最果ての銀河船団 下
ヴァーナー・ヴィンジ
中原尚哉訳
創元SF文庫
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A DEEPNESS IN THE SKY
by
Vernor Vinge
Copyright 1999 in U.S.A.
by Vernor Vinge
This book is published in Japan
by TOKYO SOGENSHA Co., Ltd.
arrangement with Tom Doherty Associates, Inc., New York
through Tuttle-Mori Agency Inc., Tokyo
日本版翻訳権所有
東京創元社
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最果ての銀河船団 下
ヴァーナー・ヴィンジ
戦争を繰り返しつつ近代化への道を歩む蜘蛛族の世界に一人の天才科学者が現れ、彼らは今まさに原子の火をも手に入れようとしていた。一方、軌道上の主人公たちは、エマージェントの凶悪な指導者のもとで奴隷状態におかれながら、長い雌伏の時を過ごしていた。そして刻々と蜘蛛族世界への侵攻の時がせまるなか、ついにチェンホーの反撃が始まる。宇宙の深淵で3000年を生きてきた伝説の男が立ちあがったのだ! ハードSFとスペースオペラの醍醐味をあわせもつ傑作巨編。
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登場人物
●チェンホー船団
エズル・ヴィン………………………船団管理主任
ファム・トリンリ……………………戦闘プログラマー
キウィ・リン・リゾレット…………副船団長の娘
アリ・リン……………………………キウィの父親、造園技術者
トリクシア・ボンソル………………言語学者
ベニー・ウェン………………………酒場の主
ゴンレ・フォン………………………補給課職員。ベニーの仲間
●エマージェント船団
トマス・ナウ…………………………領督
リッツァー・ブルーゲル……………副領督
アン・レナルト………………………人的資源局長
ジョー・シン…………………………パイロット管理主任
リタ・リヤオ…………………………プログラマー管理主任
カル・オモ……………………………領兵長
トルード・シリパン、ビル・フオン
…………医療技術者
ジンミン・ブロート…………………翻訳者
●蜘蛛族
シャケナー・アンダーヒル…………天才科学者
ビクトリー・スミス将軍……………情報局長官。シャケナーの配偶者
ハランクナー・アナービー軍曹……技術者
ビクトリー・ジュニア(ビキ)……シャケナーとビクトリーの子、のちにビクトリー・ライトヒル少尉
ジェイバー卜・ランダーズ…………シャケナーの優秀な生徒
ベルガ・アンダータウン……………国内情報局長
ラヒナー・トラクト…………………国外情報局長
クレド・ダグウェイ…………………防空局長
オブレト・ネザリング………………天文台長
エルノ・コールドヘブン……………トラクトの後任の国外情報局長
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最果ての銀河船団 下
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第二部(承前)
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28
王立博物館はシティセンターというバス停のところにあり、ビキとほかのきょうだいたちは、そのあがり口の階段のまんまえに降ろされた。
ビキとゴクナはしばらく言葉を失って、頭上で弧を描く石のアーチを見あげた。ラジオの番組でこの博物館をとりあげたことはあっても、実際に訪れるのは初めてなのだ。王立博物館は三階建てにすぎず、現代のビルにくらべるととても小さい。しかしどんな摩天楼《まてんろう》にもない風格をもっていた。この博物館は、要塞のたぐいをのぞけばプリンストン市で最古の地上建築物なのだ。太陽の五回の周期にわたって国王のもっとも重要な博物館だった。改修や拡張工事はおこなわれてきたが、ロングアームズ王の理想を体現する場所という伝統は変わらなかった。建物の外側はなめらかな曲線を描き、ちょうど飛行機の翼断面をひっくり返した形状になっている。風の抜けるこのアーチ構造は、科学の時代より二世代前の建築家がつくったものだ。ランズコマンド市の古い建物はこれとはまったく似ていない。あそこは深い谷の壁に守られているからだ。
ビキは、太陽が甦《よみがえ》った直後のようすを想像してみた。音速に近い強風と、紫外線から遠赤外線までありとあらゆる色をふくむ灼熱《しゃくねつ》の日差しのもとで、この建物は小さくうずくまっているはずだ。では、ロングアームズ王はなぜこの建物を地表につくったのだろうか。それはもちろん、暗期と灼熱の太陽に耐えるためだ。狭く深い隠れ場所から出て、世界を支配するためだ。
「おい、二人とも! まさか眠くなったのか?」
ジャーリブの声が飛んできた。ブレントといっしょに入り口から見おろしている。ビキとゴクナは、今度ばかりは気のきいた返事もできず、あわてて階段をのぼっていった。
ジャーリブは、ぼうっとした厄介者どもめとぶつぶついいながら先へ歩いていった。ブレントはいちばんうしろになって、しかし遅れずについていった。
薄暗い入場通路にはいると、市街のざわめきが遠ざかった。ゲートの両側の柱のくぼみには、儀礼的な服装をした二人の近衛兵が黙ってすわっている。そして正面にいるのが本当の番人――切符係だ。
そのボックスのむこうにある古びた壁に、現在の展示内容が掲げられている。ジャーリブはもうぶつぶついってはいない。画家の想像≠ノよって十二色で描かれたケルムの歪曲《わいきよく》生物のポスターをみつけて、そわそわしている。ビキはなぜこんなばかげた内容が王立博物館で展示されるのか、ようやく納得した。歪曲生物だけではなかったのだ。今シーズンの博物館のテーマはさまざまな疑似科学≠ナ、ポスターには冬眠穴妖術、身体自然発火、映像呪術にならんで――ジャジャーン!――ケルムの歪曲生物が紹介されていた。しかしジャーリブは、自分の趣味がどんなテーマと組みあわされているかなどすこしも気にしていないようだ。博物館の展示としてとりあげられたというだけで充分らしかった。
現在のテーマの展示物は新館にあった。こちらは天井が高く、鏡をしこまれたパイプからは日光が円錐形に大理石の床に降りそそいでいる。入館者は彼ら以外にみあたらない。音の響きが奇妙だった。反響するのではなく、大きく聞こえるのだ。黙っていても、自分たちの足音だけでうるさいくらいだ。お静かに≠ニいう看板を立てるよりよほど効果がある。
ビキは途方もないインチキ科学の数々に圧倒された。パパはこういうものを、おもしろいといっていた。宗教みたいなものだけど、危険はない≠ニ。ジャーリブは残念ながら、自分の好きなインチキ科学にしか興味がないようだった。それをいうなら、ゴクナは身体自然発火の展示に興味津々で、自分が発火しそうなようすだ。ビキは映像呪術のホールにある受像管を見たくてたまらなかった。ジャーリブは歪曲生物の展示へまっすぐむかいながらも、妹たちがついてきていることをブレントといっしょに確認した。
じつをいうと、ビキも歪曲生物にはずっと興味をもっていた。しかしジャーリブはそれよりずっとまえから熱をあげているのだ。そして今日はついにその本物を見られる。
ホールへの入り口通路には、ダイヤモンド有孔虫《ゆうこうちゅう》か天井から床まで展示されていた。こんな完璧な標本をみつけるには、いったい何トンの燃料泥を濾《こ》さなければならなかったのだろう。科学的にもっとも信頼できる仮説にしたがって分類され、ていねいにラベルを付けられた小さな結晶の骨格が、拡大鏡のむこうのトレイに美術品のようにならべられている。それらの有孔虫は、パイプによって導かれた日光を浴びて、まるで宝石をちりばめられた冠《かんむり》やブレスレットや背中掛けのようだった。ジャーリブのコレクションがたいしたことないように見えるほどだ。中央のテーブルには顕微鏡がならび、興味のある入館者はもっと詳しく観察できるようになっている。ビキはのぞいてみた。まえにもこんなふうに観察したことはあるのだが、ここにある有孔虫は傷ひとつないし、種類の豊富さときたら目がまわるほどだ。ほとんどは六方晶系《ろっぽうしょうけい》だが、小さな鉤《かぎ》や棒もたくさんはえている。生きものだった頃はこれらを使って、微小環境のなかを動きまわっていたのだろう。
こんなダイヤモンドの骨格をもつ生物は、もう世界には一匹も生き残っていない。五千万年前に姿を消したのだ。しかし堆積岩《たいせきがん》のなかには、ところによってダイヤモンド有孔虫の層が厚さ数百フィートも残っている。東部では石炭より安価な燃料として使われているのだ。この虫は最大のものでも蚤《のみ》くらいだが、かつては世界でもっともありふれた動物だった。それが五千万年前に跡形《あとかた》もなく消え、その骨格だけが残されたというわけだ。ハランクナーおじさんは、もしその謎が解けるとしたら、パパの想像力がなみはずれて好調のときだろうといった。
「早く来いよ」
ジャーリブは自分の収集した有孔虫を何時間も眺めることがよくあるくせに、今日はこの輝く国王所蔵品に、三十秒もかけなかった。奥のドアに、ケルムの歪曲生物≠ニいう案内が出ているのだ。四人はささやき声さえかわさずに、忍び足で暗いその入り口に近づいていった。ドアのむこうのホールでは中央に集められたテーブルに、天井のパイプによって導かれた日光が円錐形に降りそそいでいる。壁は影のなかに沈み、紫外色のランプがところどころに灯《とも》っているだけだ。
四人はそっとホールにはいった。ゴクナが小さく驚きの声をあげた。暗闇のなかにだれかの影が……。しかも平均的な大人より背が高い。三本のひょろ長い脚だけで不安定に立ち、前脚や腕は到着する反逆者≠フ像のように上にかかげている。チュンドラ・ケルムが描写していた歪曲生物の姿そのままだ。暗いので、近づかないと細部はわからない。
ビキは彫像の下にあるぼんやり照らされた説明文を読み、笑みを浮かべた。「すごいわね」ゴクナにむかっていった。
「ええ――こんな姿だとは想像も――」ゴクナも説明文を読んだ。「なんだ。これもインチキなのね」
「インチキじゃない」ジャーリブがいった。「学術的な再現だ」
しかしその声には失望の響きがあった。きょうだいは暗いホールをゆっくりと歩きながら、ぼんやりと照らされた説明文を見ていった。はじめはどの彫像も、理解しがたい魅力的で神秘的なものに思えた。ケルムが描写した五十の種別がすべてそろっていた。しかしこれらは、どこかの仮面製造業者がつくったらしい粗雑な模型だった。ジャーリブは像から像へと歩き、その下の説明文を読むうちに、だんだんがっかりしてきたようだ。説明文もひどく誇大妄想的だった――「われわれよりまえの時代に栄えた古代種族……太古のアラクナ族が恐れた生きもの……どこかの深く暗い冬眠穴にいまもその卵が眠っていて、いつか世界の覇権をとりもどしに甦ってくるかもしれない……」
この説明文は、ちょうど観察者の頭をとって食おうとしている怪物|蜘蛛《ぐも》のような姿の彫像につけられていた。ばかばかしい。ビキの小さな弟や妹でもそんなのは嘘っぱちだとわかるだろう。その失われた発掘現場≠ヘダイヤモンド有孔虫の層より下だと、チュンドラ・ケルムは認めていた。つまり、もし本当に歪曲生物がいたとしても、すくなくとも五千万年前原始アラクナ族が生まれるより何百万年もまえに、絶滅しているのだ。
「きっとふざけた展示なのよ、ジャーリブ」
ビキの声は、からかう口調ではなかった。家族がほかのだれかにからかわれるのは、たとえ相手にそんな意図がなくても、いやなのだ。
ジャーリブは同意するように肩をすくめた。「ああ、そうだな。先へ進むほどおかしくなっていく。あはは」
最後の展示のまえで足を止めた。
「ほら、やっぱりそうだ。最後の説明文にこう書いてある。ここまで来たら、もうおわかりでしょう。チュンドラ・ケルムの主張がいかにばかげているか。しかし、歪曲生物とはいったいなんでしょう。わざと発掘現場をごまかしたインチキか、それとも変成岩のきわめてまれな性質なのか。それを決めるのはあなたです……=v
ジャーリブの声は最後のほうで小さくなって消えた。その視線が、はじめは衝立《ついたて》によって隠されていた部屋の中央の展示物に移った。明るく照らされたいくつかの岩だ。
ジャーリブは飛びつくようにそこに近づいた。昂奮でほとんど震えながら岩をのぞいている。岩はそれぞれ離して展示され、すべての色をふくむ日光のおかげではっきりと見えている。見ためは、ただの磨かれていない大理石だ。ジャーリブはため息をついたが、それは畏敬《いけい》の念をこめたため息だった。
「これは本物の歪曲岩だ。チュンドラ・ケルム以外の者が発見した最良のサンプルだ」
もし磨けば、これらの岩はそれなりにきれいだろう。大理石よりはもっと炭素の色に近い渦巻き模様がある。想像力をたくましくすれば、これらはもともと規則的なかたちだったのが、引き延ばされたりねじれたりしたようにも思える。しかし生きもののようには見えなかった。
集まった岩の反対側に、十分の一インチずつに薄くスライスして展示されているものがあった。日光が通過するほど薄いそれらが百枚ほど、鉄のフレームのなかでそれぞれわずかなすきまをあけて陳列されている。近づいて顔を上下に動かしながら見ると、岩のなかで模様がどんなふうに広がっているか、立体的にわかるしくみだ。粉末状のダイヤモンドが輝く渦巻きをつくっている。有孔虫によく似ているが、つぶれてぼやけていた。そしてダイヤモンドのまわりには黒いひび割れが網の目のようにはしっている。
美しかった。ジャーリブはそこに釘づけになっていた。鉄のフレームに顔を押しつけ、何度も上下に動かして、すべての薄片《はくへん》に光をあてて見ようとしていた。
「これはかつて生きていたんだ。わかる、わかるぞ」ジャーリブはいった。「有孔虫より百万倍も大きいけど、原理はおなじだ。消えてしまうまえに、これがいったいなんだったのか解明できるといいんだけど」
ケルムの考えにとりつかれた者がいう台詞《せりふ》だ――しかし、これは本物なのだ。ゴクナまで夢中になって見ている。ビキが近くから見られるまでしばらく時間がかかりそうだった。
ビキはホール中央にある岩の展示のまわりをゆっくりと歩き、顕微鏡をのぞいたり、残りの説明文を読んだりした。ふざけた説明文や、インチキの彫像をべつにすれば、これは歪曲生物についての最良の資料だろう。そしてある意味で、ジャーリブを失望させるものでもある。百歩譲《ゆず》ってこれらが生きものだったとしても、知性の痕跡《こんせき》はまったくない。もし歪曲生物がジャーリブの考えるような生きものだったとしたら、彼らはもっとめだつものを地上につくったはずだ。しかし彼らの機械や都市がどこに残っているというのか。
やれやれ。ビキは黙ってゴクナとジャーリブから離れた。二人の背中側の平坦《へいたん》視野にははいっているはずだが、どちらも透《す》きとおった歪曲生物に夢中で、気づいていないようだ。隣のホールの映像呪術をのぞいてみようか。
そのとき、ふいにブレントに気づいた。彼は展示に夢中になってはいない。部屋の隅の暗いところ――それもビキがむかっている出入り口のすぐわきで、テーブルのむこうに隠れるようにしゃがんでいる。目の表面にランプの光が反射していなかったら、そこにいることさえわからなかっただろう。そこからなら、ブレントは両方の出入り口を見張って、さらに中央のテーブルのようすも見ていられる。
ビキは兄に笑顔の意味で手をふって、出入り口にむかった。ブレントはじっとしていて、止めようとはしなかった。なにかを待ち伏せしている気分なのか、それとも組み立ておもちゃのことを夢想しているのか。ビキが目のとどく範囲にいればうるさくいわないはずだ。高いアーチ状になった出入り口をくぐって、映像呪術のホールにはいった。
展示の最初は、何世代もまえの絵画《かいが》やモザイク画からだった。映像呪術の考え方はとても古く、敵の姿を完璧に描ければ相手を支配できるという迷信からはじまっている。そこから多くの美術が生まれ、新しい染料や混合法が編み出されていった。しかしいまも、最良の絵画でも蜘蛛族の目に見えるもののごく一部しか表現できていない。現代の映像呪術では、科学の力を使ってより完璧に近い映像ができるから、古代の夢を実現できるだろうといわれている。パパは、映像呪術という考え方そのものが笑止千万《しょうしせんばん》だといっていた。
ビキは、ぼんやり光る受像管が積みあげられた高いラックのあいだを歩いていった。静止した風景がいくつも映し出されているが、どれも粗《あら》くぼやけている……。しかし最新の受像管には、広波長域ランプや日光のもとでしか見られないような色が再現されていた。受像管は年を追って進化している。もうすぐ絵の出るラジオができるという噂もある。ビキはその実現を楽しみにしていた――まあ、精神をあやつられる危険はたしかにあるけれど。
ホールの反対側のどこかから声がした。まるでラプサとリトル・ハランクがはしゃいでぺちゃくちゃしゃべっているような声だ。ビキははっとして凍りついた。しばらくして……二人の赤ん坊が反対側の出入り口から走ってきた。ビキはジャーリブが、もしかしたらラプサとハランクがあらわれるんじゃないかと、皮肉っぽく予測していたことを思い出し、まさかそのとおりになったのかとつかのま思った。しかしそうではなかった。知らない二人の大人がそのうしろからついてきたし、子どもたちもラプサとハランクより幼かった。
ビキは昂奮して、なにかかん高い声をたてて、その子どもたちのほうへ走っていった。大人たちは――両親だろうか――はっとしたあと、子どもたちを抱きあげてきびすを返した。
「待って、待って、お願い! 話をしたいだけなのよ!」
ビキはあえてゆっくりした足どりになって、手をあげて友好的な微笑みをしめした。うしろでは歪曲生物の展示をあとにしてきたゴクナとジャーリブが、あっけにとられた表情でこちらを見ている。
両親は足を止め、ゆっくりともどってきた。ゴクナとビキはあきらかに時期はずれだ。なによりそのことに、この見知らぬ二人は意を強くしたようだった。
彼らはそこで、しばらく礼儀正しく話をした。トレンチェット・スアビズメは、新世界建設プロジェクトの企画設計技術者で、夫のアレンドンは測量技師とのことだった。
「今日は博物館を見学するのにちょうどいい日だと思ったのよ」トレンチェットはいった。「休みをとった労働者はみんな山へ雪遊びに行っているから。あなたがたもおなじように考えたの?」
「ええ、そうよ」ゴクナが答えた。たしかにゴクナとジャーリブはそういうつもりだったのだろう。「でも、お二人と、その……お子さんたちに会えてとてもよかったわ。名前はなんていうの?」
見知らぬ相手なのに、不思議なことに家族のように親しく感じられた。トレンチェットとアレンドンもおなじ気持ちらしい。子どもたちは両親の腕のなかで声をたてて身をもがき、アレンドンの背中におさまるのを拒否している。とうとう両親は二人を床に降ろした。赤ん坊二人はそれぞれ大きく二歩|跳《は》ねて、ゴクナとビキの腕のなかにおさまった。赤ん坊は忙しく動きまわり、わけのわからない声をたて、近視の幼眼《ようがん》をおもしろそうにあちこちにむけた。
ビキの上に這いあがってきた子――アレケレという名前だった――は、まだ二歳にもならないだろう。ラプサとリトル・ハランクがこのくらいの齢《とし》だった頃はこんなにかわいかっただろうか。もちろん妹と弟が二歳だった頃は、ビキ自身もまだ七歳で、親の愛情を自分がまだ欲しがっていたのだが。この子たちは、これまでに会った不機嫌な時期はずれの子どもたちとはまったくちがっていた。
いちばん困惑させられたのは、ビキとそのきょうだいが何者かを知ったときの大人たちの反応だった。トレンチェット・スアビズメは驚きのあまり、しばし言葉を失った。
「そ……それくらい気がつくべきだったわね。だって、ほかに考えられないもの……。わたしは十代の頃、ずっとあなたがたのラジオ番組を聴いていたわ。とても幼い声に思えた。時期はずれの子は初めてだったのよ。あの番組はとてもおもしろかった」
「そうだね」アレンドンがいった。アレケレがビキの上着の横のポケットにもぐりこむのを見ると、にっこりした。「きみたちのことを知ったおかげで、ぼくとトレンチェットは、自分たちも時期はずれの子をつくる決心がついたんだ。たいへんだったよ。最初は子袋《こぶくろ》がうまくできなかった。でも子どもたちに目ができると、やっぱりかわいいと思えるようになったよ」
アレケレはうれしそうにはしゃいだ声をたて、ビキの上着のなかでもぞもぞ動きまわっている。そして頭をのぞかせると、食手《しょくしゅ》をふった。ビキは手をのばして、その小さな手をくすぐってやった。こうしてパパのメッセージを受けとめてくれていた聴取者がいたと思うと、誇らしかった。でも――
「まだ群集を避けなくてはいけないというのは残念だわ。おなじような親や子どもたちがもっと増えるといいんだけど」
驚いたことに、トレンチェットはくすりと笑った。「時代は変わりつつあるわ。暗期を目覚めてすごすごとを楽しみにする者はしだいに増えている。そうしたら世の中のルールも変わるべきだということが、だんだん理解されてきたのよ。建設を完成させるには、成長した子どもたちにも手伝ってもらわなくてはいけないしね。新世界では知りあいの二組のカップルが、おなじように時期はずれの子どもをつくろうと考えているわ」夫の肩を軽く叩いた。「もうすぐ、わたしたちだけではなくなるのよ」
ビキのなかで希望が大きくふくらんだ。アレケレともう一人の子――バーボップという名前か――は、ラプサとリトル・ハランクとおなじくらい、いい子だけれど、やはりちがったところももっている。これからはたくさんのほかの子どもたちと知りあいになれるのだ。まるで窓がひらいて、さまざまな色をふくむ太陽の光が差しこんでくるように思えた。
彼らは映像呪術のホールをゆっくり歩きはじめた。ゴクナとトレンチェットはさまざまな可能性について熱心に話している。ゴクナは、時期はずれの子をもつ家族の集会場としてヒルハウスを使えばいいと力説している。しかしビキは、それはパパや将軍がべつの理由から認めないだろうと思った。とはいえ……なんらかのかたちでそういったことは実現できるだろうし、パパの戦略にもかなっているはずだ。
ビキは彼らについていきながらも、あまり話に耳を傾けてはいなかった。アレケレとじゃれるほうがずっとおもしろいのだ。雪を見にいくより、子どもと遊ぶほうがよっぽど楽しい。
そのとき、話し声のむこうから、大理石の上を歩いてくるたくさんの足音が聞こえた。四人か、五人か。さきほどビキが通ってきたのとおなじ出入り口のほうからだ。だれかわからないけれども、きっと驚くだろう。なにしろ、赤ん坊から大人に近い年齢まで、時期はずれの子が六人もそろっているのだから。
姿をあらわしたうちの四人は、現世代の大人で、ヒルハウスの警備員のように大柄な体格だ。たくさんの子どもたちがいるのを見ても驚いたようすはなく、立ち止まりさえしなかった。服も、ヒルハウスでよく見るような地味なビジネスジャケットだ。リーダーはきつい印象の前世代生まれの女性で、上級下士官らしい。ビキは、本当なら安心していいはずだった。ブレントが見た、あとを尾《つ》けてくる車というのは彼らだったようだ。しかし見覚えがないのだが――
リーダーは全員を視野におさめて、トレンチェット・スアビズメに親しげに身ぶりをした。
「ここからはわれわれが引き継ぐわ。スミス将軍が子どもたちを安全な敷地内にいれるよう求めておられるので」
「な……なんのこと、いったい?」トレンチェットは困惑して両手をあげた。
五人は一定の足どりで近づいてくる。リーダーは微笑みを浮かべてうなずいたが、わけのわからない説明をした。
「これだけの子どもたちを二人で警備するのは手薄だからよ。そちらが出発したあとに、ちょっとした問題が起きたらしいと連絡がはいったの」
警備員らしい二人が子どもたちとスアビズメ夫妻のあいだに、すっと割りこんだ。ビキは、穏やかでない手つきでジャーリブとゴクナのほうに押されるのを感じた。ママの警備員たちなら、こんなことはしない。
「悪いけど、緊急事態なので――」
リーダーがいいかけたそのとき、混乱して筋のとおらないいくつかのことが同時に起きた。トレンチェットとアレンドンが驚き、怒りの叫び声をあげはじめた。すると二人の男が彼らを子どもたちから遠ざけるように押し、一人は鞄《かばん》のなかに手を突っこんだ。
「おい、一人たりないそ!」だれかが叫んだ。ブレントのことだろう。
とても高いところでなにかが動くのが見えた。映像呪術の展示には、受像管を積みあげた高いラックが使われている。すぐ近くのそれが、火花のシャワーと金属のひしゃげる音を放ちながら、ゆっくりと倒れてきたのだ。すっかり傾いてしまう直前に、そのてっぺんからブレントがさっと跳び退《の》くようすが見えた。
展示用ラックが床に激突すると、ありとあらゆるところで受像管が破裂し、高圧電流がうなり、はじけた。ラックが倒れたのはビキとスアビズメ夫妻のあいだでちょうど二人の男たちの上だった。大理石の床に飛び散った血がちらりと見えた。動かない二本の歳蔀がラックの下からのぞき、そのすこし先に銃身の短いショットガンがころがっていた。
ようやく時間が正常に流れるようになった。ビキは腹のあたりを乱暴につかみあげられ、破壊の跡から遠ざけられていった。誘拐者の反対側からはゴクナとジャーリブの叫び声が聞こえる。しかしバキンという鈍《にぶ》い音がして、ゴクナは悲鳴をあげ、ジャーリブの声はやんだ。
「隊長、あの二人は――」
「ほっといていい! 六人ぜんぶ捕まえたんだから、さあ、急いで!」
ホールから連れ出されながら、ビキは一度だけちらりとうしろを見た。男たちは死んだ二人の仲間を置き去りにしようとしている――そしてスアビズメ夫妻がいるはずの倒れたラックのむこうは、見えなかった。
29
ハランクナー・アナービーはその午後のことを生涯忘れないだろう。ビクトリー・スミスを長年見てきたが、自制心を失う一歩手前の彼女など、初めてだったからだ。
昼をすこしまわった頃に、マイクロ波通信回線にあわてた調子の電話が飛びこんできた。シャケナー・アンダーヒルが誘拐≠ニいう言葉で、あらゆる軍事的優先順位を突破し、かけてきたのだ。スミス将軍はいささか乱暴な口調で電話を切り、参謀たちに緊急招集をかけた。ハランクナー・アナービーはプロジェクト主査という立場から、いきなり……軍曹にもどされた。
ハランクナーは三発プロペラ機を手配して将軍を乗せた。そしてほかの下級参謀とともに周辺の安全性を確認した。将軍を危険な場所に行かせるわけにはいかない。このような緊急事態は敵の思うつぼだ。当事者たちが緊急事態のことしか考えられなくなったときに、敵は真の目標に攻撃してくるのだ。
ランズコマンド市からプリンストン市まで、三発機で要するのは二時間。しかしこの航空機は空飛ぶ司令室ではない。現在の予算でそこまでの装備はできないのだ。つまり将軍は二時間にわたって低速の無線回線しか使えなかった。ランズコマンド市の司令管制センターや、プリンストン市のそれに相当する施設からも遠ざかった二時間。断片的な報告だけを聞きながら、なんとかそれに対応する二時間。悲嘆と怒りと不安にさいなまれつづける二時間……。着陸したときには午後もなかばをすぎ、ヒルハウスにたどり着くまでさらに三十分を要した。
車がまだ止まりきらないうちに、シャケナー・アンダーヒルがドアをあけ、二人を車外へ引っぱり出した。彼はアナービーの腕をつかみ、そのむこうの将軍のほうにいった。
「ハランクナーを連れてきてくれてありがとう。二人とも必要だったんだ」
そして玄関ホールを通り、地下にある自室へ二人を連れていった。
アナービーはこれまであやうい情況に直面したときのシャケナーをいろいろと見てきた。ティーファーとの戦争のさなかにランズコマンド市の軍中枢部と話をしようとしたとき。最暗期の真空の屋外を探検したとき。伝統主義者と討論したとき……。シャケナーはつねに勝利してきたわけではないが、いつも驚きと想像力にあふれていた。本人にとってすべては壮大な実験であり、胸躍る冒険だった。たとえ失敗しても、そこからあらたな興味深い実験を考え出した。
しかし今日は……。今日のシャケナーは絶望に直面していた。スミスにのばした腕や頭には、震えがいつも以上にめだっていた。
「あの子たちをみつける方法があるはずだ。なにかあるはずだ。コンピュータもある。ランズコマンド市とのマイクロ波通信もあるんだから」これまではそういった機器がとても役に立ってきたのだ。「無事に連れもどせるはずだ。かならず」
スミスはしばらくじっとしていた。そしてゆっくりとシャケナーに近づくと、夫の両肩に腕をまわし、背中の育児|毛《もう》をなでた。その声は穏やかだが芯《しん》が強く、まるで打ちひしがれた戦友を慰《なぐさ》める兵士のようだった。
「いいえ、あなたはやれるだけのことをやったわ」
外は午後から薄暮《はくぼ》の時間へ移ろうとしていた。半びらきの窓から吹きこんでくる風の音と、石英ガラスの窓のむこうで揺れる羊歯《しだ》の葉の音がした。雲と木立のせいで、室内にはいってくるのは緑色の薄暗い光だけだった。
将軍はシャケナーと顔を近づけたまま、しばらくじっと見つめあっていた。アナービーは、二人が共有している恐怖とつらい気持ちをありありと感じた。ふいに、シャケナーがスミスにしがみつくようにしてもたれかかった。風の音だけが響いていた室内に、シャケナーの小さくすすり泣く声がくわわった。しばらくしてスミスが片手をうしろにあげ、ハランクナーに席をはずすように合図した。
アナービーはうなずいた。毛脚《けあし》の長い絨毯《じゅうたん》には、シャケナーと子どもたちの両方のおもちゃが散らばっていたが、それらを蹴飛ばさないように注意して静かに歩き、部屋を出た。
薄暮はたちまち闇にとってかわられた。それは日が暮れたからであるのと同時に、雨雲が近づいているからでもあった。
しかしアナービーには天気の変化などほとんどわからなかった。この建物にある司令室には、突き出した小さな窓しかないからだ。スミスはこの部屋に、アナービーから三十分ほど遅れて姿をあらわした。部下たちの挨拶《あいさつ》にうなずいてこたえ、アナービーの隣の席にすわった。アナービーがもの問いたげに手をふると、彼女は肩をすくめた。
「シャケナーはだいじょうぶよ、軍曹。学生たちといっしょに、自分にできることをやっているわ。それで、どういう情況になっているの?」
アナービーは調査報告書の山をスミスのほうに押しやった。「ダウニング大尉と警備隊は屋敷内に残してあります。直接面接なさりたければ、どうぞ。しかしわたしたちは全員――」ランズコマンド市から参謀全員がこちらへ来ていた。「――彼らは潔白だと考えています。子どもたちのほうが利口だったのです」
子どもたちはきちんとした警備体制の裏をかいたのだ。もちろん彼らはその体制のなかで長年暮らしていた。警備員の動きの癖も知っていたし、警備員たちとも知りあいだった。それに外部の脅威などは、いままではたんなる仮説か、たまに流れる噂でしかなかったのだ。そんな有利な条件のなかで、ちょっとした無断外出を計画した……。そもそも警備隊はビクトリー・スミス将軍が自分で選んだメンバーなのだ。全員が頭がよく、忠実だった。シャケナー・アンダーヒルと同様、彼らもショックで力を落としていた。
スミスは報告書の山を押し返した。「いいわ。ダラムと警備隊を通常勤務にもどして。暇にさせておくのはかえってよくないわ。捜索のほうになにか進展は?」
ほかの参謀たちを招きよせ、指揮をとりはじめた。
ヒルハウスの司令室には、精密な地図と本格的な作戦テーブルがそろえられている。マイクロ波通信という点では、ランズコマンド市の司令センターの倍の容量がある。ただしプリンストン市の外からはいってくる通信については、とくにすぐれてはいなかった。その問題が解決されるにはまだ数時間かかるだろう。
司令室には連絡係がひっきりなしに出入りしていた。そのほとんどはランズコマンド市から来たばかりで、今日の混乱をじかには経験していない。そういう新鮮な顔ぶれが出入りすることは、ともすると疲労と絶望に支配されそうな何人かの表情をやわらげる役に立った。手がかりがあり、進展があった……心強い内容も、不吉な内容も。
一時間ほどして、対キンドレッド国作戦を担当する国外情報局長のラヒナー・トラクトがやってきた。着任したてのトラクトは、ティーフシュタット国からの若い移民だった。その職にある者が若いということも、ティーファー出身であるということも異例だ。明敏《めいびん》さは折り紙つきだが、軍人というより学者肌だった。むしろそのほうがいいのかもしれない。キンドレッド国を本当に理解できる者が必要なのだから。
伝統的な価値観がどうしてこんな破綻《はたん》をきたしてしまったのか。大戦争時代、キンドレッド国はティーファー帝国のなかで分離的傾向をもつ弱小な一地域であり、アコード国に対して秘密|裏《り》に協力していた。しかしビクトリー・スミスは、彼らが次の大きな脅威になると予想していた――まあ、伝統主義者もそういう疑念を強くもっていたのだが。
トラクトはコート掛けに雨具をひっかけ、もってきた鞄《かばん》から書類を出して上司のまえに出した。
「キンドレッド国がついに本格的に動きだしたようですね、将軍」
「意外ではないわね」スミスは答えた。
将軍は疲れているはずだと、アナービーは思った。しかし見ためは元気で、いつものビクトリー・スミスだ。見ためは……。いつもの参謀会議のとおり、上品で落ち着いている。質問もいつもどおり的確だ。しかしアナービーには、ちがいがわかった。かすかにぼんやりしているのだ。不安を感じているのではなく、心の一部がどこかべつのところにあって、考えごとをしているようなのだ。
「でも、今日の出来事についてキンドレッド国がかかわっている可能性は低いとみられていたはずよ。そういう確信をもつにいたった理由はなんなの、トラクト?」
「二件の事情聴取と、二件の検死報告がその理由です。現場で死んでいた二人は、身体的にかなり訓練されています。しかしたんなるスポーツマンには見えない。甲殻《こうかく》にはいくつも古傷があり、銃弾による穴を補修した跡《あと》も見られました」
スミスは肩をすくめた。「プロの仕事であるのは最初から明白よ。国内にも極右勢力などの危険はある。彼らが有能な誘拐者を雇《やと》ったのかもしれないわ」
「かもしれませんが、これはまちがいなくキンドレッド国のしわざです。国内の右派ではない」
「たしかな証拠でも?」アナービーは訊いた。伝統主義者ではないというのを聞いてほっとしながら、その気持ちをすこし恥じていた。
「それは……」
トラクトはその質問と同時に、質問者がだれかを考えているようだった。軍曹≠ニ呼ばれてはいるものの民間人であるアナービーが、実際には指揮命令系統のどこに位置するのかよくわからないのだろう。
〈〈慣れてもらうしかないな、若いの〉〉アナービーは考えた。
「キンドレッド国は自分たちの宗教的基盤に重きをおいています」トラクトはつづけた。「しかしこれまでは、こちらの国内で妨害工作をしかけることには慎重で、極右勢力に秘密裏に資金提供するくらいがせいぜいでした。しかし……今日彼らは一線を越えてきたのです。今日の連中はキンドレッド国の特殊部隊です。自分たちの跡をたどられまいと努力していますが、こちらの高度な検死鑑定技術までは計算していなかったようです。じつはこれは将軍のご主人が指導する学生が開発した方法なのですが、見てください。二名の死体の気道から採取された花粉の混合比率は、この二人がどちらも国外から来たことをしめしています。キンドレッド国のどこの拠点から来たのかさえわかります。この二人がわが国にはいったのは十五日以内のはずです」
スミスはうなずいた。「国内滞在期間がもっと長くなれば、花粉の痕跡《こんせき》は消えるの?」
「そうです。免疫システムにとらえられ、運び去られてしまうそうです。しかし、たとえそうでも、かなりのことはわかります。今日は敵もかなりしくじっているんです。そもそも、目撃者を二人も生き延びさせていますし……」
トラクトは、はっとして黙った。これはいつもの作戦会議ではないことを思い出したのだろう。敵にとっての作戦成功は、将軍にとって個人的な悲劇に直結するのだ。
しかしスミスはとくに意識しなかったようだ。「ええ、あの夫婦ね。自分の子どもたちを博物館に連れてきていた……」
「そうです。敵がしくじった理由の半分は彼らにあるといえるでしょう。アンダータウン大佐が――」国内情報局の指揮官だ。「――午後じゅうかけて、二人から話を聞き出していました。どちらもとても協力的です。最初にわかった現場の情況については、もうお聞きでしょう。将軍の息子さんの一人が展示物を倒して、誘拐グループの二人を殺したのです」
「そして子どもたちは全員生きて連れ去られた、ということね」
「そうです。しかしアンダータウンによる聴取でさらにわかったことがあります。ほぼ確実だと思えるのですが……。どうやら誘拐グループは将軍のお子さんたちを全員さらうつもりだったようです。スアビズメ夫妻の二人の子を見て、将軍のお子さんだと思ったのでしょう。時期はずれの子はいまでもそれほどたくさんはいませんからね。そして当然ながら、スアビズメ夫妻をこちらの護衛官だと思いこんだのです」
〈〈なんてことだ〉〉アナービーは小さな窓から外を見た。
さきほどまでよりすこし明るくなってはいるが、それは警備用に使われる紫外色ランプのせいだった。風はしだいに強まって、水滴の飛沫《ひまつ》を窓に叩きつけ、羊歯の葉を大きく揺らしている。今夜は雷雨になりそうだ。
つまり、キンドレッド国はアコード国の警備体制を警戒しすぎて、どじを踏んだわけだ。子どもたちが護衛もつけずにうろうろしているとは、思いもしなかったのだろう。
「あの民間人の夫婦からはいろいろなことがわかりました、将軍。誘拐グループが近づいてきたときに使った口実や、正体をあらわしたあとに仲間どうしでかわした言葉……。目撃者を残すつもりはなかったようです。あのスアビズメ夫妻は今夜のプリンストン市でいちばん幸運な二人ですよ。本人たちはそう思っていないようですが。将軍の息子さんが殺した二人の誘拐犯は、夫妻を子どもたちから遠ざけるように押しやっていた。一人はオートマチックのショットガンを抜いていて、安全装置もすべてはずれていました。アンダータウン大佐の推測では、子どもたちを全員さらって目撃者は残さないというのが当初の計画だったようです。血まみれになった民間人の死体があれば、シナリオどおり、疑われるのは国内の極右勢力ということになるでしょうから」
「もしそうだとしたら、なぜ子どもを二人ほど殺していかなかったの? そのほうが脱出も楽になったでしょうに」スミスの質問は冷静だったが、距離をおいて話しているような感じがあった。
「その点はわかりません。しかしアンダータウン大佐は、犯人たちはまだ国内にいる――もしかするとまだプリンストン市内かもしれないと考えています」
「そう?」疑念と希望が戦っている。「たしかにベルガは網を絞りこむのが早いわ――それに敵も問題をかかえているわけね。いいわ。今回はあなたにとって初めての本格的な国内での任務ということになるわね、ラヒナー。でも国内情報局とは協力しながら進めて。都市商業警察とも手を組むように」アコード軍情報局の匿名《とくめい》性という伝統は、今回は数日のうちにかなりの妥協をしいられそうだ。「都市商業警察とはなかよくやって。わたしたちは戦闘状態にあるわけではないのよ。敵は王家にいくらでも問題を起こさせられるんだから」
「わかりました。都市警察のパトロール活動には、アンダータウン大佐もわたしも以前からかかわりをもっています。電話が設置されたら、このヒルハウス内で彼女と共同司令部のようなものをつくる予定です」
「よろしい……。あなたはいつも先手を打ってくれるようね、ラヒナー」
トラクトは軽く笑みを浮かべて、立ちあがった。「お子さんたちはかならずとりもどします、将軍」
スミスは返事をしようとして、ドアのわきからのぞいている二つの小さな頭に気づいた。
「わかってるわ、ラヒナー。ありがとう」
トラクトはテーブルから退《さ》がったが、司令室はつかのま静まりかえった。アンダーヒルの子どもたちのなかでいちばん幼い二人――もしかしたら生き残っている最後の二人かもしれない――が、恥ずかしそうに部屋のなかにはいってきたのだ。あとからは警備隊長と三人の兵士がついてきている。ダウニング大尉はたたんだ傘《かさ》をもっているが、ラプサとリトル・ハランクがその恩恵を受けていないのはあきらかだった。二人の上着はぐっしょりと濡れ、つやつやとした黒い甲殻は雨の滴《しずく》だらけなのだ。
スミスはわが子を見ても笑みひとつ浮かべず、びしょ濡れの服と傘を見た。「外で遊びまわっていたの?」
ラプサは、いつものおてんばぶりとは打って変わった悲しげな声で答えた。「いいえ、ママ。パパといっしょにいたの。でもパパはいま忙しいから。それでダウニング大尉と警備のみんなのところにいて……」そこで黙りこみ、恥ずかしそうに警備隊長のほうをむいた。
若い大尉はさっと気をつけの姿勢をとったが、まるで戦闘と敗走の場面を見てきた兵士のような苦渋《くじゅう》に充《み》ちた表情をしていた。
「もうしわけありません。傘は使わないほうがいいと判断したのです。死角をつくりたくないので」
「正しい判断よ、ダラム。それから……この子たちをこっちへ連れてきてくれたこともね」
スミスはそこで黙って、子どもたちをじっと見つめた。ラプサとリトル・ハランクもしばらくじっとして見つめ返していた。しかしふいになにかのスイッチがはいったように、二人は言葉にならない泣き声をあげながら部屋を横切ってきた。そしてまるで父親によじのぼるように、手足を一生懸命動かしてスミスの身体《からだ》によじのぼった。堰《せき》を切ったように泣き叫び、質問をぶつけた。ゴクナとビキとジャーリブとブレントについてなにかわかったことはあるの? いまどんなことになってるの? パパかママといっしょにいたい……。
しばらくして子どもたちが落ち着くと、スミスは二人のほうに顔を傾けた。アナービーはその心境を思いやった。スミスの手もとにはまだ二人の子どもがいる。今日の出来事が不運だったにせよ体制の不備だったにせよ、この子たちのかわりにさらわれた二人の子がべつにいるのだ。
「ハランクナー、頼みたいことがあるわ。スアビズメ夫妻のところへ行ってきて。そして……どうかここに泊まっていってほしいと伝えて。事態の収拾がつくまでヒルハウスで待ってもらえるなら……とても光栄だと」
みんながいれられたのは、どこか高いところで、垂直の通気用シャフトのようなもののなかだった。
「ちがうわ、通気用シャフトじゃない!」ゴクナがいった。「もしそうだったら、ほかに配管とか配線とかがごちゃごちゃ通ってるはずよ」
通気ファンの低いうなりは聞こえず、かわりに上のほうに吹きこむ風がずっとかん高い音をたてていた。ビキは真上の眺めに目を凝《こ》らした。てっぺんは高さ五十フィートほどで、格子窓がはまり、そこから昼の光が差しこんで、シャフトの側面に張られた鉄板のあいだで何度も反射している。みんながいるシャフトの底は薄暗いが、寝袋や簡易トイレや鉄板の床が見てとれるくらいの明るさはあった。この監禁場所は、時間とともに暑くなっていた。
ゴクナのいうとおり、子どもたちはヒルハウスのなかをいつもくまなく探検しているおかげで、本物の共用シャフトがどんなふうになっているかは知っていた。しかし、そうでないとしたら、ここはなんなのか。
「なんだか継ぎ当てみたいなのがいっぱいあるわ」ビキは手をふって、壁のあちこちにぞんざいに溶接された丸い鉄板をしめした。「ここは廃屋《はいおく》なのかしら――いいえ、きっとまだ建設中なのよ!」
「そうだ」とジャーリブ。「あの作業跡は真新しい。作業通路の穴を、たぶん一時間くらいであわてて仮溶接したんだ」
ゴクナはうなずいただけで、一時間≠ニいうところに難癖《なんくせ》をつけようともしなかった。今朝の出来事からあと、子どもたちの雰囲気はがらりと変わってしまっていた。ジャーリブはもう、彼らの論争に対して審判者然とした態度はとらなくなった。強い危機感をもっているようだ。ビキにはその苦々《にがにが》しい罪悪感も想像がついた。ブレントとおなじ最年長者なのに、こんな展開を許してしまったのだ。しかしその苦悩をじかにおもてにあらわすことはなく、なにかに耐える表情をしていた。
そのジャーリブが口をひらけば、妹たちは黙って聞いた。彼が大人とほとんど変わらない年齢であることはもちろんだが、やはり子どもたちのなかでいちばん頭がいいからだ。
「じつをいうと、ここがどこかはだいたい見当がついてるんだ」
いいかけたジャーリブを、その背中にしがみついている赤ん坊たちの声がさえぎった。ジャーリブの育児毛は赤ん坊が居心地よくできるほど長く伸びてはいなかったし、そろそろ異臭もしはじめていた。アレケレとバーボップは、そんなジャーリブの背中にしがみついたまま、両親を恋しがって泣きわめくのと、不気味なほど沈黙するのを周期的にくりかえしていた。いまは泣きわめく周期にはいってきたようだ。ビキは手をのばして、アレケレを抱きとった。
「どこなの?」ゴクナが訊いたが、論争を挑むような口調ではなかった。
「あそこに野生|蜘蛛《ぐも》の巣があるだろう」ジャーリブが頭上をしめした。まだ新しい糸の模様が、格子窓から吹きこむ風に揺られている。「野生蜘蛛は種類によって独特のパターンの巣をつくるんだ。あの巣をつくる蜘蛛はプリンストン地域に固有の種だけど、標高の高いところに棲息している。ヒルハウスのてっぺんがやっとその棲息域にかかるくらいなんだ。ということは――ぼくらはまだ市内にいる。そして何マイルも先まで見わたせるくらい高いところにいるはずだ。考えられるのは丘陵《きゅうりょう》地帯か、市中心部の新しい高層ビルだな」
アレケレがまた泣きだしたので、ビキは腕のなかでやさしくゆすってやった。こうするとリトル・ハランクはいつもよろこんだのだが……うまくいった! アレケレは泣きやんでくれた。ずっと悲しんでいたので、さすがに楽しそうな声は出てこないかもしれない。いや、しばらくすると赤ん坊は手をふって弱々しい笑みをビギにむけ、身体をひねってまわりを見ようとした。いい子だ!
ビキはもうしばらく赤ん坊をゆすってから、話した。「たしかに車で運ばれていたときは、おなじところをぐるぐるまわっていただけかもしれないわね。でも、市の中心部? 飛行機の音は何度か聞こえたけど、通りの音は聞こえる?」
「そこらじゅうからね」
そういったのはブレントだった。誘拐されてから口をきくのはほとんど初めてだ。ブレントはのみこみが遅く、鈍《にぶ》いのだ。しかし今朝の出来事を予測していたのは、子どもたちのなかで彼だけだった。そして一人だけ離れて影のなかに隠れていた。ブレントは大人とほとんどおなじ体格だ――展示物に乗って敵の上に倒れかかるなんて無茶をやったら、大|怪我《けが》をしかねない。博物館の搬入口から全員が連れ出されるとき、ブレントはじっと動かず、声もあげなかった。移動中もずっと黙っていて、ジャーリブやゴクナから具合を訊かれても、手をふるだけだった。
どうやら前脚を一本折っていて、ほかにも怪我をした腕や脚があるようだったが、傷の具合を見せようとはしなかった。ビキに拡その気持ちがわかった。ジャーリブとおなじように恥ずかしく、また無力感にとらわれているのだ。ブレントはずっと身体をまるめて押し黙っていたが、この監禁場所にいれられて一時間たった頃かち、ゆっくりと動きまわってあちこちの鉄板をこつこつ叩いたりしはじめた。ときどきぺたりと腹ばいになって、まるで死んだふりでもしているように動かなくなった。あるいは絶望に打ちひしがれているのか。いまもその姿勢をしている。
「聞こえないかい?」ブレントはまたいった。「お腹耳《なかみみ》をやるんだよ」
そんな遊びはもう何年もやっていない。しかしビキはほかのみんなといっしょに、ブレントの真似をして腹ばいになった。この姿勢では、つかまるところがなにもないととても不快なのだが、しかたない。アレケレはビキの腕から跳び降り、バーボップもおなじように床に降りた。二人の赤ん坊は腹ばいになった子どもたちを順番にまわって、脇をつついたりしていたが、やがてくすくす笑いはじめた。
「シー、静かに」
ビキは小声でいったが、かえってくすくす笑いは大きくなった。この二人くらいの齢《とし》にもどりたいとずっと願っていたような気もするが……。しかしいまは、うるさいチビどもにちょっとだけ黙ってほしかった。ビキは赤ん坊のことを頭からしめだして、気持ちを集中させた。
ふむふむ。頭の耳で聞くような音ではなく、お腹でじかに感じる音だ。無意味な雑音がずっと流れているが……ほかにも近づいたり遠ざかったりする雑音がある。わかった! 街を歩いたときに足の裏に感じた雑踏《ざっとう》の振動だ。そしてもうひとつ。車が急ブレーキをかけるときの独特の響きがあった。
ジャーリブが軽く笑った。「これで結論が出たな。行き先がわからないように密閉した貨物コンテナにぼくらをいれたんだろうけど、もうわかったぞ」
ビキは起きあがって楽な姿勢になると、ゴクナと顔を見あわせた。ジャーリブは頭はいいけれど、ずる賢さという点で二人の妹にとうていかなわない。
ゴクナは穏やかな口調で答えた――それは論争する気がないからでもあり、また赤ん坊たちをジャーリブの背中にもどらせるにはそういう口調のほうが適当だからでもあった。
「ジャーリブ、犯人たちはわたしたちの目をごまかそうとしたんじゃないと思うわ」
ジャーリブは、チビのくせに生意気いうな≠ニでもいいたげに、頭をぐいとうしろへやった。そしてようやく、ゴクナの口調の意味に気づいた。
「ゴクナ、ここへ連れてくるだけなら五分ですんだはずだ。それなのに一時間も走りまわったというのは――」
ビキはいった。「それは、ママの警備隊からのがれるためだったと思うの。犯人たちは何台かの車を走らせていて、わたしたちを二度乗せかえたでしょう? 本当は市内から出るつもりだったんだけど、それができなかったのよ」手をふって狭い部屋をしめした。「ふつうに考えたら、わたしたちはいろいろ見すぎているはずよ」つとめて軽い口調でいった。バーボップとアレケレは、まだ腹ばいになっているブレントの上に這いあがり、ポケットのなかをごそごそ探っている。「犯人たちの顔を見たのよ、ジャーリブ。運転手と、博物館の搬入口にいた女も見たわ」
そして、博物館の床にころがっていたオートマチックのショットガンのことも話した。ジャーリブに恐怖の表情がよぎった。
「やつらはパパと将軍に反対する伝統主義者なのかな?」
ゴクナもビキも否定の身ぶりをした。ゴクナがいった。
「兵士だと思うわ、ジャーリブ。口ではいろいろいってたけど」
たしかに彼らのいうことは嘘ばかりだった。最初に映像呪術の展示ホールにあらわれたときは、ママの警備隊の者だといっていた。しかし子どもたちをここまで運んでくるあいだは、伝統主義者のような口ぶりだった。この子どもたちは正しい生き方をする大衆にとって恐ろしい存在なのだとか、怪我をさせるつもりはないけれども、両親は自分たちが堕落者であることを告白しなくてはならないとかいっていた。しかしその口調にまったく熱意がこもっていないことに、ゴクナもビキも気づいていた。ラジオに出演した伝統主義者はみんなもっと怒った調子だった。ビキやゴクナが直接会った相手にいたっては、時期はずれの子どもをひとめ見ただけでひどく取り乱したものだ。しかし今日の誘拐犯たちは落ち着いていた。口ではいろいろいっていても、実際には子どもたちを運ぶべき荷物としかみなしていなかった。
その冷ややかなプロの仮面の下に、正直な感情が二つだけあることにビキは気づいていた。リーダーは、ブレントが押しつぶした二人の部下のことで真剣に怒っていた。そして、子どもたちに対してもうしわけなく思う気持ちが、かすかに見え隠れしていた。
ジャーリブはその意味するところを理解すると、ぞくりとしたようだったが、なにもいわなかった。その真剣な内省《ないせい》を、二つのかん高い笑い声が破った。アレケレとバーボップはゴクナのほうもビキのほうも、もちろんジャーリブのほうも見ていなかった。二人はブレントの上着のポケットにはいっていた遊び紐をみつけたのだ。アレケレがうしろに跳び退がりながら、宙に大きく弧を描くように紐を引っぱり出すと、バーボップが跳びついてつかんだ。そしてブレントのまわりをぐるりと一周して、紐でかこんだ。
「あら、ブレント、まだそんなものをもってたの?」ゴクナがあえて楽しそうな口調でからかった。
ブレントの返事はゆっくりとして、すこし弁解がましかった。「金属ピンと連結金具のおもちゃがないと退屈するんだよ。遊び紐ならどこへでももっていけるからね」
たしかにブレントは遊び紐の名手だった。幼いときはあおむけにひっくり返ってすべての手や足を使い、ときには食手《しょくしゅ》さえ使って、複雑な模様をいろいろ編んだものだ。子どもっぽいけれども、ブレントが大好きな複雑な遊びだった。
バーボップは遊び紐の端をアレケレから奪うと、壁に跳びつき、身体の小さな子どもだからこそ可能なわずかな手がかりや足がかりをつかんで、十フィートから十五フィートほどよじ登った。そして遊び紐をアレケレのほうに垂らして、引っぱってみろとからかった。アレケレがそうすると、バーボップはさっと紐を引きあげ、さらに五フィートほど登った。かつてのラプサとおなじか、さらに身軽なくらいだ。
「あまり高く登らないで、バーボップ。落っこちるわよ!」いつのまにかパパのようなことをいっている自分に、ビキは気づいた。
壁は赤ん坊の上にずっとつづき、高さ五十フィートのてっぺんには小さな窓がある。うしろではっと驚きの声をあげるゴクナのようすが見えた。
「おなじことに気づいた?」ビキは訊いた。
「た……たぶんね。小さい頃のラプサは、あれくらいの高さまで登れたわ」
誘拐犯たちはどうも考えが浅いようだ。子どもの世話をしたことがあればすぐに気づくはずだが、男の誘拐犯たちはみんな若く、現世代の生まれだった。
「でももし落っこちたら――」
もし落ちても、ここには水平に張る運動用ネットはないし、柔らかい絨毯さえないのだ。二歳児の体重は十五ポンドから二十ポンドほどしかなく、高いところに登るのが大好きだ。まるで大きくなって身体が重くなったら、登るのには梯子《はしご》が必要だし、ジャンプするのも低いところからしかできなくなるのを知っているかのようだ。赤ん坊は大人にくらべるとかなりの高さから落ちても平気だが、あまり高いとやはり命の危険がある。二歳児はそれを知らないのだ。ちょっとしたはげましの言葉をかければ、バーボップはてっぺんの窓までよじ登れるだろう。たぶんだいじょうぶなはずだが……。
ふつうなら、ビキもゴクナもこういう危ない遊びが大好きだ。しかし今回危険にさらされるのは他人の命なのだ……。二人はしばし顔を見あわせた。
「だ……だいじょうぶかしら、ビキ」ゴクナがいった。
しかし、ここでなにもしなかったらどうだろう。赤ん坊たちは、自分たちといっしょに殺されてしまう可能性が高い。どちらにころんでも悲惨な結末が待っているかもしれないのだ。ふいにビキは強い恐怖感に襲われ、壁の下に歩いていって、にこにこしているバーボップを見あげた。そして赤ん坊を抱きおろそうとするように思わず手を上にのばしたが、それをあえて引っこめ、軽くからかうような口調をよそおっていった。
「ねえ、パーポップ! あの小さな窓まで紐をもって登れるかしら?」
パーポップは首をひねって、幼眼《ようがん》で上を見た。「できる!」
そして登りはじめた。溶接した覆いや配管用の金具のあいだを器用に渡りながら、上へ上へと登っていく。
〈〈あなたが頼りなのよ、赤ちゃん。自分ではわからないでしょうけど〉〉
床の上で、アレケレがバーボップの注意を惹こうとするようにかん高い怒りの声をあげ、遊び紐をぐいと引っぱった。二十フィート上のバーボップはそのはずみを受けて、細い張り出しにかかった三本の手だけで宙ぶらりんになった。ゴクナはあわててアレケレを床から抱きあげ、紐から離してジャーリブに渡した。
ビキは突然の恐怖を抑えようとしながら、赤ん坊がさらに高く登っていくのを見守った。
〈〈ああやって窓まで行けたとしても、それからどうすればいいのかしら〉〉
メモを窓の外に投げる? しかし書くものがなにもない。そもそもここがどこかも正確にはわからないし、メモが風に乗ってどこへ運ばれるかも見当がつかない……。ふと、一石二鳥の方法を思いついた。
「ブレント、上着を貸して」ビキはゴクナにむかって手をふりえから上着を脱がせるのを手伝ってと合図した。
「わかったわ!」
ビキが説明し終わるより先に、ゴクナはブレントの上着の袖《そで》や裾《すそ》を引っぱりはじめていた。
ブレントはしばらく呆然《ぼうぜん》としていたが、やがて理由を察して協力しはじめた。ブレントの上着はジャーリブのとおなじくらい大きいが、背中の切り込みがないのだ。三人は壁ぎわでそれを広げて、それぞれ端をもった。そしてずいぶん高く登ったバーボップが横へ動くたびに、あわせて移動した。こうしておけば、もし落ちても……。冒険小説のなかではこれでかならずうまくいくのだが、実際にこうして上着を広げて立ってみると、こんなものが役に立つわけないという気がしてきた。
アレケレはまだジャーリブの腕のなかでもがき、かん高い声をあげている。バーボップはそれを嘲《あざけ》るように笑った。一身《いっしん》に注目を集め、ふだんなら怒られるようなことをさせてもらえるのが、愉快でたまらないのだ。高さ四十フィートほどになって、動きが鈍ってきた。手がかりや足がかりが少なくなってきたのだ。おもな通気ダクトの固定金具があるところは通りすぎてしまった。遊び紐をもちかえているうちに何度かとり落としそうになった。そして、とんでもなく狭い張り出し部分の上で体勢を整えると、残り三フィートを横っ跳びした――一本の手が窓の格子に引っかかった。バーボップの小さな身体が光のなかでシルエットになった。
赤ん坊は目が二つだけで、しかも前にしかついていないので、背後を見るには頭をぐるりとまわさなくてはならない。このとき初めてバーボップは下を見た。そして、自分がどれだけ高いところに来てしまったかに気づくと、勝ち誇った笑い声が消えた。赤ん坊なりの本能で、さすがにこれは危ないとわかったのだろう。親が子どもを好き勝手に高いところまで登らせないのには、それなりのわけがあるのだ。バーボップの腕や脚は、本能的に窓の格子にしがみついた。
そこまで登って助けにいくことはだれにもできないから、自分で降りてこなくてはいけないのだと、いくらいって聞かせてももうだめだった。こんなことになるとは、ビキも思わなかった。ラプサとリトル・ハランクがとても高いところに登ってしまったときも、しばらくするとなんなく降りてこられたものだが。
バーボップが凍りついたように動けなくなってだいぶたった頃、アレケレが泣くのをやめて、バーボップのことを笑いはじめた。しばらくすると、バーボップはなんとか下からの指示にしたがえるようになり、格子のあいだに遊び紐を通して、それを滑車《かっしゃ》装置のように使って降りてくることができた。
ほとんどの赤ん坊は自然にそのやり方がわかるらしく、紐で遊びながらすぐに降りてこられるものだ。動物的な本能だろうか。バーボップは五本の手足で下りの紐をしっかりと握り、三本の手足で上りの紐を送りながら降りはじめた。しかししばらくそうやって降りるうちに、遊び紐の扱いが意外に簡単なのに気づいて、つかまる手足を三本だけにし、さらに二本だけにした。足で壁を蹴って、まるで跳びかかって獲物を狙う習性の野生蜘蛛のような大きな動作で降りてくる。下ではビキたちが、まにあわせの安全ネットをもってあちらへこちらへと走りまわり……なんとかバーボップを受けとめた。
これで、床から格子窓までいってもどってくる遊び紐のループができた。光を浴びて輝き、おもしがはずれたおかげでゆらゆら揺れている。
次の段階をだれが担当するかでは、ゴクナとビキで論争になり、結局ビキが勝った。体重が八十ポンド以下で、きょうだいのなかで最軽量なのだ。ビキが紐を引っぱったりぶらさがったりして試しているあいだに、ブレントとゴクナはさきほどの上着の絹の内張りを剥《は》がしはじめた。内張りは赤と紫外色の水玉模様で染められている。さらに、いくえにも折りたたんで縫製《ほうせい》されているのが好都合だった。縫《ぬ》いめにそって切れば、とても軽くて、しかし長さが十五フィートくらいある一枚の旗ができる。これを垂らせば、だれかしら気づいてくれるはずだ。
ゴクナはその内張りを小さな四角に折りたたんで、ビキに渡した。「遊び紐だけど、切れたりしないかしら?」
「だいじょうぶよ」
まあ、たぶん。質のいい遊び紐なので、なめらかで伸縮性がある――とはいえ、伸びきったらどうなるのだろう。
ブレントの言葉は、そんな楽観的観測以上にビキを安心させてくれた。「だいじょうぶだと思うよ。ぼくはこれで作品を編んだあとに、いろんなものをぶらさげるのが好きだから、工学研究室から丈夫な紐をもらってきたんだ」
ビキは自分の上着を脱いで、手づくりの旗を食手につかみ、紐を使って登りはじめた。背後の視野では、安全ネット≠広げて心配そうに見守るきょうだいたちの姿がしだいに小さくなっていった。赤ん坊よりはるかに重いビキが落ちたら、あんな安全ネットはなんの役にも立たないだろうが。
壁を蹴りながら一歩ずつ登っていった。けっこう簡単だ。二本の補助ロープがあれば、大人でもなんなく垂直の壁を登れるだろう――ロープが切れさえしなければだが。ビキは遊び紐と壁を見るのとおなじくらい、下の出入り口も注視していた。おかしなことに、じゃまがはいるのではないかと急に心配になってきたのだ。成功は間近なのに、誘拐犯のだれかが子どもたちのようすを見にきたりしたら、すべて水の泡だ。あと数フィート……。
窓の格子に前手《ぜんしゅ》をかけ、外の空気が感じられるところまで身体を引きあげた。すわる場所などないし、格子の幅はとても狭いので赤ん坊でもすり抜けられない。とはいえ、この眺めはすごい! 新しく建てられた巨大ビルのどれかのてっぺんで、三十階より高いだろう。空はいまにも雨が降りだしそうな雲におおわれ、風がはげしく吹きつけてくる。下への視界は建物の外壁の張り出しで一部さえぎられているけれども、まるで美しい模型のように広がるプリンストン市の街なみが見えた。真下の通りもすこし見える。バスや自動車が走り、雑踏がある。彼らがこちらを見てくれたら……。
ビキは内張りからつくった旗を広げて、格子のあいだから突き出した。強い風にさらわれそうになって、あわててしっかりと握りなおし、布地の端を手の先で裂きはじめた。ひどく破れやすい布地だ。慎重に布の端をこちら側に引きもどし、四ヵ所を縛《しば》りつけて固定した。
これで色鮮やかな四角い布がビルの壁に広がった。布は風にあおられて窓をおおうほど舞いあがったり、視野の外の外壁にへばりついたりしている。
最後にもう一度、自由の世界を見た。雲と地面が接するあたりにある丘陵は、もう陰ってよく見えない。しかしビキにはだいたい方角の見当がついた。まわりほど高くないひとつの丘があり、螺旋《らせん》形に配置された建物や道が見える。ヒルハウスだ! 自分の家が見えるのだ!
ビキは場ちがいなほどうきうきした気分で、窓からするすると降りた。まだ勝ちめはあるのだ! だいじな遊び紐を引きおろし、またブレントの上着のポケットに隠した。闇が深くなるなかで身を寄せあい、誘拐犯たちがまたやってくるのはいつだろうとか、こんなことが起きたらどうしようとか話しあった。午後が遅くなるとひどく暗くなり、雨が降りはじめた。それでも風にはためく旗の音が心強かった。
深夜をすぎた頃、旗は強風に引きちぎられ、闇のなかに吹き飛ばされていった。
30
領督《りょうとく》への直接請願権は、便利な伝統だ。そういう伝統が生まれた歴史的な理由はあるのだが、疫病時代のさなかだった何世紀もまえ、認められる請願は政治宣伝として有用なものだけだったはずだと、トマス・ナウは思っていた。現代ではトマスの伯父のアランが、大衆の人気取りと対立派閥つぶしのために、裏で糸を引いて直接請願の動きを起こさせるという手法を好んでいた。
請願者として暗殺者を招きいれてしまうというアラン伯父の失敗さえ教訓にすれば、これは利口な作戦だった。オンオフ星系に着いてから二十四年間に、ナウは十指《じっし》にあまる直接請願を裁定してきたが、早急な審議のおこなわれることが絶対不可欠≠ニ主張する案件は、今回が初めてだった。
ナウはテーブルのむこうにいる四人の請願者を見まわした。いや、請願者の代表たちだ。彼らは百人の支持者を背景にしていると主張し、わずか八キロ秒前に告知しただけで、この席に乗りこんできた。
ナウは笑顔で、席につくようにと手をふった。「シン主任、上級者はきみのようだな。請願内容を説明してくれないか」
「はい、領督」
ジョーはガールフレンドのリタ・リヤオのほうをちらりと見た。ジョーもリタも故郷の世界からやってきたエマージェントで、三百年以上にわたって集中化人材や追従者を出してきた家系の出身者だ。彼らはエマージェント文明の基盤であり、本来は簡単に手なずけられるはずだ。しかし残念ながら、文明から二十光年離れたここでは、なにごとも簡単ではない。
ジョーはさらにしばらく口をつぐみ、びくびくしたようすでカル・オモのほうを見た。オモが返した視線は冷ややかだった。ナウはふいに、この領兵長とあらかじめ打ち合わせをしておくべきだったと後悔した。ブルーゲルが当直からはずれているいまは、請願を却下すべきなりゆきになったときに、おもてむきその責任をかぶせられる相手がいないのだ。
「ご存じのように、領督――」ジョーは話しだした。「地上の分析にあたっている職員はそれなりの数にのぼりますし、それ以上に多くの者が蜘蛛《くも》族世界に一般的な興味をもっています――」
ナウは穏やかな笑みを浮かべた。「わかっている。おまえはベニーの酒場によく出入りし、通訳番組を聴いているからな」
「そうです。それで……わたしたちは〈子どもの科学の時間〉や、その他の通訳番組がとても好きです。それらのおかげで分析が進みましたし……」遠くを見る目つきをした。「どういえばいいんでしょうか。蜘蛛族は人間ではないとはいえ、すべてがそろった世界をもっています。わたしたちにくらべると、なんというか、その……」
実在感がある≠ニいいたいのだろうと、ナウは思った。
「じつは、わたしたちは、蜘蛛族のある子どもたちを好きになったんです」
〈〈それは予定どおりだ……〉〉ナウは考えた。
現在の生中継はかなりの緩衝《かんしょう》処置をへておこなわれていた。精神腐敗病の暴走がなぜ起きたのか、そもそもそれがあの番組に関係あるのかどうかも、まだわかっていないのだ。それでもアン・レナルトは、現状の危険度はほかの業務とおなじくらいまで低くなっているといっていた。
ナウは右隣に手をのばし、キウィの手にそっとふれた。キウィは笑みを返した。蜘蛛族の子どもたちは重要な存在だ。キウィ・リゾレットがいなかったら、そのことに気づかなかったかもしれない。キウィはいろいろなことで役に立ってくれる。キウィを観察して、キウィと話して、キウィをだますうちに――いろいろなことがわかる。L1点では本物の子どもなど資源の浪費であり、存在する余地はないが、なんらかの代用は必要だ。キウィの計画や希望を聞くうちに、ナウはその方法をみいだしていた。
「あの蜘蛛族の子どもたちのことは、だれもが好感をもっているのだ、パイロット管理主任。請願内容はその誘拐事件となにか関係があるのか?」
「はい。誘拐から七十キロ秒がたち、アコード国≠フ蜘蛛族はもてるかぎりの通信機器を使って必死に情報収集を試みています。彼らはまったく成果をあげていませんが、こちらの愚人《ぐじん》はそこからかなりの情報を得ています。アコード国のマイクロ波回線にはキンドレッド国の暗号化されたメッセージがたくさんまじっていて、それを傍受しています。キンドレッド国の暗号はアルゴリズム式で、一回のみ使用の無限乱数式暗号ではありません。アコード国には破れなくても、こちらから見ればアルゴリズム式暗号は簡単です。四十キロ秒前からわたしたちはいえ、わたしはこちらの翻訳者と分析担当者を使って解読を試みてきました。子どもたちの監禁場所はだいたいつかめました。五人の分析担当者はほぼ確実に――」
「五人の分析担当者と、三人の翻訳者と、インビジブルハンド号の偵察用アンテナの一部を使って、ね」レナルトが有無をいわせぬ大きな声でさえぎった。「さらにシン主任は支援ハードウェアの三分の一近くを使用しました」
オモも口をそろえていった。この領兵長とレナルトがこれほど意見をおなじくするのは、もしかすると初めてのことかもしれない。「さらにいうなら、パイロット管理主任とその他数人の優先権をもつ管理主任たちが緊急リソース使用コードを行使しなかったら、ああいう暴走は起きなかったのです」
そしてオモ領兵長は請願者たちをじろりとにらんだ。その視線にみんなひるんだが、チェンホーよりエマージェントの反応のほうが大きかった。公共資源の濫用《らんよう》それは最大の罪なのだ。
ナウは思わずにやりとした。ブルーゲルのほうが脅《おど》しがきいたはずだが、オモでも充分なようだ。
ナウが手をあげると、部屋のひそひそ声が静まった。「よくわかった、領兵長。シン主任の――」本来は不適切な言葉を使った。「――活動によって今後も残る被害があるようなら、きみとレナルト局長からの報告を望む」そこでしばらく黙りこみ、個人の欲求と全体の長期的な必要性との妥協点を求めなくてはならない立場からくる、深い苦悩を秘めた表情……というものをよそおった。「パイロット管理主任、われわれが存在を隠さねばならない理由は、理解しているな?」
ジョーはしょげかえっている。「はい、領督」
「われわれがいかにぎりぎりの状態かは、きみたちがいちばんよく知っているはずだ。戦闘のあとは集中化人材も職員も不足している。当直の数シフト前に起きた精神腐敗病の暴走によって、集中化人材の不足はさらにひどくなった。主要な装備もないし、武器はごくわずか。星系内を移動することさえままならないのだ。蜘蛛族のある党派を脅したり、べつの党派と同盟を組んだりすることは可能かもしれないが、危険のほうがはるかに大きい。いちばん確実なのは、ディエムの虐殺《ぎゃくさつ》事件からずっとたどってきた道をこのまま歩きつづけることだ。すなわち、待ちつづけ、身をひそめつづけるのだ。この世界はもうあと何年かで情報化時代にはいるだろう。そうなったら、蜘蛛族のネットワーク中に人類製の自律機能系を築くことができる。蜘蛛族が築いた文明はわれわれの船を修理できるようになるだろうし、その船をわれわれは安全に運航できるだろう。それまでは……それまでは、いかなる直接行動もとるわけにいかないのだ」
ナウは請願者たちを見まわした。シン、リヤオ、フォン。トリンリはすこし離れてすわり、最初から反対していたのだとでもいいたげな顔をしている。エズル・ヴィンはちょうど当直からはずれているが、そうでなかったらきっとここにくわわっていただろう。
リッツァー・ブルーゲルにいわせれば、こいつらはみんな厄介者だ。当直シフトごとに、このL1点の小さな領地の暮らしは、どんどんエマージェントの水準から離れていく。原因の一部はこのぎりぎりの環境のせいでもあるが、じつはチェンホーが同化してきたせいでもある。敗北した身分にもかかわらず、行商人たちの流儀は侵食性が高いのだ。たしかに文明の基準からすれば、彼らは厄介者だ。しかし同時に、キウィもふくめて、目標を達するために不可欠な存在でもある。
しばらく沈黙が流れた。リタ・リヤオの目から涙がにじみだしていた。ハマーフェスト棟の微小重力では頬に流れ落ちるところまでいかないのだ。
ジョー・シンがあきらめたようにうなだれた。「わかりました、領督。請願は取り下げます」
ナウは寛容にうなずいた。このことでだれも罰するつもりはないし、重要な原則を周知徹底することはできた。
そのとき、キウィがナウの手を軽く叩いた。どういうわけか、にやにや笑っている!
「たとえば、これを将来にむけたテストケースにしてみるというのはどうかしら? たしかにわたしたちはまだ存在をおおっぴらにはできないけど、でもジョーのやったことを考えてみて。蜘蛛族の情報システムをこちらが利用したのは、今回が初めてなのよ。彼らの自律機能系が情報化時代に達するにはまだ二十年かかるかもしれないけど、蜘蛛族はコンピュータの開発を地球の黎明期とおなじくらい熱心に進めているわ。アンの翻訳者たちはいつかそのシステムに情報を流しこんでいくんだから、その一部をいまからはじめてみるというのはどう? 毎年すこしずつ干渉し、すこしずつ実験するのよ」
ジョーの目に希望の光があらわれたが、言葉はまだ控えめだった。「でも、そこまでできるのかな。こいつらは去年、初めての衛星を打ち上げたばかりで、広域的なローカライザーのネットなどもっていない――いや、そもそもローカライザーのネットそのものがないんだ。プリンストン市からランズコマンド市までの細い回線があるだけで、コンピュータネットさえもっていない。そんなシステムにどうやって情報をもぐりこませるんだ?」
〈〈そうだ。どうやって?〉〉ナウは考えながら、見守った。
キウィは笑顔のままだ。その顔はとても若々しく、彼女を手にいれた最初の年とほとんどおなじように見えた。
「アコード国は、誘拐にかんするキンドレッド国の通信を傍受しているといったわね」
「そうだ。だからこそ、こちらもなにが起きてるのかわかったんだ。でもアコード国の情報局はキンドレッド国の暗号を破れていない」
「破ろうと試みてはいるの?」
「もちろんさ。彼らは家数軒分くらいある大型コンピュータを何台かもっていて、それをプリンストン市とランズコマンド市のあいだのマイクロ波回線でつないで、フル回転させている。それでも正しい解読キーをみつけるには何百万年もかかるはずで……いや――」ジョーは大きく目を見ひらいた。「彼らに気づかれないように、それをかわりにこちらでやってやるということが、できるかな……」
ナウもほぼ同時にそれに気づいた。そして空中にむかって命じた。「次の命令を裏処理しろ――蜘蛛族はどんなやり方でテスト鍵を生成してるんだ?」
しばらくして、声が答えた。「擬似乱数法と、キンドレッド国のアルゴリズムについてわかっていることをもとに、数学者が改良をくわえたものです」
キウィはヘッドアップディスプレーごしにべつの情報を読んでいた。「アコード国は回線を使ってコンピュータの分散処理を試みているようだわ。ネット全体でコンピュータは十台にも充《み》たないから、たいしたものじゃないけど。でも彼らのマイクロ波回線の見通し線上を、こちらの偵察衛星が何十機も通るようになっているから、そのあいだのやりとりに干渉するのは簡単ね。どちらにせよ、本格的なネットワーク介入をやるときはそこからやるはずだから。今回は、彼らがテスト用のキーを送っているときに、それにちょっとした変更をくわえてやるだけでいい。フレーム部分をふくめても百ビットかそこらのはずよ」
レナルトがいった。「いいわ。それなら彼らがあとから調べても、たんなるエラーに見える。いくつものキーに対してそういう操作をやるようだと、さすがに危険だけど」
「通信セッションそのものをまちがえなければ、一回ですむはずよ」
キウィはナウのほうを見た。「トマス、きっとうまくいくわ。危険は少ないし、どちらにしても能動的な方法は実験しておかなくてはいけない。蜘蛛族は宇宙での活動にどんどん興味をもちはじめているでしょう。もうすぐ、もっと頻繁に干渉しなくてはいけなくなるはずよ」
キウィはナウの肩に手をおいた。彼女がこんなふうにおおやけの場で、言葉巧みに自分の意見を通そうとするのはめずらしい。軽い口調をよそおってはいるが、キウィ自身もこの作戦に感情的な思いいれがあるのだろう。
しかし、たしかにその主張は当を得ていた。アンの愚人たちに最初の送信を試みさせる絶好の機会といえる。ここは懐の広いところを見せてもいいだろう。
ナウは笑顔を返した。「よろしい、諸君。納得した。アン、解読キーをひとつ解読する準備をしろ。目標となる通信セッションはシン主任が教えてくれるはずだ。この作戦を今後四十キロ秒にわたって、一時的な最優先項目とする――過去四十キロ秒にもさかのぼって、同様にみなす」これでジョーやリタたちは晴れて無罪になる。
だれも歓声をあげたりはしなかったが、席を立って部屋から出ていく請願者たちからは、高揚した気分と強い感謝の念が感じられた。
キウィは彼らのあとを追おうとしたが、途中でさっともどってきて、ナウの額にキスした。
「ありがとう、トマス」そしていっしょに出ていった。
ナウは部屋に一人だけ残ったカル・オモのほうをむいた。
「連中から目を離すな、領兵長。これからは複雑な展開になるかもしれない」
ハランクナー・アナービーは大戦中、数日不眠不休ということはしばしばあったし、戦闘中はいつもそうだった。しかし当時より、このひと晩のほうがもっとつらかった。まして将軍とシャケナーにとってどうだったかは、想像もつかない。
電話が設置されると、アコード国安全保障室のならびにある共同司令室に、アナービーはほとんどずっとこもっていた。市警察とアンダータウン大佐の通信チームと協力して、市内の噂を追った。司令室に出入りするスミス将軍の表情はこわばったままだったが、アナービーは、このかつての上司が疲労の限界に達しているのがわかった。もっと仕事を部下にまかせるべきなのだ。しかし彼女は、指揮系統の上から下までいちいち口を出し、いまも現場チームのひとつといっしょに、もう三時間も外出していた。
アナービーは、シャケナー・アンダーヒルのようすも一度見にいった。シャケナーはヒルハウスの最上階近くにある通信研究室にこもっていた。罪悪感にひたっていて、どんな問題にも楽観的にとりくんでいた天才の面影はなかった。しかしかつての快活な熱心さのかわりに、病的なこだわりでもって仕事をしていた。コンピュータを黙々と叩き、自分にできることをやっていた。しかしなにをやっているのか、アナービーにはちんぷんかんぷんだった。
「数学なんですよ、ハランク。工学じゃなくて」
「そう、数字の理論なんですよ」そういったのは、この研究室の主である薄汚れた恰好の大学院生だ。「ここで聞いているのは……」彼は身をのりだし、しばし自分のプログラムの世界に没頭した。「ここでやっているのは、傍受した暗号の解読なんです」
事件発生直後にプリンストン市周辺から発信されているのがとらえられた信号の断片のことをいっているらしい。
アナービーはいった。「しかしそれが誘拐犯からのものかどうかわからないだろう」
〈〈それにおれがキンドレッド国民なら、鍵を使った暗号じゃなくて、一回のみ使用の無限乱数式暗号を使うけどな〉〉
大学院生のジェイバートなんとかは、肩をすくめただけで作業にもどった。シャケナーはなにもいわないが、その表情は暗かった。彼にいま、できるだけのことをやっているのだ。
アナービーはさっさと共同司令室にもどった。すくなくともそこには、捜索が進展しているという幻想があった。
日の出から一時間ほどして、スミスが帰ってきた。否定的な報告書の束《たば》にざっと目を通すそのようすは、はためにもいらいらしていた。
「ベルガは市警察といっしょにダウンタウンに残してきたわ。まったく、ベルガの通信装置は警察がもってるのとほとんど変わらないくらい時代遅れなんだから」
アナービーは目をこすったが、睡眠不足による視界のぼやけはとれなかった。「アンダータウン大佐はいまの高性能な機器についていけないんでしょう」
アンダータウンはべつの世代に生まれていたほうがしあわせだったはずだ。この偉大な新時代になじめなくて苦労している者は、ほかにもたくさんいた。
ビクトリー・スミスは古参《こさん》軍曹の隣に腰をおろした。「でも彼女のおかげでずいぶん助かってるわ。ラヒナーはなにかいってる?」
「彼なら、アコード国安全保障室にいますよ」実際には、アナービーはこの若い少佐から信用されておらず、話はなにも聞いていなかった。「今回の事件はキンドレッド国がすべてしくんだものだと、ラヒナーは考えているようですが、わたしにはそうは思えない。たしかにからんではいるでしょうが……。博物館の窓口係の職員が、じつは伝統主義者だったんですよ。それから搬入口で働いていた作業員が一人、姿を消していて、ベルガの調べではそいつも伝統主義者でした。国内の伝統主義者もこの事件にはかなりかかわっていますよ」
アナービーの声は穏やかで、考えこむようだった。ずっとあとになって思い出すと、将軍の声も穏やかだったが、彼女は全身を緊張させていた。
しかしハランクナー・アナービーは自分の考えにひたりきっていた。次々とあがってくる報告をひと晩じゅう眺め、強い風の吹き荒れる夜を眺めていたのだ。ビクトリー・ジュニアとゴクナとブレントとジャーリブの無事を、地の底の神にひと晩じゅう祈っていた。アナービーは悲しい口調で、独《ひと》り言のようにいった。
「彼らがまともな子に育ち、だれからも愛される子に育つのを見てきたのに。彼らはたしかに魂《たましい》をもっていたのに」
「どういう意味?」
スミスの鋭い口調も、アナービーの疲労の層を貫いてこなかった。何年もあとになって、彼はこの会話、この瞬間を思い返し、悲劇を避けられたかもしれない道をあれこれと考えた。しかしそれらはすべてあと知恵にすぎない。このときのアナービーは、こう口を滑らせた。
「あの子たちが時期はずれとしてこの世に生まれてきたのは、本人の責任ではありませんからね」
「本人の責任ではなく、わたしの軽薄な現代的思想のせいであの子たちは殺されたといいたいの?」
スミスの声はナイフのように鋭く、悲嘆と疲労のためにぼやけたアナービーの注意力をも惹《ひ》いた。見ると、将軍はぶるぶる震えていた。
「いや、それは――」しかしもう取り返しがつかなかった。
スミスは立ちあがり、一本の長い腕を鞭《むち》のようにふってアナービーの頭を殴った。
「出ていって!」
アナービーはよろよろとあとずさった。右側面の視野が苦痛の火花におおわれている。ほかの視野には、仰天《ぎょうてん》してこちらを見ている士官や下士官たちの姿が映っていた。
スミスは追ってきて怒鳴った。「伝統主義者! 裏切り者!」いうたびに、尖《とが》った手で突いてくる。もうすこし力をいれれば命の危険があるくらいだ。「何年も友人のふりをしながら、わたしたちのことをあざ笑い、嫌悪していたのね。もうたくさんよ!」
スミスは追うのをやめて、すべての手をわきにおさめた。ハランクナーは彼女が怒りに蓋《ふた》をしたのがわかった。そして口調も冷たく、落ち着き、考慮したものになった……。しかしだからこそ、ハランクナーにとっては目に受けた傷以上につらかった。
「せいぜい自分の倫理観を大切にすればいいわ。出ていって、早く」
スミスのその表情を、アナービーは大戦中に一、二度見たことがあった。壁ぎわまで追いつめられても降伏しなかった彼女の表情だ。もう議論も、和解もないだろう。アナービーはうなだれ、喉もとまで出かかった言葉をのみこんだ。わたしが悪かったんです、悪気はなかった、とてもいい子どもたちです≠ニいいたかったのだが、もはやいっても無駄だった。
ハランクナーはスミスに背中をむけ、呆然《ぼうぜん》とする職員たちのまえを足早に通り抜けて、廊下へ出た。
ラヒナー・トラクトは、スミスが外出から帰ってきたと聞くと、あわてて共同司令室にむかった。本来は夜のあいだずっとそこにいなくてはならなかったからだ。
〈〈しかし、国内情報局や市警察にこちらの暗号を見られるわけにはいかないからな〉〉
べつべつの運営体制をとったのが、ありがたいことに功を奏した。司令官につたえるべき確実な情報がみつかったのだ。
その廊下で、反対方向へむかうハランクナー・アナービーに出くわした。いつもの規律にうるさい古参兵然としたようすは消え、とぼとぼと歩いている。頭の右側に白濁《はくだく》した長いみみず腫《ば》れがあるようだ。
トラクトは軍曹に手をふった。「だいじょうぶかい?」
しかしアナービーは、まるで首をはねられたオスプレッチ獣が農夫を無視するように、トラクトのほうを見むきもしなかった。トラクトは立ち止まってあとを追いそうになったが、急ぎの用事があることを思い出して、そのまま共同司令室へむかった。
司令室は、まるで冬眠穴のように……あるいは墓場のように静まりかえっていた。職員も分析官もすわったままじっとしている。トラクトがスミス将軍のほうへ歩いていくと、やっと作業のもの音が響きはじめた。しかし奇妙に意識したような音のたて方だった。
スミスは作戦記録のひとつに目を通しているが、ページを繰《く》る手が速すぎて、真剣に内容を読んでいるようには見えなかった。トラクトに手をふって、隣の席をしめした。
「アンダータウンが、国内勢力が関与している証拠をみつけたわ。でもまだ確実ではない」さきほどの奇妙な沈黙を打ち消すか、無視したがっているような、わざとらしい口調だった。
「なにか新しいことがわかった? キンドレッド国の内通者≠ゥらなにか反応は?」
「いろいろな反応がありました。表面的な部分だけでも興味深いものです。誘拐が報じられて約一時間後から、キンドレッド国は政治宣伝を活発化させました。とくに貧困国むけです。暗期入り後の殺戮《さつりく》≠ニいう恐怖を声高《こわだか》に広める内容ですが、これまでよりも集中的です。今回の誘拐事件は、アコード国の中枢が非伝統主義の分子に乗っ取られたと気づいた理性ある者たちが、やむをえず行動を起こしたものだとしています」
また司令室はしんとなった。ビクトリー・スミスはややきつい口調でいった。「ええ、連中のいいそうなことはわかるわ。誘拐については、当然そういう反応をするでしょう」
重要なニュースから先に話すべきだったかもしれない。トラクトはつづけて話した。「そうですね。しかし、どうも反応が早すぎるんです。こちらのいつもの情報筋も、事前に把握していなかったんですが……。じつは、今回の誘拐事件は、極右勢力がキンドレッド国の実権を握ったことが現象としてあらわれたものだという見方が、しだいに有力になってきているのです。事実、すくなくとも五人の深淵《しんえん》党員が昨日、処刑されました。クリントラムやサングストといった穏健派、さらにはドルービのような小物まで。残ったのは利口で、これまで以上に過激な行動をとりたがるやつばかりです――」
スミスは驚いたようすで席にもたれた。「うーん――そうなの」
「われわれも三十分ほどまえに知ったばかりなんです。担当分析官は全員、その方面を調べさせています。それに関連した軍事的展開は見られません」
ようやくスミスは真剣にこちらの話を聞きはじめたようだ。「それはそうでしょう。戦争をはじめても、彼らにとって利益になるのは何年も先なんだから」
「そうです、司令官。いま戦争ということにはならないでしょう。キンドレッド国の総合的な戦略はいまも、暗期入りのまえにできるだけ先進国を消耗させ、新生期にまだだれも目覚めないうちに先制攻撃をかけるというものですから……。それから、将軍、もうひとつ未確認の情報があるんです」ただの噂かもしれないが、潜入していた情報員の一人がこの情報をもちだそうとして命を落としたのだ。「キンドレッド国の国外情報活動のトップの座に、あのペデュアが就《つ》いているらしいのです。ペデュアのことは憶えておいででしょう。一介の情報員にすぎないとこちらでは考えていたのですが、どうやらもっと賢く、危険なやつだったようです。おそらく今回の政権交代劇における影の主役であり、生まれ変わった深淵党の総裁でもある。とにかくペデュアは、アコード国のこれまでの戦略が成功してきた背景には、将軍――もっと正確にはシャケナー・アンダーヒルの存在が大きいと、政権中枢に説明したようです。将軍を暗殺するのは非常にむずかしいし、おそらくその夫の身辺も厳重に警備されている。そこでその子どもたちを誘拐すれば、と――」
将軍の手の先は作戦テーブルの表面をコツコツと速いリズムで叩いていた。「つづけて、少佐」
〈〈できるだけ他人の子どもについて話しているような口調をよそおったほうがいいんだ〉〉トラクトは思つた。
「司令官、シャケナー・アンダーヒルはラジオでしばしば、子どもたちに対する自分の気持ちを話し、一人ひとりをどれだけだいじにしているかを話していました。わたしが得ている情報によると――」隠れ蓑《みの》を捨ててまでこの話をもちだしてきた情報員によれば――「ペデュアは、将軍のお子さんたちを誘拐することによるマイナス面はなにもなく、プラスの面はかぞえきれないほどあると考えています。でぎればお子さんたちをアコード国から連れ出し、長期間――おらそく何年にもわたって、将軍とご主人を心理的に動揺させようと計画しているようです。そのような葛藤《かっとう》があるなかでは、将軍は現在の職務をつづけられないだろうと……」
スミスはいった。「子どもたちが一人ずつ殺され、手足の一部が送られてきたりしたら……」言葉につまった。「ペデュアの考えるとおりになるわね。シャケナーとわたしにどんな効果があるか、敵はよくわかってるわ。よろしい、ではあなたとベルガは――」
そのとき、机の電話が鳴った。建物内の直通回線だ。ビクトリー・スミスは長い腕を二本のばして受話器をとった。
「スミスよ」しばらく聞いたあと、軽く口笛を吹いた。「なんですって? でも……。わかったわ、シャケナー、信用するわ。ええ、ジェイバートにはアンダータウン大佐に連絡させて」
受話器をおき、トラクトのほうを見た。
「シャケナーが解読キーをみつけて、昨夜傍受した無線通信を解読したのよ。子どもたちはどうやらダウンタウンのスパー・プラザビルにとじこめられているらしいわ」
今度はトラクトのそばの電話が鳴った。トラクトは外部スピーカー出力のスイッチを押して、答えた。「トラクトだ」
ベルガ・アンダータウンの声が、マイクから離れた小さな音で聞こえた。「そうなの? とにかく、黙ってて!」そして大きくなった。「聞こえる、トラクト? こっちはとても忙しいのよ。あなたの技術屋さんからいま連絡があって、子どもたちはスパー・プラザビルの最上階に監禁されているといわれたわ。本当にそうなの?」
トラクトは答えた。「その技術屋はわたしの部下じゃありませんよ。出所はともかく、それは重要な情報なんです、大佐」
「こちらでも大きな手がかりをつかんだところなのよ。プリンストン銀行ビルに引っかかっている絹の旗を、市警察がみつけたわ」スパー・プラザから半マイルほどの距離だ。「ダウニング大尉から特徴を聞いた上着の一部だと考えられるの」
スミスがマイクにかがみこんだ。「ベルガ、それにはほかになにかついていなかった? メモとか」
しばらく沈黙があった。ベルガ・アンダータウンが癇癪《かんしやく》を抑えているようすが、トラクトには想像できた。ベルガは部下のまえではいつも、できそこないのハイテク機械≠ニののしっているが、スミスと回線がつながっているときは、そうはいわなかった。
「いいえ、かなりぼろぼろにちぎれているんです。司令官、スパー・プラザにいるという技術者の情報は正しいかもしれませんが、あそこは客や職員の出入りの多いところです。下の階に客をよそおったチームを送るつもりですが――」
「そうして。警戒させないようにして近づくのよ」
「司令官、旗がみつかった高層ビルも怪しいのではないでしょうか。そちらは空《あ》き部屋が多いですし――」
「いいわ。両方調べて」
「わかりました。問題は市警察です。彼らはすでに独自に行動をはじめ、サイレンを鳴らしたり、めだつことをやっているんです」
昨夜、ビクトリー・スミスはトラクトに、市警察が力になるはずだと説《と》いていた。しかしその力はいつも発揮されるわけではないし、政治的に動くこともある。いまはこう指示した。
「そう? では黙らせなさい! 責任はわたしがとるわ」
そしてトラクトのほうに手をふった。
「わたしたちもダウンタウンへ行くわよ」
31
シンクレットは仮の司令室≠せわしなく歩きまわっていた。
まさに運が明暗を分けた。今回の任務では百日間にわたって潜伏する予定だったのだが、潜入から十日もたたずに目標をとらえることができた。作戦の経過では大きな偶然と大きな失敗が交錯した。これから先、ほかになにが起きるのか。
軍人は実戦で成功してこそ昇進できるのであり、シンクレットはもっと悪い情況から生還したこともある。パーカーとフレムが受像管のラックに押しつぶされたのは、不運と不注意のせいだ。最悪の失敗はおそらく目撃者を残したことだろう。そしてこの最悪の失敗は、どうみても自分の責任だ。成功といえるのは、六人の子どもをつかまえ、そのうち四人が標的としていた子どもだったことだ。博物館からの脱出はうまくいったが、空港での飛行機乗り込みには失敗した。アコード国の警備体制の反応が予想より早かったのだ――それもおそらく、目撃者を生き残らせてしまったためだろう。
ここはスパー・プラザの二十五階を環《かん》状にかこむ貸しオフィスだ。市内の動きを見張るには最適だが、真下は見えない。ある意味では、すっかり袋小路《ふくろこうじ》に追いこまれているわけだ。こんなふうに空高く登って身を隠すやつがいるだろうか。しかしべつの考え方をすれば――
シンクレットは軍曹の背後で立ち止まった。「デニー、トリベルはなんていってるの?」
軍曹は電話を顔から離して答えた。「一階のロビーはふだんどおりの混雑だそうです。トリベルのところには客が来ていて、惚《ぼ》けかかった老人と前世代のやつが賃貸用オフィスを見たいといっているそうです」
「いいわ、三階のつづき部屋を見せてやりなさい。それでまだほかの部屋を見たいというようなら、明日出なおしてこいといって」
明日までには、できることならここから逃げ出していたかった。嵐になっていなかったら、シンクレットと隊員たちは昨夜のうちに脱出できていただろう。キンドレッド国の特殊部隊はヘリコプターを使って、アコード軍が想像もしないような作戦行動をとれるのだ……。幸運と任務遂行能力があと一、二日つづけば、シンクレットと部隊はこの戦利品とともに帰還できるはずだ。キンドレッド国の戦術書では、暗殺と断頭攻撃に重きがおかれている。ペデュア師はそこに、今回の作戦によって新しく実験的な一章をつけくわえようとしているのだ。とはいえ、ペデュアはこの六人の子どもたちをいったいどうするつもりなのだろう。
シンクレットはその考えをふりはらった。大戦後、シンクレットはペデュア師の側近《そっきん》の一人となり、それにともなって出世してきた。しかしキンドレッド国の拷問室にペデュア師とともにはいるより、彼女の命令を受けて現場に出るほうがよほどましだった。拷問室ではいろいろなことが簡単に……判明する。そして死はなかなかやってこないのだ。
シンクレットは部屋をひとつひとつまわりながら、反射式拡大鏡で下の通りを観察した……。くそ。警察車両が非常灯を明滅させながら何台も連なってきている。荷台の特殊装備からすると、重機動隊≠ニ称する部隊のようだ。連中のおもな仕事は、じつはその外見で犯罪者をおどかして降伏させることなのだ。非常灯は――そしてまもなく聞こえはじめるであろうサイレンも――その威嚇《いかく》の一部でしかない。今回についていえば、警察は重大なまちがいを犯しているわけだ。シンクレットはすでに環状のオフィスを走ってもどりながら、背中から小型のショツトガンを抜いていた。
「軍曹! 上階《うえ》へ行くわよ」
デニーは驚いて顔をあげた。「トリベルの話では、サイレンは聞こえるものの、こちらにむかっているわけではないようです」
偶然なのか? 警察はべつの犯罪者を追っているのか……。シンクレットはめずらしく判断に迷った。
デニーが手をあげてつづけた。「トリベルによると、物件を案内している客のグループから三人の老人が姿を消したそうです。トイレにでも行ったのではないかということですが」
もう迷っている場合ではない。シンクレットは手をふって軍曹を立たせた。
「トリベルに連絡して。そのまま姿をくらませと」もしそうできるなら……。「第五代替計画を実行する」
代替計画の実行……。それは特殊任務における望ましからざる展開だが、いちおう頭の片隅にはあった。シンクレットとデニーは、なんとか建物から脱出して市民のあいだにまぎれこめるだろう。しかしトリベル伍長の場合は、そううまくいかないはずだ。とはいえ、彼はそれほど多くを知らないので問題ない。任務が不名誉な結末になる可能性は低い。最後の始末をきちんとつければ、部分的な成功といえるのだ。
二人は中央階段を駆けあがりはじめた。デニーは自分のショットガンと戦闘用ナイフを抜いた。第五代替計画を成功させるためには、数分間のまわり道が必要だ。子どもたちを殺さなくてはならないのだ。できるだけ残酷に。そうすることでアコード国側のだれかが心理的打撃を受けると、ペデュアは考えているらしい。ばかばかしいとシンクレットは思ったが、もちろん詳しい事情はわからないし、どうでもいいことだ。大戦争の終わりにシンクレットは、使用中の冬眠穴の虐殺《ぎゃくさつ》に参加した。このうえなく残酷な行為だったが、そうやって盗んだ物資のおかげで、キンドレッド国は勢力を盛り返すことができたのだ。
いや、子どもたちにとってはある意味でこのほうがいいかもしれない。ペデュア師のもとに送られる運命をまぬがれられるのだから。
ブレントは午前中ほとんどずっと鉄の床に腹ばいになっていた。ビキやゴクナとおなじく気分がふさいでいるようだ。ジャーリブはとりあえず二人の赤ん坊をなだめるのに忙しかった。小さい二人はとても不機嫌で、泣いてばかりで手がつけられない。ビキとゴクナも手助けしようがなかった。なにしろ食事はまえの日の午後からずっとあたえられていないのだ。
知恵を働かせる余地もあまり残っていなかった。夜明けになると、救難旗が風にちぎられていることがわかり、二度めの試みも三十分とたたずにまた吹き飛ばされた。そのあとゴクナとビキは、唯一の出入り口のすぐ上にいくつも突き出ている切断されたパイプの根もとのあいだで、遊び紐を巧妙に編んだ。そのときはブレントの助言がとても役立った。結び方やパターンのつくり方がうまいのだ。もし敵意をもっただれかがこのドアを通ってきたら、かなり不愉快なめに遭《あ》わせてやれるだろう。しかし相手が武器をもっていたらどうすればいいのか。そういう議論がはじまると、ブレントはそっと退《さ》がって、また冷たい床の上で腹ばいになった。
頭上から差しこんでくる細く四角い日差しが、牢獄の高い壁をすこしずつ動いている。もうお昼頃だろう。
「サイレンが聞こえる」一時間ほども黙りこくっていたブレントが、ふいにいった。「腹ばいになって聞いてみるといいよ」
ゴクナとビキはやってみた。ジャーリブは赤ん坊を黙らせようとしたし、そのほうがありがたかった。
「ええ、聞こえるわ」
「あれは警察のサイレンよ、ビキ。なにかタン、タン、タンて音を感じない?」
ゴクナが飛び起き、さっとドアのほうへ走っていった。
ビキはまだしばらく床に伏せていた。「静かにして、ゴクナ!」
赤ん坊たちも静かになっている。なにか音が聞こえた。建物のどこか低いところでまわっている換気扇の低いうなり。まえにも聞いた通りの雑踏《ざっとう》……。しかし新たに聞こえてきたのは、いくつもの足が階段を駆けあがってくる音だ。
「近くだ」とブレント。
「こ……ここへむかってるんだわ」
「そうだ」ブレントはいつものように鈍《にぶ》い調子で答えた。「そしてべつの足音も聞こえる。かすかで、もっと遠くだ」
それどころではない。ビキはドアのところに走り、ゴクナのあとを追って紐によじ登った。二人の計画はただの小細工だったが、良くも悪《あ》しくもほかに選択の余地がないのだ。はじめジャーリブは、上から跳び降りるのは体重の多い自分のほうがいいと主張した。たしかにそうだが、それでは彼が唯一の標的にされてしまうし、赤ん坊たちを銃撃から守る役目も必要だ。
そういうわけで、いまはゴクナとビキがドアの両側の五フィート頭上に立ち、巧妙に編まれた網につかまっていた。
ブレントも立ちあがり、ドアの右側に走っていった。ジャーリブはできるだけわきのほうに離れ、子どもたちをしっかりと抱きかかえた。もうなだめてはいないのだが、どういうわけか二人とも静かになっていた。きっと赤ん坊なりにわかったのだろう。本能のなせるわざだ。
走る足音が壁のむこうで感じられた。二人いる。一人がもう一人に低い声でささやいた。言葉までは聞きとれないが、誘拐犯のリーダーの声だとわかった。鍵をがちゃがちゃとまわす音がした。
ビキの左側の隅で、ジャーリブが赤ん坊たちをそっと背後の床に降ろした。赤ん坊はどちらも黙ってじっとしている。ジャーリブはドアのほうにむきなおり、突進するために身構えた。ビキとゴクナも壁に身を寄せ、低くかまえて、身体《からだ》のささえとなる紐をきつく握った。ビキとゴクナは最後に視線をかわした。どちらもこんな事件に巻きこまれる原因をつくった責任者なのだ。無関係の赤ん坊たちを命の危険にさらした責任者なのだ。その借りをいまこそ返さなくてはならない。
金属のこすれる音をたてながら、ドアが横にすべってひらいた。
ブレントが跳びかかろうと身構えながら、「乱暴しないで」と、いつものように無愛想で抑揚《よくよう》のない口調でいった。
ブレントに演技などできるはずもないが、奇妙なことに、その声はおびえ、理性を失っているように聞こえた。
「だれも乱暴などしないわ。もっとましなところへ連れていって、食べるものをあげるから、出ていらっしゃい」誘拐犯のリーダーはいつものように冷静だ。「出ていらっしゃい」今度はすこしきつい口調になった。
服も乱さずにここから全員を連れ出せると思っているのだろうか。しばらく沈黙が流れた……。いらいらしたため息がかすかに聞こえた。そして、さまざまなことがいっぺんに起きた。
ゴクナとビキは力いっぱい壁を蹴り、頭から跳び降りた。高さわずか五フィートからだが、紐がなかったら頭の殻を床で叩き割ってしまっていただろう。しかし伸縮性のある紐のおかげで跳《は》ね返り、頭を下にしたまま、ひらいたドアのまえを横切った。
ブレントの声がした横のほうへむかって銃火がひらめいた。
ビキには頭と腕と、銃のようなものがちらりと見えただけで、次の瞬間にはリーダーの背中に体当たりしていた。リーダーはあおむけに倒れ、銃は床の上をころがった。しかしもう一人のやつは数歩うしろにいた。ゴクナはその肩にはげしくぶつかり、組みつこうともがいた。しかし相手は押し返し、ゴクナの腹にむけて銃を撃った。ゴクナのうしろの壁に、殻の破片と血が飛び散った。
ブレントがその男の上に跳びかかった。
ビキの身体の下になっていたリーダーが跳ね起き、ビキは戸口の鴨居に叩きつけられた。それからは視界が暗くなって、もの音もよく聞こえなくなった。どこかでさらに銃声と、べつの声が聞こえた。
32
ビキは軽傷で、ちょっとした内出血は医者がすぐに手当てしてくれた。ジャーリブは殻のあちこちがへこみ、腕を何本かひねっていた。しかしブレントはもうすこし重傷だった。
トラクトという少佐からいろいろ質問されたあと、ビキとジャーリブはヒルハウスの医務室にブレントを見舞いに行った。そこには先にパパが来ていて、ベッド脇の席にすわっていた。子どもたちが解放されてそろそろ三時間になるが、パパはまだショックが抜けきれていないようだった。
ブレントは厚いクッションのあいだに寝かされ、食手《しょくしゅ》のとどくところに飲料水のチューブがあった。ビキとジャーリブがはいっていくと、顔をこちらにむけ、手をふって笑みを送った。
「ぼくはだいじょうぶだよ」
脚を二本折り、大粒散弾《だいりゅうさんだん》の穴がふたつあいただけ、というわけだ。
ジャーリブはその肩を叩いた。
「ママはどこ?」ビキは訊いた。
パパは頼りなげに首を揺らした。「家のどこかにいるよ。夜はかならずいっしょにいるからといっていた。いろんなことが起きたんだ。今度のことは、どこかの頭のおかしな連中が思いつきでやったわけじゃないんだ。それはわかるね?」
ビキはうなずいた。家のなかには警備員とおぼしい姿がいつも以上に多かったし、外には軍服を着た兵士さえいた。トラクト少佐の部下たちからは、誘拐犯のふるまいや、おたがいにどんな態度だったかや、言葉|遣《づか》いについていろいろ訊かれた。はてはビキに催眠術をかけて記憶を最後の一滴まで絞り出そうとさえしたが、さすがにそれは無駄だった。催眠術については、ビキとゴクナはずっとまえからおたがいを実験台にして試していたが、一度も成功したことがないのだ。
生きたまま捕らえられた誘拐犯はいなかった。すくなくとも一人は拘束されるのを避けるために自害したと、トラクトは遠まわしに教えた。
「この事件を裏で指示したのがだれなのかを、将軍は調べているんだ。それがわかれば、その敵に対するアコード国の態度も変わることになる」パパはいった。
「キンドレッド国よ」ビキは抑揚《よくよう》のない声でいった。
誘拐犯たちの軍人らしい身のこなし以外に証拠はないけれども、ビキは新聞をたくさん読んでいたし、暗期を征服することにともなう危険についてはパパからいろいろ聞かされていた。
パパは、ビキの断定に対して肩をすくめて答えた。「そうかもしれない。とにかくいちばんだいじなのは、家族にとって大きな変化が起きたということだ」
「あたりまえよ、パパ!」ビキは大声でいった。「大きな変化よ。もうもとにはもどれないのよ」
ジャーリブがゆっくりとうなだれ、ブレントのベッドに力なく頭をのせた。
パパは身を縮めていた。「悪かった、子どもたち。傷つけるつもりはなかったんだ。そんなつもりは……」
「パパ、家から抜け出したのはゴクナとわたしなのよ――黙って、ジャーリブ。年上でも、わたしたちはいくらでも好きにまるめこめたんだから」
たしかにそうだった。二人は兄たちのエゴを利用したり、歪曲《わいきよく》生物の展示をちらつかせて知的好奇心を利用したりした。単純に妹たちへの愛情につけこんだりもした。ブレントの弱点についてはいうまでもない。
「今度のことのきっかけをつくったのはゴクナとわたしよ」ビキはつづけた。「博物館でブレントの不意打ちがなかったら、いま頃みんな死んでたわ」
パパは否定の身ぶりをした。「いや、ビキ。おまえとゴクナがいなかったら、救出隊の突撃は一歩遅かったはずだ。みんな死んでいただろう。ゴクナは――」
「でもゴクナは死んじゃったのよ!」
ふいに感情の鎧《よろい》が壊れて、ビキをのみこんだ。声にならない叫びをあげて医務室から飛び出し、中央階段へむかって廊下を走った。軍人や、この家のいつもの住人のあいだを走り抜けていくあいだ、行く手をさえぎるように何本もの手がさしだされたけれども、うしろからだれかが声をかけると、その手は放された。
ビキはどんどん上へむかって走り、研究室や教室のならびを通り抜けた。みんなでよく遊び、ハランクナー・アナービーと最初に会った場所でもある中庭も通り抜けた。
きり嫁のてっぺんには、ゴクナとビキが要求し、懇願《こんがん》し、さまざまな策略を使って手にいれた、切妻《きりづま》造りの出窓がある小さな屋根裏部屋がある。深い冬眠穴のように居心地いいけれども、じつは高い空にとても近い。パパは高い空にずっとあこがれているし、娘たち二人は高いところから下を見おろすのが大好きだった。プリンストン市でいちばん高いところというわけではないけれども、それでも充分にいい眺めだった。
ビキはその屋根裏部屋に駆けこむと、力いっぱいドアをしめた。一度も立ち止まらずに駆けあがってきたせいで、息が切れてすこし目眩《めまい》がした。そして……ぎょっとして、部屋を見まわした。野生|蜘蛛《ぐも》の家があるのだが、それが五年のあいだにずいぶん大きくなっていたのだ。だんだんと寒い冬がめぐってくるようになって、かわいらしさは薄れてきた。翅《はね》がはえると、もう小さな蜘蛛族にみたてるのは無理がある。給餌《きゅうじ》器に何十匹も群がっていた。紫外色と青の翅は、野生蜘蛛のつくった家の外壁の模様とよく似ている。この家の女主人はだれだろうと、ゴクナと長い論争をしたものだ。
二人はなんでも意見が衝突した。壁ぎわには、ゴクナが地下室からもってきたロケット弾を人形の家にしたてたものがある。これはどうみてもゴクナのだけれど、二人はそのことについてもずっといい争っていた。
ゴクナの痕跡《こんせき》があちこちにあった。しかしゴクナはもうここに帰ってこないのだ。話すことも、いい争うことも、二度とできない。ビキはきびすを返して部屋から出ていきそうになった。まるで身体《からだ》のなかに大きな穴があき、腕も脚もみんなもがれてしまったようだ。立っていることもできず、床に崩れるようにしゃがみこんで、いつまでも震えた。
父親と母親とはずいぶん異なっているものだ。ふつうの家族にも共通するところは、子どもながらにもわかる。父親はずっとそばにいて、どこまでも辛抱強く、おねだりが通じる相手だ。しかしシャケナー・アンダーヒルは、ふつうの家族にはあてはまらない独特の性格をもっていた。自然や文化がつくりだしたルールを障害物とみなして、思索したり実験対象にしたりするのだ。そのやり方にはユーモアと知恵のひらめきが感じられた。
母親は――すくなくともふつうの母親はいつもそばにはいないし、子どもっぽい要求をいちいち受けいれてはくれない。それでもビクトリー・スミス将軍は、子どもたちとよくいっしょにいるほうだった。十日のうち一日はプリンストン市に帰ってくるし、みんなでランズコマンド市に旅行にいっているときは、もっと頻繁に会いに来てくれる。家族の本当のルールが決められるのも将軍がいるときであり、そのルールは、さしものシャケナー・アンダーヒルも曲げようとしない。そして、子どもが本当に悩み苦しんでいるときにそばに来てくれるのも、将軍だった。
屋根裏部屋への階段を登ってくる足音が聞こえたとき、ビキはいつからこうして身体をまるめて床に横になっていたのか、よくわからなくなっていた。まだ三十分もたっていないだろう。窓の外を見ると、まだ涼しく美しい午後のなかばだ。
ドアをコツコツと叩く音がした。「ジュニア? 話してもいい?」
ママだ。
ビキのなかで奇妙な気持ちが動いた――よかった。パパは許してくれる。いつでも許してくれる。でも本当にこの気持ちを理解してくれるのは、ママだろう。
ビキはドアをあけ、うなだれて退《さ》がった。「夜までは忙しいんじゃなかったの?」
それからようやく、ママが軍服姿であることに気づいた。上着も袖《そで》も黒で、肩章は紫外色と赤。ママが軍服を着たままプリンストン市へ帰ってきたことはなかったし、ランズコマンド市でもよほど高位者に報告するときしか着ないのだ。
ママは静かに部屋にはいってきた。
「それは――こっちのほうがもっと重要だと思ったからよ」
わきにすわるようにうながされて、ビキは腰をおろした。この騒ぎがはじまってから初めてほっとできたような気がした。ママの二本の前手《ぜんしゅ》が肩にまわされた。
「今日はとても大きな……まちがいが起きたわ。その点ではパパもわたしもおなじ考えよ。わかるわね?」
ビキはうなずいた。「ええ、もちろん!」
「ゴクナはもう生き返らない。でもゴクナを思い出し、愛し、もうこんなことが二度と起きないようにまちがいを正していくことはできるわ」
「ええ!」
「パパは――いえ、わたしは――すくなくともあなたがちゃんと成長するまでは、もっとしっかり守らなくてはいけないと思うようになったわ。いままでのやり方も正しかっただろうとは思うけど、でも実際にはあなたをたいへんな危険にさらしていたのよ」
「ちがうわ! ママ、わからないの? ルールを破ったのはわたしと、そして……ゴクナなのよ。ダウニング大尉をだまして外に出たわ。パパやママから注意されていたことを本気にしなかったのよ」
ママの腕がビキの肩を軽く叩いた。驚いたのか、それとも急に怒りだしたのか。どちらかわからなかったし、ママは長いこと黙っていた。そして話しだした。
「そのとおりね。シャケナーとわたしはまちがっていた……。でもあなたとゴクナもまちがったのよ。まちがいを犯せばだれかが死ぬというゲームも、世の中にはあるのよ。でも、こんなふうに考えてみて、ビクトリー。むずかしい立場に立たされてからあと、あなたたちはよくやったわ。プロとして訓練を受けている兵士でもかなわないくらい。スアビズメ家の子どもたちも守ったし――」
「でも、バーボップを危険なところに登らせて――」
ママは怒ったように肩をすくめた。「そうね。それからきびしい教訓を学べるはずよ。わたしも耐えながらずっと生きてきたわ」
ママはまた黙りこみ、遠くを見ているような表情になった。ふいに、やはりママでもまちがいを犯すことはあるのだと、ビキは実感とともに気づいた。さっきそういうふうにいったのは、言葉のあやなどではないのだ。子どもたちは小さい頃からずっとママを尊敬してきた。将軍であるママは自分の仕事についてほとんど話さなかったけれども、どんな冒険小説の主人公よりもすごい人物らしいと、子どもたちはだいたい察していた。ビキはそれが本当に意味するところを、いま垣間《かいま》見たのだ。ビキはママのわきにすりよった。
「ビキ、あなたとゴクナは土壇場《どたんば》でよくやったわ。四人ともね。その代償はとてつもなく高いものについたけど、もしわたしたちが――あなたが――そこから学ばなかったら、それこそ最悪なのよ」ゴクナは無駄死にということになるのだ。
「わたしは生まれ変わるわ。なんでもする。なにをすればいいの?」
「まわりの変化はそれほどないわ。軍事的課目を教える家庭教師をつけて、もしかすると身体的なトレーニソグもやらせるかもしれない。でもあなたと幼い子どもたちは、まだまだ知識として身につけなくてはいけないことがたくさんある。毎日の生活はこれまでとほとんど変わらないはずよ。大きく変わるのは、あなたの頭のなかと、わたしたちがあなたに接するときの態度よ。その勉強の先では、巨大でおそろしい危険について理解しなくてはいけない。今朝のような危険がずっとつづくというわけではないと思うけど、でも長い目で見ればはるかに危険かもしれない。残念だけど、いまはそういう危険な時代なのよ」
「そして、いい意味での可能性もたくさんある時代?」パパはいつもそういっている。ママはどう答えるだろうか。
「そうね。たしかにそうよ。だからこそ、シャケナーとわたしはこういうことをやってきたの。でも希望や楽観だけではシャケナーの求めるものは実現できない。それまでの何年かはもっともっと危険になるはずよ。今日の事件ははじまりにすぎない。もっとも危険な時代は、わたしが老人になってからやってくるかもしれないわ。そしてパパは半世代分も年上だから……」
ママはやや黙ったあと、言葉を継いだ。
「とにかく、今日のあなたたち四人はよくやったわ。それどころか、ひとつのチームだといっていいくらい。わたしたち家族がひとつのチームのようだと思ったことはある? だれにも負けない特別な強みをもってるのよ。わたしたちを構成するのは、ひとつかふたつの世代だけではない。リトル・ハランクからパパまで、いろんな年齢のメンバーがそろっているわ。そしておたがいに忠実よ。才能にもめぐまれている」
ビキはママにむかってにっこりした。「パパはだれよりも頭がいいわ」
スミスは笑った。「ええ、そうね。シャケナーは……独特ね」
ビキは自分なりの分析をはじめた。「実際には、たぶんジャーリブをのぞけば、だれもパパの学生さんたちの足もとにもおよばないわ。でもわたしと、その……ゴクナは、ママに似たのよ。わたしたちは――わたしは、いろんな相手やものごとについて計画を立てるのが得意なの。ラプサとリトル・ハランクは、大きくなったらその中間くらいになるんじゃないかしら。そしてブレントは、愚かではないわ。頭の働きがふつうとはちがうだけ。みんなといっしょになにかをやるのは苦手だけど、本能的な強い警戒心をもってるわ。いつもわたしたちのまわりを見張ってくれているのよ」
将軍はにっこりした。「そうね。あなたたちは五人になったわ、ビキ。わたしとシャケナーをいれれば七人ね。七人のチームよ。あなたの分析は正しいけれども、世間一般と比較することはできないわね。だからかわりにわたしが、冷徹なプロとしての評価をするわ。あなたたちは最高の才能をもっている。こういうことをはじめるのはまだ何年か先にしたかったのだけど、もう情況が変わってしまったのよ。わたしが心配しているあるとき[#「あるとき」に傍点]がやってきたら、あなたたち五人にもなにが起きているのかを教えなくてはいけないわ。もしかすると、みんなが混乱しているときに、あなたたち五人には、ある役割を果たしてもらわなくてはいけないかもしれない」
ビキはもう子どもではないから、軍隊の誓いや指揮命令系統については理解できた。
「みんなが? でも――」ママの肩についた階級章をさした。
「ええ、わたしは王家に忠誠の誓いをたてているわ。わたしがいいたいのは、王家に仕えるために、おもてむきの指揮命令系統からはずれた行動をとらなくてはいけないときが――一時的に――くるかもしれないということよ」娘に微笑んだ。「冒険小説のなかには正しい部分もあるのよ、ビキ。アコード軍情報局長官は特別の権限をもっていて……。あら、いけない。これ以上、会議の予定を遅らせられないわ。すぐにまた、今度はみんなで話しましょう」
ママが部屋から出ていくと、ビキは丘の頂上にある小さな寝室のなかを歩きまわった。まだぼうっとしていたけれども、底なしの恐怖はもう感じなかった。かわりに驚きと希望があった。
ビキとゴクナはよくスパイごっこをして遊んだけれど、ママは仕事の話をしなかったし、軍隊内での地位がはるかに高いので、ママの真似などやりようがなかった。ハランクナー・アナービーの建設会社を相手に、企業スパイの真似をするのがせいぜいだった。しかしこれからはビキはゴクナの人形の家でしばらく遊んだ。ここにゴクナがいても、この計画について意見が対立することはないだろう。ママのいうチーム≠ヘ最初の犠牲者を出したけれども、おかげで自分たちはチームなのだという自覚ができた。ジャーリブ、ブレント、ラプサ、リトル・ハランク、ビキ、スミス、シャケナー。みんな精いっぱいがんばるだろう。
〈〈そうすれば、きっとうまくいくはずよ〉〉
33
エズル・ヴィンには年月の過ぎ去るのがとても早く感じられた。それは四分の一の当直サイクルのせいばかりではない。武力衝突と虐殺《ぎゃくさつ》事件からあとの期間は、エズルにとって人生の三分の一にあたる。それは徹底した忍耐でもって演技し、トマス・ナウを倒して船団をとりもどすための抵抗運動を、あきらめずにつづけていくと心の底で誓った年月だった。そして果てしない苦悩を覚悟した年月でもあった。
たしかにエズルは、徹底した忍耐でもって演技してきた。それは苦しく……そして屈辱《くつじょく》的だった。しかし恐怖はあまり感じなかった。そして詳しいことはわからないものの、自分がファム・ヌウェンの下で働いているのだと知ったおかげで、最後はかならず勝てると自信をもてるようになった。しかしいちばん驚かされたのは、不安な内省《ないせい》によって浮かびあがってきた自分の気持ちだった。どういうわけか、自分の人生のなかでいまがいちばん充実していると感じられるのだ。なぜなのだろう。
ナウ領督《りょうとく》は残された医療自律機能系の使用を抑制し、翻訳者のように必要不可欠な機能≠ヘほとんど連続当直させていた。トリクシアは四十代になっていた。エズルは当直のあいだ、毎日のようにようすを見にいき、その顔のわずかな変化にも胸を痛めていた。
しかしトリクシアにはべつの変化もあった。何年ものあいだずっとそばにいたおかげで、エズルに対するトリクシアの関心がもどってきたように思えるのだ。
ハマーフェスト棟の屋根裏部屋にある彼女の狭い部屋に、エズルがすこし早めに来ても、まったく無視される。しかし一度、いつもの時間より百秒ほど遅れてしまったことがあった。そのときトリクシアはドアのほうをむいてすわっていて、ひと言、「遅かったわね」といったのだ。
アン・レナルトそっくりの抑揚《よくよう》のない不機嫌そうな口調だった。集中化人材がこまかいことにうるさいのは有名だが、それでも、トリクシアはエズルがいないことを意識したのだ。
身だしなみにも気を使いはじめたようだった。エズルが来るときには、髪はそれなりにきれいにかきあげられていた。ときには一方的ではない会話が成立することもあった――話題を選べば、だが。
