グラント船長の子供たち(下)
ジュール・ヴェルヌ/大久保和郎訳
目 次
第三部
一 〈マクォリー〉
二 これから行く国の歴史
三 ニュージーランドの虐殺
四 暗礁
五 にわか仕立ての水夫
六 食人の理論的考察
七 逃げるべき陸についに上陸する
八 この国の現状
九 北方四八キロ
十 民族の河
十一 タウポ湖
十二 マオリ人酋長の葬式
十三 最後の数時間
十四 タブーの山
十五 パガネルの非常手段
十六 挾み討ち
十七 〈ダンカン〉がニュージーランドの東岸を遊弋《ゆうよく》していた理由
十八 エアトンかベン・ジョイスか
十九 取引
二十 夜の叫び
二十一 タボル島
二十二 ジャック・パガネルの最後の粗忽
解説
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第三部
一 〈マクォリー〉
グラント船長を捜している人々が彼を見出す望みをいつか失わねばならなかったとすれば、すべてが一どきに失われたこの時ではなかったろうか? この世界のどこに新しい探検を試みたらよかったろう? また別の地方をどのようにして探索すべきだろう?〈ダンカン〉はもはやなく、ただちに帰国することも不可能であった。してみるともうこの高潔なスコットランド人たちの試みは挫折したのだ。不成功! いかにもこれは、勇敢な魂にはうったえるところのない憂鬱な言葉である。しかし運命の痛手を受けてグレナヴァンもこの献身的事業をもはや続行する力がないことを認めざるを得なかったのだ。
メァリ・グラントはこうした状況にあって健気《けなげ》にももう父の名を口に出そうとしなかった。今度の難に遭った不幸な乗組員たちのことを思って彼女は自分の堪えられぬ不安を抑えた。娘はグレナヴァン夫人の前で控え目にふるまい、あれほどいろいろと慰めを受けた後、今度は彼女のほうがレイディ・グレナヴァンを慰めたのだ! 彼女のほうから先にスコットランドに帰ることを言い出した。彼女がこれほど雄々しく、これほど諦め切っているのを見て、ジョン・マングルズは感服した。彼は船長のために最後にもう一度弁じようとしたが、メァリは目顔で彼を引き留めた。そして後になって彼女に言った。
「いいえ、ジョンさん、献身してくださった方々のことを考えましょう。ロード・グレナヴァンはヨーロッパにお帰りにならなければ!」
「あなたのおっしゃるとおりです、ミス・メァリ」とジョン・マングルズは答えた。「帰らねばなりません。それにまた〈ダンカン〉の運命についてイギリス官憲に知らせる必要もあります。しかしすべての希望をなげうつのはやめてください。われわれが始めた捜索を抛棄するくらいなら、私は独力でまたはじめます! グラント船長を見つけるか、でなければ私がこの義務に倒れるかだ!」
ジョン・マングルズはここで真剣な誓約をしたのである。メァリはその誓約を受け容れた。そしてこの協定を批准しようとするもののように若い船長の手に自分の手を差し伸べた。ジョン・マングルズからすればそれは生涯にわたる献身であり、メァリからすればそれは永久に変ることのない感謝だった。
この日のうちに出発は最終的に決定された。ただちにメルボルンに行くことになった。翌日ジョンは出帆する船がないかと調べに行った。イーデンとヴィクトリア州の首府とのあいだには頻繁な連絡があるものと彼は期待していたのである。
その期待は裏切られた。船はごくすくなかった。トゥーフォールド・ベイに投錨している三艘の船がこの土地に属する商船のすべてだったのだ。メルボルン、シドニー、もしくはウェールズ岬へ行くものは一艘もなかった。ところがオーストラリアではこの三つの港でしかイギリスにむかう船は見出せなかったのである。事実〈ペニンシュラー・オリエンタル・スティーム・ナヴィゲイション・カンパニー〉はこの三つの港と本国とを繋ぐ定期航路を持っていた。
事態がこうなっては一体どうすればいいか? 船が来るのを待つか? そうすればひどく時間がかかるかもしれなかった。トゥーフォールド・ベイにはあまり船が来なかったからだ。沖を通るが決して接岸はしない船がどれほどたくさんあったことか!
考慮し相談したあげくグレナヴァンは海岸沿いの道を通ってシドニーに出ることに決めようとしていたが、このときパガネルは他の何びとも予期していなかったような提案をした。
地理学者は自分でもトゥーフォールド・ベイを見に行って来たのであった。彼はシドニーとメルボルンへの交通機関がないことを承知していた。しかし錨地に投錨している三艘の船のうちの一艘は、ニュージーランドの北の島であるイカ・ナ・マウイの首府オークランドにむけて出帆する準備をしていた。そこでパガネルはその船を傭ってオークランドに渡ることを提案したのだ。オークランドからペニンシュラー会社の船でヨーロッパに帰ることは容易だろうというのである。
この提案は真剣に考慮された。それにしてもパガネルは、いつもはあれほど次々に論拠を述べ立てるのに、今度は一向にそういう羅列をおっぱじめなかった。彼はただ事実を述べるにとどめ、航海は五日か六日以上にはならないだろうとつけくわえた。オーストラリアとニュージーランドのあいだの距離は事実一〇〇〇マイルばかりでしかなかったのである。
奇妙な偶然で、オークランドは旅行者たちがアラウカニアの海岸からあくまでもたどりつづけて来たその三七度線上に位置していた。もちろん地理学者は手前勝手などという非難を受けることなしに、この事実から自分の提案に有利な理窟を引き出せるはずだった。そして事実これは、ニュージーランドの沿岸を訪れるごく自然な機会だったのだ。
ところがパガネルはこうした利点を持ち出しはしなかった。相次いで二度も失敗しているのだから、きっと彼はあの文書の三番目の解釈をあえて披露する気になれなかったのだろう。それにまた、あの文書から何を引き出せたというのか? グラント船長が身を寄せたのは「大陸」であって島ではないことは、あの文書のなかに論議の余地のないほど明白に書かれている。ところでこれは島にすぎないのだ、このニュージーランドは。これは決定的なことであるように見えた。そのためであろうとそうでなかろうと、とにかくパガネルはオークランドに出ようというこの提案には全然探索の意味を含ませていなかった。この土地からイギリス本国への定期的な連絡があること、それを利用することは簡単であることを彼は単に指摘したにすぎない。
ジョン・マングルズはパガネルの提案を支持した。彼はこれを採用するようにすすめた。トゥーフォールド・ベイに来るかどうかわからない船を待っていることはできなかったからである。しかし話を進める前に彼は地理学者の言った船に行って見て来るのが適当だと考えた。グレナヴァン、少佐、パガネル、ロバート、そしてジョンは一艘の小舟に乗って、岸壁から四〇〇メートルほどのところに投錨しているその船にたちまち横着けになった。
それは〈マクォリー〉という名の二五〇トンの二檣船《ブリック》だった。この船はオーストラリアとニュージーランドのいろいろの港のあいだを沿岸航海していた。船長、より正しく言えば〈親方《マースター》〉は訪問者たちを大分乱暴に迎えた。彼らは相手が無教育な人間であり、その態度物腰は同じ船の五人の水夫のそれと本質的に異なっていないことをはっきり見て取った。でっぷりした赤ら顔、厚ぼったい手、ひしゃげた鼻、眇《すがめ》、パイプの|やに《ヽヽ》のついた唇、それに加えて粗暴な様子、こうしたものがこのウィル・ハリーを鼻持ちならない人物に見せていた。しかしほかにどうしようもなかった。それに数日の航海のためならばそんなにこまかくあらさがしする必要はなかった。
「どんな用事なんだね、あんたがたは?」と、自分の船に上って来たこの未知の人々にむかってウィル・ハリーはきいた。
「船長は?」とジョン・マングルズはきいた。
「おれだよ。それで?」
「〈マクォリー〉はオークランドに行くんですね?」
「うん。それで?」
「何を運ぶんです?」
「売り買いできるものなら何でも。それで?」
「出帆はいつ?」
「明日、正午の潮に乗って。それで?」
「客は乗せますか!」
「客によりけりさね。それに船の食い物で我慢してくれるなら」
「食糧は自分で持って来る」
「それで?」
「それで?」
「よおし。人数は?」
「九人、うち二人は御婦人だ」
「船室はないよ」
「甲板室をあけわたしてくれれば何とかする」
「それで?」
「承諾するんですか?」と船長の物言いに大して辟易《へきえき》もしないでジョン・マングルズは言った。
「まあね」と〈マクォリー〉の親方は言った。
ウィル・ハリーは鉄のついた大きな長靴で甲板をどたどたと一度か二度まわってから、いきなりジョン・マングルズのところへもどって来た。
「いくら払ってくれる?」
「いくら要求する?」とジョン・マングルズは反問した。
「五〇ポンド」
グレナヴァンは同意の合図をした。
「よろしい! 五〇ポンド」とジョン・マングルズは答えた。
「しかしただ乗せるだけだよ」とウィル・ハリーは念を押した。
「よろしい」
「食事は別だ」
「別でいい」
「話はきまった。それで?」とウィルは手を伸ばしながら言った。
「何?」
「前金は?」
「半額の二五ポンドだ」とジョン・マングルズは金を数えながら言い、親方《マースター》はありがとうとも言わずそれをポケットに入れた。
「明日乗船してくれ。正午前に。来ようと来まいとおれのほうは錨を揚げるぜ」
「行くよ」
そう答えると、グレナヴァン、少佐、ロバート、パガネル、ジョン・マングルズは船を去ったが、ウィル・ハリーはその赤いもじゃもじゃの髪の上にはりついたシュルエ〔防水布製の一種の帽子〕に指一本当てさえしなかった。
「何て品のない奴だ!」とジョンは言った。
「いやいや、私にはああいうのがいいね」とパガネルは答えた。「ほんとの海の古強者《ふるつわもの》なんだよ」
「ほんとの熊さ!」と少佐が打って返すように言った。
「そして私は、あの熊は昔人身売買もやっていたと思いますよ」とジョン・マングルズはつけくわえた。
「そんなことはどうでもいい」とグレナヴァンは答えた。「あの男が〈マクォリー〉を指揮しており、そして〈マクォリー〉がニュージーランドに行く以上は。トゥーフォールド・ベイからオークランドまでのあいだはあまりあの男の顔を見ることはあるまいし、オークランドから先はもうあの男を見ることはないんだから」
レイディ・ヘレナとメァリ・グラントは出発が翌日にきまったことを聞いて喜んだ。グレナヴァンは〈マクォリー〉は快適さの点では〈ダンカン〉の比でないと彼女たちにことわった。しかしあれほどの試練を経て来た以上、彼女らはそれしきのことに尻込みするような女性ではなかった。ミスタ・オルビネットは食糧を集めるように促された。この気の毒な男は〈ダンカン〉を失って以来、その船上に残った、それゆえ乗組員全員とともにあの囚人どもの残忍さの犠牲となった不幸な妻のことを思ってしばしば泣いていた。それでも彼はいつもの熱心さでステュワードの役目を果し、そして〈食事は別〉というその食事はこのブリックの日常の食卓などには決して上ることのない選りすぐった食べ物から成っていた。数時間で彼の買い入れは終った。
そのあいだ少佐は両替屋に行って、グレナヴァンの持っているメルボルンのユニオン・バンク引き出しの手形を割引きさせた。彼は武器や弾薬と同じく金も欠かしたくなかったのである。それで彼は武器もあらたに買いこんだ。パガネルはといえば、彼はエディンバラでジョンストンが発行したすばらしいニュージーランドの地図を買い求めた。
マルレディはこの頃はよくなっていた。生命をおびやかしたあの疵《きず》の影響もほとんど感じられなかった。海で数時間過ごせば彼は全快してしまうに相違なかった。彼は太平洋の海風で体を治すつもりだったのだ。
ウィルスンは〈マクォリー〉の上に乗客の居間をしつらえることを命じられた。彼がブラシと箒を振りまわすと甲板室は様相を一変した。ウィル・ハリーは肩をすくめてこの水夫に好きなようにやらせておいた。グレナヴァンやその女性を含めた仲間たちのことなど彼は問題にしていなかった。彼らの名さえ知らなかったし、そんなことは気にかけていなかった。こうして余計に荷を積めば五〇ポンドになる、それだけだった。彼は船艙に一杯になっている二五〇樽の鞣《なめ》し革ほどにも彼らのことを買っていなかったのだ。まず第一に革、その次に人間なのだ。彼は商売人だった。船乗りとしての力量についていえば、彼は珊瑚礁《さんごしょう》のため非常に危険なこの海域でかなり経験を積んだ男とされていた。
この日の終りの数時間のうちにグレナヴァンは海岸を三七度線が横切っているあの場所にもう一度行ってみたいと思った。それには二つの理由があった。
遭難の現場と推定されていたあの場所を彼はもう一度見ておきたかった。事実エアトンが〈ブリタニア〉のクウォータマースターだったことは確かだし、そして〈ブリタニア〉はオーストラリア海岸の――西岸ではない以上東岸のこの地点で事実難破したのかもしれなかった。それゆえもう二度と見るはずのない地点を軽々しく去ることはできなかったのである。
次にまた、〈ブリタニア〉は別として、すくなくとも〈ダンカン〉はそこで囚人どもの手中に落ちたのだった。きっと闘いがおこなわれたろう! どうして海岸に闘いの痕跡が、抵抗の死闘の痕跡が見られないのだろうか? 乗組員が波に呑まれたとすれば、その波はいくつかの屍体を岸に打ち上げはしなかったろうか?
グレナヴァンは忠実なジョンを連れてこの偵察をおこなった。ホテル・ヴィクトリアの給仕長は二頭の馬を彼らに提供し、彼らはトゥーフォールド・ベイをまわって行くあの道を行った。
これは陰鬱な探索だった。グレナヴァンと船長は物も言わずに馬を駆った。しかし彼らはたがいに相手の気持を理解していた。同じ考えが、従ってまた同じ不安が彼らの心を責めさいなんでいた。彼らは海に浸蝕された岩を眺めた。二人のあいだでは問いを発したり答えたりする必要はまったくなかった。
海岸のあらゆる地点が綿密に捜索され、どんなに小さな入江も、同じくまたさして激しくもない太平洋の潮が漂流物を打ち上げたかもしれぬどんな砂浜の斜面や砂丘も丹念に調べられたと断言するためには、ジョンの熱意と聰明さを信頼すればよい。しかしこのあたりで新しい捜索をおこなわせるに足るようなどんな手がかりも認められなかった。
難破の証跡のほうもやはり見当らなかった。
〈ダンカン〉についてもまた何の手がかりもない。大洋に面するオーストラリアのこの部分には住民はいなかった。
けれどもジョン・マングルズは浜辺の縁《ふち》に、はっきりとした野営の跡、オーストラリア・アカシア(マイオール)の木かげで最近燃やした火の跡を発見した。それでは放浪の原住民の部族が数日前ここを通ったのだろうか? 違う。なぜならある手がかりがグレナヴァンの目を打ち、囚人どもが海岸のこのあたりに頻繁にやって来ることを決定的に彼に証明して見せた。
その手がかりとは、擦り切れた|つぎ《ヽヽ》だらけの鼠色と黄の作業服という、一本の木の根もとに捨てられていた忌《いま》わしい|ぼろ《ヽヽ》だった。それにはパースの懲役場の登録番号がついていた。懲役囚はもはやそこにいなかったが、よごれたその形身が囚人のいたことの証拠だった。この犯罪者の仕着《しきせ》はどこかの悪党が着た後、この人気《ひとけ》のない岸ですっかり朽ち果てていたのだ。
「どうだ、ジョン!」とグレナヴァンは言った。「囚人どもはここまで来たんだ! それでは〈ダンカン〉に乗っていたわれわれの気の毒な仲間たちは?……」
「そうです!」とジョンは冴えない声で言った。「上陸せず、みんな殺されてしまったに相違ありません……」
「悪党ども!」とグレナヴァンは叫んだ。「奴らがいつか私の手に落ちたら、私は乗組員の仇を討ってやるぞ!……」
苦痛のためにグレナヴァンの顔つきは堅くなった。数分間ロードは果てしもない波のうねりを眺めていた。おそらく最後にもう一度この広袤《こうぼう》のなかに没した何らかの船をさがしていたのであろうか? それから彼の目の光は消え、彼は我にかえって、それ以上何一つ言わず身振りもせずに馬を疾駆させてイーデンへの帰路についた。
あと一つだけ履《ふ》んでおかねばならない手続があった。今度の事件について警官《カンスタブル》に報告することである。報告はその夜のうちにトマス・バンクスに対しておこなわれた。この官吏は調書を作製しながら満足の情をかくしきれなかった。何のことはない、彼はベン・ジョイスとその一味が行ってしまったことに大満悦だったのだ。町のすべての人々が彼と同じく悦んだ。囚人たちはようやくオーストラリアを去った。いかにもあらたな犯罪をかさねることによって去ったのだが、とにかく立ち去ったのである。この大ニューズはただちにメルボルンとシドニーの当局に打電された。
報告が終るとグレナヴァンはホテル・ヴィクトリアに帰った。旅行者たちは陰鬱にこの最後の夜を過ごした。彼らの思いは災難の多かったこの土地を馳せめぐった。彼らはベルヌーイ岬であれほど充分の理由があって抱いた、そしてトゥーフォールド・ベイであれほど無慙《むざん》に砕かれたあの数々の期待を思い返した。
パガネルのほうは熱っぽい昂奮に捉われていた。スノウイ・リヴァーの一件以来彼を見守っていたジョン・マングルズは、地理学者がしゃべりたいという気持としゃべりたくないという気持に引き裂かれているように感じた。何度となく彼はいろいろ問い詰めたが、相手はその問いに答えなかった。
けれどもこの夜ジョンは学者を寝室に送って行くとき、どうしてそんなにいらいらしているのかときいてみた。
「ジョン君、私はいつも以上にいらいらしておらんよ」とパガネルははぐらかすように答えた。
「パガネル先生、先生は何か秘密を持っていらっしゃる。その秘密で息ができないんですね!」
「何だって! しようがないじゃないか」と地理学者は身振りをしながら叫んだ。「私には何ともしようがないんだ!」
「何が何ともしようがないんです?」
「一方では喜び、他方では絶望さ」
「喜んでもいるし絶望してもいらっしゃるんですか?」
「そうだよ、ニュージーランドに行くことを喜んでもいれば絶望してもいるのさ」
「何か手がかりを持っていらっしゃるんですか?」とジョン・マングルズはきおいこんできいた。「消えた足跡を見つけたのですか?」
「ちがうよ、ジョン君! |人はニュージーランドか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|ら帰らない《ヽヽヽヽヽ》! が、それにしても……とにかく君も人間てものの性格を知っているだろう! 生きていさえすれば人間は希望を持つものだ。そして私のモットーは『息あるかぎり希望を持つ(スピーロ・スペーロ』というのさ。これはこの世で一番立派なモットーに劣らぬものだ」
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二 これから行く国の歴史
翌一月二九日、〈マクォリー〉の乗客たちはブリックの狭い甲板室に収容された。ウィル・ハリーは自分の船室を婦人たちに提供しなかった。といってこの無礼さはそれほど遺憾とはされなかった。動物の巣のようなその船室はまことに熊にふさわしかったからだ。
一二時半に干潮とともに出帆準備がおこなわれた。錨の鎖はぴんと張り、錨はようやくのことで水底を離れた。南西からおだやかな風が吹いていた。帆はすこしずつ揚げられた。乗組の五人はだらだらと動いていた。ウィルスンは乗組員を手伝おうとした。しかしハリーは彼に、静かにしていてくれ、関係のないことに手出しをしないでくれと頼んだ。彼はどんなことでも一人でやってのける習慣で、助力も助言も求めないのだと言う。
これは、ある種の操作の拙劣さを見てにやにやしていたジョン・マングルズにむけて言われたのである。ジョンはそれを了承し、乗組員の不手際が船の安全を危くする場合には当然の権利をもって手を出すことは別として、事実上干渉することはつつしんだ。
けれどもマースターの罵声で励まされる五人の水夫の腕で時間を食いながらも帆は張られた。〈マクォリー〉は斜めうしろから左舷開きにした下帆やトップスルやトガンスルや後|斜桁帆《しゃこうはん》やジブに風を受けて走った。その後補助帆や最上檣帆も揚げられた。しかしこれほど帆を出してもブリックはほとんど前進しなかった。前部がふくらみ、底部がひろがり、後部が重いために船脚は速くなかった。典型的なぼろ船だったのである。
それでもこれで我慢しなければならなかった。さいわいなことに、〈マクォリー〉がどんなに進み方が悪かろうと、五日、もしくは遅くとも六日以内には、オークランドの船着場に着いているはずだった。
午後七時にオーストラリアの海岸もイーデン港の標識燈も見えなくなった。かなり波の立っている海は船を苦しめた。船は波と波の合間にどすんと落ちた。乗客たちは激しい動揺を感じたが、この動揺のため甲板室にいることは辛くなった。けれども彼らは甲板にいることはできなかった。雨は激しかったからである。こうして彼らは逃れようもなく閉じこめられていることになったのである。
そこで人々はそれぞれ自分の思念のおもむくままに思いに耽りはじめた。あまりおしゃべりはしなかった。レイディ・ヘレナとメァリ・グラントはかろうじて二言三言交わしたにすぎない。グレナヴァンは自分の席にとどまっていなかった。彼は行ったり来たりし、一方少佐は動かなかった。ジョン・マングルズはロバートを従えて時々甲板に上って海を眺めた。パガネルはといえば、彼は片隅で曖昧な脈絡のない言葉をつぶやいていた。
尊敬すべき地理学者は何を考えていたのだろうか? 運命によって導かれて行くそのニュージーランドのことだ。ニュージーランドの全歴史を彼は頭のなかで復習し、この不吉な国の過去は彼の眼前によみがえって来た。
しかしこの歴史のなかには、この島々の発見者たちにこれを大陸とみなすことをかつて許したような一つの事実、一つの事件でもあっただろうか? 近代の地理学者が、船乗りが、この大陸という呼称をこの島々に与えることがあり得ただろうか? ごらんのとおりパガネルはあいかわらずあの文書の解釈をむしかえしていたのだ。それは一つの偏執《へんしつ》、一つの固定観念であった。パタゴニアの後、オーストラリアの後、ある一語に引きつけられた彼の想像力はニュージーランドに夢中になっていたのだ。しかし一つの点、ただの一点が彼をこの方向から引き留めていた。
「Contin…… contin……」と彼はくりかえした。「これはやはり continent(大陸)じゃあない!」
そして彼はまた南洋のこの二つの大きな島を探検した航海者たちの跡を記憶で追いはじめるのだった。
オランダ人タスマンがヴァン・ディーメン島を発見した後、ニュージーランドの未知の岸に上陸したのは一六四二年一二月一三日だった。彼は数日海岸沿いに行き、そして一七日に彼の船隊は二つの島のあいだに穿《うが》たれた狭い水路の果てにある広い湾にはいった。
北の島は〈イカ・ナ・マウイ〉であるが、これは「マウイの魚」という意味のニュージーランド土語である。南の島は〈マハイ・プナ・ムー〉、すなわち「緑の硬玉を生む鯨〔その後全ニュージーランドを指す土語はティカ・マウイというのだとわかった。トワイ・プナムーは中央の島の一地方を指すにすぎない〕」という。
アベル・タスマンはボートを陸に送ったが、ボートはやかましい原地民の一隊を乗せた二隻の独木舟《まるきぶね》をともなってもどって来た。この蛮人は中背で、皮膚は鳶《とび》色と黄色、骨は突き出し、耳ざわりな声を出し、黒い髪は日本人のように頭の上で結び、その上に大きな白い羽をつけている。
このヨーロッパ人と原住民の最初の会見は長期にわたる友好的な関係を約束するもののように見えた。ところが翌日、タスマンのボートの一隻が陸にもっと近い泊地《はくち》を偵察に行こうとしたとき、多勢の原住民を乗せた七隻の独木舟が猛然とそのボートを襲った。ボートは横転して水に満たされた。指揮していたクウォータマースターがまずあまりよく研いでいない槍で喉を突かれた。彼は海に落ちた。彼の六人の部下のうち四人が殺された。ほかの二人とクウォータマースターは船のほうへ泳いで引き上げられ救われることができた。
この痛ましい事件の後タスマンは、復讐としてはおそらく相手に中《あた》りはしなかったろうがマスケット銃を数発原地民どもにむけて放つにとどめて、出帆準備をした。彼は「虐殺湾」という名の残っているこの湾を去り、西岸を北上し、一月五日に北の岬のそばに投錨した。ここでは磯波の激しさのためだけではなく蛮人の敵意もあって水を補給することができず、彼は自分がスターテン・ランドと名づけたこの土地を去った。この名は〈身分《エタ》会の土地〉という意味で、三身分会《エタ・ジェネロー》にちなんでこう命名したのである。
事実このオランダ人航海家は、アメリカ大陸南端のフエゴ島の東に発見されていた同名の島にこの土地は隣接しているものと想像していたのだ。彼は〈南の大陸〉を発見したものと思いこんでいた。
「しかし」とパガネルは心に思った。「いくら一七世紀の船乗りが〈大陸〉と呼ぶことができたにせよ、一九世紀の船乗りまでもこれをそう呼ぶことはできはしない! このような誤りは考えられない! ちがう! 何か私の見落しているものがあるんだ!」
一世紀以上のあいだタスマンの発見は忘れられていた。そしてニュージーランドなどというものはもはや存在しないように見えたとき、フランスの航海家シュルヴィルが南緯三五度三七分でこの土地に接した。はじめは彼は原住民に悩まされなかった。しかし風が極度の激しさで彼を襲い、嵐がはじまり、探検隊の患者を運んでいた大型短艇が〈避難湾〉の岸に打ち上げられた。そこのナギ・タイという名の酋長はフランス人たちを手厚く迎え、自分の小屋で彼らをもてなした。シュルヴィルのボートの一つが盗まれるまですべてはうまく行った。シュルヴィルは返還を要求したが、容れられず、この盗みを罰しなければならぬとして一つの村をすっかり焼きはらった。恐るべき不当な復讐だった。これはその後ニュージーランドでおこなわれた血なまぐさい報復と無縁ではないのである。
一七六九年一〇月六日、有名なクックがここの海岸にあらわれた。彼はその乗船〈エンデヴァー〉をタウエ・ロアに投錨させ、原地民たちを好遇して彼らと親しくなろうとした。しかし好遇するためにはまずその連中を見つけて来なければならない。クックは躊躇《ちゅうちょ》なく二人か三人を捕虜にして彼らに無理強いに親切をほどこした。この連中はいろいろなものをもらいさんざん甘やかされたのち陸にかえされた。間もなく彼らの話に誘惑されて多くの原地民たちが自分のほうから船に来て、ヨーロッパ人と物々交換をした。数日後クックは南の島の東岸に広く抉《えぐ》れているホークス湾にむかった。彼はそこで好戦的な、騒々しく挑戦的な原住民にぶつかった。彼らの示威は極端になり、霰弾を一発放って彼らをしずめねばならなくなったほどだ。
一〇月二〇日、〈エンデヴァー〉は二〇〇人ほどの平和的な住民の住んでいるトコ・マル湾に錨をおろした。船に乗っていた植物学者たちはこの地方で収穫の多い踏査をおこない、原地民たちは彼らを自分らの独木舟で岸に運んだ。クックは柵と胸壁と二重の濠で守られた二つの村を訪れたが、これらは布陣法に関する本格的な知識を示していた。これらの砦のうち一番重要なものは、大潮のため本当の島となっている岩山の上に設けられていた。いや、島以上である。なぜなら単に水に囲まれているだけではなく、この人のよりつけぬ〈パー〉がその上に立っている高さ一八メートルほどの自然の船にむかって水は咆哮を上げて打ちつけていたのだから。三月三一日にクックは、五ヵ月にわたって珍奇な物品やこの土地に産する植物や民族誌・民族学のさまざまの資料をふんだんに蒐《あつ》めたあげく、二つの島を分っている海峡に自分の名を与えてニュージーランドを去った。その後の航海でも彼はこの地に再会するはずである。
事実一七七三年にこの偉大な船乗りはホークス湾にふたたびあらわれ、食人の場面を目撃した。この場合はこうした場面を演じさせたことで彼の部下たちを非難しなければならない。将校たちは若い蛮人の切断された四肢が地面にあるのを見つけて船に持って帰り、「それを焼かせて」原地民たちに与えたところ、原地民たちはがつがつしながらそれに飛びついたのだ。このようにして食人人種の食事の料理人をつとめるなどとは情ない酔狂ではないか!
クックはその三回目の航海のあいだにも、彼が特に愛着をおぼえ、そして是非その水路測量をおこないたいと思っていたこの島を訪れた。彼が最後にここを去ったのは一七七七年二月二五日だった。
一七九一年、ヴァンクーヴァーは二〇日間ほどダーク湾に寄港したが、自然科学もしくは地理学には何らの貢献もなかった。ダントルカストーは一七九三年にイカ・ナ・マウイ島北部の沿岸を四〇キロにわたって測量した。商船の船長ハウゼンとダルランプ、次いでバーデン、リチャードスン、ムーディが短時間そこに姿をあらわし、またサヴェジ博士は五週間の滞在のあいだにニュージーランド原地民の風俗について興味ある事実を蒐めた。
同じこの一八〇五年に、ランギ・フーの酋長の甥の聰明なドゥア・タラは、アイランド湾に碇泊しているバーデン船長指揮下の船〈アルゴ〉に乗りこんだ。
おそらくドゥア・タラの冒険は、マオリ族のホメーロスでもいたとすれば彼に叙事詩の題材を提供したことであろう。そこには災難や不法や虐待が数々含まれている。背信、監禁、殴打と怪我、これがこの哀れな蛮人が一所懸命尽した返礼に与えられたものだった。文明人と自称する連中について彼はどんなイメージを抱いたことであろう! 彼はロンドンに連れて行かれた。最下級の水夫、乗組員のなぶり者にされたのだ。マーズデン神父がいなかったならば彼はほとんど死んでいたことだろう。この宣教師は若い蛮人に的確な判断力や実直な性格や、温和、親切さ、愛想のよさなどという優れた美点を認めて彼に興味をよせた。マーズデンはこの被保護者のために幾袋かの小麦と農耕器具を手に入れてやって、彼の故国へ送らせた。このちょっとした荷物は盗まれてしまった。さまざまの不幸、苦しみがまたしてもかわいそうなドゥア・タラを襲い、それは彼がようやく父祖の国におちついた一八一四年までつづいた。今度こそ彼はこうしたさまざまの有為転変の果実を摘み取ろうとしていたのだが、この血なまぐさいニュージーランドを更生させようとしかけていた矢先に、二八歳という年で彼は不意に死に襲われたのである。文明の歩みはこの取り返しのつかない不幸によっておそらく数年遅らされた。善への愛と祖国への愛を心のうちで結びつけている聰明で善良な人間は、何ものをもってしても代えられないのである!
一八一六年までニュージーランドは見捨てられていた。この頃トンプスンが、一八一七年にはリディアード・ニコラスが、一八一九年にはマーズデンが二つの島のいろいろの個所を踏破し、一八二〇年には第八四歩兵連隊の大尉リチャード・クルーズは一〇ヵ月滞在したが、これによって科学は原住民の風俗についての真摯《しんし》な研究という収穫を得たのである。
一八二四年に〈コキーユ〉の艦長デュペレーはアイランド湾に二週間寄港したが、原地民たちのことはもっぱら讃美しただけだった。
その後一八二七年に、イギリスの捕鯨船〈マーキュリー〉は掠奪と殺害に抗して闘わねばならなかった。その同じ年、ディヨン船長は二度の寄港のあいだこの上もなく手厚いもてなしを受けている。
一八二七年三月、〈アストロラーブ〉の艦長だった有名なデュモン=デュルヴィルは何らの損害も蒙らずに武器なしで幾夜かを陸に上って原地民たちのあいだで過ごし、贈物を交換し、歌を披露し合い、小屋で眠り、妨げられることなく測量作業をつづけることができた。これによって海軍は非常に立派な地図を得たのである。
それに反して、翌年ジョン・ジェイムズの指揮下のイギリスのブリック〈ホーズ〉はアイランド湾に寄ったあと東岬にむかったが、エナラロという名の陰険な酋長にさんざん苦しめられた。彼の部下の幾人かは無慙な死を遂げた。
こうしたさまざまの対照的な出来事、穏かさと蛮行のこの交錯から結論しなければならぬことは、ニュージーランド原地民の残虐行為はあまりにも多くの場合復讐にすぎなかったということである。好遇するか虐待するかは船長が善い人間か悪い人間かにかかっていた。たしかに原地民の側から正当ならぬ攻撃がおこなわれたことも幾度かあったが、しかし何にもまして多かったのはヨーロッパ人自身がその種をまいた復讐なのだった。不幸にしてその報いはそれを受ける理由のない人々の上に落されたのである。デュルヴィルの後にニュージーランドの民族誌は二〇回も世界を馳せめぐったある大胆な探検家によって補足された。放浪者、科学者のボヘミヤンというべきイギリス人アールである。彼は二つの島の未知の部分を訪れたが、彼自身としては原住民に悩まされるようなことはなかった。しかし彼は食人の場面を何度も目撃した。ニュージーランド原地民はぞっとするような嗜好をもっておたがいの肉をむさぼり食うのだった。
このことはまた一八三一年にラプラース船長がアイランド湾に寄港した際に認めたことであった。すでに闘いは別の意味でも恐るべきものとなっていた。なぜなら蛮人たちは驚くべき的確さで火器をあやつったからである。そのためイカ・ナ・マウイのかつて繁栄し人口の多かった地方も見るかげもない荒地と化した。羊の群が焼肉にされ食われて消滅したように、土民たちもまったく消滅した。
宣教師たちはこの血なまぐさい本能を抑えようとして闘ったが、その甲斐はなかった。すでに一八〇八年から伝道協会《チャーチ・ミッショナリ・ソサイアティ》は北島の主要な個所にその最も有能な活動家たち――これこそ彼らにふさわしい名なのだが――を送りこんでいた。しかしニュージーランド原地民の野蛮さのため伝道会の設立は中止しなければならなかった。ようやく一八一四年になって、ドゥア・タラの保護者だったマーズデンとホールとキングがアイランド湾に上陸し、二〇〇エイカー(約八一ヘクタール)の土地を鉄の斧一二挺という代価で酋長たちから買った。ここにイギリス国教伝道会が設立されたのである。
最初の仕事は困難だった。しかし結局原地民は宣教師たちの生命を尊重した。彼らは宣教師たちの治療や教説を受け容れた。幾人かの始末に負えない原地民もおだやかになった。感謝の情がこの非人間的な心のなかにも目覚めて来た。それどころか一八二四年には、ニュージーランド原地民たちがその言葉で言う〈アリキ〉、すなわち神父たちを、彼らを罵《ののし》ってひどい目に遭わすと嚇《おど》かしている乱暴な水夫たちから守るということまであったのだ。
そういうわけで、ポート・ジャクスンから脱走した囚徒がいて原住民の風紀を乱したにもかかわらず伝道はさかんになった。一八三一年に〈福音伝道新聞〉は、アイランド湾で海に通ずる運河の岸にあるキディ・キディとカワ・カワ河のほとりのパイ・ヒアに位置する二つの大きな施設のことを報じている。キリスト教に回心した原住民はアリキの指導のもとに道を開き、広大な森林のなかに通路を作り、急流に橋をかけた。それから伝道師たちはそれぞれ遠くの部族に文明の宗教を説きに行き、藺《い》と樹皮の会堂や、若い原住民のための学校を建て、そしてその貧しい建物の屋根には、キリストの十字架を描きニュージーランド土語で〈福音〉を意味する〈ロンゴ・パイ〉という言葉を記した伝道団の旗がひるがえった。
不幸にして伝道師たちの影響は彼らの施設を越えてまでは広がらなかった。住民のうち放浪性のものはすべて彼らの教化を受けなかった。食人肉はキリスト教徒のところでしか絶滅されなかったし、しかもなおこの新改宗者たちをあまりにも大きな誘惑に遭わせてはならなかった。血の本能が彼らの体内にざわめいていたのだ。
その上戦争はこうした未開地方では依然として慢性的につづいていた。ニュージーランド原地民はヨーロッパ人の侵入の前から逃げ出す蒙昧化したオーストラリア原地民ではなかった。彼らは抵抗し、防戦し、侵略者たちを憎んだ。そして今抜きがたい憎悪が彼らをしてイギリス人移民に敵対させているのだ。この大きな島の未来は骰子《さいころ》の一擲《いってき》にかかっている。闘いの帰趨《きすう》によってただちに文明化がおこなわれるか、あるいは長期にわたって徹底した未開状態がつづくかなのだ。
このようにパガネルは、焦躁のあまり沸き立つ脳味噌をかかえた頭のなかでニュージーランドの歴史をたどってみた。しかしその歴史のなかには、二つの島から成るこの地方を〈大陸〉と呼ぶことを許すようなものは何一つなかったし、またあの文書のなかのいくつかの言葉が彼の想像力を呼び醒ましたにしても、contin というこの二綴字が執拗に彼を引き留めて新しい解釈に進ませないのだった。
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三 ニュージーランドの虐殺
出発の四日後の一月三一日という日になっても、〈マクォリー〉はオーストラリアとニュージーランドに挾まれたこの海をまだ三分の二も横切っていなかった。ウィル・ハリーは自分の船を動かすことにあまり関心がなかった。勝手にやらせておいたのだ。彼はめったに姿も見せなかったが、誰もこれについて文句を言う気はなかった。彼が自分の船室に一日じゅう閉じこもっていようと、この粗野な親方《マースター》が毎日ジンかブランディで酔っぱらっていなければ、誰一人として非難しようとは思わなかったろう。彼の水夫たちもとかく彼の真似をした。そしてこのトゥーフォールド・ベイの〈マクォリー〉ほど運を天にまかせて航海する船などは断じてなかったのだ。
この許すべからざる怠慢のためにジョン・マングルズは絶えず監視していなければならなかった。マルレディとウィルスンが船が針路から逸れて横倒れになりかけたとき舵を握って立て直してやったことも再三だった。しばしばウィル・ハリーは口を出し、この二人の水夫にさんざん毒づいた。あまり我慢強いほうではないこの二人は、何としてもこの酔いどれを殴り倒してその後の航海のあいだじゅう船艙の奥に叩きこんでしまうと言い張った。しかしジョン・マングルズは彼らを引き留め、彼らの当然の憤慨をしずめるのに手を焼いた。
けれども船のこういう現状は彼を憂慮させた。しかしグレナヴァンを心配させまいとして彼は少佐とパガネルにしかその話はしなかった。マクナブズは、言葉だけは違っていたがマルレディとウィルスンの言ったのと同じことを彼に勧告した。
「もしそうするのが必要だと君が思ったら、ジョン、君がこの船の指揮を、あるいはこう言ったほうがよければこの船の監督を引き受けるのを決してためらってはいけないよ」とマクナブズは言ったのだ。「あの酔いどれにはオークランドに着いたら自分の船をとりもどさせればいいんだ。そしてそれが奴の道楽ならば船を顛覆させるのもいいさ」
「それはそうです、マクナブズさん」とジョンは答えた。「絶対必要とあれば私はそうしますよ。海のまんなかにいるかぎりはちょっと目をくばっているだけでいい。私の水夫たちも私も甲板から離れません。しかし岸に近づいてもあのウィル・ハリーの奴が正気をとりもどさなければ、正直な話私も非常に困りますからね」
「君が針路を教えるわけには行かないかね?」とパガネルはきいた。
「そいつはむずかしいでしょう。信じられますかね、この船には海図一枚ないんですよ!」
「ほんとかい?」
「ほんとですよ。〈マクォリー〉はイーデンとオークランドのあいだの近距離航海しかしていないし、あのウィル・ハリーって奴はこのあたりの海にはすっかり慣れているんで測定など全然やらないんです」
「あいつはきっと、自分の船は針路を知っていて、ひとりで進んで行くんだと考えているんだろう」とパガネルは答えた。
「いやはや!」とジョン・マングルズは言った。「ひとりで進む船なんてものを私は信じませんね。そして陸に近くなってもウィル・ハリーが酔っぱらっていたらわれわれはとてつもない目に遭わされますよ」
「陸のそばに来たら奴が正気をとりもどすものと期待しようじゃないか」
「それでは」とマクナブズがきいた。「万一の場合には、君がオークランドへ〈マクォリー〉を持って行くことはできまいか?」
「そのあたりの沿岸の地図がなければ不可能です。そのあたりの岩礁は非常に危険ですから。ノルウェーのフィヨルドのように不規則で気まぐれな小さなフィヨルドの連続なんです。暗礁は多いし、それをよけるにはよほど慣れていなくちゃなりません。水面下数フィート(一フィートは約三〇センチ)のところにかくれているあの岩の一つに竜骨がぶつかったら、どれほど堅牢であろうとその船はおしまいですよ」
「ではそうなると、乗っているものは岸に逃げる以外に手はないのかね?」
「そうです、マクナブズさん、天候がそれを許せばですが」
「そいつは絶体絶命だな!」とパガネルは言った。「居心地がよくないからな、ニュージーランドの海岸というところは。そして岸の向うだって岸の手前と同じくらい危険なんだよ」
「マオリ族のことをおっしゃっているのですか、パガネル先生?」とジョン・マングルズはきいた。
「そうだよ、君。奴らの名はインド洋に知れわたっている。こいつはもう臆病な、あるいは愚かなオーストラリア原地民ではなく、頭のいい兇暴な人種、人肉を好む人食い、いかなる同情も期待できない食人人種なんだ」
「それじゃあ」と少佐が言った。「もしグラント船長がニュージーランド海岸で遭難したとすれば、捜索におもむくことを君は勧めないかね?」
「沿岸部ならば勧めるよ」と地理学者は答えた。「おそらく〈ブリタニア〉の手がかりをつかめるだろうからね。しかし内部ならば反対だ。何の役にも立たんから。この恐ろしい地域に足を踏み入れるヨーロッパ人はすべてマオリ族の手中に落ち、そしてマオリ族の手中に落ちた捕虜はすべて命がないからだ。私は友人たちを励ましてパンパスを越え、オーストラリアを横切ることはさせた。しかし断じてニュージーランドの山道に引っぱりこむことはしないね。天がわれわれを助けて決してあの獰猛《どうもう》な原地民の手中に陥るようなことがないですむように!」
パガネルの恐れは当然すぎるほど当然だった。ニュージーランドには恐ろしい評判があった。そしてニュージーランド発見にまつわるすべての事件にはそれぞれ血で彩られた日づけがついているのだった。
航海者の受難者列伝に書きこまれているこの犠牲者たちの数はおびただしい。この血なまぐさい食人の歴史の筆頭にいるのはアベル・タスマンで、その部下の五人の水夫が殺されて食われたのである。次いでタクニー船長とそのランチの乗組員全体が同じ死に方をした。フォヴォー海峡の東部で〈シドニー・コーヴ〉の五人の漁夫が同じく原地民に食われて死んだ。さらになおモリヌー港で虐殺されたスクーナー船〈ブラザーズ〉の四人の船員、ゲイツ将軍|麾下《きか》の多くの兵士、〈マチルダ〉の三人の脱走水兵、そしていよいよあの悲しい名を知られたマリオン・デュ・フレーヌ艦長が来る。
一七七二年五月一一日、クックの第一次航海の後にフランスの艦長マリオンは乗艦〈マスカラン〉およびクロゼ艦長の指揮する〈カストリー〉とともにアイランド・ベイに碇泊した。偽善的なニュージーランド原地民は新しく到着したこの連中を大いに歓迎した。それのみかこの原地民たちは臆病らしくふるまい、彼らを船になじませるには贈物や心尽しや日常の交歓が必要であった。
酋長だった頭のいいタクリは、デュモン・デュルヴィルの言を信じねばならぬとすれば、ワンガロア部族に属しており、マリオン艦長が来る二年前にシュルヴィルが奸計をもって拉し去ったあの原地民の親戚だった。
名誉の命ずるところによってすべてのマオリ人が侮辱を蒙った場合血をもってそれを贖《あがな》おうとするこの国にあって、タクリは自分の部族に加えられたこの無道な行為を忘れることができなかった。彼はヨーロッパの船が来るのを辛抱づよく待ち、復讐を練り、恐るべき冷静さでそれを実行したのである。
フランス人に対して恐怖をよそおったあげく、タクリはあらゆる手段をつくして彼らにまやかしの安全を信じこませて警戒心を解かせてしまった。彼とその仲間たちはしばしば船に泊った。上等の魚を持って行った。娘や女房たちも彼らについて行った。間もなく彼らは士官たちの名をおぼえてしまい、自分らの村を訪れるように誘った。マリオンとクロゼはこのような申し出に誘惑されて、四〇〇〇の住民のいるこのあたりの海岸地方を歩きまわった。原地民たちは武器を持たずに彼らを迎えに駈けより、完全な信頼を彼らに抱かせるように努めた。
マリオン艦長はアイランド・ベイに寄港するとき、最近の嵐によってひどく傷んだ〈カストリー〉のマストを取り替えようと思っていた。そこで彼は内陸を探検し、五月二三日に海岸から八キロほどのところにすばらしい杉の林を見つけた。そこは艦のいるところから四キロほどのところにあるある湾から近かった。
そこに飯場が作られ、乗組員の三分の二は斧その他の道具を手にして伐採と湾に通ずる道の修復のために働いた。他に二つの地点が選ばれ、その一つは港のまんなかのモトゥ・アロの小島にあって、艦隊中の病人と、船の鍛冶工や樽職人がそこへ移され、もう一つは艦のいるところから六キロばかりの、本島の海岸沿いで、ここからは作業員の飯場と連絡が通じている。これらすべての地点で屈強でしかも親切な原住民たちがいろいろの作業をする乗組員たちの手伝いをした。
けれどもこれまでのところマリオン艦長はある種の警戒措置を怠ってはいなかった。蛮人たちは決して武器を持って船に上ることはなかったし、ランチは陸に行くときはかならず充分武装していた。しかしマリオンや最も疑い深い乗組員たちも原住民たちの態度に目を欺かれ、司令官はボートに武器を載せないように命じた。もっともクロゼ艦長はこの命令を撤回するようにマリオンを説得しようと思ったのだが、それは不成功だった。
そうなると、ニュージーランド原地民の親切さや献身はますます募った。彼らの酋長たちと将校たちはきわめて親密につきあっていた。何度となくタクリは息子を船に連れて来、息子を船室で寝かせた。六月八日、マリオンは島を公式訪問した際にこの地方一帯の大酋長として承認され、その栄誉のしるしとして四つの白い羽が彼の頭髪につけられた。
軍艦がアイランド・ベイに来てからこのようにして三三日たった。マストの作業は捗《はかど》った。水槽はモトゥ・アロの給水場で満たされた。クロゼ艦長は、みずから作業員の飯場に行って指揮し、仕事が首尾よく完成するという希望がこれほどはっきりして来たことはかつてなかった。
六月一二日二時、タクリの村の近くでおこなわれる予定の漁に行くために司令官のボートは準備されていた。マリオンはヴォドリクールとルウーという二人の若い士官、志願将校一人、および軍紀係将校と一二名の水兵とともにそれに乗りこんだ。タクリほか五人の酋長が彼らに同行した。一七人のヨーロッパ人のうち一六人を襲うことになる恐るべき災禍を予告するものは何一つなかったのだ。
ボートは本艦を離れ、陸にむかって走った。そして二隻の軍艦からはその姿は見えなくなった。
その夜マリオン艦長は艦で寝るために帰って来なかった。誰も彼のもどらないことを心配していなかった。マストの工事場を視察してそこで夜を過ごそうとしたのだと人々は思った。
翌日の五時、〈カストリー〉のランチはいつものとおりモトゥ・アロ島に水を補給しに行った。このランチは事故もなくもどった。
九時に〈マスカラン〉の衛兵は軍艦のほうにむかって泳いでいる力の尽きかけた一人の男を海上に認めた。ボートがその男を助けに行き、艦に連れ帰った。
それはマリオン艦長のランチの乗組員の一人であるターナーだった。彼は横腹に槍で二突きされた傷を負っていた。そして前日艦を離れた十七人のうち彼一人だけが帰って来たのである。
彼は質問され、間もなくこの凄惨なドラマの全貌があきらかになった。
不運なマリオンのボートは午前七時に村に着いた。蛮人たちはにぎやかに彼らを迎えに来た。足を濡らさずに上陸したいという将校や水兵たちを彼らは肩にのせて運んでくれた。それからフランス人たちは別れ別れになった。
たちまち蛮人たちは槍や各種の棍棒を持って、一対十の多数でフランス人たちに躍りかかり、虐殺した。水兵ターナーは二回槍で刺されながらも、敵の手を逃れて藪のなかに身をひそめることができた。そこから彼は身の毛のよだつような場面を目撃した。蛮人たちは死者たちの衣服を剥ぎ、腹を割き、切りこまざいたのだ……。
このときターナーは気づかれぬように水に飛びこみ、瀕死の状態で〈マスカラン〉のボートに救われたのである。
この事件は両艦の乗組員を驚愕させた。復讐の叫びがわきあがった。しかし死者の復讐をする前に生きているものを救わねばならなかった。陸上には三つの集合点があり、数千の血に飢えた蛮人たち、食欲をそそられた食人人種がそれをとりまいていたのだ。
クロゼ艦長はマストの工事場に泊ったので不在だったが、先任士官デュクレムールが非常措置を取った。〈マスカラン〉のランチが士官一名と水兵一分隊を乗せて送り出された。この士官は何よりもまずマストの作業員を救い出すことになっていた。彼は出発し、岸に沿って進み、マリオン司令官のボートが陸に打ち上げられているのを見て上陸した。
すでに言ったように艦にいなかったクロゼ艦長は虐殺のことは全然知らないでいたが、午後二時頃分隊がやって来るのを見た。彼は何か不幸があったなと感じた。迎えに出て彼は事の次第を知った。彼は部下たちに知らせるなと命じた。士気を沮喪《そそう》させたくなかったからである。
蛮人たちはいくつかの隊をなして高い地点をすべて押えていた。クロゼ艦長は主要な器具を撤収させ、ほかのものは土に埋めて納屋に火を放ち、六〇名の兵とともに退却をはじめた。
原地民たちはTakuri mate Marion !(タクリはマリオンを殺した!)と叫びながらついて来た。彼らは上官の死を知らして水兵たちの恐怖をかきたてるつもりだったのだ。水兵たちは怒り狂って彼らに襲いかかろうとした。クロゼ艦長はようやくのことで部下をとりしずめた。八キロほど進んだ。分隊は海岸に到着し、もう一つの集合点にいた兵とともにランチに乗りこんだ。このあいだずっと一〇〇〇人ばかりの蛮人は地面に坐りこんで動かなかった、しかしランチが沖に出ると石が飛びはじめた。ただちに射撃のうまい四名の水兵が次々に彼らの酋長たちのすべてを射殺し、火器の力を知らない原地民たちを茫然とさせた。
クロゼ艦長は〈マスカラン〉に乗りこみ、ただちにランチをモトゥ・アロ島に派遣した。一個分隊が島に上って夜を過ごし、患者は艦に引き揚げさせられた。
あくる日さらに一個分隊が増援に来た。島に跋扈《ばっこ》する原地民たちを一掃して、水槽を満たしつづけられるようにしなければならなかった。モトゥ・アロの村には三〇〇人の住民がいた。フランス兵は村を攻撃した。六人の酋長が殺され、残りの原地民は銃剣で倒され、村に火が放たれた。それにしても〈カストリー〉はマストなしで出帆することはできなかったので、杉林の木をあきらめねばならなかったクロゼは、ありあわせのものを組立ててマストを作らねばならなかった。給水作業もつづけられた。
一月《ひとつき》たった。蛮人たちはモトゥ・アロ島を奪還しようとしていくらかの試みをしたが、成功しなかった。彼らの独木舟は軍艦の射程内を通ると砲撃で粉砕された。
とうとう作業は終った。後はただ一七名の犠牲者のうち誰かがあの殺戮から生き伸びていはしないかを確かめ、報復をすることだった。士官と兵を含む多数の分隊を乗せたランチはタクリの村にむかった。ランチが近づくとこの裏切者の卑怯な酋長はマリオン艦長のマントを肩にかけて逃げ出した。その村の小屋は綿密に捜索された。彼自身の小屋から最近焼かれた人間の頭蓋骨が見出された。食った人間の歯の痕がまだ見られた。人間の腿が木の串に刺してあった。襟に血のついたシャツがマリオンの持物だとわかった。若いヴォドリクールのピストル、ボートにあった武器とぼろぼろになった衣類。もっと先の別の村には、洗って焼いた人間の臓腑があった。
これらの殺人と食人の歴然たる証拠は集められ、遺体は鄭重《ていちょう》に埋葬された。それからタクリとその共犯者であるピキ・オレの村は火を放たれた。一七七二年七月一四日に二隻の軍艦はこの不幸な海域を去った。
ニュージーランドの海岸を踏むすべての旅行者の忘れるはずのないあの惨事とは、このようなものだったのである。この教訓を生かさない船長は軽率な船長というべきだ。ニュージーランド原地民は常に陰険であり人肉を嗜《たしな》むのである。クックもまた一七七三年の第二次航海の際はっきりとそれを認めた。
事実彼の率いる船の一つ、ファーノー艦長の〈アドヴェンチャー〉のランチは一二月七日に草を取りに陸に行ったが、そのまま帰らなかった。一人の候補生と九名の水兵がそれに乗っていた。ファーノー艦長は不安をおぼえて彼を捜すためにバーニー少尉を送り出した。バーニーは上陸地点に着くと、彼自身の言によれば「戦慄をおぼえずには語ることのできないような虐殺と蛮行の図」を見た。「幾人かのわれわれの仲間の頭、臓腑、肺が砂の上に散らばっており、そのすぐそばで幾匹かの犬がそれと同じような残骸をなおむさぼっていた」
この血なまぐさいリストを終えるためには、一八一五年にニュージーランド原地民に襲われた〈ブラザーズ〉と、一八二〇年に虐殺されたトンプスン船長指揮の〈ボイド〉の全員をつけくわえねばならない。最後に一八二九年三月一日にワルキターで、酋長エナラロはシドニー籍のイギリスの二檣船《ブリック》〈ホーズ〉を掠奪した。彼の率いる食人人種の一隊は多くの水夫を殺し、屍体を焼いて食った。
酔いどれを船長とする無能な乗組員の乗りこんだ〈マクォリー〉が目指しているニュージーランドはこのような国だったのだ。
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四 暗礁
けれどもこの苦しい航海は長引いた。出帆して六日後の二月二日になっても〈マクォリー〉はまだオークランドの岸の見えるところまで行っていなかった。風は順風で、ずっと南西から吹きつづけていたのだ。しかし潮流が悪く、二檣船《ブリック》はもうすこしで横倒しになるところだったのである。荒れて波の高い海は船の上部にまで打ち当り、その肋材はきしみ、波の谷間から船体はようやくのことで上って来るのだった。支檣索《ししょうさく》や後支索や支索は張り方が悪いので、マストに弛《ゆる》みを残し、マストは船体の揺れるたびに激しく動揺した。
まことにさいわいなことにウィル・ハリーは急ぐことのない男だったから、帆を無理に張らなかった。そんなことをしたらすべてのマストはかならず倒れてしまったに相違ないからである。ジョン・マングルズはそれゆえ、このやくざな船体もこれ以上大した困難もなく港につけるだろうと期待した。しかし彼は自分の仲間たちがこの船でいかにも居心地が悪そうにしているのを見て悲しかった。
それでもレイディ・ヘレナもメァリ・グラントも、間断のない雨のために甲板室にとじこもっていなければならなかったにかかわらず愚痴をこぼさなかった。甲板室では空気は悪いし船が動揺するのでひどく居心地が悪かった。だから彼女らはしばしば荒天を冒して、堪えられないスコールのためもどらねばならなくなるまで甲板に出ていた。そうなってからはじめて、船客などを、とりわけ婦人客を入れるより貨物を納めるにふさわしいあの狭っくるしいところへ彼女らは帰ったのだ。
そこで皆は彼女たちの心を紛らそうとした。パガネルはひまつぶしに物語をしようとしたが、これはあまり成功しなかった。事実、この帰途に迷った人々は意気沮喪していたのだ。かつてはパンパスやオーストラリアについての地理学者の論議が彼らの興味をかきたてたのに反比例して、ニュージーランドに関する彼の意見や思いつきに彼らは無関心で冷淡だった。その上この不吉な記憶のまつわる新しい国を目指して行くのに、人々は心の励みも確信もなかった。行く気があってではなく、不幸な廻り合せの結果よんどころなく行くのだった。
〈マクォリー〉の乗客たちのうち最も同情すべきはロード・グレナヴァンだった。彼はめったに甲板室にいなかった。彼は一つのところにじっとしていることができなかった。彼の神経質な性格は極度に刺戟されていて、この狭苦しい部屋にとじこめられていることに堪えられなかった。昼は、いや夜すらも、篠《しの》つく雨や甲板を洗う大浪をものともせずに、あるいは手摺《てすり》に肘をつきながら、あるいは熱っぽく昂奮して歩きまわりながら甲板上にとどまっていた。彼の目は絶えず海原を見ていた。短い晴れ間のあいだ彼の眼鏡は執拗に海原の上を走った。この沈黙の海の水に彼は問いかけていた。水平線に立ち罩《こ》めるあの霧、あの層をなす水蒸気を、手を振って彼は截《た》ち切りたかった。彼はあきらめることはできなかった。そして彼の容貌は痛切な苦悩をあらわしていた。彼は今までは幸福で強力な果断な人間だった。その人間から幸福も力もにわかに奪われてしまったのだ。
ジョン・マングルズは彼のそばを離れず、彼のそばで悪天候に堪えていた。この日グレナヴァンは霧の切れ目が見え次第今までにもました執拗さで水平線をさぐった。ジョンは彼に近づいて、
「陸地をさがしていらっしゃるのですか?」と尋ねた。
グレナヴァンは頭を横に振った。
「それにしても」と若い船長はつづけた。「この二檣船《ブリック》から早く降りたいと思っておいででしょう。もう三六時間も前にオークランドの燈《ひ》が見えているべきはずなのですから」
グレナヴァンは答えなかった。彼はあいかわらず眺めており、一分ほどのあいだ彼の眼鏡は風上のほうの水平線に向けられていた。
「陸はその方向ではありません」とジョン・マングルズは言った。「それより右舷のほうをごらんください」
「どうしてだい、ジョン?」とグレナヴァンは答えた。「私が捜しているのは陸地ではない!」
「では何を、ミロード?」
「私のヨットさ!〈ダンカン〉さ!」とグレナヴァンは怒気《どき》を含んで言った。「このあたりにいるはずだ、この海を荒し、忌わしいあの海賊業を働きながら! そうだ、ジョン、あれはオーストラリアとニュージーランドのあいだのこの多くの船の通る航路にいる! そして私は〈ダンカン〉に遭えるという予感がするのだ!」
「そんな遭遇をしないですみますように、ミロード!」
「どうしてだ、ジョン?」
「閣下はわれわれの立場を忘れていらっしゃいます!〈ダンカン〉がわれわれを追い駈けて来たら、こんなブリックでどうなります? われわれは逃げることすらできますまい!」
「逃げるって、ジョン?」
「そうですとも! どんなに逃げようとしても駄目でしょう! 私たちは捕えられ、あの悪党どもの思いのままにされるでしょう。そしてベン・ジョイスは罪を犯すことも厭《いと》わないことを証明しています。私は自分らの命を投げ出すことは辞しません! われわれは死ぬまでたたかいます! それはたしかだ! しかしその後は? レイディ・ヘレナのことをお考えください、ミロード、メァリ・グラントのことをお考えください!」
「女たちはかわいそうだ!」とグレナヴァンはつぶやいた。「ジョン、私の心は痛む。そして時々私は絶望がこの心を襲うのを感じる。新しい災禍《さいか》がわれわれを待ち受けており、神はわれわれを敵視するもののように思える。私はこわいのだ!」
「ミロード、あなたが?」
「ジョン、自分のことを考えてではないよ。私が愛する人々、君も同じく愛する人々のことを考えてだ!」
「御安心ください、ミロード。もう恐れる必要はありません!〈マクォリー〉といえども進むことは進むのです。ウィル・ハリーは腑抜けですが、私がいます。陸地に近づくことが危険のように思えましたら私が船を沖へもどしましょう。ですからこの沿岸では危険はすくないか、もしくは全然ありません。しかし〈ダンカン〉と舷を接するようなことにならぬようにと神に祈りましょう。そして閣下が〈ダンカン〉を見つけようとなさるのは、避けるか逃げるためであってほしいと思います!」
ジョン・マングルズは正しかった。〈ダンカン〉との遭遇は〈マクォリー〉にとっては災厄《さいやく》だったろう。ところでこの遭遇がおこる可能性のあるのは、海賊どもが安心して悪事を働けるこの狭い海域であった。しかしすくなくともこの日はヨットの姿は見えず、トゥーフォールド・ベイ出帆以来六日目の夜はジョン・マングルズの不安が実現されぬままに訪れた。
しかしこの夜は惨憺《さんたん》たるものになりそうだった。午後七時にほとんどだしぬけに闇が訪れた。空はひどく険悪だった。酔って腑抜けになっていてもなお生きている船乗りの本能がウィル・ハリーに働いた。彼は目をこすり、大きな赤毛の頭を振りながら船室から出て来た。それから彼は、ほかの者なら気を取り直すために大きなコップで水を飲むところだが、深々と空気を吸いこんでから、マストの検査をした。風は強くなった。そして羅針盤上の一ポイントばかり西のほうへ寄って、まともにニュージーランド海岸にむかって吹きつけた。
ウィル・ハリーは思いきり喚《わめ》き散らして部下を呼び、トガンスルを絞《しば》らせて夜間用の帆を張らせた。ジョン・マングルズは何も言わなかったが彼のやりかたに同意した。彼はこの乱暴な船乗りと話をすることをあきらめていたのだ。しかしグレナヴァンも彼も甲板を離れなかった。二時間後大きな風がおこった。ウィル・ハリーはトップスルを縮めさせた。〈マクォリー〉がアメリカ式の帆桁を持っていなかったとすればこの操作は二人の水夫にとって困難だったろう。実際、上部の帆桁を引くだけでトップスルの面積を縮めることができたのである。
二時間が過ぎた。海は荒れ出した。〈マクォリー〉は船底に、竜骨が岩をこすっていると思わせるような動揺を感じた。実はそんなことはなかったのだが、しかしこの重い船体は波を乗り切るのが困難だった。そのため打ち返す波は大量の水を船になだれこませた。左舷の艇柱に吊してあったボートは大波にさらわれて消えた。
ジョン・マングルズの不安はつづいた。ほかの船ならば、結局のところそれほど恐るべきものでもないこの程度の波など難なく乗り切れただろう。しかしこのように重い船ではたちまちにして沈没するおそれがあった。水をかぶるたびに甲板は溢れて来たし、なだれこむ水は排水口から速かに流れ出ることができなかったから、船を沈めてしまうかもしれなかったのだ。あらゆる不測事を避けるためには、斧で舷牆《げんしょう》を打ち破って水はけをよくする必要があったろう。しかしウィル・ハリーはこの策を採ることを拒んだ。
それのみかもっと大きな危険が〈マクォリー〉を脅していたのだが、おそらくそれを防止するにはもう手遅れだった。
一一時半頃ジョン・マングルズとウィルスンは風下の甲板上にいたが、奇妙な物音が彼らの耳を打った。彼らの船乗りの本能が目を覚ました。ジョンは水夫の手を握って言った。
「逆波《さかなみ》だ!」
「そうです」とウィルスンは答えた。「大波が岩礁で砕けている」
「せいぜい四〇〇メートルだな?」
「そうです! 陸がある!」
ジョンは舷側から身を乗り出し、暗い波を眺めて叫んだ。「測鉛《そくえん》を! ウィルスン! 測鉛を」
前部に陣取っていたウィル・ハリーは船の位置に全然気がついていないように見えた。ウィルスンは手桶のなかに捲きおさめてあった測鉛の繩をつかみ、フォースルのチェイン・ボードに飛び出した。彼は測鉛を投げた。繩は彼の指のあいだからするすると伸びた。三つ目の結び目で測鉛は止まった。
「三|尋《ひろ》だ!」とウィルスンは叫んだ。
「船長」ウィル・ハリーのところに駈けつけてジョンは言った。「船は暗礁の上にいるぞ」
ウィル・ハリーが肩をすくめるのを彼が見たかどうかは問題ではない。とにかく彼は舵に駈けよって風下へ船をまわし、一方ウィルスンは測鉛を投げ出して前檣トップスルの綱を引っぱり、船首を風上に向けようとした。舵を取っていた水夫は激しく押しのけられたが、何のためこのように不意に襲われたのかわけがわからなかった。
「風上へ向けろ! 綱をゆるめろ! 綱をゆるめろ!」暗礁から浮き上るように操船しながら若い船長は叫んだ。
三〇秒ほどのあいだ船の右舷の後半部は暗礁に沿って行ったが、夜の闇にもかかわらずジョンは船から四尋ばかりのところで白く見える轟く波の線を認めた。
ちょうどこのときウィル・ハリーはこの差し迫った危険に気づいて理性を失った。彼の水夫たちは酔いがさめきっておらず、彼の命令を理解することができなかった。のみならず彼の言うことの支離滅裂さ、その命令の前後矛盾はこの愚かな酔いどれがすっかり冷静を失っていることを示していた。彼は陸が近いのに驚いていた。三〇海里か四〇海里も離れていると思っていたのに、もうわずか風下八海里にまで近づいていたのである。潮流のためいつもの航路から逸れ、この型にはまったことしかできない無能な男は不意をつかれたのだ。
けれどもジョン・マングルズの機敏な操作は〈マクォリー〉を暗礁から遠ざけた。しかしジョンは船の位置を知らなかった。もしかすると暗礁の帯に囲まれてしまっているのかもしれない。風向きはすっかり東に変り、いつ揺れるときに衝突するかわからなかった。
果して間もなく暗礁で騒ぐ波の音は右舷前部のほうでやかましくなった。さらになお船首を風上に向けねばならなかった。ジョンは下手舵《しもてかじ》にし、帆桁を進行方向に鋭角的に曲げた。波浪は船の舳の先でますます激しくなり、風にむかって変針して沖へもどることが必要だった。このような操作が、こんな均衡の悪い船で、しかも帆を縮めながらやりとげられるだろうか? それは怪しかったが、それでも試みねばならなかった。
「下手舵!」とジョン・マングルズはウィルスンに叫んだ。
〈マクォリー〉はまた別の暗礁の連なりに近づきはじめた。間もなく水はかくれた岩にぶつかって泡立ちはじめた。
それは筆舌につくせない不安の一瞬だった。泡のため波浪は光って見えた。燐光現象で急に波が光り出したかのようだった。異教の神話が生あるものと見たあの古代の暗礁と同じく、声を得たもののように海は喚きはじめた。ウィルスンとマルレディは舵輪の上にかがみこむようにして体ごと押し下げた。舵柄は動かなくなった。
突然衝撃がおこった。〈マクォリー〉は岩にぶつかったのだ。第一斜檣の支索は切れ、前檣の安定を脅した。変針はそれ以上の故障なしになしとげられるだろうか?
