を短縮する以外の何を求めていたか。だから喜望峰の廻航がいったん成ってしまえば、彼の遠征は目的を欠くことになり、おそらく彼はこんな遠征をおこなわなかったろう。
ケープ湾の奥にあるケープの町は一六五二年にオランダ人ファン・リーベックによって建設された。この町は一八一五年の協定の後決定的にイギリス領となった重要な植民地の首府だった。〈ダンカン〉の乗客たちは寄港を利用して町を見物した。散歩に費せる時間は一二時間しかなかった。ジョン船長にとっては補給をおこなうには一日で充分であり、船長は二六日の朝には出帆したいと思っていたからだ。
それにまた、ケープタウンというこの規則正しい将棋盤の升目のような町を見てまわるにはそれ以上の時間は必要でなかった。この盤の上で白と黒の三万人の住民が、キングやクイーンやナイトや歩兵の、そしておそらくはまた道化の役を演じているのだ。市の南東に立っている城や、政府庁舎とその庭園、取引所、博物館、バルトロメウ・ディアスがここを発見したときに立てた石の十字架を見、コンスタンス酒のなかでも第一級の地酒を一杯飲んでしまうと、もう後は出発するだけだった。事実旅行者たちは翌朝の夜明けに出発した。〈ダンカン〉は船首の三角帆とフォースルとトップスルを上げ、それから数時間後には、楽観的なポルトガル王ホアン二世がまことに不適切にも〈希望〉の名を与えたこの有名な嵐の岬をまわったのである。
喜望峰からアムステルダム島までの二九〇〇海里を、海が凪いでいるとき順風を受けて走破するのは、一〇日もあれば済むことだった。パンパスの旅行者よりも恵まれていた航海者たちは自然に対して文句を言う筋合はなかった。陸上では手を結んで彼らを阻止した空気と水はこのときは協力して彼らを前進させたのだ。
「ああ、海! 海!」とパガネルはくりかえした。「海こそすぐれた人間の力が発揮される場であり、船は文明の真の運び手なんだ! 考えてみたまえ、諸君。地球が巨大な大陸にすぎなかったとすれば、一九世紀の今も地球の千分の一も知られていなかったことだろう! 大陸の内部で起こることを考えてみたまえ。シベリアのステップ、中央アジアの平原、アフリカの沙漠、アメリカの大草原、オーストラリアの広大な土地、両極の氷結した無人の地、人間はそんなところへ入って行く勇気はあまりない。最も大胆な人間でも尻ごみし、最も勇敢な人間でも挫折する。通過することはできない。輸送手段は欠けている。暑熱、病気、原地民の野蛮さ、そのそれぞれが乗り越えられない障碍《しょうがい》をなしている。沙漠の一二〇キロは大洋の九〇〇キロ以上に人間と人間のあいだを隔てているのだ! 一つの海岸と他の海岸に住む人間は隣人だが、森によって隔てられればもう縁なき衆生なのだ! イギリスはオーストラリアと接しているが、たとえばエジプトはセネガルから数百万キロメートル離れているように見えるし、ペキンはペテルブルグの対極にあるように見える! 海は今日ではサハラ沙漠のほんの小さな部分よりも容易に走破される。そしてアメリカのある学者がいみじくも言ったように、世界の諸大陸のあいだに普遍的な近親関係が成立したのは海によってなんだ」
パガネルは熱をこめてしゃべり、少佐すらもこの大洋への讃歌のどこを取っても文句をつけられなかった。もしハリー・グラントを見つけるために大陸を横切って三七度線を辿らねばならなかったとすれば、この事業は試みられなかったことであろう。しかし海があって、この勇気ある捜索者たちを陸から陸へと運んでくれるのだった。そして一二月六日の曙光のさしはじめる頃、海はその波のなかから新しい山を出現させたのである。
これは緯度三七度四七分経度七七度二四分に位置するアムステルダム島で、その聳え立つ円錐形の峰は晴れた日には八〇キロメートルの距離から見えた。八時にはまだぼんやりとしか見えないその形状はテネリフェの姿をかなり正確に再現していた。
「だからまた、あの山はトリスタン・ダ・クーニャに似ているわけだ」とグレナヴァンは言った。
「まことに的確な判断だよ」とパガネルが答えた。「ある島に似た二つの島はたがいに似通っているという地理学の公理に従えば。つけくわえて言えば、トリスタン・ダ・クーニャと同じくアムステルダム島も、昔アザラシやロビンソンがたくさんいたし、今もいるんだ」
「それではロビンソンはどこにでもいますのね?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「まったくの話、この種の冒険のなかった島というものはあまり私は知りませんな」とパガネルは答えた。「そしてあなたの不朽の同国人ダニエル・デフォーの小説が出る前に、すでに偶然がこの物語を現実化しているんですよ」
「パガネル先生」とメァリ・グラントが言った。「一つ質問をしてよろしゅうございます?」
「一つと言わず二つでも。必ずお答えしてさしあげますよ」
「それでは、無人島に置き去りにされることを思うと先生は恐怖をお感じになりますか?」
「私が!」とパガネルは叫んだ。
「おいおい、君」と少佐が言った。「それこそ自分の最も念願とするところだなどと言い出しなさんなよ」
「そうは言わないよ」と地理学者は答えた。「だが結局、そういう冒険はあまり私の意にかなわぬものじゃないね。私は新規まきなおしの生活をはじめるよ。狩や漁をし、冬は洞窟のなかに、夏は樹上に居を定める。収穫をしまうための倉も作る。最後に私は島に植民する」
「君一人で?」
「必要とあれば私一人で。それにまた、人間というものがこの世で一人だけのことがあるかね? 動物のなかから友を選び、小さい仔山羊や雄弁な鸚鵡や愛想のいい猿を飼い馴らすことができないだろうか? そしてたまたま忠実なフライディのような仲間ができたとすれば、幸福になるためにそれ以上何が必要だろう! 仮りに少佐と私が……」
「御好意はありがたいが、私はロビンソンの役割には一向興味がないし、とてもうまくは演じられないよ」
「パガネル先生」とレイディ・ヘレナが言った。「またしてもあなたの想像力が空想の領域へあなたを連れて行ってしまうのですね。でも私は、現実は夢とは全然違うと思います。あなたのお考えになるのは、選ばれた島にちゃんと送りこまれ、自然が甘やかしてくれる空想のロビンソンのことだけですわ。あなたは物事のよい面しかごらんにならないのよ!」
「これはしたり! あなたは人間が無人島で幸福になれるとお思いにならんので?」
「なれると思いませんわ。人間は孤独に生きるのでなく社会生活をするようにできているのですもの。孤独は絶望しか生むことができませんわ。それは時間の問題です。まず物質生活のわずらいが、生活の必要が、波から逃れたばかりの不幸な人の心を奪い、現在の必要のために未来の脅威が見えなくなることは考えられます。でもその後一人ぼっちで、同胞から遠く離れ、故郷にも自分の愛する人たちにも再会する望みがないとなれば、その人は何を考え、どんな苦しみに堪えねばならないでしょう? 自分のいる島が全世界なんです。全人類がその人に集約され、そして死が、この見捨てられた境涯での恐ろしい死が到来するときには、その人はいわば世界の最後の日の最後の人間のような立場にあります。ほんとですわ、パガネル先生、そんな人間にはならないほうがいいのですよ」
パガネルはレイディ・ヘレナの議論に不承々々ながら服し、〈ダンカン〉がアムステルダム島の岸から二キロメートルの距離に投錨するまで会話は孤独生活の利点と不便をめぐってつづけられた。
インド洋に孤立したこの群島は、まさにインド半島の子午線上にたがいにおよそ五二キロメートルほど隔たって位置する二つの島から成っている。北のはアムステルダム島別名サン=ピエール島であり、南はサン=ポール島である。しかしこの二つの島が地理学者や航海者によってしばしば混同されていたことをここで言っておくのも無駄ではない。
この両島は一七九六年一二月にオランダ人フラミングによって発見され、次いで当時〈エスペランス〉と〈ルシェルシュ〉の二艦を率いてラ・ペルーズの捜索にむかっていたアントルカストーによって偵察された。両島の混同が生じたのはこのときからである。船乗りバロウ、アントルカストー地図におけるボータン=ボープレ、次いでホルスブルク、ピンカートン、そしてそのほかの地理学者たちが絶えずサン=ピエール島をサン=ポール島として、またその反対に書いている。一八五九年のオーストリアのフレゲート艦〈ノヴァラ〉の将校たちはこの誤りを犯さずにすんだが、パガネルはこの誤りを正すことに特に執心していたのだ。
アムステルダム島の南に位置するサン=ポール島は、昔は火山だったに相違ない円錐形の山から成る無人の小島にすぎない。これに反して、〈ダンカン〉の乗客たちが大型ボートで運ばれたアムステルダム島は、周囲二〇キロメートルもあったろうか。そこには幾人かのみずから求めてこの流謫の地を選んだ人々が住み、彼らはここの味気ない生活に慣れていた。それは島そのものと同じくオトヴァン氏とかいうレユニオン島の商人の所有となっている漁場の番人たちだった。ヨーロッパ諸列強からはまだ承認されていないこの君主は、学問的な言い方でなければ〈海鱈《うみたら》〉という名で知られている〈ケイロダクチルス〉を取り、塩づけにし、送り出して、七万五〇〇〇から八万フランの稼いでいるのである。
その上このアムステルダム島はフランス領となり、またフランス領としてとどまることにきまっていた。事実この島は最初は先占権によってブルボン島(レユニオン島の古名)のサン=ドニの船主カマン氏に属した。その後何らかの国際的な契約によってあるポーランド人に譲られ、このポーランド人はマルガシュ人の奴隷を使ってこの島を耕させた。ポーランド人といえば結局フランス人というのと同じだ。というわけで、島はオトヴァン氏の所有のもとにポーランド領からまたフランス領になったのである。
〈ダンカン〉が一八六四年一二月六日に島に着いたとき、その人口は三人だった。一人のフランス人と二人の黒白混血児で、この三人は例の商人島主の手先だったのだ。パガネルはそれゆえ、このときすでに高齢だった尊敬すべきヴィオ氏という同国人と握手することができたのである。この〈老賢者〉は非常に鄭重に自分の島へ彼らを歓迎した。愛すべき外国人たちを迎えた日は彼にとって幸福の日だった。サン=ピエール島にはアザラシ猟師や滅多に来ない捕鯨業者が来るだけなのだが、これは一般にすこぶる粗野な連中で、いくらアザラシを追っかけまわしても大した稼ぎは得ていなかったのだ。
ヴィオ氏は自分の家来である二人の黒白混血児を紹介した。彼らは島の内部に巣を作っている多少の猪と数千羽の素朴なペンギンたちとともにこの島の生息者のすべてをなしていたのだ。三人の島人の住む小さな家は、山の一部の崩壊のために生じた南西の天然の港の奥に位置していた。
サン=ピエール島が遭難者の避難所となったのはオトヴァン一世の治世よりもずっと前のことだった。パガネルは「アムステルダム島に取り残された二人のスコットランド人の話」という言葉でその最初の物語をはじめて、聞き手の興味を非常にそそった。
それは一八二七年のことだった。イギリス船〈パルミラ〉は島の見えるところを通りかかって、空中にたちのぼっている一筋の煙を認めた。船長は船を岸に近づけ、間もなく二人の男が遭難信号を発しているのを見た。彼はボートを島に送って、二二歳の青年ジャック・ペインと一八歳のロバート・プラウドフットを収容した。この二人の不運な男は見違えるほどになっていた。もう一八ヵ月も、ほとんど食べ物もなく飲み水もなしに、貝を食い、古釘を曲げて釣をし、時には猪の子か何かを追いまわしてつかまえ、三日も何も食べずに過ごし、ローマの炉の女神に仕える乙女のように最後の火口でおこした火のそばから離れず、決してそれが消えないようにし、外を歩きまわるときには最も高価な品物のようにその火を持って歩き、このようにして彼らは窮乏と無一物と苦痛のうちに生きた。ペインとプラウドフットはアザラシ猟をしているスクーナー船からこの島に上陸したのであった。猟師の習慣に従って彼らは一ヵ月のあいだスクーナー船の帰って来るのを待ちながらアザラシの皮と油を集めることになっていた。スクーナー船はもどらなかった。五ヵ月後ヴァン・ディーメンにむかう〈ホープ〉が島に近づいた。しかしその船長はまったく理由のないあの残酷な気まぐれから二人のスコットランド人を船に乗せるのを拒んだ。彼は二人にビスケット一つ、燧《ひうち》石一つ残してやらずに出帆した。そしてもし〈パルミラ〉がアムステルダム島の見えるところを通って彼らを船に収容してやらなかったとすれば、彼らは程なく死んだに相違なかった。
アムステルダム島の歴史が記している――これっぽっちの岩が歴史を持ち得るとしての話だが――第二の冒険は、今度はフランス人だが、ペロン船長のそれである。ただしこの冒険も先の二人のスコットランド人のそれと同じ起承転結を辿るのだ。彼は二ヵ月にわたってアシカの猟をすることになっていた。豊猟だった。しかし一五ヵ月たっても船はあらわれず、食糧はすこしずつ尽き、国際関係は険悪になって来た。二人のイギリス人がペロン船長に叛逆し、船長は同国人たちの助けがなかったら彼らの手にかかって死んだだろう。このときから両派は日夜たがいに相手を見張り、片時も武器を放さず、しょっちゅう勝ったり負けたりしながら窮乏と不安の恐ろしい生活を送った。もしイギリスの船がインド洋上の一つの岩の上で愚にもつかぬ国籍の問題のために分裂したこの不幸な人々を本国に送りかえしてやらなかったとすれば、最後にはかならずや一方が他方を皆殺しにしていたに相違ない。
これがその冒険なのだった。二回アムステルダム島はこうして取り残された水夫らの住むところとなり、神は二回彼らを悲惨と死から救ったのだ。しかしその後はどんな船もこの岸では難破しなかった。難船があれば漂流物が島の磯に打ち上げられ、遭難者はヴィオ氏の漁場に流れ着くだろう。ところがこの老人は多年にわたって島に住んでいるのに、海の犠牲者をいたわってやる機会は今まで一度もなかったのである。〈ブリタニア〉のこともグラント船長のことも彼は全然知らなかった。アムステルダム島も捕鯨業者や漁師がしばしば訪れるサン=ポールの小島もこの悲劇の舞台ではなかったのだ。
グレナヴァンは老人の答に驚きも悲しみもしなかった。彼とその仲間たちはこれまで方々に寄港して、グラント船長のいないところをさがしまわり、船長のいるところを捜していなかったのである。彼らはこの緯度の各地点で船長がいないことを確認しようとしたにすぎない。〈ダンカン〉の出帆はそれゆえ翌日ときめられた。
夕刻まで乗客たちは島を見物したが、島の景観はまことに恐ろしいものだった。しかしその動物相や植物相は最も冗漫な博物学者の筆をもってしても八つ折版の本一冊を満たし得なかったろう。四足獣類、鳥類、魚類、鯨類は、多少の野猪とスノー・ペトレルと阿呆鳥と淡水|鱸《すずき》とアザラシに限られていた。温泉と鉄分を含む泉が黒っぽい熔岩のあちこちから湧いており、火山質の土地の上に濃い湯気をただよわせていた。これらの温泉のいくつかは非常な高温に達していた。ジョン・マングルズは華氏温度計をそこに突っこんでみたが、一七六度(摂氏八〇度)を示した。数歩離れた海で取った魚は、ほとんど沸騰しているこの水のなかで五分で煮えてしまうのである。そこでパガネルもこの水に漬かることはすまいと思ったのだ。
夕刻、快い散歩の後でグレナヴァンは誠実なヴィオ氏に別れを告げた。皆は彼のためにこの淋しい小島で望めるかぎりの幸福を祈った。それに対して老人は捜索の成功を念じ、それから〈ダンカン〉のボートは乗客たちを船に連れもどした。
[#改ページ]
四 ジャック・パガネルとマクナブズ少佐の賭け
一二月七日の午前三時には〈ダンカン〉の汽罐《かま》はすでに唸りをあげて燃えていた。捲轆轤《まきろくろ》はまわされ錨は垂直に立ち、小さな港の砂の底を離れ、揚錨架におさまった。スクリューは動きはじめ、ヨットは沖に出た。八時に乗客たちがデッキに上ったときには、アムステルダム島は水平線の靄のなかに消えていた。今度のは三七度線上の最後の行程だった。そしてオーストラリアの岸は五五〇〇キロメートルの距離にあった。西風があと一二日かそこらつづいてくれ、海が好意を示してさえくれれば、〈ダンカン〉は航海の目的地に到着できるだろう。
メァリ・グラントとロバートは、〈ブリタニア〉がおそらくその遭難の数日前に分けて行っただろうと思われるこの波濤を眺めて感動をおぼえずにはいられなかった。そのときたぶんグラント船長は、すでに船は破損し、乗組員は減っていたのに、インド洋の恐るべき暴風とたたかい、抗《あらが》いがたい力で陸へ流されて行くのを感じていたことであろう。ジョン・マングルズは海図に記されている潮流をメァリに教えた。それらがいつも流れている方向を彼女に説明した。なかでもその一つの、インド洋を横切っている海流はオーストラリア大陸へむかい、その西から東へと動く力の影響は太平洋でも大西洋でも感じられるのだ。してみるとマストを折られ舵をこわされた、つまり海と空の暴力に対してたたかうすべのない〈ブリタニア〉は、陸にむかって驀進《ばくしん》して砕けたに相違なかった。
けれどもここで一つの難問が生じた。グラント船長の最後の消息は、〈海事新報〉によれば一八六二年五月三〇日のカリャオからのものだった。ペルーの海岸を去って一週間後の六月七日にどうして〈ブリタニア〉はインド洋にいられたのだろう? この問題について意見を徴《ちょう》されたパガネルは、どんなうるさい人間でも満足するようなまことにもっともらしい答を与えた。
それはアムステルダム島出帆の六日後の一二月一五日の夕方だった。グレナヴァン卿夫妻、ロバートとメァリ・グラント、ジョン船長、マクナブズ、パガネルは船尾楼の上で雑談していた。いつもの習慣で人々は〈ブリタニア〉のことを話していた。船の上で誰もが考えることはそれだけだったからである。さてそこで、ちょうど上述の難問が偶然持ち出され、たちまちにして人々の心はこの希望の航路のことにばかり向けられてしまったのだ。
パガネルはグレナヴァンのこの思いがけない指摘を聞くとはっと頭を上げた。それから答えもせずに彼は文書を取りに行った。帰って来たとき彼は、〈そんな愚にもつかぬこと〉に一瞬でも心をむけたことを恥じている人間のように肩をすくめただけだった。
「おやおや」とグレナヴァンは言った。「しかしせめて私たちに返事をしたまえ」
「いや、私は一つ質問するだけだ。その質問はジョン船長にしたい」
「どうぞ、パガネル先生」とジョン・マングルズは言った。
「足の速い船ならばアメリカとオーストラリアのあいだの太平洋を一ヵ月で横断できるだろう?」
「ええ二四時間に二〇〇海里走れば」
「その速度は特別大きいかね?」
「全然。帆走クリッパーはそれ以上のスピードを出すこともよくあります」
「よろしい、それでは文書を〈六月七日〉と読まずに、この数字の一つが水で消えたものとして、〈六月一七日〉もしくは〈六月二七日〉と読んでみたまえ、そうすればすべては氷解する」
「なるほど」とレイディ・グレナヴァンが答えた。「五月三一日から六月二七日まで……」
「グラント船長は太平洋を横切ってインド洋にはいることができたはずだ!」
はっきりした満足感がパガネルのこの推論を迎えた。
「またしても問題が一つあきらかにされた!」とグレナヴァンは言った。「それもわれわれの友人のおかげで。それではもうわれわれに残されているのは、オーストラリアに船が着くのを待ち、その西岸で〈ブリタニア〉の手がかりを捜すことだけだ」
「でなければ東海岸で」ジョン・マングルズが言った。
「なるほど、君の言うとおりだよ、ジョン。文書のなかには悲劇が東岸ではなく西岸で生じたと指示するものは全然ない。われわれの捜索はそれゆえ、オーストラリアが三七度線によって分断されているその二つの点にむけられねばなるまい」
「それでは、ミロード」と若い娘は言った。「そのことに関して何か疑わしい点がありますの?」
「おお、ちがいますよ」と、メァリ・グラントのこうした不安を一掃したいと思ってジョン・マングルズは急いで言った。「閣下はただ、グラント船長がオーストラリアの東岸に上陸したとすればほとんど時を移さず救助や援護が得られたはずだということを指摘なさるおつもりなのでしょう。そちらのほうの沿岸はすべてイギリス領みたいなもので、移民がはいっています。〈ブリタニア〉の乗組員は二〇キロメートルも行かぬうちに同国人に逢えたはずです」
「いかにも、ジョン船長」とパガネルが言った。「私も君の意見に賛成だよ。東岸のトゥーフォールド・ベイやイーデン市なら、ハリー・グラントはイギリス人の入植地で保護を得られただけではなく、ヨーロッパに帰る交通機関にも事欠かなかったろうからね」
「それでは」とレイディ・グレナヴァンは言った。「〈ダンカン〉がむかっているほうの地方では遭難者たちには同じ便宜が得られなかったのですか」
「そうです。そちらの海岸は無人なんです。メルボルンもしくはアデレードに通ずる連絡の道は全然ありません。その海岸に沿うている珊瑚礁で〈ブリタニア〉が難破したとすれば、アフリカの荒涼たる磯にぶつかって砕けたのと同様いかなる援助も得られなかったでしょう」
「しかしそれならば、二年前から私の父はどうなっているのでしょう?」とメァリ・グラントが言った。
「メァリさん」とパガネルは答えた。「グラント船長が難船後オーストラリアの陸に上ったことは確実だとあなたは思っているんでしょう?」
「ええ、パガネル先生」
「よし、それではいったんこの大陸に上ってしまったとすれば、グラント船長はどうなったでしょうね? 考えられる仮定はそうたくさんはありません。それは三つにしぼられる。ハリー・グラントとその仲間はイギリス人入植地に辿り着いたか、原地民の手中に落ちたか、最後にはオーストラリアの果てしない無人境に迷いこんだか」パガネルは言葉を切り、自分の考え方についての同意を聞き手たちの目のなかに求めた。
「つづけたまえ、パガネル」とロード・グレナヴァンは言った。
「それではつづけよう。まず私は第一の仮定はしりぞける。ハリー・グラントがイギリス人入植地に辿り着いたことはあり得ない。そうだとすれば彼は確実に救われたはずだし、もうずっと前になつかしい故郷の町ダンディーで子供たちと一緒にいるはずだから」
「かわいそうなお父さん!」とメァリ・グラントはつぶやいた。「二年も私たちから離れて!」
「パガネル先生の邪魔をしないで、姉さん」とロバートは言った。「最後には僕たちに教えてくださる……」
「残念ながらそれはできないんだ。私が断言し得るのは、グラント船長がオーストラリア原地民に捕われているか、でなければ……」
「でもその原地民は」とレイディ・ヘレナはたたみかけるようにきいた。「その原地民は……?」
「安心してください」と学者はレイディ・ヘレナの意中を察して答えた。「この原地民たちは未開で蒙昧で、人間の知性の最低の段階にあるが、温和な習性で、彼らのニュージーランドの隣人のように血を好みはしません。〈ブリタニア〉の遭難者を捕虜にしたとしても、奴らは決して彼らの生命を脅《おびや》かしはしなかった。この点は私の言うことを信じてくださって大丈夫です。オーストラリア原地民が血を流すことをひどく嫌うという点についてはすべての旅行者が一致していますし、旅行者たちが別の意味で残忍な流刑囚の一味の襲撃を撃退しようとしたとき、原地民らが忠実な味方になってくれたことも何度もあるのですよ」
「パガネル先生のおっしゃったことを聞きましたか?」とレイディ・ヘレナはメァリ・グラントにむかって言った。「お父さまが原地民の手に捕えられているとすれば、しかもそれはあの文書から予感されることなのですが、私たちはお父さまを見つけ出せるでしょう」
「では、この果てしもない国に迷いこんでしまったならば?」と娘は答えたが、その視線はパガネルに問いかけていた。
「そうだとしても」と地理学者は楽観的な口調で叫んだ。「われわれは見つけ出しますよ! そうじゃないかね、諸君?」
「いかにも」と、会話をこのように陰気でないほうに持って行こうとしてグレナヴァンは答えた。「私は迷うなんてことは認めない……」
「私もだ」とパガネルが引き取った。
「大きいのですか、オーストラリアって?」とロバートがきいた。
「オーストラリアはね、おおよそ七億七五〇〇万ヘクタール、つまりヨーロッパの五分の四なんだよ」
「それっぽっちなのか?」と少佐が言った。
「そうだ、マクナブズ、一メートルぐらい違っているかもしれないがね。こんな国に文書に言うような〈大陸〉という名称を受ける資格があると君は思うかね?」
「思うとも、パガネル」
「つけくわえておくが、この広大な国で迷った旅行者の名はそうたくさん挙げられていない。私はその運命が知られていないのはライヒャルトだけだと思う。しかも私は出発のすこし前に地理学会で調べて来たんだが、マッキンタイアが彼の足跡を見つけたと思っているというのだ」
「オーストラリアは隈なく踏破されてはいなかったのですか」とレイディ・グレナヴァンがきいた。
「そうです」とパガネルは答えた。「隈なくどころではありませんよ! この大陸はアフリカ内陸よりもよく知られているわけではないのです。しかしそれは果敢《かかん》な旅行者たちが欠けていたためではない。一六〇六年から一八六二年までに内陸や沿岸で五〇人以上がオーストラリアの踏査に従事したんですからね」
「へえ、五〇人とは」と少佐は疑惑の面持で言った。
「そうだ、マクナブズ、まさに五〇人だよ。私は未知の航海の危険のさなかでオーストラリアの海岸線を定めた船乗りたちや、この広漠たる大陸を横切ろうとして飛び出して行った旅行家たちのことを聞いたことがある」
「それにしたって五〇人というのは多すぎるよ」
「そんなら私はもっと話を進めよう、マクナブズ」反対されるといつもかっとする地理学者は言った。
「進めたまえ、パガネル」
「君がやってみろというなら、私はその五〇人の名をたちどころに言ってみせよう」
「おお!」と少佐はおちついて言った。「なるほど、これは学者らしい! 学者たちは何一つ疑わないんだ」
「少佐、君のパーディ・ムーア・アンド・ディクスン製のカービン銃と私のスクレタン製の望遠鏡で賭けをしないか?」
「パガネル、君がそうしたいというのなら断わる理由はないとも」
「よし、少佐」と学者は叫んだ。「これからはそのカービン銃でカモシカや狐を殺せないよ、私が貸してやらないかぎり。もっとも私はいつでも喜んで貸してやるだろうがね」
「パガネル」と少佐はまじめに答えた。「私の望遠鏡が入用のときはいつも御用立てするからね」
「それでは始めよう。皆さん、皆さんはわれわれを審判する見物人ですぞ。ロバート、おまえは勘定をするんだよ」
グレナヴァン卿夫妻、メァリとロバート、少佐、ジョン・マングルズは議論に打ち興じながら、地理学者の言葉に耳を傾けようと身構えた。それにまた、問題は〈ダンカン〉が彼らを運んで行くオーストラリアのことだった。そして彼の物語が今ほど時宜に適したものであることはあり得なかったのだ。パガネルはそこで早速その記憶術の神技を見せるように促された。
「ムネモシュネよ!」と彼は叫んだ。「記憶の女神、清純なムーサエたちの母よ、汝の忠実にして熱烈な崇拝者に力をかしたまえ! 今から二五八年前には、諸君、オーストラリアはまだ知られていなかった。南海の大きな大陸があるのではないかとは人々は思っていた。グレナヴァン君、貴国の大英博物館に保管されている一五五〇年作成の二つの地図は、アジアの南にある陸地に言及し、この陸地をポルトガル人の大ジャヴァと呼んでいる。しかしこの地図は充分信頼できるものではない。そこで一七世紀へ、一六〇六年に飛ぼう。この年スペインの航海者キロスが一つの陸地を発見し、アウストラリア・デ・エスピリトゥ・サントと名づけた。幾人かの著者はこれはニュー・ヘブリディーズ諸島のことで、オーストラリアのことではないと主張している。その問題にはここでは立入るまい。このキロスのことを勘定に入れてくれ、ロバート、そして次に移ろう」
「一人」とロバートは言った。
「その同じ年にキロスの艦隊を副長として指揮していたルイス・バス・デ・トルレスが南のほうへ新しい陸の偵察をつづけた。しかし大発見の栄誉を得たのはオランダ人テオデリック・ヘルトーゲだった。彼はオーストラリア西岸の南緯二五度のところに上陸し、この地に自分の乗船と同じエーンドラハトという名を与えた。彼の後には航海者たちはたくさんいる。一六一八年にはゼアヘンが北岸のアルンヘムとディーメンを踏査した。一六一九年にはヤン・エーデルスが踏査をつづけて西岸の一部に自分の名をつけた。一六二二年にはレウヴィンが、彼の名をつけられることになる岬まで南下した。一六二七年にはデ・ヌイツとデ・ウィットが、一人は西から、もう一人は南から、彼らの先行者たちの発見を補い、この二人につづいてカーペンター司令官がその軍艦を率いて、今日なおカーペンタリー湾と呼ばれている海岸線の切れこみへはいる。最後に一六四二年に有名な海員タスマンがヴァン・ディーメン島をまわったが、彼はこの島が大陸につづいていると思っていて、総督バタヴィア将軍の名をこれにつけたが、より公正な後世の人々はこれをタスマニアという名に変えた。これでオーストラリア大陸は一巡されたわけだ。インド洋と太平洋の水にこの大陸が囲まれていることがわかった。そして一六六五年、まさにオランダの航海者たちの役割が終ろうとしているときに当って、新オランダという名が南海のこの大きな島に押しつけられたのだが、この名は後までつづくことはなかったんだ。これで何人だね?」
「一〇人」とロバートは答えた。
「よろしい。ここで一段落して、今度はイギリス人に移ろう。一六八六年に海賊の親玉であり南の海の最も有名な掠奪者の一人であったウィリアム・ダンピアは、苦楽を綯《な》い混ぜた数多の冒険の後に〈シグネット〉に乗って経度一六度五〇分の新オランダ北西岸に達した。一六九九年には彼はヘルトーゲの上陸した同じ湾に来たが、今度は掠奪者としてではなく、王国海軍の軍艦〈ローバック〉の艦長としてだったのだ。これまでのところはしかし、新オランダの発見には地理学上の興味のほかに何の興味もなかった。植民などということはほとんど考えられず、一六九九年から一七七〇年までの四分の三世紀のあいだ一人の航海者も新オランダに船を近づけなかった。だがこのとき全世界でも最も高名な船乗りクック船長があらわれた。そして新大陸は間もなくヨーロッパの移民に開かれはじめた。三度にわたる有名なその航海のあいだに、ジェイムズ・クックは新オランダの岸に何度も上ったが、最初は一七七〇年三月三一日だった。幸運にもオタヒティで金星の太陽面通過〔金星の太陽面通過は一七六九年に生じたはずだ。このかなり珍しい現象は非常に大きな天文学的意味を持っていた。事実それは、地球と太陽との距離を正確に計算することを可能にしたはずだ〕を観察した後、クックはその小さな乗船〈インデヴァ〉を太平洋の西へ駆った。ニュージーランドを偵察した後彼はオーストラリア西岸の一つの湾に入ったが、新種の植物がそこに非常に多いのを見て植物学湾とこれに名づけた。これが今のボタニー・ベイなんだ。半ば蒙昧な原住民との彼の交渉はあまり興味をひくものではなかった。ふたたび北上して、トリビュレーション岬の近くの南緯一六度で、〈インデヴァ〉は岸から三二キロメートルのところで珊瑚礁に乗り上げた。沈没の危険は迫った。食糧や大砲は海に捨てられた。しかしその夜のうちに満潮が身軽になった船を浮かせた。沈没しなかったのは珊瑚の一片が裂け目にはまりこんで水の入るのをしかるべく防いでくれたからだったんだ。クックは船を小さな入江に持って行くことができたが、この入江には小川が注いで、この小川はインデヴァと名づけられた。ここで修理に費された三ヵ月のあいだイギリス人たちは原住民と有効な交渉をおこなおうと努めた。が、あまりうまく行かず、ふたたび帆を上げた。〈インデヴァ〉は北へ進みつづけた。クックはニューギニアと新オランダとのあいだに海峡があるかどうかを知りたいと思った。新しい危険に遭い、二〇回も自分の乗船を犠牲にした後に、彼は南西に広々とひろがっている海を認めた。海峡は存在したんだ。クックは小さな島に上陸し、自分の踏査した長々と打ちつづく海岸の領有をイギリスの名において宣言し、ニュー・サウス・ウェールズというまことにブリテン的な名をここに与えた。三年後この大胆な船乗りは〈アドヴェンチャ〉と〈リゾリューション〉を指揮していた。ファーノー船長は〈アドヴェンチャ〉でヴァン・ディーメンズ・ランドを偵察に行き、それが新オランダの一部をなすものと想像して帰って来た。ようやく一七七七年になって、第三回の航海のときにクックは〈リゾリューション〉と〈ディスカヴァリ〉を率いてヴァン・ディーメンズ・ランドに投錨した。そしてここから出発して数ヵ月後にサンドウィッチ諸島で死んだのさ」
「偉大な男だった」とグレナヴァンは言った。
「これまで存在した最もすぐれた船乗りだ。イギリス政府にボタニー・ベイに植民地を作ることを提案したのは彼の同行者のバンクスだった。彼の後をあらゆる国の航海者が追った。一七八七年二月七日の日づけでボタニー・ベイで書かれたラ・ペルーズの最後の手紙のなかで、この不幸な船乗りはカーペンタリー湾と、ヴァン・ディーメンズ・ランドにいたるまでの全海岸を調べてみようという意図を告げている。彼は出発し、遂に帰らなかった。一七八八年にフィリップ船長はポート・ジャクスンに最初のフランス人植民地を作った。一七九一年にヴァンクーヴァは新大陸の南岸の注目すべき周航をおこなう。一七九二年には、ラ・ペルーズ捜索のため派遣されたアントルカストーが西と南に新オランダをまわり、針路上に未知の島々を発見した。一七九五年と一七九七年には、フリンダーズとバスという二人の青年が勇敢にも長さ二・四メートルの小舟で南岸の踏査をつづけ、一七九七年にバスは今彼の名をつけられている海峡によってヴァン・ディーメンズ・ランドと新オランダのあいだを通過する。この同じ年、アムステルダム島の発見者フラミングは東岸で、これ以上とはなく美しい種類の黒スワンが戯れているスワン・リヴァーを踏査する。フリンダーズはといえば、一八〇一年に彼はその奇妙な探検を再開して、経度一三八度五八分緯度三五度四分のエンカウンタ・ベイで〈ジェオグラフ〉と〈ナチュラリスト〉という、ボーダン船長とアムラン船長が指揮する二つのフランス船に出逢った」
「え、ボーダン船長だって?」と少佐は言った。
「そうさ! どうしてそんなに驚くんだね?」とパガネルはきいた。
「いや、何でもないよ。つづけたまえ、パガネル君」
「ではつづけて、この航海者たちの名にさらにキング船長の名をつけくわえよう。彼は一八一七年から一八二二年にかけて新オランダのこの熱帯に属する海岸地方の踏査を仕上げた」
「それで二四人です」とロバートは言った。
「よろしい。これでもう少佐のカービン銃は半分こっちのものだ。ではこれで船乗りのことはおしまいにして、旅行家のほうに移ろう」
「結構ですわ、パガネル先生」とレイディ・ヘレナが言った。「あなたが驚くべき記憶力を持っていらっしゃることは認めなければなりません」
「そいつははなはだ奇妙だね」とグレナヴァンが言い添えた。「これほど……」
「……粗忽な人間なのにね」とパガネルはすかさず言った。「おお、私には時と事実の記憶力しかないのさ。それっきりなんだ」
「二四ですよ」とロバートがくりかえした。
「よし、二五人目はドーズ中尉だ。それは一七八九年、ポート・ジャクスンの植民地が開かれた一年後だった。すでに新大陸一周はおこなわれていた。しかし大陸の内部に何があるかは何人も言うことができなかった。東海岸と平行する長い山なみが内陸への一切の接近を阻んでいた。ドーズ中尉は九日間歩いた後、引き返してポート・ジャクスンにもどらねばならなかった。その同じ年のあいだにテンチ大尉がこの高い山脈を越えようとしてみたが、成功しなかった。この二度の不成功のため三年間にわたって旅行家たちはこの困難な課題に取り組もうという気になれなかった。一七九二年にパタースン大佐は、大胆なアフリカ探検者であるにもかかわらず、同じ試みに失敗した。翌年イギリス海軍の一介の一等水兵にすぎぬ勇敢なホーキンズが、先行者たちが乗り越えられなかった線から三〇キロメートルほど先に行った。その後一八年のあいだには二人しか名を挙げられない。有名な船乗りバスと植民地の技師バレイラー氏で、二人とも先行者以上に成功しなかった。こうして一八一三年になると、シドニーの西にとうとう通路が発見された。マックオリー総督が一八一五年にその通過を試み、バザーストの町がブルー・マウンティンズの向うに建設された。この時から、一八一九年にはスロスビー、四八〇キロメートルにわたってこの地方を横切ったオクスリ、まさに三七度線が通っているトゥーフォールド・ベイを出発点としたハウエルとヒューン、そして一八二九年と三〇年にダーリング河とアレイ河の流路を踏査したスタート大尉が地理学に新しい事実をもたらし、植民地の発展を助けたんだ」
「三六」とロバートが言った。
「よしよし! 思ったより進んでいるぞ」とパガネルは答えた。「一八四〇年と四一年にこの地方の一部を踏破したエアとライヒャルト、一八四五年のスタート、一八四六年に東オーストラリアを歩いたグレゴリーとヘルプマンの兄弟、一八四七年にヴィクトリア河に沿って、一八四八年にはオーストラリア北部を歩いたケネディ、一八五二年のグレゴリー、一八五四年のオースティン、一八五五年から一八五八年まで大陸北西部を探検したグレゴリー兄弟、トレンス湖からエア湖まで歩いたバベジを一応挙げて、いよいよオーストラリアの年代記のなかで最も有名な旅行家、三度にわたって大陸に大胆な足跡を残したステュアートになる。彼の最初の内陸探検は一八六〇年におこなわれた。後で諸君がお望みならばオーストラリアの南から北への四回の縦断がどのようにしておこなわれたかをお話ししよう。今日のところはこの長い名簿を仕上げるだけにしておく。そこで一八六〇年から六二年までのあいだに、かくも多くの大胆な科学のパイオニアの名にさらに次の名をつけくわえよう。テンプスター兄弟、クラークスンとハーパー、バークとウィルズ、ニールスン、ウォーカー、ランズバラ、マッキンレイ、ハウイット……」
「五六!」とロバートが叫んだ。
「よし、少佐、もうすこし|おまけ《ヽヽヽ》をつけてあげよう。なぜなら私はまだ、デュペレー、ブーガンヴィル、フィッツ・ロイ、ウィッカム、ストークスの名を挙げていないんだから……」
「もうたくさんだ!」と、数に圧倒されて少佐は叫んだ。
「ペルーも、コワも」と、急行列車のようにはずみのついてしまったパガネルはつづけた。「ベネットも、カニンガムも、ナッチェルも、チエールも……」
「お願いだ!」
「ディクスンも、ストレレスキーも、リードも、ウィルクスも、ミッチェルも……」
「やめたまえ、パガネル」とグレナヴァンは心から笑って言った。「運の悪いマクナブズをいじめないでくれ。寛大にするんだ! 相手は負けたと認めている」
「ではカービン銃は?」と地理学者は勝ち誇った顔できいた。
「君のものだよ、パガネル」と少佐は答えた。「実際惜しいんだがね。しかし君は古今東西のありとあらゆる火器を自分のものにしてしまえるくらいの記憶力を持っている」
「オーストラリアについてこれ以上くわしい知識を持つなんてことはほんとに不可能でしょうね」とレイディ・ヘレナが言った。「ほんの取るに足りない人名でも、ごく些細な事実でも……」
「いや、ごく些細な事実となると!」と少佐が頭を振りながら言った。
「え? 何だ、それは、マクナブズ?」とパガネルは叫んだ。
「オーストラリア発見をめぐる事件のすべてをたぶん君は知っていはしまいというのさ」
「何を言ってるんだ!」とパガネルは極度の誇りをもって言った。
「それでは私が君の知らないことを一つ挙げたら、私のカービン銃を返してくれるかい?」とマクナブズはきいた。
「たちどころに」
「話はきまったな?」
「きまった」
「よし。オーストラリアがなぜフランスのものにならなかったかを、パガネル、君は知っているかね?」
「しかしそれは、私の見るところでは……」
「あるいはすくなくとも、そのことについてイギリス人がどんな理由を挙げているかを?」
「知らないね、少佐」とパガネルはむっとした顔で言った。
「何のことはない、ボーダン船長は臆病者ではないくせに、一八〇二年にオーストラリアの蛙の啼声を聞いてひどくこわくなって、大急ぎで錨を揚げて逃げ出して二度ともどって来なかったからなのさ」
「何だって!」と学者は叫んだ。「イギリスではそんなことを言っているのか? いや、そいつは悪い冗談だよ!」
「非常に悪い冗談だ、それは認めるよ」と少佐は答えた。「しかしそれはイギリス王国では歴史になっているんだ」
「そんなのは下劣だ!」と愛国的な地理学者は叫んだ。「で、そんなことが今もってまじめに言われているのか?」
「それは認めざるを得ないね、パガネル君」とグレナヴァンは一同の爆笑のただなかで答えた。「何だ、君はこの事実を知らなかったのかね?」
「全然! しかし私は抗議するよ! その上イギリス人はわれわれのことを〈蛙食い〉と呼んでいるじゃないか! 一般に人間は自分の食べるものを恐れたりはしないもんだよ」
「それでもやはりそう言われているんだからね、パガネル」と少佐はつつましく微笑しながら答えた。
こうした次第でパーディ・ムーア・アンド・ディクスンのあの有名なカービン銃はマクナブズ少佐の所有としてとどまったのである。
[#改ページ]
五 インド洋の怒り
この会話の二日後、ジョン・マングルズは正午に船の現在の位置を測定して、〈ダンカン〉は経度一一三度三七分にいると告げた。乗客たちは海図を調べ、ベルヌーイ岬までは五度もないことを知って大きな満足をおぼえずにはいなかった。この岬とアントルカストー岬のあいだのオーストラリアの海岸は弧を描き、三七度線がその両端に走っている。もし今から〈ダンカン〉が赤道にむかって北上したならば、北方一九〇キロメートルにあるチャザム岬にたちまちぶつかることになっただろう。このとき〈ダンカン〉はインド洋中のオーストラリア大陸で蔽われたあたりを航行していた。それゆえ四日以内にベルヌーイ岬が水平線に見えて来るものと期待することができた。
西風はこれまでヨットの船脚を速めていた。しかし数日前から西風は落ちて行く傾向を示していた。徐々に風は鎮まった。一二月一三日には風は完全に落ち、だらりとした帆はマストに沿って垂れた。もしその強力なスクリューがなかったとすれば〈ダンカン〉は大海の凪《なぎ》のために釘づけにされたことだろう。
この気象状態は果てしもなくつづきかねなかった。夕方グレナヴァンはこの問題についてジョン・マングルズと話し合った。若い船長は石炭庫が空になって行くのを見て、この風の落ちたことに非常に苛立っているようだった。彼はほんのわずかのそよぎでも利用できるようにすべての帆を上げ、副帆とステースルも張らせた。しかし水夫の言い方を借りれば帽子をふくらます風さえなかったのだ。
「いずれにしても」とグレナヴァンは言った。「あまり愚痴をこぼす必要はない、逆風より風がないほうがいいからね」
「閣下のおっしゃるとおりです」とジョン・マングルズは答えた。「しかしほかでもないこの突然の凪が天候の変化をもたらすのです。だから私はこういう凪を恐れるんですよ。現在の位置は一〇月から四月までのあいだ北東から吹くモンスーンの限界のところで、このモンスーンがちょっとでも逆風にまわったら船の進行はひどく遅らされるでしょう」
「しかたがないじゃないか、ジョン。そういう困難な事態が生じたらそれに従うほかはあるまい。結局のところ単に遅れるというにすぎないんだろうから」
「それはそうです、嵐が加わりさえしなければ」
「君は時化《しけ》を恐れているのか?」空模様を見ながらグレナヴァンは言ったが、空はしかし水平線からてっぺんまで全然雲はないように見えた。
「そうなんです」と船長は言った。「閣下には申し上げますが、奥様やミス・グラントを怯《おび》えさせたくはありませんので」
「それは賢明なことだよ。何があるんだね?」
「時化のはっきりした兆候です。空の外見を信用しないでください、ミロード。これ以上人を惑わすものはないんですから。二日前からバロメーターは不安になるほど下っています。現在は二七インチ〔七三・〇九センチ〕です。これは私としては無視できない警告です。ところで私には南洋の嵐が特にこわいんです。すでに何度か襲われたことがありますからね。水蒸気が南極の氷原で圧縮される結果空気は極度の激しさで引きよせられる。そのため極地の風と赤道の風がせめぎあって、サイクロンだの大旋風だの、船などはまともに太刀打《たちう》ちできないさまざまの種類の嵐が生じるんです」
「ジョン」とグレナヴァンは答えた。「〈ダンカン〉は堅牢な船だし、その船長は有能な船乗りだ。嵐が来るなら来てもよい、われわれは闘って見せよう」
ジョン・マングルズがその危惧《きぐ》を表明したのは、海の男の本能に従ったのであった。彼は天候を見るに巧みな人間のことを言う英語の表現を借りれば老練な weather wise だった。バロメーターが執拗に下りつづけているのを見て彼は船にあらゆる予防措置をほどこした。空模様からはまだ予想されないような猛烈な嵐を彼は予期していたが、誤ることのない器具が彼を欺くことはあり得なかった。気流は高圧のところから低圧のところにむかって走る。低圧のところが近ければ近いほど、気層のなかで均衡は早く回復し風速は大きいのである。
ジョンは一晩じゅう甲板にいた。一一時頃南の空が汚れて来た。ジョンは部下全員を甲板に上らせ、小さい帆をおろさせた。残しておいたのはフォースルと後斜桁帆とトップスルと船首の三角帆だけだった。夜の一二時に風は強まった。大風だった。つまり空気の分子は秒速一二メートルで飛ばされて行ったのだ。マストの軋《きし》り、動索《どうさく》のはためく音、ときどき風と同じ方向にむいてしまう帆の鋭い音、船内の仕切壁の軋りが、乗客たちにそれまで彼らの知らなかったことを教えた。パガネル、グレナヴァン、少佐、ロバートは、あるものは好奇心から、あるものは自分も働くつもりで甲板にあらわれた。彼らが前に見たときは澄みわたって星をちりばめていた空には、豹の皮のような斑紋のある帯で隔てられた厚い雲が走っていた。
「暴風かね?」とだけグレナヴァンはジョン・マングルズにきいた。
「まだです。しかしもうじき」と船長は答えた。
と同時に彼はトップスルのリーフを絞るように命じた。水夫たちは風上の段索《だんさく》に飛びつき、大分苦労しながら、おろした帆桁に小綱で帆を捲きつけてその面積をちぢめた。ジョン・マングルズはヨットを安定させローリングをやわらげるためにできるだけ帆を残しておこうとしたのだ。
こうした処置をほどこしてしまうと彼は、間もなくはじまるにちがいない暴風の襲来にそなえるための命令をトム・オースティンと水夫長に与えた。ボートの繋ぎ繩や予備品類をゆわえている繩は補強された。砲側の複滑車も補強された。支索や絞支索はぴんと張られた。甲板の昇降口は釘づけにされた。ジョンは城塞の破れ口の上部に立つ将校のように風上の舷から去らず、船尾楼の上に立って彼はこの荒れ模様の空からそこに秘められている兆候を読み取ろうとしていた。
このときはバロメーターは二六インチに落ちていた。バロメーターの水銀柱がここまで降りることはめったにないことであり、暴風雨予報器《ストーム・グラス》〔風向きと空中の電圧によって状態の変る化学薬品を入れたガラス容器。その最もすぐれたものはイギリス海軍の光学機械製造業者ネグレッティ氏とザンブラ氏によって作られた〕は嵐を示していた。
午前一時だった。レイディ・ヘレナとミス・グラントはそれぞれの船室で激しく揺られていたが、思い切って甲板に上ってみた。風はこのとき秒速二八メートルになっていた。極度の激しさで風は静索のあいだを吹き抜けた。これらの金属製の索は楽器の絃にも似て、巨大な弓によって急速な振動をひきおこされたかのように鳴り響いた。滑車はぶつかり合った。索具は滑車の溝のなかで鋭い音を立てた。帆は大砲のような大音響を発した。すでに途方もない大きさになっている波濤《はとう》はヨットに襲いかかり、ヨットはアルシヨン(海に浮き巣を作ると言われる伝説上の馬)のように泡立つ波頭の上にたわむれていた。
ジョン船長は婦人方を認めると、急いで彼女らのほうへ行って船室に帰ってくれと頼んだ。大きな波がすでに幾度か船のなかに飛びこんで来、甲板はいつ波に洗われるかわからなかったのだ。風波の騒音は今は耳を聾するばかりで、レイディ・ヘレナには若い船長の言うことがほとんど聞こえなかった。
それでも彼女はちょっと静かになったときに彼にきいてみることができた。
「危険は全然ないのですか?」
「全然ありません」とジョン・マングルズは答えた。「しかし奥さまは甲板にいらっしゃるわけには行きません。ミス・メァリ、あなたもです」
レイディ・ヘレナとミス・メァリは懇願にも似たこの命令に逆らうことをせず、船尾楼の船室に帰ろうとしたが、あたかもそのとき艫《とも》の船名を記した板の上に打ちかかった波が彼女らの船室に通ずる入口のガラスを震わせた。マストは帆の圧力によって撓《たわ》み、ヨットは波浪の上に浮き上がるように見えた。
「フォースルを絞れ!」とジョン・マングルズは叫んだ。「トップスルとジブをおろせ!」
水夫たちはめいめいの受け持ちの索のところへ飛んで行った。動索は弛められ、絞帆索は重しがつけられ、ジブは空の音もかきけすほどの騒音とともに引きおろされた。そして〈ダンカン〉は煙突から黒い煙の奔流を吐き出しながら、ときどき水上にあらわれるスクリューの枝で不規則に海を叩いていた。
グレナヴァン、少佐、パガネル、ロバートは〈ダンカン〉の波濤との闘いを恐怖をまじえた感嘆の情をもって眺めていた。彼らは一言も交わすことができぬまま舷側の棚にしっかりとしがみつき、荒れ狂う風のなかに戯れているサタニクル海燕というあの不吉な嵐の鳥の群れを眺めた。
このとき耳をつんざく笛のような音が暴風の喧騒を圧して聞こえた。蒸気が排気管からではなくボイラーの弁から激しく噴出したのだ。警笛は異例の強さで鳴り響き、ヨットは恐ろしいほど傾斜し、舵輪を握っていたウィルスンは不意に舵に打たれてひっくりかえった。〈ダンカン〉は大波を横腹に受けてもはや舵は利かなかった。
「どうしたんだ?」とジョン・マングルズは船橋に飛び上って叫んだ。
「船が横倒しになる!」とトム・オースティンが答えた。
「舵がこわされたのか?」
「機関室へ! 機関室へ!」と機関士の声が叫んだ。
ジョンは機関のほうへすっ飛び、梯子《はしご》を駈け降りた。蒸気が濛々《もうもう》と機関室を満たしていた。シリンダーのなかでピストンは静止している。ロッドは主軸に運動を伝えていない。このとき機関士は自分らの努力が徒労であるのを悟って、ボイラーが爆発しないかと心配して蒸気を送るのをやめ、排気管から蒸気を逃げさせたのだ。
「一体どうした?」と船長はきいた。
「スクリューが歪むかひっかかるかした」と機関士が言った。「動かないんだ」
「何だって? はずすことはできないのか?」
「できません」
そんな故障の修理をしようなどとすべき時ではなかった。どうしても動かせぬ事実があった。スクリューは動かず、蒸気はもう力にならずに弁から洩れてしまったという事実が。それゆえジョンはまた帆に頼らねばならず、今では最も危険な敵となっているこの風を協力者にしなければならないのだった。
彼はまた甲板に上ってロード・グレナヴァンに手短かに事情を言った。それから彼はほかの乗客たちと一緒に船尾楼の船室に帰るようにグレナヴァンに促した。グレナヴァンは甲板にとどまりたいと言った。
「いや、閣下」とジョン・マングルズは決然とした声で答えた。「ここは私と部下たちだけでなくてはなりません。帰ってください! 船はひどく傾くかもしれませんし、そうなれば波は容赦なくあなたがたを洗い流します」「しかしわれわれだって何かの役に立つかもしれない……」「お帰りください、帰ってください、ミロード、そうしなければならないのです! 私がこの船の上を支配しなければならない場合もあります! お引き取りください、私が命じます!」
ジョン・マングルズがこれほどの権威をもって物を言うからには、状況はせっぱつまったものであるに相違なかった。グレナヴァンは自分が服従の範を示さねばならぬのだと悟った。そこで彼は三人の仲間を従えて甲板を降り、不安に悶《もだ》えながらこの風波との闘いの帰結を待っている二人の婦人のところへ行った。
「あのジョンは果断な男だ!」と、食堂に入りながらグレナヴァンは言った。
「そうだ」とパガネルは答えた。「あの男を見ると私は君たちの大シェイクスピアのあの水夫長のことを思い出すよ、あのドラマ『テンペスト』のなかで、自分の船にのせている国王にむかってこう叫ぶときの。
『あっちへ! 黙って! 自分の船室へ! この波風に沈黙を命ずることができないんなら、黙っててくださいよ! さあ、そこをどいた、どいた!』
とね」
一方ジョン・マングルズは一秒も無駄にせずに、スクリューがひっかかったために生じた危険な状態から船を救い出しにかかった。針路からなるべく離れないようにするため彼は帆の面積をなるべく小さくしておくことにきめた。それゆえ、帆を上げたままにして、嵐の方向に対して縦になるように斜めに帆桁を動かさなければならなかった。トップスルは下部だけ開かれ、メイン・マストの支索に一種の三角帆を上げ、舵は風上の方向へまわした。
すぐれた航行性能をそなえている船は拍車を当てられた駿馬のように動き、襲いかかる大波に横腹をむけた。これだけ縮めた帆は持ちこたえるだろうか? ダンディーの最上の麻でできた帆だ。しかしどんな織物がこれほど激しい力に堪え得よう?
