グラント船長の子供たち(上)
ジュール・ヴェルヌ/大久保和郎訳
目 次
一 バランス・フィッシュ
二 三つの記録
三 マルカム・カースル
四 レイディ・グレナヴァンの提案
五 〈ダンカン〉の出帆
六 第六号船室の乗客
七 ジャック・パガネルはどこから来てどこへ行くか?
八 正直者がまた一人
九 マジェラン海峡
十 南緯三十七度
十一 チリ横断
十二 高度三六〇〇メートル
十三 コルディリェーラを降りる
十四 天佑の銃声一発
十五 ジャック・パガネルのスペイン語
十六 リオ・コロラド
十七 パンパス
十八 水場を求めて
十九 赤狼
二十 アルゼンチンの平原
二十一 インデペンデンシア砦
二十二 氾濫
二十三 鳥の生活をする
二十四 鳥の生活のつづき
二十五 火と水のあいだ
二十六 大西洋
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第一部
一 バランス・フィッシュ
一八六四年七月二六日、北東の強い風に乗って一隻のすばらしいヨットが全速力でノース海峡の波の上を進んでいた。イギリスの国旗が後檣《こうしょう》の斜桁《しゃこう》にひるがえっていた。主檣《メインマスト》のてっぺんにかかげた三角旗には、金糸で刺繍したE・Gという頭文字の上に公爵家の冠が描いてあった。このヨットは〈ダンカン〉という名で、上院に席を持つ十六人のスコットランド貴族の一人であり、連合王国の全土にその名を知られている〈ロイヤル・テイムズ・ヨット・クラブ〉の最も身分の高い会員の一人であるロード・グレナヴァンの持ち船だった。
ロード・エドワード・グレナヴァンは若い妻レイディ・ヘレナ、および従兄弟の一人であるマクナブズ少佐と一緒に船に乗っていた。
〈ダンカン〉は新造船で、クライド湾から数海里出たところで試運転をし、今グラスゴーに帰ろうとしていた。すでにアラン島が水平線に頭をもたげていたが、そのとき見張りの水夫がヨットの跡を追いかけて来る巨大な魚を認めた。船長ジョン・マングルズは、早速ロード・エドワードにこの発見を知らせた。彼はマクナブズ少佐と一緒に船尾楼の上に出て、この魚のことをどう思うかと船長にきいた。
「実は、閣下、すばらしく大きな鮫《さめ》だと私は思います」とジョン・マングルズは答えた。
「このあたりに鮫が!」とグレナヴァンは叫んだ。
「疑う余地はありません。あの魚はあらゆる緯度のすべての海で見かける鮫の一種です。〈バランス・フィッシュ〉〔シュモクザメ〕という奴です。もしこれが私の見間違いでなければ、あいつはこの悪党の仲間です。閣下がお許しくださるなら、また奥様に珍しい漁を見物なさるお気持がすこしでもおありならば、奴の正体はじきにわかるでしょう」
「どう思う、マクナブズ」とグレナヴァンは少佐に言った。「一つ冒険をやってみようと思うかね?」
「君にはおもしろいだろうと思うよ」と少佐は物静かに答えた。
「それにまた、この恐ろしい獣はいくら殺しても殺しすぎるということはないのです」とジョン・マングルズはまた言った。「この機会にやってしまいましょう。もし閣下がおもしろいとお思いになれば、手に汗を握る見物にもなるし善事《ぜんじ》にもなりますから」
「やりたまえ、ジョン」とロード・グレナヴァンは言った。
それから彼はレイディ・ヘレナに知らせにやり、彼女もこの手に汗を握らせる漁に本当に心をそそられて船室の上に出て来た。
海はすばらしく凪《な》いでいた。驚くべき力で沈むかと思うと跳ね上る鮫の迅速な動きを水面上に容易にたどることができた。ジョン・マングルズは命令を下した。水夫たちは右舷の手摺《てすり》越しに、厚い脂肉《あぶらみ》を餌にして鉤《かぎ》をつけた丈夫な繩を投げた。鮫は四十五メートルも離れていたにもかかわらず、その猛烈な食欲の前に出された餌を嗅ぎつけた。するすると鮫はヨットに近づいた。先端が灰色で基部の黒いその鰭《ひれ》が激しく水を打ち、尾によって一直線に方向を保って来るのが見えた。進むにつれてその飛び出た大きな目が貪欲さにぎらぎらするのが見え、体を反転させるときその大きく開いた顎《あご》は四列にならんだ歯をのぞかせた。頭は幅広く、柄のはしについた両頭のハンマーのような形になっている。ジョン・マングルズが見誤るはずはなかった。これこそイギリス人がバランス・フィッシュといい、プロヴァンス人がポワソン=ジュイフ(ユダヤ人の魚)と呼ぶ、鮫族のなかでも最も貪欲な部類だったのだ。
〈ダンカン〉の乗客も船員も注意を凝らして鮫の動きを見守った。間もなく鮫は鉤のそばに来た。それからうまくかぶりつけるように反転して腹を上にし、大きな餌はその幅広い喉《のど》のなかに消えた。たちまち彼はワイヤーに激しい衝撃を与えて自分から〈ひっかかり〉、水夫たちはメインマストの下桁《かこう》のはしにとりつけた滑車を使って巨大な鮫を引っぱった。
鮫は自分の本来の世界である水から引き上げられるとわかると猛烈にあばれまわった。しかしその猛烈さも押えられた。輪差《わさ》を作った繩が鮫の尾にまきつき、鮫の動きを封じた。しばらく後には鮫は舷側から引き上げられてヨットの甲板の上にほうりだされた。たちまち水夫の一人が用心しながら近づいて、力いっぱい斧をふるって鮫の物凄い尾を切り落した。
漁は終わった。もはやこの怪物を恐れる必要はまったくなかった。船乗りたちの復讐心は満たされたが、好奇心のほうは満たされなかった。実際どんな船でも、捕えた鮫の腹のなかを入念に調べる習慣になっていた。水夫たちは鮫の見さかいなしの貪欲さを知っていたので、何か思いがけないものがあるのではないかと予期していたが、この予期は決して裏切られることがなかった。
レイディ・グレナヴァンはこの胸の悪くなるような〈検査〉に立会いたいとは思わず、船尾楼のなかへ引っこんだ。鮫はまだ喘《あえ》いでいた。体長一メートル八〇、重さは二七〇キロもあったが、これくらいの大きさや重さは全然珍しいものではない。しかしバランス・フィッシュはこの種のもののなかで巨大な部類に属するものではなかったにしても、すくなくとも最も恐るべきものに数えられていたのである。
間もなく大きな魚は容赦もなく斧で腹を割《さ》かれた。鉤《かぎ》は胃のなかにまではいっていた。胃はまったくからっぽだった。あきらかに鮫はずっと前から何も食べていなかったのだ。そして当てのはずれた水夫たちがずたずたにされた屍体を海に捨てようとしたとき、水夫長の注意は内臓の一つにぴったりとはまりこんでいた何かごつごつしたものに引きつけられた。
「やあ、あれは何だろう?」と彼は叫んだ。
「あれか」と水夫の一人が答えた。「岩のかたまりだよ、おもしにするために呑みこんだんだろう」
「へえ!」と別の水夫が言った。「何のことはない、こいつは鎖弾〔当時、敵艦の帆柱を破壊するために用いられた砲弾〕だよ。この悪党は腹にこいつを食らったんだが、それが消化《こな》れずにまだ残っているんだね」
「まあいろいろなことを言うな」とヨットの航海士であるトム・オースティンが答えた。「おまえらにはわからないのか、この野郎は札つきの酔っぱらいで、損をすまいとしてワインだけではなく壜《びん》まで呑みこんでしまったのさ」
「何?」とロード・グレナヴァンは叫んだ。「この鮫の腹にあるのは壜なのか!」
「ほんものの壜です」と水夫長は答えた。「ただし、こいつは地下の酒倉から出て来るのじゃありませんや」
「よろしい、トム」とロード・エドワードは言った。「気をつけてその壜を取ってみなさい。海で見つかった壜にはよく貴重な文書がはいっていることがある」
「ほんとにそう思っているのかね?」とマクナブズ少佐が言った。
「すくなくともそういうことがあり得るとは思っているよ」
「いやいや、私は君に反対しているのじゃない」と少佐は答えた。「もしかすると秘密があるかもしれないからね」
「いずれじきにわかることさ」とグレナヴァンは言った。「どうだね、ジョン?」
「これです」と航海士は、鮫の胃袋からかなり骨を折って取り出した、はっきりしない形のものを見せて言った。
「よし。その厭《いや》らしいものを洗わせたまえ。そうして船室に持って来るんだ」
トムはその命令にしたがった。そしてまことに奇妙な状況で発見されたその壜は食堂のテーブルの上に置かれ、そのテーブルのまわりにロード・グレナヴァン、マクナブズ少佐、ジョン・マングルズ船長、それからレイディ・ヘレナが坐った。女というものは常に少々好奇心が強いものだからだ。
海ではどんなことでも大事件になる。人々はしばらく沈黙していた。各人はこの脆《もろ》い漂流物に物問いたげな視線を投げた。遭難の秘密がそこにかくされているのか、それとも無聊《ぶりょう》に悩む航海者か誰かが波にゆだねた愚にもつかぬ手紙でしかないのか?
とにかく真実をあきらかにしなければならなかった。そしてグレナヴァンはそれ以上ぐずぐずせずに壜を調べにかかった。のみならず彼はこうした場合に必要なあらゆる細心さをもってした。まるで重大事件の細目について検証している予審判事といったところだった。そしてグレナヴァンがそうするのは正しかった。一見きわめてつまらないものに見える証拠がしばしば重要な発見に導くこともあるのだから。
内部をあらためる前に壜の外側が調べられた。首は先細になっていて、口には錆びついた針金がまだついていた。非常に厚くて何気圧もの圧力に堪えられそうなそのガラスはあきらかにシャンパーニュ地方でできたものとわかった。アイやエペルネの葡萄作りたちはこの壜で支柱の棒を叩き折るが、壜のほうにはまったく|ひび《ヽヽ》も入らないのである。だから、この壜も何の損傷もなしにさまざまの波瀾に富んだ長い遍歴に堪えて来られたのだろう。
「クリコ商会の壜だ」と少佐は簡単に言った。
そしてこういったことには彼は詳しいはずなので、彼の言葉は異議なく認められた。
「少佐さん」とヘレナは言った。「この壜がどんな壜かということなどは大したことではありませんわ。どこから来たのかわからなければ」
「いずれわかるよ、ヘレナ」とロード・エドワードが言った。「遠くから来たということは今からでも言える。壜を蔽《おお》っているこの石みたいなものを見なさい。いわば海水の作用で鉱物化したようなこの物質を! この漂流物は鮫の腹のなかにおさまるまでにすでに長いこと大洋にあったのだよ」
「私には君の考えに反対することはできない」と少佐は答えた。「事実この脆い壜は石の蔽いで守られて長い旅をすることができたのだ」
「でもどこから来たんでしょう?」とレイディ・グレナヴァンが質問した。
「待ってくれ、ヘレナ、待ってくれ。壜というものを相手にするときは気を長く持たなくちゃ。私の間違いでなければ、この壜そのものが私たちのすべての問いに答えてくれるだろう」
そう言いながらグレナヴァンは壜の口を蔽っている堅い物質を削り落しはじめた。やがて栓《せん》が出て来たが、この栓は海水のためひどく腐蝕している。
「こいつはおもしろくないね」とグレナヴァンは言った。
「中に紙か何かはいっているとすると、これではすっかり台なしになっているだろう」
「その惧《おそ》れはあるね」と少佐が受けた。
「もう一つ言うと、栓がこんなにひどくなっているのだから、壜は間もなく沈んでしまうかもしれなかった。この鮫の奴が呑みこんで〈ダンカン〉の上に持って来てくれたのは幸運だったよ」
「そうかもしれません」とジョン・マングルズは答えた。「それにしても、はっきりとした経度緯度のわかっている海の上で壜を拾ったほうがやはりよかったでしょう。そうすれば気流や潮流を調べて、どのように流れて来たかわかりますから。しかし風や潮に逆らって進むこうした鮫に運ばれて来たのでは、こちらとしてもとんと見当がつきません」
「もうすぐわかるよ」とグレナヴァンは答えた。
そう言いながら彼はきわめて慎重に栓を抜いた。強い潮の匂いが船室にひろがった。
「どう?」とレイディ・ヘレナはいかにも女性らしく待ちかねて言った。
「うん、私は間違っていなかった! 紙がはいっている!」
「文書ね! 文書なのね!」とレイディ・ヘレナは叫んだ。
「ただ、こいつは水で腐っているようだ」とグレナヴァンは答えた。「引っぱり出すことはできない。壜の内側に貼りついているからね」
「壜を割ろう」とマクナブズが言った。
「私は壜はこのままそっとしておきたいな」とグレナヴァンは答えた。
「私だってそう思う」と少佐は言った。
「それはたしかにそうだけど」とレイディ・ヘレナは言った。「中身のほうが容れ物よりも大切よ。中身のために容れ物を犠牲にするほうがいいわ」
「閣下、口だけはずされたらいかがでしょう」とジョン・マングルズが言った。「そうすれば中の文書を傷めずに取り出せましょう」
「さあ、さあ、エドワード」とレイディ・グレナヴァンは叫んだ。
それ以外のやりかたをするのはむずかしかった。そしていずれにしても、ロード・グレナヴァンは貴重な壜の口を割ることに心を決めた。槌《つち》を使わねばならなかった。石の蔽いは花崗岩ほどの堅さになっていたからだ。間もなく石は砕けてテーブルの上に落ち、幾枚かの紙きれがたがいに貼りついているのが見えた。グレナヴァンは慎重にそれを取り出し、剥がし、自分の前にならべ、レイディ・ヘレナ、少佐、船長は彼のまわりに詰め寄った。
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二 三つの記録
海水で半ば腐り果てたこの紙片に見られたのはわずか数語だけだった。ほとんど完全に消え去った行の残りで、読み取れるものではない。数分のあいだロード・グレナヴァンは注意深くそれを調べていた。いろんなふうにひっくりかえし、光に透かして見、水に消え残った筆蹟をどんな細部にわたってまでも観察した。それから彼は、不安そうな目で彼を見守っている仲間たちに目をやった。彼は言った。
「ここに三つの文書がある。しかもこれはおそらく同じ文書を三ヵ国語に訳したものだね、英語、フランス語、ドイツ語に。残っているいくつかの単語を見るとその点は疑う余地がない」
「でも、すくなくともそれらの単語は意味をなしていますの?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「それについて明言することはむずかしいね、ヘレナ。この文書に書かれてある単語はまことに不完全なものだから」
「もしかするとたがいに補い合っているのではないかな」と少佐が言った。
「それに違いありませんよ」とジョン・マングルズが引き取った。「それぞれの行の同じ個所が水で消えたなどということはあり得ません。ですからその文章の断片を突き合わせてみれば、しまいに何か理解できる意味が見つかるでしょう」
「そうしてみよう」とロード・グレナヴァンは言った。「しかし順序立ててやって行くことにしよう。まず第一に英語の文書だ」
この文書の行と単語は次のように配置されていた。
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62 Bri gow
sink stra
aland
skipp Gr
that monit of long
and ssistance
lost
[#ここで字下げ終わり]
「これでは大して意味をなさない」と少佐は失望のていで言った。
「いずれにしても、これはちゃんとした英語です」と船長が答えた。
「その点は疑いない」とロード・グレナヴァンは言った。「sink, aland, that, and, lost ははっきりしている。skipp はあきらかに skipper となる。問題は Gr…氏なる人物のことだが、おそらく難破した船の船長だろう」
「さらにまた」とジョン・マングルズが言った。「monit および ssistance という単語がありますが、これの意味はあきらかでしょう」
「まあ、それじゃもうかなりわかるじゃありませんか」とレイディ・ヘレナが言った。
「不幸にして完全に揃っている行がない。難破した船の名や難破の場所がどのようにしてわかるか?」と少佐が答えた。
「わかるさ」とロード・エドワード。
「それは確かだ」と誰の意見にもかならず賛成する少佐は答えた。「しかし、どのようにして?」
「もう一つの文書で補うのさ」
「やってみましょう!」とレイディ・ヘレナは叫んだ。
第二の紙片は前のよりも痛みがひどかったので、ぽつぽつとした単語が次のように配置されているだけだった。
[#ここから1字下げ]
7 Juni Glas
zwei atrosen
graus
bringt ihnen
[#ここで字下げ終わり]
「これはドイツ語で書かれています」と、その紙を一瞥してジョン・マングルズは言った。
「で、君はドイツ語を知っているのかね、ジョン?」とグレナヴァンはきいた。
「存じております」
「それではこのいくつかの単語の意味を教えてくれたまえ」
船長は注意深く紙を調べ、そして次のように言った。
「第一に、これでわれわれは事件のあった日を確かめることができました。7 Juni というのは六月七日のことです。この数字を英語のほうにある 62 と突き合わせると一八六二年六月七日という年月日がわかります」
「結構だわ」とレイディ・ヘレナは叫んだ。「つづけてちょうだい、ジョン」
「同じ行に」と若い船長は語を継いだ。「Glas という語があります。最初の文書にあった gow と一緒になってこれは Glasgow となります。あきらかにこれはグラスゴーの港に所属する船なのです」
「私もそう思う」と少佐は言った。
「第二行目は全然ありません。しかし三行目には二つの重要な単語が見られます。〈二〉をあらわす zwei、それから atrosen、これは Matrosen で、ドイツ語で〈水夫〉の意味です」
「それでは船長と二人の水夫ということね」とレイディ・ヘレナが言った。
「そうかもしれない」とロード・グレナヴァンが答えた。
「白状いたしますが」と船長はつづけた。「その次の graus という語には私も当惑します。どう取っていいのかわからないのです。たぶん第三の文書を見ればわかるでしょう。最後の二つの単語は簡単にわかります。bringt ihnen は〈彼らに……もたらせ〉ということです。そして第一の文書の同じ第七行にあった英語の言葉、つまり assistance をここに持って来ると、〈彼らに援助をもたらせ〉という文字が自然に出て来ます」
「そうだ! 彼らに援助をもたらせ!」とクレナヴァンは言った。「だが、その不幸な人々はどこにいるのだ? これまでのところわれわれには場所の指示は一つも与えられていない。そうして悲劇の舞台はまったくわからないのだ」
「フランス語の文書のほうはもっとはっきりしているかもしれなくってよ」とレイディ・ヘレナが言った。
「フランス語の文書を見よう。ここにいるものは皆フランス語を知っているから、検討は楽にできるだろう」
第三の文書の模写を以下に示す。
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trois ats tannia
gonie austral
abor
contin pr cruel indi
jete ongit
et 37 11' lat
[#ここで字下げ終わり]
「数字があるわ」とレイディ・ヘレナは叫んだ。「ごらんなさい、皆さん、ごらんなさい!……」
「順序立ててやって行こう」とロード・グレナヴァンは言った。「そもそもの初めから段階を追って行くのだ。散らばった不完全な単語を一つ一つ取り上げて行くことにさせてもらいたい。まず最初の文字で、問題の船は trois-mats(三檣船)だとわかる。船の名は英語とフランス語の文書のおかげでそのまま残されている。Britannia だ。次の二つの語 gonie と austral(南の)のうち、第二のものだけが意味を持っているが、その意味は諸君にもよくわかるだろう」
「これだけでも、すでに貴重な事実です」とジョン・マングルズが言った。「難破があったのは南半球です」
「それだけでは漠然としている」と少佐が言った。
「つづけよう。ああ、abor というのは動詞 aborder(上陸する)の語幹だね。この不幸な人たちはどこかに上陸したんだ。それはどこか? contin、すると大陸《コンチナン》に接岸したのか? cruel(残酷な)……」
「cruel」とジョン・マングルズは叫んだ。「これで graus というドイツ語のほうもわかります……grausam……cruel ですよ!」
「つづけよう! つづけよう!」グレナヴァンは不完全なこれらの単語の意味が判明して来るにつれていやが上にも興味をかきたてられて言った。「indi……というのは、船が流れついたインドのことではなかろうか? この ongit という語はどういう意味か? ああ、longitude(経度)だ! そしてこれは緯度だ。三七度一一分。とうとう! これではっきりとした指示にぶつかったよ」
「しかし経度は書いてない」とマクナブズが言った。
「一どきに何もかもというわけにはいかないよ、少佐君。正確な緯度だけでも大したことだ。どう見てもこのフランス語の文書が三つのなかでいちばん整っている。三つのそれぞれが他のものの逐語訳《ちくごやく》であることはあきらかだ。どれもみな行数は同じなんだから。そこで今度は全部をまとめて一つの国語に訳し、いちばんそれとおぼしい、いちばん論理的でいちばん明確な意味をさがす必要がある」
「では何語に翻訳するんだね、フランス語か英語かドイツ語か?」と少佐は訊いた。
「フランス語だ」とグレナヴァンは答えた。「興味のある単語の大部分はフランス語で残されているのだから」
「閣下の仰《おお》せのとおりです」とジョン・マングルズも言った。「その上この国語はわれわれのよく知っているものなのですから」
「よろしい。それではこの残った単語と断片的な文書を寄せ集め、字間はそのままにし、意味のはっきりしている語は補って書いてみよう。その上で比較し判断するのだ」
グレナヴァンはペンを取り、しばらく後に次のような行が書かれている紙を仲間たちに示した。
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7 juin 1862 trois-mats Britannia Glasgow
sombre gonie austral
a terre deux matelots
capitaine Gr abor
contin pr cruel indi
jete ce document de longitude
et 37 11' de latitude Portez-leur-secours
perdus
[#ここで字下げ終わり]
ちょうどこのとき一人の水夫が来て、〈ダンカン〉がクライド湾に入ろうとしていることを船長に知らせ、彼の指図を求めた。
「閣下はどうなさるおつもりで?」とジョン・マングルズはロード・グレナヴァンにむかって言った。
「できるだけ早くダンバートンに着くことだ、ジョン。それからレイディ・ヘレナはマルカム・カースルに帰り、私はロンドンまで行ってこの書類を海軍省に提出する」
ジョン・マングルズはそれに従って命令を下し、水夫はそれを航海士に伝えに行った。
「それでは、諸君」とグレナヴァンは言った。「研究をつづけよう。われわれは大きな悲劇の跡を追っているのだ。何人かの生命がわれわれの洞察力にかかっている。だから、あるかぎりの智恵を絞ってこの謎を解いて見せよう」
「始めても結構ですわ、エドワード」とレイディ・ヘレナが答えた。
「まず第一に、この文書に含まれている三つの事柄を考えねばならない。第一はわれわれにわかっていること、第二は推測し得ること、第三はわれわれの知らないこと。われわれは何を知っているか? 一八六二年六月七日、グラスゴーの三檣船〈ブリタニア〉が沈没したこと、そして二人の水夫と船長が緯度三七度一一分でこの文書を海に投げこんだこと、彼らが救いを求めていることをわれわれは知っている」
「そのとおり」と少佐が応じた。
「どんな推測ができるか?」とグレナヴァンはつづけた。「第一に難破は南洋であったということだ。そこで早速私は gonie という語に諸君の注意を促したい。これを見ればこれの言わんとする国の名がおのずとわかって来はしないか?」
「パタゴニアね!」とレイディ・ヘレナが叫んだ。
「たぶん」
「しかしパタゴニアの上を三七度線が走っているかね?」と少佐が訊いた。
「それは簡単に確かめることができます」とジョン・マングルズは南アメリカの地図をひろげながら答えた。「そのとおりです。この三七度線はパタゴニアをかすめています。アラウカニアを横切り、パンパスを突っ切ってパタゴニア地方の北に沿い、大西洋にはいっていますから」
「よろしい。推測をつづけよう。二人の水夫と船長は上《アポル》……何に上陸《アポルデ》したのか? contin……大陸《コンチナン》にだ。わかるかね、大陸であって、島ではないんだよ。彼らはどうなったか? ここにありがたいことに pr……という二つの文字があって、彼らの運命を知らせてくれる。この不幸な連中は捕えられた(pris)か捕虜(prisonniers)になったのだ。誰の? |残酷なインディアンの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。納得がいったかね? 空白のところへしかるべき語句がおのずと嵌《は》まりこんで来るじゃないか。この文書は自然にだんだんとはっきりして来るだろう? 諸君にもだんだん見当がついて来はしないかね?」
グレナヴァンの言い方には確信があった。彼の目には完全な自信があらわれていた。彼の熱情はほかの人々にもつたわった。彼と同じく皆は叫んだ。
「明白だ! 明白だ!」
ロード・エドワードはちょっと間をおいてまたつづけた。
「こういう想定はすべて私にはきわめて妥当であるように見える。私の見るところ、悲劇はパタゴニアの沿岸で起こった。それにまた、グラスゴーで私は〈ブリタニア〉の目的地を問い合わせてみる。そうすれば〈ブリタニア〉がそのあたりに流されたと考えられるかどうかわかるだろう」
「わざわざそんなところまで問い合わせる必要はありません」とジョン・マングルズが答えた。「ここに私の〈海運時報=マーカンタイル・アンド・シッピング・ガゼット〉の綴じこみがあります。これが正確な情報を与えてくれます」
「さあ、それを見ましょう!」とレイディ・ヘレナは言った。
ジョン・マングルズは一八六二年度の新聞の綴じこみを取り、手速くめくりはじめた。探すのにそんなに時間はかからず、間もなく彼は満足げな口調で言った。
「一八六二年五月三〇日! ペルー! カリャオで!〈ブリタニア〉、船長グラント、グラスゴー行き、積荷作業」
「グラントだって!」とロード・グレナヴァンは叫んだ。「太平洋にニュースコットランドを建設しようとしたあの大胆なスコットランド人か!」
「そうです」とジョン・マングルズは答えた。「一八六一年にグラスゴーで〈ブリタニア〉に乗りこみ、それ以来、全然消息のなくなったあの人物ですよ」
「疑いはない! もう疑いはない!」とグレナヴァンは言った。「たしかに彼だ!〈ブリタニア〉は五月三〇日にカリャオを出発し、出帆後一週間して六月七日パタゴニアの沿岸で遭難したのだ。解読不能に見えた残りの単語に含まれていた全貌はこれなのだ。ごらんのとおり、諸君、われわれがすでに推測し得たことは相当大きなものだ。わからないことといえば、要するに経度は何度かということに尽きる」
「それは不必要です」とジョン・マングルズは答えた。「国がもうわかっているのですから。緯度だけで私はまっすぐに遭難の場所へ行ってお目にかけます」
「それではもう何もかもわかったのですか?」とレイディ・グレナヴァンが言った。
「何もかもだよ、ヘレナ。水で消されたこの語間の空白のところは、私が造作なく埋めて見せよう。まるで私がグラント船長の口述で書いているように」
早速ロード・グレナヴァンはまたペンを取り上げて、ためらうことなく次のような文面をしたためた。
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Le 7 juin 1862, le trois-mats Britannia, de Glasgow, a sombre sur les cotes de la Patagonie dans l'hemisphere australe. Se dirigeant a terre, deux matelots et le capitaine Grant vont tenter d'aborder le continent ou ils seront prisonniers de cruels Indiens. Ils ont jete ce document par degres de longitude et 37 11' de latitude. Portez-leur secours, ou ils sont perdu.
[#ここで字下げ終わり]
〔一八六二年六月七日、グラスゴー籍|三檣《さんしょう》船〈ブリタニア〉は南半球パタゴニア沿岸で沈没した。二人の水夫とグラント船長は陸を目指し、大陸に上陸しようと思うが、そうすれば残酷なインディアンに捕われることであろう。この文書は経度……、緯度三七度一一分のところで投ずる。彼らに救援の手を伸ばされたい。さもなくば彼らは破滅である〕
「そうだわ! そうだわ! エドワード」とレイディ・ヘレナは言った。「そしてもしこの不幸な人たちが祖国に帰ることができれば、この人たちのその幸福はあなたのおかげなのよ」
「彼らは帰るにちがいないさ」とグレナヴァンは言った。「この文書ははっきり書いてあるし、明快で疑いがないから、イギリスは荒寥《こうりょう》たる海岸に残された三人の自国民の救出にむかうことをためらうはずがないよ。フランクリンやその他多くの人々のためにしてやったことを、イギリスは今度は〈ブリタニア〉の遭難者たちのためにするだろう!」
「でもその不幸な人たちには」とレイディ・ヘレナがまた言った。「たぶんその人たちを失ったことを泣き悲しんでいる家族がいることでしょう。きっとその気の毒なグラント船長には妻や子供もいるでしょう……」
「あなたの言うとおりだ。私がその家族に、すべての希望が失われたわけではまだないと知らせてやることにしよう。それでは、諸君、また船尾楼の上に出よう。もう港に近づいているはずだから」
事実〈ダンカン〉は馬力を上げていた。ちょうどビュート島の岸に沿って行くところで、肥沃な谷に横たわる魅力的な小さな町のあるロズセイを右舷にやりすごした。それから湾の狭い水路にはいって行き、グリーナクの前で方向を変え、そして午後六時に、スコットランドの英雄ウォレスの有名な城がその頂《いただき》に立つダンバートンの玄武岩の岩壁の下に錨をおろした。
そこには馬をつないだ馬車がレイディ・ヘレナをマクナブズ少佐と一緒にマルカム・カースルに連れもどすために待っていた。そうしてロード・グレナヴァンは若い妻に接吻した後でグラスゴー行きの急行列車に飛び乗った。
しかし出発する前に彼はもっと手っ取り速い手段をもって一つの重要な文面を送り、そうして電信は数分後には次のようにしたためられた広告文を〈タイムズ〉と〈モーニング・クロニクル〉に運んだのである。
「グラスゴー籍三檣船ブリタニア(船長グラント)のその後の成り行きについて知りたい方はロード・グレナヴァンあて連絡されたし、スコットランド、ダンバートン州、ラス、マルカム・カースル」
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三 マルカム・カースル
ハイランド〔スコットランドの高地〕で最も詩的な城の一つであるマルカムの城はラスの村の近くにあり、その美しい谷を見おろしていた。ローモンド湖の澄んだ水が城壁の花崗岩を洗っている。大昔からこの城は、ロブ・ロイとファーガス・マクグレガーのこの国でウォルター・スコットの小説の古い主人公たちが持っていたあの客好きな習慣を守っているグレナヴァン一門のものであった。スコットランドにおいて社会変革が完成した時期に、古い氏族の族長に莫大な小作料を払うことのできない封建家臣たちは多数追放された。あるものは飢えで死んだ。あるものは漁夫となった。あるものは移住した。すべてのものが絶望していた。そのなかでただグレナヴァン一門だけが、忠実ということは身分の高下を問わずすべての人間の義務であると信じ、自分の小作人に対して忠実を守ったのである。生まれた家から去ったものは一人もいなかった。祖先らの眠る土地を捨てたものは一人もいなかった。すべてのものが彼らの昔の領主たちの氏族にとどまったのだ。それゆえこの時代にあっても、情愛が薄れ絆《きずな》が弛《ゆる》むこの世紀にあってすらも、グレナヴァン家はそのマルカムの城で、スコットランド人以外のものを使っていなかった。すべてのものがマクグレガー、マクファーレイン、マクナブズ、マクノートンの家臣たちの後裔《こうえい》だった。つまり、スターリング州とダンバートン州の生え抜きのものだった。身も心も主君に捧げつくした正直な連中であり、そのうち何人かは昔のカレドニアのゲール語をまだしゃべっていたのである。
ロード・グレナヴァンは莫大な財産を所有していた。彼はこの財産をいろいろと善事をおこなうために使った。彼の人柄の好さはその気前のよさをさらにうわまわるものだった。前者は無限であるが、後者にはどうしても限界があるものだからだ。ラスの殿様、マルカムの〈領主《レアド》〉は、上院でその州を代表していた。しかしジャコバイト思想を持してハノーヴァ王家〔スコットランド王家で、後にイギリス王室を兼ねたステュアート王家を支持するのがジャコバイトで、アン女王をもって終わり(一七一四年)、後にはドイツのハノーヴァ家のジョージが迎えられてイギリス王となる。ハノーヴァ王家は第一次世界大戦中ウィンザー家と名を変えて今にいたる〕の意を迎えようとしない彼は、イギリスの政治家たちからかなり冷眼視されていた。それもとりわけ、彼が祖先以来の伝統を護持し、〈南の連中〉の政治的介入に断固として抵抗したという理由からだった。
けれどもこのロード・グレナヴァンは旧弊《きゅうへい》な人間でも、狭量な、あるいは愚鈍な人間でもなかった。とにかく、その州の門戸を進歩にむかって広く開きながらも彼はその魂においてスコットランド人たることをやめず、そして彼が〈ロイヤル・テイムズ・ヨット・クラブ〉の競艇《マッチ》にその競技用ヨットに乗って参加するのはスコットランドの名誉をかがやかすためなのだった。
エドワード・グレナヴァンは三十二歳だった。背は高く、少々きびしい顔立ちだったが、目つきは何とも言えずやさしく、人柄全体にハイランド人の詩情がしみとおっていた。彼が極度に勇敢で、行動的で、騎士的で、まさに十九世紀のファーガス(スコットランドの伝説的英雄)と言うにふさわしいことは誰も知っていた。しかし何にもまして彼は人柄が好く、聖マーティンその人よりも親切といえるほどだった。彼ならば高地のすべての貧民に自分のマントを与えたろうと思われるからだ。
ロード・グレナヴァンはつい五カ月足らず前に結婚したばかりだった。彼の妻となったのはミス・ヘレナ・タフネルだったが、彼女は地理学と発見への情熱とに身を捧げた多くの犠牲者の一人である大旅行家ウィリアム・タフネルの娘だった。
ミス・ヘレナは貴族の家柄に属していなかったが、彼女はスコットランド人だった。このことはロード・グレナヴァンの目にはありとあらゆる貴族の位に匹敵した。この魅力的で勇敢で献身的な若い女性をラスの殿様は生涯の伴侶にすえたのである。ある日彼は、キルパトリックの亡き父の家でほとんど財産もなく孤児としてただ一人暮らしている彼女に出逢った。この気の毒な娘は健気《けなげ》な妻になるだろうということを彼は悟った。彼は娘と結婚した。ミス・ヘレナは二十二歳だった。金髪の、晴れた春の朝に見るスコットランドの湖の水のように青い目をした若い女だった。夫に対する彼女の愛情は感謝の念よりもさらに強かった。彼女はまるで自分自身が豊かな財産の相続者であり、彼のほうが天涯の孤児であるかのように彼を愛した。彼の小作人や彼の使用人たちはどうかといえば、彼らが〈ラスのやさしい奥方〉と呼んでいるこの婦人のためには生命を捧げることも辞さなかったろう。
ロード・グレナヴァンとレイディ・ヘレナは、橡《とち》や大楓《おおかえで》の暗い並木の下や、昔のピーブロック〔バグパイプで奏する高地ハイランド人の勇壮な曲〕がなお鳴り響いている湖畔や、スコットランドの歴史が数百年を閲した遺跡となって書きとどめられているあの荒れはてた谷の奥を散歩しながら、ハイランドの堂々としたあの野生の自然にとりまかれたマルカム・カースルで幸福に暮らしていた。ある日は彼らは樺や唐松《からまつ》の森を、黄ばんだヒースに蔽《おお》われた広々とした原野のただなかをさまよった。また別の日は、今なお〈ロブ・ロイの国〉と呼ばれているこの詩趣に満ちた地方を、そしてウォルター・スコットがあのように力強く歌ったあの名所のすべてを調べ、理解し、鑑賞しながら、ベン・ロモンドの切り立った峰々を攀《よ》じ、あるいは荒寥とした峡谷《グレン》に馬を駆った。宵闇《よいやみ》が来るころ、〈マクファーレインのともし火〉が水平線の上にともるときには、マルカムの城をめぐる銃眼を穿《うが》った古い環状廊下バータゼンに沿ってそぞろ歩いた。そうして崩れ落ちた岩か何かに腰をおろして、暗くなった山々の頂に夜がそろそろ降りて来るにつれ青白い月の光を浴びながら、この自然の沈黙のさなかで思いに沈み、人々から忘れられ、この世界にまるで彼ら二人のほかはいないとでもいうように、愛する心のみがその秘密を知るあの透明な法悦と内面の陶酔に浸りきっているのであった。
彼らの結婚生活の最初の数カ月は、このようにしてすぎた。しかしロード・グレナヴァンは妻が大旅行家の娘であることを忘れていなかった! レイディ・ヘレナもその父親が抱いていた憧憬のすべてを心に秘めているにちがいないと彼は心に思ったが、それは彼の思い誤りではなかった。〈ダンカン〉が建造された。この船はグレナヴァン卿夫妻を世界の最も美しい国々へ、地中海の波濤を越えて多島《エーゲ》海の島々へまで運ぶために作られたものだった。〈ダンカン〉を意のままに使ってもいいと夫から言われたときのレイディ・ヘレナの喜びを察してみるがいい! 事実また、自分の愛する人をギリシアのあの魅力的な諸地方へ連れて行き、オリエントのあの神秘的な海岸に蜜月の昇るのを見ることにまさる幸福があるだろうか?
ところで、ロード・グレナヴァンはロンドンにむかって出発していた。問題はあの不幸な遭難者を救い出すことだった。それゆえこの一時的な不在をレイディ・ヘレナは悲しがるよりも、むしろその結果を早く知りたがった。翌日夫から電報が来て、彼がすぐ帰って来るという希望を彼女に抱かせた。その夕方手紙が来て留守が長くなることの許しを求めた。ロード・グレナヴァンの提案はいくつかの困難にぶつかっていたのだ。さらにその翌日また別の手紙が来たが、ロード・グレナヴァンはそのなかで海軍省に対する不満をぶちまけていた。
この日レイディ・ヘレナは不安を感じはじめた。その夜彼女は自分の部屋に一人でいたが、そのとき城の執事のミスタ・ハルバートがやって来て、若い娘と少年がロード・グレナヴァンにお目にかかりたいと言っているが、会っておやりになりますかときいた。
「このあたりの人ですか?」とレイディ・ヘレナは言った。
「いいえ、奥さま」と執事は答えた。「私は顔を知りませんから。バロッホ線の汽車で来て、バロッホからラスまでは歩いて来たそうでございます」
「上ってくださいと申し上げて」
執事は出て行った。しばらくして若い娘と少年はレイディ・ヘレナの部屋に通された。姉弟だった。その似方を見れば疑う余地はなかった。姉は十六歳だった。いくらか疲れたようなそのきれいな顔、泣くことがよくあるらしいその目、黙々として悲しみに堪えている、しかし勇気ありげなその顔立ち、貧しいけれども清潔なその身なりは最初から彼女に好意をおぼえさせた。娘は十二歳ぐらいの少年と手をつないでいたが、その少年は果断な様子で、姉を護っているように見えた。いや、まったくの話、誰であれ若い娘のほうに失礼なことをしたらこの小さな紳士にとっつかまったことだろう!
姉はレイディ・ヘレナの前に出るとちょっともじもじしていた。レイディ・ヘレナは急いで口を切った。
「私に話がおありなんですって?」と彼女は目で娘を励ましながら言った。
「いいえ」と少年が決然とした口調で答えた。「あなたではなく、ロード・グレナヴァンご自身にです」
「まあ失礼なことを申しまして、奥さま」と弟に目をやって姉は言った。
「ロード・グレナヴァンは今ここにおりません。でも私は妻です。あなたがたがもし私でいいとおっしゃれば……」
「グレナヴァンの奥方でいらっしゃいますか?」と娘はきいた。
「ええ、そうです」
「〈タイムズ〉紙に〈ブリタニア〉の遭難についての広告をお載せになったマルカム・カースルのロード・グレナヴァンの奥さまで?」
「ええ、ええ!」とレイディ・ヘレナは愛想よく言った。「それで、あなたがたは?……」
「私はグラントの娘、これは私の弟でございます」
「ミス・グラント! ミス・グラント!」と娘を自分のそばに引きよせ、その両手を取り、小さな紳士の両頬に接吻してレイディ・ヘレナは叫んだ。
「奥さま」と娘はつづけた。「父の遭難についてどんなことをごぞんじなのですか? 父は生きておりますでしょうか? いつか父に会えますでしょうか? どうかおっしゃってくださいまし、お願いでございます!」
「あなた、こうした場合ですから軽々しくお答えすることは私は決してしたくありません。むなしい希望をあなたに抱かせたくはありませんし……」
「お話しになって、奥さま、お話しくださいまし! 私は苦しみには負けませんし、どんなことを聞いても大丈夫です」
「あなた、望みはあまりないのですよ。けれども全能の神のお助けを得ていつかあなたがお父さまに再会することもないとは言えますまい」
「神さま! 神さま!」とミス・グラントは涙をとどめ得ずに叫び、ロバートはレイディ・グレナヴァンの両手を接吻で蔽った。
この苦痛をともなった喜びの最初の爆発がしずまると、娘はもう我慢できずに数知れぬ質問をやつぎばやに浴びせた。レイディ・ヘレナはあの文書のこと、どのようにして〈ブリタニア〉がパダゴニアの沿岸で沈んだかということを彼女に語った。遭難の後わずかに生き残った船長と二人の水夫がどのようにして大陸にたどりついたのかということも、また最後に、三ヵ国語で書いて大海原の波にゆだねたあの文書のなかで彼らが世界の人々に救援を乞うた次第も。
この物語のあいだロバート・グラントはむさぼるようにレイディ・ヘレナをみつめていた。彼の命は彼女の唇にかかっていた。子供らしい想像によって彼は自分の父がその犠牲となった凄惨《せいさん》な事件の情景を思い描いた。〈ブリタニア〉の甲板上の父の姿が彼の目にうかんだ。波間にただよう父の後を彼は追った。父とともに岩にしがみつき、喘ぎながら砂浜の上に体を引きずって波のとどかぬところへ逃れた。この物語のあいだ何度となくいろいろの言葉が彼の口を衝《つ》いて出た。
「おおパパ! かわいそうなパパ!」と、姉に体を寄せながら彼は叫んだ。
ミス・グラントのほうは両手を合わせて耳を傾けながら、一言も口にしなかった。ようやく物語が終わったとき彼女は言った。
「おお、奥さま、その文書は! その文書は!」
「もう私の手もとにはないのよ」とレイディ・グレナヴァンは答えた。
「もうお手もとにない?」
「ええ、お父さま自身の身のために、ロード・グレナヴァンがロンドンへそれを持って行かなければなりませんでした。でもそこに書いてあったことは一語も違《たが》えずあなたに申しましたし、どのようにしてその正しい意味を読み取ることに成功したかも話しました。ほとんど消えている文章の断片のなかで、いくつかの数字だけはそのまま残っていました。あいにく経度は……」
「経度などわからなくても大丈夫ですよ!」と少年が叫んだ。
「そうね、ロバートさん」少年がまことに決然としているのを見てヘレナは微笑をうかべて言った。「そういうわけですからね、ミス・グラント、その文書のどんなこまかいところもあなたは私と同じようによく知っていらっしゃるわけなのですよ」
「はい、奥さま。でも私は父の筆蹟を見たかったのです」
「それならば、おそらく明日ロード・グレナヴァンが帰るでしょう。あの論議の余地のない文書を夫は海軍省の係官に見せようと思ったのです。さっそく船を派遣してグラント船長を捜索させるように計るために」
「そんなことまで、奥さま!」と娘は叫んだ。「私たちのためにそうしてくださったのですか?」
「そうですよ、お嬢さん、そして私はロード・グレナヴァンが今にも帰って来るのではないかと思っています」
「奥さま」と娘は感謝のこもった深い語調と宗教的な熱情をこめて言った。「お二方に神の祝福がありますように!」
「娘さん」とレイディ・ヘレナは答えた。「私たちには感謝される筋は全然ありません。誰だって私たちの立場にあったら同じことをしたでしょうからね。私の言うことを聞いてあなたの胸になお残った希望がほんとに実現するといいのですが! ロード・グレナヴァンが帰るまであなたがたはこの城にいてください……」
「奥さま、私はあなたが縁もゆかりもない者に対してお示しくださる御好意に甘えたいとは存じません……」
「縁もゆかりもない者ですって! 娘さん、あなたも弟さんもこの家では縁もゆかりもない者ではありませんよ。そしてロード・グレナヴァンが帰って来て、父親を救うためにこれからどんな手が打たれるかをグラント船長の子供たちに教えられたらと私は思うのです」
これほどの真心をもってなされた申し出をことわることはできなかった。そこでミス・グラントとその弟はマルカム・カースルでロード・グレナヴァンの帰りを待つことに話はきまった。
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四 レイディ・グレナヴァンの提案
この会話のあいだレイディ・ヘレナは海軍省の係官がこの要請をどのように迎えるかについてロード・グレナヴァンが手紙のなかで書いていた危惧《きぐ》のことには全然触れなかった。またグラント船長が南アメリカのインディアンのところに捕われているかもしれないということについても一言もいわなかった。父親の身の上についてこの気の毒な子供たちを悲しませ、今彼らが抱いたばかりの希望を弱めさせて何になる? 事態は全然変わらないではないか。そこでレイディ・ヘレナはそれについては沈黙を守り、ミス・グラントのすべての質問に答えてやった後で、今度は彼女のほうから、娘の生活について、自分一人で弟を世話してやっているらしい娘の生計について訊いてみた。
それは感動的な飾りけのない物語で、それを聞いてこの娘に対するレイディ・グレナヴァンの好意はますます強まった。
ミス・メァリとロバート・グラントはグラント船長のたった二人の子供だった。ハリー・グラントはロバートの生れたときに妻を失い、遠洋航海のあいだは子供たちを女中と年取った従姉の手にゆだねていた。このグラント船長というのは大胆な船乗りであり、腕の立つ男で、すぐれた航海家であるとともにすぐれた貿易商で、商船の船長にとっては貴重なこの二つの才能を兼ねそなえていた。彼はスコットランドのパース州ダンディー市に住んでいた。それゆえグラント船長は土地っ子だったのである。セイント・キャトリン教会の牧師だった彼の父は彼に完全な教育を与えた。教育を与えることは誰にとっても、遠洋船の船長にとっても害にはならないと考えたからである。
最初は航海士として、やがて船長としておこなった初めの頃の何度かの国外航海で彼の取引は成功し、ロバート・ハリーが生れてから数年後には彼はいくらかの財産をたくわえていた。
彼の名をスコットランドで有名にした大がかりな構想が彼の頭にうかんだのはこの頃であった。グレナヴァン家の人々や低地《ロウランド》のいくつかの家系の人々と同じく、彼もまた侵略的なイギリスから行動の上ではなくとも心情的には手を切っていた。彼の国の利益は彼の見るところではアングロサクソンの利益と一致するものではなかった。そして自分の国の利益を独自の立場で押し進めて行くために彼はオセアニア大陸のどこかに広大なスコットランド人の植民地を建設しようと決意したのである。アメリカ合衆国がその範を示したような独立、いずれはインドやオーストラリアもかならず獲得するに相違ない独立を彼は将来に思い描いていたのであろうか? あるいはそうかもしれない。あるいはまた、彼はそのひそかな希望を人に洩らしてしまったのかもしれない。そうしてみると、政府が彼の植民地の計画に手をかすことを拒んだのもうなずける。それどころか政府は、ほかの国だったらどこでも命取りになったと思われるほどの難題をグラント船長につきつけた。しかしハリーは落胆させられたりはしなかった。彼は同国人の愛国心にうったえ、自分の信ずることのために私財をなげうち、一隻の船を建造した。そして選りすぐった乗員に助けられて、子供たちを年取った従姉の手にゆだねたあげく、太平洋の大きな島々を探索するために出発したのである。それは一八六一年のことだった。一八六二年五月にいたるまでの一年間は彼の消息はあった。しかし六月にカリャオを出帆してからは、もはや〈ブリタニア〉のことは全然聞かれず、「海事新報」も船長がどうなったかについては何も書かなくなった。
こうした状態のなかで年取った従姉は死に、子供たちは二人だけで取り残された。
メァリ・グラントは当時一四歳だった。彼女の健気《けなげ》な心は自分の陥った境遇の前にたじろがなかった。そして彼女はまだおさない弟のために一身を捧げた。彼を育て、教育を受けさせねばならなかった。懸命に倹約し、慎重さと怜悧さを傾けて、昼夜を分たず働き、すべてを弟に捧げて自分は何事もあきらめ、こうして姉は一人で充分弟に教育を与え、母代りの義務を雄々しくはたした。こうして二人の子供はダンディーで、堂々と貧苦を受け容れ健気にそれと闘おうといういじらしい生き方をしていたのだった。メァリの念頭には弟のことしかなく、彼のために何らかの幸福な未来を夢みていた。彼女自身のためには、ああ、〈ブリタニア〉はもはや永久に失われ、父は死んでいた。死んだに相違なかった。だから、たまたま目にとまった〈タイムズ〉の広告が急に彼女を絶望のなかから救い上げたときの彼女の感動は、とても筆舌につくせるものではなかったのである。