否だ。突然海は一瞬しずまり、船はまたしても風下を向いた。その転廻は中断された。高い波が下から船を持ち上げて暗礁に近づかせ、船は猛烈な勢いで落ちた。前檣は索具もろとも倒れた。ブリックの竜骨は二回底に触れ、右舷に三〇度ほど傾斜して静止した。
昇降口の覆い戸のガラスは粉々に砕け散っていた。乗客たちは飛び出した。しかし波は甲板をはしからはしまで洗い、彼らは危険なしに甲板にとどまることはできなかった。ジョン・マングルズは船が砂にしっかりとはまりこんでいるのを知って、彼らに甲板室にもどるように頼んだ。
「正直に言ってどうなのだね、ジョン?」とグレナヴァンは冷静にきいた。
「正直なところ、ミロード、船が沈むことはありません。波で破壊されるかどうかということは、これは別の問題です。しかしそれを予知する時間はあるでしょう」
「今は午前零時か?」
「そうです。夜の明けるのを待たねばなりません」
「ボートを海におろすことはできないか?」
「この波、それにこの暗さでは駄目です! のみならず、どの地点に上陸するのですか?」
「よし、それでは夜が明けるまでここにいよう」
そのあいだウィル・ハリーは狂ったように自分の船の甲板を走りまわっていた。茫然自失から我にかえった水夫たちは火酒の樽をぶちぬいて飲み出した。ジョンは彼らが酔っぱらえばやがて恐ろしい喧嘩がはじまるものと予想した。船長がそれを引き止めてくれると期待することはできない。この哀れな男は自分の髪をかきむしり、腕をよじって嘆き悲しんでいた。保険のかかっていない積荷のことしか彼の念頭にはなかった。
「おれは破産だ! 破滅だ!」と、甲板を左右に駈けまわりながら彼は叫んだ。
ジョン・マングルズは彼を慰めようなどとはあまり思わなかった。彼は仲間たちに武器を持たせ、恐ろしい呪詛《じゅそ》の言葉を吐き散らしながらブランディをがぶ呑みしている水夫たちを撃退しようと覚悟をきめていた。
「あの下司《げす》どもが一人でも甲板室に近づいたら、私は犬のように殺してやる」と少佐はおちつきはらって言った。
水夫たちは多分乗客たちが自分らに指一本触れさせまいと決意しているのがわかったのだろう。掠奪しようと少々しかけてから彼らは姿を消してしまった。
ジョン・マングルズはもうこの酔っぱらいどもを相手にせず、夜の明けるのを堪えきれぬ思いで待った。
船はもう微動だにしなかった。海はだんだんと凪《な》いで行った。風は落ちた。船体はそれゆえなお数時間|保《も》つだろう。日が上ったらジョンは陸を調べてみる。もし容易に接岸できるようだったら、現在船に残っている唯一の小艇である小型ボートが乗組員と乗客を運ぶのに使えるだろう。すくなくとも三回往復しなければなるまい。小型ボートには四人の席しかないからである。ボートのほうはすでに大波にさらわれてしまっていた。
現在の状況の危険についていろいろ思いをめぐらしながら、昇降口の覆い戸によりかかったジョン・マングルズは寄せて返す波の音を聞いていた。彼は深い闇を見透そうとした。待望と同時に不安の対象となっているその陸はどれほどの距離にあるのだろうと彼は考えた。暗礁は往々にして岸から数里のところにひろがっているものだ。となると、かよわいボートが少々長い航行に堪え得るだろうか?
ジョンが暗い空に多少なりとも光があらわれないかと思いながらこうしたことを考えているあいだ、婦人たちは彼の言葉を信頼して自分たちの簡易寝台で休んでいた。ブリックが動かないので彼女らは数時間の安息を得ることができた。グレナヴァンもジョンもその仲間も泥酔した乗組員の叫び声が聞こえなくなったので、あわただしい睡眠によって休息を取った。そして午前一時には、砂底に鎮座してそれ自身眠りこんでいるこのブリックの上は深い静寂に包まれた。
四時ごろ黎明《れいめい》が東のほうにあらわれた。雲は暁のぼんやりした微光のもとに軽く色づいた。ジョンは甲板に上った。水平線には霧のカーテンが垂れていた。いくつかのぼんやりした輪郭が朝靄《あさもや》のなかに、しかしある程度の高さのところでただよっていた。弱い波がなお海面に立っており、沖の波濤は動かぬ厚い雲のなかにかくれていた。
ジョンは待った。光は徐々に増し、水平線は赤い色調を帯びた。カーテンはゆっくりと広い背景の上に上った。黒い岩礁がところどころ海面上に出ていた。それから泡の帯の上に一本の筋が引かれ、まだ見えぬ旭日の円盤の上に影を浮き出した尖峰の上に光の点があらわれた。
「陸だ!」とジョン・マングルズは叫んだ。
仲間たちは彼の声に目を覚まして船の甲板に飛び出し、水平線にくっきりと見える海岸に黙然と視線を注いだ。陸は九海里以内のところにあった。温く迎えてくれるにしろ禍をもたらすにしろ、この陸が彼らの避難所となるはずだった。
「ウィル・ハリーはどこだ?」とグレナヴァンはきいた。
「知りません」とジョン・マングルズは答えた。
「では奴の水夫は?」
「奴と同様姿を見せません」
「そしてきっと奴と同様泥酔しているのだろう」とマクナブズが言い添えた。
「捜すんだ!」とグレナヴァンは言った。「奴らをこの船に置き去りにするわけには行かない」
マルレディとウィルスンは船首楼の居住室に降りて行き、二分後にもどって来た。船員室はからだったのだ。そこで彼らは中甲板から船艙の底までも調べてみた。ウィル・ハリーもその水夫たちも見つからなかった。
「何? 誰も?」とグレナヴァンは言った。
「海におっこちたんだろうか?」とパガネルはきいた。
「どんなことでも考えられます」と、この失踪をひどく気にしながらジョン・マングルズは答えた。
それから船尾を向いて、
「ボートへ!」と彼は言った。
ウィルスンとマルレディは小型ボートを海におろすために彼について行った。小型ボートは消え失せていた。
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五 にわか仕立ての水夫
ウィル・ハリーとその乗組員は夜陰に乗じ、船客たちが眠っているのをいいことにして、船にある唯一のボートに乗って逃げ出したのである。このことは疑う余地がなかった。最後まで船にとどまることを義務づけられているその船長が第一番に船を去ってしまったのだ。
「あのごろつきどもは逃げ出しました」とジョン・マングルズは言った。「いや、いっそそのほうがいいんです、ミロード。それだけ不愉快な目にあわなくてすみますから」
「私もそう思うよ」とグレナヴァンは答えた。「のみならず、船にはまだジョンという船長がいるし、腕はよくなくても勇敢な水夫がいる、君の仲間がそれだ。指揮してくれ、われわれは君に服従しよう」
少佐、パガネル、ロバート、ウィルスン、マルレディ、そればかりかオルビネットすらも、グレナヴァンの言葉に拍手し、甲板に整列してジョン・マングルズの命令を待った。
「どうしたらいいのだ?」とグレナヴァンはきいた。
若い船長は海を見まわし、ブリックの毀《こわ》れたマストを眺め、しばらく考えて言った。
「この状況から抜け出す方法は二つあります。船を立ち直らせて航海を再開することと、筏を作って岸に上ることです。筏を作ることは簡単です」
「船が立ち直れるものならば立ち直らせよう」とグレナヴァンは答えた。「それが最上策ではないだろうか?」
「そうです、閣下。上陸したとしても輸送手段がなければわれわれはどうなりましょう?」
「海岸は避けようじゃないか」とパガネルもつけくわえた。「ニュージーランドという国は警戒しなくちゃならん」
「船がひどく針路から外れているのだからなおさらです」とジョンは言った。「ハリーの怠慢でわれわれは南へ流された、このことは明白です。正午に私は位置を測定してみます。そして私の予想しているようにここがオークランドよりも南だったら、私は〈マクォリー〉を岸に沿って北上させるようにしてみましょう」
「でも、船の損害は?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「それは重大なものとは思いません、奥さま。前檣のかわりに前部に間に合せのマストを立てます。そして船を進めましょう。ゆっくりとではあっても、とにかくわれわれの目的とするところへ行けるでしょう。もし不幸にして船体に穴があいているか、もしくは離礁させることができない場合には、岸に上って陸路オークランドにむかわねばなりません」
「それじゃあ船の状態を調べようじゃないか。それが何よりも肝要だ」と少佐は言った。
グレナヴァン、ジョン、マルレディは大きなハッチを開いて船艙に降りた。およそ二〇〇樽の鞣《なめ》し革がそこにあったが、その積み方はひどかった。ハッチから垂直に降りている大きな支柱にかけた滑車で大した苦労もなく樽をどけることができた。ジョンは船を軽くするためにただちにこの荷の一部を海中に投じさせた。
三時間の苦しい作業の後船底を調べることができた。左舷の帯板の高さで外板の継ぎ目が二か所口をあけていた。ところで〈マクォリー〉は右舷に傾き左のほうは上っていたので、損傷部は水上に出ていた。だから水ははいって来られない。その上ウィルスンが急いで麻屑を詰め銅の薄板を丁寧に釘で打ちつけて板の継ぎ目を直した。
水深を測ってみると船艙の水は六〇センチもなかった。ポンプで容易にこの水を汲み出すことができ、それだけ船を軽くすることができるはずだった。
船体の検査が終ると、ジョンは坐礁によってそれほど損傷を蒙っていないことを認めた。竜骨の外側の支材の一部が砂のなかにはまりこんでしまっていることも考えられるが、そんなものはなくても済む。
ウィルスンは船の内部を調べたあげく、浅瀬のなかで船がどういう状態にあるかを見るために水にもぐった。
〈マクォリー〉は船首を北々東に向けて、ひどく切り立った岩礁のあいだの泥に似た砂の底にのっかっていた。船首材の下端と竜骨の三分の二は深くはまりこんでいる。船尾までの部分は五尋ほどの深さの水中に浮いている。舵はそれゆえひっかかってはおらず、自由に動く。ジョンはそれをはずす必要はないと判断した。実際これは都合のいいことだった。必要とあればすぐ舵を使えるからである。
太平洋は潮の干満はあまり大きくはない。それでもジョン・マングルズは潮がさして来れば〈マクォリー〉は浮き上るだろうと期待した。ブリックは満潮のおよそ一時間前に坐礁した。引き潮が感じはじめられたときから右舷への傾斜はますますいちじるしくなった。午前六時の干潮のときには傾斜度は最大限に達し、支柱で船を支えても無駄のように見えた。それゆえジョンがそれを使って間に合わせのマストを前部に立てようと思っていた帆桁や円材を船にとどめておくことができた。
〈マクォリー〉を離礁させるまでにはまだ位置を測定することが必要だった。時間がかかる面倒な作業だった。一二時一五分の満潮を利用できるように準備しておくことはもちろん不可能だったろう。ただ、積荷の一部を捨てた船が潮の作用でどう動くかはわかるだろう。そして次の上げ潮のとき頑張ってみればいい。
「作業開始!」とジョン・マングルズは命じた。
彼の部下のにわか仕立ての水夫たちは命令に従った。
ジョンはまず絞帆索にのっかっている帆を捲かせた。少佐とロバートとパガネルがウィルスンの指導のもとに檣楼に昇った。風の力で張り切ったトップスルは船の離礁の邪魔になるかもしれなかったのだ。それを捲く必要があったのだが、これは何とかかんとか出来た。次に、慣れない手にとっては辛い辛抱づよい作業のあげくトガンマストも抜き取られた。猫のように身軽で見習水夫のように大胆なロバートは、この作業のあいだ一番目覚ましい働きをした。
今度は錨をおろさねばならなかった。できれば二つ、一つは船の後部に、もう一つは竜骨の延長上に。波の力がこの錨に働いて、満潮のときに〈マクォリー〉を引っぱるはずだ。この作業は小舟が一つあれば何ら困難はない。補助錨を持ち出して、あらかじめ測定しておいた適当な場所におろす。しかしこの場合はボートはなく、そのかわりのものを見つけねばならなかった。
グレナヴァンは航海には慣れていたのでこういう作業の必要を理解することができた。浅瀬に乗上げた船を離礁させるには錨が必要だった。
「しかしボートなしではどうしたらいいか?」と彼はジョンにきいた。
「前檣の破片と空樽を使いましょう」と若い船長は答えた。「作業は困難でしょうが、不可能ではありますまい。〈マクォリー〉の錨は小型ですから、一旦おろしてしまえば、錨が引きずられないかぎり私は見込みがあると思います」
「よし、時間を無駄にすまい、ジョン」
水夫も乗客もすべてのものが甲板に召集された。誰もが仕事に加わった。まだ前檣を繋いでいた索具は斧でたちきられた。低いマストは倒れたとき先端部で折れていた。そのため中檣は簡単にとりはずすことができた。ジョン・マングルズはこの楼で筏《いかだ》を作るつもりだった。彼は空樽で筏を支え、錨をのせて行けるようにした。筏を動かせるような櫓《ろ》がつけられた。それにまた、引き潮はちょうど船のうしろのほうへ筏を流して行くはずだった。そうして錨が底についてしまえば、伸ばした綱をたぐって船にもどることは容易であるはずだった。
この仕事が半ば終ったときに太陽は天頂に近づいていた。ジョン・マングルズはグレナヴァンにやりかけの作業を監視することをまかせ、船の位置の測定に専念した。非常にさいわいなことに、ジョンはウィル・ハリーの部屋でグリニチ天文台の暦とともにひどく汚れた、しかし測定には充分使える六分儀を見つけた。彼はそれを掃除して甲板に持って出た。
この器械はいくつかの動く鏡の配列によって、正午、つまり太陽がその運行の最高点に達したときに、太陽の位置を水平線と合わせるものである。だからこれを使うためには、六分儀の眼鏡で真の水平線、つまり空と水が相交わるところにできる水平線を覗《のぞ》く必要があることはわかるだろう。ところで、まさに陸は長い岬をなして北に伸び、観測者と真の水平線のあいだを遮《さえぎ》っているので、観測は不可能だった。
水平線が見えない場合には人工的な水平線でこれに代える。普通は水銀を満たした平らな水槽の上で観測をおこなうのである。水銀はこうすればそれ自身完全に水平な鏡面をなす。この船では水銀は全然なかったが、ジョンは液状のタールを満たした手桶を用いてこの困難を乗り越えた。タールの表面は充分に太陽の像を映し出すのだった。
ここはニュージーランド西岸である以上、経度はもうわかっていた。これは好都合だった。というのは、クロノメーターなしでは経度は計算できなかったからである。わからないのは緯度だけで、彼はそれを算出する仕事にかかった。
そこで彼は六分儀を用いて太陽の水平線上の子午線高度を測った。この高度角は六八度三〇分となった。太陽の天頂からの距離はそれゆえ二一度三〇分だった。この二つの数字を合して九〇度になるのだから。ところで二月三日というこの日は、太陽の方位角は天文暦によれば一六度三〇分だったから、これを二一度三〇分という天頂との距離に加えて、三八度という緯度が得られた。
〈マクォリー〉の位置はこうして決定された。器具の不備によって生じた、しかし無視していいわずかの誤差を含めて、経度一七一度一三分、緯度三八度である。
パガネルがイーデンで買ったジョンストンの地図を見て、ジョン・マングルズは遭難地点がオークランド州海岸の、カフア岬の北のアオテア湾の沖合であることを知った。オークランドの町は三七度線上にあるのだから、〈マクォリー〉は一度ほど南へ押し下げられていたのだ。それゆえニュージーランドの首府に行くには一度北上しなければならなかった。
「それではせいぜい四〇キロの行程だ。そんなのは何でもない」とグレナヴァンは言った。
「海では何でもなくても、陸上では長いし苦しいだろう」とパガネルは答えた。
「ですから人力の限りをつくして〈マクォリー〉を離礁させましょう」とジョン・マングルズは言った。
位置が決定されたので作業はまたはじまった。一二時一五分に満潮になった。錨がまだおろされていないのでジョンはこの満潮を利用することはできなかった。それでも彼は何かそわそわした様子で〈マクォリー〉の様子を見ていた。潮のおかげで浮き上りはしないか? この疑問は五分以内にあきらかにされるはずだった。
人々は待った。幾度かがりがりという音がした。それは船が上ったからではなく、船底が揺れたからにすぎなかった。ジョンはそれにつづく上げ潮に期待を抱いたが、結局ブリックは動かなかった。
仕事はつづけられた。二時には筏の準備ができた。補助錨はそれに積まれた。ジョンとウィルスンは船尾に綱を結んでから錨と一緒に行った。引き潮で筏は流され、一〇〇メートル足らずのところで一〇尋の海底に彼らは錨を沈めた。
錨のすわりはよく、筏は船にかえった。
後は大きな船首錨だった。これも沈められたが、困難がないではなかった。筏はまた動きはじめ、間もなくこの二番目の錨も前のもののうしろのほうに一五尋の水深におろされた。そうしてから錨索をたぐってジョンとウィルスンは〈マクォリー〉にかえった。
錨索と繩はウィンチに捲きおさめられ、皆は午前一時に生じて来るはずの次の潮を待った。今は午後六時だった。
ジョン・マングルズは自分の水夫たちを褒《ほ》め、パガネルにはあなたは勇気もあるし働きもいいからいつかはクウォータマースターになれるだろうとほのめかした。
そのあいだにミスタ・オルビネットはいろいろの作業を手伝ったあげく厨房に帰っていた。彼は滋養のある食事を用意しておいたが、これはまことに時宜にかなっていた。猛烈な食欲が一同をせめたてていた。食欲は充分満たされ、各人はその後の仕事のための元気がよみがえるのを感じた。
晩餐の後ジョン・マングルズは、作業が成功するように最後の手筈をおこなった。船を離礁させる場合には何一つゆるがせにすることはできなかった。ほんの少々軽くしそこなったために仕事が失敗し、はまりこんだ竜骨が砂の底を離れぬこともよくある。
ジョン・マングルズは船を浮かせるために大部分の貨物を海に投じさせておいた。しかし残りの荷や重い円材や予備の帆桁、バラストになっている数トンの鉄塊は、その重みによって船首の離礁を容易にするために船尾に移された。ウィルスンとマルレディは船の舳先《へさき》を持ち上げるために水を詰めた幾つかの樽をも船尾へころがして行った。
この最後の仕事が終ったときに夜の一二時が鳴った。困ったことに乗組員は、ウィンチを捲くのにいくら力があっても余りはしないという時になって疲労困憊していたのである。そのためジョン・マングルズは別の決定を下さねばならないことになった。
ちょうどこのとき風は凪いだ。かろうじて水面にいくらか風が吹き通るくらいだった。ジョンは水平線を眺めて、風向きが南西から北西に変る気配を見せているのに気がついた。船乗りがたなびく雲のある種の形状と色を見誤ることはあり得ない。ウィルスンとマルレディも船長と同意見だった。
ジョン・マングルズは自分の観察をグレナヴァンに知らせ、離礁の作業を明日に延ばすことを提案した。
「その理由はこうです」と彼は言った。「われわれは疲れ切っていますが、船を浮かせるには全力を上げねばなりません。次に、浮上したとしてもこの暗礁のまんなかを、しかもこの深い闇のなかでどのように船を進めるのです? すっかり明るくなってから行動したほうがいいでしょう。そればかりか、もう一つの理由で私は待機するほうに傾きます。風はわれわれに有利になりそうなのです。私はどうしてもそれを利用したい。潮がこの老いぼれ船を浮き上らせるときに風がうしろから押してくれればいいと思うのです。私の誤りでなければ明日は風は北西から吹くでしょう。われわれは逆風を受けるように主檣の帆を上げます。そうすれば帆も一緒になってこのブリックを引き上げてくれるでしょう」
この理由は決定的だった。乗っている連中のなかで一番焦っているほうのグレナヴァンとパガネルも承服し、作業は翌日に延ばされた。夜は無事に過ぎた。特に錨の具合を見張るために不寝番が立てられた。
夜が明けた。ジョン・マングルズの予想は的中した。北々西の風が吹き、しかも強くなりそうな様子だった。こうなると力はさらに加わって非常に好都合だった。乗組員は呼集された。ロバート、ウィルスン、マルレディは主檣に登って、少佐、グレナヴァン、パガネルは甲板で、定められた瞬間に帆をひろげられるように手筈をととのえた。主檣のトップスルの帆桁はてっぺんまで上げられ、主帆とトップスルは絞帆索につながれたままだった。
午前九時だった。満潮にはまだ四時間待たねばならなかった。この時間も無駄にはされなかった。ジョンはこの時間を使って前檣のかわりにする応急のマストを船の前部に立てた。こうすれば船は離礁するが早いかこの危険な海域から離れることができよう。働く人々はまた努力をあらたにして、正午にならぬうちにフォースルの帆桁はマストのかわりにしっかりと固定された。レイディ・ヘレナとメァリ・グラントも非常に役に立つ働きをし、トガンスルの帆桁に予備の帆を結びつけた。皆が救われるために働くことは彼女らにとって大きな喜びだった。この準備が終ると、〈マクォリー〉は恰好のよさという点では不満な点がまだあるにしても、すくなくとも岸から遠く離れずに航海できるようになった。
そうこうするあいだに潮は上って来た。海面には小さな波のうねりが立った。暗礁の頭は水中に身をかくす海獣のようにだんだんと没して行った。いよいよ最大の作業をおこなうべき時が迫った。熱っぽい焦躁のため人々は過度の昂奮に捉われていた。誰もしゃべらなかった。皆はジョンをみつめた。彼の命令を待っていたのだ。ジョン・マングルズは後甲板の手摺から身を乗り出して潮の具合を見守っていた。遠くまで伸びてぴんと張っている錨索と綱に彼は不安そうな一暼を投げた。一時に海は最高潮位に達した。潮は静止した。つまり潮が上りもせず引きもしない短い時間なのだ。猶予なく作業しなければならなかった。主帆と主檣のトップスルは揚げられ、風の力を受けながらマストをおおった。
「捲け!」とジョンは叫んだ。
それは火災用のポンプのように腕木のついたウィンチだった。一方にはグレナヴァンとマルレディとロバート、他方にはパガネル、少佐、オルビネットがとりついて、機械に運動を伝える腕木にのしかかった。と同時にジョンとウィルスンは梃子《てこ》をさしこんで仲間たちと力を合わせた。
「頑張れ! 頑張れ! 力をそろえて!」と若い船長は叫んだ。
錨索と綱はウィンチの強い力を受けて張り切った。錨はもちこたえ、全然揺がなかった。早くやってのけねばならなかった。満潮は数分しかつづかない。水位が下れば何にもならない。一同はさらに力をふりしぼった。風は激しく吹き出し、帆をかえしてマストに打ちつけた。船体がいくらか顫えるのが感じられた。ブリックはもうじき浮き上りそうに思えた。底の砂から離れさせるにはもう一本腕がありさえすればいいのかもしれない。
「ヘレナ! メァリ!」とグレナヴァンは叫んだ。
二人の若い女性は仲間たちと力を合わせた。器械の爪ががちがち鳴るのが最後に聞こえた。
が、それだけだった。ブリックは動かなかった。作業は失敗した。引き潮は早くもはじまった。そして風と潮の助けを得てすらもこのすくない乗組員では船を離礁させることができないことは明白であった。
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六 食人の理論的考察
ジョン・マングルズの試みた第一の救済方法は失敗した。遅滞なく第二の方法によらなければならなかった。〈マクォリー〉を立ち直らせることができないということは明白だったし、取るべき唯一の方策は船を去ることだということもそれに劣らず明白だった。あてにならない救いを船上で待つことは無思慮であり狂気の沙汰であろう! 遭難の場に奇蹟的に他の船が通りかかるまでに〈マクォリー〉はばらばらになっていることだろう! 今度嵐があれば、いや、沖の風のために海が少々荒れただけでも、船は砂の上に倒れ、砕け、ずたずたになり、その残骸は散乱するだろう。この避けるすべのない破壊の前にジョンは岸に上ろうと思った。
そこで彼は、乗客と充分な量の食糧をニュージーランドの岸に運べるくらい頑丈な筏、いや、船乗りの言葉で言えば〈浮き足場〉を作ることを提案した。
議論の時ではなく、行動の時だった。仕事ははじまったが、随分|捗《はかど》ったころ夜になって中断された。
午後八時頃、夕食の後でレイディ・ヘレナとメァリ・グラントが甲板室の簡易ベッドで休んでいるあいだに、パガネルとその友だち連中は甲板を歩きまわりながら重大な問題を話し合った。ロバートは彼らから離れようとしなかった。この勇敢な少年は何か役に立ちたい、危険な仕事に身を捧げたいという気持で耳を澄ましていたのだ。
パガネルはジョン・マングルズに、筏は乗客を陸におろすかわりにオークランドまで岸づたいに行けないかときいたのである。ジョンはこんな不完全なしろものではそのような航海は不可能だと答えた。
「では筏でやってみることができないとしても、ブリックのボートでならできただろうか?」
「ええ、やむを得ない場合には。しかし昼走って夜は泊らなければなりません」
「それでは、われわれを置き去りにしたあの悪党どもは……」
「ああ、あいつらは酔っぱらっていましたし、しかもあの深い闇のなかでは、奴らはあの卑怯な仕打ちの報いに命を失ったかもしれないと私は思いますよ」
「お気の毒さまだよ、そしてわれわれのほうもお気の毒さね。あのボートは役に立ったろうから」
「どういう意味だね、パガネル?」とグレナヴァンは言った。「筏でもわれわれを陸に運べるのに」
「まさにそれこそ私の避けたかったことなのさ」と地理学者は答えた。
「何だって! パンパスやオーストラリア大陸であれだけの苦労をして来たというのに、たかだか三〇キロほど行くことが、苦労に慣れた人間たちにとってそんなにこわいというのか?」
「諸君、私はわれわれの勇気や御婦人方の健気《けなげ》さを疑うのではないよ。三〇キロ! ニュージーランド以外の国ならばどこでもそれしきのことは問題ではない。君らも私が臆病だなどとは思いはすまい。音頭を取って君らにアメリカ大陸、オーストラリア大陸を横断させた私だ。しかしこの場合は、私はくりかえすが、どんなことでもこの油断できない国に足を踏みこむよりもましだ」
「どんなことでも坐礁した船の上で確実な死を待つのよりはましですよ」とジョン・マングルズが言った。
「それでは一体ニュージーランドでは何をそれほど恐れねばならないんだ?」とグレナヴァンはきいた。
「蛮人さ」とパガネルは答えた。
「蛮人だって!」とグレナヴァンは言い返した。「岸に沿って行けば奴らを避けることができないか? それにまた、下らぬ奴らが数人で襲って来ても、充分武装し闘う決意をしている一〇人のヨーロッパ人なら物ともしないはずだ」
「下らぬ奴らじゃない」とパガネルは頭を振りながら答えた。「ニュージーランド人はイギリスの支配に対して、侵入者たちに対して闘い、しばしば彼らを打ち破り、その度に彼らを食う恐るべき部族なのだ!」
「人食い人種!」とロバートは叫んだ。「人食い人種!」
それから彼が次の二つの名をつぶやくのが聞こえた。
「姉さん! ヘレナ奥さま!」
「何もこわがることはないよ」グレナヴァンは少年を安心させようとして言った。「われわれのパガネルは誇張しているんだよ!」
「私は全然誇張などしていない」とパガネルは答えた。「ロバートは一人前の男であることを証明して来た。私はこの子を一人前の男として扱って真実をかくさない。ニュージーランド原地民は最も貪欲とは言わないまでも、最も残忍な食人人種なのだ。奴らは口にはいるものは何でも貪り食う。戦争は彼らにとっては、人間というこのうまい獲物を狩ることにすぎない。そして、このことは認めねばならないが、これこそ唯一の理窟に合った戦争なんだ。ヨーロッパ人は敵を殺し、彼らを葬《ほうむ》る。蛮人は敵を殺し、彼らを食う。そして私の同国人トゥスネルがいみじくも言ったように、死んだ敵を焼いて食うことが死にたくない敵を殺すことよりも悪いわけではない」
「パガネル」と少佐は答えた。「議論すべき問題はあるが、今はその時ではない。食われることが理窟に合っているにせよ合っていないにせよ、われわれは食われたくない。しかしどうしてキリスト教はまだこの食人習慣を根絶していないんだろう?」
「それでは君はニュージーランド原地民がすべてキリスト教徒だと思っているのかい? キリスト教徒は少数だよ。そして宣教師たちは今もって、しかも非常にしばしばこの兇暴な奴らの犠牲になっているのだ。去年はウォークナー牧師は身の毛のよだつような惨《むご》たらしさで殺された。マオリ人どもは彼を吊した。女たちは彼の目を抉《えぐ》り出した。奴らは彼の血を啜《すす》り、彼の脳味噌を食った。しかもこの殺害は一八六四年に、オークランドから数里のオポティキで、いわばイギリス官憲の目の前でおこなわれたのだ。諸君、一人種の本性を変えるには数世紀が必要なのだ。マオリ人はこれからもなお長いあいだ今までのとおりだろう。彼らの歴史はすべて血に彩られている。タスマンの水夫から〈ホーズ〉の乗員にいたるまで、どれほど多くの船の乗組員を彼らは虐殺して食っていることだろう! しかも彼らの食欲をそそったのは白人の肉なのではない。ヨーロッパ人到来のずっと前から彼らは殺人によってその猛烈な食欲を満たそうとしていたのだ。多くの旅行者が彼らのあいだで暮して、食人人種の宴会に立ち会っている。列席するものはもっぱら女や子供の肉といううまい料理を食いたいという欲望にかられてやって来るのだ」
「へえ!」と少佐は言った。「そんな話は大抵旅行者たちの空想の産物じゃないのかい? 人はえてして、危険な国や食人人種の胃袋から逃れて帰って来たと言いたがるものさ!」
「いかにも誇張はあるだろう。しかし信頼に価する人々もそう言っている。ケンドールやマーズデンのような宣教師、ディヨン、デュルヴィル、ラプラースのような艦長、その他が。そして私は彼らを信じる、信じねばならない。ニュージーランド人は生来残虐なんだ。酋長が死んだときには奴らは人間を生贄《いけにえ》にする。奴らはこの供犠《くぎ》によって、生者を襲うかもしれない故人の怒りをしずめると同時に、あの世での生活のための召使を送ってやるのだと主張するんだ! しかし奴らはこの主人の死後に残された召使どもを殺してから食ってしまうのだから、奴らにそうさせているのは迷信よりも胃袋なのだと思っていいだろう」
「それにしても」とジョン・マングルズは言った。「私は食人の場面には迷信も一役買っているだろうと思います。だからこそ宗教が変ると風習も変るのです」
「よろしい、ジョン君。君はいま食人肉の起原というこの重大な問題を提起した。人間をしてたがいに食い合うようにしたのは宗教であるか、飢えであるか? こんな議論は今この場ではすくなくとも無用だろう。何がゆえに食人肉が存在するかという問題はまだ解決されていない。しかしとにかくそれは存在するんだ。これこそわれわれが憂慮するのも当然すぎるほど当然の重大な事実だよ」
パガネルの言っていることは事実だった。食人肉はフィジー諸島やトレス海峡のあたりにおけると同様にニュージーランドでは痼疾《こしつ》になっていた。迷信が言うまでもなくこの厭《いと》うべき習慣に一役買っていたが、しかし人肉を嗜食する人間もいるのだ。獲物がすくなく飢えが甚しい時期があるからである。蛮人たちはめったに飽満させられることのない食欲の要求を満たそうとして人肉を食いはじめた。それから祭司がこの非人間的な習慣を制度化し聖化した。食事はこうして儀式となった。それだけのことだ。
のみならずマオリ人の目には、たがいに食い合うことなどは当然至極のことだったのだ。宣教師たちはしばしば食人肉について彼らに質問した。なぜ同胞を食うのかと彼らにきいた。それに対して酋長たちは、魚は魚を食い、犬は人間を食い、人間は犬を食い、犬はたがいに食い合うと答えた。彼らの神統論では、伝説はある神が他の神を食ったと述べている。このような前例がある以上、同胞を食う楽しみにどうして抵抗できよう?