このできるだけ帆の面積を小さくした状態には、ヨットのなかで最も堅牢な部分を波にさらし、最初の方向を保てるという利点があった。けれどもこれにも危険がないわけではなかった。なぜなら船は大波と大波のあいだの大きな谷間にはまりこんでそこから立ち直れないこともあり得たからだ。しかしジョン・マングルズとしては操船の仕方を選択する余地はなく、マストや帆が落ちて来ないかぎりその状態をつづけることに決心した。彼の部下は彼の目の前にいて、行かなければならぬところへいつでも飛び出せるように身構えていた。ジョンは支檣索《ししょうさく》に体をしばりつけて怒り狂う海を見張っていた。
その後の一夜はこうした状態で過ぎた。夜明けに嵐が衰えることを人々は期待していた。むなしい期待だった。午前八時ごろ風勢はますます強まり、秒速三六メートルに達する風は大暴風となった。
ジョンは何も言わなかったが、船のこと、船が乗せている人々のことを思うと身ぶるいした。〈ダンカン〉は恐ろしいほど傾斜した。船梁《せんりょう》を支える柱はみしみしと鳴り、ときどきフォースルのブームは波頭を打った。早くも水夫たちは斧を手にしてメイン・マストの支檣索を切ろうと駈け出したが、このとき滑車の溝からはずれた帆は巨大な阿呆鳥のように飛び去った。
〈ダンカン〉は立ち直った。しかし波の上に支点もなく方向も失ってすさまじく揺れ、そのためマストはその根もとまで割れるのではないかと思われるほどだった。長いあいだこのようなローリングに堪えることはできなかった。持ち上げられたときに船の各部ががたがたして来て、間もなく被覆《ひふく》には隙間ができ、継目は合わなくなり、海水が自由にはいって来るに相違なかった。
ジョン・マングルズに残された手はもう一つだけだった。暴風用の前部三角帆を張って時化から逃れることだった。何時間も努力し、やりあげるまでに何度となくそれまでの仕事を台なしにされたあげくに、ようやくそれに成功した。三角帆がフォースルの支索の上に立てられて風を受け出したのは、午後三時前ではなかったのだ。
それから〈ダンカン〉はこの小さな帆によって風に乗り、追い風を受けて途方もない速度で逃げはじめた。このようにして船は嵐の駆り立てて行く北東の方向へむかった。できるだけ高速を保たねばならなかった。船の安全は速度にのみかかっていたからだ。ときどき船体と同じ方向へ押しやられて行く大波を追い越そうとして、船はその流線型の舳先《へさき》で波を切り、巨大な鯨類のように波につっこみ、船首から船尾まで甲板を洗われて行く。また別のときには船の速度は波の速度に等しくなり、舵は全然利かなくなり、横倒しになりはしないかと思うほど途方もなく針路からそれる。さらにはまた、暴風に吹きつけられて波は船より速く走ることもある。そうなると波は船尾の上部を越えて、圧倒的な激しさで後部から前部へと全甲板が洗われる。
この険呑《けんのん》な状態で、希望と絶望の交錯のさなかで、一二月一五日の一日とそれにつづく夜は過ぎたのであった。ジョン・マングルズは一瞬も自分の部署を離れなかった。彼は何も食べなかった。泰然自若《たいぜんじじゃく》たるその顔はそれをあらわそうとしなかったが、彼は不安にさいなまれていたのであり、彼の視線はあくまでも北のほうに立ち罩《こ》めた濃霧のなかを見透《みすか》そうと努めていたのである。
実際彼はどんな不安をおぼえてもおかしくなかった。針路の外へ投げ出された〈ダンカン〉は、何ものをもってしても引き止め得ないような速度でオーストラリアの岸にむかって走っていたのだ。ジョン・マングルズはまたもっぱら本能によって、恐ろしい海流が船を引っぱっていることを感じていた。いつ暗礁にぶつかってヨットが粉々に砕けるかもしれないと彼は恐れていた。岸は風下一九キロメートル以内にはないだろうと彼は計算した。しかし陸とはこの場合難破を、難船を意味した。限りない大海原のほうがはるかにましだった。大海原の怒りに対しては、譲歩しながらであっても船は身を守ることができる。しかし嵐が船を海岸に投げつけるときにはもはや救いはないのだ。
ジョン・マングルズはロード・グレナヴァンに会いに行った。彼らは二人だけで話し合った。ジョンは事態をグレナヴァンに説明したが、その深刻さを和らげようとしなかった。どんなことでもやってのける覚悟をきめた船乗りの冷静さで彼は事態を直視し、最後にもしかすると〈ダンカン〉を海岸に乗り上げさせねばならないかもしれないと言って結んだ。
「もしそれができれば、乗っているものを救うためにです、ミロード」
「そうしたまえ、ジョン」とグレナヴァンは答えた。
「ではレイディ・ヘレナは? ミス・グラントは?」
「最後の土壇場になって、航行をつづける望みがまったく失われたときでなければ彼女たちには言わないよ。そのときは君が知らせてくれ」
「お知らせします、ミロード」
グレナヴァンは婦人たちのところへ帰ったが、危険の全貌は知らないまでも彼女たちは危険の迫っていることは感じていた。彼女たちはすくなくとも男の仲間たちと同じだけの非常な勇気を示した。パガネルは気流の方向についての、この場合にはきわめて時宜《じぎ》を得ない理論に熱中していた。傾聴しているロバートにむかって彼は旋風《トルナード》とサイクロンと直線的に進む嵐についての興味ある比較論をやっていた。少佐はといえば、彼は回教徒のような宿命論をもって終りの来るのを待っていた。
一一時ごろ暴風雨は少々弱まったように見えた。湿っぽい霧は散り、束の間の晴れ間にジョンは低い陸地を見ることができた。それは風下一〇キロメートルのところにあった。彼はまっしぐらにそちらへ船を走らせた。巨大な波濤が信じられないほどの高さまで、一五メートル以上の高さまではね上っていた。ジョンはそこに何か堅固なものがあるから波があのような高さまで上がるのだと察した。
「砂洲がある」と彼はオースティンに言った。
「私もそう思う」と航海士は答えた。
「われわれは神の手中にある」とジョンはまた言った。「神が〈ダンカン〉に通路を与えてくださらなければ、そしておんみずからそこへ導いてくださらなければ、われわれはおしまいだよ」
「今は潮は高い、船長、もしかしたらあの砂洲を乗り越えられるかもしれないじゃないか?」
「しかしまあ、オースティン、あの波濤の激しさを見てみたまえ! どんな船があれに抵抗できる? われわれを助けてくださるよう神に祈ろうじゃないか!」
そのあいだに〈ダンカン〉は暴風用の三角帆を上げて恐ろしいスピードで岸へ走っていた。やがて砂洲の壁までの距離はもはや三キロメートルしかなくなった。けれどもジョンは泡立っているその縁のむこうにやや静かな水面を認めたような気がした。そこへ行けば〈ダンカン〉は比較的安全にしていられるだろう。しかしどのようにして越えるか?
ジョンは乗客たちをデッキに上らせた。いよいよ難破というとき乗客たちが船室に閉じこめられていては困ると思ったのだ。グレナヴァンと仲間たちは恐るべき海を眺めた。メァリ・グラントは顔色を変えた。
「ジョン」とグレナヴァンは低い声で若い船長に言った。「私は妻を救うことに努める。でなければ妻と一緒に死ぬまでだ。君はミス・グラントのことを引き受けてくれ」
「はい、閣下」ロードの手を取って自分の涙に濡れた目に持って行きながらジョン・マングルズは答えた。
〈ダンカン〉は砂洲の裾《すそ》からもはや数アンカブリュール(一アンカブリュールは一八五二メートル)しか離れていなかった。海はこのとき潮が満ちていたので、きっとこの危険な浅瀬を越えるには充分なだけの水深をヨットの船底に残しておいてくれるだろう。が、それにしても巨大な波がヨットを持ち上げたり投げ出したりするうちに、かならずや竜骨が底に触れるに相違ない。それではこの波の動きをやわらげ、水の分子の滑動を容易にし、要するにこの荒れ騒ぐ海をしずめる方法はないのか?
ジョン・マングルズは最後の手を思いついた。
「油だ!」と彼は叫んだ。「みんな、油を流せ、油を流せ!」
この言葉はたちまち乗組員全員に理解された。今使おうとするのはときどき成功することのある方法だった。油の層で蔽うことによって狂瀾《きょうらん》をやわらげるのである。この油の層は水面に浮いて、水をなめらかにしてその力を殺《そ》ぐのだ。その効果はすぐあらわれるが、またすぐ消える。船がこの作為をほどこした海面を通り過ぎると海面はその怒りを増す。そしてその船の後に乗りこんで来たものこそわざわいなるかなだ!〔それゆえ海上法規は、ほかの船が後続し、同じ水路に入って来るときにはこの最後の手段の使用を禁じている〕
あざらしの油を容れてある桶が乗組員の手で船首楼の上に上げられた。乗組員たちは危険に迫られて途方もない力を出していた。船首楼で斧で底を叩き抜かれた桶は、左右の舷側の上に支えられた。
「しっかり持っていろ!」とジョン・マングルズは好機をうかがいながら叫んだ。
二〇秒のうちにヨットは咆哮する海嘯《かいしょう》にさえぎられた水路の口に到達した。今がその時機だった。
「行け!」と若い船長は叫んだ。
桶はひっくりかえされ、その腹から油はどくどくと流れ出した。一瞬にして油膜は泡立つ海面をいわば坦《な》らした。〈ダンカン〉はしずめられた波の上を疾走し、間もなく恐るべき砂洲のむこうの静かな水面にはいっていた。いっぽう大海は邪魔物を取り除くと、船の背後で形容を絶した凄まじさであばれまわった。
[#改ページ]
六 ベルヌーイ岬
ジョン・マングルズが最初にしたことは、二つの錨で船をしっかりととめることだった。彼は九メートルの海底に錨をおろさせた。海底はしっかりしており、錨のすわりのいい砂になっていた。だから潮が引いても錨をちぎって漂流したり乗り上げたりする心配は全然なかった。〈ダンカン〉はあれほど長時間の危険の後に、今は環状の高い岬によって沖の風から守られた一種の入江のなかにいたのである。
ロード・グレナヴァンは、
「ありがとう、ジョン」と言いながら若い船長の手を握った。
そしてジョンはこのわずか二言で充分酬いられたように感じた。グレナヴァンはこれまでの自分の不安を心に秘めて打ち明けず、レイディ・ヘレナもメァリ・グラントもロバートも自分らが今逃れて来た危険の重大さに全然気づきもしなかった。
まだ一つ重大な点があきらかにされねばならなかった。海岸のどの地点に〈ダンカン〉はこの凄まじい嵐によって吹きつけられたのだろうか? これまで辿って来た緯度線にどこでまたぶつかるか? ベルヌーイ岬は南西になおどれほど隔たっているのか? ジョン・マングルズにむけられた最初の質問はこれだった。ジョンはただちに計測をおこない、その結果を海図上に記した。
結局〈ダンカン〉はその針路からそうひどくそれてはいなかった。わずかに二度ばかりだったのだ。その現在の位置は経度一三六度一二分、緯度三五度七分、南オーストラリアの突出部の一つにあるカタストロフィ岬で、ベルヌーイ岬からは四八〇キロメートルだった。
この縁起の悪い名を持つカタストロフィ岬のむかいには、カンガルー島の一半島を形づくる岬が突き出していた。この二つの岬のあいだに、北のスペンサー湾と南のセイント・ヴィンセントに通ずるインヴェスティゲーター海峡が開いている。このセイント・ヴィンセント湾の東岸に、南オーストラリア州というこの州の首都アデレイドの港がえぐられている。一八三六年に建設されたこの都市は住民四万を数え、かなり資源も豊富である。しかし町の人々は大きな工業的企業を作ることよりも、豊かな土地を耕し、葡萄とオレンジを採取し、その農業の富を収穫することに意を用いている。住民には技術者よりも営農者のほうが多く、一般の気風は商取引もしくは機械的技術のほうにはあまり向いていない。
〈ダンカン〉はその損傷を修理し得るであろうか? この問題をはっきりさせねばならなかった。ジョン・マングルズは実際どうなっているのか知りたかった。彼はヨットの後部に人をもぐらせてみた。潜水夫たちはスクリューの枝の一つが曲り、船尾材〔船の一番終りまで来ている梁材〕にぶつかっていると彼に報告した。そのため回転運動ができなくなっているのだ。この損傷は重大なものと判断された。しかも、アデレイドでは見つからぬような道具を必要とするほど重大なものだったのだ。
グレナヴァンとジョン船長は充分考えてみたあげく次のような結論に達した。〈ダンカン〉は〈ブリタニア〉の跡をたどってオーストラリア海岸に沿って帆走する。ベルヌーイ岬に立寄って最後の情報をあつめ、さらに南へメルボルンまで足を伸ばす。そこでならば損傷は簡単に修理されるだろう。スクリューが直ったならば〈ダンカン〉は東岸を巡航して予定の捜索を完了する。
この提案は同意された。ジョン・マングルズは順風になり次第出帆することにした。彼は長くは待たなかった。夕刻嵐は完全にしずまった。南西から吹く順風が嵐の後にやって来た。出帆の準備がおこなわれた。新しい帆が帆桁に結びつけられた。午前四時には水夫たちは捲き轆轤《ろくろ》を捲き上げた。間もなく錨の鎖はぴんと張り、錨は引かれ、〈ダンカン〉はフォースル、トップスル、トガンスル、ジブ、後斜桁帆、檣頭帆を右舷開きにして、オーストラリア海岸からの順風に乗って走り出した。
二時間後カタストロフィ岬は見えなくなり、船はインヴェスティゲーター海峡に横腹をむけていた。夕方にはボルダ岬の前を越えたが、カンガルー島は数アンカブリュールのところに伸びていた。これはオーストラリアの小島のなかでは最大のもので、脱走した囚人の隠れ場所となっていた。その眺めは魅力的だった。広大な緑の絨毯がその岸の層をなした岩を蔽っていた。一八〇二年のこの島の発見の頃のように、数知れぬカンガルーの群れが森や野原を縦横にはねまわっているのが見えた。翌日〈ダンカン〉が間切りをつづけながら走っているあいだに、船のボートは岸の暗礁を調べるために送り出された。このとき船は三六度線にあったのだが、グレナヴァンは三八度までは残る隈なく探索しておきたいと思ったのだ。
一二月一八日のあいだに、本当のクリッパーのようにすべての帆を開いて風を横から受けるようにして走っていた〈ダンカン〉はエンカウンター湾の岸をかすめた。一八二八年に旅行家スタートは南オーストラリア最大の河であるマレイ河を発見した後にこの湾に着いたのである。それはもはやカンガルー島の緑の海岸ではなく、不毛の小丘がときどき低い鋸歯《きょし》状の海岸線の単調を破り、ところどころに灰色の断崖があり、あるいはまた砂嘴《さし》が伸びているが、いずれにしても極に近い大陸のような乾燥ぶりを示している。
この航海のあいだ船のボートは酷使された。水夫たちはそれに不平を言わなかった。ほとんどいつもグレナヴァンと、彼と離れることのないパガネル、そしてロバート少年が水夫たちと同行した。彼らは〈ブリタニア〉の遺物でもあったら自分自身の目でそれを見たかったのである。オーストラリアの海岸はこのことに関してはパタゴニアのそれと同じくらい沈黙を守っていた。けれどもあの文書の指示しているその地点に到達しないかぎりすべての希望を失ってはならなかった。彼らがこうしているのは念には念を入れるためであり、何一つ偶然にゆだねないためであった。夜のあいだ〈ダンカン〉は、できるだけ現在の位置にとどまるようにして船を止め、昼のあいだ沿岸を丹念に捜索した。
このようにして一二月二〇日にラペセード湾の末端にあるベルヌーイ岬に到着したが、それまで漂流物は全然見つからなかった。とはいえこの不成功は〈ブリタニア〉の船長にとって不利なことを何一つ証明してはいなかった。事実あの悲劇があった二年前から今までのうちに、海は三檣船《さんしょうせん》の残骸を散乱させ、腐蝕し、岩礁から流し出したとも考えられる、いや、それにちがいないからである。のみならず、禿鷹《はげたか》が死屍《しし》を嗅ぎつけるように難船を嗅ぎつける原地民たちは、どんなにつまらない破片でも拾って行ったに相違なかった。さらにまた、波によって岸に打上げられると同時に捕われたハリー・グラントとその仲間は、あきらかに内陸部に拉《らっ》し去られているのだ。
だがここでジャック・パガネルの巧みな仮説の一つは無効になってしまった。アルゼンチン領土内に関するかぎりは、地理学者は文書中の数字は遭難の場所ではなく捕われている場所に関係していると当然主張することができた。たしかにそこにはパンパシアの大河やその無数の支流があり、それらがあの貴重な文書を海へ運んでもおかしくはない。それに反してオーストラリアのこのあたりでは、三七度線を横切っている水流はそうたくさんはないのだ。その上、リオ・コロラド、リオ・ネグロは人の住み得ぬ、事実また人の住んでいない荒涼たる海岸を通って海に注ぐが、一方マレイ河にしろヤラ河にしろトレンス河にしろダーリング河にしろ、オーストラリアの主な河川はたがいに合流しているか、もしくは船のよく入る錨地《びょうち》、出入りの多い港となっている河口を通って大洋に流れ入るのだ。となると、脆《もろ》い壜が始終船の通っているこの河筋を下ってインド洋にたどりつける可能性はどれほどであろうか?
そんなことは不可能だということは烱眼《けいがん》な人間なら見のがすはずがなかった。パガネルの仮説はアルゼンチン領内のパタゴニアでは認められても、オーストラリアではそれゆえ、理窟に合わなかった。マクナブズがこの問題について提起した議論の際パガネルはこのことを認めた。文書に記されている緯度が遭難の場所のほかには適用されないこと、それゆえ壜が海に投ぜられたのはオーストラリア西岸の〈ブリタニア〉が難破した場所であることはあきらかになった。
それにしても、これはグレナヴァンが正当にも指摘したことであるが、この決定的な解釈はグラント船長が捕われているという仮説を排除するものではなかった。それにまた船長自身あの文書のなかで、「残忍な原住民に捕われることであろう」というあの無視できない言葉でそれを示唆しているのだ。けれども、他のどこよりも三七度線上で捕虜を捜さねばならないという理由は今はもう全然なかった。
長いあいだ討議されたあげくこの問題はこうして最終的な解決を与えられ、次のような結論に達した。〈ブリタニア〉の足跡がベルヌーイ岬で見出されなかったならば、ロード・グレナヴァンはもはやヨーロッパに帰るほかはない。捜索は実を結ばなかったわけだが、それでも彼は勇敢に良心的に義務を果したのである。
このことはヨットの乗客たちをことのほか悲しませ、メァリとロバートを絶望させずにはおかなかった。グレナヴァン卿夫妻、ジョン・マングルズ、マクナブズ、パガネルと一緒に岸にむかいながら、船長の二人の子供は父親が救われるか否かの問題が今から最終的に決定されようとしているのだと心に思った。最終的に。なぜならさきほどの議論でパガネルが、〈ブリタニア〉が東岸の暗礁にぶつかって砕けたとすれば遭難者たちはもうとっくの昔に送還されているはずだということを的確に論証していたからである。
「希望を持つのよ! 希望を! あくまでも希望を!」とレイディ・ヘレナはボートのなかで自分の横に坐っている娘にくりかえした。「神は私たちを見放しはしないでしょう!」
「そうです、ミス・メァリ」とジョン船長も言った。「人事を尽した後にこそ神が手をかし、何か思いがけないことによって人間に新しい道を開いてくれるものです」
「神さまがあなたの願いを聞いてくださればいいんだけど、ジョンさん!」とメァリ・グラントは答えた。
岸まではもう二〇〇メートルばかりしかなかった。三キロメートルほど海に突き出している岬の突端は、この岸でかなりゆるい傾斜になって終っていた。ボートは形成途上の珊瑚礁のあいだの自然の小さな入江のなかで接岸した。これらの珊瑚礁は時間をかけてオーストラリア南部をとりまく珊瑚礁の帯を形づくって行くものと思われる。すでに現状でも船底を破るには充分だったし、〈ブリタニア〉はここで船体積荷とも失われてしまったのかもしれなかった。
〈ダンカン〉の乗客たちはまったく人気のない岸に何の困難もなく上陸した。帯状の層理をなした崖が一八メートルから二四メートルの高さの海岸線を形づくっていた。梯子も滑り止めの釘もなしにこの自然の城壁を攀《よ》じ登るのはむずかしかったろう。さいわいジョン・マングルズが七、八百メートルほど南のところに、崖の部分的な崩壊で生じた裂け目をまことに都合よく見つけた。海はおそらく大嵐のときこの脆《もろ》い凝灰岩の壁に打ちかかり、そうして岩塊の上部を崩落《ほうらく》させたのだろう。
グレナヴァンとその仲間たちは裂け目にはいり、大分急な傾斜を登って崖の頂に出た。ロバートは若い猫のようにひどく切り立った斜面を攀じり、まっさきに高い頂に出てパガネルをがっかりさせた。四〇歳の自分の大きな脚が一二歳の少年の小さな脚に負けたので屈辱をおぼえたのだ。もっとも彼は悠然たる少佐をずっと引き離したが、少佐は大してそんなことを気にしていなかった。
小さな一隊は間もなく一緒になって、眼下にひろがる平野を眺めた。それは灌木や茨《いばら》に蔽われた荒れ果てた広い土地、不毛の地方で、グレナヴァンはこれをスコットランドの低地の谷《グレン》に、パガネルはブルターニュの貧しい荒野に比較した。しかしこの地方は海岸沿いは無人のように見えても、人間の――それも未開人ではなく、勤労する人間の――存在は遠くのほうの希望をかきたてるいくつかの建物によって示されていた。
「風車だ!」とロバートは叫んだ。
なるほど五キロほどむこうで風車の翼が風にまわっている。
「ほんとに風車だ」問題の物体にむかって望遠鏡を向けたパガネルは答えた。「まことにつつましい、しかしまことに有用な小さなモニュメントだよ。しかもこれを見ることは私の目にとって大きな喜びだ」
「まるで鐘楼みたいね」とレイディ・ヘレナは言った。
「そうです。一方は体のパン粉を輾《ひ》き、他方は魂のパン粉を輾く。その点からしても二つはよく似ています」
「風車へ行こう」とグレナヴァンは言った。
一同は歩き出した。三〇分ほど歩くと、人間の手の加わった地面は新しい様相をもってあらわれた。不毛の地域から耕作地への推移は唐突だった。藪ではなく生垣が、最近開墾されたばかりの畑を囲んでいた。数頭の牛と六頭ばかりの馬が、カンガルー島の広い苗圃《びょうほ》から持って来た強壮なアカシアに囲まれた牧場で草を食んでいた。だんだんと穀類で蔽われた畑、黄金色の穂のならぶ数エーカーの地所、大きな蜜蜂の巣箱のように立つ乾草の山、ま新しい柵をめぐらした果樹園があらわれて来た。まさにホラティウスに歌われても恥かしくない農園であり、目に快いものと実用のものとがそこでは入り混っている。次いで上屋《うわや》やたくみに配分された附属建築物、そして最後に質朴だが快適な住居、その横に切妻の尖ったあの風車小屋がそばだち、その大きな翼の動く影が住居を撫ぜている。
ちょうどこのとき、五〇歳くらいの人好きのする顔立ちの男が、よそ者が来たことを知らせる四匹の大きな犬の声を聞いて母屋から出て来た。その息子である五人の美しい逞《たくま》しい少年が、彼らの母親である背の高い頑丈な女と一緒に彼について来る。見誤るはずはなかった。ほとんど処女地というべきこの田園のなかのまだ新しい建物のまんなかで健康な家族に囲まれたこの男は、母国の貧しさに厭気《いやけ》がさし、海のかなたに財産と幸福を求めに来たアイルランド人入植者の完全な典型を示していた。
グレナヴァンとその一行がまだ自己紹介もせず、名前や身分を明かすいとまもないうちに、すでに親しげな言葉が彼らを迎えていた。
「皆さん、パディ・オムーアの家によく来てくださいました」
「あなたはアイルランド人ですか?」と、入植者の差し出した手を握りながらグレナヴァンは言った。
「以前はね」とパディ・オムーアは答えた。「今は私はオーストラリア人ですよ。皆さんがどんな方か知らないが、まあどうかお入りください、自分の家のようなつもりで」
これほど快く言われた招待は遠慮なしに受けるほかはなかった。レイディ・グレナヴァンとメァリ・グラントはオムーア夫人に案内されて住居にはいり、一方息子たちはお客さんたちの銃を受け取った。
涼しく明るい大きな広間が、ふんだんに厚板を水平にならべた家の一階を占めていた。陽気な色に塗った壁に釘づけにした腰掛け、一ダースばかりの床几《しょうぎ》、白いファエンツァ焼の陶器とぴかぴかした錫《すず》の水差しをならべた槲材《オーク》の二つの戸棚、二〇人もの人がゆっくりと坐れる広く長いテーブル、これらが堅牢な家とその頑丈な住人にふさわしい調度をなしていた。
午餐《ごさん》が出された。オリーヴや葡萄やオレンジの大きな皿に囲まれたローストビーフと羊の股肉のあいだでスープ入れが湯気をたてていた。必要なものはそろっていたし、必要以上のものまで欠けていなかった。主人夫妻はまことに人をひきつける様子をしていたし、見ばえのする食卓はまことに大きくまことに豊かで、腰をおろさないと言っては失礼なほどだった。そうでなくとも農場の使用人たちも主人と対等に一緒に食事をしに来るのだった。パディ・オムーアは客たちにあてられた席を指した。
「私はあなたを待っていました」と彼は淡々とロード・グレナヴァンに言った。
「あなたが?」ひどく驚いてグレナヴァンは問いかえした。
「私は来てくれる人をいつも待っているんです」とアイルランド人は答えた。
それから、家族と使用人たちがうやうやしく立っている中で、おごそかな声で彼は食前の祈りを唱えた。レイディ・ヘレナはこの申し分のない人情の素朴さに心の底から感動をおぼえたが、夫の眼差しを見て彼が同様にこの素朴さに感嘆していることを知った。
一同は舌鼓《したつづみ》を打った。会話はありとあらゆる話題に及んだ。スコットランド人とアイルランド人とのあいだでは握手以外の面倒な礼儀は要らない。幅数トワーズ(一トワーズはおよそ二メートル)のトウィード川〔スコットランドとイングランドを分つ川〕が、古いカレドニアと緑のエリンとを分つ幅数里に及ぶアイルランド海峡以上に、スコットランドとイングランドのあいだに深い溝を穿《うが》っているのである。パディ・オムーアは自分の経歴を語った。それは貧窮のために故国から追われたすべての移住者と同じ経歴であった。遠方へ一旗《ひとはた》上げようとして来て、幻滅と不幸しか見出さなかったものは多い。彼らは自分の愚かさ、自分の怠惰、自分の欠点をとがめることを忘れて、運のないことを恨む。だが、つましい生活をし、勇気があり、倹約し、正直であるものは誰でも成功するのだ。
パディ・オムーアはいつもそうだった。彼は窮死《きゅうし》しかけていたダンドークを去り、家族を連れてオーストラリアにむかい、アデレイドに上陸し、坑夫の仕事をしりぞけて射倖的《しゃこうてき》なところのすくない農業の労苦を選び、二ヵ月後に農業経営をはじめて今日ではこのような繁栄を見ているのであった。
南オーストラリアの領土はそれぞれ面積三二ヘクタールの地所に分割されていた。この地所は政庁から入植者に払い下げられ、そして各地所によって勤勉な耕作者は自分の食べるだけのものを稼ぎ、さらに八〇ポンド貯金することができる。
パディ・オムーアはそうすることができた。彼の農業知識は非常に役立った。彼は生計をたて、倹約し、はじめの土地から得た利益によって別の土地を手に入れた。彼の家族は栄え、彼の経営も栄えた。アイルランドの百姓は地主になり、彼の農場が開かれてからまだ二年もたっていなかったのに、今彼はその努力によって生命を保たれている二〇〇ヘクタールの土地と五〇〇頭の家畜を所有していた。かつてヨーロッパ人の奴隷だった彼は、今は自分自身のほか誰の命令も受けず、世界で最も自由な国でしかそうなり得ないほど独立しているのであった。
お客さんたちはこのアイルランド人移住者の話に衷心《ちゅうしん》からの祝辞をもって答えた。パディ・オムーアは自分の身の上話を終えると、この打ち明け話に対して相手からも打ち明け話が出ることを期待していたらしいが、かといってそれを促すことはしなかった。自分はこういう人間だ、しかしあなたがどういう人間か聞かせろとは言わないという類のあの慎しみ深い人間だったのだ。グレナヴァンのほうはまず〈ダンカン〉のこと、〈ダンカン〉がベルヌーイ岬に今いること、彼が不撓不屈《ふとうふくつ》の執拗さでつづけている捜索のことを話すべきところだった。しかし単刀直入に本題に入る人間らしく彼は最初から〈ブリタニア〉の遭難に関してパディ・オムーアに質問した。
アイルランド人の答ははかばかしいものではなかった。彼はそんな船のことは一度も聞いたことがないのだった。この二年間どんな船も、岬の北側であれ南側であれ、どこの海岸でも難破していない。ところが、悲劇があったのはわずか二年前のことだ。それゆえ彼は、遭難者が西海岸のこのあたりに打ち上げられなかったと、一点の疑いをもとどめず確信をもって言い切ることができたのだ。
「それではうかがいますが」と彼はその後で言った。「どういうわけで私にそんな質問をなさるのですか?」
そこでグレナヴァンはあの文書の件、ヨットの航海、グラント船長を見つけるためにおこなったさまざまの試みを入植者に物語った。自分が最も心にかけていた希望が今のはっきりした断言によって潰《つい》え去ったこと、〈ブリタニア〉の遭難者を見つける望みを失ったことも彼はかくさなかった。
このような言葉はグレナヴァンの話を聞いている人々に悲痛な印象を与えずにはいなかった。ロバートとメァリも涙に目を濡らしながら彼の言葉に耳を傾けていた。パガネルは慰めと希望の言葉をかけようとしてもその言葉が思い浮ばなかった。ジョン・マングルズは和らげようのない苦痛に悶えていた。〈ダンカン〉によってむなしくこの遠方の岸に運ばれて来たこれらの高潔な人々の心はすでに絶望に浸されようとしていたが、そのとき次のような言葉が聞こえたのであった。
「ミロード、神を讃《たた》えることです。もしグラント船長が生きているとすれば、オーストラリアの地に生きています」
[#改ページ]
七 エアトン
この言葉のひきおこした驚きはとても形容できるものではなかった。グレナヴァンはさっと立ち上り、椅子を押しのけて叫んだ。
「今の言葉を言ったのは誰です?」
テーブルのはしに坐っていたパディ・オムーアの使用人の一人が言った。
「私です」
「エアトン、おまえが!」入植者はグレナヴァンに劣らずびっくりして言った。
「私ですよ」とエアトンは昂奮した、だがしっかりした声で答えた。「ミロード、あなたと同じスコットランド人で、〈ブリタニア〉の遭難者の一人であるこの私です!」
この言明の効果は筆舌につくせぬものだった。メァリは今度は半分は感動に気が遠くなり半分は歓喜に息も絶えんばかりになってレイディ・ヘレナの両腕のなかに倒れかかった。ジョン・マングルズ、ロバート、パガネルは席を離れて、パディ・オムーアが今エアトンと呼んだ男のほうへ駈けよった。
それは四五歳ぐらいの、ごつごつした顔つきの男だった。よく光るその目は深く落ちこんだ眼窩《がんか》のなかに沈んでいた。体は痩せていたけれどもその腕力は並々ならぬものだったに相違ない。骨と筋だけで、スコットランドの言い方に従えば彼は肥った肉をこしらえるために時間を浪費しなかったのだ。中背で肩幅は広く、目鼻立ちはごつごつしていたが知力と精力に満ちた顔つきをしているのを見ると、なかなかの人物と思われた。彼を見て人が感じる好意は、その顔にまだ残されているごく最近の苦難の痕によって一層強められるのだった。苦しみに堪え、苦しみに挑み、苦しみに打ち克つことのできる人間のように見えはするが、とにかく彼が苦しんで来たこと、非常に苦しんで来たことが誰にもわかった。
グレナヴァンとその友人たちは最初の一瞥でそれを感じていた。エアトンの人格は最初から強い印象を与えた。グレナヴァンは誰もが考えていることを代弁して彼にやつぎばやに質問をあびせ、エアトンはそれに答えた。グレナヴァンとエアトンがここで出逢ったことは、彼ら自身のそれぞれに感動を与えていた。
そこでグレナヴァンの質問は最初のうちは順序もなく、まるで彼の意志に反して飛び出して来るもののように口をついて出た。
「君は〈ブリタニア〉で遭難したんだって?」と彼はきいた。
「そうです。グラント船長のクウォータマースターです」とエアトンは答えた。
「遭難のあと船長と一緒に救われたのか?」
「いいえ、ミロード、ちがいます。あの恐るべき瞬間に私は甲板から持ち上げられて船から離れ、岸へ打ち上げられたんです」
「それでは君はあの文書に出て来る二人の水夫の一人ではないんだね?」
「ええ、私はそんな文書があるとは知りませんでした。私が船から離れた後に船長はそれを海に投げたんですね」
「だが、船長は? 船長は?」
「私は〈ブリタニア〉のすべての乗組員と一緒に船長も波に呑まれて溺れ、行方不明になったと思っていました。自分一人が生き残ったと思っていたんです」
「しかし君はグラント船長は生きていると言ったじゃないか!」
「いや、私はもしグラント船長が生きているとすればと言ったのです……」
「そして君はつけくわえた、オーストラリアの地にいます!……と」
「実際オーストラリア以外にいるはずがありませんから」
「それではどこにいるかは知らないんだね?」
「ええ、くりかえしますが、私は船長は波に呑まれたのでなければ岩にぶつかって死んだと思っていたのです。船長がまだ生きているかもしれないということはあなたから教えられたのです」
「それでは君は何を知っているのかね?」
「知っていることは、グラント船長が生きているとすれば、オーストラリアにいるということだけです」
「一体遭難はどこであったんだ?」とこのときマクナブズ少佐が言った。
これこそまず最初にしなければならなかった問いなのである。しかしこの意外な事態に心が乱れていたグレナヴァンは、何よりもグラント船長の居場所を知ろうと気がせくあまり、〈ブリタニア〉の難破した場所を聞き出そうとしなかったのだ。これまで取りとめがなく、非論理的で、飛躍的で、問題をきわめることをせずに表面をかすめて行くだけで、事実をごちゃ混ぜにし、日づけを取り違えてばかりいた会話が、このときからより合理的なものになり、間もなくこのはっきりしない事件の細部が聞き手たちの頭のなかで明快に的確に描かれて来た。
マクナブズの質問にエアトンは次のような言葉で答えたのだ。
「私は船首楼でジブをおろしているうちにさらわれたのですが、そのとき〈ブリタニア〉はオーストラリアの岸にむかって走っていました。もう岸まで四〇〇メートルもありませんでした。ですから遭難はあの場所であったに相違ありません」
「南緯三七度ですか?」とジョン・マングルズがきいた。
「三七度です」とエアトンは答えた。
「西岸の?」
「ちがいますよ! 東岸です!」とクウォータマースターは強く答えた。
「その時期は?」
「一八六二年六月二七日の夜」
「そうだ! それだ!」とグレナヴァンは叫んだ。
「これで私が次のように言ったのは間違っていなかったことがおわかりでしょう。グラント船長がまだ生きているとすればオーストラリア大陸で生きているのであり、船長を捜すならばほかのどこでもなくオーストラリア大陸で捜さねばならぬ、と」
「そして実際捜して見せよう、船長を見つけ、船長を救って見せよう、君!」とパガネルは叫んだ。「ああ、貴重な文書よ」と彼はまったく無邪気につけくわえたのだ。「おまえはまことに烱眼《けいがん》な人間たちの手にはいったものだ!」
おそらく誰一人としてパガネルの希望的な言葉を聞いていなかったろう。グレナヴァンとレイディ・ヘレナ、メァリとロバート・グラントはエアトンのまわりにつめかけた。彼らはエアトンの手を握った。この男がここにいることがハリー・グラントが救われることの確実な保証であるように思えた。水夫が遭難の危険を逃れた以上、船長がこの災厄《さいやく》から無事に切り抜けられなかったという理由があるだろうか? エアトンはグラント船長は自分と同様生きているに相違ないと何度もくりかえした。どこかということは自分には言えないが、この大陸にはちがいない。彼はあびせられる質問に驚くべき頭のよさと的確さで答えた。ミス・メァリは彼がしゃべっているあいだ彼の片手を両手で握っていた。自分の父親の仲間だったのだ、この水夫は。〈ブリタニア〉の船員の一人だったのだ! ハリー・グラントのそばにいて、彼とともに海を馳せめぐり、同じ危険に挑んで来たのだ! メァリはこのごつごつした顔から目を放すことができず、うれし涙にくれた。
それまで誰一人としてこのクウォータマースターの話の真実性や彼の身分に疑いをはさもうとは思わなかった。ただ少佐と、おそらくはまたジョン・マングルズは、それほどあっけなく人の言いなりになってしまうほうではなかったから、エアトンの言葉が全幅的な信頼に価するかどうかと怪しんだ。この思いがけない邂逅はいくらかの疑念をよびおこしても不思議ではなかった。たしかにエアトンは辻褄《つじつま》の合う事柄や日づけ、目立った事実を挙げはした。しかし細部というものはいかほど精密であってもそれ自体確証とはならないし、これはすでに人々の認めているところだが、一般に嘘というものは細部の精密さによってなりたつものなのだ。だからマクナブズは自分の意見を保留し、発言することを避けた。
ジョン・マングルズのほうはどうかといえば、彼の疑いは水夫の言葉に最後まで抗し得ず、エアトンが娘にむかって父親の話をしているのを聞いてしまうと、この男がグラント船長の仲間に間違いないと思った。エアトンはメァリとロバートのことも非常によく知っていた。彼は〈ブリタニア〉の出帆のときグラスゴーでこの二人に会っていた。船上で船長の友人たちのために催された別れの昼食会に二人が来ていたことを彼は二人に思い出させた。州長官《シェリフ》マキンタイアもそれに出席していた。ロバートは――当時は一〇歳になるやならずだったが――水夫長のディック・ターナーにゆだねられていたが、彼は水夫長の手をのがれてトガンマストの横木に攀じ登った。
「ほんとだ、ほんとだ」とロバート・グラントは言った。
それからエアトンは無数のこまかい事実を思い出させたが、彼自身はジョン・マングルズのようにそうした事実を重要視しているようには見えなかった。そして彼が言葉を切ったとき、メァリはいつものやさしい声で彼に言った。
「もっと話してください、エアトンさん、父のことをもっと話してください」
クウォータマースターは娘の願望をできるだけかなえた。グレナヴァンはそれを妨げなかったが、しかしそんなことよりももっと有用な質問がいくつも彼の頭のなかにひしめいていたのである。ただレイディ・ヘレナが娘のうれしそうな昂奮ぶりを示して彼の言葉を遮《さえぎ》ったのだ。
この会話のなかでエアトンは〈ブリタニア〉の一件と太平洋の諸海域の航海について語った。メァリ・グラントはあらまし知っていた。船の消息は一八六二年五月まではあったからだ。その一年間のあいだにハリー・グラントはオセアニアの主要な土地に上陸した。ヘブリディーズ諸島、ニューギニア、ニュージーランド、ニューカレドニアに寄港し、正当性を欠いていることの多い植民地領有を見たり、イギリス官憲の悪意に苦しめられたりした。なぜなら彼の船のことはイギリス領植民地に通報されていたからである。けれども彼はパプアシアの西岸に重要な拠点を見出していた。そこではスコットランド人の植民地を建設することは容易であり、その繁栄は保証されているように見えた。事実モルッカ諸島およびフィリッピンへの適当な中継港となれば、多くの船をひきつけるはずだった。特にスエズ地峡の開鑿《かいさく》によって喜望峰まわりの航路がなくなってしまえば。ハリー・グラントはイギリス国内でド・レセップス氏の事業を称讃し、国際的に大きな利益のあることに政治的な対立抗争を持ちこまない人々の一人だったのだ。
このパプアシアの踏査の後、〈ブリタニア〉はカリャオに行って補給をおこない、一八六二年五月三〇日、インド洋を経て喜望峰まわりでヨーロッパに帰るべくカリャオの港を去った。出帆してから三週間後、恐るべき嵐が船を破損させた。操船不可能となった。マストを切り倒さねばならなかった。船底に穴があき、どうしてもふさぐことができなかった。乗組員は間もなく疲労困憊し、力尽きた。船内の水を汲み出すことはできなかった。一週間にわたって〈ブリタニア〉は暴風雨に飜弄された。だんだんと船は沈んで来た。ボートは嵐のあいだにさらわれてしまっていた。もはや船上で死ぬほかはなかったが、六月二二日の夜、これはパガネルが正しく推察していたことだが、オーストラリアの東岸が見えて来た。間もなく船は浅瀬に乗上げた。激しいショックがあった。このときエアトンは波にさらわれてさかまく波浪のなかにひきこまれ、意識を失った。我に帰ったときは彼は原地民たちの手中にあり、原地民らは彼を内陸に連れて行った。このとき以来彼は〈ブリタニア〉のことは全然聞かなかったし、トゥーフォールド・ベイの危険な岩礁で船体積荷もろとも失われたものと想像していたが、それも無理もないことだったろう。グラント船長に関する彼の話はここで終った。この話は一度ならず悲嘆の叫びをよびおこした。少佐がこの話の真実性を疑ったとすれば正しくないとされたろう。しかし〈ブリタニア〉の話の後で、エアトン自身の話は一層切実な興味をひくものだったはずだ。事実グラントは、あの文書のおかげで人々はこのことを疑わなかったが、二人の水夫とともに難破から生き残ったのである、エアトンと同様に。一方の運命を見れば当然他方の運命についても推測できる。エアトンはそれゆえ自分の冒険について話すように促されたが、その話はごく簡単でごく短かった。
原地民の一部族の捕虜となった遭難水夫はダーリング河流域の内陸部へ、すなわち三七度線から六四〇キロメートルも北へ拉し去られたのであった。そこで彼は、その部族自身が惨めだったから実に惨めな生活をさせられたが、虐待はされなかった。二年間の長い苦しい奴隷生活だった。けれども自由をとりもどそうという希望は彼の心から去らなかった。脱走すれば無数の危険のただなかに身を置くことになるにもかかわらず、彼はどんな小さな逃走の機会をもうかがっていた。
一八六四年一〇月のある夜、彼は原地民たちの監視の目をあざむき、はてしない森林の奥へ身をひそめた。一ヵ月のあいだ植物の根や食べられる羊歯やミモザのゴム質を食べ、昼間は太陽で、夜は星で方位を見、しばしば絶望に打ちのめされながらこの広大な無人の地を彼はさまよった。こうして沼や川や山を横切り、ほんのわずかの旅行者が大胆な足跡をしるしたにすぎないこの大陸の無人の地域を通過したのであった。そのあげく彼は半死半生で疲れ切ってパディ・オムーアのこの親切な住居にたどりつき、ここで労力を提供する引き替えに幸福な日々を送ることになったのである。
この物語が終るとアイルランド人入植者は言った。
「こうしてエアトンは私に満足していますが、私のほうも彼に満足せざるを得ないのです。頭のいい、まじめな、よく働く男ですし、彼がその気ならば今後もずっとこの家に住んでもらいます」
エアトンは身振りでアイルランド人に謝意を表明し、新しい質問が出されるのを待った。待ちながら彼は、聞き手の正当な好奇心は満足させねばならないと自分に言っていたのだ。それにしても、これから彼が答えることはすべてすでに何度も言われてしまったことばかりだろう。そこでグレナヴァンは、エアトンとの邂逅と彼の情報とを利用して練り直すべき新しい計画について議論をはじめようとしていたが、そのとき少佐が水夫のほうにむかって言った。
「君は〈ブリタニア〉のクウォータマースターだったんだね?」
「そうです」とエアトンは即座に答えた。
しかしある不信の念が、ごく微かなものではあれ一沫の疑念が少佐にこの質問をさせたのだと悟って彼はつけくわえた。
「それに私は乗船契約を遭難のときに持ち出して来ました」
そうしてすぐに広間から出てその正式の証書を取りに行った。彼がいなかったのは一分間にもならなかった。けれどもそのあいだにパディ・オムーアはこれだけのことを言うことができた。
「ミロード、エアトンが堅い人物であることは私が請け合いますよ。もう二ヵ月も私のところに勤めていますが、一つとしてあの男に非難すべきところはありません。あの遭難や捕われていたことなどは私も知っていましたし。誠実な、全面的に信頼してやっていい男です」
グレナヴァンは自分はエアトンの正直さを疑ってみたこともないと答えようとしたが、そのときエアトンが帰って来て正規の契約書を見せた。それは〈ブリタニア〉の船主側と船長の署名のある書類で、メァリは父の手蹟をはっきり認めた。書類は「一級水夫トム・エアトンをグラスゴー籍三檣船〈ブリタニア〉のクウォータマースターとして雇用する」ことを確認していた。それゆえもはやエアトンの身許について疑いはあり得なかった。彼がこの契約書を持っているのに、契約書が彼のものでないなどと考えることは困難だったからだ。
「それでは」とグレナヴァンは言った。「みんなの意見を言ってもらうことにして、これから何をなすべきかについてさっそく討議をはじめよう。エアトン、君の意見はわれわれにとって特別貴重だから、ここで聞かせてもらえれば大変ありがたい」
エアトンはしばらく思案し、それから次のように答えた。
「ミロード、私を信頼してくださったことを感謝します。その信頼を裏切りたくないものです。私はこの地方や原地民の風習を多少知っておりますから、もしお役に立てるとすれば……」
「それはもちろんだよ」とグレナヴァンは言った。
「私もあなたと同じく、グラント船長と二人の水夫は難破から逃れられたと思います。しかし彼らはイギリス領に辿りつかず、姿をあらわしていない以上、私のような経過を辿らず、原地民の一部族の手中にまだ捕われていることは疑いないと思います」
「君が言っていることは、エアトン、私がすでに主張した議論と同じだよ」とパガネルは言った。「遭難者たちはもちろん、彼らが恐れていたように原地民の捕虜になっているのだ。しかし彼らも君と同様に三七度線の北へ連れて行かれたものと考えるべきだろうか?」
「そう考えるべきでしょう」とエアトンは答えた。「帰順しない部族は、イギリスに服属する地域のそばにはまずとどまりませんからね」
「となるとわれわれの捜索は面倒になる」と、大分がっかりしてグレナヴァンは言った。「これほど広大な大陸の内部でどのようにして捕虜たちの足跡を見つけるか?」
長い沈黙がこの言葉につづいた。レイディ・ヘレナは仲間たちに何度も目顔で訊いたが、答は得られなかった。パガネルすらいつもの彼に似合わず沈黙していた。平素の彼の機転はなかった。ジョン・マングルズは自分の船の甲板にいるように、そして何か困ったことにぶつかったかのように広間を大股に歩きまわっていた。
そこでレイディ・ヘレナが水夫に言った。
「それなら、エアトンさん、あなたならどうなさいます」
「奥さま」とエアトンはかなり強い口調で言った。「私ならば〈ダンカン〉に帰って、まっすぐに遭難の現場にむかいます。そこで私はその場の状況や、たまたま得られるかもしれぬ手がかりを見てから考えます」
「よし」とグレナヴァンは言った。「ただ〈ダンカン〉の修理がすむまで待たねばならない」
「おや、損害を蒙ったのですか?」とエアトンはきいた。
「そうなんだ」とジョン・マングルズは答えた。
「重大な?」
「いや。しかし船にない道具が必要なんだ。スクリューの羽が一つ曲っているので、メルボルンに行かなければ修理できない」
「帆で行くことはできませんか?」とクウォータマースターはきいた。
「行けることは行けるが、ちょっとでも風の具合が悪ければトゥーフォールド・ベイに行くのに随分時間がかかるだろうし、どっちみちメルボルンにもどらなければなるまい」
「よし、それなら〈ダンカン〉はメルボルンに行けばいい!」とパガネルは叫んだ。「そしてわれわれは船なしでトゥーフォールド・ベイに行こう」
「ではどのようにして?」とジョン・マングルズはきいた。
「アメリカを横断したようにオーストラリアを横断するんだ、三七度線に沿って」
「しかし、〈ダンカン〉は?」と、特別意味ありげにエアトンは固執した。
「〈ダンカン〉はわれわれのところへ来る、でなければ、場合によってはわれわれのほうが〈ダンカン〉のところへ行く。グラント船長をわれわれが横断中に見つけたら、われわれは彼と一緒にメルボルンに帰る。見つからなかったらわれわれは海岸まで捜索をつづけ、〈ダンカン〉はそこへわれわれを迎えに来る。この計画に対して誰か反対を唱える人があるかね? 少佐かね?」
「私は反対しないよ、もしオーストラリア横断が可能であるなら」とマクナブズは答えた。
「大いに可能だよ、だから私はレイディ・ヘレナとミス・メァリにわれわれと同行するように提案する」
「本気で言うのか、パガネル?」とグレナヴァンはきいた。
「まったく本気だよ。ほんの五六〇キロメートルの旅行にすぎないんだから! 一日一九キロメートル行けば一ヵ月足らずしかかからないのだ。ということは〈ダンカン〉の修理に要する期間さ。もっと緯度の低いところでオーストラリア大陸を横断するとなれば、幅が最大のところを横切り、暑熱の激しいあの広大な沙漠を横切らねばならず、要するに今まで最も大胆な旅行家すら試みなかったことをしなければならないとあれば、そりゃあ話は別だよ! しかしこの三七度線の走っているのはヴィクトリア州だ。これは言ってみればイングランドの一地方みたいなもので、道路もあれば鉄道もあり、行程の大部分に住民がいる。その気ならば幌つき四輪馬車で、あるいはまた、このほうが好ましいのだが、荷車でもできる旅行なのだ。ロンドンからエディンバラへのドライヴだね。それ以上のものではないよ」
「しかし猛獣は?」考えられるかぎりの異議を申し立てようとしてグレナヴァンは言った。
「オーストラリアには猛獣はいないよ」
「しかし野蛮人は?」
「この緯度には蛮人はいないし、いたとしてもニュージーランド原地民のような残虐さはないね」
「しかし囚人は?」
「オーストラリアの南部諸州にはいないよ、東部の入植地にいるだけさ。ヴィクトリア州は囚人を追い払ったばかりか、他州の放免囚が州域に入ることを禁ずる法令を制定したのだ。ヴィクトリア州庁はそれのみか、半島開発会社の船が囚徒の入ることを許されている西オーストラリアの港で石炭を補給することをつづけるならば会社への補助金を打ち切ると今年警告している。何だ、君はそんなことを知らないのか、イギリス人のくせに!」
「第一、私はイギリス人ではないよ」とグレナヴァンは答えた。
「パガネルさんのおっしゃったことはまったくそのとおりです」とパディ・オムーアがそのとき言った。「ヴィクトリア州だけではなく、クウィーンズランドやタスマニアすらをも含めて南オーストラリア全体が、その領土から囚人を排除することでは一致しています。私もこの農場に住みついてから一度も囚人のことは聞いていませんな」
「私にしても、一度も囚人に逢ったことはありません」とエアトンも言った。
「ごらんのとおりです、諸君」とパガネルはつづけた。「蛮人はめったにいない、猛獣はいない、囚徒も全然いないとなれば、ヨーロッパにだってこれほどの国はたくさんはありませんぞ! さあ、それでは話はきまったね?」
「あなたはどう考える、ヘレナ?」とグレナヴァンはきいた。
「私たちの誰もが考えていることよ、エドワード」とレイディ・ヘレナは答え、それから仲間たちのほうをむいて、「出発! 出発!」と言った。
[#改ページ]
八 出発
一つの考えを採用することからそれを実行するまでのあいだに余計な時を費す習慣はグレナヴァンにはなかった。パガネルの提案が可決されてしまうと、彼はただちに旅行の準備をできるだけ早く完了するように命令を下した。出発は翌々日の一二月二二日と決定された。
このオーストラリア横断はどんな成果を挙げるであろうか? ハリー・グラントの生存が論議の余地ない事実となってしまった以上、この探検の結果は大きな意味を持つかもしれなかった。有利な可能性はますます増大した。これから一行が厳密にたどろうとするこの三七度線上で船長を見つけられるものとは一人として信じていなかった。しかし、もしかすると三七度線は彼の足跡と交わっているかもしれないし、いずれにしても遭難の現場にまっすぐに通じているのであった。
その上、エアトンが一行に合流し、ヴィクトリア州の森林のなかを案内し、東岸まで導くことに同意したとすれば、もう一つ成功の可能性がふえるのである。グレナヴァンははっきりとそれを意識していた。彼はハリー・グラントの部下の有効な助力を得ることを特別に重要視して、自分がエアトンに同行するように誘ってもさしつかえないかとパディ・オムーアにきいてみた。
パディ・オムーアは同意したが、すぐれた使用人を失うことを惜しまずにはいられなかった。
「それでは、エアトン、君は〈ブリタニア〉の遭難者捜索のこの探検について来てくれないかね?」
エアトンはこの求めにすぐには答えなかった。それどころかしばらく意を決しかねているように見えた。それからあれこれ考えたあげく彼は言った。
「ええ、御一緒にまいりましょう。グラント船長の足取りをたどることにはならなくても、せめて彼の船が難破したところへは御案内できるでしょう」
「ありがとう、エアトン」とグレナヴァンは言った。
「ただ一つ質問があります」
「言いたまえ」
「どこで〈ダンカン〉と落ち合うのですか?」
「オーストラリアをはしからはしまで横切らない場合にはメルボルンで。捜索がそこまで伸びる場合には東海岸で」
「しかしその場合船長は?……」
「船長はメルボルンで私の指令を待つことになろう」
「結構です、ミロード。私を当てになさってください」
「当てにするよ、エアトン」
〈ブリタニア〉のクウォータマースターは〈ダンカン〉の乗客たちの熱烈な感謝を受けた。〈ブリタニア〉の船長の子供たちは思いきり彼に甘えた。頭のいい忠実な助手を失うことになるアイルランド人を除いて、誰もが彼の決意を喜んだ。しかしパディもグレナヴァンがこのクウォータマースターが来てくれることをどれほど重要視しているかを理解して諦めたのだ。グレナヴァンはオーストラリアを横切るこの旅行のための輸送手段を調達することを彼に依頼し、その話がまとまると、乗客たちはエアトンと打ち合わせた上で船に帰った。
この帰りの道はにぎやかだった。すべてが一変していた。すべての狐疑逡巡《こぎしゅんじゅん》は消え失せていた。勇敢な捜索者たちはこの三七度線をもはややみくもに進むのではなかった。ハリー・グラントは――人々はもはやこれを疑い得なかったが――この大陸に逃れたのであった。そして誰もが疑惑の後に得たこの確実性に心からの満足をおぼえていたのだ。
事情が有利に展開するならば二ヵ月後には〈ダンカン〉はハリー・グラントをスコットランドに上陸させるだろう!