今日は時間どおりに来たが、ちょっとした禁制品をもってきた――ベニーの酒場で手にいれた嗜好品《しこうひん》。二つの小さなケーキだ。
「あげるよ」
エズルはケーキのひとつをトリクシアのそばにさしだした。いい香りが部屋いっぱいに漂った。しかしトリクシアは、まるで下品な合図を見るような顔でちらりとエズルの手に目をむけると、じゃまだからどかせというように手をふった。
「今日の翻訳業務をもってきたはずね」
やれやれ。それでもエズルは、彼女の手もとの作業スペースにケーキを固定してやった。
「そうだ、もってきたよ」
エズルはいつものドアのわきの席に、トリクシアのほうをむいてすわった。実際には、今日の作業リストはあまり長くなかった。集中化人材はすばらしくよく働くが、一般常識という接着剤が働かないため、さまざまな専門グループが狭いところを堂々めぐりするような内省状態におちいりがちだ。そこでエズルのような一般人が、集中化人材の作業要約を読んで、それぞれの専門グループに設定された意識の対象以外のところで、興味をもてそうな材料を探さなくてはならない。その報告がナウのところまであげられると、追加作業リストとしておりてくるのだ。
今日のトリクシアはその作業リストをなんなくこなした。しかしそのいくつかに対しては、「時間の無駄」と低い声でつぶやいた。
「ところで、リタ・リヤオと話したんだけど、彼女のところのプログラマーのあいだではきみの仕事が好評だそうだよ。彼らは蜘蛛《くも》族の新型マイクロプロセッサ上で動く金融アプリケーションと、ネットワーク用ソフトのセットを開発しているんだ」
トリクシアはうなずいた。「そう、そう。彼らとは毎日話すわ」
翻訳者が下位コード専門のプログラマーや、金融、法律担当の愚人《ぐじん》とうまがあうのは、よく知られた話だ。たぶん翻訳者はそれらの分野に無知で、相手も翻訳に無知だからだろう。
「リタはこのプログラムを売る会社を地上に設立できたらといってるんだ。地元製品を駆逐《くちく》して、市場に完全浸透できるはずだって」
「そう、そう。商売繁盛《プロスペリティ》ソフトウェア社ね。社名も考えてあげたわ。でもまだ時期尚早よ」
そうやってしばらくやりとりして、リタ・リヤオに伝えるべき現実的な待ち時間を決めた。トリクシアは浸透作戦を担当している愚人とも連携しているので、両者の考えがはいったその意見はかなり信頼できるはずだ。
コンピュータネットワークを介してなにかをやるのはいくら知識と計画が完璧でも――ネットワークそのものが低レベルなままではどうしようもない。ソフトウェア市場が大きく発展するにはまだ五年以上かかるだろうし、蜘蛛族の公共ネットワークが立ちあがるのはさらにそのあとだ。それまでは地上で大きな展開をしようとしても不可能に近い。いまでも継続的に情報操作ができるのは、アコード国の軍用ネットだけなのだ。
たちまち作業リストの最後の項目になってしまった。それは一見するとつまらない内容のようだが、エズルは長い経験から、これは厄介そうだと思った。
「次の課題だ、トリクシア。これは翻訳そのものにかかわる質問なんだ。格子縞色≠ニはなにか、ということなんだけど、きみは風景を描写するときにまだこの用語を使ってるね。生理学者の――」
「カクトね」
トリクシアは目を細めた。愚人どうしの交流では、テレパシー能力があるかのような親密さが成立するか――あるいは高尚なロマンス小説でしかおめにかかれないような血も凍る敵意でもって憎みあうか、どちらかだ。ノーム・カクトとトリクシアはその両方の状態を往復していた。
「そうだ。ええと、とにかく、カクト博士はぼくに視覚と電磁波の性質について長い講釈を垂れて、なんらかの色を格子縞≠ニ表現するのは意味をなさないというんだ」
トリクシアは眉をひそめた。それがエズルには、ぎくりとするほど年老いた表情に見えた。
「あれはたしかな言葉よ。わたしが採用したの。文脈の感触では――」
眉間《みけん》の皺が深くなった。翻訳では、なにかのまちがいに思える箇所《かしょ》を検討するうちに、目から鱗《うろこ》が落ちるような発見をすることがしばしばある。ありのままの真実がわかるというわけではないが、すくなくとも蜘蛛族にとっての現実が、いままで気づかなかった側面から見えてくることがあるのだ。トリクシアのような集中化された翻訳者でも、まちがいはある。彼女たちが未知の種族の目に映る風景を手探りしていた初期の翻訳では、一時的に採用された言葉がたくさんあったし、そのほとんどはのちに放棄された。
ただ困ったことに、愚人は自分のこだわりをなかなか捨てられないものなのだ。
トリクシアは狼狽しかけていた。見ためはそれほどではなく、眉間に皺をよせることはよくあるのだが、その皺はかなり深い。いつもは、黙っていても両手用キーボードはひっきりなしに叩いているものだが、今回はヘッドアップディスプレーを通じて壁に映し出される分析データに見いっていた。しだいに呼吸を早くしながら、隣接するネットワークや自分の頭にはいってきた批判を検討している。反論はしなかった。
エズルはその肩に手をおいた。「補足の質問だ、トリクシア。カクトとはこの格子縞色≠ノついてしばらく話をしたんだ」
実際には、エズルはこの男を質問攻めにしたのだった。集中化された専門家が相手のときには、たいていこうするしかない。愚人の専門分野と現在あたえられている問題に範囲をしぼって、さまざまな角度から質問をくりかえすのだ。手練手管《てれんてくだ》とそれなりの幸運がなければ、会話はあっというまに終わってしまう。当直合計で七年がすぎたいまも、エズルはその手法に熟達したとはいえなかった。しかしこのときのノーム・カクトは、ありえなくはない仮説をひとつひねりだしてくれた――「蜘蛛族はさまざまな視覚器や光覚器をもっているので、その脳も複数のアクセス経路をもっているのかもしれない。ある瞬間にひとつのスペクトル領域を知覚して、次の瞬間にべつの領域を知覚したらどうか。よくわからないが、なんらかの波打つような感覚をおぼえるのかもしれない」
実際には、カクトはすぐさまそのアイデアをばかばかしいと否定した。たとえ蜘蛛族の脳がタイムシェアリング方式で視覚器を使っていたとしても、意識レベルでは連続的に認識されるはずだ、と。
エズルがそう話しているあいだ、トリクシアは微動だにせず、指だけを動かしていた。いつもは動きまわっている視線が、いまはじっと……エズルの目を見つめていた。エズルの話がただの雑音ではなく、彼女の集中化された意識のほぼ中心にあるのだ。
それからトリクシアは目をそらし、音声で命令を入力して、さらに忙しくキーを叩いた。しばらくして、その視線は部屋のあちこちに急速に移動しはじめた。ヘッドアップディスプレーのなかだけに見える幻影を追っているのだ。そしてふいにいった。
「そうよ! その解釈が正しいのよ。いままではほとんど考えていなかった……。たんに文脈からこの単語を選んだのだけど――」
エズルにも見える壁に、日付と場所のデータが流れはじめた。エズルは目で追おうとしたが、彼のヘッドアップディスプレーは、ハマーフェスト棟内ではまだ機能制限を受けている。どういう場面が列挙されているのか判断する材料は、トリクシアの曖昧《あいまい》な身ぶりしかなかった。
エズルの頬が勝手にゆるみはじめた。いまのトリクシアは勝利感による一種の狂乱状態になっているのだが、それでも正常な人間に近いといえた。
「見て! 苦痛で朦朧《もうろう》となっているひとつのケースをのぞけば、格子縞色≠ェあらわれるのは靄《もや》が少なく、湿度も低く、広い波長域の光が差しこんでいるときという共通性があるわ。これらの条件では、全体の色は……」トリクシアは、集中化された翻訳者間でのみ通用する仲間言葉を使いはじめた。「言葉の叙法≠ェ変化している。だから特別の言葉が必要で、格子縞色≠ニいうのがぴったりだったのよ」
エズルはそのようすをじっと見て、聞いていた。トリクシアの頭のなかで洞察の光が広がり、新たな接点をつくっていくさまが見えるようだった。今後の翻訳にもかならず反映されるだろう。この解釈でまちがいなさそうだ。格子縞色≠ノついて高飛車に疑問を呈するほうが悪いのだ。
とてもいい作業セッションだった。ところがそのあと、トリクシアは驚くべき行動に出た。しゃべりつづけるのがわずかに途切《とぎ》れたと思うと、片手がキーボードから離れて、嗜好品のケーキにさっとのびたのだ。固定具からはずして、ふわふわのクリームを見つめ、香りをかいだ――いきなりケーキというものに目覚め、それを食べるよろこびに目覚めたかのように。そして口のなかに押しこんだ。クリームが色とりどりの滴《しずく》となって口のまわりについている。息がつまったような声をたてはじめたのだが……じつは、うれしそうな笑い声だった。口を動かし、飲みこみ、しばらくしてとても満足げなため息をついた。トリクシアが集中化された意識の対象以外で満足そうにするのは、いまのような状態になってから初めてだった。
いつも動いている両手さえ、しばらくじっとしている。それから、こういった。「それで、次は?」
呆然《ぼうぜん》としているエズルの頭にその問いがしみこむまで、すこし時間がかかった。「ああ、ええと……」
しかしもう作業リストは終わりだった。とはいえ、なんとすばらしいことか。嗜好品が奇跡を起こしたのだ。
「も……もうひとつだけあるんだ、トリクシア。きみに気づいてほしいことが」もしかしたら、やっとわかってくれるかもしれない。「きみは機械じゃない。人間なんだ」
しかしその言葉には、なんの反応もなかった。聞いてさえいないのかもしれない。指はまたキーを叩きはじめ、視線はヘッドアップディスプレーの映像を見ているらしく、宙に浮いている。エズルはしばらく待ったが、さきほどまで外部にむいていた関心は、もう消えていた。エズルはため息をつき、部屋のドアにむかった。
しかし、エズルがそういってから十秒から十五秒ほどたったとき、トリクシアがふいに顔をあげた。そこにはふたたび表情があらわれている。しかし今度のは、驚きの表情だった。
「本当に? わたしは機械じゃないの?」
「そうだ。きみはたしかに人間だ」
「そう」
トリクシアはまた関心を失った。キーボードにもどって、見えない愚人の同僚たちと音声回線を通じてぶつぶつ小声で話しはじめた。
エズルはそっと外へ出た。はじめの頃なら、こういう無愛想な別れの態度に傷ついたり、すくなくともがっかりしたりしただろう。しかしこれは愚人のふつうの態度なのだ。さっきは、それを短時間とはいえ破ったのだ。
エズルは狭苦しい通路をもどっていった。やっと肩が通るくらいの曲がりくねった毛細血管のような通路には、いつも腹が立った。二メートルごとに、上や下や右や左にべつの部屋へのドアがある。ここでパニックが起きたらどうなるのか。緊急避難するときはどうするのか。
しかし今日は気分がちがった。思い出しているうちに、いつのまにか口笛を吹いている自分に気づいた。
ハマーフェスト棟の中央垂直通路に出ると、そこにアン・レナルトが待っていた。彼女はエズルがうしろに引っぱっている運搬容器をさした。
「それを見せて」
〈〈しまった〉〉二個めのケーキはトリクシアのところにおいてくるつもりだったのに。
エズルは運搬容器をレナルトに渡した。「すべて順調です。あとで報告書を――」
「そう。報告はいま聞きたいわ」
レナルトは垂直に百メートルくだる通路をしめした。そして壁の手がかり穴をつかんでくるりと身体《からだ》の上下をいれかえ、下へ降りていった。エズルもついていった。
トンネルの開口部を通るたびに、薄く削られたダイヤモンドの窓からオンオフ星の光が差しこんできた。そして人工照明のなかにもどると、第一ダイヤモンド塊の奥深くへ降りていった。彫刻のモザイク画は、一見すると完成当時のままのようだが、よく見ると、通行人の手や足がつけた汚れで表面がまだらになっている。専門技能をもたない愚人はもうあまり残っていないので、エマージェント流の完璧な環境も維持できなくなっているのだ。
二人は底に着いて、横のトンネルにはいったが、それもすこし下っていた。まわりには忙しそうなオフィスや科学研究室がある――もうエズルにはよくわかっていた。ここは愚人のクリニックなのだ。エズルは一度しかはいったことがない。厳重に警備され、監視されているが、立入禁止ではない。ファムはトルード・シリパンの親友として頻繁に訪れているようだ。しかしエズルはとてもそんな気になれなかった。ここは魂《たましい》を抜きとる場所なのだ。
レナルトの執務室はまえとおなじところ――科学ラボがならぶトンネルのつきあたりの、なにも書かれていないドアのむこうにあった。人的資源局長≠ヘ、執務机のむこうの椅子にすわって、エズルからとりあげた運搬容器の蓋《ふた》をあけた。
エズルは平然とした顔をよそおいながら、執務室を見まわした。なにも変わっていない。壁は荒削りのままで、荷物整理用の箱といくつか散らばっている装置類が、いまも何十年も当直しながら調度品のすべてらしい。アン・レナルトが愚人であることは、教えられなくてもわかったはずだ。人事管理能力をもつめずらしい愚人だが、愚人にはちがいない。
レナルトは運搬容器の中味に、顔色ひとつ変えなかった。バクテリア槽の技術者が発酵したヘドロを調べるような表情で、ケーキの匂いをかいだ。
「とても香ばしいわね。甘味《かんみ》食品やスナック菓子は、許可食品リストに載っていないわよ、ヴィン」
「もうしわけありません。ちょっとした……ご褒美《ほうび》のつもりでもっていきました。いつもではありません」
「そうね。あなたがこういうものをもちこんだのは初めてだわ」レナルトの視線はエズルの顔をちらりと見て、またそれた。「もう三十年なのよ、ヴィン。あなたの当直時間では七年。愚人はこんなご褒美≠ノは反応しないわ。彼らの動機となるのは、第一に集中化の対象領域であり、第二に所有主の意向よ。いえ……どうやらあなたは、ボンソル博士の恋愛感情を目覚めさせることを、まだひそかに狙っているようね」
「お菓子で釣って、ですか?」
レナルトはかすかにこわばった笑みを浮かべた。ふつうの愚人なら、こんな皮肉に反応しないだろう。レナルトも注意をそらされたりはしないが、皮肉であることは認識していた。
「たぶん、匂いによってよ。あなたはチェンホーの神経学をすこし調べたようね――そして、嗅神経が脳の高度な領域に独自のアクセス経路をもっていることを知った。そうでしょう?」
収集した虫を見るような鋭い視線が、つかのまエズルを貫いた。
〈〈たしかに神経学のテキストにはそう書かれていた……〉〉
そしてトリクシアが最後にケーキの匂いを嗅いだのは、集中化される以前なのだ。あの瞬間、トリクシアの自我をかこんでいる壁は透《す》けるほど薄くなっていた。あの瞬間、エズルはトリクシアにふれていたのだ。
エズルは肩をすくめた。レナルトは鋭い。本気になれば、エズルの考えていることを底まで見通すだろう。ファム・トリンリの正体さえ見抜くかもしれない。ファムとエズルがいままで無事なのは、彼女の集中化の対象領域からはずれているからにすぎない。
〈〈もしリッツァー・ブルーゲルが、レナルトの半分も頭のいい監視員をもったら、ファムもぼくもたちまち殺されるだろう〉〉
レナルトはエズルから視線をそらし、しばらくヘッドアップディスプレー内の幻影を追っていた。
「あなたの誤った行為による悪影響はないわ。むしろ集中化は活発な状態になっている。もしかするとボンソル博士の態度が変化したように見えたかもしれないけど、このことを憶えておいて――この数年のあいだに、最高ランクの翻訳者たちは模擬的な感情をみせるようになっている。もしそれが作業効率に影響するようなら、クリニックに運んで調整しなおすことになるのよ……。とにかく、もしあなたがまたつまらない操作をしようとしたら、二度とボンソル博士に近づけないようにするわよ」
それはもっとも効果的な脅《おど》しだったが、エズルはつくり笑いを浮かべた。
「おや、死刑にはしないんですか?」
「わたしが見るところでは、ヴィン、あなたは人類黎明期の文明を学んでいるおかげで、重用《ちょうよう》されているのよ。わたしの四つ以上のグループのあいだでインターフェースの役割を果たしている。領督もあなたの助言を尊重しているわ。だからといって誤解しないように。あなたがいなくても翻訳業務はやっていげるわ。もしまたわたしに逆らったら、ボンソル博士とはこの孤立生活が終わるまで会えなくなるわよ」
十五年先か、二十年先か。
エズルは相手をじっと見て、その言葉が上っ面《つら》だけでないことを感じた。なんと冷酷な女なのか。むかしのレナルトはどんな女だったのだろうと、またつい思ってしまった。こういうことを考えるのは、エズルだけではない。トルード・シリパンはベニーの酒場で自分なりの推測を話して、みんなを楽しませるのを得意としていた。それによると、ゼバル党はエマージェント文明における第二の勢力で、レナルトはそのなかでも高い地位にあったらしい。もしかすると、かつてはトマス・ナウ以上のおそろしい権力者だったかもしれないのだ。とにかく、その一部は失脚し、仲間によって殺された。アン・レナルトはもっとひどいめに遭《あ》った。狡猾《こうかつ》な悪魔だったのが、悪魔の手先に変えられたのだ。
それによってアン・レナルトがどういう方向に変わったのかはわからないが、エズル・ヴィンにとってはすでに充分に危険な存在だった。
その夜、エズルは明かりを消した個室で、ファム・ヌウェンにそのことを話した。
「もしレナルトがブルーゲルの部署に配転になったら、ぼくらのことをものの数キロ秒で見破ってしまうと思うんだ」
ファムの低い笑い声は、エズルの耳の奥でゆがんだ雑音のように聞こえた。「そういう配置転換は絶対にありえないな。愚人の業務を仕切れるのはレナルトだけだ。武力衝突のまえは、集中化されていないインターフェース職員を四百人かかえていたが、いまは――」ブーン、バリバリと雑音が響いた。
「なんだって?」
「いまはほとんどが専門技能をもたない職員ばかりになってしまっている≠ニいったんだ」
その声もほとんど雑音で、聞きとれるかどうかぎりぎりだ。三、四回くりかえしてもらわないと意味がとれないこともある。しかし最初の点滅信号によるやりとりにくらべれば、たいした進歩だ。いまは、眠るふりをするまえに、直径一ミリのローカライザーを一個、耳の奥深くにいれるのだ。はじめはごくかすかな雑音のようなものしか聞こえないが、慣れれば言葉としてわかるようになる。ローカライザーは部屋じゅうに、それどころかチェンホーの仮設舎じゅうにあった。この装置はもはやブルーゲルとナウの最大の監視ツールになっているのだ。
「でもやっぱり、ああやって嗜好品をもちこんだのはまずかったかもしれない」エズルはいった。
「……かもな。おれだったらそんな見え透いた方法はとらない」
〈〈それはそうだろう。そっちはトリクシア・ボンソルに恋愛感情をもっているわけじゃないんだから〉〉と、エズルは思った。
「まえにも話したろう」ファムはつづけた。「ブルーゲルの愚人どもは、チェンホーがこれまで出会ったなかでもっとも強力な監視ツールだ。やつらはつねに嗅ぎまわっているし、おまえのような――」よく聞きとれなかった。無邪気《むじゃき》な=H 無害な=H しかし、くりかえしてもらおうという気はなかった。「――を簡単に見抜く。いいか、おまえがディエムの虐殺事件について、おもてむきの説明を信用していないことくらい、とうに察しているはずだ。おまえが敵意をもっていることも、なにかをたくらんでいることも――すくなくとも、たくらもうとしていることも――わかってるだろう。おまえの場合は、ボンソルに対する気持ちが隠れ蓑《みの》になってる。小さな嘘で大きな嘘を隠してるわけだ。おれがザムレ・エングを新しい隠れ蓑にしているようにな」
「そうだね」〈〈でも、しばらくはおとなしくするよ〉〉「じゃあ、レナルトはそれほど危険じゃないと思ってるのかい?」
しばらく聞こえるのは雑音だけになった。ファムが黙っているのだろう。「ヴィン、おれの考えはまったく逆だ。長期的には、あいつは最大の脅威になるだろう」
「でもレナルトは警備局員じゃない」
「そうだが、あいつはブルーゲルの監視員の維持管理をしている。連中の集中化がずれるたびに脳の微調整をしている。フオンやホムが対処できるのは単純なケースだけだ。トルードはなんでもできるような顔をしているが、指示された以上のことはできない。レナルトは愚人プログラマーを八人使って、こっちの船団コードを調べているんだ。そのうち三人はいまもローカライザーを徹底分析している。そのうち自分たちがペテンにかけられたことにも気づくだろう――」ザーという雑音。「――まったく、ナウのもっている力ときたら」ファムの声は途切れ、背景雑音だけになった。
エズルは毛布から手を出して、耳に指をいれ、小さなローカライザーをさらに押しこんだ。
「なんだって? 聞こえるかい?」
ザザザ……。「聞こえてる。レナルトのことだが、あの女は危険だ。なんらかの方法で排除しなくてはならん」
「殺すのかい?」
その言葉に、エズルは自分でぞっとした。ナウやブルーゲルや、集中化のシステム全体は憎んでいるけれども、アン・レナルトを憎んでいるわけではないのだ。彼女はそれなりに奴隷たちの世話をしている。むかしのアン・レナルトがどうだったにせよ、いまはたんなる道具なのだ。
「そうはしたくないな!」ファムはいった。「もしナウがローカライザーの餌《えさ》に食いついて、ハマーフェスト棟でも使いはじめてくれれば、おれたちはこっちでとおなじように、むこうでも安全になる。それまでにレナルトの愚人が罠に気づいていなければ、だが……」
「そうはいっても、そもそもハマーフェスト棟での導入が遅れてるのは、レナルトにローカライザーを調べる時間をあたえるためなんだから」
「わかってる。ナウはばかじゃないからな。心配はいらん。おれはちゃんと見てるから。もしレナルトが真相に気づきそうになったら……おれがなんとかする」
ファムはどんなふうにする気なのかと、エズルはふと思ったが、すぐにその考えは頭から追い出した。
ヴィン家では、二千年たったいまもファム・ヌウェンの思い出が大切にされている。エズルの父親の寝室にはその写真が何枚もあったし、伯母からはいろいろな話を聞かされた。それらの話のなかには、チェンホーのアーカイブに収録されていないものもあったから、真実とはちがうのかもしれない――あるいは、本当に個人的な記憶だったのか。スラ曾祖母《そうそぼ》と子どもたちのファム・ヌウェンに対する本当の思いだったのかもしれない。チェンホーの中興《ちゅうこう》の祖だからというだけでなく、すべてのヴィン家の曾祖父だからというだけでなく、心から彼を愛していたのだ。
しかしそれらの話のなかには、この男のぞっとする面も語られていた。
エズルは目をあけ、暗い部屋のなかをそっと見まわした。ぼんやりとした夜間照明のなかで、クローゼットのなかを漂ういくつかの服が見えた。そして机の上には、手をつけていないケーキがそのままのっている。現実だ。
「実際のところ、ローカライザーでなにができるんだい、ファム?」
沈黙と、かすかな雑音。「なにができるかって? まあ、これで人を殺すことはできないな……すくなくとも直接には。ただの出来の悪い音声回線じゃないんだから、使えるようになるには練習も必要だ。なにができるか、おまえも見ておくべきだが」長い沈黙があった。「しょうがないな。おまえには教えておかなくちゃならない。おれと連絡がつかないときもあるだろうし、そのときおまえの隠れ蓑はこれだけだからな。どこかで会わないといけないが――」
「え、じかに会うのかい? どうやって?」
こんなふうに夜中に声だけでファム・ヌウェンと話しあうのは、何十回、いや何百回もやってきた。囚人が地下牢の壁を叩いて、おたがいに名のらずに脱出の陰謀をめぐらすようなものだ。しかし人目のあるところでは、当直がはじまった最初の頃よりもおたがいを避けていた。エズルはまだ視線や身ぶりを制御するのが下手《へた》で、監視員にさとられてしまうとヌウェンがいうからだが――
「この仮設舎では、ブルーゲルと監視員たちはローカライザーに頼っているんだ」ファムはいった。「風船状の壁のあいだには、むかしのカメラが死んでるところもいくらかある。おれたちがそこでたまたま出くわしたようにすれば、ローカライザーを通じて送る隠蔽《いんぺい》情報だけで矛盾《むじゅん》が生じないようにできるはずだ。ただし、監視員たちがいちばん重視しているのは統計データのはずだ。大むかし、おれは船団の警備局を指揮していたことがある――リッツァーにくらべれば甘っちょろかったがな。そのとき、不審な行動をとりだして集めるプログラムをつくったんだ。たとえば、ふだんとちがう会話のあとや、装置の故障のあとに、カメラの視界から消えたやつを調べる。大成功だった。現行犯でなくても悪人をつかまえられた。愚人にコンピュータの力がくわわれば、その千倍も効率よくやれるだろう。統計データは、L1での生活がはじまったときからずっと蓄積されているはずだ。連中は退屈なデータが積みあがっていくのをひたすら眺めている――そしてある日、情況証拠があがって、リッツァー・ブルーゲルに伝えられる。それでおれたちはお陀仏《だぶつ》だ」
なんてことだ……。「でも、いままでずっとだいじょうぶだったじゃないか!」エマージェントがチェンホーのローカライザーに頼っている場所では。
「かもな。一回だけ。衝動を抑えて」雑音のむこうから、ファムの軽い笑い声が聞こえた。
「いつ会える?」
「リッツァーの愉快な分析屋たちに気づかれる危険性が最小限になるとき、だ。さあて……。おれはあと二百キロ秒もたたずに非番にはいる。次におまえが目覚めてきたときには、こっちは当直シフトのなかば頃になる。その直後をめどに、準備しておこう」
エズルはため息をついた。〈〈主観時間で半年も先じゃないか〉〉
しかし、全体の待ち時間はもっと長いのだ。半年後でちょうどいい。
34
ベニーの酒場は、もとは違法すれすれの場所としてはじまった。闇取り引きの大きなネットワークが存在することをしめす明瞭な証拠であり、エマージェント流にいえば大犯罪だ。チェンホーの固有語にも闇取り引き≠ニいう言葉は存在するが、それは地元顧客を怒らせるので秘密|裏《り》におこなったほうがよい取り引き≠ニいう程度の意味でしかない。とはいえ岩石群のような狭い社会では、取り引きにせよ贈収賄にせよ、秘密にはできない。最初の数年はキウィ・リゾレットが関与しているおかげで、なんとか酒場は存続できていたのだが……。
ベニー・ウェンは酒や料理を網袋のなかに放りこみながら、思わずにやりとした。いまのベニーは、当直シフト中はフルタイムで酒場の経営にあたっていた。さらにはベニーとゴンレがいないときでも、店の切り盛りを父親のフンタ・ウェンにまかせられるようになっている。フンタはいまでも、ちょっとのろまで、心やさしい親父だ。物理学者としての能力はもどらなかったが、酒場の経営にすっかり馴染んでいた。
フンタが一人で店番をしているときにはいろいろなことが起きた。大笑いするような大失敗もあれば、驚くほどの改善もあった。たとえば、彼が揮発物精製所から香料入りの塗料を仕入れてきたときのこと。少量ではいい匂いだったのだが、酒場の壁に塗るととんでもない悪臭を放った。仮設舎の社交場は、一時いちばん広い娯楽室に引っ越さざるをえなくなったのだ。またべつのとき――客観時間で四年後――には、当直シフトまる一回分の奉仕券とひきか、見に、無重力環境で這う蔓《つる》植物と付属の生態系をキウィの父親につくらせ、酒場の壁と家具を飾ったことがあった。おかげで酒場は公園のように美しい空間に変身した。
フンタが非番にはいってもう二年近くたつが、蔓と花はいまも変わらずいきいきとしていた。
ベニーはバーから出て、森のなかにあるような客のテーブルをまわりはじめた。飲みものと料理を配ると、客から奉仕券がさしだされる。トルード・シリパンのまえにはダイヤモンド・アンド・アイス印のビールと料理の容器をおいた。トルードはいつものようにすました顔で、奉仕を約束する紙きれ≠よこした。この男は、こんな約束≠ネどたいしたことではなく、都合のいいときにちょっと借りを返すだけでいいと思っているのだ。
ベニーは笑顔で先に進んだ。文句をいってもしかたない――それに、ある意味でトルードの考えは正しいのだ。当直交代がはじまって以来、奉仕の実行が面とむかって拒否されたことはほとんどない。言を左右にしてごまかされることはある。トルードが奉仕できるのは集中化人材を使っている勤務中だけだが、そのさいも適切な専門家をみつけなかったり、最善の答えを得るのに必要なだけの愚人《ぐじん》の使用時間を費やさなかったりと、ごまかしてばかりだった。それでも、アリ・リンにつくらせた無重力蔓植物とおなじように、トルードもそれなりには期待に応《こた》えてくれていた。
奉仕券というばかばかしいシステムの裏にトマス・ナウがいることは、だれでも承知していた。ナウは、私欲のためかキウィへの愛情のためかはわからないが、チェンホーの地下経済を庇護《ひご》していくと明言していた。
「よお、ベニー! こっちだ!」
ジョー・シンが上のテーブルから手をふっていた。そこは討論会のテーブル≠ニいつも呼ばれている。当直シフトが変わっても、いつもおなじ連中がすわっているように思えた。当直シフトにはそれなりに重なりがあるので、ほとんどの客がいれかわっても、そこだけは顔ぶれが変わらないように見えるのだ。そして彼らは、この暮らしが終わるのはいつか≠ノついて討論していた。いまの当直シフトではジョーと、当然ながらリタ・リヤオがいて、いつもの五、六人が集まっている。そして――おや、この問題をいちばんよく知っていそうなやつがいるではないか。
「エズル!」ベニーはいった。「ここに顔を見せるのは四百キロ秒くらいあとじゃなかったのか?」ここにとどまって話を聞けないのが残念だ。
「やあ、ベニー!」エズルはいつもの笑みを浮かべた。
友人としばらく顔をあわせないというのは奇妙なものだ。まえまえからの変化が、ふいに強く感じられたりするのだ。エズルもベニーもまだ若い。しかしもう少年ではない。エズルの目もとにはかすかに皺があった。そして、ジミー・ディエムの作業班でいっしょに仕事をしていた頃とちがって、声にも自信があらわれるようになっていた。
「消化のいいものにしてくれよ、ベニー。解凍されたばかりで、まだ腹の調子が悪いんだ。四日くらいスケジュールが早められたんだよ」エズルは、バーのそばの壁にある当直スケジュールの表示をしめした。ほかの無数にある小さな変更に隠れて気づきにくいが、たしかにスケジュールが変更されていた。「アン・レナルトがぼくを必要としてるらしい」
リタ・リヤオがにっこりした。「それだけでも、討論会が集まる理由になるわね」
ベニーは引っぱってきた網袋のなかから酒と料理の容器を出して配った。そしてエズルのほうを見ると、うなずいた。
「冷えきった身体《からだ》が温まるようなものをもってきてやるよ」
エズルは、ベニー・ウェンがバーと調理器のほうへもどっていくのを見守った。ベニーはなにか腹におさまりやすいものをもってきてくれるだろう。
どうしてこんな暮らしをしいられるはめになったのか。みんなそう思っているはずだ。しかしベニーだけは、がっかりするほど小さなスケールではあるが、商人らしい生き方をしている。
自分はどうだろう。自分でもときどき勘《かん》ちがいしそうになるほど深い擬装《ぎそう》をした陰謀者か。
このテーブルには三人のチェンホーと四人のエマージェントがいる――なかにはチェンホーより親しいエマージェントの友人もいた。たしかにトマス・ナウはうまくやっている。ナウはチェンホー流のやり方を容認するように見せかけて、チェンホーをとりこんでしまった。集中化という奴隷制度に対するチェンホーの反発も、しだいに鈍《にぶ》らせていった。たぶん、それでいいのだろう。エズルの友人たちは、ナウとブルーゲルという危険な存在から守られている。そしてナウとブルーゲルは、チェンホーのなかに抵抗運動が残っているのではないかという疑念を、しだいに弱めているのだ。
「それで、なんのために早めに冷蔵庫から出されたんだ、エズル?」
エズルは肩をすくめた。「知らないよ。何キロ秒かしたらハマーフェスト棟へ行くことになってるんだ」
〈〈用件がなににせよ、ファムと会う予定が狂わなければいいんだけど〉〉
トルード・シリパンが床からゆっくりあがってきて、空《あ》いている席におさまった。
「たいした用じゃないさ。翻訳者と自然科学系の愚人とのあいだで、ちょっとしたいがみあいが起きてたが、それはもう今日の早い時間に解決した」
「じゃあ、なぜレナルトはエズルのスケジュールを変更したんだ?」
トルードはぐるりと目をまわした。「まあ、レナルトのことだからな。べつに悪気があっていうわけじゃないが、エズル、おまえの専門が地球の黎明期だから、どうしても目覚めていてもらいたいとレナルトは思ったんだろう」
〈〈ありえなくはないけど〉〉エズルは、人的資源局長とこのまえ会ったときのことを思い出しながら考えた。
リタがいった。「わたしは、カロリカ湾のことだと思うわ。子どもたちはいまそこにいるのよ」
リタが子どもたち≠ニいうときは、〈子どもの科学の時間〉に出演していた蜘蛛《くも》族のことをさしている。
「もう子どもとはいえないだろう」ジョーがやんわりといった。「ビクトリー・ジュニアは若い女――というか、立派な若者だ」
リタはむっとしたようすで肩をすくめた。「ラプサとリトル・ハランクはまだ子どもといっていいでしょう。その二人もいっしょにカロリカ湾に引っ越したのよ」
きまり悪い沈黙が流れた。特定の蜘蛛族の物語は、終わりのないドラマとして多くの人々に楽しまれていた。何年ものあいだに、かなりこまかいことまでわかるようにもなっていた。蜘蛛族ファンのなかにはほかの家族を追いかけている連中もいたが、一番人気はいまでもアンダーヒル家だ。リタは熱狂的ファンといってよく、それがしばしばあからさまにおもてに出るのだ。
トルードはそんなことにおかまいなしだった。「いや、カロリカ湾はでたらめだよ」
ジョーが笑った。「おい、トルード、カロリカ湾の南に打ち上げ場があるのは本当だぜ。蜘蛛族はそこから衛星を打ち上げてるんだから」
「いや、おれがいってるのはケイバーリット≠フ話がでたらめだといってるんだよ。エズルが叩き起こされたのもそのためだろう」トルードはエズルのほうをちらりと見て、にやにや笑いを大きくした。「ケイバーリットという用語は聞いたことあるか?」
「ああ、たしか――」
トルードは古典文学の雑学知識には興味がなく、すぐに自分の話をつづけた。「また翻訳者たちが引っぱり出してきたおかしな用語で、今回はさらに意味不明さ。とにかく、一部の蜘蛛族がカロリカ湾の南の高原台地にある廃坑《はいこう》を使って、重力質量と慣性質量のちがいを調べようとしたんだ。まったく、こいつらは本当に頭がいいのかどうか疑問になってくるよな」
「アイデアそのものは、すこしもばかげていないさ」エズルはいった。「実験すれば、ちがいはないとわかるだけで」
そういうプロジェクトがあったことを思い出してきた。中心になっていたのはティーファーの科学者だ。彼らの論文はアクセス不能に近い。人間の翻訳者が、アコード国の言語ほどにはティーファー語を理解していないからだ。ソピ・ルンとほかの何人かはティーファー語の達人になれたかもしれないが、彼らは精神腐敗病の暴走で死んでしまった。
トルードは、さえぎろうとする声を押しとどめてつづけた。「ばかげているのは、この蜘蛛族どもがちがいはある≠ニ結論づけたことさ。それどころか、高原台地で反重力を発見したなんてばかな発表をした」
エズルはジョー・シンのほうを見た。「そうなのかい?」
「まあね……」ジョーは話したくなさそうだ。どうやらいままで伏せられていたことらしい。「レナルトの命令で、何度か愚人を使った調査をさせられた。こちらの偵察衛星の軌道に変異がないか、というんだ」肩をすくめた。「もちろん変異はあるさ。それをもとに地表下の密度分布図をつくるくらいなんだから」
「とにかく」トルードがつづけた。「これを発表した蜘蛛族どもの名声も、ほんの数メガ秒だった。その奇跡的な実験が再現できないと、あとからわかったんだ。つい数キロ秒前に、その発表を撤回しやがった」くすくす笑った。「ばかどもめ。人類文明でならそんな主張は一日ともたないそ」
「蜘蛛族はばかじゃないわ」リタがいった。
「それに無能でもない」エズルはいった。「たしかに、ほとんどの人類社会でなら、そんな報告はとても懐疑的に見られるだろうさ。でも人類は八千年の科学の歴史をもっているんだ。たとえ衰退した文明でも、そんな問題を研究するくらいに進歩する頃には、人類の遺産を詰めこんだライブラリの廃嘘をいくつかみつけているものだ」
「ああ、わかったよ。蜘蛛族にとってはみんな初めてだから≠ニいいたいんだな」
「でもそうなんだよ、トルード。彼らがいわゆる初心者≠ナあるのはまちがいない。過去に比較できる事例はただひとつ――原初地球における文明|勃興《ぼっこう》だ。そのときの人間の初心者も、いろいろなまちがいを犯したんだ」
「もうおれたちが制圧してやったほうが、やつらにとっても楽だろう」そういったのはアーロ・ディンだった。彼はチェンホーだが、その口ぶりにはエマージェントとおなじ独善的な響きが強くあらわれていた。
エズルはしぶしぶながらうなずいた。「たしかに、黎明期の人類の祖先たちの場合も、単一の惑星というむずかしい環境から脱出できたのはかなり幸運だったといえる。蜘蛛族の天才科学者たちも、かつての人類の科学者にくらべてとくにすぐれているわけじゃない。たとえばこのアンダーヒルというやつ。その学生たちはたしかにかなりの成果をあげてるんだけど――」
「アンダーヒル自身は、迷信の塊《かたまり》だな」トルードがいった。
「そうだ。彼の頭には、ソフトウェア設計の限界やハードウェアの限界という概念がない。科学があともうすこし進歩すれば、不死の身体や、神のようなコンピュータが実現すると思ってる。彼はまるで人類の挫折時代の事例が詰まった、歩くライブラリのようだよ」
「それさ! だからおまえはレナルトに気にいられてるんだよ。蜘蛛族が信じこみそうな幻想がわかる。地上を制圧するときがきたら、その知識が重要になるからな」
「そのときがきたら……」ジョー・シンが片頬だけでにやりとした。
テーブルの反対側の壁には、当直スケジュール表のわきにベニーが設置した、正体|披露《ひろう》パーティ賭け金ボード≠ェあった。いつ隠れんぼをやめて蜘蛛族にこちらの正体を見せるか――つまりこの孤立生活の終わるときがいつかを、あてようというゲームだ。そもそもこの酒場では永遠の話題なのだ。
「太陽が再発火してからもう三十年以上だ」ジョーはつづけた。「おれはしょっちゅう外に出てる。キウィ・リゾレットとその作業班とおなじくらいにな。だからわかるんだが、最近は太陽の輝きが鈍ってきている。あとほんの数年でまた火が消えるんだ。蜘蛛族にとっても期限が迫ってるわけだ。やつらは十年以内に情報化時代にはいると思うね」
「早くそうなってくれればこちらにとっても楽に制圧できるけど、そうはいかないだろう」とアーロ。
「かもな。しかし、最後はべつの要因で動かざるをえなくなる場合も考えられる。蜘蛛族はすでに宇宙開発プログラムをはじめてるんだ。十年以内にこちらの活動は――L1におれたちがいることは――隠しとおせなくなるかもしれない」
トルードがいった。「だからどうだっていうんだ? 背伸びしてくるようなら、叩きつぶしてやるだけさ」
ジョー。「そんなことをしたら自分の首を掻《か》っ切るようなものだぞ」
「どっちの話もナンセンスだ」とアーロ。「こちらの手持ちの核兵器は十発も残ってないだろう。あとはこのまえの撃ちあいでみんな使っちまって――」
「ビーム兵器があるじゃないか」
「すぐそばの軌道にいればな。はったりとしては有効かもしれないが――」
「廃船になった星間船を、ばか野郎どもの頭の上に落っことしてやりゃあいいんだよ」
エズルはリタ・リヤオと目を見かわした。彼女はこの話題で、かつて口角《こうかく》泡を飛ばして反論したことがあった。リタは――そしてジョーも、このテーブルに集まっているほとんどの連中も――蜘蛛族のことを、人間とおなじだと思っていた。その点はトリクシアの目論見どおりだ。領督《りょうとく》階級をのぞいた一般のエマージェントは、蜘蛛族を殺戮《さつりく》するという考え方には眉をひそめた。
どちらにしても、ジョー・シンのいうとおりなのだ。エマージェントが有効な兵器をもっていようといまいと、こうして長期潜伏しているのは、船団を修復できるような顧客文明を育てるためなのだ。それを吹き飛ばしてしまうなどというのは、リッツァー・ブルーゲルのような好戦的な愚か者の考えることだ。
エズルは議論から抜けて、椅子に背中をもたせかけた。当直者リストにはファムの名前があった。もう何日かしたら、初めて顔をあわせ、本格的な話しあいができるだろう。ゆっくり、辛抱強くやれ。急ぐことはない……=Bそういうことだ。
討論会の話題がもうすこし興味のもてる方向に移ってくれればいいのにと思ったが、まあ、こういう意味のない議論も、耳慣れた雑音のようで心地いいものだ。これは家族のようなものだなと、エズルは一度ならず思った。いつでもおなじ話題を、ああでもないこうでもないとしゃべっている家族だ。エマージェントともあたりまえのようにつきあえるし、エマージェントもこちらとあたりまえのようにつきあえる。ふつうの生活とほとんど変わりないではないか……。
エズルは、テーブルのまわりを仕切るように立つ無重力蔓の垣根を見やった。花がかすかに香る――フンタ・ウェンが以前に試した悪臭|芬々《ふんぷん》の塗料とは大ちがいだった。おや、花と葉のすきまから、酒場の床にあるベニーの仕事場がちょうど見える。ベニーのほうに手をふってみた。もうすぐまともな料理を腹にいれられそうだ。そのとき、チェック模様のズボンとフラクタル織りのブラウスがちらりと見えた。
キウィだ。
ベニーとなにか真剣に交渉しているさいちゅうだった。ベニーは壁紙のだめになった部分を指さし、それが酒場の下の壁まで広がっていることをしめしていた。キウィはうなずき、なにかのリストを見ている。ふいに視線に気づいたらしく、ふりむいて、天井側にいるエズルたちのグループに手をふった。
〈〈ずいぶん美人になったな〉〉
エズルは目をそらした。ふいに頬が冷たくなるのを感じた。かつてのキウィは、エズルにいちいち腹の立つことをするいたずら小娘だった。裏切り者に思え、愚人を虐待《ぎゃくたい》しているように思えたこともある。そしてエズルは、彼女を殴ったことがあった……。あのときの怒りと、ジミー・ディエムやトリクシア・ボンソルの敵《かたき》討ちをしているんだという、高揚した気分を思い出した。
しかしキウィは裏切り者ではなかった。本人に自覚はないが、じつは犠牲者だった。精神洗浄術についてのファムの話が正しければ恐ろしい内容だが、事実とよく一致するのでまちがいないはずだ――キウィは想像を絶するほど残酷なめに遭《あ》っている犠牲者なのだ。
そしてキウィを殴ったことで、エズル自身もおのれを知るはめになった。エズル・ヴィンの良識がいかに底が浅いか、思い知らされたのだ。そういう自己認識は、ふだんは引き出しの奥にしまっておけた。根本的には下劣《げれつ》な男でも、表面は礼儀正しくふるまえるはずだ……。しかしこうして実際にキウィを見て、目があうと……自分のやったことを忘れるなど、できるわけがなかった。
「あら、キウィ!」リタが、手をふっているキウィに気づいた。「ちょっとこっちへ来られない? 聞いてほしいことがあるのよ」
キウィはにっこりした。「すぐ行くわ」
そしてベニーのほうにむきなおった。ベニーはうなずき、奉仕券の束《たば》を渡した。それからキウィは、蔓植物の垣根を跳び越えてやってきた。うしろにはビールのおかわりや軽食の追加がはいったベニーの網袋を引っぱっている。ベニーの仕事を手伝っているわけだ。キウィらしい。彼女は地下経済の化身であり、ここでの生活をそれなりに快適にしてくれる敏腕な実業家だ。ベニーとおなじように、人に手を貸すことを惜しまない。働くことを惜しまない。それでいて、領督の代理として聞く耳ももっている。ナウの支配体制に一抹《いちまつ》の柔らかさをあたえているのだ。ジョー・シンのようなエマージェントは口に出して認めないが、リタとジョーの目を見ればわかった。二人はキウィ・リゾレットを尊敬しているのだ。
キウィはエズルにむかって微笑みかけた。「こんにちは、エズル。これじゃたりないかもって、ベニーはいってるんだけど」
料理の容器をエズルのまえのテーブルに貼りつけた。エズルは目をあわせられず、ただうなずいた。
リタがすでに早口に話しはじめているので、エズルのぎこちなさにはだれも気づかなかったようだ。
「内部情報を教えろってわけじゃないんだけど、キウィ、でもこちらが正体をみせるのはいつ頃かしら?」
キウィは微笑んだ。「わたしの予想? 十二年以内じゃないかしら。蜘蛛族の宇宙飛行も進歩しているから、それまでには動かざるをえなくなるわ」
「そうね」リタはちらりとジョーを見た。「いろいろ考えてたのよ。コンピュータネットワークを通じてすべてを支配するのが無理だとしたら……。どこかの国と提携して、国際政治の指導力を握っていくしかないとしたら……。どこの国と提携するのかしらって」
35
第一ダイヤモンド塊は、長さが二千メートル以上、幅もほぼおなじで、岩石群のなかでは最大の大きさだ。ハマーフェスト棟の真下のダイヤモンドの地盤には、何年ものあいだに無数のトンネルが掘られていた。上層には科学ラボやオフィスがもうけられ、下層にはトマス・ナウの私室がいくつかある。この逆さま建築のさらに下に最近増築されたのが、直径二百メートルのレンズ形の空間だった。ここを掘るために熱掘削剤をほとんど使いはたしたが、キウィはなにもいわなかった。じつはこれをつくるのは、なかばキウィのアイデアでもあったのだ。
その空間の大きさにくらべると、三人はほとんど豆粒のようだった。
「これはすごいわ。いえ……すごいと思う?」キウィはにっこりしてナウに訊いた。
上を見あげるナウは、唖然《あぜん》とした顔をしていた。ナウがこんな顔をすることはめったにない。見あげているうちにいつのまにかバランスを崩して、うしろむきに倒れはじめてしまった。
「それは……思うよ。ヘッドアップディスプレーで見た完成予想図でも、これほどの印象はなかった」
キウィは笑いながらナウの背中を起こした。「じつは、完成予想図には照明をいれてなかったのよ」
天井に彫られた吸音用の溝のなかには、化学アーク灯が埋めこまれている。おかげで空で宝石がきらめいているように見えた。出力を調節すればどんな照明効果でも可能だが、かならず虹のような光のにじみがあった。
キウィの右隣では、彼女の父親もおなじように見つめていた。ただし悦惚《こうこつ》としてはいないし、上を見てもいない。アリ・リンは四つん這いになっていた。かすかな重力は無視して、ダイヤモンドの床に掘削剤が残したこまかなでこぼこをひっかいている。
「ここには生きものがいない。なにもいない」父親は顔をゆがめてつぶやいた。
「パパにとってこれまでで最大の公園がつくれるのよ。真っ白な設計図が目のまえにあるのよ」
父親の眉間《みけん》の皺がすこしゆるんだ。
〈〈いっしょにゃりましょう、パパ。いろいろ教えて〉〉
これだけ広ければ本物の動物も棲息できる。飛び猫だって可能かもしれない。ママとパパといっしょにトライランド星の出発用仮設舎に住んでいたときの思い出、というより夢だった。
ナウがいった。「きみの提案を聞いてよかったよ、キウィ。安全管理の向上を求めただけだったんだが、こんなすごいものができるとは思わなかった」
ため息をついてキウィに微笑みかけ、彼女の背中の、腰のすこし上あたりをなでた。
「ここはチェンホーの基準からみても大きな公園になるわ、トマス。最大ではないけど」
「でも最良の公園になりそうだ」ナウはキウィのむこうに身をかがめ、アリの肩に手をおいた。
「そうよ」
〈〈そう、きっと最良の公園になるわ〉〉
キウィの父親は、以前からトップレベルの造園技術者だったし、この十五年間はみずからの専門分野に意識を集中していた。そのあいだに驚くべきアイデアを次々と実現させてきた。彼のつくる盆栽や微小公園は、ナムケム星系の最良のものさえ上まわっていた。エマージェントの集中化された生物学者も、船団の生命科学ライブラリにアクセスできるようになった結果、チェンホーの最良のレベルに近づいていた。
〈〈そしてこの孤立生活が終わり、パパの精神が解放されたら、自分のなしとげた驚くべき成果を本当に見られるようになるわ〉〉
ナウの視線はきらめくからっぽの空間をあちこちに移動していた。ここにどんな風景をつくれるか考えているらしい。熱帯の大草原、温帯多雨林、山の牧草地。アリの魔法のような技術をもってしても、一度に複数の生態系をここにつくることはできないが、選択の余地はあるのだ。
キウィはにっこりした。「湖はどう?」
「湖だって?」
「わたしの設計ライブラリからウェットウォーター≠引き出して」キウィは宙に命じて、ヘッドアップディスプレーにその設計を投影させた。
「なんと……。こんな設計図もあったのか!」
ダイヤモンドの面だけにかこまれた本当の空洞には、アリが描いた森の完成予想図がかさねられていたのだが――それが広い湖に変わった。湖面は遠くへいくにしたがって広がり、そのなかに点々と浮かぶ高い山になったいくつかの島まで、何キロも奥行きがあるように見える。
島の山裾《やますそ》の木陰にある係留《けいりゅう》場所から、ちょうど一隻の帆船が滑り出てきた。
ナウはしばし声を失っていた。「驚いたな。これはノースポー湖にある伯父の土地だ。夏休みによく遊びにいったものだ」
「知ってるわ。あなたの伝記記録からとりだしたの」
「美しいな、キウィ。たとえ実現不可能だとしても」
「不可能じゃないわ! 水なら上にいくらでもある。その一部を溜《た》めておく第二の貯水場として最適よ」湖が広がりはじめる遠くのほうを、手をふってしめした。「空洞の反対側はすこし掘り広げて、水は壁に接するところまでいれるわ。あとは充分な面積の壁紙さえ回収してくれば、遠くの風景は本物そっくりにつくれる」
実際には、そううまくはいかないだろう。廃船から剥《は》がしてくる壁紙は、真空にさらされたせいでかなり傷んでいるはずだ。しかしそれはそれでもかまわない。ナウはいつもヘッドアップディスプレーをつけているし、同感性映像を見られない者のためには壁にじかに風景を描くこともできる。
「そういうことではなくて、この微小重力環境で本物の湖はできないだろうといってるんだ。ちょっとした岩石地震が起きるたびに、湖水は壁を這いあがってしまうはずだ」
キウィはにんまりと笑った。「そこに仕掛けがあるのよ。わたしにやらせて、トマス! 廃船から回収してきたサーボ制御のバルブが何千個もあるんだけど、それらはとくに使い道がないわ。それを湖のそこに設置して、ローカライザーのネットワークを介して動かすのよ。波を抑えこんで、水をとじこめられるわ」
ナウは笑った。「本質的に不安定なものをなんとかして安定させるのが、きみは好きなようだな、キウィ! まあ……岩石群でもできたのだから、ここでもできるかもしれない」
キウィは肩をすくめた。「できるわよ。波打ちぎわを立入禁止にさえすれば、エマージェント製ローカライザーを使ってでもできるわ」
ナウはキウィのほうにむきなおった。その目にヘッドアップディスプレーの映像はうつっていない。硬く無機質なダイヤモンドの洞窟《どうくつ》にもどってきていた。しかしその目は驚嘆で輝いていた。キウィの提案をよろこんでいるのだ。
「すばらしいものができるだろう」ナウはいった。「ただし、多くの資源と、多くの労働力がいる」愚人ではない人間の労働、という意味だ。ナウも集中化人材を人間とはみなしていないのだ。
「日常業務にさしさわりがでるようなことはないわ。バルブはもともと廃品だし、ローカライザーは余ってる。それに、たくさんの人たちがわたしのために作業奉仕をする義務があるのよ」
それからしばらくあと、ナウは女と愚人を連れて洞窟から出た。キウィにはまた驚かされたし、今回はいつも以上に壮大な驚きだった。そしていまいましいことに、ローカライザーをハマーフェスト棟内で使いたい理由がまた増えた。レナルトの部下たちはまだこの装置を分析しきれていないのだ。いったいどこまで複雑なのか。
〈〈あとまわしにするか〉〉
キウィは、エマージェント製のローカライザーでもそれなりに湖を維持できるといっていた。
ハマーフェスト棟の下層階を昇っていきながら、敬礼したり手をふるエマージェントや元チェンホーの技術者たちに、うなずいて応《こた》えていった。アリ・リンは途中にある公園にもどっていった。そこが仕事場なのだ。キウィの父親は狭苦しい屋根裏部屋にとじこめられてはいない。その専門性ゆえに、生きもののいる広い空間が必要だからだ――キウィにはそう説明していた。もっともらしく聞こえるし、まあそうしておけば、集中化業務の日常の姿をこの娘が頻繁に目にすることはない。彼女が理解すべきでないことをすこしずつ理解してしまうのは避けられないが、すこしでも遅らせる役には立つ。
「仮設舎へ行くのか、キウィ?」
「ええ、ちょっと用があるから。友だちに会ってくるわ」取り引きを実行したり、奉仕券を集めたり、忙しいのだ。
「わかった」ナウはキウィをかかえあげてキスした。オフィス用通路の奥からも見られる位置だが、かまいはしない。「楽しかったぞ、わが恋人!」
「ありがとう」彼女はまばゆいほどの笑みを浮かべた。キウィ・リゾレットは三十歳をすぎたいまも、嘆息を禁じえない美人だ。「また今夜」
キウィは中央通路を昇っていった。壁を掻《か》きながらどんどん加速し、通路にいる人々のあいだをかすめ飛んでいった。キウィはいまも二Gの遠心機のなかで身体《からだ》を鍛《きた》え、素手《すで》で敵を殺せる武道を練習している。母親の影響が残っている部分は、すくなくとも外見ではそれだけだ。しかし彼女を衝き動かしているエネルギーの多くは、あきらかに母親からほめられたいという気持ちが昇華したものなのだ。
ナウはそんな彼女を見あげた。まわりに降りてくる人々もいるが、ほとんど無視していた。ナウのじゃまをする者などいるわけはない。キウィのうしろ姿は中央通路の高みに昇るにつれ、小さな点になっていった。
ナウにとってキウィは、アン・レナルトの次に貴重な所有物だった。しかしレナルトは基本的に相続財産だ。その点、キウィ・リン・リゾレットは自分の戦利品だ。頭のいい、集中化されていない人間でありながら、長年にわたってナウに滅私奉公している。キウィを所有し、あやつりつづけるのは――飽きることのない難問だ。つねに危険をともなう。素手で人を殺せるだけの力とスピードをもっているのだ。はじめはそのことに気づかなかった。しかしその後、彼女にどれだけの価値があるか気づいた。
そう、キウィは戦利品だ。しかしトマス・ナウは自分が幸運だったこともよくわかっていた。ちょうどいい年齢のときに、ちょうどいい文脈で手にいれたのだ――つまり、チェンホーの文化的背景を身につけるくらいには年長で、しかしディエムの虐殺《ぎゃくさつ》事件によって一定の思考を植えつけられるくらいには若かった。キウィがナウの嘘を見抜いたのは、孤立生活がはじまって最初の十年間に三回だけだった。
ナウは唇をゆがめ、かすかな笑みを浮かべた。キウィは自分がナウの思想を変えていると思っている。自由な方法論が有効であることを証明しているつもりなのだ。まあ、そういう面もある。最初の頃、地下経済の存在を容認したのは、キウィをあやつるための一時的な必要悪だった。ところが、地下経済は本当にうまく機能しはじめた。チェンホーの教科書にさえ、これほど狭く密集した環境で自由市場は成り立たないと書かれているのに、行商人どもは年ごとに環境を改善してきた。ナウが命じなくてはならなかったはずの業務さえ、自分たち主導でやっているのだ。
だからキウィが、たくさんの人が自分に奉仕する義務を負っており、湖の公園を建設するために――あの湖はぜひ実現させたい――労働力にこと欠く心配はないといったとき、トマス・ナウは影で笑ってなどいなかった。そのとおりにちがいない。トマス・ナウが絶対的な権力をもつ領督《りょうとく》だからという理由でよりも、キウィに借りがあるからという理由で、連中はエマージェントさえも――あの公園のために精力的に働くだろう。
キウィは中央通路のてっぺんの小さな影になっていた。彼女はふりむき、手をふった。ナウが手をふり返すと、キウィは横へ延びるタクシー船連絡通路にはいっていった。
ナウはしばらくそこに立ったまま、笑顔で見あげつづけた。キウィからは、管理された自由の強さを教えられた。アラン伯父とノーリー党からは集中化された奴隷という力を遺贈された。では、オンオフ星はなにをくれるのだろう。
この星と惑星について調べれば調べるほど、ここにはすばらしいものが埋まっているという確信が強くなっていった。当初期待していたような宝物ではないかもしれないが、もっと大きな価値のあるものだ。生物学、物理学、この星系の銀河規模での軌道……。それらが総合的に意味するものは、分析担当者の理解の範疇《はんちゅう》を超え、ナウの直観にやっとふれるだけだった。
そしてあと何年かすれば、蜘蛛《くも》族が充分な産業経済を築き、それによってそれらの価値を探求できるようになるのだ。
これほどのチャンスが一人の男の手にころがりこんだことは、人類史上かつてない。二十五年前の若かったトマス・ナウは、前途の不安におびえていた。しかしそれから問題にひとつずつ立ちむかい、克服《こくふく》してきた。アラクナ星から発見される宝は、人類がかつて経験したことのない強力な王朝の源《みなもと》になるだろう。時間は必要だ。あと一、二世紀かかるかもしれないが、そのときナウは、チェンホー流にいってもまだ中年の終わり頃でしかない。エマージェントの対立党派など一掃《いっそう》してやる。人類宇宙のこちら側には、史上最大の帝国ができるだろう。ファム・ヌウェンの伝説が色あせるほどの威光を、トマス・ナウが放つようになるのだ。
キウィはどうするか?
ナウは最後にもう一度見あげた。できることなら孤立生活の最後まで、このゲームをつづけたかった。蜘蛛族を制圧する段階になれば、キウィはとても役に立つはずだ。しかし仮面はほころびつつある。精神洗浄術は完璧ではないのだ。はじめの頃にくらべると、キウィが嘘に気つくまでの時間は短くなりつつある。しかしアンがいうところの神経に残留する荷重《かじゅう》≠除去しようとすると、脳組織のかなりの部分を同時に破壊してしまうのだ。冷凍睡眠による記憶喪失≠ニしてもっともらしく説明できないような矛盾《むじゅん》も出てくる。どのみちいつかはこの巧妙な操作も……。
そもそも、奴隷解放の約束を反故にする理由をどう説明するというのか? 蜘蛛族に対しておこなうつもりの処置や、今後必要になる人間繁殖プログラムについては? いや、残念だが、キウィは最終的に処理せざるをえないだろう。もちろん、そのあともずっと奉仕させられる。子どもを生ませることさえ可能だ。この帝国もいつか世継ぎを必要とするようになるのだ。
キウィは二千秒後にベニーの酒場にはいった。この当直シフトで店番をしているのはベニーだった。よかった。ここの店主のなかではいちばん性《しょう》があう。ベニーが求める新しい備品について、しばらく値段の交渉をした。
「ベニーったら、まだ壁紙がいるの? ほかにも壁紙を必要とするプロジェクトがあるのよ」
ハマーフェスト棟の地下公園とか。
ベニーは肩をすくめた。「領督が同感性映像を許可してくれたら、壁紙はいらないんだけどな。消耗品なんだからしかたないよ。ほら」
床に年がら年中うつされているアラクナ星の映像をしめした。数キロ秒後にはプリンストン市に到達しそうな嵐の雲が見える。ディスプレー制御ドライバーはまだ生きているようだ。しかしたしかに、歪《ゆが》みや色のにじみは目についた。
「わかったわ。インビジブルハンド号からまだすこし剥がしてこられるから。でも、高いわよ」
リッツァー・ブルーゲルは口角《こうかく》泡を飛ばして抗議してくるだろう。どうせ壁紙など使わないくせに。ブルーゲルはあの船を自分の領地のように思っているのだ。
キウィはベニーの手書きのリストやほかのメモを見た。完成した食品の購入先は仮設舎のバクテリア槽と農業プラントで、そこはすべてゴンレ・フォンが仕切っている。もとは揮発物とほかの原材料だ。当然ながらベニーはべつの方面とも交渉し、ゴンレを介さずに岩石群の採掘現場から直接仕入れられないかと画策している。二人は親しい友人関係を維持しながら、商売においては真剣に競争しているのだ。
視界の隅でなにかが動き、キウィは見あげた。天井側の席でジョー・シンとその仲間たちがだべっている。エズルもいる! キウィは思わず笑みを浮かべた。彼はテーブルから顔をこちらにむけていた。しかしキウィが手をふると、ふいに表情が暗くなってそっぽをむいた。
キウィの胸にひそむ古傷がうずいた。いまでもエズルを見かけるたびに、話したいことがたくさんある親友をみつけたような、強いよろこびが湧いてくる。しかしこの何年ものあいだ、エズルはそのたびに顔をそむけるのだ。キウィはトリクシア・ボンソルを傷つけるつもりはなかった。トマス・ナウに協力しているだけなのだ。なぜならナウは善良な人であり、両船団の全員がこの孤立生活を生き抜けるように全力を傾けているからだ。
いつかそのそばに行って説明したい。たぶんできるだろう。まだ何年も時間はある。孤立生活が終わって協力的な文明が勃興《ぼっこう》し、トリクシアがエズルのもとにもどってくればきっと許してもらえるはずだ。
36
仮設舎の外皮と風船形居住区画とのあいだの空間は、万一の破裂を避けるための緩衝帯《かんししょうたい》としての役割がある。ここでは長年のあいだに、ゴンレ・フォンがさまざまな非合法営農活動をおこなっていた。もし気圧が抜けたら、彼女のトリュフやキャンベラ産|花卉《かき》の実験栽培はだいなしになってしまうだろう。とはいえ、いまでもフォンの農業プラントはこの利用されていない空間のほんの一部を使っているだけなのだ。
ファムはエズル・ヴィンと落ちあう場所を、そういった農地から充分離れたところに設定していた。ここでは空気はひんやりとして動かない。明かりは外皮をとおしてはいってくるオンオフ星の鈍《にぶ》い光だけだ。
ファムは壁の手がかりに足をひっかけ、じっと待っていた。当直のはじめに、この空間にローカライザーが充分に進入していることは確認していた。壁のあちこちにくっついているし、空中にもいくつか漂っている。しかしもし充分に明るくても、それらは小さな塵《ちり》にしか見えないはずだ。とにかくそのおかげで、この薄暗い場所にじっとしていても、ファムはすべてを把握できる立場にあった。この支配空間――いまはこの風船のあいだのすきま――のあらゆる場所に、目をひからせ、耳をそばだてることができる。
だれかが慎重に近づいてきている。眼球の裏にうつる映像は、チェンホー製ヘッドアップディスプレーなみに明瞭だった。あのヴィン家の若者だ。そわそわして、人目を忍んでいる。
あの子はいくつになったのか。三十歳くらいか。もう少年ではない。しかしその顔だちや、まじめな態度は……いまもスラとそっくりだった。信用できる相手ではない。そんなことは期待してもいない。しかしたぶん、利用できる相手ではある。
風船の内壁のむこうから、エズルが肉眼でも見えるところにあらわれた。ファムが手をあげると、若者は驚いて息をのんで止まった。周囲に注意しながらきていたにもかかわらず、内壁布地の襞《ひだ》のなかに身をひそめていたファムに気づかず、あやうく通りすぎてしまうところだったようだ。
「や――やあ」エズルは小声でいった。
ファムは嚢から、オンオフ星の光がもうすこしよくあたるところに出た。「やっと会えたな」
片頬だけに笑みを浮かべてみせた。
「あ……ああ、そうだね」エズルは身体《からだ》をこちらにむけて、しばらくじっと見ていたが、ふいに――なんと!――小さくお辞儀をした。スラによく似た顔だちに、恥ずかしそうな笑みが広がった。「ファム・トリンリという認識ではなく、こうしてあらためて会うと、なんだかへんな感じがするよ」
「外見上のちがいはないはずだ」
「いや、あるよ。あなたがトリンリの役をやっているときとは、いろんなところがちがう。いまはこんなに薄暗くても、別人だとわかる。ナウやレナルトでも、十秒見たら正体がわかるはずだ」
この若者は想像力が過剰のようだ。「まあこれから二千秒間、あいつらが見るのはローカライザーが送る偽《にせ》データだけだ。そのあいだにおまえがその使い方を――」
「もちろん覚えるよ! 本当にあのローカライザーで見たり、命令を入力したりできるのかい?」
「充分な練習を積めばな」
まず、ローカライザーをいくつか眼窩《がんか》のまわりに付着させ、近くのローカライザーに合図を送って連携させる方法を教えた。
「まわりに人がいるところではやるな」ファムはいった。「こうやって送られるビームはとても細いが、それでも気づかれる危険はあるからな」
エズルは宙を見る目つきになった。「うわ、なんだか目の裏をつつかれてるような感じがする」
「ローカライザーが視神経にじかにアクセスしているんだ。最初は奇妙なものしか見えないだろう。命令はすこし練習すれば覚えられるが、その視覚刺激から意味をくみとれるようになるのは……いってみれば、もう一度見ることを学習しなおすようなものだな」
視覚障害者が人工眼球の使い方に慣れていく過程に似ているかもしれない。うまく使えるようになる者もいれば、ずっと見えないままの者もいる。そのことは黙っておいて、エズルには練習用の一連のテストパターンの出し方を教えた。
このヴィン家の若者にどこまで命令インターフェースを教えていいものか、ずっと迷っていた。しかしエズルはすでに、ファムを敵に売り渡せるだけの秘密を知っている。その危険をとりのぞこうと思ったら、もはや殺す以外にないのだ。
〈〈ザムレ・エングの隠れ蓑《みの》につながる偽の手がかりをあれだけ撒《ま》いてきたのに、こいつはおれの正体に気がついた。それを可能にしたのは、大商家に育った背景があるからだと思いたいが……〉〉
ファムがエズルになにも知らせないまま何年も放っておいたのは、敵の罠である形跡がないか観察するためと、この若者が実際にどれくらいの能力をもっているかを見きわめるためだった。そうやってファムの目に映ったのは、独裁者の支配下で成人したために神経質さと不安が身にしみついた――それでいて一定の理性をもった若者の姿だった。
ファムがナウとブルーゲルに牙をむく最終局面では、裏ですべての仕掛けを動かす協力者が必要になる。だからこそ、この若者にそのやり方をいくつか教えておかなくてはならないのだが……。しかしファムは、それによってヴィン家の者にどれだけ強力な武器を渡していることになるのか考えて、夜中にしばしば歯がみせずにはいられなかった。
エズルは命令セットをすぐに覚えた。ファムが教えたほかのテクニックもすぐに会得《えとく》するだろう。視覚ができあがるには多少の時間を要するが。
「よし。まだ光の点滅くらいしか見えないだろうが、そのままテストパターンをくりかえせ。何メガ秒かすれば、おれとおなじくらいよく見えるようになるはずだ」
〈〈おおむねおなじように、な〉〉
そう請けあってやっただけで、エズルは安心したようだった。「わかった、何度も練習するよ――いわれたとおり、自分の部屋で。なんだか……何年もかけてすこしずつ覚えてきたことよりも、いまこの場で覚えたことのほうがずっと大きいような気がするな」
予定時間はまだ百秒残っている。監視員に送られている偽データを途中でキャンセルするわけにはいかない。まあいい。こいつと自然にやりとりすればいいだけのことだ。陳腐《ちんぷ》な台詞《せりふ》で充分だ。
「おまえはこれまで充分働いたよ」ファムはいった。「おかげでハマーフェスト棟がどんなふうに運営されているか、かなりわかった」
「そうだね。でもこれからはすこしちがうはずだ……。ぼくらが勝利をおさめたあとは、どんなふうになるんだい?」
「あと?」べつに隠すことはない。「それは……すばらしい成果が待っているはずだ。ここにはチェンホーの技術と、それをほとんど使いこなせる惑星上の文明がある。それだけでもチェンホー史上もっとも強力な交易条件がそろっている。しかしそれだけではないんだ。すこし時間をかければ、オンオフ星の物理学から導かれた新理論をもとに、最強のラムスクープエンジンがつくれるだろう。アラクナ星の多様なDNAもある。それだけでもたいへんな財産であり、こんなびっくり箱をいくつももっていれば――」
「それから、集中化された人々は解放されるんだろう?」
「ああ、ああ、もちろんだとも。心配するな、ヴィン。トリクシアはとりもどす」
実際にはむずかしい約束だろうが、そのとおりにしたいという意思はあるのだ。トリクシア・ボンソルが解放されれば、あとの処理についてもヴィンは素直に聞きいれてくれるかもしれない……たぶん。
ファムはエズルがへんな顔をして見ているのに気づいた。沈黙が長びいて、そこに妙な意味をくみとられてはまずい。
「よし、やるべきことはやったようだ。入力言語と視覚のテストパターンをよく練習しておけ。今回はこれで終わりだ」
〈〈やれやれ、交易の神々に感謝だ〉〉ファムは思った。
「おまえが先に、もと来たほうにもどるんだ。タクシー船の乗り場の近くまで行ったところで、気が変わって娯楽室で朝飯を食うことにした、という筋書きになっているからな」
「わかった」
エズルはなにかいいたそうにもじもじしていたが、やめて背をむけ、内壁側のカーブのむこうに消えていった。
ファムは背後の視野に浮いているタイマーを見た。あと二十秒で、自分は反対方向へ出ていくことになる。ローカライザーは二千秒前から、注意深く組み立てた偽データをブルーゲルの監視員たちに送っている。あとで仮設舎全体の動きとの整合性を調べ、おそらく|継ぎ《パッチ》≠あてなくてはならないだろう。敵が通常の人間の分析担当者なら、こういう待ちあわせは簡単にできる。しかし愚人《くじん》の監視員となると、足跡を消すのには細心の上にも細心の注意が必要だ。
あと十秒。
エズル・ヴィンがいましがた消えていった暗がりを見やった。相手を如才《じょさい》なくあしらうのも、だますのも、ファム・ヌウェンは何世紀分もの経験がある。
〈〈なのに、なぜおれはあんなガキ相手にぎくしゃくするのか〉〉
ふいに、スラ・ヴィンの幽霊がそばにあらわれ、大笑いしはじめたような気がした。
「もういいかげんに、ハマーフェスト棟にローカライザーを導入すべきです」
リッツァー・ブルーゲルがこう要請するのが、警備局の会議冒頭でのおなじみの儀式のようになっていた。今日、そのブルーゲルはびっくり仰天《ぎょうてん》させられることになるはずだった。
「アンのところでの評価作業がまだ終わっていないのだ」ナウはいった。
副領督《りょうとく》は身をのりだした。この何十年かのあいだに、ブルーゲルはずいぶん変わった。最近は五十パーセント近いサイクルで当直をこなしているのだが、そのあいだ医療支援とハマーフェスト棟のジムをひんぱんに使っていた。孤立生活のはじめの頃より健康そうに見えるくらいだ。そしてその過程で、みずからの……欲求を……うまく満足させる方法を会得していた。愚人の死体の山を築かなくてもよくなったのだ。頼もしい領督に成長していた。
「レナルトの最新の報告書はごらんになりましたか?」ブルーゲルはいった。
「もちろんだ。あと五年かかるとしていたな」ナウは答えた。
行商人のローカライザーに安全上の抜け穴がないかどうか調べるアン・レナルトの作業は、もはや果てがないように思えた。はじめトマスはもっと楽観的だった。チェンホーのハッカーといっても愚人の支援を受けていないのだからと、たかをくくっていた。ところがそうやって足を踏みいれたソフトウェアは、チェンホー八千年の歴史に比例した深さをもつ底なし沼だった。レナルトの愚人たちは、あと一年、あと二年と締め切りを毎年延期していたのだが、そこへこの最新報告だ。
「あと五年ですよ、領督。レナルトは永遠に無理だ≠ニいっているようなものです。このローカライザーに危険などひそんでいないことは、われわれは体験的にわかっていますよ。わたしのところの愚人は、仮設舎と廃船のなかで十二年にわたってこれを使っています。愚人はプログラムの専門家ではありませんが、チェンホーが使っているほかの電子機器とおなじように、このローカライザーもきれい[#「きれい」に傍点]なものです。そしてこれは利用価値の高い装置ですよ。空前絶後だ。これを使わないということのほうが、むしろ危険だ」
「たとえば?」
ブルーゲルは意表を突かれたような顔をした。こんなふうに発言をうながされるとは予想していなかったらしい。
「それは……使わなければ見すごしてしまうものごとがあります。たとえば、この話しあいでとりあげるつもりの問題ですよ」
それからしばらく、最近の安全上の問題について少々長ったらしい解説がおこなわれた。ゴンレ・フォンが闇市場への商品供給目的で使う農生産機械のために、自律機能系を手にいれようと画策していること。両船団の人々が蜘蛛《くも》族に対していだきはじめているゆがんだ愛情について(これは欲望の昇華としては有益だが、最終的に行動すべき局面では問題になると考えられる)。アン・レナルトの執着心を適切なレベルにたもつこと。
「レナルトのことは監視していらっしゃるでしょうが、あいつの意識は横滑りしはじめていると思います」ブルーゲルはつづけた。「システムの裏口探しに対するこだわりだけではありません。愚人に対する独占欲がひどく強くなっています」
「わたしが過敏に調節しすぎた可能性はあるな」ナウはいった。だめになった愚人を探すレナルトの精神の働きは、ひどく曖昧《あいまい》で、いつもの分析的な鋭さとはまったくちがっていた。「しかしそれが、ハマーフェスト棟のローカライザーを動作させることとどう関係があるんだ?」
「ハマーフェスト棟でローカライザーが働きだせば、うちの監視員はつねに精密な分析をできるようになります。たとえばネット上のデータの流れを、現実に起きていることと関連づけられる。もっとも警戒厳重であるべき場所の安全対策がもっとも脆弱《ぜいじゃく》だというのは……恥ずべきことですよ」
「ふむ」
ナウはブルーゲルの目をじっと見つめた。ナウが子どもの頃に学んだ重要な原理のひとつは、どんなことでも自分に嘘をついてはいけないということだった。歴史をひもといても、ヘルムン・ダイアからファム・ヌウェンにいたるまで、多くの偉人が自己|欺瞞《ぎまん》のせいで破滅してきた。正直にならなくてはいけない。キウィがしめしたハマーフヱスト棟の地底湖を、自分はなんとしても欲しい。実現すれば、このむさ苦しい場所が、文明の発達したチェンホーの星系にもめったにないような壮麗な輝きをもつことになる。だからといって安全性について妥協していいわけではないが……。しかしこの自己否定のせいでかえって情況をおかしくしているのではないか。
〈〈考え方を変えてみよう。おもてむき、この件を推進したがっているのはだれだ?〉〉
リッツァー・ブルーゲルはひどく熱心だ。彼をあなどってはならない。キウィは、間接的にとはいえ、みずからこのジレンマを招いているわけだ。
「キウィ・リゾレットのことはどうなのだ、リッツァー? おまえの分析担当者たちはどんな見方をしている?」ナウは訊いた。
ブルーゲルの目のなかでなにかがきらりと光った。まだキウィに対して殺意をともなう憎悪をいだいているのだ。
「いうまでもなく、彼女が真実に気づくまでの時間は短くなっていますね。いままで以上に厳重に監視すべきでしょう。いまのところは完全にきれいな状態です。あなたを愛してはいないが、それに近いほど強い崇拝の念をもっている。すばらしい作品ですよ」
近頃のキウィは当直シフトごとに真相に気づくようになっていた。しかしつい最近、精神洗浄術をほどこしたばかりでもある。ローカライザーの作動範囲を広げれば、もっと精密に監視できるだろう。ナウはさらにしばらく考えたあと、うなずいた。
「いいだろう、副領督。ハマーフェスト棟にもローカライザーを導入しよう」
もちろん、チェンホー製ローカライザーはすでにハマーフェスト棟内にはいっていた。この微細《びさい》な塵は風に乗って、また服や髪や皮膚に付着して広がっていく。すでに岩石群周辺のあらゆる居住空間に散らばっていた。
しかしいくら遍在していても、動力がなければ、ローカライザーはたんなるアモルファス合金のかけらにすぎない。そこでアン・レナルトの部下たちはハマーフェスト棟の幹線ケーブルをプログラムしなおし、さらに、新たに掘られた地下の洞窟《どうくつ》まで延長した。そして一秒間に十回、マイクロ波がすべての空間にいきわたるようにした。マイクロ波のエネルギーは生物にダメージをあたえるレベルよりはるかに低く、ほかの装置類に干渉する心配もない。チェンホー製ローカライザーはきわめて省電力なのだ。微小なセンサーを働かせ、すぐそばの仲間と通信できればそれでいい。
マイクロ波を送りはじめて十キロ秒後、ブルーゲルはローカライザーのネットが安定し、正常なデータを返してきたと報告した。さしわたし四百メートルの範囲に広がった数百万個のプロセッサ。そのひとつひとつは、黎明期のコンピュータ一台分の処理能力しかないが、全体をあわせると、L1点最強のコンピュータネットワークになった。
キウィは、洞窟を掘り広げて、湖の波を制御するためのサーボバルブの設置作業を四日間で終えた。彼女の父親は、すでに湖岸にあたる場所に敷く土壌の醸成《じょうせい》をはじめていた。最後は水だが、それもまもなくはいるだろう。
はじめてみると、ナウはいままでローカライザーを使わずにどうしてやってこられたのかと思うようになった。リッツァー・ブルーゲルのいうとおりだった。ハマーフェスト棟のこれまでの警備体制は、まるで暗闇で手探りしているようなものだったのだ。チェンホーの仮設舎のほうがきちんと警備されていた。
ナウはブルーゲルとその監視員とともに、ハマーフェスト棟全体を何日もかけて隅々まで調べまわった。さらに星間船や倉庫群を調査し、慣例を破って兵器庫のL1Aでも百キロ秒にわたってローカライザーを使った。まるで暗い物陰を強力なスポットライトで照らしてまわるようなものだった。安全対策上の欠落点を何十ヵ所もみつけ、ふさいだ……。反逆行為の痕跡《こんせき》すらひとつならずみつけた。こういったことにより、大きな安心感が生まれた。家で害虫を探してみつからなくても、駆除剤をおいたり侵入穴をふさいだりすることで安心できるのとおなじだ。
こうしてトマス・ナウは、エマージェント史上のどんな領督よりも自分の領地をよく知るようになった。ブルーゲルの監視員とローカライザーを使えば、ハマーフェスト棟のどこにだれがいて、どんな感情の状態にあるかも――それどころかなにを知覚しているかさえも――わかるのだ。しばらくして、もっと早く実験してみるべきだったことを思いついた。
エズル・ヴィンだ。
あの若者についてもうすこしやれることがあるかもしれない。ナウはエズルの履歴《りれき》を詳細に見なおし、次の面談までに準備を整えた。
面談は定期的にヴィンの報告を聞くためのもので、二人だけで会うのだが、すでに彼はこのかたちでのやりとりに慣れていた。愚人のグループが蜘蛛族世界をどのように理解しているか、この十日間に調べた結果をまとめて報告するために、エズルはナウの執務室にやってきた。
ナウは行商人の若者に勝手にしゃべらせた。それを聞き、うなずき、ときどき適当な質問をはさみながら……ヘッドアップディスプレー内に広がるたくさんの分析データを見ていった。これはすごい。ローカライザーは宙を漂い、エズルの椅子や、皮膚の上にさえ付着している。
観測データはインビジブルハンド号に送られ、プログラムによって解析されて、結果がナウのヘッドアップディスプレーに送り返される。ナウの目に映るエズルの皮膚は、皮膚電気反応、皮膚温、発汗などにしたがってさまざまな色で塗りわけられる。顔のまわりでは通常のグラフィックで脈拍やその他の体内データが表示される。別窓にはエズルの視点からの映像がうつされ、焦点の動きが赤い軌跡《きせき》でしめされている。ブルーゲルの監視員のうち二人がこの面談のためにまわされ、その分析所見が、ナウの視野上端を文字として流れていく。
対象のリラックス度は通常の面談のレベルの十パーセント。対象は自信と不安を感じ、領督への共感はもっていない。対象はいまのところ率直な思考を抑制しようとはしていない。
だいたい予想したような内容だが、細部までつぶさにわかる。相手に見えないという意味で、高度な機器を使った穏やかな尋問よりすぐれている。
「つまり、両国の戦略のちがいは鮮明になっています」エズルはこの面談の二重性に気づかないまま、結論づけた。「ペデュアとキンドレッド国はロケット工学と核兵器についてかなり優位性をもっていますが、コンピュータとネットワークの分野ではアコード国にくらべてつねに後れをとっています」
ナウは肩をすくめた。「キンドレッド国は完全独裁国家だ。黎明期の独裁者はコンピュータネットワークに対応できなかったと、きみはいっていなかったかね?」
「そうです」
対象が反応。おそらく皮肉の感情を抑止。
「そういう面もあります。キンドレッド国は太陽の火が消えたあとのどこかの時点で、先制攻撃をかける計画をもっていて、それは軍備への過剰な予算配分とも一致します。そしてアコード国側では、ペデュアが苦手とする自律機能系に、シャケナー・アンダーヒルがおなじくらい大きな情熱を傾けています。正直いって、このままでは危機的情況にいたると思われます、領督」
対象のこの発言は誠実なもの。
「蜘蛛族文明が逆二乗則を発見したのはつい二世代前で、数学については人類の黎明期にくらべて立ち後れています。しかしキンドレッド国のロケット工学は着実に進歩しており、彼らがシャケナー・アンダーヒルの十分の一も好奇心をもっていれば、十年以内にこちらの存在を探知するでしょう」
「われわれが地上のネットワークを支配するまえに、ということか」
「そうです」
ジョー・シンもおなじことをいって、愚人パイロットに警戒させていた。ご苦労なことだ。しかしすくなくとも、孤立生活の終わりがどんなかたちになるかはほぼあきらかになってきた。
それはともかく……。
対象の警戒心が弛緩《しかん》。
ナウはにやりとした。ヴィン管理主任にはここで冷や汗をかかせてやろう。
〈〈もしかしたら、こいつも操作できるかもしれないぞ〉〉
どちらにしても、エズルの反応には興味がある。ナウは椅子に背中をもたせかけ、机の上に浮いている盆栽をぼんやり眺めているふりをした。
「わたしは長年にわたってチェンホーについて勉強してきたのだ、ヴィン君。思い違いはしていないつもりだ。きみたちは惑星に固着した人間よりも、さまざまな文明を知っているようだな」
「はい」
対象はまだ落ち着いているが、この同意は誠実なもの。
ナウは首をかしげた。「きみはヴィン家の出身だ。チェンホーが本当にいろいろなことを知っているのなら、きみもそうであるはずだ。じつは、わたしの心の英雄はファム・ヌウェンなのだ」
「まえにも……そうおっしゃっていましたね」
その返事はぎこちなかった。ナウの視野のなかでは、エズルの顔は彩色が大きく変化し、心拍数と発汗《はっかん》が急激に上昇した。インビジブルハンド号のどこかで監視員が分析し、報告してきた。
対象は領督に対してかなりの怒りを感じている。
「正直にいうが、ヴィン君、きみたちの伝統を侮辱《ぶじょく》するつもりはないのだ」ナウはいった。
「エマージェントがチェンホー文化の多くの要素を軽蔑しているのは知っているだろうが、ファム・ヌウェンはべつだ。じつは……わたしはファム・ヌウェンの真実の姿を知っているのだ」
エズルの診断データをしめす色あいは正常にもどり、心拍数も落ち着いていった。しかし瞳孔の開き具合と軌跡は、怒りを抑えた状態をしめしている。ナウはかすかな違和感をおぼえた。
エズルの反応に恐怖がまじっている気がしたのだ。
〈〈この自律機能系については慣れが必要なようだな〉〉
そして、会話のほうでもナウは困惑していた。「どうしたのだ、ヴィン君? 今日は腹を割って話そうではないか」微笑んだ。「わたしはリッツァーには話さない。きみもシンやリヤオや……わたしのキウィと、よけいな世間話はしないだろう」
今度は怒りの反応がはっきりとあらわれた。不一致の要素はない。この行商人のガキは、自覚はないとはいえ、キウィ・リゾレットにのぼせあがっているのだ。
怒りの兆候がおさまり、エズルは唇を湿らぜた。緊張をあらわすしぐさだろうか。しかしナウのヘッドアップディスプレーには、文字がこうあらわれた。
対象は好奇心をもっている。
エズルはいった。「なんでもありません。ただ、ファム・ヌウェンの人生とエマージェントの価値観に共通点があるとは思えないのです。たしかにファム・ヌウェンは生まれつきの商人ではありませんが、現在のわれわれのありようをつくったのは彼です。チェンホーの記録アーカイブを見ると、彼の人生は――」
「ああ、アーカイブなら見たとも。しかしあれはどうも整合性に欠けると思わないかね?」
「まあ、ヌウェンは大旅行家でしたから。のちの歴史家への配慮などなかったでしょう」
「ヴィン君、ファム・ヌウェンは過去のどんな偉人にも負けず劣らず、歴史には重きをおいていたのだよ。おそらく――いや、まちがいなく――きみたちチェンホーのアーカイブは、細心の注意でもって細部を書き換えられている。たぶん、きみの家系によってだ。しかしファム・ヌウェンくらい偉大な人物ともなれば、ほかの歴史家も惹《ひ》きつけられてくる。ファムがつくり変えた世界からも、ほかの宇宙旅行文化圏からもな。長年のあいだにはそれらの物語も流れてくる。人類宇宙のこちら側に流れてきたものは、わたしがすべて収集した。わたしはつねにファムを手本に生きたいと願っていたのだ。きみたちが語るファム・ヌウェンは、卑屈《ひくつ》な商人ではない。秩序の招来者であり、征服者だ。たしかに詐欺《さぎ》や賄賂《わいろ》といった、きみたち商人のテクニックは使っているが、いざというときにはためらうことなく脅迫や暴力に訴えた」
「それは――」
エズルの顔をいろどる診断データでは、怒りと驚きと疑念が、微妙にいりまじっていた。ナウの予想どおりだ。
「証拠を見せよう、ヴィン君」宙にむかってキーワードをいった。「いま、われわれのアーカイブからきみの個人領域へ、あるものを移動させた。のぞいてみるがいい。チェンホー以外の視点から見た、ありのままのファム・ヌウェンの姿がある。ちょっとした残虐行為ならいくらでもみつかる。彼がストレントマン人大虐殺《ぎゃくさつ》をどのように終わらせたか、ブリスゴー間隙《かんげき》で彼がどのように裏切られたか、読んでみるといい。そのあとでまた話そう」
すばらしい。ナウはここまであからさまな言葉でいうつもりはなかったのだが、それによる反応はとても興味深かった。ナウとエズルは無意味な決まり文句をいくつかかわして、面談を終えた。ドアへ近づいていくエズルの両手で、赤い色がちらちらと光っている。肉眼では見えない手の震えをあらわしているのだ。
ナウは行商人の若者が出ていったあとも、しばらく黙って椅子にすわっていた。ぼんやりと宙を見ているようだが、実際にはヘッドアップディスプレーの表示を読んでいるのだ。監視員の報告が、第一ダイヤモンド塊の映像を背景に着色された文字として流れていく。詳しく読むつもりだが……あとにしよう。まず自分の考えを整理しなくてはならない。
ローカライザーの診断能力はたしかに魔法のようだ。これがなければ、エズルのいらだちにもほとんど気づけなかっただろう。
〈〈それどころか、この診断能力がなければ、会話を誘導してヴィンを刺激する話題を狙い撃ちすることはできなかっただろう〉〉
つまり、能動的な心理操作はうまくいきそうだ。これは単純な監視員のテクニックではない。
また、エズル・ヴィンがファムに対してもっているイメージの多くが、チェンホーのおとぎ話と強力に結びついていることもわかった。ファム・ヌウェンの異聞《いぶん》を読んで、あの若者が考えを変えるということがあるだろうか。以前ならとても信じられなかったが、この新しい道具を手にいれたいまは……。
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「もう一度じかに会って話すべきだな」
「……わかった。ところで、ファム、ぼくはナウが送りつけてきた嘘を信じてはいないから」
「ああ。まあ、だれでも過去を自分の都合のいいように書き換えたがるものだ。じかに会う必要があるというのは、今回のようなだまし討《う》ち的な面談に対処する方法をおまえに教えこむためだ」
「すみません。一瞬、ぼくらのことを勘づかれたのかと思ったよ」
若者の声はファムの耳のなかでかすかに響いた。エズル・ヴィンはこの秘密の通信回線をだいぶうまく使えるようになっていた。ファムには、相手の悄然《しょうぜん〉とした口調がわかるくらいだ。
「いや、おまえはよくやった」ファムはいった。「フィードバック訓練をすこしやれば、もっとうまくあしらえるようになるはずだ」
二人はもうしばらく話して、落ちあう時間とアリバイの内容を決めた。そして細い回線は切れた。一人になったファムは、一日の出来事を反芻《はんすう》しはじめた。
〈〈くそ〉〉
今日は最悪の事態をからくものがれた……あるいは、一時的にのがれただけか。ファムは暗い部屋のなかを漂っていたが、その視線は何キロも離れた第一ダイヤモンド塊とハマーフェスト棟のあいだを行き来していた。いまではあらゆるところにローカライザーがいきわたり、しかも稼働しているのだ。ただし、集中化クリニックのMRI装置にローカライザーが近づくと、たちまち黒焦げにされてしまうが……。ハマーフェスト棟のローカライザーに息を吹きこむのは、長年待ちつづけた大きな一歩だ。しかし〈〈ヴィンから送られる診断データを途中で操作しなかったら、いま頃破滅だったかもしれない〉〉
領督《りょうとく》が新しいおもちゃでこういうことをやるのは、はじめからわかっていた。仮設舎では何年もまえから、大なり小なりおなじようなことがおこなわれているのだ。しかし偶然とはいえ、ナウがあそこまで的《まと》を射た単語をならべるとは思いもよらなかった。エズルは十秒近くものあいだ、ナウにすべて見抜かれていると思いこんだのだ。その反応についての監視員の分析結果を、ファムは途中でせきとめて破棄した。エズル自身もそれなりにとりつくろったが……。
〈〈トマス・ナウがおれのことをあそこまで知っているとは、さすがに思わなかった〉〉
領督はずっと、自分は歴史上の偉人たち≠心から尊敬していると公言し、そのなかにかならずファム・ヌウェンもふくめていた。それはチェンホーと共通の立場を築くための方便《ほうべん》だと、ファムは思っていたのだが、どうやらそうではなかったようだ。トマス・ナウがエズル・ヴィンを読む≠フに夢中になっているあいだに、ファムはおなじやり方で領督を診断していた。トマス・ナウは本当に、自分の考える歴史上のファム・ヌウェン像を崇拝していたのだ! あの男はどういうわけか、自分とファム・ヌウェンの姿を重ねあわせていた。
〈〈おれのことを秩序の招来者≠ニ呼んでいたな〉〉奇妙な響きだ。自分でそんな異名を考えたことはなかったが、そうありたいと思っていた姿に、わりと近い。〈〈しかし、おれとトマス・ナウはどこも似てないぞ。ナウはいくらでも人を殺し、しかも自分のために殺すが、おれが求めていたのは殺しあいを終わらせ、野蛮な生活を終わらせることだった。ぜんぜんちがうそ!〉〉
ファムはその不条理な思いをとりあえず封印した。本当に驚くべきなのは、ナウが真実の出来事をかなりよく知っていることだった。ファムは十キロ秒前から、エズルが目を通しているデータベースを肩ごしにずっと見ていた。いまもエズルの領域からデータベース全体をすこしずつ引き出し、ローカライザーネットの分散メモリーに流しこんでいる。あと一メガ秒もすれば、全体を詳しく調べられるようになるはずだ。
これまでに見た内容は……興味深かった。真実もかなり多くふくまれている。しかし真実にせよ嘘にせよ、それはスラ・ヴィンがチェンホーの歴史に書き残した、畏怖《いふ》の念に充《み》ちた神話ではなかった。スラが最終的な裏切りを隠蔽《いんぺい》するためにつづった嘘でもなかった。
〈〈エズル・ヴィンはこれをどう受けとめるだろう……〉〉
ファムはいままでエズルに対して寛大すぎるほどだった。エズルは集中化技術について柔軟な考えをもちあわせていない。愚人《ぐじん》のことになると泣き言ばかりだ。ファムのほうも奇妙だった。ファムはこれまでずっと、ばかや悪党や顧客や、それどころかチェンホー相手にさえ平然と嘘をついてきた。なのにエズルのこだわりに調子をあわせるときだけは、辟易《へきえき》させられた。集中化技術によってどんな奇跡が可能になるか、エズルは理解していないのだ。
しかもナウがよこしたデータベースには、ファムが真の目標をエズルの目から隠すうえで、きわめて都合の悪いことがいくつも書かれていた。
ファムはもう一度、トマス・ナウ版のファム・ヌウェン伝にもどった。エピソードをひとつずつ追いながら、自分が怪物として描かれている嘘をみつけると悪態をつき、真実が描かれていると……たとえそれが最善の行動であっても、しかめ面《づら》をした。
自分の素顔をこうやって見なおすのは、なんとも奇妙だった。ビデオ映像のいくつかは本物だろう。それらの演説の言葉が、自分の喉をのぼって唇から流れ出すのを感じるほどだ。
記憶が甦《よみがえ》ってきた。
最盛期にはどこへ遠征に出かけても、星間交易文化の価値を理解する商人たちと出会えた。星間放送はファム自身が行くより早くとどき、メッセージを効果的に伝えていた。キャンベラ星の幼い王子が旅の商人の手に放り出されてから千年もたたないうちに、彼の人生計画は完成に近づいていた。ファムがけして足を踏みいれることはないであろう人類宇宙の最果《さいは》てから、踏み固められたその中心部にいたるまで――原初地球でも――あらゆる商人がファムのメッセージを聞き、その理想像を共有していた。運命の紡《つむ》ぎ車を止めるほどの強さと耐久力をもつ組織という理想像を。
たしかに、その多くはスラとおなじレベルでしかものごとを見ていなかっただろう。大きな富を手にいれて、その恩恵を自分と自分の家系が手にすることしか考えていない、たんなる実務家的精神≠フ持ち主だ。しかし当時のファムは、みずからが説《と》く偉大な目標を大半が理解していると思っていた――いや、いまでもそう信じたかった。
客観時間で千年にわたって、ファムはかつてない大集会を予告するメッセージを流していた。あるとき、ある場所で新生チェンホーが一堂に会して、人類宇宙の平和を宣言し、その大義のために行動することを誓うのだ。スラ・ヴィンがその集合場所を決めた。
ナムケム星系だ。
たしかにナムケム星系は人類宇宙のなかでも銀河中心方向に寄った位置にあるが、チェンホーの活動がもっとも活発な宙域としては中心に近い。確実に参加すると思われる商人たちにとっては所要時間が千年以下で、比較的集まりやすいのだ。だからだと、スラはいった。そして、あわれなファムをからかうように、いつものあきれたような笑みを浮かべていた。しかしファムは、ナムケム星系には大きなチャンスがあると思っていた。
どちらにせよ、ナムケム星系で集会をひらくことに同意せざるをえない理由がもうひとつあった。スラの旅行時間が少なくてすむのだ。彼女は戦略家であり、ファムの計画の中心だった。何世紀もの時間が流れるあいだに、ときどき冷凍睡眠にはいり、人類宇宙で最高の医療技術を使っていても、もはやスラ・ヴィンは命をたもてないほど高齢になっていた。五百歳か、六百歳か。大集会の一世紀前に送られてきたメッセージでは、スラはとても年老いて見えた。ナムケム星でやらなかったら、ファムが築きあげた成功の全貌をスラに見せる機会はもうないかもしれない。ファムが正しかったことをスラにしめす機会が失われるかもしれない。
〈〈おれが全幅の信頼をよせるのはスラだけだった。おれはスラのために生きていたんだ〉〉
思い出しながら、ファムは遠いむかしの憤怒《ふんぬ》の炎にのみこまれていった……。
集会のなかの大集会だ。ファムとスラがつくりだしてきたあらゆる方法論と神話は、ある意味でこの瞬間のためにあったとさえいえるだろう。各船団が前例のない正確なタイミングで到着したのも、だから当然だった。一、二世紀のあいだにぽつぽつと集まってくるのではなく、三百を超える世界から出発した五千隻のラムスクープ船が、一メガ秒以内の時間差で、ナムケム星系という一点に突進してきたのだ。
キャンベラ星系やトーマ星系からの船団のように、ほんの一世紀前に出発してきた連中もいた。ストレントマン星系やキーレ星系のように、ほとんど異種族ではないかと思うほど人種的変化の大きい世界からの船もあった。大集会の予告を星間放送で聴いただけの、はるか遠くの星からやってきた者もいた。原初地球からも三隻来ていた。参加者すべてが商人というわけではなく、ファムのメッセージに苦境打開の期待をかけた政府の派遣団もいた。およそ三分の一の参加者が出発してきた世界は、彼らが行って帰ってくるあいだに文明が滅びているはずだった。
このような大集会では、開催地の変更や延期は不可能だ。たとえ地獄の口がひらいても、彼らの突進をわきへそらすことはできなかっただろう。しかし到着まであと数十年という時点で、ファムはその地獄の口がナムケム星系の人々に迫っていることを見てとった。
ファムの旗艦の船長は、四十歳と若かったが、十ヵ所以上の世界を見てこの世の道理をよくわかっているはずだった。しかし、ナムケム星系は彼の生まれ故郷だった。
「ここは、あなたが闇のなかから登場するまえから文明化されているんですよ。問題の解決策くらい、よくわかっているはずだ。いったいどうしてこんなことに……」
船長は、スラ・ヴィンの最新の通信とともに送られてきた分析データを半信半疑のおももちで見ていた。
「すわれ、サミー」ファムは壁を蹴って椅子を引き出し、船長にもすわるよううながした。「報告はおれも読んだ。典型的な症状だ。ナムケム星系全体でシステム障害の発生率が、この十年で確実にあがっている。見ろ。外衛星とのあいだのビジネス交通量の三十パーセントがつねに渋滞《じゅうたい》している」すべてのハードウェアが正常に動作していても、システムが複雑になりすぎたために、船がまえに進めなくなっているのだ。
サミー・パークはファムの部下のなかで最高の一人だった。新生チェンホーのつくられた神話の裏にある事情をすべて理解した上で、なおも信奉していた。ファムとスラの後継者にさえなれるかもしれなかった。ファム自身の年長の子どもたちは、母親に似て慎重さがまさった性格なので、彼らよりサミーのほうがいいかもしれないと思えるのだ。しかしそのサミーが、まじめな顔でしゃべり立てていた。
「ナムケム星系の政府は危険を認識しているでしょう。安定について人類が学んできた手法はすべて知っている。しかもわれわれよりすぐれた自律機能系をもっているんですよ! あと何十メガ秒かしたら、また最適化できたと報告してくるはずです」
ファムは肩をすくめたが、否定的な意見は口にしなかった。〈〈ナムケム星系は良好な状態を長いことたもってきたからな〉〉
口に出してはこういった。「そうかもしれない。しかし、手直しですむなら三十年前からやれたはずだ」スラの報告書をしめした。「なのに実際には、問題はかえって悪化している」パークの表情を見て、声をやわらげた。「サミー、ナムケム星系は四千年近くにわたって平和と自由を謳歌《おうか》してきた。そんな顧客文明は人類宇宙のどこを見まわしてもない。しかしそういうことだ。手助けしなければ、たとえ彼らでも、永遠の繁栄はありえないんだ」
サミーの肩ががっくりとさがった。「殺戮《さつりく》の悲劇は回避してきた。細菌戦争も核戦争も起こさなかった。政府は柔軟性と敏感さをたもっている。あるのはただ、このいまいましい技術的問題だけなのに」
「技術的症状[#「症状」に傍点]なんだ、サミー。問題のありかは政府もよくわかっているはずだ」
〈〈なのに、なにも手を打てないんだ〉〉
ガナー・ラーソンのシニカルな言動を思い出した。この議論もおなじ袋小路《ふくろこうじ》にはまりこむだろう。しかしファム・ヌウェンは、半生を費やしてその解決策を考えていた。
「政府の柔軟性にはかならず寿命がある」ファムはつづけた。「政府は何世紀にもわたって最適化圧力を受けてきた。才覚と自由と過去の知識によって危険を避けてきたが、最適化をやりすぎて、システムが脆弱《ぜいじゃく》になってしまった。都市衛星は人類宇宙でもっとも豊かなネットワークをもっているが、逆にそれが命とりになったのだ……」
「それはわかってます――いや、彼らにはわかっていることです。だから安全マージンというものがあるんですよ」
ナムケム星系は分散型自律機能系をきわめた文明だ。そしてつねにみずからを改良してきた。政府は、資源配分の最適化という圧力にその柔軟さで応じ、それにしたがって安全マージンは削りとられていった。経済の循環的下降は、カール・マルクスやハン・スーといった黎明期の悲観論者の予想よりはるかに穏やかで、マンカー・オルソンがしめしたモデルにわずかに似ている程度だった。政府は直接管理をしなかった。自由な企業経営と個人の計画にまかせたほうが効率がいいからだ。しかし、汚職や中央による計画や、むちゃな発明といった古典的な罠をすべてのがれられたとしても――
「最後はかならず機能不全におちいるんだ」ファムはいった。「政府がじかに手を出さざるをえなくなる」
あらゆる危険を避けても、築きあげてきたものの複雑さそれ自体に耐えきれなくなるのだ。
「ええ。わかってます」サミーは目をそむけた。
ファムは自分のヘッドアップディスプレーを、サミーの見ているものに同期させた。タレルスク月とマレスク月。ナムケム星の衛星で大きいほうの二つであり、それぞれ二十億人の人口をかかえている。大都市の明かりをきらめかせる二つの円盤として、母惑星の上を横切っている――そしてこの母惑星は、人類宇宙で最大の公園となっているのだ。ナムケム星系に破局が訪れたら、すべてが一瞬にして崩壊するだろう。ナムケム星のある太陽系は、宇宙時代の初期のように純粋な小惑星コロニーの建設によって自然に惑星を失ってきたわけではない。しかし都市衛星がその数億人の人口をささえるのに、高度な科学技術を必要としているのもたしかだ。大規模な機能不全は、あっというまに星系内戦争へと発展するだろう。これまで多くの人類の住む世界が、おなじような体制|瓦解《がかい》によって絶滅にいたったのだ。
サミーはその二つの月を――実際には何年もまえのその姿を――穏やかに、そして驚嘆の念とともに眺めていた。そしていった。
「わかってます。あなたがずっと人々に教えてきたことですね。わたしもチェンホーに参加してからずっと聞いてきたし、その何世紀もまえからあなたは説かれていた。すみません、ファム。でも、自分の生まれ故郷がこんなに早く死んでしまうなんて、とても信じられなかった……考えられなかったんです」
「まあ……そうだな」
ファムはみずからの旗艦の船橋を見まわし、さらに小さな窓に映し出された船団の三十隻それぞれの船橋を見た。航海なかばのいまは、どの船橋にも三、四人しか当直がいない。宇宙でいちばん退屈な仕事だからだ。しかし大集会にむかっているなかでこの船団は最大規模のひとつだった。三十隻の船倉《せんそう》ではあわせて一万人以上のチェンホーが眠っているのだ。彼らは一世紀とすこしまえにテルヌー星系を出発し、おたがいのラム場が干渉しない範囲で密集隊形をとり、飛んできた。この旗艦からもっとも遠い船の船橋まで、四千光秒もない。
「ナムケム星に着くのはまだ二十年後だ。それまで連続当直をする気なら、時間はたっぷりあるといえるだろう。どうやら今回は……おれがずっといってきたことが本当に起きるのだと、証明する機会になりそうだな。おれたちが着く頃には、ナムケム星は大混乱におちいっているだろう。しかしおれたちは、惑星という陥穽《かんせい》にはまっている彼らにむけて外部からさしのべられる助けの手だ。そして有効に支援できるだけの船団規模もある」
二人がすわっているのは、サミーの船、ファーリガード号の船橋だった。三十の指令席のうち五つに当直が立ち、それなりに人がいるほうだ。サミーはそれらの席を順番に見て、最後にファム・ヌウェンに視線をもどした。希望といってよさそうな表情が浮かんでいる。
「ええ……。この大集会をおこなう意義を、実例でしめすことができますね」スケジュール用プログラムをはしらせる一方で、そのアイデアの検証もはじめた。「緊急物資を使えば、一隻あたり百人近い人員をナムケム星までずっと連続当直させることができます。それだけいれば情況を分析し、行動計画も策定できます。それどころか、二十年あればほかの船団と連携することもできるはずです」
サミー・パークは旗艦の船長らしく働きはじめた。計算結果を見つめながら、さまざまな可能性を検討している。
「ふむ。原初地球の船団がここから四分の一光年以下のところにいます。参加船団のうち半分は六光年以下の範囲にいて、いうまでもなくその距離は縮まっています。スラと、すでに星系内にはいっているチェンホーはどうしますか?」
スラは何世紀もまえから星系内の生活に落ち着いてしまっている。しかし「スラとそのまわりの連中は独自の資源をもっている。生き延びられるはずだ」ファムはいった。
スラは運命の紡ぎ車について、それを打ち破れるという信念はもたなくとも、性質を理解してはいる。一世紀前にタレルスク月の拠点をあとにし、いまは小惑星帯にある古めかしい宮殿を仮設舎≠ノしていた。スラはファムがなにをやろうとしているか、見当をつけられるはずだ。その分析結果の通信が、いまこの瞬間にもこちらへ飛んできているかもしれない。
もしかしたら、交易神というものは実在するのかもしれない。見えない手≠ヘ本当にあるのだ。ナムケム星系での大集会は、ファムの想像を絶する展開になっていった。
大船団の航跡が、年ごとにナムケム星系という一点に収束していった。蛍《ほたる》とその五千本の光の尾が、肉眼でも数光年むこうまで、ちょっとした望遠鏡があれば数千光年むこうまで見えた。減速噴射の火焔《かえん》も年ごとに間隔がつまっていく。接近していく船の窓からは、球状にひらいた繊細な薊《あざみ》の綿毛《わたげ》のように見えた。
五千隻の星間船。百万人以上の人員。それぞれの船は世界を何度も灰にできるだけの兵器を積み、またライブラリとコンピュータネットワークをそなえている……。それらを総合した能力は、ナムケム星系のような文明のもつ武力や資源と比較しても、けして薊の綿毛などではなかった。
しかし、たとえ薊の綿毛でも、倒れる巨象を救う方法はある。それはなにか。ファムはその疑問に対する答えを、これまでじかに説いたり、あるいはチェンホーのネットワークを通じて広めたりしてきた。
惑星の文明は、すべて孤立した陥穽に落ちている。単純な災害でも全滅しかねないが、それは外部からの手助けで安全な場所へ避難させることができる。ナムケム星系のように、何世代にもわたる最適化によって脆弱になったシステムが崩壊するという、あまり単純ではない場合でも、その原因は固着した文明ゆえのシステムの閉鎖性にある。政府は多くの負担をかかえ、わずかな選択肢しかもたず、最後はかならず野蛮さが蔓延《まんえん》する。そこで有効なのは、チェンホーがもっている外部の視点であり、新しい自律機能系だ。それが重要なのだと、ファムは説いてきた。
今回はそれを机上の空論に終わらせず、証明してみせるチャンスだ。その準備をするのに、二十年という時間はかならずしも長くはない。
はじめは穏やかだったナムケム文明の衰退は、二十年のあいだに、たんなる生活上の不便や景気後退という局面をすぎた。政府は三度倒れ、そのたびにもっとシステムの効率化を≠ニ主張する新体制がつくられた。そして社会的、技術的に大きな修正が試みられた。しかしじつは、それはほかの多くの世界で失敗してきたやり方なのだ。文明が階段をくだるごとに、近づく大船団の計画はより綿密になっていった。
多くの死者が出はじめていた。星系から十億キロメートルのところで、大船団はナムケム文明で初めての戦争がはじまるところを目撃した。文字どおり、肉眼でだ。ギガトン級の爆発がいくつも起こり、外惑星の自動化産業の三分の二を引き連れて分離していた対立政府が崩壊した。爆発によって残った産業はわずか三分の一になったが、それが都市衛星の体制を牛耳《ぎゅうじ》るようになった。
サミー・パーク船長は会議で報告した。「アルキン月の住人は惑星表面へ避難しようとしています。マレスク月は飢餓《きが》にみまわれそうです。外惑星からの供給経路が、われわれの到着する数日前に途切《とぎ》れてしまうはずです」
「タレルスク月の政府残党は、まだ自分たちに当事者能力があると思っているようです。われわれの分析では……」べつの船団長が話しはじめた。
なかなか流暢《りゅうちょう》な固有語だ。二十年かけて共通語を同期させてきた成果だ。この船団長は、原初地球からやってきた若い……おそらく男だ。原初地球は八千年のあいだに人類絶滅を四回経験していた。付近に姉妹世界がないため、この地のもともとの人類はとうに滅びてしまっている。現在地球に住んでいるのは、ずいぶん変わった連中だった。彼らはこれまで人類宇宙の中心近くに出てきたことがなかったが、全船団がナムケム星系への最終接近にかかっているいま、原初地球の船団はファムの旗艦からわずか十光秒のところにいた。だれからともなく救助作戦と呼ばれはじめたこの計画に、原初地球の船団も積極的に参加していた。
サミーは相手が話しおえるのを辛抱強く待っていた。何秒もタイムラグがある環境で話をするのには、特別な忍耐が必要なのだ。それからうなずき、話しだした。
「タレルスク月ではおそらく最初の大量死が起きるだろう。どんな原因からそうなるかは、まだはっきりわからないが」
ファムはサミーとおなじ会議室にいるという利点を生かして、サミーの発言割りあて時間が終わる寸前に口をはさんだ。
「スラの情況について要約して話してくれないか、サミー」
「ヴィン商人はまだ中央小惑星帯にいます。われわれのいまいる位置からおよそ二千光秒の距離です」スラがじかに会議に参加するまでには、もうしばらくかかりそうだ。「有益な背景情報を数多く送ってくれていますが、いまは仮設舎と多くの船を失っているようです」スラは小惑星帯にいくつも地所をもっている。当面は安全なはずだ。「スラは、大集会の開催地をブリスゴー間隙《かんげき》に変更したほうがいいといっています」
沈黙が流れた。みんなだれかが発言するのを待っているのだ。二十秒。原初地球船団からも発言はないが、気をつかっているのかもしれない。四十秒。ストレントマン人の船団長がようやく発言を求めた。これは女性らしい。
「聞いたことがないわね、ブリスゴーカンゲキ≠ネんて」片手を挙げ、割りあて時間を放棄したわけではないことをしめした。「ああ、わかったわ。密度波でできた小惑星帯のすきま――間隙≠フことね」ひねくれた笑いをもらした。「まあ、その場所について議論にはならないでしょう。じゃあ、ヴィン商人の所有地に近い、ある経度を選んで、そこに集合することにしたらどうかしら……。もちろん、救助作戦が完了したあとで」
みんな何十光年、場合によっては何百光年も離れたところからはるばるやってきたのだ。その大集会をいま、なにもないところでひらこうという話になっている。もしタイムラグの壁を乗り越えられるなら、ファムはこの提案についてスラに抗議しただろう。どこでもない場所に集まるなんて、失敗を認めるようなものだ。ファーリガード号に発言の順番がまわってくると、ファムはいった。
「ヴィン商人が大集会の開催地をナムケム星系の辺鄙《へんぴ》な場所に移そうといっているのは、おそらく正しい考えだろう。しかしこの救助作戦は長年かけて準備したものだ。こちらには五千隻の船がある。都市衛星の住人と、すでにナムケム星に降りた避難者についても、それなりの救助計画がある。わたしはタンンレット船団長に賛成だ。こちらの計画を実行したあとに、その、なんとか間隙で落ちあうということにしようではないか」
38
内戦がつづき、三つの大都市の住人が危険にさらされていた。混乱のなかで生まれた寄せ集め軍隊を制圧するのに、千隻近い船の資源が投入された。二百隻がもつすべての着陸船が、ナムケム星の地上に降ろされた。この惑星世界は数千年前から公園として整備されていた――しかしこれからは、数十億人の難民キャンプになるのだ。ある大都市の住人は一部がすでに地上に降りていた。
マレスク月には二千隻以上がむかった。政治体制はすでに跡形《あとかた》もなく消えているが、数メガ秒後には飢餓《きが》が待ちかまえているのだ。マレスク月の人口の多くは、綿密な計画とすさまじい輸送力によって救われるはずだ。
タレルスク月にはまだ活動している政府があった。しかし、ナムケム星系史上に例のない政府だ。支配者たちは、まるでどこかの世界の暗黒時代から抜け出してきたように、運命を受けいれよ、あまんじて殺戮《さつりく》の対象となれと説《と》いているのだ。タレルスク月の政府は測り知れぬ狂気におおわれていた。
サミーの分析担当者の一人がいった。「このぶんだと、彼らを制止するのは武力制圧とほとんどいっしょですね」
「ほとんどいっしょだと?」ファムは接近経路図から顔をあげた。すでに全乗組員が気密スーツとフードを着用していた。「ふん。こいつは本物の武力制圧だ」
たとえ順調にいっても、チェンホーの救助作戦は三ヵ所で同時進行になる。もし成功したら、それらはそれだけのこととして記憶されたりしないだろう。それぞれの作戦がちょっとした奇跡、無力な住人たちへの救済として記憶されるはずだ。もしこれが数光年の距離をへだてた本物の星間戦争なら、十倍もすごい出来事として歴史に伝えられるだろう。
キャンベラ星の捨てられた王子がのちにこんな大きな企《くわだ》てにいどむことになると、もし父親が知ったら、いったいどんな顔をしただろうか。ファムはそんなことを考えながら、接近経路図にもどった。最速コースではタレルスク月まで五十キロ秒だ。
「いまの情況は?」
「予想どおりです。タレルスク月の政府はこちらの主張をまったく相手にしません。われわれを救助者ではなく、侵略者とみなしています。そしてタレルスク月の住人にこちらの主張は伝えていません」
「しかし、住民はだいたい知っているんだろう?」
「いえ、知らないかもしれません。これまでにフライバイ探査に三回成功したのですが――」四メガ秒前に無人探査機が何機も投下され、光速の十分の一近い速度で通過しながら偵察をおこなったのだ。「その数ミリ秒間に観測できたデータは、スラのスパイからあがってくる情報と一致しています。政府は普遍的法執行に踏みきったようです」
ファムは小さく口笛を吹いた。普遍的法執行とは、赤ん坊のがらがら玩具《おもちゃ》からはじまって社会のありとあらゆるところに埋めこまれたコンピュータシステムが、ことごとく政府の使用下におかれることを意味する。かつて発明されたなかでもっとも極端な社会統制手段だ。
「それはつまり、政府がすべてを運営するということだぞ」ファムはいった。
権威主義的考えの持ち主にはきわめて誘惑的な考え方だが……実際には、社会全体の行動を隅々まで計画する方法など、どんな独裁者ももっていない。文明を抹殺《まっさつ》するには、惑星破壊爆弾よりも凶悪と評されている方法なのだ。タレルスク月の支配者はここまで退行しているのか。ファムは椅子に背中をもたせかけた。
「よし。これで話は簡単に、そしてより危険になった。こちらは最短時間のコースをとる。こいつらは放っておくと住人全員を殺すぞ。第九投下スケジュールを実行」
それは無人の装置を次々と投下することを意味した。最初は目標を正確に狙えるパルス爆弾で、タレルスク月の目をくらませ、自律機能系を麻痺させる。次はもっと接近してから電子的に侵入し、衛星の都市エリアにチェンホーの自律機能系を流しこむ。ファムの計画どおりにいけば、タレルスク月の自律機能系は、支配体制側の普遍的法執行によってもまったく制御のきかない、異質なシステムと戦うことになるはずだ。
ファムの船団はナムケム世界の上空を低高度で通過した。タレルスク月からの直接攻撃を数千秒にわたってのがれるためだ。このようなコース選択も、ある意味で初めてだろう。文明のある星系では、都市化エリア内での大型核融合ロケットの使用を禁止している――まして星間船の推進エンジンなど論外だ。違反者には追放や没収といった重科がかされる。
しかし今回はそれどころではなかった。三十隻の船団はエンジン出力最大で、一G以上の減速を何キロ秒もつづけながら、ナムケム星の北半球中緯度上空二百キロメートル以下のところを通過した。速度は秒速二百キロ近い。森や、整備された砂漠や、アルキン月からの難民を収容している仮設都市がちらりと見えたと思うと、あっというまに遠ざかっていった。惑星質量による軌道変化もほとんどない。まるで子どもむけのアニメーション映像のように、惑星が視界をひゅんと通りすぎていった。
船団のほんの数キロメートル前方では、まがまがしい光が渦巻いていた。防戦の砲火はほとんどふくまれていない。都市化エリア内での高速飛行が危険行為として禁じられている本当の理由が、これだ。
ナムケム世界の近傍《きんぼう》空間は、かつては整然と最適利用されていた。軌道タワー建設の話さえあったほどだ。そこまでの最適化は政府が拒否したが、それでも低高度の宇宙空間には無数の船艇や人工衛星がひしめいていた。最盛時には、小規模衝突によって大量のスクラップが発生するので、その回収業がナムケム星近傍空間で最大の産業になっていたほどだ。
その整然とした商業利用は、何メガ秒かまえに停止していた。この混乱を惹《ひ》き起こしたのはチェンホーではなかったが、船団は爆弾の破裂による火焔《かえん》と、斜め前方に数百キロメートルも広がったラム場を押し立てて、猛スピードでそこを突っ切った。ファムの旗艦のラム場は、数百万トンのスクラップや貨物船や政府の軍用艇をさらいながら突進していった……。彼らが通過することはまえもって告知してあるので、一般市民の巻き添えはないはずだ。船団の通ったあとには、戦場さながらに黒焦げの残骸が散らばっていた。
タレルスク月が前方に迫っている。昼のように明るい無数の光を放っているのは、政府の命令によるものか、あるいはファムのパルス爆弾によるものだろう。しかしこの月はまだ死んでいない。犠牲者は人間的見地からいっても少ないほうだ。そしてファムの船のエンジンは五十秒とたたずに停止するはずだった。
彼らにとってはそれからあとがもっとも危険なのだ。エンジンを停止すればラム場も消える。ラム場がなければ、高速で飛んでくるスクラップの破片が偶然あたっただけでも、大きな被害を受けかねない。
「エンジン停止まであと四十秒」
タレルスク月の地表を破壊しないように、エンジン出力はすでに絞られはじめていた。
ファムはほかの船団からの報告に目をはしらせた。着陸船はナムケム世界に降りている。二千隻の星間船は、飢餓にあえぐマレスク月を救おうとむかっている。マレスク月はまるで腹をすかせて狂乱状態の深海の怪物のようだ。二千隻のほとんどはドッキング可能な状態になり、残りの船はすこし離れている。
外惑星からやってきた最後の貨物船が、マレスク月のふちに見えていた。大柄で鈍重《どんじゅう》なこの船は、外惑星の農生産施設が正常な自律機能系で動いていた何メガ秒もまえに出発してきたのだろう。貨物船は星間船とおなじくらい大きいが、ラムスクープ船とちがって強度を確保するための構造部分ははるかに少なく、一千万トンの穀物を積んでいる。マレスク月の住民をすこし食いつながせるくらいの量はあった。
「エンジン停止まであと二十秒」
ファムはもうしばらくマレスク月のようすを見守った。チェンホーの星間船のまわりに小さな船艇が雲のように群がっている。戦闘をしているのではない。ここの住人はタレルスク月の連中ほど狂気に落ちてはいないようだ。
そのとき、ファムの視界の上端を銀色の文字が流れはじめた。マレスク月駐在のスパイが送ってきた、血も凍るような警告だ避難してきた船艇から破壊工作の跡が発見されました。脱出せよ! 脱出せよ! 脱出せよ!