躊躇《ちゅうちょ》することはなかった。彼女の心はすぐにきまった。グラント船長の屍体が人気のない海岸で、難破した船のなかで発見されたと聞かされるとしても、この絶え間ない疑念、知らないということのこの永久の責め苦よりもましだったのだ。
彼女はすべてを弟に話した。その日のうちに二人はパース線の汽車に乗り、夕刻マルカム・カースルに着いた。そしてこの城でメァリは、今まであれほど不安を味わった後にふたたび希望を抱きはじめたのである。
これがメァリ・グラントがレイディ・グレナヴァンにした痛ましい物語だった。彼女は淡々と、しかも長い試練の歳月のあいだのこうしたいきさつのなかで自分がして来たことは英雄的な少女の振舞いだったなどということを考えもせずに物語ったのである。しかし彼女のかわりにレイディ・ヘレナはそう考えた。そして何度となくレイディ・ヘレナは涙をかくそうともせずにグラント船長の二人の子供を両腕に抱きしめたのだった。
ロバートはといえば、彼はこの話を今はじめて聞いたらしく、姉の言葉に耳を傾けながら大きく目をみひらいていた。姉がしたこと、悩んだことのすべてを彼は理解し、しまいに姉を両腕に抱いて、
「ああ、お母さんだ! 大事なお母さん!」と叫んだ。心の奥底からほとばしりでるこの叫びを抑えることができなかったのだ。
この会話のあいだに日はとっぷり暮れていた。レイディ・ヘレナは二人の子供たちの疲れているのを考えて、これ以上話し合いをつづけようとは思わなかった。メァリ・グラントとロバートはそれぞれにあてがわれた部屋に案内され、よりよい未来を夢みながら眠りに入った。二人が行ってしまうとレイディ・ヘレナは少佐を呼びにやり、この夜の一部始終を彼に話した。
「勇敢な娘ですね、そのメァリ・グラントというのは」とマクナブズは従妹の話を聞いてから言った。
「夫があの計画に成功するといいんだけれど!」とレイディ・ヘレナは答えた。「あの二人の子供の境遇は恐ろしいものですからね」
「成功するでしょう。でなければ海軍省のお歴々はポートランドの岩よりも堅い心を持っているのです」
この少佐の断言にかかわらずレイディ・ヘレナはきわめて激しい不安のうちに夜を過ごし、一瞬も安息を得ることができなかった。
あくる日メァリ・グラントとロバートは明け方に起きて城の大きな中庭のなかを散歩したが、そのとき車輪の音が聞こえた。ロード・グレナヴァンは馬を全速力で走らせてマルカム・カースルに帰って来た。ほとんど同時にレイディ・グレナヴァンが少佐とともに中庭にあらわれ、夫のほうへ飛んで行った。夫のほうは陰鬱で落胆し憤慨しているように見えた。彼は妻を腕に抱きしめたまま何も言わなかった。
「どうでした、エドワード、エドワード?」とレイディ・ヘレナは叫んだ。
「それがね、ヘレナ」とロード・グレナヴァンは答えた。「あの連中は無情なのだ!」
「拒絶したの?……」
「うん! 奴らは私に船を貸すことを拒んだ! フランクリンの捜索のために数百万の金を無駄に使ったなどと言って! 文書は不明瞭でわけがわからないとぬかすのだ! あの不幸な人々はもう二年間も放置されているのだから、彼らを見つけ出す可能性はあまりないと言うのだ! インディアンに捕われて内陸に拉《らっ》せられたに相違ない三人の人間を――三人のスコットランド人を――見つけるためにパタゴニア全土をさがしまわるわけには行かない、そんな捜索は無駄であり危険である、犠牲者を救うよりもかえって犠牲者を出すのがおちだろう、と。要するに奴らは、拒絶しようと思う人間の述べ立てるありとあらゆる反対理由を持ち出したのさ。奴らはグラント船長の計画をおぼえていた。これでは不幸なグラントも永久に救われない!」
「お父さん! かわいそうなお父さん!」ロード・グレナヴァンの膝にすがりつきながらメァリ・グラントは叫んだ。
「あなたのお父さん! 何ですって、お嬢さん……」とグレナヴァンはこの娘が自分の足もとにいるのを見て驚いて言った。
「そうなのよ、エドワード。ミス・メァリと弟さんです」とレイディ・ヘレナは答えた。「グラント船長の二人のお子さんなのよ。海軍省はこの子たちを孤児のままにしておくことにしてしまったのだわ!」
「ああ、お嬢さん」とロード・グレナヴァンは娘を引き起こしながら言った。「あなたがいらっしゃることを知っていたら……」
彼はそれ以上言わなかった! すすり泣きの声でとぎられる苦しい沈黙が中庭にひろがった。誰も声を上げなかった、ロード・グレナヴァンも、レイディ・ヘレナも、少佐も、主人たちのまわりに黙然として並んでいる城の使用人たちも。しかしその態度によってこのスコットランド人たちはすべてイギリス政府のやりかたに対して抗議していた。
しばらくして少佐が口を切り、ロード・グレナヴァンのほうにむかって言った。
「それでは君にはもう何の希望もないのだね?」
「そうだ」
「それならいい」と若いロバートは叫んだ。「僕がその連中に会いに行く。そうして……」
ロバートはその威嚇的な言葉を最後まで言わなかった。姉が引き止めたのだ。しかし握りしめた彼の拳は彼が物騒な考えを抱いていることを示していた。
「よしなさい、ロバート」とメァリ・グラントは言った。「よしなさい! この立派な方々が私たちのためにしてくださったことにお礼を申し上げましょう。この方々に永久に感謝の心を抱いて二人ともおいとましましょう」
「メァリ!」とレイディ・ヘレナは叫んだ。
「お嬢さん、どこへいらっしゃるつもりです?」とロード・グレナヴァンは言った。
「女王さまのところへ行って足許に身を投げ出してお願いします」と娘は答えた。「父親の命をお救いくださいという二人の子供の嘆願に女王さまが耳をかされないかどうかわかるでしょう」
ロード・グレナヴァンは頭を振った。女王陛下の仁慈を疑ったからではない。彼はメァリ・グラントが女王に目通りできないことを知っていたからだ。嘆願者が玉座の階段までたどりつくことはあまりにも稀なのである。それはあたかも王宮の門に、イギリス人が船の舵輪に書くあの注意書きが書きつけられているかのようだった。
Passengers are requested not to speak to the man at the wheel.(船客は舵手に話しかけないでください)
レイディ・ヘレナは夫の考えを理解した。娘が役に立たない運動を試みようとしていることが彼女にはわかった。この二人の子供たちがこれから希望のない暮らしを送るのが彼女には目に見えていた。そのとき高貴な義侠的な考えが彼女の心にうかんだのだ。
「メァリ・グラント」と彼女は叫んだ。「お待ちなさい。そして私がこれから言うことを聞くのですよ」
娘は弟の手を取って立ち去ろうとしていた。しかし彼女は立ちどまった。
するとヘレナは目をうるませながら、しかし、しっかりした声と気負いたった表情で夫のほうへ進み寄って言った。
「エドワード、あの手紙を書いて海に投じたグラント船長は、つまり神ご自身の御《み》心にあの手紙をゆだねたのでした。神はそれを私たちにお渡しになった。私たちにですよ! おそらく神はあの不幸な人々の救いを私たちに託そうとなさったのでしょう」
「それはどういうことだ、ヘレナ?」とロード・グレナヴァンはきいた。
そこにいる人々のあいだに深い沈黙が漲《みなぎ》った。
「結婚生活の手はじめにまず善行をおこなえるのは幸福だと思わねばならないということです」とレイディ・ヘレナはつづけた。「ところで、エドワード、あなたは私を喜ばせるために遊覧航海を計画してくださいました! けれども、国が見捨てた不幸な人たちを救うこと以上に真実の、それ以上に有益な喜びがあるでしょうか?」
「ヘレナ!」とロード・グレナヴァンは叫んだ。
「そうよ、あなたは私の言おうとすることをわかってくださったのね、エドワード!〈ダンカン〉はしっかりしたすぐれた船ですわ! 南の海に挑むこともできるでしょう! 世界一周することもできるでしょう! そして必要とあらば実際そうするでしょう! エドワード、グラント船長を捜しに行きましょう!」
この大胆な言葉を聞くとロード・グレナヴァンは若い妻にむかって両腕を差し出した。彼はほほえみ、彼女を胸に抱きしめ、一方メァリとロバートは彼女の手に接吻した。そしてこの胸を打つシーンのつづくあいだ城の使用人たちも感動し感激して次のような感謝の叫びを心の底からほとばしらせていた。
「ラスの奥方万歳! グレナヴァンご夫妻万歳、万歳、万歳!」
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五 〈ダンカン〉の出帆
レイディ・ヘレナが毅然《きぜん》とした義侠的な心の持ち主であることはすでに言った。彼女が今したことはその争う余地のない証拠だった。ロード・グレナヴァンは当然ながら、自分の気持を理解し自分について来る力のあるこの高貴な妻を誇りに思った。すでにロンドンで彼の要望がはねつけられたとき、グラント船長を救いに駈けつけようというこの考えは彼の心を捉《とら》えていたのである。彼がレイディ・ヘレナに先んじてそれを言わなかったのは、妻から離れるという考えにはどうしてもなじめなかったからだった。しかしレイディ・ヘレナが自分から出発しようという以上、躊躇はすっかり消え去った。城の使用人たちはこの提案を歓呼で迎えた。同胞を、自分らと同じスコットランド人を救うことなのだ。そしてロード・グレナヴァンはラスの奥方を讃える万歳に心から唱和した。
出発が決定されてしまうともはや一時間も無駄にはできなかった。その日のうちにロード・グレナヴァンは、〈ダンカン〉をグラスゴーにまわし、世界周航となるかもしれない南洋航海の準備をととのえよという命令をジョン・マングルズに送った。それにまた、あの提案をおこなったときレイディ・ヘレナは〈ダンカン〉の性能をそれほど買いかぶっていたのではなかった。作り方からして堅牢さも速度も非常にすぐれていたので、何の心配もなく遠洋航海に乗り出すことができたのである。
船はきわめてすぐれた型の機帆船だった。トン数は二一〇トンだったが、新世界に到達した初期の船、コロンブス、ヴェスプッチ、ピンソンの船はこれよりずっと小さかったのだ〔クリストファー・コロンブスの第四次航海は四艘の船でおこなわれた。最大のコロンブスの乗っていた指揮艦は七〇トン、最小のものは五〇トンだった。まったくの沿岸航行船だったのである〕
〈ダンカン〉は二本のマストを持っていた。前帆、斜桁帆《しゃこうはん》、トップスルとトガンスルを張る前檣《ぜんしょう》と、後斜桁帆と上檣帆《じょうしょうはん》を張る主檣《しゅはん》。それから前檣三角帆、小三角帆、支帆をそなえていた。帆はそれで充分だった。そして普通の小型快速船のように風に乗ることができた。しかし何よりもこの船は、腹のなかに納めた機械力に頼ることができた。一六〇馬力の実効馬力があり、新しい方式によったこの機関はスティームにとくに高い圧力を与える過熱機をそなえていた。この高圧で二つのスクリューを動かす。最大出力で〈ダンカン〉はこれまで他の船が出したすべての速度を凌ぐ速度を出した。事実クライド湾で試運転したときには、パテント・ロッグ〔目盛のついた円の上をまわる針によって船の速度を示す機械〕による測定で一時間一七海里《ノット》を出したのである。それゆえ現状のままでこの船は出帆して世界を一周することができた。ジョン・マングルズは船内の整備に心を使いさえすればよかったのである。
彼が最初にしたことは、できるだけ多量の石炭を積めるように船倉をひろげることだった。途中で燃料の補給をおこなうことはむずかしかったからである。食糧庫にも同じように手が加えられ、そのためジョン・マングルズは二年分の食糧を納めることができた。金には不足しなかった。それどころか彼は一門の回転砲まで買い入れることができ、ヨットの船首楼にそれはすえられた。どんなことが起こるかもわからないし、八ポンド(約三・六キログラム)の砲弾を六キロ半の距離まで射ち出せるということはいずれにしても悪いことではなかったからである。
これは言っておかねばならないが、ジョン・マングルズはこうしたことには通暁《つうぎょう》していた。彼の指揮しているのは遊覧船にすぎなかったが、彼はグラスゴーの最もすぐれた船長の一人に数えられていた。彼は三〇歳で、その顔は少々いかつかったが、勇気と善良さを示していた。城で生まれた子で、グレナヴァン家で育てられ、優秀な船乗りに仕立てられたのである。ジョン・マングルズは幾度かの遠洋航海でしばしば敏腕さと果断さと沈着さを示した。ロード・グレナヴァンが彼に〈ダンカン〉の船長の地位を提供したとき彼は大喜びでそれを受けた。彼はマルカム・カースルの城主を血を分けた兄弟のように愛しており、彼のために粉骨砕身する機会をずっと求めながら今まで得られないで来たからだ。
航海士のトム・オースティンはあらゆる点で信用できる老船乗りだった。船長と航海士を含めて二五人の男が〈ダンカン〉の乗組員を構成していた。皆ダンバートン州のものだった。老練な水夫である彼らは皆グレナヴァン家の小作人の子弟であり、船上では本当に善良な男たちの一族をなしていて、しかも伝統的なバグパイプ吹きもこの一族に欠けていなかった。ロード・グレナヴァンはこうして、自分らの仕事に満足し、献身的で勇敢で、武器の扱いにも操船にも巧みな、そうしてどんな危険な探検のときも彼について行くことのできる良き家の子郎党の一隊を持っていたのだ。〈ダンカン〉の乗組員は船の行先を聞いたとき、歓喜の情を抑えることができず、彼らの熱狂的な万歳の声にダンバートンの岩の谺《こだま》は呼びさまされたのであった。
ジョン・マングルズは船への積み込みに心を労しながらも、遠洋航海のためにロード・グレナヴァン夫妻の居室を整備することを忘れなかった。同時にまたグラント船長の子供たちの船室もととのえねばならなかった。なぜならレイディ・ヘレナはメァリに〈ダンカン〉に乗って随行することを許さずにはいられなかったからである。
ロバート少年はどうかといえば、一緒に行けないなら彼は船の船倉に身をひそめただろう。ネルソンやフランクリンと同様見習水夫の仕事をしなければならないとしても彼は〈ダンカン〉に乗りこんだだろう。このような小紳士に逆らえるはずがない! だから誰も逆らおうとはしなかった。それどころか乗客という資格を〈彼が拒む〉ことに同意しなければならなかった。見習であれ新米であれ一人前の水夫であれ、とにかく彼は何らかの資格で仕事につきたいと言ったからだ。ジョン・マングルズが彼に船員の仕事を教える役目を引き受けた。
「結構です」とロバートは言った。「まっすぐに歩けなかったら遠慮なく鞭《むち》で叩いてくれればいいんだけど」
「安心しなさい」とグレナヴァンはまじめな顔をして言った。そうして彼は九本の尾の猫〔九本の革紐でできている鞭。イギリスの海軍では非常によく使われていた〕の使用は〈ダンカン〉では禁じられているし、またそんなものの必要はまったくないのだとは言わなかった。
乗客を全部挙げねばならないとすれば、後はもうマクナブズ少佐の名を加えればいい。少佐は五〇歳ぐらいの、物静かな整った顔立ちの人だった。行けと言われればどこへでも行き、傑出した円満な人柄で、謙遜で寡黙《かもく》でおだやかで温厚だった。誰が何を言っても相手に賛成し、決して議論したり争ったりせず、決してむきにならなかった。この世の何ものにも心を動かされず、たとい砲弾が飛んで来ようと泰然《たいぜん》としていて、自分の寝室の階段をのぼるときも砲撃で穴のあいた城塞の斜面をのぼるときもその足取りは変らなかった。そしておそらく彼には死ぬまで腹を立てる機会などないだろう。この人間は、腕力のみに頼るあの肉体的な豪勇にほかならぬ卑俗な武人の勇気のみならず、いやそれ以上に、精神的勇気、つまり魂の剛毅さを最高度に所有していた。彼にもし欠点があるとすれば、頭のてっぺんから足の爪先まで徹底してスコットランド人であること、生粋《きっすい》のカレドニア人であること、自分の国の旧習を頑固に守る人間であることだった。それゆえ彼はイギリスの軍務に服そうとせず、この少佐という階級も、各中隊とももっぱらスコットランド貴族だけで成っているハイランド・ブラック・ウォッチ(黒衛)連隊で得たのだった。マクナブズはグレナヴァンの従兄という資格でマルカムの城に住んでいたが、少佐という資格で彼は自分が〈ダンカン〉に乗りこむことをごく当然のことと思ったのである。
こうした一行が、思いがけぬ事情によって近代で最も驚くべき航海の一つをなしとげることになったこのヨットに乗りこんだのである。グラスゴーの汽船用岸壁に着いてからというもの、このヨットは一般の好奇心を一身に集めていた。多数の人々が毎日ヨットを見物に来た。人々の興味はもっぱらこのヨットに集まり、皆はこのヨットの噂ばかりしていたが、これは在港の他の船長たち、とりわけ〈ダンカン〉とならんで繋留されているカルカッタ向けのすばらしい汽船〈スコシア〉を指揮するバートン船長にはまことに面白くなかった。
大きさからすれば〈スコシア〉には〈ダンカン〉のことを単なるフライ・ボート(河船)と見下す権利があった。ところがすべての人の興味はロード・グレナヴァンのヨットに集中し、しかもそれは日に日に増大するのだった。
やがて出帆の時は近づいて来た。ジョン・マングルズは老練できびきびしたところをすでに見せていた。クライド湾での試運転の一カ月後には、〈ダンカン〉は荷積みも補給も終わって海に乗り出すことができた。出帆は八月二五日と決定されたが、それによってヨットは春の初め頃に南緯地方に着けることになった。
計画が人々に知れると、ロード・グレナヴァンに航海の苦労や危険について注意する人もいないではなかった。しかし彼はそんな注意には一顧《いっこ》も与えず、マルカム・カースルから出発しようとしていた。尤も心から彼に敬服していながら彼を非難する人も多かった。やがて世論ははっきりとこのスコットランド人貴族に味方する態度を打ち出し、〈御用新聞〉をのぞいてすべての新聞はこの件における海軍省の係官の行動をいっせいになじった。それにまたロード・グレナヴァンは讃辞に対すると同じく非難にも無頓着だった。自分の義務を果たすのであって、それ以外のすべてのことを彼は意に介さなかった。
八月二四日、グレナヴァン、レイディ・ヘレナ、マクナブズ少佐、メァリとロバート・グラント、ヨットの賄方《まかないかた》のミスタ・オルビネットとその細君でレイディ・グレナヴァンに仕えているミシズ・オルビネットは、一家の使用人たちの心のこもった別れの挨拶を受けてからマルカム・カースルを出た。数時間後には彼らは船におちついていた。グラスゴーの住民は何不自由ない生活の静かな喜びを捨てて遭難者の救援におもむく若い勇敢な妻レイディ・ヘレナを共感をこめた感嘆の情で迎えた。
ロード・グレナヴァンとその妻の居室は船尾楼のなかで船の後部を占めていた。それは寝室二間、客間、化粧室二間から成っていた。それから共同食堂があり、六つの部屋がそれを取り巻いていたが、そのうちの五間にはメァリとロバート・グラント、オルビネット夫妻、マクナブズ少佐が入った。ジョン・マングルズとトム・オースティンの船室はというと、反対側に位置してデッキにむかって開いていた。乗組員は中甲板に居住させられたが、非常に快適だった。ヨットは石炭と食糧と武器のほかに何も積んでいなかったからである。それゆえジョン・マングルズが船内の整備をする余裕は充分あったのであり、そして彼は巧みにそれを利用したのであった。
〈ダンカン〉は八月二四日から二五日にかけての夜、午前三時の引潮のときに出帆する予定になっていた。しかしその前にグラスゴーの住民は感動的な儀式を見せられた。午後八時にロード・グレナヴァンとその招待客たち、火夫から船長にいたるまでの乗組員、つまりこの人助けのための航海に参加する全員はヨットを去って、グラスゴーの古い大会堂セイント・マンゴウ教会に赴《おもむ》いた。宗教改革の引き起した破壊のただなかに無傷で残った、ウォルター・スコットがみごとに描写しているこの古い教会は、そのどっしりとした円天井の下に〈ダンカン〉の乗客と船員を迎えた。無数の群衆が彼らについて行った。墓地のように墓穴がならんだその大きな身廊《しんろう》のなかでモートン司祭は神の祝福を求め、一行を神の保護にゆだねた。一時《いっとき》メァリ・グラントの声が古い教会のなかに高まった。娘は自分の恩人たちのために祈り、神の前で感謝の甘い涙を注いだ。それから一同は深い感動にひたされながら退出した。一一時には各人は船にもどっていた。ジョン・マングルズと乗組員は最後の準備にいそがしかった。
一二時に汽罐は点火された。船長はどんどん焚《た》けと命じ、間もなく黒い煙の奔流は夜霧と混じった。〈ダンカン〉の帆は丁寧にキャンバスの蔽いに包まれた。これは帆が石炭でよごれないようにするためのもので、ちょうど風は南西から吹いており、航行を助けなかったのである。
二時に〈ダンカン〉はボイラーの振動で揺れはじめた。圧力計は四気圧を指していた。熱せられた蒸気は弁のところでひゅうひゅうと音を立てた。潮は静止していた。明るさはすでに航路標識とビギングズ〔クライド湾の水路を示す小さな石の山〕のあいだを縫う水路を見分けられるほどになっており、その標識やビギングズの標燈も夜の明けて行くにつれてだんだん薄れて行った。もはや出帆の時だった。
ジョン・マングルズはロード・グレナヴァンに知らせにやり、グレナヴァンはすぐ甲板に出て来た。
やがて干潮が感じられはじめた。〈ダンカン〉は力強い汽笛の音を発し、纜《ともづな》を解き周囲にいた船のあいだから抜け出した。スクリューは動きはじめ、ヨットを河の水路に押し出した。ジョンはパイロットを雇わなかった。彼はクライド河の水路を驚くほどよく知っており、どれほど熟練した水先案内といえども彼の船では彼以上によく操船することはできなかったろう。ヨットは彼の合図によって動いた。黙々として自信ありげに彼は右手で機関に指図し、左手で舵手に命令した。間もなく工場はなくなって河に沿った丘のあちこちに高い別荘が見え出し、都会の騒音は遠くに消え去った。
一時間後には〈ダンカン〉はダンバートンの岩壁とすれすれに進んでいた。二時間後にはクライド湾に出、午後六時にはカンタイア・マルの前を通過し、ノース海峡を出、大洋のなかを走っていた。
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六 第六号船室の乗客
この航海第一日のあいだは海はかなり波高く、夕方になって風が強くなって来た。〈ダンカン〉はひどくゆすぶられた。それゆえ御婦人方は船尾楼の上に出なかった。彼女らはそれぞれの船室のなかで寝ていたが、そうしたのはよかった。
しかし明くる日は風向きは多少変り、ジョン船長は前檣帆《ぜんしょうはん》と前檣上帆と後斜桁帆を張らせた。〈ダンカン〉は安定がよくなって、ローリングやピッチングをあまり感じなくなった。レイディ・ヘレナとメァリ・グラントは明け方からロード・グレナヴァンや少佐や船長のいる甲板に出た。日の出はすばらしかった。リュオルツ法で金メッキした金属盤にも似た太陽は、巨大な電解槽《でんかいそう》から引きき上げたように大洋から出て来た。〈ダンカン〉は赫々《かくかく》たる光耀《こうよう》のなかをすべるように進み、まさにその帆は太陽の光線に押されて張り切っているかのようだった。
ヨットの客たちはこの輝かしい太陽の出現に言葉もなく見とれていた。
「何というすばらしい眺めでしょう!」やっとレイディ・ヘレナが言った。「これは晴れ渡った一日のはじまりだわ。風が逆風にならないで〈ダンカン〉の進行を助けてくれるといいのだけれど」
「これ以上を願うのは無理というものだろう、ヘレナ」とロード・グレナヴァンは答えた。「この航海の初日には文句のつけようがない」
「海を横断するのは長くかかりますの、エドワード」
「それはジョン船長が答えるべきことだ。進み方はどうだね? 君はこの船に満足かね、ジョン?」
「非常に満足しています、閣下」とジョンは答えた。「これはすばらしい船です。船乗りなら誰でもこんな船に乗りたいと思いますよ。船体と機関がこれ以上釣り合っているのはありません。ですからヨットの航跡はあのとおり平らかですし、波も軽々とよけて行きます。船は時速十七ノットで進んでいます、五週間としないうちにケープ・ホーンを過ぎているでしょう」
「聞いたでしょう、メァリ」とレイディ・ヘレナは言った。「五週間としないうちよ!」
「ええ、奥さま」と娘は答えた。「聞きました。船長のおっしゃることを聞いて私の胸は高鳴りました」
「では、ミス・メァリ、この航海に堪えられますか?」とロード・グレナヴァンはきいた。
「まあ堪えられます、ミロード、あまり不愉快な思いをしないで。それに早く慣れてしまえるでしょう」
「ではロバート少年は?」
「ああ、ロバートですか」とジョン・マングルズは答えた。「あの子は機関室に頭をつっこんでいなければ檣頭《しょうとう》に登っています。私が請け合いますが、船酔いなど物とも思わぬ少年です。ほら、見えますでしょう?」
船長の身振りで一同の視線は前檣のほうにむかった。そして皆は高さ三〇メートルもある最上帆の吊索にぶらさがっている彼の姿を認めた。メァリは思わずぎょっとした。
「ああ、安心してください、ミス」とジョン・マングルズは言った。「あの子のことは私が責任を持ちます。もうすこししたらすばらしくいきのいい船乗りをグラント船長にお目にかけて見せますよ。だってわれわれは見つけ出して見せますからね、あの立派な船長を!」
「神さまがそのあなたの望みをお聴きとどけくださるように、ジョンさん」と娘は答えた。
「娘さん」とロード・グレナヴァンが口をはさんだ。「これまでのすべてのことには、われわれに希望を抱かせずにはおかぬ何か奇蹟的なところがある。われわれが行くのではなく、何かに導かれているのだ。われわれが捜すのではなく、連れて行かれるのだ。それにまた、これほど立派な目的のため働こうとしているあの健気な連中を見てごらんなさい。われわれがこの企てに単に成功するというだけではない、何の困難もなしにこの企ては成就されるだろう。私はレイディ・ヘレナに遊覧旅行をさせてやろうと約束していたのだが、よほどの見込み違いではないかぎりこの約束は果せるだろう」
「エドワード」とレイディ・ヘレナは言った。「あなたは最もすぐれた夫ですわ」
「そんなことはない。しかし私は最もすぐれた乗組員に最もすぐれた船を持っている。ミス・メァリ、あなたはこの〈ダンカン〉をすばらしいと思いませんか?」
「思いますとも、ミロード。私は感心していますし、それも本当の玄人《くろうと》として感嘆していますの」
「おや、そうですか!」
「私はごく幼いころから父のいろいろな船の上で遊んでいました。父は私を船乗りにしたらよかったのです。そしてもし必要とあれば、私は帆を縮めたり索を綯《な》ったりすることもたぶん平気でやってのけたでしょう」
「おお、ミス、これは大変なことをおっしゃる!」とジョン・マングルズが叫んだ。
「そんな風におっしゃるなら、あなたはジョン船長の親友になれますよ」とロード・グレナヴァンは言った。「この船長には船員生活にまさるものはこの世に何一つ考えられないのだ。女性のものとしてすらこの職業以外のものは何も考えられないのだ! そうではないかね、ジョン?」
「そうかもしれません」と若い船長は答えた。「それにしても、ミス・グラントには最上帆を絞るよりも船尾楼の上にいるほうがふさわしいということは私も認めます。しかし私としてはやはりミス・グラントがあのように言われたのはうれしいことです」
「そして何よりも、ミス・グラントが〈ダンカン〉に感嘆しているというならばね」とグレナヴァンは言った。
「実際感嘆されるだけのことはあるのですから」とジョンが言った。
「ほんとに」とレイディ・ヘレナが言った。「あなたがこのヨットをそんなに自慢にしているのを聞いて、私はこの船の船倉の底まで見てまわり、健気な水夫たちが中甲板のどんなところに起居しているのか見ておきたいという気持になります」
「すばらしい部屋ですよ。まるで自分の家のようにしています」とジョンは答えた。
「そして事実彼らにはここが家なのだよ、ヘレナ」とロード・グレナヴァンは言った。「このヨットはわれわれの古いカレドニアの一部なのだ! ダンバートン州の一片が特別の神の恩寵で漂い出して航海しているのだ。だからわれわれはわれわれの国から離れたわけではない!〈ダンカン〉はマルカムの城であり、この大洋はローモンド湖なのさ」
「それでは、エドワード、私たちに城を見せてくださいな」
「かしこまりました、奥さま」とグレナヴァンは言った。「しかしまず御免をこうむってオルビネットに知らせておこう」
ヨットの賄《まかない》い方はすぐれた司厨長《しちゅうちょう》であって、その勿体《もったい》ぶったところからすればフランス人であってもおかしくないようなスコットランド人だった。その上彼は熱心に手際よくその職務を果していた。彼は主人の命令に応じて罷《まか》り出た。
「オルビネット、私たちは食事の前に一まわりする」と、グレナヴァンはターベットかキャトリン湖へ散歩でもするかのように言った。「帰って来たとき食卓の用意がととのっていてほしいのだが」
オルビネットは重々しく頭を下げた。
「私たちと一緒にいらっしゃいます、少佐?」とレイディ・ヘレナは言った。
「あなたの命令ならば」とマクナブズは答えた。
「おお、少佐は葉巻の煙のなかに包みこまれているのだ」とロード・グレナヴァンは言った。「その煙のなかから引っ張り出してはいけない。ミス・メァリ、紹介しておきますが、この男は途方もない愛煙家ですからね。いつも煙を吹いている、眠っているときですら」
少佐はうなずいて見せ、ロード・グレナヴァンの客たちは中甲板に降りて行った。
一人残ったマクナブズはいつもの癖で自分自身を相手におしゃべりしながら、しかし全然いらいらした様子もなしに、ますます濃い煙の雲に包まれていた。彼は身動きもしないでうしろの航跡を眺めていた。こうして数分間黙然と思いに耽《ふけ》っていたあと振り返ると、正面に今まで見なかった人物を見た。もし何かが彼を驚かすことがあったとしたら、少佐はこの出逢いに驚いたことであろう。というのはこの船客は彼のまったく見も知らぬ人間だったからである。
この背が高く痩せこけた男は五〇歳ぐらいになっていたろうか。まるで頭の大きな長い釘といったところだ。実際頭は大きくがっしりしており、額は広く、鼻は伸び、口は大きく、顎《あご》はひどくしゃくれていた。その目はといえばひどく大きな眼鏡のかげにすっかりかくれており、ニクタロピー〔闇のなかで物が見える特殊な目の構造をもつ病気〕患者特有のあのとりとめのない視線をしているようだった。その容貌からすると知的で陽気な人間のように見えた。主義として決して笑わない、そしてその無能さをまじめくさった顔つきでかくしているあの勿体ぶった人間たちのような取っつきにくい様子はなかった。それどころか、この未知の男の様子ぶらぬところ、その愛すべき気さくさは、人間であれ物事であれすべてについてその善い面を見ることができることをはっきりと証明していた。しかしまだしゃべっていないのに彼がおしゃべりであること、そして何よりも、自分の見ているものが目に入らず聞いていることが耳にはいらぬ人間といったたぐいの粗忽者《そこつもの》であることが感じられた。旅行用の鳥打帽子をかぶり、頑丈な黄色の長靴《ちょうか》と革のゲートルをはいて、栗色のビロードのズボンと同じ生地の上衣を着こみ、その上衣に無数についているポケットには手帖や備忘録《ぼうびろく》やノートや紙挾みやその他の役に立たず邪魔になるばかりの物を無数に詰めこんでいるらしく見え、おまけに望遠鏡を革で吊っている。
この未知の男のそわそわした様子は少佐の物に動じないところと奇妙な対照をなしていた。彼はマクナブズのまわりをぐるっとまわり、マクナブズをみつめ、物問いたげな目で見るのだが、少佐のほうは彼がどこから来たのか、どこへ行くのか、どういうわけでこの〈ダンカン〉に乗っているのか知りたいという素振りは見せない。
謎の人物は何をしてみても少佐の無関心には勝てないのを見ると、一番長く伸ばすと一メートル二〇センチにもなるようなその望遠鏡を取り、街道の道しるべのように両脚をひろげて身動きもせずに突っ立って、空と海とが一つの水平線で交わっている方向へその眼鏡を向けた。五分ほど調べていたあと彼は望遠鏡をおろし、甲板に立って、まるでステッキででもあるかのようにそれに身をもたせた。が、たちまち眼鏡の筒はするすると畳まれ、新顔の船客は急に支えがなくなって主檣の根もとへあやうくぶったおれるところだった。
これが少佐でなければ誰だってすくなくともくすりとぐらいは笑ったろう。少佐は眉一つ動かさなかった。未知の男はこのとき決心した。
「給仕!」と彼は外国人だとわかるアクセントで叫んだ。
そうして彼は待った。誰も来なかった。
「給仕!」と彼は前より強い声でくりかえした。
ちょうどそのとき船尾楼の下にある調理場に行こうとしてミスタ・オルビネットが通りかかった。見覚えのないこの背の高い人物からこのように呼ばれたときの彼の驚きはどれほどだったことか!
「この人はどこから出て来たんだろう?」と彼は心に思った。「ロード・グレナヴァンのお友達か? いや、そんなことはあり得ない」
けれども彼は船尾楼の上に昇って外国人に近づいた。
「君はこの船の給仕かね?」と外国人はきいた。
「はい、さようで」とオルビネットは答えた。「ですが、失礼ながら……」
「私は第六号船室の乗客だよ」
「第六号の?」
「そうとも。で、君の名は?……」
「オルビネットで」
「それでは、オルビネット君」と第六号船室の乗客は答えた。「もう食事のことを考えなければならない、しかも真剣にだ。私はもう三十六時間も食事をしていない。というよりも三十六時間も眠っていたのだ。パリからまっすぐにグラスゴーに来た人間にとってはそれも無理はなかろうがね。何時に食事をするのですか?」
「九時です」と機械的にオルビネットは答えた。
外国人は自分の時計を見ようとした。しかしこれは相当の時間を取らずにはすまなかった。九番目のポケットでようやく時計は見つかったのである。
「よろしい」と彼は言った。「まだ八時になっていない。それでは、オルビネット君、さしあたってビスケットとシェリー酒を一杯もらえませんか、私は腹が減って倒れそうなんだ」
オルビネットはわけがわからずに相手の言うことを聞いていた。それにまた見知らぬ男は依然としてまくしたてており、一つの話題から次の話題へと猛烈な饒舌で飛んで行くのである。
「それでは、船長はどうしたんだね? 船長はまだ起きていないのだな! では航海士は? 航海士は何をしている? 航海士も眠っているのですか? さいわい空は晴れているし風はいい。船はひとりで進んで行くが……」
まさにこのとき、こう彼がしゃべっていたときに、ジョン・マングルズが船尾楼の階段にあらわれた。
「こちらが船長です」とオルビネットが言った。
「いや、はじめまして」と見知らぬ男は叫んだ。「お目にかかれて欣快《きんかい》です、バートン船長」
もし誰かが胆をつぶしたとすれば、それはたしかにジョン・マングルズだった。それも「バートン船長」と呼ばれたからだけでなく、この外国人が自分の船に乗っていることにもそれに劣らず驚かされたのである。
相手はますますまくしたてた。
「握手させていただきましょう。一昨日の夕方あなたと握手しなかったのは、出帆のときには誰の邪魔になってもいけないと思ったからです。しかし今日は、船長、あなたとお近づきになれれば私はほんとうにうれしい」
ジョン・マングルズはやたらに目をみはってオルビネットとこの新来者をかわるがわるみつめた。
「これで御挨拶はすみましたな、船長さん。もうわれわれは旧友も同然だ。それではいろいろお話ししようではありませんか。どうです、〈スコシア〉にはご満足ですかな?」
「〈スコシア〉っていうのはいったい何のことです?」とようやくジョン・マングルズは言った。
「われわれが乗っているこの〈スコシア〉じゃありませんか。立派な船で、私はこの船の物理的な長所と、同じくそれを指揮するバートン船長の精神的長所とについていろいろ褒め言葉を聞いて来た。あなたは同姓の有名なアフリカ探検家の親戚ではありませんか? あの人は大胆不敵な人だった。もしそうだとしたらほんとに愉快なことです!」
「いや」とジョン・マングルズは答えた。「私は探検家バートンの親戚でないばかりか、バートン船長でさえないのです」
「ああ、それでは今私がお相手申し上げているのは〈スコシア〉の航海士バードネスさんですかな?」
「ミスタ・バードネス?」とジョン・マングルズは答えたが、彼は真相にやっと気づきはじめた。ただ、相手は気違いなのだろうか、それとも粗忽者なのだろうか? 彼は心のなかにその疑問をおぼえて、はっきりその点をつきとめようとしたとき、ちょうどロード・グレナヴァンとその妻とミス・グラントが甲板に上って来た。外国人は彼らを認めて叫んだ。
「ああ、乗客ですな! 乗客ですな! よかった。バードネスさん、紹介していただけるでしょうな……」
そうしてジョン・マングルズが口を利くのも待たずにまったく気易く進み出て、
「奥さま」とミス・グラントへ、「ミス」とレイディ・ヘレナへ言い、「ミスタ……」とロード・グレナヴァンにむかって彼はさらに言った。
「ロード・グレナヴァンです」とジョン・マングルズが言った。
「ミロード」と見知らぬ男はそこで言った。「失礼ながら自己紹介させていただきます。しかし海上では多少礼儀作法をゆるめねばなりますまい。じきに親しくなれるだろう、そしてこの御婦人方がいらっしゃるのですから〈スコシア〉の航海も短くかつ快適なものと感じられるだろうと私は期待しています」
レイディ・ヘレナとミス・メァリには、これに答えようとしたところで一言も言葉が見つからなかったろう。彼女たちはこの闖入者《ちんにゅうしゃ》が〈ダンカン〉の船尾楼の上にいることがとんと納得できなかったのだ。
そのときグレナヴァンが言った。
「失礼ですが、あなたはどなたですか?」
「ジャック=エリアサン=フランソワ=マリ・パガネル、パリ地理学会書記、ベルリン、ボンベイ、ダルムシュタット、ライプツィヒ、ロンドン、ペテルブルグ、ヴィーン、ニューヨークの各学会の通信会員、王立東インド地理学民族学研究所名誉会員です。二〇年間書斎で地理学を研究したあげく、実践的な学問に入ろうとして、大旅行家たちの事業を相互に関連づけるためにインドに赴《おもむ》くところなのですよ」
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七 ジャック・パガネルはどこから来てどこへ行くか?
この地理学会の書記は愛すべき人物に相違なかった。すべてを彼は非常に愛想よく言ってのけたのだ。その上ロード・グレナヴァンはこの男がどんな人間かを充分知っていた。ジャック・パガネルの名と業績を彼はよく知っていたし、彼の地理学上の労作、会報に掲載された近代の発見についての彼の報告、全世界との彼の文通は、彼をフランスの最もすぐれた学者の一人としていたのである。そこでグレナヴァンは思いがけないこの客に心から手を差し伸べた。
「これで初対面の挨拶は終りましたから、パガネルさん、一つ質問することを許してくださいますか?」
「いくらでもなさってください」とジャック・パガネルは答えた。「あなたとお話できるのはいつでも私にとって喜びです」
「あなたがこの船に乗りこまれたのは一昨日の夕方なのですね?」
「そうです、ミロード、一昨日の午後八時です。私はカレドニアン鉄道から貸馬車に飛びこみ、貸馬車から、〈スコシア〉に飛びこんだのです。パリからこの船の六号室を予約しておきましたのでね。暗い夜でした。船では誰も見かけなかった。そこで、三〇時間も旅をつづけて来たので疲れをおぼえたし、船酔いを防ぐためには着く早々横になって航海の最初の数日はベッドから出ないのが上策だと知っていましたから、欲も得もなくベッドに入って三十六時間みっちり眠ったのですよ、どうかこれは信じてください」
ジャック・パガネルの言葉を聞いていた人々は、彼がこの船にいるのはどういうわけかをこれでやっと知った。このフランスの旅行者は船を間違えて、〈ダンカン〉の乗組員がセイント・マンゴウ教会の儀式に列しているあいだに乗りこんでしまったのである。これで何もかも納得が行った。それにしても自分が乗った船の名と行先を知らされたらこの地理学者は何と言うであろうか?
「それでは、パガネルさん」とグレナヴァンは言った。「あなたが旅行の出発点として選んだのはカルカッタなのですな?」
「そうです。インドを見るということは私がこれまでずっと心に秘めていた計画なのでしてな。私の一番すばらしい夢がようやく象とタウグの国で実現されようとしているのですよ」
「それでは、パガネルさん、ほかの国を訪れてもいいというわけには行かないのでしょうな?」
「ええ、そんなことになったら私は大変困るのです。インド総督ロード・サマセットへの紹介状ももらっていますし、地理学会から託されている使命も是非果したいと思いますから」
「ああ、使命もあるのですか?」
「そうです。有益な、そして珍しい旅行を試みることになっているのです。しかもその予定表は、博識な私の友人で同僚であるヴィヴィアン・ド・サン=マルタン君によって作られたものなのですよ。実はこれは、シュラーギントヴァイト兄弟、ウォー大佐、ウェブ、ホジスン、ユックとガベの両宣教師、ムアクロフト、ジュール・レミ氏その他多くの有名な旅行家たちの足跡を追うことなのです。宣教師クリックが一八四六年に不幸にも失敗したことを私はやってのけたいのです。要するに、ヒマラヤの北麓に沿って一五〇〇キロメートルにわたってチベットを流れているヤル=ザンボ=チューの流域をさぐり、この河がアッサムの北東でブラマプートラ河と合流していないかどうかをつきとめるという仕事なのですよ。インド地理上の最も重要な未解決問題の一つをこうして解決することに成功した旅行者となれば、ミロード、金牌を与えられること必定《ひつじょう》ですからな」
パガネルは得意の壇上にあった。すばらしく熱をこめて彼は語った。空想の翼に乗ってすばらしい速さで飛ばされて行ったのだ。彼を引き止めることはライン河をシャフハウゼンの滝のところで引き止めるのと同じくらいむずかしかったろう。
沈黙の一瞬の後にロード・グレナヴァンは言った。
「ジャック・パガネルさん、それはたしかに立派な旅行であり、あなたがそれをしてくだされば学界は大いにあなたに感謝するでしょう。しかし私はこれ以上あなたの思い違いをそのままにしておきたいとは思いません。すくなくともさしあたっては、あなたにインドを訪れる楽しみを諦めていただかなければなりません」
「諦める! それはまたどうしたわけで?」
「あなたは今インド半島に背を向けていらっしゃるのですから」
「何ですって! バートン船長は……」
「私はバートン船長ではありません」とジョン・マングルズは言った。
「しかし〈スコシア〉は?」
「いや、この船は〈スコシア〉ではないのです!」
パガネルの驚きは形容を絶していた。あいかわらずまじめなロード・グレナヴァンを、同情をこめた心配そうな表情のレイディ・ヘレナとメァリ・グラントを、にやにやしているジョン・マングルズを、眉毛一つ動かさない少佐をかわるがわる彼は見た。それから肩をすくめ、額に押し上げていた眼鏡を目の上にもどして、
「何という冗談だ!」と彼はどなった。
しかしそのとき彼の目は、次の二つの言葉を刻した舵輪にぶつかった。
DUNCAN
GLASGOW
「ダンカン! ダンカン!」と彼は本当の絶望の叫びをあげた。
それから船尾楼の階段をころがるように降りると彼は自分の船室にむかってすっ飛んで行った。
不運な学者の姿が消えるや否や、少佐を除いて船の上にいたすべてのものはもうまじめな顔をしていられず、笑いは水夫たちにまでひろがった。鉄道の線を間違える! それはよかろう! エディンバラ線をダンバートン線と間違える! それもまあいい! しかし船を間違え、インドへ行こうというのにチリ行きの船に乗る、これはまことにあっぱれな粗忽というほかはない。
「それにしても、相手がジャック・パガネルとあれば、これくらいのことには私は驚かない」とグレナヴァンは言った。「この種の災難のことでは彼はしょっちゅう引き合いに出されるのだ。あるとき彼は有名なアメリカの地図を出版したが、そのなかに日本がのっかっていたものだ。だからといって彼がすぐれた学者であり、フランスの最もすぐれた地理学者の一人であることには変りはないのだが」
「でもあの気の毒な方をこれからどうしましょう?」とレイディ・ヘレナは言った。「パタゴニアへ連れて行くわけには行かないし」
「どうしていけないんです?」とマクナブズが重々しく言った。「われわれは彼の粗忽について責任はない。彼が汽車に乗っていたとしてみなさい、停車させるでしょうかね?」
「停車はさせなくても、次の駅で降りるでしょう」とレイディ・ヘレナは答えた。
「なるほど」とグレナヴァンは言った。「そうしたければ、われわれの最初の寄港地で彼は降りることができるだろう」
このときパガネルは、自分の荷物が船室にあるのを確かめた上で、何とも情ない恥かしそうな顔をして船尾楼の上にもどって来た。彼は「ダンカン! ダンカン!」と、この忌々《いまいま》しい言葉を絶えずくりかえしていた。これ以外にどんな言葉も思いつかなかった。ヨットの具合や大海原の静かな水平線をさぐるように眺めながら彼は行ったり来たりした。とうとうロード・グレナヴァンのほうへもどって来て彼は言った。
「で、この〈ダンカン〉はどこへ?……」
「アメリカへですよ、パガネルさん」
「もっとはっきり言うと?……」
「コンセプシオンです」
「チリへ! チリへ!」と運の悪い地理学者は叫んだ。「それではインドでの私の使命は! ド・カートルファージュ氏や中央委員会の議長は何と言うだろう! そしてダヴザック氏は! コルタンベール氏は! ヴィヴィアン・ド・サン=マルタン氏は! 学会の会議にどの面さげて出られよう!」
「まあまあ、パガネルさん」とグレナヴァンは答えた。「絶望するのはおよしなさい。何とかなります。比較的わずかな遅れで済みますよ。ヤル=ザンボ=チュー河はいつまでもチベットの山のなかであなたを待っているし、われわれはもうじきマデイラに寄港します。そこであなたをヨーロッパに連れて帰る船が見つるかるでしょう」
「ありがとうございます、ミロード。たしかに諦めなければなりますまい。しかし、これはまさに滅多にない椿事《ちんじ》だと言っていい。しかもこうしたことは私にしか起こらないのだ。それにまた〈スコシア〉に予約してある私の船室は!」
「ああ、〈スコシア〉のことなら当面諦めたほうがいいと思いますね」
パガネルはもう一度船を見まわしてから言った。
「しかし〈ダンカン〉は遊覧用のヨットなのですか?」
「そうです」とジョン・マングルズは言った。「そしてロード・グレナヴァン閣下の持ち船です」
「その当人がどうか御《ご》遠慮なくこの船にいてくださるようにと申し上げているのです」とグレナヴァンも言った。
「お礼の言葉もありません、ミロード」とパガネルは答えた。「あなたの御|懇篤《こんとく》なお言葉には痛み入ります。しかしただ一言いわせていただきたい。インドは素敵な国です。旅行者たちにいろいろと驚嘆すべきものを見せてくれます。御婦人方はおそらくこの国をごぞんじないでしょう……。ところで、舵手が舵輪を一つまわしさえすれば〈ダンカン〉はコンセプシオンと同様苦もなくカルカッタにむかって走って行く。さて、どうせ遊覧の航海をしているからには……」
パガネルのこの提案に対して人々は頭を横に振り、彼はその先を言うことができなかった。彼は言葉を切った。
そこでレイディ・ヘレナが言った。
「パガネルさん、これが遊覧航海でしかなかったら、みんなで一緒にインドへ行きましょうと私はお答えしたでしょうし、ロード・グレナヴァンも反対しないでしょう。けれども〈ダンカン〉はパタゴニアの沿岸に取り残されている遭難者を連れもどしに行くのです。これほど人道的な目的を変えるわけにはまいりませんわ……」
数分間でフランスの旅行家は事の次第を知らされてしまった。あの文書との奇蹟的なめぐりあい、グラント船長の一件、レイディ・ヘレナの義侠的な提案を聞いて彼は胸を打たれずにはいなかった。
「奥さま、失礼ながら全体を通じてあなたのなさったことに私は敬服いたします、心の底から敬服いたします。ヨットは今の針路をつづけねばなりません。たった一日でも遅らせることになったら私は心苦しく思うでしょう」
「私たちの捜索に加わっていただけまして?」
「それは不可能です、奥さま。私は自分の使命を果さねばなりません。今度寄港するときに私は船を降ります……」
「それならマデイラで」とジョン・マングルズが言った。
「マデイラでも結構。それならリスボンから七二〇キロメートルにすぎない。そこで私は船の便を待ちましょう」
「それならば、パガネルさん」とグレナヴァンは言った。「あなたのお望みどおりにしましょう。そして私としては数日間自分の船であなたをおもてなしできて幸福だ。われわれと一緒であまり退屈なさらなければいいのですが」
「おお、ミロード」と学者は叫んだ。「これほど愉快な間違いをしたことを私は幸福すぎるほど幸福に思っていますよ! それにしてもやはり、インドにむかって出発したのに、乗った船はアメリカに向けて走っているという人間の立場などは、はなはだ奇妙きてれつなもので!」
こう憂鬱そうに言ったにもかかわらず、パガネルは自分の力ではどうにもしようのないこの遅れを諦めることに決めた。彼は愛想のいい、陽気な、それどころか迂闊者《うかつもの》らしいところまで見せた。その上機嫌ぶりで御婦人方を大いに喜ばせ、日が暮れるまでにはすべてのものと親しくなっていた。彼の求めによって例の文書も見せられた。彼は長々と綿密にそれを検討した。別の解釈の仕方は彼にもあり得ると思われなかった。メァリ・グラントとその弟には彼は非常な興味をそそられた。彼は二人に希望を抱かせた。事件についての彼の推測の仕方や〈ダンカン〉の航海がかならず成功するだろうと予言するのを見て、娘も思わず笑顔を見せた。実際自分の使命がなければ彼自身もグラント船長捜索に馳せ参ずるだろうというほどだったのだ!
レイディ・ヘレナのことについては、彼女がウィリアム・タフネルの娘であることを知ると彼は讃嘆の間投詞をやつぎばやに連発した。彼は夫人の父を知っていたのだ。何という大胆な学者だったことか! ウィリアム・タフネルが協会の通信会員だった頃はどれほど多くの手紙を交換したことか! タフネルをマルト=ブラン氏に紹介したのはほかならぬ彼だったのだ! 何という因縁だろう、そしてウィリアム・タフネルの娘と旅をすることは何という喜びだろう!