ジョン・マングルズは船の乗客たちとともにオーストラリア横断を試みようという提案を支持したが、そのとき彼は今度は自分も一行について行くつもりでいたのだ。だから彼はそれについてグレナヴァンと話し合った。彼は自分に有利なあらゆる理由を持ち出した。レイディ・ヘレナに、またロード・グレナヴァン自身に対する自分の献身、キャラヴァンの組織者として自分が役に立ち得るが、〈ダンカン〉の船長としては自分の働きは不要なこと、その他いかにも立派な理窟を数知れぬほど挙げたが、一番立派な理由だけは口にしなかったし、またグレナヴァンはそれを挙げられるまでもなく彼の言い分に応じたのだ。
「ただ一つきいておくがね、ジョン。君は航海士を絶対に信頼しているか?」
「ええ」とジョン・マングルズは答えた。「トム・オースティンはすぐれた船乗りです。〈ダンカン〉を目的地に運び、上手に修理し、予定の日に帰って来るでしょう。トムは義務と紀律は絶対に守る人間です。命令の遂行を変更したり遅らせたりするような真似は決してしますまい。私自身と同様あの男のことは信用してくださって大丈夫です」
「よろしい、ジョン、君はわれわれと同行するんだ。なぜなら」とグレナヴァンは笑顔でつけくわえた。「われわれがメァリ・グラントの父親を見つけるときに君がその場にいたほうがいいだろうからね」
「おお、閣下!……」とジョン・マングルズはつぶやいた。
彼はそれ以上言えなかった。一瞬顔色を変えて彼はロード・グレナヴァンの差し出した手を握った。
あくる日ジョン・マングルズは木工と食糧を運ぶ水夫たちを伴ってパディ・オムーアの農場にひきかえした。彼はアイルランド人と協力して輸送について采配を振るうことになっていた。
家族全員が彼の指図のもとに働こうとして待っていた。エアトンもそのなかにいて、経験から来るいろいろの助言を惜しまなかった。
パディと彼は次の点で意見が一致していた。つまり婦人方は牛車で、男たちは馬で旅をするということである。パディは牛馬と乗り物を提供することができた。
乗り物は長さ六メートルほどあって雨覆いをかけたあの四輪荷車で、幅も大輪《おおわ》も鉄の箍《たが》もない、要するに単なる円板にすぎない車輪の上にのっかっている。前部車体受けは後のそれからずっと離れていて、急に曲らないようにするための原始的な仕掛けで車体についている。この前部車体受けから七・五メートルばかりの長さの轅《ながえ》が出ていて、この轅に沿って二頭ずつ六頭の牛がならぶことになっている。このように配列された牛たちは、項《うなじ》につけた軛《くびき》と鉄の楔《くさび》で軛にとりつけた首輪との両方で頭と首をつながれて車を挽いて行くのだ。この狭く長く震動の多い、すぐ横にそれやすい車を操り、そして突棒《つきぼう》を使ってこの牛たちを御して行くには、非常な器用さが必要だった。しかしエアトンはアイルランド人の農場でそれを習得していたし、パディは彼の腕前を保証した。それゆえ御者の役は彼にきまった。
|ばね《ヽヽ》というもののないこの乗り物は全然快適ではなかった。しかしこうした現状のままで満足しなければならぬ。ジョン・マングルズはこの粗末な作りを変えることはできなかったので、せめて内部はできるだけ快適にしつらえさせた。まず第一に彼は板で仕切りを作って二つの部屋に分けた。後部は食糧や荷物やミスタ・オルビネットの携帯用の台所道具を収めることとされた。前部はすべて婦人方のものとされた。木工の手でこの前部車室は厚い絨毯で蔽われ、化粧机とレイディ・ヘレナとメァリ・グラント用の二つの小寝台とをそなえた気持のいい部屋となった。必要とあれば厚い革のカーテンでこの車室を閉ざし、また夜の冷気を防いだ。大雨のときには万已むを得なければ男たちもそこへ身を寄せることができる。しかし野営のときには普通男たちはテントに入るはずだった。ジョン・マングルズは二人の女性に必要なものすべてをこの狭い場所に集めようと工夫をこらし、それに成功した。レイディ・ヘレナとメァリ・グラントはこの移動する部屋のなかにいれば、〈ダンカン〉の快適な船室をあまりなつかしく思わないですむだろう。
男たちのことならば事は簡単だった。七頭の馬がロード・グレナヴァン、パガネル、ロバート・グラント、マクナブズ、ジョン・マングルズ、そしてこの新しい探検に際して主人に同行する二人の船員ウィルスンとマルレディにあてられた。エアトンは当然牛車の御者席を占め、そして乗馬にはあまり気が進まないミスタ・オルビネットは荷物部屋に乗って行ければ大いに満足だろう。
馬と牛は農家の牧草地で草を食んでおり、いざ出発となれば容易に集めることができた。
こうした手筈がととのい、木工に指図を与えてしまうと、ジョン・マングルズはロード・グレナヴァンに答礼の訪問をしたいというアイルランド人一家とともに船に帰った。エアトンも彼らと一緒に行くべきだと考え、こうして四時頃ジョンとその一行は〈ダンカン〉の舷門から入った。
彼らは大いに歓迎された。グレナヴァンは船上で彼らに晩餐を提供した。彼は充分返礼したいと思い、また招かれた側もヨットの食堂で自分たちのオーストラリア風の歓待に対するお返しにあずかることに喜んで応じた。パディ・オムーアは驚嘆した。船員の調度、壁紙や壁掛け、水上にあらわれている部分がすべて楓《かえで》材や紫檀《したん》材でできていることは彼の感嘆をそそった。エアトンは反対に、そんな余計なことに金をかけていることに大して賛成しているように見えなかった。
だがそのかわり〈ブリタニア〉のクウォータマースターは、より船乗りらしい見地からヨットを観察したのだ。彼は船艙まで見てまわった。スクリュー室へも降りた。機関を見てまわり、その実動馬力、その燃料消費量をきいた。彼は石炭庫、食糧庫、火薬の貯蔵を調べた。彼は特に武器庫、船首楼に据えられた大砲、その射程に興味を持った。グレナヴァンは相手がこの種のことに精通している人間だと思った。最後にエアトンはマストと索具を見てこの巡視を終えた。
「これは美しい船です、ミロード」と彼は言った。
「何よりもすぐれた船だね」とグレナヴァンは答えた。
「トン数はどれほどですか?」
「二一〇トンだ」
「機関が全力を挙げれば〈ダンカン〉は楽々と一五ノットは出せると言っても大して間違いではないでしょうな?」
「一七ノットと言いたまえ」とジョン・マングルズが答えた。「そのほうが正確だ」
「一七ノット!」とクウォータマースターは叫んだ。「しかしそれならばどんな軍艦も、もちろん最もすぐれた軍艦でもという意味ですが、〈ダンカン〉を追うことはできないでしょう?」
「そのとおり!」とジョン・マングルズは言った。「〈ダンカン〉はどんな航法でも他にひけを取ることのない本当の競争用ヨットなんだ」
「帆でもですか?」
「帆でも」
「それでは、ミロード、そして船長、船の値打ちというものをよく心得ている船乗りとして私は讃辞を申し上げますよ」
「よろしい、エアトン、それならばこの船にずっといるがいい。君さえその気ならばこの船は君の船になるよ」とグレナヴァンは答えた。
「考えてみましょう、ミロード」とだけクウォータマースターは答えた。
ミスタ・オルビネットがちょうどこのとき食事ができたことを知らせに来た。グレナヴァンと彼の客たちは船尾楼のほうにむかった。
「頭のいい男だ、あのエアトンは」とパガネルが少佐に言った。
「あまり頭がよすぎる!」とマクナブズはつぶやいた。これはまったく正しいことではないと言わねばならぬが、クウォータマースターの顔や物腰はどうしてもマクナブズには気に食わなかったのである。
晩餐のあいだエアトンは、彼が通暁しているオーストラリア大陸について興味ある事実を述べた。彼はロード・グレナヴァンが何人水夫を連れて行くつもりかときいた。マルレディとウィルスンのわずか二人だけが同行する予定だと聞くと彼は驚いたように見えた。彼は〈ダンカン〉の最もすぐれた船員で隊を編制するようにすすめた。彼はこの点について強調した。ついでに言えば、この強調は少佐の心から一切の疑惑を一掃したにちがいない。
「しかし」とグレナヴァンは言った。「われわれの南オーストラリア旅行には何の危険もないのだろう?」
「全然ありません」とエアトンは急いで答えた。
「よし、それならできるだけたくさんの人数を船に残そう。〈ダンカン〉を帆で動かすため、また修理のためには人手が要る。何よりもまず、後で決める地点に正確に着くことが肝要なんだ。だから乗組員は減らさないことにしよう」
エアトンはグレナヴァンのこの指摘を納得したらしく、もうそれ以上言わなかった。
夜になってスコットランド人とアイルランド人は別れた。エアトンとパディ・オムーア一家は自分らの住居に帰った。馬と牛車は翌日には準備できているはずだった。出発は朝八時に予定された。
レイディ・ヘレナとメァリ・グラントはそれから最後の支度をした。それは長くはかからなかったし、そして何よりも、ジャック・パガネルの支度ほど御念の入ったものではなかった。学者は夜おそくまでかかって望遠鏡のレンズをはずし、拭《ふ》き、また嵌《は》めこんだ。そういうわけで翌日の夜明けに少佐が轟きわたるような声で彼を起こすまで彼は眠っていた。
すでに荷物はジョン・マングルズのおかげで農場に運ばれていた。一艘のボートが乗客たちを待っており、彼らはすぐそれに乗りこんだ。若い船長はトム・オースティンに最後の命令を与えた。彼は何にもましてロード・グレナヴァンの命令をメルボルンで待つことと、その命令がいかなるものであれ正確に実行するように注意した。
老船員はジョン・マングルズに自分のことを信用してくれてよいと答えた。乗組員を代表して彼は閣下にその探検が成功することを祈ると述べた。ボートは舷側を離れ、雷のような万歳の声が空中に爆発した。
一〇分のうちにボートは岸に着いた。さらに一五分後には旅行者たちはアイルランド人の農場に来た。
準備はすべてできていた。レイディ・ヘレナは牛車のなかの自分の部屋のしつらえには大満悦だった。原始的な車輪とどっしりとした板でできた巨大な牛車はことのほか彼女の気に入った。二頭ずつつながれた六頭の牛は車にいかにも似つかわしい太古的な様子をしていた。エアトンは突棒を手にして新しい主人の命令を待っていた。
「これはこれは!」とパガネルは言った。「こいつは素敵な乗物だ。世界じゅうの郵便馬車《メイルコーチ》が束になってもこれに及ばん。大道芸人のように世界を経めぐるならばこれにかぎるね。動き、進み、自分のいいと思ったところで止まる家、これ以上のものを何か望めるだろうか! これこそかつてサルマティア人が理解していたことであって、彼らもこういう風にして旅をしたのだ」
「パガネルさん」とレイディ・ヘレナは言った。「あなたをこの私のサロンにお迎えできるものと思っていいでしょうね?」
「何ですって、奥さま、それは私にとって名誉ですよ! 面会日をお決めになりましたか?」
「お友だちならば毎日お迎えしますわ」とレイディ・ヘレナは笑いながら言った。「そしてあなたは……」
「誰にもましてあなたに忠実なものです」とパガネルは慇懃なところを見せて答えた。
このお世辞のやりとりは、パディの息子の一人がすっかり馬具をつけた七頭の馬を連れて来たために中断された。ロード・グレナヴァンはこうしたいろいろの買物の代価をアイルランド人に払い、その上さらに感謝の言葉を山のように浴せかけたが、実直な入植者にはその言葉はすくなくとも金貨に劣らぬくらい有難く思えたのである。
出発の合図が出た。レイディ・ヘレナとミス・グラントは彼女たちの車室のなかに、エアトンは御者席に、オルビネットは牛車の後部に席を占めた。グレナヴァン、少佐、パガネル、ロバート、ジョン・マングルズ、二人の水夫はそれぞれ皆カービン銃と拳銃で武装して馬にまたがった。「神さまの御加護がありますように!」という挨拶をパディ・オムーアは投げかけ、家族のものもこれに唱和した。エアトンは独特の叫びをあげて長い牛の列を励ました。牛車は動き出し、その板はがたがたと鳴り、車の轂《こしき》で車軸は軋み、やがて道の曲り角であの正直なアイルランド人の温く人を迎える農場は見えなくなった。
[#改ページ]
九 ヴィクトリア州
この日は一八六四年一二月二三日だった。北半球ではあのように物淋しくあのように暗鬱《あんうつ》であのようにじめじめしているこの一二月は、この大陸では六月と呼ぶべきだったろう。天文学的にも夏になってもう二日たっているのだ。なぜなら二一日に太陽は冬至線に達したところで、地平線上に太陽が上っている時間はすでに数分減っているのである。そういうわけで今は一年じゅうで一番暑い季節であり、ロード・グレナヴァンのこの新しい旅はほとんど熱帯的な太陽の光線のもとでおこなわれることになっていたのだ。
太平洋のこの部分のイギリス領有地の全体はオーストララジアと呼ばれていた。それには新オランダ、タスマニア、ニュージーランド、および周辺のいくつかの島が含まれている。オーストラリア大陸はといえば、これはその大きさも豊かさも非常にまちまちな広い植民地に分割されていた。ペーターマン氏もしくはプレッシェル氏の作成した近代地図を一瞥した人ならば誰でも、まずこの分割線のまっすぐなことに驚くだろう。イギリス人はこれらの大きな州を分つ境界線を墨繩《すみなわ》で引いたのであった。彼らは山の斜面や河流や風土の変化や人種の相違などは考慮に入れなかった。これらの植民地は直線的に相接し、寄木細工の木のように組合わさっているのだ。この直線と直角の配列を見れば、地理学者ではなく幾何学者のやったことだとわかる。ただ海岸だけは変化に富んだ紆余曲折を、フィヨールドや湾や岬や河口を持っていて、その魅力的な不規則性によって、〈自然〉を代表して抗議している。
この将棋盤のような外観はいつも、しかもこれは当然のことだが、パガネルの激情をかりたてた。オーストラリアがフランス領だったとしたら、フランスの地理学者たちはこれほどまでに直角定規と烏口《からすぐち》だけに夢中になってしまったりしなかったに相違ないというのだ。
このオセアニアの大きな島の植民地は現在六つあった。シドニーを首府とするニュー・サウス・ウェールズ、ブリスベーンを首府とするクイーンズランド、メルボルンを首府とするヴィクトリア、アデレードを首府とする南オーストラリア、パースを首府とする西オーストラリア、そしてまだ首府を持たない北オーストラリアである。海岸に入植者が住んでいるだけなのだ。すこし大きな都市で陸のなかへ三〇〇キロ以上も入りこんでいるのはほとんどない。内陸部のことは、つまりヨーロッパの三分の二にひとしい面積のことは、ほとんど知られていないのである。
非常にさいわいなことに三七度線は、これまですでに科学に身を捧げた多くの犠牲者を出したこの広大な無人の地、この人間の寄りつけない地方を横切ってはいない。そうだったらグレナヴァンとてもそのような地方に乗りこんで行くことはできなかったろう。彼が取っ組むのはオーストラリアの南部地方にすぎなかったのだが、この地方は次のように分けられた。アデレード地方の狭い一部、ヴィクトリア州全体、そしてニュー・サウス・ウェールズが形づくる逆三角形の頂部。
ところでベルヌーイ岬からヴィクトリア州の境まではせいぜい一〇〇キロメートルもない。それは二日間の行程以上ではない。そしてエアトンは翌日の夜はアスプリーで泊るつもりでいたが、これはヴィクトリア州の最も西の町だった。
旅の最初のうちはいつも乗り手と馬は勇み立っているものだ。乗り手の昂奮については別に文句はないが、馬の歩みのほうは引き締めるほうがいいように思えた。遠くへ行こうとするものは乗馬をいたわらねばならない。だから毎日平均して四〇キロメートルから四八キロメートル以上行かないことに決定された。
そのうえ馬の歩調は、力で優《まさ》っているところを時間で失う本当の動力機械というべき牛たちの緩漫な歩みに合わせなければならなかった。乗客や食糧を載せた牛車はこのキャラヴァンの核心であり、動く砦だった。騎馬の連中はその横を駈けまわることはできたが、決して牛車から遠ざかってはならなかった。
そういうわけで、行進の順序などは特別に決められず、各人はある範囲内で自由に振舞い、猟をするものは平原を駈け、愛想のいい連中は牛車のなかの人々と会話をし、哲学者たちは哲学を語り合うのも心のままだった。一人でこれらさまざまの資質をすべて持っているパガネルはいちどきにあらゆるところにいなければならなかった。
アデレード地方の横断には全然興味あることはなかった。あまり高くない、しかし埃《ほこり》はふんだんに立てる丘の連なり、その全体がこの国で〈ブッシュ〉と呼ばれるものを構成している空地の長くつづくひろがり、羊の類が非常に好んで食べるごつごつした葉の鹹水《かんすい》性の灌木の繁みにおおわれたいくつかの牧場が、何キロメートルにもわたってつづいている。ときどき何頭かの〈ピッグズ・フェイス〉も見られる。これは新オランダ特産種の豚みたいな顔をした羊で、最近アデレードの町から海岸へ張られた電信線の柱のあいだで草を食んでいたのだ。
これまでのところこうした平原は奇妙にアルゼンチン領パンパシアの単調な広野をしのばせた。草におおわれた同じ平坦な地面がつづく。空からくっきりと切れた同じ地平線。マクナブズはこれでは前と同じ国にいるようなものだと言い出した。パガネルは風景は間もなく変って来るだろうと断言した。彼の保証を信じて人々は驚異的なものが見られるものと期待した。
三時ごろ牛車は〈モスキートウズ・プレイン〉という名で知られている樹木のない広闊な空間を横切った。この平原がその名に価することを確認して学者は地理学的満足を味わった。旅行者たちとその乗馬はこれらのうるさい双翅《そうし》類に何度となく咬まれて大いに悩んだ。咬まれるのを避けることは不可能だった。咬み傷の痛みをやわらげるのは、携帯薬品箱のアンモニアのおかげでより容易だった。パガネルは自分の長い体をちくちく刺すこの執念深い蚊たちに悪罵を浴びせずにはいられなかった。
夕方になっていくつかのアカシアの生垣が平原に明るい感じを与えた。あちこちに白ゴムの木の木立。その向うには穿《うが》たれたばかりのわだちの痕。それからオリーヴの木、レモンの木、|そよご《ヽヽヽ》の木などのヨーロッパ原産の樹木、そして最後によく手入れされた紫檀《したん》の木。八時に牛はエアトンの突棒でせきたてられてレッド・ガムのステーションに着いた。
この〈ステーション〉という言葉は、オーストラリアの主要な富である家畜の飼育がおこなわれている内陸の農場について言われる。飼育する人たちは〈squatters〉、すなわち地にうずくまる人々である。事実このはてしない地方を彷徨して疲れはてた入植者のすべてがまず取るのは、このうずくまった姿勢なのだ。
レッド・ガム・ステーションはあまり大きくない農場だった。しかしグレナヴァンはここでこれ以上とはなく醇朴《じゅんぼく》なもてなしを受けた。こうした孤立した住家の屋根の下では食卓はいつも旅行者のために準備されており、オーストラリアの入植者のうちに人は常に親切な家の主《あるじ》を見出す。
あくる日エアトンは夜の引き明けから牛を車につけた。その夜のうちにヴィクトリア州内にはいりたかったのだ。土地はだんだん起伏を増して来た。相連なる小さな丘がすべて緋色《ひいろ》の砂をちりばめて見渡すかぎり波を打っている。まるで平原の上に投げかけられその襞《ひだ》が風のそよぎにふくらんでいる巨大な赤旗のようだった。白い斑点があってまっすぐなすべすべした幹を持つ樅《もみ》の一種である〈マリー〉が何本か、その枝と濃い緑の葉群を、トビネズミの愉快な群れがうじゃうじゃしている肥えた牧草地の上にひろげていた。さらに行くと灌木と若いゴムの木の広い原があった。それから木群は遠ざかり、孤立した灌木は木になり、オーストラリアの森林の最初の見本を見せた。
けれどもヴィクトリア州境に近づくと土地の景観はいちじるしく変った。旅行者たちは新しい土地を踏んでいるのを感じた。彼らは何ものにも乱されずに常に直線の方向を取って行き、湖であれ山であれいかなる障害物もこれを曲線または破線に変えさせることはできなかった。彼らは絶えず幾何学の第一公理を実行して、決して横にそれることなく一点から他の一点への最短の径路をたどっていた。疲れや困難などは彼らは予感だにしなかった。彼らの歩みは牛のゆっくりとした歩度に一致していたが、このおだやかな動物は速くは歩かなくても決して立ちどまらずに進んだ。
こうして二日間で九六キロメートルの行程を稼いだあげくキャラヴァンは二三日の夕べ、ヴィクトリア州の最初の町でウィメラ地域の経度一四一度に位置するアスプリーの行政教区《パリッシュ》に達したのである。
牛車はエアトンが手まわしよくクラウンズ・インの車庫に入れた。これはほかにもっといい名がないので〈王冠ホテル〉と名乗っている旅宿である。ありとあらゆる形で料理された羊の肉から成る夕食が食卓の上で湯気を上げていた。
一同はさかんに食べたが、それ以上さかんにしゃべった。誰もがオーストラリア大陸の特異性を知ろうとして地理学者にいろいろと熱心に質問した。パガネルはせがまれるまでもなく、〈幸福なオーストラリア〉と名づけられているこのヴィクトリア州のことを述べたてた。
「こいつはまちがった形容だ!」と彼は言った。「〈豊かなオーストラリア〉と呼んだほうが正しかったろう。豊かな人間と同じく豊かな国もあるからね。しかし富は幸福にはならない。オーストラリアはその金鉱のおかげで山師たちの破壊的な獰猛《どうもう》な一味の手にゆだねられた。採金地帯を通るときに君たちにもそれがわかるだろう」
「ヴィクトリア植民地ができたのはかなり新しいことではありませんでした?」とレイディ・グレナヴァンがたずねた。
「そうです、できてからまだ三〇年にしかなりません。一八三五年六月六日、火曜日でしたが……」
「その午後七時一五分に」と少佐はつけくわえたが、彼はパガネルの日時の正確さをからかうのが好きだったのだ。
「ちがう、七時一〇分に」と地理学者はまじめくさって訂正した。「バトマンとフォークナーは、今日大都市メルボルンがその岸にひろがっているあの湾のほとりのポート・フィリップに農場の礎《いしずえ》を置いたんだ。一五年のあいだ植民地はニュー・サウス・ウェールズの一部であって、その首府シドニーの管轄下にあった。しかし一八五一年に独立を宣してヴィクトリアという名を採用した」
「そして、それ以後繁栄しているのかね?」とグレナヴァンはきいた。
「それは自分で判断したまえ、貴族君」とパガネルは答えた。「ここに最新の統計の提供する数字がある。そしてマクナブズがどう考えようとも私は数字以上に雄弁なものを知らないからね」
「言ってくれ」と少佐は言った。
「それでは、一八三六年にはポート・フィリップの植民地には二四四人の住民がいた。今日ヴィクトリア州は五五万の人口を数える。七〇〇万株の葡萄の木が年間一二万一〇〇〇ガロンのワインを産する。一〇万三〇〇〇頭の馬がその平原を馳せめぐり、六七万五二七二頭の牛類がその広大な牧場に養われている」
「豚も何匹か持ってはおらんかね?」とマクナブズは言った。
「うん、少佐、七〇万九六二五匹だよ、憚《はばか》りながら」
「で、羊はどれくらいだ、パガネル?」
「七一一万五九四三頭さ、マクナブズ」
「そのなかには現在われわれが食べているのが含まれているかい?」
「いや、含まないでだ、もう四分の三は食べられてしまっているからね」
「素敵ですわ、パガネル先生!」とレイディ・ヘレナは心から笑いながら叫んだ。「あなたがそうした地理学上の問題に強いことは認めなければなりません。いくら私のいとこのマクナブズがあなたの隙をつこうとしても決してできないでしょうね」
「しかし、奥さま、そうしたことを知っていて、必要に応じてあなたがたにお教えするのは私の職業ですからね。ですから、この奇妙な国はそのうちわれわれに驚くべきものを見せてくれるだろうと私が申し上げたら、あなたはそれを信じてくださって結構ですよ」
「しかし今までのところは……」彼の激情をむちゃくちゃにかきたてるために彼をけしかけて喜んでいる少佐は答えた。
「まあ待ちたまえ、せっかちな男だ!」とパガネルは叫んだ。「君はまだようやく片足を州境にかけたばかりじゃないか、それなのにもう不平を鳴らしている! いいかね、私は言う、私はくりかえす、いや、私は君にむかって主張するがね、この地方は地上で最も奇妙なところなんだよ、その生成、その自然、その産物、その風土、さらには将来におけるその消滅、このすべてが過去現在未来の世界のすべての学者を驚かせるのだ。まあ諸君、一つの大陸を想像してみてくれたまえ。この大陸は、その中心ではなくその縁辺が最初巨大な環《わ》のように水上に浮かんで来たんだ。そしておそらくその中心部に半ば蒸発した内海を抱いている。その河は日に日に干上って行く。湿気は空中にも地中にももはやない。年々樹木はその葉を落すのではなくその皮を失う。葉は太陽に正面ではなく側面をむけるので、もはや影を作らない。薪が燃えないこともよくある。切石《きりいし》は雨が降ると溶ける。森林は低く草は巨大だ。動物も奇怪だ。ハリモグラやカモノハシのように四足獣が嘴《くちばし》を持っていて、博物学者はやむなくそのため特別に単孔《たんこう》類という新しい類を作らねばならなかった。カンガルーは不ぞろいな脚で飛びはねている。羊は豚の頭を持っている。キツネは木から木へと飛ぶ。スワンは黒い。鼠は巣を作る。ツカツクリは羽のある友人の訪問を迎えてサロンを開く。鳥類はその歌とその天賦の能力の多様さによって人間の想像力を刺戟する。時計の役目をする鳥もあれば駅馬車の馭者の鞭を鳴らす鳥もいる。研屋《とぎや》の真似をする鳥もいれば、振子時計の振子のように秒を刻む鳥もいる。朝太陽が昇るときに笑う鳥もいれば夕暮の日の沈むときに泣く鳥もいるんだ! 何とまあ、もしそういうものがあるとしたら、奇怪な非論理的な地方だろう、逆説的な、自然に逆らって形成された土地であろう! 植物学者グリマールは正当にもおまえについてこう言うことができた、『これこそ普遍的法則のパロディ、というよりも、爾余《じよ》の世界の面上に投げつけられた挑戦というべき、あのオーストラリアなのだ!』〔グリマール『植物』〕と」
大変なスピードでまくしたてられたパガネルの長広舌はとどまるところを知らぬように見えた。地理学会の雄弁な書記はもはや自制がきかなかった。猛烈な勢いでジェスチュアをし、食卓で隣りに坐っているものには危険きわまりないことにフォークを振りまわしながら、しゃべりにしゃべった。しかししまいに彼の声は雷のようなブラヴォの声におおわれ、ようやく彼は沈黙することができたのである。
もちろんオーストラリアのこの奇観の列挙の後で、人々はもうそれ以上彼に質問しようなどとは思いもしなかった。ところが少佐は例の静かな声で、
「で、それだけなのかい、パガネル」と言わずにはいられなかったのだ。
「とんでもないよ、それだけじゃないさ!」と学者はまたいきりたって応酬した。
「何ですって?」とレイディ・ヘレナはひどく興味をそそられてきいた。「ではオーストラリアにはもっと驚くべきことがまだ何かありますの?」
「ええ、その風土ですよ! その風土の奇妙さたるや、その産物のそれを凌駕《りょうが》しますな」
「信じられない!」と人々は叫んだ。
「私はきわめて酸素に富み窒素が非常に乏しいオーストラリア大陸の衛生上の長所については言うまい。この大陸には貿易風が海岸線に平行して吹いているので湿った風はない。そしてチフスから|はしか《ヽヽヽ》や慢性疾患にいたるまでの大抵の病気はこの地では知られていないんだ」
「けれどもそれは小さな長所ではないじゃないか」とグレナヴァンは言った。
「そうだろう。しかしそれについてはここでは言わない」とパガネルは答えた。「ここでは風土は……信じられないような長所を持っている」
「どんな?」とジョン・マングルズはきいた。
「私が言っても皆信じないだろう」
「信じますとも!」聞き手たちもむきになって叫んだ。
「それでは、つまり……」
「どうなんです?」
「教化的なんだ!」
「教化的だって!」
「そうだ」と学者は確信をもって答えた。「そうだ、教化的なんだ! ここでは金属は空気にさらしても錆《さ》びないが、人間も錆びないんだ。ここでは清浄な乾燥した大気がたちまちのうちにすべてを純白にする、下着をも人間の魂をも! そしてイギリスでは教化すべき人間どもをこの国に送ることに決したとき、この風土の効力にはっきり気がついていたんだ」
「何ですって! その影響はほんとに感じられるのですか?」とレイディ・グレナヴァンはきいた。
「ええ、動物についても人間についても」
「冗談をおっしゃっているのではありませんの、パガネル先生?」
「冗談など申しません。馬でも家畜でも驚くほど従順ですよ。今におわかりになります」
「そんなことが!」
「ですが、そうなんですよ! そして悪人どももこの生気と健康をもたらす空気のなかに移されると、数年で生まれかわるのです。この効果は博愛家たちには知られています。オーストラリアではすべてのものの本性が良くなるのです」
「それならば、パガネル先生、あなたはそうでなくてもそんなに善い方でいらっしゃるのですから、この特効のある土地にいらっしゃればどんなにおなりになりますの?」
「すばらしく善くなりますね、奥さま」とパガネルは答えた。「何ということはない、すばらしく善くなるだけですよ」
[#改ページ]
十 ウィメラ・リヴァー
翌一二月二四日には夜明けに出発した。暑さはすでにはなはだしかったが堪えられぬほどではなく、道路はほとんど平坦で馬にとっては歩きやすかった。小さな一隊はかなりまばらな林のなかにはいって行った。一日たっぷり歩いて、夕方彼らは飲用にはならない鹹水をたたえたホワイト湖のほとりに野営した。
ここでパガネルは、黒海が黒く紅海が赤く黄河が黄色く、そしてブルー・マウンティンズが青いほどにはこの湖は白くないことを認めねばならなかった。しかし彼は地理学者の自尊心から大いに弁じたてた。しかし彼の理窟は通らなかった。
ミスタ・オルビネットは夕食をいつもの几帳面さでととのえた。それから旅行者たちはあるいは牛車のなかで、あるいはテントの下で、オーストラリアのジャッカルである〈ディンゴー〉の悲しげな遠吠えが聞こえたにもかかわらず間もなく眠りこんだ。
一面に菊の花で飾られたすばらしい平原がホワイト湖のむこうにはひろがっていた。あくる日グレナヴァンとその仲間は目を覚まして、彼らの目の前にあらわれたこのすばらしい舞台装置に拍手したいところだった。彼らは出発した。遠くのいくつかの隆起が土地の起伏を語っているだけだった。地平線まで草原と春の赤い彩りの花々だけだった。こまかい葉をつけた亜麻の青い反映がこの地方に特有のアカンサスの緋《ひ》のような赤と調和していた。|ムナグロヒバリ《エレモフィラ》のたくさんの変種がこの緑の地帯を賑《にぎ》わし、塩のしみこんだ土地にひどくはびこる|あかざ《ヽヽヽ》科植物、あるいは青緑色の、あるいは赤みがかった|あかざ《ヽヽヽ》、浜あかざ、唐萵苣《とうちさ》の下にかくれた。これらは工業に有用な植物である。焼いてその灰を水で流すと上等のソーダが取れるからだ。花にかこまれると植物学者となるパガネルはこれらさまざまの品種を一々名指し、何事についても数字を挙げる癖によって、オーストラリアの植物相のなかでは一二〇科に属する四二〇〇の品種がこれまで数えられていると言うことを忘れなかった。
それから一六キロメートルばかりの行程を速度を上げて通り過ぎた後、牛車はアカシア、ミモザ、白ゴムの木の高い木立ちのあいだを通って行ったが、これらの花序《かじょ》は実にさまざまだった。この〈spring plains(無数の泉の湧いている平原)〉地方の植物界は太陽の恩を忘れることなく、太陽が恵んでくれる光線に対して香りと彩りでお返しをしていた。
動物界のほうはそれほど品種が多くはなかった。何羽かのヒクイドリが平原にはねまわっていたが、近づくことはできなかった。けれども少佐は腕に覚えの一弾を非常にめずらしい、絶滅しつつある動物の横腹に射ちこんだ。それはイギリスの入植者が巨人鶴と呼んでいる〈ジャビルゥ〉だった。この鳥は高さ一・五メートルもあり、嘴は黒く幅広く円錐形で先端は非常に尖っており、その長さは四六センチメートルにも及んだ。その頭部の紫色と紫紅色の光は、首の艶々《つやうつや》した緑、喉の目の覚めるような白、その長い脛《すね》のあざやかな赤と強烈な対照をなしていた。自然はこの鳥のためにそのパレットのすべての原色を使ってしまったように見えた。
人々はこの鳥にしきりに感嘆した。そしてロバートが七、八キロメートル先で半分ハリネズミ、半分アリクイのようなへんてこな獣、世界創造の最初の時代の動物のような半分しか形のできていない生物を見つけて勇敢に打ち殺さなかったとすれば、少佐はこの日の栄冠を獲得したはずである。長くねばねばしてよく伸びる舌がその継ぎ足しでもしたような口の外へ垂れ、その主食をなしている蟻を取るのだ。
「ハリモグラだ!」とパガネルはこの単孔類の本名を言った。「このような動物を一度でも見たことがありますかな」
「醜悪だね」とグレナヴァンが答えた。
「醜悪だが面白い」とパガネルは言った。「その上オーストラリア特産なんだ。ほかのどの大陸で捜しても見つからない」
もちろんパガネルはこの醜いハリモグラを持って行こうとして、牛車の荷物部屋に入れようと思った。ところがミスタ・オルビネットがものすごく憤慨して抗議したので、学者もこの単孔類の見本を取っておくことはあきらめた。
この日旅行者たちは経度一四一度線を三〇分だけ越えて進んだ。これまで入植者、スクウォッターはあまり彼らの前にはあらわれなかった。土地は無人のように見えた。原住民は影も形も見えない。なぜならこれらの未開部族はもっと北のほうの、ダーリング河とマレー河に注ぐ支流の流域の広大な辺鄙《へんぴ》の地方をさまよっているからだ。
しかしめずらしい眺めがグレナヴァンの一隊の興味をひいた。大胆な投機をする連中が東部の山地からヴィクトリア州と南オーストラリア州へ追って行くあの厖大な畜群を彼らは見ることができたのだ。
午後四時ごろジョン・マングルズは五キロメートルほど前方に、地平線にひろがっている巨大な埃の柱を見つけて皆に知らせた。この現象は何に由来するものなのか? 皆はそれを言い当てるのに大いに困惑した。パガネルは何らかの大気現象と見るほうに傾き、彼の活溌な想像力はすでにその自然な原因を捜し求めていた。しかしエアトンはこの埃が舞い上っているのは畜群の行進のせいだと断言して、彼が揣摩臆測《しまおくそく》の領域にはまりこもうとするのを引き止めた。
クウォータマースターは間違っていなかった。厚い雲は近づいた。羊、馬、牛の鳴き声の合唱がそのなかから洩れて来た。叫び声、口笛、怒号といった人間の声もこの田園交響楽にまじっていた。
騒々しい雲のなかから一人の男があらわれた。それはこの四つ足の一軍を率いる総指揮官だった。グレナヴァンはその男の前に進み、交渉はそれ以上の儀礼や挨拶もなしにはじまった。指揮者、いや、その正しい肩書を言えば牧畜業者《ストックキーパー》はこの畜群の一部の所有者だった。彼はサム・マチェルという名で、事実東のほうからポートランド・ベイにむかって来たのであった。
彼の畜群は一万二〇七五頭、すなわち牛一〇〇〇頭、羊一万一〇〇〇匹、馬七五頭から成っていた。ブルー・マウンティンズ地方の原野で痩せたまま買ったこれらの動物は、南オーストラリアの健康な牧草地で肥やされ、大きな利幅をもって売られるのであった。こうしてサム・マチェルは牛一頭あたり二ポンド、羊一匹あたり半ポンド儲けるので、五万フランの利潤を挙げるはずだった。これは大した取引きだった。しかしこの手に負えない畜群を目的地に導いて行くにはどれほどの辛抱強さ、どれほどのエネルギーが必要であろう、どれほどの疲労を甘受しなければならないことだろう! この辛い職業のもたらす儲けは額に汗をしなければ手に入らないのだ。
サム・マチェルは畜群がミモザの木立ちのあいだを進みつづけているあいだに手短かに自分の身の上を語った。レイディ・ヘレナ、メァリ・グラント、騎馬の一同は地面に降り、大きなゴムの木のかげでストックキーパーの物語に耳を傾けた。
サム・マチェルは七ヵ月前に出発したのであった。彼は一日およそ一六キロメートルの行程で進み、その旅はなお三ヵ月もつづくはずだった。彼はこの骨の折れる仕事を手伝うものとして二〇匹の犬と三〇人の男を連れていたが、そのうち五人は黒人で、迷った獣の足跡を見つけるのが非常に上手だった。六台の牛車が畜群について来た。御者たちは四六センチの柄に二・七メートルもの長さの革のついたストックホィップという鞭を持って、列のあいだを歩きまわり、しばしば乱れる秩序をあちこちでたてなおし、いっぽう犬の軽騎兵たちは両翼をはねまわっていた。
旅行者たちは畜群に紀律が保たれているのに感動した。それぞれの種は別々に歩いていた。牛と野育ちの羊は大分仲が悪い。牛は羊が通った後の草を食おうとしないのだ。そのため牛を先頭に置かねばならず、こうして牛は二つの大隊に分れて前を行く。それにつづいて二〇人の御者に指揮された五連隊の羊、次いで馬の小隊がしんがりをつとめる。
サム・マチェルは聞き手たちに、一軍を嚮導《きょうどう》するのは犬でも人間でもなく、牛であることに注意を促した。彼らはその同類たちからも優越性を認められている頭のいい〈リーダー〉なのだ。彼らは本能的に正しい道を選びながら、自分が尊重されるのは当然だと確信して申し分のない荘重さで最前列を進む。それゆえ人間は彼らを大切にする。なぜなら畜群は文句を言わず彼らに従うからである。彼らが立ちどまるのがいいと思えば、その気まぐれに譲歩しなければならない。そして停止の後には、彼ら自身が出発の合図をしないうちはいくらまた行進をはじめようとしても無駄なのだ。
ストックキーパーはさらにいくつかの事実をつけくわえて、クセノフォンその人が指揮はしないまでも彼の手で書かれてもおかしくないこの遠征の歴史を補足した。軍団が平原を行進するかぎりは言うことはない。あまり面倒なことも起こらないし、疲れることもない。獣たちは歩きながら草を食み、草地にたくさんある小川《クリーク》で渇きをいやし、夜は眠り、昼は歩き、犬の声でおとなしく集合する。しかし大陸の大きな森林のなか、ユーカリやミモザの林のなかでは困難は増す。小隊と大隊と連隊は混り合ったり離れてしまったりし、集めるのに相当の時間がかかる。運悪くリーダーが迷ったりしたら、どんなことがあっても見つけ出さねばならない。そうしなければ全体がばらばらになってしまう。だから黒人たちはしばしば数日を費してこの困難な捜索をするのである。大雨が降り出せば無精な獣たちは歩くまいとするし、激しい嵐になれば収拾のつかない恐慌が恐怖に狂ったこの動物たちを捕えるのだ。
それでもエネルギーと活動によってストックキーパーは絶えずあらたにあらわれるこうした困難に勝つ。彼は進む。歩いて来た里程は増え、平原や森や山々を背後に残して行く。しかしこうしたさまざまの美点に、忍耐――あらゆる試錬に堪える忍耐、単に数時間、数日ではなく、数週間をもってしても挫けることのない忍耐――という最高の美点が加わらねばならぬのは、渡河の場合である。このときはストックキーパーは流れの前で、釘づけにされてしまう。障害はもっぱら何としても渡ろうとしない畜群の強情さにあるのだ。牛たちは水の匂いを嗅ぐと後もどりする。羊たちは水に挑むくらいならばと四方八方へ逃げ出す。人々は夜を待って畜群を川へ連れて行くが、それも成功しない。牡牛どもをつかまえて水に投げこんでも、牝牛たちは彼らについて行く決心がつかない。何日間も水をやらずに渇きで攻めてみようとしても、畜群は飲まずにすましていっこうに冒険しようとしない。母親がその鳴き声のほうに来ないかと思って仔羊を河むこうへ運ぶ。仔羊は啼くが、母親たちは対岸から動かない。これが時としてまる一ヵ月もつづき、ストックキーパーはもはやさまざまの鳴き声をあげるこの大集団をどうしていいのかわからなくなる。それからある日、何の理由もなく、気まぐれから、どういう理由かもどのようにしてかもわからないが、一つの群れが川を越える。すると今度は、畜群が乱雑に飛び込むのを止めねばならないという別の難題が生ずる。混乱が隊列のなかに起こり、多くの動物が急な流れのなかで溺れるのだ。
サム・マチェルの語った事実はこのようなものだった。彼の物語のあいだ畜群の大部分は秩序正しく行進して行った。今はもう彼もその群れの先頭にもどって一番いい牧草地を選ばねばならなかった。そこで彼はロード・グレナヴァンに別れを告げ、部下の一人が綱をおさえていたすばらしい土地産の馬にまたがり、そして心のこもった握手とともに一同の別れの言葉を受けた。しばらく後には彼は埃の渦巻のなかに消えていた。
牛車は彼と反対の方向にむかってしばらく中断されていた行進を再開し、そしてようやく夕方になってタルボット山の麓に停止した。
パガネルはこのとき、今日は一二月二五日の降誕祭、イギリス人が家族で盛大に祝うクリスマスだということを皆に注意した。しかしステュワードもそれを忘れていなかった。そしてテントの下で出された滋味豊かな夕食のおかげで彼は一同の心からの称讃を得た。これは言っておかねばならぬが、ミスタ・オルビネットはほんとに今までにない腕を見せたのである。彼の貯蔵食糧はオーストラリアの無人境ではめったにお目にかかれないヨーロッパ風の料理を出せるほどであったのだ。|となかい《ヽヽヽヽ》肉のハム、塩づけの牛肉の切身、燻製の鮭、大麦とカラスムギの菓子、飲み放題の紅茶とたくさんのウィスキー、数本のポルト、これがこの驚くべき食事の献立だった。人々はスコットランドのハイランドのただなかのマルカム・カースルの大食堂にいるような気がしかねなかった。
もちろんこの饗宴には、生姜《しょうが》のスープからデザートのミンスミート入りのパイまで何一つ欠けていなかった。けれどもパガネルは丘の麓に生えている野生オレンジの実がこれに加わらねばならぬと思った。これは原地民の言う〈モカリ〉である。このオレンジはあまりうまくない果物だったが、その種子を割るとカイエンヌの唐辛子のように口が曲るほど辛かった。地理学者は科学に対する愛情から意地を張ってまことに良心的にそれを食ったため、口のなかが焼けてしまい、少佐がオーストラリアの沙漠の特色についてやつぎばやに浴びせかける質問に答えることができなかった。
翌一二月二六日は報告すべき何らの事件も起こらなかった。一行はノートン・クリークの源泉地帯、その後で半ば干上ったマッケンジー・リヴァーにぶつかった。天候はごく凌ぎいい温度で晴天をつづけていた。風は南から吹き、北半球の北風のように大気を冷やしていたのだ。これはパガネルがその友だちのロバート・グラントに指摘したことである。
「これはありがたいことだよ」と彼はつけくわえた。「なぜなら温度は平均して北半球よりも南半球のほうが高いんだから」
「どうしてですか?」と少年はきいた。
「どうしてだって、ロバート?」とパガネルは答えた。「それではおまえは、地球は冬のあいだのほうが太陽に近づいているということを一度も聞いたことがないかね?」
「あります、パガネル先生」
「そして寒さは太陽光線が斜めに来るためだということも?」
「もちろんです」
「そらね、坊や、南半球のほうが温度が高いのはまさにそのためなのさ」
「わかりません」とロバートは答え、目をみはった。
「まあよく考えるんだよ。ヨーロッパで冬のときには、その反対の極のこのオーストラリアの季節は何だ?」
「夏です」
「さてそこでだ、まさにこの時期に地球は太陽に近づいているのだから……わかったかい?」
「わかります……」
「南方地方の夏はその接近の結果、北方地方の夏よりも暑いというわけなのさ」
「そうでした、パガネル先生」
「それゆえ、〈冬〉太陽は地球に近づいているというのは、地球の北部に住んでいるわれわれにとって正しいにすぎない」
「そのことは僕は考えてみませんでした」
「さあ、それではもうこのことを忘れるんじゃないよ」
ロバートはこのちょっとした宇宙形状論の教授を喜んで受け、そして最後にヴィクトリア州の平均気温は華氏七四度(摂氏二五度三五分)になることを教えられた。
その夜一行は、北にそびえているドラモント山と、その大して高くない頂が南の地平線を破っているドライデン山とのあいだにあるロンズデール湖を越えて八キロメートル行ったところで野営した。
翌日の一一時に牛車は経度一四五度線上のウィメラ河のほとりに着いた。
幅八〇〇メートルにおよぶ河は、ゴムの木とアカシアの高い列のあいだを澄んだ水面となって流れてやまなかった。何種かのすばらしいテンニンカ科植物、中でも特に〈metrosideros speciosa〉はその赤い花のついた長いしだれた枝を一五メートルの高さまでめぐらしていた。おしゃべりなオウムは別としても、高麗鶯《こうらいうぐいす》、鶸《ひわ》、金色の翼の鳩など無数の鳥が緑の小枝のあいだを飛びまわっている。その下の水面では臆病で人をよせつけない黒スワンの番《つがい》が戯れている。このオーストラリアの河川の〈奇鳥《ララ・アウイス》〉は間もなく蛇行するウィメラ河に消え、河はこの魅力的な地方を気まぐれにうるおしていた。
そのあいだに牛車は、急流の上にその縁が垂れ下がっている芝の絨毯の上に停止していた。筏《いかだ》もなければ橋もない。けれども渡らねばならない。エアトンは徒渉点を捜すことを引き受けた。四〇〇メートルほど川上のほうが浅いように思われ、この地点で対岸に渡ることに彼は心を決めた。いろいろな方法で深さを測ったが九〇センチしかなかった。
牛車はそれゆえ大きな危険なしにこの浅瀬へ踏み込めるはずだった。
「この河を渡るにはそれ以外に何の方法もないのかね?」とグレナヴァンはクウォータマースターにきいた。
「ありません。しかしこの渡り場は私にはそう危険とは思えません。何とか行けるでしょう」
「妻とミス・グラントは牛車から降りなければならないか?」
「全然。牛は足がしっかりしていますし、道を間違えないように私が気をつけます」
「それではやってくれ、エアトン、君にまかせるよ」
騎馬の人たちが重い乗物をとりかこみ、一同は決然と河のなかにはいった。牛車は普通こうした徒渉を試みるときには空樽を連ねてまわりにつけて水に浮かせるようにするものである。しかしこの場合にはそういう浮き袋のようなものは手許になかった。だから慎重なエアトンの手で操られる牛たちの怜悧さを信頼しなければならなかった。エアトンは御者席から牛たちを導いた。少佐と二人の水夫は数トワーズ前のほうで急な流れを分けて行った。グレナヴァンとジョン・マングルズはそれぞれ牛車の両側にあって、いざというときはすぐ婦人たちを助けに行けるようにしていた。最後にパガネルとロバートがしんがりをつとめた。
ウィメラ河の中央まではすべて好調だった。しかしそこまで来ると深さは増して水は大輪の上まで来た。徒渉点からはずれた牛たちは足を取られて、がたがたする車を自分と一緒に曳きずって行ってしまうかもしれなかった。エアトンは勇敢に骨身を惜しまず活躍した。自分も水のなかにはいり、牛の角をつかまえて彼らをもとの道へもどすことに彼は成功した。
このとき予測のしようがない衝突が起こった。ぽきっという音がした。牛車は不安になるほど傾いた。水は婦人たちの足にまでとどいた。グレナヴァンとジョン・マングルズが車の横木にしがみついたけれども、車は依然として横へ流れて行く。不安に満ちた一瞬であった。
非常にさいわいなことに、猛烈に踏んばったおかげで車は対岸のほうへ近づいた。河は牛や馬の足の下で上り坂を呈し、やがて人も動物も安全に向う岸に着いて、びしょ濡れになりながらも安心した。
ただ牛車の前部の車体受けがショックで折れ、またグレナヴァンの馬の前脚の蹄鉄がとれていた。
この事故にはさっそく修理が必要だった。それで人々は困却のていで顔を見合わせたが、そのときエアトンが三〇キロメートルほど北のブラック・ポイントのステーションに行って蹄鉄工を連れて来ようと申し出た。
「行ってくれ、行ってくれ、エアトン」とグレナヴァンは言った。「そこまで行ってキャンプに帰って来るにはどれくらい時間がかかるね?」
「おそらく一五時間ぐらいでしょう、しかしそれ以上にはなりますまい」
「それじゃあ出発したまえ。君の帰りを待ちながらわれわれはウィメラ河のほとりにキャンプするよ」
数分後にはウィルスンの馬に乗ったクウォータマースターはミモザの厚いカーテンのむこうに姿を消していた。
[#改ページ]
十一 バークとステュアート
その日の残りの時間はおしゃべりと散歩に費された。旅行者たちはしゃべったり感嘆したりしながらウィメラ河の岸を歩きまわった。灰色の鶴や|トキ《イビス》が彼らが近づくと嗄《しゃが》れた叫びをあげて逃げ出した。サテン鳥は野生いちじくの高い枝の上にかくれ、高麗鶯、ノビタキ、エピマック極楽鳥は百合科植物のみごとな茎のあいだを飛びまわり、カワセミはいつもの漁をやめ、一方プリズムの七色に飾られた〈ブルー・マウンティン〉や緋色の頭に黄色の喉をした小さな〈ロスチル〉や赤と青の羽色の〈ロリ〉などのより文明化されたオウム属は花の咲いたゴムの木の梢で耳を聾するおしゃべりをつづけていた。
このようにして、あるいはさざめく水のほとりの草の上に寝そべりながら、あるいはミモザの茂みのあいだを当てもなくさまよいながら、散歩者たちは日没までこの美しい自然を嘆賞した。あわただしい黄昏につづいて夜が来たのは、彼らが野営地から八〇〇メートルほど離れていたときだった。彼らは南半球では見えない北極星ではなく、地平線と天頂との中間にきらめいている南十字星を頼りにして帰った。
ミスタ・オルビネットはテントの下に夕食をととのえておいてくれた。人々は食卓についた。料理のなかで人気があったのは、ウィルスンがみごと仕留めてステュワードが調理したオウムの肉のシチューのようなものだった。
夕食が終ると皆は競って、このように美しい夜の宵の時間を休息に当てまいとして理由を述べたてた。レイディ・ヘレナはパガネルにオーストラリアの大探検家の話――もうずっと前から約束されていた話――をしてくれと頼んで、皆の同意を得た。
パガネルにとってはこれこそ望むところだった。聞き手たちは堂々たるバンクシャの木の根もとに身を横たえた。葉巻の煙がやがて闇に包まれた葉群れまで立ち昇り、そして地理学者はその尽きることのない記憶に恃《たの》んでさっそく話をはじめた。
「私が〈ダンカン〉の上で列挙した探検家たちのことは皆さんも御記憶だろうし、少佐もきっと忘れてはいまい。大陸の内部へ入りこもうとしたすべての人々のなかで、南から北へ、もしくは北から南へ横切ることに成功したのはわずかに四人だった。一八六〇年と六一年にバーク、一八六一年と六二年にマッキンレー、一八六二年にランズバラ、同じく一八六二年にステュアート。マッキンレーとランズバラについてはあまり言うことはない。前者はアデレードからカーペンタリ湾へ行き、後者はカーペンタリ湾からメルボルンへ行ったが、二人ともバーク捜索のためオーストラリアの諸委員から派遣されたのだった。このバークの行方は杳《よう》として知れなくなり、そしてまた二度とあらわれて来ることはあるまいと思われていた。
バークとステュアート、私がこれから皆さんにお話しするのはこの二人の大胆な探検家のことだ。そこで前置きは省いて話をはじめよう。
一八六〇年八月二〇日、メルボルン王立協会の後援のもとに一人のアイルランド人の元将校が出発した。以前はカースルメインで刑事をつとめていた、ロバート・オハラ・バークという男だ。一一人の男が彼と同行した。すぐれた若い天文学者ウィリアム・ジョン・ウィルズ、ドクター・ベクラー、植物学者グレイ、インド軍の青年将校キング、ランデルズ、ブラヒー、そして数人のインド原地民兵だ。二五頭の馬と二五頭の駱駝が旅行者たちとその荷物、そして一八ヵ月分の食糧を載せて行った。探検隊は最初クーパー河に沿って行って北岸のカーペンタリ湾にむかうことになっていた。隊は難なくマレーとダーリングの両河を渡って植民地の限界にあるメニンディエのステーションに着いた。
ここで彼らはひどく邪魔になる荷物がたくさんあることに気がついた。この不便とバークの性格にあるある苛酷さが隊のなかに不和をもたらした。駱駝係のランデルズは何人かのインド人人夫を連れて探検隊から離れ、ダーリング河畔へもどった。バークは前進をつづけた。ある時は充分水のある牧草地を通り、ある時は水のない石だらけの道を通って彼はクーパーズ・クリークのほうへ降った。出発後三ヵ月たった一一月二〇日、彼はこの河のほとりに第一の食糧集積所を作った。
ここで旅行者たちは、北へむかう通行可能なルート、水の心配がないルートを見つけられないまましばらく足止めされていた。いろいろの大きな困難の後に彼らはある野営地に到達し、ここをフォート・ウィルズと名づけた。彼らはここをメルボルンからカーペンタリ湾への中間にある柵をめぐらした基地とした。そこでバークは隊を二手に分けた。一隊はブラヒーの指揮下にあって、フォート・ウィルズに三ヵ月、いや、食糧が不足しなければそれ以上もとどまって、もう一方の隊の帰りを待つこととする。もう一方の隊はバーク、キング、グレイ、ウィルズだけから成る。彼らは六頭の駱駝を連れて行く。携行するのは三ヵ月分の食糧、すなわち麦粉三キンタル、米二二・五キログラム、カラスムギ粉二二・五キログラム、乾馬肉一キンタル、塩づけの豚肉およびベーコン四五キログラム、ビスケット一三・五キログラム、このすべては往復二四〇〇キロメートルの旅をするためだ。
この四人の男は出発した。石の多い沙漠の辛い横断の後、一八四五年にスタートが到達した最終点であるエア河畔に達し、経度一五〇度線をできるだけ正確にさかのぼって北へむかった。
一月七日に彼らは炎熱の太陽のもとで期待を裏切る蜃気楼にだまされ、しばしば水に不足し、ときどきは激しい嵐によって渇をいやし、あちこちで放浪する原地民らに出逢いながら、ただし彼らからは何一つ悩まされることなく、南回帰線を横切った。要するに、湖や河や山に阻まれない道程なのでそう困難に悩まされないですんだのだ。
一月一二日になって北のほうにいくつかの砂岩の丘があらわれた。とりわけフォーブズ山と、〈レインジ〉と呼ばれる花崗岩質の山脈の連続が。このときは疲労ははなはだしいものになっていた。ほとんど前進しない。動物はそれ以上前に進もうとしないのだ。『あいかわらずレインジのなかにいる! 駱駝は恐れおののいて汗を流している!』とバークは旅日記に書いている。それでも努力のあげく探検家たちはターナー河のほとりに出、次いでフリンダーズ河の上流に達したが、この河は一八四一年にストークスが見たもので、椰子とユーカリの屏風のあいだを流れてカーペンタリ湾へ注ぐのだ。
大海が近くにあることは沼沢地がつづいていることでわかった。一頭の駱駝はそこで斃《たお》れた。ほかの駱駝たちはそこを越して行くことを拒む。キングとグレイは駱駝とともにとどまらねばならなかった。バークとウィルズは北へ歩きつづけ、彼らのノートには非常に曖昧にしか記録されていない大きな困難の後に、潮が満ちると海水が沼沢をおおう地点に到達したが、大洋は彼らには全然見えなかった。それは一八六一年二月一一日だった」
「それでは」とレイディ・ヘレナが言った。「その勇敢な人々はそこを越えて行けなかったのですか?」
「そうなのです。沼沢の土は彼らの足の下から逃げ、彼らはフォート・ウィルズの仲間たちのところへ帰ることを考えねばなりませんでした。帰りは惨めでしたよ、ほんとに! 衰弱し疲れ切って体を曳きずりながらバークとその道連れはグレイとキングに再会したのです。それから探検隊はこれまで来たルートによって南下してクーパーズ・クリークにむかった。
この旅行のあいだのいろいろな出来事、その危険、その苦しみは、われわれも正確には知らない。なぜなら探検家たちの手帖にはその記載がないからだ。しかしそれは恐るべきものだったに相違ない。
事実四月になってクーパーズ・クリークに着いたときには彼らは三人になっていたんだ。グレイは辛苦に殪《たお》れたばかりだった。四頭の駱駝が死んでいた。しかしブラヒーとその食糧の貯えが待っているフォート・ウィルズにバークがたどりつくことができたら、彼と彼の仲間は救われただろう。彼らはますます力をふるいおこし、さらに何日かのあいだ体を曳きずって進んだ。四月二一日に彼らは砦の柵を認めた。着いたのだ!……が、まさにその日、五ヵ月間むなしく待ったあげくブラヒーは出発してしまっていたのだ」
「出発した!」とロバート少年は叫んだ。
「そうだ、出発した! 何という悪い因果か、まさにその日に! ブラヒーの残した手紙はわずか七時間もたたぬ前に書かれたものだったのだ! バークは彼に追いつこうと考えることはできなかった。置き去りにされた不幸な連中は残っていた食糧を少々腹に詰めこんだ。しかし乗り物がなかった。そしてダーリング河まではまだ六〇〇キロメートルもあったのだ。
このときバークはウィルズの意見に逆らって、フォート・ウィルズから二四〇キロメートルばかりのホープレス山のそばにあるオーストラリア人の農場に行こうと考えた。彼らは出発した。残っていた二頭の駱駝のうち一頭はクーパーズ・クリークの泥沼のような支流で死んだ。もう一頭は一歩も進むことができなかった。射ち殺してその肉を食わねばならなかった。間もなく食べ物は尽きた。不運な三人はやむなく〈ナルドゥー〉で飢えを凌がねばならなかったが、これは水草で、その胞子は食べることができるのだ。水はなく、あってもその水を運ぶものがなかったので、彼らはクーパー河の岸から離れることはできなかった。火事で彼らの小屋は焼け、彼らの野営用の荷物も焼けた。もうおしまいだ! 彼らはもう死ぬほかはなかったのだ!