ファムのヘッドアップディスプレーからマレスク月の映像が消えた。見えているのはファーリガード号の船橋と、ナムケム世界の実景だけで、惑星表面の三分の二が穏やかな太陽光に照らされている。マレスク月はそのむこうに隠れているのだ。
ふいに、ナムケム星の大気のふちがばっと輝いた。まるで惑星のむこうで新しい太陽が生まれて、その光が反射しているかのようだ。二秒後にまた光った。しばらくして、また。ファーリガード号の船橋スタッフは、さきほどまでエンジン停止のカウントダウンに耳をそばだて、ラム場の傘《かさ》がなくなったあとの危険にそなえていた。しかしいま、ナムケム星のふちから洩れてくる閃光《せんこう》に驚愕のまなざしをむけ、あわただしく動きはじめた。
「マレスク月周辺で数ギガトン級の爆発が起きています」分析担当者は声の震えを抑えようとしている。「地表近くのこちらの船団は――なんてことだ――跡形もない!」
この都市衛星の十億人以上もおなじ運命をたどったはずだ。
サミー・パークは愕然《がくぜん》として凍りついている。ファムが、自分で船橋の指揮をとらねばならないかと思いかけたとき、サミーはふいに固定ハーネスのなかで身をのりだして、鋭い声で命じた。
「トラン、ラング、持ち場にもどれ。自分の船団のことを考えろ!」
べつの声がした。「エンジン停止!」
ファーリガード号のメインエンジンが出力ゼロになると、いつものようにふわりと浮いて落ちていくような感覚に襲われた。ヘッドアップディスプレーによると、船団の三十隻すべてが、予定した瞬間の前後百ミリ秒以内にぴたりとエンジン停止していた。
タレルスク月は前方四キロメートル以下のところにある。あまりにも近いので、もはや月でも惑星でもなく、周囲にどこまでも広がる風景のように見える。人類が足を踏みいれるまえのタレルスク月は、原初地球の月よりわずかに大きい、よくあるクレーターだらけの死んだ星だった。しかし原初地球の月とおなじように、輸送の経済学によって繁栄した。ナムケム世界の光に照らされた地表には、パステル色の風景と、そびえ立つ人造の山々が広がっている。原初地球の月とはちがって、人間の手で惹き起こされた災厄は一度も経験していなかった……いままでは。
「接近速度、秒速五十五メートル。現在高度、三千五百メートル」
減速終了をぎりぎりまで遅らせたのは、敵が下から攻撃しようとしたときに、地上におよぶ被害を考慮せざるをえなくするためだったのだが……。しかしここの異常政府は、いましがた十億人を殺したばかりなのだ!
「サミー! 着陸しろ! どこでもいい、ハードランディングだ」
「それは――」
サミーはファムと視線をあわせ、しばらくしてその意味に気がついた。しかし遅かった。
いきなり全システムが停止した。ファムのヘッドアップディスプレーは素通しになり、音声も消えた。星間船に乗っていて、物理的な衝撃というものを生まれて初めてファムは経験した。百万トンの質量をもつ船体と装甲によって吸収され、均《なら》された衝撃だが、あきらかになにかが船に激突したのだ。
ファムは船橋を見まわした。声が飛びかい、各部署からの報告があがってくる。システムによる振り分けも分析もされていない、生《なま》の音声だ。
「なんてことだ、核攻撃です!」
あちこちの表示画面が次々と息を吹き返し、予備の壁紙にも光がはいった。実景窓のなかをタレルスク月の風景が流れ、空が映りはじめている。ファーリガード号は毎秒数度の速さでゆっくり回転しているのだ。下級分析担当者の何人かが固定ハーネスをはずしはじめていた。
サミーが船橋のむこうへ怒鳴った。「訓練を忘れたか! 第二の衝撃がくるぞ!」
ひとつだけ残った実景を映す壁紙に、タレルスク月の風景がもどってきた。昇降路や、高層ビルや、農地をおおった透明なドームが見える。タレルスク月は大きいので、外惑星から農産物の補給を受けなくてもやっていけそうに思えた。そこヘファーリガード号は落ちていく。速度は……秒速十五メートルくらいだろうか。ヘッドアップディスプレーがだめになったので、接近速度がわからない。
「速度はいくらだ、サミー?」
船長は首をふった。「わかりません。さっきの核攻撃はタレルスク月側からで、こちらのほぼまんなかに命中しました。接近速度は秒速二十メートル以下だとは思いますが」
しかしファーリガード号はすでに回転するスクラップと化していて、減速する手だてはなにもない。
サミーの部下たちはあわてているというより、ほとんどパニック状態だった。ほかの船団と連絡を試み、船団の三十隻との連絡再開を試みている。ファムは黙って見て、聞いていた。三十隻すべてが核攻撃を受けていた。それぞれの船の損害は、ファーリガード号より大きい場合も小さい場合もあるようだ。
報告がはいってくるあいだにも、視野はぐるぐるとまわりつづけ……地上の風景が近づいてきた。核爆発による地上の被害も見てとれた。ばかどもは、自分たちの農業ドームもいくつか吹き飛ばしてしまっていた。ほぼ正面には……なんということか――最初の一世紀にファムとスラが買ったオフィス用高層ビルが見えているではないか。
船の衝突には、秒速数ミリでぶつけて港湾警察からお目玉をくらうような接触事故から、まばゆい閃光とともに小惑星を吹き飛ばし、宇宙船は跡形もなく消えてしまう激突まで、さまざまな規模がある。ファーリガード号とタレルスク月の衝突はその中間くらいだった。百万トンの星間船が農業用与圧ドームと多層住宅都市を押しつぶしたが、その速度はせいぜい人間が一G環境で走るくらいの速さだった。
質量百万トンの物体はそう簡単に止まらない。金属がゆがみ、潰れるかん高い音をたてながら、衝突はいつ終わるともなくつづいた。多層構造になった都市のほうが船体や星間エンジンの中心部分より壊れやすかったが、実際には船も都市もいっしょくたの廃墟と化した。
時間としては二十秒もつづかなかったはずだ。衝撃がやんだときには、ファムもほかの乗組員もハーネスで固定されたまま、タレルスク月の〇・二Gの重力を受けて逆さ吊りになっていた。大きくへこんだ壁のなかで光がまたたき、ディスプレーはほとんどが用をなさなくなっている。ファムはハーネスをはずし、壁をすべり降りて天井を歩きはじめた。通気口のそばで埃《ほこり》が小さく渦を巻いているが、気密スーツはぱんぱんに張っている。船橋内は真空なのだ。
司令チャンネルからは、損傷確認をするサミーの声が聞こえていた。ファーリガード号には五百人の乗組員がいたのだが……いまではそうとはいえないようだ。
「前部冷凍睡眠庫をすべてやられました、船団長。遺体の運び出しには何キロ秒もかかりそうです。これから――」
ファムは壁をよじ登ってハッチに近づき、ほんの少しあけてみた。気圧差によるつむじ風がすこしだけ吹いた。「着陸要員はどうなんだ、サミー? だいじょうぶなのか?」
「はい、しかし――」
「集合させろ。あとは救助隊にまかせて、おれたちは外へ出るぞ」
〈〈そしてだれかをどやしつけてやる……〉〉
それからの数キロ秒は、とにかく混乱していた。いろいろなことが起きたし、それもいっぺんに起きた。二十年がかりで計画を練《ね》っておきながら、最後が地上戦になると予想したやつは一人もいなかったのだ。そしてチェンホーの戦闘員も、実際に戦闘に慣れているわけではない。ファム・ヌウェンは中世のキャンベラ星で流血と死体はいやというほど見てきたが、ここの連中にそれほどの経験はなかった。
しかし敵も本物の軍隊ではなかった。
タレルスク月の異常政府は、地表の地区に衝突が迫っていることを警告さえしていなかった。住人たちは自分の判断で高層階から下へ避難していたが、それでも上からゆっくり押しつぶされるなかで何百万人も死者が出たはずだ。ファムの地上班は下へ、二階にある地表鉄道へとむかった。ほかの地上班とも連絡がとれていた。
タレルスク月の住人はつい数年前まで、人類宇宙で最高のハイテク社会に住み、最高の教育を受けていた。だからどんな災害が起きたかは理解していたし、それどころかいまの異常政府がまだ知らないことも知っていた。しかし政府が社会システムを制御し、それを敵対使用しているなかでは、まったく無力だった。
ファムはヘッドセットごしに、三十キロほど離れたべつの船の地上班と連絡をとった。彼らは普遍的法執行による攻撃を受けていた。
「ここではなにもかも動いています――それも敵対的に。そのせいで、地表鉄道の駅で部下を十五人失いました」
「どうしようもない、ダブ。パルス爆弾をもってるだろう。それを使って、ここの公共システムコアにこっちの自律機能系を流しこめ」
サミーの班はファムからどんどん離れていっていた。最初は船体のおなじ亀裂から這い出たのだが、通路の角《かど》を曲がるたびにサミーとは別方向になってしまったのだ。はじめはべつにかまわなかった。壁をへだてても通信はできるし、分散したほうが標的になりにくい……。しかしそうはいっても、サミーはすでに東の下方へ二キロも離れていた。ファムの班は住人にとりまかれていた。そのなかの何人かが公共システムの管理者だと名のり、割りこむ場所を教えると申し出ていた。
「待て、サミー!」
屋外通信では粗《あら》い映像しかやりとりできないので、サミーの班がどこへむかっているのかはわからなかったが、すくなくともまだ離れつつあるようだ。
しばらくして返事がはいってきた。「ファム! こっちは瓦礫《がれき》をかきわけていって……ここは大学のキャンパスです。気密抜けが起きてて、それで――」
サミーの班からファムのヘッドアップディスプレーに静止画が送られてきた。公園のような芝地で、すくなくとも数十人の住人がカメラにむかって走ってきている。住人たちはだれも気密スーツを着ていないが、天井近くでは埃と紙くずが渦巻いているらしいのがわかる。音声からは、かなりの勢いで空気が抜けているらしい、かん高い笛のような音が聞こえた。
二枚めの静止画はもうすこし整っていて、サミーの部下たちが工業用の補修材を使って作業していた。どこからか、子どもをふくむ群集がなだれこんでいる。どうやらそこは地下タワーのひとつらしかった。
サミーの声がまたいった。「彼らはわたしの世界の住人なんです、ファム!」
そういえば、サミー・パークのタレルスク月の家族は学術員という話だった。
「寄り道はやめろ、サミー。ここにはふつうの惑星上の都市をぜんぶあわせたよりもたくさんのフロア数があるんだぞ。家族を救出できる可能性なんかほとんど――」
「なくはないんですよ……」サミーの声は聞きとりにくくなっている。「……ちょっとしたことなので、黙っていましたが、ファーリガード号がこの工科大学のそばに落ちるように誘導したんです」
〈〈ばか、なんてやつだ〉〉
「だいじょうぶ、助けられますよ、ファム! それだけじゃない。ここの連中はわたしたちを待っていたんです……スラの関係者も何人かいて、彼らは公共システムコアの配置図を……そして政府の新体制がどんなふうにソフトウェアを書き換えたかも知ってるんです。ファム、悪い鼠がどこに隠れているかわかるんですよ!」
サミーが独自の行動をとって、かえってよかったのかもしれない。チェンホーに地上戦をやらせても、からきしだめだが、公共システムコアの配置図があれば、政府とその制御ネットのありかをつきとめられる。
十キロ秒後には、ファムは、政府を名のる異常者どもと回線をつないでいた。血ばしった眼《まなこ》であわてふためく、五、六人の連中だった。リーダーは、公園の清掃員とおぼしい作業服姿だ。これが文明のなれの果てか。
「おまえたちがなにをやっても、事態を悪くするだけだ」ファムはいった。
「なにをいうか。こっちはタレルスク月を支配している。マレスク月ではおまえらの船団と樽船を吹き飛ばしてやった。タレルスク月が自給自足できるくらいの資源はある。おまえらが出ていけば、新しい体制でやっていけるんだ」
そこで映像はゆらめき、消えた。相手が意図的に切ったのか、通信システムが落ちたのかはよくわからない。
しかしそんなことはどうでもいい。いまのやりとりのあいだに、中継したノードはすべて特定できた。そしてファム・ヌウェンの部下たちは、ナムケム星系のとは異なる系統のハードおよびソフトウェアをもっている。これらの装備と地元住人の協力で、数キロ秒後には政府は倒された。
それからようやく、困難な救助作業が開始された。
39
チェンホーの大集会は、二十メガ秒後に開催された。
ナムケム星のある太陽系はまだ惨憺《さんたん》たる状態だった。アルキン月はほとんどからっぽになり、住人たちはナムケム星で野宿していたが、飢《う》えてはいなかった。小さいほうの衛星であるマレスク月は、放射線地獄と化していた。再建するには何世紀もかかるだろう。十億人近い人々がここで死んだ。しかし食糧輸送の最終便は救われ、外惑星の農生産用自律機能系も再起動されたので、タレルスク月の二十億人の生存者は当面食いつなげそうだった。ナムケム星の自律機能系はずたずたに破壊され、体制崩壊以前のせいぜい十パーセントの効率でかろうじて動いていた。
生き延びたナムケム星系の住人たちは、このまま文明を再建できるだろう。絶滅したり、暗黒時代へすべり落ちたりという心配はない。生存者たちの孫の世代は、この恐怖の時代を思い出話に聞くだけになるだろう。
しかし文明的な場所で大集会をひらくのは、やはりまだ無理だった。そこでファムとスラは当初の決定どおりにした。すなわち、星系のまんなかに位置して、いちばんなにもない場所――ブリスゴー間隙《かんげき》を開催地としたのだ。すくなくともそこにはなんの破壊の跡《あと》もないし、地域的に解決しなくてはならない問題もない。ブリスゴー間隙から眺めるナムケム星とその三つの月は、たんなる青緑色の円盤と三つの光の点にすぎなかった。
スラ・ヴィンは小惑星帯に所有する最後の資源を使って、大集会用の仮設舎を建設した。ファムは、チェンホー計画の成し遂げた成功に彼女が感銘を受けているはずだと思っていた。
「おれたちは文明を救ったんだ、スラ。これで信じる気になっただろう。おれたちはもう、うさん臭い行商人じゃないんだ」
しかし、スラ・ヴィンは本当に年老いていた。
文明の曙《あけぼの》の時代には、医学の進歩によって不死が実現すると信じられていた。最初の千年における進歩は急速だった。二百歳、三百歳という寿命が達成された。しかしそれからあとの進歩は緩慢《かんまん》で、負担も重くなった。そうやってしだいに、人類は無邪気《むじゃき》な夢のひとつを捨てざるをえなくなった。冷凍睡眠によって死を何千年も先延ばしすることはできるが、たとえ最高度の医療サポートをほどこしても、実時間で生きられるのは五百年がせいぜいだ。一人の人間の寿命としてはそれが限界なのだ。
そしてその限界に近づくには、おそろしいほどの負担をしいられる。スラの機能化椅子は、家具というよりも動く病室のようだった。その腕は、無重力環境でも弱々しく、小刻みに震えていた。
「いいえ、ファム」スラはいった。その目はむかしと変わらない澄んだ緑で、当然ながら移植したか人工のものだろう。声もあきらかに合成だが、ファムには懐《なつ》かしい微笑みをふくんだ口調がわかった。「大集会で決めることよ。憶えてるでしょう? あなたの計画についてわたしたちの意見が一致したことはなかった。こうして集まったのは、それを投票によって決めるためよ」
出会って何世紀かたって、ファムがどうしてもその夢を捨てないとわかったときから、スラはそういいつづけていた。
〈〈ああ、スラ、きみをがっかりさせたくはないよ。しかしおれの考えが明白に支持される必要があるというなら、それはしかたない〉〉
スラがブリスゴー間隙に曳航《えいこう》してきた仮設舎は、体制崩壊前の彼女の所有地にくらべても巨大なものだった。生き残った船団すべての船がそこに係留《けいりゅう》できるほどで、警備可能な範囲も、間隙の周囲二百万キロまでおよんでいた。
仮設舎の中心は、無重力の会堂だ。おそらく史上最大、また実用上も最大限の大きさだろう。集会がはじまる何メガ秒もまえから、社交の催《もよお》しがおこなわれた。これも一ヵ所での集まりとしてはチェンホー史上最大規模で、おそらく今後ともこの記録は破られないだろう。
ファムは救助活動のあいまを縫《ぬ》って、この催しに参加しつづけた。毎日多くの人々と話し、これまでの人生一世紀で出会った以上の人々と出会った。とにかく懐疑的な人々を説得しなくてはならないのだ。懐疑派は多かった。基本的には礼儀正しいが、とても慎重で利口だった。多くはファム自身の子孫だった。彼らは心からファムを尊敬している――いや、愛情をもっているとさえいっていいくらいだったが、そのうちどれだけを説得できたかは自信がもてなかった。ファムは自分が戦闘のときよりも、きびしい交渉のさいちゅうよりもぴりぴりしているのに気づいた。しかたがない、と自分にいい聞かせた。このときのために人生を賭けてきたのだ。最終試験が数メガ秒後に迫っているのに、ぴりぴりしないほうがおかしい。
大集会直前の数メガ秒は、スケジュール調整がたいへんだった。ナムケム星系にはまだまともな自律機能系がない。彼らの文明レベルが退行したり、日和見《ひよりみ》主義者が台頭《たいとう》したりするのを防ぐには、たぶん十年以上は外部からの助けが必要だろう。しかしファムはそれより、チェンホーをなんとしても大会堂に集めたかった。スラもその希望をじゃましようとまではせず、二人はチェンホー全員が仮設舎にはいって、それでもナムケム星の新政府が危険にさらされないようなスケジュールを練《ね》った。
そしてついに、ファムの出番がまわってきた。長年の夢を実現させるための、一世一代の大勝負だ。入場口の半透明のカーテンごしには、どこまでも広い大会堂が見えていた。ちょうどスラがファムを紹介しおえ、演壇を離れたところだった。あらゆる方角から拍手|喝采《かっさい》が湧きあがった。
「こいつは――」ファムはつぶやいた。
すぐうしろから、サミー・パークがいった。「緊張してきましたか?」
「あたりまえだ」
こんなふうに緊張したのはこれまで一度だけ。少年の頃に、星間船の船橋というところに初めて連れてこられ、いならぶチェンホーの商人たちからにらみつけられたときだけだ。
ファムはみずからの旗艦の船長のほうをふりかえった。サミーは笑顔で見ている。タレルスク月の救出劇からあと、サミーは本当に満足そうにしていた。残念だ。サミーはもう星間航行には乗り出さないだろう。すくなくともファムの船団にもどるつもりはないようだ。サミーの地上班が救い出したのは、本当に彼の家族だった。サミーの甥《おい》の曾孫《ひまご》にあたるジュンというかわいらしい娘は、いい子なのだが、サミーがふたたび星間宇宙へ出ていくことに反対しているのだ。
サミーは手をさしだした。「幸運を……船団長」
それから、ファムはカーテンのむこうへ出た。途中でスラとすれちがった。話す時間も、それを聞く方法もない。すれちがいぎわに、スラのか細い手がファムの頬をなでていった。
渦巻くような拍手喝采のなか、ファムは中央の演壇にあがった。
〈〈落ち着け〉〉話しはじめるべき瞬間まで、あと二十秒以上ある。〈〈十九……十八……〉〉
大会堂は直径七百メートル近い球状で、会堂としての伝統的な様式にのっとって建設されていた。聴衆は、ほぼ完全な人間の球をなしている。中央の小さな演壇のほうをむいて内壁ぞいにびっしりとならべられた椅子に、ゆったりとすわっているのだ。右を見ても左を見ても、上をむいても下をむいても、顔、顔、顔だ。いや、そうではない。一万人分近い席が空《あ》いている区画がある。マレスク月での爆発で死んだチェンホーたちがすわるはずだった場所だ。スラがこのようなレイアウトにこだわったのだ――死者に敬意を表するためにと。ファムは同意したが、実際には、これはファムの提案がいかに大きな代償を要求するかを、聴衆に実感させるためのスラの策だとわかっていた。
演壇にあがると、ファムは両手をかかげた。視野いっぱいに、おなじように両手をかかげるチェンホーたちの姿が見えた。しばらくしてから、その割れんばかりの歓声が耳にとどいた。
素通しになったヘッドアップディスプレーごしには、一人ひとりの顔まで見わけられない。距離があるので、すわっているパターンから推測するしかない。全体的に女がめだった。まばらなところもあるが、ほとんどの場所では男とおなじくらいの割合だ。ところによっては――とくにストレントマン人のチェンホーは――圧倒的に女が多かった。もっと彼女たちにむかって支持を訴えておくべきだったかもしれない。かつてストレントマン人とやりあったときに、男より女のほうが長期的な視野をもっているとわかったからだ。しかし中世のキャンベラ星でしみついた偏見が抜けないせいで、ファムは女を率《ひき》いるのがどうしても下手《へた》だった。
両手を外にむけ、歓声がおさまるのを待った。演説の草稿が銀色の文字となって目のまえに浮かんできた。この草稿を何年もまえから準備し、救助作戦のあとも推敲《すいこう》に何メガ秒もかけたのだ。
ところがいきなり、銀色の小さな文字など必要なくなった。そのむこうにならぶ人々を見つめているうちに、言葉が自然に口をついて出てきた。
「諸君!」
聴衆のざわめきは消え、静寂に近くなった。百万の顔が、横からも下からも見つめている。
「いま諸君は、わたしの声が一秒のタイムラグもなくとどくところにいる。この大集会では、チェンホーの仲間たちの声が、遠く原初地球からやってきた仲間の声さえもが、一秒とかからずに聞こえてくるのだ。この初めての、そしておそらく唯一の機会に、われわれは自分たちの本当の姿を知り、そしてこれからどんな姿になっていくかを決めたい。諸君、おめでとう。われわれは数百光年の距離を超えて集まり、ひとつの偉大な文明を滅亡から救った。敵のおそろしく卑劣《ひれつ》な行為にも屈することなく、それをなしとげたのだ」
そこで間をおき、空席になった広い一画《いっかく》を厳粛《げんしゅく》なおももちでしめした。
「このナムケム星系で、われわれは歴史の紡《つむ》ぎ車を打ち破った。いくたの世界で人類は戦いをくりかえし、ときに絶滅さえしてきた。種族を救ってきたのは時間と距離だけだ――そしていままでは、その二つの要素はおなじ失敗をくりかえさせる原因でもあった。古くからの格言はいまも正しい。いわく、支持基盤としての文明がなくては、孤立した船や人間の集団はその中核技術をつくりなおせない=Bしかしまたいわく、外からの助けがなければ、固着性の文明は持続できない=\―」
ファムはふたたび間《ま》をおき、自分の頬がかすかに緩《ゆる》むのを感じた。
「そうだとすれば、希望はある。このように地上と宇宙のふた手に分かれた人類は、たがいに助けあうことでおたがいを永続させられるのだ」
聴衆を見まわし、ヘッドアップディスプレーに一人ひとりの顔を拡大して映した。熱心に聞いているようだ。同意する気になったか。
「おたがいを永続させられる……もしチェンホーが顧客にものを売るだけの行商人でなくなれば、だ」
実際の演説の内容は、自分でもよく憶えていなかった。そのアイデアと切《せつ》なる願いはファムの頭に深く根付いているものだからだ。憶えているのは、顔だ。多くの顔に希望の表情が浮かび、もっと多くの顔に慎重な表情が浮かんでいた。最後に、これから投票があることをあらためて告げた。投票はこれまで頼んできたことの総仕上げだ。
「つまり、諸君の協力がなければ、われわれは将来かならず潰れる。顧客文明を押しつぶしてきたのとおなじ紡ぎ車によって破壊されるはずだ。しかし諸君が、目のまえの商売よりすこし先を見て、将来のためにわずかな投資をすれば、もはやわれわれの手のとどかない夢はなくなるのだ」
もし大会堂が加速中だったり、惑星上におかれたりしていたら、ファムは演壇から降りるときに足をもつれさせていただろう。サミー・パークは入り口のカーテンをくぐってもどってきたファムを、さっと横からつかまえなくてはいけなかった。
頭上のカーテンごしに聞こえる拍手喝采が、いちだんと大きくなったようだった。
スラはまだ控え室にいた。しかし新しい顔ぶれもくわわっていた――ラトコ、ブトラ、コウ。
いまではファムより年上になった、最初の子どもたちだ。
「スラ!」
スラの椅子は、シュッと軽い音をたて、ゆっくりと漂いながら近づいてきた。
「おれの演説を祝福してくれないか」
ファムは昂奮さめやらぬまま、笑みを浮かべた。両手をさしだし、そっとスラの手をとった。
ひどくか細く、年老いている。
〈〈ああ、スラ! これはおれたちの勝利のはずなのに〉〉
今回はスラの負けだ。そしてここまで年老いた彼女の目には、これは最終的な敗北としか映らないだろう。二人が築きあげてきた成果だとはみえないだろう。
頭上の喝采がさらに大きくなり、スラはちらりと上を見やった。
「ええ、あらゆる点でわたしが予想した以上にうまい演説だったわ。でも、あなたはこれまでいつも、だれも想像しないほどうまくやってきたものね」
その合成音声は、寂しさと誇らしさを同時に表現しえていた。スラはこのうるさい控え室から出ようと手をふった。ファムはそのあとをついていき、喝采は背後に遠ざかった。
「でもこれは幸運のおかげだということは、わかってる?」スラはつづけた。「大船団の到着と時をおなじくしてナムケム文明が崩壊しなかったら、あなたに勝ちめはなかったはずよ」
ファムは肩をすくめた。「たしかに幸運だったさ。しかしそれでおれの正しさは証明されたんだ、スラ! いうまでもなく、この崩壊は最悪の事態だった――それをおれたちは救ったんだ」
スラはキルト仕上げのビジネススーツに身をつつんでいたが、その内側の痩《や》せ衰えた身体《からだ》ははっきりとわかった。しかしその精神と意志は、椅子に組みこまれた医療ユニットによってしっかりと維持されていた。スラが首をふるようすは力強く、若い頃とほとんど変わらないほど自然な動きだった。
「救った? たしかに大きな成果をあげたわ。でも、それでも何十億人もの死者が出たのよ。ごまかすのはやめて、ファム。わたしたちがこの集会を準備するのに千年かかったわ。どこかの文明がひっくりかえるたびにできるようなことではない。そしてマレスク月での大量死がなかったら、五千隻の大船団でもたりなかったかもしれない。星系全体の人口はその輸送能力の限度ぎりぎりだったはずで、近い将来にもっと悲惨な事態におちいっていたかもしれないわ」
それくらいはファムも気づいていたし、集会の何メガ秒もまえからさまざまな点で反論していた。
「しかし、ナムケム星系はめったにないほど救助困難なケースなんだ、スラ。古い文明で、守りを固めていて、系内のあらゆる資源を利用している。生物兵器や全体主義者の洗脳によって危機にみまわれている世界なら、もっと簡単に助けられるはずだ」
スラはまた首をふっていた。ファムが目のまえに提示したものを、まだ認めようとしない。
「いいえ。多くの場合にはなにかできるかもしれないけど、しばしばキャンベラ星のようになるはず――すこしは役に立っても、チェンホーの血が流されて終わり、ということになるわ。あなたのいうとおり、この大船団が来なければナムケム星系の文明は死んでいたでしょう。でも一部はナムケム星で生き延びたはずよ。小惑星帯の都市でもいくらか生き延びたかもしれない。あとはよくあるくりかえしで、いつかは文明が再建される。たとえ外部からの植民というかたちになったとしてもね。あなたはその深い谷に橋をかけたし、そのことにはもちろん何十億人もが感謝している……でも、この星系をもとにもどすには、何年も慎重な管理をしなくてはならないわ。ここにいるわたしたちに――」会堂のほうに手がぴくりと動いた。「やれるかもしれないし、やれないかもしれない。でもすくなくとも、宇宙のあらゆるところでやるのは無理だし、いつもやるのも無理よ」
スラがなにかすると、椅子はシュンという音とともに止まった。彼女はファムにむきなおり、その両肩に手をかけた。ファムはふいに、奇妙な感覚にとらわれた。かつてこんなふうに両肩に手をかけられ、彼女を見あげていたことを、頭ではなく身体が記憶しているようなのだ。それは二人がパートナーになるまえ――恋人どうしになるまえだ。リプリーズ号内でいちばんはじめの頃の記憶。若かったスラ・ヴィンが、怖い顔でこちらを見ている。幼いファム・ヌウェンに対してなにか怒っているのだ。たしかにスラがこうやってファムの両肩をつかみ、野蛮人の子の精神が無視したがっていることを、きちんと理解させようとしたことがあった。
「わからないの、ファム?」スラはつづけた。「わたしたちは人類宇宙全体をまたにかけているけれども、すべての文明を管理することはできないのよ。それをやるには忠実な奴隷が必要になる。チェンホーはそんなものを使わないわ」
ファムはあえてスラの目を見た。彼女のその主張は最初からおなじで、一度も揺らいだことがない。
〈〈いつかこの日が来るのはわかってたんだ〉〉
これでスラの負けが決まる。もうどうしようもなかった。
「悪いな、スラ。きみは自分の演説のなかで、百万人の聴衆にむかってそういえばいい。支持する者もたくさんいるだろう。それから投票にかけて、それで――」
大会堂の雰囲気を感じて、スラ・ヴィンの目を見て……初めてファムはみずからの勝利を確信した。
スラは顔をそむけ、穏やかな人工音声でいった。「いいえ、わたしは演説はやらない。投票ですって? 今度だけそういうやり方に頼ろうとするなんて、あなたらしくないわね……。ストレントマン人の大虐殺《ぎゃくさつ》をあなたがどんなふうに終わらせたか、話に聞いてるわ」
話題の急転換は卑怯《ひきょう》だが、癇《かん》にさわったのはたしかだ。
「おれは船一隻という情況だったんだぞ、スラ。きみだったらどうしたっていうんだ?」
〈〈やつらの文明なら、ちゃんと救ってやったんだ。すくなくとも、極悪非道でないほうを〉〉
スラは片手をあげた。「ごめんなさい……ファム、あなたは本当に幸運で、本当にうまくやりすぎたのよ」まるで独《ひと》り言をいっているようだ。「この集会をひらくために、千年近くもあなたと力をあわせてきたわ。まやかしだとはわかっていたけど、その過程で、あなたの楽観的な夢とおなじように持続する交易文化をつくりあげた。とにかく最後は、この大集会で顔をあわせたときに、常識が勝つのだからと思っていた」
首をふり、微笑みながら唇を震わせた。
「でも、あなたがここまで幸運だとは思わなかったわ――こんなふうに完璧なタイミングでナムケム文明が崩壊し、あなたが魔法のようにその混乱をおさめてしまうなんて。ファム、もしわたしたちがあなたのいうとおりにしたら、ナムケム星系には十年以内に破局が訪れるわ。何世紀かすれば、チェンホーは、われこそは星間政府だといって相《あい》争う無数の派閥に分裂してしまう。わたしたちがともにいだいた夢は、破れてしまうのよ。たしかにあなたがいうとおり、投票はあなたの勝ちになるかもしれない……だからこそ、投票はおこなわれないのよ。すくなくとも、あなたが考えるようなかたちでは」
その意味は、すぐにのみこめなかった。ファム・ヌウェンはこれまでかぞえきれないほどの裏切りに遭《あ》ってきた。星間船というものを初めて見るまえから、その意味は頭に焼きつけられているのだ。しかし……スラが? スラはファムが信頼してやまないただ一人の人間だ。ファムの救い主であり、恋人であり、親友であり、人生の戦略をともに練ってきた戦友だ。そのスラガ――
これまでの世界観がもっとも深い部分でくつがえされていくのを感じながら、ファムは部屋のなかを見まわした。スラのほかには、副官が六人いる。さらにラトコ、ブトラ、コウがいて、それぞれの副官をしたがえている。あとはサミー・パーク一人。サミーはわきにやや離れ、青ざめた顔で立っている。
それから、スラのほうにむきなおった。「よくわからないな……。しかしなにをたくらんでいるにせよ、投票の結果を変えることはできないぞ。百万人がおれの演説を聞いてるんだ」
スラはため息をついた。「演説を聞いたし、あなたはかろうじて過半数をとれるかもしれない。でもあなたがいままで支持者だと思っていた人々の多くは……実際にはわたしの支持者なのよ」
スラはそこで黙った。ファムは三人の子どもたちを見た。ラトコは視線をそらし、ブトラとコウは無表情に見つめ返している。
「パパを傷つけようなんてつもりはないのよ」ラトコがまたファムのほうをむいた。「みんなパパを愛してるわ。大集会なんて茶番《ちゃばん》をやったのは、チェンホーがパパの思いどおりにはならないということを知ってもらうためだったのよ。ところがどうも、予想とはちがった方向に事態がころがりだしてしまって――」
ラトコの言葉はどうでもよかった。ファムの視線は子どもたちの表情に釘づけになっていた。キャンベラ星のあの朝に見た兄弟姉妹とおなじ、石のように冷たく無表情な顔。これまで注いだ愛情はなんだったのか……。
〈〈茶番だと?〉〉
ファムはスラにむきなおった。「どうやって勝とうという気だ。五十万人が突然、事故によって死んだことにするのか。三万人の筋金入りのヌウェン支持者を一人ずつ暗殺するのか。そんな思惑《おもわく》どおりにはいかないぞ、スラ。外にいるのは、そんな生臭い考えはもたない連中がほとんどだ。今日はなんとか勝てても、かならず噂が流れ、遅かれ早かれ内戦が起こる」
スラは首をふった。「だれも殺すつもりはないわ、ファム。噂が流れることもない――すくなくとも、大きく広がることはない。あなたの演説はこの会堂に集まった人々の記憶に残るでしょうけど、彼らが使っている記録装置はこちらの情報機器なのよ。歓迎のしるしに無償提供したもの。憶えてる? 最終的にあなたの演説は枝葉末節を整理され、もっと……安全なものになるわ」
スラはつづけた。
「あなたはこれから二十キロ秒にわたって、反対派との特別会談にのぞむわ。それを終えて出てくると、妥協案を発表する。チェンホーは今後ネットワークで、文明の再建に役立つような情報サービスにさらに力をいれる。そのかわりあなたは、星間政府創設という案を撤回する――反対派の説得に折れて、ね」
茶番だ。「それは小細工でなんとかなるだろう。しかしそのあとはどうする。まだ殺すべきやつがおおぜい残るぞ」
「いいえ。あなたはそのあと、新しい目標を発表する。人類宇宙の最果《さいは》てへの遠征よ。挫折のショックがその動機になっているのはあきらかだけれども、べつにわたしたちと快《たもと》を分かったわけではない。その船団は準備がほぼ終わっているわ、ファム。間隙ぞいに数度後方にある。偽装《ぎそう》は誠実に、立派なものをほどこしてあるわ。自律機能系は特別に高度で、この世のどんなものより金がかかっている。当直シフトをつづける必要もなく、最初に目覚めるのはいまから何世紀かあとでいいのよ」
ファムはならんだ顔を見まわした。こんな裏切り計画が成功するとしたら、いままで自分を支持していると思っていた船団長たちのほとんどが、本当はこのラトコやブトラやコウのような連中だったとしか考えられない。そして自分の部下たちにも巧妙な嘘をついていたとしか考えられない。
「いったいいつから……こんなシナリオを考えていたんだ、スラ」
「あなたが若者だった頃からよ、ファム。わたしの人生のほとんどを費やして。でも本当は、こんな結末にならないことを祈っていたわ」
ファムはうなずいた。スラがそれだけむかしから計画していたのなら、それとわかるミスなどないはずだ。それはもうどうでもいい。
「おれの船団を準備しているといったな」その言葉は容易には出てこなかった。「もちろん、頑固なヌウェン支持者は全員がその乗組員にされるのだろう。何人だ。三万人か?」
「ずっと少ないわ、ファム。筋金入りの支持者は慎重に選別したから」
二度と帰ってこられない旅に、みずから望んで出ていくやつがいるだろうか。ファムの支持者は意図的にこの部屋から排除されているのだ。サミー以外は。
「サミー」
ファムの旗艦の船長は目をあわせたが、唇は震えていた。「も……もうしわけありません、船団長。ジュンが星間宇宙への旅に反対しているので。チ……チェンホーであることに変わりはありませんが、今回はごいっしょできません」
ファムはうなだれた。「そうか」
スラが宙を漂いながら近づいてきた。いまその気になれば、その椅子の把手《とって》をつかんで引きよせ、キルト仕上げの服につつまれた痩せこけた胸に拳《こぶし》を叩きこむことができるなと思った。
〈〈しかし、たとえそうしても、おれの手の骨が折れるだけだ〉〉
スラの心臓は何世紀もまえから機械に置き換えられているのだ。
「わたしのファム」スラはいった。「とてもすてきな夢だったわ。そしてそのおかげでいまのわたしたちもある。でも結局は、ただの夢だったのよ。挫折した夢よ」
ファムは返事をせずに背をむけた。いつのまにかドアの両脇に警備員がいて、ファムを護衛していこうと待っていた。ファムは子どもたちのほうを見もしなかった。サミー・パークにもひと言もかけず、かたわらを通りすぎた。しかし心のなかの冷たく静止した深みには、なぜかサミーの今後の活躍を祈りたい気持ちがあった。サミーも裏切ったのだが、ほかの連中のようにではない。
それにサミーは、最果てへの遠征船団についての嘘をあきらかに真に受けていた。それが嘘であることを、サミーが見抜かないことを祈った。スラがいうような船団にわざわざ投資するばかが、この世のどこにいるか。スラ・ヴィンや、石のように冷たい顔をした子どもたちや、今日の罠に手を貸した連中のような悪賢い商人はなおさらだ。本物の棺《ひつぎ》だけを詰めこんだ船団をつくるほうが、よほど安上がりで安全だ。
〈〈おれの父親ならそう考えるだろう〉〉
最良の敵は、永遠に眠りつづける敵、なのだ。
ファムは見知らぬ警備員にかこまれ、長い廊下を歩いていった。最後に見たスラの顔が、ファムの頭にこびりついて離れなかった。年老いた目に涙があったのだ。最後の最後も、嘘泣きか。
ほとんど真っ暗な、狭い船室。小さな仮設舎で下級船員にあたえられる部屋だ。袋状のクローゼットのなかには作業着が浮いている。襟《えり》の名札が小さくこすれる音をたて、そこに書かれた名前に目がいった――ファム・トリンリ<tァムがかつての怒りに身をまかせて思い出すときはいつもそうであるように、記憶はヘッドアップディスプレーよりも鮮明で、いまの自分にもどると、かえって現実味が感じられなかった。
スラが用意した最果てへの遠征船団≠ヘ、棺の船団ではなかった。スラの裏切りから二千年たったいまも、その理由をファムはうまく解釈できなかった。おそらくは、一定の権力と道義心をもったべつの反逆者がいて、ファムとファムを裏切らなかった者たちがむざむざと殺されることのないよう、手をまわしたのではないか。
それは、船団≠ニは名ばかりだった。ラムスクープエンジン付きのおんぼろ艀《はしけ》を改装したような代物《しろもの》で、亡命者たちとその冷凍睡眠タンクを積むと、もうそれでいっぱいだった。そして船団≠ニいいつつ、各船の軌道はすべてばらばらだった。千年後には、彼らは人類宇宙のありとあらゆるところに散らばっていた。
彼らは殺されなかったが、ファムは教訓を得た。そしてゆっくり、だれにも気づかれないように帰路についた。スラはとうに世を去っていたが、ファムと彼女がつくりあげたチェンホーはまだある。ファムを裏切ったチェンホーが。ファムはまだ夢を捨ててはいなかった。
……そしてサミーがトライランド星に探しにこなかったら、その夢とともにあの養老霊園で朽ち果てていただろう。運命と時間が敗者復活のチャンスをくれた――それが、集中化技術に対する期待だ。
ファムは過去を頭から追いはらい、こめかみと耳のなかのローカライザーを微調整した。これからはかなり忙しくなるだろう。エズルとじかに会うのは、あえてもっと何度もやっておくべきだった。フィードバック訓練を充分に積めば、ナウの過激な面談でもショックを隠し、なんでもかんでも洩らさずにすんだはずだ。まあ、それは簡単だ。むずかしいのは、どうやってファムの究極の目標にエズルが気づかないようにするかだ。
ファムは寝袋のなかで寝返りをうち、軽いいびきをかくように呼吸を調節した。眼球の裏にうつる映像は、レナルトと監視員たちにしかけてきた行動のシナリオに切り換えた。今度もうまくだませた。しかし長期的にはどうか。たとえ今回のような予想外の出来事がなくても、やはり長期的には、アン・レナルトは最大の脅威でありつづけるだろう。
40
暗期の初日に、ハランクナー・アナービーは飛行機でカロリカ湾に着いた。
ここにはだいぶまえから何度も来ていた。この穴の底がまだ煮えたぎる大釜《おおがま》のようだった中間期のはじめ頃から、ずっと足を運んでいるのだ。最初の調査から数年たつと、外輪山のふちに建設作業員の小さな町ができた。これだけ標高が高くても中間期にはひどく暑かったが、作業員たちにはそれなりに高額の手当てが支払われていた。この高原台地のすこし離れたところにある打ち上げ施設は、王室と民間の資金でまかなわれているのだ。そしてアナービーが高性能の冷却装置をすえつけてからは、暑さもさほどではなくなっていた。
金持ち連中が集まりはじめたのは、当然ながら衰微《すいび》期にはいってからだ。彼らは五世代前からの慣例にしたがって、外輪山の内壁に住み処《か》を築いていった。
しかし足繁《あししげ》くかよっているアナービーにしても、今回は奇妙な感じだった。なにしろ今日は、暗期の初日なのだ。もちろんこれは、頭のなかの境界線にすぎない――とはいえ、だからこそ重要なのだろう。
ハイイクアトリア市から定期便に乗ってきたのだが、周遊旅行者などはほとんど乗っていなかった。ハイイクアトリア市まではほんの五百マイルほどだが、暗期の初日には、もはやカロリカ湾の暖かさという恩恵はそこまでとどかないのだ。
アナービーと二人の助手――実際には護衛官――は、ほかの乗客が吊りネットの通路ぞいに前へ移動するのを待って、それからフード付き上着と保温ゲートルを着こみ、今回のいちばんだいじな荷物である二つの鞄《かばん》を肩にかけた。ところが出口ハッチの直前で、アナービーは吊りネットをつかんだ手をすべらせ、鞄のひとつを客室乗務員の足もとに落としてしまった。全天候型の頑丈な蓋《ふた》がわずかにひらいて、中味がのぞいた。泥のような色をした粉末が、ビニール袋にていねいに小分けされ、おさめられている。
アナービーはネットから跳び降りて、鞄の蓋をとじた。
乗務員が困惑したように笑った。「ハイイクアトリア市のいちばんの輸出品は、ただの山の泥だという笑い話がありますが――まさかそれを本気にしている方がいらっしゃるとは思いませんでしたよ」
アナービーは困ったように肩をすくめてみせた。ごまかすにはそれがいちばんいい場合もある。鞄を肩にかけなおし、上着のボタンをとめた。
「あの……」
乗務員はまだなにかいいたそうだったが、やめてうしろに退《さ》がり、飛行機を降りる三人を見送った。アナービーたちは急ぎ足に階段をくだって滑走路に降り立ち……そのとたん、乗務員がなにをいいかけたのかわかった。一時間前にあとにしてきたハイイクアトリア市は、気温零下八十度で、時速二十マイル以上の風が吹いていた。空港ターミナルから飛行機まで歩くだけの距離にも、空気加温器が必要だったくらいだ。
ところがここは……。
「うわ、暑い!」下級護衛官のブラン・スーラクが、鞄をおろして上着を脱いだ。
隣で上級護衛官のアーラ・アンダーゲイトが笑ったが、じつは彼女もおなじ愚《ぐ》を犯していた。
「あたりまえでしょう、ブラン! ここはカロリカ湾なのよ」
「ええ、でも、暗期の初日だというのに!」
ほかにも先見の明《めい》がなかった乗客が何人もいて、彼らはぴょんぴょんとぶざまに飛び跳《は》ねながら、上着や呼吸装置や保温ゲートルを脱いでいった。しかしアナービーはちゃんと見ていた――ブランの手と足がすべて防寒服を脱ぐためにふさがっているあいだ、アーラ・アンダーゲイトはすべての手を自由にし、まわりをよく見ていた。そしてアーラが上着を脱ぐあいだは、ブランがおなじように警戒した。それらの動作のあいだも、二人の軍用ピストルが外にのぞくことはなかった。あたふたと間の抜けた行動をよそおっていながら、アーラとブランは、大戦争中のアナービーの戦友たちに劣らず優秀だった。
ハイイクアトリア市行きは簡単で少人数の任務だったが、空港で待っていた情報局員たちはひどく厳重な警戒ぶりで、岩粉《がんぷん》をおさめた鞄は装甲車で運び去られた。担当の少佐にいたっては、この厳戒態勢を皮肉る冗談ひとついわなかった。
三十分後には、アナービーはあまり意味のなくなった護衛官二人とともに通りへ出た。
「どういうことですか、あまり意味がない≠ニいうのは?」アーラはおおげさに手をふって驚きを表現した。「大陸のむこうからわざわざ……あんなものを護送してくるなんて、そのほうがよっぽど意味がないでしょう」
二人はあの岩粉の重要性を知らされておらず、そのためにあからさまに軽蔑した態度をしめしていた。護衛官としては優秀だが、その態度はアナービーの期待とすこしちがっていた。
「でもこれからは守るべき対象がはっきりしています」アーラはアナービーのほうに手をさしだした。楽しそうな口調の裏には、真剣さが隠れている。「少佐のチームといっしょに行ってくだされば、われわれとしても楽だったんですけどね」
アナービーは笑みを返した。「司令官に会う約束はまだ一時間以上先だ。歩いていくとしても余裕はたっぷりある。きみだって関心はあるだろう、アーラ。暗期の初日にカロリカ湾を見られる庶民がどれだけいると思うんだ?」
アーラとブランはしかめ面《づら》をした。自分たちには訂正しようのない愚かな言動を見せられてしまった下士官、という表情だ。アナービーもいままで似たようなめに何度も遭《あ》ってきたが、これほどあからさまな表情をしたことはなかった。まあキンドレッド国が他国領土をおびやかすこともいとわない態度をみせはじめている政治情勢なのだから、無理もないかもしれない。
〈〈しかし七十五歳のおれには、ほかにも心配なことがたくさんあるんだ〉〉
アナービーは波打ちぎわの明かりにむかってさっさと歩きだした。これまでよその土地へ任務で出かけるときにかならずついてきたいつもの護衛官たちなら、アナービーに縄をかけても制止しようとしただろう。しかしアーラとブランは借りものの護衛官で、任務の説明も充分には受けていなかった。二人はしばらくぽかんとしたあと、あわててアナービーのあとを追いかけはじめた。しかしアーラが小型電話機にむかってなにか話しているのを、アナービーはちらりと見て、にやりとした。いや、この二人はばかではないようだ。
〈〈電話の相手の上司に教えてやりたいものだな〉〉
カロリカ湾は古くから驚異の地として世の注目を集めてきた。なにしろ、世界に三ヵ所しかない活火山の一つであり、あとの二つは氷と海水の下なのだ。ここが湾≠ニ呼ばれるのは、すり鉢《ばち》状の火口を構成する外輪山の一部が崩落して、火口原の大部分に海水が流れこんでいるからだ。
新生期のはじめのこの場所は、もちろんだれもじかに見たことはないのだが、すさまじい灼熱《しゃくねつ》地獄だ。切り立って弧を描く外輪山の壁が太陽の光を集め、温度は鉛《なまり》の融点を超える。おそらくそれが引き金となって――すくなくとも原因のひとつとなって――急速な溶岩の湧出《ゆうしゅつ》を招くのだろう。太陽が落ち着いて中間期にはいる頃には、あたりは新しい火口跡だらけになる。この時期でも、高原台地からつながる外輪山のふちから火口をのぞきこむのは、よほどむこうみずな冒険家だけだ。
しかし太陽が衰微期にはいると、べつの訪問者があらわれる。北や南の土地に冬がきて、しだいに寒さがきびしくなっていく頃、火口壁のいちばん高いあたりはちょうどよく暖かいのだ。そして世界が冷えていくにしたがって、すり鉢の下のほうに足を踏みいれられるようになり、やがて楽園に変わる。カロリカ湾は過去五世代にわたって、衰微期のもっとも高級なリゾート地になっていた。暗期にそなえた貯蓄や労働にあくせくしなくてもいい富裕階級が、ここへ避寒《ひかん》にやってくるのだ。アナービーは大戦争のさなか、東部戦線の雪原を走りまわったり、そのあとトンネル戦をたたかったりしながら、つかのまの休息のときに、カロリカ湾のすり鉢の底で中間期のようなレジャーを楽しむ金持ちたちの姿を描いた彩色版画を見て、心からうらやましく思ったものだ。
暗期のはじめのカロリカ湾は、ある意味で、現代工学と原子力エネルギーが暗期のあいだずっと蜘蛛《くも》族全体にもたらすはずの世界に似ていた。それはどんなものだろうと思いながら、アナービーは前方の光と音楽のほうへ歩いていった。
群集がいたるところで渦を巻いていた。笑い声と、管楽器による音楽と、ときどきいい争う声が響いている。だれもがいろいろとおかしな状態だったので、アナービーはしばらく、たいへんなことが起きているのに気づかなかった。
まるで懸濁液《けんだくえき》中の微粒子のように、アナービーは群集のなかをもまれていった。こんなふうに安全性の確認されていない群集のなかで、アーラとブランが神経質になっているだろうことは容易に想像できた。しかもまわりは騒音だらけで、アナービーの腕をつかめる距離を維持するのもままならない。
しばらくすると、三人は波打ちぎわの近くに押し出されていた。群集のなかに、火のついた固形香料の棒をふっているやつがいたが、火口の底であるここにはもっと強い匂いがあった。熱い風に運ばれてくる硫黄《いおう》臭だ。水面のむこうを見ると、湾の中央に突き出した溶岩ドームが赤と近赤外色と黄色に輝いている。そのまわりじゅうから蒸気がゆらゆらと立ちのぼっていた。この湾のなかだけは、底氷や恐ろしい海獣の出現は心配しなくていいのだ――逆に、火山の噴火で全員あっというまにお陀仏《だぶつ》になる可能性もあったが。
「たいへんです!」ブランが控えめな仮面をかなぐり捨て、広場の端からもどってきてアナービーをつついた。「あの水のなかを。何人かが溺れています!」
アナービーはブランがしめしている方向を見やった。「溺れているんじゃない。あれは……なんてことだ、水のなかで遊んでいるんだ!」
浮き袋かなにかを身体《からだ》につけて沈まないようにしているようだ。三人はしばし呆然《ぼうぜん》と眺めた。驚いているのは彼らだけではなかったが、たいていの傍観者はその驚きを隠していた。いったいなんのために溺れる遊びなどやるのか。軍事目的ならわかるが。暖かい時期には、キンドレッド国もアコード国も軍艦をもっているのだ。
岩壁ぞいに三十フィートほど離れたところから、またべつのばかが水に飛びこんだ。波打ちぎわがいきなり、危険な崖のふちのような情況になった。恐怖とも歓喜《かんき》ともつかない叫び声が渦巻く水面から、アナービーは離れていった。三人は広場を横切り、電球で飾りたてられた木立のほうへもどった。ひらけたこの場所からは、空と外輪山が見わたせる。
いまは午後のなかば頃なのだが、木立のなかで輝く青白い光と、火口中心部に見える暖色の光をのぞけば、まるで夜のように暗い。空にかかる太陽は、小さな黒い斑点のある赤黒い円盤でしかない。
暗期の初日……。その日付について宗教界と国家の見解はほとんどちがわなかった。新生期はすさまじい光の爆発ではじまるが、それはだれも見られない。しかし光の消滅のほうは、明期じゅうかかるゆっくりとした過程だ。この三年間、日差しは本当に弱くなっていた。真昼でも背中がやっと暖まる程度で、直視してもなんの支障もない。昨年にいたっては、明るい星は昼間もずっと見えていた。
それでもまだ公式には暗期入りしていないのだが、もはや緑の植物は生長できず、食糧は自分の冬眠穴の蓄《たくわ》えと根菜《こんさい》類に頼らねばならない。地下にもぐる日がくるまでそれで食いつなぐしかないのだ。
そのように眠りの時代へむかって緩慢《かんまん》に変化していくなかで、どの瞬間をとらえて――すくなくとも、どの日をもってして――暗期の初日というのだろう。
アナービーは太陽をまっすぐ見あげた。暖かいストーブの天板の色をしているが、とても弱弱しく、もう暖かさは感じない。しかしこれ以上暗くなるわけでもない。これから世界は、星空と赤黒い円盤の下でひたすら冷えていくのだ。外気は呼吸すら困難なほど冷たくなる。これまでの世代なら、この空は自分の冬眠穴に物資を運びこむ最後のチャンスを意味した。これまでの世代なら、高貴な行動をとる者、裏切る者、臆病になる者がはっきり分かれる時期を意味した。準備を怠《おこた》ってきた者が、暗期と寒さという現実に直面するときだった。
しかしいま、ここでは……。
アナービーは自分のところから木立までのあいだの広場を見まわした。一部の連中は――そのほとんどが老人か、現世代の正常な生まれらしい――太陽にむかって手をかかげ、次に大地とそれが約束する長い眠りを抱きとめるように手をおろす、という動作をくりかえしていた。しかしまわりの空気は、むしろ中間期の夏の夕方に近い。地面も暖かく、まるで中間期の太陽が沈んだばかりで、その午後の火照《ほて》りが残っているかのようだ。ほとんどの連中は光が消えてしまったことをろくに気にせず、歌ったり笑ったりしている。まるで将来のことなどなにも心配していないように、派手で高そうな服を着ている。まあ、金持ちはいつもこんなふうなのかもしれないが。
木立を飾った青白い光の電球には、アナービーの会社が五年ほどまえに外輪山の上の高台《たかだい》に建設した原子力発電所の電力が使われているにちがいない。おかげで火口原の木立全体が明滅していた。そこにだれかが怠《なま》け者の妖精蜘蛛を何万匹と放したようで、その翅《はね》が電球の光を浴びて青や緑や紫外色にきらめき、木々の下の群集の動きにあわせてふわふわと揺れた。
木立のなかではたくさんの連中が踊っており、なかには木によじ登って妖精蜘蛛と遊びたわむれる若者もいた。音楽がしだいにはげしくなるなかで、彼らは木立のまんなかへ、さらに下層階の住宅へつづくゆるやかな傾斜へと移動していった。
アナービーは、もういまでは時期はずれの連中に慣れていた。本能では、彼らは堕落していると感じるのだが、もはや必要な存在であるのもたしかだった。好ましい者や尊敬できる者も多い。彼の両側につきしたがって、控えめな動作で群集をかきわけているアーラとブランもまた、時期はずれの生まれだ。二十歳前後で、ビクトリー・ジュニアよりすこし年下にあたるはずだ。性格もいいし、兵士としても優秀だ。たしかに、ハランクナー・アナービーはその場その場でみずからの嫌悪感と折り合いをつけてきた。しかし……。
〈〈こんなにたくさんの時期はずれをいっぺんに見たのは初めてだな〉〉
「ねえ、おじさん、いっしょに踊りましょう!」
二人の若い女と一人の男が駆けよってきた。アーラとブランはどういうわけかさえぎろうとはせず、自分たちも陽気に踊っているふりをつづけた。一本の木の暗い根もとに、十五歳児の脱皮した殻らしいものが脱ぎ捨てられているのが目にはいった。まるで壁に彫られた罪と怠惰《たいだ》の図が、いきなり実体化したような気がした。たしかに空気は心地よく暖かいが、硫黄臭もまじっているではないか。地面は心地よく暖かいが、太陽の熱が残っているわけではないだろう。これは大地が奥深くから放つ熱だ。腐敗した身体が放つのとおなじ熱だ。もしここに冬眠穴を掘っても、生きては出られないだろう。暖かすぎて、冬眠者の身体は殻のなかで腐ってしまうはずだ。
アーラとブランからどんなふうに誘導されたのかわからないうちに、アナービーは木立の反対側へ来ていた。このあたりもまだ混雑しているが、火口原中心部の狂騒からは遠ざかっていた。踊り方も穏やかで、服が破けることもない。妖精蜘蛛がずうずうしく服の上にとまって、色とりどりの翅を休ませるくらいだった。
外の世界の妖精蜘蛛は、もう何年もまえに翅が抜け落ちているはずだ。五年前に霜《しも》が降り積もったプリンストン市の通りを歩いていると、色鮮やかな翅が無数に落ちていて、ブーツの先で踏むとじゃりじゃりと音がしたほどだった。それらの常識ある妖精蜘蛛は、いま頃地面の奥深くにもぐって卵を産んでいるはずだ。怠け者の同類はもうすこしわが世の春を楽しむつもりのようだが、その先には悲惨な運命が待ちかまえている……いや、そのはずだった。
三人は火口壁の坂道をのぼりはじめた。光の輪のなかに浮かびあがる衰微期後期に建てられた住宅が、壁ぞいにずっとつづいている。もちろん、どれも十年以内に建てられたものばかりだが、日傘《ひがさ》を立てて飾り立てた前世代の建築様式にのっとっている。建物は新しくても、住んでいるのは古くからの資産家ばかりなのだ。ほとんどの宅地は放射状に区切られ、壁の内部へも伸びていた。壁の半分より上にある衰微期前期の住宅には、明かりがともっていないところも多かった。外気の進入をさまたげない構造のままなので、だれも住めないのだ。さらに上部の建物には雪が積もっていた。
シャケナー・アンダーヒルの住み処はそのあたりだ。住宅を耐候構造にするくらいの金はあるが、下に新しく建てなおすほど裕福ではない、というわけだ。シャケナーは、たとえカロリカ湾でも暗期からのがれられないことを知っている。暗期からのがれるには原子力エネルギーに頼るしかないのだ。
火口原の木立の明かりと、環《かん》状にならんだ住宅の明かりとのあいだには、影に沈んだところがあった。妖精蜘蛛がかすかに翅を光らせながら飛び立ち、火口原へもどっていった。硫黄の匂いはかすかで、刺すような冷気にくらべれば穏やかだ。見あげる空は暗く、星と赤黒い太陽しか見えない。たしかにいまは暗期だ。アナービーは火口原の明かりを見ないように、しばらく空だけを眺めた。そして無理に笑おうとした。
「敵と本気でぶつかるのと、あの群衆のあいだをもう一度通り抜けるのと、きみたちならどっちを選ぶ?」
アーラ・アンダーゲイトはまじめに答えた。「もちろん群集のほうを選びます。でも……とても奇妙な感じでした」
「怖い、という意味でしょう」ブランはひどく不安そうな口調だ。
「ええ」とアーラ。「でも、気づいた? あの群集の多くも、おなじように怖がっていたわ。なんていうか、彼らはみんな――わたしたちはみんな――怠け者の妖精蜘蛛になってしまったような感じだった。暗期の空を見あげて、太陽が死んでいるのを見ると……自分がひどくちっぽけに感じられる」
「そうだな」アナービーにはそれしかいえなかった。
この若い二人は時期はずれの生まれで、伝統主義者の思想に染まったことはないはずだ。なのに、ハランクナー・アナービーとおなじ本能的な不安を感じているのだ。おもしろい。
「さあ、行こう。登山鉄道の駅はこのあたりにあるはずだ」
41
中層階の住宅はかなり大きかった。入り口のホールは石材と太い木材が組みあわされ、奥は火口壁側へはいっていく自然の洞窟《どうくつ》へつづいている。アナービーは、南のヒルハウス≠ェあるのではと期待していたのだが、実際にシャケナーの家を見ると拍子抜けした。本物の屋敷のそばにある来客用の宿泊施設かと思うような、こぢんまりしたつくりなのだ。部屋のほとんどは警備スタッフが占領しており、いまはスミス将軍も来ているのでその人数もふだんの倍になっていた。
アナービーが運んできただいじな荷物は無事にとどいたようで、すぐにそのことで話があるはずだといわれた。アーラとブランのほうは、アナービーを無事に送りとどけたことを証明する受領書≠もらって帰っていった。アナービーは、お世辞にも広いとはいえないスタッフ用休憩室に通され、ずいぶんむかしのニュース雑誌を読みながら時間をつぶした。
「軍曹?」見ると、戸口にスミス将軍が立っていた。「遅れてごめんなさい」
スミスは階級章のない補給部将校の軍服姿で、かつてのストラット・グリーンバルの服装によく似ていた。以前とおなじようにすらりとして美しいが、その身ぶりにはすこしこわばったようなところがあった。アナービーはあとについて警備スタッフの部屋のならぶ廊下を通り抜け、曲がりくねった木製の階段をのぼりはじめた。
「ちょうどよかったわ、軍曹」スミスはいった。「おかげでシャケナーといっしょに、あなたがみつけてきたものを詳しく調べられる」
「ええ。ラヒナー・トラクトが日程を決めたんです」
階段は翡翠《ひすい》の壁のあいだをぐるぐるまわりながらつづいた。両側にはとじたドアや、ときにはひらいて暗い部屋が見えている戸口がならんでいる。
「子どもたちはどこに?」アナービーはなにげなく訊いてから、はっとした。
スミスはやや返事をためらった。アナービーの口調に問いただすような響きがなかったかと、考えているらしい。
「……ビキは、一年前に入隊したわ」
アナービーもそう聞いていた。ビクトリー・ジュニアとはもう長いこと会っていない。軍隊生活をどう感じているだろうか。いつも気が強いが、シャケナーに似て気まぐれなところもある子だ。ラプサとリトル・ハランクはまだ親元にいるのだろうか。
階段は火口壁内部から外へ出た。建物のこの部分は衰微《すいび》期のはじめからあったのだろう。しかしもとは壁のないパティオだったらしいところが、いまは暗期にそなえて頑丈な三重の石英《せきえい》ガラスでおおわれている。赤外色や紫外色は通さないが、はっとするほど美しい夜景が見えた。火口原をかこむように木立の照明がきらめき、中央には溶岩ドームの鈍《にぶ》い赤が見える。水面の上には冷却による霧がたちこめており、下からの照明でぼんやり輝いていた。将軍はその眺めのまえにカーテンを引き、もとの所有者が最上階の展望台にしていたらしいところへのぼっていった。
スミスは手をふって、広く明るい部屋をしめした。
「ハランク!」
シャケナー・アンダーヒルが声をあげて、大きなクッションから起きてきた。このクッションはもとの所有者が残した調度品だろう。スミスやシャケナーがこんなごてごてと飾られた調度を選ぶとは思えなかった。
シャケナーはよろよろとアナービーのほうへむかってきた。頭の考えるとおりに身体《からだ》が動かないようすだ。大型の介助虫《かいじょちゅう》を紐でつないでおり、それがシャケナーの進路を修正して、戸口のほうへ慎重に案内している。
「二日ほどの差でラプサとリトル・ハランクに会いそこねましたね」シャケナーはいった。「見ちがえるほど大きくなりましたよ。なにし与もう十七歳ですから! しかし将軍がここの雰囲気を気にいらなくて、二人ともプリンストン市に送り返してしまったんです」
アナービーのうしろで将軍がじろりと夫をにらみつけたが、なにもいわなかった。かわりに窓から窓へゆっくりと歩きながらカーテンをしめ、暗期の闇が見えないようにしていった。かつてここは壁のない四阿《あずまや》だったようだが、いまはすべて窓ガラスがはめこまれている。
三人はそれぞれ腰をおろした。シャケナーは子どもたちの近況についてあれこれ話し、将軍は黙っていた。しかしジャーリブとブレントの新しい計画について解説がはじまったところで、スミスがさえぎるようにいった。
「軍曹はうちの子どもたちの話などあまり興味はないんじゃないかしら」
「いや、べつにわたしは――」アナービーはいいかけたが、将軍のきびしい表情に気づいた。「まあ、話すべきことはほかにあるかもしれませんね」
シャケナーはしばらく黙っていたが、かがんで介助虫の甲殻《こうかく》の毛をなではじめた。ずいぶん大きくて、体重七十ポンドほどありそうだが、おとなしく、賢そうだ。しばらくすると介助虫は気持ちよさそうな鳴き声をたてはじめた。
「きみたちもこのモビーみたいにほがらかだといいんだけどね」シャケナーはいった。「でも、たしかに、ほかに話すことはたくさんある」
彼は金銀細工のほどこされたテーブル――どうやら本物のトレッペン王朝時代の作らしく、どこかの資産家が冬眠穴にもちこんで四世代にわたって生き延びさせてきたのだろう――の下から、アナービーがハイイクアトリア市から運んできたビニール袋のひとつをとりだした。それをテーブルの上にどさっとおくと、磨かれた天板《てんいた》の上に少量の岩粉《がんぷん》がこぼれた。
「驚きましたよ、ハランク。この岩粉には! こんなものが存在するなんて情報を、どこから仕入れたんですか? ちょっと寄り道してきたと思ったら――こちらの国外情報局がまったく気づかなかった秘密を手にいれてきたんだから」
「待て待て、そんないい方をしたら、だれかが満足に仕事をできないといってるようじゃないか」はっきりさせておかないと、そのだれかがへそを曲げかねない。「たしかに通常とは異なる筋からの情報だが、ラヒナー・トラクトには百パーセント協力してもらった。今日ついてきた二人の護衛官も彼がつけてくれたものだ。さらにハイイクアトリア市の特殊部隊も彼が用意してくれたもので――あとの経緯については聞いてるだろう」
トラクトの命令を受けた四人が高原台地を横断し、キンドレッド国の秘密の精製所からこの岩粉をもちかえったのだ。
スミスはうなずいた。「ええ。心配しないで、この情報を見過ごしていたのはたしかにわたしの責任だから。わが国の技術的優位性を過信していたのよ」
シャケナーは軽く笑いながら、「たしかにそうだな」といって、岩粉を手の先でいじった。
ここの照明は、空港の税関のそれより明るく、すべての色をふくんでいる。しかしそんな光のもとでも、やはり泥の色をした埃《ほこり》にしか見えなかった。鉱物学の知識のある者なら、赤道高原特有の頁岩《けつがん》というだろう。
「しかしどこからこんなものの存在を――たとえ噂としてでも――聞きつけたのか、それが不思議なんですよ」シャケナーはいった。
アナービーはクッションに背中をもたせかけた。飛行機の三等乗客用吊りネットにくらべると、心地いいのはたしかだ。
「五年ほどまえに高原台地中心部へ、キンドレッド国とアコード国の合同調査団がはいったことは憶えているだろう。そのとき何人かの物理学者が、そこで重力異常が観察されたといっていた」
「そう。等価原理を精密に確認するのに、そこにある鉱山の立坑《たてこう》がちょうどいいと考えてやってみたら、大きな変異があらわれた。しかも日によって、時間によって異なる。そこで重力異常という結論が導き出されたんだけれども、あとで再実験をして、その結論は撤回されましたね」
「おもてむきはな」アナービーはつづけた。「ところが、ウェストアンダーゲイト市で発電所建設にたずさわっているときに、その合同調査団にアコード国側から参加したトリガ・ディープダグという女性技術者と出会ったんだ。彼女はもとは物理学者で、親しく話をするようになった。ディープダグは、第一次調査団の実験方法にまったく不備はなかったといっていた。そして彼女は、第二次調査団のメンバーからはずされた……。それで思いあたったのが、キンドレッド国がその合同調査の一年後に高原台地ではじめた大規模な露天掘《ろてんぼ》りのことだ。場所は当時の実験場のほぼまんなかだし、わざわざそのために五百マイルもの鉄道を建設している」
「銅を発見したのよ」スミスはいった。「しかも良質の鉱脈をね。それは嘘ではないわ」
アナービーはにっこりした。「もちろんです。もしそうでなかったら、あなたもすぐに、臭いと思うでしょう。しかしじつは……銅は副産物にすぎないんです。知りあった物理学者からもいろいろ詳しい話を聞いた。そうやって考えれば考えるほど、そこでなにがおこなわれているのか、見てきたほうがいいと思うようになったんです」そして岩粉の袋をしめした。「ここにあるのは、そこの第三段階の精製物です。キンドレッド国の坑夫たちはイクアトリアの頁岩数百トンを処理して、やっとこの小袋ひとつ分を集めている。最終生成物を手にいれるには、これをあと百倍に濃縮しなくてはいけないはずです」
スミスはうなずいた。「ティーファーがだいじにしていた宝石より、はるかに厳重に保管されていそうね」
「そうです。さしものトラクトのチームも最終精製物には近づけませんでした」ハランクナーは手の先で岩粉を軽く叩いた。「ここからなにかみつかるといいんですがね」
「ああ、みつかったとも。みつかったんだよ!」
アナービーは驚いてまじまじとシャケナーを見た。「しかし、ほんの四時間前にとどけたばかりなのに?」
「それはそうですよ、ハランク。ここは休暇を楽しむための別荘かもしれないけど、ぼくには個人的な趣味がありますからね」
そのための実験室もあるのだろうと、アナービーは思った。
シャケナーはつづけた。「じつはこの岩粉に、ある適切な光をあてると、そうでないときにくらべて質量が約半分になったんです……。おめでとう、ハランク。あなたは反重力物質を発見したんですよ」
「まさか――」トリガ・ディープダグは確信をもっていたが、アナービーはいままで半信半疑だったのだ。「いいだろう、手の早い分析屋君、どういうしくみか教えてくれないか?」
「かいもく見当がつきませんね!」シャケナーは昂奮にほとんど身を震わせている。「正真正銘、まったくの新発見です。それどころか……」表現を探したが、やめていいなおした。「しかし、非常に微妙なものでもある。この岩粉をすりつぶしてさらにこまかくしてみたんですが、たとえば水にいれても、なにも浮かんではこない。反物質成分≠ニいうものを抽出することはできないんです。なんらかのグループ効果だと思いますね。ここにある実験室ではこれ以上わからない。明日いちばんにこれをもってプリンストン市に帰りますよ。それから、この重量の不思議のほかに、もうひとつ奇妙なことをみつけたんです。高原の頁岩にはかならずダイヤモンド有孔虫《ゆうこうちゅう》がふくまれているものですが、こいつには、なかでももっとも小さい種類が百万分の一インチの六方晶系《ろっぽうしょうけい》が――千倍も多くふくまれているんです。古典的な分野からもこの岩粉を調べてみたいですね。もしかするとこの有孔虫の粒子が介在することで、なんらかの現象が起きているのかもしれない。もしかすると――」
それからさまざまな推論がはじまり、その推論から真実を導き出すための無数の試験法が述べられていった。そうやって話していると、シャケナーから年齢の衣《ころも》が抜け落ちていくようだった。まだ身体の震えはあるものの、介助虫の紐からは手を放し、声は楽しそうな響きでいっぱいだ。この熱烈さが、彼の学生たちやアナービーやビクトリー・スミスを後押しし、新しい世界を切りひらいてきたのだ。
ビクトリーが立ちあがり、話しつづける夫のそばに移動して、右の何本かの腕をその肩にかけて、波打たせるようにして抱きしめた。
アナービーもシャケナーの話に惹《ひ》きこまれ、にやりと笑った。「おまえはあのラジオの討論番組で、すべての空がわれわれの冬眠穴になるかもしれない≠ニいうような発言をして、物議をかもしたことがあったな。しかし、シャケナー、こいつがあればもうロケットなんかいらないな。本物の船を宇宙へもちあげられる。暗期のあの空にひらめいた光がなんだったのか、たしかめられるかもしれないそ! よその世界を探すことだってできるかもしれない」
「ええ、だけど――」シャケナーはふいに弱々しい声になった。躁病《そうびよう》的な熱狂からふとわれに返り、夢と現実のあいだに立ちふさがる数多くの難題に気づいたようだ。「だけどそのまえに、ペデュア師とキンドレッド国の問題をなんとかしないと」
アナービーは火口原の木立を歩いたときのことを思い出した。
〈〈それにおれたちはまだ、暗期にどう暮らしていけばいいかわかっていないんだ〉〉
シャケナーはまた老《ふ》けこんだようになり、モビーをなでて、二本の手でその引き紐をつかんだ。
「たしかに、問題が山積みですよ」自分の年齢と夢の遠さを認めたように、肩をすくめた。「でも、世界に貢献する仕事をしようにも、プリンストン市に帰るまではなにもできない。むしろ今夜は、暗期に対するみんなの反応をみる好機ととらえたほうがよさそうですね。暗期初日のようすをどう思いましたか、ハランク?」
希望の高みから落とされ、蜘蛛類の限界にむきあわされるわけか。アナービーは答えた。
「なんというか――恐ろしいよ、シャケナー。われわれはあらゆるルールをひとつずつ投げ捨ててきたが、そうやって残されたのが、下のあのようすだ。たとえたとえペデュアに勝っても、いったいなにが残るのだろうという気がするよ」
シャケナーの表情にむかしのような笑みが浮かんだ。「それほどひどくはありませんよ、ハランク」ゆっくりと立ちあがり、モビーの誘導で戸口に近づいた。「カロリカ湾に残ってるのはほとんどが能天気な金持ち連中だ……。すこしは浮かれ騒いだりしますよ。でも、彼らを見ていればなにかおもしろいことがわかるかもしれない」将軍にむかって手をふった。「火口壁の下をすこし散歩してくるよ。若い連中から影響を受けてなにかアイデアが浮かぶかもしれないからね」
スミスはクッションから立ちあがり、モビーをよけて夫に近づくと、軽く抱きしめた。「いつもの警備班といっしょよ。かならずね」
「もちろんだよ」
スミスの要求はとても真剣だった。十二年前のあのときから、シャケナーとその子どもたちは周囲のきびしい警備体制をすなおに受けいれていた。
シャケナーが出ていって、翡翠のドアが静かにしまると、部屋にはアナービーと将軍二人だけになった。スミスがもとの場所にすわると、沈黙が流れた。将軍と会うときは部屋じゅうにスタッフがいるのがふつうだった。二人だけで話すのなど何年ぶりだろう。
電子メールのやりとりなら、いつもやっている。アナービーは正式にはスミスの部下ではないが、原子炉建設は彼女の民間側計画のなかでもっとも重要な位置を占めているので、アナービーはその助言を命令として聞いていた。そしてそのスケジュールにあわせて都市から都市へ飛びまわり、要求される仕様と期限どおりに建設をすすめているのだ。その一方で、契約業者も満足させなくてはならない。スミスの部下とはほとんど毎日、電話連絡をとり、年に数回はスタッフ会議で将軍と顔をあわせていた。
しかし、あの誘拐事件以来……二人のあいだの壁はもはや要塞の障壁のようになっていた。それまでも壁はあり、子どもたちの成長とともに大きくなっていた。しかしゴクナの死以前は、なんとか乗り越えられたのだ。しかしいまは、こうして将軍と二人きりでいるのがなんとも気まずかった。
沈黙が長びくなかで、二人はおたがいを見て見ぬふりをつづけた。まるで部屋がずっとしめきられていたかのように息苦しい。アナービーは装飾過剰なテーブルや戸棚のほうにあえて注意を移した。装飾にはさまざまな色の塗料が使われ、どの木材も何世代か経過しているようだった。クッションとその刺繍《ししゅう》がほどこされた布地も、第五十八世代のごてごてした様式だ。しかし、ここでシャケナーが本当に仕事をしているらしい痕跡《こんせき》も見てとれた。右手にある机の上に、さまざまな装置類や書類が散らばっているのだ。その題名にはシャケナーの筆跡で、映像呪術を利用した高密度|擬装《ぎそう》通信≠ニ書かれていた。
ふいに、将軍が気まずい沈黙を破った。
「よくやってくれたわ、軍曹」部屋のむこう側から歩いてきて、シャケナーの机のまえの席にすわった。「キンドレッド国がこういうものを発見していたとは、わたしたちはまったく気づかなかったし、あなたがトラクトに相談しなかったら、いまも知らないままだったわ」
「作戦を考えたのはラヒナーです、将軍。彼が優秀だったんですよ」
「ええ……。ラヒナーとどんなふうにやったのか、あとで調査させてもらえると助かるわ」
「もちろんです」いろいろ知るべきことがあるのだろう。
なにもいうことがなくなって、また沈黙が流れた。しばらくしてアナービーは手をふって、不似合いなクッションをしめした。いちばん小さなものでも、軍曹の一年分の給料くらいの値札がつくはずだ。机をのぞけば、この部屋にシャケナーと将軍の痕跡はほとんどない。
「将軍はここにはめったにこないんですね?」
「そうよ」スミスは短く答えた。「シャケナーは暗期にみんながどんな反応をしめすか見たがっていたわ。それはいずれ自分たちの身にも起きることだから。それに、いちばん下の子どもたちを連れてくるのにもいい場所だと思ったのよ」反論を待ちかまえるような表情になった。
このことで議論するのは避けたほうがいいが、どうすればいいか……。「まあ、子どもたちをプリンストン市へ帰したのは正しいと思いますよ。あの子たちは……いい子ですよ、将軍。しかしこの場所はよくない。火口原を歩いてくるときは奇妙な感覚に襲われました。無計画な連中が暗期の地上に取り残されるという昔話があるでしょう。みんなあんなふうに不安になっているんです。行くべきところがないまま、すでに暗期がやってきている……」
スミスはすわる位置をすこしさげた。「何百万年という進化によって築かれた本能と戦わなくてはならないのよ。原子物理学やペデュア師よりてごわいかもしれない。でも、かならず慣れていくはずよ」
まるでシャケナー・アンダーヒルが、周囲の不安など気にもとめず、笑顔でいう台詞《せりふ》のようだ。しかしスミスの場合はむしろ、穴のなかにこもった兵士が、敵は弱っているという最高司令部の情報を信じようと、自分の口からもくりかえしているようだった。ふいにアナービーは、スミスがすべての窓のカーテンをしっかりしめていることに気づいた。
「将軍もおなじように感じているんですね?」
つかのま、スミスが怒りだすのではないかと思ったが、実際には、将軍は不可解な沈黙をたもった。そしてしばらくしていった。
「……そのとおりよ、軍曹。いまいったように、多くの本能と戦っていかなくてはならないわ」肩をすくめた。「どういうわけか、シャケナーはまったく平気なのよ。あるいは恐怖を感じながら、それをおもしろがっているのかも。楽しいパズルのひとつとしてね。彼は毎日火口原へ降りて、あの騒ぎを眺めているわ。ときには介助虫や護衛官を引き連れたまま、なかへはいっていく――その目で見ないと信じられないと思うけど。今日あなたがもっとおもしろいパズルをもってこなかったら、一日じゅう下にいたはずよ」
アナービーは笑みを浮かべた。「シャケナーらしい」これは安全な話題のようだ。「あの魔法の岩粉≠ノついて話すときの、うれしそうな表情といったらなかった。あれでなにをやってくれるか楽しみですよ。奇跡を起こせる科学者に奇跡の物質をあたえたら、いったいどうなるか」
スミスは言葉を選びながら話した。「岩粉の分析はまちがいなくできるわ。いつかはね。でも……。ハランクナー、あなたには話しておくべきね。シャケナーとはわたしとおなじくらい長いつきあいなんだから。身体の震えがとてもひどくなっているのには気づいたでしょう。じつは、彼はふつうとは異なる早さで老いはじめてるのよ」
「身体が弱っているのはわかりますよ。しかし、プリンストンの研究室からは最近もさまざまな成果があがっている。いままで以上に仕事をしてるようです」
「ええ。間接的にはね。何年もかけて天才学生たちのグループをつくり、それをどんどん広げてきたわ。いまでは何百人もいて、コンピュータネット上のあちこちに散らばっているのよ」
「……それにしても、あのトム・ラークサロット*シ義の論文はなんなのですか? あれはシャケナーと学生たちが正体を隠すために使っている名義かなと思っているんですが」
「ああ、あれね。いえ、あれは……学生たちが正体を隠しているのよ。ネット上で匿名ゲームをしてるだけ。わざと別名義を使って、いったいだれだろうと思わせる、ばかな遊びよ」
ばかな遊びというが、トム・ラークサロット≠ヘ驚くほど生産的だった。ここ数年のあいだに、原子核工学からコンピュータ科学からさまざまな工業規格にいたるまで、あらゆる分野に核心的なアイデアをもたらしているのだ。
「それは信じられませんね。シャケナーはすこしも変わっていない――頭のなかはね。ものすごい速さでアイデアが湧いてくる」
〈〈調子がいいときは、一分間で十個も奇抜なアイデアを考え出すんだから〉〉
アナービーは思い出しながら、思わず笑みを浮かべた。才気|換発《かんぱつ》とはまさにシャケナーのことだ。
将軍はため息をつき、低く、よそよそしい声で話しだした。自分の悲劇としてではなく、まるでお話の登場人物について話しているかのような口調だ。
「シャケナーは突拍子もないアイデアを無数に出して、そのなかから多くの輝かしい成果をあげてきたわ。でもそれが……いまはちがうのよ。わたしのシャケナーは、この三年間、なにも新しいアイデアを出していない。最近は、じつは映像呪術に凝《こ》ってるのよ。むかしのようなすさまじい頭の回転は、いまはもう……」その声は途切《とぎ》れ、沈黙した。
四十年近くにわたって、ビクトリー・スミスとシャケナー・アンダーヒルはすばらしいチームだった。シャケナーが洪水のようなアイデアを出し、スミスがそのなかから取捨選択して、また本人に返す。人工知能が将来かならず実現すると信じていた頃、シャケナーはそのプロセスをこんなふうにいっていたぼくがアイデア発生器で、ビクトリーはがらくた発見器なんだ。二人あわせて、どんな十本脚のやつよりすごい知性になる=Bそうやって二人は世界を変えてきた。
それが……。
そのチームの片割れが才気を失ったらどうなるのか。シャケナーの明敏《めいびん》さが将軍の原動力となり、逆もまたそうだったのに。シャケナーを失ったら、ビクトリー・スミスの武器はもとからもっていたものだけになる。勇気と、強さと、忍耐力だが……それだけで充分だろうか。
スミスはそれからしばらく、なにもいわなかった。アナービーは、できることならそばにいって、肩に手をかけてやりたいと思った。しかし軍曹は、たとえ年齢をかさねた軍曹であっても、将軍にそんなことをする立場にないのだ。
42
年数がたつにつれ、危険は増してきた。アン・レナルトはどんな人間よりも執拗に調査をつづけている。ファムはできるだけ愚人《ぐじん》を操作するのを避けるようにした。そして自分が非番のあいだも作戦が継続されるようにした。大きな危険をともなうが、関連づけられる危険は減らせるからだ。しかしそれでもだめだった。レナルトはすでに明確な疑念をもっているらしい。ファムの追跡ルーチンによると、調査は強化され、疑惑の対象に近づいているらしい――おそらくファム・ヌウェンに。
こうなってはもうしかたない。いかなる危険を冒しても、レナルトを消さねばならない。それにはトマス・ナウの新しい執務室≠フ完成披露《ひろう》パーティが絶好の機会になるだろう。
ナウはノースポー湖≠ニ称しているが、ほかの人々は――とりわけその建設にかかわったチェンホーたちは――湖公園≠ニ呼んでいた。その完成した姿が、当直中の者全員に公開されることになったのだ。
まだ全員が公園内にはいりきらないうちに、ナウが板張りの山荘の玄関ポーチにあらわれた。光沢のある気密服のジャケットに緑色のズボンという姿だ。
「みんな地面に足をつけていてくれ。ノースポー湖のためにキウィがさだめた特別のエチケットだ」
ナウはにやりとし、観衆からは笑い声があがった。第一ダイヤモンド塊の重力は、物理法則というにはあまりに微弱だ。そこで山荘のまわりの地面≠ノは、巧妙な製法の付着布が敷かれている。おかげでみんな地面に足をつけていられるのだが、垂直という概念はぼんやりとしか共有されていなかった。玄関ポーチでナウの隣に立つキウィは、何百人もの人々が酔っぱらいのようにあちこち傾いて立っているのを見て、くすくす笑った。キウィはレースのブラウスを着た腕に、黒い毛なみの子猫を抱いていた。
ナウがまた両手をかかげた。
「親愛なる諸君、今日は諸君がここにつくりあげたものをおおいに眺め、楽しんでほしい。そして考えてほしい。三十八年前、われわれは戦闘と裏切りによっておたがいを破滅させかけた。諸君の多くにとってはそれほどむかしのことではないはずだ――おそらく主観時間で十年か十二年前だろう。そのあとわたしは、この情況はバラクリア星の疫病《えきびょう》時代に似ているといったと思う。われわれは運んできた資源のほとんどを破壊し、おたがいの星間旅行能力を破壊した。生き延びるには、憎悪をいったん棚上げし、文化的背景のちがいを乗り越えて協力しあうしかなかった……。諸君、われわれはそれをやりとげた。まだ物理的な危険が去ったわけではないし、蜘蛛《くも》族世界という目的も残っている。しかし、まわりを見たまえ。われわれはよくやった。岩と氷と空気雪だけから、これだけのものをつくりあげたのだ。このノースポー湖――あるいは湖公園は、さほど大きくはない。しかし傑作だ。すばらしい。充分な規模をもった文明がつくりだす最高の芸術作品にさえ匹敵するだろう。わたしは諸君を誇りに思う」
ナウはキウィの肩に腕をまわし、子猫がキウィの腕のなかで移動した。かつてナウとキウィの関係は醜《みにく》い噂だったが、いまは人々は穏やかに微笑みながらその光景を見ていた。
「これはたんなる公園ではないし、たんなる領督《りょうとく》の私的空間でもない。この宇宙に生まれた新しい創造物だ。チェンホーとエマージェントが最高のものを出しあい、融合させたものだ。エマージェントの集中化人材は――」
まだあの奴隷たちについて、あからさまな表現はしないのだなとファムは思った。
「――この公園について詳細な設計をおこなった。チェンホーの商行為と個人の活動がそれを実現に導いた。そしてわたし自身も学んだことがある。バラクリア星でもフレンク星でもギャスパー星でも、われわれ領督は共同体の利益のために統治してきたが、その手段はおもに一人ひとりに対する命令、ときには法の力による支配だった。しかしここできみたち元チェンホーと協力するなかで、べつのやり方があることを教えられた。諸君がここの建設作業に従事したのは、じつは、わたしの目から長いこと隠していたこのおかしなピンク色の紙切れに対する見返りらしいな」
ナウが片手をあげると、数枚の奉仕券がひらひらと散り、また人々のあいだに笑い声が広がった。
「とにかく、そういうことだ! 領督の指導力とチェンホーの効率性が組みあわされれば、この遠征の成果はすばらしいものになるだろう!」
大きな喝采《かっさい》が湧き起こり、ナウはお辞儀をした。いれかわりにキウィが玄関ポーチの手すりのまえに立つと、さらに拍手が大きくなった。子猫はこの騒がしさやあちこち動かされるのにさすがにうんざりしたらしく、キウィの腕を蹴って、人々の頭上に飛び出した。柔らかい翼を広げて上昇を止めると、舞いもどってきて、女主人の頭の上を旋回しはじめた。
「よく聞いて」キウィは人々にむかっていった。「このミラオウはここで飛びまわってもいいことになっているけど、それは翼があるからよ!」
子猫はからかうようにキウィのほうへ一度降下したあと、ナウの山荘の背後に茂った森へ飛んでいった。
「さあ、領督の山荘の脇に軽食が用意してあるから、それを楽しんで」キウィはいった。
客のうち何人かはすでにそちらにへむかっており、残りの人々も小径《こみち》を通って、組み立て式の長いテーブルのほうへ移動していった。テーブルの天板《てんいた》は、まるで上に載った料理が本当に重いかのように、下へたわんでいた。
ファムはみんなといっしょに移動しながら、すこしでも親しい相手には大声で挨拶《あいさつ》した。自分がここにいることをできるだけ多くの連中に印象づけておいたほうがいいのだ。その一方で、ローカライザーを使って公園や森の作戦図を眼球の裏に作成していった。
食事のテーブルではかならず異文化の衝突が起きるものだが、L1点にはベニーの酒場が存在するおかげで、すでに両者の統一された食事作法が成立していた。しばらくすると人々は一皿めの料理と飲みものを手に、思い思いの場所へ散っていった。ファムはベニーのうしろから近づき、その背中を叩いた。
「ベニー! こいつは旨《うま》いそ! おまえがつくったんだろう?」
ベニー・ウェンは驚いて咳きこんだ。「もちろん旨いさ。そしてたしかに、つくったのはおれと――ゴンレだ」うしろに立っている元補給課職員のほうをうなずいてしめした。「じつは、キウィの親父が新しい野菜をライブラリからみつけてきて育てたんだ。半年前から準備できてたんだけど、このパーティのためにとっておいたのさ」
ファムはまた自慢話をはじめた。「おれも屋外でこの仕事の一部をやったんだぜ。トマス・ナウの湖のために、掘削と、氷を解かして水をつくる作業を監督したんだ」
ゴンレ・フォンがこずるい笑みを浮かべた。フォンはどんなチェンホーよりも――ある意味でキウィよりもトマス・ナウの理想の協力態勢≠ノいれこんでいた。おかげでいい思いをしているのだ。
「今回のことではみんななにかしら得をしてるわ。わたしの農場も領督からおおっぴらに存在を認められたし、いまでは本格的な自律機能系さえ組みこませてもらえたのよ」
「キーボードよりましなものをもらえたわけか」ファムは意地悪そうにいった。
「まあ、そういうこと。そして今日は給仕システムの責任者なの」
そういって、ゴンレは芝居がかったようすで手をかかげた。すると、料理のトレイがふわりと空中に浮かんだ。トレイはゴンレの手の下で回転し、彼女が香味海藻《こうみかいそう》サラダをつまむと、ごていねいにお辞儀までしてみせて、ベニーとファムのほうへ移動してきた。ファムの小さなスパイ装置はあらゆる方向からこれを観察していた。トレイはほとんど音をたてない小さなガスジェットで動いているようだ。仕掛けはとても単純なのに、とてもなめらかに、まるで知性があるように動いている。ベニーもそのことに気づいたようだ。
「これは集中化人材によって制御されてるのか?」すこし悲しそうに訊いた。
「そうよ。今日の行事の重要性を考えて、領督が許可したみたい」ゴンレは答えた。
ファムはほかのトレイの動きも見た。料理のテーブルから飛び立っては、手もとに食べるものがなくなった客をみつけて近づいていく。
〈〈頭のいいやり方だな〉〉
奴隷は行儀よく舞台裏に隠れているので、ナウがしばしばいう、集中化技術によって文明がひとつ上のレベルに引きあげられた¥態というのを体験できる。
〈〈しかし、ちくしょう、ナウのいうことは本当なんだ〉〉
ファムはゴンレ・フォンに、適当に辛辣《しんらつ》な言葉をかけた。鼻持ちならない老いぼれトリンリ≠ェ、本心では感心しているのに、自分ではどうしても認めたがらない、というふうによそおうためだ。そして料理に関心があるふりをして、人ごみから抜け出した。
ふむ。リッツァー・ブルーゲルはいま非番だ――これもトマス・ナウが巧妙に仕組んだことだろう。最近ではかなり多くの人々がナウの理想≠ノ染まりはじめているが、そんな完全な転向者でも、リッツァー・ブルーゲルを見ると確信を失いかねないからだ。しかし、こういうふうにブルーゲルが非番で、ナウとレナルトが愚人の能力を給仕トレイの制御などにふりむけているようなら……こちらにとっては千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスかもしれない。
〈〈ところで、そのレナルトはどこにいるんだ?〉〉
あの女を追跡するのはひどくむずかしい。ブルーゲルの直接監視リストから何キロ秒にもわたって落とされることがあるからだ。ファムは注意を外にむけた。この公園のあらゆるところに、微小な粒子が何百万個も散らばっている。湖を安定させたり換気装置を動かしたりしているものの大半は負荷がかかっているが、それでも膨大《ぼうだい》な処理能力があまっていた。とはいえ、すべての視点と映像をいっぺんにあつかうのは不可能だ。ファムは公園のあちこちに視点を動かしているうちに、足もとがふらふらしてくる気がした。
〈〈みつけた!〉〉
間近からではないが、ナウの山荘内の映像のなかに、レナルトの赤毛とピンク色がかった肌がちらりと見えた。思ったとおり、飲食には参加していなかった。エマージェント式入力パッドの上にかがみこみ、目は真っ黒なヘッドアップディスプレーの奥に隠れている。いつもとおなじだ。気を張りつめ、集中し、もうすこしで危険な事実に気づいてしまいそうだ……。
〈〈いや、本当に気づく寸前なんだ〉〉
ふいに、だれかに肩を叩かれた。さっきベニーの肩を叩いたときとおなじくらいの強さでだ。
「よお、ファム! これをどう思う?」
ファムはさっと眼球裏の視野から離れ、肩を叩いたやつのほうをふりむいた――トルード・シリパンだった。パーティのために仮装していた。エマージェントの歴史文書でしかお目にかかったことがないような制服だ。青い絹地《きぬじ》で、縁取《ふちど》りと房《ふさ》飾りがあり、どういうわけか破れてしみだらけになったぼろ服を模してある。これは最初の追従者たち≠フ仮装だと、たしかトルード自身が説明していた。ファムは驚きをわざと大きく表現した。
「どう思うって、なんのことだ――おまえの制服のことか、ここの眺めのことか?」
「眺めだよ、眺め! この制服を着てきたのは、これが記念碑的な成果だからさ。領督の演説は聞いただろう。すこしはのんびりしてみろ。この湖公園の眺めをたっぷり楽しんで、それから感想を聞かせてくれよ」
ファムは眼球裏の映像から、エズル・ヴィンが背後からこちらへ近づいてくるのに気づいた。
〈〈おい、ばか〉〉
「そうだな――」ファムは口ごもった。
「そうだよ。どう思う、トリンリ戦闘員?」エズルはまわりこんできて、ファムとトルードのほうをむいた。つかのま、ファムの目をまっすぐに見た。「あんたはここにいるチェンホーのなかでも最年長で、いろんなところを旅してるんだろう? だれよりも経験豊富なわけだ。領督のノースポー湖は、チェンホーの最高ランクの公園とくらべてどうだい?」
エズルの言葉にふくまれた二重の意味に、トルード・シリパンは気づかなかった。しかしファムは冷たい怒りを感じた。
〈〈アン・レナルトを殺す必要にせまられてるのは、おまえのためでもあるんだぞ、ばか野郎!〉〉
この若者の頭には、ナウが描いたファム・ヌウェンの真実≠フ伝記が食いこんでいるのだ。あれから一年以上たち、エズルはあきらかにもうブリスゴー間隙《かんげき》の真相を知っている。そしてファムが集中化技術を手にいれたがっていることも察しているだろう。エズルは奴隷たちの身の安全について以前よりもしつこく確認を求めるようになっていた。
ローカライザーはエズル・ヴィンの顔をデータによって色分けし、血圧や皮膚温をしめしている。優秀な愚人はこの画像を見ただけで、こいつが演技しているとわかるだろうか。もしかしたら、わかるのかもしれない。いまのところエズルのなかでは、ファム・ヌウェンに対する反感よりも、ナウやブルーゲルに対する憎悪のほうが大きい。だからまだ利用できる。しかしそのためには、レナルトをどうしても排除しなくてはならないのだ。
ファムはそんなことを考えながら、口もとでは、悦《えつ》にいったにやにや笑いを浮かべていた。
「そういう点ではたしかにそうだな、坊主。机にすわってお勉強したってなんにもならねえ。何光年も旅してこの二つの目で現物を見るほうがよっぽどだいじなんだ」
ファムは二人に背をむけ、歩道から山荘、そしてそのむこうの船着き場と湖を眺めた。
〈〈じっくり鑑賞しているふりでもするか〉〉
実際には、この公園のなかは何メガ秒にもわたって視覚的に歩きまわっているので、評論家めいたことをいうくらい簡単だ。しかし実際にこの場に立ってみると、背後の森からゆっくりと風が吹いてきているのがわかった。かすかにひんやりとした湿った風で、倒木《とうぼく》が腐っていくとき特有のかすかに酸っぱい匂いがまじり、まるで背後に何千キロも森がつづいているかのように感じる。点々と浮かんだ雲のあいだからは暖かい日差しが降りそそいでいる。この日差しも、じつはつくりものだ。本物の太陽はすでにふつうの月より暗くなっているのだ。しかしダイヤモンドの空に埋めこまれた照明システムを使えば、たいていの視覚効果はつくりだせる。これがつくりものだと気づく手がかりは、遠くのほうにかかっている虹がかすかにゆらめいていることくらいか……。
ファムの立っている斜面をくだったところから、湖が広がっている。キウィはよくやったものだ。水は本物で、水深はところによって三十メートルある。サーボバルブとローカライザーのおかげで安定し、平坦《へいたん》でなめらかな水面には雲と青空が映っている。領督の山荘は、入り江の手前の船着き場を見おろしている。入り江を出ると湖面は大きく広がり、何キロもむこうで――実際には二百メートルもないのだが――岩だらけの二つの島が霧のなかにそびえ、対岸を隠している。
この世のものとも思えない傑作だ。
「トレサルトニス≠セな」ファムはいったが、吐き捨てるような口調だった。
トルードが眉をひそめた。「どういう――?」
エズルがいった。「造園技術者の使う俗語で、意味は――」
「ああ、思い出したぞ。聞いたことがある。極端な手法を使った公園や盆栽をあらわす言葉だな」トルードは弁護するように胸を大きくふくらませた。「たしかに極端だよ。領督がそれを強く望んだんだから。見ろよ! この巨大な微小重力環境の公園は、惑星表面の景色を完璧に再現してるんだ。多くの美学的なルールを破っている――でもそれをどこで破るかを見きわめられることこそ、領督の証《あかし》なんだ」
ファムは肩をすくめ、ゴンレの料理をむしゃむしゃと食べつづけた。なにげなく視線をそらし、森を見やった。丘の頂上は公園空間の壁と一致している。造園技術者の標準的な手法だ。木々は樹高が十メートルから二十メートルもあり、長い幹《みき》はひんやりとして暗いようすの濡れた苔《こけ》におおわれている。アリ・リンは第一ダイヤモンド塊の表面に設置した育成テントのなかで、それらをワイヤーにそわせて育てたのだ。一年前はまだ三センチの若木《わかぎ》だったが、いまはアリの魔法にかかって、どれも何世紀もの時をへた古木のように見える。森のもっと古い世代である倒木も、青と緑色のなかの灰色の塊《かたまり》となってあちこちに見えている。
一ヵ所の視点からなら、これくらい完璧な眺めをつくりだせる造園技術者もいる。しかしファムのスパイの目は、森じゅうをくまなく、あらゆる角度から見ているのだ。領督の公園はあらゆる点で完璧だった。どの一立方メートルをとってみても、ナムケム星系の最高の盆栽にひけをとらない。
「どうだい」トルードがいった。「おれの自慢するわけがわかるだろう。理想像を提示するのはナウ領督だけど、自律機能系を動かしてそれを実現させたのは、おれなんだ」
ファムは、エズル・ヴィンが腹の底で怒りを抑えているのを感じた。隠してはおけるだろうが、優秀な監視員なら気づくかもしれない。ファムは軽くエズルの肩にパンチをくれ、トリンリのトレードマークであるばか笑いをした。
「聞いたか、エズル。トルード、ようするにおまえが指図《さしず》する集中化人材がこれをつくったっていいたいのか?」
指図≠ニいうのは少々いいすぎだ。実際のトルードはただの使いっ走りなのだが、そこまで侮辱《ぶじょく》したら、彼はトリンリに二度と口をきかなくなるだろう。
「まあ、たしかに愚人さ。そういったろう?」
そのとき、テーブルのまわりの人ごみからリタ・リヤオが近づいてきた。二人分の料理を手にしている。
「だれかジョーを見なかった? ここは広すぎてすぐ見失っちゃうのよ」
「見かけないな」ファムはいった。
「あの飛行技術者かい? 山荘の反対側じゃないかな」といったのは、ファムが名前を知らないエマージェントだ。ナウとキウィがこの完成披露パーティを当直シフトの重なる時期にあわせたので、ろくに顔を知らないやつもいるのだ。
「まったくもう。本当は天井まで飛びあがって見まわせるといいんだけど」
しかしこの気楽な雰囲気のなかでも、リタ・リヤオはエマージェントのよき追従者なのだ。付着布の地面に足をしっかりつけたまま、人ごみを見まわした。
「キウィ!」リタは叫んだ。「ジョーを見なかった?」
キウィはトマス・ナウをかこむ人ごみから離れて、彼らのほうへ歩いてきた。
「見たわよ」キウィはいった。
するとエズル・ヴィンはそっとその場を離れ、べつのグループのほうへ歩いていった。
キウィはつづけた。「桟橋《さんばし》が本物だなんて信じられないというから、行って見てきたらといったのよ」
「本物なの? あのボートも?」
「もちろんよ。いらっしゃい。見せてあげるわ」
四人は小径にそって歩きはじめた。トルードは絹のぼろ服姿で、ついてこいと手をふりながら大股に歩いていった。
「本当にすごいんだからな!」トルードはいった。
ファムは眼球裏の視野で、その桟橋のまわりの岩場を観察した。水面にむかって茂みの枝が垂れている。このバラクリア星の植物群は、ひんやりとした空気とよく似あい、鮮烈《せんれつ》な美しさをもっている。
青緑色の羊歯《しだ》の葉に隠れた崖の面に、点検用トンネルの入り口があった。
〈〈こいつは絶好のチャンスかもな〉〉
ファムはキウィに近づき、自分の存在がしっかりと相手の記憶に残ることを期待して、質問をした。
「実際に帆走《はんそう》できるのか?」
キウィはにっこりした。「その目でたしかめてみたら?」
リタ・リヤオはおおげさに震える声をたてた。「本物志向はわかるけど、ちょっと寒いわよ。ノースポー湖は美しいところだけど、もうすこし暖かい気候に調節できないの?」
「だめだね」トルードは足早に先頭を歩きながら、講釈を垂れた。「本当に本物そっくりだから、そういうこともできないんだ。アリ・リンは迫真性と細部の精密さを追求したんだよ」キウィを意識して、愚人を人間としてあつかいながら話した。
小径は、岩だらけの湖岸らしく曲がりくねっていた。客のほとんどが、船着き場がどんなところか見ようとついてきている。
「この水面はおそろしく平坦だな」だれかがいった。
「そうよ」とキウィ。「本物そっくりの波を起こすところがいちばんむずかしかったわ。父の友人たちが何人かがかりで、その制御をやってくれてるのよ。水面をほんのすこしだけ――」
そのとき、驚いたような笑い声があがった。三匹の子どもの飛び猫が人々の頭のすぐ上をかすめるように飛んでいったのだ。三匹は湖面に出て、海上を攻撃する戦闘機のように水面すれすれを飛んだあと、急角度に舞いあがっていった。
「本物のノースポー湖にあれは[#「あれは」に傍点]ないだろう!」
キウィは笑った。「そうね。あれはわたしのわがままよ」そして笑顔でファムのほうをむいた。「出発準備中の仮設舎に子猫がいたのを憶えてる? まだ小さかったわたしに――」人々のなかにだれかの顔を探すように、まわりを見た。「まだ小さかったわたしに、だれかがペットとしてくれたのよ」
むかしのことをなつかしく思う、少女っぽいところがまだあるのだ。ファムはそのもの思いにふけるようすを無視して、つっけんどんで偉そうな口調でいった。
「飛び猫なんかなんの役にも立たねえ。飛び豚のほうがよっぽどましさ」
「豚?」トルードがつまずき、足を踏みはずしそうになった。「ああ、堂々たる有翼の豚≠チてやつか」
「そうだ。それが肝心な存在だ。巨大な仮設舎にはかならず飛び豚がいるもんだ」
「そうだなあ……でもおれには傘《かさ》をくれよ!」トルードは首をふり、そばの何人かが笑いだした。飛び豚というアイデアがバラクリア星で流行したことはないのだ。
キウィは笑みを浮かべ、だれにともなくつぶやいた。「いたほうがいいかもね――空中を漂うごみを集めてまわるように子猫をしつけるのは、ちょっと無理だと思うから」
二百秒もすると、一行は湖岸にそって整列したような状態になった。ファムは、もっと眺めのいい場所を探すようなふりをしながら、キウィとトルードとリタのそばからこっそり離れた。実際には、青緑色の羊歯のむこうをめざしていた。うまくいけば、数秒後にはむこうでちょっとした騒ぎが起きるはずだ。あわてて地面から足を離してしまうばかもいるだろう。最後にもう一度、ローカライザーのネットで安全確認をした……。
リタ・リヤオはばかではないのだが、ジョー・シンの居場所をようやくみつけたときには、あわててしまってすこしばかり注意力を失った。
「ジョー、あなたいったいなにを――」
リタは料理と飲みものをうしろのだれかにあずけて、桟橋の上に出た。ボートが桟橋を離れ、入り江のまんなかへなめらかに動きだしたからだ。ボートは山荘や桟橋とおなじく黒っぽい木材でできているが、こちらは喫水線《きつすいせん》近くまでタールを塗られ、船べりと舳先《へさき》はニスを塗って彩色されている。一本だけのマストにバラクリア式の帆がかかげられた。ボートのまんなかの座席でにやにや笑っているのは、ジョー・シンだ。
「ジョー・シン、もどってきなさいよ! それは領督のボートなのよ。そんなことをしたら――」
リタは桟橋の先端へむかって走りはじめ、すぐにまちがいに気づいたが……遅かった。足が地面を離れたとき、その速度は秒速数センチでしかなかった。しかしなすすべもなく桟橋から浮かびあがっていく。ゆっくりと回転しながら、恥ずかしさと怒りでわめきたてた。だれかがつかまえなければ、リタは軽率《けいそつ》な夫の頭の上を跳び越え、数百秒後に湖面に落ちるだろう。
〈〈いまだ〉〉
ローカライザーによれば、大勢の客のなかでこちらを見ている者は一人もいない。ナウの警備システムに忍びこませた探知ルーチンでも、こちらに注意をむけている監視員はいない。レナルトもまだ山荘のなかで単純作業に没頭している。
ファムはローカライザーの目を一時的にくらませ、羊歯の葉のあいだに踏みこんだ。デジタル記録をほんのすこしいじってやれば、ファムはずっとここにいたという証拠が残される。やることをやって、気づかれずにもどってこられるのだ。もちろん、ブルーゲルの監視員が警戒していないとしても、とてつもなく危険な賭けではあった。
〈〈それでも、レナルトは絶対に排除しなくてはならないんだ〉〉
ファムは指先だけを使ってそっと崖の壁面を登っていった。藪《やぶ》の裏に隠れていなくてはならないので、ゆっくりと移動した。このあたりでもアリ・リンの技術力の高さは顕著《けんちょ》だ。崖はただのダイヤモンドだったはずだが、アリはL1点岩石群の表面にこびりついた鉱物|屑《くず》のなかから岩を運んできていた。それらはしみ出す地下水に千年もさらされ、浸食されたかのように、褪《あ》せた色を呈している。この岩は水彩画の最高傑作といえるだろう――紙に描かれたものかデジタルかを問わず。
アリ・リンはオンオフ星遠征に参加するまえから最高ランクの造園技術者だった。サミー・パークは、だからこそ彼を乗組員に選んだのだ。しかし集中化されて何年かのあいだに、アリはさらに高いレベルに到達していた。人間の精神が愛着のある対象だけに注がれたときになにをなしうるか、それをしめす好例だった。アリとその仲間たちがつくりあげたものは繊細《せんさい》で奥深い……。それは同時に、集中化技術を手中におさめた文化がどれだけの力をもちうるかをもしめしていた。
〈〈それを正しく使えば、な〉〉
点検用トンネルの入り口まであと数メートル。五、六個のローカライザーがそのまわりに漂い、ドアの映像を送ってきている。
ファムの注意の一部はまだ船着き場のほうにむいていた。だれもこちらをふりかえってはいない。機敏な何人かの客が桟橋に集まり、まるで軽業師《かるわざし》のように、空中へ六、七メートルも伸びる人間の鎖をつくった。その鎖を構成する男女は、それぞればらばらの方向をむいている。無重力環境でこういう活動をするときの典型的なやり方で、下という幻想を打ち消すためなのだが、一部のエマージェントは顔をそむけ、うめきはじめていた。湖がたいらで下にあると感じているうちはともかく、それが突然、水の壁になったり天井になったりしたら、吐き気をもよおすだろう。
やがて人間の鎖は手をのばし、リタの足首をつかむと、すぐに収縮して彼女を地上に連れ帰った。ファムはてのひらを指先で軽く叩いて、下で発せられる音声がよく聞こえるようにした。
ジョーは困惑し、妻に謝っている。「でも、キウィはいいといったんだぜ。そもそも、おれは宇宙パイロットなんだから」
「パイロットの管理主任[#「管理主任」に傍点]よ、ジョー。こっちゃにしないで」
「似たようなものさ。愚人の力なんか借りなくたって、すこしはできるんだから」
ジョーはマストの脇にもどってすわり、帆をいじった。するとボートは桟橋から離れて動きだした。水面に出ても傾いていない。おそらく水面に吸いつけられる力が働くからだろう。しかしその航跡は高さ五十センチもの波になり、無重力空間の水に働く表面張力にしたがってねじれ、交差していった。人々が――リタさえも――拍手喝采すると、ジョーはボートをまわして船着き場にもどってきた。
ファムはトンネル入り口とおなじ高さまで来た。ハッチのプログラムはすでにローカライザーがいじっている。ありがたいことに、この公園のものはすべてローカライザーと互換性があるのだ。ドアは音もなくひらいた。なかに這いこむと、しめるのも簡単だった。
あと二百秒ほどあるはずだ。
ファムは狭いトンネルの壁を掻《か》いて、急いで進んでいった。ここにはなんの化粧もほどこされていない。壁は第一ダイヤモンド塊の結晶がむきだしになっている。ファムは先を急いだ。眼前に表示される地図には、見慣れた内容が映っていた。トマス・ナウはこの湖公園を私邸にするつもりであり、この完成披露パーティのあと、部外者は一切立ち入り禁止になる。ナウは最後の熱掘削剤を使ってこの狭いトンネルを掘り、ハマーフェスト棟の重要な資源のありかにじかに行けるようにしたのだ。
ローカライザーは、集中化クリニックの新しい入り口まであと三十メートルであることをしめしていた。ナウとレナルトはパーティ会場にいる。MRI装置の技術者は、おなじくパーティに出ているか、非番かだ。これだけ時間があれば、クリニックでそれなりの破壊工作をできるはずだ。
ファムは身体のむきをいれかえ、両手を壁にのばしてブレーキをかけていった。
破壊工作? 〈〈正直になれよ〉〉これは殺人だ。〈〈いや、処刑だな。あるいは戦死か〉〉ファムは交戦で多くの敵を殺してきたし、それは船対船の撃ちあいによるものばかりではなかった。〈〈これもおなじことだ〉〉
いまのレナルトは集中化された自律機能系とおなじであり、つまりナウの奴隷だが、だからどうだというのか。レナルトには自分の悪辣《あくらつ》さを自覚していた時期があったのだ。ファムはゼバル党についてかなり詳しく調べたが、レナルトの悪辣さは、その精神を破壊した連中が植えつけたものではないのだ。かつてのアン・レナルトは、リッツァー・ブルーゲルとよく似ていた。まちがいなく、もっと冷酷だったはずだ。外見上も二人は双子のようによく似ている。白い肌、赤みがかった髪、冷ややかで鋭い目つきなど、そっくりだ。ファムはそのイメージをとらえ、頭のなかで強調しようとした。
いつかはナウとブルーゲルの支配体制を打倒しなくてはならない。いつかはインビジブルハンド号に侵入して、ブルーゲルがそこに築いた恐怖絵巻を終わらせなくてはならない。
〈〈いまからアン・レナルトに対してやるのは、それとおなじことなんだ〉〉
気がつくと、いつのまにか集中化クリニックの入り口に来ていて、指はドアをひらく命令を打ちこもうとしているところだった。
〈〈いったいどれだけの時間を無駄にしたんだ?〉〉
視野の隅に表示している計時データによると、まだわずか二秒だ。
ファムは怒って、急いで命令を叩いた。ドアはひらき、ファムは静まりかえった部屋のなかにはいった。クリニック内は明るく照明されているが、ローカライザーを使ったファムの視野は突然暗く、狭くなったように感じた。いきなり目が見えなくなったようなもので、ゆっくり慎重に動いた。トンネルからはいってきたり、服からふりはらったりしたローカライザーが、ゆっくりとまわりに広がりながら映像を送り返してきた。ファムは、隅のほうや死角になっているところはなるべく気にしないようにしながら、急いでMRIの制御卓に近づいた。
クリニックでは、ローカライザーは長く生き延びられない。MRIの巨大な電磁石が稼働しはじめると、ローカライザーの電子回路が焼けてしまうのだ。トルード・シリパンは、電磁石によって加速されたローカライザーのせいで耳に怪我《けが》をしたことがあって、それ以来、クリニック内にこの小さな塵《ちり》を吸い出す装置をつけていた。
しかしファムは電磁石を稼働させるつもりはないので、彼が罠をしかけるあいだ、ローカライザーはきちんと生きつづけるはずだった。
ファムはクリニックのなかをひとめぐりしながら、装置類の品目を点検していった。いつものように青白い色のキャビネットが整然と、しかし迷路のようにならんでいる。ここでは無線接続はできないので、電磁石と自律機能系は、光学ケーブルか短距離レーザーによって接続されている。ファムの視野の範囲にまだはいらないところへ、超伝導ケーブルが床を這ってのびていた。
しめた。制御装置のキャビネットのほうへ漂っていったローカライザーによると、前回ここへ来たときにトルードがいじったままの状態になっているようだ。最近のファムは、当直のたびにトルードと何キロ秒もこのクリニックですごしていた。ファム・トリンリとしてはとくに集中化装置のしくみに興味ありそうにはしていないのだが、トルードがいつも自慢話をしたがる。おかげでファムはいろいろな知識をすこしずつ仕入れることができた。
集中化は、一歩まちがえればすぐに対象者を殺してしまう、あやうい技術なのだ。
ファムはならんだコイルの上に浮かんだ。MRIの内側は直径五十センチに充《み》たず、全身の断層映像を撮《と》るには少々小さいが、この装置が対象にしているのは頭部だけなのだ。そしてその機能は映像撮影だけではない。ずらりとならんだ高周波モジュレータが、一般的な映像装置以上の働きを可能にする。プログラムによって制御されながら――そのプログラムは、トルードの主張とはちがってほとんどアン・レナルトが管理しているのだが――モジュレータは対象者の脳内にひそむ精神腐敗病ウイルスをいじり、刺激する。一立方ミリ単位で整然と、ウイルスに神経刺激物質を分泌させることができるのだ。
このウイルスの操作は、たとえ完璧にやっても、数メガ秒ごとに再調整しなくてはならない。
そうでないと愚人は緊張病のように無反応になるか、活動|充進《こうしん》状態になってしまう。再調整のさいの小さなエラーは、機能障害を惹《ひ》ぎ起こす(だからトルードの書いたプログラムは、四分の一が書きなおされていた)。中程度のエラーは記憶を破壊する。大きなエラーは重篤《じゅうとく》な脳卒中を惹き起こし、対象者はソピ・ルンよりも早く死にいたる。
アン・レナルトは次にここで自分を再調整するさいに、その重篤な脳卒中を起こすのだ。
湖公園から抜け出して百秒ほどが経過した。ジョー・シンはボートに何人かを乗せて帆走していて、とうとう湖に落ちたようだ。
〈〈好都合だ。これでもっと時間が稼げる〉〉
ファムは制御装置からカバーをはずした。超伝導ケーブルに対するインターフェースがある。めったにないが、こういうものはまえぶれなく故障することがある。スイッチを壊れやすくして、さらにレナルトが次にこれを使ったときに本人確認をする管理プログラムをいじっておけば……。
ファムがここに来てから、もちこまれた稼働中のローカライザーはクリニック全体にすこしずつ広がっていた。まるで漆黒《しっこく》の闇にゆっくりと光が浸透し、室内がだんだんとあらわになっていくようだ。しかし超伝導系のスイッチをいじるあいだは、顕微鏡のように精密な視野が必要なので、部屋を眺める視野は優先順位を低くしていた。
そのとき、ちらりとなにかが動いた。
背景の視野のひとつを、ズボンをはいた脚が横切ったのだ。キャビネットのあいだの狭い空間にだれかが隠れている。ファムはローカライザーで方向の見当をつけ、そのキャビネットの上の空間に突進した。
女の声がした。「手がかり穴をつかんで、じっとして!」
アン・レナルトだ。ファムがたどり着く直前に、キャビネットのあいだの空間から出てきた。位置指示用のポインターをまるで武器のようにかまえている。
レナルトは天井で姿勢を保持し、ポインターをファムにむかってふった。「両手をあげて、壁まで退《さ》がって」
つかのま、ファムは正面攻撃をかけようかと迷った。ポインターはこけおどしかもしれない。
たとえこれを使って火器の照準を誘導する仕掛けになっているとしても、だからどうだというのか。もうゲームは終わったのだ。残された選択肢は、一気|呵成《かせい》に、全力で攻撃することしかない。戦闘はこの部屋で、そしてローカライザーによってハマーフェスト棟じゅうでおこなわれるはずだ。
〈〈いや、待てよ……〉〉ファムはいわれたとおりに退がった。
レナルトはキャビネットのむこうから完全に出てきて、片足を固定具にひっかけた。手にしたポインターは微動だにしない。
「なるほど、ファム・トリンリ戦闘員。ようやくわかったわ」
空《あ》いているほうの手で、顔にかかった髪をかきあげた。ヘッドアップディスプレーは素通しになっており、目の表情がよく見える。どこかようすがおかしかった。顔はいつものように青白いのだが、いらだちと無関心さの上に、ある種の勝利感と意識的な傲慢《ごうまん》さがのっている。そして……笑っているのだ。かすかだがたしかに、唇がゆがんでいる。
「おれをはめたのか、アン」
ナウの山荘に見えているアン・レナルトの姿だと思ったものを、ファムはもう一度よく見てみた。壁紙だ。ベッドの上に軽くかけられているだけだ。すぐそばに寄ってくるローカライザーからは視力を奪い、あとはこの粗雑な映像でファムをだましていたのだ。
レナルトはうなずいた。「鼠がおまえだとは知らなかったわ。でも、そうよ。だれかがわたしのシステムを操作しているのはわかっていた。最初はリッツァーかカル・オモが政治的なゲームをしかけてきているのかと思った。おまえはさまざまな事件の現場によく居合わせるという意味で、わずかな可能性はあると思ってはいたけど……。はじめは老いぼれの道化《どうけ》として登場し、次は道化のふりをしているかつての奴隷使いという姿を見せた。でもいまは、おまえがそれだけではないことがわかったわ、トリンリ。領督のシステムをずっとあざむいていられると思ったの?」
「それは――」
ファムの視野はクリニックから出て、湖公園をさっと見わたした。パーティはつづいている。それどころかトマス・ナウは、ジョー・シンのあやつる小さなボートにキウィといっしょに乗っている。そのナウの顔を拡大してみた。ヘッドアップディスプレーはつけていない。こちらの対決を監視している表情には見えない。なにも知らないのだ!
