有閑階級の理論
ソースティン・ヴェブレン/高 哲男 訳
目 次
凡 例
はじめに
第一章 序 説
第二章 金銭的な競争心
第三章 顕示的閑暇
第四章 顕示的消費
第五章 生活様式の金銭的な標準
第六章 好みの金銭的な規準
第七章 金銭的な文化の表現としての衣装
第八章 産業からの免除と保守主義
第九章 古代的特質の保存
第十章 現代における武勇の存続
第十一章 幸運を信じる心
第十二章 信心深い儀式
第十三章 競争心にもとづかない関心の存続
第十四章 金銭的な文化の表現としての高等教育
訳者解説
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凡 例
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(1)本文におけるイタリック表記は、訳文では傍点を付したうえで、原語のラテン語、フランス語、またはアイスランド語を [ ] で囲って併記した。
(2)本文のなかで ( ) で挿入されている言葉は、訳文においても同様に、( )で囲って訳出した。
(3)本文のなかで使用されている " " は、訳文ではすべて「 」で表記した。
(4)[ ]内の説明は、読者の便宜のために、訳者が補った訳注である。
(5)ルビでの原語表記はあくまでも参考にとどまり、解説で詳しく触れるように、同一の原語についてつねに同じ訳語が当てられているわけではない。また表記は、基本的にアメリカ発音とし、[v]音は原則的に「ヴ」としたが、「サービス」のように外来語として定着しているものについては、慣用に従っている。
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はじめに
本書の目的は、現代的な生活における経済的要素としての有閑階級の地位と価値とを探ることだが、議論をそのような枠のなかに厳密に閉じこめることは、不可能だと分かった。その制度の起源と発展の系譜だけでなく、ふつうなら経済的な分野に分類されない社会生活の側面についても、注意を払わざるをえないからである。
ここでの議論は、いくつかの点で、あまりなじみのない経済理論や民族学的な一般理論にもとづいてなされている。このような理論的な前提については、序章で提示しておいた。そこに含まれている理論的な立場に関するより明確な叙述は、『アメリカ社会学雑誌』第四巻に連載された論文「製作者本能と労働の厭わしさ」、「所有権の初期」および「野蛮時代の女性の身分」のなかで行っている。もっとも本書での議論は、このような――部分的には斬新な――一般理論にもとづいてなされているからとはいえ、さほど厳密な方法を用いているわけではない。そこで、権威や資料的裏づけが不十分だからとして、読者の支持を失ってしまうと同時に経済理論の立ち入った叙述としてもちうる価値をも失ってしまう、ということはないだろう。
主張を例証したり補強したりするための資料は、身近にない深遠な典拠よりも、むしろ直接見聞きできたり、誰でもよく知っている日常的な生活から意図的に引き出されている。というのも、一部は便宜上の理由から、また一部は周知の現象の意味を取り違えることなどめったに生じないという理由から、そうしたのである。このようなありふれた事実に依拠したからといって、すなわち、人間生活のなかで人目につかぬ場所にあるために経済的な議論の影響から免れてきた現象や卑近な現象を、冷淡なほど自由に取り扱っているように見えるときがあるからといって、読者の教養や科学的適性に関する感覚が不快にも狂わせられた、などと思いこむことがないようにお願いしたい。
ずっと以前の畑違いに見える資料から引き出された根拠や確証的な証拠だけでなく、民族学から借りてきた断片的な理論や推定もまた、よく知られているばかりか入手しやすいものであり、ある程度の読書家であれば典拠など容易に判明するに違いない。したがって、典拠や証拠を明示するという慣行は守らなかった。本文のなかでもっぱら例示として使ったいくつかの引用もまた同様に、典拠の指示がなくても誰にでも容易に確認できる|類《たぐい》のものばかりである。
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第一章[#「第一章」はゴシック体] 序 説
|有閑《レジヤー》階級という|制度《インステイテユーシヨン》がその最高の発展を遂げているのは、たとえば封建時代のヨーロッパや封建時代の日本のように、|野蛮時代の文化《バーバリアン・カルチヤー》が高度化した段階においてのことである。このような|共同社会《コミユニテイ》では階級間の区別がきわめて厳密に守られており、この階級的区分のなかで最も重要な経済的意味をもつものは、それぞれの階級に固有な職業の間で保たれる区別である。上流階級は、|慣習《カスタム》によって産業的な職業から免除されたり排除されたりしており、ある程度の名誉をともなう一定の|職業《エンプロイメント》が約束されている。どのような封建社会でも、最も尊敬される仕事の筆頭は戦闘であり、ふつう聖職者の仕事が戦闘の次にくる。野蛮時代の社会がめだって好戦的でない場合には、聖職者という職務が、序列の上で武人のそれよりも高くなることがある。だが、武人であれ聖職者であれ、上流階級が産業的な仕事を免除されるという規則はまず例外なく守られるのであって、この免除されているという一事が、彼らの卓越した地位の経済的な表現である。インドのバラモンは、この二つの階級が産業から免除されていることを示す好例である。より高度な野蛮時代の文化に属している社会では、包括的に有閑階級と呼びうるような階級の内部でさらに細かな差別化が相当にすすんでおり、副次的階級の間にそれぞれ対応した職業上の区別が生まれている。有閑階級全体は貴族階級と聖職者階級から構成されるが、従者の大部分もそれに含まれる。したがって、その階級の職業は多様なものになるが、非産業的であるという点で、経済的に共通する特徴をもっている。このような上流階級の非産業的な職業は、大雑把にまとめれば、統治、戦闘、宗教的職務およびスポーツである。
最初期ではないにしても、野蛮時代の早い段階では、まだ有閑階級はそれほど明確な形で現れてはいなかった。階級の区別や有閑階級の間での職業の区別は、それほど微細なものでも複雑なものでもなかった。ポリネシアの住民はこの発展段階を申し分ないほど一般的に示しているが、そこでの例外は、大きな獲物がいないために、狩猟にふつう与えられる名誉ある地位が、彼らの生活図式のなかで与えられていない、ということぐらいである。サーガ[アイスランド神話]の時代のアイスランド社会もまた、好例を提供する。そのような社会では、階級間および各階級に固有な職業の間に、きわめて厳密な区別が存在している。肉体労働、勤労、生活の糧の入手という日常的な仕事に直接結びつくことはすべて、下層階級の専一的な職業である。この種の下層階級には奴隷や召使いが含まれており、通例、女性もまたすべて含まれる。貴族階級にいくつかの等級が出現している場合には、高い階級の女性は、産業的な仕事への従事、または少なくともずっと平凡な肉体労働を免除されている。上流階級の男はあらゆる産業的な職業を免除されるだけでなく、掟としての慣習によって、それへの従事を禁じられる。彼らに許された職業の範囲は厳密に定められている。先に指摘した野蛮文化のさらに高度な段階では、これらの職業は統治、戦闘、宗教的職務およびスポーツである。この四系統の活動が上流階級の生活図式を支配しており、最高の階級――王や部族長――にとって、社会の慣習や常識が許容する活動は、このようなものだけになる。事実、そうした体系がよく発展しているところでは、スポーツでさえ、最高の地位のメンバーにとって正当なものかどうか疑わしいとされる。低い階層の有閑階級には一定の他の職業が開放されているが、それは、典型的な有閑階級の職業のどれかに付随しているような職業である。たとえば、武器や武具および戦争用カヌーの製造と保管、馬、犬および|鷹《たか》などの手入れや|躾《しつけ》、宗教儀式用具の調整といったものである。下層階級はこのような二次的な名誉が付着している職業から締め出されているが、その職業が明らかに産業的な性格をもち、典型的な有閑階級の職業とごくわずかしか関連をもたないような場合は、別である。
たとえこの典型的な野蛮時代の文化を一歩さかのぼって、より原始的な段階にある野蛮状態に目を向けたとしても、そこに十分発達した有閑階級を見つけることなどできはしない。しかし、このような原始的な野蛮状態は、有閑階級という制度が発生してくる際の慣行や動機や状況の端緒を示しており、したがってその初期の成長の道筋を示唆している。世界のさまざまなところに住む遊牧的狩猟部族が、これらの初期未開状態における区別を例示してくれる。北アメリカの狩猟部族のどれをとっても、格好の事例となろう。このような部族が、はっきりと分かる有閑階級をもっているとは言いがたい。そこでは機能の分化が生じており、この機能の分化にもとづいた階級間の区別こそ存在してはいるが、上流階級を労働から免除することがまだ十分進行していないため、有閑階級という名称はまだふさわしくない。この経済水準にある部族は、男の職業と女の職業とが明確に区別される程度の経済的文化を実現しており、この区別は、|妬みを起こさせるような《インヴイデイアス》性質のものである。このような部族では、ほとんどすべて掟としての慣習によって、女は、やがて次の段階で固有の産業的職業に転成してゆく種類の仕事にとどめおかれている。男は、このような平凡な職業を免除されており、戦闘、狩猟、スポーツ、宗教的儀式のために留保されている。きわめて精緻な男女差別というものは、ふつうこういう形で示されるのである。
この分業は、より高度な野蛮文化で現れる労働者階級と有閑階級との間の区別と一致している。職業の多様化と専門化が進むにつれ、境界線は、産業的職業と非産業的職業とを分断して引かれるようになる。初期の野蛮時代に存在した男の職業は、後の大部分の産業が発展してくる源泉ではない。後の発展のなかでは、それは、産業的とは分類されない職業――戦闘、政治、学術および聖職――のなかに存続するにすぎない。唯一の顕著な例外は、たとえば武器、装身具およびスポーツ用品の生産という、産業に分類するには疑問の余地がある一定のとるに足りない職業と、漁業とである。実質的に、あらゆる領域の産業的な仕事は、初期の野蛮社会で女の仕事に分類されていたものの派生物なのである。
より低次の野蛮時代の文化における男の仕事も、女の仕事に劣らず、集団の生活にとって不可欠なものである。男の仕事が食料供給とか集団にとって必要な他の消費に大いに貢献する、ということは十分にありうる。事実、男の仕事がもつこの「生産的」性格があまりにも明白であるため、従来の経済学の著作のなかでは、猟師の仕事は原始未開の産業の典型として取り上げられてきた。だが、それは野蛮人に即した事態の理解とは言えない。伝統的な解釈に従えば、猟師は労働者ではないから、彼を女と同じ部類に入れることはできないし、彼の努力もまた、労働や勤労といった女の退屈な仕事と同じ部類に入れることはできない。従来の経済学のように理解すると、男の努力と女の退屈な仕事の混同を是認することになってしまう。どのような野蛮な共同社会であれ、男の仕事と女の仕事との間には、はっきりと意識された違いがある。そのような社会の理解によれば、男の仕事は集団の維持に貢献しうるものではあるが、それは、女の平凡な勤労と比較などされたら、それこそ名誉を失墜してしまうような種類の卓越性と効果をもつ、というものである。
文化の段階をさらに一歩――未開な集団の間で――さかのぼると、職業の分化はさらに不明瞭になり、階級間や職業間の妬みを起こさせるような区別は、ますます一貫性と厳格さに欠けてくる。|原始未開《プリミテイヴ・サベツジ》文化の決定的な事例を見つけようと思っても、それは困難なことである。このように「未開」と分類されている集団や共同社会のうち、一歩進んだ文化段階から|退行《リグレツシヨン》した痕跡を示していないものはほとんどない。だが、原始未開の特性をかなり厳密に示している集団――そのうちのいくつかは明らかに|退化《リトログレツシヨン》の産物ではない――が存在する。そのような集団がもつ文化と野蛮時代の社会の文化との違いは、有閑階級の欠落と、有閑階級という制度を支えている意志と精神態度とのほぼ完全な欠落に求めることができる。経済的な階級の階層秩序を内部にまったくもたないような原始未開社会は、人類のなかではごく小さく、しかもめだたない部分を構成するにすぎない。この段階の文化の格好な例証となりうるものは、アンダマン諸島の部族やニルギリ高原のトダ人によって提供されている。ヨーロッパ人と最初に接触した時点で観察されたこのような集団の生活図式は、有閑階級を欠いていたという点で、ほぼ典型的なものであったと思われる。さらに別の例証として、北海道のアイヌを、そしてかなりの疑問はあるが、いくらかのブッシュマンやエスキモー集団を指摘することができよう。いくつかのプエブロ族の社会をこの部類に含めるのは、あまり信頼できることではない。すべてではないにしても、ここに指摘したような社会の大部分は、現在の水準以上に向上しなかった文化を後々まで保ってきたというより、より高度な野蛮状態から|退化《デイジエネレーシヨン》した事例である可能性のほうが高いからである。もしそうだとすれば、当面の目的にとって、彼らは多少割り引いて取り上げるべきものになるが、にもかかわらず、もし彼らが本当に「|原始的な《プリミテイヴ》」人間であるとすれば、同じ意味で証拠として役立ちうることになろう。
明確な有閑階級をもたないこのような社会は、また社会構造や生活の仕方など、他の側面でも互いに類似点をもっている。このような社会は小集団であり、単純な(|古代的な《アーカイツク》)構造から成り立っている。それはふつう平和愛好的で定住的であり、貧しく、しかも私的所有権は経済システムの支配的な特徴になっていない。と同時に、これが既存の共同社会のうちの最小単位であるとか、その社会構造はどこからみてもほとんど分化していない、ということにはならないし、まして階級制が、必ずしも明確な私的所有権のシステムをもたないあらゆる原始未開社会の付随物だ、ということになるわけでもない。しかし、階級制は、大部分の平和愛好的――おそらくまったく独特な意味で平和愛好的――で原始的な人間集団に含まれているように思われる、ということが指摘されなければなるまい。事実、そのような社会の構成員に共通する最も特徴的な特性は、暴力や詐術に直面したときに示す明白な好意的無能力である。
低次の発展段階にある共同社会の慣行や文化的特性によって提供される証拠が示すところによれば、こうである。すなわち、有閑階級という制度は、共同社会が原始未開から野蛮状態へと移行する間に、つまりもっと正確に言えば、平和愛好的な生活習慣から一貫性をもつ好戦的な生活習慣へと移行する間に漸次的に発生した、というのである。それが首尾一貫した形で登場するために不可欠な条件は、以下である。(一)共同社会は|略奪的な《プレデタリー》生活習慣(戦闘あるいは大きな獲物、または両者)から構成されていなければならない。すなわちこの場合、始まったばかりの有閑階級を構成する男は、暴力や策略によって危害を加えることに慣れていなければならない。(二)共同社会のかなりの部分が恒常的に決まりきった肉体労働に従事せずにすむことを許容するほど、十分容易な条件で生活必需品が入手可能でなければならない。有閑階級という制度は、ある職業は尊敬に値し、ある職業は尊敬に値しないという、初期の職業間の差別化から派生したものである。この古代的な区別の下では、尊敬に値する職業とは、|英雄的行為《エクスプロイト》に分類されうるようなものであり、英雄的行為という要素が明確な形で含まれていない日常的に不可欠な職業は、尊敬に値しないのである。
現代の産業社会では、この区別はごくわずかな表面的意義しかもっておらず、したがって、経済学者から注目されることはほとんどなかった。経済学的な議論を導いている現代の常識にてらせば、それは外形であって、実質的でないものに思われよう。だが、たとえば下賤な職業に対するわれわれの慣習的な嫌悪が明らかに示しているように、現代的な生活のなかでさえ、それは、誰もが共有する先入観としてきわめて強固に残存している。それは、人間的な質をめぐる――優越と劣等に関する――区別である。社会の生活を形づくっていくなかで、個人の人間的な力がより直接かつ明瞭な重要性をもっていた初期の文化段階では、英雄的行為という要素は、日常的な生活図式のなかでさらに重要なものと見なされた。そして、この事実にますます関心が集中していった。結果的に、これにもとづいてなされた区別は、当時にあっては、今日そうであるよりもずっと不可避的で決定的なものと思われた。したがって、発展の継起のなかでみれば、その区別は実質的なものであり、まったく正当かつ適切な根拠にもとづいていたことになる。
事実の間で|習慣的に《ハビチユアリー》行われる区別の根拠は、事実を習慣的にながめる基礎、すなわち関心が変わることで変化する。目の前にある事実の特徴は誰にも分かりやすく基本的なものであり、時代の支配的な関心は、それに対して向けられる。いかなる既存の区別の根拠も、問題の事実を異なる見地から理解し、異なる目的で評価する習慣をもっている人からは、無内容だと判断されるであろう。さまざまな活動の目的と方向を区別したり分類したりする習慣は、必ずいつどこにでも存在する。実際的な人生観や生活図式を手に入れるために不可欠なものだからである。特定のものの見方、すなわち生活上の諸事実を分類してゆく際に決定的な役割を担うとされている一定の特徴は、諸事実間の区別の基礎をなす関心次第で決まる。区別の根拠、したがってまた事実を区分けしてゆく際の手続き規範は、文化の成長とともに漸進的に変化する。というのは、生活の諸事実を理解するそもそもの目的が変われば、結果的に、ものの見方もまた変化するからである。それゆえ、ある文化段階で、特定の階級の活動や特定の社会階級を際立たせるほど決定的な特徴と認められているものが、それ以後どの文化段階でも、分類を行うという目的にとって、相対的に同じ重要性を保つとはかぎらないであろう。
だが、規準や観点の変化はきわめてゆっくりとしたものにすぎず、従来受け入れられていた観点の転覆や全面的抑圧をもたらすことはほとんどない。産業的な職業と非産業的な職業との間の区別はいまでも習慣的になされており、この現代的な区別は、英雄的行為と退屈な仕事との間でなされた野蛮時代の区別が、形を変えて現れたものなのである。戦闘、政治、公事としての礼拝、公事としての酒宴などの仕事は、大衆の理解のなかでは、骨折って物質的な生活の糧を作り出すことに結びつく肉体労働とは、本質的に異なったものと感じられる。正確な区分線は、より以前の野蛮時代の文化体系のなかに存在したものと同一ではないが、大まかな区別が消失することはなかった。
実際、今日暗黙のうちに常識的になされている区別によれば、あらゆる人間の努力は、その究極の目的が非人間的な事物の利用に向けられているかぎり、産業的と理解されるべきだということになる。人間による人間の強制的な利用が産業的機能だと認められることはないが、非人格的な環境を利用することによって人間生活を高める努力は、すべて産業的活動として一括されるのである。だが、古典的な伝統を最もよく保持しつつ受け入れてきた経済学者によれば、人間が「自然を支配する力」は、現代では、産業の生産性を示す基本的な事実だと主張されている。この自然を支配する産業力は、動物の命や他の自然諸力一般に対する人間の支配力を含むものと理解されている。こうして区分は、人間と獣との間に引かれるのである。
異なる時代や異なる体系の価値観が染みこんでいる人々の間では、この区分線を、今日われわれが引くのとまったく同じように引くことはできない。原始未開や野蛮時代の生活図式のなかでは、引く場所も引き方も異なっている。あらゆる野蛮文化に属する社会では、野蛮な人間それ自体を含めたものとその食料になるもの、という二つの包括的な種類の現象を対立関係において捉えるような、鋭くかつ根深い観念が存在する。経済的な現象と非経済的な現象の間にもはっきりとした対立関係があるが、それは現代流の理解にもとづいたものではない。人間と獣との間にではなく、生気があるものと不活性なものとの間にこそ対立関係があるのだ。
ここで「|生気がある《アニメイト》」という用語で表現しようとしている野蛮時代の観念が、「|生きている《リヴイング》」という言葉で表現されるようなものと同じではないことを説明することは、今日では周到にすぎるかもしれない。その用語はあらゆる生命体を含んでいるわけではないが、他のきわめて多くのものを含んでいる。暴風、疾病、滝などのような印象的な自然現象は「生気がある」と認識されるが、果物や草、さらにウシアブ、ウジ、タビネズミ、羊などのようなめだたない動物の場合でさえ、集合的に捉えたときを除いて、ふつう「生気がある」とは理解されない。ここで用いているように、その用語は、必ずしも内に宿る魂や精神を意味しているわけではない。その概念は、アニミズム的な未開人や野蛮人の理解のなかでは、現実のものであれ想像によるものであれ、活動を引き起こす習慣をもっているという理由で畏敬の念を起こさせるものを含んでいる。このカテゴリーはきわめて多数の広範な自然の事物と現象を含む。|不活性な《イナート》ものと、|活動的な《アクテイヴ》ものとの間にみられるような区別は、現代でもなお、思慮に欠ける人々の思考習慣のなかに残っており、依然として広く行きわたった人生観や自然過程の理解に広範な影響を及ぼしているが、しかし、程度や広く実際的な意義という点では、初期の段階の文化や信念のなかに示されていたほど、われわれの日常生活に浸透しているわけではない。
野蛮人の考え方に従えば、不活性な自然によって与えられるものを仕上げたり利用したりすることは、「生気がある」ものや|力《フオース》の取り扱いとは、まったく異なった地平における活動である。区分線は不明瞭で移動しやすいが、大まかな区別としては十分に現実的で説得力があり、野蛮人の生活図式に影響を及ぼすものであった。野蛮人の空想力は、生気があると理解された種類のものに対して、なんらかの目的に向けられた活動の顕現だという理由を転嫁してしまう。あらゆる事物や現象を「生気がある」事実にしてしまうのは、この活動の目的論的な顕現なのである。あまり程度が高くない未開人や野蛮人がきわめて目を|瞠《みは》る活動に直面した場合、彼らはつねに、それをすでに身につけている用語――彼自身の活動を意識すれば即座に与えられる用語――だけを用いて解釈する。それゆえ活動は人間の行為になぞらえられ、活動的な事物は、そのかぎりで人間主体になぞらえられることになる。この種類の現象――とくにその動きが、明らかに畏敬の念を生じさせたり困惑させたりするようなものの場合――には、不活性な事物を取り扱う場合に必要とされるものとは異なった種類の熟練と異なった精神をもって、対処しなければならない。このような現象にうまく対処することは、|産業《インダストリー》に属する仕事というよりも、英雄的行為に属する仕事である。それは勤勉な行為の強調というより、勇敢な行為の強調なのである。
原始未開の社会集団の活動は、不活性なものと生気あるものとの間のこのような素朴な区別に導かれて、理論的に言えば、英雄的行為と|勤労《インダストリー》と呼ばれる二つの部類に分かれる傾向がある。勤労というのは、作り手の創造的な力によって、受動的な(「|野生的な《ブルート》」)素材から一定の目的にかなう新しいものを作り出す努力のことであるが、他方、英雄的行為――それが結果的に主体にとって有用であるかぎりでのことだが――とは、他の主体によって異なる目的に向けられていたエネルギーを彼自身の目的に転換することである。いまでもなおわれわれは、その用語のなかに深い意味を読みとる野蛮人に近い感覚で、「野生的なこと」に言及している。
英雄的行為と骨が折れる仕事との間の区別は、両性間の違いと一致している。両性の違いはたんに体の大きさや腕力だけでなく、気質における決定的な違いに求められるのであって、これが、対応する分業を早い時期に発生させたに相違ない。英雄的行為という項目の下にまとめられる一般的な分野の活動は、勇敢でいっそう体格がよく、突然の激しい緊張にもよく耐え、さらに自己主張や活発な競争や攻撃に専念しやすい存在であるという理由から、男のものになる。大きさ、生理学的な性質や気質における違いが未開集団の構成員の間ではほとんど存在せず、実際相対的に小さくてさほど重大でもないということは、われわれには周知の――たとえばアンダマン諸島の部族のように――ずっと古代的な共同社会のいくつかにおいて見いだされるのである。だが、機能の分化が、このような身体と意志における違いによって規定されるようになるやいなや、両性間の本来的な違いはおのずと拡大することになる。とくに集団が接触を保っている生息環境や動物相が、よりたくましい潜在能力を相当程度発揮するよう求める場合には、職業の新たな配分に向けた累積的な淘汰的適応の過程が始まることになろう。大きな獲物を追い求める習慣は、大柄、機敏さ、残忍さという男らしい資質に磨きをかけるように要請するから、両性間の機能の分化を早めたり広げたりし損なうことはほとんどない。加えて、集団が他の集団と敵対的な接触をもつようになるやいなや、機能の分化は、英雄的行為と勤労との間の区別という発展した形を呈するようになる。
そのような略奪的な狩猟人の集団のなかでは、戦いと狩りとが立派な体躯をもつ男の職務になってくる。他の必要な仕事をことごとく行うのは、女である。つまり、男の仕事をする力をもたない他の構成員は、この目的から、女に分類されるのである。だが、男の狩りや戦いは、ともに同様の一般的性格をもっている。両方とも略奪的な性質のものであって、武人も猟師も等しく種をまかなかったところで刈り取るのである。力や機敏さを積極的に強調する点は、根気よく淡々と素材に手を加えてゆく女と、明らかに異なるところである。それは生産的な労働と考えるべきものではなく、むしろ強奪による物の取得と理解すべきものである。野蛮文化の男の仕事とはこのようなものであったから、それが最高に発展して女の仕事と大きくかけ離れたものになると、武勇の強調を含まない努力などというものは、男には値しないものになってくる。その伝統が固まってくると、社会の常識がそれを行為の|規準《キヤノン》に仕立て上げ、結果的に、この段階の自尊心あふれる男には、|武勇《プラウイス》――暴力もしくは詐術――を基礎にもっていないいかなる職業や|取得《アクイジシヨン》も、道徳的に不可能になる。略奪的な生活習慣が長い|習慣化《ハビチユエーシヨン》をつうじて集団に定着した場合には、すぐれた身体をもつ男の社会経済における公認の職務は、生存闘争のなかで、反抗したり逃げようとする敵を殺したりうち破ったり、包囲のなかで抵抗を示しつづける敵対的な勢力を征服したり役立つように服従させたりする、ということになってくる。多くの狩猟部族のなかで死守されたこの英雄的行為と骨の折れる仕事との間の理論的な区別は、きわめて堅固でしかも精緻なものであるため、男は、殺した獲物を家にもって帰るわけにゆかず、その卑しい職務を遂行させるために、部族の女を派遣しなければならないほどなのである。
すでに指摘したように、英雄的行為と骨の折れる仕事との間の区別は、職業間の|差別的な《インヴイデイアス》区別である。英雄的行為として分類されるような職業は価値があり、尊敬に値するばかりか高貴なものである。英雄的行為という要素を含まない他の職業、とくに貢献や服従を意味する職業は価値がなく、品がなくしかも卑しいものである。威厳、価値すなわち名誉という概念は、人に適用されようと物に適用されようと、階級と階級の区別が発達する過程で最も重要なものであり、それゆえ、その展開と意味内容についてある程度のことを言っておく必要がある。その心理学的根拠はおよそ以下のように指摘できるであろう。
淘汰的必然のこととして、人間が|主体《エージエント》である。人間の理解においては、展開してゆく衝動的な活動――「|目的論的《テレオロジカル》」活動――の中心はあくまでも人間である。人間はあらゆる行為規範のなかに、なんらかの具体的で客観的な、さらには、一般的な目的の達成を望むような主体である。このような主体であるということにより、人間は効果的な仕事に対する愛好と、無駄な努力に対する嫌悪をもつようになる。人間は有用性や効率性を高く評価し、不毛性、浪費すなわち無能さを低く評価する、という感覚をもっている。この習性あるいは性向は|製作者《ワークマンシツプ》本能と呼ぶことができよう。生活の環境や伝統が能率をめぐって人と人とを比較するという習慣をもたらすようなところでは、製作者本能は、結局、人と人との間の競争的な、あるいは妬みを起こさせるような比較をもたらすことになる。どの程度までこうなるかは、人々の気質にかなりのところ依存している。このような個人間の妬みを起こさせるような比較が習慣的に行われているような共同社会では、名誉の基礎としての効用をもつがゆえに、目にみえる成功が追求すべき目的になってくる。名誉の獲得と悪評の回避は、人の能力を証明するものになる。結果的に、製作者本能は|競争心にもとづく《エミユレイテイヴ》力の誇示をもたらすことになる。
社会の発展が原始未開段階にあるとき、つまり社会が習慣的にはなお平和愛好的で、おそらく定住的であり、しかもよく発展した私的所有権のシステムをもっていない時期には、個人の能力は、集団の生活をいちだんと発展させるような職業をつうじて、集中的かつ持続的に示すことができる。そのような集団構成員の間に存在する経済的な性質の|競争《エミユレーシヨン》とは、主として産業的な有用性をめぐる競争である。と同時に、競争への刺激は強くないし、競争の余地も広くはない。
社会が、平和愛好的で未開な生活段階から野蛮な生活段階へ移ると、競争の条件が変化する。競争をめざす刺激や機会が、範囲の点でも緊急度の点でも著しく増大する。一人の狩猟者や武人と他のそれとの間の競争心にもとづく比較が、いつでも容易ではるかに習慣的なものになってゆく。目にみえる武勇の証拠――|戦利品《トロフイー》――は人間の生活の装飾品としての不可欠な特徴を表すものとして、思考習慣のなかに組みこまれる。狩りや襲撃の戦利品である略奪品は、ひときわ秀れた力の証拠として賞賛されるようになる。攻撃は公認の慣行的な行為になり、こうして略奪品が、成功した攻撃の自明の[#「自明の」に傍点] [prima facie] 証拠として役に立つのである。この文化段階で受け入れられたものだが、抗争は、自己を主張する価値の高い慣行として公認される。略奪または脅迫によって入手した有用な物やサービスは、成功した競技の|慣例的な《コンヴエンシヨナル》証拠として役立つ。こうして、対照してみることをつうじて、略奪以外の手段で財を取得することは最高の地位にいる男にふさわしくない、と判断されるようになる。同様な理由から、生産的な仕事の遂行や他人への奉仕も同じ汚名を着せられる。略奪による英雄的行為や取得と産業的職業との間に、このような妬みを起こさせるような区別が発生する。労働は、それに帰された不名誉ゆえに、厭わしいという性質を獲得するのである。
原始未開人の場合には、まだ内容的に素朴な考え方がそれ自体のいっそうの細分化や同質的な観念の副次的成長によって曇らされていないから、「尊敬に値する」という言葉は、卓越した力の表示以外のものをなんら意味していないように思われる。「尊敬に値する」とは「畏怖させるような」であり、「価値がある」とは「優勢な」ということである。名誉を与える行為とは、究極的に成功と認められた攻撃的行為以外の何ものでもない。そして、攻撃が人間と獣との間の争いを意味する場合には、何はさておき、とくに尊敬に値するものは剛力の発揮である。人格や「意志力」という観点から力の顕在化を解釈するという古代的な習慣が、この剛力の慣例的な賞賛を大いに強化する。尊敬を表す添え名は、野蛮な部族の場合でも、ずっと発展した文化段階の人々の間と同様に流行するのだが、ふつう純粋な意味で言う名誉にふさわしい特徴を備えている。酋長であることを示したり王や神を慰謝するために用いられる添え名や称号は、慰謝されるはずの人物に、威圧的な暴力と抗しがたいほど破壊的な力への性向を転嫁していることが、きわめて一般的である。これはまた、現代のはるかに文明化された社会でも、ある程度妥当する。紋章の図案のなかに示されている猛獣や猛禽類への偏愛が、同じ解釈をさらに補強している。
価値や名誉に関するこの野蛮文化の常識に従えば、命を取ること――獣であれ人間であれ、恐ろしい敵対者を殺すこと――が、最も名誉あることである。そして、殺害者の優越性を示す大量|殺戮《さつりく》というこの高貴な職務は、あらゆる大量殺戮の行為そのものと、その行為のありとあらゆる道具や服装用の付属品に、見惚れるような価値を授ける。武器は尊敬に値するものであり、野にいる動物のうちで最も貧弱なものの命をねらったものであっても、その使用は尊敬に値する仕事になる。と同時に、産業にかかわる仕事は、それに対応して嫌悪すべきものになり、常識的な理解では、産業用の道具や用具を取り扱うことは、立派な体躯をもつ男の品位を引き下げるものになる。労働は厭わしいものになるのである。
ここでの前提は、未開の集団が文化的な進化のなかで、当初の平和愛好的な段階から、戦いを公認の特徴的職業とする次の段階へと移行したということである。だが、破られることのない平和と善意の時代から、事実としての戦いがはじめて生じるようなより高度な段階または時代へと唐突に推移した、と主張しているわけではない。さらにまた、あらゆる平和な産業が、略奪的文化段階への移行に直面して消滅するわけでもない。社会発展の初期段階のいたるところで、なんらかの戦いが見いだされるといっても間違いではなかろう。|性的な競争《セクシヤル・コンペテイシヨン》をつうじて、戦いがかなり頻繁に起きたであろう。類人猿の習慣に加えて、未開人集団のよく知られた習慣がそのような趣旨のことを示しており、また周知の人間性を促進するような事柄から得られる証拠が、同じ見解を強く示唆している。
したがって、ここで想定しているような平和愛好的生活という原始的段階などありえなかった、という反論がありえよう。それ以前の時期には戦いが生じなかったという段階は、文化的進化のなかには存在しない。だが問題の要点は、偶発的あるいは散発的な闘争、さらには、かなり頻繁で習慣的でさえありうる闘争が発生したかどうかをめぐるものではない。問題は、習慣としての好戦的な思考様式――事実や出来事を戦闘の観点から判断するという行きわたった習慣――の発生に関するものなのである。略奪的な文化段階への到達は、集団構成員に略奪的な態度が習慣的で公認の精神態度になったとき、すなわち、人々の人生観のなかで戦闘が中心的な要素になり、人間と物についての常識的な評価が闘争を目的とした評価になったときに、はじめて実現するのである。
それゆえ、平和愛好的な文化段階と略奪的な文化段階との間の実質的な違いは、精神的なものであって物理的なものではない。精神態度における変化は、集団生活の物質的事実に生じた変化の結果であり、略奪的な態度にとって好都合な物質的環境が結果的に生じてくるにつれてゆっくり現れてくる。略奪文化が発生する最低の条件は、産業的な条件に左右される。生活の糧を入手するために働く人々の必要を上回って剰余――戦いによって手に入れるに値する剰余――が生まれるほど産業体系の能率が向上するまで、どのような集団あるいは階級にとっても、略奪は集団的で慣例的な方策になりえない。同様に、人間を恐ろしい動物にするほど武器が発達しなかった時期に、略奪文化が存在しうるはずもない。もちろん初期における道具と武器の発達とは、異なる二つの観点からみた同一の事実である。
戦闘に訴えるという習慣が、男の日常的な思考のなかで、戦いを男の人生の中心的な特徴として際立つものにしないかぎり、その集団の生活は平和愛好的である、と性格づけられるであろう。どの程度完全であるかどうかは別として、集団は明らかにそのような略奪的な態度に到達しうるのであって、その結果、集団の生活図式や行為の規準は多少とも略奪的な意志によって支配されることになる。したがって、略奪的な文化段階は、略奪的な習性、習慣および伝統の累積的な成長をつうじて、漸次的に登場すると考えられるのである。つまりこの成長は、平和愛好的というよりも、略奪的な生活にとって役に立つような人間性の特性、伝統および行為|規範《ノルム》を育み維持するような性質をもつ、集団生活の環境の変化に由来するものなのである。
原始未開文化にこのような平和愛好的段階があったという仮説の証拠は、民族学よりもむしろ心理学から大部分引き出されたものであり、ここで詳しく述べることはできない。こうした点については、現代文化における人間性の古代的特質の存続を議論するときに、後続の章で部分的に再説することになるだろう。
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第二章[#「第二章」はゴシック体] 金銭的な競争心
文化的な進化の継起のなかでは、有閑階級の登場は所有権の開始と時期を同じくしている。この二つの制度は同じ一組の経済的な力からもたらされたものであるから、これは当たり前のことである。登場したばかりの段階では、二つの制度は、社会構造の同じ一般的事実がもつ異なる側面を表しているにすぎない。
|閑暇《レジヤー》と所有権が当面の目的にとって関心事になるのは、社会構造の要素――慣例的な事実――としてである。労働の習慣的な軽視が有閑階級を生み出すわけではなく、また、使用したり消費したりするという物理的な事実が所有権を生み出すわけでもない。それゆえ、この研究では、怠惰の開始も、個人的な消費に役立つ物品の専有の開始も、問題にすることはない。問題の要点は、一方では、|慣例的な《コンヴエンシヨナル》有閑階級の起源と性質であり、他方では、慣例的な権利または衡平法上の請求権としての私的所有権の開始である。後期段階の野蛮時代の文化において、有閑階級と労働者階級との区別の発生源である初期の分化は、男の仕事と女の仕事との間で維持されていた区分から始まる。同様に、最初期の形態の所有権は、社会の有力な男がもつ女の所有権である。この事実は、男による女の所有というはるかに一般的な用語で表現できるが、このほうが野蛮人の人生観に従った意味に近いであろう。
女を専有する慣習が発生する以前から、有用物のある程度の専有があったことは間違いない。女の専有がみられない現存の古代的社会における慣用が、そのような見方の証拠になろう。どのような社会であれその構成員は、男であれ女であれ、個人的に使用するためにさまざまな有用物を習慣的に専有している。だが、これらの有用物がそれを専用し消費する人によって所有されている、などと考えられていたわけではない。ささやかな手回り品の習慣的な専用や消費は、所有権という問題、すなわち、直接関係をもたないものに対する慣例的な権利または衡平法上の請求権という問題を引き起こすまでもなく、遂行されるからである。
女に対する所有権は、低次の段階の野蛮文化のなかで、明らかに女性捕虜の略奪とともに発生する。女を略奪したり専有したりする本来の理由は、戦利品としての有用性であったと思われる。女を敵から戦利品として強奪するという行為が、形式としての所有婚を発生させ、結果として男を長とする家族を生み出したのである。これにひき続いて、女に加えて他の捕虜や下級の者たちへの奴隷身分の拡張と、敵から強奪した者ではない女への所有婚の拡張がなされた。こうして、競争心が略奪的な生活環境の下で生み出したものは、一方では強制にもとづく婚姻形態、他方では所有権という習慣だったのである。発展の初期段階ではこの二つの制度は区別できず、いずれも、略奪の永続的な成果を誇示することによって武勇のほどを証明しようという、成功した男の欲望に起源をもっている。両者はまた、あらゆる略奪社会に浸透している支配を好む性向をみたす。所有権という概念は、女の所有から拡大して女の勤労による生産物をも含むようになり、こうして人に対する所有権と同様に、物に対する所有権が発生したのである。
このようにして、財を所有するという整合的なシステムが漸次作り上げられていった。そして発展の最終段階になると、消費用の財の有用性が価値の最も顕著な要素となってくるが、それでもなお富は、所有者の優勢を示す名誉ある証拠としての効用を、決して失うことがないのである。
私的所有権という制度がごくわずかしか発展していない場合でも、ともかくもそれが存在するところではどこでも、その経済過程は財の所有権をめぐる人々の間の闘争という性格をもつ。経済理論のなかでは、したがって、とくに現代化された古典理論の体系に|躊躇《ちゆうちよ》することなく固執する経済学者の間では、この富のための闘争を実質的な生存競争として解釈するのが通例であった。初期のはるかに産業能率が低い段階であれば、そのような性格のものであることに疑問の余地はない。「自然の|吝嗇《りんしよく》」があまりにも厳しいために、精力的で根気強い仕事によって社会にもたらされる生活の糧がごくわずかでしかないという場合には、それはまた、そのような性格のものとなろう。だが、あらゆる発展しつつある社会にあっては、この持続的な発展の初期段階を突破する前進がほどなく開始される。まもなく産業能率は上昇し、産業過程に従事する人々の最低限の生活の糧を上回るかなりの成果をもたらすようになってくる。この新しい産業的な基礎にもとづいて行われる富を追求する余分な闘争は、経済理論のなかではふつう、生活の快適さを増加させる――もっぱら財の消費がもたらす肉体的な快適さを増加させる――ための競争として言及されてきた。
取得と蓄積の目的は、蓄積された財の消費にある、と慣例的に考えられてきたのであり、この消費が直接に財の所有者によるものか、それとも彼に属しこの目的からみて理論的に彼と同一視しうる世帯によるものか、ということは関係のないことなのである。少なくとも、これが経済的に正当な取得の目的であると考えられており、ひたすらそれを考察することが経済理論の任務である。もちろんそのような消費は、消費者の肉体的な必要――その肉体的な快適さ――あるいはより高次な必要――精神的、審美的、知的な快楽等々――を満たす、と理解することができるのであって、後者の部類の必要は、経済学の読者なら誰でも知っている仕方で、財の支払いによって間接的に満たされるものである。
しかし、財の消費が必ず蓄積を引き起こす誘因になりうるのは、その素朴な意味から飛躍して理解された場合だけである。所有権の根底にある動機は|競争心《エミユレーシヨン》であって、同じ競争心という動機は、それを生み出してきた制度がいっそう発展するなかで、また、この所有権という制度にとって重要な意味をもつあらゆる社会構造上の特徴が発展するなかで、つねに作用し続けるのである。富の所有は名誉を与えるが、それは妬みを起こさせるような栄誉である。財の消費についても、取得について考えられるあらゆる誘因についても、さらにはとくに富の蓄積への誘因についても、これ以上説得力がある事由を指摘することはできない。
もちろん、ほとんどの財が私有財産である社会では、社会の貧しい構成員にとって、生活の糧を入手するという必要が強力でしかも不断の誘因である、ということを見逃してはならない。生存と肉体的な快適さを増加させることの必要は、習慣的に肉体労働に従事し自らの生存が不確かな基礎しかもたない階級、ほとんど所有せず通例ほとんど蓄積しない階級にとって、当分の間は支配的な取得動機でありえよう。だが、考察を進めていくうちに明らかになるように、このような貧しい階級の場合でさえ、肉体的必要という動機の優越性は、しばしば推定されてきたほど決定的なものではない。もっぱら富の蓄積に関心を抱いている社会構成員や階級に関するかぎり、生存や肉体的な快適さという誘因はまったく重要な役割を果たしていない。所有権は、生存に必要な最低限といったものとは関係のない根拠にもとづいて開始され、人間の制度として成長したのである。支配的な誘因は当初から富につきまとう妬みを起こさせるような栄誉であり、一時的であることと例外とを除けば、後の発展のどの段階においても、それ以外の動機がその優越性を奪うことはなかった。
所有権は、そもそも成功した襲撃の戦利品として保有される|略奪品《プーテイー》であることをもって始まった。集団が原始未開の社会組織からごくわずかしか離脱しておらず、他の敵対的な集団と依然密接な接触を保っているかぎり、所有されている物や人の効用は、大部分その所有者と略奪対象であった敵との競争心にもとづく比較に由来するものであった。個人の利益と個人が属する集団の利益とを区別するという習慣は、明らかに後の時代に発展したものである。名誉ある略奪品の所有者と、あまりそれをもたない隣人との集団内部における競争心にもとづく比較は、最初から価値の主要な要素というわけではなかったが、彼らの所有物がもつ効用の主要な要素として、最初期からあったことに疑問の余地はない。男の武勇は、なお主として集団の武勇であったし、略奪品の所有者は、何よりもまず、自らを集団の名誉の保有者だと思いこんでいた。この集団的観点からみた武勇の理解もまた、社会発展の後の段階で目につくようになるものであり、とりわけそれは戦闘の栄誉について妥当することである。
だが、個人的な所有という習慣が整合性を獲得し始めるやいなや、私有財産の基礎である、競争心にもとづく比較に対する考え方が変化し始めることになる。実際のところ、一つの変化は他の変化の反映にすぎない。所有権の本源的な局面、つまり純粋な略奪や横領による所有という局面は、(奴隷の)私的所有にもとづいた初期的な産業組織によって構成される次の段階に移行し始める。遊牧民の集団は、多かれ少なかれ自給自足的な産業社会に発展してゆく。こうして財産は、成功した侵略の証拠としてよりもむしろ、財の所有者として共同社会内部の他の人々よりも優越していることの証拠として、評価されることになる。いまや競争心にもとづく比較は、もっぱら集団の他の構成員との間の所有者としての比較になる。所有財産はなお戦利品としての性質をもってはいるが、文化的発展とともに、ますます半平和愛好的な遊牧民の生活様式に従って、集団構成員の間の所有をめぐるゲームのなかで勝ちとられた成功の|記念品《トロフイー》になってくるのである。
日常的な社会生活と人々の思考習慣のなかで、産業的な活動がますます略奪的な活動にとって代わるにつれ、蓄積された富は、徐々にではあるが、ますます優越と成功の慣例的な象徴としての略奪的な武勇の記念物にとって代わってしまう。それゆえ、定住的な産業の成長とともに、富の所有は、評判や名誉の慣習的基礎としての意義や効果を相対的に高める。その他のより直接的な武勇の証拠にもとづく名誉が与えられなくなるわけでもないし、成功した略奪的な攻撃や軍事上の英雄的行為が、大衆の賛同と賞賛を引き出さなくなったり、それほど成功しなかった競争相手の嫉妬をかきたてなくなる、というわけでもない。このような卓越した力の表示によって名声を獲得する機会が、範囲においても頻度においても、あまり利用できなくなるということなのである。同時に、遊牧的な産業という半平和愛好的な方法による財産の蓄積や産業的な積極果敢さを示す機会は、範囲においても可能性においても増加する。しかもさらに重要なことは、いまや財産が、英雄的で注目に値する偉業とは区別された、尊敬すべき成功の程度を測る最も分かりやすい証拠になってくる、ということである。したがって、それは慣例的な名誉の根拠になる。相当量の財産の所有が、社会のなかで尊敬に値する地位にふさわしいものとして要求される。高名を維持するためには、財産を蓄積し、獲得することが不可欠になる。こうして蓄積された財がひとたび公認の能率の表象になると、まもなく富の所有は、それ自体独立した最終的な名声の根拠としての性質を帯びてくる。自らの尽力によって積極果敢に取得したものであろうと、他人からの相続をつうじて受動的に取得したものであろうと、財の所有が慣例的な名声の根拠になるのである。当初はたんなる能率の証拠と見なされていた富の所有が、大衆の理解においては、それ自体で賞賛に値する行為になってくる。いまや、富それ自体が本来的に尊敬に値するものであり、その所有者に名誉を与えるのである。さらに洗練の度が増してくると、祖先や他の先行者からの相続によって受動的に取得された富が、ゆくゆくは所有者自身の努力によって取得された富よりもはるかに尊敬に値するものになってくる。だが、この区別は、金銭的文化の進化のなかではずっと後の段階に属することであるから、それを議論するときにまた言及することにしよう。
富の所有が一般的な名声と非のうちどころのない社会的地位の根拠になっても、武勇と英雄的行為は、なお大衆的な名誉を勝ちとるための最高の根拠であり続けるであろう。略奪本能と、結果として生じる略奪能力の賞賛とは、長期間略奪的文化の規律の下で過ごしてきた人々の思考習慣のなかに、深くしみこんでいる。大衆のみるところによれば、今日でもなお人間が入手しうる最高の名誉とは、戦争で発揮される|類《たぐい》まれな略奪能力、あるいは政治のなかで発揮される半略奪的な能力によって得られるようなものである。だが、社会にあって陳腐で上品な地位につくという目的であれば、名声の手段は財の獲得と蓄積に場を明けわたしてしまった、と言えるだろう。社会で評判がよいと判断されるためには、あまり明確でないとはいえ、一定の慣例的な富の標準にまで近づいていなければならない。それはちょうど初期の略奪的文化の段階で、肉体的な持久力、狡猾さ、戦闘の技量において、野蛮人が部族の標準にまで近づいていなければならなかったのと同じことである。一方においては一定標準の富が、他方においては一定標準の武勇が名声獲得の必要条件になっており、この通常の量を少しでも超えることが、賞賛に値することなのである。
あまり明確ではないが、武勇や財産のこの標準に達していない社会構成員は仲間内で評判を落とすし、自尊心の通常の基礎が仲間によって与えられる尊敬であるがゆえに、結果的に自らする評価をも落とすのである。仲間から低くみられているにもかかわらず長期にわたって自尊心を保持できるのは、常軌を逸した一徹な気性をもつ人だけである。こうした明らかな例外は、強固な宗教的信念をもつ人々の間でとくに際立っている。だがこれが本当の例外であることはほとんどない。そのような人々はふつう、彼らの行為の超自然的な目撃者による想像上の裁可に頼っているからである。
したがって、財産所有が大衆的な評判の根拠になってくるやいなや、われわれが自尊心と呼ぶ自己満足にとっても、それは不可欠の前提となる。財が個々別々に保有されるような社会で所有者が安堵を得るのに必要なもの、それは、自らも同じ階層に属するものと思いこんでいる人々と同程度の量の財を、個人として所有しておくことなのである。だからこそ、他の人々を上回る財を所有することが、とびぬけて心地よいのである。しかし、新しい取得を試み、結果としてもたらされる新しい富の標準に慣れてくるや、それは、以前ほどめだって大きな満足を与えなくなる。その傾向は、どんな場合でも、つねに現在の金銭的な標準をまったく新しい富の増加のための出発点にするというものであり、これがまた次に、十分な資産についての新しい標準や、隣人と比べた場合の自らの新しい金銭的階層区分を生じさせるのである。この問題に関するかぎり、蓄積によって追求される目的とは、金銭的な能力の点で社会の他の者より高く格づけされる、ということなのである。その比較が自分にとって明らかに望ましくないものであれば、平均的な個人は現在の運命にいつも不満を抱きながら生きてゆくことになろう。もし彼が、社会あるいは自らの属する階層のなかで、ふつうに目につくいわゆる金銭的標準なるものに到達してしまうと、この慢性的な不満は、彼自身の達成とこの平均的標準との金銭的隔たりをいっそう押し広げてゆくための、絶え間のない懸命な努力に道を譲ることになろう。競争心にもとづく比較とは、それを行う個人にとって決して好都合なものになるとはかぎらないから、金銭的な名声をめぐる闘いのなかで満足げに自分自身を評価しつつ、競争相手よりも相対的にずっと秀でている、と思いこむことなど不可能なのである。
事の本質上、どのような個人の場合でも、富に対する欲望が十二分に満足させられることなどほとんどありえないから、富に対する平均的または全般的な欲望の充足などは明らかに論外である。社会の富の全般的な増加は、それがどれほど広く、平等に、あるいは「公平に」分配されようと、この欲求の満足に近づくことはできない。というのもそれは、財の蓄積においては他の誰にも負けたくない、という万人がもつ欲望に起因しているからである。しばしば想定されているように、蓄積誘因が生活の糧や肉体的快適さの欠乏であるとすれば、社会の経済的な必需品総量は、おそらく産業能率が向上したどこかの時点で満たされる、と考えることもできよう。だがこの闘いは、実質的に妬みを起こさせるような比較にもとづく名声を求めようとする|競走《レース》であるから、確定的な到達点への接近などありえないのである。
以上述べてきたことは、金銭的な地位で優越し、仲間から名誉と妬みを獲得するという欲望以外には、取得や蓄積へ向かう誘因など存在しない、という意味に理解されてはならない。快適さを増加させたり、欠乏からの防衛手段を得ようという欲望は、現代的な産業社会における蓄積プロセスのどの段階でも、動機として存在する。もっとも、この点に関して十分であるかどうかの規準は、次には金銭的な競争という習慣によって大きく影響されることになる。この競争が、かなりの部分まで個人的な快適さと礼儀にかなった生活の秩序をつくるし、支出の対象を選び出すことになるからである。
これに加えて、富によって与えられる力もまた、蓄積への動機になる。目的的な活動をめざす性向――活動主体としての特徴をもつがゆえに、人間に備わっている性向――とあらゆる無駄な努力を嫌悪する性向とは、集団――個人の生活が堅く結びついている――と個人との|紐帯《ちゆうたい》が素朴な共同体的文化――分割も分化もない生活を支配的な特色とする文化――のなかで弛緩したとき、失われてしまうというわけではない。狭い意味での利己主義を支配的な特色とする略奪的段階に到達したときでも、この性向は、人間の人生観を形づくる広く浸透した特性として、なお人間につきまとっている。秀れた業績を求めたり無駄を嫌悪したりする性向は、あらゆる時代に通底した経済的動機として残るのである。その性向は、たんにその表現形式と、人間の活動を導いてゆく手近な対象をめぐって変化するにすぎない。私的所有権の体制の下で、誰の目にも分かるように目的を達成する最も手近な手段は、財の獲得と蓄積によって与えられるものである。そして、人間と人間との自己中心的な対立関係がはっきり意識されてくるにつれて、秀れた業績を求める性向――製作者本能――は、ますます金銭的に秀れた業績を達成するという点で他人を凌ぐための努力へと、姿を変えてゆく傾向がある。競争心にもとづく金銭的比較によって確かめられる相対的な成功が、慣例的な行為の目的になる。社会的に認知された正当な活動目的は、他人との好都合な比較を達成することになるのであって、それゆえ、無駄に対する嫌悪はかなりの程度まで競争心という誘因と合体する。それは、金銭的成功という点からみたあらゆる不足や、不足の証拠に対して手厳しい非難を加えることによって、金銭的な名声をめぐる闘いを引き立たせるように作用する。合目的的な努力とは、もっぱら蓄積された富をさらに賞賛に値する仕方でひけらかす努力、あるいは、結果的にひけらかすことになる努力を意味するようになる。人間を富の蓄積に向かわせる動機のうち、範囲においても強さにおいても最大のものは、いつになってもこの金銭的な競争心という動機に属するものとなるのである。
おそらく注意するまでもないことであろうが、「|妬みを起こさせるような《インヴイデイアス》」という用語を使用するにあたって、特徴づけのためにこの言葉が使用される現象のいかなるものに対しても、それを賞賛したり|貶《おとし》めたり、推奨したり遺憾の意を表したりしよう、などという意図はまったく含まれていない。その用語は、物理的な意味で人間の相対的な|有用性《ワース》や|価値《ヴアリユー》――審美的・道徳的な意味での――を評価したり格づけしたり、人間が自他ともに正当性があると見なしうる自己満足の相対的な程度を裁定したり明示したりしよう、という意図で行うお互いの比較を表現するために使用されている。|競争心にもとづく比較《インヴイデイアス・コンパリソン》とは、有用性をめぐって人間を評価するプロセスのことである。
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第三章[#「第三章」はゴシック体] 顕示的閑暇
これまで概略を述べてきた金銭的な闘いの直接的な効果は、経済的な力や競争のプロセスがもつ他の特質によって攪乱されなければ、人間を勤勉でしかも節倹にするであろう。財を獲得する通常の手段が生産的労働である下層階級に関するかぎり、ある程度までではあるが、これは実際に生じたことである。農業的な産業段階にあって、財産がかなり細分割されており、法と習慣が勤労の生産物の多かれ少なかれ一定の分け前を保証している、定住的な共同社会における労働者階級については、とりわけこれは真実である。このような下層階級はいかなる場合も労働を回避することができないので、労働という悪名は、彼らにとってはほとんど、少なくとも彼らの階級内ではまったく、品位を落とすことになるものではない。労働はむしろ、彼らの明白でしかも公認の生活様式であるから、彼らは、仕事の能率がよいという評判にある程度競争的な自尊心を抱くが、しばしばこれが、彼らに許された唯一の系統の競争、つまり|張り合い《エミユレーシヨン》なのである。生産能率と節約という分野でしか取得と蓄積をなしえない人々にとっては、金銭的な名声をめぐる闘いは、ある程度まで勤勉と節倹の増加をもたらすであろう。だが、まだ言及していない張り合いのプロセスの一定の副次的な特質が介入してくると、金銭的に劣った階級の場合でも、上層階級と同様に、こうした方向の競争はきわめて大きく限定され、変更されることになる。
だが、われわれがここで直接関心をもっている上層の金銭的階級の場合は、別である。勤勉や節倹への誘因がこの階級にないわけではない。しかし、その活動は金銭的競争という副次的な要求によって著しく制限されるから、節倹の成就は事実上抑圧され、勤勉への誘因はまったく効果を発揮しないことが多い。競争に属する副次的な要求のうち最も広範囲で必須なものは、生産的労働を回避するという要件である。これは、野蛮な文化段階の場合にとくによくあてはまる。略奪的な文化をつうじて、男の思考習慣のなかで労働は、弱さと主人への服従を連想させるようなものになってくる。こうしてそれは、劣弱であることの刻印となり、したがって社会的地位の高い男にはふさわしくないと見なされるようになる。この伝統に従って労働は品位を落とすものだと理解され、しかも、この伝統は決して消滅しなかった。むしろ逆に、古代的で、疑問の余地なく長期にわたる慣行であったために、社会的な分化が進行してゆくにつれて、それは自明の理としての力をもつようになった。
人々の尊敬を勝ちとり保持するためには、たんに富や力を所有しているだけでは十分ではない。富や力は、証拠をもって示される必要がある。というのは、尊敬が払われるのは証拠にもとづいたときに限られるからである。そして富の証拠は、所有者の枢要さを他人に印象づけ、その印象をおこたりなく生き生きと保つのに役立つだけでなく、自己満足を作り上げ維持するのにも、少なからぬ効果をもつ。最も低次のものを除いたすべての文化段階で、普通の気質をもつ男は、「下賤な職務」からの免除と「礼儀を知った取り巻きたち」によって、自尊心を慰撫されくすぐられるものである。生活用の所持品においてであれ日常活動の種類と量においてであれ、習慣的な上品さの標準からの強制的な離反は、仲間からの是認や否認を十分考慮した場合は別として、人間の尊厳に対する侮辱である、と見なされる。
下賤なものと名誉あるものとの間の古くからある理論的な区別は、人間の生活習慣のなかで、今日もなおほとんどそのまま古代的な力を保っている。それがきわめて強いために、平俗な形態の労働に対して本能的な反感を抱かない上流階級など、ほとんど存在しない。われわれは儀式的な不浄に関する鋭敏な感覚をもっているが、それは、われわれの思考習慣のなかで下賤な任務を連想させるような職業に、とくにつきまとうものである。洗練された趣味をもつ人なら誰でも感じていることだが、精神的な汚れは、使用人に慣例的に求められる一定の任務と不可分に結びついている。劣悪な環境とみすぼらしい(すなわち安っぽい)住居、下品な生産的職業は、|躊躇《ちゆうちよ》することなく非難され回避される。そうしたことは、満足できる精神的な水準の生活――「高尚な思考」――と両立しえないのである。ギリシア哲学者の時代から現代にいたるまで、人間生活の日常的な目的に直接役立つ産業過程に従事することから免除されたり解放されたりしている程度が、思慮深い男にとって価値がありすばらしいもの、つまり非のうちどころがない人生の前提条件である、とずっと思いこまれてきた。閑暇な生活は、それ自体としてもその結果としても、文明人の目にすばらしくしかも高貴なものと映るのである。
この閑暇や富の証拠がもつ直接的で主観的な価値が、大部分二次的で派生的なものであることに疑問の余地はない。それは一部には、他人の尊敬を獲得する手段としての閑暇の効用を反映したものであり、また一部は、勝手な思いこみの結果である。労働の遂行は、力の弱さの慣例的な証拠と理解されてきた。したがってそれ自体が、頭のなかで短絡されて、本質的に下賤なものと見なされるのである。
有閑生活を過ごすことは、固有の略奪段階をつうじて、とくに略奪段階の後に半平和愛好的な産業が発展してくる初期段階をつうじて、金銭的卓越の、したがって卓越した力の証拠として最も分かりやすく決定的なものとなる。もちろんこれは、つねに閑暇にいそしむ紳士が明らかに安楽かつ快適に生活できる、という前提の下でのことである。この段階では、富は主として奴隷から構成されており、豊かさと権力の所有に由来する利益は、主として個人的な奉仕と個人的奉仕の直接的生産物という形をとる。こうして、労働の回避を顕示することが、秀れた金銭的な偉業の慣例的な印に、そして名声の慣例的な指標になってくる。すると翻って、生産的労働への従事は、貧困と隷属の刻印であるがゆえに、社会的に尊敬すべき地位と両立しえなくなるのである。それゆえ、勤勉と節倹という習慣は、広く浸透している金銭的な競争心によって画一的に促進されるわけではない。逆であって、この種類の競争心は、生産的労働への従事を間接的に恥じ入らせる。労働は、窮乏の証拠であるから、たとえそれが、さらに以前の文化段階から受け継いだ古代的伝統に従ってまだ下品なものと見なされていなくても、不可避的に不名誉なものになる。略奪文化がもつ古代的伝統とは、生産的な努力は立派な体躯をもつ男には値しないから回避されるべきだ、というものであり、しかもこの伝統は、生活様式が略奪的なものから半平和愛好的なものへと移ってゆくにつれて、捨て去られるというよりも、むしろ強化される。
たとえ有閑階級という制度が生産的な職業につきまとう不名誉によって個人的な所有権の最初の発生に関与しなかったとしても、それは、いかなる場合であれ、所有権が早期にもたらしたものの一つとして始まったものであろう。加えて、有閑階級は理論的には略奪文化が始まったときから存在するが、略奪的な文化段階から金銭的な文化段階への移行とともに、有閑階級という制度が新しく完全な意味を担うようになる、ということが注意されなければなるまい。理論上だけでなく事実として「有閑階級」が現れるのは、この時以降のことである。完成した形態の有閑階級という制度は、この時期に起源をもつ。
有閑階級と労働者階級との区別は、固有の略奪段階ではある程度まで|儀礼的な《セレモニアル》区別にすぎなかった。立派な体躯の男は、彼らの理解では下賤な骨折り仕事になってしまうものからすべて用心深く離れていたとしても、実際には、彼らの活動は集団を維持するためにかなり貢献している。後続の半平和愛好的な産業段階を特徴づけるのは、通例では、慣習的に認められた|家畜奴隷制度《チヤテル・スレイヴアリー》、つまり家畜の群と牧夫や羊飼いからなる奴隷階級である。産業はある程度発展しているので、共同社会はもはやその生活の糧を、狩猟や、当然英雄的行為に分類されうる他の形態の活動に依存していない。この時以降、有閑階級の生活を特徴づける外観は、あらゆる有用な職業からの顕示的な回避となるのである。
生成史的にみて成熟段階にある有閑階級に通例特徴的な職業は、初期の形態とほとんど変わりがない。このような職業は統治、戦闘、スポーツおよび宗教的儀式である。やたら難しい理論的細部にこだわる人は、このような職業を付随的にも間接的にも「生産的」と考えるであろうが、当面の問題にとって決定的だと認めらるべきことは、これらの職業に従事する有閑階級がふつう明らかに抱いている動機が、決して生産的な努力によって富を増加させることではない、ということである。他のあらゆる文化段階と同様にこの段階でも、統治や戦闘は、少なくとも部分的には、それに従事する人々の金銭的利益のために遂行されている。このような職業は本質的に略奪的な仕事であって、生産的な仕事ではない。狩猟についてもある程度同じことが言えるが、違いもある。社会が固有の狩猟段階を抜け出すにつれ、狩猟は次第に二つの異なった仕事に分化してくる。一方は、主として利益のために遂行される取引であり、英雄的行為という要素は事実上存在しないか、存在したとしても、さしあたり実り豊かな産業に従事していることを示すことがない、といった程度のものだ。他方、狩猟はスポーツ――たんなる略奪的衝動の実行――でもある。スポーツとしてそれは、少しも金銭的な誘因を与えるわけではないが、英雄的行為という要素が多少とも明白に含まれている。賞賛に値し、成長した有閑階級の生活図式のなかにうまく組みこまれたのは、この後の部類の――手仕事に帰属するものをすべて消し去った――狩猟の発展のほうだった。
労働を回避することは、たんなる名誉と賞賛に値する行為であるだけでなく、まもなく礼節を保つために不可欠なものになってくる。名声の根拠としての財産の強調は、富の蓄積の初期段階ではきわめて生々しくかつ不可欠である。労働を回避することは慣例的な富の証拠であり、したがって社会的地位の慣例的な刻印でもある。こうして、富が賞賛に値するものだというこのような強調が、閑暇に対するさらに活発な強調を導くことになる。よく知られた印が内容それ自体の印である[#「よく知られた印が内容それ自体の印である」に傍点] [Nota notae est nota rei ipsius]。人間性について確立している法則によれば、やがて長期にわたる慣行がこの慣例的な富の証拠にとりつき、それ自体が実質的に賞賛に値し、しかも高貴であるかのように人間の思考習慣のなかに定着することになるが、他方、生産的労働は、同時に同じような過程をへて、二重の意味で内在的に価値のないものになる。長期にわたる慣行は、労働をたんに社会大衆の目からみて不名誉なものにするだけでなく、高貴で自由な身分に生まれた男には道徳的に不可能で、立派な生活とは両立不可能である、という結果をもたらすのである。
この労働の禁忌、つまりタブーは、産業的な階級分化という点でさらに重大な意義をもっている。人口密度が高まって略奪的な集団が定住的な産業的共同社会へ成長するにつれ、適法に設けられた所有権を統括する権力や慣習が、その範囲と一貫性とを向上させる。それからまもなく、単純な強奪による富の蓄積は不可能になり、したがって論理的に一貫していることだが、勤労による富の取得は、気高い男にも無一文な男にも、等しく不可能になる。彼らに許されている代わりの選択は、乞食か窮乏である。|顕示的閑暇《コンスピキユアス・レジヤー》の規範がなんの妨げもなく作用する機会を得た場合には、ある意味で見せかけにすぎないものだが、二次的な――つまり、みじめで貧しく、欠乏と不快にみちた|心許《こころもと》ない生活を営んでいるが、しかし収入のある仕事に身を挺することができない――有閑階級が登場することになる。羽振りのいい時代を過ごした後で零落した紳士・淑女というものは、今日でも決して珍しい現象ではない。ごくわずかな肉体労働も恥辱である、という広く行きわたったこの感覚は、それほど発展していない金銭的文化に属する人々と同様に、あらゆる文明人におなじみのものである。育ちのよい礼儀作法に長い間なれてきた繊細な感受性をもつ人の場合には、肉体労働は恥だという感覚があまりにも強いため、危機的な局面で自己保存の本能を拒絶してしまうほどである。したがって、たとえばわれわれは、礼節を守ろうとするあまり、自分の手で自分の口に食物を運ぶよりも餓死することを選んだという、あるポリネシアの酋長の話を耳にするわけである。この行為が、少なくとも一部は酋長個人の行き過ぎた高潔さやタブーに起因するであろうことは、確かである。彼の手が触れることによってそのタブーが伝えられたはずであり、こうして彼が触れたものは、すべて人間の食物にふさわしくないものになったであろう。だがタブーそれ自体は、労働が品位に|悖《もと》るとか、道徳的に両立しえないということの派生物なのである。したがって、このように解釈された場合でも、ポリネシアの酋長の行為は、一見したときよりもずっと、名誉ある閑暇という規範に忠実なのである。より適した事例、あるいは少なくともより間違いのない事例は、あるフランス王によって与えられるもので、言い伝えによれば、礼儀の遵守に過大な精神力を費やしたために、王は命を失ったということである。玉座の移動を職務にしている侍従が席を外している折に、王は不平もこぼさず炉の前に座し、彼の堂々たる容姿を回復しえないほど焦がしてしまうという犠牲を払ったという。だが、そうすることによって彼は、キリスト教徒としての最高の権威が、卑しく汚染されることを防いだのである。
[#ここから1字下げ]
生命を名誉よりも重んじ、|而《しか》して生命のために生活の目的を失うは、
最大の不幸なり、と考えよ。
[Summum crede nefas animam praeferre pudori,
Et propter vitam vivendi perdere causas.]