バークはキングをそばに呼んで言った。『私の生命はもう数時間しかない。ここに私の時計と記録がある。私が死んだら、私の右手にピストルを握らせて、土に埋めずにそのままにして行ってもらいたい!』それだけ言うとバークはもう口を利かず、翌朝八時にこときれた。
キングは驚愕し取り乱してオーストラリア原地民の部族をさがしに行った。彼がもどってみるとウィルズも今しがた死んだところだった。キング自身はといえば、彼は原地民に救われ、マッキンレーやランズバラと同時にバーク捜索のために派遣されたハウイットの探検隊に九月になって発見された。こういうわけで四人の探検家のうちこのオーストラリア大陸横断に生き残ったのはたった一人だったのだ」
パガネルの物語は聞き手たちの心に悲痛な印象を残した。もしかするとバークとその仲間と同様にこの不吉な大陸のまんなかをさまよっているかもしれないグラント船長のことを誰もが思った。この大胆なパイオニアたちを次々に殪した苦痛をあの遭難者たちは免れているだろうか? そういう風に思い合わすことはごく自然であったので、メァリ・グラントの目には涙がうかんで来た。
「お父さん! お父さん!」と彼女はつぶやいた。
「ミス・メァリ! ミス・メァリ!」とジョン・マングルズは叫んだ。「そのような苦難に遭うのは、内陸地方に踏みこんだときだけですよ! グラント船長のほうはキングのように原地民につかまっているのです。そしてキングと同じく救われるでしょう! 船長はそれほど条件が悪くはなかったのですから!」
「そうとも」とパガネルは言葉を添えた。「そして私はくりかえすが、お嬢さん、オーストラリア原地民は親切なんですよ!」
「そうだといいんですけれど!」と娘は答えた。
グレナヴァンはこうした暗い考えの方向を転じさせようとしてきいた。
「ではステュアートは?」
「ステュアート?」とパガネルは答えた。「ああ、ステュアートのほうはそれより幸運だった。そして彼の名はオーストラリアの歴史のなかでよく知られている。すでに一八四八年から、諸君の同国人であるジョン・マクドゥアル・ステュアートは、アデレード北方にある沙漠にスタートと一緒に行くなどして後の旅の準備をしていたのだ。一八六〇年にはわずか二人の男を連れてオーストラリア内部に入りこもうとしたが果さなかった。だが彼は落胆するような男ではなかった。一八六一年一月一日、彼は一一人の果敢な仲間たちを率いてチェインバーズ・クリークを出発し、カーペンタリ湾から二四キロメートルのところに来るまで休まなかった。しかし食糧不足のため彼はこの恐るべき大陸を横断せずにアデレードにひきかえさねばならなかった。けれども彼はあえてなお運命に挑み、三番目の探検隊を組織するが、今度の隊はあれほど熱烈に望んでいた目的地に達することになるのだ。
南オーストラリア州議会はこの新しい探検隊を熱心に後援し、二〇〇〇ポンドの補助金を可決した。ステュアートはパイオニアとしての自分の経験がすすめるありとあらゆる措置を取った。彼の友人である博物学者ウォータハウス、以前の同行者スリングとケーウィック、そしてウッドフォード、オールドなど、全部で一〇人が彼と同行した。それぞれ七ガロンの容量を持つアメリカ製の革袋を携行して、一八六二年四月五日、探検隊は南緯一八度の向うのニューカースル・ウォーター盆地に集合したが、ここはまさにステュアートが越えられなかった地点だった。彼らのたどる道筋はおおよそ経度一三一度線に沿い、それゆえバークのそれよりも七度西へずれていた。
ニューカースル・ウォーター盆地は以後新しい探検隊の根拠地となる。ステュアートは深い森にかこまれて、北へ、また北東へ出ようと試みたが成らなかった。西のヴィクトリア河にたどりつこうとしたが同じく失敗した。分け入ることのできない藪があらゆる出口を閉ざしていたのだ。
そこでステュアートは野営地を変えることに決し、ようやくすこし北に寄ったハウアーの沼沢地に移すことができた。それから東にむかって行くうちに、草の茂る平原のなかでデイリー川にぶつかり、四八キロメートルばかりそれをさかのぼった。
あたりはすばらしくなった。その草原はスクウォッターを喜ばせ、一身代作らせただろう。ユーカリはここでは驚くべき高さにまで伸びていた。ステュアートは驚嘆しながらなおも前へ前へと進んだ。彼はストラングウェイ河と、ライヒァルトの発見したローパーズ・クリークの岸に達した。両河の水はこの熱帯地方にふさわしい椰子の木のなかを流れていた。そこには原地民の諸部族がいて、探検者たちを歓迎した。
この地点から探検隊は、砂岩と鉄を含む岩におおわれた土地をめぐってヴァン・ディーメン湾に注ぐアデレード河の源流を捜し求めながら北北西へ方向を変えた。このとき探検隊は棕櫚キャベツや竹や松やパンダナスを縫ってアルンヘム・ランドを横切っていたのだ。アデレード河は河幅を増し、その岸は泥深くなり、海はもう近かった。
七月二二日の火曜、ステュアートはルートを横切る無数の小川にひどく悩まされてフレッシュ・ウォーターの沼沢地に野営した。彼は三人の仲間をやって通れる道を捜させた。翌日は、あるいは渡れない入江を迂回し、あるいは泥沼地帯で泥にまみれながら、芝におおわれたやや高い草原にたどりついたが、そこにはゴムの木や繊維質の樹皮を持った木がところどころに集まって生えていた。雁やイビスやその他極度に人に馴れない水鳥の群れがそこには飛んでいる。原地民はほとんど、あるいはまったくいなかった。ただ遠くにいくつかの野営の煙が上っているだけだった。
アデレード出発から九ヵ月後の七月二四日、ステュアートは午前八時二〇分に北にむかって出発する。彼はその日のうちに海に出たかったのだ。土地は多少高くなり、鉄鉱石や火山岩が散点している。樹木は矮小になる。彼らは海の空気を嗅いだ。冲積土《ちゅうせきど》の広い谷があらわれ、そのむこうのほうは灌木が塀のように縁取っている。ステュアートは打ち寄せる波の音をはっきりと聞いたが、仲間たちには何も言わなかった。一行は野葡萄の蔓のからみあった林のなかにはいった。
ステュアートは数歩進んだ。そこはもうインド洋のほとりだった!『海だ! 海だ!』とスリングが茫然として叫んだ。ほかの連中が駈けつけ、そして万歳三唱をインド洋に送ったのだった。
こうして大陸はこれで四度目に横断されたのだ!
ステュアートは総督サー・リチャード・マクドネルにした約束に従って、足を水に入れて海の水で顔と手を洗った。それから彼は谷にもどって、一本の木にJ・M・D・Sという自分のイニシャルを刻んだ。水の流れる小川のそばに野営地が設けられた。
あくる日スリングはアデレード湾の河口に南西から到達できるかを偵察に行った。しかし土地は馬で行くにはあまりにも泥深かった。これはあきらめねばならなかった。
そこでステュアートは森の空地のなかで一本の高い木を選んだ。下枝を切り落して彼はその頂にオーストラリアの旗をかかげた。その木には『南へ三〇センチメートルのところの地面を掘ること』という言葉が皮に刻まれた。
そしてもしいつの日か誰か旅行者が指定された場所を掘ったとすれば、ブリキの箱を見つけるだろう。そしてその箱のなかには、私の記憶に刻みこまれている次のような言葉を記した紙を。
[#ここから1字下げ]
南より北へのオーストラリア縦断の大探検
〈ジョン・マクドゥアル・ステュアートの指揮する探検隊員は、大陸の中心部を通って全オーストラリアを南の海からインド洋岸まで縦断した後、一八六二年七月二五日にここに到着した。彼らは一八六一年一〇月二六日にアデレードを去り、一八六二年一月二一日に植民地の最後のステーションから北にむかって出発した。この喜ばしい事績を記念して隊員は隊長の名とともにオーストラリアの旗をここにかかげた。すべては上々である。ゴッド・セイヴ・ザ・クウィーン〉
[#ここで字下げ終わり]
これにつづいてステュアートと仲間たちの署名がある。
全世界に大変な反響を呼んだこの大事件はこのようにして確認されたのだ」
「それでその勇敢な人たちはみな南部の友人たちに再会したのですか?」とレイディ・グレナヴァンがきいた。
「そうです、みんな。しかしはなはだしい疲労は免れませんでした。一番苦しんだのはステュアートでした。アデレードにむかって帰途についたとき、彼の健康は壊血病ではなはだしく脅かされていました。七月の初めには病気はひどく悪化して、彼はもう人の住んでいる地域は見られないと思ったほどだった。もはや鞍の上に体を置いていることができず、四頭の馬のあいだにぶらさげた輿《こし》の上に寝ながら行った。一〇月末には喀血《かっけつ》のためいよいよ臨終というところまでになった。人々は馬を一頭殺して彼のためにスープを作った。一〇月二八日には彼は死ぬことを考えたが、不意に病勢転換が見えて彼は救われ、一二月一〇日には探検隊は全員そろって最初の農場にたどりついた。
ステュアートが熱狂した住民にかこまれてアデレードにはいったのは一二月一七日でした。しかし彼の健康は依然として思わしくなく、間もなく地理学会の大金牌を与えられた後に、なつかしい故国スコットランドにむかう〈インダス〉に乗船したのです。われわれもスコットランドに帰ったとき彼に会えるでしょう〔ジャック・パガネルはスコットランドに帰ってステュアートに会うことができたが、しかし長くこの有名な旅行家との交際を楽しむことはできなかった。ステュアートは一八六六年六月五日にノッティンガム・ヒルの質素な家で死んだ〕」
「彼は精神力を最も高度に身につけていた人間だった」とグレナヴァンは言った。「そして体力以上にこの精神力が大事業を成就させるものなのだ。スコットランドは彼をその子孫に教えることを当然誇りにしている」
「ではステュアートの後ではいかなる旅行者も新発見を試みていないんですの?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「いますよ」とパガネルは答えた。「ライヒァルトのことはよく挙げましたが、この旅行者はすでに一八四四年に北オーストラリアに注目すべき探検をおこなっています。一八四八年に彼は北東にむかって第二回の探検をおこないました。それからもう一七年彼の姿は見られません。去年有名な植物学者であるメルボルンのミュラー博士が、捜索隊派遣の費用にあてるため公けの募金をはじめました。この募金はたちまち集まり、そして聰明で大胆なマッキンタイアの率いる勇敢なスクウォッターたちの一隊が一八六四年六月二一日パルー河の牧草地から出発しました。こういう話をしている今、ライヒァルトを捜して彼らは大陸の内部深く分け入っているに相違ない。彼らが成功するといいんですがね。そして彼らと同じくわれわれ自身も、われわれの心にかかっている友人たちを見つけ出せればいいのだが!」
このようにして地理学者の話は終った。夜は更けていた。一同はパガネルに礼を言い、そしてしばらく後には誰も安らかに眠っていた。いっぽう白ゴムの木の葉にかくれた時計鳥は規則正しくこの静かな夜の時を刻んでいたのである。
[#改ページ]
十二 メルボルン・サンドハースト鉄道
少佐はエアトンがウィメラ河の野営地を去ってブラック・ポイントのそのステーションに蹄鉄工《ていてつこう》を呼びに行くのを見て、ある危惧《きぐ》をおぼえずにはいられなかったのである。しかし彼は自分の疑念は一言も洩らさず、ただ河のあたりを警戒するにとどめた。この平和な野の静けさは何ものにも乱されず、夜の数時間ののち太陽はふたたび地平線の上にあらわれた。
グレナヴァンのほうは、不安といえばエアトンが一人だけで帰って来はしないかということだけだった。職人がいなかったら牛車はふたたび出発することができなかったからである。旅はおそらく数日中断されるだろう。そして成功に焦り一刻も早く目的を達したいと願うグレナヴァンには、遅れることは堪えられなかった。
非常にさいわいなことにエアトンは時間も労力も無駄にしていなかった。翌日の夜明けに彼は帰って来た。ブラック・ポイントの蹄鉄工だと自称する男が彼について来た。それは背の高い屈強な男だったが、好感を抱かせない卑しい動物的な顔つきをしていた。しかし腕さえしっかりしていれば結局そんなことはどうでもいい。いずれにしても男はほとんどしゃべらず、彼の口は無駄な言葉を発しなかった。
「よくできる職人かね?」とジョン・マングルズはクウォータマースターにきいた。
「私だってあなた以上よくあの男を知っているわけじゃないんですがね。すぐわかりますよ」とエアトンは答えた。
蹄鉄工は仕事にかかった。いかにも腕のある男だった。それは牛車の前部車体受けの修理の仕方でわかった。彼はなみなみならぬ努力をもって巧みに仕事をした。少佐は彼の手首の肉がひどく腐って、内出血のため黒っぽい輪ができているのを目にとめた。それは最近受けた怪我の痕で、粗悪なウールのシャツの袖からかなりはっきりとのぞいていたのだ。マクナブズは非常に痛いものに相違ないその腐蝕のことを蹄鉄工にきいてみた。しかし相手は返事をせずに仕事をつづけた。二時間後には牛車の損傷は回復していた。
グレナヴァンの馬のほうは簡単に直った。蹄鉄工は気を利かして、もう打ちつけるだけになった蹄鉄を持って来たのだ。この蹄鉄は特殊なもので、少佐の目はそれを見逃さなかった。前部が乱暴に截《た》ち切られたクラブの形をしていたのだ。マクナブズはそれをエアトンに見せた。
「ブラック・ポイントのしるしですよ」とクウォータマースターは言った。「これのおかげでステーションから遠く離れた馬の跡をつけることができるし、ほかの馬と取り違えないですむのです」
間もなく蹄鉄は馬の蹄《ひづめ》にとりつけられた。それから蹄鉄工は手間賃を要求し、ろくすっぽ口を利かずに帰って行った。
三〇分後には旅行者たちは出発していた。ミモザのカーテンの向うには〈|開けた平原《オープン・プレイン》〉と呼ぶにふさわしい広濶《こうかつ》な空間がひろがっていた。石英と鉄分を含んだ岩との破片が、藪や高い草や無数の畜群を囲っている柵のあいだに見られた。さらに七、八キロ行くと牛車の轍《わだち》は、巨大な蘆のカーテンに半ばおおわれて不規則な細流がいくつもさざめいている沼沢状の土地にかなり深い溝を穿《うが》った。それから一行は蒸発しつつある広い鹹湖《かんこ》に沿って行った。この旅には苦労も、そしてこれはつけくわえておかねばならないが、退屈もなかった。
レイディ・ヘレナは皆がかわるがわる自分を訪問するようにと促した。彼女のサロンは非常に狭かったからだ。しかし各人はそうすることによって乗馬の疲れを休め、この愛すべき女性との会話によって元気をとりもどしたのである。レイディ・ヘレナはミス・メァリに助けられて申し分のない愛想のよさでこの動く家で人々をもてなした。ジョン・マングルズもこの毎日の招待のときを忘れられなかったし、少々堅苦しい彼の話も歓迎されないどころではなかったのだ。
このようにして一行は、徒歩の旅人が決して取ることのないひどく埃っぽい道路であるクラウランド―ホーシャム間の郵便道路を斜めに突っ切った。タルボット郡のはしを横切るときにはいくつかのあまり高くない円い丘に接して行き、夕方、一行はメァリバラから五キロ北の地点に到達した。こまかい雨が降っていたが、ほかの国ならばこの雨は地面をびしょびしょにしたろう。しかしここでは空気が湿気を驚くほど吸い取ってしまうので、野営には何の支障もなかった。
翌一二月二九日、スイスの縮図を思わせる小丘の連続で速度は少々落ちた。絶えず登りか降りで、不愉快に揺れてばかりいる。旅行者たちは行程の一部を徒歩で行ったが、不平は言わなかった。
一一時にかなり重要な地方自治体カールズブルックに到達した。エアトンは町に入らずに迂回して行くのがいいという意見だった。時間を稼ぐためだと言う。グレナヴァンは彼の意見に賛同したが、いつも珍しいものには目のないパガネルはカールズブルックを見物することを熱望した。一同は彼を望みのままに行かせて、牛車はゆっくりと進みつづけた。
パガネルはいつもの習慣どおりロバートを連れて行った。町見物はすぐにすんだが、オーストラリアの町の概念を得るには彼にとってはそれで充分だった。そこには銀行と裁判所と市場と学校と教会が一つずつあり、まったく同じ形をした煉瓦造りの家が一〇〇戸ばかりあった。それらすべてはイギリス式に平行する街路で規則正しく区切られた長方形のなかに配列されている。これ以上単純な、しかしこれ以上面白くないものはない。町の人口が殖えると、成長する子供のズボンのように街路を伸ばす。そして最初の対称性は全然変らないのである。
非常な活気がカールズブルックを支配していたが、これは生まれたばかりのこうした都市の著しい特徴である。オーストラリアでは町も太陽の熱を受けて樹木のように生育するかに見える。いそがしげな人々が街路を走っている。金《きん》を送り出す人々が着荷事務所にひしめいている。土地の警察に守られてこの貴金属はベンディゴウやアレクサンダー山の工場から来るのだ。利欲に駆りたてられたこの連中は商売のことしか念頭になく、よそ者はこの勤勉な住民のあいだで目立たずにすむ。
一時間ばかりカールズブルックを歩きまわってから、二人の訪問者は丁寧に耕された田園を通って仲間たちのところへ帰ろうとした。田園につづいて〈低地平原《ロウ・レヴェル・プレイン》〉という名で知られる長い草原が連なり、無数の羊の群れと牧夫の小屋が点在している。それから何の中間段階もなしに、オーストラリアの自然に特有のあの唐突さで沙漠があらわれた。シンプスン丘陵とタランゴーワー山が、経度一四四度上のロッド地区が南のほうで形成している岬を示している。
ただしこれまでのところは、未開状態で生活しているあの原住民の部族にはまだ一度も出逢っていなかった。グレナヴァンはアルゼンチン領パンパシアにインディアンがいなかったようにオーストラリアにはオーストラリア原地民がいないのではないかと思った。しかしパガネルは彼に、この緯度では未開人は東のほう一六〇キロのところにあるマレー河畔の平原に主《おも》にあらわれるのだと教えた。
「われわれは産金地帯に近づいている」と彼は言った。「二日以内にわれわれはあの豊かなアレクサンダー山地方を横切るだろう。一八五二年に無数の坑夫が殺されたのはそこなんだ。原地民たちは内陸の沙漠に逃げこんだに相違ない。そうとは見えないがここは文明化された地方なんだ。そしてこの日の終らぬうちにわれわれの道はマレーと海をつなぐ鉄道を横切るだろう。ところでね、これは是非言っとかなくちゃならんが、オーストラリアの鉄道こそ私には驚くべきものに見えるんだよ!」
「一体どういうわけで?」とグレナヴァンはきいた。
「なぜかって! そんなのは不似合だからさ! いや、遠い領有地に植民する習慣を持ち、ニュージーランドに電信を設けたり万国博覧会を開いたりする君らには、そんなことは至極当然と思われることは私にもよくわかっているよ! しかしそれは私のようなフランス人の頭には馴染《なじ》めず、オーストラリアについてフランス人の持つすべての考えを混乱させるんだ」
「それはあなたがたが現在でなく過去を向いているからですよ」とジョン・マングルズが答えた。
「それは認めよう」とパガネルは言った。「しかし汽笛を鳴らして沙漠を走る機関車、ミモザやユーカリの枝にまつわりつく湯気の渦《うず》、急行列車の前から逃げるハリモグラ、カモノハシ、トビネズミ、メルボルンからカイントンへ、カースルメインへ、サンドハーストへ、あるいはエチュカへ行こうとして三時半の急行列車に乗る未開人、こうしたものはイギリス人もしくはアメリカ人以外の誰にとっても驚きだよ」
「そんなことはどうでもいいじゃないか、進歩が滲透《しんとう》しさえすれば」と少佐が答えた。
力強い汽笛の音が議論を中断させた。旅行者たちは鉄道から一・五キロと離れていなかったのだ。南から低速で走って来た一台の機関車が、まさに鉄道と牛車のたどって来た道との交叉するところで止まった。
パガネルが言ったようにこの鉄道はヴィクトリア州の州都とオーストラリア最大の河であるマレー河とをつなぐものだった。一八二八年にステュアートが発見したこの大河は、オーストラリア・アルプスに発し、ラクランとダーリングの二河を合わせ、ヴィクトリア州の北境全体をおおい、アデレードのそばのエンカウンター湾に注ぐ。河は豊かな肥沃な地方を横切り、鉄道によってメルボルンと容易に連絡できるおかげでスクウォッターのステーションはその流域にますます殖えて行く。
この鉄道は当時はカイントンとカースルメインを含めてメルボルンとサンドハースト間一六八キロの長さが利用されていた。敷設中の線は、まさにこの年にマレー河畔に建設された河畔《リヴライン》植民地の中心都市であるエチュカまで一一〇キロにわたってつづいていた。
三七度線はカースルメインの七、八キロ北の、マレー河の多くの支流の一つであるラトン河にかかっているキャムデン・ブリッジで鉄道を横切っていた。
エアトンはこの地点へ牛車を向けた。乗馬の人々はキャムデン・ブリッジまでしばらくのあいだギャロップで飛ばして先に行った。それにまた彼らは激しい好奇心でこの橋へひきつけられていたのである。
事実おびただしい群衆が鉄橋のほうへむかっていたのだ。近くのステーションの住民たちは家をあけっぱらって、牧夫たちは畜群をほっぽりだして、鉄道の周囲にうようよしていた。
「鉄道《レイルウェイ》へ! レイルウェイへ!」という叫びが何度もくりかえして聞かれた。
何か重大な事件が起こってこうした昂奮をひきおこしたに相違なかった。もしかすると大きな事故でも。
グレナヴァンは仲間たちを従えて馬の足を急がせた。五分で彼はキャムデン・ブリッジに着いた。そこに行ってみて彼には人々の集まっている理由がわかった。
恐ろしい事故が起こったのである。衝突ではない、脱線と墜落で、客車と機関車の破片がそこらじゅうに飛び散っているのだ。橋が列車の重みに堪え得なかったのか、列車がレールから飛び出したのか、六台の車輛のうち五台までが機関車にくっついてラトン河の河原に墜落したのである。鎖が切れたために奇蹟的に助かった最後の車だけが、落下点から一メートル足らずのところで線路にとどまっていた。下のほうには黒い歪んだ車軸や大破した車やねじれた線路や黒焦げの枕木が無気味にかさなっているだけだ。ショックで爆発したボイラーはその鉄板の破片を途方もなく遠くまで投げ飛ばしている。この形をなさない物体の塊のなかから今もって炎や黒煙を混えた螺旋形《らせんけい》の湯気が立ち昇っている。恐ろしい墜落のあげく、それよりもっと恐ろしい火災があったのだ! 大きな血痕、散らばった四肢、黒焦げの屍体の躯幹《くかん》があちこちに見え、この残骸の下に積みかさなっている犠牲者の数は誰一人としてあえて数えることができなかった。
グレナヴァン、パガネル、少佐、マングルズは群衆にまじって、次から次へと伝わって来る話に耳を傾けた。救出のために働きながら各人はそれぞれこの事故の原因を説明しようとした。
「橋がつぶれたんだ」と一人が言った。
「つぶれた!」と別の連中が答えた。「つぶれるどころか、全然|無疵《むきず》のままだよ。列車が通るとき橋をしめるのを忘れたんだ。それだけさ」
実際それは河船を通すために開く飜転《はんてん》橋だったのだ。番人がそれでは許すべからざる怠慢から橋をしめるのを忘れ、全速で走っていた列車は急に道がなくなってこのようにラトン河の河床に飛びこんだのだろうか? この仮定は非常にもっともらしく見えた。なぜなら橋の半分は客車の残骸の上に横たわっていたが、他の半分は対岸へ撤収されて無疵な鎖でまだぶらさがっていたのだから。もはや疑いはあり得ない! 番人の不注意がこの惨事をひきおこしたのだ。
事故が起こったのは夜、列車は午後一一時四五分メルボルン発の第三七号急行列車だった。時刻は午前三時一五分だったろう、列車はカースルメインの駅を出発して二五分後キャムデン・ブリッジの鉄橋にかかり、そこに立往生した。ただちに最後の客車の客や乗務員は救援を求めようとした。しかし電柱は地面に倒れていて、電信は使えなかった。カースルメインの当局が現場に来るのに三時間かかった。それゆえ、植民地鉄道監督官ミッチェル氏と、警部の指揮する警官の一班との指導のもとに救援隊が組織されたのは午前六時だった。スクウォッターたちとその使用人たちも加勢に来て、まず第一に猛烈な火勢で燃えている火を消すために活動した。識別不可能な屍体がいくつか、盛土の土手に横たえられていた。しかしこの猛火のなかから生存者を救い出すことはあきらめねばならなかった。火はたちまちのうちにその破壊の仕事をなしとげた。列車の客が何人だったかはわからないが、そのうち生き残ったのは最後尾の車両の客である一〇人だけだった。鉄道会社は彼らをカースルメインに連れかえすために予備の機関車を一台送ったところだった。
そうこうするうちにロード・グレナヴァンは鉄道監督官に刺《し》を通じ、その監督官および警部と話し合った。この警部は沈着きわまる背の高い痩せた男で、心のうちに多少感受性を秘めていたとしてもその無表情な顔には何もあらわしはしなかった。彼のこの災禍に対する態度は問題を前にした数学者と同じだった。彼は問題を解決しようとし、未知数をあきらかにしようとしていた。それゆえ、「これは大変な不幸です!」というグレナヴァンの言葉に対して彼はおちつきはらって次のように答えたのである。
「それ以上ですよ、ミロード」
「それ以上ですって!」とグレナヴァンはその言葉に不快をおぼえて叫んだ。「不幸以上の何があるんです?」
「犯罪です!」と警部はおちついて答えた。
グレナヴァンはその言葉の不穏当さを気にとめずに、ミッチェル氏のほうを振りかえって目顔できいた。
「そうなんです」と監督官は言った。「調査によってわれわれは、惨事は犯罪の結果であるという確信に達したんです。最後の貨物車が掠奪されています。生き残った乗客は五人か六人の悪漢に襲われました。橋が開かれていたのは怠慢からではなく、わざとしたことなのですよ。この事実と番人の失踪とを思い合わすと、この悪党は犯罪人どもと|ぐる《ヽヽ》になっていたと結論せねばなりません」
警部は監督官のこの推論に対して頭を振った。
「あなたは私と意見が違うのですか?」とミッチェル氏は彼にきいた。
「番人がぐるになっていたという点では違いますね」
「けれどもその共謀を認めれば、マレー河のあたりの原野をさまよっている未開人の犯行だと見ることができるのです。番人がいなければ、あの原地民どもにはこの飜転橋を開くことはできなかった。仕掛けを知らないのですから」
「そのとおりです」
「ところで、午後一〇時四〇分にキャムデン・ブリッジの下を通った船の船頭の供述によって、その船の通過後橋が規則どおりしめられたことは確実なんです」
「いかにも」
「ですから、番人の共謀は私には明々白々なまでに確証されていると見えますが」
警部は依然として絶え間なく頭を振りつづけていた。
「しかしそれでは」とグレナヴァンは警部にきいた。「あなたは犯行は未開人のものだと見ないのですか?」
「全然」
「それでは誰の?」
ちょうどこのときかなり大きなざわめきが河上七、八百メートルのところで起こった。人だかりがし、あっという間にそれは増えた。間もなくその人々は駅まで来た。人の群のまんなかで二人の男が一つの屍体を運んでいた。それはすでに冷たくなっている番人の屍体だった。匕首《あいくち》の一撃で心臓を刺されていた。犯人は遺体をキャムデン・ブリッジからずっと遠くへ引きずって行って、捜査のはじめのうち警察の疑いをそらそうとしたのであろう。ところが、この発見は警部の疑念の正しいことを充分に証明した。未開人は犯行とはまったく無関係だったのだ。
「やった奴らはこの小さな道具を使い慣れている手合だ」と彼は言った。
そう言いながら彼は、〈ダービーズ〉という、錠のついた二重の鉄輪《てつわ》から成る一種の手錠を示した。
「近いうちに」と彼は言い添えた。「私は奴らにこいつをお年玉として進呈してやれるでしょう」
「しかし、それではあなたの疑っているのは……」
「〈陛下の船で無料で航海して来た〉連中ですよ」
「何だって! 流刑囚か!」オーストラリアの植民地で使われているこの比喩をよく知っているパガネルは叫んだ。
「私は流刑囚はヴィクトリア州に居住する権利がないと思っていたんだが?」とグレナヴァンが口をはさんだ。
「ふん!」と警部は答えた。「持っていなくたって奴らは勝手に持ちますよ! 時々脱走します、流刑囚どもは。私の思い違いでなければこの連中はパースからまっすぐにやって来る。奴らはパースにもどるでしょう。これは信じてくださって結構です」
ミッチェル氏は警部の言葉に身振りで同意した。ちょうどこのとき牛車が鉄道の踏切に着いた。グレナヴァンはキャムデン・ブリッジの凄惨な場面を婦人方に見せまいと思った。彼は監督官に挨拶して別れを告げ、友人たちに自分について来るように合図した。
「こんなことでわれわれの旅行が中断されてはならない」と彼は言った。
牛車まで行くとグレナヴァンは鉄道事故があったとだけレイディ・グレナヴァンに言い、この惨事に犯罪が一役買っていることは言わなかった。彼はまた、このことはエアトンにだけ別に知らせることにして、囚徒の一味がこの地方にいるということにも触れなかった。それから小さな一隊は橋の数百メートル上手《かみて》で鉄路を横切って、東にむかってふたたびいつものように歩みつづけた。
[#改ページ]
十三 地理学者の優等賞
いくつかの丘が地平線に長く伸びたプロフィールを浮き出させ、鉄道から三キロのところで平原を限っていた。牛車は間もなく気まぐれにくねくね曲る狭い峡谷にさしかかった。峡谷が終ると、美しい樹木が森林にはならずにばらばらの木立ちになってまことに熱帯的な旺盛さで茂っている魅力的な場所に出る。一番すばらしい木々のなかでも、その幹の頑丈な構造は槲《かしわ》から、香りのいい莢果《きょうか》はアカシアから、少々青緑色がかったその葉の固さは松から借りて来たように見える〈カスアリナ〉は特に立派だった。その小枝は、ほっそりとしてこの上なく優雅に見える〈バンクシャ・ラティフォリア〉のまことに奇妙な円錐形の姿とまじっている。小枝の垂れ下った大型灌木は茂みのなかで、満ち溢れた水盤からこぼれる緑色の水のような印象を与える。人の目は自然のこれらのさまざまな驚異のあいだを迷って、どこに感嘆の目を注いでいいかわからないほどなのだ。
一行はしばらく休止した。エアトンはレイディ・ヘレナの命令で牛を繋《つな》いだままにしておいた。牛車の大きな円盤は石英質の砂の上できしむのをやめた。木の群れの下に長々と緑の絨毯がひろがっていた。ただいくつかの地面の隆起、規則正しいふくらみが、広大な将棋盤のように地面をかなりはっきりした升目に分けていた。
パガネルは永遠の眠りのためにいかにも詩的な意匠をほどこしたこの緑の無人境が何であるかを見誤らなかった。今は草がその最後の痕跡をも消してしまっている霊域を彼はそこに認めたのである。これは旅行者がオーストラリアの土地ではきわめて稀にしか出逢わないものである。
「死の森だ」と彼は言った。
事実彼の眼前にあったのは原地民の墓場だったのだ。しかしそれはいかにも涼しく、影が多く、小鳥が嬉々として飛びまわっており、魅惑的で、全然暗い思いなどをよびおこすものではなかった。まるで死がこの地上から追放された後のエデンの園といったところなのだ。生きている人間のためにあるように見えたほどだ。しかし未開人が敬虔な心をこめて大事にして来たこれらの墓は緑草の氾濫にすでにおおわれていた。征服の結果オーストラリア原地民は祖先の眠る土地から遠く追われ、植民の結果間もなくこの霊場も畜群によって食い荒されてしまうだろう。だからこれらの森ももう稀になってしまった。そしてつい先代までの人々を埋めているこれらの森のうち、どれほど多くのものが心ない旅人の足に踏みつぶされていることか!