かててくわえてニュージーランド人は、死んだ敵を食うことで相手の霊的な部分をも滅ぼすのだと主張している。こうして、特に脳髄に含まれている相手の魂、力、勇気を受け継ぐのである。だから人間のこの部分は饗宴において極上の特別料理とされているのだ。
けれどもパガネルは、嗜好、特に欲求がニュージーランド人を食人肉に誘ったこと、オセアニアの蛮人のみならずヨーロッパの蛮人もそうだったことを力説したが、これは根拠のないことではなかった。
「そうなんだ」と彼はつけくわえた。「人肉嗜食は最も文明の栄えている民族の祖先をも長いあいだ支配していた。これを個人のことだと思わないでくれよ、特にスコットランド人にあっては」
「ほんとかね?」とマクナブズは言った。
「そうとも、少佐。スコットランドのアッティコリ人についての聖ヒエロニムスの文章を読むと、君らの祖先についてどう考えるべきかがわかるよ! しかも先史時代にまでさかのぼらなくても、エリザベス朝、つまりシェイクスピアがシャイロックを着想したその時代に、スコットランドの山賊ソーニー・ビーンは人肉嗜食のために処刑されなかったかね? しかも彼を駆って人肉を食わしめた感情は何だったか? 宗教か? ちがう。飢えさ」
「飢え?」とジョン・マングルズは言った。
「飢えだよ。特に、動物質に含まれている窒素によって自分の肉と血を新しくしなければならぬという、肉食獣にとっての必要さ。塊根を持つ澱粉質の植物によって肺の働きに必要な養分を供給するのはいいことだ。しかし強く活動的であろうとするものは、筋肉を回復させるあの成形的な食餌を吸収しなければならない。マオリ人は菜食主義協会の会員にならぬかぎり、肉を、そして肉といえば人肉を食いつづけるだろう」
「どうして動物の肉ではないんだね?」とグレナヴァンがきいた。
「彼らのところには動物がいないからさ。このことは、彼らの食人習慣を許すためではなく、それを説明するために心得ておかねばならぬ。この無愛想な国では四足獣のみか鳥すら稀なんだ。だからマオリ人はあらゆる時代を通じて人肉を常食として来た。文明国では狩猟の季節があるように〈人肉食の季節〉すらあるんだ。この季節には大がかりな狩り立てが、つまり大戦争がおこなわれる、そして部族全体が勝利者の食膳に供せられるのだ」
「それでは」とグレナヴァンは言った。「パガネル、君の考えでは、羊や牛や豚がニュージーランドの草原に繁殖するときでなければ食人肉は絶滅しないのか?」
「もちろんだよ、君、そしてマオリ人がほかのすべてよりも嗜《たしな》むニュージーランド人の肉を食わなくなるまでにはさらになお何年もかかるだろうね。父親が好んだものを息子たちは長いあいだ好むだろうから。奴らの言を信ずるならば、この肉は豚肉と同じ味がするが、匂いはもっとあるそうだ。白人の肉はどうかといえば、奴らはそれほど白人の肉を好まない。白人は食べ物に塩を混ぜ、そのため白人の肉には食通の口にあまり合わない特殊な味がするというのだ」
「奴らはうるさいんだね!」と少佐は言った。「しかし白人のであろうと黒人のであろうと、その肉は生で食うのか焼いて食うのか?」
「おや、そんなことがあなたに何の関係があるんですか、マクナブズさん?」とロバートが叫んだ。
「何だって」と少佐はまじめに答えた。「人食い人種の歯にかかって死ぬとしたら、私は焼かれるほうがましだからね!」
「なぜです?」
「生きたまま食われないと安心できるからさ!」
「それはいい。少佐」とパガネルは言った。「しかしそのかわり生きたまま焼かれるとあっては!」
「実を言えば、そのいずれも私は御免だがね」
「何はともあれ、マクナブズ、もし君が知りたいというならば、ニュージーランド原地民は焼くか燻製《くんせい》にするかしなければ肉を食わないということをおぼえておきたまえ。奴らは躾《しつけ》のいい、料理法に通じている人種なのさ。しかし私自身のことを言えば、食われるなんて考えるとまことに不愉快だね! 蛮人の胃袋のなかで生涯を閉じるとは、いやはや!」
「要するに、今の話から結論できることは奴らに捕えられてはならないということです」とジョン・マングルズは言った。「それにまた、いつかキリスト教がこの恐ろしい悪習を廃止させるものと期待しましょう」
「そうだ、われわれはそれを期待しなければならない」とパガネルは答えた。「しかし信じてもらいたいが、人肉を味わった蛮人はなかなかそれをやめることはできまい。次に挙げる二つの事実から判断してもらいたい」
「その事実を聞こうじゃないか」とグレナヴァンは言った。
「第一のは、ブラジルのイェスイタ会の年代記に報告されている。あるポルトガル人宣教師がある日重病のブラジル原地民の老婆に逢った。彼女にはもはや数日の命しかなかった。イェスイタ会士はキリスト教の真理を教え、瀕死《ひんし》の病人は文句なしにそれを受け容れた。それから魂の糧《かて》の後で彼は肉体の糧のことを考えて、ヨーロッパの菓子をいくつか彼女にさしだした。『残念ながら、私の胃はもうどんな種類の食べ物も受けつけません。私が味わいたいと思うものは一つだけあるけれども、困ったことにそれを私に与えてくれる人はここには一人もいないでしょう』と老婆は答えた。『一体何だね?』とイェスイタ会士はきいた。『ああ、若い人、子供の手ですよ! それなら喜んで小さな骨をかじれると思います!』とね」
「おやおや! でもそれではおいしいんでしょうか?」とロバートが言った。
「二番目の話がおまえに答えてくれるだろう。ある日一人の宣教師が人食い人種に、人肉を食うという神の掟に背く恐ろしいこの風習を詰《なじ》った。『それに、そんなものはまずいはずだが!』と彼はつけたした。『ああ、神父さん!』と蛮人は食い気たっぷりの目を宣教師に投げて答えた。『神が禁じているというのはいいです! でもまずいとは言わないでください! あなただって食いさえしたら!……』と」
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七 逃げるべき陸についに上陸する
パガネルの語った事実は、異論の余地のないものであった。ニュージーランド原地民の残忍さには疑いをはさめなかった。それゆえ上陸することには危険があった。しかしその危険が百倍も大きかったとしても、それに挑《いど》まねばならなかった。ジョン・マングルズはいずれ近く破壊されるにきまっている船から去らねばならぬ必要を感じていた。一方は確実で一方は蓋然《がいぜん》的な二つの危険のいずれかを選ぶとなれば、狐疑逡巡《こぎしゅんじゅん》は不可能だった。
ほかの船に救出される可能性はどうかといえば、理性的にそれを当てにすることはできなかった。〈マクォリー〉はニュージーランドに接岸しようとする船の航路から外れていた。そういう船はもっと北のオークランドかもっと南のニュープリマスにむかう。ところが、坐礁はまさにその二つの地点の中間、イカ・ナ・マウイの海岸の無人の地域で起こったのだ。悪い、危険な、物騒な奴らの出没する海岸だ。船はもっぱらここを避けようとしか思わず、そこへ風に吹きつけられるときにはできるだけ早くそこから逃げ出すことしか考えない。
「いつ出発する?」とグレナヴァンはきいた。
「明朝一〇時に」とジョン・マングルズは答えた。「潮がさしはじめ、われわれを陸に運んでくれるでしょう」
翌二月五日の八時に筏《いかだ》の製作は完了した。ジョンは筏を作るのに細心の注意を払った。錨をおろすのに使った前檣《ぜんしょう》の楼は乗客と食糧を運ぶには不充分だった。頑丈で操縦可能な、九海里の航行のあいだ波に耐え得る乗物が必要だった。マストだけで筏を作るのに必要な材料ができた。
ウィルスンとマルレディは仕事にかかった。索具は斜桁帆《しゃこうはん》の高さで切られ、主檣《しゅしょう》は根もとを斧で切られて右舷の手摺《てすり》の上に倒れ、舷側はその落下によってきしんだ。〈マクォリー〉はこれで平船のようにのっぺらぼうになった。
マストは基部も中檣もトガンマストも鋸《のこぎり》で挽き切られた。もう筏の主要な材料は水に浮かんでいた。これが前檣の残骸にくっつけられ、これらの円材どうしはしっかりと結びつけられた。ジョンはその隙間に半ダースばかりの空樽を入れたが、これは筏を水面上に浮かせるためのものだった。
この頑丈に組み立てられた骨組の上にウィルスンは昇降口の格子蓋から取った一種の格子板をのせた。これで波が筏の上を洗ってもそこに滞《とどこお》ることはなく、乗客は濡れないですむはずだった。それに加えてしっかりと綱で繋ぎ止めた水桶が、甲板を大波から守る一種の円形の舷牆《げんしょう》をなしていた。
この朝ジョンは順風なのを見て、筏の中央にマストのかわりにトガンスルの帆桁を立てさせた。支檣索で固定し、間に合わせの帆を張る。風によって充分速度が支えられるときには、後部にとりつけた幅広い水掻きのついた大きな橈《かい》のおかげで方向を定めることができた。
このように最上の条件で作られた筏は波の動揺にも堪えることができた。しかし風が変っても方向を変えずに岸に到達できるだろうか? それが問題だった。九時に人々は筏に荷を積みはじめた。
まず第一に、オークランドまでもたせるための充分の量の食糧が積まれた。この無愛想な土地の産物を当てにはできないからである。
オルビネットの持ちこんだ食糧にはいくらかの貯蔵肉があった。これは〈マクォリー〉の航海のために買い込んだものの残りだった。結局それでは大したものにならない。船に積んであった粗悪な食品、品質の悪い航海用ビスケットや二樽の塩漬けの魚に頼らねばならなかった。
こうした食糧は海水のはいらぬように密閉した箱のなかに入れられ、それから筏におろされて、間に合わせのマストの根もとに綱でしっかりと結ばれた。武器と弾薬は濡れないような安全な場所に置いた。非常にさいわいなことに旅行者たちはカービン銃と拳銃を充分たずさえていた。
上げ潮に乗って陸地に着けずに沖で投錨しなければならぬ場合にそなえて補助錨もやはり積みこまれた。
一〇時に潮は感じられ出した。風は北西からかすかに吹いていた。軽い波が海面をうねらせていた。
「用意はいいか?」とジョン・マングルズはきいた。
「準備完了です、船長」とウィルスンが答えた。
「乗船!」とジョンは叫んだ。
レイディ・ヘレナとメァリ・グラントは粗末な繩梯子で降り、マストの根もとの食糧の箱の上に坐り、その仲間たちは彼女らのそばに陣取った。ウィルスンは舵を握った。ジョンは帆綱につき、マルレディは筏を二檣船の舷側につないでいた纜《ともづな》を切った。
帆はひろげられ、筏は潮と風の両者に押されて陸にむかった。
岸はまだ九海里先だった。大した距離ではなく、ちゃんとした橈をそなえたボートならば三時間で行ける。しかし筏ではもっと長く見積らねばならなかった。風向きが変らなければおそらくこの潮のあいだに着けるだろう。しかし風が凪いだら引き潮にさらわれ、次の上げ潮を待って錨をおろすことが必要だろう。そうなれば大事である。そしてこれが絶えずジョン・マングルズの念頭を占めていたのだ。
それでも彼は成功を期していた。風は強まった。上げ潮は一〇時にはじまったのだから、三時には接岸していなければならなかった。そうでなければ錨をおろすか、引き潮によって沖に引き戻されるかだ。
最初のうちは順調だった。岩礁の黒い頭や砂底の黄色い絨毯《じゅうたん》は上って来る波の下に没した。水面下のこの暗礁をよけて、舵が利きにくく得てして流されやすい筏を導いて行くには、非常な注意と極度の熟練が必要になった。
正午になってもまだ岸から五海里離れていた。かなり晴れた空のために陸地の大体の起伏は識別できた。北東には高さ七五〇メートルばかりの山がそびえていた。山は水平線に異様な輪郭を描き、そのシルエットはのけぞった猿の頭の奇妙なプロフィールをなしていた。それは地図によればまさに三八度線上に位置するピロンジャ山だった。
一二時半にパガネルはすべての岩礁が上げ潮の下に没したと言った。
「一つだけ除いて」とレイディ・ヘレナが言った。
「どれですか?」とパガネルはきいた。
「あれです」一海里ほど前方の黒い点を指してレイディ・ヘレナは答えた。
「なるほど。乗り上げないようにはっきり位置を見ておきましょう。もうじき上げ潮におおわれてしまうでしょうから」
「ちょうど山の北の尾根のところにあります」とジョン・マングルズは言った。「ウィルスン、あれを避けて通るように気をつけろ」
「承知」後部の太い舵に全身の力をかけながら水夫は答えた。
三〇分のうちに半海里進んだ。しかし奇妙なことに黒い点は依然として波に浮いている。
ジョンは注意深くそれをみつめた。よく観察するために彼はパガネルの望遠鏡を借りた。
「あれは岩礁ではない」ちょっと調べてから彼は言った。「波とともに上ったり下ったりしている漂流物です」
「〈マクォリー〉のマストの破片ではなくって?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「いや」とグレナヴァンは答えた。「どんな破片も船からこんなに遠くまで流されたとは考えられない」
「待ってください!」とジョン・マングルズは叫んだ。「わかった。あれはボートです!」
「二檣船《ブリック》のボートか!」とグレナヴァンは言った。
「そうです、ミロード。ブリックのボートです、腹を上にして!」
「かわいそうに! 死んだのね!」とレイディ・ヘレナは叫んだ。
「そうです、奥さま」とジョン・マングルズは答えた。「死ぬにきまっていたのですよ。この暗礁のただなかで、波立つ海の上で、しかもあの暗夜ですから、逃れられぬ死にむかって進んで行ったのです」
「神のお憐れみがありますように!」とメァリ・グラントはつぶやいた。
しばらくのあいだ船客たちは黙然としていた。彼らは近づいて来るそのかぼそいボートを見守っていた。それはあきらかに陸から四海里のところで顛覆《てんぷく》し、それに乗っていたもののうちおそらく一人として生き残っていないらしかった。
「しかしあのボートはわれわれの役に立つかもしれんぞ」とグレナヴァンは言った。
「たしかに」とジョン・マングルズは答えた。「ウィルスン、あちらへ筏を向けろ」
筏は変針したが、風はだんだん落ち、二時間たって筏はようやくボートに着いた。
マルレディは前部に陣取ってショックをよけ、顛覆した小型ボートは筏とならんだ。
「誰もいないか?」とジョン・マングルズはきいた。
「ええ、ボートはからっぽですし、外まわりの板には穴があいています。ですからわれわれの役には立ちますまい」
「全然利用できないかね?」とマクナブズがきいた。
「全然駄目です」とジョン・マングルズが答えた。「薪にするほかはないようなものですよ」
「惜しいな」とパガネルが言った。「その小型ボートでならわれわれはオークランドまで乗って行けたろうに」
「あきらめなくちゃなりません、パガネル先生。それにまた、こんな波の荒い海では、私はこの弱々しいボートよりもわれわれの筏のほうがまだましだと思いますね。ほんのわずかのショックでばらばらになったにちがいない! ですから、ミロード、もうここにいてもしようがありません」
「好きなようにしたまえ、ジョン」とグレナヴァンは言った。
「出発だ、ウィルスン」と若い船長は言った。「まっすぐ岸にむかえ」
まだおおよそ一時間は潮は上りつづけるはずだった。二海里ほど進むことができた。しかしそれから風はほとんど完全に落ち、しかも今度は陸から吹き出そうとするらしい傾向を見せた。筏は静止していた。それのみか間もなく引き潮によって大海のほうへ流されて行きはじめた。ジョンはもう一刻も躊躇することはできなかった。
「錨をおろせ!」と彼は叫んだ。
この命令を実行する準備をしておいたマルレディは五|尋《ひろ》の海底に錨をおろした。筏は強く張った繩の上で四メートルほど後退した。間に合わせの帆は絞られ、相当長時間の碇泊のための手筈がおこなわれた。
事実潮は午後九時前には逆転しないはずだったし、ジョン・マングルズはそのあいだは進む気がなかったから、午前五時までそこに碇泊することになった。陸は三海里足らずのところに見えていた。
かなり強い波が海を騒がせ、絶え間のない動きによって岸のほうへ運んで行くように思われた。それゆえグレナヴァンは、一晩じゅう筏で過ごすのだと聞かされたとき、どうしてこの波のうねりに乗って岸に近づかないのかとジョン・マングルズにきいた。
「閣下は目の錯覚に瞞《だま》されていらっしゃるのです」と若い船長は答えた。「波は進んで行くように見えますが、実は進んでいないのです。これは水の分子の動揺以外の何ものでもありません。この波のまんなかに木片を一つ投げこんでごらんなさい。引き潮が感じられるようにならないかぎり木片は動かないでしょう。ですからわれわれは辛抱するほかはないのです」
「そして晩餐をするのさ」と少佐がつけたした。
オルビネットは食糧の箱から乾肉を数片と一ダースばかりのビスケットを取り出した。ステュワードはこんなみすぼらしいメニューを主人たちに出すのを恥じていた。しかしこのメニューは婦人方からさえも快く受け容れられた。彼女らはしかし海の乱暴な揺れ方のためにほとんど食欲を感じなかったのだ。事実錨索を揺すりながら波のうねりに抵抗している筏のこのショックはうんざりするような乱暴なものだった。小さな気まぐれな波に揺られる筏は、たとい水中の岩の鋭い角にぶつかってもこれ以上激しいショックは受けなかったろう。時にはまた坐礁したと思えるほどだった。繩は強くこすれ、半時間ごとにジョンは擦り切れを防ぐために一メートル半ぐらいずつ繰り出した。こういう用心をしなかったならば繩はどうしても切れてしまい、筏は頼るものがなくなって沖に漂い出してしまったろう。
ジョンの懸念はそれゆえ容易に理解された。繩が切れるにせよ錨が引きずられるにせよ、いずれの場合にも窮地におちいるのだ。
夜は近づいた。すでに太陽の円盤は光線の屈折のために細長くなって血のように赤く染まりながら、水平線のむこうに没しようとしていた。わずかに残った水の筋が西のほうに光り、水銀の帯のようにきらめいた。こちらのほうは、浅瀬の上に動かない〈マクォリー〉の残骸というくっきりと目立つ一点を除いて、すべては空と水だった。
足の速い黄昏《たそがれ》はほんの数秒夜の闇の来るのを遅らせたにすぎなかった。そして東から北へ水平線を縁取っている陸地は夜のなかに溶けこんだ。
闇に浸されたこの狭い筏の上でのこれらの遭難者の立場ほど不安に満ちた立場はない! あるものは悪夢の生じやすいそわそわしたまどろみに落ち、あるものは一時《いっとき》の睡眠を見出すことすらできなかった。日の出たときには皆が皆夜の疲れでくたくたになっていた。
満潮とともに風はまた沖から吹き出した。午前六時だった。時は迫っていた。ジョンは出帆の準備をした。彼は錨を上げるように命じた。しかし錨の爪は錨索の動揺のため砂に深くはまりこんでいた。ウィンチがなくては、ウィルスンが滑車をとりつけたにもかかわらず引き上げることは不可能だった。
空しい試みで三〇分がたった。出帆を焦っていたジョンは繩を切らせて錨を見捨て、今度の潮で岸にたどりつけずに緊急の場合に立ちいたったとき碇泊する可能性をみずから捨ててしまった。しかし彼はこれ以上遅れたくなかったのだ。そして斧の一撃で筏は時速二ノットの潮の流れと風だけに身をまかせた。
帆は上げられた。旭日に照らされた空を背景に鼠色がかった塊となってぼやけている陸にむかって筏はゆっくりと流された。暗礁はたくみによけて進んだ。しかし当てにならない沖の風のもとで筏は岸に近づくようには見えなかった。上陸するのがあれほど危険だというそのニュージーランドにたどりつくのにどれほど苦労しなければならないことか!
それでも九時には陸まではあと一海里足らずになっていた。暗礁がとりまいている。陸はひどく切り立っていた。近づける上陸地点を見つけねばならなかった。風はだんだんと弱まり、まったく落ちた。力ない帆はマストを打って傾《かし》がせた。ジョンは帆を捲かせた。潮だけが筏を岸へ運んでいたが、舵を取ることは断念しなければならなかった。そして巨大な|ひばまた《ヽヽヽヽ》がさらに筏の歩みを妨げた。
一〇時にジョンは岸から六〇〇メートル足らずのところでほとんど筏が進まないのを見た。錨をおろそうにも錨はない。それでは引き潮によってまた沖に引き戻されるのか? ジョンは手をひきつらせ、心を不安に引き裂かれながら血走った目でこの近づけぬ陸地を見た。
さいわい――今度はこれはさいわいだったが――何かにぶつかった。筏は停止した。岸から四〇〇メートル足らずの砂底の浅瀬に乗り上げたのだ。
グレナヴァン、ロバート、ウィルスン、マルレディは水に飛びこんだ。筏は纜《ともづな》で近くの岩礁にしっかりと結びつけられた。婦人方は腕から腕へと運ばれて服の襞一つ濡らさずに陸に着き、やがて全員は武器と食糧を持ってニュージーランドのこの恐るべき海岸を決定的に踏んだのであった。
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八 この国の現状
グレナヴァンは一時間たりとも無駄にせずに、海岸に沿ってオークランドにむかって北上したかった。しかし朝から空は大きな雲におおわれ、上陸後の一一時ごろ蒸気は濃度を増して激しい雨となった。そのため出発することは不可能になり、雨宿りの場所をさがさねばならなかった。
ウィルスンが非常に都合よく海岸の玄武岩質の岩に海水で穿《うが》たれた洞穴を見つけた。旅行者たちは武器と食糧を持ってそこへ逃げこんだ。そこにはかつて波によって打ち上げられた乾いた海藻がたくさんあった。これが自然の褥《しとね》となり、皆はこの褥で我慢した。いくつかの木片が洞穴の入口に積まれ、火がつけられ、皆はできるだけ濡れた衣服を乾かした。
ジョンはこの豪雨のつづく時間はその激しさと反比例するものと期待していた。ところが全然そうではなかった。時間はたったが空模様は一向に変らなかった。風は正午ごろ強くなり、突風はますますひどくなった。こんな思いがけぬ支障はどれほど辛抱づよい人をもいらだたせただろう。しかし手の打ちようはない。このような嵐のなかに乗物もなしに出て行くことは狂気の沙汰だった。それにまたオークランドには数日で出られるのである。一二時間ぐらい遅れても、原地民があらわれなければ一行にとって何の妨げにもならなかった。
このやむを得ない休息のあいだ、会話は現在ニュージーランドでおこなわれている流血事件をめぐって展開した。しかし〈マクォリー〉の遭難者がそのただなかに投げこまれた事態の重大性を理解し評価するためには、当時イカ・ナ・マウイ島を血で染めていたあの争闘の歴史を知らなければならない。
一六四二年一二月一六日にアベル・タスマンがクック海峡にあらわれて以来、ニュージーランド原地民はしばしばヨーロッパの船の来訪を見ながらもそれぞれの独立した島で自由を保っていた。いかなるヨーロッパの強国も太平洋の要衝を占めるこの群島を奪おうとは考えなかった。ただいろいろな地点に居を構えた宣教師たちは新しいこの地方にキリスト教文明の恩恵をもたらした。けれども彼らのうちの何人か、特にイギリス国教会のものは、ニュージーランド人の酋長たちをイギリスの支配のもとに服せしめようと画策していた。この酋長たちはたくみに籠絡《ろうらく》されて、ヴィクトリア女王に宛ててその庇護を求める手紙に署名した。しかし特別|烱眼《けいがん》な連中はこのような運動の愚かさを予感し、そのうちの一人は手紙に自分の刺青の紋を捺《お》した後で次のような予言的な言葉を吐いたのだ。「われわれはわれわれの国を失った。今後はもうこの国はわれわれのものではない。やがて外国人がこの国を奪いに来、われわれはそいつの奴隷になるだろう」
はたして一八四〇年一月二九日にコルヴェット艦〈ヘラルド〉がイカ・ナ・マウイの北のアイランド・ベイに来た。ホブスン大佐はコノラ・レカの村に上陸した。住民は新教教会に集まって村会を開くように招請された。この席上でホブスン大佐がイギリス女王から与えられて来た委任状が読み上げられた。
翌年の一月五日、ニュージーランド人の主だった酋長たちはパイア村のイギリス人駐在官のところへ呼びよせられた。ホブスン大佐は女王が彼らを保護するために軍隊と軍艦を派遣したこと、彼らの権利は保障され、自由はまったくそこなわれないことを告げて、彼らの服従を得ようとした。ただし彼らの地所はヴィクトリア女王のものとなることにされており、彼らは女王に地所を売らねばならないというのだった。
酋長たちの大部分は、そんな保護はあまりにも高くつくと思い、同意を拒んだ。しかし約束や贈物はホブスン大佐の大言壮語よりもこの未開野蛮な連中の心を動かし、領有は確認された。この一八四〇年以来〈ダンカン〉がクライド湾を発した日までのあいだにどんなことが起こったか? パガネルの知らないことは一つもなく、彼が即座に仲間たちに教えられないことは一つもなかった。
「奥さま」と彼はレイディ・ヘレナの質問に答えて言った。「前にも一度申し上げたことをまたくりかえしますが、ニュージーランド原地民は勇敢な国民であって、束の間譲歩しましたが、イギリスの侵略に対して執拗に抵抗しているのです。マオリ人の諸部族は昔のスコットランドの氏族のように団結しています。これらの部族はすべて、自分に対する完全な尊敬をあくまで要求する一人の首長を認める大家族なのです。この人種の男たちは誇り高く勇敢です。あるものは背が高く、マルタ人あるいはバグダッドのユダヤのように髪がちぢれておらず、高級な種類に属しており、あるものはそれほど背が高くなく、黒白混血児のようにずんぐりしているが、どちらも皆逞しく、尊大で好戦的だ。彼らはヒヒという有名な酋長をいただいているが、これはまさにヴェルサンジェトリクス(古代ローマの支配に対して抵抗したガリア人の族長)のような奴です。そういうわけですから、イカ・ナ・マウイの領土内で対イギリス戦が永久に終らなくてもあなたは驚かないでしょう。そこにはウィリアム・トンプスンが国土防衛のために訓練をほどこしている有名なワイカトの部族がいるのですよ」
「しかしイギリス人はニュージーランドの主な地点を押えているのではありませんか?」とジョン・マングルズはきいた。
「いかにも、ジョン君。後に島の総督となったホブスン大佐の領有以後、一八四〇年から一八六二年までに九つの植民地が最も有利な位置に徐々に建設されて行った。こうして九つの州ができたんだが、そのうち四つは、北の島にある。つまりオークランド州、タラナキ州、ウェリントン州、ホークス・ベイ州だ。南の島の州は五つ、ネルスン州、マールバラ州、キャンタベリ州、オタゴ州、サウスランド州だ。一八六四年六月三〇日現在、全体で一八万三四六人の人々を算する。重要な商業都市がそこらじゅうに建てられた。オークランドに着いたら、太平洋にかかる橋のように伸びた地峡を見おろし、すでに一万二〇〇〇の住民を算するこの南洋のコリントの町の景観に君も惜しみなく感嘆せざるを得ないだろう。西のニュープリマス、東のアフヒリ、南のウェリントンはすでに繁栄した人々のよく集まる町だ。タワイ・プナムの島に行けば、ちょうど地球の反対側にあるモンペリエともニュージーランドの庭園ともいうべきあのウェリントン、クック海峡に臨むピクリン、クライストチャーチ、全世界の金を求める人々がなだれこむあの豊かなオタゴ州のインヴァカーギルやダニーディンなど、まったく優劣をきめようもないほどだ。しかも記憶しておいてもらいたいが、これらはいくつかの小屋の集まり、蛮人の家の集落などでは決してなく、ロンドンやパリとまったく同じく港も大寺院も銀行もドックも植物園も科学博物館も動物保存協会も新聞社も病院も慈善施設も哲学アカデミーもフリーメイスン支部もクラブも合唱協会も劇場も万国博覧会の会場もある本格的な都市であるということだ! そしてもし私の記憶が正しければ、まさにこの一八六五年に、そしてもしかすると私がこうしてしゃべっているときに、全世界の工業製品が人食い人種の国で展示されているかもしれないのだ!」
「何ですって! 原住民との戦争をやりながらですか?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「イギリス人は戦争なんて物ともしませんな、奥さま! 奴らは闘いながら同時に展覧会もやるんですよ。そんなことは気にならんのです。奴らはニュージーランド原地民の銃口の前で鉄道建設さえしています。オークランド州では、ドルーリー線とミア・ミア線は叛徒に占領された主要地点を横切っている。私は賭けてもいいが、工夫たちは機関車の上から鉄砲を射っていますよ」
「しかしそのはてしのない戦争はどうなっているのですか?」とジョン・マングルズがきいた。
「われわれがヨーロッパを去ってからもうたっぷり半年になるから、われわれの出発以来何が起こったかは私は知らない。もっとも、オーストラリア横断のあいだメァリバラとシーモアの新聞で読んでいくつかの事実を知っているがね。しかしあのころはイカ・ナ・マウイで激戦がおこなわれていた」
「ではいつごろその戦争ははじまったんですの?」とメァリ・グラントは言った。
「親愛なるお嬢さん、いつ〈再開したか〉とおっしゃるつもりなんでしょう、というのは、最初の叛乱は一八四五年におこったのですから。再開したのは一八六三年の末ごろです。しかしずっと前からマオリ人はイギリスの支配の軛《くびき》を揺すぶろうと計画していた。原住民の民族主義派はマオリ人の首長を選ぶために活溌な宣伝をおこなった。この派は老ポタトゥを王にし、ワイカト河とワイパ河にはさまれた彼の村を新王国の首府にしようとしたのだ。このポタトゥは大胆というよりも老獪《ろうかい》な老人にすぎなかったが、外人の占領以前にオークランド地峡に住んでいたあのンガティハフア族の後裔である果断で聰明な男を首相にしていた。ウィリアム・トンプスンというこの首相はこの独立戦争の核心となった。彼はマオリ人部隊をたくみに編制した、彼の構想のもとにタラナキのある酋長がばらばらの部族を一つの思想に団結させた。それとは別のワイカトの酋長が〈ランド・リーグ〉という同盟を組織した。これはまさに公共財産のための〈リーグ〉で、原住民が自分らの土地をイギリス政府に売るのを阻止するためのものだった。革命を控えた文明国におけると同様に政治宴会が開かれた。イギリス人の新聞はこうした憂慮すべき徴候を指摘しはじめ、政府は〈ランド・リーグ〉の暗躍を真剣に懸念した。要するに人心は昂奮し、ダイナマイトは今にも爆発しそうだったのだ。欠けていたのは一つの火花、いやむしろ、その火花を発せしめる二つの利害の衝突だけだった……」
「そしてその衝突は?……」とグレナヴァンはきいた。
「それは一八六〇年に、タラナキ州のイカ・ナ・マウイの南西の岸でおこった。ある原住民がニュープリマスの近くに六〇〇エーカー(約二四三ヘクタール)の土地を所有していた。彼はそれをイギリス政府に売った。しかし測量員が売られた土地を測量すべくあらわれたとき、酋長キンギは抗議し、三月に彼は問題の六〇〇エーカーの土地に高い柵で囲った陣地を作った。数日後ゴールド大佐が部隊を率いて来てこの陣地を撤去させた。そしてその日のうちに民族戦争の第一弾が放たれたのだ」
「マオリ人は多いのですか?」とジョン・マングルズはきいた。
「マオリの人口はこの一世紀で相当減っている」と地理学者は答えた。「一七六九年にクックは四〇万と見積った。一八四五年には〈原住民保護地〉の人口調査によるとそれが一〇万九〇〇〇にまで減っている。文明による虐殺、つまり病気と火酒で彼らは大量に殺されたのだ。けれども両島にまだ九万の原地民が残っており、そのうち三万は戦闘的で、これからもなお長いことヨーロッパ人軍隊に脅威を与えるだろう」
「叛乱はこれまでのところ成功でしたの?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「そうです、奥さま、そしてイギリス人すらもしばしばニュージーランド人の勇気に感服しています。ニュージーランド人はゲリラ戦をおこない、ちょっとした戦闘をしかけ、小さな部隊を襲い、植民者の地所を荒します。キャメロン将軍はありとあらゆる藪を叩いてまわらねばならぬこういう戦《いくさ》に気が気でなかった。一八六三年に、長期にわたって多数の人命を奪った闘いのあげく、マオリ人はワイカト河上流の要塞化された陣地にこもった。これは切り立った丘の連なりの端にあり、三本の防禦線をめぐらしてあったものです。予言者たちはマオリの全住民に土地の防衛を訴え、〈パケータ〉すなわち白人の殲滅《せんめつ》を約束した。三万の兵士がキャメロン将軍の麾下にあって戦に臨み、スプレント大尉の惨殺以後はマオリ人は一人として生かしておかなかった。血なまぐさい戦闘がおこなわれた。そのあるものは一一時間もつづいたが、マオリ人はヨーロッパ人の砲火の前に退かなかった。それは独立軍の中核を形づくっているウィリアム・トンプスン麾下の獰猛なワイカト部族だった。この原住民の将軍は最初二五〇〇の、次いで八〇〇〇の戦士を指揮していた。ションギとヘキという二人の恐るべき酋長の部下のものも彼の加勢に来た。この神聖な戦争には女たちも加わって最も厳しい労苦を分った。しかし正しい権利はかならずしも常に優れた武器を持っているわけではない。凄惨な戦闘の後にキャメロン将軍はワイカト地域を帰順させることに成功した。しかしそれは空虚な無人の地域にすぎなかった。なぜならマオリ人はそこらじゅうで彼から逃げ出したからだ。あっぱれな武勲もあった。カリー准将の指揮する一〇〇〇人のイギリス兵に包囲されたオラカンの砦に食糧も水もなしに閉じこめられた四〇〇人のマオリ人は投降を拒んだ。そしてある日の真っ昼間に、大損害を受けた第四〇聯隊のまんなかに退路を切り開いて沼地へ逃げこんだのです」
「しかしワイカト地域の帰順でこの血なまぐさい戦争は終ったのですか?」とジョン・マングルズはきいた。
「いやいや、そうじゃない。イギリス軍はタラナキ州にむかって進撃して、ウィリアム・トンプスンの砦であるマタイタワを包囲することに決していた。しかし莫大な損害なしにはこの砦を奪えないだろう。私はパリを出発するとき、総督と将軍がタランガ部族の帰順を諒承し、彼らにその土地の四分の三を残してやったということを聞いた。また叛乱の総帥ウィリアム・トンプスンが降服を考えているとも言われていた。しかしオーストラリアの新聞は全然このニュースを確認していなかった。それどころじゃないんだ。だから現在抵抗はまた力をあらたにして組織されていることも考えられる」
「で、パガネル、君の考えでは」とグレナヴァンは言った。「その闘争はタラナキとオークランドの両州でおこなわれるだろうというのかね?」
「そう思うよ」
「〈マクォリー〉の難破のおかげでわれわれが打ち上げられたこの州だろう?」
「そのとおり。カウヒア港の七、八キロ北にわれわれは上陸したんだ。この陸にはまだマオリ族の民族旗がひるがえっているに相違ないよ」
「それではわれわれは北にむかうのが賢明なんだな?」
「たしかに非常に賢明だね。ニュージーランド原地民はヨーロッパ人、特にイギリス人に対して憤激している。だから奴らの手に落ちないようにしよう」
「もしかするとヨーロッパ人の軍隊の分隊にでも出逢わないかしら?」とレイディ・ヘレナが言った。「そうしたら幸運だけれど」
「もしかすればですね」と地理学者は答えた。「しかし私は期待しませんな。ほんの小さな藪、ごくちょっとした茂みでも優れた狙撃兵をかくしているかもしれないという場合には、孤立した分隊がそこらを歩きまわるようなことはあまりありませんよ。ですから私は第四〇聯隊の兵士の護衛が得られるとは思わない。しかしわれわれが辿って行こうとしている西海岸にはいくつかの伝道会ができており、オークランドまでそれを足がかりにして行くことは容易です。それのみか私は、フォン・ホホシュテッター氏がワイカトの流れに沿って辿ったあの通路に出ようと思うんです」
「その人は旅行家ですか、パガネル先生?」とロバート・グラントはきいた。
「そうだよ、一八五八年の世界周航の際オーストラリアのフリゲート艦〈ノヴァラ〉に乗り込んでいた学術調査団の一員さ」
「パガネル先生」とロバートはまた言った。その目は大きな地理学的探検のことを考えてかがやいた。「ニュージーランドにはオーストラリアのバークやステュアートのような有名な旅行家がいるのですか?」
「何人かはね。たとえばフーカー博士、ブリザード教授、博物学者ディーフェンバハとユリウス・ハースト。だが彼らのうち何人かはその冒険の情熱のために生命を犠牲にした。けれども、この連中はオーストラリアもしくはアフリカの旅行家たちほど有名ではない……」
「で、先生はその人たちのことをごぞんじですか?」とグラント少年はきいた。
「あたりまえじゃないか。そしておまえが私と同じだけそれについて知りたいと思ってじりじりしているのがわかったから、これからその話をしてあげよう」
「ありがとうございます、パガネル先生、聞かせてください」
「そして私たちも傾聴しますわ」とレイディ・ヘレナが言った。「悪天候のためにやむなく勉強するのはこれがはじめてではありませんわね。みんなのために話してください、パガネル先生」
「かしこまりました、奥さま。しかし私の話は長くはありませんよ。ここでお話しするのは、オーストラリアの迷宮で死闘したあの大胆な発見者たちのことではありません。ニュージーランドはあまりにも狭い国で、人間の探索に抵抗することなどはできないのですから。それゆえ私の英雄たちは真の意味での旅行家ではなく、きわめて散文的な事故の犠牲者となった単なるトゥーリストにすぎません」
「で、その名は?……」とメァリ・グラントがきいた。
「測量技師ウィトカンブと、チャールトン・ハウイットです。後者は私がウィメラ河畔で皆さんにお話ししたあの記念すべき探検でバークの遺体を発見したあの男ですよ。ウィトカンブとハウイットはそれぞれタワイ・プナム島への二つの探検隊を指揮していた。二人とも一八六三年の初めのころにクライストチャーチを出発し、キャンタベリ川の北部山岳を越えるいくつかの通路を見つけようとした。ハウイットは州の北端で山脈を越え、その基地をブラナー湖のほとりに設けた。ウィトカンブは反対に、ティンダル山の東に通じている通路をラカイア渓谷のなかに発見した。ウィトカンブにはジェイコブ・ラウパーという道連れがいて、この男が〈リトルトン・タイムズ〉に旅行とその悲劇の物語を発表したのです。私の記憶しているかぎりでは、一八六三年四月二二日に二人の探検家は、ラカイア河が源を発している氷河の根元にいた。彼らは山頂まで登り、新しい通路をさがしはじめた。あくる日ウィトカンブとラウパーは疲れと寒さに力尽きて、海抜一二〇〇メートルの厚い雪のなかに野営した。七日間彼らは山のなかや切り立った絶壁のため全然出口のない渓谷の底をさまよった。しばしば火を得ることもできず、また往々にして食べるものもなく、持って来た砂糖はシロップに変り、ビスケットは濡れたべとべとしたものになりおおせ、服や寝具は雨でびしょびしょになり、虫に食われる。はかが行く日には五キロ歩き、行かない日にはわずか二〇〇メートルも進めない。ようやく四月二九日にマオリ人の小屋にぶつかり、そして庭でいくつかのじゃが薯《いも》を見つける。これは二人の友が分ち合った最後の食事だった。夕刻彼らはタラマカウ河の河口近くの海岸に出た。北にむかってグレイ河のほうへ進むにはこの河を渡らねばならない。タラマカウ河は深く河幅が広い。ラウパーは一時間ほどさがしまわって二艘の傷んだ小さなボートを見つけ、できるだけ修繕して二艘を繋ぎ合わせた。二人の旅行者は夕方それに乗りこんだ。しかし流れの中ほどに来るが早いかボートは水で一杯になった。ウィトカンブは水に飛びこんで左岸にもどった。泳ぎを知らないジェイコブ・ラウパーはボートにしがみついていた。そのために彼は助かったが、いろいろの目に遭わずにはすまなかった。不幸な男は暗礁のほうへ流された。最初の大波が彼を海底にまきこんだ。次の波が彼を水面にもどした。岩にぶつかった。おそろしく暗い夜が来た。雨が猛烈にたたきつけた。ラウパーは海水でふくれ上った血だらけの体で何時間もこのように揺られていた。とうとうボートは陸地にぶつかり、彼は失神したまま岸に打ち上げられた。翌朝の夜明け彼は泉のほうへ体を曳きずって行った。そして河を渡ろうとしたところから一キロ半も流れに運ばれて来てしまったことを知った。彼は立ち上って岸に沿って行き、間もなく体と頭を泥に埋めている不幸なウィトカンブを見つけた。彼は死んでいた。ラウパーは自分の手で砂のなかに穴を掘り、友の屍体を葬った。二日後彼は親切なマオリ人――そういうのもすこしはいる――に飢え死にしかけているところを救われた。そして五月四日にブラナー湖のチャールトン・ハウイットのキャンプにたどりつくが、それから六週間後にこのハウイットも不幸なウィトカンブと同じように命を落すのだ」
「そうだ!」とジョン・マングルズは言った。「そういう災厄は連続している、宿命の絆が旅行者たちのあいだをつないでいて、まんなかが切れてしまうと彼らは一人残らず死んでしまうような気がします」
「君の言うとおりだよ、ジョン君。そして私もしばしばそれに気がついたものだ。どのような連帯の掟でハウイットはおおよそ同じような事情で死ぬことになったのか? それは言えない。チャールトン・ハウイットは官営事業の主任のワイド氏に雇われて、フルヌイ平原からタラマカウ河口までの馬の通れる道路を測量していた。彼は一八六三年一月一日に五人の男を伴って出発した。彼は類のない手際のよさで任務を果し、タラマカウ河の渡河不可能な地点まで六四キロの道が開かれた。ハウイットはそこでクライストチャーチに帰り、冬が近づいていたにもかかわらず仕事をつづけさせてくれと頼んだ。ワイド氏は同意した。ハウイットは悪い季節を過ごすためキャンプへの補給をおこなおうとしてまた出発した。彼がジェイコブ・ラウパーを迎えたのはこのころなんだ。六月二七日、ハウイットとその二人の部下ロバート・リットルとヘンリ・ムリスはキャンプを出発した。彼らはブラナー湖を横切った。その後彼らに会ったものはいない。水面すれすれの高さしかないへなへなした彼らのボートが岸に乗り上げているのが見つけられた。人々は九週間にわたって彼らを捜索したが見つからなかった。泳ぎを知らなかったこの不幸な人々が湖に溺れたことはあきらかです」
「でも、どこかのニュージーランド原地民の部族のところに無事に生きているとはどうして考えられませんの?」とレイディ・ヘレナは言った。「すくなくとも、彼らの死については疑ってみてもいいでしょう」
「残念ながら駄目なんです」とパガネルは答えた。「なぜなら事故の一年後の一八六四年八月になっても彼らは姿をあらわしていません……そしてこのニュージーランドという国で一年も姿をあらわさない場合には(と彼は低い声でつぶやいた)もう取り返しのつかないことになっているのです」
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九 北方四八キロ
一月七日午前六時にグレナヴァンは出発の合図をした。雨は夜のあいだに上っていた。小さな鼠色の雲のひしめく空は、地上五〇〇〇メートルのところで太陽光線をさえぎっていた。おだやかな気温のおかげで疲れも厭《いと》わず日中の旅を試みることができた。
パガネルは地図でカフア岬からオークランドまでの距離を一二八キロと見積っていた。それは二四時間に一六キロ歩くとして八日間の旅行だった。しかし曲折した海岸線をたどらずに、五〇キロほど離れたンガルナヴァヒア村にあるワイカト河とワイパ河の合流点に出るのがいいように彼には思えた。そこには〈オーヴァランド・メイル・トラック〉が通じている。これは山道と言って悪ければ道路と言ってもいいが、車も通れ、ネイピアからホークス湾を経てオークランドまで島の大部分をつらぬいている。だから簡単にドルーリーに出、博物学者ホホシュテッターが特に推奨している上等のホテルで憩《いこ》うことができよう。
旅行者たちは各自食糧を持ってアオテア湾の岸を迂回しはじめた。用心のため彼らは全然たがいの間隔をあけず、カービン銃に装填して東のほうの波を打っている平原を警戒して進んだ。パガネルはその自慢の地図を片手にして、ほんのちょっとした細部の精確さを確かめて芸術家的な喜びを味わっていた。
その日の何時間かをこの小さな一隊は二枚貝の破片や烏賊《いか》の骨から成り、過酸化鉄や酸化第一鉄が多量に混じった砂の上を踏んで行った。磁石を地面に近づけると一瞬のうちにこまかい結晶におおわれた。
上げ潮の寄せる海岸には何匹かの海獣がじゃれまわっていて逃げようともしない。あざらしは頭がまるく額は広く彎曲《わんきょく》して表情豊かな目をし、温和な、それどころか愛情の深そうな風貌を持っている。この奇妙な水の棲息者をそれなりに詩化して、その声があまり音楽的でない唸《うな》りにすぎないにもかかわらず、これをあやかしのシレノスとした神話もうなずけた。ニュージーランドの海岸に多いこの動物たちは活溌な取引の対象とされている。油と毛皮を取るために彼らは捕獲されているのだ。
彼らのあいだでは、青みがかった鼠色をした体長七・五メートルから九メートルもある大鼻あざらしが特別に目をひいた。この巨大な海陸両棲動物は途方もなく大きな昆布《こんぶ》の厚い褥《しとね》の上にものうげに寝そべって、その突出する鼻を立て、ダンディの髯のようにちぢれた栓抜きそっくりの長いねじれた剛毛の口髭を気取った様子でふるわせている。ロバートはこの興味ある生き物たちを見て面白がっていたが、そのうちひどくびっくりして叫んだ。
「おやぁ! このあざらしたちは小石を食べている!」
そして実際この動物たちは海岸の石をいかにもうまそうにがつがつと嚥《の》みこんでいるのだ。
「そうともさ! この事実ははっきりしている」とパガネルは答えた。「この動物が海岸の岩を食っていることは否定できない」
「変な餌《えさ》だな」とロバートが言った。「それに消化が悪いでしょうに!」
「この両棲獣が石を嚥みこむのは、餌にするのじゃないんだよ、重しにするためなんだ。比重を増して海底に楽に行けるようにする方法なのさ。いったん陸にもどると奴らは体裁もかまわずその石をもどす。今奴らが水にもぐるのが見られるよ」
なるほど、間もなく充分重しを入れた六頭ばかりのあざらしが岸に重い体を曳きずって行って水中に没した。しかしグレナヴァンには、重しを吐き出すのを観察するために貴重な時間を費すことはできなかった。そしてパガネルにとって残念至極なことに休みない行進がまたはじまった。
一〇時に食事をするために、ケルトのドルメンのように海岸にならんでいる玄武岩の大きな岩塊の根もとで休止した。牡蠣《かき》のこびりついた岩があって、この貝がたくさん得られた。これらの牡蠣は小さく、あまりいい味ではなかった。しかしパガネルの勧告にしたがってオルビネットは炭《すみ》をおこしてその上で焼いたが、このように料理してみると一ダースまた一ダースと食事のあいだじゅう皆はずっとこれを食べつづけた。
休息が終ると一同は湾の岸に沿って進んだ。鋸歯《きょし》状の岩の上や断崖の頂には、軍艦鳥やおさ鳥や鴎《かもめ》、鋭い岩の突端にじっと動かない大きな阿呆鳥《あほうどり》などの鳥の群れがとまっていた。午後四時には困難も疲れもなしに一六キロの行程を終えていた。婦人方は夜になるまで行進をつづけようと言った。ちょうどこのとき進路の方向を変えねばならなかった。北のほうに見えるいくつかの山々の裾《すそ》をまわってワイパ渓谷にはいって行かねばならなかったのだ。
遠くから見ると土地は見渡すかぎりつづく広大な草原の景観を呈し、簡単に歩いて行けるように見えた。しかしこの緑の野の縁《へり》まで来てみて旅行者たちは幻滅した。草地ではなくて小さな白い花をつけた茨《いばら》の林があらわれたのだ。ニュージーランドの土地に特別よく生えるあの背の高い羊歯《しだ》が無数にそれにまじっている。この木質の茎のあいだに道を切りひらいて行かねばならず、その面倒さは一通りではなかった。それでも午後八時にはハカリホアタ山脈《レインジ》の手前のほうの円い山々を迂回して、キャンプは手速く設けられた。
二四キロも歩いて来たからにはもう休息を考えてもよかった。しかも牛車もなければテントもないのだ。そこですばらしいノーフォーク杉の根もとに各人は寝場所をこしらえた。寝具はあったから、仮の寝床を作るのに役立った。
グレナヴァンは夜のための厳重な警戒態勢を立てた。彼とその仲間たちは充分武装して夜明けまで二人ずつ不寝番をするのだ。火は全然|焚《た》かない。この燃える防壁は野獣に対しては有効だが、ニュージーランドには虎であれライオンであれ熊であれ猛獣は全然いない。いかにもニュージーランド原地民が充分その代りをしているのは事実だ。ところが火はこの二本足のジャガーをひきつけることにしか役立たない。
とにかく夜は快適だった。ただし原住民の言葉で〈ンガム〉という、刺されるとまったくやりきれない砂蠅と、食糧の袋をがりがりかじる図太い鼠の一族は別としてだが。
あくる一月八日、パガネルはより楽観的になり、この国に前より好意を抱いて目を覚ました。彼がことのほか恐れていたマオリ人は全然あらわれなかった。そしてあの獰猛《どうもう》な人食い人種は夢のなかですら彼を脅かさなかったのだ。彼はそれについて大満悦で、その気持をグレナヴァンに表明した。
「だから私は、このちょっとした散歩は事もなく終るだろうと思うよ。今夜はわれわれはワイパ河とワイカト河の合流点に着いているだろう。そしてこの地点を越えれば、オークランド街道で原地民に遭遇する心配はそれほどないからね」
「ワイパとワイカトの合流点に出るにはまだどれくらい歩かねばならないのかね?」とグレナヴァンはきいた。
「二四キロ、おおよそわれわれが昨日歩いた行程だ」
「しかしこの果てしのない林がなおも道をふさいでいるとすれば、ひどく手間取るよ」
「いや、ワイパ河の岸に沿って行こう。そうすればもう障害はなく、反対に歩きいい道なんだ」
「それでは出発しよう」婦人方が歩き出そうとしているのを見てグレナヴァンは言った。
この日のはじめの数時間は、林のおかげでなお進行は遅れた。彼らの通る前に荷車も馬も通っていなかった。だから彼らはオーストラリアで使ったあの乗物を大して惜しいと思わなかった。灌木林のなかに車の通れる道路が開かれる日までは、ニュージーランドでは歩行者しか旅することができないだろう。羊歯の種類は多く、その羊歯類がマオリ人と同じくらい頑強にこの民族の土地の防衛に協力しているのだ。
小さな一隊はそれゆえ、ハカリホアタの丘陵が盛り上っている平原を横切るのに無数の困難を嘗めた。しかし正午にならぬうちに彼らはワイパ河の岸沿いの道を通って北上した。
これは魅力的な渓谷で、灌木の下を楽しげに流れる冷い澄んだ水の小川がところどころでそれを横切っている。植物学者ワーカーによればニュージーランドは現在までに二〇〇〇種の植物を産し、そのうち五〇〇種はその特産である。花はあまりなく、色合いにも乏しかったし、一年生の植物はほとんど全然なかったが、羊歯類や禾本《かほん》科植物や繖形《さんけい》科植物は豊富だった。
いくつかの大木が暗い緑の前景のむこうのところどころにそばだっていた。真紅の花をつける〈メトロシデロス〉、ノーフォーク杉、垂直に立って四方から圧縮されたような小枝を持つ児手柏《このてがしわ》、ヨーロッパのその同類に劣らず陰気な〈リム〉と呼ばれる糸杉の一種。これらすべてのものの幹は多種多様な羊歯類におおわれているのだ。
大きな木の枝のあいだや灌木の上には、喉の下に赤い帯を持つ緑色の〈カリカリ〉や、素敵な黒い頬鬚を持つ〈タウポ〉や、博物学者が〈ネストール・メリディオナル〉という異名をつけている、焦茶《こげちゃ》色の羽毛に目の覚めるような裏羽を持った家鴨《あひる》ほどの大きさの鸚鵡《おうむ》だのの鸚鵡類が何羽か飛びまわり、おしゃべりをしていた。
少佐とロバートは仲間たちから遠く離れずに、平原の背の低い樹木の下にひそんでいる田鷸《たしぎ》と鷓鴣《しゃこ》を何羽か射ち落すことができた。オルビネットは時間を稼ぐために道々その羽をむしるのに大童《おおわらわ》だった。
パガネルのほうは獲物の食物としての価値にはそれほど関心がなく、ニュージーランド特産の鳥を何かつかまえたいと思った。博物学者の好奇心は彼のなかで旅行者の食欲を沈黙させていたのだ。彼の記憶が誤っていないとしてだが、絶えずあざわらっているため〈嘲笑家〉とも呼ばれ、僧服のように黒い羽毛の上に白い胸飾りをつけているので〈司祭〉とも呼ばれる、原住民の言う〈トゥイ〉のあの奇妙な振舞いのことが彼の念頭にうかんだ。
「このトゥイは冬のあいだ猛烈に肥って、体の調子が悪くなってしまうのだ」とパガネルは少佐に言った。「そこで彼は脂肪を取って身を軽くするために嘴《くちばし》で自分の胸を引き裂くのだ。どうだい、これは奇妙だと思わないかね?」
「あまり奇妙すぎるので、私は一言もそんな話を信じないよ!」と少佐は答えた。
しかしパガネルには遺憾千万なことに、この鳥を一羽つかまえてその胸の血みどろに切り刻んだところを疑い深い少佐に見せることができなかった。
しかし彼は、人間や犬や猫に追われて無人地域に逃げこみ、ニュージーランドの動物界から消滅する傾向にある奇怪な動物のことでは、もうすこし運がよかった。ロバートは本当の貂《てん》のようにあたりをさがしまわっているうちに、根をからみあわせた巣のなかに翼も尾もない鶏の一|番《つがい》を見出したのである。足の指は四本あり、鷸《しぎ》のように長い嘴を持ち、全身に白い羽毛を生やしている。卵生動物から哺乳類への中間段階をなすように見える変な動物だ。
それはオーストラリアの〈キウィ〉、博物学者の言う〈apterix australis〉で、幼虫や昆虫や蛆《うじ》や植物の種を見さかいなしに餌にしている。この鳥は土地の特産なのだ。ヨーロッパの動物園にこれを輸入することはほとんどできなかった。その中途半端な恰好、その滑稽な動きは常に旅行者たちの注意をひきつけ、〈アストロラーブ〉と〈ゼレー〉によるオセアニア大探検の際にデュモン=デュルヴィルはこの風変りな鳥を一羽持ち帰るように科学アカデミーから特に依頼されていた。しかし原住民たちに報償を約束したにもかかわらず彼は生きたキウィを一羽も入手できなかったのである。
このような幸運に悦に入ってパガネルはこの二羽を一緒に縛り、パリのジャルダン・デ・プラントに寄贈するつもりで勇敢にそれを持って行った。その植物園の最も美しい檻《おり》に書かれた「ジャック・パガネル氏寄贈」といううっとりするような文字がすでに彼の眼前に描かれていたのだ。何という楽天的な地理学者か!