[#ここで字下げ終わり]
すでに指摘しておいたことだが、ここで用いる「|閑暇《レジヤー》」という用語は、怠惰や静止状態を意味するわけではない。その意味するところは、時間の非生産的消費である。時間が非生産的に消費されるのは、(一)生産的な仕事はするに値しないという意識からであり、(二)また、何もしない生活を可能にする金銭的能力の証拠としてである。だが、有閑紳士の生活全体は、観衆の眼前――理想的な形で彼の生活を彩る、目を|瞠《みは》るような名誉あふれる閑暇によって強い印象を受ける人々の前――で過ごされるわけではない。彼の生活は、どうしても大衆の目からある一定の時間引き離されざるをえないが、内密に過ごされるこの部分についても、有閑紳士は、彼の名声を維持するために、もっともらしい説明を与えることができなければならないのである。彼は、観衆の目に触れることなく過ごされる閑暇を証拠づけるなんらかの手段を見つけなければならない。これは、そのように過ごされた閑暇の、ある程度具体的で永続的な成果を示すことをつうじて――彼に雇われている職人や使用人によって、有閑紳士のために遂行された労働の具体的で永続的な生産物の、おなじみの顕示によく似た仕方で――間接的になされるほかにない。
生産的労働の永続的な証拠は、その物質的な生産物――ふつうはなんらかの消費財――である。英雄的行為の場合は、記念品や略奪品という、誇示に役立つ具体的な成果を確保することが同様に可能であり、通例でもある。後の発展段階では、慣例的に承認された英雄的行為の印として役立つような、記章や名誉の表徴を身につけることが習慣になるが、それは同時に、象徴する英雄的行為の量と程度を示唆している。人口密度が高くなり、人間関係がさらに複雑でおびただしいものになってくると、生活の一部始終は精密化と淘汰の過程をへることになる。そしてこの精密化の過程のなかで、記念品の利用は、階級、称号、位階や記章の体系へと発展を遂げるのであって、記章の典型例が紋章、メダルおよび名誉勲章である。
一つの職としての閑暇は、経済的な観点からみるかぎり、英雄的行為の生活と本質的にきわめて密接に関連している。閑暇の生活を特徴づけ、その上品さの規準であり続けるような業績は、英雄的行為の記念品と多くの共通点をもっている。しかし狭い意味での閑暇、つまり英雄的行為とは明らかに異なり、それ自体としてはなんら内在的有用性をもたない目的に向けられた努力という、見せかけだけは生産的なあらゆる職業と明らかに異なるものとしての閑暇は、ふつう物質的な生産物を残さない。それゆえ、過去の閑暇の成果をはかる尺度は、「非物質的な」財の形をとるのが普通である。このような非物質的な証拠とは、準学問的あるいは準学術的なたしなみや、人間生活の増進には直接役立たない過程や出来事に関する知識といったものである。だから現代でも、たとえば過去の言語や秘学、伝統的な正字法、文章論や韻律学、さまざまな形の家庭音楽や料理や手芸、服飾や家具や装身具に関する最新の|礼儀作法《プロプライアテイーズ》、競技会やスポーツ、あるいは犬や競走馬のような道楽に飼われている動物、等々に関する知識があるわけである。すべてこのような知識分野では、はじめにその修得の原因となり、最初の流行が始まるそもそもの動機は、自分の時間が産業的な職業に費やされなかったことを示そうとする意欲とは、まったく異なったものであったかもしれない。だが、このようなたしなみが、非生産的な時間の支出の証拠として役立つことが承認されなかったら、それは、有閑階級の慣例的なたしなみとして存続することも、その地位を保つこともできなかったであろう。
このようなたしなみは、ある意味で、学問の一部に分類することができよう。これらのもの以外にも、学問の領域から肉体的な習慣と器用さの領域へと徐々に変化してゆく広範な社会的事象がある。一般的にマナーつまり行儀作法や|躾《しつけ》、礼にかなったしきたり、|礼節《デコーラム》、さらには公式的で儀式的な慣例として知られているものが、それである。この部類の事象は、ますます直接的に、しかもこれ見よがしに観察に供され、結果的に名声に値するような閑暇の必要な証拠として、ますます広くかつ不可避的に強要されることになる。一般に行儀作法という項目の下に分類できる先に指摘した部類の儀式的慣例は、文化発展の後の段階よりもむしろ顕示的閑暇が名声の印として最も流行していた文化段階で、男の評価のなかでより重要な地位を占めていたのだが、これは注目に値することである。周知のように、なによりもまず礼節という点で、半平和的産業段階の野蛮人は、後の時代のどんな|伊達《だて》|男《おとこ》よりもはるかに育ちのよい紳士である。事実、社会が家父長的段階から遠ざかるにつれて、|行儀作法《マナー》が累進的に崩れていったことはよく知られた事実であり、少なくとも現在そう信じられていることである。古い世代の多くの紳士は、現代的な産業社会の上流階級の間でさえ目につく下品な行儀作法や振る舞いに対して、なんとも情けないことだと立腹してきた。そして、固有の産業的階級の間での儀式的なしきたりの崩壊――他の言い方では、生活の世俗化であるが――は、感受性の鋭い人々の判断によれば、後世の文明の主要な犯罪行為の一つになってきた。多忙な人々の間で生じたこのようなしきたりの崩壊が物語ることは――あらゆる非難は別にして――、礼節は有閑階級の生活の産物であるとともに象徴であり、身分の体制の下でのみ満面開花するという事実である。
行儀作法の源泉――あるいは、その起源と言ったほうが正しいかもしれない――は、修得に多くの時間がかかったことを示すために払った意識的な努力、ということ以外に求められねばならないことに疑問の余地はない。|革新《イノヴエーシヨン》や精密化の直接の目的は、美しさあるいは表現性の点で、新しい試みがもつより高い効果にあった。上品な慣例という儀式的なしきたりは、文化人類学者と社会学者が習慣的に想定しているように、その始まりと発展を、懐柔したり好意を示したりしようとする願望に負うところが大きく、しかもこの当初の動機は、後の発展のどの段階においても、行儀作法のよい人物の行為から消え去ることがほとんどない。聞くところによれば、行儀作法というものは、一部には、外交辞令の精密化であり、また一部には、以前からあった優越を示す行為とか個人的奉仕や個人的交際という行為を表すものの象徴的で慣例的な残存だと言われている。それは大部分、身分関係――一方に優越、他方に従属という無言劇――を表現したものである。略奪的な思考習慣、および結果として生じる支配者としての態度と従属者としての態度が、現時点で公認の生活図式にどのような特徴を与えようと、そこでは、あらゆる行為の儀式的な細目の重要さが極端なものとなり、こうして、階級と称号を儀式的に遵守するために傾注される努力が、半平和愛好的な遊牧文化に属する野蛮人が抱いていた理想にかぎりなく近づくことになる。ヨーロッパ大陸のいくつかの国が、こうした精神的な存続の格好の事例を提供している。このような社会では、内在的な価値をもつ事実としての行儀作法に与えられる高い評価に関するかぎり、古代的な理想のほうへと同様に接近してゆくことになる。
礼節は、象徴と無言劇であることをもって始まり、しかもその効用は、象徴されている事実や特質を説明することだけに限られていた。だが、まもなくそれは、人と人との交際における象徴的な事実によく生じるような変質を被った。行儀作法は、大衆の理解するところによれば、まもなくそれ自体として実質的な効用をもつようになってきた。それは、本来表していた事実からほぼ独立した秘跡的性格を獲得した。礼節の|規範体系《コード》からの離反は、誰にとっても本来的に憎むべきことになってきたのであって、こうして立派な|躾《しつけ》は、日常的に考えて、たんに人間的卓越の外生的な刻印であるだけでなく、賞賛に値する人間精神の不可欠な特徴だということになった。礼節に違反することほど本能的に嫌悪されることはほとんどなく、したがってわれわれが、儀式的なエチケットの遵守に内在的な効用を転嫁し続けるかぎり、エチケットに対する違反を、違反者の実質的な品位の欠如という感覚から切り離して考えることができる人は、たとえいたとしても、ごく限られている。信義の破棄は大目に見られても、礼節の破棄が許されるはずがない。「行儀作法が人を決める」のである。
にもかかわらず行儀作法は、見守る側と同様に遂行する側の理解においても、このような内在的効用をもっている。とはいえ、この礼節が本来的に正しいものだという感覚は、行儀作法と躾の流行に対するおおまかな根拠でしかない。その究極的な、つまり経済的な根拠は、立派な行儀作法を身につけるために不可欠な時間と努力の非生産的な利用、あるいは、閑暇がもつ尊敬に値する性質に求められねばならない。秀れた格式に関する知識や習慣は、長期にわたって持続的に用いてはじめて身につくものである。洗練された趣味、行儀作法および生活習慣は、|上品さ《ジエンテイリテイー》の便利な証拠である。というのは、立派な教養を身につけるためには、時間と努力とお金が必要であり、したがって、時間とエネルギーをもっぱら労働に吸いとられてしまっている人々には、達成しえないものだからである。秀れた格式に関する知識は、育ちがよい人の生活のうち、観察者の目が届かないところで過ごされた部分が、利益をもたらすような効果をまったくもたない教養を身につけるために適切に費やされた、ということの明白な[#「明白な」に傍点] [prima facie] 証拠なのである。行儀作法の最終的な価値は、有閑生活を保証するものであるという事実にある。したがって逆に、閑暇は金銭的名声の慣例的な手段であるから、ある程度まで礼節に熟達していることが、いささかなりとも金銭的な体面を切望する人の責務になるわけである。
観察者の眼前で費やされることのない高貴な有閑生活の大部分が名声を獲得するという目的に役立ちうるのは、それが証拠として提示され、競合する名声志向の人々によって提示されるものと同じ部類の、つまり結果において比較計量が可能な具体的で目にみえる成果をもたらすかぎりにおいてのことである。そのような成果は、当人が、事柄をよく考慮することもなく、有閑階級的な富裕と熟達の風貌を熱心に身につけようと努力しなくても、有閑階級的な行儀作法と物腰に関するかぎり、たんに労働の回避が永続的でありさえすれば、もたらされるものである。とくに真実だと思われることは、こうして数世代にわたって続けられた有閑生活は、外見の構成のなかに、永続的ではっきりそれと分かる影響を残すであろう、ということである。だが、代々続いた有閑生活を示唆するものはすべて、また、受動的な習慣化によって身につく礼節に関する熟練というものも、尊敬に値する閑暇の印をさらに改善することができるだろう。それは、よく考えに入れて熱心に修得することによって、したがってまた、就業を免除されているという外在的な印を、精力的で体系的な修練のなかに提示することによって可能になる。明らかに重要なポイントは、努力と支出の入念な利用が、有閑階級の礼儀正しさに関する上品な熟練の達成を大いに促進する、ということにある。逆に、熟達の程度が高く、利益を上げるという目的や直接有用な目的に少しも役立たない儀式がかなりの程度習慣になっている、という証拠がはっきりしてくればくるほど、その入手のなかに暗黙のうちに含まれる時間と物資の消費は大きくなり、結果として生じる名声もますます高くなる。それゆえ、立派な行儀作法に熟達しようという競争的な闘いが繰り広げられているときには、礼節という習慣を育成するために多大の努力が払われるようになり、こうして、精緻をきわめた礼節が包括的な規律へと発展するにつれ、名声の点で非難されたくない人は、すべてそれに従うことを求められるのである。それゆえ、他方では、礼節を派生物としてもつこの顕示的閑暇は、立ち居振る舞いの入念な修練や、どのような消費財が上品であり、それを消費する上品な方法とはどんなものか、に関する鑑賞力と識別力の教育へ向けて、漸次発展してゆくことになる。
この関連で言えば、抜け目のない模倣と体系的訓練によって容姿と行儀作法に関する病的とも言える特異な形式を生み出す可能性が、文化的な階級を意図的に作り出すにあたって活用されてきた――しばしば大変すばらしい結果をもたらした――ことは指摘しておく価値がある。こうして、生まれと育ちのよさの一足飛びの進化が、俗に紳士気取りとして知られている方法で、きわめて多数の家族と家系に関して達成された。この一足飛びに実現された生まれのよさは、有閑階級という要因が全住民のなかで果たす役割の点で、累代その階級であったにもかかわらず金銭的な礼儀正しさについてあまり精力的に訓練を積まなかった人々に比べて、実質的に決して劣りはしないのである。
さらに、上品な消費の手段とマナーに関して、最新の公認の規範体系とその細目にどの程度合致しているかは、計測可能である。こうした点で理想との懸隔の幅は、人と人との間で比較可能であり、こうして人々は、行儀作法と育ちに関する累積的な|等級表《スケール》に従って、かなり正確にしかも効果的に格づけられ、表のなかに書きこまれることになる。この点をめぐる名声の授与は、当該のことに関して確立している趣味の規準に適合していることを根拠に、したがって、名声を求めようとする人によって実行された閑暇の程度や金銭的な地位を意識にのぼらせることがなくとも、ふつう誠実に遂行される。だが、審査の基礎となる趣味の規準は、つねに顕示的閑暇という法則に監視されており、こうして実際には、その法則の要求にさらに近づくために、不断の変更と改善が施される。したがって、区別の直接の根拠は他の種類のものでありうるとしてもなお、普及している立派な礼儀作法の原理や永続的な試金石は、実質的かつ明白な時間の消費という条件なのである。この原理の枠内でも、細かい点ではかなりの違いがありうるが、それはあくまでも外見や形における違いであって、実質的なものではない。
日常的な交際のなかで示される大部分の厚意は、もちろん気配りと親切な配慮の直接の表現であり、したがって行為がもつこの要素の大部分は、その存在や、それが賞賛の念をもって見られているということを説明するために、根底でそれを支えている名声の根拠にまでさかのぼって確認される必要はない。だが、礼儀作法の決まりについても同じことが妥当するわけではない。これは、身分を表現したものである。もちろん見たいと思う人にとっては、表現の仕方こそ本来のむき出しの支配力に比べてかなり修正され緩和されているとはいえ、下賤な人々や金銭的に従属している目下の人々に対するわれわれの態度が、身分的に上位にある者につきものの態度である、ということは十分に明らかである。同様に優越者に対するわれわれの態度は、同等な者に対してもほとんどそうなのだが、大なり小なり慣例化された服従の態度である。気高い紳士・淑女の堂々とした振る舞いを見られたい。それは、きわめて高い権威と独立した経済的な暮らし向きを如実に物語るばかりか、同時に、何が正しく優雅であるかに関するわれわれの感覚に、きわめて説得的に訴えかける。最も完全で成熟した形で礼節が表れるのは、上位に立つ人がおらず、同等な者もほとんどいない最上級の有閑階級でのことである。したがって礼節に関して、下位の階級に行為の規準として役立つような明確な定式を与えるのも、この最高位にある階級なのである。そしてここでもまた、規範体系は明らかに身分という規範体系であり、あらゆる平俗な生産的労働と両立しがたいものであることは、きわめて明瞭である。習慣的に隷属を要求し、明日のことなど考えてもみない人々がもっている天賦の厚かましさや尊大な丁寧さというものは、どこからみても紳士の生得の権利であり、紳士であることの尺度である。そしてこのような態度は、卓越した価値に内在する属性として受けとめられるから、それは大衆の理解のなかではさらに歩を進めて、卑しい生まれの平凡な人が喜んで頭を下げ、追従するものになるのだ。
以前の章で指摘したことだが、所有権という制度が、人間とくに女の所有権をもって始まった、ということには信じるに足る理由がある。そのような財産を取得しようとする誘因は明らかに、(一)支配と強制を求める性向、(二)所有権者の武勇の証拠として役立つ、このような人々のもっている効用、(三)このような人々のサービスがもっている効用、である。
個人的なサービスは、経済発展のなかで独自の役割をもっている。半平和愛好的な産業段階にあるとき、とくにこの段階に含まれる早期の産業発展の時期には、一般的にこのような人々のサービスのもつ効用が、人間という財産を取得しようとする最も強い動機となるように思われる。奴隷は、それがもつサービスのゆえに価値がある。だが、この動機が優越的となるのは、使用人がもつ他の二つの効用の絶対的な重要さの低下による、というわけではない。むしろ変化した生活環境が、この最後に挙げた目的に役立つ使用人の効用を引き立たせるのである。女や奴隷は、富の証拠や富を蓄積する手段として、ともにきわめて高く評価される。もし部族が遊牧的な民であれば、家畜と並んで、女や奴隷が通常の形態の利益のための投資対象になる。半平和愛好的な文化の下では、女奴隷はかほどに経済生活を特徴づけるものでありえたため、この文化段階にある――たとえば、ホメロスの時代がそうだが――人々の間で、女は価値の単位として役立つようにさえなってくる。こうしたことが生じるところでは、産業体制の基礎が家畜奴隷であり、ふつう女がその位置にある、ということを疑問視する必要はほとんどない。そのような体制で普及している主要な人間関係は、主従のそれである。社会的に認知された富の証拠は多数の女の所有であり、まもなくまた、主人の身体の世話や、主人のために財の生産に従事する他の奴隷の所有が加わる。
まもなく分業が始まるが、主人の世話や個人的なサービスは、ある一部の従者の特別の職務になり、他方、全面的に固有の産業的職業に充用される者は、所有者である人物に対するあらゆる直接的な関係をますますはぎ取られてゆく。同時に、家事も含めた個人的サービスを仕事にしている使用人は、利益のために遂行される生産的な勤労を次第に免除されるようになる。
このありふれた種類の産業的職業を次第に免除されてゆく過程、それはふつう妻、すなわち正妻における免除をもって始まる。社会が定住的な生活習慣にまで発展した後では、敵部族からの捕獲妻を恒常的な供給源として利用できなくなる。このような文化的進展が達成されたところでは、正妻はふつう良家の血筋の者となり、そうした事実が正妻を一般大衆向けの職業から免除させる、という方向にせき立てるのである。良家の血筋という考え方の一部始終を、さらには、それが婚姻の発展のなかに占める位置を、ここで議論することなどできはしない。当面の目的のためには、良家の血筋というものは、蓄積された富や不可侵の特権との長期間の接触によって高貴になってきた、ということで十分である。このような先祖をもつ女は結婚に際して選好されるが、それは彼女の有力な血縁者との同盟を作り出すためであり、多くの財産と大きな権力と結びついてきた血には卓越した価値が本来備わっている、と考えられるからである。譲り受ける前まで彼女がその父の|動産《チヤテル》であったように、正妻はなお夫の動産であろうが、しかし同時に、父方の良家の血縁者でもある。したがって、彼女と同じ境遇にある使用人が従事する下賤な職業に従事するには、彼女自身の内部に、それを道徳的に不可能にするものが備わっているのである。彼女の主人への服従がどれほど完全であろうと、また彼女が同じ生まれの社会階層に属する男の構成員と比べてどれほど劣っていようと、よい血筋が代々伝わるという原理は、ふつう彼女を奴隷の上に位置づけるように作用するであろう。こうしてこの原理が長年の慣行で認められた権威を獲得するやいなや、それは、生まれのよさの主要な印である有閑という特権をある程度まで彼女に付与するよう作用するであろう。よい血筋が代々伝わるという原理に後押しされて、妻の職業からの免除範囲が広がってゆき、彼女の所有者の富が許すなら、手作業からばかりか、品位を下げるような使用人の任務からの免除を含むほどになる。産業の発展が続き、財産が比較的少数の人々の手元に集まってくるにつれ、上流階級の富の慣例的な標準が上昇する。手作業から免除しようとする同じ傾向や、時の経過とともに現れる卑しい家事からも免除しようという傾向は、正妻以外の妻――もし、そのような者がいる場合だが――についても、さらにまた、直接主人の体と触れ合いをもつ他の使用人についても、現れてくることになる。その免除は、使用人が主人の体に対してもっている関係が疎遠であればあるほど、遅々としたものになってくる。
使用人や従者という特別な階級の発展も、もし主人の金銭的な状態がそれを許すなら、この個人的なサービスにきわめて重大な意味が付着してくることによって促進される。価値と名誉の体現であるから、何にもまして主人の容姿が大切なのである。社会のなかで尊敬に値する地位にふさわしくするためであれ自己満足のためであれ、使用人がなんらかの付随的な職業に従事することによって、主人の世話という主要な役目が不要になることなどありはしない。効率的に専門化した使用人を意のままにしうることが重要なのであって、このように専門特化した使用人は、実際に遂行するサービスのためよりも、むしろ顕示のために役立つのである。たんなる顕示用の保有でなくとも、支配したがる性向を発揮する機会を与えるということだけでも、それは主人に満足を与える。持続的に増えてゆく家具や調度品の面倒をみるためにさらに多くの労働が必要になることは確かだが、このような用具は、快適さの手段としてよりもむしろよい評判の手段として役立つように増やされたものだから、こうした修正は重要な意味をもたない。この方向の効用はすべて、より高度に専門化した多数の使用人によってさらによく満たされる。こうして、使用人や従者の分化と増加が持続的に進むだけでなく、同時に、そのような使用人の生産的労働からの免除も、付随的に進行していくという結果になる。支払い能力の証拠として役立つという理由から、そうした使用人の任務は、次第にますます少量の義務しか含まなくなるのがつねで、しかもその任務は、最終的にたんなる名目だけのものになる傾向がある。これはとくに、主人に対する世話が最も直接的で、しかも目につきやすい使用人の場合に妥当する。したがって、使用人の効用のほとんどは、生産的労働からの顕示的な免除と、この免除が主人の富と権力に関して与える証拠によって構成されるようになる。
このように、顕示的閑暇を遂行する特別の使用人集団を雇用する慣行がかなり進展した後では、それをはっきりと見せつけるという用途のためには、女よりも男のほうが好まれるようになる。制服を着用した給仕用の従僕や奉公人に求められるように、とくに|逞《たくま》しく容姿のすぐれた男は、女よりもはるかに力強く、しかもずっと経費がかさむことが明らかである。彼らはより多くの時間とエネルギーの浪費を表しているから、この仕事にさらに適しているのである。したがって有閑階級の経済にあっては、初期の家父長制時代のあくせく働く小間使いを従えた多忙な主婦は、やがて貴婦人と制服を着用した従僕にとって代わられる。
階層や階級がどうであれ、しかもどの経済発展の段階にあろうと、貴婦人や従僕の閑暇がまともな紳士の閑暇と違う点は、それが見かけ上骨の折れる性質の職業であることにある。主人に奉仕するため、あるいは家具や調度品を維持したり念入りに仕上げたりするために、苦痛をともなう注意を払うという形のものが大部分なのである。したがってそれが閑暇であるのは、生産的な仕事はこの階級によってほとんどなされない、という意味に限られており、あらゆる見かけ上の労働が彼らによって回避されている、という意味ではない。貴婦人あるいは奉公人や使用人によって遂行される任務は、しばしば十分に骨が折れ、家族全体の快適さに不可欠な目的に直接充当されることも少なくない。主人や他の家族の肉体的な能力や快適さの助けになるかぎり、このようなサービスは生産的な仕事だと解釈できるであろう。この効果的な仕事を差し引いた後に残る部分だけが、閑暇の遂行として分類されるべきものなのである。
だが、現代の日常生活で家事に分類されている多くのサービスや、教養の高い男によって快適な生活のために要求される多くの「便宜」は、儀式的な性格のものである。したがってそれは、ここで使用している言葉の意味で、正しく閑暇の遂行と分類されるべきものである。にもかかわらず、礼儀にかなった生活という観点からみて、それはどうしても欠かせないものになる。それはほぼ間違いなく儀式的な性質のものだが、なおも個人的な快適さにとってさえ不可欠なものでありうる。だがそれは、こうした性質を帯びているかぎり不可避で不可欠なのだが、というのも、儀式的に不浄で無価値だという烙印を押されてもなお必須なものだ、と教えこまれてきたからなのである。それが欠けるとわれわれは不快になるが、その理由は、欠けていることが直接肉体的な不快をもたらすからでも、良いものと悪いものとの違いを慣例的に区別するように訓練を受けていない鑑識眼が、その欠如を見て怒り狂うだろうからでもない。これが真実であるなら、このようなサービスに支出された労働は、閑暇として分類されなければならない。そして、経済的に自由で、世帯を管理する家長以外の者によって遂行される場合には、それは代行的閑暇として分類されなければならないのである。
主婦や使用人によって家事という項目の下に遂行される代行的閑暇は、とくに大差なくよい評判の獲得競争が活発なところでは、しばしば退屈な仕事になる。これは現代の生活でよく目にする事態である。こうした場所においては、使用人階級の義務になっているこの家事サービスは、代行的閑暇としてよりもむしろ、浪費された努力と呼んだほうが適切であろう。だが代行的閑暇という用語は、その効用の実質的な経済的根拠をほどよく連想させるだけでなく、このような家事的な仕事の出自を示唆するという利点をもっている。というのは、こうした職業が主人や家庭に金銭的な好評判をもたらす手段として役立つのは、一定量の時間と努力が顕示的に浪費されているという理由にもとづいているからである。
とすれば、こうして補助的で派生的な有閑階級が発生することになるが、その職務は、本来的で正当な有閑階級が好評判を確保できるように、代行的に閑暇を遂行することである。この代行的な有閑階級は、その習慣的な生活様式がもつ独特な特徴によって、固有の有閑階級と区別される。少なくとも表面的には、主人階級の閑暇は労働を毛嫌いする性向の解放であり、また主人自身の幸福や生活の満足度を高めるものと見なされている。しかし、生産的労働を免除された使用人階級の閑暇は、いうなれば彼らにとって強制された行為であって、通常あるいは本来的にも、彼ら自身の快適さに向けられるというわけではない。使用人の閑暇は自分自身の閑暇ではない。彼が完全な意味での使用人であり、固有の有閑階級の低い階層に属する構成員でないかぎり、同時にまた使用人の閑暇は、ふつう主人の生活の満足を促進するために過ごされる。専門特化したサービスという外観の下に遂行されるこの追従関係の証拠は、使用人の態度や生活の仕方のなかに明白に現れる。似たようなことは、妻がまだ主として使用人であった――すなわち、男を長とする家族が多数残っているかぎり――長期にわたる経済段階をつうじて、妻についてかなりよくあてはまる。有閑階級の生活様式が要請することをみたすために、使用人はたんに追従しているという態度だけでなく、追従の訓練や練習の成果をも示さなければならない。使用人や妻は、一定の任務を遂行したり奴隷的な性分を表さねばならないばかりか、追従の駆け引きのなかで身につけた技量――効果的で顕示的な追従の規準に一致するように教えこまれたもの――を示さなければならないということもまた、まったく避けがたいことなのである。今日でさえ、高くつく使用人の効用の主要な要素だけでなく、生まれのよい女房の主要な装飾の一部を構成するものは、この奴隷的な関係の礼儀正しい表明のなかに現れる態度と、そこで身についた能力である。
立派な使用人の第一の必要条件は、自分の立場をはっきりと認識しておかねばならない、ということにある。どのようにすれば、望ましい一定の物理的な成果を得ることができるか、を知っているだけでは足りない。何よりもまず、このような成果をそれにふさわしい形式で達成するためにはどうすればよいか、を知っていなければならない。家事的なサービスは、物理的な役目というより、精神的な役目だと言ってよい。とくにこの使用人階級による代行的閑暇の遂行にかかわる行儀作法を規定するような、立派な礼儀に関する精密な体系が次第にできあがってくる。このような儀礼典範からの逸脱は、すべて非難されるべきものである。もっともその理由は、物理的な能力の不足を証明しているとか、使用人特有の態度や気質の欠如を示しているというようなことではなく、最終的には、特別な訓練の欠如を示しているということにある。個人的なサービスに関する特別な訓練は、時間と努力を要することであり、したがってそれが高い水準で存在する場合には、それを身につけている使用人は、いまだかつていかなる生産的職業にも習慣的に従事したことがない、ということを証拠立てていることになる。それは、遠い過去までさかのぼる代行的閑暇の明白な[#「明白な」に傍点] [prima facie] 証拠である。こうして、よく訓練されたサービスが効用をもつ理由は、それが、たんに立派で巧みな技量に対する主人の本能的な好みや、生活そのものが主人への従属にほかならない人々を顕示的に支配しようとする性向をみたすからだけでなく、訓練されていない人が遂行するありあわせの顕示的閑暇によって提示されるであろうものに比べて、はるかに多くの人間サービスの消費を証拠立てることになるからである。かりそめにも紳士の執事や使用人が、あたかも平素の職業が農夫や牧夫でありうることを窺わせるような未熟なスタイルで、主人の食卓や乗り物に関する職務を遂行したら、それは著しい不満の種になろう。そのような不細工な仕事が意味するのは、主人の側に特別に訓練された使用人のサービスを確保する能力が欠けている、ということである。すなわち、熟練をつんだ使用人に厳格な作法に従った特別なサービス能力を身につけさせるために必要な、時間と労力の消費と教育費支払いの能力がない、ということを意味する。使用人の行為が主人の資力不足を証拠立てる場合には、それは、自らの何より重要な目的を踏みにじることになる。というのは、使用人の主たる効用は、彼らがもつ主人の支払い能力の証拠にあるからである。
以上述べてきたことは、訓練不足の使用人の罪は安上がりや役立たずを直接連想させるところにある、という意味に解釈できよう。もちろん、それは事の真実ではない。その関連性はかなり間接的である。ここで生じることは、一般的に生じることなのである。最初になんらかの根拠にもとづいて推賞に値すると考えられたものは、まもなくそれ自体が満足を与えるものであるかのように、われわれに訴えかけるようになる。すなわちそれは、われわれの思考習慣のなかで、実質的にいつまでも正しいものであり続けるのである。だが、特定の行儀作法がずっと愛好されるためには、その発展の規範を形づくる習慣や習性によって支持され続けられるか、または少なくとも、それと両立可能なものでなければならない。顕示的閑暇、すなわち顕示的なサービスの消費を行う必要性が、使用人を抱えることの支配的な誘因なのである。これが真実であるかぎり、使用人の年季奉公を早々にうち切ったなどと連想させる公認の慣行からのいかなる離反も、まもなく耐えがたいものと見なされるであろうことは、それほど詳説しなくても分かることである。出費がかさむ代行的閑暇の要請は、われわれの鑑識眼――これらの事柄において、いったい何が正しいかというわれわれの感覚――の形成を導くことをつうじて間接的かつ淘汰的に作用し、承認を見合わせることによって、適合性に欠ける新しい試みを根絶するのである。
万人の合意によって認められた富の標準が上昇するにつれ、あり余っていることを誇示する手段としての使用人の利用や保持は、洗練の度を増してくる。財の生産に充用される奴隷の保有と維持は、富と武勇の証拠である。何も生産しない使用人の維持は、さらに高度な富と地位の証拠である。この原理の下で、一群の使用人――所有者の身体を優雅に世話することによって、大量のサービスを非生産的に消費する能力を証明する、ということだけが仕事の、しかも、数が多ければ多いほどよいというような使用人――が発生する。有閑階級紳士の名誉を維持するために人生を費やす使用人や従者の間で、付随的な分業が生じるのである。こうして、一つのグループが所有者のために財を生産するのに対して、ふつう妻を筆頭とする別のグループが所有者のための顕示的閑暇に時間を費やし、こうすることによって、彼の卓越した富裕を少しも傷つけることなく、莫大な金銭的損害に耐え抜く能力を証明することになる。
家庭でなされるサービスの性質と発展に関するこのようないくぶん理念化され図式化された概略は、ここで「半平和愛好的」産業段階と呼ばれてきた文化段階では、ほぼ真実に近いものである。この段階になってはじめて、個人的なサービスが経済的な制度としての位置を占めるようになるし、それが社会の生活図式のなかで最も大きな場所を獲得するのは、この段階においてのことである。文化的な順序としてみると、半平和愛好的な段階は、固有の略奪段階に後続するものであり、両者はともに野蛮生活を継承する局面である。それを性格づけるような特徴は、形式的な平和と秩序の遵守であるが、同時にまたこの段階の生活は、言葉の十分な意味で平和愛好的と呼ぶには、なおあまりにも多くの強制と階級的|敵愾心《てきがいしん》に満ちあふれている。多くの目的、とくに経済的なものを除いた目的のためには、それは身分の体制と名づけたほうがよいであろう。この段階における人間関係のあり方、したがってまたこの文化水準における人間の精神態度は、この用語によってうまく要約される。だが、経済進化からみたこの時点の産業発展の傾向を示唆するためだけでなく、広く流布した産業の方式を性格づけるための術語としてなら、「半平和的」という用語のほうが適切だと思われる。西洋文化に属する共同社会に関するかぎり、この局面の経済発展はおそらく過去のことである。もっともそれは、特有に野蛮文化に現れるような思考習慣はかなり崩れてしまったが、なお相対的にあまり分解しつくしていないような一部の共同社会――数としては少ないが、よく目につく社会――を除外した場合の話である。
個人的なサービスは、とくに財の分配と消費に関するかぎり、依然として大きな経済的意義をもつ要素である。だが、この方向においてさえ、その相対的な発展は過去に比べて間違いなく鈍化している。この代行的閑暇の最高の発展は、現在よりもむしろ過去のことに属する。そして現在それを最もよく表しているものは、上流の有閑階級の生活図式のなかに窺うことができる。その最大の受容と最も効果的な発展という点でみると、現代文化は、ずっと古代的な文化水準に属する伝統、慣行および思考習慣の保存に関して、この階級に多くのものを負うているのである。
現代的な産業社会では、日々の快適さや便宜のために役立つ機械的な手段が高度に発展している。そういう次第で、身の回りの世話をする使用人、また実際にあらゆる家事的な使用人というものは、昔からの伝統を引き継いだ名声の規準に従う場合を除いて、いまではほとんど雇われなくなった、と言ってよい。唯一の例外は、老衰した人々や知力の劣った人々を世話するために雇われる使用人であろう。だがこのような使用人は、家事用の使用人よりも、専門的な看護人という項目に属するというほうが適切であり、したがって、それは法則に反する真の例外というより、見かけ上の例外なのである。
たとえば、かなり暮らし向きのよい現代の家族が家事用の使用人を維持し続けるおおよその理由は、(明らかに)そのような現代的な住居で必要とされる仕事をその家族構成員が不快な思いをすることなしには成し遂げられない、ということである。そして、それが成し遂げられないのは、(一)「社会的義務」が多すぎるからということ、および(二)なすべき仕事があまりにも耐えがたく、しかもその量が多すぎるからということである。この二つの理由は、次のように定式化し直すことができよう。(一)礼儀作法に関する強制的な体系の下では、そのような家族構成員の時間と努力は、訪問、ドライブ、クラブ、慈善裁縫奉仕会、スポーツ、慈善団体、および他の似たような社会的行事をするのに好都合な顕示的閑暇の遂行に、外見上すべて費やされていることを求められる。これらの事柄に時間とエネルギーを充用している人々は、衣装その他の顕示的消費への付随的な配慮と同様にこれらの儀式にもすべてきわめて退屈な感情を抱くが、しかし、それが不可避のものであることを個人的に認めている。(二)財を顕示的に消費するという条件の下では、住居、家具、骨董品、衣装や食事に関して、生活設備が著しく洗練されて取り扱いが難しくなったため、このようなものの消費者は、それを援助なしで社会的に要求される作法に従ってこなしていくことができない。決まりきった行儀作法をみたすために助力を求めねばならない雇い人と個人的に接触することは、家の住人にとってふつう嫌われがちだが、家庭用品のこのわずらわしい消費の負担を彼らに任せられるとあっては、その存在も出費も耐え忍ばれるのである。家事用の使用人、またとくに高い階級の人々の身の回りを世話する特別な使用人は、金銭的な行儀作法という道徳的な必要に対する肉体的な必要の譲歩にほかならない。
現代生活のなかで代行的閑暇が最もよく顕示されるものは、家事と呼ばれているものから成り立っている。家事というものは、家長個人のためというよりもむしろ、一団としてみた家族――主婦が、見かけ上家長と平等な資格をもつ構成員であるような集団――の高評判を得るために遂行されるという、そうした類のサービスに急速になりつつある。家事を遂行する家庭が古代的な所有婚という基礎から離れてくるやいなや、このような家事は当然、本来の意味での代行的閑暇という|範疇《はんちゆう》から外れてくるが、雇われた使用人によってそれが遂行される場合はこの限りではない。すなわち、代行的閑暇というものは、身分あるいは雇用サービスを基礎にしてはじめて可能なものであるから、人間の交わりから身分関係が消滅すると、生活の枢要と見なされるかぎりでの代行的閑暇もまた、それとともにつねに消滅するのである。だが、この修正をさらに修正するために、以下のことを追記しなければなるまい。たとえ家長が二人になったとしても、家族が存在し続けるかぎり、家族の高評判を得るために遂行されるこの種の非生産的労働は、多少意味が変わってもなお代行的閑暇に分類されるべきだということ、これである。いまやそれは、以前のような家族の所有者としての家長のためのものではなく、準個人的な団体としての家族のために遂行される閑暇なのである。
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第四章[#「第四章」はゴシック体] 顕示的消費
代行的な有閑階級の進化と一般的な労働者集団からの分化について論じたときに、そのいっそうの分業――すなわち、さまざまな使用人の間での分業――について言及しておいた。代行的閑暇を主要な仕事にしている一部の使用人階級は、新しい副次的な領域の義務――財の代行的消費――を行うようになる。このような消費の最も明瞭な形態は、制服の着用や広々とした使用人部屋の専有に見ることができる。多少不明瞭で効果も劣る形態の代行的消費でずっと広まっているものとしては、貴婦人と居住世帯の他の人々によってなされる食料、衣服、住宅、および家具の消費がある。
だが、貴婦人の登場よりもはるか以前の経済進化の時点で、金銭的能力の証拠としての財貨の特別な消費が、多少とも洗練された体系になり始めていた。消費における差別化の開始は、金銭的能力と呼んで差支えないものより先んじていた可能性さえある。それは略奪文化段階の初期までさかのぼることができるものであり、この側面における当初の差別化は、略奪的な生活の開始と|踵《きびす》を接した出来事であるという推測さえ成り立つだろう。財の消費に生じるこの最も原始的な差別化は、大部分儀式的な性格のものである点で、われわれがよく見慣れている後の時代の差別化に似ているが、蓄積された富に依拠していない点で、それとは異なっている。富の証拠としての消費の効用は、派生的な発展に分類されるべきものである。それは以前から存在し、人間の思考習慣のなかにきちんと組みこまれていた区別が、淘汰的な過程をへて、新しい目的へと適応したものである。
早い段階の略奪文化では、経済的な区別には、一方の極に立派な体躯の男たちから成り立つ高貴な上級階級、他方の極に労働に従事する女たちから成り立つ劣等階級という、大まかな区別しかなかった。当時有力だった理想的な生活図式によれば、女が生産したものを消費するのが男の仕事なのである。女の任務になるような消費は、彼女の仕事に付随的なものでしかない。それは持続的な労働を遂行するための手段であって、彼女たち自身の快適さや生活の満足のためになされる消費ではない。非生産的な財の消費が高貴であるのは、第一に、それが武勇と人間の尊厳という特典の証拠であるからであり、第二に、より望ましいものの消費についてとくにあてはまることだが、それ自体が実質的に名誉に値するものになってくるからである。極上の食物の消費や珍しい装飾品の頻繁な消費は、女や子供にはタブーになってくる。そして、卑しい(奴隷的な)階級の男がすでに存在している場合には、彼らにも、そのタブーが適用される。さらに文化が進んでくると、このタブーは多少厳格な内容の純然たる慣習に変化する。もっとも、それがタブーなのか、広範な慣例なのかという区別の理論的基礎が何であったにせよ、慣例的な消費図式がもつ特徴は、なかなか変わるものではない。基本的な制度が家畜奴隷であるような半平和愛好的な産業段階に達したときに、多少とも厳格に適用される一般的な原理は、卑しい勤勉な階級はおのれの生存に必要なものだけを消費すべきである、というものである。事柄の性質上、贅沢品や生活の快適さを与えるものは有閑階級に属している。タブーの下では、ある種の食品や、とくにある種の飲料は、細大もらさず高級な階級用に取っておかれるのである。
儀式的に区別された特別な食物が最もよく目につくのは、|酩酊《めいてい》をもたらす飲み物と麻薬の使用においてである。このような財の消費が高くつくものであれば、それは高貴であり名誉を与える。したがって卑しい階級、とくに女は、このようなものをきわめて安く入手できる国を除けば、こうした刺激物に対する強制的な節制を余儀なくされる。古代以降あらゆる家父長制の時代をつうじて、このような贅沢品を|調《ととの》え、管理することが女の役目であり、その消費は、生まれも育ちもよい男の特権であった。こうして、酩酊や刺激物の自由な使用がもたらす病的な結果は、二次的とはいえ、それに耽溺することができるという高級な身分の印であるがゆえに、結果的に名誉を与えるものになる。過剰な耽溺による無気力は、ある人々の間では、たやすく男らしい属性だと認められている。このような原因に由来する一定の病的な身体状態に対する評価が、日常会話のなかで「高貴な」とか「紳士らしい」と同じ意味に変化することさえ生じた。金のかかる悪癖の兆候が慣例的に上級身分の印だと受けとめられ、それゆえ美徳であり、社会で敬意を引きつけやすくなるということは、比較的初期の文化段階で現れる現象でしかない。だが、こうした悪癖につきまとう高評価は、長期にわたってその力の大部分を保持するため、豊かで高貴な階級の男に、耽溺が過ぎたという理由で加えられる非難を減少するように作用する。同じ妬みを起こさせるような区別が、女や未成年者や目下の者についてはこのような耽溺を一切認めない、という慣例をさらに強化する。こうした差別的な伝統的区別は、今日のずっと進歩した人々の間でさえ力を失っていない。|慣例《コンヴエンシヨンズ》が規制を発揮する際に、有閑階級によって作られた前例が命令的な力を維持し続けているところでは、依然として女が、刺激物に関する同じ伝統的な節制をぬかりなく実行しているのを観察できる。
高貴な階級に属する女が長期間実行してきた刺激物の節制をこのように性格づけることは、常識を犠牲にして論理を純化しすぎたものだ、と思われるかもしれない。だが、知ろうとさえ思えば誰でも容易に分かる事実は、女における長期間の節制がある程度まで義務的な慣例に起因する、ということを物語っている。したがって一般的にこの慣例は、家父長制的な伝統――女は家畜的動産だという伝統――が最も生き生きと保持されているところで、最も強く現れる。ある意味でそれは、範囲と厳格さの点で著しく制約されてはきたものの、いまもなお決してその意味を失っていない。つまりこの伝統によれば、家畜的動産である女は――より多くの消費が主人の快適さや名声に貢献する場合を除いて――おのれを維持するために必要なものだけを消費すべきだ、というのである。本当の意味での贅沢品の消費は、消費者自身の快適さのために向けられるものであり、それゆえにこそ、それは主人であることの印なのである。主人以外の者によるそのような消費は、黙認された場合にしか生じえない。大衆の思考習慣の大部分が家父長制的伝統によって形づくられてきたような共同社会においては、それゆえ、贅沢品に対するタブーの存続が少なくとも自由をもたない従属階級の贅沢品使用に対する慣例的な非難である、という程度の事実まではつきとめることができよう。これは、ある種の贅沢品についてさらにはっきりとあてはまることであり、従属的な階級の人々による使用は、主人の快適さや満足をそれと分かるほど減少させるであろうし、他のなんらかの理由から正当性が疑わしいと見なされるであろう。西洋文明に属する大部分の保守的な中流階級の理解にあっては、このような種々の刺激物の使用は、たとえその両方ではないとしても、いずれか一つの反対理由から、不快なものなのである。そして、家父長制的礼儀作法の感覚をきわめて強く存続させているドイツ的な文化に属する中流階級の間では、女が麻薬とアルコール飲料を可能なかぎり控えるというタブーに支配されている、というまぎれもない事実を無視するのは、あまりにも重大なことである。多くの制約がつきはする――家父長制的伝統が次第に弱まったという点で多くの制約がある――が、女はただひたすら主人の利益のために消費すべきである、というのが正しくかつ拘束力をもつと見なされる一般的規制である。もちろん反対理由それ自体は、婦人の服飾や家庭の装飾品に対する支出が、この規則に対する明白な例外であることを示している。だが結局、この例外は実質的なものというより、ずっと見かけ上のものであることが理解されるだろう。
経済発展の初期段階では、惜しみなく財を消費すること、とくに格づけが高い財の消費――原則的には、生存に必要な最低限を上回る消費――は、ふつう有閑階級のためにとっておかれる。この制限は、最近の平和愛好的産業段階、つまり賃金労働もしくは小規模家内工業を基礎とする産業体制、および財の私的所有をもつ段階に到達して以降では、少なくとも形式的に消滅する。だが、初期の半平和愛好的な段階、すなわち、有閑階級制度が最近の経済生活に影響を与えてきた、きわめて多くの伝統が形式と一貫性を整えつつあった段階では、この原理は、|慣例上の法《コンヴエンシヨナル・ロー》としての力をもっていた。それは消費内容に対し規範としての役割を果たしてきたのであって、それからの明白な逸脱はすべて異常な形態だと見なされ、遅かれ早かれ後の発展の過程で必ず取り除かれるはずのものであった。
それゆえ半平和愛好的な有閑紳士は、たんなる生存と運動能力のために必要な最低限を上回る生活物資を消費するばかりか、彼の消費もまた、消費される財の品質の点で限定されることになった。食物、飲物、麻薬、家、サービス、装飾品、衣服、武器や馬具、娯楽品、魔除け、神像ないし|神格《デイヴイニテイーズ》といったもののうち、最高のものを自由に消費するのは彼なのである。彼が消費する財について生じてくるゆっくりとした改善の過程に目をやれば、革新の推進原理や近似的目的は、改良され洗練の度を増した生産物が個人的な快適さや福祉に対してもつ効率の上昇であった、ということに疑問の余地はない。だが、それが彼らによる消費の唯一の目的であり続けるわけではない。次には高評価という規準がひかえており、その標準を目安にしながら革新をとらえ、適したものだけを残すような作用が働くのである。このようなより秀れた財を消費することが富の証拠であるからこそ、それは名誉を与えるものなのである。したがって逆に、適切な量と質を消費することができなかったら、それは劣等と汚点の刻印になる。
食べ物や飲み物等々をめぐる品質上の優秀さに関する儀式張った区別がこうして発展してくると、それはやがて生活上の|作法《マナー》にかぎらず、有閑紳士の訓練や知的活動にも影響を及ぼすようになる。もはや彼は、たんに成功した攻撃的な男――すなわち、力と富と蛮勇をもつ男――では不十分である。頭が足りないと思われないためには、|眼識《テイスツ》を養わなければならない。というのは、消費財のなかで、高貴なものから劣ったものまでかなり微妙な区別を行うことが、いまや彼の責務になってくるからである。彼は、優秀さの点でさまざまに異なる素晴らしいご馳走、男にふさわしい飲み物や小間物、上品な服装や建築、武器、ゲーム、舞い手や麻薬に関する目利きになる。このような審美眼を養うためには時間と精励が必要であり、したがってひとたびこの方面で紳士に対する要求がなされると、その生活を方向転換させて、まさしくその名に恥じない仕方で有閑生活を送るための方法を学ぶ仕事に飽きず精励する、という傾向が生じてくる。紳士たるもの、自由に適正な種類の財を消費すべきである、という要請にきわめて密接に関連したものだが、彼はそれを時宜にかなった作法で消費する方法を知っておくべきである、ということになる。彼の有閑生活は適正な形で遂行されなければならない。こうして、以前の章で指摘したような具合で、立派な作法が生まれてくるのである。育ちのよい生活の作法や仕方というものは、顕示的閑暇や|顕示的消費《コンスピキユアス・コンサンプシヨン》という規範に適合するような細目から成り立っている。
価値の高い財の顕示的消費は、有閑紳士が名声を獲得するための手段である。彼の手元に富が蓄積されてくると、彼自身の努力だけでは豊かさを十分に証明できなくなってくる。こうして友人や競争相手の助力を得て、高価な贈り物や贅を尽くした祝祭や宴会を提供するという手段が活用される。贈り物や宴会は、おそらく馬鹿正直な|誇示《オステンテーシヨン》とは異なった起源をもっていたはずだが、それがこの目的に役立つようになったのはきわめて早い時期のことで、しかも現代にいたるまでその性質を保ち続けている。したがってその効用は、いまやこの点に関するかぎり、こうした慣例の実質的な基礎としての役割を長期間担ってきたことになる。たとえばポトラッチ[北米西岸のインディアンの間で、財力を誇示するためになされる贈答の儀式]や舞踏会といった贅を尽くした宴会が、とくにこの目的にかなったものとして利用される。この場合には、主催者が比較を試みようとする当の相手方が、目的達成のための手段として利用されている。競争相手は、招待主のための代行的消費の実行者であると同時に、招待主だけではとても処分しきれない多量の立派なものの消費の目撃者であり、こうして彼はまた、招待主の社交儀礼の力量をしっかり見せつけられるわけである。
費用がかかる宴会を行う際に、もっと快適な他の種類の動機が存在することも間違いない。集まって陽気に騒ぐという慣習は、おそらく酒興や宗教が動機となって始まったものであろう。この動機は後の発展のなかにも存在しているが、唯一の動機であり続けたわけではない。最近の有閑階級のお祭り騒ぎや宴会は、ごくわずかな程度で宗教的な必要性に、ずっと高い程度でレクリエーションや酒興という必要性に貢献し続けていると言えようが、それはまた妬みを起こさせるような目的にも役立っている。したがってこのような催し物は、まことしやかな競争心とは無縁な根拠を、宗教やレクリエーションといったずっと公言しやすい動機で包みこんでしまっているため、やはり妬みを起こさせるような目的に効果的に役立つことになる。だが、財の代行的消費においてであれ、難しくて高くつく社交儀礼の達成の顕示においてであれ、このような社会的な娯楽のもつ効用が、それゆえに減少してしまうことはない。
富が蓄積されてくると、有閑階級は機能においても構造においてもさらに発展を遂げ、その階級内部で|差別化《デイフアレンシエーシヨン》が生じてくる。多かれ少なかれ精緻な身分階層の体系が形づくられる。この差別化は、富の相続と、結果的に生じる生まれの良さの相続によって促進される。生まれの良さの相続には、義務としての閑暇の相続がともなっている。有閑生活に耐える十分な潜在力としての生まれの良さは、高貴な閑暇を維持するために必要な富に裏うちされていなくても、相続可能である。高貴な血は、好評判が得られるような消費を自由気ままに行えるほど十分な財をもっていなくても、伝えることができるであろう。こうして、前に少し言及しておいた、無一文の有閑紳士階級が生み出されることになる。なかば身分化したこのような有閑紳士は、階層制的な格づけをもつ体制のなかに収まるのである。豊かな有閑階級のなかでも、生まれや富あるいはその両方の点で最高級ないしそれに近い人々の格付けは、血縁的に遠く、金銭的に劣った人々よりも上になる。低い階層の有閑紳士、とくに無一文だったり限界的な立場にある有閑紳士は、自ら隷属したり忠誠を尽くすという方法で、有力な紳士に仲間入りする。彼らはそうすることによって、|保護者《パトロン》から有閑生活を続けるための資力や名声のおこぼれを頂戴するのである。彼らは廷臣や家臣、従者になる。保護者によって扶養と支持が与えられているから、彼らは保護者の地位の指標であるとともに、彼のありあまる富の代行的消費者になるのである。と同時に、このように編入された多くの有閑紳士は、それ自体としては実質が劣ったものである。したがって、彼らの一部は、ごく限られた意味でしか代行的消費者の名に値しないであろう。しかし、保護者の家臣や取り巻きから成り立つ大部分は、無条件に代行的消費者と分類できよう。その上、これらの人々や低い階層に属する他の多くの上流階級の人々には、次に、彼らの妻や子供、使用人、家臣という名の代行的消費を行うかなり広範な集団が付随している。
このように段階づけられた代行的閑暇と代行的消費の図式を貫いている法則は、以下のものである。すなわち、代行的な閑暇と消費が主人のためになされていること、したがってまた、こうして生じる正当な名声が主人に付加されることを明白に示すような仕方で、あるいはそのような仰々しさや記章を身にまとって、このような職務が遂行されねばならないということ、これである。|主人《マスター》や保護者のためにこのような人々によって実行される消費や閑暇は、主人や保護者にとっては、おのれの名声を高めようという考えの下に行う投資としての意味をもつ。祝宴や祝儀に関するかぎり、これはまったく明らかなことであり、このとき瞬時のうちに、誰でもよく知っている根拠にもとづいて、|主人《ホスト》または保護者に名声が転嫁される。閑暇と消費が部下や家臣によって代行的に遂行されるところでは、結果的に保護者に帰属する名声は彼の身の回りに居住している人々によってもたらされるものであるから、彼らがどこから援助を引き出しているかは誰の目にも明らかであろう。このように立派な評判が確保される集団の規模が大きくなるにつれて、遂行された閑暇の価値が誰に帰属するものかを示唆するために、さらに目につきやすい手段が求められるようになり、|制服《ユニフオーム》、記章、|仕着せ《リヴエリーズ》が、この目的のために流行するようになる。制服や仕着せの着用は、かなりの程度の従属性を物語っており、したがって、実際であれ見かけ上であれ、隷属の刻印であるとさえ言いうるものである。制服や仕着せの着用者は、大雑把に二つの部類――自由人と奴隷、ないしは高貴なものと下賤なもの――に分けることができよう。彼らが遂行するサービスも、同様に高貴なものと下賤なものに分けることができる。もちろん、この区別が実際に厳密な一貫性を保って守られているわけではない。卑しいサービスのうちのあまり品位が低くないものと、高貴な職務のうちでも名声の劣るものとが、同一人物のなかで一体化することも稀ではないからである。だからといって、一般的な区別まで見逃してしまってはならない。われわれを当惑させてしまう事実は、遂行された表面的なサービスの性質にもとづいてなされる高貴と下賤との間の根本的な区別が、サービスが遂行される対象または仕着せが羽織られる対象である人物の地位次第で、評判のよいものになったり自尊心を傷つけるものになったりしてしまうという、二次的な区別によって妨害されるということだ。こうして、正当な権限にもとづいて有閑階級固有の職業になった仕事は、すべて高貴なものになる。すなわち、統治、戦闘、狩猟、武器や装具の世話等々は、要するに、明らかに略奪的職業と分類しうるものである。他方、産業階級固有のものにならざるをえない仕事、たとえば手作業や他の生産的労働、使用人のサービス等々という仕事は、すべて下賤なものである。だが、きわめて高い身分の人のために遂行される卑しいサービス、たとえば宮中女官、女王つきの|内侍《ないし》、さらに国王の|主馬頭《しゆめのかみ》や猟犬飼育係といったサービスは、大いに名誉を与える職務である。最後に挙げた二つの職務は、一般的な関連をもつ原理がどのようなものかを示唆している。この事例に明らかなように、当の使用人のサービスが、もっぱら戦闘や狩猟に従事するという意味での閑暇に直接関係する場合には、反射的に名誉を与えるような性質を容易に獲得する。こうして、それ自体としてみれば卑しい種類のものでありうる職業に対して、高い名声が付着してくるのである。
制服を着用した護衛団という無為徒食の連中を雇っておく慣行は、平和愛好的な産業の発展とともに次第に衰退する。保護者や主人の記章を身につけた従者たちによってなされる代行的消費は、仕着せを着用した使用人の一団に限定される。したがって、きわめて高い程度で、制服は隷従の刻印、あるいはむしろ追従性の刻印になってくるのである。武装した家臣の仕着せには、つねになにか名誉を与えるような性質のものが付着しているが、仕着せが使用人の専一的な印になってくると、この名誉を与えるような性質は消失する。仕着せは、着用を求められたほとんどの人にとって不快なものになる。われわれはまだ実質的な奴隷状態からほとんど離脱していないため、いまもなお、なんらかの追従性をほのめかすような痛みに対しては、きわめて敏感である。この種の反感は、いくつかの会社法人がその従業員独特の衣装として規定した仕着せや制服の場合でさえ、おのずと現れてくる。わが国では、このような嫌悪は、仕着せや制服の着用を求められる軍事や行政にたずさわる公務員に対する不評――穏やかではっきりしない仕方ではあるが――をもたらすほど広まっている。
ある特定の紳士に付き従う代行的消費者の数は、|隷従関係《サーヴイテユード》の消失とともに全体として減少する。もちろん同じことは、彼のために代行的閑暇を過ごす従者の数についても、おそらくさらに高い程度で妥当する。完全というわけでもぴったりというわけでもないが、一般的にみて、この二つの集団は重なり合っている。最初にこのような義務的な仕事を委ねられる従者は、妻すなわち正妻である。そして容易に予想できるように、この制度の後の発展のなかで、このような義務的な仕事を遂行する人々の数は次第に減少し、最後にまた妻が残ることになった。社会のなかで上流階級に属する人々の間では、この代行的な閑暇と消費という二種類のサービスが大量に必要とされる。したがってここでは、もちろん妻は、依然かなり多数の使用人によって仕事の手助けをしてもらっている。だが、社会階層の下のほうへ目を向けると、やがて、代行的な閑暇と消費という義務的な仕事を妻一人に委ねている段階までたどりつく。西洋文化に属する社会では、この段階は、いまのところ中流階級の下層のなかに見いだされる。
そしてここでは、奇妙な転倒が生じる。この中流階級下層で一般的に観察される事実は、一家の主人には見せかけの閑暇さえ生じない、ということである。それは周囲の事情からやむをえず廃れてしまったのである。だが、中流階級の妻は、家長や主人の名声を保持するために、いまもなお、代行的閑暇という本分を遂行している。どんな産業社会であれ、社会的地位の低い階層に注目すると、基本的な事実――家長の顕示的閑暇という事実――は比較的上の段階で消失する。今日のふつうのビジネスマンの事例から分かるように、中流階級の家長は、経済的な事情から、性格としてはほぼ産業に属するような職業に従事することによって、生活の糧を入手し始めざるをえなくなってきた。だが派生的な事実――妻によってなされる代行的な閑暇と消費、および使用人による閑暇の補助的な代行的遂行――は、好評判を得るという必要性が軽視されるようなことがあってはならない、という慣例として広範にいつまでも支持される。時の常識が求める程度の代行的閑暇を妻が夫のために適切な形で遂行するために、夫のほうがこの上なく勤勉に仕事に没頭している、という惨状を見かけるのは決して珍しいことではない。
もちろん、このような場合に妻が遂行している閑暇はたんなる怠惰やものぐさの表明ではない。それはほぼ例外なく、なんらかの形態の仕事、家事あるいは社交的娯楽に姿を変えて現れる。だが、結局のところそれは、所得を増やしたり実質的な用途をもっている仕事に専念しているわけでも、専念する必要があるわけでもない、という事実を示す以外にはほとんど何の目的にも役立たない、ということを証明するものである。行儀作法の項目について論じたときに注意を喚起しておいたように、中流階級の主婦が自分の時間と努力を割いている習慣的な一連の家事の大部分は、このような性格のものである。飾りたてたり卑しさを浄めるという性質をもつ、家長に対する主婦の世話の成果が、中流階級の礼儀作法を身につけて育った男の感覚を満足させない、というわけではない。家のなかが飾りたてられ、こざっぱりと整理されているという状態がもつ効果を気に入るような人の|好み《テイスト》は、消費された努力を証拠づけるものだけを求める礼儀作法の規準に従って、淘汰的に形成されてきた好みである。そのような効果がわれわれに満足を与える主な理由は、われわれがそこに満足を見いだすように教えこまれてきた、という事実にある。このような家事に関わる義務的な仕事のなかには、形や色を上手に組み合わせることや、固有の意味で審美的なものと分類されるようなさまざまな目的に関する、熱のこもった気配りがちりばめられている。ときに、一定の実質的な審美的価値をもつ効果が達成されるということは、否定できないのである。このような生活の快適さに関するかぎり、主婦の努力というものは、時間と物を誰の目にも明らかなように浪費的に支出するという法則にそってできあがった伝統に従ったものだ、ということがここで主張してきたことのすべてなのである。美しさと快適さが達成された――そうであるかどうかは、多分に偶然の出来事である――とすれば、それは、浪費された努力という偉大な経済法則に身を委ねるという手段と方法によって、達成されたものに違いない。中流階級家庭の所有物のうちで、評判もよく体裁もよい部分とは、一方では顕示的消費となる品物であり、他方では、主婦によって遂行された代行的閑暇を証拠づけるのに役立つ装置である。
代行的閑暇の要請と較べると、妻の管理の下で代行的消費を行うという必要性は、金銭的な階層秩序のかなり低いところでさえ強く作用し続ける。儀礼的な清潔さその他の点からみて、見かけ上浪費された努力が、たとえあったにせよごくわずかしか存在しないような階層以下では、さらにまた、|見せかけの閑暇《オステンシブル・レジヤー》を試みようという意識的な努力さえなされていないことが確かな階層においては、妻は、なお|世間体《デイーセンシー》というものによって、家族と家長に対する好評判を守るために一定の財を顕示的に消費するよう求められる。こうして、古代的な起源をもつ制度がこのように進化してたどりついた結果として、当初は、実際的にも理論的にも退屈かつ単純な仕事を担うと同時に男の家畜的動産――男が消費する財の生産者――であった妻は、男が生産する財の儀式的な消費者になってきたのである。だが理論的には、確かに妻は、まだ完全に男の家畜的動産であり続けている。というのも、習慣的に代行的な閑暇と消費を提供されるということは、自由のない使用人であることの動かぬ証拠だからである。
中流や下層階級の家庭で行われるこのような代行的消費を、有閑階級の生活図式を直接表現したものと理解するわけにはいかない。なぜなら、この程度の金銭的な階層に属する家庭は有閑階級に含まれないからである。ここではむしろ、有閑階級の生活図式は一歩隔たった形で現れるようになる、と言うべきであろう。名声という点では、有閑階級が社会的秩序構造の頂点に立っている。だからこそ、その生活の作法と価値規準が社会全体に対する|規範《ノルム》を与えるわけである。たとえ近似の程度に限度があるにせよ、このような規準を遵守することが、それよりも下位のあらゆる階層の人々にとって義務的なものになってくる。現代的な文明社会では、社会階級相互間の区分線は不明瞭で流動的なものになっている。こうして、このようなことが生じるところではどこであれ、上流階級によって課せられた名声の規範がもつ強制的な影響力は、ほとんど妨げられることなく社会秩序の最下層にまで及ぶことになる。その結果、おのおのの階層に属する人々は、彼らよりも一段上の階層で流行している生活図式こそ自己の理想的な|礼儀作法《デイーセンシー》だと認識した上で、生活をこの理想に引き上げるために全精力を傾注する、ということが生じる。失敗したら|面子《めんつ》と自尊心が傷つくという痛手を被ることになるから、少なくとも外見だけでも、社会的に承認された規準に従うほかはないのである。
高度に組織化されたあらゆる産業社会では、立派な評判を得るための基礎は、究極的に金銭的な力に依存している。金銭的な力を示し、高名を獲得したり維持したりする手段が、閑暇であり財の顕示的消費なのである。したがって、実行可能な最下層まで、この二つの手段が流行する。これを採用する最下層の人々の間では、二つの職務の大部分は、妻と同一家計内の子供たちに委嘱される。妻が見せかけの閑暇さえ実行できないさらに低い階層では、財の顕示的消費だけが残り、しかも、妻と子供たちによって実行されることになる。家庭をもつ男はこの方向にそって消費の一端を担うことができるし、実際に、ふつうはそうしている。しかし、さらに下の赤貧にあえぐ人々の階層――スラム街すれすれのところの階層――の場合には、男だけでなく、まもなく子供たちも、事実上|見栄《アピアランス》を保つのに役立つ財の消費を停止することになり、実質的に、女が家庭の金銭的な|体面《デイーセンシー》の唯一の象徴になってしまう。どの社会階層に属する人々であっても、たとえ赤貧極まりない人々の場合であっても、習慣的な顕示的消費のすべてを捨て去りはしない。この部類に属する消費の最後のものが放棄されるのは、抜き差しならない必要に迫られたときだけである。最後の装身具あるいは金銭的体面の最後の真似事が投げ捨てられるまでには、むさくるしさや不快さなどが限りなく堪え忍ばれる。このような高級ないし精神的な必要物の充足を完全に放棄するほど肉体的な欲求の圧力に屈してしまった階級や国など、決して存在しなかった。
以上の顕示的な閑暇と消費の成長に関する検討から分かるように、名声を獲得するという目的にとって等しく両者がもつ効用は、両者に共通する要素としての浪費のなかにある。一方の場合には時間と努力の浪費であり、他方の場合には財の浪費である。両方とも富の所有を誇示する方法であり、慣例的に、二つは同等のものと見なされている。起源が異なる他の|礼儀正しさ《プロプライアテイー》の規準に影響をうける場合を別とすれば、両者間の選択は、誇示するための便宜性をめぐる問題にすぎない。それぞれ異なった経済発展の段階で、便宜性を根拠にいずれかが選好される。影響を与えたいと思う人々に確信をもたせるためには、どちらがより効果的か、という問題なのである。慣行がこの問題に回答を与えるが、それは環境が異なるに従い、異なった仕方でなされる。
共同社会や社会集団の規模が小さくまとまったものであるため、ありふれた悪評が立つだけで人々に十分効果的に伝播するような場合には――すなわち、個個人が名声という点をめぐって適応を求められる人間環境が、個人的な知遇や隣人同士のうわさ話という領域内にとどまっているかぎり――、どんな方法でも、ほぼ同じくらい効果的であろう。したがって、社会発展の初期段階では、いずれの方法も等しくよく役立つであろう。だが、階層分化がいっそう進展し、より広範な人間環境にまでひろげてゆく必要性が出てくると、|世間体《デイーセンシー》を保つ手段としては、閑暇よりも消費のほうが評価され始める。これはとくに後の段階、つまり平和愛好的な経済段階について妥当する。全住民のコミュニケーションや移動の手段は、いまや個人を大衆の監視の目に晒すようになったが、ここでは誰も大衆の監視の下でなしうるかぎり財(および、おそらくは育ちも)を誇示する以外に、自らの名声を評価する手段をもっていないのである。
現代的な産業の組織化は、方法こそ異なるものの、これと同一方向に作用する。現代的な産業体制の要請するところに従えば、個人や家族は、たんに並置しているという意味でしかお互いに接触する機会をもちえない、という状況におかれてしまう。機構的な関係としてみるかぎり、隣人といってもしばしば社会的には隣人ではなく、顔さえ知らないということもあるが、その場合でもなお、隣人から与えられる高い評価は著しい効用をもっている。日常生活における冷淡な観察者たちに、自らの金銭的能力を印象づけるために利用しうる唯一の手段は、たえず支払い能力を見せつけることなのである。また現代社会では、個人的な日常生活については何も知らない人々の大集会、たとえば教会、劇場、舞踏場、ホテル、公園、店舗等々にしばしば行く機会がある。このような行きずりの観察者たちに感銘を与え、こうして彼らの目の前でいつまでも自己満足をもち続けるためには、金銭的な力の証明は、行き交う人々が判読可能な文字で書かれている必要がある。したがって、現在の発展の傾向が閑暇よりも顕示的消費の効用を高める方向にあることは、確かなのである。
名声獲得のための手段としての消費の効用と並んで、それを礼節の一要素として強調することが最高潮に達するのは、個人間の人間的接触が最も広く、人口移動が最も頻繁な社会階層においてのことだ、という事実もまた注目に値することである。顕示的消費の要求は、田舎の住民の所得よりも都市住民の所得においてより大きな比率を占めており、しかもそこでの要求のほうが、はるかに不可避的なものなのである。結果的に、上品な外観を保つために、都市住民は田舎の住民に較べてはるかに大きな程度で、その日暮らしの習慣を身につけることになる。こうして、たとえばアメリカの農民の妻と娘は、同程度の所得をもつ都市の職工家庭に較べると、行儀作法の点であか抜けしないだけでなく、服飾の点でも著しく流行遅れだ、と知れわたることになる。顕示的消費がもたらす特別な自己満足を、都市住民が生まれつき熱望するというわけではないし、田舎の住民が金銭的な体面に無頓着だというわけでもない。だが、この方向で証拠を示そうとする誘因は、その効果が一時的であることもあって、都市でこそはるかに決定的なものになる。したがって、この方法が手軽に利用されることになり、都市住民はお互いに相手に負けまいとする闘争のなかで、自らの通常の顕示的消費の標準をよりいっそう高いところに設定する。一定水準の金銭的な上品さを都市でひけらかすためには、結果として、相対的にこの方向の支出をさらに大きくせざるをえなくなるのである。こうして、高く設定された慣例的標準に従うという要求は、強制的なものになってくる。体面の標準は階級ごとにより高いところにおかれており、したがって、この上品な外観を保つという要求は、社会的地位を失わないためにどうしても実現しなければならないものなのである。
標準的な生活のなかで消費が大きな要素を占めてくるのは、田舎よりも都市でのことである。田舎の住民の間では、体面のもつ役割は、ある程度まで貯蓄や家族の快適な暮らし向きによって担われている。こうしたことは隣近所のうわさ話という媒体を通じて広まるから、金銭的な名声と同じような一般的な目的に十分役立つからである。快適な暮らしや閑暇に|耽《ふけ》るということ――そうしていることが明白な場合のことだが――は、もちろん、その大部分が顕示的消費に含まれるものと認められよう。貯蓄についても、まったく同じことが指摘できる。職工階級によってなされる貯蓄がずっと少額であるという理由は、ある程度まで以下の事実にもとづいている。すなわち、職工の場合には、おかれている環境との関係からみて、貯蓄というものが、農場や小さな村落で生活している人々の貯蓄ほど効果的な宣伝手段にならない、ということなのである。農村住民の間では、各人の事情、とくに各人の金銭的な立場が他のすべての人々に知れわたっている。この事実だけを考慮する――最初の段階だけで理解する――なら、職工や都市労働者階級にふりそそぐ刺激の増加が彼らの貯蓄額を著しく減少させることはない、と思われよう。だが、世間体にかなう支出標準の上昇する累積的な作用を考慮するなら、貯蓄しようという傾向を妨害するような効果がきわめて大きくならざるをえないのである。
このような名声の規準が自律的に現れてくる仕方を示す好例は、公衆の面前での喫煙や、一杯だけ酒を「おごる」という慣行のなかにみることができるが、これは都市の労働者や職人、さらには、都市住民のうちの下層中流階級全体のもつ習慣である。この形態の顕示的消費が広くみられる階層として、渡りの日雇い印刷工を挙げることができるが、それは、しばしば非難される周知の結果を、彼らの間にもたらしている。この点についてみるなら、この階級の特殊な習慣は、この階級の人々がもつと思われている間違った道徳的欠陥といったもののせいにされるか、あるいは、かなりあいまいな仕方ではあるが、そこで雇われている人に対してその職業が及ぼすと思われている道徳的な悪影響のせいにされる、というのがふつうである。植字室や印刷室で印刷所の通常の手順に従って働いている人々の実際の状況は、次のように要約できよう。どの印刷所やどの都市で修得したものであれ、技術というものは、ほとんどすべての工場や都市でも容易に活用しうるものである。つまり、特別な訓練に起因する物ぐさは、彼らにあってはごく限られたものでしかない。また、それは平均以上の知性と一般的な知識が要求される職業である。したがって一般的に、ここで雇われる人は、他の職業の人に比べて、彼らの労働に対する需要が場所ごとにわずかずつ違うという事実をずっとうまく利用している、と見なされている。結果的に、里心に起因する物ぐさもまた、ごく限られたものにすぎない。と同時に、この職業分野の賃金は高く、ある所から他の所への移動を比較的容易にしている。こうして、印刷業で雇われる労働者の移動性はきわめて高くなり、同じ程度によく確立し数も多い労働者集団と比べても、すべてを上回るほどである。このような人々は、新しく知り合いになった人々とつねに接触しており、彼らとの間にできあがる関係はつかの間で短命なものであるが、当座の間は、彼らから受ける好評判が何にもまして大切なものとなる。|見栄《オステンテーシヨン》をはるという人間らしい性癖は、心地よい仲間意識が加わることによって、このような目的に最もよく役立つ方向で存分に支出させるように作用する。ここでもまた|余所《よそ》と同様に、習慣は流行するやいなや即座に義務的なものになってしまうばかりか、社会的に承認された世間体の標準のなかに組みこまれてしまうのである。次の段階は、この世間体の標準を、同じ方向にさらに進展させる新しい動きの出発点にすることである。というのは、同じ職業に従事する者にとって当然のものとして実現してしまっている標準的な散財などというものは、ただ気乗りしないまま従うだけで、何も得るものがないからである。
平均的な労働者に比べて印刷工のほうにはるかに散財というものが普及している原因は、したがってある程度まで、職場の変更がずっと容易であること、この職業で|顔馴染《かおなじ》みとなっていること、人間的な接触がなによりも一時的な性質のものであること、に求められる。だが、このような散財を強く求める実質的な理由は、究極的には、フランスの小土地所有者を節約と節倹にはげませ、アメリカの大富豪に大学、病院、博物館を建てさせるのとまったく同様に、優越性と金銭的な体面を誇示しようという性癖にほかならない。もし顕示的消費の規準が、それとは異質な他の人間性の特質によってかなりの程度まで相殺されていなければ、いかにその賃金や給料が高かろうと、都市の職工や労働者階級が現在おかれているのと同じ立場にある都市住民にとって、理論的にみて、およそ貯蓄など実行できるはずがないのである。
だが、富とその誇示以外にも、他の名声の標準があるし、多少とも義務的な行為規準というものがあって、しかもこの一部は、顕示的浪費という広範で基底的な規準を強めたり修正したりするようになる。宣伝上の効率性という試金石しかない場合には、閑暇と財の顕示的消費が、当初から金銭的な競争心の世界をまったく均等に二分していたとみるべきである。その後、経済発展が進み、社会規模が大きくなるにつれて、次第に閑暇は根拠を明けわたし、廃れてゆく傾向をたどったとみてよい。財の顕示的消費は、絶対的にも次第に重要の度を増したに違いないが、最後には、それは生活必需品以外のすべての利用可能な財を吸収しつくすほどになった。だが、実際の発展過程は、この理念的な図式とはある程度違ったものであった。出発点では、閑暇が第一等の座を占めていた。したがって、半平和愛好的な文化段階をつうじて、直接的な富の象徴としても、世間体の標準の構成要素としても、それは財の浪費的消費をはるかに上回る地位を保ち続けることになった。そのとき以降、財の消費が地歩を得てきたのであって、なお生存必要最低限度以上の全剰余を吸収しつくすにはほど遠いが、現在それが第一位を保つにいたったことは、間違いのない事実である。
名声を獲得するための手段として閑暇が初期にもっていた優越性は、高貴な仕事と下賤な仕事との間の古代的な区別に起因するものである。閑暇が尊敬に値し、しかも義務的なものである理由の一半は、それが下賤な労働からの免除を示していることにある。高貴な階級と下賤な階級へという古代的な分化は、尊敬に値するような職業と卑しい職業との間の妬みを起こさせるような区別にもとづくものである。そして、この伝統的な区別は、初期の半平和愛好的な段階の間に、義務的な|礼節の規準《キヤノン・オヴ・デイーセンシー》に成長する。その優越性は、閑暇はなお富の証拠として消費と同じほど有効なものである、という事実によって促進される。事実、その文化段階で個個人が晒されている比較的小規模で安定的な人間環境の下では、それはきわめて効果的である。結果的に、あらゆる生産的労働を低く評価する古代的伝統に後押しされて、大規模な無一文の有閑階級が発生することになったし、社会の産業生産高を生存必要最低限度に抑えこむ傾向が生じたほどである。このような極端な産業の抑制が回避される理由は、厳格さの点で名声のそれよりもはるかに強い強制力に服している奴隷労働が、労働者階級の生存必要最低限度を上回る生産物を産出するようにさせられるからである。結果的に、顕示的閑暇は名声の基礎として相対的に利用されなくなるが、この理由の一半は、富の証拠としての消費の有効性が相対的に上昇したことにある。そして部分的には、顕示的消費という慣行とは無縁な、しかもある程度それと相反するような、別の作用に起因するものでもある。
この異質な要素というのが、製作者本能である。他の事情が許すかぎり、生産的な努力や人間が利用しうるものなら何でも好ましい、と思わせるように仕向けるのは、この本能である。それは、人間が物や努力の浪費を非難するように仕向ける。製作者本能はすべての人間に内在するものであり、それゆえどんな逆境の下でも、おのずと現れるものである。したがって、特定の支出が実際いかに浪費的であったとしても、見かけ上の目的という手段をつかって、少なくともある程度まことしやかな言い訳を行う必要が生じてくる。特殊な事情の下では、その本能が高貴な階級と下賤な階級との間の上下の区別や、武勇に対する好みになってしまう、ということは以前の諸章で指摘したとおりである。それが顕示的浪費の法則と矛盾するようになるかぎり、製作者本能の現れ方は、実質的な有用性というのではなく、一見して無駄だと分かるものに対して不快の念を抱かせたり審美的な拒否感を抱かせるような、普遍的な感覚の強調になってくる。それは本能的な思いこみという性質のものであるから、何はさておき、その要求に対する明白であからさまな違反に瞬時に反応するように誘導する。熟慮の後でしか理解できないような|類《たぐい》の実質的な違反を印象づけるには、それはあまりにも限られた即効性と拘束力しかもっていないのである。
あらゆる労働が通常もっぱら奴隷によって遂行され続けるかぎり、生産的労働につきまとう卑しさが人間の心の奥深くで不断に抑止的な役割を果たすことになるから、製作者本能が産業的な有用性をもつような方向に大いに作用する、などという事態は生じえない。だが、(奴隷制と身分制をもつ)半平和愛好的な段階が(賃金労働者と現金支払制をもつ)平和愛好的な産業段階へ移行すると、この本能はずっと効果的に作用するようになる。こうしてそれは、何が有益であるかをめぐる人間の考え方を積極的に形成し始めるだけでなく、少なくとも、補助的な自己満足の規準として前面に現れてくる。あらゆる外生的な事情を別とすれば、なんらかの目的を達成しようとする性向をもつこともなく、自らの発意に駆られて人間が利用するなんらかの対象や事実や関係を作り出そうともしないような人々(成人)は、今日では、お目にかかれないほど少数派でしかない。目的を達成しようとする性向は、尊敬に値する閑暇を求め、品位の劣る有用性を回避しようとする、ずっと即効的で抑圧的に作用する誘因によってうち負かされかねないものであり、それゆえ、たんに見せかけをもたらすようにしか作用しないであろう。すなわち、たとえば「社会的な義務」、なかば審美的でなかば学問的なたしなみ、家の手入れや装飾、裁縫奉仕会活動や衣服の仕立て直し、さらにはドレス、トランプ、ヨット、ゴルフその他のスポーツなどの熟達に窺われるもの、これである。だが、事情に迫られた場合に、それが結果的に愚かな行為に終わってしまうかもしれないという事実は、その本能の存在に反証を与えるものではない。これは、|雌鶏《めんどり》に陶製の卵を数個抱卵させることによって、抱卵本能に反証を与えられるわけではない、というのとまったく同じことである。
個人的な利益を生むものであれ集団的な利益を生むものであれ、ともに下品だと思わせるほど生産的ではない形の目的的な活動を求めて、最近その性向がぎごちなく手を伸ばしてきた、ということが現代的な有閑階級と半平和愛好的段階の有閑階級との態度の違いを示している。上述したように、初期の段階では、奴隷制と身分制という最も支配的な制度が、たんに略奪的な目的以外のものに向けられた努力など恥辱以外のなにものでもない、と思わせるように抗しがたく作用していた。当時はまだ、敵対的な集団や集団内部の隷属階級に対して容赦のない攻撃や弾圧を加えようとする性向が、習慣的な|充用《エンプロイメント》を見いだすことが可能であった。そしてまたこれは、有閑階級のもつ圧力を減らしたり、その精力を発散させたりするのに役立ったから、彼らは実際に有用な仕事、あるいは見かけだけでも有用な仕事に従事する必要がなかった。狩猟の慣行もまた、同程度ではあるが同じ目的に役立った。共同社会が平和な産業組織へと発展し、ますます完成の度を高めた土地の占有が狩猟の機会を根こそぎにしてしまったときに、合目的的な充用を探し求めようとするエネルギーのもつ圧力が、別の方向のはけ口を見つけさせることになった。また、有用な努力につきまとう不名誉も、強制的な奴隷労働の消失とともに、それほど鋭敏に感じとられないような段階に入っていった。こうしてそれ以後、製作者本能が、ますます持続性と一貫性の度を強めて自己主張し始めることになった。
最も抵抗感のない職業はある程度変わり始め、従来略奪的な活動にはけ口を見いだしていたエネルギーが、いまや部分的に、表向き有用な目的に向けられるようになる。見るからに無益な閑暇は非難されるようになるのであって、これは、平民的な起源をもつことが「品位あふれる閑暇[#「品位あふれる閑暇」に傍点]」[otium cum dignitate] という伝統と|齟齬《そご》をきたすような作用をもつ大部分の有閑階級について、とくによくあてはまることである。しかし、生産的な努力という性質をもつ職業にすべて顔を背けさせるような名声の規準は、なお存続している。それは、実質的に有用であったり生産的であるような職業が、一時的な流行の域を越えて広まったりしないように作用するであろう。その結果、有閑階級が遂行する顕示的閑暇に一定の変化がもちこまれることになるが、それは形式ほど実質をともなうものではない。二つの対立的な要求の間の調和は、|見せかけ《メイク・ビリーヴ》に訴えることによって達成される。儀式的な性格を秘めた数多くの込みいった上品な慣例的儀式や社会的義務が開発される。多くの団体が設立されるが、表向きの形式や名称は何が改善活動の対象であるかを現している。すなわち、移り変わりが激しく、しかもいろいろな名称で呼ばれるため、結局のところそれを口にする人々は、その仕事のもつ効果的な経済的価値が何であるか、を考える機会さえ失うことになりかねないのである。目的をもった仕事であるかのような見せかけとならんで、ある一連の目標に向けた目的的な努力という要素の一片――しかも、見分けがつかないように生地のなかに織りこまれている――は、若干の例外こそあれ、一般的に存在するものなのである。
狭い意味での代行的閑暇についても、同じような変化が生じてきた。発展した平和愛好的段階の主婦は、初期の時代の家父長制下におけるようにただひたすら時間を目につきやすいように怠惰に過ごす代わりに、家事に絶え間なく身を献げている。このような家庭サービスの発展がもつ顕著な特徴については、すでに指摘したとおりである。
財についてであれ、サービスや人間についてであれ、その顕示的消費の進化の全体を貫いている明白な含意は、消費主体の名声を効果的に上昇させるためには、それは過剰な支出でなければならない、ということである。名声に値するものであるためには、それは浪費的でなければならない。生存必要最低限さえをも満たしていない赤貧の人々と比べる場合を除けば、たんなる生活必要品の消費から生じる利点など、ないに等しい。どうしようもないほど平凡で、しかも人の気を引くこともない上品さを除けば、そのような比較から支出の標準など生じるはずはない。もっとも、生活様式の標準というものは、豊かさ以外の側面での競争心にもとづく比較を許容するはずだ、ということは十分にありうることであって、たとえば、道徳的、肉体的、知的、あるいは美的な力の表現といったさまざまな方向での比較が、それである。このようにあらゆる方向で比較することが、現代の流行なのである。このような側面に関してなされた比較は、金銭的な比較と区別ができないほど絡み合っているために、両者を見分けることはほとんど不可能である。これがとくに妥当するのは、知的および美的な力や熟達のほどが表現されたものの習慣的な評価においてである。こうしてわれわれは、実質的には金銭的な違いでしかないものを、しばしば、美的ないし知的な違いだと解釈することになる。