しまいに彼はレイディ・ヘレナに接吻の許可を求めた。レイディ・グレナヴァンは同意した、少々〈|穏当を欠く《インプロパー》〉とは思ったけれども。
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八 正直者がまた一人
そのあいだにもヨットはアフリカ北部の潮流に乗って赤道にむかって高速で進んでいた。八月三〇日にはマデイラ諸島が見えて来た。グレナヴァンは約束を守って新しい船客を上陸させるために寄港しようと申し出た。
「親愛なるロード」とパガネルは答えた。「あなたに対しては遠慮や気兼ねはいたしますまい。私がこの船にあらわれる前からマデイラに寄港するつもりでいらっしゃったのですか?」
「いいえ」
「よろしい。それでは私があの不運な不注意の結果を逆に利用することを許してくださいませんかな。マデイラという島はあまりにも知られすぎている。もはや地理学者の興味をひくものではないのです。この群島についてはすでにありとあらゆることが語られ書かれてしまっており、その上葡萄栽培という点からすればこの群島は衰運のただなかにある。マデイラにはもはや葡萄畑がないなどということをあなたは想像できますか! 一八一三年には二万二〇〇〇パイプ〔一パイプは五〇ヘクトリットル〕に上っていた葡萄酒の生産量が、一八四五年には二六六九パイプに落ちたのだ! 今日では五〇〇パイプまでも行っていない! これは悲しい光景ですよ。ですから、もしカナリア諸島に寄港してもかまわないということであれば?……」
「カナリア諸島に寄港しましょう」とグレナヴァンは言った。「そうしたからってわれわれの針路からそれはしません」
「わかっています。カナリア諸島には、いいですか、研究すべき対象群が三つあります。私がかねがね見たいと願っていたテネリフの尖峰は別としてですよ。これはいい機会です。私はこの機会を利用します。そうしてヨーロッパに帰る船便を待つあいだあの有名な山に登ってみましょう」
「好きなようにしてください、パガネルさん」とグレナヴァンは答えたが、微笑を禁じ得なかった。
そして彼が微笑するのも当然だった。
カナリア諸島はマデイラからそう離れていない。両群島のあいだの距離は四〇〇キロ足らずだが、これしきの距離は〈ダンカン〉のような快速船にとっては取るに足りないものでしかない。
八月三十一日の午後二時、ジョン・マングルズとパガネルは船尾楼の上をぶらぶら歩きまわっていた。フランス人は相手にチリについて熱心に質問した。突然船長はパガネルをさえぎって、南の水平線の一点を指して言った。
「パガネル先生」
「何です、船長君」と学者は答えた。
「こちらのほうへ目をむけていただけませんか。何も見えませんか?」
「見えない」
「見るべきほうへ目が行っていないんですよ。水平線じゃない、その上の雲のなかです」
「雲のなか? いくら捜しても見えないが……」
「ほら、今は第一|斜檣《しゃしょう》のブームの先を」
「何も見えませんな」
「見る気がないからですよ。いずれにしても、七五キロも離れているにかかわらず、いいですか、テネリフの尖峰が水平線の上にはっきりと見えているのです」
パガネルは見る気があろうとあるまいと、自分が盲だと認めるのでもないかぎり数時間後には歴然たる事実を認めざるを得なかった。
「とうとう見えましたか?」とジョン・マングルズは言った。
「見える、見えますとも」パガネルは答え、それから「あれか」と軽蔑的な口調でつけくわえた。「あれか、テネリフの尖峰と呼ばれている奴は」
「あれですよ」
「そう大した高さじゃないように見えるが」
「それでも海抜三三〇〇メートルはあります」
「それではモンブランに及ばない」
「そうかもしれませんが、登るときになったらたぶん充分高いとお思いになるでしょう」
「おお、あれに登るって! 船長君、おうかがいしたいが、あれに登って何になりますかね、フォン・フンボルト氏やボンプラン氏の後で? 大天才だった、このフンボルトは! 彼はあの山に登った。彼はこの山について何一つ遺漏《いろう》なく記述している。彼はあの山に五つの地帯を認めた。葡萄地帯、月桂樹地帯、松地帯、高山性ヒース地帯、そして最後に岩石地帯。あの峰のまさに頂に彼は足跡を印した。頂には腰をおろす余地すらなかったのです。山の上から彼はスペインの四分の一に該当する面積を視野に収めた。それから彼は火山の胎内まで調べ、死んだ噴火口の底にまで降りたのだ。この偉人の後で私は何をやったらいいとあなたは言うんです、一つお聞きしたいが?」
「なるほどそれではもう見残されているものは何もないでしょうな。それは残念です。テネリフ港で船を待つあいだひどく退屈なさるでしょうね。あまり気晴しがあるとも思えませんし」
「私の気はいつも散っているがね」と笑いながらパガネルは言った。「しかし、マングルズ君、カボ=ヴェルデ諸島には重要な寄港地はありませんかね?」
「ありますとも、ヴィラ=プライアで船をつかまえるのはいたって容易なことですよ」
「決して軽視することのできない一つの利点は別としても、カボ=ヴェルデ諸島は私の同国人のいるセネガルから遠くないということがある。あの群島はそれほど興味をひくものではなく、未開で不健康だと言われていることは私も充分承知しています。しかし地理学者の目にはすべてが珍しい。見るということは学問です。見るすべを知らない、そうして甲殻類《こうかくるい》ぐらいの知性しか持たないで旅行している連中もいるものだ。私がそういった連中の仲間ではないということは信じていただきたいものです」
「お好きなように、パガネルさん」とジョン・マングルズは答えた。「地理学はあなたのカボ=ヴェルデ諸島滞在のおかげで利益を得るでしょう。ちょうどこの船も石炭を積みこむためにあそこに寄港するんです。あなたが下船なさっても私たちは全然遅れることにはなりません」
そう言うと船長はカナリア諸島の西を行くような針路を取った。有名な尖峰は左舷に残され、〈ダンカン〉はあいかわらず快速をつづけて九月二日の午前五時に北回帰線を通過した。このときになって天候は変った。雨季の湿った鬱陶《うっとう》しい気象になった。スペイン語の言い方ならば〈le tempo das aguas 〉(正しくは el tiempo de las aguas )というこの季節は、航海者にとっては辛いものだが、樹木がなく、したがって水が不足しているアフリカの諸島の住民にとってはありがたいものなのである。海はひどく波が高く、船客はデッキに出ていられなかった。しかし食堂での会話は依然としてにぎやかだった。
九月三日、パガネルはまぢかな上陸のために荷物をまとめはじめた。〈ダンカン〉はカボ=ヴェルデの島々のあいだを縫って進んだ。不毛で荒寥とした、まさに砂の墓場というべきサル島の前を通る。広々とした珊瑚礁に沿って進んでからサンティアゴ島を横に見て行く。この島には北から南へ玄武岩の山脈が走っており、その両端は丘になっている。それからジョン・マングルズはヴィラ=プライア湾に船を入れ、間もなく町の前の水深一四メートルのところに錨をおろした。天候はひどく、湾は沖の風から守られていたにもかかわらず打ちつける波は非常に荒かった。雨は篠《しの》つくばかりで、高さ九〇メートルほどの火山岩の壁に接した台地状の平地の上に立っている町もほとんど見ることができない。この厚い雨のカーテンを通して見る島の姿は陰惨だった。
レイディ・ヘレナは町を見物しようという計画を実行に移すことができなかった。石炭の積みこみも非常な困難なしにはすまなかった。〈ダンカン〉の乗客たちはそれゆえ、海と空が曖昧模糊《あいまいもこ》として混じり合っているあいだ船尾楼の下にとじこめられていなければならなかったのだ。天候の問題は当然船の上での毎日の話題となった。各人は何か一家言を持ち出したが、ただ世界じゅうが洪水になろうともまったく我関せず焉《えん》としているだろうと見えるほどの少佐だけは例外だった。パガネルは頭を振りながら行ったり来たりしていた。
「これはわざとしたことだ」と彼は言った。
「自然がわれわれに反対する意志をあらわしているのは確かだ」とグレナヴァンは答えた。
「けれど私は自然に打ち克《か》って見せますよ」
「こんな雨なのに出て行くことはできませんわ」とレイディ・ヘレナは言った。
「私ならできますとも。私が雨を恐れるのは荷物と器具があるからにすぎません。何もかもめちゃめちゃになってしまいますから」
「恐ろしいのは船を降りるときだけですよ」とグレナヴァンが答えた。「ヴィラ=プライアに着いてしまえばそうひどい目にはあいません。ただしあまり清潔ではありませんがね。猿や豚と同居だが、こいつらとのつきあいはかならずしも常に快いものではありません。しかし旅行者はそんなことをあまり気にするものではない。第一、七ヵ月か八ヵ月後にヨーロッパ向けの船に乗れるものと期待していていい」
「七ヵ月か八ヵ月!」とパガネルは叫んだ。
「すくなくとも。カボ=ヴェルデ諸島には雨季のあいだはあまり船が来ません。しかしあなたは有益に時間を費すことができるでしょう。この諸島はまだあまりよく知られていない。地形学でも気象学でも民族史でも高度測定でもいろいろとやるべきことがあります」
「河も調べなければなりませんわ」とレイディ・ヘレナが言った。
「河なんかありませんよ」とパガネルは答えた。
「それでは小川は?」
「小川もありませんな」
「それではせせらぎも?」
「同じです」
「よろしい」と少佐が言った。「それなら林に方向を転換するんだね」
「林があるためには樹木がなくちゃならん。ところがその木がありませんな」
「厄介な国だな!」と少佐は答えた。
「まあ気を落さないでください」とそこでグレナヴァンが言った。「すくなくとも山がありますよ」
「おお、大して高いものでも大して興味あるものでもありませんよ、ミロード。その上すでに踏査ずみです」
「踏査ずみ!」
「そうですよ、これがいつもの私の廻り合わせなんだ。カナリア諸島では私はフンボルトの業績にぶつかったが、ここでは私は地質学者シャルル・サント=クレール・ドヴィル氏に先手を打たれているのです!」
「そんなことが?」
「そうなんですよ」とパガネルは情ない口調で言った。「この学者はコルヴェット艦〈ラ・デシデ〉がカボ=ヴェルデに寄港したときその船上にいた。そして群島のなかで一番興味ある山の頂、フォゴ島の火山に登ったのです。その後で私が何をしたらいいとおっしゃるんです?」
「それはほんとに残念なことですわ」とレイディ・ヘレナは答えた。「パガネルさん、あなたはこれからどんなことにおなりになるかしら?」
パガネルはしばらく沈黙を守った。
「何としても」とグレナヴァンがまた口を切った。「たとい葡萄酒がなくなっていようとあなたはマデイラで上陸したほうがよかったんだ!」
このときパガネルは言った。
「グレナヴァンさん、今度はどこへ寄港するつもりですか?」
「ああ、コンセプシオンまではしません」
「大変だ! そんなことになればインドからだいぶ離れてしまう」
「そんなことはない。ケープ・ホーンを通過してしまえばインドに近づくのですよ」
「さあ、どうですかね」
「その上」とグレナヴァンはこれ以上とはないようなまじめな顔をして言った。「インドへ行くのならば、東インドへ行こうが西インドへ行こうがどっちでもいいじゃありませんか」
「何ですって、どっちでもいい!」
「のみならず、パタゴニアのパンパスの住民もパンジャブの土人と同じくインディアンなのですよ」
「いや、まったくの話、そんな理窟は私は想像もしてみませんでしたな!」
「それからまた、パガネル君、金牌なんてものはどこへ行ってももらえますよ。どこにもなすべきこと、研究し、発見すべきことはあるのですから、チベットの山のなかと同様コルディリェーラの山のなかにも」
「しかしヤル=ザンボ=チューの流れは?」
「よろしい、そのかわりにリオ・コロラドを調べなさい。これはあまり知られていない河で、地図の上ではその流れは地理学者の気まぐれにあまりに左右されすぎている」
「わかっていますよ、経緯度の誤差が何度かある。おお、私が求めさえすれば地理学会はインドと同様パタゴニアへも派遣してくれたろうということは私も疑いません。しかし私はそんなことは考えてもみなかった」
「あなたのいつもの迂闊さのせいでしょう」
「ねえ、パガネルさん、私たちと一緒にいらっしゃいません?」とレイディ・ヘレナができるだけ誘惑的な声で言った。
「奥さま、それでは私の任務は?」
「ことわっておきますが、船はマジェラン海峡を通過するのですよ」とグレナヴァンが口をはさんだ。
「ミロード、あなたは誘惑がお上手だ」
「さらにつけくわえれば、われわれはプエルト・アンブレを訪れます」
「プエルト・アンブレですって!」四方八方から攻め立てられたフランス人は叫んだ。「地理学の記録のなかで有名なあの港を!」
「それにまた、パガネルさん」とレイディ・ヘレナがまた言った。「この壮挙に加わればあなたはフランスの名とスコットランドの名を結びつけることができるのだということもよく考えてみてください」
「ええ、そうかもしれませんな」
「地理学者なら私たちの探検に役立つことができるのです。科学を人道のために役立てること以上に立派なことがありまして?」
「まことに立派なことをおっしゃいますな、奥さま!」
「ほんとですよ、偶然の、いいえ、むしろ神意のなすままにまかせなさい。私たちの真似をしなさい。神意はあの文書を私たちのもとへ送った。それで私たちは出発したのです。神意はあなたを〈ダンカン〉の上に投げこんだのですから、もう〈ダンカン〉を去らないことですわ」
そう言われてパガネルは言った。
「皆さん、むきだしに言えとおっしゃるなら言いますよ。あなたがたは私がとどまることを熱望していらっしゃるのだ!」
「そしてあなたは、パガネル君、とどまりたくてたまらないんだ」とグレナヴァンはやりかえした。
「そうですとも!」と博識な地理学者は叫んだ。「ただ私は無躾《ぶしつけ》にならないかと思ったので!」
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九 マジェラン海峡
パガネルの決意を知ったとき船中の一同は大喜びだった。ロバート少年は元気よく彼の首にかじりついたが、その様子は少年の気持を雄弁に語っていた。尊敬すべき書記はあやうくひっくりかえるところだった。
「これは手ごわいちび君だ」と彼は言った。「私はこの子に地理学を教えてやろう」
ところで、ジョン・マングルズは彼を船乗りに、グレナヴァンは彼を心の広い男に、少佐は彼を冷静沈着な男に、レイディ・ヘレナは彼をやさしく高潔な人間に、メァリ・グラントは彼をこのような先生たちに対して感謝の心を抱く生徒に仕立てることを引き受けていたのだから、もちろんロバートは将来完璧なジェントルマンになるに違いなかった。
〈ダンカン〉はたちまち石炭の積みこみを終え、それからこの陰鬱な海域を去って西へむかってブラジル沿岸の潮流に乗り、九月七日には北からの順風に乗って赤道を横切って南半球にはいった。
航海はそれゆえ困難なくおこなわれた。皆は明るい希望を持っていた。グラント船長を捜すこの探検の成功の可能性は日ごとに増して来るように見えた。一番自信を持っているものの一人は船長だった。しかし彼の自信は何よりも、ミス・メァリが幸福になり慰めを得るのを見たいというしっかりと彼の心に根ざした願望から来ていた。彼はこの若い娘にまったく特別の関心を寄せていた。しかしこの感情を彼は非常にうまくかくしていたので、メァリ・グラントと彼自身を除いて〈ダンカン〉に乗っているものは誰一人それに気がつかなかった。
あの博識な地理学者といえば、彼こそおそらく南半球で最も幸福な人間だったろう。彼は食堂のテーブル一杯に地図をひろげて何日もそれを検討して過ごした。そのため食事の支度をすることのできないミスタ・オルビネットと毎日言い合いがはじまる。しかしパガネルには船尾楼のすべての船客が味方についた。例外は少佐で、地理学上の問題などには彼はいっこう無関心だった。とりわけ晩餐の時刻には。その上、航海士の行李《こうり》のなかにたくさんの端本《はほん》を見つけ、しかもその端本のなかに幾冊かのスペイン語の本を見つけたパガネルは、船中誰一人として知っているもののないこのセンバンテスの国語を学ぼうと決心した。そうすればチリ沿岸での探索が容易になるはずだった。博言学の才のおかげで彼は、コンセプシオンに到着したときにはこの新しい言葉を流暢にしゃべれるようになっていたいという望みを捨てないですんだ。それゆえ彼は熱心に勉強し、人々は彼が絶えず異質な音節をつぶやいているのを聞いた。
ひまなときには彼はロバート少年に実際的な教育をおこなうことを忘れなかった。そして〈ダンカン〉が非常な高速で近づいているその海岸地方の歴史を少年に教えた。
やがて九月一〇日には船は南緯五度三七分西経三一度一五分の位置にあった。この日グレナヴァンはいかに教養のある人々でもおそらく知らないようなある事を知った。パガネルはアメリカの歴史について語っていたが、ちょうどヨットがこの時その跡を追っていた大航海家たちのことに話を持って行くために彼はクリストファー・コロンブスにさかのぼった。そうして最後に彼は、この有名なジェノヴァ人は自分が新しい世界を発見したとは知らずに死んだと言って結んだのである。
聞き手はみな異議を申し立てた。パガネルは前言をひるがえそうとはしなかった。彼はつけくわえた。
「これ以上はっきりしていることはないのですよ。私は何もコロンブスの名誉を引き下げようとするのではない。しかしこの事実ははっきりしているのです。一五世紀の末には人々の念頭を占めていたことはただ一つ、アジアとの交通を容易にし、西の航路によって東洋に行き着こうとすることだった。要するに最短の距離で〈香料の国〉へ行くことです。コロンブスが試みたのもそれだった。彼は四度航海し、クマーナ、オンドゥラス、モスキートス、ニカラグワ、ベラグワ、コスタ・リカ、パナマの海岸でアメリカに接したが、それを彼は日本およびシナの陸と取って、広大な大陸の存在に気がつかずに死んだ。自分の名をこの大陸に与えることにすらならなかったのです」
「パガネル君、私はあなたの言うことを信じよう」とグレナヴァンは答えた。「けれども正直なところ驚かされた。それでは一つうかがいたいのですが、コロンブスの発見の正しさを認めた航海家は誰なのです?」
「彼の後継者たちですよ。彼の航海に同行したオヘーダ、同じくまたビセンテ・ピンソン、ヴェスプッチ、メンドーサ、バスティーダス、カブラル、ソリス、バルボアです。これらの航海家はアメリカ東岸に沿って進んだ。彼らもまたわれわれより三六〇年前に、今この船を乗せている潮流に引かれて南下しながら、その海岸線を画定した。いいですか、皆さん、われわれはピンソンが一五世紀の最後の年に通過したのと同じ場所で赤道を通過し、そして彼がブラジルの陸地に接した南緯八度の線にわれわれは近づいているのです。一年後ポルトガル人カブラルはセグロ港まで南下した。次にヴェスプッチが一五〇二年のその第三次の遠征で南へさらに進んだ。一五〇八年にはビセンテ・ピンソンとソリスが協力してアメリカ沿岸を偵察し、一五一四年にソリスはラプラタ河の河口を発見したが、大陸を廻航するという名誉はマジェランに譲ってそこで彼は土人に食われてしまったのです。マジェランというこの偉大な航海家は一五一七年に五艘の船を率いて出発し、パタゴニアの岸に沿い、プエルト・デセアード、プエルト・サン・フリアンを発見してそこに長いこと船を止めた。そうして南緯五二度にその後彼の名を冠することになるあの〈一万一〇〇〇の処女の海峡〉を見出し、一五二〇年一一月二〇日に彼は太平洋に出ました。ああ! 新しい海が空のはてに日の光を浴びてきらめいているのを見たとき、どれほどの喜びを彼は味わったことか、何という感動に彼の胸は躍ったことか!」
「そうです、パガネル先生」と、地理学者の言葉に感激してロバート・グラントは叫んだ。「僕はその場にいたかった!」
「私もだよ、坊や。神さまが私を三〇〇年早く生れさせてくださったら、私は決してそんな機会を逃しはしなかったろう!」
「でも、そうだったら私たちにとってはおもしろくありませんわ」とレイディ・ヘレナが答えた。「そうだったらあなたはこの〈ダンカン〉の船尾楼の上で今のお話をしてくださらなかったことになりますもの」
「私のかわりにほかの誰かがしますよ、奥さま。そしてその誰かは、西岸の偵察はピサロ兄弟によっておこなわれたとつけくわえたでしょうな。この大胆な冒険家は偉大な都市建設者でした。クスコ、キト、リマ、サンティアゴ、ビクャリカ、バルパライソ、そして〈ダンカン〉がこれからわれわれを運んで行くコンセプシオン、これらは彼らの手で作られたものなんです。この頃ピサロの発見はマジェランの発見と結びつき、アメリカ沿岸の開発は地図の上にも記され、旧世界の学者たちを大いに満足させたものでした」
「でもね、僕だったらまだ満足しなかったろうな」とロバートは言った。
「どうして?」こうした発見の物語に熱中している弟を眺めながらメァリはきいた。
「そうだ、君、なぜなのだい?」とグレナヴァンも相手を励ますような微笑をうかべて言った。
「僕ならばマジェラン海峡の向うには何があるかを知りたいと思ったでしょうから」
「ブラヴォ!」とパガネルは答えた。「私もまた、大陸が極までつづいているか、それとも、ミロード、あなたの同国人であるドレイクが想定したように開けた海が存在するかを知りたいと思っただろう。してみると、ロバート・グラントとジャック・パガネルが一七世紀に生きていたとすれば、この地理学の謎を解くことに非常に熱心だった二人のオランダ人ショーテンとルメールにつづいて船に乗りこんだろうということは疑う余地がないね」
「その人たちは学者ですの?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「いいえ、豪放な商人ですが、発見の学問的な面は彼らはあまり気にしませんでした。当時は、マジェラン海峡を通じておこなう一切の貿易について絶対の権利を持つオランダ東インド会社がありました。ところで、この頃は西まわりでアジアにむかうほかの航路は知られていなかったので、この特権は本当の独占をなしていたのです。ですから幾人かの貿易商は別の海峡を見つけてこの独占と闘おうとしたが、そのうちの一人にイサーク・ルメールとかいう聡明で教養ある男がいた。彼は自分の甥のヤコブ・ルメールと、ホルン生れのすぐれた船乗りショーテンとの指揮する探検隊の資金を出してやった。この大胆な航海者たちはマジェランから一世紀近く後の一六一五年六月出発した。フエゴ島とロス・エスタードス島とのあいだのルメール海峡を発見し、一六一六年二月一二日にはあの有名なケープ・ホーン(カボ・デ・オルノス)をまわったが、このケープ・ホーンはその兄弟である喜望峰以上に嵐の岬と呼ばれるにふさわしかったものだ!」
「ああ、ほんとに僕はそこにいたかったなあ!」とロバートが叫んだ。
「そうすれば最も強烈な感動をその現地で味わえたろうにね、坊や」とパガネルは勢いづいて言った。「実際、自分の発見を海図に記入するときの航海者の味わうものよりも紛れのない満足、切実な喜びがあるだろうか? 島から島へ、岬から岬へと、陸地が自分の目の前で形をなして行き、いわば波間から出現するのを見るのだ! 最初は限界線ははっきりせず、切れたり中断したりしている! こちらにはぽつんと一つあるキャンプ、向うには小さな入江、その向うには渺茫《びょうぼう》とした空間のなかに没している湾。やがていろいろな発見がたがいに補足し合い、線はつながり、図上の点線にかわって本当の線があらわれる。入江ははっきりとした海岸に穿《うが》たれ、岬ははっきりとした海岸線の上に突き出す。ようやく新しい大陸がその湖、大小の河川、山、谷、平野、村落、町、都会とともに、その壮麗な輝きをことごとく示しながら地球儀の上に展開する! ああ、皆さん、陸地の発見者は本当に発明家と異ならないのですよ! 発明家と同じ感動や驚きを味わうのだ! しかし今はその宝庫もほとんど尽きてしまった! 大陸や新世界についてはすべてが見られ、踏査され、発見されてしまった。そして地理学の最後衛であるわれわれにはもはや何もなすべきことはないんだ!」
「ありますよ、パガネル君」とグレナヴァンは答えた。
「いったい何が?」
「われわれが今していることです」
そのあいだにも〈ダンカン〉はこのヴェスプッチとマジェランの航路をすばらしい速度で走っていた。九月一五日には南回帰線を通過し、舳先《へさき》はあの有名な海峡の入口に向けられた。パタゴニアの低い海岸は何度か認められたが、それは水平線にわずかに見える一線でしかなかった。船は一〇海里以上岸から離れて進んでおり、パガネルの名だたる望遠鏡をもってしてもこのアメリカ大陸の沿岸のことはぼんやりとしかわからなかった。
九月二十五日、〈ダンカン〉はマジェラン海峡の沖に出た。船はためらうことなく海峡にはいって行った。一般にこの水路のほうが太平洋に赴く汽船に好まれていた。その全長は正確なところ六九六キロメートルでしかない。どんなにトン数の大きな船であれこの水路ならばどこでも、たとい岸すれすれのところでも水深は充分あるし、どこに錨をおろしても安定はいいし、給水所も魚の多い川も獲物の多い林もいくらでもあり、安全で近づきやすい寄港地は二〇個所もあって、要するに絶えず疾風や嵐に襲われているルメール海峡やケープ・ホーンの恐るべき岩礁には欠けている無数の利便があったのである。
航海の最初の数時間は、つまりグレゴリー岬までの一一〇キロメートルから一五〇キロメートルまでのあいだは、岸は低く砂|礫《れき》に蔽われていた。ジャック・パガネルは全体の眺望も海岸の細部も一つとして見落すまいとしていた。横断には三十六時間足らずしかかからぬはずだったが、動いて行くこの両岸のパノラマは南の太陽の燦爛《さんらん》たる光輝のもとでこの学者がわざわざ苦労して鑑賞するだけのことはあった。北側の陸地には一人の住民の姿も見えなかった。幾人かの惨めなフエゴ人がフエゴ島の索漠とした岩の上をさまよっているだけだった。パガネルはそれゆえパタゴン(パタゴニア人)を見ることができないのが残念でならなかった。彼はひどくそれを憾《うら》んだが、道連れたちは彼のその様子を見て大いに笑った。
「パタゴンのいないパタゴニアなんて、もうパタゴニアとは言えませんよ」と彼は言った。
「まあ辛抱しなさい、地理学者先生」とグレナヴァンは答えた。「いずれパタゴンを見るでしょうから」
「それは私には確信がありませんな」
「でもパタゴニア人は存在するんですもの」とレイディ・ヘレナが言った。
「そいつは私には大いに疑わしいですな、見当らないんですから」
「とにかく、スペイン語で〈大足〉という意味のこのパタゴンという名は、架空の人間につけられたものではないでしょう」
「おお、名なんて関係ありませんよ」と、議論を煽りたてようとしてあくまで自説を固守するパガネルは答えた。「その上、実際のところ彼ら自身何と名乗っていたか誰も知らんのですからな!」
「これは驚いた!」とグレナヴァンは叫んだ。「君はそんなことを知っていたかね、少佐?」
「知らんね」とマクナブズは答えた。「といって私は一スコットランド・ポンド払えばそれを教えてくれると言われても払う気はないね」
「それでも聞いてもらいますよ、無関心な少佐さん」とパガネルは言った。「マジェランはこの地方の原住民をパタゴンと名づけたが、フエゴ人は彼らをティレメネン、チリ人はカウカルエス、カルメンの植民者はテウエルチェス、アラウカニア人はウイリチェスと呼んだ。ブーガンヴィルはチャウア、フォークナーはテウエレトという名を彼らに与えた。彼ら自身は自分らのことをイナケンと総称していた。一つうかがいたいが、これでは途方にくれてしまいませんかね? これほどたくさんの名を持っている民族なんて実在するものでしょうかね?」
「それも一理あるわ!」とレイディ・ヘレナは答えた。
「それは認めよう」とグレナヴァンはつづけた。「しかしパガネル君といえども、パタゴンの名については疑いが存するとしてもすくなくともその身長のことは確かだということを認めると思うがね!」
「私は断じてそんな馬鹿げたことは信じませんな」とパガネルは答えた。
「彼らは背が高いのだ」とグレナヴァンは言った。
「私にはわかりませんよ」
「低いんですか?」とレイディ・ヘレナがきいた。
「誰一人としてそう断言することはできぬはずです」
「それでは中くらい?」と、両方を立てようとしてマクナブズが言った。
「それも私にはわからん」
「そいつは少々ひどすぎる」とグレナヴァンが叫んだ。「彼らを見た旅行者たちは……」
「彼らを見た旅行者たちの言うことは全然一致していませんよ」と地理学者は答えた。「マジェランは自分の頭は彼らの帯にとどくかとどかぬかだったと言っている」
「なるほど!」
「ところが、ドレイクはイギリス人は一番背の高いパタゴンよりも高いと主張する!」
「おお、イギリス人ならそう言うかもしれんさ」と少佐は軽蔑的に言った。「しかしスコットランド人だったら……」
「キャヴェンディッシュは彼らが背が高く逞しいと断言する。ホーキンズは彼らを巨人だとしている。ルメールとショーテンは彼らの身長を三・三メートルとしている」
「そら、これは信頼に価する人々だ」とグレナヴァンは言った。
「いかにも。ウッド、ナーバラ、フォークナーと同じく信頼に価するが、この連中は彼らを中背と見たのです。たしかにバイロン、ラ・ジロデ、ブーガンヴィル、ウォリズ、カルトレはパタゴンは身長一九五センチメートルもあると主張するが、一方この地方を最もよく知っていた学者ドルビニー氏は、彼らの平均身長は一六〇センチメートルとしています」
「でもそれなら、そんなにたくさんの食い違った意見のなかで真実はどれなんでしょう?」とレイディ・ヘレナが言った。
「真実はこうなのですよ。パタゴンは脚が短く上体が発達しているということです。だから、この連中は坐っているときには一八〇センチメートルだが立ったときには一五〇センチメートルしかないと言えば、諧謔《かいぎゃく》的な形で自説を述べられるわけです」
「ブラヴォ!」とグレナヴァンは答えた。「これは蓋《けだ》し名言ですな!」
「ただし」とパガネルはつけくわえた。「彼らが実在しないという場合は別ですがね。実在しないという点では皆は一致するでしょうがね。しかし最後に、皆さん、慰めになるようなことをここで言い添えておきますが、たといパタゴンがいなくてもこのマジェラン海峡はすばらしい!」
ちょうどこのとき〈ダンカン〉は、両側に見事なパノラマが展開するのを見ながらブルンスウィック半島に沿って進んでいた。グレゴリー岬を通過して一三〇キロメートルほどのところで船はプンタ・アレナスの流刑地を右舷に見送った。チリの国旗と教会の鐘楼が一瞬木のあいだにあらわれた。このとき海峡はいかめしい感じの花崗岩質の岩塊のあいだに通じていた。山々はその麓を広大な森林のなかにかくし、万年雪の散点するその頂は雲のなかに没していた。南西にはタルン山が二二五〇メートルの高さに屹立《きつりつ》していた。長い黄昏《たそがれ》につづいて夜が来た。光はいつの間にか柔かなニュアンスにぼやけて行った。空にはきらびやかな星がならび、南十字星は航海者たちの目に南極への道を示しに来た。この光を孕んだ暗さのなか、文明国の沿岸の燈台にかわるこの星辰《せいしん》の明るみのなかを、海岸にいくらでもあるあの入りやすい入江のなかに錨をおろすこともせずにヨットは大胆に進みつづけた。しばしば帆桁のはしは水の上に垂れている南極海のブナの枝にさわった。またしばしば船のスクリューは大きな川の水をかきまわして、雁や鴨や鴫《しぎ》や小鴨など水辺に集まるあの鳥類どもの眠りを醒ました。やがて廃墟があらわれた。そして夜のおかげで壮大な観を呈するいくつかの崩れた建物が見えたが、それはその名がこの沿岸の肥沃さと獲物の多いこの森林の豊かさに対して永遠に抗議の叫びを上げている、ある見捨てられた植民地の悲しい遺跡だった。〈ダンカン〉はプエルト・アンブレ(アンブレとはスペイン語で「飢え」を意味する)の前を通っていたのだ。
スペイン人サルミエントが一五八一年に四〇〇人の移住者とともに住みついたのはまさにこの場所だった。彼はそこにサン・フェリーペの町を建設した。極度に厳しい寒さが植民者たちの多くを殺し、飢饉が冬を生き伸びた人々に|とどめ《ヽヽヽ》を刺して、一八五七年に私掠船《しりゃくせん》船長キャヴェンディッシュは、その四〇〇人のなかで最後まで生き残った一人が六〇〇年もつづいた町の廃墟の上で六年生活した後に飢えに死のうとしているところを見出したのである。
〈ダンカン〉はこの人気のない岸に沿って行った。日の出には船はブナ、とねりこ、樺の林にはさまれて狭まった水路のまんなかを進んでいた。林のなかからは緑のドームや逞しい柊《ひいらぎ》で蔽われた小さな円丘や鋭い尖峰があらわれ、それらのあいだにまじってバックランドのオベリスクが非常な高さにそびえていた。船はかつてはブーガンヴィルの命名によってフランス人湾と呼ばれていたサン・ニコラース湾の沖合を通った。遠くにはあざらしの群れや吹き上げる潮の具合から判断すると大型のものらしい鯨の群れが戯れていた。彼らは七、八キロほどの距離に見えた。とうとう船は冬の氷の残りがまだ一杯に残っているフロワード岬の前を通過した。海峡の向う側のフエゴ島にはサルミエント山が一八〇〇メートルの高さにそびえていた。雲が帯のようにまつわりついているこの巨大な岩の集塊は、空のなかでいわば空中の群島を形づくっているように見えた。アメリカ大陸が本当に終るのはフロワード岬でなのだ。ケープ・ホーンは南緯五六度の海のなかにぽつんと残されている岩にすぎないのだから。
この地点を過ぎると、海峡はブルンスウィック半島と砂礫の浜に乗り上げた巨大な鯨類のように無数の小島のまんなかに長く伸びているデソラシオン島とのあいだで狭まる。アメリカ大陸のひどくでこぼこの多いこの先端と、アフリカ、オーストラリア、またインドのあっさりとした明確な先端とはどれほど異なっていることだろう! どのような未知の天変地異が二つの大洋のあいだに突き出されたこの巨大な岬をこれほどまでに粉砕したのであろうか?
やがて肥沃な岸にかわって、この錯綜《さくそう》した迷宮を形づくる無数の瀬戸に抉《えぐ》られた、荒涼とした感じの草木の一つもない海岸がつづいた。〈ダンカン〉は一度も誤ることなく、躊《ためら》うこともせずに、その吐き出す煙の渦巻きを岩で引き裂かれる霧に混じえながらこうした気まぐれな紆余曲折に沿って行った。見捨てられた岸に立ついくつかのスペイン人の商館の前を船は速度を落さず通り抜けた。タマール岬のところで海峡は広がった。ヨットはずっと離れてナーバラ諸島の切り立った岸をまわって行くことができ、それからまた南の岸に近づいた。海峡にはいってから三十六時間の後にようやくデソラシオン島の先端にピラレス岬の岩がそばだつのが見えた。きらきら光る開けた大海原が船首の前にひろがり、ジャック・パガネルは熱狂的に手を振ってその海に挨拶しながら、〈トリニダ〔マジェランの乗船〕〉が太平洋の海風を受けて傾いたときのフェルナン・ド・マジェランその人の味わったのと同じ感動をおぼえたのである。
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十 南緯三十七度
ピラレス岬の前を通過してから一週間後、〈ダンカン〉は長さ一九キロメートル幅一四キロメートルのすばらしい潟をなすタルカウアノ湾に全速力ではいって行った。天候はすばらしかった。この地方の空は十一月から三月まで一点の雲もとどめず、アンデス山脈に守られた長い海岸に沿って絶えず南風が吹いている。
ジョン・マングルズはエドワード・グレナヴァンの命令に従ってチロエ群島やアメリカ大陸の無数の破片のそばをすれすれに進んだ。折れた円材であれ人工の加わった木の一片であれ何らかの漂流物によって難船の手がかりがつかめるかもしれないのだ。けれども何も見えなかった。そしてヨットは航行をつづけて、クライド湾の靄《かすみ》に閉ざされた水域を離れて四十二日後にタルカウアノ港に錨をおろした。
早速、グレナヴァンはボートをおろし、パガネルを連れて桟橋に上った。博識の地理学者はこの機会を利用して自分があれほど熱心に勉強したスペイン語を使ってみようと思った。ところが彼が非常に驚いたことに、土地の住民に自分の言うことを理解させることができなかったのである。
「アクセントがいけないんだ」と彼は言った。
「税関に行きましょう」とグレナヴァンは答えた。
税関の人は身振り手真似をまじえた英語の片言で、イギリス領事はコンセプシオンに駐在していることを彼に知らせた。それは一時間の行程だった。グレナヴァンは簡単に足の速い馬を二頭見つけることができた。そしてしばらく後には彼とパガネルはピサロの勇敢な仲間バルディビアの事業の才のおかげで建設されたこの大きな町の城壁をくぐった。
この都会は往時の輝かしさをどれほど失ってしまったことか! たびたび原地民に掠奪され、一八一九年に火災に襲われ、荒廃し、廃墟となり、その城壁は今なお町を嘗《な》めつくした火のため黒ずんでおり、すでにタルカウアノに圧倒されているこの都会は、わずかに八〇〇〇の人口を擁するにすぎなかった。住民たちのものうげな歩みの下で街の通りは草原に変じた。商業もなく、活動は皆無で、事業は不可能だった。どのバルコンにもマンドリンが響き、やるせなげな歌が窓の簾《すだれ》から洩れ、嘗《かつ》ては男たちの活動する都市だったコンセプシオンは女と子供の村になってしまっていた。
グレナヴァンはこの凋落《ちょうらく》の原因を究めたいという気持をあまり見せなかったが、パガネルのほうはそれを究めようと思い立って、一瞬も無駄にせずにイギリス領事J・R・ベントック氏のところへ赴《おもむ》いた。この人物は非常に鄭重《ていちょう》に彼を迎え、グラント船長の一件を知ると沿岸一帯で情報を集めることを引き受けてくれた。
三檣船〈ブリタニア〉が三十七度あたりでチリあるいはアラウカニアの岸に乗り上げたかどうかという問題には、はっきりと否定の結論が出た。その種の事件についての報告は領事のところにも、またほかの国の彼の同僚のところにもとどいていなかったのだ。グレナヴァンは落胆しなかった。彼はタルカウアノに帰り、骨身を惜しまず奔走し配慮し金を使って海岸一帯に人々を送り出した。その探索もむなしかった。海岸地帯の住民のあいだでおこなったこれ以上とはなく綿密な聞き込みも何らの成果を挙げなかった。〈ブリタニア〉はその遭難の証跡を全然残さなかったものと結論しなければならなかった。
グレナヴァンはそこで仲間たちに自分の奔走の実らなかったことを告げた。メァリ・グラントとその弟は悲しみの色を抑えることができなかった。それは〈ダンカン〉のタルカウアノ到着後六日目のことだった。船客たちは船尾楼の上に集まっていた。レイディ・ヘレナは船長の二人の子供を、言葉ではなく――一体何と言えたろう――愛撫で慰めた。ジャック・パガネルはふたたび文書を取り上げ、そこから何か新しい秘密を見破ろうとするかのように注意深くそれを見ていた。一時間も彼はそのようにして調べていたが、そのときグレナヴァンが彼の名を呼んで言った。
「パガネル君、あなたの明察を私は信頼する。われわれがこの文書をあのように解釈したのは誤っていたのだろうか? これらの語の意味は理窟に合っていないだろうか?」
パガネルは答えなかった。彼は考えていた。
「遭難の場所の推定は間違っていたろうか?」とグレナヴァンは語をついだ。「どれほど頭のよくない人間が見てもパタゴニアという名がすぐ浮かんで来はしないだろうか?」
パガネルはなおも沈黙していた。
「結局インディアンという語が出て来る以上われわれの考えが正しいのではあるまいか?」
「そのとおりだ」とマクナブズが答えた。
「そうだとなれば、遭難者はこの文書を書いたとき、インディアンにつかまるものと予期していたのだということは明白ではなかろうか?」
「そこで待っていただきたい」やっとパガネルは言った。「あなたのほかの結論は正しいとしても、すくなくともその最後の結論は私には合理的とは思えませんな」
「それはどういう意味ですの?」とレイディ・ヘレナはきき、すべての視線は地理学者に注がれた。
「私の言わんとすることは」とパガネルは言葉にいちいち力を入れながら答えた。「グラント船長は|今インディアンに捕われている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のだということです。さらに言えば、文面によればこの事実については何の疑いも存しません」
「説明していただけません?」とミス・グラントが言った。
「至極簡単なことですよ、メァリさん。この文面の seront prisonniers というところを sont prisonniers(seront は未来形で sont は現在形なのである)と読んでみましょう。そうすればすべてははっきりします」
「だがそんなことはあり得ない!」とグレナヴァンは答えた。
「あり得ない! それはまたどういうわけで?」とパガネルは微笑して反問した。
「壜が投じられたのは船が岩に当たって砕けた時でしかあり得ないからですよ。したがってまた、経度も緯度も遭難の現場のことを言っているのだという結論になる」
「その証拠は一つもない」とすかさずパガネルは言い返した。「そして私には、遭難者がインディアンによって内陸に連れて行かれてから、自分らの捕われている場所をその壜を使って知らせようとしたのではないという理由がわからない」
「それはごく簡単な話です、パガネル君。壜を海に投ずるにはすくなくとも海がそこになければならないからだ」
「また海がない場合には」とパガネルが引き取った。「海に注ぐ河が」
この思いがけない、けれども是認し得る答えは驚きの沈黙で迎えられた。聞き手たちの目にかがやいた光を見てパガネルは皆が新しい希望にすがりついたことを察した。まず第一にレイディ・ヘレナが口を切った。
「何という思いつきでしょう!」と彼女は叫んだのだ。
「しかも、何といういい思いつきでしょう!」と地理学者は無邪気につけくわえた。
「では、あなたの考えは?……」とグレナヴァンはきいた。
「三十七度線がアメリカ大陸と交わるところを捜し、その線が大西洋に沈む地点までを線から半度も逸《そ》れずに辿って行くことですよ。もしかするとわれわれはその道筋の上で遭難者たちを見出すかもしれない」
「あまり可能性はないな!」と少佐が答えた。
「いかにわずかな可能性であってもわれわれはそれをなおざりにすべきではない」とパガネルはつづけた。「たまたま私の推定が正しく、あの壜がこの大陸の一つの河の流れに乗って海にたどりついたのだとすれば、われわれがあの捕われた人々の足跡にぶつかることは必定《ひつじょう》です。ごらんなさい、皆さん、この国の地図をみてごらんなさい。疑う余地のないまでに私はあなたがたを納得させてさしあげますよ」
そう言いながらパガネルはチリとアルゼンチンのいくつかの州の地図をテーブルの上にひろげた。
「よく見てください、そうして私の後についてこのアメリカ大陸漫歩をしていただきましょう。狭い帯のようなチリは一跨《ひとまた》ぎだ。アンデス山脈を越える。パンパスのまんなかに降りる。この地方には大小の河川や流れがないだろうか? いやいや。ここにリオ・ネグロ、ここにリオ・コロラド、そしてそれらの支流がこのように南緯三十七度線に横切られており、これらの川もあの文書を送るのに使われたかもしれません。おそらくこのあたりのどこかの部族のなかで、よく知られていないこれらの川のほとりや山脈《シエラス》の谷間に定着しているインディアンの手中で、われわれの友と呼ぶことのできる人々が奇蹟的な救いの手を待っているかもしれないのだ! してみればわれわれは彼らの期待に背いていいものでしょうか? 私の指が今地図上に辿るこのはっきりとした線を取ってこの地方を横切るべきだとあなたがたは残らず思っているでしょう? そしてあらゆる予測に背いてもし私がまた間違っていたとすれば、三十七度線の終るところまで進み、さらに遭難者を見つけるためにそれが必要だとなればこの線に沿って世界を一周するのがわれわれの義務ではありますまいか?」
義侠的な熱意をこめて言われたこの言葉は聞き手たちのあいだに深い感動をよびおこした。皆は立ち上がり、彼のところへ行ってその手を握った。
「そうだ、お父さんはここにいるんだ!」と、むさぼるように地図を見つめながらロバート・グラントは叫んだ。
「そしてどこにいようとわれわれはお父さんを見つけ出して見せよう」とグレナヴァンは答えた。「われわれの友人パガネルの解釈ほど筋の通っているものはない。そして彼が教えてくれた道筋を躊《ためら》うことなく辿ってみなければならない。船長は大勢のインディアンの手中に陥っているかもしれないし、小さな部族に捕われているかもしれない。後者の場合にはわれわれの手で彼を解放しよう。前者の場合ならば、われわれは西岸に帰って〈ダンカン〉に乗り、ブエノス・アイレスに行き、そこでマクナブズ少佐が一隊を編制すればアルゼンチンのすべての州のインディアンをも制圧することができるだろう」
「そうです! そうです、閣下!」とジョン・マングルズが答えた。「そしてさらに言えば、このアメリカ大陸横断には危険などないでしょう」
「危険も苦労もないよ」とパガネルは言った。「すでにどれほど多くの人々がわれわれほどの実行手段もほとんど持たず、また自分らのなさんとする事の偉大さによって士気を鼓舞されることもなしに横断をおこなっていることか! 一七八二年にバシリオ・ビリャルモとかいう男がカルメンからコルディリェーラに行っているではないか。一八〇六年にはコンセプシオン州の長官であるチリ人ドン・ルイス・デ・ラ・クルスがアントゥーコを発ってまさにこの三十七度線を辿り、アンデスを越えて四〇日の旅程の後にブエノス・アイレスに到着しているではないか。最後にガルシーア大佐、アルシッド・ドルビニー氏、そして私の尊敬すべき同僚マルタン・ド・ムゥシー博士もこの国を縦横に歩きまわり、われわれがこれから人道のためにするのと同じことを科学のためにおこなったではないか」
「先生! 先生!」とメァリ・グラントは感動のあまりかすれた声で言った。「そんなに多くの危険に身をさらしてまで献身してくださることに、どのようにして感謝したらいいでしょう!」
「危険だって!」とパガネルは叫んだ。「誰が危険なんてことを言いました?」
「僕は言わない!」とロバート・グラントはきらきら光る目に決然たるものを見せて言った。
「危険だって!」とパガネルはつづけた。「そんなものが存在するだろうか? それにまた、一体何をするというのです? 直線を行くのだから、一四〇〇キロ足らずの旅行でしかない。北半球ならばスペイン、シチリア、ギリシアに当る緯度のところを、したがって大体それと同じくらいの気候条件のもとでおこなわれる旅行、要するにせいぜい一ヵ月ほどの旅行でしかない! こんなのは散歩ですよ!」
「パガネルさん」と、そこでレイディ・ヘレナがきいた。「それではあなたは、遭難者がインディアンの手中におちいったとしても命は奪われていないとお考えですのね?」
「それは考えますとも! インディアンは人食い人種ではありませんよ! それどころではない! 地理学会で知った私の同国人の一人のギマール氏は三年間もパンパスのインディアンに捕われていた。苦しみ、ひどくいじめられはしたが、最後にはこの試錬に打ち克ったのです。ヨーロッパ人はこの地方では役に立つ存在です。インディアンはヨーロッパ人の値打ちを知っており、高価な動物として大切にします」
「それではもはや逡巡《しゅんじゅん》することはない」とグレナヴァンは言った。「出発しなければならん、今すぐ出発しなければ。どの道を辿ることにしますか?」
「歩きやすい気持のいい道を」とパガネルは答えた。「最初は少々山があるが、その後はアンデスの東の山腹のなだらかな斜面、最後はまったく庭園といっていい起伏のない草と砂の平原です」
「地図を見よう」と少佐が言った。
「ここにある、マクナブズ君。われわれはルメナとカルネロ湾のあいだのチリの海岸で三十七度線の末端にとりつく。アラウカニアの首都を横切って、アントゥーコ峠で火山を南に見ながらコルディリェーラを横断する。それから長く伸びた山の斜面を降り、ネウケム河、リオ・コロラドを渡り、パンパスに出、サリナス、グァミニ河、タパルケン山脈にぶつかる。ここでブエノス・アイレス州の境界になる。われわれはその境界を越え、タンディル山脈に登り、大西洋岸のメダーノ岬まで捜索をつづけましょう」
そのように話しながら、探索の計画をそのように説明しながら、パガネルは自分の目の前にひろげられた地図を見ようともしなかった。地図などどうでもよかったのだ。フレジエ、モリナ、フンボルト、マイアーズ、ドルビニーの著作を吸収した彼の乱れることのない記憶力は、誤りをおかすことも不意を討たれることもあり得なかったのである。この地名の列挙を終えてから彼はつけくわえた。
「そういうわけで、皆さん、道はまっすぐです。三〇日でわれわれはこれを踏破して、海軟風のためすこしでも船脚が遅れたとすれば〈ダンカン〉よりも先に東岸に着いていることでしょう」
「そうすると〈ダンカン〉はコリエンテス岬とサン・アントニオ岬のあいだを通って行かねばならないでしょうね?」とジョン・マングルズが言った。
「そのとおり」
「ではその探検隊の構成はどうしますか?」とグレナヴァンがきいた。
「できるだけ簡単に。目的は単にグラント船長が今どうなっているかをさぐることであって、インディアンと射ち合いをすることではありません。私の考えでは、ロード・グレナヴァンは当然われわれの隊長になる。少佐はあくまで自分の部署を離れようとしますまい。それからあなたの下僕たるこのジャック・パガネルと……」
「それから僕も!」とグラント少年が叫んだ。
「ロバート! ロバート!」とメァリは言った。
「どうしていけないんです?」とパガネルは問い返した。「旅は若者を鍛える。だからわれわれ四人と、〈ダンカン〉の水夫三人……」
ジョン・マングルズは主人のほうを向いて言った。
「どうして閣下は私も加わるようにおっしゃってくださらないのですか?」
「ジョン」とグレナヴァンは答えた。「われわれはお客さんを、つまりわれわれにとってこの世で一番貴重なものを船に残して行くのだ。〈ダンカン〉の忠実な船長以外の誰がそれを守ってくれるというのだね?」
「それでは私たちは御一緒に行けませんの?」とレイディ・ヘレナは言い、その目は悲しみに曇った。
「ヘレナ、われわれの旅行は非常なスピードでおこなわれねばならないんだ。別れている期間は短いのだし、それに……」
「そうだわね、あなた、おっしゃることはわかりますわ」とレイディ・ヘレナは答えた。「行っていらっしゃい。そしてこの計画に成功して来てちょうだい!」
「それに、これは旅行なんてものじゃありませんよ」とパガネルが言った。
「それでは何ですの?」
「通過するだけですよ。正直な人間としてできるだけ善根を積みながら通り過ぎて行く、それだけです。Transire benefaciendo(善事をなしつつ行き過ぎる)、これがわれわれのモットーです」
このパガネルの言葉で討議は終った――誰もが同じ意見を持っておこなう話し合いを討議と呼ぶことができればの話だが。準備はその日のうちにはじまった。インディアンたちを警戒させないために探検のことは秘密にしておくことにきまった。
出発は十月十四日に予定された。陸に上がる水夫を選ぶ段になると皆が協力を申し出、グレナヴァンは選択に困った。そこで彼は正直な連中の心を傷つけまいとして籤《くじ》引きできめることにした。籤引きはおこなわれ、航海士のトム・オースティン、屈強な男ウィルスン、そしてトム・セイヤーズ〔ロンドンの有名なボクサー〕にすらボクシングの勝負を挑めるようなマルレディの三人は籤運のよさを喜ぶことができた。
グレナヴァンはこの準備のために大活躍した。彼は予定の日までに準備を終えようとし、事実準備を終えた。それに負けずにジョン・マングルズはすぐ海に出ることができるように石炭を補給した。彼は是非アルゼンチンの海岸に旅行者たちより先に着いていたかったのだ。こうしてグレナヴァンと若い船長のあいだに本当の競争がおこなわれたのだが、これは皆にとって利益になった。
実際十月十四日の予定の時刻に皆は準備を終えていた。出発の時刻にヨットの乗客たちは食堂に集った。〈ダンカン〉はいつでも出港できる態勢にあり、そのスクリューはすでにタルカウアノの透明な水をかきまわしていた。グレナヴァン、パガネル、マクナブズ、ロバート・グラント、トム・オースティン、ウィルスン、マルレディはカービン銃とコルト拳銃で武装して船を去ろうとしていた。案内人と騾馬《らば》は桟橋のはしで待っていた。
「もう時間だ」と遂にロード・エドワードは言った。
「行っていらっしゃい、あなた」とレイディ・ヘレナは感動を抑えて言った。
ロード・グレナヴァンは彼女を胸に抱きしめ、一方ロバートはメァリ・グラントの首にしがみついた。
「それでは、なつかしい皆さん」とジャック・パガネルは言った。「最後の握手をしましょう、大西洋の岸で会うまでの分の握手を」
そんなにたくさんの握手はちょっと無理というものだろう。けれども人々はこの尊敬すべき学者の願いをかなえることができるような熱烈な抱擁を交わしたのだった。
船の人々は甲板に出、七人の旅行者は〈ダンカン〉を去った。間もなく彼らは岸壁に上り、ヨットは進んで岸壁から一〇〇メートル足らずまで接近した。
レイディ・ヘレナは船尾楼の上で最後の叫びを送った。
「皆さん、神さまがお助けくださいますように!」
「助けてくださいますよ、奥さま」とジャック・パガネルは答えた。「どうか信じていただきたいが、われわれは人事を尽くしますからな!」
「前進!」とジョン・マングルズは機関士に叫んだ。
「出発!」とロード・グレナヴァンがそれに応じた。
そして旅行者たちが自分の乗った獣の手綱をゆるめて海岸の道を歩き出すのと同時に、〈ダンカン〉はスクリューの力で全速でふたたび大洋へとむかった。
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十一 チリ横断
グレナヴァンが組織した現地人の一隊は三人の男と子供一人から成っていた。騾馬挽《らばひ》きの頭《かしら》はもう二〇年も前にこの国に帰化したイギリス人だった。彼は旅行者たちに騾馬を賃貸し、そしてアンデス山脈のいろいろな通路を案内することを業としていた。それから彼は旅行者を、パンパスの道をよく知っている〈バケアーノ〉すなわちアルゼンチンの案内人に委ねるのである。このイギリス人は騾馬と原地民を相手に生きながらも、この旅行者たちと話すことができないほど母国語を忘れてしまってはいなかった。そのため意思表示の点でも命令を実行させる点でも便利で、パガネルがまだ自分の言うことを理解させるようになっていないのでグレナヴァンはこれを大いに利用した。
この騾馬挽きの頭、チリ人の呼び方によればこの〈カタパス〉は、二人の原地民の案内人《ペオン》と一二歳の男の子を助手にしていた。ペオンたちは一行の荷を積んだ牡騾馬を見張り、男の子は大小の鈴をつけて先頭に立って一〇頭の牝騾馬を率いて行く〈マドリーナ〉と呼ばれる小さな牝馬を御していた。旅行者たちは六頭の牝騾馬に乗り、カタパスが一頭の牝騾馬に乗った。ほかの二頭は食糧と、平原の部族の酋長たちの機嫌を取るための布地を幾反か積んでいた。ペオンたちは彼らの習慣に従って歩いて行く。この南アメリカ横断はそれゆえ安全性の点でも速度の点でも最上の条件でおこなわれるはずだった。
このアンデス山脈横断は普通の旅ではなかった。普通の旅ならば、アルゼンチン産のものが最もよしとされているこのような丈夫な騾馬などを使わずにすることができる。このすばらしい動物たちはアルゼンチンでその原種よりもすぐれたものになっていた。餌料についてはこの動物はやかましくなかった。一日にたった一度水を飲むだけで、八時間に楽に四〇キロメートルは歩き、一四アローバ〔アローバはこの国の単位で、一アローバは一一キログラムに相当〕の荷を文句も言わずにかつぐのだ。
大洋から大洋へのこの行程には宿屋はない。食べ物は乾し肉と唐辛子《とうがらし》で味をつけた米と、途中で運よく物した狩りの獲物だけだ。山の渓流の、また平原の小川の水にラムを幾滴か注いで飲む。ラムは各自が自分の分を〈チフレ〉と呼ぶ牛の角のなかに入れて持って歩くのである。その上また、アルコール飲料をあまり飲みすぎないように気をつけねばならない。人間の神経系が特別に緊張するこの地方ではこういう飲料は好ましくないのである。寝具はといえば、〈レカード〉と呼ばれる原地民の鞍がそっくりそのまま寝具になるのだ。この鞍は片側は鞣《なめ》しもう一方の側は毛のついたままの〈ペリオン〉という羊の皮でできていて、贅沢な刺繍をした腹帯で留める。この温い毛布にくるまった旅行者はじとじとした夜も平気で凌《しの》げ、ぐっすりと眠れるのだ。
旅慣れていていろいろの国の風習に適応することができる人間らしく、グレナヴァンはチリの服装を自分でもし同行者たちにもさせることにした。パガネルとロバートという二人の子供――片方は大きく片方は小さかったが――はまんなかに穴をあけた広いタータン織のこの国独特のポンチョから頭を出し、若い馬の後脚で作った長靴に足を入れたときには、あまり喜びを感じなかった。喜びを感ずるためには豊かな馬具をつけた自分たちの騾馬を見なければならなかった。口にはアラビア風の轡《くつわ》をはめ、鞭の代用をする革を編んだ長い手綱をつけ、頭絡《とうらく》にはきれいな金属の装飾がつき、〈アルフォルハス〉というその日の食料のはいった鮮かな色彩の麻の袋を振り分けにしている。パガネルは例によってぼんやりしていて、跨がるときにもうすこしでこのすばらしい乗馬の後脚で三つか四つ蹴られるところだった。肌身離さぬ例の望遠鏡を吊り革で吊ったままいったん鞍の上におさまって脚をしっかりと鐙《あぶみ》にのっけると、彼はこの怜悧な動物にすべてを任せてしまったが、そうしたことを後悔する必要は彼にはなかった。ロバート少年のほうは最初からすぐれた騎手になる驚くべき素質を示した。
一同は出発した。天気はすばらしく、空は完全に澄み切って、日光の熱さにかかわらず大気は海の風で充分冷えていた。この小さな一隊は四八キロメートルほど南で三十七度線の起点に合するためにタルカウアノ湾の曲りくねった海岸を速足で辿って行った。この最初の一日は干上った沼沢地の蘆《あし》を分けてぐんぐんと進んだが、あまり口は利かなかった。別離のときのことが旅行者たちの心に強い印象を残していた。彼らには水平線に消えて行く〈ダンカン〉の煙がまだ見えた。パガネルを除いて誰もが沈黙していた。この勉強好きな地理学者はスペイン語で自分に質問し、彼にとって新しいこの言葉で自答していたのである。
のみならずこのカタパスも相当むっつり屋だった。職業柄彼はおしゃべりになれなかったらしい。部下のペオンたちとも彼はろくろく話をしなかった。このペオンたちは玄人らしくその仕事のことは非常によく心得ていた。どこかの騾馬がたちどまると彼らは喉から絞り出すような叫びで励ました。叫びだけで足りなければ小石を拾ってたくみに投げて強情な動物を従わせた。腹帯がはずれたり手綱が落ちたりすればペオンは自分のポンチョを脱いで騾馬の頭にかぶせ、元どおりにすると騾馬はすぐにまた歩き出すのであった。
朝食後八時に出発し、午後四時になって宿泊地に着くときまでそのまま歩きつづけるのが騾馬挽きの習慣だった。グレナヴァンはこの習慣を守った。ところで、まさにカタパスが止まれの合図をしたときに、旅行者たちはアラウコの町に到着したのである。この町は湾の一端に位置し、大洋の泡立つ縁《ふち》から離れていない。カルネーロ湾で三十七度線の起点に取りつこうとすれば、ここからなお三〇キロメートルばかり歩かねばならなかった。しかしグレナヴァンが雇った連中はすでに沿岸のこのあたりをずっと歩いていたが、難船の痕跡は一つも見ていなかったのである。それゆえもう一度探索する必要はなかった。そうしてアラウコの町を出発点とすることに決定された。この町から完全な直線を取って東へ進むこととなったのである。
小さな一隊は夜を過ごすために町に入り、一軒の宿屋の中庭で露営したが、この宿屋の施設などはまだまったく原始的なものでしかなかったのだ。
アラウコはアラウカニアという、長さ六〇〇キロメートル、幅一二〇キロメートルの大きさをもつ州の首都で、チリ人種の最初の子孫であり詩人エルシーリャ(スペインの探検家で一五五五年チリに渡って原地民と闘い探検に従事した。スペインに帰って有名な詩「ラ・アラウカナ」を書いた)に歌われたモルーチョ人が住んでいる。これは南北両アメリカを通じて異国人の支配を一度も受けなかった唯一の誇り高い強健な種族なのだ。アラウコはかつてはスペイン人に従属したが、すくなくともその住民は服従しなかった。彼らは今日チリの侵略的な動きに抵抗しているのと同様当時も抵抗した。そして彼らの独立旗――紺碧の地に白い星を一つ浮かせた――は今なお町を守る要塞と化した丘の頂にひるがえっている。
夜食の準備をしているあいだグレナヴァンとパガネルとカタパスは藁《わら》屋根の家々のあいだを歩きまわった。教会とフランシスコ派の修道院の残骸を除けばアラウコには何一つ見るべきものはなかった。グレナヴァンは多少情報を蒐《あつ》めようとしてみたが、それらの情報は何の役にも立たなかった。パガネルは住民に意志を疎通させることができないのでがっかりしていた。しかしこの住民たちはアラウカニア語――マジェラン海峡にいたるまで一般に用いられている母語――を話すのだから、パガネルのスペイン語はヘブライ語ほどしか役に立たなかったのである。そこで彼は耳のかわりに目を大いに使った。そして結局のところ、自分の前にあらわれるモルーチョ族のいろいろなタイプを観察して真の学者的な喜びを味わったのだ。男たちは背が高く、顔はひらべったく、肌の色は銅色で、顎の髯を抜き、目つきは疑い深く、広い頭は黒い長い髪の毛にかくれていた。彼らは平和時には身をもてあましている戦士たちに特有のあの怠惰に溺れているように見えた。女たちは惨めだが勇敢で、家のなかのつらい仕事に励み、馬にブラシをかけ、武器の手入れをし、耕作し、亭主たちのかわりに狩りをし、その上さらにひまを見つけては、作り上げるのに二年もかかり一番安いものでも一〇〇ドルはするあのトルコ石色のポンチョを作っていた。
要するにこのモルーチョ人は、あまり興味をひかない、かなり未開な風習を持った民族をなしている。彼らは独立を愛するという唯一の美徳を持つかわりに人類のほとんどすべての悪徳を身につけているのだ。
散歩を終えて夕食の席についたときパガネルは「まったくスパルタ人そっくりだよ」とくりかえしていた。
尊敬すべきこの学者は誇張していた。そして彼がアラウコの町を見てまわっているあいだフランス人としての自分の心臓は高鳴るとつけくわえたときには、人々はなおさら彼の言うことが理解できなかった。少佐がこの思いがけない〈高鳴り〉の理由をきくと、自分の同国人の一人が最近までアラウカニアの王位についていたのだからこの感動も当然なのだと彼は答えた。少佐はその君主の名を教えていただきたいと頼んだ。ジャック・パガネルは勇敢なド・トナン氏の名を誇らしげに挙げた。少々髯が濃すぎたが、もとはペリグーで代訴人をしていたすぐれた人間で、王位を追われた国王たちが好んで〈人民の忘恩〉と呼ぶところのものを味わわされた。王位から追われた元代訴人のことを考えて少佐がちょっとにやにやしたので、パガネルは大まじめで、国王がよき代訴人をつとめるよりもおそらく代訴人がよき国王をつとめるほうがやさしいだろうと答えたものだ。そしてこの意見に皆は大笑いして、元アラウカニア国王オレリ=アントワーヌ一世の健康を祈って〈チチャ〔とうもろこしを醗酵させた火酒〕〉を幾滴か飲んだ。それから数分後には旅行者たちはポンチョにくるまってぐっすりと眠っていた。
翌朝の八時に、マドリーナを先頭に立てペオンたちが殿《しんがり》について、小さな一隊はふたたび三十七度線を東へむかった。彼らはこうして葡萄畑と畜群の多いアラウカニアの肥沃な土地を横切って行った。かろうじて三キロメートルごとに〈ラストレアドーレス〉――アメリカ大陸全体に名の知られた馬馴らしの巧みなインディアン――の小屋が立っているにすぎない。ときどき見捨てられた宿駅があって、平原をさまよう原地民が雨露を凌ぐのに使われている。この日のあいだ旅行者たちは二度河で行手を阻まれた。リオ・デ・ラケとリオ・デ・トゥバルである。しかしカタパスは徒渉点を見つけ、河を渡ることができた。アンデス山脈は円峰を形づくり北にむかって尖峰の数を増しながら地平線に展開していた。ここではまだそれは、新世界の骨組がその上にのっかっているあの巨大な脊柱の低い椎骨《ついこつ》にすぎなかった。
五六キロメートル歩いたのち午後四時に一行は広々とした平原の巨大な桃金嬢の茂みの下に歩みを止めた。|振り分け袋《アルフォルムス》から例によって肉と米が出された。地面にひろげたペリオンが蒲団にも枕にもなり、各人はこの急拵《きゅうごしら》えの寝床で体力を回復すべく休息を取り、そのあいだカタパスとペオンたちは交代で不寝番をした。
天候に非常に恵まれていたし、ロバートをも含めて旅行者たちは皆健康を保っていたし、要するにこの旅の幸先《さいさき》はまことに良かったので、それにつけこんで賭博者が〈はずみに乗る〉のと同様に前進しなければならない。それが皆の意見だった。翌日は一行は歩みを速め、ベルの急流を無事に渡り、そして夜になって独立チリとスペイン領チリを分つリオ・ビオビオの畔に野営したときには、グレナヴァンはさらに三五キロメートル進んだことを確認することができた。この地方はこれまでと変っていなかった。あいかわらず肥沃で、アマリリスや木本の菫《すみれ》やフルスキアや朝鮮朝顔や金色の花の咲くサボテンがいっぱい生えていた。幾種かの動物、中でも特にオセロット山猫が藪《やぶ》のなかにひそんでいた。鳥類を代表してあらわれたのはアオサギと孤独なフクロウが一羽ずつ、それから鷹の爪を逃れて行く鵜《う》とカイツブリの類だけだった。しかし原地民はほとんど姿が見えなかった。かろうじてインディアンとスペイン人の退化した混血児である〈グアソ〉が幾人か、そのはだしの足につけたばかでかい拍車で血だらけになった馬を飛ばして幽霊のように通り過ぎるだけだった。途中では話ができるような人には一人も出逢わず、情報はまったく聞けなかった。グレナヴァンは覚悟をきめた。インディアンに捕われたグラント船長はアンデス山脈の向うへ拉し去られたにちがいないと彼は自分に言い聞かせた。パンパスに入らなければ捜索は成果を挙げ得ないだろう、こちら側では駄目だ。だから根気よく構えて、速くそして休みなく前進しなければならない。
十七日には一行はいつもの時刻にいつもの順序で出発した。ロバートはこの順序をなかなか守れなかった。心が逸《はや》るあまり彼は先導馬《マドリーナ》よりも先に出てしまい、彼の乗っている騾馬を途方にくれさせるのであった。グレナヴァンが厳しく呼びもどさぬかぎり少年をその行列のなかの位置にとどめておくことはできなかった。
地形は前より起伏が多くなった。ところどころ勾配があらわれて山の近いことを告げていた。河《リオ》は多くなり、斜面の意のままにやかましい水音を立てていた。パガネルはしばしば地図を見た。そうした小川のなかで地図に載っていないものがあると――そういうことはよくあったが――地理学者としての彼の血は血管のなかで沸きかえり、世にも愉快な憤慨ぶりを見せるのであった。
「名前のついていない小川なんてものは戸籍がないようなものだ! 地理学の世界の法律からすればそんな川は存在しないんだ」
そこで彼は躊《ためら》うことなくこれらの無名のリオに命名した。その名を自分の地図の上に書きこみ、最も響きのいいスペイン語の形容詞でそれを飾りたてたものだ。
「何という言葉だろう!」と彼はくりかえした。「何という充実した朗々とした言葉だろう! これは金属でできた言葉だ。この言葉は鐘を作るための青銅のように銅七八パーセントと錫二二パーセントを含んでいるに相違ない!」
「それにしても、すこしは上達しましたか?」とグレナヴァンが言った。
「もちろんですよ、あなた! ああ、アクセントがなかったらいいんだがな! しかしこのアクセントというものがあるんでね!」
そこで当面パガネルは旅をつづけながらむずかしい発音を喉が割れるほど練習したものだ――ただし地理を観察することも忘れなかったが。ただこの観察にかけてはまったく彼は驚くほど堪能で、おそらく彼の右に出るものはいなかったろう。グレナヴァンが土地の何か変ったことについてカタパスに質問すると、この博識な仲間はきまって案内人よりも先に答えるのだった。カタパスはびっくりした顔で彼を見まわした。
この日の六時頃、それまで辿って来た方向と交差する街道があらわれた。グレナヴァンはもちろんこれは何という街道かと尋ねたが、それに答えたのはもちろんパガネルだった。
「ユンベルーロス・アンヘレス街道です」
グレナヴァンはカタパスのほうを見た。
「そのとおりで」とカタパスは答えた。
それから地理学者のほうを向いて、
「それではあなたはこの国を横切ったことがおありなんで?」と彼はきいた。
「あたりまえじゃないか!」とパガネルはまじめな顔で答えた。
「騾馬に乗ってですか?」
「いや、肘掛椅子に坐ってさ」
カタパスは理解できなかった。彼は肩をすくめ、列の先頭へもどった。
午後五時に彼はロハという小さな町から一六〇〇メートルほど上のあまり深くない峡谷に馬を止めた。そしてこの夜は旅行者たちは大コルディリェーラ(アンデス山脈)の前衛をなす山脈《シエラス》の麓に野営した。
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十二 高度三六〇〇メートル
チリ横断はここまでのところは何ら重大な事件をもたらさなかった。しかしこのときになって山越えにつきまとうあの障害と危険とが同時にあらわれたのである。自然のつきつける難題との闘いがいよいよ本格的に始まろうとしていた。
一つの重要な問題が出発前に解決されねばならなかった。どの通路を取れば予定の進路から逸《そ》れずにアンデス山脈を越えられるか? カタパスはこの点について質問を受けた。
「コルディリェーラのこのあたりで歩ける通路は二つしか知りません」と彼は言った。
「バルディビア・メンドーサの発見したアリーカの峠だろう?」とパガネルは言った。
「そのとおりで」
「それからネバード・デ・ビリャリカという山の南にあるビリャリカの峠だな」
「いかにも」
「それでは、君、この峠にはどちらも一つ困ったところがある。必要以上に北もしくは南に行ってしまうことになる」
「それではほかにわれわれにすすめられるような峠《パソ》がありますか?」と少佐がきいた。
「もちろん」とパガネルは答えた。「アントゥーコの峠ですよ。三十七度三〇分、つまりわれわれの進路から半度ほど離れた火山の山腹を通っている。高さはわずか二〇〇〇メートル足らずで、サムディオ・デ・クルスの踏査したものです」
「よろしい」とグレナヴァンは言った。「しかし、カタパス、君はそのアントゥーコの峠を知っているかね?」
「知っております。通ったことがありますよ。私がこれを提案しなかったのは、せいぜいのところ東側斜面のインディアンの牧人が畜群を追って行く道にすぎないからです」
「それでは、君、ペウエンチェ人の馬や羊や牛の群れが通《かよ》うところならば、われわれだって通ることができるだろう。そしてその道ならわれわれは直線から離れないですむのだから、アントゥーコの峠を取ることにする」
出発の合図がただちに出て、一行は結晶化した石灰岩の巨大な塊のあいだのラス・レハスの谷にはいって行った。ほとんど感じられないほどの傾斜を登って行く。十一時ごろ、近くのすべての川が合して絵のように美しい天然の貯水池となっている小さな湖の岸をまわって行かねばならなかった。川はつぶやきながらそこへ流れこみ、澄んだ静かな水のなかで混り合った。湖の上のほうには広大な〈リャノス〉がひろがっていた。インディアンの畜群が草を食んでいる禾本《かほん》科植物に蔽われた高原である。それから南北に走っている沼沢にぶつかったが、騾馬の本能のおかげでそこから抜け出すことができた。一時にバリェナールの砦が尖った岩山の上にあらわれた。岩山の頂には砦の中堤の取り壊した跡が見えた。一行はそこを通り過ぎた。傾斜はすでに嶮しくなり、石が多くなり、騾馬の蹄《ひづめ》で浮いた小石は石なだれとなってころがりおちた。三時ごろ、七七〇年の蜂起で破壊された砦の美しい廃墟がまたあらわれた。
「まったくのところ、山だけでは人間と人間のあいだを分けるのに不充分なんだな。その上さらに山に砦を築かねばならないのか!」とパガネルは言った。
この地点から道は歩きにくく、それどころか危険にすらなった。傾斜度はますます大きくなり、岨道《そばみち》はますます狭まり、断崖は恐ろしいほど抉《えぐ》れていた。騾馬たちは鼻を地につけて道を嗅ぎながら慎重に進んだ。一行は一列になって行進した。時々急な曲り角で先導馬《マドリーナ》の姿が見えなくなり、小さなキャラヴァンはそうなるとマドリーナの遠い鈴の音を頼りに進んだ。あるいは曲りくねる山道のいたずらで、行列が二つの平行線になってしまうことがあった。そしてカタパスはペオンたちと話を交わすことができたが、その両者のあいだには幅は四メートル足らずの、しかし深さは六〇メートルにも達する亀裂が越えられぬ深淵を作っているのだった。
草本植物がそれでもなお岩石の侵入に対して闘っていたけれども、すでに鉱物界と植物界との角逐《かくちく》が感じられた。アントゥーコ火山に近づいていることは針状の黄色い結晶に蔽われた鉄色の溶岩の幾筋かの流れでわかった。たがいに積みかさなった岩々は、今にも落ちて来そうに見えながら、平衡の法則をまったく無視して立っていた。もちろん天変地異が起こればこれらの岩山の様相は簡単に変るに相違なかった。そしておちつかぬ姿勢のこれらの尖峰、歪んだドーム、坐りの悪い突起を見れば、最終的に安定する時期はこの山岳地方にはまだまだ訪れて来ていないことが容易にわかった。
こうした状態だから道がなかなか見分けにくいのも当然だった。アンデス山脈の骨組はほとんどひっきりなしに揺り動かされていてしばしば道筋は変り、以前の目印は今はその場所になくなっていた。それゆえカタパスは逡巡し、たちどまり、あたりを見まわし、岩の形を見、脆《もろ》い岩の上にインディアンの踏み跡を捜した。方位を見定めることはまったく不可能になった。
グレナヴァンは彼の案内者の後にぴったりとついて行った。道の困難とともに案内者の困惑が募るのを彼は理解し、感じた。彼は案内者に敢て訊こうとはしなかったが、騾馬挽きには騾馬の本能と似たようなものがあるから、彼にすべてを任せたほうがいいのだと考えた。おそらくそれは正しかったろう。
なお一時間のあいだカタパスは言わば当所《あてど》もなしにさまよっていたが、それでもだんだんと山の高層部へと登って行った。とうとう彼は急にたちどまることを余儀なくされた。そこはあまり幅のない谷、インディアンたちが〈ケブラーダ〉と呼ぶあの狭い峡谷のどんづまりだった。垂直に削られた斑岩《はんがん》の壁が出口をふさいでいた。カタパスはむなしく通路を捜したあげく騾馬から降り、腕を組んで待った。グレナヴァンは彼のところへ行った。
「迷ったのかね?」
「そんなことはありません」とカタパスは答えた。
「けれどもここはアントゥーコの峠でないのじゃないか?」
「ここですよ」
「間違ってはいないかい?」
「間違ってはいません。ここにインディアンが使った火の跡がある。あすこには牝馬と羊の群れが残した足跡があります」
「それではこの道を誰かが通ったんだな!」
「ええ、でももう通れますまいて! この前の地震のため通行不可能になってしまった……」
「騾馬には不可能だろう」と少佐が答えた。「しかし人間には不可能じゃない」
「ああ、そいつはあなたがたの問題で」とカタパスは答えた。「私は自分にできるだけのことをしたまでです。もしあなたがたが引き返してほかの通路を捜してもいいとおっしゃるなら、私は騾馬を連れて引き返してよござんすよ」
「しかしそうすれば遅れるだろう?……」
「すくなくとも三日は」
グレナヴァンは黙然としてカタパスの言葉を聞いていた。カタパスはたしかに契約の条件を破っていなかった。彼の騾馬にはこれ以上行くことはできなかった。けれども引き返してはどうかという提案が出されると、グレナヴァンは仲間たちのほうを振り向いて言った。
「これでも突破しようと思うかね?」
「われわれはあなたについて行きますよ」とトム・オースティンが答えた。
「それどころか、あなたより先に行ってもいい」とパガネルがつけくわえた。「一体何だというんだ、結局のところ? 山脈を越えるだけのことじゃありませんか。しかも向う側の斜面は問題にもならんほど楽に降りて行けるというのに! そうしてしまえば、パンパスを誘導してくれるアルゼンチンの案内人《バケアーノ》たちも、平野のなかをいつも疾駆している足の速い馬も見つかるでしょう。さあ前進だ、躊躇なしに」
「前進!」とグレナヴァンの仲間たちは叫んだ。
「君はわれわれと一緒に来ないのか?」とグレナヴァンはカタパスにきいた。
「私は騾馬挽きですからね」と相手は答えた。
「好きなようにしたまえ」
「その男などいないでも大丈夫だ」とパガネルは言った。「この壁の向うに行けばアントゥーコの山道にまたぶつかるでしょう。私はコルディリェーラの最もすぐれた案内人に劣らずまっすぐに山裾まであなたがたを連れて行って見せると請け合いますよ」
グレナヴァンはそこでカタパスに勘定を払い、彼とその部下のペオンたちと騾馬を帰らせた。武器と道具といくらかの食糧は七人の旅行者に分配された。すぐに登攀をはじめること、必要とあれば夜にはいってからも歩みつづけることに一人の異議もなく決定された。左手の斜面に騾馬ならば通れないような嶮しい細径がうねうねとついていた。困難は大きかったが、二時間の苦労と迂回の後にグレナヴァンとその一行はふたたびアントゥーコの峠道に出た。
このとき彼らはコルディリェーラの背梁から程遠からぬ本当のアンデス山中にいたのだ。しかしきりひらかれた山径、はっきりとした峠《パソ》はもう影も形もなかった。このあたり一帯は最近の幾度かの地震でひっかきまわされたばかりで、ますます尾根の峰々のほうへ登って行かねばならなかった。パガネルは開けた道を見出せないのでかなり当惑していた。アンデスの頂に着くには猛烈に疲れるものと彼は覚悟した。その平均高度は三三〇〇メートルから三七八〇メートルまでだったからだ。まことに幸運なことに天気はおだやかで空は晴れ、季節は有利だった。しかし五月から十月までの冬には、このような登攀は不可能だったろう。厳しい寒気はたちまちにして旅行者の命を奪い、たとい凍死を免れてもこの地方に特有の〈テンポラール〉と呼ばれる一種のハリケーンの猛威を逃れられなかったろう。毎年この暴風はコルディリェーラの深い谷々に多くの屍体を残すのである。
一行は一晩じゅう登りつづけた。ほとんど寄りつけぬような棚へ人々は腕力でよじのぼった。広く深いクレヴァスを飛び越えた。腕と腕をからませてロープのかわりにし、人の肩が足がかりになった。この大胆不敵な男たちは綱渡りのあらゆる曲芸を演じている道化役者の一隊に似ていた。この時こそマルレディの体力とウィルスンの器用さが何につけても発揮された。この二人の実直なスコットランド人は八面六臂《はちめんろっぴ》の大活躍をした。彼らの献身と彼らの勇気なしにはこの小さな一隊が通過できないように思えたことも幾度あったろう!
