最果ての銀河船団 上
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最果ての銀河船団 上
ヴァーナー・ヴィンジ
250年のうち35年間だけ光を放ち、それ以外は火が消える奇妙な恒星、オンオフ星。この星系の惑星には、人類が銀河で出会う三番めの、知性をもった非人類型生命体――蜘蛛族が存在していた。ここからもたらされるであろう莫大な利益を求めて、二つの人類商船団が進出する。だが軌道上で睨みあいをつづけるうち、ついに戦闘の火蓋が切られ、双方とも装備の大半を失い航行不能となってしまった。彼らは、地上の蜘蛛族が冬眠から目覚めて、高度な産業文明を築くのを待つしかなかった……。ヒューゴー賞、キャンベル記念賞に輝く、大宇宙SF巨編!
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最果ての銀河船団 上
ヴァーナー・ヴィンジ
中原尚哉訳
創元SF文庫
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A DEEPNESS IN THE SKY
by
Vernor Vinge
Copyright 1999 in U.S.A.
by Vernor Vinge
This book is published in Japan
by TOKYO SOGENSHA Co., Ltd.
arrangement with Tom Doherty Associates, Inc., New York
through Tuttle-Mori Agency Inc., Tokyo
日本版翻訳権所有
東京創元社
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ポール・アンダースンに。
SFの書き方を学ぶうえで偉大なお手本はいくつもあったが、なかでもポール・アンダースンの作品はわたしにとって際立つ存在だった。それ以上にポールは、驚きと楽しさに充《み》ちた物語の数々を、わたしと世界に披露《ひろう》してくれた――そしていまもその仕事をつづけている。
個人的な話だが、ポールとカレン・アンダースンが一九六〇年代に、ある若いSF作家を歓待してくれたことを、わたしはいつまでも感謝しつづけるだろう。
[#地付き]――VV
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謝辞
次の人々の助言と協力に感謝する。
ロバート・カデミー、ジョン・キャロル、ハワード・L・デイヴィッドスン、ボブ・フレミング、レナード・フォナー、マイケル・ガニス、ジェイ・R・ヒル、エリック・ヒューズ、シャロン・ジャーヴィス、ヨージ・コンドー、シェリー・カシュナー、ティム・メイ、キース・メイヤーズ、メアリー・Q・スミス、ジョーン・D・ヴィンジ。
ジェイムズ・フレンケルがこの本のために発揮してくれたすばらしい編集手腕と、初期の草稿がかかえていた問題点について時宜《じぎ》にかなった指摘をしてくれたことを、とても感謝している。
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登場人物
●チェンホー船団
S(サミー)・J・パーク…………船団長。ファム・ヌウェン号船長
キラ・ペン・リゾレット……………副船団長。インビジブルハンド号船長
スム・ドトラン………………………交易委員
エズル・ヴィン………………………商人実習生、のちに船団管理主任
トリクシア・ボンソル………………言語学担当の学術員
ファム・トリンリ……………………戦闘プログラマー
キウィ・リン・リゾレット…………キラの娘
アリ・リン……………………………キウィの父親、造園技術者
ジミー・ディエム……………………船員長
ファム・パティル、ツフ・ドゥ……下級船員
べ二ー・ウェン………………………下級船員。酒場をひらく
フンタ・ウェン………………………ベニーの父親。宇宙物理学者
ゴンレ・フォン………………………補給課職員
フローリア・ペレス…………………化学者
●エマージェント船団
トマス・ナウ…………………………領督
リッツァー・ブルーゲル……………副領督
アン・レナルト………………………人的資源局長
ジョー・シン…………………………パイロット管理主任
リタ・リヤオ…………………………プログラマー管理主任
カル・オモ……………………………領兵長
トルード・シリパン、ビル・フオン
…………医療技術者
レイ・シレト、マーリ………………領兵
ジンミン・ブロート、ソピ・ルン…翻訳者
ディートル・リー……………………物理学者
●蜘蛛族
シャケナー・アンダーヒル…………天才科学者
ビクトリー・スミス…………………情報局員、のちに長官。シャケナーの配偶者
ハランクナー・アナービー軍曹……技術者
ストラット・グリーンバル将軍……情報局長官
ジャーリブ、ブレント、ゴクナ、ビクトリー・ジュニア(ビキ)、
ラプサ、ハランクナー(リトル・ハランク)
…………シャケナーとビクトリーの子どもたち
ジェイバート・ランダーズ…………シャケナーの優秀な生徒
ペデュア師……………………………暗黒教会の代表者
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著者の註解
この長篇はいまから数千年後の未来を舞台にしている。ゆえに、われわれの言語や書法とのつながりは薄い。しかし念のために記しておくと、Qeng Hoは、ケンホー≠ナはなく、チェンホー≠ニ発音する(トリクシア・ボンソルなら理解してくれるはずだ!)。
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プロローグ
男の捜索は、百光年以上の空間の広がりと、八世紀以上の時の流れのなかでつづけられていた。
はじめからなにもかも秘密の捜索で、手伝わされた関係者でさえだれを探しているのか知らないことがしばしばだった。その初期はただ、暗号化された問い合わせをネット放送に隠して流しているだけだった。そうやって数十年、数世紀がすぎるうちに、すこしずつ手がかりが集まった。男の同調者との接触に成功したりして、ひと握りの情報が得られたが、それらの内容はばらばらだった。いわく、男は単身で遠方へ逃げつづけている。いわく、男は捜索がはじまる以前に死亡している。いわく、男は軍艦隊を率《ひき》いてもどってきている……。
しかししだいに、もっとも確度の高い情報には一貫性がみられるようになってきた。証拠がかたまってきたのを受けて、一部の船は航行スケジュールを変更したり、数十年分の時間を無駄にする覚悟でさらなる手がかりを探したりした。そういったまわり道や到着遅れによって莫大《ばくだい》な損失が発生したが、これらは人類宇宙でも指折りのいくつかの商家につけまわしされ、黙認された。彼らは途方もなく裕福であり、一方で捜索はきわめて重要なので、損失などまったく問題にならなかった。
捜索の網は縮まっていった。男は単身で、数多くの名義を使い分け、小さな商船で一回かぎりの仕事を請け負いながら、人類宇宙のこちら側へとすこしずつもどってきていた。捜索範囲は百光年、五十光年、二十光年と狭《せば》まり――半ダースの星系に絞られた。
そしてついに、人類宇宙の銀河中心方向の端にあるひとつの世界が浮かびあがった。そこでサミーは、おもてむきは商売をよそおいながら、そのじつ捜索を決着させることだけを目的とした船団を編成した。乗組員どころか船主の大半も遠征の真の目的を知らされていなかったが、サミーには、これで捜索にけりをつけられるはずだという自信があった。
トライランド星の地上へは、サミーみずから降り立った。今度ばかりは船団長が現場におもむくべき理由があるのだ。まず、男と個人的に面識があるのは船団のなかでサミーだけだ。また船団はこの世界で好意的に迎えられているので、もし官僚的なばかげた障害が立ちはだかっても、船団長がいれば話をつけやすいだろうという期待もあった。
そういうふうに理由はいくらでもあるのだが……しかしもしそうでなくても、サミーはみずから出ていっただろう。
〈〈長い長い時間を費やしたすえに、あとほんのすこしで彼をつかまえられるのだ〉〉
「なんでおれがあんたらの人探しを手伝ってやらなくちゃならないんだ? 勝手にやればいいじゃねえか!」
そういって、小男は奥の狭い仕事部屋に退《さ》がった。その背後にあるドアが五センチほどひらき、子どもがおびえたようすでこちらをのぞいているのが、サミーにはちらりと見えた。小男はそのドアを乱暴にしめて、はいってきた林野庁の巡査たちをにらみつけた。サミーは彼らの案内でこの建物に来ていた。
「もう一回いうけどな、おれの仕事場はネット上なんだ。そこでご希望のものがみつからないんなら、おれにじかにあたっても無駄だぜ」
「失礼」サミーは隣の巡査の肩を軽くつついた。「失礼」また声をかけながら、巡査たちの護身具のあいだをすり抜けていった。
部屋の主である小男は、巡査たちのうしろからまえへ出ていく長身のサミーを見て、仕事机に手をのばした。
〈〈まずい……〉〉
この男がネット上で分散管理しているデータベースを破棄したら、なにも手にはいらなくなってしまう。
しかしそこで、小男の手の動きが止まった。そして驚いた顔でサミーをじっと見た。「あなたは、提督?」
「もしよければ、船団長≠ニ」
「そうだ、やっぱりそうだ! 最近は毎日ニュースであなたがたのことを観《み》てますよ。さあさあ、おすわりください。つまり、お問い合わせの主はあなたなんですか?」
まるで日差しを浴びていっぺんに花がひらいたような、態度の急変ぶりだ。チェンホー船団は林野庁から好意的に迎えられていたが、市民の反応もおなじらしい。さっそく部屋の主は――本人は私立探偵≠ニ称している――記録を呼び出し、検索プログラムをスタートさせた。
「……ふーむ。ご依頼の人物は姓名不詳、身体特徴不詳で、おおまかな到着日しかわからないのですね。いいでしょう。林野庁は、あなたのお探しの人物がビドウェル・ドカイン≠ニ名のっていると主張しているようです」黙って立っている巡査たちを横目で見て、にやりとした。「この連中は不充分な情報からばかげた結論に達するのがお得意なんですよ。さて、今回はと……」検索プログラムを操作した。「ビドウェル・ドカインか。なるほど、調べているうちに思い出してきましたよ。六十年から百年ほどまえの一時期、名をはせた人物です」
どこからともなくあらわれたこの人物は、適度な資金と、自分を売りこむ卓抜な才能をもっていた。三十年のうちにドカインは、有力企業数社の支援をとりつけ、さらには林野庁からも好意的に遇されるようになった。
「ドカインはみずからを一介の市民だと主張していましたが、自由の戦士などではありませんでしたね。なにか途方もない長期計画に資金をつぎこもうとくわだてていた。あれはなんだったかな。たしか……」私立探偵は画面から顔をあげ、つかのまじっとサミーの顔を見た。「そうだ。オンオフ星への遠征に投資しようとしていたんですよ!」
サミーはうなずいただけだった。
「惜しいことをしたもんだ。もしドカインがそれに成功していたら、いま頃トライランドの遠征隊がそこへむかっていたはずなのに」探偵はしばし黙りこみ、失われた商機について考えているようだった。そして記録に視線をもどした。「じつは、彼はもうすこしで成功するところだったんです。われわれのような世界が自力で星間航行をくわだてても、たちまち破産してしまいますが、たまたま六十年前、チェンホーの星間船の一隻がここトライランド星を訪れたのです。もちろん、彼らは航行スケジュールを変更したがらなかったが、ドカインの支援者たちはなんとか星間船の協力を得ようと活動してまわった。ところが、ドカイン自身がその案にのらず、チェンホーと話をしようともしなかったんです。それをきっかけにビドウェル・ドカインは信用を失い……表舞台から姿を消しました」
そこまでは、トライランド林野庁の記録にも載っている話だ。
サミーはいった。「そうですね。わたしたちはこの人物が、いまどこにいるかを知りたいのです」
この六十年間、トライランド星の星系を訪れた星間船は皆無だ。〈〈つまり、彼はここにいるはずだ!〉〉
「というと、ドカインが独自の情報を隠しもっているかもしれないとお考えなんですか? この三年間にあれだけ騒ぎになったのに、まだなにか有用な情報が残っていると?」
サミーは暴力に訴えたい衝動にかられたが、がまんした。この捜索には何世紀も費やしたのだ。あとすこしの辛抱くらい、なんでもないだろう。
「そうです」穏やかに、慎重にいった。「すべての疑問に答えるために、必要なのですよ」
「なるほど。あなたがここを訪ねていらっしゃったのは正解ですよ。わたしは林野庁の連中がかえりみない、市井《しせい》の情報に通じていますからね。よろこんで協力しましょう」探偵は収集分析したデータを眺めはじめた。どうやらまったくの無駄足ではなかったようだ。「あのエイリアンからの無線電波は、わたしたちの世界を一変させる可能性がある。わたしは自分の子どもたちを――」
探偵は眉をひそめた。
「おやおや! 惜しいところでビドウェルを取り逃がしましたよ、船団長。ほら、十年前にこいつは死んでいる」
サミーは無言だったが、穏やかな物腰はさすがにたもてなかったらしい。小男の探偵はサミーを見あげて、ぎょっとした顔になった。
「と……とても残念ですね。もしかしたら私物とか、遺言とかが残っているかもしれない」
〈〈まさか。あともうすこしだったのに〉〉
しかし、そういう可能性があるのは最初からわかっていた。人の命は短く、恒星間の距離ははるかに長いこの宇宙では、よくあることなのだ。
「この男が残したすべてのデータに、わたしたちは興味をもっているのです」サミーはいったが、その言葉はむなしく響いた。
〈〈すくなくとも幕引きにはなるな〉〉
この口数の多い情報アナリストから聞き出せるのは、もうそれくらいだろう。
探偵は手もとの機器のキーを叩いたり、小声で指示したりした。林野庁はこの小男のことを、民間人としてはきわめて優秀な部類に属すると、しぶしぶながら認めていた。データを念入りに分散させているので、単純に機器類を没収して男を連行するというわけにはいかないのだ。いまは心から協力する気になっているようだが……。
「遺言はありそうですね、船団長。しかしグランドビル市のネットにはない」
「ほかの都市ということかな?」林野庁が各都市のネットワークを分割管理しているのは、トライランド星の将来にとってひどく不利益なことだ。
「……というわけでもないんです。ほら、ドカインが死んだ場所は、ローシンダー市にある聖シュピア教団の貧困者むけ養老霊園です。ここの僧たちがドカインの私物を保管しているようです。応分の寄付をすれば、ひきかえに渡してくれるでしょう」