「ずっとあざむくのはむずかしいと思っていたさ――とくにおまえの目はな」
レナルトはうなずいた。「鼠がだれであれ、わたしを狙ってくると思っていたわ。わたしは不可欠な構成要素だから」カバーのはずされた制御装置をちらりと見た。「わたしが一メガ秒後には再調整しなくてはならないのを知っているのね」
「そうだ」
〈〈しかも、いますぐにでも再調整が必要な状態のようだな〉〉希望が湧いてきた。この女のやり方はまったく軽挙妄動《けいきょもうどう》だ。ボスに行き先を告げていないし、おそらく掩護《えんご》する味方も用意していない。そしていまは敵のまえにぷかぷか浮いて、無駄口を叩いている。〈〈このまましゃべらせればいい〉〉
「超伝導系のスイッチを壊れやすくしておくつもりだったのさ」ファムはいった。「おまえがこの機械を使ったときに、そこがガシャンといって――」
「――わたしの脳の毛細血管がはじけるというわけ? 荒っぽいけど、確実に殺せるやり方ね、トリンリ。でも、本格的にプログラムをいじるほどの知識はないようね」
「残念ながらな」この女はどの程度調子が狂っているのか。感情を攻めてみよう。「とにかくおまえを殺せればよかったんだ。ここで本物の怪物はおまえとナウとブルーゲルだけだからな。いまのところ、手を出せる相手はおまえしかいない」
レナルトの笑みが大きくなった。「頭がおかしくなったのね」
「いや、頭がおかしいのはおまえだ。かつておまえは、ナウやブルーゲルとおなじ領督だった。政争に負けたのが運の尽きだったんだ。いや、憶えてないのか? ゼバル党のことは?」
つかのま、ふてぶてしい笑みが消えて、いつもの無関心で不機嫌そうな顔になった。そしてまた笑みがもどった。
「よく憶えてるわ。たしかにわたしは負けた――でもそれは、ゼバル党の時代より一世紀もまえの話で、わたしはあらゆる領督を敵にまわして戦ったのよ」部屋のこちら側へゆっくり近づいてきた。ポインターはぴたりとファムの胸を狙っている。「フレンク星にエマージェントが侵攻してきたとき、わたしはアーナム大学で古代文学を専攻する学生だった……。でも実際には、ほかのことを学ぶはめになったわ。わたしたちは十五年間にわたって戦った。エマージェントは科学技術をもち、集中化技術をもっていた。わたしたちはなんとか数でまさっているだけだった。敗走をつづけながらも、そのたびに敵に勝利の代償を支払わせてやったわ。終わり頃には、武装はましになっていたけど、人数はほんのひと握りしか残っていなかった。それでも戦いつづけた」
レナルトの目つきは……楽しそうだ。彼女はいま、フレンク星の歴史を反対側の視点から語っているのだ。
「おまえは――おまえがフレンク星の凶獣≠セったのか!」ファムはいった。
レナルトの微笑みはいっそう大きくなり、さらに近づいてきた。無重力空間で身構えた姿勢から、しなやかな身体をまっすぐにのばした。「ええ、そうよ。賢明な領督は歴史を書き換えたのよ。アーナムのアン≠謔閨Aフレンク星の凶獣≠フほうが悪党らしく聞こえる。突然変異を起こした亜種の群れからフレンク人を救う物語のほうが、虐殺《ぎゃくさつ》や集中化よりも語りやすいというわけね」
〈〈そうだったのか……〉〉
しかしファムの無意識の部分は、ここへ来た理由を忘れてはいなかった。背後の壁に足をつけ、蹴って跳びかかる姿勢をとった。
レナルトは近づくのをやめ、ポインターの狙いをファムの膝にむけた。「やめたほうがいいわよ、トリンリ。このポインターはMRI制御装置のプログラムを誘導している。ちょっとでも動いたら、電磁石の照準エリアにおいたニッケルの粒が飛んでくるわよ。即席の武器だけど、おまえの両脚を吹き飛ばすくらいの威力は充分にある――そして尋問に答える舌は残るわ」
ファムはMRIに視野を移動させた。たしかに、ひと握りの金属粒がおかれている。電磁石に適切なパルス波を送れば、それらは高速で飛ぶ大粒散弾《だいりゅうさんだん》になるだろう。しかし、プログラムが制御装置にしこまれているのなら……。微小な機械の目が超伝導ケーブルの制御インターフェースを調べまわった。光接続を介してローカライザーを連携させ、ポインターのプログラムを消すことも可能だ。
〈〈おれにそういうことができるとは、こいつはまだ知らないんだ!〉〉希望が炎のように燃えあがった。
ファムはてのひらを指先で叩き、ローカライザーの位置を誘導した。この手の動きは神経質な身ぶりだと、レナルトに見えればいいのだが。
「尋問だと?」ファムはいった。「まだナウへの忠誠心が残ってるのか?」
「あたりまえよ。ほかにだれに忠誠心をもつの?」
「しかしいまはナウに隠れて行動してるじゃないか」
「任務をうまくはたすためよ。もしこれがリッツァー・ブルーゲルのしわざだったら、全貌をつかんでから領督に――」
ファムは壁を蹴って突進した。レナルトのポインターがむなしくカチリと音をたてたあと、ファムは体当たりした。二人の身体はMRIのキャビネットへむかってもつれながら飛んでいった。レナルトはほとんど声を出さずに、膝蹴りや喉への噛みつきなどで反撃した。しかしファムはその両腕をしっかりと押さえこんでいる。そして電磁石の筐体《きょうたい》のわきを通過するときに、身体をひねって、レナルトの後頭部をそのカバープレートに叩きつけた。
レナルトはぐったりとなった。ファムは姿勢を立てなおし、もう一度殴ろうと身構えた。
〈〈いや、よく考えろ〉〉湖公園でのパーティはまだのんびりとつづいている。計時データによれば、船着き場を離れてからの経過時間は二百五十秒。〈〈まだやれるかもしれないぞ!〉〉
レナルトの後頭部の打撲は、検死のさいに発見されるだろう。しかし……うまいことに、争ったときの着衣の乱れはない。変更はすこしですむかもしれない。ファムはMRIの照準エリアに手をのばし、ニッケルの粒をすべて安全容器に移した。ほぼ当初の計画のままでいけるだろう。レナルトが制御装置を調整しようとして、不慮の事故が起きたという筋書きではどうか。
ファムはレナルトの身体をていねいにMRIのなかにもってきた。意識がもどりそうな兆候がないか気を配りながら、しっかりと身体を確保した。
怪物。フレンク星の凶獣……。もちろんアン・レナルトはどちらでもない。ただのすらりとした長身の女だ。ファム・ヌウェンやその他の地球人の末裔《まつえい》たちとほとんど変わらない。
ハマーフェスト棟の壁に刻まれた伝説の一場面が、これでようやく解釈できるようになった。
アン・レナルトは長年にわたって集中化技術と戦い、仲間とともに熾烈《しれつ》な退却戦に耐え、最後は山中の砦《とりで》に追いこまれた。アーナムのアン。いま残っているのは醜怪《しゅうかい》な姿をした怪物の伝説と……リッツァー・ブルーゲルのような本物の怪物だ。生き残ったフレンク星住民たちは、征服され、集中化されたのだ。
しかし、アーナムのアンは死んではいなかった。かわりにその才覚は集中化されていた。そしていまは、ファムとその目的にとってきわめて危険な存在になっている。だから死んでもらうしかない……。
……三百秒経過。
〈〈急げ!〉〉
ファムは命令を打ちこみ、失敗し、また打ちこんだ。超伝導系の接続を壊れやすくしておけば、このちょっとしたプログラム改変で充分だろう。しくみは単純だ。複雑なコードをふくむ高周波パルスが打ちこまれると、レナルトの脳内の精神腐敗病ウイルスがちょっとした化学工場に変わり、血管収縮性神経刺激物質を大量に放出しはじめる。すると無数の動脈|瘤《りゅう》ができるわけだ。あっというまに致命的結果にいたるはずだ。これらの操作による身体的苦痛はいっさいないと、トルードは何度もいっていた。
意識のないレナルトの顔は穏やかで、まるで眠っているようだ。傷も、打撲の跡《あと》もない。喉もとには銀の細いネックレスがまだ垂れている。揉《も》みあいでも切れていないが、ブラウスから引っぱり出されたようだ。鎖の先には記念石がついている。ファムは好奇心を抑えきれず、肩ごしに手をのばして、緑色がかった石を押した。記念石はそうやって押した圧力で映像が投影される。石が透明になり、ファムはのぞきこんだ。
山の斜面を見おろしている。こちらの視点は軍用機の展望台にあるようだ。斜面はおなじような飛行機にかこまれている。空から降りてきた恐ろしい竜の一群が、そのエネルギー砲の砲口を、すでに破壊されつくした場所と、そこにある洞窟の入り口にむけている。その入り口に立ちはだかり、砲口をにらみつけている一人の姿。赤毛の若い女だ。トルードによれば、この記念石は幸福の絶頂や勝利の瞬間を封じこめておくものだという。この場面を撮影したエマージェント人にとって、これはそういう瞬間だったのだろう。映されている女――あきらかにアン・レナルトだ――は、負けた側だ。背後の洞窟に隠されたなにを守っていたのかはわからないが、それもとうに奪われているはずだ。それでもなお、レナルトはそこに仁王《におう》立ちし、視点の相手をにらみつけている。次の瞬間にもわきへはじき飛ばされるか、蜂の巣にされそうだが……それでも屈服しない。
ファムは記念石を放し、しばらく宙に視線を漂わせた。それからゆっくり、慎重に、長い制御命令を打ちこんでいった。このやり方では大きな危険をともなう。放出させる神経刺激物質を選び、それから……しばらく迷ったあと、その強さを入力した。これでレナルトは直近《ちょっきん》の記憶を失うだろう。おそらく三十ないし四十メガ秒分を。
〈〈そしてそのあとは、またいままでのようにおれの正体にだんだん迫ってくるわけだ〉〉
ファムは実行≠ニ叩いた。キャビネットの裏を這う超伝導ケーブルがきしみ、反発しあって離れながら、MRIの電磁石に強力でしかも正確な電流のパルスを送りこんだ。
一秒経過。ファムの眼球裏の視野はばちばちとはじけて暗くなっていった。
ファムがかかえる腕のなかで、レナルトの身体が痙攣《けいれん》した。ファムはそれを引きよせ、頭がキャビネットにぶつからないようにした。
痙攣はしばらくしておさまった。呼吸はしだいに落ち着き、ゆるやかになっていった。ファムはそっと手を放した。
〈〈電磁石から離しておこう〉〉
そのあと、レナルトの髪を顔からかきあげてやった。キャンベラ星にこんな赤毛は存在しなかった……しかし、なぜかアン・レナルトを見ていると、キャンベラ星のいつかの朝に見た、ある姿を思い出さずにいられなかった。
ファムはあともふりかえらずにクリニックから飛び出すと、トンネルを急ぎ、湖畔のパーティ会場にもどった。
43
ノースポー湖の完成|披露《ひろう》パーティは、今回の当直シフトの――いや、これまでの当直シフトすべてを見わたしても――ハイライトだった。おそらくこの孤立生活の終わりまで、こんな大盤振る舞いは二度とないだろう。
公園の建設にたずさわったチェンホーでさえも、限られた資源でこれだけの大事業ができるとはと驚いていた。エマージェントの集中化技術とチェンホーの独創力の組み合わせによる成果だと、ナウは主張していたが、一理あるかもしれないと思えた。
ジョー・シンのふざけた行動のあとも、パーティは数キロ秒にわたってつづいた。すくなくとも三人が水に落ちて、湖面の上には直径一メートルほどのゆらめく水滴がいくつも浮かんだ。
領督《りょうとく》は客たちに、水が自然に落ち着くまでしばらく山荘に避難しようと呼びかけた。パーティの料理や飲み物には百人の一年分以上にあたる奉仕券が費やされ、いつものおどけ者たちは――とりわけファム・トリンリは――おおいに飲み、騒いだ。
最後に客たちは千鳥足《ちどりあし》で公園をあとにし、山の斜面にあるドアがしめられた。エズルはひそかに、こんな有象無象《うそうむぞう》の連中が領督の領地にいれてもらえるのは、これが最後だろうと思った。もちろん、こんな有象無象のおかげでパーティは可能になったのだし、キウィは心から楽しんでいるようすだった。しかしトマス・ナウは、パーティの後半になるとだんだん不機嫌になっていった。
ナウは利にさとい。うんざりする午後の行事のかわりに、これまでにないほどの人々の好意を勝ちとったのだ。数十年にわたって支配されているチェンホーがナウの圧制を忘れることはないが……今回の行事によってチェンホーの情況は、その圧制を受けているようないないような、曖昧《あいまい》なものになった。
〈〈集中化は奴隷制なんだ〉〉
しかしトマス・ナウは、孤立生活が終わったら愚人《ぐじん》を解放すると約束している。チェンホーがこの情況を受けいれていることも、いちがいに悪いとはいえなかった。多くの点で自由な社会も、一時的な奴隷支配を受けいれる場合は多いからだ。
〈〈どちらにしても、ナウの約束など嘘にきまってる〉〉
意識不明のアン・レナルトの身体《からだ》は、パーティが終わって四キロ秒後に発見された。翌日は噂と不安がずっとかけめぐった。いわく、レナルトは本当は脳死状態であり、発表内容はことを荒立てないための方便にすぎない……。いわく、リッツァー・ブルーゲルがじつは冷凍睡眠にはいっておらず、こういうかたちでクーデターをくわだてたのだ……。
エズルはひそかに、べつの推測をしていた――長い雌伏《しふく》のときをへて、ついにファム・ヌウェンが動きだしたのだ。
休日あけの仕事がはじまって二十キロ秒後に、二つの調査チームに対する愚人の支援が停止した。ちょっと機嫌が悪くてすねているという程度の問題で、レナルトがいれば数秒で解決できたはずだが、ビル・フオンとトルードは六キロ秒も試行錯誤して、結局、問題のある愚人たちについて今日じゅうの復旧は無理と発表した。
問題となった愚人たちは、翻訳者ではない。しかしそのなかの一人である地理学者かなにかが、トリクシアの仕事相手だった。エズルはハマーフェスト棟へ行こうとした。
「おまえの名前は通行許可リストにねえな」まさかと思ったが、タクシー船の乗り場には本当に警備員が立っていた。カル・オモの部下の一人だ。「ハマーフェスト棟は立ち入り禁止だ」
「いつまで?」
「知らねえ。自分で告知文を読みな」
しかたなく、ベニーの酒場へ行った。酒場のなかは押し合いへし合いするほどの混雑ぶりだった。エズルは割りこむようにして、ジョー・シンとリタ・リヤオのテーブルについた。そこにはファム・トリンリもいて、どこから見ても二日酔いの顔をしていた。
ジョーは自分の災難について話していた。「おれのところのパイロットをレナルトが再調整してくれるはずだったんだ。ちょっとしたことなんだけど、それがだめになると作業手順がぜんぶ止まっちまうんだよ」
「それくらい、ぼやくようなことじゃないよ」エズルはいってやった。「装備はまだ正常に動いてるんだろう? こっちは蜘蛛《くも》族の宇宙飛行計画について分析するところだったのに、いきなり愚人支援の割り当てが停止だ。化学や工学の知識は聞きかじり程度だけど、今度のことはどうも――」
トリンリが両手で頭をかかえながら、うなるような大声でいった。「泣き言ばかりぬかすな。こういうことがあると、エマージェントの優越性≠チてやつが疑わしく思えてくるな。一人が倒れただけで、カードで組み立てた家はばらばらになっちまうわけだ。そんなシステムのどこが優秀なんだ?」
ふだんのリタ・リヤオは穏やかなのだが、今日は辛辣《しんらつ》な目つきでトリンリを見た。「わたしたちの優越性をだいなしにしたのは、あなたたちチェンホーでしょう。この星系へ来たときは、クリニックの職員はいまの十倍もいたわ。故郷のシステムにひけをとらない効率を維持できるはずだったのよ」
気まずい沈黙が流れた。トリンリはリタをにらみ返したが、反論しなかった。そしてしばらくして、ぶっきらぼうに肩をすくめた。トリンリの場合、そのしぐさの意味はあきらかだ。いい負かされたけれども、前言撤回したり謝ったりする気はないのだ。
隣のテーブルの声がふいに沈黙をやぶった。「やあ、トルード!」
トルード・シリパンは酒場の入り口から身体半分をなかにいれて、彼らのほうを見あげた。トルードは昨日とおなじエマージェント流の正装をしていたが、その絹のぼろ服には新しいしみができている。それも美的に計算されたしみとはいいがたい。
沈黙が破れて、みんないっせいにトルードに質問をぶつけたり、手招いて話を聞こうとしたりしはじめた。トルードは蔓《つる》植物の垣根に手をかけ、ジョー・シンのテーブルまで昇ってきた。しかしもうすわる余地がないので、上のテーブルを頭上にずらしてきて、そちら側にすわった。エズルの目はトルードとほぼおなじ高さになったが、相手の顔は逆さまだ。ほかのテーブルの客がまわりに集まり、蔓植物の垣根につかまって口々にいいはじめた。
「それで、愚人の停止はいつ解消されるんだ、トルード? おれは愚人を予約してて、答えを待ってるんだよ」
「そうだよ、こんなときになにしに――」
「――素《す》のハードウェアでできることにはかぎりがあるんだよ、だから――」
「うるせえな、てめえら!」トリンリの大声が響きわたった。「こいつにもしゃべる時間をやれよ!」
トリンリらしく、急に方向転換して爆弾を落とした。しかしどの方向にむけて爆弾を落とすにせよ、そうすることで毅然《きぜん》として見えるのだ。とにかく、集まった連中は黙った。
トルードはトリンリに感謝の表情をむけた。いつもの生意気さはかけらもない。目の下には隈《くま》ができて、ベニーが運んできた飲みものをもちあげる手は震えていた。
「レナルトはどんな具合なんだ、トルード?」ジョーが穏やかで心配そうな口調で訊いた。
「噂では……聞いた話では、脳死だってことだけど」
「ちがう、ちがう」トルードは首をふり、弱々しく笑った。「レナルトは完全に回復するはずだ。ただし、一年分くらいの逆行性の記憶喪失をともなうかもしれない。彼女が復帰するまではすこしばかり混乱があるだろう。愚人の停止については、もうしわけないと思ってるよ。本当はもう復旧させてないといけないんだけど――」声に以前の自信がすこしもどった。「――でも、おれはもっと重要な任務をあたえられたんだ」
「そもそも、レナルトにはなにがあったんだ?」
ベニーが蛸足海老《たこあしえび》の皿をもってきた。この店いちばんの前菜だ。トルードは質問を無視するように、がつがつと食べた。トルードがこんなに人々の注目を集めたことはない。みんな文字どおり息をひそめて彼の意見を待っているのだ。トルードはそれを意識し、いきなり注目の的《まと》になったことを楽しんでいるようだ。しかし同時に、見ていられないほど疲れきってもいた。昨日は非の打ちどころがなかった衣装も、いまは少々匂うくらいだし、料理を口へ運ぶフォークの先はふらふらしている。しばらくして、トルードはかすんだ目を質問者のほうにむけた。
「なにがあったのかって? はっきりとはわからないさ。去年あたりからレナルトは調子を崩していた――もちろん、集中化からはずれてはいないんだが、うまく調整されていない感じだった。専門家だけにわかるような微妙なちがいなんだ。おれも見のがすところだった。レナルトはなにか副次的なプロジェクトに気をとられているようだった――愚人らしい執着心だよ。ただ、レナルトは自分で自分の再調整をするから、おれにはなにもできなかった。すごく不安だったんだよ。そのことを領督に報告しようとしていた矢先に――」
トルードは黙った。それは自分の立場を自慢しているだけだと気づいたのだろう。
「とにかく、レナルトはMRIの制御回路の一部を調節しようとしたようだ。自分が集中化からはずれはじめているという自覚があったんだろう。よくわからないが、安全カバーをはずして診断プログラムをはしらせた形跡があった。制御ソフトウェアに情況依存型の欠陥があったようなんだが、まだ再現できていない。とにかく、レナルトは制御パルス波をまともに顔に浴びた。制御装置の裏のキャビネットに頭皮の一部がついていて、どうやら痙攣《けいれん》したときに頭をぶつけたらしい。さいわい、放出を促進された神経刺激物質はアルファ・レトロクスだった。脳|震盪《しんとう》とレトロクスの過剰放出というわけだ……。さっきいったように、症状は回復するはずだ。四十日もすれば、以前と変わらないレナルトがもどってくるわけだ」弱々しく笑った。
「最近の記憶を失ってな」
「そういうことだ。愚人はハードウェアじゃない。バックアップはないからな」
テーブルのまわりからは不安そうなひそひそ声が洩れたが、はっきりと口にしたのはリタ・リヤオだった。
「あまりにも都合がよすぎると思わない? だれかがレナルトを黙らせようとしたようにも見えるわ」リタはそこでためらった。朝からリッツァー・ブルーゲルを疑う噂を吹いてまわっていたのは彼女だ。こんなふうに領督どうしの抗争かもしれないと公然と噂すること自体、エマージェントにしては異例だ。「ナウ領督は、副領督がちゃんと非番にはいっているかどうか確認したの?」
「その部下も確認したほうがいいそ」エズルの背後にいるチェンホーがいった。
トルードはフォークをテーブルに叩きつけ、かん高い怒った声でいった。「なにを考えてるんだ! 領督はさまざまな可能性を考えているさ……慎重にな」注目されることの代償がいかに高いかを思い知らされたように、深呼吸した。「領督は当然ながら今回のことを深刻に受けとめてる。しかし、いいか――レトロクスの過剰放出はそれだけのことで、局部的なものでもない。事故だと考えるのが自然なんだ。記憶も斑《まだら》状に抜け落ちる程度ですむだろう。わざわざこんなばかな破壊工作をやるやつがいるか。おなじように事故に見せかけながら殺すことも、簡単にできたはずなのに」
しばらくみんな黙りこんだ。トリンリは彼らの顔をにらむように見まわしている。
トルードはフォークをもちあげたが、またおいた。食べかけの蛸足海老をぼんやり見ながらつぶやいた。
「ああ、もうくたくただ。なのに二十キロ秒後には――いや、ちくしょう、十五キロ秒後には――仕事にもどらなくちゃいけない」
リタがその腕に手をかけた。「とにかく、こっちで正確な話をしてくれて助かったわ」まわりから同意するつぶやき声があがった。
「当面は、ビル・フオンとおれの肩にすべてがかかってるわけだな」
トルードははげましを求めるようにまわりを見まわした。その声には自負と同時に、うんざりする響きがあった。
その日遅く、二人は仮設舎の外皮裏にある緩衝《かんしょう》空間で会った。この予定は、湖公園の完成披露パーティよりまえから決まっていて、エズルは不安と期待のいりまじった気持ちで待っていた――ここでファム・ヌウェンに、集中化技術について自分の意見をはっきりいってやるつもりなのだ。
〈〈ちょっとした演説と、ちょっとした脅《おど》し文句……。それで充分だろうか〉〉
ゴンレ・フォンの発芽《はつが》ケースの列のわきをすばやく通り抜けると、明るい照明とトレブユン菜の匂いが背後に遠ざかっていった。迫ってくる闇は深く、裸眼《らがん》ではほとんどなにも見えない。ヌウェンとここで初めて会った八年前は、まだぼんやりと太陽の光が差しこんでいたが、いまはプラスチック製外皮のむこうから光は洩れてこない。
しかしいまのエズルには、べつの目がある……。こめかみにのったローカライザーに信号を送ると、幻影のような映像が浮かびあがった。眼球の脇を指で強く押さえたときに見えるような、黄色っぽい光だ。しかし無意味な模様ではない。ファムにいわれた練習を根気よくつづけてきたおかげで、黄色い光は風船形をした内壁と外皮のカーブをしめしていた。ときどき視野がゆがむこともあるし、視点が足もとからやずっと背後からになったりするが、正しい命令を送って精神を集中すれば、裸眼では見えないものが見えてくる。
〈〈ファムはもっとよく見えてるんだ〉〉
それらしいようすは、この何年かのあいだに何度も見てきた。ヌウェンはローカライザーの群れを自分専用の小帝国のように自在にあやつっているのだ。
ファム・ヌウェンは内壁の支柱の陰に立っていた。エズルの前方にあるローカライザーが逆にこちらを見ているので、その姿はよく見えなかった。エズルが最後の数メートルを近づくにつれて、視野は揺らいだ。ヌウェンが小さな召使いたちの配置を変えているのだ。
「よし、手短《てみじか》にやろう」
ファムはいって、エズルのまえに出てきた。黄色い擬似光で見るその顔は、ひどく憔悴《しょうすい》している。まだトリンリの仮面から抜けきれていないのだろうか。いや、一見すると酒場でトリンリが見せていた二日酔いの顔とおなじだが、なにかもっと深いわけがありそうだ。
「でも――二千秒という約束じゃないのかい」
「そうだが、情況が変わった。なにも気づいてないのか?」
「それなりにいろいろ気づいてるよ。そのことをそろそろ話すべきだと思ったんだ。ナウは本当にあなたを崇拝している……そのことはわかってるだろう?」
「ナウは嘘の塊《かたまり》だ」
「たしかにそうだね。でもナウから見せられたあなたの伝記は、大筋では真実だった。ファム、あなたとは当直シフト数回分にわたって協力してきた。そのあいだに、伯母や大伯父たちがあなたについていっていたことを思い返してみたんだ。ぼくはもう英雄崇拝をする齢《とし》じゃない。あなたはじつは……おそらく……集中化技術に強い興味をもつだろうということがわかってきた。これまであれこれ約束を聞いてきたけど、肝心なところはいつもうまい具合にごまかされてきた。あなたはナウを倒し、奪われたものをとりもどしたがっている――でもなにより手にいれたいのは、集中化技術なんだろう?」
沈黙が五秒間つづいた。〈〈これだけ真正面から訊いたんだ。さあ、ヌウェンはなんて答えるかな〉〉
ようやくファムは口をひらき、しゃがれ声でいった。「集中化は、文明を永続させ、そして人類宇宙全体に広がらせるための、鍵となる技術だ」
「集中化は奴隷制だよ、ファム」エズルは穏やかにいった。「もちろんわかってるだろうし、心の底ではこのやり方を憎んでると思うけど。あなたがザムレ・エングを第二の隠れ蓑《みの》として使いはじめたのは、その本当の気持ちのあらわれだろう」
ファムはしばらく黙ってエズルをにらんでいた。唇がゆがんでいる。「おまえは愚か者だな、エズル・ヴィン。ナウ版の伝記を読んでも、まだわからないのか。おれはヴィン家の一人から一度裏切られている。もう二度とあんなめには遭《あ》わない。もしおまえが逆らったら、おれが生かしておくと思うか?」
ヌウェンが近づいてきた。すると、エズルの視野がふいに暗くなった。ローカライザーからの入力がヌウェンによって切断されたのだ。
エズルはてのひらをかかげた。「それはわからない。でも、ぼくはヴィン家の一員だ。スラ直系の子孫であり、あなたの子孫でもある。ヴィン家は秘密のなかの秘密を知る家系だ。いつかはぼくもブリスゴー間隙《かんげき》の真相を知らされるかもしれない。でも、たとえ子どもでも、断片的に耳にはいってくることはあるんだよ。ヴィン家はあなたを忘れてはいない。外では口にしない、ヴィン家だけの座右《ざゆう》の銘《めい》があるんだ――われわれはファム・ヌウェンに大きな恩義がある。ゆえに彼に尽くさねばならない≠ニ。だからこそ、たとえあなたに殺されようと、いうべきことはいわなくてはいけないんだ」エズルは沈黙する闇を見つめた。もはや相手がどこに立っているかもわからない。「それに昨日の今日だから……あなたは聞いてくれるはずだ。だいじょうぶだと思う」
「昨日の今日だと?」ヌウェンの声には怒りがこもり、すぐ近くから響いた。「裏切り者のヴィンよ、おまえが昨日のいったいなにを知ってるというんだ?」
エズルは声のほうをむいた。ヌウェンの声はふつうではない。理性を超えた憎しみがこもっている。
〈〈レナルトを眠らせたときになにがあったんだろう……〉〉
まずい情況になってきたが、用意してきたとおりの内容をしゃべるしかなかった。「あなたはレナルトを殺さなかった。トルードのいっていたことはたぶん本当だろう。殺すのは簡単で、それでもおなじように事故に見せかけられたはずだ。そのことから、ぼくはナウ版の伝記のどこが本当で、どこが嘘かわかったような気がする」
エズルは両手をのばし、ヌウェンの肩にかけた。見えればいいのにと思いながら、闇を見つめた。
「ファム! あなたはその一生を憑《つ》かれたように走ってきた。それにくわえて、あなたの天才のおかげで、いまのぼくらがある。でもあなたは、それ以上のものを求めたんだ。それが具体的になんなのかは、チェンホー史にはっきり書き残されていない。でもナウの記録からわかったよ。あなたはとてもすばらしい夢をもっている。集中化技術を使えばそれは可能になるだろう。でも……その代償はあまりにも大きいよ」
つかのまの沈黙があった。そして、獣が苦痛に耐えるようなうめき声が響いた。エズルの両手はいきなり両側にはじき飛ばされ、喉に二本の手がかかって、万力のように絞めあげられた。愕然《がくぜん》としたまま、エズルの意識は遠ざかっていった……。
喉を押さえた手の力がすっとゆるんだ。気がつくと、まわりじゅうで閃光虫《せんこうちゅう》のような白く鋭い光が、ぽちぽちという音とともにまたたいている。はじめは息をつめて見ているだけだったが、なんなのかやっとわかった。ヌウェンが付近のローカライザーの蓄電池を破裂させているのだ! 小さな閃光のなかで、ファム・ヌウェンの姿が白黒映像のストップモーションのように浮かびあがっている。その目には、いままで見たことのない狂気の光が宿っていた。
閃光はしだいに遠ざかっていった。破壊の範囲が広がっているのだ。エズルは恐怖にしわがれた声でいった。「ファム……ぼくらの隠れ蓑が……ローカライザーがなくなったら……」
最後のかすかな光のまたたぎのなかに、相手のゆがんだ笑いが浮かんだ。「ローカライザーがなくなったら、おれたちは死ぬ。死ぬんだ、ヴィン家の小僧! もうどうでもいいことだ」
ヌウェンが背中をむけ、壁を蹴って遠ざかっていく音だけが聞こえた。あとに残ったのは闇と静寂――そして、数キロ秒後にも迫っているはずの死。何度試しても、もうまわりにローカライザーの反応はなかった。
夢破れたときに、人はどうするものか。
ファムは自室の闇のなかで漂いながら、まるで気まぐれな問いかけか他人事のように、そのことを考えていた。ローカライザーのネットに自分があけた焼けこげた穴のことは、意識の隅のほうで気づいていた。ネットそのものはしっかりしている。エマージェントの監視員が自動的にこの破壊の事実に気づくわけではない。しかしきちんと手直しをしないと、いつか異常発生の報告がつたわってしまうだろう。エズル・ヴィンが必死に焼け跡《あと》をふさごうとしているのが、ぼんやりとわかった。かえって事態を悪くするだけかと思ったが、意外にもそうではなかった。しかしあの若者に高度な修復は望むべくもない。遅くとも数百秒後には、カル・オモがブルーゲルに警告する……。そうしたらこの茶番《ちゃばん》劇は終わりだ。本当にどうでもいいことだが。
夢破れたときに、人はどうするものか。
だれの人生でも、夢は破れるものだ。だれでも齢をとる。人生のはじめは光り輝き、希望に充《み》ちている。そして残り時間が少なくなるにつれ、希望はしぼんでいく。
しかしファムの夢はそうではなかった。彼は五百光年の距離と三千年の客観時間にわたってそれを追求してきた。ファムが夢みたのは、正義がつかのまのまたたきではなく、人類宇宙全体をずっと照らしつづける、単一の姿の人類だった。大陸が戦火で荒廃したり、ちっぽけな王が息子を人質《ひとじち》に差し出したりしない文明だ。ローシンダ市の養老霊園からサミーの手で救い出されたとき、ファムは死にかけていたが、夢はそうではなかった。夢はいつも変わらず、胸のなかで燃えさかっていた。
そしてこの星系で、その夢を実現させるための武器≠みつけたのだ。集中化技術だ。星間文明を運営できるくらいに深くて高度な自律機能系だ。そんなものは使わないとスラが一蹴《いつしゅう》した忠実な奴隷≠、それはつくりだせるのだ。集中化が奴隷制だから、どうだというのか。集中化を使えば、それよりもっとひどい悪を永遠に駆逐《くちく》できるのだ。
……たぶんできる。
システム分析者のエギル・マンリの、もはやスキャナー装置と化したような姿からは目をそらしてきた。トリクシア・ボンソルやほかの連中が狭苦しい小部屋に押しこめられているさまからは、目をそらしてきた。しかし昨日、集中化の威力にたった一人で立ちむかい、命がけで抵抗するアン・レナルトの姿を見せられた。これまでは自分の夢の代償からあえて目をそらしていたのだが、そうやって見せられた個別の事情には、やはり圧倒された。ファムにとってアンは、シンディ・ドカインそのものに思えた。
そして今日は、エズル・ヴィンとその演説だ――代償はあまりにも大きい≠セと! ヴィン家のガキが!
夢は実現できるかもしれない……ただしそのためには、夢を求めるそもそもの理由を捨てなくてはならない。
かつて夢の実現まであと一歩と迫ったときも、ヴィン家の女に最後の一歩をはばまれた。
〈〈ヴィン家の裏切り者など死ねばいい。みんな死ねばいい。おれも死ぬんだ〉〉
ファムは身体をまるめた。ふいに、自分が泣いていることに気づいた。いままで相手をあざむくため以外で涙を流したことはなかった。よく憶えていないが……人生の遠い遠い反対側で、初めてリプリーズ号に乗ったとき以来ではないか。
とにかく、夢破れたときに人はどうするものか。
夢破れたら、あきらめるのだ。
そのあとになにが残る? しばらくのあいだ、ファムの心は無のなかを漂っていた。それからふたたび、ローカライザーのネットを通じて見えてくる、またたくイメージに気づきはじめた。岩石群に固定されたハマーフェスト棟では、蜂の巣のような無数の独房のなかに集中化された奴隷たちが押しこまれている。アン・レナルトもおなじ狭い独房で眠っている。
彼らにこんな仕打ちをうけるいわれはない。トマス・ナウが予定しているような運命に甘んじるいわれはない。レナルトもそうだ。
ファムはネットを通じて手をのばし、エズル・ヴィンをそっと押しやった。そして若者が試みた修復作業を引き継ぎ、もっと効果的に穴をふさいでいった。やるべきことはいろいろある。エズルの首の圧迫跡もどうにかしなくてはならないし、仮設舎の緩衝空間に一万個もの新しいローカライザーを補充しなくてはならない。なんとかなるはずだ。そして長期的には――
アン・レナルトは昨日の傷からいつか回復してくるだろう。そうしたら、また追いかけっこがはじまるわけだ。しかし今度のファムは、彼女とほかの奴隷たちを守る役回りだ。これまでよりはるかにむずかしくなるだろう。しかしエズル・ヴィンとしっかり協力してやりさえすれば……。さまざまな計画がファムの頭のなかで練《ね》られていった。歴史の紡《つむ》ぎ車を壊す試みにくらべると、天と地ほども差がある。しかし全面的に正しいと感じられる行為には、奇妙なよろこびがあった。
眠りに落ちる直前に、ファムはガナー・ラーソンのことを思い出した。老人の穏やかな嘲笑《ちょうしょう》や、自然界には限界があることを知るべきだという忠告を思い出した。
〈〈ラーソンのいうとおりだったのかもしれないな〉〉
奇妙だ。この部屋で何十年にもわたって眠れずに歯ぎしりしながら、戦略を練り、集中化技術を使ってやるべきことを夢みてきた。それらをあきらめたいまも、まだべつの戦略があり、恐ろしい危険がある……。しかしこの何十年かで初めて……安らぎを感じた。
その夜、ファムはスラの夢をみた。悪夢ではなかった。
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第三部
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商売の種はどこにでもころがっている。
ゴンレ・フォンはそういう信念で生きてきた。オンオフ星行きはいちかばちかの賭けであり、興味をしめすのは科学者がほとんどだった。しかしそんななかでも、ゴンレは商売の種をみつけてきた。そのあとエマージェントとの武力衝突が起きて、賭けは隷属と孤立生活に変わった。悪党に支配される監獄だ。そんななかでやはり、商売の種はあった。二十年の人生でずっとそんな種を利用し、儲《もう》けてきた――こんな薄ぎたない場所にとじこめられているわりには、という意味だが。
しかしその情況が変わってきた。
ジョー・シンが四日以上にわたって姿を消しているのだ。すくなくともゴンレの現在の当直シフトがはじまってから見かけていない。はじめは、リタ・リヤオといっしょに非公式に当直C群に移され、まだ冷凍睡眠中なのだという噂が流れていた。そのせいでリタと予定していたプログラム作成の契約が一部|御破算《ごはさん》になったが、それ自体はよくあることだ。そのあとトリンリが、ハマーフェスト棟屋根裏部屋から二人の愚人《ぐじん》パイロットがいなくなっているという情報をもたらした。
なるほど。リタはまだ氷漬けかもしれないが、ジョー・シンと二人の愚人は……どこかへ行っているらしい。そこから噂はどんどん広がっていった。消えた太陽の観測へ出かけたらしいとか、蜘蛛《くも》族世界に着陸したらしいとか……。ベニーの酒場ではトルード・シリパンは自慢げに、ある秘密を知っているのだがいまは教えられないといっていた。すくなくともそれは、なにか奇妙なことが進行中だという証拠だ。
ゴンレはさまざまな推測をもとに賭けの胴元をやっていたが、自分自身もその噂話に夢中になっていた。だから、悪党の親玉たちが全員にその秘密を明かす決定をしたときも、すこしも残念だとは思わなかった。
トマス・ナウは私邸でひらく説明会に、チェンホーとエマージェントの下級労働者たち数人を招いた。ゴンレが湖公園にはいるのは、あの完成|披露《ひろう》パーティ以来だ。あのときナウはずいぶん太っ腹なところを見せたが、その後はしっかり鍵をかけてだれもはいらせなかった。もっともその理由の一部には、パーティのさいちゅうに起きたアン・レナルトの事件のこともあるのだが。
ゴンレは、ほか三人の選ばれた下級労働者たちといっしょにナウの山荘への小径《こみち》を歩きながら、この景色について論評した。
「おやまあ、雨を降らせる方法まで開発したのね」
実際には雨というより、風とともに吹きつける霧だ。とてもこまかいので髪や腱毛《まつげ》にくっついて露《つゆ》をつくる。またそれだけこまかいおかげで、重力の弱さもあまり関係なかった。
ファム・トリンリはばかにしたように軽く笑った。「おれはゴミ集めのためだと思うね。むかしはこういう擬似重力環境の公園をよく見たもんだが、注文した顧客はたいがい金《かね》ばかり余ってて頭がなかった。こんなふうに地面側と空側をつくると、すぐゴミが舞いあがっちまうんだよ。あっというまに空はゴミだらけってわけさ」
隣を歩いているトルード・シリパンがいった。「空はきれいじゃないか」
トリンリは流れていく霧を見あげた。灰色の雲が低くかかり、湖の対岸から急速に流れてくる。一部は本物で、一部は壁紙だろうが、両者のさかいめは見わけられなかった。ゴンレ・フォンの目から見てもあまり楽しい景色ではないが、ひんやりとして清潔ではあった。
「そうだな」しばらくしてトリンリがいった。「一本とられたよ、トルード。おまえんとこのアリ・リンは天才だ」
トルードは少々むっとした。「あいつだけじゃないぞ。だいじなのは調整役だ。これを専門にしている愚人のチームがあるんだ。年ごとに優秀になってる。そのうち本物そっくりの海の波だってつくれるようになるさ」
ゴンレはエズル・ヴィンと顔を見あわせ、目をぐるりとまわしてみせた。このほら吹きどもは、この公園をどれだけ多くの人々が協力して――有益な協力をして――ささえているか、認めようとしないのだ。下級労働者はもう立ち入り禁止になっているとはいえ、いまも彼らはさまざまな食糧や、完成品の木材や、生きた植物や、プログラムデザインを供給しているのだ。
霧は山荘のまわりで軽く渦を巻いていて、訪問者たちの身体《からだ》は付着布の靴底を軸に右に左に傾き、重力という幻想はあやうくなった。山荘のなかにはいると、トマス・ナウの大きな暖炉では薪《まき》が本物そっくりに燃えていて、みんなそれで暖まった。領督《りょうとく》は彼らに会議テーブルをしめした。すでにナウとブルーゲルとレナルトがいるが、ほかに三人の人影が、窓とそのむこうの薄暗い光を背景に浮かんでいる。その一人はキウィだった。
「やあ、ジョーじゃないか」エズルがいった。「いつのまに……目を覚ましてたんだ?」
そう、それはジョー・シンとリタ・リヤオだった。トマス・ナウは部屋を明るくした。文明的な住まいでは明るいのも暖かいのもあたりまえだが、この公園ではわざわざ費用をかけて寒さと薄暗さをつくりだしている。おかげで明るいこの部屋がいかにもほっとできる場所として演出されていた。
領督はゴンレたちに椅子をしめし、自分もすわった。いつものように寛大で賢明な指導者然としている。
〈〈でも、もうわたしは騙《だま》されないわよ〉〉と、ゴンレは思った。
この遠征に参加するまでに、ゴンレは三つの世界で十指《じっし》にあまる顧客文明と取り引きをした経験があった。顧客は体格も肌の色もさまざまな人間たちであり、その政治体制にいたっては独裁、民主主義、無政府民主主義など、さらに多様だった。そんな彼らともかならず商売は成立した。ナウは大悪党だが、取り引きを避けては通れないとわかっているという意味で、頭のいい悪党だ。キウィはそれを何年もまえに見抜いていた。不都合なのは、力関係でむこうが上であることだ。そこがチェンホーの標準的なビジネス環境とは少々異なる。悪党の勢力圏から逃げられないというのは、いろいろと厄介だ。しかし長期的にはその問題も関係なくなるだろう。
領督は一人ひとりにむかってうなずいた。「足を運んでくれてありがとう。この説明会がネットで中継されているのはいうまでもないが、諸君がここで目のあたりにしたことについて、友人たちにじかに話してくれることをわたしは期待しているのだ」ナウはにやりとした。「ベニーの酒場ではいい話の種になるだろう。今日用意しているのはたいへんいいニュースでもあるが、大きな挑戦をともなうことがらでもある。じつは、シン主任はついさきほどアラクナ星の低高度軌道から帰ってきた」
ナウはそこで間《ま》をおいた。
〈〈ベニーの酒場はいま、水を打ったようにしんとなっているはずね〉〉ゴンレは思った。
「そして、たいへん……興味深いものを発見してきた。ジョー、任務の経過について説明してくれ」
ジョーは立ちあがったが、動作がやや急すぎた。妻に手を引っぱってもらって、ようやく床に足をつけ、集まった人々のほうをむいた。ゴンレはリタと視線をあわせようとしたのだが、うまくいかなかった。彼女は夫のほうしか見ていなかった。
〈〈きっとリタは旦那が帰ってくるまで氷漬けにされていたんだわ。そうでなければ、この任務について黙っていられるはずがない〉〉
リタは心からほっとした表情をしていた。今回のニュースがなににせよ、悪い内容ではなさそうだ。
「わかりました。領督の指示にしたがって、わたしは早めの当直につき、アラクナ星への接近飛行をおこないました」
ジョーが話しているわきで、キウィがチェンホー仕様のヘッドアップディスプレーを配りはじめた。ゴンレはキウィにむかって口だけ動かして、買い注文、いれたい≠ニいった。
キウィはにやりとして、「もうすぐよ」とささやき返した。
こういうものを下級労働者が使うことを、偉い連中はまだ許可していないのだが、もうすぐそれが変わるのかもしれない。全員のヘッドアップディスプレーが同感性映像を同期させる、わずかな問のあと、テーブルの上にL1点の岩石群の全景がやらめきながらあらわれた。ずっと遠く――つまり床より下のほうには、蜘蛛族世界が丸く見えている。
「わたしとパイロットたちは、まだ飛べる最後の小型艇を使いました」
岩石群から金色の線が伸びてきた。線は弧を描きながら途中から加速して、下へ伸びるにしたがってまたゆっくりになった。その先端の小型艇に視点が追いつくと、丸いアラクナ星が眼前に迫ってきた。人間たちが最初に来たときとおなじようにほとんど氷でとざされているのだが、ひとつだけ大きなちがいがある。北半球にかすかな都市の光があるのだ。あちこちの大都市を網の目のようにつないで光がまたたいている。
ファム・トリンリが暗がりのむこうであきれたような声をたてた。「おい、こりゃ絶対みつかっちまったぜ!」
「レーダー波は来たよ。防空レーダーと蜘蛛族の衛星を映せ」ジョーは映像にむかって命じた。
惑星をとりまく宇宙空間に、まるで花が咲いたように青と緑の点が広がった。地上では明滅する光が弧を描いている。蜘蛛族の対ミサイル用レーダーだ。「将来はもっと問題になってきそうだけどね」
アン・レナルトの声が割りこんだ。「こちらのネットワーク要員が、確実な証拠となるデータはすべて削除したわ。危険を冒すだけの価値があるのよ」
「おやおや、そりゃまたたいそう重要な内容なんだろうな」とトリンリ。
「おい、ファム。あれだ、あれ」
ジョーが同感性映像のほうに踏み出し、人工衛星の雲のなかに深く手をつっこみ、ある青い点をしめした。キンドレッド国地上偵察衛≠ニいうラベルのあとに、軌道情報が表示されている。ジョーはちらりとトリンリのほうを見て、なにか反応を期待するように、黙ってにやにや笑いはじめた。数字の意味は、ゴンレにはわからない。顔を横にずらして、映像のむこうにいるトリンリのようすを見た。道化《どうけ》もいぶかしげな表情で、ジョーのにやにや笑いにもトルードのもったいぶった軽い笑い声にも不愉快そうだ。
トリンリは眉間《みけん》に皺をよせて表示をのぞきこんだ。「なるほど、偵察衛星に軌道をあわせたわけだな」隣で、エズル・ヴィンが驚いたようにはっと息をのんだ。トリンリの眉間の綴がさらに深くなった。「打ち上げ日は七百キロ秒前、ブースターは化学推進剤、軌道周期は同期、高度は……」声が途切《とぎ》れながら、へんな声に変わった。「高度一万二千キロだと? なにかのまちがいだろう!」
ジョーのにやにや笑いが大きくなった。「まちがいじゃない。だからこそ、観察しにそばへ行ったんだ」
ゴンレにもだんだんとその重大さがのみこめてきた。補給課での彼女の仕事はおもに価格交渉と在庫管理だが、価格をもっとも左右するのは輸送だ。チェンホーであるゴンレは、輸送業務についてもある程度の知識をもっている。アラクナ星はいわゆる地球型惑星で、一日の長さは九十キロ秒ほどだ。そこでの同期軌道、つまり静止衛星軌道は、高度一万二千キロよりはるかに高いはずだ。技術専門職員でなくても、こんな衛星がありえないことはわかる。
「本当に静止してるの?」ゴンレは訊いた。「小さなロケットかなにか使ってるんじゃない?」
「いいや。たとえ核融合ロケットを使っても、何日もつづけて高度をたもつのはむずかしいはずだ」
「ケイバーリットだ……」エズルが呆然《ぼうぜん》としたようにつぶやいた。ケイバーリット≠ニいうと、古代文学かなにかに出てきた名前のような……。
ジョーはうなずいた。「そうだ」映像に対してなにか命じると、小型艇の視点に切り換わった。「とはいえ、接近するのも容易じゃない。こっちのメインエンジンの噴射は見せたくないからな。そこで、まず衛星のカメラを焼きつぶしておいて、下から瞬間的に位置をあわせる軌道で接近した……。もうすぐ見えてくるぞ。照準器の中心だ。接近速度は秒速五十メートルからだんだん落ちていって、最後は瞬間的におたがいに静止する。いまこっちから見て五メートル上にあるぞ」
照準器のなかになにかが映っていた。箱形で、真っ黒だ。糸に吊られたヨーヨーのようにこちらへ落ちてくる。だんだんゆっくりとなり、一、二メートル下へ行きすぎたあと、今度は上昇しはじめた。箱の上面は黒ではなく、暗い灰色の不規則なかたちをしている。
「よし、映像停止。これでよく見えるだろう。でこぼこのない構造で、おそらくジャイロで安定している。多面体の外板はレーダー探知を避けるためだ。考えられない軌道を飛んでいること以外は、よくあるローテクのステルス型衛星だな……」
衛星はふたたび上へ昇っていったが、今度は引っかけ鉤《かぎ》に行く手をはばまれた。
「あそこで小型艇内に収容した。そのあとには、もっともらしい爆発の痕跡《こんせき》を残した」
「まあまあの出来だな」ファム・トリンリがいった。自分とおなじレベルの腕前だと認める口調だ。
「ばかいえ。見ためよりたいへんだったんだぞ。ランデブーのあいだじゅう、愚人たちが回復不能のパニックにおちいりそうになるまで猛烈に働かせた。力学的な矛盾《むじゅん》がごまんと出てきたんだ」
トルードが楽しそうな声で割りこんだ。「今後はだいじょうぶだ。パイロットは全員、ケイバーリットを計算に組みこんだ操縦ができるよう再プログラムしておくよ」
ジョーは映像を消して、トルードのほうをにらんだ。「失敗したら、パイロットが一人もいなくなるんだからな」
ゴンレは話が脱線していくのをこれ以上聞いていたくなかった。「いまは衛星の話でしょう。回収してきたの? 蜘蛛族はどんな仕掛けを使ってたの?」
ナウがにやりとしてゴンレのほうを見た。「当面の問題は、フォン職員が指摘したとおりだな。高原台地で観測された重力異常という話を、みんな憶えているかな? 手短《てみじか》にいうと、あれは本当だった。キンドレッド軍はある種の反重力物質とでもいうべきものを発見したのだ。彼らはこれを十年間研究してきたことになる。われわれがいままで気づかなかったのは、アコード国情報局がそのような物質の存在を知らなかったからであり、またキンドレッド国側での情報収集態勢がまだ整備されていないからでもある。この小型衛星の重量は八トンほどだが、そのうち二トンはこのケイバーリット≠ノよる外装だ。キンドレッド国の蜘蛛族はこの驚くべき物質を、たんにロケットの投射重量を増やすために使っているのだ。ここで、ちょっと見せたいものがある……」ナウは空中にむかって命じた。「暖炉の火を消して換気を止めろ」
するとまもなく、部屋はとても静かになった。キウィが壁に近づいて、湖から湿った空気をいれていた縦長の窓をしめた。公園のにせものの太陽が雲の切れ間からあらわれ、湖面に細長い光をきらめかせた。ナウの愚人はこの瞬間にあわせて風景を調節したりできるのだろうかと、ゴンレはぼんやり思った。できるのかもしれない。
領督はシャツから小さな容器をとりだし、蓋《ふた》をあけて、なかからなにかを出した。傾いた日差しを浴びて光っているのは、小さな四角いもので、ちょうどタイルのようだ。安っぽい雲母《うんも》のようなきらめきだが、色は整然とした虹色に変化した。
「衛星の外装材のひとつだ。低出力LEDの層もあったのだが、それは剥《は》がした。あとに残ったこれは、化学的にいうと、エポキシ樹脂《じゅし)で固めたダイヤモンドの破片ということになる。見たまえ」
ナウはその四角いタイルをテーブルにおいて、懐中電灯の光をあてた。全員の視線が集まった……。しばらくすると、虹色に輝くその小さなタイルが、かすかに浮かびあがった。はじめそれは、微小重力環境でよくある動きにも見えた。すわりの悪いペーパーウエイトが気流に押されて動きだすようなものだ。しかしいま、この部屋の空気は止まっている。しだいにタイルは動きが速くなり、くるくるとまわりながら……上へ落ちていった[#「上へ落ちていった」に傍点]。そしてだれの耳にもはっきり聞こえるカタンという音をたてて――天井に張りついた。
しばらくだれもなにもいわなかった。
「諸君、わたしたちは宝の発見を期待してオンオフ星へやってきた。これまでに宇宙物理学上の発見をし、それをもとにやや高速なラムスクープエンジンをつくれるようになった。蜘蛛族世界の生物学的な資源価値も高く、それだけで遠征費用をまかなえるはずだ。しかし、わたしたちの期待はそれだけではなかった。求めていたのは宇宙種族の遺物だ――その四十年ごしの期待が、ようやく報《むく》われたらしい。すばらしく大きな宝の発見として」
こうして一部の下級労働者だけが説明会に招かれたのは、じつはよかったのかもしれない。というのも、その瞬間に全員がいっぺんにしゃべりだしてひどい混乱が起きたのだ。ベニーの酒場ではいったいどんな騒ぎになっていることか。ようやくエズル・ヴィンが代表して最初の質問をすることになった。
「蜘蛛族がこれをつくったんですか?」
ナウは首をふった。「ちがう。キンドレッド国は何千トンという鉱石を精製して、この魔法のタイルにしたてている」
トリンリがいった。「蜘蛛族はこの星で進化した種族であり、過去に高度な科学技術をもっていた形跡はないという話を、おれたちはずっと聞かされてたんですがね」
「そのとおりだ。蜘蛛族の考古学者は、惑星外からの訪問者がいたというはっきりした証拠はみつけていない。しかしこれは……これはあきらかに人工物だ。蜘蛛族はそう思っていないかもしれないが。アンの自律機能系が数日かけて分析したところによると、いくつもの材料が連携してひとつの効果を発揮する複合素材らしい」
「鉱石を精製したものという話だったんでは?」
「そうだ。そこからまたおもしろい結論にいたるんだ。アラクナ星の地層から出てくるダイヤモンド粉末は、阻石落下によるものか、あるいは生物の骨格化石だと、われわれは四十年前から考えていた。ところがじつはそれは、化石化した一種の処理装置らしい。すくなくともその一部を密接に組みあわせると、本来の機能をとりもどす。ローカライザーのようなものだが、もっとはるかに小さく、特殊な機能をもっている……。われわれにはまだ理解できない方法で、物理法則を操作するのだ」
トリンリはいつもの大言壮語も忘れ、だれかに顔を殴られたように呆然としていた。
「ナノテクか。夢の……」
「ふむ? そうだな。いわゆる挫折した夢≠セ。いままではそうだった」領督は天井に張りついたままのタイルを見あげ、笑みを浮かべた。「この世界へやってきたのがどんな種族にせよ、それは何億年もむかしのことだ。野宿跡《のじゆくあと》や食べものかすが残っているとは思えない……とはいえ、彼らの技術の痕跡はいたるところにある」
エズルがつぶやいた。「ぼくらは宇宙種族を探しながら、相手があまりにも大きいせいで、その踵《かかと》しか見えていなかったわけか」視線を天井から引きはがした。「もしかするとこれも――」窓にむかって手をふった。ゴンレはその手が、L1点に集められた巨大なダイヤモンド塊そのものをさしているのだと気づいた。「これもじつは、人工物なのかも」
ブルーゲルが身をのりだした。「ばかな。ここのはただのダイヤモンドの岩だ」しかし攻撃的にテーブルを見まわすその視線も、確信はなさそうだった。
ややあってナウが軽く笑い声を洩らし、喧嘩腰の副官を制した。「だんだん話が黎明期の空想じみてきたな。はっきりわかった事実だけでも驚くべき内容だ。そこへわざわざ迷信的なたわごとをつけくわえる必要はない。こうしてわかったことだけでも、この遠征は人類史でもっとも重要な一ページになると確信できる」
〈〈そして、もっとも大きな富をもたらすわね〉〉ゴンレは椅子に背中をもたれて、天井に張りついた虹色の物体を使ってなにができるか、さまざまな考えをめぐらせた。〈〈どうやって売るのがいちばんいいかしら。こいつで何世紀くらい市場を独占できるかしら〉〉
しかし領督の話はもっと現実的なことがらにおりてきた。「さて、それがすばらしいニュースだ。長期的にはわたしたちの想像を絶する利益をもたらすだろう。短期的には――じつはスケジュール上の大きな問題となるのだ。キウィ?」
「はい。みんなも知っているとおり、蜘蛛族が、惑星規模の成熟したコンピュータネットワーク――わたしたちが安定して活動できるシステムを完成させるには、あと五年ほどかかるはずよ」
〈〈こっちが利用できるくらいに高度なネットワーク、という意味ね〉〉
今日知らされたものをべつにすれば、ゴンレ・フォンがこの長い孤立生活の最大の成果として期待しているのは、まさにそれだった。ラムスクープエンジンのささやかな進歩や、生物学的な利用価値など、たいしたことではない。下には産業文明をもつ世界があり、ほかの市場からみてまったく異質な文化があるのだ。それを支配できれば――すくなくとも取り引きにおいて価格決定権を握る立場を確保できれば、彼らはチェンホー通商史における伝説的存在に列せられるだろう。ゴンレにはそれがわかった。ナウもわかっているはずだ。キウィもだが、いまは単純な理想論を話していた。
「これまでは、わたしたちの手助けが必要になるのは五年先であり、それまではキンドレッド国対アコード国の戦争も起きないだろうと考えられていたわ。でも……それはまちがいだった。キンドレッド国にはまだろくなコンピュータネットもないけど――じつはケイバーリットの鉱床《こうしょう》があったわけね。このケイバーリットを応用した彼らの衛星はステルス性能をそなえているけど、それは一時的な優位性にすぎない。キンドレッド国のミサイル群はすぐに高性能化されるはずよ。政治的には、彼らは周辺諸国の政治にちょっかいを出し、アコード国との対立をあおっている。もはやわたしたちがなにも手を出さず、あと五年も待っていられるような情況ではなくなってきているのよ」
ジョーがいった。「スケジュールを前倒しすべき理由はほかにもある。このケイバーリットの存在を考えると、こっちの存在を隠しつづけるのはほとんど不可能だ。蜘蛛族は惑星周辺の宇宙空間にまもなく進出してくるだろう。こいつを――」天井の虹色のタイルをしめした。「――蜘蛛族がどれくらいもっているかによっては、こちらより高い機動力を発揮するようになるかもしれない」
隣のリタがしだいに心配そうな顔になっていった。「つまり、ペデュアの国が勝つかもしれないということ? スケジュールを前倒ししなくてはならないのなら、もうこそこそする必要はないわ。ありったけの兵器をもって、アコード国の側につくべきよ」
リタの発言に対して、領督は重々《おもおも》しくうなずいた。「気持ちはわかる、リタ。惑星の一部の連中に対してわれわれは大きな関心をもっている。それどころか――」そこで甘い感情論を排するように手をふり、きびしい現実論を話しはじめた。「しかし領督であるわたしは優先順位を考えなくてはならない。最優先なのはきみたち、この小さな居住棟に住むすべての人間の生存だ。きみたちが協力してここにつくりあげた美しい風景に目を奪われていてはいけない。じつは、わたしたちが保有する現実的な軍事力は、ごくわずかなのだ」
夕日が湖を金色に染め、斜めに差しこんできた光が部屋をやわらかく、暖かく照らしていた。
「わたしたちは難破した漂流者のようなものであり、人類文明からとんでもなく遠いところにいるのだ。優先順位の第二位は第一位と抜きがたく結びついているのだが――蜘蛛族の高度な産業文明の生存。すなわちその人々と文化の生存だ。行動は慎重のうえにも慎重さが要求される。単純な愛着から行動するわけにはいかない……。まあ、わたしもあのラジオ番組は聴《き》いていた。ビクトリー・スミスやシャケナー・アンダーヒルといった連中はわかってくれるだろうと思う」
「でも彼らは助けになるはずです!」
「そうかもしれない。こちらにもっと情報があって、ネットワークを深いところまで操作できているのなら、すぐにでも彼らに教えたい。しかし不必要にこちらの正体をさらせば、蜘蛛族は一致団結してわたしたちに敵対してくるかもしれない――あるいは、ペデュアがアコード国への即時侵攻を決断する引き金になるかもしれない。彼らを守らなくてはならないが、同時に自分たちを犠牲にするわけにもいかないのだ」
リタはためらった。ナウの右側の影のなかで、リッツァー・ブルーゲルが彼女をにらんでいた。若い領督は、むかしながらのエマージェントのルールが棚上げされることに納得しておらず、口答えする者がいるとすぐ怒りだすのだ。
〈〈こいつが大ボスでなくてよかったわ〉〉ゴンレは思った。
ナウも、いくら口あたりのいいことをいっても、本性は無慈悲で狡猾《こうかつ》だ――しかし、取り引きできる相手でもある。
リタの意見を支持する声はあがらなかったが、彼女はもう一度いった。「シャケナー・アンダーヒルは天才です。わかってくれるはずです。助けになってくれます」
トマス・ナウはため息をついた。「ああ、アンダーヒルか。彼がいなかったらどうなっていたことか。待ち時間は五年ではなく、十二年にのびていただろう。しかし……」エズル・ヴィンのほうをちらりと見た。「きみはアンダーヒルと黎明期の技術についていちばん詳しいはずだな。意見をいってくれ」
ゴンレは笑いだしそうになった。エズルは、まるでラケットボールの試合の観客のつもりだったのに、いきなり顔面にボールが飛んできたようなものだ。
「ああ、はい。アンダーヒルは傑出した頭脳の持ち主です。フォン・ノイマン、アインシュタイン、ミンスキー、チャンといった黎明期の天才たちの役を一人でこなしているといっても過言ではないでしょう。もしかすると、大学院生を働かせるのがうまいという意味での天才かもしれませんが」エズルは悲しそうに笑みを浮かべた。「残念だけど、リタ、きみやぼくにとってこの孤立生活はたかだか十年か十五年だったかもしれないけど、アンダーヒルにとってはそれなりに長い時間だったんだ。蜘蛛族の平均でいえば――そして前技術時代の人間の平均からいっても――アンダーヒルはもう老人だ。耄碌《もうろく》しはじめているといってもいいかもしれない。技術で簡単に解決できることをやってきたけれども、いまは行き止まりにぶつかっている……。かつて柔軟な思考と賞賛された頭が、いまは迷信的な妄想の塊《かたまり》と揶揄《やゆ》されている。こちらが身を隠している優位性をもし放棄するのであれば、アコード国政府にじかに接触し、まっとうな契約関係を結ぶべきだと思うな」
エズルはもっとつづけようとしたが、領督が先にいった。「リタ、わたしたちはだれにとってもリスクの少ない選択肢を求めているんだ。こちらの運命を蜘蛛族の手にゆだねるしかない情況になったらそうするつもりだ」
ナウはちらりと右側を見た。それはおもにブルーゲルにむけたものらしいと、ゴンレは気づいた。ナウはしばらく黙ったが、それ以上の発言はなかった。そこでもとの領督らしい口調にもどった。
「とにかく、スケジュールを大幅に前倒しすることになったわけだ。これは外的要因によるものだが、わたしはこの挑戦を歓迎したい」にせものの夕日のなかで、にやりとした。「結果はどうあれ、わたしたちの孤立生活は一年以内に終わるだろう。となれば、資源の消費量を増やすことは可能だし、またそうせざるをえない。これから蜘蛛族世界を救うまで、全員当直態勢に移行する」
それはすごい。
「揮発物精製プラントは限度いっぱいの勤務サイクルで稼働させる」テーブルの全員が顔をあげた。「よく憶えておいてほしい――一年後にまだそれを必要としているようであれば、わたしたちの負けなのだ。これから先にはたくさんの計画が待っている。もてる力をすべて注ぎこむ必要がある。一部に残っていた一般使用制限も、今日から全廃する。いわゆる地下経済≠焉A安全上もっとも重要な自律機能系をのぞいて、すべての資源へのアクセスを許可する」
〈〈やった!〉〉
ゴンレはにやりとして、テーブルのむこうのキウィ・リゾレットを見た。キウィもにやにや顔でこちらを見ている。さっき、もうすぐよ≠ニいったのはそういう意味だったのだ。ナウの話はもうしばらくつづいた。長いあいだ商売のじゃまになっていたくだらないルールについて、具体的にどれを解除するといった詳しい話はなかったが、それでもゴンレの期待はふくらんでいった。
〈〈もしかすると地上での取り引きについての先物市場だってひらけるかもしれないわ!〉〉
説明会は全員が高揚した気分のなかで終わった。外へ出る途中で、ゴンレはキウィを抱きしめ、「ありがとう、よかった!」と小声でいった。
キウィは笑みを返しただけだったが、ひさしぶりに見るキウィの満面の笑みだった。
そのあと、訪問客の立場である四人の下級労働者は、斜面の帰り道を歩きはじめた。沈みかけた夕日が、彼らのまえに長い影をつくっていた。森へはいるまえに、ゴンレはふりかえった。
〈〈この公園は、やっぱりやりすぎだと思うけど、でもたしかに美しいわ。わたしも建設に参加したし〉〉
遠い雲の下から太陽の最後の光がのぞいている。ナウらしい操作か、それとも公園の自律機能系がランダムに雲の動きを調節しているだけか。どちらにしても、縁起《えんぎ》のいい眺めだ。ナウは自分がなんでも操作できると思っている。いまはこうしていきなり規制緩和に踏み出したが、今後、人々の想像力や鋭い商売感覚が利益より危険を増やしているとナウが判断したら、またもとのように瓶《びん》のなかに押しこんで蓋をしようとするかもしれない。しかしゴンレはチェンホーだ。キウィやベニーや多くの仲間たちといっしょに、エマージェントの窮屈《きゅうくつ》な支配体制をすこしずつなし崩しにしてきた。いまではエマージェントのほとんど全員が地下経済に汚染≠ウれている。ナウは商人の力を思い知らされたのだ。蜘蛛族の市場がひらけたら、自由をまたもとの瓶に押しこもうとしても、なんの利益もないことがわかるはずだ。
トマス・ナウの第二の会議は、おなじ日のうちにインビジブルハンド号でおこなわれた。ここでなら無邪気《むじゃき》な連中の耳にはいる心配をせず、自由に話せる。
「カル・オモから報告書があがってきました、領督。監視員の意見をまとめたものです。ほぼ全員がうまくだまされたようです」ブルーゲルがいった。
「ほぼ?」
「まあ、エズル・ヴィンがいますから――とはいえあいつは、領督のおっしゃったことの裏をすべて見抜いているわけではない。それからジョー・シンも……疑念をもっているようです」
ナウはもの問いたげな視線をアン・レナルトにむけた。
レナルトはすぐに答えた。「シンは必要な人材です、領督。残っているパイロット管理主任はシンだけですし、彼がいなかったら小型艇は帰還できなかったかもしれません。愚人パイロットたちはケイバーリットを使った衛星の軌道を見たとたん、すべてのルールが変わってしまった情況に対処できず、機能不全を起こしかけたのです」
「わかった。シンは心のなかでは疑っているようだ」しかたない。シンはさまざまな業務で中心的役割を果たしているのだ。ディエムの虐殺《ぎゃくさつ》事件についても、裏があることに気づきはじめているかもしれない。「しかし氷漬けにはできないし、だますこともできない。それでも作戦のもっとも血なまぐさい段階では働いてもらわねばならない。だが……リタ・リヤオを押さえておけば充分な影響力をふるえるのではないか。リッツァー、リヤオの身の安全はジョーの働きぶりいかんにかかっていることを、本人によくわからせておけ」
リッツァーは小さく笑みを浮かべてメモをとった。
ナウはオモの報告書を自分で読んだ。「たしかにうまくいったな。しかし連中が信じたがっていることを信じさせるのだから、しごく簡単だ。スケジュールを五年も前倒しすることの本当の意味をわかっているやつは、一人もいないようだ。整然とネットワークを乗っ取るというやり方はできない。しかも惑星上の工業経済は無傷で残さねばならないが――しかし惑星全体でというわけではないのだ。現段階では――」レナルトの愚人からの最新報告をちらりと見た。
「――蜘蛛族の七ヵ国が核兵器を保有している。四ヵ国が相当量の核弾頭をもち、三ヵ国がそれを搭載するミサイルシステムをもっている」
レナルトが肩をすくめた。「戦争を起こせますね」
「きわめて限定的な戦争だ。世界金融システムは無傷で残し、こちらで牛耳《ぎゅうじ》れるようにする」
非常時運営体制というわけだ。
「キンドレッド国は?」
「もちろん生き残らせる――しかし、裏でこちらがあやつれるように弱体化させる。餌《えさ》≠いくつか目のまえに落としてやろう」
レナルトはうなずいた。「わかりました。いろいろな方法が考えられます。サウスランド国は長距離ミサイルをもっていますが、そのほかの技術は後《おく》れています。暗期になれば人口の大半は冬眠しなくてはならないので、そのあいだに技術の進んだ列強に征服されるのではないかと戦々恐々としています。ペデュア師はその心理を利用しようともくろんでいます。それが成功するように誘導すれば――」
レナルトはそうやって、どんな虚構やペテンをしたてるべきか、どの都市なら吹き飛ばしてもかまわないか、アコード国の拠点のなかで、キンドレッド国にない資源のある場所をどうすれば保全できるかなどを、詳細に話していった。実際の攻撃をになうのはこちらの代理の蜘蛛族であり、それは手持ちの武器が乏《とぼ》しい人間たちにとって好都合なやり方でもある……。
そのレナルトのようすを、ブルーゲルはあっけにとられたように見ていた。彼女がこんなふうにしゃべるときはいつもそうだ。無感動で冷静なところは変わらず、冷血さではブルーゲルにひけをとらない。
エマージェント文明がフレンク星へ侵攻していったとき、アン・レナルトはまだ若かった。歴史が敗者の側から書かれるなら、その名前は伝説になっていただろう。フレンク星の正規軍が降伏したあとも、アン・レナルトの寄せ集めゲリラ部隊は何年も戦いつづけた――それも散発的な妨害程度ではなかった。ナウが見た情報局の評価資料によると、レナルトのせいで侵攻費用は三倍に膨《ふく》れあがった。はじめはばらばらだった抵抗運動を一本にまとめ、エマージェントの遠征軍を壊滅寸前まで追いつめたのだ。彼女の戦いが最終的に挫折したとき――まあ、そんな敵はさっさと殺すのがふつうだ。しかしアラン・ナウは、この敵のユニークな才能に目をつけた。
人を動かす能力を中心に集中化しようとしても、ふつうはうまくいかない。集中化本来の性質として、人事管理に必要な幅広い感受性を奪ってしまうからだ。しかし……レナルトは若く、頭がよく、指導者に絶対的に献身する精神をもっていた。その執拗な抵抗運動は、対象にどこまでも没頭する愚人の忠実さと、まさに相《あい》通じるところがあった。そんな彼女がもしうまく集中化されたら、どうなるか……。
アラン伯父の賭けは成功した。レナルトが受けた専門教育は古代文学だけだったが、たまたま身を投じた抵抗運動で最大限発揮されることになった才能――すなわち戦争や、破壊活動や、人を指揮する能力を、集中化はみごとにとりだしてみせた。アラン伯父はこの宝物を注意深く人目から遠ざけ、それから何十年かのあいだにたびたびその特殊能力を利用した。レナルトの伎倆《ぎりょう》のおかげで、アラン伯父は故郷の政権を支配する最強の領督に昇りつめたのだ。そして愛する甥への特別な贈り物として、レナルトはトマス・ナウにあたえられた……。
リッツァー・ブルーゲルのまえで認めたことはないが、じつはナウはレナルトの薄い青色の瞳を見て、迷信的な寒けを感じることがあった。アン・レナルトはその人生の百年間にわたって、集中化されていない自分にとって大切なものごとをすべて抑圧し、消し去ろうと努力してきた。彼女がもしナウを殺したいと思っているのなら、いつでも実行できる立場にある。しかしそこが集中化のすばらしいところであり、エマージェント文明の最強たるゆえんなのだが、集中化技術は対象の人間性を排してその能力だけをとりだせるのだ。ていねいな維持管理をつづけていれば、愚人の興味と忠誠心はどこまでも対象物と所有者にむけられる。
「よろしい、アン、その作戦はまかせる。期間は一年だ。最後の何キロ秒かには大型船を低高度軌道に降ろす必要があるだろうな」
「地上側の計画はうまくいくと思います」ブルーゲルがいった。「キンドレッド国を動かしているのは一人か二人です。こちらが牛耳るようになったらだれに命令すればいいか、最初からわかっている。対してアコード国のほうは――」
「そうだな。アコード国は自治組織がばらばらに各地をおさめている。この統治しない王政というのは、民主主義よりばかげたシステムだな」ナウは肩をすくめた。「まあ、それはくじ運のよしあしだ。こちらは実権を握れるほうをいただく。ケイバーリットがなければ、あと五年は待機させられたはずだ。もちろんそれまでには、アコード国は成熟したネットワークをもち、銃声一発響かせずにすべてを乗っ取ることが可能だったはずだ――対外的には、いまもわたしはそれを目標にしているのだがな」
ブルーゲルは身をのりだした。「そこがいちばんむずかしいところです。これから大量の蜘蛛族が揚《あ》げ物料理になり、なかでも連中がもっとも親近感をいだいている家族がメインディッシュとして供《きょう》されるのだと知れたら……」
「たしかにそうだ。しかしうまくしくめば、最終結果は不可避の悲劇であり、こちらが関与しなければもっとひどいことになっていたはずだ、という筋書きを演出できるだろう」
「ディエムのときより危うい綱渡りですよ。行商人の資源アクセス権を拡大されたのは、どうかと思いますが」
「それは避けて通れないのだ、リッツァー。連中の天才的な後方業務はどうしても利用したい。しかしネットワークすべてを連中に開放したわけではない。警備局の愚人による監視体制を強化しておけ。必要とあれば、重大な事故を起こさせてもいい」
ナウはちらりとレナルトのほうを見た。
「事故といえば……例の破壊活動説を支持する証拠はなにかみつかったのか?」
MRIクリニックでアン・レナルトが事故と思われる出来事で意識不明になってみつかってから、一年近くたった。この一年間に、敵の活動らしい痕跡はなにもなかった。もちろん、その出来事のまえにも証拠らしい証拠はなかったのだ。
しかしアン・レナルトは頑固だった。「だれかがわたしたちのシステムを操作しているのです、領督。ローカライザーも、愚人もです。その痕跡は広いパターンで拡散していて、はっきり言葉では表現できません。しかしそいつの動きはしだいに活発になっている……。もうすこしでその男の尻尾《しっぽ》をつかまえられます。そいつから記憶を消される直前とおなじように」
記憶が消えたのは自分の単純ミスが原因だという説明には、レナルトはけして納得しなかった。しかし彼女の集中化状態は、たしかに調整が狂っているのだ。ナウがいくら検査してもはっきりとはわからないが……。
〈〈疑心暗鬼になりすぎてもしかたない〉〉
その件については、ブルーゲルもレナルトの主張に賛成の立場をとりはじめているのだ。
「その男、というと?」ナウは訊いた。
「容疑者リストはご存じでしょう。まっさきに名前を挙《あ》げられるのはファム・トリンリ。ここ何年か、あいつはわたしの部下たちから根ほり葉ほり話を聞き出しています。またチェンホー製ローカライザーの秘密機能をわれわれに教えたのも、あの男です」
「しかしローカライザーについてはもう二十年も検査しているではないか」
レナルトはしかめ面になった。「部分を組みあわせたときのふるまいは、きわめて複雑なのです。物理レイヤにも問題がある。結論を出すにはあと三、四年かかるでしょう」
ナウはブルーゲルのほうをちらりと見た。「どう思う?」
副領督はにやりとした。「この話はとうに結論が出ているはずです。トリンリは使えるし、首根っこを押さえている。たしかに卑怯者《ひきょうもの》ですが、こっちに寝返った卑怯者ですから」
そのとおりだ。トリンリにとってはエマージェント側についたほうが得をする。その裏切りの過去をチェンホーの連中に知られたら、それ以上に窮地《きゅうち》に追いこまれるだろう。当直シフトごとにナウはあの老いぼれを試してきたが、いつも問題はなかった。そしてそのたびに利用価値が出てきた。考えてみると、トリンリはけっこう頭が切れた。それは逆にいえば、あの男にとってきわめて不利な証拠でもあるのだが。
〈〈まあ、あまり考えすぎてもしかたない〉〉
「では、こうしよう、リッツァー。いざとなったらトリンリとヴィンをいつでも消せるように、アンといっしょに仕掛けをつくれ。ジョー・シンはどんな場合でも生かしておかねばならないが――リタを押さえておけば、へんな真似はしないはずだ」
「キウィ・リゾレットはどうするんですか?」ブルーゲルはなにげない顔で訊いたが、腹のなかではにやにやしているはずだ。
「ああ。もちろんキウィは裏があることを嗅ぎつけるだろう。最終局面までには何度か精神洗浄が必要になるだろうな」しかしうまくいけば、最後の場面で利用価値があるはずだ。「とにかく、それらは特殊なケースだ。しかし、運が悪いとほかの者も真相を嗅ぎつけかねない。監視をおこたらず、なにかあったらすぐ鎮圧できる準備をしておくことが、もっとも重要だ」副領督にむかってうなずいた。「これからの一年は忙しくなるぞ。行商人は有能でよく働く連中だ。最後の動きがはじまるまでの準備期間中は仕事をさせたいし、そのあとも大半が必要になるだろう。気を緩《ゆる》められるのは乗っ取りをおこなっているさいちゅうだけだ。おそらくそのとき、連中はおとなしく見物していてくれるはずだ」
「そこでおもむろに、殺戮《さつりく》を最小限にとどめるためにわれわれがはらった涙ぐましい努力の物語をするわけですね」ブルーゲルはこれからの大仕事に期待して、笑みを浮かべた。「やりましょう」
彼らは計画の概要を組み立てた。あとの肉付けはレナルトとその戦略担当の愚人がやる。ブルーゲルのいうとおり、ディエムの虐殺事件より危ない綱渡りになるだろう。その一方で、こちらの嘘は乗っ取りまでばれなければそれでいいのだ。いったんアラクナ星を支配下におさめたら、あとは蜘蛛族からもチェンホーからも、いちばんおいしいところだけをいただき、残りは捨ててかまわない。
長い長い旅の終わりには、ひんやりとした楽園が待っているはずだ。
45
ふたたび暗期がやってきた。
アナービーは伝統的な価値観の重みをずっしりと肩に感じた。伝統主義者にとっては――深いところでは、アナービーはずっと伝統主義者だ――生のときと死のときは明瞭に分かれている。そしてそこにはいくつかの周期がある。なかでも最大の周期は、太陽の周期だ。
アナービーはその太陽の期間をこれまでに二度生きた。だからもう老いぼれだ。このまえ暗期が来たときは、まだ若かった。大戦争がつづいていたし、この国が生き延びられるかどうかもあやうかった。しかし今回はどうか。世界じゅうで散発的な小ぜりあいは起きているが、大きな戦争はない。もし戦争が起きていたら、責任の一部はアナービーにあるのだ。起きていないとしたら――まあ、それも一部には自分のおかげだと思いたかった。
どちらにしても、それらの周期は永遠に絶たれたのだ。
アナービーは外からドアをあけた伍長にうなずいて、霜《しも》でおおわれた敷石の上に降り立った。分厚いブーツをはき、胴カバーと袖《そで》をつけている。それでも手の先から寒さがしみこんでくるし、空気加温器を使っているのに気道がひりひりと痛む。
プリンストン市は防壁のように立ちはだかる山々のおかげで雪が少なく、また川ぞいに良港があるため、周期をへてもまた新たな都市がここに建設されてきた。しかし、いまは夏の午後遅くなのに――太陽の暗い円盤を探すにはひと苦労する。世界は穏やかな衰微《すいび》期をとうにすぎ、初暗期さえも終わっている。気温の急降下は目前だ。しだいに弱まってくる嵐が何度もめぐりながら、空中に残った最後の水分を搾りとっていく――そしてそのあとは一気に寒くなり、ついに静寂がやってくるのだ。
これまでの世代なら、兵士以外の住民はとうに冬眠穴にはいっている頃だ。大戦中だったこのまえの世代でも、これだけ暗期にはいってまだ戦っているのは、よほどタフなトンネル兵だけだった。ところが今回は――まあ、兵士は多い。ハランクナーも軍の護衛官を連れている。アンダーヒル家の周辺の警備員も、最近は軍服姿だ。しかし彼らは、最後のゴミあさりにやってくる連中を追いはらう管理人ではないのだ。プリンストン市は住民であふれていた。真新しい暗期用住宅はどれもたいへんな混雑だ。これほど過密な都市を、アナービーは見たことがなかった。
その雰囲気はどうか……。パニックに近い恐怖と、はめをはずした熱狂が、しばしばおなじ人物に同時に存在していた。ビジネスも景気がよかった。つい二日前には、プロスペリティ・ソフトウェア社が株式買収によってプリンストン銀行の経営権を握った。この買収によってプロスペリティ社の積立金は底をつき、ソフトウェア事業者が右も左もわからない金融業に進出するわけだ。狂気の沙汰《さた》というしかない――しかしそれは、この時代の雰囲気を如実《にょじつ》にあらわしていた。
アナービーの護衛官たちは、ヒルハウスの玄関前に集まった報道陣をかきわけはじめた。敷地のなかにもレポーターがいて、ヘリウム風船に吊った小型の四色カメラで獲物を待っている。
彼らはアナービーがだれか知らないのだが、護衛官の存在や、彼らのむかっている方向に反応して、集まってきた。
「ちょっとお話をうかがいたいんですが――」
「サウスランド国が先制攻撃をちらつかせているというのは――」
最後のレポーターは風船の紐を引っぱってカメラをアナービーの目のまえにもっていった。
アナービーは前手《ぜんしゅ》をあげて肩をすくめてみせた。「わたしにわかるわけがないでしょう。ただの軍曹ですからね」
たしかにアナービーはまだ[#「まだ」に傍点]軍曹なのだが、階級などもう無意味だった。軍には事務職員全体を指揮する階級のない軍人がいるが、アナービーもその一人なのだ。若い頃はそんな相手をとても意識し、王のように遠い存在だと思っていたのだが……自分がその立場になってみると、とてつもなく多忙な生活だった。こうして友人に会いにいくことさえ、殺人的なスケジュールとのバランスを考えて、分刻みで設定しなくてはならないのだ。
アナービーの主張にレポーターたちがつかのま足を止めたすきに、護衛官たちは道を切りひらいて、あがり口の階段を小走りに昇った。それでもやはり、まずいことをいってしまったかもしれなかった。背後でレポーターたちが集まって話しているようすが見えた。明日までにアナービーの名前は彼らのリストに載っているだろう。すこしまえまで、ヒルハウスは少々豪華な大学の別棟だと思われていたのだが、長年のうちにその隠れ蓑《みの》はすこしずつ剥《は》がされ、いまでは報道陣はシャケナー・アンダーヒルが何者かすべて知っていた。
防弾ガラスのドアをくぐると、その先にはもう侵入者はいなかった。急に静かになり、上着やゲートルが暑苦しく感じられた。防寒装備を脱いでいると、シャケナーとその介助虫《かいじょちゅう》が、レポーターたちから見えないように角《かど》のむこうに立っているのが見えた。むかしのシャケナーなら外まで迎えにきてくれたはずだ。ラジオで名前が知れわたっていた時期でも、なんのためらいもなく外まで出てきたものだ。しかしいまではスミスの護衛官が行く手をはばようになっている。
「やあ、シャケナー。やっと来たよ」
〈〈これまでも、呼ばれればかならず来たけどな〉〉
シャケナー・アンダーヒルは、何十年ものあいだ突拍子もないアイデアを次々と披露《ひろう》し、そのたびに世界を変えてきた。しかしそれは、すこしずつ変わりはじめている。五年前にカロリカ湾で、スミス将軍からそう打ち明けられた。そのあとも噂は流れてきた。シャケナーの研究活動は勢いを失っていた。彼の反重力研究は行き詰まっているようなのに、キンドレッド国のほうは浮揚衛星を打ち上げはじめているのだ!
「ありがとうございます、ハランク」シャケナーは短く、神経質そうな笑みを浮かべた。「あなたはもう町に着いたようだとジュニアがいっていたので――」
「ビキが? ここにいるのか?」
「そうですよ! 建物のどこかにいるはずです。そのうち出てくるでしょう」
シャケナーはアナービーとその護衛官たちを連れて廊下を歩きながら、ビキとほかの子どもたちのこと、ジャーリブの研究のこと、いちばん下の子どもたちの基礎訓練のことなどを切れ間なく話した。アナービーは子どもたちのようすを想像した。あの誘拐事件から十七年……それからずっと会っていないのだ。
廊下を歩いていく彼らはまるでキャラバンのようだった。介助虫がシャケナーを導き、シャケナーがアナービーを導き、護衛官たちはそのあとについていく。シャケナーは歩くうちにだんだん左にそれていき、それを介助虫のモビーが引き紐を軽くひっぱってまっすぐに修正する、というくりかえしだった。この横方向への運動不均衡は、精神的なものではない。身体《からだ》の震えとおなじく、末端神経の不調だ。大戦で受けた傷が、暗期の眠りにつかないせいで悪さをしはじめたのだ。近頃のシャケナーは外見も話し方も、ひと世代前の老人のようだった。
シャケナーはエレベータのまえで立ち止まった。アナービーは前回の訪問のことをよく憶えていなかった。
「よく見ていてください、ハランク……。九を押して、モビー」介助虫は長い毛むくじゃらの前脚をのばして、しばらく迷ったように空中をさまよわせたが、やがてエレベータのドアの9≠フところを押した。「虫に数字は覚えられないといいますが、モビーとわたしはそれに挑戦してるんですよ」
アナービーは取り巻きたちをエレベータの外に残し、二人と介助虫一匹で上へ昇っていった。シャケナーは緊張を解き、震えもすこしおさまったようだった。モビーの頭を軽くなで、引き紐はもうそれほど強く握っていなかった。
「内々の話があるんですよ、軍曹」
アナービーは視線を鋭くした。「おれの護衛官たちは最高機密の許可をもっているんだ、シャケナー。いままでどんなことでも――」
シャケナーは一本の手をあげた。天井の明かりを反射する目には、かつての天才的なひらめきが感じられた。「これは……ちょっとちがうんです。ずっとまえからあなたに教えたいと思っていたんですが、もはや切迫した情況になってきたので――」
エレベータが減速して止まり、ドアがひらいた。シャケナーは丘の上へ案内していった。
「いまはここに仕事場をおいているんです。もともとはジュニアの部屋だったんですが、入隊後に気前よく譲《ゆず》ってくれましてね!」
廊下は、かつては屋外だったところだ。たしか、子どもたちの小さな公園を見晴らす小径《こみち》だった。いまは分厚いガラスでかこまれ、大気がすべて雪になったあとも圧力に耐えられるようになっている。
モーターの回転音がして、ドアがひらいた。シャケナーは奥の部屋に友人を案内した。縦長の窓が市街を見おろしている。ビキはずいぶん立派な部屋をもっていたものだ。そこがいまは、シャケナーのがらくた置き場になっている。
隅のほうには、例の人形の家に改造されたロケット弾と、モビー用のベッドがある。しかしあとは、いくつものプロセッサ筐体《きょうたい》と超高画質ディスプレーで部屋は占領されていた。画面に映し出されているのはマウントロイヤル市の風景で、自然界で見るのとおなじくらい鮮やかな色彩だ。しかし、画像は非現実的だった。日陰になった森の谷に、格子縞色があらわれている。氷山が突き出して吹雪《ふぶき》になっている映像なのに、すべて溶岩の色になっている。頭がおかしくなったような画面……ばかばかしい映像呪術だ。アナービーは立ち止まり、その色調をしめした。
「たいしたものだが、色調整がうまくないようだな、シャケナー」
「いえ、ちゃんと色調節されているんですよ。ただ、その隠れた意味をまだ解読していないだけで」シャケナーはコンソールのまえにすわり、映像を見はじめた。「あはは、こりゃひどい色だな。もうすこししたら……。ところで、ハランクナー、いまの事態は予想よりはるかに悪くなってますね」
「予想もなにも、すべてが初めてなんだぞ」アナービーは腰をおろした。「ああ、たしかに事態は地獄へまっしぐらの様相だ。サウスランド国の件は最悪だな。連中は二百発近い核兵器と、その発射システムをもっている。先進国の軍備に追いつくためなら、財政破綻《はたん》も辞《じ》さない覚悟らしい」
「世界じゅうのみんなを殺すために、国を破産させるっていうんですか」
三十五年前のシャケナーなら、どういうことかちゃんとわかったはずだ。すくなくとも話の概要はわかっただろう。しかしいまは、なんともまぬけなことを訊き返している。
「そうじゃない」アナービーは講釈する口調でいった。「すくなくとも最初はそうじゃなかった。彼らは暗期にも活動できる工業と農業の基地をつくろうとしていた。しかし失敗した。いくつかの都市と軍隊を一、二個師団、維持できるくらいの設備は築いた。いまサウスランド国は、ほかの国々にとって五年くらい先にくるはずの寒さをすでに経験している。南極では乾燥ハリケーンが形成されつつあるんだ」
サウスランド国の居住環境はきびしい。明期のなかば頃でも、耕作できる期間は数年ほどしかないのだ。しかしその大陸は鉱物資源に富んでいる。五世代ほどまえから北の鉱業会社による資源開発がはじまり、世代を追うごとに乱開発がめだつようになった。しかしこの世代には主権国家が成立し、彼らは北と次の暗期をひどく恐れていた。
「彼らは一足飛びに原子力発電の技術を手にしようとしているが、すべての冬眠穴にエネルギーを供給できる見込みはまったくないんだ」アナービーはいった。
「そこヘキンドレッド国が、善意にみせかけた毒を吹きこんでいるわけですね」
「そうだ」
そういうことではペデュアは天才だ。暗殺、恫喝《どうかつ》、恐怖をあおる巧妙な宣伝。まったく悪事にたけたやつだ。そしてサウスランド政府はいまや、暗期に彼らを襲う計画を立てているのはアコード国だと思いこんでいる。
「ニュースでいわれていることは正しいんだ、シャケナー」アナービーはつづけた。「サウスランド国はわれわれを核攻撃してくるかもしれない」
アナービーはシャケナーのけばけばしいディスプレーのむこうを見やった。ここからはプリンストン市がよく見わたせる。いくつかの建物は――ヒルハウスとおなじように――空気が凝固《ぎょうこ》したあとも住めるようになっている。気圧をたもち、電源も確保している。都市の大部分は、すこしだけ地下へもぐった状態になっていた。アコード国のすべての都市をこんなふうに改造するために、すさまじい突貫《とっかん》工事を十五年間つづけたのだ。おかげでいまは、全国民が目覚めて文明生活をしながら暗期をすごせる態勢ができている。しかし地下都市といっても、地面からほんのすこしもぐっただけにすぎない。核戦争になったらあっというまに破滅だろう。
アナービーも力をそそいできた工業技術は、さまざまな奇跡を実現させてきた。
〈〈……しかし皮肉なことに、そのせいでいまは危険が増している〉〉
だから、もっと奇跡が必要なのだ。その不可能な要求になんとか応《こた》えようと、アナービーと何百万人もの仲間たちは努力していた。この三十日間、アナービーはいつも日に三時間しか寝ていなかった。なのにシャケナーとこうして無駄話をするために、予定されている会議を一件と、検査業務を一件すっぽかした。
〈〈おれがここへ来たのは、忠実さからだろうか、それとも……シャケナーが今度も自分たちを救ってくれると期待しているからだろうか〉〉
シャケナーは顔のまえで前手を尖塔《せんとう》のかたちにあわせた。「今回の事態の裏に……じつはなにかべつの存在があるのではと、疑ったことはありませんか?」
「どういうことだ、シャケナー。どんな存在だ?」
シャケナーは席の上で身体をささえて、低い声の早口で話しはじめた。「たとえば外の宇宙からきたエイリアンですよ。彼らは新生期よりまえからここにいるんです。暗期に見たでしょう、ハランクナー。空の光を。憶えてますか?」
話しつづけるその口調は、むかしのシャケナー・アンダーヒルとはまるで似ていなかった。
かつてのシャケナーは自分の奇抜なアイデアを、ちゃめっ気のある顔に挑戦的な笑いをまじえて語ったものだ。しかしいまの彼はひどい早口だ。まるでだれかにさえぎられるのを恐れているかのように……あるいは、反論されるのをか。いまのシャケナーはまるで……妄想にとりつかれ、切羽《せっぱ》つまった男のようだ。
シャケナーは客が関心を失っていることに気づいた。「わたしの話を信じないんですね、ハランク」
アナービーは席のなかに沈みこんだ。こんなばかげたアイデアのためにどれだけの資源が費やされたのだろう。異なる惑星――そしてそこに住む生命体というのは、シャケナーのアイデアのなかでもっとも古く、もっとも突拍子ないもののひとつだ。そんなものは暗い穴ぐらで眠っていればいいのに、いま頃目を覚ましてきたとは。スミス将軍の反応は想像がついた。アナービー以上に不愉快そうな顔をしただろう。世界が地獄に転がり落ちる寸前なのに、シャケナーのばかなアイデアなどにつきあっている暇はない。将軍は見むきもしなかったはずだ。
「映像呪術そのものだな、シャケナー」アナービーは答えた。
〈〈おまえはずっと奇跡を起こしてきた。その奇跡をもっと早く、もっと切実に起こしてほしいときなのに、いまのおまえは迷信まみれになっているのか〉〉
「いやいや、ハランク、映像呪術はたんなる手段ですよ。エイリアンに気づかれないための見せかけです。じゃあ、お見せしましょう!」シャケナーの手が穴《ホール》ボードを叩いていくと、映像がゆらめき、色値が変わりはじめた。ある風景は夏から冬のそれへ変わった。「すこし時間がかかります。転送速度が遅いのに、チャンネルのセットアップに大量の演算処理が必要なので」シャケナーの顔は、アナービーのところから見えない小さな画面に近づいた。いらいらして手の先でコンソールの角を叩いている。「だれよりあなたには知ってもらうべきなんですよ、ハランク。あなたはわたしたちのためにいろいろやってくれた。わたしたちが巻きこまなかったら、あなたはもっと仕事ができたはずです。でも将軍が――」
画面上では色がさらに変化し、風景は解像度の低い色の渦へと溶けていった。そうやって何秒かたった。 ふいにシャケナーが、驚きと悲しみのまじった声をあげた。
画面にあらわれた映像は、はじめより粗《あら》いものの、なにが映っているかははっきりわかった。
どうやら標準的な八色映像で、ランズコマンド市にあるビクトリー・スミスのオフィスを映しているらしい。画質はまあまあだが、肉眼で見るよりはもちろん粗いし、シャケナーの映像呪術用ディスプレーよりも劣《おと》る。
しかし、すくなくとも現実のものが映っていた。スミス将軍が机のむこうからこちらをじっと見ているのだ。机の両脇には書類が山積みだ。手をふって副官たちに席をはずさせると、シャケナーとアナービーを見つめた。
「シャケナー……ハランクナー・アナービーをその仕事場に呼んでいるようね」怒りをふくんだきつい口調だ。
「そうだけど、ただ――」
「このことについてはちゃんと話してあるはずよ、シャケナー。あなたは自分のおもちゃで好きなように遊んでいいけど、現実の仕事をやっているまわりの友人たちをじゃましないでちょうだい」
将軍がそんな口調でそんな皮肉をシャケナーにいうところを、アナービーは初めて聞いた。いくらしかたないこととはいえ、目撃したい場面ではなかった。
シャケナーはなにか反論したそうだった。席の上で身をよじり、腕をばたばたと動かし、懇願《こんがん》するようにしている。しかし結局、こういっただけだった。
「わかったよ」
スミス将軍はうなずいて、アナービーのほうに手をふった。「迷惑をかけてごめんなさい、軍曹。スケジュールどおりの仕事にもどるのになにか手助けが必要なら……」
「ありがとうございます、将軍。お願いしたほうがいいかもしれません。とりあえず空港へ行って、それからなんとか司令部へもどります」
「わかったわ」ランズコマンド市からの映像は消えた。
シャケナーは深くうなだれ、とうとう頭がコンソールについた。腕も脚も内側に引っこめ、じっと動かなくなった。介助虫がわきへやってきて、もの問いたげに軽く押した。
アナービーはそちらへ近づき、小さく声をかけた。「シャケナー。だいじょうぶか?」
シャケナーはしばらく黙りこくっていたが、やがて顔をあげた。「だいじょうぶですよ。すみません、ハランク」
「おれは、その……行かなくてはならないんだ。会議があるんでな――」
かならずしも本当ではない。会議も検査もとうに時問をすぎてしまっている。とはいえ、ほかにも山ほど予定が詰まっているのはたしかなのだ。スミスがなにか手配してくれれば、すぐにプリンストン市をあとにしてスケジュールに追いつけるだろう。
シャケナーはしょんぼりして席からおりると、モビーに導かれるままにアナービーのあとを歩きはじめた。重々《おもおも》しいドアがひらいたとき、シャケナーは一本の前手をのばして、軍曹の袖をそっと引っぱった。まだなにかおかしなものを見せたいのか?
「けしてあきらめないでください、ハランク。かならず解決策はある。いままでもそうだったようにね」
アナービーはうなずき、謝る言葉をいくつかつぶやいて、部屋をあとにした。ガラス張りの廊下をエレベータのほうへ歩いていくあいだ、シャケナーはモビーといっしょに仕事場のドアのまえに立ったままだった。むかしのシャケナーなら玄関まで送ったものだ。しかし、おたがいの関係が以前とは変わってしまったことをさとったのだろう。エレベータのドアがアナービーの背後でしまる直前に、かつての友人は控えめに手をふった。
そして、エレベータはくだりはじめた。アナービーはしばし怒りと悲しみの淵《ふち》に沈んだ。これほど異なる感情がいっしょになるものだとは、不思議だ。シャケナーについて噂は聞いていたし、それを信じたくはなかった。シャケナーとおなじように、アナービーもまた信じたいものだけを信じて、それに反する現象は無視したいという気持ちをもっている。しかしシャケナーとはちがって、自分たちのおかれた情況の厳然《げんぜん》たる真実を無視することはできなかった。とにかくこの最大の危機的情況に、シャケナー・アンダーヒルの力を頼まずに立ちむかわねばならないわけだ……。
アナービーはシャケナーのことを考えるのをやめた。今日以外のいい思い出だけを頭に浮かべられる日も、いつか来るだろう。とにかくいまは……プリンストン市を発《た》つジェット機を徴用できれば、すぐにランズコマンド市にもどって副官たちと話せるだろう。
むかしの子どもたちの遊び場の階あたりで、エレベータが減速しはじめた。これはシャケナーの専用エレベータではなかったのか。だれなのか……。
ドアがひらいて――
「あら、アナービー軍曹! ごいっしょしてよろしいですか?」
補給部将校の軍服を着た、若い女性の少尉だ。ずっとむかしのビクトリー・スミスの姿そのものだ。顔だちはおなじように明るく、動作も優雅できびきびしている。しばらくアナービーは、ドアのむこうにあらわれた亡霊をあっけにとられて見ていた。
亡霊はさらにエレベータのなかに乗りこんできたので、アナービーは呆然《ぼうぜん》としたまま、思わずうしろに退《さ》がった。ふいに、相手の軍人らしい身ごなしが消えた。少尉は恥ずかしそうに顔をさげた。
「ハランクおじさん。わかりませんか? ビキです。大人になった……」
そうだ、あたりまえだ。アナービーは弱々しく笑った。「も……もう、リトル・ビクトリーとは呼べないな」
ビキは愛情をこめて二本の腕を彼の肩にかけた。「いいえ、そう呼んでくださっていいんです。それより、わたしのほうこそあなたに命令を出せるとは思えない。今日あなたが見えるとパパから聞いてたんですが……。もう会いました? 話は?」
エレベータは玄関ホールに近づいて減速しはじめた。「それは……ああ、会ったよ……。じつは、急いでランズコマンド市へもどらなくてはならないんだ」
上階《うえ》で見たもののせいで頭が混乱していて、ビキになにか不用意なことをいってしまいそうだった。
「ちょうどいいわ。わたしも急いでいるところなので、空港までいっしょの車に乗っていきましょう」にやりとした。「護衛も倍になっていいでしょう」
少尉が護衛任務を命じられることはあるが、少尉が護衛の対象になることはめったにない。ビキが連れている護衛官は、数の上ではアナービーの半分くらいだったが、見たところではもっと優秀そうだった。数人は退役軍人らしい。運転手のうしろのいちばん高い座席にすわっているやつは、軍隊でもめったに見られないほどの大男だ。二人が車に乗りこむと、大男はアナービーに奇妙な敬礼をした。軍隊式ではない。なんだ、ブレントじゃないか!