グレナヴァンは若さと活気のため無謀に走りやすいロバート少年から目を離さなかった。パガネルのほうはまことにフランス人らしく猪突《ちょとつ》した。少佐はといえば、彼は厳密に必要なだけしか体を動かさなかった。それ以上でもそれ以下でもない。そしてほとんど目に見えぬほどの動きで登って行く。もう何時間も前から自分が登っているのだということを彼は意識していたのだろうか? それはどうもはっきりしない。もしかすると彼は下降している気でいたのかもしれない。
午前五時に旅行者たちは、気圧計の測定によって二二五〇メートルとわかる高度に達した。このとき彼らがいたのは森林限界をなす支脈の高地だった。そこにはハンターを喜ばせ、もしくはハンターに金を稼がせるような動物が幾種か跳ねまわっていた。この敏捷な動物はそれをよく自覚していた。人間が近づこうとすると逃げ出したからだ、しかもずっと遠くへ。それはリャマだった。羊や牛や馬に代る山地の貴重な動物で、騾馬が住めないようなところに生活している。またそれはチンチラだった。おとなしくて豊かな毛皮を持った臆病な小型の齧歯《げっし》類で、兎とトビネズミの中間の大きさで、後脚を見ると全体がカンガルーのように見える。この身軽な動物が栗鼠《りす》のように木々の梢を走っている姿ほど魅力的なものはなかった。「まだ鳥にはなっていないが、もはや四足獣ではない」とパガネルは言った。
けれどもこれらの動物が山の最後の棲息者なのではなかった。万年雪の地帯のはじまる二七〇〇メートルの高所になお、あの比類のない美しさを持った反芻動物、長い絹糸のような毛を持ったアルパカ、次いで博物学者たちが〈ヴィゴーニュ〉(ビクーニャ)と名づけた上等の毛を持つ優雅で堂々としたあの角のない山羊の一種(ビクーニャは実はリャマの一種で、したがってアルパカと同様駱駝科に属する)が小さな群れをなして住んでいた。しかしこの動物に近づくことなどはとても考えられなかった。その姿を見る機会もめったにないのだ。その逃げる様子はほとんど翼をひろげてと言えるほどで、目のくらむような白い雪の絨毯の上を音もなく滑って行くのだった。
この時刻にはあたりの景観は完全に一変していた。きらきら光る大きな氷塊が、それもあちこちの斜面では青みがかった色合いを帯びたものを含めて、そこらじゅうに屹立《きつりつ》し、朝日の光を反射していた。この頃から登攀はさらに危険になった。クレヴァスを見つけるために注意ぶかく探《さぐ》ってみてからでなければもはや足を踏み出せなかった。ウィルスンが列の先頭に立ち、足で氷河の地面を試す。仲間たちは正確に彼の足跡に足を置き、しかも声を上げることを避けた。ほんのすこしの物音でも空気を乱して、彼らの頭上二〇〇メートルか二五〇メートルのところに引っかかっている雪塊をなだれおとすことになりかねなかったからである。
彼らはこのとき灌木帯に来ていたが、その灌木帯も五〇〇メートルほど上で禾本《かほん》科植物とサボテンに取って代られた。高度三三〇〇メートルになるとこれらの植物すらも不毛の土地を去って、植物は痕形もなくなってしまった。旅行者たちはたった一度、簡単な食事で体力をとりもどすために八時に休止しただけで、超人的な勇気をもって絶えず増大する危険に挑みながら登攀を再開した。鋭い岩稜をまたぎ、敢て覗きこむこともできないほどの深淵を越えねばならなかった。ところどころに木の十字架があって道を標示し、また度重なる遭難の跡を示していた。二時頃、沙漠ともいえるような植物の痕形もない広い高原が痩せた尖峰のあいだにひろがった。空気は乾燥し、空は抜けるように青かった。この高度では雨というものは全然降らない。蒸気は雪になるか雹《ひょう》になるかなのだ。あちこちに斑岩もしくは玄武岩の尖峰が骸骨の骨のように白い経帷子《きょうかたびら》から出ており、時々石英や片麻岩のかたまりが風に吹かれて剥がれて鈍い音をたてて落ちたが、稀薄な大気のためその音もごく微《かす》かなものになるのだった。
そのうち小さな一隊は、その勇気にもかかわらず力尽きてしまった。グレナヴァンは仲間たちの疲労|困憊《こんぱい》を見て、山のなかにこんなにまで入りこんでしまったことを後悔した。ロバート少年は疲労に負けまいと頑張っていたが、もうそれ以上歩けなかった。三時にグレナヴァンは歩みを止めた。
「休まねばならない」と彼は言った。誰も休もうと言わないだろうと思ったからだ。
「休む?」とパガネルは答えた。「しかし体を入れるところがありませんよ」
「けれどもどうしても休む必要がある。ロバートのためだけでも」
「そんなことはありません、ミロード」と勇敢な少年は言った。「僕はまだ歩けます……止まらないでください……」
「背負って行ってやるよ、坊や」とパガネルは言った。「しかし何としても東斜面に出なければならない。おそらく東斜面で避難小屋か何かが見つかるでしょう。もう二時間歩いてほしい」
「皆もそう思うか?」とグレナヴァンはきいた。
「そうです」と仲間たちは答えた。
マルレディはつけくわえた。
「子供のことは私が引き受けますよ」
そうして一行はまた東へむかった。さらに二時間の恐ろしい登りだった。最後の山頂に辿りつくため一行は登りに登った。空気の稀薄さのために、〈プーナ〉という名で知られているあのひどい息苦しさがはじまった。気圧との均衡を失ったため、またおそらく非常な高度にあっては大気を濁す雪の影響もあって、血が歯茎や唇からにじみだした。この空気の密度の不足を補うために呼吸を頻繁にし、それによって循環をさかんにしなければならなかったが、クラストした雪の上の日光の反射に劣らずこれは疲労を募らせた。それゆえ、これらの勇敢な人々の意志にかかわりなく、一番しっかりした人間すらまいってしまう時が来、しかも目まいというあの恐ろしい山岳病は単に肉体の力だけではなく精神のエネルギーをも打ち砕いた。この種の疲労にはもはや何らかの犠牲なしに抵抗することはできない。間もなく転倒は頻繁になり、倒れた人々はもはや膝でいざりながらでなければ進めなかった。
ところで、疲労困憊のためこの長くつづきすぎた登攀もそろそろ限界に達しようとし、そしてグレナヴァンがこの広大な雪の山や荒寥たるこの一帯を浸す寒気、あの孤絶した峰々のほうに昇って来る影や夜の宿りのないことなどを考えて恐怖をおぼえていたとき、少佐が彼を引き止め、静かな口調で言った。
「小屋だ」
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十三 コルディリェーラを降りる
マクナブズ以外の人間ならばその小屋のかたわらを、まわりを、それどころかその上を一〇〇回歩いても、その存在に気がつかなかっただろう。あたりを蔽った雪がちょっとそこだけふくらんでいるのが、小屋を周囲の岩とわずかに区別しているにすぎなかった。雪を除かねばならなかった。一心に三〇分も働きつづけたあげく、ウィルスンとマルレディは〈小屋《カスーチャ》〉の入口を掘り出し、小さな一隊はいそいそとそのなかにうずくまった。
インディアンが建てたこのカスーチャは〈アドーベ〉という天日で乾し固めた煉瓦で作ってあった。四面三・六メートルばかりの立方体で、玄武岩の塊のてっぺんに立っている。石の階段がこのカスーチャの唯一の出入口である扉に通じていたが、どれほど狭い扉であろうとテンポラールが山を襲うときには暴風や雪や雹はその扉をいくらでも通り抜けた。
小屋のなかにはゆっくり一〇人はいれたし、小屋の壁は雨季には防水が充分でなかったにしても、すくなくともこの時期には温度計で零下一〇度にもなる厳しい寒さをまあどうにか防いでくれた。その上、ひどく隙間だらけの煉瓦の煙突のついた一種の炉のおかげで、火を焚いて外の気温から効果的に身を守ることもできるはずだったのである。
「これは快適とはいえないまでも充分な塒《ねぐら》だね」とグレナヴァンは言った。「神がわれわれをここへ導いてくださったのだ。われわれとしては感謝するほかはない」
「何ですって!」とパガネルが答えた。「いや、こいつは宮殿ですよ! 番兵と廷臣がいないだけだ。ここはすばらしいでしょう」
「特に、炉に元気よく火が燃え上ったときには」とトム・オースティンが言った。「われわれは腹もすいているが、それに劣らず寒くもあるようですからね。私としては獣肉の一きれよりも薪がたっぷりあったほうがうれしかったでしょうよ」
「それじゃあ、トム、燃料を見つけて来よう」とパガネルは言った。
「コルディリェーラの頂で燃料を!」とマルレディが疑わしげな顔で頭を振りながら言った。
「このカスーチャに暖炉が作ってある以上、おそらくここでは何か燃やすものが見つかるだろう」と少佐が答えた。
「マクナブズの言うとおりだ」とグレナヴァンが言った。「夕食の準備をしておいてくれ。私は木樵《きこり》の仕事をして来よう」
「私もウィルスンと一緒にあなたについて行きましょう」とパガネルは答えた。
「もし僕に用事があったら……?」とロバートが立ち上って言った。
「いや、おまえは休んでおいで」とグレナヴァンは言った。「ほかのものがまだ子供でしかない年頃におまえはもうおとなになれるだろう」
グレナヴァンとパガネルとウィルスンはカスーチャから出た。午後六時だった。大気はそよとも動かなかったが寒気は厳しく肌を刺した。空の青さはすでに暗色にかわり、太陽はアンデス高地の高い尖峰に最後の光線をなすりつけていた。気圧計を持って来たパガネルは目盛を見たが、水銀は〇・四九五ミリのところを動かなかった。この気圧の低さは高度三五七〇メートルに該当した。コルディリェーラのこのあたりの高さは、してみると、モンブランよりもわずか九一〇メートル低いだけだった。もしこれらの山々がスイスのあの高山と同じような数々の障害に囲まれていたとすれば、いや単に暴風や旋風が彼らにむかって荒れ狂っただけでも、この旅行者たちは一人として新世界のこの大山脈を越えられなかっただろう。
小高い斑岩の上に出たグレナヴァンとパガネルは、地平線の四方へ視線をめぐらした。彼らはこのときコルディリェーラの雪峰《ネバード》の一つの頂にいて、六五〇平方キロメートルの空間を見おろしていた。東側は人間の歩けるくらいの斜面をなしてなだらかに落ちており、ペオンたちはこの斜面を数百メートルにわたって滑り降りる。遠くのほうには氷河の動きのために押しやられた石や漂石が縦に並んで、モレーヌの長々とした線を引いていた。すでにリオ・コロラドの谷は、太陽が沈んで行くとともに生じて上昇して来る闇のなかに沈んだ。落日の光線を受けた土地の隆起や突出部や針峰や尖峰はだんだんと消えて行き、アンデス山脈の東側斜面全体には徐々に夕闇がひろがった。
西のほうでは、山腹の切り立った岩壁を支えている支脈はまだ光に照らされていた。この太陽の照射のなかに浸っている岩や氷河は見るもまばゆかった。北のほうには峰々が波を打ってつづき、いつの間にかその峰々は混り合って、未熟な手で引いて顫《ふる》えた鉛筆の線のようになっていた。そこでは視線は混沌としてしまった。しかし南ではそれと反対に、景観は壮麗なものとなり、夜に入るにつれてその規模は壮大になった。実際視線はトルビードの荒涼たる谷に落ち、三キロメートルの距離にあんぐりと火口を開いているアントゥーコを見おろしていた。
この火山は黙示録《もくしろく》の日のレヴィアタンにも似て巨大な怪物のように咆哮《ほうこう》し、煤《すす》色の炎の奔流と混った熱した煙を吐き出した。それを円形に取り巻く山々も燃えているように見えた。灼熱した礫《れき》の霰《あられ》、赤みがかった煙の雲、熔岩の花火が集まってきらきら光る束《たば》となった。刻々と増大する巨大な閃光、まばゆい爆発がこの広い円周を強烈な反射光で満たし、一方徐々にその衰え行く微光を奪われて行く太陽は地平線の陰に消えた天体のように没して行った。
パガネルとグレナヴァンは長いあいだ大地の火と天上の火のこの壮麗な闘いを眺めていた。にわか仕立ての木樵はこのときは芸術家になった。しかしそれほど感激家でないウィルスンが彼らの現実感覚をよびさました。いかにも薪はなかった。さいわい痩せた乾いた地衣類が岩を蔽っていた。彼らはそれを、そしてまた〈リャレッタ〉と呼ばれるある植物をたっぷり集めた。この植物の根は充分燃えるのである。この貴重な燃料をカスーチャに運ぶと、炉に積み上げた。火をつけるのはむずかしく、とりわけ火を燃やしつづけるのはむずかしかった。ひどく稀薄になっている空気は燃料に充分の酸素を供給しないのである。すくなくとも少佐はそれを理由に挙げた。
「そのかわり」と彼はつけくわえた。「水を沸騰させるには一〇〇度の熱を必要としない。一〇〇度の湯で淹《い》れたコーヒーが好きな連中はそれなしで済まさねばならん。この高度では沸騰は九〇度にならぬうちにはじまるからね」
マクナブズは間違っていなかった。沸きはじめたばかりの鍋《なべ》の水に入れた温度計は八七度しか示していなかった。すこしばかりの熱いコーヒーを各人はうっとりとして味わった。乾し肉は少々不足気味に感じられた。これがきっかけでパガネルはいかにも、もっともであるがまた無益でもある次のような言を吐いたものだ。
「まったくの話、リャマの焼肉もそう軽蔑したものではないと認めねばなるまいて! このリャマという動物は牛と羊の代りになるというが、食べ物としても代りになれるかどうか知ることができれば私は非常にうれしいがな!」
「何だって!」と少佐は言った。「あなたはわれわれの夕食に満足ではないのですか、パガネル先生?」
「大満足ですよ、少佐殿。けれども正直に言うと、肉が一皿あっても悪くありませんな」
「あなたは快楽主義者だね」とマクナブズは言った。
「その言葉は甘受するよ。少佐、しかしあなた自身だって、何のかんのと言ってもビフテキか何かが出れば悪い顔はなさるまい!」
「そうかもしれないな」と少佐は答えた。
「そして猟のため待伏せに行ってくれと頼まれたら、寒さも夜も物ともせずあなたは文句なく出かけるでしょうな?」
「もちろんです。そうすることがちょっとでもあなたたちの御意にかなうなら……」
マクナブズの仲間たちが彼に感謝し、彼の不断の親切を引き留めるいとまもなく、遠くで叫び声が聞こえた。その叫び声は長々とつづいた。それはばらばらの動物たちの叫びではなく、足速やに近づいて来る群れの叫びだった。神は小屋を与えてくれるだけではなく、それでは夕食をも提供しようとしてくれるのだろうか? それは地理学者の考えたことだった。しかしグレナヴァンは、コルディリェーラの四足獣にはこれほど高い地帯では決してお目にかかれるものではないと注意して彼の喜びに少々水をさした。
「それではあの音はどこから来るんでしょう?」とトム・オースティンが言った。「聞こえるでしょう、あんなに近づいて来る!」
「なだれかな?」とマルレディが言った。
「そんなことはあり得ない。ほんとの叫び声だ」とパガネルが反論した。
「見て来よう」とグレナヴァンは言った。
「ハンターとして見て来よう」と少佐はカービン銃を取って答えた。
一同はカスーチャの外へ飛び出した。暗い空に星をちりばめて夜は来ていた。月はまだ月齢の終りの半ば虧《か》けた円盤をあらわしていなかった。南と東の山々の頂は闇に没し、特別に高いいくつかの岩山の奇怪なシルエットしかもはや見えなかった。叫び声――怯《おび》えた獣の叫び声――はますます激しくなった。それはコルディリェーラの暗い部分から聞こえて来た。何が起こったのか? と、突然荒れ狂うなだれが押し寄せて来た。だがそれは恐怖に狂った生き物のなだれだった。高原全体がざわめいているように思えた。その動物たちは数百匹、おそらく数千匹でやって来た。彼らは稀薄な空気にもかかわらず耳を聾《ろう》するような喧騒をひきおこした。パンパの野獣なのか、それともリャマもしくはビクーニャの群れにすぎないのか? この生き物の渦巻が彼らから百数十センチメートル上を通過するとき、グレナヴァン、マクナブズ、ロバート、オースティン、二人の水夫はわずかに地面に身を伏せるひましかなかった。猫眼だからというのでよく見ようとして立っていたパガネルはあっという間にもんどりうって倒れた。
その瞬間銃声がとどろいた。少佐がおよその見当でぶっぱなしたのだ。彼は自分から数歩のところで一匹倒れたように思った。群れのほうはどうしようもない勢いに駆られてますます激しく喘《あえ》ぎながら、火山の反射で照らされている斜面にことごとく消えてしまった。
「ああ、なくさなかった」と誰かの声が――パガネルの声が言った。
「何をなくさなかったんです?」とグレナヴァンが言った。
「私の眼鏡ですよ、きまってるじゃありませんか! こんな修羅場《しゅらば》ではあっという間に眼鏡ぐらいなくしてしまう」
「怪我はしていませんか?……」
「いや、ちょっと踏んづけられただけです。しかし誰が踏んづけたんだろう?」
「こいつだよ」と、射ち倒した動物を後ろ手に引っぱりながら少佐が答えた。
皆は急いで小屋に帰った。そして炉の薄明りで人々はマクナブズの〈一発〉を調べた。
それは瘤のない小さな駱駝といったきれいな獣だった。すらりとした頭に胴体は平べったく、脚は長く華奢《きゃしゃ》で、毛はやわらかく、毛色はミルク・コーヒーの色で、腹の下には白斑がある。パガネルはそれを見るや否や叫んだ。
「グワナコだ!」
「グワナコって何です?」とグレナヴァンがきいた。
「食べられる動物ですよ」とパガネルは答えた。
「で、おいしい?」
「まことに風味があってね。天上の珍味ですよ。どうせ夕食に新鮮な肉が食べられるとは私にはわかっていたが、これほどの肉とはね! それにしても誰がこの動物をばらしますか?」
「私がします」とウィルスンが言った。
「よし、焼くのは私が引き受けよう」とパガネルは答えた。
「それじゃあ、あなたは料理人なんですか、パガネル先生?」とロバートが言った。
「あたりまえじゃないか、坊や、私はフランス人だからね! フランス人のなかにはいつも料理人がいるのさ」
五分後にはパガネルはリャレッタの根を燃やした炭の上に大きく切った獣肉をならべた。さらに一〇分すると彼は〈グワナコのヒレ肉〉と名づけたまことに食欲をそそるこの肉を仲間たちにすすめた。誰一人遠慮などしなかった。そして皆はがぶりとその肉に噛みついた。
ところが地理学者がびっくり仰天したことに、最初の一口から皆は一斉に「ひゃあ」と言って顔をしかめて見せたものだ。
「こいつはひどい!」と誰かが言った。
「食えたもんじゃない!」とほかの誰かが応じた。
事情がどうあれ哀れな学者は、いくら飢えた人間でもこの焼肉は受けつけられないということを認めねばならなかった。そこで一同は彼のことを少々からかってやり――それもまことにもっともだと彼自身も思ったが――彼のいわゆる〈天上の珍味〉でシチューを作りはじめた。彼自身のほうは実際美味で非常に珍重されているグワナコのこの肉が自分の手にかかるとこうもひどくなってしまったのはどういうわけかと考えていたが、不意にある考えが脳裡にひらめいた。
「わかった!」と彼は叫んだ。「ははあ、なるほど! わかった、そうだったのか!」
「腐りかけた肉なんだね?」とマクナブズはおちつきはらって言った。
「ちがうよ、うるさい人だね。歩きすぎた獣の肉だったんだ! どうして私はこんなことを忘れたんだろう?」
「それはどういうことなんですね、パガネルさん?」とトム・オースティンがきいた。
「グワナコは休んでいるところを殺されたのでないかぎりおいしくはないということさ。長いこと追いまわされ、長いこと駈けた後では、グワナコの肉はもう食えない。だから私は肉の味からして、この動物は、したがってあの群れ全体は遠くから来たと断言することができる」
「その点は確かですか?」とグレナヴァンが言った。
「絶対確かですよ」
「しかしどんな事件、どんな現象がこの動物たちをあんなに怯《おび》えさせ、塒《ねぐら》で安らかに眠っているはずの時刻に奴らを駆り立てたんだろう?」
「それに対しては、グレナヴァンさん、私は答えることはできませんな。私の言うことを信じてもらえるなら、もうこれ以上あれこれ考えないで眠ることにしましょう。私自身のことを言えば、眠くてたまらないんだ。眠りますか、少佐?」
「眠りましょう」
そこで皆はポンチョにくるまり、夜じゅう燃えつづけるように火をかきたて、間もなくいろいろの音色といろいろのリズムですさまじい鼾《いびき》が起こったが、中でも地理学者のバスはこの音の建築の基調となっていた。
ただグレナヴァンだけは眠らなかった。ひそかな不安のため彼はげっそりするような不眠状態から逃れられなかった。彼は同じ方向に逃げて行ったあの獣の群れ、わけのわからない彼らの恐慌をいつの間にか考えていた。グワナコたちが野獣に追われていたことはあり得なかった。この高地には野獣はほとんどいないし、猟師はなおさらいないのだ。それではどのような恐怖が彼らをアントゥーコの深い谷々へ駆り立てたのだろうか? そしてその恐怖の理由は何だったのか? グレナヴァンは迫り来る危険の予感をおぼえた。
そのうち半睡状態のおかげで彼の思考は徐々に変化し、不安は希望に席を譲った。翌日アンデスの平原に出たときのことを彼は思い描いた。平原でこそ本格的に捜索がはじまるはずであり、成功はおそらく遠くないだろう。彼はつらい奴隷状態から解放されたグラント船長とその二人の水夫のことを思った。こうしたイメージは急速に彼の眼前にあらわれては消えて行った。ぱちぱちする火や、空中にはじける閃きや、ぱっと火勢を増して仲間たちの寝顔を照らし小屋《カスーチャ》の壁にとりとめのない影を揺らせている炎に絶えず追い払われながら。それからあの予感が一層強烈によみがえって来た。彼は外の、孤立する峰々でする説明しがたい物音をぼんやりと聞いた。
ある瞬間彼は遠い鈍い不気味な轟きを聞きつけたような気がした。それは空から聞こえて来るのではない雷鳴のようだった。それにしても、この轟きは頂から二、三千メートル下の山腹に荒れ狂っている雷雨の発するものとしか思えなかった。グレナヴァンは事柄をつきとめようとし、外に出た。
月はこのとき上がった。大気は澄んで静かだった。上にも下にも雲は一片もない。あちこちにアントゥーコの炎の反映がちらちらしている。雷雨はない、稲妻一つしない。天頂には数千の星がきらめいている。それなのに轟きはまだつづいている。それはこちらに近づいて来、アンデス山脈を横切って駈け寄って来るように思える。グレナヴァンはこの地中の唸《うな》りとグワナコの逃走とのあいだにどんな関係があるのだろうと考えながら一層不安になって小屋に帰った。これには因果関係があるのだろうか? 彼は時計を見たが、時計は午前二時を示していた。けれども差し迫った危険の確証がなかったので、疲れてぐっすりと寝入っている仲間たちを起こさず、彼自身も深い眠りに沈み、その眠りは数時間つづいた。
突然、猛烈な大音響に彼はまた立ち上った。無数の砲兵の弾薬車がよく響く敷石道の上を通って行くときの不規則な音にも似た耳を聾するような騒音だった。不意にグレナヴァンは足の下の地面がなくなるのを感じた。カスーチャが揺れ、左右に割れるのを彼は見た。
「大変だ!」と彼はどなった。
仲間たちは皆目は覚めたが入り混ってひっくりかえり、急な斜面を流されて行った。そのとき日が昇った。その場面は恐るべきものだった。山々はにわかに形を変えていた。円錐は虧《か》けていた。揺れていた尖峰は、その根元にあった落し戸か何かが開きでもしたかのように消え失せていた。コルディリェーラ特有のある現象の結果、幅七、八キロメートルに及ぶ一つの山塊が全体として移動し、平野のほうへずれたのである。
「地震だ!」とパガネルは叫んだ。
彼は間違っていなかった。これはチリ縁辺部の山岳地帯、それもまさにこの地方に頻発する天災の一つであって十四年のうちにコピアポの町は二度破壊され、サンティアゴは四度|倒潰《とうかい》しているのだった。地球のこの部分は地中の火に悩まされており、最近できたこの山脈の火山は地下の蒸気の噴出を抑える弁としては不充分なものでしかない。そのため〈テンブロール〉という名で知られているあの絶え間のない震動が生ずるのだ。
そうするうちに、七人の人間が茫然とし恐怖に駆られながら地衣類の塊につかまってしがみついているこの台地は、急行列車のような速さで、つまり一時間八〇キロメートルの速さで滑り出した。声一つ挙げることも不可能だったし、逃げる、もしくはブレーキをかける動作一つできなかった。何を言ってもたがいに聞こえなかったろう。地中の轟き、なだれの騒音、花崗岩や玄武岩の塊の衝突、粉となって舞い上がる雪の渦巻、これらが一切の意志の疎通を不可能にしていた。あるときは山塊は衝突も動揺もなく降下した。あるときは波濤に揺られる船の甲板のように縦横に揺れ、岩石の落下する深淵の縁に沿い、樹齢数百年の木々を根こそぎにしながら、巨大な鎌のような的確さで東斜面のあらゆる突起を削り取った。
数十億トンの量塊が五〇度の角度を加速度で落下するときの力を考えてみるがいい。
この筆舌に尽くせぬ落下がどれくらいつづいたかは何人も算定し得なかったろう。どんな深い谷でその落下が終るかも何人も敢て予見し得なかったろう。すべてのものが生きているか、あるいは誰かがすでに奈落の底に倒れているか、何びともそれを言い得なかったろう。進行の速度で息がつまり、体にしみこむ寒気に凍《こご》え、雪の渦に盲《めし》いながら、生きた心地もなく、ほとんど失神状態で彼らは喘ぎ、自己保存の最後の本能によってようやく岩にしがみついたのである。
突然、途方もない激しさのショックで彼らは彼らを乗せて滑る岩から突き離された。彼らは前に投げ出され、山脈の一番裾にころがり落ちた。台地はぴたりと停止したのだ。
数分のあいだ誰一人動かなかった。とうとう一人が衝撃に茫然としながら、それでもまだしっかりとした様子で立ち上った。少佐だった。彼は目を蔽っている土埃《つちぼこり》を払い、それからあたりを見まわした。仲間たちは小銃の弾丸が物に当って鉛の粒になったように狭い円をなしてたがいに蔽いかぶさって倒れていた。
少佐は人数を数えた。一人を除いて皆地面に横たわっていた。欠けていたのはロバート・グラントだった。
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十四 天佑の銃声一発
アンデス山脈の東面は平原のなかにいつの間にか消える長い斜面から成っているが、崩れた山塊の一部はその平原のなかに急に停止したのである。密生した草地に蔽《おお》われ、すばらしい樹木があちこちに生えたこのあたりには、征服時代(スペインのコンキスタドールによるチリ征服、つまり一六世紀)に植えた無数の林檎《りんご》の木が金色の果実をきらめかせ、本当の林をなしていた。これはまさに高原地帯に移された豊沃なノルマンディの一部というべきで、こういう場合でなかったとすれば旅行者の目は、沙漠からオアシスへ、雪を頂く峰から緑の牧場へ、冬から夏へのこの唐突《とうとつ》な移行に驚かされたはずである。
その上また地面は全然動かなくなっていた。地震はしずまっており、おそらく地中の力はもっと遠くでその破壊力を発揮していたのであろう。なぜならアンデス山脈はいつもどこかで動揺もしくは震動しているからである。しかし今回の激動は極度に猛烈なものだった。山々の輪郭は完全に変ってしまっていた。山頂、尾根、尖峰の新しいパノラマが空の青い背景の前に浮き出しており、パンパスのガイドが見馴れた目印をいくら捜しても見つからなかったろう。
すばらしい一日が始まろうとしていた。太平洋の海の寝床から出て来た太陽の光線はアルゼンチンの平原の上を走り、すでに大西洋の波にまでさしこんでいた。午前八時だった。
ロード・グレナヴァンとその仲間たちは少佐の手当で息を吹きかえし、だんだんと意識をとりもどした。結局、彼らはものすごい目まいに襲われたのであって、それ以上のことはなかったのだ。コルディリェーラからの下山は終った。そして彼らは、仲間のなかでも一番非力なもの、子供であるロバート・グラントが点呼に欠けていなかったとすれば、自然が何から何までお膳立てをととのえてくれたこういう移動の仕方に手を拍《う》って喜びさえすればよかっただろう。
誰もがこの勇敢な少年を愛していた。特別彼が好きだったパガネルも、その冷淡さにかかわらず少佐も、そしてとりわけグレナヴァンは。そのグレナヴァンはロバートの姿が見えないことを知らされたとき絶望にくれた。哀れな少年がどこかの深淵に呑みこまれ、彼が第二の父と呼んでいる人の名を呼んでいるところをグレナヴァンは思い描いた。
「諸君、諸君」と彼は涙を堰《せ》きあえずに言った。「捜さなくちゃならん、見つけなくちゃならん! このままであの子を見捨てることはできない! どんな谷、どんな崖、どんな深淵をも、底の底まで捜しまわらなくちゃならない! 私を綱でしばってくれ! そしてそこへおろしてくれ! そうしてくれと言うんだぞ、わかったか? そうしてくれと言うんだぞ! ああ神さま、ロバートがまだ息をしていてくれればいいんだが! あの子がいなければどの面《つら》を下げてわれわれは父親に会うことができよう。その救出のために子供の命を犠牲にしたとあれば、どんな権利でグラント船長を救うことができよう!」
グレナヴァンの仲間たちは彼の言葉を聞きながらそれに答えなかった。彼らはグレナヴァンが自分たちの目のなかに一筋の希望の光を見出そうとしているのを感じて目を伏せた。
「どうした、私の言ったことが聞こえたんだろうな?」とグレナヴァンは言った。「君らは黙っている。君らはもう望みを失ったのだ、全然!」
しばらく沈黙があった。それからマクナブズが口を切った。
「諸君、君たちのうち誰かロバートがいつ姿を消したかおぼえているものはないか?」
この問いには何の答もなかった。
「せめて」と少佐はつづけた。「コルディリェーラから降りるときあの子が誰のそばにいたか言ってもらえないか?」
「私のそばです」とウィルスンが答えた。
「それではいつまで君のそばにいるのが見えたか? よく思い出してみてくれ。さあ言ってくれ」
「私が思い出せるのはこれだけです。われわれの落下が終るショックの二分足らず前まで、ロバート・グラントは地衣類の束を片手で握りしめながら私のそばにいました」
「二分足らず! よく考えてみろよ、ウィルスン、その何分かという時間も君には長く思われたはずだ! 君の間違いではないかね?」
「間違っているとは思いません……たしかにそうです……二分足らずです!」
「よし!」とマクナブズは言った。「ではロバートは君の左にいたか右にいたか?」
「左です。あの子のポンチョが私の顔をたたいたのを思い出します」
「それで君自身は、われわれに対してどの位置に……」
「やはり左です」
「それではロバートはあちらの方角に消えたとしか考えられない」と、山のほうを向いて右を指しながら少佐は言った。「さらに言えば、彼が見えなくなってからの時間を考えると、子供は麓から高度二〇〇〇メートルのあいだの部分に落ちたに相違ない。そこの各地域を手分けして捜さなければならない」
これに対しては一言もつけくわえるものはなかった。六人の男はコルディリェーラの斜面を攀じ登ってその上部のいろいろな高度に分かれ、探索をはじめた。彼らは絶えず落下したときの線を右に見て、どんな裂け目もさぐり、山塊のデブリである点まで埋まった崖の底へ降り、そして何人かはそのように命を賭けたあげく服をぼろぼろにし手足を血だらけにして上がって来た。アンデスのこの一帯は近づくことのできないいくつかの台地を除いて長時間にわたって隈《くま》なく探索された。この健気《けなげ》な人々は一人として休もうなどと思わなかった。この探索もむなしかった。子供は山中で死に遭遇しただけではなく、墓場をも見出したのだ。巨大な岩が墓石となって彼の上を永遠に閉ざしたのだ。
一時ごろグレナヴァンとその仲間はくたくたになって生きた心地もなく谷の底で顔をそろえた。グレナヴァンは激しい苦痛にさいなまれていた。ほとんど口を利かず、嘆息を混じえながら彼の唇から出て来るのは次のような言葉だけだった。
「私はここから離れない! 私はここから離れない!」
この執念が一つの固定観念になるのを皆は理解し、それを尊敬した。
「待つことにしよう」とパガネルは少佐とトム・オースティンに言った。「すこし休息して体力をとりもどそう。捜索を再開するためにしろ旅をつづけるためにしろ、われわれには体力が必要だ」
「そうだ」とマクナブズは言った。「動くまい、エドワードがとどまりたいというんだから! 彼はまだ望みを持っている。が、どんな望みなんだろう?」
「そいつは誰にもわかりませんよ」とトム・オースティンは言った。
「かわいそうなロバート!」とパガネルは目を拭《ぬぐ》いながら言った。
谷には木がたくさん生えていた。少佐は高い蝗豆《いなごまめ》の木の群れを選んでそこに仮のキャンプを張った。いくつかの寝具、銃、すこしばかりの乾肉と米、これが旅行者たちに残されたものだった。遠くないところに川《リオ》が流れており、まだなだれのために濁っている水が得られた。マルレディは草を燃やし、やがて彼は疲れを癒《いや》す温い飲み物を主人に差し出した。しかしグレナヴァンはそれをことわり、すっかり虚脱したようにポンチョの上に横たわっていた。
一日はそのようにして過ぎた。夜が来た、前夜のようにひっそりと穏やかに。仲間たちがうとうとしているわけでもないのにじっとしているあいだに、グレナヴァンはコルディリェーラの山腹を登って行った。最後の呼び声が聞こえて来はしないかとなおも期待して彼は耳をすました。一人で彼はなお高く登って行った、地面に耳をつけ、耳をすまし、自分の心臓の鼓動を抑えつけ、絶望的な声で呼びながら。
一晩じゅう哀れなロードは山のなかを彷徨した。あるときは少佐が、あるときはパガネルが彼について行った、何の役にも立たぬ無謀さで彼が迷いこむすべりやすい尾根や崖の縁で彼に手をかしてやるつもりで。しかし彼の最後の努力もむなしかった。そして数知れぬほどくりかえされる「ロバート! ロバート!」という叫びに答えるのは、この哀惜する名をそのままくりかえす谺《こだま》だけだったのだ。
日は昇った。遠くの台地へグレナヴァンを捜しに行き、彼がいやだと言ってもキャンプに連れもどさねばならなかった。彼の絶望はすさまじいほどだった。出発しようとか、この不吉な谷を去ろうなどとは、誰が彼にむかって言い出せたろう? けれども食糧が不足していた。そう遠くないところであの騾馬《ラバ》挽きの言っていたアルゼンチンの案内人やパンパス横断に必要な馬が見つかるはずだった。ここから引き返すことは前進することよりも困難だった。それにまた、〈ダンカン〉と落ち合うことになっているのは大西洋でだった。こうしたすべての重大な理由からしてこれ以上ぐずぐずすることは不可能であり、すべてのものの利益のためにも出発の時刻を遅らすことはできなかった。
マクナブズがグレナヴァンをその悲しみから呼びもどそうとした。長いあいだ彼はいろいろと言ったが、相手はそれを聞いていないように見えた。グレナヴァンは頭を振った。それでも時々いくつかの言葉が彼の口から洩れた。
「出発する?」と彼は言った。
「そうだ! 出発だ」
「もう一時間!」
「うん、それではもう一時間」と尊敬すべき少佐は答えた。
そしてその一時間が過ぎると、グレナヴァンはさらにもう一時間待ってくれと哀願した。まるで死刑囚がもうすこし生かしてくれと哀願しているようだった。ほとんど正午までこの調子でつづいた。ここにいたっては一同の意を体したマクナブズはもはや躊躇しなかった。そして、出発しなければならない、仲間たちの生命は迅速な決意にかかっているとグレナヴァンに言ったのである。
「うん、うん!」とグレナヴァンは言った。「出発しよう! 出発しよう!」
しかしそう言いながらも彼の目はマクナブズを見なかった。彼の視線は空中の黒い一点にじっと注がれていた。突然彼は手を挙げ、その手はまるで石になったように動かなくなった。
「ほら、ほら!」と彼は言った。「見ろ! 見ろ!」
皆の視線は空に、有無を言わさぬ勢いで言われたその方向にむかった。ちょうどこのとき黒点は目に見えて大きくなった。それは途方もない高さを舞っている一羽の鳥だった。
「コンドルだ」とパガネルは言った。
「そうだ、コンドルだ」とグレナヴァンは言った。「ひょっとすると! こっちへ来る! 降りて来る! 待とう」
何をグレナヴァンは期待していたのか? 気が狂ったのか?「ひょっとすると!」と彼は言ったのである。パガネルは間違っていなかった。コンドルの姿は刻々とはっきりして来た。かつてインカ人たちの崇《あが》めていたこの堂々たる鳥は南アンデスの王者なのである。その力は驚くべきもので、牡牛を谷の底へ落すこともしばしばなのだ。平原をさまよう羊や馬や仔牛を襲い、爪でつかんで高空へ引きさらう。地上六〇〇〇メートル、つまり人間の達し得るぎりぎりの高度を舞っていることもめずらしくないのだ。どれほど目の鋭い人間にも見えないこの高さからこの空の王者は地上に射通すような視線を走らせて、博物学者にとって驚異となるような視力でどんな微小な対象でも見分ける。
それではこのコンドルは何を見たのだろうか? 屍体を、ロバート・グラントの屍体を! コンドルを見守ったまま「ひょっとすると!」とグレナヴァンはくりかえした。巨大な鳥は近づいて来た、あるときは滑空しながら、あるときは空中に投げ出された物体のような速度で落下しながら。やがて彼は地上二〇〇メートル足らずのところで大きく円を描き出した。その姿はもうはっきりと見えた。翼のはしからはしまでは四・五メートル以上もある。その強力な翼でほとんどはばたくことなしに空気中に身を支えている。昆虫が空中にとどまるには一秒に数千回も羽を動かさねばならないのにひきかえて、堂々として静かに飛ぶのが大型の鳥の特性なのだから。
少佐とウィルスンはそれぞれ自分のカービン銃をつかんだ。グレナヴァンは身振りで彼らを引き止めた。コンドルのうねうねとした飛翔の範囲のなかに、およそ四〇〇メートルほど離れたコルディリェーラの山腹上の人の近づけぬ台地のようなものがあった。恐ろしい爪を開いたり閉ざしたり、軟骨状のその|とさか《ヽヽヽ》を揺ぶりながら、目のくらむような速さでコンドルはまわっていた。
「あそこだ! あそこだ!」とグレナヴァンが叫んだ。
それから突然ある想念が彼の脳裡を走った。
「もしロバートがまだ生きていたら!」とすさまじい怒号とともに彼は叫んだ。「あの鳥の奴……。射て、みんな、射て!」
しかしもう手遅れだった。コンドルは高く突き出した岩のかげにかくれた。一秒が過ぎた、時計の秒針が一〇〇年かかってようやく動いたと思われるほどの一秒が! それから巨鳥は重い荷物を持って前より鈍重に舞い上って来た。恐怖の叫びが聞こえた。コンドルの爪にぐったりとした体がひっかかって揺れているのが見えた、ロバート・グラントの体が。鳥は彼の服をつかんで攫《さら》い、キャンプの四十五メートル足らずの上空を舞っていた。彼は旅行者たちに気づき、その重い獲物ごと逃れようとして激しく翼で空気を叩いた。
「ああっ!」とグレナヴァンは叫んだ。「ロバートの屍体があの岩に落ちて砕けるほうがまだしもだ、鳥の食い……」
彼が最後まで言わず、ウィルスンのカービン銃を奪ってコンドルに狙いをつけようとした。しかし彼の腕はふるえていた。銃を安定させることができなかった。彼の目は曇った。
「私にやらせろ」と少佐は言った。
そして平静な目としっかりした手で身動きもせずに彼はすでに九〇メートルも離れている鳥を狙った。
しかし彼がまだカービン銃の引き金を押さぬうちに一発の銃声が谷底で響いた。白い煙が玄武岩の二つの塊のあいだに昇り、頭を撃たれたコンドルはその大きな翼に支えられてぐるぐるまわりながら徐々に落ちて来た。ひろげたその翼がパラシュートになったのだ。コンドルは獲物を放してはいなかった。そしてある程度ゆっくりとコンドルは渓流の崖から三メートルばかり離れた地面に落ちたのである。
「来てくれ! 来てくれ!」とグレナヴァンは言った。
そしてあの天佑《てんゆう》の一発がどこから放たれたかを見ようともせずに彼はコンドルのほうへ飛び出した。仲間たちは彼の後を追って走った。
行って見ると鳥は死んでいた。そしてロバートの体はその大きな翼の下にかくれていた。グレナヴァンは少年の屍体の上に身を投げると、鳥の爪からはずし、草の上に横たえ、ぐったりとした体の胸に耳を押し当てた。
「生きている! まだ生きている!」とくりかえしながらグレナヴァンが立ち上がったとき以上の、すさまじい歓呼の声がかつて人間の唇から洩れたことはなかったろう。
一瞬のうちにロバートは服を脱がされ、顔は冷い水に浸された。彼はちょっと動き、目を開き、視線を定め、そして何かの言葉を口にした。それはこう言ったのだ。
「ああ、ミロード……お父さん!」
グレナヴァンは答えられなかった。感動に息がつまり、ひざまずいて彼はかくも奇蹟的に救われたこの少年のかたわらで泣いた。
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十五 ジャック・パガネルのスペイン語
途方もない危険を逃れたばかりでロバートは、それに劣らず大きな危険、つまり愛撫に押し潰《つぶ》されてしまうという危険に出逢ったのである。彼はまだひどく弱っていたのに、この正直な連中は一人として彼を胸に抱きしめたいという熱望に抗することはできなかった。こうした善意の抱擁は患者にとって致命的なものではないと信じねばなるまい。なぜなら少年はそれのために死にはしなかったからだ。いや、それどころか。
しかし救われたものの後で、人々は今度は救った人のことを考えた。そしてあたりを見まわす気になったのはもちろん少佐だった。川《リオ》から五〇歩ほどの、山がはじまろうとするところに、非常に背の高い一人の男が身動きもせずに立っていた。長い銃が彼の足もとに置かれていた。不意にあらわれたこの男は肩幅が広く、長い髪を革紐で結んでいた。その身長は一八〇センチメートルを越えていた。日に焼けたその顔は目と口のあいだが赤く、下|瞼《まぶた》が黒く、額が白く染めてあった。辺境のパタゴン風の服装のこの原地民は、グワナコの首の内側と脚をダチョウの腱《けん》で縫い、絹のような毛を外へむけたアラベスク模様のすばらしいマントを着ていた。そのマントの下には胴にぴったりついた、前の端のほうが三角形になっているキツネの皮の服を着ている。帯には顔に塗るのに使う絵具を容れた小さな袋がぶらさがっていた。靴は牡牛の皮の一片ででき、規則正しく交叉した革紐で足首にゆわえつけてあった。
このパタゴンの顔は堂々としていて、いろいろな色で塗りたてているにもかかわらず真の聰明《そうめい》さを示していた。威厳に満ちた姿勢で彼は待っていた。岩の上に身動きもせず厳粛に立っているのを見ると、まるで冷静さというものが像になったように見えた。
少佐はその男を見るとすぐにグレナヴァンに知らせ、グレナヴァンは彼に駈け寄った。パタゴンは二歩ほど前に進み出た。グレナヴァンは彼の手を取って両手で握りしめた。この貴族《ロード》の視線、笑みこぼれるばかりのその顔、その全体の表情にははっきりとした感謝の念、感謝の色があったので、相手もこれを見誤るはずはなかった。彼はゆっくりと頭を下げ、何か言ったが、少佐もその友もこれを理解することはできなかった。
するとパタゴンは外国人たちを注意深く見まわした後で言葉を変えた。しかし彼がどうしようとこの新しい言語も前の以上に理解されなかった。それでも相手の使ったいくつかの言いまわしはグレナヴァンの注意をひいた。それは彼がいくつかの慣用句を知っているスペイン語に属するもののように思えたのだ。
「エスパニョール?」と彼は言った。
パタゴンは頭を縦に振った。どの民族でも同じく肯定の意味を持つ往復運動である。
「よし」と少佐は言った。「これはわれらの友パガネルの仕事だ。彼がスペイン語を勉強しようと思いついたのはよかった!」
パガネルは呼ばれて、すぐさま駈けて来、パタゴンにむかってまことにフランス風の優雅さで会釈したが、おそらくされたほうは全然わけがわからなかったろう。博識な地理学者は事の次第を聞かされた。
「よろしい」と彼は言った。
そしてはっきり発音するために口を大きく開いて彼は言った。
Vos sois um homen de bem !(君はいい人だ)
相手は耳をそばだてたが、全然答えなかった。
「わからないんだ」と地理学者は言った。
「アクセントがよくないからじゃありませんかな?」と少佐は答えた。
「そのとおりだ。忌々《いまいま》しいアクセントだ!」
そしてもう一度パガネルは讃辞を述べた。しかしその結果は同じだった。
「別の文句にしよう」と彼は言い、壮重なゆっくりとした言い方で次のように言って聞かせた。
Sem duvida, um Patagao ?(たぶんあなたはパタゴンでしょう)
相手は前と同じく黙っていた。
Dizeime !(答えてください)とパガネルはつけくわえた。
パタゴンは一向に答えなかった。
Vos compriendeis ?(わかりますか)とパガネルはもうすこしで声帯が破れるほど猛烈に叫んだ。
このインディアンが理解していないことは明白であった。なぜなら彼はこう答えたからである、ただしスペイン語で。
No comprendo(わかりません)
今度はパガネルがびっくりする番だった。そして彼はいらいらしたように額に上げていた眼鏡をさっと目の上におろした。
「このものすごい方言をもう一言でも聞かされるくらいなら殺されたほうがいい! こいつはたしかにアラウカユア語だ!」
「そんなことはない」とグレナヴァンが答えた。「この男はたしかにスペイン語で答えたのだ」
そしてパタゴンのほうを向いて、
Espanol ? と彼はくりかえした。
Si, si!(そうです、そうです)と相手は答えた。
パガネルの驚きは茫然自失に変った。少佐とグレナヴァンは横目で目を見交わした。
「ははあ、博識家君」と少佐は言った。唇は笑いかけていた。「あなたの専売らしいあの粗忽《そこつ》をまたやらかしたのではありませんかな?」
「何だって!」と地理学者は耳をそばだてて言った。
「そうだとも! このパタゴンがスペイン語をしゃべっているのはあきらかだ……」
「あちらが……」
「あちらがさ! もしかするとあなたは別の言葉を勉強したんじゃないかな、自分ではスペイン……」
マクナブズは最後まで言わなかった。学者が肩をそびやかすと同時に猛烈な勢いで「おお!」と言ったので、彼は口をつぐんでしまったのだ。
「少佐、それは少々言い過ぎですぞ!」とパガネルはかなりつんけんした言い方で言った。
「とにかく、あなたはわからないんだから!」とマクナブズは答えた。
「私がわからんのは、こいつのしゃべり方が悪いからさ!」と、むかむかしはじめた地理学者はやりかえした。
「つまり、あなたにわからないから彼のしゃべり方が悪いのだ」と少佐は平然として応酬した。
「マクナブズ」と、このときグレナヴァンが言った。「それは許しがたい臆断だよ。われらのパガネルがいかに粗忽だったにせよ、ほかの言葉だと思ってある言葉を勉強するほどまで粗忽だったと臆断することはできない」
「それじゃあエドワード、いやそれより、パガネル君、君がこの事態を説明してくれないか」
「私は説明しない」とパガネルは答えた。「私は証明するんだ。私が毎日スペイン語のむずかしいところを学習している本がここにある! 少佐、調べてみたまえ。そうすれば私があんたを瞞《だま》しているかどうかわかるだろう!」
そう言うと彼は無数にあるポケットをひっかきまわしはじめた。何分かそうして捜してからひどく傷んだ一冊の本を引っぱり出し、自信ありげにそれを差し出した。少佐はそれを受け取り、眺めた。
「それでは、この本は何というものですか?」と彼はきいた。
「『ルジーアダス』ですよ」とパガネルは答えた。「すばらしい叙事詩で……」
「『ルジーアダス』だって!」とグレナヴァンは叫んだ。
「そうですとも、ほかならぬ大カモンイスの『ルジーアダス』です!」
「カモンイス」とグレナヴァンはくりかえした。「しかし、運の悪い人だな、カモンイスはポルトガル人ですよ! あなたがこの六週間勉強しているのはポルトガル語なんだ!」
「カモンイス!『ルジーアダス』! ポルトガル語!…〔ルイース・デ・カモンイスは一六世紀のポルトガルの大詩人。東洋、アフリカを遍歴した後、ポルトガル人の歴史を歌った大敍事詩『ウス・ルジーアダス』を作って、ポルトガルの国民詩人として讃えられている〕」
パガネルはこれ以上物を言うことができなかった。眼鏡の下で彼の目は曇り、一方ホメーロス的な哄笑《こうしょう》が彼の耳もとで爆発した。仲間たちは皆そこにいて彼を取り巻いていたからである。
パタゴンは眉一本動かさなかった。彼にはまったくわけのわからない事件の説明を彼は辛抱づよく待っていた。
「ああ、おっちょこちょい! 気ちがい!」とやっとパガネルは言った。「何だって! ほんとにそうなのか? ふざけようとして作り話をしたんじゃないのか? この私がそんなことをしたのか? だがこうなったらバベルの塔みたいな言語の混乱だ! ああ、ああ、諸君! インドにむかって出発してチリに着く! スペイン語を学んでポルトガル語を話す! こいつはひどすぎる。こんなことがつづいたら、そのうちに喫《す》っていた葉巻を投げ捨てるかわりに自分が窓から身を投げてしまうことになっちまうぞ!」
パガネルが自分の不運のことをこのように取るのを聞き、彼のこの滑稽なしくじりを見ると、まじめな顔をしていることは不可能だった。それにまた彼自身が手本を示した。
「笑いたまえ、諸君!」と彼は言ったのだ。「笑いたまえ、心から! 私自身が笑うほどあなたがたは私のことを笑えまいて!」
そうして彼はおよそ学者というものの口からなどはかつて出て来たことのないようなものすごい哄笑を響かせたのである。
「それにしてもやはりわれわれには通訳がいないということになる」と少佐が言った。
「おお、心配しなくても結構」とパガネルは答えた。「ポルトガル語とスペイン語は、私が間違えたほどよく似ているんだ。しかしまたこのように似ているから、誤りの償いを急いでつけるにも都合がいいでしょう。いずれ近いうちに私はこの尊敬すべきパタゴンに、彼があんなに流暢《りゅうちょう》にしゃべっている言葉で感謝を述べるつもりだ」
パガネルの言ったとおりだった。間もなく彼は相手と片言を交えることができたのだ。それどころか彼はこのパタゴンがタルカーヴという名だということを知った。これはアラウコ語で「雷のような人」という意味の語だった。
この渾名《あだな》はきっと彼の銃を扱うことの巧みさから来たのだろう。
しかしグレナヴァンが特にうれしく思ったのは、このパタゴンが案内人を業としている、それもパンパスの案内人であると知らされたことだった。このめぐりあわせには何か非常に奇蹟的なところがあって、そのため事業の成功はすでに既成事実のように見えはじめたほどで、グラント船長の救出についてはもう何人も疑いをさしはさまなかった。そうこうするあいだに旅行者たちとパタゴンはロバートのそばにもどっていた。ロバートはタルカーヴにむかって両腕を伸ばし、タルカーヴは何も言わずにロバートの頭に手を置いた。彼は少年を調べ、その痛む手足にさわってみた。それから微笑をうかべて彼は川の縁に行って野生のセロリを幾つかみか摘《つ》み、それで患者の体をこすった。非常に慎重にこうしてマッサージをされているうちに、子供は体力がよみがえるのをおぼえた。数時間休めば立ち直れることはあきらかだった。