「|浪費《ウエイスト》」という言葉を用いることは、ある面からすると遺憾なことである。その言葉は、日常生活で用いられているように、底流に非難の意を含んでいる。ここでそれを用いた理由は、同じ範囲に属する動機や現象をもれなく表現する、より適切な言葉が見つからないからである。したがってその言葉は、人間の生産物あるいは人間生活における不適切な支出を意味するものとして、非難の意味を込めて用いられているわけではない。経済理論に即して考えれば、当該の支出が他のすべての支出に比べて適正であるとか不適正である、などということはない。それがここで「浪費」と呼ばれる理由は、この類の支出が全体として人間生活や人間の福祉に役立たない、ということにあるのであって、それを選択する個々の消費者の見地からみた場合に、浪費あるいは方向違いの努力や支出になる、ということではない。消費者がそれを選択するとすれば、彼はそうすることによって、浪費的だと非難されない他の消費形態と比べた場合に生じる問題、つまり特定の支出が消費者自身にとってもつことになる相対的効用という問題に、決着をつけたことになる。消費者がどのような形態の消費を選択しようと、また、選択にあたってどのような目的を追求したとしても、それは彼の選択にもとづくものであるから、彼にとっては効用をもつのである。個々の消費者の見地に立つかぎり、浪費性という問題は、固有の経済理論の範囲内では生じない。したがって、「浪費」という言葉は専門用語として使用されているから、この|顕示的浪費《コンスピキユアス・ウエイスト》という規準の下で消費者が探し求める目的や動機に対する非難の意味など、まったく含意されていないのである。
だが別の根拠に立ってみると、日常の生活表現で用いる「浪費」という言葉が、浪費的だと性格づけられたものに対する非難の意を含んでいるというのは、注目に値することである。この常識の含意それ自体が、製作者本能の発露なのである。浪費に対する広く行きわたった非難のもつ意味とは、あらゆる人間的努力や人間的享受のなかに全体として生活と福祉の向上を見いだすことができなければ、ふつう人は心に平安を保ちえない、ということなのである。いかなる経済的事実も、無条件で承認を得るためには、非個人的な有用性――人間一般という見地からみた有用性――の審査を受けて、推賞するに足ることを示さなければならない。他人と比較した場合に一個人がもつ相対的ないし競争上の利益は、経済的な善悪の判断力を満足させるものではなく、したがって、|競争的な《コンペテイテイヴ》支出はこの善悪の判断力によって承認されない、ということになる。
厳密に言えば、競争心にもとづく金銭的比較を根拠に引き起こされる支出のほかに、顕示的浪費の項目の下に含められるようなものは、一切存在しないはずである。だが、一定の品目や要素をこの項目に含めるためには、支出を行っている人によって浪費がこうした意味に理解されているという必要はない。当初は浪費的なものとして始まったのに、消費者の理解の上でやがて生活必需品になってしまう、ということが生活水準の構成要素のなかでしばしば生じる。このようにして、消費者の習慣的な支出を構成する他のすべての品目と同様に、それは不可欠なものになるわけである。しばしばこの項目の下に含まれるようになり、したがってまた、この原理が貫いてゆく仕方を例示するものとして、以下の品目が指摘できるだろうう。カーペットやタペストリー、銀製の食器、給仕人のサービス、シルク・ハット、糊のきいたリンネル製品、多種多様な宝石や衣装など。しかしながら、いったん習慣や慣例が形成されてしまった後でこれらのものがもつ必要不可欠性は、必ずしも消費の分類――言葉の技術的な意味で、浪費であるとか浪費でないとかいう分類――と関係しているわけではない。この点を決定するためにあらゆる支出に課される審査は、それが全体としてみた人間生活を高めるのに直接役立つかどうか――それが非個人的にみた生活過程を助長するかどうか――という問題である。というのは、これが製作者本能による判定の基礎だからであり、この本能が、経済的な真理や妥当性をめぐるあらゆる問題の最終控訴審の場だからである。それは、冷静な常識によって下された判定にかかわる問題である。したがって問題は、個個人の習慣と社会的な習慣が現在の状況にとどまるかぎり、一定の支出がある特定の消費者に満足や心の平安を与えるかどうか、という点にあるわけではない。そうではなく、人々が獲得している好みや慣行と|慣例的な品位《コンヴエンシヨナル・デイーセンシー》の規準を別とすれば、支出の結果が、生活の充足や快適さの点で進歩をもたらすか否かにあるのだ。習慣的な支出は、その基礎にある習慣が差別的な金銭的比較を行うという習慣に起因するものである――金銭的な名声あるいは相対的な経済的成功というこの原理に裏うちされなかったら、それは決して習慣的なものにも規範的なものにもなりえなかった、と見なしうる――かぎり、浪費という項目の下に分類されなければならない。
顕示的浪費という|範疇《はんちゆう》に含めるためには、一定の対象への支出がもれなく浪費的でなければならない、などという必要性は明らかに存在しない。一つの物品は有用性と浪費性を同時に共有しうるし、消費者にとっての効用は、比率としては実にさまざまに異なった用益と無駄とから構成されている、と言ってよいのである。効用の成分からみると、消費財、さらには生産財でさえ、一般的に二つの要素の結合体として現れる。もっとも、一般的に言えば、消費財のなかで無駄の要素が支配的になる傾向はあるが、生産的な用途のためにデザインされた物品については、反対のことが妥当する。一見して見栄だけにしか役立たないような物品にさえ、いずれにしても虚飾ではあるが、つねにいくらかの有用な目的が含まれていることを見抜くことができる。それゆえ他方では、ある特定の産業過程用に考案された特殊な機械や道具の場合でさえ、人間の勤労が最も原始的に応用された場合と同様に、顕示的浪費、すなわち少なくとも見栄をはる習慣の名残をとどめていることが、細かに調査すればいつでも浮かび上がってくるのである。根本的な目的と主要な要素とがともに顕示的浪費であるということがいかに明白であったにせよ、財やサービスの効用のなかに有用な目的がまったく含まれない、と主張するのは危険であろう。したがって、根本的にみて有用な生産物では、直接的にも間接的にも、無駄な要素がその価値にまったく関与していない、という主張も危険の度がほんのわずか低下するだけにすぎない。
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第五章[#「第五章」はゴシック体] 生活様式の金銭的な標準
あらゆる現代的な共同社会に住む大部分の人々が、肉体的な快適さを保つために必要以上の支出を行う原因の大半は、高価さの点で人目を引きつけてめだとうとする意識的な努力というよりも、消費する財の量と質という点で、慣例的な礼節の水準に従って生活しようという欲求である。この欲求は、そこまでは必ず実現すべきであるとか、それを越えればもう多くをめざす誘因がない、という厳密な不変の標準によって導かれるわけではない。その水準は柔軟性に富んでいる。金銭的な能力を増大させる習慣を身につけ、その結果生じる新しい大規模な支出の才を修得する時間さえ与えられれば、とくにそれは無限に拡大しうるものである。いったん受容された支出の水準を引き下げることは、富の取得に応じて従来の水準を引き上げてゆくことに比べて、はるかに困難である。習慣的に消費されてきた品目を分析すると、多くのものはほぼ純粋に無駄なものであり、たんに名誉を与えるものにすぎないことが判明する。だが、いったんそのような品目が世間体をみたす消費水準のなかに組みこまれ、こうして人間の生活図式の不可欠な要素になってくると、このような消費を放棄することは、人間の肉体的な快適さに直接寄与するばかりか、命と健康にとって必須であるような多くの品目を放棄することと同じほど、まったく困難となる。すなわち、精神的な幸福をもたらす顕示的で浪費的な名誉あふれる支出は、肉体的な健康やその維持という「低級な」必要をみたすような大部分の支出よりも、はるかに不可欠なものになりうる、ということなのだ。「高い」生活水準を引き下げることが、すでに相対的に低い生活水準をさらに低下させるのとまったく同様に難しい、ということはよく知られた事実である。もっとも、前者の困難が道徳的なものであるのに対して、後者は、肉体的な生活における快適さの物質的な削減を含みうる。
だが、顕示的支出の退行は困難であっても、目新しい展開は比較的容易であり、実際それはごく当然なことのように生じてくる。きわめて稀にしかないことだが、一定の資力をもちながら、目にみえる消費を増加することに失敗しようものなら、大衆にとっては弁明の要ありと感じとられ、守銭奴という不名誉な動機がこの点で落度がある人に転嫁されることになる。他方、この刺激に対してただちに反応することは、当たり前の結果だと理解される。つまり、通常われわれの努力の道案内を行っている支出の標準とは、平均的なそれではなく、すでに達成されている通常の水準である、ということになる。つまりそれは、わずかに手が届かないところにあるか、努力次第で手が届くところにある、消費の理想なのである。その動機は、|競争心《エミユレーシヨン》――われわれが習慣的に同一階層に属していると考えている人々に負けてはならぬと急きたてる、妬みを起こさせるような比較がもつ刺激――である。実質的に同じ命題は、以下のありふれた観察、つまりおのおのの階層は、社会的階梯を一つだけ昇った階層を羨望すると同時に、それと競い合うのであって、下位の階層やとびぬけて上位にある階層と比較することはごく稀だ、という事実のなかに窺われることである。言い換えれば、要するに支出をめぐる礼節の規準は、競争心の目的と同様に、名声の点でわれわれ自身より一等級だけ上位に位置する人々の習慣によって定められている、ということなのである。こうして、とくに階級間の区別がかなり不明瞭になっているような共同社会では、あらゆる名声と世間体の規準、したがってまたあらゆる支出の水準は、社会的にも金銭的にも最高位に位置する階級――豊かな有閑階級――の慣行や思考習慣にまで、無意識のうちに徐々に昇っていくことになる。
一般的な概略においてのことではあれ、世間体にかない、名声に値するものとしてどのような生活図式を社会が受け入れるようになるか、を決定するのは有閑階級である。教示や例示によって、最高かつ理想的な形でこの社会的救済の図式を説明することが、有閑階級の人々の職務なのである。しかし、上流の有閑階級が、このなかば聖職者的な職務を遂行しうるのは、一定の物質的な制約の下においてのことである。このような儀式的な要求のいずれについても、この階級が大衆の思考習慣の転換や変革を意のままに引き起こしうるわけではない。いかなる変化も、それが大衆にまで浸透し、人々の習慣的な態度を改めるにいたるには、かなり時間がかかる。名誉で満ちあふれている集団から社会的に最も遠く隔たっている階級の習慣を変えるには、とりわけ時間がかかる。そのプロセスは、人口の移動性が低く、階級間の隔たりも大きく、しかも繋がりが欠けていればいるほどゆっくりとしたものになる。だが、時間がたっぷりあれば、社会の生活図式における形式や詳細にかかわる問題に対して、有閑階級が意志決定する余地は大きくなる。もっとも、名声の実質的な推進力についてみれば、それが引き起こしうる変化は、狭い許容範囲内でのことでしかない。その例示や教示は、それより下位のすべての階級にとって、処方箋としての力をもっている。だが、尊敬に値する形式や方法を統制すべく伝えられる教示をもたらすにあたって――つまり、下層階級の慣行や精神態度の形成に際して――、この権威的な処方箋は、製作者本能によってさまざまな程度で緩和された、顕示的浪費の規準の淘汰的な指図の下で、つねに作用することになる。このような規範に、もう一つ別の一般的な人間性の原動力たる|略奪魂《プレダツトリー・アニマス》――すなわち、一般性の点でも心理的な内容においても、すでに挙げた制作者本能と競争心の中間に位置する原動力――が追加されるべきであろう。正当な生活図式の形成に向けた略奪魂の影響については、後に議論することにしよう。
その上で、経済的諸事情、伝統、規制的な生活図式を保持している階級の精神的な成熟度などに対して、名声の規準は自ら適応していかねばならない。当初その権威がどれだけ高く、しかも基本的な名声の要求にどれだけうまく妥当していたとしても、特定の儀式的な慣例は、時の経過やその下層階級への伝播とともに、世間体の究極的な根拠、すなわち、金銭的な成功をめぐって競争心にもとづく比較を行うという目的に対して、それは逆方向に作用するということが文明化された人々の間で理解されると、その効力は失われてしまうのである。これは、とくに注意されなければならない。
このような支出の規準が、あらゆる共同社会や階級にとって、その生活水準の決定に際して大いにものを言うことは明らかである。あらゆる時代、または、あらゆる特定の社会的に高い身分の間で普及している生活の標準が、次には、尊敬に値する支出が行われるはずの形式について、さらにまた、この「高級な」必要がどの程度まで人々の消費を支配することになるか、という点について大いにものを言うであろうことも、劣らず明白なことである。ここで、一般に認められた生活様式の標準によってなされる規制は、もっぱら否定的な性格のものとなる。それは、いったん習慣的なものになった顕示的支出の規準からの後退をひたすら阻止するだけである。
生活様式の標準は習慣としての性質を帯びている。それは一定の刺激に応答する際の習慣的な尺度であり、方法である。慣れ親しんできた標準からの後退ということの困難は、いったん形成された習慣を打破する際の困難である。その標準に向かう前進が比較的容易だということの意味は、生のプロセスはつきることなく展開する過程であるということ、さらに、時と所を問わず、自己表現に対する抵抗が減少しさえすれば、それは簡単に新しい方向へ展開する、ということである。だが、それほど抵抗のない方向で表現する習慣がひとたび形成されると、外部からの抵抗を相当高めるような環境の変化が生じた後でも、生の放出は、習慣になっている表現手段を追い求めることだろう。習慣と呼ばれる一定方向の表現がいちだんと容易になるということが、一定方向へ向かう生活様式の展開を阻止しようとする、外的な事情によってもたらされる抵抗を相殺することになろう。さまざまな習慣の間――つまり、習慣的な様式と個個人の生活様式の標準を形づくる方向との間でも同じことが言えるわけだが――には、反対に作用する環境の下での永続性についてみても、特定の方向で生の放出が試みられる不可避性の程度においても、それぞれかなりの違いが認められるのである。
つまり、現代の経済理論の言い回しによれば、人間はいかなる方向であれ支出の削減を嫌うものだが、何よりも削減したがらないいくつかの方向、というものがある。結果的に、慣れ親しんできた消費は渋々と断念されるが、極端に断念することを嫌がられる一定方向の消費が存在する。消費者が最後までしつこく執着する消費の項目や形態は、ふつういわゆる生活必需品とか生存必要最低限と呼ばれる。もちろん生存必要最低限は、その種類と量に関して、厳密に規定された明確で不変な一定量の財を表しているわけではない。だが、当面の目的のためには、生活を維持するために要する一定の、ある程度明確な消費の総量と考えてよい。この最低限は、支出を漸次的に削減してゆく必要に直面したときには、通常最後まで放棄されない部分だと想定してよい。すなわち、一般的に言えば、個々人の生活を支配している習慣のなかでも最も古く、しかも深く浸透しているもの――生物としての存続に影響するような習慣――が、最も永続的で不可欠なものというわけだ。これを越えたところに、より高級な必要物――個人や民族集団が後になって形成した習慣――が、ある程度不規則で、しかも不変とは言いがたい等級づけをもって現れてくる。このような高級な必要物の一部――たとえば、ある種の刺激物の習慣的な使用とか、(終末論的な意味での)救済の必要性、すなわちよい評判の必要性といったもの――は、場合によっては、より低級であったり、ずっと基本的な必要物よりも優先されることがありうる。一般的に、ある特定の習慣というものは、習慣化がより長期にわたり、習慣がより連続的で、以前からある生のプロセスの習慣的な形式と両立しうる度合いが高ければ高いほど、ますます永続的に幅をきかせることになる。そのような習慣は、行為に含まれている特定の人間性や、行為に現れている特定の習慣といったものが、大部分生のプロセスにすでに深く関与してしまっているか、特定の民族集団の生活史と密接に結びついている場合には、ますます強固なものになろう。
いろいろな習慣がさまざまな人々によって形づくられる難易度にばらつきがあるということは、それが放棄される際の|躊躇《ちゆうちよ》の度合いにばらつきがあるのと同様に、特定の習慣の形成がたんに習慣化の長さだけに依存して決まるものではない、ということを物語っている。どのような範囲の習慣が個人の生活図式を支配するようになるか、を決定する際には、受け継がれた習性や気質要因というものが、習慣化の長さとまったく同じほど重要性をもつ。そして、普及している類型の遺伝的な|習性《アプテイテユード》、すなわちいかなる共同社会であれ、そこで支配的な民族的要素の一部になっている気質類型というものが、社会の習慣的な生のプロセスを表現するものの範囲と形式|如何《いかん》を、決めるのに貢献することになろう。個人における習慣形成の速さと規定度という点で、習性という遺伝的な傾向がどれだけ大きく貢献しているかは、飲酒という最も支配的な習慣がときに形成される並外れた容易さによく例示されている。また同じような容易さと不可避性が、しかるべき特殊な習性に恵まれた人々の|信心深い儀式《デイヴアウト・オブザーヴアンス》という習慣形成のなかに、よく示されている。ロマンチックな愛と呼ばれる特殊な人間環境への習慣づけが並外れて容易であるということにも、まったく同じ意味のことが含まれている。
人間は、遺伝的な習性という点でみても、その生命活動を特定の方向に展開してゆく相対的な能力という点でみても、さまざまに異なっている。相対的に強固な特殊な習性や相対的に大きな特殊な表現能力――これらにもとづいていたり一致したりしている習慣が人間の幸福にとって重要性をもつようになってくる。この習性という要因が果たす役割は、生活の標準を形づくるいくつかの習慣の間の相対的な根強さを決定する際の作用にあるが、これは、人間が顕示的消費という方向で行うあらゆる習慣的な支出を、人がきわめて不承不承にしか断念しない、その理由を説明するのに役に立つ。この種の習慣の起源と見なすことのできる習性や性向は、競争心のなかに包括されるような作用をともなっている。そして、競争心――妬みを起こさせるような比較――はきわめて古い昔に出現して、一般的に普及した人間性である。それは、どのような形式のなかでも活発な活動をたやすく呼び起こすものであり、しかも、いったん習慣的な表現が見いだされた形式の下では、きわめて強固に自己主張するものである。個人が、名声に値する支出の方向で自己表現する習慣を形成してしまった――ある一連の刺激が、このような機敏で広く訴えかける競争心に導かれて、ある決まった種類と方向の活動を習慣的に引き起こすようになった――場合には、そのような習慣的な支出を放棄することは、極端に難しくなる。他方、金銭的な力の増加によって、個人が自己の生活過程を、範囲の点でも深さの点でもさらに大きく展開できるようになると、古代からある人間の性向が、新しい生活が展開されてゆく方向の決定に際して、大いに力を発揮することになろう。加えて、このような性向というのは、ある程度関連のある表現形式の下ですでに実際に使われ、お墨つきを得た現行の生活図式により与えられる適切な示唆によって助けられている上、その実践によって、物質的な資力や機会が簡単に入手可能になっているものなのである。個人の全体的な力に加わった新しい増加分が、自己主張し始めるであろう形式や方向を決定する際には、このような性向は、とりわけ大きく関与してくることになろう。すなわち、具体的に言えば、顕示的消費が生活図式の一要素になっているような共同社会では、個人の支払い能力の増加分は、すでにお墨つきを得ている顕示的消費に即した支出形式になりやすい、ということなのである。
自己保存の本能を除けば、最強にして最も機敏であり、しかも最も持続的な経済的動機は、おそらく競争心である。産業社会では、この競争心が金銭的な競争として発現するのであって、現在の西洋的な文明社会に関するかぎり、これは事実上、ある種の形態の顕示的浪費のなかに現れている、ということと同じことになる。したがって、ほぼ余すところなく基本的な肉体的必需品が提供されてしまった後には、顕示的浪費の必要性が、社会の産業効率や財の産出高のいかなる増加分をも、即刻吸収してしまうものである。現代的な状況の下でこのような事態が生じないとすれば、通例その原因は、個人の富の増加率が急激すぎるために支出の習慣がそれに追いつけない、ということに求められよう。あるいはまた、当の個人がその増加分の顕示的消費を後の時期まで繰り延べる――ふつう、支出総額がもたらす劇的効果を高めようとする、慎重に考え抜かれた意図にもとづいているが――ということもありえよう。産業効率の上昇がますます少量の労働による生活手段の入手を可能にすると、共同社会の勤労階級のエネルギーは、歩調をゆるめて快適さを求めるよりもむしろ、顕示的支出におけるさらに高い成果の達成をめざして邁進することになる。産業効率が上昇して緊張の軽減を可能にしても、緊張が軽減されることはない。むしろ産出高の増加――経済理論によれば、より高級な必要物、あるいはより精神的な必要物に向けられたもの、と説明される――は、このように限りなく拡大しうる必要をみたすための用途に振り向けられることになる。J・S・ミルが、「以前になされたどのような機械的な発明も、はたして人間の日々の労苦を軽減したかどうか、今日にいたるまでなお疑問が残る」と主張したのは、主として生活水準のなかにこの要素が含まれていたからである。
各人が所属している社会や階級内部でお墨つきを得ている支出の標準は、個人の生活水準がどのようなものになるかをほぼ決定する。この決定は、個人がそれを習慣的に意図すること、そしてそれをふさわしい生活図式へ習慣的に同化しようと試みることをつうじて、個人の常識が正しくかつ適当と認められることによって、直接に行われる。だが、間接的にはまた、軽蔑や村八分の刑を受けるという危惧があるために、世間体にかかわる問題ではお墨つきの支出の尺度に従うのが無難だとする、大衆の強い主張によって決定されることもある。流通している生活の標準を受け入れて実行することは、ふつうには、人間的な快適さと立身出世に欠かせないという点で満足しうるだけでなく、便宜にかなったものでもある。どの階級の生活水準であろうと、顕示的浪費という要素にに目をやるなら、その階級の所得能力が許すかぎり高いというのが通例――つまり、高くなってゆく一貫した傾向がある――というわけだ。したがって、それが人間の真剣な活動に及ぼす影響は、可能なかぎり最大の富を獲得するというきわめて単純な目的に向かわせることであり、したがって、金銭的な利益を一切もたらさない仕事を疎んじさせることでもある。と同時に、消費に対する影響は、よい評判を与えてくれそうな観衆が最もはっきりと分かるような方向にそれを集中する、ということであろう。他方、尊敬に値するような時間や物質の消費を含まない実践の性向や習性は、発揮されないことによって、一時的に廃れてしまう傾向がある。
人目につく消費を支持するこのような差別化の結果生じてきたこと、それは、衆目の前で送られる生活の公開部分がもつ輝かしさに比べて、ほとんどの階級の家庭生活が相対的にみすぼらしい、ということである。同じ差別の派生的な結果として、人々は自らの個人的な生活を監視の目から守るという習慣を身につける。何の批判も受けず秘密裏に遂行しうる消費部分に関すて、彼らは隣人との接触を完全に断ち切ってしまう。こうして、産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活には、一般的に排他的なものになる。したがってまた、かなり間接的な派生物ではあるが、プライバシーと遠慮という習慣――あらゆる社会の上流階級がもつ礼儀作法の|規範体系《コード》のなかでも、きわめて重要な特徴――、が生じることになった。なんとしても面目を保てるような支出を実行しなければならない羽目に陥っている階層の出生率の低さは、同様に、顕示的浪費にもとづいた生活水準をみたす、という必要性に起因している。子供の標準的な養育に要する顕示的消費や結果的な支出の増加はきわめて大きく、強力な抑止力として作用する。おそらくこれが、マルサスが言う思慮深い抑制のうちで、最も効果的なものであろう。
この生活水準のなかに含まれている要因がもたらす結果としては、肉体の快適さやその維持に寄与するめだたない要素の消費を減らし、さらに子供の数を減らすか子供を生まないと、いう二つの仕方が生じてくるが、おそらくこれが最もよく現れるのは、学問的な仕事に従事する階級においてのことである。この種の人々は、その生活を特徴づける学識や才能が卓越しているとか稀少であるとか思いこまれているために、慣例的にその金銭的な地位が保証するはずの階層より上位のものに含められている。彼らにとって礼節にかなう支出の規準は、それゆえ高い位置にあり、生活の他の目的のために振り向ける余裕はごく限られたものになってしまう。周囲の事情からやむをえずそうなるのだが、学者の間での金銭的な礼節のあり方に関する共同社会の期待だけでなく、その当否をめぐる学者自身の習慣的な感覚も、過剰なほど高すぎるのである――もちろんこれは、学者階級の間でふつうにみられる程度の富と所得能力の高さを、名目的にみれば社会で同じ等級にある他の階級と比較した場合のことであるが。聖職者が学者の仕事を独占するようなことが生じない現代的な共同社会では、学者という仕事についている人々は、金銭的に上位にある人々と、どうしても接触せざるえをなくなる。このような上流階級の間で保たれている高度な金銭的な礼節の標準は、厳格さの程度がごくわずかだけ緩和されるとはいえ、そのまま学者階級の間に吹きこまれる。結果的に、社会全体を見わたした場合に、実質のうちから相対的により大きな部分を顕示的浪費に費やしているのは、何よりもまず学者階級をおいてほかにない、ということになる。
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第六章[#「第六章」はゴシック体] 好みの金銭的な規準
規制的に作用する消費規範の大部分は顕示的浪費でなければならない、ということだが、だからといって、つねに消費者の行為の動機がこの形式的に奔放で明快な原理である、などと理解されてはならないことは、すでに繰り返し注意したとおりである。ふつう消費者の動機は、消費する財の種類、量、等級だけでなく、時間と努力を世間体にかなうように充用するという点においても、同様に確立された慣用に従い、好意的ではない注視や論評を避け、お墨つきの世間体の規準を守ろうとする願望である。通常の場合、消費者の動機のなかでは、この命令的な慣用という意識が直接拘束的な力を発揮するが、それはとくに衆目の前でなされる消費の場合に著しい。だが、少しも部外者に知られないような消費についても、かなりの程度まで、義務としての高価さの要素が存在することが分かる。たとえば、下着類、食器類、調理用品、および高価さの証拠としてよりもむしろ、サービスのためにデザインされた家具類がそうである。このような有用財をすべてよく調べてみると、当該財の費用を高めたり、その商品的な価値を高めていたとしても、財の有用性に関するかぎり、費用や価格の上昇に見合うほどはっきりとは、その目的に役立つようにデザインされた物理的な用途を高めていない、という特徴をもつことが分かる。
社会的に認知された消費の|規範体系《コード》は、顕示的浪費の法則の監視の下で淘汰的にできあがるが、その役割は、財の消費や時間と努力の充用をめぐって、高価さと浪費性の点で消費者を標準に達するようにすることである。このような至上命令的な慣用の成長は即座に経済生活に影響を及ぼすが、それ以外の点でもまた同様であって、行為にも間接的な影響を及ぼすのである。ある特定の方向でなされる生活表現に関する思考習慣は、生活のそれ以外の方面で善悪をめぐる習慣的な見解を形成する際に、必然的に影響することになる。経済的な関心は、個人の意識的な生活の実質を構成する思考習慣の有機的複合体のなかで、他のあらゆる関心から孤立しているわけでも、まったく別個になっているわけでもない。たとえば、それと名声の規準との間の関係については、すでにある程度指摘したとおりである。
顕示的浪費の原理は、生活と商品のなかで正当で尊敬に値するものは何か、をめぐる思考習慣の形成を導く。その際この原理は、本来金銭的な名声の規準とは無関係な、ある程度大きな経済的な意義をもつ行為規範と、必ず直接・間接に抵触することになる。したがって、尊敬に値する浪費という規準は、直接または間接的に、義務感、美意識、有用性の観念、信仰上のまたは儀式的な正当性の観念、さらには科学的真理の観念に影響を及ぼすことになる。
ここでは、尊敬に値する支出の規準が、道徳的な行為規準を習慣的に否定する特定のポイントや特定の手段について、詳細に述べる必要はほとんどない。それは、お墨つきを得た道徳体系からの離反の度を監視し、警告を発することを仕事にしている人々によって大いに注目され、実例を指摘されてきた事柄である。社会生活を支配している経済的・法的な特徴が私有財産制度であるような現代の共同社会では、道徳体系の顕著な特徴の一つは、財産の神聖さである。私有財産を不可侵のものと見なす習慣が、富の顕示的消費をつうじて獲得されるであろうはずの名声のために富を求める、という異なった習慣によって否定される――この命題に同意を得るためには、さらに強調を加える必要も実例を挙げる必要もない。大部分の財産の侵害、とりわけかなり大規模なそれは、この項目に分類されることになる。侵害した者に莫大な財産の取得をもたらすような侵害の場合、当事者に素朴な道徳の規範体系だけを根拠にして極刑や悪評が下されることなどめったにない、ということは誰でもよく知っているし、また|諺《ことわざ》にもなっている。法を犯して莫大な富を獲得した盗賊や詐欺師は、法の厳格な罰を逃れるという点では、こそ泥よりもずっと大きな成算をもつ。しかも彼は、増加した富と非合法に取得した所有物を上品な流儀で消費することによって、名声さえ与えられることになる。略奪品を教養あふれる流儀で消費することは、とりわけ啓発された|礼儀作法《プロプライアテイーズ》の感覚を身につけた人々に大いに訴えかけるものであり、こうして、彼らが自己の怠慢さを検分するときに抱く、道徳的に下劣である、という感覚を緩和するのに大いに役立つことになる。さらにまた、以下――このほうがより核心に近い――のこと、すなわち、財産を侵害した男の動機が、妻と子供に「世間体にかなう」生活手段を与えるため、という立派なものであった場合には、侵害行為そのものを大目にみる傾向がある、ということも指摘できよう。かりに妻が「|贅沢三昧《ぜいたくざんまい》に育った」とすれば、それはさらに情状酌量に値する事情だと受けとめられるであろう。すなわち、侵害者の妻が、彼のために金銭的な世間体の標準が求めるような量の時間と財の代行的消費を実行できるようにする、という名声に値する目的をもつ場合には、われわれはこうした侵害行為を大目にみる傾向がある、ということである。そのような場合には、慣習的な程度の顕示的浪費を認めるという習慣が、所有権の侵害を非難するという習慣の邪魔をするわけで、ときには賞賛しているのか非難しているのか、あいまいにしてしまうほどなのだ。これは、その違反が明らかに略奪的もしくは海賊的な要素を含んでいる場合に、とくによく妥当することである。
この論題を、ここでさらに詳しく述べる必要はほとんどない。だが、侵すべからざる所有権という概念にまつわりついている重要な道徳体系はすべて、それ自体、富の有用性に関する伝統的な観念の心理的な沈殿物である、と指摘しておくことは要を得たことであろう。さらにまた、この神聖だと思われている富が高く評価される理由は、主としてその顕示的な消費によって獲得される名声のためである、ということもつけ加えておかねばなるまい。
金銭的な|世間体《デイーセンシー》が科学的な精神や知識の探求に対して及ぼす影響については、別の章である程度詳しく取り上げることにしよう。この関連からみた|信心深い《デイヴアウト》、あるいは典礼的な長所や妥当性をめぐる感覚についても、ここで触れる必要はほとんどない。この論題もまた、後の章で付随的に取り扱うことになろう。とはいえ、このような尊敬に値する支出を行うという慣行は、神聖な事柄について、何が正しく何が間違いであるかをめぐる大衆の好みを形づくる上で大きくものを言う。それゆえにこそ、ごくふつうにみられる信心深い儀式や装飾品に対して、顕示的浪費の原理が及ぼす影響が指摘されてよいのである。
例えば、聖堂、祭服および同類の他の財などといった信仰心の厚い消費と呼んでよいものの大部分を、顕示的浪費の規範が説明しうることは明らかである。人間の手が加えられていない礼拝堂を好むとされる神を信仰の対象とする新興の宗派の場合でさえ、神聖な建物や崇拝用の道具類は、かなりの程度まで浪費的な支出であることをねらって建築されたり、飾り立てられたりしている。そして、礼拝堂の贅を尽くした豪華さが、明らかに礼拝者の気分を高めたり和らげたりする効果をもつことを確認するためには、もはや観察も内省も――両方とも必要をみたすではあろうが――ほとんど必要ない。神聖な場所の回りにある貧しさやむさくるしさの証拠が見る人すべてに与える、屈辱的な恥辱感というものを思い浮かべさえすれば、この事実を強調するのに役立つことだろう。あらゆる信心深い儀式に用いられる装飾的な付属品は、金銭的に非のうちどころがないものでなければならない。たとえ美しさや有用性の点で、これらの装飾に関してある程度の許容が与えられるとしても、この要求は回避できない。
また、あらゆる共同社会、とくに住居に関する金銭的な世間体の標準がそれほど高くないような近隣社会についてみると、教区の住宅に比べて、地域の神聖な場所は建築様式においても装飾においてもずっと飾り立てられており、見かけ上はるかに浪費的である、ということをここで指摘しておくと好都合であろう。これはキリスト教徒であろうと異教徒であろうと、ほぼすべての教派や宗派について妥当することだが、古くから存在し、成熟の度が高い宗派の場合にとくによくあてはまる。と同時に、神聖な場所というのは、教徒の肉体的な快適さには、通例ほとんど役立たない。実際彼らの粗末な住居に比べて、神聖な建物は教徒の肉体的な快適さにはごくわずかしか貢献しない。しかも、真・善・美に関する正しくかつ教化された感覚が求めるところに従えば、神聖な場所に対してなされるあらゆる支出については、礼拝者の快適さに役立つようなものはすべて視界から排除されておくべきだ、というのがあらゆる人々の理解である。もし快適さの要素が神聖な場所の造作のなかに認められたら、少なくともそれは、周到に覆われ、見るからに質素なものの下に隠されなければなるまい。後の時代に費用を惜しまず建てられたほとんどの有名な礼拝所のなかでは、とくに外見上、質素という行動指針がその場所の造作を苦行のための手段にしてしまうほどである。この飾り気のない浪費的な不快さを内生的に正しく善なるものと信じもせず、しかも、信心深い消費に関する事柄について細かな識別力をもち合わせている、そんな人などほとんどいない。信心深い消費は、代行的消費という性質をもつ。この信心深い敬虔な質素さという規準は、顕示的で浪費的な消費がもつ金銭的な名声にもとづいているし、代行的消費は決してめだつほど代行的消費者自身の快適さに役立ってはならない、という原理によって支持されている。
どんな宗派の場合でも、神聖な場所やその造作には、なにがしかこの種の厳格さが含まれており、宗派のなかでは、神聖な場所にふさわしい|聖者《セイント》や|神格《デイヴイニテイー》は、それに転嫁された贅沢な好みを満足させるために存在するとか、その設備を個人的に利用する、などとは理解されない。この点で、神聖な道具一式がもつ特徴は、神格に転嫁された生活習慣がずっと初期の家父長的権力者のそれに近い宗派――ここでは神格は、これらの消費財を自ら使用する、と捉えられている――にみられるものと、いくぶん異なっている。ここでは、神聖な場所とその造作は、現世の支配者や所有者の顕示的消費に充当される財に現れる、流行を超越した様相を帯びてくる。他方、神聖な設備が神格に仕える儀式にしか用いられない場合には、すなわち、それが神格に仕える者によって神格のために代行的に消費される場合には、神聖な道具は、もっぱら代行的消費に向けられる財に適した性質をもつものになる。
後者の場合、神聖な場所と神聖な設備は、代行的消費者自身の生活の快適さや充足度を高めないように工夫されるか、とりあえずその消費の目的が消費する者の快適さにある、という印象を与えないように工夫される。代行的消費という目的のために高められるべきものは、消費者自身の生活の充足ではなく、消費の目的である主人の金銭的な名声なのである。したがって、聖職者の祭服は高価で装飾的で、しかも不自由である。神格に仕える聖職者を、配偶者としての資格で神格に仕えていると見なさない宗派の間では、祭服は質素で、慰安の要素を欠いた流儀のものになる。これこそ、当然そうあるべきことだと考えられている事柄なのである。
浪費の原理が儀式的な有用性という規準の支配領域を侵すのは、信心深い礼儀作法にかなう高価さの標準を確立する過程に限られるわけではない。それは手段だけでなく作法にも触れるのであって、代行的消費だけでなく、代行的閑暇にも接近する。聖職者の最善の振る舞いは、よそよそしく、悠長で、形式的で、しかも感覚的な喜びを想起させるもので汚されていないことである。もちろん程度は異なるが、これはさまざまな宗派や教派について妥当する。もっとも、|擬人観的な《アントロポモーフイツク》[神格が人間の姿をとって現れると考える]宗派の聖職者の生活では、時間を代行的に消費するという特徴が目につきやすい。
同じように普及している代行的閑暇という規準は、信心深い儀式の外見上の詳細のなかにそれと分かるほど存在しており、指摘されさえすれば、見る人すべてに対して十分明らかなものになる。あらゆる儀式は、おのずと|定式文言《フオーミユラ》の繰り返しになってしまう傾向がある。この定式文言の発展は成熟した宗派の場合に最も顕著に現れるが、それは同時に、ずっと厳格で飾りが多く、しかも過酷な聖職者らしい生活と装いをともなっている。聖職者、祭服、および神聖な場所に関する好みがあまり厳密に定められていない新興の小さな教派の礼拝形式や方法のなかにも、それを窺うことができる。礼拝儀式の繰り返し(「|礼拝儀式《サービス》」という言葉は、問題のポイントがどこにあるかを知る重要な手がかりを含んでいる)は、宗派が年月をへて永続的なものになるのと歩調を合わせてより形式的なものとなり、こうしてこの繰り返しの形式性が、間違いなく信心深い好みを十分に満足させるようになる。しかも、これには十分な理由がある。というのは、それが形式的なものであるという事実がいみじくも示唆することは、主人に仕える人々にとって実際に役に立つ礼拝儀式であるという通俗的な義務とは無関係に、儀式のそもそもの主人が賞賛される、ということにほかならないからである。彼らは利益を生まない使用人であり、したがって主人にとっては、彼らが利益を生まないままとどまっていることに、尊敬に値する意味が含まれていることになる。この点で、聖職者の仕事と制服に身を固めた給仕人の仕事の間に密接な類似性があることは、指摘するまでもなかろう。二つの場合とも、それが形式としての[#「形式としての」に傍点] [pro forma] たんなる遂行だ、ということを明白な形式のサービスのなかに確認することが、このような事柄で何が適切か、というわれわれの感覚意識を満足させるのである。聖職者の職務遂行にあたっては、その仕事をする能力を示唆しうるような俊敏さや器用な手並みなど、誇示されるべきではない。
もちろん、すべてこのなかには、こうした金銭的な名声の規準の伝統の下で生活している礼拝者が、神格に転嫁した性質、好み、成功および生活習慣に関する明白な含意がある。広く行きわたった人間の思考習慣をつうじて、神格や、人間と神格との間の関係に関する礼拝者の観念に装飾を施してきたのは、顕示的浪費の原理であった。もちろん、この種の金銭的な美しさがみなぎっているのはあまり洗練されていない宗派の場合だが、しかし、それはどこにでも見られるものである。文化段階や啓蒙の程度がどのようなものであろうと、いかなる民族であれ、彼らの神格の性質と習慣的な周囲の環境に関して、かなり貧弱な程度でしかない確たる知識や情報を喜んで補おうとする。神格の存在と生活様式に関する彼らの心像を豊富にし、充足しようとして空想の力の助けを求めるうちに、彼らは習慣的に、彼らの尊敬に値する人間の理想像を形づくっている特徴を神格に転嫁することになる。したがって神格との|霊的交流《コミユーニオン》を求めてゆく過程では、接近の方法は、そのとき人間の心のなかにある神格の理想像にできるだけ近づくように、適合させられることになる。神格の存在が最も優雅に、しかも最も力強く浮かんでくるのは、一定のお墨つきの方法に従ったときであり、また大衆の理解のなかでは、とりわけ神格の性質に合致した一定の物質的な環境をともなう場合だと見なされている。もちろん、大衆が受け入れた霊的交流という行事にふさわしい態度や装飾品についての理想は、あらゆる威厳にみちた|交流行事《インターコース》で本来的に価値があり美しいものは何か、という大衆の理解にそって大部分形づくられる。そのかぎりでは、名声の金銭的規準が存在しているというあらゆる証拠を、金銭的競争心という基本的な規範に引き戻して直接大胆に調査すること、そうすることで信心深い振る舞いそれ自体を分析しようという試みは、誤解を招くおそれがあろう。したがってまた、通俗的に理解されているように、金銭的な名声に対する嫉妬深い配慮と、たんに金銭的な点で標準に達しないという理由で、みすぼらしい状況や環境を避けたり非難したりする習慣を神格のせいにする、というのも誤解を招くおそれがある。
それゆえあらゆることを考慮したとしても、なお金銭的な名声の規準は、神格と霊的交流を行うときの作法や付帯状況として、何が適切で何がふさわしいかに関するわれわれの観念だけでなく、神格の属性に関するわれわれの観念にも、直接・間接の大きな影響を実際に及ぼしているように思われる。神格というものは特別に穏やかで悠長な生活習慣をもっているはずだ、と理解されているのである。特定の場所にある神格の御座所が、教化のためや、信心深い空想に訴えかけるために詩情あふれる修辞を駆使して描かれる場合には、当然のことながら、この比喩の文言に熟達した信心深い書き手は、富と力のしるしを過剰なほどもち、きわめて多数の従者に取り囲まれている神格の座を、想像力豊かな聴衆の前に引き出すことになる。神格の御座所をこのように表現する一般的な傾向のなかでは、この一団の使用人の行う仕事は代行的閑暇に相当する。というのは、彼らの時間と努力の大部分は、賞賛に値する神格の特徴や偉業に関する産業的に非生産的な繰り返しによって占められているからである。もっとも、その表現の後背は、貴金属とさらに高価な種々の宝石のゆらめきで埋めつくされている。敬虔な理想に対するこのような金銭的規準の侵入が極端にまで達するのは、信心深い空想力があからさまに表明される場合だけである。南部黒人大衆の信心深い修辞的表現のなかに、極端な事例を見ることができる。彼らの有能な比喩表現の使い手は、|金《ゴールド》よりも安っぽいものに少しも言及することができない。したがってこの場合には、金銭的な美しさの強調が、黄金色に度肝を抜くような効果――穏やかな好みの人には耐えがたいような効果――を与えるのである。とはいえ、神聖な施設をめぐる事柄について何が正しいか、という観念を導く儀式的妥当性の理想像を仕上げてゆくために、金銭的な功徳という想像上のものが呼びこまれなかったような宗派は、おそらく存在しないであろう。
同様に人々が気づいている――つまり意見が定まっている――ことは、以下のとおりである。すなわち、聖職に従事する使用人は、産業的に生産的な仕事に従事してはならないこと。あらゆる種類の仕事――具体的な人間的用途をもっているあらゆる仕事――は、神格のおわしますところ、あるいは神聖な場所の構内で遂行されてはならないということ。神前に近づく者は誰であれ、衣服や身体のあらゆる不浄な産業的特徴を浄めておくべきこと、また、普段着よりも値のはる着物を身にまとっておくべきこと。神格をたたえたり、神格との霊的交流のための特別な祭日には、人間にとって役に立つような仕事はいかなる者によってもなされてはならないこと。聖職から遠く離れた世俗の信徒でさえ、七日のうち一日くらいは代行的閑暇に身を捧げるべきだということ。以上である。
信心深い儀式や、神格との結びつき方としては何が適切で適正であるかをめぐって、人間の無教養な感覚が放出されたこのようなすべての事例のなかに、金銭的な名声の規準が実質的に存在することは十分明らかであって、たとえ信心深い判断に対するこのような規準の影響が、この点に関して直接的なものであろうと二次的なものであろうと、同じことである。
このような名声の規準は、大衆の美意識や消費財の有用性に対しても同様に影響を及ぼしてきたが、それははるかに深く、しかもずっと決定的なものであった。金銭的な世間体をみたすという要請は、きわめてはっきりと分かるほど、有用物や美術品に対する美意識や有用性の感覚に影響してきた。ある程度までめだって浪費的であるからこそ、財は好んで使用される。そのような財は、表向きの用途に対して浪費的であるだけでなく、適合性を欠いていればいるほどそれだけ役に立つ、というふうに理解されるのである。
美しさを規準に評価される財の効用は、財がどれだけ高価であるかに密接に依存している。ありふれた事例がこの依存性を明白に物語っている。十ドルから二十ドル程度の商業価値をもつ手作りの銀製スプーンは、言葉の第一義的な意味で、ふつう同じ素材の機械製のものよりずっと有用性が高い、と言うわけにはゆかない。さらにまた、その価値が十から二十セントでしかないアルミニウム製の「卑」金属製の機械作りのスプーンに比べて有用性が高い、とさえ言うことができまい。手作りの銀製スプーンは、表向きの目的という点で、実際に後者よりも一般的に効果が劣る考案物である。もちろんこれに対する反論は容易であって、このような見方をすると、高価なスプーンの主要な用途でないにしても、少なくともその一部が無視されてしまう、と述べ立てることができよう。つまり、手作りのスプーンはわれわれの鑑賞力や美意識といったものをみたすが、卑金属製で機械作りのものは、たんなる効率を超える有用な役目をもっていない、というわけである。事実が反論の申し立て通りであることに、疑問の余地はない。しかしよく考えると、結局のところこの反論は、決定的というよりも信憑性が高いという程度のことにすぎない、ということが明らかになろう。というのは、こう思われているからである。(一)二種類のスプーンの材料である金属材料は、それぞれ目的に応じた美しさと有用性をもっているが、手作りのスプーンは、表面や色の内在的な美しさが卑金属のそれより極端に優れているというわけでもなく、また機能上の有用性の点では優劣の判断を下すことができないにもかかわらず、卑金属製のスプーンより百倍もの価値がある。(二)かりに厳密な検査によって、手作りだと思われていたスプーンが実際には手作り品のきわめて精巧な模倣にすぎないということが判明し、しかし模倣があまりにも見事な出来映えであるために、専門家による綿密な調査を除けば、誰にでも線や表面が同じように見える、という印象を与えることが明らかになったとする。そうなると、美の対象として熟視することによって使用者が手にする満足ということも含めて、製品の効用は、即座に約八〇から九〇%、あるいはそれ以上低減することになろう。(三)かりに二つのスプーンが、かなり厳密な観察者にとって、外見上あまりにもよく似ているために重さだけしか偽物と暴く材料がない場合でも、こうした形や色の同一性が機械製スプーンの価値を高めることはまずないし、安価なスプーンが新商品でないためほんのわずかな費用で入手可能であるかぎり、じっと見つめることによって使用者の「美的感覚」の満足度をかなり高める、ということも生じない。
スプーンの事例は典型的なものである。高価で、想像の上では美しい生産物を使用したり、じっと見つめることから得られるとびぬけた満足の大部分は、ほとんどの場合、美という名前の下に仮装された高価さに対する感覚の充足である。卓越した財に対する高い評価は、ほとんどの場合、美そのものの評価というよりも、卓越した名誉を与えるような性質に対する評価なのである。顕示的な浪費性をみたすという要請は、われわれの美的感覚のなかに意識的に存在しているものではないが、それにもかかわらず、美とは何かに関するわれわれの感覚を淘汰的に形成したり、維持したり、さらには何を正当に美と認識し、何を認識しないかに関するわれわれの区別を誘導するにあたって、制限的に作用する|規範《ノルム》として存在しているのである。
個々の具体的な場合に、有用性と浪費性との間の区別が最も困難になるのはこの点であり、しかもそこでは、美しいものと名誉あるものとが交錯し、融合する。顕示的消費がもつ名誉を与えるという目的に役立つ財貨が、同時に美しいものであるということは、しばしば生じることである。したがってまた、有用性という目的に役立つという財それ自体の効用の源である労働への専心は、財貨に色彩と形を備えた美しさを同様に与えることができるし、実際にそういうことが起こっている。この問題は、たとえば装飾や勲章に用いられる宝石や貴金属などが、顕示的浪費の細目としての効用を、それに先立つ美の対象物としての効用に負っている、という事実によってさらに複雑なものになる。たとえば、|金《ゴールド》は高度の感覚的な美しさをもっている。ほとんどの芸術品とまではいかなくても、多くの評価の高い芸術品は、しばしば素材的な品質に比例しているとはいえ、内在的に美しいものである。同様のことは、衣服に用いられるいくつかの素材、ある種の風景、および他の多くの事柄についても、程度が劣りこそすれ妥当する。含まれているこの内在的な美しさがなければ、これらの物体が現にそうであるほど望まれることなどほとんどなかったであろうし、その所有者や使用者にとって、独占的に所有するという優越感の対象になることもまずなかったであろう。しかし、これらがその所有者に対してもつ効用は、ふつうその内在的な美に由来するというよりもむしろ、その所有と消費とがもたらす名誉、すなわちそれが拭い去るであろう汚名に負っているところが大きいのである。
さまざまな点における有用性はさておき、これらの財は美しいものであり、それ自体としての効用をもっている。この理由から、専有され独占されうるものであれば、それは貴重なものとなる。したがって、それは価値の高い所有物として切望され、それを排他的に享受することが所有者の金銭的な優越感を満足させると同時に、それを夢中になって眺めることが所有者の美的感覚を満足させるのである。しかしこのような財の美しさ、つまり語の素朴な意味での美しさは、その独占的所有や商品的価値の根拠というよりもむしろ、その誘因である。「宝石のもつ感覚的な美しさが大きければ大きいほど、その稀少性と価格が違いをますます増幅する。もし価格が安ければ、そうした違いは決して生じない」。実際、このような事柄に関して通常は、顕示的浪費の対象物としての尊敬に値する特徴を備えているという理由を除けば、このような美しいものを排他的に専有したり使用したりしようという誘因は、ごく限られたものである。個人的な装飾品の場合には若干の例外はあるが、この部類に属する大部分のものは、鑑賞する人物によって所有されているか否かにかかわらず、名声以外の他のあらゆる目的にとって、等しく役に立つであろう。したがって個人的な装飾品の場合でさえ、その主要な目的は、それなしで済まさざるをえない他の人々と比べた場合に、それを身につけている人(所有者)にもたらされる賞賛であることが、つけ加えられるべきであろう。美しいものがもつ審美的な有用性は、所有することによって著しく高められるわけでも、つねに高められるというわけでもない。
以上の議論によって根拠が明らかになった理論を一般的に言えば、どのような価値の高いものも、美的感覚に訴えかけるためには、美しくかつ高価であるという条件の両方をみたしていなければならない、ということである。だが、これに尽きるわけではない。このほかに、高価であるという規準はわれわれの好みにも影響を及ぼすのであって、たとえばわれわれの理解のなかでは、高価であるという印は、対象がもつ美しさの特徴と不可分に混同されてしまい、結果として生じる高価さを、美的評価という項目の下に単純に包括してしまうことになる。高価であるという印は、高価なものがもつ美しさの特徴として受け入れられるようになってくる。尊敬に値するほど費用がかかっているという印であるから満足を与えるわけで、この点でそれが与える満足は、対象の美しい形や色彩によって与えられるものに融けこむのである。こうして、たとえばある衣装の審美的な価値を分析するとき、その根拠としてとっておいたものの大部分が金銭的にみて尊敬に値するという表明である場合に、われわれはその品物を「非のうちどころがないほど美しい」と言うようになるわけだ。
この費用がかかっているという要素と、美という要素との融合や混同を最もよく例示しているのは、おそらく服装類や家具類である。人間の衣服としてどのような形、色彩、素材および一般的な印象がさしあたり適切なものであるかを決めるのは、服装に関する名声の規準である。その規準からの離反は、美的な真実からの逸脱だと決めつけられるはずであるから、われわれの好みからすれば、腹立たしいものになる。われわれが最新流行の豪華な衣装と見なす場合の承認は、決してたんなる見せかけだなどと理解されてはならない。われわれはいつでも、しかもほとんど心の底から、流行しているものは気持ちがよいという気になるのである。たとえば、流行しているものが高級な光沢仕上げで、しかも淡色である場合、けば立った衣服生地やはっきりとした色彩がもつ印象で、われわれの気分は害されることになる。今年モデルのおしゃれ用ボンネットが、昨年モデルの同様のボンネットに比べて、われわれの感覚により強く訴えかけることは確かである。もっとも、四半世紀という長さのなかでみた場合には、このような構成のうちの特定のものが他のものより内在的な美しさの点で優れていると賞賛することは、私が理解するかぎり、ほとんど不可能になるであろう。したがってまた、次のように言えるだろう。単純に人間の外観と物理的に並置して考えるだけのことにすれば、紳士帽やツヤ革製靴のすばらしい光沢が内在的な美しさをもたないことは、すり切れた袖の同じようなすばらしい光沢が内在的な美しさをもたないことと同じことだ、と。とはいえ、(西洋文明社会の)育ちのよい人々はみな、本能的かつ心底から、一方をすばらしい美しさをもつ現象だと言いはり、他のものをどう見ても感覚的に不快なものとして退ける、ということに疑問の余地はない。審美的な根拠以外のなんらかの差し迫った理由がなかったとすれば、文明社会で山高帽のような考案物を着用する気持ちを人間に抱かせうるかどうか、はなはだ疑わしい。
財のなかにある高価さの刻印を鑑賞力豊かに認識することにますます慣れ親しみ、習慣的に美と名声とを同一視するようになると、費用がかかっていない美しい品物は、美しくないと見なされるようになる。こうしてたとえば、以下のことが生じたのである。いくつかの美しい花が、因習的に不快な雑草と宣告される。比較的手軽に栽培できるような花は、この程度の贅沢以外に出費などできない下層の中流階級によって認められ、賞賛される。しかし、こうした品種は、高価な花に対して楽々と支出することができ、|花卉《かき》園芸品の分野における金銭的な美しさの詳細な目録によく通じている人々には、平凡だと拒否される。他方、内在的な美しさが決してこれらのものを上回らない花でも、より大きな費用をかけて栽培されることがあるし、優雅な環境がもつ口やかましい指導の下に眼識を養ってきた花卉愛好家から、多大な賞賛を引き出すことがある。好みをめぐる同じ偏差は、社会階級のすべてをつうじて、他の多くの種類の消費財、たとえば家具、住宅、公園、庭園といったものについて見られる。このようなさまざまな種類の財における、美とは何であるかに関する見解の散らばりは、純真な美意識が作用する|規範《ノルム》の散らばりを意味しているわけではない。鑑定家が所属している階級の名誉に値する消費の範囲内にどの財が正しく含まれるかを特定するのは、審美的な側面における生来の素質の違いではなく、むしろ、名声の|規範体系《コード》における違いである。それは、好みや芸術の対象という項目の下にあって、消費者の名声を低下させずに消費できるもののなかで何を由緒正しいものとするか、というさまざまな伝統の違いなのである。他の根拠によって説明可能な偏差がある程度あるにしても、このような伝統は、その階級の金銭的な生活水準によって多少とも厳密に決定される。
日常的な生活は、使用されるものの金銭的な美の規範体系が階級ごとにどのように違っているかだけでなく、慣習的な美意識が、金銭的な名声の要請による教育などまったく受けていない感覚から出発して、どのように自らを解放してゆくか、に関する多くの興味ある実例を提供している。そのような事実として芝生、つまり短く刈りこまれた広場や公園があるが、それは西洋人の好みに心底強く訴えかける。それは、|長頭《ドリコ》ブロンドの特徴がかなりめだつ富裕な社会階級の好みに、とくによく訴えかけるように思われる。意識された知覚の対象としてみれば、芝生は確かに感覚的な美の要素をもっており、したがってそれ自体が、ほぼすべての人種や階級の人々の目にかなり直接的に訴えかけることは明白である。だが、他のほとんどの種族の人々よりも、長頭ブロンドの人々の目に、それがずっと美しく映っていることはおそらく間違いないことだろう。このように、他の種族よりもこの種族に属している人々のほうが緑の芝生の広がりを高く評価するということ、これは、長頭ブロンドがもつ他の特徴とともに、この種族が長期にわたって湿潤な気候の地域に住む遊牧民であったことを示唆している。短く刈りそろえられた芝生は、手入れの行き届いた牧草地や放牧地を見ると思わず喜んでしまう、という遺伝的な性向をもつ人々の目に、美しく見えるのである。
審美上の存在理由からすると、芝生は牛の放牧場である。場合によっては現代でも――付随的な周囲の環境がもつ高価さは、倹約による繁栄を意味するものなどすべて締め出しているが――、長頭ブロンドの田園風景は、芝生や私有地に牛を導入することによって復元されている。その場合、利用される牛の種類は、経費がかかる血統のものであることが多い。牛という動物に終始ついてまわる節約という俗っぽい印象は、この動物を装飾的な用途に利用するには乗り越えがたい障害になる。したがって、回りの状況がこのような印象を否定するような場合を除いて、好みの対象として牛を利用することは、つねに避けねばならぬことなのである。牧草地であるという印象を強めるなんらかの草食動物に対する偏愛が抑えがたいときには、牛の席は、たとえば、鹿、カモシカ、その他類似の珍しい動物という、多少とも適格性に疑問がある代替物にとって代えられることが多い。田園を好む西洋人の目に牛ほど美しく映らないにもかかわらず、このような代替物が時に応じて選好される理由は、それがとびぬけて高価かつ無駄であり、したがって結果的に名声の高いものである、ということにある。このような動物は、事実としても印象としても、通俗的には金もうけに役立つ動物ではないからである。
もちろん、公園は芝生と同じカテゴリーに属する。せいぜいのところ、これもまた牧草地の模倣である。そのような公園は、もちろん家畜に草を食わせれば最もよく維持できるが、草の上の家畜それ自体は、事物の美になんら追加するところはないから、上手に管理された牧草地を一度でも見たことがある人にとって、ほとんど強調される必要がないものだ。だが、広まっている好みに含まれる金銭的な要素の表現としてみるなら、公共の広場で放牧という管理方法が採用されることなどめったにないことこそ、注目に値する。熟練した管理者の監督の下、腕のよい職人が牧草地を多少ともありのままに模倣するのが最も利にかなったことなのだが、その結果、草を食わせるくらいではほとんど芸術的な効果が上がらない、という事態を必ずや招くことになるだろう。しかし、平均的な大衆の理解するところでは、家畜の群れは、倹約による繁栄と有用性をあまりにも露骨に示唆するから、そんなものに公園をうろつかれては安っぽすぎることになりかねない。こうした公園の管理方法は比較的安上がりであり、したがって上品さに欠けるというわけだ。
公園の他の特徴も、同じような一般的な意味をもっている。そこには、単純さや天然の有用性の見せかけと一緒になった高価さが、これ見よがしに示されている。中流階級の生活習慣――あるいは、いま死期を迎えつつある世代がまだ子供だった時期以前の上流階級の伝統――の下で好みを身につけた人々によって管理・所有されている場合には、個人の庭園もまた、同じような外観を呈することになる。ただし、現代の上流階級のよく教育された好みに順応した庭園は、それと分かるほど明確にはこのような特徴を示さない。過去の世代の上流階級と現代のそれとの間のこのような好みの違いは、経済状態の変化によるものだ。同様な違いは、公園に関する既成観念のなかだけでなく、他の側面についても存在する。わが国でも他のほとんどの国と同様に、今世紀の半ばに達するまで、倹約などしなくてすむような富を所有していたのは、総人口のうちのごく一握りの人に限られていた。交通・通信手段が不完全であったため、この少数の人々は散らばったままでお互い効果的に接触することがなかった。それゆえ、無尽蔵に費用をかけるような好みが発展する基盤は欠けていた。育ちのよい好みが平凡な倹約に対して抱く嫌悪は千々ばらばらであった。それほど複雑でもないような美的感覚が、安上がりで倹約的な環境のなかで散発的に受け入れられることがあるにしても、そこには、かなり大きな集団の同じ好みをもつ人々によってのみ与えられる「社会的承認」が欠けている。したがって、庭園の管理のなかには、安く上げた証拠を監視するような効果的な上流階級の一般的な意見が存在しなかったために、結果的に、上流階級と中流階級の間の公園の外観に関する理想像に大きな隔たりが生じなかった。公衆の目に晒される金銭的な不面目を恐れつつ、両階級とも、同じように自らの考え方を作り上げたわけである。
今日では、考え方の隔たりが明らかになりつつある。長期間労働から免除され、一世代以上も金銭的な配慮などせずに暮らしてきた有閑階級の占める部分がきわめて大きくなり、いまや好みをめぐる問題において、一般的な意見を形づくり、維持しうるほどになっている。構成員の移動性が上昇したことで、その階級内部で達成されうる「社会的承認」も得やすくなった。この選ばれた階級の内部では、倹約しなくてもすむことはごくふつうだから、それは、金銭的な|体面《デイーセンシー》の基礎としての効用をほとんど喪失することになる。それゆえ、現代の上流階級の好みの規準は、野放図な高価さの誇示を一途に強調したり、明らかな倹約の跡を残らず消し去るようなものにはならない。こうして、より上位の社会階層や知的水準に属する人々の場合には、公園や庭園のなかに田舎や「自然」を好んで組みこむことが流行し始める。このような好みは、その大部分が製作者本能の発露であり、ほとんど一貫性に欠けた結果をもたらすように作用する。それがまったく自然のままであることはごく稀でしかないし、しばしば、上に指摘してきた田舎風の見せかけとあまり変わらない類のものに変化してしまうのである。
直接的で無駄のない用途を的確に示唆するような、無作法なほど実用的な考案物に対する特別な好みは、中流階級の好みのなかにさえ存在する。もっともそこでは、それは名誉に値する無駄という規準の揺るぎない支配の枠内でうまく管理されている。結果的にそれは、有用性をよそおう方法や手段の多様性をもたらすのであって、田舎風のフェンス、橋、あずま屋、休憩所、および類似の装飾的な呼び物などが、それである。経済的な美意識を極度に促進するものからはおそらく最も遠いが、このような有用性への愛着が現れたものとして、鋳物製の田舎風のフェンスや格子、平坦な地面を横切るように造られる回り道を指摘することができる。
選り抜きの有閑階級は、少なくともいくつかの点で、金銭的な美しさをこのような疑似的有用性に変形して利用したりしなくなっている。しかし、最近になって固有の有閑階級に近づいた人々や中流階級や下層階級の人々の好みは、自然が育んだものが含む美しさのゆえに元来賞賛されてしかるべき事物の場合でさえ、審美的な美しさを補完するために、いまもなお金銭的な美しさを要求している。
こうした事柄に関する大衆的な好みは、公園の樹木の刈り込みや、定型通りの花壇に対する広範かつ高い評価のなかに見いだすことができる。このように中流階級の好みが審美的な美しさよりも、圧倒的に金銭的な美しさである、ということの格好な事例をとり上げよう。先年コロンビア大博覧会が開催された跡地の改造である。証拠の示すところでは、あからさまな贅沢の誇示をすべて避けたところでさえ、名声に値するほど高価であるという要請がなおかなり強固に残存している。この改造作業のなかで実際に施された芸術的な効果は、同じ土地が金銭的な趣味の規準に導かれることなく管理された場合にもたらしたであろう効果とは、かなり大きく異なっている。加えて、都市住民の上層でさえも、この件について住民の上流階級と下層階級や中流階級の好みの間にほとんど差異がないという示唆に全面的に承認を与えるような目で、改造工事の進捗を眺めている。発展した金銭的な文化を代表するような、この都市住民に見られる美的感覚は、顕示的浪費という偉大な文化的原理から少しも離れまいとする用心深さそのものである。
自然に対する愛は、おそらくそれ自体が上流階級の好みの規範体系からの借りものだが、しばしば思わぬ形でこの金銭的規準に導かれて現れるのであって、思慮の足りない観察者には、不適切なものに映りかねない結果をもたらしている。たとえば、わが国の樹木の少ない地域で受け入れられている植樹の慣行は、尊敬に値するような支出の一項目として、樹木の生い茂った地域へもちこまれた。その結果、樹木の生い茂った地域の村や農民が、もとからあった樹木を切り払い、すぐさま農場の傍らや道路沿いに一定の導入品種の若木を植えることが、決して稀なことではなくなった。こうして、カシ、ニレ、ブナ、クルミ、ツガ、シナノキ、カバノキという森の成育物が、カエデ、ハコヤナギおよびヤナギの若木に場所をあけるために切り払われる。森の立木を伐採せずに放置して安上がりにすませることは、装飾的で、名声を高める目的に役立つよう意図されているものに備わる品位を傷つける、と考えられるわけである。
好みが金銭的な名声によって全体的に誘導される同様な例は、動物の場合に広まっている美の標準のなかに窺うことができる。この好みの規準が担う役割は、牛に対する大衆の審美的な尺度規準について解明する際に、すでに言及したところである。産業的な見地からみてかなり社会の役に立つようなもの――たとえば、ニワトリ、ブタ、肥育牛、ヒツジ、ヤギ、馬車馬――であるかぎり、他の種類の飼育動物についてもある程度同じような趣旨のことがあてはまる。これらは生産的な財という性質をもっており、有用であるばかりか、しばしば金もうけの役に立つ。だから、にわかに美をそれらのものに転嫁するわけにはいかないのである。ふつうでは産業的な用途に役立たない飼育動物、たとえばハト、オウムその他の|籠《かご》で飼う鳥、猫、犬および競走馬の場合は、この限りではない。通例これらは顕示的消費の項目であり、したがって本質的に名誉あるもの、正当に美と見なされうるものなのである。この部類の動物は上流階級の人々によって慣習的に賞賛されるが、金銭的にみてより低い階級は――倹約を命じる厳格な規範が彼らの内部である程度すたれている、少数の選り抜きの有閑階級もまた同様に――、美しいものと醜いものとの間に確固とした金銭的な境界線を引くことなく、いずれの部類の動物にも美を見いだしている。
名誉があり、美しいという評判をもつこのような飼育動物の場合には、言及すべき副次的な根拠をもつ長所がある。名誉がある飼育動物に分類される鳥類と、したがってまた、金もうけに役立たないという性質だけによってこの部類に入れられる動物とを別にすれば、特別の注目に値するものは猫、犬および|駿馬《しゆんめ》である。猫は、あまり浪費的でないがゆえに、犬や駿馬よりも名声の点で劣るし、場合によっては、有用な目的に役立つことさえある。同時にまた、猫の気性は名誉を与えるという目的には不向きなところがある。猫は人間と同格のものとして生きるのであって、あらゆる価値、名誉および名声に関する区別の古代的な基礎である身分関係にまったく関知せず、結果的に、飼い主やその親しい人々との間で妬みを起こさせるような比較を行う、という用途にまったく役立たない。この規則に対する例外は、アンゴラネコのような珍しい愛玩種の場合に生じるが、それは費用がかかるという理由である程度名声上の価値があり、それゆえ金銭的な根拠にもとづいて美しいと言われる特別の権利をもっている。
犬は、役立たないという点だけでなく、特別に恵まれた気性の点でも利点をもっている。傑出しているという意味で、しばしば犬は人間の友達だと言われており、その賢さと忠実さが賞賛される。この意味するところは、犬が人間の召使いであること、それに、絶対的に服従する能力や、俊敏に主人の機嫌を察知する能力をもち合わせていることである。身分の関係にうまく適合するこのような特色――当面の目的から、それは役に立つ特色と見なされるべきであるが――とともに、犬は審美的な価値がかなりあいまいないくつかの特徴をもっている。犬は、飼育動物のうちで、それ自体として最も下品なものであり、その習性の点で最も不潔なものである。犬は、主人に対する追従的でへつらうような態度や、主人以外の人にいつでも危害や不快を与えることによって、つねに欠点を埋め合わせようとする。こうして犬は、人間がもつ支配したがる性向を自由に発動させることによって人間のお気に入りとなるし、しかもかなり高価な品種で産業的な目的にまったく役立たない場合には、人間の関心のなかで、十分に好評判を保証された地位を占めるのである。同時にまた犬は、われわれの想像のなかで、狩り――賞賛に値する仕事であり、尊敬に値する略奪衝動の表出である――と結びついている。
このような有利な基礎に立脚しているため、犬のもつ外観、動きの美しさやすばらしい心理的特色のすべてが慣例的に承認され、賞賛されるのである。愛犬家によってグロテスクな奇形に品種改良されてきた多種多様な犬は、多くの人々によって、心から美しいと考えられている。このような種類の犬――他の愛玩用動物についても同様だが――は、審美的な価値としては、グロテスクさの程度と個々の場合に醜さが生じる特別な容姿の不安定さの程度とにほぼ比例して評価され、等級づけられる。当面の目的にとっては、造作のグロテスクさと不安定性にもとづくこのような差別的な効用は、稀少性の大きさと、結果としての高価さという条件に還元することができる。たとえば男性用と女性用の両方に役立つような流行のスタイルのペット犬のような、犬の奇形がもつ商業的な価値は高い生産コストによるものであって、その所有者にとっての価値は、もっぱら顕示的消費の項目としての価値に依存している。それは尊敬に値するほど費用がかかるものであると想像されることにより、間接的に、社会的な価値が転嫁される。こうして、言葉や考え方の安易なすげ替えによって、このようなものが美しいと賞賛され、評判になるのである。こうした動物に費やされる世話は、いかなる意味でも利益をもたらすとか有用だというはずがないから、それがまた名声に値するのである。世話をするという習慣は結果的に非難されるようなものでないがゆえに、きわめて持続的で、最も慈悲深い性質の習慣的な愛情に成長することになろう。したがって、ペット動物に注がれた愛情のなかには、気分や対象の選択を誘導したり形づくったりする規範として、高価さの規準が多かれ少なかれ間接的に存在している。まもなく指摘することだが、同様のことは、人間に対する愛好についても妥当する。もっともその場合には、規範が作用する仕方がある程度異なってはいるけれども。
駿馬の場合は、ほとんど犬の場合と似たようなものである。全体としてそれは費用がかかるものであり、産業的な目的からみると無駄であり、役立たないものである。社会の福祉を向上させるとか、人間の生活方法を容易にするという点での生産的な用途は、通俗的な審美的感覚を満足させる運動能力や力の表示という形のものである。もちろん、これには実質的な有用性がある。馬は、犬ほどには卑屈な従属を示す精神的習性に恵まれていない。しかし、それは、自然環境のもつ「生気ある」諸力を自らの使用と支配の下に転じ、そうすることによって自己の優越的な個性を表明したがる飼い主の衝動を、効果的にみたす。程度の大小はあれ、少なくとも駿馬は潜在的に競走馬であり、そうであるがゆえに、その所有者にとってとくに有用である。駿馬の効用は、大部分競争心を発揮する手段としての効果的な作用にある。持ち馬が隣人のそれを凌駕することは、所有者の攻撃と支配の感覚を満足させる。このような利用は金もうけには役立たず、全体的にかなり一貫して浪費的であり、きわめて顕示的にそうであるがゆえに名誉を与えるものになるのであって、結果的に駿馬に、おそらく名声としてきわめて確固たる地位を与えることになる。さらにまた、競走馬それ自体は同様に非産業的であるが、しかしギャンブルの手段として、名声に値する用途をもっている。
こうして駿馬は、内在的な美しさや有用性のすべてを、金銭的な名声という基礎にもとづいて自由に評価することを許すという点で、審美的に恵まれたものなのである。その立派さは顕示的浪費の原理によって是認され、優越と競争を求める略奪的な習性に支持されている。その上以下の人々――つまり、競走馬を愛好する階級に属するわけでもなく、馬の愛好家の審査がもつ道徳的な抑制によって美意識が麻痺している階級に属するわけでもない人々――の無教養な好みからみると、競走馬は通り一遍の美しさにすぎないものだが、しかしなお馬は美しい動物である。このような洗練されていない好みにとって最も美しい馬とは、品種改良家の淘汰的飼育の下で競走馬ほど徹底的な改変の手を加えられていない、そうした種類のものであるように思われる。さらに、物書きや話し手――その雄弁さが変わることなくつねに陳腐である人々の場合はとくに――は、修辞上の目的から動物の優雅さや有用性の実例を求めるとき、馬に注目する習慣がある。そして、ふつう途中で明らかになることは、その人が心に思い浮かべているのは競走馬だ、ということである。
こうした事柄についてより穏健で啓発された好みをもつ人々の間に見られる、さまざまな品種の馬や犬の等級づけ的な評価のなかには、名声という有閑階級の規準が及ぼすもう一つ別の、さらに直接的な影響さえ看取することができる。たとえばわが国では、有閑階級の好みは、ある程度までイギリスの有閑階級の間で一般的・支配的と見なされる慣行や習慣にもとづいて形成されている。犬の場合には、これは馬ほどよくあてはまらない。馬の場合、とりわけ乗用馬――せいぜいのところ、たんなる浪費的な誇示という目的に役立つだけだが――の場合には、イギリス風であればあるほどより美しい、といっても一般的に正しいように思われる。名声に値する慣例という存在理由からすれば、イギリスの有閑階級はわが国の上流の有閑階級に相当するから、より低い階層の人々に対する手本になるわけである。美しさを理解する方法や、好みの見識の形成におけるこのような模倣は、必ずしも見せかけ――すなわち、ともかくも偽善的だったり見栄をはったりしたもの――という意味での偏愛に終始するわけではない。偏愛は、この基礎にもとづいているときにも、他の場合と同様に、好みの決定を真剣でしかも実質的なものにする。両者の違いは、このような好みが評判のよい正しさに対する好みであり、美的な真実に対する好みではないということにある。
|模倣《ミミクリー》はたんなる競走馬に対する美意識を超えて拡がる、ということが指摘されるべきである。それはまた装飾用馬具や馬術をも含んでおり、騎乗の足並みだけでなく、正しい姿勢や評判のよい美しい姿勢もまたイギリスの慣行によって決定される。ふさわしいものは何か、あるいは、金銭的な美の規準の下では何がふさわしくないか、を決める環境が時にいかに偶然的なものであるかを示すために、以下のことが指摘できよう。すなわち、このイギリス風の姿勢、さらにはぎごちない姿勢の保持を要するとりわけ苦痛な足並みとは、イギリスの道路が泥沼とぬかるみであまりにひどく、ずっと快適な足並みで馬の旅をすることが実際にできなかった時代からの名残なのである。こうして現代馬術という上品な好みをもつ人物は、短く切った尾の駄馬に、とうてい快適とは言いがたい姿勢と苦痛にみちた足並みで、騎乗することになる。というのは、前世紀の大部分の間、馬らしい足並みで旅をする馬――すなわち、生来は硬くて広々とした大地の上をすばやく移動するために創造された動物――にとってイギリスの道路は通行不可能であったからである。
好みの規準が金銭的な名声の規準によってゆがめられてきたのは、たんに消費財――飼育動物を含めて――に関するものだけではない。同じような効果は、容姿の美しさについても言うことができる。論争になりそうな問題をすべて避けるために、この文脈では、威厳にみちた(有閑風な)態度や、でっぷりした風采に対して抱かれている大衆的な偏見――通俗的な伝統のなかで、成熟した男の富裕と結びつけられているものだが――については、まったく重視しないことにしよう。このような特色は、容姿の美しさの要素としてある程度受け入れられている。だが、それとは別に、この論点に含まれてくる女性の美しさに関する一定の要素があり、しかもそれは、詳細な評価に値するほど具体的で特別な性格をもっている。女がそれ自体のサービスのゆえに上流階級によって評価される経済発展段階というものがあるが、その段階の共同社会では、女性美の理想は健康で手足の太い女だ、ということがおおよその法則である。評価の基礎は体格であって、顔の造作には、次善の重要性しか与えられない。この略奪文化初期の理想を示すものとしてよく知られている事例は、ホメロスの詩に登場する娘たちのものである。
この理想が変化を被るのは、後の発展の過程、つまり慣例的な生活図式のなかで、高い階級の妻の任務がもっぱら代行的閑暇になってくるときのことである。その当時の理想には、一貫して強制された有閑生活の結果や随伴物と思われる特徴が含まれている。このような環境の下で受け入れられた理想像は、騎士の時代の詩人や著作家の手になる美女の描写から集めることができよう。当時の慣例的な図式のなかでは、身分の高い婦人は永続的に被保護の地位にあり、したがってまた、あらゆる実用的な仕事から免除されていると考えられていた。結果としてもたらされた騎士道的でロマンチックな美の理想は、主として外観の認識であり、その繊細さ、つまり繊細な手足、ほっそりした容姿、とくにか細いウエストの強調であった。当時の女性の肖像画のなかや、現在ロマンチックに騎士的な思想や感覚を模倣する者においては、ウエストは、限りなく虚弱であることをほのめかすほど細くされる。同様の理想は、現代的な産業社会のかなり多くの人々の間で、いまでもなお残存している。しかし、それが最も頑強にその足場を保持しているのは、経済的な発展や市民的な発展という点で、進歩の度が最も遅く、身分制度や略奪的な制度が最大限に存続しているような部類の現代の共同社会においてのことである。すなわち、実質的に最も現代的ではないような現存の共同社会でこそ、騎士道的な理想が最もよく保存されていることになる。このような感傷的でロマンチックな理想は、ヨーロッパ大陸諸国の豊かな階級の好みのなかで、なんの妨げもなく存続している。
産業の発展が高水準に達した現代的な共同社会では、有閑階級が蓄積した富の量がとてつもなく大きくなっているため、その階級に属する女性は、平俗な生産的労働に従事するという汚名をまったく着せられなくなる。ここでは、代行的消費者としての女性の地位は、大多数の人々の感情のなかでその固有の役割を維持できなくなる。その結果、女性美の理想は、弱々しく繊細で、透きとおるような感じでしかも危険なほどほっそりしたものから変化して、実際に手足や容姿だけでなく、他の太めの肉体的事実をも否認しないような古代的なタイプの女性美に逆戻りし始めている。経済発展の過程で、西洋文明に属する人々が抱く美の理想は、肉体的に堂々とした風貌の女から貴婦人に移り、再び前者へと逆戻りし始めているのである。すべては、金銭的な競争心が発揮される条件の変化に応じてのことである。競争心の要請は、ある時期にはたくましい奴隷であったが、別のときには、代行的消費の顕示的な遂行と、結果としての明白な無能力を求めたのである。だが、状況はいまやこの最後の要求から脱却しつつある。というのは、現代産業がもつ高い能率の下では、女性の閑暇は名声の等級表のずっと下のほうに属していても可能であるため、もはやそれが、最高の金銭的な階層であることの決定的な印として役立たないからである。
このように顕示的浪費の規範が女性美の理想に対してもつ一般的な規制とは別に、女の美しさに関する男の感覚をいかに事細かに厳しく制約しうるかを示すものとして、とくに言及に値する一、二の立ち入った論点がある。顕示的閑暇がよい評判を得る手段として重視されるようになった経済進化の段階では、その理想が繊細で小柄な手足と、ほっそりしたウエストを要求する、ということはすでに指摘したとおりである。このような特徴は、ふつうそれに付随する他の類似した構成上の欠点とともに、それほど気どった容姿は有用な努力をするには適しておらず、その所有者によって活用されることもなく扶養されねばならない、ということを示すのに役立つ。彼女は実用的でなく、しかも費用がかかり、したがって金銭的な強大さの証拠として価値がある、というわけだ。この文化段階では、女は、教えこまれた時代の要請にできるだけついていけるように、自らの容姿を変えようと思いめぐらすことになる。男は、金銭的な礼儀作法の規準が命じるがままに、結果として生じる人為的な病的特徴を魅力的だ、と判定するのである。こうして、たとえば、西洋文化に属する社会できわめて広くかつ長期に流行した締めつけられたウエスト、さらにまた中国人の|纏足《てんそく》が出現する。素朴な感覚からすれば、両者とも、まぎれもなく嫌悪感をもたらすような不具である。それを甘んじて受け入れるためには、慣れが必要である。とはいえ、それが男にとって魅力的であることに疑問の余地はない。それは、金銭的な名声をみたすという要請によって認知された名誉あふれる項目として、男の生活図式にうまく入りこむからである。それは、理想的な女らしさの構成要素の役割を果たすようになってきた、金銭的かつ文化的な美しさの一項目なのである。
ここで指摘したような事物の審美的価値と差別的な金銭的価値との結合は、もちろん評価者の意識のなかには存在しない。好みに関する見解を形成する際に、考察の対象物が浪費的であってしかも名声が高く、したがって美しいと正当に説明される、ということを人間が熟知しているかぎり、その見解は、好みの真正な[#「真正な」に傍点] [bona fide] 見解ではありえず、この文脈では考慮すべき事柄として論題にのぼらない。ここで主張されたような、対象がもつ名声と会得された美しさとの間の結合は、事実としての名声が評価者の思考習慣に及ぼす影響をつうじて展開する。人間には、関係をもっている対象について、さまざまな種類の――経済的、道徳的、審美的および名声上の――価値判断を行う習慣があり、したがって他のなんらかの根拠にもとづいて一定の対象を推賞する態度が、審美的な目的で対象の価値を判断するときに、その評価の程度に影響を及ぼすことになる。これは、名声という根拠と同様に、審美的な根拠ときわめて密接に結びついた根拠にもとづく価値評価について、とくによくあてはまる。審美的な目的と名声という目的のためになされる価値評価は、考えられているほど明確に分かれているわけではない。このような二種類の価値評価の間では、とくに混同が生じやすい。というのは、名声に値する対象物の価値は、会話のなかでは、記述的な用語を使ってとくに区別される習慣がないからである。その結果、美しさのカテゴリーや要素を特定するために通例用いられる用語は、この金銭的な優秀さという不特定な要素を包みこむように用いられることになり、それにともなう概念の混同が、安易な結論を導くことになった。大衆の理解のなかでは、名声の要求はこのようにして美意識と合体するから、評判がよいという承認印をもたない美しさは、受容されないのである。しかし、金銭的な名声が要請するものと素朴な意味での美が要請するものとは、決してそれと分かるほど合体しているわけではない。それゆえ、われわれの回りにあるものから金銭的に不適格なものを取り除くと、たまたま金銭的な要請と一致しない広い範囲の美の構成要素が、多かれ少なかれ完全に除去されてしまうことになる。
根底を貫く好みの規範はきわめて古い時代に成熟したものであって、ここで論じている金銭的な制度の出現よりも、おそらくずっと昔のことであろう。結果的に、人間の思考習慣の過去の淘汰的適応によって、たんなる美の要求は、それが遂行するであろう役割とその目的に役立つ方法の両者を単刀直入にほのめかすような、安上がりな工夫と編成によって大部分みたされてしまうことになった。