「それで、パパからはどんな話をされたんですか?」
ビキは軽い口調で訊いてきたが、アナービーには不安そうな響きがわかった。ビキは感情を完璧に抑えられる情報将校ではないのだ。それは欠点かもしれないが、アナービーは彼女を幼眼《ようがん》の頃から知っているのだ。
しかしそのために、アナービーはよけいに本当のことを話しにくかった。「ビキ、シャケナーはもうもとのシャケナーじゃないな。奇怪なエイリアンの妄想と映像呪術にどっぷり漬かっている。将軍にたしなめられてようやく黙ったんだ」
ビキは黙りこみ、腕を引きつけて怒りの身ぶりをした。アナービーははじめ、自分に対して怒っているのかと思ったが、しばらくしてビキは、「しかたないわね」と小さくつぶやいた。そしてため息をつき、黙ってしばらく車に揺られた。
地上の道路を使うのは近隣の地区へ用がある者だけなので、交通はまばらだった。街灯が青と紫外色の丸い光の水たまりをつくり、側溝《そっこう》や建物の外壁をおおう霜を照らしている。建物から洩れてくる光は霧氷《むひょう》を輝かせ、氷の上に雪苔《ゆきごけ》がはえているところは緑色に見える。壁には水晶虫《すいしょうちゅう》が無数にこびりつき、わずかな熱を求めて触手がたえまなく動いている。このプリンストン市では野生の生命体も最暗期近くまで生き延びるかもしれない。都市のまわりと地下は暖かく、成長できるのだ。これらの壁のむこうや地面の下は、プリンストン市史上例がないほどの繁栄をみているのだ。ビジネス街の新しいビルは一万枚もの窓をもち、ありあまるエネルギーを使った光の帯をまわりの古い建物に投げかけている……。それでもちょっとした核攻撃で、全員がお陀仏《だぶつ》のはずだが。
ビキはアナービーの肩にふれた。「残念だわ……パパのことは」
シャケナーがどこまでひどい深みに落ちこんでいるか、彼女はアナービーよりもよく知っているはずだ。「いったいいつからあんな状態なんだ? 宇宙の怪物という仮説は昔も聞いた気がするが、本気ではなかったはずだ」
ビキは答えにくそうに肩をすくめた。「……映像呪術に凝《こ》りはじめたのは、誘拐事件のあとなんです」
〈〈そんなにむかしから?〉〉
たしかに当時シャケナーは、どんなに科学や論理の力に頼っても、子どもたちは救えないとわかって絶望していた、あのときすでに狂気の種は蒔《ま》かれていたということか。
「わかった、ビキ。将軍のいうとおりだ。重要なのは、シャケナーのたわごとが外部に洩れないようにすることだ。きみのお父さんはいまも大衆から愛され、尊敬されている――」自分もその大衆の一人だ。「――だれもこんなくだらない仮説は信じないだろうが、それでも何人かがシャケナーを手助けし、資源を流用し、彼の考える実験をやろうとするかもしれない。しかし、いまはそんなことをやっている余裕はないんだ」
「もちろんそうですね」
しかしビキの声にはわずかなためらいがあり、手の先がまっすぐのびていた。アナービーが子どもの頃から彼女を知っているのでなければ気づかなかったかもしれないが、ビキはなにか隠していることがあって、嘘をつかねばならないことを気まずく思っているようだった。罪のない小さな嘘は上手な子だったが、罪悪感があるときはそうではないのだ。
「将軍はシャケナ・を甘やかしているのか? いまもまだ?」
「……べつにたいしたことじゃないんです。一部の帯域とか、プロセッサの使用時間とか」
プロセッサの使用時間? それはアンダーヒル家の卓上マシンのことか、それとも情報局のスーパーアレイ処理装置のことか。まあ、気にするだけ無駄かもしれない。シャケナーについての話が外部にあまり洩れてこないのは、たんに将軍がそうやって、夫が重要なプロジェクトのじゃまにならないよう遠ざけているからかもしれない。そういう意味では、ビクトリー・スミスもあわれだ。彼女にとってシャケナーを失うのは片脚をもがれるようなものだろう。
「わかったよ」
シャケナーがどれだけ資源を浪費していようと、ハランクナー・アナービーにどうこうできることではない、兵士はあたえられた職務をがむしゃらにやるのが、いまはいちばんかもしれない。アナービーはビキの軍服をちらりと見た。名札は反対側の襟《えり》についているので見えないが、それはビクトリー・スミス≠ノなっているのか(それではたちまち上官の注意を惹《ひ》いてしまうだろう!)、それともビクトリー・アンダーヒル=Aあるいはほかの名前になっているのか。
「ところで少尉、軍隊生活はどうだね?」
ビキは話題が変わって、ほっとしたらしく、笑みを浮かべた。「とてもやりがいがあります、軍曹」礼儀正しい口調になった。「充実した時間を送っているといっていいでしょう。基礎訓練は――まあ、説明するまでもないでしょう。あなたのような軍曹のおかげで、とてもすばらしい′o験ができました。でも自信がつきました。まわりの新兵はほとんどが正常な生まれで、何歳も年上なのに、わたしもちゃんと基礎訓練を終えられましたから。あはは。まあまあよくやれたほうだと思うってます。そしていまは――まあ、ごらんのとおり、平均的な初任務とはちがっていますね」
ビキは手をふって、車やまわりの護衛官たちをしめした。
「ブレントはいま先任曹長で、おなじ部署で働いています。ラプサとリトル・ハランクは、最終的には士官学校を出るでしょうけど、いまは新米《しんまい》の下士官です。空港で会えますよ」
「みんないっしょの部署なのか?」アナービーは驚きを抑えきれなかった。
「そうです。ひとつのチームとしてやっています。将軍が急いで査察《ささつ》をおこないたいと思い、そのさいに絶対信頼のおける査察官が必要なときは――わたしたち四人が派遣されるんです」
ジャーリブをのぞく、生き残った子どもたち全員というわけだ。暗い気持ちになっていたアナービーは、意外な事実に驚いた。スミスの血縁者からなる部隊が最高機密事項をのぞける立場にあると知ったら、参謀やほかの将校たちはどう思うだろうか。しかし……ハランクナー・アナービー自身も情報局に深くかかわっていた時期があった。かつてのストラット・グリーンバル将軍も、そんなふうにかなり自由に裁量していたものだ。情報局長官には王から特権があたえられているのだ。情報局の中間管理職レベルではばかげた伝統だと思われているのだが、ビクトリー・スミスが自分の家族からなる査察チームを必要だと考えたのならたぶん必要なのだろう。
プリンストン市の空港は大混雑していた。定期便も企業のチャーター便も増発され、建設も突貫工事でおこなわれている。しかし混雑いかんにかかわらず、スミス将軍は押さえるべきものを押さえていた――アナービーの乗るジェット機はちゃんと待機していた。ビキの車は軍用エリアまで空港内を走ることを許されており、地上走行する飛行機の翼の下をくぐりながら、指定された車線を慎重に走っていった。車線は工事によって寸断され、百フィートごとにクレーターのように大きな穴があいている。今年じゅうにはすべての空港業務が屋外に出なくてもできるようになるはずだ。最終的にはすべての施設が、新しい種類の飛行機と、空気も凍るほどの寒さに対応できるようになる。
ビキはアナービーのジェット機のわきに車をよせさせた。ビキ自身が今夜どこへ行く予定かは話さなかったが、アナービーはそのことを好ましく思った。奇妙な立場で任務についているとはいえ、口をとじておくべきところは心得ているようだ。
ビキは厳寒《げんかん》の車外へ出てアナービーを送った。風はないので、アナービーはあえて空気加温器なしで外へ出てみた。息を吸うごとに苦しい。あまりの寒さに、露出した関節のまわりに白い霧ができるほどだ。
ビキは若くて強いのか、まったく平気だ。ジェット機までの三十ヤードを歩きながら、のべつまくなしにしゃべっている。今回の訪問が最初からこんなふうに暗い予感におおわれていなかったら、ビキとの再会を心から楽しめただろう。時期はずれであるにもかかわらず、母親そっくりの健康な美人に育った。そして母親のきつい性格は、シャケナーの血のおかげでやわらいでいる――いや、じつは時期はずれであるおかげでやわらいでいるのかもしれない。そう思って、アナービーは思わず滑走路の途中で足を止めた。しかし、たしかにビキはふつうではない人生を歩み、新しい角度からものごとを見てきた。おかしな話だが、ビキを見ていると未来への不安が薄らいでいくようだった。
ジェット機の下にある暖房シェルターに着くと、ビキはわきにどいて、さっと敬礼した。アナービーも敬礼を返しながら、その名札に目をやった。
「変わった名前だな、少尉。職業名でもなく、むかしの冬眠穴の名前でもなく、これは――?」
「わたしの両親はどちらも鍛冶屋《スミス》≠ナはありませんし、父の先祖がどこの|丘の下《アンダーヒル》≠ゥら登ってきたのかもわかりません。でも、ほら、うしろを見てください」ビキはしめした。
アナービーの背後は平坦《へいたん》な滑走路と工事現場が、何百ヤードもむこうの空港ターミナルまでつづいている。しかしビキがしめしているのはもっと上――川ぞいの平地よりずっと高いところだった。輝く高層ビルから丘のふもとの住宅地まで、プリンストン市街の光が地平線にそって弧を描くように広がっている。
「右後方約五度のところにある無線塔です。ここからでも見えますよ」
ビキがさしているのは、ヒルハウスだった。その方向ではいちばん明るく、現代の蛍光灯が放つすべての色をふくんだ光の塔だ。
「パパの設計はとてもよく考えられています。いままでほとんど改築の必要がなかったくらいです。空気が凍ったあとでも、あの光は丘の上で輝いているでしょう。パパはよくいっています――地下へ、内側へこもるのもいい。しかし高いところに登って大きく手をあげるのもいいんじゃないかな、と。あそこで子ども時代をすごせてよかったと思うので、あの場所を名前にしたんです」
ビキが名札をすこしもちあげると、空港の照明がきらりと反射した――ビクトリー・ライトヒル少尉=u心配いりませんよ、軍曹。あなたとパパとママがはじめたことは、ずっとつづいていくはずです」
46
ベルガ・アンダータウンは、ランズコマンド市にいくらか辟易《へきえき》していた。人生の一割近くをここですごしているような気がする――電話をいつも長時間使用していなかったら、もっとそんな気がしたにちがいない。アンダータウン大佐が国内情報局のトップの座についたのは六〇//一五年。明期の半分以上むかしだ。明期の終わりが血なまぐさい戦争のはじまりだというのは――すくなくとも現代においては――周知のことだったが、ここまでひどくなるとは予想していなかった。
アンダータウンはすこし早めに参謀会議の部屋にはいった。今日、自分がいうつもりのことを考えて、やや緊張していた。上官に逆らうつもりはけしてないのだが、今日の訴えはそのように見えるだろう。
会議室にはラヒナー・トラクトが先に来ていて、提示する資料を整理していた。うしろの壁には、粒子の粗《あら》い十色の偵察衛星写真が映し出されている。またサウスランド国の新たな、ミサイル発射場を発見したらしいアコード国の背信行為の犠牲となる危険がある国≠ノ、キンドレッド国が支援をしている証拠だ。アンダータウンが副官たちといっしょに腰をおろすと、トラクトは如才《じょさい》なく会釈した。
国外情報局と国内情報局とのあいだにはいつも軋礫《あつれき》があった。国内ではとても許されないような荒っぽいやり方を、国外情報局の連中は平気でやるし、なにかあるとすぐちょっかいを出してくる。とくにここ数年、トラクトとアンダータウンの関係は険悪になっていた。トラクトがサウスランド国でへまをやらかしてからあとは、すこしはやりやすくなっていたが。
〈〈まったく、世界の終わりがもたらす優位性も短期的なものでしかないなんてね〉〉アンダータウンは苦々《にがにが》しく考えた。
議題の一覧を眺めた。いやはや、面倒な内容ばかりならんでいる。いや、そうでもないか。
「この高々度における未確認物体というのは、どう思う、ラヒナー?」議論をふっかけるような問いではない。防空問題はトラクトの担当だ。
トラクトは不快なものを追いはらうように手をふった。「防空局は大騒ぎしてますが、実際には三回目撃されただけですよ――しかもただの目撃≠セ。キンドレッド国が反重力技術をもっていることはとうにわかっているのに、いまだに連中を追尾することさえまともにできていない。それを棚にあげて、防空局長は、キンドレッド国が未知の発射場をもっていると主張しはじめている。きっと司令官は、なんとしてもそれをみつけうと、こちらに仕事を押しつけてくるはずだ……。冗談じゃない!」
最後のひと言がすべてを要約しているのか、自分の口調に不適切な響きがふくまれていることにやっと気づいたのか、アンダータウンにはよくわからなかったが、とにかくトラクトはそれっきり黙りこんだ。
ほかの出席者が三々五々集まってきた。防空局長のダグウェイ(ラヒナー・トラクトからいちばん遠い席にすわった)、ロケット攻撃局長、渉外《しょうがい》局長。そして司令官が姿をあらわし、そのすぐあとから国王直属の財務相がはいってきた。
スミスは開会を宣言して、財務相の出席を歓迎する言葉を述べた。かたちの上では、ニジニモル大臣の上に立つのは国王だけなのだ。しかし実際には、アンバードン・ニジニモルはスミスの旧《ふる》い友人だった。
最初の議題は未確認物体の件で、議論の流れはトラクトが予想したとおりになった。防空局は三回の目撃データについてさらに分析をすすめた。最新のコンピュータ解析によれば、キンドレッド国の衛星であることはまちがいなく、短期間の偵察か、あるいは反重力ミサイルの制御試験をおこなったものと考えられる。どちらにしても、どれもその後は姿をあらわしていない。また、いままで知られているキンドレッド国の発射場から打ち上げられたものでもない。キンドレッド国領内をもっと詳細に偵察する必要があると、防空局長は強調した。もし敵が移動式の打ち上げ施設をもっているのなら、詳しく知らねばならない……。
国外情報局がまたへまをしたかのようないい方をされて、トラクトがいまにも爆発するのではないかと思いながら、アンダータウンは見守っていた。しかしラヒナー・トラクト大佐は防空局長の皮肉を黙って聞き流し、予期されたスミス将軍の命令を冷静に受けいれた。じつは、トラクトにとってこのくらいはまだ序の口だった。彼が本当に恐れているのは、今日の最後の議題なのだ。
次は渉外局長が提出する議題だ。「残念ながら、戦争の是非を問う国民投票の実施は無理ですし、是という結果が出るのはさらに望み薄です。国民はいままでになく恐怖感をもっていますから。そもそも、時間の問題から国民投票は不可能でもあります」
アンダータウンはうなずいた。渉外局の宣伝屋からわざわざ教えてもらうまでもないことだ。
王府はもともと専制的な性格をもっている。しかし十九世代前に結ばれた協和《アコード》契約によって、その行政権限は大幅に制限された。王家は、ランズコマンド市のような先祖伝来の土地の所有権や、限定的な徴税権は確保したが、通貨発行権や、財産収用権や、徴兵権は失った。平時《へいじ》には、協和契約はうまく機能した。裁判所は手数料をとって運営されたし、軍がにらみをきかせるので地方警察組織もあまり勝手なことはできなかった。しかし戦時には、じつは国民投票が必要だった。つまり、協和契約を一時停止することを決めなくてはならないのだ。先の大戦ではかろうじてうまくいった。しかし今回はあまりにも展開が急だ。国民投票という言葉を口にしただけで開戦のきっかけになりかねない。そして大規模な核兵器の応酬は、一日もかからずに終わるのだ。
スミス将軍はその平凡な報告を、かなりの忍耐力で了承した。
そのあとはアンダータウンの番で、国内のいつもの諸問題について述べていった。全体としてはまあまあ落ち着いた状態にある。現代化を憎悪する少数派グループがいくつかあって、一部はすでに冬眠穴で眠りについており、問題ではなくなっていた。しかし地下の砦《とりで》にこもっているものの、眠ってはいないグループもいて、情勢が悪くなったときに問題になりそうだった。
ハランクナー・アナービーの獅子奮迅《ししふんじん》の努力のおかげで、北西部の古い町にもいまや原子力発電所があり――おなじくらい重要な耐候構造になった生活空間がある。
「しかしもちろん、それらのほとんどは頑丈な構造ではありません。簡単な核攻撃でも多くの住人が犠牲になり、生存者にも冬眠にはいれるだけの資源はないでしょう」ほとんどの資源は発電所と地下農場建設に使われてしまったのだ。
スミス将軍はほかの参謀たちに身ぶりをした。「意見は?」
いくつかあった。渉外局長は、シェルター設備をもつ企業の株主になってはどうかと提案した。こいつはすでに世界の破滅後の計画を立てているのだ。卑怯《ひきよう》な弱虫め。
司令官はうなずいただけで、アンダータウンと弱虫にそれぞれ可能性を探るようにと命じた。そして国内情報局の報告書を議題の山からどけた。
「将軍?」ベルガ・アンダータウンは手をあげた。「もうひとつお話ししたいことがあるのですが」
「どうぞ」
アンダータウンはそわそわと食手《しょくしゅ》で口もとをこすった。さあ、いよいよだ。財務相などいなければいいものを。
「その――これまで将軍は、部下の活動についてかなり寛容な態度をとってこられました。わたしたちに仕事をあたえ、その仕事ぶりを見守ってくださる。そのことはとてもありがたく思っています。ただ最近――ご自身はあまりご存じないと思いますが――将軍の側近《そっきん》グループに属する数人のスタッフが、わたしの受けもち領域である国内の基地に、しばしば予定外の訪問をしているのです」――というより、深夜の押しこみ強盗といったほうが近い。
スミス将軍はうなずいた。「ライトヒルのチームね」
「そうです」
〈〈あなたのお子さんたちが、まるで国王直属の査察《ささつ》官のような顔をして走りまわっているんですよ!〉〉アンダータウンは思った。
彼らは、順調に進んでいるプロジェクトを中止させたり、優秀な人材を配置転換したり、勝手で筋のとおらない要求ばかりするのだ。それ以上に、司令官の頭のおかしい夫がまだ隠然たる影響力をもっているのではないかという疑いがあるのだ。
アンダータウンは席に腰をおろした。これ以上いうことはない。こちらが怒っていることは、ビクトリー・スミスはよくわかるはずだ。
「それらの抜き打ち査察で、ライトヒルは重要なことを発見したの?」
「一度だけは」その問題についていえば、アンダータウンが当事者であったら十日間は自分を責めなくてはならないほど深刻だった。
テーブルのまわりを眺めると、ほとんどの出席者はその訴えに単純に驚いていた。二人はアンダータウンにむかってかすかにうなずいているが、その二人が同調するだろうことは最初からわかっていた。トラクトは怒ったようすでテーブルをこつこつと叩いている。この議論に参加したくてしかたないようすだ。当然ながら、彼も司令官の縁故者チームの標的にされたことがあるのだろう。しかし……。
〈〈お願いだから、その口をとじておくだけの賢明さをもっていてね〉〉
いまのトラクトはひどく弱い立場にあるので、そんなやつから支持してもらっても、登山競争者が鉄床《かなとこ》のお土産をもたされるようなもので、なんの助けにもならないのだ。
司令官は首をかしげてほかの意見をしばらく待ったあと、ようやく話しだした。「アンダータウン大佐、そのことがあなたの部下の士気《しき》を低下させるのはわかっているわ。でもいまはきわめてあやうい情勢下にある。戦争をやっているより危険なのよ。わたしには即座に動けて、完全に理解できている特別な部下が必要なの。ライトヒルのチームはわたしが直接指揮している。もし彼らの行動が一線をはみだすようであれば、そう報告してくれていいわ。でもそれ以外では、彼らに委任された権限を尊重してほしい」
司令官の口調は心から残念そうだが、言葉は断固としていた。スミスは何十年もつづけてきた方針を変えつつあるのだ。将軍は自分の子どもたちのやっていることをすべて把握しているのだと、アンダータウンはようやく気づいた。
財務相はここまでずっと退屈そうなようすをしていた。アンバードン・ニジニモルは大戦時の英雄だ。シャケナー・アンダーヒルとともに暗期の地上を歩いたのだ。しかし会ってみると、とてもそんなふうには見えない。彼女はこの世代の数十年をずっと、むこう側≠ニも称される王府ですごし、宮廷政治家や調停官として出世してきた。服装も動作もただの老いぼれだ。背が高く痩《や》せた身体《からだ》つきは、戯画《ぎが》的に描かれた財務相のイメージそのものだ。その彼女が身をのりだし、外見とおなじくらいに弱々しいかすれ声で話しはじめた。
「この話はあまりわたしの領分ではないようだけれども、すこしいわせてもらいましょう。国民投票は無理といっても、戦争はもう避けられません。国内から王府まで、すっかり戦争準備に動いています。通常の上訴《じょうそ》や再審理手続きは停止されているのですよ。このような非常事態に忘れてはならないのは、わたしや、もっと重要な国王は、スミス将軍の指導力に万全の信頼をおいているということです。情報局長官が特別な権限をもっていることは、いまさらいうまでもないでしょう。これは時代遅れの伝統ではないのです、みなさん。熟慮の上で国王がとられた政策であり、納得していただかなくてはならない」
これは驚いた。どこが弱々しい″燒ア相か。テーブルのまわりではだれもがまじめな顔でうなずき、反論の声はあがらなかった。ましてベルガ・アンダータウンに言葉はない。しかしこれだけぐうの音も出ないほどやりこめられると、かえってすがすがしかった。たとえ地獄へまっしぐらの道だとしても、この運転手に命運を託す覚悟ができたからだ。
しばらくして、スミス将軍はもとの予定にもどった。「……残りの議題はひとつだけね。いまもっとも深刻な問題でもあるわ。トラクト大佐、サウスランド国の情況を説明してちょうだい」相手を気づかう口調で、ほとんど同情的ですらあるが、それでもあわれなトラクトの苦しい立場は変わりなかった。
しかしトラクトは芯《しん》の強いところを見せ、さっと立ちあがって演壇へ歩いていった。「大臣、将軍」ニジニモルと司令官にむかって挨拶《あいさつ》した。「この十五時間の情況はおおむね安定していたと思います」
会議前にアンダータウンが見た偵察衛星写真を、トラクトはしめした。サウスランド国のほとんどは渦巻き状の雲におおわれているが、発射場は乾燥山地にあるので、大半が見えていた。トラクトはキーを叩いて画像を送りながら、敵の補給情況を説明した。
「サウスランド国の長距離ロケットが使っているのは液体燃料で、きわめて不安定な代物《しろもの》です。ここ数日、彼らの議会はきわめて好戦的な態度をとっており、共存をめざしての最後|通牒《つうちよう》≠ネどを突きつけてきていますが、実際には発射できる状態のロケットは全体の十分の一にも充《み》たないはずです。すべてのロケットを燃料満タンにするには、三、四日はかかるでしょう」
アンダータウンは訊いた。「ずいぶん愚かしいやり方に思えるけど」
トラクトはうなずいた。「ただ、彼らの議会制という政治形態は、われわれやキンドレッド国より意思決定が遅れがちなんですよ。そして国民は、いま戦わなければ冬眠中にみんな虐殺《ぎゃくさつ》されると思っている。最後通牒を突きつける時期がおかしいと思えるかもしれませんが、もしかするとそれは、議会内の一部の会派が開戦の予感をあおりたて、対立する会派を黙らせるためにとった方策かもしれない」
防空局長がいった。「では、ロケットへの給油が完了するまで開戦はありえないということかな?」
「そうです。どちらか決まるのは、サウスモースト市で議会が開催される四日後でしょう。そこで彼らは、最後通牒に対するわれわれの反応――もし反応するのなら――を検討することになっています」
渉外局の弱虫が訊いた。「彼らの要求をのむということはできないのですか? べつに領土を要求されているわけではないでしょう。こちらは大国なのですから、すこしくらい譲歩しても威信は傷つかないと思いますが」
テーブルのあちこちで怒りのつぶやき声が洩れた。スミス将軍は穏やかすぎると思えるくらいの態度で答えた。
「残念ながら、これは威信の問題ではないのよ。サウスランド国の最後通牒は、こちらがいくつかの軍備を削減するよう求めている。でもそれは、冬眠穴で眠るサウスランド国民の安全性を高める役には立たない。むしろキンドレッド国の先制攻撃に対するわたしたちの防備を弱めるだけよ」
ロケット攻撃局長のチェズニー・ニューデプがいった。「そのとおりです。いまやサウスランド国政府はキンドレッド国の傀儡《かいらい》にすぎない。ペデュアと吸血鬼どもはさぞかしいい気分でしょう。どちらにころんでも、やつらにとっては勝利とおなじなんだから」
「そうではないかもしれませんよ」ニジニモル大臣がいった。「サウスランド国の政府高官は何人も知っているけれども、彼らは邪悪ではないし、頭もおかしくはない。無能でもないわ。ここはようするに、信頼の問題でしょう。国王は、次のサウスランド議会の開催にあわせてサウスモースト市を訪問し、期間中ずっと滞在することを考えていらっしゃいます。わが国の立場からみてこれは最大級の信頼の表現でしょう。そしてペデュアの考えはどうあれ、サウスランド国はその信頼を受けいれてくれるはずです」
もちろん、それこそが国王の仕事なのだ。とはいえ、大臣の提案はやはり衝撃的だった。大量破壊者≠フ異名《いみょう》をとるニューデプも、さすがに驚いたようだった。
「将軍……そのような場合に国王の力が有効なのは認めますが、今回のことが信頼の問題であるという点では異論があります。たしかに南には尊敬できる人物がいますし、一年前までサウスランド国は同盟国とさえいってよかった。こちらの政府にもシンパは多い。トラクト大佐がいうように、こちらはむこうの政権内に――ありていにいえば――スパイを確保していました。そうでなければ、スミス将軍もサウスランド国の技術的成長を支援したりしなかったでしょう……。しかしわずか一年のあいだに、南の政府におけるこちらの足がかりは失われた。いまはすっかりキンドレッド国の影響に染まっています。議会の多くが尊敬できる人物で構成されていようと、もはや関係ないのです!」ニューデプは二本の腕をトラクトのほうにさっと伸ばした。「大佐、あなたの意見は?」
はじまった。責任のなすりつけあいだ。最近の参謀会議では恒例になっており、そのたびにトラクトは標的にされていた。
トラクトは大量破壊者のほうに軽くお辞儀をした。「局長の分析はおおむね正確ですが、わたし自身は、サウスランド国のロケット部隊にキンドレッド国のスパイがそれほど深く潜入していたとはみていません。南の政府は友好的でしたし――これは断言しますが、アコード国のスパイが慎重に操作して≠「たのです。キンドレッド国も活動していましたが、われわれはちゃんと妨害していました。ところが、そこからすこしずつ退却がつづいたのです。調査活動の失敗にはじまって、死亡事故、阻止できなかった暗殺、最後は捏造《ねつぞう》された刑事事件など……。敵は狡猾《こうかつ》なのです」
「ペデュア師はわれわれの理解のおよばない天才的策士だということかね?」防空局長が皮肉たっぷりの口調でいった。
トラクトは食手をもみしだくようにしながら、しばらく黙りこんだ。以前のトラクトなら、数字や新しいプロジェクトを挙《あ》げて反論したものだが、いまの彼は――なにかが内側で壊れてしまったようだった。司令官の子どもたちが誘拐された事件以来、ベルガ・アンダータウンはトラクトを組織上の敵とみなしていたのだが、いまは困惑するしかなかった。ようやく話しはじめたトラクトの声は、苦悩で裏返っていた。
「いいえ! ご存じないでしょうが、わたしは……何人もの友人を死なせてしまったのです。疑いをもったために関係を断《た》った友人も多い。自分の組織の中枢部にキンドレッド国のスパイがいるにちがいないと、だいぶまえから考え、重要な情報を共有する範囲をどんどん狭《せば》めていきました。直接の上司さえその範囲から除外した――」スミス将軍にむかってうなずいた。「なのに最後は、わたしだけが知っていて、暗号化装置に入力しただけの秘密が、外部に洩れたのです」
その主張の重大な意味が全員の頭のなかにしみこんでいくあいだ、沈黙が流れた。トラクトの関心はすっかり内むきになり、自分が最大の裏切り者と思われようと、もうどうでもいいというようすだ。穏やかな口調でつづけた。
「猜疑心《さいぎしん》の塊《かたまり》になってすべてを疑いはじめるというのはこのことでしょう。わたしは通信経路を変え、暗号を変えました。目印をつけた偽《にせ》情報を流したりもした……。はっきりいいますが、われわれの敵はペデュア師∴齔lではなく、べつのなにかがいるのです。どういうわけか、われわれの巧妙な科学がすべて逆手《さかて》にとられているんです」
「ばかばかしい!」防空局長がいった。「わが局はきみのいう巧妙な科学≠だれよりも多用しているが、その結果には充分満足している。有能な者が使えば、コンピュータやネットワークや偵察衛星はすばらしく強力な道具になるのだ。レーダーに映った未確認物体についてのさきほどの詳細な分析がいい例だ。たしかにネットワークは妨害可能かもしれないが、この技術ではわが国は世界のリーダーなのだぞ。鉄壁《てっぺき》の暗号技術があればだれも侵入などできない……。それとも、敵は暗号を破っているといいたいのかね?」
トラクトは演壇のむこうで軽く首をふった。「いいえ。最初はわたしもそれを疑いましたが、こちらはキンドレッド国の暗号機関の中枢部に侵入できています――そしてごく最近まで気づかれていません。彼らがわが国の暗号をまだ破っていないということだけは、確実にいえます」全員にむかって手をふった。「まだよくわかっていらっしゃらないようですね。いいですか、われわれのネットワークにはなんらかの勢力がひそんでいるのです。敵対行動をとるなにかです。われわれがなにをしても、それ[#「それ」に傍点]はいつも一枚上手です。そして敵に協力しているのです……」
痛ましい、みじめな神経衰弱の光景だった。トラクトは自分の失敗を説明するのに、もはや幽霊説をもちだすしかなくなったのだ。ペデュアが想像を絶するほど利口なのか。むしろありそうなのは、トラクトこそが最大の裏切り者であるという説だ。
アンダータウンは注意の半分を司令官にむけていた。スミス将軍は国王から絶大な信頼を得ているから、トラクトがこんな状態になっても、すっぽり馘《くび》にしてしまえば、彼女が責任を問われることはないはずだ。
スミスはドアのわきにいる警備の軍曹を手招いた。「トラクト大佐を参謀執務室に連れていってあげて。大佐、あとで話を聞きにいくわ。まだ職を解いたわけではないから、そのつもりで」
虚脱状態のトラクトにその言葉がしみこむまで、すこし時間がかかった。それから彼はドアのほうにむかったが、逮捕されるようなようすではないし、下士官の好奇の目にさらされにいくようすでもない。
「わかりました、将軍」
しゃんと背中をのばして、軍曹のあとについて出ていった。
トラクトが退室したあと、会議室は沈黙におおわれた。だれもがまわりの顔を見て、暗い考えにふけっているのがわかった。しばらくして、スミス将軍がいった。
「いいこと、いま大佐がいったのは、ある意味で本当なのよ。キンドレッド国のスパイが深く潜入しているのはまちがいない。そしてそのスパイたちは、わが軍の各局の手に負えないほど広範囲で力をふるっている。こちらの安全対策にシステム上の欠陥があるのはたしかだけれども、それがなにかはまだわかっていない……そういうことよ。ライトヒルのチームが必要な理由も、これでわかったでしょう」
47
オンオフ星がこのまえ発火したときからかぞえて四十年が経過した。リッツァー・ブルーゲルはそのあいだずっと当直についていたわけではないが、それでもこの孤立生活のために人生の多くの年月を無駄に費やすはめになった。しかしそれももうすぐ終わりだ。待ち時間は年単位ではなく、日単位になっている。あと四日もしないうちに、この世界で第二位の支配者になれるのだ。
ブルーゲルは無人着陸機を操作する愚人《ぐじん》の背後に立ち、この小さな機械が送り返すデータを黙って見つめた。着陸機はいましがた減速を終え、長さ一メートルの数枚の翼を広げたところだった。まだ高度四十キロほどだが、音をたてずに滑空《かっくう》しながら、眼下にどこまでも広がる光のカーペットと、再帰《さいき》的にこまかくなるその光の網目模様を眺めた。この一帯を、愚人はキングストンサウス広域圏と呼んでいる。蜘蛛《くも》族の大都市圏だ。この世界はすでに冷えきり、さらに凍りつきつつあるが、不毛の土地ではないのだ。蜘蛛族の大都市圏はフレンク星のそれに似ているとさえいえた。
ここにあるのは、四十年間たゆまぬ進歩をつづけてきた本物の文明だ。その主要な技術はまだ人類の高度なレベルにはいたっていないが、愚人の能力を注入すれば十年か二十年でそこまで引きあげられるだろう。
〈〈おれは四十年にわたって、十人飼いの所有主≠ノ甘んじてきたが、もうすぐ十億飼いの所有主≠ノなれるんだ〉〉
そしてその先は……もし本当にこの蜘蛛族世界に超高度技術への手がかりが隠されているのなら……いつか彼とトマス・ナウはフレンク星やバラクリア星へもどり、そこをも支配下におさめることができるだろう。
ふいに映像が十数個に分裂し、三秒後にさらにそれぞれが十数個に分裂した。
「おい、いったいなにが――」
「着陸機が子機に分かれたのよ、領督《りょうとく》」レナルトはばかにするような冷たい口調で説明した。「約二百…機の可動体にね――一部はサウスモースト市にも行くわ」映像から目を離し、ブルーゲルのほうを見た。「運用の細部に急に興味をもちはじめるなんて、あなたにしてはめずらしいわね、領督」
その生意気な態度にいつもの怒りが湧きあがってきたが、今回は穏やかだった。呼吸が乱れることもないし、視野も微動だにしない。肩をすくめて質問をはぐらかした。
〈〈最近はレナルトともなんとかうまくやっていけるようになったな〉〉トマス・ナウのいうとおり、成長したということか。
「本当の蜘蛛族はいったいどんな姿をしてるのかな」ブルーゲルはいった。汝《なんじ》の奴隷を知れ、だ。もうすぐ蜘蛛族を億単位で焼き殺すのだが、一部は命を助けてやらねばならないのだ。
超小型偵察ロボットは音もなく降下し、やがて凍った海峡を渡った。一部にはまだ回転が止まらないのもあるが、多くの映像には雲が映っていた。これは――ハリケーンだろうか。二百個の親指大の偵察ロボットは、それから千秒のあいだにすべて地上に落下した。多くは深い雪に埋もれたり、岩だらけの荒野に落ちたりした。しかしなかには成功したのもあった。
街灯の青い光に照らされる道路らしいところに、いくつかはうまく落ちたのだ。そのひとつのカメラには、遠く雪をかぶった廃塊が映っていた。屋根のある大きな車両が重々《おもおも》しい響きとともに通過した。レナルトの愚人は偵察ロボットをよちよち歩かせ、路上へ出した。ヒッチハイクしようというわけだ。しかしそれらは次々と踏みつぶされ、送信が途絶《とだ》えていった。ブルーゲルは生存機表示窓にちらりと目をやった。
「うまくいくんだろうな、アン。子機分裂型着陸機はあと一機しかないんだぞ」
レナルトは返事もしない。ブルーゲルは担当の愚人に近づいて肩に手をかけた。
「うまく家のなかにはいりこめそうか?」
返事は期待していない。制御モードにはいった愚人の精神は外部からの呼びかけにほとんど反応しないのだ。しかししばらくして、愚人はうなずいた。
「百三十二番機はうまくやっています。高出力通信の残り時間は三百秒ほど。耐候扉はここからすぐのところにあるはずです。この機体なら――」
愚人はコンソールの上に低く身構え、まるで手と目を使うゲームをやっている薬物中毒者のように身体《からだ》を前後に揺らしている。ある意味で、たしかにそういう情況なのだ。偵察ロボットがよたよたと歩くあいだ、映像は大きく上下に揺れていた。
ブルーゲルはレナルトのほうを見た。「タイムラグが厄介だな。どうにか――」
「これくらいのタイムラグで無人機を操縦するのは簡単なうちよ。メリンは――」愚人の操作担当者のことだ。「――遅延《ちえん》連携動作がとてもうまいわ。むしろ今後問題になりそうなのは、蜘蛛族のネットワーク内での活動ね。データをさらってくることはできるけれども、まもなく完全にリアルタイムでやりとりする情況になる。応答時間が十秒もかかるようでは、ネットワーク上での処理はかなりの部分がタイムアウトになってしまうわ」
話しているあいだに、突進してくる車両の車輪が小さなカメラのわきを通りすぎた。そのときメリンは、愚人の勘《かん》で偵察ロボットを車輪の側面に飛びつかせた。映像はしばらくめまぐるしく回転したが、やがてメリンが回転に同期して映像を安定させた。前方でドアがひらき、車両はその奥へはいっていった。三十秒経過。壁がせりあがっているようだ。エレベータのようなものだろうか。しかしスケール情報によれば、この部屋はラケットボールのコートより広いのだ。
ブルーゲルは自分が映像にすっかり惹《ひ》きこまれているのに気づいた。
蜘蛛族についての情報源は、長いこと、レナルトの愚人翻訳者による解釈を通した二次情報にかぎられていた。その大部分はおとぎ話のたわごとにちがいない。かわいらしく描かれすぎだ。本物の画《え》が見たかった。小型偵察衛星による光学観測からも映像データははいってきたが、解像度があまりにも低かった。蜘蛛族が高解像度の映像をやりとりするようになればと、長年期待されていたのだが、いざ実現してみると、視覚生理機能のちがいが壁になった。
最近では蜘蛛族の軍用通信のうち五パーセントは、トリクシア・ボンソルが映像呪術≠ニ呼んでいるきわめて解像度の高い映像になっているが、大幅な解釈をほどこさないと、人間にはなにがなんだかさっぱりわからない。なにか暗号を隠した擬装《ぎそう》通信なのではないかとブルーゲルはかなり疑ったが、翻訳者たちはカル・オモの監視員に対して、これはなんの仕掛けもない映像であり、蜘蛛族が見ればとてもよくわかるのだと証言した。
しかし、もうまさに数秒後には、人間の視点映像によって怪物たちの姿をはっきりとらえられるのだ。
動くものはなにも映ってこない。これがエレベータだとしたら、ずいぶん深くまで降りているようだ。南極の天候を考えればうなずけるが。
「信号が途切《とぎ》れる心配はないのか?」
レナルトはすぐには答えなかった。「わからない。メリンはエレベータシャフト内に中継用の次の偵察ロボットを送りこもうと試みているけど。むしろ発見されないかどうかのほうが心配だわ。自己溶解機能が働いたとしても――」
ブルーゲルは笑いだした。「かまうもんか。いいか、レナルト。おれたちはあと四日もたたないうちに惑星全体を制圧するんだぞ」
「アコード国は疑心暗鬼をつのらせているわ。このまえも上級幹部の一人を解雇したし、会議記録によれば、ビクトリー・スミスはネットワークに何者か侵入しているのではないかと疑っている」
「情報局のボスがか?」その情報には、ブルーゲルもすこし考えさせられた。おそらくつい最近のことのはずだ。それでも――「連中に残された時間はもう四日もないんだぞ。なにができるっていうんだ」
レナルトの視線はいつものように、石のように冷たかった。「ネットワークを分割するとか、使用そのものをやめるとか。そうなればこちらは手を打てなくなるわ」
「しかし連中もキンドレッド国との戦争に負ける」
「ええ。キンドレッド国に対して外宇宙からやってきた怪物≠フ歴然たる証拠を提示できれば、話はべつかもしれないけど」
それはどう考えてもありえない。この女は強迫観念にとらわれているのだ。ブルーゲルはレナルトの眉をひそめた顔を見て、にやりとした。
〈〈それはそうだ。そういうふうにおまえをつくったんだからな〉〉
エレベータのドアがひらいた。しかし一秒あたりひとコマ程度しか映像が送られてこない。しかも解像度が低い。ちくしょう。
「よし!」メリンがなにかに成功したらしい声をあげた。
「中継用偵察ロボットをなかにいれたわ」レナルトがいった。
いきなり映像が鮮明になり、なめらかに動きはじめた。小型偵察ロボットがエレベータのドアのむこうへよたよた歩いて出ると、メリンは下を観察させた。おそろしく傾斜の急な階段で、ほとんど梯子《はしご》のようだ。いったいここはなんだろう。貨物積み込みエリアか。小さなカメラは隅に隠れ、蜘蛛族を眺めはじめた。スケールバーによると、怪物たちの体格は予想とほぼ一致していた。成体でもブルーゲルの腿《もも》くらいの背丈だろう。みんな地面に這いつくばるようにしている。再発火直前に図書館から仕入れた写真とおなじだ。
愚人の翻訳によって想像されていたような姿とはずいぶんちがう。服は着ているのだろうか。すくなくとも人間の服とは異なるようだ。ボタンのついた垂れ幕かなにかを巻きつけているように見える。ほとんどは両脇に大きな荷物入れをぶらさげている。動作はすばやく断続的で、不気味だ。扁平《へんぺい》な前脚をあちこちに動かしている。ここにはずいぶん大勢がいて、キチン質の黒い甲殻《こうかく》とはふつりあいな服の色だけがめだっている。頭は、まるで大きな平たい宝石がたくさんついているかのようにきらきら光っている。複眼らしい。そして口は――翻訳者がしばしば大口と訳していたのは適切だったようだ。突き出た深い穴で、まわりについているいくつかの小さな爪が――これがボンソルたちのいう食手《しょくしゅ》≠セろうか――たえずもぞもぞと動いている。
こんなふうに密集しているところを見ると、蜘蛛族は想像以上に醜悪《しゅうあく》な化け物だ。踏みつぶしても踏みつぶしても群がってくる悪夢の生物のようだ。ブルーゲルは深呼吸した。とはいえ、あとわずか四日後には――すべてがうまくいけば――こいつらはみんな死んでいるのだと思うと、すこしは穏やかな気持ちになれた。
四十年ぶりにオンオフ星系のなかを星間船が飛ぶことになった。距離は二百万キロ以下とごく短く、文明世界流にいえば係留《けいりゅう》位置を移動するという程度でしかない。しかしL1点に残っているどの星間船にとっても、これは余力をふりしぼる旅だ。
ジョー・シンはインビジブルハンド号の飛行準備作業を監督した。ふだんはリッツァー・ブルーゲルが動く領地として使っている船だが、長年のあいだに装備を剥《は》ぎとられていないのは、じつはこれしかなかった。
乗客≠ェ乗りこむ数日前に、ジョーはL1点精製所の備蓄水素をすべてインビジブルハンド号に注入した。百万トンの容量をもつラムスクープ船の初動用タンクにあっては、その数千トンなどお湿り程度だが、それでもL1点から蜘蛛族世界まで移動するには充分なはずだ。
シンはファム・トリンリといっしょに、星間船の燃焼管を最終チェックした。この直径わずか二メートルの狭窄《きょうさく》部ですさまじく強力な燃焼が何十年もつづき、船を光速の三十パーセントにまで加速してきたのだと思うと、不思議な気がした。内部の表面はミクロン単位のなめらかさだ。かつてここで地獄の業火《ごうか》が燃えさかった痕跡《こんせき》といえるのは、二人の気密スーツのライトに照らされてきらきら光る、金と銀のフラクタル模様だけだった。これは壁のむこうにあるプロセッサの微小ネットで、実際にはこれが閉じ込め場を誘導しているのだが、とはいえ万一燃焼中に燃焼管の壁に穴があいたら、宇宙でいちばん高速なプロセッサでも船を救うことはできないのだ。
トリンリはいつものように、おおげさな態度でレーザー計測検査をおこなったが、その結果については鼻で笑った。
「左舷側が九十ミクロンくぼんでるな。しかし、たいしたことじゃねえよ。新しいあばたはない。たとえこの壁におまえの名前を彫りこんだって、今回の飛行にはなんの影響もねえさ。だって、ほんのわずかな加速Gを二、三百キロ秒つづけるだけだろう?」
「うーん、最初はゆっくり時間をかけて加速していくんだけど、減速燃焼はほんの千秒ほどで終えるんだ。減速は一Gをやや上まわる」
アラクナ星の広い海のまんなかでかなり高度をさげるまで、ブレーキはかけられないのだ。それよりすこしでも早いと、アラクナ星の空は昼間より明るく輝いてしまうし、惑星のそちら側にいるすべての蜘蛛族に見られてしまう。
トリンリは心配いらないというように軽く手をふった。「だいじょうぶだって。おれはもっと危険な星系内飛行を何回も経験してるんだから」
二人は燃焼管の船首側に這い出した。この先はなめらかな表面がしだいに広がって、前方力場放射装置の基部につながっている。トリンリはさっきからずっとほら話をしゃべっている。いや、話そのものはおおむね真実だろう。ただ、いままで聞きかじった本物の冒険|譚《たん》から無断引用しているのだ。たしかにトリンリは船の推進機関についてひととおりの知識をもっている。困るのは、それ以上知っている人間がいないことだった。チェンホーの飛行技術者は最初の戦闘でみんな殺されてしまったし、居住棟に残った愚人の技術者も精神腐敗病の暴走でやられてしまったのだ。
二人はインビジブルハンド号の船首側の口から出て、係留索をつたってタクシー船にもどっていった。ふいにトリンリが止まり、ふりむいた。
「おまえがうらやましいぜ、ジョー。この船を見ろよ! 乾燥質量百万トン近い巨船だ! おまえはさして遠くまで飛ばすわけじゃねえが、こいつが五十光年の距離を渡って探し求めてきたお宝と顧客文明に、ついに到達するっていう段階をやらせてもらえるんだぞ」
ジョーはそのおおげさな身ぶりにしたがってふりかえった。トリンリの芝居がかった態度はなにかの隠れ蓑《みの》だと、だいぶまえからわかっているのだが……。それでもときには、その演技に胸を打たれることがある。
インビジブルハンド号は星間飛行に充分耐えられる姿に見えた。ゆるやかにカーブしていく船体が、ずっと遠くまでつづいている。人類が達成した極限の速度と環境にあわせて、流線形にかたちづくられている。そして船尾のリングのむこう――百五十万キロメートルむこうには、青白く薄暗いアラクナ星の円盤がある。
〈〈異種族とのファーストコンタクトだ。パイロット管理主任としておれがそれを指揮するんだ〉〉
誇らしく思わない者はいないだろう……。
ジョー・シンの出航前日は、最終チェックや準備で大忙しだった。百人以上の愚人や職員を乗せていくのだ。どういう専門職が多く集められているのかはよくわからなかったが、十秒のタイムラグがあるL1点からではなく、現場からじかに、強力に、蜘蛛族ネットワークの操作をやろうというのが領督の狙いであるはずだ。それは筋がとおっている。蜘蛛族を殺しあいから救うには、彼らの戦略兵器システム全体を乗っ取るような、いわば大きなペテンが必要になるのだろう。
ジョーの一日分の仕事が終わりかけたとき、そのインビジブルハンド号船橋わきの小さな仕事部屋に、カル・オモがはいってきた。
「もうひとつ仕事があるんだ、パイロット管理主任」オモの細長い顔が無愛想ににやりとした。
「残業ってわけだ」
二人はタクシー船に乗って岩石群へ降りた。しかし行き先はハマーフェスト棟ではない。第一ダイヤモンド塊の地平線のむこう――氷とダイヤモンドの奥に、兵器庫L1Aへの入り口がある。そのエアロックのそばにはほかに二隻のタクシー船が係留されていた。
「インビジブルハンド号の武装は点検したのか、主任?」
「ああ」ブルーゲルの占有区画以外は、船内すべての装備を点検していた。「でもチェンホーのほうが詳しいから――」
オモは首をふった。「行商人にはまかせられない仕事なんだ。トリンリ先生にもな」
中央エアロックの安全管理システムですこし時間がかかったが、そこを通過すると兵器エリアまでは通行自由だった。あたりにはさまざまな工作機械のたてる騒音が充満している。壁ぞいのラックに固定された大きな卵形の容器には、それぞれ兵器のマークがつけられている――チェンホーが大むかしから使っている核兵器やビーム兵器のシンボルだ。L1Aにどれだけの兵器が残っているかについては、これまでさまざまな噂があった。それをジョーは自分の目で確認しているわけだ。
オモに先導されて誘導ケーブルをたぐり、表示のないキャビネットのまえを通過していった。L1Aには同感性映像システムはないし、またチェンホー製ローカライザーもここだけは導入されていない。自律機能系も単純で確実性の高いものが使われている。レイ・シレトが数人の愚人を使って、なにかの発射台をつくらせていた。
「ここにある兵器はほとんどすべてインビジブルハンド号に載せる予定だ、シン主任」オモはいった。「これまでにさまざまな部品を寄せ集めて、できるだけたくさんの発射装置をつくってきたが、補給処がないここではさすがにつらいな」そういって、チェンホー製の推進ユニットにエマージェント製戦略核弾頭が組みあわされたものをしめした。「かぞえてみろ。十八発の短距離核ミサイルがある。キャビネットのなかにはレーザー兵器の中枢部品がはいっている」
「よ……よくわからないんだけど、領兵長、あんたは戦闘員であり、専門職員の部下をもっているわけだろう。いったいなんの必要があって――」
「――パイロット管理主任にこんな解説をするのか、と訊きたいんだろう?」また無愛想に笑った。「蜘蛛族文明を守るために、低高度軌道のインビジブルハンド号からここにあるものを使わねばならなくなる可能性は充分にある。パイロットたちはその発射準備手続きを頭にいれておく必要があるんだ」
ジョーはうなずいた。その可能性についてはいちおう聞いていた。蜘蛛族の最終戦争が起きるとしたら、現在南極で高まっている緊張が引き金になると考えられていた。アラクナ星に到着したら、船は五千三百秒ごとにその南極上空を通過する。小型機をふくめれば、つねに相手を射程におさめていることになる。レーザーについては、トマス・ナウからすでに聞いていた。核のほうは……まあ、脅《おど》しの手段にはなるだろう。
領兵長は案内してまわりながら、つくりなおしたさまざまな装置の限界を説明していった。いちばん多いのは指向性爆薬で、オモの愚人たちはそれを即席の掘削爆弾に改造していた。
「……ネットワーク担当の愚人も大半を乗せていく。操船に必要な射撃統制情報を集められるはずだ。目標しだいでは、大幅な軌道変更も必要になるだろうからな」
オモが砲術担当者らしい熱心な口調で語りはじめると、もはやジョーも自分をごまかせなくなった。長年にわたる準備を、彼はしだいに恐怖をつのらせながら見守ってきた。立場上、どうしても耳にはいってくる詳細な情報があるからだ。しかしいままでは、どんな嘘や裏切りの可能性をみつけても、かならず筋のとおった説明を聞いて納得してきた。そしてその筋のとおった説明≠ノしがみついてきた。そうやってなんとか良心をたもってきたのだ。蜘蛛族との交流がはじまり、自分たちの子どもも生まれた未来の生活を、リタとともに笑顔で思い描くこともできた。
ジョーの顔に浮かんだ恐怖の表情に気がついたのだろう。オモは殺戮《さつりく》兵器案内を中断すると、ジョーのほうにむきなおった。
ジョーは訊いた。「なぜ……?」
「なぜおまえにこんな説明をするのか、だな」
オモはひとさし指をジョーの胸に突きつけ、押した。ジョーは誘導ケーブルから離れた壁のほうへ漂っていった。オモはもう一度おなじように指でジョーを押した。その顔には怒りの表情が浮かんでいる。バラクリア星で何度も見させられた、エマージェントの権力者が浮かべる義憤《ぎふん》の表情だ。
「わざわざ説明しなくてもいいだろう、ということだな? しかしおまえはこの居住棟のほとんどの住人とおなじだ。性根《しょうね》が腐り、行商人の考え方にすっかり染まっている。ほかの連中はもうしばらく遊ばせておいてもいいが、しかしインビジブルハンド号が低高度軌道に到達したら、おまえは命令に対して知的に、即座に服従してもらわねばならない」オモはまたジョーの胸を突いた。「わかったか?」
「わ、わかった。わかったよ!」
〈〈ああ、リタ。ぼくらはやっぱりエマージェントなんだ〉〉
48
ハマーフェスト棟の屋根裏部屋からは百人以上の愚人《ぐじん》が船へ移動することになった。自称天才≠フトルード・シリパンは、その引っ越しを一回ですませるようにスケジュールを組んでいた。トリクシアの独房へむかったエズルは、まるで人の波に逆流して泳いでいるような状態になった。集中化人材はそれぞれの独房を出て、四、五人ずつまとまって毛細血管のような狭い廊下を通り、支流の廊下へ出て、最後に中央通路へ集まってきた。看守たちは落ち着いていたが、整然と移動させるのは至難《しなん》の業《わざ》だった。
エズルは廊下脇の物入れに逃げこんだり、人の流れが逆方向に渦を巻いているところに退避したりしながら、すこしずつ進んでいった。移動している人々のなかには、ひさしぶりに見る顔が多かった。トリクシアとおなじように、武力衝突の直後に集中化されたチェンホーとトライランド人の専門技術者だ。看守のなかには、誘導している集中化人材のもともとの友人たちが何人かいた。彼らは当直シフトごとに、失われた友人たちに会いに来ているのだ。はじめはそういう人々がたくさんいたが、何年もたつうちに希望が失せていったようだ。いつかは……ナウの約束する奴隷解放が実現するかもしれないが。
しかし愚人のほうはなにも気にしていないようすだった。訪問者などうるさいだけなのだ。そんな彼らに会うために何年も通ってくるばかは、ほとんどいなかった。
これほど多くの愚人が移動しているところを見るのは初めてだった。通路も独房とおなじく換気が悪いので、ずっと洗っていない身体《からだ》の匂いがむっとするほどたちこめている。居住棟の資産の健全管理はアン・レナルトの仕事だが、それは清潔にこぎれいにしておくという意味ではないのだ。
人の流れの合流点で、ビル・フオンが壁の誘導ケーブルにつかまって、グループの看守たちを指揮していた。たいていはおなじ専門職がひとつのグループにまとめられている。いらいらした話し声の断片が、エズルの耳にはいった。蜘蛛《くも》族世界に対して計画されていることに懸念《けねん》をもっているのだろうか……。いや、たんに落ち着かないのと、仲間言葉による専門的なやりとりだった。
一人の年配の女が――ネットワークプロトコルの侵入技術者だ――自分のグループの看守を小突《こづ》き、ほとんど顔をつきつけて問いただしていた。
「じゃあ、いつ?」金切り声だ。「わたしたちはいつ仕事にもどれる?」
そのグループの一人が、「そうだ! 人ごみは臭くてたまらん」とかなんとか叫んで、べつの方向から看守に迫っていた。あわれな愚人たちは、入力情報から切り離されて半狂乱になっているのだ。
やがてグループの全員が看守にむかってわめきはじめた。するとまるで血管のなかで血液が凝固《ぎょうこ》するように、そこが核となって人の流れが滞《とどこお》りはじあた。奴隷暴動が起きかけているのだ――奴隷の仕事をとりあげたせいで! エマージェントの看守もその危険を感じたらしく、いちばん声高《こわだか》な二人の愚人のわきにさっとまわって、昏倒《こんとう》装置の引き紐をひいた。二人はがくんと身体を硬直させ、動かなくなった。核がなくなったために凝固は溶け、まばらな不満の声へと拡散していった。
そこにビル・フオンがやってきて、最後まで喧嘩腰の愚人たちを黙らぜた。そして看守にむかって撫然とした顔でいった。「再調整の必要なやつがまた二人増えたぞ」
看守は頬の血をぬぐってにらみ返した。「トルードにそういえばいいでしょう」
そして引き紐をつかんで、意識のない愚人たちを仲間から引き離していった。
人の流れはさらにつづいたが、しばらくしてエズルはすきまをみつけ、通路のいちばん奥にたどり着いた。
翻訳者はインビジブルハンド号に乗らない。屋根裏部屋のなかの彼らの区画は落ち着いているはずだった。ところが行ってみると、どの独房のドアもひらき、毛細管通路は翻訳者たちであふれていた。そわそわしたり叫んだりしている愚人たちのあいだを、エズルはなんとか通り抜けていった。トリクシアの姿はない。しかしその通路に数メートルはいったところで、反対方向からやってくるリタ・リヤオに出くわした。
「リタ! 看守はどこなんだ?」
リタは怒ったように両手をあげた。「もちろん、どこかで手いっぱいになってるんでしょ! そのうえ、どこかのばかが翻訳者の部屋のドアをあけちゃったのよ!」
トルードはよけいなことをしてくれたものだ。あるいはこれもシステム不調のひとつなのか。皮肉なことに翻訳者たちは、どこへも行く予定はないのに、うながされなくても独房の外へ出てきて、行き先の指示をくれと口々にわめいている――「わたしたちはアラクナ星へ行きたいのよ!」「そばへ行きたいんだ!」
トリクシアはどこだろう。エズルは上の角《かど》のほうからべつの騒ぐ声が聞こえてくるのに気づき、その枝道にはいってみた。すると、いた。ほかの翻訳者のグループのなかにトリクシアの姿があった。独房の外の世界に慣れていないので、とても不安そうだ。それでもエズルのことはわかるらしい。
「黙って、黙って!」トリクシアが叫ぶと、しゃべり声がやんだ。彼女はエズルのほうをぼんやりと見ながらいった。「四番、わたしたちはいつアラクナ星へ行けるの?」
〈〈四番って?〉〉エズルはとまどった。
「ええと……もうすぐだよ、トリクシア。でも今日じゃない。インビジブルハンド号に乗っていくわけじゃないんだ」
「なぜっ? タイムラグがいやなのに!」
「領督《りょうとく》はいまのところ、きみたちをそばにおいておくつもりなんだよ」
アラクナ星の低高度軌道ではとりあえず低次ネットワーク機能だけあればいいから、というのがおもてむきの話だった。しかしファムとエズルはその裏を知っていた。インビジブルハンド号がその本当の任務を遂行するあいだ、よけいな人員は乗せておきたくないのだ。
「安全になったらきみも連れていくよ、トリクシア。約束する」
エズルは手をのばした。トリクシアは逃げなかったが、壁の手がかり穴をつかんだ手はしっかり握ったままで、がんとして自分の部屋へはもどろうとしなかった。
エズルは肩ごしにリタ・リヤオを見た。「どうしよう?」
「ちょっと待って」リタは耳に手をあてて、聞いた。「フオンとシリパンが来て、彼らを穴ぐらへ押しもどすといってるわ。ほかの愚人たちを船に乗せたらすぐに」
それではずいぶん時間がかかる。そのあいだ二十人の翻訳者は屋根裏部屋の迷路で迷子になっていうというのか。エズルはトリクシアの腕を軽く叩いた。
「部屋へもどろう、トリクシア。ええと、そうだな……いつまでもここにいると、どんどん情報から遅れてしまうよ。ヘッドアップディスプレーは部屋においたままだろう。知りたいことがあったら、それを使って船団ネットにじかに問いあわせればいいじゃないか」
トリクシアはたぶんヘッドアップディスプレーが停止したから、おいて出てきたのだろう。しかしここでは、たとえ無意味でも、筋のとおりそうなことをいうしかなかった。
トリクシアはしばらく決断しかねて、手がかり穴から手がかり穴へ跳び移っていたが、ふいに壁を押してエズルのわきを通り抜け、自分の部屋がある下の枝道へもどっていった。エズルもあとを追った。
部屋はトリクシアの入室に反応し、いつものほの暗い照明がともった。トリクシアはヘッドアップディスプレーをつけ、エズルも自分のをそれに同期させた。接続はすべて切れてはいなかったようで、いつもの映像や流れるテキストがあらわれた。地上からの電波が生《なま》ではいってきているわけではないが、それに近い。トリクシアは画面から画面へ目をはしらせ、古びたキーボードを叩いた。船内情報サービスに問いあわせることは忘れてしまったようだ。仕事場を見たことで自分の集中課題に引きもどされたらしい。
新しい窓がひらき、わけのわからない記号がものすごい勢いで流れはじめた。蜘蛛族の話し声がテキスト変換されたものらしい。ラジオ番組か、あるいは――現在の情況を考えると――軍用通信を傍受したものだろう。
「このタイムラグには耐えられない。ひどすぎる」
トリクシアはまた黙りこんだ。べつのテキスト画面をひらくと、わきに映像があらわれ、さまざまな色がまたたきはじめた。蜘蛛族独特の映像フォーマットのひとつだ。まだ人間にはなにが映っているのかわからないが、この小部屋で何度も見させられたおかげで、パターンには見覚えがある。トリクシアが毎日訳している蜘蛛族の商用ニュース放送だ。
「まちがってる。スミス将軍が王のかわりにサウスモースト市へ行こうとしているわ」
トリクシアはまだ緊張しているが、これはいつものように集中課題に没頭している状態だ。しばらくして、リタ・リヤオがドアから顔をのぞかせた。エズルがふりむくと、リタは黙って驚いた顔をしていた。
「エズル、あなたは魔法使いかなにか? どうやってみんなを落ち着かせたの?」
「それは……トリクシアがぼくを信じてくれてるからじゃないかな」根拠のない推測として語ったが、それは心の奥底での希望だった。
リタはドアの外へ顔を出して、通路の前後を見やった。「なるほどね。でもあなたがトリクシアを仕事部屋にもどしたら、いったいどうなったと思う? みんな黙ってそれぞれの部屋へもどったのよ。この翻訳者たちは愚人兵隊より統率しやすいわ。なにしろ、トップさえ押さえればあとは全員ついてくるんだから」そこでにやりとした。「でもこういう場面はまえにも一度見たことがあったわね。翻訳者たちは単純処理レイヤの愚人を制御できてたでしょう。彼らは肝心かなめの部品なのね」
「トリクシアは人間だ!」集中化人材はみんな人間なんだ、この奴隷使いめ。
「わかってるわ、エズル。ごめんなさい。でもわたし、わかったのよ……トリクシアとほかの翻訳者たちはすこしちがうって。自然言語を翻訳するというのは、やっぱり特殊なことなのよ。すべての……その、集中化人材のなかでも、翻訳者はいちばんまともな人間に近いかもしれないわ……。じゃあ、あとのことはわたしが片づけて、ビル・フオンにも騒動がおさまったことを伝えておくわね」
「ああ」エズルはこわばった口調で答えた。
リタが部屋から出て、ドアはしまった。しばらくすると廊下ぞいにほかのドアもしまっていく音が聞こえた。
トリクシアはいまのリタの意見など知らぬげに、キーボードの上にかがみこんでいる。エズルはそんなトリクシアをしばらく見つめながら、彼女の将来と、どうやって彼女を最終的に助けるかを考えた。四十年の孤立生活ののちにも、翻訳者たちは蜘蛛族の音声通信を同時通訳できるまでにはならなかった。彼らをわざわざアラクナ星に連れていっても、トマス・ナウにはなんの利益もないわけだ……いまのところは。
しかし蜘蛛族世界が征服されたら、トリクシアと通訳たちには征服者の声を伝える役目が待っている。
〈〈しかしそんなときは来ないんだ〉〉
ファムとエズルの計画は予定どおり進んでいた。一部の古いシステムや、電気機械技術による予備系統をのぞけば、チェンホー製ローカライザーを使って制御できないものはない。ファムとエズルはついに本格的な破壊活動へむけて動きだしていた。なかでももっとも重要なのが、ハマーフェスト棟の動脈である無線送電系の切断だ。そのスイッチは純粋な機械式の接点を使っているので、小細工は効《き》かない。しかしファムのローカライザーにはべつの使い方があった。本物の塵《ちり》として使うのだ。この数メガ秒のあいだに、二人はそのスイッチのまわりに塵を層状に積もらせていた。同様の工作を、ほかの古いシステムやインビジブルハンド号内部にもほどこした。最後の百秒ほどはたいへんな危険をともなうだろう。仕掛けは一回しか効かない。ナウとその一味が惑星乗っ取りに気をとられているすきを狙うのだ。
この破壊活動がうまくいったら――いや、うまくいくはずだ――チェンホー製ローカライザーが支配者になる。
〈〈そしてぼくらの時代がやってくるんだ〉〉
49
ハランクナー・アナービーにとって、ランズコマンド市にいる時間はとても長い。そもそも彼の建設業務の本拠地なのだ。アコード軍情報局の機密区画にも年に十回は出入りする。スミス将軍とは毎日電子メールのやりとりがあるし、参謀会議で顔をあわせる。カロリカ湾で会ったときは――もう五年もまえなのか――あまり心温まる話などできなかったが、すくなくとも共通する懸念《けねん》を率直に吐露することはできた。しかしスミス将軍の私用の執務室にはいるのは、じつに十七年ぶり……ゴクナの死以来だ。
将軍は時期はずれの若者を新しい副官として採用していたが、アナービーはほとんど気づきもせず、しんと静まりかえった司令官の私室に足を踏みいれた。広い部屋で、吹き抜けになった小部屋や、ぽつんと離れておかれた席があるところなど、以前のようすと変わっていない。だれもいないのかと、アナービーは思った。
ここは、スミスのまえはストラット・グリーンバルの執務室だった。その二世代前から、情報局長官のもっとも神聖な私室としてずっと使われていた。しかし前任者たちが見たら、その変わりように驚くだろう。プリンストン市のシャケナーの仕事部屋よりさらに通信およびコンピュータ機器が多いくらいだ。部屋の一方の壁には、映像呪術にも使えるくらい高画質の全色ディスプレーがある。いまは屋上のカメラから見た風景が映し出されていた。|王家の滝《ロイヤルフォールズ》は二年以上前に水の流れを止めている。谷の奥までが一望《いちぼう》できた。山々は荒涼として冷えきり、山頂部には二酸化炭素の霜《しも》が降りている。しかし近くに目を転じると……建物からは赤より暗い色がにじみだしているし、通りを走る車の排気管はあかあかと光っているように見える。
アナービーはしばらくその風景を眺めながら、ちょうど一世代前――すなわち前回の暗期入りから五年めには、これらの眺めはどんなだったのだろうと思った。いや、そもそもその頃にはこの部屋も放棄されていたはずだ。グリーンバルの部下たちは狭苦しい司令部|洞窟《どうくつ》に集まり、よどんだ空気を吸いながら、冬眠穴付き潜水艇に乗ったアナービーとシャケナーは無事だろうかと、無線交信にずっと耳をすませていたはずだ。そして数日後には、グリーンバルは進行中の作戦をすべて終了させただろう。大戦そのものを氷漬けにし、危険な眠りについたわけだ。〈〈しかしこの世代では、おれたちはいつまでも目覚めている。そして史上最悪の戦争へまっしぐらに突き進んでいるんだ〉〉
将軍が静かに部屋にはいってくるようすが、うしろの目に見えた。
「軍曹、すわってちょうだい」スミスは机のまえの席をしめした。
アナービーは景色から室内へ注意をもどし、すわった。U字形をしたスミスの机には、印刷された報告書が山と積まれているほかに、小さな読み取りディスプレーが五、六台あった。そのうち三台に光がはいっていて、二台には、シャケナーが見とれていたのとおなじような抽象的な模様が浮かんでいる。
〈〈どうやら将軍はまだ夫を甘やかしているようだな〉〉
将軍の笑みは不自然にこわばっていたが、むしろそれは率直な表情らしく思えた。「あなたを軍曹と呼んだけど、不思議な階級ね。でも……来てくれてありがとう」
「とんでもありません、将軍」なんのための呼び出しだろう。もしかすると、北東部についてのアナービーの大型計画が承認されるのだろうか。「わたしの掘削計画案はごらんいただけましたか? 核爆弾を使えば、強固な防空|壕《ごう》を手早くつくれます。北東部の頁岩《けつがん》層が有望でしょう。爆弾数発と百日の時間があれば、むこうの農業と農業者の大半を守れます」
そうやってまくしたてた。しかし建設費は膨大《ぼうだい》で、とても王家の財政や自由資金調達ではまかなえない。将軍は協和《アコード》契約を棚上げし、非常統治権を発動しなくてはならないだろう。それで事態が楽観視できるようになるわけではないが、しかしもし本当に戦争がはじまったら、防空壕によって何百万人もの命が救われるはずだ。
ビクトリー・スミスは穏やかに片手をあげた。「ハランク、時間の猶予《ゆうよ》はもう百日もないのよ。どんな展開になるにせよ、結果はおそらく三日以内に出るわ」小さなディスプレーのひとつをしめした。「たったいま、ペデュア師が意見調整のためにサウスモースト市にみずから乗りこんだという情報がはいったわ」
「ばかなやつだ。サウスモースト市で開戦をけしかけたら、自分も丸焼きにされるのに」
「だからこそ、ペデュアがいるあいだは安全だと考えられるのよ」
「噂を聞いたのですが、将軍、こちらの国外情報局が混乱しているというのは本当ですか? トラクトが解任されたとか」
噂の広がりはもう抑えようがなかった。たしかに、情報局の中枢にキンドレッド国のスパイが潜入しているのではないかという疑いはもたれていた。ほとんどの日常通信には最高機密暗号が使われている。敵の直接の脅《おど》しには屈しなくても、恐怖と混乱の蔓延《まんえん》によってこの国は滅びるかもしれないのだ。
スミスは怒ったようにさっと頭をあげた。「そうよ。たしかに南には出し抜かれたわ。でもまだ望みはある。南にはこちらを頼っているグループがあるのよ……わたしが裏切ってしまったグループが」最後の言葉は聞きとれないくらい小声で、アナービーにむかっていったのではないようだった。将軍はしばらく黙っていたが、顔をあげて訊いた。「あなたはサウスモースト市の地下構造に詳しいはずね、軍曹」
「わたしが設計しましたし、建設も大部分を監督しましたから」サウスランド国とアコード国がべつべつの国とは思えないほど親密だった時期のことだ。
将軍は席の上で前後に身体《からだ》を揺らし、腕を震わせていた。「軍曹……わたしはいまでも、あなたに会っていい気分はしないのよ。わかってくれるでしょう」
アナービーはうなだれた。〈〈ええ、わかりますとも〉〉
「でも、単純なことがらでなら信頼できる。そして現在は、いまいましいことに、あなたの力がどうしても必要なのよ! こういうことでは命令しても無意味かもしれない……。わたしといっしょにサウスモースト市へ行ってくれない?」腹から絞り出すようにいった。
〈〈頼まなくてはいけないようなことですか?〉〉
アナービーは両手をあげた。「もちろん行きます」
即答されるとは予想していなかったらしく、スミスはしばし言葉につまった。「わかっているの? わたしに同行するということは、あなた自身も危険にさらされるのよ」
「ええ、わかっていますとも。わたしはお役に立ちたいだけです」
〈〈わだかまりを解消する機会をずっと待っていたんですよ〉〉
将軍はしばらくじっとアナービーを見つめていたが、やがていった。「ありがとう、軍曹」机のコンピュータになにか入力した。「あとでティム・ダウニングから――」あの新任の若い副官のことだろうか。「――詳しい情況分析のブリーフィングがあると思うわ。要約していえば、ペデュアがいま頃サウスモースト市へ行く理由はただひとつ。工作がまだ完了していないからよ。南の政府要人をすべてまるめこんではいないということ。サウスランド国議会の一部将軍のメンバーが、わたしに直接会談を求めてきたわ」
「しかし……そういうことは国王のお仕事では?」
「そうね。まあ、今回の暗期にはたくさんの伝統が破られているのよ」
「およしになったほうがいいですよ、将軍」下士官としての礼儀をわきまえない発言をしている自分に対して、頭の奥でたしなめる声がかすかに聞こえた。
「そういう助言はあなた以外からもたくさん聞いたわ……。ストラット・グリーンバルも、わたしたちがいま腰をおろしている場所から二百ヤードくらい離れたところで、おなじようなことを最後にいっていた」将軍はしばらく黙りこみ、思い出にひたった。「不思議ね。ストラットはいろんなことを見通していた。わたしが彼のあとを継ぐこともふくめてね。指揮官がじかに戦場に出ていきたい誘惑にかられるという話をしていたわ。わたしも明期の最初の十年間は、自分が乗りこんでいって、やることをやれば問題を解決できる――兵を死なせずにすむと思ったことが、何度となくあった。でもグリーンバルの助言は命令に近いものだったから、わたしはしたがい、生きて次に戦う機会を待つほうを選んだわ」ふいに笑いだし、思い出から現在へもどってきた。「そしていま、わたしは年老い、嘘とまやかしの網のなかで身動きがとれずにいる。つまり、ついにストラットのルールを破るときがきたのよ」
「グリーンバル将軍の助言はいまも正しい。将軍はここにいるべきです」
「この……この混乱はわたしがはじめたことなのよ。わたしの決断――必要にせまられての決断だった。でもいまサウスモースト市へ行けば、いくらかの命を救えるかもしれない」
「しかし失敗したら、あなたは死に、わたしたちの敗北は確実になるんですよ!」
「いいえ。わたしが死んだらもっと事態は混乱するかもしれないけど、勝てるチャンスはまだあるわ」机のディスプレーのスイッチをすべて切った。「三時間後に第四飛行場から出発するから、そのつもりで」
アナービーは癇癪《かんしゃく》を起こしそうになった。「特別の護衛チームくらいは連れていってください。ビキや――」
「ライトヒルのチームのこと?」かすかな笑みが浮かんだ。「ずいぶん評判が広まっているようね」
思わずアナービーも笑みを返した。「え……ええ。彼らはなにをたくらんでいるのかと、みんな不審がっています。かなり奇妙な連中と思われているのはたしかですよ」さまざまな噂があった。いいものも悪いものもあるが、おしなべて突飛《とっぴ》だった。
「あの子たちのことを、本当に嫌ってはいないのね、ハランク」驚きをにじませた声だった。スミスはつづけた。「彼らはこれから七十五時間のうちに、もっと重要な任務をこなさなくてはいけないのよ……。現在の情況は、シャケナーとわたしが何年もまえから意識的につくってきたものなの。危険は承知の上だった。いまはそれに決着をつけるときなのよ」
将軍がシャケナーの名を口にしたのは、今日の会見で初めてだった。国民をここまで導いてきた二人の協力関係は、いまは壊れ、将軍は一人きりになっているのだ。
訊いてどうなるものでもないが、それでも訊いた。「このことについて彼と話しましたか? あいつはなにをしているんですか?」
スミスは暗い顔でしばらく黙っていたが、やがて答えた。「最善をつくしているわ、軍曹。最善を」
その夜のパラダイス島の空は、いつも以上によく晴れていた。オブレト・ネザリングは、島でいちばん標高の高いところにある塔のまわりをゆっくり歩きながら、今夜の観測に使う装置類を点検していた。熱線入りのゲートルと上着はそれほどかさばらないのだが、もし空気加温器が壊れたり、うしろに引きずっている電源ケーブルが切れたりしたら……。助手たちにいつも警告しているとおり、腕一本、脚一本、肺ひとつくらいは、ものの数分で凍ってしまうはずだ。暗期入りしてすでに五年。大戦時でも、こんな遅くまで目覚めていた者はいないだろう。
ネザリングは点検作業の手を休めた。予定よりすこし先へ進みすぎているくらいなのだ。冷たく静かな闇のなかに立って、自分の専門分野――夜空を見あげた。
プリンストン工科大学で勉強をはじめた二十年前、ネザリングの希望は地質学者になることだった。地質学こそは科学の父であり、今世代にはさまざまな大規模発掘や大規模鉱山開発がはじまったおかげで、よけいに注目されていた。それにくらべると、天文学などやるのはかなり毛色の変わったやつらと相場が決まっていた。常識ある者の関心は下へむかうのが自然だ。次の暗期を生き延びられる安全な冬眠穴を探したいという本能があるからだ。空などになにがあるのか。太陽はたしかに生命とさまざまな厄介事の源《みなもと》だ。しかしそのむこうにはなにもない。星は恒久的に光っている点であり、太陽とも、ほかのなにとも似ていない。
しかし大学二年のときに、ネザリングはシャケナー・アンダーヒルと出会い、人生を変えられた――しかしそういう学生はネザリングだけではなかった。二年生は一万人もいたのに、アンダーヒルはその一人ひとりとじかに話し、彼らを開眼させたのだ。いや、近づいていったのは学生たちのほうだったのかもしれない。アンダーヒルが突拍子もないアイデアを次から次に披露《ひろう》するので、一部の学生たちは、火に魅入《みい》られて集まる妖精|蜘蛛《ぐも》のように、彼のまわりに集まっていったのだ。
アンダーヒルは科学についてこう語っていた。太陽のまわりをめぐるこの世界の軌道や、星の固有運動といった基礎的なことがらにだれも関心をもたなかったせいで、数学や物理学はずいぶん発展が遅れた。この星系にもしひとつでもほかの惑星があれば、そこから思考のゲームがはじまり、微積分などは二世代前ではなく十世代前に発明されていただろう。今世代における爆発的な科学技術の発展も、明期と暗期が何巡かする時間をかけて穏やかに広まっていっただろう。
もちろん、アンダーヒルの考える科学史はすべて独自の発想というわけではなかった。五世代前に望遠鏡が発明され、連星天文学によって蜘蛛族の時間の概念には革命的変化が起きていた。しかしアンダーヒルはそういった新しい手法に、古いアイデアを組みあわせたのだ。若きネザリングの関心は、安全でまともな地質学からしだいに離れ、ついに頭上の空虚≠フ虜《とりこ》になった。星の本当の姿を知れば知るほど、宇宙の本当の姿がわかってくる。最近では、探すべき方角がわかって機材さえそろっていれば、空にはすべての色があることがわかってきた。このパラダイス島では、世界のどこよりも星の赤外色がはっきり見えるのだ。上空の大気がよく澄んで乾燥したここなら、現在建設中の大型望遠鏡を使えば、いつか宇宙の果てまで見えるのではないかと思った。
〈〈ふむ?〉〉
北東の水平線上の低い空に細いオーロラの帯があらわれ、南へ伸びつつある。北海上空には恒常的な地磁気の臍《へそ》があるが、暗期五年めにもなると、オーロラはめったにあらわれない。下のパラダイスタウンでは、旅行者たちがこの眺めに感嘆しているにちがいない。しかしオブレト・ネザリングにとっては予期せぬじゃまものでしかなかった。
しばらく観察していると、不思議なことに気づいた。光はほとんど拡散しておらず、とりわけ北端は一点に集まっているようだ。ふむ。これで今夜の観測はだいなしかもしれないが、かわりに紫外色望遠鏡を引っぱり出して、あれを調べてみよう。偶然からおもしろいことがわかるかもしれない。
ネザリングは手すりから離れ、階段のほうへむかった。すると、百人の兵隊が階段を駆けあがってきているかのような騒々しいもの音が聞こえてきた――しかしおそらくそれは、シェプリー・トリッパーが四本の足にはいたハイキングブーツでたてている音だろう。しばらくして、ネザリングの助手が階段から飛び出してきた。シェプリーはまだわずか十五歳で、完全な時期はずれだ。かつてはこんな忌まわしい存在と口をきくことなど考えられなかったし、ましていっしょに仕事をするなど想像もしなかったのだが、その考え方もプリンストン市で変えられた。いまでは――まあ、シェプリーはまだ子どもで、いろいろ知らないことが多すぎるが、その熱意だけはきわだっていた。これまではどんな若い研究者も、衰微《すいび》期には中年になり、家族をもち、それにしたがって仕事への情熱が薄れた。そのために衰微期の後半にはどれだけ多くの研究活動が停滞したことか。
「ネザリング博士!」シェプリーの声は空気加温器のためにこもっている。急いで伝えようとせっかく階段を駆けあがってきたのに、息が切れてしばらく話せなかった。「たいへんです。ノースポイント岬との無線接続が切れてしまいました」干渉計のもう一方の観測端末が、五マイル離れたところに設置されているのだ。「すべての帯域がひどい空電で充《み》たされているんです」
つまり、今夜の予定はすべて吹き飛んだわけだ。
「有線回線でサムと話したのか? いったいなにが――」
ネザリングはいいかけて、やめた。シェプリーの言葉がゆっくり頭にしみこんできた――すべての帯域がひどい空電で充たされている……=B背後では奇妙なオーロラの穂≠ェいまも南へ移動していた。いらだちがゆっくりと恐怖に変わっていった。世界が戦争の危機に瀕《ひん》していることは、オブレト・ネザリングはよく知っていた。だれでもわかっていることだ。爆弾の雨が降りはじめたら、文明はものの数時間で灰になるだろう。パラダイス島のような海上の孤島でも安全ではない。
〈〈そしてあの光はなんだ?〉〉
オーロラはしだいに薄くなり、明るい点も消えつつあった。磁気圏で核爆弾が爆発するとオーロラのように見えることがあるが、もうすこしまとまったかたちをしているはずだし、これほど長くはつづかないはずだ。ふうむ。もしかすると、どこかの国の優秀な物理学者が、単純な核爆弾とはちがうなにかをつくりだしたのだろうか。好奇心と恐怖が頭のなかでせめぎあった。
ネザリングはオーロラに背をむけ、シェプリーを階段のほうへ連れていった。
〈〈あわてるな〉〉――シェプリーに何度もアドバイスしているように。
「なにごとも順序よくだ、シェプリー。もちろん、電源ケーブルももつれさせないように気をつけろ。レーダー観測器は、今夜はあがってるのか?」
「は……はい」シェプリーの重いブーツがうしろから階段を降りてきた。「でも、その観測記録もノイズだらけだと思います」
「たぶんな」
電離層にはいってくる物体の軌跡《きせき》にマイクロ波を反射させて観測するという地味な研究を、ネザリングはシェプリーといっしょにおこなっていた。ほとんどは大気圏に再突入してくる人工衛星の破片だが、年に一度くらい、説明のつかないものがあった。偉大なる虚空《こくう》≠フ謎だ。その研究成果を論文にまとめて発表しようとしたのだが、いまいましい評価委員会――なかでも、どこにでも顔を出すT・ラークサロット――は独自の基準をもっているらしく、ネザリングの論文をはねつけたのだ。
今夜はそのレーダーでべつのものを観測してやる。奇妙な光の先端にある点――あれがたんなる現象ではなく、物体だったらどうか。
「シェプリー、ネットにはまだつながってるのか?」
海氷の上に張られた光ファイバーケーブルによって、島はネットと高速接続しているのだ。本土のスーパーコンピュータを使いながら今夜の観測を実行できれば――
「調べてみます」
ネザリングは笑った。「プリンストン市におもしろいものを見せてやれるかもしれないな!」
レーダーの観測記録をひらいて調べはじめた。今夜のあの光は自然現象か、それとも戦争によるものか。どちらにしても重要なメッセージだ。
50
ハランクナー・アナービーは、最近の飛行機に乗るたびに寄る年波を感じるようになった。かつてピストン式エンジンが木製のプロペラをまわし、木製フレームに布張りの翼の飛行機を飛ばせていた時代を憶えているからだ。
しかもビクトリー・スミスの飛行機はただの高級プライベートジェットではない。十万フィート近い高度を音速の三倍で南へ飛んでいる。二発のエンジンはとても静かで、細くかん高い音があたかも腹のなかで鳴っているように感じるだけだ。
窓の外では星と太陽の光がおなじくらいに明るく輝き、眼下の雲の色が見わけられるくらいだ。世界は雲の層によっていくえにもおおわれている。この高度からはいちばん高い雲の頂上もはるかに低く、地面にへばりついているように見える。雲の渓谷《けいこく》はところどころひらいて、下の氷と雪がわずかにのぞいている。あと数分で南海峡に達し、アコード国領空から出るだろう。搭乗している通信技術官によれば、この飛行機のまわりはアコード国戦闘機の飛行中隊がかこんでおり、サウスモースト市の大使館専用空港まで護衛していくことになっている。しかしアナービーの肉眼で確認できるのは、頭上の空でときおりまたたく光だけだった。
やれやれ。最近はやたらと要人扱いされるし、生身《なまみ》の者の目には見えないほど速く、遠くまで移動させられる。
スミス将軍のプライベートジェットは、もとは超音速偵察爆撃機だが、人工衛星時代の到来によって無用の長物になったものだった。
「防空局からはただ同然で譲《ゆず》り受けたわ」スミスは搭乗するときにいった。「空気が雪になって降り積もりはじめたら、こういう乗りものはすべてガラクタ同然になるんだから」
そうなったら、まったく新しい交通手段とその産業が生まれるのだろう。弾道飛行船か、反重力浮遊船か。いや、そんな想像は無意味かもしれない。今回の任務が失敗したら、産業などこの世界から跡形《あとかた》もなく消え、廃嘘と廃櫨のあいだで小ぜりあいがはてしなくつづくだけになるはずだ。
機体の中央にはコンピュータと通信機器のおさめられたラックが何列もならんでいた。乗りこむまえには、レーザーとマイクロ波の通信アンテナ格納ポッドが翼の下にぶらさがっているのが見えた。通信技術官は機内の機器を、ランズコマンド市にいるのとおなじような高い安全性を確保しつつ、軍のネットに接続させていた。
この飛行機に客室乗務員は乗っていない。アナービーとスミス将軍は、すわって何時間かするとひどくごつごつして感じられるようになる小さな座席に縛《しば》りつけられていた。それでも機体後部の区画でネットにぶらさがっている兵士たちにくらべれば、よほど楽だろう。その十個分隊は、将軍が連れてきた護衛のすべてだった。
ビクトリー・スミスは無言で仕事に没頭していた。副官のティム・ダウニングは将軍のコソピュータ関連装備をすべて機内にもちこんでいた。それらの無骨な箱はとても高性能で、防備も万全なのだろう。あるいはとても旧式な代物《しろもの》なのか。この三時間、将軍は五、六枚の画面にかこまれてすわり、それらのまたたきを目に反射させていた。なにを見ているのか。軍用ネットに広大な一般ネットを組みあわせれば、まるで神のような視点が得られるはずだ。
アナービーの画面には、サウスモースト市の地下建設についての最新情報が映し出されている。偽《にせ》データもふくまれているが、彼はもとの設計をよく知っているので、実際の姿の見当はついた。もう何度めかわからないが、注意を画面の表示に引きもどした。どうもいけない。大戦中だった若い頃は、いまの将軍のように集中できたものだ。しかし今日は、どうしても今後について考えてしまう。現在の情況と、もはや逃げ道はないと思える世界の終末のほうに頭がむいてしまう。
海峡の上に出たようだ。この高度からだと、海氷の亀裂が繊細《せんさい》なモザイク模様に見える。
そのとき、通信技術官の一人が声をあげた。「うわ! いまの、見ましたか?」
アナービーのところからはなにも見えなかった。
「ああ! まだ追いかけてるところだ。よく調べろ」
「わかりました」
アナービーのまえのほうの席では、技術官たちが画面にむかって身をのりだし、キーを叩いたり装置を操作している。さまざまな光がまたたいているが、アナービーにはそれらの画面の文字は読みとれないし、そもそも表示フォーマットが使い慣れているものではなかった。
気がつくと、うしろのビクトリー・スミスも席から立ちあがって、技術官たちのほうを熱心に見つめている。彼女の画面もむこうとは連動していないらしい。神のような視点≠ニ思ったのは、いささか買いかぶっていたようだ。
しばらくして、将軍は手をあげて技術官の一人に合図した。
技術官は答えた。「どこかの国が核爆弾を爆発させた模様です」
「そう」スミスはいった。アナービーの画面にはなにも映っていない。
「かなり遠くで、どうやら北海上空のようです。これからそちらの画面に閲覧窓をひらきます」
「アナービー軍曹のほうにもね」
「わかりました」
アナービーの画面からサウスモースト市の情報が消え、北海岸の地図に変わった。パラダイス島の北東千二百キロの地点を中心に、色分けされた曲線が同心円状に広がっている。たしかにそこにはティーファーの補給基地があるが、氷原のかなたから軍勢を送りこむのでもないかぎり、なんの価値もない海山だ。そして、たしかにかなり遠い。飛行機が飛んでいる位置からすると、ほとんど世界の反対側だ。
「爆発は一回だけ?」スミスが訊いた。
「はい。そしてかなり高空です。瞬間的な攻撃ですが……爆発力はせいぜい一メガトンにすぎません。この地図は衛星データ、および北海岸とプリンストン市からの地上観測データをもとに作成しています」
地図のあちこちに記号があらわれた。データを提供したネットワーク上のサイトをしめす参照記号だ。なるほど。パラダイス島からは目撃情報さえとどいているらしい記号によると、大学の天文台のようだ。
「こちらの損害は?」
「軍事的な損害はありません。商用衛星二機が通信|途絶《とぜつ》していますが、一時的なものと思われます。様子見の一発でしょうか」
ではこのあとなにがつづくのか。テストか。警告か。アナービーは画面を見つづけた。
ジョー・シンは一年前にもここへ来たことがあったが、それは六人乗りの小型艇で、一日のうちにこっそり降りて帰るという任務だった。しかし今日は、百万トンの星間船であるインビジブルハンド号を操縦しているのだ。
まさしく征服者の登場だ――その征服者は、自分たちは救助者だと名のっているのだが。
ジョーの隣の、かつて行商人の船長席だったところには、リッツァー・ブルーゲルがすわって、次から次に些末《さまつ》な命令を出している――まるで愚人《ぐじん》パイロットたちを自分で指揮しようとしているかのようだ。
インビジブルハンド号はアラクナ星の北極上空に進入し、大気圏をかすめながら、強力な噴射で一気に減速した。一Gを上まわる減速が千秒近くつづいた。減速噴射をおこなったのは広い海の上空で、蜘蛛《くも》族の人口集中地帯からは遠く離れている。それでも目撃した者はいるだろうし、彼らにはかなり明るく見えたはずだ。ジョーの目にも、眼下の氷と雪に映る噴射炎の輝きが見えた。
ブルーゲルは、どこまでもつづく氷原をじっと見ていた。その顔はなにか強い感情を秘めている。不毛の土地としか思えないものを見ての嫌悪感か、これから副官として支配することになる世界への勝利感か。おそらくその両方だろう。そしてこの船橋では、その勝利感と暴力的な意図がブルーゲルの口調に、ときには言葉そのものにもあらわれていた。L1点のトマス・ナウはまだ演技をつづけなければならないかもしれないが、こちらのリッツァー・ブルーゲルはすでにみずから化けの皮を剥《は》ぎとっていた。
ジョーはブルーゲルの私用区画へつづく廊下を見たことがあった。壁ではピンク色の渦が、官能的だが重く不気味にずっと回転していた。その廊下のむこうで上級船員会議がひらかれたことはない。L1点を出発してからあと、ブルーゲルがアン・ラング領兵に吹きこんでいるのを聞いたのだが、勝利の暁《あかつき》にはそれを祝うために特別報酬として冷蔵庫からいいものを引っぱり出してきてやるといっていた。
〈〈いや、考えるのはよそう。ぼくはもう知りすぎてるんだ〉〉
愚人パイロットの話し声によると、軌道画面に表示されている数字はまちがいないようだ。
ジョーは顔をあげ、ブルーゲルの好みそうな堅苦しい口調で報告した。
「燃焼終了しました。現在、高度百五十キロの極軌道に乗っています」これ以上高度をさげたら雪靴をはかなくてはいけない。「千キロメートル四方から見られてしまいますが……」
ジョーは言葉にあわせて心配そうな顔をしてみせた。L1点を出発してから、彼はずっと無邪気《むじゃき》な愚か者を演じてきた。危険なゲームだが、このおかげですこしは余裕をもてた。
〈〈こうしていれば、もしかしたらそのうち、殺戮《さつりく》を避ける方法をみつけられるかもしれない〉〉
ブルーゲルは偉そうににやりとしてみせた。「もちろん見られるさ、シン主任。姿を見せて、それをやつらが解釈したデータをネットワーク上で改竄《かいざん》するんだ」そしてインビジブルハンド号の愚人区画を呼び出した。「ミスター・フオン! こちらの到着はうまくごまかしたか?」
愚人区画は常人にはとても正視できないような場所だが、ビル・フオンの声は落ち着いたようすで帰ってきた。「順調です、領督《りょうとく》。三つのチームが衛星の報告データを合成しています。L1によれば、とくに問題は起きていないようです」
L1側からフオンと連絡をとっているのは、リタ・リヤオのチームだろう。ナウはもうすぐ、過密スケジュールになるまえの小休止と称して、リタを休ませるはずだ。その小休止≠アそ攻撃開始の合図だと、ジョーは今日になってようやく知った。
フオンはつづけた。「念のためにもうしあげておきますが、蜘蛛族はいつか真相に気づくはずです。偽装工作が効果を発揮するのはせいぜい百キロ秒でしょう。敵に頭のいいやつがいれば、もっと早く見破られるかもしれません」
「ありがとう、ミスター・フオン。よけいなことはいわなくていい」ブルーゲルはジョーに穏やかな笑みをむけた。
地平線の広がる眺めが一部消えて、L1点にいるトマス・ナウの映像があらわれた。上席領督は湖公園の山荘で、エズル・ヴィンやファム・トリンリといっしょに席についている。日差しにきらめく水面が背後に見える。この対話の模様をすべての追従者とチェンホーに公開するつもりらしい。ナウの視線はインビジブルハンド号の船橋を眺め、リッツァー・ブルーゲルをみつけたようだった。
「おめでとう、リッツァー。いい軌道に乗せてくれた。リタによると、そちらは地上のネットと緊密な接続を実現しているようだ。こちらからもいい知らせがある。アコード国情報局長官がサウスモースト市を訪れているのだ。キンドレッド国の首脳はひと足先に乗りこんでいる。突発的な事故でもないかぎり、しばらくは平和がたもたれるはずだ」
ナウはあたかも善意から話しているような口調だ。驚いたことに、リッツァー・ブルーゲルもおなじようによどみなく話した。
「わかりました。こちらは声明発表とネットワーク乗っ取りを――」スケジュールを確認するように、しばし間《ま》をおいた。「――五十一キロ秒後にはじめます」
もちろん、ナウはすぐには答えなかった。インピジブルハンド号からの電波は惑星の影の側から中継衛星に送られ、それから五光秒の距離をわたってL1点へとどくのだ。答えが返ってくるにはそれからさらに五秒かかる。
きっかり十秒後に、ナウは笑みを浮かべた。「よろしい。こちらでは、作業量がピークに達したときでも余裕をもって対応できるように、全員の勤務ペースを調節しておく。幸運を祈る、リッツァー。すべてはきみたちの双肩にかかっているのだ」
まやかしの言葉はさらに二、三度やりとりされて、ようやくナウの映像は消えた。ブルーゲルはすべての通信回線が船内だけになったのを確認した。
「作戦開始の合図はいつ来てもおかしくないぞ、ミスター・フオン」ブルーゲルはにやりとした。「二十キロ秒後には、一部の蜘蛛をこんがり焼いてやるんだ」
レーダー画面に目を凝《こ》らしていたシェプリー・トリッパーが、あっと声を洩らした。「き――来ました! おっしゃるとおり、八十八分後にまた北からあらわれました」
シェプリーはちゃんと数学の勉強をしているし、ネザリングのもとで一年近く働き、衛星飛行の理論もいちおう理解している。しかし、一度投げあげたら二度と落ちてこない石≠ニいう概念が、まだどうも納得できていないようだった。数学で予想されたとおりの時間と方位で、水平線上に通信衛星があらわれると、いまだにシェプリーはうれしそうな声をあげるのだ。
しかし今夜ネザリングが予想したのは、通信衛星などではない。そして彼も助手とおなじように驚き――はるかに恐怖を覚えていた。オーロラの細くなった先端の位置は、レーダーでやっと二、三回とらえることができただけだった。大気圏の外にいるにもかかわらず、それは減速していた。
プリンストン市の防空局のサイトは、この報告を聞いてもあまり興味をしめさなかった。ネザリングはそこの連中と長年のつきあいなのだが、今夜にかぎって彼らの対応は他人行儀なのだ。自動応答プログラムが、彼らの情報提供について感謝し、あとは適切な処理をおこなうというだけだった。世界規模のネットワークは高空で核爆発が起きたという噂でもちきりだ。しかしこれは爆発による現象などではない。南へ移動していくようすは、まるで低高度軌道に乗った衛星のように見えた……。そしていま、それは計算どおりに北からふたたびあらわれたのだ。
「今度は見えるでしょうか? ほぼ真上を通るはずですよ」
「どうかな。真上を通過する衛星を追尾できるほど高速で旋回できる望遠鏡はない」ネザリングは階段のほうへもどりかけた。「十インチなら使えるかもしれないが」
「そうですよ!」シェプリーが脱兎のごとくネザリングのわきを走り抜け――
「加温器をしっかりつけろ! 電源ケーブルに気をつけろ!」
――階段を騒々しく鳴らしながら見えなくなった。
しかし、あの子のあわてぶりは正しいかもしれない。あの物体は二分もしないうちに頭上にあらわれ、さらに二分後にはふたたび姿を消しているはずだ。ふむ。十インチの望遠鏡を引っぱり出している余裕さえないかもしれない。ネザリングは立ち止まり、机の上にあった広視野の四つ目鏡をつかみ、シェプリーのあとを追って階段を駆けあがった。
上に出ると、かすかに風が吹いていた。熱線入りゲートルを脚に巻いていても、寒さが野生蜘蛛の牙のように鋭くしみとおってきた。あと七十分ほどで太陽が昇ってくるはずだが、弱々しい光とはいえ、観測に最適な時間はそれで終わりになってしまう。しかし、そんなことはどうでもよかった。今夜の幸運は、冷えきった地面から昇ってくるのだ。
謎の物体が頭上を通過するまであと一分。もう水平線の上に出て、南へこちらへむかってきているはずだ。ネザリングはメインドームの曲がった壁にそって移動し、北の空が見える位置に立った。正面の装置収納棚で、観光客用の十インチの小型望遠鏡を引っぱり出そうとシェプリーが格闘している。手伝ってやりたいのだが、本当にもう時間がなかった。
見慣れた星空がくっきりと水平線まで広がっていた。こんなふうに空気が澄んでいるからこそ、オブレト・ネザリングにとってこの島は楽園《パラダイス》なのだ。この空のどこかで、物体に反射した太陽の光がゆっくりと動いているはずだ。死んだ太陽の光はとても弱いので、かすかにしか見えないだろう。ネザリングはじっと目を凝らし、動いていくわずかな光をとらえようと意識を集中した……。しかしなにも見えない。もしかしたらレーダーのまえにすわっているべきだったかもしれない。いままさにその画面に貴重なデータがあらわれているところかもしれない。
シェプリーは収納棚からようやく十インチを引っぱり出してきて、今度は向きを調整しようと苦労していた。「ちょっと手伝ってもらえませんか!」
見当ちがいだったようだ。幸運は天使かもしれないが、天使は気まぐれなのだ。ネザリングはシェプリーのほうをむき、助手をしばらく無視していたことを恥ずかしく思った。もちろん、そのあいだもほかの目は空を見ていた。天頂のすこし下には、小さな星があったはずだが……。群盗星団の密集した星々が、なにか黒いものにおおわれたようにつかのま消えた。なにか黒いもの……。なにか……巨大なものに……。
体面もなにも忘れて、ネザリングは横むきにひっくり返り、四つ目鏡を小眼《しょうがん》に押しあてた。
今夜はこれしかないのだ……。予想した進路のとおりにその視野を移動させながら、目標をもう一度とらえられることを祈った。
「いったい……どうしたんですか?」
「シェプリー、上を見ろ。とにかく上を見ろ」
しばらく沈黙したあとに、シェプリーは声をあげた。「うわ!」
ネザリングは聞いていなかった。四つ目鏡の視野にその物体[#「その物体」に傍点]をとらえているのだ。全神経を集中してそれを追い、見つめ、記憶に焼きつけようとした。見えているのは、光の欠如だった。星雲の上を横切っていく巨大なシルエットだ。視角にして四分の一度近い。星雲のすきまにはいると、つかのま見えなくなったが……しばらくしてまたあらわれた。形状もおおむねわかった。太い円筒形で、下向きに尖《とが》っている部分がある。船体中央部分から複雑な形状のものが突き出しているようだ。
船体中央部分……。
その軌道の先は、もう南の水平線まで星がまばらに散らばっているだけだ。ネザリングはなおも追いかけようとしたが、無駄だった。群盗星団を横切らなかったら、そもそも気づきさえしなかったかもしれない。
〈〈たしかに幸運だった!〉〉
ネザリングは四つ目鏡をおろし、立ちつくした。「もうしばらく観察をつづけよう」あれといっしょに飛んでいるものがあるかもしれない。
「いや、ぼくはできればこの情報をネットに流したいんです」シェプリーはいった。「九十マイル以上の高さを飛んでいるのに、かたちがわかるくらい、でかかった。きっと半マイルくらいの長さでしたよ!」
「わかった、やってこい」
シェプリーは階段の下へ消えていった。三分、そして四分が経過した。南の水平線の上をすべっていく小さな光が見えた。たぶん、低軌道通信衛星のひとつだろう。ネザリングは四つ目鏡をポケットにしまって、ゆっくり階段をおりはじめた。防空局も今度こそ耳を貸すだろう。ネザリングはアコード国情報局からもかなりの契約金を受けとっていた。キンドレッド国が最近、浮揚衛星を打ち上げはじめていることも知っていた。
〈〈こいつはわが国のでもないし、キンドレッド国のでもない。こいつの登場によって、今回の戦争はつまらないいさかいにすぎなくなったんだ〉〉
世界は核戦争の危機に瀕《ひん》しているのに、今度はさらになにが起きようとしているのか……。かつてシャケナー・アンダーヒルが、天空にある深い冬眠穴≠ノついて述べていたことを思い出した。しかし、天使は冷たく豊かな地下からやってくるはずだ。空虚な空からではなく。
階段の下までおりると、ちょうどシェプリーと出くわした。「だめです、台長。やってみたんですけど――」
「本土との接続がダウンしてるのか?」
「いえ、ちゃんと生きてます。防空局が、これまでとおなじように素《そ》っ気《け》ないんです」
「たぶん、もう知ってるんだろう」
シェプリーはいらいらと手を突き出した。「そうかもしれません。ただ、ネット上の噂話で奇妙なことが起きてるんです。ここ数日、ばかげた内容の書きこみがひどく多い。世界の終末についての予言とか、雪の怪物の目撃談とか。笑い飛ばせばいいものだし、ぼくもお返しにほら話を書いてやりました。ところが今夜は、そういうばかげた書きこみがとてつもなく多いんです……」シェプリーは言葉が尽きたように黙りこんだ。急にとても幼く、不安そうな表情になった。「なにか……なにかへんですよ、台長。ぼくらが見たものと関係ありそうな書きこみを二件みつけたんです。海のまんなかの上空でああいうことが起きれば、こんな目撃談になるかなという内容です。でも、大量のばかげた書きこみのなかに埋もれてしまっている……」
ふむ。ネザリングは部屋を横切って、操作盤のわきにあるいつもの席にすわった。シェプリーはそわそわしながら、ネザリングがなにか決めるのを待っている。
〈〈わたしが初めてこの天文台へ来たときは、操作機器は三面の壁をおおっていたものだ。計器もレバーも、ほとんどすべてアナログだった。いまはほとんどの装置がデジタル化され、小さくて正確になったが……〉〉
なかの仕掛けが見えないような機械をどうして信用できるのかと、シェプリーにむかって何度か冗談をいったことがある。シェプリーは、なぜコンピュータが信用できないのかまったく理解できないようすだった。しかし今夜、その意味がわかったはずだ。
「おい、シェプリー、じかに電話をかけてみるっていうのはどうだ?」
51
アナービーにとって、乾燥ハリケーンに遭《あ》うのは大戦以来だ。しかし当時は地上に――というよりもほとんどは地下に――いたし、憶えているのはたえまない風と、渦巻きながら降り積もる雪。そしてどんな細いすきまや亀裂からもはいりこんでくるその雪の粒子のこまかさだった。
今回は空にいて、高度四万フィートで降下中だ。薄暗い太陽の光のなかで、直径が何百マイルもあるハリケーンの渦巻き雲が見えた。時速六十マイルの風が吹いているはずだが、かなり遠いために静止して見える。乾燥ハリケーンは、破壊力という点で明期の湿潤《しつじゅん》ハリケーンには遠くおよばない。しかし何年も勢力をたもって、その冷たい目を拡大しながら暴れまわるのだ。世界の温度は、水が結晶化するさいに放出される潜熱によってしばらくは平衡状態になる。しかしその安定期をすぎると温度は急降下し、次は空気そのものが結露《けつろ》しはじめるのだ。
ジェット機は見えない乱気流によって上下左右に揺さぶられながら、雲の壁へむかって降下していった。パイロットの一人が、海峡上空高度五万フィートのときより気圧がさがっていると話した。アナービーは窓に顔を近づけ、できるだけ前方を見た。ハリケーンの目のなかにある地域は、雪と氷によってまだらにおおわれた大地が太陽の光によってきらめいている。地表のすぐ下で活動しているサウスランド国の産業の放つ熱も、ぼんやりと赤く見えている。
はるか前方ではぎざぎざの山脈のてっぺんが雲をつらぬいてそびえていた。この色と模様は、ずっとむかしにシャケナーとともに歩いた暗期の風景そのものだった。
アコード国大使館はサウスランド国に専用空港をもっている。市中心部からすこし離れたところにある長さ四マイル、幅二マイルの土地だ。植民地時代からの利権として残る数多い租界のなかで、これはまだ小さいほうだ。このような帝国の名残《なごり》は、友好的な関係の足かせとなったり、両国の経済を飛躍的に発展させるもとになったりしてきた。
しかしいまのアナービーにとっては、ひどく短く、油まみれの氷の帯にしか見えなかった。長い軍隊歴のなかでも最高に派手な着陸だった――改装された爆撃機は、車輪を転がすというよりもすべらせながら、雪をかぶった倉庫群のわきをどこまでも走っていった。
パイロットが優秀だったのか、たんに幸運だったのか。とにかく飛行機は、滑走路の最終的な行き止まりをしめす雪の山の百フィート手前でなんとか停まった。しばらくすると甲虫《こうちゅう》のようなかたちをした車両が近づいてきて、飛行機を格納庫へ牽引《けんいん》していった。屋外を歩く姿はない。通り道からすこしはずれた地面は、きらきら光る二酸化炭素の霜《しも》におおわれていた。
巨大な格納庫内は照明が煌々《こうこう》とともり、扉がしめられると、地上要員たちが昇降階段を急いで押してきた。昇降階段の下には、正装した数人が待っている。アコード国大使と大使館の警備隊長だろう。ここはまだアコード国領内なので、サウスランド国民がいるはずはない……と思ったとき、二人の要人の上着についているサウスランド議会の記章が目に映った。外交ルールを踏み越えるほど熱心な歓迎者がいるようだ。
中央ハッチがひらき、冷えきった空気がどっと機内に流れこんできた。スミスはすでに荷物をまとめ、ハッチへむかっている。アナービーはしばらく席に残り、情報収集をしていた技術官を手招いた。
「あのあと、核爆発はあったのか?」
「いいえ、ありません。ネットじゅうで確認しています。あのときの一メガトンの爆発一回きりです」
ランズコマンド市の下士官クラブはいっぷう変わっている。ランズコマンド市から民間の歓楽街までは車で一日以上の距離があるし、辺鄙《へんぴ》な駐屯地《ちゅうとんち》にくらべると予算は豊富だ。ランズコマンド市の下士官はほとんどが技術官で、四年以上の大学教育を受けている。そして多くは、クラブより数階下にある地下司令管制センターで働いている。そのため、よくあるゲームテーブルや体操器具や炭酸飲料のバーのほかに、厳選された本棚や、アーケードゲームをやったり勉強をしたりできるネット接続したコンソールがあった。
ビクトリー・ライトヒルは、バーの奥の暗がりで前かがみになり、反対の壁に次々と映し出されるコマーシャル映像を見つめていた。このクラブのいちばん変わっているところは、彼女の存在が許されることだろう。ライトヒルは少尉であり、多くの下士官にとっては忌むべき天敵だ。しかしここの伝統では、士官でも階級章を隠し、下士官による招きがあれば、入室を許されることになっている。
許されはするが、ライトヒルの場合、歓迎はされなかった。彼女のチームの抜き打ち査察《ささつ》や、情報局長官との特別なつながりについてはよく知られており、彼らと親しくつきあいたいというやつはあまりいないのだ。とはいえ、ビキ以外のチームメンバーは下士官だ。いまは大きくふくらんだ機内持ち込み用、ハッグを提《さ》げて、クラブのあちこちに散っている。ほかの下士官たちも彼らに対しては、親しくするとはいえないが、話しかけたりはした。情報局に属さない者でも、世界が危機的情況にあることは知っている――そして謎を秘めたライトヒルのチームは、なんらかの内部情報をもっていると想像されるのだ。
「サウスモースト市に行ってるのは、スミスだろう」バーにすわった先任軍曹の一人がいった。
「ほかにだれがいる?」
彼はライトヒル・チームの伍長の一人にむかって顔を傾け、反応を待った。とても無邪気《むじゃき》そうで――伝統主義者流にいえば――破廉恥《はれんち》なほど若い顔のスアビズメ伍長は、肩をすくめただけだった。
「さあ、わかりません、軍曹。本当に知らないんです」
先任軍曹は皮肉っぽく食手《しょくしゅ》を動かした。「おや、そうなのか? じゃあなぜ、おまえらライトヒルの取り巻きたちは、搭乗用のバッグをかかえてるんだ? どこかへ行く飛行機を待ってるんじゃないのか?」
そんなふうに探りをいれる相手に対して、いつものビキなら行動に出るはずだった。スアビズメを相手から引き離すか――もし必要なら――この先任軍曹に口をとじさせるか。しかしここは下士官クラブであり、ビキにはなんの権威もない。そもそもここへ来たのは、チームがなるべくめだたないようにするためなのだ。
さいわい、しばらくすると先任軍曹は、それ以上若い伍長からなにか聞き出そうとしても無駄だとさとったらしく、バーのもとの仲間たちのほうにむきなおった。
ビキはそっと息をついた。さらに姿勢を低くして、バーの天板《てんいた》の上に目だけがのぞくようにした。だんだん混雑してきて、痰壺《たんつぼ》に唾を吐く音がBGMのようにたえまなく聞こえる。会話する声は少なく、笑い声はさらに少ない。非番のときの下士官はもっとにぎやかなものだが、いまの彼らは懸念《けねん》の空気におおわれている。視線はテレビに集まっていた――下士官協同組合が購入した最新型の可変フォーマット映像装置だ。バーの裏の暗がりで、ビキは思わず笑みを洩らした。もし世界があと何年か生き存《ながら》えたら、このへんの装置は、シャケナー・アンダーヒルが使っている映像呪術用のディスプレーとおなじくらい高性能になるはずだ。
テレビは民間のニュースサイトの映像を流していた。ひとつの窓は、サウスモースト市の大使館専用空港に設置された貸しカメラがとらえた粗《あら》い映像をうつしている。滑走路を牽《ひ》かれてくる飛行機は、ビキもこれまで二度しか見たことのない機種だ。よくあることだが、機密事項であると同時に、時代遅れな代物《しろもの》なのだ。そのことについての解説はなく、かわりにメインの窓では、女性キャスターがこのスクープ映像を自慢しつつ、この飛行機に乗っている人物について推測をはじめた。
「……相手国の主張はともかく、国王ではありません。宮殿やプリンストン空港には記者が張りついていましたが、王族の動きはありませんでした。ではこうしてサウスモースト市に到着したのは、いったいだれなのでしょう?」
キャスターはそこで間《ま》をおき、数台のカメラは彼女の正面をとりかこむように近づいた。映像はそばの画面にもまたがって広がり、おかげでとても親しく話をしているような印象になった。
「じつはこの使節は、アコード国情報局長官、ビクトリー・スミスなのです」カメラはすこし退がった。「王に仕える情報将校にこうもうしあげたいですね――報道陣から逃げても無駄です。すべて公開しましょう。あなたがサウスランド国民といっしょに歩くさまを、みんなに見せてあげてください」
べつのカメラは格納庫のなかを映していた。スミスの乗った飛行機が牽引されてなかにはいると、観音開きの扉がしめられていった。まるでおもちゃの。ジオラマのような眺めだ。未来的な恰好の飛行機があり、とじた屋根をもつ牽引車がうなりながら広い格納庫の床を走りまわっている。だれも歩いてはいない。
〈〈格納庫のなかは与圧されていないのかしら?〉〉
乾燥ハリケーンの目のなかとはいえ、そこまで気圧はさがっていないはずだ。しかししばらくすると、箱形の車から兵士が何人か出てきて、昇降階段を飛行機のわきまで押していった。
下士官クラブのなかはしんと静まりかえった。
一人の兵士が機体の中央ハッチへ昇り、それをあけると……。大使館の貸しカメラからの映像が途切《とぎ》れ、王家の紋章に切り換わった。
驚いたような笑い声につづいて、拍手と歓声が湧き起こった。「将軍の勝ちだな!」だれかが叫んだ。大衆とおなじく、彼らもまたサウスモースト市でなにが起きているかを知りたがっているのだが、それ以上にニュース会社に対してはずっとまえから不快感をもっているのだ。今回のあからさまな論評も、わが身に対する侮辱《ぶじょく》のように感じていた。
ビキは自分の部下たちを見まわした。ほとんどはテレビを観《み》ていたが、それほど関心はなさそうだった。むこうでなにが起きているかは、すでに知っているのだ。そして――さきほどの口数の多い先任軍曹が推測したとおり――もうすぐ現地へ飛ぶことになっている。残念ながらテレビではなにもわからなかったが、じきに自分たちの目で見ることになるのだ。
バーやテレビから離れた奥のほうでは、熱心なゲーム愛好家たちがアーケードゲームのマシンで遊んでいる。そのなかにはビキの部下が三人まじっていた。ブレントはこのクラブへはいったときからずっとそこにいる。いまは、頭をすっぽりおおうヘルメット状の専用ディスプレーを使うゲームをやっている。彼を見ていると、世界が破局のふちに立たされているとはとても信じられない気分だ。
ビキは席を立ち、黙ってゲームマシンのほうへ歩いていった。
ベニーの酒場は、開店以来三十五年で最高の瞬間を迎えようとしていた。
〈〈とはいえ、このあとも店はつづくだろうし、商売としても大きくなるだろうからな〉〉
不思議な話だが、ベニーの酒場はL1点の奇妙な共同体において社交場としての役割をずっとはたしてきた。まもなくそこに、異種族がくわわるのだ。人類が初めて出会うハイテク文明をもつ種族だ。きっとこの酒場は、その驚くべき交流の中心地になるだろう。
ベニー・ウェンはテーブルからテーブルへ飛びまわって、手伝いの給仕人たちに指示を出したり、客に挨拶《あいさつ》したりしながら、ときどき頭の隅では、とてつもない未来のようすを思い浮かべたり、蜘蛛《くも》族をどんなふうにもてなせばいいか想像したりした。
「下のフロアに出す酒が切れてるんだ、ベニー」フンタの声が耳にはいった。
「ゴンレに頼めばいいんだよ、パパ。必要なものはなんでも出すって約束なんだから」見まわすと、花や蔓《つる》植物の迷路のむこうにある酒場の東のフロアに、ゴンレ・フォンの姿があった。
ベニーは父親の返事も聞かず、セットしたばかりのテーブルへ近づいていくエマージェントとチェンホーの一行に声をかけた。
「いらっしゃいませ……いらっしゃい。やあ、ララ! 当直何回分ぶりかな」店内を見せるときの誇らしさと、旧友にあったうれしさがまじりあい、胸が熱くなった。
しばらく雑談したあと、そのテーブルを離れて隣へ、さらに隣へと移っていった。そのあいだにも、客へのサービスがいきとどいているか、目をひからせた。ゴンレと父親が二人とも当直中とはいっても、給仕人たちを整然と動かすのはたいへんなのだ。
「ほら、来てるわよ、ベニー」ゴンレが耳もとでささやいた。
「来てるのか!」ベニーは答えた。「正面のテーブルに案内してくれよ!」
ベニーはテーブルから離れ、中央の空間へむかった。東西南北と上下をあわせた六方向のフロアはすべて客席だ。領督《りょうとく》の許可を受けて仕切り壁を切りひらき、かつて会議室だった空間を吸収して、いまではこの酒場は仮設舎で最大のひとつづきの空間になっている。湖公園をのぞけば、L1点でも最大の居住空間だ。いまは、エマージェントとチェンホーをあわせた総員の四分の三が同時に当直につき、蜘蛛族救出作戦へむけて最後の準備作業にはいっている。最終段階の直前には、ほぼ全員がこのベニーの酒場に集まるだろう。救出劇であり、新しい始まりであり、同時に人々の再会の場にもなるはずだ。
酒場の中央の空間は、二十面体の映像表示装置になっている。比較的いい状態をたもっているビデオ壁紙を、テント状に組んだものだ。原始的だが、連帯感を生みやすい。客はどこからでもおなじ映像を共有できる。ベニーは空間をすばやく渡り、足先が映像装置の端をかすめるようにして通りすぎた。ここからは、蔓植物や花のあいだに配置された数十のテーブルに、何百人も客がすわっているのが見える。ベニーは蔓をつかんで自分の身体《からだ》に制動をかけ、上のフロアにあるテーブルのわきで静止した。そこは中央の空間にむかって突き出したところにあり、トマス・ナウが貴賓席《きひんせき》≠ニ称したことのある席だ。
「キウィ! ここにすわって、おれたちの歓迎を受けてくれないか」
ベニーはテーブルの上を跳び越え、キウィの隣で漂った。
キウィ・リゾレットははにかんだ笑みを返した。いまの彼女はベニーより五、六歳上になっているはずだが、ふいにとても幼く、不安そうに見えた。肩のところになにかをかかえている――ノースポー湖の飛び猫だ。湖公園の外で見るのは初めてだった。キウィは酒場のなかを見まわし、その盛況ぶりにあらためて驚いた顔をした。
「ほとんど全員がここにいるみたい」
「もちろんさ! きみが来てくれてちょうどよかった。現在の情況についてすこし内部情報を聞けたらうれしいな」
領督からの善意の大使というわけだ。そしてキウィはその役にぴったりに見えた。今日幾密スーツは着ておらず、レースのワンピースの裾をふわりと漂わせている。湖公園の完成|披露《ひろう》パーティのときより美しいくらいだ。
キウィはためらいがちに席についた。ベニーはおつきあいで、しばらく腰をおろした。そして、杖《つえ》型の制御装置を彼女に渡した。
「ゴンレがつくってくれたんだ。あまり見栄えがよくなくてもうしわけないけど」ベニーはそれで映像装置とさまざまな接続チャンネルをしめした。「それから、酒場のどこにでも声でアクセスできるようになっている。使ってくれ。いまの情況についていちばんよく知っているのは、ここではきみだから」
しばらくためらってから、キウィはその杖を手にとった。反対の手は飛び猫をしっかり押さえている。猫は翼をもぞもぞと動かし、居心地のいい体勢を探したが、とりあえず文句はないようだった。
領督の側近《そっきん》たちのなかで、キウィはいちばんの人気者だ。大使というよりもお姫さまだ。ベニーはゴンレ・フォンにそう話してみたことがある。ゴンレはお姫さまという言葉に、シニカルな笑いを浮かべたが、まあねと認めた。キウィはだれからも信頼されている。圧制のなかの一片の安らぎだ……。
そんな彼女も、ときとしてとまどったような表情のときがある。今日もそうだ。ベニーは椅子にすわりなおした。忙しい仕事はしばらくほかにまかせることにしよう。キウィがベニーにもうすこしここにいてほしがっているのが、なんとなくわかった。
キウィはしばらくして顔をあげ、いつもの微笑みをすこしだけ浮かべた。「ええ、ショーの案内役はわたしがやるわ。トマスからやり方を教えてもらったから」飛び猫から手を放して、ベニーの手を軽く叩いた。「心配しないで。あやうい救出作戦だけど、きっとうまくいくから」
キウィが杖を操作すると、酒場の中央映像装置は発表用の色に変わり、花の咲いた蔓植物にもその色が反射した。キウィが話すと、その声は無数に配置された小型スピーカーから流れたが、だれにとってもすぐ隣から聞こえるように位相が調整されていた。
「みんな、こんにちは。ショーへようこそ」楽しげで自信に充《み》ちた、いつものキウィだ。
中央映像装置は複数の画面を映していった。キウィの顔、インビジブルハンド号から見たアラクナ星、ノースポー湖の山小屋で執務しているトマス・ナウ、インビジブルハンド号の軌道と複数の蜘蛛族国家がもつ軍備をしめした図……。
「知っているでしょうけど、みんなの友人ビクトリー・スミスはついさきほどサウスランド国に着いたわ。もうすぐ彼女は議会に到着する。そうすれば、わたしたちがまだ見たことのないものが見られる。つまり、地上へ投下した人類のカメラが直接とらえた映像よ。待ちに待ったものが、ようやくじかに見られるのよ」
中央の映像のなかでキウィの顔が大きな笑みを浮かべた。
「それは未来の最初の肌ざわりだと思っていいでしょうね。アラクナ星の住人たちをまじえた生活の始まりよ。でもそのまえに、まず彼らの戦争を阻止しなくてはならないし、わたしたちの存在をおおやけにしなくてはいけないわ」
ふいにキウィは映像を見おろし、黙りこんだ。まるで、これからやろうとしていることの重みをいきなり意識したようだ。
「いまから四十キロ秒あまりで、こちらは低高度軌道からのネットワーク操作を開始し、インビジブルハンド号の軌道はキンドレッド国とアコード国のほぼ上空へ来る。そのときに、こちらの存在を公表する予定になっているわ。その瞬間がきわめて危険であるのは、みんな知ってのとおりよ。友人となることを期待されている蜘蛛族は、これまでのどんな人類文明よりもあやうい存亡の危機に立たされている。でもみんなでこの日のために周到な準備を進めてきたのよ。公表と接触のときがきたら、きっとうまくいくはずよ――さあ、とりあえずは展開を見守りましょう。まもなく、みんなものすごく忙しくなるはずだから」
52
ラヒナー・トラクトは、奇妙なことに大佐の階級は失わなかったが、元同僚たちからは便所掃除もまかせられないほど信用ならないやつという烙印《らくいん》を押された。スミス将軍の扱いはわりあいに穏やかだった。彼が裏切り行為を働いている証拠は得られなかったが、だからといってきびしい尋問にかけるつもりはないようだった。
そういうわけで、かつて匿名の任務についていたラヒナー・トラクト大佐は、基本給と、正規の任務についているときと同額の日割り手当てをもらいながら……なにもすることがなかった。
ランズコマンド市の参謀会議で醜態《しゅうたい》をさらしたのは四日前のことだが、トラクトにとって本当の屈辱《くつじょく》は、一年近くまえから積もりつもったものだった。その重荷《おもに》に耐えるのをついにやめたときは……心の底から安堵した。ただひとつ不本意なのは、そのまま殺されるのではなく、生きる屍《しかばね》同然にされたことだった。
むかしの軍人――とりわけティーファーは、こんな醜態をさらしたときにはみずから断頭《だんとう》して果てたものだ。ラヒナー・トラクトの身体《からだ》にはティーファーの血が半分流れているが、おもり付きの剣で自分の首を切り落とすことはしなかった。かわりにカロリカ繁華街を行きつ戻りつしながら、発泡酒で五日連続、脳みそを酩酊《めいてい》させた。
〈〈ほかに行き場を失った愚か者というわけだ〉〉
発泡酒に酔ってもすぐに昏睡状態にならないくらいに暖かい場所は、もはや世界じゅうでカロリカ湾しか残っていないのだ。
サウスモースト市にだれかが――スミス将軍だろう、ほかに考えられない――飛んでいるという話は聞いた。トラクトが失敗した部分をなんとか修復しようとしているのだ。サウスモースト市にスミスが着く時間が近づく頃、トラクトは発泡酒の酔いに身をまかせていた。飲み屋でニュース映像を眺めながら、長い経験のある専門家の自分が失敗した仕事ではあるが、ビクトリー・スミスがなんとかやりとげてくれればと願わずにいられなかった。しかし彼女も失敗するはずだとわかっていた。
だれも信じてはくれないし、自分でも敵がどんな方法で、あるいはどんな理由でそんなことをしているのかはわからない。しかし確信があった。キンドレッド国を影から支援している敵がいるのだ。キンドレッド国もじつは知らないのかもしれない。しかしまちがいない。アコード国が優位に立っている技術をすべて逆手《さかて》にとり、ねじまげてくるのだ。
複数の画面に映ったサウスモースト市からの中継映像のなかで、スミスはサウスランド国議事堂の中央入り口をくぐろうとしている。繁華街でいちばん騒々しいこの飲み屋でさえ、客たちが急に静まりかえった。トラクトはバーカウンターに頭をのせ、視野がぼんやりとなるのを感じた。
そのとき、ふいにトラクトの電話が鳴りはじめた。上着から引っぱり出して顔のそばにもっていき、どうでもいいことだがおかしなことが起きたという目で、それを見た。
〈〈とうとう壊れたんだろう〉〉
あるいはなにかの広告か。安全対策のされていないゴミみたいな端宋に、重要な電話などかかってくるはずがない。
床へ投げ捨てようとしたとき、隣の席の女が彼の背中を叩いて怒鳴った。「酔っぱらいのへぼ軍人! 出ていきなよ!」
トラクトは席から降りたが、それが相手の要求にしたがうためか、それとも平和を守ろうと苦闘しているスミスやその部下たちの名誉のために反論しようとしているのか、自分でもよくわからなかった。
いざこざに決着をつけたのは、飲み屋の店主だった。トラクトは通りに放り出され、将軍の意図を教えてくれるはずのテレビから切り離された。手のなかの電話はまだ鳴っている。トラクトは受信ボタンを押し、マイクにむかってうなり声で意味不明なことをいった。
「トラクト大佐、あなたですか?」雑音だらけだが、なんとなく聞き覚えのある声だった。
「大佐? お使いになっている端末は安全対策がされていますか?」
トラクトは大声でののしった。「そんなわけないだろう、ばか!」
「ああ、それは本当によかった!」たしかに聞き覚えのある声がいった。「それならチャンスがある。さすがの彼ら[#「彼ら」に傍点]も、世界じゅうの雑談をすべていじることはできないらしい」
彼ら=c…。強調されたその言葉が、発泡酒の酔いに曇ったトラクトの脳に突き刺さってきた。マイクを口もとに近づけ、なにげない調子で訊いた。
「あんたは?」
「失礼しました。オブレト・ネザリングです。どうかお願いですから、切らないでください。たぶん憶えていらっしゃらないでしょう。十五年前にプリンストン市で講師としてリモートセンシング技術の短期講習をやったことがあります。あなたはそこに出席していらっしゃった」
「ああ……いや……憶えていますよ」それどころか、なかなか役に立つ講習だった。
「憶えていらっしゃいますか? それはよかった! では、わたしが頭のおかしな変人ではないとおわかりのはずだ。大佐、お忙しいとは思いますが、ほんのすこしの時間でいいですから、わたしの話を聞いてください。お願いします」
トラクトはふいに、通りやまわりの建物を意識した。火口原にそって伸びるカロリカ繁華街は、この世界に残されたなかでおそらくいちばん暖かい場所だろう。しかしカロリカ湾が大金持ちの遊び場だったのはずっとむかしのことで、バーもホテルもさびれている。雪さえも死んでいる。路地《ろじ》に積もった雪は二年前のもので、酔漢《すいかん》の嘔吐物や小便で汚れている。
〈〈おれのハイテク司令センターってわけだ〉〉
トラクトは風の当たらない場所にしゃがんだ。「短時間であれば、聞きましょうか」
「ああ、ありがたい! あなたが最後の希望なんです。アンダーヒル教授に電話しようとしてもすべて遮断されてしまって。あたりまえですよ。つまりこれは……」ネザリングは話が脱線しないように必死に自制しているようすだった。「わたしは天文学者で、パラダイス島で観測をしています。大佐、昨夜わたしは――」
――ひとつの都市ほどもある巨大な宇宙船を目撃した。そのエンジンの噴射が空を輝かせた。そこでその情報を報告しようとしたが、防空局からもネットワークからも無視された……。ネザリングの説明は簡潔明瞭で、一分以内に終わった。天文学者はつづけた。
「くりかえしますが、わたしは変人ではありません。本当に見たんです! 目撃者は何百人もいるはずなのに、なぜかみんな防空局から無視されているんです。大佐、信じてください」
しだいにネザリングは、体面を気にするような不安げな口調に変わっていった。こんな話を正気の相手が信じるわけはないと気づきはじめたのだ。
「いや、信じますよ」ラヒナーは穏やかにいった。ただの妄想としか思えない話だが……それですべて説明がつく。
「なんとおっしゃいました、大佐? もうしわけないんですが、そちらに確実な証拠データを送ることはできないんです。三十分前に有線回線を切られてしまって。いまは、趣味の携帯用無線機を使っていて――」いくつかの単語が乱れて聞きとれなくなった。「とにかく、それがお話ししたいことのすべてです。こんなふうになっているのは、防空局による機密保持策のためかもしれません。そのことについて大佐がなにも話せないのはわかります。しかし、これはどうしても伝えなくてはいけないことなんです。宇宙船は本当に巨大で、しかも――」
トラクトは、相手が呆然《ぼうぜん》として言葉につまっているのかと思って、しばらく待った。しかし沈黙が数秒つづいたところで、電話の小さなスピーカーから耳ざわりな合成音声が流れてきた。
「メッセージ。ネットワーク・エラーが発生しました。あとでおかけなおしください」
トラクトはゆっくりと電話を上着にもどした。口と食手《しょくしゅ》が痺《しび》れていたが、それは冷たい空気のせいばかりではない。かつてネットワーク情報収集を担当する部下たちが、自動化された通信監視システムを研究したことがあった。コンピュータの処理能力が充分にあれば、暗号化されていない通信をすべて監視し、キーワードが引っかかったときに安全対策上の対応を自動的にとることができる。理論的にはそうだ。しかし実際には、どんなに高性能なコンピュータを開発しても、拡大をつづける現代の公共ネットワークの規模には追いつかなかった。しかしどうやら、まさにそれだけの処理能力をだれかがもっているようなのだ。
防空局による機密保持策? そうは思えない。ラヒナー・トラクトは昨年一年のうちに、あらゆる方面から洩れてくるさまざまな謎や機能不全の例を見てきた。アコード国情報局とペデュアと世界じゅうの情報機関がもし協力したとしても、トラクトが感知したような完全無欠の虚構をつくりあげるのは不可能だ。ありえない。この世界よりはるかに大きななにか――蜘蛛ならぬ[#「蜘蛛ならぬ」に傍点]巨悪と、自分たちは対峙《たいじ》しているのだ。
そしていま、ついに具体的な情報がはいってきた。本来なら頭は臨戦態勢になるべきだが、実際にはパニックに近い混乱状態になった。
〈〈ちくしょう、発泡酒め〉〉
対峙している相手がこれほど奥が深く、巧妙な異種族勢力となると――オブレト・ネザリングが、そしていまラヒナー・トラクトが真実を知ったところで、なんの役に立つのか。なにもできないではないか。しかし、ネザリングが話していた時間は一分以上あった。接続が切られるまでに、いくつものキーワードを口にしたはずだ。この異種族は蜘蛛族よりすぐれているかもしれないが――神ではないのだ。
そう考えたところで、トラクトははっとした。
そうだ。敵は神ではないのだ。彼らの巨大な宇宙船は世界じゅうで目撃されているものの、権力とのつながりをもたない弱小な個人が伝える個別情報のレベルにとどめられているのだ。
〈〈しかし、そうやって秘密を隠蔽《いんぺい》しておけるのはせいぜい数時間のはずだ〉〉
ということは……この巨大なペテン行為がなにを狙ったものにせよ、いまから数時間後にそれは最終目的に到達するはずだ。いま、スミス将軍は命がけでサウスモースト市へ乗りこみ、なんとか世界の破局を回避しようとしているが――それはじつは、罠なのだ。
〈〈将軍か、ベルガ・アンダータウンか、とにかく上層部のだれかに連絡できればいいのだが……〉〉
電話や電子メールは、使えないというより危険ですらある。直接会うしかない。トラクトはだれもいない歩道をよろよろと歩いた。この角《かど》を曲がったところにバス停があったはずだ。次のバスが来るまでどれくらいだろう。トラクトはまだ私用ヘリコプターをもっていた。金持ちのおもちゃだが……ネットワーク接続した自動制御の部分が多すぎるかもしれない。異種族に制御系を乗っ取られ、墜落させられるのではないか。
恐怖を押しころした。いまはヘリにしか希望がない。ヘリさえあれば二百マイル以内のどこへでも行けるのだ。その範囲にだれがいるだろう。
足をすべらせながら角を曲がった。三色型照明のならぶ大通りが繁華街から出て、カロリカ湾の森のなかへ伸びている。もちろん、森はとうに死んでいる。下の地面が熱すぎるために、植物は胞子をつくることができないのだ。その森の中央がたいらに均《なら》され、ヘリポートになっている。そこから飛び立てば……。
トラクトは火口原のむこうを見やった。大通りは、その照明が小さなきらめきになるまで遠くへ伸びている。かつてはそのまま火口壁を登り、衰微《すいび》期の避寒用別荘のあいだをつないでいたものだ。しかし本当の金持ちはとうにそんな住まいを放棄している。いまもだれか住んでいる家はごく少数で、それもかなり高いところにある。
〈〈しかし、プリンストン市からもどったシャケナー・アンダーヒルもいるはずだ〉〉
すくなくとも、解任された日に目を通した情勢報告書にはそう書かれていた。アンダーヒルの精神がおかしくなっているらしいという噂は聞いている。しかし、かまうものか。必要なのはランズコマンド市への裏の連絡方法だ。もしかすると将軍の娘を介すれば、ネットワークを経由せずに伝えられるかもしれない。
わりとすぐにうしろから市バスがやってきた。跳び乗ると、午前のなかば頃にもかかわらず、客はトラクト一人だった。
「運がいいよ」運転手がいった。「次のが来るのは午後の三時頃だからね」
バスは時速二十マイル、三十マイルと速度をあげながら、死んだ森のヘリポートへむかって大通りを走りはじめた。
〈〈十分後にはアンダーヒルの住まいの玄関に立てるぞ〉〉
ふいにトラクトは、口や食手にこびりついた嘔吐物を意識した。軍服にもついている。顔はこすったが、軍服はどうしようもない。偏狭《へんきょう》な老人を訪ねる頭のおかしな酔漢という図だ。それでちょうどいいのかもしれない。そしておそらく、これが最後のチャンスなのだ。
両国の友好関係がたもたれていた十年前、ハランクナー・アナービーはサウスランド住人に地下サウスモースト新市について設計の助言をした。だから、奇妙な話だが、アコード大使館を出てサウスランド領土にはいってからのほうが、むしろ見覚えのある風景がつづいた。まず、エレベータがたくさんあった。サウスランド国は核攻撃に耐えられる議事堂を求めたのだ。兵器の高性能化を考えると、将来にわたってそのような耐久性を維持するのは無理だとアナービーは警告したのだが、サウスランド住人は耳を貸さず、暗期用の農業設備建設に使うべき大量の資金をこの議事堂につぎこんだ。
メインエレベータは報道陣もはいれるくらいの広さで、実際に彼らは乗りこんできた。サウスランド国の報道関係者は特権階級で、議会法によってはっきりと保護されている――政府の建物内でもそうなのだ!