そこでこの一昼夜はキャンプで過ごすことに決定された。ただし食糧と乗り物に関する二つの重大な問題がまだ解決されねばならなかった。食糧もなければ騾馬もなかったのだ。さいわいタルカーヴがいた。パタゴニアの境界に沿って旅行者を案内することを習慣としていたこの案内人は、またこの地方の最も聰明な道案内《バケアーノ》の一人であって、この小さな一隊に欠けているものすべてをグレナヴァンのため調達することを引き受けた。彼はそこからせいぜい六・五キロメートルほどのインディアンの〈部落《トルデリーア》〉にグレナヴァンを連れて行こうと申し出た。そこならば探検に必要なすべてのものがあるだろうというのである。この提案は半分は身振りで、半分はスペイン語の単語でおこなわれたが、パガネルは何とかこの単語を理解することができたのだ。提案は受け容れられた。ただちにグレナヴァンとその博識な友はほかの仲間たちに別れを告げて、パタゴンに案内されて川《リオ》をさかのぼった。
彼らは一時間半にわたってすたすたと歩いた。しかも巨人のようなタルカーヴについて行くために大股に。アンデスのこの地方は快く、しかも土地は豊かに肥えていた。草の豊かな牧場が次から次へとつづき、十万頭の牛をも難なく養えただろう。複雑な網目をなした川で繋がれている大きな沼がこの平原に青々とした湿潤さを与えていた。頭の黒い白鳥が気のむくままにそこではしゃぎまわっており、草原《リヤノ》を疾駆する多数のダチョウたちと水上の支配権を争っていた。鳥類はすこぶる派手だったが、またすこぶるやかましかった。しかも驚くほど種類が多かった。〈イサカ〉と呼ばれる羽に白い筋のある優美な灰色がかったキジバトや黄色いレンジャクが木の枝にほんものの花のように咲いていた。渡り鳩が空を横切り、雀や〈|アメリカ雀《チンゴロ》〉や〈イルゲロ〉や〈小坊主鳥《モンヒータ》〉といったすべての鳥類が、羽ばたきしてたがいに追っかけ合いながらぺちゃくちゃとした囀《さえず》りで空気を満たした。
ジャック・パガネルは感嘆に次ぐ感嘆といったところで、ひっきりなしに間投詞が彼の口から飛び出して来たが、空中に鳥がおり沼に白鳥がおり牧場に草があるのをごく当然のことと思っているパタゴンにとってはこれは驚きだった。学者はこの散歩を悔《くや》む必要も、道の長さを嘆く必要もなかった。出発したばかりと思っているうちにインディアンの小屋掛りが見えて来た。
このトルデリーアはアンデスの支脈に扼《やく》された谷の奥にあった。そこには木の枝の小屋の下に、乳牛や羊や牡牛や馬などの大畜群を飼う遊牧のインディアンたちが三〇人ほど住んでいた。彼らはこのように牧草地から牧草地へと移り、四本脚のお客さんたちのために支度のととのっている食卓を見つけていたのだ。
アラウコ人、ペウエンチェ人、アウカ人の雑種であるこのアンデス・ペルー人は、オリーヴ色がかった顔色で中背の、ずんぐりした体つき、狭い額、ほとんどまんまるな顔、薄い唇、突き出した頬骨を持ち、目鼻立ちは女性的で冷やかな顔つきの人種で、人類学者の目には純血人種の性格は全然なかった。要するにあまり興味をひかない原地民だったのだ。しかしグレナヴァンは彼ら自身ではなく彼らの家畜に用事があったのである。彼らが牛や馬を持っている以上、彼にはほかに要求するものはなかった。
タルカーヴが交渉を引き受けたが、その交渉は長くはなかった。馬具をすべてつけたアルゼンチン種の小型の馬七頭、四十五キログラムばかりのチャルキすなわち乾肉、幾枡かの米と革袋に入れた水の代価として、彼らの好む葡萄酒やラム酒はないから、二〇オンスの金でインディアンは承諾した。金の価値を彼らはよく知っていたのだ。グレナヴァンはパタゴンのためにもう一頭馬を買おうと思ったが、パタゴンはその必要はないという意味を伝えた。
取引が終るとグレナヴァンは、パガネルの言い方によればこの新しい〈御用商人〉に別れを告げて、三〇分足らずで野営地に帰った。彼の到着は歓呼で迎えられたが、彼はこの歓呼を自分にむけられたものでなく、当然歓呼されてしかるべきもの、つまり食糧と乗馬にむけられたものと取った。皆はさかんに食べた。ロバートも少々食物を摂《と》った。彼の体力はほとんど完全によみがえっていた。
その日の残りは完全な休息にあてられた。ここにいないなつかしい二人の女性のこと、〈ダンカン〉のこと、ジョン・マングルズ船長のこと、その正直な乗組員のこと、おそらくこの近くにいるものと思われるハリー・グラント船長のこと、いろいろのことが話題になった。
パガネルはどうかというと、彼はあのインディアンから離れなかった。まるでタルカーヴにつきまとう影みたいになっていた。それと並ぶと自分のほうが小人《こびと》に見えてしまうような本当のパタゴン、あのマクシミン皇帝や、学者ヴァン・デル・ブロックが見たコンゴの黒人――両者とも身長二メートル四〇もあった!――にほとんど匹敵するほどのパタゴンを見て有頂天になっていた。それから彼はこの荘重なインディアンにスペイン語の文句をやつぎばやに浴せかけ、そしてインディアンはおとなしくそうさせていた。地理学者は勉強した、今度は本なしで。喉と舌と顎をさかんに動かして響きのいい単語を彼が発音しているのを人々は聞いた。
「私がアクセントを物にしなくても文句を言っては困る」と彼は少佐にくりかえした。「それにしても、将来おまえはパタゴンからスペイン語を教わるなんて嘗《かつ》て誰が私に言ったろうか!」
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十六 リオ・コロラド
翌十月二十二日の八時にタルカーヴは出発の合図をした。南緯二十二度から四十二度のあいだのアルゼンチンの土地は西から東へ傾斜している。旅行者たちはもう海までゆるい傾斜を下りさえすればよかったのだ。
グレナヴァンは自分が与えようとした馬をパタゴンがことわったとき、ある案内人たちの習慣に従って足で歩くほうがいいと思っているのだと考えた。たしかに脚が長いから歩くには都合がいいはずだった。しかしグレナヴァンは間違っていた。
いざ出発という時にタルカーヴは独特な口笛を吹いた。たちまち堂々とした体格のアルゼンチン種のすばらしい馬がちょっと離れた小さな森のなかから出て来て主人のお召しに応じた。この動物はまったく美しかった。褐色の毛色は誇り高く勇敢で活気ある長距離馬であることを示していた。頭は軽そうにすらりと首につき、鼻孔は大きく開き、目は爛々《らんらん》とし、膝は大きく、頸《くび》の骨は程よく突き出し、胸は高く、脛《はぎ》の下は長かった。つまり力としなやかさのもととなるありとあらゆる美点をそなえているのである。少佐はこうしたことには通暁《つうぎょう》した玄人としてパンパス種のこの見本に文句なしに感嘆した。彼はこの種がイギリスのハンター種とある程度似ていると思った。この馬の名は〈タウカ〉、つまりパタゴン語で〈鳥〉といったが、まさにその名にそむかなかった。
タルカーヴが鞍にまたがると、馬は彼を乗せて身を躍らせた。熟練した乗り手であるこのパタゴンの姿は堂々としていた。彼の馬具には〈ボラス〉と〈ラソ〉というアルゼンチン平原で用いられる二つの猟具が含まれていた。〈ボラス〉は馬具のはしに結びつけた革紐でくくった三つの球から成る。インディアンはしばしば一〇〇歩も離れたところから自分の追っている動物もしくは敵にむかってこれを投げる。狙いは確実で、〈ボラス〉は相手の脚にまきついてたちまち倒してしまうのである、それゆえインディアンの手にあってはこれは恐るべき武器であり、インディアンは驚くべき巧みさでこれをあやつる。それに反して〈ラソ〉はそれを投げる人の手から離れない。これは単に九メートルほどの長さの縄で、二本の革紐をしっかりと編んで作り、先端は鉄の環のついた|わさ《ヽヽ》になっている。右手でこの|わさ《ヽヽ》を投げ左手のほうは縄の残りを握っている。縄の他端は鞍にしっかりと結びつけてあるのだ。これに吊り革で背負った長いカービン銃が加わってパタゴンの攻撃用の武器をなしていた。
タルカーヴは自分の自然のままの優雅さ、自在さ、悠々とした磊落《らいらく》さに人々が感嘆しているのを気にもとめずに列の先頭に立ち、一行はあるときはギャロップで、あるときは並み足で進んだ。馬たちはその中間の歩調を知らないように見えた。ロバートは非常に大胆に乗って見せ、それを見てグレナヴァンは間もなく彼が馬から落ちる心配はないものと確信することができた。
コルディリェーラの麓からすぐパンパスの平原ははじまっていた。この平原は三つの部分に分けることができた。第一の部分はアンデス山脈から四〇〇キロメートルにわたってひろがり、喬木と藪に蔽われている。幅七二〇キロメートルもある第二の部分はみごとな草に蔽われ、ブエノスアイレスから二八八キロメートルのところで終っている。この地点から海までのあいだは旅人はうまごやしと薊《あざみ》の広大な草地を踏んで行く。これがパンパスの第三の部分だ。
コルディリェーラの山峡から出ると、グレナヴァンの一隊はまず〈メダーノ〉と呼ばれるおびただしい砂丘にぶつかった。植物の根によって地面に繋ぎ止められていないときには、この砂丘は波とまったく同じに風で絶えず動いて行くのである。この砂は非常にこまかかった。それゆえほんのわずかの風のそよぎで軽い埃《ほこり》になって舞い上がり、あるいは非常な高さにまで達する本格的な竜巻を形づくるのだ。この見物《みもの》は目にとって楽しみでもあれば不快でもあった。楽しみだというのは、名状しがたい混乱を呈して闘い、混じり合い、倒れ、また起き上がりながら平原をさまようこれらの竜巻ほどめずらしいものはないからである。不快というのは、微細な埃がこれら無数のメダーノから飛び散って、どんなに固く目をつぶっていても瞼のあいだにはいって来るからだ。
この自然現象は北風の作用で一日の大部分つづいた。それでも一行の歩みは速く、六時頃にはもう六十四キロメートルも遠ざかったコルディリェーラは夕靄のなかにすでに包みこまれて黒ずんで見えていた。
旅行者たちは六〇キロメートルほどと思われるその日の行程に少々疲れていた。それゆえ彼らは日没の時刻が来るのを喜んだ。赤い色の高い断崖にはさまれて濁った水のたぎる川であるネウケムの急流のほとりに彼らは野営した。ネウケムは何人かの地理学者からラミーあるいはコモエと名づけられており、インディアンだけしか知らないいくつかの湖のあるところを水源としているのである。
その夜と翌日一日は報告に価するような事件は全然なかった。一行はせっせと足ばやに進んだ。なだらかな地面とどうにか凌《しの》げる気温のため前進は楽だった。けれども正午ごろ太陽はいやに暑い光をふんだんに注いだ。夕方になると横雲が南西の地平線の上に縞模様を引いた。これは天候の変化する確実な徴候だった。パタゴンはこれを見誤るはずはなかった。そして彼は空の西のほうを地理学者に指でさして見せた。
「よし、わかった」とパガネルは言い、仲間たちにむかって、「天候の変化がはじまろうとしている。もうじき寒風《パンペーロ》に見舞われるでしょう」
そうして彼はこのパンペーロがアルゼンチンの平野をよく襲うのだと説明した。これはひどく乾いた南西風なのである。タルカーヴは誤っていなかった。ポンチョだけで身を守っている人々にはかなりつらいものだったこの夜のあいだ、パンペーロは激しく吹き荒れた。馬たちは地面に寝、男たちは密集して馬のそばに身を横たえた。この暴風が長引いたら出発が遅れはしないかとグレナヴァンは心配した。パガネルは気圧計を見てから彼を安心させた。
「普通パンペーロは三日間にわたる嵐となるものですが、この嵐は水銀の下降で確実に示される。しかし反対に気圧計が上がっているときには――今がそうなんですが――数時間の猛烈な疾風だけですみます。だから安心してください、夜が明ける頃には空はいつものように晴れていますよ」
「あなたの言い方はまるで本のようだね、パガネル」とグレナヴァンは答えた。
「実際私は本なんだから」とパガネルは言いかえした。「あなたは好きなだけ私を読めばいいんだ」
本は誤らなかった。午前一時に風は急に落ち、各人は疲労を癒す休息を睡眠のうちに見出した。翌日一同は溌刺として目を覚ました。とりわけパガネルは元気で、関節をぽきぽきと愉快そうに鳴らして若い犬のように伸びをした。
この日は十月二十四日、タルカウアノを出発してから十日目だった。リオ・コロラドが三十七度線を横切っている地点まではまだ一五〇キロメートル、すなわち三日の行程だった。このアメリカ大陸横断のあいだロード・グレナヴァンは細心の注意をもってインディアンが近づいて来ないかと目をくばっていた。彼らにグラント船長のことをパタゴンの仲介できいてみようと思っていたのだ。それにまたパガネルは充分このパタゴンと話せるようになり出したのだ。しかし一行はインディアンのあまり通らない道筋を辿っていた。アルゼンチン共和国からコルディリェーラへの道はもっと北のほうにあるからである。それゆえ放浪のインディアンにも酋長《カシケ》の支配下に生きている定住的な部族にも出逢わなかった。たまたま馬に乗った遊牧民か何かが遠くにあらわれても、この見知らぬ人々と交渉を持とうという気はあまりなく、急いで逃げ去った。このような集団は、誰であれ一人でこの平野に入りこんで来たものの目には胡散《うさん》臭く見えるに相違なかった。強盗ならば充分武装して立派な馬に乗った八人の男を見れば警戒心を起こすし、同じくこの人気ない草原を行く旅行者ならば彼らを良からぬ意図を持った人間どもと見るかもしれなかった。それゆえ善良な人々とも追|剥《は》ぎとも全然話をすることはできなかったのである。〈ラストレアドーレス〉(平原の追剥ぎ)の一味と顔をつきあわせないのは残念なことだった。たといまず射ち合いで話し合いをはじめねばならないにしても、だ。しかしグレナヴァンはインディアンのいないことを残念に思わねばならなかったにしても、ある事件が起こって例の文書の解釈の正しさを奇妙な仕方で証明することになった。
一行の辿《たど》る道は何度もパンパスを走る小道と交叉したが、そのうちにはかなり重要な道路――カルメンからメンドーサへの――があった。これは騾馬や馬や羊や牛などの家畜の骨でそれとわかった。猛禽《もうきん》の嘴《くちばし》で砕かれ大気の漂白作用で白くなった骨片がその道路の所々に残っているのだ。骨片は数知れぬほどあった。そしておそらく一人ならずの人間の骸骨が砕けて最も卑しい動物の骨片と混じっていたことだろう。
それまでタルカーヴは、一行がまっすぐに辿って来たこの道のことについて何一つ言わないでいた。けれども彼は、パンパスのどの道とも連絡していない以上、この道は町にも村にもアルゼンチンのどこかの州の公共機関へも通じていないことを知った。毎朝一行は朝日の方向にむかって直線コースから離れずに進んだ。そして毎夕落日はこの直線の反対側のはしにあった。それゆえ案内人としてタルカーヴは、自分が案内をしていないだけではなく、自分自身が案内されているのだということに驚いていたに相違ない。しかし驚いたにしてもインディアンに生来の慎しみがあったし、これまで無視されて来た単なる小道などのことは彼は何も言わなかった。しかしこの日は前記の連絡路まで来ると、彼は馬を止めてパガネルのほうをむいた。
「カルメン街道です」
「なるほど、そのとおりだ」と地理学者はきわめて純正なスペイン語で言った。「カルメンからメンドーサへの街道だ」
「この街道を行くんじゃないのですか?」とタルカーヴはまた言った。
「行かない」
「それではどちらへ?」
「あいかわらず東へ」
「しかしそれではどこにも行けません」
「わかるものかね」
タルカーヴは沈黙し、心底から驚いた表情で学者をみつめた。それでも彼はパガネルがすこしでも冗談を言っているとは思わなかった。いつでもまじめなインディアンは、人がまじめに話していないなどということは決して考えてもみないのである。
「それではカルメンへ行くのではないんですか?」と、一瞬の沈黙の後に彼はさらに言った。
「行かないよ」とパガネルは答えた。
「メンドーサにも?」
「行かないね」
このときグレナヴァンがパガネルに追いついて、タルカーヴが何と言っているのか、どうしてたちどまったのかときいた。
「われわれがカルメンもしくはメンドーサへ行くんじゃないかときいたんですよ」とパガネルは答えた。「私が両方とも否定したんでひどく驚いているんだ」
「実際われわれのコースはあの男にはまことに奇妙に思えるにちがいない」とグレナヴァンは言った。
「私もそう思う。それではどこにも行けないと彼は言いましたよ」
「それでは、パガネル、われわれの探検の目的と、われわれがどういう理由で絶えず東へ東へと進まねばならないかを彼に説明してやってくれませんか」
「そいつはとてもむずかしいでしょう」とパガネルは言った。「インディアンには緯度のことなど全然わからないし、文書の一件などは彼には夢物語でしょうから」
「しかし」と少佐がまじめに言った。「彼が理解できないのは話そのものなのか、それとも話をする人間なのか?」
「ああ、マクナブズ」とパガネルは言い返した。「まだ私のスペイン語を疑っているんだな!」
「それではやってみたまえ」
「やってみよう」
パガネルはパタゴンのほうをむき、時々単語につまったり、若干の特殊な言葉を翻訳することや相手にとって理解しがたい事実を半ば無知蒙昧な未開人に説明することの困難につかえたりしてしばしば絶句しながら一場の演説をこころみた。この学者の様子は珍妙だった。身振りをし、はっきりと発音し、いろいろな風に動きまわり、汗の滴《しずく》が額から胸へ滝のように落ちた。舌で間に合わなくなったときには腕が加勢に出た。パガネルは馬から降り、砂の上に地図をかき、緯度と経度を交わらせ、二つの大洋を描き、カルメン街道を書きこんだ。大学の教授ならばこれほど苦心することは決してなかったろう。タルカーヴは理解したかどうかを全然おもてにあらわさずに泰然《たいぜん》としてこの活躍を眺めていた。地理学者のレッスンは三〇分以上つづいた。それから彼は口をつぐみ、びしょびしょになった顔を拭き、パタゴンをみつめた。
「理解しただろうか?」とグレナヴァンはきいた。
「いずれわかる」とパガネルは答えた。「しかし理解していなかったら私はあきらめるよ」
タルカーヴは動かなかった。しゃべりもしなかった。彼の目は風でだんだん吹き消されて行く砂上に引かれた図形に注がれていた。
「どうだね?」とパガネルは彼にきいた。
タルカーヴはその言葉が耳に入らないようだった。パガネルは早くも少佐の唇に皮肉な微笑がうかびはじめるのを見、自分の体面にかかわることだとしてまた元気をあらたにして地理学的説明をはじめようとしたが、そのときパタゴンは身振りで彼をさえぎった。
「あなたがたは捕虜をさがしているのですね?」と彼は言った。
「そうだ」とパガネルは答えた。
「しかもちょうど入り日と朝日のあいだにはさまれるこの線の上で」と、東西のコースをインディアン風の比喩で確かめてタルカーヴはつけくわえた。
「そうそう、そのとおり」
「そして捕虜の秘密を広い海の波に委ねたのはあなたがたの神さまなんですね?」
「神さま御自身だ」
「それならその神意が成就しますように」とタルカーヴはある厳粛さをもって答えた。「東へ進みましょう、必要とあれば太陽までも!」
パガネルはこの教え子のおかげで勝ちほこって得々としながら、ただちにインディアンの答を仲間たちに翻訳して聞かせた。
「何という聰明な種族だろう!」と彼はつけくわえた。「わが国の百姓二〇人のうち一九人は私の説明を全然理解しなかったろう」
グレナヴァンはパガネルに、外国人がパンパスのインディアンの手中に落ちたという話を聞いたことがないかとパタゴンにたずねてみるように促した。
パガネルはその質問をし、答を待った。
「聞いたかもしれない」とパタゴンは言った。
この言葉がただちに翻訳されると、タルカーヴは七人の旅行者にとりかこまれた。問うような視線が彼に注がれた。
パガネルは昂奮してなかなか言葉が思いうかばなかったが、非常に興味あるこの質疑を続行した。荘重なインディアンを見据えた彼の目は、相手の答をまだ唇から出て来ないうちに読み取ろうとしていた。
パタゴンの言うスペイン語の一語々々を、仲間たちがいわば自分らの母国語で話されているのだと思うように、彼は英語になおしてくりかえした。
「そしてその捕虜は?」
「外国人でした」とタルカーヴは答えた。「ヨーロッパ人」
「会ったことはあるか?」
「いや、しかしインディアンの話のなかにその人のことは出て来る。勇敢な人だ! 牡牛のような勇気を持っている」
「牡牛のような勇気!」とパガネルは言った。「ああ、パタゴン語はすばらしい! 諸君、わかったろう! 勇敢な人だそうだ!」
「お父さんだ!」とロバート・グラントは叫んだ。
それからパガネルにむかって、
「|ぼくのお父さんです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》はスペイン語で何と言うんですか」と彼はきいた。
Es mio padre と地理学者は答えた。
早速ロバートはタルカーヴの両手を取り、やさしい声で言った。
Es mio padre !
Su padre !(彼のお父さん)とパタゴンは叫び、その目は明るくなった。
彼は少年を両腕でかかえ、乗っていた馬から抱き上げ、これ以上とはなく物珍しげな共感をこめてしげしげと眺めた。聰明な彼の顔はおだやかな感動をあらわしていた。
しかしパガネルはその質問を終えていなかった。その捕虜はどこにいるのか? 何をしているのか? タルカーヴが彼のことを聞いたのはいつか? これらすべての問がいちどきに彼の頭のなかにひしめいた。
答はすぐに得られた。そして彼は、そのヨーロッパ人はリオ・コロラドとリオ・ネグロにはさまれた地方を動きまわっているインディアンの部族の一つで奴隷になっていることを知った。
「しかし最後にはどこにいたのだね?」とパガネルはきいた。
「酋長《カシケ》カルフルカのところです」
「そこはわれわれがこれまで辿って来た線の上にあるのかい?」
「そうです」
「ではそのカシケはどんな奴だ?」
「ポユーチョ・インディアンの親玉、二枚舌で二心のある男です」
「つまり言葉も行動も偽る奴なんだね」と、パタゴン語のこのすてきな比喩を仲間たちに話してやってからパガネルは言った。「それではわれわれはこの友人を解放することができるだろうか?」と彼はつけくわえた。
「たぶんね、まだインディアンに捕えられていたら」
「ではいつあんたはその話を聞いた?」
「もうずっと前です。あれ以来太陽は二度パンパスの空に夏をもたらした」
グレナヴァンの喜びは筆舌につくせぬものだった。この答は文書の日づけとぴったりと符合するものだった。しかしもう一つタルカーヴに質問することが残っていた。パガネルはすぐその質問を持ち出した。
「一人の捕虜ということだったが、三人いなかったかな?」
「知りません」
「現在その人がどうなっているか全然知らないのだね?」
「全然」
この最後の言葉で会話は終った。三人の捕虜がもうずっと前に別れ別れになっていることはあり得ることだった。しかしパタゴンから与えられたこの情報からあきらかになったことは、インディアンたちは自分らの手中に落ちた一人のヨーロッパ人のことを話しているということだった。そのヨーロッパ人の捕えられた時期、今彼がいるはずの場所、その勇気を言いあらわすためにパタゴンが使った言葉にいたるまでのすべてが、あきらかにハリー・グラント船長のことを言っているものとしか思えなかった。
翌十月二十五日、旅行者たちは元気をあらたにしてふたたび東へむかった。平原は依然としてものさびしく単調で、土地の言葉で〈トラベシーア〉と呼ばれるあの果てしもない空白の地をなしていた。風に吹きつけられた粘土質の地面は完全に水平に続いていた。不毛の干上ったいくつかの凹地やインディアンの手で掘られた沼のほとりを除いては、一つの岩、一つの小石すらなかった。長い間隔を置いて黒ずんだ梢の低い林があらわれ、そのところどころに白い蝗豆《いなごまめ》が生えている。その豆の莢《さや》には甘い美味な果肉が含まれていて、疲れを癒してくれる。それからテレビンの木、チャナレスの木、山エニシダの木の茂みがいくつか、そしてあらゆる種類の棘《とげ》のある樹木。これらの樹木の痩せ方は土地の不毛性を物語っている。
二十六日の行程は辛苦の多いものだった。リオ・コロラドまで行かなければならない。しかし馬は乗り手に励まされて非常に速く走り、その夕方は経度六十九度四十五分のところでパンパス地方を貫流する美しい河に到達した。インディアンはこれを〈コブ・レウブ〉と呼ぶが、この名は〈大河〉という意味で、蜿蜒《えんえん》と流れて河は大西洋に入る。その河口で奇妙な特異現象が生ずる。海に近づくにつれて、地中にしみこむのか蒸発するのか水量は減るのである。そしてこの現象の原因はまだはっきりと究明されていないのだ。
リオ・コロラドに着いてパガネルのまずしたことは、赤みがかった粘土の色を帯びたその水で〈地理学的に〉水浴することだった。彼はその水が非常に深いのに驚いたが、これはもっぱら夏のはじめの太陽のもとで雪が溶けた結果だった。のみならず河幅は相当のもので、馬が泳いで渡ることはできなかった。まことにさいわいなことに数百メートル上流に革紐で縛ってインディアン風に吊した網代《あじろ》の橋があった。おかげで小さな一隊は河を渡って左岸に野営することができた。
眠る前にパガネルはリオ・コロラドの位置を正確に測定しようと思い、彼が行かなくてもチベットの山のなかを流れているヤル=ザンボ=チューのかわりに特別念を入れてこの河の位置を自分の地図に記入した。
これにつづく二日、すなわち十月二十七、八日は、道中には何の事件もなかった。土地はあいかわらず単調であいかわらず不毛だった。風景にこれ以上変化がなく、展望がこれ以上つまらないことは断じてあり得ない。それでも地面は非常に湿って来た。〈カナーダ〉といわれる一種の水のたまった低地や〈エステーロ〉という水草に蔽われた不断の沼沢を越えて行かねばならなかった。夕刻、馬は鉱物質を濃厚に含む水をたたえた広い湖のほとりに歩みを止めた。〈ウレ・ランケム〉、つまりインディアンの言葉で〈苦い湖〉と名づけられ、一八六二年にはアルゼンチン軍隊による残忍な報復がここでおこなわれた。一行はいつものように野営したが、猿やアルワート〔オマキザルの一種〕や野犬がいなかったならばこの夜は快いものだったろう。このやかましい動物どもは、おそらく歓迎のためではあろうが、しかしもちろんヨーロッパ人の耳には不快な自然のあの交響曲を奏でて聞かせたのだが、未来の音楽家ならばこうした音楽を否定しないかもしれない。
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十七 パンパス
アルゼンチンのパンパシアは南緯三十四度から四〇度までひろがっている。アラウコ語から来た〈パンパ〉(パンパスはその複数形、パンパシアはこの地方を指す固有名詞)は草原を意味し、まさにこの地方に該当する。西部は木本《もくほん》のネムノキ科植物、東部は滋養に富む牧草が生えて、この地方に独特の景観を与えている。これらの植物は赤みを帯びた、あるいは黄色の粘土と砂をまじえた大地を蔽う土層に根を生やしている。地質学者がこの第三紀層の土壌を調べてみたとすれば、溢れるばかりの富を発見することだろう。そこには数限りない太古の動物の骨が埋もれており、インディアンはこれを絶滅した巨大なアルマジロ類のものとしているが、この植物性の細かい土の下にこの地方の原始時代の歴史が埋まっているのである。
アメリカ大陸のパンパは大湖地方《アフリカの》のサヴァンナやシベリアのステップと同じく地理学上の特殊景観である。その風土はより大陸的だからブエノスアイレス州よりもはるかに寒暑が激しい。つまり、パガネルのおこなった説明に従えば、海洋に吸収され蓄積された夏の暑熱は冬のあいだ海から放散されるのである。その結果、島は大陸内部よりも温度が平均しているのだ〔アイスランドの冬はこの理由でロンバルディアの冬よりも温かい〕。それゆえ西パンパシアの気候は、大西洋が近くにあるおかげで沿岸地方に見られるようなおだやかさを持っていない。唐突な極端さ、温度計の水銀柱が始終あちこちに飛びはねているような急速な変化に支配されているのだ。秋、すなわち四月と五月のあいだは、雨は頻繁に、しかも滝のように降る。しかし今のこの季節には非常に乾燥して温度もはなはだ高かった。
夜が明けるとただちに道を確かめた上で一行は出発した。灌木や小灌木の連なる地面にはいかなる変化も見られなかった。砂丘《メダーノ》もそれを形づくる砂も、風で空中に吹き上げられている埃ももはやなかった。最もパンパ的な草で、嵐のあいだインディアンたちがそのなかに身をかくす〈パーハ・ブラーバ〉の茂みのあいだを馬は元気よく進んだ。ある間隔を置いて――ただしそれもだんだんとちぢまるのだが――湿った凹地があって、柳や真水のそばを好む〈ギグネリウム・アルゲンテウム〉という植物が生えていた。そういうところへ来ると馬はこれさいわいとばかりうまそうに水を飲み、先のことにそなえて喉をうるおすのであった。タルカーヴは先に立って藪を叩いてまわった。それに咬まれると牡牛も一時間足らずで死んでしまう最も危険な種類の蝮《まむし》〈チョリナ〉をこうしておどかすのだ。敏捷な〈タウカ〉は藪を飛び越え、つづいて来る馬たちのために主人が道を開くのを助けた。
この平坦でまっすぐにつづく平原を行く旅はそれゆえ困難もなく快調だった。草原の自然にはいかなる変化も生じなかった。周囲一六〇キロメートルの範囲に岩一つ小石一つなかった。これほどの単調さはほかに見られるものではないし、これほど執拗につづくこともない。風景、事件、思いがけない自然、そんなものはかけらもないのだ! パガネルのような何も見るべきもののないところに何かを見ているあの熱狂的な学者ででもないかぎり、道中の細かなことに興味をよせることはできなかった。しかもどんなことに? それを言えといわれたところで、パガネル自身言えなかったろう。せいぜい一つの藪に! もしかすると一茎の草に。それだけでもう彼のとめどもない饒舌がはじまり、ロバートへの教育がはじまるのだ。そしてロバートも喜んで彼の言葉に耳を傾けた。
この十月二十九日は一日じゅう平原は旅行者たちの前に無限の斉一性をもって展開した。二時ごろ動物の痕跡が馬の蹄《ひづめ》の下に長々とつづいた。無数の牛の群れの骨が白くなって積みかさなっていたのだ。この残骸は力尽きて次々に路上に倒れて行く動物たちの残したもののように曲折した線を引いてはいなかった。それゆえ人々は、比較的限られた範囲内にこのように骸骨が集まっているのはどういうわけかわからなかった。パガネルすらどう考えてみてもほかの連中と同様わからなかったのである。そこで彼はタルカーヴにたずねてみたが、タルカーヴはためらう様子もなくそれに答えた。
「そんなことが!」という学者の言葉と、パタゴンが強く肯定する身振りをして見せたことが、仲間たちの好奇心を大いにそそった。
「いったい何です?」と彼らはきいた。
「空の火だとさ」と地理学者は答えた。
「何! 雷がこれほどの災害をひきおこしたんですか!」とトム・オースティンが言った。「五〇〇頭の群れが斃《たお》されるとは!」
「タルカーヴはそう言っている、そしてタルカーヴは間違っていない。それに私もそうだと思うね。パンパの雷雨は何よりもその激しさを特徴とするんだから。われわれはそんなものに遭わないで済めばいいんだが!」
「いやに暑いですな」とウィルスンが言った。
「日かげでも温度計は三〇度を指しているはずだ」とパガネルは答えた。
「そう聞いても私は驚かないね」とグレナヴァンは言った。「電気が体を貫くような気がする。こんな温度がいつまでもつづきはしないと考えようじゃないか」
「いやいや!」とパガネルは言った。「天候の変化を期待するわけには行かない、地平線に靄《かすみ》一つないんだから」
「困ったな」とグレナヴァンは答えた。「われわれの馬は暑さでひどくまいっているからね。おまえは暑くはないか?」と彼はロバートにむかってつけくわえた。
「いいえ、ミロード」と少年紳士は答えた。「僕は暑さが好きです。暑さっていいものですよ」
「特に冬はね」と、葉巻の煙を空にむかって吐き出しながら、もっともらしく少佐が言葉をはさんだ。
夕刻、一行は見捨てられた〈牧舎《ランチョ》〉のそばに馬を止めた。これは木の枝を組み合わせ、泥で隙間をふさぎ藁屋根を載せたものである。この小屋は半分腐った杭で作った囲いに接していた。腐った杭でも夜のあいだ馬をキツネの襲撃から守るには足りるのである。馬自身がキツネを恐れねばならぬことは何もないが、このたちの悪い獣は馬の頭絡《とうらく》を噛み切り、馬はそれをよいことに逃げ出すのだ。
ランチョから数歩のところに台所となる穴が掘ってあり、灰が残っていた。小屋のなかにはベンチと牡牛の皮の粗末な寝床と鍋と蝋燭《ろうそく》を吊す竿《さお》とマテ茶を淹《い》れる湯沸しが一つずつあった。マテ茶は南アメリカでよく飲まれている飲み物である。これはインディアンの茶なのだ。火で乾燥した葉を煎《せん》じたもので、アメリカの多くの飲み物のようにストローで吸う。パガネルの求めに応じてタルカーヴはこの飲み物を何杯か作ったが、普通の食べ物と実によく合い、皆はとてもおいしいと言った。
翌十月三〇日、太陽は燃えるような靄のなかに昇り、熱し切った光線を地上に注いだ。この日の温度は実際途方もないほど高かったに相違ないが、あいにく平原には身を隠すところは一つもなかった。それでも一行は元気よく東にむかって出発した。何度も大きな牛の群れに出逢ったが、彼らはこの堪えがたい暑熱のもとに草を食《は》む力もなくものうげに横たわっていた。番人、いや、もっと正確に言えば牧童だが、そんな連中は影も見えない。渇きに駆られるといつも牝羊の乳を飲む犬たちだけが、牝牛や牡牛のこの無数の群れを見張っていた。それにまたこの牛たちはおだやかな性質で、ヨーロッパの彼らの同族の特徴である赤いものに対するあの本能的な恐怖を持ち合わせていなかった。
「たぶんそれは彼らが共和国の草(赤は急進派の色だからである)を食っているからだろう!」とパガネルは言って、自分のこの冗談に大満悦だった。ただしこれはあまりにもフランス的な冗談かもしれなかったが。
正午ごろ、単調さに倦《う》んだ目が見落すはずのない多少の変化がパンパにあらわれた。禾本《かほん》科植物は前よりすくなくなった。かわりにあらわれたのは痩せた牛蒡《ごぼう》と、高さ二・七メートルもあって世界じゅうのありとあらゆる驢馬《ロバ》を喜ばせそうな巨大な薊《あざみ》だった。乾燥地帯にあっては貴重な矮小化《わいしょうか》したチャナレスやその他の暗緑色の有刺植物がところどころに生えていた。これまでは草原の粘土のなかに含まれたある程度の水分が牧草を維持していた。敷きつめた草は繁茂して豊かだった。しかしこのあたりからその絨毯《じゅうたん》はあちこちで擦り切れ各所で引きちぎれて地《じ》を見せ、土壌の貧困を人の目にさらした。乾燥が増して行くこの兆候は歴然たるもので、タルカーヴはそれに人々の注意を促した。
「この変化は私にはありがたいですね」とトム・オースティンは言った。「いつまでたっても草、草、草じゃあ、しまいにはうんざりして来ますよ」
「そうだね、しかしいつまでたっても草ばかり、いつまでたっても水ばかりさ」と少佐が答えた。
「ああ、まったく水には不自由しませんや」とウィルスンが言った。「いずれまた途中で川にぶつかりますよ」
もしパガネルがこの言葉を聞いたとすれば、リオ・コロラドとアルゼンチン州の山地《シエラス》とのあいだには川はすくないとかならず言ったろう。しかし彼はこのとき、グレナヴァンが彼に注意したある事実について説明していたのだ。
しばらく前から大気は煙の匂いを帯びているように思われた。ところが視界には全然火は見えなかったし、遠い火事を知らせるような煙も全然なかったのである。それゆえこの現象は自然の原因によるものと見ることはできなかった。間もなくこの草の焼ける匂いは非常に強くなり、パガネルとタルカーヴを除いた旅行者たちは不思議に思いはじめた。どんな事実をも苦もなく説明して見せる地理学者は友人たちに次のように答えた。
「われわれには火は見えない。しかし煙の匂いはする。ところで、火のないところに煙は立たないし、この諺はヨーロッパにおけると同様アメリカでも正しいのだ。してみればどこかに火がある。ただこうしたパンパはまったく平坦なので気流の動きを妨げるものは全然ない。だからおよそ一一〇キロメートルばかり離れたところで燃えている草の匂いを嗅ぐこともよくあるのです」
「一一〇キロメートル?」と少佐は信じられないというような口調で言った。
「そのとおり」とパガネルは肯定した。「しかしつけくわえて言えば、このような大火は広い範囲にまでひろがって、しばしば大きな規模に達することもある」
「誰が草原に火をつけるんですか?」とロバートがきいた。
「草が暑さで乾燥しているときには往々にして落雷で火がつく。また時にはインディアンの手でつけられるんだ」
「どういう目的で?」
「インディアンはパンパの火事の後で禾本科植物はよく育つと主張している――この主張にどの程度根拠があるか私は知らんがね。そうだとすればこれは灰の作用で土壌をよみがえらせる方法ということになる。私自身としてはむしろ、この火事は畜群をひどく悩ます寄生虫の一種である無数の蝨《だに》を絶滅するためのものだと思うね」
「だがそういう思い切った手段なら、平原をさまよっている家畜を幾頭か犠牲にしてしまうこともあるはずだが?」と少佐が言った。
「そう、焼き殺してしまう。けれども多数のなかではそれくらいのことは問題じゃない」
「私は動物どものために抗議してるんじゃない」とマクナブズは言った。「そいつは動物たちの問題だからね。パンパを横切る旅行者のために言っているんだ。彼らが不意を襲われて焔にまかれてしまうことはあり得ないだろうか?」
「あたりまえですよ!」とパガネルは目に見えて満足そうに叫んだ。「そういうことも時々起こる。そして私自身としては、そういう場面に出逢うことも悪くないと思うね」
「これはいかにも学者パガネルらしい」とグレナヴァンは答えた。「学問のためなら生きたまま焼かれることまで辞さないんだから」
「そんなことは決してありませんよ、グレナヴァンさん。しかし誰だってクーパー(フェニモア・クーパー、アメリカの冒険小説家、北米インディアンを描いた数々の小説がある)を読んでいるだろう。そのなかで〈革靴下《レザーストッキング》〉(クーパーの作中に登場するインディアンの名)が、半径数メートルにわたって自分の周囲の草を引き抜いて火の進行を食い止める方法を教えてくれる。簡単至極なことですよ。だから私は火事が近づいてもこわくない。そして私は心から火事が起こってくれないかと念じているんだ」
しかしパガネルの熱望が実現する見込みはなく、彼が半焼けになったとすれば、それはもっぱら堪えがたい炎暑を送って来る日光の熱のためだった。馬はこの熱帯の気温にさいなまされて喘いだ。燃え上がる円盤のような太陽をかくす稀な雲でもあらわれぬかぎり、日影を期待することはできなかった。そういうときには影は平坦な地面を走り、騎手たちは馬を促して西風が前へ前へと駆り立てて行くこの涼しい影の帯のなかにとどまろうとするのであった。しかし馬はやがて追い抜かれて後に残り、雲から出た太陽はパンパの焼きつけられた土地の上にまたしても火の雨を注いだ。
それにしても、先ほどウィルスンが水がなくなることはあるまいと言ったときには、この一日仲間たちをさいなんだ癒しがたい渇きのことは予想もしていなかったのである。そして途中で何かの川にぶつかるだろうとつけくわえたときには、彼は早まりすぎていたのだ。実は、地面の平坦さのために河床ができなかったから川がなかっただけではなく、インディアンが掘った人工の沼も同じく涸《か》れ上っていたのだ。旱魃《かんばつ》の徴候が三キロメートルごとにはっきりして来るのを見てパガネルはタルカーヴに何か言い、それからどこで水を見つけるつもりかときいた。
「サリナス湖で」
「ではいつサリナス湖に着けるだろう?」
「明日の夕方」
アルゼンチン人は普通パンパを旅行するときには井戸を掘り、地下数メートルのところに水を見つける。しかし道具を持っていなかったこの旅行者たちにはそうすることはできなかった。だから一回に飲む量を制限しなければならなかったので、水を飲みたいというやりきれない欲求にどうしようもないほど悩まされることもなかったかわりに、完全に渇きを癒すこともできなかった。
夕刻一行は四十八キロメートルの行程の後に馬を止めた。皆は昼の疲れを休めるために快い一夜を期待していたが、あいにくそれが蚊と蚋《ぶよ》に妨げられた。この虫どもの存在は風の変ったことを示していた。事実風は九〇度方向を変えて北から吹き出した。この呪うべき昆虫どもは一般に南もしくは南西の微風とともに消え失せるのである。
少佐がたとい人生のどんな難事に陥っても平静を保っているのに反して、パガネルはちょっとした不運にもむかっ腹を立てた。彼は蚊や蚋《ぶよ》を呪い、酸性の水があれば彼らに噛まれて体じゅうひりひりするのをやわらげられたのにとくやしがった。少佐が博物学者の数え上げる三〇万種の昆虫のうちわずか二種だけを相手にしているのだから幸福と思わねばならないと言って彼を慰めようとしたにもかかわらず、目を覚ましたときには彼はひどく不機嫌だった。
けれども夜が明けはじめるや否や出発することには彼は全然文句を言わなかった。その日のうちにサリナス湖に着かねばならなかったからである。馬たちはひどく疲れていた。彼らは渇きで死にそうだった。そして乗り手は馬たちに自分の分を飲ませてやったが、彼ら自身の水の割当量は非常に限られたものだった。旱魃はますますひどくなり、パンパスの熱風《シムーン》である北風の埃っぽいそよぎのもとで暑熱もそれに劣らず堪えがたかった。
この日のあいだ、旅の単調さは束の間中断された。先頭に立っていたマルレディが引き返して来て、インディアンの一隊が近づいて来ることを知らせた。この出逢いはさまざまに評価された。グレナヴァンはこの原地民たちが〈ブリタニア〉の遭難者たちについて提供するかもしれない情報のことを思った。タルカーヴはタルカーヴで、草原の遊牧インディアンに途上で遭うことをあまり喜ばなかった。彼はこの連中を追剥ぎや泥棒と思っていて、ひたすら彼らを避けようとした。彼の指図でこの小さな一隊は密集して銃の引き金をおこした。どんな事態にも応じられるようにしていなければならなかった。
間もなくインディアンの一団が見えた。わずか十人ばかりのインディアンで、それを見てパタゴンは安心した。インディアンたちは一〇〇歩ほどのところへ近づいた。一人々々見分けることは容易だった。彼らは一八三三年にロサス将軍に掃討されたあのパンパの種族に属する原地民だった。うしろに引かずに盛り上がっている広い額、高い背丈、オリーヴ色がかった肌の色のために彼らはインディアン系のなかの立派なタイプをなしていた。グワナコかスカンクの皮を着、六メートルもある槍とともに短刀、石投げ器、ボラスとラソを携えていた。彼らの馬の御し方の巧みさを見れば熟練した乗り手であることがわかった。
彼らは一〇〇歩ほどのところでたちどまり、叫んだり身振りをしたりしながら相談しているように見えた。グレナヴァンは彼らのほうへ進み出た。しかし彼がまだ四メートルも行かないうちにインディアンたちはくるりと向うを向いて信じられないほどの速さで消え去った。旅行者たちの疲れ切った馬ではどうしても追いつけなかったろう。
「臆病者め!」とパガネルは叫んだ。
「まともな人間たちにしては逃げ足が速すぎる」とマクナブズが言った。
「あのインディアンは何だね?」とパガネルはタルカーヴにきいた。
「ガウチョです」とパタゴンは答えた。
「ガウチョ!」とパガネルは仲間たちのほうへ向き直って言った。「ガウチョか! それならわれわれはあんなに警戒する必要はなかったんだ! 何も恐れることはなかった!」
「どうして?」と少佐が言った。
「ガウチョは無害な農民なんだ」
「そう思うのかい、パガネル?」
「たしかに。奴らはわれわれのことを泥棒だと思って逃げたんだ」
「私はむしろ奴らは敢てわれわれを襲う勇気がなかったんだと思うね」と、たといどんな奴らだったにしろこの原住民たちと話をすることができなかったのでひどく気を悪くしているグレナヴァンが言った。
「私もそう思う」と少佐も言った。「私の思い違いでなければ、ガウチョは無害などころか、反対に正真正銘の恐るべき山賊なんだ」
「冗談じゃない!」とパガネルは叫んだ。
そうして彼はこの民族学的問題について猛然と論じはじめた。それもあまり猛烈だったので、彼はさすがの少佐をも怒らせてしまい、マクナブズがいくら議論してもめったに口にしない次のような反撃を招いてしまったのである。
「私は君が間違っていると思うよ、パガネル」
「間違っている?」と学者は言い返した。
「そうとも。タルカーヴすらあのインディアンたちを泥棒と思った。そしてタルカーヴは事情に通じているのだ」
「それならタルカーヴは今度は間違ったのだ」とパガネルは少々辛辣に反駁した。「ガウチョは農耕と牧畜をやっている。それだけだ。そして私自身もパンパスのインディアンについてのかなり注目すべき小冊子のなかにそう書いたことがあるんだ」
「それでは、パガネルさん、あなたは誤りをおかしたのですな」
「私が誤りを、マクナブズさん?」
「うっかりしてね、あなたがそう言いたければ」と少佐は間髪を入れずに応酬した。「しかし再版のときちょっと訂正をすればすむことですよ」
自分の地理学上の知識が論議され、それどころか茶化されたのに大いに気を悪くしたパガネルは、癇《かん》の虫がたかぶるのを感じた。
「ご承知おき願いたいが、私の本はそんな種類の訂正を必要としませんぞ!」
「必要としますな、すくなくとも今度の場合は!」と、今度はマクナブズも意地を張り出して答えた。
「失礼だが、今日はあなたはいやに悪ふざけをなさるようですな」
「私のほうはあなたが辛辣だと思いますな!」
ごらんのように議論は思いがけないほど大袈裟なものとなった。しかもその問題といえば、もちろんそんなにむきになるほどのものではないのに。グレナヴァンはそろそろ仲裁にはいってもよかろうと思った。
「たしかに一方が悪ふざけなら他方も辛辣だね。君ら二人がそんな風になるのは私には不思議だ」
パタゴンにはこの口論の種が何かはわからなかったが、二人の友が言い争っていることは容易に察した。彼はにやにや笑いはじめ、おだやかに言った。
「北風ですよ」
「北風だって!」とパガネルは叫んだ。「いったい北風がこれにどんな関係があるんだ?」
「いや、まさに北風なのさ」とグレナヴァンは言った。「君の不機嫌の原因は北風なのだよ! 北風は南アメリカでは特に神経組織をいらだたせると私は聞いたことがある」
「聖パトリックにかけて言うが、エドワード、君の言うとおりだよ!」と少佐は言い、大声で笑い出した。
しかし本気で怒ってしまったパガネルは議論をやめようとしなかった。そしてグレナヴァンの口出しは少々ふざけすぎていると思ったので彼に食ってかかった。
「ああ、そうですか、ミロード、私の神経組織はいらだっていますかね?」
「そうだよ、パガネル、北風のせいだ。何しろローマのカンパーニャの北風《トラモンターノ》と同様パンパではいろいろの犯罪をひきおこす風なんだから」
「犯罪!」と学者は言い返した。「私が犯罪をおこなおうとしている人間に見えますか?」
「かならずしもそう言っているわけじゃないよ」
「私があなたを殺そうとしていると手っ取り早く言えばいいでしょう」
「いや」とグレナヴァンは答えた。我慢できずに彼は笑い出していた。「そうじゃないかと私は心配だな。さいわい北風は一日しかつづかないがね」
この答を聞いて皆はグレナヴァンと声を合わせて笑った。そうするとパガネルは馬に強く拍車を当て、癇癪を破裂させるためにとっとと先に行ってしまった。十五分後には彼はもうけろりとしていた。
このようにして学者の善良な性格は一時《いっとき》乱されたのである。しかしグレナヴァンがいみじくも言ったとおり、こうした弱点はまったく外的な原因によるものと見なければならなかった。
午後八時に、一足先に行っていたタルカーヴが待望の崖《バランカ》が見えたと知らせた。十五分後には小さな一隊はサリナス湖の斜面を下った。しかしそこにはひどい幻滅が待っていた。湖は涸れていたのだ。
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十八 水場を求めて
サリナス湖はベンターナ山脈およびグワミニ山脈まで点々とつづく沼沢の最後の一つだった。多くの遠征隊がかつてブエノスアイレスからここへ塩を採りに来た。なぜならこの湖の水は驚くほどナトリウム塩の含有量が多かったからである。けれども今は水は炎熱に蒸発して、溶けていた塩はすべて沈澱してしまい、湖はもはやきらきら光る巨大な鏡でしかなかったのだ。
タルカーヴがサリナス湖に飲料があると予告したのは、いくつかの地点で湖に流れこんでいる川のことを言ったのだった。しかし現在これらの支流は湖と同じく涸《か》れていた。灼熱の太陽は何もかも呑みつくしてしまったのだ。渇きに悩む一行がサリナス湖の乾き切った岸に到着したとき皆が愕然《がくぜん》としたのはそれがためだった。革袋のなかにわずかに残されていた水も半ば腐っており、喉をうるおすことはできなかった。渇きは堪えがたく感じられて来た。飢えも疲れもこの有無を言わさぬ欲求の前には消え失せた。インディアンが地面の凹んだところに立てたまま捨てて行った〈ルーカ〉という一種の皮のテントが疲れ切った旅行者たちの避難所となり、馬たちは湖の縁の泥に横たわって水草や枯れ蘆をいやいや噛んでいた。
みながルーカのなかにおさまるとパガネルはタルカーヴにいろいろ質問し、どうするのがいいと思うかときいた。早口の会話が――それでもグレナヴァンはいくつかの単語を耳にとめたが――地理学者とタルカーヴのあいだに交わされた。タルカーヴは静かにしゃべった。そのかわりパガネルは二人分の身振りをした。この対話は数分つづき、それからパタゴンは腕を組んだ。
「何を言ったんです?」とグレナヴァンはきいた。「われわれが別々になるようにすすめていたと私は思うんだが」
「そう二手に分れろというんだ」とパガネルは言った。「われわれのうちで、疲れと渇きでまいってはいてもとにかくどうにか足を前に出せる馬に乗っているものは、三七度線沿いに何とか歩きつづける。反対にもっと元気な馬に乗っているものは、同じ道を先に行って、ここから五〇キロメートルばかり離れたサン・ルカス湖に流れこんでいるグワミニ河を偵察に行く。もしそこに水が充分あったら、グワミニ河のほとりで仲間を待つ。水がなかったら仲間のほうへ引き返して余計な旅をさせないようにする」
「しかし、そうなったら?」とトム・オースティンがきいた。
「その場合は七五キロほど南下してシエラ・ベンターナの支脈のはじまっているところまで行く決心をしなければならない。そこには河がたくさんあるのだ」
「その考えは正しい」とグレナヴァンは答えた。「さっそくそれに従おう。私の馬は水の不足にまだそうひどくはまいっていない。だから私がタルカーヴについて行こう」
「おお、ミロード、僕も連れて行ってください」と、まるでハイキングか何かでもあるようにロバートが言った。
「しかし、坊や、われわれについて行くことができるかね?」
「できます! 僕の馬はしっかりしていて、前に進むことしか考えていません。駄目ですか……ミロード……お願いです」
「それではおいで」とグレナヴァンは言った。ロバートと別れないですむのがうれしくてたまらなかったのだ。「三人で行って冷たい澄んだ水場を見つけられなかったら、われわれはよほどどうかしているということになる」
「それじゃあ私は?」とパガネルは言った。
「おお、君はね、パガネル君」と少佐は答えた。「君は予備隊に残るんだ。君は三七度線もグワミニ河も、このパンパ全体のことも非常によく知っているんだから、われわれと離れて行かれては困るよ、マルレディもウィルスンも私もタルカーヴと落ち合う約束のところへ行くことはできないが、勇敢なジャック・パガネルに率いられてならば安心して進むことができるからね」