ここで現代の心理学的立場を思い起こすことは、当を得たことであろう。形式の美しさとは評価能力の問題である、と言ってよい。この命題は、おそらくなんの障害もなく、それ以上に拡張しうるであろう。もし抽象観念が、美の要素と分類されているものの観念連合、示唆および「表現」から創られるものとすれば、認知しうるすべての対象における美しさとは、人間の心が当該対象の与える方向で容易にその統覚活動をくり拡げること、という意味になる。しかし、活動それ自体が自在に展開されたり現れたりする方向とは、長く密接な|習慣化《ハビテユエーシヨン》が人間の心を従わせてきた方向のことである。美の本質的な要素に関するかぎり、この習慣化というのは、たんに統覚上の当該の形式に向かう傾向だけでなく、心理学的な構造や機能の適応をも誘発してくるほど、密接で長期的な習慣化なのである。経済的な関心が美の組成のなかに入ってくるとすれば、それは、目的にかなっていることの示唆や表現――すなわち、生のプロセスに貢献していることが明らかで、容易に推測できるもの――として組み入れられるのである。あらゆる対象における経済的な便宜ないし経済的有用性の表出――対象の経済的な美しさと呼ぶことができよう――は、物質的な生活という目的に対する役割や能率を適切かつはっきりと示唆することによって、最もよく示される。
この理由に依拠するなら、有用性をもつ対象のなかでは、単純で飾りのないものが審美的に最も優れたものになる。しかし、個人的な消費に振り向けられたものの費用の安価さを金銭的な名声の規準が拒絶するため、美しいものに対するわれわれの渇望の充足は、妥協案をつうじて模索されざるをえない。有用性や美しさに対するわれわれの口やかましい感覚を満足させ、つまり、少なくともそのような感覚に代わる役目を担うようになった一定の習慣の要求をみたすと同時に、名声を得られるほど浪費的な支出である証拠を与えるなんらかの工夫を施すことによって、美の規準が回避されざるをえないのである。そのような付加的な好みの意識が、新しさの感覚である。代替する場合に、これは、人間が巧妙で当惑させるような考案物を眺めるときに抱く好奇心によって、助けられる。こうして、美しいと申し立てられたり、美しさに役立つと申し立てられるほとんどの対象は、デザイン上の相当な技巧を示したり、見る者の目を当惑させる――ありそうにもないことを脈絡もなく示唆したり、ほのめかしたりして人をうろたえさせる――ように意図され始めるようになるが、それと同時に、表向きの経済的目的を完全に達成するため以上の労働が支出された、という証拠を提供するようになるのである。
このことは、われわれの日常的な習慣や日常的な接触の範囲外から、つまり、われわれの偏見の範囲外から選ばれた実例によって示すことができよう。たとえば、ハワイの珍しい羽毛のマントとか、ポリネシアのいくつかの有名な彫刻つき把手をもつ儀式用の|手斧《ておの》がそうである。形、線および色の組み合わせの心地よさを提供しているという意味だけでなく、デザインと構造に優れた技能と巧妙さを明示しているという意味において、このようなものが美しいことは否定しがたい。しかし、浪費された努力という規準に導かれてなされる、技巧にみちた当惑させるような考案物の進化が、つねにそのような幸福な結果をもたらすとはかぎらない。かなり大きな頻度で、美や有用性の表現としての厳密な審査に耐えるようなあらゆる要素を実質的に完全に抑圧してしまうか、顕示的な不条理に裏うちされた技巧と労働を空費した証拠の置き換えに終わってしまうことが多い。そして最後には、日常生活のなかで身の回りにある多くの対象ばかりか日常用の衣装や装飾品でさえ、掟のような伝統の圧力がなければとうてい耐えられないであろうような代物になってしまう。このように美と有用性の代わりに技巧と出費を置き換える例は、たとえば、家庭用建築物、手芸品、さまざまな衣服とくに女性用と聖職者用の衣服のなかに見ることができる。
美の規準は、一般的なものの表出を求める。顕示的浪費の要求に起因する「新しさ」は、この美の規準を否定するが、その結果、われわれの好みの対象の外観は、さまざまな特徴の寄せ集めになってしまう。またその特徴とは、高価さの規準の淘汰的な監視下に置かれているものである。
顕示的浪費という目的に向けてこのようにデザインが淘汰的に適応していく過程、つまり審美的な美しさを金銭的な美によって置き換えていくということは、建築の発展のなかでとりわけ有効であった。名誉ある浪費の要素と美の要素とを切り離すような人の目にそれほど嫌気をもよおさせず、よい評価を求めうるような現代の文化的な住宅や公共建築物――こうした建築物を見つけることはきわめて困難なことであろう。都市の上層階級の住宅や集合住宅の正面に出現している限りない多様性は、建築学上の苦悩と出費のかさむ不快さを示唆するものが限りなく多様である、ということを示している。美の対象として考えるなら、建築家に相手にされず、放置された建物の側面や裏側のさびれた壁が、ふつう建物の最良の特徴になる。
顕示的浪費の原理が好みの規準に与える影響について述べてきたことは、ほんのわずか言い方を変えるだけで、審美的とはいえない目的に対する財の有用性をめぐる、われわれの観念への影響についても妥当するであろう。財は、人間生活をよりいっそう展開する手段として生産されたり消費されたりするものであり、しかもその効用は、何よりもまず、目的に対する手段としての効率にある。その目的とは、何よりもまず、絶対的な規準でみた個人生活の充足である。だが、競争しようとする人間の性向が、財の消費を妬みを起こさせるような比較の手段と捉えさせるため、消費財は、相対的な支払い能力の証拠としての二次的な効用を与えられることになる。このような消費財のもつ間接的で二次的な用途が、まず消費に対して、そしてほどなくこの消費の競争的な目的に役立つ財に対して、誉れ高い評判をもたらす。高価な財の消費は賞賛に値するものであり、機械的な目的に対して有用性を与えるために表向き必要な部分を超える、相当量の費用を含んだ財が名誉に値する。それゆえ、財のなかにある限りなく高くつくことの刻印が、価値――消費によってもたらされる間接的で差別的な目的に対する効率の高さ――の刻印なのである。逆に言えば、かりに財が、求められた機械的な目的にとってあまりにも節約的に適応したものであることを示したり、自己満足的な妬みを起こさせるような比較の基礎になりうる一定の費用の高さを含んでいない場合には、それは不面目なものであり、したがって魅力的でないことになる。この間接的な効用が、等級の「高い」財に気前よく価値を分け与えるのである。洗練された効用感覚に訴えかけるためには、財は、たとえわずかでもこの間接的な効用を含んでいなければならない。
人間は、多くの支出を行う能力の欠如や金銭的な不成功を示唆するがゆえに、安上がりな生活様式を否認しようと試みてきたようだが、結局のところ、安価であるがゆえに内在的に不名誉で無価値であるとして、それを否認してしまう習慣を身につけるようになったのである。時の経過とともに、後続の世代は、それぞれこの賞賛に値する支出という伝統を先行世代から受け継ぎ、消費される財における金銭的名声という伝統的な規準を順次さらに彫琢し、強化してきた。最終的にわれわれは、あらゆる安価なものは無価値だと確信するほどになったため、もはや、「安かろう悪かろう」という格言の定式化になんら懸念を抱かないのである。高価さを是認し、安価さを否認するこの習慣があまりにも全面的にわれわれの考え方のなかに組みこまれたため、誇示しようという考えを少しももたずに厳密なプライバシーとして消費する財の場合でさえ、われわれは本能的に、あらゆる消費のなかに少なくともある程度の浪費的支出を強調することになる。われわれはみな、誠実にしかもなんの懸念も抱くことなく、自分の家庭というプライバシーのなかでさえ、高価なテーブル掛けの上に置かれた手描きの陶磁製の器(しばしば審美的な価値は疑わしい)と手作りの銀食器を使って日々の食事をすると、いっそう精神的に高められると感じる。この側面でわれわれがふさわしいと思ってきた生活水準からの後退はすべて、人間としての尊厳の耐えがたい|冒涜《ぼうとく》である、と見なされる。こうしてまた、ここ十年の間に、ロウソクが夕食の光源として他の何よりも満足を与えるものになった。いまやロウソクの光は、上品な目にとって油、ガスおよび電気の光よりも柔らかで、疲れを催させることが少ないものなのである。最近までそうであったとも言えるが、ロウソクが最も安価に利用しうる家庭用の光源であった三十年前には、同じようなことは決して言えなかった。現代でもなお、儀式的な照明を除いて、ロウソクは十分かつ有効な光を提供するものとは見なされていない。
いまなお生きているある政治の賢人は、事柄すべての成り行きを、「安物のコートは人間を安っぽくする」という格言に要約しているが、この金言がもつ説得力を感じない人は、おそらくいないであろう。
財のなかに過剰な高価さの印を求めたり、あらゆる財に間接的ないし差別的な種類のなんらかの効用を求める習慣は、財の効用の評価に用いられる規準変更への道を開く。名誉という要素とむき出しの効率性という要素は、消費者が商品を評価する際には区別されておらず、両者はひと固まりになって財の有用性の全体を作り上げている。結果として生じる有用性の規準の下では、物質的な充足を十分にもたらすという長所だけで規準に合格するような品物は存在しない。消費者にとって申し分なく、しかも十分受け入れられるものであるためには、それは名誉に値する要素を表に出さなければならない。その結果、消費財の生産者は、この名誉に値する要素に対する要求をみたすような財を生産するために、努力を傾注することになる。彼らはいっそうかいがいしく、効果的にこれを遂行するであろう。というのは、彼ら自身も、財に対する同一の価値規準の支配下に置かれており、名誉に値するような適切な仕上げを欠いた財を目のあたりにすると、心から嘆き悲しむことになるからである。こうして今日では、多少とも名誉に値する要素を含んでいないような財を供給する産業分野は存在しなくなった。ディオゲネス[ギリシアの哲学者で、粗衣粗食を旨とし、大樽のなかに住んだ]のように、名誉に値するものや浪費的な要素を消費のなかからすべて除去するよう主張する人物は、現代の市場では、最もありふれた自己の必需品をみたすこともできまい。事実、たとえ彼が必需品を自己努力によって直接みたそうとしたとしても、この項目に関する現在の思考習慣から自己を引き離すことは、不可能とは言わないまでも、困難であると悟るであろう。結果的に彼は、この浪費された労働がもつ、名誉があり、なかば装飾的でもある要素を含むなんらかのものを、本能的または無意識のうちに自家製の生産物に合体させないことには、一日の消費に要する生活必需品の供給物を調達することなど、まずできないことなのである。
小売市場で有用財を選ぶ際に、実質的な有用性の刻印よりもむしろ財の仕上げや出来映えに購買者が心を動かされている、ということは周知のことである。商品を販売するためには、役立つであろう物質的な用途に対する能力の付与に貢献するものに加えて、礼儀作法にかなう高価さの印を与えるために、かなりの量の労働を費やさなければならない。この明白な高費用を有用性の規準にするという習慣は、もちろん消費財の総費用を高めるように作用する。それは、ある程度まで価値を費用と同一視することによって、われわれに安価であることに対する警戒心をひそかに教えこむ。通常であれば、必要な有用性をもつ財を入手しようとする努力は消費者の側でなされる。しかし、財の有用性の証拠や構成要素として明らかに高い費用をかけるという慣習的な要請は、かなりの要素の顕示的浪費を含んでいないような財を、規準にみたないものとして拒否するように消費者を導く。
大衆の理解のなかで有用性の刻印として現れ、ここでは顕示的浪費の構成要素であると言及されている、このような消費財がもつ特徴の大部分は、たんなる高費用という根拠以外の理由からでも消費者のお気に入りになる。ふつうそのような財は、たとえ財の実質的な有用性に貢献するところがなくても、技巧と感嘆すべき腕前の証拠を示している。したがって、名誉に値する有用性の特定の印は、最初に流行するようになるばかりか、後にその財の通常の価値の構成要素として確固たる地位を維持するようになるわけだが、その理由の大部分がこうした技巧と腕前にもとづくことは、間違いのないことなのだ。感嘆に値する腕前を誇示することは、遠い遠い将来の結果が不毛なものである場合でさえ、たんにそれ自体として喜ばしいことである。優れた作品をじっと眺めることのなかには、審美的感覚の充足が含まれている。だが、そのような優れた腕前や、目的に対する手段の並外れて効果的な適応の証拠は、長期的にみると、顕示的浪費の規準をみたさないかぎり、現代の文明化された消費者に賞賛されないだろう、ということもまたつけ加えておかねばならない。
ここで受け入れられた立場は、消費を節約してゆくなかで機械製生産物に割り当てられた役割によって、都合よく強制されたものである。同じ目的に役立つ機械製品と手作り品との間の重要な相違点は、ふつう前者のほうがその主要な目的によりよく適合している、ということである。つまり、より完全な――目的に対する手段のより完全な適応を示す――生産物なのである。このことは、それを、不名誉と非難から救い出すわけではない。というのは、名誉に値する浪費による審査の下では、それは標準に達しないからである。手労働のほうがより浪費的な生産方法である、という理由は二つある。この方法で作られる財は、金銭的な名声という目的によりよく役に立つからであり、さらにまた、手労働の印が名誉に値するものになり、したがってこのような印をもつ財が、対応する機械製品よりも品質において高く格づけされるからである。必ずしもそうでないとしても、一般的に名誉に値する手労働の印は、外形に現れる手作り品の一定の不完全さや不規則性であり、職人がデザインの実行に不備をきたしたことを示す部分である。それゆえ、手作り品の優秀さの根拠は、一定限度の不完全さということになる。この限度は、費用の安さの証拠になりかねないため、決して腕前の不器用さを示すほど広がってはならないし、機械によってしか達成できない理想的な正確さを示唆するほど狭くなってもならないのである。
このような名誉に値する不十分さの証拠の評価は、教養人の目に手作り品が優れた価値と魅力あるものになってくる源泉ではあるが、微妙な眼識を要する事柄である。それは、財の観相術とでも呼びうるものについての訓練と、正しい思考習慣の養成を必要とする。日常用の機械製品が、気品にみちた消費の細目に当然払うべき配慮ができていない俗人や無教養な人々によって、しばしば賞賛されるばかりかいっそう愛好されるのは、まさに過剰な完全さが原因である。機械製生産物の儀礼的な劣等性が示しているのは費用のかかるあらゆる革新――財の仕上げに現れるものだ――のなかに盛りこまれている技能と腕前の完璧さだけでは、その受容と永続的な愛顧の確保に十分ではない、ということである。そのような革新は、顕示的浪費の規準によって支持されなければならない。財の形相におけるいかなる特徴も、それ自体がいかに心地よく、有効な仕事に対する好みにどれほどよく適合するものであるにせよ、かりに、それがこの金銭的名声という規範にそぐわないと分かったら、許容されることはないであろう。
「ありふれていること」――すなわち、ほかの言い方をすれば、生産費用がわずかでしかないこと――に起因する消費財の儀礼的な劣等さや不浄さは、多くの人々によって、きわめて重大なことだと理解されてきた。機械製生産物に対する嫌悪とは、そのような財の陳腐さに対する嫌悪である、と定式化されることが多い。ありふれているものとは、多くの人々が(金銭的に)手の届く範囲内にあるものである。したがって、その消費は名誉に値するものではない。というのも、それは、他の消費者との好都合な競争心にもとづく比較という目的に役立たないからである。それゆえ、そのような財の消費は、あるいはそのような財を見ることさえ、低水準で不愉快な人間生活の示唆以外の何ものでもなく、感覚の鋭い人を耐えがたいほど嫌悪させ消沈させるような低劣感でみたしてしまう。こうして人間は、そのような財の観賞から離れてゆくわけである。尊大なほど好みを強く主張する人や、好みに関するさまざまな判断の根拠を識別する才能、習慣および誘因をもっていない人々のなかでは、名誉という感覚の表明が美的感覚や有用感覚の表明と――すでに指摘したような仕方で――合体する。結果として生じる複合的評価は、評価者の偏見や関心が対象をいずれの側面で理解させるかに応じて、その美や有用性の判断に資することになる。続いて、安っぽさやありふれた陳腐さの印が芸術的欠陥の決定的な印として理解される、という事態も決して珍しいことではなくなり、一方では審美的適宜性の、他方では審美的嫌悪の規範体系や一覧表が、好みをめぐる問題に対する手引きとして、この基礎の上に構築されることになる。
すでに指摘してきたように、安価な、したがって品のない日常用消費財は、現代的な産業社会ではふつう機械生産物である。手作り品と比べた場合に機械製品がもつ外見上の一般的な特徴はといえば、仕上がりがはるかに完璧であること、そしてデザインが細部までずっと正確に実現されていることにある。それゆえ、名誉に値する手作り品のそれと分かるほどの不完全さが、美しさや有用性ないしその両方の点で、優秀さの印だと理解されるようになる。こうして、ジョン・ラスキン[十九世紀中後半のイギリスの社会改良家、批評家で、オックスフォード大学美術史教授を務めた]やウィリアム・モリス[十九世紀後半に活動したイギリスの工芸美術家、社会運動家]が同時代に熱心に提唱した不完全さへの礼賛が生じてきた。この理由にもとづいて、その時代以降、無作法と無駄な努力に関する彼らの宣伝が取り上げられ、促進されてきたのである。こうしてまた、手工業と家内工業の復活のための宣伝が行われた。ここで指摘したような特徴をもつ集団に属する人々の仕事や考え方の大部分は、外見上より完璧にみえる財がそれほど安くなかった時代には、決して生じえなかったであろう。
もちろん、ここで主張しようとしていること、あるいは主張しうることは、この学派の審美的な教訓が含んでいる経済的な価値に関することだけである。この指摘は非難としてではなく、主としてこの教訓が消費財の生産や消費に対して及ぼす傾向を特徴づけたもの、として理解されるべきである。
こうして、好みの成熟である偏見が生産のなかでおのずと作り出す|作法《マナー》は、モリスが晩年にかけて専念した造本事業のなかに、おそらく最も適切に例示されている。だが、ケルムスコット・プレスの仕事に関してきわだって妥当することは、現代の芸術的な造本一般――字形、用紙、挿し絵、装丁材および装丁に関する――に適用した場合でも、影響力がごくわずか低下するとはいえ、やはり妥当する。出版事業の最近の生産物によって表明されている卓越性の要求は、出版の仕事がかつての無骨さ――不十分な装置を使って遂行される、御しがたい素材との先行き不透明な格闘であった時代の無骨さ――にどれだけ近似しているかどうか、にある程度まで依存している。このような生産物は、手労働を要するがゆえに、より費用がかかるのである。それはまた、たんに有用性を重視して作られた本よりも、使い勝手が悪い。したがってそれは、購入者の自在に消費する能力だけでなく、時間と努力を浪費する能力をも証明することになる。現代の印刷屋が「昔のスタイル」――つまり、「現代的」なものに比べて、紙面を無骨なものに見せる、ずっと読みにくい多少とも廃れたスタイルの活字――へと逆戻りしつつあるのは、このような基礎にもとづいてのことである。表面的には、科学のとり組みを最も効果的に表現することだけを目的にしている学術定期刊行物でさえ、この金銭的な美しさの要求に大幅に譲歩して、昔流の活字で|手漉《てすき》紙を用い、アンカット本[折りたたんだだけで、ページをカットせずに製本した書籍]の体裁で科学的な論文を発行するほどである。しかし、たんにその内容を効果的に表現することだけを念頭においていないことが明らかな書物は、もちろん、この方向へさらに深くつき進む。こうして、手漉紙の、広い余白をもつ耳つきの用紙に印刷された心もち無骨な活字と、痛ましいほどの未熟さと手の込んだ愚かしさを窺わせる装丁のアンカット本が出現することになる。ケルムスコット・プレスは、古い綴りの単語を用いた編集、|髭《ひげ》文字の印刷、しかも革ひもで装飾された柔らかい子牛革の表紙の装丁で現代向けの書物を出版することによって、事態を不合理な――むき出しの有用性という見地だけからみた場合のことだが――ものにしてしまった。芸術的な出版事業の経済的な地位を決めるさらに独特な特徴ではあるが、このようないちだんと優雅な書物は、最高の状態にあるときには限定出版される、という事実がある。限定出版というのは、事実上、この本は稀少であり、したがって費用が高く、その購入者に対して金銭的な名誉を与えるという保証――かなり要領は悪いが、確かである――なのである。
本という製品が、陶冶された好みの購入者に対してもっている特別な魅力は、もちろん、費用が高くつくことや著しく無骨であることを、意識的かつ素直に認識しているからではない。機械製品に対する手作り品の卓越というよく似た事例におけるように、意識的な選好の根拠は、ここでも、より費用が高く、ずっと無骨な製品に転嫁された内在的な卓越性である。時代ものの古くさい工程の製品をまねた本に転嫁された優れた卓越性は、主として審美的な点でとびぬけた効用をもつと見なされる。しかし、無骨な製品はまた、印刷された言葉の伝達手段としてずっと役に立つ、と言う教養ある愛書家に出会うことも、決して稀なことではない。退廃的な本の優れた審美的価値に関するかぎり、愛書家の主張が優位に立つ可能性がある。本はひたすらその美しさを眼目においてデザインされ、結果的に、デザイナー側がある程度の成功をおさめるのがふつうである。しかしここで主張されていることは、デザイナーが従う好みの規準が顕示的浪費の法則に監視されながら形成されたものであること、そしてこの法則が淘汰的に作用し、その要求に従わない好みの規準をすべて除去する、ということである。すなわち、退廃的な本は美しいかもしれないが、デザイナーがなしうる仕事の限界は、審美的とは言いがたい種類の要求によって確定されている、ということだ。たとえ美しいものであっても、生産物はまた同時に、費用が高くつき、表向きの用途に対して不都合に適応していなければならない。しかしながら、本の装丁者にみられるこのような強制的な好みの規準は、全面的に本来の形の浪費の法則によって作り出されているわけではない。その規準はある程度まで略奪的な気質、つまり、その特殊な発展の一つが古典主義と呼ばれている、古代的で時代遅れのものに対する崇敬の二次的な表明に従って形づくられるのである。
審美理論において、古典主義、つまり古代的なものを崇拝するという規準と美の規準との間に境界線を引くことは、まったく不可能ではないにせよ、きわめて困難なことであろう。審美的な目的のためにこのような区別がなされる必要はほとんどないし、実際、それが存在するとは限らない。好みの準則のためには、その基礎として受け入れられているものが何であれ、受容された古代主義の理想の表出が、おそらく美の構成要素として最も高く評価されるのであって、その正当性が問われる必要性はまったく存在しないのである。しかし、当面の目的のため――受容された好みの規準のなかにいかなる経済的根拠が存在するか、財の分配や消費にとって重要性をもつものは何か、ということを確定するため――には、同様にその区別が不適切だ、というわけではないのである。
機械製品が文明的な消費体系のなかで占めている位置は、消費における顕示的浪費の規準と礼節の規範体系との関係を|剔出《てきしゆつ》するのに役立つ。この規準は、固有の芸術や好みに関することだけでなく、現在広まっている財の有用性に関しても、革新や創意の原理として作用するわけではない。それは革新を作り出し、新しい消費対象や新しい出費の要素を追加する創造的原理として、未来に向けて展開するものではない。問題の原理は、ある意味では、積極的な法則というよりも、むしろ消極的な法則である。それは、創造的というよりも、むしろ制限的な原理である。直接それが慣用や習慣の端緒や始まりになることは、ごく稀なことでしかない。顕示的な浪費性が直接に変異や成長の基礎を提供することはなく、むしろ、その要求に従うことは、他の原因にもとづいてなされる革新が存続するための条件になる。支出の慣例、習慣や方法が発生する仕方のいかんにかかわらず、すべてはこの名声の規範がもつ淘汰作用をくぐり抜けねばならないのであって、このような要求をみたす程度が、他の似たような慣行や習慣と競合して生き残るための適合性を試す試金石なのである。他の事情が等しければ、慣行や方法は、明白に浪費的であればあるほど、この法則の下で生き残る可能性が高くなる。顕示的浪費の法則は変化の起源を説明するものではなく、その支配の下で生き残るのに適するような形態の持続性を説明するにすぎない。それは適者を存続させるように作用するものであって、受容されうるものを創造するように作用するわけではない。その任務は、その目的にかなうすべてのものを承認し、しっかりと保持することなのである。
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第七章[#「第七章」はゴシック体] 金銭的な文化の表現としての衣装
以上に定式化された経済的な原理が、生のプロセスの特定方向でなされる日々の生活にどのようにあてはまるか、をある程度詳しく示すためには、実例を挙げるほうが適切であろう。この目的にとって、|衣装《ドレス》への支出ほど適切な事例となるような方向の消費はない。衣装のなかに現れるのは、とくに財を顕示的に浪費するという|規則《ルール》であるが、金銭的な名声という他の関連をもつ原理もまた、同じ工夫のなかに例証されている。個人の金銭的な立場を証明する方法もその目的に効果的に役立つし、時と所を問わず、それ以外の方法も流通している。とはいえ、われわれが身につけている服はつねにわれわれの金銭的立場の証明であり、見る者すべてに瞬時のうちにそれに関する示唆を与えるという点で、衣装への支出は他のいかなる方法にも勝る利点をもっている。|誇示《デイスプレイ》のためだと認められた支出が他のいかなる方向の消費にもまして衣装のなかに含まれている、ということは十分に明らかであり、おそらく、はるかに普遍的に実行されていることである。すべての階級が衣服に支出したものの大部分は、身体の保護というよりもむしろ名声を獲得しうる体裁のためだ、というありきたりのことに同意するのに、困難を感じる人など誰もいない。そして、もしわれわれが社会的な慣行となっているこのような衣装の水準をみたしていなかったら、そのときほどひどくみすぼらしく感じることは、おそらくほかにないだろう。世間体をみたす額の浪費的支出と見なされるものを遂行するためであれば、人々が生活必要品や便宜品の欠乏をかなり耐え忍ぶということは、他のあらゆる消費項目に劣らず、衣装の場合にさらに高い程度で妥当する。したがって結果的に、人々が寒さの厳しい気候の下で、着こなしがよいと思われたいばかりに苦痛をともなう衣服をあえて身につけることさえ、決して稀な出来事ではなくなるのだ。こうして、あらゆる現代的な社会では、衣服として用いられている財の商品的な価値は、着用している人物を被うための物理的なサービスよりもむしろ、はるかに大きな程度で財の評判のよさや流行のファッションから成り立っている。衣装の必要性とは、何にもまして「高級な」、あるいは精神的な必要性なのである。
このような衣装の精神的な必要性のすべてもしくは大部分が、支出を誇示しようとする無邪気な性向である、というわけではない。他財の場合と同様に、顕示的浪費の法則が衣類の消費を手引きするのは、もっぱら間接的な、好みと世間体の規準の形成をつうじてのことである。事柄のふつうの成り行きのなかでは、めだって浪費的な衣服の着用者や購入者が抱いている意識的な動機は、社会的に確立している慣行に従うという必要性や、好みや評判の公認の水準に従って生活するという必要性なのである。その動機それ自体はきわめて大きいと思われるが、人間は、好ましからぬ論評やうわさに由来する屈辱を回避するため、衣装に関する世間体の規範体系によって手引きされざるをえない、と言うだけでは十分ではない。さらに、衣装に関するわれわれの思考習慣に高価という要件が深く鋳こまれているため、高価な衣服以外のものは、われわれにとってすべて本能的に不愉快なものになる。熟慮や分析を加えもせず、安いものは価値がない、とわれわれは考えるのである。「安かろう悪かろう」は、他の方向の消費にもまして、衣装の場合に妥当すると見なされている。好みと有用性という二つの理由から、「安かろう悪かろう」という格言に従って、安価な衣服は劣悪だと評価される。われわれは、ほぼ高くつく程度に比例して、財が美しいとか有用であると感じる。あったにしてもとるに足りない例外でしかないが、ほとんど例外なく、われわれは美しさと有用性に関して、偽物が高価なオリジナルをどれほど上手に模倣していても、高価な衣服をずっと安価なイミテーションよりもはるかに望ましいものと見なす。したがって偽物がわれわれの気分を悪くするのは、その形状や色彩、ありていに言って、およそ見かけ上の効果における欠点ではないのである。不愉快な対象は、きわめてよく似たイミテーションであるから、厳密な調査以外のいかなる調査にも十分耐えるほどでありえよう。とはいえ、偽作であることが見破られるやいなや、商品的な価値と同様に、その審美的な価値も即座に下落する。加えて、偽物と見破られた衣装の審美的な価値は、偽物がオリジナルよりも安価である程度にほぼ比例して低下する、と言っても矛盾をきたす恐れはほとんどないであろう。それは、金銭的な等級が低下するがゆえに、審美的に面目を失うわけである。
しかし、衣装が支払い能力の証拠としてもっている機能は、着用者が肉体的な快適さをみたすために必要なものを超えて、高価な品を消費しているという事実を誇示することだけに尽きるわけではない。たんなる財の顕示的消費は、それが持続されるかぎり効果があるし、満足を与えるものである。それは一見したところ、金銭的な成功の明白な[#「明白な」に傍点] [prima facie] 証拠であり、したがって結果的に、社会的な価値の明白な[#「明白な」に傍点] [prima facie] 証拠なのである。だが衣装は、このようなたんなる浪費的な消費の露骨で直接の証拠というよりもむしろ、微妙ではるかに広い可能性をもっている。着用者が思うまま贅沢に消費できるということを知らせるだけでなく、もし当の人物が生活の資を稼ぐ必要がない、ということを同じ手段で知らせることができるなら、社会的な価値の証明力は著しく高められることになろう。それゆえ、その目的に効果的に役立つためには、われわれが着用する衣装は、たんに高価であるだけでなく、その着用者がいかなる種類の生産的労働にも従事していないということを、あらゆる観察者に分かるようにしなければならない。われわれの衣装システムが、現在のように、その目的に申し分なく適合したものに仕上げられる進化過程のなかで、このような副次的な方向の証拠はそれにふさわしい注意を払われてきた。優雅な衣服に対する大衆の理解の中身を詳しく吟味すれば、それはあらゆる点で、着用者が習慣的にまったく実用的な努力を遂行していない、という印象をともかくも伝えていることが明らかになろう。もちろん、かりに衣服が汚れているとか擦り切れているという点で、着用者による肉体労働の結果を示していれば、いかなる衣服であれ、優雅であるとか上品であると理解されないことは、言うまでもないことである。あか抜けした汚点のない着物が人を満足させる効果は、たとえすべてではないにしても、その大部分が閑暇を示唆するもの――あらゆる種類の産業過程と個人的な接触をもたずにいること――に起因している。紳士の生来の品位を著しく高めるエナメル革の靴、真っ白な下着、光沢のある円筒形の帽子、ステッキなどに備わっている魅力の大部分は、このように盛装したとき、直接であれ間接であれ、人間の役に立つ職業で腕を振るうことができない、ということを端的に示唆するところに由来する。優雅なドレスが優雅さという目的に役立つのは、たんに高価であるばかりか、同時に、閑暇の印でもあるからである。それは、着用者が比較的大きな価値を消費しうるということを示すだけでなく、同時に、何も生産せずに消費する、ということを立証しているのである。
着用者が生産的な仕事をしていないことを際立たせるという点にかけて、婦人のドレスは、男の衣装よりずっと効用がある。労働を不可能にするという点については、優雅な形の女性用ボンネットのほうが男性のシルクハットよりもずっと効用がある、という一般化を補強するための証拠など不要であろう。婦人靴は、その光沢によってもたらされる強制的な閑暇の証拠として、いわゆるフレンチヒールをつけ加えている。というのは、明らかにこのハイヒールは、あらゆる仕事、つまり最も単純で不可欠な肉体的な仕事でさえ、ほとんど困難なものにしてしまうからである。同じようなことは、婦人のドレスの特徴であるスカートや他のドレープの類について、さらに高い程度で妥当する。われわれがあくまでもスカートに執着する実質的な理由はまさに以下のこと、すなわち、それは高価であるばかりか、いつでも着用者の邪魔になり、しかも彼女があらゆる有用な骨の折れる仕事をできないようにする、ということにある。同じようなことは、髪の毛を異常に長くたらすという女性の習慣についても妥当する。
だが、婦人の衣服が現代の男の衣服を超えているのは、たんにそれが労働からの免除を大いに立証するからだけではない。それはまた、男が習慣的に行うものとは種類の違った、特異で高度に特徴的な特色をつけ加える。この特色とは、コルセットが典型的な例となるような類の工夫のことである。経済理論的にみると、コルセットは、身体の活力を低下させ、女を永久かつ明白に仕事に適さないようにする、という目的のために耐え忍ばれる実質的な障害である。コルセットが着用者の身体的な魅力を損なうことは確かだが、そのために被る損失は、めだって増加した高価さと虚弱さに由来する評判の上昇によって相殺される。婦人服の女らしさは、本質的な事実という点でみると、骨の折れる有用な仕事をきわめて効果的に妨害するという、女に特有な衣服によってもたらされる特徴に由来する、と考えても大きな間違いはなかろう。男らしい衣服と女らしい衣服との違いは、ここでは、明々白々な特色として指摘されているにすぎない。詳細な根拠は、やがて議論することになろう。
したがって、いままでのところわれわれは、ドレスをめぐる偉大かつ支配的な規範として、顕示的浪費という広範な原理をもっている。この原理に付随し、しかもその系論ではあるが、われわれは第二の規範として顕示的閑暇の原理を手に入れている。ドレスの制作においては、着用者が生産的労働に従事していないばかりか、上手に示しうるかぎり、それに従事しえない、ということを示すのに役立つさまざまな工夫という形で、この規範が遂行される。この二つの原理のほかに、規制力としてはほとんど劣らない第三の原理があるが、それは、いやしくもこの主題について考えたことがある人なら、誰でも思いつくものである。ドレスは顕示的に高価で不便でなければならない、というだけではない。それは同時に、最新のものでなければならない。移り変わる流行現象に関する満足のゆく説明は、これまで提供されてこなかった。認知済みの最新マナーで着こなすという回避しがたい要請は、この公認のファッションが季節ごとにつねに変化するという事実と同様に、誰の目にも十分明らかであるが、この消長と変化に関する理論はまだ組み立てられていない。もちろん、この斬新さという原理は、顕示的浪費の法則に服属するもう一つの別の系論である、と言ったとしても、一貫性にも真実性にもなんら問題は生じまい。かりに、着物がごく短期間だけしか役に立たなくてもよいとされ、昨シーズンの衣服がもち越されて今シーズンも着用されることなどなければ、ドレスに対する浪費的な支出が著しく増加することは明らかである。そうなってゆくかぎりこの効用は確かに認められるが、それは、消極的な意味においてのことでしかない。このような考察から分かってくるのは、顕示的浪費の規範がドレスに関するあらゆる事柄を支配する監視役を担っているため、あらゆるファッションの変化は浪費性という要件をみたさなければならない、ということくらいである。要するにそれは、|流行《はや》っているスタイルを変化させたり受け入れさせたりする誘因は何か、という疑問に答えるものではないし、何ゆえあるときに一定のスタイルに従うことが周知の義務といってよいほどの緊急性をもつようになるか、という理由を説明しうるものでもない。
ファッションにおける発明や革新に対する動機になりうる創造的な原理を求めるのであれば、われわれは、衣服が考案される根源となる非経済的な動機――|装飾《アドーンメント》という動機――にまで、立ち戻らなければならない。この動機がどのようにして、また何ゆえ高価さという法則の下で自己主張するかという点を広範に検討しなくても、おおまかな言い方はできるだろう。つまり、ファッションにおける一連の革新は、おのおの形や色、さらには効果をめぐるわれわれの感覚からして、古いものよりもずっと受け入れやすい形の誇示にたどりつこうとする努力なのだ、と。スタイルの変化は、われわれの審美的感覚に合うものが絶え間なく追求されていることの表れであるが、革新はすべて顕示的浪費の規範による淘汰作用の影響下にあるため、それが生じうる範囲がある程度制限される。その革新は、たいていとり替えられたものよりも不快さの程度が改善されている、という意味でより美しくなければならないだけでなく、社会的に認知された水準の贅沢さをも満たしていなければならない。
ちょっと考えたところでは、そのようなドレスの美を達成しようとする絶え間ない闘いは、芸術的な完成に向けて漸次近づいているはずだ、と思われよう。ファッションは、明らかに人間の体型によく似合ういくつかのタイプの衣服に向かう傾向をはっきり示しているはずだ、と期待してもごく自然なことであろう。さらにまた、長い年月にわたってドレスに費やされてきた創意と努力にかんがみて、今日ファッションが、永遠に支持しうる芸術的な理想に限りなく近い、相対的な完成と相対的な安定性とを達成しているはずだ、と期待する十分な根拠があると考えることさえできるだろう。だが、そんなことにはならない。今日のスタイルが、十年前や二十年前の、さらには五十年や百年前のそれよりも本質的にずっと映りがよいと主張することは、実際きわめて危険なことであろう。他方、二千年前に流行していたスタイルが、今日の最もあか抜けしていて、しかも丹精込めた構図よりもずっと映りがよいと主張したとしても、矛盾をきたすことなく受け入れられるであろう。
とすれば、いま述べたファッションの説明は完全な説明にはなっておらず、したがってさらに立ち入って吟味する必要があるだろう。一定の比較的安定したスタイルやタイプの衣装が世界各地で定着していることは、よく知られている。たとえば、日本人、中国人、その他の東洋人の間とか、古代のギリシア人、ローマ人および他のヨーロッパ人の間とか、さらにはまた、後の時代のほぼヨーロッパ全土の農民の間という具合に。このような国民的または大衆的な服装は、ほとんどの場合有能な批評家によって、現代の文明化された衣服の変わりやすいスタイルよりもずっと映りがよく、はるかに芸術的だと見なされている。同時にまたそのようなものは、少なくともふつう、浪費的である程度がめだって小さい。すなわちその構図のなかで、支出の誇示以外の要素がずっと容易に見つかるということだ。
このような比較的安定的な服装は、一般的には、かなり厳密にしかも狭く地域化されており、場所によって、わずかであっても体系的な濃淡を示すほど異なっている。それはすべて、われわれよりも貧しい人々や貧しい階級によって作り上げられてきたものであり、とりわけ彼らが属していた国や地域や時代においては、当該の着物を着用する住民ないし少なくとも階級は、比較的同質的で、安定的なうえ定住的であった。すなわち、時の試練に耐えるような安定した着物が作り上げられたのは、顕示的浪費の規範が義務的なものとして幅をきかせることのない環境の下で、すなわち比較的移動が激しい豊かな住民がファッションの模範となっている、現代的な巨大文明都市とは異なる世界でのことだった。このように安定的で芸術的な着物を作り上げた国や階級は、彼らの間での金銭的な競争心が、財の顕示的消費よりもむしろ、顕示的閑暇をめぐる競争に向かうように方向づけられてきたのである。したがって、われわれの社会がそうであるように、財の顕示的浪費という原理が最大限義務的なものとして幅をきかせるような共同社会では、ファッションは最も安定性を欠くばかりか、最も不釣り合いなものとなるということが一般的に妥当することになろう。このことはすべて、高価さと美的な衣服との間の対立を浮き彫りにしている。実際には、顕示的浪費の規範は、ドレスは美しく映りがよくなければならない、という要件と両立しえない。そしてこの対立が、高価であるという規準でも美という規準でも、ともに片方だけでは説明しえないファッションの絶え間ない変化を説明するのである。
名声の標準が要求することは、ドレスは浪費的支出を誇示すべきだというものであるが、およそ浪費性は、人間に生まれつき備わっている好みからすれば腹立たしいものなのである。すでに心理学的法則が明らかにしてきたように、あらゆる男――おそらく、女はさらに高い程度でそうなのだが――は、努力する際であろうと支出する際であろうと、無駄というものを忌み嫌う。かつて自然が真空を忌み嫌うと言われたのと同じほどに。だが、顕示的浪費の原理は明らかに無駄な支出を要求するのであって、結果として生じるドレスの顕示的な高価さは、それゆえ、本来的に醜悪なものである。こうしてわれわれは理解する。ドレスにおけるあらゆる革新のなかで付加され修正された細部は、一定の見かけ上の目的を示すことによって、即座に生じる非難を回避しようと努力しており、そして同時にまた、顕示的浪費の要件のほうは、このような革新の合目的性が明らかに見せかけに堕さないように見張っている、というのである。最も自由に飛翔した場合でさえ、およそファッションがなんらかの明白な有用性のまねごとから逃れることなど、まずありえない。しかしながら、ドレスのファッショナブルな細部がもつ表向きの有用性は、つねにきわめて明瞭な見せかけであり、したがって、まもなくその実質的な無益さが、その着用をあきらめさせるほどの悪印象を押しつけるようになり、こうして、新しいスタイルに救いが求められることになる。だが新しいスタイルは、名声に値するような浪費性と無益さの要件をみたさなければならない。まもなくその無益さは先行のそれと同じほど不愉快なものになり、それゆえ浪費性の法則が許容する唯一の救済は、同じように無駄で同様に支持しがたいなんらかの新しい構図に助けを求めることになる。こうして、本質的な醜さとファッショナブルな盛装の絶え間のない変化が現れる。
ファッションが移り変わる現象をこのように説明したので、次の課題は、この説明を日常的な事実と照合することである。こうした事実のなかには、すべての人がある時期流行しているスタイルに対してもっている、周知の偏愛がある。新しいスタイルが流行するようになり、シーズンの間ずっと愛好され、そして、少なくともそれが斬新であるかぎり、人々はごく一般的に新しいスタイルを魅力的だと見なす。広く行きわたっているファッションは、美しいと感じられる。こうなる理由の一部は、以前あったものとは異なっているというファッションがもたらす安堵感に、また一部は、それが名声に値するということにもとづいている。前章で指摘したように、名声の規準はある程度までわれわれの好みを形づくるから、それに導かれて結果的に斬新さが消失するまで、すなわち、同じ一般的な目的に役立つ新しい斬新な構図に名声の保証が移転されるまで、どのようなものでも映りがよいと信じられるであろう。ある時期流行しているスタイルについて言い立てられた美しさや「すばらしさ」が、一時的で見せかけのものでしかないということは、多くの移りゆくファッションのどれとして時の試練に耐えないだろう、という事実によって立証されている。六年ないしそれ以上という見通しのなかでみれば、現代のファッションの最良のものも、醜いとまではいかないにしても、グロテスクなものという印象を免れないであろう。われわれが最も新しく生じたことに一時的に執着するのは、審美的なものとは別のものにもとづいているからで、したがってこの執着は長く続くことがなく、いずれはわれわれの不変の美意識が自己主張し始めて、この最後の消化しがたい工夫を拒否することになるのである。
審美的な嫌悪が増大する過程はある程度時間を要するが、それにかかる時間は、つねに当該のスタイルが本来もっている不快さの程度に反比例している。ファッションにみられる不快さと不安定さとの間のこのような時間の関係は、成功したスタイルが次々と別のものにとって替わる速度が速ければ速いほど、それだけ健全な好みに対してより多くの不快感を与えている、という推論を根拠づけている。したがって、以下のように推定できるだろう。共同社会――とりわけ共同社会の富裕階級――が移動性と人間的接触の範囲を拡大すればするほど、衣装をめぐる事柄に関して、顕示的浪費の法則がますます命令的なものとして幅をきかせるようになり、ますます美意識が金銭的名声の規準にうち負かされたり従属させられたりする傾向が生じる。するとファッションはより頻繁に変わるようになり、次々と流行するさまざまなスタイルがますますグロテスクで耐えがたいものになる、というわけである。
この衣装の理論のなかでまだ議論されていない論点が、少なくとももう一つ残っている。以上述べてきた大部分のことは、女の盛装と同様に男の盛装についても妥当するが、現代では、男よりもむしろ女について、ほぼすべての点ではるかによく妥当する。だが、ある一点では、女の衣装は男の衣装と著しく異なっている。女の衣装においては、着用者があらゆる骨の折れる生産的職業に不向きであるか、またはそれを免除されている、ということを立証するような特徴が明らかに大きく強調されている。女の衣装のこの特色が関心を引くのは、それがたんに衣装の理論を完全なものにするからだけでなく、過去と現在における女の経済的な地位について、すでに主張してきたことを確証するものだからである。
代行的閑暇と代行的消費の項目の下で、女の地位について議論したときすでに確かめておいたように、家庭の長のために代行的な消費を行うことが女の任務になり、女の衣服がこの目標を視野に入れて工夫されたのは、経済が発展してくる過程でのことだった。高貴な女性にとって、見るからに生産的な労働は並外れて権威を傷つけるという事態が生じ、したがって、着用者が実用的な仕事に習慣的に従事することはおろか、少しでも従事することが不可能だという事実(実際には、しばしば作為ではあるが)を観察者に印象づけるために、特別な苦痛が女性の衣装の構造のなかに組みこまれざるをえなくなる。|礼儀正しさ《プロプライアテイー》は、高貴な女性が一貫して実用的な努力から遠ざかり、同じ社会階級に属する男性以上に閑暇の誇示に励むよう要請する。およそ育ちのよい女性が実用的な仕事で生活の糧を稼ぐなどと考えるだけで、われわれの神経にはキリキリと痛みが走る。それは、「女の本分」ではないのである。彼女の本分は家庭のうちにあり、彼女はそれを「美しくする」必要があるばかりか、彼女自身がその「主要な装飾品」でなければならないのである。家庭における男の長は、ふつうその装飾品だと言われない。この特徴を、女性の衣装や他の装飾品における費用のかかる誇示にますます際限なく留意するよう要求するものが|世間体《プロプライアテイー》である、という別の事実と結びつけて理解すると、以前述べたことにすでに含まれていた見解を強化するのに役立つだろう。われわれの社会システムは家父長制的な過去からの血統を引き継いでいるため、家庭の支払い能力を立証することが、女性の機能としてとくに際立ったものになる。現代の文明的な生活図式に従えば、彼女が所属する家庭の名声こそ、女性が特別に配慮すべき事柄でなければならず、したがって、もっぱらこの名声維持の手段である、名誉に値する支出と顕示的な閑暇というシステムこそが女の本分なのである。理想的な図式をもってすれば、それは、より高級な金銭的階級の生活のなかで実現されていく傾向であるから、このように物財と努力の顕示的浪費に留意することが、ごく当たり前のこととして、女性の唯一の経済的機能であるべきなのである。
なお完全な意味で女が男の所有財産であったような経済発展段階で、顕示的な閑暇と消費の遂行が彼女たちに要求されるサービスの一部になってきた。女は自分自身の主人ではなかったから、彼女たちが行う明白な支出や閑暇は、彼女たち自身の名誉というよりも、むしろ主人の名誉に跳ね返るものであった。それゆえ、家庭の婦人がより贅沢ではっきりと非生産的であればあるほど、彼女たちの生活は、家庭またはその長の名声のため、という目的にとってさらに効果的であり、面目を施すものになったわけだ。女はたんに有閑生活の証拠を提供するだけでなく、実用的な活動能力を自ら喪失するように求められてきたほどである。
男の衣装が女のそれに達しないのはこの点であって、それには十分な理由がある。顕示的浪費と顕示的閑暇が名声に値する理由は、それが金銭的な能力の証拠だからである。金銭的な能力が名声や名誉に値する理由は、究極的には、それが成功と卓越した力を立証するからである。したがって、あらゆる個人が自分自身のためにもち出した浪費や閑暇の証拠は、彼自身の側の無能力や顕著な不快さを立証するほどには遂行されえないし、一貫してそのような形式をとることもできない。その場合には、その表示は、卓越した力ではなく劣弱さを見せつけているのだから、結果的に、その分だけ自己の目的に背いていることになる。したがって、普通または平均的に、浪費的支出と努力の回避とが、明らかな不快さや自発的に引き起こされた肉体的な無能力を精一杯誇示するように遂行されるところではどこでも、当の個人がその金銭的名声を高めるためにこの浪費的支出を実行したり、この無能力を耐え忍ぶ、などということは決して起こらない。そんなことをしようものなら、むしろ彼女を経済的な従属関係――つまり経済理論的につきつめて考えれば、隷属の関係に帰着するような関係――に立たせている当の男のための行為にすぎない、ということが瞬時に推測されてしまうであろう。
この一般理論を女の衣装に適応して具体的に定式化すると、こうである。ハイヒール、スカート、実用的でないボンネット、コルセット、あらゆる文明的な女性の衣服の明白な特徴である着用者の快適さを一般的に無視することは、現代の文明的な生活図式のなかで、女はなお理論的に男の経済的従属物である――すなわち、かなり理念的な意味で言えば、女はいまもなお男の所持品である――という趣旨のありふれた証拠なのである。女がこのような顕示的な閑暇と豪華な衣装とを行使する世に通行の理由は、経済的な機能が分化してゆくなかで、女は主人の支払い能力の証拠を提供するという任務を委嘱されてきた使用人である、という事実にもとづいている。
女の衣服と使用人の衣服、とくに使用人の着るお仕着せとの間には、この点に関して著しい類似性が存在する。両方ともきわめて手のこんだ高価さの誇示を不必要なほど多く含んでおり、しかも両方とも、着用者の肉体的な快適さがあからさまに無視されている。しかし、婦人の豪華な衣装は、たとえ着用者の肉体的虚弱さではないにしても、その怠惰を詳細にわたって強調している点で、家庭用使用人のそれを超えている。そしてこれが、かくあるべき事柄なのである。というのは、金銭的な文化の理想図に従えば、理論的には、家庭の婦人が家庭の使用人頭だからである。
現在そのようなものと考えられている使用人に加えて、外観が使用人階級によく似ており、女性のドレスの女らしさを形づくるのに役立つ多くの特徴を誇示している人々が、少なくとももう一階級存在する。聖職者階級がそれである。聖職者の正装は、身分と代行的な生活を証拠立てるために示されたあらゆる特徴を、誇張された形で表現している。聖職者の正装は、その日常的な習慣よりもはるかに著しい程度でどぎつく飾り立てられており、グロテスクで不便であり、少なくとも表面的には苦痛を与えるほど快適さに欠けている、と言ったほうが適切である。同時にまた聖職者は、実用的な努力を手控え、公衆の眼に晒されているときには、訓練の行き届いた家事使用人に勝るとも劣らぬマナーで感情を表さず、絶望的な顔つきを浮かべているように期待されている。きれいに剃り上げた聖職者の顔は、同じ効果をもたらすもう一つの項目である。態度や衣服に現れるこうした聖職者階級の従者階級への同化は、二つの階級が経済的機能としてもつ類似性に起因している。経済理論としてみれば、聖職者とは、着用している制服の持ち主である神格に対して、擬制的に付き添っている従者なのである。その制服は、きわめて高価な性質のものであるが、高貴な主人の尊厳をふさわしい流儀で説明しようとすれば、当然そうならなければならないものなのである。だがその服には、着用者の肉体的な快適さにほとんど益するところがない、ということを誇示するための工夫が施されている。というのは、それは代行的消費の一項目であり、したがってその消費から得られる名声は、使用人にではなく、目にみえない主人に転嫁すべきものだからである。
一方で女、聖職者および使用人の衣装と、他方で男のそれとの間にある区分線は、実際必ずしも厳密に守られているわけではないが、それが、ある程度確固たるものとして大衆の思考習慣のなかにつねに存在することは、ほとんど疑問の余地がない。もちろん、男女間の理論的な境界線を踏み越えて、明らかに人間の骨格を苦しめるためにデザインされた衣服で盛装しようと試みるほど、完璧な名声に値する豪華な衣装に我を忘れてしまう|放埒《ほうらつ》な男もいる。しかし、誰もがためらいなく同意することは、そのような紳士服が常軌を逸しているということである。そのような衣装は「女々しい」、と言う習慣があるし、そんなふうに着飾った紳士のたくみな着こなしは男の使用人さながらである、という批評を耳にすることも稀ではない。
この衣装理論にはある種の明白な矛盾があるが、とくにそれは、より最近の成熟した段階の衣装における多少とも明白な傾向を表しているという理由で、さらに立ち入った検討を必要とする。コルセットの流行は、ここで実例として指摘してきた規則からの明らかな例外である。しかし、さらに詳しく調べてみるとはっきりすることだが、実際この例外は、衣装のなんらかの特徴や構成要素における流行というものが金銭的な立場の証拠としての効用にもとづいている、という規則の証明なのである。周知のように、産業的に発展した共同社会では、コルセットの着用はごく限られた社会階層の間でしかなされない。下層階級の女、とくに田舎の人々は、祭日の贅沢を除けば、それを使用する習慣をもたない。この階級の女性は一所懸命に働かなければならず、日常生活のなかで肉体をそれほど苦しめて閑暇を装うという仕方を、ほとんど利用することができない。祭日にそのような工夫を用いることは、上流階級の礼儀作法を模倣したものなのである。低い水準の教養や肉体労働よりも上に位置する階級の間では、一ないし二世代前まで、最も豊かで名声の高い部分も含めたすべての女性が社会的に非のうちようがない立場に立つためには、コルセットが不可欠であった。この規則が保たれたのは、その階級に属する人々が肉体労働への従事による汚名を受けないほど十分に豊かであったと同時に、さほど大きな人数に達していなかった――つまり、ひとえにその階級に支配的な考え方に強制されて、階級内部で特別な行為規範の基礎を提供するような、自立的で孤立的な社会集団を形成するにいたっていなかった――かぎりにおいてのことなのである。だが現在では、それだけの富を所有する有閑階級が十分大きく成長してきた結果、強制された手仕事への従事を理由にした非難など、名誉|毀損《きそん》としては、ほとんど効果をもたないであろう。それゆえ、コルセットはこの階級内部でほとんど使われなくなったのである。
このコルセットを免除されるという規則の下での例外は、真実というよりもむしろ見せかけである。これは、比較的低次な産業構造――古代的で半産業的な類型――をもつ国々の富裕階級とともに、ずっと発展した産業社会で近年ようやく富裕階級に加わった人々の間で生じることである。後者はまだ、以前の低い金銭的階層からもちこしてきた卑しい好みや名声の規準から抜け出す、十分な時間的余裕がないのである。このようなコルセットの残存は、たとえば、最近になって急速に豊かになったアメリカ諸都市の上層社会階層の間では、稀なことではない。なんの嫌悪も含意しない専門用語で表現するなら、コルセットが持続するのは、もっぱら紳士気取りの時代――低い金銭的文化の水準から、高い水準に向かう不特定な移行の期間――においてのことだ、と言ってよいだろう。すなわち、コルセットを継承してきたどこの国でも、着用者の肉体的な無能力を立証することが名誉に値する閑暇の証拠としての役目を果たしうるかぎり、その使用は続くのである。もちろん同じ規則は、他の障害や個人の外見的な能率を低下させるための工夫についてもあてはまる。
ある程度似たことが、いくつかの顕示的消費の項目についても妥当するはずであり、実際、この種のことは衣装のさまざまな特徴に関して、とくにそうした特徴が着用者に対するはっきりした不愉快さや不快そうな外観を含んでいる場合に、多少程度が劣るとはいえ、妥当するように思われる。過去百年の間に、とくに男の衣装の発展のなかに、当時はまだ立派な目的に役立ってはいたが、現代の上流階級の間で持続されたなら義務以上の仕事になってしまうような、かなりはっきりした傾向が生じた。すなわち、そのときでもすでに面倒なものであったに違いない、閑暇のシンボルの利用とそれにまつわる支出が中断する、という傾向である。たとえば、ヘアパウダーをかけたかつらや金モールの利用とか、常時顔剃りしておくという慣行のように。最近になって上流社会で顔剃りがわずかばかり復活しているが、おそらくこれは一時的なもので、従者たちに課せられたファッションの軽率な模倣であり、したがって、われわれの祖父の時代のヘアパウダーをかけたかつらのように滅びてしまう、と予想するのが正しいであろう。
このような兆候は、類似の他の兆候――習慣的になんの役にも立たないということを、それを採用している人々があらゆる観察者に明らかに示す際の厚かましさという点で、よく似ている兆候――とともに変移し、同じ事実を表現する別のもっと繊細な方法――すなわち、むしろ、評判を得ることを至上命題とする小規模な選り抜き集団の鍛えられた目にはっきり見える方法――に置き換えられてきた。まだ十分洗練されていない以前の宣伝方法が有効であったのは、誇示する人の訴えかけるべき大衆がまださほど訓練されていない多数の社会構成員から成り立っていて、富や閑暇のなかにある細かな変化を見破ることができないときに限られる。支出がもつ微妙な兆候を解釈する技能を修得する暇をもつ富裕な階級が十分な数まで成長したとき、宣伝方法は洗練されるのである。「派手な」衣装は、俗人の未熟な感性を納得させ印象づける、という不当な願望を証明するがゆえに、人々の好みに合わなくなる。育ちがよい個人にとって重要な結果とは、自身の属する上流階級構成員の洗練された感覚によって与えられる、名誉に値する評判だけである。富裕な有閑階級が大きく成長し、それに属する個人と他の構成員との接触が拡大することで、名声という目的のために申し分ない人間環境が作り出されるようになると、卑しい階層の住民を、賞賛や屈辱をその胸に抱かせなければならない観察者としてさえ、こうした図式のなかから排除しようとする傾向が生じてくる。およそこうしたことの結果が、衣装における方法の洗練であり、繊細な工夫への依存であり、さらには象徴体系の浄化なのである。加えて、この上流階級が礼儀作法をめぐるすべての事柄の先端を進むから、社会の非上流階級すべての人々にとってもまた、衣装体系が徐々に改善されるという結果がもたらされる。共同社会が富と文化の点で進展するにつれ、観察者の側にますます細かな区別を要求するような手段で、支払い能力が証明されるようになる。実際、高度な金銭的文化のなかでは、この宣伝手段の間の細かな区別がきわめて大きな要素を占めているのである。
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第八章[#「第八章」はゴシック体] 産業からの免除と保守主義
社会における人間の生活は、他の生物のそれと同様に生存のための闘いであり、したがってまた、淘汰的適応の過程でもある。社会構造の進化は、制度の|自然淘汰《ナチユラル・セレクシヨン》の過程であった。人間の制度や資質のなかで生じたり、生じつつある進歩は、大まかに言えば、人間の生活が営まれる社会の成長や制度の変化とともに漸次変化してきた、環境に対する諸個人の強制的な適応の過程と最適な思考習慣の自然淘汰とに帰することができよう。制度それ自体は、たんに普及し、支配的なタイプになっている精神態度や習性を形成する淘汰的で適応的な過程の産物であるだけではない。それは同時に生活と人間関係の特定の体系であり、それゆえ、次の機会には淘汰をもたらす要因になるのである。したがって、変化する制度は、次の機会に最適な気質に恵まれた諸個人をさらに選び出すのに役立つだけでなく、新しい制度の形成をつうじて、個人の気質や習慣を、変化しつつある環境によりいっそう適応させるのにも役立つのである。
人間生活と社会構造の発展を実現してきた諸力を、究極的に、生きている組織と物理的環境という用語に還元できることは、疑問の余地のないことである。しかし当面の目的のためには、おおよそこのような力は、一面では人間的であると同時に非人間的でもある環境と、多少とも明確な肉体的かつ知的な構造をもつ人間主体と、この両者を基礎にして定式化されるのがおそらく最善であろう。人間主体のほうは、全体的にも平均的にも多かれ少なかれ可変的なものであるが、それが主として好都合な変異を淘汰的に保存する、という規則に従っていることは間違いない。好都合な変異の淘汰は、おそらくその大部分が|民族類型《エスニツク・タイプ》の淘汰的な保存から成り立っていると見てよい。さまざまな民族的要素から成り立っているような共同社会の生活史をつうじて、いくつかの永続的で比較的安定的な型の体躯や気質のいずれかが、ある特定の時期に支配的なものになってくる。ある特定の時期に優勢になるような制度を含めて、社会状況は、ある一つのタイプの特徴が他のものよりも生き残って支配的になるのに有利に働くであろう。したがって、過去から受け継いできた制度を、生き残ってさらに精巧なものに仕上げるように淘汰された人間類型は、かなりの程度まで、自分自身の姿に合わせてこのような制度を作り上げることになろう。しかし、比較的安定的な型の性格や好みの習慣の間で生じるような淘汰を別とすれば、支配的な民族類型、あるいは諸類型を特徴づける一般的な枠内で、思考習慣の淘汰的な適応のプロセスが同時に進行していることは確かである。どのような住民の基本的特徴においても、比較的安定的な諸類型間の淘汰をつうじての変異が生じうる。しかしまた、その類型の枠内での細部にわたる適応に起因する変異や、一定の社会関係やまとまりをもった諸関係に関する特定の習慣的な理解の間の淘汰に起因する変異もある。
もっとも、当面の目的のためには、適応過程――もっぱら安定的なタイプの気質や形質の間の淘汰であろうと、あるいは、もっぱら変化する環境に対する人間の思考習慣の適応であろうと――の性質をめぐる問題は、なんらかの方法で制度は変化し発展する、という事実ほど重要性をもつわけではない。制度は、変化する環境とともに変わるはずである。というのは、制度には、このような変化する環境が与える刺激に反応しようとする習慣的な方式、という性質が備わっているからである。このような諸制度の発展が、社会の発展である。制度とは、実質的にいえば、個人や社会の特定の関係や特定の機能に関する広く行きわたった思考習慣なのである。したがって生活様式というもの、つまり、あらゆる社会の発展過程の一定の時と所で効力をもつ諸制度の全体を構成するものは、心理学的な面からみて、広く行きわたった精神態度や人生観だ、とおおよそ特徴づけることができよう。このような精神態度や人生観の一般的特徴は、究極的には、広く行きわたったタイプの形質という用語に還元可能なものである。
今日の状況が、淘汰的で強制的なプロセスをつうじて、人間の習慣的なものの見方に作用を及ぼすことによって明日の制度を形づくり、こうして、過去から受け継いできたものの見方や精神態度を、変更したり強化したりするのである。人間が手引きにしつつ生きてゆく制度――すなわち思考習慣――というものは、先立つ時代、つまりかなり遠い昔からこうして引き継いできたものだが、いずれにしてもそれは、過去の間に精微化され、過去から受け継いだものなのである。制度は過去のプロセスの産物であり、過去の環境に適応したものであり、それゆえ、決して現在が要求しているものに完全に一致することはない。ものの道理として当然のことだが、この淘汰的適応のプロセスは、いかなるときでも、社会が置かれている状況の漸次的な変化に決して追いつくことができない。というのは、状況――つまり、適応を強制し、淘汰を実行させる生活の必要性――は日々変化するからである。したがって社会の歴代の状況は、完成されてしまうやいなや、おのおの順番に廃れてゆくことになる。発展の第一歩が踏み出されたとき、この第一歩それ自体が、新しい適応を要求する状況の変化を引き起こす。それは、いつ果てるともなく続く適応への、新しい一歩を踏み出すための出発点となる。
とすれば、いささか退屈な自明の理だが、今日の制度――現在受け入れられている生活図式――は、今日の状況に完全に適合しているわけではない、ということが注意されなければなるまい。と同時にまた、現在の人間の思考習慣は、環境が変化を強制しないかぎり、無限に持続する傾向をもっている。こうして、われわれが受け継いできたこのような制度、このような思考習慣、ものの見方、精神態度や習性等々は、したがってそれ自体が保守的な要因である。これが社会的惰性、心理的惰性、すなわち保守主義の要因なのである。
社会構造は変化し、発展し、さらに変化した状況へと適応するが、これは、もっぱら社会を構成するいくつかの階級の思考習慣の変化をつうじて、すなわち、究極的には共同社会を構成する諸個人の思考習慣の変化をつうじてなされることである。|社会《ソサイアテイー》の進化は、実質的にいえば、過去の異なった一連の環境の下で、もはやそれに合致するように形成された思考習慣を許容しないような環境の圧力を受けて、個人の側でなされる精神的な適応の過程なのである。当面の目的のためには、この適応の過程が、永続的な民族タイプの淘汰と生き残りの過程であるのか、それとも、個人的な適応と獲得された形質の継承の過程であるのか、という問題は必ずしもそれほど重要なことではない。
とくに経済理論の見地からみた場合には、社会進歩は、ほぼ正確な「内的諸関係の外的諸関係に対する」「適応」へたえず漸進的に接近することにあるが、しかしこの適応は、「内的諸関係」のなかで進行しつつある漸次的な変化の結果、「外的諸関係」がつねに変化を被っているから、決して最終的に完遂されえない。だが、適応が行われる容易さ次第で、この接近の程度は、大きくなったり小さくなったりしうる。変化した状況の要求に適応しようとする人間の思考習慣の再適応は、いかなる場合も、のろのろと不承不承にしか、したがって、公認の考え方を支持しがたくした状況が押しつける強制の下でしか、なされない。変化した環境に対する制度と習慣的な考え方の再適応は、外部からの圧力に応じて実行される。つまりそれは、刺激に対する反応という性質のものなのである。再適応を行う安易さと容易さ、すなわち社会構造のなかの成長能力は、したがって、状況がある特定の時に共同社会の個々の構成員に対して作用する安易さの程度――個々の社会構成員が環境のもつ拘束力にさらされている程度――に、大部分依存している。もし社会のある部分ないし階級が、なんらかの基本的な点で環境のもつ力から保護されていれば、共同社会のその部分または階級は、自己の考え方と生活図式とを、変化した一般状況にとてつもなくゆるやかに適応させることになろう。その分だけ、それは社会変革のプロセスを遅延させることになりがちであろう。富裕な階級は、変化や再適応に寄与する経済的な力という点でみると、そのような保護された地位にある。制度の再適応に寄与する力、とくに現代的な産業社会におけるそれは、究極的に、ほとんどすべて経済的な性質のものだと言うことができる。
あらゆる共同社会は産業的または経済的なメカニズムと見なしうるが、その構造は経済的な制度と呼ばれるものから構成されている。このような制度は、社会が物質的環境と交わりながらその生活過程を遂行する、習慣的な方法である。与えられた環境のなかで人間活動を展開する一定の方法がこのような仕方で仕上げられたとき、社会の生活は、ある程度容易に、こうした習慣的な方向で自己を表現するであろう。社会は、過去の間に学びその制度に組みこんできた方法に従って、自らの生活目的のために環境がもつ力を利用するであろう。だが、人口が増加し、自然の力を管理する人間の知識と技能が拡大してくると、集団構成員の間の習慣的な関係の仕方や集団全体としての生命活動を遂行する習慣的な方式がもはや従来と同じ結果をもたらさなくなるだけでなく、結果的な生活諸条件の配分や割当も、さまざまな構成員の間で、従来と同じ方式でなされたり、同じ効果をもったりしなくなる。もし集団の生活過程が、集団の生活過程の効率性や容易さという点で、以前の条件に従って遂行されるような方式がほぼ達成しうる最高の成果を――その環境の下で――与えるとしても、変化した条件の下では、無修正の同じ生活図式は、達成しうる最高の成果をもたらさないであろう。人口、技術および知識などが変化した状況の下では、伝統的な図式に従って実現される生活の容易さが従来のものより低くならないということももちろんありえようが、しかし、変化に適合するようにその図式が変更された場合に比して低くなる、という可能性もつねに存在する。
集団は諸個人から構成されており、したがって集団の生活は、少なくとも表面的には、おのおの別々に遂行される諸個人の生活である。集団によって認知された生活図式は、人間生活として正しく、善良で、時宜にかない、美しいものは何かについて、このような多数の人々が抱いている考え方の総意である。環境への対処方法が変化した結果として生活条件の再配分が生じても、生活の容易さが集団全体をとおして均等に変化する、という結果になるわけではない。変化した状況は、集団全体にとって生活の容易さを増大させることになろうが、しかしその再配分は、集団内の特定の構成員の生活の容易さや満足の減少をもたらすことが通例であろう。技術上の方法、人口や産業組織などの増進は、もしそれが変化した産業の方法に容易かつ効果的に入りこむとすれば、少なくともその共同社会の一部の構成員に対して、その生活習慣を変更するように要求するであろう。それゆえ彼らは、そうするなかで、既存の正しく美しい生活習慣に関する考え方に従って行動することができなくなるであろう。
誰であれ、生活習慣や同胞に対する習慣的な関係を変更するように要求された人は、新規に生じた必要性によって要請された生活方法と、従来慣れ親しんできた伝統的な生活図式との間の較差に気づくであろう。受け継いできた生活図式を再建しようという最も活発な動機をもちながら、しかも新しい標準を受け入れるように最も説得されやすいのは、この立場に置かれた人々である。環境によって集団に対して加えられ、集団の生活図式の再適応に寄与する圧力は、金銭的な必要性という形で集団の構成員に影響を及ぼす。あらゆる現代的な産業社会における、制度の再適応のための重要な力が主として経済的な力である、と主張しうるのは、この事実――外的諸力は、その大部分が金銭的あるいは経済的な必要性という形式に翻訳されるという事実――があるからである。すなわち、より明確に言えば、このような力は金銭的な圧力という形式をとる、ということなのだ。ここで立ち入って考察した再適応というものは、実質的には、何が善で何が正しいのかをめぐる人間の考え方の変化であり、したがって、それをめぐる理解の変化を媒介する手段は、おおむね金銭的必要性という圧力である。
人間生活において何が善で何が正しいのかに関する考え方の変化は、せいぜい、遅々としてしか進展しない。これは、進歩と呼ばれる方向、すなわち|古代的な《アーカイツク》立場――共同体の社会進化過程上のどの段階においても、出発点であると見なしうるであろう立場――から離脱してゆく方向である場合に、とりわけよく妥当する。|退行《リトログレツシヨン》――つまり、過去長期にわたって民族が慣れ親しんできた見地への再接近――は、進歩に比べてずっとたやすいことなのである。過去の見地から離脱してゆくような発展が、以前からの見地とは無関係な気質の民族的タイプの交替にそれほど依拠していなかったような場合に、とりわけこのことが妥当する。
西洋文明の生活史で直接現在に先行する文化段階は、半平和愛好的段階と呼ばれてきたものである。この半平和愛好的段階では、身分の原則が生活図式における支配的特徴になっている。現代の男が、この段階を特徴づける支配力や個人的従属という精神態度にいかに|先祖返り《リヴアート》しがちであるか、は指摘する必要もないだろう。こうした精神態度はむしろ、近年になって増大してきた経済的な必要性に完全に適合するような思考習慣によって最終的に置き換えられたというよりも、現代の経済的な必要性によってあいまいな中断状態に保たれている、と言うことができる。経済進化における略奪的で半平和愛好的な段階は、西洋文化に属する住民の形成に役立つあらゆる主要な民族要素の生活史のなかで、きわめて長い間続いてきたように思われる。それゆえ、このような文化段階に特有な気質や性向がきわめて強い粘着力を達成していたため、あらゆる階級や共同社会――近年に発展した思考習慣を維持するのに役立つ力の作用と、なんの関係ももたない階級や共同社会――において、対応する心理的構成の明白な特徴へ向けた迅速な|先祖返り《リヴアージヨン》が、必然的に生じるのである。
個人やかなり大規模な人間集団が高度な産業文化から隔離され、低い文化段階やより原始的な性格をもつ経済状況に晒された場合、彼らがいとも簡単に略奪タイプの精神的特徴へはっきり先祖返りする、というのは誰もが知っていることである。さらに、|長頭《ドリコ》ブロンド・タイプのヨーロッパの男は、西洋文化のなかでそのタイプが関係をもっている他の民族的要素に比べ、そうした野蛮へ先祖返りする才能に著しく恵まれている。そのような先祖返りの事例は、最近の移民や植民の歴史のなかに、小規模ながら満ちあふれている。略奪文化の際立った特徴であり、したがってまた、その存在がしばしば現代社会における最も顕著な先祖返りの印でもある、あの排外的愛国主義に堕してしまうという懸念を別にすれば、アメリカ植民地は、先祖返りという点でとりたてて大規模とは言えないにしても、通常よりは大規模な事例である、と指摘することができよう。
有閑階級は、現代的で高度に組織化されたあらゆる産業社会にはびこっている経済的な必要性という圧力から、おおむね保護されている。この階級の場合には、生活手段を入手するために闘う必要性は他の階級ほど厳しいものではない。したがってこの特権的な地位の帰結として、この階級は、よりいっそうの制度の成長と、変化した産業状況への適応を強いる要求に対して、最も反応が鈍い社会階級の一つだ、と予想して間違いないだろう。有閑階級は保守的な階級である。社会の一般的な経済状況という差し迫った必要性は、この階級の構成員に、直接、限りなく影響を及ぼすわけではない。彼らは、完全な意味で産業社会の有機的な一環を構成しているわけではないから、変化した産業技術の要求に合わせるために、財産没収などという罰則によって、彼らの生活習慣と外部世界に対する理論的認識を変更するように求められるわけではない。それゆえ、この階級の構成員のなかに、こうした差し迫った必要性がないこともあって、現行秩序に対する著しい不安感――習慣になっている人生観や生活方法の放棄をすべての人々に納得させうる、唯一のもの――は、たやすく生じることがないのである。社会進化における有閑階級の任務は、進展するものを妨げ、時代遅れのものを存続させることである。この命題は決して新しいものではなく、長い間|巷《ちまた》で知れわたっていた、ありふれた見解の一つであった。
富裕な階級は生まれつき保守的なのだ、という広く行きわたった信念は、文化的発展過程におけるその階級の役割や関係ということについて、少しも理論的に検討されることなく、一般的に受け入れられてきたものである。この階級の保守主義が説明されるときはいつでも、富裕な階級が|革新《イノヴエーシヨン》に反対するのは、彼らが現状維持を望んでしかるべき既得権、賞賛に値しない類の既得権をもつからである、という妬みを含むようなものになってしまう。ここで提出しようとする説明は、下劣な動機のせいにしようとするものではない。文化的図式の変化に対するこの階級の反感は本能的なものであって、ひたすら物質的利益を重んじた計算に依拠しているわけではない。それは、承認済みの行動様式やものの見方から離反することに対する本能的な嫌悪――この階級すべてに共通で、環境の圧力によってうち負かされるほかない嫌悪――なのである。生活習慣や思考習慣における変化は、すべてやっかいなものである。この点で、富裕な人々とそうでない人々との間にある違いは、保守主義を助長するような動機の差というよりもむしろ、変化を強要する経済的な力に晒されている程度の差なのである。富裕な階級の構成員が、他の階級の人々ほど容易に革新遂行の要求に屈しないのは、彼らがそうするように拘束されていないからなのだ。
このように、富裕な階級の保守主義はきわめて目につきやすい特徴であるから、それは名声の印と見なされるほどになった。保守主義は、社会のより豊かで、したがってより尊敬に値する階層の特徴であるという理由から、一定の名誉を表したり、装飾に役立つような価値をもつようになっている。それはすでに規範的なものになっているため、保守的な考え方への固執は、名声に関するわれわれの観念のなかにごく当然のこととして含まれている。したがってそれは、社会的名声という点で非のうちどころのない生活を過ごそうとするすべての人々にとって、不可避的な責務なのである。保守主義は、上流階級の特徴であるがゆえに上品なものなのであり、したがって逆に、革新は、下層階級の現象であるがゆえに卑しいものなのである。われわれがあらゆる社会的な革新の実行者から目を逸らすことになる、本能的な嫌悪や非難のなかに含まれている何にもまして熟慮に欠ける要素とは、この、事柄における本質的な卑しさという感覚なのである。したがって、革新の実行者というのは、少なくとも関係をもつことが好ましくないばかりか、社会的な交際をさし控えなければならない類の人物のことである。彼が唱道する事例に実質的な利点が認められる場合でさえそうだし、彼の修正したいと望んでいる弊害が、時間、空間ないしは個人的交際という点でまったく迂遠のものであれば、なおさらのことである。この事実には、なお留意しておく必要がある。革新は無作法なもの、というわけだ。
富裕な有閑階級の慣行、振る舞い、ものの見方が、そうでない人々に対する義務的な行為規範のようなものになってくる、という事実は、その階級の保守的な影響力の厚みと広がりを加重する。そうなると、彼らの指導に従うことは、標準的な人々すべての責務になってしまう。それゆえ、より富裕な階級は、作法の|権化《ごんげ》としての高い地位のおかげで、その階級のたんなる数字上の強さが割り当てるものをはるかに超えて、社会の発展に対して阻害的な役割を発揮するようになる。その規範的な事例は、あらゆる革新に反対する他のすべての階級の抵抗を大いに強化し、先立つ世代から受け継いできた立派な制度に対する人間の愛情を固定化するように作用する。
時代の要請によりよく合致するように、慣例的な生活図式を選択すること、この選択の妨げになるという点に関するかぎり、有閑階級の影響力が同じ方向で作用する第二の方法がある。この上流階級による先導という第二の方法を、前述の新しい思考様式に対する本能的な保守主義や反感といったものと同類のカテゴリーとして、何の矛盾もなく分類することはできないであろう。だがそれは、革新と社会構造の成長を遅れさせるよう作用する保守的な思考習慣と、少なくともある程度共通性をもっているから、ここで論じておくこともできるだろう。ある特定の時代や場所で流布している礼儀作法、しきたりおよび慣行の|体系《コード》は、多少とも有機的全体としての性質をもっている。それゆえ、たとえ全面的な再組織化でなくても、図式のある一点で生じるそれなりの変化は、他の点における変化や再適応といったものを必然的に含んでいる。図式のなかでは些細な点としか直接関係しないような変化の場合には、慣例の構造における結果的な混乱がさほど際立たないこともありえよう。しかし、そうした場合でも、多少とも広範囲の一般的な図式をもった一定の混乱がそれに続くだろう、と言っても間違いはない。他方、試みられた改革が、慣例的な図式のなかで第一級の重要性をもっている制度の抑圧や完全な改造をともなう場合には、図式の全体に重大な混乱が生じるだろう、と即座に判断できる。つまり、その主要な要素の一つにおいて生じた新しい形態に構造を再適応させることは、先行き不透明な過程ではないにしても、苦痛にみちた長たらしいものだと感じられるのである。
慣習的な生活図式のなかで生じたなんらかの特徴の根本的な変化が含んでいる困難を理解するためには、西洋文明に属するすべての国における一夫一妻制の家族、父系制血族システム、私有財産、一神論的信念などの抑制を示唆するだけで、あるいは、中国における祖先崇拝、インドにおけるカースト制、アフリカの奴隷制などの抑制やイスラム諸国における性的平等性の確立などを想像するだけで、十分である。このような事例のどれをとってもみても、一般的な慣例体系の構造的混乱がきわめて甚大であることを証明するのに、議論は不要である。そのような革新が生じるためには、きわめて広範な人間の思考習慣の変更が、当該の問題とは別の体系上の地点においても、同時に起こっていなければならない。およそそのような革新に対する反感は、本質的に異質な生活図式を尻込みさせることになるのである。
善良な大衆が、受け入れてきた生活方法から離れようというあらゆる試みに対して抱く憎悪は、日々の経験をつうじてよく知られた事実である。社会に対して有益なアドバイスや勧告をふりまく人々が、たとえばアングリカン教会の解体、離婚の容易化、女性投票権の承認、アルコール飲料の製造・販売の禁止、遺産相続の廃止や制限などという、比較的小さな変更から社会が被るであろう多岐にわたる有害な影響について、声高に主張しているのを耳にするのは決して稀なことではない。このような革新はそのどれをとっても、「社会構造の根底を揺るがし」、「社会を混乱に陥れ」、「道徳の基礎を転覆させ」、「人生を耐えがたいものにし」、「自然の秩序を混乱させる」と言われてきた。まぎれもなく、このようなさまざまな言葉遣いは誇張の類に属するが、それは同時に、あらゆる他の誇張と同様に、叙述しようと意図した結果の重大性を鋭く認識している証拠なのである。このような類の革新が、受け入れられている生活図式を混乱させる効果は、社会で人間の便宜に役立つさまざまな工夫のうちのいずれかが変更された場合よりも、はるかに重大な帰結を導く、と考えられている。第一級の重要性をもつ革新について際立った程度で妥当することは、直接的にはより小さな重要性しかもたない些細な変化にも妥当する。変化に対する反感は、どのような変化の場合でも、要請される再適応の煩わしさへの反感である。そして、一定の文化ないし一定の人々がもっているこの制度体系の結束は、個別的にみれば、それぞれわずかな重要性しかもたない事柄の場合でさえ、人間の思考習慣のあらゆる変化に対する本能的な反抗を強化するのである。
人間的な諸制度の結束に起因して、このように|躊躇《ちゆうちよ》が増大してくるのだが、これは、いかなる革新も、必要な再適応を行う際には、そうしなかった場合よりも大きな精神的エネルギーを必要とする、ということを意味している。確立済みの思考習慣における変化は不快である、というだけにはとどまらない。受け入れられている人生観を再適応させる過程は、かなりの程度の精神的努力――変化した環境の下で、自己の態度を決めたり維持するための、苦渋にみちた多少とも長期にわたる努力――をともなう。この過程は一定のエネルギー支出を必要とするし、それが成功裏に遂行されるためには、日常的な生存闘争に必要なエネルギーを超える、一定のエネルギーの剰余が前提になる。その結果、進歩というものは、贅沢な生活が飢餓や辛苦の機会を除去することによって不満を消し去るのに勝るとも劣らず、飢餓や過度の肉体的辛苦によって効果的に妨げられる、ということになる。無惨なほどに貧しい人々、さらにまた、エネルギーのすべてを日常的な生存闘争に使いつくしているような人々は、すべて明後日のことを思案できないがゆえに、保守的なのである。大いに繁栄をきわめている人々が、今日の状況にほとんど不満を見いだす機会をもたないがゆえに保守的であるのと、まさに同じことである。
この命題から、次のことが言える。有閑階級制度は、下層階級から可能なかぎり多くの生活手段を取り上げてその消費を減少させ、結果的に、新しい思考習慣の習熟や適応に要する努力の遂行を不可能にしてしまうほど、彼らの利用可能なエネルギーを減少させる。こうして、下層階級を保守的にするように作用する、というわけである。金銭的等級の最上層における富の蓄積は、その最下層における窮乏を意味する。およそこのようなことが生じるところでは、人民集団内部におけるかなりの規模の窮乏があらゆる革新に対する重大な障害になる、ということはごくありふれた事柄なのである。
富の不平等な分配がもっているこの直接の阻害的効果は、同じ結果を導く間接的な効果によって補強されている。すでにみたように、名声の規準を定める際に上流階級から与えられる命令的な例示は、顕示的消費の遂行を助長する。あらゆる階級の標準的な|礼儀作法《デイーセンシー》の主要な要素として顕示的消費が優勢であることは、もちろん、そのすべてが富裕な有閑階級の事例に起因しているわけではないが、それを遂行したり強調したりすることが、有閑階級の事例によって強化されていることは確かである。この点で、礼儀作法をみたすという必要性は、きわめて重大で義務的なものである。それゆえ、生存に要する最低限をいくぶん超えて財を消費しうるほど金銭的な地歩が確立している階級の間でも、不可避的な肉体的必要をみたした後に残る処分可能な剰余が、追加的な肉体的快適さや生活の充足というよりもむしろ顕示的な礼儀作法という目的に向けられるのは、決して珍しいことではない。また利用可能な余剰のエネルギーは、顕示的消費や顕示的秘蔵を行うために、財を入手することに費やされやすい。その結果、金銭的名声の必要性は、(一)顕示的消費用以外に利用可能なごくわずかの生活最低限度しか残さず、(二)たんなる生命維持に要するものをみたした後に残るあらゆる余剰エネルギーを吸収しつくす、という傾向を生じさせる。全体としての結末は、社会における一般的な保守主義的態度の強化である。有閑階級という制度は、直接的には、(一)その階級自体に固有な不活発さにより、(二)その顕示的消費と保守主義との命令規範的な例示をつうじて、そして、(三)間接的に、その制度自身の基礎をなす富と生活資料の不平等な分配システムをつうじて、文化的発展を阻害するのである。