将軍は彼らをうまくあしらっていた。シャケナーと記者たちのやりとりをかたわらで長年見てきたおかげかもしれない。連れてきた護衛官たちは、うしろのほうに控えめに立っていた。将軍はあたりさわりのない発言をいくつかして、報道陣の質問はうまくかわし、しつこいレポーターのあしらいはサウスランド国の警官にまかせた。
地下千フィートまでくだったところで、エレベータは複|軌条《きじよう》鉄道に乗り、モーターの力で水平方向に走りはじめた。エレベータの縦長の窓からは明るく照明された工業設備の洞窟《どうくつ》が見えた。サウスランド国はここと海岸地域に大規模な地下都市を建設していたが、それだけの住人をやしなえる地下農場はもっていなかった。
飛行場でスミス将軍を迎えた二人のサウスランド国議員は、かつてはかなりの有力者だった。しかし時代が変わった。暗殺や買収といったペデュアが得意とする策略、さらにはキンドレッド国側にとって信じられない幸運の連続があって、いまではアコード国に友好的な立場をおおやけにしている議員はこの二人だけになってしまったのだ。いまの二人は、外国の王におべっかを使う愚か者とみなされていた。
二人は将軍に寄り添うように立っている。一人は報道陣から隠れて話せる位置にいた。その声が将軍とハランクナー・アナービーだけに聞こえるのであればいいのだが……。
〈〈おそらくそんなことはないだろう〉〉アナービーは考えた。
「失礼ないい方かもしれませんが、将軍、アコード国王がみずからおいでくださるのではと期待していたのですよ」
議員は高級な仕立ての上着とゲートル姿だったが精神的には疲れきったようすだった。
スミス将軍は、だいじょうぶだというようにうなずいた。「わかっています。わたしは事態を正しい方向に、安全な方向にむけるためにここへ来たんです。議会で演説する時間はありますか?」
現状では、交渉相手となるような実力者グループ≠ヘ存在しないはずだ――たとえそんな連中がいたとしても、ペデュアに完全に牛耳《ぎゅうじ》られている。しかし戦略ロケット軍はまだ議会に忠誠を誓っているので、その議決はそれなりの力をもつはずだ。
「え……ええ。そういう場は用意していますが、しかし、いまとなってはどうでしょうか」議員は時計をはめた手をふった。「相手の勢力はエレベータを途中で故障させるぐらいのことをやりかねないし――」
「ここまではとくに妨害されていないでしょう。議会で演説できれば、きっと折り合いをつけられると思います」スミス将軍は議員にむかって共犯者めいた笑みを送った。
十五分ほどたったところで、エレベータは議会前広場で止まった。そこは三方の壁と天井がとても遠く、高くなっていた。こんな様式は見たことがない。技術者であるアナービーは視線を奪われた。立ち止まって、まばゆい照明と闇を見あげ、これほど広く静かな効果をつくりだしている仕掛けはなにかと探した。
しかしすぐに、警察や政治家や報道陣の波に巻きこまれて広場のむこうへ押しやられ……議事堂の入り口の階段をのぼりはじめた。
階段の上にくると、サウスランド国の護衛官がようやく報道陣とスミスの護衛官たちの行く手をさえぎった。将軍と議員たちとアナービーは、五トンもある重々《おもおも》しい木の扉のむこうへ出て……議会内へはいった。
議事堂は地下につくられるものと決まっており、これまでの世代には冬眠穴のすぐ上にあった。かつての支配者たちは、山がちな土地を駆けまわる山賊集団(宣伝活動をする側によっては、自由の戦士たち)だったのだ。
この議事堂の設計にはアナービーも手を貸した。とにかく見る者を威圧することというのが大きな設計目標になっている、めずらしいプロジェクトだった。本当に耐爆性があるわけではないが、たしかに壮観ではある。
議事堂は浅いすり鉢《ばち》状で、ゆるやかにカーブする階段でつながれた各層は広いテラス状になって、机や席がならんでいる。石づくりの壁は頭上で巨大なアーチとなってとじ、そこに蛍光管がとりつけられている。ほかにも五、六種類の照明技術が使われており、おかげで明期のなかばの昼間くらいに明るく、壁のすべての色を見わけられるくらいに豊かな光が実現されている。絨毯《じゅうたん》は父親の育児|毛《もう》のように毛脚《けあし》が長くてふかふかで、階段と通路と張り出し舞台をおおっている。各層の垂直面は磨きぬかれた木板《きいた》で仕上げられ、そこには染色画家たちがさまざまな視覚効果テクニックを駆使して描いたたくさんの絵がかけられている。貧しい国にしてはずいぶんとお金をかけたものだ。しかしこの議会は彼らにとって最大の誇りであり、山賊|稼業《かぎょう》や属国扱いに終止符を打ち、平和をもたらした記念碑なのだ――ただし、それも今日までかもしれない。
扉が背後でしまり、その音が深い反響音となってドームや反対の壁から返ってきた。ここには議員とその見学者がいて、そして――ずっと高いところにレンズの束《たば》が見えた――ニュース放送のテレビカメラがあるだけだ。弧を描いてならぶ机を見ると、ほとんどすべての席が埋まっている。アナービーは五百人の議員たちの視線を感じた。
スミスとアナービーと副官のティム・ダウニングは、張り出し舞台への階段を降りていった。議員たちは黙って見守っている。そこには敬意と敵意、そして希望があった。スミスは平和への望みをつなぐことができるだろうか。
記念すべきこの日のために、トマス・ナウはノースポー湖の天気も快晴に設定した。夏じゅうつづく暑い午後のような陽気だ。アリ・リンは、そのためにいろいろ変更しなくてはいけないところが出てくると不満そうだったが、いまはおとなしく書斎の裏の庭で草むしりをしている。ナウにしてみれば、公園のパターンが少々混乱しようと、知ったことではない。それを修正するのはアリの仕事だ。
〈〈わたしの仕事は、全体を統括することだ〉〉
ナウのテーブルのまえには、エズル・ヴィンとファム・トリンリがすわって、それぞれ担当のサイトで監視業務をおこなっていた。
トリンリは隠蔽工作に必須の人間だ。アリバイづくりの虚構を支持するはずだと、ナウが信用している唯一のチェンホーなのだ。エズルは……まあ、だいじな場面ではもっともらしい口実をいって退席させたほうがいいだろう。しかしその場面を見れば、トリンリも考えが変わるかもしれない。危険な瞬間だが、そこで突発的な出来事があれば……。それはカル・オモとその部下たちの仕事だ。
リッツァー・ブルーゲルは、インビジブルハンド号の船長席にすわった姿が二次元映像として見えているだけだ。その声は部外者の耳には聞こえないようになっている。
「もうすぐです、領督《りょうとく》! まもなく映像がはいってきます。小型偵察ロボットはすでに議事堂のなかにはいっています。おい、レナルト、おまえの部下のメリンはなかなか使えるぞ」
アン・レナルトがいるのは、ハマーフェスト棟の屋根裏部屋だ。ナウのヘッドアップディスプレーだけにその映像がうつり、ナウの耳だけに声が聞こえていた。いま、レナルトの注意は三方向にむいている。なにかの愚人《ぐじん》分析をやりながら、目のまえの壁に映ったトリクシア・ボンソルの翻訳映像を見て、さらにインビジブルハンド号からのデータ流を追いかけている。愚人の稼働情況はいつも以上に錯綜《さくそう》しており、レナルトはブルーゲルの言葉にも無反応だった。
「アン、リッツァーの偵察ロボットから映像が送られてきたら、ベニーの酒場にもじかに流してやれ。トリクシアに通訳させて、こちらには生《なま》の音声も送れ」
ナウはすでに偵察ロボットの映像をいくらか見ていた。酒場の連中に蜘蛛《くも》族が動く姿をじっくりと見させたほうがいい。そうすれば征服後の虚構を信じやすくなるだろう。
レナルトは自分の仕事から目をそらさなかった。「わかりました。領督の言葉も、ヴィンとトリンリには聞こえるようにしておきます」
「それでいい」
「ところで、ひとつお話ししておきたいことがあります……。例の内なる敵は、活発に動きはじめています。自律機能系のいたるところに彼が操作した痕跡《こんせき》が認められるのです。トリンリに気をつけてください[#「トリンリに気をつけてください」に傍点]。そいつはそこにすわったまま、ローカライザーを操作しているはずです」レナルトはちらりと視線をあげ、ナウのいぶかしげな目を見て、肩をすくめた。「いえ、まだ確信はありません。しかし、かなり敵の正体に近づいているのです。もうすこしです」
しばらくして、ふたたびアンの声が聞こえた。しかし今度は、この書斎にも行商人の仮設舎にも広く聞こえる回線だった。
「では、これからサウスモースト市の議事堂からの映像を生中継する。人間が見て聞くのとおなじ映像と音声よ」
ナウは左に視線を移し、仮設舎にいるキウィの視点映像を見た。ベニーの酒場にある映像装置のなかで、もっとも大きな面がまたたいた。はじめはなにが映っているのかよくわからなかった。赤と緑とぎらぎらした青がまじっている。
穴のようなところだった。石壁にきつい階段が刻まれている。石には苔《こけ》か、毛のようなものがはえている。蜘蛛族は黒いゴキブリのように群れていた。
リッツァー・ブルーゲルは議会の映像から顔をあげ、あきれたように首をふった。「まるでフレンク人の預言者がいう地獄の図だぜ」
ナウは同意するように黙ってうなずいた。十秒のタイムラグがあるので気軽な雑談はできないのだ。しかし、ブルーゲルのいうとおりだった。これだけの数が集まっていると、最初に見た偵察ロボットの映像より不気味だ。愚人による流暢《りゅうちょう》で人間的な通訳が、とても非現実的に感じられる。
〈〈やつらの頭にうつる映像とはずいぶんちがうようだな〉〉
ナウは、おなじ場面のべつの映像を呼び出した。愚人の翻訳者が蜘蛛族のニュース映像から合成したものだ。さきほどは急傾斜の深い穴だったものが、こちらの映像では浅いすり鉢状に変わっている。さまざまな色が醜《みにく》く飛び散っているように見えたのが、こちらでは絨毯に編みこまれた正確なモザイク模様だった(ぼさぼさの毛のようには見えない)。いたるところに張られた木板は、磨きこまれて光っている(しみや穴だらけではない)。蜘蛛族の姿ももっと穏やかで、それぞれのしぐさにはまるで人間とおなじような意味が感じられた。
どちらの画面にも、議会の入り口に立つ三人の姿が映っていた。彼らは石の階段を這い降りた――あるいは、歩いて降りた。ひっきりなしに聞こえるシューシュー、カチカチという音は、この生きものがたてる生の音声だ。
三人はいったん穴の底に降りて姿が見えなくなったが、しばらくして、反対側を登ってふたたびあらわれた。ブルーゲルが軽く笑った。
「先頭の中くらいのやつが情報局長官でしょう。ボンソルのいう、ビクトリー・スミス≠ナす」愚人の描写のなかで正確だったのは、その服だ。真っ黒だが、軍服というよりはつなぎあわせた布きれのようだ。「スミスの隣の毛深いやつは、技術者のハランクナー・アナービー≠ナしょう。こんな怪物には似あわない名前ですが」
三人は、石の柱が反《そ》ったようなところに登っていった。すでにその危なっかしい構造物の上にいた四人めの蜘蛛が、その先端に登った。
ナウは蜘蛛族の議事堂からベニーの酒場に集まった人々に視線を移した。みんな息をのんで衝撃の瞬間を待ちうけている。ベニー・ウェンが雇《やと》った給仕人たちも手をとめて、蜘蛛族世界から送られてくる映像に見いっている。
「議長による紹介です」愚人の声が流れた。「議会を開会する。これより――」
理解できる言葉とは裏腹に、ブルーゲルの偵察ロボットが送ってくるのはシューシュー、カタカタという音と、鋭くとがった前脚で宙を突くような動きだった。たしかに姿かたちは、チェンホーの着陸班がランズコマンド市でみつけた彫像と一致するのだが、その動作は不気味な捕食動物のそれだった。とてもゆっくりした動きと、目にも止まらぬすばやい動きが組みあわされている。視覚能力がきわだって高いはずなのに、奇妙なことにその視覚器官がどうなっているのかよくわからなかった。縦に何本も畝《うね》のある頭部の広い部分が、ガラスのようになめらかな表面になっていて、あちこちにふくらみがある。奇妙な突き出たところは、赤外線視のための放熱器官だろう。身体の前側は獲物を食うための不気味な構造になっている。鋭くとがった大顎《おおあご》と、鉤爪《かぎづめ》のような補助肢がつねに動いている。しかし胸部の上にのった頭部はほとんど動かなかった。
石づくりの柱のてっぺんから議長が降りはじめると、逆にスミス将軍が登りはじめ、狭い柱の途中ですれちがった。スミスはてっぺんに到達しても、しばらく黙っていた。前脚を小さく螺旋《らせん》状にふる動作が、まるで愚か者を口のなかにおびきよせているようだ。スピーカーからシューシュー、カタカタという音が流れた。翻訳版≠フ映像のほうでは、その姿の上に議員たちにむかって穏やかに微笑みかけている≠ニいう文字があらわれた。
「サウスランド議会の議員のみなさん――」
力強く美しい声――トリクシア・ボンソルの声だ。エズル・ヴィンがそれを聞いてかすかにはっとしたのが、ナウにはわかった。エズルの診断データが表示され、それによると、いつものように相反《あいはん》する強い感情にさいなまれているようだ。
〈〈まだしばらくは使えそうだな〉〉ナウは思った。
「わたしは国王の代理として、その一切の権威をもたされてここへ来ました」スミスはつづけた。「みなさんの信頼を獲得できるだけの条件を提示するつもりです……」
「サウスランド議会の議員のみなさん――」
ずらりとならんだ議員たちがビクトリー・スミスを見つめている。視線を一身《いっしん》に浴びることで、よけいにスミスの性格の強さがまわりにつたわっていくのを、アナービーは感じた。
「わたしは国王の代理として、その一切の権威をもたされてここへ来ました。みなさんの信頼を獲得できるだけの条件を提示するつもりです。わたしたちはいま、過去のすべてを破壊するか、あるいは築きあげてきた努力を有効に使って無限の楽園を建設するか、歴史の上でその分岐点に立っています。現在の情況からはそのどちらの未来もありえます。明るい未来にいたるかどうかは、おたがいの信頼にかかっています」
議場からまばらな野次《やじ》が飛んだ。キンドレッド国支持派の連中だ。だいたいこいつらはサウスランド国から脱出する手段をもっているのだろうかと、アナービーは思った。そういう態度でことを決着させた場合、この国はもちろん、彼らも爆弾の雨によってつぶされるはずなのだ。
ペデュア自身もここに来ているはずだと、スミスはいっていた。
〈〈どれどれ……〉〉アナービーは将軍が話しているあいだ、あちこちの物陰や議場守衛官のいるところに視線を配った。〈〈いた……〉〉ペデュアはスミスから百フィートも離れていない張り出し舞台の席にすわっていた。姿を見るのは数十年ぶりだが、あいかわらず自信たっぷりのようすだ。〈〈もうすこし待ってろ、親愛なるペデュア師。将軍の話を聞いて驚くがいい〉〉
「わたしは提案をもってきました。単純ですが、実質的な意味をもつ提案です――そして、すみやかに実行可能です」スミスはティム・ダウニングにむかって、データカードを議長の事務官に渡すよう合図した。「アコード軍におけるわたしの階級はご存じでしょう。どんなに懐疑的な方でも、わたしがここにいるかぎり、アコード軍が公約どおり慎重な態度をつづけることを信じられるはずです。わたしはこの状態を継続するよう提案する許可を得てきています。サウスランド議会のみなさんで、アコード国の任意の三人を選んでください。そのなかにはわたしと、そして国王をふくめていただいてかまいません。その三人は、サウスモースト市にあるアコード国の大使館に無期限に滞在します」
もっとも原始的な平和維持策だが、人質《ひとじち》の選択権を相手にあたえているのだから最高に気前のいい提案でもある。そしてこれほど有効な提案もほかにない。サウスモースト市のアコード国大使館は、小さな都市がおさまるくらい広い土地をもち、また現代的な通信機器をそなえている。だからそこでの人質の活動が制約されることはない。議会が完全にペデュアに牛耳られているのでなければ、この提案は、迫りくる破局を食いとめる強力な一手になるはずだ。
議員たちはしんと静まりかえった。ペデュアの支持者たちもだ。驚いて呆然としているのか、残された最後の選択肢をなんとか認めようとしているのか、ボスの指示を仰いでいるのか。
なにかが起きていた。スミスの背後に控えたアナービーは、ペデュアが一人の側近に強い調子でなにかいっているのを見た。
ビクトリー・スミスの演説が終わると、ベニーの酒場はやんやの拍手喝采《かっさい》が起きた。演説がはじまった当初は、初めて生で見る蜘蛛族の姿にだれもがショックを受けていたが、演説にはビクトリー・スミスらしさが感じられた。多くの人々にとって馴染みのある個性なのだ。そのほかではまだ慣れない部分もあるが……。
ベニーが天井側へ酒を運んでいこうと飛んでいると、リタ・リヤオがその袖《そで》を引いた。「キウィをあそこに一人ですわらせている必要はないんじゃないの、ベニー? みんなといっしょにすわってても話せるわよ」
「まあ、そうだね」
キウィを最前列に一人だけですわらせるというのは領督の提案なのだが、これだけ順調ならあまり気にすることもないだろう。ベニーは酒を配りながら、みんなの楽観的観測を聞くともなしに聞いた。
「――この演説におれたちの乗っ取り作戦がありゃ、やつらはトライランド星の仮設舎にいるのとおなじくらい安全さ――」
「このぶんなら、四メガ秒もしないうちに着陸できそうだな! 何十年も待たされてやっと――」
「宇宙も地上もおんなじよ。出産禁止令を解除できるだけの資源は手にはいるわよ」
〈〈そうだ、出産禁止令のことがあったな。時期はずれとおなじ、人間の側でのタブーだ。ついにゴンレとその話をするときが――〉〉
ベニーは頭からその考えを追い出した。急いてはことをし損じる、だ。それでも、こんなにうきうきした気分になるのはひさしぶりだった。ほかのテーブルを避けて中央の空間を一気に飛び、キウィのテーブルに直行した。
キウィはリタの提案についてうなずいた。「それはいい考えかもしれないわね」
しかしその笑みはためらいがちで、視線も中央映像装置からほとんど動かなかった。スミス将軍は演壇から這い降りているところだ。
「キウィ! 領督の計画どおり、順調に運んでるんだ。みんなはきみといっしょにお祝いしたがってるんだよ!」
キウィは腕のなかの飛び猫を穏やかになでたが、そこには守ってやらなくてはという気持ちが強くあらわれていた。ベニーのほうを見あげた顔には、謎めいた表情があった。
「ええ、みんな順調だわ」
席を立ってベニーとともに空間を横切り、リタのテーブルへ行った。
「どうしても話さなくてはいけない用件があるのだ、伍長。いますぐにだ!」
トラクトは、大佐として十五年間すごしたおかげで身についた威厳を精いっぱいよそおいながら、そういった。
若い伍長は、はじめはその鋭いまなざしにひるんだが、やがてトラクトの口もとについた嘔吐物の跡《あと》や、軍服のよれよれになった状態に気づいたようだった。じろじろと観察する目つきになって、肩をすくめた。
「もうしわけありませんが、ここはお通しできません」
トラクトは自分の肩ががっくりとさがるのを感じた。「伍長、せめて電話だけしてくれないか。ラヒナーが会いに来ていると。そして……そして生きるか死ぬかの問題なのだと」
それは偽りのない真実なのだが、いってすぐに、そんなふうに断言するべきではなかったと後悔した。伍長はしばらくじっとトラクトを見つめた外へ放り出すべきかと考えているようだ。しかしふいに、不快なものへの憐れみの表情を浮かべ、通信機で屋内のだれかと話しはじめた。
一分、二分……。トラクトは訪問客待ちあい小屋でうろうろした。ここは風が当たらないのがせめてもの慰《なぐさ》めだ。アンダーヒル邸のヘリコプター離着陸場から階段をあがってきただけで、二本の手の先が凍りついてしまったくらいなのだ。それにしても……屋外に警備員がいて、さらに待ちあい小屋があるのか。これほど警戒厳重だとは予想していなかった。もしかしたら、職を失ったことがいいほうに作用したのかもしれない。力になってやろうかという気持ちが相手にめばえたのだろう。
「ラヒナー、きみなのか?」歩哨《ほしょう》の通信機から聞こえてきた声は、弱々しく気むずかしい。シャケナー・アンダーヒルだ。
「はい、そうです。お話ししたいことがあるんです」
「きみはどうも――ずいぶんひどい身なりだな。ちょっと悪いんだが――」
そこで声が遠ざかり、奥でなにか話しあうのが聞こえた。だれかが、演説は無事におわりました……いまなら時間は充分あります≠ニいった。それからシャケナーの声がもどってきて、さきほどよりしっかりした口調でいった。
「すぐにそちらへ行くよ、大佐」
53
「上等な演説だ。こっちが草稿を用意してやっても、こんなにうまくはできなかったでしょうね」
インビジブルハンド号からの二次元映像で、ブルーゲルが悦《えつ》にいったようにぺらぺらとしゃべっていた。ナウはただにやりとして、うなずくだけだった。スミスの和平提案はなかなか強力な内容で、蜘蛛《くも》族のすべての軍はとりあえず動きがとれなくなるだろう。そのあいだに人類の側としては存在を公表し、協力を申し出ることができる――しかしそれは、あくまでおもてむきの筋書きだ。領督《りょうとく》が格下の立場にとどまってしまう危険な計画なのだ。実際には、いまから七キロ秒後にアンの愚人《ぐじん》たちがスミスの軍を乗っ取り、奇襲攻撃をかける手はずになっていた。それに対するキンドレッド国の反撃≠ノよって、予定どおりの破壊がおこなわれるだろう。
〈〈そこへこちらが乗りこみ、残骸を拾い集めるわけだ〉〉
ナウはノースポー湖の午後の日差しを見やった。しかしヘッドアップディスプレー内には、ほんの二メートルほどのところに現実にすわっているファム・トリンリとエズル・ヴィンの姿が映し出されていた。トリンリはかすかにおもしろがっている表情を浮かべているが、手は休むことなく、キンドレッド国領内の核兵器の情況を監視する仕事をつづけている。エズルはどうか――緊張しているようだ。その顔のわきに表示された診断データによると、もうすぐなにかが起きると気づいているものの、それがなにかはわかっていない、という状態らしい。そろそろつまらない用事をいくつかいいつけて、席をはずさせたほうがいいだろう。帰ってきたときには、すでに事態は動きだしている……そして領督の説明を裏づける話を、トリンリから聞かされるわけだ。
アン・レナルトの声がナウの耳のなかで小さく響いた。「領督、緊急事態です」
「なんだ、話せ」
ナウは湖のほうを見たまま、穏やかに答えたが、腹の底はいきなり凍りついたようだった。
レナルトがパニックを起こしたときの声は聞いたことがあるが、今回のはそれに近い。
「例の危険人物が活動のペースをあげました。擬装《ぎそう》はかなり減っています。乗っ取れるものは手当たりしだいに支配下におさめており、数千秒後には愚人もすべて機能停止するでしょう……。犯人は九十パーセントの確率で、トリンリです」
〈〈しかし、トリンリはわたしの目のまえにすわっているではないか! それに、攻撃後におもてむきのストーリーを裏づけさせるためにも、こいつは必要なんだ〉〉
「そういわれてもな、アン……」口では、ナウはそういった。もしかするとレナルトはまた調子がおかしくなっているのかもしれない。彼女のMRI調整や医学データはいままで以上に詳しく点検しているのだが、ありえなくはない。
レナルトは黙って肩をすくめただけだった。素《そ》っ気《け》ないしぐさだが、愚人としては当然だ。自分は最善の仕事をしたのだから、上司がその助言を無視して地獄に堕《お》ちようと知ったことではない、というわけだ。
四十年がかりで準備してきた仕事がクライマックスを迎えている肝心なときに、こんなじゃまがはいるとは。
〈〈しかしだからこそ、敵が決起のタイミングをあわせてくるとしたらこの瞬間だろう〉〉
カル・オモはナウのすぐうしろに立ち、レナルトの秘密回線のやりとりも聞いている。ほかの三人の警備員のなかで、実際に部屋のなかにいるのはレイ・シレトだけだ。
「わかった、アン」
ナウは、警備員を全員部屋にいれるようにという合図を、こっそりとオモに送った。
〈〈この二人はとりあえず氷漬けにし、あとで処分を決めよう〉〉
ナウは二人のほうに注意をはらっていなかった――しかし視界の隅で、トリンリの手がなにかを投げるように動くのが見えた。同時に、カル・オモが喉をつまらせたような悲鳴をあげた。
ナウはさっとテーブルの下にもぐりこみながら、頭上の天板《てんいた》になにかが、がつんと突き刺さる音を聞いた。さらに鉄線銃を乱射する音と、べつの悲鳴が響いた。
「逃げるぞ! つかまえろ!」
ナウは床の上をすべって、テーブルの反対側から天井へ跳びあがった。レイ・シレトは空中でエズル・ヴィンを何度も殴っている。
「すみません! こいつが跳びかかってきたんです」シレトは血まみれのエズルを突き飛ばした。エズルは自分を犠牲にしてトリンリを逃がしたのだ。「マーリとトウがつかまえるはずです!」
たしかに二人は追いかけ、斜面から森のほうへ鉄線銃を撃ちまくっていた。しかしトリンリはかなり先のほうで、木から木へ飛び移っている。そして姿を消した。追いかけるトウとマーリは、まだ森まで半分の距離だ。
「待て!」
ナウの声が山荘のスピーカーから響いた。領督への絶対服従が身にしみついている二人は、それを聞いてむこうみずな追跡をやめた。そして警戒しながら斜面を歩いてこちらへもどってきた。ショックと怒りで顔を赤くしている。
ナウは低い声でつづけた。「もどって山荘を警備しろ」
本来なら、こんなことをいちいち指示するのは領兵長の仕事だ。しかしカル・オモは……。
ナウは空中を飛んで会議テーブルのほうへもどった。重力についてのお約束はひとまず棚上げだ。
ナウが身をかがめたところのテーブルの天板には、なにか鋭くぎらりと光るものが突き刺さっていた。オモの喉笛《のどぶえ》もおなじ刃物で切り裂かれ、気管からその後端《こうたん》だけがのぞいている。オモの痙攣《けいれん》はすでに止まり、まわりに飛び散った血は床へゆっくりと漂い降りているところだ。領兵長の鉄線銃はホルスターから途中までしか抜かれていなかった。
オモは使える男だった。〈〈いまから氷漬けにしている暇があるかな……〉〉
ナウは作戦の流れとタイミングを考え……カル・オモをあきらめた。
警備員たちは山荘の窓のところを漂っているが、その目はちらちらと領兵長のほうを見ていた。
ナウはこれからの展開をさっと考えた。「シレト、ヴィンを縛《しば》れ。マーリ、アリ・リンを探せ」
エズルは椅子にすわらされると、弱々しくうめき声をあげた。ナウはテーブルの上を跳び越え、近くから観察した。肩のところを鉄線銃の弾がかすめたようだ。血が出ているが、たいした怪我《けが》ではない。命に別状はないだろう……当面は。
「ちくしょう、トリンリのやつめ。なんてすばしこいやつだ」トウが、緊張が解けたせいでぺらぺらとしゃべりだした。「この四十年、ずっとばかなほら吹きじじいとしか思わなかったのに、いきなり領兵長の喉を掻《か》っ切りやがった。掻っ切って、すんなり逃げおおせやがった」
「こいつがじゃましなかったら、すんなりとはいかなかったはずだ」シレトがエズルの頭を鉄線銃の銃口で小突《こづ》いた。「二人ともすばやかったぜ」
〈〈そうだ、あまりにもすばやかった〉〉
ナウは目もとからヘッドアップディスプレーをはずして、じっと見た。チェンホー製の装置であり、ローカライザーのネットからデーダを受けとっているのだ。ナウはそれをくしゃくしゃに丸めて捨て、レナルトが緊急時にそなえて携帯するようにと強く主張していた有線電話をとりだした。
「アン、聞こえるか? こちらの出来事は見ていただろうな」
「はい。領督がカル・オモに合図をした瞬間に、トリンリは動きだしました」
「あいつには筒抜けだったんだな。おまえの側から会話を聞いていたんだろう」
ちくしょう! レナルトはトリンリの活動の兆候を探知していながら、なぜ通信を傍受されていることに気づかなかったのか。
「……はい。わたしはあの男がやろうとしていることの一部しか見抜けていませんでした」
つまり、ローカライザーはトリンリ専用の兵器だったわけだ。何千年もむかしからしかけられていた罠か。
〈〈いったいあいつは何者なんだ?〉〉
「アン、すべてのローカライザーへの無線送電を停止しろ」しかし、かぞえきれないほどの重要なシステムがローカライザーの機能に頼って動いているのだ。この湖を安定させているのもローカライザーだ。「ノースポー湖の安定化装置は生かしておけ。愚人に有線経由でじかに制御させろ」
「処理しました。少々不便になるでしょうが、なんとかなるはずです。地上の作戦はどうしますか?」
「リッツァーに連絡しろ。もはやこそこそやっている場合ではない。地上のスケジュールは前倒ししろ」
レナルトが愚人たちに命令を打ちこんでいくのが聞こえた。しかし、それぞれのプロジェクトについての命令と処理の流れを図で見ることはもうできない。闇のなかで手探りで戦っているようなものだ。驚いて呆然《ぼうぜん》としていたら、たちまち窮地《きゅうち》に追いこまれるだろう。
百秒後、レナルトがいった。「リッツァーに情況を説明しました。こちらの愚人を使って直接攻撃をしかけることにします。結果の微調整はあとでおこなえるでしょう」
アン・レナルトはこれよりもっと困難な情況で戦い、圧倒的な不利をはねかえして数々の勝利をおさめてきた経歴をもっている。敵がみんなこんなふうに利用できればいいのだが。
「よろしい。トリンリはみつけたのか。どこかのトンネルにいるはずだ」二度めの攻撃にもどってきているのでなければ。
「たぶん捕捉できていると思います。もの音を、古い地震計で追いかけています」地震計はエマージェント製の装置だ。
「よし。それから、なにか適当な音声を合成して、酒場の連中をへらへら笑わせていろ」
「やりました」即座に返事があった。すでにやっていたのだ。
ナウは警備員たちとエズル・ヴィンのほうにむきなおった。ほんのすこしだが、息をつく余地ができた。ブルーゲルへ命令を出せるだけの余地、なにが起きているのかをたしかめられるだけの余地だ。
エズルは意識をとりもどしつつあった。目は苦痛のために曇っているが――そのなかに憎悪のきらめきも垣間《かいま》見えた。ナウはにやりとして、シレトにエズルの怪我をした肩をねじるよう合図した。
「いくつか答えてもらいたいことがあるのだ、エズル」
行商人は悲鳴をあげた。
ファムは緑色のイメージに導かれながら、ダイヤモンドの通路を速度をあげながら突進していた。しかしそのイメージはぼやけ、ゆらめき……ついに真っ暗になった。
ファムは速度を落とすことなく、なにも見えないまましばらく惰力《だりょく》で進んだ。額を叩いて、そこにあるローカライザーをリセットしようとした。たしかに額にはついているし、トンネルのなかには何千個も漂っているはずだ。とすると、すくなくともこのトンネル内についてはレナルトが無線送電を切ったのだろう。
〈〈それにしても、たいした女だ!〉〉
ファムはこれまでずっと、愚人システムを直接操作するのは避けてきた。それなのにレナルトは嗅ぎつけてきたのだ。精神洗浄術によっていったんは後退したが、この一年で急速に網を絞りこんできた。そして……。
〈〈こっちはもうすこしで送電停止操作そのものを無効にできるところまできていたのに、すんでのところで、すべてを失ったな〉〉
いや、まだすべてではない。エズルが身を挺《てい》して時間稼ぎしてくれたおかげで、もう一度攻撃するチャンスが得られた。
トンネルはもうすぐ曲がり角《かど》に達するはずだ。ファムは闇のなかに手をのばして壁に軽くふれ、次に強く手を押しつけてブレーキをかけた。同時に身体《からだ》の向きをいれかえ、足から先に降りるようにしたのだが、その動作はすこしばかり遅かった。見えない壁に足、膝、手の順にぶつかった――地上での下手《へた》くそな着地とおなじだが、ここでは跳《は》ね返り、くるくるとまわりながらべつの壁にまたぶつかった。
なんとか体勢を保持し、手で壁をつたって曲がり角へもどった。トンネルはここから四方向に枝分かれしている。ファムはその開口部を手探りし、二本めのトンネルにはいっていった――ただし、今度はもの音をたてないようにゆっくりと進んだ。
〈〈レナルトは何秒かまえからこちらの居場所を確認できなくなっているはずだ〉〉
このトンネルには、いざというときのための装備の隠し場所がある。数メートル進んだところで、壁にくっついた布製の袋に指先がふれた。
〈〈あった〉〉
あらかじめ装備を隠しておくのは大きな危険をともなうが、しかし勝負の大詰めに危険はつきものだ。今回はこの用心が役に立ったことになる。音をたてずに袋をあけて、なかからライトをしこんだ指輪をとりだした。手のまわりに小さな黄色い明かりがともった。残りの装備を引っぱり出していくと、手の動きにあわせて光がひらめき、まわりのダイヤモンドの壁で虹や影が踊った。
袋のなかに小さなボールがいくつかあった。ファムはその一個をべつの枝道に放った。それはしばらく飛んでいったあと、ボンとはじけて、にぎやかな騒音をたてた。耳をすませている愚人たちを混乱させるためのおとりだ。
〈〈予定より数キロ秒早く、敵に見破られたわけだな〉〉
しかし計画を実行に移すときには、多かれ少なかれ、予定外のことが起きるものだ。もしすべてが順調にいっていたら、この隠し装備を使うこともなかっただろう。予定外のことが起きるかもしれないと思ったからこそ、こういうものを用意したのだ。ファムは袋の中味をひとつずつ確認していった。呼吸装置、増幅受信機、応急手当セット、ちょっとした仕掛けをほどこした矢銃《やじゅう》……。
ナウたちにはいくつか選択肢がある。トンネル内にガスを吹きこむか、エアロックを開放してなかのものを真空中に放出するか。しかし後者では、貴重な装備の多くをいっしょに破壊することになる。おそらく追いかけっこをしかけてくるだろう。それはそれで楽しみだ。自分たちのつくったトンネルがいかに危険な場所か、ナウの手下たちに思い知らせてやる……。
ファムは、かつての熱く燃える思いが甦《よみがえ》ってくるのを感じた。大詰めにきて、思い描いたさまざまな計画を実行するときの、熱い感情だ。いよいよだという思いを強くしながら、ポケットに装備をいれていった。
〈〈エズル、おれたちは勝つぞ。絶対に。アンがじゃましようとも……そしてアンのためにこそ〉〉
霧のように静かに、ファムはトンネルを進んでいった。指輪の明かりによってかすかに枝道のトンネルが浮かびあがった。
では、レナルトのご機嫌うかがいにいこう。
インビジブルハンド号は、蜘蛛族世界の百五十キロ上空を飛んでいた。これだけ低い軌道だと地表のごくかぎられた範囲しか視界にはいらないが、そのときがきたら、命じられた目標の真上を正確に通過するはずだ。L1点のリタやほかの人々にどんなおもてむきの話がつたえられているにせよ、この船内では、蜘蛛族の都市や施設はただ目標≠ニ呼ばれていた。
ジョー・シンはパイロット管理主任席――チェンホーがこの船を所有していた時代には副長席だった場所――にすわって、カーブした灰色の地平線を見つめていた。今回は三人の愚人パイロットを管理しているが、この飛行制御にたずさわっているのはそのうち一人だけだった。あとの二人はビル・フオンの兵器システムにつながれ、さまざまな発射軌道を計算している。
隣の船長席から聞こえてくる声は、できることなら無視したかった。リッツァー・ブルーゲルはこの任務を心から楽しんでいるようで、地上の動きをハマーフェスト棟にいるボスに逐一《ちくいち》報告していた。
そうやって不快な解説をつづけていたブルーゲルの声が、ありがたいことにしばらく途切《とぎ》れたと思うと、いきなり悪態に変わった。
「領督! いったい――」ふいに大声になった。「おい、フオン! ノースポー湖で銃撃戦だ。オモがやられた。それから――ちくしょう、ヘッドアップディスプレーの接続が切れた。フオン!」
ジョーが隣を見ると、ブルーゲルはコンソールを拳《こぶし》で叩いていた。青白い肌が上気している。
しばらく秘密回線に耳を傾けたあと、いった。
「でも領督は無事なんだな? よし、レナルトにつなげ。さっさとつなげ!」
アン・レナルトはすぐには応答してこなかったようだ。百秒、二百秒とすぎた。ブルーゲルはいらいらして怒鳴り散らし、いかつい部下たちもしばらく遠ざかった。ジョーは自分のディスプレーを見たが、わけのわからない画面が流れているだけだ。
〈〈トマス・ナウの筋書きどおりにいっていないみたいだぞ〉〉
「くそ女! なにしてやがったんだ! いったい――」ブルーゲルはまた黙りこんだ。ときどきうめき声をあげたが、相手の話をさまたげようとはしなかった。そしてうってかわって抑制した声で答えた。「わかった。こちらのことはまかせてくれと、領督に伝えろ」
長距離をへだてたやりとりがもうしばらくつづき、そのあいだにジョーもこれからの展開について察しがつきはじめた。こらえきれずに、そっと横目で副領督のほうを見た。ブルーゲルはこちらを見ていた。
「シン主任、本船の現在位置は?」
「洋上を南下中で、サウスモースト市まで千六百キロです」
ブルーゲルは視線をあげて、ヘッドアップディスプレー内に映されるもっと正確な図を見た。
「なるほど。このままの経路でも、北上中にアコード国のミサイル発射場上空を通過するな」
ジョーはいきなり喉になにか大きな塊《かたまり》ができたように感じた。いつかはこの瞬間がくるとわかっていたが……。
〈〈でも、もうすこし先だと思っていたのに〉〉
「……通過するのは、発射場の数百キロ東です」
ブルーゲルはどうでもいいというように手をふった。「メインエンジンを一発吹かせば、それくらいは修正できる。……フオン、聞いてるか? そうだ、スケジュールを七キロ秒ほど前倒しするぞ。ふん、そりゃ気づかれるだろうが、いまさらどうでもいいことさ。新しい作戦手順を愚人どもに作成させろ。もちろん、これまでよりあからさまにやるってことだ。レナルトは手の空《あ》いている愚人をすべておまえの使用下に移行させるといっている。なんとか同期させて利用しろ。……よろしい」
ブルーゲルはチェンホーの船長席にもたれて、にやりとした。
「まあ、これで唯一残念なのは、ペデュアをサウスモースト市から脱出させる時間がなくなったことだな。ペデュアは地元の総督として適任だと踏んでいたんだが……。もちろん、おれ自身はあいつらを好きでもなんでもないがな」ブルーゲルは、ジョーがその言葉にいちいち恐怖の表情をあらわにするのに気づいた。「気をつけたほうがいいぞ、パイロット管理主任。おまえはチェンホーどもとつきあいすぎた。やつらが計画したことは、とにもかくにも失敗したんだ。聞こえてたか? 領督は無事で、L1点もちゃんと掌握《しょうあく》してるんだよ」
視線をすこし上にあげ、ヘッドアップディスプレー内のなにかを見た。
「パイロットたちをビル・フオンの愚人どもに同期させろ。あと何秒かで具体的な数値がはいってくるはずだ。サウスモースト市上空ではこっちの兵器は一発も撃たない。かわりに沖合いにキンドレッド国が設置している短距離ロケット砲を探し出して、それを発射させろ。もともと予定にあった、アコード国の奇襲攻撃≠セ。おまえの本格的な仕事は数百秒後からだぞ。アコード国のミサイル発射場を一掃《いっそう》するんだ」
それには、人類の手に残されたわずかなロケットやビーム兵器を使うことになる。しかし蜘蛛族の対ミサイル防衛兵器はまだまだ原始的なので、それでも充分な効果があるはずだ。そこまでやれば、あとはキンドレッド国の数千発のミサイルが、惑星上の都市の半分を吹き飛ばすはず……。
「それは――」
ジョーは恐怖のあまり、返事に詰まった。命令を実行しなければ、リタ・リヤオは殺されるだろう。ブルーゲルはリタを殺して、それからジョーを殺すだろう。しかし命令にしたがったら……。〈〈知りすぎた立場なんだ……〉〉
ブルーゲルはじっとジョーを見つめていた。こんな視線を送るリッツァー・ブルーゲルは初めてだ。冷ややかで、値踏《ねぶ》みするようで、ほとんどトマス・ナウのようだ。ブルーゲルは首をかしげ、穏やかな声でいった。「命令にしたがったからといって、なにも恐れることはないんだぞ。ああ、精神洗浄術をすこしばかり受けることにはなるかもしれない。失うものもほんのすこしあるな。しかしおれたちは、おまえを必要としているんだ、ジョー。おまえとリタはおれたちのもとでずっと働き、充実した人生を送ることができる。いま命令にしたがいさえすればな」
事態が急転する直前まで、レナルトはハマーフェスト棟の屋根裏部屋にいた。いまもそのグループ室にトルード・シリパンとともに泊まりこんでいるはずだと、ファムは推測した。ありったけの通信回線を使って愚人たちを守り、管理しようと努力しているのだろう……そしてそのすさまじい処理能力を駆使して、ナウの意思をひとつひとつ実行しているのだ。
ファムは闇のなかでトンネルを上へ上へと昇っていった。トンネルはしだいに狭《せば》まり、ついには直径八十センチほどしかなくなった。このあたりはハマーフェスト棟の基部が第一ダイヤモンド塊にねじこまれたときから何十年にもわたって機械が掘削してきた通路だ。孤立生活がはじまって三十年めのある時期に、ファムはエマージェントの建築プログラムに侵入して、図面から一部のトンネルを消し去り、いくつかの枝道を描きくわえた。いまではレナルトでも、こちらの通り道を完全には把握できなくなっているはずだ。
曲がり角ごとにファムはそっと手をついて速度を落とし、つかのま指輪の明かりをつけた。そうやって探しつづけた。ローカライザーは、外部からの電力供給がなくても、キャパシターに蓄《たくわ》えられた電力でほんの短時間の処理ならこなせる。増幅受信機を使って手がかりを得た。それによると、ここはハマーフェスト棟のかなり高いところで、グループ室のある側に近づいているようだ。
しかしこの付近のローカライザーは、その予備電力も底をついているようだ。ファムは角をまわり、いちばん見込みのあるあたりへ来た。壁は傷ひとつなく、ぼんやりと虹色に光っている。さらに数メートル進む。
〈〈あった!〉〉
ダイヤモンドの壁に刻まれたかすかな円が見てとれる。ファムはそこへ漂っていって、そっとその表面に制御コードを打ちこんだ。カチリと音がして、その円にそって光がほとばしり、円はむこう側へひらいた。奥は物置部屋だ。ファムは静かになかへはいった。棚には非常食や日用品がしまわれている。
棚の列をまわって、部屋の反対側にある本来の出入り口に近づいたときふいにそのドアがむこうからひらいた。ファムはあわてて戸口の一方に身をひそめ、だれかがはいってくると、さっと手をのばしてその顔からヘッドアップディスプレーをもぎとった。相手はトルード・シリパンだった。
「ファムじゃないか!」トルードは恐怖よりも驚きの表情だった。「いったいどういうことだ――アンはもうかんかんだぞ。おまえがカル・オモを殺してノースポー湖を乗っ取ったといって怒り狂ってる」
しかしそこで、ファムがこんなところにいること自体、ありえないことだと気づいて、次の言葉が出てこなくなった。
ファムはにやりとして、トルードのうしろのドアをしめた。「ああ、それはぜんぶ本当だ、トルード。おれの船団をとりもどすんだよ」
「お……おまえの[#「おまえの」に傍点]船団だって?」トルードは恐怖と同時に面くらった表情で、しばし呆然とした。「おい、ファム。いったいどうしたんだ。顔つきまでいつもとちがうそ」
〈〈ほんのわずかなアドレナリンと、ほんのわずかな自由で、人の顔はこれほどまでに変わるものなのさ〉〉ファムは思った。
ファムの顔にゆっくりと浮かびはじめた笑みを見て、トルードはひるんだ。「おまえ、頭がおかしくなったんだろう。勝てるわけないじゃねえか。袋の鼠なんだぞ。降伏しろよ。そうすれば、下でしでかしたことも――一時的な錯乱《さくらん》のせいだということにできるかもしれないし」
ファムは首をふった。「勝てるからはじめたのさ、トルード」小さな矢銃をトルードの目のまえにもちあげた。「手伝ってもらうぜ。グループ室へ行って、愚人をシステムから切り離し――」
トルードはあきれたように、ファムの矢銃をもった手をわきへ押しやった。「冗談じゃない。愚人は地上の作戦を支援するうえで必要不可欠な機能をになってるんだ」
「ナウが立てた蜘蛛族絶滅作戦を支援するうえで、な。だからこそ、いますぐ切り離すんだ。領督の湖にもおもしろいことが起きるぜ」
トルードは頭のなかで両方の危険を天秤にかけているようだった。長年の飲み友だちで愉快な大ぼら吹きのファム・トリンリが、ちっぽけな矢銃を片手に、領督の圧倒的な威力にいどもうとしている……。
「やめろよ、ファム。はじめちまったものだから、引っこみがつかないのかもしれないけど」
ファムが右手につかんだヘッドアップディスプレーがめりめりと音をたててつぶれた。そのとき、耳ざわりな音とともに物置部屋のドアがまたひらいた。
「なにぐずぐずしてるの、シリパン? さっさと――」
そういいながらはいってきたのは、アン・レナルトだった。彼女は二人を見て即座に情況をのみこんだようだったが、威嚇《いかく》する武器をなにももっていなかった。
ファムの動きもすばやかった。さっと手のむきを変え、小さな矢銃の引き金をひいた。レナルトがびくっとした直後に、ボンという鈍《にぶ》い音がその体内から響いた。ファムはにやにや笑いを大きくして、トルードにむきなおった。
「爆裂矢だよ。打ちこんだあとにボンと爆発して、内臓はハンバーガーになるってわけだ」
トルードの顔色は灰のように白くなった。「う……あ……」かつての上司、あるいは奴隷の身体を見つめ、いまにも吐きそうにしている。
ファムはトルードの胸を矢銃の先でつついた。トルードは恐怖に凍りついた顔でその銃口を見おろした。
「おい、トルードよ、なにをそんな暗い顔をしてんだ。おまえはよきエマージェントだろう。レナルトなんかただの愚人だ。船の装備品とおなじじゃねえか」レナルトの身体は痙攣がおさまり、死の直後の弛緩《しかん》状態へ移行しつつある。ファムは手をふってそれをしめした。「さあ、このがらくたを片づけて、愚人の通信回線を切断する方法を教えてもらおうか」
ファムはにやりとして、レナルトの身体を引っぱってくるために奥へ行った。トルードはがたがた震えながら、ドアのほうへむかった。
トルードが背をむけるとすぐに、レナルトをつかんだファムの手はやさしく慎重な動きになった。
〈〈やれやれ、それらしく聞こえてよかったぜ。ただの麻酔矢と爆竹だとは思うまい〉〉
こんなつまらないトリックを使ったのは人生でも大むかしのことだ。もししくじったらどうなっていたか。行動を開始して以来初めて、アドレナリンで火照《ほて》った身体に恐怖がしみこんできた。
レナルトの首すじに片手をあてると……脈ははっきりしている。麻酔が効《き》いて昏睡しているだけだ。ファムはあえて凶暴な笑い顔をつくり、トルードのあとについて愚人のグループ室にはいっていった。
54
結局、最後に笑ったのはニュース社だった。将軍が飛行機から降りてくる場面をアコード国安全保障室がカットしても、まったく関係ない。一行がサウスランド領内に足を踏みいれるやいなや、地元ニュース社はビクトリー・スミスとその随行員たちをこれでもかと映しまくった。
しばらくカメラは、将軍の食手《しょくしゅ》の表情がわかるほどアップでとらえていた。将軍はいつものように軍人らしく落ち着きはらっている……。しかしビクトリー・ライトヒルは、情報局少尉というよりも幼い子どものような、不安な気持ちにさいなまれた。ゴクナが死んだ日の朝よりもいやな予感がする。
〈〈ママ、どうしてこんな危険に身をさらすの?〉〉
しかしその答えはわかっていた。シャケナー・アンダーヒルといっしょに長年かけて築いてきた対抗工作にとって、スミス将軍はもはや必要不可欠な要素ではない。むしろいまは、最大の危険をみずから引き受けることで、その成功を手助けできるのだ。
下士官クラブには、いつもなら就寝《しゅうしん》シフトにはいったり、ほかの娯楽施設へ行っているような連中までつめかけていた。仕事へもどるにはここがいちばん近いという事情もあるだろう。いまはその仕事≠アそが、だれにとってもきわめて重要なことなのだ。
ビキはアーケードゲームのあいだを歩きながら、まだ事態は順調だというサインをそれとなく部下たちに送っていった。そしてブレントの隣の席に飛び乗った。兄はまだゲーム用のヘルメットをかぶったままで、両手は操作盤上をひっきりなしに動いている。ビキはその肩を叩いた。
「もうすぐママの演説がはじまるわよ」小声でいった。
「わかってるよ」ブレントは短く答えた。「九番の敵生物にこっちの作戦行動を見られちゃった。でもまだばれてない。自分のところの問題だと思ってるみたいだ」
ビキは兄の頭からヘルメットをもぎとってやりたくなった。〈〈まったくもう。わたしだってできることなら、こんな場面は見たくも聞きたくもないわ〉〉
兄にはなにもせず、かわりに上着から電話機をとりだして番号を押した。「もしもし、パパ? ママの演説がもうすぐはじまるわよ」
演説は短かったが、とてもよかった。南の脅《おど》しを防ぐ効果があった。とはいえ、それがどうしたというのか。サウスモースト市に乗りこんだのがとても危険であることにはかわりない。ビキは発泡酒バーのむこうの画面で、将軍が議会に配る提案書の束《たば》をティムに手渡しているところを見た。もしかすると、その提案はうまくいくかもしれない。もしかすると、南へ乗りこんだのは無駄ではなくなるかもしれない。
しばらくたった。議事堂のカメラはしだいに大きくなる喧騒《けんそう》を映していた。ママはアナービーおじさんといっしょに演壇をあとにしている。そこへ、黒っぽい服を着たみすぼらしいだれかが近づいていった。ペデュアだ。二人は話をはじめた……。
そのとき突然、画面のことなどどうでもよくなった。ブレントがビキの肩をつかんだのだ。
「まずいことになった」ゲーム用のヘルメットをかぶったまま、ブレントはいった。「全員絶望だ。古くからの友人もふくめて」
ビキはゲームの席から跳びおり、チームのメンバーに合図した。そのしぐさには、まるでかん高い口笛を吹いたかのような効果があった。メンバーたちはさっと立ちあがり、鞄《かばん》を身体《からだ》に固定しながら、いっせいにドアへむかって走りだしたのだ。ブレントはゲーム用のヘルメットを脱ぐと、ビキを追い抜いて走りはじめた。
うしろでいぶかしげにこちらを見る目もいくつかあったが、下士官クラブの大半の客はテレビに釘づけでこちらなど見ていなかった。
チームが二階下へ駆け降りた頃、ようやく敵襲警報が鳴りはじめた。
「どういうことだ、愚人《ぐじん》の支援機能がなくなったというのは? ファイバーケーブルが切れたのか? トリンリがなんらかの方法でありとあらゆるファイバーケーブルをみつけたとでもいうのか?」
「い、いえ、ちがいます。すくなくともわたしは、そんなことはないと思います」領兵のマーリはそれなりに使えるが、カル・オモほど有能なわけではない。「回線は通じています。ただ、制御チャンネルの反応がないんです。まるで……まるでだれかが愚人を回線から切り離したような感じで……」
「ふむ。そうか」
トリンリが新たな手を打ってきたのか、それとも屋根裏部屋にべつの裏切り者がいたのか。どちらにしても……。
ナウは部屋の反対側にいるエズル・ヴィンを見やった。苦痛のせいでどんよりとした目つきになっている。その目の奥には重要な秘密があるのだが、エズルは、彼とブルーゲルが尋問のために死の淵《ふち》まで追いつめなくてはならなかった連中とおなじくらいに口が堅かった。吐かせるには時間か、あるいは特別な材料がいるだろう。いまは、すくなくとも時間はなかった。
ナウはマーリのほうをむいた。「まだリッツァーとは話せるか?」
「だいじょうぶだと思います。外のレーザー通信所まではファイバーケーブルでつながっていますから」
マーリは慣れない手つきでコンソールを操作しはじめた。ナウはもどかしさに怒りを爆発させそうになった。しかし愚人の支援がなくなると、あらゆる操作がもどかしくなるのだ。〈〈これではチェンホーとおなじ環境だ〉〉
マーリの顔がふいに明るくなった。「インビジブルハンド号との通信リンクはつながったままです! 領督《りょうとく》の音声は襟《えり》のマイクでとらえるようにしました」
「よろしい……。リッツァー! おまえがどこまで聞いて知っているかわからないが――」ナウは大事故の展開を簡単にふりかえり、最後にこうしめくくった。「わたしはこれから数百秒間にわたって連絡がつかなくなるはずだ。L1Aへ避難する。そこでひとつだけ訊いておきたいことがある――こちらの愚人の支援がなくても、地上の作戦を遂行できるか?」
答えが返ってくるまでに十秒以上はかかるので、そのあいだにナウは生き残ったもう一人の警備員のほうをむいた。「シレト、トウとここの愚人を連れてこい。L1Aへ行くそ」
兵器庫にたどり着きさえすれば、自律機能系をいっさい介することなく、L1点周辺空間にいる全員の生殺与奪《せいさつよだつ》の権を握ることができるのだ。ナウがうしろの棚をあけて、あるスイッチにふれると、寄せ木張りの床の一部が横にすべって、トンネルのハッチがあらわれた。第一ダイヤモンド塊をつらぬいてL1Aへ直行するトンネルだ。ローカライザーによって自動化されてはいないし、交差するトンネルによってじゃまされる心配もない。トンネル両端の保安扉はナウの指紋だけを認識してひらくようになっている。ナウは読み取り機に親指を押しつけた。しかし小さな表示ランプは赤のままだ。
〈〈こんなところにまでトリンリの妨害がおよんでいるのか?〉〉
ナウは動揺を抑え、もう一度親指を押しつけた。まだ赤だ。もう一度。表示ランプはためらうようにしながらもなんとか青に変わり、床下のハッチは回転して開放位置になった。制御ソフトウェアがナウの血圧を感知して、だれかに強制されていると判断したのだろう。
〈〈そうすると、むこう側でも足|留《ど》めをくう可能性があるな〉〉
トンネル反対側の保安扉に制御を切り換えて、もう一度親指を押しつけた。二度の再試行で、ようやくそちらも緑になった。
シレトとトウが、アリ・リンを前に押し立ててもどってきた。
「ルールを破ってるじゃないか」老いた盆栽作家は彼らをにらんだ。「わたしみたいに床に足をつけて歩きたまえ」
アリの顔にはいらだちと混乱があらわれていた。愚人は集中化された任務から引き離されるのをいやがる。おそらくアリにとって領督の庭の草むしりは、繊細《せんさい》な遺伝子接合操作とおなじくらい重要な仕事なのだろう。ところが無理やり屋内へ連れてこられてみると、公園の重力幻想のエチケットがすっかり無視されているのだ。
「じっとして、口をつぐんでいろ。シレト、ヴィンの紐をほどけ。いっしょに連れていく」
アリは付着布の床にしっかりと足をつけてじっと立ったが、口のほうはとじなかった。愚人特有の遠い目つきでナウの背後を見ながら、文句をいいつづけた。
「すべてがだいなしだ。わからないのか?」
ふいにリッツァー・ブルーゲルの声が部屋に響きわたった。「領督、こちらはまったく問題ありません。インビジブルハンド号の愚人は正常に動作しています。そちらの愚人の最優先サービスが本当に必要になるのは、核爆弾の雨が降ったあとでしょう。フオンによれば、L1との接続がないほうが、短期的にはうまくやれます。レナルトの愚人ユニットは、接続が切れる直前にひどく不安定になっていましたから。攻撃スケジュールはこうなっています。サウスモースト市は七百秒後に焦土になり、それからまもなく、インビジブルハンド号はアコード国の迎撃、ミサイル発射場を通過します。そこはわれわれがひねりつぶして――」
長距離をへだてたやりとりではいつものことだが、ブルーゲルの返事はえんえんとつづいた。アリは黙りこんでいる。ナウは、ふいに日差しがさえぎられたように背中が涼しくなるのを感じた。雲だろうか。ふりかえって――初めて、アリの視線がたんなる愚人の遠い目つきではなかったのだと気づいた。トウがアリのまえに出て、湖に面した窓に駆けよった。
「なんてこった」警備員は低く毒づいた。
「リッツァー! こちらで問題が起きた。またあとで連絡する」ナウはいった。
インビジブルハンド号からの声はそれでもしゃべりつづけたが、もうだれも聞いていなかった。
バラクリア星の神話に登場する水の精のように、ノースポー湖の水がゆっくりとひと塊《かたまり》に集合しつつあるのだ。アリ・リンが慎重に設計した岸辺から後退し、盛りあがっていっている。日差し≠ヘ、何百万トンという波打つ水のむこうで揺れていた。たんに制御されなくなっただけなら、湖水はおおむねおなじ位置にとどまるはずだが、湖底のサーボバルブは一定のリズムで動いている……。おかげで大量の水は音もなく振動しながら、破局へとむかっていた。
ナウはトンネルのハッチに跳びつき、足を踏んばって、質量のある保安扉を引っぱりはじめた。しかしすでに水の壁は山荘にぶつかりはじめていた。毎秒一メートルほどの速度で容赦なく迫ってくる巨大な水の塊が、窓を壊し、建物をきしませた。
そして水は、壁の壊れたところから無数の手となって屋内に侵入した。ナウの身体は冷たい水につつまれ、ハッチから引き離された。悲鳴と叫び声がつかのま響いたが、すぐに全身が水につかり、声は消えた。聞こえるのは山荘が押しつぶされていくこもった騒音だけ。ナウは、自分の化粧板張りの机や大理石の暖炉をちらりと見たが、すぐに山荘の反対の壁を破った低速津波によって、外へ押し出された。そして上へ上へと巻きあげられていった。
水から出られず、肺が焼けるように苦しい。水は痺《しび》れるほど冷たかった。ナウは身体をひねり、にじんだ風景の意味を理解しようとした。わりあいにはっきりと見えるのは下。どうやら山荘脇の森が見えているようだ。ナウはそちらへ、空気のあるほうへ泳いでいった。
ようやく水面を割って、その勢いのまま水から飛び出し、むこう側の空間に出た。そうやってしばらく、移動する水の塊のすこしまえを一人だけで漂った。空中は想像もしなかった音に充《み》ちている。百万トンの水が広がったりぶつかったり振動したりする、まるで油のような響きだ。津波は公園空間の天井に一度ぶつかったらしく、いまは下へむかっていた。ナウはその下側だ。
眼下の森では、蝶たちもさすがに声をひそめ、大きなグロテセルム木の枝のなかで大きな集団をつくって身をひそめている。そのとき、遠くのほうでなにか動くものが見えた。そびえたつ水の側面を小さな点がすべっている。飛び猫だ! 水の塊をすこしも恐れていないようだ。もともと飛行種だからそうなのか。見ていると、一匹が水の側面に飛びこみ、しばらく姿を消してから出てきて、また飛びこんだ。あの猫どもは敏捷《びんしょう》なおかげで、水にからめとられる心配がないらしい。
ナウはふりかえって、水を見あげた。ちょうど日差しに対して逆光になり、のみこまれた瓦礫《がれき》や人影が金色にきらめいて、まるで號珀《こはく》にとらえられた蝿のように見える。人影はこちらへむかって泳いでいる。ある者は弱々しく、ある者は力強く。マーリが空中へ飛び出し、つづいてトウが水面を割った。さらにシレトがアリ・リンを抱きかかえるようにして出てきた。
〈〈よくやった!〉〉
もう一人エズル・ヴィンだ。行商人はほかから十メートルほど離れたところで、水面から半分だけ身体を突き出し、目をまわしたようにあえいでいる。しかし尋問中より意識がはっきりしたようだ。水が落ちていく木々の梢《こずえ》を見て、どうやら笑っているらしい声をたてた。
「もう逃げ場がないぞ、領督。ファム・ヌウェンの勝ちだ」エズルはいった。
「ファム……だれだって?」
エズルは、死んでもいうまいと思っていたのについ口を滑らせたというように、目を細めてナウをにらんだ。
ナウはマーリに手をふった。「そいつをこっちへ連れてこい」
しかし空中に出てしまったマーリには、まわりに手がかりも足がかりもない。エズルは水のなかに逆もどりし、奥へ泳いでいった。溺れるかもしれないが、とにかく逃げようということらしい。
マーリは背後の森へむけて鉄線銃を撃ち、その反動で水のほうへもどりはじめた。日差しを背景にシルエットになったエズルの姿は、弱々しく動いているが、それでも数メートルは潜っていた。
外にいるナウたちにも森の梢が迫ってきた。マーリはあせったようにまわりを見た。
「われわれも逃げるべきです!」
「じゃあ、先にあいつを殺せ」ナウはすでに梢につかまっていた。
頭上で、マーリは鉄線銃を何発か撃った。鉄線弾は当たった敵の身体を引き裂くようにできているが、水のなかでの射程距離はゼロに近い。しかしマーリは運がよかったようで、エズルの身体のまわりにぱっと赤い靄《もや》の花が咲いた。
もう時間がない。ナウは枝をたぐりながら樹冠《じゅかん》の下の空間に出た。まわりには、グロテセルム木やオリーソファーン木の大枝が、水圧に耐えかねてへし折られる音が響いている。まるで薪《たきぎ》のはぜる音と水の音がいっしょくたになったようだ。水の壁はフラクタル形状になった無数の指に分裂し、ねじれたり巻いたり融合したりしながら迫ってくる。それが蝶の群れにとどくと、いままで聞いたこともないようなかん高い鳴き声があがったが、それっきり群れは水にのまれた。
マーリがナウを追い越していき、ふりむいた。「中央出入り口はちょうど水の反対側です」
エズルがいっていたように、逃げ場なしということか。
五人は公園の壁と平行に、森の下草《したくさ》の上を移動していった。頭上では、水の天井が森の樹冠をすぎてどんどん低くなってくる。日差しは数十メートルの水の層を通して、あらゆる方角からさしてくるようだった。湖にあった水の量はそれほど多くない。公園のなかに空間はまだたくさん残されているはずだが――五人はあまり運がよくなかった。彼らがとじこめられた空間は小さな洞穴《ほらあな》程度で、水は四方から迫ってきている。
アリ・リンは引っぱられながら枝から枝へ移動していた。巨大な水の塊に見とれ、その危険にはまったく気がついていないようだ。
いや、もしかすると……。
「アリ!」ナウは鋭く呼んだ。
アリ・リンはそちらをむいた。しかし、仕事をじゃまされたときのしかめ面《づら》ではない。それどころか、笑みを[#「笑みを」に傍点]浮かべている。
「わたしの公園がめちゃくちゃだ。しかし、もっといいことがわかりました。だれも試みたことのない姿が見えてきました。今度こそ本当の微小重力環境の湖がつくれる。泡と水滴が競いながら空間をつくっていくんです。そこに動物と植物を――」
「アリ! わかった。おまえにはいつかきっと、もっといい公園をつくらせてやる。しかしいまは知りたいことがある。溺れるまえにたどり着けそうな、この公園からの脱出口はないか?」
うまいことに、これは愚人の注意を惹《ひ》く問いであるはずだ。アリの関心の対象はこの数百秒にわたってずいぶん混乱させられている。愚人の忠誠心はそう簡単に揺らがないものだが、自分と仕事とのあいだにじゃまものがあると思ったら……。
アリはしばらくすると肩をすくめ、答えた。「ありますよ。その岩のむこうに作業トンネルがある。出入り口はふさいでいません」
マーリが岩のほうへ飛んでいった。こんなところに作業トンネルがあるのだろうか。ヘッドアップディスプレーなしではまったくわからない。しかしたしかに、ダイヤモンド塊の表面から氷を落としこむときに使った細いトンネルが何十本も公園に口をあけているはずだ。
「ありました! アクセスコードにも反応します」
ナウたちはその岩のまわりに移動し、マーリがみつけた穴をのぞきこんだ。そのあいだにも、彼らがいる空気の洞窟《どうくつ》の壁――というよりも、大きな泡だ――は動いている。三十秒後にはここも水のなかに沈むだろう。
ナウのほうを見やったマーリの顔からは、明るい表情が消えつつあった。「ここにはいれば、水にのまれずにすむかもしれませんが」
「その先はどこへも行けない、といいたいんだな。わかってる」作業トンネルの密閉されたハッチで行き止まりになり、そのむこうは真空なのだ。まさに袋小路《ふくろこうじ》だ。
ゆっくりとのびる鍾乳石《しょうにゅうせき》のような水の腕に頭をはたかれ、ナウはマーリのわきにしゃがむしかなくなった。そのあと、うねる水の天井が一時的に高くなり、すこしだけ空間は広がった。
〈〈一歩ずつ追いつめられ、いまやすべてを失う寸前というわけか〉〉
信じられない。そのときふいに、エズル・ヴィンがさきほど口ばしったのは真実にちがいないとわかった。ファム・トリンリはザムレ・エングではない。トマス・ナウをだますために仕組んだ巧妙な嘘だろう。ナウがあこがれつづけた英雄が――ということは、考えられるかぎりもっとも危険な敵が――こんな目と鼻の先にいたのだ。
トリンリは、ファム・ヌウェンだったのだ。生まれてはじめてナウは、金縛《かなしば》りのような恐怖を覚えた。
しかしファム・ヌウェンも欠点をもっている。それは、いつも精神的なもろさだ。
〈〈わたしはずっとヌウェンの経歴を勉強し、長所はとりいれてきた。欠点はだれよりもよく知っている。それを利用すればいいのだ〉〉
ナウはまわりを見まわし、彼らとその装備を頭にいれた。キウィが愛した老人、通信装置と武器がいくらか、戦闘員が三人……。充分だ。
「アリ、作業トンネルの反対側にはファイバーケーブルの接続点があるのか? どうなんだ、アリ!」
うねる天井に見とれていた愚人は、顔をさげた。「ええ、ありますよ。氷を降ろすときには慎重な連携作業が必要でしたから」
ナウはマーリに、作業トンネルにはいるようにと手をふった。「よし、だいじょうぶだ」
狭い通路に一人ずつはいっていった。まわりでは、彼らをとじこめた空気の泡がとうとう地面を離れた。地面から五十センチ近くまで水がきて、さらにあがってきている。トウとアリ・リンは水飛沫《みずしぶき》とともにトンネルにはいった。シレトが最後に飛びこみ、急いでハッチをしめた。水も何十リットルかはいってきたが、これはもう、わずらわしい水滴という程度だ。しかしハッチのむこう側では水がどんどん深くなっていくようすが聞こえた。
ナウはマーリのほうをむいた。マーリは通信レーザーを拡散光のように使って照明がわりにしている。
「トンネルのむこう端へ行くそ、領兵。アリ・リンが電話をかける手伝いをしてくれるはずだ」
あやうくファム・ヌウェンにやられるところだったが、こちらにはまだ考える頭と、連絡をとって部下たちを動かす能力がある。作業トンネルを上へ昇りながら、キウィ・リン・リゾレットにどんなふうにいうのが効果的かを考えた。
スミス将軍は演壇から降りた。ティム・ダウニングに渡した提案書は議員たちに配られており、いまは五百の頭がその内容を検討しているところだ。ハランクナー・アナービーは演壇の陰に立って考えた。スミスはたしかに最高の仕事をした。まともな世界ならきっとうまくいくはずだ。これに対してペデュアはどんな策をしかけてくるだろうか。
スミスはアナービーのところまで降りてきた。「そばについてて、軍曹。長年話をつけたいと思っていた相手が来ているみたいだから」
今日のうちに評決がおこなわれるはずだが、そのまえに将軍に対する質疑があるかもしれない。政治的な手を打つ時間は充分にある。アナービーとダウニングは将軍といっしょに張り出し舞台の奥へ退《さ》がり、出口をふさぐように立った。
むさくるしい姿なのにゲートルだけは派手なものを巻いたやつが近づいてきた。ペデュアだ。醜《みにく》い齢《とし》のとり方をしている。あるいは、暗殺未遂事件があったという噂は本当なのか。ペデュアは横歩きしてビクトリー・スミスのわきを通ろうとしたが、将軍はその行く手をふさいだ。
スミスは笑みを浮かべた。「こんにちは、子ども狙いの殺し屋さん。じかに会えてとてもうれしいわ」
相手は押しころしたような声で答えた。「そう。そこをどかないと、命をなくすことになるわよ」詑《なま》りがひどいが、手の先につけた小さなナイフははっきりと見えた。
スミスは横に大きく手を広げ、議事堂のだれからもよく見えるようにおおげさに肩をすくめた。「こんな衆人環視のなかで? ペデュア師、そんなことができるとは思えないわ。あなたは――」
スミスはいいよどみ、二本の手を頭のわきへもっていって、なにかを聞くような恰好をした。電話だろうか。
ペデュアは疑わしげな表情でじっとスミスを見つめていた。この小柄な女は、身体の殻は醜くごつごつとして、しぐさは妙にすばやい。とうてい信用できない外見だ。遠くから殺しの指令を出すことにばかり慣れているせいで、魅力的な外見をたもったり言葉で説得したりといった能力は、とうになくしているのだろう。こんな公式の場に出てくるのは不得意なはずだ。そう考えると、アナービーの不安はすこしだけやわらいだ。
ペデュアの上着のなかで呼び出し音が鳴り、彼女はナイフを隠して電話をつかんだ。つかのま、両国の情報部司令官は共通の思い出について語りあう旧友どうしのように見えた。
「まさか!」ペデュアが身体をひきつらせ、声を張りあげた。食手で電話をがっちりと握り、いまにもばりばりと噛み砕きそうだ。「いま、ここへだなんて、冗談じゃないわ!」
議事堂の全視線が二人に集まっていることなど、まったく意識していないようだ。
スミス将軍はアナービーのほうをふりむいた。「スケジュールはすべて御破算《ごはさん》よ、軍曹。海氷の上から発射された三発のミサイルがこちらへ飛んできている。約七分でここへとどくわ」
アナービーは思わず頭上のドームを見あげた。ここは地下千フィートにあり、戦略核兵器くらいには耐えられる。しかしキンドレッド軍はもっと強力なものを開発しているはずだ。その三発はおそらく敵地の奥深くまで侵入して爆発するはずだ。それでも……。
〈〈ここはおれも設計に関与した場所だ〉〉もっと深い場所へ通じる階段がこの近くにあるのだ。
アナービーはスミスの腕をとった。「将軍、こちらへ」二人は張り出し舞台の奥へ退がっていった。
悪党のなかにも、勇気のあるやつとないやつがいる。ペデュア師は……動揺してがたがた震えていた。そわそわと動きまわりながら、ティーファー語で電話にむかってがなりたてている。しかしふいにそれをやめて、スミスのほうをむいた。恐怖と驚きがないまぜになった表情だ。
「ミサイルは……あんたたちが射《う》ったのね! この――」
叫び声とともにスミスの背中めがけて突進してきた。いちばん長い腕の先に装着された銀色のナイフが光っている。
スミスがふりむくより早く、アナービーは二人のあいだに割ってはいり、ペデュア師に肩で体当たりした。ペデュアははじき飛ばされ、張り出し舞台のむこう側へ落ちていった。
それを合図に、あたりは大混乱におちいった。舞台の下からはペデュアの部下たちがいっせいに登ってきて、傍聴者用のギャラリーからはスミスの護衛官たちが跳び降りてきた。議員たちは読み取り装置から顔をあげて、戦いがはじまっているのを見て愕然《がくぜん》とした。そのとき、後方の高いところでだれかが大声でいった。
「おい、ネットワークのニュースを見ろ! アコード国がわれわれにむかって、ミサイルを発射したぞ!」
アナービーはアコード国の兵士たちと将軍を舞台袖《そで》へ誘導し、耐爆コアへ降りるための隠し階段を駆け降りていった。あと七分の命か。そうかもしれないが、ふいにアナービーの心はすがすがしく晴れわたった。ここまできたら、あとはもう複雑なことはなにもない。かつてビクトリー・スミスとともに戦っていた頃とおなじだ。生きるか死ぬかは、少数精鋭の兵士と、上官の一瞬の決断力で決まるのだ。
55
ベルガ・アンダータウンは、司令管制センターで最先任の士官だが、そのことはあまり関係なかった。彼女は国内情報局長であり、このセンターの動きによって自分の職がどうなろうと、いっさい口は出せない。あくまで民間防衛活動と王室近衛隊についての連絡役にすぎず、ここの指揮命令系統には属していないのだ。
アンダータウンは、エルノ・コールドヘブンを見やった。新任の国外情報局長であり、このセンターの指揮官だ。彼は、前任者がひどい失策の連続によって解任に追いこまれたことは知っているし、ラヒナー・トラクトが無能者ではなく、おそらく裏切り者などでもないことも知っている。そのうえでその職を引き継いだのだ。そしていま、軍司令官は国内にいない。コールドヘブンは綱渡りで指揮をとっていた。
この数日間にコールドヘブンは一度ならずアンダータウンをわきへ引っぱっていき、強くその助言を請《こ》うた。スミス将軍がアンダービルをプリンストン市へ帰さず、ここに残らせたのはそのためだったのかもしれない。
司令管制センターは、ランズコマンド市の岬《みさき》から一マイル以上内陸の、王族冬眠穴の下にある。十年前のセンターはだだっ広く、何十人もの情報技術官が当時の小さくて奇妙なCRTディスプレーのまえにすわっていた。奥にはガラス張りの会議室があり、監督将校たちのための監視用ブリッジもあった。
しかし年とともにコンピュータシステムとネットワークが進歩したおかげで、いまのアコード国情報局は目も耳もシステムも強力になり、司令管制センターそのものも会議室よりほんのすこし広いくらいに縮んでいた。外むきにすわる席がならんだ、静かで奇妙な会議室だ。空気は新鮮で、いつも軽く流れている。照明は明るく、どこにも影を残さない。データを表示するディスプレーはいくつもあるが、もっとも単純なものでも十二色表示だ。技術官はまだ何人か必要だが、一人で大陸と近傍《きんぼう》宇宙空間に散らばった無数のノードを管理できるようになっている。そしてその一人ひとりが、データを解釈する専門技術官を何百人もかかえ、間接的に相談している。八人の情報技術官と、四人の佐官級将校と、一人の指揮官。実際の要員はこれだけで充分なのだ。
中央スクリーンには、司令官が議会に紹介されているようすが映し出されている。映像は全世界が観《み》ているのとおなじ民間ニュース会社のものだ。国外情報局はサウスランド国議事堂に自前のカメラをあえて侵入させようとはしなかった。技術官の一人が映像のひとこまを分析しており、いくつかの断片に切り分けて光源を操作している。スクリーンに一人のみすぼらしい姿が浮かびあがった。服装は黒っぽくてよくわからない。
アンダータウンの隣でコールドヘブン将軍がつぶやいた。「なるほど、これはいい人物があらわれてくれた。ペデュアご本人の登場か……。自分の脳天にミサイルの照準があわせられてるあいだは、やつも無茶はできないだろう」
しかしアンダータウンは半分しか聞いていなかった。いろいろなことが同時進行で起きているのだ……。なによりスミス将軍の演説内容は、ペデュアの姿を見たことよりショックだった。その人質《ひとじち》提案を聞いて、何人かの技術官たちもはっとして手を止め、口もとの食手《しょくしゅ》をこわばらせた。
「なんだって……」エルノ・コールドヘブンはつぶやいた。
「たしかに」アンダータウンはささやき返した。「でももしこの提案が通れば、望みがひらけるかもしれませんよ」
「彼らが人質として王を選んだらな。しかしもしスミス将軍を指名してきたら」
もしスミスがサウスランド国にとどまらざるをえなくなれば、ひどく面倒な事態になる。とりわけエルノ・コールドヘブンにとってはそうだ。彼は不安げな表情を隠せなかった。
〈〈ということは、国外情報局長にもあらかじめ知らされてはいなかったのね〉〉アンダータウンは思った。
「なんとかなるさ」クレド・ダグウェイ防空局長がいった。
ここにいる将官はダグウェイとコールドヘブンの二人だけだ。防空局長はもともとトラクト批判の急先鋒だったし、エルノ・コールドヘブンのかつての上司でもある。だからいまもコールドヘブンを子分のようにみなしているところがあった。
サウスランド国からの映像のなかでは、スミス将軍が演壇から降り、ティム・ダウニングに正式な提案書を渡している。カメラは、演壇の下でのスミスの動きを追っていった。
「ペデュアのいるほうへむかっていくそ!」
ダグウェイが軽く笑った。「ほう、おもしろいことになりそうだ」
「くそ」カメラはダウニング少佐のほうにもどり、将軍の提案書の束《たば》が議会側に手渡されるようすを映しはじめた。
「うちの司令官のようすがわかるものはないのか? 将軍に音声は通じてないのか?」
「いいえ、残念ながら」
そのとき、防空画面に警告表示がともった。技術官がかがみこみ、マイクを通じてなにごとかやりとりしたあと、ふりむいた。
「将軍、いったいどういうことかわからないのですが、どうも――」
ダグウェイがサウスランド国の合成作戦図を手でさした。「発射のサインが出てるぞ!」
たしかにそうだ。アンダータウンにも記号の意味はわかった。十字は推定発射位置をしめしている。
「三発だ。サウスランド国の基地からではない。海氷の下の潜水艦からだ。これは――」
キンドレッド国しかありえない。氷の下からのミサイル発射能力を有する潜水艦は、アコード国とキンドレッド国しかもっていないのだ。
ミサイルの予想到達地点として画面上に円が描かれた。三つとも南極近くにある。
コールドヘブンは攻撃管制担当の技術官にむかって、手をふりおろすようなしぐさをした。
「最明期″戦をはじめろ」
中央スクリーンでは、まだニュース社のカメラが議事堂内を横になめるように動いて、スミス将軍の演説に対する議会の反応を映している。
攻撃管制担当技術官の一人が腰を浮かせた。「将軍! あのミサイルはわが国のです。それぞれセブンス号、アイスダグ号、クローランダー号から発射されています!」
なんだと?」コールドヘブン将軍の声は、元上司がなにかいいかけたのをさえぎるように響いた。
「艦の自動運航記録装置のデータから読みとったものです。現在それぞれの艦長と連絡をとろうとしているところなのですが――通信の暗号がまだ一致しなくて……」
ダグウェイが報告画面を叩いた。「彼らと直接話をするまではなにも信じないぞ。その三人の艦長はよく知っている。どうもおかしい」
「しかし、ミサイルが発射されたことも、その目標もたしかです」技術官が十字と円をしめした。
「ただの記号にすぎん!」
「発射探知専用の衛星からじかに送られてきたデータを、安全なネット経由で受けとったものです」コールドヘブンは身ぶりで両者の発言を抑えた。「どうやらこれは、わたしの前任者が遭遇した問題とよく似ているようだ」
ダグウェイはかつての部下をじろりとにらんだが……しばらくしてその意味が頭にしみこんできたらしく、うなずいた。「そうだな……」
コールドヘブンは苦々《にがにが》しげにいった。「そう考えている者はほかにもいる。まだアナログ無線機を使っている愛好家たちのあいだでそういう噂が飛びかっているのだ」
たしかにまだそういう無線機を使っている連中はいた。アンダータウンが地方に配置した情報員のなかにも、機器更新をずっとこばんでいる者がいた。むしろ驚くべきは、ランズコマンド市のなかにそういった噂に真剣に耳を傾ける者がいたということだ。コールドヘブンはアンダータウンの表情に気づいたようだった。
「妻が近くの科学技術博物館に勤めていてね」かすかに笑みを浮かべた。「古い無線機を使う友人たちは、頭のおかしい連中などではないと妻はいっていた。そしていま、ありえないことが目のまえで起きている。これまではだれかの失策のせいにしてこられたかもしれないが、今回はもう……」
しだいに狭《せば》まっていく円のそばの予想到達時間は、もう残り三分ほどしかない。その目標地点について、衛星の観測データは一致した結論にいたっていたサウスモースト市だ。
アンダータウンはしぼし呆然《ぼうぜん》とした。トラクトの被害妄想だと思われていたのは――すべて本当だったのか。「とすると、このミサイル発射そのものも偽《にせ》データかもしれません。ここに見えているものは――」
「すくなくともネット経由で見えているものごとは――」
「――偽情報かもしれない」
技術恐怖症の者がいだく究極の悪夢だ。その意味はダグウェイの頭にもしみとおってきたようだ。二十年以上にわたって築かれてきた信頼が、こなごなに砕かれたのだ。
「しかし暗号は……照合確認システムは……」ダグウェイはつぶやいた。「どうすればいいんだ、エルノ」
コールドヘブンは悄然《しょうぜん》としていた。自分の仮説が受けいれられたものの、あとに残ったのは破滅的な現状だけなのだ。「やるとしたら――ネットの使用停止でしょう。司令および通信系統をネットから切り離すんです。机上演習における選択肢としては知っていますただし、それもネット上での演習だったのですが」
アンダータウンはその肩に手をかけた。「やりましょう。博物館から運んできたアナログ無線機を使えばいい。命令は伝令に手で運ばせればいい。時間はかかるけれど」
かかりすぎるかもしれない。しかし、すくなくとも現実に起きていることは把握できる。
ネットを経由すればすぐに連絡のとれる相手はいる――ニジニモル大臣も国王もそうだが、いまはなにも信用できない状態なのだ。わきにダグウェイがいるとはいえ、この司令管制センターの指揮官はエルノ・コールドヘブンだ。彼はしばしためらったが、ダグウェイに相談しようとはせず、先任曹長を呼んだ。
「ネットワーク崩壊対策を実行する。博物館に伝令を走らせろ」
「了解しました!」技術官たちは将校たちのやりとりをずっと聞いていて、それほど呆然としてはいなかったようだ。
ミサイルの目標をしめす円には、到達まであと二分と表示されている。サウスモースト市からの映像によると、議事堂内は大混乱におちいっていた。アンダータウンはしばらくそのようすに視線を奪われた。あわれな連中だ。これまで彼らにとって戦争の気配など、地平線にたちこめる遠い暗雲にすぎなかっただろう。ところがサウスランド国の議員たちは、いきなり自分たちがその目標にされ、残された時間は二分以下だと気づいたのだ。腰を抜かして動くこともきず、まもなくメガトン級の爆発が起きるはずの天井を呆然と見あげる者。絨毯《じゅうたん》の敷かれた階段に殺到し、出口へ、下へむかおうとする者……。スミス将軍もそのどこかでおなじ運命に直面しているのだ。
幸運なことに、先任曹長はネットワーク崩壊対策のハードコピーをどこからかみつけてきて、技術官たちに配った。そして司令管制センターの耐爆ドアをひらく手続きにとりかかった。
ところがそれより早く、耐爆ドアはひらきはじめていた。アンダータウンははっとした。いまの勤務シフトが終わるか、コールドヘブンが開放コードを打ちこむまでは、絶対にひらくはずのないドアなのだ[#「絶対にひらくはずのないドアなのだ」に傍点]。
一人の衛兵が、ライフルを控え銃《つつ》の位置にもって、困惑したようなうしろ歩きではいってきた。「立ち入り許可コードはわかりますが、ここにはだれも――」
つづいて、聞き覚えのある声が響いた。「そんなことは関係ないわ。わたしたちは立ち入り許可コードをもっていて、げんにドアはひらいた。さあ、そこをどきなさい」
若い少尉が大股にはいってきた。すらりとした身体《からだ》を黒一色の軍服でつつんでいる。まるでビクトリー・スミスが南から脱出して、ついでにアンダータウンが初めて会ったときのような若い姿で帰ってきたかのようだ。少尉のうしろからは大柄な伍長と、ほかの兵士たちがはいってきた。そのほとんどが短めの突撃銃を手にしている。
ダグウェイ将軍は若い少尉にむかって怒りの言葉を次々にぶつけている。なんと愚《おろ》かなことか。これはどう見てもクーデターだ。しかし、だとしたら、なぜ撃たないのか。
エルノ・コールドヘブンがそっと自分の机にあとずさり、隠し引き出しに手をのばしているのが見えた。アンダータウンは彼と侵入者たちのあいだに割りこむように立ち、少尉のほうにいった。
「あなたはスミス将軍の娘さんね」
少尉はアンダータウンにむかって敬礼した。「はい、そうです。わたしはビクトリー・ライトヒル。連れてきているのはわたしの査察《ささつ》チームです。スミス将軍からは、自分たちの判断にしたがって適宜《てきぎ》、査察をいれてよいという許可をいただいています。失礼ですが、今回はそのためにうかがいました」
口角《こうかく》泡を飛ばしてののしっている防空局長のわきを、ライトヒルは気にもとめずに通りすぎた。ダグウェイは怒りのあまり、言葉さえ失った。アンダータウンの背後に隠れたところで、エルノ・コールドヘブンは命令コードを打ちこんでいた。
ライトヒルはそれに気づいたようだ。「コンソールから離れてください、コールドヘブン将軍」
大柄な伍長が突撃銃をコールドヘブンのほうにむけた。アンダータウンはようやくその伍長がだれかに気づいた。スミス将軍の知恵遅れの息子ではないか。なんてことだ。
エルノ・コールドヘブンは自分の机から退《さ》がり、これは査察の範囲を超えているといいたげに、すべての手を軽く上にあげた。ドアに近いところにいる二人の技術官が、査察チームの目を盗んで外へ逃げ出そうとしたが、チームの動きはすばやかった。彼らはふりむいてその二人に跳びかかり、引きずるようにセンターのなかへもどした。
耐爆ドアがゆっくりととじられた。
コールドヘブンがもう一度相手の説得を試みたが、迫力には乏《とぼ》しかった。「少尉、われわれのネットワークは大きな変調をきたしているのだ。司令と管制をネットから切り離さなくてはならない」
ライトヒルは中央スクリーンに近づいた。議事堂からの映像はまだとどいているが、場内にはもうだれもいない。カメラはあちこちさまよったすえに、天井を見あげて止まった。ほかのディスプレーでは最明期″戦の表示が無数にともっている。司令センターへの問いあわせや、ロケット攻撃部隊からの発射報告だ。
世界は破滅への階段をころげ落ちはじめていた。
ようやくライトヒルが答えた。「わかっています。そのネットからの切り離しを阻止するために、わたしたちはここへ来たのです」
査察チームは、もともと広くはない司令管制センターのなかに適切に散らばり、すべての技術官と将校に銃をむけていた。大柄な伍長は鞄《かばん》をひらいて、なにかの機器を設置しはじめた。
まるでゲーム用ディスプレーのようだが……。
ダグウェイの口からようやく言葉が出るようになった。「組織に深くもぐりこんだスパイがいるとはにらんでいた。それはラヒナー・トラクトだと思っていたのだが、なんたるまちがい。ビクトリー・スミス自身が、ペデュアとキンドレッド国のために働いていたとは」
〈〈すべての中心にいる裏切り者、というわけね。もしそうなら、なにもかも説明できるのだけど――〉〉アンダータウンはディスプレーを見た。ネットワークを経由したデータによれば、アコード国のミサイルが各地で発射されている。
彼女はいった。「どこからどこまでが本当なのかしら、少尉? サウスモースト市への攻撃もふくめて、すべてが偽情報かもしれないわ」
少尉は答えないつもりだろうかと、アンダータウンはしばし思った。
サウスモースト市のミサイル到達予想円が縮まって点に近くなった。議事堂の丸天井を映したニュース会社のカメラにはしばらく変化がなかったが――ふいに岩の天井が下にむかって押され、亀裂のむこうにまばゆい光が見えたような気がしたとたん、映像は途切《とぎ》れた。
ビクトリー・ライトヒルはつかのま身を縮めたが、しばらくして静かな硬い口調で、アンダータウンの問いに答えた。
「いいえ、あの攻撃は本物です」
56
「本当にむこうではこちらの映像が見えているのか?」ナウは訊いた。
マーリが装置から顔をあげた。「はい、そうです。ちょうどいま、むこうのヘッドアップディスプレーから通話開始の合図がはいってきました」
〈〈いよいよだぞ、領督《りょうとく》。一世一代の大芝居だ〉〉
ナウはいった。「キウィ! 聞こえるか?」
「ええ、もちろん――」そして、キウィがはっと息をのむ音が聞こえた。聞こえただけだ。こちらに映像は返ってきていない。そういう意味ではたしかに危険な情況だった。「パパ!」
ナウはアリ・リンの頭と肩を抱きかかえるようにしていた。傷はぱっくりと口をひらき、まにあわせの包帯からは大量の血がしみだしている。
〈〈くそ。まさか死にはしないだろうが〉〉
とはいえ、真に迫って見えることがだいじなのだ。その点でマーリはいい仕事をした。
「エズル・ヴィンのしわざだ、キウィ。やつとトリンリが突然跳びかかってきて、カル・オモを殺した。アリもあやうく殺されそうになったが……二人を逃がすこととひきかえに、こうして助けたんだ」言葉は本物の怒りと恐怖と、そして作戦上の必要性にしたがって、ナウの口から蕩々《とうとう》とあふれでてきた。長い孤立生活の成否がかかった一瞬、そして文明全体の命運がかかった一瞬に、裏切り者が卑劣《ひれつ》な攻撃をしかけてきた。そしてノースポー湖を破壊したのだ。
「飛び猫が二匹溺れたようだ、キウィ。遠くて助けられなくて、残念だった――」あとは言葉がつづかなくなったが、それはそれで効果的だった。
音声回線のむこう側から、気管が詰まったような音が聞こえてきた。キウィが強烈な恐怖にとらわれたときにたてる声だ。いけない、それを聞くと、まずい方向に記憶の連鎖がいってしまう……。
ナウは恐怖をふりはらって、つづけた。「キウィ、まだ勝ちめはある。裏切り者はそっちの酒場にあらわれていないか?」ファム・ヌウェンはベニーの酒場まで逃げ延びたのだろうか。
「いいえ。でも、なにかひどいことが起きているらしいことはわかったわ。ノースポー湖からの映像が切れたし、アラクナ星では戦争がはじまったみたい。これは秘密回線だけど、わたしがベニーの酒場を出るところはみんな見ているわ」
「わかった、それでいいんだ、キウィ。ヴィンとトリンリの協力者がいるとしたら、いまはまだ混乱しているはずだ。勝ちめはある。こちらの二人は――」
「でも、信頼できるはずだったんじゃ――」キウィはいいかけて、途中で口をつぐみ、それ以上反論しなかった。それでいい。最近、精神洗浄をほどこしたばかりなので、まだ自分に自信がもてない状態なのだ。「わかったわ。でも、わたしは手助けできるわよ。どこに隠れてるの? 作業トンネルのひとつ?」
「そうだ。外部ハッチの手前で動きがとれなくなっている。ここから脱出できさえすれば、まだ手は打てるはずだ。L1Aには――」
「どの作業トンネル?」
「それは――」ハッチの表面を見やった。マーリの照明のおかげでなんとか数字が読みとれる。
「七、四、五……七百四十五号トンネルだ。それで――」
「位置はわかるわ。二百秒以内に迎えにいくから、心配しないで、トマス」
〈〈おやおや〉〉キウィの回復ぶりはたいしたものだ。ナウはしばらく待って、それきり何も聞こえてこないので、いぶかしげにマーリを見た。
「接続は切れています」
「そうか。もう一度つなぎなおせ。そしてリッツァー・ブルーゲルに連絡できるかどうかやってみろ」
どんな結果になるにせよ、地上作戦の進行具合を途中でチェックできるのはこれが最後になるかもしれない。
ミサイルがサウスモースト市に到達したとき、インビシブルハンド号から見るとこの都市はちょうど惑星のふちにあるはずだった。ジョー・シンのディスプレーでは上層大気が光って見えただけだったが、偵察衛星がその破壊情況を詳細に伝えていた。三発の核ミサイルは正確に目標をとらえていた。
しかしリッツァー・ブルーゲルは完全に満足してはいなかった。「タイミングがずれてるぞ。充分な貫通《かんつう》力を発揮していない」
ビル・フオンの声が船橋チャンネルから聞こえた。「はい、それには高度な砲火管制能力が必要で……L1と接続していないと無理です」
「わかった、わかった。手持ちの愚人《ぐじん》でなんとかやるぞ。シン!」
「はい」ジョーはコンソールから顔をあげた。
「ミサイル発射場を攻撃する準備はできてるのか?」
「できています。さきほどのエンジン噴射で、そのほとんどの上空を通過する軌道に乗りました。アコード国の火力の大半をそぐことができます」
「いいか、パイロット管理主任、おまえは――」そのとき、ブルーゲルのコンソールがなにかの呼び出し音をたてた。映像はなかったが、副領督は音声に耳を傾けはじめた。そしてしばらくして返事をした。「わかりました。こちらはまかせてください。そちらの情況はどうですか?」
〈〈上でなにが起きているんだ? リタは無事なのか〉〉
ジョーは副領督のやりとりからあえて注意をそらし、自分の情況表示ディスプレーを見た。たしかにジョーの配下の愚人パイロットたちは、すでに限度いっぱいの働きをしていた。巧妙な偽装工作をやる余力などなく、蜘蛛《くも》族のネットワーク上でこの作戦行動をごまかすのはもう無理だった。
アコード国のミサイル発射場は北大陸の広い範囲に散らばっており、インビジブルハンド号が上空を飛ぶといっても、大雑把《おおざっぱ》に射程におさめるのにすぎない。愚人パイロットは、十人ほどの砲火管制担当の愚人と連係処理をおこなっていた。まにあわせの材料で組まれたレーザー砲だが、地表近くにある発射場を破壊する能力はある。しかしそのためには、それぞれ五十ミリ秒以上の照射時間が必要だ。これだけの火力ですべてを叩くのは、まさに曲芸的な砲火管制をやらなくてはいけなかった。
攻撃拠点のような深いところにある目標には、貫通爆弾を使うしかない。これらはすでに発射され、目標へむかって飛んでいっているところだ。
ジョーはこの任務のために全力を傾けてきた。〈〈ほかにしかたないんだ〉〉数秒ごとにその思いがくりかえし頭に浮かび、そのたびにもうひとつの思いがつづいて浮かんだ。〈〈ぼくは残虐な殺し屋じゃない〉〉
しかしいまなら……いまなら、ブルーゲルの卑劣な命令をまともに実行せずにすむ方法がある。
〈〈正直になれ。こうしてやっていることは、残虐な殺し屋とおなじじゃないか〉〉
それでも殺す数を、何百万人ではなく数百人にとどめる方法がある。
L1点からの支援なしに地形および砲火管制のデータ処理をやれば、小さなエラーは多少なりと発生するだろう。サウスモースト市への攻撃がそのいい例だ。
ジョーはキーボード上で指を動かし、愚人パイロットたちに最後の助言をおこなった。そこに忍びこませたエラーは、きわめてささいだった。しかしそのエラーはどこまでも波及し、ミサイル迎撃、ミサイルを狙うレーザーをランダムに偏向《へんこう》させる。目標にはほとんどあたらなくなるはずだ。
うまくいけば、アコード国にはキンドレッド国の核ミサイルを撃ち落とす手段が残される。
ラヒナー・トラクトは来客待ちあい小屋のなかで行ったり来たりしていた。どうしてシャケナーは外へ出てくるのにこんなに時間がかかるのだろう。急に気を変えたのか、来客のことを忘れてしまったのか。歩哨《ほしょう》もいらいらしているようで、通信機にむかってなにやらしゃべっていたが、内容は聞きとれなかった。
ふいに、どこか見えないところでモーターの回転音がしたと思うと、やや遅れて古い木の扉が横にひらいた。まず介助虫《かいじょちゅう》があらわれ、すぐにシャケナー・アンダーヒルがつづいた。歩哨が持ち場の小屋のわきであわてふためいた。
「博士、もうすこしお待ちいただけますか。いま――」
「わかってるが、大佐とちょっとここで話をしたいんだ」
シャケナーは外套《がいとう》をはおっているのがいかにも重たそうで、一歩ごとに横にふらついた。歩哨はどうしていいかわからないように持ち場でそわそわしている。介助虫は辛抱強く主人の進路を修正し、なんとかトラクトのほうへまっすぐむかわせた。
シャケナーは来客待ちあい小屋にたどり着いた。「手の空《あ》く時間がわずかしかないんだ、大佐。きみが解任されたことは本当に残念に思っている。できれば――」
「そんなことはどうでもいいんです! ぜひ聞いていただきたいことがあるんです」シャケナー・アンダーヒルとじかに話せるところまで来られただけでも奇跡に近い。とにかくいまは、歩哨に話をさえぎられるまえに、なんとか相手を納得させなくては。「われわれの司令システムは敵の侵入を受けています。証拠があるんです!」シャケナーは反論したそうに手をあげたが、トラクトはしゃべりつづけた。最後のチャンスなのだ。「頭がおかしいと思われるかもしれませんが、それですべて説明がつくんです。じつは――」
そのとき、周囲の世界が爆発した。
色を超えた色が押しよせた。とてつもなく強烈な太陽に照らされたような苦痛が襲ってきた。その苦痛の色に圧倒されて、意識も恐怖も、驚きさえもどこかへけし飛んだ。
そしてようやく、もとの意識がもどってきた。苦しみにつつまれているが、すくなくとも意識はある。トラクトは雪と瓦礫《がれき》のあいだに倒れていた。目は……とても痛い。前方視野には地獄の残像が焼きつき、なにも見えない。残像のなかには黒いシルエットが二つ、くっきりと残っていた。歩哨と、シャケナー・アンダーヒルの影だ。
〈〈アンダーヒル!〉〉
自分の上に倒れかかっていた建築材の残骸を押しのけ、トラクトはなんとか立ちあがった。するとほかの苦痛が襲ってきた。背中全体がすさまじく痛い。壁に叩きつけられるとこんなふうになるだろうかという痛みだ。ふらふらと何歩かあるいてみたが、どこも折れたところはなさそうだった。
「博士? アンダーヒル博士?」
自分の声なのに、ひどく遠くから聞こえるような気がした。まわりを見るのに、まるで幼眼《ようがん》しか使えない子どものように頭をまわさなくてはいけなかった。しかたない。前方視野は残像におおわれているのだ。斜面の下のほうを見ると、火口壁にそってならぶ穴から煙が立ちのぼっている。しかし破壊の程度はこちらのほうがひどかった。アンダーヒル邸のなかで外に立っていた建物はことごとく倒壊し、燃える材料でできたものにはすべて火がまわりつつある。
トラクトは歩哨が立っていたほうへ足を踏み出そうとしたが、そこは切り立った崖のふちになっていた。見あげると、頭上の斜面も吹き飛ばされて跡形《あとかた》もない。こんなすさまじい光景をトラクトは一度だけ見たことがあったが、しかしそれは臨時弾薬集積所に貫通弾が落下した大事故の現場だった。
〈〈いったいなにが起きたんだ? アンダーヒルが地下になにか隠していたのか?〉〉
さまざまな疑問が湧いてきたが、いまのトラクトは答えなどもっていなかったし、それよりも急を要する関心事があった。
ふいに足もとから動物の威嚇《いかく》する声が聞こえ、トラクトは頭をまわした。シャケナーの介助虫だった。警戒して攻撃手をかまえているが、その身体《からだ》は瓦礫の下敷きになっていた。おそらく外皮が割れているにちがいない。トラクトが横から近づこうとすると、介助虫はさらに大きな威嚇音をたて、つぶれた身体を瓦礫の下から出そうともがいた。
「モビー! だいじょうぶだ。いい子にしなさい、モビー」
シャケナーの声だ! こもった声だが、いまはすべての音がそんなふうに聞こえる。トラクトが介助虫のわきを通りすぎると、介助虫はなんとか瓦礫の下から這い出て主人の声のするほうへむかった。シューシューという声は、もう威嚇音ではなく、むしろすすり泣く声のようだった。
トラクトは火口のふちにそって歩いた。ふちには吹きあげられてきた瓦礫がうずたかく積もっている。ガラス化した斜面はすでに内側へむかって倒れ、崩れはじめていた。まだシャケナーはみつからない。
介助虫がトラクトを追い越していった。みつけた! 介助虫のすぐまえに、一本の手が瓦礫よりも高く突き出している。
介助虫はかん高い声をたて、弱々しくそこを掘りはじめた。トラクトもいっしょに建築材を引きあげ、温かい土をわきへどかしていった。
温かい……? たしかに、カロリカ湾の火口原の地面のように温かかった。温かい土に埋められるというのは、とりわけ恐ろしいことだ。トラクトは掘る手の動きを速くした。
シャケナーは直立した状態で埋まっていて、一フィートほど土をかきわけたところに頭があり、さらに掘るとすぐに肩の下まで出てきた。そのとき地面がぐらりと傾き、火口のほうへ崩れはじめた。トラクトは手をのばしてシャケナーの手にからませ、引っぱった。一インチ、一フィートと身体が抜け……二人がもつれるようにして高いほうの地面に倒れるのと同時に、シャケナーが埋まっていた場所は火口へむかって崩れ落ちた。
介助虫は二人のまわりをせわしなく這いまわっているが、そのあいだ主人につかまった手をかたときも放そうとしなかった。シャケナーはその動物をやさしくなで、トラクトとおなじように頭をまわす滑稽《こっけい》なやり方でまわりを見た。透明なはずの目の表面が焼けている。どうやらシャケナー・アンダーヒルが盾《たて》になって、トラクトの目に爆風があたるのを防ぐかたちになったらしい。老人の頭の上部はすっかり爆風にやられていた。
シャケナーは火口のほうをぼんやり見ているようだ。「ジェイバート? ニジニモル?」
呆然《ぼうぜん》としたようすでつぶやいた。そして切り立った断崖《だんがい》のほうへよろよろと歩きはじめたのを、トラクトと介助虫はあわててつかまえた。シャケナーは、最初は素直に瓦礫の山の上へ連れもどされた。分厚い服に隠れてよくわからないが、脚がすくなくとも二本は折れているようだ。
シャケナーはまたつぶやいた。「ビクトリー? ブレント? 聞こえるか? わたしは――」
そしてまた火口のほうへもどりはじめた。トラクトは、今度は乱暴に行く手をさえぎらなくてはいけなかった。シャケナーは現実と幻覚の境界線をさまよっているのだ。
〈〈どうすればいいんだ〉〉
トラクトは斜面の下を見た。ヘリコプターの離着陸場は傾いていたが、上の地面がちょうど盾になって、飛んできた破片などからは守られている。ヘリはまだちゃんとあるし、壊れてもいないようだ。
「そうだ! 博士、ヘリコプターのなかに電話があります。それを使って将軍に連絡をとりましょう」
口からでまかせだが、シャケナーは夢うつつの状態だ。しばらくふらふらと倒れそうになりながら立っていたが、やがて一時的に明晰な思考力をとりもどした。
「ヘリコプターだって? そうだ……それを使おう」
「下です。行きましょう」
トラクトは階段を降りはじめたが、シャケナーはついてこなかった。
「モビーをおいてはいけない。ニジニモルやほかの連中はしかたない。もう死んでしまっただろう。しかしモビーは……」
モビーも死にかけている……。しかしトラクトは、口に出してそうはいえなかった。介助虫は這う動作もやめ、シャケナーのほうにむかってゆっくりと腕をふっている。
「ただの動物ですよ、博士」トラクトは小声でいった。
シャケナーは意識が朦朧《もうろう》としたままのように軽く笑った。「動物かどうかは程度問題にすぎないのだよ、大佐」
そこでトラクトは上着を脱いで大きな三角|巾《きん》をつくり、そこに介助虫をいれた。八十ポンドの無駄な荷物のようだが、シャケナー・アンダーヒルはそのあとはなにも文句をいわず、斜面を降りはじめた。階段でもとくに手助けは必要なかった。
〈〈さて、これからなにができるっていうんだ、大佐?〉〉トラクトは自分に問いかけた。
ずっと姿を隠していた敵がついに攻撃をはじめたのだ。トラクトは火口を見まわし、破壊された場所からあがる煙を眺めた。高原台地もおなじような攻撃を受け、防衛拠点はこなごなにされただろう。最高司令部は核攻撃を受けたにちがいない。
〈〈警告しようとしたのも、手遅れだったようだな〉〉
57
タクシー船はL1点の岩石群から浮かびあがった。
下にはあけっぱなしになった七百四十五号作業トンネルのハッチと、そこから噴き出す空気と氷の分子が見えている。キウィがいなかったら、ナウたちはいまもそのハッチの奥にとじこめられていただろう。すみやかに着陸し、仮設のエアロックをとりつけたキウィの手ぎわのよさは、よく管理された愚人《ぐじん》システムをしのぐほどだった。
ナウはアリ・リンを、キウィの隣の副操縦席に横たえた。キウィは操作機器からふりかえり、悲痛な顔になった。
「パパ! パパ!」手をのばして脈をとると、すこし表情がやわらいだ。
「命はとりとめるはずだ、キウィ。そうだ、L1Aには医療自律機能系がある。そこへ行けば――」
キウィは操縦席にもどった。「兵器庫ね……」視線は父親のほうをむいたままだが、悲痛な顔からしだいに考えをめぐらす表情に変わっていった。そしてさっと目を離し、うなずいた。
「わかったわ」
タクシー船は小さな反動ジェットを全開で噴かし、ナウたちはあわてて手がかり穴につかまった。キウィはタクシー船の緩慢《かんまん》な自律機能系を解除し、自分で操縦しているのだ。
「なにがあったの、トマス? わたしたちが生き延びる見込みは?」
「あると思う。それにはまず、L1Aへはいらなくてはいけない」ナウはトリンリたちの反逆の瞬間について、アリ・リンのこと以外は起きたとおりに話した。
キウィはタクシー船をなめらかに減速させる軌道に乗せたが、その声はいまにも泣きだしそうだった。
「まるでディエムの虐殺《ぎゃくさつ》事件とおなじじゃない? そして今度こそ阻止しないと、全員が死ぬはめになるわ。蜘蛛《くも》族もいっしょに」
大当たりだ。キウィがいまのように精神洗浄術を受けたばかりでなかったら、こういう思考の道すじをたどったかどうか微妙なところだった。これがもし数日遅かったら、それまでに気ついた多くの矛盾《むじゅん》点を考えあわせて、いっぺんに真相を見抜いていたかもしれない。しかしこれから数キロ秒のあいだは、ディエム事件との連想はナウにとって都合のいい方向に働くはずだ。
「そうさ! しかし今回は阻止できるチャンスがあるんだ、キウィ」
タクシー船は第一ダイヤモンド塊の上をなめらかに渡っていった。太陽は赤黒い月のようで、岩石群のあちこちにわずかに残った雪資源がその光を反射し、鈍《にぶ》く光っている。ハマーフェスト棟は地平線のむこうに見えなくなった。おそらくファム・ヌウェンはその屋根裏部屋にこもったままだろう。あの男は天才だが、勝負はまだ半分しかついていない。愚人システムを切り離したとはいえ、アラクナ星の地上作戦を止めたわけではないし、蜘蛛族と接触したわけでもない。
このゲームでは、半分の勝利など無意味なのだ。
〈〈あと数百秒後には、こちらにはL1Aの火力が手にはいる〉〉
そうなれば、これまでの作戦どおりに大規模な破壊を実行できるだろう。そしてファム・ヌウェンの精神的なもろさを利用すれば、最終的な勝利はトマス・ナウのもとへころがりこんでくるはずだ。
エズルは意識を失ってはいなかった――もし失ったら、二度と目覚められなかっただろう。とはいえ、その意識は自分の身体《からだ》のなかにむいていた。痺《しび》れるような冷たさと、肩と腕の激痛しか感じられなかった。
肺に空気を吸いこみたいという衝動が抑えられないほど強くなってきた。どこかに空気はあるはずだ。もとの公園には息をできる空間があれだけあったのだから。しかし、それはどこなのか。
エズルは、つくりものの太陽光がいちばん明るい方向をむいた。わずかに残った理性が、水はあの方向から来たのだと思い出した。とすると、この水は地面へむかって落ちているのだ。
〈〈光へむかって泳げばいいのか〉〉
エズルは弱々しく脚を動かし、動くほうの手で方向を修正しながら進んでいった。
水。まだ水。どこまでも水。赤く染まってきらめく水……。
ふいに頭が水面を割った。エズルは咳きこみ、水を吐き、やっとなんとか息をした。見まわすと、水面はうねりながら迫りあがっているようだ。水平線は見えない。子どもの頃に観《み》たキャンベラ星の剣と海賊の物語のなかで、最後の大渦巻きにのまれた船乗りの場面を思い出した。
視線をずっとあげていくと、水面はどんどん迫りあがって、ついに頭の上でとじている。水面というよりも、直径五メートルほどの泡のなかなのだ。
方向感覚が甦《よみがえ》ると、いっしょに理性的な思考力もすこしもどってきた。身体をひねって下を――つまり自分がやってきた方向を見た。追手は来ていないようだ。まあ、追手の心配をするまでもないのかもしれない。まわりの水は自分の血で真っ赤に染まっているのだ。味でもわかるくらいだ。冷たさのせいで血の流れと痛みが抑えられているが、怪我《けが》をしていない両脚と片方の腕まで感覚を奪われつつあった。
エズルは水を透《す》かし見て、この空気の泡から外側の水面までどれくらい距離があるのか見当をつけようとした。日差しの側の水はそれほど深くないように見えるのだが……。下を見ると、かつて森だったところがあった。かすんでゆらめいているものの、荒れはてた姿になった木々が見てとれる。こちら側の水もせいぜい十メートルくらいの厚みしかないようだ。
〈〈ということは、水の本体からは離れているんだな〉〉
この泡をつつみこんでいる水の塊《かたまり》も、じつは独立した水滴として公園の空をゆっくり漂っているところなのだ。
いや、ゆっくりと漂い降りているようだ。水全体が公園空間の天井に一度ぶつかっていることと、微小重力の影響がいっしょに働いているのだろう。エズルは近づいてくる地面をぼんやりと眺めた。このままいくと、山荘の船着き場に近い元湖底にぶつかりそうだ。
衝突の瞬間は、実際には秒速一メートルほどのゆっくりしたものだった。しかしエズルのまわりの水は急激に流れ、はじけた。エズルは脚と尻を下にして地面にぶつかり、反動でまた浮かびあがった。まわりには小さな塊に分裂した水がゆらゆらと揺れ、回転している。あたりには、まるで機械が無意味な拍手をしているようなバタバタという音が響いている。
一メートルも離れていないところに突堤《とってい》の石壁があるのに気づいた。エズルは手をのばしてなんとか身体の回転を止めたが、その拍子に、怪我をしているほうの肩を石壁にふれさせてしまった。激痛でしばし視界が真っ暗になった。
気を失っていたのはほんの一、二秒だろう。意識がもどってまわりを見ると、エズルは湖底から五メートルほどのところに浮いていた。すぐそばにある突堤の石壁は、苔《こけ》と汚れにおおわれたところがちょうど一本の線になっている。かつての湖面だ。では機械の拍手のような音は……。エズルは湖底を見まわした。湖水を安定させていたサーボバルブだ。何百個もならんだそれらが、破壊工作によって湖水を浮かびあがらせるような動作をはじめ、いまもそれをつづけているのだ。
エズルは突堤の荒削りな石壁にとりつき、登っていった。突堤の上まであがれば、山荘はすぐそこだ……。いや、かつて山荘があった場所、だ。見覚えのある基礎と何本かの柱の根もとを残して、あとは押し流されていた。なにしろ、ゆっくりとした動きとはいえ、何百万トンもある水の塊にぶつかられたのだ。あちこちでその破片が揺れたり、もっと大きな瓦礫《がれき》の山に引っかかったりしている。
エズルは動くほうの手を使い、瓦礫の山をすこしずつ登っていった。湖水は分厚い層をなして森にへばりつき、一部は公園の反対側の壁を上へ動いている。波立つ動きはつづいていて、直径十メートルくらいの水の塊がいくつも空を漂っていた。水のほとんどはそのうちまた湖底にもどってくるだろうが、アリ・リンが丹精《たんせい》をこらした公園はだいなしだった。
視界がだんだんぼやけ、暗くなってきた。痛みもこれまでほど感じない。トマス・ナウとその一味はあの水没した森のどこかで行き場を失ったはずだ。彼らが森といっしょに沈んでいくのを見たときの勝利感を思い出した。
〈〈ファム、ぼくらは勝ったんだ〉〉
とはいえ、これは予定の展開とはちがった。それどころか二人はナウに見破られ、あやうく殺されかかったのだ。ナウがあの森で行き場を失ったかどうかも確証はない。この公園から出られれば、ファムを追うなりL1Aへ行くなりできるのだが。
しかし恐怖は遠く、ぼんやりしていた。ねばねばした赤い水がリボンのように身体のまわりに漂っている。首を曲げて腕を見おろした。マーリの鉄線銃に撃たれて肘《ひじ》は、骨が砕け、動脈が切れている。最初に肩を怪我し、そこをさらに拷問で痛めつけられたせいで、たまたま止血帯をしているのとおなじ状態になっているが、それでも……。〈〈このままだと失血死だな〉〉
そこまで思いいたれば、ふつうなら恐怖で目が覚めるはずなのだが、いまはただ地面から手を放して、身体をゆっくり休めたかった。
〈〈そうしたらぼくは死ぬ。そしてもしかしたら、最後はトマス・ナウの勝ちになるかもしれない〉〉
気力をふりしぼって動きつづけた。なんとかして出血を止めなくては。しかし上着を脱ぐ力さえもうない。無理なことは無理だ。意識が隅のほうからだんだん暗くなってきた。
〈〈残された時間でなにができるだろう〉〉
瓦礫の山をすこしずつ移動した。視野はせばまり、顔からほんの数センチのところしか見えない。ナウの仕事部屋の残骸があれば……せめて通信機があればいいのだが。
〈〈そうすればファムに警告できるのに〉〉
しかし、あるのはがらくただけ。フォンがつくった美しい木目の木材も、いまは砕け、焚《た》き付けにしかならなくなっている。
そのとき、つぶれた大きな衣装戸棚の下から、一本の白いむきだしの腕がのぞいているのが見えた。エズルはぞっとするのと同時に、はてなと思った。
〈〈山荘のなかにだれか残してきたっけ〉〉
カル・オモだ。そうか。しかしこの腕は奇妙にてかてかとしているし、血の気《け》がなく真っ白だ。手の部分にさわってみると、弾力があってつるんとしている。ああ、これは死体ではない。
ナウが好んで着ていた気密スーツのジャケットだ。
ぼんやりとした頭に、ある考えが浮かんできた。
〈〈出血を止められるかもしれないな〉〉
そのジャケットの袖《そで》を力いっぱい引っぱると、ずるずると出てきて一度引っかかり、すぽんと抜けた。反動でエズルは地面から浮かびあがり、空中でそのジャケットと格闘するような恰好になった。
左の袖は、肩から一本一本の指先まで合わせめがひらいている。そこにそって手をすべらせると、合わせめはとじた。エズルはジャケットを背中にまわし、砕かれた右腕に右の袖をそわせた。こんなところで失血死するわけにはいかない。
〈〈締めるんだ〉〉エズルは袖の合わせめをとじた。〈〈もっと強く〉〉本当の止血帯にするのだ。
砕けた腕をおおう袖に左手をすべらせると、激痛がはしった。しかし気密繊維が勝手に反応して、腕を締めつけた。
自分の悲鳴が遠くから聞こえ、しばらく意識を失った。気がつくと、あおむけに横になっていた。
右腕は気密スーツの袖にめいっぱい締めつけられ、まったく動かせなくなっている。ばかばかしいほど苦痛をともなうやり方だが、とりあえずこれで死ぬ心配はなくなったはずだ。
空中を漂っている水滴を飲み、なんとか頭をはっきりさせようとした。
ふいにうしろのほうから、不満そうにニャーと鳴く声が聞こえた。そして小さな飛び猫が視界にはいってきて、エズルの胸と左腕のあたりに乗った。エズルは手をのばして、その震えている身体にさわった。
「おまえもひどいめに遭《あ》ったのか?」
エズルは訊いたが、ひどいしゃがれ声だった。小さな飛び猫は大きな黒い目で彼を見ると、左腕と胸のすきまにもぐりこんだ。不思議だ。風邪をひいた飛び猫は、ふつうは人の手から逃げて隠れてしまうものだ。一匹ずつ認識票がついているとはいえ、そのせいでアリ・リンはずいぶん苦労していた。
しかし、この飛び猫はずぶ濡れだが元気なようだ。とすると――「もしかして、ぼくを慰《なぐさ》めにきてくれたのかい?」
猫が喉を鳴らしている感触や、その暖かさを感じて、エズルは笑みを浮かべた。話しかける相手ができただけで、すこし頭がはっきりしてきた。
翼の音が聞こえ、さらに二匹の飛び猫があらわれた。いや、三匹だ。エズルの上に浮いて、不機嫌そうに鳴いている。ぼくたちの公園になんてことをしてくれたんだ≠ニいっているのか、それともお腹《なか》がすいた≠ニいっているのか。三匹はエズルのまわりをぐるぐるまわっていたが、腕のなかの一匹をそこから追い出そうとはしなかった。
耳がぎざぎざになったいちばん大きな雄猫が、エズルのそばからふいに離れて、瓦礫の山のいちばん高いところにとまった。そしてエズルをにらみつけながら羽つくろいをはじめた。見たところ水に濡れてはいないようだ。
瓦礫の山のいちばん高いところ……直径二メートルほどのダイヤモンド製の円筒で、先端には金属製の蓋《ふた》がされている。エズルはふいに、それがなにかわかった。トマス・ナウの執務室にあったトンネルの入り口ではないか。おそらくL1Aにつづいているはずだ。
エズルは漂いながら斜面を登って、その金属の蓋がされた円柱に近づいた。雄猫は、てこでも動かないそといいたげに腰をすえている。もとからの性格だが、独占欲の強いやつだ。
ハッチの制御パネルには、解錠状態をしめす緑の表示がともっている。
エズルは雄猫を見やった。「おまえ、すごくだいじな場所への入り口にすわってるんだけど、わかってるのか?」
わきの下にもぐりこんだ小さな飛び猫をそっと身体から離し、ほかの猫ともどもハッチ機構のそばから追いはらった。ハッチはするりとひらき、その状態で固定された。ばかな猫どもが追いかけてくるだろうか。エズルはもう一度彼らにむかって手をふった。
「わかってないだろうけど、絶対ついてくるなよ。鉄線銃に撃たれるとすごく痛いんだからな」
ハマーフェスト棟の屋根裏部屋のグループ室は、座席を増設してあるためにひどく混雑し、隅を通り抜けるのもむずかしいほどだ。その愚人たちの通信リンクをトルードが切ると、部屋のなかは騒然となった。トルードは次々とのびてくる手からあわてて離れ、部屋の上部にある制御エリアへ逃げ帰ってきた。
「こいつらは仕事をとりあげられるのを、本当に、本当にいやがるんだよ」
ファムもこれほどとは思っていなかった。愚人が座席に固定されていなかったら、二人は袋叩きに遭っていただろう。ファムはトルードのほうをふりかえった。
「切り離しは絶対に必要なんだ。ここはナウの力の源泉《げんせん》だが、これでもうやつには使えなくなった。おれたちはL1全体を支配できるんだ、トルード」
トルードの目つきはぼんやりしていた。あまりにもショックがつづいたせいだろう。
「L1全体をだって? まさか……。そんなことをやったら、みんな死んじまうぞ、ファム。みんな死んじまう」
ふいにその目に緊張感がもどってきた。ナウとブルーゲルからどんな仕打ちを受けるか、想像しはじめたにちがいない。
ファムは片手でトルードの肩をつかんだ。「いや、おれは勝てると思ってる。おれが勝てば、おまえは死なずにすむんだ。蜘蛛族もな」
「蜘蛛族だって?」トルードは唇を噛んだ。「そうだな。愚人の支援機能を切り離せば、リッツァーは動きが鈍くなる。蜘蛛族にもチャンスが生まれるかもしれない」しばらく遠い目になったが、さっとファムの顔に視線をもどした。「おまえは何者なんだ、ファム?」
ファムは、愚人たちの叫び声よりすこしだけ大きな声でささやいた。「いまは、おまえにとって唯一の希望だ」そして、物置部屋でとりあげたトルードのヘッドアップディスプレーを上着のポケットからとりだし、持ち主に返した。
トルードはくしゃくしゃになったそれをゆっくりとのばして、目の上につけた。しばらく黙ったあとに、いった。「予備のヘッドアップディスプレーはいくつかある。ひとつもってこようか」
ファムは、二百秒前に見せたのとおなじ狡猾《こうかつ》な笑みを浮かべた。「いいんだ。もっといいのをもってるから」
「へえ」トルードの声は小さくなった。
「よし、じゃあ、損傷調査をやれ。ナウから切り離したまま、こいつらに仕事をさせる方法はあるのか?」
トルードは怒ったように肩をすくめた。「そんなことは不可能だと――」そこでふと顔をあげた。「いや、もしかしたら、ちょっとしたことならできるかもしれない。オフラインでの計算はときどきやるんだ。数値制御担当の愚人をちょっといじれば――」
「よし、こいつらを落ち着かせて、なんとか働かせろ」
二人はそれぞれの仕事に分かれた。トルードは愚人たちのほうへ降りていって、なだめようと言葉をかけながら、急激な状態の変化に気分を悪くした連中の嘔吐物を空中から回収していった。しかし騒ぎは大きくなるばかりだった。
「最新の追尾データをよこせ!」
「キンドレッド国の反応についての翻訳はどうしたんだ!」
「通信が切れちまったじゃないか、ばか!」
ファムは天井近くを横へ移動しながら、何列にもならんだ愚人たちの座席を見おろし、その声を聞いた。反対側の壁では、アン・レナルトとその助手たちの身体が、付着布が張りめぐらされた休憩所でふわふわと浮いている。命に別状はない。あとで目を覚ますはずだ。
〈〈おまえは一世紀か二世紀前に自分の最後の戦いに敗れたと思っているかもしれないが、本当の最後の戦いは、いままさにはじまったところなんだぞ〉〉
ファムの眼球裏の視野はぼんやりと変化していた。屋根裏部屋についてはほぼ全域でローカライザーへのマイクロ波送電を再開した。十万個程度のローカライザーをふたたび制御できるようになったはずだ。屋根裏部屋のなかでばらばらに浮かんでいるローカライザーの雲が、次次に甦ってファムまでの通信経路を復活させていき、それにつれて、視野はどんどん明るく広がっていった。
ファムは情況データを次々に読み、グループ室とそのほかの場所にいる愚人たちのようすを探っていった。毛細血管トンネルの小部屋にいまもとじこめられているのはほんの数人で、現在の作戦に必要のない専門家たちだ。大半は仕事の流れが断ち切られたせいで烈火《れっか》のごとく怒っている。
ファムは制御システムをゆるめて、外からの通信の一部をいれてやった。自分も知りたいことがあるし、愚人たちの不満をやわらげる役にも立つからだ。トルードが不快そうにこちらを見あげた。だれかが自分のシステムをいじっているとわかったのだろう。
ファムは屋根裏部屋の外に視野をのばし、岩石群の表面にあるローカライザーを探した。あった! 解像度の低い白黒映像が、一、二ヵ所からはいってきた。ハマーフェスト棟のそばの岩の表面に、一隻のタクシー船が降りていくようすが見えた。やられた。七百四十五号作業トンネルだ。ナウがもしあのエアロックのないハッチから脱出したら、次にむかう先はわかりきっている。
つかのま、強敵が目のまえにあらわれたときの圧倒的な恐怖を感じた。〈〈なんとも、若返った気分だぜ〉〉
ナウは三百秒ほどでL1Aにたどり着くだろう。となれば、持ち駒はどんどん使っていったほうがいい。ファムは接続可能なローカライザーすべてに命令を出した――送電が止まったままのものにもだ。それらがもつ小さなキャパシターには、数十個の通信パケットを送るだけの電力は残っている。うまくやれば周辺機器としてかなり使えるはずだ。
眼球裏の視野では、映像がゆっくり、すこしずつ変わっていった。
ファムは三面の壁のあいだを移動しながら、愚人たちの手のとどく範囲にははいらないよう気をつけていた。ときどき飛んでくるキーボードや飲みものの容器をよけなくてはならないが、データが流れこむようになって愚人たちはすこし落ち着きをとりもどしていた。
翻訳者のセクションは静かで、話し声はおたがいのやりとりにほとんどかぎられている。ファムはトリクシア・ボンソルのそばに近づいてみた。彼女はキーボードにかがみこんで一心不乱にキーを叩いている。ファムはインビジブルハンド号からあがってくるデータ流に接続してみた。いい知らせがふくまれているにちがいない。ブルーゲルとその一味は、殺戮《さつりく》を開始しようとしたとたんに足をすくわれるはずだが……。
複合的なデータの識別にしばらく時間がかかった。翻訳者むけの内容や、弾道データや、発射コードなどがあるが……。
〈〈発射コードだと?〉〉
ブルーゲルはナウの不意打ち攻撃を先取りして進めているのだ――しかしやり方はぶざまで、アコード国の兵器は大部分が無傷で残るだろう。ミサイルが何十ヵ所という発射場から飛び出していった。
ファムはぞっとしながら、しばらくそのようすを観察した。ナウは蜘蛛族の半分をこの世界から抹殺《まっさつ》しようとくわだてていて、ブルーゲルがその実行役をになっているのだ。
トリクシア・ボンソルの過去数百秒の業務記録を調べてみた。記録は仕事の流れが断ち切られたところから混乱し、隠喩《いんゆ》表現のまじったわけのわからないものになっていた。意味不明のページと、最終アクセス日時の記録もないごみファイルがつづいている。そんななかで、意味の通じそうな一節に目が止まった――
[#ここから2字下げ]
世の中がいちばん快適なのは、衰微《すいび》期の何年かだという、皮肉っぽい常套句《じょうとうく》がある。
たしかにこの時期の天候は穏やかなので、あらゆる場所にゆったりとした雰囲気がある。どの地方でも、夏はさしたる猛暑《もうしょ》ではなくなっているし、冬はまだそれほどきびしくない。また、むかしからのロマンスの時期だ。あらゆる高等動物が、用事をあとまわしにしてのんびりしたくなる時期なのだ。そして、世界の終わりにそなえて準備をする最後のチャンスでもある。
まったくの偶然だったが、シャケナー・アンダーヒルがランズコマンド市への初めての旅に出たのは、幸運にもこの衰微期のもっとも美しい季節だった……。
[#ここで字下げ終わり]
リッツァー・ブルーゲルがよく人間臭い≠ニけなしていた、トリクシアらしい翻訳だ。しかし、シャケナー・アンダーヒルがランズコマンド市への初めての旅に出た=c…? それは暗期入りよりはるかむかしの話のはずだ。トマス・ナウがそんな回顧的な文章を読みたがるとは思えないのだが。
「ああ、みんなめちゃくちゃになってしまった」
「なんだって?」ファムは屋根裏部屋のグループ室と、愚人たちの喧操《けんそう》に注意をもどした。
いま話したのは、トリクシア・ボンソルだった。しかしその視線は遠く、指はまだキーの上を叩いている。
ファムはため息をついた。「ああ、そのとおりだな」彼女がどういう意味でいったにせよ、情況はその言葉どおりだった。
送電を止められたネットを低レベルで起動させる試みは、ようやく完了した。L1Aまでの視野がひらけた。もうすこし接続の手をのばせば、L1Aのまわりにある電子ジェットにもつながるだろう。たいした計算処理能力があるわけではないが、そこには電子ジェットの放射グリッドがある……つまり、電子ジェットをこちらで操作できるかもしれないのだ! その数十基の出力をトマス・ナウのほうにむけられたら……。
「トルード! 数値制御の連中はどうなんだ?」
58
ラヒナー・トラクトのヘリコプターは、傾いた離着陸場からきれいに離陸した。タービンとローターの回転音は正常だ。頭を動かせば、トラクトは地形を読みとっていくことができた。彼は火口壁にそって東にヘリを飛ばしていった。
前方には破壊の爪痕《つめあと》である小さなクレーターがずっとならび、火口壁のむこう側へ消えている。眼下の市内ではあちこちで非常灯がひらめき、たくさんの車両がアパートメントや住人のいる邸宅にむかっていった。隣の席では、シャケナーが介助虫《かいじょちゅう》の背中にかけた鞄《かばん》からなにかを出そうとしているが、力がはいらなくて苦労しているようすだ。介助虫も手助けしたがっているが、こちらは主人より重傷を負っている。
「ちょっと見たいものがあるんだ、ラヒナー。モビーの鞄にはいっているんだが、手伝ってくれないか?」
「ちょっと待ってください。もうすぐヘリポートに着きますから」
シャケナーは席からさらにすこし身をのりだした。「自動操縦に切り換えればいいじゃないか、大佐。頼む、手伝ってくれ」
トラクトのヘリコプターにはプロセッサがいくつも埋めこまれ、それぞれ交通管制システムや情報ネットにつながっている。以前はこのハイテク装備が自慢だったものだが……。ランズコマンド市での最後の参謀会議以来、自動操縦に切り換えたことは一度もなかった。
「博士……わたしは自動操縦が信用できないんですよ」
シャケナーは穏やかに笑ったが、それは痰《たん》がからんだような咳きこみに変わった。「その点はだいじょうぶだ、ラヒナー。さあ、いまの情況を見なくてはいけないんだ。手を貸してくれ」
ええい、もうどうとでもなれ! トラクトは操作ソケットに四本の手を突っこみ、完全自動操縦に切り換えた。そして副操縦席のほうに身をのりだし、モビーの割れた背中にのったバッグをひらいてやった。
シャケナーはなかに手をいれ、まるで国王の宝石飾りをあつかうようなうやうやしい手つきで、なにかの装置をとりだした。トラクトは顔をまわして、しげしげとそれを見た。なにかと思ったら……コンピュータゲーム用のヘルメットじゃないか!