「それじゃ仕方がない」と、指揮権を獲得したことにすこぶる気をよくして地理学者は答えた。
「しかし粗忽は御免だよ!」と少佐はつけくわえた。「どうしようもないところへ連れて行っては困るよ、たとえば太平洋岸へ連れもどしたりしては」
「君ならそうされても仕方がないさ、君のような鼻持ちならん奴は」とパガネルは笑いながら答えた。「それにしても、グレナヴァン君、君はどうしてタルカーヴの言葉を理解できるかね?」
「タルカーヴと私はおしゃべりする必要はないだろうと思う。その上、私の知っているいくつかのスペイン語の単語で、絶対必要な場合には自分の考えを彼に言ったり彼の考えを理解することができるだろう」
「それでは行きたまえ」とパガネルは答えた。
「まず夕食をしよう」とグレナヴァンは言った。「それから出発の時間まで眠れたら眠ろう」
一同は何も飲まずに食事をした。これはあまり元気をつけるようなものではなかったが。そうして、ほかにすることがないので皆は眠った。パガネルは渓流を、滝を、川を、大河を、沼を、小川を、それどころか一杯の水差しを、要するに普通飲料水を含んでいるありとあらゆるものを夢に見た。これは本当の悪夢であった。
翌朝六時にタルカーヴ、グレナヴァン、ロバートの馬に鞍が置かれた。最後の水を馬にやったが、馬たちは満足よりも欲求からそれを飲みほした。水はまったくむかつくほどのものだったからである。それから三人の乗り手は鞍におさまった。
「さよなら」と少佐、オースティン、ウィルスン、マルレディは言った。
「何よりも、もどって来ないようにしてくれよ!」とパガネルがつけくわえた。
間もなくパタゴンとグレナヴァンとロバートの目には、地理学者の聰明さに委ねられた連中の姿は見えなくなったが、何かしら胸のしめつけられるような気持を彼らは感じないでいられなかった。
今彼らが横切って行く〈デシエルト・デ・ラス・サリナス〉は、三メートルばかりの発育の悪い灌木や、インディアンが〈クラ・マンメル〉と呼んでいる小さなネムノキ科植物や、ソーダを多く含んだ茨《いばら》のような小灌木〈フメス〉に蔽われた粘土質の平原だった。ところどころ塩が大きく板状にひろがって驚くほど強烈に日光を反射していた。こうした〈バレーロス(塩のしみこんだ土地)〉は酷寒でできた氷の面と容易に錯覚しそうだった。しかし太陽の熱気でその錯覚もたちまち消されてしまうのだった。それにしても干からびた焼けただれた土地とこのきらきら輝く塩の帯とのコントラストは、人々の目をひくまことに特殊な相貌をこの荒蕪地《こうぶち》に与えていた。
ところが南方一三〇キロメートルのところにあるグワミニ河がもし涸れていたとすれば、旅行者たちが行かねばならぬシエラ・ベンターナは、これとは異なる様相を呈していた。一八三五年に当時〈ビーグル〉号を指揮していたフィッツ・ロイ艦長が踏査したこの地方はすばらしく肥沃なのである。インディアン居住区のなかでも最も良質の牧草がそこでは比類のないたくましさで生育している。山脈《シエラス》の北西面は青々とした草に蔽われ、さまざまの樹種に富んだ林のなかを下って行く。蝗豆《いなごまめ》の一種で、その実を乾かして粉にし、インディアンのかなり愛好するパンを作るのに用いられる〈アルガローボ〉、ヨーロッパの柳と同じようにしだれている長いしなやかな枝を持った〈ケブラーチョ・ブランコ〉、強靱な材質を持つ〈ケブラーチョ・ローホ〉、まことに簡単に火がつき、しばしば恐ろしい火事をひきおこす〈ナウドゥバイ〉、紫色の花をピラミッド状に積み上げている〈ビラーロ〉、そして最後に〈ティンボ〉。この木は地上二四メートルにまでその巨大なパラソルをそばだたせ、その木陰では一つの畜群全体が日ざしをよけることができるのだ。アルゼンチン人はこの豊かな地方にしばしば植民を試みたが、インディアンの敵意に打ち克つことは遂にできなかった。
豊かな川がいくつもシエラの尾根から流れ落ちてこれほどまで土地を肥えさせるに必要な水を供給しているものと人々は思ったに相違ない。そして事実これらの川はどんなにひどい旱魃《かんばつ》のときも決して蒸発しなかった。しかしそこに到達するには二〇〇キロメートル南下しなければならなかった。だからタルカーヴが最初グワミニ河へむかおうとしたのは正しかった。この河はコースから外れることなく、はるかに近い距離にあったからである。
三頭の馬は元気よく走った。この優秀な馬たちはおそらく本能的に主人らが自分たちをどこへ連れて行くかを悟ったのだろう。なかんずくタウカは疲労にも飢えや渇きにもめげない健気さを示した。景気のいい嘶《いなな》きをあげながら乾いたカニャーダをもクラ・マンメルの藪をも飛び越えた。グレナヴァンとロバートの馬は足取りは重かったが、タウカの手本に励まされて勇敢について来た。鞍の上に泰然と坐ったタルカーヴはタウカがその仲間に示すのと同じ手本を二人の道連れに示していた。パタゴンはしばしば頭をめぐらしてロバート・グラントを見守った。
腰を柔軟にし、肩をうしろへ引き、脚を自然に垂らし、膝を鞍にぴったりとつけて、しっかりした顔で鞍にきちんと坐っている少年を見ると、彼は励ましの声を送って満足をあらわした。実際ロバート・グラントはすぐれた乗り手になり、インディアンが褒めるのも当然だったのだ。
「みごとだぞ、ロバート」とグレナヴァンは言った。「タルカーヴはおまえを祝福しているようだ! おまえを褒めているよ」
「何でですか?」
「おまえの乗り方がいいからさ」
「僕はただしっかりとバランスを取っているだけですよ」と、褒められたのがうれしくて顔を赤くしながらロバートは言った。
「それが肝腎なところなのさ、ロバート」とグレナヴァンは答えた。「しかしおまえは謙遜しすぎるね。私は予言しておくが、おまえはかならず申し分のないスポーツマンになれるよ」
「結構です」とロバートは笑った。「けれど僕を船乗りにしたいと思っているパパは何と言うでしょうか?」
「それは両立しないわけではないさ。すべての騎手がよき船乗りであるわけではないが、すべての船乗りはよき騎手であり得る。帆桁にまたがるうちにしっかりバランスを取ることをおぼえるものだ。正しい姿勢を取ること、斜めに歩かせたり円を描かせたりすることはおのずとわかる。これ以上自然なことはないんだからね」
「かわいそうなお父さん! ああ、ミロード、あなたが救い出してくださったらお父さんはどれほどあなたに感謝することでしょう!」
「おまえはよっぽどお父さんを愛しているんだね、ロバート?」
「そうですとも。父は姉さんや僕にとてもやさしかった。僕たちのことしか考えていませんでした! 父は航海するたびに訪れたすべての国々の思い出を話してくれたし、いやそれ以上に、帰って来たときどれほどかわいがったりやさしい言葉を言ってくれたりしたかわかりません。ああ、父に会ったらあなたも父を愛してくださるでしょう。メァリは父に似ています。父はメァリのようなやさしい声をしています。船乗りにしては奇妙なことじゃありませんか」
「うん、それは大変奇妙だね、ロバート」
「今でも父は僕の目の前にいます」と少年は言ったが、このときの彼は自分自身に話しかけているように見えた。
「やさしい立派なパパ! 僕が小さかった頃は膝にのせて眠らせてくれ、僕たちの国の湖を歌った古いスコットランドの唄をいつもつぶやいていました。その曲はときどき思い出しますが、はっきりしないんです。メァリもそうです。ああ、ミロード、どれほど僕たちは父を愛していることでしょう! ねえ、父親を心から愛するのは幼いときでなければ駄目だと僕は思うんですが!」
「そして尊敬するには大きくなっていなければならないよ」と、この若い心から溢れ出た言葉にすっかり感動してグレナヴァンは答えた。
この会話のあいだ馬は歩度をゆるめて並歩で進んでいた。
「見つかるでしょうね?」しばらくの沈黙の後にロバートは言った。
「うん、見つかるとも」とグレナヴァンは答えた。「タルカーヴのおかげでわれわれはお父さんの足跡を見つけた。そして私はあの男を信頼しているよ」
「いいインディアンですね、タルカーヴは」
「たしかに」
「ミロード、ごぞんじですか?」
「まず何か言いなさい、そうしたら答えるよ」
「あなたと一緒にいるのはいい人ばっかりだということです。僕の大好きなヘレナ奥さまにしても、おちついた顔をしている少佐にしても、マングルズ船長にしても、パガネル先生にしても、実に勇敢で献身的な〈ダンカン〉の水夫たちにしても!」
「うん、そのことなら知っているよ」
「それでは、あなたがみんなの中で一番いい方だということをごぞんじですか?」
「いや、とんでもない、そんなことは私は知らないね」
「それじゃあ、そのことを知っておいてください」とロバートは言い、ロードの手を取って唇へ持って行った。
グレナヴァンは静かに頭を振った。会話はそれ以上つづかなかったが、それはタルカーヴが遅れている彼らを身振りで呼んだからだ。彼らは取り残されていたのだ。時間を無駄にすることは許されず、後に残っている人々のことを考えてやらねばならなかったのに。
そこで彼らはまた速歩に返ったが、タウカ以外の馬は長くその歩度を維持することができないことが間もなくあきらかになった。正午には馬たちに一時間の休息を与えねばならなかった。彼らはもはや力尽きて、アルファレスという日光で焙《あぶ》られた痩せた一種のうまごやしの束を見ても食べようとしなかった。
グレナヴァンは不安になった。土地の不毛さを示すしるしは減らなかったし、水のないことは恐ろしい結果を招きかねなかった。タルカーヴは何も言わなかったが、おそらく、グワミニ河が乾いていたらそのときこそ絶望すればいい――ただしインディアンの心が絶望の時を告げる鐘の音をかつて聞いたことがあるとしてだが。
それゆえ彼はまた出発し、そして鞭と拍車も手伝って馬たちは否応なくまた歩き出さねばならなかったが、今度は並歩でだった。それ以上のことはできなかったのである。
タルカーヴは先に行っていたほうがよかったろう。タウカは数時間で川の縁まで運ぶことができたはずだからだ。彼はたぶんそう考えたろう。しかしこれもまた多分、彼は二人の仲間をこの沙漠のまんなかに残して行きたくなかったのだ。そうして彼は仲間たちを置き去りにすまいとしてタウカに強いてゆっくりした歩調を取らせた。
反抗し、後脚で立ち上がり、激しく嘶《いなな》いてから、ようやくタルカーヴの馬は諦めて並歩をつづけた。そうさせるには主人の腕力以外に言葉が必要だったのである。タルカーヴはほんとに自分の馬に話しかけ、そしてタウカは返事はしないまでも、その言葉を理解した。パタゴンは馬をよほどたくみに説き諭《さと》したものと思わねばならぬ。しばらく〈議論した〉あげくタウカは主人の言い分を承服し、轡《くつわ》を噛みながらではあるが言うことを聞いたからだ。
しかしタウカがタルカーヴを理解したとすれば、タルカーヴもそれに劣らずタウカのことを理解していた。一段すぐれた感覚器官を与えられているこの怜悧な動物は空気中に何らかの湿気を感じた。舌を快い液体のなかに浸しているかのように動かしたり鳴らしたりしながら夢中になって馬はこの湿気を吸いこんだ。パタゴンがこれを見誤ることはあり得なかった。水は遠くないのだ。
彼はそこでタウカの焦りの理由を説明して仲間たちを励ました。ほかの二頭の馬にも間もなくタウカの気持がわかりはじめた。彼らは最後の力をふりしぼり、インディアンの後を追って疾駆した。
三時ごろ一筋の白い線が土地の襞《ひだ》になっているところにあらわれた。日光の下でそれはちらちらとふるえていた。
「水だ!」とグレナヴァンは言った。
「水! そうだ、水だ!」とロバートは叫んだ。
彼らにはもはや馬を励ます必要はなかった。かわいそうなこの動物は力がよみがえるのを感じると、とどめようもない猛烈さで突っ走り出した。数分のうちに彼らはグワミニ河に着き、馬具をつけたままで飛びこんで快い水のなかへ胸までつかってしまった。
乗り手たちも少々不本意ながら彼らの真似をし、心ならずも水浴びすることになったが、それについて文句を言おうとは思わなかった。
「ああ、何ていい気持!」河《リオ》のまんなかで喉をうるおしながらロバートは言った。
「ほどほどにしろよ」とグレナヴァンは答えたものの、その手本を示しはしなかった。
せわしなく水を飲む音しかもう聞こえなかった。
タルカーヴはといえば、おちついて、急がずにすこしずつ、しかもパタゴン語の表現に従えば〈ラソのように長々〉と飲んだ。彼はとめどがなかった。川のすべての水が飲みつくされはしないかと心配になるほどだった。
グレナヴァンは言った。
「これでやっと仲間たちも希望を裏切られないですむだろう。グワミニに着いたとき澄んだ水にふんだんにありつけることは請合いだ。ただしタルカーヴが残しておいてくれたらの話だが!」
「けれど、迎えに行くわけには行きませんか?」とロバートはたずねた。「そうすれば不安と苦しみを何時間か減らしてあげることになりますが」
「それはそうだ、しかしどうやってこの水を運ぶ? 革袋はウィルスンの手もとに残して来た。いや、約束どおり待っていたほうがいい。所要時間を考え、しかも馬が並歩でしか進めないのを考慮に入れても、仲間たちは夜になってここへ着く。だからよい塒《ねぐら》とうまい食事を用意しておいてやろう」
タルカーヴはグレナヴァンの提案を待たずに野営地をさがしはじめていた。まことに運よく彼は川縁に〈ラマーダ〉を見つけた。これは畜群を入れるための三方を閉ざした囲いのことである。露天で眠ることを厭いさえしなければそれは腰を据えるのに誂《あつら》え向きの場所だったし、露天で眠ることなどはタルカーヴの仲間たちにとってはすこしも苦にならなかった。そこで彼らはそれ以上さがそうとせずに、水びたしになった服を乾かすために日のかんかん照りつける中に寝そべった。
「それじゃあ、塒はこれでできたから夕食のことを考えようか」とグレナヴァンは言った。「仲間たちはこれで自分らが先に派遣した飛脚に満足するにちがいない。私の思い違いでなければ彼らは不平を言うことはなかろう。一時間ほど猟をしても時間を無駄にしたことにはなるまいと思う。用意はいいか、ロバート?」
「ええ、ミロード」銃を手にして立ち上りながら少年は答えた。
グレナヴァンがこれを思いついたのは、グワミニ河のほとりは周囲の平原のあらゆる猟鳥の集まって来るところらしかったからである。パンパに特有の赤|鷓鴣《しゃこ》の一種〈ティナモウス〉や、黒雷鳥、〈テルテル〉と呼ばれる千鳥の一種、黄色の水鶏《くいな》や目も覚めるような緑の鷭《ばん》が群れをなして飛び立つのが見られた。
四足獣のほうは姿を見せなかった。しかしタルカーヴは高い草や密生した叢林を指さして、獣たちはそこにかくれているのだと知らせた。猟をするものはちょっと歩きさえすればここが世界で最も獲物の多い国だとわかるのだ。
彼らはそこで猟をはじめた。そしてさしあたり鳥類よりも獣を狙おうとして、最初の何発かはパンパの大型獣に向けられた。間もなく彼らの前には数百匹という群れをなして、小鹿やコルディリェーラの尾根であのように猛烈に彼らを襲ったグワナコたちがあらわれた。しかしこれらの動物は非常に臆病で、大変なスピードで逃げ、銃の射程内に近づくことは不可能だった。ハンターたちはそこでそんなに速くない獲物に筒先を向けた。もっとも食べることになればこちらのほうもまったく申し分のない獲物なのだ。赤鷓鴣と水鶏《くいな》が一〇羽ばかり殺され、グレナヴァンはタイ・テトレと呼ばれる野猪《ペカリ》をたくみに斃《たお》した。これはすこぶる美味な鹿《か》の子色の毛の生えた皮の厚い動物で、射ってみるだけの値打ちはあるものだった。
三〇分足らずのあいだにハンターたちは疲れも見せずに必要なだけの獲物を射ち落した。ロバートはといえば、彼は貧歯類に属する奇妙な動物をつかまえた。〈アルマディリョ(アルマジロ)〉といって、四五センチメートルほどの長さの、骨質の動く板からなる鎧《よろい》に蔽われたタトゥーの一種である。とても肥っていて、パタゴンの言うところではすばらしいご馳走になるにちがいないということだった。タルカーヴのほうは、パンパに特有のダチョウの一種ですばらしく足の速い〈ナンドゥー〉を狩る場面を仲間たちに見せた。
インディアンはこんな足の速い動物を相手にして策略を用いようとはしなかった。彼はたちまち追いつくようにタウカを全速力でまっすぐ走らせた。最初の攻撃が失敗するとナンドゥーは見当もつかぬほどぐるぐるまわって、馬も乗り手もじきに疲れてしまうからである。タルカーヴはほどよい距離まで来ると力強い手でボラスを投げた。投げ方は実にたくみで、ボラスはダチョウの脚にまきつき、ダチョウは動けなくなった。数秒のうちにダチョウは地面に横たわっていた。
インディアンはさっとそれをつかまえた。単に猟をする者の無意味な喜びからではない。ナンドゥーの肉は非常に珍重されており、タルカーヴは皆の食事に自分の手になる特別料理をつけくわえたかったのである。
こうしてラマーダには繩に吊した赤鷓鴣と、タルカーヴのダチョウとグレナヴァンの野猪とロバートのアルマディリョが運ばれた。ダチョウと野猪はすぐに仕立てられた。つまり、堅い皮を剥いで身を薄く切ったのである。アルマディリョといえば、これはありがたい動物で、焼肉をつくるための器《うつわ》を自分の身につけている。だから彼らは、鎧に入ったままアルマディリョを燠《おき》の上にのせた。
二人のハンターは自分らの夕食としては赤鷓鴣をむさぼるだけで満足し、友人たちにご馳走のほうを取って置いた。この食事と一緒に澄んだ水が味わわれたが、皆はこの水が世界じゅうのありとあらゆるポルトよりも、いや、スコットランドの高地全域であれほど珍重されている有名なアスクウィボー〔ゲール語で「生命の水」という意味で、ウィスキーという英語はこれの転訛。つまりウィスキーのこと〕よりも優《まさ》るように思ったのだった。
馬のことも忘れていなかった。ラマーダのなかに積まれていた大量の乾草がまぐさにも寝藁にもなった。すべての準備がととのってしまうと、グレナヴァンとロバートとインディアンはめいめいポンチョにくるまり、パンパの猟師がいつもベッドにするアルファレスの褥《しとね》の上に身を横たえた。
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十九 赤狼
夜が来た。新月の夜で、地上の人間には月は一晩じゅう見えぬはずだった。ぼんやりした星明りだけが平原を照らしていた。地平線の黄道あたりの星座は色の濃い靄のなかに消えた。グワミニ河の水は大理石盤の上をすべる長い一筋の油のように音もたてずに流れていた。鳥も四足獣も爬虫類も一日の疲れから身を休め、無人境の沈黙が渺茫《びょうぼう》たるパンパス地帯にひろがっていた。
グレナヴァンとロバートとタルカーヴも万物を支配する掟から免れなかった。うまごやしの厚い寝床の上に横たわって彼らはぐっすりと眠っていた。疲れ切った馬たちも地面に横になっていた。ただ本当の純血種の馬であるタウカだけが動いているときと同じく休んでいるときも昂然として、主人がほんのちょっと合図しさえすれば飛び出す身構えで四本の脚をまっすぐに伸ばして立ったまま眠っていた。完全な静けさが囲いのなかにみなぎり、炉の炭はだんだんと消えてひっそりとした闇のなかに最後のほのかな光を放っていた。
しかし一〇時頃、そう長くもない睡眠の後でインディアンは目を覚ました。彼は眉をひそめて目を据え、平原のほうへ耳をそばだてた。あきらかに彼は何か耳にとまらぬほどの物音をうかがっていたのだ。間もなくぼんやりした不安がいつもはあれほど物に動じない彼の面上にあらわれた。夜うろついているインディアンの近づくのを、またはジャグワールか河虎かその他川のそばには稀でない恐るべき野獣の来襲を感じたのであろうか? この後のほうの仮定がおそらく彼には正しいように思われたのだろう。なぜなら彼は囲いのなかに積み上げてある燃料にすばやく目をやったが、彼の不安はますます募った。事実このアルファレスを乾した敷藁などはじきに燃え尽きてしまい、大胆な動物を長いあいだ引き止めておくことはできそうもなかった。
こうした状態ではタルカーヴには待機するほかはなかった。そして彼は半ば身を横にしたまま、突然の不安のため夢を破られたばかりの人間の姿勢で、頭を両手で支え肘を膝にのっけて目を据えながら待った。
一時間たった。これがタルカーヴでなかったら、外の沈黙に安心してふたたび寝床に身を投げ出したことだろう。しかし外国人が何一つ感じ取らぬ場合にも、インディアンの極度に緊張した感覚と生来の本能は近くに迫った何らかの危険を予感していた。
彼が耳をすまし様子をうかがっていたときタウカが鈍い嘶きを発した。その鼻はラマーダの入口のほうにむかって伸びた。パタゴンはさっと身を起こした。
「タウカは敵がいるのを感じたんだ」と彼は言った。
立ち上って行って彼は平原を注意深く見まわした。
沈黙はまだ平原を蔽っていたが、もはや静けさはなかった。タルカーヴはクラ・マンメルの茂みのあいだを影が音もなく動いているのを見た。あちこちできらきらとした点が光っており、それらの点は縦横に交叉し、かわるがわる光ったり消えたりしていた。果てしのない沼沢の鏡にうつる鬼火の踊りのようだった。この国の人でなければこの飛びまわるきらめきを、夜になるとパンパス地方の各所に光る螢属の昆虫と思ったことだろう。しかしタルカーヴは見誤らなかった。彼は相手がどんな敵であるかを悟った。カービン銃に装填し、囲いの一番はしの杭のそばへ行って彼は見張りに立った。
長くは待たなかった。異様な叫び、犬の吠える声と咆哮《ほうこう》との混ったような叫びがパンパに響いた。カービン銃の銃声がそれに答え、つづいて無数のすさまじい叫喚が起こった。
グレナヴァンとロバートははっと目が覚めて立ち上った。
「どうしたの?」とグラント少年はきいた。
「インディアンか?」とグレナヴァンは言った。
「ちがう」とタルカーヴは答えた。「アグワラです」
ロバートはグレナヴァンに目をやった。
「アグワラって?」
「うん」とグレナヴァンは答えた。「パンパの赤狼さ」
二人とも自分の銃をひっつかんでインディアンのところへ駈けつけた。インディアンは平原を指差した。平原からはものすごい咆哮の合唱がわきあがった。
ロバートは思わず一歩あとずさった。
「おまえは狼などこわくないだろうね?」とグレナヴァンは彼に言った。
「ええ、ミロード」とロバートはしっかりした声で答えた。「それに、あなたのそばにいれば僕は何もこわくないんですから」
「それは結構だ。このアグワラという奴はそう恐ろしい動物ではない。そんなにたくさんいなければ私は歯牙《しが》にもかけないんだが」
「かまうもんですか! 武器はある。襲って来るがいい!」
「目に物を見せてやるさ!」
このように言いながらグレナヴァンは少年を安心させようとしたのだ。実は彼は、夜の闇のなかにあばれまわる肉食獣のこの大群を思うとひそかな恐怖を禁じ得なかったのである。もしかすると彼らは数百匹いたかもしれない。そしていかに弾薬があろうと三人の人間ではこれほどの数の獣を相手に有利にたたかうことはできなかった。
パタゴンが〈アグワラ〉という言葉を言ったとき、グレナヴァンにはただちにそれがパンパのインディアンたちが赤狼につけている名だとわかったのである。博物学者が〈canis jubatus〉と呼ぶこの食肉目は、大きな犬くらいの大きさで狐のような頭をしている。その毛は肉桂色で、背には背骨にずっと沿って黒いたてがみがひるがえっている。沼沢地に住み、泳いで水生動物を追う。昼間は巣穴のなかで眠っていて、夜になると出て来る。畜群を飼養している農場《エスタンシア》では特にこの動物は恐れられている。なぜなら、ちょっとでも飢えに迫られると大型の家畜にもむかって行き、莫大な損害を与えるからである。一匹だけのときにはアグワラは恐れるにあたらない。しかし飢えたこの動物が多数いるときは話は別で、一対一でたたかえるピューマもしくはジャグワールを相手にしたほうがまだましなのだ。
さて、パンパに鳴り響く咆哮を聞き、平原にはねまわる影の夥《おびただ》しさを見て、グレナヴァンはグワミニ河のほとりに集まっている赤狼の数を見そこなうわけには行かなかった。この動物どもは取り逃す心配のない餌を、馬の肉もしくは人間の肉をそこに嗅ぎつけており、一匹たりとも自分の分け前にあずからぬうちには塒《ねぐら》へ帰りはしないだろう。状況はそれゆえすこぶる憂慮すべきものであった。
そのあいだにも狼たちの環はすこしずつ狭まった。馬たちは目を覚ましてこの上ない恐怖のしるしを見せた。ただタウカは頭絡《とうらく》を破ろうとし、外に飛び出そうとしながら地面を蹴っていた。絶えず口笛を吹いて聞かせてようやくタルカーヴは彼をしずめることができた。
グレナヴァンとロバートはラマーダの入口を守る位置にあった。それぞれカービン銃に装填し、第一列のアグワラどもにむかってまさに発砲しようとしていた。そのときタルカーヴは彼らがすでに狙いをつけていた銃を手で押し上げた。
「タルカーヴはどうしようというんでしょう?」とロバートは言った。
「射ってはいけないというんだ!」とグレナヴァンは答えた。
「どうして?」
「たぶん機が熟していないと思ったのだろう」
インディアンがそうしたのはそんな理由からではなく、もっと重大な理由からだった。そしてタルカーヴが自分の火薬入れを取り上げて裏返し、中がほとんどからっぽになっているのを見せたとき、グレナヴァンはその理由を悟った。
「それでは?」とロバートは言った。
「うん、それではわれわれの弾薬を倹約しなければならない。今日の猟は高くついてしまった。弾丸も火薬も不足している。二〇発分も残っていないんだよ!」
少年は答えなかった。
「こわくはないか、ロバート?」
「ええ」
「よし」
ちょうどそのときまた銃声が響いた。タルカーヴが大胆すぎる獣を一匹射ち倒したのだ。密集した列をなして進んで来た狼どもは後退し、囲いから一〇〇歩ほどのところにかたまった。
すぐさまグレナヴァンがインディアンの合図を受けて彼の位置についた。インディアンは敷藁や草や、要するにすべての燃えるものを集めてラマーダの入口に積み、まだ火のついている炭をその上に投げた。やがて炎が幕のように暗い空の背景の上にひろがり、その切れ目から平原は揺れ動く大きな反映にあざやかに照らし出されて見えた。グレナヴァンはこのとき、どれほどたくさんの獣を相手にたたかわねばならないのかを判断することができた。これほど多くの狼が一どきに見られたことも、またこれほど欲望に駆られているところが見られたことも一度もなかった。タルカーヴが今燃やした火の防壁は彼らの前進をぴたりと止めると同時に彼らの怒りを倍加させた。何匹かは真赤に燃えているところまで進み出て、脚にやけどを負いさえした。
時々一発また一発と放って咆哮するこの群れを押し止めねばならず、一時間後には十数匹の屍体がすでに草原にちらばっていた。
包囲された人間たちの危険はこれで比較的すくなくなった。弾薬のつづくかぎり、火の防壁がラマーダの入口に立っているかぎり、侵入を恐れる必要はなかったからだ。しかしその後狼群を撃退するこれらの方法のすべてが失われたときにはどうしたらよかろう?
グレナヴァンはロバートに目をやり、感動に胸のふくらむのを感じた。年に似合わぬ勇気を見せているこのかわいそうな子供のことを、彼は自分自身のことを忘れて思った。ロバートは蒼白だったが、その手は銃を放さず、毅然としていきりたった狼どもの襲撃を待ちかまえていた。
けれどもグレナヴァンは冷静に状況を考えたあげく、結着をつけようと覚悟をきめた。
「一時間後には、火薬も弾丸もなくなっているだろう。とすれば、断を下すのにその時まで待つわけには行かない」
そこで彼はタルカーヴのほうを振り向き、記憶にあるいくつかのスペイン語をかきあつめてインディアンと話をはじめたが、その会話もしばしば銃声で中断された。
この二人の男は大分苦労してどうにか相手の言うことを理解することができた。グレナヴァンは非常にさいわいなことに赤狼の習性をよく知っていた。さもなければ彼にはパタゴンの言葉や身振りを解し得なかったろう。
それでも、彼がタルカーヴの答をロバートに伝えることができたのは一五分もたってからだった。グレナヴァンはほとんど絶望的な状況についてインディアンに質問したのであった。
「で、何て答えました?」とロバート・グラントはきいた。
「どうあっても夜明けまで持ちこたえねばならないと言うんだ。アグワラは夜しか外へ出ず、朝になると巣にもどる。こいつらは闇の狼なんだ、昼の光を恐れる臆病な獣、四つ足の梟《ふくろう》なんだ!」
「よし、それじゃあ朝までたたかいましょう!」
「そうだ、銃でたたかえなくなったら短刀をふるってでも」
すでにタルカーヴがその手本を示していた。一匹の狼が火のところに近づいたとき、刃物を握ったパタゴンの長い腕は炎を貫いて伸び、もどったときには血に染まっていた。
けれども身を守る手段は尽きようとしていた。午前二時頃タルカーヴは最後の燃料をひとかかえ火に投げ、そして包囲された彼らにはもはや五発分の弾薬しか残っていなかった。
グレナヴァンは苦悶の目であたりを見まわした。
彼はここにいるこの少年、自分の仲間たち、愛するものたちのすべてを思った。ロバートは何も言わなかった。おそらく彼の楽観的な頭には危険はそれほどさしせまったものとは思えないのだろう。しかしグレナヴァンは彼のかわりに危険を考え、今では避けられる見込みのない恐るべき目前の事態を、生きたまま食われるという事態を思いうかべた! 彼は心の動揺を抑えることができなかった。少年を自分の胸に引きよせ、胸に抱きしめ、その額に接吻しながら、心ならずも涙は彼の目から流れ出た。
ロバートは笑顔で彼をみつめた。
「僕はこわくありません!」
「そうだ、ロバート、そうだ。そしておまえは正しいのだ。二時間もすれば朝が来、そしてわれわれは救われる!――みごとだ、タルカーヴ、よくやった、勇敢なタルカーヴ」と、火の防壁を越えようとした二匹の巨大な獣をインディアンが銃の台尻で叩き殺したのを見てグレナヴァンは叫んだ。
が、その瞬間、炉の消えかけた仄明りで彼は、密集した隊形を作ってラマーダを襲おうと進んで来るアグワラの群れを見た。
この血なまぐさいドラマの大詰めは近づいていた。燃えるものがなくなった火はだんだんと消えて行った。炎は低くなった。それまで照らされていた平原は闇にかえり、そしてその闇のなかにまた赤狼の燐光を放つ目もあらわれた。もう数分すれば群れ全体が囲いのなかになだれこんで来るだろう。
タルカーヴは最後のカービン銃の一発を放ってさらに一匹倒し、そうして弾薬が尽きたので彼は腕を組んだ。彼は胸につくほど頭を伏せた。黙って考えこんでいるように見えた。それでは彼は、この狂い立った群れを撃退する何か大胆な、無鉄砲な、常識では考えられないような方法を求めているのだろうか? グレナヴァンは敢て彼に質問し得なかった。
このとき狼どもの攻撃の様子にある変化が生じた。彼らは立ち去るように見え、それまであれほど耳を聾するようだった彼らの咆哮もぴたりと止んだ。陰鬱な沈黙が平原にひろがった。
「行っちまう!」とロバートが言った。
「そうかもしれない」外の物音に耳をすましながらグレナヴァンは言った。
しかしタルカーヴは彼らの考えを読み取って頭を振った。夜が明けて暗い巣穴に追いかえされぬかぎりこの動物どもが確実な獲物を見捨てて行きはしないことを彼はよく知っていたのだ。
けれども敵の作戦はあきらかに変っていた。
彼らはもはやラマーダの入口から押入ろうとはしなかった。だが彼らの新しい動きは前よりも一層さしせまった危険を作り出そうとしていた。武器と火であくまで守られているこの入口からはいることをあきらめて、ラマーダをまわり、一致して裏側から襲おうとしたのだ。
間もなく彼らの爪が半ば腐った木材に突き刺さるのが聞こえた。ぐらぐらする杭のあいだからすでに逞しい脚や血まみれの口がさしこまれて来た。馬たちは怯えて頭絡を破り、狂わしい恐怖にかられて囲いのなかを駈けまわる。グレナヴァンは最後のぎりぎりのところまで少年を守ろうとして彼を両腕で抱いた。おそらくグレナヴァンは不可能な脱出を試みて外へ飛び出そうとしていたのかもしれないが、そのとき彼の視線はおのずとインディアンのほうへむかった。
タルカーヴは野獣のようにラマーダのなかをぐるぐる歩きまわっていたが、もどかしげに体をふるわせている自分の馬に急に近づいて、一本の革具も一個の留金も忘れずに丹念に鞍を置きはじめた。このときますます激しくなりだした咆哮をも彼はもう気にしていないように見えた。グレナヴァンは不吉な驚愕をおぼえながら彼を見た。
タルカーヴが馬にまたがろうとする騎手のように手綱をかきあつめているのを見てグレナヴァンは叫んだ。
「われわれを見捨てて行くのか!」
「タルカーヴが! そんなことは決して!」とロバートは言った。
そして事実インディアンは、友を見捨てるのではなく、自分の身を犠牲にして彼らを救うことを試みようとしていたのだ。
タウカは身がまえていた。彼は轡《くつわ》を噛み、跳ねまわり、誇らしげな光に満ちたその目はきらめきを放っていた。彼は主人の考えを理解したのだ。
グレナヴァンはインディアンが馬のたてがみを握った瞬間に、痙攣する手で彼の片腕をつかんだ。
「行くのか!」と、このときは敵の姿のなくなっていた平原を指して彼は言った。
「ええ」仲間の身振りを理解してインディアンは言った。
それから彼はスペイン語で幾言かつけくわえたが、それは次のような意味の言葉だった。
「タウカ! いい馬。速い。狼たちを引っぱって行く」
「ああ、タルカーヴ!」とグレナヴァンは叫んだ。
「早く! 早く!」とインディアンは言い、一方グレナヴァンは感動のあまりかすれた声でロバートに言った。
「ロバート! 聞いたか? 彼は私たちのために身を犠牲にしようというのだ! パンパに飛び出して狼どもの怒りを自分にひきつけてほかへ逸《そ》らそうというのだ!」
「タルカーヴさん」とロバートはパタゴンの足にしがみついて言った。「タルカーヴさん、僕たちから離れないで!」
「そうだ、タルカーヴはわれわれから離れはしない」とグレナヴァンは言った。
それからインディアンのほうを向いて、怯えて杭に身をすりつけている馬たちを指しながら彼は言った。
「一緒に行こう」
その言葉の意味を正しく解したインディアンは答えた。
「いや。悪い馬。こわがっている。タウカ、いい馬」
「よし、それならそれでいい! タルカーヴはおまえから離れないよ、ロバート。私がどうすべきかをタルカーヴは教えてくれた。行くのは私だ! 彼はおまえのところに残る」
それからタウカの手綱を握り、
「私が行こう!」と彼は言った。
「いや」とパタゴンはおちついて言った。
「私だと言うんだ!」とグレナヴァンは彼の手から手綱を奪って叫んだ。「私だ! この子を救ってくれ! タルカーヴ、この子をおまえにあずける!」
グレナヴァンは昂奮のあまり英語とスペイン語を混ぜていた。しかし言葉など何だろう! このような恐るべき状況にあっては身振りがすべてを言い、人間はたちまち理解し合うものだ。けれどもタルカーヴは逆らった。この言い争いは長引き、危険は一秒々々と増大した。傷んだ杭はすでに狼の牙や爪に抗しきれなくなった。
グレナヴァンもタルカーヴも譲る気がないように見えた。インディアンはグレナヴァンを囲いの入口のほうへ連れて行った。彼は狼の姿のなくなった平原を指し、一刻も無駄にしてはならないということ、この手が成功しなかったならば残るものにとって危険は一層大きくなること、そして最後に、タウカのすばらしい身軽さと速さを皆の救いになるように使いこなせるだけこの馬をよく知っているのは自分だけだということを彼は熱した言葉で相手にわからせようとした。逆上したグレナヴァンは我意を張って自分が犠牲になると言い張ったが、突然彼は激しく押しのけられた。タウカは身を躍らせた。彼は後脚で立ち上り、きおいたって一気に火の防壁と動物の屍体のならんでいるあたりを突っ切り、そうして子供の声が叫んだ。
「ミロード、神さまがあなたを救ってくださいますように!」
そしてグレナヴァンとタルカーヴがロバートの姿を認めるいとまもほとんどないうちに、タウカのたてがみにしがみついた彼は闇のなかに消えてしまった。
「ロバート! 困った奴だ!」とグレナヴァンは叫んだ。
しかしこの言葉はそばにいたインディアンの耳にすらはいらなかった。恐ろしい咆哮がわきあがった。赤狼どもは馬の足跡を追って信じられぬほどの速度で西のほうへ走り出した。
タルカーヴとグレナヴァンはラマーダの外へ飛び出した。すでに平原はいつもの平穏さをとりもどしていた。遠く夜の闇のなかをうねって行く線がかろうじて見えるか見えないかだった。
グレナヴァンは打ちひしがれ、絶望し、両手を合わせて地面に倒れた。彼はタルカーヴを見た。インディアンはいつもながらの平静さで微笑した。
「タウカ、いい馬! 勇敢な子供! 逃げられるだろう」と、うなずきながら彼はくりかえした。
「しかし馬から落ちたら?」とグレナヴァンは言った。
「落ちはしない!」
タルカーヴの楽観にもかかわらず、残りの夜は哀れなロードにとってはすさまじい苦悶のうちに過ぎた。彼は危険が狼の群れとともに消え去ったことさえ意識していなかった。彼はロバートをさがしに駈け出そうとしたが、インディアンは引き止めた。馬は彼に追いつけないし、タウカは敵を引き離したに相違ないし、闇のなかで彼を見つけることはできないこと、朝になるのを待ってロバートの跡を追うべきだということを説明した。
午前四時に東の空は明るみはじめた。地平線上に凝縮した霧は間もなく淡い微光に色づいた。透明な露が平原にみなぎり、丈の高い草は朝風のそよぎに揺れはじめた。
出発の時は来た。
「出発」とインディアンは言った。
グレナヴァンは答えなかったが、ロバートの馬に飛び乗った。間もなく騎馬の二人は西へ、仲間たちが決して離れるはずのない直線ルートを引き返して全速力で馬を駆った。
一時間のあいだ彼らは、ロバートを目でさがし、今にも彼の血まみれの屍体にぶつからないかと恐れおののきながらこうしてすばらしい速度で進んだ。グレナヴァンは馬の横腹を拍車でずたずたにした。しまいに銃声が聞こえた。位置を知らせる合図のように規則的な間を置いて射っているのだ。
「彼らだ」とグレナヴァンは叫んだ。
タルカーヴと彼は馬をさらになお速く走らせて、しばらく後に彼らはパガネルの率いる別動隊と落ち合った。叫び声がグレナヴァンの胸から洩れた。ロバートがいたのだ、生きて、元気に、堂々たるタウカにまたがって。そしてタウカは自分の主人に再会して喜びの嘶《いなな》きをあげた。
「ああ、ロバート! ロバート!」グレナヴァンは言うに言われぬいとしげな表情で叫んだ。
そしてロバートと彼は地面に降りると駈けよってしっかりと抱き合った。それから今度はインディアンがグラント船長の勇気ある息子を胸に抱きしめた。
「生きていた! 生きていた!」とグレナヴァンは叫んだ。
「ええ!」とロバートは答えた。「それもタウカのおかげで!」
インディアンはこの感謝の言葉も待たずに自分の馬に礼を言い、まるで人間の血がこの誇らかな動物の血管のなかに流れているかのように話しかけ、接吻していた。
それからパガネルのほうを向いて彼はロバート少年を指差した。
「勇敢な子!」
そうして勇気を言いあらわすのに使うインディアンの譬えを持ち出して、「この子の拍車は震えなかった!」と彼は言い添えた。
一方グレナヴァンはロバートの体に両腕をまわして言っていた。
「どうしておまえは、おまえを救う最後のチャンスをタルカーヴなり私なりに試みさせてくれなかったのだい?」
「ミロード」と少年は深甚な感謝を語調にあらわして答えた。「身を犠牲にしなければならないのは僕ではないでしょうか? タルカーヴはすでに僕の命を救ってくれました。そしてあなたのほうはこれから僕の父を救ってくださるんですもの」
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二十 アルゼンチンの平原
この再会の最初の感激の後で、パガネルもオースティンもウィルスンもマルレディも、おそらくはマクナブズ少佐を除いて後に残った連中のすべてがあることに気がついた。つまり死にそうに喉がかわいているということに。まことにさいわいなことにグワミニ河は遠くなかった。そこで一同はふたたび歩き出し、午前七時にこの小さな一隊は囲いのそばに着いた。周囲に散らばっている狼の屍体を見れば、襲撃の激しさと防戦の果敢さは容易に察せられた。たっぷり水を飲んだ旅人たちは間もなくラマーダの囲いのなかですばらしい昼食をした。ナンドゥーのヒレ肉は珍味とされ、鎧のまま焼かれたアルマディリョは佳肴《かこう》としてもてはやされた。
「これを腹八分目でやめるなんていうことは神さまに対する忘恩だね、食いすぎるほど食わなくちゃならん」とパガネルは言った。
そして彼は食べすぎたが、特別腹をこわしもしなかった。それはグワミニ河の水のおかげで、彼にはこの水は非常にすぐれた消化促進的効能を持つように思えたのである。
午前一〇時に、カプアにおけるハンニバルのあやまちをくりかえしたくなかったグレナヴァンは出発の合図をした。革袋は水で満たされ、一行は出発した。充分飢渇を癒された馬たちは非常な元気を見せ、ほとんどしょっちゅう狩猟のときの駈け方の歩調を保っていた。水の多い地方はまた肥沃さも加えて来たが、依然として人気はなかった。十一月二日と三日の日中には何の事件も起こらず、その夕方は、長途の行進にすでに疲れ切った旅行者たちはパンパの果てるところ、ブエノスアイレス州の境界に野営した。彼らは十月十四日にタルカウアノ湾を出発したのであった。それゆえ二二日間で七二〇キロメートル、すなわち全行程の三分の二近くが無事に走破されていたのである。
翌朝一行は、アルゼンチンの平原をパンパ地域から分つものとされている線を踏み越えた。タルカーヴがハリー・グラントと二人の仲間がその手中に陥っているに違いないという酋長《カシケ》たちに出逢えるものと期待していたのはこのあたりだったのである。
アルゼンチン共和国を構成する十四州のうちブエノスアイレス州は最も広く最も人口が多かった。その境界は六四度線と六五度線のあいだでインディアン地域に接している。この州は驚くほど肥沃である。特に健康によさそうな風土が、禾本《かほん》科植物と木本の豆科植物に蔽われた、シエラ・タンディルとシエラ・タパルケムの麓までほとんど完全に水平をなしているこの平原を支配していた。
グワミニ河を去って以来、旅行者たちは温度が凌《しの》ぎやすくなったのを認めて非常に喜んでいた。絶えず大気の波を乱しているパタゴニアからの激しい寒風のおかげで平均温度は一七度を越えなかった。だから馬も人間も乾燥と暑熱にあれほど苦しめられて来たあげく、今はもう何一つ文句を言う理由はなかった。一同は活気と安心感をもって進んだ。しかしタルカーヴが何と言おうと、あたりはまったく人が住んでいないように見えた。いや、もっと適切な言葉を用いれば〈住民に見捨てられた〉ように見えたのだ。
ときどき東の境界線に沿って、また境界線を横切って、あるいは淡水の、あるいは鹹水《かんすい》の小さな沼沢がひろがっていた。その畔《ほとり》の藪《やぶ》にかくれて、身軽なみそさざいが飛びはね、色彩の点ではあの絢爛たる蜂雀《はちすずめ》に劣らない〈風琴鳥《タンガラ》〉をまじえて陽気な雲雀《ひばり》がさえずっていた。これらの綺麗な鳥たちは、肩章《けんしょう》や赤い胸をみせびらかして岸の斜面に分列行進する戦闘的な椋鳥《むくどり》たちを警戒もせずに嬉々として羽ばたきしていた。茨の藪には白人のハンモックのように〈アンヌービ〉の動く巣が揺れ、沼沢の岸にはすばらしいフラミンゴたちが整然と隊をなして歩きながら火の色の翼を風にひろげていた。三〇センチメートルほどの高さの先の欠けた円錐のような形のその巣が数千も群がっていて、いわば小さな町をなしているのが見られた。フラミンゴたちは旅行者たちが近づいてもあまり逃げなかった。これは学者パガネルには不満だった。
「ずっと前から私はフラミンゴの飛ぶところを見たいと思っているんだがね」と彼は少佐に言った。
「なるほど」と少佐は言った。
「さて、いい機会にぶつかったからこれを利用しよう」
「利用したまえ」
「私と一緒に来たまえ、少佐。おまえもおいで、ロバート。私には証人が要るんだ」
そしてパガネルは仲間たちを先に進ませて、ロバートと少佐を従えてフェニコプテール(フラミンゴの学名)の群れのほうへ進んだ。
充分弾のとどく距離まで来ると、彼は火薬だけで一発射った。彼はいたずらに鳥の血を流すような人間ではなかった。そしてすべてのフラミンゴが一斉に飛び立つと、パガネルは望遠鏡で注意深く彼らを観察した。
群れが見えなくなったとき彼は少佐に言った。
「どうだね、飛ぶのが見えたろう?」
「見えたとも」とマクナブズは答えた。「盲でないかぎり見ないわけには行かないよ」
「飛んでいるときフラミンゴは羽のついた矢のように見えると思ったかね?」
「一向に」
「全然」とロバートも言った。
「それにちがいないと思っていた!」と学者は満足げな面持で言った。「にもかかわらず、謙譲な人間たちのなかでは最も傲慢な人間だった私の有名な同国人シャトーブリアンは、フラミンゴを不当にも矢にたとえているのだ! ああ、ロバート、わかったろう。直喩《ちょくゆ》というものは私の知るかぎり最も危険な修辞的比喩だよ。一生これを警戒して、万やむないときでなければこれを使ってはいけない」
「それでは実験に満足したかね?」と少佐は言った。
「大満足さ」
「では私も大満足だよ。しかし馬を急がせよう。君の有名なシャトーブリアンのおかげでわれわれは一キロ半も遅れてしまった」
仲間たちに追いつくとパガネルはグレナヴァンがインディアンとしきりにしゃべっているのを見た。インディアンは何か不審なことがあるように見えた。タルカーヴはそれまで何度も馬を止めて地平線を見守り、そしてそのたびに彼の顔はかなり強い驚きをあらわしたのである。グレナヴァンは自分のそばにいつもの通訳が見当らなかったので、自分でインディアンにきいてみようとしたが、それは徒労だった。そこで遠くから学者を認めるや否や彼は叫んだ。
「パガネル、早く来てくれたまえ。タルカーヴと私ではほとんど話が通じないんだ」
パガネルは数分パタゴンと話をしていたが、やがてグレナヴァンのほうを振り向いて、
「タルカーヴはあることに驚いているのだが、これはほんとに奇妙なことなんだ」
「どんなことだ?」
「この平原でインディアン自身にもその足跡にもぶつからないことですよ。この平原にはいつもはインディアンの群れが歩きまわっているのだ、エスタンシアから盗んだ家畜を追って行くにしろ、また臭猫《ソリリョ》の毛の絨毯や革を編んだ鞭を売るためにアンデスまで行くにしろ」
「では、インディアンがそのように立ち去ったのはどんな理由からだとタルカーヴは思っている?」
「それは彼には言えないそうだ。ただ驚いているだけなんだ」
「しかしパンパのこのあたりでどんなインディアンに出逢うつもりだったんだろう?」
「それがまさに、捕われた外国人を手放さないでいる奴ら、カルフクラ、カトリエル、あるいはヤンチェトルスというカシケどもに率いられているあの原地民どもなんだ」
「それはどんな奴らだ?」
「三〇年ばかり前、山地《シエラス》から外へ追いやられるまでは絶大な力を持っていた頭目どもさ。その時以後奴らも、インディアンとして可能なかぎり帰順して、パンパシアの平原やブエノスアイレス州をほっつきまわっているのだ。だから私もタルカーヴ同様、普通奴らがそこでサルテアドール(追剥ぎ)を働いている地域で奴らの足跡に出逢わないので不思議に思っているのさ」
「しかしそれならばわれわれはどのような方針を取るべきだろう?」とグレナヴァンはきいた。
「そいつを聞いてみよう」とパガネルは答えた。
そしてタルカーヴとしばらく会話したあげく彼は言った。
「彼の意見はこうだが、これは私にも非常に賢明に思える。東へインデペンデンシア砦まで前進をつづけねばならない――これはわれわれの予定コースだが――そして、グラント船長の消息が聞けなかったとしても、すくなくともアルゼンチン平原のインディアンどもがどうなったかは砦でわかるだろう、と」
「そのインデペンデンシア砦というのは遠いのですか?」とグレナヴァンは言った。
「いや、九六キロメートルばかりの、シエラ・タンディルのなかにある」
「で、われわれがそこに着くのは?……」
「あさっての夕方」
グレナヴァンはこの一件に大分当惑した。パンパスのなかで一人のインディアンにも出逢わないなどということは、それこそまったく予期しないことだった。普通ならインディアンはいやになるほどいるのである。してみると、何か非常に特殊な事情によって追い払われたのでなければならなかった。それにしても、これはとりわけ重大なことだが、ハリー・グラントがそれらの部族の一つに捕われていたとして、彼が連れて行かれたのは北だろうか南だろうか? この疑いは絶えずグレナヴァンを苦しめてやまなかった。何が何でも船長の手がかりを見失ってはならなかった。結局一番いいのはタルカーヴの意見に従ってタンディルの村まで行くことだった。そこでならすくなくとも話し合える相手が見つかるだろう。
午後四時頃、このように平坦な地方でならば山と見られてもおかしくないような一つの丘が地平線に認められた。それはシエラ・タパルケムで、その日の夜旅行者たちはこの丘の麓に野営した。
このシエラの横断は何の苦もなく翌日おこなわれた。なだらかに傾斜する波打つような砂利だらけの土地を一行は進んだ。こんなシエラなどはアンデス山脈を踏破して来た連中たちには物の数にはいるものでなかったし、馬たちもその速い歩調をほとんど弛《ゆる》めなかった。正午にはタパルケムの砦の跡を通過したが、これは追剥ぎインディアンたちに備えて南の縁に張りめぐらされたあの小さな砦の連なりの最初の一環だった。しかしそのインディアンといえば影さえ見られず、タルカーヴはますます不思議になった。けれども正午頃、充分武装して立派な馬に乗った三人の平原を馳せめぐるインディアンが、ほんのちょっとのあいだこの小さな一隊を見守っていた。しかし彼らは相手を近づけようとせず、信じられぬほどの速さで逃げ去った。グレナヴァンは猛烈に腹を立てた。
「ガウチョ」とパタゴンは言った。この原地民たちに彼が与えた名称は、少佐とパガネルの議論を呼んだものであった。
「ああ、ガウチョか」とマクナブズは答えた。「どうだね、パガネル、北風は今日は吹いていない。あの動物のことを君はどう思うかね?」
「いかにも名だたる山賊みたいだと私は思うね」
「ではそう見えることから事実そうであることへは?」
「ほんの一歩だよ」
パガネルのこの告白は一同の笑いを呼びおこしたが、彼は一向それに動ぜず、それどころかこのインディアンに触れてまことに奇妙な観察を述べたのである。
「私はどこかで、アラビア人にあっては人間らしい表情は目つきにあるけれども、口には稀に見るような獰猛《どうもう》な表情があらわれているということを読んだ。ところがアメリカの野蛮人にあってはこれはあべこべだね。この連中は特別|悪辣《あくらつ》な目をしている」
専門の人相学者といえどもインディアン人種の特徴をこれ以上たくみに言いあらわしはしなかったろう。
けれどもタルカーヴの指図に従って一同は間隔を詰めて進んだ。あたりがどんなに人気ないように見えても奇襲を警戒しなければならなかった。しかしこの用心は無用だった。そして一同は酋長《カシケ》カトリエルが普通そこに配下の原地民の一味を集めている大きな部落《トルデリーア》の跡でその夜野営した。土地を調べてみて、新しい足跡がないことからパタゴンは、このトルデリーアがもうずっと前から引き払われていることを認めた。