巡査たちにちらりと目をやって、探偵はこわばった表情になった。そのなかの最年長者である、都市保安局長の存在に気づいたからだろう。寄付などしなくても、彼らは僧侶からなんでもとりあげられるはずだ。
サミーは立ちあがって探偵に礼をいったが、自分でもそらぞらしく聞こえた。巡査たちのいるドアのほうへもどりはじめると、探偵があわてたように机をまわって追いかけてきた。サミーはふいの困惑とともに、調査料を支払っていなかったことに気づいた。ふりかえりながら、この小男を急に好ましく思いはじめた。こわもての巡査たちにかこまれながらも料金の請求を忘れないとは、尊敬に値する。
「ああ、わかった。支払いはこれで――」
サミーはいいかけたが、相手は両手をあげた。
「いえいえ、お代はけっこうです。ただちょっと、お願いがあるのですよ。じつはわたしはかなりの家族持ちでしてね、すごく頭のいい子どもたちがいるんです。今回の共同遠征隊はたしか、五年から十年のうちにトライランド星を出発するのでしたね? そこでうちの子どもたちを、いや、せめて一人でも――」
サミーは首をかしげた。遠征の成否にかかわるようなことでの利益提供は、リスクが大きすぎる。
「残念だが――」できるかぎり穏便《おんびん》な返答をした。「あなたのお子さんたちもほかの人々とおなじところで競争させるべきですね。大学で勉強させ、募集されるさまざまな専門職を目標にさせるといい。そのほうが近道ですよ」
「わかっていますとも、船団長! わたしがお願いしたいのはまさにそのことなのです。ぜひ、その――」探偵は大きく息をし、巡査たちなど無視してサミーだけを見つめた。「――わたしの子どもたちが大学での勉強を許されるように、船団長のほうから当局に働きかけてはもらえないでしょうか」
「ああ、いいですとも」大学の入学資格についてちょっとした口|利《き》きをするくらい、なんということはない……。しかしそこでやっと、相手がいっていることの本当の意味に気がついた。
「ご安心なさい。かならずそうしますから」
「ありがとう、ありがとうございます!」サミーの手に渡した名刺にふれた。「ここにわたしの名前と関連情報があります。いつも更新しておくようにしますから、なにとぞお忘れなく」
「わかりました、ええと……ボンソルさん。憶えておきますよ」
こういうことは古典的なチェンホー流の取り引きだ。
グランドビル市の眺めが、林野庁の小型飛行機の眼下に遠ざかっていった。ここの人口は五十万人ほどだが、その住み処《か》はねじくれたスラム街だ。上空の空気が夏の暑さでゆらいでいる。周囲には、第一次入植者の所有する森林が数千キロかなたまでつづいている。こちらは土地環境成形《テラフォーム》されたままの手つかずの原生林だ。
飛行機は澄んだ藍色の空へ舞いあがり、南へむかいはじめた。サミーは、真横にすわっているトライランド都市保安局長の存在を無視していた。いまはべつに外交的な対応が必要なときではないし、そんな気分でもない。副船団長のキラ・リゾレットに通信回線をつないだ。キラの自動応答プログラムがサミーの視界に報告文を流しはじめた。スム・ドトランがスケジュール変更を承認したようだ。これで全船がオンオフ星に出発できることになった。
「サミー!」キラの声が自動応答プログラムに割ってはいってきた。「首尾はどうだったの?」
今回の遠征の本当の目的が人探しであることを船団のなかで知っているのは、サミーをのぞけば、キラ・リゾレットだけなのだ。
「それが――」〈〈まにあわなかったんだ、キラ〉〉しかしそうはいえなかった。「観ればわかるさ、キラ。わたしの過去二千秒の視点映像をな。いまはローシンダー市へむかっているところだ……最終確認のために」
しばし沈黙があった。しかしリゾレットの手にかかれば、索引付きデータの検索などあっというまだ。やがて、つぶやき声の悪態が聞こえた。
「そう……でもその最終確認はしっかりとね、サミー。おなじようにまにあわなかったと思いこんだことが、これまで何度もあったんだから」
「でも今度は確実なようだ、キラ」
「だからこそ、確実なうえにも確実にといってるのよ」キラは芯《しん》の強い声でいった。
彼女の一族はこの船団のかなりの部分を所有していて、キラ自身も一隻を所有していた。じつはこの遠征にみずから参加している船主は、彼女だけだった。とはいえ、厄介なことはなにもなかった。キラ・ペン・リゾレットは、ほとんどの事案について理性的に判断できる人物なのだ。しかし、この件についてだけはべつだった。
「確実にやるよ、キラ。本当だ」
サミーはふいに、トライランドの保安問題をあずかる女ボスが、すぐ隣にすわっていることを意識した。そして、いましがた見た報告文のことを思い出しながら、訊いた。
「軌道上はどんな具合ですか?」
都市保安局長はもうしわけなさそうな軽い口調で答えた。「だいじょうぶです。造船所からは権利放棄の書類がとどきましたし、月面工場や小惑星採掘所との契約も確定的です。計画のこまかい詰めの作業もつづけています。三百メガ秒のうちには必要な装備と、専門職乗組員の補充を終えられるでしょう。トライランド人は今回の遠征の配当にとても期待しているのですよ」
その口調には薄笑いが感じられた。サミーと局長との音声回線は暗号化されているのだが、サミーの側から内容はいくらでも洩れていることを、彼女は承知しているのだ。トライランド人は船団の顧客であり、もうすぐ遠征計画の共同経営者ともなるはずだが、いまはまだ交渉上の立場を考えたいいまわしをしていた。
「たいへんけっこうです。では、もしそのリストのなかにこういう項目がなかったら、一文をつけくわえていただけませんか。当方はできるだけ優秀な専門職乗組員を求めており、ゆえに林野庁が管轄する大学講義プログラムを、第一次入植者の子息だけでなく、当方の試験を通過した者全員に開放することを要求する=v
「もちろん、いいですとも……」既存リストを再確認しているらしく、しばらく黙りこんだ。
「おやおや、なぜこんなだいじなことを忘れていたのでしょうか」
〈〈なぜなら、格下だからといって見くびると痛いめに遭《あ》わされることがときどきあるから、だろう……〉〉
千秒ほどのち、ローシンダー市が眼下に近づいてきた。ここは南緯三十度に近く、市街の周囲に広がる凍結した荒野は、赤道地方の入植以前の時代を記録した映像そっくりだった。五百年前、第一次入植者は温室ガスをいじって、とても美しくテラフォームされた生態系を出現させたのだ。
大地に大量の黒いしみがこびりついたところがあり核汚染の心配のない<鴻Pット燃料を何世紀も使いつづけた結果だ――そのまんなかに、ローシンダー市があった。ここはトライランド星最大の地上側宇宙港なのだが、最近建設されたらしい街区でさえ、この惑星のほかの都市とおなじように薄汚れ、スラム化していた。
小型飛行機はプロペラに切り換えてばたばたと市街上空を飛び、ゆっくりと高度をさげていった。日差しはとても低いところにあり、通りはほとんどが影につつまれている。そしてそれらの道は、市街から遠ざかるにしたがってしだいに細くなっていった。注文生産の複合素材を使った建物は消え、かつては貨物コンテナだったとおぼしい四角い箱にとってかわられていく。
サミーは陰気な気分でその街なみを眺めた。第一次入植者は何世紀もかけて、たしかに美しい世界をつくりあげた。しかしそれはいま、崩壊の道をたどりはじめているのだ。テラフォームされた世界に共通する課題だ。このテラフォーム技術の成果を、さほどの苦痛をともなわずに多くの人々に分けあたえる方法は、すくなくとも五通りはある。しかし第一次入植者と彼らの牛耳《ぎゅうじ》る林野庁≠ェ、そのどれも実行したがらないとなると……。まあ、船団がここにもどってきたときには、ふたたび歓迎してくれる文明はもう残っていないかもしれない。近いうちに、支配階級の人々と腹を割った話しあいをしなくてはならないようだと、サミーは思った。
四角い共同住宅のあいだに飛行機が乱暴に着陸すると、サミーは考えを現在に引きもどした。
サミーと林野庁の巡査たちは半解けの雪のあいだを歩いていった。建物のあがり口の階段には、服を詰めこんだ箱がごちゃごちゃと積み重ねられている――寄付の品物だろうか。巡査たちはそれをよけて階段をあがり、屋内にはいっていった。
養老霊園の園長はソン修道士と名のり、自身がいつ墓にはいってもおかしくない年に見えた。
「ビドウェル・ドカイン?」修道士はそわそわして、視線をサミーからそらした。サミーがだれかは知らないようだが、林野庁の連中を知らないはずはなかった。「ビドウェル・ドカインは十年前に死にましたよ」嘘をついている。こいつは嘘をついている!
サミーは深呼吸をして、薄ぎたない部屋のなかを見まわした。ふいに、乗組員たちの噂話に登場する凶暴な船団長≠ェ、自分のなかで頭をもたげてくるのを感じた。
〈〈神よ、お許しを。しかしこいつから真実を聞き出すためなら、どんなことでもするぞ〉〉
ソン修道士にむかって友好的に微笑みかけようとしたのだが、あまりうまくいかなかったらしい。老人はあとずさった。
「養老霊園は死を間近にひかえた人々のための場所だそうですね、ソン修道士」
「だれもが残された時間を穏やかに、充足して送れるようにする施設です。もちこまれる資金はすべて使い、頼ってくる人はすべて受けいれます」
矛盾《むじゅん》だらけの情況にあるトライランド星では、ソン修道士の素朴な態度は痛々しいほどの正論にささえられていた。彼はもっとも貧しく、もっとも病《や》んだ人々を、できるかぎり助けているのだ。
サミーは片手をあげた。「教団のすべての養老霊園に、それぞれ百年分の予算を寄付しましょう……もし、ビドウェル・ドカインのところへ案内していただけるなら」
「それは――」ソン修道士はまた一歩あとずさって、どさりと椅子に腰をおろした。サミーにその提案を実行する力があるらしいことは、なんとなくわかったようだ。そうだとすると……。
しかしふたたび顔をあげたとき、老人は必死に意地をはる目つきでサミーを見た。「いいえ。ビドウェル・ドカインは十年前に死んだのです」
サミーはそばまで歩いていって、老人の椅子の肘《ひじ》掛けをつかみ、顔を近づけた。「わたしに同行してきたのがどういう連中かはご存じでしょう。わたしがひと声かければ、彼らがこの養老霊園を徹底的に破壊できることもわかっているはずだ。ここで探しものがみつからなければ、この世界にあるあなたの教団の養老霊園がひとつ残らずそうなるのですよ」
ソン修道士は充分にわかっているようだった。林野庁がどんな連中かはよく知っている。にもかかわらず、ソンが強情をはりつづけるのではないかと、サミーはつかのま心配した。
〈〈もしそうなら、やるべきことをやるだけだ〉〉
しかしふいに、老人は内側のつっかい棒が折れたようになり、声もなく泣きはじめた。
サミーは肘掛けを放して背中を起こした。しばらくして、老人は泣きやみ、よろよろと立ちあがった。サミーのほうを見もせず、なんの身ぶりもなく、ただとぼとぼと部屋の外へ歩きだした。サミーと一行はそのあとをついていった。
彼らは一列になって長い廊下を歩いた。そら恐ろしい眺めだった。恐ろしいのは暗かったり壊れていたりする照明灯のせいでも、漏水《ろうすい》のしみだらけの天井板のせいでも、薄汚れた床のせいでもない。廊下にそってならぶソファや車椅子にすわっている、たくさんの人のせいだ。ただすわって、ぼんやりと見ている……空中を。はじめサミーは、ヘッドアップディスプレーをつけて同感性映像かなにかを見ていて、それで視線が遠くをむいているのかと思った。しかしよくよく見てみると、何人かはなにごとかしゃべっているし、何人かはわけのわからないしぐさをいつまでもくりかえしている。そのうち、壁の行き先案内などがじつは映像ではなく、ペンキでじかに描かれていることに気がついた。ここにいて見えるものは、剥《は》がれかけた無機質な壁材だけなのだ。廊下にすわった衰弱した老人たちの目は、裸眼《らがん》で、虚《うつ》ろだった。
サミーはソン修道士のうしろにぴったりついて歩いた。修道士も勝手にぶつぶつしゃべっていたが、こちらの内容は理解できた。あの男について話しているのだ。
「ビドウェル・ドカインはつきあいやすい人間ではなかった。好感をもてるような人間ではなかった。最初からそうだった……いや、とりわけ最初はそうだった。むかしは金持ちだったというが、ここに来たときは一文なしだった。最初の三十年間、彼はだれよりもよく働いた。あの頃はわたしも若かった。どんな仕事もきたなすぎたり、きつすぎたりはしないのに、彼はあらゆる人をののしり、あらゆる人をばかにした。病人の最期《さいご》を徹夜で看取《みと》ってやり、そのあとでせせら笑うようなやつだった」
ソン修道士は過去形で話していたが、べつにそれは、ドカインは死んだのだとサミーに説明しているわけではないようだった。といって独《ひと》り言でもない。むしろ、もうすぐ死ぬ男のまえで当人の行状を述べているかのようだった。
「そして年月がたつうちに、だれでもそうだが、彼もだんだん園内の仕事ができなくなった。たくさんの敵がいるという話をし、みつかったら殺されるといっていた。わたしたちがかくまってやるというと、笑い飛ばした。そして最後は、その下劣さだけが残った言葉以外のところで」
ソン修道士は大きなドアのまえで立ち止まった。その上には派手な装飾書体で、サンルームへ≠ニ書かれている。
「夕日を見ているなかの一人が、ドカインですよ」しかし修道士はドアをあけようとしない。彼らの行く手をはばわけでもなく、ただうなだれて立っていた。
サミーはそのわきをすり抜けていこうとして、ふと立ち止まって、いった。「さきほどお話しした寄付のことですが、教団の口座に振り込んでおぎますよ」
老人は顔をあげようとはせず、サミーの上着に唾を吐きかけて、巡査たちを押しのけながら廊下のむこうへ去っていった。
サミーはドアにむきなおり、その機械式の掛け金に手をかけた。
「ちょっと……」都市保安局長がいった。そして近づいてきて、低い声で話しかけた。「もうしあげにくいのですが、このような護衛の役はわたしたちの仕事ではありません。本来はご自分の部下を連れてきていただくべきでした」
おやおや。「そのとおりですね、局長。ではなぜ、こちらが部下を同行させたいといったときに拒否なさったのですか?」
「わたしの決定ではありません。巡査のほうがめだたないと上層部が考えたのでしょう」局長は目をそらした。「なんというか……あなたがたチェンホーは長年のあいだに多方面で恨《うら》みをかっていますからね」
サミーはうなずいたが、それは個人がどうこうではなく、顧客文明単位の話だ。
局長はようやくまっすぐにサミーを見た。「とにかく、わたしたちは協力しました。あなたの捜索の動きが、その……目標の人物に洩れないように万全を期しました。しかしこの男の始末をつけるのは、わたしたちの仕事ではありません。なにも見ないことにします。あなたを止めはしませんが、わたしたちは手を出しません」
「なるほど」たいした道徳観念の持ち主だ。「まあ、わたしのじゃまをしないでいただければ、それで充分です。あとは自分一人でできますから」