これには、有閑階級はまた事物を現状どおりにしておくことで物質的な利益を得ている、ということがつけ加えられねばなるまい。この階級は、支配的な環境の下でいつでも特権的な地位についており、したがって、既存の秩序からのいかなる離反もその階級に損害を与えるように作用する、と予想しているのであって、利益を与えるように作用するなどと予想するはずがないのである。もっぱら階級利益によって影響される有閑階級の態度は、それゆえ、現状のままにしておく、ということになるに相違ない。この利益につられた動機は、その階級の強固な本能的偏見を補足するようになり、実際よりもさらに一貫して保守的なものにするのである。
もちろんこう言ったからといって、社会構造における先祖返りや保守主義の象徴であり媒介者である有閑階級の任務を、賞賛したり非難したりしようとするものではない。その階級によってなされる抑圧は、有益なこともあればそうでないこともありうる。特定の場合にそのいずれになるかは、一般理論というよりも、むしろ決疑論[社会慣行や教会の律法などを適用して行為の正邪を決しようとする議論]の問題である。保守的で暮らし向きのよい階級によって提供されるような、実際的で一貫した反対がなければ、社会的な革新や実験が社会を住むに耐えない状況に追いやることになり、ただ欲求不満と破滅的な反動を招くことだろう、という保守的構成分子の代弁者がしばしば口にする(政策問題としての)見解には、いくらか真実味がある。しかし、こうしたことはすべて、当面の議論の|埒外《らちがい》にある。
だが、あらゆる非難とは別に、したがってまた、軽率な革新に対するチェックが不可欠であるかどうかに関するあらゆる疑問とは別に、事の本質からして有閑階級は、社会の前進・発展と呼ばれる環境への適応を妨げるように作用し続ける。その階級の特徴的な態度は、「存在するものは、これすべて適切なり」という格言に要約できよう。他方、人間の制度に適用した場合の自然淘汰の法則は、「存在するものは、これすべて不適なり」という公理を与える。現今の制度が、今日の生活目的にとってすべて不適切だというわけではないが、事の本質上それはつねにある程度不適切なものなのである。こうした制度は、過去の発展のある時期に支配的であった状況に対し、生活方法が多かれ少なかれ不十分にしか適応できなかったことの結果である。したがってそれは、現在の状況を過去から分断する時間の長さだけでは説明できない原因であるがゆえに、不適切なのである。「適切」とか「不適切」という言葉は、もちろんここでは、ありうべきものとありうべからざるものとに関する判断とは無関係に使用されている。それはたんに(道徳的に無色な)進化論的な見地から用いたにすぎず、実際の進化過程に適合しうるか、しえないかを明示しようと意図したものである。有閑階級という制度は、階級利益と本能、さらには戒めと命令規範的な例示とによって、現行制度の調整不全を永続化するのに役立つだけでなく、かなり古代的な生活図式への先祖返りを奨励しさえする。すなわちその図式とは、先行する過去から直接受け継いできた、承認済みではあるが時代遅れの図式というよりはむしろ、現状における生活の必要性に適応することなどまったく意に介さない図式なのである。
しかし、古き良き様式の保存という項目に関して議論を尽くしたとしても、制度が変化し、発展するということはなお真実である。慣習や思考習慣は累積的に成長するものであって、それが、慣例と生活方法の淘汰的適応なのである。成長を導くという点だけでなく、それを阻害するという点に関する有閑階級の役割について、ある程度のことを言っておいたほうがよいだろうが、ここでは、主として経済的な性質をもつ制度に直接かかわる場合だけを論じることにし、有閑階級が制度的成長にどのように関係するかについて、言及することはしないでおく。このような制度――経済構造――は、経済生活の異なる目的のいずれの側に役立つかに従って、おおよそ二種類のカテゴリーに分けることができるだろう。
古くからの用語法を用いるなら、それは取得の制度と生産の制度であるが、すでに先立つ章で異なる関連の下で取り上げてきた用語に立ち返るなら、それは金銭的な制度と産業的な制度ということになるし、さらに別の言い方をするなら、競争心にもとづく経済的利益に寄与する制度と競争心にもとづかない経済的利益に寄与する制度ということになる。前者のカテゴリーは「ビジネス」と関係をもっており、後者は、機械的な意味で言う産業と関係をもっている。後者はしばしば制度とは認識されない。というのも、それは支配階級と直接関係をもっておらず、したがって、立法や意図的な取り決めの主題になることがほとんどないからである。それが注目されるときには、ふつう金銭的または|取引《ビジネス》の側から接近される。すなわちそれは、現代の人々の思考、とくに上流階級の思考の主要な内実となっている経済生活の側面ないし様相だからである。この階級は、経済的な事柄には|企業的な《ビジネス》利害以外ほとんど関係をもっていないが、しかし同時に、社会情勢について熟考することを主要な任務としているのである。
有閑(すなわち、私有財産をもつ非産業的な)階級が経済過程に対してもっている関係は、金銭的な関係――生産の関係ではなく取得の関係であり、有用性という関係ではなく利己的利用という関係――である。もちろん、その経済的な任務は、経済的な生活過程にとって間接的にはきわめて重要なものでありうるのであって、ここで資産階級や|産業の将帥《キヤプテン・オヴ・インダストリー》がもつ経済的機能を非難する意図など、まったくありはしないのである。いましようとしていることは、産業過程や経済諸制度に対してこの階級がもっている性質が何であるのか、を指摘することだけである。その任務は寄生的な性格のものであり、したがってその利益は、あらゆるものを自らの使用に流用し、その支配下にあるものすべてを保持することである。企業界の慣行は、こうした略奪や寄生生活という原理が淘汰的に監視する下にできあがったものである。それは私有財産という|慣行《コンヴエンシヨン》であり、多少とも遠く離れた古代の略奪的文化からの派生物なのである。だが、このような金銭的な制度は、現在とはかなり異なった過去の状況のなかでできあがったものだから、今日の状況に完全に適合するものではない。それゆえ、金銭的な方途での有効性についてさえ、それは、以前よりも適切さを欠くものとなっている。産業的な生活の変化は、取得方法の変化を要求する。そして金銭的な階級の関心は、もっぱら金銭的制度――、利得の源泉である産業過程の持続性と両立しうる私的利益を取得するために、最も効果的な制度――を採用することに向けられている。したがって、有閑階級による制度的発展の指導のなかには、その経済生活を形づくる金銭的な目的に一致する、多少とも一貫した傾向があることになる。
金銭的な利害や金銭的な思考習慣が制度の発展に及ぼす影響は、私有財産の保全、契約の執行、金銭的な取引の便宜、既得権にとって役立つさまざまな立法や慣行のなかに現れている。破産や管財制度、有限責任、銀行貸付や通貨、労働者や雇用者の連合、トラストやプールに影響を及ぼしている変化は、このような意味をもっている。社会のこの種の制度的な装置が直接重要性をもつのは資産階級に対してだけであって、しかも所有している比率に応じて、すなわち、有閑階級として等級づけられるはずのものに応じてのことである。だが間接的には、このような企業的な生活慣行は、産業過程や社会生活にとって最も重要なものである。それゆえ金銭的階級は産業的な発展を主導するといっても、たんに受容済みの社会的図式を温存することだけでなく、固有の産業過程を形成することにおいても、共同社会の最も重要な目的に寄与するわけである。
この金銭的な制度の構造とその|修復《アメリオレーシヨン》とがもっている直接の目的は、平和的で秩序立った利己的な利用の便宜を拡大することであるが、その間接的な効果は、この直接の目的をはるかに超えている。|企業《ビジネス》のより円滑な経営が、産業と産業外の生活とをますます混乱なく持続できるようにするだけでなく、日々の出来事のなかで抜け目なく差別を遂行するように求める|騒擾《そうじよう》や紛糾の除去は、金銭的な階級それ自体を余計者にしてしまうように作用する。金銭的な取引が決まりきった仕事になるやいなや、産業の将帥は必要のないものとなる。言うまでもなく、この完成は、まだいつとは知れぬ将来のことに属するものだ。金銭的な利益にとって好都合なように現行の制度のなかで実現された改良は、他の側面では、「魂のない」株式会社をもって産業の将帥に置き換える傾向をもち、こうしてまたそれは、所有という有閑階級の偉大な機能を不必要なものにすることに役立つのである。それゆえ、間接的にではあれ、有閑階級の影響が経済制度の発展に対して与える傾向は、きわめて大きな産業的重要性をもっている。
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第九章[#「第九章」はゴシック体] 古代的特質の保存
有閑階級という制度は、たんに社会構造だけでなく、社会構成員の個々の性格に対しても影響を及ぼす。権威ある生活の標準および規範として特定の性向や観点が受容されるやいなや、それを一つの規範として受け入れた社会の構成員の性格は反作用を被ることになる。それは、ある程度まで構成員の思考習慣を形成し、人間の習性や性向の発展に対して淘汰的な監視を行うことになるだろう。この結果は、一部には、あらゆる個人の習慣を強制的かつ教育的に適応させることをとおして、また一部には、順応できなかった個人や家系を淘汰的に除去することをとおして実現される。承認済みの図式が課す生活の仕方に適していない人物は、抑圧されるばかりか多少とも削減されることになる。金銭的な競争心と産業からの免除という原理は、こうして生活の規範に格上げされ、人間が自ら適応を余儀なくされている状況のなかで、ある程度強制力をもつ重要な要素になってきた。
顕示的浪費と産業からの免除という二つの一般的な原理が、文化の発展に影響を及ぼす方法は、以下の二点に要約できる。人間の思考習慣を誘導することをつうじて、制度の成長を結果的に規制すること、そして、有閑階級体制の下での生活の便宜に役立つ一定の人間性の特性を淘汰的に保存することをつうじて、社会の実際的な気質を規制すること、これである。有閑階級という制度が人間性を形成するという点でもっている大まかな傾向は、精神的な|存続《サヴアイヴアル》と先祖返りという方向で伝えられる。社会の気質に及ぼす影響は、精神的発展を阻止するような性質のものである。その制度は、とくに後世の文化のなかで、全体として保守的な趨勢をもつことになった。この命題は、実質的にはきわめてよく知られたものだが、このように適用すると、多くの人々にとっては新奇なことのように思われるかもしれない。それゆえ、ある程度退屈になってしまう危険を恐れず、その理論的な根拠を概括的に振り返っておくことは無駄ではあるまい。
社会進化は、共同生活の環境がもつ圧力の下で、気質と思考習慣とが淘汰的に適応してゆくプロセスである。思考習慣の適応が制度の成長である。しかし、制度の成長とともに、より実質的な変化が生じる。状況のなかで要求されることが変化するにつれて人間の習慣が変化するばかりか、このように変化し続ける必要性がまた、人間性における相関的な変化をもたらす。社会を成り立たせている人間的構成要素それ自体が、変化し続ける生活諸条件とともに変わるのである。人間性のこのような変異は、今日の民族学者によって、いくつかの比較的安定的な民族タイプないし民族要素、および一貫して変わらないタイプないし要素との間の淘汰のプロセスと考えられている。人間の主要な特徴は、現在の状況とは異なる過去の状況にほぼ適合するように決まってきた一定の人間性のタイプのいずれかに、多少とも緊密な形で先祖返りしたり固定化したりする傾向がある。西洋文化に属する人々のなかには、いくつかの比較的安定的な民族タイプが存在する。このような民族タイプが今日の民族の遺伝形質のなかに存続しているのは、不特定な|変異《ヴアリアント》という形態においてのことで、厳格で不変の鋳型としてでも、単一の厳密かつ特定の型においてのことでもない。民族タイプにおけるある程度の変異は、有史以前および以後の文化の発展のなかで、いくつかのタイプやその雑種が晒され続けてきた長い淘汰プロセスの下で生じたものである。
相当な時間を要し一貫した傾向を有する淘汰的なプロセスが生み出す民族タイプの必然的な変異それ自体は、民族学的存続について論じる著作家に十分な注意を払われてこなかった。ここでの議論は、西洋文化に含まれている民族タイプのうち比較的後期の淘汰的適応から結果的に生じた二つの主要な人間性の変異にかかわるものであるが、関心の中心は、今日の状況がこの二つの異なる方向のいずれか一方にそって変異を促進する場合に、どんな結果が生じるのか、ということである。
民族学上の命題は、ほぼ次のように要約することができよう。不可欠な論点以外のものをすべて回避するために、ここで取り上げるタイプと変異の目録、および先祖返りと存続の図式とは、これ以外の目的にはほとんど利用できないきわめて荒削りな概略と単純明快さをもって提示されている。産業社会で生きる人間は以下の三つの民族タイプ、すなわち長頭ブロンド人種、短頭ブルネット人種、地中海人種――われわれの文化の周辺を形成する細かな要素を無視した上でのことだが――のうちのいずれかに固定化する傾向がある。だが、この三つの主要な民族タイプの内部では、先祖返りは少なくとも二つの主要な変異の方向――すなわち、平和愛好的ないし前略奪的な変異と、略奪的な変異――とに向かう傾向がある。この二つの特徴的な変異のうちの前者は、考古学的にも心理学的にも、実証しうる最も初期の段階の共同生活で実際に役立つタイプへの典型的な先祖返りであるからして、いずれの場合においても、より一般的なタイプに近い。この変異は、略奪文化、身分体制および金銭的競争心の成長に先行する、平和愛好的で野蛮な生活段階における現代文明人の祖先を代表する、と考えられている。第二のタイプ、すなわち略奪的な変異は、第一のタイプとその|混血種《ハイブリツド》とがずっと後の時代に一時変異したもの――略奪文化と後の半平和的段階の競争的文化、すなわち固有の金銭的文化の規律の下で、主として淘汰的適応によって変形されてきたようなタイプ――が生き残ったものと考えられる。
承認されている遺伝の法則によれば、多少とも遠い過去の段階からの存続は、ありうることである。通常、平均かつ正常な場合であれば、民族タイプに変化が生じた場合でも、そのタイプの特性は近い過去――それを遺伝的現在と呼ぶことができよう――にあった状態のまま、ほぼもれなく伝えられる。当面の目的からすれば、ここに言う遺伝的現在とは、後期の略奪文化と半平和愛好的文化とによって代表されるものである。
現代の文明化された人間がふつう固定化する傾向をもっているのは、この最近の――遺伝的にはいまなお存在する――略奪的あるいは半略奪的な文化を特徴づける人間性の変異に対してである。野蛮時代の奴隷や被抑圧階級の子孫に関するかぎり、この命題は一定の留保を要するが、それは一見そう思うほど大きなものではないだろう。人口の全体をとってみれば、この略奪的で競争的な変異が高度の一貫性や安定性を達成してきた、と考えることはできない。すなわち、近代の西洋人によって受け継がれた人間性は、構成要素であるさまざまな気質や性向の範囲と相対的な強さという点で、決して一様ではないのである。遺伝的現在における人間は、ごく最近の共同生活の要請に応えるという点で判断するかぎり、ある程度まで古代的である。加えて、変異の法則に従って現代の人間がしばしば先祖返りする主要なタイプとは、多少ともさらに古代的な人間性である。他方、広く行きわたっている略奪的なスタイルの気質とは違った形で個個人のなかに現れている先祖返りの特徴から判断するかぎり、前略奪的な変異は、気質要因の配分や相対的な強さの点で、かなりの安定性と量的均等性をもっているように思われる。
個個人が固定化する傾向を方向づける民族的タイプの、初期の変異と後期の変異に目をやれば分かるように、受け継がれた人間性の|分岐《デイヴアージエンス》は、西洋人を形づくる二、三の主要な民族タイプがそれぞれに遂行する同様の分岐と交差することによって、不明瞭にされている。このような共同社会における個人は、事実上つねに、さまざまな比率で結合した支配的な民族要素の混血種であると見なされており、結果的に、構成要素である民族タイプのどれかに戻ってゆく傾向をもっている。気質の点でみると、このような民族タイプの違いは、そのタイプの略奪的変異と前略奪的変異との間に見られる違いに、ある程度似ている。つまり、長頭ブロンド・タイプは、短頭ブルネット・タイプやとくに地中海タイプに比べて、略奪的気質――あるいは少なくとも暴力的な気性――という特徴をより明瞭に示している。それゆえ、社会の制度や実際的な感情の成長が略奪的な人間性からの分岐を示している場合には、そのような分岐が前略奪的変異への先祖返りである、と確信をもって言うことはできない。それは、より「低次の」民族要素のいずれかが、住民の間でますます支配的になったことに由来する可能性がある。さらにまた、証拠の決定力が望ましい水準に達していないとはいえ、現代社会における実際的な気質の変化は、安定的な民族タイプ間の淘汰にはまったく依存していない、という証拠もある。それはかなりの程度まで、いくつかのタイプの略奪的変異と平和愛好的変異との間の淘汰であるように思われるのである。
このような現代的な人間の進化に関する概念は、ここでの議論にとって不可欠なものではない。淘汰的適応という概念を利用して求められた一般的な結論は、たとえより初期のダーウィン的あるいはスペンサー的な用語や概念が代用されたとしても、実質的には同じものであろう。そういう事情であるから、用語の使用に関してはある程度の自由が許されるであろう。「タイプ」という用語は、明確な民族タイプを示すものではなく、民族学者なら、むしろそのタイプの些細な変異にすぎない、と見なすような気質の変化を含めたうえで、ゆるやかに用いられている。議論を進めるためにより細かな区別が必要な場合には、前後関係のなかではっきり分かるように、そうした努力を払うことにしよう。
とすれば、現代の民族タイプは原始未開の人種タイプの変異だということになる。それは野蛮文化の規律の下である程度の変化を被り、変更を加えられた形態で一定の固定性を獲得してきた。遺伝的な現在における人間とは、奴隷の場合であろうと貴族の場合であろうと、その構成要素である民族的な要素が野蛮時代に変異したものなのである。だが、この野蛮時代の変異は、高度の均質性や安定性を獲得しなかった。絶対的に長く続いたとはいえ、野蛮時代の文化――略奪段階と半平和愛好的段階をもつ――は、タイプに究極的な安定性を付与するほど長く続いたわけでも、その性質が不変のものであったわけでもなかった。野蛮な人間性からの変異はかなりの頻度で生じるのであって、この種の変異例は、最近ますます顕著に目につくようになりつつある。というのは、現代的な生活条件は、もはや野蛮時代に正常であったものからの離脱を抑圧するように、たえず作用しているわけではないからである。略奪的な気質は、現代生活のあらゆる目的、とくに現代的な産業活動にとって資するところがない。
遺伝的現在の人間性からの離脱は、ほとんどの場合、そのタイプのより初期の変異へと先祖返りする性質をもっている。この初期の変異は、初期段階の平和愛好的な野蛮人を特徴づける気質によって代表される。野蛮文化の到来以前に行きわたっていた生活環境や努力の目標が人間性を形づくり、これを一定の基本的特質として固定化したのである。こうして、現代の人間が、遺伝的現在の人間性から変異する場合に戻っていくのは、このような古代的で一般的な特性なのである。まさしく人間と呼びうる共同生活の、最も原始未開の段階での生活環境は平和愛好的な種類のものであって、この初期の環境や制度下における人間の性格――気質と精神態度――は、怠惰という意味ではなく、平和愛好的で非好戦的な種類のものであったように思われる。当面の目的にとっては、この平和愛好的な文化段階が社会発展の|端緒期《イニシヤル・フエイズ》を画するものと考えてよいだろう。現在の議論に関するかぎり、この推定上の文化の端緒期を特徴づける支配的な精神的特性は、思慮に欠け、定式化されてもいない集団的連帯感であったように思われるのだが、それ自体は、人間生活のあらゆる便宜に対する自己満足的ではあっても決して精力的とはいえない共感と、生活を抑圧し無駄にすると理解されるものに対するぎこちない反感のなかに、大部分現れている。この支配的ではあるが淡白な一般的有用性という感覚は、略奪的になる以前の野蛮人の思考習慣のなかに遍在していたため、人間の生活だけでなく集団内部の他の構成員との間の習慣的な接触の仕方に対しても、かなり抑圧的な力を発揮したように思われる。
この端緒的で未分化な平和愛好段階の文化の痕跡は、文明社会であれ未開社会であれ、ひたすら歴史的現在のなかで広まっている慣用や見解から|範疇《はんちゆう》的な存在証明を引き出そうと期待するなら、あいまいで疑わしいものに思われるであろう。しかし、それが存在したという確かな証拠は、人間形質の永続的かつ支配的な特性という点に表れる心理的残存のなかに見いだすことができる。このような特性は、おそらく略奪文化のもとで背後に押しやられてしまった民族的要素のなかに、とりわけよく残存している。初期の生活習慣にうまく適合していた特性は、その後、個人の生存競争にあまり役立たなくなった。こうして、気質としては略奪的な生活にあまり適合しなかった住民の一部や民族的な集団が抑圧され、背後に押しやられることになった。
略奪文化への移行過程で、生存競争をめぐる生活はある程度変わり、非人間的な環境に対する集団の闘いから人間的環境に対する闘いになった。この変化は、集団の個々の構成員の間で|敵愾心《てきがいしん》や敵対意識が増大したことにともなうものであった。集団のなかで成功するための条件は、集団が存続するための条件と同様に、ある程度まで変化した。また集団の支配的な精神態度も漸次変化し、以前とは異なる領域の習性や性向を、公認の生活様式における正当で権威あるものにした。平和愛好的文化段階からの残存物と見なしうる古代的な特性のなかには、正直さと公平の感覚をも含めてわれわれが良心と呼ぶ種族連帯の本能と、素朴で非競争的なものとして出現した製作者本能とがある。
近年の生物学や心理学の成果に従えば、人間性は、習慣という見地から再定義されるべきものであるという。そして再定義化にあたっては、おおむね習慣というものが、人間性の唯一の明確な理由と根拠になると思われる。このような生活習慣は、近年あるいは短期間の訓練の影響に帰するには、あまりにも広く流布した性質のものである。つまり、最近の現代的な生活がことのほか強く要請するものによって一時的に簡単に押し潰されてしまう、ということが物語るところによれば、このような習慣はきわめて古い起源をもつ規律が生き残った結果であり、そしてさらに、後の時代の変化した環境の下で、人間が細かな点でその教訓から離脱するようにしばしば強要されてきた、ということなのだ。そして、特別な要請の圧力から解放されたとき、その習慣は再び自己主張を開始するのだが、その仕方がほとんどどこでも同じだということは、特性を固定化しタイプの精神的な構造のなかに組みこんでいくプロセスが比較的長期にわたり、しかも重大な中断もなく持続したに違いない、ということを示している。この点について、それが言葉の古くからの意味でいう習慣化のプロセスであったか、それともその種族の淘汰的適応のプロセスであったか、という疑問が発せられたとしても、この議論は少しも影響を受けるわけではない。
略奪文化の開始期から現在までの全期間にまたがる、身分体制や個人的・階級的対立の|体制《レジーム》の下での生活の特徴と必要条件は、いま論じている気質上の特性がその期間に生じて固定性を獲得しえた、と見ることがほとんど不可能であることを示している。このような特性はさらに以前の生活方法に由来したものであり、したがって略奪文化や半平和愛好的な文化期をつうじて、端緒的で、少なくともいまにも廃れそうな状態で生き残ったと考えるほうが、後期の文化によって生み出され固定化された、と見るよりもずっと可能性が高いのである。それは人類の遺伝的な特質であり、性向に対する必要条件が略奪文化や後の金銭的文化の段階で変化したにもかかわらず、持続してきたものと思われる。それはある程度まで種の構成員すべてのなかに存在する遺伝的特性に属し、したがってまた、|種族の存続《レイス・コンテイニユイテイー》という一般的な基礎に依存する伝達の粘り強さのおかげで、持続してきたように思われるのである。
このような一般的な特徴は、略奪的および半平和的段階にかけて当該の特性が従っていたきわめて厳格な長期にわたる淘汰プロセスの下でさえ、容易に除去されない。このような平和愛好的な特性は、野蛮時代の生活方法や思考とはほとんど相容れない。野蛮文化の際立った特徴は、階級間や個人間の野放図な競争心と敵愾心である。このような競争的な規律が支持するものは、まだ平和愛好的であった野蛮時代の特性を比較的わずかしかもたない個人や血統である。したがってそれは、こうした特性を除去してしまう傾向をもっており、それに従って生きてきた住民のなかで、かなりの程度その特性を衰弱させてきたことは明らかである。野蛮なタイプの気質に順応しなくても厳しく罰せられないところでさえ、順応を拒む個人や血統は、少なくともある程度まで永続的な抑圧にさらされる結果になる。生活がもっぱら集団内部の個個人の闘いであるところでは、古代的な平和愛好的特性をあからさまに保持することは、生活をめぐる闘いのなかで個人を制約することになるであろう。
ここで推定上原初段階と呼んでいる時期を除いて、有史以来のいかなる文化段階の下でも、人の好さ、公平さおよび無差別な共感という天賦の資質が個人の生活を著しく促進する、というわけにはいかない。それを保持することは、個人的にみれば、正常な男の理想像のなかにそうした構成要素などほとんど必要ではない、と主張する多数派の過酷な取り扱いから身を守るのに役立つであろう。しかし、この間接的で消極的な効果を別とすれば、競争体制の下において、個人はこのような天賦の才に欠ける程度に比例してより成功をおさめることになるのである。良心の|呵責《かしやく》からの解放、つまり共感、誠実および生命を敬うことからの解放は、かなり広い範囲で、金銭的な文化のなかで個人が成功をおさめるのに貢献しうるであろう。大いに成功している人物は、時世を問わずふつうこのタイプであったが、成功の度を測る尺度が、富や力を規準にしない場合には別である。正直が最善の策、というのはごく限られた範囲でのことであり、したがってまた表向きとは違った意味でしか成り立たないのである。
西洋文化という教化された共同社会の、現代的で文明化された状況の下で生活する、という視点に立てば、原始未開の前略奪的野蛮人――概略的に跡づけてきたような性格をもつ人間――が大成功した、と言うことはできないだろう。このタイプの人間性の有する安定性がそもそも依存している推定上の文化の性質からして――平和愛好的な野蛮人集団の存在目的にとって――も、このような原始未開人は、経済的な美徳をもつと同時に、実に多くの、しかも際立った経済上の短所をもっているのであって、それは仲間意識の産物である寛大さによって洞察力が曇らされていない人なら、誰にでも明らかであるに違いない。原始未開人は、せいぜいのところ「賢くはあっても、毒にも薬にもならない|輩《やから》」にすぎない。この推定上の原始未開タイプの性格がもつ弱点は、生き生きしてはいても非論理的なアニミズム的意識に加えて、弱さ、非効率、創意・工夫の欠如および従順で救いがたいほどの愛想のよさにある。このような特性とともに、集団内部での生活の便宜を助長するという意味で、共同生活の過程で一定の意義をもつものがもう一つある。すなわち、正直、平和愛好性、善意、および人間や事物に対する非競争的で非差別的な関心である。
略奪段階の生活が到来するとともに、成功するために不可欠な人間性に変化が生じる。人間の生活習慣は、新しい人間関係の体系の下で、新しい必要条件に順応するように要請される。従来なら、上に述べた野蛮な生活の特性のなかに捌け口を見いだしていたエネルギーの同様の解放は、変化した刺激に対する習慣的な対応として、新しいグループのなかで新しい活動方向にそって行われるように求められる。初期の状況下で大いに役立っていた方法は、生活の便宜を規準にして計算されていたものであるため、もはや新しい状況下では十分なものではなくなってしまう。初期の状況を特徴づけていたのは、利害の対立や区別が比較的欠如していたことなのだが、後期の状況は、適用範囲をたえず狭めながらますます強化された競争心によって特徴づけられている。略奪段階とそれに続く文化段階とを特徴づけ、したがってまた、身分の体制の下で生き残るために最も適した人間タイプを示す特性とは、(直接の表現としては)勇猛さ、身勝手、氏族的団結の強さ、不正直――つまり、暴力や策略への自由な依存――である。
厳しく、しかも長期にわたった競争体制の規律の下で、民族タイプの淘汰は、こうした点に最も恵まれた民族要素の存続を支持することによって、このような形質上の特性にある程度顕著な優越性を付与することになった。と同時に、より初期に獲得されたずっと一般的な種族の習慣のほうも、集団としてみた生活目的にとって有用であることを決してやめなかったし、最終的に中断されてしまうことも決してなかった。
ヨーロッパ人のなかでも長頭ブロンド・タイプについてみると、後世の文化におけるその優越的な影響力と支配的な地位は、略奪的人間としての性質を過剰なほどもっていたことに負うところがきわめて大きいと思われる。このような精神的な特性は、肉体的エネルギーに大いに恵まれていたこと――おそらくこれ自体が、集団間や血統間における淘汰の結果であろうが――と相まって、とくに有閑階級制度が発展する初期の段階で、どんな民族の人間であれ有閑階級や支配階級の地位に押し上げるのに、大いに役立つことになった。しかしこれは、完全に同じ習性を身につければ、誰もが顕著な個人的成功を保証される、ということを意味しない。競争体制の下では、個人が成功するための条件と、階級が成功するための条件は、必ずしも同じではない。階級ないし集団として成功するには、強固な|氏族的連帯意識《クランニツシユネス》、主人への忠誠心、教義への執着心が前提となる。他方、競争的な個人がその目的を最もよく達成できるのは、野蛮なエネルギー、創意、自利の追求および不正直とを、未開人にみられる忠誠心や氏族連帯意識の欠如と結びつけた場合である。公平な自利の追求と良心の呵責が存在しないがゆえに、目を|瞠《みは》るような(ナポレオン的な)成功を勝ちとった人物は、長頭ブロンドというよりも短頭ブルネットの肉体的特徴を示すことが珍しくない、ということが注目されることもあるだろう。しかしながら、自利を追求するという仕方でそこそこ成功した個人は、おおむね肉体的には、民族的要素としての長頭ブロンドに属しているように思われる。
略奪的な生活習慣によって誘発された気質は、競争体制の下での生命の存続と充足に寄与するものであり、同時にまた、全体としてみた集団の生活がもっぱら他の集団との敵対的な競争という生活でもある場合には、集団の存続と成功に役立つものである。だが、産業的にずっと成熟した共同社会における経済生活の進化は、社会の利益がもはや個人の競争的な利益と両立しえないような傾向をもたらし始めた。|共同的な《コーポレイト》産出能力であるがゆえに、このような発達した産業社会の成員は、生活手段や生活権を求める競争相手であることをやめつつある――その支配階級の略奪的な性向が、戦闘や強奪を行う伝統を保持し続ける場合を除いてのことだが。もはやこのような共同社会は、伝統や気質以外の要因によって互いに敵対的になることはない。その物質的利益は――可能なかぎりの|集団的な《コレクテイヴ》名声という利益を別にして――もはや社会間で互いに両立しがたいものでないばかりか、社会における物質的な成功というものは、現在においてもはるか遠い将来においても、グループに属する他のあらゆる共同社会の生活充足を、間違いなく促進する。そうした共同社会ではことごとく、他の社会をうち負かすことによってなんらかの物質的利益を得ることなど、もはや生じることがない。同じことが個人および個人間の関係に関して、同じ程度で妥当するかと言えば、その限りではない。
現代社会のあらゆる集団的な利益は、もっぱら産業効率にある。個人は、俗に産業的な職業と呼ばれるものに従事した場合の能率にほぼ比例して、社会の最終目的に貢献しうることになる。この集団的利益は、正直、勤勉、平和愛好性、善意、自利心の欠如、さらには因果関係の習慣的な認識と理解――すなわち、アニミズム的信念との混交と、事態の推移に直面したときなんらかの超自然的介入に頼ろうとする意識とを払拭すること――によって最もよく促進される。このような特性が意味している平凡な人間性のもつ美しさ、道徳的卓越ないし一般的な立派さや評判のよさについて、多くを言う必要はあるまい。したがって、このような特性がなんの障害もなく支配的なものとして広まることによってもたらされる、集団生活のマナーに関心を抱く理由もほとんどないだろう。だが、それでは核心を捉えることはできない。現代的な産業社会の見事な作動は、このような特性が協力して作用するところで最もよく確保されるのであって、しかもその達成度は、|人間という素材《ヒユーマン・マテリアル》がその保有によってどこまで性格づけられているか、に応じて決まるのである。こうした特性の存在は、現代的な産業状態という環境に耐えながら適応するために、ある程度要請されるものだ。複雑で、包括的で、本質的に平和愛好的で高度に組織化された現代産業社会のメカニズムは、これらの諸特性ないしその大部分が最も実行可能性に富む水準で存在しているとき、最も有利に作動する。略奪的なタイプの人間はこれらの諸特性をごくわずかしかもっていないから、現代的な集団生活の目的にとって貢献するところがない。
他方、競争体制の下での個人の直接的利益は、抜け目のない取引と遠慮会釈のない|経営《マネジメント》によって最もよくかなえられる。上に列記したような共同社会の利益に役立つ特性は、それ以外の個人的な利益には役立たない。個人の気質のなかにそのような習性が含まれていれば、個人のエネルギーは金銭的利益という目的以外のものに振り向けられてしまうからである。そしてまたそのような習性は、抜け目のない手口を自由かつ|躊躇《ちゆうちよ》なく実行することによって個人的利益を追求するのではなく、直接的な効果に乏しい産業分野で利益を追求するように仕向けるのである。産業的な習性は、かなり一貫して個人を妨害するものなのである。競争体制の下では、現代的な産業社会の構成員はお互いにライバルであって、各人は良心の呵責から例外的に免除されることによって、好機到来となれば何くわぬ顔で仲間を出し抜き損害を与えることができる。そのときこそ、自らの直接の利益を最もよく達成できる、ということになるだろう。
すでに指摘したように、現代的な経済制度は、大別して二つの異なったカテゴリー――金銭的な制度と産業的な制度――に分けられる。同じことは職業についても妥当する。前者の項目に含まれるものとしては、所有権や取得と関連をもつ職業があり、後者の項目としては、製作者本能や生産と関連をもつ職業がある。制度の成長について論じたときに確認したことは、職業についても同様にあてはまる。有閑階級の経済的な利益は金銭的な職業にあり、労働者階級のそれは両方の部類の職業にまたがるとはいえ、主として産業的な職業にある。有閑階級への入り口は、金銭的な職業をつうじて開かれる。
このような二つの部類の職業は、おのおのについて要請される習性という点でかなり異なっており、それによって与えられる訓練も、同様に、二つの異なる方向をたどるのである。金銭的な職業の規律は、略奪的習性や略奪的敵愾心のいかほどかを保存したり、啓発したりするように作用する。それは、このような職業に従事している個人や階級を教育すること、およびこの点で適性を欠いている個人や血統を淘汰的に抑圧したり除去したりすることをつうじて行われる。取得と専有という競争的なプロセスによって人間の思考習慣が形づくられるかぎり、すなわち、その経済的な機能が経営や金融――交換価値という観点からする富の所有と価値の置換をつうじて行われる――という分野のものから構成されているかぎり、経済生活のなかでのそうした経験は、金銭的な習慣の存続と強化にとって好都合に作用する。現代的な、つまり平和愛好的な体制の下では、取得の生活によって促進されるのは、いうまでもなく平和愛好的な範囲内におさまる略奪的な習慣と習性である。すなわち、金銭的な職業が熟練をもたらすのは、力ずくの強奪というさらに古代的な方法に属する分野というよりも、詐術に属するような一般的な活動分野においてのことなのである。
略奪的気質を保存する傾向をもっているこのような金銭的な職業とは、所有――固有の有閑階級の直接的な機能――および取得や蓄積にかかわる付随的な機能と関連をもつ職業のことである。これには、競争的な産業に従事する企業の所有権の売買にかかわるような経済過程、とくに金融的な操作に分類されるような経済管理上重要な執行機関、こうしたものを担う階級や一連の職業が含まれている。大部分の商業的な職業もこれに追加できよう。このような職務が最も明瞭に発展したものが、「産業の将帥」の経済的な任務である。産業の将帥は、誠実な人というよりもむしろ抜け目のない人であり、その将帥たるゆえんは、産業的な将帥であるよりもむしろ、金銭的な将帥であることに由来する。彼が遂行するような|類《たぐい》の産業の管理は、許可を与えるような内容のものであることが通例である。生産や産業組織の物理的に有効な細部は、あまり「実践的な」心的傾向をもたない部下たち――管理上の能力というよりもむしろ、製作者としての才能を有する人々――に委ねられる。教育と淘汰によって人間性を形成する傾向に関するかぎり、ごく一般的な|非経済的な《ノン・エコノミツク》職業は、金銭的な職業に分類されるべきである。そのようなものとして、政治、宗教および軍事的な職業が挙げられる。
また金銭的な職業は、産業的な職業に比べると、はるかに高い程度で確立された名声を保持している。こうして、立派な世評に関する有閑階級の標準が、妬みを起こさせるような目的に役立つ習性の威信を維持するために使われ始める。それゆえ、上流階級の流儀にそった|上品な《デイコーラス》生活がまた、略奪的特性の存続と培養を促進することになる。職業は、階層的に等級づけられて名声の内実を分化させていく。大規模な所有と直接関係するようなものが、固有の経済的職業としては最も名声の高いものである。評判の点でこれに続くのが、所有および|詐取《フイナンシーリング》――たとえば銀行業や弁護士業のような――に直接寄与する職業である。銀行業という職業はまた、大規模な所有を連想させるものを含んでおり、したがってこれがその事業に付随する威信の大きさの根拠である、ということに疑問の余地はない。弁護士業という専門職は大きな所有をほのめかしはしない。だが、競争的な目的を除けば、有用性という汚名は法律家の仕事にはまったく結びつかないものであるから、慣例的な図式のなかでそのグレードが高くなるのである。弁護士は、相手を言いくるめる場合も論破する場合も、委曲を尽くした略奪的な詐術行為にもっぱら従事するものであり、それゆえ、その職業で成功することは、つねに人間の尊敬と畏怖とをかき立てる、野蛮人の抜け目のなさに大いに恵まれている証拠と理解される。商業という職業は、それが所有という要素をきわめて多く含み、有用性という要素をごく少ししか含んでいない場合を除いて、世評の高さはきわめて中途半端なものである。彼らは、より高級なニーズに応えているか、より低級なニーズに応えているかにほぼ比例して、高くグレードづけられたり低くグレードづけられたりする。その結果、平凡な生活必需品を小売りする事業のグレードは、手工業者や工場労働者のレベルにまで低下する。肉体労働は言うまでもなく、機械的なプロセスを管理する仕事さえ、世間的な名声という点で危うい立場に立っている。
金銭的な職業によって与えられる規律に関しては、一つの限定が付されなければならない。企業の規模が巨大化するにつれて、金銭的な管理は、細かな点ではごまかしや抜け目のない競争という性質をますますもたなくなる。すなわち、この段階の経済生活と接触し始める人々の比率がますます増加してくるために、おのずとビジネスそれ自体は、競争相手を出し抜いたり食いものにするなどということを直接示唆しないような、決まりきった仕事になってしまうのである。結果としてもたらされる略奪的習慣の免除は、事業に雇われている部下たちにまずはじめに広がっていく。所有や管理という職務は、事実上この免除とは無関係である。
生産の技術や肉体的な作業に直接従事している個人や階級に関するかぎり、事態は別である。彼らの日常生活は、金銭的な職業ほど、競争的で妬みを起こさせるような動機や、産業の金銭的な側面における駆け引きに常時奔走する過程である、とは言いがたい。彼らは、一貫して機械的な事実や因果関係の理解と調整に、したがってまた、人間生活の目的に役立つという見地からそれを評価したり利用することに、専念している。この部分の人々に関するかぎり、彼らが直接接触をもつ産業過程の教育的で淘汰的な作用は、彼らの思考習慣を競争心にもとづかない集団生活の目的に順応させるように働くのである。こうして彼らにあっては、人類の野蛮な過去から遺伝と伝統をつうじてもち越してきた、明らかに略奪的な習性や性向の廃退が促されることになる。
社会の経済生活がもつ教育的効果とは、それゆえ、あらゆる顕在化をつうじて決して均一に作用するものではない。金銭的な競争と直接かかわる経済活動の分野は、一定の略奪的特性を保存する傾向をもっているが、財の生産に直接携わらなければならない産業的職業は、おおむね反対の傾向をもっている。しかし、後者の部類の職業に目をやれば、それに従事している人々はまた、ほぼ同じ程度で金銭的な競争に属する事柄(たとえば、賃金や給与の競争的な決定や消費財の購入等々のような事柄)にかかわっている、という限定が付されていることに注意しなければならない。したがって、ここで職業種について行った区別は、階級に属する人間の厳密な区別などでは決してないのである。
現代的な産業における有閑階級という職業は、一定の略奪的な習慣や習性を活発に保つような職業である。この階級の構成員が産業過程に参加するかぎり、その職業の規律は、彼らのなかに野蛮時代の気質を保存する傾向がある。とはいえ、他の側面についても言及すべきことがある。重圧から免除されるようになった個人は、たとえ彼らが肉体的な体格や精神的な気質の双方の面で種族の平均より著しく劣っていたとしても、彼らの特質を存続させ、継承させることができるであろう。先祖返り的な特質が生き残って継承されるチャンスは、環境のもつ圧力から最もよく保護されている階級が最大である。有閑階級はある程度まで産業的状況の圧力から保護されており、それゆえ、例外的に大きな比率で、平和愛好的気質ないし原始未開の気質への先祖返りを果たすに違いない。このように常軌を逸したり先祖返りしてしまった個人は、社会的地位の低い人々とは反対に、即座に抑圧されたり除去されたりすることなく彼らの生活行為を前略奪的な方向で展開することが、可能であるに違いない。
実際、こうしたことはある程度真実であるように思われる。たとえば、その性向からしておのずと慈善事業に向かってしまう上流階級は、かなりの割合で存在するし、その階級のなかには、社会改良や改善活動を援助したがるような感情をもったかなり大きな集団が存在する。加えて、この慈善および改良活動の大部分は、原始未開の野蛮人の特徴である愛想のいい「如才なさ」と矛盾だらけ、という特徴をもっている。だが、このような事実をもって、下層階級よりも上層階級のほうが先祖返りの比率がずっと高い、ということの証拠にできるかどうかは、なお疑問である。たとえ同じ性向が金とは縁のない階級のなかにあったとしても、先祖返りの傾向は容易に現れることができないであろう。このような階級は、彼らの性向をみたすための資力も時間ももってはいないからである。事実に関する明らかな[#「明らかな」に傍点] [prima facie] 証拠がかろうじて異論のないものになりうる、というわけである。
さらに補足するなら、今日の有閑階級は、金銭的な点で成功をおさめ、それゆえ、略奪的な特質をたんなる補完物以上に付与されているに違いない人々から補充される、ということに注意すべきであろう。有閑階級への入り口は金銭的な職業の前に開かれており、こうした職業は淘汰と適応をつうじて作用しながら、上の階層にある者だけを金銭的な適合性をもつ血統――略奪的な試練の下でも生き残ることができる血統――として認知するのである。そして、非略奪的な人間性への先祖返りがこのような上層階級で現れた場合には、ふつうそれは寸暇をおかず取り除かれ、低層の金銭的階級へと投げ落とされる。有閑階級のなかで地位を保っておくためには、金銭的な気質に恵まれた血統をもっていなければならない。さもなければ、富は散逸し、まもなく社会的地位を失うことになろう。この種の事例には、まったく事欠くことがない。
有閑階級の構成員は、明らかに積極果敢な金銭的競争に適している個人や血統を下層階級から引き上げてゆく、持続的な淘汰過程によって維持される。志願者は、上層階級にたどりつくためには、たんに平均的に十分な量の金銭的習性を備えているだけでなく、上昇していく途上で出くわすきわめて重大な困難を乗り越えるための才能をも、それと分かるほど備えていなければならない。偶然はさておき、成り上がり者[#「成り上がり者」に傍点][nouveaux arriv市] とは選り抜きの集団なのである。
もちろん、この淘汰的な加入のプロセスは、金銭的な競争という風習が生じて以降――これは、有閑階級という制度が最初に導入されて以降、ということと同じことだが――絶え間なく続けられてきた。もっとも、淘汰の精確な理由がつねに同一であったわけではなく、したがって淘汰の過程も、つねに同一の結果をもたらしたわけではなかった。初期の野蛮段階、つまり固有の略奪段階では、適者であることの証拠は、言葉の素朴な意味での武勇であった。有閑階級へ入っていくためには、候補者は氏族意識、精神と肉体の強靱さ、狂暴性、無節操、目的への執着といったものに恵まれている必要がある。これが、富の蓄積とその持続的な保持のために役立つ資質なのである。有閑階級の経済的基礎は、当時も現在と同様に富の専有であったが、富を蓄積する方法とそれを保持してゆくために必要な才能は、略奪文化初期以降、ある程度変化してきた。淘汰プロセスの結果、野蛮時代初期の有閑階級に顕著な特性は、勇猛な攻撃性、鋭敏な身分意識および詐術への|憚《はばか》ることのない依存であった。有閑階級の構成員は、武勇を保持することによって地位を維持するのである。野蛮文化の後期になると、社会の半平和愛好的な身分体制の下で、取得や専有の方法として、ある定まったものが登場した。むき出しの攻撃や野放図な暴力は、富を蓄積する方法として広く承認された抜け目のない策略や詭弁へと、おおむね席を譲った。その結果、異なった分野の習性と性向とが、有閑階級のなかに保存されることになった。英雄的な攻撃性とそれに結びつく精神や肉体の頑強さとは、無慈悲なまでに首尾一貫した身分意識ともども、依然その階級の最も華麗な特色として数え上げられていた。これは、典型的な「貴族的美徳」としてわれわれの伝統のなかに残ってきた。もっともこれと並んで、たとえば将来への配慮、打算、詭弁といったそれほどめだたない金銭的な美徳が数多く補充された。時がたつにつれ、したがってまた近代的な平和愛好段階の金銭的文化に近づくにつれて、最後に指摘した分野の習性や習慣が、金銭的な目的に対して相対的な有効性を高めてきたのであって、こうしてそれは、有閑階級への昇格が認められたりその地位が維持されたりする淘汰プロセスのなかで、相対的にますます重要な役割を担うようになった。
淘汰の要因が変化したことによって、現在その階級への昇格を条件づける習性は、最終的に金銭的な習性だけ、ということになった。略奪的な野蛮人の特性として残っているのは、成功をおさめた略奪的な野蛮人を新たにとって代わった平和愛好的な野蛮人から区別する、目的に対する執着性ないし目的の一貫性である。もっともこの特性をもって、金銭的に成功した上流階級の人間を産業的な階級である庶民から区別する特徴だ、と言ってしまうことはできない。庶民が現代的な産業生活のなかで晒されている訓練や淘汰は、この特性を同様に決定的に重要なものと見なすからである。目的に対する執着性とは、むしろこの二つの階級を別の二つの階級――つまり、やる気のない|穀潰《ごくつぶ》しと下層の|無頼漢《デイリンクエント》――から区別するものだ、と言ってよいだろう。天賦の資質という点でみると、ちょうど産業的人間が人はよくても働きのない寄食者と似ているのと同じ意味で、金銭的人間は無頼漢に似ている。理想的な金銭的人間は、遠慮会釈なく人や物を彼自身のために横領してしまう点で、したがってまた,他人の感情や願望および彼の行為がもたらす間接的な影響を無神経にも無視するという点で、理想的な無頼漢に似ている。だが、鋭敏な身分意識をもっている点や、迂遠な目標をめざす展望の下にたえず一貫して働くという点では、金銭的人間は無頼漢と異なっている。二つの気質タイプの類縁関係は、「スポーツ」とギャンブル、および無目的な競争を愛好するという性向のなかに、さらによく示されている。理想的な金銭的人間はまた、略奪的な人間性の付随的な変異の一つであるという点で、無頼漢と奇妙な類縁関係をもっている。無頼漢は、ほとんど例外なく迷信的な思考習慣をもっており、幸運、まじない、占いや運命、予言や呪術的な儀式の熱心な信者である。環境にさえ恵まれれば、この性向は、信心深い儀式に対して奴隷的ともいえる、ある種献身的な情熱や|几帳面《きちようめん》な配慮として表れる傾向がある。おそらくそれは、宗教というよりもむしろ、信心深さと特徴づけるほうがよいだろう。この点で、無頼漢の気質は、産業的人間や無為徒食の寄食者よりも、金銭的な階級や有閑階級のそれと、より多くの共通性をもっている。
現代的な産業社会における生活、すなわち言い換えるなら、金銭的文化の下での生活は、淘汰のプロセスをつうじて、一定の範囲の習性や性向を開発したり保存したりするように作用する。この淘汰プロセスの現在における傾向は、ある不変の民族タイプへの単純な先祖返り、というわけではない。むしろそれは、いくつかの点で、過去から受け継いできたタイプや変異のいずれとも異なる人間性に変化してゆく傾向をもつものなのだ。進化の客観的な目的は単一ではない。進化がいま正常なものとして作り出そうとしている気質は、目的がずっと安定的である――目的の単一性も努力の持続性もずっと強い――という点で、人間性の古代的変異のどれとも異なっている。経済理論に関するかぎり、この発展の方向から分岐していくかなり重要な傾向も若干ある。淘汰プロセスの客観的な目的とは、おおまかに言って、この程度の単一性なのである。しかし、この一般的なトレンドを別にすれば、発展の方向は単一ではない。経済理論について言えば、単一でない発展は、二つの相異なる方向をたどることになる。個人における能力や習性の選択的な保存に関するかぎり、この二つの方向は金銭的なものと産業的なものと呼ぶことができよう。性向、精神態度ないし意志について言えば、両者は競争心にもとづくものないし利己的なものと、競争心にもとづかないものないし経済的なもの、と呼ぶことができるだろう。二つの発展方向をもつ知的ないし認識上の傾向について言えば、前者は、意欲、質的関係、身分ないし価値に関する人間的な見地として、そして後者は、因果関係、量的関係、機械論的効率ないし使用に関する非人間的な見地として、特徴づけることができるであろう。
金銭的な職業は、この二つの分野の習性や性向のうちの前者を主として発動させ、それを人間集団のなかで保存するように淘汰的に作用する。他方、産業的な職業は、主として後者の分野を活動させ、それを保存するように作用する。心理学的に徹底的に分析すれば、この二分野の習性や性向のそれぞれは、一つの気質上の傾向が多様に現れたものにすぎない、ということが明らかになるであろう。個人というものは、一つの統一体あるいは単体であるがゆえに、前者の分野に含まれる習性、意志および関心は、人間性の一定の変異が顕在化したものとして、こぞって一つのグループを形づくることになる。同じことは後者の分野でも妥当する。この二つの分野は、一定の個人が多少とも一貫して他に類似するという仕方で、人間生活の二者択一的な方向を形成したもの、と理解できるであろう。一般的には、金銭的な生活がもっている趨勢は野蛮時代の気質を保存するはずであるが、しかしそれは、初期の野蛮人の特徴である肉体的な攻撃への偏愛に代えて、詐術と打算、つまり管理能力を前面に引き出した。破壊に代えて詭弁を採るというこの過程は、さほどはっきりと生じるわけではない。金銭的な階級内部での淘汰活動はこの方向でかなり一貫して行われるが、利益追求という競争の外部にある金銭的な生活の規律は、一貫して同じ効果をもたらすように作用するとはかぎらない。時間や財の消費という点でみた現代生活の規律は、貴族的美徳を除去したり、ブルジョア的美徳を助長したりするように、明確に作用するわけではない。慣例的な礼儀にかなった生活図式は、相当程度まで初期の野蛮時代の特性を発揮するように求める。この点に関する伝統的な生活図式の詳細については、すでに以前の章で閑暇という項目の下に注目してきたし、さらなる詳細については、後続の章で明らかにしようと思う。
以上述べてきたことから、有閑階級の生活とその生活図式は、野蛮時代の気質のうちの半平和愛好的変異あるいはブルジョア的変異を主たるものとするが、略奪的変異をいくぶんか含む気質を間違いなく保存するように促進する、と思われる。それゆえ、攪乱的要因がない場合には、社会階級の間で気質の違いを跡づけることができるに違いない。貴族的でブルジョア的な美徳――すなわち破壊的で金銭的な特性――は、主として上流階級の間で目につくものであり、産業的な美徳――すなわち平和愛好的な特性――は、主として機械的な産業に充当された階級の間で目につくものに違いない。
これは一般的であいまいな形であれば真理であろうが、証明は容易に遂行できるものではなく、また期待されるほど決定的なものでもない。それが功を奏さないことについては、部分的にいくつかのはっきりした理由がある。すべての階級はある程度まで金銭的な闘いに従事しているから、金銭的特性を保持しておくことが、階級の違いを超えて、個人的に成功したり生存したりするために大切なことなのである。金銭的な文化が流布しているところではどこであれ、人間の思考習慣を形成し、ライバル関係にある血統の存続を決定する淘汰のプロセスは、おおよそ取得への適合性にもとづいて遂行される。結果的に、もし金銭的な効率性が全体としての産業的効率性と両立しうるということが真実であるとすれば、あらゆる職業の淘汰作用は、金銭的な気質の容赦のない支配をもたらす傾向をもつことになろう。その結果はといえば、「経済人」、つまり正常かつ最も信頼のおけるタイプとして知られてきた人間性の叙任であった。だが「経済人」は、その唯一の関心が自己中心的であり、その唯一の人間特性が打算であるため、現代的な産業の目的にとって役に立たないものなのである。
現代的な産業は、遂行中の仕事に対して非人格的で競争心にもとづかない関心を抱くように要請する。これがなければ、産業の精緻なプロセスなど実現不可能であろうし、実際、そもそも考え出されることさえなかったであろう。この仕事への関心が、労働者を一方で無頼漢から、他方で産業の将帥から区別するものである。仕事というものは、社会が存続してゆくために行われるべきものであるから、一定の範囲の職業分野で、労働に適した精神的習性を厚遇するような条件づきの淘汰がなされることになる。とはいえ、産業的な職業分野の内部でさえ、金銭的特性の淘汰的除去は必ずしも不可避のプロセスではないこと、したがってまた結果的に、このような職業内部でさえ野蛮時代の気質がかなり残存しているということ、これだけは承認されなければならない。それゆえ、現在では有閑階級の形質と大衆の形質との間で、この点に関する明白な相異はないのである。
精神構造における階級的な区別をめぐる問題全体は、社会のあらゆる階級でみられるように、継承した特性を丹念に反復すると同時に、そうした特性を住民全体のなかで発展させる作用をもつ、後天的な生活習慣の存在によってくっきり浮かび上がる。このような後天的な習慣と新たに身についた形質上の特色とは、ほとんどもれなく貴族的なタイプのものから成り立っている。有閑階級が名声の手本としてもっている規範的な地位は、有閑階級の人生観を形づくる多くの特徴を、下層階級に押しつけてきた。結果的に、つねに社会全体にわたって、このような貴族的特性の多少とも永続的な培養が続けられた。それゆえにまた、このような特性は、もし有閑階級という教訓と模範がなかった場合に比べて、人民集団の間で生き残りのための機会を増大させることになる。貴族的な人生観に加え、このような古代的な形質上の特色の結果的な注入が続けられる一つの、しかも重要な経路として、家事用の使用人階級を指摘できるだろう。彼らは、主人階級との接触をつうじて形成した彼らなりの善や美の観念をもっているばかりか、このようにして獲得した価値観を生まれの卑しい同等の人々の間で想起させ、こうして結果的に、本来要したであろう時間のロスを生むことなく高貴な理想を社会に広く普及させるのである。「主人が主人なら、下男も下男」という言い習わしは、大衆が上流階級の文化の多くの要素を急速に受容することについて、ふつう考えられている以上に重要性を含意している。
金銭的な美徳の存続をめぐって、階級間の違いを減少させるのに効果的なもう一つの事実を挙げてみよう。金銭的な闘争は、きわめて大きな比率の満たされない階級を生み出す。満たされぬものとは、生活必需品または世間体にかなう支出に不可欠なものの不足にある。いずれを求める場合にも、すなわちそれが肉体的な必要物であるか高度に精神的な必要物であるかを問わず、結果として日常的な必要物を満たす手段を求める、逃れられない闘いがもたらされる。すると、強敵に向かって自己主張する重圧が、個人のエネルギーを吸収してしまう。つまり個人は、自らの努力を自身の競争心にもとづく目的の達成だけに絞りこみ、こうしてたえず、ただひたすら自利の追求を続けるようになる。産業的な特性は、こうして行使されないことによって、萎縮が進行する。それゆえ有閑階級という制度は、間接的ではあるが金銭的な礼儀作法の図式を強制すること、そして、できるだけ多くの生活手段を下層階級から取り上げることによって、集団のなかに金銭的な特性を保存するように作用するわけである。この結果生じることはといえば、以前は上流階級だけのものであったタイプの人間性に対する下層階級の同化である。
それゆえ、上流階級と下層階級の間に、気質上の大きな違いは存在しないようにみえる。とはいえ、それはおおむね、有閑階級の命令規範的な例示と、有閑階級という制度の存立基盤である顕示的浪費と金銭的競争という広範な原理とが大衆に受容されている、ということに起因しているようにも思われる。その制度は、社会の産業効率を引き下げ、現代的な産業生活が要請する事態に対する人間性の適応を遅らせるように作用する。それは広く普及し、実際に機能している人間性を保守的な方向に向けるように影響するが、その経路は、(一)階級内部での遺伝的継承と、有閑階級の血統を階級外へ注入すべく、ありとあらゆる手段を講じた古代的特性の直接の継承、または、(二)古代的体制がもつ伝統の保存と強化、である。こうして結果的に、有閑階級の血統が注入される範囲を超えて、野蛮人の特性が生き残る可能性が高まることになるのである。
だが、現在の人間集団における諸特性の存続や消滅に関する問題――この問題にとってとくに重要なデータの収集やその体系化のためになされたことはといえば、ごくわずかなことでしかない。それゆえ、ここで取り上げた見解を支持するために提供できる具体的な人物描写は、すぐ足元にころがっているような、日常的な事実に関する論証的な説明を、ほとんど超えるものとはならない模様である。このような事実の再説が平凡で退屈きわまりない、という事態に陥らずにすむことなどまずありえないことだが、にもかかわらずそれは、ここで試みたごとく内容の乏しい概説的なものにすぎないものだとしても、議論を完全なものに仕上げるためには不可欠と思われるのである。したがって、この種の断片的な詳説がなされる後続の諸章に対しても、あらかじめ相応の御寛恕をお願いしておいたほうがよいであろう。
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第十章[#「第十章」はゴシック体] 現代における武勇の存続
有閑階級は、産業社会のなかで生きているというよりも、むしろそれに依存して生活している。その階級への加入は、金銭的な習性――有用性というよりもむしろ取得のために役立つ習性――を実践することによって勝ちとられる。したがって、有閑階級を構成する人材は、持続的かつ淘汰的に変遷しているわけで、この淘汰は、金銭的な仕事に対する適者であることにもとづいて遂行される。有閑階級の生活図式の大部分は過去から存続したものであり、初期の野蛮時代の習慣や理想の多くのものを体現している。この古代的で野蛮な生活図式は、地位の低い階級の人々に対してもまた、いくぶん緩和して課せられる。生活つまり慣例の体系は、回り回って、淘汰や教育により人材を形づくるように作用するのであって、しかも、もっぱらその作用は、初期の野蛮時代――武勇と略奪的生活の時代――に属する特性、習慣および理想を保存する方向に向かう。
略奪段階の人間を特徴づける古代的な人間性の最も直接的で決定的な発現は、厳密な意味での|闘争《フアイテイング》性向である。略奪的な活動が集団的なものである場合には、しばしばこの性向は武勇の精神とか、最近では愛国主義とか呼ばれてきた。文明化されたヨーロッパの国々の有閑階級は、中流階級よりもずっとこの武勇の精神に恵まれている、という命題を支持するために強調すべきことは何もない。事実、この区別は有閑階級の自尊心の問題にすぎないという主張があるが、疑いなくそれはいくつかの根拠をもっている。戦いは名誉に値するものであり、したがって大部分の男の目には、戦闘に適した武勇は著しく名誉なものと映るのである。この戦闘に適した武勇の賞賛それ自体が、戦争賛美者のなかにある略奪的気質の最高の証拠である。戦いへの熱狂、およびその熱狂の指標となる略奪的な気性は、上流階級とくに世襲的な有閑階級の間に最大限行きわたっている。加えて、上流階級の表向き重要な職業は統治のそれであって、それは、出自からみても発展の内容からみても、やはり略奪的な職業である。
習慣的な好戦的気分がもっている名誉について、ともかくも世襲的な有閑階級と渡り合うことができる唯一の階級は、地位の低い無頼漢階級である。平常時においては、好戦的な利害に触れるようなことに対して、産業階級の大部分は比較的無関心である。興奮していないときには、産業社会の実際の力を形づくっている平凡な人々の集団は、防衛的な闘い以外のものを嫌悪しがちであって、実際、防衛的な態度に資するような刺激に対してさえ、ごくゆっくりとしか反応しない。より文明化した共同社会では、あるいはむしろ高度な産業発展を遂げた共同社会では、好戦的な攻撃精神は、平凡な人々のなかでは廃れているといってよかろう。こう言ったからといって、武勇の精神が押しつけがましく自己主張しているような個人は産業階級の間にはたいして存在しない、ということにはならない。さらにまた、複数のヨーロッパ諸国では目下のところ、そしてアメリカでは当分の間うまく機能しているようにみえるのだが、何か特殊な憤慨に値するような刺激を受けて、人民集団が戦闘的熱情で燃え上がったりすることはさしあたりないだろう、ということにもならない。一時的な高揚という理由を別にすれば、したがってまた、略奪的タイプの古代的気質に恵まれている人々――高い階級と最低の階級のなかにいる同様な気質に恵まれた多数の人々を含めてのことだが――を別にすれば、今日の文明社会で生きている大衆のこの点における不活発さは、実際の侵略に対抗する場合を除いて、およそ戦争を不可能にしかねないほど強固なものであると思われる。通常の人間の習慣や習性は、戦い以外のあまりめだたない他の分野での活動を促進するのに寄与しているのである。
階級間におけるこの気質の違いは、部分的には、おのおのの階級における後天的な遺伝形質が異なることに求めることができようが、ある程度まで、民族的な起源の違いに対応しているようにも思われる。この点で、階級的な違いというものは、社会のいくつかの階級を構成する民族的要素の間での分岐が広範に存在する国よりも、人間集団が民族学的にみて比較的均質であるような国のほうが、めだって小さい。同様な関連で、後の部類の国々おける最近の有閑階級への加入者を考えてみても、古代的な系統の貴族を現在でも体現している人々に比べて、武勇の精神をごくわずかしか表していない、ということが指摘できよう。このような成り上がり者[#「成り上がり者」に傍点][nouveaux arriv市] は、最近ではごく普通の人民集団のなかから登場しており、その有閑階級への脱出は、古代的な意味でいう武勇に分類されるはずがない特性や性向を実践したおかげなのである。
固有の好戦的な活動を別とすれば、決闘という制度もまた卓越した戦闘意欲の発現であり、したがってまた、決闘は有閑階級の制度なのである。決闘というのは、実質的には、意見の違いに最終的な決着をつけるために行使されるものである。文明化された共同社会のうちでそれが正常な現象として広まっているのは、世襲的な有閑階級が存在するところであり、しかもほとんどもっぱら有閑階級の間でのことである。例外は(一)陸軍と海軍の将校――彼らは有閑階級の構成員であることが通常であり、したがって同時に、略奪的な思考習慣にとくによく親しんでいる――と、(二)身分の低い無頼漢たち――彼らは遺伝や訓練またはその両方によって、同様な略奪的な性分と習慣をもつ――である。意見の違いの全般的な解決としてごくふつうに殴打に訴えるのは、高貴な生まれの紳士と乱暴者だけである。平凡な人が通例闘うのは、過剰な貨幣をめぐる焦燥や飲酒による精神の高揚でたががはずれて、憤慨を引き起こす刺激に対して複雑に反応する習慣が抑えこまれてしまうときだけに限られる。その場合には、彼は、より単純で未分化な形態の自己主張の本能に依存している。すなわち、深い考えもなく、古代的な思考習慣に一時的に復帰しているわけだ。
この言い争いや優先順位をめぐる深刻な問題を、最終的に解決する方式である決闘という制度は、徐々に変化して、男の立派な世評に与えられるべき社会的義務として回避しがたい、|謂《い》われのない私的な闘いになった。この種の有閑階級の慣用としては、とくに、あの好戦的な騎士道の奇妙な存続である、ドイツ人学生の決闘がある。無頼漢たちから構成される地位の低い、または見せかけの有閑階級のなかには、どの国の場合をとっても、仲間との謂われのない闘いで男らしさを主張しようとする乱暴者に欠かせない、同様の、しかし公式的ではない社会的義務が存在する。そして、あらゆる社会階層をつうじて広がった結果、同じような慣行が地域社会の少年の間にも普及している。ふつう少年は、毎日自分と仲間たちとの間の相対的な喧嘩の強さの程度を、細部にわたるまで確認しつくしている。したがって少年たちの世界では、特殊な場合を除いて、挑発されて喧嘩できなかったり、喧嘩しようとしない者には、通例確固とした名声の基礎など存在しないのである。
このことはすべて、かなり不明瞭だとはいえ、一定の成熟年齢以上の少年にとくによく妥当する。子供の気質は、幼児期や親密な保護を要する時期にはこうした説明と一致しないのが通例であって、子供たちはまだ、日常生活のあらゆる局面で母親との習慣的な接触を求めている。このような初期の間は、攻撃したり敵対しようという性向はほとんど発現しない。このような平和愛好的な気性から、略奪的な、しかも極端な場合には、他人に害を及ぼすようないたずら小僧への移行は漸次的なものであり、したがってそれは、個々の場合に応じて、個人の広範にわたる習性がより完全なものとなるにつれて完成される。成長の初期段階では、少年であれ少女であれ、子供は積極的で攻撃的な自己主張や、一緒に生活している家族集団から自己や自己の関心を引き離すような傾向をほとんど示さず、したがってむしろ、友好的な人間のつきあいに欠かせぬものである叱責、内気、憶病さに敏感であることを示している。通常の場合、この初期の気質は、幼児期の特徴が漸次とはいえある程度急速に廃れてしまうことによって、固有の少年の気質へ変化する。もっとも、少年期の略奪的な特徴がまったく現れなかったり、せいぜいのところごくわずか、はっきりしない程度でしか現れないという場合もある。
少女の場合には、略奪的な段階への移行が少年の場合ほど完璧な程度で完成されることは珍しく、事例のうち比較的多数は、ほとんどその移行を体験していない、というものである。そのような場合には、幼児期から思春期と成熟期への移行は、幼稚な目的や習性から大人の生活固有の目的、機能、関係へと関心が移ってゆく、漸次的で継続的なプロセスである。少女の場合、一般的に略奪的な時期は発達のなかであまり優勢なものにならない。したがって、それが生じた場合でも、その時期の略奪的で孤立主義的な態度は、あまりめだたないのがふつうである。
男の子の場合、略奪的な時期は通常かなりよく目につくし、しかもしばらく続くのだが、成熟に達する(ともかくも、成熟というものがあったとしてのことだが)と同時に、ふつうそれは終わりを迎える。この主張については、きわめて重要な留保が欠かせないであろう。少年的な気質から大人のそれへの移行がなされないか、またはごく部分的にしかなされないという場合が、決して稀ではないからである。もちろんここで「大人の」気質ということで理解していることは、現代的な産業社会で集団的な生活過程の目的に対する一定の有用性をもち、それゆえ、産業社会の実質的な標準を形成していると言いうるような、大人の個人の平均的な気質のことであるが。
ヨーロッパの人口の民族構成は多様である。場合によっては、身分の低い階級でさえ平和をかき乱す長頭ブロンド種から大部分構成されていることもあるが、この民族要素はもっぱら世襲的な有閑階級の間で目につくものである。闘う習慣が普及しているようにみえるのは、上流階級の少年の間かまたは長頭ブロンド種の少年の間でのことであって、労働者階級の少年の間では、その程度ははるかに劣っている。
もし労働者階級の少年の気質に関するこの一般化が、その分野のより豊富で、綿密な調査に裏づけられた上で妥当であると判断されれば、好戦的な気質がかなり人種的な特徴である、という見解を補強することになろう。つまり好戦的な気質は、ヨーロッパ社会の人口の大部分を構成すると考えられる従属的な身分の低い階級の人間タイプよりも、同じ地域の国々の支配的な上流階級の民族タイプ――長頭ブロンド種――の気質のなかに、より大きな割合で入りこんだように思われるのである。
少年の事例は、社会のいくつかの階級が恵まれている相対的な武勇の賦与量をめぐる問題と深い関係をもつとは思われないが、少なくともこの戦闘的な衝動が、産業的な階級の平均的な成人男性によって保有されているものに比べた場合に、ずっと古代的な気質に属するということを示すのに役立つかぎりで、ある程度価値をもっている。この場合には、子供の生活の他の多くの特徴と同様に、子供は、成人男性の発達の初期段階のいくつかを、一時的であれ縮小してであれ、再現する。こう解釈すると、英雄的行為や自らの利益の分離独立に対する少年の好みは、初期の野蛮文化――固有の略奪文化――では通例の人間性への一時的な先祖返りと捉えられることになる。他の多くの点と同様に、この点で有閑階級と無頼漢階級とは、幼児と青少年にふつうに見られ、したがって初期段階の文化でも同様に通例であり習慣的であるような特性が、結果的に大人の時期にまで持続することを示している。肩で風を切って歩く無頼漢や堅苦しい有閑紳士を平凡な大衆から区別する特性は、永続的な民族タイプの間の基本的な違いとして完全に跡づけられるものではないとしても、ある程度まで、中途で阻止された精神的発達の刻印なのである。それは、現代的な産業社会の平均的な大人によって達成される発達段階と比べると、成熟不足の段階を示している。そして、このような上流と最低の社会階層を代表する人々の子供じみた精神構造は、この凶暴な英雄的行為と孤立化をめざす性向以外の古代的な特性に直面した場合に、再び現れるということがまもなく明らかになろう。
あたかも闘争的な気質が本質的に未成熟なものであることについて疑問の余地がないように、われわれは、正規の少年期と成人期との間隙を埋めている、目的をもたずに遊び戯れるが、しかし多少とも複雑で組織的になされる平和の攪乱を、少しばかり年長の生徒の間で流行するがままに放置している。通常の場合であれば、このような攪乱は青年期に限られている。青年が成人期を迎えるときに、それは頻度や強度を減らしながら再発するのであって、したがって、それは個人の人生のなかで、集団が略奪的な生活習慣から、より定住的な生活習慣へと変化してきた道筋を一般的な形で再現することになる。子供の段階から立ち上がる以前に個人の精神的発達が終焉を迎えてしまうケースもかなりあって、そうなると、戦闘的な気性は一生持続される。精神的発達をへて最終的に成人に達する個人は、それゆえ、戦士やスポーツマンの永続的な精神レベルに対応する古代的な段階を、ふつう一時的に通過しているわけである。もちろん、それぞれ個人は、この点について異なった程度の精神的成熟と合理性を達成するであろう。平均に達しない人々は、現代的な産業社会のなかで、依然として粗野な人間性が分解することなく残存した者として、さらには、高度化した産業効率や集団全体の生活の充足に役立つ淘汰的な適応プロセスで挫折した者として、とどまり続けるのである。
このような頓挫した精神的発達は、たんに青年特有の凶暴な英雄的行為に大人自らが参加するということに、直接的に現れているだけでなく、この種の騒動を若者たちにけしかけたり援助したりするということのなかに、間接的に現れている。そうすることによって、それは成長の途上にある世代が後世までもち続けるであろう凶暴さという習慣の形成を促進し、こうして、社会の側でいちだんと平和愛好的で効果的な気質へと向かう動きを、すべて阻止してしまう。もし、それほど英雄的行為をめざす傾向に恵まれている人が、青年期を迎えた社会構成員の習慣の発達を指導する立場にある場合には、武勇の保存とそれへの先祖返りの方向で発揮される影響は、きわめて大きなものになりうる。これが、多くの聖職者や他の社会の中心人物たちによって、たとえば、「|少年旅団《ボーイズ・ブリゲード》」や似たような擬似的な軍隊組織に対して最近になって与えられた、奨励的な配慮のもつ意義である。同じことは、より高度な教育機関で「カレッジ精神」、カレッジ競技等々の発展に対して与えられている奨励についても妥当する。
略奪的気質のこのような顕在化は、すべて英雄的行為という項目の下に分類できる。それは、部分的には、競争的で凶暴な態度が単純かつむき出しに発現したものであり、また一部には、武勇に関する名声を獲得しようというねらいで、意図的に着手された活動である。あらゆる種類のスポーツは、プロボクシング、闘牛、|運動競技《アスレテイツクス》、射撃、釣り、ヨット、および、破壊的な身体的能力の要素などまったくめだった特徴としてもたない技量をきそう競技も含めて、同じ一般的な特徴をもっている、スポーツとは、どの時点をとっても一線を画すことなどできないまま、敵対的な戦いから巧妙さをへて、狡智と策略へと推移していくものなのだ。スポーツ中毒になる理由は、古代的な精神構造――比較的高い潜在力をもつ略奪的な競争性向の保有――にある。冒険にみちた英雄的行為や打撃を加えることを好む強い性向は、くだけた言い方でとくにスポーツマンシップと呼ばれているような活動のなかに、際立って現れている。
スポーツについて言えば、人間をそれに向かわせる気質が、すでに言及した略奪的な競争心の別方向の発現というより、本質的に少年的気質の発現であるということ――これは、おそらくずっと真実味が深いし、少なくともはるかに明白なことである。それゆえ、スポーツへの|耽溺《たんでき》は、人間の道徳性の発展が中途で阻止された顕著な印である。このようなスポーツマンがもつ気質の並外れた少年らしさは、あらゆるスポーツ活動のなかに大きな要素として存在する|見せかけ《メイク・ビリーヴ》に着目しさえすれば、ただちに明らかになってくる。スポーツは、この見せかけという特徴を、子供、とくに少年が習慣的に行いたいと願うようなゲームや英雄的行為と共有している。見せかけは、あらゆるスポーツのなかに同じ比率で入ってくるわけではないが、あらゆるもののなかに、すぐそれと分かるほど含まれている。それはおおむね座ったまま技量をきそう動きのないゲームのなかよりも、厳密な意味でのスポーツマンシップや競技大会のなかに、明らかにはるかに大きな割合で存在している。もっとも、この法則がつねにかなりの普遍性をもって妥当するとは思われない。たとえば、ごく穏やかな礼節を身につけた人物でさえ、射撃に出かけるときには、自分がしていることの重大さを自分自身の想像力に印象づけるために、過剰な銃や装備を携行しがちだということは、注目に値することである。このような|猟師《ハントマン》はまた、英雄的行為という彼らの偉業のなかに含まれる身ぶり――わざとらしい飛び跳ねるような足どりや、こっそりした身ぶりであれ荒ぶる身ぶりであれ――を、入念に誇張する傾向がある。同様に、運動競技的なスポーツのなかには、きわめて多くの大言壮語や自慢げな見せかけの神秘化――このような活動の演技的性質を示す特徴――が、ほとんどもれなく存在する。もちろん、このなかに、少年らしい見せかけがことごとく残存していることは十分明らかである。ところで、運動競技の俗語は、その大部分が軍隊用語から借りてきたきわめて野卑な言い回しから構成されている。内密の意思の伝達に欠かせない手段として採用された場合を除くと、どのような職業であれ特殊な俗語の使用は、おそらく当該の職業が実質的に見せかけであることの証拠と理解できるであろう。
スポーツが決闘や類似の平和の攪乱から区別されるもうひとつの特徴はといえば、英雄的行為や凶暴さへの衝動に加えて、さらに別の動機を自らに割り当てられたものとして受け入れてしまう、という特殊性にある。どのような場合であれ、他のなんらかの動機が存在するにしても、それはおそらくごく限られたものであろうが、しかし、スポーツに熱中することについてしばしば他の理由があてがわれるという事実は、それがとってつけたようなものでしかない、と言っているのに等しい。スポーツマン――ハンターと釣り人――は、自然の愛好や息抜きの必要性等々を、彼らのお気にいりの気晴らしに対する誘因として指摘する、という習慣を多少とももっている。しばしばこのような動機が存在し、スポーツマンの生活の魅力的な部分を形づくっていることに疑問の余地はないが、これは決して主要な誘因ではありえない。このような表向きの必要性は、スポーツマンによって愛されている生き物、あの「自然」の不可欠な様相を作り上げている生き物を殺すための組織的な努力を完遂しなくても、はるかに容易かつ完全に充足可能であったろう。実際|殺戮《さつりく》のための組織的努力こそ、スポーツマンが撲滅できるかぎりの生物を全滅させることによって、自然を慢性的な荒廃状態に保とうとするその活動の、最も注目に値する効果である。
それでもなお、既存の風習の下では、気晴らしや自然と接触するという生理的欲求は、スポーツマンが選択するコースによって最もよく充足されうる、という彼らの主張には根拠がある。一定の育ちのよさの規準は、略奪的な有閑階級の規範的な手本によって過去に押しつけられたものであり、その階級の後世の代表者たちの慣用によって、ある程度犠牲を払いながらも保持されてきたものである。したがってこのような規準は、何の非難も招くことなく、それ以外の条件で自然と接触をはかることなど許しはしないであろう。最高の形態の日常的なレジャーとして略奪文化から受け継がれた評判のよいエネルギーの充用であることから、スポーツは、十分に礼儀作法にかなっている、というお墨つきをもつ唯一の形式の野外活動になった。鉄砲を撃ったり、釣りをしたりしようという差し迫った誘因のなかには、それゆえ、レクリエーションと野外生活という必要性がありうるのである。組織的な殺戮という名の下に、こうして対象を追いつめる必要性を課すことになる間接的な要因は、不名誉や自尊心を結果的に損傷してしまうリスクを犯さないかぎり踏み越えられないような、|長年行われて権威を帯びた《プリスクリプテイヴ》慣行である。
他の種類のスポーツの場合も、ある程度似たようなものである。これらのうち、運動競技が最善の事例である。名誉に値する生活の規範体系の下で許される種類の活動、すなわち練習およびレクリエーションがどのような形態をもたねばならないかという規範的な慣行は、もちろんここでも存在している。競技スポーツに熱中したりそれを賞賛したりする人々は、それがレクリエーションと「体の訓練」の最も簡便な手段を提供している、と主張する。そして、権威を帯びた慣用がその主張に味方する。名誉に値する生活の規準は、有閑階級の生活図式から、顕示的消費に分類できない活動をすべて排除してしまう。こうして結果的に、彼らは長年権威と認められた慣習によって、一般的にまたそれを社会の生活図式から排除してしまう傾向がある。と同時に、目的をもたない肉体の行使は耐えがたいほど退屈で味気ないものである。他との関連ですでに指摘したように、そのような場合の頼みの綱は、たとえ割り当てられた対象がたんなる見せかけであるとしても、最終的にはまことしやかな口実の目的を提供する、ある形態の活動である。スポーツは、実質的な無駄であるこのような要求を、まことしやかな見せかけの目的と一緒にみたしてしまう。また、それは競争心に新しい展望を与えるから、その点からしても魅力的なのである。人間エネルギーの充用は、上品であるためには、名誉に値する浪費という有閑階級の規準に従わなければならない。と同時に、いかなる活動も、たとえ部分的とはいえ生命の習慣的な発現として断固貫かれるためには、一般的に、なんらかの有用で客観的な目的に対する効率性、という人間的規準に従わなければならない。有閑階級の規準は厳密でしかも包括的な無駄を要求し、製作者本能は合目的的な活動を要求する。有閑階級の礼節の規準は、社会的に承認済みの生活図式から、実質的に有用であるかまたは合目的的なあらゆる行為の規範体系を淘汰的に除去することによって、漸次的かつ広範に浸透しながら作用する。製作者本能は衝動的に作用し、近似的な目的を与えることで暫定的に満たすことができる。行為者の意識に不安感や抑止的な効果をもたらすのは、一定の活動分野がもつ了解済みの究極的な無駄が、生活過程がもつ通常の合目的的な傾向とは本質的に異質なものとして、反省的な観念連合体である意識に入ってくる場合に限られている。
個人の思考習慣は有機的な観念連合体を構成しており、その傾向は、必然的に生のプロセスの有用性という方向に向いている。それを、生活の目的としてこの有機的な観念連合体に同化させようという試みがなされると、まもなく付随的に急激な反応が生じる。だが、有機体のこの急激な反応は、もし個人の関心を、抜け目のない競争的な力の行使という近似的で無反省な目的に限定することができれば、回避することが可能であろう。スポーツ――狩猟、釣り、運動競技、等々――は、器用さの発揮や、略奪的生活の特徴である競争心にもとづく凶暴さや機敏さの発揮を可能にする。個人が内省や行為の究極的な方向感覚にわずかでも恵まれてさえいれば――彼の人生が実質的に素朴で衝動的な活動で成り立つ生活であるかぎり――、スポーツが優越性の発揮という意味でもっている直接的で無反省な合目的性は、相当程度まで人間の製作者本能を満足させるであろう。もし人間の支配的な衝動が略奪的気質からなる無反省な競争性向であるなら、このことはとくに妥当する。と同時に、上品さの規準は、金銭的にみて非のうちどころがない生活の表現として、スポーツを推奨するであろう。どのような人間エネルギーの充用であれ、それが、上品なレクリエーションの伝統的で習慣的な規範体系としての地位を維持するのは、究極的な浪費性と近似的な合目的性という二つの要求をみたすことによってである。他の形態のレクリエーションや活動は、育ちがよくて優美な感受性の持ち主には道徳的に不可能であるために、結果としてスポーツが、現在の状況下では最も利用可能なレクリエーションの手段となるのである。
しかし、運動競技を推奨する高貴な社会構成員は、この種のゲームは計り知れない発達の手段として役に立つという理由で、この件についての彼らの態度を、自分自身およびその隣人に対して釈明するのが通例である。それは競技者の肉体を強化するだけでなく、参加者と観衆の両方に男らしい精神を助長することもある、とふつう付け加えられる。運動競技の有用性に関する問題が提起された場合、おそらくフットボールはこの社会の誰にとっても最初に心に浮かぶ特別なゲームであるが、その理由は、肉体的ないし精神的な救済手段としてゲームを弁護したり|論駁《ろんばく》したりする人々の心のなかで、フットボールが現在のところ最高のものだということにある。したがって、このタイプの体育スポーツは、運動が競技者の性格や体格の発達に対してもつ関係を例示するのに役立つ。フットボールが体の訓練にとってもっている関係は、不適切だというわけではないが、闘牛が農業に対してもっている関係とほとんど同じようなものだ、と言われてきた。このような遊びの制度にとっての有用性は、地道な訓練や教育を必要とする。野生動物であれ人間であれ、用いられる素材は自然のままの状態を特徴づけており、したがって飼い慣らす過程で廃れやすい一定の習性や性向を保存したり強調したりするために、注意深い淘汰と調教に委ねられることになる。いずれの場合でも、このことは、自然または野蛮な心的習慣の復興が結果として全面的かつ首尾一貫して生じる、ということを必ずしも意味するわけではない。むしろその結果は、野蛮さないし野性的な自然[#「野性的な自然」に傍点] [ferae natura] への一面的な回帰――損害を与えたり荒廃させたりする方向に作用する自然のままの特性を、自然のままの環境の下で復興させ強調しつつも、個の自己保存や充足に役立つような特性が対応して発達しないようにすること――なのである。フットボールのなかに詰めこまれた文化は、風変わりで魅力的な狂暴性と狡猾さという成果をもたらした。それは、社会的・経済的な必要性という見地からみると、野蛮人の性格の欠点を補うような性質をもつ気質の入念な抑圧であると同時に、初期の野蛮人の気質の復興なのである。