「ああ、壊れてはいないようだな」
シャケナーは穏やかにいって、ヘルメットを目の上にかぶせはじめた。そして痛そうな身ぶりをした。それはそうだろう。目は全体が火傷《やけど》だらけなのだ。それでもシャケナーはあきらめず、装置を頭からすこしもちあげた状態にして、電源をいれた。
その頭のまわりにまばゆい光がひらめきはじめ、トラクトは反射的に身を引いた。ヘリの機内はいきなり色とりどりの明るい格子縞になった光に充《み》たされた。シャケナー・アンダーヒルが映像呪術というおかしな趣味に熱中しているとの噂は、トラクトの耳にもはいっていたが、どうやら本当だったらしい。このゲーム用ヘルメット≠ノも巨額の開発費が投じられているのだろう。
シャケナーは、火傷で見えない部分の目を避けるように、ヘルメットをあちこち動かしている。しかし、たいしたものが見えているはずはない。膨大《ぼうだい》なコンピュータの処理能力を無駄遣いして、めくるめく光の饗宴《きょうえん》が演出されているだけだ。それでもシャケナー・アンダーヒルは満足げだ。いつまでもそれを眺め、空《あ》いている手で介助虫をなでている。
「ああ……なるほど」と小声でつぶやいた。
いきなり、ヘリコプターのタービン音がかん高くなり、回転計の表示はあっというまにレッドゾーンにはいった。ものすごい出力だが、このままでは一、二時間でガス欠になるはずだ。だから一般的な操作ではこういう限界性能は引き出せないようになっている。
「い、いったい――」
トラクトの言葉が出ないでいるうちに、タービンの高出力が上のローターにつたわりはじめた。ヘリコプターはすさまじい勢いで上昇しはじめ、火ロ壁のへりを越えた。
タービンの回転がすこしだけ遅くなったが、高原台地の上空五百フィート、千フィートと高度はあがっていく。トラクトは台地の上を見た。カロリカ湾で見た一直線の破壊の跡《あと》は、じつは全体のごく一部でしかなかった。南と西のいたるところからたくさんの煙が立ちの砥っている。
〈〈ミサイル迎撃基地だ〉〉
しかし、敵はよほど射撃が下手《へた》なのか、ほとんど的をはずしているようだ。台地じゅうの地下サイロからは、迎撃ミサイルが次々に飛び出していた。まるで近距離ロケット砲のように、短時間のうちに何百発も発射している――とはいえ、これらの地下サイロは何十マイルも離れているのだが。
これらの噴煙の先端にはハイテク弾頭が搭載され、何十マイルもの高度で、何千マイルもの遠方で標的を迎撃できる。参謀会議では防空局が言葉巧みにその効果を売りこんでいたものだが、実際に見るとすごい……。そしてそれが発射されているということは、キンドレッド国も手持ちのミサイルをすべて発射してきたのだろう。
ところが、シャケナー・アンダーヒルはこの光景をまったく意に介していないようだ。光がまたたくヘルメットの下で頭をあちこち動かしている。
「おかしいな。もう一度ちゃんと接続できるはずなのに」シャケナーはゲーム用の操作装置を、しばらくいくつかの手でかちゃかちゃと動かしていたが、やがて、「ああ、みんなめちゃくちゃになってしまった」といってすすり泣いた。
トルードは数値制御担当の愚人《ぐじん》たちをあとに残し、翻訳者たちのそばにいるファム・トリンリのところへもどった。
「純粋な数字だけならあつかえそうだ、ファム。つまり、答えを出せる。でも制御となると――」
ファムは黙ってうなずき、うるさいというように手をふるだけだった。
〈〈いままでのトリンリとはずいぶんちがうな。当直時間で何年もつきあっているのに、いまのこいつはまるで別人だ〉〉
かつてのファム・トリンリは大口叩きで態度が大きくて、トルードにとっては議論をしたり冗談をいったりできる愉快な相手だった。しかしいまのファムはもの静かで、それでいて動作はナイフのように鋭い。
〈〈みんな死んじまう……〉〉
トルードの視線は無意識のうちにアン・レナルトの死体に引きつけられた。いまはフックから吊された肉塊《にくかい》のようになっている。もしファムを陥れる罠を考え出せたとしても、トルードが生き延びられる見込みはないだろう。なにしろ、ナウとブルーゲルは領督《りょうとく》なのだ。二人から助命される可能性のある一線など、トルードはとうに踏み越えてしまっていた。
「――まだチャンスはあるぞ、トルード」シリパンの恐怖をつらぬいて、ファムの声が響いた。
「もうすこし通信障壁を緩《ゆる》めてやってもいいかもしれない。そうすれば愚人は――」
トルードは肩をすくめた。そのやり方は無意味ではないが、しかし――「そんなことをしたら、領督はたちまちこっちの喉笛《のどぶえ》にくらいついてくるぞ。ナウとブルーゲルからは毎秒五十回もサービス要求を受けてるんだから」
ファムはこめかみを揉《も》んで遠い目つきになった。「ああ、おまえのいうとおりだろうな。わかった。こっちのようすはどうなんだ? 仮設舎は――」
「ベニーの酒場のカメラによれば、客たちはなにが起きているのかわかっていないみたいだ。当分はその状態のままだろうな」そうすれば、領督はあとで彼らの恨《うら》みをかわずにすむわけだ。
そのときふいに、一人の愚人が――ボンソルだ――会話に割りこんできた。集中化人材特有の的《まと》はずれな行動だ。
「地上には何百万人も住人がいる。その命はもはや風前の灯火《ともしび》だ」
それを聞いたせいで、ファムは思考の流れを切り換えられたようだった。別人のようになったファム・トリンリだが、愚人のあしらい方ではまだ素人《しろうと》とおなじだ。
「そうだな」ファムは、トルードや愚人にいうのではなく、自分自身にむかってつぶやいたようだった。「しかし蜘蛛《くも》族にはまだチャンスがある。こっちの愚人支援がなければ、リッツァーもこれ以上、攻撃を拡大させられないはずだ」
もちろんボンソルはそんな返事など知らぬげに、キーを叩きつづけている。
トリンリの注意はトルードにもどった。「いいか、ナウはタクシー船に乗ってL1Aにむかってる。あの一帯には安定化用の電子ジェットがわんさとあるはずだ。何人かの愚人でそれを――」
トルードは怒りがこみあげてきた。どこがどう変わったにせよ、ファム・トリンリはいまも愚かなやつだ。
「ばかいえ! おまえは集中化人材の忠誠心を理解してないんだ! まず――」
そこへまたボンソルの声が割りこんできた。「リッツァーは攻撃を拡大できないかもしれないが、わたしたちもそれを縮小させられない」ほとんど聞こえないくらいの声で笑いだした。
「いやはや、困ったな。膠着《こうちゃく》状態というわけだ」
トルードはファムにむかって、愚人の脈絡のない発言が聞こえない天井のほうへもどってくるように手で合図した。
「そんなのにつきあってたら、きりないぞ」
ところがファムはボンソルのほうにむきなおり、本気で話をはじめた。「どういうことだ、膠着状態≠ニいうのは?」穏やかに訊いた。
「おい、ファム! そんなのほっとけよ!」
しかしトリンリは、静かにしろというように手をふった。まるで上級領督のように威圧的なしぐさだ。それを見て、トルードの抗議の言葉は出てこなくなった。かわりに恐怖がふくんできた。奇跡がそうそうつづくわけはない。ナウがL1Aへ行くのを阻止するチャンスがあったとしても、こんなことに時間をとられていたらもう無理だ。
トルードはL1Aがどんなところか知っている。よく知っているのだ。あそこでは自律機能系が働かないし、巧妙な情報操作も意味をなさなくなる。L1Aにたどり着けば、領督は絶対的な力をとりもどすはずだ。トルードの視界の隅にある時計は、情け容赦なく進んでいる。命の残り時間がどんどん減っているのだ。
もちろん愚人はファムのことなど気にもとめていないし、ましてその質問に答えようとはしなかった。
沈黙が十秒か十五秒ほどつづいた。ふいにボンソルが顔をあげ、まっすぐにファムの目を見た――ふつう、愚人はそんな動きはしない。なにかの役を演じているとき以外は。
「つまり、きみたちはわれわれのじゃまをし、われわれはきみたちのじゃまをしているということだ」ボンソルはいった。「ビクトリーはきみたちのことを全員が邪悪な怪物であり、一人として信用できないと考えていた。その誤解の代償を、いまおたがいに支払っているわけだ」
あくまで愚人らしいたわごとであり、これまでよりもっとばかげているというだけだ。しかしファムは、ボンソルの席のそばまで降りていった。驚いて言葉をなくしたように、口を半びらきにしている。これまでの世界観を突然打ち砕かれ、そのまま真っ逆さまに狂気へ落ちていく男の表情だ。そしてようやく話しはじめたとき、その言葉はすっかり狂気に染まっていた。
「おれは――おれたちのほとんどは、怪物じゃない。膠着状態が解けたら、おまえがすべてを動かせるのか? それに、そのあとおれたちは……おまえたちに運命を握られることになる。どうやって信用しろというんだ?」
ボンソルの視線はさまよっていた。返事はせず、両手はコンソール上をあちこち動いている。
沈黙の時間がすぎていくが、トルードは背筋にはしる悪寒《おかん》とともに、ある推測にいたっていた。
〈〈まさか……〉〉
十秒きっかりのちに、トリクシア・ボンソルは話しだした。「そちらがすべてにアクセス状態にもどしてくれれば、こちらは重要なシステムのほとんどを掌握《しょうあく》できる。すくなくともそういう計画になっている。信用できるかどうかは……」ボンソルの顔がゆがみ、奇妙な笑みを浮かべた。嘲《あざけ》りながら、もの思いに沈むような表情だ。「まあ、われわれのことは、むしろそちらのほうがよく調べているはずだ。われわれが怪物かどうか、判断する材料はいくらでもあるのではないかな?」
「そうだな」
ファムは答えて、こめかみを揉み、トルードには見えないなにかに目を凝《こ》らした。そしてトルードのほうをむくと、物置部屋で突然姿をあらわしたときとおなじ凶暴な笑みを浮かべた。
すべてを賭け、そして勝てると踏んだ男の笑みだ。
「すべての通信リンクをつなげ、トルード。ナウとブルーゲルに、お望みどおり愚人支援を復活させてやるんだ」
59
ナウはタクシー船を操縦するキウィを見ていた。前方やや下のほうには、L1Aエアロックのまわりに積まれた雪の山が見えている。
キウィは、タクシー船に載っている自律機能系だけで作業トンネルをみつけ、ハッチの制御機構を解除し、彼らを助け出したしかもわずか数百秒で。あともうすこし忠実に仕事をしてくれたら、ナウは絶対的に有意な立場をとりもどすことができる。あともうすこしで……。
ナウは、キウィが父親にむける目を見た。アリのようすを見れば見るほど、キウィは気づくべきでないことに気づこうとしているようだ。
〈〈くそ! とにかく無事に着陸してくれ。それだけでいい〉〉
そうすれば、あとは殺してもかまわないのだ。
マーリが通信装置から顔をあげた。その顔には驚きと安堵の表情がうかんでいる。「領督《りょうとく》! 愚人《ぐじん》チャンネルから応答が返ってくるようになりました。もうすぐ完全な自律機能系が復帰するはずです」
「そうか」
予想もしなかった、いい知らせだ。それなら、支配権を握るために必要な破壊は最小限にとどめられる。
〈〈とはいえ、相手はファム・ヌウェンだ。なにが起きても不思議はない〉〉
なにかとてつもない仕掛けがあるかもしれないのだ。
「よくわかった、領兵」ナウはいった。「しかしいまはまだ、自律機能系は使わないようにしておけ」
「わかりました」マーリは不思議そうなようすで答えた。
ナウはタクシー船の窓から外を眺めた。映像処理なしで実景を見るのは不思議な気分だ。L1Aのエアロックは、七十メートルほど先の影の奥深くにあるのだが……どうもへんだ。その金属のふちが赤く強調表示されたように見える。ヘッドアップディスプレーは装着していないのに。
「キウィ――」
「わかってるわ。だれかが――」
金属板がはじけるような大きな音が響き、マーリが悲鳴をあげた。見ると、髪に火がついている。座席のわきの隔壁が赤熱《しゃくねつ》して輝いていた。
「やられた!」キウィはタクシー船を急上昇させた。「だれかがわたしの電子ジェットを操作してるわ!」
タクシー船を急旋回させ、そのあいだも右に左に船体をふりまわした。ナウの胃袋が腹のなかでよじれた。〈〈こんなむちゃな操縦を……〉〉
L1Aのエアロックの輝き……そしてうしろの隔壁の赤熱……。敵は見通し線上にあるすべての安定化用電子ジェットを、こちらにむけて噴かしているにちがいない。ひとつひとつのジェットはたいした出力ではないが、ヌウェンはそれを、二つの重要な目標に集中させているのだ。
マーリはまだ悲鳴をあげている。キウィの操縦によってナウは固定ハーネスいっぱいに引っぱられ、跳《は》ね返ったとたんに横にひねられた。ちらりとうしろを見ると、マーリは同僚たちの腕にかかえられているようだ。火はもう消えている。
警備員たちは目を見ひらき、その一人がいった。「X線だ」こんな電子線を多量に浴びたら、みんな丸焼きにされてしまう。長期的な危険も考えると――。
キウィはタクシー船をスピンさせながら第一ダイヤモンド塊に近づけていった。船首はすりこぎ運動もはじめ、あわせて三方向へはげしく回転している。こんな標的の一点に電子線を集中できるわけがない。なのに、隔壁の赤熱点は回転することに明るくなっていく。だめだ。ヌウェンは自律機能系の全能力を使っているらしい。
タクシー船はまず船首を、つづいて船尾を地面に叩きつけ、第一ダイヤモンド塊の表面から雪を巻きあげた。船体がきしんだが、なんとかだいじょうぶだった。舞いあがって漂う揮発物のおかげで、電子ジェットのビームが見えるようになった。その経路上にある氷と空気が高温発光しているのだ。五本、ときには十本くらいが見える。タクシー船が回転することに動いているが、船体の赤熱点にはつねに何本かがあたっている。
しかし、まわりに立ちのぼった蒸気や氷片の雲が厚くなるにつれて、赤熱点はだんだん暗くなっていった。危険なビームを雲が吸収、散乱させているのだ。
キウィは姿勢制御ジェットを四回噴かして船体のスピンをぴたりと止め、すぐさま湧き立つ雪煙《ゆきけむり》のなかを蛇行《だこう》させながらL1Aのエアロックに近づけていった。
前方に目を凝《こ》らすと、エアロックが真正面に近づいている。ぶつかる……。しかしキウィは船の動きをきっちり制御していた。直前でさっと上昇させると、のしかかるようにしてドッキングリングを相手側に叩きつけた。金属がゆがむ音とともに、船は停止した。
キウィはエアロック解除の操作をして、さっと座席から離れ、前部のハッチ機構のほうへいった。
「噛みこんでるわ、トマス! 手伝って!」
もう船は動けない。穴に落ちた犬とおなじだ。ナウは急いで前部へ移動し、足を踏んばって、キウィとともにタクシー船のハッチを引っぱった。噛みこんで動かない……。いや、すこし動いた。二人は力をあわせて、ハッチを半分ほど引っぱりあげた。ナウは手をさしこんで、いらいらしながらL1A側ハッチのセキュリティ解除操作をした。
〈〈ひらいた!〉〉
キウィの肩ごしに奥の隔壁を見ると、赤熱点はまるで牡牛《おうし》の目玉のようにぎらぎら光っていた。赤からオレンジへ、そしてまんなかが白くなった。まるで溶鉱炉をのぞいているようだ。
白く輝く中心が泡立ちながらへこみ、高まった。
外へ抜けた。まわりでは減圧の風による轟音《ごうおん》が一気にビクトリー・ライトヒルに乗っ取られて以来、司令管制センターは静かな状態がつづいていた。情報技術官たちはそれぞれの席から離され、将校たちといっしょに、アンダータウンとコールドヘブンとダグウェイのうしろに集められている。
〈〈まるで殺虫袋にはいった虫ね〉〉と、アンダータウンは思った。
それでもおなじことだ。作戦図の表示によれば、世界がまるごと殺虫袋へ落ちこんでいきつつあるのだ。
地図上ではキンドレッド国から発射された何千発ものミサイルの軌跡《きせき》が伸び、その数は一秒ごとに増えている。アコード国のあらゆる軍事拠点、あらゆる都市には、到達予想円が描かれている。伝統主義者の冬眠穴さえ狙われているのだ。
そしてちょうどライトヒルが侵入してきた頃にあらわれた、アコード国が発射したことになっている奇妙なミサイルの軌跡は、いまは地図上から消えていた。もはや偽《にせ》情報は不要になったのだ。
ビクトリー・ライトヒルはならんだ席のうしろを行ったり来たりしながら、自分の技術官たちのほうをちらちらと見ていた。アンダータウンや司令管制センターにもともといた士官や兵士の存在など、すっかり忘れてしまったかのようだ。そして奇妙なことに、彼らとおなじようにライトヒルも恐怖を感じているようだ。ライトヒルはさっと兄のほうをむいた。伍長はゲーム用ヘルメットをかぶって、すっかり別世界にひたっているようだ。
「ブレント?」ライトヒルは訊いた。
大柄な伍長はうなった。「ああ、わかってる。もうしわけない。カロリカ湾はまだ応答がないんだ。ビキ……やつらはパパの居場所を狙ったんじゃないかな」
「でもどうやって? 知っているはずないのに!」
「わからない。下位レベルでのやりとりがあるんだけど、連中だけではあまり役に立たないんだ。しばらくまえ――上≠ニの接続が切れた直後らしいんだけど……」ブレントは黙った。
ゲームを操作しているのか、ヘルメットの下から洩れてくる光がまたたいている。「つながった! いいかい」
ライトヒルは頭のわきに電話を押しつけた。
「パパ!」学校から帰ったばかりの子どものようにうれしそうだ。「どこに――?」
驚いて食手《しょくしゅ》を打ちあわせて黙りこみ、相手の話に長いこと聞きいった。昂奮して踊りだしそうだ。その部下たちもふいに活発にコンソールのキーを叩きはじめた。
ライトヒルはようやくいった。「了解よ、パパ。こっちは――」さっと自分の技術官たちを見まわした。「――こっちはいわれたとおり、すべて押さえてあるわ。だいじょうぶだと思う。でも、お願いだからもうすこし近い経路で話せないの? 二十秒は長すぎるわ。パパがいちばん必要なときなのに!」
それから、技術官たちにむかっていった。
「ラプサ、上から阻止できないのだけに的《まと》を絞って。バーボップ、この通信経路をなんとか――」
作戦図に変化が起きた。ハイイクアトリア市周辺のミサイル発射場がいきなり活気づいたのだ。何十発、いや何百発という長距離迎撃ミサイルの軌跡が、敵ミサイルめざして地図上を伸びはじめたのだ。
これもにせものだろうか……。しかしライトヒルやほかの侵入者たちがいきなり元気づいたようすを見て、アンダータウンの胸のなかでは希望がふくらんできた。
先頭どうしが接触するまでまだ三十秒ある。アンダータウンは予測数値を見た。これでもまだ飛んでくるミサイルの五パーセントは生き残るだろう。絶滅ではないとはいえ、予測されている犠牲者数は大戦でのそれの百倍だ。
ところが、地図上でべつのことが起きはじめた。敵ミサイルの先頭集団よりかなり後方で、そのマークが消えはじめたのだ。
ライトヒルは画面にむかって手をふり、センターを乗っ取ってから初めてアンダータウンたちにむかって話した。
「キンドレッド国のミサイルの一部には、攻撃取り消し機能がついています。それが使えるものは使っています。ほかは上から攻撃しています」
〈〈上から?〉〉アンダータウンはけげんに思った。しかし、まるで見えない消しゴムが大陸を北へ動いていくように、ミサイルのマークが帯状に消えていく。
ライトヒルはコールドヘブンとほかの将校たちのほうをむいて、気をつけの姿勢をとった。
「失礼ですが、迎撃、ミサイルの運用についてはこちらのみなさんのほうがすぐれていると思います。うまくやれれば――」
「もちろんだとも!」ダグウェイとコールドヘブンはいっしょに答えた。
技術官たちはもとの持ち場にもどり、一瞬も無駄にできないというように急いで目標リストを更新していた。そして先頭のミサイル群がぶつかった。
「それらしい電磁パルスをとらえました!」防空局技術官の一人が叫んだ。なぜか、いままでのどんなデータより真実味が感じられた。
コールドヘブン将軍がライトヒルのほうをむき、下へ手をつきだした。奇妙な反対むきの敬礼だ。
ライトヒルは穏やかにいった。「ありがとうございます、将軍。司令官の計画とはすこし異なるやり方になりましたが、なんとかうまくいったと思います……。ブレント、作戦図をできるだけ真正データだけで表示してみて」
すると……何百という新しいマークが地図上にあらわれた。しかしミサイルではない。それらが衛星をあらわしていることはアンダータウンにもわかったが、まるでグラフィック処理がおかしくなったように、データ部分が空白になったり、無意味な文字列で埋められたりしている。画面の北の端へ去っていこうとしている、奇妙な四角形があった。かたわらで山形の修飾記号がいくつも点滅している。
ダグウェイ将軍があざ笑うようにいった。「それもなにかのまちがいだろう。寸法記号が一ダースもついてる。長さが千フィートあるという意味だぞ」
「いえ、そのとおりです」ライトヒル少尉は答えた。「通常の表示プログラムがあつかえる範囲を超えているだけです。この乗りものは、全長二千フィート近くあります」ダグウェイの顔にあらわれた表情など知らぬげに、その四角をしばらく眺めた。「ちょうどいま、用済みになったところです」
リッツァー・ブルーゲルは悦《えつ》にいった表情だった。
「どうだ。レナルトの愚人を使わなくてもうまくやれたぞ」副領督は船長席を離れ、パイロット管理主任の隣へやってきた。「必要な数より何発か多めに核ミサイルを打ちこんだかもしれないが、おまえが迎撃ミサイル発射場の狙いをしくじったことの埋めあわせとしてはちょうどいいだろう?」
そういって、妙に親しげにジョー・シンの肩を叩いた。ジョーは、自分の小さな反逆行為がとうにばれているのだと、ようやく気づいた。
「そ……そうですね」という返事しか出てこなかった。
前方では、ゆるやかにカーブを描く地平線の手前に網の目のような光がまたたいている。人間たちがプリンストン市、バルデモン市、マウントロイヤル市と呼んでいる各都市だ。もしかしたら蜘蛛族はリタの想像しているような連中ではないのかもしれない。翻訳による誤解かもしれない。たとえそうだとしても、これらの都市がまもなく吹き飛ばされようとしているのはたしかなのだ。
「領督」船橋チャンネルにビル・フオンの声が響いた。「アンの愚人たちから上位レベルの応答が返ってきました。まもなく完全な自律機能系が復帰するはずです」
「ふん。いま頃か」といいつつ、リッツァー・ブルーゲルの声には安堵の響きがあった。
そのとき、ジョーはなにかの振動を感じた。もう一度。さらにもう一度。ブルーゲルもさっと顔をあげ、仮想ディスプレーに目を凝らした。「あの音はうちのレーザー砲みたいだが、しかし――」
ジョーは情況リストに目をはしらせた。しかし兵器の情況ボードは異状なし。動力コアの表示はキャパシターを充電しているようにぎざぎざになっているが――やがてそれも平坦《へいたん》にもどった。
「パイロットたちからも発射の報告はありません」ジョーはいった。
タターン、タターン……。
船は大都市上空を北へむかって通過しているところで、もうすぐ北極圏にはいる。そこは凍りついた広大な闇のなかに点々と光が散らばっているだけで、なにもない。しかし後方には……。
タターン……。
空に三本の青白いビームが輝き、拡散して消えていく……。上層大気をつらぬくレーザー砲の光にまちがいない。
「フオン! 下はいったいどうなってるんだ!」
「なんでもありません。ただ――」フオンが愚人たちのあいだを移動している音が聞こえた。「ただ、愚人がL1からの有効な目標リストを処理しているんです」
「おれの目標リストとはまったくちがうじゃないか。よけいなことをするな、ばか!」ブルーゲルは通信を切って、パイロット管理主任のほうをむいた。怒りで顔が真っ赤だ。「だめな愚人は撃ち殺して、新しいのと入れ換えろ!」ジョーをにらみつけた。「そっちはどうしたんだ?」
「いえ――とくになんでもないと思いますが、下から電磁波を浴びているんです」
「ふん」ブルーゲルは電子偵察データを見やった。「なんだ、地上のレーダーじゃないか。そんなものは周回ごとに……いや……」
ジョーはうなずいた。「今回は十五秒以上つづいています。こちらを追跡しているようです」
「そんなことはありえない。おれたちは蜘蛛族のネットを牛耳《ぎゅうじ》ってるんだぞ」ブルーゲルは唇を噛んだ。「それとも、フオンがL1との通信接続をぐちゃぐちゃにしたのか?」
レーダーの指標が消えそうになったが……また甦《よみがえ》った。明るくはっきり、焦点をあわせている。
「やはり目標として捕捉されています!」
ブルーゲルはまるでその映像が攻撃姿勢の蛇に変わったかのように、ぎくりとした。「シン、船を操縦しろ。必要ならメインエンジンを使え。逃げるんだ」
「了解」
北極圏に蜘蛛族の、ミサイル発射場は少ないが、それでも核武装しているはずだ。一発でもくらったら、インビジブルハンド号はおしまいだ。ジョーは愚人パイロットたちに指示しようとしたが――
――そのとき、補助エンジンの猛然《もうぜん》たる噴射音が船橋に響きはじめた。
「わたしが操作しているのではありません!」
ブルーゲルはその音がはじまったときからジョーのほうを見ていた。副領督はうなずいた。
「パイロットたちを掌握《しょうあく》しろ。船を制御しろ!」ジョーのわきから飛びあがり、警備員たちに手をふって後部ハッチへ行かせた。「フオン!」
ジョーは必死にコンソールのキーを叩き、命令コードを何度も怒鳴った。ちらほらと返ってくる診断データを見たが、パイロットからの反応はない。地平線がわずかに傾いていた。船の補助エンジンは全開で噴いているが、それをやっているのはジョーではない。船はゆっくりゆっくり舳先《へさき》をさげ、巡航姿勢にもどっているようだ。まだパイロットからの反応はない――
ふいにジョーは、動力コアの表示のなかで上昇していく一本の線に気づいた。
「メインエンジンが燃焼しています! 止められません――」
ブルーゲルと警備員たちはつかまれるところを探して身体を固定した。たしかにメインエンジンの重低音が感じられた。骨や歯を震わせているのがそれだ。徐々に加速度が高まってきた。五十ミリG、百ミリG。固定されていないものはしだいに速度をあげながら後方へ漂っていき、障害物にぶつかってくるくると回転した。三百ミリG。巨大な手につかまれたように、ジョーの背中はシートに押しつけられた。警備員の一人はまわりになにもないところにいて、身体を固定できなかった。はじめは漂いながら通りすぎていったのが、しだいに落ちる速度になり、最後は後部の隔壁に叩きつけられた。五百ミリG。さらに加速していく。ジョーは固定ハーネスのなかで身体をひねって、うしろのやや上を見やった。ブルーゲルと警備員たちは後部隔壁に押しつけられ、高まっていく加速度のなかで身動きすらできずにいる……。
いきなりエンジン音が消え、ジョーの身体は固定ハーネスのほうへ浮きあがった。ブルーゲルは怒鳴り声で警備員たちを呼び集めている。いまの騒ぎで、いつのまにかヘッドアップディスプレーをなくしているようだった。
「シン主任、情況確認をしろ」
ジョーは画面を見た。情況ボードはまだわけのわからない表示しかされていない。船の軌道にそって前方を眺める画面に目をやった。いつのまにか日の出の線を越えていて、鈍《にぶ》い光に照らされた氷の海がむこうまで広がっている。しかし、重要なのは海ではない。その水平線のようすが微妙に変化しているのだ。
〈〈軌道から離脱するときの、ふつうの噴射のしかたとはちがうけれども、結局はおなじことだ〉〉
ジョーは唇をなめた。「領督、百秒か二百秒後に、大気圏突入しそうです」
ブルーゲルの顔がしばし恐怖でひきつった。「船を軌道へもどせ、主任」
「了解」ほかに答えようがあるだろうか。
ブルーゲルと警備員たちは船橋後部のハッチへ漂っていった。
フオンの声がした。「領督、L1から音声通信がはいってきています」
「つなげ」
女の声だ。トリクシア・ボンソルの声が流れはじめた。「インビジブルハンド号に乗っている人間のみなさん、こんにちは。こちらはアコード国情報局ビクトリー・ライトヒル少尉です。その宇宙船の制御はわたしが乗っ取りました。船はまもなく地上へ落下するはずです。現場にこちらの部隊が到着するまで少々時間がかかるかもしれませんが、絶対に――くりかえします――絶対にその部隊には抵抗しないでください」
船橋の全員が愕然《がくぜん》とし、口もきけなくなっていた……。しかしボンソルの音声はそれっきり途絶《とだ》えた。はじめにブルーゲルがわれに返ったが、その声は震えていた。
「フオン、L1との接続を切れ。通信プロトコル層からぜんぶだ」
「し……しかし、それは無理です。いったん成立した相互接続は――」
「切れといったら切れ。物理的にぶった切れ。装置は棍棒で叩き壊せばいい。そのまえに愚人を殺せ」
「領督。たとえ船内の愚人を切り離しても……L1は別ルートを確保していると思います」
「よけいな心配はするな。いまからそっちへ行くそ」
ハッチのそばにいる警備員がブルーゲルのほうを見あげた。「ひらきません、領督」
「フオン!」
返事がない。
ブルーゲルはハッチのわきの隔壁に跳びつき、手動開閉装置を拳《こぶし》で叩きはじめた。しかし、岩をなぐっているようなものだ。領督はふりむいた。ジョーはその顔を見てぞっとした。血の気《け》が失《う》せて真っ青になり、目だけがぎらぎらと血ばしっているのだ。手には鉄線銃をもち、目標を探して船橋を見まわしている。その視線がジョーの上で止まり、さっと銃口があがった。
「領督、パイロットの一人につながったようです!」口からでまかせだが、ヘッドアップディスプレーをなくしたブルーゲルには、嘘かどうかわかるわけがない。
「なに?」銃口がすこしずれた。「よし、仕事をつづけろ、シン。自分の命がかかってると思ってな」
ジョーはうなずき、反応のない操作機器を必死で動かしているふりをした。
うしろのほうでハッチを手動であけようと試みる連中は、あせり、ののしったが、いっこうに成果はあがらない……。そしてついに銃声が響きわたり、跳ね返った鉄線弾が船橋のなかを飛びまわった。
「ばか野郎! そんなものであくわけないだろう」ブルーゲルがいった。
壁の収納庫の扉をひらく音がしたが、ジョーは頭をさげて必死に忙しいふりをつづけた。
「これだ。使ってみろ」
声がして、しばらくの沈黙ののち、耳朶《じだ》を圧する爆発音がたてつづけに響いた。ばかな。ブルーゲルは星間船の船橋に爆発物などもちこんでいたのか。
じんじんと鳴る耳に、かすかに歓声が聞こえてきた。そしてブルーゲルが叫んだ。「よし、急げ! 急いではいれ!」
ジョーはそっと首をまわし、うしろのようすを横目で見た。ハッチはしまったままだが、その中央にぎざぎざの穴があいている。まわりにはゆがんだ鉄板の破片や正体不明のがらくたが浮いていた。
船橋にはジョー・シン一人きりだった。深く息をつき、画面の意味を読みとろうと意識を集中させた。ある意味で、リッツァー・ブルーゲルのいったことは正しかった。ジョーの命を左右する事態が目前にせまっているのだ。
動力コアの出力線は高いレベルで止まっている。カーブを描く地平線を見てみたが、もうまちがいない。インビジブルハンド号の高度はさがっている。情況ボードに表示された八万メートルという現在高度に矛盾《むじゅん》はなかった。補助エンジンの轟音が聞こえた。
〈〈なんとか落下をくいとめられるかな……〉〉
適切な姿勢をつくってメインエンジンを噴かせられれば……。いや、だめだ。向きがまるで逆になっている。いまこの巨大な船は、進行方向に船尾をむけているのた。
後方視界の左右には、星間船のいちばん外側の船体の一部が見えていた。そのむこうの角《かく》ばった蜘蛛の巣状の構造物は、星間プラズマの流れを導くためのものだが、惑星の大気に耐えるようにはできていない。いまその先端は鈍く輝き、黄色や赤の小さな火花がまわりに飛び散りはじめていた。まるで光の海が飛沫《しぶき》をあげているようだ。とがったところは白く輝き、削りとられていく。
補助エンジンは小さく断続的に作動していた。噴射、停止、噴射、停止……。愚人パイロットたちを支配しているだれかは、まるで細心の注意をはらってこのインビジブルハンド号の姿勢を維持しているようだ。たしかにそうやって精密な姿勢制御をしなければ、不規則な形状の船体は気流に押されて縦方向の回転をはじめるだろう。何百万トンという構造は、設計時に想定されていない圧力を受けてばらばらになってしまうはずだ。
はじめは点だった船尾の輝きは、しだいに面へと広がっていった。光っていないのは、船体を蒸発させるほど摩擦《まさつ》熱が高まっていないところだけだ。ジョーは自分の席にもどった。加速度が徐々に高まってきているのだ。四百ミリG、八百ミリG……。しかしこの加速は船のエンジンによるものではない。惑星の大気が船にくらいついてきている証拠なのだ。
そこへ、べつの音が聞こえてきた。補助エンジンの噴射音ではない。しだいに大きくなる豊かなひとつの音色だ。インビジブルハンド号の燃焼管から船体の外側までが、一本の巨大なオルガンのパイプと化して鳴っているのだ。船が大気圏に深く沈み、速度が落ちるにしたがって、音もしだいに低くなっていった。そしてイオン化する船体の輝きが小さなまたたきとなって消える頃、死にゆく船の歌は最大の音量になり――途絶えた。
ジョーは後方視界を見たが、そこには信じがたい光景があった。ごつごつと角ばっていた船体の構造が、灼熱《しゃくねつ》の大気を通り抜けるあいだに溶けてなめらかになっているのだ。しかしインビジブルハンド号は百万トンの船であり、パイロットはずっとその姿勢を精密に維持している。質量の大部分は残っていた。
ジョーの身体はほぼ標準重力でシートに押しつけられていた。しかしその方向は、さきほどまでの加速度とは九十度異なる。つまりこれは惑星の重力だ。船はいま航空機となり、悲惨な姿で空を飛んでいるのだ。高度は四万メートルで、毎秒百メートルずつ降下していた。
青白い地平線を見ると、氷の山脈や大きな塊《かたまり》が眼下を次々に通りすぎていった。高さ五百メートルに達する峰もある。海が徐々に深いところまで凍っていく過程で氷が押しあげられてできた風景だ。
ジョーはコンソールのキーを叩いてパイロットの一人の注意を惹き、もうすこし詳しい情報を受けとった。その峰から三つむこうの山脈までは越えられそうだ。そこから地平線までは影がすこしぼんやりしている……。遠いせいでそう見えるのかもしれないが、おそらくぎざぎざの氷の上に雪が厚く積もっているのだろう。
船内の通路の奥からは、ブルーゲルが使う爆発物の響きが聞こえていた。叫び声があがり、しばらく静かになって、さらに遠くでまた爆発音が響く。
〈〈ぜんぶのハッチがしまってるんだな〉〉
ブルーゲルはそれに一枚一枚穴をあけているのだ。ある意味では彼のいうとおりだ。物理的なシステムは彼の支配下にある。船体の光学機器のところまで行って、L1への接続を叩き切ればいい。まだ逆《さか》らう愚人が船内にいれば、それも切り離せ≠ホいい……。
高度三万メートル。薄暗い太陽の光が氷原に反射しているが、町などの人工的な光は見あたらない。蜘蛛族世界で最大の海のまんなかへ落下しつつあるようだ。船の速度はまだマッハ3をゆうに超えている。落下率は毎秒百メートルのままだ。情況ボードから得られる手がかりとパイロット主任なりの勘《かん》から、このままでは音速を超える速度のまま氷原に叩きつけられるだろうと予測できた。ただし――動力コアの出力線はまだあがっているようだ――メインエンジンをもう一度、正確なタイミングで噴射することができれば……。超人的なテクニックの持ち主ならやれるかもしれない。
インビジブルハンド号は巨大な船なので、船体と燃焼管をクッションがわりにして、何十キロも部品と残骸をまきちらしながら地上を滑走し、最後に船橋と居住区画だけをつぶさずに残せるかもしれない。ファム・トリンリのほら話のなかにそんなばかげた大冒険のくだりがあった。
ひとつだけたしかなことがある。
もしいまこの瞬間に船体のすべての制御権がジョーの手に渡され、愚人パイロットたちの能力をすべて引き出せたとしても、そんな奇跡的な着陸はなしとげられないだろう。
最後の氷の山脈を越えた。補助エンジンがつかのま噴いて、船首の角度を一度修正した。まるでこの先に求められる条件をすべて把握しているかのように。
リッツァー・ブルーゲルが破壊と殺戮《さつりく》を働くための時間は、残り数秒になった。リタは無事だろう。ジョー・シンは迫りくる氷原を見つめながら、恐怖と、勝利感と、解放感がいりまじった奇妙な感覚を味わった。
「もう手遅れだよ、リッツァー。もう手遅れだ」
60
みんながひとつの出来事にこれほど強く惹《ひ》きつけられ、これほど歓喜《かんき》したり恐れおののいたりするようすを、ベルガ・アンダータウンは経験したことがなかった。次から次へと舞いあがったアコード国の長距離迎撃ミサイルが、キンドレッド国の核ミサイルのほとんどを空中で爆発させたり、起爆不能にしたりしたのだから、コールドヘブンの技術官たちは歓喜に湧き立ってもいいところだった。迎撃成功率は九十九パーセント近い。アコード国領内へ飛んでくる核弾頭は、残り三十発。絶滅と局所的な悲劇とでは大きなちがいがあるが……それでも技術官たちは食手《しょくしゅ》を噛みながら、あちこちに残った恐怖の種をなんとかつぶそうと試みていた。
コールドヘブンは技術官たちの席のうしろを歩いていた。ライトヒルの部下である時期はずれの伍長が、ずっとそのそばについている。将軍はラプサ・ライトヒルの言葉に耳を傾け、画面に次々にあらわれる新しい偵察情報を技術官たちが見落とさないように注意していた。
アンダータウンはうしろに離れて立っていた。なにかしようとしても、じゃまになるだけだ。
ビクトリー・ライトヒルは異星人との奇妙な会話に没頭していた。一回話すごとに長い間《ま》があき、そのたびにコールドヘブンの部下たちやブレントと短い言葉をかわした。沈黙して相手の答えを待っているときに、ちらりとアンダータウンのほうを見て、はにかんだ笑みを浮かべた。
アンダータウンも軽く笑みを返した。この子は母親とずいぶんちがうようだ――とはいえ、肝心なところはやはり親子かもしれないが。
ライトヒルの電話にまた声がはいってきた――比較的そばにいる協力者だろうか。
「ええ、わかった。そこへ部隊を送るわ。五時間くらいね……。パパ、こちらは予定どおりに進みはじめたわ。異星人第五号≠ヘ誠実な態度よ。パパのいうとおりだったわね……パパ……? ねえ、ブレント。おかしいわ、また切れちゃったのよ! いま切れるはずはないんだけど……パパ?」
ラヒナー・トラクトのヘリコプターはすでにジグザグの回避行動をやめていたが、その頃にはトラクトはどこを飛んでいるのかわからなくなっていた。ヘリは高原台地の上を低く、かなりの速度で飛んでいる。上空の敵からみつかることももう恐れていないようだ。操縦席にすわりながらただの乗客と化しているトラクトは、空のようすを呆然《ぼうぜん》と眺めるばかりで、シャケナー・アンダーヒルがうわごとのようにつぶやく言葉や、そのゲーム用ヘルメットから洩れてくる奇妙な光のことは、あまり意識していなかった。
無数の迎撃ミサイルはとうに発射されおわっているが、それらが次々と目的をはたしていく証拠の光が地平線上でまたたき、空を染めていた。
〈〈すくなくとも反撃してるんだな〉〉
ローター音が変化し、トラクトは遠くの恐ろしい眺めから引きもどされた。ヘリは闇のなかを降下している。空の光を隠すようにして目を凝《こ》らすと、岩の露頭《ろとう》や丘や氷ばかりが広がるどこでもない場所をめざしているようだった。
ヘリは少々乱暴に着陸し、タービンの音が弱まってローターが見えるくらいに回転が落ちた。機内はかなり静かになった。介助虫《かいじょちゅう》が身動きし、シャケナーのわきのドアをしつこく押している。
「外へ出さないようにしてください。ここで迷子になったら二度とみつけられなくなる」
アンダーヒルは曖昧《あいまい》に頭を揺らし、わきにゲーム用ヘルメットをおいた。その光はすこしだけまたたき、消えた。シャケナーは介助虫をなでながら、上着のひらいているところをしめはじめた。
「いいんだよ、大佐。もう終わった。わたしたちは勝ったんだ」
シャケナーはまだうわごとをいっているような口調だったが、トラクトはすこしずつ気づきはじめていた。うわごとにせよなににせよ、シャケナー・アンダーヒルは世界を救ったのだ。
「いったいなにがあったんですか、博士?」トラクトは小声で訊いた。「異星人の怪物がわたしたちのネットを支配し……同時にあなたが異星人を支配したんですか?」
いつもの軽い笑い声が洩れた。「まあ、そんなところだ。ただし、彼ら全員が怪物というわけではない。なかには賢明で良心的な者もいる……。その連中とこちらの計画が鉢《はち》合わせして、あやうく共倒れになるところだった。それを修正する作業はとても高くついたよ」
しばらく頭を揺らしながら黙りこんだ。
「これからはだいじょうぶなはずだが……じつはもう、わたしの目はよく見えないんだ」シャケナーは異星人の危険なビームを頭部全体に浴びている。目の火傷《やけど》による白濁《はくだく》は広がりつつあった。「悪いが、見えている風景を話してくれないかね?」そういって、一本の手で空をしめした。
トラクトは目のいちばんよく見える部分を、南むきの窓に近づけた。山の尾根が視界の一部をさえぎっているが、それでも角度にして百度ほどの範囲の地平線は見えている。
「何百発という核爆発が空で輝いていますよ。こちらの迎撃ミサイルが、遠くで成果をあげているところだと思います」
「そうか。ニジニモルとハランクナーはかわいそうなことをしたな……。あの二人といっしょに暗期の地上を歩いたときにも、似たような光を見たんだ。あのときはもっとはるかに寒かったがな」
介助虫がとうとうドアのしくみを見抜いたらしく、小さくすきまがひらいて、そこから凍てつく空気が機内にはいりこんできた。
「博士――」トラクトはすきま風について注意しようとした。
「いいんだ。もうすぐきみは出発するんだから。ほかになにが見える?」
「爆発した位置から光が広がっています。イオン化した物質が磁気圏にはいったからでしょう。それから――」トラクトははっとして次の言葉をのみこんだ。べつのものが見えたのだが、それがなにかは彼にもわかった。「大気圏再突入による軌跡《きせき》です。何十本も見えます。わたしたちの頭上を通りすぎて、東へ飛んでいっています」
トラクトは防空局の発射実験でこういう現象を見たことがあった。弾頭が大気圏に再突入するときに、さまざまな色をともなう軌跡を残すのだ。実験でも不気味な光景で、まるで幽霊|蜘蛛《ぐも》が空から伸ばすたくさんの手のように見えたものだ。おなじような軌跡がさらにつづいた。大部分のミサイルは空中で阻止されたかもしれないが、生き残った一部がいくつもの都市を破壊するかもしれない。
「心配いらない」トラクトの目の見えない側で、シャケナーが穏やかにいった。「味方の異星人たちが処理してくれている。それらの弾頭はみんな死んでいるんだ。何トンかの放射性廃棄物だよ。頭の上に落ちてきたら笑いごとではないが、それ以上の危険はない」
トラクトは空にむきなおり、不安な気持ちで見あげた。味方の異星人たちが処理してくれている=c…。
「怪物たちは、本当はどんな姿なんですか、シャケナー? 信用できるんですか?」
「なに、信用できるかだって? それが情報局将校の訊くことかね。スミス将軍は連中を一人として信用していなかった。ぼくはこの人間≠スちを、二十年前から研究してきたのだ、ラヒナー。彼らは何百世代にもわたって宇宙を旅してきた。さまざまなものを見て、さまざまなことをなしとげている……。しかしあわれなことに、限界を知ったつもりになっている。星星のあいだを飛びまわる自由さをもちながら、その想像力は自分たちでも気づかない濫《おり》にとじこめられている」
輝く軌跡が空を横切っていった。大部分は遠赤外色からほとんど見えない暗い色に薄れている。そのうちの二本が地平線上の一点に集まった。たぶん、ハイイクアトリア市のミサイル発射場があるあたりだ。トラクトは息をつめて待った。
うしろのほうでシャケナーが、「ああ、愛しいビクトリー」というようなことをつぶやいて、それきり静かになった。
トラクトはじっと北を見つめつづけた。もし弾頭が生きているなら、地平線のむこうからでも爆発は見えるはずだ。十秒……三十秒……。しかし、北の空には星がまたたいているだけだ。
「おっしゃるとおりですね。落ちてきたのはただのゴミだ。これで――」
トラクトはふりむきながら、ふいにヘリの機内がひどく寒くなっているのに気づいた。
シャケナーの姿がない。
トラクトはあわてて機内を横切り、半びらきのドアに跳びついた。「博士! シャケナー!」
外の梯子《はしご》を降りながら、あちこちに頭をむけてその姿を探した。空気は刺すように冷たい。空気加温器がなければものの数分で肺が凍ってしまうだろう。
いた!
ヘリから十ヤードほどのところに、星と空の光によって照らされた二つの遠赤外色の影があった。シャケナーはモビーのうしろをとぼとぼと歩いている。介助虫は主人を穏やかに引っぱりながら、一歩ごとに斜面のようすを長い手で調べている。絶望的な寒さのなかで、なんとか冬眠穴として使える場所を探そうとする動物の本能的な行動だ。しかしこの荒れはてた大地で、そんな場所がみつかる可能性は皆無だろう。一時間もしないうちに主人ともども倒れて、組織の芯《しん》までからからに干《ひ》からびてしまうはずだ。
トラクトは急いで梯子を降りながら、シャケナーを大声で呼んだ。ふいに頭上で、ローターの回転が速くなった。凍《こご》える風が吹きつけ、トラクトは思わず縮こまった。タービンの音が高まり、ローターは推力を発生させはじめた。トラクトはあわてて梯子を引き返し、機内にもどった。
自動操縦装置をがちゃがちゃ操作し、なんとかそのモードを解除しようとしたが、無駄だった。タービンが離陸できる回転数に達し、ヘリは浮きあがった。トラクトは、シャケナー・アンダーヒルが消えていった岩陰をもう一度見やった。しかし機体は東へ傾き、その岩陰は見えなくなった。
61
容積の小さな空間における急激な気密抜けは、ふつうは致命的な結果をもたらす。それも急激に。
しかしトマス・ナウは、期せずして一人の警備員に命を救われた。隔壁の一部が溶けて穴があいたとき、トウはちょうど固定ハーネスをはずしてハッチへ跳びつこうとしていた。気密抜けによる強風は全員を襲ったが、トウはどこにもつかまっておらず、さらに穴にいちばん近かったために、頭から吸いこまれて腰のところで引っかかった。
キウィは、タクシー船のひっかかったハッチにつかまって風に耐えていた。そしてすぐにL1A側のハッチもひらくと、ふりかえって父親の身体《からだ》をつかみ、エアロックの奥へ放りこんだ。まるでダンスのような、ひと続きのなめらかな動きだ。ナウがまだろくに体勢も立てなおしていないうちに、キウィは壁の手がかり穴に足を引っかけてふたたび手をのばし、ナウの袖《そで》を指先でつまんだ。そしてゆっくりと引っぱり、近づいたところで身体をしっかりつかみなおして引きよせ、安全圏へ押しこんだ。
〈〈安全圏だ。ほんの五秒前には死んだも同然だったのに〉〉
空気の抜ける音が大きくなった。損傷したドッキングリングはいつ吹き飛んでもおかしくない。
キウィはまたハッチから離れた。「マーリとシレトを連れてくるわ」
「頼む!」
ナウは開口部へもどりながら、混乱のなかで鉄線銃をなくした自分をののしった。タクシー船のなかをのぞきこむと、警備員の一人はあきらかに死んでいた。トウの脚はもう痙攣《けいれん》もしていない。マーリは気を失っているように見えるが、おそらく死んでいるだろう。それでもキウィはマーリとシレトを連れてこようとしている。ナウとアリ・リンを救ったのとおなじ手際《てぎわ》のよさで、すぐに二人をかかえてくるだろう。
キウィは危険すぎる女だ。そしていまは、この女を消し去るための最後の確実なチャンスだ。
ナウはL1Aのハッチを押した。ハッチは気流に押されてなめらかに動き、鼓膜がおかしくなるような音とともにしまった。ナウはアクセス制御パネルに指をはしらせ、緊急投棄コードを打ちこんだ。壁の反対側から気体が排出されるボンという音と、金属と金属が引き裂かれる音がした。ナウの頭には、内部が真空になったタクシー船がエアロックから離れて漂っていくさまが浮かんだ。
〈〈ファム・ヌウェンは死体で射撃練習をすればいい〉〉
エアロックの気圧はすぐに正常値まであがった。ナウは内側のハッチをあけて、アリ・リンをむこうの通路に押し出した。老人は半覚醒状態でなにかつぶやいた。とりあえず出血はおさまっているようだ。
〈〈わたしの目のまえで死ぬな、ばかめ〉〉
アリは、いまはただのお荷物かもしれないが、長期的にみればたいへんな価値がある。生かしておけば高く売れるはずだ。
ナウはアリをゆっくりと押しながら、長い廊下を移動していった。まわりの壁は緑色のプラスチックでできている。ここはかつてコモングッド号の貴重品保管庫だった。不規則な形状をしているのは、これがかつて船内にあったからだ。いまはその一体構造と、タングステン並みの融点をもつ複合素材でできた厚さ数メートルの遮蔽材に、最大の価値がある。ファム・ヌウェンがもっているすべての火力をあわせても、ここまではとどかないのだ。
数日前まではオンオフ星系に残された最強の兵器の多くがここに保管されていたが、いまは重要な任務を負ったインビジブルハンド号に積みこまれ、ほとんど空《から》っぽだ。しかしそれはかまわない。最低限の核兵器は残してあった。もし必要なら、一度すべてを焼け野原にもどすという大むかしのやり方に打って出ることもできるのだ。
〈〈では、残っているものを調べるか〉〉
ファム・ヌウェンがなにをどこまで支配しているのか、よくわかっているわけではない。ナウの気持ちはつかのまひるみそうになった。英雄としてずっと研究していた男と、いきなり実際に戦わねばならない情況になったのだ。
〈〈しかし勝てば、英雄を超えられるのだ〉〉
やるべきことはいくつもあるが、その時間は少ない。ナウはアリを放し、岩石群の微小重力によってゆっくりと落ちていくのにまかせた。通信セット一組と庫内用ヘッドアップディスプレーがいくつか、ドアのわきの付着布に貼りつけられていた。ナウはそれらをとり、口頭でいくつか命令した。ここの自律機能系は原始的だが、充分に使える。これでL1Aの外が見えるようになった。行商人の仮設舎は地平線上に見えている。タクシー船の行き来はなく、岩石群の表面にも、こちらへ徒歩で近づいてくる気密スーツの人影などはなかった。
空間の反対側へ渡り、小型魚雷を降ろしてきた。視野の隅にある表示から、ハマーフェスト棟への通信がつうじたことがわかった。呼び出しパターンが消え、ファムの声が聞こえた。
「ナウか?」
「まずは初対面の挨拶《あいさつ》をしたいですな」
ナウは答えて、核弾頭を積んだ魚雷を発射管へ運んだ。発射管はカル・オモが三十五日前にとりつけたもので、当時は過剰な用心に思えたものだったが、いま頼みの綱はこれしかないのだ。
「降伏するならいまだぞ、領督《りょうとく》。おれはL1空間をすべて支配している。こちらは――」
ファムの声は落ち着きはらっている。ほら吹きファム・トリンリの面影はどこにもない。ふつうの人間ならこの声に気圧《けお》され、したがってしまうだろう。しかしトマス・ナウは、自身がそのような手練手管《てれんてくだ》の熟練者なのだ。相手の話をなんのためらいもなくさえぎった。
「それは逆ですね。L1でもっとも重要な兵器はわたしが押さえている」発射管のわきのパネルにふれると、ボンという音がして、圧搾《あっさく》空気が発射管の先まで吹き抜け、雪を吹き飛ばした。「戦略核兵器をプログラムし、装填《そうてん》してあるのです。目標は行商人の仮設舎。兵器は急ごしらえですが、充分な威力がありますよ」
「そんなことはできないはずだ、領督。あそこには三百人のエマージェントがいる」
ナウは穏やかに笑った。「いや、できますとも。わたしも多くを失うが、冷凍睡眠庫で眠っている連中がまだたくさんいる。だから――ところで、あなたは本当にファム・ヌウェンなんですか?」思わず口をついて出た質問だった。
しばらく沈黙したあとに、ヌウェンはべつのことを考えているような声で答えた。「そうだ」
〈〈そして、すべて自分だけでやっていたんだな?〉〉
そう考えると納得がいった。ありきたりの陰謀なら何年もまえに露呈《ろてい》していたはずだ。最初からファム・ヌウェンとエズル・ヴィンだけだったのだ。たった一人で荷車《にぐるま》を牽《ひ》いて大陸を横断するように、ヌウェンは意志をつらぬきとおし、勝利の一歩手前まで来ていたのだ。
「あなたに会えて光栄です。ずっとあなたについて研究していたのです」話しながら、ナウは魚雷の診断データを眺めた。発射レールをのぞいたが、発射管のなかに障害物はなかった。
「あなたの唯一の失敗は、領督の行動原理をきちんと理解しなかったことかもしれませんね。ご存じのように、わたしたち領督は災厄のなかから生まれてきた。それがわたしたちの内なる力であり、武器なのです。仮設舎を破壊すれば、L1の運営においては大きな損失かもしれないが、わたしの個人的な情況はこれからもっとよくなると考えられるんですよ。まだ岩石群がある。愚人《ぐじん》の多くも残っている。インビジブルハンド号もある」
ナウは発射管からふりむいて、装置区画のむこうにある残りの魚雷を見た。もしかすると、ハマーフェスト棟の屋根裏部屋も吹き飛ばさなくてはならないかもしれない。それでもまだ、最悪のシナリオというわけではない。そのさいに愚人の一部が生き残るようにする方法もあるだろう。
それから、ファム・ヌウェンがどのように答えるかという興味もあった。ふつうの人間のように屈服するだろうか。それとも領督に匹敵する精神力をみせるだろうか。これはまさにファム・ヌウェンの精神的もろさを衝いた問いなのだ。
そのときふいに、ガタガタという音が兵器庫内に響いた。アリ・リンはずっと下のほうへ落ちて見えなくなっている。しかし音はつづいた。まるでたくさんの金属板がぶつかりあっているようだ。
〈〈内部入り口からか?〉〉
だとすると兵器庫のいちばん下だ。ナウは張り出し部分のふちにそっと近づいた。
ファム・ヌウェンの声が騒音のなかでかすかに響いている。「それは勘《かん》ちがいだぞ、領督。おまえには――」
ナウは手をふって音声を切り、ゆっくりと進んでいった。兵器庫内の固定カメラを手作業でひとつひとつ確認していった。異状なし。原始的な自律機能系のおかげで助かることもあれば、困ることもある。とにかく武器だ。このへんに核兵器より小さな武器がなにかあるだろうか。データベースにはそんなこまかいことまで載っていない。備品リストをヘッドアップディスプレー内でスクロールさせながら、下から見えないところで壁に近づいた。ガタガタという音はまだつづいている。
〈〈そうか、湖底のサーボバルブだ。その騒音がトンネルをとおしてつたわってきているんだ!〉〉侵入者の到着をずいぶん派手に知らせてくれるものだ。
奇襲をかけるつもりだったらしい当人が、ゆっくりと視界にあらわれた。
「おや、ヴィン主任。溺れたと思っていたのだがな」
とはいえ、エズルの顔は土気《つちけ》色で、意識も朦朧《もうろう》としているようだ。鉄線銃による傷はない。
〈〈いや、わたしの上着を盗んだのだな〉〉
気密スーツのジャケットをうまく使って締めつけているが、右腕はすこしねじれて腫《は》れているようだった。エズルは左肩にアリをかつぎ、ナウを見つめている。憎悪のおかげで意識がすこしはっきりしてきたらしい。
しかし、兵器庫の下にはもうほかの侵入者はいないようだ。備品リストの検索も終わった。まうしろの収納棚に鉄線銃が三|挺《ちょう》はいっている! ナウは安堵の息をついて、行商人にむかってにやりとした。
「おまえはたいしたやつだ、ヴィン主任」
数秒遅かったらエズルが先にここに着いて、本当に奇襲を受けたかもしれない。しかし……いまはまだ武器をもたず、動かせるのは片腕だけで、倒れそうなほどふらふらしている。そしてエズルと鉄線銃のあいだにはトマス・ナウが立っているのだ。
「残念だが、話している暇はない。アリを放してくれないか」
ナウは穏やかにいったが、二人からはひとときも目を離さなかった。そして左手を銃の収納棚にのばした。エズルにはこういう落ち着いた態度が効《き》くだろう。一発でしとめられるはずだ。
「トマス!」
真上にキウィが立っていた。兵器庫の空間にはいる入り口のあたりだ。
ナウはしばし唖然《あぜん》とした。キウィは鼻血を流していた。レースのワンピースは裂け、血が飛び散っている。しかしたしかに生きていた。
〈〈タクシー船側のハッチがゆがんでいたせいで、投棄プロセスがうまく働かなかったんだな〉〉
タクシー船が離れなかったために、エアロックの保安システムがリセットしなかった――そしてキウィは、どうにかなかへはいってきたのだ。
「とじこめられたのよ、トマス。エアロックが誤作動したみたいで」
「そうなんだ!」ナウの声をおおった苦悩の響きは、心からのものだった。「いきなりとじて、排気する音が聞こえた。てっきりきみは――もうだめだと……」
キウィは天井のほうから降りてきながら、レイ・シレトの身体を付着布に誘導して横たえた。
警備員はまだ生きているのかもしれないが、どう見てもいまは役に立ちそうにない。
「ご……ごめんなさい、トマス。マーリは救えなかったわ」
ナウを抱きしめようと近づいてきたが、どこかためらいがちなしぐさだった。
「ところで、だれと話してるの?」そしてエズルとアリのほうを見た。「エズル?」
なんという幸運か。エズルはとても都合のいい恰好をしていた。気密スーツのジャケットを肉屋の前掛けのように血で汚している――アリの血で、だ。背後からは破壊された公園の騒音が響いている。エズルはあえぎ、声はしゃがれていた。
「ぼくらはL1を占領したんだ、キウィ。一部のナウの手下をのぞけば、だれも傷つけていない」――そういいながら、腕にはキウィの血まみれの父親をかかえているのだ!