局長はすばやく二、三度うなずき、うしろに退がった。そしてサミーが、サンルームへ≠ニ書かれたドアをあけても、ついてこなかった。
空気は冷たくよどんでいたが、じめじめして悪臭ただよう廊下にくらべればましだった。サミーは暗い階段を降りていった。なかば屋内でなかば屋外のような空間だ。以前は駐車場へ降りる裏口だったようだが、いまはまわりをビニールシートでおおわれ、屋根付きパティオのようになっていた。
〈〈廊下の老人たちのようなみじめな状態だったらどうするか……〉〉
彼らは医学的な限界を超えた高齢者のようだった。あるいは非常識な実験の犠牲者か。精神がずたずたに破壊されているのだ。そういう結末を本気で考えたことはなかったのだが……。
サミーは階段の下まで降りた。角《かど》を曲がったところには日がさしている。手の甲で口もとをぬぐい、しばらくじっと立ちつくした。
〈〈行こう〉〉
サミーは歩きだし、広い部屋にはいった。駐車場の一部だったらしいところが、半透明のビニールシートでテントのようにかこわれている。暖房はなく、ビニールの継ぎめをぽたぽたと鳴らしてすぎま風が吹きこんでくる。広い場所のあちこちにおかれた椅子に、毛布にくるまった塊《かたまり》がいくつもじっとうずくまっている。彼らはとくにどちらかをむいているわけではなく、なかには建物の灰色の外壁を見ている者もいた。
しかしそういったことは、ほとんどサミーの目にはいってこなかった。いちばん遠くの端に、屋根のビニールが裂けているのか透明になっているのか、傾いた日差しがじかにさしこんでいる場所があり、その光のまんなかに首尾よくおさまっている一人の老人の姿があった。
サミーはゆっくりとそちらへ歩いていった。赤と金色の夕日を浴びているその人物から、かたときも目を離すことができなかった。容貌にはチェンホーのなかでも上流の家系に属する人種的特徴がある。しかし顔そのものに見覚えはなかった。不思議はない。顔などとうのむかしに変えているはずだ。だからサミーは上着にDNA読み取り機を忍ばせていたし、男の本当のDNAコードもデータとしてもっていた。
老人は毛布にくるまり、分厚い毛糸の帽子をかぶっていた。じっと動かず、なにかを見ている。日没を眺めているのだ。
〈〈この男だ〉〉理性的な考えとはべつのところから、確信が湧きあがってきた。感情の波が押しよせた。〈〈完全な状態ではないかもしれないが、この男だ〉〉
サミーは空《あ》いている椅子を引きよせ、光のなかで男とむかいあうようにすわった。百秒、二百秒がすぎた。日没の最後の光が薄れていく。男の視線は虚ろだが、頬に感じる冷たさに反応しはじめていた。首が動き、かすかになにかを探している。ようやく訪問者に気づいたようだ。
サミーはすこし横をむいて、自分の顔に夕焼け空の光がじかにあたるようにした。男の目のなかでなにかが動いた。困惑や、記憶が、深い闇の底から浮かびあがってくる。ふいに男の手が毛布のなかから飛び出し、鉤爪《かぎづめ》のように指を曲げたまま、サミーの顔にむかって突き出された。
「おまえは!」
「そうです、わたしです」
八世紀におよぶ捜索が、いま終わった。
男は車椅子のなかで居心地悪そうに姿勢を変え、毛布をなおした。しばらく黙りこくっていたが、やがて途切《とぎ》れとぎれに話しはじめた。
「おまえの……仲間たちがまだ探しているはずなのはわかっていた。ここのシュピア教のまぬけどもに金を握らせたが……それで安全だと思っていたわけじゃない」男は椅子のなかでまた身動きした。サミーが以前には見たことのない光が、その目にはあった。「わかってる。それぞれの家系がすこしずつ協力したんだろう。チェンホーのどの船にも、すくなくとも一人はおれを探している乗組員がまじっていたはずだ」
男の居場所をつきとめるためにどんな捜索がおこなわれたか、その全容は知らないのだ。
「あなたに危害をくわえるつもりはありませんよ」
男は耳ざわりな笑い声をたてた。反論するわけではないが、信じてはいないのだ。「おまえがその任務をおびてトライランド星に送られたのが、おれにとっては不運だったな。頭のいいおまえならみつけられる。ここの当局もうまくあやつれただろう、サミー。おまえは船団長か、もっと上の地位かもしれない。暗殺を命じられたただの手先ではあるまい」
男はまた姿勢を変え、尻を樹くように下に手をのばした。なにがあるのか。痔疾《じしつ》か。腫瘍《しゅよう》か。
〈〈いや、尻の下に拳銃を敷いているのにちがいない。長い年月のあいだもずっと用心は忘れていなかったはずだ。それがおりあしく、毛布のなかに巻かれてしまっているんだ〉〉
サミーは熱心に話すようすで身をのりだした。男はさっと身をかたくしたが、それでもいい。こういう情況でなければこの男はしゃべらないだろう。
「ようやくみつけられました。じつはわたしも個人的に、あなたはここにいるだろうという気がしていたんです。オンオフ星のことがありますからね」
こっそりと毛布のなかを探っている手が、しばし止まった。老いた顔に薄笑みが浮かんだ。
「ここからほんの五十光年先なんだぞ、サミー。人類宇宙にもっとも近い謎の天体だ。なのにおまえたちチェンホーの臆病者どもは行ってみようともしない。とてつもない利益が眠っているかもしれんのに」あきれたように右手をふりながら、左手はさらに毛布の奥へ突っこんだ。
「しかしその意味では、人間ぜんぶがだめだな。八千年にわたって望遠鏡で観測し、無人探査機を二度飛ばしただけで、あとはろくな評価もしない……。おれは、ここまで近くに来れば、有人の遠征隊を組織できるかもしれないと思ったんだ。そうすればなにかを、なにかすごいものをみつけられるかもしれない。そうして帰ってきた暁《あかつき》には――」
その目にまた、さきほどの奇妙な光が浮かんだ。不可能な夢をあまりに長くみつづけたために、正常な精神を失ってしまったようだ。かつてのこの男はかけらも残っていない。すっかり狂っている。
しかしこの異常者が負っている負債は、いまも現実の負債なのだ。
サミーは顔を近づけた。「やる機会はあったはずです。ビドウェル・ドカイン≠ェその影響力の頂点にあったとき、一隻の星間船がこの星に立ち寄っている」
「あれはチェンホーだった。くそったれのチェンホーだ! おれはおまえたちと手を切ったんだ」
その左手はもう毛布を探ってはいなかった。どうやら拳銃をみつけたらしい。
サミーはそっと手をのばして、毛布の上からその左腕に軽くふれた。力で押さえつけているのではない。わかっている……しかしあとすこし話す時間を、という意味だ。
「ファム、いまはオンオフ星をめざすにたりる理由があるのです。チェンホーの評価基準に照らしても」
「なんだって?」
腕に手をかけられたせいか、サミーがいった内容のせいか、もう長いこと使っていない名前で呼ばれたせいか――とにかく、つかのま老人は動きを止め、サミーの話を聞いた。
「わたしたちがこの星への途上にあった三年前、トライランド人がオンオフ星から発される電波を観測したのです。火花ギャップを使った無線機です。文明が没落して科学技術の歴史をすべて失ったあとに、ふたたび発明するであろうような代物《しろもの》です。わたしたちも自前の配列アンテナを広げて、独自に分析しました。電波は手動のモールス信号に近いものですが、人間の手と反射神経では考えられないリズムなのです」
老人はしばらく声もなく口をあけしめしていたが、やがて聞きとれないほどの小声でいった。
「まさか……ありえない」
サミーは思わず笑みを浮かべた。「あなたの口からそんな言葉を聞くとは、意外ですよ」
さらに沈黙が流れた。男はがっくりとうなだれた。「大当たりだな。おれは六十年差でつかみそこなった。そしていま、おまえがおれを追いかけてきたおまえが……儲《もう》けをぜんぶかっさらうわけだ」
腕はまだ毛布のなかだったが、内心の敗北感に打ちひしがれた老人の背中は、車椅子のなかで大きく曲がった。
「わたしたちのうち何人かは――」何人かどころではないが。「――ずっとあなたを探してきました。あなたは巧妙に足跡を消していたし、捜索そのものを秘密にすべき月並みな理由もあった。しかし、わたしたちはあなたに敵意をもっているわけではありません。あなたを探し出して、そして――」償《つぐな》いをさせたいのか。許しを請《こ》わせたいのか。サミーにはうまい言葉がみつからなかったが、どれも的《まと》はずれだ。結局、この男の見込みがまちがっていただけなのだから。そこで、現在の話だけをすることにした。「わたしたちといっしょに来ていただけませんか――オンオフ星へ」
「ばかな。おれはもうチェンホーじゃないんだ」
サミーは自分の船の位置をつねに把握していた。ちょうどそれは……。試してみる価値はありそうだ。
「わたしは一隻だけでトライランド星へ来たわけではありません。船団を率いてきました」
相手の顎《あご》がかすかにあがった。「船団?」反射的な興味は、まだ死んでいないようだ。
「近くの停泊位置にいるのですが、ちょうどいま、このローシンダー市から見えるはずです」
老人は肩をすくめただけだったが、両手は毛布の外に出して膝の上においていた。
「お見せしましょう」
数メートル先に、ビニールシートを切りひらいた出入り口があった。サミーは立ちあがり、ゆっくりと車椅子を押しはじめた。老人はなにもいわなかった。
外は寒かった。たぶん氷点下だろう。前方の屋根の上にすこしだけ夕日の色が残っているものの、暖かい昼の名残《なこり》は、靴にしみをつくった半解けの雪しかない。サミーは車椅子を押して、西の空がよく見えそうな駐車場の端へむかった。老人はぼんやりとまわりを見ている。
〈〈外へ出るのは何年ぶりかなのだろう〉〉
「この|お茶会《ティーパーティ》に、ほかの客が来るということはないのか、サミー?」
「客?」駐車場には彼ら二人だけだった。
「ここよりもっとオンオフ星に近い人類の植民世界もあるだろう」
もめごとという意味のティーパーティ≠ゥ。「ええ。彼らの動きはつねに監視しています」三連星の星系に、ここ数世紀のあいだに未開状態から復活した三つの美しい世界があるのだ。「彼らはいま、エマージェント文明≠ニ名のっています。チェンホーがまだ接触したことのない相手です。独裁制で、高度な科学技術をもっていますが、閉鎖的で内向的な文明のようです」
老人は低い声でいった。「内向的だろうがなんだろうが知ったことか。こんな餌《えさ》を目のまえにぶらさげられたら……死人でも墓から出てくるはずだ。大砲もロケットも核兵器も用意していけ、サミー。積みきれないくらいの核をだぞ」
「わかりました」
サミーは老人の車椅子を駐車場の端で止めた。ヘッドアップディスプレーのなかではゆっくりと空を昇ってくる船団が見えているのだが、肉眼ではまだ隣の共同住宅に隠れていた。
「あと四百秒後に、あの屋根の上あたりにあらわれるはずです」そこを指さした。
老人はなにも答えず、漠然と空を見ていた。
大気圏航空機や、ローシンダー市の宇宙港を発着するシャトルが何機か飛んでいる。まだ空には明るさが残っているが、肉眼でも半ダースほどの人工衛星が見わけられた。西の空で小さな赤い光点が点滅しているのは、実際に見える物体ではなく、サミーのヘッドアップディスプレー内に表示されたマーカーだ。オンオフ星の位置を表示させているのだ。サミーはその光点をしばらく見つめた。たとえ夜で、ローシンダー市の街の明かりから離れた場所でも、オンオフ星をはっきりと見ることはできない。しかし小さな望遠鏡を使えば、ふつうのG型恒星として見えるはずだ……いまのところは。あと数年したら、配列型巨大望遠鏡を使わなければいけないくらいに暗くなっているだろうが。
〈〈われわれの船団がそこに到着するときには、二世紀にわたる暗期は終わりに近づき、ふたたび輝きはじめる日がせまっているはずだ〉〉
サミーは車椅子のかたわらに片方の膝をつき、冷たい半解けの雪がしみこんでくるのもかまわず話しはじめた。
「わたしたちの船団について説明しましょう」
各船のトン数や設計仕様や船主を教えた――ただし、一部の船主については伏せておいた。
この老人が手もとに銃をもっていないときに話したほうがよさそうな名前もふくまれていたからだ。話しながら、サミーは相手の顔を観察した。老人は、あきらかに話を理解しながら聞いていた。サミーが新たな名前を挙《あ》げるたびに、低く単調な声で悪態をついた。しかし最後の名前には、とりわけ強く反応した――
「リゾレット? ストレントマン人くさい名前だな」
「そうです。副船団長はストレントマン人です」
「そうか」老人はうなずいた。「彼らは……まあ、いい連中だ」
サミーはそっと笑みを浮かべた。今回の遠征は出航までの準備に十年かかる予定だ。それだけの時間があれば、この男の肉体的な健康はとりもどせるだろう。その妄念《もうねん》もすこしはやわらげられるかもしれない。サミーは相手の肩のあたりで、車椅子のフレームを軽く叩いた。
〈〈今度はあなたを一人きりにはしませんよ〉〉
「さあ、わたしの船団の最初の船が出てきます」
サミーはまた指さした。一秒後に、共同住宅の屋根のむこうから明るい星があがってきた。暮れなずむ空を堂々と昇っていく、まばゆい宵《よい》の明星《みょうじょう》のようだ。六秒後に、二隻めの船があらわれた。また六秒後に三隻め。さらに四隻め。五隻め。六隻め。そしてすこし長い間隔をおいて、最後にひときわ明るく輝く船が出てきた。
船団は高度四千キロの低軌道の停泊位置にいる。これだけ離れると、視角にして〇・五度の間隔でならんだ光の点にすぎない。空の見えない直線上にならんだ小さな宝石だ。おなじ低軌道に浮かんだ星系内貨物船や、なにかの建設現場の光にくらべると、あまり存在感はない。しかし、これらの光の点がどれほど遠くから飛んできたか、そしてこれからどれほど遠くまで旅していくかを知っていれば、見る目は変わる。
サミーには、老人がかすかに驚嘆の吐息を洩らすのが聞こえた。彼にはわかるのだ。
二人は、七つの光の点がゆっくりと空に昇っていくようすを見つめた。その沈黙をサミーがやぶった。
「いちばん下に明るいのがあるでしょう」星座のペンダントに吊されたひときわ大きな宝石だ。「かつて建造されたなかで最大級の星間船で、わたしの旗艦……ファム・ヌウェン号です」
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弟一部 百六十年後――
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オンオフ星に到着したのはチェンホー船団が一番だったが、だれもそのことをよろこんではいなかった。旅の最後の五十年間は、おなじ目的地へむかって減速するエマージェント船団の噴射煙がずっと観測されていたからだ。
両者は見知らぬ者どうしとして、それぞれの本拠地から遠く離れた場所で出会った。もちろん、チェンホーの商人たちにとってこういうことは日常茶飯事だ――ふつう、出会いは商売のチャンスであり、懸念《けねん》されるものではない。