運動競技の練習によって身についてくる肉体的な活力――練習がこのような効果をもつと言いうるかぎりでのことだが――は、他の事情が等しければ、それが経済的な有用性にも役立つという意味で、個人にも集団にも利益となることである。体育スポーツに付随する精神的特性は、集団の利益から区別された個人の利益にとってみれば、同様に経済的に有利なものである。こうしたことは、この特性が人間集団のなかにある程度存在しているような社会では、すべて妥当する。現代的な競争は、おおむねこの略奪的な人間性にもとづいた自己主張のプロセスである。現代的な、平和愛好的な競争心の世界へ入っていく際に、洗練された形でこのような特性をある程度保持しておくことは、ほぼ文明化された人々の必要事項になっている。しかし、それは競争的な個人に不可欠なものであっても、社会にとって直接有用性をもつわけではない。集団的な生活という目的に対する個人の有用性という点に関するかぎり、妬みを起こさせるような効率性は、たとえあったにしても間接的にしか役立たない。凶暴さと悪賢さは、他の社会と敵対的な関係にある場合を除いて、無用なものなのである。したがって、それが個人にとって有用であるのは、彼が晒されている人間的環境のなかに、同じ特性のかなりの部分が生き生きと存在している場合に限られる。このような特性に相応に恵まれることなく競争的な闘いに参入する人は、ことごとく不利な立場に立つことになる。それは、あたかも角のない雄牛が角をもつ牛の群のなかでおのれの不利を自覚するのと、いくぶん似ていなくもない。
略奪的な性格上の特性を保持し育成することは、もちろん経済的な理由以外からも望ましい。野蛮な習慣に対する美的ないし倫理的な好みが広く行きわたり、当該の特性がこの好みをきわめて効果的に満たすことになると、こうした倫理的な有用性は、この特性がもたらしかねないあらゆる経済的な非実用性を相殺することになる。だが、当面の目的のためには、これは要点を外れている。それゆえ、全体としてみたスポーツの望ましさや適否について、すなわち経済的な理由以外の理由にもとづくその価値については、ここでは何も言及しないことにする。
通常の理解によれば、スポーツ生活が助長する男らしさのタイプのなかには、賞賛に値する多くのものがある。いくぶんくだけた言葉の使い方で定義されるような、独立独歩の精神や友情も含まれている。異なった観点からみれば、そのように広く特徴づけられている性質は、勇猛さや党派心と表現できよう。男らしさと呼ばれるものと同様に、このような男らしい性質が一般的に承認され賞賛される理由は、個人にとってそれが有用だからである。共同社会の構成員、とくに好みの規準の手本を示す社会階級に属している人々は、この分野の性向に申し分ないほど恵まれているため、他の人々がそれを保有しなければ不足と感じさせることになるし、例外的なほどそれを保有していれば卓越した長所と評価させることになる。略奪的人間という特性は、現代の平凡な人々のなかでも、決して廃れていないのである。それは存在し続けており、彼らの感情に訴えかけること――この訴えかけが、われわれの習慣的な職業であると同時に日常的な利害の一般的な分野を構成している、特定の活動と対立しないかぎり――によって、それはいつでも明確な形で呼び出すことのできるものなのである。どのような社会であれ、普通の人々がこのような、経済的に不利な性向から解放されているということは、部分的にしかも一時的に利用されないことで、その性向がなかば無意識的な動機というめだたない地位に陥ってしまっている、という意味でしかない。異なった個人の潜在力がさまざま異なるため、日常的な強度以上の刺激がそれを呼び醒ますように入ってくると、それはいつでも男の行動と感情を積極的に形づくるために利用可能になる。そして、略奪的な文化と無縁な職業が個人の日常的な範囲の関心や感情を奪ってしまわないところではどこでも、この性向は強く自己主張する。このことは、有閑階級の間や有閑階級に従属している住民の一部で、とくに妥当する。こうして、有閑階級への新しい加入者はすべてスポーツに凝りやすくなるし、したがってまた、人口のかなりの部分が仕事から免除されるほど十分に富が蓄積されている産業社会では、スポーツとスポーツ感情の急速な発展が生じることになる。
略奪的な衝動はあらゆる階級に同程度に浸透しているわけではない、ということを証明するのに、よく慣れ親しんでいる事実が役に立つであろう。単純に現代的な生活の一局面と捉えるなら、ステッキを携行する習慣はどうみてもとるに足りない瑣事だと思われよう。だが、その使用は当の問題に関して重要性を秘めている。その習慣が最も広まっている階級――大衆の理解のなかで、ステッキと結びつけられている階級――は、固有の意味でいう有閑階級、スポーツ愛好家および身分の低い無頼漢に属する男たちである。おそらくこれに、金銭的な職業に従事している男を付け加えることも可能であろう。同じことは、産業に従事する普通の男には妥当しない。また婦人は、病気の場合を除いてステッキを携行しない、ということをついでに指摘できようが、病気の場合、それは違った用途をもっている。もちろん、その習慣は大部分儀礼的慣行に属する事柄である。だが、儀礼的慣行の基礎は、その手本を提供する階級の性向なのである。ステッキは、携行者の手が有用な用途以外のことに充用されている、ということを宣伝する目的に役立つのであり、それゆえ、有閑の証拠としての効用をもっている。だが、それは同時に武勇でもあって、野蛮な男が痛切に感じる必要性を、その理由でみたすことになる。かくも手触りのよい原始的な攻撃手段を手にすることは、並み程度の勇猛さしか与えられていない男にとって、きわめて心地よいものなのである。
言葉がもつ不可避の属性が、ここで議論されている習性、性向および生活の表現を明らかに非難しているという印象を、回避しがたいものにしてしまう。しかし、人間の性格や生のプロセスがもつ様相のすべてに対して、非難やとがめだてという点で何かを|仄《ほの》めかそうなどという意図はない。広く普及している人間性のさまざまな要素は経済理論の見地から取り上げられており、したがって議論の特徴は、集団的な生のプロセスの便宜に対する直接的な経済的関係を中心に、評価し格づけしたものである。すなわち、ここで議論している現象は経済的な観点から解釈されており、制度的構造――現在またはごく近い将来に、人間全体の環境や集団の経済状況によって要請される制度的構造――へのより完璧な順応を促進したり妨げたりする際の、その直接的な作用に即して評価されている。このような目的のためには、略奪的な文化から引き継いできた特性は、思うほど役に立たない。とはいえこの点に関してさえ、略奪的な男の活力あふれる攻撃性や頑固さは、侮りがたい価値をもつ遺産であることを見逃してはならない。こうした特性と性向の経済的な価値――狭い意味での社会的価値をも考慮してのことだが――については、それ以外の観点からみた場合の価値を少しも考慮することなく、評価するように努めたのである。近年の産業的な生活図式の退屈な平凡さと比較した場合、さらにまた、公認の標準的な道徳や、とりわけ美や詩歌の標準に従って判断した場合には、このようなはるかに原始的なタイプの男らしさの残存物は、ここで指摘したものとは大いに異なる価値をもちうるであろう。だが、このようなことはすべて当面の目的とは無関係なものであり、ここで、後に論じる見解を表明するのは適当ではない。せいぜい許されることは、当面の目的と無関係なこのような卓越さの規準がある警告――、すなわち、このような人間性の特性やその発展を放置したままにすることで、それを助長する活動へのわれわれの経済的な評価が影響を受けるようであってはならない、という警告――を提起する、ということである。このことは、自ら活発にスポーツに参加する人と、スポーツ体験がたんに観戦上のものにすぎない人の両者についてあてはまる。ここでスポーツの性向に関して述べたことは、同様に、まもなくこれと関連して、俗に宗教的な生活として知られているものについてなされる、さまざまな考察にも妥当する。
前の段落でついでに触れておいたのは、この種の習性や活動についてなんら反駁や弁明を意味することなく議論しようとすると、日常的な言葉がほとんど使えなくなってしまう、ということである。この事実は、スポーツや英雄的行為のなかに一般的に発現する性向に対する、穏健で平凡な人の習慣的な態度を示すものとして重要である。したがって、もっぱら略奪的な性質をもつ他の活動と同様に、体育スポーツを弁護したり賞賛したりする、あらゆる長たらしい主張の底流にひそむ非難については、おそらくここで議論するのが最もふさわしいだろう。同じ弁明的な気分は、少なくとも野蛮な生活段階から受け継いできた、他のほとんどすべての制度の代弁者のなかに見受けられるようになりつつある。弁明が必要だと感じとられている古代的な制度として、次のものを挙げることができる。既存の富の分配システムの全体、その結果としての身分の階級的な区別、顕示的浪費の項目の下に含まれるすべてのまたはほとんどの消費、家父長制下における婦人の身分、多くの様相をもつ伝統的な教義と信仰の儀式、とくに異国風な表現をもつ教義と従来の儀式の自己流の理解、といったものだ。それゆえ、スポーツやスポーツ好きな生活を賞賛することに含意される弁明的な態度について言いうることは、言葉遣いを適当に変えるなら、われわれの社会的な遺産に関連する要素を弁明する際にもあてはまるであろう。
スポーツ好きな性格の基礎にある一般的な略奪的衝動や思考習慣と同様に、このようなスポーツがまったく常識の認めるところにならないのではないか、という漠然とした感覚――通例不明瞭であって、弁明者自身によって率直に認められることはふつうないが、しかしその弁明の仕方のなかに必ず窺い知ることのできる感覚――がある。「殺人者の大多数というものは、不穏当な人格の持ち主である」。この格言は道徳家の立場から発せられたものだが、略奪的気質とその明白な発現と実践がもつ、懲戒的な効果に対する評価が|垣間《かいま》見えている。さらに、略奪的な心的習慣が集団的な生活の目的に対してどの程度まで利用可能であるか、をめぐる成熟した男の穏やかな感覚による解釈の内実についての示唆をも提供している。事実にもとづく推定は、略奪的な態度を習慣として身につけるのに役立つあらゆる活動にとって不利であり、挙証責任は、略奪的な気質の回復とそれを強化するための訓練を弁護する人々の側にある、と見なされている。問題になっている当の娯楽や活動を好む大衆感情には強固なまとまりが見いだされるが、同時に、このような感情の基礎が正当性を欠いている、という意識も社会に広く存在している。必要な正当化は、以下のことを証明することによって通例求められる。すなわち、スポーツは実質的に略奪的で、社会を分断するような効果をもつし、その効用は大まかに言って、産業的有用性をもたない性向への先祖返りという方向に向かうものではあるが、しかし間接的でわずかであれ――対極誘導とかおそらくは反対刺激というような、容易には理解しがたいいくつかのプロセスによって――スポーツは、社会的ないし産業的な目的にとって有用な心的習慣を助長すると考えられる、と。すなわち、本質的にスポーツは競争心にもとづく英雄的行為という性質のものであるが、なんらかの間接的で不明瞭な効果によって、それは競争心とは無縁な仕事に貢献しうる気質の成長をもたらす、と推論されるのである。ふつうこれらはみな、経験的に証明が試みられるか、あるいはむしろ、スポーツを眺めることが好きな人には明白な経験的な一般理論である、と前提される。この命題の証明を行う際には、原因から結果へいたる推論は、先に指摘した「男らしい美徳」がスポーツによって助長されるという場合を除いて、根拠薄弱なものとしてある程度巧妙に回避される。だが、(経済的に)正当性が求められているのは、根拠そのものなのであるから、一連の証明は始まるべきところで破綻するのである。最も一般的な経済的な用語で言えば、このような弁明は、事の道理に反して、スポーツは広く製作者精神と呼びうるものを実際に促進する、ということをなんとかして示そうとする。これこそがその効果だ、と自分自身や他人を説得するのに成功するまで、用意周到なスポーツ弁護論者は満足しないであろう。したがって――これは認められてしかるべきことだが――彼はふつう満足することがない。当該の慣行に与えた立証に彼自身が不満を抱いていることは、その立場を補強するために証言を積み上げる際の、荒々しい口調や熱弁によって通常示されるのである。
だが、なぜ弁明が必要なのであろうか。スポーツを好む大衆感情がしっかりと広まっているなら、なぜその事実が十分な正当化にならないのであろうか。略奪的および半平和愛好的な文化の下で種族が従わなければならなかった長期におよぶ武勇の規律は、凶暴さや悪賢さの発現に心の満足を見いだすこうした気質を、現代の男に伝えている。とすれば、このようなスポーツは、なぜ正常かつ健全な人間性の正当な発現と認められないのであろうか。武勇という遺伝的な気質をも含めて、この世代の感情のなかに現れている性向の所与の集積物――これ以外のいかなるものが生の規範として存在するというのであろうか。この問いを発する究極的な規範は製作者本能であり、それは略奪的な競争に向かう性向よりもずっと根本的で、さらに古代的な長年の権威ある慣行という性質をもっている。略奪的な性向は製作者本能が特殊に発展したもの、すなわち、絶対的にはきわめて古代的なものであるにもかかわらず、比較的新しく、しかも短命な変異であるにすぎない。競争的な略奪的衝動――あるいはスポーツマン本能と呼んだほうが適切かもしれない――は、そもそも発展・分化のもととなった本源的な本能である製作者精神と比べて、本質的に不安定である。この究極的な生の規範をもって検証するなら、略奪的な競争とスポーツの生活は、合格点に達しないのである。
有閑階級という制度がスポーツと競争心にもとづく英雄的行為の保存に貢献する方法や手段は、もちろん、簡潔に述べることができない。すでに列挙した証拠から分かるように、有閑階級は、感情や傾向の点で産業階級よりもずっと好戦的な態度や志向に好意的であるように思われる。同じことは、スポーツにも妥当するだろう。だが、礼節にかなう生活という規準をつうじて、その制度がスポーツ生活に対する支配的な感情に影響を及ぼすのは、もっぱら間接的な効果においてのことなのである。この効果は間接的とはいえ、ほとんど無条件に、略奪的な気質や習慣の存続を促進する方向をたどる。したがってこれは、上流の有閑階級の礼節の規範体系によって禁止されているスポーツ生活のさまざまな変異、たとえばプロボクシング、闘鶏および同様なスポーツ気質の平俗な発現についてさえ妥当する。最近になって正しいと認められた細かな行儀作法の目録が何を言おうと、その制度によって認可された公認の世間体の規準は、ある競争心と浪費はよいものだがそうでないものは名声に値しない、ときっぱりと明言する。社会的底辺の薄ぼんやりした光のなかでは、規範体系の細部は望みうるほど十分容易に理解されないから、広くこの基底に浸透している世間体の規準は、細部にわたって認可されてきた適性やその例外の範囲などほとんど問題にすることなく、ある程度無思慮に適用されるというわけだ。
体育スポーツへの熱中は、直接それに参加するという形だけでなく、感情的・道徳的な支持という形であっても、有閑階級の多少とも明白な特徴になっている。それは、有閑階級が身分の低い無頼漢と共有する特性であり、したがってまた、優勢な略奪的傾向に恵まれた先祖返り的な要素と、社会集団のいたるところで共有している特性なのである。ヨーロッパの文明化された国々の住民の間では、体育スポーツやゲームの観賞に楽しみを見いださないほど略奪的な本能をもたない個人はほとんどいない。とはいえ、産業階級に属する平凡な個人に目をやれば、スポーツに対する好みは、スポーツをする習慣と十分呼びうるものを形づくるまでにいたっていない。この階級にとって、スポーツは生活の真面目な催し物というよりも、たまの気晴らしである。したがって、産業階級全体が、スポーツ好きな性向を涵養していると言うことはできない。それは平均的な大衆のなかで、あるいはまた大多数の個人のなかで廃れてこそいないが、平凡な産業階級のスポーツに対する好みは、思考習慣の有機的複合体を形成していく際の有力な要素である活発で永続的な関心というよりもむしろ、時折興味を引くだけの、多かれ少なかれ気晴らし的な思い出としての性質のものなのである。
今日のスポーツ生活を見わたしたとき、この性向は、重要な意義をもつ経済的な要因であるとは思われないかもしれない。それだけをとってみれば、それは産業の効率性やある特定の個人の消費に直接及ぼす影響という点で、大いに重要だというわけではない。しかし、この性向を特徴的な形質とするタイプの人間性の成長と普及は、ある程度の重要性をもつ事柄である。それは、経済発展の速度についても、発展によって達成された結果がもつ性格についても、集団の経済生活に影響を及ぼすからである。良かれ悪しかれ、大衆的な思考習慣がいくらかこのタイプの性格によって占められているという事実は、環境に対する集団生活の適応の程度のみならず、集団生活の範囲、方向性、標準および理想にも大きな影響を及ぼすに違いない。
同様のことは、野蛮人の性格形成に力をもつ他の特性についても言うことができる。経済理論の目的からすれば、このようなさらに野蛮な特性は、武勇として発現する略奪的気質の付随的な変異、と解釈できるであろう。何よりそれは本来的に経済的な性格のものではなく、直接の経済的関係を大いにもっている、というわけでもない。それは、個人がつき動かされた挙句に適応を余儀なくされる、経済的な進化段階を示唆するのに役立つものだ。したがって、それは、その特性を形づくる性格がどの程度まで今日の経済的な要請に適応しているか、を示すもう一つ別の試金石なのだが、重要性はそれにとどまるものではない。個人の経済的な有用性を増大させたり減少させたりするのに役立つような習性である点でもまた、ある程度の重要性をもっているのである。
野蛮人の生活のなかで発現するとき、武勇は主として二つの方向で――暴力と詐術として――現れる。この二形態の表現は、現代的な戦争、金銭的な職業、スポーツやゲームのなかにも同様に存在している。両系統の習性は、スポーツ生活だけでなく、ずっと厳粛な形態の競争的な生活によってもまた育成強化される。戦略と狡智は、好戦的な仕事や狩猟と同様に、ゲームにも例外なく存在する要素である。すべてこのような仕事のなかでは、戦略は、技巧や策略に発展していく傾向がある。策略、虚言、威圧は、あらゆる運動競技の手続きやゲーム一般のなかで、確固たる地歩を築いている。審判の習慣的な仕事、したがってまた、許容される不正や戦略的な便宜の限度や細目を定める綿密な技術的規則は、敵を倒すための不正直な行為や試みがゲームの偶発的な様相ではない、という事実を十分に証明している。事の本質からして、スポーツの習慣化は、不正を好む習性の完全な発達に寄与するはずであり、スポーツに熱中させるような略奪的気質が社会に浸透することは、個人的にも集団的にも、他人の利益を平然と無視したり抜け目なく行動することが|蔓延《まんえん》することを暗示している。詐術への依存は、どのような外観をとろうと、またどのような法や慣習による正当化がなされようとも、狭くて自己中心的な心的習慣の発現である。このスポーツ好きな性格という特徴がもつ経済的な価値に、これ以上つきあう必要はあるまい。
これとの関連で注目すべきことは、体育や他のスポーツ好きの人々がいちばん感動しやすい顔つきの、最も明白な特徴が極度の機敏さにある、ということである。ユリシーズ[ホメロス『オデュッセイア』の主人公のラテン語名で、トロイアの戦いなどで活躍した英雄]の贈与や英雄的行為は、ゲームの実質的な促進という点でみても、彼らが仲間内の機敏なスポーツマンに与える賞賛という点でみても、アキレス[ホメロス『イーリアス』の主人公で、心優しくとも、怒れば狂暴な英雄として描かれている]のそれにほとんど劣りはしない。機敏な身ぶりは、若者が事情に応じて中・高等教育のどこか有名校に入学許可された後に歩み始める、専門的なスポーツマンへの同化の第一歩であることが通例である。そして装飾的な特徴としての機敏な顔つきが、運動競技のゲーム、レースおよび同様な競争的性格をもつ他のコンテストに関心を抱く人の好意的な注目を受けなくなることなど、決してありはしない。そうしたものの間の精神的な類似性をさらに示すものとして、地位の低い無頼漢階級の構成員がこの機敏な顔つきをはっきりと示している、ということ、したがってまた彼らは、運動競技上の栄誉を求める若者にしばしば目につく、同様に芝居がかった誇張をほぼもれなく示している、ということを指摘することができるだろう。ついでながら、これは悪名を熱望する若者の間で、俗に「タフさ」と呼ばれているものの最も明瞭な印である。
機敏な男は、他の社会と取引する際に抜け目なく行動するという目的でもないかぎり、社会にとってなんら経済的な価値はない、という点が注意されてよい。彼の働きは、一般的な生のプロセスを促進するものではない。その直接的な経済的な関連という点では、せいぜいのところ、それは集団の経済的な実体が、集団的な生のプロセスとは相容れない|腫瘍《しゆよう》に――良性の腫瘍と悪性の腫瘍とを区別するはっきりしない境界線を越えようとする傾向の、医学用語で良性腫と呼ばれてきたものときわめてよく類似したやり方で――転化したものにすぎないのである。
凶暴さと機敏さという二つの野蛮な特性は、略奪的な気質や精神態度を形づくるのに役に立つ。それは狭い利己主義的な心的習慣の発現である。両者はともに、妬みを起こさせるような成功を求める生活のための個人的便宜には、きわめて有用なものである。両者はともに、金銭的文化によって促進される。だが、等しく両者は、集団生活の目的にとって少しも役に立たないものなのだ。
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第十一章[#「第十一章」はゴシック体] 幸運を信じる心
ギャンブル好きな性向は、野蛮な気質のもう一つの副次的な特性である。それは、スポーツ好きな人間や、好戦的で競争的な活動一般に耽っている人々の間にほぼもれなく行きわたっている性格が、付随的に変異したものである。加えて、この特性は直接的な経済的価値をもっている。それがかなり普及している共同社会では、それは、全体の産業効率を最高度に達成するための障害物だと認められている。
ギャンブル好きな性向が、もっぱら略奪的なタイプの人間性に属する特徴と分類されるべきものであることに、疑問の余地はない。ギャンブルを行う習慣に含まれている主要な要素は、|幸運を信じる心《ビリーフ・イン・ラツク》である。そして少なくともその要素についてみるならば、この信念が略奪文化に先立つ人間の進化段階にまでさかのぼることは明らかである。幸運を信じる心が、ギャンブル好きな性向の主要な要素として、スポーツ好きな気質のなかに存在しているような形に発展したのは、略奪文化の下でのことであったと言えよう。それが現代的な文化のなかで現れる場合の特殊な形態は、おそらく略奪的文化の規準に負うところが大きい。だが、幸運を信じる心は、本質的に略奪文化よりずっと古い起源をもつ習慣である。それはある形でなされるアニミズム的な事物の解釈なのである。その信念は、より初期の段階から野蛮な文化へと実質的にもち越され、その文化をとおして、略奪的な規律によって課せられた特殊な形態の下で、人間の発達の後の段階へと伝えられ、変質させられた特性であるように思われる。だが、いずれにしてもそれは、多かれ少なかれ古い過去から受け継がれたもので、現代的な産業過程が要請するものといくぶん両立しがたく、したがって、多少なりとも現代の集団的な経済生活の十全な効率化を妨げるような古代的特性、と理解すべきものである。
ギャンブルをする習慣の基礎は幸運を信じる心であるが、それは人が賭けの習慣に入りこんでしまう唯一の要素というわけではない。体力や技能をめぐる競技の結果に対する賭けは、幸運を信じる心がスポーツ生活の支配的な特徴として登場するためには不可欠の、さらに付加された動機によって遂行される。この余分な動機というのは、勝利を予想されている者、あるいは勝利を予想されている側に立つ支持者が、敗者を犠牲にして自らの側の優越性を高めようとする願望である。これだけでもきわめて重い対価ではあるが、賭金の金銭的な損益が大きくなるのに比例して、強い側がより顕著な勝利を得て弱い側がずっと辛く屈辱的な敗北を味わう、という意味で負担の対価が増加するだけではない。さらにまた、通常金を賭ける理由は、明言されたり短い[#「短い」に傍点] [in petto] 決まり文句になっているわけではないが、賭けの対象となる試合には何が何でも勝利をおさめるのだ、という意欲に支配されてのこと、というのが一般的である。この目的に捧げられた財産と気遣いが最終的に|烏有《うゆう》に帰すはずはない、と考えられているのである。製作者本能の特殊な発現がみられるのはここであって、それは、次のようなさらに明白な意識によって補足される。すなわち、アニミズム的な事物の調和というものは、意欲的で活力あふれる刺激によって必ず有利な判断を下すから、事柄に内在する性向が|宥《なだ》められたり強化されたりした側が結果的に勝利する、というものである。この賭けへの刺激は、どのような試合でも自分のひいきを支援する形式のなかに申し分なく現れており、したがってそれは、まぎれもなく略奪的な性質のものである。幸運を信じる心が賭けのなかに現れるのは、固有の略奪的な衝動に付随的なものとしてである。それゆえ、幸運を信じる心が賭けを行うという形で現れてくるかぎり、それは略奪的なタイプの性格の不可欠な一要素と見なされるべきだ、と考えられよう。その信念は、要素としてみれば、実質的に初期の未分化な状態の人間性に属する古代的な特性であるが、これが略奪的で競争的な刺激に助けられて賭ける習慣という特殊な形式に分化すると、この高度に発展した特殊な形式からして、野蛮な性格の一特性として分類されるべきものになるだろう。
幸運を信じる心は、事象の移り変わりのなかに幸運な必然性が含まれている、という意識である。さまざまな変異と表現をとりはするが、それがかなり普及しているような共同社会の経済効率にとっては、きわめて重大な意義をもっている。すなわち、その起源と内容およびさまざまな分枝のもつ意義について言うならば、それは、経済の構造と機能に及ぼす影響は何かという細かな議論だけでなく、有閑階級がその成長、分化および存続に対してもっている関係をめぐる議論を保証するほど、大きなものなのだ。略奪的文化の野蛮人や、現代社会のスポーツ好きな人の間で最もめだちやすい、発展し融和した形式のなかでは、その信念は、少なくとも二つの区別可能な要素――両者は基本的には同じ思考習慣の二つの異なった局面、すなわち進化の二つの連続的な局面における同じ心理的要因として理解されるべきものである――を含んでいる。この二つの要素が、同じ一般的な系統に属する信念の連続的な成長局面をなすという事実は、ある特定の個人の思考習慣のなかで、両者が共存することを妨げるわけではない。より原始的な形態(あるいはより古代的な局面)は、初期のアニミズム的な信念――つまり、関係や事物に関するアニミズム的な感覚――であり、これは、事実に対して準人格的な性質を転嫁する。古代の人間にとっては、周囲の環境のなかのきわめて顕著で明らかに重要な対象や事実は、すべて準人格的な個性をもっている。それは意志力、あるいはむしろ性向をもつと考えられており、したがって、複雑な原因のなかに入りこみ、不可解な仕方で結果に影響を及ぼすのである。幸運とチャンス、すなわち幸運な必然性に関するスポーツマンの感覚は、漠然とした、あるいは未完成なアニミズムなのである。それは、しばしばきわめてあいまいな仕方で対象や状況に適用されるが、しかし通常は、技能とチャンスをきそうあらゆるゲームの装置や服装の付属品を構成する対象に含まれている独自な性向の展開を和らげたり、逸らしたりねじ曲げたり、さもなければ混乱させたりする可能性を意味するもの、と定義されている。多少とも効き目があると見なされているお守りや魔除けを身につける習慣をもたないスポーツマンは、ごく少数に限られる。したがって次のような人々――つまり賭けているあらゆる試合の競技者や装置に「ケチがつくこと」を本能的に恐れる人々、また、ゲームで特定の競技者や一方の側を支持することが彼らを強めることは間違いないと考えている人々、さらには、自らが親しんでいる「マスコット」に対して冗談以上の意味を与えるような人々――が、全住民の間で占める割合は決して小さくはないのである。
幸運を信じる心が最も単純な形で現れたものが、対象物や状況には計り知れない目的論的性向が含まれている、という本能的な感覚である。物や出来事は、最終的には一定の目的を達成する傾向をもつと考えられるのであって、この目的あるいは継起の目標が偶然与えられたものか、熟慮の結果与えられたものかは、いずれでもいいことなのである。この信念は、この単純なアニミズムから、上述の第二の派生的な形態または局面に境界線がはっきりしないまま変化するが、それは、神秘的で超自然的な力の存在に対するかなり明確な信念である。超自然的な力は、それに結びつけられた目にみえる物をつうじて表出するが、個体としての存在という点では、このような物と同一視されることはない。ここで「|超自然的な力《プリターナチユラル・エージエンシー》」という用語を使ったからといって、超自然的と呼ばれた力がもつ性質について、別の含意をもつわけではない。これは、アニミズム的な信念がさらに発展しただけのものである。超自然的な力は、必ずしも完全な意味で人間的な作用であると解釈されているわけではないが、しかしそれは、あらゆる事業、とくにあらゆる競技会の結果にある程度恣意的な影響を及ぼすほど、人格性という属性を分かち合っている力である。とくにアイスランドのサーガ[アイスランドの神話・伝説]に、そしてまた一般的に初期ゲルマンの民間伝承に大いに真実味を付与しているハミーニア[#「ハミーニア」に傍点] [hamingia] やギプタ[#「ギプタ」に傍点][gipta] [超自然的な力をもっているため、何をしても成功するというアイスランド神話上の登場人物]の存在に対する広く行きわたった信仰は、事態の推移のなかに潜む超物質的な性向に関するこのような感覚を例証している。
このような表現や形態をとる信念においては、さまざまに異なる程度で個体としての存在がそれに転嫁されるとはいえ、その性向が人格化されることはほとんどない。したがってこの個体化された性向は、環境、つまり一般的には精神的ないし超自然的な性向をもつ環境に屈服するときがある、と理解されている。その信念のよく知られた印象的な実例――かなり分化が進んだ段階においてのことであり、懇願された超自然的な|作因《エージエント》の擬人観的な人格化を含んでいる――は、戦いに賭けることによって与えられる。ここでは、超自然的な作因は求めに応じて審判として機能するのであって、試合の結果を、たとえばおのおのの対立者の主張がもつ公平さとか適法性といった、ある程度明文化された判定の根拠に従って決定すると見なされている。不可解ではあるが、精神的には必然性を有する傾向が出来事のなかに含まれているという感覚は、たとえば、広く認められている「喧嘩のの正義を信ずる者、三度武器をとれり」という格言――これは現代の文明化された共同社会の平均的で浅はかな人物にとって、大いに重要性を保っている格言である――に示されているような流布した信念のなかに、めだたない要素として、いまなお見つけることができる。この格言がこうして受け入れられていることで証される、ハミーニア[#「ハミーニア」に傍点] [hamingia] ないし見えざる手の導きへの信仰を現在想起させるものはといえば、弱々しくしかも不確実なものにすぎない。したがってそれは、いかなる場合も、アニミズム的性格がはっきりしない他の心理的な契機と混在しているように思われる。
当面の目的のためには、この二つのアニミズム的な性向の理解のうち、後のものが前のものから派生してくる心理的なプロセスや民族的な血統については、詳しく吟味する必要がない。この問題は、民族心理学や、信念や崇拝の進化論にとって最も重要なものであろう。同じことは、この二つのものが発展の継起のなかではたして連続的な局面をなすような関係のものかどうか、というさらに根本的な問題についても妥当する。こうした問題の存在については、ここでの議論の関心がその方向に向かってはいない、ということを言うにとどめておきたい。経済理論に関するかぎり、幸運――すなわち、事物のなかに潜む原因以外の傾向や性向――を信じる心の二つの要素ないし局面は、実質的には同じ性質のものなのである。それは、個人が接触するようになる事実や継起に対する習慣的な見方に影響し、そうすることにより、産業的な目的に対する個人の有用性に影響を及ぼす思考習慣として、経済的な意義をもつ。それゆえ、美しさ、価値、あらゆるアニミズム的な信念がもつ恩恵に関するすべての問題を別とすれば、この信念と個人の有用性との関係を経済的な要因として、とくに産業的な因子として議論するもっともな理由が存するのである。
以前の文脈のなかですでに指摘しておいたことだが、今日の複雑に入り組んだ産業過程のなかで最高度の有用性を達成するためには、個人は、因果的継起という観点から事実を容易に解釈したり、関連づけたりする習性や習慣に恵まれていなければならない。産業過程の指導者と同様に、労働者に対して要求される「知性」とは、数量的に規定された因果的な結果を理解し、それに適応する能力のことなのである。このように理解し適応する能力は愚鈍な労働者には欠けているものであり、したがってこの能力の増加が、彼らの教育――彼らの教育が産業効率の高度化をめざすかぎりでのことだが――において求められている目的である。
個人が遺伝的に受け継いだ習慣や独自の訓練が、因果関係や、|挙証可能な事実《マター・オヴ・フアクト》という見地によらずに事実やその継起を説明する傾向をもつとしたら、それは個人の生産効率や産業的な有用性を低下させる。アニミズム的な仕方で事実を理解しようとする傾向による効率の低下は、全体としてみると――アニミズム的な素質をもった一定の人間集団を全体として眺めた場合に――とくに明瞭である。アニミズムの経済的な欠点はさらに明白なものであり、その結果は、大規模産業という現代の体制の下では、他のいかなるものにもまして広範なものである。現代的な産業社会では、産業は、以前にも増す速さで、相互に調節し合う機関や機能の包括的なシステムに組織されつつある。それゆえ、現象の因果的理解という点であらゆる偏見から解放されることが、産業に従事する人々の効率性にとってますます不可欠なものになってくる。手工業体制の下では、器用さ、勤勉さ、筋肉の力、あるいは我慢強さにおける長所が、労働者の思考習慣のなかのそうした偏見を大部分相殺しうるであろう。
伝統的な種類の農業においても同様であって、労働者に対してなされる要求の性質としては、手工業ときわめてよく似たものがある。両方とも、労働者自身がもっぱら頼り甲斐のある原動力であり、関与している自然力は、労働者の指揮決定権を超えた働きをもつ深遠で幸運な作用として、大部分理解されている。通常の理解によれば、このような形態の産業には、包括的な機械的継起がもつ宿命的な事情に依存した産業過程――因果関係の見地から理解されるべきであると同時に、産業の操作と労働者の動きが適応を迫られる産業過程――は、比較的わずかしか含まれていない。産業の方法が発展するにつれ、手工業者の美徳は、因果関係に関するごく限られた知識や不完全な受容を相殺するものとしては、役に立たなくなる。産業組織は一つのメカニズムとしての性格を強めるようになるが、そこでの人間の役割は、仕事のなかでどのような自然力に効果を発揮させるべきか、を識別し選択することである。産業における労働者の役割は、原動力としてのものから、数量的な因果や機械的事実を識別したり評価したりするものに変化する。周囲の状況のなかにある因果関係をたやすく理解したり、偏見をもたずに解釈する能力は、相対的に経済的な重要性を増し、こうして、労働者の思考習慣の複合体のなかの偏見にみちたあらゆる要素――この挙証可能な事実の継起の容易な解釈と矛盾するような偏見を押しつける要素――が、労働者の産業的有用性を低めるように作用する、攪乱的要素としての重要性を相対的に獲得することになる。人々の習慣的な感じ方に及ぼす累積的な効果をつうじて、数量的な因果関係以外の根拠によって日常的な事実を解釈しようとするとるに足りない地味な偏見でさえ、社会の全体的な産業効率を著しく低下させかねないものなのだ。
アニミズム的な心的習慣は、初期のまだ未分化な形態にある端緒的なアニミズム的信念のなかに生じうるし、事実に転嫁された性向の|擬人観的な《アントロポモーフイツク》[神に人間の姿や属性を与えようとする態度]人格化がすでに存在するような、ずっと高度に統合された後期の段階においても生じうる。このような生き生きとしたアニミズム的感覚の産業的な価値、あるいはまた、そのように超自然的な力や見えざる手の導きに頼ることの産業的な価値は、もちろん、いずれの場合でもほとんど同一である。個人の産業効率に影響を及ぼすのであるから、その結果は必ず同じ性質のものになる。だが、この思考習慣が労働者の思考習慣の複合体を支配したり形成したりする程度は、個個人が周囲にある事実を取り扱う際に適応していくアニミズム的ないし擬人観的な伝統的手法がどのくらいまで直接的であるか、どのくらい緊急度をもっていて専一的であるか、に応じて異なっている。アニミズム的な習慣は、どんな場合でも因果的継起の理解を曇らせるように働く。だが、より初期の、ずっと思慮を欠き、それほど明確ではなかったアニミズム的な性向についての感覚は、より高度な形態の擬人観よりもはるかに広く個人が知力を働かせるプロセスに影響すると期待してよいだろう。アニミズム的な習慣が素朴な形で存在しているところでは、それを適用する視野と範囲は明確でもないし、制限されているわけでもない。したがってそれは、個人の人生のあらゆる機会――個人がどこで物質的な生活手段と関係をもっていようと――に、明らかにその思考に影響するであろう。後の、発展を遂げずっと成熟したアニミズムが擬人観の精緻化の過程をへて明確に浮かび上がったとき以降、かなりの一貫性をもってその適用が迂遠なものや目にみえないものに限定されてくると、日常的な事実は、洗練されたアニミズムが発現する超自然的な力に頼ることなく、暫定的に説明されるという事態が生じてくる。高度に統合され人格化された超自然的な力は、生活のこまごまとした出来事を処理する手段として、決して便利なものではない。それゆえ、習慣というものが、多くのとるに足りない平凡な事象を因果の観点から説明する、という役割を容易に担い始めるのである。とるに足りない些細な目的の場合には人々が無関心であるため、特別な刺激や当惑が個人に忠誠心を放棄させるまで、こうしてたどりついた暫定的な説明が最も信頼に足る決定的なものだ、と見なされる。だが、特別な緊急事態が生じると、すなわち、完全かつ思うがまま因果法則に訴える奇妙な必要がある場合には、擬人観的信念をもつ個人は、ふつう万能の解決策として超自然的な力を頼みとすることになる。
因果を超越した性向や力は、当惑したときの頼みの綱としてきわめて高い効用をもつが、しかし、その効用は完全に非経済的な種類のものである。それはとりわけ、擬人観的な神格に属すると見なしうる統一性と専門性を確立した避難場所であり、救いの根源となるものである。それは推賞に足る多くのものをもっている。というのも、それによって当惑した個人が、因果関係の見地に立って現象を説明するという困難を免れる、という理由ばかりではない。美的、道徳的あるいは精神的な利益という観点からみた、擬人観的な神格の明白で広く受け入れられた価値について、ここで長々と書くのはふさわしいことではないし、さらにまた、多少の関連を有する政治的、軍事的あるいは社会的な政策的見地からみた当該の価値についても、同様である。ここでの問題は、そうした超自然的な力を信じる心の経済的価値をめぐるものだが、そもそも産業的有用性に影響を及ぼす思考習慣として、それはずっと地味で、さほど急を要しない経済的価値しかもたないものなのである。したがって、このような狭い経済的な範囲のなかでさえ、さらに間接的で迂遠な経済的影響を含む方向に研究を拡張するのではなくて、この思考習慣が超自然的な力を信じる人の製作者としての有用性に対してもつ、直接の関連に限定せざるをえないことになる。このような迂遠な影響を跡づけることは、きわめて困難である。そのような神格と霊的に接触することによって生が高められるとすれば、その研究もまた現在の先入観に邪魔さていることになるから、その経済的な価値を究明しようという試みは、さし当たり無駄に終わってしまわざるをえないからである。
アニミズム的な思考習慣が、それを信じる人の一般的な心の状態に対して及ぼす即時的で直接的な影響は、現代的な産業にとって理解力が特別な重要性をもつところで、その人の実際的な理解力を低下させるように働く。その効果は、信じこまれている超自然的な力や性向がより過激な種類のものであろうと、より微弱な種類のものであろうと、さまざまな程度で次々に起こる。これは、野蛮人やスポーツマンが抱く幸運や性向についての感覚にも妥当することであり、同様にまた、たとえば彼らと同じ部類の人々が一般的に保持している、ある程度高度に発展した擬人観的な神格に対する信心についても妥当することである。それはまた、信心深い文明人に訴えかけるような、さらに申し分なく発展した擬人観的な崇拝についても――相対的にどの程度の説得力をもつかは、なかなか言いがたいが――妥当すると見なされるべきである。ある種の高度な擬人観的な崇拝に対する大衆的な執着によって引き起こされる産業的な無能力は、相対的に軽微ではあるが、しかし見逃されてはならないものである。西洋文明におけるこのような高度な崇拝でさえ、因果関係を超えた性向という人間的な感覚が最終的に消滅する、その段階を表しているわけではない。これ以外にも、同じようなアニミズム的感覚は、十八世紀的な自然の秩序や自然権への訴えかけのような稀薄化した|擬人観《アントロポモーフイズム》、さらにその現代的な代表である、進化過程のなかに改良的傾向の存在をみる表向きダーウィン以後の感覚のなかにも現れている。このようなアニミズム的な現象の解釈は、論理学者に「怠惰な理性[#「怠惰な理性」に傍点]」[ignava ratio] という名前で知られている、ある種の詭弁である。産業や科学という目的からすれば、それは事実の理解や評価に失敗したものと見なされるのである。
その直接の産業的な結果を別とすれば、アニミズム的習慣はさらに別の理由から、経済理論にとって一定の意義をもっている。その意義とは、こうである。(一)その習慣に付随し、かなり経済的な重要性をもつ一定の他の古代的特徴が存在し、したがってまた、ある程度は影響力の大きささえも十分信頼しうるほどに示している、ということ。そして、(二)擬人観的崇拝が発展するなかで、アニミズム的習慣は信心深い礼儀作法の規範体系を生み出すわけだが、その物質的な帰結が重要性をもつのは、(a)以前の章ですでに示唆しておいたように、社会における財の消費と支配的な好みの規準に影響を及ぼしたり、また(b)目上の者に対する関係の習慣的な認識を導いたり維持したりするからであって、したがって、信心深い礼儀作法の規範体系は、結果的に現行の身分や忠誠に関する感覚を強化する、ということ。以上の二点においてのことである。
最後に指摘した(b)について言えば、あらゆる個人の性格を形づくる思考習慣の体系は、ある意味で有機的な統一体である。どの時点であれ一定方向へ向かう顕著な変異は、付随的な変異をともないつつ、その相関物として、他の方向や他の集団の活動に属する生活の習慣的な表現のなかに姿を現す。このようなさまざまな思考習慣、つまり生活の習慣的な表現は、個人の一様な人生がもっている多様な局面であり、それゆえ、一定の刺激に応じて形成された習慣は、必然的に、他の刺激に対する反応の性質に影響を及ぼすであろう。どの時点で人間性を修正したとしても、それは人間性全体の修正となる。こうした理由によって、したがってまたさらに重大なものとはいえ、ここで検討を加えることができない別の理由によって、人間性のさまざまに異なる特性の間に変異がみられるのと同様に、このような相関的な変異が存在することになる。こうして、たとえば十分に発展した略奪的な生活方式を身につけた野蛮時代の人々は、ふつうまた、深く浸透したアニミズム的な習慣、十分に体裁を整えられた擬人観的な礼拝形式、そして鋭敏な身分意識を保持している。他方、擬人観や物質のなかにアニミズム的な性向を悟ってゆく感覚は、野蛮時代以前および以後の文化段階に属する人々の生活のなかでは、それほどめだつ存在ではない。身分意識もまた、平和愛好的な共同社会では全般的に稀薄である。活発ではあるが、ほとんど特化していないアニミズム的信念は、たとえすべてではないにしても、前略奪的で野蛮な文化段階で生活している大部分の人のなかにみられるものだ、ということが注意されなければならない。原始未開人は、野蛮人や退化した未開人ほどアニミズムを重大なものと受けとめない。原始未開人の場合には、それは強制的な迷信にもとづく慣行ではなく、奇想天外な神話形成をもたらした。野蛮人の文化で際立つものは、スポーツマン精神、身分、および擬人観である。現代の文明化された社会に生きる人間の個人的な気質の同じ側面にも、似たような変異の共存が広く認められる。スポーツ好きな要素を形づくる略奪的な野蛮人の気質を現在代表しているのは、一般的に幸運を信じる心の持ち主であり、事物のなかにあるアニミズム的な性向を鋭くかぎつける感覚の持ち主である。少なくとも彼らは、その助けを借りてギャンブルに耽ることになるというわけだ。したがってまた、こういう人々における擬人観についても同様である。なんらかの信条に対する愛着を表明しているような人々は、ふつう、素朴かつ一貫した擬人観的な信条に執着する。つまり、ユニテリアン[プロテスタントの一派で、三位一体説に対して神の単一性を主張し、イエスの神性を否定する人々]とか|万人救済論者《ユニヴアーサリスト》[人類は結局救済されるか、神に負帰されるかする、と見なす人々]のような、ほとんど擬人観的な信条とは言いがたいものに精神的な安らぎを求めるようなスポーツマンは、比率としてほとんど皆無に近いと言ってよい。
このような疑人観と武勇との間の相関関係と密接に結合しているのは、擬人観的な|崇拝《カルト》が、身分の体制にとって好都合な思考習慣を展開しないまでも、それを保存するように作用するという事実である。この点に関して、崇拝のもつ訓練効果がどこで終わり、遺伝的な特性の変異と共存する徴候がどこで始まるのか、を判断するのはきわめて困難である。略奪的気質、身分意識および擬人観的崇拝といったものは、最高に発展した状態のものとしてはすべて野蛮文化に属しており、したがって、その文化段階にある共同社会のなかでこの三つの現象が目につくようになると、相互にある程度の因果関係を切り結ぶようになるわけである。それらが今日の階級や個人の習慣・習性のなかに相関的に再登場する仕方をみると、個人の特性や習慣と見なされている同様の心理的現象の間にある似たような因果的・有機的な関係が、見事に暗示されている。議論の早い時点で明らかになったように、社会構造の特徴としての身分関係は、略奪的な生活習慣の結果であった。派生の系譜としてみるなら、それは実質的に略奪的な態度の精緻な表出である。他方、擬人観的な崇拝とは、物質的なもののなかに超自然的で不可解な性向がある、という理解に重ね合わされた詳細な身分関係の規範体系である。それゆえ、その派生における外面的な事実に関するかぎり、それは略奪的な生活習慣によって規定されたりある程度改変されたりして、広く古代人に浸透しているアニミズム的感覚が成長したもの、と捉えることができるのであって、略奪文化の男を特徴づける思考習慣の完全な補完物を|負帰《インピユテーシヨン》によって授けられる、人格化された超自然的な力というのはその産物なのである。
経済理論と直接の関係をもっており、それゆえここで考慮しなければならない事態の大まかな心理的特徴は、以下の点である。(a)以前の章でみたように、ここで武勇と呼ばれている略奪的で競争的な心的習慣は、人間を競争心にもとづいて比較する習慣に導かれてこうした特殊な形態をとるようになった、製作者精神という包括的な人間本能の野蛮時代における変異にすぎない。(b)身分関係は、認可済みの目録に即して正しく判断され、等級づけられるような競争心にもとづく比較の儀礼的表現である。(c)少なくとも、初期の活力あふれる時代の擬人観的な崇拝は、目下の者としての人間主体と、目上の者として人格化された超自然的な力との間の身分関係を、特徴的な要素としてもっている制度である。これを念頭におけば、人間性と人間生活のこのような三つの現象の間にある密接な関係を認識するのに、なんの困難もないはずである。つまりその関係は、いくつかの実質的要素が|収斂《しゆうれん》したものなのである。一方で、身分体制と略奪的な生活習慣は、製作者本能が競争心にもとづく比較という習慣の下で形をとるときの表現であるが、他方で、擬人観的な崇拝と信心深い儀式という習慣は、これと実質的に同一な、包括的な競争心にもとづく比較という習慣の指導の下で精緻化された、物質的なもののなかに性向の存在を意識するアニミズム的感覚の表出である。したがって、二つのカテゴリー――競争的な生活習慣と信心深い儀式という習慣――は、野蛮なタイプの人間性とその現代的な変異とを補完する要素である、と理解されなければならない。それは、異なった種類の刺激に対する反応としてなされた、ほぼ同じ領域に属する習性の表出なのである。
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第十二章[#「第十二章」はゴシック体] 信心深い儀式
現代的な生活に顕著な出来事を手当たり次第に口にするだけでも、擬人観的な崇拝が野蛮時代の文化や気質に対してもっている有機的な関係は明らかになることだろう。同様にそれは、崇拝の存続や効果および|信心深い儀式《デイヴアウト・オブザーヴアンス》の細目の普及とが、どのように有閑階級制度やその制度の基礎にある行為の原動力と関係しているかを、明らかにするのに役立つであろう。信心深い儀式という項目の下に説明されるべき慣行と、あるいはまた、このような儀式をその表出とする精神的かつ知的な特性とを、推賞したり|貶《おとし》めたりする意図などまったくもたなくても、日常的な現象である現代の擬人観的な崇拝は、経済理論に対する重要性という見地から論じることができるだろう。ここで述べればまさしく適切であると思われるのは、信心深い儀式がもつ具体的で外面的な様相である。信仰心の厚い生活の道徳的な価値だけでなく礼拝上の価値もまた、この研究の関知しないところである。もちろん、崇拝のそもそもの基となる教義の正しさや魅力に関しては、何の疑問もさしはさまないことにしよう。さらに、その間接的な経済的関連についても、ここで取り上げることはできない。それは、あまりにも難解で、しかもはるかに重大なものであるがゆえに、簡単なスケッチで済ますわけにいかない主題なのである。
金銭的な価値の標準が評価プロセスに及ぼす影響は、金銭的な関心とは無関係な他の根拠にもとづいてなされるのだが、このことについては、すでに以前の章である程度は述べておいた。その関係は完全に一方的なものではない。経済的な標準や評価の規準というものは、次には経済外的な価値の標準によって影響を受ける。事実のもつ経済的関連についてのわれわれの判断は、このようなより影響力の強い経済外的関心が優勢なものとして存在していることによって、ある程度まで形づくられる。事実、経済的な関心が、このようなより高次の非経済的な利害関係に付属するものとしてしか意味をもってこないような観点も存在する。それゆえ、当面の目的のためには、このような擬人観的な崇拝現象がもつ経済的な利害関係や経済的な関連を抽出するために、いくらかの工夫がなされなければならない。あまり厳粛な考え方に引きこまれることなく、可能なかぎり経済理論とは無関係なより高次の利害関係に起因する偏見を抱くこともなく、このような事実の経済的な評価にたどりつくためには、ある程度の努力が欠かせないのである。
スポーツ好きな気質をめぐる議論のなかですでに明らかになったことだが、物質的なもののなかにアニミズム的性向が宿っているという感覚は、スポーツ好きな男がギャンブル癖をもつことの精神的基礎を提供する。経済的な目的からすれば、性向についてのこのような考え方は、さまざまな形でアニミズム的な信念や擬人観的な教義のなかに表出しているものと、実質的に同じ心理的要素である。経済理論が取り扱わなければならないこのような具体的な心理的特徴に関するかぎり、スポーツ好きな要素に行きわたっているギャンブル精神は、区別のつかないほどに徐々に変化して、ついには信心深い儀式のなかに満足を見いだしている気分にたどりつく。経済理論の見地からみると、スポーツ好きな性格は、次第に宗教的心酔者の性格と等しくなるのである。賭け事をする男のアニミズム的感覚が、ある程度固定した伝統によって助けられるところではどこでも、それは、何かしら擬人観的な内容をもった超自然的ないし超物理的な力に対する、多少とも明確な信念へと発達してきた。したがってこうしたことが生じるところには、認知された接近ないし和解の方法によって、超自然的な力と折り合いをつけようとするそれなりの傾向が、ふつうは存在している。このような慰撫したり甘言を|弄《ろう》したりしようとする要素は、粗野な形式の|礼拝《ワーシツプ》とほぼ共通している――たとえ歴史的な由来が違っていても、少なくとも実際の心理的内容においては同じなのである。明らかにそれは、迷信的な慣行や信念として知られているものにまで、連続的に徐々に変化するのであり、こうして粗野な擬人観的な崇拝と血縁関係にあることをしっかりと主張するのである。
したがって、スポーツ好きやギャンブル好きな気質は、狭義の信仰者や信心深い慣行の遵守者を作り出すのに役立ついくつかの重要な心理的要素を含んでおり、出来事の継起のなかにある計り知れない性向や超自然的な干渉を、その主要な共通点としてもっている。ギャンブルをするという目的からすれば、超自然的な力を信じることは、とくに超自然的な力に転嫁された生活図式や思考習慣に関するかぎり、すなわち、他の言葉で言えば、出来事に干渉する場合の目的や道徳的な徳性に関するかぎり、あまり厳密に定式化されることはないであろうし、またそれが通例のことなのである。超自然的な力――幸運、チャンス、魔除け、マスコット等々として、その存在を感じたり、時に恐れたり、逃れようと努力したりする力――の個性や性格に関するスポーツマンの見解もまた、それほど明確なものではなく、統合の度も分化の程度もさほど大きいものではない。ギャンブル活動の基礎の大部分が人間的な力だ、と認められることはほとんどない。物や状況のなかに充満している超物理的で恣意的な力や性向が存在する、という本能的な感覚にすぎないのである。この素朴な意味で、賭け事をする人は、おおむね幸運を信じる人であると同時に、なんらかの形で受け入れられている教義のかなり強固な心酔者でもある。彼はとくに、彼の確信を勝ちとった|神格《デイヴイニテイー》がもつ恣意的な性質や計り知れない力に関係する教義なら、何でも受け入れようとする。その場合に、彼は二つ、時によっては二つ以上の異なった局面のアニミズムを受け入れていることになる。事実、完全な一連の局面から成り立つアニミズム的信念は、あらゆるスポーツ好きな社会の精神的な備えのなかに、無傷のまま見ることができよう。このようなアニミズム的な観念の連鎖は、その連なりの一方の極に、幸運やチャンス、幸運な必然性という最も初歩的な形の本能的な感覚を、他方の極に、完全に発達した擬人観的な神格を、あらゆる中間的な統合の段階で含んでいるであろう。このような超自然的な力を信じる心と一緒になって、一方では幸運なチャンスの存在という必要条件が満たされるという推測が、他方では神格によって与えられた深遠な天命に多少なりとも信心深く帰依するという行動が、本能的に形成されてくるのである。
スポーツ好きな気質と無頼漢階級の気質の間には、この点で関連が存在しており、したがって両者とも、擬人観的な崇拝に傾きやすい気質と関連をもっている、ということになる。無頼漢とスポーツ好きな人はともに、平均的にみていかにも一定の公認された教義の心酔者になりやすく、したがってまた、社会の一般的な平均に比べて、はるかに信心深い儀式に耽りやすい。この両者のなかにいる不信者が、平均的な不信者よりも、公認されたなんらかの信仰への改宗者になる傾向をずっと多く示していることも、注目に値する。観察されたこの事実は、とくに洗練の度が低い略奪的な体育スポーツについて弁明する際に、スポーツの代弁者によって率直に認められている。事実、体育スポーツの習慣的な参加者がかなりはっきりと信心深い慣行に耽っているということは、スポーツ生活の有益な特徴なのだ、とほぼ一貫して主張されている。さらに、スポーツ好きな男や略奪的な無頼漢の階級が心酔したり、このような階級からの改宗者が惹きつけられたりする礼拝形式は、通常いわゆる高尚な信仰のそれではなく、徹頭徹尾擬人観的な神格と関係をもつ礼拝形式なのである。古代的で略奪的な人間性は、たとえば造物主、普遍理性、世界精神、あるいは崇高な形相に転嫁された思弁的で秘伝的なキリスト教の教義が主張するような、個性が分解して徐々に数量的な因果関連の概念になってしまう、などという深遠な考え方には満足しないのである。競技者や無頼漢の思考習慣が求める性質の崇拝例としては、救世軍として知られている戦闘的な教派を指摘することができよう。これはある程度下層階級の無頼漢から人材を集めており、とくにその将校の間には、社会の総人口に占める割合よりは高い比率で、スポーツをしたことのある人が含まれているように思われる。
大学の体育競技は、当面の問題を証明するための事例を提供する。大学生活のなかで信心深い要素を代表する者によって認められている――したがって、この主張を覆すような根拠は何もないように思われる――ことは、わが国のあらゆる学生集団によって提供される理想的な体育競技の人材が、同時に著しく宗教心に厚いということ、すなわち、少なくとも彼らが、体育競技その他の大学スポーツにあまり関心をもっていない平均的な学生よりも、ずっと信心深い儀式に耽りやすいということである。これは、理論的な根拠から予想しうることである。ちなみに、ある観点からみると、これは大学のスポーツ生活、体育競技、およびそれに専念している人々に対する賞賛を反映しているように思われる、ということが注目に値しよう。本職としてであれ片手間としてであれ、大学のスポーツ人が宗教的な宣伝に献身することは、珍しいことではない。したがってこれが生じる場合には、彼らはずっと擬人観的な宗派のいずれか一つの宣伝者になることが多い。彼らは、その教義のなかで、擬人観的な神格と人間主体との間にある人格的な身分関係を、ひたすら主張する傾向をもっている。
大学人の間で目につく体育競技と信心深い儀式とのこのような密接な関係は、十分に知れわたっている事実である。だがそれは、十分明白だったにもかかわらず、従来注目されてこなかった特殊な特徴をもっている。大学スポーツにかかわる構成員の大部分に浸透している宗教的な熱意は、まぎれのない崇高さや深遠な|神《プロヴイデンス》に対する素朴で自己満足的な服従のなかに、とくに現れやすい。したがってそれは、通俗的な形の信仰――たとえば青年キリスト者連盟とか、キリスト者の努力をめざす若人の会といったようなもの――を拡大させることに専念している平信徒の宗教組織のいずれかに、好んで結びつきたがるのである。このような平信徒の団体は「|実践的な《プラクテイカル》」宗教を促進するために組織されたものであり、したがって通常それは、スポーツ好きな気質と古代的な信仰心の厚さとの間の密接な関係についての議論を強化したり、強固に仕上げるためでもあるかのように、体育競技およびチャンスや技量をめぐる同様のゲームを促進するためにエネルギーのかなりの部分を捧げるのである。この種のスポーツは恩寵の手段として若干の有効性をもつと理解されている、と言うことさえ可能であろう。明らかにそれは、改宗の手段として、したがってまた、かつてなされた改宗における信心深い態度を維持する手段として有益である。すなわち、アニミズム的な感覚と競争的な性向を鍛えるゲームは、通俗きわまりない崇拝に適した心的習慣を形成したり、保存したりするのに役立つのである。それゆえ平信徒の組織では、このようなスポーツ活動は、精神的に高い地位でなされる生活――完全な聖体拝領者だけの特権である生活――をいっそう拡大させる手段や修練の代わりになってくる。
競争的で低級なアニミズム的性向の実践が信心深い目的にとって実質的に役立つということは、この点で、多くの宗派の|聖職《プリーストフツド》が平信徒組織の手本にならっているという事実によって、疑問をさしはさむ余地がなくなるように思われる。実践的な宗教を強調する点で平信徒の組織に最も接近しているこのような聖職組織は、伝統的な信心深い儀式と関連性をもつような種類の礼拝式を、なんらかの形で採用している。そういうわけで、「少年旅団」や、さらには聖職者の支持を受け、宗派の年若い構成員のなかに身分意識や競争心を喚起させるために活動する組織が存在するのである。このような擬似的な軍事組織は、競争や妬みを起こさせるような比較への性向を強化したり練磨したりする傾向を、したがって結果的に、人間的な支配と服従の関係を明瞭に理解し是認する、内生的な能力を強化する傾向をもっている。こうして信仰者とは、どうすれば進んで懲罰を受け入れ、それに従うことができるか、を知っている人のことなのである。
だが、このような慣行が助長したり保存したりする思考習慣は、擬人観的な崇拝の構成要素の半分を作り上げているにすぎない。信心深い生活――アニミズム的な心的習慣――の残る半分の補完要素は、聖職者の許可を得て組織された付加的な分野の慣行によって補充され、維持される。教会のバザーや富くじ販売が典型と考えられるような部類のギャンブルの慣行がそれである。固有の信仰心の厚い儀式との関連でみたこの慣行の正当性の程度を示すものとして、このような富くじ販売や似たようなギャンブルを行うささやかな機会は、それほど信仰が厚くない心的習慣の人々に対してよりも、宗教組織に属する普通の構成員に対していっそう効果的に訴えかける、ということが注目されるべきであろう。
このようなことはすべて、一方では、人々を擬人観的な崇拝へと向けさせるような気質が人々をスポーツへ駆り立てる、ということを、他方では、スポーツ、なかでもとくに体育スポーツの習慣化が信心深い儀式に満足を見いだす性向を発達させるように作用する、ということを証拠立てているように思われる。逆に言えば、このような儀式の習慣化は、競争心にもとづいて比較する習慣と幸運を懇願する習慣とを自由に働かせるような、体育スポーツやあらゆるゲームをする性向の成長にとって有利に作用するようにもみえる、ということである。この二つの方面でなされる精神的生活のなかに、実質的に同じ分野の性向が現れるのである。略奪的な本能とアニミズム的な観点が優位を占めている野蛮時代の人間性は、ふつうこの両方を併せもつことが多い。略奪的な心的習慣は、人間の尊厳と個人間の相対的な地位に関する強固な感覚をともなっている。略奪的な習慣が制度の形成に際して支配的な要因となる社会構造とは、身分にもとづいたそれである。略奪的な共同社会の生活図式のなかに浸透している規範は、目上の者と目下の者、高貴な者と下賤の者、支配的な者または階級と従属的な者または階級、主人と使用人という関係である。擬人観的な崇拝は、そのような産業発展の段階から受け継がれて、同じ経済的な分化の図式――消費者と生産者への分化――によって形成されてきたものであって、したがってそれには、支配と従属という同じ支配的な原理が浸透しつくしている。崇拝は、対象である神格に対して、経済的な分化の段階――この段階に応じて、崇拝の形式はさまざまに定まってくるのだが――に合致するような思考習慣を転嫁する。擬人観的な神格は、序列をめぐるあらゆる問題にきわめて鋭敏であると考えられており、支配と恣意的な権力の行使――最後の審判者としての習慣的な暴力への依存――を主張することが多い。
後の、より成熟した擬人観的教義の定式のなかでは、畏怖の念を起こさせる存在であるとともに、計り知れない力を有する神格の側に習慣的に転嫁された権威は、「|神の父たる資格《ザ・フアーザーフツド・オヴ・ゴツド》」へと練り上げられる。超自然的な力に転嫁された精神態度や習性は、依然として身分体制の下に属しているようなものであるが、いまやそれは、半平和愛好段階の文化の特徴である家父長制的な色合いを帯びてくる。さらに、この発展した段階の崇拝の場合でさえ、信心深さの表現である儀式が、神格の偉大さと栄光を褒めそやしたり、服従と忠誠を明言することによってひたすら神格の機嫌をとるように努めている、ということは注意されてよい。ご機嫌をとったり崇めたりする行為は、身分感覚――交渉の対象である計り知れない力に転嫁された感覚――に訴えるような形式を与えられている。最も人気があるご機嫌とりの伝統的方式は、いまでもなお妬みを起こさせるような比較を実行するか、ほのめかすかしているようなものである。そのような古代的な人間性に恵まれた擬人観的神性をもつ人物に対する誠意あふれる傾倒は、心酔者のなかにある同様な古代的な性向を意味している。経済理論の目的からすれば、忠誠の関係は、肉体をもった人物に対してであれ、肉体を超越した人物に対してであれ、略奪的かつ半平和愛好的な生活図式の大部分を形づくっている人間的貢献の変異と捉えるべきものである。
好戦的な族長が高圧的な統治方式に傾きがちであった、野蛮時代における神格の概念内容は、初期の略奪的段階と現代との間にある文化段階を特徴づける、より穏やかで落ちついた生活図式や習慣をつうじて、大いに和らげられてきた。だが、このように信心深い空想力が練り上げられ、結果的に広く神格に転嫁された激しい行為や性格上の特性が緩和された後でさえ、神格の性質や気質をめぐる大衆的な理解のなかには、野蛮時代の概念がきわめて強固に残り続ける。こうして、たとえば、神格とその人間生活との関係を特徴づける際に、話し手や書き手は、あいかわらず妬みを起こさせるような比較を含む言い回しだけでなく、戦争用語や略奪的生活図式の用語から借りてきた具体的な|喩《たと》えを、効果的に利用することができるのである。このような趣旨の比喩的表現は、そのような信条のより穏やかな変異の心酔者から成り立つ、好戦的とはとても言いがたい現代の聴衆に話しかける場合でさえ、きわめて効果的に利用される。人気の高い講演者が野蛮時代の形容辞や比較のための言葉を効果的に使っていることは、野蛮時代の美徳がもつ威厳や長所への生き生きとした理解力を、現代の世代がいまなお保存していることを物語るものだ。現代の崇拝者が、狂暴で復讐心に燃える感情や行為をその崇拝の対象に転嫁することに反感を抱くのは、たとえあったとしても、せいぜい考え直した結果のことでしかない。神格に与えられた血なまぐさい形容辞が、大衆の理解においてきわめて高い美的な価値と栄誉としての価値をもっているということは、ごく一般的に目につく事柄である。すなわち、このような形容辞が示唆していることは、われわれの無分別な理解力にもきわめて受け入れやすいものなのである。
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わが眼は、主の来たり給う栄光を見たり。
主は、怒りの|葡萄《ぶどう》がたくわえられし場所の葡萄酒を踏み散らし給う。
主は、主の恐ろしくも素早き剣たる信義あつき雷光を放ち給うた。
主の真理は近づきつつあり。
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信心深い人を導く思考習慣は、今日の共同生活の経済的な要請にはほとんど役に立たなくなった、古代的な生活図式の地平で活躍する。今日の共同生活が要請する事態に経済組織が適合しているかぎり、経済組織は身分体制を時代遅れなものにし、人間の従属関係が効力や意味をもったりしないようにしてしまう。社会の経済効率という点からすれば、人間的な忠誠という感情やこの感情表現のもとになっている一般的な心的習慣は、既存の状況での人間制度の十分な適応を妨げたり、場所をふさいだりする残存物である。平和愛好的で産業的な社会の目的に最もよく貢献する心的習慣とは、物理的な事実をたんなる機械的な因果のなかの明白な事項として認識するような、挙証可能な事実を好む気質である。事物に本能的にアニミズム的な性向を転嫁したりせず、当惑するような現象を説明するために超自然的な介入に頼ったり、事態の進路を人間の役に立つように整えるために見えざる手に依拠したりしないのは、このような心の状態によるものなのである。現代的な状況の下で最高の経済効率を達成する条件をみたすためには、世俗的なプロセスは、数量的で、感情に左右されない力と因果関係の見地から習慣的に理解されなければならない。
最近の経済的な要請という観点からみるかぎり、おそらく信心深さは、なによりも共同的な生活の初期段階からの残存物――精神的発達が阻止された印――と見なされるべきものである。もちろん信心深さは、経済構造があいかわらず実質的に身分体制であるような共同社会では、いまなお妥当性をもっている。そのような共同社会とは、平均的な人間の態度が、人間的な支配・従属関係によって結果的に形成され、その関係に適応している社会、あるいは、他のなんらかの理由――伝統とか遺伝的な習性とかの理由――で、住民が全体として著しく信心深い儀式に耽りやすい社会のことである。そこでは、個人のなかに社会的平均を上回らない程度存在する信心深い心的習慣は、広く行きわたった生活習慣の些事として、単純に理解すべきものにすぎない。こうみてくると、信心深い共同社会における信心深い個人とは、社会の平均に遅れているわけではないので、先祖返りのケースとは呼びえないことになる。だが、現代的な産業状況のなかでの過剰な信心深さ――社会の平均的な信心深さを著しく超えるような、熱意にみちた信心の深さ――は、いかなる場合であれ、先祖返り的な特性と考えて間違いないであろう。
もちろん、同じ現象をまったく異なった観点から考察することも、同様に道理にかなったことである。それは異なる目的から評価されうるものであって、ここで述べる特徴づけはそれに依存したものである。礼拝への関心、つまり信仰上の好みへの関心を中心にみた場合には、現代の産業的な生活によって人間のなかに育まれた精神態度は、信仰生活を無制限に発展させるには不都合なものである、と言っても何の問題も生じまい。それは、「唯物主義」へと向かわせる規律、つまり子たるにふさわしい忠誠をないがしろにするような規律をもつ最近の産業過程の発展に対して、かなり敵対的なものになりかねない。審美的な見地からみても、やはり、同じような趣旨のことが言えるであろう。だが、このような考察が固有の目的のためにどれほど適切であり価値があるとしても、この現象をもっぱら経済的な観点から評価することに意を注いでいる本研究のなかでは、当を得たものとは言えないであろう。
擬人観的な心的習慣と信心深い儀式に耽ることがもつ経済的意義はきわめて大きいので、アメリカのような信心深い共同社会のたんなる経済現象として議論したのでは不快感を催さずにはすまないような論題を、さらに立ち入って論じる言い訳になりうるであろう。信心深い儀式が経済的な重要性をもってくるのは、略奪的な心的習慣に随伴するものであるがゆえに産業的に無用な特性の存在を示唆するような、付随的な気質の変異の指標としてである。それは、個人の産業的有用性に影響する、という利点をもっているので、それ自体として一定の経済的価値を有する精神態度の存在を示唆するものなのだ。だが、それはまた、とくに財の分配と消費としての社会の経済活動に変化をもたらすという点で、より直接的な重要性をもってくる。
このような儀式の最も明白な経済的な意味は、財とサービスの信心深い消費のなかに見てとることができる。どの宗派であれ、神社、寺院、教会、祭服、捧げ物、聖典礼、祭日の盛装等々の形で必要になる儀式用の装飾備品一式は、直接の物的欲求には少しも役立たない。それゆえ、このような物質的な装置を、おおまかに顕示的消費の項目と特徴づけても、なんら非難したことにはなるまい。同じことは、これらの項目、たとえば聖職者の教育、聖職者のサービス、聖地巡礼、断食、祭日、家庭礼拝等々といったようなものに費やされた、一般的な仕方の人間サービスについても妥当する。と同時に、この顕示的消費が随伴する儀式は、擬人観的な崇拝の基礎になっている思考習慣をますます流行させ、長期化する。すなわち、身分体制に特徴的な思考習慣を促進することになるのである。それは、現代の状況下で、最も効率的な産業組織に対するそれなりの妨害物になっており、したがって何よりもまず、今日の状況によって要求されている方向にそった経済制度の発展に対して、敵対的に働くのである。当面の目的からすれば、この消費の直接・間接の効果は、社会の経済効率を削減するという性質を帯びたものである。こうして経済理論として、しかもこの消費の最も直接的な効果として考えるならば、擬人観的な神格のサービスにおける財と労力の消費は、社会の活力の低下を意味することになるのである。一方、この消費がもつ迂遠で、間接的で、道徳的な効果ともなりうるものについては、簡潔に答えが出せるようなものではないので、ここで取り上げることはしないでおく。
しかしながら、信心深い消費の一般的な経済的特徴を他の目的のための消費と比較しておくことは、当を得たことであろう。そして、信心深い消費が遂行される動機や目的の範囲を指摘するならば、この消費それ自体と、それに適した一般的な心的習慣の両方がもっている価値を評価するのに役立つことであろう。動機が実質的に同一であるとは言わないまでも、擬人観的な神格のサービスに役立つ消費と、野蛮文化の時代の社会の上層階級に属する有閑紳士――族長や家長――のサービスに役立つ消費との間には、顕著な並行関係が存在する。族長の場合も神格の場合もともに、奉仕する人のためのものとは明確に区別された、高価な殿堂が存在する。このような殿堂は、サービスにおいてそれを補助する小道具と同様に、種類や等級がありふれたものであってはならない。それはつねに、大々的に顕示的浪費であることを示すものだ。また、敬虔な殿堂は、その構造と造作の点で、例外なく古代的な種類のものであることも注意されてよい。したがってまた、族長と神格の従僕は、とくに飾り立てられた特徴の衣服を着用して、至高者の面前に現れなければならないのである。この衣装に独特な経済的特徴は、ふつうに強調された顕示的浪費以上のものであって、拝謁用の衣装は、つねにある程度古代的な流儀のものでなければならない、という第二の特徴――野蛮時代の有力者の従僕や廷臣に比べて、聖職者という使用人の場合にはずっと強調の度が高い――をともなう。共同社会の世俗の構成員が拝謁するときに着用する衣服もまた、日常用の衣服よりもずっと高価なものでなければならない。ここにもまた、族長の謁見の間の慣用と、聖所のそれとの並行関係が如実に示されている。この点に関して言えば、そこでは一定の儀式的な衣装の「清浄さ」が求められるが、経済的な側面からみた場合のその本質的な特徴は、このような場合に着用される衣服が、あらゆる産業的な職業や物質的な有用性をもつ職業への習慣的な従事など、ほとんど示唆しないようなものでなければならない、ということである。
この顕示的浪費と、勤労を想起させるものによって汚されていない儀式的な清浄さの必要性はさらに拡大されて、衣類についても、さらに程度が劣るとはいえ、聖祭日――神格のため、あるいは超自然的な有閑階級の低い階層の構成員のためにとっておかれた、タブーの日に食される食物についても、適用されることになる。経済理論においては、聖祭日は、神格や聖人――その名に対してはタブーが強制されていることで、その名声に対してはその日に有用な労働から免除されていることで効力が生じる、と考えられている――のためになされる代行的閑暇の時期だ、と明確に説明されている。あらゆる信心深い代行的消費の時期がもつ独特な特徴とは、人間の役に立つあらゆる活動に対する多少とも厳格なタブーなのである。断食日の場合には、利益を生む仕事や人間生活を物質的に促進するあらゆる行為を顕示的に節制することは、消費者の生活の充足や快楽に貢献するような消費を強制的に抑制することによって、さらに強化される。
ちなみに、わずかばかり迂遠な由来をもちはするが、平俗な祝祭日も同じ起源のものであることが指摘できよう。それは真の意味で、聖祭日から始まり、ある程度神聖視されてきた王や偉大な人物の、なかば神聖な誕生日という中間項をへて徐々に変化してきたものである。挙句には、再評価すべき者の名誉や名声を回復しようという意図の下に、注目すべき出来事や驚くべき事実の高い世評を煽るためにしつらえられた、とってつけたような祝祭日まで現れる始末である。代行的閑暇という仕事――ある現象や既知の事実の好評判を高めるための手段――のなかに現れるこの間接的な精緻化は、そのごく最近の適用のなかに最もよく窺うことができる。いくつかの共同社会では、代行的閑暇の日はレイバー・デーという名のもとに休日にされている。この儀式は、有用な努力を強制的に節制するという古代的で略奪的な方法に従って、労働という事実がもつ威信を上昇させようという意図をもっている。この労働一般という周知の事実に対して、労働から免除されていることを証明する金銭的な能力に起因する名声が、転嫁されるのである。
聖祭日、したがって一般的に祝祭日は、人民集団に課された貢物という性質をもつ。その貢物は代行的閑暇によって支払われ、目にみえる名誉をもたらす効果は、その名声にちなんで祝祭日が設けられた当の人物や事実に転嫁される。そのような代行的閑暇という十分の一税は、超自然的な有閑階級のすべての構成員の役得であり、その高い名声にとって不可欠なものである。人々が休業をもって祝わない聖者[#「人々が休業をもって祝わない聖者」に傍点][Un saint quユon ne ch冦e pas] とは、実際のところ、辛い目にあった聖者なのである。
俗人に課されたこの代行的閑暇という十分の一税に加えて、似たようなサービスのためにその時間を完全に割かれてしまう特別な部類の人々もまた存在する。すなわち、さまざまな身分の聖職者や神殿奴隷がそれである。聖職者階級にとって、とくにそれが金もうけであったり人間の現世的な福祉に貢献すると理解されるかぎり、平俗な労働を慎むことは義務にとどまるものではない。聖職者階級の場合のタブーはさらに進み、品位を下げるような勤労に従事することなく入手しえたものであっても、世俗的な利益の追求を断念させる、という形にまでいたりつく。物質的な利益を追求したり現世的な事柄を考えることなど、神格に仕えるものにふさわしくないし、またむしろ、仕える対象である神格の尊厳にとってもふさわしくない、と考えられるのである。「神に仕える素振りで自身の快楽や野心を求める者こそ、軽蔑すべき最たる者である」。
人間生活の充足に貢献する活動や行為と、擬人観的な神格の名声に貢献する活動や行為との間には境界線があるが、信心深い儀式に関する洗練された教養を身につけていれば、その線を引くことはごくやさしいことである。そして神に仕える者の活動は、理想的な野蛮時代の図式のなかでは、もっぱらこの境界線の神格の側に属している。経済学の範囲内におさまるものは、最も暮らし向きがよい司祭職が心配するに値しないレベルのものなのである。たとえば、中世の修道士(その構成員は、実際にある有用な目的のために労働した)階級の一部によって与えられるような明らかな例外が、その法則を非難することはほとんどない。このような中枢から離れた聖職者階級は、用語の完全な意味での聖職者の構成要素ではない。したがってまた、その構成員が生計の資を稼ぐのを大目にみてしまうようないかがわしい聖職者階級は、彼らが活動している共同社会の礼節感覚を傷つけることをつうじて名誉に値しないものになる、ということを指摘することができるだろう。
聖職者は物理的な意味での生産的な仕事に従事してはならないが、一方で大量に消費しなければならない。だが、その消費についてさえ、明らかに彼自身の安楽や生活の充足に貢献しないような形で行わなければならない、ということは注意すべきである。彼の消費は、以前の章でその項目について説明したように、代行的消費を支配する法則に従わなければならないのである。恰幅がよいこと、陽気な気分にみえることは、ふつう聖職者階級にとって誉められた行為ではない。実際、多くのずっと洗練された宗派では、この階級の代行的消費以外のものに対する禁止命令は、しばしば禁欲を申しつけるほどになっている。最近定式化された教義にもとづいて組織された現代的な教派の場合でさえ、この世の良きものを享受しようとする軽率さと確たる情熱は、真の聖職者の礼節と相容れぬものと見なされている。目にみえない主人の使用人が、主人の名声への貢物としてではなく、彼ら自身の目的に適合するように生活していることを示唆するものはすべて、何か基本的かつ永遠に間違ったものとして、われわれの神経にひどく障るのである。もっとも彼らは、きわめて高貴な主人の召使いであるという意味での使用人階級であるから、この後光のおかげで、社会的地位の高いところにランクされている。彼らの消費は代行的消費であり、進んだ宗派では、その主人はなんら物質的利益を得る必要がないから、彼らの職業は完全な意味で代行的閑暇になる。「それゆえ、食べようと飲もうと何をするにせよ、すべては神の栄光のためになせ」。
平信徒が神格に仕える職に近接して、その使用人と見なしうるほどになるならば、それに応じて、転嫁された代行的な性質は平信徒の生活にも付着してくる。この推論の適用範囲はかなり広い。それはとくに、宗教的な生活の改革や復興をめざしているような、謹厳で敬虔で禁欲的な外観をもつ運動――そこでは、人間主体は、直接の神の|僕《しもべ》として、自らの人生を精神界の主権者から与えられている、と見なされる――にあてはまる。すなわち、聖職という制度が衰退するところでは、あるいはまた生活にかかわる出来事のなかに直接的で気高い神格の存在を感じとるところでは、平信徒は神格に対して直接僕の関係に立っていると見なされ、したがってその生活は、主人の名声を高めるために遂行される代行的閑暇である、と解釈されるのである。このような先祖返りの場合には、信心深い態度の支配的な事実としての、むき出しの従属関係への復帰がある。それゆえ、恩寵の手段としての顕示的消費を無視した、謹厳で苦行をともなうような代行的閑暇が、ことのほか強調されることになる。
このように聖職の生活図式を特徴づけることが完全な妥当性をもつかという疑問は、神格に仕える現代的な聖職の相当部分が、多くの点でその図式からかけ離れているという理由から生じてくるであろう。古い図式は、遠い時代に確立された教義や儀式の目録から相当に乖離してしまったような宗派の聖職者については、妥当しない。彼らは、少なくともよくめだつ形であれ黙認の形であれ、平信徒の現世的な幸福ばかりか、彼ら自身の幸福をも気にかけているのである。彼らの生活様式は、たんに自宅における私生活だけでなく、公衆の面前における公的生活でさえ、これ見よがしの謹厳さや設備に現れる擬古主義という点で、世俗的な気分をもつ人々の生活様式と極端にかけ離れているわけではない。これは、ことのほか|彷徨《ほうこう》を続けてきたような教派の場合に、とくによくあてはまる。この異論に対して言いうることは、ここでわれわれが取り扱わねばならないことが、聖職観の相違ではなく、このような聖職者集団の側にみられる図式への不完全な順応なのだ、ということである。それは神格に仕える職をごく部分的に、しかも不完全にしか代表しておらず、したがって、信頼に足る適切な仕方で聖職の生活図式を表したもの、と理解されてはならない。こうした宗派や教派の聖職者は、神格に仕える職としては混血児、つまり神格に仕える職ではあっても、いまだ生成ないし改造の過程にあるものと特徴づけることができよう。そうした職は、その非順応的な分派が所属している組織の目的のなかにアニミズムや身分に還元できない要素が攪乱要因として含まれているために、異質な動機や伝統と混ぜ合わされ不明瞭にされた上で、その聖職の任務としての特徴を示しているにすぎない、と予想してよいだろう。
もし異議申し立てがあるとすれば、聖職者の礼節について鋭敏で洗練された感覚をもつ者の嗜好に訴えかけることもできようし、また聖職者が非難を受けずに何をなしうるのか、を考えたり判断したりすることにともかくも慣れている共同社会であればどこでも、その礼節を構成する支配的な感覚に直接訴えかけることもできるだろう。もっとも、極端なほど世俗化した教派の場合でさえ、聖職の生活図式と俗界のそれとの間には、守られるべき区別という意識が存在する。感覚の鋭い人なら当然のことだが、この教派ないし分派の聖職者が、伝統的な慣用からみてより謹厳さに欠け、あまり古風でもない態度や衣服に傾いた場合には、彼らが神格に仕える者としての礼節の理想から離反しつつある、と感じるのである。西洋文化圏のいかなる社会や宗派においても、許容しうる放縦の限度は、一般の平信徒よりも神格に仕える職務の在職者の側にかなり厳しく引かれるのがつねである。神格に仕える者自身の|聖職の礼儀正しさ《サツサドータル・プロプライアテイー》に関する感覚が効果的に限度を設定しない場合には、共同社会の側に広まっている|礼儀作法《プロプライアテイーズ》の感覚が、彼に、服従するのかそれとも職務から引退するのかを迫るほど、押しつけがましく自己主張することがふつうであろう。
いかなる聖職者団体の構成員であれ、自己利益のために俸給の引き上げを公然と要求するような者は、たとえいたとしても、ごく少数であろう。そして、もしそのような発言が聖職者によって公然となされたら、その信徒団の礼節の感覚からして醜悪なものに思われるであろう。この関連で指摘できることはといえば、嘲笑する人やきわめて鈍感な人を除いて、説教壇からの冗談に対して、本能的に深い悲しみを心に抱かない人はいないということ、そしてさらに、牧師に対する尊敬の念が、彼の軽率さの印によって生活の全局面で傷つけられないような人も、それが明らかに芝居じみた種類のもの――謹厳さが不自然にくつろいだもの――でないかぎり、いないということ、これである。神聖な場所や神格に仕える者の職務に固有な言葉遣いもまた、実際的な日常生活を示唆するようなものをできるだけ含むべきではないし、現代的な商業や産業の用語に頼るべきではない。同様に、聖職者のもとで、産業的な問題や他の純粋に人間的な問題の取り扱いがあまりにも詳細にわたったり、いたずらに内心を吐露したようなものであった場合には、礼節に関する人の感覚はいとも簡単に害されてしまう。説教的な主張の場合には一定水準の一般法則があって、これを下回ると洗練された礼節の感覚が働いて、教養ある聖職者が世俗的な利益をめぐる話に逸れることを許さないのである。人間的で世俗的な重大さしかもたないような事柄には、それ相応の取り扱い方があるのであって、説教者が主を代表するのは、主の世俗的な出来事への関心が、寛大にもそれを黙認するかぎりにおいてのことである、ということをほのめかしうる程度の一般性と無関心さが要請されるのである。