あくる日グレナヴァンとその仲間たちはまたしても平原のなかにいた。シエラ・タンディルに一番近いいくつかのエスタンシア〔畜類の飼養のための大きな建物〕が認められた。しかしタルカーヴはそこに馬を止めずにまっすぐインデペンデンシア砦へ進むことに心を決めていた。その砦で彼は、とりわけこの見捨てられた地方の奇妙な現状についての情報を得るつもりだったのだ。
コルディリェーラ以来あれほど稀だった樹木がまたあらわれて来たが、大部分はアメリカの土地へヨーロッパ人が来てから植えられたものだった。栴檀《せんだん》、桃の木、ポプラ、楊柳《ようりゅう》、アカシアがあった。ひとりでに生え、しかもすみやかにみごとに生育している。これらの木は一般に、〈コラール〉と呼ぶ杭をめぐらした家畜用の大きな囲いのまわりに植わっているのだ。コラールでは焼鏝《やきごて》で持ち主の烙印を捺された数千の去勢牡牛、羊、牝牛、馬が草を食んで体を肥やしており、一方たくさんの大きな番犬がまわりを見張っていた。山々の裾にひろがる少々塩分を含んだ土は畜群にはすばらしく誂《あつらえ》え向きのもので、上等の秣《まぐさ》を産する。それゆえエスタンシアを設けるには優先的にこの土が選ばれる。エスタンシアは一人の執事と、一〇〇〇頭あたり四人の牧夫《ペオン》を配下に持つ牧夫頭によって切りまわされているのだ。
この連中は聖書に出て来る偉大な牧羊者のような生活を営んでいる。彼らの畜群はメソポタミアの平原を埋める畜群と同じくらい、いやおそらくはそれ以上に多いのだ。しかしここの牧夫には家族がいない。そしてパンパの大〈牧場主《エスタンセール》〉たちは野卑な牛商人そっくりで、聖書時代の族長《パトリアルシュ》みたいなところは全然ないのだ。
以上はパガネルが仲間たちにまことに雄弁に説明して聞かせたことだった。そしてこの問題に触れて彼は人種の比較についての興味津々たる人類学的議論をおっぱじめた。彼は少佐の興味をひくことにすら成功したが、少佐も決して興味をひかれたことをかくしはしなかった。
パガネルはまた、こうした水平な平原には非常によくある蜃気楼《しんきろう》の不思議な作用に注意をうながす機会を得た。エスタンシアは遠くから見ると大きな島に似ていた。その縁《へり》に生えているポプラと楊柳は、旅行者たちの足の前から逃げて行く澄んだ水に映っているように見えた。しかもこの錯覚はあまりにも完全で、人間の目はこれに慣れることなどできなかった。
この十一月六日の一日のあいだ一同はいくつものエスタンシアに出逢い、また一つか二つの塩漬工場《サラデーロ》にもぶつかった。滋養に富んだ牧場のまんなかで肥やされたあげく家畜はここへ来て屠殺人の庖刀に首をさらすのだ。その名の示すようにサラデーロは肉を塩づけにする場所なのである。この不快な仕事がはじまるのは春の終りだ。〈サラデーロス〉はこの頃コラールへ動物を取りに行く。ラソをたくみに操って彼らは動物をつかまえ、サラデーロへ連れて行く。ここで各種の牡牛、牝牛、羊が何百頭と殺され、皮を剥がれ、肉を削がれるのだ。しかし去勢していない牡牛は抵抗してつかまらないことがしばしばだ。皮剥ぎ屋がこうなると闘牛士に変る。そしてこの危険な商売を彼は非凡な手際のよさと、これは言っておかなければならぬが、同じく非凡な残虐さをもってやってのける。要するにこの屠殺場は凄惨《せいさん》な光景を呈するのだ。
サラデーロのあたりほど嫌悪をもよおさせるところはほかにない。この恐ろしい構内からは、皮剥ぎ人の獰猛な叫び、犬たちの不気味な声、断末魔の動物たちの長い悲鳴が悪臭をはらんだ空気と一緒に洩れて来る一方、アルゼンチン平原の大型の禿鷹であるウルブどもやアウラどもが数千羽となく八〇キロメートル四方から集まって来て、屠殺人たちからその手にかかった動物のまだひくひく動いている残骸を奪おうとするのだ。しかし今はサラデーロは住むものもなく、ひっそりして平和だった。あの大規模な殺戮の時はまだ来ていなかった。
タルカーヴは速度を上げた。彼はその夕方のうちにインデペンデンシア砦に着きたかったのだ。馬たちもそれぞれの主人に励まされタウカの手本に倣《なら》って地上の高い禾本科植物のあいだを疾走した。銃眼をそなえ深い溝で守られた農家がいくつか見られた。母屋《おもや》にはテラスがあって、兵隊のように組織されたその住人たちはテラスの上から平原の掠奪者に銃弾を浴せることができるようになっている。
グレナヴァンはおそらくそうした農家でも彼の求めている情報を得られただろうが、一番確実なのはタンディルの村まで行くことだった。一行は休止しなかった。ロス・ウエノス河も、そこから七、八キロメートルのチャパレオフ河も浅瀬を渡った。やがてシエラ・タンディルは盛り上って来て馬の蹄《ひづめ》の下に芝の敷きつめた斜面をひろげ、一時間後に村は、インデペンデンシア砦の銃眼を穿《うが》った壁がその上に聳える狭い谷の奥に見えて来た。
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二十一 インデペンデンシア砦
シエラ・タンディルは海抜三〇〇メートルの高さに立っている。これは原初の、つまりその構造や組成が地熱の影響で徐々に変って来たという意味で一切の有機的生命や変成作用による岩石の出現に先立ってできた、山脈なのである。この山脈は芝に蔽われた片麻岩の丘が半円形にならんでいるのだ。この山脈の名を取ったタンディル地方はブエノスアイレス州の南の全域を含み、その斜面に源を発するすべての川を北へ送り出している山腹を境界としている。
この地方にはおよそ四〇〇〇の住民がおり、その中心地はインデペンデンシア砦に守られてシエラの北側のいくつかの円丘の麓にあるタンディルの村である。その位置は重要なチャパレオフの流れに臨んでかなり恵まれている。これはパガネルの知らぬはずのない特色なのだが、この村は特にフランス系バスク人とイタリア人で構成されているのだ。事実、ラ・プラタ河の下流のこの流域に最初の外国人の植民地を建設したのはフランスだった。一八二八年に、くりかえされるインディアンの侵入からこの地を守るためのインデペンデンシア砦がフランス人パルシャップの肝煎《きもい》りで建てられた。ある一流の学者がこの事業においてパルシャップを援《たす》けたが、この学者アルシド・ドルビニーは南アメリカの南部諸国を一番よく知り、研究し、描いている人間である。
タンディルの村はかなりの要衝《ようしょう》だった。〈ガレーラ〉という平原の道を行くには打ってつけの大型の牛車によって村から一、二日でブエノスアイレスに行ける。そのため商業はかなりさかんだった。村はエスタンシアの家畜やサラデーロの塩漬肉、また綿布やウール地や非常に珍重される革を編んだ細工品などのインディアンの手になる非常に珍しい製品を町に送る。それゆえタンディルは、かなり快適な相当数の家のほかに、この世の教育とあの世の教育をおこなうための学校と教会を持っていた。
パガネルはこういう委細を述べてから、タンディルの村では情報がないはずはないとつけくわえた。その上砦にはいつも国軍の一部隊がいるのだ。そこでグレナヴァンはかなり見かけのいい〈宿屋《フォンダ》〉の厩《うまや》に馬を入れさせた。それからパガネルと少佐とロバートと彼はタルカーヴに案内されてインデペンデンシア砦にむかった。シエラの円丘の一つを数分登って、アルゼンチン兵の哨兵が大分なげやりな態度で立っている砦の入口に着いた。彼らは何の困難もなく入口を通ったが、このことはひどい怠慢かよほどの安全のいずれかを示していた。
数人の兵士がこのとき砦の前庭で教練をしていた。ところがこの兵士らのうち一番年上なのが二一歳、一番下はせいぜい七つになるかならずだった。実を言うと、なかなか立派な戦争の真似事をやっていたのは一二人ばかりの子供や少年にすぎなかったのである。彼らの軍服は縞のシャツで、胸に革のベルトを結んでいた。ズボンだの半ズボンだのスコットランドのキルトだのといったものは全然はいていない。それにまた温暖な気候のおかげで服装をこのように比較的簡単にしていられたのだ。そしてまずパガネルは、ごてごてした金筋などに金《かね》をわんさとつぎこまない政府に好感を持った。この小僧っ子たちはそれぞれ撃発銃とサーベルを持っていた。小さい連中にはサーベルは長すぎ、銃は重すぎたが、皆は日に焼けた顔をし、家族らしく見えた。彼らを指揮している教育係の伍長も彼らに似ていた。一人の兄の指揮下で分列行進している一二人の弟にちがいない。――いや、実際そうだったのである。
パガネルは驚かなかった。彼はアルゼンチンの統計を頭に入れており、この国では子供の平均数は一夫婦につき九人を越すことを知っていた。しかし彼をはなはだしく驚かせたのは、この小さな子供たちがフランス軍式の動作をし、一二段階に分けて突撃の主要行動を完全に正確にやってのけたことだった。それどころか、伍長の命令はしばしば地理学者の母国語で下されたのである。
「こいつは変っている」と彼は言った。
しかしグレナヴァンがインデペンデンシア砦に来たのは子供らの教練を見るためでも、いわんや彼らの国籍もしくは素姓に興味を持つためでもなかった。そこで彼はパガネルにそれ以上不思議がっている余裕を与えず、駐屯部隊の隊長に面会を求めてくれと彼に頼んだ。パガネルは言われたことを実行し、そしてアルゼンチン兵の一人が兵営となっている小さな家屋のほうへむかった。
しばらくして隊長自身が姿をあらわした。それは五〇歳ぐらいの、たくましい軍人風の男で、口髭はこわく、頬骨は突き出し、頭髪には白いものがまじり、傲然《ごうぜん》たる目つきをしていた――すくなくとも彼の短いパイプから上がる濛々たる煙の渦を通して判断し得たかぎりでは。彼の足取りはパガネルに、自分の国の老下士官に特有の歩き方を思い出させた。
タルカーヴは隊長にむかってロード・グレナヴァンとその仲間を紹介した。彼がしゃべっているあいだ隊長はいいかげん閉口するようなしつっこさでずっとパガネルの顔をみつめていた。学者はこの老兵が一体どうするつもりなのか見当がつかず、自分のほうから質問しようとしかけていたときに、相手は委細かまわず彼の手を握り、地理学者の母国語でうれしそうな声で言ったのだ。
「フランス人ですか?」
「ええ、フランス人です!」とパガネルは答えた。
「ああ、はじめまして! ようこそ! ようこそ! わしもフランス人で」と、恐ろしくなるほど力強く学者の腕を振りまわしながら隊長はくりかえした。
「君の友だちなのかい?」と少佐はパガネルにきいた。
「きまっているじゃないか!」とパガネルはある誇りをもって答えた。「五つの大陸に友だちがいるんだからね」
そして押しつぶすような生きた万力《まんりき》から大分苦労して自分の手を抜き取ってから、彼は力持ちの隊長とちゃんとした会話をはじめた。グレナヴァンは自分の用件に関係のあることを一言いいたいと思ったが、軍人は自分の身の上を話しており、しかも彼は中途で話を折られてもいいような気持ではなかった。このおっさんはずっと昔フランスを離れたこと、母国語にはもう疎遠になっていること、単語は忘れないまでも単語を繋ぎ合わせる仕方を忘れていることがわかった。彼の話し方はまずフランス領植民地の黒人といったところだった。事実、訪問者たちも間もなくこのことを知ったのであるが、インデペンデンシア砦の隊長は昔パルシャップと行を共にしたフランスの軍曹だったのである。
一八二八年の砦の建設以来、彼は一度もここを離れず、現在はアルゼンチン政府の承認を得て砦を指揮していた。彼は五〇歳で、バスク人だった。名はマヌエル・イファラゲレという。見られるとおり彼はスペイン人でないとしても、もうすこしでスペイン人とされてしまうところだったのだ。この国に来てから一年後マヌエル軍曹は帰化し、アルゼンチンの軍務に服し、そのころ六ヵ月の双児《ふたご》を養っていたまじめなインディアン女を妻にした。もちろん二人とも男の子だった。なぜなら軍曹の尊敬すべき細君は断じて女の子を生んだりすることは許されなかったからだ。マヌエルには軍職のほかはどんな職業も考えられず、時とともに神の加護を得て一個中隊の若い兵士たちを共和国に捧げたいと希望していたのである。
「見たでしょう!」と彼は言った。「すてきだ! いい兵隊だ。ホセ! ホアン! ミケーレ! ペペ! ペペは七つだ! もう銃の薬筒を噛み砕くほどだ!」
ペペは自分を褒めているのを聞いて小さな両足をそろえ、いかにもかわいらしく捧げ銃をして見せた。
「こいつは出世しますぞ!」と軍曹はさらに言った。「将来少佐か少将になる!」
マヌエル軍曹はあまり有頂天になっていたので、軍人という職業の優越性についても彼の好戦的な子孫の未来の運命についても反論のしようがなかった。彼は幸福だった。そしてゲーテの言ったように、「われわれを幸福にするものはいかなるものでも幻影ではない」のである。
こうした物語は一五分たっぷりつづき、タルカーヴを大いに驚かせた。一人の喉からこれほどたくさんの言葉が飛び出して来ることがインディアンには理解できなかったのだ。誰も隊長をさまたげなかった。しかしたといフランスの軍曹であろうと一介の軍曹ではいつかは話をやめなければならないから、マヌエルもとうとう口をつぐんだ。もっともその前にお客さんたちが彼の後について住居《すまい》に行かざるを得ないようにしてしまった上でだが。お客さんたちはあきらめてイファラゲレ夫人に紹介されることになったが、インディアンの女にこの旧世界の言葉が適用し得るものならば、彼女は〈善良な女〉であるように彼らには思われた。
それから自分の意志をすべて遂げてから軍曹は、どういうわけでご来駕の栄に浴したのかとお客さんたちにきいた。いま言わなければ永遠にその機会はない。パガネルはフランス語で口を切って、パンパスを横断するあの旅行の委細を述べ、最後にどういう理由でインディアンがこの地方を引き払ったのかと質問した。
「ああ!……一人も!……」と軍曹は肩をすくめて答えた。「ほんとに!……一人も!……われわれは手をこまねいて……どうしようもなかった!」
「だが、どうして?」
「戦争」
「戦争?」
「そう! 内乱……」
「内乱?……」とパガネルはくりかえしたが、それと気づかずに彼も〈片言《かたこと》〉をしゃべり出していた。
「そう、パラグワイ人とブエノスアイレス人との戦争」と軍曹は答えた。
「それで?」
「それで、インディアンはみんな北へ、フロレス将軍の後備を襲った。インディアン掠奪好き、掠奪する」
「しかしカシケたちは?」
「カシケたちも一緒に」
「何だって! カトリエルは?」
「カトリエルはいない」
「ではカルフクラは?」
「カルフクラはいない」
「ではヤンチェトルスは?」
「ヤンチェトルスももういない」
この答はタルカーヴに報告されたが、タルカーヴはいかにもという顔つきで頭を振った。実際、タルカーヴは知らなかったのか忘れていたのかしたのだが、後にブラジルの干渉を呼ぶことになる内戦で、共和国の二つの党派が殺戮し合っていたのである。インディアンにとってはこの内紛は得になるばかりだった。そして彼らはこのすばらしい掠奪の好機を逃すはずがなかった。それゆえ軍曹がパンパスにインディアンがいなくなったのはアルゼンチン諸州の北部でおこなわれている内戦のためだと説明したのは間違っていなかったのである。
しかしこの事件はグレナヴァンの計画をひっくりかえした。彼のたてた案はこれによって無効とされたのである。実際、もしハリー・グラントがカシケたちに捕われていたとすれば、彼らとともに北の国境のほうへ連れて行かれているに相違なかった。となれば、どこで、どのようにして彼を見つけ出せるか? パンパの北の果てまで危険な、しかもほとんど役にも立たない捜索を試みるべきか? これは真剣に討議されねばならぬ重大な決定であった。
それにしても、もう一つ重大な問いを軍曹にしてみる余地があった。そして友人たちが黙って顔を見合わせているあいだにその質問をしてみようと思いついたのは少佐だった。
「軍曹はヨーロッパ人がパンパのカシケたちの捕虜になっているということを聞いたことがありますか?」
マヌエルは記憶を呼びおこそうとする人間のようにしばらく黙考した。
「ある」と、しまいに彼は言った。
「ああ!」新しい希望にすがりついてグレナヴァンは言った。
パガネルとマクナブズとロバートと彼は軍曹をとりかこんだ。
「話してください! 話してください!」ぎらぎらする目で軍曹をみつめながら彼らは言った。
「数年前、うん……そうだ……ヨーロッパ人の捕虜だ……だが一度も見たことはない……」
「数年前か」とグレナヴァンは言った。「思いちがいでしょう……。遭難の年月ははっきりしている……。〈ブリタニア〉は一八六二年六月に沈んだのだ。だから二年足らず前のことです」
「おお、それよりも前ですよ、ミロード」
「そんなはずはない」とパガネルは叫んだ。
「いや、ほんとにそうなんだ! ペペの生まれたときだった……。二人の男だった」
「ちがう、三人だ!」とグレナヴァンは言った。
「二人」と軍曹は断定的な口調で言いかえした。
「二人!」とグレナヴァンはひどく驚いて言った。「イギリス人が二人?」
「いや、誰がイギリス人なんて言いました? いや……フランス人とイタリア人です」
「ポユーチェ族に虐殺されたイタリア人か?」とパガネルは叫んだ。
「そうだ! 後で私は知らされたんだが……。フランス人は救われた」
「救われた!」とロバート少年は叫んだが、彼の生命は軍曹の唇にかかっていたのだ。
「そう、インディアンの手から救われた」とマヌエルは答えた。
皆は絶望的な様子で自分の額を叩いている学者を見守った。
「ああ、わかったぞ」と、やっと彼は言った。「すべてはあきらかだ、すべては説明される!」
「だが、一体何のことだ?」とグレナヴァンは焦躁とともに不安をおぼえてきいた。
「諸君」ロバートの手を取ってパガネルは答えた。「大変な失望を味わうのもやむを得ないが、われわれは間違った足跡を追っていたのだ! 今問題になっているのは決して船長ではなく、私の同国人の一人なんだ。その仲間のマルコ・ヴァゼッロは事実ポユーチェ族に虐殺された。このフランス人は何度もあの残虐なインディアンと一緒にリオ・コロラドの岸まで行き、彼らの手から幸運にも逃れた後にフランスに帰った。ハリー・グラントの足跡をつけているつもりでわれわれはこのギナール青年〔A・ギナール氏は事実一八五六年から一八五九年までの三年間ポユーチェ・インディアンに捕われていた。彼は与えられた試練を非常な勇気をもって堪え、遂にウプサリャータ峡道を通ってアンデスを越えて脱走することに成功した。一八六一年に彼はフランスに帰り、今は地理学会で尊敬すべきパガネルの同僚の一人となっている〕の足跡にはまりこんでしまったのだ」
深い沈黙がこの言明を迎えた。誤りは歴然たるものだった。軍曹の述べた委細、捕虜の国籍、その仲間の殺害、インディアンの手からの脱走、すべては一致してこの誤りを一目瞭然たるものにしていた。
グレナヴァンはがっかりした顔でタルカーヴを見た。インディアンは口を切った。
「三人のイギリス人の捕虜のことを聞いていませんか?」と彼はフランス人の軍曹にきいた。
「全然」とマヌエルは答えた。「……そんなことがあったらタンディルではわかったはずだ……わしも知っているはずだ……が、そんなことはなかった……」
このはっきりとした答を聞いた上ではグレナヴァンはもはやインデペンデンシア砦には全然用事がなかった。仲間たちと彼は、もちろん軍曹に礼を述べ、いくつかの握手を交わした上でだが、そこを引き揚げた。
グレナヴァンは自分の期待がこのように完全にくつがえったことに絶望していた。ロバートは涙に目を濡らしながら何も言わずに彼のそばを歩いていた。グレナヴァンは彼を慰めようにも全然言葉が思いつかなかった。パガネルは独り言をいいながら身振り手真似をしていた。少佐はかたくなに口をつぐんでいた。タルカーヴはといえば、彼は間違った足跡を追ったことでインディアンとしての自尊心が傷つけられたように見えた。けれども誰一人としてまことに無理もない思い違いをした彼を咎《とが》めようとは思わなかったのである。
一同は宿屋《フォンダ》に帰った。
夕食は陰気だった。もちろんこれらの勇敢な献身的な男たちは一人として、その必要もないのにあれほどの労苦に堪えて来たこと、あれほどの危険を無駄にくぐりぬけて来たことを悔みはしなかった。しかし誰もが成功の希望がすべて一瞬のうちについえるのを見たのだ。実際、シエラ・タンディルと海とのあいだでグラント船長に会えるだろうか? 会えない。もし誰かが大西洋沿岸でインディアンの手中に捕えられたとすれば、マヌエル軍曹はきっとそのことを知らされたはずである。この種の事件が、タンディルからリオ・ネグロの河口のカルメンにかけて絶えず商売をしている原地民たちの関心をひかずに終ることはあり得ない。アルゼンチン平原の商人たちのあいだはどんなことでも筒抜けに知られ、噂されているのだ。それゆえ取るべき策は一つしかなかった。これからすぐメダーノ岬の予定の地点で〈ダンカン〉と落ち合うこと、これだった。
けれどもパガネルは、それを頼ったばかりに彼らの捜索がてんで見当はずれのほうに行ってしまったあの文書を見せてくれとグレナヴァンに要求していた。彼は怒りをあらわに見せながらそれを読みかえした。新しい解釈を掘り出そうとしていたのだ。
「この文書は何といってもはっきりしている!」とグレナヴァンはくりかえした。「船長の遭難と捕われた場所とを疑いをはさむ余地のないように書いてあるのだ!」
「いやいや、そうじゃない!」と、テーブルを拳でたたいて地理学者は答えた。「断じてちがう! ハリー・グラントはパンパスにいない以上、アメリカにいないんだ。さて、彼がどこにいるかはこの文書が教えるはずだ。そして事実教えるだろう、諸君、そうでなければ私はもはやジャック・パガネルではない!」
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二十二 氾濫
インデペンデンシア砦から大西洋岸までは二四〇キロメートルの距離だった。予期しない手間取りさえなければ、グレナヴァンは四日以内に〈ダンカン〉に帰っているはずだった。しかしグラント船長を連れずに、捜索に完全に失敗して船に帰ると考えると、彼はどうしてもやりきれなかった。そこで夜が明けても彼は出発の命令を下そうと思わなかった。少佐が自分の責任で馬に鞍を置かせ、食糧を補給し、道程を調べた。彼の活躍のおかげで小さな一隊は午前八時にはシエラ・タンディルの芝に蔽われた円丘を降りて行った。
グレナヴァンはロバートとならんで一言もいわずに馬を駆っていた。豪放果断な彼の性格ではこの失敗を平然として受け容れることはできなかった。彼の心臓は張り裂けるほど鼓動し、頭は燃えていた。パガネルは思うようにならないのにじりじりしながら文書の一語々々いろんな具合にひっくりかえして新しい指示を引き出そうとしていた。タルカーヴは黙然としてタウカの歩みにまかせていた。少佐はあいかわらず楽観的で、失意などというものが取りつく隙《すき》のない人間らしく毅然《きぜん》として自分の役割を果たしていた。トム・オースティンと二人の水夫は主人と同じく暗然としていた。一度臆病な兎がシエラの山道で彼らの前を横切ったとき、迷信的なスコットランド人は顔を見合せた。
「悪い前兆だ」とウィルスンは言った。
「うん、ハイランドではな」とマルレディは答えた。
「ハイランドで悪いことがこちらでよくなるはずはない」とウィルスンはしかつめらしく言った。
正午ごろ旅行者たちはシエラ・タンディルを越えて、海までひろがっている大きく起伏した平原にまた出た。どこへ行っても澄んだ川がこの豊かな地方をうるおし、背の高い牧草のなかに消えて行った。嵐の後の大海のように地面はまたいつもの水平さにかえった。アルゼンチン領パンパシアの最後の山も過ぎ、単調な草原は馬の蹄《ひづめ》の下に長い緑の絨毯をくりひろげた。
これまで天気はよかった。しかしこの日は空は不穏な様子を示した。それまでの数日の高温で生じた大量の水蒸気は厚い雲になって、豪雨となって堰《せき》を切るものと思われた。そのうえ海が近いことと、そこを支配している西の風のために、この地方の気候は特別湿度が高かった。土地の豊かさ、肥えて繁茂する牧草とその暗緑の色を見ればそれはわかった。けれども、すくなくともこの日は大きくひろがった雲は堰を切らず、その夕方馬たちは六四キロメートルの行程を元気よく走り通して、深い〈カナーダ〉、つまり水をたたえた巨大な自然の溝の縁に足を止めた。どこにも身をかくすところはなかった。ポンチョがテントにも蒲団にもなり、めいめいは険悪な空の下で眠った――まことにさいわいなことに空は険悪以上にはならなかったが。
翌日、平原が低くなって行くにつれて地下水の存在はますますはっきりとその徴候をあらわした。水気は地面のあらゆる穴からにじみでた。間もなく、あるものはすでに深くなっている、あるものはできかかりの沼が東に通ずる道を切っていた。輪郭のはっきりした、水草のない水の溜りである〈ラグーナ〉であるかぎりは、馬は造作なくそれを渡れた。しかし〈ペターノス〉と名づけられるあの不安定な泥土のときはそううまくは行かなかった。高い草が蔽っていて、中に踏みこんで見なければ危険はわからないのだった。
これらの泥沼はすでに一度ならず生き物の命を奪っていた。事実ロバートも、八〇〇メートルほど先に行っていたのだが、馬を飛ばして帰って来て叫んだ。
「パガネル先生! パガネル先生! 角《つの》の林です!」
「何!」と学者は叫んだ。「角の林を見つけたのかい?」
「ええ、ええ、すくなくともちょっとした雑木林というところですよ」
「雑木林だって! 夢を見ているんだよ、おまえは」とパガネルは肩をすくめて答えた。
「僕は夢を見てはいませんよ、自分でごらんになればわかります! 奇妙な国だなあ! 角の種子《たね》をまくと麦みたいに生えて来るんだ! 僕もその種子がほしいな!」
「しかし、この子は本気で言っているんだよ」と少佐が言った。
「そうですよ、少佐殿、もうじき見られますよ」
ロバートは間違っていなかった。そして間もなく一行は、視野のかぎりひろがっている整然と植えつけられた広大な角の畑の前に出たのである。実際それは、低く密生した異様な雑木林だった。
「どうです?」とロバートは言った。
「これは奇妙だ」と、インディアンのほうを向いて尋ねるようにパガネルは答えた。
「角は土から出ている、しかし牛は下にいる」とタルカーヴは言った。
「何だって!」とパガネルは叫んだ。「一つの群れ全体がこの泥のなかに沈んでいるのか?」
「そう」とパタゴンは言った。
事実無数の畜群が、それが駈けたために揺らいだこの地面の下で死んだのであった。数百頭の牛がこのようにして命を失った、広い泥沼のなかにならんで窒息して。アルゼンチンの平原でときどき起こるこの事実は、インディアンならば知らずにすまされぬものだった。そしてこれは、考慮に入れておかねばならない警告だった。古代の最も気むずかしい神々をも満足させたにちがいないこのすさまじい大殺戮の場を一行は迂回して行き、一時間後には角の畑はもう三キロメートルもうしろにあった。
タルカーヴはこういう状態をある不安をもって観察していた。彼にはこれが尋常には思えぬらしかった。何度も彼は馬を止めて鐙《あぶみ》の上で伸び上った。背の高い彼は広大な地平線を一望におさめることができた。しかし納得できるような理由が一つも見つからないので、彼はじきに中断された歩みをまたつづけた。一キロ半ほど行って彼はもう一度馬を止め、コースから外れてあるいは北へ、あるいは南へと七、八キロメートル偵察し、それからまた隊の先頭に立ったが、何を期待しているのかも何を恐れているのかも全然言わなかった。何度かくりかえされるこの動きはパガネルの興味をひき、グレナヴァンを不安にした。学者はそこでインディアンにきいてみてくれと促された。彼はさっそくきいてみた。
タルカーヴは平原が水に浸されているのが不思議なのだと答えた。自分の知るかぎり、しかも彼が案内人を業として以来、一度もこれほど水浸しの土を踏んだことはなかったという。大雨の季節でさえアルゼンチンの原野には通行可能な道があるのだ。
「しかしこの水気が多くなるのは何によるのだろう?」とパガネルはきいた。
「わからない」とインディアンは答えた。「第一それがわかっていたら!……」
「雨で増水したシエラの川が氾濫することはないかね?」
「ときどき」
「では今はもしかすると?」
「もしかすると!」とタルカーヴは言った。
パガネルはこの中途半端な答で満足しなければならなかった。そして彼はグレナヴァンに会話の結果を知らせた。
「で、タルカーヴはどうしろと言う?」とグレナヴァンは言った。
「どうしたらいい?」とパガネルはパタゴンにきいた。
「早く進むこと」とインディアンは答えた。
この進言は、与えるは易いが実行するのは困難だった。馬たちはずぶずぶと入る土を踏むことにたちまち疲れて来た。土地の沈下はますますはっきりして来て、平原のこのあたりは、侵入する水が急速に溜って来るに違いない巨大な低地と区別がつかなくなった。それゆえ、洪水となればただちに湖に変ずるこのような下り坂の場所をぐずぐずせずに通り抜けることがどうしても必要だった。
一同は馬を急がせた。しかし馬の蹄の下に一面にひろがるこの水だけでは事は済まなかった。二時頃空の滝が堰を切り、熱帯の豪雨が平原に降り注いで来た。達観した人間たることを示そうとすればこれにまさる好機はなかった。この大洪水を逃れる方法は全然なく、ストイックにこれを浴びる覚悟をきめるのが最上策だった。ポンチョはびしょびしょだった。帽子は樋《とい》が詰った屋根のようにざあざあ水を落した。馬具《レカード》は水の網でできているように見え、馬の蹄が一歩々々地面の奔流に踏みこむたびにそのしぶきを浴びる騎手たちは、地面と空の双方から一どきに来る驟雨《しゅうう》に見舞われながら馬を駆った。
このようにして、びしょ濡れになり、凍え切り、疲労困憊《ひろうこんぱい》して彼らはその夕刻まことにみすぼらしいランチョにたどりついた。よほど進退きわまった旅人でなければここに避難しようなどという気にならなかったろう。しかしグレナヴァンとその仲間たちにはほかにどうしようもなかったのだ。彼らはそれゆえ、パンパスの貧しいインディアンでもほしいと言いそうもないこの見捨てられた小屋のなかにうずくまった。温かさよりも煙のほうをたくさん発散する情ない草の焚き火が、苦労したあげくに燃えだした。雨をたたきつける疾風が外では荒れ狂い、腐った藁から大きな滴がにじんで来た。炉が二〇回も消えなかったとすれば、それはマルレディとウィルスンが二〇回もその侵入とたたかったからである。お粗末であまり腹の足しにならない夕食のあいだは陰気だった。食欲もなかった。ただ少佐だけは濡れた乾肉《チャルキ》に舌鼓を打ち、全部たいらげた。物に動じないマクナブズはどんなことがあっても超然としていた。パガネルのほうはフランス人らしく冗談を言おうとした。しかし誰も取り合わなかった。彼は言った。
「私の冗談は|しけ《ヽヽ》てしまった。不発だ!」
それにしても、この状況で一番楽しいのは眠ることだったから、各人は睡眠のなかで疲れを一時でも忘れようとした。たまらない夜だった。ランチョの板は割れないかと思うほどがたがたした。不幸な馬たちは無慈悲な自然にさらされながら外で呻き、主人たちは粗末な小屋のなかでそれに劣らず苦しんだ。それでもとうとう眠りが勝った。まずロバートが目をつぶってロード・グレナヴァンの肩に頭をもたせ、間もなくランチョの客たちはすべて神に見守られて眠っていた。
神はよく彼らを守ってくれたらしい。その一夜は事故もなく明けたからだ。一同はタウカの呼び声で目を覚ました。タウカはずっと眠らずにいて、外で嘶《いなな》き、力強い蹄で小屋の壁を叩いたのだ。必要とあればタルカーヴのかわりにタウカが出発の合図を与えることもできたのだ。タウカにはさんざん世話になっているので彼の言うことを聞かないわけには行かず、一同は出発した。雨は小降りになっていたが、水を透さぬ地面は降った雨水を浮かせていた。その不透性の粘土の上で、水溜りや沼や池は氾濫し、おそろしく深い〈バナード〉を作っていた。パガネルは地図を按《あん》じながら、いつもこの平原の水が流れこむリオ・グランデとビバロータ河は一つになって七、八キロメートルの広さの河床を作っているに相違ないと考えたが、そう思うのも理由のないことではなかった。
そうなるとできるかぎり急がねばならなかった。皆が救われるか否かの問題だった。もし増水がひどくなったらどこに避難できよう? 地平線に限られた広大な円のなかにはたった一つの高地もなく、この水平の平原の上では水のひろがり方は急速であるとしか思えなかった。
それゆえ馬は最大速度で駆りたてられた。タウカは先頭に立っていたが、強力な鰭《ひれ》を持ったある種の水陸両棲動物にもましてタウカは海馬の名に価した。まるで水を得た魚のように彼は身を躍らせたのだ。
午前六時ごろ急にタウカは極度の不安のしるしを見せた。彼は南の平坦な曠野のほうをしきりに振りかえり、その嘶く声は長くなり、鼻は強く空気を吸いこんだ。乱暴に後脚で立ち上がる。タルカーヴはどんなに跳ねられても落ちなかったが、苦もなく馬を抑えているわけではなかった。馬の口から吐く泡は力づよく引き締める銜《くつばみ》のために血と混るが、それでも血の気の多い馬はしずまらなかった。もし自由だったら脚力のかぎりフルスピードで北のほうへ逃げ出したろう。馬の主はそれをはっきりと感じた。
「一体タウカはどうしたんだ?」とパガネルはきいた。「アルゼンチンの水に住むあの貪欲な蛭《ひる》に噛まれたのかい?」
「いや」とインディアンは答えた。
「それでは何かの危険に怯《おび》えているのか?」
「そうだ、危険を感じている」
「どんな?」
「わからない」
タウカが感じ取ったその危険を目はまだ見出していないとしても、すくなくとも耳のほうはすでにその見当をつけることができた。事実上げて来る潮の音のような鈍いざわめきが地平線のむこうから聞こえて来た。風は水しぶきを孕《はら》んだ湿った突風となって吹きつけた。鳥たちは何か知れない自然現象を逃れてあわただしく宙を横切って行った。脚の半ばまで水につかった馬たちは流れが押して来はじめるのを感じた。間もなく南方七、八百メートルのところで牛や馬や羊のすさまじい啼き声が響きわたり、無数の畜群があらわれた。彼らはあわてふためき算を乱して倒れたり起き上ったり突進したりしながら、恐ろしい速度で逃げていた。その疾走のひきおこす水の渦巻のなかで彼らを見分けることはほとんど不可能だった。最大の鯨が一〇〇頭集まっても大洋の水をこれ以上激しくかきまわしはしなかったろう。
Anda, anda !(早く、早く)とタルカーヴは雷のような声で叫んだ。
「一体これは何だね?」とパガネルはきいた。
「氾濫! 氾濫!」馬に拍車をあてて北のほうへ駆り立てながらタルカーヴは答えた。
「洪水だ!」とパガネルは叫び、そして彼の仲間たちは彼を先頭にしてタルカーヴの後を追って馬を飛ばせた。
あぶないところだった。事実南方八キロメートルのところで広く高く盛り上った水が原野の上になだれこみ、原野は大海に変った。高い草は刈り取られたように消えた。水にさらわれたネムノキ科の灌木の茂みは流れて小さな浮き島を作った。厖大な量の水は猛烈な勢いで幾筋もの深い流れとなった。もちろんパンパシアの大きな河が形作る谷《バランカス》は溢れ出し、おそらく北のリオ・コロラドと南のリオ・ネグロは今は河床を一つにして合流していた。
タルカーヴの認めた津波は競走馬のスピードで迫って来た。旅行者たちは嵐に吹きまくられる雲のようにそれから逃げた。彼らの目はむなしく避難所を求めた。空と水は地平線で溶け合っていた。身の危険に逆上した馬たちは狂おしく疾駆し、乗り手はかろうじて鞍に身を支えていた。グレナヴァンはしばしばうしろを見た。
「水が追いつく」と彼は思った。
Anda, anda !とタルカーヴは叫んだ。
そうして皆はなおも気の毒な動物を急がせた。拍車でせめられた馬の横腹からは鮮血が流れ出して水のなかに赤い筋を長く曳いた。馬たちは地面の亀裂につまずいた。隠れた草に妨げられた。倒れる。引き起こす。また倒れる。また引き起こす。水位はいちじるしく上って来た。長いうねりが来て三キロメートル足らずのところで恐ろしい泡立った波頭を見せているあの津波が襲いかかって来ることを予告した。自然のなかでも最も恐るべきこの要素との生死を賭けた闘いは一五分もつづいた。逃げて行く人々には自分らがどれほどの距離を走ったか見当もつかなかったが、駈けて来た速度からすればこの距離は相当なものだったに相違ない。一方馬たちは胸まで水につかって、非常に苦労しながらでなければもう進めなかった。グレナヴァン、パガネル、オースティン、誰もがもうおしまいだと思い、海に投げ出された人間のあの恐ろしい死を免れられないものと思った。彼らの馬はもはや平原の地面に足がつかなかったが、水深が二メートルになれば馬は溺れてしまうのだ。上って来る水にとりまかれたこの八人の人間の居たたまれぬ不安はとても描写できるものではない。人間の力を越えた自然のこの大災害に対して闘う力のないことを彼らは感じた。彼らの救いはもはや彼ら自身の手中にはなかった。
五分後馬たちは泳ぎ出していた。今はもう水の流れだけが、途方もない激しさと、彼らの駈ける最大速度にひとしい速度、時速三二キロメートルを越えるに相違ない速度で彼らを押し流していた。
いかなる救いの道も閉ざされたように見えたとき、少佐の声が聞こえた。
「木だ」
「木?」とグレナヴァンは叫んだ。
「あそこに、あそこに!」とタルカーヴが答えた。
そして彼は一五〇メートルほど北のところの、水のまんなかに一本突っ立っている一種の胡桃《くるみ》の巨木を指差した。
仲間たちはもう励まされるまでもなかった。まったく思いがけず彼らの前にあらわれたこの木に何としてでもたどりつかねばならなかったのだ。馬たちはたぶんそこまで行けないだろう、しかしせめて人間は救われる。流れが彼らを運んで行った。そのときトム・オースティンの馬が一声嘶いて没した。馬の主は鐙《あぶみ》をはずして力強く泳ぎはじめた。
「私の鞍につかまれ」とグレナヴァンは彼に叫んだ。
「ありがとうございます。しかし腕はしっかりしていますから」
「ロバート、おまえの馬は?……」とグレナヴァンはグラント少年のほうを向いてまた言った。
「大丈夫です、ミロード、大丈夫です! 魚のように泳ぎます!」
「気をつけろ!」と少佐が強い声で言った。
この言葉がほとんど終らないうちに巨大な津波が襲って来た。一五メートルもの高さの恐ろしい波がすさまじい音とともに彼らの頭上に崩れかかったのだ。人も馬もすべて泡の渦のなかに没した。数百万トンという量の水が荒れ狂いながら彼らをまきこんだ。大波の去った後人間たちは水面に浮かび上り、すばやく人数を数え合った。しかし主《あるじ》を乗せたタウカを除いて馬たちは永遠に姿を消してしまった。
「しっかり! しっかり!」と、片腕でパガネルを支え片腕で泳ぎながらグレナヴァンはくりかえした。
「大丈夫! 大丈夫!……」と尊敬すべき学者は答えた。「それどころか、こういうのも悪くはないと私は思うよ……」
一体何が悪くないと思ったのか? それは遂にわからなかった。気の毒な男は言いかけた言葉の終りのほうを半パイントほどの泥水と一緒に嚥《の》みこまねばならなかったからである。少佐は水泳教師の目から見ても非の打ちどころのない規則正しい抜手を切っておちついて進んだ。水夫たちには水の中は勝手知ったところで、二頭の|いるか《ヽヽヽ》のようにすいすい進んだ。ロバートはどうかといえば、タウカのたてがみにしがみついて引っぱられて行った。タウカはすばらしいエネルギーをもって水を分け、流れがむかって行くあの木の方向に本能的にずっと頭を向けていた。
その木まではもうわずか三、四〇メートルだった。瞬時にして彼らは皆そこに着いた。幸運だった。なぜならこの避難所を逃したら救いのチャンスは消え失せ、波にまかれて死ぬほかはなかったからである。
水は幹の最上部の、大きな枝が分れ出しているところまで上って来た。だからそこにすがりつくのは容易だった。タルカーヴが馬を捨ててロバートを引き上げながら最初に攀じ登り、やがて彼の力強い手は疲れ果てた泳ぎ手たちを安全な場所に引っぱり上げた。しかしタウカは流れにさらわれて見る見るうちに遠ざかって行った。彼はその聰明そうな顔を主人のほうに向け、長いたてがみを振りながら嘶いて主人を呼んだ。
「あれを見捨てるのか!」とパガネルはタルカーヴに言った。
「私が?」とインディアンは叫んだ。
そして奔流のなかに飛びこむと、木から一五メートル以上先にまた姿をあらわした。しばらく後には彼の腕はタウカの首に置かれており、馬と乗り手は北のほうの霧のたちこめた地平線にむかってともどもに流されて行った。
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二十三 鳥の生活をする
グレナヴァンとその仲間たちが避難することのできた樹木は胡桃《くるみ》の木に似ていた。胡桃と同じつやつやした葉で円い形をしていたのだ。実はそれはアルゼンチン平原にぽつんぽつんと生えているのが見られる〈オンブー〉だったのである。巨大な曲りくねった幹を持つこの木は単に太い根を大地に張っているだけではなく、根から出る丈夫な若木でびくともしないほど地面につながれている。だから津波の襲来に堪えることができたのである。
このオンブーは高さ三〇メートルあまり、その落す影は円周一二〇メートルの面積を蔽うほどだった。それだけ層々と積みかさなったものが、幅一八〇センチメートルほどの主幹の上部で分岐した三本の太い枝に支えられていたのだ。これらの枝のうち二本はほとんど垂直にそそりたって巨大な葉群《はむら》のパラソルを支えており、葉をつけた小枝はまるで籠編み職人の手になるもののように交叉し混り合い縺《もつ》れ合って雨露を凌ぐに足りた。残りの一本はこれとは反対に轟々と音を立てる水の上にほとんど水平に横たわっていた。その下のほうの葉はすでに水につかっていた。それは大海にとりかこまれたこの緑の島の岬をなしていた。この巨木の上は場所に事欠かなかった。葉群は周辺のほうへ追いやられて、風通しもよく涼しさで一杯の、まったく森の空地のような大きな隙間ができていた。これらの親枝が無数の小枝を雲まで伸ばし、一方寄生木の蔓が親枝と親枝のあいだをつなぎ、そして日の光が葉群の隙から洩れて来るのを見れば、まったくこの一本のオンブーの幹それ自体のなかに一つの林があるように思われたろう。
一同が登って来ると、無数の鳥類がかまびすしく鳴いてかくも明白なこの住居侵入に抗議しながら高い枝々から飛び立った。これらの鳥たちもまたこの一本ぽつんと立っているオンブーに逃げこんでいたのだが、鶇《つぐみ》や椋鳥やイサーカやヒイゲーロや、とりわけあの輝かしい色彩をした蜂鳥ピカ・クロールなどと数百羽もいた。そして彼らが飛び立ったときには、突風がありとあらゆる花を木から吹き払ったように見えた。
これがグレナヴァンの小さな一隊に与えられた避難所であった。グラント少年と敏捷なウィルスンは木に上がるや否や急いで上のほうの枝に攀じ登った。彼らの頭はやがて緑の円屋根を突き破って出た。この頂上からは視界は大きくひろがった。洪水でできた大海は彼らの四方を取り囲み、視線はどこまで伸びてもその海の果てるところを認めることはできなかった。
水面からは一本の木も出ていなかった。氾濫する水のただなかにただ一本立つオンブーは水勢のために震えた。遠くには根こそぎにされた木々やねじれた枝や、どこかの倒壊したランチョからもぎとられた藁屋根やエスタンシアの屋根から水がさらって来た納屋の梁《はり》、溺死した動物の屍体や血だらけの皮が、猛烈な流れに運ばれて南から北へと流れて行き、一本のゆらめく木の上ではジャグワールの一家族が爪でこの覚束《おぼつか》ない筏にしがみついて咆えながら流れて行った。さらになおその向うの、すでにほとんど目にとまらないほどの黒い一点がウィルスンの注意をひいた。それはタルカーヴとその忠実なタウカだった。遠ざかって彼らの姿は見えなくなった。
「タルカーヴ、タルカーヴさん!」勇敢なパタゴンのほうへ手を伸ばしながらロバートは叫んだ。
「あの男は大丈夫ですよ、ロバートさん」とウィルスンは言った。「とにかく閣下のところへ行きましょう」
すぐさまロバート・グラントは三層をなしている枝を降りて幹の上部に帰った。そこではグレナヴァン、パガネル、少佐、オースティン、マルレディがそれぞれ持って生まれた自分の能力に応じて木にまたがったり、しがみついたりしながら坐っていた。ウィルスンはオンブーの頂まで行って見た結果を報告した。タルカーヴについて彼が言ったことには誰もが賛成した。疑いの残るのはタルカーヴがタウカを救うか、タウカがタルカーヴを救うかという問題についてだけだった。
たしかにオンブーに身を寄せた連中の状況のほうがはるかに憂慮すべきものだった。木はおそらく流れの力に屈しはすまいが、増大する水は高い枝にまで来るかもしれなかった。地盤の沈下のため平原のこのあたりは深い貯水池となっていたからだ。グレナヴァンが最初に考えたことはそれゆえ、木に目を刻んで水位を観察できるようにすることだった。氾濫した水はこのときは静止しており、最高水位に達しているように思われた。もうこれで安心できた。
「さてそれでは、これからどうするかね」とグレナヴァンは言った。
「きまっているじゃありませんか、われわれの巣を作ることだ」とパガネルは陽気に答えた。
「巣を作る?」とロバートは叫んだ。
「そうともさ、そして鳥の生活をするんだ。われわれには魚の生活はできないからね」
「よし!」とグレナヴァンは言った。「しかし誰が餌をくれる?」
「私が!」と少佐が答えた。
すべての視線はマクナブズに向けられた。少佐は二本のよくしなう枝でできた自然の肘掛椅子に心地よさそうに腰かけており、片手で彼は濡れた、しかし一杯詰まったアルフォルハスを差し出した。
「ああ、マクナブズ!」とグレナヴァンは叫んだ。「これはいかにも君らしいよ! 君はあらゆることに気がつくんだな、すべてを忘れても仕方がないという状況にあってすら」
「溺死しまいと決心したのは、飢え死にするためではないからね」と少佐は答えた。
「私だって気がついてもよかったはずだが、ただ私はひどく粗忽なんで!」とパガネルは無邪気に言った。
「で、アルフォルハスには何がはいっているんです?」とトム・オースティンがきいた。
「七人の人間の二日分の食糧だ」と少佐は答えた。
「結構」とグレナヴァン。「二四時間もすれば水は充分引いていると思うよ」
「でなければ陸に出る方法が見つかっているだろう」とパガネルが応じた。
「それではわれわれがまず為すべきことは食事だね」とグレナヴァン。
「それにしてもまず体を乾かさなくちゃ」と少佐が注意した。
「でも火は?」とウィルスン。
「そうさ、火をおこさなくちゃならん」とパガネル。
「どこに?」
「きまってるじゃないか、この幹の上でさ」
「何で?」
「枯枝で。この木のなかで切って来るんだ」
「しかしどうして火をつける?」とグレナヴァンがきいた。「私たちの|ほくち《ヽヽヽ》はまるで水を吸った海綿だよ!」
「そんなものはなくてもいい! 乾いた苔《こけ》が少々、太陽の光線、私の望遠鏡のレンズ、これだけあればどんな立派な火をおこせるか見ていただきたいもんだ。誰が林に薪をさがしに行く?」
「僕が!」とロバートは叫んだ。
そして仲好しのウィルスンを従えて若い猫のように木の茂みに姿を消した。彼のいないあいだにパガネルは充分な量の乾いた苔を見つけた。太陽の光線を見つけるのはたやすかった。太陽はこのときぎらぎらと輝いていたからだ。それからレンズを使って彼は、オンブーの親枝の分岐点に濡れた葉を敷いて、その上に置いた可燃物質を音もなく燃え上らせた。これは火事のおそれが全然ない自然の火床だった。
間もなくウィルスンとロバートは枯木をかかえて帰って来、枯木は苔の上に投げ出された。パガネルは風を送るためにアラビア人風にその長い両脚をひろげて火床の上に陣取り、急激にしゃがんだり立ったりして、ポンチョで激しく風を送った。木は燃え上り、間もなく音を立てて燃える美しい炎が間に合わせの火鉢から立ち昇った。各人は好きなだけ体を乾かし、木にかけたポンチョは風のそよぎに揺れた。それから一同は量を決めて食事をした。翌日のことを考えねばならなかったからである。広大な湖が干上がるのはグレナヴァンの期待よりも遅れるかもしれないし、とにかく食糧は非常に限られていたのだ。オンブーには一つも実がならない。さいわいこの木は、その枝についている無数の巣のおかげで相当量の新鮮な卵を――羽の生えた巣の主《あるじ》は別として――提供してくれた。これらの資源はなかなか馬鹿にしたものではなかった。
そこで今度は、長くここにとどまらねばならぬことを考えて、快適に住めるように手を加えねばならなかった。
「台所と食堂は一階にあるのだから、われわれは二階で寝ることにしよう」とパガネルは言った。「家は広い。家賃は高くない。遠慮するには当らない。ほら、上のほうに自然の揺籃《ゆりかご》がある。あそこでしっかりと体を結びつければ、この世で一番いいベッドで寝たように眠れるだろう。何も恐れねばならぬことはない。それに不寝番も立てるし、インディアンの艦隊やその他の野獣を追いはらうだけの人数もいる」
「武器がありませんよ」とトム・オースティンが言った。
「私は拳銃を持っている」とグレナヴァンは言った。
「僕も」とロバート。
「それが何になります?」とトム・オースティンが答えた。「パガネル先生が火薬を作る方法を思いついてくだされば別ですが」
「その必要はない」マクナブズが完全な状態にある火薬入れを見せて言った。
「どこからこれが、少佐?」とパガネルはきいた。
「タルカーヴさ。これがわれわれの役に立つと考えて、タウカを救いに飛びこむ前に私に渡したんだ」
「侠気《きょうき》のある立派なインディアンだ!」とグレナヴァンが叫んだ。
「そうです、もしパタゴンがすべてああいう人間だったら私はパタゴニアを讃美しますよ」とトム・オースティンが言った。
「馬のことを忘れてもらいたくないね!」とパガネル。「あれはあのパタゴンと一身同体だよ。私がよほど思い違いしているのでないかぎり、いつかわれわれは彼らに再会するにちがいないね、一方がもう一方を乗せて」
「ここは大西洋からどれくらいだろう?」と少佐がきいた。
「せいぜい六四キロメートルだ」とパガネルは答えた。「それでは諸君、これから自由行動だ。ご免こうむって私は失礼する。上のほうに観測所を見つけて、望遠鏡の力を借りて諸君にあたりの様子を報告しよう」
誰も学者に反対せず、彼は非常に巧みに枝から枝へと登って行き、厚い葉群《はむれ》のカーテンのかげに姿を消した。彼の仲間たちはそこで寝室を作りそれぞれのベッドをこしらえはじめた。これはむずかしい仕事でもなければ手間取りもしなかった。夜具をのべる必要も家具をかたづける必要もなく、間もなくそれぞれは火鉢のまわりの自分の席に帰った。そうして皆はおしゃべりした。といっても、辛抱強く堪えねばならぬ現在の状況のことはもう話さなかった。いくら話しても尽きることのないグラント船長の話をまたはじめたのだ。
水が引いたら三日もしないうちに旅行者たちは〈ダンカン〉に帰っているだろう。しかし、ハリー・グラントと二人の水夫、この三人の不幸な遭難者は彼らとともにいないのだ。この失敗、この無益なアメリカ横断の後には、彼らを見つけ出すいかなる望みも絶たれてしまったようにさえ思えた。どこへ新しい捜索の手を伸ばすか? 彼らにとっては未来にもはやいかなる希望もないと知らされたときの、レイディ・ヘレナとメァリ・グラントの悲しみはいかばかりであろうか?