しかし、ここには宝が眠っている。氷漬けになっていて、まだどちらのものでもないのだ。それを略奪するか、搾取《さくしゅ》するか、開発するかは、当事者の性格しだいだ。仲間たちから遠く離れ、社会的なつながりから遠く離れ……目撃する者からも遠く離れている。背信行為を試みた者が実利を得られそうな条件がそろっているわけだ。どちらもそのことを充分に承知していた。
チェンホーとエマージェントの両船団は、何日もおたがいの意図と火力を探りあった。合意とその修正がくりかえされ、共同着陸の計画が話しあわれた。それでもチェンホーの商人たちは、エマージェントの真の意図を見きわめられずにいた。だからエマージェント側から晩餐会への招待状がとどいたときには、一部の者はほっと安堵のため息を洩らし、一部の者は黙って歯ぎしりした。
トリクシア・ボンソルがエズルのほうに肩を寄せ、首をかしげて、自分たちにしか聞こえない声でいった。
「どう、エズル? 味はちゃんとしてるわね。こっちを毒殺する気はないみたい」
「まあ、へんな味はしないね」エズルは、肩がふれあったことでどきどきする胸を抑えながら、小声でいい返した。
トリクシア・ボンソルは惑星生まれで、専門職乗組員の一人だ。トライランド人によくある、相手をすぐに信用してしまう性格でもある。そしてエズルのことをいつも、商人くさい疑心暗鬼の塊《かたまり》≠ニからかっていた。
エズルはテーブルに目をはしらせた。
パーク船団長は晩餐会に百人の部下を連れてきていたが、そのなかに戦闘員はかぞえるほどしかふくまれていない。席についたチェンホーたちとエマージェントの乗組員は、ほぼ同数だ。エズルとトリクシアの席は、船団長のテーブルから遠く離れていた。エズル・ヴィンはただの商人実習生、トリクシア・ボンソルは言語学の博士課程修了者にすぎないのだ。
このあたりにすわっているエマージェントも、おなじように階級の低い者だろう。エマージェントは権威主義に凝《こ》り固まった連中らしいというのが、チェンホー側での推測だったのだが、この席で見るかぎり、階級章のたぐいはとくに身につけていないようだ。
彼らのなかには話し好きもいたが、その固有語は放送標準語とそれほどちがわず、理解しやすかった。エズルの左隣にいる青白い肌の大柄な男は、食事のあいだ、のべつまくなしにしゃべっていた。この男、リッツァー・ブルーゲルは、戦闘プログラマーらしかったが、エマージェントでそのような職名は使われていないようだ。ブルーゲルは両船団がこれからどのような協力をしていくべきかについて、いろいろな案をまくしたてていた。
「こういうケースはよくあるんだよ。連中が技術を覚えないうちに――というか、再獲得しないうちに、やっちまうんだ」
しかしブルーゲルが話している相手はエズルではなく、おもにファム・トリンリ老人だった。見ための年齢がなにか特別の権威をあらわしていると、ブルーゲルは思いこんでいるらしい。実際には、年をとってまだこんな下《した》っ端《ぱ》の階級に甘んじているのは、そいつがいかに無能であるかの証拠なのだが。
エズルは、無視されてもべつにかまわなかった。気をそらされずに相手を観察できるので、むしろ好都合だ。ファム・トリンリは注目されることに気をよくしていた。おなじ戦闘プログラマーである相手の話に負けじと、威勢のいい話を次々とくりだしている。エズルはわきで聞いていて鼻白《はなじろ》んだ。
エマージェント文明について認めなくてはならないのは、その科学技術だ。星間空間を高速航行するラムスクープ船をもっているのだから、技術力はたしかだ。しかもそれは文明の衰退期に残された知識ではないらしい。通信やコンピュータの使用能力はチェンホーに匹敵する――そのためにチェンホー側の保安担当部局は、たんに相手が秘密主義的だからという以上に、エマージェント船団のことを警戒していた。チェンホーには黄金期をきわめた多くの文明の精髄が集められている。こういう情況でなければ、エマージェント文明の技術力は大きな利益をもたらす商売の種になったかもしれないくらいなのだが。
技術力もあり、また勤勉でもある。一瞥《いちべつ》しただけでも、この部屋のすばらしさはわかった。
ラムスクープ船の居住区画は、たいていが失笑をかうようなつくりだ。星間船の設計では、宇宙線の遮蔽には気をつかっても、構造的な強度はほどほどにしか見込まれていない。光速の何分の一かに達する速度でも、恒星間航行には何年もかかるので、乗組員と乗客はほとんどの時間を棺《ひつぎ》のなかで冷凍睡眠にはいってすごすからだ。
しかしエマージェントの連中は、居住空間ができるまえに乗組員の大半を解凍していた。そしてわずか八日でこの居住棟を組み立てた――しかも、最終段階の軌道修正をしながらだ。居住棟は直径二百メートル以上の不完全な環《かん》状で、二十光年もの距離をはるばる運んできた材料でつくられていた。
内装にも豊かさの一端《いったん》があらわれていた。全体としては、生命維持技術が未完成だった初期の時代に原初地球の太陽系でつくられた居住棟を思わせる、やや段階の低い古典主義の雰囲気があった。布やセラミック素材の使い方はすぐれているが、バイオ美術はまったく存在しないようだ。床のカーブを垂れ布や家具で隠すように工夫されている。通風口からの換気は音もなく、風通しのいい広い空間という印象をあたえるように絶妙に制御されている。窓はなく、居住棟の回転を補正した景色も映されていない。壁がのぞいているところは、繊細な手|描《が》きの絵――油彩画だろうか――でおおわれている。薄暗い照明のもとでも、その明るい色彩は輝いて見えた。
トリクシアはこれらの絵をもっとそばから観察したくてうずうずしているだろうと、エズルは思った。絵は言語以上にその人々の文化の内面をあらわすものだと、彼女はいつもいっていたからだ。
エズルはトリクシアのほうをむいて微笑んでみせた。彼女にはすぐに見|透《す》かされるだろうが、エマージェントの連中はごまかせるかもしれない。パーク船団長のような如才《じょさい》なさが身につけられたらなと、エズルは思った。船団長は上座《かみざ》のテーブルで、エマージェント船団のトマス・ナウと愛想よく話している。まるで学生時代からの親友のようだ。エズルは椅子にもたれて、二人の会話は聞きとれないまでも、それぞれの態度に注意をはらった。
エマージェントはかならずしも全員が笑顔でおしゃべりなわけではない。
上座のテーブルでトマス・ナウから何人かおいた席に、赤毛の女がすわっていた。紹介されたのだが、名前は思い出せなかった。きらめく銀のネックレスのほかは、禁欲的なほど地味な服装をしている。すらりとした身体《からだ》つきで、年齢はよくわからない。赤毛は今夜のために染めたのかもしれないが、肌が着色されていないのはすぐにわかる。エキゾチックな美人なのに、ぎこちない態度やかたく結んだ口もとが気にかかる。テーブルのあちこちを眺めまわしているが、だれとも話したくはないようだ。宴会の主催者は彼女の隣に客をすわらせていなかった。
エズルはトリクシアからよく、もうすこし頭がよかったらすごい女たらしになれるだろうにとからかわれていたのだが、この不気味な印象の女は、エズル・ヴィンの楽しい空想より、むしろ悪夢のほうに登場しそうだった。
上座のテーブルでトマス・ナウが立ちあがり、各テーブルをまわっていた給仕たちが退《さ》がった。着席したエマージェントと、自分の話に夢中になっている以外のチェンホーの商人たちは、黙ってそちらに注目した。
「星々を越えた友人関係に乾杯ってわけかな」エズルがつぶやくと、トリクシアに脇腹を肘《ひじ》でつつかれた。
彼女の視線はまっすぐ上座のテーブルをむいている。しかしエマージェントの船団長が本当にこう切り出したのを聞くと、トリクシアは吹き出しそうになった。
「友人たちよ、わたしたちはおたがいに遠い故郷をあとにしてきました」トマス・ナウは、宴会場の壁のむこうにある宇宙をしめすように、大きく手を広げた。「これまでわたしたちは、おそらくたいへんなまちがいを犯していたのです。この星系はとても奇妙です」
たしかに、二百五十年周期のうち二百十五年間は火が消えたままという、とんでもない変光星なのだ。
「千年以上前からさまざまな文明の天文物理学者は、この星系へ遠征隊を送るべきだと、それぞれの支配者に働きかけてきました」そこですこし黙って、にやりとした。「もちろんこの時代になるまでは、人類圏からあまりにも遠すぎ、金がかかりすぎるとみなされていました。そこへいま、人類のふたつの遠征隊が同時にやってきたのです」
宴席に皮肉っぽい笑みと、やれやれなんという不運かという空気が広がった。
「もちろん、こんな偶然が起きるにはそれなりのわけがありました。何年もまえにはこのような遠征をおこなうだけの積極的な理由はなかった。しかしいまはあります。あなたがたが蜘蛛《くも》族と呼ぶ種族です。これまでに発見されているなかでまだ三番めの、非人類系知的生命体なのです」
この星系のように環境のきびしいところで、そんな生命体が自然に生まれるはずはない。蜘蛛族は、人間がまだ出会ったことのない、星間旅行能力をもつ非人類系種族の末裔《まつえい》であるはずだ。そうだとすると、チェンホーがこれまで発見したなかでも最高の財産になるだろう。現在の蜘蛛族の文明が無線機を発見したばかりの段階となれば、なおさら魅力的だ。衰退した人類系の文明とおなじように、安全で御《ぎょ》しやすいはずだ。
ナウは謙虚そうに軽く笑って、パーク船団長をちらりと見た。「つい最近になって認識したのですが、わたしたちの強さと弱さ、過《あやま》ちと見識は、ちょうど補完できる関係にあるようです。あなたがたは遠くからやってきたが、既存の船を使って猛スピードで飛んできた。わたしたちは近くから来たが、時間をかけて荷物をたっぷり積んできた。どちらの情況判断も正確です」
オンオフ星は、人類が宇宙時代を迎えてからずっと配列型巨大望遠鏡で観察されていた。その恒星のまわりを、地球サイズで生命の兆候をしめす化学組成の惑星がまわっていることも、何世紀もまえから知られていた。オンオフ星がふつうの恒星なら、その惑星はもっと温暖だっただろう。しかし実際には、ほとんどの期間は凍りついた雪玉と化している。オンオフ星系には、ほかに惑星はない。星系でひとつきりのこの世界には月もないことを、古代の天文学者たちは確認していた。地球型の惑星も、巨大なガス惑星も、小惑星帯もない。彗星の巣となる微惑星群もない。オンオフ星のまわりはきれいさっぱりなにもないのだ。きわめて変化量の大きい変光星の場合はありうることだし、たしかにオンオフ星は、過去には爆発的な活動をしていたかもしれない。しかし、どうしてそこに一個だけ世界が生き延びたのか。それがこの星系にまつわる謎のひとつだった。
とはいえ、それらは最初からわかっていたことで、予定のうちだった。パーク船団長は到着早々に星系内をざっと調査し、凍りついた惑星から数キロトンの揮発物資源を運びあげた。じつはそのさいに、星系内で四つの岩が発見された――とても寛大な気分のときなら、小惑星帯と呼べなくはないかもしれない。大きいもので直径二キロのそれらの岩は、とても奇妙だった。無垢《むく》のダイヤモンドの塊だったのだ。トライランド人科学者はその由来について喧々囂々《けんけんごうごう》たる議論をたたかわせた。
しかしダイヤモンドは食べられない。すくなくとも生《なま》では無理だ。いつものように液体、気体、鉱物資源を現地調達できなければ、船団の生活は快適さをいちじるしく欠くことになるだろう。エマージェント船団は遅れて来たものの、幸運だった。科学者やその他の学術員はあまりともなっておらず、その星間船も船足が鈍《にぶ》いようだが……装備だけは満載でやってきたのだ。
エマージェント船団のボスはにこやかな笑みを浮かべて、演説をつづけた。「オンオフ星系で充分な量の液体と気体がある場所は一ヵ所だけ――蜘蛛族世界です」聴衆を前列から後列まで眺めまわしながら、とりわけ客に視線を集中させた。「蜘蛛族が目覚めるまで待ちたいと、あなたがたが思っていらしたのはわかっています。しかし身をひそめることで得られる利益などたいしたことはありません。それにわれわれの船団には起重船もあります。レナルト局長が――」そうだ、それが赤毛の女の名前だった!「――そちらの科学者とおなじ結論にいたったように、現地種族は原始的な無線機を発明した段階から、まださほど進歩していないようです。蜘蛛族≠ヘみんなまだ地面のなかで眠っており、オンオフ星が再発火するまでそのままのはずです」
再発火はおよそ一年後だ。オンオフ星がなぜこのような周期を刻むのかは不明だが、闇と光を往復するそのリズムは、過去八千年間ほとんど変わらなかった。
上座のテーブルの隣席ではS・J・パークが、トマス・ナウとおなじくらい誠実そうに笑みを浮かべていた。しかしこのパーク船団長も、トライランド星では林野庁に受けが悪かったものだ。その理由のひとつは、おなじ目的地へむかう第二の船団など影もかたちもなかった段階でも、パークが出航前の準備期間をぎりぎりまで削って出航を急がせたからだろう。到着するときも減速開始を遅らせ、ラムジェットが焼き切れるくらいの急ブレーキをかけて、なんとかエマージェントとの先陣争いに勝ったのだ。
おかげで先着者の権利と、その他の貴重ないくつかの財産の権利を主張できるようになった――ダイヤモンドの岩と、少々の揮発物資源だ。最初の何度かの着陸をおこなうまで、チェンホーはこの星に住む異種族の本当の姿も知らなかった。これらの着陸時には大きな建造物をざっと見てまわり、ごみ捨て場をあさっただけだったが、いろいろなことがわかったそれらはいま頃、両船団の取り引き材料になっているはずだ。
「これからは共同でやっていくべきです」ナウはつづけた。「この二日間のわたしたちの話しあいについて、みなさんがどれだけご存じかわからないが、噂はいろいろ流れているようです。詳細はまもなくあきらかになるでしょう。しかしパーク船団長と、そちらの交易委員会と、わたしは、この機会におたがいの共通目標をしめすのが望ましいと考えたのです。わたしたちはかなり大がかりな共同着陸を計画しています。最大の目標は、すくなくとも百万トンの氷と、おなじ量の鉱物資源を運びあげることです。こちらの起重船を使えば比較的楽にできるはずです。第二の目標は、めだたない観測機器を設置し、文化面でのちょっとしたサンプリング調査をおこなうことです。これによって得られる結果と資源は、両船団に公平に分配します。軌道上では、現地調達した岩を組みあわせて居住棟を隠す覆いをつくりましょう。位置は、蜘蛛族の惑星から数光秒の距離が望ましいでしょう」
ナウはちらりとパーク船団長を見やった。まだ話がついていない部分もあるらしい。ナウはグラスをかかげた。
「では、乾杯しましょう。過ちの終わりと、われわれの共同事業のために。今後はおたがいが将来の課題に集中できますように」
「おいおい、偏執的な心配性はぼくじゃなかったのかい? 商人くさい疑心暗鬼の塊といってぼくをからかっていたのは、きみのほうだぞ」