けれどもパガネルとロバートはほかのものより先に行って、塚のあいだの木かげの小道を辿った。彼らはおしゃべりし、たがいに啓発し合っていた。というのは、地理学者はグラント少年との会話から自分は大いに得るところがあると主張していたからである。しかし彼らがまだ四〇〇メートルも行かないうちに、ロード・グレナヴァンは彼らがたちどまり、次いで馬から降り、最後に地面のほうへ身をかがめるのを見た。彼らの雄弁な身振りを見れば何か非常におもしろい物を観察しているように見えた。
エアトンは牛をせきたて、牛車は間もなく二人のところに着いた。彼らがたちどまり、びっくりしていた理由はたちまちわかった。原地民の子が、ヨーロッパ人の服を着た八つぐらいの男の子が、堂々たるバンクシャの木かげで安らかに眠っていたのである。その人種の特徴は見まがうべくもなかった。ちぢれた髪の毛、ほとんどまっくろな肌の色、|あぐら《ヽヽヽ》をかいた鼻、厚い唇、両腕の並々ならぬ長さを見れば、即座に内陸部の原地民だとわかった。しかし頭のよさそうな表情はほかのものと違っており、教育のおかげでこの未開人の少年はその卑しい生れから引上げられているに相違なかった。
少年を見てひどく興味をそそられたレイディ・ヘレナは牛車から降り、間もなく一同はすべてぐっすりと眠っている小さな原地民のまわりを囲んだ。
「かわいそうな子」とメァリ・グラントは言った。「それではこの人気のないあたりで迷ったのでしょうか」
「私は遠くからこの死の森にお詣りするために来たのだと思うわ! きっとここにこの子の愛する人たちが眠っているのよ!」とレイディ・ヘレナが答えた。
「でもほっといて行くわけには行きません!」とロバートが言った。「ひとりぼっちなんだし、それに……」
ロバートの言いかけた思いやりの言葉は、目を覚まさずに寝返りを打った原地民の子供の動きで中断された。しかしこのとき、彼の肩に札がついていて、そこに次のように書いてあるのを見て各人はこの上もなく驚いたのである。
[#ここから1字下げ]
TOLINE,
TO BE CONDUCTED TO ECHUCA,
CARE OF JEFFRIES SMITH, RAILWAY
PORTER, PREPAID
〔トリネ。行先、エチュカ。鉄道のポーター、ジェフリーズ・スミス方。運賃支払いずみ〕
[#ここで字下げ終わり]
「なるほどイギリス人らしいよ!」とパガネルは叫んだ。「子供をまるで荷物なんぞのように送り出すんだからね! 手荷物なみにチッキにしてさ! そういう話はたしかに聞いていたが、信じる気にはなれなかった」
「かわいそうね!」とレイディ・ヘレナは言った。「キャムデン・ブリッジで脱線したあの列車に乗っていたのかしら? もしかすると両親は死んで、この子は一人ぼっちになったのかもしれないわ!」
「私はそう思いません」とジョン・マングルズは言った。「この札は反対にこの子が一人で旅していたことを示しています」
「目を覚ましました」とメァリ・グラントは言った。
事実子供は目を覚ました。だんだんと彼の目は開いたが、まぶしい日の光にすぐまた閉ざされた。しかしレイディ・ヘレナは彼の手を取った。彼は身を起こし、旅行者の群に驚きの目を向けた。不安の情に最初彼の表情はゆがんだが、レイディ・グレナヴァンがそこにいることが彼を安心させた。
「英語がわかって?」と彼女はきいた。
「わかるし、しゃべれます」と子供は旅行者たちの国語で答えたが、訛《なまり》はひどかった。
彼の発音はイギリス王国の言葉でしゃべるフランス人の発音を思わせた。
「あなたの名は?」とレイディ・ヘレナはきいた。
「トリネ」と原地民の子は答えた。
「ああ、トリネか!」とパガネルは叫んだ。「私の思い違いでなければ、その言葉はオーストラリア土語で〈樹皮〉という意味ではないかね?」
トリネはうなずいて見せ、それからまた視線を婦人方のほうに向けた。
「どこから来たの?」とレイディ・ヘレナはまたきいた。
「メルボルンから、サンドハースト鉄道で」
「ではキャムデン橋で脱線したあの列車に乗っていたのかい?」とグレナヴァンはきいた。
「そうなの。でも聖書の神さまが僕を守ってくれました」とトリネは答えた。
「おまえは一人だったのかい?」
「一人です。パクストン牧師さんが僕をジェフリーズ・スミスにあずけたんです。不幸なことに気の毒なポーターさんは死んでしまいました」
「ではあの汽車にはおまえの知っている人は一人もいなかったのか?」
「一人も。でも神さまは子供たちのことに気をくばっていて、見放したりはなさらないよ!」
トリネはこういったことを胸を打つようなおだやかな声で言った。神さまのことを言うときには彼の言葉は一層重々しくなり、目はかがやき、この若い魂にひそんでいる熱情がはっきりと感じられた。
こんな頑是《がんぜ》ない年頃に似合わないこうした宗教的熱狂は容易に説明できるだろう。この子供はイギリス人宣教師によって洗礼を受け、メソディスト派の厳しい戒律を守って彼らの手で育てられた原地民の子らの一人だったのだ。彼の物静かな応答、さっぱりとした身なり、黒っぽい服装はすでに小さな牧師の風格を彼に与えていた。
しかしこんな無人の地方を通って一体彼はどこへ行くのだろう? そしてなぜ彼はキャムデン・ブリッジから離れたのだろう? レイディ・ヘレナはその点をきいてみた。
「ラクラン地方の部族のところへ帰ろうとしていたの」と彼は答えた。「家族の者に会いたかったから」
「オーストラリア原地民かい?」とジョン・マングルズがきいた。
「ラクランのオーストラリア人です」
「で、君はお父さんやお母さんがいるの?」とロバート・グラントが言った。
「うん、兄さん」と、グラント少年に手をさしだしながらトリネは答えた。少年は兄さんと呼ばれて非常に心を打たれた。彼はトリネに接吻し、それだけでもう二人は仲好しになってしまったのである。
そのあいだにこの未開人の子の答に非常に興味をそそられた旅行者たちはだんだんと彼のまわりに腰をおろして、彼の話すことに耳を傾けていた。すでに太陽は喬木のうしろに傾いていた。場所は休息には向いているように見えたし、すっかり夜になってしまう前になお七、八キロ行く必要もそれほどないので、グレナヴァンは野営の準備をととのえるように命じた。エアトンは牛を車から放した。マルレディとウィルスンに手伝われて彼は牛たちに足枷《あしかせ》をつけた上で好きなように草を食わせた。テントは張られ、オルビネットは食事の用意をした。トリネはお相伴にあずかることを承諾した。もっともおなかがすいているくせに少々遠慮して見せた上でだが。そこで一同は食卓についた。二人の子供はならんで坐った。ロバートは自分の新しい友だちに一番いいところを取ってやり、トリネはおずおずした、しかしいかにもかわいらしい礼儀正しさでそれを受けたものだ。
そのあいだ会話は|だれ《ヽヽ》はしなかった。みんながそれぞれ子供に関心を持ち、いろんなことをきくのだ。一同は彼の生い立ちを知りたがった。それはまことに簡単なものだった。彼の過去は、植民地のそばに住む部族がごく若いときに博愛的な協会の手にゆだねたあの貧しい原地民たちすべての過去であった。オーストラリア原地民は温和な性質である。彼らは侵入者たちに対して、ニュージーランド原地民の、そしておそらく北オーストラリアのいくつかの蛮族の特徴をなすあの激越な憎悪を表明しはしなかった。彼らはアデレード、シドニー、メルボルンなどの大都市にたびたびやって来たし、大分原始的な身なりで大都会を徘徊するものさえ見られた。彼らは自分らのところで産したこまごまとした物、狩猟具や漁具、武器などをそこで売り、何人かの酋長はおそらく節約のためであろうが、進んで彼らの子弟にイギリス式教育の恩恵にあずからせたのである。
マレー河の向うにある広大な地方ラクランの本当の未開人であるトリネの両親もそうしたのだ。もう五年間メルボルンに住んで、そのあいだ子供は身内の誰一人にも会っていなかった。にもかかわらず決して消えることのない家族の情が依然として彼の心のなかには生きており、そして彼が無人地帯への辛い旅にふたたび出たのは、もしかすると散り散りになっているかもしれない部族に、あるいはその多くが死んでいるかもしれない家族に再会するためなのだった。
「それでは両親たちに接吻してからあなたはまたメルボルンにもどるの?」とレイディ・グレナヴァンは彼にきいた。
「そうです」心からの愛情のこもった目をして若い夫人を見ながらトリネは答えた。
「では将来あなたは何をしたいの?」
「僕は自分の兄弟たちを貧困と無知から救い出したいんです! 兄弟たちを教育し、神さまを知り神さまを愛するようにさせたいんだ! 宣教師になりたいんです!」
八歳の子供の口から熱をこめて言われたこの言葉は、軽薄なからかい好きな人間たちを笑いに誘いもしたろう。しかしこの正直なスコットランド人たちにはこの言葉は理解され、尊重された。早くも闘うことを辞さぬ覚悟でいるこの若い使徒の敬虔な勇気に彼らは感嘆した。パガネルは心の底がゆすぶられるのを感じ、この小さな原地民に本当の共感をおぼえた。
これは言わなければならないだろうか? 実はこれまでこのヨーロッパ風の服を着た未開人はあまり彼の気に入らなかったのである。彼はフロックコートを着たオーストラリア原地民を見るためにオーストラリアに来たのではなかったのだ! 彼らにはただ入墨《いれずみ》だけしていてもらいたかった。この〈ちゃんとした〉服装は彼の考えを狂わせた。しかしトリネがあのように熱をこめてしゃべったときから彼は考えをあらためてトリネの讃嘆者に変ったのである。その上この会話の結びは正直な地理学者を小オーストラリア原地民の一番の味方にせずにはおかないものだった。
実はレイディ・ヘレナの質問に答えて、トリネはパクストン牧師が校長をしているメルボルンの〈師範学校〉で自分は勉強していると答えたのである。
「で、その学校で何を教わっているの?」とレイディ・グレナヴァンはきいた。
「聖書、数学、地理学……」
「ああ、地理学を!」弱いところをつかれてパガネルは叫んだ。
「そうです」とトリネは答えた。「それどころか僕は一月の休暇の前に地理学の優等賞をもらったんだ」
「おまえが地理学の優等賞をもらったんだと?」
「これです」ポケットから一冊の本を取り出してトリネは言った。
それは三二折判の立派な装幀の聖書だった。第一ページの裏には次のように記されていた。
[#ここから1字下げ]
メルボルン師範学校、地理学優等賞
ラクラン出身 トリネ
[#ここで字下げ終わり]
パガネルはもう我慢できなかった! 地理学が得意なオーストラリア原地民、これは彼を驚喜させ、彼自身授賞式の日のパクストン牧師その人であるかのようにトリネの両方のほっぺたに接吻した。けれどもパガネルは、こうしたことはオーストラリアの学校では稀ではないことを承知しているべきだったのである。若い未開人たちは地理学を習得する才能は大いにあったが、そのかわり計数にはあまり向かない気質を示すのだ。
トリネのほうは学者の突然の愛撫はどうしたわけなのかてんでわからなかった。レイディ・ヘレナはパガネルが有名な地理学者であること、そして場合によっては優れた教授にもなることを説明しなければならなかった。
「地理学の教授!」とトリネは答えた。「おお、先生、僕に質問してください!」
「おまえに質問するんだね」とパガネルは言った。「それこそ望むところだよ。私はおまえの許可を得ずに質問しようとしていたところなんだから。メルボルン師範学校でどのように地理学を教えているかを知るのも悪くはない!」
「で、パガネル、もしトリネが君よりよくできたら!」とマクナブズが言った。
「冗談じゃない!」と地理学者は叫んだ。「フランス地理学会の書記よりよくできるなんてことがあるものか!」
それから眼鏡を鼻の上に押し上げて長身を伸ばし、いかにも教授にふさわしく厳粛な口調になって彼は質問をはじめた。
「トリネ君、立ちなさい」
立っているトリネはそれ以上立つことはできなかった。そこで彼はつつましやかな姿勢で地理学者の質問を待った。
「トリネ君、世界の五大州は何と何かね?」
「オセアニア、アジア、アフリカ、アメリカ、ヨーロッパです」
「よろしい。まずオセアニアから始めよう、現在われわれはそこにいるんだから。オセアニアを大別すると?」
「ポリネシア、マレーシア、ミクロネシア、メガレシアに分れます。主な島は、イギリス領のオーストラリア、イギリス領のニュージーランド、イギリス領のタスマニア、チャザム諸島、オークランド、マクォリー、ケルマデク、マキン、マラキなど、これもイギリス領です」
「よろしい。しかしニューカレドニア、サンドウィッチ諸島、メンダナ諸島、ポモトゥ諸島は?」
「大英帝国の保護下に置かれている島々です」
「何だって! 大英帝国の保護下に!」とパガネルは叫んだ。「私には反対にフランスが……」
「フランスですって!」と男の子は驚きの顔で言った。
「おやおや、メルボルン師範学校ではそんなことを君たちに教えているのか?」
「そうです、先生。それではいけないんですか?」
「いやいや、それで正しい。全オセアニアはイギリス人のものだ! それはもうきまったことだ! 先に進もう」
パガネルは半ばむしゃくしゃした、半ばびっくりした顔をしていたが、それが少佐を喜ばせた。
質問はつづいた。
「アジアに移ろう」と地理学者は言った。
「アジアは広い地方です。首府はカルカッタ。主な都市は、ボンベイ、マドラス、カリカット、アデン、マラッカ、シンガポール、ぺグー、コロンボ、ラクディヴ諸島、マルディヴ諸島、チャゴス諸島などがあります。イギリス領です」
「よしよし! トリネ君。ではアフリカは?」
「アフリカには二つの主な植民地があります。一つはケープ植民地で首府はケープタウン、西部にはイギリスのいくつかの植民地があって、主な都会はシエラレオーネです」
「よく答えた!」とパガネルは答えたが、このイギリス風の勝手気ままな地理学もやむを得ないと彼はあきらめはじめたのだ。「よく教えたものだ!……アルジェリア、モロッコ、エジプトはといえば……イギリスの世界地図からは抹殺してある! さて今度はアメリカのことを少々話してみたいもんだね!」
「アメリカは北アメリカと南アメリカに分れます。北アメリカはカナダ、ニューブランズウィック、ニュースコットランド、そしてジョンスン総督に治められる合衆国によってイギリスに帰属しています!」
「ジョンスン総督だって!」とパガネルは叫んだ。「奴隷制度を熱狂的に支持するあの気ちがいに暗殺された偉大で善良なリンカーンの後継者が! 申し分ない! ますますもって可なりだ! そしてギヤナ、マルイヌ、シェトランド諸島、ジョージア、ジャマイカ、トリニダ等々を含む南アメリカといえば、これもまたイギリス人のものなんだ! 私はそんなことについては文句を言わんよ。しかし、トリネ、たとえばヨーロッパについておまえが、というよりおまえの先生たちがどう考えているか聞きたいもんだね?」
「ヨーロッパですか?」と、地理学者が躍起になっている理由が全然わからないトリネは言った。
「うん! ヨーロッパさ! ヨーロッパは誰のものだ?」
「だって、ヨーロッパはイギリス人のものです」と子供は確信的な口調で答えた。
「そんなことだろうと思ったよ。しかしどんな風に? そこのところを私は是非知りたいんだ」
「イングランド、スコットランド、アイルランド、マルタ、ジャージー島とガーンジー島、イオニア諸島、ヘブリディーズ諸島、シェトランド島、オーケード島……」
「よしよし、トリネ。しかしおまえが言い忘れている国がほかにもあるぞ!」
「どんな国ですか?」子供は一向に動じずに反問した。
「スペイン、ロシア、オーストリア、プロイセン、フランスは?」
「それは国ではなく州です」
「とんでもない!」とパガネルは目から眼鏡をもぎとって叫んだ。
「そうです、スペイン、首府はジブラルタル」
「すばらしい! 大変結構! 申し分ない! で、私はフランス人だから、フランスはどうだね、自分が誰に属しているか知るのも悪くはないからね!」
トリネはおちついて答えた。
「フランスはイギリスの一州で、首府はカレー」
「カレー!」とパガネルは叫んだ。「何だって! おまえはカレーがまだイギリスのものだと信じているのか?」
「そうですとも」
「それがフランスの首府なのか?」
「そうです。そして総督のロード・ナポレオンはそこにいます……」
この最後の言葉にパガネルは笑いを爆発させてしまった。トリネはどう考えていいのかわからなかった。彼は質問を受け、ベストをつくして答えたのである。しかし彼の答の奇怪さは彼の責任ではなかった。彼はそれが奇怪なものとは考えてもみなかった。それにしても彼は一向にとまどった様子もなく、このわけのわからないはしゃぎ方が終るのをおごそかな顔で待っていた。
「ごらんのとおりさ」と少佐は笑いながらパガネルに言った。「トリネが君よりできるだろうと私が言ったのは正しかっただろう?」
「いかにも、少佐君!」と地理学者は答えた。「ああ、メルボルンの師範学校ではこんな風に地理学を教えるんだな! よくやっているよ、師範学校の教授たちは! ヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカ、オセアニア、全世界、すべてがイギリス人のものになっちまうんだからな! なるほど、こうした巧みな教育をするんだから、原地民が帰順するのも当然だよ! おいおい、トリネ、月はどうだ、月もイギリスのものかい?」
「そうなるでしょう」と若い未開人は重々しく答えた。
それを聞いてパガネルは立ち上った。もはや彼はじっとしていられなかったのだ。彼には思う存分笑う必要があった。そして彼は野営地から四〇〇メートルのところへその笑いの発作を発散させに行ったのだ。
そのあいだにグレナヴァンは旅行用の小さな文庫から一冊の本を取りに行った。それはサミュエル・リチャードスンの『地理学要綱』だった。イギリスでは高く評価されているし、メルボルンの教授たちよりは造詣に富んだ本である。
「さあ、坊や」と彼はトリネに言った。「この本を上げるよ。おまえは地理ではすこし間違ったことをおぼえてしまったようだから、直したほうがいい。この本はおまえに逢った記念として上げるよ」
トリネは返事をせずに本を受け取った。彼は信じられないという様子で頭を振りながら注意深く本を眺め、それをポケットに入れる決心がつかないでいた。
そのあいだに日はとっぷり暮れていた。もう午後一〇時だった。翌朝早く起きるために休息を考えねばならなかった。ロバートは友だちのトリネに自分の寝床を半分貸した。小さな原地民はそれを受けた。
しばらくしてレイディ・ヘレナとメァリ・グラントは牛車に帰り、旅行者たちはテントの下に横になったが、そのあいだにもなおパガネルの哄笑は鵲《かささぎ》のやさしい低い歌声とまじっていた。
しかし翌朝六時に太陽の光が眠っている人々を目覚ましたとき、オーストラリア人の子供をいくらさがしても見つからなかった。トリネは姿を消していた。ぐずぐずせずにラクラン地方に帰りたかったのか? パガネルの笑いに心を傷つけられたのか? それはわからなかった。
しかしレイディ・ヘレナは目を覚ましたとき、単純な葉のおじぎ草の摘んだばかりの花束が自分の胸に置かれているのを見出したし、パガネルのほうは上着のポケットにサミュエル・リチャードスンの『地理学要綱』を見出したのである。
[#改ページ]
十四 アレクサンダー山の金鉱
一八一四年、現在ロンドンの王立地理学会会長となっているサー・ロデリック・インピー・マーチスンは、オーストラリアの南海岸の近くを北から南へ走っている山脈とウラル山脈の形状を調べて、両者のあいだにいちじるしい同質関係を見出した。
ところで、ウラルは金を産する山脈であるから、地理学者はこの貴金属がオーストラリアのこのコルディリェーラでも見出されないだろうかと考えた。そして彼は誤らなかった。
事実これから二年後、いくつかの金の見本がニュー・サウス・ウェールズから彼のところへ送られて来た。そして彼はコーンウォールの人夫を大勢オーストラリアの産金地方にむかって移住させることに決した。
南オーストラリアの最初の天然金塊を見つけたのはフランシス・ダットン氏だった。ニュー・サウス・ウェールズの最初の金鉱床を発見したのはフォーブズ氏とスミス氏であった。
最初のはずみがついてしまうと、鉱夫たちは世界各地からどっと流れこんだ。イギリス人もアメリカ人もイタリア人もフランス人もドイツ人も中国人も。けれどもハーグレイヴズ氏が甚だ豊かな金鉱床を認めて、その所在をわずか五〇〇ポンドという金額で教えようとシドニー植民地総督サー・Ch・フィツロイに申し出たのは一八五一年四月三日になってからだった。
彼の申し出は受け容れられなかったが、この発見の噂はひろがっていた。採金者たちはサマヒルとレニス・ポンドにむかった。オーフルの町が建設された。そして採掘の豊かさによってこの町は間もなく聖書から取ったこの名をはずかしめぬものたることを示した。〔オーフルというのは旧約聖書のソロモン王がそこから金を運ばせた土地の名なのである〕
これまでのところはヴィクトリア州は問題になっていなかったが、やがてこの州はその鉱床の豊富さによって他を凌駕することになるのである。
事実それから数ヵ月後の一八五一年八月、この州で最初の金塊が掘り出され、間もなく四つの地区で大規模な採掘がおこなわれることになった。この四つの地区はバララット区、オーヴンズ区、ベンディゴウ区、アレクサンダー山区で、すべて非常に豊かであった。しかしオーヴンズ河のほとりでは、水が多いので仕事は辛いものとなった。バララットでは金の分布に|むら《ヽヽ》があって採掘者の思わくはしばしば裏切られた。ベンディゴウでは土地が労働者の思うままにならなかった。アレクサンダー山では成功の条件がことごとく、変ったところの一つもない土地に集まっていたのである。そして一ポンド当り一四四一フランにまでなるこの貴金属は世界のすべての市場で最も高い相場にまで達したのだ。
三七度線がグラント船長の捜索者たちを導いて行ったのは、まさに破産と思いがけぬ一攫千金《いっかくせんきん》とが頻発するこの土地だったのだ。
馬や牛を疲労させる非常に起伏の多い土地を一二月三一日の一日じゅう歩きつづけた後、彼らはアレクサンダー山の円い峰々を認めた。キャンプはこの小さな山脈中の狭い峡谷のなかに張られ、動物たちは足枷《あしかせ》をはめられて地面に散点する石英の塊りのあいだに餌《えさ》をさがしに行った。ここはまだ採掘されている地帯ではなかった。一八六六年の元日に当る翌日になってはじめて牛車はこの豊かな地方の道路に轍をしるしたのである。
ジャック・パガネルとその一行は、オーストラリア土語ではジェポールと呼ばれているあの有名な山を通りすがりに見て心を奪われた。ここにこそ山師たちの群れが、泥棒もまともな人間も、人を破産させる人間も自分で破産する人間も、すべてがなだれこんで来るのだ。一八五一年というあの黄金の年、大発見の噂が立ちはじめると同時に、市民は町を、スクウォッターは畑を、船乗りは船を見捨てた。ゴールドラッシュはペストのように流行病に、伝染病になり、すでに一身代作ったと思いこんでいた連中がどれほどそれで死んだことであろう! 気前のいい自然はこのすばらしいオーストラリアの南緯二五度以上の土地に数百万の金をばらまいているのだと人々は言った。今こそ収穫すべき時だ。そしてこの新しい収穫者たちは収穫しようと駈けつけて来た。
diggers つまり採掘人の職業はほかのすべての職業に優るとされ、疲労に耐えずに多くのものが仕事で死んだことも事実だが、何人かのものは鶴嘴《つるはし》を一振りしただけで財産をなした。破産のことは秘され、富を得たことは宣伝された。こうした僥倖《ぎょうこう》は世界各地に反響を呼んだ。間もなくありとあらゆる階級の野心家たちがオーストラリアの地へ押しよせ、一八五二年の終りの四ヵ月間はメルボルンだけで五万四〇〇〇の移住者を迎えた。まさに一軍団というべきだが、しかし指揮官も軍紀もない軍、まだ得られていない勝利を明日に控えた軍、要するに最も有害な種類の五万四〇〇〇の掠奪者どもだったのだ。
この狂ったような陶酔の最初の数年のあいだは形容を絶した混乱しかなかった。けれどもイギリス人はいつもながらのエネルギーをもって事態を掌握するにいたった。警官や原地民の憲兵は泥棒どもの味方をするのをやめて堅気《かたぎ》の人間の側についた。形勢は一転した。それゆえグレナヴァンは一八五二年のような暴力的な場面は見なかったのだ。あの頃からすでに一三年たっており、今は産金地の採掘は厳しい組織の規則に従って整然とおこなわれていたのである。
その上鉱床はもう尽きていた。さんざん掘ったためにもう底が見えていた。それにまた、一八五二年から一八五八年までのあいだにヴィクトリア州の土地から六三一〇万七四七八ポンドの金を掘り出している以上、自然のたくわえたこれらの富が尽きるのも当然ではなかったろうか。移住者たちの数はそれゆえいちじるしく減り、まだ処女地として残っている地方へ飛んで行った。そういうわけで、ニュージーランドのオタゴおよびマールバラで最近発見されたgold fieldsつまり金の畑は、翅《はね》のない二本足の数千の白蟻によって現在掘られているのである。〔しかし移住者は誤っていたのかもしれない。事実は金鉱床は尽きてはいなかったのである。オーストラリアからの最近のニュースによると、ヴィクトリア州とニュー・サウス・ウェールズの鉱床は五〇〇万ヘクタールに上ると見られている。金の脈を含む石英のおおよその重さは二〇兆六五〇〇億キログラムに達し、現行の採掘方法によってこの鉱床を掘り尽すには、一〇万人の労働者が三〇〇年間働かねばならぬ。結局オーストラリアの金資源は六六四二億五〇〇〇万フランと評価されている〕
一一時ごろ採掘の中心地に着いた。そこには工場、銀行、教会、兵営、小別荘、新聞社のある一つの町ができていた。ホテルや農場や別荘も欠けていなかった。入場料一〇シリングの劇場さえ一つあって、非常にはやっていた。『フランシス・オベディアグ、運のいい採掘者』という外題の芝居がかかっていて、非常に人気を呼んでいた。主人公は最後に絶望に駆られて鶴嘴を一振りし、信じられないほどの重さの〈|塊り《ナジェット》〉を見つけるのである。
グレナヴァンはアレクサンダー山のこの広大な採掘場を見学しようと思い、エアトンとマルレディに委ねて牛車を先に行かせた。数時間後に追いつくということにしたのだ。パガネルはこう話がきまったことに大喜びで、いつものとおり一行の案内役《チチェローネ》を引き受けた。
彼の助言によって一同は銀行にむかった。街路は広く、敷石づくりで、丁寧に水が撒《ま》いてあった。「ゴールデン・カンパニ(リミティド)」とか「ディガーズ・ジェネラル・オフィス」とか「ナジェッツ・ユニオン」とかといった大きな看板が視線を引いていた。労働力と資本の提携が個人坑夫の活動に取ってかわっていた。砂を洗ったり貴重な石英を粉砕している機械の音がどこででも聞こえた。
人家の向うに鉱床が、つまり広々とつづく採掘中の地所が見えた。会社の雇った坑夫たちがそこで鶴嘴をふるっていたが、彼らは高い報酬を得ているのだった。地面に蜂の巣のように穿たれた穴は、見ただけではその数もわからなかった。鋤《すき》の刃は日光にきらめき、絶えず閃光を発していた。この労働者たちのなかにはあらゆる国民のタイプが見られた。彼らは全然喧嘩をせず、賃労働者として黙々と与えられた仕事を果していた。
「けれども、山で運命を賭けようとするあの物に憑かれたような山師がオーストラリアにはもう一人もいないとは決して考えるべきではない。大部分のものが会社に労力を提供していることは私もよく知っているし、またそうせざるを得ないんだ。なぜなら金鉱床はすべて政府から払い下げた、または請負わされたものなのだからね。しかし無一物の人間、借りることも買うこともできない人間にも、富をつかむチャンスが一つあるんだ」とパガネルは言った。
「どんなチャンスですの?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「〈ジャンピング〉をするチャンスですよ」とパガネルは答えた。「これがあるから、これらの鉱床に対していかなる権利を持ってないわれわれも、身代を作る――もちろん非常に運もよければですがね――ことができるわけです」
「しかし、どうして?」と少佐が訊いた。
「今しがた申し上げたように、〈ジャンピング〉によってさ」
「〈ジャンピング〉とは何なのだ?」
「それは坑夫のあいだで認められている契約なんだ。これはしばしば暴力や混乱をひきおこすが、当局は遂にこれを廃止させることができなかった」
「早く言ったらどうだい、パガネル、いやに気を持たせるじゃないか」
「では言うがね、採掘中心地の土地で祭日の場合は例外として二四時間休ませておいたものは、すべて公共の所有になるんだ。それを見つけたものは誰でもそこを掘ることができ、もし神の助けがあれば富を得ることができる。だから、ロバート、人のいない穴を一つ見つけてごらん、そうしたらそいつはおまえのものだ!」
「パガネル先生」とメァリ・グラントは言った。「そんな考えを弟に吹きこまないでください」
「冗談ですよ、お嬢さん。ロバートだってよくわかっている。彼が坑夫になるなんて! そんなことがあってたまるものか! 土を掘り、鋤《す》きかえし、たがやし、種をまき、それから自分の労苦の報酬として収穫がよかれと思うのはいい! しかしいくばくかの金を得るために|もぐら《ヽヽヽ》みたいなやりかたで、|もぐら《ヽヽヽ》みたいにやみくもに土を掘るなんて、これは悲しい職業だよ。神からも人間からも見放された人間でもなければそんなことはしない!」
鉱山の主要な場所を見学し、大部分石英と粘土中の片岩《へんがん》と岩石の分解した砂とから成る冲積堆積物の土の上を踏んだ後、旅行者たちは銀行に来た。
それは棟に国旗をかかげた大きな建物だった。ロード・グレナヴァンは総監督に迎えられ、総監督に案内されて銀行内を見てまわった。
各会社は受取証と引替えに地中から取り出した金をここに預けるのである。初期の坑夫が植民地の商人から搾取されていた時代はもう遠い過去のものだった。こうした商人たちは金鉱石一オンス当り五三シリング坑夫に払い、それをメルボルンで六五シリングで売っていたのだ! 商人はいかにも輸送の危険を冒したし、街道筋の追剥ぎも跋扈《ばっこ》していたから護送隊はかならずしも常に目的地に着くとはかぎらなかったが。
珍しい金の見本が訪問者に見せられ、総監督はこの金属のいろいろな採掘方法について興味ある話をしてくれた。
金は一般に砂金と分解されたものとの二つの形で見出される。冲積土《ちゅうせきど》と混って、あるいは石英の塊りに含まれて鉱石として存在するから、金を取り出すためには土地の性質に従って浅掘りもしくは深掘りをおこなう。
砂金の場合は早瀬、谷、凹地の底に、その大きさに従って、粒状、薄片状、さらに小さな薄片状と層をなしている。
これとは別に分解している場合には、母岩は風化作用によって分解しており、金はその場に集中してかたまっており、坑夫たちが〈ポシェット〉と呼ぶものを形づくっている。そうしたポシェットで一財産含んでいるものもある。
アレクサンダー山では金は特に粘土層のなかや粘板岩の隙間から採取される。そこに金塊の集まりがあり、幸運な坑夫はしばしばそこで大量の金鉱石を掘り出したものだった。
訪問者たちはいろいろな金の標本を調べたあげく銀行の鉱物博物館を一巡した。オーストラリアの土地を形づくっているあらゆるものがそこではラベルを貼られ分類されていた。金はこの土地の唯一の富ではなかった。そしてこの土地は、自然がその貴重な宝石をしまっている広大な宝石箱といわれても間違っていなかったろう。ガラス・ケースのなかにはブラジルのトパーズに比肩する白いトパーズ、鉄礬柘榴石《てつばんざくろいし》、美しい緑色をした一種の硅酸塩である緑簾石《りょくれんせき》、深紅のスピネル・ルビーやこれ以上とはなく美しい桃色の変種によって代表される紅玉、鋼玉のような淡青や濃青の、マラバルもしくはティベットのそれのように珍重されるサファイア、輝かしい金紅石、そして最後にテュロン河のほとりで見出された小さなダイアモンドの結晶がきらめいていた。この繊細な石の輝かしいコレクションには何一つ欠けたものはなく、しかもそれの台を作るのに必要な金も遠くに求める必要はなかったのだ。完全に仕上っているのがほしいというのでもないかぎり、これ以上を求めることはできなかった。
グレナヴァンは銀行の監督の親切心を充分に利用して、それに対して礼を述べてから彼と別れた。それからまた鉱床の見学をはじめた。
あれほどこの世の富などには超越しているはずのパガネルすらも、目で地面をさぐらずには一歩も歩かなかった。彼はそうすまいとしてもそうしてしまうのだった。そして仲間たちがいくらからかってもどうしようもなかった。始終しゃがんで小石を、岩屑の一片を、石英のかけらを拾う。そしてそれを注意深く眺め、やがて軽蔑的に投げ捨てるのである。この動作は散歩のあいだじゅうつづいた。
「おいおい、パガネル」と少佐が彼にきいた。「何かなくしたのかね?」
「そうかもしれないよ」とパガネルは答えた。「この金と宝石の国では、見つからないものはいつもなくしているんだ。どういうわけか知らんが、私は数オンス、いや、それどころか二〇ポンドぐらいの――それ以上とは言わないが――金塊を持って帰りたいのさ」
「で、持って帰ってどうするんだい、君?」とグレナヴァンがきいた。
「何、別に困りはしないよ。自分の国に捧げるさ。フランス銀行に寄託する……」
「受けつけるかね?」
「もちろんだ、鉄道債という形でね」
一同はパガネルが自分の金塊をそういう風にして〈国に〉提供しようと考えているのを称讃し、レイディ・ヘレナは世界最大のナジェットが見つかるようにと祈った。
二時間散歩してからパガネルは非常に小綺麗な旅館を見つけ、牛車と落ち合う時刻まであれに入って坐ろうと提案した。レイディ・ヘレナは賛成し、そして旅館では何か茶菓《さか》を取らねばならなかったから、パガネルは何らかの土地の酒を持って来るように旅館の主《あるじ》に命じた。
各人に一杯ずつ〈ノーブラー〉が出された。ところでこのノーブラーというのはグロッグ酒のことだったのだ。ただしあべこべのグロッグ酒である。火酒の小コップを水の大コップに入れるのではなく、火酒の大コップのなかへ小コップの水を入れ、砂糖を入れて飲むのだ。これは少々オーストラリア的すぎた。そして主《あるじ》が大いに驚いたことには、大きな水差しで薄めたノーブラーはイギリスのグロッグにもどったのである。
それから人々は鉱山や坑夫の話をした。この機会を逃したら永久にその機会はなかったろう。パガネルは自分の見て来たものに非常に満足していたが、昔の、アレクサンダー山開発初期のほうがもっと面白かったはずだとそれでも認めた。
「土地はそのころは穴だらけで、無数の働き蟻に侵略されていた。しかも何という蟻か! すべての移住者は熱意は持っていたが、先見の明はなかったのだ! 金は愚にもつかんことで蕩尽《とうじん》された。酒や博打《ばくち》に使った。そしてわれわれのいるこの旅館は当時の言葉で言えば〈地獄〉だった。骰子《さいころ》のやりとりが匕首《どす》のやりとりになった。警察は手の出しようもなく、何度も植民地総督は正規軍部隊を率いて叛乱した坑夫に突進しなければならなかった。けれども彼は遂に坑夫たちをおとなしくさせることに成功し、各採掘者から免許料を取る法を制定し、骨が折れないわけではなかったがそれを徴収させた。結局のところ無秩序はここではカリフォルニアほど大きくはなかったのだ」
「その坑夫の仕事というのは」とレイディ・ヘレナがきいた。「それでは誰もができるものなのですか?」
「ええ。坑夫になるには大学入学資格が必要だなんてことはありませんからね。丈夫な腕さえありゃいいんです。貧困に追われた冒険家たちは大抵文なしで鉱山に来ます。鶴嘴《つるはし》一つ持っているのが物持ちのほう、貧しいのは小刀一挺持って。しかし誰もがこの労働には、まともな人間の職業には決して示しはしなかったような熱中を持ちこむ。この産金地帯の様子は奇妙なものでしたよ! 地面はテント、防水布、小屋、土や板や木の葉で作ったバラックでおおわれていた。中央にはイギリス国旗で飾った政府の大天幕、役人たちの青いズックのテント、そして富と貧しさのこの全体を投機の対象とする両替屋や金買いや闇商人の店。この連中は確実に儲けた。水と泥土のなかで生きているあの髭の長い赤いウールのシャツを着たディガーたちを見ればそれはわかった。鶴嘴の音が間断なくあたりに満ち、地面の上で腐っている動物の屍骸の放散する悪臭が空気に満ちていた。息もできぬほどの埃が、恐るべき死亡率の原因となっているこれらの惨めな人々を雲のように包んでいた。もっと健康に適さない土地だったらこの住民はチフスでばたばたと倒れたに相違ない。それでもまあ、この冒険家たちがすべて成功したとすれば! しかしこれほどの惨めさが報われることはなく、富を得た坑夫一人について、一〇〇人、二〇〇人、もしかすると一〇〇〇人が貧しく絶望して死んでいるんだ」
「金の採掘はどのようにしておこなわれるのか言ってもらえないかね、パガネル」とロード・グレナヴァンは言った。
「これ以上簡単なものはなかった。初期の坑夫たちは、フランスのセヴェンヌ地方のあちこちでまだおこなわれている砂金採集者の仕事をやっていた。今日では会社は別のやりかたをしている。それは大元《おおもと》に、つまり砂金や薄片や金塊を生み出す含金石英脈《がんきんせきえいみゃく》そのものにぶつかって行く。ところが砂金採集者は金を含む砂を洗うだけにとどめていたのさ。地面を掘り、金を産しそうに見える土の層を掬《すく》い、貴重な鉱物を分離させるために水で処理する。この水簸《すいは》は〈クレイドル〉、つまり〈揺籃《ゆりかご》〉と呼ばれるアメリカ渡来の器具を使っておこなわれた。これは長さが一五〇から一八〇センチの箱、二つに仕切った蓋のない箱みたいなものだ。最初の部分には目の粗い篩《ふるい》がついており、さらにいくつか目のこまかい篩が重ねてある。第二の部分は下部が狭まっている。砂を篩の一端にのせ、水を注ぎ、手で動かす。揺籃を揺るようにするのだ。石は第一の篩に残り、鉱物と細かい砂はそれぞれの大きさに応じて別々の篩に残る。そして水に溶けた土は水と一緒に下端から流れ出る。これが一般に用いられている道具なんだ」
「それにしても、とにかくその道具を持っていなくちゃならないんですね」とジョン・マングルズが言った。
「場合に応じて金持の、もしくは破産した坑夫から買うのさ。でなければそんなものはなしですます」
「では何でそれの代用をしますの?」とメァリ・グラントがきいた。
「皿でさ、単なる鉄の皿で。麦を箕《み》で簸《ひ》るように土を簸るんですよ。ただ小麦の粒のかわりに時として金の粒が得られるというわけなんだ。最初の一年間はそれ以上の|もとで《ヽヽヽ》も要らずに一人ならずの坑夫が産をなした。ごらんのとおり、諸君、どた靴一足が一五〇フランもし、レモナード一杯に一〇シリングも払ったにかかわらず、それはいい時代だったんだ! 最初にやって来る連中はいつも正しいのさ。金はいたるところ土地の表面にいくらでもあった。小川は金属の床の上に流れていた。メルボルンの街路ですら見つかったものだ。金粉で鋪石をかためたくらいさ。それゆえ一八五二年一月二六日から二月二四日までのあいだ政府の警護のもとにアレクサンダー山から運び出されたこの貴金属は、八二五万八七五〇フランの金額に上った。これは平均一日に一六万四七二五フランとなる」
「おおよそロシア皇帝の帝室費にあたる」とグレナヴァンが言った。
「皇帝もかわいそうに!」と少佐がそれを受けた。
「一攫千金の実例もいろいろ挙げられているのでしょうね?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「いくつかは」
「で、君はそれをごぞんじかね?」とグレナヴァン。
「きまってるじゃないか! 一八五二年にバララット地区で重さ五七三オンスの金塊が、またギプスランドで七八二オンスのが、さらに一八六一年には八三四オンスの金塊が発見された。最後に、これもバララットでだが、一人の坑夫が六五キロの金塊を発見した。一ポンド一七二二フランとして、これは一二万三八六〇フランとなる! 鶴嘴の一振りで一万一〇〇〇フランの年金が得られる、こいつは大した一振りじゃないか!」
「この鉱山の発見以来金の産額はどれほどの割合で増大しているのですか?」とジョン・マングルズがきいた。
「途方もない割合さ、ジョン君。今世紀の初めには金の産額は年に四七〇〇万にすぎなかった。現在はヨーロッパ、アジア、アメリカの金鉱をも含めて九億、ほとんど一〇億と評価されているよ」
「それじゃあ、パガネル先生」とロバート少年が言った。「僕たちが今いるところ、僕らの足の下に、もしかするとたくさん金があるかもしれないんですね?」
「そうだよ、何百万もの! 私たちはそれを踏んづけている、それはわれわれがそんなものを軽蔑しているからだよ!」
「では、オーストラリアというのは恵まれた国なんですね?」
「いや、ロバート」と地理学者は答えた。「産金国は一向に恵まれてはいないんだよ。そういう国はなまけ者の住民しか生み出さない。決して逞しく勤勉な人種は出て来ないんだ。ブラジル、メキシコ、カリフォルニア、オーストラリアを見てごらん! それらの国は一九世紀にはどうなっているか? 何よりも国というに価するのは、いいかね、それは鉄を産する国なんだ!」
[#改ページ]
十五 オーストラリアン・アンド・ニュージーランド・ガゼット
一月二日の日の出に、旅行者たちは産金地方の限界とタルボット郡の境を越えた。彼らの馬の足は今はダラウジー郡の埃っぽい野道を踏んでいた。数時間後には彼らはそれぞれ経度一四四度三五分と一四四度四五分のところでコルバン河およびキャンパスピ・リヴァーを徒渉した。旅程の半分は終った。これと同じように無事平穏な横断をなお二週間つづければ、一行はトゥーフォールド・ベイの岸に着いているはずだった。
その上一同は皆元気だった。この衛生的な風土に関するパガネルの予想は現実となった。湿度は皆無か非常にすくなく、暑さは充分我慢できるものだった。馬も牛も全然これには不平はなかった。人間たちはなおさらのことである。
キャムデン・ブリッジ以来一つだけ行進体制に変化が生じていた。エアトンは犯罪的な鉄道事故のことを知ると多少用心をしたほうがいいと思ったが、これまでのところはそうした用心もまったく無用だった。騎馬の連中は決して牛車の見えぬところへ行ってはならぬとされた。野営のときは彼らの一人がいつも番をしていた。朝と夜には銃の雷管は取り替えられた。悪党の一味がうろついていることは確実であり、差し当って不安をよびおこすようなことは何もなかったにもかかわらずどんな事件にも備えていなければならなかった。
こうした用心がレイディ・ヘレナとメァリ・グラントには知られぬようにしておこなわれたことは言うまでもあるまい。グレナヴァンは彼女らを怯《おび》えさせたくなかったのだ。
実は彼らがそのようにするのは正しかったのである。ちょっとした軽率、いや、ちょっとした怠慢が高いものにつくこともあり得たのだ。のみならずこのような事態を憂慮するのはグレナヴァン一人ではなかった。孤立した村やステーションでも住民やスクウォッターたちはあらゆる襲撃や奇襲に対して警戒していた。家々は日が暮れると門扉《もんぴ》を閉ざした。柵のなかで放された犬は何かがほんのちょっと近づいても吠えた。夜が来て帰るために多数の畜群を集める騎馬の牧夫で、鞍の前輪にカービン銃を吊していないものはなかった。キャムデン橋でおこなわれた犯行のニューズがこのような極度の警戒の原因をなしており、これまで窓も扉もあけはなって眠っていた多くの入植者が今は夕暮れになると念入りに錠をおろしていた。
州当局自身も熱意と慎重さを示していた。原地民憲兵の分隊が四囲に送り出された。郵便は特に安全を図られた。このときまでは郵便馬車《メールコーチ》は街道を護衛なしに走っていた。ところがこの日、ちょうどグレナヴァンの一隊がキルモアからヒースコートへの街道を横切る時間に、郵便馬車が埃の渦をまきあげて全速力で走って行った。しかしたちまちのうちにその馬車は見えなくなったが、馬車の扉とならんで疾駆して行く警官たちのカービン銃のきらめくのをグレナヴァンは見たのである。最初の鉱床の発見によってオーストラリア大陸にヨーロッパ人の屑どもが押しよせたあの暗い時代にもどったように思われた。
キルモア街道を横切って一キロ半ほど行った後、牛車は巨樹の茂みのなかにはいった。そしてベルヌーイ岬以来はじめて旅行者たちは、何度もの緯度経度にわたってひろがる地表をおおうあの森林の一つにはいったのだ。
高さ六〇メートルもあり、その海綿状の樹皮は厚さ一三センチにまでなるユーカリの木を見て人々は感嘆の叫びをあげた。周囲六メートルもあって香り高い樹脂が垂れているその幹は、地上四五メートルの高さにそばだっている。枝は小枝一本もなく、芽も出ず、節くれもないので、その輪郭はどことして歪んでいないのだ。轆轤《ろくろ》で仕上げたとしてもこれ以上すべすべしたものにはならないだろう。みごとな直径の円柱が数百と立っているのである。極度に高いところに来てはじめて円柱の柱頭飾りのように枝々をひろげている。枝は曲りくねり、その先端に互生の葉がついているのだ。その葉の腋《えき》にひっくりかえした甕《かめ》の形をした萼《がく》を持った花が一つずつぶらさがっている。
この常緑の天井の下を空気は自由に動いている。絶え間のない通風が地面の湿気を吸い取る。馬も牛の群れも牛車も、充分間隔を置いて伐採中の林の標木のように立ちならぶこれらの木のあいだを自由に進むことができる。木立ちの密生した、茨でふさがれた森でも、斧と火によってのみ開拓者が道を開くことのできる、倒木がバリケードを作り蔓《つる》が張りめぐらされている処女林でもない。木の根もとに敷きつめる草の絨毯《じゅうたん》、木の頂きにひろがる緑の幕、すくすくと伸びた列柱のはるかな連なり、影はあまりなく、結局のところ涼しさもないが、特殊な、薄い布を通して来た微光にも似た明るさ、整然とした反映、地上にくっきりと見えるきらめき、それらの全体が奇妙な、目新しい印象に富んだ景観を構成しているのだった。オセアニア大陸の林はいかなる点でも新世界の森を思わせるところはないし、原住民が〈タラ〉と呼ぶ、ほとんど列挙するに堪えないほど多くの種を持ったあのミルト科に属するユーカリは、オーストラリアの植物相に典型的に属する樹木なのである。
この緑のドームの下では影はそう濃くなく闇もそう深くないが、それはこの木が葉のつき方の点で妙に変ったところを見せているからである。葉は一枚としてその正面を太陽に向けず、その薄く研《と》いだ側面を向けているのだ。この一風変った葉群を見ても葉の側面しか見えない。それゆえ太陽の光線は引上げた鎧戸《よろいど》の板を通して来るように地面にまでさしこんで来るのである。
誰もがこれに気がつき、びっくりしたように見えた。なぜこんな特殊なつき方をしているのか? この質問はもちろんパガネルにむかってなされた。彼は何ごとにもまごつくことのない人間らしく答えた。
「ここで私が驚くのは自然の奇妙さではない。自然は自分のなすところを心得ている。しかし植物学者には自分の言っていることがかならずしもわかっていない。自然がこの木にこうした特別な葉を与えたことは間違っていなかったが、人間がこれを〈ユーカリプテュス〉と呼んだのは間違いだったのだ」
「その言葉はどういう意味ですの?」とメァリ・グラントがきいた。
「これは |ευ《エウ》 |χαλνπτω《カリプト》(ギリシア語)から来たもので、〈私はよくおおう〉という意味だ。間違いがあまり目立たないように、わざわざギリシア語で間違いを犯したというわけさ。しかしユーカリがよくおおわないことは明白ですからな」
「なるほどね、パガネル君」とグレナヴァンは言った。「それでは今度は葉がなぜこんな風に生えているのかを教えてくれないか」
「まったく物理的な理由からだよ、諸君、しかも君らにも造作なく理解できるような。空気の乾燥している、雨の稀な、土地の乾いているこの地方では、木は風も日光も必要としない。湿気が乏しいからまた樹液も乏しい。それがため葉はこうして狭く、日光から身を守って過度の蒸発を避けようとしているんだ。葉が太陽光線の作用に正面ではなく側面をさらしているのはその理由によるのさ。葉ほど頭のいいものはないんだよ」
「そして葉ほど利己的なものもね!」と少佐が言い返した。「この葉は旅行者のことなど全然考えず、自分のことだけを考えてやがる」
誰もがマクナブズの意見に少々同感だったが、パガネルだけは例外で、額の汗を拭きながら、影を落さない木の下を歩けるのを満足に思っていたものだ。それにしてもこの葉のつき方はやはり困ったものだった。こうした林の横断はしばしば非常に長くかかり、それゆえ辛かったのだ。何しろ太陽の熱気から旅行者を守るものは全然なかったのだから。
一日じゅう牛車はこうした際限もないユーカリの並木の下を進んだ。一匹の四足獣、一人の原地民にも逢わなかった。林の梢《こずえ》に何羽かの白|鸚鵡《おうむ》が住んでいた。しかしこの高さではほとんどその姿は見分けられず、彼らのおしゃべりは耳にとまらぬほどのつぶやきに変ってしまった。時々小型の鸚鵡の一群が遠くの並木道を横切り、その束の間の多彩な輝きでそのあたりを賑わした。しかし結局のところ、深い沈黙がこの広大な緑の殿堂を支配し、馬の蹄の音、とりとめのない会話で交わされるいくつかの言葉、牛車の車輪の軋《きし》み、無精な牛たちを励ますエアトンの叫びがこの無限の寂寥を乱すだけだった。
夕べになって一同はかなり新しい火の痕をとどめているユーカリの根もとに野営した。これらのユーカリの木は高い工場の煙突のようになっていた。焔は木の全長にわたって内部を洞《うろ》にしていたからだ。わずかに残った樹皮におおわれただけで、木はそれでも元気に茂っていた。けれどもスクウォッターか原地民のこの困った習慣はしまいにこの壮麗な木を絶滅してしまうだろう。そして彼らは野営の失火で燃える樹齢四〇〇年ものあのレバノン杉のように消滅してしまうだろう。
オルビネットはパガネルの忠告に従って、管状になったその幹の一つで夕食の火を焚いた。たちまちすばらしく空気が通じて煙は暗い葉群のなかに消えて行った。夜を過ごすのに必要な警戒措置が取られ、エアトン、マルレディ、ウィルスン、ジョン・マングルズが交代で夜明けまで不寝番をした。
一月三日の一日じゅう、果しもない林はその長々とした左右対称の並木道を蜿蜒《えんえん》と連ねていた。尽きることがないと思われるほどだった。けれども夕方頃、木の列は間隔を増し、数キロほど先の小さな平原にきちんとした家々の集落が見えて来た。
「シーモアだ!」とパガネルは叫んだ。「ヴィクトリア州から出る前に最後にぶつかるはずの町だよ」
「大きな町ですの?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「奥さま」とパガネルは答えた。「自治体にこれからなろうとしている行政教区《パリッシュ》にすぎませんよ」
「適当なホテルが見つかるかしら?」とグレナヴァンが言った。
「私もそう望んでいるがね」と地理学者は答えた。
「よし、それでは町に入ろう。われわれの勇敢な御婦人方は町で夜を過ごすのも悪くはないと思うだろうからね」
「エドワード」とレイディ・ヘレナが言った。「メァリも私もそれに賛成です。でも、そうするのがまわり道にもならないし遅れもしないという条件でよ」
「全然そんなことはないよ。牛たちは疲れている。それに明日は夜が明けかかるとともに出発するんだ」とロード・グレナヴァンは答えた。
時刻は九時だった。月は地平線に近づき、もはや斜めにしか光を送って来なかったが、その光も靄《もや》のなかに沈んだ。闇は徐々に濃くなって来た。一行はパガネルに導かれてシーモアの広い街路に入って行ったが、彼はこれまで一度も見なかったものをいつも完全に知悉《ちしつ》しているように見えた。しかし彼の本能が彼を導き、まっすぐに彼はキャンベルズ・ノース・ブリティッシュ・ホテルへやって来た。
馬と牛が厩舎《きゅうしゃ》へ連れて行かれ、牛車が車庫に入れられると、旅行者たちはかなり快適な部屋に通された。一〇時に一同は食卓を囲み、オルビネットはその卓上にこの道にかけての大家らしい一瞥《いちべつ》を投げた。パガネルはロバートを連れて町を一走りして来たところだったが、その夜の印象をまことに簡潔に言ってのけた。つまりまったく何も見えなかったのである。
けれども彼ほど迂濶《うかつ》でない人間だったならばシーモアの町の通りがいくらかざわついているのに気がついたろう。あちこちに人が集まり、その群れはだんだん大きくなった。人々は門口《かどぐち》でおしゃべりをしていた。実際に不安を抱いて人々は問い合っていた。その日の何種かの新聞が読み上げられ、論評され、論議されていた。このような徴候はいかに注意力のない観察者の目をも逃れなかったろう。それなのにパガネルは何一つ感づいていなかったのだ。
少佐のほうはそんなに遠くへ行かなくとも、それどころかホテルから外に出さえしないでも、この小さな町の人々の心を正当にも捉えている恐怖を悟ったのである。給仕頭であるおしゃべりなディクスンと十分ほど話しただけで彼は事の次第を知った。
しかしそれについては彼は一言もいわなかった。ただ夕食が終って、レイディ・グレナヴァンとメァリとロバート・グラントがそれぞれの寝室に引き揚げたとき、はじめて少佐は仲間たちを引き止めてこう言ったのである。
「サンドハースト鉄道でおこなわれた犯行の下手人がわかった」
「で、逮捕されましたか?」とエアトンはたたみかけてきいた。
「いや」クウォータマースターの熱心さに気がつかなかったようにマクナブズは答えた。もっともこの熱心さは、こうした場合であってみればまことに当然のものだったが。
「それは残念です」とエアトンは言った。
「それで、犯行は誰のものと見られているんだね?」とグレナヴァンはきいた。
「読みたまえ」と少佐は言い、オーストラリアン・アンド・ニュージーランド・ガゼットをグレナヴァンに差し出した。「これを見ればあの警部がまちがっていなかったことがわかるよ」
グレナヴァンは次のようなくだりを読み上げた。
[#ここから1字下げ]
「シドニー、一八六六年一月二日。――旧臘《きゅうろう》二九日から三〇日にかけての夜、メルボルン―サンドハースト鉄道のカースルメイン駅から八キロのキャムデン・ブリッジで事故があったことを読者は御記憶であろう。一一時四五分の夜間急行は全速力で進行中ラトン・リヴァーに転落した。
キャムデンの橋は列車の通過の際開かれたままだった。
事故の後におこなわれた多くの盗み、キャムデン・ブリッジから七、八百メートルのところで発見された番人の屍体は、この惨事が犯罪の結果であることを証明していた。
事実、検屍官《コロナー》の調査によれば、この犯罪は六ヵ月前西オーストラリアのパースの懲役場からノーフォーク島〔オーストラリア東部にある島で、ここに政府は累犯の矯正不可能の囚人を収容している。彼らは特別の監視を受けている〕に移される寸前に脱走した囚人の一味の犯したものと見るべきことが判明した。
これらの囚人は二九人である。彼らはベン・ジョイスとかいうものに率いられているが、これは最も始末に負えぬ種類の悪漢で、数ヵ月前に何かの船でオーストラリアに来たものである。司直は何としてもこの男を捕えることはできなかった。
都市住民、入植者およびステーションのスクウォッターには常に警戒を怠らず、捜査のためになるような情報はすべて調査部長のところまでとどけるよう要請されている。
J・D・ミッチェル(調査部長)」
[#ここで字下げ終わり]
グレナヴァンがこの記事の朗読を終えると、マクナブズは地理学者のほうを見て言った。
「どうだい、パガネル、囚人がオーストラリアにいるんじゃないか」
「脱走囚ならあたりまえさ!」とパガネルは答えた。「しかし正式に入境を許されている流刑囚はいないよ。そういう連中はここにいる権利はないんだ」
「とにかく奴らはここにいるんだからね」とグレナヴァンは言った。「しかし奴らがいるからといってわれわれの計画を変えたりわれわれの旅行を中止したりする理由にはなるまいと思うが。君はどう思うか、ジョン?」
ジョン・マングルズはすぐには答えなかった。彼は一旦はじめた捜索の放棄が二人の子供に与える悲しみと一行を危険にさらす不安との板挾みになっていた。
「もしレイディ・グレナヴァンとミス・メァリが同行していらっしゃらなければ、私はそんな悪党の一味などのことは全然気にしないのですが」
グレナヴァンは彼の意中を察してつけくわえた。
「われわれの任務を遂行することをあきらめる必要はないということは言うまでもない。しかし道連れの女性たちのことを思えば、もしかするとメルボルンで〈ダンカン〉に乗り、東部からハリー・グラントの足跡を追うほうが賢明かもしれないよ。君はどう思う、マクナブズ?」
「自分の意見を言う前に私はエアトンの考えを是非聞きたいと思うね」と少佐は答えた。
直接に名指されたクウォータマースターはグレナヴァンへ目をやった。
「私の考えでは、ここはメルボルンから三二〇キロ離れており、もし危険があるとすればその危険の程度は南へ行く場合でも東へ行く場合でも変りはありません。双方ともあまり人の通らぬ道ですし、同じようなものなんです。その上私は、三〇人ばかりの悪党が充分武器を持った果断な八人の男を脅すことができるとは思いません。ですから、これより上策がないかぎり、私ならば前進しますね」
「よく言った、エアトン」とパガネルは答えた。「これまでどおり進めばわれわれはグラント船長の足跡を横切ることになろう。南へ引き返せば反対にそれから離れてしまう。だから私は君と同じように考える。パースの脱走囚なんて私は問題にしないね。そんな奴らのことなど勇気ある人間なら屁《へ》とも思わんはずだよ」
それから旅行の予定にいささかも変更を加えるべきでないというこの提案が表決に付され、全員一致で可決された。
「一つだけ申し上げることがあります」と、解散しようとするときにエアトンが言った。
「言いたまえ」
「〈ダンカン〉に海岸に来ているようにという命令を送ったほうがよくはありませんか?」
「そんなことをして何になる?」とジョン・マングルズが答えた。「われわれがトゥーフォールド・ベイに着いてからその命令を送っても間に合う。もし何か思いがけない事件のためにメルボルンに行かねばならぬことになれば、そこで〈ダンカン〉に会えないのを悔むことになりかねない。その上損傷はまだ直っていないはずだ。だから私は、そういういろいろの理由から、もうすこし待ったほうがいいと思う」
「結構です」とエアトンはそれ以上|固執《こしゅう》せずに答えた。
翌日この小さな一隊は、武装をととのえ、どんな事件にも即応できるようにしてシーモアを出発した。半時間後、彼らはふたたび東のほうに姿をあらわしたユーカリの林のなかにはいって行った。グレナヴァンとしては開けた平原のなかを行くほうが有難かったろう。平原のほうが密林よりも待ち伏せや不意討ちをするのに都合が悪い。しかし今はほかにどうしようもなかった。そして牛車は一日じゅう単調な巨木のあいだを縫って行った。アングルシー郡の北の境界に沿って行った後、夕方彼らは経度一四六度線を越え、マレイ地区の境界線上で野営した。
[#改ページ]
十六 少佐、あれは猿だと言い張る
翌一月五日の朝、旅行者たちはマレイの広大な領域に足を踏み入れた。この未耕の無人の地区はオーストラリア・アルプスの高い障壁までひろがっている。文明はまだここをはっきりとした郡に区画していない。州のなかでもよく知られず人もあまり入らぬ部分なのだ。その林もいつかはブッシュマンの斧のもとに倒れるだろう。その草原もスクウォッターたちの畜群にゆだねられるであろう。しかし今までのところはまだインド洋からあらわれたままの処女地、無人の地なのだ。
これらの土地の全体はイギリスの地図の上では〈Reserve for the blacks〉つまり黒人のための保留地という名をつけられている。原地民が入植者に乱暴に追いやられたのはまさにここなのだ。遠く離れた平原のなか、近づくことのできない森のなかにいくつかのはっきり画定した土地が残され、そのなかで原住人種は徐々に消滅の道をたどることになっている。入植者であれ移住者であれスクウォッターであれブッシュマンであれ、白人は誰でもその境界を越えることができる。黒人だけは決してそこから出てはならないのである。
パガネルは馬を駆りながらこの重大な原住民問題を論じた。この問題については一つの意見しかなかった。それは、イギリスのやりかたは征服された原住民の絶滅、彼らの先祖の生活していた地方からの彼らの抹殺を目指しているということだった。この痛ましい傾向はいたるところにあらわれていた。しかもほかのどこにもましてオーストラリアでは。
植民地の開けはじめた頃には、流刑者は、いや入植者すらも、黒人を野獣とみなしていた。彼らは黒人を狩り、銃で殺した。人々は黒人を殺戮《さつりく》し、オーストラリア原地民は生まれつき法の保護を受けないものであるということを証明するために法律家の権威を引き合いに出し、これらの惨めな連中の殺害は罪とならなかった。シドニーの新聞はハンター湖の未開部族をかたづける効果的な方法さえ提案した。それは彼らを大量毒殺することだった。
ごらんのように、イギリス人はその征服の初期には殺人をもって植民政策の補助手段としようとした。彼らの残虐さはすさまじいものだった。彼らはオーストラリアでも、五〇〇万のインド人が死んだインド、一〇〇万のホッテントット人の人口が一〇万にまで落ちたケープにおけると同じようにふるまった。だから原住民たちは虐待と飲酒で殺されて、殺人的な文明の前で大陸から消滅しようとしているのだ。いかにも若干の総督は残忍なブッシュマンたちに反対する政令を発しはした! 彼らは黒人の鼻や耳を削《そ》いだり、〈ブールピップ〉(パイプにタバコを押し込む道具)にするために黒人の小指を斬り取った白人に罰として何度か笞《むち》を加えさせた。無意味な威嚇《いかく》にすぎない! 殺害は広範囲に組織され、いくつもの部族が全体として消滅した。世紀のはじめに五〇〇〇人の原地民を算していたヴァン・ディーメン島一つを取っても、その住民は一八六一年には七人に減っていたのだ! そして最近〈メルキュール〉紙はタスマニア原地民の最後の一人がホバート・タウンにやって来たことを報ずることができたのである。
グレナヴァンも少佐もジョン・マングルズもパガネルに反論しなかった。彼らがイギリス人だったとしても同国人を弁護しはしなかったろう。事実は明白であり、反駁のしようがなかった。
「これが五〇年前だったら」とパガネルは言った。「われわれはこれまですでに多くの原地民部族に出逢っていたろう。ところが今まで一人の原地民もまだ姿をあらわしていないのだ。一〇〇年後にはこの大陸には黒い人種は完全にいなくなっているだろう」
事実保留地はまったく見捨てられてしまっているように見えた。野営の跡も小屋の跡も一つもない。平原と喬木林は相次ぎ、そしてあたりはだんだんと原始の景観を呈して来た。人であれ動物であれ生き物はこの辺陬《へんすう》の地方を訪れないようにさえ見えたが、そのときロバートがユーカリの茂みの前でたちどまって叫んだ。
「猿だ! 猿がいる!」
そして彼は驚くべき敏捷さでするすると枝から枝へと移りながら、何か目に見えぬ膜のような装置で空中に身を支えているかのように一つの梢から次の梢へ移る黒い大きな体を指した。してみるとこの奇怪な国では、蝙蝠《こうもり》のような翼を自然から与えられているある種の狐のように猿も空中を飛ぶのであろうか?