そうこうするあいだにも小さな一隊は疲れもおぼえずにワイパ河の岸を下って行った。そのあたりは人気はなかった。原住民の足跡も、この平原に人間の存在することを示す小径も全然なかった。河の水は背の高い藪《やぶ》のあいだを流れ、また長く延びた河原の上をすべっていた。今は視線は東のほうで谷を閉ざしている山々のほうまで延びて行くことができた。その異様な形状、目を惑わす霧に浸されたそのプロフィールのために、この山々は原始時代にふさわしい巨大な動物のように見えた。巨鯨の一群が不意に石に化したかのようだった。この起伏の多い塊りからは本質的に火山的な性格が読み取れた。ニュージーランドは事実、地底深部の作用の比較的新しい産物にほかならない。その海面上への隆起は絶えず増大している。若干の地点はこの二〇年に二メートル近くも上っているのである。火はまだその胎内からほとばしり、この国を揺がし、痙攣《けいれん》させ、各地の間歇泉《かんけつせん》の口や火山の火口から噴き出しているのだ。
午後四時には人々は元気に一四・五キロの行程を終えていた。パガネルがしょっちゅう見ている地図によれば、ワイパとワイカトの合流点にはあと八キロ足らずでぶつかるはずだった。そこにはオークランド街道が通っている。そこに今夜のキャンプを設けることにしよう。首府までの八〇キロは二日か三日で充分に歩けるだろうし、もしオークランドとホークス湾を月に二回連絡している郵便馬車に出逢えばせいぜい八時間ですむだろう。
「だから」とグレナヴァンは言った。「明日の晩もまだ野営しなければならんだろう」
「そうだ。しかし私はそれが最後であることを希望するね」とパガネルは答えた。
「そうなれば結構だよ、レイディ・ヘレナやメァリ・グラントにとっては野営も辛い試練だからね」
「でもあの方々は不平も言わずに堪えていらっしゃいます」とジョン・マングルズがつけくわえた。「ですが、私の記憶違いでなければ、パガネル先生、先生は二つの河の合流点にある村のことを言っていらっしゃいましたね?」
「うん。ほら、このジョンストンの地図に記載されている。合流点の約三キロ北にあるンガルヴァヒアだ」
「それでは、今夜はその村で泊ることはできませんか? レイディ・ヘレナもミス・グラントも、どうにか見られるホテルを見つけるためなら三キロ余計に歩くことも躊躇なさらないでしょう」
「ホテルだって!」とパガネルは叫んだ。「マオリ人の村にホテル! いや、安宿だって、居酒屋だってありゃあしないよ! その村は原住民の小屋の集まりにすぎない。そこに宿りを求めるどころか、私の考えでは用心深くそこを避けて通るべきだね」
「あいかわらずびくびくしているんだね、パガネル!」とグレナヴァンは言った。
「貴族君、マオリ人に対しては信頼するよりも警戒するほうがいいんだ。奴らがイギリス人とどんな関係にあるか、叛乱は鎮圧されたのか旗色がいいのか、われわれが戦争のまっただなかに飛びこんだのかどうか、私にはわからん。ところで、謙遜は謙遜として、われわれのような身分のものは相手にとっては当然捕虜とすべきものなんだ。そして私は意に反してニュージーランド原地民の客あしらいの瀬踏《せぶみ》をしてみるなんてことは御免だね。だから私はこのンガルナヴァヒアの村をよけ、迂回し、原住民との一切の遭遇を避けるのが賢明だと思う。ドルーリーに行ってしまえば話は別だよ。そこでならわれわれの健気な御婦人方は存分に道中の疲れを休められるさ」
地理学者の意見が勝った。レイディ・ヘレナは最後の夜を露天で過ごしても仲間たちを危険にさらさないほうがいいと言った。メァリ・グラントも彼女も休もうと言わず、岸沿いの道を進みつづけた。
二時間後最初の夕闇が山から降りて来た。太陽は西の地平線に没する前に、思いがけず雲が切れたのを幸いと幾筋かの消え残った光線を投げてよこした。東の遠い山頂は残暉《ざんき》に真紅に染まった。それは旅行者たちへの束の間の挨拶のようだった。
さいわい聴覚が闇のため役に立たなくなった視覚のかわりをした。間もなく水のせせらぎは前よりはっきりして、二つの河が一つの河床で一緒になっていることを告げた。七時にこの小さな一隊は、ワイパ河がワイカト河のなかに消えている――ぶつかった波がやはり多少の唸りを上げてはいたが――その地点に着いた。
「ワイカト河だ」とパガネルは叫んだ。「そしてオークランド街道はこの左岸に沿って北に走っている」
「それは明日見られるだろう」と少佐は答えた。「ここでキャンプしよう。あすこに闇が濃くなっているのは、われわれを宿らせるためにわざわざ生えている小さな木立の影だと思う。夜食をして眠ろう」
「食べよう」とパガネルは言った。「しかしビスケットと乾肉だけだよ、火を燃やさずに。われわれは気づかれずにここに着いた。同じく気づかれずに立ち去るようにしよう! まことにさいわいにも霧のおかげでわれわれの姿は見えない」
木立まで来ると各人は地理学者の注意どおりにした。火を使わぬ食事は音もなく平らげられた。そして間もなく深い眠りが、二四キロの歩行で疲れた旅行者たちを襲った。
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十 民族の河
翌日の夜明けには、かなり厚い霧が河水の上を重々しく這《は》っていた。大気に飽和した水蒸気が気温の低下のために凝集し、厚い雲で水面をおおっていたのだ。しかし太陽の光線は間もなくこのこまかい粒子の塊りを突き破り、輝かしい太陽の眼差《まなざし》のもとにその塊りは消え去った。霧に包まれた岸は見えて来、ワイカトの流れはその朝の美しい風景とともにあらわれた。
細く伸びて灌木におおわれている長い洲が、二つの流れの合わさるところで錐《きり》状になって終っている。勢いがより激しいワイパ河の水は四〇〇メートルほどのあいだワイカト河の水を押し返したあげく、その中に混じりこんでいる。しかし堂々として静かな大河は怒り狂う小さい川を間もなく圧倒して、おだやかにその流れのなかに小さい川の水を引きこんで太平洋という貯水池まで連れて行くのだ。
蒸気が消えたとき、ワイカトの流れをさかのぼって行く一艘の舟があらわれた。それは長さ二〇メートル、幅一・五メートル、深さ九〇センチの舟で、舳《へさき》はヴェネツィアのゴンドラのように反り上り、全体がカヒカテア杉の幹を刳《えぐ》って作ったものだった。底には乾いた羊歯の褥《しとね》が敷いてあった。前部の八本の橈《かい》で水面を飛ぶように走り、艫《とも》に坐った一人の男が取りはずしのできる平たい櫂で舵を取っている。
その男は背の高い原住民だった。年のころ四五歳あまりで、胸は広く、筋骨たくましく、手足は頑丈だった。中高《なかだか》のその額には幾重も皺《しわ》が寄り、視線は猛々しく、顔つきは無気味で、恐るべき人物のように見えた。
これはマオリ人の酋長、しかも高位の酋長だった。それはその体と額に目の詰まった縞模様を描いているみごとな刺青《いれずみ》でわかった。その鋭く尖った鼻の鼻翼から二つの螺旋《らせん》が出て、両目を囲み、額で一緒になり、豊かな頭髪のなかに消えている。きらきら光る歯の見えるその口と顎とは規則的な模様の下にかくれ、その模様の渦は頑丈な胸にまで巻いているのだった。
ニュージーランド原地民が〈モコ〉というこの刺青は高位のしるしだった。何度かの戦闘に勇ましく加わったもののみがこの名誉の刻印を身につける資格があるのだ。奴隷や賤民はこれを求めることはできない。有名な酋長は、多くの場合その体の上に動物の形を再現している刺青の模様の完璧さ、精密さ、性格によってそれとわかるのである。あるものは非常に苦痛なモコの施術を五回までも受ける。このニュージーランドの国では高名《イリュトル》であればあるほど|絵で飾ら《イリュストレ》れるのだ。
デュモン=デュルヴィルはこの風習について面白い事実を述べている。彼はまさに、ヨーロッパでいくつかの家門が非常に誇りにしているあの紋章のかわりにモコがなっていることを指摘したのだ。しかしこの二つの高貴のしるしのあいだの差異にも彼は注目している。つまり、ヨーロッパ人の紋章は多くの場合最初にそれを獲得することのできた個人の功績の証しにすぎず、その子孫については何も語っていないのに引き替え、ニュージーランド原地民の個人々々が身につけている紋章は、それを身につける権利を得るためには非凡な個人的勇気を示さねばならなかったことを疑う余地がないまでに証明しているというのだ。
のみならずマオリ人の刺青は、人々の尊敬の的とされているのとは別に、明白な効用も持つ。これのために皮膚組織が一層厚くなり、こうして皮膚は不順な気候や絶え間のない蚊の刺し傷に抵抗することができるのである。
舟を指揮している酋長について言えば、その高名さについてはいかなる疑いもあり得なかった。刺青の施術に使う阿呆鳥の鋭い骨は、緻密な深い線で五回もその顔を抉《えぐ》っていた。つまり第五版にもなっているわけで、そのことは彼の尊大な顔つきを見ればわかった。
犬の皮で飾った大きな〈フォルミウム〉の編み物を捲きつけたその体には、最近の戦闘で血のついた腰巻がしめてあった。長く伸びた耳たぶには緑玉の耳飾りが垂れ、首には〈プナム〉の首輪が揺れていたが、このプナムというのはニュージーランド原地民が何か迷信的な観念をまつわらせている神聖な石なのである。かたわらにはイギリス製の小銃と、〈パトゥ・パトゥ〉というエメラルド色で長さ四五センチほどの一種の両刃《もろは》の斧が置いてあった。
彼のそばには身分は劣るが充分武装した獰猛な顔つきの九人の戦士が――そのうち何人かは負傷のあとも生々しかったが――フォルミウムの簑《みの》を纒《まと》って身動き一つせずに控えていた。兇暴な顔つきの三匹の犬が彼らの足もとに横になっている。前部にいる八人の漕ぎ手は酋長の召使か奴隷らしかった。彼らは力漕した。それゆえ舟はワイカト河を――もっともその流れはあまり速くないのだが――相当の速度でさかのぼった。
この長い舟の中央には、手は自由だが足は縛られた一〇人のヨーロッパ人捕虜がたがいにぴったりと身を寄せ合っていた。
それはグレナヴァンとレイディ・ヘレナ、メァリ・グラント、ロバート、パガネル、少佐、ジョン・マングルズ、ステュワード、二人の水夫だった。
前夜この小さな一隊は濃い霧に欺《あざむ》かれて、多数の原住民の部隊のまんなかにやって来て野営したのである。真夜中ごろ旅行者たちは眠っているところを不意討ちされ、捕虜となり、こうして舟で運ばれて行くのだった。これまでのところ彼らは虐待されていなかったが、虐待されたところで抵抗しても無駄だったろう。彼らの武器、彼らの弾薬は蛮人たちの手中にあった。そして彼ら自身の持っていた弾丸がたちまち彼らを射ち倒してしまうかもしれなかったのだ。
原住民たちの使っているいくつかの英語を耳にはさんで、間もなく彼らはこの蛮人たちがイギリス軍部隊に撃退され、打ち破られ大損害を受けてワイカト上流の地域に帰ろうとしているのだということを知った。マオリ人の酋長は頑強な抵抗の後に、部下の主立った戦士たちを第四二聯隊の兵士たちに殺されて、あいかわらず征服者に対して抗争している不屈のウィリアム・トンプスンと合流すべく、河畔の諸部族にあらたな呼集をおこなおうとして帰るのだった。この酋長の名は〈カイ・クム〉といったが、これは土語で〈敵の四肢を食う人間〉という意味の無気味な名だった。彼は勇敢で大胆だったが、しかしその残忍さもその勇気に劣らなかった。彼からはいかなる同情も期待できなかった。彼の名はイギリス軍兵士によく知られており、彼の首にはニュージーランド総督から懸賞金がかけられていた。
この恐ろしい打撃は、ロード・グレナヴァンがあれほど待望していたオークランドの港に着きヨーロッパに帰ろうとしていた矢先に彼を襲ったのである。しかし彼の冷やかな平静な顔を眺めても、彼の不安の激しさを見て取ることはできなかったろう。それはグレナヴァンがこの容易ならぬ状況にあって自分を襲った不幸に負けまいとしていたからである。夫であり指揮者である自分は、妻と仲間たちの力となり手本とならねばならないと彼は感じたのだ。その上、彼は事情が要求すれば一同の救われるために最初に命を投げ出す覚悟だった。深い宗教心を持った彼は、自分の事業の高貴さを思えば神の正義に望みを絶つ気になれなかった。そうして途上にかさなる危険のただなかにあっても、自分をこんな未開な国々にまで引っぱって来たあの義侠心を彼は後悔していなかったのだ。
彼の仲間たちも彼にひけをとらなかった。仲間たちも彼の高邁《こうまい》な考え方に共鳴しており、その平然とした誇らかな顔つきを見れば、今彼らがこれ以上とはない危難にむかっているとは誰も思わなかっただろう。その上、グレナヴァンの勧告によって皆が心を合わせて原住民の前では超然とした態度を取ることに決めていたのだ。これがこの生れつき獰猛な連中に敬意を感じさせる唯一の方法だった。一般に蛮人には、そして特にマオリ人には、決して彼らの失うことのないある尊厳の観念がある。彼らは冷静と勇気で人の尊敬を買うものを尊敬する。グレナヴァンはこのようにふるまうことで自分の仲間たちと自分が無用な虐待を受けることから免れられることを知っていた。
キャンプを出発して以来、どの蛮人とも同じく口数のすくないこの原住民たちは仲間同志でもほとんどしゃべらなかった。けれども彼らの交わすいくつかの言葉でグレナヴァンは英語に彼らがなじんでいることを知った。そこで彼は自分らがこれからどうなるものかを原地民の酋長に訊《き》いてみようと決心した。カイ・クムにむかって彼は不安の片鱗も見せない声で言った。
「酋長、われわれをどこへ連れて行くのだ?」
カイ・クムは返事をせずに冷やかに彼をみつめた。
「われわれをどうするつもりなのだ?」とグレナヴァンはまた言った。
カイ・クムの目は一瞬きらりと光り、それから重々しい声で彼は答えた。
「おまえの仲間がおまえを取りもどそうというなら、交換する。いやだと言ったら殺す」
グレナヴァンはそれ以上訊かなかったが、希望がよみがえって来た。きっとマオリ軍の何人かの隊長がイギリス軍の手中に陥っており、原住民たちは交換によって彼らをとりもどそうとしているのだろう。だからまだ救いの可能性はあり、状況は絶望的ではなかった。
そのあいだにもボートは河の流れをするするとさかのぼっていた。斑気《むらき》な性格のためとかく極端から極端へと走りやすいパガネルもすっかり希望をとりもどした。マオリ人のおかげでイギリス軍の駐屯《ちゅうとん》地まで行く労が省けた、それだけ得をしたと彼は心のなかでつぶやいた。そこで彼は、かくなる上はとすっかり諦《あきら》めて、州の平原や低地を貫流するワイカトの流れを地図の上で辿っていた。レイディ・ヘレナとメァリ・グラントは恐怖をおさえて小声でグレナヴァンと話していたが、どれほど人相を見るにたくみなものでも彼女らの顔の上に心をさいなむ不安を見て取ることはできなかったろう。
ワイカト河はニュージーランドの民族の河である。ドイツ人のライン河に対する、スラヴ人のドナウ河に対するように、マオリ人はこの河を誇りにし大切にしている。三〇〇キロにわたって流れながら、この河はウェリントン州からオークランド州にいたるまでの北島の最も美しい地方をうるおしているのだ。征服されることがあり得ず、そして事実征服されておらずに侵入者に対して挙《こぞ》って蹶起《けっき》した流域の諸部族はすべてこの河の名を名乗っている。
この河の水はまだほとんど外国人の船を受けつけていない。島民の独木舟しか通さないのだ。誰か大胆なトゥーリストがこの神聖な岸のあいだに船を進めたことはほとんどない。ワイカト上流に近づくことは不敬なヨーロッパ人には禁じられているように見えた。
パガネルはニュージーランドのこの大動脈に対する原住民の尊崇をよく知っていた。イギリス人やドイツ人の博物学者がワイパとの合流点より上にはほとんど溯行《そこう》していないことも知っていた。カイ・クムの専制的意志はどこまでこの捕虜を連れて行くのだろうか? 酋長とその戦士たちとのあいだに頻繁に交わされる〈タウポ〉という言葉が彼の注意をひかなかったら、パガネルもそれを予見することはできなかったろう。
彼は地図を調べ、このタウポという名はオークランド州の南端の、島で最も山の多い地方にある、地理学史上で有名なある湖についているのを見た。ワイカト河はこの湖を完全に貫いている。ところで合流点からこの湖まで、河はおよそ一九〇キロにわたってうねっているのだ。
パガネルは蛮人たちにわからぬようにフランス語でジョン・マングルズに話しかけ、舟の速度を見積ってくれと頼んだ。ジョンは時速およそ五キロと見た。
「それなら」と地理学者は答えた。「夜は泊るとすれば、湖まで行くのに四日近くかかるわけだ」
「しかしイギリス軍の駐屯部隊はどうだね、どこに位置している?」とグレナヴァンはきいた。
「そいつはなかなかわかりにくい!」とパガネルは答えた。「それにしても戦火はタラナキ州に及んだに相違ない。そして十中八九軍隊は、叛乱の中心地である、山の向う側の湖のほうに集結しているにちがいない」
「ほんとにそうだといいんですけれど!」とレイディ・ヘレナは言った。
グレナヴァンは若い妻とメァリ・グラントに悲しげな視線を投げた。彼女らは人間の一切の助けを受ける当てもなくこの獰猛な原住民の手中に陥って未開の国へ拉《らっ》し去られて行くのだ。しかし彼はカイ・クムが自分を見守っているのを知り、用心のため婦人の一人が自分の妻であることを相手に悟らせまいとしてさまざまの想念を心のなかに押し殺し、まったく無関心そうに河岸を眺めていた。
舟は合流点から八キロほど上でポタトゥ王の以前の居所の前をそのまま通り過ぎた。ほかには一艘の舟も河の上を走っていなかった。たっぷり間隔を置いて岸に立っているいくつかの小屋は、その荒廃によって最近の戦争の凄まじさを語っていた。流域の平原は見捨てられたように見え、河の畔《ほとり》には人気《ひとけ》がなかった。この陰鬱な荒寥の地に生命を与えているのは水鳥族のいくつかの代表者だけだった。あるときは〈タパルンガ〉という翼が黒く腹が白く嘴が赤い渉禽《しょうきん》類がその長い脚を運んで逃げ出した。あるときは三種のアオサギ、つまり灰色の〈マトゥク〉、間抜けた顔つきのダンカノゴイのような鳥、そして羽毛は白く嘴は黄で足が黒い見事な〈コトゥク〉が、原住民の舟が通るのを静かに眺めていた。傾斜した岸によって水がかなり深いとわかるところでは、マオリ人が〈コタレ〉と呼ぶ翡翠《かわせみ》がニュージーランドの河には無数にうごめいているあの小型の鰻《うなぎ》を狙っていた。藪が河の上にドームを作っているところでは、いやに気位の高いヤツガシラやラレックや青鷭《ポルフィリオン》がさしはじめた日光を浴びて朝の身づくろいをしていた。これらすべての鳥類は、戦争によって人間が追われたり殺されたりしたおかげで得られた閑暇《かんか》をのんびりと楽しんでいた。
この初めのほうの部分ではワイカト河は広々とした平原のなかをゆったりと流れていた。しかし上流になると、やがて丘が、次いで山が河床の穿たれた谷を狭めている。合流点の一六キロ上には、パガネルの地図では左岸にキリキリロア川が記載されていたが、事実それはあった。カイ・クムは全然舟を停めなかった。彼はキャンプの掠奪のときに奪った旅行者たち自身の食べ物を彼らに与えた。戦士と奴隷と彼は、植物学者が〈pteris esculenta〉と呼ぶ食用になる羊歯の根を焼いたものや、〈カパナス〉という両島にふんだんに栽培されている馬鈴薯《ばれいしょ》などの原住民の食べ物ですました。彼らの食事には動物質は全然含まれず、捕虜たちの乾肉は一向に彼らの欲望をそそらぬように見えた。
三時にはいくつかの山が右岸に聳《そび》え出した。これはポカロア山脈《レインジ》で、取り壊した城砦の中堤に似ている。いくつかの鋭い岩稜の上には崩れた〈パー〉がのっかっている。これは難攻不落の位置にマオリ人の技師たちが築いた古い防禦陣地のことである。まるで大きな鷲の巣だった。
太陽が地平線のうしろに没しようとするころ、火山地帯に源を発するワイカト河が流して来た軽石がごろごろしている岸の斜面に舟はぶつかった。そこには木が何本か生えており、恰好な野営地となりそうだった。カイ・クムは捕虜を上陸させた。男たちは手を縛られたが、女たちは自由だった。彼らは皆キャンプのまんなかに坐らされ、キャンプのまわりに火が燃やされて越えることのできない燃える柵となった。
カイ・クムが彼らを交換するつもりだと捕虜たちに告げるまで、グレナヴァンとジョン・マングルズは自由をとりもどす方法について論じ合っていた。舟のなかでは試み得ないことを、野営の時が来たら夜陰に乗じて陸でやってみようと彼らは望んでいたのだ。
しかしグレナヴァンと酋長が話をしてからは、そんなことは避けるほうが賢明だと思えた。辛抱しなければならない。それが最も上策だった。武器を持って襲うことや未知のこの地域を逃走することでは得られそうもない救いの可能性を、交換は提供するのだ。もちろんそのような交渉を遅らせたり妨げたりするようないろいろな事件はおこるかもしれない。しかし一番いいのはやはりその結末を待つことだ。実際のところ、武器を持たない一〇人ばかりの人間が充分武装した三〇人あまりの蛮人に対して何ができよう? のみならずグレナヴァンは、カイ・クムの部族は誰か有能な首脳を失っており、その男をとりもどすことに特に執心しているのだと想像したが、これはまちがっていなかった。
翌日舟は河の流れをまた新たな速度で溯行した。一〇時に舟は、右岸の平原を蛇行して来るポハイホェンナという小川の合流点でちょっと停止した。
ここで一〇人の戦士の乗った一艘の舟がカイ・クムの舟と一緒になった。戦士たちは〈すこやかに来れ〉という意味の〈アイレ・マイ・ラ〉というあの挨拶もろくろく交わさず、二艘の舟は舳先をならべて進んだ。今度の連中は最近イギリス軍とたたかって来た。それは彼らのずたずたの衣服、血まみれの武器、その|ぼろ《ヽヽ》の下でなお血を流している傷を見ればわかった。彼らは陰鬱で無口だった。すべての未開民族に固有のあの無関心さで彼らはヨーロッパ人たちに全然注意を払わなかった。
正午にマウンガタトリの峰々が西のほうに輪郭を描き出した。ワイカトの谷は狭まりはじめた。そこでは河は深い峡《かい》となって奔流の激しさでたぎりたっていた。しかし屈強な蛮人たちの力は橈のリズムを取る歌声に励まされ規制されて、泡立つ水の上に舟を押し上げて行った。急流は乗り切られ、ワイカト河は一キロ半ごとに岸の角で勢いを削がれるゆっくりとした流れにかえった。
夕方カイ・クムは、狭い岸の上にその支脈が垂直に落ちている山の裾に上陸した。それぞれの舟から降りた二〇人ばかりの原住民はそこで夜を過ごす準備をした。二つの焚火が木の下で燃えていた。カイ・クムと同じ地位にある一人の酋長がしずしずと進み出て、その鼻をカイ・クムの鼻にこすりつけながら心からの〈チョンギ〉の挨拶をした。捕虜たちはキャンプの中央に置かれ、見張りは厳重をきわめた。
翌朝この長いワイカト溯行は再開された。ほかにも何艘かの舟が小さな支流からやって来た。あきらかに最近の蜂起から生き逃れて来た六〇人ばかりの戦士がこうして一緒になったが、イギリス軍の銃火に多かれ少かれ痛めつけられて来た彼らは山岳地方へ帰ろうとするのだった。時々歌声が列をなして進む舟から起こった。一人の原住民は神秘的な〈ピヘ〉の愛国的な歌をうたいはじめた。
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パパ・ラ・ティ・ワティ・ティディ
イ・ドゥンガ・ネイ……
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これはマオリ人を独立戦争にみちびく民族歌である。朗々としてよく響く歌い手の声は山々の谺《こだま》を呼び、一節ごとに原住民たちは太鼓のように響く胸を叩きながらその戦闘的な歌詞をふたたび合唱する。それからまた橈にあらたな力が加わり、舟は流れに逆らって水面を疾走する。
ある奇妙な現象がこの日のあいだに起こってこの河の舟行の記念となった。四時ころ舟は酋長のしっかりした手で導かれて、ためらいもせず速度をゆるめもせずに狭い谷のなかに突っこんで行った。事故を起こしやすい無数の小島に波は激しく当って砕けた。ワイカト河のこの異様な水路では今までにもまして顛覆するわけには行かなかった。なぜならその岸は全然人をよせつけなかったからだ。誰であれこの岸の沸騰する泥土に足を踏みこんだものは命を落すこと必定だったろう。
事実河は、ずっと昔からトゥーリストに知られていたあの温泉のあいだを流れていたのだ。酸化鉄が岸の泥をあざやかな赤い色に染めていた。その泥のなかに足を入れたら、二メートルばかりの固い凝灰岩にすらぶつからないだろう。空気はひどく強烈な硫黄《いおう》の臭いで満たされていた。原住民たちは平気だったが、捕虜たちは岩の割れ目から発散する毒気や地中のガスの圧力ではじけるあぶくでひどく気分が悪くなった。しかし嚊覚のほうはこの発散物になかなか慣れなくても、目はこの壮大な眺めに見とれずにはいられなかった。
舟は白い湯気の厚い雲のなかにはいって行った。その目のくらむような渦巻は河の上にドームをなして積みかさなった。両岸には百ばかりの間歇泉《かんけつせん》が、あるいは大量の湯気を吐き出し、あるいは湯の柱を噴出させながら、人間の手でしつらえられた泉水のようにさまざまの効果をあげている。まるで舞台装置家でもいてこの涌泉《ようせん》の断続を思うままに統制しているかのようだった。湯と湯気は空中で混じり合って日光のなかで虹を描いた。
このあたりではワイカト河は、地下の火のために絶えず沸き立っている安定のない河床の上を流れている。そこから程近い東のロトルア湖のほうでは、何人かの大胆な旅行家がほんのちょっと見ただけのロトマハナ河とテタラタ河の温泉や湯気の立つ滝が轟《とどろ》いている。この地方にはそこらじゅうに間歇泉や火口や硫気孔があいているのだ。ニュージーランドにわずか二つしかない活火山トンガリロとワカリという不充分な弁だけでは排出しきれないありあまったガスは、ここから出るのである。
三キロのあいだ原住民の舟は、水面に動いて行く渦巻のなかに包みこまれながらこの蒸気のアーチのなかを進んだ。それから硫気の煙は消え、流れの速さのために生じた澄んだ空気が喘《あえ》ぐ胸を冷やしてくれた。涌泉《ようせん》地帯は終ったのだ。
日の暮れるまでにはなお二つの早瀬を蛮人たちの逞しい橈の力で溯《さかのぼ》った。ヒパパトゥアとタマテアの瀬である。夕刻カイ・クムはワイパとワイカトの合流点から一六〇キロのところで野営した。東のほうへ彎曲した河は、ここで泉水の巨大な筒口のように南にむかってタウポ湖に落ちるのだった。
あくる日ジャック・パガネルは地図を見ながら、空中九〇〇メートルにそばだっているタウバラ山を右岸に認めた。
正午に舟の列は河幅のひろがったところを通ってタウポ湖に出、原住民たちはある小屋のてっぺんにひるがえっているぼろきれに敬礼した。それは国旗なのだった。
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十一 タウポ湖
長さ四〇キロ、幅三〇キロのこの底知れぬ深さの窪地は、歴史のはじまるよりもずっと前に島の中心部の粗面岩《そめんがん》の空洞の陥没によってできた。周囲の山々からなだれこんだ水はこの巨大な凹《くぼ》みを満たした。窪地は湖となったが、あいかわらず途方もない深さで、測鉛《そくえん》はいまだなおその深さを測ることができないでいる。
海抜四〇〇メートルの位置にあって高さ八〇〇メートルの山々に円くとりまかれたこの奇妙なタウポ湖とはこのようなものなのである。西側には切り立った大きな岩、北には小さな森を頂いた遠いいくつかの峰々、東には灌木《かんぼく》の茂みの下にかがやく軽石で飾られた道路の走る広い浜、南には前景の森林のむこうの円錐形の火山。それらの火山は、騒然たる嵐がそこでおこれば大洋の大暴風にも劣らない、この広大な湖面をいかめしくとりまいている。
このあたり一帯が地下の炎の上にかかった巨大な釜のように煮えたぎっているのだ。土地は地心の火に炙《あぶ》られて震える。熱い湯気が各所からにじみ出る。地表の皮は焼きすぎたケーキのように猛烈にひびわれる。そしておそらくこの台地そのものも、とじこめられた蒸気が二〇キロ先のトンガリロ山の火口に疏《は》け口を見出さなかったとすれば、灼熱《しゃくねつ》した炉のなかに沈みこんでしまったろう。
北岸から見るとこの火山は火を噴く小丘の上に煙と炎を頭にまつわらせてあらわれた。トンガリロはかなり複雑な山系に属しているように思われた。そのうしろには平原に孤立したルアパフ山が二七〇〇メートルの空にその雲に包まれた頭をそばだてている。いかなる人間もこの人をよせつけぬ円錐形の頂に足跡をしるしてはいなかった。二〇年間のうちに三度もビッドウィル氏とダイスン氏が、また最近はフォン・ホホシュテッター氏が、近づきやすいトンガリロの峰々を測定しているのにひきかえて、ルアパフの火口の深さはいまだかつて測られていなかったのだ。
これらの火山はそれぞれその伝説を持っている。そしてこんな場合でなければパガネルはかならずやそれらを仲間たちに話して聞かせたはずだ。当時隣同志で仲のよかったトンガリロとタラナキのあいだに女をめぐって起こった争いのことを彼は話したことであろう。すべての火山の例に洩れず頭のほてっているトンガリロは、激昂してタラナキをなぐるにいたった。なぐられ辱《はずかし》められたタラナキはホァンガンニの谷を通って逃げ、その途中で二つの山を落して海岸にたどりつき、今はそこにエグモント山という名でひとりさびしく立っている。
しかしパガネルには今はほとんど物語をするような気持はなく、彼の友人たちもそれを聞くような気分ではなかった。彼らはこれ以上とはなく意地の悪い運命の手でこうして連れて来られたタウポ湖の北東の岸を黙然として見まわしていた。グレイス牧師が西岸のプカワに設けた伝道会はもはやなかった。牧師は戦争によって蜂起の中心地から遠いところへ追いやられた。捕虜たちは孤立無援で、復讐を熱望する蛮人の掌中にゆだねられていたのだ、しかもまさにキリスト教がついに滲透しなかった島のこの未開地域のなかで。
カイ・クムはワイカト河から離れて、河の開口部をなす小さな湾を横切り、湖の東側の砂浜に舟をつけた。そこは六〇〇メートルほどの高さの大きな隆起をなすマンガ山のゆるやかに起伏する前山の裾にある。そこにはニュージーランドの貴重な亜麻である〈フォルミウム〉の畑がひろがっていた。原住民はこれを〈ハラケケ〉といっている。この有用な植物には何一つ捨てるところがないのだ。その花は一種のすばらしい蜜を提供する。茎は蝋や糊の代用になるゴム質のものを産する。葉はさらに役立って、いろいろの加工ができる。生のままでは紙として使え、乾かせばすばらしい火口《ほくち》となり、切って繩や太綱や網に変えられ、繊維をほぐして皮を剥《む》けば寝具や簑《みの》や茣蓙《ござ》や腰巻となり、それを赤あるいは黒に染めればマオリ人の一番の伊達男の身を飾る。
それにこの貴重なフォルミウムは海辺であれ河沿いであれ湖の岸であれ両島のいたるところにある。ここでは野性的なその枝葉の茂みは畑を埋めていた。赤褐色でリュウゼツランのそれに似た花は、いたるところで刀剣を交叉した装飾に似たその長い葉の錯綜した茂みから抜け出して咲いていた。フォルミウムの畑によくいるミツスイいう優雅な小鳥が無数の群れをなして飛び、花の蜜汁を味わい楽しんでいた。
湖水では鼠色と緑をまじえた黒い羽毛の、すぐ飼い馴らせる鴨の群れが水をはねちらかしている。
そこから四〇〇メートルばかりの山の急斜面に、難攻不落の地点に配置されるマオリ人の砦〈パー〉が見えていた。足も手も自由にされて一人ずつ舟からおろされた捕虜は戦士たちに守られてこの砦へ送られた。砦に通ずる小径はフォルミウムの畑と、常緑の花と赤い漿果《しょうか》を持つ〈カイカテア〉、その聚繖花《しゅうさんか》は棕櫚椰子のかわりに充分食べられる原住民が〈ティ〉と呼ぶ〈竜血樹《ドラセナ》〉、そして布を黒く染めるのに使われる〈フイウ〉などの美しい木立ちを横切っていた。金属のような沢《つや》を持つ大型の鳩、灰色のグラウコピス雀蛾、そして赤みがかった肉垂れを持った無数の椋鳥《むくどり》が、原住民が近づくにつれて飛び立った。
かなり長い曲折した道をたどってグレナヴァンとレイディ・ヘレナ、メァリ・グラント、および一行はパーの内部にはいった。
この砦は外側に高さ四・五メートルの頑丈な柵をめぐらして守られていた。第二段には杭《くい》がならび、次いで銃眼を穿《うが》った柳材の塀があって、第二の区域、すなわちマオリ軍の築城工事と四〇ばかりの小屋が立っているパーのベースを閉ざしている。
ここに着いたとき、捕虜たちは二番目の囲いの杭にのっている首を見て身の毛のよだつ思いがした。レイディ・ヘレナとメァリ・グラントは恐怖よりも嫌悪をもって目をそむけた。これらの首は戦闘で殪《たお》れた敵の酋長たちのもので、彼らの体《からだ》は勝利者の食物となっていたのだ。
地理学者はその眼を奪われたうつろな眼窩《がんか》を見てそれと知った。
事実酋長たちの目はむさぼり食われてしまったのだ。原地民のやりかたで脳髄を抜き、表皮をすっかり除かれ、鼻は小さな板で止められ、鼻孔にはフォルミウムを詰め、口と瞼を縫い合わされて下拵《したごしら》えされたこの首は、炉に入れられ、三〇時間煙で燻《いぶ》される。このように処理されると首はいつまでも腐りもせず皺もよらずに保存され、勝利の記念物となるのだ。
しばしばマオリ人は彼ら自身の酋長の首も保存する。ただしこの場合は眼は眼窩のなかに残って睨《にら》んでいる。ニュージーランド原地民はこの遺骸を誇らかに人に見せる。彼らはこれを若い戦士に示して崇拝させ、厳粛な儀式をもってこれに崇敬を捧げるのだ。
それほど大きくないいくつかの小屋のあいだで、カイ・クムの小屋はパーの奥の、ヨーロッパ人ならば練兵場とでも呼びそうな広い開けた場所を前にして立っていた。この小屋は杭をならべて、隙間をからみあわせた木の枝でおおい、内部はフォルミウムの蓆《むしろ》を張ったものだった。奥行六メートルに間口四・五メートル、高さ三メートル、これがカイ・クムの八一立方メートルの住居となっていた。ニュージーランド人の酋長が住むにはこれ以上のものは要らない。
ただ一つの入口が小屋のなかへ通じている。厚い植物質の編物でできた自在扉がついている。上には屋根がローマ時代の雨水受けのような具合に伸びている。垂木《たるき》のはしに刻んだいくつかの像が小屋を飾り、そして〈ホァレプニ〉という正面玄関は、葉模様だの象徴的な図形だの怪物だのくねくねした唐草模様だの、原住民の装飾師の鑿《のみ》の下で生れた珍らしい美術の寄せ集めを見せて訪問者たちを感嘆させるのだった。
小屋のなかでは、三和土《たたき》の床は地面から一五センチほど高くなっている。いくつかの芦《あし》の簀子《すのこ》と、長いしなやかな〈ティファ〉の葉で編んだ蓆《むしろ》でおおわれた乾かした羊歯の蒲団がベッドとなっている。中央の石で固めた穴が炉になり、屋根にもう一つ穴があいて煙突のかわりをする。煙は充分濃くなってからやっとこの出口を利用する気になるのだが、住居の壁にこれ以上とはなく美しい黒い色をした被膜を残して行くことを忘れない。
小屋のかたわらには、フォルミウムや甘藷《かんしょ》やタロ芋や食用羊歯の収穫物と、熱した石でいろいろの食物を焼くのに使う炉をおさめたいくつかの倉が立っている。そのむこうの小さな囲いのなかには豚や山羊が入れられているが、これらの動物はクック船長がこの土地に馴化《じゅんか》させた有用動物のめったに見られない子孫なのだ。犬は乏しい餌をあさってそこらを走りまわっている。マオリ人の日常の食べ物となる獣としてはこの犬たちはあまり大事にされていない。
グレナヴァンとその仲間たちは一瞥でこの全体を見て取った。彼らは一軒の空いた小屋のそばで酋長が御決定を下し遊ばすのを待ったが、老婆たちの一群の罵りにさらされずにはいなかった。この因業婆《いんごうばばあ》たちの一隊は拳を振りまわしながら彼らをとりまき、わめき、怒号した。彼女らの厚い唇から洩れるいくつかの英語で、彼女らが今すぐ復讐することを要求しているのがはっきりとわかった。
この怒号と脅迫のただなかでレイディ・ヘレナは一見おちついているように見えたが、実は心のうちにあるはずのない平静さをうわべにだけ示していたのである。この勇敢な女性はロード・グレナヴァンの冷静さをいささかも乱すまいとして、雄々しく努力して自制していたのだ。哀れなメァリ・グラントのほうは気が遠くなりそうだったが、ジョン・マングルズは彼女を守るためとあれば死も辞さぬ覚悟で彼女を支えていた。仲間たちはそれぞれにこの罵言の奔流に堪えていた、少佐のように無頓着に、あるいはパガネルのように次第に苛立ちながら。
グレナヴァンはこのやかましい老婆たちの攻撃にレイディ・ヘレナをさらすまいとして、まっすぐカイ・クムのほうへ歩みより、その醜悪な群れを指して言った。
「こいつらを追いはらってくれ」
マオリ人の酋長は返事をせずにこの捕虜をじっとみつめた。それから彼は身振りでわめきさわぐ群れを沈黙させた。グレナヴァンは感謝のしるしに頭を下げ、ゆっくりと自分の仲間たちのまんなかの元の位置にもどった。
このとき老人や壮年や青年など一〇〇人ばかりのニュージーランド原地民がパーに集められた。あるものは静かに、しかし陰鬱にカイ・クムの命令を待ちながら、またあるものは痛切な悲しみに駆られて悶《もだ》えながら。この連中は最近の戦闘で殪れた近親や友人を嘆いているのだった。
ウィリアム・トンプスンの呼びかけに応じて立ち上ったすべての酋長のうちでカイ・クム一人がこの湖の地方に帰って来たのだ。そして彼がはじめてワイカト下流の平原で打ち破られた民族叛乱軍の敗北を自分の部族に告げたのである。彼の麾下《きか》にあって郷土防衛に参じた二〇〇人の戦士のうち一五〇人は帰らなかった。数人は侵略軍の捕虜になっているにしても、戦場に横たわってふたたび祖先の地に帰ることのないものはどれほどの数に上るだろうか?
カイ・クムの帰還したとき部族を襲った深い悲嘆の理由はそこにあった。今度の敗北のことがそれまでまだ全然つたわっていなかったところへ、急にこの悲しい知らせが降って来たのだ。
蛮人にあっては精神の苦痛は常に肉体の動きとなってあらわれる。それゆえ死んだ戦士たちの近親や友人、特に女たちは、鋭い貝殻で自分の顔や肩を引き裂いた。血はほとばしって涙とまじった。深い創《きず》は深い絶望をあらわした。血みどろになり取り乱したニュージーランド原地民の女たちは見るも恐ろしかった。
もう一つの、原住民の目には非常に重大な理由で、彼らの絶望は募った。彼らの悼《いた》んで泣く近親なり友だちなりがもはやこの世にいないだけではなく、その遺骨が家族の墓地に欠けることになるのだ。ところでこの遺骸の所有ということは、マオリ人の宗教では来世の運命にとって不可欠のこととみなされていた。それは滅び去る肉ではなく、丹念に集められ、清められ、拭き、磨き、それのみかニスまで塗られて、最後に〈ウドゥパ〉すなわち〈死者の家〉におさめられた骨のことである。これらの墓は故人の刺青をきわめて忠実に再現した木像で飾られる。しかし今度は墓は空《から》のままで、葬礼はおこなわれず、野犬の歯を逃れた骨は葬られもせずに戦場で白くなって行くことだろう。
そこで苦痛の表現はますます激しくなった。女たちの脅迫につづいて男たちのヨーロッパ人に対する呪詛《じゅそ》がはじまった。罵声は湧き起こり、身振りは激しくなった。叫びにつづいて暴行がはじまりそうな気配だった。
カイ・クムは部族のなかの熱狂的な連中が出過ぎたことをはじめるのをおそれて、パーの他端の、切り立った台地の上にある神聖な場所へ捕虜を移させた。この小屋は、その上に三〇メートルばかりの高さにそばだち、この砦のほうでかなり険しい斜面となって終っている岩塊を背にしていた。この〈ワレアトゥア〉つまり神聖な家で、聖職者すなわちアヴィキたちは、父と子と鳥つまり聖霊という三位一体の神をニュージーランド原地民に説いたのである。小屋は広く、きちんと閉ざされており、マウイ・ランガ・ランギがその司祭たちの口を通して食べる極上の神聖な食べ物をしまっていた。
ここで捕虜たちは一応原住民の憤激から守られてフォルミウムの蓆の上に横になった。レイディ・ヘレナは疲労困憊し精神力も挫《くじ》かれて夫の腕のなかにくずおれた。
グレナヴァンは彼女を胸に抱きしめながらくりかえした。
「勇気を出すのだ、大事なヘレナ、天はわれわれを見捨てはしないだろう!」
ロバートは閉じこめられるや否やウィルスンの肩に上り、屋根と壁のあいだの、呪物をつなげたものがぶらさがっている隙間に頭を差し入れることに成功した。そこからはカイ・クムの小屋にいたるまでパーの全景が見渡せた。
「奴らは酋長のまわりに集まっています……」と彼は低い声で言った。「腕を振っている……喚き声をあげている……カイ・クムはしゃべろうとしています……」
少年は数分沈黙したが、それからまた言った。
「カイ・クムはしゃべっています……蛮人たちは静かになった……酋長の話を聞いています……」
「あきらかにあの酋長にとってはわれわれを守るのが利益なんだ」と少佐は言った。「あいつは自分の捕虜を部族の幹部と交換したいんだ! だが戦士たちはそれに同意するだろうか?」
「ええ……奴らは酋長の言葉に耳を傾けています……」とロバートはまた言った。「奴らは散って行く……。自分の小屋に帰るもの……砦から出て行くもの……」
「それはほんとかい?」と少佐は叫んだ。
「ええ、マクナブズさん」とロバートは答えた。「カイ・クムだけが彼と一緒に舟に乗って来た戦士たちとともに残っている……ああ、戦士の一人がこの小屋のほうへ来ます……」
「降りろ、ロバート」とグレナヴァンは言った。
立ち上っていたレイディ・ヘレナはこのとき夫の腕をつかんだ。
「エドワード」と彼女はしっかりした声で言った。「メァリ・グラントも私も生きてあの蛮人たちの手に落ちるわけにはまいりません!」
そう言ってしまうと彼女はグレナヴァンに装填した拳銃をさしだした。
「武器を!」とグレナヴァンは叫んだ。その目に一筋の光が走った。
「そうよ、マオリ人は女に対しては身体検査をしませんでした! でもこの武器は私たちに対して使うのよ、エドワード、彼らに対してではなく!……」
「グレナヴァン」とマクナブズがあわただしく言った。「その拳銃をかくせ! まだその時ではない!」
拳銃はロードの服のなかにかくされた。小屋の入口を閉ざしていた蓆がかかげられた。一人の原住民があらわれた。
彼は捕虜たちについて来いと合図した。グレナヴァンとその一行はかたまってパーを横切り、カイ・クムの前で立ちどまった。
この酋長のまわりには部族の主立った戦士たちが集まっていた。彼らのなかには、ワイカトにポハイホェンナ河が合流するところでカイ・クムと一緒になった舟にいたあのマオリ人の顔も見えた。それは獰猛で残忍な顔つきの、逞しい四〇がらみの男だった。この男はカラ・テテという名だった。ニュージーランド土語で〈癇癪《かんしゃく》持ち〉という意味である。カイ・クムはある程度この男を立てるようにふるまったが、その刺青のみごとさを見ればカラ・テテが部族のなかで高い地位を占めていることがわかった。けれども目の利く人ならばこの二人の酋長のあいだに競争があることを読み取ったろう。カラ・テテの勢力をカイ・クムが嫉視《しっし》しているのを少佐は見て取った。彼らは二人でこの大きなワイカト部族を統率していた。しかもその権力はひとしかった。だからこの会談のあいだ、カイ・クムの口は笑みをうかべていてもその目は深い敵意をあらわしていた。
カイ・クムはグレナヴァンに対して訊問をはじめた。
「おまえはイギリス人か?」と彼はきいた。
「そうだ」とロードは躊躇なく答えた。イギリス人と言ったほうが交換はより容易になるはずだったからだ。
「そしておまえの仲間は?」
「仲間も私と同じくイギリス人だ。われわれは旅行者だ、難船したのだ。しかしそちらがこのことをはっきりさせたいというならば言うが、われわれは戦争には加わっていない」
「そんなことは問題じゃない!」とカラ・テテは乱暴に答えた。「イギリス人はすべてわれわれの敵だ。おまえの仲間はわれわれの島を侵略した! 奴らはわれわれの村を焼きはらった!」
「それは悪い!」とグレナヴァンは厳粛な声で言った。「私がこう言うのは、事実そう思うからだ、自分がおまえの手中にあるからではない」
「聞け」とカイ・クムがまた言った。「ヌイ・アトゥア〔ニュージーランド原住民の神の名〕の大祭司であるトホンガがおまえの兄弟たちにつかまっている。パケタ(白人)の捕虜になっているのだ。われわれの神は彼の命を贖《あがな》うことをわれわれに命じた。おれとしてはおまえの心臓を抉り出してやりたい、おまえやおまえの仲間の首をこの柵の杭に永久にぶらさげさせてやりたい! しかしヌイ・アトゥアが託宣したのだ」
このように言いながら、それまで自制を保って来たカイ・クムは憤怒にわななき、その表情は狂暴な昂奮を帯びた。
しばらくして彼は前より冷静につづけた。
「イギリス人はおまえとトホンガを交換すると思うか?」
グレナヴァンはすぐには答え兼ね、マオリ人の酋長の様子を注意深く見守った。
「それは私にはわからない」としばしの沈黙の後に彼は言った。
「言え」とカイ・クムはつづけた。「おまえの命にはトホンガの命と同じ値打ちがあるか?」
「ない。私は自分の国では酋長でも祭司でもないから」
パガネルはこの返事に呆《あき》れかえって、深い驚きをもってグレナヴァンをみつめた。
カイ・クムも同様に意外に思ったらしかった。
「それではおまえは疑わしいと思うのか?」
「私にはわからないのだ」とグレナヴァンはくりかえした。
「おまえの仲間はこちらのトホンガと交換におまえを受け取ろうとはしないのか?」
「私一人か? 駄目だ」とグレナヴァンは言った。「われわれ全員ならばもしかすると」
「マオリ人のところでは一対一でするのだが」
「まずこの御婦人方とおまえの祭司を交換しようと申し出るがいい」と、レイディ・ヘレナとメァリ・グラントを指してグレナヴァンは言った。
レイディ・ヘレナは夫のほうへ飛び出そうとした。少佐が彼女を引き止めた。
「この二人の御婦人は」と、レイディ・ヘレナとメァリ・グラントのほうへ鄭重《ていちょう》にうやうやしく頭を下げながらグレナヴァンはつづけた。「国では高い身分を占めていらっしゃるのだ」
戦士は冷やかに捕虜を睨《にら》んだ。意地の悪い微笑が彼の唇をかすめた。が、ほとんど同時にそれを押し殺して、ようやく抑制した声で彼は答えた。
「それではおまえは偽りの言葉でカイ・クムを欺けると思うのか、忌《いま》わしいヨーロッパ人め! カイ・クムの目は人の心を読み取れないと思っているのか?」
そしてレイディ・ヘレナを指して、
「これはおまえの妻だ!」と彼は言った。
「いや、おれのだ!」とカラ・テテは叫んだ。
そうして捕虜たちを押しのけるとこの酋長の手はレイディ・ヘレナの肩に伸び、彼女はこの接触に顔色を変えた。
「エドワード!」と我を忘れて不幸な女性は叫んだ。
グレナヴァンは一言もいわずに腕を上げた。銃声が響いた。カラ・テテは倒れて死んだ。
この銃声に原住民は続々と小屋から出て来た。パーは一瞬のうちに一杯になった。一〇〇本もの腕が不幸な捕虜たちの上に振り上げられた。グレナヴァンの拳銃はその手からもぎとられていた。
カイ・クムはグレナヴァンに異様な視線を投げた。それから片手で殺害者の体をかばい、もう一方の手で彼はイギリス人たちに飛びかかろうとする群衆を制した。
ようやく彼の声は喧騒を圧した。
「タブー! タブー!」と彼は叫んだのだ。
この言葉とともに群衆はグレナヴァンとその仲間の前でぴたりと止まった。彼らは超自然の力によって差し当り守られていたのだ。
しばらく後に彼らは、彼らの牢獄となったワレ・アトゥアにもどされた。しかしロバート・グラントとジャック・パガネルはもはや彼らとともにはいなかった。
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十二 マオリ人酋長の葬式
カイ・クムはニュージーランドではかなりよく見られる例に従って、部族の長の資格とともにアリキの資格も持っていた。彼は祭司の位にあり、祭司として彼は迷信的なタブーの保護を人間にも物にも与えることができたのである。
ポリネシア人種の諸民族に共通するタブーは、タブーとされた人もしくは物とのいかなる関係をも、またその使用をも禁ずるという即時発効の効果を持つ。マオリ人の宗教によれば、タブーと宣せられたものに冒涜《ぼうとく》の手をつけたものは誰であれ怒った神によって死をもって罰せられるであろう。のみならず、神が自分に対する侮辱に報復を加えることを遅らせる場合には、祭司たちがかならずその報復を促進するだろう。
タブーは個人生活の普通な状況から生ずるものでなければ、酋長たちによって政治的目的のために使われる。原住民は髪を刈ったときとか、刺青《いれずみ》の施術を受けたとか、独木舟を作ったとか、家を建てたとか、死病にとりつかれたとか、死んだとかのいろいろな場合に、数日間タブーとされる。思いがけない消費のために川の魚が減りそうな気配があるとか、甘藷畑が芋のできぬうちに駄目になってしまいそうだとする。するとこれらのものは保護的かつ経済的なタブーを受けるのだ。ある酋長がうるさい連中を自分の家から遠ざけようと思う、彼はこの家をタブーにする。外国の船との取引の利益を独占しようとする、この船をもタブーとする。気に食わないヨーロッパ人商人を締め出そうとする、またしてもその商人をタブーとする。酋長の禁忌《きんき》はこうなると昔の国王の〈拒否権《ヴェト》〉に似ている。
ある物がタブーとされているときは、何人も罰を受けることなしにそれに触れることはできない。ある原住民がこの禁忌を宣せられたとなると、ある種の食べ物が一定期間彼には禁じられる。この厳格な食餌《しょくじ》規定を解除されると、この人間が豊かならば奴隷どもが手伝って、彼が自分の手で触れてはならぬ料理を喉に入れてやる。その人間が貧しければ彼は口で食べ物を摂《と》らざるを得ず、タブーは彼を動物にしてしまうのだ。
要するに、結論的に言えばこの奇妙な習慣はニュージーランド原地民の最も些細な行動にいたるまでをも支配し規定しているのだ。それは社会生活への不断の神の干渉である。それは法の力を有し、そして原住民の法典、一切の論議を受けつけぬこの法典は、タブーの頻繁な適用という一事に尽きてしまうのだ。
ワレ・アトゥアに閉じこめられた捕虜たちについては、専制的なタブーが今部族の憤怒から彼らを救い出したのである。原住民のうちの何人か、カイ・クムの友や味方は、彼らの首領の声にはっとたちどまり、捕虜たちを守ったのであった。
グレナヴァンはしかし自分に与えられるべき運命について空しい希望を抱かなかった。彼の死のみが酋長の殺害を贖《あがな》えるのだった。ところで、死は未開民族によっては長い苦患《くげん》の終りにすぎない。グレナヴァンはそれゆえ、自分に武器を取らせた正当な怒りに対する残酷な報復を受けようと覚悟した。けれども彼はカイ・クムの怒りは自分だけにしか向けられないものと期待した。
何という夜を彼とその仲間たちは過ごしたことであろう! 誰が彼らの不安を描き彼らの苦悩を推し量り得よう! かわいそうなロバート、善良なパガネルは姿をあらわさなかった。しかし彼らの運命をどうして疑い得よう? 彼らは原住民の報復の最初の犠牲者ではなかったか。容易なことでは絶望しないマクナブズの心にすら一切の希望は失われた。ジョン・マングルズは弟と別れたメァリ・グラントの暗憺《あんたん》とした絶望の前に気が狂いそうになるのを感じた。グレナヴァンは責め苛《さいな》まれたり奴隷とされたりするよりもいっそ彼の手で死にたいというレイディ・ヘレナのあの恐ろしい要求を思っていた! そんな惨《むご》たらしい勇気を彼は持っているだろうか?