トリクシアは弱々しく笑みを浮かべたが、すぐには返事をしなかった。エマージェント船団の晩餐会から帰ってくるあいだも、いつになく無口で、いまはチェンホーの仮設舎にある彼女の部屋にもどっていた。ふだんのトリクシアなら、ここにいるときがいちばん饒舌《じょうぜつ》で陽気なはずだ。
「彼らの居住棟は、たしかに豪華だったわね」ようやくそう答えた。
「うちの仮設舎とくらべたら、たしかにそうだね」エズルはプラスチックの壁を軽く叩いた。
「はるばる運んできた材料で組み立てたっていうんだから、たいしたもんだよ」
チェンホーの仮設舎は、身も蓋《ふた》もないいい方をすれば、仕切りのある巨大な風船だ。会議室と運動室はそれなりの広さがあるが、見栄《みば》えがいいとはお世辞にもいえない。商人は見栄えよりも、現地調達した材料でできるだけ大きな構造物をつくることを優先するのだ。
トリクシアの個室もふた間しかなく、空間容積は合計百立方メートルそこそこだ。壁ものっぺらぼうだが、トリクシアは同感性映像に工夫を凝らしていた。両親と姉妹の写真。トライランド星のどこからしい広い森の風景。机のまわりは、宇宙時代以前の原初地球で撮《と》られた歴史的遺物の平面写真で埋めつくされている。ファーストロンドンやファーストベルリンの街なみ。馬や、航空機や、歴代の有名な人民委員の肖像……。のちのさまざまな世界において花ひらいた豪華|絢爛《けんらん》たる文化にくらべると、この時代は地味だ。しかしこの黎明期≠ノおいては、すべての発見が人類最初の発見だったのだ。これほど大きな夢がみられた時代、天真爛漫《てんしんらんまん》とさえいえる時代は、ほかになかった。
エズルはこの時代が大好きで、学校でも専攻した。両親はあきれ、友人たちのほとんども眉をひそめたが、トリクシアは理解してくれた。彼女にとっての黎明期研究はたんなる趣味かもしれないが、いろいろな初めて物語≠身をのりだして聞いてくれる。エズルにとってこんなに話のわかる相手はいなかった。
「ねえ、トリクシア、なにをそんなに考えこんでるんだい? エマージェントが豪華な宿舎をもっているからって、べつに不審なところはないだろう。晩餐会のあいだ、きみはいつものようにぼけっとしてたけど」からかっても、トリクシアは顔もあげなかった。「つまり、じゃあ、なにかあったんだね? なにに気づいたんだい?」エズルは天井を押して、トリクシアがすわっている壁付けの長椅子のほうへ漂っていった。
「ちょっとしたことなんだけどね……」トリクシアは手をのばしてエズルの手をつかまえた。「わたしは言語学者としての耳をもっているのよ」かすかに笑みを浮かべた。「エマージェントの固有語は、あなたたちの放送標準語ととても近かった。チェンホーのネット放送を聴いてかなり研究してきたようね」
「そうだろうね。彼らの主張とも一致する。没落した状態から這いあがってきたばかりの、まだ若い文化圏なんだから」
〈〈おいおい、なんでぼくがやつらの弁護をしてやらなくちゃいけないんだ?〉〉
エマージェントの申し出はなかなかいい条件で、気前がよすぎるくらいだった。頭のいい商人なら警戒すべきだ。しかしトリクシアが懸念をもっているのは、べつのことらしかった。
「ええ。でも言葉が共通だと、いろいろなことを隠せなくなるものよ。エマージェントの話し方からは権威主義的な言いまわしがいくつも聞きとれたわ。それも、大むかしの表現が成句として残っているような、いわゆる化石語ではないの。エマージェントは現在でも人間を所有する習慣をもっているのよ、エズル」
「奴隷という意味かい? 相手はハイテク文明なんだぞ、トリクシア。技術をもった人間は奴隷としてあつかいにくい。心理的に全面的に依存させなければ、主従関係はすぐに崩れてしまうんだから」
トリクシアはふいにエズルの手をきつく握りしめた。怒っているのでもふざけているのでもなく、ただ、これまでになく強い感情にかられているのだ。
「ええ、それはそうね。でも彼らの奇妙な性癖にはまだわからないことも多いわ。荒っぽい連中であるのはたしかよ。わたしはずっと、あなたの隣にすわっていた赤みがかった金髪の男と、わたしの右隣にいた二人組の会話に耳をそばだてていたわ。彼らは取り引き≠ニいう言葉を使うときに、違和感を覚えているようだった。じつはエマージェントにとって、蜘蛛族とのあいだに成立しうるのは搾取《さくしゅ》の関係≠セけなのよ」
「ふーん」エズルはうなった。トリクシアはいつもこんなふうなのだ。エズルが見のがしたり聞きのがしたりすることに、特別な関心をもつ。説明を聞いても、だからなんだよとしか思えないこともあるが、ときにはその説明が光となって思いもよらないことがわかったりする。
「……どうなのかな、トリクシア。ぼくらチェンホーだって顧客に聞こえていない場所では、なんていうか、ひどく尊大な口のきき方をすることがあるんだよ」
トリクシアはつかのまエズルから目をそらして、トライランド星で家族といっしょに住んでいた頃の、奇妙なほど古風ないくつかの部屋の映像を見つめた。
「チェンホーの尊大さのおかげで、わたしたちの世界はひっくり返ったわ、エズル。パーク船団長は教育制度をひらかせ、林野庁をひらかせた……。それも、たんに副次的な結果として」
「なにも無理じいしては――」
「わかってるわ。強制されたわけじゃない。林野庁はこの遠征にひと口乗りたがっていて、その参加料として求められたのが、一定の製品やサービスや人材を供給することだった」トリクシアは奇妙な笑みを浮かべた。「不満があるわけじゃないのよ、エズル。尊大なチェンホーがやってこなかったら、わたしは林野庁の選抜プログラムに参加することもできなかった。博士号なんかとれなかったし、こうしてここにはいなかったわ。チェンホーのやることは強請《ゆすり》やたかりとおなじだけど、わたしの世界にとってはとても幸運な出来事だったのよ」
エズルはトライランド星寄港中の最後の一年になってようやく冷凍睡眠から目覚めたので、顧客との交渉過程は詳しく知らないし、トリクシアも今夜までほとんど話してくれなかった。この一メガ秒に話題にのぼったのは、まあ、結婚しないかという提案がひとつだけ。それについてエズルはまだはっきりした返事をしていないのだが……。口をひらきかけたとき、トリクシアにさえぎられた。
「待って! まだわたしのいいたいことは終わってないわ。いまこんな話をするのは、あなたにわかってほしいからなのよ。尊大さという点ではおなじかもしれないけど、わたしにはちがいがわかる。晩餐会で会った連中は、商人というより、暴君のような話し方だったのよ」
「給仕はどうだったんだい? 虐《しいた》げられた農奴《のうど》のような印象だった?」
「……いいえ……従業員という感じだったわ。その点ではつじつまがあわない。でもエマージェントの人々を、あそこですべて見たわけではないのよ。残酷な扱いを受けている人々はほかのところにいるのかもしれない。でも、自信過剰なのか鈍感《どんかん》なのかわからないけど、トマス・ナウは彼らの苦悩を壁じゅうにべたべた貼っていたのよ」エズルがきょとんとすると、トリクシアはにらみつけた。「あの絵よ、ばかね!」
そういえばトリクシアは宴会場から出るとき、わざとゆっくりと歩きながら、壁の絵を一枚ずつ鑑賞していた。惑星の地上やとても大きな居住棟のなかを描いた、美しい風景画だった。どれも光のあたり方や構図が非現実的だったが、草の葉一本一本まで精密に描かれていた。
「ふつうに楽しく暮らしている人だったら、あんな絵は描《か》かないわ」トリクシアはいった。
エズルは肩をすくめた。「ぼくにはどれもおなじ画家の作品のように見えたな。とてもうまいけど、古典作品の複製だと思うね。ドンが描いたキャンベラ星の風景画みたいな」ドンは躁欝《そううつ》病の画家で、自分の将来をずっと悲観していた。「偉大な芸術家はしばしば変人で愚痴《ぐち》っぽいものさ」
「商人らしい言い草ね!」
エズルはもう一方の手も彼女の手においた。「トリクシア、べつにぼくは反論してるわけじゃないんだ。今夜の晩餐会までは、むしろ懐疑派だったんだから」
「そしていまでも懐疑派よね」その問いは真剣で、からかうような響きはみじんもなかった。
「そうだよ」とはいえ、トリクシアほど確信があるわけでもないし、疑う理由もおなじではなかった。「エマージェントが起重船で得た資源を半分わけてやろうと申し出てくるのは、あまりにも条件がよすぎる気がするんだ」
きっと裏ではなにか抜けめない計算をしているにちがいない。理屈からいえば、チェンホーが擁している学術員グループは、数隻の起重船とおなじくらいの価値があるはずだが、そういう要素で方程式を組み立てるのはむずかしいし、議論しにくい。
「ぼくはとにかく、きみの気づいたことと自分の見落としたことをきちんと理解したいだけなんだ」エズルはいった。「じゃあ、きみのいうようにエマージェントは危険なやつらだということにしよう。でも、パーク船団長や委員会は最初からわかってるんじゃないかな?」
「わかってるですって? 帰りのタクシー船のなかでうちの上級船員たちの雰囲気を探ったんだけど、エマージェントに対する警戒心をかなり解いてしまっているようよ」
「交渉が成立したことに満足してるだけだよ。交易委員会の連中がどう考えているかはわからないさ」
「あなたならそれを調べられるわ、エズル。そして委員会がもし今夜の晩餐会でだまされてしまったのなら、その目を覚まさせてやれる。ええ、わかってるわよ。たしかにあなたは商人実習生でしかない。規則や習慣や、ほかにもいろんな問題があるでしょうよ。でも、あなたの家族はこの遠征隊の船主なのよ!」
エズルは身をのりだした。「遠征隊のほんの一部だよ」
トリクシアがこのことに言及したのは初めてだ。これまでは二人ともすくなくともエズルは――身分のちがいにあえてふれないようにしていた。相手は自分を利用しようとしているだけではないかという内心の不安を、おたがいにもっていたのだ。
たしかにこの遠征隊の船のうち約三分の一――すなわちラムスクープ船二隻と着陸船三隻は、エズル・ヴィンの両親と二人の伯母が所有していた。ヴィン第二十三家は自分たちの所有する船、計三十隻を、数十の遠征隊に派遣している。トライランド星への航海は、ヴィン家のごく一部のメンバーに利益をもたらすだけの、ささやかな投資なのだ。エズル・ヴィンは一世紀から長くても三世紀のちには家族のもとへ帰る予定で、その頃には十歳から十五歳ほど年齢があがっているはずだった。ひさしぶりに家族に再会し、立派な報告ができる日を楽しみにしていたが、とてもそれまでは、船主の権威をかさにきたふるまいができるような年齢ではなかった。
「トリクシア、所有するのと経営するのはまったく別問題なんだよ。とくにぼくの場合はそうだ。もし両親がみずからこの船団に参加していたら、たしかにかなりの影響力を行使できただろう。でも両親はこの遠征を、子どものお使い程度にしか考えていなかったんだ。ぼくは船主うんぬんより先に、ただの実習生なんだよ」
そのことを証明させられるのは屈辱《くつじょく》だ。チェンホーの遠征隊はいつもそうだが、縁故者だからといって優遇されることはない。むしろ逆なのだ。
トリクシアは長いこと沈黙したまま、エズルの顔をちらちらと観察していた。なにをいいたいのだろうか。エズルは、フィリパ伯母さんの不気味な助言を思い出した。若くて金持ちの商人には、かならず言い寄ってくる女がいる。彼女たちは商人をたぐり寄せ、その人生を牛耳《ぎゅうじ》ろうと――それどころか、一家の稼業《かぎょう》を牛耳ろうとさえもくろむのだ。いまのエズルは十九歳、トリクシア・ボンソルは二十五歳だ。エズルを言いなりにできると考えるもしれない。
〈〈ああ、トリクシア。そんなきみではありませんように……〉〉
ようやくトリクシアは笑みを浮かべた。いつもよりやさしい、穏やかな笑みだ。「わかったわ、エズル。あなたは自分の考えるようにして……。でも、ひとつだけお願い――わたしのいったことも考えておいて」
トリクシアはエズルにむきなおり、手をのばして顔をやさしくなでた。そのキスはやさしく、ためらいがちだった。
2
エズルの部屋のまえで、いたずら小娘が待ち伏せていた。
「ねえ、エズル。ゆうべ、あんたを見たわよ」
一瞬ぎくりとしたが、すぐにわかった。
〈〈晩餐会のことか〉〉
交易委員会がその模様を船団に中継していたのだ。
「よかったな、キウィ。ゆうべは画面のなかでぼくの姿を拝《おが》めて、今日はじかに会えるってわけだ」エズルはドアをあけて室内にはいった。小娘はぴったりあとについてきたらしく、いつのまにかなかにはいっていた。「いったいなんの用だ?」
キウィは、自分が訊いてほしいことを相手に訊かせる天才なのだ。「二千秒後からあんたと汚れ仕事の当番だから、いっしょにバクテリア槽に行きがてら、船内の噂話でもしようと思ったのよ」
エズルは奥の部屋に飛びこみ、今度は小娘をしめだすことに成功した。作業着に着がえて出てくると、当然ながら小娘はそこで待ちかまえていた。
エズルはため息をついた。「噂話なんかなにも知らないよ」
〈〈トリクシアの話をこんなやつにぺらぺらしゃべるもんか〉〉
キウィは勝ち誇ったようににやにや笑いだした。「わたし[#「わたし」に傍点]は、知ってるわ。どうぞこちらへ」部屋のドアをあけて、外の通路へ案内するように無重力環境で優雅なお辞儀をした。「あんたが見てきた内容とわたしの印象をつきあわせたいのよ。でも、実際にはこっちのほうが詳しいはずよ。委員会は、宴会場入り口からのもふくめて三ヵ所からの視点映像を中継していたんだから。席についてたあんたより眺めはよかったわ」
小娘は廊下をぴょんぴょん跳《は》ねて進みながら、その映像を何度も見なおしたことや、そのあとでだれとどんな噂話をしたかを、ぺらぺらとまくしたてた。
エズルがキウィ・リン・リゾレットに初めて会ったのは、船団がトライランド宙域で出航準備をしていた頃だ。当時のキウィは、うるさくまとわりついてくる八歳の小娘だった。どういうわけかエズルのことを気にいってしまったらしく、食事のあととなく訓練のあととなく、うしろから近づいてきては肩にパンチしてくるようになった。そしてエズルが怒れば怒るほど、それが愉快らしかった。エズルも一発くらわせてやればそんな態度は変わっただろうが、さすがに八歳の子どもに手をあげるわけにはいかない。
キウィは乗組員の年齢制限に九歳もたりなかった。航海中の船のなかは子どものいる場所ではない。子どもは乗組員になれないのだ。まして辺境宙域へむかう船に子どもが乗っていていいはずはない。しかしじつは、キウィの母親は遠征隊の十五パーセントを所有しているのだ……。
リゾレット第十七家は、チェンホー宇宙の反対側に出身星系のあるストレントマン人の流れをくんでいる。完全な女系社会をもち、外見的にも習慣的にも特徴のある人種だった。