ここで議論しているような神格に仕える職制をもつ非順応的な分派や変種は、神聖な生活図式の理想に対する順応の過程でもそれぞれ異なっている、ということがさらに注意されるべきである。一般的に言えることではあろうが、この点での違いが大きくなるのは、比較的新しい教派の場合、とくに主として下層の中流階級を支持者にもつずっと新しい教派の場合だということである。ふつう彼らは、人道主義的・博愛主義的な動機、さらにはこのような組織の構成員の実際的な関心にほとんどもれなく含まれている学習や懇親への希望のように、とうてい信心深い態度の現れとは分類できないような動機をあらわにしている。非順応的な運動や分派的な運動は、ふつうはいくつも混じりあった動機にもとづいて遂行されるが、その一部は、神格に仕える者の職務の基礎になっている身分意識と矛盾する。実際、その動機は主として身分体制に対する憎悪であることがままあった。このようなことが生じるところでは、神格に仕える者という制度は、少なくとも部分的に朽ちて変化してしまう。元来そのような組織の代弁者は、特別な聖職者階級の構成員や、神格たる主人の代弁者であるというよりも、組織の使用人であるとともに代表者でもある。したがって後の時代に、この代弁者が神聖な権威を完全に授与され、謹厳で古代的でしかも代行的な生活様式に従って神に仕える者の地位を取り戻すのは、漸次的な専門化のプロセスをつうじてのことでしかない。同じことは、そのような変革の後の、信心深い典礼の破壊と復元についても妥当する。神格に仕える者の職務、神聖な生活の図式、信心深い儀式のスケジュールといったものは、ごくゆっくりと、それと分からぬように、しかも細部では多少の違いをともないつつ再建されるのであるが、それは、超自然的なものへの関心にふれるような問題において、信心深い礼節に関する人間の永続的な感覚が最優先されるべきことを再主張するためなのである。したがって、組織が豊かになるにつれ、ますます有閑階級がもつ観点や思考習慣を身につける、ということを付け加えてもよかろう。
神格に仕える者の階級を超えたところに、したがってさらに高い位置に属するものとして、聖人、天使等々――あるいは民族に伝わる礼拝儀式のなかで、それに比定されるべきもの――といった超人間的な代行的階級が配置されるのが通例である。これらは、精緻な身分の体系に従った段階的な位階をもっている。身分の原理は、目にみえるものとみえないものを包含した位階体制を貫いている。また、このようないくつかの超自然的な位階の名声には、ふつう代行的消費とか代行的閑暇という一定の捧げ物が必要である。したがって、多くの場合、前の章で確かめたように、聖人や天使のために代行的な閑暇を行う付き添いや従者という補助的な階層が、家父長制下の従属的な有閑階級について妥当するような仕方でサービスを提供し続けてきたのである。
このような信心深い儀式やそれが意味している気質の特殊性――すなわち、その崇拝形式のなかに含まれる財やサービスの消費というものは、現代社会の有閑階級や現代の生活図式のなかで、この階級が唱道者になっている経済的な動機とどのような関係を結んでいるか、ということ――は、よく考えないかぎり見えてこない可能性がある。そのためには、この関係に関連した一定の事実を概観しておくことが有益であろう。
すでに本章で述べてきたことから分かることは、今日の集団的な生活の目的にとって、とくに現代社会の産業効率に関するかぎり、信心深い気質がもつ形質上の特性は、益というよりもむしろ害だということである。したがって、現代的な産業生活は、産業過程に直接従事している階級の精神構造から、このような人間性の特性を淘汰的に除去してゆく傾向をもつ、ということが理解されるべきである。近似的であるとはいえ、効率的な産業社会と呼びうる社会の構成員の間で信心深さが衰微したり萎縮しがちであるというのは、真実であるに違いない。と同時に、このような習性や習慣は明らかに、直接的にも第一次的にも産業的要因として共同社会の生活過程に参加しない階級の間で、ずっと生き生きと存続する、ということも見えてくるに違いない。
すでに指摘しておいたように、産業過程の内部でというよりも、産業過程のおかげをこうむって生きているこの階級は、大まかに二つのカテゴリーから成り立っている。(一)経済的な環境がもつ圧力から保護されている固有の有閑階級。(二)過度に圧力に晒された、下層階級の無頼漢を含む窮乏階級。前者の場合には、その思考習慣を、変化する状況に適応させるように強制する効果的な経済的圧力が存在しないため、古代的な心的習慣が存続する。他方、後者にあっても、変化した産業効率の要請するものに自らの思考習慣を適応しえないのだが、というのも、栄養不良――つまり、たやすく順応するために必要な余分なエネルギーをもたない――と、さらに、現代的なものの見方を身につけたりそれに慣れたりする機会の欠如という事態が加わるからである。淘汰プロセスの傾向は、二つの場合ともほとんど同じ方向に進むのである。
現代的な産業生活が教えこむものの見方からすると、現象はことごとく、機械的因果をめぐる数量的な関係に包括されている。窮乏階級は、この見方が含んでいるより最近の科学の一般概念を身につけたり、吸収したりするためのささやかな時間を欠いているだけでなく、身分の体制に適した思考習慣からの解放をかなり妨げるような関係、金銭的な上位者に対して人格的に従属したり貢献したりする関係におかれているのが通例である。結果としてこのような階級は、人間の身分に対する強固な感覚を主として表現しており、信心深さを一つの特徴とする種々雑多な思考習慣を、ある程度保存することになる。
ヨーロッパ文化に属する伝統的な共同社会では、世襲的な有閑階級は――大量の窮乏した住民ともども――、産業的な性質をもつかなり大きな階級が存在する場合にはいつも、産業的中流階級の平均に比べて、信心深い儀式に耽る頻度も度合もはるかに高いのである。だが、上に指摘した二つのカテゴリーに属する保守的な人間性が実質的に全人口を構成している国もある。この二つの階級が大いに幅をきかせているところでは、その好みが大衆の感情を形づくることになってしまうため、結果的にあまりめだたない中流階級のさまざまな傾向が伸展する可能性を押しつぶし、社会全体に信心深い態度を強要することになる。
もちろん、こう言ったからといって、度をこして信心深い儀式を催す傾向にある共同社会や階級が、われわれがある特定の信仰告白と結びつけることの多い道徳体系の細目に申し分なく順応している、という意味に解してはならない。信心深い心的習慣の大部分は、必ずしも十戒や慣習法の命令の厳格な遵守をともなっているわけではない。実際、ヨーロッパ社会を観察している犯罪学者の間ではある程度周知になりつつあることだが、犯罪をおかしたり放縦であったりする階級は、平均的な人々よりもどちらかといえばずっと信心深く、しかもずっと率直な意味でそうなのである。信心深い態度から相対的に解放されることになるのは、金銭的な中流階級と法を遵守する市民集団を構成する人々である。高貴な教義や儀式がもつ長所を最も高く評価する人は、このような主張のすべてを否定し、身分の低い無頼漢の信心深さは見せかけで、またせいぜい迷信に対する信心深さなのだ、と言うであろう。なるほど重要な点がよく理解された議論だし、かなりの説得力をもって直接その説の正しさを納得させられることは間違いない。だが、当面の研究にとって、このような超経済的で超心理的な特徴は、そもそもの目的にとってどれほど有効かつ決定的なものであろうと、否応なく無視されるほかはないのである。
信心深い儀式を行う習慣からの階級的な解放という点で実際に生じてきたことは、最近の聖職者の不平――教会は職人階級の共感を失いつつあり、結果的に彼らに対する支配力を欠きつつある、というものだ――によって示されている。と同時に、ふつう中流階級と呼ばれている部分もまた、とくにその階級の成人男子に関するかぎり、教会を誠心誠意支持することがなくなりつつある、と多くの人が考えるようになっている。これは一般に認められた現象であり、こうした事実にちょっと言及するだけで、概説してきた一般的な立場を確証するに十分だと思われる。大衆が教会へ出席してその構成員になるというような一般的な現象に対するこのような疑問は、ここで提出した命題に十分に確証を与えることができるだろう。だが、今日のもっと発展した産業社会の精神構造のなかに、このような変化をもたらした特殊な力や出来事の経過をある程度詳しく跡づけることは、さらに適切なことであろう。それは、人間の思考習慣の世俗化に向けて経済的な要因が作用する際の仕方を、例示するのに役立つであろう。この点で、とりわけアメリカ社会は説得力に富む実例を提供するはずであるが、というのも、同様に重要なあらゆる産業的集合体のうちで、この共同社会だけが外的な事情によって、自由を妨げられることが最も少なかったからである。
アメリカの共同社会の現在の状況は、例外や正常からの散発的な乖離に十分配慮をした上で、次のようにごく簡単に要約することができよう。一般的な原則としてみれば、経済効率が低かったり、知識水準が低かったり、またその両方であったりする階級は、一風変わってとりわけ信心深い。たとえば、南部の黒人住民とか、低い階層の外国生まれの人々の大部分とか、田舎の住民、とくに教育、産業発展の段階、つまり共同社会の他の地域との産業的な接触という点で遅れている地方の住民の大部分がそうである。同じようなことは、特別な仕事に特化したり相続権に頼ったりしても糊口をしのげなくなっている階級、あるいはわれわれが差別された犯罪者または放縦な階級として知っている、一部の人々についても妥当する。とはいえ、後者の部類のなかでは、信心深い心的習慣はなんらかの公認の教義に型どおり熱中するという形をとるよりも、素朴でアニミズム的な幸運や、シャーマニズム的な効果を信じる心、という形をとる傾向がある。他方、周知のように職人階級は、公認の擬人観的教義やあらゆる信心深い儀式から離反しつつある。この階級は、現代の組織化された産業の特徴である知的で精神的なストレスに、とりわけひどく晒されているが、この組織化された産業はいつでも、あるがままの現象を、非人間的で挙証可能な事実という因果関係をもつものとして、しかも、因果法則にどこまでも従うものとして、理解するように要請する。同時にこの階級は、適応作業に要するエネルギーの剰余が残らないほど、食に窮したり働き過ぎたりすることがない。
アメリカの下層、あるいは多少とも疑わしい有閑階級――ふつうには中流階級と呼ばれる――の場合は、少し特異である。信心深い生活という点で、それはヨーロッパの中流階級と異なっているが、実質というよりも程度や方法における違いと言えるだろう。教会は、いまでもこの階級の金銭的な支持を受けている。とはいえ、この階級が最も容易に追随する教義は、擬人観的な内容に比較的乏しいものである。と同時に、実際の中流階級の集まりは、多くの場合、多少とも婦人や未成年者が集うという傾向にある。中流階級の成人男子の間には、生まれたときに社会的な承認を得ていた教義の概略に対する、一定の自己満足的で標準的な承認が多く残存しているとはいえ、信仰心の欠如がかなり顕著である。彼らの日常生活は、多少とも密接に産業過程と接触してなされているのである。
性別によるこうした独特な相違――信心深い儀式に婦人やその子供たちを代表として送りこむ傾向――が生まれるのは、少なくとも部分的には、中流階級の婦人が大部分(代行的な)有閑階級に属している、という事実に起因している。同じことは、多少程度は劣るが、下層の職人階級の婦人にも妥当する。彼女たちは、産業発展の初期段階から受け継いできた身分体制の下で生活しており、そうすることによって、一般的に古代的なものの見方に導くような気分や思考習慣を保持することになる。と同時に、彼女たちは、現代の産業的な目的からみれば時代遅れの思考習慣を強くうち破る傾向をもつ産業過程全体と、直接有機的に関係する立場に立っていない。すなわち、婦人がとくに信心深いのは、文明化された社会の婦人が大部分自らの経済的地位のゆえに身につけることになる、あの保守主義の特殊な表出なのである。現代の男にとっては、家父長的な身分の関係は、決して生活の支配的な特徴ではない。だが他方、婦人、とくに上層の中流階級の婦人は、長年の慣行による権利と経済的な事情によって「家庭の領分」に閉じこめられているため、この関係が生活の最も現実的で形成的な要因になっている。こうして、一般的に人格的な身分の見地から信心深い儀式や生活上の事実を解釈する、ということを好む気分が醸成される。彼女の日常生活の論理――つまり、論理的なプロセス――は超自然的な世界へともちこまれ、結果的に婦人は、男にとっては大部分異質で愚鈍と思われる分野の考え方のなかに、安心と満足を見いだすことになるのである。
依然として、この階級の男も|敬神性《パイアテイー》を欠いているわけではないが、ふつうそれは、精力的で活力あふれる種類の敬神性ではない。上層の中流階級に属する男は、職工階級の男よりも信心深い儀式に対してずっと満足した態度をとるのがふつうである。この階級の婦人に妥当することは程度こそ劣れ男にも妥当する、と言うことによって、おそらくこれは部分的に説明されよう。彼らは、ある程度保護された階級であり、彼らの婚姻生活や習慣的な使用人の利用のなかにいまなお残っている家父長的な身分関係がまた、古代的な心的習慣を保存するように作用し、その思考習慣が経験しつつある世俗化のプロセスに対して、阻止するような影響を及ぼしうるであろう。しかしながら、アメリカの中流階級に属する男と経済社会との関係は、通常かなり密接で厳格なものである。とはいえ、つきつめてみれば、彼らの経済活動もまた、しばしば家父長的または略奪的な性質をある程度帯びたものだ、ということが注意されてよい。この階級の間で評判がよく、したがってその階級の思考習慣を形づくる上で最も関係が深い職業は、同じ文脈で前述した金銭的な職業である。そこにはきわめて多くの恣意的な支配と服従の関係があり、したがってまた間接的には略奪的策略と同種の、抜け目のない慣行が少なからずある。こうしたことはすべて、略奪的な野蛮人の生活の地平に属すものであって、敬神的な態度は、彼らにとって習慣的なものなのである。これに加えて、信心深い儀式はまた、名声にもとづくものであるという理由で、この階級のお気に入りになる。だが、この敬神性への誘因は、それ自体として取り上げる価値をもっているので、まもなく言及することにしよう。
ある程度重要な意味をもつ世襲的な有閑階級は、南部を除いてアメリカ社会には存在しない。南部の有閑階級はいくぶん信心深い儀式に耽っており、わが国の他の地域で同程度の金銭的な地位にある階級に比べると、程度がずっと勝っている。また、南部の教義は北部のそれに比べてずっと旧式のタイプのものだ、ということもよく知られている。南部のこの古代的な信心深い生活に対応するものは、その地域の低い経済発展である。いまのところ南部の産業組織は、とくにごく最近までそうであったが、全体としてみたアメリカ社会のそれに比べてずっと原始的な性格のものである。それは、機械装置が不足気味で粗雑だという点で手工業に近いものであり、したがって支配と従属の要素がはるかに多く含まれている。この地域の特殊な経済状況に起因することだが、黒人と白人を合わせた南部の人々の信仰心の厚さは、多くの点で産業発展の野蛮な段階を思い出させるような生活図式と結合している、ということもまた注意されてよかろう。この住民の間では、他の地域に比べて、古代的な性質をもつ刑法違反が相対的に多発してきたし、現在でもまたそうであるのだが、それほど非難されることがない。この種のものとしては、たとえば、決闘、喧嘩騒ぎ、氏族間の長期の確執、泥酔、競馬、闘鶏、ギャンブル、男の不負(相当数の黒人と白人の混血児によって立証されている)などがある。そこにはまた活発な名誉意識――スポーツマン精神や略奪的生活の派生物の表出――も含まれている。
言葉の最適な意味でアメリカの有閑階級と呼ぶことのできる北部の富裕な階級に関するかぎり、何よりもまず、世襲的な信心深い態度を云々することはほとんどできない。彼らは成長間もない階級であるため、この点に関してよく訓練された先祖譲りの習慣、あるいはとくに自国育ちの伝統さえも、身につけることができていない。さらにこの階級は、少なくとも名目的な忠誠という点で、なにか一つの承認済みの教義――したがって、若干の真実も含んではいるものではある――の言うがままになる傾向がある、ということをついでに指摘することができよう。また、結婚式、葬儀、および類似の誉れ高い儀式は、ある程度際立った宗教的な仰々しさをもって、ほとんど例外なく荘重に遂行される。このような教義への支持が、どの程度まで信心深い心的習慣への真の[#「真の」に傍点] [bona fide] 先祖返りであるのか、したがってまた、それがどの程度まで、外国から借りてきた名声の規範体系に表面的に同化しようとする防衛的な真似事に分類すべきものであるのか、これを判定するのは不可能である。上流階級の崇拝のなかで発展しつつある形式ばった儀式がいくぶん過度である、ということからとくに判断するかぎり、かなり信心深い性向が存在している、というのはある程度確かなことだろうと思われる。上流階級の宗教崇拝者のなかには、礼拝の儀式や絢爛豪華な装飾品を比較的重視するような教派に入会するという、はっきりとした傾向が見られる。したがって、上流階級のメンバーが優勢な教会では、信心深い儀式の装置やサービスにおける知的な特徴を犠牲にして、典礼主義が強調されることが多い。これは、当該の教会が、全般的な典礼や装飾設備を比較的わずかしか発展させていない教派に属している場合にでさえ、あてはまることである。典礼的な要素におけるこの特異な発展の原因の一部が、顕示的で浪費的な見せ物に対する偏愛にあることは確かであるが、おそらくそれはまた部分的に、礼拝者の信仰心の厚い態度をある程度示唆していることでもあろう。もしこれが妥当するなら、それが示唆するものは、比較的古代的な形の礼拝の習慣である。信心深い儀式に見せ物としての効果が浸透していることは、比較的原始未開の文化段階にあって、あまり知的な発展を遂げていないあらゆる信心深い社会に顕著である。それはなによりも野蛮文化の特徴なのである。ここでは、あらゆる感覚経路をつうじての感情への直接の訴えかけが、信心深い儀式のなかにほとんど例外なく存在している。したがって、訴えかけとしては素朴だが、世間を沸かせるような方法へと回帰する傾向は、現代の上流階級の教会のなかに、まぎれもなく存在している。今日の下層の上流階級や中流階級に献身を求めている宗派の場合には、それはたとえあっても程度の低いものである。色つきの照明や光り輝く壮麗さの利用、象徴、オーケストラ音楽や香料のふんだんな利用への復帰がなされており、「行列聖歌」や「退場賛美歌」およびきわめて多様な、うやうやしくひざまずいて行う旋回のなかに、神聖な舞踏のようなきわめて古い礼拝の付属物への復帰の兆しを認めることさえできるであろう。
この壮麗な儀式への復帰は上流階級の礼拝だけに限られたものではないが、その最良の模範と最大の強調は、金銭的にも社会的にも高位な人々のなかに見いだされる。たとえば南部の黒人や遅れた地域の住民といった、社会のなかで低い階層に属する信仰心の厚い人々の崇拝は、もちろん、典礼、象徴および目を|瞠《みは》るような効果に強い愛着を示すものであるが、それは、このような階級の出自や文化水準から予想しうることなのである。このような階級にとっては、典礼や擬人観の優越性は、先祖返りに属する事柄というよりもむしろ、過去から続いてきた発展に属する事柄なのである。だが、典礼やそれに類する祈祷の利用は、他の方向にも広がりつつある。アメリカ社会の初期には、支配的な教派は厳格なほど簡素な典礼や祭式用具から出発した。だが、時がたつにつれ、さまざまに程度が異なるとはいえ、このような教派は一度は放棄した壮麗な要素の大部分を再び採用し始めたのである。これは、誰にでもよく知られている事実である。一般的に言うと、この発展は崇拝者の富や生活のゆとりの進展と軌を一にしており、富と名声の点で最高位にある階級の間で、最も完全な表現に到達した。
この信心深さの金銭的な階層化が生じる原因については、思考習慣の階級的な違いについて説明したところで、すでに一般的な形で示唆しておいた。信心深さの階級的な相違は、一般的な事実がたんに特殊に現れたものにすぎない。中流階級下層の頼りない誠実さ――すなわち一般的に、この階級における子としての誠実さの不足と呼ばれているもの――が、機械的な産業に従事している都市住民の間で主として目につくものである。一般的に言って、現在、技術者や機械技師の仕事に近い雇用に従事している階級の間で、非のうちどころのない、子にふさわしい誠実さを期待することなどできはしない。このような機械的な仕事は、大部分現代的なものである。現在の機械技師と似た性質の産業的目的に貢献していた初期の時代の手工業者は、信心深さという規律の下で、同様な免疫をもっていたわけではないのである。このような産業分野に従事する人々の習慣的な活動は、その知的な訓練に関するかぎり、現代的な産業過程が行きわたったために著しく変化した。結果的に、機械技師が日々の仕事のなかで晒されている訓練は、彼らの思考の方法や規格だけでなく、日常的な仕事の範囲外にある主題にまで影響を及ぼすことになる。高度に組織化され、高度に非人間化された現代の産業過程に慣れ親しむということは、アニミズム的な思考習慣を攪乱するように作用する。労働者の職務は、もっぱら機械的で、感情に左右されない因果のプロセスにおける意志決定や監視、というものになりつつある。個人がそのプロセスのなかの主要で典型的な起動因であるかぎり、また、産業過程のめだった特徴が個々の手工業職人の器用さと力とであるかぎり、人間的な動機や性向という見地から現象を解釈する習慣が、混乱――ゆくゆくはその習慣を破壊してしまうような、すべてのものを貫いている混乱――によって悩まされることなど、決して生じはしない。最近の発展した産業過程の下では、つまり起動因と労働の用具である機械装置が、非人間的で非個人的な性質をもつ場合には、労働者が習慣的に現象を理解する観点や心のなかに習慣的に存在している理論化の根拠は、挙証可能な事実の因果関係に関する強制的な承認である。その結果、労働者の信仰生活に関するかぎり、非宗教的な懐疑主義へと向かう傾向が生じるのである。
とすれば、信心深い心的習慣とは、比較的古代的な文化の下で最高の発達を遂げるように思われる。もちろん、「信心深い」という用語は、たんなる文化人類学的な意味におけるそれであって、こうして特徴づけた精神態度に関して、信心深い儀式に耽りやすい、という事実以外の何ものをも意味しているわけでない。この信心深い態度は、最近になって発達した体系的で組織的に産業的な社会の生活過程に対してよりむしろ、略奪的な生活様式にうまく調和するような人間性のタイプを表しているように思われる。それは大部分、古代的で習慣的な人間の身分観の表出――支配と従属の関係――であり、したがってそれは、略奪的で半平和愛好的な文化の産業図式には適合しても、現代の産業図式には適合しないものなのである。現代社会において、この習慣は、日常生活が産業の機械過程から最も遠く離れており、しかも他の点に関して最も保守的であるような人々から成り立つ階級の間で、最も頑強に存続するようにも思われる。他方、習慣的に現代の産業過程と密接な接触を保ち、それゆえ、その思考習慣が技術的な必要性という強制的な力に晒されているような階級では、信心深い儀式の基礎であるアニミズム的な現象の解釈や人間の差別的待遇は、廃れてゆく過程にある。したがってまた――とくにこの主題に関連するかぎり――、信心深い習慣は、現代社会のなかで、富と閑暇が最もめざましくその手中に生じるような階級の間で、その範囲と精緻化を漸次押し広げつつあるように思われる。社会の産業的進化が、最近の段階になって排除するよう作用する古代文化の要素や古代的なタイプの人間性を、有閑階級制度が保存したり、場合によっては再建するようにさえ働くのは、他の関連におけるのと同様、この関係においてのことなのである。
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第十三章[#「第十三章」はゴシック体] 競争心にもとづかない関心の存続
擬人観的崇拝はその信心深い儀式の作法ともどもに、経済的な必要性という圧力や身分体制の衰退をつうじて、時がたつにつれて漸次壊されてゆくことになる。この崩壊の進行とともに、信心深い態度と関連したり、混ざり合ったりした一定の他の動機や衝動といったものが現れてくるが、それは必ずしも擬人観的な由来をもたないばかりか、人間的従属という習慣に起源を発するものでもない。信心深さ――後の時代の信仰心の厚い生活のなかで習慣になったもの――と混ざり合ったこのような副次的な衝動のみながみな、現象の継起の擬人観的な解釈や信心深い態度と完全に調和している、というわけではない。その起源は同一ではないし、信心深い生活図式にもとづいた活動もまた、同一方向にあるわけではない。それは、信心深い儀式という規範体系や各種の聖職制度の実質的な基礎を提供すると見なされるべき従属と代行的生活という基底的な規範を、多くの点で否定する。このような異質な動機の存在をつうじて、社会的で産業的な身分体制は次第に崩壊するのであり、結果的に人間的従属という規準が、連綿と続く伝統による支持を失ってゆくのである。外生的で異質な習慣や性向がこの規準の支配する活動領域を蚕食し、したがってまもなく、各種の聖職構造は、神に仕える職が最も力強くしかも特徴的な発展を遂げていた時代に理解されていたような、信心深い生活図式の目的とはある程度異質な他の目的へと、部分的に転換されてしまう。
後の発展のなかで信心深い図式に影響を及ぼすこのような異質な動機としては、慈善や社会的友愛心、陽気な親睦という動機を指摘することができようが、これは、ずっと一般的な言葉で言えば、人間的な連帯や共感の意識が多様に現れたものである。このような聖職構造とは異質なものの利用は、内実を放棄する用意ができている人々の間でさえ、その名目と形式の上での残存を大いに助ける、ということを付け加えることができよう。信心深い生活を公式的に支持してきた動機に含まれている、さらに特徴的でずっと一般的で異質な要素は、環境との美的な調和、という崇拝とは無関係な感覚であり、それは、擬人観的な内容がそぎ落とされた後の、現代的な賛美行為の残留物として残されたものである。これは、従属という動機との混合をつうじて、聖職制度の維持のために大いに役立ってきた。この美的な調和という感覚や衝動は、必ずしも経済的な性質をもっていたわけではないが、産業発展以降の段階では、経済的な目的に対する個人の心的習慣を形成する際にきわめて大きな間接的な効果を及ぼしてきた。この点で言うなら、その最も顕著な効果は、初期のまだ妥当性が高かった身分体制の段階から伝統として受け継がれてきた、かなりはっきりとした利己的な偏見を緩和する方向へ導く、というものである。したがって、この美的な調和という衝動がもつ経済的な意味は、信心深い態度がもつそれを否定するように思われる。つまり、利己心と利他心の対立や敵対を否定することをつうじて、前者は利己的な偏見をたとえ除去しないまでも、限定するのに役立つ。また後者は、人間的な従属と支配の感覚が表出したものであるため、この対立を強化したり、利己的な利益と一般的な人間の生活過程の利益との間の乖離を強調したりするのに役立つのである。
この宗教的な生活のなかにある競争心にもとづかない残余――環境、つまり一般的な生のプロセスとの一体感――とともに、慈善心や社交性という衝動もまた、経済的な目的に対する人間の思考習慣を形づくる上で、広範な作用をもっている。だが、この種の性向の働きはみなかなりあいまいなものであり、その効果を詳細に跡づけることは困難である。しかしながら、以下のことだけ、つまりこのようなすべての種類の動機や習性の作用は、すでに定式化したような有閑階級制度という基底的な原理と対立する方向に傾きがちである、ということだけは明らかなのである。競争心にもとづいて比較するという習慣は、その制度の基礎であるだけでなく、文化的発展のなかでそれと結びついている擬人観的崇拝の基礎でもあり、したがってこの習慣は、いま取り上げている習性の実行とうまく調和することがあるのである。有閑階級の生活図式の実質的な規準は、時間と物質の顕示的な浪費と産業過程からの撤退である。もっとも、ここで問題になっている特定の習性は、経済的な側面からみれば、浪費や無駄な生活の仕方に対する非難のなかに現れているし、また経済的な側面においてであろうと様相や外観という他の側面においてであろうと、生のプロセスへの参加や同一視という衝動のなかに、それはおのずと現れている。
このような習性や環境がその表出にとって好都合であったり、このような習性が圧倒的な仕方で自己主張したりするところで生み出される生活習慣が有閑階級の生活図式と対立するようになるのは明らかだが、後の段階の発展に照らしてみたとき、有閑階級の図式に即した生活が、このような習性を抑圧したり、その図式の表出である思考習慣から離脱させるような一貫した傾向をもつかどうかは、明らかでない。有閑階級の生活図式がもつ積極的な訓練は、かなりの程度までまったく逆に働く。その積極的な訓練という点からみれば、有閑階級の図式は、長年の慣例によって認められた権利や淘汰的な排除によって、浪費と競争心にもとづく比較という規準が、生活の全局面できわめて広範かつ支配的な重要性をもつように、積極的に作用する。だが、その消極的な効果という点では、有閑階級の訓練がもつ傾向は、その図式の基本的な規準にそれほどぴったり合っているわけではない。金銭的な上品さという目的に向けて人間活動を規制するという点では、有閑階級の規準は産業過程からの撤退を強く求める。すなわち、それは、社会の貧困な構成員が習慣的に努力を傾注している分野で活動することを禁止する。とくに婦人の場合には、とりわけ、発展した産業社会の上流階級や中流階級の婦人に関するかぎり、この禁止は、金銭的な職業という半略奪的な方法による競争的な蓄積プロセスからの撤退さえ、強く主張するほどである。
金銭的な文化、あるいは有閑階級の文化は、製作者精神という衝動が競争心にもとづいて変異したものとして始まったにもかかわらず、その最近の発展においては、効率性、さらには金銭的な地位に関連した妬みを起こさせるような比較の習慣を排除してしまうことによって、それ自身の基礎を|反故《ほご》にし始めている。他方、有閑階級の構成員であれば、男も女もともに、生活の糧を入手するために仲間と|競争的《コンペテイテイヴ》に闘う必要性からかなり解放されているという事実は、競争的な闘いで成功するのに役立つような習性に恵まれていない場合でも、この階級の構成員がたんに生き残るばかりか、一定の範囲内で気の向くままにやっていく、ということさえ可能にしている。すなわち、その制度の最新かつ完全な発展においては、この階級の構成員の生活の糧は、成功した略奪的な男の特徴である習性を保持したり、自在に行使したりすることに依拠しているわけではない。それゆえ、このような習性に恵まれていない個人が生き残る機会は、高い地位にある有閑階級のなかのほうが、競争体制の下で生きている一般的な平均的住民のなかよりも、ずっと大きい。
古代的な特性が存続する条件に関する以前の章の考察をつうじて、有閑階級という特異な地位は、より初期の、いまではもう廃れた文化段階に固有なタイプの人間性を特徴づける特性の存続のために、例外的に好都合な機会を与えている、ということが明らかになっている。有閑階級は経済的な必要性という圧力から保護されており、したがってその意味で、経済的な状況へ適応させようとするむき出しの力の影響から隔離されている。有閑階級のなかに、したがって有閑階級の生活図式の下で、略奪的な文化の記憶であるような特性やタイプが存続するということは、すでに議論済みのことである。このような習性や習慣は、有閑階級の体制下では、またとないほど好都合な存続の機会をもっている。有閑階級の保護された金銭的地位は、現代的な産業過程のなかで有用であろうとすれば不可欠の習性に十分恵まれていない個人が生き残るために、好都合な状況を提供するだけではない。有閑階級の名声の規準は、同時にまた、一定の略奪的な習性を意識的に行使するように命令する。略奪的な習性が実践の途を見いだす職業は、富と家柄と、産業過程に従事しないことを示す証拠として役立つ。有閑階級文化の下での略奪的な特性の存続は、消極的にはその階級を勤労から免除することをつうじて、積極的には礼儀作法に関する上流階級の規準がもつ強制力をつうじて、二重の意味で促進されるのである。
前略奪的な野蛮文化を特徴づける特性の存続については、ある程度事情が異なってくる。有閑階級の保護された地位はまた、このような特性の存続を支持する。だが、平和や親善に役立つような特性の発揮は、礼儀作法の|規範体系《コード》による肯定的な認可を得られない。前略奪的な文化の記憶であるような気質に恵まれた個人は、有閑階級のなかでは、その階級以外で同様の気質に恵まれている人々に比べてある程度有利な立場にある。というのも彼らは、非競争的な生活に役立つこのような習性を抑制する、金銭的な必要性の下に立たされてないからである。だが、そのような資質に恵まれている個人は、こうした性向を無視するように迫る一種の道徳的な抑制に、依然として晒されている。なぜなら、礼儀作法の規範体系が、略奪的な習性にもとづいた生活習慣を彼らに押しつけるからである。身分の体制が損なわれることなく残り続けるかぎり、したがってまた、有閑階級が他の分野の非産業的な活動に|容喙《ようかい》して、これといった目的をもたない、しかも浪費的な作業に明らかに時間を空費させ続けるかぎり、名声の高い生活という生活図式からのいかなる実質的な離脱も、望みえないであろう。その段階で、有閑階級の内部に非略奪的な気質が登場するということは、散発的な先祖返りという事態と見なされるべきであろう。だが、行動しようとめざす人間の性向にとって、名声の高い非産業的な捌け口は、経済発展の到来、大きな戦利品の消失、戦争の減少、植民領主的統治の削減、および神に仕える職務の衰退などをつうじて、まもなく不足してくる。こうしたことが生じると、事態は変わり始める。人間の生は、たとえまったく別の方向ではないとしても、なんらかの方向に表出を求めるはずであり、したがって略奪的な捌け口が不足すれば、他の方向への救済が求められることになる。
上に指摘したように、金銭的な圧力からの免除は、発展した産業社会の有閑階級の婦人の場合に、大多数の他の集団以上に十全に達成される。それゆえ、そのような婦人は、むしろその階級の男よりも、非競争的な気質に対するはるかに明確な先祖返りを示す、と予想しうるであろう。だが、有閑階級の男の間でもまた、利己的なものと分類されようがなく、しかも競争心にもとづく比較という目的をもたない習性に起因する活動の領域と展望が、はっきり分かるほど増加してくる。こうして、たとえば、金銭的に企業を管理するという仕方でますます多くの産業と関係をもつ男は、仕事がうまく遂行され産業的に効率的であることに、したがってまた、結果的に生み出される利潤を度外視してでもこの種の改良を追求することに、いくぶんその興味と自尊心を振り向けるようになるのである。この方向の非競争的な産業効率の向上をめざす商業クラブや製造業者団体の努力もまた、周知のところである。
妬みを起こさせるようなもの以外を目的とする傾向は、多くの組織を生み出してきたが、そのめざすところは、ある種の慈善事業や社会改良事業である。このような事業はしばしば半宗教的あるいは疑似宗教的な特徴をもっており、男も女もともに参加している。よく考えてみれば事例は次々と挙げられるであろうが、問題になっている性向の範囲を指摘し、特徴づけるために、きわめて明白で具体的な事例をいくつか指摘できるであろう。たとえば、禁酒や同様な社会改革、監獄改革、教育促進、堕落の抑制、および仲裁や軍備縮小などの手段による戦争の回避などを要求する運動がそうである。ある程度までは、大学のセツルメント、近隣ギルド、青年キリスト者協会やキリスト者の努力を求める青年協会、慈善裁縫会、社会クラブ、芸術クラブ、さらには商業クラブなどに典型的に表れている雑多な組織もそうである。そしてまた、程度はかなり劣るとはいえ、豊かな個人の寄付によるものか、小さな資力をもつ個人から集めた義援金によるものであるか――このような財団が宗教的な性格のものでないかぎり――どうかは別として、慈善、教育ないし娯楽のために設立された、なかば公的な財政上の基金のようなものがある。
もちろん、このような努力が、利己的で自尊的な種類には属さない動機にのみもとづいて遂行されている、などと言おうとしているわけではない。主張しうることは、以下のことである。つまり、一般的な事態の成り行きのなかには別の動機が存在すること、したがってまた、身分の原理がなんら破綻することなく支配している体制の下でよりも、現代的な産業的な生活という環境の下でのほうが、この種の努力が明らかにずっと活発であるということ――これは、|競争的な《エミユレイテイヴ》生活図式が十分に正当なものであるかどうかという点について、現代の生活のなかに効果的な懐疑主義が存在していることを示唆している、ということなのだ。外生的な動機――利己的で自尊的な動機、そして、とくに妬みを起こさせるような名誉を入手しようとする動機――が、ふつうこの種の仕事に対する誘因のなかに含まれているということは、ありふれた冗談になるほどよく知れわたった事柄である。こうしたことが妥当するかぎり、利己的でなく、公共心にもとづいた目につきやすい多くの事業が、もっぱら発起人の名声を高めたり、場合によっては金銭的な利益を得ようという考えの下に開始され遂行されている、ということは間違のないことである。この種の組織や機関のかなり多くのものに目をやれば、自己顕示欲をみたそうとすること、これが明らかにその事業の創始者と支持者双方の支配的な動機だ、ということが分かってくる。こうした見方がとくに妥当するのは、大々的な顕示的支出をつうじて事業の実行者に名誉の印をもたらすような場合であって、たとえば、大学や公共図書館や博物館の設立のようなものがそれである。だが、どこからみても上流階級の組織であるような団体や運動の利益分配を受けているさらにありふれた事業についても、それは、おそらく同様に妥当するであろう。このような事業は、構成員の金銭的な名声を確証するだけでなく、たとえば、現在流行している大学設立のような改善事業の対象である低い階層の人々と、彼ら自身との違いを明らかに示すことによって、その卓越した地位を知らしめておくのに大いに貢献する。しかし、あらゆる推測と推量がなされたとしても、なお、競争心にもとづかないような性質をもつなんらかの動機の残留物が残る。この方法に従って名誉や礼節にかなう声望が追求されるという事実それ自体は、そのような正当性の意識が支配的であるということ、したがってまた、現代社会の思考習慣の構成要素として、非競争的で妬みを起こさせないような関心がおそらく効果的に存在している、ということの証拠なのである。
有閑階級の非差別的で非宗教的な関心にもとづいて遂行される、こうしたあらゆる最近の活動領域には、男よりも女のほうがずっと積極的かつ継続的に参加する――もちろん、厖大な資金を要するような事業の場合は別として――ということが、注目されるべきであろう。女性は、その従属的な金銭的地位のゆえに、巨額の支出を要する事業に取り組むことはできない。一般的な範囲の改善事業に関するかぎり、あまり洗練されていない信心深い宗派、つまり世俗化した教派の聖職者たちは、女性階級と提携している。理論上、これは当然のことなのである。また、その他の経済的な関連からして、このような聖職者は、女性階級と経済的活動に従事している男性階級とのちょうど中間で、いずれとも言いがたい地位を占めている。伝統と支配的な礼儀作法の感覚によれば、聖職者と暮らし向きのよい階級に属する女性は、ともに代行的な有閑階級の地位におかれている。つまり、両階級の場合、階級の思考習慣を形づくるのに役立つ特徴的な関係は、従属という関係――すなわち、人格的な見地から捉えられた経済的な関係――であり、したがって結果的に、二つの階級のなかには、因果関係よりもむしろ人格的関係の見地から現象を解釈する、という特別な傾向が存在している。つまり両階級とも、礼儀作法の規準によって、儀式的に不浄な金もうけや生産的な職業につくことを禁じられているため、今日の産業的な生のプロセスに参加することが道徳的に不可能なのである。このように、平俗な種類の生産的な仕事から儀式的に排除された結果は、利己的で自尊的なものではない利益を求めるサービスに、現代の女性や聖職階級のエネルギーの相当大きな部分を徴用するということになった。その規範体系は、目的的な行為をめざす衝動が表出を求めることのできる方向の活動しか残さないのである。有閑階級の女性の場合にみられるような、産業的に有用な活動に対する一貫した抑制の結果は、ビジネス活動以外の方向で展開されるのであって、それは製作者精神という衝動の活発な主張のなかに、よく現れている。
すでに述べたように、暮らし向きのよい女性と聖職者の日常生活は、平均的な男、とくに固有の現代的な産業的職業に従事している男の日常生活に比べて、身分の要素をより多く含んでいる。それゆえ、信心深い態度は、現代社会の普通の部類の男よりも、このような階級のほうがずっとよい状態で保存され続けることになる。こうして、代行的な有閑階級の構成員の間で、金もうけにならない充用として現れようとするエネルギーのかなりの部分は、結局のところ、信心深い儀式や信心深さにもとづく事業になってしまうであろう、と予想できるのである。こうして、部分的ではあるが、前章で説明したような女性における信心深い性向の表出となる、というわけなのだ。だが、当面の論点に密接にかかわるという意味では、この性向が、ここで論じている非営利的な運動や組織の活動を決定づけたり、その目的を特徴づけたりする、まさにその際の役割こそが注目されるべきである。このような信心深い思潮が存在する場合には、努力が傾注される経済的な目的からみると、組織の効率は即座に低下させられることになる。慈善的なものであれ改良的なものであれ、大衆の利益を促進しようとする場合、多くの組織は、信仰面における福祉と世俗的な福利におのおの別々に対処する。もしこのような組織が大衆の世俗的な利益に対してともに等しく真剣な注意と努力を払うとすれば、その事業の直接的な経済的価値がかなり高まるに違いない、ということに疑問の余地はほとんどありえない。同様にまた、ここが指摘するにふさわしい場所だとすれば、このような改良事業が信仰上の目的に対してもつ直接の効果は、通例存在する世俗的な動機や目的によって妨げられなければ、ずっと大きなものになりうるであろうことも、もちろん主張できるであろう。
この種の競争心にもとづかない事業の経済的な価値は、信仰上の利益が侵入してくるために、ある程度割り引いて評価されねばならない。だが、製作者本能が非競争的に現れるというこの経済的傾向を多少とも広く妨げるように作用する、他の異質な動機が存在することによって、さらなる|忖度《そんたく》が必要となってくる。すべてのことが明らかになれば、そして、それがさらに詳しい研究によって適切なものとして認識される程度に応じて、こうした一般的な部類の事業はまったく疑わしい経済的な価値――その事業が改善の対象にしている個人や階級の生活の便宜や充足に換算した場合の価値――のものでしかないことも明らかになることだろう。たとえば、大都市の貧窮住民の改善をめざす崇高で評価の高い努力の多くのものは、大部分、文化伝導という性格をもっている。この手段をつうじて、上流階級の一定の要素が下層階級の日常的な生活図式のなかに受け入れられてゆく、そのスピードを加速するための模索が試みられる。たとえば、貧困地区に住んで改善や啓発活動を行う「セツルメント」の気遣いは、部分的には貧困者の産業効率の向上と、手元にある手段をいっそう十分に活用するよう教えることに向けられているが、しかしまた、上流階級の礼儀正しさとしてマナーや習慣の細目の一部を、処世訓や例示によってさらに一貫して教えこむことにも向けられている。厳密に調査すれば、このような礼儀作法の経済的な実態はふつうに見いだされるであろう。貧窮者を人間的にするため足を運ぶ気高い人々は、通常、しかも意図してのことではあるが極端なまでに良心的であり、礼儀正しさをめぐる事柄や人並みの生活に暗黙のうちに固執している。そうした人々は模範的な生活を送っているのが通例であり、日常的に消費するさまざまな項目のなかに、儀式的な正常さをねばり強く説き明かす才能に恵まれている。このように時間と商品の消費に関する正しい思考習慣を教えこむことの文化的あるいは啓蒙的効果が過大評価されるということはほとんどないし、このような高邁で名声の高い理想をもつ人々にとって、その経済的価値がわずかしかないということもほとんどない。既存の金銭的文化という環境の下では、個人の名声、したがってまた個人の成功は、習慣的な時間と財の浪費を証明する消費の方法や、振る舞いにおける熟練度に大部分依存している。だが、このような立派な生活方法の究極的な経済的関連については、次のことが言われるべきである。つまり、物質的な成果が実質的に経済的価値をもつ事実だと理解されるような関係のなかでは、同じ物質的な成果をもたらすために、さらに高価で非効率な方法が代置される場合がほとんどである、という結果になってしまうのだ。文化の宣伝とは、おおむね新しい好み、あるいはむしろ新しいたしなみの良さの目録を説き聞かせることだが、それは、有閑階級による身分や金銭的な礼儀作法の原理の定式化に従って、上流階級の生活図式のなかに取り入れられてきたものなのである。この新しい正当性の目録は、産業過程の外で生活している人々によって仕上げられた規範体系から、低い地位にある階級の生活図式に押しつけられる。したがって低い階級の人々にとって、この押しつけがましい目録が、すでに彼らの間で流行している目録、とくに、現代的な産業生活という圧力の下でおのずと生み出されてきた目録よりもずっとよく生活の必要性に適合する、などとはほとんど期待できないのである。
もちろんこのような主張は、新しい目録にある行儀作法が旧来のものに比べてずっと上品である、という事実に異議を唱えようとするものではない。湧いてくる疑問とは、生活図式の再建という仕事がもつ経済的な便宜――すなわち、変化の結果がある程度の確信をもって確証でき、したがって個人的な見地ではなく、集団の生活という見地から眺めた、直接的で物質的な関連からする経済的な便宜――に関する疑問にすぎない。それゆえ、このような改善事業の経済的な便宜を評価しようと思えば、その実際の仕事は、たとえその事業の目的が主として経済的なものであり、しかもそれを遂行する際の関心が決して利己的なものでも競争心にもとづくものでもない場合でも、額面どおりに理解できることなどまずありえない。実行された経済的な改良は、もっぱら顕示的浪費の方法の変更という内容のものなのである。
だが、金銭的な文化を特徴づける思考習慣によって影響を受ける、この種のあらゆる事業のなかにある清廉な動機や手続きの規準がもつ性格については、もう少し別のことを言っておくべきであろう。そして、この追加的な考察は、おそらくすでに得ている結論をさらなる修正に導くことにもなる。以前の章でみてきたように、金銭的な文化の下における名声や世間体をめぐる規準は、金銭的に非のうちどころのない生活の証拠として、習慣的な無駄な努力を要求する。その結果生じるものは、たんに有用な職業を軽視するという習慣だけではない。社会的な名声を受けるに値する、と主張するあらゆる組織された人々の集団――そうした集団の活動を導く際にはるかに決定的な意義をもつものもまた、結果的に生じてくるのだ。物質的な生活の必要物と関係のあるプロセスや細目というものには俗っぽく親しむべきではない、と要求するような伝統がある。人は、寄付金とか運営委員会その他での仕事をつうじて、平民の福祉に対する量的な関心を賞賛に値するような仕方で示すことができるだろう。また、平民の文化的な福祉に対して一般的かつ微細にわたる熱意を示すべく、おそらくはさらに賞賛に値する仕方で、彼らの好みを高尚なものに引き上げ、精神的な改善の機会を与えるための工夫を講じることもできるだろう。だが、平民の生活の物質的な状況や平民階級の思考習慣に関する直接の知識――たとえば、このような組織の努力を実際に物質的に有用な目的に向けるといったようなこと――は、さらけ出してはならないものなのである。低い階級の生活状態に関する過度に親密な知識を自白すること、こうしたことに対する|躊躇《ちゆうちよ》は、もちろん、さまざまな人々の間にさまざまに異なった程度で行きわたっている。だがふつうは、その活動の方向に深く影響を与えかねないほどのものが、当該の種類のあらゆる組織のなかに累々として存在しているのである。そのような団体の慣行や先例を形づくってきた累積的な活動をつうじて、平民の生活にみっともないほど慣れ親しんでいる、という汚名をなんとか免れようとする意識は、究極的に金銭的な利益という規準に還元できる立派な評判という確固とした指導原理に支持されているがゆえに、当初の事業の動機を次第に脇に押しやってしまうことが多いのである。こうして、長く続いている組織では、階級の生活の便宜を促進しようという当初の動機は次第に表向きのものでしかなくなり、一般大衆に効用のある組織の事業は廃れてゆくことになってしまう。
この点で、競争心にもとづかない事業に対する組織の効率性について妥当することは、同じ動機にもとづいて遂行される個人の事業についても妥当する。もっとも、おそらく個人の場合には、組織的な事業の場合に比べて、ずっと限定された意味で妥当するにすぎないのではあるが。生活の側であれ消費の側であれ、浪費的な支出や平民大衆の生活には関知せず、という有閑階級の規準に従って利益を評価する習慣は、公共的な効用のある事業を行おうという熱意をもつ人のなかにも、必然的に強く存在している。したがって、もし個人が自己の社会的地位を忘れ、自らの努力を平民大衆の有用性のために注いでしまうことになったら、社会の常識――金銭的な体裁の感覚――は、まもなくその事業を退け、事業主を矯正することになってしまうだろう。このような事例は、|遺贈《ビクエスト》の管理――公共心に富む人物によって、ある特定の分野で人間生活の便宜を促進しようという、(少なくともよくめだつ)一つの目的をもつ――において見ることができる。この種の遺贈が現在最も頻繁になされる対象としては、学校、図書館、病院、虚弱者や社会から見捨てられた人々の保護収容施設がある。この場合、寄贈者の公認の目的は、遺贈のなかに指定されている特定の分野における人間生活の改善である。だが、その事実を遂行しているうちに、しばしば当初のものとは両立しがたい動機が少なからず現れ、遺贈によって保留されていた資産のかなりの部分を、最終的に特別な用途に供してしまうこと――こんなことは、どこでも見られる成り行きなのだ、ということが分かるであろう。たとえば、一定の基金が、保護収容施設や病人の収容所設立用に取りおかれるということがありえよう。このような場合に、支出を名声に値する浪費へ振り向けることはさほど珍しいことではないので、おもわず驚嘆したり失笑したりしてしまうようなこともない。その基金の相当部分が費されるのは、美的には受け入れがたいけれども、高価な石材で上張りされ、グロテスクで不釣り合いな細部で被われた殿堂、野蛮な戦闘方法を暗示するための胸壁を設けた壁、小塔、広大な玄関、軍事戦略を思わせるようなアプローチなどをもつようデザインされた殿堂を建設するためなのである。建物の内部は、同様に顕示的浪費と略奪的な英雄的行為という規準が支配原理であることを物語っている。これ以上細かな点に立ち入らないようにしようと思うが、たとえば窓は、なかにいる受益者の便宜や快適さなどという表向きの目的に役立たせようという意図よりもむしろ、外部から偶然眺める人に金銭的な卓越性を印象づけようという意図の下に設置されている。したがって室内の細かな設備は、この異質ではあるが回避しがたい金銭的な美しさという要請に、可能なかぎり従うことが求められるのである。
もちろん、そうだからといって、寄贈者が不平を言うとか、本人が直接管理したとすれば違った結果になっただろう、などと推測することはできない。そのような個人的な指導が発揮されるような場合――その事業が遺贈による代わりに、直接の指導と監視の下に遂行される場合――でも、管理の目的や方法は、この点に関してまったく異なるところがない。さらにまた、受益者も外部から眺める人々――その快適さや虚栄心とは直接関わりをもたない人々――も、それとは違った資金の使い方を喜びはしないであろう。基金の当初の物質的な目的からみて、手元にある資金を最も経済的かつ効果的に利用するだけのためにその事業を運営することは、誰も満足させないであろう。その利益が直接的で利己的なものであろうと、たんに瞑想的なものであろうと、関係するすべての人々は、ある程度まとまった額の支出が、英雄的行為や金銭的な浪費として、競争心にもとづく比較を行うという習慣に由来する高等な精神的要求に振り向けられるべきだ、ということに同意する。だがこれは、競争心にもとづく金銭的な比較という規準が広く社会の常識のなかに浸透していて、表向きはまったく競争心と無縁な関心にもとづいて遂行されている事業の場合でさえ、その基準を逸脱したり回避したりすることが許されない、ということを物語っているにすぎない。
こうした事業においては、寄贈者の評判を高めるために、名声に値る美徳があたかもこの競争心に無縁な動機から生じた、と言いつくろわれることさえありうるが、しかしそれは、競争心にもとづく関心が支出を主導することを妨げるわけではない。競争心とは無縁なこの種の事業のなかに、実際に競争心に起源をもつ動機が存在するということは、上述のどの事例においても、十分詳しく示すことができるだろう。その事例において、たとえば名誉に値するものを表現しようと思えば、ふつうそれは、美的、倫理的、あるいは経済的な分野の関心に属する名をもって行われる。金銭的文化の標準や規範に由来するこのような特別な動機は、立派な意図にもとづいているという行為者の意識を攪乱したり、その仕事が実質的に無駄であるという自覚を無理に押しつけることなく、競争心とは無縁な努力を実際に役に立つサービスからこっそりと方向転換させてしまうように作用する。このような効果は、暮らし向きがよい人々の公然たる生活図式のなかで、きわめて重要な特徴であるとともにきわめてめだつ特徴になっている、競争心とは無縁の改善事業のあらゆる分野で跡づけることができるだろう。だがおそらく、その理論的関連は、これ以上例を挙げる必要がないほど十分明らかであろう。とくに、この種の事業の一つ――高等教育のための機関――については、別の関連で、後にある程度詳しい考察をしようと思う。
有閑階級が保護された位置を占めているという事情の下では、それゆえ、前略奪的な野蛮時代の文化を特徴づける、一連の競争心とは無縁な衝動への先祖返りとおぼしきものがあるように思われる。その先祖返りは、製作者精神という感覚と、怠惰や良好な仲間意識への性向との両方から成り立っている。だが、現代的な生活図式のなかでは、金銭的で妬みを起こさせるような利益を基礎にもつ行為規準が、このような衝動の自由な実現を妨げる。したがって、こうした行為規準が支配的なものとして存在するため、競争心とは無縁な関心にもとづく努力は、金銭的な文化の基礎である妬みを起こさせるような関心に役立つ方向に転換されてしまうのである。金銭的な礼儀正しさという規準は、当面の目的のためには、浪費、無駄および勇猛さという原理に還元することができる。体面を保つ必要性は、他の分野の行為と同様に、改善的な事業のなかにも不可避的に存在しており、あらゆる事業におけるこまごました活動や管理について、目の行き届いた監視を行う。このような世間体という規準は、その方法を細部まで導いたり調整したりすることによって、競争心とは無縁なあらゆる目標や努力を無意味なものにするほどである。無駄という、普及した非人格的で不活発な原理はいつも近くで目を光らせていて、製作者本能の下に分類されるべき前略奪的な習性の多くの残存部分が効果的に現れるのを、妨げ遅らせるように作用する。だがその存在は、このような習性の遺伝や、その表出を求めようとする衝動の持続的な再発を不可能にするわけではない。
後の時代のより発展した金銭的文化においては、社会的な悪評判を回避するために産業過程から撤退するという必要性が生じてきて、競争心をともなう職業を回避するよう駆り立てることさえある。こうした段階になると、金銭的な文化は、産業的または生産的な職業と比べて競争的で略奪的な――すなわち、金銭的な職業がもっている長所に帰せられた――圧力を緩和することによって、競争心とは無縁な性向の主張を消極的に支持するようになる。すでに注意しておいたように、人間の役に立つようなあらゆる職業から撤退するという必要性は、おそらく実際よりもむしろ外見上のことであろうが、他のいかなる階級――特定の宗派の聖職も、この規則に対する例外ではない――よりも上流階級の女性にとっていっそう切実なものとなる。同じ金銭的な等級や社会的な等級に属する男性に対してよりも、むしろこの階級の女性に対して極端なほど無駄な生活が強要されるのは、彼女たちがたんに上層の有閑階級であるからというだけでなく、代行的な有閑階級として存在しているからなのである。彼女たちの場合には、有用な努力から一貫して撤退すべき二重の要因があるというわけだ。
どのような共同社会であれ、女性の地位は、社会によって――したがって、社会のいかなる階級によって、とつけ加えることもできるが――達成された文化水準の最も端的な指標であるということ、これは、社会の構造や機能をめぐる問題で知識人の常識を反映している評判のよい評論家によって、適切に、しかも繰り返し言われてきたことである。この論評はおそらく、何にもまして経済的な発展段階についてこそ、妥当性が高いであろう。と同時に、社会的に認識された生活体系のなかで女性に割り当てられた地位は、いかなる共同社会のなかであろうと、またいかなる文化の下であろうと、初期の発展段階に属する環境によって形づくられてきた伝統の表出であることがほとんどであり、したがってそれは、現在の経済的な環境に対して、すなわち、現代の経済的状況の下で生きている女性を行動に駆り立てる気質や心的習慣の要請に対して、部分的にしか適応していないことになる。
現代的な経済体系のなかでの女性の地位が、同じ階級に属する男性の地位に比べて、ずっと広範かつ一貫して製作者本能が促進するものと矛盾しているという事実は、経済諸制度の成長を一般的に議論する過程で、とくに代行的閑暇と衣装について論じる際に、すでに付随的に言及してきたところである。そしてまた、女性の気質のなかに、平和を是認し、無駄を否認するこの本能がかなり大きな割合で含まれていることも、また確かなことである。それゆえ、現代的な産業社会の女性が、社会的に認知された生活図式と経済状況が要請する事柄との間の距離をより鋭敏に感じとるということは、偶然の出来事ではないのである。
「女性問題」のいくつかの局面が誰にでも理解できる形で明らかにしてきたこと、それは、現代社会――したがって、とくに上品なサークルに属している女性の生活――が、初期の発展段階の経済環境の下で定式化された常識の体系によって、どの程度まで規定されているか、ということだった。市民的、経済的、社会的関連においてみるならば、女性の生活とは本質的かつ日常的に一つの代行的な生活であり、そのメリットやデメリットはものの道理として、女性の後見人あるいは所有者の関係にある他の個人に転嫁されるべきものである、といまなお考えられているのである。こうしてたとえば、社会的に認知された礼儀作法の目録がもつ禁止命令を否定するような女性の行動はすべて、即座に女の所有者である男の名誉を傷つける、と見なされることになる。もちろん、女のもろさあるいは強情さに対してこの種の判断を下すような人々の心のなかに、いくらか矛盾の自覚が存在しはするが、結局のところ、そのような事柄に関する社会の常識的な判断は、たいした躊躇もなく下されるのである。したがってほとんどの男は、いかなる場合であれ、後見人の立場が侵害された、という彼らなりの感情の正当性に疑問を抱くことはないのである。他方、女性の生活と結びついた、男の不道徳な行為をつうじて女性に付与される不名誉は、相対的にごくわずかなものでしかない。
こうして、立派で美しい生活図式――すなわち、われわれが習慣にしてきた図式――は、女に、男の活動に対する補助的な「領分」を割り当てることになる。したがって、割り当てられた義務を日々遂行するいう伝統から離反すれば、それは女らしくないと見なされる。市民権や参政権にかかわる問題の場合には、われわれの常識――すなわち、われわれの一般的な生活体系が当該の問題に下した論理的な判断――は、国家の内あるいは法の前において、女性は直接その人格において代表されるわけではなく、女性が属している家族の長による仲介をつうじて代表されるべきだ、と主張する。自己決定し、自己中心的な生活を熱望することは女らしくないことであり、こうしてわれわれの常識に従えば、市民的なものであれ産業的なものであれ、社会の出来事に女が直接参加することは、金銭的な文化の伝統に導かれて形成された思考習慣の体現である社会秩序に対する脅威である、ということになる。「『女を男の奴隷から解放する』等々というのぼせや虚言はみな、エリザベス・キャディ・スタントン[十九世紀後半のアメリカで活躍した女性参政権運動の指導者]の慎み深くも表現力に富む言い方を逆用するなら、『まったく腐っている』のである。両性の社会関係は、自然によって定められている。われわれの文明のすべて――すなわち、そこにおける善なるもののすべて――は、家庭に基礎をおいたものである」。「家庭」とは、男を長とする家族のことだ。ふつうはもっと慎み深く表現されるとはいえ、この見解は、たんに文明化した社会の普通の男たちの間だけでなく、女性の間でも同様に普及している女性の身分に関する見解なのである。女性は礼儀作法の図式が要求するものに対するきわめて鋭敏な感覚をもっており、多くの女性がその規範体系の課す細目の下で不安に陥っている、ということは確かである。だが、既存の道徳秩序が、必然的に、また長年の慣行によって確立された神聖な権利によって、女性を男性の付属物の地位に定めている、と認めない女性はほとんどいない。結局のところ、何が善であり何が美であるかに関する女性自身の感覚に従った場合も、女の生活は男の生活の間接的な表現であり、しかも理論的にそうであるはずのものなのである。
だが、このような、女にとって善であり自然でもある本分は何か、ということに関する支配的な感覚が存在するにもかかわらず、貢献と代行的な生活、およびメリットとデメリットの帰属とから成り立つこの取り決めの全体がともかくも間違ったものだ――こういう意味の感情が端緒的に発展してきているように感じられるのも、また確かなことなのである。あるいは少なくとも、たとえかかる取り決めが、しかるべき時と所における自然な成長であり善き取り決めでありうるとしても、したがってまた、それ自体が明白な美的な価値を有しているにもかかわらず、この取り決めは、現代の産業社会における多くの日常的な生活目的にとっては、なお十分に役立つとは言えないものなのである。その冷静で、既婚婦人らしい伝統的な礼儀作法の感覚からして、この身分関係を基本的で永遠に正しいものと気に入っている生まれのよい上流・中流階級の女性の大部分――その態度が保守的である人々――でさえ、この点について、現状とあるべき姿との間に、細かな点で若干の乖離があることを理解しているのがふつうである。だが、若さや教育、あるいは気質のせいで、野蛮時代の文化から受け継いできた身分という伝統とある程度無関係で、しかもおそらく、自己表現と製作者精神という衝動へ過度に先祖返りしたものをもち合わせている、従順とは言いがたい現代的な女性集団――このような女性たちは、静かにしているには、あまりにも生き生きとした不満にとり憑かれているのである。
この「新しい女性」運動――氷河期以前の女性の地位を再建しようという、盲目的でまとまりのない努力がこう名づけられてきた――のなかには、いずれも経済的な性質をもつ、少なくとも二つの異なった要素が存在する。この二つの要素ないし動機は、「解放」と「|仕事《ワーク》」という二つのモットーで表現されている。この言葉はそれぞれ、広範に流布している不満感といったようなものを表していると認識されている。そうした感情が広まっていることは、今日の状況のなかに不満を申し立てる真の根拠がある、などと考えない人々でさえ認めるところである。このような矯正されるべき不満感が、最も生き生きとしかも頻繁に現れるのは、産業発展が最も進んだ共同社会の暮らし向きのよい女性の間でのことである。すなわち、言い方をかえれば、一切の身分、後見、ないし代行的な生活からの解放を求める多少とも真剣な要求があり、しかも、そのような反感は、身分体制から受け継がれた生活図式によって情け容赦なく代行的な生活を強制される女性階級の間で、したがってまた、この伝統的な図式が適用される環境から遠く離れるほど経済的に発展した社会で、とびきり自己主張する。その要求が起こってくるのは、名声という規準によってあらゆる効果的な仕事から排除され、したがって、有閑生活と顕示的消費をするように厳密に運命づけられている、女たちの集団からなのである。
このような新しい女性運動に対する批判者で、その動機を誤解した人々は一人や二人にとどまらない。アメリカの「新しい女性」の場合は、人気のある社会評論家によって、最近、若干のいらだちをもって次のように要約されている。すなわち、「女性は、この世で最も献身的で働き者の夫から可愛がられている……。女性は、教育の点で、したがってあらゆる側面で、その夫よりも優れている。女性は最大級の細やかな配慮にとり囲まれている。にもかかわらず、女性は満足しないのである……。アングロ・サクソンの『新しい女性』は、現代の最もばかげた産物であって、今世紀最大のお粗末な失敗作になるに違いない」。この主張のなかに含まれている非難――おそらく正当に評価されたものだが――は別としても、これは、女性問題にあいまいさを追加するだけでしかない。新しい女性の不満は、その運動をこうして典型的に特徴づける見方が、女性の満足すべき根拠として力説しているような事柄に、まさに由来するものなのだ。彼女は可愛がられており、彼女の夫や他の自然な保護者のために大々的かつ顕示的に――代行的に――消費することが許されているし、場合によっては求められてさえいる。女性は、平俗的な意味で役に立つ仕事から免除されて――つまり締め出されて――いて、彼女の自然な(金銭上の)保護者の名声を高める代行的閑暇を遂行しなければならない。このような任務は、自由をもたぬ者の慣例的な刻印であると同時に、目的的な活動をめざす人間の衝動とは両立しがたいものである。だが女性は、生活や支出の無駄が不快に思えてくる製作者本能の分け前――均等な分け前以上のものがある、と信じるに足る理由がある――に恵まれている。となれば女性は、触れあっている経済的環境から仲介なしに直接に受ける刺激に反応して、その生の活動を展開するに違いない。自分自身の人生を自分なりの仕方で生き、間接的というよりはいくぶん直接的に、社会の産業過程に入ってゆこうとする衝動は、おそらく男性よりも、女性のほうが強いであろう。
女性の役割があいかわらず骨折り仕事の|類《たぐい》であり続けるかぎり、おしなべて女性は、自らの運命にそこそこ甘んじるものである。彼女は、具体的で遂行すべき目的をもってはいるが、自分の方向は自分で決めようとする、遺伝的に受け継いできた人間の性向を反抗的に主張する時間も考えももってはいない。したがって、女の骨折り仕事が一般的であった段階が過ぎ、結果的に、骨の折れる精励をともなわない代行的閑暇が暮らし向きのよい階級の女性に公認の仕事になると、彼女たちに対して儀礼的な無駄を遵守するように求める、金銭的な礼儀作法の規準の命令的な力が作用する。そして、高潔な女性を長期間にわたって保護し、自分で自分の方向を決めることや、「具体的な結果を生むような領分」をいつくしむように習得することから遠ざけてしまうであろう。これは、金銭的文化の初期段階にかけてとくに妥当することであるが、この時期の有閑階級の閑暇は、まだ大部分が略奪的な活動――つまり本気で考えても、なんら恥じることなく従事しうるような仕事――だと認められる、具体的な目的を十分に含んだ支配力の活発な主張なのである。このような状態は、一部の社会では、明らかに現代まで連綿と続いてきた。それは、身分意識の強さや、製作者精神へ向かう衝動の個人的な強さ次第で異なりはするが、人によってさまざまな程度で保持されている。だが、共同社会の経済構造が身分にもとづいた生活図式を著しく超えて発展したところでは、人格的な従属関係はもはや唯一の「自然な」人間関係だ、と見なされなくなる。そこでは、意味のある活動という古代的な習慣が自己主張を開始し、略奪的な文化と金銭的な文化がわれわれの生活図式に提供してきた、より新しく、比較的表面的で、相対的に短命な習慣や考え方にあまり従順でない人々を|跋扈《ばつこ》させるだろう。このような習慣や考え方は、略奪的で半平和愛好的な規律に由来する心的習慣や生活観が、最近の時代に発展した経済状況とかなり密接に調和することによって終わりを告げるやいなや、当該の共同社会や階級に及ぼしてきた強制力を失い始める。これは、現代社会の産業的な階級の場合に明白であって、有閑階級の生活図式は、彼らに対する拘束力のかなりの部分を喪失してきており、とくに身分の要素についてそれが著しい。とはいえそれは、異なる形ではあるが、上流階級のなかでも明らかに生じていることなのである。
略奪的で半平和愛好的な文化に起源をもつ習慣は、その種族がもつ一定の基本的な性向や精神的な特徴が比較的短期間に変異したものであるが、そうした性向や精神的特徴は、初期のプロト|類人《アンスロポイド》の文化段階――そこでは、比較的単純で変化の少ない物質的な環境と接触しながら、平和愛好的で比較的未分化な経済生活が営まれていた――における長期にわたる訓練に由来するものである。競争的な生活方式によって付け加えられた習慣が既存の経済的な必要性によって支持されなくなったときに、分解のプロセスが開始されるのであって、比較的新しく成長し、あまり一般的な性質をもたない思考習慣は、そのなかで、その種族のずっと古代的ではるかに支配的な精神的特徴に押されて、ある程度まで立場を譲ってしまうことになる。
こうして、ある意味で新しい女性の運動は、より一般的なタイプの人間形質の表出へ、したがって、あまり分化していない人間性の表出へ向かう先祖返りを表していることになる。それは、プロト類人として特徴づけられるべきタイプの人間性であり、したがってまた、その支配的な特徴の外観ではなく内容について見るかぎり、それは、おそらく|人間以下《サブ・ヒユーマン》と分類できるような文化段階に属するものである。もちろん、問題になっている特別な運動や進化上の特徴は、この社会的な発展が経済進化の初期の未分化な段階を特徴づける精神態度へ先祖返りした証拠を示しているかぎりで、その他の比較的最近の社会的発展とこの特徴を共有している。競争心にもとづく関心が優勢な状態から先祖返りしてゆくという一般的傾向に関する証拠は、数多くあるわけでも疑問の余地なく確証的であるわけでもないが、まったく不足しているというわけでもない。現代的な産業社会における身分意識の一般的な衰退は、ある程度この方向の証拠として役に立つし、したがってまた、人間生活における無駄の否定や、自らの集団あるいは他の社会集団を犠牲にするような、個人的な利益にしか役立たない活動の否認へと向かうかなりはっきりした回帰が、同じような意味で証拠になる。苦痛という試練を非難するだけでなく、あらゆる略奪的な事業を不信の目でみるという、かなりはっきりした傾向が存在している。それも、このような競争心にもとづく関心の表出が、それに対して判断を下す個人や社会を圧迫して、物質的な損害を与えるように明確に作用しないようなところでさえそうなのである。現代的な産業社会からすれば、平均的で冷静な感覚をもつ男にとっての理想的な気質とは、自己利益、力、詐術および支配力というよりもむしろ、平和、善意および経済効率に寄与する気質のことだ、とさえ言ってよいだろう。
有閑階級のもつ影響は、このプロト類人的な人間性の復元を一貫して支持したり反対したりしている、というわけではない。例外的に大きな分け前の原始的な特性に恵まれた個人が生き残る可能性に関するかぎり、その階級の保護された地位は、金銭的な闘争から撤退することによって、直接その構成員に有利に働くであろう。だが間接的には、財と財力を顕示的に消費するという有閑階級の規準をつうじて、有閑階級制度はそうした個人が人間集団全体のなかで生き残る可能性を低下させる。浪費という礼儀作法上の要求は、競争心にもとづく闘いのなかで人々のエネルギーの剰余を吸収しつくし、競争心にもとづくことなく表出するエネルギーの余裕を、生活のなかにまったく残すことがない。礼儀作法という規律がもつ間接的で不明確で、しかも精神的な効果は同一方向に働くものであって、おそらく、同じ目的に向けたときより効果的に作用するものなのだ。上品な生活という規準は、競争心にもとづく比較という原理を綿密に仕上げたものであり、したがってそれは、あらゆる競争心とは無縁な努力を禁止し、自尊的な態度を教えこむように、一貫して作用するのである。
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第十四章[#「第十四章」はゴシック体] 金銭的な文化の表現としての高等教育
学問的な訓練は、いくつかの項目に関する適切な思考習慣を次の世代のなかに保存するため、共同社会の常識によってしかるべきものと見なされ、公認の生活図式のなかに組みこまれている。こうして学問的伝統や教師の指導に従って形成された思考習慣は、日常生活の規律の下でそのような指導を受けずに形成された思考習慣の経済的価値に劣らず、実際的な経済的価値――個人の有用性に影響を及ぼすような価値――を有するのである。有閑階級の好みや、金銭的メリットという規準に起源を求めることのできる公認の学問的な体系や訓練というものは、有閑階級制度の利益に帰すべきものであり、したがって、このような特徴をもつ教育体系の経済的価値はすべて、その制度の価値が詳細に表現されたものなのである。それゆえ、訓練の目的と方法に関するものであろうと、教えこまれる知識体系の範囲と性格に関するものであろうと、有閑階級の生活図式に起源を求めることのできる教育体制に特徴的なあらゆる様相を指摘することは、時宜にかなったことであろう。有閑階級の理想の影響が最も明白に現れるのは、固有の意味の学問、とりわけ|高等教育《ハイアー・ラーニング》においてである。したがって、ここでの目的は、教育に対する金銭的な文化の影響を証明するデータをもれなく対照することではなく、むしろ、有閑階級が教育に影響を及ぼす方法や傾向を例示することにあるから、このような目的に役立つような高等教育における一定の際立った様相を概観しながら分析をすすめることにしよう。
教育は、その由来と初期の発展という点でみると、社会の信心深い行事、とくに、遂行されたサービスが超自然的な有閑階級それ自体を表現しているような一連の儀式と、ある程度密接に関連している。原始的な宗派にみられるような|超自然的な力《プリターナチユラル・エイジエンシー》を懐柔するためのサービスは、共同社会の時間と努力を産業的な利益のために充用したものではない。だからそれは、交渉の対象であると同時に、従属的に仕える者と彼らのサービスがその善意を周旋する、超自然的な|支配力《パワーズ》のために遂行される代行的閑暇、として分類されるべきものなのである。初期の教育は、おおむね超自然的な力に奉仕するときの知識と能力の修得から成り立っていた。したがってそれは、性格としては、現世の支配者に対する家庭サービスに要する訓練によく似ている。未開社会の聖職指南の下で獲得される知識の大部分は、典礼的で儀式的なもの、すなわち、超自然的な支配力に接近したり奉仕したりする場合の、最も適切かつ効果的で、最も意にかなった方法に関する知識である。学びとられたことは、このような支配力に対して自分自身を不可欠な存在にしたてあげ、こうして事態の推移のなかで仲裁を行ったり、あらゆる事業への干渉を慎むようにお願いしたり、場合によっては、それを強要したりする地位に自分自身をおくための方法なのである。|宥《なだ》めることが目的であり、しかもこの目的の大部分は、つき従う技量の修得をつうじて捜し求められる。主人に対して効果的に服従するという要素以外のものが、聖職的ないし呪術的知識の|蓄え《ストツク》のなかに現れてくるには、きわめて長い時間が必要であったように思われる。
目にみえる世界に|跋扈《ばつこ》する不可解な支配力に仕える聖職者という使用人が、このような支配力と教育のない普通の人々との間の調停者の地位に立つようになった。というのは、聖職に従事する使用人は、対面が許されるために欠かせないと思われる、超自然的な礼儀に関する知識をもち合わせているからである。そして、支配者が自然的なものであろうと超自然的なものであろうと、大衆とその支配者との間の仲介者に通例生じることだが、彼は、このような不可解な支配力がその要請に|則《のつと》って動くという事実を、凡人たちに明確に印象づけるための手近な手段をもつ便宜を悟るのである。こうして、まもなく目を|瞠《みは》るような効果の説明に転用しうる一定の自然現象に関する知識が、手品のごときものとともに、聖職者の修得知識の不可欠な一部になってくる。この種の知識は、「|人知を超越したもの《アンノウアブル》」に関する知識と認められ、それゆえ結果的に、聖職者の目的からするその有用性は、その深遠で理解不可能な性質に負うことになる。教育が一つの制度として発生したのは、このような源泉からであり、したがってまた、教育がその母体である魔術的な作法や呪術的な詐術という|深い知識《ストツク》から分化するのは、きわめてゆっくりとした長期にわたることであって、最先端の高等教育のための学校においてさえ、その分化が完遂されていることはいまだに稀なことなのである。
教育における深遠で理解しがたい要素とは、あらゆる時代にそうであったように現代でも、教育を受けていない人々を感銘させたり、場合によっては彼らにつけこんだりしようとする目的にとって、きわめて魅力的で効果的なものである。したがって結果的に、まったく読み書きできない人々の心のなかにある|碩学《せきがく》の地位は、神秘的な力に通じているというような観点から大部分格づけされたものである。こうして、たとえば典型をあげるなら、今世紀[十九世紀]中葉という最近の時期まで、ノルウェーの農民は、たとえばルター[十六世紀前半に活躍したドイツの宗教改革者]、メランヒトン[ルターに影響を受けた同時代のドイツの宗教改革者であるが学者でもあり、ドイツの大学制度の基礎を築いた]、ペーダー・ダス[十七世紀後半に活躍したノルウェーの聖職者であり、詩人]、あるいはごく最近のグルントヴィグのような神学者といった人々について、その卓越した博識のありようを魔術という見地から本能的に定式化してきたのである。このような人々は、生者も死者も含めて、若干劣る賢者たちのきわめて包括的なリストとともに、あらゆる魔術の大家としてその名を知られてきたし、聖職にたずさわる人間としての高い地位は、このような善良な大衆の理解のなかでは、魔術の実行や神秘学に対する深い造詣に似たものをともなっていたのである。大衆が理解している博識と、人知では知りえないものとの間の密接な関係を同様に示すのに寄与する、いちだんと胸を打つような事実があるし、それは同時に、概略にすぎないとはいえ、有閑階級の生活が認識上の関心に対して与える傾向のありようを、例示するのに役立つであろう。そのような信念は、決して有閑階級のものと限定されるわけではないが、あらゆる種類と濃淡をもつ神秘学の信者の圧倒的な部分は、今日では、その階級から構成されている。現代的な産業と接触して形成されるような思考習慣をもたない人々にあっては、人知をもって知りえないものに関する知識は、たとえ唯一の真の知識だとされないにしても、いまもなお究極的な知識と見なされているのである。
とすれば教育は、ある意味で聖職に従事する代行的な有閑階級の副産物であることをもって始まったことになり、それゆえ高等教育は結果的に、少なくともごく最近まで、ある意味で聖職者階級の副産物ないし副業であり続けてきたのである。体系化された知識の蓄積が増えてくるにつれ、教育史上はるか昔までさかのぼりうる|秘教的な《エソテリツク》知識と|開放的な《エクサテリツク》知識との間の区別がほどなく現れてくる。すなわち、前者――両者の間に実質的な違いが存在するとすれば――は、直接的にはなんら経済的ないし産業的な効果をもたない知識から成り立ち、後者は、物質的な生活目的のために習慣的に利用される産業過程や自然現象に関する知識から主として成り立っている。早晩この区分線が、少なくとも大衆の理解においては、高等な教育と低俗な教育との間の通常の境界線になっていった。
あらゆる未開社会の知識階級が、形式、先例、身分の格づけ、儀式、儀礼服および学問的な付属物一般について、とびぬけたやかまし屋であるということは、たんにそれが聖職者の職業との密接な提携の証拠とされるばかりでなく、その活動がマナーや育ちとして知られている顕示的閑暇というカテゴリーにほとんど含まれる、ということを示唆している点で重要なことである。もちろん、これは予想可能なことであり、したがって、当初の段階で、高等教育が有閑階級の仕事――より特定化するならば、超自然的な有閑階級に仕えるために雇用された、代行的な有閑階級の仕事――であることは、当然のことなのである。だが、このような教育の付属物に対する好みは、また、聖職の任務と大学者の任務との間の接点や連続性について、さらに別の重要な点を示唆するのに役立つ。起源の点からみると、教育は、聖職の任務と同様にその大部分が|交感魔術《シンパテテイツク・マジツク》の派生物であり、それゆえ、この魔術的な装置の形式と作法は、当然のことながら、未開社会の知識階級のなかにふさわしい場所を見いだすのである。作法と付属物は、魔術のめざすところからして神秘的な効力をもっており、結果的に、それが魔術と科学の発展の初期段階に不可欠な要素として存在するということは、象徴に対する愛情のこもった好みとまったく同様に、便宜上の事柄にすぎないということになる。
この象徴的な|典礼《リチユアル》のもつ効果に関する感覚――したがってまた、達成されるべき目的や行為の伝統的な付属物を巧妙に繰り返すことによってもたらされる、交感効果に対する感覚――がより明瞭かつ大々的に存在しているのは、もちろん神秘学の場合でさえ、科学的訓練というよりもむしろ魔術的技量においてのことなのである。だが、私が理解するかぎり、科学の儀式的な付属物などまったくどうでもよい事柄だ、という教養あふれる学者らしい価値観をもつ人物はほとんどいない。このような儀式的な付属物が、後の時代の発展過程をつうじてきわめて強固なものとなったことは、われわれの文明における教育の歴史がどのようなものであったかを回顧すれば、誰にでも明らかなところである。今日でさえ、教育界の慣行のなかには、学帽やガウン、大学入学式、|通過儀礼《イニシエーシヨン》および卒業式というようなもの、さらにまた、学位、位階およびある種の学者的な使徒伝承を示唆するような仕方でなされる特権、といった事柄がある。聖職者階級の慣行が、学問的な典礼、正装、秘跡的通過儀礼、按手礼による特別な気品と徳の伝達といった呼び物すべてのおおよその源泉であることに、疑問の余地はない。だが、こうした呼び物の起源は、聖職の慣行をさらにさかのぼり、聖職者が一方では魔術師から、他方では現世の支配者の下賤な使用人から区別されてくる差別化の過程で、固有に特化した聖職者階級が身につけることになったものにまで至りつくことができる。その起源と心理的な内容とに関するかぎり、その基礎になる慣行や概念は、まじない師や雨乞い祈祷師よりも古い文化的発展の段階に属している。後の時代の信心深い儀式におけるそうしたものの役割は、高等教育体制におけるその位置と同様に、人間性の発展としてはきわめて初期のアニミズム段階から生き残ってきたものと等しいのである。
現代および近い過去の教育体制がもつこのような儀式的様相は、その体制の低俗で技術的な、すなわち実践的な程度や部門というよりもむしろ高等で|教養的《リベラル》な、したがってまた古典的な教育機関や教育程度のなかにふさわしい場所をもつ、と言っても何の問題も生じない。それがこのような様相をもつかぎり、教育体系のうち、低俗であまり世間体のよくない部門は、この儀式的様相をより高い等級の部門から借りてくる。したがって結果的に、より高等で古典的な等級の学校における持続的な手本によって支持されないかぎり、実用的な学校の間でそのような特徴が保持され続けるということは、控え目に言ってもかなり難しかったであろう。低俗で実業的な学校や学者の場合、このような慣行の採用や洗練は、まさに|擬態《ミミクリー》というべきものなのである。すなわち、このような装飾的な特徴を古来からの継承という根拠にもとづいて正当に入手してきた、高い等級や階層の学校や学者によって維持されている学問的名声の標準にできるだけ一致させたい、という欲求から生まれたものというわけだ。
この分析は、さらにもう一歩展開しても差支えないであろう。典礼主義の残存やそれへの先祖返りは、もっぱら聖職や有閑階級の教育と関係するような教育機関の間で、最も生き生きとなんの妨げもなく自発的に現れる。したがって、カレッジや大学生活の最近の発展を調査すれば、すぐに役立つ分野の知識を下層階級に教えるために設立されたような学校において、典礼主義的な儀式や付属物、および洗練された学問的な「|行事《フアンクシヨンズ》」といったものがますます増えているのが実際明らかに見られるはずで、これは、当の学校が通俗的で実用的な分野から、より高等で古典的な領域へ移行するのと軌を一にしている。このような学校のそもそもの目的、したがってまた、進化の前半期に主として提供していた勉強は、産業階級の若者を実用的な職業に適合させるという内容であった。そのような学校が通常めざしているさらに高等で古典的な教育の水準では、主要な目標は、聖職者階級や有閑階級の若者――初期段階の有閑階級――が、慣例的に受容され名声を確立している範囲と方法に従って、物質的な財や非物質的な財を消費するための準備になってくる。このような幸福な結末が、生活苦にあえぐ若者を援助するために「人民の義援団体」によって設立された学校が通例たどる運命であったわけで、したがって、このような移行が首尾よくなされるところでは、例外がないわけではないにしても、学校のなかにいっそう典礼主義的な生活に向かう変化をともなっているのがふつうである。