「そしてメァリもだ、彼女を殺すどんな権利が自分にあるか?」とジョンも考えた。彼の心臓は張り裂けるようだった。
二月一三日の朝が来た。原住民とタブーで守られた囚人たちとのあいだにはいかなる交渉もおこなわれなかった。小屋にはいくらかの食糧があったが、不幸な人々はほとんどそれに手をつけなかった。飢えは悲しみの前で消えてしまった。その日は何の変化をも希望をももたらさずに過ぎた。おそらく故人の葬式と刑とは同時にはじまるのであろう。
しかしグレナヴァンは交換などという考えはカイ・クムの念頭からすっかり去っているに相違ないと認めていたのに対して、少佐はその点についてはなお一縷《いちる》の希望を抱きつづけた。
「わかるもんか」と、カラ・テテの死を見てあの酋長がどんな態度を取ったかをグレナヴァンに指摘して彼は言った。「カイ・クムが心中で君のことをありがたく思っているかもしれないじゃないか」
しかしマクナブズの言葉にもかかわらずグレナヴァンはもはや希望に縋《すが》ろうとしなかった。その翌日もまた刑の準備がすまぬうちに過ぎた。この遅延の理由は以下のとおりである。
マオリ人は霊魂は死後三日間なお故人の体内に宿ると信じており、二四時間の三倍のあいだ亡骸《なきがら》は葬られないでいるのである。この死の一時停止の慣習はきわめて厳重に守られた。二月一五日まではパーにはずっと人影がなかった。ジョン・マングルズはウィルスンの肩に上って外側の砦の様子をしばしば観察した。原住民は一人もそこにあらわれなかった。ただ常時警戒している見張りだけがワレ・アトゥアの戸口で交代していた。
しかし三日目になるとそこらじゅうの小屋の扉は開いた。男女老若の蛮人たち、数百人のマオリ人たちが黙々として静かにパーに集まった。
カイ・クムも自分の小屋から出て、部族の首脳に囲まれて砦の中央の数十センチ高くなった地面に陣取った。原住民の群れは数メートルさがって半円を作った。一同は完全な沈黙を守っていた。
カイ・クムの合図で一人の戦士がワレ・アトゥアのほうに来た。
「忘れないでね」とレイディ・ヘレナは夫に言った。
グレナヴァンは妻を胸に抱きしめた。このときメァリ・グラントはジョン・マングルズに近づいて言った。
「ロード・グレナヴァンと奥さまは、女が汚辱の生を逃れるために夫の手にかかって死んでもいいとすれば、娘もまた汚辱の生を免れるためにいいなずけの手で死んでもいいとお考えになるでしょう。ジョン、この最後の土壇場に来て私はあなたにそれを言うことができるのです。私はずっと前からあなたの心に秘められたあなたのいいなずけではありませんか? レイディ・ヘレナがロード・グレナヴァンを当てになさるように、ジョン、私もあなたを当てにしていいかしら?」
「メァリ!」と若い船長は気もそぞろになって叫んだ。「ああ、愛するメァリ……」
彼は最後まで言うことができなかった。蓆は上げられ、捕虜たちはカイ・クムのほうへ引き立てられた。二人の婦人はその運命をもはや諦めていた。男たちは不安をかくして平静を保っていたが、これは超人的な気力を証明していた。
彼らは原地民の酋長の前まで来た。酋長はただちに裁定を下そうとした。
「おまえはカラ・テテを殺したな?」と彼はグレナヴァンに言った。
「殺した」とロードは答えた。
「明日の日の出とともにおまえは死ぬ」
「私一人か?」とグレナヴァンはきいた。彼の心臓は激しく打っていた。
「ああ、われわれのトホンガの命がおまえたちの命より貴重ではなかったとしたら!」とカイ・クムは叫んだ。彼の目は激しい無念さの気持をあらわしていた。
このとき原住民のあいだに動揺がおこった。グレナヴァンはすばやくあたりを見まわした。間もなく群衆は道を開き、汗まみれの疲れ切った一人の戦士があらわれた。
カイ・クムはその男を認めるや否や、あきらかに捕虜たちに理解させようという意図をもって英語で言った。
「おまえはパケタの陣地から来たのだな?」
「そうです」とマオリ人は答えた。
「捕われているトホンガを見たか?」
「見ました」
「生きているか?」
「死んだ! イギリス軍が銃殺したのです!」
グレナヴァンとその仲間の運命は決した。
「みんなだ」とカイ・クムは叫んだ。「おまえらはみんな明日の夜明けに死ぬ!」
こうして共同の罰がこの不運な人々のすべてに無差別に下されたのだ。レイディ・ヘレナとメァリ・グラントは崇高な感謝の眼差しで天を仰いだ。
捕虜たちはワレ・アトゥアにはもどされなかった。彼らはこの一日、酋長の葬儀とそれにともなう血なまぐさい儀式に立ち会わねばならなかった。原住民の一隊が彼らを巨大なクーディの根もとに導いた。そこでも彼らの見張りは全然彼らから目を離さずにそばにとどまっていた。マオリ部族の残りのものは皆公けの悲しみに心を奪われて彼らのことを忘れているように見えた。
カラ・テテの死以後もう規定の三日間は過ぎていた。故人の霊魂はそれゆえそのうつせみの身を去っていた。儀式ははじまった。
亡骸は砦の中央の小さな塚の上に運ばれた。それは豪奢な衣服を纒《まと》ってフォルミウムのすばらしい茣蓙《ござ》に包まれていた。羽毛で飾ったその頭は緑の葉の冠をいただいていた。顔と腕と胸は油を擦りこまれて全然腐敗を示していなかった。
親族や友人は塚の下へやって来た。そして突然、指揮者が鎮魂の歌のタクトを振ったかのように、涕泣《ていきゅう》と呻吟《しんぎん》と歔欷《きょき》の大合唱が空へ湧き上った。鈍重な調子の嘆きのリズムで彼らは死者を惜しんで泣く。近親は自分の胸をたたき、親族の女たちは爪で自分の顔を引き裂き、涙よりも血を気前よく流した。この不幸な女たちは念入りにこうした野蛮な義務を果した。しかし故人の霊魂をしずめるためにはこんな演戯では足りなかった。彼の怒りはおそらく生き残った部族の者どもを襲っているかもしれないのだ。そして彼の部下の戦士たちは、彼をこの世に引きもどすことができない以上、彼があの世で地上の生活の安楽さを惜しむことがないようにと思った。だからカラ・テテの妻は夫を墓のなかに置いて行くことはできなかった。それにまた、不幸な女は夫の後に生き残ることを拒んだだろう。それは義務と一致した慣習であり、このような犠牲の例はニュージーランドの歴史にはいくらでもあるのだ。
その妻があらわれた。彼女はまだ若かった。乱れた髪の毛は肩の上にひるがえった。その啜《すす》り泣きの声と哀号《あいごう》は空にむかって湧き上った。とりとめのない言葉、哀惜の言葉、死者の美点を讃《たた》えるとぎれとぎれの文句が彼女の呻《うめ》き声にまじった。そして極度の悲しみの発作に陥って彼女は塚の根もとに身を横たえ頭で地面を打った。
このときカイ・クムは彼女に近づいた。突然不幸な犠牲の女は立ち上った。が、酋長の手が振りまわしていた〈メレ〉という一種の恐るべき棍棒《こんぼう》が彼女をふたたび打ち倒した。彼女は即死した。
たちまち凄まじい叫び声が上った。一〇〇本もの腕がこの凄惨な場面に怯え上った捕虜たちを脅かした。しかし何人も動かなかった。葬儀はまだ終っていなかったからだ。
カラ・テテの妻は夫の後を追って死んだ。二人の屍体はならべて置かれていた。しかしこの故人の永遠の生命のためには忠実な妻だけでは充分ではなかった。もし夫妻の奴隷たちがあの世へついて行かなければ、タイ・アトゥアのそばで誰が彼らに仕えただろうか?
六人の不幸な人間が主人たちの屍骸の前に引き出された。無慈悲な戦争の掟《おきて》によって奴隷とされた召使たちであった。主の存命中は彼らは極度の苦難を嘗《な》め、数えきれぬほどのひどい虐待を受け、ろくろく食物も与えられず、絶えず牛馬と同じ仕事にこきつかわれていたのだが、今またマオリ人の信仰によればこれまでと同じ隷従の生活を未来永劫にわたってつづけようとしているのであった。
この不幸な人々は自分の運命に忍従しているように見えた。彼らはずっと以前から予想していた犠牲に一向驚いていなかった。彼らの手が全然縛られていないことは、彼らが逆らいもせずに死を受け容れることを証明していた。
それにまたこの死は瞬間的なもので、長い苦しみを彼らは嘗めないですんだ。責め苛まれることになっているのは、二〇歩ほど離れてかたまって、いよいよ凄惨《せいさん》なものになろうとしているこの恐ろしい場面から目をそむけている殺人犯どもだったのだ。
六人の逞しい戦士がそれぞれメレを打ちおろして、犠牲者は血の沼のなかに横たわった。
これが恐るべき食人肉の場面の開始の合図だった。
奴隷たちの屍体は主人の亡骸《なきがら》のようにタブーで守られていない。彼らの屍体は部族のものなのだ。それは葬儀の泣き役どもに投げ与えられた小銭にすぎない。だからこの血祭が終ると、原住民の全体が酋長も戦士も老人も女子供も、老若を問わず男女を問わず動物的な激情に駆られて犠牲者の動かぬ屍体に殺到した。あれよあれよという間にまだ湯気の立っている屍体は引き裂かれ截ち切られ刻まれ、一寸刻み五分刻みにずたずたにされた。犠牲の場にいた二〇〇人のマオリ人のすべてがそれぞれ人肉の分前を得たのだ。皆は争い、殴り合って、ほんの小さな肉片を奪い合った。温い血の滴《しずく》がこの悪魔のような原住民にはねかかり、この厭《いと》わしい獣群は赤い雨のなかにひしめいていた。それは餌食に夢中になっている虎の狂乱と熱中だった。まるで猛獣相手の闘技士が猛獣をむさぼり食っている闘技場の光景だった。それからパーの二〇個所に火がともされた。焼ける肉の匂いが大気を汚した。そしてこの饗宴のすさまじい喧騒、肉の詰った喉からなおも出て来る叫び声がなかったとすれば、捕虜たちには人食い人種の歯で噛み割られる犠牲者の骨の音が聞こえただろう。
グレナヴァンとその仲間は喘ぎながら、この厭うべき光景を二人の哀れな女性の目からかくそうとした。彼らはこのとき、明日の日の出に自分らを待っている刑罰がどんなものかを、そしておそらくそのような死の前にどのように責め苛まれるかを悟った。彼らは恐怖に口もきけなかった。
それから葬いの踊りがはじまった。
〈piper excelsum〉から採った強い酒、本当の胡椒《こしょう》の精のような酒が蛮人たちの酔いを煽《あお》った。彼らにはもう人間らしいところは全然なかった。おそらく彼らはとことんまで羽目をはずし、酋長の下したタブーをも忘れてしまって、その狂乱を見て怯えている囚人たちに兇行に及びはしないだろうか! しかしカイ・クムは皆の酔いのなかで理性を保っていた。彼はこの血の狂宴が最高潮に達し、次いで醒めるのを一時間のあいだ放任し、そして葬儀の最後の幕はいつもの儀式をもって演じられた。
カラ・テテとその妻の亡骸は引き起こされ、ニュージーランド原地民の習慣に従って手足は曲げられ、腹の上にたたまれた。今度は埋葬する番だった。ただし最終的にではなく、土が肉を呑みこんでもはや骨しか残らないようになるまでのことにすぎない。
ウドゥパすなわち廟所《びょうしょ》の位置は砦の外に選ばれていた。およそ三キロばかり隔たった、湖の右岸にあるマウンガナムという名の小さな山の頂である。
屍体が運ばれるのはそこだった。非常に原始的な種類の輿《こし》、いやもっとはっきり言えば担架が二台、塚の根もとに運ばれて来た。体を折り、寝かせるというよりも坐らせられて、植物の蔓《つる》でぐるぐる捲いて衣服の脱げぬようにさせられた亡骸はそれに載せられた。四人の戦士がそれを肩にかつぎ、全部族がふたたび葬いの歌をうたいながら埋葬の場所まで行列を作ってついて行った。
捕虜たちはあいかわらず監視されながら、行列がパーの第一の囲いを出るのを見た。それからだんだんと歌や叫び声はかすかになって行った。
およそ半時間ほどこの葬列は谷の底にいて彼らの視野から去っていた。それから彼らは行列が山径をうねうねと登って行くのを認めた。遠距離のためにこの長いうねうねした列の波状の動きは幻想的に見えた。
部族は二四〇メートルの高さのところに、すなわちマウンガナムの頂の、カラ・テテの埋葬のために準備されていた場所に停止した。
ただのマオリ人ならば穴と石の塚しか墓として与えられなかったろう。しかしいずれ近く神に祀《まつ》られるにちがいない畏怖の的とされている権勢ある酋長には、部族は彼の偉勲にふさわしい墓を用意していた。
ウドゥパは柵に囲まれており、代赭土《たいしゃど》で赤く塗った像で飾った杭が亡骸の眠るべき穴のそばに立っていた。〈ワイドゥア〉すなわち死者たちの霊は、この世の生活における肉体と同じく形あるものを食物としていることを、親族は決して忘れていなかった。故人の武器や衣服と同様食べ物も囲いのなかに置かれていたのはそのためだった。
墓の快適さは申し分なかった。夫妻はそこにならべて安置され、あらためて一しきり愁嘆の場面があった後に土と草でおおわれた。
それから葬列はまた粛々《しゅくしゅく》と山を降りたが、これでもう何人もマウンガナムに登ることはできず、登れば死を宣せられるのだった。なぜならこの山は、一八四六年にニュージーランドの地震で押しつぶされたある酋長の遺骸の眠っているトンガリロと同じくタブーとされていたからだ。
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十三 最後の数時間
太陽がタウポ湖の向う岸のトゥハフアとプケタプの峰々のうしろに沈んだとき、捕虜たちはその牢獄に連れもどされた。彼らはもはや、ワヒティ山脈《レインジ》の峰々が曙光《しょこう》に照らされる時刻まではそこから出られぬはずだった。
死のための準備をするには彼らにはもう一晩だけしかなかった。衰弱と恐怖にくたくたになっていたにもかかわらず彼らは揃《そろ》って食事をした。
「死を正面から直視するためにはどれほど力があってもありすぎるということはない。ヨーロッパ人がどのように死ぬすべを心得ているかということをあの蛮人どもに見せつけてやらねばならないのだから」とグレナヴァンは言っていたのである。
食事が終るとレイディ・ヘレナは大きな声で夕べの祈りをとなえた。仲間たちは皆帽子をぬいで声を合わせた。
死を前にして神を思わぬ人間がどこにいるだろうか?
この務めが終ると囚人たちは接吻し合った。
メァリ・グラントとヘレナは小屋の一隅に引き下って蓆《むしろ》の上に横になった。あらゆる苦しみを中断する眠りがやがて彼女らの瞼の上に重くのしかかった。彼女らは疲労と長い不眠に負けてたがいに抱き合って眠りこんだ。グレナヴァンはそこで友人たちをわきへ連れて行って言った。
「諸君、われわれの生命とあの気の毒な女たちの生命は神の手にある。明日われわれが死ぬことが天の定めであるならば、何一つ恐れることなく最後の審判の前に出る覚悟で勇敢な人間として、キリスト教徒として立派に死んで見せられると私は信じている。人間の心の底を見そなわし給う神は、われわれが高貴な目的を追っていたことをごぞんじだ。成功ではなく死がわれわれを待っていたにしても、それは神のみこころなのだ。神意がいかに厳しいものであろうとも、私は神に対して不平を言うまい。しかしここで死ぬことは、単なる死ではなく拷問であり、おそらくまた汚辱でもあろう。そしてここには二人の女性がいる……」
それまでしっかりしていたグレナヴァンの声はここに来て変った。彼は心の動揺を抑えることができなかった。それからしばらく沈黙した後に、
「ジョン」と彼は若い船長に言った。「私がレイディ・ヘレナに約束したのと同じことを君はメァリに約束した。君はどうすることに決めた?」
「その約束については、神の前に出ても私はそれを果す権利があると思います」
「そうだ、ジョン! けれどもわれわれには武器がないが?」
「ここにあります」とジョンは一本の短刀を見せて答えた。「カラ・テテがあなたの足許に倒れたとき、私はこれをあの野蛮人の手からもぎとっておいたのです。ミロード、あなたと私のうち後に生き残ったものがレイディ・ヘレナとメァリ・グラントの願いを果すことにしましょう」
この言葉のあと深い沈黙が小屋のなかに漲《みなぎ》った。しまいに少佐がその沈黙を破って言った。
「君、その最後の手段はぎりぎりの土壇場まで取っておいてくれ。私は取り返しのつかないことにはあまり賛成できない」
「私は自分らのためにそう言ったのではない」とグレナヴァンは答えた。「どんな死であろうと、われわれはそれに挑むことができよう! ああ、もしわれわれだけだったとしたら、〈諸君、脱出を試みよう! あいつらを襲おう!〉と、私はもう二〇回も諸君に言っていたことだろう。しかしあの女たちは! 女たちは……」
ジョンはこのとき蓆を上げて、ワレ・アトゥアの戸口を固めている二五人の原住民を数えた。大きな焚火が燃え、パーの地面の起伏に無気味な微光を投げていた。この蛮人のうちあるものは火のそばに横たわっていた。またあるものは立って動かず、炎の明るい光の幕の上にくっきりと浮き出していた。しかし皆が自分らの警戒している小屋にしきりに視線を投げている。
警戒している獄吏と脱走しようとしている囚人とでは、チャンスは囚人のほうにあると言われる。事実、そこにかけられている利益は一方のほうが他方よりも大きいからだ。前者は自分が見張っているということを忘れることもあるが、後者は自分が見張られていることを忘れることはあり得ない。番人が捕虜の逃走を防止しようと考える以上に、捕虜はしばしば逃げることを考えるのである。
だからしばしば見事な脱走がおこなわれるのだ。
しかしここでは、捕虜を見張っているのは憎悪であり、復讐心であって、もはや無関心な獄吏ではないのだ。囚人たちが縛られていないのは、その必要がないからだった。何しろ二五人の人間がワレ・アトゥアの唯一の出口を守っているのだ。
砦のはしにある岩を背にしたこの小屋は、パーの平地とそれをつないでいる狭い背を通ってしか近づけなかった。背の両側は切り立った山腹となり、深さ三〇メートルの谷の上に張り出ている。そこから降りることはどうしても不可能だ。巨大な岩にふさがれている裏手から逃げようにも全然方法がない。唯一の出口はだからワレ・アトゥアの入口そのものであり、そして跳ね橋のような具合にパーに通じているその背をマオリ人たちは見張っているのだ。いかなる脱走もそれゆえ不可能だった。そしてグレナヴァンはもう二〇回も獄の壁をさぐってみたあげく、それを認めざるを得なかったのである。
この不安の夜はその間に時々刻々と過ぎて行った。濃い闇が山を包んでしまった。月も星もこの深い闇を乱さなかった。時々突風がパーの山腹を吹き過ぎた。小屋の杭はきしんだ。原住民の火はこの束の間の風で突然燃え上った。そして炎の反映はワレ・アトゥアの内部にちらちらと微光をさしこんだ。囚人の群れは一瞬照らし出された。この哀れな人々は最後の物思いに沈んでいた。死の沈黙が小屋のなかを領《りょう》していた。
午前四時ごろであったろうか、少佐は奥の杭のうしろの、小屋が寄りかかっている岩塊の壁のなかでするらしいかすかな物音に注意をひかれた。最初そんな物音に興味のなかったマクナブズも、それがつづいているのに気がついて耳を澄ました。やがてあまり執拗につづけられるのに興味をそそられて、よく聞こうとして地面に耳を押しつけた。掻《か》いているような、外から掘っているような感じだった。
その事実がはっきりすると、少佐はグレナヴァンとジョン・マングルズのそばに忍び寄ってその苦しい物思いから彼らを呼び醒まし、小屋の奥へ連れて行った。
「聞いてみたまえ」身をかがめろと合図して低い声で彼は言った。
掻く音はますますはっきり聞こえて来た。何か鋭い物体に押されて小石が軋《きし》り、外へ崩れるのが聞こえた。
「巣穴のなかの何かの動物か」とジョン・マングルズは言った。
グレナヴァンは額を叩いた。
「もしかして」と彼は言った。「人間だったら……」
「人間か動物か、とにかくはっきりさせてやる!」と少佐は答えた。
ウィルスンとオルビネットも仲間に加わって、皆は壁を掘りはじめた。ジョンは短刀で、ほかのものは地面から剥《は》いだ石や自分の爪で。一方マルレディは地面に横たわって、蓆の隙間から原住民の群れを見張った。
蛮人たちは火のまわりで身動きもせず、彼らからわずか二〇歩のところで起こっていることに全然気づかなかった。
地面は凝灰岩をおおっている掘りやすい柔らかい土だった。だから道具がなかったにもかかわらず穴は急速に掘り進められた。間もなく一人もしくは数人の人間がパーの横腹にしがみついて、外の壁に穴を掘っていることがあきらかになった。その目的は何であろうか? 相手は囚人がここにいることを知っているのか? それとも、もうじき終ろうとしているらしいこの作業は誰かが偶然やっていることなのであろうか?
捕虜たちはますます力をふりしぼった。指は傷ついて血が出たが、彼らはなおも掘りつづけた。半時間の労働の後には、彼らの掘った穴は一メートルの深さに達していた。音がますます強くなったことで、外との連絡を妨げているのは薄い土の層だけだということがわかった。
さらに数分たった。突然少佐は鈍い刃物で切られた手を引いた。口から洩れようとした叫びを彼は押し殺した。
ジョンは自分の短刀の刃で、土から突き出して動いている小刀をよけた。しかしその小刀を握っている手を彼はつかんだ。
それは女か子供の手、ヨーロッパ人の手だった!
双方の側から今まで一言も発せられていなかった。沈黙するのがいいことは双方にとって明白だったのだ。
「ロバートか?」とグレナヴァンがつぶやいた。
しかしこの名を言った声がいかに低くとも、すでに小屋のなかでおこなわれている動きで目を覚ましていたメァリ・グラントはそれを聞いてグレナヴァンのそばへ忍び寄って、泥だらけになった例の手を取って接吻でおおった。
「おまえなのね! おまえなのね!」娘はこの手を見誤るはずはなかった。「私のロバート、おまえなのね!」
「そうだよ、姉さん」とロバートは答えた。「僕はみんなを救いに来たんだ! でも黙って!」
「勇敢な子だ!」とグレナヴァンはくりかえした。
「外の蛮人たちに注意してください」とロバートはまた言った。
少年の出現に一瞬気を取られていたマルレディはもとの見張りの場にかえった。
「大丈夫です」と彼は言った。「今見張っているのは四人の戦士だけです。ほかの奴らは眠っている」
「元気を出せ!」とウィルスンは言った。
一瞬のうちに穴はひろげられ、ロバートは姉の腕のなかからレイディ・ヘレナの腕のなかへ移った。彼の体にはフォルミウムの長い繩が捲きつけてあった。
「ロバート、ロバート、あの蛮人どもにあなたは殺されなかったのね!」と若い夫人はつぶやいた。
「ええ、奥さま。どういう具合か、あの騒ぎのあいだに僕は奴らの目を逃れることができたんです。僕は囲いから出ました。二日間灌木の茂みのなかに隠れていて、夜はあたりを歩きまわりました。あなたがたに会いたかったものですから。部族全体が酋長の葬式にかかりきっているあいだに、この牢獄のある砦のこちら側を偵察に来て、あなたがたのところへ行けることがわかったのです。人のいない小屋でこの小刀とこの繩を盗み出しました。草や灌木の枝を足がかりにし、この小屋のよりかかっている岩の塊りに偶然洞穴のようなものを見つけました。柔らかい土を数十センチ掘っただけで、こうしてここに来られたんです」
音を立てない二〇の接吻がロバートの得た唯一の答だった。
「行きましょう!」と彼は決然とした口調で言った。
「パガネルは下にいるのか?」とグレナヴァンはきいた。
「パガネル先生ですか?」その質問に驚いて少年は問い返した。
「そうだ、われわれを待っているのかね?」
「とんでもない。何ですって、パガネル先生はここにいないのですか?」
「いないのよ、ロバート」とメァリ・グラントは答えた。
「何? おまえはあの男を見なかったのか? あの騒ぎのなかで出逢わなかったのか? 一緒に逃げたのではないのか?」
「いいえ、ミロード」仲のいいパガネルの失踪を聞いてがっかりしてロバートは答えた。
「行こう!」と少佐は言った。「一分たりとも無駄にはできない。パガネルはどこにいようとも、ここにいるわれわれ以上に悪い立場にはいるはずがない。行こう!」
事実わずかの時間も貴重であった。逃げ出さねばならなかった。洞穴の外のほとんど垂直な壁の上を除けば、脱出には大した困難はなかった。それもわずか六メートルのあいだだけなのである。その後は、斜面は山麓までかなりゆるく下降していた。そこまで来れば捕虜たちは下の谷間へたちまち逃げこめるが、一方マオリ人のほうは、彼らの脱走に気がついたとすれば、追いつくために非常に長い廻り道をしなければならない。なぜなら彼らはワレ・アトゥアと外の山腹とのあいだに穿《うが》たれているこの廊下の存在を知らないからだ。
脱出ははじまった。脱出の成功を期するためにありとあらゆる警戒措置が取られた。捕虜たちは一人ずつ狭い廊下を通り、洞穴のなかにはいった。ジョン・マングルズは小屋を去る前に掘り崩した土をすべてかくし、そうして自分も穴の口へはいって、小屋の蓆をその口に垂らした。廊下はそれゆえまったく目につかなくなった。
今度は垂直の壁を斜面まで降りねばならなかった。そしてその下降は、ロバートがフォルミウムの繩を持って来なかったら不可能だったろう。
繩は繰り延ばされた。一端を突き出した岩に結んで繩を外へ投げる。
ジョン・マングルズは友人たちに縒《よ》って繩にしたフォルミウムのこの繊維に身を託させる前に、自分でそれを試してみた。彼にはこれがあまり丈夫でないように見えたのだ。軽率に危険に身をさらしてはならない。落ちれば命はないからである。
「この繩は二人の重さしか支えられません」と彼は言った。「ですからそれに応じたやりかたをしましょう。まずグレナヴァン卿御夫妻が滑り降りるのです。お二人が斜面に着いたら、繩を三度|揺《ゆす》って次のものが降りる合図にします」
「僕が一番先に行きますよ」とロバートが答えた。「僕は斜面の下のほうに深い穴のようなものを見つけました。先に降りたものはそこにかくれてほかの人を待つのです」
「行け、ロバート」と、少年の手を握ってグレナヴァンは言った。
ロバートは洞穴の口から消えた。一分後、繩が三度揺れて、少年が首尾よく降りたことを知らせた。
ただちにグレナヴァンとレイディ・ヘレナが洞穴の外へ出た。闇はなお深かったが、いくらかの鼠色がかった色合いがすでに東に聳えている峰々にあらわれていた。
朝の肌を刺す寒さが若い夫人の活気をよみがえらせた。彼女は力がよみがえるのをおぼえ、危険な脱出を開始した。
最初にグレナヴァンが、次いでレイディ・ヘレナが、垂直な壁が斜面の頂点とぶつかっているところへ繩をつたわって滑り降りた。それからグレナヴァンは妻の前に立って彼女を支えながら、うしろ向きに降りはじめた。彼は支点になるような草むらや灌木をさがした。まず試してみてからレイディ・ヘレナの足をそこに置かせる。何羽かの鳥が急に眠りを破られて小さな叫びをあげて飛び立った。そして一つの石がその嵌《はま》りこんでいたところからはずれて音を立てて山裾《やますそ》までころがり落ちたときには彼らはぎょっとした。
斜面の中程まで来たとき一つの声が洞穴の口でした。
「止まれ!」とジョン・マングルズがささやいたのだ。
グレナヴァンは片手で蔓菜《つるな》の草むらにつかまり、もう一方の手で妻をおさえながら、息をひそめて待った。
ウィルスンが不安を感じたのだった。ワレ・アトゥアの外で何かの音がするのを聞いて彼は小屋のなかへもどり、蓆を上げてマオリ人たちの様子を見た。彼の合図でジョンはグレナヴァンを引き留めたのである。
事実戦士たちの一人が異常な音を聞きつけて立ち上ってワレ・アトゥアに近づいたのだ。小屋から二歩ばかりのところに立って、頭を下げて彼は耳を澄ました。彼はその姿勢のまま、一時間と思われるくらい長い一分間ばかり耳をそばだて目をみはっていた。それから思い違いだったというように頭を振りながら仲間たちのほうに帰って、枯枝を一かかえ抱き上げて半ば消えた火のなかに投げこみ、炎はまた燃え上った。あざやかに照らし出されたその顔はもはや何らの憂慮をも示しておらず、地平線を白ませている暁の微光を眺めてから彼は冷えた手足をあたためようとして火のそばに横になった。
「大丈夫です」とウィルスンは言った。
ジョンはグレナヴァンに降りつづけるように合図した。
グレナヴァンは静かに斜面を滑り降りた。間もなくレイディ・ヘレナと彼はロバートの待っている狭い山径に出た。
繩は三度揺られ、今度はジョンがメァリ・グラントの前に立って危険なルートを降《くだ》った。下降はうまく行った。ロバートの教えた穴で彼はロード・グレナヴァンおよびその夫人のところに着いた。
五分後にはワレ・アトゥアから首尾よく脱出したすべての逃走者たちは一時身をかくした穴を出て、人の住んでいる湖岸を避けて狭い山径づたいに山の奥のほうへ分け入った。
人に見られるおそれのある地点はすべて避けるように努めながら彼らは足速に歩いた。彼らは口を利かなかった。灌木のなかを彼らは影のように滑って行った。どこへ行くのか? 当てはなかった。が、彼らは自由だった。
五時ごろ夜は明けかけた。青みがかった色合いが高い棚雲《たなぐも》をまだらに染めた。霧に包まれた峰々は朝靄《あさもや》からあらわれた。太陽は間もなく顔を出すだろう。そしてこの太陽は、惨殺の合図となるのではなく、受刑者たちの逃走を知らせるはずだった。
だからこの運命を決する時までに逃走者たちは蛮人どもの手のとどかないところへ行っており、距離をあけることによって追跡の手がかりをなくしてしまわねばならなかった。しかし彼らの歩みは速くはなかった。山径はけわしかったからだ。レイディ・ヘレナはグレナヴァンに運ばれるとまでは言わないとしても支えられながら傾斜をよじのぼり、メァリ・グラントはジョン・マングルズの腕によりかかっていた。ロバートは幸福そうに、意気揚々として成功の喜びに溢れながら先頭を進んだ。二人の水夫がしんがりをつとめた。
さらに三〇分たち、輝く太陽は地平線の霧から上ろうとしていた。
三〇分のあいだ逃走者たちはやみくもに歩いた。パガネルがいて彼らを導いてくれなかったからだ――彼らの不安の種であるパガネル、彼がいないことが彼らの幸福に暗い影を落していたのだが。けれども彼らはできるだけ東のほうにむかって、壮麗な暁紅のほうへ進んだ。間もなく彼らはタウポ湖から一五〇メートルほど高い山の上に出たが、朝の冷気はこの高度もあって鋭く彼らの肌を刺した。ぼんやりとした形の丘や山々が層々と積みかさなっている。しかしグレナヴァンにとってはそのなかに迷いこむことこそ望むところだったのだ。後になってからこの山の迷宮から抜け出ることを考えればいい。
ついに太陽はあらわれた。そしてその最初の光線を逃走者たちのほうへ送った。
突然一〇〇人もの叫び声からなる凄まじい叫喚《きょうかん》が空中に湧き起こった。それはパーから起こったのだ。このときグレナヴァンにはパーの精確な位置がわからなくなっていたのである。しかも足もとに立ち罩《こ》めた霧の幕のために彼は低い谷をも見分けることができないでいた。
しかし逃走者たちはもはや疑うことはできなかった。彼らの脱出は発見されたのである。原住民たちの追跡を逃れられるだろうか? 姿を見られてしまっただろうか? 足跡がわかってしまわなかったろうか?
ちょうどこのとき下のほうの霧が上り、束の間のじめじめした雲で彼らを包んだ。そして彼らは九〇メートルほど下のほうに狂い立っている原住民の群れを認めた。
彼らはその群れを見たが、彼ら自身のほうも見られてしまっていたのだ。無数の喚《わめ》き声が起こり、犬の鳴き声もそれに加わった。そして全部族がワレ・アトゥアの岩をよじのぼろうとして失敗したあげく、囲いの外へ飛び出し、彼らの報復を逃れようとする囚人たちを最捷径《さいしょうけい》を取って追跡しはじめたのだ。
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十四 タブーの山
山の頂はなお三〇メートルあまり高く突き出ていた。逃走者たちは反対側の山腹へ出てマオリ人の目から見えなくなるように、まずその頂に登らねばならなかった。そうすれば通れる尾根を辿《たど》って、入り乱れて一つの山系をなしている近くの峰々に出ることもできようと彼らは思った。パガネルがここにいればきっとこの複雑な山系を切り抜けさせてくれただろうが。
それゆえ、だんだんと近づいて来るあの喚き声の脅威のもとで登攀《とうはん》の速度は早められた。寄せて来る蛮人の群れは山の麓《ふもと》に達した。
「元気を出せ! 元気を出せ!」声と身振りで仲間たちを励ましながらグレナヴァンは叫んだ。
五分足らずで彼らは頂に達した。そこで彼らは状況を判断し、マオリ人の目をくらませられるような方向を捜そうとして振り返った。
この高みから彼の目は、美しい山々に囲まれて西のほうへひろがっているタウポ湖を見おろせた。北にはピロンジャの山々。南にはトンガリロの燃える噴火口。しかし東のほうでは、中断することなくクック海峡から東岬までの北島全体をつらぬいているあの火山脈ワヒティ・レインジにつながる峰々や円頂の障壁に視線はぶつかる。それゆえ反対の山腹を降りて、もしかすると出口がないかもしれない狭い峡谷にはいって行かねばならない。
グレナヴァンは不安の目ですばやく周囲を見まわした。霧は日の光に遭って消えてしまったので、彼の目はほんの小さな凹《くぼ》みをもはっきりと見通すことができた。マオリ人のどんな動きも彼の目を逃れなかった。
原住民たちが円錐形のこの孤峰が立っているこの台地の上に着いたときには、グレナヴァンと彼らの距離はもう一五〇メートルとなかった。
グレナヴァンはほんのすこしでも休息を延ばすことはできなかった。疲労困憊《ひろうこんぱい》していようといまいと、逃げなければ包囲されてしまうのだ。
「降りよう!」と彼は叫んだ。「道を閉ざされてしまわぬうちに降りよう!」
しかし哀れな女性たちがあらんかぎりの力をふりしぼって立ち上ったとき、マクナブズが彼女を引き留めて言った。
「その必要はないよ、グレナヴァン。見ろ」
そして事実一同は、マオリ人の動きに生じた不可解な変化を見たのだ。
彼らの追跡は突然中断された。山への突撃は有無《うむ》を言わさぬ取消し命令によって今中断されたのだ。原住民の群れは逸《はや》る気勢を抑え、乗り越えられぬ岩の前の波のように停止した。
血に飢え出していたこの蛮人たちは皆、今は山の麓にならんで、わめき、身振りをし、銃や斧を振りまわしたが、一歩も進まなかった。彼らの犬たちも彼ら自身と同じくぴたりと止まって狂ったように吠えた。
一体何が起こったのか? どのような目に見えぬ力が原住民たちを引き留めたのか? カイ・クムの部族を呪縛《じゅばく》した魔力がいつか解けはしないかと惧《おそ》れながら、わけがわからずに逃走者たちは眺めていた。
突然ジョン・マングルズが叫び声をあげ、仲間たちは振り向いた。彼は円錐峰の頂に立っている小さな砦のほうへ手をやった。
「カラ・テテ酋長の墓だ!」とロバートは叫んだ。
「それはほんとか、ロバート?」グレナヴァンはきいた。
「ええ、ミロード、ほんとに墓なんです! 僕にはわかります……」
ロバートは間違っていなかった。一五メートルほど上の山のてっぺんに、塗ったばかりの杭が小さな柵を作っていた。グレナヴァンにも今は原地民の酋長の墓だとわかった。逃げているうちにたまたま彼はマウンガナムの頂へ来てしまったのである。
ロードは仲間たちを従えて円錐峰の最後の斜面を攀じて墓の根もとまで行った。蓆《むしろ》でおおわれた広い入口が開いている。グレナヴァンはウドゥパのなかへはいろうとしたが、突然さっとあとずさった。
「蛮人が!」と彼は言った。
「この墓のなかに蛮人が?」と少佐はきいた。
「そうだ、マクナブズ」
「かまうものか、はいろう」
グレナヴァン、少佐、ロバート、ジョン・マングルズは囲いのなかにはいった。フォルミウムの大きな簔《みの》を着たマオリ人がそこにいた。ウドゥパは暗いのでその顔を見分けることはできなかった。彼は大変おちつきはらって、まったくもって太平楽に食事をしていた。グレナヴァンは彼に言葉をかけようとしたが、そのときその原住民のほうが先手を打って、愛想のいい口調で立派な英語で彼に言ったのだ。
「まあお坐りください、親愛なロード。食事の準備ができていますよ」
それはパガネルだった。彼の声に一同はウドゥパのなかに飛びこんだ。非凡な地理学者はこの一人一人を抱きしめた。パガネルが見つかった! 彼とともに皆が救われたことがはっきりしたのだ! 人々は彼に問いつめようとした。どうして、また何がゆえに彼がこのマウンガナムの頂にいるのかを知りたかったのだ。しかしグレナヴァンはこの性急な好奇心を次の一言で押しとどめた。
「蛮人は!」と彼は言ったのだ。
「蛮人か」とパガネルは肩をすくめて言った。「あんな奴らは私はてんで相手にしないね!」
「しかし奴らは……」
「奴らがどうした! あの阿呆《あほう》どもが! 奴らを見て来よう!」
皆はウドゥパから出るパガネルについて行った。ニュージーランド原地民はまだ同じ場所で円錐峰をとりまいて、恐ろしい怒号を発していた。
「叫べ! わめけ! 声をからせ、間抜けども!」とパガネルは言った。「さあ、登れるものならこの山に登って来てみろ!」
「どうして?」とグレナヴァンはきいた。
「酋長がこの山に葬られているから、この墓がわれわれを守ってくれるから、この山はタブーだからさ!」
「タブー?」
「そうとも、諸君! そうしてそれだからこそ私は、貧者に開放されたあの中世の保護院に入るように、ここに逃げこんだのだ」
「神さまは私たちの味方なのだわ!」と、両手を天に差し伸べながらレイディ・ヘレナは叫んだ。
事実この山はタブーであり、この聖化のために迷信的な蛮人たちの侵入を免れたのだ。
これで逃走者たちが救われたというわけではまだないが、ありがたい休息であって、彼らはこれを利用しようとした。グレナヴァンは言い知れぬ感動に襲われて何も言わず、少佐はほんとに嬉しそうな面持で頭を振っていた。
「それでは諸君」とパガネルは言った。「あの畜生どもが忍耐力を練るためにわれわれを利用しようと思っているならば、それは奴らの思い違いだ。二日とたたぬうちにわれわれは奴らの手のとどかぬところに行っているだろう」
「逃げるのか!」とグレナヴァンは言った。「だが、どのようにして?」
「それは全然わからん、が、とにかくわれわれは逃げるんだ」とパガネルは答えた。
それから皆は地理学者の冒険を知りたがった。奇怪なことに、しかもこれはあれほど多弁な人間としては奇妙な遠慮だが、そのためにはいわば無理矢理に彼に口を割らせなければならなかった。あれほど物語ることが好きな彼が、友人たちの質問にはぐらかすような返事しかしないのだった。
「パガネルの奴、変ってしまったな」とマクナブズは思った。
事実この尊敬すべき学者の風貌ももう前と同じではなかった。彼はだぶだぶしたフォルミウムの簔をきちんと着こんで、あまり穿鑿《せんさく》的な視線を避けるように見えた。彼のことが問題になるときの彼の迷惑の様子は何びとの目をも逃れなかったが、遠慮して誰もそれに気がつかないようなふりをした。その上パガネルは自分のことが話題にならないときにはいつもの陽気さをとりもどしたのだ。
彼の思い出のなかで、皆がウドゥパの杭の根もとで彼のそばに坐ったとき彼が仲間たちに話していいと思ったのは、次のようなことだった。
カラ・テテが殺された後、パガネルはロバートと同じく原住民の騒ぎにつけこんでパーの柵の外へ飛び出した。しかしグラント少年よりも運が悪く、あるマオリ人のキャンプにまっすぐ乗りこんでしまったのだ。そのキャンプには、もちろん自分の部族のすべての戦士たちより立派な、背の高い頭のよさそうな顔の酋長が支配していた。この酋長は正確に英語を話し、自分の鼻を地理学者の鼻にこすりつけて歓迎の意を表した。
パガネルは自分を囚人とみなすべきか否かわからなかった。しかし酋長が御親切について来ることなしには一歩も歩けぬのを見て、じきにその点についての真実を知ることができた。
〈ヒヒ〉すなわち〈日の光〉という名のこの酋長は決して悪い人間ではなかった。地理学者の眼鏡と望遠鏡のために彼はパガネルのことを高く評価したらしかった。そして彼は単に親切さだけでなく、丈夫なフォルミウムの繩で特別にパガネルを自分にひきつけたのである。特に夜は。
この新しい事態はたっぷり三日つづいた。この期間パガネルは好遇されたか虐待されたか?「イェスでもありノーでもある」と、それ以上説明せずに彼は言った。要するに彼は捕われの身だったのであり、今すぐ刑に処せられる見込みはなかったというだけで、その境遇は彼の不幸な友だちのそれよりもさして羨むべきものではなかったのである。
さいわいある夜彼は繩を噛み切って逃げ出すことができた。彼は遠くからあの酋長の葬儀を見た。この酋長がマウンガナムの頂に埋められ、そしてこの事実によって山がタブーとなったことを知った。仲間たちが捕われている国を去る気のなかった彼はそこへ逃げこむことに決めた。彼はその危険な企てに成功した。前夜のうちにカラ・テテの墓所にたどりついた彼は、神が何らかの偶然によって仲間たちを解放してくれるのを「腹ごしらえをしながら」待ったのだ。
これがパガネルの物語だった。原住民のもとにいた間のある事実を故意に彼は言い落したのであろうか? 一度ならず彼の当惑ぶりを見て人々はそう思わせられた。が、それはどうであれ彼は一同の祝福を受け、そして過去のことがわかったので今度は人々は現在のことに話をもどした。
状況は依然としてきわめて重大だった。原住民たちはマウンガナムにあえて攀じ登って来なくても、飢えと渇きを待って囚人を捕えるつもりでいた。時間の問題だった。そして蛮人は気が長いものである。
グレナヴァンは自分の立場の困難さを見誤らなかったが、有利な事態を待つ、必要とあれば有利な事態を作り上げることに決めた。
そしてまずグレナヴァンは、マウンガナムというこの彼の思い設けぬ砦を丹念に調べようと思った。防戦のためではない。この場所にはそういう心配はないからだ。脱出のためである。少佐とジョンとロバートとパガネルと彼はこの山の精確な見取図を作った。彼らは山径の方向、その到達する場所、その勾配を観察した。マウンガナム山をワヒティ山脈《レインジ》につないでいる長さ一キロ半の尾根は平原のほうにむかってずっと下っていた。狭い、気まぐれな輪郭を持ったその稜線は、脱出が可能であるとした場合の唯一の利用できるルートだった。もし逃走者が夜陰に乗じて見つけられずにそこを通れたならば、おそらく山脈《レインジ》の深い谷にはいりこみ、マオリの戦士たちの目をくらますことに成功するだろう。
しかしこのルートにはいくつかの危険があった。低いところではそれは小銃の射程内を通っている。下の斜面に陣取った原住民たちの銃弾はそこで交叉し、何びとも無疵《むきず》で通り抜けることのできない火線をそこに形成するだろう。
グレナヴァンとその友人たちは尾根の危険な部分に足を踏みこんで、雨霰《あめあられ》のような弾丸をお見舞されたが、弾丸は彼らまではとどかなかった。いくつかの詰物(銃身のなかに弾薬を安定させるための詰物のことである)が風に乗って彼らのところまで飛んで来た。それらは印刷された紙だった。パガネルは純然たる好奇心からそれを拾ったが、それは容易に読めた。
「なるほど!」と彼は言った。「あの畜生どもは何を銃に詰めるかわかるかね?」
「わからんね」とグレナヴァンは答えた。
「聖書の紙さ! 神聖な章句を奴らがこんな風に使うとあっては、私は奴らの宣教師を気の毒に思うね! 宣教師たちはマオリ語の図書館を作るのに苦労するだろうよ」
「ではあの原住民たちは聖書のどんなくだりをわれわれの胸もと目がけて射ち出したんだ?」とグレナヴァンはきいた。
「全能の神のみ言葉ですよ」爆発でよごれた紙を今読んだジョン・マングルズが答えた。「この言葉はわれわれに神に望みをかけることを命じています」と、スコットランド人らしい信仰をいささかも揺がされずに船長はつけくわえた。
「読んでごらん、ジョン」とグレナヴァンは言った。
そしてジョンは火薬の燃焼の際に焼け残った次のような章句を読んだ。
「詩篇第九〇篇、彼われに望みをかけたれば、我かれを解放せん」
「諸君」とグレナヴァンは言った。「この希望の言葉をわれわれの勇敢な大切な御婦人たちに伝えねばならん。これには彼女たちの勇気をよみがえらせるだけのものがある」
グレナヴァンとその仲間は円錐峰のけわしい小径をふたたび登って墓所に引き返し、墓所を調べようと思った。
途中で彼らは短い間隔を置いてかすかな地震のようなものがするのを知って不審をおぼえた。それは動揺ではなく、沸騰《ふっとう》する湯のために釜の腹が震えるときのような絶え間のない震動だった。地中の火の作用で生じた高圧の蒸気があきらかに山の外殻のなかに蓄えられているのだった。
このような特異現象も、ワイカトの熱泉のあいだを通って来たばかりの人々を驚かせるには足りなかった。彼らはイカ・ナ・マウイのこの中心地方が何よりもまず火山地帯であることを知っていた。マウンガナムは島の中央部に林立しているあの無数の円錐峰の一つ、すなわち未来の火山にほかならなかったのである。ほんのちょっとした力学的な運動が、白っぽい珪石を含んだ凝灰岩の壁に火口を穿《うが》つかもしれなかったのだ。
「なるほど」とグレナヴァンは言った。「しかし〈ダンカン〉のボイラーのそばよりもこのほうが危険だというわけではない。地殻というものは頑丈な鉄板だからね!」
「いかにも」と少佐は答えた。「しかしいかに優秀なボイラーでも、長期の使用の後ではかならず爆発してしまうもんだよ」
「マクナブズ」とパガネル。「私はこの円錐峰にとどまりたくないね。神が通行可能なルートを教えてくれさえすれば私は早速ここをおさらばするよ」
「ああ、どうしてこのマウンガナム自体がわれわれを運んで行ってくれないんでしょう、これほどのエネルギーが、その胎内に閉じこめられているというのに」とジョン・マングルズは答えた。「もしかするとわれわれの足下に、何も生まずに無駄にされている何百万馬力という力があるかもしれないんです! 私たちの〈ダンカン〉なら、私たちを世界の果てまで運ぶのにその千分の一も必要としはしないでしょう!」
ジョン・マングルズによって呼びさまされたこの〈ダンカン〉の思い出は、最も憂鬱な想念をグレナヴァンの心によみがえらせる結果となった。というのは、自分自身の立場がいかに絶望的であろうと、彼はしばしばそれを忘れて部下の乗組員の運命を嘆いていたからである。
マウンガナムの頂で不幸を共にする人々のところへ帰ったときも、彼はなお思いに耽っていた。
レイディ・ヘレナは彼の姿を見かけるや否や彼のほうへやって来た。
「エドワード、私たちの位置がわかりました? 希望を持てますの、それとも絶望しなければなりません?」
「希望を持つのさ、ヘレナ」とグレナヴァンは答えた。「原住民は決して山の境を踏み越えない。そして脱走計画を練る時間はわれわれに充分あるだろう」
「それに、奥さま」とジョン・マングルズは言った。「神御自身がわれわれに希望を持つことをすすめていらっしゃるのです」
ジョン・マングルズはレイディ・ヘレナに、聖書の言葉の読めるあの紙片を渡した。信頼を失わぬ心を持ち神の一切の働きを安んじて受け容れる若い妻と若い娘は、この聖書の言葉のなかに絶対に確実な救いの予言を見た。
「それではウドゥパへ!」とパガネルは陽気に叫んだ。「これはわれわれの砦であり、われわれの城であり、われわれの食堂であり、われわれの書斎なんだ! 誰もここではわれわれの邪魔をしない! 御婦人方、このすばらしい住居にあなたがたを御案内させてください!」
皆は愛想のいいパガネルについて行った。蛮人たちは逃走者がまたしてもタブーとなっているあの廟所を犯すのを見ると、しきりに銃を発し、ものすごい怒号を発したが、この後者は前者に劣らずやかましかった。しかしまことにさいわいなことに銃弾は叫び声ほど遠くにとどかず、山の中腹に落ち、一方怒号のほうは空中に消えて行くだけだった。
レイディ・ヘレナとメァリ・グラント、そしてその仲間たちは、マオリ人の迷信がその怒りよりも強いのを見てすっかり安堵して霊廟のなかにはいった。