多くのルールが破られたにちがいないが、とにかく小娘のキウィは乗組員に採用された。航行中、キウィは当直乗組員以外のだれより何年分も長く目覚めていた。少女時代のほとんどを星間空間ですごしたのだ。そのあいだ、まわりには数人の大人しかおらず、それどころか両親さえしばしばいなくなるような環境だった。そのことを考えるとエズルはあまり怒れなかった。かわいそうな子だ。それにもう、あまり子どもとはいえない。いまのキウィは十四歳くらいに相当するはずだ。かつての肉体的な攻撃は、いまはほとんどが言葉によるものに変わっている。高重力環境に適応した人種であるストレントマン人の体格を考えると、じつにさいわいだった。
二人は仮設舎の中央通路をくだっているところだった。
「あら、ラジ、仕事の調子はどう?」
キウィはすれちがう人ごとに手をふったり笑顔をむけたりした。エマージェント船団が到着する何メガ秒もまえに、パーク船団長は、すべての船艇と武器に人員を配置して充分な交代要員も確保できるよう、乗組員全員の半数近くを解凍していた。千五百人という数は、エズルの両親が住む仮設舎でならたいしたことはないが、ここではたいへんだ。ほとんどの者が勤務時間は船のほうに行っているとはいえ、やはり混雑する。これだけ人が増えると、宿舎が仮設であるというのがよくわかるようになる。あちこちで新しい乗組員のために仕切り壁がふくらまされているのだ。中央通路は、四つの大きな風船がであうところのすきまにすぎない。四、五人がいっぺんにすれちがうようなときは、しばしば風船の表面が波打った。
「エマージェントは信用できないわ、エズル。おいしそうな条件をいろいろならべておいて、あとでこっちの喉笛《のどぶえ》を掻《か》っ切るつもりなのよ」
エズルはいらいらして低い声でいった。「じゃあ、なぜそんなににやにや笑ってるんだ?」
二人は壁の素材が透明になっているところを通っていた――壁紙ではなく、本物の窓だ。むこうには仮設舎の公園が見えた。実際には、ちょっと大きめの盆栽という程度なのだが、それでもエマージェントの居住棟内にこれほど広い空間はないだろうし、彼らの清潔すぎる居住空間のすべてをあわせたより多くの生物がいるだろう。
キウィはそのなかを見まわすあいだ、しばらく口をつぐんだ。この小娘を静かにさせられるのは、生きた動植物だけなのだ。キウィの父親は船団の生命維持システムを担当する職員であり――じつはチェンホー宇宙の近辺では名のとおった盆栽作家でもあった。
キウィははっとしてわれに返った。そしていつもの人をこばかにしたような笑みを浮かべた。
「なぜって、わたしたちはチェンホーだからよ。ちょっと思い出してみればいいことよ。チェンホーはこういう新参者《しんざんもの》の文明に対して何千年もまえからずるいやり方をしてきたわ。エマージェント文明なんてかわいいやつらよ。彼らはラジオにしがみついてチェンホーのネット放送の公共部分を聴いていたからこそ、いまの技術レベルにあるわけでしょう。ネット放送がなかったら、連中はいまもまだ廃嘘の惑星から出られずにいたはずよ」
通路は、進むにつれて狭くなってきた。二人の背後で、仮設舎でいえば上にあたる方向から聞こえてくる乗組員たちの話し声は、ふくらんだ壁の素材のせいでこもった音になっていた。仮設舎の最深部にある区画に着いた。構造材や燃料電池をのぞけば、仮設舎の運用のために絶対不可欠な部分――すなわち、バクテリア槽だ。
ここの水槽に沈んだバクテリア用フィルターを掃除するのは、汚れ仕事と呼ばれて、船団でいちばん下《した》っ端《ぱ》がやらされる任務だ。ここにはえる植物は、あまりいい匂いではない。はっきりいってこの完全に腐った匂いのなかでは、最高に強健な人間でさえ赤信号がともりそうになる。ほとんどの作業は機械がやってくれるが、なかにはどんな自律機能系にもこなせない主観的判断を求められる工程もあるのだ。そして、それをやる遠隔操作ロボットはだれもつくってくれない。
ある意味で、これは責任重大な仕事だった。下手《へた》をすると、バクテリアがフィルターの膜を通過して上部タンクで繁殖してしまう。そうなったら最後、食事は嘔吐物の味になり、換気システムには悪臭が充満する。しかし、どんなひどい失敗をしでかしても、死人は出ないようになっていた。ラムスクープ船には、封印された予備のバクテリア槽がいくつか保管されているのだ。
つまりここは、たとえばスパルタ教官の目から見ると、理想的な訓練の場といえた。仕事には慎重さを要し、肉体的には不快で、失敗すれば一生忘れられないほどいやな思いをしなくてはならないのだ。
ところがキウィは、この仕事を任務以上にやる契約を結んでいた。ここが好きだというのだ。
「大きな生きものをあつかうまえに、いちばん小さな生きものからはじめろと、パパからいわれたのよ」
キウィは歩くバクテリア百科事典だ。複雑な代謝経路、さまざまな菌株の組み合わせがかもしだす下水のような芳香(バクテリア自身は匂いを感じずにすむのだから、いい気なものだ)、人間が接触すると損なわれてしまう菌株の性格など、あらゆることを熟知している。
エズルは作業をはじめてから一キロ秒のあいだに、二度失敗しそうになった。もちろん危ないところでとりつくろったが、キウィにはすぐに気づかれた。いつもの小娘ならそのことでいつまでもぼろくそにいうはずだが、今日のキウィはエマージェントへの対抗策で頭がいっぱいらしかった。
「うちの船団がどうして起重船をもってこなかったかわかる?」
手持ちの二隻の大型着陸船は、千トンの貨物を地上から軌道へ運びあげる能力をもつ。時間さえあれば、必要な量の揮発物資源と鉱石資源は手にいれられるだろう。しかしいうまでもなく、エマージェント船団の到着によってその時間がなくなったのだ。エズルは引っぱり出したサンプルのほうを見たまま、肩をすくめた。
「噂は聞いてるよ」
「ふん、噂なんか聞かなくてもわかるわよ。ちょっとした計算をする頭があればね。パーク船団長はよけいなお客さんが来ることを予想していた。だから、もっていくのは最低限の着陸船と居住棟だけにして、残りのスペースにありったけの大砲と核兵器を詰めこんだのよ」
「かもしれない」〈〈いや、まちがいなくそうだ〉〉
「ところが、エマージェント船団はすごく近くから出発してきて、はるかに多くの荷物を積んできた。にもかかわらず、わたしたちからほとんど遅れずに到着したのよ」
エズルは答えなかったが、キウィは返事を待ってはいなかった。
「とにかく、噂はすぐわたしの耳にはいるのよ。本当に、本当に気をつけたほうがいいわ」
そしてキウィは軍事戦略と、エマージェントの兵器システムについての推測を勝手にしゃべりはじめた。キウィの母親は副船団長だが、戦闘員でもある。ストレントマン人の[#「ストレントマン人の」に傍点]戦闘員だ。この小娘は航海中のほとんどの時間を、数学と弾道学と工学の勉強に費やしていた。バクテリア槽と盆栽は父親からの影響だ。血気にはやる戦闘員と、ずる賢い商人と、繊細な盆栽作家の三つの顔をもち、自在に切り換えることができるのだ。やれやれ、こいつの両親はどうして結婚する気になどなったのだろう。そのせいで、こんなに寂しがり屋で性格の悪い子どもが生まれてしまったのだ。
「ようするに、正面切って戦えば、わたしたちはエマージェントに勝てるわ」キウィはいった。「敵もそのことをよくわかっている。だからあんなに腰を低くしてるのよ。いまはとりあえず調子をあわせておくことね。こっちとしても、むこうの起重船を使いたいんだから。そのあと彼らは、もし合意に忠実であれば、それなりに商売できる。でもわたしたちのほうがもっと稼げるわね。あいつらだって、タンクのない仮設舎に空気を売るわけにはいかないんだから。もしもまともな取り引きがずっとつづくようなら、こちらはこの商売の事実上の主導権を握れるわね」
エズルはひとつの作業を終え、またべつのサンプルにとりかかった。「じつはトリクシアは、連中がそもそもこれを取り引き関係とすら考えていないはずだといってるんだ」
「ふーん」
おかしなことに、キウィはエズルのことをなんでもかんでもけなすくせに、トリクシアに対してはべつなのだ。トリクシアのことはたいてい無視しているようだ。キウィらしからぬ沈黙が流れた……ほんの一秒ほど。
「あんたの友だちのいうことはあたってると思うわ。ねえ、ヴィン、ほんとは話しちゃいけないことなんだけど、交易委員会で対立が起きてるらしいのよ」母親が娘のまえでうっかり口をすべらせたのでなければ、ただの妄想にちがいないのだが。「わたしの推測では、委員会のなかにこれが純粋な商取り引きの交渉だと思ってる大ぼけ野郎がきっといるのよ。両者が共通の結果を求めて最善をつくすんだ、とね。そしていつものように、交渉となればこっちはお手のものだから、と……。最終損失をどっちが出そうが、殺されたらおしまいだってことを、そいつはわかってないのよ。とにかく油断しないことね。いつ攻撃を受けてもおかしくないと思っておくべきよ」
血気にはやる態度をのぞけば、キウィのいっていることはトリクシアとおなじだった。
「ママははっきりいわないんだけど、委員会は膠着《こうちゃく》状態になってるみたいよ」いたずらの相談をもちかける子どものように、キウィは横目でエズルを見た。「あんたは船主よね、エズル。あの連中に――」
「キウィ!」
「ええ、ええ、わかってるわよ。べつになんでもないったら!」
キウィはそれから百秒ほど黙っていたが、やがて今度は、これから数メガ秒後に自分たちがまだ生きていたら=Aエマージェントからどうやって利益をあげればいいかという計画をしゃべりはじめた。蜘蛛《くも》族世界やオンオフ星が存在しなかったら、エマージェント文明はチェンホー宇宙のこちら側で今世紀最大の発見と呼ばれただろう。彼らの船団の動きを見ていると、自律機能系とシステム計画作成が特別にうまいようなのだ。しかしその星間船はチェンホーの船にくらべて半分の速度しか出せず、生命科学も貧弱だ。キウィはそれらの条件から利益をあげる方法を百通りも考えついた。
エズルは聞き流していた。ふだんなら手もとの仕事にもっと没頭できただろうが、今回は無理だ。二世紀をかけて準備されたさまざまな計画の成否が、この重大な数キロ秒にかかっているのだ。エズルは初めて船団の経営について思いめぐらせた。トリクシアは外部者だが、頭がよく、商人として生まれ育った人間とはまた異なる視点をもっている。この小娘も頭の回転は速いが、たいていその意見は聞くに値しない。とはいえ……もしかすると今回は、ママ≠ェ裏で糸を引いているのかもしれない。
キラ・ペン・リゾレットが生まれ育ち、その世界観を築いた場所は、とても遠い。チェンホー宇宙ではあるが、その最果《さいは》てだ。十代の実習生が、船主一族の出身であるという理由でなんらかの影響力を行使できると、キウィの母親は本気で考えているのだろうか。ばかばかしい……。
あとの作業中は、新しいことはもうなにも思いつかなかった。千五百秒後には当番の時間が終わる。昼食を抜けば、着がえて……パーク船団長に面会の申し込みをする時間があるだろう。遠征隊に参加してから主観時間で二年のあいだ、出身家系のコネクションを利用したことは一度もなかった。
〈〈そもそも、本当にぼくになにかできるのか? 膠着状態をぼくが崩せるというのか?〉〉
当番の残り時間はずっとその不安から迷いつづけた。バクテリア槽用の作業着を脱ぎ捨てたときも、まだ迷っていたが……意を決して、船団長の面会受付プログラムを呼び出した。
キウィはこれまで以上に偉そうなにやにや笑いを浮かべている。「はっきりいってやんなさいよ、ヴィン。これは戦闘員のお仕事だって」
エズルは手をふって黙らせた。しかし、呼び出しがいつまでもつながらないのに気づいた。回線が遮断されているのだろうか。つかのまエズルはほっとした気分になったが、じつはそうではなく、優先順位の高い命令が先にこちらへ流れてきているのだと気づいた。発信者は……パーク船団長の執務室だ。
五・二〇・〇〇時に船団長の戦略会議室に出頭せよ……
だれかが望みをかなえる古代のおまじないでもやったのか。仮設舎のタクシー船エアロックへ昇りながら、エズル・ヴィンの頭は混乱しきっていた。
キウィ・リン・リゾレットはいつのまにか姿をくらましている。悪賢い小娘だ。
会議室に集まっているのは、上級船員らではなかった。ファム・ヌウェン号の船団長戦略会議室にエズルが来てみると、そこにいたのは船団長と……遠征隊交易委員会だった。
全員が仏頂面《ぶっちょうづら》をしている。エズルはそれをちらりと見ただけで、すぐに支柱につかまって気をつけの姿勢をとった。目の隅でさっと数えてみたが、たしかに委員会の全員がそろっていた。会議テーブルのまわりで席についている彼らの視線は、あまり穏やかではなかった。
パークは無愛想に手をふって、エズルの直立不動の姿勢を解かせた。「楽にしろ、実習生」
パークに初めて会ったのは、三百年前、エズルが五歳のときだ。パーク船長はキャンベラ宙域にあるヴィン家の仮設舎を訪れた。エズルの両親は、彼が主力船の船長ではないと知りながら、手厚いもてなしをした。しかしエズルがいちばんよく憶えているのは、気さくな船長から贈られたパークランド産のおみやげだった。
次に会ったとき、ヴィンはすでに十七歳の実習生志願者で、パークはトライランド星へむかう船団の編成準備をしていた。なんという変わりようだろう。そのとき以来、二人がかわした言葉はほんの百語ほどで、それも遠征隊としての公式な場でだけだった。しかし特別扱いされないほうが、エズルはむしろ居心地よかった。なのにいまになってその反動がくるなんて。
パーク船団長は苦虫《にがむし》を噛みつぶしたような顔で、交易委員会の面々を見まわした。エズルはふいに、船団長はだれに対して怒っているのだろうと思った。
「ヴィン君――いや、ヴィン実習生。じつは、いまここでは……あまり前例のない事態になっているのだ。エマージェント船団が到着したことできわめて微妙な情況になっているのは、きみもわかっているだろう」船団長は返答など求めていないらしく、エズルのはい、船団長≠ニいいかけた言葉は、唇に達するまえに溶けて消えた。「これからわたしたちのとるべき行動には、いくつかの選択肢があるのだ」ふたたび委員たちのほうをちらりと見た。
キウィ・リゾレットがぺらぺらしゃべっていたことは、まったくのたわごとではなかったようだ。船団長は、戦術的判断においては絶対的権限をもっており、戦略問題でもたいてい拒否権をもつ。しかし遠征の目標を大きく変更するような場合には、交易委員会の意向にしたがわなくてはならないのだ。その過程でなにか具合の悪いことが起きたらしい。賛成反対が同数になったというような単純な話ではない。そのような場合は船団長に最後の一票を投じる権利があるからだ。そうではなく、これは経営陣が反乱を起こす寸前になり、にっちもさっちもいかなくなっている状態らしい。こういう情況について、学校の教師たちは口ごもってはっきり説明してくれなかったのだが、もしそうなった場合には、たとえば身分の低い船主が意思決定プロセスに参加するということもありうるのだろう。生《い》け贅《にえ》にされる山羊《やぎ》というわけだ。