今日の学校生活において、洗練された典礼が一般的に最も気楽な姿で存在するのは、主たる目的を「|教養《ヒユーマニテイーズ》」の涵養においている学校である。この相関関係は、おそらく他の何にもまして、最近になって成長したアメリカのカレッジや大学の生活史のなかに、くっきりと現れている。この原則からの例外は数多くあるが、典型的に名声が高く、典礼主義的な教会によって設立されたような学校の間で、したがってまた、保守的で古典的な水準を保って開校したり、一足飛びに古典的な地位へたどり着いたような学校の間で、とくに著しい。だが、今世紀[十九世紀]の間にアメリカの地域社会で設立された学校にみられる一般的な原則は、地域社会が貧しいものにとどまっているかぎり、したがってまた、カレッジに学生を送りこむ選挙区住民が勤勉と節約という習慣に支配されているかぎり、まじない師を想起させる要素など、カレッジの生活体系のなかではごくわずかに心もとないほどしか認めない、というものであった。だが、地域社会のなかで目にみえて富が蓄積され始めるやいなや、それゆえまた、寄贈された学校が有閑階級の後援者を頼りにし始めるやいなや、学者風の典礼と正装、上流階級風で学者風の厳粛さの点で古来からの形式に従う、という要請が明らかに増加してくる。こうしてたとえば、中西部の寄贈されたカレッジを支える後援者の間でおしなべて豊かさが進展してくるのと軌を一にして、教養あふれる厳粛さに包まれた重要な行事や、カレッジのサークル内で上流階級風の応接を行うにふさわしい学問的な正装に関して、男子であれば夜会服が、女子であればローブデコルテがほぼ同時に受容されるにいたった。きわめて大がかりという意味での機械的な困難さを別とすれば、このような相関関係を跡づけることはそれほど困難な仕事ではないであろう。同じことは、学帽とガウンの流行についても妥当する。
学帽とガウンは、最近のここ数年間に、この地域の多くのカレッジで学識を身につけた勲章として採用されてきた。したがって、ずっと早い時期には――すなわち、教育の正当な目的に関して、古代的な見解に先祖返りしようとする強固な運動を支持するために十分な量の有閑階級の感情が育ってくるまで――このようなことはまず生じえなかった、と言っても何の問題も残らない。この学識にみちた典礼という項目は、目を|瞠《みは》るような効果を求める古代的な性向や、古風な象徴主義に対する好みによく訴えかける点で、適宜性に関する有閑階級の感覚を満足させるだけでなく、同時にまた、それは注目に値する顕示的浪費の要素を含むものとして、有閑階級の生活図式に|則《のつと》っている、ということが注意されてよい。学帽やガウンへの先祖返りが生じた正確な時期だけでなく、それがほぼ同じ時期にかくも多数の学校に影響を及ぼしたという事実もまた、その時期に共同社会の全体に広まった適合性や名声をめぐる|先祖返り的な《アタヴイステイツク》感覚のうねりに、ある程度まで起因していたように思われるのである。
この奇妙な転倒は、さらに方向が異なる一定の先祖返り的な感情や伝統の流行の絶頂期と時間的に一致していた、ということを指摘しても、まったく要点を外していることにはなるまい。先祖返りという転倒したうねりは、南北戦争[一八六一〜六五年]がもっていた国民の感情を引き裂くような効果に、最初の衝撃を受けたものであろう。戦争の習慣化は、一連の略奪的な思考習慣をともなっており、それによって、党派心がある程度まで連帯感を押しのけ、競争心にもとづいて区別しようとする感覚が理にかなった日常的な有用性をめざす衝動を排除してしまった。このような要因が累積的に作用した結果、南北戦争以降の世代は、社会生活においても信心深い儀式的な典礼においても、身分の要素の復元を目の当たりにする機会が増えた。一八八〇年代をつうじて、したがって七〇年代にはそれほどはっきりとしていなかったものだが、半略奪的なビジネスの慣行、身分の強調、擬人観および保守主義を一般的に好むような感情のうねりが漸次高まってきつつあるのが、誰の目にもはっきり分かるほどであった。もっとも、頻発する無法行為や、一部の「|産業の将帥《キヤプテンズ・オブ・インダストリー》」によってなされたど肝を抜くような半略奪的な詐術行為といった、野蛮時代の気質の表出である直接的でむき出しの事態はいち早く頂点に達したのであり、これらは七〇年代の終わりころまでに明らかに衰退し始めていた。擬人観的な感情のぶり返しもまた、八〇年代が終わる前に、最も深刻な段階を通り過ぎていたように思われる。だが、ここで述べたような学問的な典礼や付属物は、なお間接的ではるかに深遠な野蛮時代のアニミズム的感覚の表出であることをやめなかったので、これはずっと最近まで、ゆっくりと流通するなかで洗練され、最も効果的な発展を遂げることになった。いまや絶頂期はすでに過去のものになった、と信じても間違いないだろう。新しい戦争体験が与える新しい刺激がなければ、したがってまた、富裕な階級の成長があらゆる種類の典礼、とくに浪費的で明らかに身分の等級を示唆するあらゆる儀式に対して与える支援がなければ、最近になって改良され増加した学問的な気性や儀式が次第に衰退する、ということは大いにありうることである。しかし、学帽やガウン、およびそれと一緒に入ってきた学問的な礼儀作法というずっと骨の折れる儀式が、南北戦争後の野蛮主義への先祖返りという周期的なうねりのなかに漂っていた、ということに間違いはないとしても、典礼にみられるそうした転倒が実現するには、所有階級における富の蓄積が十分に進展し、地方のカレッジを高等教育における有閑階級の必需品に格上げする運動に不可欠な金銭的な基礎が確立するのを待たねばならなかった、ということもまたまぎれもない事実である。学帽とガウンの採用は、現代的なカレッジ生活における顕著な先祖返り的様相の一つであると同時に、そのようなカレッジが、実際の生活においてであれ願望においてであれ、明確に有閑階級の社会的な機関になってしまった、という事実を表している。
地域社会の教育システムと文化的標準との間の密接な関係を示すさらに別な証拠として、高等教育の学院長を聖職者から産業の将帥に置き換える、という最近の傾向が注目される。この置き換えは、決して完全なものでも普遍的なものでもない。このような機関の長として最も好まれるのは、聖職的な任務と高い程度の金銭的な能力とを兼ね備えている人物である。ある種の金銭的な資格能力をもつ人物に高等教育における教育の仕事を委ねようという、それほどめだちはしないが、よく似た傾向も存在する。教えるという仕事の資格能力と同様に、管理能力と事業を宣伝する技量が昔に比べてはるかに重要になってきた。このことは、とくに内容の大部分が生活の日常的な事実と関連しているような科学についてあてはまり、しかも、経済的な努力を惜しまない地域社会のなかに存在する学校の場合に、とくにそうである。この金銭的能力による聖職的能力の部分的な置換は、現代になって主たる名声の規準が顕示的閑暇から顕示的消費へと移行したことの随伴物である。二つの事実の間の相関関係は、これ以上詳説するまでもなく、おそらく明白であろう。
学校や学者階級の女性教育に対する態度は、教育がまだ聖職者や有閑階級の特権であった昔の状況から、どんなふうにどの程度乖離してきたのか、をはっきりさせるのに役立つばかりか、それは、現代の経済的で産業的な、すなわち挙証可能な事実に対してなされた、本当に学問的な人々によるアプローチがどのようなものであったのか、をも示唆している。高等教育機関や学問上の専門職は、ごく最近にいたるまで女性にはタブーとなっていた。このような機関は、当初から聖職者と有閑階級による教育を堅持してきたものであり、いまなおほとんど変わるところがない。
他のところですでに述べておいたように、女は最初の従属階級であり、とくにその名目的ないし儀式的な立場に関するかぎり、今日にいたるまである程度同じ地位にとどまり続けている。女性に高等教育を受ける権利を(エレウシースの秘儀[古代ギリシアのアッティカで豊饒の女神デーメーテールの祭典として遂行された秘儀的な儀式]のように)認めることは、学問的ギルドの威厳を深く傷つけるであろう、という感覚が強く支配してきた。それゆえ、程度の高い学校が女性に自由に門戸を開いたのは、ごく最近のことでしかないし、そのほとんどは、産業的に最も発展した地域社会にある学校においてのことでしかない。したがってまた、現代的な産業社会に行きわたっている差し迫った状況の下においてさえ、最高級で最も高名な大学は、そうした方向へ動くことについて極端なほど気乗り薄なのである。知的な尊厳における優れた者と劣った者との区別に従って、両性間を名誉の点で差別する優秀な階級という意識、すなわち身分感覚は、教育という貴族社会におけるこのような法人組織のなかにたくましい形で生き残っている。女性が獲得すべき知識は、あらゆる礼儀作法のなかで、以下の二つの項目のいずれかに分類されうるようなものだ、と見なされている。(一)家庭サービス――家庭という本分――をよりよく遂行するために直接役立つような知識。(二)明らかに代行的な閑暇の遂行という項目の下に含まれるような、半ば学問的で半ば芸術的なたしなみや器用さ。もしそれが、体面という規準によって促進されたものであったにしても、女がそれを学び、顕示することによって主人のほうが気分をよくしたり有名になったりするような知識ではなく、学習者自身の生の展開、つまり学習者自身の知的な関心にもとづく修得を表すような知識である場合には、それは女らしくないと見なされるのである。こうしてまた、代行的閑暇以外の証拠となるようなあらゆる知識も、ほとんど女らしくないということになってしまう。
こうした高等教育の学院が社会の経済生活に対してもつ関連を評価しようとすれば、いままで考察してきた現象は、それ自体のなかに第一級の経済的な意義を有している事実としてよりもむしろ、一般的な態度を示唆するものとして重要になってくる。それは、学問的な階級が産業社会の生活過程に対して抱く本能的な態度や意志が何であるのか、を示すのに有効である。それは、産業的な目的からみて、高等教育と学問的な階級によって達成された発展段階の象徴として意味をもつし、結果的にまた、その階級の教育と生活とが、社会の経済生活と効率性に、したがってまた、時代の要請に対する生活図式の適応にはるかに直接的に影響を及ぼす地点で、この階級から正当に期待されうるものが何であるのか、について示唆を与える。このような典礼的な残存物が最もよく示唆しているものは、とくに伝統的な教育が施されている高等教育機関の間で目につく、反動的な感情とまではいかないとしても、保守主義の横行である。
同じ方向に向かうさらに他の特徴が、このような保守的な態度を示唆するものに付け加えられるべきであるが、しかしそれは、平凡な形式や典礼へ向かうこの滑稽な傾向よりも、ずっと重要な意義を秘めた兆候である。たとえば、非常に多くのアメリカのカレッジや大学は、なんらかの宗教上の教派と結びついており、信心深い儀式を数多くとり行っている。大学が科学的な方法や科学的な観点によく親しんでいると推測されていることは、このような学院の教授たちにとって、アニミズム的な思考習慣をおそらく無縁のものにするはずであるが、ところがいまなお、彼らのうちのかなりの部分は、初期の文化の擬人観的な信念や儀式への愛着を告白しているありさまである。信心の厚い熱意のこのような告白が、法人格をもつ学院の側においても、教師団体の個々の構成員の側においても、かなりの程度ご都合主義的でなおざりなものであることは間違いない。だが、結局のところ、高等教育機関のなかに擬人観的感情が存在している、ということに疑問の余地はない。事態がこうであるかぎり、それは、古代的でアニミズム的な心的習慣の表出と見なされなければならない。このような心的習慣は、提供された教育のなかである程度自己主張しているに違いなく、その程度に応じて、学生の思考習慣の形成におけるその影響力が、保守主義と先祖返りに貢献するのである。つまりそれは、産業の目的に最も役立つような、挙証可能な事実に関する知識へと向かう学生の成長を妨げるのである。
今日、かなり名前の知れた教育機関の間で目覚ましく流行しているカレッジ・スポーツも、同じような方向のものである。実際、スポーツは、心理的な基礎についても教育的な効果についても、カレッジの信心深い態度と多くの点で共通性をもっている。だが、この野蛮時代の気質の表出は、カレッジやその役員がスポーツの振興を活発に奨励したり促進したり――これは、しばしば生じることだが――しないならば、学校それ自体がもつ気分によるものというよりも、むしろ学生全体に帰されるべきものなのである。同じことは、カレッジの|友愛会《フラタニテイーズ》についてもスポーツと同様に妥当するが、しかし違いはある。後者は、もっぱら単純な略奪的衝動の表出であるが、前者は、略奪的な野蛮人の気質のきわめて大きな特徴である党派心という遺産が特殊に表出したものである。学校における友愛会活動とスポーツ活動との間に密接な関係が存在することもまた、注目に値する。スポーツやギャンブルをする習慣については、すでに以前の章で述べてきたから、このようなスポーツや党派的な組織・活動による訓練の経済的な価値を、これ以上詳しく論じる必要はほとんどないだろう。
だが、学問的な階級の生活図式と高等教育を保存するために開設された公共機関がもつあらゆる様相は、その大部分が付随的なものにすぎない。そのような特徴が、学校存立の表向きの理由とされる研究・教育という専門的な仕事の有機的な要素だ、と考えられることはほとんどない。しかし、このような徴候は、遂行される研究・教育――経済的な観点からみた場合の研究・教育――の性格について、したがってまた、学校の庇護の下に遂行されている厳粛な研究・教育がそれを頼りにしている若者に与える傾向について、ある推測を提供するのに役立つ。すでになされた考察からもたらされる推測とは、学校は、その儀式と同様に、その本来の研究・教育においても保守的な立場に立つと予想される、というものである。だがこの推測は、実際になされている研究・教育の経済的な性格の比較と、高等教育機関の手で維持されている学問の中身に関する一定の調査とをつうじて、再検討される必要がある。この点については、社会的に認知された学院が最近にいたるまで保守的な態度を守り続けてきた、ということが周知の事実となっている。それは、あらゆる|革新《イノヴエーシヨン》に対して一貫して反対の態度をとってきた。一般原則として言うなら、新しい観点や新しい知識の定式化が学院のなかで是認され採用されるのは、このような新しい事柄が学院の外で認められた後のことでしかないのである。この原則からの例外として、慣例になっている視点や慣例的な生活図式と具体的な領域でまったく関係をもたないような非顕示的な性質の革新と試み、たとえば、数理的な物理学分野の細かな事実や、とくに、言語学的ないし文学的な関係しかもたないような古典の新しい読み方や解釈といった、狭い意味でいう「教養科目」の分野に含まれるものがあり、したがってまた、教養科目に関する伝統的な見解が革新者に見すごされているような場合がある。しかしこれらを除けば、社会的に認知済みの学問的階級と高等教育機関があらゆる革新を不信の目で眺めてきたということは、一般的に間違いのないことだったのである。新しい視点、科学的な理論における新しい試み、とくにあらゆる点で人間関係論とかかわりをもつ新しい試みは、誠心誠意歓迎されるというよりも、渋々と不承不承容認されて、ようやく大学の体系のなかにふさわしい場所を見つけだすのである。したがって、人間の知識の範囲を広げるための努力に専念しているような人物は、通常、その学問的な同時代人に快く受け入れられないことになる。方法や知識内容の重大な進展を高等教育機関が容認するのは、そのような革新が発育期と有用性の盛りをすぎた後、つまりその革新の下で育った若い世代にとってごくありきたりの知的枠組みとなり、その世代の思考習慣を、知識についても観点についても従来と異なる新しい学問体系に移行してしまった後においてのことなのである。これが、ごく最近まで真実であったというわけだ。まさしく現在の時点で、それがどの程度妥当するかを判定するのは困難なことであろう。というのは、今日の事実を、その相対的な比重まで公平に理解するような視野のなかで捉えることは、不可能だからである。
ここまでは、文化や社会構造の発展について論じる著述家や講演者が習慣的に長々と強調してきた、富裕な人々のメセナ機能[積極的に文芸を奨励した古代ローマの政治家マイケナスの名にちなんだ、芸術、文学、音楽の保護者としての役割]については何も言及してこなかった。この有閑階級の機能が、高等教育や知識と文化の伝播と深いかかわりをもたずに存在するわけはない。その階級がこの種のものの後援をつうじて教育を促進する際の方法や程度は、十分によく知られている。それは、聴衆にこの文化的要素の重要性を悟らせるために、この論題について十分通暁している代弁者によって、しばしば熱のこもった効果的な表現を用いて指摘されてきた。しかしながら、このような代弁者が事態を説明するのは、経済的な関心という観点からというよりもむしろ、文化的な関心つまり名声への関心という観点からであった。経済的な観点から理解され、産業的な有用性という目的から評価されるかぎり、この富裕者の機能は、富裕な階級の構成員の知的な態度と同様にある程度注目に値するし、実例に事欠かないであろう。
メセナ的な関係を特徴づけるものとして、純粋に経済的または産業的な関係として外から考察するならば、それは、身分の関係であることが注意されなければならない。庇護の下にある学者は、学問的な生活を過ごす義務をその後援者のために代行的に遂行しているのであって、結果的に後援者に一定の名声が生じることになる。これは、あらゆる形の代行的閑暇がそもそもの対象である支配者に名声を転嫁するのと同じことである。歴史的な事実という点では、メセナ的関係をつうじての教育の振興や学問活動の維持は、古典的な修得知識や教養科目における熟達の奨励に向けられることが最も一般的であった、ということも注意されるべきであろう。この知識は、社会の産業効率を向上させるよりもむしろ引き下げる傾向をもっている。
加えて、有閑階級の構成員が知識の増進に直接参加する、ということにかかわる事柄がある。名声に値するように生活するという規準は、その階級の間で現れ出ようと模索している知的な関心を、社会の産業生活といくらか関係するような科学分野ではなく、古典的で公式的な学問の追求という分野に振り向けさせるように作用する。有閑階級構成員の側で最も頻繁に生じる古典的な知識分野以外への逸脱は、法律や政治といった、とくに管理にかかわるような科学の学問分野についてなされる。このような科学はいわば、実質的には、所有権を基礎として遂行される有閑階級の統治任務において、手引きとして役に立つ格率を集成したものである。それゆえ、この学問分野を研究する場合に抱く関心は、たんなる知的または認識上の関心ではないのが通例である。もっぱらそれは、まさにその階級の構成員がおかれている権力関係が要請するものに対する、実際的な関心である。由来からみれば、統治の任務は略奪的な機能であり、古代的な有閑階級の生活図式に不可欠な要素としてつきまとうものである。それは、その階級の生計手段の源泉である住民に対する支配と強制の実行である。それゆえ、この学問分野はその階級にとって、それに内実を与える付随的な慣行と同様に、あらゆる認識上の問題とは別のある種の魅力をもっている。このことはすべて、統治の任務が形式的にも実質的にも所有者に属するものであるかぎり、またそうであるところではどこでも、妥当するのである。結果的にそれは、統治の進化としてはずっと古代的な段階の伝統がもちこたえて、有閑階級による所有者的統治がいまや消滅の危機に瀕し始めている現代的な共同社会の最近の生活のなかに残っているかぎり、その限界を超えて妥当することになる。
認識上の、あるいは知的な関心が支配的であるような教育分野――いわゆる固有の科学――では、たんに有閑階級の態度についてだけでなく、金銭的な文化の動向全体についても、若干事情が異なっている。知識のための知識――つまり、究極的な目的をもたずに理解する能力を行使すること――は、そのような探求から気をそらせる差し迫った物質的な関心などあるはずがない、というような人物によって追求されているはずである。産業的に保護されている有閑階級の地位は、認識上の関心をこの階級の構成員のなかで自由に働かせるようにするはずであり、こうしてついにわれわれは、多くの著述家が確信をもって肯定的に主張しているごとく、この階級の家系から出て自らの科学的な調査や思索への刺激を有閑生活の規律から引き出している、比率的にはきわめて多くの学者、科学者、碩学を有しているはずである。このような推論は当然期待してしかるべきものだが、すでに十分長々と書いてきたように、この階級の知的関心を科学の内容を形づくる事象の因果関連以外の主題に転換させる、ということに効力をもつ有閑階級の生活図式の特徴が存在しているのである。その階級の生活を特徴づけている思考習慣は、人間的な権威関係に、したがってまた、その派生物である競争心にもとづく名誉、価値、有益性、性格等々の概念にとらわれている。科学の主題を構成する因果関係は、この観点からはみえてこない。加えて、平俗な意味で有用性をもつ事実に関する知識には、名声がともなわない。それゆえ、金銭的な長所や他の名誉あふれる長所を重視して競争心にもとづく比較を行おうとする関心が認識上の関心を放棄させて、有閑階級の注意を独占するはずだ、と見なしうることになろう。こうした関心が自己主張するところではふつう、科学的知識の探求よりも、むしろ名誉がともない無益であるような思索や調査の分野に関心が振り向けられるはずである。相当まとまった体系的な知識が学問外の源泉から学問領域のなかに侵入してこないかぎり、事実そうしたことが、聖職者や有閑階級の学問の歴史であった。だが、支配と従属の関係は、社会の生のプロセスの支配的かつ形成的な要因ではなくなりつつあるために、生のプロセスにおける当該関係に属さない特徴や観点が学者に押しつけられつつある。
育ちのよい有閑紳士は世界を人格的関係の観点から眺めているはずだし、実際そうしている。したがってまた知的な関心は、それが彼のなかで自己主張するかぎりでのことだが、この基礎にもとづいて諸現象を体系化しようと試みるに違いない。事実それは、有閑階級の理想がまったく崩れる気配をみせなかった古い学派の紳士に妥当することであり、彼が上流階級の美徳の十分な継承者になっているかぎり、近年の紳士の末裔がとる態度なのである。だが、継承の仕方は曲折しており、したがって、紳士の息子がすべて高貴な生まれというわけではない。とくに、略奪的な支配者を特徴づける思考習慣の遺伝は、有閑階級の規律のなかのまだほんの一つか二つが展開したにすぎないような血統の場合には、かなり不安定なものである。知的な習性を発揮しようとするきわめて強い先天的または後天的な性向が出現するチャンスは、下層階級ないし中流階級の先祖をもつ有閑階級の構成員――すなわち、勤労階級に固有な習性の一部を遺伝的に継承した人々、したがってまた、有閑階級の生活図式が発生した時代よりもむしろ、現代においてずっと有用であるような資質を保持しているがゆえに、有閑階級のなかで地歩を占めることができた人々――の場合が、明らかに最高である。だが、このように後の時代に有閑階級に組みこまれた人々の範囲の外にも、競争心にもとづく関心がそれほど十分支配的でなかったために固有の理論的な見解を作り出したり、理論を指向する性向が十分強かったために科学的探求にたずさわるようになる人たちが、相当の数存在している。
高等教育への科学の侵入は、一部には、このような王道をはずれた有閑階級の子孫のおかげであるが、彼らは非人格的関係という後の時代の伝統に強く影響されており、身分体制を特徴づける気質とは異なる顕著な様相の習性のうちの片方を継承した人々なのである。だが、それはまた、この異質な科学知識体系の存在を、部分的に、しかもかなりの程度まで勤労階級の構成員に負うているが、彼らは、自らの注意を日常的な生活手段獲得以外の興味に向けられるほどゆとりのある境遇にあったし、彼らが遺伝的に受け継いだ習性は、競争心にもとづく擬人観的なものの見方が知的なプロセスを支配していないという点で、身分体制が確立する以前に勢いをもっていたものなのである。科学の進歩の実際の力をおおよそ構成しているのは、この二つのグループのうちのいずれなのか、と問うのであれば、最も貢献しているのは後者、つまり競争心にもとづかないものの見方のほうである。したがってまた、両者に関して以下のことが妥当するように思われる。つまり、社会に押しつけられた思考習慣は、現代の共同的な生活と機械産業の要請にもとづいて、周りの環境と接触することで理論的な知識のために利用されるわけだが、この両者はその際の源泉というよりもむしろ媒介手段であるか、せいぜいのところ交流の道具でしかない、ということである。
科学は、自然的なものであれ社会的なものであれ、現象のなかにある因果関係の明瞭な認識という意味で西洋文化の特徴であったが、それというのも、西洋社会の産業過程が機械的な装置――実質的に、物理的な力の区別と認識を人間の役割とするような装置――から成り立つ過程になってしまったからにすぎない。共同社会の産業生活がこのパターンに従うようになったのとほぼ歩調を合わせて、それゆえまた、産業的な関心が共同社会の生活を支配したのとほぼ歩調を合わせて、科学は繁栄してきた。こうして科学が、したがってとりわけ科学的な理論が人間の生活や知識に関するいくつかの部門で発展してきたのは、こうした各分野が産業過程や経済的な関心と連続的かつ密接に接触するようになったのと軌を一にしており、より正確に言うなら、それが人格的な関係や身分に関する概念、したがってまた、擬人観的な適宜性や名声に値する価値という派生的な規準が支配していた状況から連続的に抜け出すのと軌を一にしていた。
この環境としての現象が、したがってまた、人間が接触している諸事実が因果関係という見地から体系化されるようになったのは、現代的な産業生活の必要性によって、人間と環境との実際的な接触のなかに因果関係を認識するよう仕向けられてきたからにすぎない。それゆえ、高等教育――伝統的な教条主義や古典主義の完璧な|鑑《かがみ》として、最もよく発展した高等教育――が聖職者の職務や有閑生活の副産物であったのに対して、現代科学は結果として、産業過程の副産物である、と言うことができるだろう。したがって、探究者、大学者、科学者、発明家、思索家の大部分は、学校という避難所の外でその印象的な仕事のほとんどすべてを成し遂げたわけだが、現代的な産業生活によって強制された思考習慣は、このようなグループの人々をつうじて、現象の因果関係に関連づけられた理論科学の体系として、一貫した表現と精密さを獲得してきたことになる。それゆえまた、学者が関与しない領域での科学的な思索から、方法や目的の変更が学者の学問領域にときどき無理やりにもちこまれてきた、というわけである。
この関連からすると、初等・中等教育で提供される授業と高等教育で提供される授業には、内容と目的の点でかなり大きな違いがある、ということが注意されるべきである。教授された情報や獲得された熟練がもつ直接の実用性という点における違いは、ある程度重要なものでありえようし、時折は受けている注目にも値するものであろう。だが、この二つの異なる訓練によって助長される心的傾向や精神的傾向ということを考えると、さらに実質的な違いが存在する。高等教育と低級な教育との間にあるこうした訓練の相異なる傾向は、高度産業社会でごく最近発達してきた初等教育において、とくに顕著である。ここでの授業は、非人格的な事実の理解と利用、すなわち名誉の帰属というよりも因果関係の帰属という点で、ひたすら知的かつ身体的な熟達と機敏さを志向したものである。初等教育もまた、もっぱら有閑階級に役立つものであった初期の時代の伝統の下では、なお競争心が思うままに利用されていて、ごく普通の初等学校で勉学に拍車をかける役目を果たしていた。だが、このような便宜としての競争心の利用でさえ、教育が聖職的ないし軍事的伝統の指揮下におかれていない社会の初歩的な教育のなかでは、明らかに衰退しつつある。こうしたことはすべて、たとえば幼稚園という方式と理想から直接影響を受けてきたような一部の教育システムについて、とくに際立って――したがって、結果的にとりわけ精神的な側面で――妥当する。
幼稚園の規律がもつ金銭的な競争心を煽らないようにする傾向――したがってまた、幼稚園に固有の限界を超えた初等教育のなかで、幼稚園の影響力がもつ同じ傾向――は、現代的な経済状況という環境下にある有閑階級の女性に際立っている、すでに言及した精神態度と関連づけて捉えられるべきである。幼稚園の訓練は、最も進んだ産業社会で最高に発展している――すなわち、古代的な、家父長的で学者ぶった理想から最もかけ離れたものになっている――のであって、そこには、知的で何もしていない女性が相当数いて、産業的な生活がもつ社会解体的な影響力の下で、したがってまた軍事的および聖職的な伝統の首尾一貫した体系を欠いているがゆえに、身分体制はかなり厳格さをそぎ落とされたものとなっている。幼稚園が支持されるのは、このようなゆとりのある状況におかれた女性がいるからである。幼稚園の目的や方法がとくに効果的に受け入れられるのは、名声に値する生活がもつ金銭的な規範体系の下で、居心地が悪くなっているような女性のおかげなのである。それゆえ幼稚園は、したがってまた、幼稚園精神が現代教育のなかで価値をもっているとすれば、そのすべては「新しい女性の運動」ともども、無駄や競争心にもとづく比較に対する反感を説明するもの、と理解することができる。現代の状況の下で、女性の心は有閑階級の規律に最も直接さらされているので、そうした反感が生じるというわけだ。こうして、ここでもまた有閑階級制度は、巡り巡って競争心とは無縁な態度の成長を支持しているのであって、長い目でみると、その制度それ自身の安定性に対する脅威、したがってまた、その基礎である私的所有権という制度に対する脅威となることが証明されることになる。
最近になって、カレッジや大学の教育にいくつかの具体的な変化が生じてきた。このような変化とは、主として教養科目――伝統的な「文化」、徳性、好みおよび理想といったものに寄与すると見なされてきた学問分野――を、さらに都市市民の効率性や産業的な効率性に貢献するような、挙証可能な学問分野でもって部分的に置き換える、ということである。別の言葉で表現するなら、効率性(究極的には生産の効率性)に貢献するような知識分野が新たに承認され、消費を高度化したり産業効率を低下させたりするのに貢献する学問分野、身分体制に適合的なタイプの性格にとって便利な学問分野を押しのけた、ということになる。このような授業体系の適応のなかで、高等教育機関は一般的に保守的な側に立っていると見られてきたのであって、前進しようとして踏み出した一歩は、すべてある程度まで譲歩という性質を帯びていた。学問的な科目のなかに科学が入りこんできたのは、下からとは言えないまでも、外からのことであった。それほど不承不承に科学に地位を譲りわたしてきた教養科目がほぼ例外なく採用されることによって、伝統的に利己的な消費の図式、つまり閑暇――品位あふれる閑暇[#「品位あふれる閑暇」に傍点] [otium cum dignitate] ――の顕著な様相である慣例的な礼儀正しさと卓越性の規準の下、真なるもの、美なるもの、および善なるものを瞑想したり享受したりするという図式に|則《のつと》って学生の性格を作り上げてきた、ということは注目に値する。古代的で、上品な観点を習慣として身につけることによって、教養科目の代弁者は、おぼめかしの言い方ではあるが、ただ穀潰しとして生まれたる[#「ただ穀潰しとして生まれたる」に傍点] [fruges consumere nati]、という格言に体現された理想に固執しているのである。このような態度は、有閑階級の文化によって形づくられ、それを基礎としている学術機関にあっては、なんら驚くべきことではない。
受容済みの文化の標準や教授法に手をふれないでおくために可能なかぎり模索されてきた公然たる根拠は、同様に、古代的な気質や有閑階級の人生の特徴を示している。たとえば、古典古代の有閑階級の間で大流行していたような、生活、理想、思索および時間や財の消費の仕方などを沈思黙考する習慣に由来する喜びや好みといったものは、この点に関して、現代社会のありふれた人間の願望、知識および日常生活に同様に親しんでいることから結果的に得られる喜びや好みよりも、さらに「高級」で「高貴」で「価値がある」ものと考えられる。最近の人間や事物に関する純然たる知識を内容とする学問は、比較的「低級」で「卑しく」、「下品な」ものなのである。ちなみにこの、人間や日常生活に関する挙証可能な知識に対して適用された通称は「|人間として不完全《サブ・ヒユーマン》」である、と|仄聞《そくぶん》するほどである。
この教養科目に関する有閑階級の代弁者の主張は、基本的に健全だと思われる。基本的な事実という点でみると、初期の紳士が擬人観、党派心および悠々たる自己満足といった瞑想の習慣に耽った結果としての満足や教養、あるいはまた、たとえば、アニミズム的な迷信やホメロスの英雄たちの血気盛んな勇猛さに慣れ親しむことから得られる満足や教養――すなわち、精神態度や心的習慣――は、挙証可能な事物に関する知識や最近の都市市民や労働者風の効率の考え方に由来する満足や教養よりも、審美的にはるかに正統的なものである。審美的ないし名誉を与える価値という点では、それゆえ、比較にあたって審査の基礎になる「価値」という点では、前者に属する習慣のほうが好都合である。好みの規準、それゆえまた、とくに名誉の規準の中身は、事の性質からして、遺伝や伝統によって後の世代に伝えられた民族の過去の生活や環境の所産である。したがってまた、略奪的な有閑階級の生活図式の長期にわたる支配が、民族の心的習慣やものの見方を昔から深いところで形づくってきた、という事実があるが、それは、好みの問題の大部分にわたって、そのような生活図式が現在審美的に正統なものとして優越的であるための、十分な基礎になっているのである。当面の目的にとって好みの規準とは、その適・不適が宣告される際のさまざまな基礎事項を承認したり否認したりするという、多少とも長期の習慣化をつうじて獲得された民族の習慣のことである。他の条件が同じならば、習慣化の期間が長くて中断がなければないほど、当該の好みの規準はさらに正統性を増すことになる。こうしたことはすべて、一般的な好みの判断についてよりもむしろ、価値や名誉に関する判断について、さらに真実であるように思われる。
だが、一般教養科目の代弁者によって新しい学問に下される、軽蔑的な判断の審美的な正統性がいかなるものであろうと、したがってまた、古典的な博学こそ価値があって、はるかに真正な人間らしい教養と品性をもたらす、という主張のもつ長所がどれほど実質的であるにしても、それは、当面の問題とかかわりのないことである。当面の問題は、このような学問分野が、したがってまた、教育システムのなかでそのような分野の支持する観点が、現代の産業的な環境の下で、効率的な集団生活をどの程度まで助長したり妨げたりしているか――現代の経済状況にどれだけ容易に適応するよう促進しているか――ということにある。問題は経済的なものであって、審美的なものではない。したがってまた、挙証可能な知識に対する高等教育機関の軽蔑的な態度に現れている有閑階級の学問的規準は、当面の目的のためには、何よりもまずこの観点から評価されなければならない。この目的からみると、「高貴」、「卑しい」、「高級」、「低俗」等々というような通称は、それが新しいものと古いもののいずれの価値を強調しているにせよ、たんに論争者のもつ観点や意志を示すものとして意味をもつだけである。このような通称はすべて名誉を与えるか、または屈辱を与える用語なのである。すなわち、それは競争心にもとづく比較の用語であり、究極的には、名誉か不名誉かというカテゴリーに帰着する。換言すれば、それは実質的にはスポーツマン精神――略奪的でアニミズム的な心的習慣――の表出である。つまり、古代的な観点と人生観をそれとなく示しているが、母体である略奪段階の文化や経済組織に適合しうるものではありえても、広い意味での経済効率という観点からすれば、まったく無益な時代錯誤的なものなのである。
いわゆる古典は、したがってまた、高等教育機関が独りよがりな一方的な好みで執着している教育体系のなかで古典がもっている特権的な地位は、新しく教育を受けた世代の知的な態度を形成し、その経済効率を低下させるのに貢献する。すなわち、たんに古代的な男らしさの理想を持続させることによってだけでなく、知識のなかで尊敬に値するものとそうでないものとを区別するように説き聞かせることによって、それは遂行されるのである。この成果は、以下の二つの仕方で仕上げられる。すなわち、(一)学問のなかでたんなる名誉しかもたないものにもまして、たんなる有用性しかもたないものへの習慣的な嫌悪感をいっそう鼓舞することによって、したがってまた、ふつう産業的ないし社会的な利益などまったく――あるいは、ほとんど――眼中に入れずにひたすら知力を行使することによって、満足すべきものを忠実に見いだすような審美眼を初学者に身につけさせること、そしてまた、(二)この学問が慣例によって学者に要求される学問全体のなかに組みこまれ、こうして実用的な知識分野で利用される専門用語や言葉遣いに影響を及ぼすようなことでも生じないかぎり、役に立つことがない知識の修得に学習者の時間と努力を費やさせること、これである。そこにはただ専門用語上の障害があるだけで――これ自体が、過去に古典文学が流行したことの結果であるが――、たとえば古代言語の知識は、もっぱら言語学的性質の仕事に従事していない科学者や学者には、実際的な関連をまったくもたないであろう。もちろんこう言ったからといって、古典文学がもつ文化的な価値について何かを言おうとしているわけではないし、古典文学という学問やその研究が、学生に与える傾向を非難しようなどという意図があるわけでもない。その傾向は、経済的には有用性のない性質のものであるように思われるが、この事実――実際、ある程度悪名高い――は、古典的な博学のなかに慰めと支えを見いだすのに運よく成功する人を、一人残らず不安にさせるとはかぎらない。古典的な学問が学習者の製作者的な習性を混乱させるように作用するという事実は、製作者精神――礼儀正しい理想の育成という大義に比べれば、ほとんど重要性をもたないものとされている――を身につけている人々には容易に理解されるに違いない。
[#ここから1字下げ]
いまや、古代の信頼、平和、名誉、恥辱、
および顧みられざる徳が、好んで回帰されり。
[Iam fides et pax et honos pudorque
Priscus et neglecta redire virtus
Audet.]
[#ここで字下げ終わり]
われわれの教育システムのなかでこのような知識が基本的な要件の一部になってきたという事情があるため、南欧の死語[ラテン語]の一部を使用したり理解したりする能力は、たんにこの点に関する達成を誇示する機会に恵まれた人を満足させるだけではない。このような知識をもつという証拠がまた同時に、あらゆる大学者を、素人と学識あるものの両者を含めた聴衆に推挙するのに役立つのである。広く期待されていることはといえば、この実質的に役立たない学識の修得に一定の年限が費やされるべきだということであり、したがって結果的に、長年の修練を欠いていると、にわか造りでいい加減な学問という憶測ばかりか、健全な学者精神と知力に関する慣例的な標準にてらして不快でありふれた実用性という憶測まで生み出しかねない、ということなのである。
これは、素材や出来映えについて専門的な鑑識眼をもたない購買者が消費財を購入しようとするとき、必ず生じる事態によく類似している。彼は、品物の内在的な有用性とは直接関連をもたないような、装飾的な部分や外観の仕上がりに明瞭に現れる高価さにもとづいて、もっぱら品物の価値を推定する。すなわちその推定とは、品物の実質的な価値と購買意欲をそそるために付加された装飾のための支出との間に、ある種のはっきりしない並行関係が存在する、というものである。古典文学や教養科目に関する知識が欠落しているところに、ふつう健全な学者など存在するはずがないという推定が、学生全体をそのような知識の修得に向かわせ、時間と努力の顕示的浪費をもたらすのである。あらゆる誉れ高い学問に付随する顕示的浪費のほんの一部を無理強いするという慣例は、同じ原理が、製造された財の有用性に対するわれわれの判断に影響を及ぼすのとほぼ同じ仕方で、学問に関するわれわれの好みや有用性の規準に影響を及ぼしてきたのである。
顕示的消費は、名声の手段としてますます顕示的閑暇を遠く置きざりにしてきたので、もはや死語の修得はかつてほど不可欠な要件ではなくなり、学識を保証するものとしてのその秘儀的効能が付随的に弱められてきた、ということは真実である。だが、確かにそのとおりであるとはいえ、古典文学が学問的名声を保証するものとしての絶対的な価値をほとんど失っていない、ということもまた真実である。というのも、この目的のために必要とされていることはといえば、浪費された時間という証拠と、慣例的に認められたなんらかの学識という証拠を提示できなければならない、ということだけなのであり、古典文学は、この用途にきわめて手軽に役立つからである。実際、高等教育体系のなかで古典文学に特権的な地位を確保させ、したがって結果的に、それをあらゆる学識のなかで最も尊敬に値するものと見なされるものにしたのは、浪費された時間と努力の、それゆえにまた、この浪費を可能にするために不可欠な金銭的な資力の証拠としての効用である、ということはほとんど疑問の余地のないことである。それは他のいかなる知識体系にもまして、有閑階級の学識という装飾的な目的に役立つものであり、それゆえ、名声を入手するための効果的な手段なのである。
この点で古典文学は、ごく最近にいたるまでほとんど競争相手をもたなかった。ヨーロッパ大陸では、それはいまなお地位を脅かすような競争相手を欠いているが、最近ではカレッジの運動競技が学問的たしなみに属する分野としてお墨つきの地位を確保してきたために、この授業科目分野――かりに、運動競技が|躊躇《ちゆうちよ》なく授業科目に分類されうるとすれば――は、アメリカとイギリスの学校における有閑階級の教育のなかで、古典文学と首位の座をあらそう競争相手になってきた。運動競技は、運動選手としての成功がたんに時間の浪費だけでなく、金銭の浪費をも、そしてさらに、一定の際立って非産業的な古典的特性に属する性格や気質の保有をも前提としているため、有閑階級の学習目的からすれば、明らかに古典文学に勝る利点をもっている。有閑階級の学問的な暇つぶしという観点からすると、運動競技とギリシア文字を組み合わせた名称の|社交クラブ《フラタニテイー》[結社的な性格の男子学生の閉鎖的な友愛会組織]がアメリカで担っている役割は、ドイツの大学では、熟練が必要なばかりか格づけまである飲酒癖とお座なりの決闘によって、ある程度まで代理されてきた。
有閑階級とその徳の規準――擬古主義と浪費――とが、高等教育体系のなかに古典文学を組みこむことに関与してきた、などというのはほとんどありえないことだが、高等教育機関が古典文学を粘り強く保存したこと、したがってまた、いまもなおそれに寄せられる高い名声は、まぎれもなく擬古主義と浪費が要請するものに対して、その階級がきわめて密接に順応していることによるものなのである。
「|古典《クラシツク》」という言葉は、死語、あるいはいまでも使用されている言語のなかの時代遅れで廃れた思考形式や用語法を意味するために用いられようと、またその言葉にそぐわない学問的な活動や概念装置を示すために用いられようと、いつでもこの浪費的で古代的という言外の意味を含んでいる。それゆえ、大昔の英語の|慣用句《イデイオム》が「古典的な」英語と呼ばれるのである。それを使うことは、重大な論題について話したり書いたりする場合につねに必須であって、したがって結果的に、それを達者に用いれば、最もありふれたとるに足りない一連の会話にさえ威厳を与えることになる。最近みられる英語の慣用句は、もちろん、決して書かれたりすることはない。最も教養の欠けた煽情的な著者の場合でさえ、会話のなかに擬古主義を要求する有閑階級の礼儀正しさの感覚が、そのような欠格を補ってあまりある影響力をもって存在しているからである。他方、最高かつ最も慣例化されたスタイルの古代的な用語法――まったく特異なものだが――が適切に使用されるのは、擬人観的な神格とその従者との間の意志疎通のなかだけである。このような両極端の中間に、有閑階級の会話と文学的たしなみに属する日常的な言葉が位置しているのである。
書く場合であれ話す場合であれ、優雅な言葉遣いは、名声を得るための効果的な手段である。どのような話題について話す場合でも、慣例的に要求される程度の擬古主義というものをかなり正確に知っていることが大切なのである。慣用語法は、説教壇と市場とでは明らかに異なっており、後者では――予想しうることだが――口やかましい人物の場合でも、比較的新しく、しかも感動的な言葉や言い回しの使用を容認する。新しい造語を明確に回避することは尊敬に値することだが、それというのも、廃れた言葉遣いの習慣を身につけるのに時間を浪費したことをそれが説明する、という理由ばかりでなく、話し手が幼児期から習慣的に廃れた言語によく親しんでいる、という証明にもなるからである。それによって、話し手が有閑階級の先祖をもつことを示すのに役立つのである。言葉が大いに純正であるだけでは、決してこの点についての決定的証拠とはならないにしても、数世代にわたって引き続き、平俗で有用な職業以外のものに従事してきたことを推定させるものにはなるだろう。
役に立たない古典主義の格好の事例として同様に指摘しうるものとして、極東以外のところで使用される英語の慣例的な綴りがある。正しいもの、美しいものに対する洗練された感覚をもつ人々の目には、綴りにおける礼儀作法上の違反は、きわめて不愉快なものであり、あらゆる書き手の評判を落とすことになる。英語の正字法は、顕示的浪費の法則の下で名声の規準が要求するものすべてを満たしている。それは古代的で、重荷になり、役に立たない。しかも、修得には多くの時間と努力を費やさねばならず、それを身につけていないことを発見するのも容易である。それゆえ正字法は、学識を評価する際の初歩的で簡便な検査手段であり、その作法に従うことが、非のうちどころのない学問的生活を送るために不可欠なのである。
この言葉の純正さという項目については、通例になっている慣行が擬古主義と浪費という規準に依拠している他の項目と同様に、慣行の代弁者は本能的に弁明的な態度をとる。実質的には、古代的で広く承認されてきた慣用語句は、最も新しい形式の話し言葉としての英語をそのまま使用した場合に比べて、いっそう十分かつ正確に思想を表現するのに役立つであろう、ということが強く主張されているが、現代の考え方は現代の俗語で最も効果的に表現される、ということもまた周知のことである。古典的な言葉は、品位という尊敬に値する徳をもっている。つまりそれは、話し手が産業的な職業から免除されていることを効果的に示唆するものをともなっているからこそ、有閑階級の生活図式の下で承認された意志疎通の方法として、注意と尊敬を払われているわけなのだ。承認済みの慣用語句がもつ利点は、その名声の高さにある。つまり、それは扱いがたく時代遅れであるがゆえに、したがってまた時間の浪費と、単刀直入で力強い言葉の使用および必要性から免除されていることを証明するがゆえに、名声に値するのである。
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訳者解説
本書は、Thorstein B. Veblen, The Theory of the Leisure Class : An Economic Study in the Evolution of Institutions, 1899 の邦訳である。一九一二年に同じマクミラン社から本書の廉価版が出版されたときに索引が付け加えられ(ただし、その後も索引がつけられているのは廉価版とペーパーバック版だけである)、副題も「制度の進化に関する経済学的研究」から「制度の経済学的研究」に変更されたが、内容にはまったく手が加えられなかった。厳密に対照したわけではないが、訳者が気づいた初版と以降の版との違いは、せいぜいイタリックにし忘れていた個所の手直しぐらいで、一九一八年にモダン・ライブラリーから改めて廉価版が出版されたときでさえ、紙型は初版からのものを使ったようである。本書は、顕示的閑暇や顕示的消費(従来は衒示的消費とか誇示的消費と訳されてきた)、さらには代行的閑暇や代行的消費という新しい概念を駆使して、金ピカ時代の消費文化を謳歌していたアメリカ人の俗物根性を皮肉たっぷり、しかも理論的に描いたものであって、ヴェブレンの名を一躍世界に轟かせることになった彼の処女作である。
「ヴェブレンはアメリカが生み出した最高のアメリカ批判者である」という『パワー・エリート』の著者C・W・ミルズの評価に異論を唱える人は少ないに違いない。だが、いったいどのような意味で「アメリカが生み出した最高のアメリカ批判者」であったといえるのであろうか。ここでは、この疑問を少しでも明らかにするために解説を試みるが、まずはある意味で「常軌を逸した」と言えなくもないヴェブレンの生涯を、簡単に紹介しておこう。
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ヴェブレン(一八五七〜一九二九年)はノルウェー移民の両親のもとで、ウィスコンシンとミネソタの西部開拓村で生まれ育った。まさに「大草原の小さな家」の世界であったが、言葉の問題もあって、ノルウェー系の人々は他の民族よりはずっと閉鎖的で、アメリカの商業文化とは隔絶した農村社会を形づくることが多かった。一八七四年にカールトン・カレッジに入学したとき、ヴェブレンは「ほとんど英語が話せなかった」という話があるほどである。アメリカ社会になじめずに孤独な人生を送ったことが、辛辣な言葉でアメリカ人の豊かさとその俗物性とを、「観淫症 voyeur」と呼びうるほど研ぎ澄まされた観察をつうじて暴露しつづけた基本的な理由だと、『孤独な群集』の著者である社会学者D・リースマンは説明した。だが、そうではない。
ヴェブレンの孤独は、生涯をつうじて真の「研究者」に徹しようとしたことに由来する。『アメリカの高等学術』(一九一八年)でのべたように、彼は自らの「知的好奇心」(idle curiosity) のおもむくままに人間社会を観察し、ひたすら「知識のための知識」を追求しつづけた。「学者」としての立場を頑強に守り、実用性と営利しか眼中にないビジネスマンに管理された大学社会に、非妥協的な態度をとりつづけた。だから、世界中で高く評価されていたにもかかわらず、一度も「正教授」になれなかった。一九二五年にヴェブレンをアメリカ経済学会会長に推薦した(ヴェブレンが固辞したため実現しなかった)ことにより、同時代の経済学者たちの名誉はなんとか守られたのであった。
一八八〇年に、ヴェブレンはアメリカ最初の大学院大学ジョンズ・ホプキンスに入学し、半年後エール大学へ移り、W・G・サムサーの下で経済学や社会学の研究を続けながら、「カント研究」の博士論文を提出した。しかし、懐疑主義的な傾向をもつノルウェー人が、神学的影響力が強く残る保守的な大学でポストを得る望みはなかった。頻発する農民運動や労働組合運動がアメリカ社会の伝統的な枠組みを根底から揺るがし始めたときに、彼は妻エレンとともに、体力と気力を回復させるための七年間を片田舎で読書と思索に耽るほかなかった。一八九一年の冬に経済学の研究を開始するためコーネル大学で特別研究生になり、二年後新設シカゴ大学で「社会主義論」の講義の準備を始めた。すでに三十五歳になっていたヴェブレンの多彩な執筆活動が始まるが、昇進は遅く、助教授になったのは、デビュー作『有閑階級の理論』発表後のことである。
シカゴ時代は研究生活としては充実しており、W・C・ミッチェルはじめ多くの大学院生に知的刺激をあたえつつ、一九〇四年に『営利企業の理論』を発表する。しかし、私的な生活はすでに妻エレンとの仲がうまくゆかず、「妻以外の女性」との交際を学長に厳しくとがめられ、一九〇六年にスタンフォード大学へ移った。男女関係についての規律がゆるむのは一九二〇代後半のことである。カリフォルニアの温暖で明るい気候のもとで、数多くの文明批評的な論文を発表し、またもや数人の女性が家におしかけるまま過ごした。学長が期待する意味で大学の名声を上げる役にたたなかったため、四年後に辞職を余儀なくされ、ミズーリー大学へ移った。
身分は非常勤講師のまま、ここでは七年間過ごした。文化の発展の原動力を技術進歩に求めた『製作者本能』(一九一四年)を短期間で書き上げた後は、『帝政ドイツと産業革命』(一九一五年)を皮切りに、長期的な文化発展論と時論的な政治・経済動向の分析や評論の執筆を行った。ビッグ・ビジネスや労働組合などの独占的な経済組織の非能率性や、ドイツや日本に典型的に現れた軍国主義の復活に対する厳しい批判が、深い学識に裏うちされた鋭い筆致で展開された。
一九一七年の終わりにミズーリーを離れてワシントンに行き、数カ月間食料管理局で調査に従事した後でニューヨークに移り、数年間雑誌『ダイヤル』の編集・執筆に携わった。第一次大戦後の再編成の可能性や現実性をめぐって数多くの論文が執筆され、それはのちに『既得権』(一九一九年)と『技術者と価格体制』(一九二一年)に収録された。大戦後のアメリカを席巻した「赤の恐怖」の非現実性を指摘し、「技術者や専門家」を担い手とする社会改革の可能性を、ヴェブレンは示唆した。第一次世界大戦の分析である『平和の性質』(一九一七年)が刊行されたのも、この時期である。
一九一九年に新設されたニュー・スクール・フォア・ソーシャル・リサーチの「ビッグ四」の一人として再び大学に戻るが、その改組とともにポストはなくなった。最後の著作『不在所有権』(一九二三年)を出版したあと、一九二六年にはパロ・アルトに向けて東部を去った。そこに山小屋を建て、「墓も建てず、伝記の類もいっさい出版してはならない」という遺言を残して、一九二九年八月三日に死を迎えた。
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アメリカで大学院が設置され始めたのは、一八八〇年代になってからのことである。ジョンズ・ホプキンスがもっとも早く、ハーバードやイェールがこれに続いた。ヴェブレンがイェールで博士号を取得したのは一八八四年のことだったから、きわめて早い時機の学位取得者だったわけである。すでに述べたように、ヴェブレンは大学に職を得ることができず、以後七年間も田舎で過ごさざるをえなかったが、アメリカで大学の新増設ブームが始まったのは一八九〇年代になってからであったことからすれば、ヴェブレンの学位取得が少し早すぎたという面がないわけではない。もっとも、哲学の教師としてうまく就職していたら、おそらく経済学者ヴェブレンは誕生していなかったであろうが。
大学院の新設は、大学を新・増設しようとする気運の盛り上がりを示している。南北戦争後、地域産業を育成するために農学部や工学部を中心とする州立大学が数多く設立されたが、一八七〇年代以降の急激な産業発展の結果、産業技術者だけでなく、市場経済の仕組みにつうじたビジネスマンに対する需要が高まってきた。伝統的な神学や哲学の分野ではなく、農学、工学、経済学や商学といった「実際的な」学問分野中心の大規模な大衆的高等教育(大学教育)システムが、世界に先駆けてアメリカに出現するのである。
もちろんここで言う「大衆的」とは、教育費を支払える人なら誰でも産業活動に役立つ「実際的な知識」を教育するという意味であるが、この過程で大学教育の中身がどう変わっていったかについては、本書第十四章「金銭的な文化の表現としての高等教育」のなかで、ヴェブレン自身の手でつぶさに描き出されている。要するに、大学という伝統的な高等教育機関に金銭的実用性という新しい要素をもちこんでおきながら、なお「大学としての名声」を保ち続けるために、伝統的な「有閑紳士」の教養とたしなみの「見せかけ」として、一般教養科目と体育・スポーツ科目を導入しただけでなく、古くからある大学の伝統的な典礼儀式を復活させようとしている、というのである。
もっとも、ヴェブレンの「アメリカ批判」の深さや鋭さを十分に味わうためには、当時のアメリカ社会について一応の理解が欠かせない。ヴェブレンが育ち、教育を受けていた時代、つまり十九世紀最後の四半期は、R・T・ホーフスタッターが名著『革新の時代』で「地位革命」と名づけたほど、社会秩序=価値観が大きく転換しつつあった時代であったからである。
独立宣言のなかでヨーロッパ社会の伝統である身分制度をきっぱりと否定し、「自由と平等」の社会を地上に実現するために建国されたアメリカ合州国では、プロテスタント的な「勤勉と節約」という独立小生産者的職業倫理、つまりB・フランクリンが「プアー・リチャード」と名づけたような大衆の「徳へいたる道」が、同時に「富へいたる道」であり、したがってまた「神へいたる道」だと考えられていた。「自由と豊かさの実現」は、非民族国家アメリカではまさに建国の理念であったわけで、これを実現できないアメリカ合州国が存在する理由などあるはずがなかった。
だが、このような独立小生産者的で個人主義的な社会倫理は、重化学工業を中心にした第二次産業革命が進展してビッグ・ビジネスが台頭しはじめると、根底から揺らぎはじめる。鉄道、石油、鉄鋼、科学、たばこ産業などの分野で、「金持ち」という点ではヨーロッパの大地主や貴族たちをはるかにしのぐ多数の大富豪が、「泥棒貴族」と揶揄されながら次々に誕生した。その反面で、大都市では大規模なスラム街が発生していたし、豊作貧乏による農産物価格下落のため、土地購入代金を予定どおり返せなくなった多くの西部開拓農民たちが、長期の苦境に喘いでいたからである。
もちろん、これは現代的な産業都市が出現する歴史的なプロセスの一部にすぎない。新しい大衆である中産階級、つまり急激に増加しつつあったホワイトカラー層を中心にした中流階級が、郊外に開発されたニュータウンに洒落た家を購入し、ピカピカの生活をし始めたのもこの時期のことであった。アメリカ社会全体が農村的な社会から都市的な社会へと大変貌を遂げつつあったのであり、自動車やラジオの普及こそまだであったが、間違いなく現代的な大衆消費社会がきらびやかに登場しつつあったのである。
ヴェブレンの鋭い観察眼は、この農村的で生産的な社会から都市的で浪費的な社会へという社会構造変化のプロセスに注がれていた。『有閑階級の理論』の初版の副題である「制度の進化に関する経済学的研究」が間接的に示しているように、彼は、この大変動のプロセスを制度進化のプロセスとして解き明かそうとした。何から何へ、どこからどこへという問いかけであるが、ヴェブレンはそれを制度から制度への変化のプロセスとして、さらに正確に言えば、さまざまな制度から成り立つ文化的複合体の連続的な変化のプロセスとして、理論的に解明しようと試みたのである。
もっともヴェブレンが言う「制度」の意味は、彼自身が明確に述べていたように、あくまでも「思考習慣」のことであり、「習慣的な考え方」のことである。それは、Th・W・アドルノの指摘を待つまでもなく(『プリズメン』渡辺・三原訳、ちくま学芸文庫)、ドイツ流の哲学用語でいえば、「意識形態」と同じ意味であることに注意しなければならない。日本語で「制度」という場合には、一定の「決まり」や「規則」、さらには「しくみ」などをさす場合が多い。だが、「決まり」も「規則」も「しくみ」もすべて人間によって決められ、かなり長期にわたって習慣的に維持されてきたものにすぎない。朝令暮改されるものは、ふつう「制度」とは呼ばれないから、突き詰めて考えると、制度とは、結局生活している人々が慣習として受け入れている行為規範であり、「考え方」に根ざすものであることが分かろう。
「制度」には、「法としての制度」という側面と「思考習慣としての制度」という側面とがある。ヴェブレンの特徴は、後者を分析の軸に据えることにより、「思考習慣」が進化していくプロセスを経済学の視点から分析しようとした点にあった。その意味に限るなら、すなわち「人間はなぜ、どのように行動するか」という問題に取り組み続けたという意味では、ヴェブレンもまた、広い意味でデューイ流のプラグマティズムの哲学を共有していたと言いうるが、いわゆる「実用主義」については、彼はあくまでも批判的な態度をとり続けた。
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ヴェブレンを理解していく上で重要なもう一つの概念は「進化」である。歴史とは、古くからあるさまざまな思考習慣の上に新しい思考習慣が重層的に追加され、織りこまれ、時に退行さえ繰り返しながら展開してゆくプロセスであって、このように限りなく累積的に発展し続けるのが「進化」のプロセスである、とヴェブレンは捉えていた。しかし、どの国でもそうであったが、このような進化という概念は、スミスやルソーの啓蒙思想、ベンサムの功利主義思想、スペンサーの社会進化思想などがほぼ同時期に流入しつつ消化され、定着していったわが国では、しばしば進歩と同じような意味で理解されたため、ヴェブレンの思想それ自体も誤解されてきた側面がある。
一般的に進歩という言葉には、ある目的や理想に近づいていくこと、あるいはそれを実現していくという暗黙の含意がある。「改良」「改善」「進歩」という言葉には、啓蒙主義以降の価値観や人間観が、暗黙のうちにわれわれの考え方の基底に、それこそ「制度的に」鋳こまれている。これに対して進化とは、生物が「種の存続」を確保するために外的な環境の変化に対して自らの行動=思考習慣を変化させようとするプロセス、つまり人間による環境への適応の過程にほかならない。
この環境の変化はたんなる自然環境の変化であるよりもむしろ産業技術の変化、つまり技術進歩に負うところがきわめて大きい、というのがヴェブレン独自の主張である。したがって彼の場合には、たとえ新しい適応を迫るような変化が自然環境の側で生じなかったとしても、産業技術の発展が続くかぎり、人間の思考習慣はつねに新しい産業技術への適応を余儀なくされるから、結果的に思考習慣=制度の進化は無限に続くことになる。産業技術はたんなる知識にすぎないとはいえ、その発展・変化は、産業に従事するすべての人に新しい技術を理解するように、つまり「ストック」としての知識体系を理解できるような精神態度や思考習慣を身につけて、適応するように要請する。その意味で、社会的に蓄えられた知識=「ストック」としての産業技術は、個々の人間にとってはつねにかなりのエネルギーを要する理解の対象であり、したがって外的環境なのである。
産業技術発展の原動力は、「製作者本能」(the instinct of workmanship) である。これは「労働者本能」とか「モノ作り本能」と訳しうるような概念であるが、本書の「はじめに」のなかで参照を求められていた論文「製作者本能と労働の厭わしさ」のなかで、ヴェブレンは次のように定義していた。
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「穏やかにじっくり考えるゆとりがあるとき、すなわち過労による緊張に悩まされていないとき、人間の常識は、例外なく製作者本能に従って意見を述べる。人間は、他の人々が彼らの生を何らかの目的のために費やしているのを眺めるのが好きだし、彼自身の生が何かの役に立っていると考えたがる。人間は誰でも、この経済的あるいは産業的な価値に関する上述のようななかば審美的な感覚をもっており、この経済的な価値意識からみると、無駄な行為や非効率は好ましからざるものになる。積極的に現れた場合には、それは製作者精神という衝動ないし本能になるが、消極的に現れた場合には、浪費に対する非難になる。このように物質的な生活を助長したり阻害したりするという価値意識が、経済的に効果がある活動を奨励し、経済的な無駄を非難するわけである」。
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『有閑階級の理論』では、このような漠然とした内容でしか「製作者本能」という概念は説明されなかったが、『製作者本能と産業技術の発展』(一九一四年、松尾博訳『ヴェブレン経済的文明論――職人技本能と産業技術の発展』ミネルヴァ書房、一九九七年)になると、ずっと明確に定式化される。すなわち、「製作者本能」に加えて「親性傾向」と「知的好奇心」とが、それに関連した本能として指摘される。あらゆる方向に発揮されるという意味でランダムに作用する「知的好奇心 idle curiosity」の働きによって知識がストックとして累積され、結果的に、産業技術それ自体も有用な知識体系として累積的に拡大し続ける、と説明されるようになるからである。
注意すべき点は、「知的好奇心」の本質的な特徴が「目的のない」好奇心であることだ。知的好奇心の産物である産業技術を人間の特定の「目的」や「理想」に合致させるためには、当該の目的や理想に合致させるように、知的好奇心の作用と方向性を制限し、規制しなければならない。「目的」や「理想」からの制限や方向づけがなかったら、進化がつづいていても、それを「進歩」かどうか判断する規準が存在しないわけだから、進化と進歩が同一視されることはなかったはずである。進化の中身や方向性がいわゆる進化と同一であるように思いこまれた理由は、価値判断の規準になる特定の目的や理想が、無意識のうちに=慣習的に「当然のこと」として前提されていたからである。ヴェブレンが快楽主義的人間観や功利主義的人間観を「目的論的」だと強く批判しつづけた理由は、歴史の発展過程を進化論的な見地から解釈することと、「進歩」という特定の価値観にもとづいて解釈することとを明確に区別するためであった。進化論的科学は、人間行動を尽きることのない生命活動の展開として観察し、解釈し続けるものだという主張なのである。
こう見てくると、なぜ本書が『有閑階級の理論』というタイトルをつけられたかが、おぼろげながら分かってくる。人間以外の他の動物にはまったく見られない「有閑階級」という制度=思考習慣こそ、人間本能に従って自立的に発展しつづける産業技術の方向性や中身を、有閑階級それ自体を維持・発展させるという目的や理想にかなうように制限したり、規制したりするようにする基本要因だということを明らかにすること、これである。
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有閑階級というのは、「慣習によって産業的な職業から免除されたり排除されたり」しているにもかかわらず、「名声をともなう一定の職業が約束された」上流階級のことだが、それを「制度」=思考習慣という次元で言い換えるなら、こうなろう。つまり、人間の生活を維持するために不可欠な産業活動=勤労に従事せず、|戦《いくさ》や政治や宗教といった誉れ高い職業に従事し、しかも豊かな生活を過ごすような人々を上流階級にもつ社会システムであり、このような社会を成り立たせている思考習慣のことである、と。
社会を成り立たせている思考習慣が「常識」である。そして、「常識的な考え方によれば、労働などせずに限りなく財貨を消費することが経済的な至福であり、正真正銘の経済的な難儀とは、何の報酬ももたらさない労働のことである」とヴェブレンは看破した。要するに、現代の常識=大衆の思考習慣のなかでは、有閑階級の生活図式が人生の理想として思い描かれているというのである。
これは、確かに挑戦的な主張であった。現代の日本でもある程度同じことが言えるのだが、独立小生産者的な倫理観、つまり「勤勉」という日常的な生活倫理が根強く残っていた当時のアメリカでは、とりわけそうであったに違いない。働きもせず、ひたすら消費に明け暮れることこそ人生の「至福」だという、世間の常識を逆なでするような言辞であったから。
だが、パラドクシカルではあるが、このような常識的な考え方は、経済学が伝統的に前提してきた人間像である「経済人」概念と、実質的に同一のものなのである。経済人とは、財やサービスの消費によって得られる効用や満足の大きさとそれを入手するために遂行されなければならない労働=犠牲(負の効用)とを比較考量して、快楽である消費と苦痛である労働のバランスを合理的に判断する人間のことである。人間は限りない消費欲望の固まりと捉えられているのであって、このような経済人概念の延長線上に「有閑階級」が位置していることは、改めて説明するまでもなく明らかであろう。だからこそヴェブレンは、論文「製作者本能と労働の厭わしさ」のなかでつぎのように言ったのである。
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「経済人≠ニいう概念は、その輪郭を古典的な経済学者によって描かれ、その人柄を風刺画家によって仕上げられたものだが、動物世界でそのような存在を見つけることはきわめて難しい。それでもなお、日常的な大衆意識のなかに現れているものから判断するかぎり、経済人の肖像画は必ずしもとびぬけて誇張されたものではないのである。だがこの経済人が、経済理論という衣装を着せられるマネキン人形として使われているとすれば、その限界は何か、人間はどのようにして自然淘汰の法則からの解放を達成したか、を説明することが、経済学が当然果たすべき義務になろう」。
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経済学が当然果たすべき義務、つまり、有閑階級を理想と思うような大衆の思想を思考習慣=制度として組みこんだ経済社会システムの成立根拠と、その発展のプロセスを解明することがヴェブレンの課題であった。こうして、『有閑階級の理論』が書かれたわけだが、ここでは参考のために、ヴェブレンが「はじめに」のなかで、うまく論証できていないかもしれないと危惧の念を表明していた「一般理論」の骨子を、簡単に再構成しておくことにしよう。
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人間は他の動物種と同様に、外部環境からの刺激に反応して行動する能動主体であり、習慣と性向の被造物である。さらに、人間は他の動物種よりもはるかに知的な能動主体であり、「種の保存」という淘汰的必然の求めに従って、合目的的活動を志向する傾向をもっている。この「合目的的な活動を志向する傾向」ないし「生活や行為におけるあらゆる無駄な努力」を避けようとする人間性の一般的特徴、これが「製作者本能」である。製作者本能(あるいは感覚、衝動)という概念は、なによりもまず生物学的次元においてみた人間性の規定なのである。種としての人間の存続を保証するメカニズムが人間のうちに埋めこまれていたからこそ、人間は動物の一員として生きのびてきたというわけである。
また人間は、独居性の肉食動物とちがって、流血を平然と眺めるにはかなりの訓練を要する。しかもその精神的類縁は群居性動物に近い。人間は競争者との直接対立を回避しようとする習性をもっているから「生き残りうるような動物の一員」、つまり本質的に「平和愛好的な」動物である。したがって、人間が道具の発明と改良によって余剰生産物を作り出せるような段階に達するまでの時期、つまり人類史上最も長かった「圧倒的な貧困ゆえの平和という古代的状態」にとどまっていた時期に、製作者本能が人間のもっとも根源的で古代的な「行為規範」になった。群れをつくる動物に特徴的に現れる競争心は、ここでは「製作者本能」を行為規範に仕立てあげるのに役立つのである。
このような平和愛好的原始社会の想定は、ロックやルソー、さらにはマルクスと共通するものがある。だがヴェブレンの特徴は、まず人間をこのように生物学的なレベルで捉えたうえで、さらに文化人類学的な視角から、多面的で多層的な「人間性」の累積的発展を説いた点にあった。
産業技術が発展し、余剰生産物が蓄積されてくると、製作者本能という行為規範に従って生産物を入手するよりも、「略奪」によって余剰生産物を手に入れるほうがずっと効果的になる。余剰生産物の存在によって戦争の遂行それ自体が可能になり、「戦闘能力」、つまり攻撃と防御のために「武勇」を保持することが社会集団の生存にとって不可欠の条件になってくる。人知を超えた力、神がかり的な武勇を保持していることが集団の尊敬の的になり、それはやがて名誉に値する最高の「行為規範」に転成する。従来の「製作者本能」は誰もがもつめだたない存在になり、「行為規範」としては格下げされる。「略奪社会」の幕が切って落とされるが、「武勇の証拠」は「戦利品」(トロフィー)の量によってはかられるから、やがて戦利品としての「財産の高」が、新しい名声の規準になる。戦争は「私有財産をめぐるゲーム」になる。
だが、財産そのものは、「略奪」や「相続」によるものほど「高貴で上品」なものではあるが、そのほかの手段でも入手可能である。たとえば、安く買って高く売るという意味で「準略奪的」な商業取引による莫大な譲渡利潤があった。さらに「勤労への従事」によって財を生産し、それを「私有財産」として所有できるようになると、貧しく卑しい労働大衆まで「所有をめぐるゲーム」に参加しはじめる。彼らには長い歴史をつうじて「製作者本能」が染みついており、隣人よりも少しでも多く私有財産を保持するという意味での「競争心」の世界が自由に解放されると、結果的に、社会で生産される富の量は飛躍的に増加しはじめる。しかも、「競争心」は「妬みを起こさせるような比較」に由来するから、無限の推進力として機能しつづける。「勤労と節倹」のすすめを説いたB・フランクリンやA・スミスの時代の出来事であった。
富の蓄積がさらに進むと、「所有をめぐるゲーム」は新しい段階に突入する。富はたんに所有されているだけでは十分な名誉をもたらさない。他人の目にしっかりと見せつけられねばならなくなる。こうして「顕示的消費」を行うことが、すべての社会構成員の行為規範になる。最高の名誉や名声の規準は、最も高貴で上品な「有閑階級」、つまりまったく労働せずに消費だけするという意味での「顕示的閑暇と顕示的消費」にいそしむ上流階級の生活図式である。
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「名声という点では、有閑階級が社会的秩序構造の頂点に立っている。だからこそ、その生活の作法と価値規準が、社会全体に対する|規範《ノルム》を与えるわけである。たとえ近似の程度に限度があるにせよ、このような規準を遵守することが、それよりも下位のあらゆる階層の人々にとって義務的なものになってくる。現代的な文明社会では、社会階級相互間の区分線は不明瞭で流動的なものになっている。こうして、このようなことが生じるところではどこであれ、上流階級によって課せられた名声の規範がもつ強制的な影響力は、ほとんど妨げられることなく社会秩序の最下層にまで及ぶことになる。その結果、おのおのの階層に属する人々は、彼らよりも一段上の階層で流行している生活図式こそ自己の理想的な|礼儀作法《デイーセンシー》だと認識した上で、生活をこの理想に引き上げるために全精力を傾注する、ということが生じる」(本書第四章「顕示的消費」)。
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新しい産業都市では、大衆はたがいに「見知らぬ隣人」であるから、「顕示的消費」が競争心を発揮する格好の場を提供する。いかに貧しかろうと、人はつねに少しでも上の階層を羨望の目で見続けるから、結果的に上流階級=有閑階級の生活様式が大衆の日常生活のなかへ取りこまれてゆく。新聞や雑誌は広告を売る媒体としての役割を担うようになり、大衆の消費欲望そのものが尽きることなく社会的に作り出されてゆくようになる。それぞれの「顕示的消費」の規準をみたすために、労働大衆は限りなく働きつづけるから、この体制は限りなく発展しつづける。マルサスが心配したような人口の爆発的な増加が起きるはずはないのである。
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「なんとしても面目を保てるような支出を実行しなければならない羽目に陥っている階層の出生率の低さは、同様に、顕示的浪費にもとづいた生活水準をみたすという必要性に起因している。子供の標準的な養育に必要な顕示的消費や結果的な支出の増加はきわめて大きく、強力な抑止力として作用する。おそらくこれが、マルサスが言う思慮深い抑制のうちで、最も効果的なものであろう」(本書第五章「生活様式の金銭的な標準」)。
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このかぎりでは、「競争心」に由来する「顕示的消費」という行為規範が支配する社会は、消費が無限に増加するという経済拡張プロセスをたどりながら、究極的には均衡・均一化の内的傾向をもつことになる。J・S・ミルの言う「定常状態」は経済成長に一定の限度があるというものであったが、ヴェブレンのいう「顕示的浪費」は、人間的定常状態とでも呼びうる世界を作り出す。生産と消費は限りなく拡大しつづけるが、社会的な行為規範=大衆の精神態度は、ひたすら「顕示的浪費」という一点に向けて収斂する。競争心に駆りたてられた個々の「経済人」は永遠に「満足」を得られない、そういう意味できわめてダイナミックな社会ができあがるのである。
しかし、この人間性を「経済人」タイプに均一化する作用がいかに強大であっても、大衆の「顕示的閑暇と消費」が上流階級の生活方式を目標にしている以上、上流階級の「精神態度」は不断に社会全体に広く浸透してゆくであろう。経済的な意味で適応する必要を免れている上流階級の精神態度は、本質的に保守的であり、過去から受け継いできた制度的遺産のすべてを守りつづける。その意味では、豊かになればなるほど、大衆の「精神態度」は上流階級に特有な保守的なそれへと近づいてゆく。古くからある思考習慣、制度、行為規範は、こうして社会的にしっかりと受けつがれ、再生産される。「精神態度」あるいは「人間性」というレベルでみると、経済社会が進化してゆくプロセスは、金銭的に合理的に行動する「経済人」への均一化であると同時に、古くからあるさまざまな思考習慣や行為規範へ向けて「退行」するプロセスでもあり、したがってまた、さまざまな思考習慣を累積的・重層的に組みこんだ複合的な「人間性」を形成していくプロセスなのである。
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『有閑階級の理論』は、当時台頭しつつあった民俗学や文化人類学の研究成果を積極的に取りこみながら書かれた「進化論的経済学」であったから、果たして訳者による「一般理論」の再構成がどの程度正確であるのか、またミル、マルクス、ウェーバーといった「グランド・セオリスト」と比肩しうるような彼独自の分析世界をどこまでくっきりと再構成できたか、疑問を抱く読者は決して少なくなかろう。「経済学者はヴェブレンを社会学者だと言い、社会学者は彼を経済学者と呼んだ」という笑えない話があるくらいで、社会学、文化人類学、社会思想などの立場から読めば、またおのずと違った解釈が可能であるに違いないからである。それぞれ説得的な解釈が多様に可能であるという事実こそ、「古典」の古典たる所以なのであるから。
また読者は、本書をつうじて、二十世紀がいかなる時代であったか、したがってまた現代がいかなる時代であるかを知る多くの手がかりを得るに違いない。たとえば、「女性問題」に関心がある読者にとって、「家畜奴隷」「代行的閑暇」「代行的消費」という概念は、とくに興味深い分析世界を提供するであろう。ヴェブレンの関心は、人類史を進化論的に読み解くことであったから、女性問題のルーツ、性差別のルーツが明瞭に浮かび上がってくるからである。さらに、「環境破壊」について関心がある読者は、「顕示的消費の原理」に注目するであろう。それは、人間にとって消費のもつ意味が何であるか考えるヒントを与えているからである。
だが、「これが経済学?」という疑問を抱く読者も少なくないだろう。おそらくヴェブレンだったらこう答えただろうと思われる、二つの答えがある。第一に、「経済学」は衣装として羽織る「経済理論」だけで成り立つわけではなく、「経済理論という衣装を着せられるマネキン人形」も一緒に含めなければ、とうてい人間行動は説明できません。たんなる分類学や目的論にすぎない経済理論が多すぎます。第二に、経済の世界は究極的には生産と消費の世界ですが、伝統的な経済学は、とくに効率の視点から生産や分配(価格決定)についての詳細な分析を提供してきただけで、消費の具体的な中身はほとんど分析してきませんでした。「効率的な消費」について真剣に考えなければいけない時期にきています。『有閑階級の理論』は、この二つの課題に答えるために書かれたのです。
こうみてくると、ヴェブレンの思想史上の位置もかなりはっきりしてきたように思われる。製作者本能、親としての性向や知的好奇心という本能の自由な発現を制限・規制している有閑階級制度からの解放を重視している点では、明らかに自由主義の陣営のなかにいる。しかし、有閑階級制度の基礎が「私有財産制度」にあることを看破していた点で、明らかに「社会主義」あるいは資本主義批判の陣営に属している。結局彼が提供した社会理論と思想は、目的論的な観点から「制度」=思考習慣の変革を呼びかけるような性質のものではなく、あくまでも現代社会がどのようなものかを観察し、解き明かすためのものであったということである。要するに、価値観の違いを超えた世界から放たれた光なのである(なお、ヴェブレンの思想体系の詳細についていっそうの興味を抱かれた読者は、高哲男『ヴェブレン研究――進化論的経済学の世界』(ミネルヴァ書房、一九九一年)を、ヴェブレンの生涯に関する詳細については、J・ドーフマン著、八木甫訳『ヴェブレンその人と時代』(ホルト・サウンダース・ジャパン、一九八五年)を、ぜひとも参照してください)。
紹介が最後になったが、本書にはすでに三つの邦訳がある。大野信三訳『有閑階級論』大正一三年、陸井三郎訳『有閑階級論』昭和三四年、小原敬士訳『有閑階級の理論』昭和三六年である。それぞれ苦心の邦訳であるが、わが国におけるその後のアメリカ思想史・経済学説史研究やヴェブレン研究の進展状況からみると、ヴェブレンの思想を正しく理解するという点で大きな限界をもつことは明らかであった。哲学、文化人類学、民俗学、社会学、生物学、骨相学などにつうじ、しかも二十四カ国語をマスターしていたという経済学者ヴェブレンの著作であるから、理解することさえ容易ではない。ヴェブレンから大きな影響をうけた現代の経済学者ガルブレイスが、「ヴェブレンを理解するためには、ゆっくり読まなければならない」と言っていることから分かるように、母国語で読む場合でも、原語表現の多彩さと文章表現の厳密さが、読む人を楽しませると同時に、ひどく頭を悩ませるほどなのである。したがって今回は、「できるだけ正確に」日本語に移し替えることに主眼を置くことになった。
だが、「正確さ」がまた難しいところで、同じ単語をつねに同じ言葉で置き換えるわけにはいかない。英語は、日本語に比べてはるかに多義的な原語である。たとえば employment の場合、雇用、職業、就業などの意味があるが、ヴェブレンはしばしば「人間の活力を何かに充用すること」の意味で用いているから、むしろ「充用」と訳したほうがいいことがある。もちろん、employment, occupation, office, work との違いなどは誰でも悩むところであるが、とくに「上品さ、礼儀正しさ、礼儀作法、適宜性、世間体、体面」などの意味をそれぞれもちながら、なお少しづつニュアンスが異なる一連の単語として、decency, propriety, proprieties, decorum があった。それ以上に苦慮したのは、invidious comparison と the instinct of workmanship であった。前者は「妬みを起こさせるような比較」、「差別的な比較」、さらに場合によっては「競争心にもとづく比較」と訳したが、「もの(とくに穀物)を作る人の精神態度」を表している後者は、「労働者がもっている本能」とか「製作者精神という本能」という意味ではあるが、結局簡潔さを重視して「製作者本能」とした。
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訳者が辞書を読む努力不足のために、そうしてまた思いがけない不注意のために、まだまだ多くの不適切な個所が残されていることを危惧しているが、指示代名詞や関係代名詞を多用した、厳密であっても複雑で長い文章を、分かりやすい日本文にするために区切って訳したり、挿入的な表現に手直ししたところがかなりあることも、翻訳を手がかりに直接ヴェブレンを楽しんでみようとする読者にお断りしておかなければならない。学説史家として日常的に厳密な文献考証を心掛けてきた訳者の癖でもあるが、読みにくさなど考慮せずにひたすら正確さを追求しようとする文体や表現を、できるだけ読みやすく、分かりやすい文章にするため粘り強く助言しつづけてくださった編集者熊沢敏之氏に、厚くお礼申し上げたい。邦訳の文章が、日本語としてなんとか読めるものに近づいているとしたら、それはすべて熊沢氏の助言の賜物である。もちろん、なお残されているであろう不備は、すべて訳者の責であることは付け加えるまでもないことであり、読者からのご指摘を待ちながら、改めていくことにしたい。そして最後に、読みにくい手書き原稿をワープロ入力してくれた妻真紀子にも、記して感謝の意を表しておきたい。
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ソースティン・ヴェブレン(Thorstein B. Veblen)
一八五七年−一九二九年。ノルウェー系アメリカ人経済学者。シカゴ大学やスタンフォード大学などで教鞭をとるかたわら、本書や『営利企業の理論』を執筆。制度の生成・発展を深化論的見地から分析したが、同時代人の理解を得るところとならず不遇な晩年を送った。その思想は現代文明への鋭い批判を内包しており、後にガルブレイスらによって再評価された。
高哲男(たか・てつお)
一九四七年生まれ。九州大学大学院博士課程修了。九州大学経済学部教授。専攻は経済学史。主な編著書に『ヴェブレン研究』『自由と秩序の経済思想史』など。
本作品は一九九八年三月、ちくま学芸文庫の一冊として刊行された。