ニュージーランド原地民の酋長のこのウドゥパというものは、赤く塗った杭をならべた柵であった。象徴的な図形や木に描いた本物の刺青の模様が故人の高貴さと偉業を語っている。貝殻や切り石などの呪物《じゅぶつ》を連ねたものが柱から柱へとぶらさがっている。内部では地面は緑の葉の絨毯《じゅうたん》の下にかくれている。中央にちょっと盛り上ったところがあって、最近掘られたばかりの墓穴のあることを示していた。
そこには弾《たま》をこめ雷管《らいかん》をつけた何挺かの銃、槍、緑の硬玉でできたみごとな斧といった酋長の武器が、永遠の狩にも間に合うだけの火薬や弾丸とともに置かれていた。
「これは大変な武器の量だ」とパガネルは言った。「こいつは故人よりもわれわれのほうがよく使えるだろう。あの蛮人どもが自分の武器をあの世まで持って行こうというのはいい考えだよ!」
「やあっ! だがこいつはイギリス製の銃だ!」と少佐が言った。
「そうだろう」とグレナヴァンは答えた。「蛮人どもに火器を贈るというのはずいぶん愚かしい習慣だね! 奴らは次にはそれを侵入者に対して使う。そしてそれも当然なのだよ。いずれにしてもこの銃はわれわれの役に立つだろうが!」
「しかしそれよりもなおわれわれの役に立つのは、カラ・テテに供えられた食べ物と水だよ」とパガネルは言った。
なるほど、死者の親族や友人はいろいろのことを配慮していた。お供えの食べ物は酋長の徳に対する彼らの敬意をあらわしていた。二人の人間が二週間、いや、故人が永遠に食べて行けるだけの食糧がそこにはあった。これらの植物性の食べ物は羊歯、原産種の〈Convolvus Batatas〉という甘藷《かんしょ》、そしてずっと前にヨーロッパ人がこの国に持ちこんだ馬鈴薯だった。いくつかの大きな甕《かめ》にニュージーランド原地民の食事にいつも添えられる清らかな水がはいっており、趣味よく編まれた一ダースばかりの籠《かご》にはまったく未見の緑色のゴムのタブレットがはいっていた。
逃走者たちはそれゆえ数日間飢えと渇きから守られていたわけである。彼らは遠慮会釈もなしに酋長の|おごり《ヽヽヽ》で最初の食事をすることにした。
グレナヴァンは仲間たちに必要なだけの食べ物を持ち出してミスタ・オルビネットに預けた。いつも、きわめて重大な状況にあってすらも形式を守ることをやめないこのステュワードは、献立が少々貧弱すぎると思った。のみならず彼はこんな根をどう調理していいかわからなかった。しかも火がない。
しかしパガネルは、その羊歯や甘藷をそのままじかに地中に埋めろと教えて彼を救ってやった。
事実、上層の温度は甚だ高く、温度計をこの地面に突っこんだとすれば確実に六〇度から六五度を指したことだろう。オルビネットはそれどころかひどい火傷《やけど》をするところだった。根を埋めるため穴を掘ったとたんに湯気が柱のように噴出し、ひゅうっと鳴りながら二メートルの高さに上ったからである。
ステュワードは愕然《がくぜん》としてひっくりかえった。
「コックをしめろ」と少佐は叫び、二人の水夫と一緒に駈けつけて軽石の破片で穴をふさいだが、一方パガネルのほうは異様な顔つきでこの現象を眺めながら次のような言葉をつぶやいていたのである。
「おやおや! ふふふふ! 悪かないじゃないか!」
「怪我をしなかったか?」とマクナブズはオルビネットにきいた。
「いいえ、マクナブズさん」とステュワードは答えた。「でも、ほとんど予期していなかったので……」
「これほどの天恵があるとは、か!」とパガネルは愉快そうに叫んだ。「カラ・テテの食べ物と水の次には、今度は地下の火だ! いや、この山はまったく楽園だよ! 私はここに植民地を開き、ここを開墾し、これからの生涯ここに住みつくことを提案する! われわれはマウンガナムのロビンスンになるのだ! まったくの話、私はこの居心地のいい円錐峰でわれわれに欠けているものをいくら捜してみても見つからんのだ!」
「まったくです、地面が堅固でありさえすればね」とジョン・マングルズが答えた。
「なあに! ここは今日や昨日できたんじゃない。ずっと昔から地中の火の作用に抵抗しているんだ。われわれの出発までは充分もつだろうさ」とパガネルは答えた。
「食事の用意ができました」マルカムの城でその職務を果しているときと同じくらい重々しくミスタ・オルビネットは告げた。
ただちに逃走者たちは柵のそばに腰をおろして、神意によってついしばらく前まさにこのきわめて重大な局面のなかにいる彼らに送られて来た食事をはじめた。
食べ物の選択については人々はむずかしいことを言わなかったが、食用の羊歯の根については意見は分れた。あるものは甘い快い味がすると言い、他のものはねばっこい全然気の抜けた味で、しかもひどく堅いと言う。燃えるような土のなかで焼いた甘藷はとてもおいしかった。地理学者は、カラ・テテはこれでは全然気の毒だなどといえないと言った。
やがて飢えが満たされるとグレナヴァンはただちに脱走計画について討議することを提案した。
「もうかい?」とパガネルはほんとに情なさそうな口調で言った。
「でも、パガネル先生」とレイディ・ヘレナが言った。「ここがカプアだということにしても、ハンニバルの真似をしてはならないことはあなたもごぞんじでしょ!」
「奥さま」とパガネルは答えた。「私は決してあなたに反対するようなことはいたしません。そしてあなたが討議しようとおっしゃるのですから、討議しましょう」
「第一に私は、飢えに迫られぬうちに脱出を試みるべきだと考える」とグレナヴァンは言った。「体力も充分ある。それを利用しなければならない。今夜われわれは夜陰に乗じて原住民の包囲を破って東の谷へ出るように試みよう」
「結構だ、マオリ人がわれわれを通してくれるなら」とパガネルは答えた。
「では、奴らが阻止したら?」とジョン・マングルズは言った。
「そのときは非常手段を使うのさ」とパガネルは答えた。
「それじゃあ君には非常手段があるのかね?」と少佐。
「ありあまるほどだよ!」と言い返したパガネルは、それ以上説明はしなかった。
後はもう夜を待って原住民の包囲線を越えることを試みるだけであった。
原住民たちはその場所を去っていなかった。彼らの列は後から加わった部族のものたちで殖えたようにさえ見えた。あちこちに燃やされた火が円錐峰の麓に燃える帯を形づくっていた。闇が周囲の谷々を浸すとマウンガナムは大きな燠《おき》から突き出ているように見え、一方その頂は深い闇におおわれていた。一八〇メートル下方に敵の露営のざわめきや叫び声や呟きが聞こえた。
九時に暗夜を衝いてグレナヴァンとジョン・マングルズは、仲間たちをあの危険なルートに連れ出す前に偵察をおこなう決心をした。彼らは一〇分間ほど音もなく降りて、原住民の陣営の頭上一五メートルのところで彼らの警戒線を横切っている狭い尾根に踏みこんだ。
そこまでは万事上々だった。マオリ人たちは火のそばに寝ころんで二人の逃走者に気がつかないように見え、二人はなお数歩進んだ。が、突然尾根の左右から銃声がはじまった。
「退却!」とグレナヴァンは言った。「あの悪党どもは猫のような目と優秀な銃を持っている!」
ジョン・マングルズと彼はふたたび急峻な山腹を登り、早速銃声に怯えた仲間たちを安心させた。グレナヴァンの帽子には二発の弾が貫通していた。こうなるとこの二つの狙撃兵の列のあいだの途方もなく長い尾根に踏みこむことは不可能だった。
「明日にしよう」とパガネルは言った。「そして君たちはあの原住民どもの目をたぶらかすことができない以上、今度は私が私なりに奴らに一杯食らわすのを許してくれるだろう」
気温はかなり低かった。さいわいカラ・テテはその墓に彼の一番いい寝間着や温いフォルミウムの蒲団を持って来ていたので、各人は遠慮なしにそれにくるまり、間もなく逃走者たちは原住民の迷信に守られて、地中の沸騰でかすかに震えるこの生温い地面の上で柵に守られて静かに眠っていた。
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十五 パガネルの非常手段
翌二月一七日、朝日はその最初の光線でマウンガナムに眠っている人々を目覚めさせた。マオリ人たちはもうずっと前から円錐峰の麓を行ったり来たりしていたが、その警戒線から遠ざかりはしなかった。囂々《ごうごう》たる憤激の叫びが、冒涜《ぼうとく》された域内から出て来たヨーロッパ人の姿に向けられた。
彼らはそれぞれ周囲の山々、まだ霧に沈んでいる谷々、朝風にさざなみを立てているタウポ湖の水面に最初の視線を投げた。
それから一同はパガネルの新しい計画を早く知りたくてたまらず、彼のまわりに集まって目顔で問いかけた。
パガネルは仲間たちのおちつかない好奇心にただちに答えた。
「諸君、私の計画は、私の所期した成果のすべてを挙げなくても、それどころか失敗してすらも、われわれの立場が悪化しないという非常な利点を持っている。しかしこの計画は成功しなければならないし、成功するだろう」
「で、その計画というのは?」とマクナブズがきいた。
「それはこうなんだ」とパガネルは答えた。「原住民の迷信がこの山を避難所としてくれたが、今度はその迷信がわれわれがここから出るのを助けてくれるに相違ない。もし私がカイ・クムに、われわれがこの涜聖《とくせい》のために罰せられた、天の怒りがわれわれを襲った、要するにわれわれが死んだ、しかも無慙《むざん》な死を遂げたと思いこませるのに成功したとすれば、奴もこのマウンガナムの山麓を去って自分の村に帰ると君は思わんかね?」
「それは疑いない」とグレナヴァンは言った。
「それではあなたはどんな恐ろしい死に方をしろとおっしゃいますの?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「冒涜による死ですよ、諸君」とパガネルは答えた。「懲罰の炎はわれわれの足の下にある。この炎に疏《は》け口を開いてやりましょう」
「何ですって! 火山を作ろうというのですか?」とジョン・マングルズが叫んだ。
「うん、人工の火山、にわか作りの火山を作って、われわれがその怒りを誘導するのだ! ここには時あれば噴出しようとしている蒸気と地下の火がいくらでもたまっている! われわれの役に立つように噴火を演出して見せようじゃないか!」
「その思いつきはいい」と少佐は言った。「パガネル、うまい工夫だよ」
「君らにもわかっているだろうが、われわれはニュージーランドの地獄の劫火《ごうか》に呑みこまれたように見せかけ、カラ・テテの墓所に超自然力によるもののように姿を消すのだ……。
三日か四日、必要とあれば五日でも、要するにあの蛮人どもがわれわれが死んだと確信して引き揚げるまで、われわれはそこにとどまる」
「でも蛮人が私たちの罰せられたことを確かめようと思い立ったら」とメァリ・グラントは言った。「山を登って来たら?」
「いや、メァリさん、奴らはそんなことはしますまい。この山はタブーです。そして山自体がその冒涜者を呑みこんでしまったとなれば、そのタブーはますます厳しいものになりますよ!」
「その計画はほんとに名案だ」とグレナヴァンは言った。「その計画にとって不利な可能性は一つしかない。そしてそれは、われわれの食糧がなくなってしまうまで執拗に蛮人どもがマウンガナムの麓にとどまるという可能性だ。だがそれはあまりありそうもないね、特にわれわれが上手に芝居を打って見せれば」
「では、いつその最後のチャンスを試みますの?」とレイディ・グレナヴァンがきいた。
「今夜のうちです、闇が一番濃い時刻に」とパガネルは答えた。
「合点だ」とマクナブズは言った。「パガネル、君は天才だよ。そして普通なら感激することのほとんどない私も、これの成功は請《う》け合うよ。ああ、あの野郎ども! われわれはこれから奴らにちょっとした奇蹟をお目にかけてやるのだ。この奇蹟のおかげで奴らのキリスト教への改宗は一世紀たっぷりは遅れるだろうがね! 宣教師たちがわれわれを赦《ゆる》してくれりゃいいが!」
パガネルの計画はこれで採択された。そして実際マオリ人の迷信的観念を考えればこれは成功する可能性があり、成功するにちがいなかった。後は実行するだけだった。思いつきはよかったが、その実施はむずかしかった。問題の火山は、その噴火口を穿《うが》とうとする向う見ずな人々を呑みこみはしないだろうか? 蒸気が、炎が、熔岩が堰《せき》を切ったときに、その噴水を抑制し、統制することができるだろうか? この円錐峰全体が猛火の淵のなかに落ちこみはしないだろうか? これは、自然のみが絶対的な独占権を握っている現象に手をつけることだった。
パガネルはこれらの困難を予見していたが、慎重に、極端にわたらないように行動するつもりだった。マオリ人をだますには、噴火の恐るべき現実ではなく、外観だけですむのである。
この一日はどれほど長く思われたことか! 皆が無限と思える時々刻々を数えていた。逃走の準備はすべてできていた。ウドゥパにあった食糧は分けて、あまり邪魔にならない包みにしてあった。何枚かの蓆と銃器が酋長の墓所から奪ったこの軽い荷物に加わった。これらの準備が柵の囲いのなかで蛮人に見られぬようにおこなわれたことは言うまでもない。
六時にステュワードは滋養のある食事を出した。谷に入ったらいつ、どこで食事ができるかは、誰も予見することはできなかった。それで一同は後々の分まで食事をしたのである。中心になる料理は、ウィルスンがつかまえて蒸焼《むしや》きにした半ダースほどの肥えた鼠だった。レイディ・ヘレナとメァリ・グラントは、ニュージーランドでは甚だ珍重されているこの獣を味わうことを頑《かた》くなに拒んだが、男たちは正真のマオリ人のようにそれに舌鼓《したつづみ》を打った。この肉はまったく上等で、それのみか風味さえあり、六匹のこの齧歯類《げっしるい》は骨まで噛み砕かれてしまった。
夕闇が来た。太陽は嵐模様の濃い棚雲のうしろに消えた。いくつかの稲妻が地平線を照らし、空のずっと向うで遠雷がした。
パガネルは彼のもくろみを助けに来、その演出を申し分のないものにしてくれるこの嵐を歓迎した。蛮人たちはこうした大きな自然現象に迷信的に影響されるものである。ニュージーランド原地民たちは雷を彼らのヌイ・アトゥアの怒りの声だと思い、稲妻は彼らにとってこの神の目の憤怒の光にほかならないのだ。それゆえ神はこのタブーを犯したものたちを罰するためにじきじきお出ましになったと見えるだろう。九時、マウンガナムの頂は無気味な闇に没した。パガネルが放とうとしている炎の奔出に空は暗黒の背景をなしていた。マオリ人にはもはや囚人は見えなかった。いよいよ行動すべき時が来た。
迅速に動かなければならなかった。グレナヴァン、パガネル、マクナブズ、ロバート、ステュワード、二人の水夫は同時に行動にかかった。
火口の位置はカラ・テテの墓から三〇歩ほどのところに選ばれた。事実このウドゥパが噴火から免れることが肝要だった。免れなければウドゥパとともに山のタブーも消えてしまうからである。その場所にパガネルは、周囲に蒸気がある程度の強度で洩れている巨大な岩塊を見つけておいたのだ。この塊りは円錐峰に穿たれた自然の小火口をおおっており、その重みだけで地下の炎のほとばしるのを防いでいた。この塊りを穴からはずすことができたら、蒸気と熔岩は開かれた口からたちまち噴き出すだろう。
皆はウドゥパのなかから引き抜いて来た杭を挺子《てこ》にし、力をこめて岩塊に攻め立てた。力を揃えて押したので岩は間もなくぐらつきはじめた。彼らは岩がこの斜面を滑り落ちることができるように山腹に小さな壕のようなものを掘ってやった。岩が上って来るにつれて地面の震動はますます激しくなった。
炎の鈍い唸り声と大竈《おおかま》のひゅうひゅういう音が薄くなった外殻の下から洩れて来た。地中の火を操つる巨人キュクローペにも似た大胆な人々は黙々と働いた。間もなくいくつかの割れ目と熱い蒸気の噴出で彼らはこの場所が危険になったことを知った。しかし最後の努力で岩塊は掘り起され、山の斜面を滑り落ちて消えた。
たちまち薄くなっていた地層は破れた。火の柱が猛烈な爆発音とともに空に噴出し、熱湯と熔岩の流れは原住民のキャンプと下の谷へ走った。
円錐峰全体が震え、無間《むげん》地獄へ落ちこむのではないかと思われた。グレナヴァンとその仲間たちにはかろうじて噴火にまきこまれることから逃れる時間しかなかった。彼らはウドゥパの囲いのなかに逃げこんだが、それでも九四度まで熱した水は何滴か彼らにかかった。この水ははじめはかすかなスープのような匂いを発していたが、やがてそれは非常にはっきりした硫黄《いおう》の臭いに変った。
このとき軟泥や熔岩や岩砕は炎々たる火のなかで一つになった。火の奔流はマウンガナムの山腹に何本もの筋を引いた。近くの山々も噴火で照らし出された。深い谷も強烈な反射光に照らされた。
蛮人たちはすべて、自分らの野営のまんなかで沸き立つ熔岩に火傷して立ち上っていた。火の川に襲われなかったものたちは逃げ出して周囲の丘に登った。それから彼らは恐怖に怯えながら振り返り、この恐ろしい現象を、彼らの神の怒りが聖なる山を犯したものたちをそのなかに叩きこんだこの噴火山を眺めた。そして噴火の弱まった瞬間には彼らがその祓魔《ふつま》の叫びをあげているのが聞こえた。
「タブー! タブー! タブー!」
そのあいだにも莫大な量の蒸気と火山石と熔岩がマウンガナムのこの噴火口から出ていた。それはもはやアイスランドのヘクラ山のそばにある間歇泉《かんけつせん》などというものではなく、ヘクラ山そのものだった。この火山の膿《うみ》は今までこの円錐峰の殻のなかにとじこめられていた。それはトンガリロの弁だけでその調節に充分だったからである。しかし新しい出口が開かれたとなると、それは極度の激しさで飛び出したのだ。そしてこの夜は、平衡の法則によって島のほかの火山の噴火はいつもより弱くなったに相違ない。
この火山の誕生の一時間後には、灼熱した熔岩の幅広い流れがいくつも山腹に走っていた。無数の鼠が棲めなくなった穴から出て熱した地面の上を逃げて行くのが見えた。
その一晩じゅう、しかも高い空で荒れ狂いはじめた嵐の下で、円錐峰はグレナヴァンが絶えず戦々兢々としていたほどの激しさで活動しつづけた。火は火口の縁を削った。
杭の囲いのうしろにかくれていた囚人たちはこの天然現象の恐るべき推移を見守っていた。
朝になった。火山の怒りは衰えなかった。黄色の濃い蒸気が炎とまじった。熔岩の奔流はそこらじゅうに蛇行していた。
グレナヴァンは目を見はり胸をときめかせながら、柵の囲いのすべての隙間に視線を送り、原住民の陣営の様子を観察した。
マオリ人たちは噴火の及ばぬ近くの台地の上に逃げていた。円錐峰の麓に横たわるいくつかの屍骸は火で黒焦げになっていた。その向うのパーのほうでは、熔岩は二〇戸ばかりの小屋を嘗《な》め、小屋はまだ煙を上げている。ニュージーランド原地民たちはあちらこちらにかたまって、マウンガナムの煙をいただいた頂上を宗教的な畏怖《いふ》をもって眺めていた。
カイ・クムは戦士たちのまんなかにやって来た。グレナヴァンは彼を認めた。酋長は熔岩の流れていない側から円錐峰の麓まで進んで来たが、山に足をかけることはしなかった。
その場所で彼は祓魔する呪術師のように両腕をひろげて何度か顔をしかめて見せたが、その意味は囚人たちにははっきりとわかった。パガネルが予想したように、カイ・クムはこの復讐の山に一層厳しいタブーを宣したのだ。
それから間もなく原住民たちは、パーに降りて行く曲りくねった小径を列を作って立ち去って行った。
「行ってしまうぞ!」とグレナヴァンは叫んだ。「奴らは陣地を捨てる! ああ、ありがたい! われわれの戦略は成功した! ヘレナ、勇敢な仲間たち、われわれはここで死んだのだ。ここで埋められたのだ! しかし今夜われわれは復活し、われわれの墓を去り、あの野蛮な土民どもから逃れるのだ!」
ウドゥパに漲《みなぎ》った歓喜は余人には想像しがたいものだった。希望がすべての人の心によみがえった。この勇敢な旅行者たちは過去を忘れ、将来を忘れ、現在のみしか思わなかった。けれどもこの未知の地方のまんなかでヨーロッパ人の住むところにたどりつくというこの仕事は容易なものではなかったのだ。ただカイ・クムの目をくらましたので、彼らはニュージーランドのすべての蛮人から逃れられたと思っていた。
少佐はどうかといえば、あのマオリ人どもに対する極度の侮蔑を彼はかくしはしなかった。そしてありとあらゆる言葉で彼らを形容した。これはパガネルと彼の競《せ》り合いになった。二人はこの原地民たちのことを言語道断な獣、阿呆な騾馬、太平洋の白痴、瘋癲病院《ベドラム》の野蛮人、地球の反対側の痴呆等々と言った。彼らはとめどなかった。
最後の脱走までにはまる一日過ごさねばならなかった。一同はその一日を費して逃走計画を練った。パガネルは例のニュージーランドの地図を後生大事に持っており、最も安全なルートをこの図上で求めることができた。
議論のあげく逃走者たちは東にむかってプレンティ湾のほうに進むことに決めた。それは未知の、しかしおそらく人のいない地方を横切ることだった。自然の困難を切り抜け、肉体的な障害を避けて行くことにはすでに慣れているこの旅行者たちは、マオリ人との遭遇のみしか恐れなかった。だから彼らはどんなことがあってもマオリ人を避けて、宣教師がいくつかの施設を作っている東岸に出ようと思ったのである。その上、島のこの部分は今まで戦禍を免れており、原地民の群れもこのあたりの野をうろついてはいなかった。
タウポからプレンティ湾までの距離はといえば、一六〇キロと見積ることができた。一日一六キロで一〇日の道のりだ。これくらいならば疲れることなしに行かれる。しかしこの勇敢な一隊のなかには誰一人ゆっくり歩こうとするものはいなかった。いったん宣教会に着いてしまえば、旅行者たちはオークランドに出る何かの好機を待ってそこで休めばいい。というのは、彼らが出ようと思っていたのは依然としてオークランドの町だったからである。
こうしたいろいろの問題が決定されてしまうと、一同は夕刻まで原住民への監視をつづけた。原住民は一人としてもはや山麓にとどまっていなかった。そして闇がタウポの谷々を浸したときにも、円錐峰の下にマオリ人のいることを示す火は一つも見えなかった。道は開かれていた。
九時、暗夜を衝いてグレナヴァンは出発の合図を下した。カラ・テテのおかげで武器も道中の準備もととのえた彼ら一行は慎重にマウンガナムの斜面を降りはじめた。ジョン・マングルズとウィルスンが目も耳も緊張させながら先頭に立つ。ほんのちょっとした音にもたちどまり、ほんのちょっとした光も窺《うかが》ってみる。皆はできるだけ山の斜面に紛れるようにいわばその斜面を滑り降りた。
頂から六〇メートル下でジョン・マングルズと水夫は、原住民があれほど執拗に見張っていた危険な尾根に出た。もし不幸にして逃走者より悪智慧の働くマオリ人が彼らを引き寄せるために撤退《てったい》を装ったのだとすれば、もし彼らがあの火山現象に欺かれていなかったのだとすれば、まさにこの場所で彼らの存在がわかるはずだった。グレナヴァンはいかに自信があろうと、そしてまたパガネルがいろいろと冗談を言っていたにもかかわらず、戦慄をおぼえずにはいられなかった。彼ら一同の救いはまったく尾根を横切るに要するこの一〇分ばかりの時間にかかっていたのだ。彼は自分の腕にすがりついているレイディ・ヘレナの心臓がときめくのを感じた。
もっとも彼はしりぞくことは考えなかった。ジョンはなおさらである。若い船長はほかの一同を従え、闇に守られて、石が剥れて台地の下までころがり落ちるときには停止しながら、狭い尾根を這って行った。もし蛮人がなおも下のほうに待ち伏せしていたとすれば、この奇妙な音は両側からの銃撃をよびおこしたことであろう。
それでも、傾斜したこの尾根を蛇のように滑るのでは、逃走者たちは速くは行けなかった。ジョン・マングルズが最低点に達したときには、前に原住民たちが陣取っていた台地からかろうじて七、八メートルしか離れていなかった。それから尾根はかなり急傾斜で上り、四〇〇メートルほどのあいだはちょっとした森にむかって登って行く。
けれどもこの鞍部《あんぶ》は事もなく通り過ぎて、旅行者たちはふたたび黙々と登りはじめた。木立は目には見えなかったが、そこにあるのは感じられた。そしてもし伏兵がそこに置かれていないとすれば、そこまで行ってしまえば安全だとグレナヴァンは思った。けれども彼は、この時からはもうタブーの保護はないのだと気がついた。上って行く尾根はもはやマウンガナムではなく、タウポ湖の東部に聳《そび》える山系にその尾根に属するのだ。だから単に銃撃だけではなく、肉薄攻撃さえ考えられるのだった。
一〇分ほど小さな一隊は目に見えぬほどの動きで山の上部のほうへ登って行った。ジョンにはまだあの暗い森は見えなかったが、そこまでは六〇メートルもないに相違なかった。
突然彼はたちどまり、ほとんどあとずさった。闇のなかに何か音を聞いたように思ったのだ。彼の躊躇は仲間たちの行進にブレーキをかけた。
彼は動かなかった、しかも後につづく人々を不安にさせるほど長く。一同は待った。どんな不安にさいなまれながらか、それはとても言いあらわせない! 引き返してマウンガナムの頂にもどらねばならないのか?
しかしジョンは音がくりかえされないのを見て、狭い尾根道をまた登りはじめた。
間もなく森は闇のなかにぼんやりと浮き出した。ほんの数歩でそこに達すると、逃走者たちは密生した木の葉のかげにうずくまった。
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十六 挾み討ち
夜がこの脱走にさいわいした。それゆえさらにこの夜陰に乗じて無気味なタウポ湖の近辺から去らねばならなかった。パガネルが一行の先導に当った。そして彼の驚くべき旅行者の本能は、この困難な山中彷徨のあいだにまたしても発揮された。ほとんど目に見えぬ山径をためらうことなく選び、一定の方向を取って決してそれから逸《そ》れずに、暗黒のなかを彼は驚くべき巧みさで動いた。いかにも彼のニクタロピー(鳥目)が大いに役に立ってはいた。そしてその猫の目のおかげで、この深い闇のなかでどんな小さなものでも見分けることができるのであった。
三時間のあいだ一同は東の山腹の非常に長い斜面を休みなしに進んだ。パガネルは少々南東へ進路を取った。オークランドからホークス湾への街道の通っているカイマナワとワヒティ・レインジのあいだに穿《うが》たれた隘路《あいろ》に出るためである。彼はこの峡道を越えたら道からはずれてしまって、高い山脈に守られながらこの州の無人地域を通って海岸へ進むつもりでいたのだ。
午前九時には一二時間の歩行で一九キロ稼いでいた。これ以上のことを勇敢な婦人たちに要求することはできなかった。その上この場所は野営に好適であるように見えた。逃走者たちは二つの山脈を分ける鞍部に達していた。縦貫道路は依然として右手にあり、南にむかって走っていた。パガネルは地図を手にして北東へ直角に曲り、一〇時には一行は山の突出部の形づくる急峻な凸角堡《とつかくほ》のようなところに着いた。食糧はサックから出され、一同は大いに食べた。これまで食用羊歯にあまり満足していなかったメァリ・グラントと少佐もこの日はそれに舌鼓《したつづみ》を打った。休息は午後二時までつづき、それから東へと出発した。そして旅行者たちは夕刻山から一三キロのところで停止した。促されるまでもなく彼らは露天で眠った。
あくる日の道にはかなり重大な困難があった。ワヒティ・レインジの東にひろがる火山湖や間歇泉や硫気孔《りゅうきこう》の多い奇妙な地域を横切らねばならないのである。これは目には大いに楽しみだったが、足のほうには一向そうではない。四〇〇メートルごとに迂回したり、障害にぶつかったり、鍵の手に曲ったりする。それはもちろんひどく疲れることだった。しかし何という異様な眺め、何という限りない変化を自然はこの壮大な場面に与えていることだろう!
この三〇キロ平方の広々とした土地の上で、地下の力の溢出《いっしゅつ》はありとあらゆる形でおこなわれているのである。数十億の昆虫の集まっている異様なまでに透明な鹹泉《かんせん》が、自生の茶の木の繁みから湧いている。それらの泉は焼けた火薬のような鼻を刺す臭いを発し、まばゆい雪のように白い沈澱物を地面に残す。その水は沸騰するほどの高熱に達しているのだが、近くの別の泉は氷のように冷い水となって湧いているのだ。巨大な羊歯がその縁に生えている、しかもシルリア紀の植物のような状態で。
四方八方で蒸気の渦を纒《まと》った水の束が公園の噴水のように地面から奔騰《ほんとう》している。そのあるものは絶え間なしに、またあるものは気まぐれな地中の神の専制的な意志に服するもののように断続的に。これらの泉は近代造園術の水盤のように積み上げられた地壇の上に半円形に配置されている。その水は白い煙の渦の下で徐々に混り合い、そしてこの巨大な階段の半透明な段から溢れ出して、煮え立つ滝の連続をなしてあちこちの湖に流れこむのだ。その向うでは熱泉や間歇泉はなくなって硫気孔があった。地面は一見大きな膿疱《のうほう》だらけになっている。これらのすべてが、半ば火の消えた、無数の割れ目ができた火口であって、いろいろな種類のガスがそこから出ている。大気には硫化物の鋭い不快な臭いが飽満している。硫黄は瘡蓋《かさぶた》や結晶をなして地面に敷きつめられている。ここにはもう何百年も前から厖大な量の不毛な資源が蓄積されているのだ。そしてシチリア島の硫黄鉱山がいつか掘り尽くされることがあれば、工業はニュージーランドのまだほとんど人に知られぬこの地方に原料を求めて来ることになろう。
この障害の多い地方を横切るのに旅行者たちがどんな疲労に堪えねばならなかったかは理解に難くあるまい。ここでは野営はむずかしかった。そして猟をしようにも、ミスタ・オルビネットの手で羽を毟《むし》られるに価する鳥は銃の筒先にあらわれなかった。だから大抵の場合は羊歯と甘藷という、疲れ果てた一行の体力を回復させることはほとんどできない貧しい食事で我慢しなければならなかった。誰もがそのため、早くこの不毛の人気ない土地から逃げ出したいと思っていた。
けれども、この歩きにくい地方を迂回するには四日以下では足りなかった。ようやく二月二三日になって、マウンガナムから八〇キロのところでグレナヴァンは、パガネルの地図に記されているある無名峰の麓で野営することができた。灌木におおわれた平原は彼の目の下にひろがり、大きな森林がふたたび地平線にあらわれた。
これは吉兆だった。ただしこの地方が居住可能であるため人間がたくさん住んでいなければの話だが。これまでのところ旅行者たちは一人の原住民の影も見なかった。
この日マクナブズとロバートは三羽のキウィを殺し、そのキウィは野営の食膳を飾ったが、実を言えばそれもあまり長いことではなかった。なぜなら数分で嘴《くちばし》から脚まで貪り食われてしまったのだ。
それからデザートの甘藷と馬鈴薯のあいだにパガネルは一つの動議を提出し、これは大喜びで採択された。
九〇〇メートルの雲のなかに頭をかくしているあの無名峰にグレナヴァンの名をつけることを彼は提案したのだ。そして彼は地図上にこのスコットランド貴族の名を丹念に書きこんだ。
旅のその後にあったかなり単調で興味のない事柄をくどくど述べる必要はあるまい。二つか三つの多少重要な事実が湖から太平洋までのこの横断で目立った。
一同は一日じゅう森林や平原を進んだ。ジョンは太陽と星で方向を測定した。気候はかなり温和で暑熱や雨はなかった。けれども疲労はだんだんと募って、これまですでにひどい苦しみに遭っているこの旅行者たちの歩みを遅らせ、彼らは早く宣教会に着きたいと心ばかり焦った。それでも彼らはおしゃべりした。話し合った。しかしもはやみんなで話し合うのではない。この一行は、もはや緊密な共感ではなく、もっと個人的な考え方の一致で結ばれるグループに分れていた。
大抵グレナヴァンは、海岸部に近づくにつれて〈ダンカン〉とその乗組員のことを思いながら一人で歩いた。オークランドに着くまではなおも彼を脅かしている危険を忘れて、彼は虐殺された自分の水夫たちのことを考えた。この恐ろしいイメージは彼から去らなかった。
もはやハリー・グラントの話は出なかった。彼のためにはもう何一つ試み得ない以上、彼の話をしたところで何になるだろう? この船長の名がまだ口にされるのは、その娘とジョン・マングルズとの会話のなかでしかなかった。
ジョンはメァリがワレ・アトゥアの最後の夜に言ったことに彼女の前で全然触れないでいた。彼の慎しみは、ぎりぎりの絶望の瞬間に言われた言葉を本気で信じようなどとはしなかったのだ。
ハリー・グラントの話をするときは、ジョンはなおもこの後の捜索の計画をたてていた。彼はメァリに、ロード・グレナヴァンはこの失敗に終った事業を再開するだろうと断言した。あの文書の真実性は疑いを容れ得ないという事実から彼は出発した。だからハリー・グラントはどこかに生存している。だからたとい全世界の草の根を分けても彼を見つけ出さねばならぬ、と。メァリはこの言葉に酔った。そしてジョンと彼女は同じ思いで結ばれて、今は同じ希望のなかで一体となっていた。しばしばレイディ・ヘレナも彼らの会話に加わった。ただ彼女は決してこれほど多くの空しい希望に身をゆだねようとはしなかったが、それでも若い二人を悲しい現実に引きもどすことは差し控えた。
そのあいだ、マクナブズとロバートとウィルスンとマルレディは一行からあまり離れずに猟をし、各人はそれぞれ獲物を持ちかえった。パガネルはあいかわらずそのフォルミウムの簔《みの》にくるまって、黙然と考えこんで皆から離れていた。
にもかかわらず――これは言っておくべきだが――試錬や苦難や疲労や貧窮のさなかでは最も善良な性格の人々も癇癪《かんしゃく》をおこし啀《いが》み合うものだというあの自然法則にそむいて、この不幸を共にする仲間たちは皆依然として心を一つにし、献身的で、おたがいに仲間を救うためには生命も惜しまぬ気持でいた。
二月二五日には、道はパガネルの地図上のワイカリ河と思える河に阻《はば》まれた。この河は徒渉することができた。
二日間灌木の平原はつづいた。タウポ湖から海岸までの距離の半分は、疲れこそしたが悪いものには出逢わずに歩き通されていた。
それからオーストラリアの森林を思わせる巨大な果しもない森林があらわれた。しかしここではユーカリのかわりにカウリが生えていた。四月《よつき》にわたる旅行で物事に感嘆する力がひどく衰えていたにもかかわらず、レバノン杉やカリフォルニアの〈マンモス・トリー〉に決してひけを取らぬこの巨大な松を見てグレナヴァンとその仲間は驚嘆した。植物学者の言葉では〈Abietacee damarine〉というこのカウリは、枝が分れ出すところまでの高さが三〇メートルもある。点々と木立を作って生え、林は木から成るのではなく、地上六〇メートルにその緑の葉のパラソルをひろげている無数の樹群から成っているのである。
これらの松のうちでまだ若く、ようやく樹齢一〇〇年ぐらいにしかならない何本かは、ヨーロッパの諸地方の赤松に似ていた。それらは尖端が鋭い円錐となった暗色の樹冠をいただいていた。反対に樹齢五〇〇年、六〇〇年という老樹は、複雑に分岐した枝に支えられた巨大な緑のテントを形づくっている。このニュージーランドの森林の長老は周囲一五メートルまでになり、旅行者たちが皆で腕を伸ばしてもこの幹をとりまくことはできなかった。
三日間この小さな一隊はこうした広大なアーチの下を、人間の足がかつて踏んだことのない粘土質の地面を踏んであえて進んだ。人跡をしるしていないことは、あちこちのカウリの根もとに積みかさなっている樹脂状のゴムの塊りでわかった。これだけで何年間にもわたり、輸出によって原住民をまかなえるほどだった。
マオリ人のよく歩く地方ではあれほど稀なキウィの多くの群れをハンターたちは発見した。ニュージーランド原地民の犬に追われたこの珍奇な鳥は、こうした人を寄せつけぬ森林に逃げこんでいたのだ。彼らは旅行者たちの食事の際にふんだんに食われた。
それのみかパガネルは、遠くのほうの密生した茂みに巨大な鳥類の番《つがい》を見ることができた。彼の博物学者の本能が目覚めた。彼は仲間たちを呼び、疲労にもめげず少佐とロバートと彼はその動物の後を追って駈け出した。
地理学者の熱烈な好奇心を人は理解するだろう。というのは、彼はその鳥を、多くの学者たちが絶滅した種に数えている〈ディノルニス〉種に属する〈モア〉と認めた、あるいは認めたように思ったのだから。ところでこの出逢は、翼のないこの巨鳥がニュージーランドに現存するというフォン・ホホシュテッター氏その他の旅行者の見解を確認したのである。
パガネルの追うこのモアはメガテリウムやプテロダクティルスと時代を等しくする生物で、体高五・七メートルに達するはずだった。これは途方もなく大きな駝鳥であって、少々臆病だった。猛烈な速度で逃げるからである。しかし走り出したら鉄砲の弾などで止まりはしない! 数分追ったが、その捕えることのできないモアたちは大木のかげに姿を消してしまい、ハンターたちは火薬を無駄にし徒《いたず》らに駈けまわっただけで終った。
三月一日のこの夜、グレナヴァンとその仲間たちはようやく広大なカウリの林を出て、一六五〇メートルの空にその峰をそばだてているイキランギ山の麓に野営した。
このときはマウンガナムから一六〇キロ近く歩いて来ており、海岸まではまだ五〇キロほどあった。ジョン・マングルズは一〇日で行けるものと思ったのであったが、そのとき彼はこの地方にあるいろいろの困難を知らなかったのだ。
事実、迂回や路上の障害や方位測定の不完全のために道程は五分の一も延び、しかも困ったことに旅行者たちはイキランギ山に着いたとき完全に疲労困憊していた。
ところが、海岸に出るためにはまだたっぷり二日は歩かねばならず、しかも今はまたあらたな機敏さが、極度の警戒が必要となった。頻繁に原地民の出没する地域にはいるからである。
けれども各人は疲労に堪え、翌日小さな一隊は夜明けに出発した。
右のほうに見残して行くイキランギ山と、左のほうに一二〇〇メートルの高さに聳えているハーディ山とのあいだで、行進は非常に苦しいものになった。一六キロにわたって〈|くまやなぎ《サップルジャック》〉の一面に生えた平原なのだ。これはいみじくも〈首締め蔓《つる》〉と名づけられている一種の蔓植物なのである。一歩ごとに腕や脚はそれに絡みこまれ、これらの蔓はまさに蛇のようにくねくねとしながら体に捲きついた。二日間というもの斧を手にして前進し、この一〇万もの頭をもつヒドラ、パガネルならば喜んで植虫類に分類しただろうと思われるこのうるさい強靱な植物とたたかわねばならなかった。
この平原では狩猟は不可能になり、ハンターたちはいつもの貢物《みつぎもの》をおさめなくなった。食糧は底をつき、あらたに補給することはできなかった。水も不足して、人々は疲れに加わる渇きをいやすこともできなかった。
このときのグレナヴァンとその仲間たちの苦しみはすさまじかった。このときはじめて彼らの精神力も挫《くじ》けそうになった。
もう歩くのではなく、身を引きずり、もぬけの殻のようになって、他のすべての感情が消えた後にも残る自己保存の本能だけに導かれながら、ついに彼らは太平洋岸のロティン岬にたどりついたのであった。
この場所には、最近戦火に荒された村の廃墟である何戸かの無住の小屋と見捨てられた畑が見られた。いたるところ掠奪と火事の跡があった。ここで運命は不幸な旅行者たちにあらたな恐るべき試錬を用意していたのである。
彼らが海岸沿いにさまよっていたとき、岸から一キロ半ほどのところに原住民の一隊があらわれて、武器を振りまわしながら彼らのほうへ駈けて来たのだ。海に追いつめられたグレナヴァンは逃げられなかった。そして彼が最後の力をふりしぼって戦いの準備をしようとしたとき、ジョン・マングルズが叫んだ。
「舟だ! 舟だ!」
なるほど、二〇歩ほどのところで六挺の橈をそなえた独木舟《まるきぶね》が砂浜に打ち上げられていた。それを海に押し出し、飛び乗り、この危険な岸を離れる、これは一瞬のうちにおこなわれた。ジョン・マングルズ、マクナブズ、ウィルスン、マルレディが橈を握った。グレナヴァンは舵を取った。二人の婦人とオルビネットとロバートは彼のそばに横になった。
一〇分のうちに独木舟は四〇〇メートルも沖に出ていた。海は静かだった。逃走者たちはじっと押し黙っていた。
けれどもジョンが海岸からあまり離れすぎないようにと思って、岸に沿って行けと声をかけようとしたとたん、彼の橈はにわかに手のなかで動かなくなった。
ロティン岬から出て来た三艘の独木舟を彼は認めたのだ。あきらかに彼らを追い駈けようとしているのである。
「沖へ! 沖へ! いっそ波に呑まれたほうがいい!」と彼は叫んだ。
四人の漕ぎ手に駆りたてられた独木舟はまた沖へむかった。三〇分ばかりは距離を保つことができた。しかし不幸な人々は疲れ切って、間もなくその力は萎《な》えようとしており、敵の三艘はいちじるしく彼らに優《まさ》っていた。このときは両者の距離はほとんど三キロもなかった。だから、長い銃を持っていて発砲の準備をしている原住民の攻撃を免れる可能性は皆無だった。
このときグレナヴァンは何をしていたか? 舟の艫《とも》に立って彼は夢にしかないような救いを水平線に求めていたのだ。何を彼は待っていたか? 何をしようというのか? 予感のようなものがあったのか?
突然彼の目は燃え上り、彼の手は海上の一点を指差した。
「船だ!」と彼は叫んだ。「諸君、船だ! 漕げ! しっかり漕げ!」
四人の漕ぎ手は一人としてこの思いがけない船を見ようとして振り向かなかった。ただの一度も橈を動かしそこねてはならなかったからである。ただパガネルは立ち上って望遠鏡を示された点に向けた。
「うん、船だ! 汽船だ! 全速で走っている! 元気を出せ、諸君!」
逃走者たちはあらたなエネルギーをしぼり出し、なお三〇分ほどは今までの距離を保ちながらあわただしく橈を動かして独木舟を駆った。汽船はだんだんとはっきり見えて来た。帆を張っていない二本のマストと黒煙の太い渦が見分けられた。グレナヴァンは舵をロバートに譲って地理学者の望遠鏡をつかみ、船の一挙一動を見守った。
しかしロードの顔が歪み、蒼ざめ、眼鏡がその手から落ちるのを見たとき、ジョン・マングルズとその仲間たちは何を考えたことであろうか? ただ一言がこの突然の絶望を説明してくれた。
「〈ダンカン〉だ!」とグレナヴァンは叫んだのだ。「〈ダンカン〉と囚人ども!」
「〈ダンカン〉だって!」とジョンは叫び、橈を放してすぐさま立ち上った。
「そうだ! どっちを見ても死だ!」これほどまでの不安に堪えられずにグレナヴァンはつぶやいた。
事実それはあのヨットだった。見紛《みまが》うはずはない、悪漢どもを載せたあのヨットだ! 少佐は思わず呪詛《じゅそ》の言葉を天に向けて吐き出した。これではあまりひどすぎる!
そのあいだ独木舟は打ち捨てられていた。どこへ舟を向けるか? どこへ逃げるか? 蛮人と囚人のいずれかを選ぶことなど可能だろうか?
一番近くに迫った原住民の舟から一発銃声がして、弾はウィルスンの橈に中《あた》った。それから橈が何度か水を打って独木舟は〈ダンカン〉のほうへ押しやられた。
ヨットは全速で進んで来、もはや七、八百メートルしか離れてはいなかった。ジョン・マングルズは袋の鼠となって、どのように舟を動かしたらいいか、どの方向へ逃げるべきかもはやわからなかった。あわれにも二人の婦人はひざまずいて身も世もなく祈っていた。
蛮人たちはつづけざまに射って来、弾は独木舟のまわりに雨と注がれた。ちょうどこのとき猛烈な爆発音がし、ヨットの大砲から飛び出した砲弾は彼らの頭上を飛んで行った。前後から挾撃された彼らは〈ダンカン〉と原住民の舟艇とのあいだでじっとしていた。
ジョン・マングルズは絶望に狂って斧をつかんだ。彼は独木舟の底を打ち破り、不幸な仲間もろとも独木舟を沈めようとしかけたのだが、そのときロバートの叫び声が彼を引き留めた。
「トム・オースティン! トム・オースティンが!」と少年は言った。「船にいる! 僕は見た! むこうも僕たちに気がついた! 帽子を振っている!」
斧はジョンの腕の先にぶらさがったままだった。
第二の砲弾が彼の頭上で風を切って、三艘の独木舟のうちの一番近くに迫っていたのを真っ二つにし、〈ダンカン〉の上では万歳の叫びが湧き上った。
蛮人たちは恐怖にかられて逃げ出し、岸に帰ろうとした。
「こちらへ! こちらへ! トム!」とジョン・マングルズは大音声《だいおんじょう》で叫んでいた。
そしてしばしの後には、どのようにしてか、どういう理由でかなどということは全然わからぬまま、一〇人の逃走者はすべて〈ダンカン〉の船上に安全におさまっていたのである。
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十七 〈ダンカン〉がニュージーランドの東岸を遊弋《ゆうよく》していた理由
古いスコットランドの歌が彼らの耳に響いたときのグレナヴァンとその友人たちの気持を描くことは断念しなければならない。彼らが〈ダンカン〉の甲板を踏んだ瞬間、笛吹きはそのバグパイプをふくらませてマルカムの氏族伝来のお国ぶりのピルブロックを吹きはじめ、力強い万歳の声が領主《レアド》の船への帰還を迎えたのである。
グレナヴァン、ジョン・マングルズ、パガネル、ロバート、いや少佐すらも、すべてのものが泣き、抱擁し合った。最初はただただ喜びであり、狂乱であった。地理学者は完全に狂っていた。彼は欣喜雀躍《きんきじゃくやく》し、その肌身離さぬ望遠鏡で今やっと岸に着いた原住民の独木舟を狙った。
しかし、服はずたずたになり、やつれた、しかもすさまじい苦しみの痕をとどめた顔つきをしたグレナヴァンとその仲間たちを見て、ヨットの乗組員は喜びをあらわすことをやめた。船に帰って来たのは幽霊であって、三月《みつき》前希望に溢れて遭難者の跡を追って行ったあの大胆な溌剌とした旅行者たちではなかった。偶然が、――偶然のみが彼らを、彼らがもはや再会を期していなかったこの船へ連れもどしたのだ! しかも何という憔悴と衰弱の状態で!
しかし疲労を、飢えと渇きの激しい要求を考える前に、グレナヴァンはトム・オースティンにどうしてこの海域にいるのかをたずねた。
なぜ〈ダンカン〉はニュージーランドの東岸にいるのか? どうしてベン・ジョイスに奪われていないのか? どんな奇蹟的な廻り合せでこの船は逃走者たちの行手にあらわれたのか?
なぜ? どうして? どんな目的で? このようにしてさまざまの質問が同時にトム・オースティンの耳もとで発せられ出した。老船乗りはどれを聞いていいかわからなかった。そこで彼はロード・グレナヴァンの言葉だけ聞き、彼にだけ答えることに決めた。
「だが囚人どもは?」とグレナヴァンはきいた。「囚人どもをどうした?」
「囚人ども?……」質問の意味が全然呑みこめぬ人間のような口調でトム・オースティンは反問した。
「そうだ! ヨットを襲った奴らは?」
「どのヨットで? 閣下のヨットですか?」
「そうとも! トム!〈ダンカン〉だ。そして船に来たあのベン・ジョイスの奴は?」
「そのベン・ジョイスなんてのは私は全然知りません。全然会ったこともありません」
「全然だって!」老船乗りの答にびっくり仰天してグレナヴァンは叫んだ。「それじゃあ言ってくれないか、トム、なぜ〈ダンカン〉は現在ニュージーランドの沿岸を遊弋《ゆうよく》しているんだ?」
グレナヴァン、レイディ・ヘレナ、ミス・グラント、パガネル、少佐、ロバート、ジョン・マングルズ、オルビネット、マルレディ、ウィルスンには老船乗りの驚きの理由が全然わからなかったが、トムが静かな声で次のように答えたときは彼らはいかばかり唖然としたことであろう。
「ですが、〈ダンカン〉は閣下の命令によってここで遊弋しております」
「私の命令で!」とグレナヴァンは叫んだ。
「はい。私は一月二四日づけのお手紙にあった指令に従っただけですが」
「私の手紙! 私の手紙!」とグレナヴァンは叫んだ。
このとき一〇人の旅行者はトム・オースティンをとりまき、むさぼるように彼をみつめた。スノウイ・リヴァーで書いた手紙はそれでは〈ダンカン〉にとどいたのか?