そのあいだに牛車は停止し、誰もがだんだんとユーカリの高いところに消えて行くその動物を目で追った。間もなく彼らはその動物が電光石火の速さで降りて来て、さまざまの大袈裟な身振りや跳躍をしながら地上を走り、次いでその長い両腕でゴムの巨木のすべすべした幹に抱きつくのを見た。この抱えることもできない直立したつるつるした木にどのようにして登るのかと人々は思った。しかし猿は一種の斧を振って互い違いに小さな刻み目をつけ、規則正しい間隔を置いたこの支点を頼りにゴムの木の叉になっているところへ攀《よ》じのぼった。数秒のうちに彼は密生した葉のなかにかくれてしまった。
「おやおや! あの猿は一体何だい?」と少佐は言った。
「あの猿こそ、純粋のオーストラリア原地民なのさ!」とパガネルは答えた。
地理学者の仲間たちがまだ肩をすくめて見せるいとまもないうちに、「コー・エー! コー・エー!」とでも文字であらわせるような叫び声がそう遠くないところで起こった。エアトンは牛を棒で突き、そこから一〇〇歩ほどのところで旅行者たちは思いもかけず原地民の野営地にぶつかったのである。
何という悲しい光景だったろう! 一〇ばかりのテントが裸の地面の上に立っていた。細長い木の皮を瓦のように重ねて作ったこの〈グニョス〉は、一方だけしかこの惨めな住民たちを守っていなかった。惨めさによって品位を喪失したこの人間たちは嫌悪をもよおさせた。そこにはこうした連中が男女子供と三〇人ばかりもいた。|ぼろきれ《ヽヽヽヽ》のようにずたずたになったカンガルーの皮をまとっている。牛車が近づいたのを見て彼らが最初にしたのは逃げ出すことだった。しかしエアトンがわけのわからない土語で言ったいくつかの言葉が彼らを安心させたようだった。彼らはそこで、何かうまそうな食べ物を差し出された動物のように安心と不安の相半ばした様子でもどって来た。
この原地民たちは身長一六〇センチから一七〇センチくらいで、煤《すす》のような皮膚の色をしている。黒いというのではなく、古い煤の色なのだ。髪の毛はふさふさし、腕は長く、腹部は突き出し、体は毛深くて刺青《いれずみ》の、もしくは葬礼の際におこなわれる切開の疵痕《きずあと》でおおわれている。彼らの奇怪な顔ほど恐ろしいものはない。口はばかでかく、鼻は獅子鼻で頬の上にひしゃげ、下顎《したあご》は突き出し、白い歯は前のほうへ傾いているのだ。人間であってこれほどまでに動物性のタイプを打ち出しているものはかつてなかったろう。
「ロバートは間違っていなかったよ」と少佐は言った。「これは猿だ――言うならば純粋の――。いや、まったく猿だよ!」
「マクナブズ」とレイディ・ヘレナが答えた。「それではあなたは彼らを野獣のように狩った人々が正しいとおっしゃるの? このかわいそうな人たちも人間ですわ」
「人間だって!」とマクナブズは叫んだ。「せいぜいのところ人間とオランウータンとの中間的存在ですよ! それのみか、奴らの顔面角を測ってみたら、猿のそれと同じくらい狭いでしょうな!」
マクナブズはその点では正しかった。オーストラリア原地民の顔面角は非常に狭く、一見してオランウータンのそれと等しかった。つまり六〇度から六五度だったのだ。だからディ・リエンツィ氏がこの哀れな人間たちを、〈ピテコモルフ〉すなわち類猿人という特別の人種に分類しようとしたのも理由のないことではない。
それでもレイディ・ヘレナは、人類の段階のなかで最下位に位置するこれらの原地民を魂を持った人間と見た点ではマクナブズよりも正しかった。野獣とオーストラリア原地民とのあいだには、種を分つ絶対的な相違が存していた。パスカルは人間はどこにあっても野獣ではないといみじくも言った。ただしそれに劣らず叡智《えいち》をもって彼が「天使でもない」とつけくわえていることも事実だが。
ところでまさにレイディ・ヘレナとメァリ・グラントは、偉大な思想家の命題のこの後半の誤りであることを身をもって証明したのである。この二人の慈悲深い女性は牛車から降りていた。彼女らはこれらの惨めな人間どもに愛撫の手をさしのべた。彼女らは食べ物を差し出し、この蛮人たちはそれをいやらしいほどがつがつと呑みこんだ。彼らの宗教によれば白人はもとは黒人であり、死んだ後に白くなったのだということになっていたのだから、それだけいっそう彼らはレイディ・ヘレナのことを神的存在と考えたに相違ない。
しかし御婦人たちの憐憫をかきたてたのは特に女たちであった。オーストラリア原地民の妻の境遇に比すべきものはどこにもない。無慈悲な自然は彼女らにいかなる魅力をも与えなかった。それは暴力で奪われて来た女奴隷であって、結婚の贈物としては主人の手に握られた〈ワディ〉という釘を打った棒のようなものでなぐられることのほかは何も与えられなかった。この時以来、そんな年でもないのに急速に老い衰えながら、放浪生活のありとあらゆる辛い労働に打ちひしがれていた。藺《い》でくるんだ子供たちとともに漁猟の道具や集めた〈フォルミウム・テナクス〉を持って歩く。この植物で彼女らは網を作るのである。家族の食べ物も手に入れなければならない。とかげやオポッサムや蛇を木の梢まで追ってつかまえる。薪にする木を切る。テントにする樹皮を剥ぐ。哀れな牛馬のように彼女らは休息を知らず、主人たちの後で主人たちの食おうとしない余りのものを食べているだけなのだ。
ちょうどこのときそうした不幸な女たちの何人かが、おそらくはもうずっと前から食べ物にありつけないでいたのだろうが、穀物を見せながら鳥をおびきよせようとしていた。
見ると彼女らは焼けるような地面に死んだもののように動かずに横たわって、無邪気な鳥が自分らの手のとどくところに来るのをまるまる数時間も待とうとしているのだ! 罠についての彼らの技術はそれ以上には進まず、オーストラリアの鳥たちでもなければこんな罠にかかるものはなかったろう。
そうするうちに原地民たちは旅行者たちの親しげな出方に気を許して彼らをとりまいたが、そうなると彼らのまことに掠奪的な本能を警戒しなければならなかった。彼らは舌を打って出す笛のような土語でしゃべっていた。それは動物の叫びに似ていた。それにしても彼らの声はしばしば非常にやさしく甘ったるい調子を持っていた。「ノキ、ノキ」という語がよくくりかえされたが、それに伴う身振りでその意味はじゅうぶん理解できた。それは「私にください! 私にください!」という言葉で、旅行者たちの持っているごくつまらないものをくれと言っているのだった。ミスタ・オルビネットは荷物部屋を、そして特に一行の食糧を守るために大活躍をしなければならなかった。この飢餓にさいなまれている哀れな連中は牛車に恐ろしい視線を投げ、もしかすると人間の肉片を噛んだかもしれない鋭い歯をむきだしにして見せた。オーストラリア原地民部族の大部分は平和の時にはまず人肉を食わないが、負けた敵の肉をむさぼり食うことを拒む蛮人はめったにいない。
それでもヘレナの頼みによってグレナヴァンはいくらかの食べ物を分けてやるように命じた。原地民たちは彼の意向を察し、いかに無感覚な心をも感動させるような感謝の表明をして見せた。彼らはまた、飼育係が毎日の餌を持って来たときの野獣のそれに似た咆哮《ほうこう》をも上げた。少佐の言ったことは正しいと認められなかったが、それでもこの人種が動物に非常に近いということは否定できなかったのだ。
ミスタ・オルビネットは紳士道を知る男としてまず女たちに与えねばならぬと思っていた。しかしこの不幸な女たちには恐ろしい主人より先に食べる勇気はなかった。男どもはビスケットや乾し肉に、獲物に、飛びかかるように突進した。
メァリ・グラントは自分の父がこんな野卑な原地民の手に捕えられていることを思うと、目に涙がうかぶのをおぼえた。ハリー・グラントのような人間がこうした放浪の部族の奴隷になり、窮乏や飢えや虐待にさいなまれてどれほど苦しんだかということを彼女は考えてみた。不安に満ちて注意深く彼女をみつめていたジョン・マングルズは彼女の心に溢れている思いを察して、口に出さぬ彼女の熱望にこたえて〈ブリタニア〉のクウォータマースターにきいた。
「エアトン、君はこのような蛮人の手から逃れて来たのかね?」
「そうです、船長」とエアトンは答えた。「内陸のこういう土民たちは皆同じようなものです。ただあなたがここで見ている野郎どもはほんのわずかでしかないが、ダーリング河のあたりには多勢の部族がいるし、その酋長たちは恐るべき権威を持っている」
「しかし」とジョン・マングルズはきいた。「ヨーロッパ人がこうした原地民のまんなかで何をするというんだ?」
「私自身していたようなことです」とエアトンは答えた。「奴らと一緒に漁や狩りをし、彼らの戦闘に参加する。前にも言ったように、どれだけ相手の役に立つかによって待遇も違う。頭のいい勇敢な人間でありさえすれば部族のなかで重要な地位を占めます」
「でも捕虜は捕虜なんでしょう?」とメァリはきいた。
「そして見張られています」とエアトンはつけくわえた。「夜であれ昼であれ一歩も自由に動けないほど」
「それでも君は脱出することに成功したじゃないか、エアトン」と、少佐が会話に加わって言った。
「そうです、マクナブズさん、私の部族と近くの土民の戦闘のおかげで。私は成功しました。そうです。私はそれを後悔してはいませんよ。しかしもう一度同じことをやらねばならないとあったら、内陸の無人境を横断するときに味わったあの苦痛よりも永久の奴隷状態のほうを選ぶだろうと思いますね。グラント船長があのようなやりかたで一か八かの救いを求めるようなことをしないですむといいのですが!」
「それはたしかにそうだ」とジョン・マングルズは言った。「ミス・メァリ、われわれはお父さまが原地民の部族のところに引き留められていることを願わざるを得ません。そのほうが大陸の森林にひそんでいる場合よりもお父さまの足跡を容易につかめるでしょう」
「あなたはまだ望みを失っていらっしゃらないのね?」と娘はきいた。
「私は依然として、ミス・メァリ、神の助けを得てあなたが幸福になられるという希望を抱いていますよ!」
若い船長に対して感謝をあらわすことができたのはメァリ・グラントのうるんだ目だけだった。
この会話のあいだに異常な動揺が蛮人たちのあいだに起こっていた。彼らはとどろくような叫びを上げ、四方八方へ駈け出した。彼らは武器をつかみ、猛烈な憤怒に襲われたように見えた。
グレナヴァンは彼らが何をしでかそうとしているのかわからなかったが、そのとき少佐がエアトンの名を呼んで言った。
「君は長いあいだオーストラリア原地民のところで暮したんだから、きっと彼らの言葉がわかるだろうね?」
「おおよそは」とクウォータマースターは答えた。「部族ごとに方言がありますから。けれども、感謝のしるしにこの蛮人どもは閣下に戦闘の真似をお見せしようとしているのだと思います」
事実それがこの騒動の原因だったのだ。原地民たちは何の前触れもなしに、いかにも憤然としたようにたがいに打ちかかった。それがあまりに真に迫っていたので、あらかじめ知らされていないかぎりこの小さな戦争を本物と思ってしまうほどだった。しかし旅行家たちの言うところではオーストラリア原地民はすばらしく物真似が上手だそうで、この機会に彼らはその驚くべき才能を発揮して見せたのだ。
彼らの攻防の武器は、どんなに厚い頭蓋骨でも割ってしまう一種の棍棒と、〈トマホーク〉の一種で二本の棒のあいだに非常に堅い鋭い石をゴムでくっつけたものだった。この斧には三メートルもある柄がついている。これは恐るべき武器であるとともに便利な生活の道具であって、場合に応じて木の枝もしくは人間の頭を斬り落すために、人間の体もしくは木の幹を刻むために用いられる。
これらすべての武器は怒号とともに熱狂した腕で振りまわされた。戦士たちはたがいに相手に躍りかかり、あるものは死んだように倒れ、あるものは勝利の叫びをあげた。女たち、特に老婆たちは戦いの悪魔にとりつかれたように彼らの戦意をけしかけ、死者を装っているものに飛びかかり、もし現実だったとしてもこれ以上凄惨であろうと思われないような獰猛《どうもう》さでその屍体を傷つけるのだ。遊びが本当の闘いになりはしないかとレイディ・ヘレナは絶えず心配していた。その上これまで戦闘に加わっていなかった子供たちまでが本気になって始めた。小さな男の子や女の子――特に女のほうがずっと激昂していた――猛烈な勢いでものすごい平手打を交わし合うのだ。
この戦闘の真似事は始まってすでに一〇分にもなったが、そのとき戦士たちは不意に中止した。武器は彼らの手から落ちた。深い沈黙が大変な騒ぎの後に来た。原地民たちは活人画中の人物のように最後の姿勢のままぴたりと動かなくなった。まるで石になったようだった。
この変り方の理由は何だったのか、そしてなぜ急にこの大理石像のような不動の状態に陥ったのか? 間もなくそれはわかった。
鸚鵡の一団がちょうどこのときゴムの木の梢に舞い上ったのである。彼らはそのおしゃべりで空中を満たし、その羽毛の鮮明な色合いによって飛ぶ虹のように見えた。戦闘を中断させたのはこのけばけばしい鳥の群れの出現だったのだ。戦争よりも有益な狩猟が戦争の後ではじまった。
特殊な仕組みを持った赤く塗った道具をつかんだ一人の原地民があいかわらずじっとしている仲間たちから離れ、木や藪のあいだを縫って鸚鵡の群れのほうへ向った。彼は這いながら全然物音をたてず、一枚の葉にもさわらず一つの小石も動かさなかった。まるですべって行く影であった。
しかるべき距離まで来たその蛮人は地上六〇センチの水平な線をたどってその道具を飛ばせた。その武器はそのようにしておよそ一二メートルばかりの距離を走った。それから突然、地に落ちずに直角を描いて地上三〇メートルまではね上り、一ダースばかりの鳥を打ち殺し、放物線を描いてもどって来て猟師の足もとに落ちた。グレナヴァンとその仲間たちは唖然《あぜん》とした。彼らは自分の目を信ずることができなかった。
「〈ブーメラン〉だ!」とエアトンが言った。
「ブーメラン!」とパガネルは叫んだ。「オーストラリア原地民の〈ブーメラン〉か」
そして子供のように彼は、「中に何があるかを見るために」驚くべきその道具を拾いに行った。
事実何か内側のからくりがあって、たとえば|ばね《ヽヽ》が急に伸びるなどして方向を変えるのだと思っても無理はなかった。ところが実は全然そうではなかった。
このブーメランは長さ七五センチから一メートルの彎曲した固い木材だけでできているのだった。その厚さは中央ではおよそ八センチで、その両端は鋭く尖っている。凹《へこ》んだ部分は一・二センチほど引っこみ、凸出《とっしゅつ》した部分には研ぎ上げた二つの縁があった。
「なるほどこれが有名なブーメランか!」と、奇妙な道具を丹念に調べたあげくパガネルは言った。「ただの木片だ、まったくそれだけだぞ。水平に飛んで行くうちにどうしてある瞬間に空中に飛び上り、投げた人間の手にもどって来るのだろう?」学者も旅行者たちもこの現象に説明を下すことは遂にできなかった。
「それはフープの作用に似たものじゃありますまいか? フープはある投げ方をすると、出発点にもどって来ます」とジョン・マングルズは言った。
「いや、それよりも」とグレナヴァンが補足した。「一定の点を突かれた撞球《ビリヤード》の玉のそれに似た引き玉効果じゃないかな?」
「いや、一向に」とパガネルは答えた。「双方の場合とも支点があるから反動が生ずる。フープの場合にはそれは地面だし、玉の場合にはそれはクッションだ。ところがこの場合にはその支点がない。道具は地面にさわらないのに、相当の高さまではね上るじゃないか!」
「それでは、パガネル先生、あなたはこの事実をどのように説明なさいます?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「私は説明はしませんよ、奥さま。私はここでもまた事実を確認するだけです。この作用はあきらかに、ブーメランを投げるときの投げ方とブーメランの特殊な形態によっています。しかしその投げ方といえば、これもやはりオーストラリア原地民しか知らぬ秘訣ですな」
「いずれにしても、これはまことに巧みなものですわね……猿にしては」とレイディ・ヘレナは少佐に目をやって言い添え、少佐のほうはまだ納得が行かないという様子で頭を振った。
そうこうするあいだに時間はたち、グレナヴァンは東方への行進をこれ以上遅らすわけには行かないと考えた。そこで彼は御婦人方に牛車に乗ってくれと頼もうとしたが、そのとき一人の蛮人が駈けつけて来て、ひどくきおいこんで二言三言いった。
「ああ」とエアトンは言った。「奴らは火食鳥《ひくいどり》を見かけたそうです」
「何! 猟をするのか?」とグレナヴァンはきいた。
「そいつは是非見なくちゃ」とパガネルは叫んだ。「それは面白いはずだ! またブーメランが活躍するだろう」
「エアトン、君はどう思う」
「長くはかかりますまい」とクウォータマースターは答えた。
原地民たちは一瞬も無駄にしていなかった。火食鳥をしとめられれば彼らにとっては大変な幸運なのだった。これで、部族全体の数日分の食糧が確保されるのである。それゆえ猟師たちはこのような獲物を物するためには、彼らのあらゆる技術を動員した。しかし銃も持たないくせにどのようにしてこれほど敏捷な動物を倒せるのか? これこそパガネルの是非見なければというこの見物《みもの》の見所なのであった。
エミューは無冠火食鳥ともいい、原地民たちは〈ムーレウク〉と呼んでいるが、オーストラリアの平原ではあまり見られなくなりはじめた動物である。高さ七五センチもあるこの大きな鳥は七面鳥の肉に非常によく似た白い肉を持っている。頭の上には角質の板がついている。目は淡い鳶色《とびいろ》で、嘴《くちばし》は黒く下にむかって曲っている。指には強力な爪がついている。翼はもうまったくの切れっぱしのようなもので、飛ぶためには役立たない。毛と言っておかしければ羽毛と言うことにするが、この羽毛は首と胸のところが他より色が濃い。しかし飛びはしなくてもよく走り、競馬場でどれほど速い馬とも争うことができよう。だからこれを捕えるのは策略によるほかはなく、しかもそれは特別老獪なやりかたでなければならない。
そういうわけで、先程の原地民の呼び声に応じて一〇人ばかりの原地民が歩兵の一分隊のように散開した。そこは藍《あい》が自生して地面をその花で青くいろどっているすばらしい平原だった。旅行者たちはミモザの林の縁にたちどまった。
原地民たちが近づくと五、六羽のエミューが身を起こして逃げ出し、一キロ半ほどのところで身をかくそうとした。部族の猟師は彼らの位置を見定めると、仲間たちにたちどまれと合図した。仲間たちは地面に横たわり、一方彼は網のなかから非常にたくみに縫い合わせた二つの火食鳥の皮を取り出して、その場でそれを身につけた。右腕を頭の上に出し、彼は餌をあさるエミューの歩き方の真似をした。その原地民は群れのほうにむかって行った。あるいはたちどまって何かの穀物をつつく真似をする。あるいは足で埃を蹴立てて埃の雲に包まれる。こうした手練手管はすべて申し分なかった。エミューの挙動のこの再現ほど忠実なものはない。猟師は鳥ですら瞞《だま》されてしまうような唸り声を発した。事実鳥は瞞されたのだ。猟師は間もなく暢気《のんき》そうな群れのただなかにいた。突然彼の腕は棍棒をふるい、そして六羽のエミューのうち五羽は彼のかたわらに倒れた。
猟師は成功した。そして猟は終った。
それからグレナヴァン、二人の婦人、そして小さな一隊の全員は原地民たちに別れを告げた。原地民たちはこの別離にあまり名残り惜しさを示さなかった。火食鳥猟の成功がおそらく彼らに自分らの飢餓が満たされたことを忘れさせたのだろう。未開人や獣にあっては心の感謝よりも胃の感謝のほうが強いものだが、その胃の感謝すらも彼らにはなかった。
それはともかく、ある場合には彼らの智慧と器用さに感嘆しないわけにはいかなかった。
「こうなっては、マクナブズさん」とレイディ・ヘレナが言った。「あなたもオーストラリア原地民が猿ではないということを快く認めるでしょうね!」
「奴らが動物の歩き方を忠実に真似るからですか?」と少佐は反問した。「しかし反対にそれは私の理論の正しさを証明するはずだが」
「冗談を言っても答にはなりませんことよ。少佐、私はあなたに意見を改めていただきたいの」
「それじゃあそうしましょう。いや、そうじゃない。オーストラリア原地民は猿ではない。猿がオーストラリア原地民なんです」
「あんなことを!」
「ねえ、黒人たちがあの興味あるオランウータンの種族のことを何と言っているかおぼえていますか?」
「何と言っていますの?」
「奴らは、猿は自分らと同じく黒人だが、自分らよりも意地が悪いと言っています。『働かないでいいように物を言わない』と、何もしないで主人から餌をもらっている馴れたオランウータンのことを羨《うらや》ましく思ったある黒人が言ったものです」
[#改ページ]
十七 大金持の牧畜業者
経度一四六度一五分の地点で安らかに一夜を過ごした後、一月六日午前七時に旅行者たちは広大な地域の横断を再開した。彼らはあいかわらず朝日にむかって歩みつづけ、彼らの足跡は平原の上に厳密な直線を引いていた。二度彼らは北へむかうスクウォッターたちの足跡を横切った。そしてもしグレナヴァンの馬が二つのクラブでそれとわかるブラック・ポイントのしるしを土埃のなかに残さなかったとすれば、これらのさまざまな足音は見分けがつかなくなったことだろう。
平原には時折|つげ《ヽヽ》に縁取られた気まぐれな小川が走っていた。水がいつも絶えない小川ではなく、むしろ絶えがちなのだ。それらの小川は地平線に美しい線を起伏させているあまり高くない山脈〈バファローズ・レインジ〉の山腹から発しているのであった。
その夜はその山脈で野営することに決めた。エアトンは牛をせきたて、一日かかって五六キロ行ったあげく牛たちは少々疲れて目的地に到着した。テントは大きな木の下に張られた。夜になり、皆は急いで夕食をすました。このような行進の後だから食べることよりも眠ることのほうを皆は考えていた。
不寝番の一番立ちに当ったパガネルは横にならなかった。そしてカービン銃を肩にして彼は睡気《ねむけ》に逆らうために縦横に歩きまわりながらキャンプに心を配っていた。
月はなかったけれども、南洋の星座の輝きの下で夜はほとんど光に満ちているといえるほどだった。いつも開かれていて、それを解するものにとっては非常に興味ある天穹《てんきゅう》というこの巨大な書物を読んで学者は楽しんだ。眠りに入った自然の深い静寂を乱すものは馬の足もとで響く足枷《あしかせ》の音だけだった。
パガネルはそれゆえ天文学的思弁に耽《ふけ》り、地上のことよりも天上のことのほうに心を奪われていたが、そのとき何か遠い物の響きがその夢想を破った。
彼は耳をそばだてたが、ピアノの音を聞いたように思って彼はびっくり仰天した。ゆったりとしたアルペジオで奏でられるいくつかの楽音がその嫋々《じょうじょう》たる響きを彼の耳まで送って来たのだ。これはもう聞き違いではあり得なかった。
「無人境にピアノが!」とパガネルは思った。「こいつは何としても納得できない」
事実これは甚だ思いがけないことであり、パガネルとしてはむしろ、時計の音や研ぎ屋の音を真似る鳥もいるのだから、オーストラリアの何か奇妙な鳥がプレイエルなりエラールなりの音を真似ているのだと思いたかった。
しかしこのとき澄んだ響きの声が湧き上った。ピアノに合わせて歌っているのだ。パガネルはこの事実を認めてしまう気持を持てぬまま耳をすました。けれどもしばらく後には彼も自分の耳を打つすばらしい歌を認めざるを得なかった。それは『ドン・ジョヴァンニ』の「|かくも愛する人《イル・ミオ・テゾーロ・タント》」だった。
「冗談じゃないよ!」と地理学者は考えた。「オーストラリアの鳥たちがどんなに変っていようと、しかも世界じゅうで一番音楽的な鸚鵡であろうと、まさかモーツァルトを歌いはしない!」
それから彼は巨匠の息吹に最後まで耳を傾けた。澄んだ夜のなかを運ばれて来る甘美なメロディーの印象はえも言えなかった。パガネルは長いあいだこの形容を絶した魅力に捉われていた。やがて声はやみ、すべては静寂にかえった。
ウィルスンがパガネルと交代するために来てみると、パガネルは深い夢想に沈んでいた。パガネルは水夫には何も言わなかった。翌日グレナヴァンにこの事実を知らせることにして、テントのなかにはいって彼はうずくまった。
あくる日全員は思いがけない犬の声で目が覚めた。グレナヴァンはすぐ起きた。すらりと高い、イギリス種の猟犬のすばらしい見本である二匹の見事なポインターが、小さな森の縁をはねまわっている。旅行者が近づくと彼らは一層やかましく吠えながら木の下へはいって行った。
「それではこの無人境にステーションがあるんだ」とグレナヴァンは言った。「それに、猟犬がいる以上猟師も!」
パガネルは昨夜の印象を語ろうとしてすでに口を開いていたが、そのとき非常に美しい純血種の馬、本当の〈猟用《ハンター》馬〉に乗った二人の青年があらわれた。
その二人の紳士は瀟洒《しょうしゃ》な猟服を着ていて、ジプシーのように野営している小さな一隊を見ると馬を止めた。こんな場所に武器を持った旅行者がいるのはどういうわけだろうかと彼らは考えているように見えたが、そのとき牛車から降りる婦人たちの姿を認めた。
たちまち彼らは馬から降り、帽子を手にして彼女たちのほうに進んだ。
ロード・グレナヴァンは彼らのほうへ進み出、よそ者だったから自分のほうから名と身分を告げた。青年たちは頭を下げ、年上のほうが言った。
「ミロード、御婦人方やその他の皆さまと御一緒に私どもの住居で御休息くださいませんか?」
「皆さんは?……」とグレナヴァンは言った。
「マイクル・パタスンとサンディ・パタスン、ホッタム・ステーションの所有者です。皆さまのいらっしゃるところはすでに農場の地所で、後四〇〇メートルいらっしゃればよろしゅうございます」
「お二方」とグレナヴァンは言った。「そのように御親切におっしゃってくださっても、いい気になって御接待にあずかるわけにはまいりません……」
「ミロード」とマイクル・パタスンは言った。「お受けくださいますならば、この無人境にあなたがたをお迎えすることを幸福のかぎりと思っている哀れな流謫《るたく》の者どもを喜ばすことになります」
グレナヴァンは承諾のしるしにうなずいた。
「あなた」と、そこでパガネルはマイクル・パタスンにむかって言った。「まことに無躾《ぶしつけ》ですが、昨夜あの神々しいモーツァルトのアリアを歌っていらっしゃったのはあなたですか?」
「私です」とジェントルマンは答えた。「そして私のいとこ《ママ》のサンディが伴奏していたのです」
「それならば、この音楽の熱狂的な讃美者であるフランス人の賞讃をお受けください」
パガネルは若いジェントルマンに手を差し出し、相手は非常に愛想のいい態度でその手を取った。それからマイクル・パタスンは右のほうへ行く道を示した。馬はエアトンと水夫たちにまかされた。こうしておしゃべりしたり感嘆したりしながら旅行者たちは二人の青年に導かれて徒歩でホッタム・ステーションの住家にむかったのである。
それはまことに堂々たる建築で、イギリス庭園のような几帳面な厳しさで保たれていた。鼠色の柵で囲った広大な牧草地が視野のかぎりつづいている。そこには数千の牛、数百万の羊が草を食んでいる。多数の牧夫とそれよりも多数の犬がこの騒がしい大群を見張っている。羊や牛の鳴き声に犬の吠える声やストックホイップの鋭く風を切る音が混る。
東のほうを見ると視線はマイオールとゴムの木の林の縁で止まる。一一キロ先からホッタム山の威圧的な頂は一五〇〇メートルの高さからその林を見おろしている。緑の宿葉樹の長い並木が四方八方に放射している。あちこちに〈グラス・トリー〉の密生した林がかたまっているが、これは高さ二メートルばかりの小人椰子に似た灌木で、細長い髪の毛のような葉におおわれている。空気は樟《くす》の木の香りに満たされ、今盛りの樟の白い花の集まりはきわめて快い芳香性の匂いを発散していた。
これらのこの国原産の樹木の魅力的な群れにヨーロッパの風土から移植されたものが加わっていた。桃、梨、林檎、いちじく、オレンジ、槲《オーク》すらあって、旅行者はそれらを見て歓声をあげた。そして彼らは自分らの国の樹木のかげを歩くことにはそれほど驚かなかったけれども、枝のあいだを飛びまわっている鳥たち、絹のような羽毛を持った〈サティン・バード〉や金色と黒のビロードを半々に装った〈セリキュール〉の姿には目を見はった。
特に――しかもこれがはじめてだったが――彼らはここで〈ムニュール〉を見て感嘆することができた。これは琴鳥ともいい、その尾羽根の飾りはオルフェウスのあの優雅な楽器の形をしているのである。琴鳥は木本羊歯《もくほんしだ》のあいだに逃げこみ、その尾が枝にぶつかったときには人々は、アンフィオンがそれを聞いてテーバイの壁を再建する気になったというあの美しい和音が聞こえないのを不思議に思ったほどだった。
けれどもロード・グレナヴァンはオーストラリアの僻地に急いで作られたこのオアシスの夢幻的な驚異に感嘆しているだけでは満足しなかった。彼は若いジェントルマンたちの物語に耳を傾けた。これがイギリスの文明化した田園のなかだったならば、新来者は自分がどこから来てどこへ行くかをまず第一に家の主に告げたことであろう。ところがここでは、品よく守られているある心づかいといったものから、マイクルとサンディ・パタスンは自分らの招待した旅行者たちに自分のことを知ってもらわねばならぬと思った。そこで彼らは自分らの経歴を語ったのだ。
それは富が労働を免除するとは信じない、知的で勤勉なすべてのイギリス青年に通ずる経歴だった。マイクルとサンディはロンドンの銀行家の息子だった。二〇歳になったとき彼らの家の家長は言った。「ほら、ここに数百万の金がある。どこか遠い植民地へ行け。そこで役立つ施設を作れ。労働のなかから人生の知識を汲み取れ。おまえたちが成功したら、それは結構だ。失敗しようとかまいはしない。おまえたちが一人前の男になるのに役立ったと思えば何百万の金も惜しくはない」二人の青年は服従した。彼らはオーストラリアでヴィクトリア州を選んで父親の紙幣をそこに注ぎこんだが、それを後悔する理由は今彼らにはなかった。五年の後に農場は繁栄していた。
ヴィクトリア、ニュー・サウス・ウェールズ、南オーストラリアの諸州には三〇〇〇以上のステーションがあり、あるものは家畜を飼養するスクウォッターが経営し、あるものは農業を主な仕事とするセットラーが経営している。二人のイギリス青年が来るまではこの種類の農場で最大のものはジェイムスン氏のもので、ダーリング河の支流の一つであるパルー河の岸に二五キロにわたって沿い、総面積一〇〇キロ平方に及んでいた。
今ではホッタムの農場のほうが広さでも取引量でも優っていた。二人の青年はスクウォッターでもあれば同時にセットラーでもあった。彼らは稀に見る手腕をもって、しかもこれはより困難なことだが、並々ならぬ精力をもってその広大な地所を経営した。
ごらんのようにこのステーションは主要な町々から遠く離れ、あまり交通のないマレイ地区の無人境にある。それは一四六度四八分と一四七度の線に挾まれる地面、すなわちバッファローズ・レインジとホッタム山とのあいだに位置する二〇キロ四方の地所を占めていた。この広い四辺形の北の二つの角のうち、左のほうにはアバディーン山が、右のほうにはハイ・バーヴンの峰々がそびえている。小川《クリーク》や、また北のマレイ河の河床に注いでいるオーヴンズ・リヴァーの支流のおかげで、美しく蛇行する水流もたくさんあった。それで家畜の飼育も農耕もここでは同等に成功していた。みごとに輪作や配置をおこなっている一万エーカー(約四〇四七ヘクタール)の土地は、この国の産物と外来作物との双方を生み出し、いっぽう数万頭の動物は緑の牧場で体を肥やしていた。だからホッタムの産物にはカースルメインやメルボルンの市場で高い値がつけられていたのである。
マイクルとサンディ・パタスンがこうした勤勉な生活の委細を話し終えたときに、カスアリナの並木道の奥に住居があらわれた。
それは木と煉瓦で作ったいかにも好ましい家で、エメロフィリスの木立ちのなかに埋もれていた。家は瀟洒なシャレのような形をし、シナ風の燈籠のぶらさがっているヴェランダが古代建築のインペルウィウム(雨水受け)のように壁のまわりをめぐっていた。窓の前には花かと思われる多彩な日除けが開いていた。見た目にこれ以上小綺麗な、これ以上快いものはないが、またこれ以上住心地のいい家もない。芝生の上、周囲にかたまっている植込みのなかには、しゃれたランターンを載せた燈柱が立っている。日が暮れるとともにこの庭園全体が、マイオールや木本羊歯のかげにかくれた小さなガス・タンクでともすガス燈の白い光に照らされるのである。
のみならず、付属家屋や廐舎や納屋などの農業経営を示すようなものは何一つ見えなかったのだ。そうした付属建築物――二〇以上の小屋から成る一村落となっている――はすべて、四〇〇メートルほど離れた小さな谷の奥にかたまっていた。電線でその村と主人の家が即時連絡できるようになっている。主人たちの家はあらゆる騒音から遠く離れて外来種の樹木の林のなかに埋っているように見えた。
間もなくカスアリナの並木道は終った。きわめて優雅な小さな鉄橋がざわめく小川の上にかかって立入り禁止の庭園に通じていた。その橋を渡ると、高慢な顔つきの執事が旅行者たちを迎えに出た。住居の扉は開かれ、ホッタム・ステーションの客たちはこの煉瓦と花の環境のなかにおさまっている豪奢な部屋にはいった。
芸術趣味の上流社会生活のあらゆる豪華さが彼らの眼前にくりひろげられた。競馬や狩猟にちなむ装飾品で飾られた控えの間にむかって、五つの窓がある広々としたサロンが開かれていた。そこには新旧の楽譜を一杯載せたピアノ、かきかけのキャンヴァスをのせた画架、大理石像をのせた台架が立ち、フランドル派の巨匠の絵が何点か壁にかかり、深い草のように足に快い贅沢な絨毯が敷かれ、優美な神話に材を取った図柄の壁掛がかかり、古めかしいシャンデリアが天井につるされ、貴重なファエンツァ焼、申し分のない趣味を持った高価な骨董品、オーストラリアの人家で見れば驚くような無数の高価で繊細なこまごまとした品物がならんで、芸術趣味とコンフォートとの最高の調和を証明していた。みずから求めた流謫の倦怠をまぎらし得るもののすべて、ヨーロッパの慣習の思い出に心を誘い得るもののすべてが、この幻想的なサロンを飾っていたのである。フランスかイギリスの大貴族の館にでもいるような気がした。
五つの窓からは、ヴェランダの日影ですでにやわらげられた光が日除けの薄い布でさらに漉《こ》されてはいって来た。レイディ・ヘレナはそれに近づいて感に打たれた。住居のこちら側は東の山々の麓までひろがっている広濶な谷を見おろしているのだ。草原と森の連続、あちこちに広い空地、優美な丸みを帯びた一連の丘陵、これらの起伏する地面のうねりは一切の形容を超えた風光をなしていた。世界じゅうのいかなる地方も、ノルウェイ国境地方のテレマルクのあのように世評の高い〈楽園の谷〉すらも、これと比較することはできなかった。大きな明暗で区切られたこの広大なパノラマは、太陽の気まぐれのままに絶えず趣《おもむき》を変えた。人間の想像力はこれにまさる何ものをも夢み得なかったし、この魅惑的な眺めは目の欲望を完全に満ち足らせた。
そうこうするあいだにサンディ・パタスンの命令によってステーションの料理頭の手で昼食が急いで作られ、旅行者たちは到着して一五分もたたぬうちにふんだんに御馳走をならべた食卓の前に坐った。これらの料理とワインの質のよさは論議の余地がなかった。しかしこれらの洗練された豊かさのただなかでとりわけ人々の心にかなったのは、自分らの家でこうした華々しいもてなしをすることができるのを幸福に思っている二人の若いスクウォッターの喜びだった。
その上、彼らは間もなく一行の目的を知り、グレナヴァンの捜索に強い興味をおぼえた。そしてまた彼らは船長の子供たちに明るい希望を与えた。
「ハリー・グラントは」とマイクルは言った。「もちろん原地民たちの手に落ちたのですよ、沿岸地方の農場に姿をあらわさなかったのですから。船長は自分の位置を正確に知っていました。それは文書が証明しています。それなのにどこかのイギリス人植民地にたどりつかなかったとすれば、上陸したとたんに蛮人の捕虜になったに相違ない」
「クウォータマースターのエアトンはまさにそういう目に遭ったのです」とジョン・マングルズは答えた。
「でもあなたがたは」とレイディ・グレナヴァンはきいた。「〈ブリタニア〉の事故のことは全然お聞きになりませんでしたの?」
「全然聞きません」とマイクルは答えた。
「ではあなたのお考えでは、オーストラリア原地民に捕われたグラント船長はどんな待遇を受けたでしょうか?」
「オーストラリア原地民は残忍ではありません」と若いスクウォッターは答えた。「そしてミス・グラントはその点については安心していらっしゃって結構です。彼らの性格のおだやかさの例はよくあります。しかも何人かのヨーロッパ人が長いこと彼らのあいだで生活して、彼らの乱暴さに悩まされたことは一度もなかったのです」
「特にキングですな」とパガネルは言った。「バークの探検隊の唯一の生き残りですが」
「その大胆な探検家だけではなく」とサンディはつづけた。「バックリーというイギリス兵士も。彼は一八〇三年にポート・フィリップの海岸から脱走して、原地民たちに見つけられ、三二年間彼らとともに暮したのです」
「そしてその時代以後」とマイクル・パタスンがつけくわえた。「〈オーストララジアン〉紙の最近号が伝えたところによれば、モリルとかいう男が一六年の奴隷生活の後に最近同国人のもとへ返されたそうですよ。船長の運命も彼の運命と同じはずです。なぜならこの男が原地民に捕えられて内陸に連れて行かれたのは、一八四六年の〈ペリュヴィエンヌ〉の難破のすぐ後なんですから。だから私はあなたがたはすこしも希望を失ってはならないと思います」
これらの言葉は若いスクウォッターの聞き手のすべてにこの上ない喜びを与えた。こうした言葉はパガネルとエアトンが与えた情報を裏書きしていたからだ。
次いで婦人たちが食卓を去ってから人々は囚人の話をした。スクウォッターたちはキャムデン・ブリッジの惨事を知っていたが、脱走囚の存在は彼らに何らの不安をも与えなかった。使用人が一〇〇人以上にも及ぶステーションをこんな悪党どもがあえて襲うものではない。それにまた、彼らには何もすることのないこのマレイの無人地帯や、道路がきびしく監視されているニュー・サウス・ウェールズの植民地のほうに彼らが足を踏みこむことはないと考えるべきだった。それにまたエアトンも同じように考えていた。
ロード・グレナヴァンはこの日一日をホッタムのステーションで過ごしてくれというこの愛すべき主人役《アンフィトリオン》の願いを拒むことはできなかった。一二時間の遅れが一二時間の休息になった。馬や牛はステーションの設備のととのった廐舎でゆっくり疲労を癒しさえすればよかった。
そこで話はきまって、二人の青年は賓客たちにこの一日の計画を提案し、その計画は快く採択された。
正午、七頭のたくましい猟馬《ハンター》が住居の門口で逸《はや》り立っていた。婦人たちのための、二頭ずつならんだ四頭の馬で挽かれる優雅な四輪馬車は、その馭者に〈|四頭立て《フォー・イン・ハント》〉のたくみな手綱さばきを見せることを許した。猟犬係に先立たれ、すばらしい連発銃を持った騎手たちは鞍にまたがって門のほうへ馬を駆り、一方ポインターの群れは林のなかを快活に吠えまわった。
四時間のあいだ騎馬の一行は、ドイツの小領邦一つぐらいの大きさのこの庭園の通路や並木道を駈けまわった。ロイス・シュライツだのザクセン・コーブルク・ゴータなどといった領邦はここにそっくりおさまってしまったろう。住民にはあまり出逢わなかったが、そのかわり羊はうようよしていた。獲物はといえば、どれほど多くの勢子《せこ》がいてもこれ以上の獲物をハンターの銃の前に追い出しはしなかったろうと思うほどだった。だから間もなく森や平原の平和な住民たちにとっては不安きわまる銃声がつづけて起こった。ロバート少年はマクナブズ少佐とならんで腕前を発揮した。この大胆な少年は姉の注意にもかかわらずいつも先頭に立ち、最初に火蓋を切った。しかしジョン・マングルズが彼のことを気をつけると言ってくれたので、メァリは安心した。
この猟で人々はこの国特産のいくつかの動物を殺した。これはパガネルですら今までは名前だけしか知らなかったものだった。とりわけ〈ウォンバット〉と〈バンディクート〉がそれである。
ウォンバットは穴熊のように穴を掘る草食獣である。大きさは羊くらいで、その肉は非常にうまい。
バンディクートは有袋類の一種で、ヨーロッパの狐よりも上手《うわて》で、鳥小屋の掠奪にかけてはその先生格なのだ。かなり厭らしい恰好をして長さ四五センチほどのこの動物はパガネルの弾丸に当って殪《たお》れた。パガネルはハンターとしての自尊心からこの動物を魅力的だと思った。「かわいい動物だ」と彼は言ったものだ。
ロバートは大きな獲物のうちでは、小さな狐みたいな動物で、その白斑のある黒い毛皮は貂《てん》のそれに劣らない〈ヴィヴェリン・ダシュア〉と、大木の枝のなかにひそんでいたオポッサムの番《つがい》を非常にたくみに仕留めた。
しかしこれらすべての大手柄のなかでも一番面白かったのはもちろんカンガルーの狩りだった。犬は四時頃この珍しい有袋類の一群を追い出した。子供はあわただしく母親の袋のなかにはいり、全員は一列になって逃げ出した。カンガルーのこの猛烈な跳躍以上に驚くべきものはなかった。前脚より二倍も長い後脚は|ばね《ヽヽ》のように働くのである。
逃げて行く一団の先頭には、ブッシュマンたちが〈おやじ〉と言っている、〈macropus giganteus〉のすばらしい見本である体長一五〇センチばかりの牡が走っていた。
六・五キロか八キロのあいだ猟は活溌におこなわれた。カンガルーは疲れなかったし、犬は鋭い爪のある逞しいその前脚を恐れて(それも当然だったが)彼らに近づく気はなかった。しかしとうとう走るのに疲れ切って群れは停止し、〈おやじ〉は一本の木の幹を背にして闘おうと身構えた。一匹のポインターが気のはやるままに〈おやじ〉のそばへ寄って行って駈けまわった。一瞬後には不幸な犬は空中に投げ出され、腹を割かれて落ちて来た。もちろん犬の群れ全体でかかってもこれらの強力な有袋類を制圧することはできなかったろう。それゆえいよいよ銃を持ち出さねばならず、この巨大な獲物を倒すことができたのは銃弾だけだった。
このときロバートはもうすこしでその無謀さの報いを受けるところだった。狙いを確実にしようとして彼はカンガルーのすぐそばに近づいたので、カンガルーは一躍して飛びかかって来た。メァリ・グラントは四輪馬車の上で恐怖に打たれ、声も出ず、ほとんど目も見えずに弟のほうへ手をさしのばした。ハンターたちは一人として動物にむかって射つ勇気はなかった。子供に当る危険もあったからだ。
しかし突然ジョン・マングルズが猟刀の刃を開いて、腹を割かれる危険を冒してカンガルーに躍りかかり、その心臓を刺した。獣は倒れ、ロバートは傷一つなく立ち上った。一瞬後には彼は姉の腕に抱かれていた。
「ありがとう、ジョンさん! ありがとう!」と、若い船長に手を差し出しながらメァリ・グラントは言った。
娘の顫える手を取りながら、
「この子のことは私が責任を持っていましたから」とジョン・マングルズは答えた。
この事件をもって狩猟は終った。有袋類の群れはボスが死んでしまうと散り散りになってしまい、ボスの屍体は住居に運ばれた。もう午後六時だった。すばらしい晩餐がハンターたちを待っていた。いろいろの料理のなかでも、土地風に作ったカンガルーの尾のスープが大いに受けた。
デザートのアイスクリームとシャーベットの後で一同はサロンへ移った。その宵の時間は音楽に捧げられた。非常に優れたピアニストであるレイディ・ヘレナはスクウォッターたちにその才能を披露して見せた。マイクルとサンディ・パタスンはグーノ、ヴィクトール・マッセ、フェリシアン・ダヴィッド、それのみかあの理解されぬ天才リヒァルト・ヴァーグナーの最新の楽譜からいくつかのパッセージを申し分のない趣味をもって歌って聞かせた。
一一時にお茶が出された。ほかのいかなる国民も真似のできないあのイギリス風の完璧さで淹《い》れてあった。しかしパガネルはオーストラリア風のお茶を飲みたいと言っていたので、彼のところにはインクのように黒い液体が持って来られた、一リットルの水で二〇〇グラムのお茶を四時間かけて煮たものなのだ。パガネルは渋面を作りながらもこの飲み物は非常においしいと言った。
夜の一二時にステーションの賓客たちはそれぞれ涼しい居心地のいい寝室に案内され、この日一日の楽しみを夢のなかでも見つづけた。
翌日は夜明けのうちに彼らは二人の若いスクウォッターに別れを告げた。しきりに感謝の言葉やら、ヨーロッパで、マルカム・カースルで再会しようという約束やらが交わされた。それから牛車は動き出し、ホッタム山の裾《すそ》をまわり、間もなくあの住居は束の間の幻影のように旅行者たちの目から消えた。しかしなお八キロのあいだ彼らの馬の足はステーションの地所の上を踏んでいた。
九時になってやっと最後の柵を越え、小さな一隊はヴィクトリア州のほとんど未知の地域にはいって行った。
[#改ページ]
十八 オーストラリア・アルプス
巨大な障壁が南東で道を横切っていた。それはオーストラリア・アルプスの山脈だった。広大なこの要塞は、そのうねうねとした斜面を二四〇〇キロにわたって連ね、地上一二〇〇メートルのところで雲の行き来を阻んでいる。
曇った空は蒸気の目のつまった布で漉《こ》された光しか地上に送って来なかった。温度はこのため凌ぎやすかったが、しかしすでにひどく凹凸《おうとつ》の激しくなっている地面を進むことは困難だった。平原の隆起はだんだんはっきりして来た。若い緑のゴムの木の生えた円丘がいくつかあちこちにふくらんでいる。もっと遠くには、もっと輪郭のはっきりしたこうした瘤が大アルプスの前哨《ぜんしょう》をなしていた。間断なく登って行かねばならず、そのことは重い牛車の牽引力で軛《くびき》がきしむ牛たちの労苦ではっきりとわかった。彼らはやかましく鼻息を吹き、その脛《すね》の筋肉は張り裂けそうなまでに緊張した。車の横板は、いかに堪能なエアトンといえども避けることのできない思いがけないショックのたびに軋んだ。婦人たちはそれも仕方ないものとあきらめてはしゃいでいた。
ジョン・マングルズと二人の水夫は数百歩前に出て道を偵察した。彼らは通れそうな通路を選んだ。通れそうな水路といってもおかしくないほどなのだ。というのは、こうした地面の急激な高低は暗礁をなしていて、牛車はそのあいだを縫って一番いい水路をさがして行くのだから。これはまさに波のようなうねる地面のなかの航海だった。
困難な、しばしば危険な仕事だった。何度もウィルスンの斧は密生した灌木のまんなかに通路をきりひらかねばならなかった。粘土質のじめじめした地面は足を支えなかった。高い花崗岩の岩塊や深い凹みや安心のできない沼沢などの乗り越えられない障害のため、どうしても迂回しなければならず、それで行程は長くなった。それゆえ夕方になってかろうじて半度(経度半度の意味)の行程を終えただけだった。一行はアルプスの麓のコボングラの小川のほとり、淡い赤いその葉が人の目を楽します一、二メートルばかりの灌木におおわれた平原の縁に野営した。
「あれを通り越すのはむずかしいぞ!」と、すでに夕闇のなかにそのシルエットを溶けこませて行く山脈を眺めながらグレナヴァンは言った。「アルプスか! こういう呼称はちょっと考えものだね!」
「少々割引きして考えなくちゃ駄目だよ、グレナヴァン君」とパガネルは答えた。「スイスをはしからはしまで横切るのと同じだなんて考えてはいけない。オーストラリアにはヨーロッパやアメリカと同じく、グランピアンもピレネーもアルプスもブルー・マウンテインズもあるが、すべて小規模なんだ。このことは地理学者の想像力が無限ではないこと、もしくは固有名詞の語彙はまことに貧しいということを証明するにすぎない」
「それではオーストラリア・アルプスは?……」とレイディ・ヘレナがきいた。
「ポケット版の山なんです」とパガネルは答えた。「気がつかないうちに越えてしまいますよ」
「そいつは君のことじゃないか!」と少佐が言った。「全然気づきもせずに山脈を越えるなんていうのはうっかりした人間だけさ!」
「うっかりした!」とパガネルは叫んだ。「しかし私はもううっかりしてはいないよ。その点についてはこの御婦人方の判定にお任せするがね。この大陸に足を踏み入れて以来、私は約束を守らなかったかね? たった一度でもうっかりしたことがあったかね? 咎《とが》められるような過失が私にあるかね?」
「全然ありませんわ、パガネル先生」とメァリ・グラントが言った。「今では先生は一点非の打ちどころのない人間でいらっしゃいます」
「そうではありませんか、奥さま?」とパガネルは言った。「私に欠陥がなくなったら、私は誰とも同じ人間になっちまう。だから私は近いうちに、あなたがたが心から笑うようなすばらしいしくじりをやらかしたいと思っていますよ。わかりますか、私は間違いをやらないと自分の使命を果していないような気がするんです」
翌一月九日には、楽観的な地理学者の保証にもかかわらず、アルプスの峠にさしかかった一行は非常な困難を味わわずにはすまなかった。盲滅法に進み、行き止りになるかもしれない狭く深い峡谷を通って行かねばならなかった。
一時間ほど進んだ後に一軒の宿屋が、みすぼらしい〈タップ〉が思いがけず山道のほとりにあらわれなかったとすれば、エアトンはおそらく進退きわまったことだろう。
「いやはや!」とパガネルは叫んだ。「この居酒屋の主人はこんな場所では金をためることはできまいて! こんな居酒屋が何の役に立つんだろう?」
「これからの進路についてわれわれの必要な情報を与えてくれるためにさ」とグレナヴァンは答えた。「はいろう!」