「第一の選択肢はこうだ」エズルの頭を支配している不愉快な結論のことなど知らぬげに、パークはつづけた。「エマージェントの提案に乗る。事業を共同運営し、今後の地上での作業についてはすべての船艇を共同で運用する」
エズルは交易委員たちのようすを見た。
キラ・ペン・リゾレットは船団長の隣の席だ。彼女の家系が好む、いわゆるリゾレットグリーン色の制服を着ている。キウィとおなじくらいに小柄で、顔はいかめしく真剣だ。しかしその肉体は秘めた力を感じさせる。ストレントマン人の体形は、さまざまな人種を擁するチェンホーのなかでも独特だ。商人のなかには、表と裏の態度を使い分けられることを自慢する手あいもいるが、キラ・ペン・リゾレットはそうではない。キウィがいっていたとおり、彼女はパークの第一の選択肢≠嫌悪しているようだ。
エズルの視線は、よく知っているもう一人の人物、スム・ドトランに移った。
船団の経営にたずさわる交易委員は、エリートだ。遠征に参加する船主は少なからずいるが、大半は自分の船をもてるようになるまで投資をくりかえす、プロの算段屋と呼ばれる連中だ。そして残りの一部に、高齢な老人たちがいる。老人はたいていが高度な技能をもつ熟練者で、船主であることより船団の経営そのものに興味をもっている。かつてヴィン家に仕えていたこともあるスム・ドトランも、その一人だった。彼もパークの第一の選択肢≠ノは反対のようだった。
「第二の選択肢は、指揮系統を分離したままにし、共同の有人着陸はおこなわないという方法だ。そして適切な時期がきたら、できるだけすみやかに、蜘蛛族にこちらの正体をあかす」
そして勝負の行方は交易神の胸ひとつ、というわけだ。三者がむきあうようになれば、単純な裏切りによって利をはかるのはむずかしくなる。数年のうちには、エマージェント船団との関係は比較的落ち着き、ふつうの商売|敵《がたき》のようになっているかもしれない。もちろん、顧客との一方的な接触そのものを彼らは裏切りとみなすがもしれないが、それはおあいにくさまだ。委員会の半分はこの方向を支持しているように思えたしかし、スム・ドトランはちがう。
老人はエズルのほうを見て頭を軽く動かし、反対意思をはっきりしめした。
「第三の選択肢は、仮設舎をたたんで、トライランド星へ引きあげるという道だ」パーク船団長がいった。
エズルがあまりに驚いた顔をしたのだろう。スム・ドトランが説明しはじめた。
「ヴィン君、船団長がいっているのはようするに、ここは多勢に無勢であり、おそらく兵器装備の点でもわれわれは劣っている、ということだ。エマージェントを信用できると思っている人間は一人もいないし、もし彼らが砲口をこちらへむけてきたら、われわれが助けを求める先はどこにもない。あまりにも危険であり――」
キラ・ペン・リゾレットがテーブルを叩いた。「異議あり! この会議は最初から理にかなっていないし、それどころかスム・ドトランは、この場を利用して自分の意見を押しつけようとさえしているわ」
キウィが母親の指示で動いているのではという憶測は、どうやらまちがいだったようだ。
「二人とも、不規則発言はやめてくれ!」パーク船団長はしばし沈黙し、委員たちを見まわしたあと、つづけた。「第四の選択肢は、エマージェント船団に対する先制攻撃だ。そして彼らのシステムを制圧する」
「制圧しようと試みる、だな」ドトランが口をはさんだ。
「異議あり!」キラ・ペン・リゾレットがまた声をあげた。そして同感性映像を呼び出した。「成功が望めるのは、先制攻撃しかないのよ」
リゾレットの提示した映像は、星空でも、蜘蛛族世界の拡大視でもなかった。算段屋がいつもにらんでいる組織図や時系列図でもない。惑星周辺の航法図に似ていて、両船団の位置や速度や移動方向の関係、さらに蜘蛛族世界、オンオフ星が表示されていた。それぞれの将来の位置は、適当な座標系における線でしめされている。ダイヤモンドの岩塊にも標識があった。ほかにもさまざまなマーク、軍事戦術用の記号、ギガトン級爆弾やロケット弾や電子戦兵器をしめす表示が見てとれる。
エズルは映像を見ながら、軍事科学の授業を思い出そうとした。パーク船団長が秘密の貨物を載せているという噂は、本当だった。チェンホーの遠征隊は牙を隠していたのだ――通常の商船団よりはるかに長く、鋭い牙を。
チェンホーの戦闘員たちにしてみれば、準備をする時間はそれなりにあった。オンオフ星系は本当になにもないところで、伏兵をおいたり予備物資を隠しておく場所などろくにないのだが、それでも彼らはきちんと準備していた。
エマージェント船団についての情報はというと、その船の周辺にかたまった軍事関連のマークはどれもこれも推測による内容だった。彼らの自律機能系は奇妙で、ことによるとチェンホーのよりすぐれているかもしれない。擁する船艇は総トン数でチェンホー船団の二倍であり、それに比例するだけの兵器も装備しているはずだ。
エズルは会議テーブルに注意をもどした。闇討ちを支持する委員は、キラ・リゾレット以外にだれがいるのだろう。エズルは幼い頃から用兵学を学んできたが、闇討ちのような重大な裏切り行為は狂気と邪悪さの所産であり、誇り高きチェンホーがやる必要もなければ、かつてくわだてたこともないと教えられてきた。しかし交易委員会がこうして殺人を検討しているというのは……エズルにとって当分忘れられない光景になりそうだった。
沈黙が耐えがたいほど長くなった。エズルがなにかいうのを、みんな待っているのだろうか。
しかしふいに、パーク船団長が話しだした。
「わたしたちの協議が袋小路《ふくろこうじ》にはいってしまっていることは、ヴィン実習生、おそらくきみも察しているだろう。きみは議決権ももたないし、経験もない。現状についての詳しい知識もない。きみを貶《おとし》めていうつもりはないのだが、この会議にきみの出席を求めなくてはならなくなったこと自体に、わたしは正直なところ、困惑している。しかしわが船団のうち二隻を所有する乗組員は、きみだけなのだ。さきほど挙《あ》げた選択肢について、きみからなにか助言があれば、われわれはそれを……受けいれる……用意がある」
下っ端の乗組員にすぎないエズル・ヴィン実習生が、いまは一身《いっしん》に注目を集めていた。しかし、なにをいえばいいのか。頭のなかで無数の疑問が渦巻いた。学校では即断即決の訓練を受けたが、そのときでもこんなに判断材料が少ないことはなかった。ここにいる人々は、いうまでもなく、実習生による情況分析を聞きたいわけではないのだ。
さまざまな考えが充満し、恐怖でかたまった身体《からだ》が破裂しそうになった。
「せ……選択肢は四つだけなのですか、船団長? いまの説明に挙げられなかったような、もっと……小さな選択肢はないのですか?」
「わたしや委員会のだれかが支持するものは、もうない」
「そうですか……。船団長はエマージェントとだれよりも多くの言葉をかわされたと思いますが、むこうの指導者、トマス・ナウという男を、どう思われますか?」
エズルとトリクシアがいちばん疑問に思っていたことだが、まさかそれを、本人にじかに尋ねることになろうとは……。
パークは唇をかたく引き結んだ。エズルは怒鳴りつけられるのではないかと身をすくめたが、船団長はうなずいただけだった。
「彼は、頭はいい。技術的な基礎知識は、チェンホーの船団長たちにくらべると弱い。用兵学は深く学んでいるが、われわれが馴染んでいる用兵学とはかならずしもおなじでないようだ……。あとは推測と直観だが、わたしもほとんどの委員たちと同意見だ。トマス・ナウは、いかなる商取り引きの契約相手としても信用できない。彼はほんのわずかな利益のためでも、重大な裏切り行為を犯すだろう。口先のうまい、究極の嘘つきであり、商売をして収益をあげることにはまったく価値をみいだしていない」
それはようするに、チェンホーがほかの生きものに対しておこなう最低最悪の評価だった。エズルはふいに、パーク船団長こそ闇討ちの支持者の一人にちがいないと察した。スム・ドトランを見て、またパークを見た。エズルがいちばん信頼していたこの二人が、ここでは究極の対立をしているのだ!
〈〈冗談じゃない、ぼくは実習生にすぎないのに!〉〉
エズルは内心泣きそうだった。しかししばらく黙って、問題を真剣に考えた。そしていった。
「船団長の評価を聞くかぎり、第一の選択肢、事業の共同運営にはわたしははっきりと反対であるといえます。しかし……闇討ちという考えにも反対です。というのも――」
「賢明な判断だ、実習生君」スム・ドトランが口をはさんだ。
「――というのも、いくら研究しているとはいえ、わたしたちチェンホーはあまり実行したことのない作戦だからです」
残る選択肢は二つ。尻尾《しっぽ》を巻いて逃げるか。とどまって、エマージェントと最低限の協力をしながら、蜘蛛族にできるだけ早くこちらの存在を教えるか、だ。撤退すれば、たとえ理屈の上で正当化できても、この遠征は惨《みじ》めな失敗とみなされるようになるだろう。また燃料の残量を考えると、のろのろと時間をかけて帰るはめになりそうだ。
ほんの百万キロのところには、人類宇宙のこちら側で最大の謎と、おそらく最大の宝が眠っているのだ。五十光年をあとにして、もう目と鼻の先というところまで迫っているのだ。たいへんな危険とたいへんな宝が、背中あわせになっている……。
「このままこの星系を去るのは、あまりにもったいないと思います。しかし安全が確保されるまでは、全員が戦闘員になったつもりで警戒しなくてはならないでしょう」じつをいえば、チェンホーにも戦士の系譜はある。ファム・ヌウェンは多くの戦闘を勝ち抜いてきた男なのだ。「わ……わたしとしては、とどまるほうがいいと思います」
沈黙が流れた。ほとんどの顔には安堵の表情が浮かんだようだったが、リゾレット副船団長だけは苦々《にがにが》しげなままだ。スム・ドトランはなにかいいたいことがあるようだった。
「実習生君、頼むから考えなおしてくれないかね。きみの家族は二隻の星間船をここに賭けているのだ。すべてを失うまえに退却するのは、なにも不名誉なことではない。むしろ賢明なのだ。エマージェントはあまりにも危険な相手で――」
パークが席からテーブルの上に軽く浮かびあがって、たくましい手をのばし、スム・ドトランの肩にそっとおいた。パークは穏やかな声でいった。
「悪いが、スム、ここまでだ。あなたの主張をいれて、この年少の船主の意見まで聞いたのだ。ここからはとにかく……合意して……先へ進むべきだ」
ドトランの顔をゆがめた表情は、いらだちか、恐怖か。しばらくそうやって身をこわばらせていたが、やがて軽く音をたてて息を吐いた。ふいに老《ふ》けこんで疲れきったようすに見えた。
「そうだな、船団長」
パークは自分の席にもどり、エズルに無表情な顔をむけた。「助言を感謝する、ヴィン実習生。この会議については秘密を厳守してくれるよう期待している」
「わかりました」エズルは気をつけの姿勢をとった。
「退《さ》がっていい」
背後でドアがひらき、エズルは支柱を押して離れた。戸口の外へ漂い出るときに、委員たちにむかって話しはじめるパークの声が耳にとどいた。
「キラ、すべての船艇に大砲をつけたほうがいいんじゃないか。共用する船を乗っ取るのはかなり危険だと、エマージェントに思わせる役には立つかもしれない――」
ドアがしまり、あとの内容は聞こえなかった。エズルは強い安堵に襲われると同時に、全身ががたがた震えはじめた。船団の議決にくわわるのなど、まだ四十年早かったはずだ。その早すぎる経験は、すこしも楽しくなかった。
3
蜘蛛《くも》族世界――一部ではアラグナ星と呼ばれるようになっていた――は、直径一万二千キロで、地表の重力は〇・九五Gの惑星だ。内部は中心まで岩しかないが、地表には、海と、人間が呼吸可能な大気をつくれるだけの揮発物資源がある。ここが地球とよく似た楽園世界になれない理由はただひとつ。日光がないのだ。
この世界の太陽であるオンオフ星は、二百年以上前にオフ≠フ状態にはいった。つまり二百年以上にわたって、アラクナ星にとどくその光は、はるか遠くの星とほとんどおなじ程度の明るさしかなかった。
エズルの乗った着陸船は、温暖な時期にはかなり大きな群島をなしているだろうと思われる地形の上を、高度をさげながら飛んでいた。現在進行中の作戦のなかで最大の見ものは、じつはちょうど世界の反対側でおこなわれている。起重船のチームが数百万トンの海山と海氷を運びあげているのだ。しかし、エズルはあまり関心がなかった。大規模な工学技術の現場はもう何度も見ているのだ。こちらの小規模な着陸のほうが、よほど歴史的意義が高いだろう……。
乗員区画の同感性映像スクリーンには実景が映し出されている。眼下を音もなく流れる大地は、灰色の影のところと白いところ、さらにはかすかに光って見えるところがある。錯覚かもしれないが、オンオフ星の光でできるかすかな影が見えるような気もした。ごつごつした岩や山の頂、暗い影のなかへ消えていく白い斜面といった地形を、だれもが息をのんで眺めた。遠くの山頂のまわりに同心円の模様が見えたような気がしたが、岩のまわりで海が凍ったときにできた氷丘脈《ひょうきゅうみゃく》だろうか。
「おい、標高表示メッシュくらい出せよ」
ベニー・ウェンの声が肩ごしに聞こえたと思うと、うっすらと赤みがかった網目模様が風景に重ねられた。それによると、直観的に影や雪だろうと思ったところはほとんど正しかった。
エズルは手をふってその赤い線を消した。「オンオフ星が明期にはいれば、ここには蜘蛛族がうじゃうじゃとあらわれるんだ。文明の痕跡《こんせき》くらいどこかにあるんじゃないかな」
ベニーは軽く笑った。「実景でなにか見えると思ってるのか? 上に突き出してるのはほとんどが山の頂上だ。ふもとは厚さ数メートルの酸素と窒素の雪に埋まってるんだぞ」
大気はすべて凍って、空気雪になっているのだ。惑星全体に均等に積もらせたとしたら、厚さ十メートルに達するはずだ。都市がありそうな場所――港や川の合流部など――は、何十メートルもの雪の下になっている。これまでに着陸したのは比較的標高の高いところばかりで、みつかったのは鉱山町や原始的な入植地らしいところだった。今回の目的地は、エマージェント船団が到着する直前におおまかな事前調査を終えていた。
眼下を暗い大地が通りすぎていく。氷河のような流れも見える。どうやってこんなものが形成されたのだろう。空気雪の氷河だろうか。
「おい見ろよ! いったいあれはなんだ?」
ベニーが左のほうを指さした。地平線の近くに赤くぼんやりした光がある。ベニーはそこを拡大した。それでも光は小さく、地平線のむこうに隠れようとしている。炎のように見えるが、そのわりにはずいぶんゆっくりした動きだ。なにかがその光をさえぎりはじめ、エズルは、光からなにか不透明なものが空へ飛び出しているような印象を受けた。
「軌道からの映像だともっとよくわかるぞ」通路の先のほうから声がした。ジミー・ディエム船員長だ。しかしその映像は流してくれなかった。「これは火山だ。ちょうど噴火したところなんだ」