「よろしい」とグレナヴァンは言った。「よく話し合おう。私は夢を見ているような気がするんだ。トム、君は手紙を受け取ったのだね?」
「はい、閣下のお手紙を」
「メルボルンでか?」
「メルボルンで、船の損傷の修理を終えようとしていたときに」
「ではその手紙は?」
「閣下の手で書かれてはいませんでしたが、ミロード、閣下の署名はありました」
「まさにそれだ。私の手紙はベン・ジョイスという囚人の手で君のところにとどけられた」
「いや、〈ブリタニア〉のクウォータマースターのエアトンという水夫です」
「そうだ! エアトンとベン・ジョイスは同一人物なのだ。それでは、その手紙には何と書いてあった?」
「ただちにメルボルンを去って、東岸に遊弋するようにというあなたの命令でした……」
「オーストラリアのだろう?」と、老船乗りが面喰らったほどの激しさでグレナヴァンは叫んだ。
「オーストラリアの!」とトムは目を見ひらいて言った。「いやいや、ニュージーランドのですよ!」
「オーストラリアだ! トム、オーストラリアだ!」とグレナヴァンの仲間たちは異口同音に答えた。
このときオースティンは一種の目まいをおぼえた。グレナヴァンがこれほどの確信をもって言っているので、彼は手紙を読むとき間違えたのではないかと不安をおぼえたのだ。忠実で几帳面な船乗りである彼がそんな誤りを犯したとは? 彼は赤くなり、もじもじした。
「おちつきなさい、トム」とレイディ・ヘレナは言った。「神さまのおぼしめしは……」
「いいえ、奥さま、申し訳ありませんが!」と老トムは言った。「いや、そんなはずはない! 私は間違えてはおりません。エアトンも私と同じく手紙を読みました。そして彼のほうがオーストラリアの海岸へ私を引き戻そうとしたのです!」
「エアトンが?」とグレナヴァンは叫んだ。
「エアトンですとも! 奴はそれは誤りだ、閣下は私にトゥーフォールド・ベイへ来いとおっしゃるのだと言い張りましたよ!」
「君はその手紙を持っているかい、トム?」最高度に興味をそそられて少佐がきいた。
「ええ、マクナブズさん」とオースティンは答えた。「取って来ます」
オースティンは船首楼の自分の船室に走って行った。彼のいない一分間ほどのあいだ皆は顔を見合わせ、口をつぐんでいた。ただ少佐だけはパガネルに目を注ぎながら、腕を組んで言った。
「いやはや、パガネル、こいつはちょっとひどすぎると認めねばなるまい!」
「何だって?」と地理学者は言ったが、背を丸め眼鏡を額に押し上げて、まるで大きな疑問符といった恰好だった。
オースティンが帰って来た。彼はパガネルが書いてグレナヴァンが署名した手紙を手にしていた。
「閣下、お読みください」と老船乗りは言った。
グレナヴァンは手紙を取って読んだ。
「トム・オースティンへの命令。ただちに海に出、緯度三七度のニュージーランド東岸へ〈ダンカン〉をまわす……」
「ニュージーランド!」とパガネルは飛び上って叫んだ。
そして彼はグレナヴァンの手から手紙をひったくり、目をこすり、眼鏡を鼻の上にのせ、自分で読んだ。
「ニュージーランド!」と彼はとても表現できないような口調で言い、手紙は彼の指から落ちた。
そのとき彼は一つの手が自分の肩に置かれるのを感じた。彼は身をおこし、目の前に少佐を見た。
「どうだ、パガネル君」とマクナブズはいかめしい声で言った。「君が〈ダンカン〉を交趾支那《コーチしな》にやらなかったのはまだしも幸運だったよ!」
この冗談は哀れな地理学者にとどめを刺した。ホメロス的な一斉の哄笑がヨットの乗組員全体にひろがった。パガネルは両手で頭をかかえ髪をかきむしりながら狂人のように行ったり来たりしていた。自分が何をしているのか彼にはもうわかっていなかった。何をしようとしているのかも同じくわからなかった! 彼は無意識的に船尾楼の階段を降りた。よろめき、当てもなく前へ前へと進みながら甲板をずかずかと歩き、船首楼に上った。そこで彼の足は錨索にからまった。彼はよろめいた。手は偶然一本の繩につかまった。
突然すさまじい爆発音がとどろいた。船首楼の大砲が発射し、静かな海の波に霰弾の雨を注いだ。運の悪いパガネルはまだ装填してあった大砲の繩をつかみ、打ち金が雷管の上に落ちたのである。そのための轟音だったのだ。地理学者は船首楼の階段の上でもんどり打ち、昇降口から船員室のなかへ消えた。
砲声のひきおこした驚きにつづいて恐怖の叫びがおこった。皆は事故だと思った。一〇人の水夫が中甲板に駈け降り、体を二つに折ったパガネルを運び上げた。地理学者は物を言わなかった。
人々は彼の長い体を船尾楼の上に運んだ。この善良なフランス人の仲間たちは絶望していた。事あるときにはいつも医者になる少佐は、傷の手当をするために不幸なパガネルの服を脱がそうとした。しかし彼がこの瀕死の人間の胸に手をかけるや否や、この男は電気のコイルに触れたように飛び起きた。
「駄目だ! 駄目だ!」と彼は叫んだ。そうしてその痩せた体にぼろぼろの服をかきよせて奇妙なあわただしさでボタンをかけた。
「しかし、パガネル!」と少佐は言った。
「駄目だと言うんだ!」
「調べなくちゃ……」
「調べなくともいい!」
「もしかすると何かを折って……」
「そうかもしれん」パガネルは長い脚の上にまっすぐ立ち上って答えた。「しかし私が何を折っても、木工が直してくれるよ」
「一体何を?」
「船員室の柱さ。私がおっこちたんで折れたんだ!」
この答に哄笑は前より一層大きく爆発した。この答は尊敬すべきパガネルの友人すべてを安心させた。彼は船首楼の大砲を相手の冒険で怪我一つ負わないですんだのである。
「とにかく」と少佐は思った。「こいつは妙に恥かしがり屋の地理学者だ!」
けれどもパガネルは周章狼狽《しゅうしょうろうばい》から我にかえると、避けることのできない質問になおも答えねばならなかった。
「それでは、パガネル」とグレナヴァンは言った。「正直に答えてくれたまえ。君のうっかりしたのが天佑《てんゆう》だったことは私も認めるよ。たしかに君がいなければ〈ダンカン〉は囚人どもの掌中に落ちていたろう。君がいなければわれわれはまたマオリ人につかまっていたろう。しかしどうか是非とも言ってもらいたいのだが、どういう奇怪な連想で、どんな摩訶《まか》不思議な心の迷いで、君はオーストラリアのかわりにニュージーランドと書くことになったんだね?」
「いや、まったくの話!」とパガネルは叫んだ。「それはね……」
しかしその瞬間彼の視線はロバートに、メァリ・グラントにむかい、はっと口をつぐんだ。それから彼は答えた。
「しようがない、グレナヴァン、私は馬鹿だ、気ちがいだ、始末に負えない人間なんだ。死ぬまでこのとおりの名にしおううっかり者で通すだろう」
「誰かが君を裸にしないかぎりはね」と少佐が口を出した。
「私を裸にする!」と地理学者は憤然とした様子で叫んだ。「そいつはあてこすりか?……」
「どんなあてこすりかね、パガネル?」と少佐は持ち前のおちついた声で反問した。
この一件はそれ以上後を曳かなかった。〈ダンカン〉がここにいたことの謎は解けた。奇蹟的に救われた旅行者たちは自分たちの快適な船室に帰って食事をすることしかもう考えなかった。
けれども、レイディ・ヘレナとメァリ・グラント、少佐、パガネル、ロバートが船尾楼に入るのを見送って、グレナヴァンとジョン・マングルズはトム・オースティンを自分らのそばに引き留めた。彼らはなおオースティンに問いただしたかったのだ。
「それでは、トム」とグレナヴァンは言った。「私の訊くことに答えてくれ。ニュージーランド沿岸を遊弋しろというその命令は君には奇妙に思えなかったかね?」
「思えました、閣下。私はとても意外に思いましたが、自分に与えられた命令についてとやかく言う習慣は私にはないんで、私は服従しました。ほかにどうすることができたでしょう? 指令に忠実に従わなかったために何か災難が起こったら、私が悪かったということになりはしませんか? 船長、あなたならばほかのことをしましたか?」
「しないよ、トム」とジョン・マングルズは答えた。
「それにしても、君はどう考えた?」とグレナヴァンはきいた。
「ハリー・グラントのために、閣下の行けとおっしゃったその場所へ行かねばならないのだと私は考えました。新しく計画を練った結果、別の船であなたはニュージーランドに行くことになり、私は島の東岸であなたを待つことになったのだと私は考えました。その上メルボルンを出発するとき私は行先を秘密にしていましたし、乗組員は船が沖に出て、オーストラリアの陸がすでにわれわれの目から見えなくなった時になってはじめてそれを知ったのです。しかしこのときちょっとした事件が起こって、私はまったく閉口しましたが」
「それはどういうことだ、トム?」とグレナヴァンはきいた。
「というのは、クウォータマースターのエアトンは出帆の翌日〈ダンカン〉の行先を聞くと……」
「エアトンが!」とグレナヴァンは叫んだ。「それではあいつは船にいるのか?」
「ええ」
「エアトンがここに!」ジョン・マングルズに目をやってグレナヴァンはくりかえした。
「神のみこころですよ!」と若い船長は答えた。
一瞬のうちに、エアトンのふるまい、長い時間をかけて準備された彼の裏切り、グレナヴァンの負傷、マルレディを殺そうとしたこと、スノウイ河の沼沢地にはまりこんだ一行の苦難、あの憎むべき人間のすべての過去がこの二人の眼前を電光の速さでよぎった。そして今、いろいろの事情の奇妙な結びつきで、あの囚人は彼らの手中にあるのだ。
「奴はどこにいる?」とグレナヴァンはきおいこんで言った。
「船首楼の船室です」とトム・オースティンは答えた。「厳重に見張られています」
「どうしてそう監禁しているんだ?」
「エアトンはヨットがニュージーランドにむかうのを見ると暴れまわったから、船の方向を無理矢理に私に変えさせようとしたから、私を脅迫したから、そして最後に私の部下たちを叛乱を起こせと煽動したからです。私にはこいつは危険な人物だとわかりました。そうして奴に対して警戒の手を打たねばならなかったんです」
「そしてその後は?」
「その後は奴は船室にとどまっています、出ようともせずに」
「よろしい」
ちょうどこのときグレナヴァンとジョン・マングルズは船尾楼に呼ばれた。彼らがまことに切実に必要としていた食事の用意ができたのだ。彼らは食堂のテーブルの前に坐り、エアトンのことは全然口に出さなかった。
しかし食事が終って、一同が充分飢えと疲れを癒して甲板に集まったとき、グレナヴァンはクウォータマースターがこの船にいることを彼らに知らせた。それと同時に彼は、この男を皆の前に引き出そうという意図を彼らに告げたのだ。
「私はその訊問に立ち会わないでいるわけには行かないかしら?」とレイディ・ヘレナはきいた。「正直に言うと、エドワード、あの男を見るのは私にはとても辛いだろうと思うの」
「これは対決なんだ、ヘレナ」とロード・グレナヴァンは言った。「ここにいてくれ、どうか。ベン・ジョイスは奴の被害者のすべてと顔をつきあわす必要がある!」
レイディ・ヘレナはこの言葉に服した。メァリ・グラントと彼女はロード・グレナヴァンのそばに控えた。彼のまわりに少佐、パガネル、ジョン・マングルズ、ロバート、ウィルスン、マルレディ、オルビネットと、この囚人の裏切によって重大な危険を嘗《な》めさせられたすべてのものがならんだ。ヨットの乗組員たちはこの場面の重大性をまだ理解しないままに深い沈黙を守った。
「エアトンを連れて来い」とグレナヴァンは言った。
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十八 エアトンかベン・ジョイスか
エアトンはあらわれた。彼はしっかりとした足取りで甲板を横切り、船尾楼の階段を登った。彼の目は暗く、歯は食いしばり、その手はわなわなするほど握りしめられていた。その態度は虚勢も卑屈さも示していなかった。グレナヴァンの前に出ると彼は腕を組み、黙然として平静に訊問を待った。
「エアトン」とグレナヴァンは言った。「われわれはこうして、君がベン・ジョイスの囚人どもの手に渡そうとしたその〈ダンカン〉の上にいる!」
この言葉を聞いてクウォータマースターの唇はかすかに顫《ふる》えた。無感動な彼の顔にさっと赤みが走った。悔恨の赤面ではなく、不成功を恥じる赤面だ。自分が主《あるじ》となって指揮しようと思ったこのヨットの上で今彼は囚人の身なのであり、彼の運命はしばしの間に決定されようとしていた。
けれども彼は答えなかった。グレナヴァンは辛抱づよく待った。しかしエアトンはあくまで完全な沈黙を守ろうとした。
「話せ、エアトン、何か言うことがあるか?」とグレナヴァンはくりかえした。
エアトンはもじもじした。彼の額の皺は深く刻まれた。それから静かな声で、
「何も言うことはありません、ミロード」と彼は答えた。「私は愚かにもおめおめ捕えられてしまった。お好きなようにしてください」
そう答えてしまうと、クウォータマースターは西方に連なっている海岸のほうへ視線をやり、身のまわりに起こるすべてのことに対する徹底した無関心を装った。彼を見ていると、この重大な事件に彼は無関係であるように見えた。しかしグレナヴァンは辛抱づよくやろうと決心していた。強い興味にひかれて彼はエアトンの謎の生活の若干の事件、とりわけハリー・グラントと〈ブリタニア〉に関係のある事実を知りたいと思った。そこで彼はきわめておだやかな言葉つきで、自分の心の激しい苛立ちを極力抑えて完全な平静を保ちながら訊問を再開した。
「エアトン、君も私がしたいと思ういくつかの問いに答えることは拒むまいと私は思う。そしてまず第一に、私は君をエアトンと呼ぶべきなのかベン・ジョイスと呼ぶべきなのか? 君は〈ブリタニア〉のクウォータマースターだったのかどうか?」
エアトンは一切の質問に耳を閉ざして海岸を眺めながら平然としていた。
「どのようにして〈ブリタニア〉を去ったのか、どうしてオーストラリアにいたのか教えてくれないかね?」
依然たる沈黙、依然たる無感動だった。
「よく聞け、エアトン。しゃべったほうが君の身のためだ。正直に言えばそれだけ斟酌《しんしゃく》されるだろう、正直さこそ君の最後の頼みの綱なのだ。最後にもう一度訊くが、君は私の質問に答える気か?」
エアトンはグレナヴァンのほうへ顔を向け、まともに相手の目を見据えた。
「ミロード」と彼は言った。「私には答えることはない。私に不利な証拠を提出するのは、私ではなく私を裁くもののなすべきことですから」
「証拠を出すのは容易だろう!」とグレナヴァンは答えた。
「容易ですって、ミロード?」とからかうようにエアトンは言った。「それはすこし言い過ぎのようにお見受けしますな。テンプル・バーの裁判所の判事といえども私の扱いには苦しむだろうと私は断言しますよ! それを言うことのできるグラント船長がいない以上、誰が私がオーストラリアに来た理由を知り得ましょう? 警察が私を一度も捕えたことがなく、私の仲間たちが自由である以上、私が警察から手配されているそのベン・ジョイスであることを誰が証明し得ましょう? あなたがたを除いて誰が、私が犯罪どころか、非難さるべき行為をおこなったとすら申し立てられますか? 私がこの船を奪って囚人たちに渡そうとしたと誰が主張できますか? そんなのは一人もいませんよ、いいですか、一人も! あなたはいかにも嫌疑をかけている。しかし一人の人間を断罪するには確証が必要であるのに、あなたには確証がないのです。反対の証拠が上るまでは、私は〈ブリタニア〉のクウォータマースター、エアトンです」
エアトンはしゃべっているうちに昂奮して来たが、すぐにまたもとの無関心にかえった。おそらく彼は自分のこの発言で訊問は終ると思っていたのだろう。しかしグレナヴァンは語を継いで言った。
「エアトン、私は君に対して予審をおこなうべき判事ではない。そんなことは全然私の関心事ではないのだ。われわれの相互の立場を明確にしておくことが必要だ。私は君の立場を危くするようなことは何も訊いてはいない。それは裁判所の問題だ。しかし君は私がどんな捜索をしているかを知っている。そして君の一言で私は失われた手がかりをまたつかめるのだ。話す気はないかね?」
エアトンはあくまで口を利くまいと決意をした人間らしく頭を振った。
「グラント船長がどこにいるか私に言う気はないかね?」
「いいえ、ミロード」とエアトンは答えた。
「〈ブリタニア〉がどこで坐礁したか教える気はないか?」
「ありません」
「エアトン」グレナヴァンはほとんど哀願的な口調で言った。「ハリー・グラントがどこにいるかを知っているのならば、せめて君の口から出るただの一言を待ち望んでいるこの哀れな子供たちに教えてやろうとは思わないか?」
エアトンは逡巡した。その顔は歪んだ。しかし低い声で、
「できません、ミロード」と彼はつぶやいた。
それから彼はまるで自分の一瞬の心弱さをみずから咎めたかのように、激しくこうつけくわえた。
「いや、私はしゃべりません! その気ならば私の首を絞めさせなさい!」
「首を絞める!」唐突な怒りの感情に駆られてグレナヴァンは叫んだ。
それからまた自分を抑えて彼は静かな声で答えた。
「エアトン、ここには裁判官も刑吏もいないのだ。この次の寄港地で君はイギリスの官憲の手に渡されるだろう」
「それこそ私の望むところです!」とクウォータマースターは言い返した。
それから彼はおちついた足取りで自分の牢獄となっている船室に帰り、二人の水夫が彼のどんな動きにも目をくばるように命じられてその戸口に配された。この場面に立ち会った人々は憤りと絶望をおぼえながら引き揚げた。
グレナヴァンがエアトンの強情にぶつかって失敗してしまった以上、後にどんな手が残されていたか? もちろん、失敗に終ったこの事業を後でまたやりなおすこととして、イーデンで立てたヨーロッパ帰還の計画に従うことしかない。なぜなら今は〈ブリタニア〉の足跡は決定的に失われたように見え、文書にはもはや何らの新解釈の余地もなく、三七度線上にはもうほかに国はなかった。そしてもはや〈ダンカン〉は引き返すしかなかったのだ。
グレナヴァンは友人たちと相談した後、特別にジョン・マングルズと帰還の問題について打ち合せた。ジョンは船艙を調べた。貯蔵の石炭はせいぜい二週間しかもたないはずだ。それゆえ一番近い寄港地で燃料を補給しなければならない。
ジョンはグレナヴァンに、すでに〈ダンカン〉がその世界周航にむかう前に補給したことのあるタルカウアノ湾へ舳《みよし》を向けることを提案した。それは直線コースであり、しかもちょうど三七度線上にあるのだ。それからヨットはたっぷり補給した上で南へむかってケープホーンをまわり、大西洋航路でスコットランドへ帰るのである。
この計画が採択され、機関士に圧力を上げるようにという命令が下された。三〇分後には、太平洋という名にふさわしい静かな海の上で船首はタルカウアノへ向けられており、午後六時にはニュージーランドの最後に残った山も水平線の厚い霧のなかに消えた。
かくて帰国の航海がはじまったのである。ハリー・グラントを連れずに港に帰るこの勇敢な捜索者たちにとっては、これは陰鬱な横断の旅だった! それゆえ、出帆にあたってはあれほど陽気だった、はじめのうちはあれほど自信満々だった乗組員たちは、今は敗北し絶望してヨーロッパへの帰途についたのだ。この善良な水夫たちは一人として故国を見ることを思っても感動をおぼえなかった。そしてグラント船長を見つけるためとあればすべてのものがなお長期にわたって海の危険に挑んだことであろう。
だから、グレナヴァンの帰船を迎えて起こった万歳は間もなく意気沮喪に変ったのであった。船客のあいだの絶え間のない行き来も、以前は海路の楽しみだったおしゃべりももはやない。誰もが皆と離れて自分の船室に一人でこもり、稀に誰かが〈ダンカン〉の甲板に姿をあらわすだけだった。
平素は嬉しいにつけ悲しいにつけ船の連中のすべての感情を誇張的に代表していた人間、必要とあれば話をこしらえてまで人に希望を抱かせたはずのパガネル――そのパガネルも暗い顔で黙りこんでいた。ほとんど彼の姿は見えなかった。彼の生来の多弁、彼のフランス人らしい活気は、沈黙と銷沈に変ってしまった。それどころか彼は仲間たちよりももっと徹底的に落胆してしまったように見えた。グレナヴァンが捜索を再開することを話しても、もはや何らの希望も持たず、〈ブリタニア〉の遭難者の運命についてはもう見切りをつけてしまった人間のように彼は頭を振った。彼が遭難者たちはもはや取り返しのつかないことになっていると考えていることは誰にも感じられた。
けれども、この惨事について決定的なことを言い得る人間が船にいた。そしてその男の沈黙はつづいていた。それはエアトンだった。この憎むべき男がグラント船長の真の所在ではなくとも遭難の場所を知っていることには何ら疑いはなかった。しかしもちろんグラントは、発見されれば彼を告発する証人となる。だから彼は頑くなに口を緘《かん》しているのである。特に水夫たちに見られる激しい怒りはそのためであり、水夫たちは彼をひどい目に遭わせようとしていた。
何度もグレナヴァンはクウォータマースターに対して説得を試みた。約束も威嚇も役に立たなかった。エアトンの強情さは徹底しており、また結局のところきわめて不可解であって、少佐はそのため彼は実は何も知らないのだと信ずるに至ったほどだった。のみならずこれには地理学者も同意見であり、またこれはハリー・グラントについての彼自身の独自な考え方を裏書きするものだった。
しかしエアトンが何も知らないのだとすれば、なぜ彼はその無知を告白しないのだろう? 知らないからといって彼にとって不利になることはあり得ない。彼の沈黙は新しいプランを立てることをよけい困難にしていた。クウォータマースターにオーストラリアで出逢ったことから、ハリーはこの大陸にいると推論すべきだろうか? 何としてもエアトンにこの問題について説明する決心をさせることが必要だった。
レイディ・ヘレナは夫の失敗を見て、今度は自分にクウォータマースターの強情さと根くらべさせてほしいと言った。男が失敗したことでも、女はもしかするとそのやわらかい影響力によって成功するかもしれない。大風が旅人の肩から外套を吹き飛ばすことのできないのに、太陽がほんのちょっと光を送ればたちまち外套を脱がせられるという寓話の、いつになっても変らぬあのたとえがあるではないか。グレナヴァンは若い妻の聰明さを知っていたので、何もかも彼女の好きなようにしてみるようにと言った。
この日は三月五日だったが、エアトンはレイディ・ヘレナの部屋に連れて行かれた。メァリ・グラントも会見に立ち会うことになっていた。この娘の影響力も大きいかもしれないし、レイディ・ヘレナはどんな成功の可能性もなおざりにしたくなかったのだ。
二時間のあいだ二人の女性は〈ブリタニア〉のクウォータマースターと一緒にとじこもっていたが、この会談については何一つ洩らされなかった。彼女らの言ったこと、囚人の秘密を割らせるために彼女たちが持ち出した理窟、この訊問のすべての細部は知られていない。その上彼女らがエアトンと別れたときには、彼女らは成功したような様子はしていなかったし、彼女らの顔は真の落胆をあらわしていたのだ。
そこでクウォータマースターがその船室に連れもどされるとき、水夫たちは彼の通るところを待ちかまえて猛烈な嚇《おど》し文句を浴せた。彼のほうは肩をすくめて見せただけだった。これが乗組員たちの憤激に油を注ぎ、それを押えるためにはほかでもなくジョン・マングルズとグレナヴァンとが間にはいることが必要だったのである。
しかしレイディ・ヘレナは自分が負けたとは思わなかった。彼女はこの無慈悲な心ととことんまで闘おうとし、翌日は彼がヨットの甲板を通るときいざこざが起こることを避けるために彼女自身がエアトンの船室に赴いたのだ。
二時間たっぷり善良なやさしいこのスコットランド女性は囚人どもの頭目と二人きりで差し向いで話した。グレナヴァンは神経がいらいらして船室のそばをうろうろしていた、あるときは成功の機会をとことんまできわめつくそうと、あるときは妻をこの辛い対談から連れ出そうと決心しながら。
しかし今度は、レイディ・ヘレナがふたたびあらわれたときにはその顔は楽観に満ちていた。それでは彼女はあの秘密を聞き出し、憎むべきこの男の心にわずかに残った同情心を動かしたのだろうか?
それに最初に気がついたマクナブズは、まことに無理もない不信の感情を抑えることができなかった。
けれどもクウォータマースターがレイディ・ヘレナの懇望についに動かされたという噂はたちまち乗組員のあいだにひろがった。それはいわば電撃であった。すべての水夫が甲板に集まった、しかもトム・オースティンの呼笛《よびこ》が彼らを作業のために召集したときよりも迅速に。
その間にグレナヴァンは妻のほうに駈け寄っていた。
「しゃべったか?」と彼はきいた。
「いいえ」とレイディ・ヘレナは答えた。「でも私の懇願に動かされてエアトンはあなたに会いたいと言っています」
「ああ、ヘレナ、それは成功だ!」
「だといいんですけど」
「私が追認しなければならぬような何かの約束をしてやったか?」
「一つだけ、あの男に与えられることになる運命を和らげるために、あなたが御自分の信望のすべてを賭けて努めるということです」
「よろしい、ヘレナ。エアトンをすぐによこしなさい」
レイディ・ヘレナはメァリ・グラントを連れて自分の部屋に引き取り、クウォータマースターはロード・グレナヴァンの待っている食堂に導かれた。
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十九 取引
クウォータマースターがロードの前に出ると、見張りのものはすぐに引き取った。
「君は私と話したいと言ったんだね、エアトン」とグレナヴァンは言った。
「そうです、ミロード」
「私一人とか?」
「そうです、しかしマクナブズ少佐とパガネルさんが会談に立ち会ってくださればそのほうがいいだろうと思います」
「誰にとっていいのだ?」
「私にとって」
エアトンは平静にしゃべった。グレナヴァンはじっと彼をみつめた。それからマクナブズとパガネルに知らせ、二人は早速招請に応じた。
「では君の話を聞こう」二人の友が食堂のテーブルの前に坐るや否やグレナヴァンは言った。
エアトンはしばらく考え、それから言った。
「ミロード、両当事者のあいだで契約もしくは取引がおこなわれる場合にはかならず立会人がいるのが習慣です。ですから私はパガネル、マクナブズ両氏がここにいられることを要求したのです。なぜなら私があなたに提案しに来たのは、まさに取引なんですから」
エアトンのやりかたに慣れていたグレナヴァンは、この男と自分とのあいだの取引などというのは奇妙なことと思えたにもかかわらず眉一つ動かさなかった。
「どういう取引なのだ?」と彼は言った。
「それはこうです。あなたは私から、あなたにとって役に立つかもしれないいくつかの事実を知りたいとお望みです。私はあなたから、私にとっては貴重ないくつかの有利な条件を得たいと思っています。ギヴ・アンド・テイクです、ミロード。この話はお気に召しませんか、いかがです?」
「その事実とは?」とパガネルがきおいこんで言った。
「いやいや」とグレナヴァンは言った。「その有利な条件とは?」
エアトンは叩頭して、グレナヴァンの見せた心づかいを理解したことを示した。
「私が要求する有利な条件とは次のようなものです。ミロード、あなたは依然として私をイギリス官憲の手に引き渡すおつもりですか?」
「そうだ、エアトン、それは当然のことにすぎない」
「そうではないとは申しません」とクウォータマースターはおだやかに答えた。「それではあなたは私に自由を返すことにはどうしても同意してくださいませんか?」
グレナヴァンはこれほどはっきりと持ち出された質問に答える前に逡巡した。彼がこれから言うことにハリー・グラントの運命がかかっているのだ。
けれども正義に対する義務感が勝ち、彼は言った。
「そうだ、エアトン、私は君に自由を返すことはできない」
「私は自由を求めてはいません」とクウォータマースターは傲然《ごうぜん》と答えた。
「それでは何を求めるのだ?」
「私を待っている死刑台と、あなたが私に与えることのできないという自由との中間の状態です」
「というと?……」
「是非とも欠かせない物とともに私を太平洋の無人島の一つに置いて行っていただきたいのです。私は何とかやって行きます。そしてその時間があったら悔悛《かいしゅん》するかもしれません!」
グレナヴァンはこのような申し入れはあまり予期していなかったので、黙りこんでいる二人の友に目をやった。しばらく考えたあげく彼は答えた。
「エアトン、私が君の要求を容れたら、私が知るべきことをすべて君は言ってくれるのだな?」
「そうです、ミロード、つまり、グラント船長と〈ブリタニア〉について私の知っていることのすべてを」
「すべての真相をか?」
「すべてです」
「しかし誰が私に保証してくれる?……」
「おお、あなたが何で不安なのか私にはわかります、ミロード。あなたは私を、悪人の言葉を信用しなければならない! それは事実です! しかし仕方がないではありませんか。現状はそうなのです。決断を下す以外にはありません」
「君を信用しよう、エアトン」とグレナヴァンはあっさりと言った。
「それが正しいのです、ミロード。それにまた、私があなたを瞞《だま》したら、あなたはいつでも私を罰することができるでしょう」
「どうして?」
「私はどうせ逃げられないのですから、島に私を捕えに来ればいいのです」
エアトンは何に対しても答を用意していた。彼はみずから困難を背負いこみ、自分にとって不利な決定的な論拠まで持ち出して来るのであった。それでわかるように、彼は疑う余地のない誠実さで彼のいわゆる〈取引〉を進める様子を見せていた。これ以上完全な信頼をもって事に当ることは不可能だった。それなのに彼は、この打算を超越した行き方をなおも徹底させるに至ったのだ。
「ミロード、そしてお二方」と彼は言い添えた。「私があなたがたにこのことを信じていただきたい。つまり、私は自分の手の内をさらけ出して勝負するということです。私はいささかもあなたがたを瞞そうとはしませんし、この取引における私の誠意の証拠をこれからもう一つ提供しましょう。私が率直に出るのは、私自身あなたがたの誠実さを期待するからです」
「話したまえ、エアトン」とグレナヴァンは答えた。
「ミロード、私はまだ私の提案に同意するというあなたのお約束をいただいていません。にもかかわらず私は躊躇なく申し上げますが、私がハリー・グラントについて知っているのは大したことではないのです」
「大したことではないって!」とグレナヴァンは叫んだ。
「そうです、ミロード。私があなたに申し上げられる事実は私自身に関係あることだけです。それは私個人に関することで、あなたが見失った足跡にあなたを立ち戻らせるにはあまり役に立ちますまい」
あきらかな失望がグレナヴァンと少佐の面上にあらわれた。彼らはこのクウォータマースターが重大な秘密を知っているものと思いこんでいたが、その当人が自分の教えることはほとんど成果をもたらさぬものだと認めたのだ。パガネルのほうは平然としていた。
それはともかく、いわば担保もなしにおこなわれたこのエアトンの告白はその聞き手たちの心を異様なまでに打った、特にクウォータマースターが結論的に次のようにつけくわえたときには。
「これで、ミロード、お断りすべきことはいたしました。取引はあなたよりも私にとって有利なのです」
「それはかまわん」とグレナヴァンは答えた。「私は君の提案を受け容れるよ、エアトン。太平洋のどこかの島に君を上陸させると私は約束する」
「結構です、ミロード」とクウォータマースターは言った。
この奇妙な男はこの決定を喜んでいるのだろうか? それは疑おうとすれば疑えた。彼の無感動な顔は何らの感情もあらわさなかったからである。まるで自分のためではなく他人のために取引をしているようだった。
「それでは何でもお答えしましょう」と彼は言った。
「われわれが君に質問するのではない」とグレナヴァンは言った。「君の知っていることをわれわれに言いたまえ、エアトン、まず第一に君が何者であるかをはっきりさせるのだ」
「私はほんとに〈ブリタニア〉のクウォータマースターのトム・エアトンです。私は一八六一年五月一二日、ハリー・グラントの船に乗ってグラスゴーを出発しました。一四ヵ月のあいだわれわれは、スコットランド人の植民地を建設するのに好適な地点を求めながら太平洋の諸海域を馳せめぐりました。ハリー・グラントは大事業のできる人間ですが、しばしば彼と私のあいだには重大な議論が起こりました。彼の性格が私とは合わないのでした。私は人に服従することができません。ところが相手がハリー・グラントでは、いったん彼が断を下してしまうとどんな抵抗も不可能なのです。この男は自分に対しても他人に対しても鉄石の心を持っていました。にもかかわらず私はあえて反抗したのです。私は乗組員たちを自分の叛乱に引きずりこみ、船を乗っ取ろうとしました。私が悪かったか否かは問題ではない。いずれにしてもハリー・グラントは狐疑逡巡《こぎしゅんじゅん》しませんでした。そして一八六二年四月八日に彼はオーストラリアの西岸に私を上陸させてしまったのです」
「オーストラリアか」と少佐はエアトンの物語に口をはさんだ。「それでは君はカリャオに寄港する前に〈ブリタニア〉を去ったのだな。〈ブリタニア〉の最後の消息はカリャオからのものだが」
「そうです。私が船にいたときには〈ブリタニア〉は一度もカリャオには寄港しなかったのですから。そして私がパディ・オムーアの農場でカリャオのことを言ったのは、あなたのお話でその事実を知ったからなのです」
「つづけたまえ、エアトン」とグレナヴァンは言った。
「こうして私はほとんど無人の海岸に置き去りにされていました。しかしわずか三〇キロのところに、西オーストラリア州の首府パースの懲役場があったのです。海岸をさまよっているとき私は脱走して来た一団の囚人に出逢い、その仲間になりました。ミロード、それから二年半の私の生活については申し上げないでよろしいでしょう。ただ、ベン・ジョイスという名で私が脱走囚の頭目になったことはおぼえておいてください。一八六四年九月に私はあのアイルランド人の農場にやって来ました。私は本名のエアトンで使用人として雇われました。あすこで私は、何かの船を奪う機会があらわれるのを待ちました。これが私の最後の目的だったのです。二月《ふたつき》して〈ダンカン〉があらわれました。あなたは農場を訪問なさったとき、グラント船長について一伍一什《いちぶしじゅう》をお話しになった。私はあのとき自分の知らなかったこと、〈ブリタニア〉のカリャオへの寄港、私が船を去ってから二ヵ月後の一八六二年六月の日づけの〈ブリタニア〉の最後の消息、文書の一件、三七度線のどこかでの難破、最後にあなたがオーストラリア大陸でハリー・グラントを捜さねばならないとおっしゃるちゃんとした理由をはじめて知ったのです。私は躊躇しませんでした。〈ダンカン〉はイギリス海軍の最も高速の艦をも引き離すような優秀な船ですから、私はこれを自分のものにしようと思いました。しかし〈ダンカン〉は重大な損傷を修理しなければならない。そこで私は〈ダンカン〉をメルボルンに発たせ、私自身はクウォータマースターという自分の本当の資格であなたに雇われて、私がでたらめにオーストラリア東岸だとした遭難場所へあなたを案内しようと申し出たのです。このようにして私は、私の囚人の一味にあるときは先立たれ、あるときはつきしたがわれながら、あなたの一行を導いてヴィクトリア州を横切ろうとした。私の手下どもはキャムデン・ブリッジで余計な犯罪をやってのけた。なぜなら〈ダンカン〉はいったん海岸に廻航すれば私の手から逃れることはあり得なかったし、あのヨットを持てば私は太平洋の支配者になれたでしょうから。こうして私はスノウイ・リヴァーまで何らの疑惑を買うことなくあなたがたを連れて行きました。馬や牛はガストロロビウムに中毒してだんだんと斃《たお》れて行く。私は牛車をスノウイ河の沼地のぬかるみにはまらせた。私の懇望で……いや、ミロード、その後のことはあなたもごぞんじです。そしてパガネル先生がうっかりしなかったとすれば私が今ごろ〈ダンカン〉を指揮していたことは確実だと申し上げたい。私の話はこれだけです。私の申し上げたことでは、遺憾ながらあなたがたはハリー・グラントの足跡を考え直すことはできないでしょう。ごらんのとおり私と取引するのは損なのです」
クウォータマースターは沈黙し、いつもの癖で腕を組んで待った。グレナヴァンとその友だちは沈黙を守った。すべての真相がこの奇妙な悪人の口から今語られたことを彼らは感じた。〈ダンカン〉の奪取は彼の意志とは無関係な理由によって失敗したのだ。グレナヴァンが見つけた囚人の穴のあいたあの作業衣の証明するように、彼の共犯者はトゥーフォールド・ベイの岸に来ていた。そこで頭目の命令を忠実に守って彼らは〈ダンカン〉の来るのをうかがっていたのだが、しまいに待ちくたびれて彼らはおそらくニュー・サウス・ウェールズの田舎で強盗放火の商売をまたはじめたのであろう。まず少佐が〈ブリタニア〉に関係のある日づけをはっきりさせるために訊問をはじめた。
「それでは、君がオーストラリア西岸に上陸させられたのはたしかに一八六二年四月八日だったのだね?」
「そのとおりです」
「そして君は、当時ハリー・グラントの計画はどのようなものだったか知っているか?」
「漠然とは」
「いいから話してみたまえ、エアトン」とグレナヴァンが言った。「ごく些細な手がかりでもわれわれに道を教えてくれるかもしれない」
「私が申し上げられることはこれだけです、ミロード。グラント船長はニュージーランドを訪れるつもりでした。ところが、彼の予定表のこの部分は私が船にいたあいだには全然実行されなかったのです。ですから、〈ブリタニア〉がカリャオを去ってニュージーランドの陸を偵察に来たこともあり得ないことではありません。それは文書であの三檣船の遭難の日とされている一八六二年六月二七日という日づけとも符合するでしょう」
「もちろん」とパガネルは言った。
「しかし」とグレナヴァンは語を継いだ。「文書に残されていたあの語句のうち、一つとしてニュージーランドに該当するものはない」
「その点は私には答えられません」とクウォータマースターは言った。
「よろしい、エアトン」とそこでグレナヴァンは言った。「君は君の約束を守った。私も私の約束を守ろう。太平洋のどの島に君を置いて行くかをわれわれはこれから決める」
「ああ、どれでもかまいませんよ」とエアトンは答えた。
「船室に帰りたまえ」とグレナヴァンは言った。「そしてわれわれの決定を待つのだ」
クウォータマースターは二人の水夫に守られて引き取った。
「あの悪党は立派な男になれるだろうに」と少佐は言った。
「そうだ」とグレナヴァンは答えた。「意志の強い知性の優れた人間なんだ! あの能力がどうして悪に向けられねばならなかったのだろう!」
「しかし、ハリー・グラントのことは?」
「彼はもう永久に救えないのではないかと私は恐れる。かわいそうな子供たち、父親の居場所を誰があの子たちに言えるだろう?」
「私だ!」とパガネルが答えた。「そうだ、私だ!」
これは誰も気がついたことと思うが、いつもはあれほど多弁な、あれほど気の早い地理学者がエアトンに対する訊問のあいだほとんどしゃべっていなかったのだ。彼は口を開かぬままで耳を傾けていた。しかし彼の発したこの最後の言葉には千万言の値打ちがあった。そして、それはまずグレナヴァンを飛び上らせた。
「君が!」と彼は叫んだ。「君が、パガネル、君がグラント船長の居場所を知っているのか?」
「人が知り得るかぎりのことは知っているよ」と地理学者は答えた。
「では誰から知らされた?」
「あいかわらずあの文書からさ」
「ああ!」と少佐はおよそこれ以上とはない不信を見せて言った。
「まず聞きたまえ、マクナブズ、後で肩をすくめて見せるがいい。もっと早く話さなかったのは、話してもどうせ君らは信じなかっただろうからだ。それにまた言っても何にもならなかったからだ。しかも今日私が話す決心をしたのは、エアトンの考えがまさに私の考えを裏づけてくれたからだ」
「で、ニュージーランドは?」とグレナヴァンが言った。
「よく聞いて判断してくれたまえ。われわれの救いとなったあの誤りを私が犯したのは、それなりの理由が、もっと正しく言えば〈一つの理由〉があったんだ。グレナヴァンの口述で私があの手紙を書いたとき、〈ジーランド〉という言葉が私の脳味噌のなかに一杯になっていたのさ。それが理由なんだ。われわれがあのとき牛車のなかにいたことを君はおぼえているだろう。マクナブズはちょうどレイディ・ヘレナに囚人たちのことを教えたところだった。少佐はキャムデン・ブリッジの惨事を伝えている〈オーストラリアン・アンド・ニュージーランド・ガゼット〉を夫人に渡した。ところで、ちょうど私が書いていたときこの新聞が床に落ちていたが、その表題の一部だけが見えるように畳《たた》んであったのだ。その一部というのは aland だった。私の頭にどんな考えが閃いたか! aland はまさに英語の文書にあった言葉、われわれがこれまで〈陸で〉と読みなして来た言葉だ。そしてこれは Zealand という固有名詞の語尾だったに相違ないのだ」
「えっ!」とグレナヴァンは言った。
「そうなんだ」とパガネルは深い確信をもってつづけた。「それまでこの解釈に私は思い及ばなかったのだ。しかもそれがなぜかわかるか? 私の研究が、ほかのものよりは欠落がすくないがこの重要な語は欠けていたフランス語の文書についておこなわれていたからさ」
「おお、おお!」と少佐が言った。「それは空想に過ぎるよ、パガネル。そして君は君自身が前におこなった推論を少々手軽に忘れすぎるね」
「それでは、少佐、質問したまえ、何でも答えよう」
「それでは、austra という語はどうなるんだ?」
「最初のと同じさ。それは〈南方《オーストラール》〉地方を指すにすぎない」
「よろしい。では、はじめは indiens という語の語幹、次いで indigenes という語の語幹とされた indi というのは?」
「なるほど、今度が三度目の正直だが、それは indigence(窮乏)という言葉の前の綴りだろう!」
「では contin だ!」とマクナブズは叫んだ。「これは依然として continent を意味するのか?」
「ちがう! ニュージーランドは島にすぎない!」
「それで?……」とグレナヴァンがきいた。
「貴族君、これから私の三番目の解釈に従って文書を訳すから、自分で判断してくれたまえ。まず二つのことを注意しておく。第一に、前の解釈をできるだけ忘れてくれ、そして頭から一切の先入観念をとりのぞいておくことだ。第二に、ある箇所は君には〈こじつけ〉に見えるだろう。そして私の訳し方が下手だということもあり得る。しかしそんな箇所は全然重要ではない。特に私にはどうも気に入らないがほかにどうにも説明しようのない agonie という言葉などは。その上、私の解釈のテクストになるのはフランス語の文書なんだ。そしてそれを書いたのはイギリス人で、フランス語の特有語法などには慣れているはずがないことを忘れないでくれ。そういう前提のもとではじめよう」
そうしてパガネルは各綴りをゆっくりと明瞭に発音しながら次のような文章を朗誦した。
「一八六二年六月二七日、グラスゴー籍三檣船ブリタニアは、長い死闘の後にニュージーランド沿岸の南の海で沈没した。二人の水夫とグラント船長はそこに上陸することができた。そこで絶えずひどい窮乏にさらされながら、この文書を経度……、緯度三七度一一分のところに投げた。彼らを救いに来ていただきたい、さもなくば彼らは破滅である」
(Le 27 juin 1862, le Trois-mats Britannia, de Glasgow, a sombre apres une longue agonie dans les mers australes sur les cotes de la Nouvelle-Zeland (Zealand), ――Deux matelots et le capitaine Grant ont pu y aborder. La, continuellement en proie a une cruelle indigence, ils ont jete ce document par……de longitude et 37°11′ de latitude. Venez a leur secours, ou ils sont perdus.)
パガネルは言葉を切った。彼の解釈は承認し得るものだった。しかしまさにそれは前二回のものと同じ程度の真実性があるがゆえに、同じように間違っているかもしれなかった。グレナヴァンと少佐はそれゆえこれについて論議しようとしなかった。けれども、〈ブリタニア〉の足跡はパタゴニア沿岸でもオーストラリア沿岸でも、この両地が三七度線と交わっている地点で見出されなかったのだから、公算はニュージーランドにとって有利だった。
パガネルにこのことを指摘されて二人の友ははっとした。
「それでは、パガネル」とグレナヴァンは言った。「およそ二月《ふたつき》ばかりもその解釈を秘密にしていたのはどういう理由か、私に言ってくれないかね」
「またしても君に空《むな》しい希望を抱かせたくなかったからさ。それにまた、われわれはオークランドへ、まさにあの文書にある緯度の地点へ行くところだったし」
「しかしあれ以後、われわれがそのルートからはずれようとしていたときになぜ話さなかったんだ?」
「この解釈がいかに正しくても、船長を救うことには役立ち得ないからさ」
「どういうわけで?」
「ハリー・グラント船長がニュージーランドで坐礁したという仮定が認められたとして、二年たっても彼があらわれないというのは、彼は難破のとき死んだか、もしくはニュージーランド原地民の犠牲になっているからさ」
「それでは、君の考えは?……」とグレナヴァンは促した。
「もしかすると難破した船の破片をいくつか見つけることはできるかもしれないが、〈ブリタニア〉の遭難者は取り返しのつかないことになっているということだ!」
「今の話はすべて口外しないことにしてくれ」とグレナヴァンは言った。「そして私が適当な時機を見はからってグラント船長の子供たちにこの悲しい知らせを伝えることにさせてくれ!」
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二十 夜の叫び
乗組員は間もなく、グラント船長の位置の謎はエアトンの供述によってもあきらかにされなかったことを知った。船の一同の落胆は深刻だった。なぜなら皆はクウォータマースターを当てにしていたのに、そのクウォータマースターは〈ダンカン〉が〈ブリタニア〉の跡を追うために必要なことは何一つ知らなかったのだから。
ヨットの針路はそれゆえ変えられなかった。後はもうエアトンを置いて行く島を選ぶだけだった。
パガネルとジョン・マングルズは海図を調べた。ちょうど三七度線上にマリア・テレジア島という名で知られている小さな孤島が出ていた。これはアメリカ海岸から三五〇〇海里、ニュージーランドから一五〇〇海里の太平洋のただなかにぽつんと点在する岩でしかない。北のほうで一番近い陸はフランスの保護下にあるポモトゥ諸島だ。南には南極海の永遠に凍った大浮氷群まで何もない。どんな船もこの孤島をさぐりには来ないのだった。世界のいかなる谺《こだま》もここにはとどかない。ただ海燕だけがその長い旅のあいだここで憩うだけだ。そして多くの海図は太平洋の波浪に洗われているこの島を記載すらしていないのである。
もし地球上で完全な孤絶というものを見出せるものならば、それは人間の通《かよ》う道からはずれたこの島でだった。エアトンはこの島の位置を知らされた。彼は人間たちから遠く離れてそこで暮すことを承諾し、舳先《へさき》はマリア・テレジアに向けられた。このとき〈ダンカン〉とその島とタルカウアノを連ねる線を引けば厳密な直線となったろう。
二日後の二時に見張りが水平線に陸が見えることを知らせた。それはマリア・テレジアだった。低く、細長く、波からわずかに出ているだけで、巨大な鯨類のように見えた。まだヨットからは三〇海里もあり、ヨットの船首は時速一六ノットのスピードで波を切っていた。
だんだんと小島の輪郭は水平線にはっきりして来た。太陽は西のほうに傾き、島の気まぐれなシルエットを明るい光のなかに浮き上らせた。あまり高くない山が太陽の光の箭《や》に刺されながらあちこちに盛り上っていた。
五時にジョン・マングルズは空にむかって上って行くかすかな煙を認めたような気がした。
「火山でしょうか?」と、望遠鏡を目にあててこの新しい土地を観察しているパガネルに彼はきいた。
「どう考えていいのかわからん」と地理学者は答えた。「マリア・テレジアはほとんど知られていないところだからね。けれども、その起源が何らかの海底の隆起によるものである、従って火山性であるとしても驚くには当らない」
「しかしそれでは」とグレナヴァンが言った。「噴火によって島ができたとすれば、噴火で消滅する虞《おそ》れもありはしないかね?」
「それはあまり考えられないね」とパガネルは答えた。「この島の存在はもう何百年も前から知られているが、このことは一つの保証だ。ジュリア島が地中海から出現したときには、長いあいだ水上にとどまらず、誕生後数ヵ月で消えてしまったよ」
「よし」とグレナヴァンは言った。「ジョン、夜にならぬうちに着けると思うか?」
「いいえ、閣下、暗闇のなかで自分の知らない岸にむかって〈ダンカン〉を近づけるような真似をするわけに行きません。汽罐《きかん》の圧力を下げて小刻みに動いていて、明日の夜明けにボートを岸へやりましょう」
午後八時にはマリア・テレジア島は、風上わずか五海里のところにあったにもかかわらず、もはやほとんど目に見えぬ細長い影としか見えなかった。〈ダンカン〉は絶えずそれに近づいていた。
九時にかなり強い光が、あかりが闇のなかに輝いた。それは動かずに光りつづけていた。
「これでたしかに火山だということになる」と、注意深く見守りながらパガネルは言った。
「それにしても、この距離ならば噴火につきものの轟音が聞こえるはずなのに、東の風は何の物音も私たちの耳に運んで来ません」とジョン・マングルズは答えた。
「なるほど」とパガネルは言った。「あの火山は光るが、口を利かんのだ。その上、まるで閃光燈台みたいに明滅しているようじゃないか」
「おっしゃるとおりです。船は光のあるほうの海岸にむかっていないのに」そしてジョン・マングルズは叫んだ。「あ、もう一つあかりが! 今度は浜辺に! ごらんなさい! 動いている! 移動している!」
ジョンは間違っていなかった。新しい火があらわれ、時に消えるかと思うとまた急に強くなる。
「それでは人が住んでいるのかな?」とグレナヴァンは言った。
「もちろん蛮人だろう」とパガネルは答えた。
「しかしそれならばクウォータマースターをあそこに置いて行くことはできない」
「そうだ」と少佐が言った。「そんなことをしたらあまりにもひどいおみやげを置いて行くことになる、たとい相手が蛮人でも」
「ほかの無人島をさがそう」とグレナヴァンは言ったが、彼もマクナブズの〈デリカシー〉には微笑せずにはいられなかった。「私はエアトンの生命はそこなわないと約束してやった。そして約束を守ってやる気だ」
「いずれにしても警戒しよう」とパガネルはつけくわえた。「昔のコーンウォールの住民のように、ニュージーランド原地民は火を動かして船を欺くという野蛮な風習を持っている。ところで、マリア・テレジアの原住民もこのやりかたを知っているかもしれない」
「一ポイント風下へ」とジョンは舵を取っている水夫に叫んだ。「明日の夜明けになれば真相がわかるでしょう」
一一時に乗客とジョン・マングルズはめいめい船室に帰った。前部のほうでは当直のものが甲板を歩きまわっていた。船尾では舵手が一人で部署を守っていた。
このときメァリ・グラントとロバートは船尾楼の上に出た。
船長の二人の子供は手摺に肘《ひじ》をついて、燐光を放つ海と〈ダンカン〉の光る航跡を悲しげに眺めた。メァリはロバートの将来を思い、ロバートは姉の行末を思った。二人とも父親のことを考えた。まだ生きているだろうか、熱愛する父は? あきらめなければならないだろうか? いやいや、父がいなくては生活はどんなものになる? 父がいなくては彼らはどうなる? いや、ロード・グレナヴァンが、レイディ・ヘレナがいなかったらすでに彼らはどうなっていたろうか?