「ナウはきみを利用してるんだ。最初からそうだった。ただし今度は、ぼくらを全員殺そうとしている。まわりをよく見ろ! こいつは仮設舎に核弾頭をぶちこもうとしてるんだぞ」
「まさか――」といいながら、しかしキウィは実際にまわりを見た。ナウはその目の表情が気にいらなかった。
「キウィ」ナウはいった。「わたしを見るんだ。いまわたしたちが戦っているのは、ジミー・ディエムを裏であやつっていたのとおなじグループなんだぞ」
「おまえがジミーを殺したんだ!」エズルは叫んだ。
キウィは白いレースの袖で鼻血をぬぐった。そしてつかのま、幼い迷子のような顔になった。ナウが初めて彼女を自分の部屋に連れてきたときのような顔だ。キウィは壁の手がかり穴に足を引っかけ、じっとナウを見た。
どうにかして時間を稼がなくてはいけない。ほんの数秒でいいのだ。
「キウィ、そんな主張をしているやつがだれか、よく見るんだ」
ナウはエズルとアリ・リンのほうに手をふった。危険な賭けであり、ぎりぎりの誘導だ。しかしうまくいった。キウィはすこしだけ顔をまわし、ゆっくりと視線をナウからそらした。
ナウは片手を収納棚にすべりこませ、鉄線銃の床尾《しょうび》を探った。
「キウィ、そんな主張をしているやつがだれか、よく見るんだ」
ナウはエズルとアリ・リンのほうに手をふった。ばかなキウィは本当にこちらをむいた。その背後でトマス・ナウがかすかににやりとするのが、エズルには見えた。
「エズルがなにをしたかわかってるだろう。きみの父親をノースポー湖で殺そうとした。アリを人質《ひとじち》にしてわたしをつかまえようとしたんだ。もしナイフをもっていたら、この場できみの父親を刺すだろう。エズル・ヴィンの暴力性はきみも身をもって知っているはずだ。こいつがきみをどんなふうに殴ったか、そしてそのあとわたしがきみをどんなふうに守ったか」
それはキウィにむけた言葉だったが、とんでもない嘘をまじえた不快な真実が、破城槌《はじょうづち》のようにエズルの胸を突いた。
キウィはしばらくじっとしていたが、やがて拳《こぶし》を握り、肩に力をこめはじめた。
〈〈これでナウが勝負に勝つとしたら、その原因はぼくだ〉〉
エズルはそう思って、視界の隅にしのびよってくる灰色のものを押しやり、もう一度だけいった。
「ぼくのためじゃない、キウィ。みんなのために、きみのお母さんのために考えてくれないか。ナウは四十年問嘘をついてきたんだ。きみが真相に気づくたびに精神洗浄にかけたんだ。何度も何度も。きみがけして思い出せないように」
理解と強烈な恐怖の表情がキウィの顔にあらわれた。
「いいえ、思い出したわ[#「思い出したわ」に傍点]」
キウィがふりむくと同時に、ナウが背後の収納棚からなにかを出した。しかしそれより早く、キウィがナウの胸を肘《ひじ》で突き、木の枝が折れるような音が響いた。ナウは収納棚に背中をぶつけ、武器庫の広い空間に漂いだした。そのあとから、一挺の鉄線銃がおなじ方向へ漂っていった。ナウはそちらに手をのばしたが、数センチの差でとどかない。踏んばるところがなにもないのだ。
キウィは壁から背伸びをして、鉄線銃をつかんだ。そして領督の頭に狙いをつけた。
ナウはゆっくりと回転していたが、身体をひねってキウィのほうをむいた。そして口をひらいた――いつももっともらしい嘘をついてきた口を。
「キウィ、ちがうんだ――」といいかけて、キウィの顔に浮かんだ表情に気づいたようだった。
何十年にもわたって見せられてきた沈着冷静で尊大な態度が、ふいにナウの顔から剥《は》がれ落ちた。ささやくような声でいった。「や……やめろ」
キウィの頭と肩は震えていたが、その言葉は石のように硬かった。
「思い出したわ」
キウィは狙いをナウの頭からはずし、腰より下にさげて……撃った。ナウの叫びは悲鳴になり、さらに鉄線弾によってくるくると回転させられながら頭を撃ち抜かれ、静かになった。
62
はじめは真っ暗だった。
そして光があらわれた。彼女はそちらへ浮上していった。
〈〈わたしはだれ?〉〉答えはすぐに、鋭い恐怖とともに浮かんできた。〈〈アン・レナルト……〉〉
記憶が甦《よみがえ》る。
山岳地への退却。かくれんぼの最後の日々。バラクリア人の侵入者たちはレナルトを追って洞窟《どうくつ》をしらみつぶしに探した。裏切り者がだれかわかったときには、もう手遅れだった。最後の仲間たちは空から攻撃された。バラクリア人の装甲部隊に包囲された山腹に、レナルトは仁王《におう》立ちした。山の冷気のなかでも死体の焼ける匂いが鼻をついた。しかし敵は撃つのをやめた。そして彼女は生きたままとらえられた。
「アン?」その声は低く、心配そうだった。拷問者の声だ。恐怖が強まった。「アン?」
目をひらいた。視野の隅に、まわりをとりかこむ、バラクリア星の拷問器具が見える。予想できるなかで最悪の恐怖だ。ただし、ここは無重力環境のようだ。
〈〈十五年前からフレンク星の都市を支配しているはずなのに、なぜわざわざ宇宙へ連れてきたの?〉〉
尋問者が視界にはいってきた。黒い髪。典型的なバラクリア人の肌の色、若いような年老いているような顔……。上級|領督《りょうとく》にちがいない。しかし、奇妙なフラクタル織《お》りの上着をきている。こんな恰好の領督など見たことがない。顔には、まやかしの心配そうな表情を浮かべている。
〈〈ばかめ。演技しすぎよ〉〉
領督は白く柔らかな花束をもちだし、レナルトの膝の上においた。過ぎ去った暑い夏の匂いがする。
〈〈なんとかして死ぬ方法があるはずだわ。なんとかして死ぬ方法が〉〉
もちろん両腕は縛《しば》られている。しかしもし領督が近づいてきたら、まだ歯がある。もしこいつが本当に愚かなら――。
領督は手をのばしてきて、肩にそっとふれた。レナルトはさっと首をねじり、身体《からだ》をまさぐるその手に咬《か》みついた。領督は手を引っこめ、そのあとの空中には小さな血の滴《しずく》が軌跡《きせき》を残した。残念ながらこの領督は充分に愚かではなく、彼女をその場で殺してはくれなかった。かわりに、ずらりとならんだ器具のむこうをむいて、視界の外のだれかをにらみつけた。
「トルード! いったい彼女になにをしたんだ?」
なぜか聞き覚えのある、愚痴《ぐち》っぽい声が答えた。「ファム、話しただろう。これはむずかしい処理なんだよ。レナルト自身の指導を受けながらでないと、確実には――」
話し手が視界にはいってきた。小柄でそわそわしたようすで、バラクリア人の技術者の制服を着ている。男は空中に漂う血の滴を見て、目を丸くした。そして恐怖に充《み》ちた顔でレナルトを見た。その表情に彼女は満足とわずかな不可解さを感じた。
「アルとおれにはこれが精いっぱいだよ」男はつづけた。「ビルが帰ってくるまで待ったほうがいい……。それに、一時的な記憶喪失かもしれないじゃないか」
年老いたほうは怒りだしたが、おなじことを心配しているようだった。「おれは集中化を解除しろといったんだ。精神洗浄をやれとはいってないそ!」
この小柄な男、トルード……トルード・シリパンはいった。「心配いらない。ちゃんと思い出すはずだ。記憶の構造はどこもいじってないから」もう一度恐ろしそうな視線をレナルトにむけた。「もしかすると……よくわからないけど、もしかすると、集中化解除はうまくいったのに、なにか自動的な抑圧作用が働いているのかもしれない」
トルードはすこし近づいたが、レナルトの手や口のとどく範囲からは離れていた。そして弱々しい笑みを浮かべた。
「局長? 憶えてるでしょう、トルード・シリパンです。当直時間で何年もいっしょに仕事をしたでしょう。そのまえも、バラクリア星でいっしょだった。アラン・ナウのもとでね。憶えてますか?」
レナルトはその丸顔に浮かんだ弱々しい笑みを見つめた。アラン・ナウ……トマス・ナウ……。ああ……ああ……なんてこと。終わりのない悪夢のなかに目覚めてしまったのだ。拷問の穴ぐらにいれられ、集中化され、そして敵と同化して残りの一生を送ることをしいられたのだった。
トルードの顔がかすんだ。しかしその声は急にうれしそうになった。「見ろよ、ファム! 泣いてるぜ。思い出したんだ!」
〈〈そうよ、すべてを〉〉
しかしファム・ヌウェンの声はよけいに腹立たしそうになった。「外へ出てろ、トルード。さあ、早く」
「すぐ証明できるぜ。こいつを――」
「出ていけといってるだろう!」
それきりトルードの声は聞こえなくなった。レナルトは小さな苦悩の空間にとじこもり、泣きじゃくった。息をすることも、なにかを感じることもできないくらいだ。
肩にまわされる腕を感じた。今度はそれが拷問者ではないことがわかった。
〈〈わたしはだれ?〉〉いや、そんな薄っぺらな問いではだめだ。本当に問わねばならないのは、〈〈わたしは何者?〉〉だ。しばし抵抗があったが、やがて記憶があふれだした。アーナム市の裏の山中で戦いに敗れたあと、自分が積み重ねてきた悪行《あくぎょう》の数々。レナルトはファムの腕をふりはらおうとしたが、身体を縛りつけているストラップに動きをはばまれた。
「すまない」
ファムがつぶやき、手や足の金具がはずされる音がした。しかしもう、どうでもいい。レナルトは小さく身体をまるめ、ファムの慰《なぐさ》めもろくに聞こえなかった。ファムはたいしたことをいっているわけではない。おなじことを、言いまわしをかえてくりかえしているだけだ。
「もうだいじょうぶだ、アン。トマス・ナウは死んだ。四日前に死んだ。きみは自由だ。おれたちは解放されたんだ……」
しばらくしてファムは黙った。肩にまわされた腕の感触から、その存在がわかるだけだ。レナルトの嗚咽《おえつ》はすこしずつおさまっていった。恐ろしいことはもうないのだ。最悪の時期は長かったが、もう終わった。あとに残ったのは死と空虚だけ。
時間が流れた。
身体がゆっくりとほぐれ、落ち着いてくるのを感じた。しっかりととじていた目をひらき、意志の力で顔をまわしてファムのほうをむいた。泣きすぎて顔が痛かったが、もっと何百倍も痛ければいいのにと思った。「どうして……ちくしょう……どうして目を覚まさせたの? 死なせてくれればよかったのに」
ファムは黙ってレナルトを見つめ返していた。しっかりと目をひらき、注視している。仮面にちがいないと思っていた虚勢《きょせい》を張った態度は、どこにもない。かわりにあるのは、知性と……畏怖《いふ》の気持ち? いや、そんなはずはない。
ファムはレナルトのかたわらに手をのばし、白いアンデリアの花束をもう一度彼女の膝の上においた。いまいましいけれど、温かく、柔らかい。そして美しい。
ファムはレナルトの要求をしばらく考えているようだったが、やがて首をふった。「まだ死んでもらっては困るんだ、アン。ここにはまだ二千人以上の集中化人材がいる。きみの手で彼らを解放してやってほしい」彼女の頭のむこうにある集中化装置をしめした。「アル・ホムにきみの解除作業をやらせたんだが、いかにもあてずっぽうでやっているようすだった」
〈〈わたしならみんなを解放できる〉〉
その考えには、山中での戦いに敗れた朝からこれまでで初めて、心躍る思いがした。それが表情にもあらわれたのだろう。ファムの唇には希望の笑みが浮かんだ。しかしレナルトはすぐに目を細くした。どんなパラクリア人よりも集中化技術に詳しいレナルトは、再集中化や忠誠心の書き換えといった手法についても知りつくしていた。
「ファム・トリンリ――本当の名前はわからないけど――あなたのことは何年も観察してきたわ。あなたがナウに対して策略を練《ね》っていることは、ほとんど最初から気づいていた。でも、あなたが集中化という技術に夢中になっていることもわかった。この力の源泉《げんせん》をなんとか手にいれたいと思っていたんでしょう?」
ファムの顔から笑みが消えた。そしてゆっくりうなずいた。「おれは生涯にわたって戦い、探し求めてきたものを、ついにみつけたと思ったんだ。しかし結局、支払う代償が大きすぎるとわかった」肩をすくめ、まるで恥じいるようにうつむいた。
レナルトはその顔をじっと見ながら考えた。かつての彼女は、トマス・ナウにもだまされなかった。集中化されていたときのレナルトの精神は、剃刀《かみそり》のように研《と》ぎすまされ、まわりの出来事や自分の希望などにじゃまされることはなかった。ナウの真の意図を知っても、たとえば戦斧《せんぷ》がみずからの役目を人殺しだと知るのとおなじで、レナルトにとってはどうでもよかった。
しかしいまはそうではない。この男は嘘をついているかもしれない。それでも、この男が提案している仕事は、レナルトがこの世のなにより切望することでもあった。みずからが犯した悪行をできるかぎり償《つぐな》ったら、それから死ねばいい。
レナルトは自分も肩をすくめた。「トマス・ナウは集中化解除術について嘘をついていたわ」
「あいつの嘘を挙《あ》げていたらきりがないさ」
「わたしなら、トルード・シリパンやビル・フオンよりうまくやれる。それでも失敗するケースはあるはずよ」それがいちばん恐ろしい。失敗例になった者は、もとにもどそうなどとしてくれなければよかったのにと、レナルトを恨《うら》むだろう。
ファムは花束ごしに手をのばし、彼女の手をとった。「わかった。それでも、できるだけのことをやってほしい」
レナルトはファムの手を見おろした。さきほど咬みついた傷口からまだ血がにじみだしている。この男は嘘つきかもしれないが、人々の集中化解除をやらせてくれるのなら……だまされたふりをしよう。
「いまはあなたが支配者なの?」
ファムは軽く笑った。「なかにはそんなふうにいうものもいる。とくに蜘蛛《くも》族にはそう考えている者が多いな。いろいろ複雑なんだ。いまもまだ混乱のまっさいちゅうだ。四百キロ秒前まではまだトマス・ナウが支配していたんだから」ファムは熱っぽい笑顔になった。「しかしこれから百メガ秒、二百メガ秒とたつうちに、すべてが再生していくはずだ。船も修理できるだろう。それどころか新しい船を建造することになるかもしれない。こんな機会はめったにないぞ」
だまされたふりをしよう。「それからあとは、わたしをどうするつもり?」この男の道具として再集中化されるまで、どれくらいの時間があたえられるのだろう。
「どうって……。きみは自由になるだけさ、アン」ファムは顔をそむけた。「以前のきみについては知っている。フレンク星できみがなにをし、最後にどんなふうにとらえられたかという記録も見た。きみを見ていると、おれが子どもの頃に知っていたある女を思い出すんだ。彼女もまた圧倒的に不利な情況のなかで戦いをいどみ、そしてひねりつぶされた」顔を半分だけレナルトのほうにむけた。「おれはトマス・ナウより、むしろきみのことを強敵とみなした時期もあった。しかしきみがフレンク星の凶獣だと知ってから、なんとかきみにもう一度チャンスをやりたいと思いはじめたんだ」
なんと口のうまいやつか。他人の弱みにつけこみ、しらじらしい嘘をつく。しかしレナルトはこらえきれず、訊いても詮《せん》ないことを訊いた。
「そうすると、何年かしたら星間船として使える船が手にはいるの?」
「そうだ。それも、来たときよりも高性能な船になるだろう。ここで発見した新しい物理法則のことは憶えてるだろう。ほかにも――」
「その船団はあなたが指揮するのね」
「一部はな」
やはりばかだ。逆襲されるとも知らず、まだぺらぺらと嘘をついている。
「そして、わたしのやることに手を貸したいというのね。フレンク星の凶獣のわたしに。それはそれはありがたいこと。ではこうしたらどうかしら。わたしにその船団を貸すのよ。そしていっしょにバラクリア星とフレンク星とギャスパー星へ行き、すべての集中化人材を解放するの」
その言葉に仰天《ぎょうてん》し、笑みを凍りつかせたファムの顔はおかしかった。
「ひとつの星間帝国を――集中化技術をもった帝国を――ちっぽけな船団で倒そうというのか? それは……」そんな狂気を形容する言葉はない。ファムはしばらくまじまじとレナルトを見つめていたが、やがて、驚いたことに、その顔に笑みがもどった。「それはすごい考えだ! アン、まず準備する時間が必要だ。この地でしっかりとした同盟関係を築かなくてはいけない。まあ十年以上はかかるだろう……。勝ちめがあるかどうかわからないが、やってみよう。かならず」
なにを要求しても了解するばかり。これはいよいよ嘘らしい。しかしもし本当なら、それはレナルトが生きつづけるための唯一の希望になる。
レナルトはじっとファムの目を見て、嘘の気配を見抜こうとした。しかしやはり、集中化を解除されたせいで観察力が鈍《にぶ》ってしまったようだ。いくら見ても、そこには畏怖の念に充ちた情熱しか感じとれなかった。
〈〈この男は天才だわ。そしてこの話が嘘にせよ真実にせよ、わたしに十年あまりの猶予《ゆうよ》をくれている〉〉ほんのひととき、レナルトは緊張を解いて、信じてみることにした。ほんのひととき、この男が嘘つきではないと空想してみることにした。〈〈フレンク星の凶獣が、すべての囚《とら》われ人を解放できるかもしれない……〉〉
奇妙な昂奮が心臓から湧き出し、全身をかけめぐった。それがなんなのか気づくまでに、すこし時間がかかった。長いこと、本当に長いこと忘れていたもの――歓喜《かんき》だ。
63
ファムは交渉役としてエズル・ヴィンを地上に送った。
「なぜぼくを?」これは人類史上でも希有《けう》な取り引きの場面になるはずなのだ。下手《へた》をすれば戦争になりかねない情況でもある。「ここはあなたが――」
ヌウェンは手を挙げてさえぎった。「おまえを送る理由はいくつもあるんだ。まず、こちらの集中化されていない人間たちのなかでは、おまえがいちばん蜘蛛《くも》族について知っている。すくなくともおれよりは詳しい」
「だったら補佐役にしてくれよ。助言するから」
「いや、むしろおれがおまえの補佐役になったほうがいい」ファムはしばし黙りこんだ。エズルはそこにかすかな懸念《けねん》を見てとった。「おまえのいうとおり、この交渉は綱渡りだ。短期的には連中が主導権を握っているし、彼らが人間を嫌う理由はいくらでもある。ライトヒル一派は国王への影響力をもっているはずだが、しかし――」
アコード政権にはほかにもいくつか派閥が存在し、その一部は、集中化された翻訳者たちを譲渡《じょうと》可能な商品とみなしているようだった。
「だからこそあなたが行くべきなんだよ、ファム」
「こっちでは決められないんだ。じつは、むこうのご指名なんだよ」
「なんだって?」
「そうなんだ。たぶん、おまえがトリクシアと何年も共同作業をしていたから、連中はおまえをすこし理解するようになったんだろう」ファムはにやりとした。「お顔を拝見したいというわけさ」
わかったようなわからないような理由だ。「ふうん」エズルはしばらく考えた。「でもトリクシアを渡すわけにはいかない。べつの翻訳者を連れていくよ」じろりとファムを見た。「トリクシアは最重要の翻訳者だからね。アンダータウンの部下たちは、できれば彼女の身柄《みがら》を手にいれたいと思っているだろう」
「ふむ。おなじような考えをもつ者がほかにもいるかもしれないな。国王はおまえに同行する翻訳者として、ジンミン・ブロートを望んでいるようだ」エズルの表情に気づいた。「ほかになにかあるのか?」
「それは――ある。トリクシアの集中化を解除してほしいんだ。できるだけ早く」
「もちろん、そうする。約束したはずだ。アンにもおなじ約束をした」
エズルはしばらくじっとファムを見た。
〈〈それに心境の変化があって、長年の夢を捨てたんだったね〉〉
これまでの展開から、エズルはもう疑ってはいなかったが、それでも急に待ちきれない思いにとらわれた。
「トリクシアを待ちリストの先頭に移してほしいんだ、ファム。翻訳者として必要だろうと、そんなことは関係ない。最初にやってほしい。ぼくが交渉から帰ってくるときまでには集中化解除されているように」
ファムは眉をあげた。「それが最終条件か?」
「いや……。そうだよ!」
老人はため息をついた。「わかった。すぐにトリクシアへの施術《せじゅつ》をはじめさせよう。まあ……じつは翻訳者はできるだけあとまわしにしたかった。必要性が高いからな」ふいに唇をぎゅっと結んだ。「しかし、期待ばかりするな、エズル。この分野でもナウは嘘をついていた。集中化解除されて、アンのように明晰な頭脳を残す者もいるが、なかには――」
「わかってる」集中化解除の処理をきっかけに精神腐敗病ウイルスが暴走し、植物状態になる場合もあるのだ。「でも、遅かれ早かれ、やらなくちゃいけない。遅かれ早かれ、翻訳者の利用をやめなくちゃいけないんだ」
エズルはさっと席を立って、ファムの執務室をあとにした。これ以上話すと、かえっておたがいを苦しめることになりかねない気がしたのだ。
アラクナ星への交通手段はお粗末だった。ジョー・シンが使っていた小型艇に、キウィが専用の手直しをほどこしたソフトウェアを、まにあわせで載せただけだった。
人類は制空権を握り、高度な科学技術の切れ端をもっているが物理的な資源や自律機能系という点ではきわめて貧弱だった。愚人《ぐじん》が集中化解除されるにしたがって、エマージェントのソフトウェアは使いものにならなくなってきたし、L1点に残った寄せ集めのハードウェアにチェンホーの自律機能系を適合させようにも、まだしばらく時間がかかりそうだった。人間たちが足|留《ど》めをくっているこの太陽系は最初から空《から》っぽで、アラクナ星にあるのが唯一の産業文明だ。その蜘蛛族と喧嘩をしようにも、できることといえば地表にいくつかの岩や数発の核兵器を落とすのがせいぜいで、人間はほとんど無力だった。
蜘蛛族もいまはたいした力をもたないが、それは今後変わっていくだろう。いまは宇宙からの侵入者を知り、科学技術を使ってなにができるかを知っているのだ。インビジブルハンド号のかなりの部分も完全な状態で残している。蜘蛛族はかなり短期間のうちに力をつけ、宇宙空間へあがってきそうだった。
ファムは、事態を前むきに変えて基本的な信頼関係を築くための猶予《ゆうよ》期間は、一年くらいだろうとみていた。キウィは、自分が蜘蛛族なら一年以下でやれると主張した。
エズルとジンミン・ブロートがタクシー船に乗りこむときがくると、それを見送ろうと、仮設舎の中央通路には上から下まで大勢の人がつめかけた。L1点で集中化されていない人間はほとんど全員が集まっていた。
ファムとレナルトもいた。二人はならんで宙に浮いている。数年前までならとても考えられない組み合わせだ。
「集中化解除術の準備はもうはじめてるわ」レナルトがいった。だれのことかはいうまでもない。「最善をつくすわ、エズル」
キウィは、初めて見るほど厳粛《げんしゅく》なおももちでエズルの幸運を願った。そしてしばらく迷ったようにしたあと、さっと彼の手を握った。キウィがこんなことをするのも初めてだ。
「無事に帰ってきて、エズル」キウィはいった。
リタ・リヤオは、エズルの行く手をさえぎるようにハッチのすぐまえにあらわれた。エズルは手をのばして慰《なぐさ》めようとした。
「ジョーはかならず連れて帰るよ、リタ」
本当は、最善をつくすよ≠ニいう気持ちだったのだが、自信のないようなことをいうのはためらわれた。
リタの目は真っ赤で、数キロ秒前に話したときよりさらに心の動揺が大きくなっているようだった。
「わかってるわ、エズル。わかってる。蜘蛛族は善良な種族よ。ジョーが敵意をもっていないことくらい、わかるはずよ」リタはこれまで何十年にもわたってアラクナ星の暮らしに翻訳を通じて夢中になってきたのだが、いまになってその翻訳への信頼が揺らいでいるようだった。
「でも、もし……もしジョーが解放されなかったら……これを彼に……」
リタは透明な小さな箱をエズルの手に押しつけた。箱は指紋で施錠《せじょう》されていた。ジョー・シンの指でしかあけられないようになっているのだろう。なかには記念石がはいっていた。
リタはその先はいわず、入ごみのなかにもどっていった。
64
エズルとジンミン・ブロートは二百キロ秒後にランズコマンド市に着いた。
着陸すると、蜘蛛《くも》族は二人を車に乗せて、長い谷ぞいの道を走っていった。エズルの脳裏には奇妙な記憶が甦《よみがえ》りはじめた。建物のほとんどが建てなおされているのだが、これらが建つ以前に、エズルはここを一度訪れているのだ。当時はすべてが未知のものだったが、いまは表面的な情報ならいくらでもある。ジンミン・ブロートはあちこちの窓から目を丸くして外を眺め、見えるものすべての名前を列挙《れっきょ》していった。ベニー・ウェンといっしょに侵入した図書館のわきも通りすぎた。これは暗期図書館≠ニ呼ばれていた。そしてキングズウェイのつきあたりにある彫像群は、アコード国に到着するゴクナの像≠ニいう作品だった。そのねじくれた姿の一人ひとりについてブロートは解説してくれた。
しかし今日は、だれかの寝ているすきにこっそり忍びこんでいるわけではない。
あたりはとても明るく照明されていた。やがて地下にはいると、そこは、リッツァー・ブルーゲルが蜘蛛族の暮らしを悪夢としてののしっていたことを多少なりと思い出させる、殺風景で異質な空間だった。階段と呼ばれるものは梯子《はしご》のように傾斜が急で、ふつうの部屋はエズルとブロートが腰をかがめて歩かねばならないほど天井が低かった。また、ひさしぶりに身体《からだ》に受ける惑星の重力はやはり強力で、伝統的な薬物療法や何千年もまえからの遺伝子操作によって体力を維持しているとはいえ、疲れてうんざりした。
二人の宿所としてあてがわれたのは、ブロートによれば王族クラスが使う高級アパートメントとのことで、床には妙に毛脚《けあし》の長い絨毯《じゅうたん》が敷かれ、天井は立ちあがれるくらいに高かった。
交渉は翌日からはじまった。
翻訳をつうじて知っているような蜘蛛族はほとんどあらわれなかった。ベルガ・アンダータウンやエルノ・コールドヘブンという名前は聞き覚えがあったが、どちらかといえば遠い存在だった。シャケナー・アンダーヒルの対抗工作にはくわわっていなかったのだ。しかしビクトリー・ライトヒルとは連絡をとっているようだ。アンダータウンは交渉途中にしばしば奥へ退《さ》がり、シューシューという声で姿の見えないだれかと会話していた。
数日が経過した頃、エズルはこれらの交渉相手のうち何人かの翻訳音声が、とても遠いところから[#「とても遠いところから」に傍点]きているのに気づいた。トリクシアだ。
エズルは部屋にもどると、L1に電話をかけた。もちろん回線は蜘蛛族の監視するネットワークを経由しているのだが、そんなことはかまっていられなかった。
「トリクシアは集中化解除するはずじゃなかったのか?」エズルはいった。
返事がもどってくるのに十秒以上かかっているように思えた。しかし、言い訳や言いのがれなど聞くだけ無駄だ。
「ちくしょう、よく聞けよ! トリクシアを集中化解除するという約束だったはずだ。遅かれ早かれ、彼女を使うのはやめなくちゃいけないんだぞ!」
しばらくして、ファムの声が返ってきた。「わかってるよ、エズル。じつは蜘蛛族がトリクシアを使いたい、まだ集中化させておけと要求してきたんだ。拒否したら交渉が決裂しかねない……。トリクシアも、集中化解除したらもう協力しないといっているしな。こうするしかないんだ」
「そんなこと知るもんか。かまうもんか! トリクシアはトマス・ナウの奴隷じゃないし、蜘蛛族の奴隷でもないんだ!」
エズルは恐怖に襲われ、大声でわめきだしそうになった。部屋の反対側では、ジンミン・ブロートが毛脚の長い絨毯の上にあぐらをかいてすわり、愚人《ぐじん》らしく、じつに満足そうな顔で蜘蛛族の絵本のようなものをめくっている。
〈〈ブロートのこともぼくらは利用してるんだ。もうすこしのあいだはしかたないんだ〉〉
「エズル、ほんのしばらくの辛抱だ」ファムがいった。「アンも悩んでいる。しかし蜘蛛族にしてみれば、こちらの真意を見抜くための唯一の手段なんだ。彼らは集中化人材に信頼を寄せているといってもいいくらいだ。なにをいっても、なにを主張しても、それは愚人を介したやりとりなんだ。その信頼関係がなければ、インビジブルハンド号の乗員をとりもどすチャンスはまったくない。ナウの悪行《あくぎょう》に始末をつけていく道はひらけないんだ」
そうだ、リタとジョーのことがあった……。
エズルの荷物のいちばん上には、例の指紋で施錠《せじょう》された箱があった。不思議なことに、蜘蛛族はその箱やエズルのほかの荷物の中味を点検しようとはしなかった。エズルは折れた。
「わかったよ。でも、この交渉が終わったら、いっさいの奴隷関係は終わりだ。そうでなかったら――交渉は決裂だ。ぼくが決裂させてやる」
答えが返ってくるより先に、エズルは接続を切った。返事がどうだろうと関係ない。
二人はほとんど毎日、曲がりくねった通路をくだって、いつもの不気味な会議室にはいった。ブロートによると、ここは情報局長官の専用執務室であり、数階分が吹き抜けになった明るい部屋で、小部屋と隔離された席がある≠ニのことだった。まあ、たしかに小部屋らしきものはあった。縦溝のはいった黒っぽい煙突《えんとつ》状の構造物で、てっぺんの隠れたところに寝床《ねどこ》があるのだ。
壁の映像はいつ見てもごたまぜ色で意味不明だ。エズルとブロートは冷たい床を歩いて、何枚か重ねて敷かれた毛皮の上にすわった。蜘蛛族の出席者はたいてい四、五人で、アンダータウンかコールドヘブンはかならずいた。
交渉の序盤はうまく進んだ。
集中化人材が話を仲介してくれるおかげで、蜘蛛族はエズルの言葉を信じてくれるようだった。また、ほんのすこし協力的になるだけでものごとがうまくいくということも理解しているらしい。蜘蛛族の代表者を岩石群に駐在させることくらい、交渉の序の口だった。人間の科学技術はいっさい制限をもうけずに蜘蛛族につたえられ、その見返りとして人間は地上に降りる権利を得た。近い将来に岩石群と仮設舎をアラクナ星の高々度軌道に運んでくることや、造船所を共同で建設することも決まった。
毎日何キロ秒も蜘蛛族とおなじテーブルにつくのは、とても疲れる経験だった。人間の精神はこのような姿の生物に好感をもつようにできていないのだ。
蜘蛛族の目は、いわゆる目ではなく、外皮の一部が透明になったような視覚器で、人間の目より高い視覚能力をもっている。相手がいまどこを見ているのかは、外から判断できなかった。食手《しょくしゅ》はつねに動いており、その動かし方によってあらわされる意味について、エズルはまだほんのすこししか理解できなかった。ほかの主要な腕で身ぶりをすると、その動きはまるで攻撃するときの生きもののようにすばやかった。空気は饐《す》えたようないやな匂いがして、室内にいる蜘蛛族の数が増えたときにはとくに異臭が強まった。
〈〈それから、今度くるときはトイレ持参だな〉〉
蜘蛛族の設備を使いつづけていると、エズルはがに股《また》になりそうだった。
ジンミン・ブロートが双方向の通訳をほとんどこなしたが、トリクシアやほかの翻訳者も上で待機していた。そして最高レベルの正確さが求められるときは、彼女の声がアンダータウンやコールドヘブンの言葉を語った。アンダータウンは冷徹《れいてつ》な警察官僚、コールドヘブンは頭の切れる若い将校として演じられた。まるで他人の精神がトリクシアの声を乗っ取ったようだった。
夜になると、エズルはよく夢をみた。
たいていは昼間の経験よりも不快な夢だ。理解できる夢がいちばんたちが悪かった。トリクシアがあらわれるのだが、その声と思考は、エズルの記憶にある若く美しい女と、不気味な異種族の精神とのあいだをいったりきたりした。ときには、話しているうちにトリクシアの顔がガラスのような外皮におおわれた頭に変容していくことがあった。そして、どうして顔が変わったんだいとエズルが訊くと、思いすごしよと彼女は答える。そしてトリクシアだけはいつまでも集中化を解かれず、魔法をかけられたままとり残されるのだ。
キウィもよく夢にあらわれた。むかしの悪ガキのこともあれば、トマス・ナウを殺したときの姿のこともあった。夢のなかでエズルとよく話し、ときどき助言をくれた。夢のなかではいつも筋がとおっているのだが――目が覚めると、どんな内容だったか思い出せなかった。
案件はひとつずつ解決していった。一メガ秒もたたないうちに、大量|殺戮《さつりく》問題から通商問題へと議題は移っていった。
L1にいるファム・ヌウェンの声は、交渉の進み具合に上機嫌だった。「こいつらの態度は、政府関係者というよりむしろ商人だな」
「こんなに譲歩していいのかな、ファム。顧客がこっちの拠点に代表者を駐在させるなんて、そんなやり方がありなのかい?」
いつもの長い沈黙のあと、ファムは明るい口調で答えた。「それもいい結果につながるはずだ。たぶん蜘蛛族の何人かは、そのうち仲間になりたいといいだすはずさ」チェンホーの一員になる、ということだ。
ファムはつづけた。
「……ひとつだいじな話がある。捕虜の交渉に移ってくれ」それが最後に残された議題だった。
「それが終われば、トリクシアの仕事も終わりだ。ライトヒルがアンダータウンの一派からその約束をとりつけているんだ」
交渉の最終日も、いつもとおなじようにはじまった。
エズルとブロートが案内されていったところは、蜘蛛族のいうところの螺旋《らせん》階段≠セが、人間にいわせれば、岩盤に垂直に掘られた縦穴だった。下からは生《なま》暖かい風がいつも吹きあげてくる。縦穴の断面は直径二メートルほどで、壁からは五センチほどの庇《ひさし》が突き出している。案内の護衛たちはこれで充分で、腹ばいになってトンネルの端から端まで手がとどく。すべての手足を庇にかけて身体をささえられるのだ。蜘蛛族はそうやって下に降りながら、螺旋を描くようにゆっくりと身体が回転していく。ほぼ十メートルごとに縦穴が横にずれたようになっているのは、ひと息つくための踊り場≠セ。
護衛たちはエズルとブロートに、固定ハーネスとロープのような装具を身につけるようにいった。エズルは多少ほっとしたが、まだ不安だった。
「この階段は、たんにぼくらを怖《お》じけつかせるための仕掛けなんだろう、ジンミン?」最初の頃にエズルは訊いたが、そんな冗談に愚人が答えるわけはなかった。
集中化された翻訳者であるブロートは、つい蜘蛛族の真似をして両手両足を広げた恰好で降りようとするせいで、エズルよりもさらにこの縦穴が不得意だった。今日は降りながら、エズルの問いに答えようとした。
「ええ……ああ、いいえ。これは王族用冬眠穴に降りるための階段です。とても古く、由緒正しいものです。ここを使わせてもらえるのはとても名誉な――」
ブロートは手をすべらせ、奈落《ならく》に落ちかけたが、上の護衛たちがささえるロープと固定ハーネスのおかげでしばらく宙吊りになっただけですんだ。エズルは湿った壁にしがみつき、ブロートが足がかりをとりもどすまで必死で自分の体重をささえた。
ようやく最後の踊り場に着いた。天井は蜘蛛族の平均からしても低く、せいぜい一メートルしかない。二人は護衛たちにかこまれ、腰をかがめてよたよたと歩きながら、ひどく横幅の広い扉に近づいた。そのむこうは、青く薄暗い照明をされた部屋だった。蜘蛛族は知覚できる光の波長域が広い。だから太陽とおなじくらい広いスペクトルの光を好むのかと思いがちだが、実際には二人は薄暗い部屋に――それどころか人間の目には見えない波長の電磁波が照射されているだけの部屋に通されることも多かった。
前方の暗がりから、聞き覚えのあるシューシュー音の声が聞こえてきた。
「どうぞはいって、おすわりください」ジンミン・ブロートがいったが、それは部屋の奥にいる蜘蛛族がいったことだった。
エズルとブロートは敷石の上を歩いて、それぞれの席≠ノついた。エズルの目にようやく相手が見えるようになってきた。やや高い席にすわった大柄な女性だ。部屋がしめきられているせいで、その体臭が強く匂った。
「アンダータウン将軍」エズルはていねいに挨拶《あいさつ》した。
これまでに解決されてきた案件にくらべれば、捕虜問題はむしろ単純な内容のはずだった。ところがここへきて、交渉相手はアンダータウン一人になった。外部への通信リンクもない。すくなくとも用意されているという話はなかった。ブロートをのぞけば、一対一の対決だ。ほとんど真っ暗闇で、通訳のブロートの口からは脅迫めいた言いまわしが次々と出てくる。怖い。
しかし名だたる商家で生まれ育ったエズル・ヴィンには直観的にわかる部分があった。これは交渉相手を怖じけつかせようとする作戦だ。アンダータウンはライトヒルに、捕虜問題の交渉が終わったら翻訳者たちを解放するという約束をさせられたらしい。すでにこれまでにも多くの譲歩をかさねている。これはアンダータウンにとって面目をたもつための最後の賭けなのだ。
エズルは荷物からヘッドアップディスプレーをとりだして顔につけた。
蜘蛛族によれば、インビジブルハンド号が強制着陸させられたことによる人間の乗員の犠牲者は一人もいなかったらしい。星間船の残骸は海氷上に二十キロメートルにわたって飛び散り、船体のなかで無傷で残ったのは乗員のいる区画だけだったという。彼らが生き残れたのは、ファムが愚人パイロットたちに的確なアドバイスを送ったおかげだ。
しかし着陸してからあとは、かなりの数の犠牲者が出た。ブルーゲルとその部下たちは、到着した蜘蛛族の部隊に対して勝ちめもないのに銃撃戦をいどんだのだ。その結果、警備員たちは全員死亡した。ブルーゲルは領督《りょうとく》らしい機転から、最後の瞬間に部下を見捨て、生き残ったほかの乗組員たちのあいだにまぎれて身分を隠そうとしたのだ。この最初の銃撃戦からあと、犠牲者は一人も出ていないということだった。
「愚人たちはお返しします」アンダータウンはブロートを通じていった。「彼らに責任はないし、むしろわたしたちの勝利に貢献《こうけん》してくれた者さえいますからね」ブロートの声は辛辣《しんらつ》になった。
「残りは罪人です。何百人もの蜘蛛族を殺した。はじめは何百万人も殺そうとしていたんですから」
「いいえ、実際に関与したのはごく少数ですよ。あとの者たちは抵抗したか、そもそもだまされて計画に参加させられたんです」
エズルは乗組員リストを見ながら、一人ひとりの役割について説明していった。冷凍睡眠|棺《ひつぎ》のなかで二十人が眠らされていた――ブルーゲルが個人的なおもちゃにしていた人々だ。彼らが被害者の立場であるのはあきらかだが、冷凍睡眠装置についてはアンダータウンは引き渡しを拒否した。
エズルは、アンダータウンの部下たちが保管している星間船の残骸について、人間の専門家から技術解説をさせることを交換条件に、一人ずつ捕虜たちの釈放を認めさせていった。そして最後に、いちばんむずかしい一人が残った。
「ジョー・シン。パイロット管理主任です」
「殺し屋のジョー・シンね!」将軍はいった。
エズルがヘッドアップディスプレーの増感レベルをあげると、視界はすこし明るくなった。アンダータウンは交渉のあいだ、たえまなく動く食手以外は不気味なほどじっとすわっていた。その態度をブロートは、正面の相手に金神経を集中している状態だと解説した。
「ジョー・シンは実際に攻撃の火蓋《ひぶた》を切った人物として罪があります」アンダータウンはいった。
「将軍、こちらでは記録を調べさせてもらいました」エズルはいった。「そちらも、ジョーの部下である集中化人材のパイロットたちへの聞き取り調査から、さらによくわかっているはずです。ジョー・シンがエマージェントの攻撃の大部分を妨害したのは明白です。わたしはジョーと個人的な知りあいです。彼の奥さんとも知りあいです。二人ともあなたがた蜘蛛族にとても好意をもっているのです」
トリクシアをふくむ分析担当の愚人たちから、交渉においてこのように家族に言及するのはそれなりに効果があるはずだと助言されていたのだ。そうかもしれないが、ベルガ・アンダータウンは国家的利益≠ノこだわる頑固な官僚かもしれなかった。
ジンミン・ブロートは小さなコンソールのキーを叩いて、エズルの言葉を中間言語に翻訳した。するとそれが自動的に音声として出力された。エズルの考えがシューシュー音の蜘蛛族の言葉になって、ブロートの装置から流れるのだ。
アンダータウンはしばらく黙っていたが、やがてかん高い声を洩らした。それが軽蔑して鼻を鳴らすのに相当する態度であることを、エズルは知っていた。
しかしおそらく、この交渉の模様は記録され、のちのちほかの蜘蛛族も見るはずだ。
〈〈追いこんでやるぞ、アンダータウン〉〉
エズルは荷物のなかから、リタ・リヤオから預かった小箱をとりだした。
「今度はなに?」アンダータウンが訊いた。ブロートが演じるアンダータウンの声は、まったく関心なさそうな調子だった。
「妻からジョー・シンへの贈り物です。あなたがどうしても彼を解放しない場合にそなえての、形見《かたみ》の品物です」
エズルはアンダータウンから二メートル近く離れてすわっていたが、蜘蛛族の前手《ぜんしゅ》がどこまで伸びるようになっているかは知らなかった。槍《やり》のようにとがったアンダータウンの四本の黒い腕が、目にも止まらぬ速さで伸びてきて、エズルの手からその小箱を奪った。アンダータウンの腕はさっと縮み、ガラスのような外皮のあちこちに小箱をかざした。指紋で施錠《せじょう》された箱の蓋《ふた》を、短剣のような手でこじあけようとするカリカリという音がした。
「それはジョー・シンの指紋でしかひらきません。無理にあけようとすると、中味が破壊されてしまいます」
「そのときはそのときよ」
しかしアンダータウンは、とがった手の先を箱に押しつけるのをやめた。しばらくそのままもっていたが、やがてかん高い声を洩らして、エズルの胸にむかって放り投げた。
かん高く耳ざわりな声がつづき、しばらくしてジンミン・ブロートが通訳をはじめた。「できそこないの幼眼《ようがん》どもめ!」ブロートの声は怒りに充《み》ちてとげとげしかった。「殺し屋のところにその贈り物をもっていけばいいわ。ほかの乗組員といっしょにシンも連れて帰りなさい」
「ありがとうございます、将軍。本当にありがとう」エズルはあわててリタの小箱を拾った。
アンダータウンの声は途切《とぎ》れとぎれになり、やがてやんだが、しばらくして穏やかな調子でまた聞こえはじめた。熱い鉄板に水滴が落ちるような音だ。
「最後はリッツァー・ブルーゲルも救い出そうというつもり?」アンダータウンはいった。
「彼を救うつもりなどありません。リッツァー・ブルーゲルがこれまでの年月に殺した人間の数をあわせれば、今回彼が殺した蜘蛛族の数より多いでしょう。ブルーゲルはその報《むく》いを受けるべきです」
「そのとおりね。でも、あの罪人をあなたたちに引き渡すつもりはありませんよ」
ブロートの声はとりすましたような調子だった。おそらくここが、蜘蛛族側として絶対に譲《ゆず》れない一点なのだろう。
むしろそのほうがいいはずだ。エズルは肩をすくめた。「わかりました。ブルーゲルの処罰はあなたがたにおまかせします」
アンダータウンはじっとして、食手さえ動かすのをやめた。「処罰? そこは誤解があるようですね。このろくでもない交渉のおかげで、こちらの手もとに生きた人間は一人しか残らなくなった。処罰になるとしたら、それは付随的なものでしょう。人間の死体を解剖することでいろいろわかったこともあるけれども、生体実験のできる被験者はどうしても必要なのです。人間の身体的な限界はどれくらいなのか。強烈な苦痛や恐怖に人間はどんなふうに反応するのか……。あなたがたのデータベースではわからない刺激についてテストするつもりです。リッツァー・ブルーゲルにはせいぜい長生きしてもらわなくては」
〈〈人間のサンプルとしては、リッツァー・ブルーゲルはずいぶん変わってるかもしれないけどね〉〉
エズルは思ったが、いまここで口に出していうのは賢明でなさそうなので、黙ってうなずくだけにした。それにブルーゲルにとっては、これまで犯した罪の重さにちょうどつりあう運命だろう。領督が心底恐れていた蜘蛛族の悪夢の世界で、残り一生をすごすことになるのだ。
65
L1点に帰還したエズル・ヴィンは、英雄として迎えられた。船主や船団の共同経営者でも、この日の岩石群でのような熱烈な歓迎を受けたことはないだろう。小型艇には解放された捕虜の第一陣を乗せており、そのなかにはジョー・シンもいた。また新しい仲間のグループも同伴していた――宇宙に出てきた最初の蜘蛛《くも》族だ。
しかし、エズルは心ここにあらずの状態だった。笑ったり、言葉をかわしたりはした。リタとジョーが再会するようすを見て、ぼんやりとしたよろこびは感じた。
小型艇から最後に降りてきたのは、精製所の化学者だったフローリア・ペレスだ。フローリアはブルーゲルの秘密の倉庫で冷凍睡眠にいれられたあと、幸運にもその欲望の犠牲にされる機会はなく、最後の最後まで眠っていたのだ。目覚めてから二百キロ秒たったいまも、フローリアは呆然《ぼうぜん》としたひどい表情をしていた。エズルが彼女を連れて小型艇から出てくると、通路の人ごみは静まりかえった。
そのなかから、キウィが出てきた。キウィは帰還者たちの世話をする役をかってでていたのだが、フローリアの姿を見ると、そのすこし手前の空中で止まった。目を大きく見ひらき、唇を震わせている。二人はしばらくそうやって見つめあった。そしてキウィはフローリアに手をさしだし、二人のむこうでは人ごみが分かれて道をあけた。
エズルはキウィとフローリアを見送りながら、心はべつのところへ飛んでいた。彼がアラクナ星を出発してから一キロ秒後に、アン・レナルトがトリクシアの集中化解除術をはじめたのだ。岩石群への岐路《きろ》二百キロ秒のあいだ、ファムが経過を定期的に知らせてくれた。今回はもうあともどりはきかない。準備段階の先へ進んだのだ。まず精神腐敗病ウイルスを活動停止状態にして、トリクシアは人工的な昏睡状態にいれられた。そこからウイルスの神経刺激物質の放出パターンをゆっくりと変えていくのだ。
「アンはもうこのプロセスを何百回もやってるんだ」ファムはいった。「経過は順調だといっている。おまえがこっちに帰って数キロ秒後には、トリクシアはクリニックから出られるはずだ」
もう延期される心配はない。今度こそトリクシアは解放されるのだ。
二日後、トリクシアが面会できる状態になったという連絡がきた。
エズルは集中化解除クリニックへ行くまえに、キウィに会いに行った。キウィは父親といっしょに湖公園を再建する仕事をしていた。ほとんどの木が枯《か》れていたが、アリ・リンは森はまたつくれると話した。集中化を解除されても、アリは公園についてのすばらしいアイデアにこと欠かなかった。それでいていまは娘に愛情をもって接することもできる。
〈〈トリクシアもこんなふうになれるんだ。悪夢のまえの状態にもどれるんだ〉〉
破壊された森の道をエズルが歩いてきたとき、キウィは蜘蛛族と話していた。頭上では飛び猫がだいぶ高いところを飛びまわっている。好奇心と、本能的な蜘蛛への恐怖心が戦っているようだ。
「わたしたちはこの湖に新しい要素をいれたいと思ってるんです」蜘蛛族の一人がいった。
「独特の生態系をもった、自由な形式のなにかを」
ここでの蜘蛛族はキウィとさほど変わらない背丈だった。微小重力環境ではもはやずんぐりした生物ではなく、生まれつき伸縮性のある手足が身体《からだ》の下に長く伸びて、背が高くほっそりした姿になっている。これが蜘蛛族流の無重力での姿勢なのだ。
いま話しているのはいちばん小柄な蜘蛛族で、たぶんラプサ・ライトヒルだろう。そのシューシューという声も、ベルガ・アンダータウンにくらべると音楽的にさえ聞こえる。
「どうなるかまだわかりませんけど、蜘蛛族がみんなここに住みたがるかどうかは疑問があります。ですから、自分たちの仮設舎をつくるために実験してみたいんです」
その声を通訳するジンミン・ブロートも、楽しそうで軽やかな口調だった。いまは彼が最後の集中化された翻訳者かもしれないのだが。
キウィは蜘蛛族にむかって笑みを浮かべた。「そうね。あなたたちがどんな仮設舎をつくりあげるか、楽しみだわ。もし――」ふと顔をあげて、エズルに気づいた。
「キウィ、ちょっと話したいことがあるんだけど」エズルはいった。
キウィはすでにこちらへ身体を動かしはじめていた。「ちょっと失礼するわ、ラプサ」
「ええ、どうぞ」蜘蛛族は爪先《つまさき》立った歩き方で離れていき、ブロートはアリ・リンにさまざまな質問をしはじめた。
エズルとキウィは三十センチほどの距離をあけてむきあった。
「キウィ、二千秒ほどまえにトリクシアが集中化解除されたんだ」
キウィは笑顔になった。はつらつとした笑みだ。彼女はいまも子どものような元気さをもっている。つらい出来事もいろいろあったのに、キウィは明るい人間性を失わなかった。いまは蜘蛛族との交流の中心にいて、蜘蛛族からはいちばん信頼できる技術者として慕《した》われている。
キウィの才能は本当に広い分野にわたっているのだ。力学から生物科学までさまざまな知識を使いこなし、なみはずれた商売の才覚もある。チェンホーのあらゆる理想を体現しているといえた。
「じゃあ――トリクシアはもとにもどれるのね?」目を大きくひらいて、胸のまえで両手をしっかり組みあわせている。
「そうさ! アンによれば、ちょっとした意識の混乱はあるらしい。でも精神や個性はもとどおりなんだ。それで……それで、今日、このあとで会いに行くんだよ」
「ああ、よかったわね、エズル」
キウィは組んでいた両手を放し、エズルの肩にのばした。ふいにその顔が近づき、エズルの頬を唇がかすめた。
「トリクシアのところへ行くまえに、きみと会っておきたかったんだ――」エズルはいった。
「そうなの?」
「それは――お礼をいいたかったからさ。きみはぼくの命を救《たす》け、みんなの命を救けてくれたんだから」〈〈そしてぼくに魂《たましい》をとりもどさせてくれた〉〉エズルは思った。「トリクシアとぼくで、なにかきみにできることがあったら……」
キウィは腕の長さのところまで身体を離して、奇妙な笑顔になった。「ありがとう、エズル。でも……お礼なんかいいわ。あなたがハッピーエンドを迎えられてよかった」
エズルはキウィの腕から手を放し、アリが再建作業用に設置した誘導ケーブルのほうにすでに身体をむけはじめていた。
「ハッピーエンドじゃなくて、ハッピーな始まりだよ、キウィ。いままでの何十年かは死んでいたようなもので、これからようやく……とにかく、あとでまた話そう!」
エズルは手をふり、誘導ケーブルぞいに公園の出入りロへむかって速度をあげていった。
レナルトは屋根裏部屋のグループ室を、回復室として使っていた。終わりのない当直をつづけながら領督《りょうとく》のために奉仕させられていた場所で、かつての愚人《ぐじん》たちは自由の身になりはじめていた。
グループ室のまえの通路で、エズルはレナルトに呼びとめられた。
「なかにはいるまえに、頭にいれておいてほしいことが――」
エズルはそのわきをすり抜けようとしていたのだが、なんとかその場に止まった。「無事に回復したといっていたじゃないか」
「そうよ。情動変化も正常だし、全般的な認識能力も以前と変わりない。専門知識さえそのまま保持しているわ。わたしたちはこれまでにエマージェント史上のどんな医療チームもやったことがない三千例近い集中化解除術をこなしてきたけど、その成績は上々よ」そういいながら、レナルトはけわしい顔をしていた。それは集中化されていた頃のいらだちの表現ではなく、人間的な苦悩の表情だった。「でも――できることなら、最初の患者たちについてはもう一度やりなおしたいわ。いまならもっとうまくやれると思うから」
エズルはレナルトの苦悩がわかったが、内心ではうれしさを抑えきれなかった。〈〈じつはあとまわしにされてよかったのかもしれないな〉〉
トリクシアは経験の蓄積という恩恵を受けたわけだ。かりに順番が早かったとしても正常に回復したかもしれないし、レナルトはうまく仕事をこなしたかもしれない。まあ、成功したのだからどちらでもいいことだ。
そしてレナルトの背後に伸びる薄緑色の通路のむこうには、トリクシア・ボンソルが待っている。お姫さまが長い眠りから目を覚ましたのだ。エズルはレナルトのわきを通り抜け、通路の奥へ飛んでいった。
背後でレナルトが声を大きくした。「でも、エズル……。とにかく、ファムがあとで話があるといってたわ」
「ああ、わかったよ」しかしほとんど聞いてはいなかった。
すぐにグループ室のなかにはいった。一部には広い空間が残され、十脚から十五脚ほどの椅子には人がすわっていた。車座になって話しているようだ。エズルがはいっていくと、彼らは次々とこちらに顔をまわし、これまでは考えられなかった好奇心あらわな目をむけた。なかには恐怖をあらわした顔もあるが、フンタ・ウェンが集中化解除された直後のような、悲しげでとまどった表情の者が多かった。かつての愚人たちのなかで、とくにエマージェントには、もう帰る場所がないのだ。目覚めて自由になっても、ここは彼らが知っている世界から数百年の時間と、数光年の距離をへだててしまっている。
エズルは困って愛想笑いを浮かべて、彼らのわきをすり抜けていった。〈〈トリクシアとぼくにとってはよい結果になったけれども、こういう行き場を失った人々のことはなんとかしてやらなくちゃいけないな〉〉
部屋の奥は仕切られた小さな病室がならんでいる。エズルは、ドアのひらいている部屋のまえはさっさと通りすぎ、しまっている部屋では患者名だけに目をはしらせていった。そして、みつけた……。
トリクシア・ボンソル。
ここまでは矢も楯《たて》もたまらず飛んできたが、ふいに自分が作業服姿で、髪もぼさぼさなのに気づいた。愚人たちとおなじように自分もひとつのことに集中して、ほかのことは目にはいらなくなっていたのだ。
髪に指をとおして、できるだけなでつけ……個室の軽量プラスチック製のドアをノックした。
「どうぞ」
……「やあ、トリクシア」
ふつうのベッドとさほど変わりないハンモックのなかに、彼女は浮いていた。頭のまわりには医療器具が霞のようにまとわりついている。それは予想していたことで、気にならなかった。
レナルトは患者にこういった器具をとりつけて、データを集めながら集中化解除のプロセスを誘導し、術後も発作や感染症の危険を監視しているのだ。
これほど慕い、求めてきた相手をまえにすると、抱きしめることさえすぐにはむずかしかった。エズルはそばに漂い、トリクシアの顔を見つめ、見とれた。トリクシアは見つめ返してきた。肩ごしにむこうを見ようとするのでもなく、データをさえぎられていらいらするのでもなく、まっすぐにエズルの目を見た。震える笑みがかすかに唇に浮かんだ。
「エズル……」
そして彼女はエズルの腕のなかにはいってきた。トリクシアの両手もまわされた。唇は温かく柔らかい。エズルはそうやってしばらく抱きしめ、ハンモックごと彼女をやさしくつつんだ。やがて、医療器具をひっかけないように気をつけながら顔を離した。
「もう二度ともとにはもどれないのかと、何度も思ったよ」エズルはいった。「憶えてるかい、ぼくがあの狭苦しい部屋でいつもいっしょにすわっていたことを」事実上、人生の半分の時間をあそこですごしたのだ。
「ええ。わたしよりあなたのほうがつらかったでしょう。わたしにとっては、ちょうど夢をみているようだったわ。時間はなんということもなくすぎていった。集中化されている対象以外のことは、すべてぼんやりとしか感じないのよ。あなたの声も聞こえたけれど、なんとも思わなかったわ」
トリクシアの手がエズルの首のわきにのびてきて、やさしくなでた。正常な頃の彼女のしぐさだ。
エズルはにっこりした。〈〈話をしているんだ。本当に。ようやく〉〉
「でもきみは、もとのきみにもどれた。またもとのように暮らせるんだ。将来のこともいろいろ考えたよ。ナウを倒してきみを救えたらどんなふうにしようかと。いくらでも考える時間があったからね。多くの犠牲者が出たけれども、この遠征ではだれも想像しないほど巨大な宝がみつかったんだ」巨大な宝には巨大な危険がつきものだ。しかしその危険を引き受け、はらうべき犠牲もはらった。そして……。「ぼくらの遠征報奨金をあわせれば、もう……もうどんなことだって可能さ! 大きな一家をなすことだってできる」
ヴィン第二十三・七家か、ヴィン‐ボンソル家か、ボンソル第一家か。看板はどうでもいい。とにかく二人の家系だ。
トリクシアは微笑んでいたが、その目には涙があった。彼女は首をふった。「エズル、わたしは――」
エズルはあわててつづけた。「トリクシア、いいたいことはわかるよ。もしきみが一家をなすのを望まないのなら――それはそれでいいさ」トマス・ナウの支配下で長年をすごし、考える時間がたっぷりあったおかげで、どんな犠牲も犠牲とは思わなくなった。エズルは深呼吸をした。「トリクシア、もしきみがトライランド星へ帰りたいのなら……いっしょに行くよ。チェンホーを辞めて」
家族は反対するだろう。そうなったらエズル・ヴィンは後継者ではなくなる。この遠征のおかげでヴィン第二十三家は莫大《ばくだい》な富を手にいれるはずだが……エズルは、それが自分の貢献によるものでないことを、とてもよくわかっていた。
「きみは自分の道を好きなように選んでいいんだ。ぼくはついていくから」
エズルは顔を近づけたが、今度はトリクシアがそっと押し返した。
「いいえ、エズル。そういうことじゃないの。あなたもわたしも本当に齢《とし》をとったわ。わたしにとっては――あなたとの日々は、遠い遠いむかしのことなのよ」
エズルの声はひっくり返ってかん高くなった。「ぼくにとっても長い長い時間だったさ! でもきみは? 集中化されているあいだは夢のようで、時間はどうでもよくなっていたと、さっきいったじゃないか」
「そうじゃないわ。いくつかのことについては、とくに集中化された意識の対象については、わたしはたぶんあなたより克明に時間の経過を憶えているかもしれない」
「でも――」
エズルはいいかけたが、トリクシアが手をあげたので、黙った。
「あなたにくらべればつらくなかったのはたしかよ。わたしは集中化されていたから。そして、自分でもはっきりとは意識しなかったし、ありがたいことにブルーゲルもトマス・ナウも気づかなかったのだけど、わたしには逃げこめる世界があったのよ。自分の翻訳作業によってつくりあげた世界が」
エズルは思わずいった。「もしかしたらと思っていたよ。黎明期の空想作品を思わせるところがたくさんあったから。そうすると……あれは本物の蜘蛛族ではなく、フィクションだったのかい?」
「そうね。人間の精神を蜘蛛族の視点にできるだけ近づけて表現したものよ。注意深く読めば、ありのままの描写ではないところがいくつもみつかるはずよ……あなたにはわかると思ってたわ、エズル。アラクナ星はわたしの逃避場所だった。わたしは翻訳者だから、一人の蜘蛛族になりきることも集中化の範囲内よ。だから自由な一人の蜘蛛族がどんなものか、知ることにわたしたちは夢中になった。そしてシャケナーがわたしたちに気づいてくれたとき、はじめ彼はわたしたちのことを機械だと思っていたけど、それはまるで、夢中になっていた世界に突然受けいれられたようだったわ」
そのおかげでナウは倒され、みんなは救われたのだ。しかし――
「でも、きみはもうもとにもどったじゃないか、トリクシア。ここはもう悪夢のなかじゃない。ぼくらはまたいっしょなんだ。もっとしあわせになれるんだ!」
トリクシアはまた首をふっていた。「わからないの、エズル? わたしたちはどちらも変わってしまったのよ。わたしのほうがより大きく変わってしまった。たとえわたしが――」すこし黙って考えた。「――わたしにとってこの年月が、魔法にかけられた状態≠セったとしても。わかる? あなたがわたしにいってくれた言葉はみんな憶えてるわ。でも、エズル、もう以前とおなじではないのよ。わたしと蜘蛛族のあいだには、将来の――」
エズルは冷静で説得力のある口調で話したかったが、口から出てきた声は、自分でも半狂乱に聞こえた。〈〈ああ、交易神よ、ここでトリクシアを失うなんて、そんなことは耐えられない!〉〉――「わかるよ。きみは蜘蛛族になりきったままなんだね。きみにとってはぼくらが異種族なんだ」
トリクシアはそっとエズルの肩にふれた。「すこしはそうね。集中化解除の最初の段階では、まるで悪夢のなかに目覚めていくように感じたわ。アラクナ人にとって人間がどんなふうに見えるか、わたしにはよくわかる。白っぽくて、柔らかくて、芋虫《いもむし》のようだわ。そういう外見の害虫や食用動物がいるの。でも、人間が彼らを不気味だと思うほどには、アラクナ人は人間を気味悪く思わないわ」エズルを見あげて、わずかに微笑みを大きくした。「あなたのように首を動かしながらあちこちを見る動作が、わたしにはかわいらしく感じられる。あなたにはわからないでしょうけど、背中に育児|毛《もう》をはやした男性のアラクナ人や、ほとんどの女性のアラクナ人は、こうやって間近から人間と話すと、楽しい気分になるのよ」
アラクナ星の地上でみた夢とおなじだ。トリクシアの精神はまだ半分が蜘蛛族のままなのだ。
「トリクシア、こうしよう――ぼくは毎日ここへ会いに来るよ。だんだんと変化するはずだ。きっと回復するよ」
「ああ、エズル、エズル……」トリクシアの涙が二人のあいだを漂った。しかし彼女は、エズルのために涙を流しているのだ。自分のためでも、二人の関係のためでもなく。「わたしのやりたいことは、いまいったとおりなのよ。翻訳者でありつづけたいの。あなたたち人間と、わたしの新しい家族のあいだの掛け橋でありつづけたい」
掛け橋……。
〈〈まだ集中化から抜けきれていないんだ〉〉
集中化から解き放つ途中で、ファムとレナルトはなんらかの方法でプロセスを止めたのだ。そう認識したとたん、腹を殴られたようなショックを覚えた。吐き気がして……そのあとに、怒りが湧いてきた。
レナルトは新しい自分のオフィスにいた。
エズルは怒鳴った。「最後までちゃんとやれよ、アン! トリクシアはまだ精神腐敗病の影響下にあるじゃないか」
レナルトの顔はいつもよりさらに青白く見えた。ふいに、レナルトはエズルが来るのを待っていたらしいとわかった。
「ウイルスを殺す方法はないのよ、わかってるでしょう」レナルトはいった。「沈静化させ、眠らせることはできる。でも……」
その声はためらいがちで、かつてのアン・レナルトとはとても思えなかった。
「ぼくのいいたいことはわかるだろう、アン。トリクシアはまだ集中化されてるんだ。まだ蜘蛛族のことだけを考え、あたえられた任務のことだけを考えているんだ」
レナルトは黙っていた。わかっているのだ。
「ちゃんとこちら側までもどしてやってくれよ、アン」
レナルトの口は、まるで現実の苦痛をこらえているようにゆがんだ。「とても深い構造なのよ。トリクシアはいままで獲得した知識をすべて失うわ。もって生まれた言語の才能も、たぶん。フンタ・ウェンのようになるはずよ」
「それでも自由の身になれるんだ! 忘れたら、また新しく憶えていけばいいさ。フンタのように」
「それは――わかるわ。わたしも昨日までは、なんとかなると思っていた。最後の再構成プロセスのスイッチをいれるところまでいったのよ。でも……エズル、それ以上やってほしくないと、トリクシアが拒んだのよ!」
言い訳など聞きたくない。エズルは思わず叫んでいた。「そんなことあたりまえだろう! 集中化されてるんだから!」声を落ち着かせようとしたが、やはり脅《おど》しているような口調になった。「わかってるよ。きみもファムもまだ奴隷を必要としてるんだ。とりわけトリクシアのような奴隷を。解放する気なんて最初からないんだろう」
レナルトは目を見ひらき、顔を真っ赤にした。こんな表情のレナルトは見たことがなかったが、リッツァー・ブルーゲルは怒りの頂点でよくこんな顔になった。レナルトは口をひらいたが、なにもいわず、またとじた。
オフィスの壁にどすんという音が響いた。だれかがとても急いでやってきたようだ。すぐにドアがひらいて、ファムがはいってきた。
「アン、席をはずしていてくれ。あとはおれが話す」
ファムの声は穏やかだった。レナルトはしばらくして、止めていた息を吸いこんだ。そして咳きこむようにうなずいて、なにもいわずに机から離れた。しかしエズルは、すれちがいざまにレナルトがファムの手をきつく握っていったことに気づいた。
レナルトが出ていったあと、ファムは静かにドアをしめた。そしてエズルのほうをふりかえった表情は、もう穏やかではなかった。レナルトの机のまえにある椅子にむかって指を突き出した。
「そこにすわれ」
その声には、エズルの怒りを凍りつかせるような迫力があった。エズルは黙ってすわった。
ファムは机の反対側で腰をおろした。そしてしばらくはなにもいわず、じっとエズルを見つめた。奇妙だ。ファム・ヌウェンはいつも存在感があったが、いままではそれを本気で前面には出していなかったようだ。
ようやくファムが口をひらいた。「何年かまえに、おまえはおれにきついことをいってくれたな。おれがまちがっていて、おれが変わらなくてはいけないことに気づかせてくれた」
エズルは冷たい視線を返した。「でも、いっても無駄だったようだね」
〈〈結局いまだに奴隷商売をやめられないんだから〉〉
「それはちがうぞ。おまえにいわれたとおり、おれは変わった。おれの頭を方向転換できたやつはこの世にさして多くない。スラでさえできなかった」奇妙に寂しげな表情がファムの顔をよぎった。しばらく沈黙したあと、つづけた。「おまえはアンの気持ちをひどく傷つけたんだぞ、エズル。いつか謝ったほうがいいな」
「冗談じゃない! あんたたち二人は都合のいい理屈をならべてるだけだ。集中化を解除するのは、もったいなくてできなかったんだろう」
「ふむ。高価な代償を支払わされたのはたしかだ。大打撃といっていい。エマージェントのシステムでは、愚人は事実上すべての自律機能系を支援していて、彼らの処理は実際の機械がこなす処理とシームレスにまじりあっている。それどころか船団のすべての維持管理プログラムは愚人がやっていたんだ。いまは無数の線が途中でぶった切られ、使いものにならない状態だ。このシステムが動きだすには、だいぶ時間がかかるだろうな……。しかし、アンがフレンク星の凶獣≠ナあることはもうわかってるだろう。ダイヤモンドの通路に彫られた帯状装飾の怪物≠セ」
「あ……ああ」
「だったら、彼女が集中化人材を解放することに命を賭けていることもわかるはずだ。集中化から目覚めてきたときに、アンが絶対に譲《ゆず》れない一点として要求してきたのがそれだった。アンにとっては生きる理由そのものなんだ」ファムはしばし黙りこみ、エズルから目をそらした。「集中化のもっとも邪悪なところは、なんだかわかるか? 効率的な奴隷制だということじゃない。もちろん、それだけでもほかのどんな悪行《あくぎよう》をも上まわるほどだが、いちばん邪悪なのは、救出する側が逆に一種の殺し屋と化してしまうことだ。そして犠牲者はもう一度ざっくりと大きな傷を負うことになる。アンでさえそのことをはっきりとは自覚していなかった。そしていま、その二面性に悩み苦しんでいるんだ」
「つまり、本人が奴隷のままがいいというから、放っておくということかい?」
「ちがう! いいか、集中化人材も人間であることに変わりはないんだ。いつの時代も存在した、ちょっと変わった性格の人間とくらべて、それほどちがっているわけじゃない。彼らが自分の意思で生活し、自分の希望を明確に表現できるのなら――そこでその希望には耳を傾けざるをえない……。トリクシア・ボンソルについても、おれたちは半日前までうまくいくと考えていた。精神腐敗病の暴走も抑えこめた。トリクシアは精神に異常をきたす心配も、植物状態になる心配もない。エマージェントの強迫的な忠誠心からも解放されている。話しかければ答えるし、能力を評価できるし、慰《なぐさ》めることもできる。それでも彼女は、これ以上深い構造に手をつけられることを拒んだんだ。蜘蛛族を理解することは自分の人生の中心であり、それはそのままにしておいてほしいと望んだんだ」
ファムもエズルもしばらく黙りこんだ。信じたくなかったが、ファムのいうことはどうやら嘘ではなさそうだった。言い訳でもない。たんに、これは人生最大の悲劇のひとつだと述べているのにすぎない。だとしたら、トマス・ナウの悪行にエズルは一生苦しまねばならないわけだ。
〈〈ああ、それはあんまりだ〉〉
レナルトのオフィスは明るく照明されていたが、エズルが思い出したのは、ジミー・ディエムが殺された直後、仮設舎の公園の暗がりでの出来事だった。そこにはファムもいて、エズルにはよくわからないことをいって慰めてくれたのだ。
エズルは手の甲で顔をぬぐった。「わかったよ。とにかくトリクシアは解放されたんだ。だから時間がたつにつれて変化していく可能性もある」
「それはもちろんだ。人間性はいつも予測がつかないものだからな」
「ぼくは人生の半分をかけてトリクシアを待ってきた。どんなに時間がかかっても、待ちつづけるよ」
ファムはため息をついた。「それこそ、おれが心配していたことなんだ」
「というと?」
「おまえはおれが知っているなかでも最高に頑固な部類にはいるからな。そして人を動かす才能をもっている。ナウの悪行にチェンホーがずっと立ちむかってこられたのも、じつはおまえの存在によるところが大きいんだ」
「まさか! ぼくはあいつに立ちむかうなんて、ぜんぜんできなかったよ。せいぜい隅っこに噛みついて、情況をほんのすこし改善しただけさ。それでも多くの犠牲者が出た。ぼくは根性なしで、統率能力なんかなにもない。有能な人材をたばねるための道具として、ナウに利用されていた愚か者だよ」
ファムは首をふっていた。「おまえはおれが共謀者として信用した唯一の相手なんだぞ」そこですこし黙って、にやりとした。「もちろん、おれの正体を見破るくらいに頭がよかったということも、理由のひとつだがな。おまえは意志を曲げず、へこたれなかった。おれの思想を根底から揺さぶりさえした……。おれはたいへんなあともどりをしたんだ」
エズルは顔をあげた。「その点はそうさ。だから?」
「おれは傑物をたくさん知ってる」片笑みを浮かべた。「スラといっしょにチェンホー宇宙のこちら側でいくつもの商家を築いてきたんだ。おまえはそいつらに匹敵《ひってき》するよ、エズル・ヴィン。知りあえてとても誇らしく思う」
「それは……」
ファムがこういうことで心にもないことをいうとは思えなかったが、それにしてもあまりに……過分な賞賛で、にわかには信じがたかった。
しかしファムの話はまだ終わっていなかった。「しかしおまえのその長所にも、悪い面があるんだ。おまえはひとつの役割を何百メガ秒にもわたって辛抱強く演じつづけた。ほかの連中が新しい人生を生きはじめたあとも、当初の目標にこだわりつづけた。ところがいまは、どんなに長くかかってもトリクシアを待つといいだしてる。たしかにおまえのことだから待ちつづけるだろう……永遠にな。いいか、エズル、じつは人間を集中化するのに精神腐敗病ウイルスはかならずしも必要ないんだ。勝手にひとつのものごとにこだわってしまうやつはいる。だれあろう、おれがいちばんよくわかってるんだ! そいつらは、よくいえば意志の力が強いし、悪くいえば頭が固い。自分のこだわる対象以外のことは見えなくなるんだ。たしかにナウとブルーゲルに支配されていた時代にはそれが必要だった。そのおかげでおまえは生き延びたし、チェンホーの仲間たちを引っぱってこられた。しかしいまは、まわりを見て、よく考えろ。問題があることを認識しろ。人生を捨てるな」
エズルは息をのんだ。エマージェントが、社会はそういう人生をもたない$l々にささえられて成り立っているのだと主張していたことを思い出した。しかし――
「トリクシア・ボンソルは価値ある目標だよ、ファム」
「異論はない。しかしそれは高い代償をともなうんだ。実現しないかもしれないことを、残り一生待ちつづけるとおまえはいってるんだぞ」ファムはしばし黙って、首を傾けた。「エマージェントのくそウイルスで集中化されてるほうがよほどましだな。それならすぐ解除できる。おまえはトリクシアにこだわるあまりに、まわりが見えなくなっているんだ。自分がいろんな相手を傷つけていることや、おまえを愛せるかもしれない相手がいることに、気づいていない」
「愛せる? だれのことだい」
「自分で考えろ。岩石群の安定化システムを構築したのはだれだ? ナウの手綱《たづな》を緩《ゆる》めさせたのはだれだ? ベニーの酒場やゴンレの農場の実現に尽力《じんりょく》したのはだれだ? それも精神洗浄をくりかえし受けながらだ。土壇場《どたんば》でおまえの命を救ったのはだれだ?」
「ああ」とまどい、小さな声でいった。「キウィか……。キウィは、いいやつだけど」
ファムの顔に本物の怒りがあらわれた。トマス・ナウが倒れて以来、初めて見る剣幕《けんまく》だ。
「目を覚ませ、ばか野郎!」
「いや、だから、キウィは頭がよくて、勇敢で、それで――」
「ああ、そうだ。ようするにあいつはあらゆる分野で天才的な能力を発揮してる。おれも長く生きてきたが、あれだけの頭の切れるやつは数人しか見たことがない」
「でも――」
「エズル、おまえが精神的に弱虫だとは思わないし、だったらこんな話はしない。キウィのことをわざわざいったりしない。いいか、目を覚ませ! おまえだってふつうなら何年もまえに気づいたはずだ。トリクシアにこだわりすぎたり、自責の念に苦しんでいたからわからなかったんだ。キウィはいまでもおまえを待っているが、あまり期待はしていない。ああいう潔癖《けっぺき》な性格だから、トリクシアに対するおまえの気持ちを尊重しているんだ。ナウをやっつけてからあとの、キウィのようすをよく思い出してみろ」
「……あいつはなんにでも首をつっこんでいたから……毎日顔を見ていたような……」
エズルは深呼吸した。これはまるで、集中化を解除されているようだ。いままで見ていたものごとが、まったくべつの角度から見えるようになってきた。たしかにいまの自分があるのはキウィのおかげだ。ファムやアンより恩義があるくらいだ。しかしキウィもキウィなりに重荷を背負っていた。フローリア・ペレスを出迎えたときの彼女の表情を思い出した。そして、エズルがハッピーエンドを迎えられてよかったといったときの笑顔も。
ついさっきまでまったく意識しなかったことに気づいて、恥ずかしくてたまらなくなった。
「悪いことをしたな……ぼくは……ぜんぜん考えなかった」
ファムは椅子に背中をもたれた。「それはおれの希望でもあるんだ、エズル。おまえもおれも似たものどうしで、おなじ欠点をかかえている。高邁《こうまい》な理想の追求にたけて、身近な人の気持ちにうとい。そこは気をつけなくてはいけないところだ。さっきおまえを賞賛したのは嘘じゃない。しかし、いいか、キウィはすばらしい女なんだ」
しばらくエズルは口をきけなかった。心を部屋にたとえれば、だれかがその家具の配置をいれかえているようだった。人生の半分の時間をかけて想いつづけてきたトリクシアが、遠くへ去っていく……。
「ちょっと考える時間が欲しいな」
「考えればいい。しかし、キウィとはちゃんと話をしてこい。いいな。おまえたちはたくさんの壁のあいだでかくれんぼをしているようなものだ。真正面から話しあえば、新しい展開に驚かされるはずだ」
新しい考え方が、朝日のように昇ってきた。〈〈キウィとちゃんと話をする……〉〉
「わかった……そうするよ!」
66
時が流れたが、アラクナ星はまだまだ冷えていく道なかばだった。中緯度地域で断続的に吹き荒れる最後の乾燥ハリケーンは、徐々に赤道に近づいていた。
翼ももたず、ジェットエンジンもロケットも積まない飛行体が、なめらかな放物線を描いて降りてきた。そして減速し、高原台地のむきだしの岩の上にふわりと着地した。
そこから宇宙服姿の二つの影が降りてきた。一人は背が高くすらりとした姿で、もう一人は背が低く、手が何本もはえていた。
ビクトリー・ライトヒル少佐は手の先で地面をつついた。「雪が積もっていなかったのは不運ね。追跡しようにも足跡がない」そういって、数十ヤード離れたところにある岩だらけの斜面をさした。その岩のすきまにはとりあえず風が吹きこまないらしく、雪が残っていて、太陽の光でぼんやり赤く光っている。「どちらにしても、雪があるところには風が吹いてるわね。あなたは風を感じる?」
トリクシア・ボンソルはそよ風に対して軽く身体《からだ》を傾けていた。フードごしに風の音が聞こえる。トリクシアは笑った。
「あなたよりもね。わたしはたった二本足でその風に耐えなくちゃいけないんだから」
二人はその斜面へむかって歩いていった。トリクシアはネットに接続した音声のレベルをぎりぎりまでさげていた。ずっとまえからじかに体験したいと願っていた場所にこうして立っているのだから、だれにもじゃまされたくないのだ。それでも、かすかな音声と視野の上隅に投影された映像によって、宇宙とプリンストン市で起きていることはおおむねわかるようになっていた。フード内映像のむこうに見える現実の世界は、トライランド星の月よりわずかに明るい程度の光に照らされ、動くものは地上すれすれを吹き飛ばされていく塵《ちり》状の霜《しも》だけだった。
「シャケナーがヘリコプターをあとにしたのは、だいたいこのあたりなの?」
「そうよ。でもなんの痕跡《こんせき》もみつからないわ」ビキはいった。「ログファイルもひっかきまわされている。父はネット経由でラヒナーのヘリコプターを制御していたのよ。もしかしたらどこか特別な場所へ行こうとしたのかもしれないけど、あてもなく歩いていったと考えるほうが妥当でしょうね」
トリクシアの耳に聞こえているのはビキの本当の声ではなく、周波数をさげられ、トリクシアのスーツ内で処理されたものだ。その音はもはや蜘蛛《くも》族の声ではないが、人間の言葉でもない。しかしトリクシアには固有語とおなじように楽に理解できた。また、耳で聞けるので、目と手は自由だった。
「でも……」トリクシアは前方の岩だらけの大地にむかって手をふった。「計画が根もとから崩れていったときにも、シャケナーは理路整然とした話をしていたわ」
トリクシアは、聞こえてくるのとおなじ中間言語で話した。するとそれはスーツ内のプロセッサによって自動的に周波数を変換され、ビキが聞きとれる音になった。
「冬眠|彷徨《ほうこう》症かもしれないわ」ビキがいった。「父はちょうど母を失い、ニジニモルとジェイバートと対抗工作の中心拠点を目のまえで吹き飛ばされたところだったのよ」
視野の下のほうでビキの前手《ぜんしゅ》がぴくぴくと動くのに、トリクシアは気づいた。これは人間が苦痛に耐えて唇を引きむすんだようすに相当する。集中化されているあいだトリクシアは、彼らとこうしてじかに、おなじ目の高さで話したらどんなだろうとよく想像したものだった。無重力環境ではある程度それはうまくいった。ところが地上に来ると……やはり人間は背中を伸ばして立つしかなく、一方の蜘蛛族は低くうずくまるような姿勢になる。いつも気をつけて下を見ていないと、その表情≠見のがしてしまう――それどころか親友を踏みつけかねなかった。
「いっしょに来てくれてありがとう、トリクシア」中間言語の付加音《ふかおん》から、ビキの声が震えいるのがわかった。「ここにもサウスモースト市にも、以前に来たことはあるの。兄弟姉妹といっしょに、公式なかたちで。しばらくはそっとしておこうとみんなで約束したのだけど、でも……でも、わたしはがまんできなかった。とはいえ、一人で来る勇気もなかったわ」
トリクシアは手をふり、慰《なぐさ》めと理解をあらわした。「集中化を解除されたときからずっとここへ来たいと思っていたわ。いまはようやく人格がそなわった気がする。そしてあなたといると、家族をもてた気がするの」
ビキはあいている手の一本を伸ばして、トリクシアの肘《ひじ》をさすった。「わたしにとってあなたはいつも人格をそなえていたわ。ゴクナが死んだ日に、将軍があなたのことを話してくれたの。あなたが父に最初に接触してきたときからの通信記録も見せてもらった。その頃父はまだ、あなたがた翻訳者を一種の人工知能だと思っていたけれど、わたしには人格をそなえた相手だと感じられたの。あなたが父にとても好感をもっていることもわかったわ」
トリクシアは笑みの身ぶりをした。「シャケナーは人工知能のような不可能なことを、本気で信じていたわね。わたしにとって集中化は、まるで夢をみているようだった。わたしの任務はあなたがた蜘蛛族を完璧に理解することであり、感情はそこに自然についてきたわ。トマス・ナウにしてみれば、予想しない副作用が起きたわけね」
蜘蛛族としての人格はゆっくりと芽生え、言語を深く知るにつれて成長していった。転機はあのラジオの討論番組だった。あのとき、トリクシアや・シンミン・ブロートやほかの翻訳者たちは、変身を遂げた。自分たちがつくりあげた世界の総仕上げとして、敵味方に分かれたのだ。
〈〈ごめんなさい、ソピ。みんな集中化されているなかで、いきなりあなたが敵になったのよ。あなたがかかるMRI装置のプログラムをいじったときも、あなたを殺そうとしているという意識はなかった。だれがペデュア派の翻訳者になってもおかしくなかったし、だれがあなたのかわりに死んでもおかしくなかったのよ〉〉
その直後に、トリクシアは通信回線を通じてシャケナー・アンダーヒルに自分の正体をあかしたのだ。
なめらかな岩の地面が割れ、そこから岩山が盛りあがっているところに来た。ところどころに雪が残り、太陽と星の光があたっていない割れめがいくつもある。ビキとトリクシアは低い岩によじ登り、その陰のなかをのぞきこんだ。とはいえ真剣に捜索しているわけではなく、むしろこれは崇敬の念をこめた儀式だ。何日もまえに空と軌道上から徹底的な調査がなされたあとなのだ。
「本当に――みつけられる可能性はあるの、ビキ?」トリクシアは訊いた。
集中化されていた期間のほとんどにおいて、シャケナー・アンダーヒルはトリクシアの世界の中心だった。アン・レナルトの存在も、エズルが何百回となく誠実に訪問してくれたことも、ほとんど意識しなかったが、シャケナー・アンダーヒルは実体のある存在だった。介助虫《かいじょちゅう》に引かれないとおなじ場所をぐるぐるまわってしまう老人のことを、トリクシアはよく憶えていた。
本当に彼は死んでしまったのだろうか。
ビキはしばらく黙り、斜面を数メートル登って、張り出した岩の下を探っていた。蜘蛛族はみんなそうだが、人間よりはるかに岩登りがうまいのだ。
「ええ、いつかはね」ビキはいった。「地表にいないことははっきりしてるわ。たぶん……モビーが運よく数ヤード以上の深さのある穴を探しあてたんじゃないかしら。それでも冬眠穴として使える深さではないから、父の身体はたちまち干《ひ》からびて死んでしまうはずだけど」岩の下から出てきた。「不思議ね。計画が崩壊したとき、母は死に、父は生き延びられたと思ったわ。ところが……。サウスモースト市の地下を人間が新たに音響測定したのだけど、その結果は知ってる? キンドレッド国の核弾頭によって、議事堂とその上層は完全に吹き飛んでいるわ。その下には何百万トンという砕けた岩盤《がんばん》が積み重なっているのだけど――そこにはわずかながら空間があるらしいの。サウスランド国の巨大冬眠穴の跡《あと》ね。母とハランクナーがそこで生き延びているとしたら……」
トリクシアは眉をひそめた。ニュースを観《み》てよく知っているからだ。「でも掘るのは危険すぎるそうよ。その空間をつぶしてしまうだけだと」そして新生期がくれば、まちがいなく何百万トンという岩は崩れて冬眠穴を押しつぶすだろう。
「でもまだ計画を練《ね》る時間はあるわ。人類の掘削技術にも改善の余地がある。何マイルも離れたかなり深いところから、ケイパーリットで崩落を防ぎながら横穴を掘っていくのよ。次の新生期までにはその巨大冬眠穴のようすを調べられると思うわ。母とハランクナーがそこにいれば、救出できる」
二人はこんもりと盛りあがった塚をまわって北へ進んだ。シャケナーがヘリコプターから離れたのがこの丘だったとしても、トラクトが着陸できたようなところからはもうずいぶん離れている。それでもビキは岩陰をひとつひとつのぞきこんでいた。
トリクシアはついていけず、背中をのばして、斜面とは反対側を眺めた。
南の地平線の空が、まるでその下に都市があるように輝いている。それはあたらずといえども遠からずだった。古いミサイル発射場は吹き飛んだが、世界は高原台地の新しい利用法を知った。ケイバーリットの鉱脈だ。世界じゅうの目覚めている国から鉱山会社が殺到《さっとう》していた。
軌道から見ると、キンドレッド国が最初に採掘をおこなった場所から、荒野を千マイルもつらぬいて伸びる露天掘りの採掘場がわかる。いまは何百万人という蜘蛛族がそこで働いていた。
この魔法の物質を合成できるようにならなくても、採掘された分のケイバーリットによって近傍《きんぼう》宇宙空間の飛行には革命がもたらされるだろう。この太陽系にはほかの天体がないという欠点を、ある程度まで補《おぎな》えるはずだ。
ビキはトリクシアの歩みが鈍《にぶ》ったのに気づいたらしく、風に対して陰になったところに低く丸い岩をみつけて、その上にすわった。トリクシアはその隣にしゃがみながら、ようやくおなじ高さになれたとほっとした。
南へ広がる平原にはこんもりとした塚が無数にある。そのどれかがシャケナー・アンダーヒルの最後の安息の地かもしれなかった。地平線の上の輝く空を見ると、小さな光の点がゆっくりと上昇している。大きな荷物を宇宙へもちあげている反重力貨物船だ。人類のこれまでの歴史において、反重力は挫折した夢≠フ代表例だった。ところが、ここにはそれがある。
ビキはしばらく黙りこんでいた。蜘蛛族をよく知らない人間なら眠ってしまったのかと思っただろう。しかしトリクシアには、食手《しょくしゅ》の動きの意味がわかったし、翻訳されない嘆《なげ》きの声が聞こえた。ビキはときどきこんなふうになるのだった。自分のチームや、ベルガ・アンダータウンや、宇宙の異種族に対していつも見せている毅然《きぜん》とした外見を、ときどき脱ぎ捨てなくてはならなかった。ビキはこれまでよくやってきた。すくなくとも母親のあとを埋めるくらいの仕事はこなしてきたはずだ。トリクシアにはそのことがよくわかっていた。両親がはじめた長い長い対抗工作を、最終的に成功に導いたのは彼女なのだ。
トリクシアのヘッドアップディスプレーのなかにも、ライトヒル少佐の応答を待つ通信が十件あまりも保留になっているのが表示されていた。最近のビキにとって、一人になることが許される時間はせいぜい一、二時間なのだ。ビクトリー・ライトヒルが心のなかに疑念をかかえていることは、ブレントをのぞけばおそらくトリクシアくらいしか知らなかった。
空にはオンオフ星が昇り、ゆるやかに起伏する大地の影を動かしている。ハイイクアトリア市の近郊では、今後二百年間でいまがいちばん暖かいはずだが、それでもオンオフ星は昇華による霧をわずかに立ちのぼらせるのがやっとだった。
「わたしはまだ望みを捨ててないのよ、トリクシア。将軍も父も本当に賢明だったわ。その二人がどちらも死んだなんて考えられない。でも両親も――そしてわたしも――とてもつらいことをやらなくてはいけなかった。わたしたちを信頼してくれた仲間たちを死なせてしまったのよ」
「戦争だったのよ、ビキ。ペデュアに対しての戦争であり、エマージェントに対しての戦争だったの」それはトリクシアが、ソピ・ルンのことを思い出すときに自分にいい聞かせていることでもあった。
「そうね。それに、生き残ったみんなは元気にやってるわ。ラヒナー・トラクトも。結局、軍にはもどってこなかったわね。裏切られた気持ちになったらしいわ。実際に裏切られたのだし。でもいまは、ジャーリブとディディといっしょにあそこにいる――」一本の手でL1点のほうをさした。「――蜘蛛族のチェンホーになった、とでもいえばいいかしら」
しばらく黙りこんだあと、ふいにすわっている岩を叩いた。トリクシアにはその生の声が怒り、弁解する口調になっているのに気づいた。
「ああ、母は本当に偉大な将軍だったわ! 結局わたしは母のようにはなれなかった。父の血が多すぎるのね。最初はそれでちょうどよかったわ。父の才気と母の管理能力がうまく組みあわさっていた。でも対抗工作を隠蔽《いんぺい》しつづけるのは、だんだんとむずかしくなっていったわ。映像呪術がいい隠れ蓑《みの》になったし、そのおかげで自由に使えるハードウェアも手にはいり、人間たちの鼻先で秘密のデータ通信もできた。でも、ほんのすこしでもへまをして人間に気づかれたら、わたしたちは全滅させられる。その緊張が母の神経をむしばんでいったのよ」
ビキは食手をばたばたと動かし、息が詰まったようなかん高い声を洩らした。泣いているのだ。
「母は最後のときにハランクナーに話してくれたかしら。ハランクナーはわたしたち一家にいちばん忠実な友人だったわ。わたしたちみんなを愛してくれた。頭のなかでは、わたしたちのことを堕落した存在だと思いながらも。でも母はそのことが受けいれられなかったのよ。ハランクナーおじさんにあまりに多くを求め、それに彼が応《こた》えられないと、母は――」
トリクシアは相手の背中のまんなかに一本の腕をまわした。何本もの腕をもたない人間としては、それが精いっぱいだった。
「父はハランクナーに対抗工作のことをなんとか教えられないかと、いつも考えていたわ。最後にプリンストン市でハランクナーに会ったとき、父とわたしはなんとかなりそうだと思ったの。母も黙認してくれるだろうと。でも、そうはいかなかったわ。将軍はとても……厳格だった。そして最後は……母はサウスモースト市訪問にハランクナーを同行させた。そこまで信頼していたのなら、きっと最後はすべてを打ち明けたはずよ。そうでしょう? すべて無駄だったわけではないと、話したはずよ」
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エピローグ
七年後――
蜘蛛《くも》族世界に月ができた。L1点の岩石群がゆっくり移動させられ、プリンストン市とおなじ経度で静止軌道に乗ったのだ。
あまたある居住可能な世界の例からみても、これはかなりちっぽけな月といわねばならないだろう。地上からほとんど見えないのだ。アラクナ星から四万キロ離れたダイヤモンドと氷の塊《かたまり》は、星々と太陽の光を浴びて鈍《にぶ》く輝いている。それでも蜘蛛族世界の半分の住人たちの宇宙観を、大きく変える役には立った。
岩石群の軌道の前方と後方には、ビーズ玉のような小さな光の塊が連《つら》なり、それぞれ年ごとに成長していった。これは蜘蛛族の仮設舎と工場だ。はじめの頃は、こんなものが宇宙を飛んでいいのかと思うほど原始的な構造だった。安っぽく、ごちゃごちゃとして、居住者が多すぎる。そしてケイバーリットを使った翼でもちあげられていた。
しかし蜘蛛族は急速に学んでいた……。
アラクナ人の大仮設舎での公式晩餐会は、以前にもおこなわれたことがあった。トライランド星への船団の旅立ちを祝うために、国王みずから軌道上へお出ましになったのだ。
船団は四隻で、その改装には、国王の治める帝国と全世界に興《おこ》った新産業がもてる力をすべてそそぎこんでいた。乗組員もチェンホーとトライランド人と元エマージェントだけではなく、ジャーリブ・ライトヒルとラヒナー・トラクトが率《ひき》いる二百人の蜘蛛族がふくまれていた。そして新理論を組みこんだ第一号のラムスクープエンジンと冷凍睡眠装置をそなえていた。なかでも重要な積み荷は暗号解読キーだった。これは、何光年も離れたトライランド星とキャンベラ星にむけてあらかじめ発信された新知識の暗号化データをひらくために必要なのだ。
その出航にさいして、一万人近い蜘蛛族が宇宙にあがってきた。アラクナ人が自力でつくりあげた連絡船に、国王も乗ってきた。そして晩餐会は三百キロ秒以上にわたってえんえんとつづけられた。そのときをさかいに、アラクナ星の近傍《きんぼう》宇宙空間の人口は人間より蜘蛛族のほうが多くなった。
ファム・ヌウェンは、それでいいのだと考えていた。顧客惑星の周辺空間は顧客文明が支配しているべきだ。そもそもチェンホーが求める顧客文明の姿とはそういうものだ。船を再建したり装備を更新したりする港であってもらいたいし、大きな利益のあげられる市場であってもらいたい。そうでなければ、遠い遠い恒星間空間を渡り歩く意味などないのだから。
二度めの出発にあたる今回も、大仮設舎はトライランド星への出発式のときとおなじくらいに混雑していた。しかし実際の晩餐会の出席者は、十人から十五人程度とごく少数にしぼられた。こういうこぢんまりした集まりになったのは、みんながじっくりと話をできるようにと、エズルとキウィとトリクシアとビキが望んだからにちがいなかった。
なにしろ、生き残った主要な役者たちが一ヵ所に顔をそろえるのは、これが最後の機会になるはずなのだから。
アラクナ人の大仮設舎にもうけられた宴会場は、宇宙でも例のないつくりになっていた。蜘蛛族は宇宙に出てきてまだわずか二百メガ秒、彼らの時間にして七年しかたっておらず、壮麗さを旨《むね》とする室内デザインを無重力環境で構想するのは初めてなのだ。
彼らはチェンホーのつくる仮設舎内公園のような生体工学技術もまだもちあわせていない。そもそも宇宙旅行者にとって生きた公園をもつのが、財力と技術力を誇示するシンボルとしてどれほど重要かを、蜘蛛族はまだよく理解していないのだ。
国王おかかえの室内デザイナーたちは、チェンホー製の無機物建築材を借りて、自分たちの伝統的建築手法を無重力環境に応用しようとした。一世紀後にはまちがいなく、失笑《しっしょう》すべき試みとしてふりかえられることになるはずだ。あるいは、誤りがそのまま伝統として継承されてしまうか。
外壁は、碁盤目《ごばんめ》状に組まれたチタン製の枠《わく》のなかに透明な板がはめられていた。板の種類はダイヤモンドや水晶などさまざまで、ファムが見てもほとんど不透明な素材のものもある。蜘蛛族はまだじかに景色を見るほうを好んでいた。人類の表示技術はまだ、有効波長域の広い彼らの視覚にあった壁紙をつくりだせていなかった。
この外壁は直径五十メートルの半球状になっていた。床からは、蜘蛛族のデザイナーが考案した段丘状の丸い台座がはえており、そのてっぺんにテーブルがならんでいた。アラクナ人にとっては、台座の斜面はとてもゆるやかで、広々とした階段に思えるらしい。しかし人間の目から見ると、それはほとんど断崖《だんがい》絶壁の尖塔《せんとう》状で、階段というより幅の広い梯子《はしご》だった。
しかしてっぺんのテーブルで席についた者にとっては――人間でも蜘蛛族でもおなじく――視界の半分が空になる。大仮設舎は細長い構造で、潮汐《ちょうせき》力によってむきを固定されており、宴会場はアラクナ星をむいた側にあった。つまり上を見あげれば蜘蛛族世界が視界をおおいつくし、横を見れば岩石群と、そこから年々伸びていく人類の仮設舎の列が見えた。
べつの方角には王立造船所もあった。この距離ではときおりまたたく光の集まりとしか見えない。蜘蛛族はまだ道具のための道具をつくっている段階なのだ。しかしあと一年かそこらすれば、自前のラムスクープ船の建造に着手するだろう。
レナルトとファムは約束の時間ちょうどに宴会場にはいった。小人数とはいえ、これはフォーマルな集まりとしておこなうと主催者は伝えてきたのだ。二人は床を蹴って、台座の階段を跳び越えていった。階段のところどころに手をかけて方向を調節し、丸テーブルのしつらえられたてっぺんに到着した。
主催者たちはすでに顔をそろえていた。トリクシアとビキ、そしてキウィとエズルだ。アラクナ人とほかの人間の客もいる。レナルトとファムが最後だ――この送別会の主役なのだ。
全員が着席すると、蜘蛛族の給仕が台座の下からあらわれ、蜘蛛族流と人間流のミックス料理を運びはじめた。両種族は相手の料理をグロテスクだと感じるものの、なんとか食事をともにすることは可能な範囲だった。
前菜は、蜘蛛族流の沈黙のなかでみんな口に運んだ。そのあと、トリクシア・ボンソルが蜘蛛族といっしょの席で立ちあがり、ジャーリブの送別会とおなじくらいに堅苦しい調子でスピーチをした。
ファムは内心でうめき声をあげた。ここにいるのは、ベルガ・アンダータウンをのぞけばみんな親しい友人であり、またファムとおなじくらいにくだけた性格の者ばかりだ。なのに、今回にかぎってふつうの送別会以上に雰囲気が湿っぽくなるのはどういうわけか。
ファムはテーブルを見まわした。フォーマルさにこだわるあまり、人間たちは千年以上前の古臭い礼服を着ている。ここでだれかがなにかいわないと、みんなろくな話もしないまま晩餐会が終わってしまいそうだ。
そこで、トリクシアがスピーチを終えて席につくと、ファムはおもむろに半リットルのワインを自分の席の上の空中にこぼした。赤黒い液体が空中でぶよぶよと不気味にうねりはじめた。見ているだけで困惑するが、それがぶつかって飛び散る場所によっては、もっと困惑する事態になるだろう。ファムはそこに指を突っこみ、ぐるぐるとかきまわした。ワインの塊は横に広がり、表面張力でモール状にねじれていった。
当然ながら、ファムの手もとに全出席者の注目が集まっていた。人間よりも蜘蛛族のほうが注視している。給仕が給水ナプキンをもって飛んできたが、ファムは手をふって追いはらい、出席者にむかってにやりとした。
「どうだ、うまいだろう」
キウィが身をのりだし、ファムをにらんだ。「うまいかどうかは、それをきれいに瓶《びん》にもどしてから訊いてほしいわね」しかし顔はにやにやしている。「まあ、でも、うちの娘もよくそうやって飲みものをおもちゃにしてるわ」
「そうか。とりあえずこいつは、できるだけ一ヵ所にとどめるようにしよう」
ファムはその回転するモールを、またうねうねと揺れ動く塊にもどした。レース地の袖《そで》には、いまのところしみひとつつけていない。キウィはその塊をプロらしい興味をもって見つめていた。なにしろ彼女はこれとおなじことを、何十億トンという岩の集まりを相手にやっていたのだ。幼いキラ・ヴィン‐リゾレットもさぞかし上手《じょうず》に飲みもので遊んでいることだろう。それどころかキウィは、そんないたずら娘にもっとやれとけしかけているはずだ。
ファムはその曲芸の品物を宙に浮かばせたまま、給仕たちに次の料理を運んでくるように合図した。
「あとでまたおもしろい手品を見せてやるからな」
ビクトリー・ライトヒルが席から軽く立ちあがり、食手《しょくしゅ》を震わせて悲しげな調子に変えた声でいった。
「曲芸……ずっと……残念……」
ファムに聞きとれたのはそれだけだった。ずいぶん長く彼らとつきあい、すべての音素を聞こえるようにする変調装置を使っているのだが、やはり蜘蛛語はいままでで出会ったどんな人間語よりむずかしかった。
ビキの隣にすわっているトリクシアが、笑顔でそれを通訳した。「あなたの手品が見られなくなるかと思うと残念です、手品師さん」ビキの声に感じとったのとおなじ悲しげな調子が、その声にもあった。
〈〈やれやれ、そんなことをいったら、また通夜《つや》みたいな雰囲気になっちまうじゃないか〉〉
そこでファムは、誤解したふりをして破顔一笑《はがんいっしょう》した。「そうだな。あと一メガ秒もしないうちに、アンとおれは出発だからな」三隻の星間船に、エマージェントと、元集中化人材と、一部のチェンホーさえふくむ約千人の乗組員を乗せて、だ。「ここへ帰ってくるのはおそらく二世紀後だろう。しかし、悲しむことはない。チェンホーの仲間ではもっと長い別れもしばしばだ。きみたちの造船所はもう稼働しているじゃないか」ビクトリー・ライトヒルの背後でまたたく光をしめした。「きみたちの多くもおなじように星間空間に乗り出してくるだろう。ふたたび相《あい》まみえることもあるはずだ。そのときはおたがいの話を交換しようじゃないか。チェンホーと星間旅行能力をもつ世界の人々がかならずそうしてきたように」
エズル・ヴィンはうなずいた。「そうだね。たしかにいつか会えるかもしれない。ただし、どこでどうやってということはわからないけどね。ぼくらの多くにとってはこれが今生《こんじょう》の別れになるはずだ」
エズルはファムと目をあわせようとしなかった。
〈〈心の底では、エズルもこの遠征の成功を疑っているんだな〉〉それでもエズルは、遠征報奨金の分け前のうち半分を、ファムとレナルトの新たな遠征準備につぎこんだのだ。
キウィがエズルの肩に手をおいた。「再会の取り決めをすればいいわ。偉大な商家ではかならずやるように」人生のほとんどを費やすほどの時間と空間をへだてた約束だ。
キウィはレナルトのほうを見て、微笑んだ。いまのキウィは、子どもを育てながら技術者としての仕事をしている。いつもとても幸福そうな表情をしているのだが、ときおりそこに一抹《いちまつ》の寂しさをただよわせることがあった。たぶんもう一人のキラ、すなわち自分の母親のことを思い出すときだろう。
キウィはこのバラクリア星への遠征に賛成していた。それどころか、エズルと子どもたちや、建設途中の新しい世界のことがなかったら、自分も参加したかっただろう。エズルは、この星系の人間たち全員を統率する本当の船団管理主任になってから、組織運営にもずいぶん慣れてきたようだ。しかしキウィの天才的な能力を頼りにしている部分はまだ大きかった。
キウィは蜘蛛族がどんな技術をいちばん欲しがっているかを直観的に見抜くことができるのだ。彼女が成立させたいくつかの取り引きがなかったら、蜘蛛族の造船所は夢のまた夢だっただろう。
エズルはいまも自分を、出来の悪い若造と思っているようだった。
〈〈自分たちがたいへんな時代を築きつつあることに早く気づいてほしいものだな〉〉
二人のあいだには子どもが何人かいる。ジョーとリタをふくめ、多くの者が子どもをつくっていた。ゴンレとベニーは託児所をつくった。人間と蜘蛛族の親たちがいっしょに働いているあいだ、その子どもたちも託児所でいっしょに遊んでいるわけだ。
人類と蜘蛛族の協力関係は年ごとに発展していた。遠いむかしのスラ・ヴィンと同様に、キウィとエズルも自分たちだけではやっていけないだろう。しかし、このあたりのチェンホー宇宙には爆発的な発展の萌芽《ほうが》がある。キャンベラ星やナムケム星の文明をもしのぐ輝きを放ちはじめるはずだ。
そうだ、爆発的な輝きだ。「よし、じゃあ再会の取り決めをしようじゃないか!」ファムはいった。「次の新生期だ‐いや、それから何メガ秒かあとのほうがいいかな。太陽に火がついた直後はあまりすごしやすい気候じゃなかったからな」
約二世紀後だ。〈〈おれのもうひとつの計画のためにもちょうどいい〉〉
トリクシアの通訳でビキがいった。「そう、明期にはいったすぐあとね。この大仮設舎で――その頃にはどれくらい大きくなっているかしれないけれど」穏やかに笑った。「寝すごしたり、何光年も離れたところへ出ていったりしないように気をつけなくてはいけないわ」
「賛成」「賛成!」と、テーブルのあちこちから声があがった。
しかしベルガ・アンダータウンだけは、かん高い声でなにかいっていた。いつもながらファムにはその内容が理解できなかったが、口調が辛辣《しんらつ》なことだけはわかった。さいわい、情報局長官は専任の通訳をもてる地位であり、隣ではジンミン・ブロートがかすかに笑みを浮かべてそれを聞いていた。ブロートはこの口うるさいおばさんに好感をもってさえいるようだ。
アンダータウンが話しおえると、ブロートは顔から笑みを消して仏頂面《ぶっちょうづら》をつくった。「まったくばかげているか、わたしがまだ理解できない人間の狂気のあらわれか、どちらかですわね。たった三隻の船を率いて、エマージェント帝国を倒そうというのですか? その一方であなたはこの七年間、わたしたち蜘蛛族はなにも恐れることはない、なぜならハイテク文明をもった惑星は本質的に強固な防衛力をそなえているからと、おっしゃっていましたね。エマージェントはその本拠地の領域に何千隻もの軍艦をそなえているでしょう。それでも彼らを倒せるというのなら、あなたはいままでわたしたちに嘘をついていたのですか? それともたんなる希望的観測でそういっているのですか?」
ビクトリー・ライトヒルがわきからべつの質問をした。それは単純で明瞭な内容だったので、トリクシアが通訳するまでもなかった。
「でもたぶん……遠くのチェンホーから……支援があるのでは?」
「いや」エズルがいった。「じつは……正直いって、チェンホーは戦闘行為があまり好きじゃないんだ。暴君は放っておくにかぎる。ばかはばかどうしで取り引きさせろ≠ニいう諺《ことわざ》もあるくらいでね」
アン・レナルトはここまでずっと黙っていたが、ついに口をひらいた。「いいのよ、エズル。あなたは協力してくれたんだから……」そしてベルガ・アンダータウンのほうをむいた。「将軍、これはだれかがやらなくてはいけないことなんです。エマージェントやその集中化技術は、いままでになかった要素をもっています。放っておいたら、彼らはどんどん強力になり、いつかはここにも襲いかかってくるでしょう」
アンダータウンはとても信じられないというように長い手をふった。「ああ、また矛盾《むじゅん》が出てきましたね。これまでの七年間、あなたがたはわたしたちを説得して、船の武装と装備に取り引き以上の協力を求めてきました」通訳はここで本来なら、ビクトリー・ライトヒルの方向をちらりと見るべきだっただろう。最大の決定権をもつ国王に対して、ビキは強い影響力をもっているのだ。「しかしそれを使ってやるのが、たんなる自殺行為ですか? わたしにはそうとしか思えませんが」
アンは笑みを浮かべたが、この質問にむっとなっていることがファムにはわかった。アンダータウンはもっと公式な討論の場でもこういった質問をくりかえしており、ここでどう説明しても理解を得られるとは思えなかった。そしてそれらの疑問は、じつはアンの頭にもこびりついて離れない疑念なのだ。
しかしアンダータウンが理解していない事実がひとつある――じつはアン・レナルトにとって、この遠征はいままででいちばん勝機のある戦いなのだ。
「自殺行為ではありませんわ、将軍」レナルトはいった。「じつはこちらは特別な強みをもっているんです。そしてファムとわたしは、その使い方を知っています」そしてファムの手を握った。「こういう戦いにかけては人類史上もっとも実績のある司令官を、こうして雇《やと》っているんですから」
〈〈そうだ。ストレントマン人の一件だってそうだったんだぞ。だれも信じないかもしれないが〉〉
しばらく沈黙が流れた。半リットルのワインの塊はすこしずつ上へ漂っていきつつあった。ファムはその中心に手をいれ、そっと自分のすわっているところの近くへ引っぱってきた。
「むこうみずな指揮官としてのおれの能力よりも、もっと確実な有利さがこちらにはある。アン・レナルトだ。彼女はエマージェントのシステム内部のしくみを、どんな領督《りょうとく》よりよく知っている」
さらに三隻の小船団は、人類と蜘蛛族の新技術を初めて実用化した驚異的なハードウェアも搭載している。しかし船団の最大の強みはそれではない。三隻の乗組員の大部分をしめる、元集中化人材たちだ。彼らはエマージェント製自律機能系の内部機構をだれよりもよく知り、またレナルトとおなじようにそれを倒したいと願っている。また、集中化されていなかった元エマージェントの乗組員もいる。
話しながら、ジョー・シンがじっとこちらを見つめていることにファムは気づいた。そしてリタ・リヤオがジョーをじっと見つめていることにも。三人の子どもたちのことがなかったら、二人は船団に参加しただろう。いや、いまでもまだチャンスはある。説得する時間はまだ四日あるのだ。ジョーは、アラクナ星への遠征にくわえられるまでは、トマス・ナウの伯父のパイロット管理主任だった。そしてバラクリア星からの最後の通信によると、現在むこうではナウ党が権力の座についているようだった。
ファムは計画の概要をふたたび説明しながら、人々の顔を見ていった。エズル、キウィ、トリクシア、ビクトリー。なかでもジョーとリタだ。
〈〈彼らはこの集まりを本気で通夜だと思っているわけじゃない。勝ちめがあることは理解しているはずだ。ただ、心配なんだ〉〉
ファムはつづけた。「ナウの記録と、あいつがバラクリア星から受信した情報、そしていまも受信しつつある情報を――このアラクナ星ではエマージェントが勝利をおさめたと思わせているんだ――おれたちは詳細に分析した。現地では、こちらが友好的な船団でないことに気づかれるまえに星系内まで進入できるはずだ。バラクリア星の支配階級における内部抗争についても、かなり詳しい事情がわかっている。そういったことを総合的にみて――」
総合的にみて、ファムがくわだてるのにふさわしい遠征ではないかもしれない。しかし集中化技術に対するレナルトの懸念《けねん》は正しいし、彼女はこの計画を絶対に実行するつもりでいる。そしてこれが成功|裏《り》に終わったら、じつは、そのあとにファムの遠大な計画が待っているのだ。そこにアンを連れていけるのであれば、どんな危険もいとわないつもりだった。
「――総合的にみて、勝ちめはある。それでも、大きな賭けであり冒険であるのはたしかだ。じつはおれは、船団の旗艦を|途方もない探求《ワイルドグース》″と命名したかったんだが、アンに反対されてな」
「ふん!」アンがいった。「エマージェントの|報い《リワード》″のほうが適当でしょう。こちらが勝ったら、そのあとでワイルドグース号と改名すればいいわ」
ちょうどそこで次の料理がならべられはじめたので、ファムはそのまま反論の機会を失った。しかたなく、宙を漂う半リットルのワインを一滴残さず飲料容器にもどせるところを見せてやった。ファムはほくそ笑んだ。ほかのチェンホーもこういう手品は見たことがないらしい。ファムのような老いた旅烏《たびがらす》だけの強みだ。
宴《うたげ》は何キロ秒もつづいた。そのあいだに出席者たちはじっくりと語りあうことができた。自分たちの出身や、現在の情況をつくりだす過程で死んでいった友人たちの思い出を話すことができた。
しかし最大の驚きは、いちばん最後に待っていた。ビクトリー・ライトヒルをふくめて、蜘蛛族のだれも考えなかったことを、アン・レナルトが指摘したのだ。
晩餐会が進むうちに、だんだんとレナルトは緊張を解いていた。彼女はまだ人の集まりに慣れていない。どんな役割でも演じられるのだが、心の内側には、本当に率直になったときにしかおもてに出てこない臆病さがあった。人を信じることもようやくできるようになった。エマージェント文明を相手に自分のやるべきことが話題にならないかぎり、とても楽しそうにしている。それにレナルトは、ここにいる友人たちが必要とする能力をいくつももっていた。なにより、元集中化人材のことをよく理解できるのだ。いまもトリクシア・ボンソルとビクトリー・ライトヒルと話し、通訳をもっとうまくやる方法についていろいろ提案をしていた。
〈〈初めて見たときから、おまえは特別だったからな〉〉
燃えるような赤い髪。透《す》きとおったピンク色に近い肌。ファムの黒髪やくすんだ肌の色とは対照的だ。人類宇宙のこちら側で、レナルトの外見はかなりめずらしくもある。しかしその後、美しい容姿《ようし》の奥に、すぐれた頭脳や勇気が隠されているとわかってきた。彼女とともにバラクリア星へむかうのは、たとえそのあとの計画がなくても、充分に価値のある行動だ。
食事のあとの飲みものが人間たちに配られた。蜘蛛族でそれにあたるのは、小さな黒いボールだ。それに穴をあけて中味を吸い、味だけを楽しんだら、あとは美しい造形の痰壺《たんつぼ》に吐き出すのだ。
ファムは、それぞれのグループの計画が成功すること――そして二世紀後の再会が果たされることを願って乾杯した。
エズル・ヴィンがキウィのむこう側からファムのほうに身をのりだした。「ところで、その再会のあとはどういう計画なんだい? バラクリア星とフレンク星を解放したそのあとは? そろそろ話してくれてもいいじゃないか」
レナルトがファムのほうをむいてにやりとした。「そうよ。あなたの途方もない探求≠ノついて話してあげたら」
「うーん」ファムの困惑は、かならずしも演技ではなかった。レナルト以外にはまだ話したことがないのだ。それはファム・ヌウェンの過去の壮大な企《くわだ》てにくらべても、さらに壮大な内容だからでもあるだろう。「……いいだろう。そもそもおれたちがアラクナ星へ来た理由はなにか。それは謎めいたオンオフ星があり、惑星に知的生命体が存在しているからだ。そしてトマス・ナウの圧制下ですごした四十年のあいだにも、驚くべきことが次々とわかった」
「そうだね」エズルがいった。「人類が一ヵ所でこれほど多くの驚異をみつけた例はない」
「おれたち人類は、なにが不可能かについては充分わかったと思っていた。そう思っていないのは、遠くの謎の天体を研究する天文学者など、ごく一部の変わり者だけだ。しかし、そういった謎の天体のひとつであるオンオフ星をこうして間近に観察してみたら、どうだ。まだきちんと解明できていないが、新しい恒星物理学を発見した。ケイバーリットにいたってはさらに理解できていないが――」
ファムはふいに黙った。キウィの表情に気づいたからだ。悪夢の日々のことでなにかを思い出したようだった。キウィは顔をそむけたが、ファムがずっと黙っているので、やがてとても小さな声で話しはじめた。
「トマス・ナウもよくそういうことをいっていたわ。あいつは悪党だけど――」悪党のなかの悪党は、しばしば鋭い勘《かん》をもつものだ。キウィは深呼吸をして、しっかりした口調でつづけた。「アラクナ星から引き揚げた海氷にふくまれるDNAを、集中化人材が分析したときのことよ。それはとても多様で――千もの世界をあわせた以上だった。分析者は、アラクナ星における生態系の|すきま《ニッチ》がそれだけ豊富なのだと考えたのだけど、トマスは……トマスの考えはちがったわ。DNAにこれだけ多様性がみられるのは、遠いむかし、アラクナ星が多くの文明の交差点だったからだろうと……」
エズルはキウィの手を握った。「トマス・ナウだけじゃない。みんな不思議に思ってるんだ。たとえば、この星系にはなぜこんなに炭素結晶が多いのか――ダイヤモンド有孔虫《ゆうこうちゅう》とか、L1の岩石群とか……。古代文明のコンピュータか。それにしては有孔虫は小さすぎるし、L1点のダイヤモンド塊は大きすぎる……。どちらにしても、いまは死んだ岩にすぎない」
テーブルの反対側からジョー・シンがいった。「そうじゃないかもしれないぞ。ケイバーリットがあるじゃないか」
すると、ベルガ・アンダータウンが不愉快そうな声でなにかいい、わきでビキが笑い声をたてた。しばらくしてブロートが通訳しはじめた。
「おやおや、ケルムの歪曲《わいきよく》生物≠ノ新しい支持者があらわれたようですわね。ただし今度の仮説では、わたしたちの星はただのごみ捨て場で、蜘蛛族は神のごみをあさる害虫から進化してきたということになりそうだけど。それがもし本当だとしたら、その超古代文明はどこにあるの?」
「それは……わからない。そもそも一億年から五十億年前のことなんだからね。たぶん戦争があったんだろう。この太陽系の成り立ちを説明するうえでいちばん簡単なのは、ここが戦場だったと考えることだ。そのために太陽は破壊され、惑星はひとつを残してすべて蒸発した」魔法のようにひとつの惑星だけが生き延びたわけだ。「あるいはその超古代文明はべつのものに進化してしまったとか、残された生物だけがほそぼそと独自の進化を遂げていったとか」いろいろな仮説のなかには、こうして話してみるとばかげて聞こえるものもあった。
アンダータウンは食手を広げ、疑《うたぐ》り深そうに笑うしぐさをした。「本当にケルムとおなじだわ! ただし、その仮説でいろいろなことが説明≠ナきるかもしれないけれど、なにかの役に立つわけではないし、まして実証することなどできませんね」
ゴンレ・フォンが宙に高く手を突きあげた。無意識のうちに蜘蛛族のしぐさを真似ているのだ。「どこにそんな議論すべきことがあるの? かつてのアラクナ星では、人類の挫折した夢が現実のものとして存在していた=c…。なるほど、それは単純で筋のとおった推測よ。その一方で、わたしたちは数百光年の空間と数千年の時間のなかで、いまここに暮らしているわ。仮説はどうあれ、こうしてアラクナ星でみつけたものをうまくあつかっていけば、一生分の利益は確保されたも同然なのよ!」
ファムは愛想よくうなずいた。「そうだな。正しいチェンホー流の考え方だ。しかしゴンレ、おれは城と大砲が幅を利《き》かせる文明で生まれ、それから長い時間を生きてきた――冷凍睡眠の時間をべつにしてもな。そして多くのものごとを見てきた。挫折時代からあと、おれたち人類はあちらこちらでちっぽけな発見をしてきたが、限界はやはり厳然《げんぜん》として存在することを思い知らされただけだった。惑星文明は衰亡をくりかえす。文明の頂点はすばらしいものだが、それ以外の暗黒時代も長い」城と大砲だけではない、ひどい暮らしがあるのだ。「チェンホーもそうだ。おれたちは生き延び、繁栄してきたが、限界はやはりある。光速がいい例で、近づくことはできても超えることはできない。おれはブリスゴー間隙《かんげき》で、これらの限界のまえに敗れた。集中化技術について知ったときは、これを使えば文明問の暗黒を解消できると思ったのだが……それはまちがいだった」
ちらりとレナルトの目を見た。
「だからおれは夢をあきらめたんだ。一生の夢をあきらめた……。そしてまわりを見た。このアラクナ星で、おれたちは求めてきたものをついにみつけた。人類のあらゆる限界を超えたなにかだ。燦然《さんぜん》と輝くとてつもない世界を、ほんのわずか垣間《かいま》見たんだ。ゴンレ、計画というものは前進するにつれてどんどん広がっていくんだ。エズルは、エマージェント文明を倒して再会したあとになにをするのかと訊いたが、おれの計画はこうだ。アラクナ星がやってきた方向へ探索に行く」
トリクシアの通訳がしばらくつづいたが、やがてテーブルはしんと静まりかえった。エズルは驚きのあまり呆然《ぼうぜん》となっていた。ファムはこのことをずっとレナルトと二人だけの秘密にしてきた。そのほうが秘密を守りやすかったからだ。
黎明期とその挫折した夢にずっと熱中してきたエズル・ヴィンは、いま突然、その時代がまだ終わってはいないのだと知らされたのだ。若者はしばらく胱惚《こうこつ》として身動きもできないようすだった。そのあと、重要なことに気づいた顔になった。反対しているのではない、ファムに成功してほしいと願っているのだが――
「それはどの方角なんだい? それに――」
「方角? それは簡単な質問だな。まあ、最終的に判断するまで二世紀あるわけだが。いいか、人類はこれまで高度な技術を使って何千年にもわたって星々を観察してきた。どんな顧客文明もそのある時期には、直径百メートルの鏡をならべた巨大アンテナを建設し、さまざまな技術を使って遠くの宇宙を観測するものだ。そうやって、遠い謎の天体がいくつかみつかった。この銀河系のあちこちにラムスクープ船の痕跡《こんせき》や、古代の無線電波の名残《なごり》もみつかっている」
「だから、それ以上のなにかがあれば観測できるはずだ」エズルはそういいながら、どんな反論がくるかはわかっていた。大むかしから戦わされているお決まりの議論なのだ。
「それが見える場所にあるのならな。しかし銀河中心核のかなりの部分は隠れていて見えない。ここで議論の的《まと》になっている超文明が電波を通信手段に使わず、ラムスクープ船よりすぐれた移動手段をもっているとしたら……。こちらが彼らの存在を探知できない理由はただひとつ、その場所が銀河中心核だからだ」
そしてオンオフ星の奇妙な軌道も、そのまだ見ぬ深部をつらぬいているはずなのだ。
「わかったよ、ファム。たしかにそれですべて説明できるけど、でも銀河中心核は三万光年くらい離れているんだ。ほとんど暗黒星雲くらいに遠いんだよ」
ゴンレもいった。「チェンホーがこれまでに試みた最長の遠征より、さらに百倍も遠いわ。途中に中継点となる文明もないし、ラムスクープ船は千年以内に故障する。そんな遠征は、夢みることはできても、完全にわたしたちの能力外よ」
ファムは二人にむかってにやりとした。「いまは完全に能力外だな」
「だからそういってるでしょう! いまもむかしも能力外よ」
しかし、エズルの目には光がともりはじめていた。「ゴンレ、ファムがいっているのは、将来はかならずしも能力外でなくなるかもしれないということだよ」
「そうさ!」ファムは身をのりだしながら、出席者のうちどれだけ多くをこの夢に引きこめるだろうかと思った。「ちょっとした思考実験をしてみてくれ。頭を黎明期にもどすんだ。ほんの数世紀のあいだだが、当時の人々はいまよりはるかに大きな進歩を遂げた未来を予測していた。アラクナ星ではそんな気分がすこしだけ甦《よみがえ》っただろう。いまはまだ信じられないかもしれない。自分たちが建設しようとしている文明の将来像を思い描けないかもしれない。しかし、エズルとキウィ、おまえたちはチェンホー史のあらゆる栄光をもしのぐ偉大な商家を築くことになるだろう。トリクシアとビキとほかの蜘蛛族たちは、チェンホーに史上最大の利益をもたらす商売相手になるだろう。まあ、いまはまだアラクナ星の奇妙な痕跡に気づきはじめたばかりの段階だ。たしかにいま銀河中心核への探索行について話すのは、砂浜で水遊びしている子どもが海を渡る話をするようなものではあるさ。しかし、おれは賭けてもいい。次の明期までには探索行に必要な技術がそろっているはずだと」
ファムは隣のレナルトを見た。レナルトは微笑み返した。その表情は楽しそうでもあり、すこしからかうようでもあった。
「アンとおれと三隻の船団の乗組員は、エマージェント文明のシステムをぶちこわすつもりだ。もしそれが成功したら――いや、かならず成功して、そのあとには、高度な科学技術をもつ文明がそのまま残っている。そこで船団を拡大することになるだろう。二十隻以上の船団にする。アンの許しを得て、おれはその旗艦をワイルドグース号と改名する。そしてここへもどってきて、ふたたび装備を調えるんだ……探求の旅にそなえて」
レナルトはその旅に同行してくれるだろうか。本人は行くといっている。エマージェントの圧制をとりのぞけば、彼女を駆り立てている熱病はおさまるのだろうか。無理かもしれない。たとえ戦いに勝っても、複数の世界がハマーフェスト棟屋根裏部屋の集中化解除病棟とおなじ状態になるはずだ。たぶんレナルトは、救った人々をそのまま放り出していくことなどできないだろう。そのときはどうするのか。
〈〈わからないな〉〉むかしのファムは孤独に慣れていたものだ。〈〈いやはや、おれも変われば変わるものだな〉〉
アンの顔はやさしい笑みになっていた。ファムの手を握りしめ、彼がいま説明した約束について、うなずいて同意をしめした。ファムは人々の顔を見まわした。キウィは愕然《がくぜん》としている。
エズルはなんとかファムの話を信じようとしているようだが、やり遂げるのに一生かかるくらいの大仕事がべつにあって、それも気にかかっているという顔だった。蜘蛛族の表情はさまざまで、アンダータウンのように辛辣で疑り深いようすの者もいれば――
ビクトリー・ライトヒルは、ファムが演説するあいだずっと黙って、食手さえ動かさずに聞いていた。ところがふいに、声を震わせて小さく歌うようになにかを話した。悲しみと驚きをまじえたその声の内容は、トリクシアが通訳しなくてはいけなかった。
「父がその計画を聞いたら、とてもよろこんだでしょうね」
「そうだな」ファムは声をつまらせた。
シャケナー・アンダーヒルは、人類の黎明期からそのまま抜け出してきたような、天才的で想像力のある科学者だった。アンダーヒルの対抗工作についてトリクシアが書いた映像呪術日記≠ヘ、もうずいぶんまえに読んでいた。アンダーヒルはエマージェントの自律機能系に、本当に深くはいりこんでいたのだ。あまりにも深いために、集中化されていたアン・レナルトでさえも、改変の痕跡をみつけても人間の陰謀グループが活動している証拠だと思ったくらいだった。アンダーヒルは、集中化がどんなものかを最後は理解した。人工知能のような飛躍的進歩を遂げた技術を、人類はもっていないと知ったのだ。進歩には限界があるとわかって、彼はとても失望したはずだ。
ファムの隣で、レナルトがためらいがちにうなずきはじめていた。そして、今晩のもっとも驚くべき発言をしたのだ。レナルト自身も驚いていたが、いちばん驚いたのは蜘蛛族だった。レナルトは顔をあげると、ゆっくりと笑みを広げた。
「シャケナーがもう生きていないと、どうしてわかるの? 彼はわたしたちのだれよりも多くの情報をもっていた。そして想像力も豊かだったのよ。もしかしたらこれも彼の計画の一部なのかもしれないでしょう?」
「アン、おれは日記を読んだんだ。もしアンダーヒルが生きているなら、かならずこの席にいるはずだ」
レナルトは首をふった。「どうかしら。冬眠|彷徨《ほうこう》症は、人間には理解しようのない本能でしょう。そしてシャケナーはスミスが死んだものと思っていた。でもシャケナー・アンダーヒルは人類と蜘蛛族を一度ならず驚かせてきたわ。蜘蛛族の本能を、だれも考えなかった方向へむけさせた。空に安息の場所――深い冬眠穴をみいだしたのよ。わたしは、彼がアラクナ星のどこかにいると思うわ。そうやってあらゆる謎が解明されるときまで生きつづけるつもりなのよ」
「ありうる……ありうる話ね」驚嘆してつぶやくその言葉は、トリクシアのものかビキのものか、ファムには区別できなかった。「高原台地のどこにシャケナーが着陸したのか、正確にはわかっていないのよ。彼がまえもって偵察していたとしたら、生き延びている可能性はあるわ」
ファムはアラクナ星を見あげた。視角にして三十度を占めるその惑星は、巨大な真珠のようだった。金と銀に輝く網目模様が、南半球の大陸と光沢《こうたく》のある東部大洋の上に広がっている。しかし、真っ暗なまま残されているかなり広い部分もあった。そこは未開の土地であり、暗期の終わりまで冷たく静かなまま残されるだろう。
ファムはふいに胸の高鳴りを覚えた。そうだ、あのどこかにシャケナー・アンダーヒルは眠っているはずだ。そうやって、消えた妻の目覚めを待っているのだ……。
きっとこれこそが、彼の最大の秘密工作なのだ。
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高いほうも低いほうも
わからないことだらけ
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「古くて新しい」宇宙SFの傑作
[#地から1字上げ]堺三保
SFの本質は未知の世界を描くことだと考える人。
SFの醍醐味は宇宙を舞台にした冒険ものにあると思う人。
SFにはリアルなサイエンスと破天荒《はてんこう》な虚構とが同居しているべきだと信じる人。
そういうSFファンは何をおいても本書を読むべきだ。
本書こそ、そういう人々を狂喜乱舞させることができるSF小説なのだから。
遠い未来、ラムスクープ推進と冷凍睡眠を使い、人類は星系から星系へと版図《はんと》を広げていた。だが、遠大な時間と空間によって隔絶された各星系の人類文明は、それぞれ退化と再興をくり返してもいた。そんななか、巨大な船団を組み、星から星へ技術を売り買いしてまわる商人たちの文明〈チェンホー〉があった。彼らチェンホー人は、謎の多い天体〈オンオフ星〉から発信される有意信号電波をキャッチし、調査に向かう。やはりオンオフ星からの電波をキャッチした別の人類文明〈エマージェント〉と先陣争いをしながら目的地にたどり着いたチェンホー人たちを待っていたのは、ダイヤモンドの塊《かたまり》でできた四個の小惑星と、たった一つの地球型惑星、そしてそこに棲《す》む蜘蛛《くも》に似た非人類種族だった……。
というふうに始まる本書は、二〇〇〇年度のヒューゴー賞、ジョン・キャンベル記念賞、プロメテウス賞を受賞したヴァーナー・ヴィンジのA Deepness in the Sky (1999) の全訳であり、やはりヒューゴー賞、SFクロニクル読者賞を受賞したヴィンジの前作『遠き神々の炎』と同じ宇宙を舞台にした本格宇宙SFである。
こう書くと「前の作品から読まないといけないのか」と思われる方もおられるかもしれないが、そこはご安心を。舞台設定は同じものの、本書は『遠き神々の炎』よりもずっと過去の時代を描いた前日謳であり、}人だけ登場人物が重複する以外、話の本筋などはまったく無関係なので、本書から読んでいただいて何も問題はない。いや、いっそ本書を先に読んでから『遠き神々の炎』に進んだほうが、両者の世界観のこまかな違いなどを楽しめるだろう。
違いといえば、本書と『遠き神々の炎』はいずれも太陽系外の広大な宇宙空間を舞台にしているのだが、本書では『遠き神々の炎』に登場した超光速技術が徹底的に排除されているという点が大きく違う。つまり、本書に登場する人類は、光速の数分の一しか出ない宇宙船と、加齢を止める冷凍睡眠装置を使って、何百年という時間をかけてゆっくりと恒星間を旅するのである。
ワープだ、リープだ、ジャンプ航法だと、架空の超光速航法を持ち出して、宇宙SFの舞台を太陽系の外へと広げてみせるのは簡単だ。ただその場合、移動する距離の数字が大きくなるだけで、そこに描かれている世界はわれわれの見知ったものとあまり変わらなくなってしまうことが多い。一方、超光速航法を作品世界内に持ち込まずにリアルな宇宙SFを書こうとすると、舞台を太陽系内に限定してしまいやすい。本書はいずれの道も選ばず、リアルな宇宙観と科学技術をもとに、銀河系の恒星間宇宙を舞台にした宇宙SFを書こうとしたところがおもしろいのである。
そこに表れてくるのは、あまりにも茫漠《ぼうばく》とした宇宙の広がりだ。なにせプロローグの出だしの文章が「男の捜索は、百光年以上の空間の広がりと、八世紀以上の時の流れのなかでつづけられていた」であり、そのプロローグに続く第一部はなんと「百六十年後」という言葉から始まる。百年二百年はあっというまに過ぎ去ってしまうのだ。
この世界では、ひとたび恒星船に乗って宇宙へ出てしまえば、再び肉親や友人に会えない可能性が高い。いや、同じ船団で旅していても、当直と冷凍睡眠のサイクルが違えぽ、乗船時は年下だったはずの者が自分より年上になっていたりする。逆に、自分より何百年も前に生まれた人物と出会えたりもする。このため、世代が停滞したり逆転したりしながら、何十世代もの人々が渾然《こんぜん》となって生きている。それは現在のわれわれの感覚とは相当かけ離れた社会であるといっていいだろう。しかし、なおかつそこにいるのは(寿命は若干延びているようだが)肉体的には今のわれわれと何も変わらない普通の人間たちなのだ。その普通の人間たちが、時間と空間の隔たりを越えて太陽系外の宇宙に進出していったときに何が起こるか。
それを真正面から描いているところに、本書のSFとしての真骨頂があるのだ。
本書のもう一つの魅力は、それが自由を求めて粘りつよく戦う人間たちの物語だというところだ。本書では二つの世界の出来事が同時進行していき、最後に一つの物語にあわさって大団円を迎える。その一つは探検隊であるチェンホー人対エマージェント人の主導権争いの物語であり、もう一つは蜘蛛族の世界を発明によって変革していこうとする天才の物語だ。いずれの物語においても、求められているのは個人の自由の獲得であり、それを権力や因習で縛ろうとする者への断固たる拒絶という普遍的なテーマが語られているのだ。
それぞれの物語の中心となる登場人物が、チェンホーの老人ファム・トリンリと、蜘蛛族の天才シャケナー・アンダーヒルの二人なのだが、彼らのキャラクター造形が抜群におもしろい。ファムのほうは老練《ろうれん》、狽介《けんかい》、狡猾《こうかつ》で野心満々の、それこそ煮ても焼いても食えないような狸爺《たぬきじじ》い。シャケナーは天真燗漫《てんしんらんまん》で真っ正直なくせに、常識や慣習をあっさり無視して突っ走る天才青年。両者の性格は正反対だが、どちらも「とてつもなくしぶとい」という点では共通している。彼らはいずれも肉体的には弱者の部類に入る。だが、その精神力は常人とはかけ離れており、知力と忍耐力だけを武器に、敵を出し抜いて勝利をつかもうとするのである。それは、昔のスペースオペラにありがちな勧善懲悪型のスーパーヒーローよりも、現代的な冒険小説の主人公に近い(そういえば、この長大な物語の中で延々と主人公が雌伏《しふく》しつづけるあたりの粘っこさも、かなり冒険小説っぽい)。特に、いかにも悪役でございといったうさんくささに盗れたファムのキャラクターは傑作で、完全無欠なヒーローよりもよほど親近感が湧く。そんな彼が偽装をかなぐり捨てて逆転に転じるクライマックスには、すべての読者が快哉《かいさい》を叫ぶことだろう。
こうして抜き出してみると、既存の科学技術を用いた恒星間航行という設定も、個人の自由を求めた戦いというテーマも、よく言えば「SFの王道」であり、悪く言えば「古くさい」ということになるだろう。だが、古いということはそこに本質が隠されているということでもある。本書はテーマや設定の古さを恐れず、現代的な視点で真っ向から描こうとしているのだ。先にも述べたが、恒星間航行によって社会はどう変化するのかをきちんと外挿《がいそう》してみせるのも、単純明快なヒーローではない人物を主役に据えるのも、本当の意味で古めかしい大時代な活劇にしないためであり、この長さ、この枚数もまた、そのためにみっちりと描写を重ねていった結果なのだ。本書こそ「古くて新しい」宇宙SFの傑作なのである。
もちろん、それ以外にも本書には魅力がたくさん詰まっている。たとえば、エイリアンの設定だ。前作『遠き神々の炎』でも犬のような姿をした集合知性体という魅力的なエイリアンを生み出したヴィンジだが、本書でも外見は恐ろしそうだが内面は人類と共通するメンタリティを多く持つ蜘蛛型エイリアンを創造、読者を楽しませてくれる。
こういう非人類型知性体を描くとき、あまりに人間に感性が似すぎていると単なる人のパロディになってしまうし、かといってまったく思考形態の違うものにしてしまうとコンタクトそのものが不可能となってしまうのが難しいところだが、本書では、彼らの描写が人間くさすぎる点についての種明かしとして、通訳というか話者の人間たちを後半に登場させているあたりの逃げ方がうまい。また、思考形態が違うという点では、蜘蛛族たちよりもエマージェント文明の人間たちのほうがよほど異質で怪物的であるという設定も、ひねりが利《き》いていておもしろい。
ところで、本書中には「キロ秒」だの「メガ秒」だのといった聞き慣れない時間の単位が頻出するが、これは要するに、分、時、日、年といったいろんな記数法がこちゃまぜの時間の単位を使わず、秒を基本にすべて十進法で表しているだけのこと。もともと、一日や一年といった時間の長さは、地球の自転による日照の変化や公転による季節の変化をもとにして決められたもので、宇宙空間で暮らしている者にとっては意味のない単位だということだろう。
とはいえ、読んでいるわれわれ読者は地球の暦《こよみ》にあいかわらず縛られているので、急に一キロ秒などと言われてもどれくらいの時間なのかピンとこない。そこで以下に簡単な換算表を載せてみたので、ぜひとも参考にしていただきたい。
一 分= 六〇秒
一時間= 六〇分= 三六〇〇秒(約三キロ秒)
一 日=二四時間= 八六四〇〇秒(八十六キロ秒。ただし本編中では一日は百キロ秒とされており、地球の一日より数時間長い)
一 年=三六五日=三一五三六〇〇〇秒(約三十メガ秒)
一キロ秒= 一〇〇〇秒= 一六分四〇秒(十七分弱)
一メガ秒= 一〇〇〇〇〇〇秒= 一一日一三時問四六分四〇秒(十一日半)
一ギガ秒=一〇〇〇〇〇〇〇〇〇秒=三一年二五九日一時間四六分四〇秒(三十二年弱)
最後にもう一つ。SF的なおもしろさという意味でいけば、冒頭から大きな謎としてオンオフ星系自体の不可解な構成が提示されている。ただし、この謎の解答についてはなんと最後まで暗示されるだけで終わってしまっている。注意深く読んでいけばある程度の推論は可能なのだが、手がかりは本編中にかなり.ハラパラに埋め込まれているし、はっきりした結論を得るためには証拠が足りなすぎる。
そこで、ここでは筆者の私見を記しておくので、読書の皆さんの参考にしていただきたい。
〈〈注意! ここから先は本編の内容に思いっきり触れていますので、ネタばれが気になる方は本編読了後にお読みください〉〉
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結論から言えば、オンオフ星系は「巨大な光コンピュータ」ではないかと思われる。
つまり、一定周期で点滅するオンオフ星はコンピュータに動作周波数を与えるクロックであり、そのまわりに浮いているダイヤモンドの小惑星は光を信号として作動する論理回路なのである。
そして、そんな途方もないものをつくりあげるために使われたのが、ダイヤモンド有孔虫《ゆうこうちゅう》なのだ。星系内唯一の地球型惑星であるアラクナ星の地層から発見されたこの小さな虫には反重力物質として作用する性質がある。こんなものが自然に発生するわけはない。ダイヤモンド有孔虫は、反重力を使って巨大な構造物を建造するために、何者かによってつくられた微小機械に違いない。それをつくりだした者こそ、アラクナ星のさらに古い地層に化石が残っているケルムの歪曲《わいきよく》生物なのではないだろうか。
ここまで読んで「ちょっと待て」と思われた読者の方も多いだろう。この推論には、一つ、根本的な問題がある。それは「星系規模の光コンピュータなんて、速度が遅くて使い物にならない」という点だ。テレビの衛星中継を見てもわかるように、惑星の近傍《きんぼう》で電波をやりとりするだけでも十分の一秒程度のタイムラグが生じるのである。太陽を基点にして、その周りをまわっている惑星同士でデータをやりとりするには、どれだけの時間がかかることか。となると、オンオフ星の点滅速度つまりクロック周波数をいくら上げても、それに間に合うようにデータが小惑星間つまり回路上を行き来しないわけだから、まったく意味がないことになってしまう。
ところが、それはあくまでもわれわれの知っている物理法則に縛られた宇宙空間内での話。ここで前作『遠き神々の炎』の設定が利いてくる。
ヴィンジが『遠き神々の炎』で考え出した世界観は、本書のリアルな宇宙観とは正反対のものだ。なにしろ、実はこの宇宙は、星の密集度に応じて物理法則が違っているというのである。銀河系も、中心部の〈無思考深部〉、周辺部の〈低速圏〉、外縁部の〈際涯圏《さいがいけん》〉に分けられ、さらにその外側に〈超越界〉が存在する。中心部へ行けば行くほど情報の伝達速度が遅くなり、逆に外側に行けば行くほど速くなる。本書の舞台である(われわれの太陽系を含む)人類の生存圏は〈低速圏〉に属しているために光速の壁を突破することができないが、その外側の〈際涯圏〉以遠では超光速通信や超光速飛行も可能となり、知性種族の思考速度やコンピュータの演算速度も速くなるというのだ。
したがって、オンオフ星系も本書の時点では〈低速圏〉に存在しているため光コンピュータとしては使えないが、〈際涯圏〉に置いてやれば立派にコンピュータとして使えるかもしれないわけである。
しかし、ここでさらに謎が増える。本編中で主人公の一人ファムは、オンオフ星系は銀河中心部からやってきたと推測しているが、それでは〈際涯園〉と正反対の〈無思考深部〉に知的生命体が存在することになってしまうからだ。
また、『遠き神々の炎』によれば、ファムは銀河中心部の探索に向かって〈無思考深部〉に突入、一度は死んでしまい、〈際涯圏〉の人類によって蘇生させられるのだが、この蘇生したファムの性格や記憶は、本書のファムとはずいぶん食い違ってしまっている。
いったい、本書の結末のあと、銀河中心部に向かったファムの身に何が起こったのか。オンオフ星系の正体は何なのか。ぜひともさらなる続編を期待したいところである。
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ヴァーナー・ヴィンジ著作リスト
1 Grimm's World (1969)
2 The Witling (1976)
3 The Peace War (1984)
4 True Names (1985)『マイクロチップの魔術師』(新潮文庫)
5 Marooned in Realtime (1986) 3の続編
6 True Names... and Other Dangers (1987) 4に短篇数篇を加えた短篇集
7 Tatja Grimm's World (1987) 1に短篇一篇を加えた改訂版
8 Threats ... and Other Promises (1988) 短篇集
9 Across Realtime (1991) 3、5に短篇一篇を加えた合本版
10 A Fire upon the Deep (1992)『遠き神々の炎』(創元SF文庫)
11 A Deepness in the Sky (1999) 本書
12 The Collected Stories of Vernor Vinge (2001) 短篇集
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