グレナヴァンはエアトンを連れて宿屋のなかにはいった。〈ブッシュ・イン〉――という名が看板に出ていた――の主人は取りつく島のないような顔をしており、自分の酒場に置いてあるジンやブランディやウィスキーについては自分自身を第一の顧客とみなしていたに相違ない。普通は彼は旅のスクウォッターたちや畜群を追う牧夫にしか会うことがなかったのだ。
彼は自分に向けられた質問に不機嫌そうな顔で答えた。しかし彼の答を聞いただけでエアトンは進路について決定を下すことができた。グレナヴァンは主人の労に報いていくつかのクラウン貨を与え、それから酒場から出ようとしかけたとき、壁に貼った札が彼の目をひいた。
それは植民地警察の通牒だった。それはパースの囚人の脱走を知らせ、ベン・ジョイスの首に賞金をつけていた。彼を引き渡したものには一〇〇ポンド与えるというのである。
「こいつは確かに絞首刑に価する悪党にちがいないね」とグレナヴァンはエアトンに言った。
「何よりもまず、引っ捕えてやる値打ちがありますよ」とエアトンは答えた。「一〇〇ポンド! これは大した金額ですよ! それほどの人間ではありますまい」
「あの主人も」とグレナヴァンはつけくわえた。「あんな貼札を出してはいるが、私にはどうも油断できない」
「私もです」とエアトンは答えた。
グレナヴァンとクウォータマースターは牛車のところへ帰った。一行はラクノー街道が行き止まりになっている地点にむかった。そこには山脈をななめに横切っている狭い山道が蛇行していた。登りがはじまった。
それは苦しい登りだった。一度ならず婦人たちも男たちも地面に降りねばならなかった。重い車に手をかし、車輪をつかんで押したり、しばしば危険な傾斜面で車を引き留めたり、急な曲り角では自由のきかなくなる牛たちを車からはずしたり、後もどりしようとする牛車の車輪に何かを噛ませて止めたりしなければならなかった。そして一度ならずエアトンは、高所に登ることにすでに自分自身疲れてしまっている馬に加勢を求めねばならなかった。
この長くつづく疲労のためか、それとも全然別の理由からか、一頭の馬がその日のうちに斃れた。いかなる徴候もなく、そんなことになるとは予想もできないうちに突然ぶっ倒れたのである。それはマルレディの馬だった。そして彼が引き起そうとしてみると馬は死んでいた。
エアトンは地面に横たわっている馬を調べに来たが、この急死が何によるのか全然わからない様子だった。
「この馬はどこかの血管が破れたにちがいない」とグレナヴァンが言った。
「あきらかにそうです」とエアトンは答えた。
「私の馬に乗るんだ、マルレディ。私はレイディ・ヘレナと一緒に牛車で行く」とグレナヴァンはつけくわえた。
マルレディはその言葉に従い、そして小さな一隊は馬の屍骸を鴉《からす》どもにゆだねて苦しい登りをつづけた。
オーストラリア・アルプス山脈はあまり深くはなく、その麓は幅一三キロにもなっていない。だからエアトンの選んだ峠が山の東側に通じているならば、四八時間後には一行はこの高い障壁を乗り越えているはずだった。そうなればもう海までは乗り越えられぬ障害や難路はない。
一八日のうちに旅行者たちはおよそ六〇〇メートルの峠の最高点に立った。そこは開けた高原で、眺望は遠くまでひろがっている。北のほうには水鳥が点々としているオメオ湖の静かな水面がきらめき、その向うはマレイの広々とした平原だ。南にはギプスランドの緑の平面、金を豊かに産するその土地、その喬木林が原始の国のような景観をもってひろがる。そこでは自然はまだ、水流や斧鉞《ふえつ》の加わっていない喬木などの自分の生み出したものを支配していて、これまではめったに入りこんでいないスクウォッターたちもその自然とあえて闘おうとしていなかった。このアルプスの山なみは相異なる二つの地方を分ち、その一方はまだ原始をとどめているのであった。
今や日は沈み、幾筋かの光が赤い雲をつらぬいてマレイ地区の色彩を賑わしていた。反対に山々のかげにかくれたギプスランドはぼんやりとした闇に沈み、まるで影がこのアルプスの向うの地方をあまりにも早い夜のなかに浸したとでもいうようだった。この対照はかくも截然《さいぜん》と分れたこの二つの国の中間に立って眺めるものには強烈に感じられ、自分らがこれからヴィクトリア州の州境まで横切って行くほとんど未知のこの地域を見おろしていることに彼らはある感慨をおぼえるのだった。
一行はその高原に野営した。そして翌日|降《くだ》りがはじまった。降りはかなり速かった。猛烈に激しい霰《あられ》が旅行者たちを襲い、岩かげに身をかくさねばならなかった。嵐の雲から落下して来るものは霰の粒などではなく、本当の氷の板だった。投石器といえどもこれほど激しく投げつけて来はしないだろう。いいかげんひどい打撲傷をいくつか身に受けてパガネルとロバートは霰を避けねばならぬことを思い知らされた。牛車はそこらじゅうに穴をあけられた。木の幹にめりこんでいるものすらいくつかあるほどのこの鋭い氷塊の落下に堪えられるような屋根などはそうめったにはなかったろう。殺されまいとすればこの物凄い驟雨《しゅうう》の終るのを待たねばならなかった。およそ一時間ほどでそれは終り、一行はまた霰のために濡れてひどく滑る傾斜した岩の上を降りはじめた。
夕方ごろ牛車はひどく揺れて車体のいろいろな個所をばらばらにしながら、それでも木の円盤の車輪の上に鎮座して、ぽつんぽつんと立っている樅の大木のあいだを縫ってアルプスの最後の降りを下りて行った。峠道はギプスランドの平原に通じていた。アルプスの山なみは今こうして首尾よく越えられ、夜の野営のためのいつもの準備がなされた。
一二日の夜明け早々、あいかわらず衰えない熱意をもって旅はまたはじまった。誰もが目的地に、すなわち太平洋に、〈ブリタニア〉が難破したその場所に早く着きたいと思っていた。遭難者の足跡を実際に発見し得るのはそこであって、ギプスランドのこのような人気のない地方ではないのである。それゆえエアトンはロード・グレナヴァンに、捜索のすべての手段を手許におくために〈ダンカン〉に海岸へ廻航するように命令を出すことをしきりにすすめた。彼の考えでは、メルボルンに通ずるラクノー街道を利用すべきだというのであった。もっと後になるとそれはむずかしくなる、首府と直接連絡する道は全然なくなるから、と。
このクウォータマースターの勧告は実行する価値のあるもののように思えた。パガネルはそれを考慮に入れるようにすすめた。彼はまた、このような場合にはヨットがいてくれれば非常に役に立つと考え、そしてラクノー街道を通り過ぎてしまうとメルボルンと連絡することはできなくなるとつけくわえた。
グレナヴァンは決心がつかなかった。そしてもし少佐が非常に断固としてその決定に反対しなかったとすれば、エアトンが特別に要求したその命令を送ったかもしれない。少佐はエアトンの存在は一行のために必要であること、海岸に近づくにつれてエアトンは土地にくわしくなること、たまたまこのキャラヴァンがハリー・グラントの足跡を見つけ出したとすれば、クウォータマースターは誰にもましてその跡をつける能力を持っていること、結局〈ブリタニア〉が難破した場所を指示し得るのは彼だけであることを証明したのである。
それゆえマクナブズはこれまでの計画を全然変えずに旅をつづけることを主張したのであった。彼はジョン・マングルズを味方に持った。ジョン・マングルズは彼の意見に賛同したのである。それのみか若い船長は、閣下が命令を下す場合、トゥーフォールド・ベイから発したほうが、三〇〇キロの未開の土地を走らねばならぬ飛脚に託すよりも容易に〈ダンカン〉にとどくだろうと指摘したのだ。この意見が勝った。トゥーフォールド・ベイに到着するのを待って行動に移ることに話はきまった。少佐はエアトンを観察した。エアトンは大分がっかりしているように彼には見えたのだ。しかしエアトンはそれについて何も言わず、いつもの習慣を守って自分の意見を打ち明けようとしなかった。
オーストラリア・アルプスの麓にひろがる平原は東のほうへわずかに傾いているだけで平坦であった。ミモザ、ユーカリ、各種のゴムの木の大きな木立ちがあちこちで単調な斉一性《せいいつせい》を破っていた。〈ガストロロビウム・グランディフロルム〉は目覚めるような花をつけた灌木を地面一杯に林立させていた。いくつかの小さな小川が、すべて小型の蘭が一面に生え、蘭科の植物がのさばっている細流にすぎなかったが、しばしば道を横切っている。一行はそこを徒渉した。旅人が近づくのを見て遠くの野雁や火食鳥の群れが逃げ出す。灌木の上をカンガルーたちが弾力のある操り人形の群れといった風に飛び跳ねている。しかし一行のなかの猟好きの連中も猟をする気にはどうもなれず、彼らの馬のほうも余計な労力を費すことは迷惑だった。
その上むしむしとした暑さがあたり一帯にのしかかっていた。激しい荷電が大気を飽和していた。動物も人間もその影響を蒙った。彼らはただひたすらに前へ前へと進むだけだった。沈黙を乱すのは疲れ切った牛を励ますエアトンの叫びだけだった。
正午から二時まで一行は奇妙な羊歯《しだ》の林を横切ったが、これほど疲れ果てていない人々だったならばこの林を見て感嘆したことであろう。これらの木本植物はちょうど花の盛りで、高さは九メートルに及んでいた。馬も乗り手もその垂れ下る小枝の下を自由に通ることができ、時々拍車の歯車がその木質の茎に当って鳴った。この動かぬパラソルの下には、誰一人として文句の言いようのない涼しさがたちこめていた。いつも感情をはっきりあらわすジャック・パガネルは満足そうな溜息を幾度かつき、それに驚いて鸚鵡やインコの群れが飛び立った。耳を聾《ろう》するような囀《さえず》りの合奏が起こった。
地理学者はますます派手に叫んだりはしゃいだりしていたが、そのうち彼の仲間たちは彼が突然馬上でよろめいてどさりと倒れるのを見た。目まいでもしたのだろうか、いやそれよりも、暑さのため窒息したのだろうか? 人々は彼のところへ駈けつけた。
「パガネル! パガネル! どうしたんだ?」とグレナヴァンは叫んだ。
「いや、なに、馬がなくなってしまったのさ」とパガネルは鐙《あぶみ》から足を抜き出しながら答えた。
「何だって! 君の馬が!」
「死んだんだ、マルレディの馬のように頓死さ!」
グレナヴァン、ジョン・マングルズ、ウィルスンは馬を調べてみた。パガネルは間違っていなかった。彼の馬は今頓死したのだった。
「こいつは奇妙だ」とジョン・マングルズは言った。
「実際すこぶる奇妙だ」と少佐はつぶやいた。
グレナヴァンはこの新しい事故をいつまでも気に病んではいなかった。この無人境では新しい馬を買うことはできない。ところで、もし伝染病が一行の馬を襲ったとすれば、旅をつづけることは非常に困難だろう。
ところが、この日の終らぬうちに〈伝染病〉という言葉はどうしても当っていると思わねばならないように思えて来た。さらにまた一頭の馬、ウィルスンの馬が死んだ。しかもこれはおそらくもっと重大なことだったが、一頭の牛が同じくやられたのだ。乗用と牽引《けんいん》用にはもはや三頭の牛と四頭の馬しかなくなってしまった。
事態は由々《ゆゆ》しいものとなった。馬を失った乗り手は結局のところあきらめて徒歩で行くことにすればよかった。多くのスクウォッターたちがこの無人の地方をすでにそうして歩いていたのである。しかし牛車を捨てねばならないとすれば、婦人方はどうなることであろうか? トゥーフォールド・ベイまでのまだ一九〇キロの道のりを彼女らは歩き通せるだろうか? ジョン・マングルズとグレナヴァンは気が気でなく、生き残った馬たちを調べてみた。もしかするとこれ以上事故が起こるのを防ぐことができるかもしれない。調べてみた結果いかなる病気の徴候も、いや、衰弱の徴候すら認められなかった。動物たちの健康は申し分なく、旅の疲れに健気に堪えていた。グレナヴァンはそれゆえこの奇妙な伝染病に斃れるものはもういまいという希望を持った。
それはまたエアトンの意見でもあった。彼はこの頓死の理由は全然わからないと告白していたのだ。
人々はまた進みはじめた。歩き疲れた連中は牛車に乗せてもらって休息した。その夕べはわずか一六キロ歩いただけで停止の合図が出され、設営がおこなわれ、木本性羊歯の大きな茂みの下で無事にその一夜は過ぎた。適切にも〈飛ぶ狐〉と名づけられた巨大なコウモリが羊歯のあいだを飛び交っていた。
その翌日の一月一三日は泰平な一日だった。前日のような事故はくりかえされなかった。一行の健康状態は終始満足すべきものだった。馬も牛も元気よく務めをはたした。レイディ・ヘレナのサロンは押しかけて来る多数の訪客のおかげで非常ににぎやかだった。三〇度もの暑さのためどうしても必要な冷い飲み物を供するのにミスタ・オルビネットは大活躍をした。スコッチ・エールがまるまる半樽消費された。人々はバークレー会社の社長を大英帝国最大の人物だと宣言した。ウェリントン以上だというのだ。ウェリントンはこれほど上等なビールなど作ったことはないのだから。これはスコットランド人の自尊心である。ジャック・パガネルは大いに飲み、de omni re scibili(「人間の知り得るすべてのこと」の意で、ルネサンス期のイタリアの哲学者ピコ・デ・ミランドーラの言葉)についてますます論じ立てた。
このように幸先のいい一日は終りもいいに相違ないと思われた。二四キロはたっぷり進んで、かなり起伏の多い赤みがかった土の地方を無事に横切った。ヴィクトリア州の南部で太平洋に注ぐ大きな河スノウイ・リヴァーの畔にその夜は野営できるものとあらゆる点からして期待できた。間もなく牛車の車輪は繁茂した草の茂みとガストロロビウムの原野のあいだを縫って、黒っぽい沖積土の広々とした平原に轍《わだち》の痕を穿《うが》って行った。夕べになり、地平線にはっきりと輪郭を描く霧がスノウイ河の流れを示していた。牛たちを励ましてなお七、八キロ進んだ。土地のちょっとした隆起のうしろで道が曲っているところに喬木林がそびえていた。エアトンは少々過労気味の牛たちを闇のなかに沈んでいる太い幹のあいだに進めた。そうして河から七、八百メートルほどのところで林の縁をすでに通り越したとき、牛車は突然車の轂《こしき》のところまではまりこんだ。
「気をつけてください!」と彼は馬に乗って後続する人々に叫んだ。
「一体どうしたんだ?」とグレナヴァンがきいた。
「ぬかるみにはまったんです」
声と突棒でエアトンは牛たちを励ましたが、脚の半ばまではまりこんだ牛たちは動くことができなかった。
「ここで野営しよう」とジョン・マングルズは言った。
「それが一番いいでしょう」とエアトンは答えた。「明日、明るいところで何とか切り抜けるようにしてみましょう」
「停止!」とグレナヴァンは叫んだ。
短い黄昏の後に夜はたちまちやって来たが、暑さは光とともには去らなかった。大気は息苦しいばかりに蒸気を含んでいた。遠い嵐のまばゆい反射である稲妻がいくつか地平線に燃え上った。宿営地はととのえられた。ぬかるみにはまった牛車もどうにかこうにか恰好がつけられた。喬木の暗いドームは旅行者たちのテントをおおっていた。もし雨がやって来なければ文句を言うまいと彼らは決心していた。
エアトンは大分骨を折って三頭の牛を不安定な地面から引き出すことに成功した。この勇敢な動物たちは腹まで泥にはまっていたのである。クウォータマースターは彼らを四頭の馬と一緒に囲った。そして彼らの飼い葉を捜すことは他の誰にもまかせなかった。それにまた彼はこの仕事を非常にたくみにしてのけるのだったが、この夜はグレナヴァンは彼がいつにもまして丹念にそうするのを目に止めた。グレナヴァンはそのことを彼に感謝した。なぜなら牛を守ることは死活の問題だったからである。
そのあいだ旅行者たちはかなり質素な夕食を取った。疲れと暑さのあまり飢えは感じられなかったので、彼らは食べ物ではなく休息を必要としていた。レイディ・ヘレナとミス・グラントは夜の挨拶を仲間たちにしてからいつもの臥床《ふしど》に帰った。男たちはどうかといえば、あるものはテントの下にもぐりこみ、他のものは自分の好みで木の根もとの厚い草の上に横たわった。この健康な国ではそうしても害はないのである。
だんだんと人々は重苦しい眠りに沈んで行った。空をおおう厚い雲の幕の下で闇は濃くなった。大気のなかにはそよとの風もなかった。夜の静寂を乱すものは、ヨーロッパの悲しげな郭公《かっこう》のように驚くべき正確さで短三度を出して見せる〈モーポーク〉の咽《むせ》ぶような声だけだった。
一一時ごろ、重苦しく精気を奪う不快な眠りの後に少佐は目を覚ました。半ば閉じたままの彼の目は大木の下を動いているぼんやりとした光に打たれた。それは湖の水のようにきらめく白っぽい布かと思われ、マクナブズは最初、火事になりかかっていて、その光が地上にひろがっているのではないかと思った。
彼は立ち上り、森のほうへ歩いて行った。自分がまったく自然な一つの現象に面しているのを知ったときの彼の驚きは大きかった。彼の目の下には燐光を放つ蕈《きのこ》がたくさん集まって広い面をなしていたのである。これらの隠花植物の発光する胞子は闇のなかでかなり強烈に光っていたのだ。〔この事実は Agaricus olearicus 科に属するものと思われるある蕈に関して、ドリュモンによってオーストラリアですでに観察されていた〕
少佐は決してエゴイストではないから、パガネルがこの現象を自分の目で確認できるように彼を起こしに行こうとしたが、ある事件が彼を引き止めた。
燐光は七、八百メートルにわたって森を照らしていたが、マクナブズはその光のとどく範囲のはしのほうを物の影がすばやく横切るのを見たように思ったのだ。それは目の迷いだったろうか? 彼は錯覚に欺かれていたのだろうか? マクナブズは地面に横になった。そして綿密に観察したあげく彼は何人かの男たちをはっきりと認めた。その男たちは身をかがめたり身を起こしたりしながら、まだ真新しい足跡を地面にさがしているように見えた。
これらの男たちが何をしようとしているかを知らねばならなかった。
少佐はためらわなかった。そして仲間たちを起こさずに草原に住む蛮人のように地上を這いながら彼は背の高い草のなかに姿を消した。
[#改ページ]
十九 局面一転
それは恐ろしい一夜だった。午前二時に雨が降り出した。嵐を孕《はら》んだ雲が夜の明けるまで降り注いだ。篠つく雨だった。テントではもう間に合わなかった。グレナヴァンと仲間たちは牛車のなかに逃げこんだ。彼らは眠らなかった。あれやこれやと彼らはおしゃべりした。少佐だけは――彼がちょっと姿を消していたことに人々は気がついていなかったのだが――一言もいわずにただ耳を傾けていた。すさまじい豪雨は間断《かんだん》なく降りつづいた。スノウイ河が氾濫しはしないかと心配しなければならぬほどだった。やわらかい土にはまりこんだ牛車にとっては、そうなったら大事《おおごと》である。それゆえ一度ならずマルレディ、エアトン、ジョン・マングルズは河の水位を調べに行き、頭から爪先までびしょびしょになって帰って来た。
ついに朝になった。雨はやんだが、日光は雲の厚い幕をつらぬくことができなかった。濁った泥水の沼というべき黄色っぽい水の大きな溜りが地面をきたならしく見せていた。温い湯気が水に浸された土地から立ち昇り、不健康な湿気で大気を満した。
グレナヴァンはまず第一に牛車のことに気をつかった。彼にとってはそれが一番肝要なことだったのだ。この重い乗物を人々は調べてみた。牛車は大きな窪のまんなかで濃い粘土のなかにはまりこんでいた。前輪はほとんど完全に没し、後輪は車軸と轂《こしき》の接合部まで没している。この重い代物を引き出すのは大変な骨折りであり、人間と牛と馬の全力を合わせてもまだ充分すぎるとはいえなかったろう。
「いずれにしても急がなくちゃならん」とジョン・マングルズは言った。「この粘土が乾いて来たら仕事はむずかしくなる」
「急ぎましょう」とエアトンも言った。
グレナヴァンと二人の水夫とジョン・マングルズとエアトンは牛馬が夜を過ごした森にはいった。
それは無気味な様子の高いゴムの林だった。大きく間隔を取った、その幹はもう何百年も前から皮の剥げた、いや、収穫のときのコルク槲《がし》のように皮を剥がれた枯木ばかりだった。地上六〇メートルのところに葉の落ちた枝をわずかに交叉させているにすぎない。この空中の骸骨には一羽の鳥も巣を作っていなかった。骨の堆積のように乾燥してかちかちと音を立てるこの小枝には一枚の葉もそよいでいなかった。林全体が伝染的に枯死するという、オーストラリアにはかなりしばしば見られるこの現象は、いかなる天災によるものであろうか? それはわからない。一番年を取った原地民も、もうずっと昔に死者の森に埋められたその先祖も、その林が青々しているのを見たことはなかったのである。
グレナヴァンは歩きながら、ゴムの木の一番小さな小枝が繊細な切り抜きのようにくっきりと浮き出している鼠色の空を眺めた。エアトンは自分が連れて来ておいたところに馬も牛も見えぬことに驚いた。足枷をかけたあの動物が遠くへ行けるはずはなかったのに。
森のなかで捜したが見つからなかった。エアトンはびっくりして、すばらしいミモザが垣を作っているスノウイ・リヴァーの岸のほうへもどった。彼は牛たちのよく知っている叫び声を上げてみた。牛たちは答えなかった。クウォータマースターは非常に不安そうだった。そして彼の仲間たちは当惑の目を見交わした。
一時間は空しい探索のうちに過ぎた。そしてグレナヴァンは一・五キロはたっぷりある牛車のところへ帰ろうとしかけたが、そのとき馬の嘶《いなな》きが彼の耳朶《じだ》を打った。ほとんど時を移さず牛の声がした。
「あそこにいる!」とジョン・マングルズは、動物の群れをかくすくらい高く茂ったガストロロビウムの藪のなかへすべりこみながら叫んだ。
グレナヴァン、マルレディ、エアトンは彼の後を追って駈け出し、やがて彼と同じく茫然とした。
二頭の牛と三頭の馬がほかのものと同様に頓死して地面に横たわっていた。屍骸はすでに冷たく、痩せた鴉の一群がミモザのなかで鳴きながらこの思いがけない餌食を狙っていた。グレナヴァンと仲間たちは顔を見合わせ、ウィルスンは喉にこみあげて来た罵りの言葉をおさえることができなかった。
「しかたがないよ、ウィルスン」とロード・グレナヴァンはかろうじて自分を抑えて言った。「われわれにはどうすることもできない。エアトン、残った牛と馬を連れて行ってくれ。何とかしてこいつらの力をかりてこの羽目から抜け出さねばならん」
「牛車がぬかるみにはまっていなければ、一日の行程をすくなくしてこの二頭だけで海岸地方まで牛車を挽いて行くことができるでしょう。ですから何としてもあの困った乗物を引き出さねばなりません」とジョン・マングルズが言った。
「やってみよう、ジョン」とグレナヴァンは答えた。「野営地へ帰ろう。あちらではわれわれがいつまでも帰らないので不安になり出しているにちがいない」
エアトンは牛の、マルレディは馬の足枷をはずした。そして彼らは曲りくねった河に沿って帰った。
半時間の後パガネルとマクナブズ、レイディ・ヘレナとミス・グラントは事の次第を知った。
「まったくの話、こいつは困ったことだ!」と少佐は思わず言ってしまった。「エアトン、君はウィメラ河の渡し場でどうして全部の馬の蹄鉄を替えさせておかなかったんだい?」
「それはまたどうして?」とエアトンはきいた。
「だって、われわれの馬のうち、例の蹄鉄工の手にかかった奴だけがほかの奴らと同じ運命におちいっていないじゃないか!」
「それは事実です」とジョン・マングルズは言った。「こいつは奇妙な偶然だ!」
「まったくの偶然ですよ、それ以上のものじゃありません」と、少佐をひたと見つめながらクウォータマースターは言った。
マクナブズは今にも口を衝いて出ようとしている言葉を抑えようとするかのように唇を噛みしめた。グレナヴァン、ジョン・マングルズ、レイディ・ヘレナは彼が言いかけたことを全部言ってしまうのを期待したが、少佐は沈黙を守り、エアトンが調べている牛車のほうへむかった。
「どういうつもりだったんだろう?」とグレナヴァンはジョン・マングルズに言った。
「わかりません。けれども少佐は理由もなしに何かを言うような方ではありません」
「そうですよ、ジョン」とレイディ・ヘレナが言った。「マクナブズはエアトンについて疑惑を抱いているに相違ありません」
「疑惑を?」肩をすくめてパガネルが言った。
「どんな疑惑だ?」とグレナヴァンは反問した。「あの男がわれわれの馬や牛を殺したかもしれないと考えているのか? しかしどんな目的で? エアトンの利害はわれわれのそれと同じではないかね?」
「おっしゃるとおりよ、エドワード」とレイディ・ヘレナは言った。「そして私は、あのクウォータマースターは旅行のはじめから疑う余地のない献身のしるしを示して来たとつけくわえましょう」
「それはそうでしょう。でもそれならば少佐のあの言葉は何を意味するんでしょう? 私はその点はっきりさせずにはいられません」とジョン・マングルズは答えた。
「それではあいつがあの囚人どもと通謀しているとでも考えているのかな?」とパガネルは思慮を忘れて叫んだ。
「どんな囚人ですの?」とミス・グラントがきいた。
「それはパガネル先生の考え違いです」とジョン・マングルズはあわてて言った。「ヴィクトリア州に囚人がいないことは先生もよく御承知でしょう」
「いやはや、まったくそのとおりだった!」自分の言葉を撤回しようとしてパガネルはすぐ言った。「私の頭は一体どこについているんだろう? 囚人だって? オーストラリアで囚人の噂を聞いたものなんかいるだろうか? それにまた、上陸するや否や彼らもまったく正直な人間になっちまうんだ! 風土ですよ! ごぞんじでしょう、ミス・メァリ、教化的な風土ですよ……」
気の毒な学者は自分のしくじりを償おうとして牛車と同じ羽目になった。ぬかるみにはまりこんでしまったのだ。レイディ・ヘレナは彼を見ていた。そのために彼は一切の冷静さを失ってしまった。しかしこれ以上彼を困らせまいとして彼女はミス・メァリをテントのほうへ連れて行った。そこではミスタ・オルビネットが料理法をいささかもゆるがせにせずに朝食をととのえているところだった。
「私こそ流刑に価するよ」とパガネルは情ない顔をして言った。
「私もそう思うね」とグレナヴァンは答えた。
尊敬すべき地理学者を打ちのめすほどの真面目な顔で言われたこの返事の後、グレナヴァンとジョン・マングルズは牛車のほうへ行った。
ちょうどこのときエアトンと二人の水夫は牛車をその広い轍の跡から引き出そうとして苦労していた。ならんで繋がれた牛と馬は渾身の力で引っぱった。繋索《けいさく》は切れそうなまでに張り、あまり踏んばるので首輪は今にもはじけそうだった。ウィルスンとマルレディは車輪を押し、一方クウォータマースターは声と突棒でこのちぐはぐな動物たちを励ましていた。重い車は動かなかった。粘土はすでに乾いて水硬性セメントで固めたように車を引き止めていた。
ジョン・マングルズは粘土の粘着力を減らすために水をかけさせた。それも徒労だった。牛車は依然として動かなかった。また幾度か頑張ってみたあげく人も動物も動くのをやめた。分解でもしないかぎり車をぬかるみから引き出すことはあきらめるほかはなかった。ところが分解するには道具がなかったので、そのような仕事をはじめることはできなかった。
それでも、何としてもこの障害を乗り越えようとするエアトンはあらたな努力を試みようとしていたが、ロード・グレナヴァンはそれを引き止めた。
「もういい、エアトン、もういい」と彼は言った。「残った牛と馬をいたわらなくちゃならん。徒歩でなお進みつづけねばならないとすれば、一頭が女性のうちの一人を乗せ、もう一頭がわれわれの食糧を運ぶのだ。だからまだ充分役に立つことができる」
「わかりました、ミロード」と、疲れ切った動物を車からはずしながらクウォータマースターは言った。
「それでは、諸君、キャンプに帰ろう、相談し、事態を検討し、どうするほうが有利かを考え、決断するのだ」
しばらく後に旅行者たちはそう悪くない朝食で惨憺たる夜の疲れを癒し、討議がはじまった。誰もが意見を述べるように促された。
まず第一にキャンプの位置をきわめて正確に測定することが必要だった。それについて依頼されたパガネルは必要なだけの厳密さをもって測定して見せた。彼によれば一行は緯度三七度経度一四七度五三分のスノウイ・リヴァーの畔《ほとり》に停止していた。
「トゥーフォールド・ベイの正確な位置は?」とグレナヴァンはきいた。
「一五〇度」とパガネルは答えた。
「ではその差の二度七分は?……」
「一二〇キロに当る」
「で、メルボルンは?……」
「すくなくとも三〇〇キロ離れている」
「よろしい。われわれの位置はそのように決定されたのだが、どうするのがいいか?」
答は一致していた。ぐずぐずせずに海岸へ行くことである。レイディ・ヘレナとメァリ・グラントは一日八キロ歩くと誓った。勇敢なこの婦人たちはスノウイ・リヴァーからトゥーフォールド・ベイまでの距離を、必要とあれば徒歩で行くことをも恐れなかったのだ。
「君は旅行家の健気な妻だよ、ヘレナ」とロード・グレナヴァンは言った。「しかしベイに着いたときに必要な物資をそこで見出せることは確実だろうか?」
「それはもちろんだ」とパガネルは答えた。「イーデンはもう何年も前から存在している町だ。その港はメルボルンと頻繁な連絡があるに相違ない。それどころか私は、ここから五六キロほどのヴィクトリア州境のデレゲイトの行政教区で、補給をおこなったり輸送手段を見つけたりすることができると思う」
「では〈ダンカン〉は?」とエアトンがきいた。「ベイへ廻航するように命じておくべきだとミロードはお思いになりませんか?」
「ジョン、君はどう思う?」
「その点についてはお急ぎになるべきではないと私は思います」ちょっと考えてから若い船長は答えた。「トム・オースティンに命令を与えて海岸に呼びよせることはいつになっても間に合うでしょう」
「それはまったくあきらかだ」とパガネルも言い添えた。
「四日か五日後にはわれわれはイーデンに着いていることをお考えください」とジョン・マングルズはさらに言った。
「四日か五日!」エアトンは頭を振って言った。「船長、後で後悔しまいと思うならば、二週間か二〇日と考えてください」
「一二〇キロ行くのに二週間か二〇日だって!」とグレナヴァンは叫んだ。
「すくなくともそれくらいです、ミロード。これからヴィクトリア州の最も困難な部分、スクウォッターたちの言うところでは何もない無人境、ステーション一つ建設され得なかった道もない藪におおわれた平原を横切るのです。斧か松明《たいまつ》を手にして進まなければなりますまい。信じていただきたいと存じますが、これでは速く進めませんよ」
エアトンはしっかりとした口調でこれを言った。問いかけの視線がパガネルの上に注がれたが、彼はうなずいてクウォータマースターの言葉を肯定した。
「その困難は私も認める」と、そのときジョン・マングルズは言った。「それならそれで、二週間後に閣下は〈ダンカン〉に命令をお発しになればいい」
するとエアトンは答えた。
「つけくわえて言いますが、主要な障害は道の悪いことから来るのではありません。しかしスノウイ・リヴァーを渡らなければならないのです。しかも水位の下るのを待たねばならぬ可能性が非常に多いのです」
「待つ!」と若い船長は叫んだ。「徒渉地点を見つけることはできないのか?」
「できるとは思いません。今朝私は実際に渡れるところをさがしてみたが、見つからなかった。この時期にこんなに流れの急な河にぶつかることはめったにありません。しかしこれは私には何ともしようのない廻り合せです」
「それでは広いのですか、そのスノウイ・リヴァーは?」とレイディ・グレナヴァンがきいた。
「広くて深いのです。河幅一キロ半もあって水勢は激しい。泳ぎの上手なものでも危険なしに横切ることはできますまい」
「よし、そんならボートを作ろう」と、疑うことを知らないロバートが叫んだ。「木を切り倒し、中を刳《く》り、それに乗れば、何もかもかたづいてしまう」
「なかなか言うね、グラント船長の息子は!」とパガネルは言った。
「そしてそれは正しい」とジョン・マングルズが受けた。「われわれはいずれそうせざるを得ないでしょう。だから私は空しい議論に時間を費す必要はないと思います」
「エアトン、君はどう思う?」とグレナヴァンはきいた。
「私は、ミロード、何らかの救援が来なければ私たちはまだスノウイ河畔に引き留められているだろうと思います!」
「要するに、君には何かもっといい案があるのか?」とジョン・マングルズがある苛立たしさをもってきいた。
「ええ、〈ダンカン〉がメルボルンを離れて東岸に来てくれたら!」
「ああ、あいかわらず〈ダンカン〉か! では〈ダンカン〉がいればわれわれが目的地に着くについてどういう便宜があるんだい?」
エアトンは答える前にしばらく考えた。それから彼はかなり曖昧《あいまい》に言った。
「私は自分の考えを押しつけようとする気は毛頭ありません。私がそう言うのは皆の利益のためと思うことです。閣下が出発の合図をお下しになりさえすれば私は出発するつもりです」
そう言って彼は腕を組んだ。
「それは答にはならんよ、エアトン」とグレナヴァンは言った。「君の案をわれわれに言ってくれ。そしてわれわれはそれについて話し合おう。君はどんな提案をするんだい?」
エアトンは静かな自信ありげな声で次のように述べた。
「私の提案は、現在のようなすべてのものを奪われた状態のままスノウイ河の向うへ踏みこまないことです。現在いるこの地で救援を待たねばなりません。そしてその救援は〈ダンカン〉からしか来ないのです。食糧のあるこの場所に野営しましょう。そしてわれわれのうちの一人がトム・オースティンにトゥーフォールドへ赴けという命令を伝えるのです」
ある驚きがこの思いがけない提案を迎えた。そしてジョン・マングルズはこの提案に対する反感をかくそうとしなかった。
「そのあいだに」とエアトンはつづけた。「あるいはスノウイ河の水嵩が減るかもしれません。そうすれば徒渉点を見つけることができましょう。あるいはまたボートに頼らねばならぬかもしれませんが、この場合はボートを作る時間もあります。これが、ミロード、私が御賛同を願いたいと思う案です」
「よろしい、エアトン」とグレナヴァンは言った。「君の考えは真剣な考慮に価する。一番の欠点は遅延を来《きた》すことだが、ひどい疲労や、おそらくはまた現実的な危険を避けることができよう。諸君、君らはどう思うかね」
「お話しになって、マクナブズさん」と、そこでレイディ・ヘレナが言った。「論議の最初からあなたは聞いてばかりいらっしゃって、自分ではひどく言葉を節していらっしゃるわ」
「あなたが私の意見を求められる以上、ごく率直に申し上げましょう。エアトンの言ったことは賢明かつ慎重な人間にふさわしいと私には思われる。で、私は彼の提案に賛成します」と少佐は答えた。
このような答をほとんど皆は期待していなかった。これまでマクナブズは常にこの問題についてはエアトンの考えに反対して来たからである。それゆえエアトンはびっくりして少佐のほうへちらりと一瞥を投げた。一方パガネルとレイディ・ヘレナと二人の水夫はクウォータマースターの計画を大いに支持する気構えでいた。マクナブズがこう言った以上彼らはもう躊躇しなかった。
それゆえグレナヴァンはエアトンの案は原則的に採用されたと言明した。
「それでは、ジョン」と彼はつけたした。「慎重さの命ずるところによればそのように行動し、輸送手段の到着を待って河畔に野営すべきであると君は考えるんだね?」
「ええ」とジョン・マングルズは答えた。「とにかく使者がスノウイ河を渡ることに成功するのならば、どうしてわれわれ自身が渡れないんですか?」
人々はクウォータマースターへ目をやったが、彼は自信ある人間らしく微笑した。
「使者は河を渡ったりしませんよ」と彼は言った。
「へえ!」とジョン・マングルズは言った。
「何のことはない、ラクノー街道に出るんです。これはまっすぐメルボルンに通じています」
「歩いて四〇〇キロも行くのか!」と若い船長は叫んだ。
「馬でです」とエアトンは答えた。「丈夫な馬が一頭残っていますよ。これならば四日ですみます。〈ダンカン〉がベイに行くのに二日、キャンプに帰るのは一日かかるから、一週間後には使者は船員を連れてもどって来ます」
少佐はうなずいてエアトンの言葉に同意したが、このことはジョン・マングルズの驚きをかきたてずにはいなかった。しかしクウォータマースターの提案はすべての人の賛同を得てしまっていたし、今はもう実際うまく考えたこの案を実行するほかはなかった。
「それでは、諸君」とグレナヴァンは言った。「残るのはわれわれの使者を選ぶことだけだ。辛い危険な使命だということは私も隠そうと思わない。誰が自分の仲間たちのためにこの困難を引き受けて、われわれの指令をメルボルンへとどけに行く?」
ウィルスン、マルレディ、ジョン・マングルズ、パガネル、それどころかロバートまでがただちに名乗り出た。ジョンはこの使命が自分に託されるように特別に強調した。しかしそれまで何も言わないでいたエアトンが発言してこう言った。
「もし閣下がおいやでなければ私がまいりましょう。私はこの地方に慣れています。何度も私はもっと困難な地方を歩きまわりました。ほかの人間が切り抜けられぬ場合でも私なら切り抜けられるでしょう。ですから私は皆のために、メルボルンに行くというこの権利を要求します。一言航海士あてに私の信任状を書いてくだされば、トゥーフォールド・ベイへ〈ダンカン〉を廻航することはお請合いします」
「よく言ってくれた。エアトン、君は聰明で勇敢な人間だ。君は成功するだろう」とグレナヴァンは言った。
クウォータマースターはあきらかにこの困難な使命を果たす力を他の誰よりも持っていた。誰もがそれを悟って引ききさがった。ジョン・マングルズは〈ブリタニア〉もしくはグラント船長の手がかりを見つけるにはエアトンがいることが必要だと最後の異議を申し立てた。しかし少佐はエアトンが帰るまでスノウイ河のほとりに野営しているのだし、彼なしでこの重要な捜索を再開することはできない。それゆえ彼のいないことは一向に船長にとって悪いことにならないと指摘した。
「それでは君が行きたまえ、エアトン」とグレナヴァンは言った。「急いで行ってくれ。そしてイーデンを経由してスノウイ河のわれわれのキャンプにもどってくれ」
満足の光がクウォータマースターの目にきらめいた。彼は顔をそむけたが、どれほどすばやくそむけたにしてもジョン・マングルズはその光を見て取っていた。直覚以外の何ものでもなかったが、ジョンはエアトンに対する警戒心が募るのを感じた。
そこでクウォータマースターは二人の水夫に手伝ってもらって出発の準備をした。水夫の一人は馬の世話をし、もう一人は食糧のことを引き受けた。そのあいだグレナヴァンはトム・オースティンあての手紙を書いていた。
彼は〈ダンカン〉の航海士にトゥーフォールド・ベイへ即刻赴くように命じた。そしてクウォータマースターを全幅的に信頼していい人間として紹介した。トム・オースティンは海岸に着いたらヨットの水夫の一隊をエアトンの指揮下に置くこととされた……。
グレナヴァンが手紙をそこまで書いて来たとき、その文面を目で辿って来たマクナブズは奇妙な口調で、どうしてエアトンという名を書くのかときいた。
「しかし、自分でそう言っているじゃないか」とグレナヴァンは答えた。
「それは間違いだよ」と少佐はおちついて答えた。「彼はエアトンと言っているが、ベン・ジョイスと書くのだ!」
[#改ページ]
二十 アランド・ジーランド
このベン・ジョイスという名が明らかにされたことは雷のような効果を挙げた。エアトンはさっと身を起こした。彼の手は拳銃を握っていた。銃声が響いた。グレナヴァンは弾に当って倒れた。外で小銃の音がした。
最初は不意を打たれていたジョン・マングルズと水夫たちはベン・ジョイスに飛びかかろうとした。しかし大胆な囚人はすでに姿を消し、ゴム林の縁に散らばった一味たちのところに行っていた。
テントは弾丸に対しては充分な遮蔽にはならなかった。退却しなければならなかった。軽傷を負ったグレナヴァンは立ち上っていた。
「牛車へ! 牛車へ!」とジョン・マングルズは叫び、レイディ・ヘレナとメァリ・グラントを引っぱって行った。彼女らは間もなく厚い側板のうしろの安全な場所にいた。
ジョン、少佐、パガネル、水夫たちもそこで彼らのカービン銃をつかみ、囚人たちに反撃しようと身構えた。グレナヴァンとロバートは婦人たちのところへ行き、一方オルビネットは防衛に加わろうと駈けつけた。
こうしたことすべては電光石火のうちに終っていた。ジョン・マングルズは注意深く森の縁を見守っていた。ベン・ジョイスが行き着くや否や銃声はにわかにやんでしまった。深い静寂がやかましい銃撃の音につづいた。白い煙の渦がまだゴムの木の枝のあいだを旋廻していた。ガストロロビウムの高い茂みは動かなかった。襲撃のしるしは消えてしまっていたのだ。
少佐とジョン・マングルズは大木のところまで偵察に行った。そこはもぬけの殻だった。無数の足跡がそこに見られ、半分燃えた雷管がいくつかまだ地上で煙を上げていた。少佐は慎重な人間らしくそれを消した。火の粉一つでこの乾いた木の林に恐るべき火災をひきおこすには充分だったからである。
「囚人どもは消え失せました」とジョン・マングルズは言った。
「うん」と少佐は答えた。「そしてその消えたということが私には不安だ。私は奴らと面と向い合っているほうが好きだね。平原の虎のほうが草の下の蛇よりもましだよ。牛車のまわりのあの藪をさがしてみよう」
少佐とジョンは周囲の草原を捜索した。森の縁からスノウイ河の岸までのあいだ彼らは一人の囚人にも出逢わなかった。ベン・ジョイスの一味は害鳥の群れのように飛び立ったらしかった。この失踪はあまりにも奇怪で、どうしても充分安心しているわけには行かなかった。それゆえ一同は警戒態勢をつづけることに決した。泥にかこまれた砦というべき牛車はキャンプの中心となり、二人の男が一時間交代で厳戒した。
レイディ・ヘレナとメァリ・グラントが最初にしたことはグレナヴァンの傷に繃帯をすることだった。ベン・ジョイスの弾丸で夫が倒れた瞬間レイディ・ヘレナは愕然として彼のほうへ駈けよった。それから不安を抑えてこの勇気ある女性はグレナヴァンを牛車へ導いたのである。そこで負傷した肩はむきだしにされ、そして弾丸は肉を引き裂いているが奥のほうには何らの損傷を与えていないことを少佐は確認したのであった。骨も筋《きん》も傷つけられていないように見えた。傷は出血が多かったが、グレナヴァンは前膊《ぜんぱく》から指を動かして、銃創《じゅうそう》の結果について自分のほうから友人たちを安心させた。繃帯が終ってしまうと彼はもはやほかの者が彼の世話を焼くのを拒み、一同は事件の解明にとりかかった。
外で見張りをしているマルレディとウィルスンを除く旅行者たちはそこで牛車のなかに腰をおちつけた。少佐は話をするように促された。
話をはじめる前に、彼はレイディ・ヘレナに彼女の知らなかったこと、つまりパースの受刑者の一団の脱走、彼らがヴィクトリアのあちこちに姿をあらわしたこと、あの鉄道惨事に彼らが加わっていることを知らせた。彼はシーモアで買った〈オーストラリアン・アンド・ニュージーランド・ガゼット〉を彼女に渡して、恐るべき悪漢であり、一年半にわたって犯罪をつづけて無気味な名声を獲得しているベン・ジョイスの首には警察から賞金がかけられているとつけくわえた。
しかしクウォータマースター・エアトンがベン・ジョイスであることをどうしてマクナブズが見破ったか? これこそ誰もがあきらかにしたいと思う謎であり、そして少佐は次のようにそれを説明した。
最初に会った日からマクナブズは本能的にエアトンを警戒していた。ほとんど取るに足りない二、三の事実、クウォータマースターとウィメラ河の蹄鉄工とのあいだに交わされた目くばせ、町や村を横切るに当ってのエアトンの逡巡、〈ダンカン〉を海岸に廻航させるよううるさく要求したこと、彼にまかされていた牛馬の奇怪な死に方、これらすべての事実がすこしずつ集まって少佐の疑惑をよびおこしたのである。
それにしても、昨夜起こった事件を見なかったならば彼もあからさまに告発することはできなかったろう。
マクナブズは高い灌木の茂みのあいだを忍んで行くうちに、キャンプから八〇〇メートルのところで彼の注意をひいた怪しい影のそばまで来たのである。燐光を発する植物が青白い微光を闇のなかに放っていた。
三人の男が地面に残っている跡を、刻まれたばかりの足跡を調べていた。そして彼らのあいだにマクナブズはブラック・ポイントの蹄鉄工を認めたのである。「奴らだ」と一人が言った。「そうだ、これが蹄鉄のクラブだ」ともう一人が言った。「ウィメラ河からずっとこうなんだ」――「馬はみんな死んだ」――「毒はすぐそばにあるしな」――「騎兵隊の馬を全滅させるくらいあらあな。このガストロロビウムってのは役に立つ草だよ!」
「そうして彼らは沈黙し、遠ざかった」とマクナブズはつけくわえた。「私の知ったことではまだ不充分だった。そこで奴らのあとをつけた。間もなく会話はまたはじまった。『食えねえ男さ、あのベン・ジョイスって奴は。難破の話でまんまとクウォータマースターになりすましてな! 奴の計画が成功したら一身代できるぞ! 大したエアトンだ!』と鍛冶屋が言った。『ベン・ジョイスと言えよ、奴はその名に価するんだから!』ちょうどこのときその悪党どもはゴムの森を出た。私は自分の知りたいことを知ってしまったので、キャンプに帰ったんだ。パガネルには悪いが、ああいう囚人どもはすべてオーストラリアにいても教化されないという確信を抱いてね」
少佐は沈黙した。仲間たちは黙々として考えこんだ。
「それではエアトンは、われわれから掠奪しわれわれを虐殺するためにこんなところまでわれわれを引っぱって来たんだな!」と言ったグレナヴァンの顔は憤怒のあまり蒼白になっていた。
「そうだ」と少佐は答えた。
「そしてウィメラから奴の一味は好機をうかがいながらわれわれの足跡をつけ、われわれをさぐっていたんだな?」
「そうだ」
「しかしあの悪党はそれでは〈ブリタニア〉の水夫ではないのか? では奴はエアトンの名を盗み、雇傭契約書を盗んだのか?」
人々の視線はマクナブズのほうへ注がれたが、マクナブズもこうしたことを自問したに相違なかった。
彼はあいかわらず静かな声で答えた。
「このはっきりしない状況から引き出せる確信は次のようなものだ。私の考えではあの男は事実エアトンという名だ。ベン・ジョイスというのは仮名なんだ。奴がハリー・グラントを知っていたこと、〈ブリタニア〉のクウォータマースターだったことは疑いない。この事実はエアトンがわれわれに語った細目の事柄で証明されているが、その上さらに私が今言った囚人たちの言葉によっても裏づけられている。だから無意味な臆測のなかに迷いこまずに、ベン・ジョイスはエアトンであり、エアトンはベン・ジョイス、つまり囚人の一味の頭目となった〈ブリタニア〉の水夫であることは確実だとしておこう」
マクナブズの説明は異論なしに認められた。
「今度は、ハリー・グラントのクウォータマースターがいかにして、また何がゆえにオーストラリアにいるのかを言ってくれないか」とグレナヴァンは言った。
「いかにして? それは私も知らん。そして警察もその点については私よりくわしく知らないと言明している。何がゆえに? これも私には言うことができない。これは将来解明されるべき一つの謎だね」
「警察はエアトンとベン・ジョイスが同一人物であるということさえ知らないんです」とジョン・マングルズが言った。
「そのとおりだよ、ジョン」と少佐は答えた。「そしてこうした事実は、警察の捜査に光をもたらす性質のものだ」
「それでは、あの悪者は悪事をおこなう意図をもってパディ・オムーアの農場に入りこんだのでしょうか?」とレイディ・ヘレナ。
「それは疑いない」とマクナブズは答えた。「奴はあのアイルランド人に対して何か悪事をたくらんでいたが、そのときもっといいチャンスが訪れたんだ。偶然われわれがあらわれた。奴はグレナヴァンの話、難破の一件を聞いて、大胆な人間らしくこいつを利用しようとたちまち決心した。捜索行は決まっていた。ウィメラ河で奴は仲間の一人、あのブラック・ポイントの鍛冶屋と連絡し、われわれの通ったことをはっきり示す足跡を残した。奴の一味はわれわれをつけて来た。有毒植物のおかげで奴はわれわれの牛や馬をすこしずつ殺すことができた。それからいよいよという時になって奴はスノウイ河の沼沢地のぬかるみのなかにわれわれを引っぱりこみ、奴の手下の囚人たちの手にわれわれをゆだねたんだ」
ベン・ジョイスについてはすべてのことが言われた。彼の前歴は今少佐が要約したところで、この悪人はその素顔で、つまり大胆な恐ろしい犯罪者としてあらわれた。はっきりとさらけだされた彼の意図を思えば、グレナヴァンには極度の警戒が必要だった。さいわいなことに、仮面を剥がれた悪漢のほうが猫をかぶっている奴よりも恐れる必要はなかった。
しかし明快に解明されたこの事態からは重大な結論が出て来た。誰もまだそれを考えていなかったが、ただメァリ・グラントだけはこうした過去のことが論じられるのを黙って聞きながらこれからのことに目を向けていた。ジョン・マングルズが最初に彼女がそのように蒼白になって絶望しているのを見た。彼は彼女の頭のなかの思いを悟った。
「ミス・メァリ! ミス・メァリ!」と彼は叫んだ。「泣いていらっしゃるんですね!」
「泣いているの?」とレイディ・ヘレナも言った。
「父が! 奥さま、父が!」と娘は答えた。
彼女はそれ以上言うことができなかった。しかし各人は心のなかではたと思い当ることがあった。一同はミス・メァリの悲しみを、なぜ涙が彼女の目から落ちるかを、なぜ父親の名が彼女の心から唇へ上って来たかを悟った。
エアトンの裏切りが暴露されたことはすべての希望を打ち砕いたのだ。あの囚人はグレナヴァンを引っぱって行くために難破などということを考え出したのだ。マクナブズが耳にとめたあの会話のなかで囚人どもははっきりそう言っていた。〈ブリタニア〉がトゥーフォールド・ベイの岩礁に当って砕けたなどということはなかったのだ! ハリー・グラントがオーストラリアの地を踏んだなどということはなかったのだ!