不幸によって大人《おとな》びた少年は姉の心をかきみだしている思いを察した。彼はメァリの手を握った。
「メァリ、決して絶望してはいけないよ。お父さんが僕たちに与えた教育を思い出すんだ、『勇気はこの世のすべてに代《かわ》る』とお父さんは言っていたじゃないか。だから勇気を持とうよ、不屈の勇気を。お父さんが誰よりも優れた人間だったのはそのためなんだ。今まで姉さんは僕のために働いて来た。今度は僕が姉さんのために働くよ」
「かわいいロバート!」と娘は答えた。
「僕は一つ姉さんに言っておかねばならないことがある。怒らない、メァリ?」
「どうしてわたしが怒るのよ?」
「駄目だといわないね?」
「何のことなの?」とメァリは不安になってきいた。
「姉さん! 僕は船乗りになる……」
「あなたは私から別れるの?」と、弟の手を握りしめながら娘は叫んだ。
「うん、姉さん! 僕もお父さんみたいに、ジョン船長みたいに船乗りになるんだ! メァリ、メァリ、ジョン船長はまだ希望をなくしていないよ、あの人は! 姉さんも僕と同じようにあの人の献身的な気持を信頼してよ! あの人は僕を船乗りにしてくれる、立派な、偉い船乗りにしてくれると約束してくれた。それまで僕たちはみんなでお父さんを捜そう! いいと言ってよ、ね? お父さんが僕たちのためにしてくれたのと同じことを今度はお父さんのためにするのが、僕たちの、すくなくとも僕の義務なんだ! 僕の生涯には、この生涯の全部を捧げるだけの目的があるんだ。僕たち二人のどちらをも決して見捨てたりはしなかったはずの人を捜す、いつまでも捜すという目的が! ねえ、メァリ、何てやさしかったろう、僕たちのお父さんは!」
「そしてあんな高潔で、あんなに侠気があって! ねえ、ロバート、お父さんはすでに私たちの国の誇りとなっていたこと、もし運命に途中で引き留められなかったらわが国の偉人の一人とされたろうということを知っていて?」
「知ってるともさ!」
メァリ・グラントはロバートを胸に抱きしめた。少年は涙が自分の額に落ちるのを感じた。
「メァリ、メァリ!」と彼は叫んだ。「あの親切な人たちがしゃべろうと黙っていようと問題じゃない、僕はまだ希望を持っている、いつまでも持ちつづける! お父さんのような人は自分の任務をなしとげてからでなければ死にはしないよ!」
メァリ・グラントは答えることができなかった。こみあげる涙で彼女は息が苦しかった。ハリー・グラントを見つけるあらたな試みがおこなわれるだろう、若い船長の献身は限りないものだろうと考えると、無数の思いが彼女の心のなかにひしめいた。
「ジョンさんはまだ希望を持っているの?」と彼女はきいた。
「そうだよ。あの人は兄さんだ、決して僕らを見捨てやしない。僕は船乗りになるんだ、そうだろ、姉さん? あの人と一緒にお父さんを捜しに行くために船乗りになるんだよ! いいだろう!」
「きまってるじゃないの」とメァリは答えた。「でも、あなたと別れるのは!」と彼女はつぶやいた。
「姉さんは一人ぼっちになりはしないよ、メァリ。僕は知ってるんだ! ジョンさんがそう言ったんだよ。ヘレナ奥さまは姉さんが奥さまのところから離れるのをお許しにならないよ。姉さんは女だからね、奥さまの御親切を受けてもいい、受けなくちゃいけない。断ることは恩を知らないことだよ! でも男は、お父さんは何度となく僕にそう言ったけれど、男は自分で自分の運命を切り開いて行かなくちゃならないんだ!」
「でも、いろいろの思い出に満ちているダンディーの私たちのなつかしい家はどうなるでしょう?」
「あれは手放さないさ、姉さん! ジョンさん、それにまたロード・グレナヴァンがそういうことはみんな始末してくださる、それもうまい具合にね。ロードは姉さんを自分の娘としてマルカムの城に置くんだ! ロードはジョンさんにそう言ったんだよ、そしてジョンさんがそれを僕に教えてくれた! 姉さんはお城で自分の家にいるように暮せるよ、お父さんの話をする話相手もいるしね。そしてジョンと僕がお父さんを連れて帰る日を待っているんだ! ああ、その日は何というすばらしい日になるだろう!」とロバートは叫び、その顔は感激に輝いた。
「ロバート、ロバート、その言葉を聞くことができたらどんなにお喜びになるでしょう、お父さんは! ロバート、あなたはあの愛するお父さんに何て似ていること! 大きくなったらあなたはまったくお父さんそっくりになることよ!」
「そうだといいんだがな、メァリ」父を敬う子らしい誇りをもって顔を赤らめながらロバートは言った。
「でも、グレナヴァン卿御夫妻にどうしたら恩返しできるかしら?」とメァリ・グラントは言った。
「おお、そんなことは簡単さ!」少年らしい暢気《のんき》さでロバートは叫んだ。「お二人を愛し、尊敬し、それを口に出して言い、心からなつくのさ。そしていつか機会があり次第お二人のために命を投げ出すのさ!」
「反対に、お二人のために生きるのよ!」と、弟の額を接吻で蔽いながら娘は叫んだ。「お二人はそのほうがいいとお思いになるでしょう――私もよ」
それからとりとめのない物思いに耽りながら、船長の二人の子供はぼんやりとした夜の闇のなかでたがいに顔を見交わした。けれども心のなかでは彼らはまだおしゃべりし、問い答え合っていた。静かな海はゆっくりと揺れ、スクリューは闇のなかに光る波をかきたてていた。このとき異様な、まさに超自然的な事件が起こったのである。姉と弟は、人々の魂のあいだを神秘的に繋ぐあの磁気的な伝達によって、まったく同時に同じ錯覚をおぼえたのだ。暗くなったり明るくなったりするこの波のまんなかから、メァリとロバートは一つの声が自分らのほうへ上って来るのを聞いたように思った。その声の深く哀切な調子は彼らの心のすべての琴線をふるわした。
「助けてくれ! 助けてくれ!」と声は叫んでいた。
「メァリ、聞こえた? 聞こえた?」とロバートは言った。
そして二人はいきなり手摺の上に身を乗り出し、体を折って夜闇の奥をうかがった。
しかし二人の前に果しなくひろがっている闇のほかには何も目に入らなかった。
「ロバート」と、感動に蒼白になってメァリは言った。「私も……そうよ、私もあなたと同じような気がしたわ……。二人とも熱に浮かされているのよ、ロバート……」
しかしあらたな呼び声が彼らのところまで響いて来た。しかも今度はその幻覚はあまりにも生々しく、同じ叫びが同時に彼ら二人の胸から発せられたほどだった。
「お父さん! お父さん!……」
メァリ・グラントにとってはこれは強烈すぎた。感動に打ちのめされて彼女は失神してロバートの腕のなかに倒れた。
「助けてくれ!」とロバートは叫んだ。「姉さん! お父さん! 誰か来て!」
舵手が飛んで来て娘を引き起こした。当直の水夫たちが、次いでいきなり目を覚まされたジョン・マングルズ、レイディ・ヘレナ、グレナヴァンも駈けつけた。
「姉さんが死んじまう、そしてお父さんがあそこに!」とロバートは海を指して叫んだ。人々は全然彼の言葉がわからなかった。
「そうなんです」とロバートはくりかえした。「お父さんがいます! 僕はお父さんの声を聞いたんだ! メァリも僕と同じように聞いた!」
このときメァリは意識をとりもどし、取り乱し、狂ったように叫んだ。
「お父さん! お父さんがあそこにいます!」
不幸な少女は立ち上って手摺から身を乗り出すと海に飛びこもうとした。
「ミロード! ヘレナ奥さま!」と彼女は両手を合わせてくりかえした。「ほんとに父があそこにいるのです! ほんとに父の声が、嘆きの声のように、永遠の別れを告げるように波間から上って来るのが聞こえたんです!」
それから発作が、痙攣《けいれん》がふたたびかわいそうな娘を襲った。彼女は身悶えした。船室へ運ばねばならず、レイディ・ヘレナは介抱するために彼女について行った。一方ロバートはあいかわらずくりかえしていた。
「お父さん! お父さんがいる! ほんとなんです、ミロード!」
この傷ましい場面に立ち会った人々はようやくグラント船長の二人の子供が錯覚に憑《つ》かれていることを悟った。しかしこれほどひどく迷わされている彼らの感覚からどうしてその迷いを除けるか?
それでもグレナヴァンはやってみた。彼はロバートの手を取って言った。
「おまえはお父さんの声を聞いたんだね?」
「そうです。あすこの、海のなかで! 助けてくれ! 助けてくれ! そう叫んでいました」
「で、おまえにはその声がわかったんだね?」
「お父さんの声がわかったって! おお、わかりましたとも、誓って言いますけれど! 姉さんも聞いたんです、姉さんも僕と同様にわかったんです! 二人とも瞞されたなんてことがあるでしょうか? ミロード、お父さんを救いに行きましょう! ボートだ! ボートだ!」
グレナヴァンはこのかわいそうな子供の迷いをさまさせることができないのを見て取った。けれども彼は最後の試みをし、舵手を呼んだ。
「ホーキンズ、ミス・メァリがあの奇妙な発作に襲われたとき君は舵を握っていたんだな?」
「はい、閣下」とホーキンズは答えた。
「そして君には何も聞こえず何も見えなかったか?」
「全然」
「どうだ、ロバート」
「もしこれがホーキンズのお父さんだったら」と少年は抑えようもないほど激しく言った。「ホーキンズは何も見えず聞こえなかったとは言わないでしょう。あれは僕のお父さんでした、ミロード! 僕のお父さん! 僕のお父さん!……」
ロバートの声は啜《すす》り泣きのなかに消えた。蒼白になり沈黙して今度は彼が失神した。グレナヴァンはロバートをベッドに運ばせた。そして感動に打ちひしがれた子供は深い昏睡《こんすい》に落ちた。
「気の毒な孤児たち!」とジョン・マングルズは言った。「神さまはあの子たちにあまりにもひどい試練を課せられます!」
「そうだ」とグレナヴァンは答えた。「極度の苦痛のために二人とも、しかも同じ瞬間に、同じような錯覚を見たのだろう」
「二人とも!」とパガネルはつぶやいた。「こいつはおかしいな! 純粋な科学ならばそんなことは認めまい!」
それから自分でも海面の上に身を乗り出して耳をそばだてながら、ほかのすべてのものに黙っているように合図して彼は聞き入った。どこも深い沈黙に閉ざされていた。パガネルは大きな声で呼んでみた。彼に答えるものは何もなかった。
「おかしいな!」と地理学者は自分の船室に帰りながらくりかえした。「思考や悲しみの深い感応などということでは、一つの現象を説明するには不充分だ」
翌三月八日の午前五時、夜明け早々に、ロバートとメァリを含めた――彼らを引き留めることは不可能だった――乗客たちは〈ダンカン〉の甲板に集まった。皆は前日ほんのちょっと見かけたあの陸をよく見たいと思っていた。
眼鏡はせかせかと島の主要な地点を動きまわった。ヨットは一海里ほど離れて島の岸に沿っていた。視線はほんのちょっとしたものでも捉えることができた。ロバートが突然大きな叫び声を上げた。子供は二人の男が走りながら身振りをし、もう一人が旗を振っているのを見たと主張した。
「イギリスの旗だ!」ロバートの眼鏡を奪ったジョン・マングルズが叫んだ。
「ほんとだ!」とパガネルはロバートのほうへさっと振り向いて叫んだ。
「ミロード」ロバートは感動に顫《ふる》えながら言った。「僕が泳いで島へ行くのに反対でしたら、ボートをおろさせてください! ああ、ミロード、跪いてお願いします、僕に最初に上陸させてください!」
船にいるものは一人としてあえて口を開こうとはしなかった。何ということだ! 三七度線に横切られるこの小島に三人の人間が、遭難者が、イギリス人が! そして皆は昨夜の事件を思い返して、メァリとロバートが夜闇のなかに聞いたあの声のことを思った……子供たちはおそらく一つの点では間違っていなかったろう。つまり、ある声が事実彼らに聞こえたかもしれない。しかしその声は果して彼らの父親の声であろうか? いやいや、そんなことは決してない、残念ながら! そして皆は子供たちが味わうことになる惨《むご》たらしい失望を考えて、このあらたな試練が彼らの堪え得る限界を越えるのではないかと戦々兢々としていた。しかしどうして彼らを引き留められよう? ロード・グレナヴァンにはその勇気はなかった。
「ボートへ!」と彼は叫んだ。
一分のうちにボートは海におろされた。船長の二人の子供、ロード・グレナヴァン、ジョン・マングルズ、パガネルがそれに飛び移り、夢中になって漕ぐ六人の水夫の力によってボートはたちまち船から離れて行った。
岸から二〇メートルばかりのところでメァリは胸の張り裂けるような叫びを上げた。
「お父さん!」
一人の男がほかの二人の男に挾まれて海岸に立っていた。その体は高く逞しく、容貌は温和でしかも決断力に満ち、メァリ・グラントとロバートの顔立ちの際立った混合を示していた。これこそまさに二人の子供があれほどしばしば描いて見せた男だった。子供らの心は彼らを欺かなかった。これは彼らの父親だった、グラント船長だったのだ!
船長はメァリの叫びを聞き、両腕を開き、雷に打たれたように砂の上に倒れた。
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二十一 タボル島
人は喜びで死ぬものではない。なぜなら父と子供たちはすでにヨットに収容される前に生き返ったからだ。この場面をどのように描写し得よう? 言葉ではとても尽せまい。三人が無言の抱擁のうちに一つになっているのを見て乗組員すべては泣いた。ハリー・グラントはデッキに上ると膝を折った。この敬虔なスコットランド人は彼にとって祖国の土に等しいものに触れたとき、誰よりもまず神に自分を救ってくれたことを感謝しようとしたのである。
その後で彼はレイディ・ヘレナ、ロード・グレナヴァン、そしてその仲間たちに感動に嗄《しわが》れた声で感謝を述べた。小島からヨットへ帰るわずかの時間に手短かに子供たちは〈ダンカン〉のこれまでのいきさつを彼に話して聞かせておいたのだ。
この高貴な婦人とその道連れたちに彼は何という大きな恩義を蒙ったことであろう! ロード・グレナヴァンから一番下の水夫にいたるまで、すべてのものが彼のために闘い、苦しんだのではなかったか! ハリー・グラントはこの心に溢れる感謝の情をきわめて率直にしかも上品に表明し、彼の男性的な顔はきわめて純粋でこまやかな感動にかがやいていたので、乗組員全員は充分酬われたように感じた、しかもこれまで蒙って来た苦しみにふさわしい以上に。動ずることのない少佐すらも、涙をせきあえずに目をうるませていた。尊敬すべきパガネルにいたっては、涙をかくそうと考えもしない子供のように手放しで泣いていた。
ハリー・グラントは自分の娘を倦《あ》かずに眺めた。娘が美しく魅力的になっていると思ったのだ! 彼はまるで父親の愛情によって目がくらんでいるのではないと確かめようとするかのようにレイディ・ヘレナまでを引き合い人にして大きな声でしきりにそう言った。それから息子のほうを向いて、
「何て大きくなったことだ! もう一人前だ!」と嬉しくてたまらぬように叫んだ。
そして彼はこの愛する二人に、二年間の不在のあいだ心にたまっていた接吻のすべてを注いだのだ。
ロバートはすべての彼の友だちを次々に父に紹介した。しかも彼は頭をひねってその紹介の言葉に変化をつけるようにしたのだ。実はその一人一人について同じことしか言えなかったのだが! つまり、誰も彼もが二人の孤児に対して申し分なく親切だったということだ。ジョン・マングルズの紹介の番が来ると、船長は若い娘のように赤くなり、メァリの父親に答える彼の声は顫えた。
レイディ・ヘレナはそこでグラント船長に航海の話をし、その話を聞いて彼は自分の息子、自分の娘のことを誇りに思うことができた。
ハリー・グラントは少年英雄の手柄を、そしてこの少年がどのようにして父の負債の一部をすでにロード・グレナヴァンに支払ったかを知った。それから今度はジョン・マングルズがメァリのことを話したが、その言葉づかいを聞いて、レイディ・ヘレナから手短に事の次第を聞いていたハリー・グラントは娘の手を若い船長の逞しい手のなかに置き、グレナヴァン夫妻にむかって言った。
「ミロード、奥さま、われわれの子供たちを祝福してやりましょう!」
すべてが何度となくくりかえして話されたあげく、グレナヴァンはエアトンに関することをハリー・グラントに知らせた。グラントはオーストラリア海岸に上陸したことについてのクウォータマースターの告白を確認した。
「聰明な、大胆な男ですが」と彼は言い添えた。「激情に駆られて悪に走ってしまいました。反省と悔悟によってもうすこし正しい心にかえってくれるといいのですが!」
しかしエアトンがタボル島に流される前に、ハリー・グラントは新しい友人たちを自分のこの岩の島に招待したいと思った。彼は自分の木製の家を訪れて大洋のロビンスンのテーブルについてくれるように皆を誘った。グレナヴァンとその一行は大喜びで応じた。ロバートとメァリは船長が彼らを思ってあれほど涙を流したその淋しい場所を見たいという熱望に燃えていた。
ボートが用意され、父と二人の子と、グレナヴァン卿夫妻、少佐、ジョン・マングルズ、パガネルは間もなく島の岸に上陸した。
ハリー・グラントの領地を見てまわるにはほんの数時間で足りた。実はそれは海中の山の頂で、玄武岩が火山岩のかけらとまじって一杯ある台地にすぎなかった。地球の地質学時代に、この山は地中の火の作用で太平洋の底からすこしずつ上って来たのだ。しかしもう数世紀も前から火山は平和な山になり、その火口は埋まり、小島が海原の上にあらわれた。それから腐植土ができた。植物界がこの新しい陸地を占領した。立ち寄った幾艘かの捕鯨船から山羊や豚などの家畜が上陸し、野生状態で繁殖した。そして自然は大洋のただなかに打ち捨てられたこの島に、鉱物界、植物界、動物界を通じてあらわれたのだ。
〈ブリタニア〉の遭難者たちがここに避難してからは、人間の手が自然の営みを調整することになった。二年半のうちにハリー・グラントとその水夫たちは島の相貌を一変させた。丹念に耕された数エーカーの土地から非常に品質のいい野菜がとれた。
客たちは緑のゴムの木の木蔭にある家に着いた。家の窓の前にはすばらしい海が日の光にきらめきながらひろがっている。ハリー・グラントは美しい木の蔭に食卓を出し、めいめいはそれを囲んで坐った。仔山羊の股、ナルドゥーのパン、数椀の乳、野生の菊萵苣《きくぢさ》の二、三株、澄んだ冷い水がアルカディアの牧童にもふさわしいこの質素な食事の内容だった。
パガネルは有頂天《うちょうてん》だった。彼の昔からのロビンスンの観念が頭によみがえった。
「奴に同情する必要はあるまいて、あの悪党のエアトンに!」と感激のあまり彼は叫んだ。「この小島は楽園だよ」
「そうです」とハリー・グラントは答えた。「神意によってそこに住まねばならない三人の哀れな遭難者にとっては楽園です! しかし私はマリア・テレジアが、小川ではなく大河を持ち、沖の波浪の打ちよせる入江ではなく港を持った、広い肥沃な島でなかったのが残念だ」
「どうしてですか、船長?」とグレナヴァンはきいた。
「そうだったら私は、スコットランドに贈りたいと思っている太平洋の植民地の基礎をここに築いたでしょうから」
「ああ、グラント船長」とグレナヴァンは言った。「それではあなたは、故国であなたの人気をあんなに高めたあの考えを捨てていないのですな?」
「そうです、ミロード。神があなたの手を通して私を救ったのは、私にそれを実現させるためにほかならない。われわれの古いカレドニアの貧しい同胞たち、苦しんでいるすべての人々は、新しい土地で貧困から守られるのでなければならない! われわれのなつかしい祖国はこの海洋のなかに、自分だけの、ほんとに自分だけの植民地を持たなければならない、そのなかではヨーロッパでは欠けているあの独立と福祉が多少なりとも得られるような植民地を!」
「ああ、それはほんとに立派なお言葉ですわ、グラント船長」とレイディ・ヘレナが答えた。「それはすばらしい、宏大な気宇《きう》を持った人にふさわしい計画です! でもこの小島は?……」
「駄目です。この岩礁はせいぜい数人の植民者を養い得るにすぎませんが、われわれには太古からのすべての資源を豊かに持った広大な土地が必要なのですよ」
「それでは、船長」とグレナヴァンは叫んだ。「未来はわれわれのものだ、われわれは一緒にその土地を捜しましょう!」
この約束を確認するもののようにハリー・グラントとグレナヴァンの手は熱烈にしっかりと握り合わされた。
それから皆はまさにこの島の上で、この質素な家のなかで、二年間の長い孤立の歳月のあいだの〈ブリタニア〉の遭難者たちの暮しを知りたいと言った。ハリー・グラントは早速新しい友人たちの望みを満たそうとした。
「六日間の嵐のあいだに破損した〈ブリタニア〉がマリア・テレジアの岩にぶつかって砕けたのは、一八六二年六月二六日から二七日にかけての夜でした。海は荒れ狂い、救出は不可能で、不幸な私の部下は皆死んだ。ただボブ・リアスとジョー・ベルという二人の水夫と私だけが、二〇回も失敗したあげく岸に着くことができたのです!
私たちを迎えた陸は幅三キロに長さ八キロの無人の小島にすぎなかった。島のなかには三〇本ほどの木といくつかの草原と、まことにさいわいなことに決して涸れることのない冷い泉があるだけ。このちっぽけな土地で二人の水夫が一緒にいるだけなのに、私は絶望しなかった。私は神を信頼し、毅然として闘う覚悟をきめた。私の不幸の道連れであり友である健気《けなげ》なボブとジョーは精力的に私を助けてくれました。
われわれはわれわれの手本であるダニエル・ディフォーの理想的なロビンスンのように、まず手はじめに船の破片、道具、わずかばかりの火薬と武器、それから一袋の貴重な穀物を拾い集めました。最初の数日は苦しかったが、間もなく狩や漁によって食べ物の心配はなくなった。なぜなら野山羊が島のなかに繁殖していたし、海獣も岸にたくさんいたからです。だんだんとわれわれの生活はきちんと整って来ました。
私は船から救い出した器具によって島の位置を正確に知っていました。その測定によってわれわれはここが船の航路からはずれていることを知りました。奇蹟的な偶然にでもよらぬかぎりわれわれが救われるはずはありませんでした。私にとって大事なものたちのことを考え、もはやそのものたちに会えぬと諦めながら、私は勇気をもってこの試練を引き受けました。そして二人の子の名を毎日の祈りのなかで唱えていたのです。
けれども私たちは固い決意をもって働きました。間もなく数エーカーの土地に〈ブリタニア〉の穀物で種を播《ま》いた。馬鈴薯や菊萵苣《きくじさ》や酸模《すいば》が日常の食事に味を添えました。それからまたほかの野菜も。われわれに仔山羊を幾匹かつかまえましたが、この仔山羊は簡単に馴れました。これで乳とバターにありつけました。干上った小川に生えているナルドゥーからはかなり滋養になる一種のパンが作れる。こうして物質的な生活ではわれわれは全然不安を感じませんでした。
私たちは〈ブリタニア〉の破片で板小屋を作りました。丹念にタールを塗った帆布でそれを蔽い、このしっかりした屋根の下で雨季も楽しく過ごせました。ここではいろいろの計画が、いろいろの夢想が論じられましたが、そのなかで一番すばらしい夢が今実現されたのです!
最初私は船の破片で作ったボートで海に乗り出してみようかと思ったのですが、一番近い陸地、つまりポモトゥ諸島まででも一五〇〇海里あります。どんなボートでも、こんなに長い航海には堪えられはしなかったでしょう。だから私は断念しました。そして私はもはや神のみこころにしか救いを期待しませんでした。
ああ、かわいそうな子供たち、何度私たちは海岸の岩の上から沖に船が通らないかとうかがったことだろう! われわれの流刑の全期間を通じて二艘か三艘の帆船が水平線にあらわれたが、それからたちまち消えてしまった! 二年間はこのようにして過ぎた。われわれはもはや希望を失っていたが、しかしまだ絶望してもいなかった。
とうとう、昨日のことだ、私はこの島の一番高い山の上に登っていたが、そのとき西のほうにかすかな煙を見た。煙は大きくなった。間もなく一艘の船が私の目にも見えて来た。それはこちらにむかって来るように見えた。しかしまた全然寄港地のないこの小島を避けて行ってしまうのではないだろうか?
ああ、何という不安な一日だったでしょう、そしてどうして心臓は私の胸のなかで張り裂けなかったのでしょう? 私の仲間たちはマリア・テレジア島の尖った山の一つに火を燃やした。夜になったが、ヨットは認知の信号を全然送って来ません! が、とにかく救いは目の前に来ているのだ! みすみすそれが消えてしまうのを見過ごす法があるだろうか!
私はもう躊躇しませんでした。闇は濃くなる。船は夜のうちに島の前を通り過ぎてしまうかもしれない。私は海に飛びこみ、船にむかった。希望のために私は普通の二倍もの力で泳いだ。超人的な力で私は波を分けた。ヨットに近づき、もうあとほんの五〇メートルというところで船は突然変針したのだ! そこで私はあの必死の叫びを上げた。それを聞いたのは私の二人の子供だけだったが、あれは幻覚ではなかったのです。
それから私は、力尽き、悲しみと疲れに打ちひしがれて岸へもどった。私の二人の水夫は半死半生の私を救い上げたのです。この島で過ごした最後の夜は恐ろしい一夜でした。そして私たちはもう永久に見捨てられたと思っていたのですが、そのうち夜が明けると、私はヨットが低速で間切りながら走っているのを見たのです。あなたがたのボートが海におろされた……。私たちは救われました。そして、何という神のお恵みか、私の子供たち、私のなつかしい子供たちがボートに乗っていて、私にむかって手を差し伸べていたのです!」
ハリー・グラントの物語はメァリとロバートの接吻や愛撫のなかで終った。そうしてこのときになってはじめて船長は、彼が遭難の一週間後壜に入れて海にゆだねた、もうほとんど意味の汲み取れぬものになっていたあの文書のおかげで自分が救われたことを知らされたのである。それにしてもグラント船長の物語のあいだジャック・パガネルは何を考えていたのだろうか? 尊敬すべき地理学者はあの文書の語句をもうこれで千度目に頭のなかでひっくりかえしていたのである! 彼は次々に下したあの三つの解釈を改めて検討していた。その三つとも間違っていたのだ! それではどうしてこのマリア・テレジア島が海水に蝕まれたあの紙の上に記されていなかったのか? パガネルはもう我慢できなかった。そしてハリー・グラントの手をつかんで彼は叫んだ。
「船長、あのどうも判読しようのない文書に何と書いてあったのか、そろそろ言っていただけませんか?」
この地理学者の質問とともに皆の好奇心はかきたてられた。もう九ヵ月も捜し求められている謎の解答がいよいよ与えられようとしているのだから!
「どうです、船長」とパガネルはきいた。「あの文書の正確な文句をおぼえていますか?」
「おぼえていますとも」とハリー・グラントは答えた。「しかも、私たちの唯一の希望がかかっていたあの語句が私の記憶によみがえらなかった日は一日としてなかったんですから」
「で、それはどうだったのですか、船長」とグレナヴァンも言った。「言ってください、われわれの自尊心は大いに痛手を蒙っているのですから」
「もちろん申し上げましょう。しかし御承知のように、救われるチャンスを多くするため私は三か国語で書いた三つの文書をあの壜に入れておきました。そのうちのどれを知りたいとおっしゃるのですか?」
「それでは三つとも同じなのではなかったのですか」とパガネルは叫んだ。
「同じですよ、名詞一つを除いて」
「それではフランス語の文書を言ってください」とグレナヴァンが言った。「海水に一番痛められてなかったのがそれですから。そしてそれが主として私たちの解釈の基礎になったのです」
「ミロード、逐語的に申しますとこうです」とハリー・グラントは答えた。
『一八六二年七月二七日、グラスゴー籍三檣船ブリタニアは、南半球パタゴニアから六〇〇〇キロのところで沈没した。陸に打ち上げられて二人の水夫とグラント船長はタボル島に着いた……』
(Le 27 juin 1862, le trois-mats Britannia, de Glasgow, s'est perdu a quinze cents lieues de la Patagoie, dans l'hemisphere austral. Portes a terre, deux matelots et le capitaine Grant ont atteint a l'ile Tabor……)
「えっ!」とパガネルは言った。
『そこで絶えずひどい窮乏にさらされながら』とハリー・グラントはつづけた。『この文書を経度一五三度、緯度三七度一一分のところで投げた。彼らを救いに来ていただきたい、さもなくば彼らは破滅である』
このタボルという名のところでパガネルはいきなり立ち上っていた。それからもう我を忘れて彼は叫んだ。「何ですって、タボル島? ですがマリア・テレジア島ではありませんか?」
「そのとおりです、パガネル先生」とハリー・グラントは答えた。「イギリスとドイツの海図ではマリア・テレジアですが、フランスの海図ではタボルですよ」
この瞬間、パガネルの肩は拳骨でものすごくどやしつけられ、彼の体はそのショックで曲った。ありていに言わねばならぬとすれば、これは今はじめてその平素の謹厳な礼儀作法を破ってしまった少佐のしわざだった。
「地理学者!」とマクナブズはこれ以上とはない軽蔑の口調で言った。
しかしパガネルは少佐の手を感じさえしなかった。彼を打ちのめした地理学上の打撃にくらべてこんなものが何だったろう!
それでは彼は、これは彼がグラント船長に言ったことだが、徐々に真実に近づいていたのだ! 彼は解読不可能の文書をほとんど完全に解読したのだ! パタゴニア、オーストラリア、ニュージーランドという名が次々に、それぞれ否定しようのない確実さをもってあらわれた。最初 continent とされていた contin は、だんだんと continuelle という正しい意味をとりもどした。indi は最初 indiens, 次に indigenes, そして最後に indigence とされ、これが正しかった。ただ一つ、一部が消えた abor という語だけが地理学者の烱眼《けいがん》を欺いたのだ! パガネルは頑くなにそれを動詞 aborder の語幹としたが、実はそれは固有名詞だったのだ。タボル島の、〈ブリタニア〉の遭難者の避難所となった島のフランス語名だったのだ! けれどもこれは避けがたい誤りだった。〈ダンカン〉の平面球形図はこの小島にマリア・テレジアという名を与えていたのだから。
「そんなことは問題じゃない!」とパガネルは髪の毛をかきむしりながら叫んだ。「この二重名称を私は忘れてはならなかったんだ! これは許すべからざる過ち、地理学会の書記にふさわしからぬ誤りだ! 私の面目はもう丸潰れだ!」
「でも、パガネル先生、そう悲しまないでください!」とレイディ・ヘレナは言った。
「いや、奥さま、駄目です! 私は驢馬にすぎない!」
「しかも物知り驢馬ですらない」と、慰めるように少佐は言ったものだ。
食事が終ると、ハリー・グラントは家のなかのすべてのものを整理した。あの悪人がこの真面目な人間の富を受け継げるように彼は何一つ持ち出さなかった。
一同は船にもどった。グレナヴァンはその日のうちに出帆するつもりで、クウォータマースターを上陸させる命令を下した。エアトンは船尾楼の上に連れて来られ、ハリー・グラントの前に出た。
「私だよ、エアトン」とグラントは言った。
「あなたですか、船長」ハリー・グラントに再会したことに何らの驚きも示さずにエアトンは答えた。「なるほど、お元気な姿を拝見して私も悪い気はしませんよ」
「エアトン、私が君を人間の住んでいる土地に上陸させたのは間違いだったらしいね」
「そうらしいですね」
「君は私のかわりにこの無人島に住む。神が君に悔悛の心を与え給うといいのだが!」
「そうなればいいのですが!」とエアトンは静かな口調で言った。
それからグレナヴァンがクウォータマースターにむかって言った。
「エアトン、君は残されて行きたいというその気持を変えないのだね?」
「はい、ミロード」
「タボル島は気に入ったか?」
「申し分ありません」
「それでは、エアトン、私の最後の言葉を聞きたまえ。ここでは君はどんな陸とも遠く離れ、他の人間との交渉の可能性はない。奇蹟というものはめったに起こらないものだ。君は〈ダンカン〉に置き去りにされたらこの小島から逃れることはできまい。君はたった一人で、人間の心の底の底まで読み給う神に見守られているだけだ。しかし君はグラント船長がそうだったように見捨てられているのでも知られていないわけでもない。君がいかに人間に記憶されるに価しないものであっても、人々は君のことを思い出すだろう。私は、エアトン、君がどこにいるかを知っている、どこで君に会えるかを知っている。決して私はそれを忘れないだろう」
「神が閣下をお守りくださるよう!」とだけエアトンは答えた。
これがグレナヴァンとクウォータマースターとのあいだに交わされた最後の言葉だった。ボートの準備はできていた。エアトンはボートに降りた。
ジョン・マングルズはあらかじめ島に幾箱かの保存食糧、道具、武器、いくらかの火薬と弾丸を運ばせておいた。クウォータマースターはそれゆえ労働によって生き方を改めることができるはずだった。何一つ彼には欠けていなかった。書物すらも、そして特に、イギリス人の心にとって貴重な糧である聖書も。
別離の時が来た。乗組員と乗客は甲板にいた。胸をしめつけられるように感じたものは一人だけではなかった。メァリ・グラントとレイディ・ヘレナは感動を抑えることができなかった。
「それではこうしなければならないんですか?」と若い妻は夫にきいた。「あの男は置き去りにされねばならないのですか?」
「そうだ、ヘレナ」とロード・グレナヴァンは答えた。「これは贖罪なのだ!」
このときジョン・マングルズの指揮するボートは舷側を離れた。エアトンはあいかわらず平然として立ったまま帽子を取り、重々しく頭を下げた。
グレナヴァンも帽子を取り、乗組員すべても彼に倣《なら》った、臨終の人間の前でするように。そしてボートは深い沈黙のうちに去って行った。
エアトンは陸に着くと砂浜に飛び移り、ボートは船に帰った。時刻は午後四時だった。そして船尾楼の上から乗客たちは、クウォータマースターが腕を組んで岩の上で石像のように身動きもせずに船を見送っているのを見ることができた。
「行きますか、ミロード?」とジョン・マングルズはきいた。
「行こう、ジョン」とグレナヴァンは急いで答えたが、自分がこれほど感動しているのをおもてにあらわしたくなかったのだ。
「ゴー・アヘッド!」とジョンは機関士に叫んだ。
蒸気はパイプのなかで鳴り、スクリューは波を打ち、八時にはタボル島の最後の山は夜の闇のなかに消えた。
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二十二 ジャック・パガネルの最後の粗忽《そこつ》
〈ダンカン〉は島を離れてから一一日後の三月一八日にアメリカの岸を望み、翌日タルカウアノ湾に投錨した。
三七度線に厳密に沿って世界一周した五ヵ月の航海の後に〈ダンカン〉はここに帰って来たのだ。〈トラヴェラーズ・クラブ〉の歴史のうちにも前例のないこの記念すべき遠征に加わった人々は、チリ、パンパス、アルゼンチン共和国、大西洋、ダ・クーニャ群島、インド洋、アムステルダム島、オーストラリア、ニュージーランド、タボル島、そして太平洋を横断して来たのである。彼らの労苦は決して空しくなかった。そして彼らは〈ブリタニア〉の遭難者たちを連れもどるのだ。
彼らのレアドの声に応じて出発したこの健気なスコットランド人たちは一人として欠員もなく、揃って彼らの古いスコットランドへ帰るのであり、この遠征は古代史の〈武器なき〉闘いを思わせた。
〈ダンカン〉は補給を終えるとパタゴニアの沿岸を進み、ケープホーンをまわり、大西洋の波を分けて走った。
これほど無事平穏な航海はなかった。ヨットはその船腹に幸福という積荷をのせていた。船内にはもはや秘密というものはなかった。ジョン・マングルズのメァリ・グラントに対する感情すら秘密ではなかったのだ。
いや、やはりそうではなかった。一つの謎がまだマクナブズの好奇心をそそっていた。どうしてパガネルはぴったりと服を着こみ、耳まであるようなマフラに顎を埋めているのであろうか? 少佐はこの一風変った癖の理由が知りたくてじりじりしていた。しかしこれは是非とも言っておかねばならないが、マクナブズの質問、あてこすり、疑いにもかかわらず、パガネルは決してボタンをはずすことはなかったのである。
そうなのだ、〈ダンカン〉が赤道を通過し、甲板の接合部が五〇度の酷暑のもとで溶け出したときでさえ。
「あんまりうっかり者だから、ペテルブルグにでもいるつもりなんだろう」と、まるで水銀が温度計のなかで凍ってしまったかのようにだぶだぶした厚ラシャ外套にくるまっている地理学者を見て少佐は言った。
ついに、タルカウアノを去って五三日後の五月九日、ジョン・マングルズはクリア岬の灯《ひ》を認めた。ヨットはセイント・ジョージ運河にはいり、アイルランド海を横切り、五月一〇日にクライド湾にはいった。一〇時にヨットはダンバートンに投錨した。午後二時に乗客はハイランド人たちの歓呼のなかでマルカム・カースルにはいった。
してみると、ハリー・グラントとその二人の仲間は救われ、ジョン・マングルズはメァリ・グラントとセイント・マンゴウの古い大聖堂で結婚することははじめからきまっていたのだ。パクストン司祭は九ヵ月前に父親の安全を祈ったその場所で、今度はその娘とその救い主を祝福した! してみるとロバートはハリー・グラントのように、ジョン・マングルズのように船乗りとなり、ロード・グレナヴァンの後援のもとに彼らとともに大きな計画に加わることにきまっていたのだ!
しかしジャック・パガネルは死ぬまで独身で通すことにきまっていただろうか? おそらくそうだろう。
実はこの博識な地理学者はその英雄的な偉勲の後に名声を免れることはできなかった。彼の粗忽はスコットランドの上流社会で大変な人気を博した。彼は引っぱり凧になり、歓迎されすぎて体が一つでは足りなくなってしまった。
そうしてこのとき、ほかでもなくマクナブズ少佐の従妹で、自分も少々変っているが、気だてはよく今なお魅力的な三〇歳の愛すべき未婚婦人が、地理学者の変っているところに惚れこんで彼に手を差し伸べたのである。その手のなかには百万の財産があった。しかしそのことは人は話さずにおいた。
パガネルはミス・アラベラの気持に冷淡であるどころではなかった。けれども彼は自分の気持をはっきりさせることをあえてしなかった。
おたがいに打ってつけのこの二人のあいだをとりもったのは少佐だった。彼はパガネルに、結婚は君がなし得る〈最後の粗忽〉だと言いさえした。
パガネルはひどく狼狽し、まったく奇妙なことに運命を決する言葉を発する決意を下せなかった。
「ミス・アラベラが気に入らないのかい?」とマクナブズはしょっちゅうきいた。
「おお、少佐、彼女は魅力的だよ!」とパガネルは叫んだ。「途方もなく魅力的すぎる。何もかも言っちまわなければならないのなら、あれほど魅力的でないほうがもっと私の気に入るほどだよ! 一つぐらい欠点があってほしいね」
「安心したまえ。欠点はあるさ、それも一つだけじゃない。いかに完全な女にでもそれなりの欠点はあるさ。では、パガネル、きまったな?」
「私にはその勇気がない」
「どうしたんだ、学者君、何でぐずぐずしているんだ?」
「私はミス・アラベラにふさわしくない!」と決まって地理学者は答えるのだった。
そして彼は|てこ《ヽヽ》でも動かなかった。
とうとうある日始末に負えぬ少佐に土壇場まで追いつめられて、彼は秘密厳守の約束のもとに、いつか警察が彼を追うことになった場合に手配をするのに非常に都合のいいある特徴があることを打ち明けてしまったのである。
「ばかばかしい!」と少佐は叫んだ。
「だからそう言っているじゃないか」とパガネルは応酬した。
「かまやしないよ、君」
「そう思うかい?」
「それどころか、君はそれだけ一層風変りになるわけじゃないか。君の身にそなわった価値が増すわけさ! それによって君はアラベラの理想とする飛び切り無類の人間になるんだ!」
そうして少佐は何ものにも乱されぬ謹厳な顔つきのまま、痛切きわまる不安にせめさいなまれているパガネルを残して去った。
短い話し合いがマクナブズとミス・アラベラのあいだでおこなわれた。
二週間後婚礼はマルカム・カースルの礼拝堂でまことに賑やかにおこなわれた。パガネルは堂々としていたが隙間なくボタンをかけており、ミス・アラベラは目もさめるほどあでやかだった。
そして地理学者の秘密は永久の深い闇に埋もれてしまったことであろう、もし少佐がグレナヴァンに話さなかったならば。グレナヴァンはそれをレイディ・ヘレナにかくしはしなかったし、レイディ・ヘレナはそれについてミシズ・マングルズに一言打ち明けた。結局この秘密はミシズ・オルビネットの耳にはいり、そうしてぱっとひろまったのだ。
ジャック・パガネルは三日間マオリ人に捕えられているあいだに刺青《ヽヽ》を施されたのだ、しかも足から肩まで。彼の胸には翼をひろげた紋章のキウィが描かれ、キウィは彼の心臓をつついているのである。
あの大旅行のなかでパガネルが何としても諦めることができずニュージーランドに対して決して許すことのできないのは、この冒険だったのだ。かつまた、いろいろと勧誘されもし自分でもなつかしく思っているにもかかわらず、彼がフランスに帰れなかったのもそのためだった。最近刺青を施されたばかりの書記が帰ったとなれば、地理学会全体が彼の身に代表されて漫画や赤新聞の嘲弄の的にされるのを恐れたのである。
グラント船長のスコットランド帰還は国民的事件として迎えられ、ハリー・グラントは古いカレドニアで一番人気のある人間となった。彼の息子ロバートは彼のように、ジョン船長のように船乗りになり、ロード・グレナヴァンの賛助を得て太平洋にスコットランド人の植民地を建設する計画を再開したのである。(完)
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解説
ジュール・ヴェルヌについて
〔驚異の旅〕 「ヴェルヌを子どもに読ませるのは、ラ・フォンテーヌを子どもに読ませるのと同じように恐ろしい。そのふかい意味は、おとなでもごくわずかのひとにしかわからない」第一次大戦の直後、フランスの詩人レーモン・ルーセルは友人にこう話したといいます。戦争は科学が潜在的に持っていた可能性をいっきょに開花させるものです。そして、第二次大戦後すでに四分の一世紀をへた現在、一〇〇年まえのヴェルヌの想像の世界ではじめて形をとったさまざまな事物は、ようやく現実に私たちの文明のなかでそれぞれの役割をはたしはじめています。たとえば、人工衛星、ロケット、電送写真、潜水艦、ラジオ、映画、無線電信、X線、自動車、飛行機、戦車、ヘリコプター、アクアラングなど。
波動力学の研究でノーベル賞を得たド・ブロイの言うように、ヴェルヌは「実現の方法にふれていないから」応用科学者ではないが「アイディアを見ればまさにそう」言えるのです。ヴェルヌは一〇〇年まえの科学知識をできるかぎり集めて(といっても、彼の小説に出てくる数字その他が、かならずしも当時の最新の知識によったものではないことを、ここでおことわりしておいたほうがいいでしょう)、それを触媒として想像力の化合をおこなったのです。予言者とは未来を見るひとのことです。彼はその意味で文字どおり未来のイメージを喚起するひとでした。一九六六年三月、パリのシャンゼリゼーにあるルノー会館で『ヴェルヌ展』が開かれたとき、自筆原稿とか写真など、ふつうの展示品にまじって、アメリカからは原子力潜水艦ノーチラス号船室の実物大模型が、ソヴエトからは宇宙旅行のカラー・フィルムが寄せられていたことも、そのひとつの証拠と言えます。
『驚異の旅』とは、彼が自分の空想科学・地理の冒険シリーズにあたえた名前ですが、彼こそ、まさしく想像力の世界の『驚くべき旅人』でした。空想科学《SF》小説の父と呼ばれるのも、また当然でしょう。
〔夢のなかの旅〕 一一歳の少年ジュール・ヴェルヌは、波止場《はとば》で知りあった少年から見習い水夫の契約書を買いとって、インドへの遠洋航海に出ようとしました。初恋のひと、従妹《いとこ》のカロリーヌに珊瑚《さんご》の首飾りを買って帰るつもりでした。この雄大な企ては父にかぎつけられて失敗に終わりましたが、そのとき父の叱責《しっせき》を聞きながら、少年は「これからは夢のなかだけで旅行します」と誓ったといいます。
一八二八年二月、彼はフランスの西部、ロアール河が大西洋にそそぐ河口近くの港町ナントのフェイドー島に生まれました。父は代訴人で、母は代々すぐれた船長を生んできた家系の出身です。高等中学校を出て大学入学資格試験にパスすると、父の希望で法律の勉強をはじめました。このころ、すでにソネットや劇詩や芝居の台本を書いていますが、法律の第一次試験に必要な期間しかパリに住まなかったヴェルヌが、演劇の世界で身を立てる決意をした背後には、愛するカロリーヌの結婚があったようです。「だれもぼくを必要としないから旅に出る。このジュール・ヴェルヌという哀れな若い男がどんな素質を持っていたか、みんなにもやがてわかってもらえるだろう」
二〇歳でふたたびパリに出たヴェルヌは、学位論文に通ったけれども、故郷に帰って弁護士になろうとはしませんでした。デュマと知りあい、同じように『イストリック座』に参加し、喜劇やオペラ・コミックを書いて上演するいっぽう、生活のために家庭教師や秘書や株式仲買人として働きました。二八歳のとき、子どもがふたりある未亡人オノリーヌと結婚、一八五九年にイギリスへ、一八六一年にスカンディナヴィアへ旅行しています。大量の読書と旅行と物語作家の技術――あと必要なのはきっかけだけです。
一八六二年、友人の作家兼写真家兼漫画家兼旅行家ナダールが『巨人号』という直径三〇メートルを越す大気球をつくる計画を発表したことが、彼の生活を一変しました。彼は熱心にその計画を検討し、同様に当時評判のリヴィングストンのアフリカ探検とからめて、夢のなかの旅を描きました。驚異の旅シリーズの第一弾『気球に乗って五週間』がそれです。彼の真のキャリアはここからはじまります。出版者エッツェルと二〇年の契約を結び、まったく新しいジャンルを開拓する作家が登場します。彼は釣り船サン・ミシェル号を買い、セーヌ河を上り下りしながらおびただしい作品を書きつづけます。「わたしの生活は満ち足りている。倦怠《けんたい》のはいりこむすきはない。ここにはわたしの求めるほとんどすべてのものがある」
一八六七年アメリカ合衆国訪問、一八七〇年〜七一年の沿岸警備隊参加をはさんで、借りていた船宿が自分のホテルに変わり、釣り船がヨットに変わって、彼の成功の道は順調につづいてゆきます。しかし二発の銃声が、ふたたび彼の生活を一変します。五八歳のころ、かわいがっていた若い甥に、とつぜんピストルで撃たれたのです。自由な旅人の生活は終わり、彼はアミアン市の参事会員になります。「パリはもはやわたしを見ることはないであろう」とも「あらゆる陽気さはわたしにとって耐えがたいものになり、性格も変わってしまった。わたしはけっしていやされない打撃を受けた」とも手紙に書いています。
一九〇二年、ヴェルヌは白内障にかかり、一九〇五年三月、七七歳で世を去ります。生涯《しょうがい》に書いた作品は小説八〇余編、戯曲一五編におよびます。彼がイタリアの作家デ・アミーチス(代表作『クオレ』)に述懐したことばがのこっています。「わたしは仕事をしていないと生きている気がしないのです」
〔永遠の青春の旅〕 第二次大戦後一〇年間に、世界でもっとも数多く翻訳されたフランス作家は、じつはデュマでもバルザックでもなく、ヴェルヌです。この事情は社会主義諸国でも同様で、ソヴィエトでは全集が刊行されたほどです(ユネスコの調査による)。
わが国におけるヴェルヌ翻訳の歴史も非常に古く、じつに明治一一年までさかのぼります。『新説八十日間世界一周』(川島忠之助訳)がそれで、もっとも有名な森田思軒訳『十五少年漂流記』(明治二九年)は明治翻訳文学の古典のひとつに数えられ、少年時代の読書目録に欠かせないものになっています。明治中葉だけで、これらの作品を含めて、じつに三〇点ちかいヴェルヌ作品が翻訳されました。
このながい生命と広い人気を支えてきたものは二種類の読者です。未知なるものにたいしてあくことのない食欲を持つ少年たちと、少しばかり皮肉をまじえながら新鮮で豊富な話題を雄弁に物語る話相手を見いだすおとなたちと。
ヴェルヌはデュマと同じ型の物語作家だと言えます。デュマの想像力は過去に触発され、ヴェルヌは未来に触発される。その背後には彼らの生きた時代の差があります(たとえば『月世界旅行』発表の年はクロード・ベルナールの『実験医学研究序説』と同年です)。またフランスの伝統をかえりみれば、ほぼ一世紀まえにビュフォンの『博物誌』三六巻があります。そしてごく近年のフランス本国でのヴェルヌ復活は、幻視者の文学の源流としてなのです(ミシェル・ビュトールによる再評価など)。一九四九年には「アール・エ・レトル誌」が、一九五五年には「リーヴル・ド・フランス」誌が特集号を刊行し、一九六六年にはアシェット社からヴェルヌの傑作選集が刊行されはじめました。
ヴェルヌの墓にはひとつの碑銘《ひめい》が刻まれています。『不死と永遠の青春のために』まさしく彼の生涯は精神の永遠の青春に支えられていたし、彼の作品は幾世代もの読者を永遠の青春の旅にいざないつづけてきたのです。
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作品について
一八三九年の夏といえばジュール・ヴェルヌは一二歳だった。ある日早朝から彼の姿はシャントネーのヴェルヌ家の別荘から消えていた。少年の失踪の噂はシャントネーじゅうにひろまり、母親はナント市の本宅にいる父ピエール・ヴェルヌに使いの者を走らせた。土地の人の応援を得てジュールの捜索ははじまったが、そのうち一人の船頭が「坊ちゃん」が〈ラ・コラリ〉のボートに飛び乗るのを見たと証言した。ピエール・ヴェルヌはロワール河を往復するポンポン蒸気に乗って〈ラ・コラリ〉を追い、パンブーフに碇泊中のこの遠洋航路船から不届きな息子を引きずり出したのである。実は初恋の対象だった従姉妹のカロリーヌ・トロンソンから珊瑚の首輪を所望されていたジュールは、南洋で珊瑚を手に入れようと思って、インドにむかって出帆する〈ラ・コラリ〉の見習水夫になろうとしたのだ。父親からこっぴどいお目玉を食った少年は、「もう夢でしか航海しません」と約束しなければならなかった。――という伝記中のこの逸話は、後に数々の海洋冒険小説をものしたヴェルヌのことを思えば少々うまく出来すぎた感じもする。とにかく彼は生涯にわたって実によく夢で航海したし、無数の老若男女に波瀾万丈の航海の夢を見させた。実は彼がヨーロッパから遠く離れたのはそう長くもない北米旅行のあいだくらいのもので、南米のパンパスやオーストラリアの無人境などは全然見てはいないのである。
「講釈師見て来たような嘘をいい」と言えばあまり下世話になりすぎるだろうが、同じ見て来たような嘘でも、紋切型の講釈とは違ってヴェルヌの空想小説は実に丹念に、写実的《ヽヽヽ》に、見ていないものを細かく描写する。たとえばエドガー・アラン・ポーの『メールストロームの渦』に見られるのと同じ「空想的写実」の面白味が、伝記小説、科学小説、冒険小説などと多岐にわたるヴェルヌ文学を貫く精髄なのである。われわれはまず、一人の作家の想像力がこれほど大きな広がりと密度を持ち得たことに素直に感嘆する。この点ではヴェルヌは、彼の師と言い得るアレクサンドル・デュマ(父)をも凌駕していたのではなかろうか。
ここに訳した『グラント船長の子供たち』は一八六七年に発表されたもので、あの厖大な「驚異の旅」シリーズのなかでは五番目の作品である。この頃のヴェルヌにこそ、われわれにとって最も親しいこの作家の相貌が見られるのではあるまいか。それは博識家《アンシクロペディスト》とユーモリストと詩人とを兼ねた、明るく微笑した啓蒙家のヴェルヌであって、晩年に見られるペシミズムの影はない。この訳書にはページ数の関係で残念ながら詳しい地図は載せられなかったが、実は私はこの小説を訳しながら、何かといえば『エンサイクロピーディア・ブリタニカ』の世界地図を引っぱり出してグレナヴァン一行の足取りをたどるのを楽しみにしたのだった。無論この作品のなかに不正確な個所や荒唐な事件はいくらでも指摘されるだろう。しかし私は、たとえばマジェラン海峡を行く〈ダンカン〉の左右にくりひろげられる風景や、アンデス山中の夕陽や、オーストラリアのユーカリ林がこの小説の行間から浮かび上って来るのを感じたものだ。地図というそれ自体は味もそっけもないものにこのようなファンタジーをまつわらせること、これは楽しい経験であり、健全な消閑でもあろう。となると、ヴェルヌの小説はもはや「見て来たような嘘」などというべきものではない。「見えて来る嘘」なのである。
さらにこの小説に格別の魅力を与えているのは、言うまでもなく天衣無縫の地理学者ジャック・パガネル先生である。数多いヴェルヌの小説のなかにもこれほど魅力的な登場人物はほかにいまいが、子供のときから boute-en-train(座をにぎわす愉快な人物)だったというヴェルヌの生んだ人物らしく、その存在そのものがユーモラスで、しかも作者その人と同じく博識家で詩人なのである。人は啓蒙家ヴェルヌの空想が飛躍しすぎるのを咎めてはならない。なぜならこの尊敬すべき地理学会書記ですら、そのパンパシアの印象を書き記すに当っては、歴史の神クリオに背を向けて叙事詩の神カリオペイアのほうに向ったことも度々だったというではないか。
一九六八年十月十五日 (訳者)