「かわいそうな姉さん!」とロバートは言った。「僕たちにとってはすべてはおしまいだ!」
グレナヴァンはこのときはじめて、それに答えて言うべき慰めの言葉を思いつかなかった。どんな希望をこの少年に与えることができたろう? 彼はあの文書の指示にそれまできわめて厳密に従って来たのではないか。
「それにしても、南緯三七度というのは無意味な数字ではない!」と彼は言った。「遭難の場所を言っているにしろ捕われている場所を言っているにしろ、この数字は仮定でも解釈でも推定でもない。われわれはこの目でその数字を読んだのだ!」
「それはまったくそのとおりです、閣下」とトム・オースティンが答えた。「にもかかわらず私たちの捜索は成功しませんでした」
「こいつはまったく腹が立つし、がっかりさせられる」とグレナヴァンは叫んだ。
「腹が立つのはかまわないが」とマクナブズがおちついた口調で答えた。「がっかりすることはないね。まさに論議の余地のない数字をつかんでいるからこそ、それの教えるところをとことんまで追いつめてみなければならんのだ」
「それはどういうことだね? そして君の意見では何がまだしのこしてある?」
「ごく簡単な、ごく論理的なことだ、エドワード。〈ダンカン〉に帰ったら船首を東に向けて、必要とあればわれわれの出発点まででもこの三七度線をたどってみることさ」
「それでは君は、マクナブズ、私自身それを考えてみなかったと思うのか? 私だって考えたよ、一〇〇度も! しかしどれほど成功の見込みがある? アメリカ大陸を離れるということは、ハリー・グラント自身の指定した場所、あの文書のなかにあんなにはっきりと名ざされているそのパタゴニアを去ることじゃないか?」
「それでは君はパンパスの捜索をやりなおす気かね?〈ブリタニア〉の遭難したのは太平洋岸ででも大西洋岸ででもなかったということがはっきりしたというのに?」
グレナヴァンは答えなかった。
「それに、ハリー・グラントの指示した緯度線をさかのぼって彼を見つける可能性がよしんばどれほどすくないとしても、われわれはそれを試みるべきではなかろうか?」
「私は反対はしないが……」とグレナヴァンは答えた。
「では、諸君」と少佐は水夫たちにむかって、「君たちは私の考えに賛成しないかね?」
「全面的に賛成です」とトム・オースティンは答え、マルレディとウィルスンもうなずいて見せた。
「諸君、聞いてくれ」と、しばらく考えた後にグレナヴァンは言った。「ロバート、おまえもよく聞くんだよ。これは重要な相談なんだから。私はグラント船長を見つけるためにはどんなことでもする。私はそれを誓った。そして必要とあらば私はそのために自分の生涯を捧げよう。スコットランドのために身を捧げたあの勇敢な男を救うためとあれば、全スコットランドが私に加勢するだろう。私自身もまた、その可能性がいくらすくなくても三七度線に沿って世界一周をおこなうべきだと考えるし、またそれを実行するだろう。しかし解決しなければならぬ問題はそれではない。それよりずっと重要な問題なのだ。それはこういうことだ。われわれはアメリカ大陸における捜索を決定的に、そして今すぐやめるべきか?」
明確に提起されたこの問題には答はなかった。だれも敢て発言しようとしなかった。
「どうだね?」とグレナヴァンは特に少佐にむかってたずねた。
「|今ここで《ヒック・エト・ヌンク》その問いに答えることはかなり大きな責任を負うことだよ。よく考えてみねばならない。何よりもまず私は、その南緯三七度線はどんな地方を横切っているかを知りたい」
「そいつはパガネルの仕事だ」とグレナヴァンは答えた。
「では彼にきいてみよう」
オンブーの厚い葉群にかくれて学者の姿はもう見えなかった。大声で呼ばねばならなかった。
「パガネル! パガネル!」とグレナヴァンは叫んだ。
「ここにいる」と天から降って来た声が答えた。
「どこにいる?」
「私の塔に」
「そこで何をしている?」
「広大な視界を調べているんだ」
「ちょっと降りて来られないか?」
「私に用があるのか?」
「そうだ」
「どんなことだ?」
「三七度線が横切っているのはどの国か知りたいんだ」
「いともたやすいことだよ。そのためにわざわざ下へ降りるまでもないね」
「それでは言ってくれ」
「よし。アメリカを離れると南緯三七度線は大西洋を横切る」
「うん」
「トリスタン・ダ・クーニャ諸島にぶつかる」
「なるほど」
「喜望峰の二度下を通る」
「それから?」
「インド洋を横断する」
「次は?」
「アムステルダム諸島とサン=ピエール島をかすめる」
「ずんずん行ってくれ」
「オーストラリアをヴィクトリア州で横断する」
「つづけて」
「オーストラリアを出ると……」
この最後の文句はしまいまで言われなかった。地理学者は言葉につまったのか? わからなくなったのか? そうではない。しかしものすごい悲鳴が、激しい叫びがオンブーのてっぺんで聞こえた。グレナヴァンとその友人たちは顔色を変えて目を見交わした。新しい災難が起こったのだろうか? 不幸なパガネルは落っこちたのだろうか? 早くもウィルスンとマルレディは彼を助けようと飛び出したが、そのときひょろ長い体があらわれた。パガネルは枝から枝へところげ落ちた。彼の手は何かをつかまえることができなかった。彼は生きていたか? 死んだのか? それはわからなかったが、とにかく彼が今しも唸りを立てている水に落ちこもうとしたとき、少佐が逞しい腕で彼を引き止めた。
「恩に着るよ、マクナブズ!」とパガネルは叫んだ。
「何? どうしたんだ?」と少佐は言った。「何の気まぐれかね? あいかわらずの粗忽か?」
「そうそう!」とパガネルは昂奮でしめつけられたような声で叫んだ。「そうだ! 粗忽だ……こいつは途方もない粗忽だ!」
「どんな?」
「われわれは誤った! 今なお誤っている! ずっと誤りどおしだ!」
「説明してくれ!」
「グレナヴァン、少佐、ロバート、諸君、ここにいるすべての諸君に言うが、われわれはグラント船長のいないところでグラント船長をさがしているのだ!」
「何を言っている?」とグレナヴァンは叫んだ。
「単にいないところというだけではない」とパガネルはつけくわえた。「彼が一度も来なかったところに、だ!」
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二十四 鳥の生活のつづき
深い驚きがこの思いがけない言葉を迎えた。地理学者は何を言おうとしているのだろう? 彼は気が狂ったのか? それにしても彼は確固たる信念をもってしゃべっていたので、すべての人の視線はグレナヴァンにむかった。パガネルのこの断定は、グレナヴァンが今しがた提出した疑問への直接的な答だったのだ。しかしグレナヴァンは単に否定の身振りをするにとどめたが、この身振りは学者に賛同するものではなかった。
けれども学者のほうは昂奮を抑えてつづけた。
「そうだ!」と彼は確信のある声で言った。「そうだ! われわれは捜索を誤ったのだ。そしてわれわれはそこに書かれてないことを文書のなかに読んでいたんだ!」
「説明してくれ、パガネル、もっとおちついて」と少佐は言った。
「ごく簡単なことなんだ、少佐。君と同じく私も誤っていた。君と同様私も誤った解釈に落ちこんでいたんだ。ところが今しがた木の上で、君たちの質問に答えて〈オーストラリア〉という言葉にひっかかったとき、一筋の光が私の頭のなかを走り、すべてがあきらかになったんだ」
「何だって!」とグレナヴァンは叫んだ。「君はハリー・グラントが?……」
「文書のなかにある austral という言葉はわれわれがこれまで考えていたように完全な言葉なのではなく、Australie という言葉の語幹だと私は言うんだよ」
「こいつは奇妙なことだ!」と少佐は答えた。
「奇妙どころか!」とグレナヴァンは肩をすくめて言った。「そんなことはまったくあり得ないね!」
「あり得ない!」とパガネルは言い返した。「そいつはわれわれフランス人が認めない言葉だ」
「何だって!」グレナヴァンの口調はますます不信を深めて行った。「君はあの文書を楯に取って、〈ブリタニア〉の遭難はオーストラリアの沿岸であったと敢て主張するのか?」
「私はそう確信している!」
「まったくの話、パガネル、地理学会の書記ともあろうものがそんなことを主張するとは私には大変な驚きだね」
「どうして?」と、特別敏感なところをつつかれてパガネルは問いかえした。
「君はオーストラリアという言葉を認めるとしても、同時にインディアンという言葉があることも認めるだろう。ところが、これまでのところインディアンなんてオーストラリアには全然認められていない」
パガネルはこの理窟に一向不意を衝かれはしなかった。きっとそれを予期していたのだろうが、彼は微笑をうかべた。
「グレナヴァン君。早まって凱歌を挙げないでくれ。われわれフランス人の言い方を使えば、これから君を〈完膚《かんぷ》なきまでに〉やっつけてやるからね。イギリス人がこれほどやっつけられたことはあるまいて。クレシーとアザンクールの仇討ちになるだろう」(一三四六年にクレシーで、一四一五年にアザンクールで、フランス軍はイギリス軍に敗北した)
「それこそ望むところだ。やっつけてくれ、パガネル」
「まあ聞いてくれ。あの文書のなかにはパタゴニアもなければインディアンもいないんだ! indi という尻の切れた言葉はインディアン indiens を意味するのではなく、原地民 indigines を意味するのさ! ところで、君もオーストラリアに〈原地民《アンディジェーヌ》〉がいることは認めるだろう?」
このときグレナヴァンがパガネルをひたとみつめたことは何としても事実である。
「みごとだ、パガネル!」と少佐は言った。
「君は私の解釈を認めるかね、親愛なロード?」
「認める!」とグレナヴァンは言った。「gonie という言葉に該当するものがパタゴンの国を指すのではないということを君が証明してくれるならば!」
「もちろんさ!」とパガネルは叫んだ。「パタゴニアのことではないよ! 何とでも好きなように読んでいいが、それだけは駄目だ」
「だがどんな風に?」
「Cosmogonie! theogonie! agonie!……」
「アゴニー?」と少佐は言った。
「私にはそんなのはどうだっていいがね。この語は全然問題ではない。私はこれがどんな意味か知ろうとさえ思わない。肝腎な点は austral が Australia を意味することだ。盲目的に間違った道にはまりこんでいたのでもないかぎり、これほど明白な説明を最初から思いつかぬはずはない。もし私自身がこの文書を発見していれば、私の判断が君たちの解釈によって歪められていなかったら、私は決してこれ以外の解釈をしなかったろう!」
今度は万歳の声が、祝いの言葉が、称讃の辞がパガネルのこの言葉を迎えた。オースティンも二人の水夫も少佐も、そして特に希望がよみがえったので大喜びのロバートも、尊敬すべき学者に喝采した。グレナヴァンもだんだんと目が開けて来て、もうすこしのところで降参すると自分でも認めた。
「最後に一つ言うことがあるが、パガネル君、それさえ納得すれば私はもう君の炯眼《けいがん》に脱帽するほかはあるまいよ」
「言いたまえ、グレナヴァン」
「新しく解釈したその語句をどんな風に配列し、文書をどんな風に読むのかね?」
「いたって簡単なことだ。文書はここにある」数日前から非常に綿密に検討していたあの貴重な書類を差し出して彼は言った。
地理学者が答える前にゆっくりと考えをまとめているあいだ深い沈黙がその場を支配した。彼の指は文書の上の途切れた行を辿《たど》り、自信ありげな声でいくつかの語を強調しながら彼は次のように読んだ。
「一八六七年六月七日《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、グラースゴウ籍三檣船ブリタニアは……死闘《アゴニー》|の後にオーストラリア沿岸で沈没した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。二人の水夫とグラント船長は大陸に上陸しようと思うが、もしくは上陸したが、|そうすれば残忍な原地民に捕われることであろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、あるいは|そうして残忍な原地民に捕えられた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》云々。これではっきりしていないかね?」
「はっきりしている」とグレナヴァンは答えた。「もし〈大陸〉という名詞が島にすぎないオーストラリアにも適用され得るならばだが」
「安心したまえ、グレナヴァン。最もすぐれた地理学者たちもその島を〈オーストラリア大陸〉と呼ぶことに反対はしないから」
「それでは諸君、私が言わなければならないのは次の一事だけだ。オーストラリアへ行こう! 天の助けがあらんことを!」
「オーストラリアへ!」と仲間たちは異口同音にくりかえした。
「パガネル」とグレナヴァンはつけくわえた。「君が〈ダンカン〉に来てくれたのは神のさしまわしだということを君は知っているかね?」
「よろしい。私が神からさしまわされたものだということにしておこう。そうしてこの話はもうやめにしよう」
将来に非常に大きな影響を及ぼすこの会議はこのようにして終ったのである。この会話は旅行者たちの精神状況を根底から変えてしまった。彼らは抜け出すすべもないと思っていたこの迷路のなかで導きの糸を今見出したのである。崩れ去った今までの計画の廃墟の上に新しい希望が生い立った。彼らは何の不安もなくこのアメリカ大陸を後にすることができ、すでに彼らの思いはオーストラリアの地へ馳せていた。〈ダンカン〉に帰るとき、彼らは絶望を船上にもたらすのではなく、レイディ・ヘレナもメァリ・グラントもグラント船長にもはや永久に会えることはないと泣く必要はないだろう! それゆえ彼らは自分たちの現状の危険を忘れて喜びに身をまかせた。彼らが残念に思ったのはただ一つ、今すぐ出発できないということだけだった。
時刻は午後四時だった。夕食は六時にすることに決めた。パガネルはこの多幸な一日を祝うためにすばらしいご馳走をしたいと言った。ところがメニューはひどく限定されていたので、彼はロバートに〈隣の林に〉猟に行かないかと提案した。ロバートはこのすばらしい思いつきに拍手した。タルカーヴの火薬入れを持ち出し、拳銃を掃除し、霰弾をこめて彼らは出発した。
「あまり遠くへ行くなよ」と少佐は二人のハンターにもったいぶって言った。
彼らが行ってからグレナヴァンとマクナブズは木の刻み目を調べ、一方ウィルスンとマルレディは火鉢の炭にまた火をつけた。
グレナヴァンは果てしない湖の水面まで降りて見たが、減水のしるしは一つも見られなかった。それでも水はもう最大水位に達してしまっているように見えた。ただし南から北へと流れて行く勢いの激しさは、アルゼンチンの諸河川の水位がまだ安定していないことを証明している。水位が下る前に、この厖大な量の水が静止しなければならなかった。満潮が終って干潮が始まろうとするときの海と同様に。それゆえ水が奔流の速さで北へ走っているかぎりは水位の下ることを期待するわけには行かなかった。
グレナヴァンと少佐が観測をしているあいだ、木の上では銃声がほとんどそれと同じくらいやかましい歓呼の声とまじって響き渡った。ロバートのソプラノはパガネルのバスをかき消して綺麗なルゥラードを響かせた。まるで競って子供っぽい真似をしているようだった。猟の成績はよさそうで、すばらしい料理にありつけそうだと思えた。少佐とグレナヴァンは火鉢のところにもどったが、彼らはまずウィルスンのみごとな思いつきに感心させられた。この実直な船乗りは針と糸とを使ってすばらしい釣をやっていたのだ。公魚《わかさぎ》のようにほっそりした〈モハッラ〉という小さな魚が数十尾も彼のポンチョの襞《ひだ》のなかでぴちぴち跳ねており、結構な料理になるものと思われた。
このときハンターたちはオンブーの上のほうから降りて来た。パガネルは燕の卵と数珠つなぎにした雀を用心しながら持って来た。後で彼はこの雀を雲雀《ひばり》だといって披露したものだ。ロバートは〈イルゲーロ〉の番《つがい》をいくつか巧みに射ち落とした。これは緑と黄の小さな鳥で、美味で、モンテビデオの市場では非常にもてはやされている。卵の調理法は五一通りも知っているパガネルも、今は熱い灰に埋めて固まらせるだけで我慢しなければならなかった。けれども食事は種類もあったし美味であった。乾肉、固めた卵、炙《あぶ》ったモハッラ、雀、焼いたイルゲーロは、永久に忘れられないようなご馳走となったのだ。
会話は非常ににぎやかだった。パガネルはハンターとしても料理人としてもさかんに褒められた。学者は真の才能にふさわしい謙虚さで称讃を受けた。それから彼はその葉群のかげに彼自身が宿っている、しかも彼の言うところでは、底知れぬほどの深さを持ったこのすばらしいオンブーについてまことに奇妙な考察を述べたのであった。
「ロバートと私は」と彼はふざけてつけくわえた。「猟をしながら大きな林のまんなかにいるような気がしたよ。私は一度迷いはしないかと思ったね。道がわからなくなってしまってね! 太陽は地平線に傾くし! 私は自分の足跡を捜したが見つからない。飢えはひしひしと迫って来る! 暗い林にはすでに猛獣の咆哮《ほうこう》が響きわたる……。つまりその、いや、猛獣はいなかったっけ、残念だ!」
「何だって! 君は猛獣がいないのが残念だというのかね?」とグレナヴァンは言った。
「いかにも、そのとおり」
「しかし、奴らの兇暴さはどこから見ても恐るべきものであるというのに……」
「兇暴さなんてものは存在しない……科学的に言えば」
「ああ!」と少佐は言った。「今度は君も、猛獣が有益であるなんてことを私に認めさせることは決してできないよ! 何の役に立つんだい?」
「少佐!」とパガネルは叫んだ。「分類をするのに役立つじゃないか、類とか目とか科とか亜科とか種とか……」
「大したご利益だ! 私はそんなものがなくてもいっこうに困らんよ! 私が大洪水のときノアの一族の一人だったとしたら、この無思慮な家長がライオンや虎や豹や熊やその他役に立たず有害なだけの動物の番《つがい》を方舟《はこぶね》に乗せるのに反対したに相違ないよ」
「ほんとか?」
「ほんとだとも」
「よし、それでは君は動物学の立場からすれば間違ったことをしたことになる!」
「しかし人間の立場からすれば一向そうではない」
「こいつは我慢ならん!」とパガネルは言った。「私ならばまさに反対に、メガテリウムやプテロダクティルスや、まことに残念ながら現在われわれには見られないあの太古の動物をすべて残しておいてやったね……」
「私は敢て言う、ノアは間違ったことをしたと」少佐は言い返した
パガネルと少佐のやりとりを聞いていた人々は、二人の友が老ノアを|だし《ヽヽ》にして言い争っているのを見て笑わずにはいられなかった。生まれてこの方誰とも争ったことのない少佐が、その主義とするところに反して毎日パガネルといがみあっているのである。この学者が特別彼の癇癖《かんしゃく》にさわるのだと考えねばなるまい。
グレナヴァンは例によって例のごとく議論の間に分けて入った。
「科学的立場からにしろ人間的立場からにせよ、猛獣がいなくなったことが残念であるか否かは別として、今日のところは猛獣がいなくても我慢しなければならない。パガネルだって空中の森林のなかで猛獣に出逢えると期待するわけには行かなかったろう」
「どうして行かないんだ?」と学者は問いかえした。
「木の上に猛獣が!」とトム・オースティンが言った。
「ああ、そうともさ! アメリカの虎ジャグワールはハンターに激しく追い立てられると木の上に逃げるんだ! この動物の仲間が洪水に不意を討たれてオンブーの枝のあいだに逃げこむことだって大いにあり得たはずじゃないか」
「とにかく君はそいつに出逢わなかったんだろうと思うが?」と少佐が言った。
「うん、森じゅう捜してみたんだがね。遺憾なことだ、すばらしい狩ができたはずなのに。このジャグワールというのは兇暴な肉食獣なのだ! 前脚の一撃で馬の首をひんまげてしまう! 人間の肉の味を知ると舌なめずりしてまた人間を襲うんだ。ジャグワールが一番好きなのはインディアン、次に黒人、次に黒白混血児、それから白人なんだ」
「四番目とはありがたい!」とマクナブズが答えた。
「いかにも! それは単に君の肉が味がないことを証明するにすぎない!」とパガネルは軽蔑的な顔をしてきめつけた。
「味がなくて結構だ!」と少佐は反駁した。
「いやはや、こいつは屈辱的なことだよ!」と始末に負えないパガネルは答えた。「白人は自分が人類のなかで第一級のものだと言明している。ジャグワール氏たちはそう思っていないらしい!」
「いずれにしてもパガネル君」とグレナヴァンが言った。「われわれのなかにはインディアンも黒人も黒白混血児もいない以上、私は君の好きなジャグワールがいないことをうれしいと思うね。われわれの今の状態はそんなに快適なものじゃないんだから……」
「何だって! 快適でないって」とパガネルは話題の向きを変えてくれるこの言葉に食いついて叫んだ。「グレナヴァン、君は自分の境遇に不満なのかい?」
「もちろん。君はこんな居心地が悪くごつごつした枝の上で気持がいいのか?」
「私はこれ以上快適なことはなかったね、私の書斎にいてさえ。われわれは鳥の生活をしている。歌い、飛びまわる! 人間は生まれつき樹上生活をするようにできているんだと私は思いはじめたよ」
「足りないのは翼だけさ!」と少佐が言った。
「そのうちできるさ!」
「目下のところは」とグレナヴァンは答えた。「この空中の住居よりも公園の砂の上か家の床の上か船のデッキの上のほうがいいと言ってもかまわんだろう!」
「グレナヴァン、すべては成行きのままに受け容れねばならない! よければ結構。悪くても気にしない。君はマルカム・カースルの安楽さをなつかしがっているね!」
「そうじゃない、しかし……」
「ロバートはすっかり満足しているにちがいないと思うが」と、せめて自分の理論の支持者を一人は確保しようとしてパガネルは急いで言った。
「そうですとも、パガネル先生!」とロバートは楽しげな声で叫んだ。
「そういう年齢なのさ」とグレナヴァンは言った。
「私だってそういう年齢さ!」と学者は受けて答えた。「安楽がすくなければすくないほど欲求もすくない。欲求がすくなければすくないほど人は幸福なんだ」
「おやおや」と少佐。「今度はパガネルは富と大邸宅を攻撃しはじめるぜ」
「ちがうよ、マクナブズ。しかしお望みならば、それに関連して今思い出したアラビアの小噺《こばなし》を話して聞かせるがね」
「どうぞ、どうぞ、パガネル先生」とロバートは言った。
「で、その噺は何を証明しているんだい?」と少佐はきいた。
「すべてのお噺《はなし》というものが証明していることをさ、君」
「それじゃあ大したことじゃないな。とにかくやってみたまえ、シェヘラザード君、君のお得意の例の小噺を一つ頼むよ」
「昔、ハルン・アル・ラシッド大王に一人の息子がいましたが、この息子は幸福ではありませんでした」とパガネルは話し出した。「彼は年取った坊さんのところに相談に行きました。老賢者は彼に、幸福はこの世ではなかなか見つけられないものだと答えました。しかしつけくわえて、『けれども私は、あなたに幸福を与える方法を一つだけ知っている』と言います。――『どんな方法ですか?』と若い王子はたずねました。――『幸福な人間のシャツを羽織ることです』と坊さんは答えました。それを聞いて王子は老人に接吻し、霊験《れいげん》あらたかなシャツをさがしに行きました。こうして彼は旅に出たのです。彼は地上のあらゆる首府を歴訪したし、国王たちのシャツ、皇帝たちのシャツ、王子たちのシャツ、領主たちのシャツを着てみましたが、その甲斐はありません! 幸福になりはしないのです! そこで彼は芸術家のシャツ、武士のシャツ、商人のシャツを着てみました。これも同じでした。このようにして彼は随分歩きまわりましたが、幸福は見出せませんでした。こんなにたくさんのシャツを試してみたあげく絶望して、ある日彼はとても暗い気持で父王の宮殿に帰ろうとしましたが、畑で一人の実直な百姓がいかにも楽しそうに歌をうたいながら鋤《すき》を押しているのを目にとめました。『とにかくこいつは幸福をつかんでいる人間だ、そうでなかったらこの世に幸福なんてものは存在しない』と彼は心に思いました。彼はその男のところに行って、『おじさん、おまえは幸福かい?』と言いました。『はい』と相手は答えます。――『何も望むところはないか?』――『ありません』――『自分の境遇を王のそれととりかえたくはないかね?』――『決して!』――『よろしい、それではおまえのシャツを私に売ってくれないか!』――『私のシャツですって! そんなものは私は全然持っていませんよ!』――」
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二十五 火と水のあいだ
ジャック・パガネルの噺は大喝采を博した。一同は大いに彼に拍手したが、しかし誰も自分の意見を変えはしなかった。こうして学者はあらゆる議論に大抵共通する結果、すなわち、誰をも納得させないという結果を得たのである。それにしても一同は、不運に対しては雄々しく立ち向い、宮殿も茅屋《ぼうおく》もないときには木で我慢しなければならないという点では一致していた。
あれこれとおしゃべりするうちに夜になっていた。この波瀾多い一日にそれにふさわしい結末を与えるのは快い眠りだけだった。オンブーのお客さんたちは洪水をめぐるあれやこれやに疲れていただけではなく、特に日中の暑さでまいっていた。この暑さは極端なものだったのだ。彼らと同宿の鳥たちはすでにお手本を示していた。パンパのナイチンゲールであるイルゲーロたちは調子のいいルゥラードをやめ、木のすべての鳥たちは闇に沈んで厚い葉群のなかに姿を消した。彼らの真似をするのが最も賢明だった。
けれども、パガネルの言葉を借りれば〈塒《ねぐら》につく〉前に、グレナヴァンとロバートとパガネルはパガネルの観測所まで攀じ登って、最後にもう一度水をたたえた平野を眺めまわした。時刻は九時頃だった。太陽は西の地平線のきらめく靄のなかに没したところだった。天球の西半分は天頂にいたるまですべて熱い蒸気に浸されていた。南半球のあの輝かしい星座は軽い紗《うすぎぬ》に包まれたようにぼんやりと見えて来た。それでも識別できるくらいはっきり見え、パガネルは星の光が特に強い極地帯をロバートに観察させたが、それはグレナヴァンにとっても教育になった。とりわけ、一等星と二等星の四つの星がおおよそ極の上空に菱形に配列している南十字星、地球に一番近い、つまりわずか二四兆キロメートルのところにある星がそのなかで輝いているケンタウルス座、マジェランの雲と呼ばれる二つの大きな星雲(そのうちの大きなほうは月の表面積の一〇〇倍の面積を蔽う)、それから最後にいかなる恒星状の物質も完全になくなっているように見えるあの〈|黒い穴《ブラックホール》〉を彼は教えた。
彼にとって非常に残念だったことに、両半球から見えるオリオンはまだあらわれていなかった。パガネルは二人の生徒にパタゴニアの宇宙論の一風変って面白いところを教えた。つまりこの詩人的なインディアンの目には、オリオンは天の草原を駈ける猟人の手で投げられたラソと三つのボラスをあらわしているのだ。水の鏡にうつったこれらすべての星座は、目のまわりに二つの空を作り出して見るものを感嘆させた。
博識なパガネルがこのような談義をしているあいだに東の地平線全体が嵐の様相を呈して来た。くっきりとした輪郭を持つ厚い暗い横雲が星たちを徐々に消しながら地平線から登って来た。いかにも不気味なその雲は間もなく天穹《てんきゅう》の半分にひろがり、やがて全体を埋めようとするかに見えた。雲は自身の力で動いているとしか思えなかった。風はそよともしなかったからだ。大気の層は完全な静けさを保っていた。木の葉一枚動かず、水面には皺一つできなかった。何か巨大な排気装置で稀薄化されたかのように、空気が不足して来るかにさえ思われた。高圧の電気が大気に瀰漫《びまん》し、すべての生き物は自分の神経に電気が走るのを感じた。
グレナヴァンもパガネルもロバートもこの電波の作用をはっきりと感じた。
「もうじき嵐になるよ」とパガネルは言った。
「雷がこわくないか?」とグレナヴァンは少年にきいた。
「そんな! ミロード」とロバートは答えた。
「よしよし、それなら結構だ。嵐は遠くないからね」
「それに激しいぞ。空の状態から判断すれば」とパガネルがつけたした。
「私が不安なのは嵐のことじゃない」とグレナヴァンが言った。「それに伴う豪雨だよ。われわれは骨の髄までびしょびしょになるだろう。君が何と言おうと、パガネル、鳥の巣では人間には不充分だよ。君自身さんざんな目に遭ってそれを思い知るだろう」
「おお、達観した哲学をもって思い知ればいいさ!」学者は答えた。
「哲学をもってしても濡れることは防げないよ」
「いかにも。しかし哲学は温めてくれるよ」
「とにかく友人たちのところへもどって、哲学とポンチョをできるだけぴったりと体にまきつけるように勧告しよう、そして特に辛抱を心がけるように。よほどの辛抱が必要となるだろうからね!」
グレナヴァンは険悪な空に最後の一瞥を投げた。雲のかたまりが今は空全体を蔽っていた。わずかに西のほうの帯のように残った空がたそがれの微光に照らされていた。水は暗い色合いを帯び、重い水蒸気と混り合おうとしている巨大な低い雲に似ていた。影さえももはや見えなかった。光の感覚も音の感覚も目や耳にとどかなかった。沈黙は闇と同じくらい深かった。
「降りよう」とグレナヴァンは言った。「もうじき稲妻が光るだろう!」
彼とその二人の友はすべすべした枝を滑り降り、帰ってみると非常に奇妙な薄明に包まれてすくなからず驚いた。それはぶんぶんと唸りながら水面を飛びかっている無数の光点によるものだった。
「燐光かね?」とグレナヴァンは言った。
「いや」とパガネルは答えた。「燐光を発する昆虫、本物の螢さ。生きた、高価でないダイアモンドで、ブエノスアイレスのご婦人方はこれをすばらしい装身具にする」
「何ですって!」とロバートが叫んだ。「こうして火花のように飛んでるのが昆虫なんですか?」
「そうなんだ」
ロバートはそのきらきらする虫を一匹つかまえた。パガネルは間違えていなかった。これは二・五センチメートルほどの長さのマルハナバチみたいなもので、インディアンはこれを〈トゥコ・トゥコ〉と呼んでいた。この奇妙な鞘翅《しょうし》目はその前胸部の前部にある二つの斑点から微光を発し、そしてこの光は闇のなかで字を読むことができるほど強かった。パガネルはその虫を自分の時計に近づけて、針が午後一〇時を指しているのを見ることができた。
グレナヴァンは少佐と三人の船乗りのところへ行って夜のための指図をした。猛烈な嵐を予期しなければならなかった。最初の雷鳴の後におそらく風は荒れ狂い出すだろう、そしてオンブーはひどく揺さぶられるだろう。それゆえ一同は各個に振り当てられた枝のベッドにしっかりと体を結びつけるようにと言われた。空からの水は避けられなくても、せめて地上の水に対しては用心しなければならず、木の根もとでさかまいているあの急流に落ちてはならなかった。
人々はあまり安眠は期待しなかったのにおやすみと挨拶を交わした。それから各人は樹上の寝床にもぐりこみ、ポンチョに体を包んで眠りの来るのを待った。
しかし大きな自然現象の接近はすべての敏感な人間の心に、いかなる強者といえども禁じ得ない漠然とした不安をきざさせるものだ。オンブーの客たちはいらいらし、胸苦しい思いをしながら瞼を閉じることもできず、最初の雷鳴のときは彼らは皆起きていた。それは一一時ちょっと前に遠雷の轟きとしてはじまった。グレナヴァンは水平の枝のはしまで行って、葉群から頭を突き出してみた。
闇夜の黒い背景はすでに鋭く光る切り口に切り刻まれ、湖の水はそれをはっきりと映し出した。雲はあちこちでちぎれた。しかし柔かい綿のような織物がちぎれるように鋭い音はしない。グレナヴァンはどれもこれもひとしい闇で塗りつぶされている天頂と地平線を眺めたあげくに幹の上部に帰った。
「どう思う、グレナヴァン?」とパガネルはきいた。
「すべりだしは上々だね、諸君、そしてこの調子でつづけば嵐はものすごいものになるよ」
「そいつは結構だ」と血の気の多いパガネルは答えた。「逃れられない以上は、すばらしい見物のほうが私は好きだね」
「また例の君の理論が飛び出したな」と少佐は言った。
「しかも私の最もすぐれた理論の一つだよ、マクナブズ。私はグレナヴァンと同意見だ、嵐は大変なものだろうよ。今しがた眠ろうとしているうちに私はいろいろな事実を思い出したんだが、これらの事実は嵐がひどくなることを期待させる。ここは大雷雨地域なんだからね。事実私はどこかで、一七九三年にまさにこのブエノスアイレス州で一回の雷雨のあいだに雷が三七回も落ちたということを読んだ。私の同僚であるマルタン・ド・ムゥシー氏は五五分間も雷が間断なく鳴りつづけたのを観察している」
「時計を手にして?」と少佐がきいた。
「時計を手にしてさ」それからパガネルはつけくわえた。「私にとって不安なのはただ一つだ、もし不安が危険を避けるのに役立つとすればだがね。それはこの平原の唯一の高点がまさにわれわれのいるこのオンブーだということさ。避雷針がここにあれば大いに役に立つんだがね。なぜなら雷が特に落ちたがるのは、パンパのほかのすべての木にもましてまさにこの木だろうから。それにまた、諸君、君らも承知のはずだが、学者たちは雷雨のあいだ木の下に逃げこまないようにとすすめているし」
「なるほど」と少佐は言った。「その勧告はまことに時宜《じぎ》を得ている!」
「パガネル、君がそういう人を安心させる話をするのにいい時機を選んでくれたことは認めねばなるまい」とグレナヴァンが言った。
「なあに! 物事を知るのはどんな時でもいい! ああ、始まった!」
前より激しい雷の轟きが、今の状況ではあまりうれしくないこの会話をとぎらせた。轟きはますます調子を高めながら強烈さを増した。間隔も短くなり、音楽からきわめて適切なたとえを借りれば低音から中音に移った。間もなく雷鳴は甲高い音となり、大気の絃を急速な振動で揺すぶった。空間は燃え上り、そしてこの炎上のなかでは、どの放電がはてしなく引き延ばされるあの雷鳴をひきおこしたのかを聞き分けることはできず、雷鳴は谺《こだま》に谺を呼んで空の底の底まで反響した。
絶え間のない稲妻はさまざまの形であらわれた。あるものは大地に垂直に走って同じ場所に五回も六回も光った。あるものはまた学者たちの好奇心を最高度に刺戟するものと思われた。というのは、アラゴ〔フランスの天文学者、物理学者〕はその興味ある統計のなかで二叉に分れた稲妻を二例しか挙げなかったが、ここでは数百もそれが見られたからだ。いくつかのものはいろいろの形状の無数の枝に分れて珊瑚状にジグザグをこまかく描き、暗い天穹に樹枝のような光の驚くべき模様を映し出した。
間もなく東から北にかけて空一杯に強烈に輝く燐光の帯があらわれた。この炎はだんだんと地平線全体にひろがり、雲を可燃物質の塊りのように燃え上らせ、やがてきらめく水面に反映して、オンブーをその中心とする巨大な火の球を形づくった。
グレナヴァンとその仲間たちは黙々としてこの凄絶な光景を眺めていた。話そうとしてもたがいに相手の声が聞こえなかった。白い光の広がりは彼らのところまで迫って、このせわしない閃きのたびにある時は少佐の平静な顔、パガネルの好奇心に満ちた顔、またはグレナヴァンの精力的な相貌が、ある時はロバートの怯えた顔と水夫たちの暢気《のんき》そうな顔が、にわかに幻のようにあらわれてたちまちまた消えるのだった。
けれども雨はまだ降り出さず、風は依然として沈黙していた。しかし間もなく天の滝は口を開きはじめ、垂直な雨脚が黒い空を背景に機《はた》を織るときの糸のようにぴんと張る。その大粒の滴は湖面をたたき、電光によって照らされた無数のきらめきとなってほとばしる。
この雨は嵐の終りを予告するものだったろうか? グレナヴァンとその仲間たちは猛烈なシャワーを浴びせられただけで済むだろうか? いやいや、この雷火の乱闘の最も高まったときに、水平に伸びているこの親枝の先端に黒い煙で包まれた人の拳ほどの大きさの炎が不意にあらわれた。その玉は数秒のあいだ同じ場所をぐるぐるまわっていたあげく、爆弾のように炸裂した。その爆音はあたり一帯を蔽う騒音のなかでも聞き取れるほどだった。きなくさい蒸気が大気にたちこめた。一瞬静寂が帰り、それから、
「木が燃えている!」と叫ぶトム・オースティンの声が聞こえた。
トム・オースティンは誤っていなかった。一瞬のうちに炎は巨大な仕掛花火からうつされたかのようにオンブーの木の西側にひろがった。枯枝や乾いた草で作った鳥の巣や、そして最後には海綿様の白肌《しらた》全体が貪欲な火にあつらえむきの燃料を提供した。
風がこのとき起こってこの火事を煽《あお》った。逃げねばならなかった。グレナヴァンと仲間たちは物も言わず、うろたえ怯え、登ったり滑ったりし、彼らの体重でしなう小枝に足をかけるなどして、火の手の及んでいないオンブーの東側へ大急ぎで避難した。けれども枝々は弾《はじ》け、砕け、生きたまま焼かれる蛇のように火のなかでのたうった。赤くなった残骸は溢れた水のなかに落ち、鹿子色の火花を上げながら流れに運ばれて行った。炎はあるときは驚くほどの高さに上って赤熱する大気のなかに消え、あるときは舞い上がる突風に押しかえされてネッソスのシャツのようにオンブーにまつわりついた。グレナヴァンもロバートも少佐もパガネルも水夫たちも恐怖にすくんでいた。濃い煙で息ができなかった。居たたまれない熱さが彼らをさいなんだ。火は彼らのほうに移って下のほうの主な枝が燃え出した。もはやそれを引き止められるものも消せるものも全然なかった。そして彼らはヒンドゥー教の神の燃える横腹に閉じこめられたあの生贄《いけにえ》と同じ苦しみを逃れるすべはないと観念した。遂に状況はもはや堪えられないほどになり、どうせ死ぬならば惨《むご》たらしくないほうの死を選ぶほかはなかった。
「水へ!」とグレナヴァンは叫んだ。
炎に迫られたウィルスンは今すでに湖に飛びこんだところだった。その彼が極度に激しい恐怖をあらわして叫ぶのが聞こえた。
「助けてくれ! 助けてくれ!」
オースティンが彼のほうへ飛び出して、彼を助けて幹の上へ引き上げた。
「どうした?」
「カイマン! カイマン!」とウィルスンは答えた。
そして見ると木の根もとは爬虫類のなかでも最も恐るべきこの動物に囲まれているのだった。彼らの鱗《うろこ》は炎の照りかえす大きな光の面のなかできらめいた。縦に平べったい尾、槍の穂のような頭、飛び出した目、耳のうしろまで裂けた口、これらすべての特徴はパガネルの目を欺《あざむ》かなかった。彼はアメリカ特有の、スペイン系諸国ではカイマンと呼ばれているあの獰猛なワニを認めた。一〇匹ほどいて、その恐ろしい尾で水をたたき、下顎の長い歯でオンブーを攻撃した。
これを見て不幸な人々はもうおしまいだと思った。炎に呑みこまれるにせよカイマンにむさぼり食われるにせよ、惨たらしい死は必至だった。ほかならぬ少佐が静かな声でこう言うのが聞こえた。
「今度こそいよいよおしまいかもしれんぞ」
人間がもはや闘うことのできない、荒れ狂う自然の要素は他の要素によってしか克服され得ないような状況というものがある。グレナヴァンはもはや天にいかなる援けを求めていいかわからずに、相提携して自分に迫って来る火と水をみつめた。
嵐はこのとき衰えはじめていた。しかし嵐のために大気のなかに多量の蒸気がひろがり、放電現象によってその蒸気は極度に激しく動きはじめようとしていた。南のほうに巨大な竜巻が徐々に形成された。先端が下で底部が上になった霧の円錐が、たぎる水と嵐の雲とをつないだのだ。この大気現象は間もなくぐるぐるまわりながら目のくらむような速度で前進した。竜巻は湖に立つ水の柱をその中心に向けて圧縮し、その廻転運動によって生じた強い吸引力で周囲のすべての気流を自分のほうへ引き寄せた。
ほんのわずかのあいだに巨大な竜巻はオンブーに襲いかかり、その襞で木を包んだ。木は根まで揺いだ。グレナヴァンはカイマンたちがその強力な顎で木を襲い、地面から引き抜こうとしているのではないかと思った。仲間たちと彼はたがいにつかまりあいながら、頑丈な木がかしぎ、もんどり打って倒れるのを感じた。燃える枝はひゅうっという凄まじい音をあげてざわめく水のなかに落ちた。これは一秒間の出来事だった。竜巻はすでに通り過ぎてその破壊的暴力をほかのところで発揮しようとし、行く道々で水を吸い上げて湖を干上らせようとするかに見えた。
そのとき、水の上に横たわっていたオンブーは風と流れの双方の力によって漂いはじめた。カイマンたちは一匹を残して逃げ去ったが、その一匹だけはひっくりかえった根の上を這って、口をあけて進んで来た。しかしマルレディが半ば燃えた枝を取って猛烈になぐりつけ、相手は腰が砕けた。カイマンはもんどり打って逆まく奔流のなかに沈み、その恐るべき尾はなおも一度猛烈な勢いで水を打った。
貪欲な爬虫類から逃れたグレナヴァンとその仲間たちは炎の風上にある枝にたどりつき、オンブーは突風に煽られて燃える帆のようにふくらんだ炎を上げながら、夜の闇のなかに燃える火船のようにただよって行った。
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二十六 大西洋
二時間のあいだオンブーは広大な湖の上を游弋《ゆうよく》していたが陸地に行き着かなかった。木にひろがった炎はすこしずつ消えて行った。この恐ろしい航行の第一の危険は消滅していたのだ。少佐は救われたからといって別に驚くに当るまいと言っただけだったが。
流れは依然として最初と同じ方向を取って南西から北東へとむかっていた。名残の稲妻があちこちに光るだけで、闇はまた前と同じく深くなり、パガネルが地平線に何かの目じるしを求めても見つからなかった。嵐は終ろうとしていた。大きな雨粒は風のそよぎに飛び散るこまかい飛沫にかわり、大きな雲はちぢまって空の高みで帯状に切れて来た。
激しい奔流に運ばれるオンブーのスピードは大きかった。驚くほどの速さで、まるで強力なエンジンが樹皮の下にかくされているかのようにすべって行く。まだ何日もこのように漂流しないという保証はどこにもなかった。けれども午前三時ごろ少佐は根がときどき土にさわると言い出した。もげた長い枝を使ってトム・オースティンが綿密に深さを測り、底が上り坂になっていることを確認した。事実二〇分後に何かにぶつかってオンブーはぴったりと止まった。
「陸だ! 陸だ!」とパガネルは大音声で叫んだ。
炭化した枝の先端が土地の隆起にぶつかったのだ。航海者が座礁したことをこれ以上喜んだことはかつてなかったろう。暗礁がこの場合は港なのだった。すでにロバートとウィルスンはしっかりした丘の上に飛び上って歓呼の声をあげたが、そのとき風を切る聞き慣れた音がした。疾走する馬の蹄の音が平原に響き、そしてインディアンの背の高い姿が闇のなかに立ちはだかった。
「タルカーヴ!」とロバートは叫んだ。
「タルカーヴ!」と仲間たちも異口同音に叫んだ。
「|友たちよ《アミーゴス》!」とパタゴンは言った。彼自身そこへ流された以上旅行者たちもそこへ運ばれて来ると予期した場所でタルカーヴは彼らを待っていたのである。
彼はロバートを両腕で抱き上げて、自分の胸に抱きしめた。やがてグレナヴァンも少佐も水夫たちも忠実な案内人に再会できたのを喜びながら心をこめて力強く彼の両手を握りしめた。それからパタゴンは見捨てられたエスタンシアの納屋に彼らを案内した。そこにはさかんに火が燃えていて、彼らの体を温めてくれ、獣肉の切身もじゅうじゅうと焼けていた。彼らは一片もあまさずそれをむさぼりつくした。そして精神が安息をとりもどして思考を開始したとき、彼らは一人として自分が水と火とアルゼンチンの河川に住む恐るべきカイマンなどという無数の危険から成る冒険をくぐりぬけて来たものと信じることができなかった。
タルカーヴはわずかな言葉で自分のことをパガネルに話し、自分が救われたのはひとえにあの大胆不敵な馬のおかげだと言った。パガネルはそこで彼にあの文書についての新しい解釈と、それがどのような希望を抱かせるかということを彼に説明しようとしてみた。インディアンは学者のこの創意に富んだ仮定を真に理解しただろうか? それは疑わしかったが、彼は友人たちがうれしそうな楽観的な様子でいるのを見た。そして彼にはそれでもう充分だったのである。
この大胆な旅行者たちが、文句なしにまた出発する気になったことは想像に難くなかろう。午前八時に彼らは出発の支度をととのえていた。エスタンシアやサラデーロのあるところからはずっと南へ離れていたので、乗り物を見つけることはできなかった。それゆえ何としても徒歩で行かねばならない。結局のところ距離は六五キロメートルほどしかなかったし、タウカもときどき疲れたものを一人、いや必要とあれば二人運ぶことを拒みはすまい。三六時間で大西洋岸に着けるはずだった。
時が来ると案内者と仲間たちはまだ水をたたえている広大な低地を後にして、より高い平原を進んで行った。アルゼンチンの領土はその単調な相貌をとりもどした。ヨーロッパ人の植えた木立が牧草地のあちこちにあらわれたが、それもシエラ・タンディルやシエラ・タパルケムのあたりと同じくらい稀でしかない。この土地の原産の木は細長い牧場の緑やコリエンテス岬の近くにわずかに生えているにすぎない。
こうしてこの一日は暮れた。翌日は海に着く二五キロメートルも先から大洋の近づいたことが感じられた。軟風《ビラソン》という、昼と夜の後半に規則正しく吹く奇妙な風が背の高い草を撓《たわ》ませた。痩せた土地には木本のネムノキ科の灌木やクラ・マボルのまばらな繁みが生えていた。いくつかの鹹水《かんすい》の湖沼が割れたガラスのかけらのようにきらめき、行進を妨げた。迂回して行かなければならなかったのだ。その日のうちに大西洋岸のサラード湖に着こうとして一同は足を速めたが、ありていに言えば、午後八時に泡立つ海岸を限っている高さ四〇メートルほどの砂丘を認めた頃は旅行者たちはもう相当疲れていた。間もなく満潮時の海の長い呟きが彼らの耳に入った。
「海だ!」とパガネルは叫んだ。
「そうだ、海だ!」とタルカーヴは答えた。
そうして体力がもう尽きそうに見えるこの旅行者たちは間もなく驚くべき敏捷さで砂丘を登った。
しかし闇はすでに深かった。人々の視線は暗い広茫の上をいたずらにさまよった。彼らは〈ダンカン〉を捜したが見つからなかったのだ。
グレナヴァンは叫んだ。
「とにかくここですこしずつ移動しながらわれわれを待っているはずなんだが!」
「明日見えるだろう」とマクナブズが答えた。
トム・オースティンは目に見えぬヨットにむかっておおよその見当で呼びかけてみたが、答は得られなかった。そのうえ風は強く、海はかなり荒れていた。雲は西から走って来、泡立つ波頭《なみがしら》はこまかいしぶきとなって砂丘の上まで飛んで来た。だから〈ダンカン〉が指定の場所に来ていたにせよ、見張りの者は見ることも聞くこともできなかったろう。海岸には船を寄せるところは全然なかった。湾も入江も港もないのだ。小さな入江すらない。海岸は海のなかに消えている長い砂洲《さす》から成り、船がそこに近づくのは水面すれすれの岩礁に近づくのよりも危険なのである。事実砂洲は波濤をたぎらせるのだ。海はそういうところでは特に荒れる。そして時化《しけ》のときにこういう砂の絨毯《じゅうたん》の上に乗り上げる船は確実に難破するのだ。
してみると〈ダンカン〉が、この海岸は非常に悪いし、避難港もないと判断して近づかないでいることは至極当然であった。ジョン・マングルズはいつもの慎重さでできるだけ岸から離れているに相違なかった。それがトム・オースティンの意見だった。そして彼は〈ダンカン〉はすくなくとも九キロメートル以内には近づけないと断言した。
そこで少佐はいらいらしている友にあきらめるようにすすめた。この濃い闇を払う方法は全然なかった。である以上、暗い水平線に視線を走らせて目を疲れさせる必要はない。
それだけ言うと彼は砂丘のかげに一応の野営地のようなものを作らせた。最後の食糧が旅の最後の食事に供された。それから少佐の手本に従って各人はかなり居心地のいい穴を掘って間に合わせの寝床とし、ふんだんにある砂の毛布を顎のところまでかけてぐっすりと眠りこんだ。グレナヴァンだけが目を覚ましていた。風は今はかなり強くなり、大洋はなお過ぎ去った嵐の名残をとどめていた。あいかわらず荒れ騒いでいる波は雷鳴のような音をたてて砂洲の下に寄せて砕けた。グレナヴァンは〈ダンカン〉がすぐ身近にいるのだという考えになじむことができなかった。申し合わせの場所に〈ダンカン〉が来ていないということ、これはとても考えられなかった。グレナヴァンは一〇月一四日にタルカウアノ湾を出発し、一一月一二日に大西洋岸に到着した。ところで、チリ、コルディリェーラ、パンパス、アルゼンチンの平原を横切るのに費した三〇日間のあいだに、〈ダンカン〉がホーン岬をまわって反対側の海岸に来る時間はあったはずだ。あれほど足の速い船だから遅れることはあり得なかった。嵐はたしかに凄まじかったろうし、大西洋という広い戦場で猛威をふるいはしたろうが、あのヨットはしっかりした船でありその船長はすぐれた船乗りだった。だから、来ることになっている以上来ているはずだ。
それはともかく、こうした思案もグレナヴァンの心を鎮めることはできなかった。心情と理性が争うときには理性のほうが強者なのではない。マルカム・カースルの〈領主《レアド》〉はこの闇のなかに自分の愛するすべての人々、大切なヘレナ、メァリ・グラント、〈ダンカン〉の乗組員たちの存在を感じた。彼は波が一面に燐光をちりばめている人気のない岸をさまよった。目をこらし、耳をすました。それどころかときどきは海上にぼんやりとした微光を認めたように思いさえした。
「見誤りではない」と彼は自分に言った。「私は舷燈を見た、〈ダンカン〉の舷燈を。ああ! なぜ私の視線はこの闇を見通すことができないんだろう!」
ある考えがそのとき彼の頭にうかんだ。パガネルはニクタロープだと言っていた。パガネルは夜でも目が見えるのだ。彼はパガネルを起こしに行った。
学者は自分の穴のなかで|もぐら《ヽヽヽ》のように眠りこんでいたが、そのときがっしりした腕が彼を砂の寝床から引っぱり出した。
「誰だ!」と彼はどなった。
「私だよ、パガネル」
「私って誰だ?」
「グレナヴァン。来てくれ、君の目を借りたい」
「私の目を?」とパガネルは言い、ごしごしと目をこすった。
「そうだよ、君の目を、この闇のなかでわれわれの〈ダンカン〉を見分けるために。さあ、来たまえ」
「ニクタロープなんて糞《くそ》くらえ!」とパガネルはひとりごとを言ったが、実はグレナヴァンの力になってやれるのがうれしくてたまらなかったのである。
起き上って、目を覚ました人間らしく〈ブルンブルン〉と痩せた手足を振りまわしながら、パガネルは注意深く観察をはじめた。
「どうだね、何も見えないか?」とグレナヴァンはきいた。
「見えない! 猫でさえ二歩先は見えまいよ」
「赤い火か緑の火をさがしてくれ。つまり左舷燈と右舷燈だが」
「私には赤い火も緑の火も見えない! すべては黒一色だ!」とパガネルは答えた。彼の目は閉じた。
半時間ほどのあいだ彼は機械的にやきもきしている友人の後についてまわった。頭を胸の上に垂らすかと思うといきなりまた起こすなどしながら。彼は相手に返事もせず、もはやしゃべろうとしなかった。頼りない歩き方のため彼は酔っぱらいのように倒れた。
グレナヴァンはパガネルを見た。パガネルは歩きながら眠っていたのだ。グレナヴァンはそこで彼の腕を取り、眠りを覚まさないようにして彼の穴へ連れもどしてやり、ゆっくり寝られるように埋めてやった。
夜が明けかけた頃、皆は、
「〈ダンカン〉だ!〈ダンカン〉だ!」という叫びで起き上った。
「万歳! 万歳!」と仲間たちは海岸を駈け出しながらグレナヴァンに答えた。
事実沖合八キロメートルのところにヨットは下のほうの帆をきちんと捲いて低速で進んで来た。その煙は朝靄とぼんやり混り合っていた。海は荒れ、この程度のトン数の船は危険なしには砂洲の根もとに近づくことはできなかった。
グレナヴァンはパガネルの望遠鏡を構えて〈ダンカン〉の様子を観察した。ジョン・マングルズは自分の船の客たちに気づいていなかったに相違ない。船の方向を変えず、縮めたトップスルを左舷開きにして走りつづけていたからだ。
が、このときタルカーヴがカービン銃に火薬をたくさん詰めてヨットのほうに向けて一発放った。
一同は耳をすました。それ以上に視線をこらした。三度インディアンのカービン銃は鳴り響き、砂丘に谺《こだま》をよびおこした。
ついに白い煙がヨットの船腹にあらわれた。
「こちらを見たぞ! あれは〈ダンカン〉の大砲だ!」とグレナヴァンは叫んだ。
数秒後に鈍い砲声が渚までわずかに聞こえて来た。ただちに〈ダンカン〉はトップスルを変えて汽罐《かま》をどんどん焚きながらできるだけ岸に近づけるように方向を変えて来た。
間もなく望遠鏡のおかげでボートが船から離れるのが見えた。
「レイディ・ヘレナはおいでになれないでしょう、海が荒れすぎていますから」とトム・オースティンが言った。
「ジョン・マングルズもだ」とマクナブズも言った。「彼は船を離れることができないから」
「姉さん! 姉さん!」と、激しく揺れるヨットにむかって両腕を伸ばしながらロバートは言った。
「ああ、早く船に帰りたい!」とグレナヴァンは叫んだ。
「辛抱しろよ、エドワード。二時間後には船に帰っているんだから」と少佐が答えた。
二時間! 事実六本のオールをそなえたボートはそれ以下の時間では往復することができなかったのだ。
それからグレナヴァンは、腕を組んでタウカのそばで静かに波騒ぐ海面をみつめているタルカーヴのところへ行った。
グレナヴァンは彼の手を取り、ヨットをさして、
「来たまえ」と言った。
インディアンは頭を振った。
「来たまえ、友よ」とグレナヴァンはなおも言った。
「いや」とタルカーヴはおだやかに答えた。「ここにタウカがいる。そして向うにパンパスが!」と、情熱的な身振りで平原のはてしない広がりを抱くようにしながら彼はつけくわえた。
インディアンが自分の父祖の骨が白く晒《さら》されている平原をどうしても見捨てたくないのだということを彼は充分理解した。彼はこの荒蕪《こうぶ》の地の住民たちの故郷に対する宗教的な執着を知っていた。それで彼はタルカーヴの手を握り、それ以上すすめなかった。インディアンが彼一流の微笑をうかべて、
「友情からだ」と言ってこれまでの尽力に対する報酬を拒んだときにも、それ以上やかましく言わなかった。
グレナヴァンは彼に答えることができなかった。それでも彼はせめてこの誠実なインディアンに何かヨーロッパの友人たちのことを思い出させる記念品を贈りたかった。が、彼に何が残されていたろう。武器も馬もすべてあの洪水の災難のときに失っていたのだ。彼の仲間たちにしても彼以上に物を持っていなかった。
それゆえ彼はこの誠実な案内者の無欲さにどのようにして感謝していいのかわからなかったが、そのときある考えが頭にうかんだ。彼は紙入れから、ロレンスの傑作であるすばらしい肖像を嵌《は》めこんだ貴重なメダイヨンを取り出してインディアンにさしだした。
「私の妻だ」と彼は言った。
タルカーヴは感に入ったような目で肖像を眺め、ただ簡単にこう言った。
「やさしくて美しい!」
それからロバート、パガネル、少佐、トム・オースティン、二人の水夫は心を打つような言葉をもってパタゴンに別れを告げた。この正直な人々は大胆で献身的なこの友から別れることを心から悲しんでいたのだ。タルカーヴは彼らのすべてを幅広い胸に抱きしめた。パガネルはインディアンがこれまでしばしば興味深げに眺めていた南アメリカと大西洋、太平洋の両洋の地図を彼に受け取らせた。それは学者が持っている最も貴重なものだったのである。ロバートはといえば、愛撫するほかに何も与えるべきものはなかった。彼は自分の救い主を愛撫したが、タウカのことも忘れなかった。
このとき〈ダンカン〉のボートが近づいて来た。ボートは砂洲のあいだに穿《うが》たれた狭い水路をするすると進んで来て間もなく岸に乗り上げた。
「家内は?」とグレナヴァンはきいた。
「姉さんは?」とロバートは叫んだ。
「レイディ・へレナとミス・グラントは船で待っていらっしゃいます」とボートの艇長は答えた。「ですが、まいりましょう、閣下、一分も無駄にはできません。引き潮のきざしがあらわれて来ましたから」
皆は思いきりインディアンに最後の抱擁をした。タルカーヴは海に押し出されたボートまで彼らを送って行った。ロバートが乗ろうとするときインディアンは彼を両腕に抱いて愛情をこめて彼をみつめた。
「さあ、もう行くんだよ」と彼は言った。「おまえも一人前の男だ!」
「さようなら、友よ、さようなら!」とグレナヴァンはもう一度言った。
「もう二度と再会することはないだろうか?」とパガネルは叫んだ。
Quien sabe ?(誰が知ろう)腕を天のほうへ差し上げながらタルカーヴは答えた。
これが風の音のなかに消えて行くインディアンの最後の言葉だった。人々は沖を目指した。ボートは引き潮にさらわれて遠ざかった。
長いあいだタルカーヴのシルエットは泡立つ波のむこうに見えていた。それから彼の長身の姿も小さくなり、友人たちの目には見えなくなった。一時間後ロバートがまっさきに〈ダンカン〉の船上に飛び上り、メァリ・グラントの首にかじりついた。そのあいだヨットの乗組員たちは嬉々として万歳の叫びを挙げていた。
こうして厳密な直線をたどるアメリカ大陸横断は終ったのである。山も河も旅行者たちが毅然として予定のコースをつづけるのを妨げなかった。そして彼らは人間の悪意とたたかう必要はなかったが、自然はしばしば彼らに対して猛威をふるって彼らの高潔な勇気に厳しい試練を課したのであった。(中巻へつづく)