ここでふたたび、あの文書の間違った解釈が〈ブリタニア〉の捜索者を誤った道にみちびいたのである!
この状況の前で、二人の子供の悲しみの前で、すべてのものが陰鬱な沈黙を守った。一体誰がなお何らかの希望の言葉を見出し得たろう? ロバートは姉の腕のなかで泣いていた。パガネルは恨めしげな声でつぶやいた。
「ああ、いまいましい文書め! 十何人かのまじめな人間の頭をさんざん悩ませたと自慢するがいいや!」
そして尊敬すべき地理学者は自分自身に対して本当に腹を立てて、砕けるほど自分の額をぶったたいた。
そのあいだにグレナヴァンは外での見張りに当っていたマルレディとウィルスンのところへ行った。深い沈黙が森の縁と河とのあいだのこの野原をおおっていた。動かぬ大きな雲の塊りが天穹《てんきゅう》の上に押し合いへし合いしていた。深い麻痺のなかに沈んだように見えるこの大気のただなかではほんのわずかの物音でも鮮明につたわるのだが、それでも何一つ聞こえないのである。ベン・ジョイスと彼の一味は相当の距離にまで退却しているに相違ない。なぜなら木々の下枝の上ではねまわっている鳥の群れや、天下泰平に若い芽を食うことに余念のない幾頭かのカンガルー、灌木の大きな茂みから屈託なげに頭を出しているユーラスの番《つがい》は、人間の存在がこの平和な無人境を乱していないことを証明していたからである。
「この一時間、何も見たり聞いたりしなかったか?」とグレナヴァンは水夫たちにきいた。
「全然」とウィルスンは答えた。「囚人たちは七、八キロ離れているとしか思えません」
「われわれを攻撃するのに充分な人数ではなかったにちがいありません」とマルレディがつけくわえた。「あのベン・ジョイスの奴、アルプスの麓をうろついているブッシュレインジャー(叢林のなかに巣窟をかまえている山賊)どものなかから、奴と同じような悪党を何人か連れて来ようとしたのでしょう」
「そうかもしれないよ、マルレディ」とグレナヴァンは答えた。「あの悪漢は卑怯《ひきょう》な奴らだ。奴らはわれわれが充分武器を持っていることを知っている。おそらく奴らは夜を待って攻撃しようとしているんだろう。日が落ちるとともに警戒をいよいよ厳しくしなければなるまい。ああ、この沼のような平原を出てあちらのほうに進みつづけることができたらなあ! しかし増水した河が通路を阻んでいる。向う岸に渡してくれる筏《いかだ》があったとすれば私はそれと同じだけの目方の金貨を払ってやるのだがな!」
「どうして閣下はその筏を作れという命令をわれわれに与えてくださらないのですか? 木はいくらでもあります」とウィルスンが言った。
「いや、ウィルスン、このスノウイは並の河じゃない、渡ることの不可能な激流なんだ」
ちょうどこのときジョン・マングルズと少佐とパガネルがグレナヴァンのところへ来た。彼らはまさにスノウイ河を調べて来たのである。最近の雨で嵩を増した水は最低水準より三〇センチも高くなっていた。水はアメリカの急流にも比し得る激しい流れをなしていた。この咆哮する水流、砕けて無数の渦巻を作り深い淵を穿っている猛烈なこの奔流のなかに乗りこむことは不可能であった。
ジョン・マングルズは渡ることはどうしても無理だと言明した。
「しかし何も手を打たずにここにとどまることはできません」と彼はつけくわえた。「エアトンの裏切りの前にわれわれがしていようとしていたことは、裏切りの後ではなおさら必要です」
「それはどういうことだ、ジョン?」とグレナヴァンはきいた。
「救援が緊急に必要だということです。そしてトゥーフォールド・ベイに行くことはできませんから、メルボルンに行かねばなりません。馬が一頭残っています。閣下、あれを私にお貸しください。そうすれば私はメルボルンにまいります」
「しかしそれは危険な試みだよ、ジョン」とグレナヴァンは言った。「未知の国を三〇〇キロも行くその旅路の危険は別としても、山道も街道もベン・ジョイスの共謀者たちが見張っているだろう」
「それはわかっています、ミロード、しかしまたこのような事態がこのままつづいてはならぬということもわかっています。エアトンは〈ダンカン〉の乗組員を連れて来るのに一週間の余裕しか求めませんでしたが、私のほうは六日以内にスノウイ河畔にもどって来ようと思います。さあ、閣下の御命令は?」
「グレナヴァンが意見を言う前に私が一つ言っておかねばならない」とパガネルが言った。「メルボルンに行くこと、それはよかろう。しかしその危険をもっぱらジョン・マングルズだけが引き受けるのはよくない。彼は〈ダンカン〉の船長であり、船長としての彼は危険に身をさらすべきではない。彼のかわりに私が行く」
「よく言った」と少佐が答えた。「しかしなぜ行くのは君なんだ、パガネル?」
「われわれがいるじゃありませんか!」とマルレディとウィルスンが叫んだ。
「では君らは私が一気に三〇〇キロを馬で飛ばすことを恐れているとでも思うのか?」とマクナブズは言った。
「諸君」とグレナヴァンは言った。「われわれのなかの一人がメルボルンに行くのならば、籖《くじ》で決めようじゃないか。パガネル、みんなの名を書いてくれ……」
「ミロード、すくなくとも閣下の名は除きましょう」とジョン・マングルズが言った。
「どうして?」とグレナヴァンは問いかえした。
「閣下をレイディ・ヘレナから引き離すなどということは――まだ傷口がふさがってすらいないのに!」
「グレナヴァン」とパガネルも言った。「君はこの隊を離れるわけには行かない」
「そうだ」と少佐も口をそえた。「君の部署はここにある、エドワード、君は行くべきじゃない」
「冒さねばならぬ危険がある」とグレナヴァンは答えた。「私は自分の名前をほかのものに譲ったりしないよ。書いてくれ、パガネル。私の名も仲間たちの名に混えるんだ。そうして神よ、最初に出て来るのが私の名でありますように!」
この意志の前に皆は頭を下げた。一同は籖を抽《ひ》き、運命はマルレディを選んだ。正直な水夫は喜びの叫びをあげた。
「ミロード、私はいつでも出発できます」
グレナヴァンはマルレディの手を握った。それから彼は少佐とジョン・マングルズにキャンプの見張りをまかせて牛車のほうにもどった。
レイディ・ヘレナは伝令をメルボルンに送るという決定と籖引きの結果をただちに知らされた。彼女はこの勇敢な水夫に胸にこたえるような言葉をかけてやった。彼が正直で聰明で強健であらゆる疲労に堪えることはわかっていた。実際これ以上の適任者を籖は選べなかったろう。
マルレディの出発は短い黄昏の終った後の八時と決定された。ウィルスンが馬の準備を引き受けた。彼は左足のあの目印となる蹄鉄を取って、夜のあいだに死んだ馬のそれと替えようと思いついた。囚人たちはマルレディの足跡を見分けることも、彼ら自身馬に乗っていないのだから彼のあとを追うこともできないだろう。
ウィルスンがそういうこまかい仕事をしているあいだに、グレナヴァンはトム・オースティン宛ての手紙をしたためた。しかし傷ついた腕のため思うにまかせなかったので、彼はパガネルにかわりに書いてくれと頼んだ。学者はある固定観念に心を奪われていて、身のまわりで起こっているあらゆることに無関心であるように見えた。これは言っておかねばならないが、パガネルはこれらの面白からぬ事件の相次ぐなかで、自分が解釈を誤ったあの文書のことばかりしか考えていなかったのである。彼はその文書の語句をあらゆる角度から検討して新しい意味を引き出そうとし、解釈の泥沼のなかにはまりこんでいたのだ。
それゆえグレナヴァンの頼みは彼の耳にはいらず、グレナヴァンはもう一度頼まねばならなかった。
「あ! うんうん」とパガネルは答えた。「用意はいいよ!」
そう言いながらパガネルは機械的に手帖を取り出した。手帖から紙を一枚裂くと、鉛筆を手にして彼は書く仕事にかかった。グレナヴァンは次のような指令を口述しはじめた。
「トム・オースティンに命令する。ただちに出帆して〈ダンカン〉を……」
パガネルがこの最後の言葉を書き終えたとき、彼の目は偶然地面にひろがっていた〈オーストラリアン・アンド・ニュージーランド〉Australian and New-Zealand 新聞に注がれた。新聞は折れていてそのタイトルの最後の二綴《ふたつづ》りしか見せていなかった。パガネルの鉛筆は止まった。そして彼はグレナヴァンのこともその手紙のことも口述のこともすっかり放念したように見えた。
「どうした、パガネル?」とグレナヴァンは言った。
「ああ!」と地理学者は叫び声をあげた。
「どうしたんだい?」と少佐がきいた。
「何でもない! 何でもない!」とパガネルは答えた。
それから声を低めて彼は〈aland ! aland ! aland !〉とくりかえした。
彼は立ち上った。新聞をひっつかんだ。自分の唇から今にも飛び出そうとしている言葉を押し止めようとして彼はその新聞を振りまわした。
レイディ・ヘレナもメァリもロバートもグレナヴァンも、この奇怪な昂奮の理由が全然わからぬまま彼をみつめた。
パガネルは突然の狂気に襲われた人間のようだった。しかしこの極度の神経的昂奮の状態は持続しなかった。だんだん彼はしずまった。その目にかがやいていた喜びは消えた。彼はもとの席にもどって静かな口調で言った。
「ミロード、いつでもよろしいときにどうぞ」
グレナヴァンは手紙の口述をまたはじめたが、その文面は結局次のようなものだった。
「トム・オースティンに命令する。ただちに出帆して〈ダンカン〉を緯度三七度のオーストラリア東岸に廻航すること……」
「オーストラリアだって?」とパガネルは言った。「あ、そうか、オーストラリアだ!」
それから彼は手紙を書き上げ、グレナヴァンが署名するようにそれを差し出した。グレナヴァンは負ったばかりの傷に妨げられながらもどうにかその手続きをやってのけた。手紙は畳《たた》まれ、封をされた。パガネルはいまだに感動でふるえている手で次のようにアドレスを書いた。
[#ここから1字下げ]
「メルボルン在、ヨット〈ダンカン〉航海士
トム・オースティン」
[#ここで字下げ終わり]
それから彼は手を振って「アランド! アランド! アランド!」というあのわけのわからない言葉をくりかえしながら牛車から出て行った。
[#改ページ]
二十一 不安の四日間
その日の残りは事もなく過ぎた。マルレディの出発のための準備はすべてととのった。正直な水夫は閣下にこのような献身のあかしを見せることができるのを喜んでいた。
パガネルは冷静さといつもの流儀をとりもどしていた。彼の視線はまだその心を強く捉えているものがあることを示していたが、しかし彼はそれを秘しておく決心をしているように見えた。きっと彼にはそのようにするやむを得ない理由があったのだろう。なぜなら少佐は彼がまるで自分自身とたたかっているもののように次のような言葉をくりかえしているのを耳にしたからである。
「いや、いや、おれが言っても信じはすまい! それにまた言ったところで何になる? もう手遅れだ!」
この決意を固めてしまうと彼はメルボルンに行くのに必要な指示をマルレディに与えることにかかりきり、地図を前に置いてマルレディのたどるべき路を教えてやった。すべての〈トラック〉すなわち草原の小径はラクノー街道に通じている。この街道は南に向けてまっすぐに海岸まで降った後に、急激に曲ってメルボルンにむかう。絶えずこの道をたどり、決してよく知らない地方を横切って捷径《しょうけい》を取ろうとしてはならない。だから事はきわめて簡単だ。マルレディには迷う心配はない。
危険はどうかといえば、ベン・ジョイスとその一味が身をひそめているこのキャンプから七、八キロの範囲を越してしまえば、もはや存在しないだろう。そのあたりを通り過ぎてしまえば、マルレディはたちまち囚人どもをずっと引き離して重大な任務を首尾よく完遂し得ると自負することができる。
六時に皆そろって夕食を摂った。車軸を流すような雨が降っていた。テントではもう充分雨を避けることはできず、皆は牛車のなかに逃れた。それにまたそこは安全な避難所だった。粘土のため牛車はしっかりと地面にはまりこんでおり、堅固な基礎工事の上に立った砦のようにそこから|てこ《ヽヽ》でも動かなかった。武器は七挺のカービン銃と七挺の拳銃で、かなり長い包囲にも堪えることができた。弾薬も食糧も不足していなかったからである。ところで、六日とたたぬうちに〈ダンカン〉はトゥーフォールド・ベイに投錨するであろう。それから二四時間後にはその乗組員はスノウイ河の対岸に達し、そうなればもし渡河がまだ不可能だったとしても、すくなくともあの囚人どもはこの優勢な力を前にして退却を余儀なくされるだろう。だが何よりもまずマルレディがその危険な企てに成功しなければならなかった。
八時には夜の闇は非常に深くなった。出発すべき時だった。マルレディの乗る馬が引いて来られた。なお一層の用心のために足には布を捲いてあるので、地面に当っても全然音をたてなかった。馬は疲れているように見えたが、しかしこの馬の足の確実さと持久力にすべてのものの救いはかかっていたのである。少佐はマルレディに、囚人どもに襲われる危険がなくなったら馬をいたわってやるように忠告した。半日ぐらい遅れても確実に着くほうがよかったのだ。
ジョン・マングルズは自分の手で今きわめて入念に装填したばかりの拳銃を水夫に渡した。手がふるえることのない人間が持てばこれは恐るべき武器だった。数秒間に六発連射すれば、悪人どもの固めている道をも切り開くことができるのだから。
マルレディは鞍にまたがった。
「この手紙をトム・オースティンに渡すんだ」とグレナヴァンは言った。「一時間も無駄にするなといってな! すぐトゥーフォールド・ベイにむかって出帆し、もしトゥーフォールド・ベイに私たちがいなければ、もしわれわれがスノウイ河を渡ることができなかったとすれば、ただちにわれわれのいるほうへ来るんだよ! さあ、行ってくれ、神がおまえを導いてくれるように」
グレナヴァン、レイディ・ヘレナ、メァリ・グラント、その他すべてのものがマルレディの手を握った。闇に包まれた雨の夜をそこらじゅうに危険のひそんでいる道を通って、未知の広大な無人境を横切って行こうとするこの出発の前に、この水夫ほど剛胆でない人間ならば怯《おび》えたことであろう。
「行ってまいります、ミロード」と彼は静かな声で言った。そして間もなく森の縁に沿った野道に彼の姿は消えた。
ちょうどこのとき突風はその激しさを増した。ユーカリの高い枝は鈍い音で闇のなかにかちかちと鳴った。枯れた小枝が水びたしの地面に落ちるのが聞こえた。樹液はなくなっているのに今までまだ立っていた巨木が、この荒れ狂う疾風のなかで一つならず倒れた。風は森の木々の軋る音のあいだで咆え哮《たけ》り、その無気味な呻きをスノウイ河の轟きに混えた。風によって東へ吹き立てられて行く大きな雲塊はちぎれた蒸気のように地面まで垂れた。無気味な暗さが夜の恐ろしさをなおさら深めた。
旅行者たちはマルレディの出発の後、牛車のなかにうずくまった。レイディ・ヘレナとメァリ・グラント、グレナヴァン、パガネルは、ぴったりと閉ざされた前の車室を占めた。うしろの車室にはオルビネットとウィルスンとロバートが充分寝ることができた。少佐とジョン・マングルズは外で見張っていた。これは必要な警戒措置だった。囚人が攻撃することは容易であり、それゆえあり得ることだったからだ。
二人の忠実な不寝番はそれゆえ勤務について、夜が彼らの顔に叩きつける驟雨を甘んじて浴びていた。奇襲に好都合なこの闇を彼らは見透そうと努めた。風の叫喚や枝のぶつかる音や木の幹の倒れる音、そして荒れ狂う水の轟きなどのこうした嵐の騒音のただなかでは、耳は何一つ聞き分けることができなかったからである。
けれども疾風のあいだで時々束の間、風がやむことがあった。風は息をつこうとするかのように沈黙した。スノウイ河だけが動かぬ芦とゴムの木の黒い衝立《ついたて》のむこうで呻いていた。この寸時の安らぎのあいだは静寂は特別深いように思われた。少佐とジョン・マングルズはそういうとき注意深く耳をすました。
鋭い笛のような音が彼らの耳までとどいたのはそういう小止みのあいだだった。
ジョン・マングルズはさっと少佐のほうへ行った。
「聞こえましたか?」
「うん。あれは人間か、動物か?」
「人間です」とジョン・マングルズは答えた。
それから二人はまた耳をすました。不可解な笛のような音はもう一度起こり、銃声のようなものがそれに答えたが、このほうはほとんど聞き取れぬほどだった。嵐はこの時あらたな激しさをもって喚いていたからだ。マクナブズとジョン・マングルズはたがいに相手の声が聞こえぬほどだった。彼らは牛車の風下に陣取った。
ちょうどこのとき革の垂幕がかかげられて、グレナヴァンが二人の仲間のところへ出て来た。彼も二人と同じくあの無気味な音を聞き、車の幌のなかに反響した銃声を聞いたのだった。
「どっちの方角だ?」と彼はきいた。
「あちらです」とマルレディの行った方角の暗い小径《トラック》を指してジョンは答えた。
「距離は?」
「風がこちらへ吹いていますから、すくなくとも五キロはありましょう」とジョン・マングルズは言った。
「行こう!」カービン銃を肩にかけながらグレナヴァンは言った。
「行ってはいかん!」と少佐は答えた。「あれはわれわれを牛車から遠ざけようという策略だよ」
「ではもしマルレディがあの悪党どもの銃弾に倒れていたら!」とグレナヴァンは言い返し、マクナブズの手を取った。
「それは明日になればわかるだろう」グレナヴァンに無用な軽挙をさせまいと固く決意して少佐は冷静に答えた。
「あなたはキャンプをお離れになってはいけません、ミロード。私が一人で行きましょう」とジョンも言った。
「それも駄目だ!」と少佐は断固として言った。「それでは君らは相手がわれわれを一人ずつ殺し、われわれの力を削ぎ、われわれがあの悪人どもの思うがままにされるようになることを望むのか? もしマルレディが奴らの槍玉に上げられたのならば、それは不幸だが、さらにもう一つの不幸をそれに加えるべきではない。もし籖が彼のかわりに私を選んだとすれば、私は彼と同じく出発したろうが、しかし何らの救援を求めも期待もしなかったろうよ」
グレナヴァンとジョン・マングルズを引き留めた少佐はあらゆる点からして正しかったのである。あの水夫のところまで行こうとすること、あちこちの林に待伏せしている囚人たちを前にしてこの暗夜のなかを走って行くこと、それは無分別であり、のみならず役に立たぬことだった。グレナヴァンの小さな一隊は、さらになお犠牲を出していいほどの人数を持ってはいなかったのである。
それでもグレナヴァンはこうした理由に服そうとする気がないように見えた。彼の手はカービン銃をひねくりまわしていた。牛車のまわりを彼は行ったり来たりした。ほんのかすかな音にも耳をすました。その目はこの無気味な闇をつらぬこうとした。自分の部下の一人が致命傷を受けて倒れ、彼が身を挺して尽そうとした人々を空しく呼びながら救いもなしに打ち捨てられている、それを思うとグレナヴァンは居たたまれなかった。マクナブズは自分が最後まで彼を引き留められるか、グレナヴァンがその心の赴くままにベン・ジョイスの銃弾のもとに飛び出して行きはしないかと心許なかった。
「エドワード」と彼はグレナヴァンに言った。「おちついてくれ。友だちの言うことに耳をかしてくれ。レイディ・ヘレナ、メァリ・グラント、残っている連中のことを考えてくれ! それにまた君はどこへ行こうというんだ? どこでマルレディを見つけるんだ? 彼が襲われたのはここから三キロも離れたところなんだ! どの道でか? どの小径を行くのか?」
ちょうどこのとき、しかも少佐に答えるもののように、救いを呼ぶ叫びが聞こえた。
「聞け!」とグレナヴァンは言った。
その声はまさに銃声がとどろいた方角の四〇〇メートル足らずのところから聞こえて来た。グレナヴァンはマクナブズを押しのけてすでに小径を進み出したが、そのとき牛車から三〇〇歩ほどのところで、
「助けてくれ! 助けてくれ!」という言葉が聞こえたのである。
それは呻くような絶望的な声だった。ジョン・マングルズと少佐はその方向へ飛び出した。
しばらく後に彼らは林に沿って体を曳きずって痛ましい呻き声をあげている人の形を認めた。
マルレディがそこにいた、負傷し、瀕死の状態で。そして仲間たちは彼を抱き上げたとき、自分らの手が血で汚れるのを感じた。
雨はこのとき激しくなり、風は〈デッド・トリー〉の小枝のなかを吹き荒れた。この吹きつける突風のただなかでグレナヴァンと少佐とジョン・マングルズはマルレディの体を運んだのだ。
彼らが帰って来ると皆は起き出して来た。パガネル、ロバート、ウィルスン、オルビネットは牛車から出、レイディ・ヘレナは自分の車室を気の毒なマルレディに譲った。少佐は血と雨でびしょびしょになった水夫の上着をぬがした。傷が出て来た。それは短刀の刺傷で、不幸な男はそれを脇腹に受けていたのである。
マクナブズは器用に繃帯をまいた。刃が重要な内臓まで傷つけているか、それは彼にはわからなかった。鮮紅色の血がどくどくと傷口から出ていた。蒼白な顔や失神は重傷であることを証明していた。少佐はあらかじめ冷水で洗っておいた傷口の上に創傷用の脱脂綿を載せ、その上に綿撤糸《めんさんし》を当てて繃帯で留めたのである。彼は出血をとりあえず止めることに成功した。マルレディは傷口の反対側を下に、頭や胸を高くして寝かされ、レイディ・ヘレナは水を幾口か飲ませた。
一五分後、それまで動かなかった負傷者は体を動かした。目はわずかに開いた。唇はとりとめのない言葉をつぶやいたが、少佐は耳を寄せて彼がこうくりかえしているのを聞いた。
「ミロード……手紙が……ベン・ジョイス……」
少佐はこの言葉をくりかえし、仲間たちを見た。マルレディは何を言おうとしているのだろうか? ベン・ジョイスはこの水夫を襲った。しかし何のために? 単に彼を引き留め、〈ダンカン〉まで行けないようにするためか? あの手紙は?……
グレナヴァンはマルレディのポケットを調べた。トム・オースティンにあてたあの手紙はもはやそこになかった!
その夜は危惧と不安のうちに過ぎた。一同は始終、負傷者が今にも死ぬのではなかろうかと惧《おそ》れていた。高熱が彼をさいなんだ。レイディ・ヘレナとメァリ・グラントは看護尼のように彼のそばから離れなかった。患者がこれほど手厚く介抱されたこと、しかもこれ以上思いやりに満ちた手で介抱されたことはかつてなかった。
夜が明けた。雨はやんでいた。大きな雲塊はまだ空の上のほうを走っていた。地面には折れた木の枝がばらまかれていた。奔流でびしょびしょになった粘土はさらになお弛《ゆる》んでいた。牛車に近づくことは困難になったが、牛車がそれ以上深くはまりこむことはあり得なかった。
ジョン・マングルズとパガネルとグレナヴァンは夜明けからキャンプのまわりの偵察に行った。彼らはまだ血の痕のついている小径を行ってみた。ベン・ジョイスやその一味の形跡は全然見られなかった。襲撃のおこなわれた場所まで彼らは足をのばした。そこにはマルレディに射ち倒された二人の屍骸が地面に横たわっていた。一つはブラック・ポイントの蹄鉄工の屍骸だった。死によって歪んだその男の顔はすさまじかった。
グレナヴァンはそれ以上捜索を進めなかった。慎重さが彼にそれ以上遠くへ行くことを禁じたのだ。そこで彼は、事態の由々しさにすっかり心を奪われながら牛車にもどった。
「もう一人伝令をメルボルンに送ろうなどと考えることはできない」と彼は言った。
「けれどもそれは必要です、ミロード」とジョン・マングルズは答えた。「私の部下が通過し得なかったところを私は通過して見せましょう」
「駄目だ、ジョン、この三〇〇キロを運んで行ってくれる馬も君にはないじゃないか!」
事実ただ一頭残ったマルレディの馬も姿を見せなかった。悪人の弾丸に斃れたのか? この無人境を当てもなく走りまわっているのか? あの囚人どもが奪って行ったのか?
グレナヴァンは言った。
「何事が起ころうとわれわれはもはや離れまい。一週間でも二週間でも、スノウイ河の水が正常水位にもどるのを待とう。そうしたらすこしずつ歩いてトゥーフォールド・ベイに出、そしてそこからもっと確実な径路を通じて〈ダンカン〉へ海岸へ出ろという命令を送るんだ」
「それ以外に取るべき策はないね」とパガネルは答えた。
「だから、諸君、もう離れ離れにはならないのだ。山賊の跋扈《ばっこ》するこの無人境に一人だけで足を踏みこめばあまりにも大きな危険を冒すことになる。さてそれでは、神がわれわれの気の毒な水夫をお救いになるように、そしてわれわれを守護してくださるように!」
グレナヴァンは二つの点で正しかった。第一には個別的な試みを禁じたこと、次にはスノウイ河畔で渡河が可能になるのを辛抱づよく待つとしたこと。ニュー・サウス・ウェールズの州境の最初の町デレゲイトまではわずかに五十数キロでしかない。そこへ行けばトゥーフォールド・ベイまでの輸送手段が見つかるだろう。そこからメルボルンへ〈ダンカン〉あての命令を電信で送ることもできよう。
この措置は賢明だったが、それを決定したのは遅すぎた。グレナヴァンがマルレディをラクノウ街道へ送り出さなかったとしたら、水夫への闇討ちは別としても、どれほどの不幸が避けられたことだろうか!
キャンプに帰ってみると仲間たちは前ほどがっかりしていなかった。彼らは希望をとりもどしたように見えた。
ロバートがロード・グレナヴァンを迎えに走り寄りながら叫んだ。
「よくなって来ました! よくなって来ました!」
「マルレディが?……」
「そうよ、エドワード」とレイディ・ヘレナが答えた。「反応を取り戻したのよ。少佐は愁眉を開いているわ。あの水夫は死にません」
「マクナブズはどこにいる?」
「マルレディのそばに。マルレディは少佐と話したいと言ったのよ。二人の邪魔をしては駄目よ」
事実一時間前から負傷者は失神状態から脱しており、熱も下っていた。しかし記憶と言葉がかえって来たときマルレディが最初にしたことは、グレナヴァンを、彼がいない場合には少佐を呼ぶことだった。マクナブズは彼の衰弱の甚しさを思って一切の会話を禁じようとした。しかしマルレディが断固として言い張るので少佐もその望みをかなえねばならなかったのだ。
ところで、グレナヴァンがもどったときには話し合いは何分か前にはじまっていたのである。こうなってはもうマクナブズの報告を待つしかなかった。
やがて牛車のカーテンが動き、少佐があらわれた。彼はゴムの木の下にいる友人たちと一緒になった。そこにはテントが張ってあったのだ。平素はあれほど冷静な彼の顔は重大な憂慮をあらわしていた。彼の視線はレイディ・ヘレナや娘の上に注がれたとき、強い悲痛の色を帯びた。
グレナヴァンは少佐に問いかけた。以下が少佐が今知ったことの要点だった。
キャンプを離れるとマルレディはパガネルが教えた小径の一つを取った。彼は急いだ、すくなくとも夜の闇が許すかぎりは。彼自身の見積りでは約三キロほど行ったとき、幾人かの――五人だと彼は見ている――男が彼の馬の正面に飛びかかって来た。馬は後脚で立ち上った。マルレディは拳銃をつかんで発砲した。襲撃者のうち二人が倒れたように見えた。銃火の光で彼はベン・ジョイスを認めた。が、それがすべてだった。自分の拳銃を全部射ちつくす時間は彼にはなかった。猛烈な一撃が右の脇腹に加えられ、彼は倒れた。
それでも彼はまだ意識を失っていなかった。殺人者たちは彼が死んだと思っていた。彼は体をさぐられるのを感じた。それから次のような言葉が言われた。「手紙があったぞ」と囚人の一人が言ったのだ。「よこせ」とベン・ジョイスが答えた。「さあこれで〈ダンカン〉はおれたちのもんだ?」
マクナブズの物語のこの個所でグレナヴァンは叫びを抑えることができなかった。
マクナブズはつづけた。
「ベン・ジョイスはこうつづけたのだ。『さあ、今度は馬をつかまえろ。二日後にはおれは〈ダンカン〉の上に、そして六日後にはトゥーフォールド・ベイにいる。皆が落ち合うのはそこだ。あの殿様《ミロード》の一隊はまだずっとスノウイ河の沼沢地にはまりこんだままだろう。ケンプル・ピアの橋で河を渡り、海岸に出て、おれを待て。何とか手段を講じておまえらを船に入れてやる。〈ダンカン〉ほどの船に乗りこんで海に出たらおれたちはインド洋の支配者になれるぞ』―――『ベン・ジョイス万歳!』と囚人どもは叫んだ。マルレディの馬が連れて来られ、ベン・ジョイスはギャロップでラクノウ街道から姿を消し、一方一味は南東からスノウイ・リヴァーに出た。マルレディは重傷を負っていたにもかかわらず力をふりしぼってキャンプから一〇〇歩のところまで這って行き、われわれは半死半生の彼をキャンプに収容したんだ。これがマルレディの話したことだった。勇敢な水夫がなぜあれほど話そうとしたか、これでもう君らにもわかったろう」とマクナブズは言ったのである。
このことを知らされてグレナヴァンとその仲間たちは慄然《りつぜん》とした。
「海賊! 海賊だ!」とグレナヴァンは叫んだ。「私の乗組員は虐殺される! 私の〈ダンカン〉はあの賊どもの手に落ちるのだ!」
「そうだ! ベン・ジョイスは船を奇襲するだろうからね」と少佐は答えた。「そうなれば……」
「よし、それならわれわれはあの悪党どもよりも先に海岸に出なければならん!」とパガネルが言った。
「でもどうしてスノウイ河を越えますか?」とウィルスンがきいた。
「奴らと同じだ」とグレナヴァンは答えた。「奴らはケンプル・ピアの橋で河を渡ろうとしている。われわれもそこで渡るんだ」
「けれどマルレディはどうなるの?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「運ぶのだ! 交代で! 乗組員たちを無抵抗にベン・ジョイスの一味の手にゆだねることができるか!」
ケンプル・ピアの橋でスノウイ河を渡るという計画は実行可能ではあったが危険だった。囚人たちはその地点に陣取って橋を守っているかもしれなかった。こちらの七人に対して相手はすくなくとも三〇人はいるだろう! しかしこちらの人数など問題にせず、とにかく進まねばならぬ時もあるのだ。
「ミロード」とこのときジョン・マングルズが言った。「最後のチャンスを試みる前に、その橋にむかって思い切って進む前に、偵察しに行ったほうが賢明でしょう。私がそれは引き受けます」
「私も一緒に行くよ、ジョン」とパガネルは言った。
この申し出は受け容れられ、ジョン・マングルズとパガネルは即刻出かけようとして支度した。彼らはスノウイ河を降り、ベン・ジョイスの言っていたあの地点まで岸に沿って行くはずだったが、何よりもまず岸をうろついているにちがいない囚人どもに見られないようにしなければならなかった。
それゆえ食糧を用意し充分武装して二人の勇敢な仲間は出発し、間もなく河の大きな芦のあいだを縫いながら姿を消した。
その一日じゅう一同は彼らを待った。夕方になっても彼らはまだ帰らなかった。皆の不安は非常なものだった。
やっと一一時頃になってウィルスンが彼らの帰還を知らせた。パガネルとジョン・マングルズは一六キロも歩いた疲れでへとへとになっていた。
「その橋は! 橋はあったか?」グレナヴァンは彼らを迎えに飛び出しながらきいた。
「ええ、藤の蔓《つる》の橋です」とジョン・マングルズは言った。「囚人たちは事実それを渡りました。しかし……」
「しかし?……」とグレナヴァンは言い、新しい不幸を予感した。
「奴らは渡った後でそれを焼き払ったんだ!」とパガネルは答えた。
[#改ページ]
二十二 イーデン
今は絶望している時ではなく、行動する時だった。ケンプル・ピアが無に帰していようと、何としてでもスノウイ河を渡らねばならず、ベン・ジョイスの一味に先んじてトゥーフォールド・ベイに着いていなければならなかった。そこで一同は無用な論議に時間を費さず、翌一月一六日にはジョン・マングルズとグレナヴァンは渡河の計画を立てるために河を調べに行った。
雨によって嵩を増して音高く流れる水はまだ引いていなかった。筆舌につくせぬ激しさで水は渦まいていた。この水に挑むことは死を覚悟することだった。グレナヴァンは両腕を組み、うなだれて身動きもしなかった。
「私が泳いで向う岸に行ってみましょうか?」とジョン・マングルズが言った。
「いけない、ジョン」とグレナヴァンは大胆な若者の手を取って引き留めながら答えた。「待とう」
そうして二人はキャンプに帰った。その一日はきわめて激しい不安のうちに暮れた。一〇回もグレナヴァンはスノウイ河へひきかえしてみた。彼は河を横切る何か思い切った方法を考え出そうと努めた。しかしそれは徒労だった。熔岩の奔流が河岸のあいだに流れていたとしてすら、これ以上渡るのがむずかしいということはなかったろう。
この長いひまな時間のあいだ、レイディ・ヘレナは少佐の助言を受けながらマルレディのために懇切きわまる看護をした。水夫は自分の生命がよみがえるのを感じた。マクナブズは重要な器官は一つとして傷つけられていないとあえて断言しさえした。その衰弱は出血だけで説明できた。それゆえ傷口がふさがれ出血が止まれば、後は時間と安静だけで完全に回復することができそうだった。レイディ・ヘレナは彼が牛車の前の車室に入るように要求した。マルレディはすっかり恐縮した。彼の最大の心配事は、自分の状態がグレナヴァンを遅らせているのではないかということだった。だからスノウイ河の渡河が可能となったらウィルスンをつけて彼をキャンプに残して行くと約束してやらねばならなかった。
不幸にしてこの渡河はその日も翌日も実行できなかった。このように引き留められていることはグレナヴァンを絶望させた。レイディ・ヘレナと少佐が彼をなだめ、気を長く持つことをすすめても無駄だった。現在もしかするとベン・ジョイスがヨットに乗りこんでいるかもしれないというときに、〈ダンカン〉が舫索《ともづな》を解いて全速力であの運命の海岸に急ぎ、そして一刻々々とそこに近づいているというときに、気を長く持つなどとは!
ジョン・マングルズも心のなかにグレナヴァンとまったく同じ不安を感じていた。それゆえ何としても障害を打ち破ろうとして彼はオーストラリア風のボートをゴムの木の大きな樹皮で作った。ごく軽いこの樹皮を横木で留めると、まことに脆《もろ》い小舟となったのだ。
船長と水夫は一八日のあいだにこの弱々しい舟を試みてみた。熟練や体力や器用さや勇気のなし得ることはすべてやってみた。しかし流れのなかに入るや否や舟は顛覆して彼らはもうすこしでこの大胆な実験のために生命を失うところだった。小舟は波にさらわれて見えなくなった。ジョン・マングルズとウィルスンは雨と雪融け水で嵩を増して現在幅一・六キロにも達しているこの河を二〇〇メートルすら行くことができなかった。
一月一九日と二〇日はこうした状態で空しく過ぎた。ベン・ジョイスが行ってしまってから五日たっていた。ヨットは現在海岸に来ており、もう囚人どもの手に落ちていることだろう!
けれどもこのような事態がつづくことはあり得なかった。一時的な増水は急速に終った。しかもその激しさに応じて急速に。事実パガネルは二一日の午前中、平均水位以上だった水の高さが下って来るのを確認した。彼はその観察の結果をグレナヴァンに報告した。
「ふん、今さら何になる!」とグレナヴァンは答えた。「後の祭だよ!」
「だからといってここにいつまでもいる理由にはならない」と少佐が言った。
「そうです」とジョン・マングルズが応じた。「明日はきっと渡河は可能でしょう」
「そうすれば私の不幸な乗組員たちは救えるのか?」とグレナヴァンは叫んだ。
「閣下、よくお聞きください」とジョン・マングルズは答えた。「私はトム・オースティンという人間を知っています。彼はあなたの命令を実行し、出帆できるようになり次第出帆したに相違ありません。しかしベン・ジョイスがメルボルンに着いたとき〈ダンカン〉に出帆準備ができていた、損傷の修理が終っていたとどうしてわかりましょう? そしてヨットが海に出られなかった、一日か二日遅れたということも考えられるではありませんか」
「ジョン、君の言うとおりだ!」とグレナヴァンは答えた。「トゥーフォールド・ベイに出なければならない。ここはデレゲイトから五五キロしか離れていないのだ!」
「そうだ」とパガネルは言った。「そしてその町でわれわれは足の速い輸送手段を見つけられるだろう。不幸な事態を食い止めるのに間に合うかもしれない!」
「出発しよう!」とグレナヴァンは叫んだ。
ただちにジョン・マングルズとウィルスンは大型の舟を作ることにかかった。樹皮は急流の激しさに抗し得ないことは経験によって証明されていた。ジョンはゴムの木の幹を伐り倒し、それで無恰好な、しかし頑丈な筏を作った。この仕事は時間を食い、舟が完成しないうちにその日は暮れた。出来上がったのは翌日になってからだった。
このときはスノウイ河の水位は目に見えて下っていた。奔流は、いかにも流れは速かったが普通の河にもどっていた。斜めに横切り、ある程度まで水勢を御することで、ジョンは対岸に着けるものと希望していた。
一二時半に、二日間の行程のため各自が持って行けるだけの食糧が筏に運びこまれた。マルレディは運んで行けるくらいよくなっていた。彼の回復は急速に進んでいたのだ。
一時に各自は綱で岸につながれた筏の上にそれぞれ席を占めた。ジョン・マングルズは流れにさからって舟を支え、針路から逸《そ》れるのを食い止めるための櫂《かい》のようなものを右舷に据えつけて、ウィルスンにその操作をゆだねた。彼自身は艫《とも》に立って、粗末な櫓《ろ》を使って方向を取るつもりだった。レイディ・ヘレナとメァリ・グラントはマルレディとともに筏の中央部に陣取った。グレナヴァン、少佐、パガネル、ロバートはいつでも彼女らを助けに出られるように彼女らをとりまいた。
「用意はいいか、ウィルスン?」とジョン・マングルズは水夫にきいた。
「ええ、船長」とウィルスンは逞しい手に櫂を取りながら答えた。
「気をつけるんだぞ、流れにさらわれないようにするんだ」
ジョン・マングルズは筏をつないでいる綱をほどいた。そしてぐっと力を入れて彼は筏をスノウイ河の水のなかに押し出した。三〇メートルほどのあいだは万事順調に行った。ウィルスンは流されまいとして頑張った。しかし間もなく舟は波にまきこまれ、ぐるぐると同じところをまわりはじめて、櫂も櫓も筏をまっすぐ進めることはできなかった。ウィルスンとジョン・マングルズはしきりに奮闘したにもかかわらず、筏の位置があべこべになってしまったのに間もなく気がついた。これでは櫂を動かすことはできなかった。
あきらめねばならない。筏のこの廻転運動を食い止める手だては一つもなかった。筏は目くるめくような速さでまわり、横へ流れた。ジョン・マングルズは蒼白な顔で歯を食いしばって立ち、渦をまく水を眺めていた。
それでも筏はスノウイ河の中央に出た。このときは出発点より八〇〇メートルも下へ流されていた。そこでは流れは猛烈な勢いになり、打ち返す波の力を削《そ》いだので、筏は多少安定をとりもどすことができた。
ジョンとウィルスンはふたたび櫂を取ってようやく斜め方向に筏を進めることができた。このような操作の結果として彼らは左岸に近づきはじめたが、もはや四〇メートルばかりというところでウィルスンの櫂はぽきりと折れた。筏は支えを失って水に引きずられた。ジョンは櫓を折る危険を冒して水に逆らおうとした。ウィルスンは手を血みどろにしながら彼に力を合わせた。
ようやく彼らは成功し、筏は三〇分かかって流れを横切って岸の切り立った崖にぶつかった。その衝撃は激しかった。幹は離れ離れになり、繩は切れ、水は泡立ちながら中にはいって来た。旅行者たちは頭上に張り出している藪《やぶ》にしがみつく時間しかなかった。彼らはマルレディと、半ばびしょ濡れになっている二人の女性を引き上げた。要するにすべてのものは救われたが、筏に積んだ食糧の大部分と少佐の銃を除くカービン銃は筏の破片とともに流れ去ったのである。
河は渡れた。一行はデレゲイトから五、六十キロ離れたヴィクトリア州境のこの未知の無人境のただなかにほとんど無一物で残されたのである。そこにはスクウォッターも入植者も見られなかった。獰猛《どうもう》な掠奪的なブッシュ・レインジャーを除いては、このあたりに人は住んでいなかったのだ。
猶予なく出発することに決まった。マルレディは自分が足手|纒《まと》いになるとわかって、ここに残って、しかも一人で残ってデレゲイトから救いの来るのを待たせてくれと言った。
グレナヴァンはそれを拒んだ。デレゲイトには三日以内には、海岸には五日以内には着けなかった。つまり一月二七日だ。ところで、一六日から〈ダンカン〉はメルボルンを離れている。今となっては数時間の遅れなど彼にとって何だろう?
「いや、駄目だ」と彼は言った。「私は誰一人置き去りにしたくない。担架を作ろう。そして交代に運ぶのだ」
小枝に包まれたユーカリの枝で担架は作られた。そしてマルレディは否応なくそれに乗らねばならなかった。グレナヴァンは最初に水夫を運ぼうとした。彼は担架の一端を持ち、ウィルスンが他端を持って、一同は行進を開始した。
何という悲しい光景だったろう、そして幸先のよかったこの旅は何という惨めな結末に至ったことか! もはやグラント船長の捜索にむかうのではなかった。船長のいない、いや、一度も来たことのなかったこの大陸は、彼の足跡を追う人々にとって破滅の土地となろうとしていた。そしてこの大胆な同国人たちがオーストラリアの海岸にたどりついたとき、彼らを故国に運ぶべき〈ダンカン〉すらそこにいないだろう!
この最初の一日は沈黙と辛苦のうちに過ぎた。一〇分毎に担架の運び手は交代した。傷ついた水夫の仲間は皆、猛暑のためなおさら甚しいものとなったこのような労苦を不平も言わずに自分に課した。
夕方、わずか八キロ歩いただけで一同はゴムの木の茂みの下に野宿した。難破から免れた食糧の残りで夕食が供された。しかし少佐のカービン銃を当てにすることはできなかった。
夜は惨憺たるものだった。おまけに雨まで降った。夜はなかなか明けないように思われた。一同はまた歩き出した。少佐はたった一度だけ銃を使う機会を見出した。この陰鬱な地方は無人境と言うのでは足りなかった。動物さえ出没しないのだった。
さいわいロバートは野雁の巣を見つけた。そしてその巣のなかには一二個ばかりの大きな卵があり、オルビネットは熱い灰のなかでそれを焼いた。二三日の朝食は、それと、凹地の底に生えているスベリヒユの若嫩《わかめ》だけだった。
このときから道は歩きにくくなった。砂礫《されき》の多い平原は〈スピニフェックス〉におおわれていたが、これは棘《とげ》のある草で、メルボルンでは〈やまあらし〉と呼ばれているものである。この草のおかげで衣服はずたずたとなり、脚は血だらけになった。勇敢な婦人たちはそれでも愚痴をこぼさなかった。彼女らはほかのものたちに手本を示し、短い一言か目くばせでたがいに励まし合いながら健気に進んで行った。
その夕方はジャンガラ川の畔《ほとり》のブラ・ブラ山の麓で足を止めた。食べるものとしては非常に好評を博している〈マス・コンディター〉という大きな鼠をとうとう仕留めなかったとすれば、夕食は乏しいものになったことだろう。オルビネットはそれを焼いた。そしてその大きさが羊くらいあったとすれば、これは評判にも優るものと思われただろう。けれどもそれで満足しなければならなかった。人々は骨まで噛み砕いた。
二四日、疲れてはいても依然として気力を失わない旅行者たちはふたたび歩みをつづけた。山麓を迂回してから彼らは鯨の髯でできているように見える草の生えた原野を横切った。これはまるで槍の藪、銃剣のくさむらだった。あるいは斧を振って、あるいは火を放って道を作って行かねばならないのだ。この朝は食事することなどは問題にならなかった。石英の破片の散らばっているこの地方ほど不毛なところはどこにもなかった。飢えだけではなく渇きまでもひどくなって来た。燃えるような大気のため渇きの堪えがたい襲撃が余計ひどく感じられた。グレナヴァンとその仲間たちは一時間に八〇〇メートルも進めなかった。この水も食べ物も奪われた状態が夜までつづいたら、彼らは路上に倒れて二度と起き上れなかったろう。
しかし人間がすべてを失っているとき、万策尽きたと思うとき、いよいよ困苦に殪れそうだと思う瞬間、まさにそのときにこそ神の御手が働くのである。
水は〈セファロート〉という形で彼らに与えられた。これはこのありがたい液体の満ちたコップのようなもので、珊瑚状の灌木の枝からぶらさがっているのである〔オーストラリアの南部の沼沢地帯に生えるこのセファロートという植物は、普通の葉のほかに蓋つきの壺のような形の葉があり、そのなかに分泌液がたまっているのである〕。皆はこれによって渇《かつ》をいやし、生命が体のなかによみがえるのを感じた。
食べ物のほうは、獣や昆虫や蛇がなくなったときに原住民がそれによって露命をつなぐものだった。パガネルはある小川の干上った川床に、地理学会の同僚の一人からそのすばらしい特性を何度も聞かされていたある植物を発見したのである。
それはマルシュレアセー科に属する隠花植物の〈ナルドゥー〉で、これこそまさに内陸の無人境でバークとキングの命を引き延ばしたものであった。クローバの葉に似たその葉のかげに乾いた胞子が生えていた。レンズ豆ほどの大きさの胞子を石のあいだで擂《す》りつぶすと、一種の粉ができた。この粉で粗末なパンができ、たまらない飢えを凌ぐことができた。この植物はここには豊富にあった。オルビネットはそれゆえ大量にそれを採集することができ、数日間の食糧は確保された。
翌二五日、マルレディは行程の一部を自分で歩いた。彼の傷はすっかりふさがっていた。デレゲイトの町まではもはや一六キロしかなく、夕方になって一同は経度一四九度線上のニュー・サウス・ウェールズの境界に野営した。
数時間前から沁み入るような細かい雨が降っていた。たまたまジョン・マングルズが打ち捨てられ荒れはてた木挽《こびき》の小屋を発見しなかったとすれば、身をひそめるところはどこにもなかったことであろう。木の枝と萱《かや》で作ったこの小屋で我慢しなければならなかった。ウィルスンはナルドゥーのパンを作るために火を焚《た》こうと思い、地面に落ちている枯れ枝を拾いに行った。しかしこの薪を燃え上らせる段になると、どうしても燃えつかない。それに含まれている多量のアルミナ成分のため全然燃えないのである。これがパガネルが例のオーストラリアの産物の奇妙な目録のなかに挙げたあの燃えない木だったのだ。
そこで火なしで、従ってパンなしで済まさねばならず、濡れた服のままで眠らねばならなかったが、そのあいだ笑い鳥は高い木の枝にかくれてこの不運な旅行者たちを嘲笑しているかのようだった。
それでもグレナヴァンの苦しみは終ろうとしていた。実際またそろそろ終らねばならぬ時だったのである。二人の若い婦人は雄々しく頑張ったが、彼女らの体力は刻一刻と失われて行った。彼女らは体を引きずって行った。もはや歩くのではなかった。
あくる日は夜明けから出発した。一一時に、トゥーフォールド・ベイから八〇キロの距離のウェレズリー郡のデレゲイトが姿をあらわした。
この地で輸送手段はたちまち整備された。海岸もまぢかだと考えると希望がグレナヴァンの心によみがえった。〈ダンカン〉がほんのわずかでも遅れたとすれば、もしかすると彼のほうが先に着けるかもしれない! 二四時間のうちにベイに行けるはずだ!
正午、力のつく食事を取った後、一同は郵便馬車に乗りこみ、五頭の逞しい馬にギャロップで挽かれてデレゲイトを出発した。豪勢な心づけを約束されてきおいたった馭者《ぎょしゃ》は手入れの行きとどいた道路の上に足の速い車を疾駆させた。一六キロごとに馬を替えるときにも二分とかからなかった。グレナヴァンが自分の逸《はや》りたつ心を馭者たちに伝えたとしか思えなかった。
一日じゅうこのようにして時速九キロ半で走り、夜もその調子でつづいた。
あくる日の日の出に、鈍いざわめきが海の近いことを知らせた。三七度線の海岸の、まさにトム・オースティンが旅行者たちの到着を待っているはずの地点に行くためには湾をまわって行かねばならなかった。
海が見えて来たとき、すべての人の目は沖にむかい、海原の上を捜した。神のもたらし給う奇蹟によって〈ダンカン〉がそこに見えなかったろうか? ちょうど一ヵ月前アルゼンチン沿岸のコリエンテス岬の前を間切りながら進んでいたように?
何も見えなかった。空と水は同じ水平線のなかでまじりあっていた。大洋のこの渺々《びょうびょう》たる広がりの上には帆一つ見えなかった。
一筋の希望がまだ残っていた。もしかするとトム・オースティンはトゥーフォールド・ベイのなかに投錨しなければならぬと思ったかもしれない。海は荒れていたし、このような岸の近くでは船は安全ではなかったからである。
「イーデンへ!」とグレナヴァンは言った。
たちまち郵便馬車は湾の岸に沿って伸びている周回道路を右へまがって、そこから八キロほど離れている小さな町イーデンにむかった。
馭者は港の入口を示している標識燈のそばで車を止めた。数隻の船が錨地に投錨していたが、どの船もマルカム城の旗を斜桁《しゃこう》にひるがえしていなかった。
グレナヴァンとジョン・マングルズとパガネルは車から出て税関に駈けこみ、職員に質問し、ここ数日の入港船を調べてみた。ここ一週間この湾に寄った船は一艘もなかった。
「むこうから出発していないのかもしれない!」とグレナヴァンは叫んだ。人間の心によくある方向転換というもので、どうしてももう絶望したくなかったからである。「きっとわれわれのほうが先に着いたんだろう」
ジョン・マングルズは頭を振った。彼はトム・オースティンという人間をよく知っていた。彼の航海士は命令の実行を一〇日も遅らせるようなことは決してしなかったろう。
「事実がどうなっているかを私は知りたい。疑っているよりもはっきりしたほうがいい」とグレナヴァンは言った。
一五分後電報がメルボルンの船舶仲買人《シップブローカー》組合理事に送られた。それから旅行者たちはヴィクトリア・ホテルへ車をまわさせた。
二時に至急電がロード・グレナヴァンに渡された。文面は次のようなものだった。
[#ここから1字下げ]
トゥーフォールド・ベイ、イーデン
ロード・グレナヴァン殿
〈ダンカン〉は今月一八日出帆、行先不明。
S・B J・アンドルー
[#ここで字下げ終わり]
電報はグレナヴァンの手から落ちた。
もう疑いの余地はなかった! あの立派なスコットランドのヨットはベン・ジョイスの手中にあって海賊船に変ったのだ!
幸先《さいさき》のよかったこのオーストラリア横断はこうして終った。グラント船長と遭難者たちの手がかりは決定的に失われたように見えた。この不成功のためには一つの船の乗組員全体が犠牲になったのだ。ロード・グレナヴァンは闘いに敗れた。そしてパンパスのなかで自然のさまざまの要素が共謀して彼を阻んだときにもめげなかった勇気ある捜索者は、オーストラリア大陸において今人間の邪悪さの前に敗れたのである。(下巻へつづく)