エズルは、地平線のむこうへ消えようとしているその光を見守った。上昇していくように見えた黒いものは、噴出する溶岩が――あるいはただの空気と水かもしれないが――宇宙空間へ飛び出していくところだったのだろう。
「すごいな」エズルはいった。惑星の中心は冷えて活動をやめているが、かつてのマントルの名残《なごり》であるマグマ溜《だ》まりはいくつかあるのだ。「ぼくらが冷凍|棺《ひつぎ》で眠るように蜘蛛族も冬眠していると、みんなはなから思ってるようだけど、ああいう場所の近くで暖《だん》をとっている可能性はないのかな?」
「ありえない。精密な赤外線調査をしたんだ。火山のまわりに集落があればすぐわかる。それに、蜘蛛族はこの暗期の直前にやっと無線機を発明したばかりなんだぞ。まだ家の外へ遊びに出られるような段階じゃない」
数メガ秒の事前調査と生化学的に妥当な推測をもとにした結論なのだ。
「そうだろうね」
エズルはそういって、赤みがかった輝きが地平線のむこうへ消えていくのを見守った。そのあとは、もっとすごい眺めが前方と直下に迫ってきた。この卵形の着陸船はまだぐんぐん高度をさげており、船内では重さを感じない。ここは地球サイズの世界だが、翼を広げて飛べるような大気圏は、いまはないのだ。着陸船は地上からほんの二千メートルのところを、秒速八千メートルもの速さで動いていた。エズルには山々がどんどん高くなり、迫ってくるように見えた。次々にうしろへ飛んでいく稜線《りようせん》も、だんだん大きくなってくる。うしろの席のベニーが、かすかに恐怖の声を洩らした。いつもの軽口は一時的に中断している。最後の稜線がすぐそばをかすめていくときに、エズルははっと息をのんだ。着陸船の下っ腹が削り取られたのではないかと思ったのだ。
〈〈これにくらべたら、移動船なんか天国みたいなものだな〉〉
その直後、メインエンジンが前方にむかって噴射した。
着陸班は、ジミー・ディエムが着陸地点として選んだ場所から斜面をくだってくるのに三十キロ秒近くかかった。しかしそういう不便な場所を選んだのには、それなりのわけがあった。着陸地点は山腹だが、そこは氷も空気雪もほとんどないのだ。そして目的地は狭い谷の底。ふつうなら、谷底は厚さ百メートルの空気雪の下に埋まっていそうなものだが、地形と気象のいたずらか、この谷底の積雪は五十センチ以下なのだ。庇《ひさし》状にせりだした崖の下に隠れているおかげで、かなり多くの建物群が空気雪をかぶらずにいた。ここには蜘蛛族最大の冬眠用の穴ぐらのひとつがあるらしく、オンオフ星の明期には都市として栄えているのではないかと考えられた。ここでならきっと貴重な発見ができるだろう。共同利用の合意があるので、映像はすべてエマージェント船団にも中継されているのだが……。
エズルは交易委員会の結論がどうなったのか、あれからなにも聞かされていなかった。ジミーはエマージェントの期待に反するようなことはせず、自分たちの訪問を蜘蛛族に気づかれないよう細心の注意をはらっているようだった。着陸地点は、自分たちが去ったらすぐに雪崩《なだれ》でおおい隠されるはずだ。用心して、足跡さえわざわざ消していた(そこまでやる必要はほとんどないはずだが)。
着陸班が谷底に降り立ったとき、偶然にもオンオフ星は天頂近くにかかっていた。明期であれば正午だが、いまのオンオフ星は、視角にして〇・五度の大きさの赤黒い月のようにしか見えない。表面は、油の浮いた水たまりのようなまだら模様だ。こんなオンオフ星の光で見るまわりの風景は、画像処理をほどこさないとぼんやりとした輪郭くらいしかわからなかった。
気密スーツに身をつつんだ五人の着陸班は、一台の歩行機械を連れて、大通りらしいところを歩いていった。空気雪の積もったところを歩くと、ブーツの下からかすかに蒸気が吹き出してくる。凍った空気に、ブーツの断熱のよくない部分がふれたせいだ。立ち止まるときは雪が深くないところを選ばないと、たちまち昇華した霧につつまれてなにも見えなくなってしまう。
五人は十メートルごとに地震計と起震装置を設置していった。あるパターンで設置すれば、このあたりの地下にある洞窟《どうくつ》のようすが把握できるはずだ。しかし今回の着陸では、まわりの建物内部を調べるほうがもっと重視されていた。できれば文字や映像の資料を手にいれたい。子ども用の挿《さ》し絵入り読本かなにかみつけられたら、ジミーは昇進まちがいなしだろう。
風景は赤みがかった灰色と黒の濃淡として見える。エズルはこの画像処理されていない眺めをおおいに楽しんだ。美しく、不気味だ。ここはまぎれもなく蜘蛛族が住んでいた場所なのだ。道の両側には、影におおわれた蜘蛛族の建物の壁がある。ほとんどは二階建てか三階建てどまりだ。薄暗い赤い光のもとで、雪と闇で輪郭がぼやけているとはいえ、人間がつくった建物とはあきらかに異なっているのがわかった。小さな戸口は幅がとても広く、しかし高さは百五十センチにも充たない。窓もおなじように横長で低い(いまはしっかりと鎧戸《よろいど》がしめられている。ここの住人はまたもどってくるつもりで、きちんと戸締まりをしていったのだ)。
無数の窓はまるで薄くひらいた目のように、通りを歩いていく五人と歩行機械を見おろしていた。これらの窓のひとつにいきなり灯《あか》りがともったり、鎧戸のすきまから光が洩れてきたりしたら、どうだろう。エズルの頭のなかで想像がかけめぐりはじめた。自分たちのほうが優秀なのだといううぬぼれが、じつはまちがいだったらどうだろう。なにしろ、こいつらはまったくの異種族なのだ。こんな奇妙な世界に生命が自然発生するとはとうてい考えられないから、遠いむかしには星間旅行能力をもつ種族だったはずだ。
チェンホーの商圏はさしわたし四百光年ほどの広さがあり、そこで彼らは何千年も科学技術の指南役としての存在感をしめしてきた。非人類文明が発する無線電波はいくつも探知されていたが、それらの発生源は何千光年もほとんどは何万光年もむこうで、じかに接触するのはもちろん、電波で交信するのもとうていかなわない距離だった。そんななかで発見された蜘蛛族は、じかに遭遇する非人類の知的種族としては三番めにあたる。人間が宇宙飛行をはじめて八千年で、たった三例しかみつかっていないのだ。そのうちひとつの種族は、何百万年もまえに絶滅していたし、もうひとつの種族はまだ機械技術を獲得しておらず、まして宇宙飛行などには遠い段階だった。
横に細長い窓のあいた暗い建物のあいだを歩いていく五人の姿は、人類の歴史においてエズルが思い描くなかでも最高の場面のひとつだった。地球の月に降り立ったアームストロング。ブリスゴー間隙《かんげき》に到着したファム・ヌウェン。そして蜘蛛族世界の通りを歩くエズル・ヴィン、ベニー・ウェン、ファム・パティル、ツフ・ドゥ、ジミー・ディエムの五人。
無線から洩れ聞こえてくる上空とのやりとりがふいに途切《とぎ》れ、つかのま自分のスーツのこすれる音と呼吸音しか聞こえなくなった。そのあと小さな声がふたたび聞こえはじめ、谷の反対側の壁にひらいた穴のほうへ行くように指示してきた。どうやら上空の分析担当者たちは、その穴がこのあたりの蜘蛛族が冬ごもりをしている洞窟への入り口ではと考えているらしい。
「へんだな」上空からべつの声がした。「地震計がなにかを――なにかの音をとらえているんだ。おまえたちの右隣の建物だ」
エズルはさっと顔をあげて、闇を透《す》かし見た。しかし光ではなく、音だというのだが。
「歩行機械じゃないのか?」とジミー。
「家鳴りかなんかだろう」とベニー。
「いや、ちがう。もっとはじけるような強い音だ。だんだん規則的な音になってきた。すこしこもった音だ。周波数を解析すると……機械部品が動いているような感じだな。たとえば……。いや、もうほとんど止まった。残響だけだ。ディエム船員長、この騒音の発生源はかなり正確にわかったぞ。その角《かど》のむこうで、通りより四メートル高い位置だ。誘導マーカーを出す」
エズルとほかの四人は、ヘッドアップディスプレーに表示されるマーカーにしたがって三十メートル前進した。急に全員が抜き足差し足になったのは、考えてみればおかしかった。どうせどの建物の窓からも丸見えなのに。
マーカーにしたがって角を曲がった。
「とくに変わった建物には見えない」ジミーがいった。ほかとおなじように、モルタルを使わない石積みの家で、下の階より上の階がやや張り出している。「いや、しめしているところがわかった。二階の張り出したところに、なにか……セラミックの箱のようなものがボルト留《ど》めされている。ヴィン、おまえがいちばん近くにいるから、登っていって見てこい」
エズルは建物のほうへ近づきかけたが、だれかがごていねいにもマーカーの表示を消してしまった。「どこなんだい?」影と灰色の石積みしか見えない。
「ヴィン」ジミーがふだんより鋭い口調でいった。「しっかりしろ」
「ごめん」
エズルは赤くなった。こういう失敗が多いのだ。全スペクトル型映像をつけると、視界が鮮やかな色でいっぱいになった。いくつかのスペクトル領域で見えている映像を、スーツ内のシステムが組みあわせて表示しているのだ。さっきまでただの影だったところに、ジミーのいう箱が見えた。何メートルか上にある。
「ちょっと待って。近づくから」
壁のほうへ行った。多くの建物とおなじように、この家も細長い石板の飾りのようなものがついている。分析担当者は、階段ではないかと考えていた。エズルの目的にはちょうどかなったが、階段をあがるというより梯子《はしご》を登るような恰好になった。まもなく、箱のすぐわきまで来た。
たしかに機械だ。側面は鋲打《びょうう》ちされており、まるで中世の伝記物語に出てくる小道具のように見える。スーツからセンサー杖《づえ》を抜いて、箱の上にかざした。
「さわってもいいのかな?」
ジミーは答えない。上空の連中が判断すべきことがらなのだ。ひそひそと相談しているらしい声が聞こえた。
「もうすこしまわりこんだ映像を送って。箱の側面になにか書かれてないかしら」
トリクシアだ! 上空で見ているにちがいないとは思っていたが、声を聞くとうれしかった。
「了解」
エズルは答えて、センサー杖を箱の上で前後に動かした。側面になにか見える。文字なのか、全スペクトル映像の複雑なプログラムの上にあらわれた幻影にすぎないのか、よくわからなかった。もし文字だったら、ちょっとした発見だ。
「よし、杖を箱にあてろ」
べつの声。音響分析の担当者だ。エズルはいわれたとおりにした。
そのまま数秒が経過した。蜘蛛族の階段はとても急なので、エズルは背中をその垂直面によりかからせていなくてはならなかった。空気雪の霧が踏み板をつたって下へ流れていく。踏み板の冷たさをやわらげようと、スーツのヒーターががんばっているのを感じた。
ようやく声がした。「おもしろいな。こいつは大むかしのセンサーみたいだぞ」
「それは電気式なの? 遠くの場所にデータを送ってるの?」
エズルははっとした。その言葉はエマージェント訛《なま》りのある女の声だったからだ。
「ええと、レナルト局長ですね。いえ、ちがいます。そこがこの仕掛けのすごいところで、これだけで完結した機械なんですよ。動力源≠ヘ、ずらりとならんだ金属ばねらしい。機械式の時計――というのはご存じですか?――それとおなじ機構で、タイミングと動力を得ている。実際には、この長い冬のあいだじゅうずっと動かしつづけようとしたら、素朴な手段としてはこれしかないでしょうね」
「とにかく、それはなにを観察してるんだ?」
ジミーの声だ。もっともな質問だろう。エズルの想像力がまた働きはじめた。じつは蜘蛛族は、みんなが考えるよりはるかに頭がいいのかもしれない。気密スーツ姿の自分の映像が、いつか彼らの偵察報告書に載るのではあるまいか。いや、それどころか、この箱がなにかの兵器と連動しているということはないのか。
「カメラのたぐいは見あたらないんだ、船員長。箱の内部のようすはかなりはっきり見えている。歯車の仕掛けが巻紙を動かし、その上で四本の記録針が動くようになっている」巻紙≠ニか記録針≠ニか、衰亡した文明の文書でしかお目にかからないような用語だ。「おそらくこの機械は、紙を毎日すこしだけ動かし、気温や気圧を記録しているのだろう……あとの二つの記録項目がなにかはわからないが」二百年以上も毎日動いていたというのか。むかしの人間に機械仕掛けだけでそんな長期間、しかもこんな低温のなかで動くものをつくれといっても、そう簡単にはできなかったのではないか。「これが動きを止めるところにたまたま通りかかったのは、幸運だったよ」
それからは、そのような記録装置はどれくらいの能力をもっているかという、技術的な議論になった。ジミーとベニーとほかの着陸班員たちは、ピコ秒単位の閃光《せんこう》で周囲を調べた。周囲に光る物体はない。ここから見通せる範囲にレンズを使った光学装置はないようだ。
そのあいだ、エズルはずっと階段の垂直面によりかかったままだった。全身をつつんだ気密スーツを通して冷たさがしみこんできた。このような熱吸収源にいつまでも接触していられるようには設計されていないのだ。エズルは狭い踏み板の上で身体《からだ》をずらした。一Gの環境ではこういう動きも簡単にできる……。
位置がずれたおかげで、建物の角のむこうが視界にはいるようになった。そちらの壁では、窓をおおっていたはずの板が、はずれて落ちているようだ。エズルは階段から危なっかしく身をのりだしながら、その窓から見えているのがなんなのか、理解しようとした。
室内はすべてが空気雪でうっすらとおおわれている。腰の高さの棚が何列もならんでいる。その上には金属製の枠組みがあり、さらに棚がならんでいる。上下の棚のあいだは蜘蛛族流の階段でつながれている。もちろん、蜘蛛族にとってこれらの棚は腰の高さ≠ナはないだろう。ふーむ。棚の上には乱雑に積まれたものがある。それぞれは薄い板の集積体で、片側で綴じられている。きちんと折りたたまれているのもあれば、扇子《せんす》のようにぞんざいに広げたままのものもある。
電気のようなショックとともに、それらがなにかふいにわかった。あわてて共用回線にむかってしゃべった。
「ちょっとすいません。ディエム船員長?」
上空の連中との会話が、驚いたように途切れた。
「どうしたんだ、ヴィン」ジミーがいった。
「ぼくの視点映像を見てください。どうやら、図書館をみつけたようなんです」
上のだれかがよろこびの叫び声をあげた。まちがいなく、トリクシアの声だ。
地震計と起震装置の分析からどのみち図書館にはたどり着けたはずだが、エズルの発見によってずいぶん時間が節約できた。
裏に大きな扉があったので、歩行機械はすぐにいれられた。歩行機械は高速スキャナーをそなえている。この本≠フ形態に慣れるまですこし時間がかかったが、まもなくすさまじい速度で――といっても秒速一、二センチほどだが――本棚のあいだを移動しはじめていた。着陸班のうち二人がはりついて、その胃袋に本を放りこみつづけた。
上空では穏やかな物腰ながら議論がおこなわれ、それが下にも洩れ聞こえていた。この着陸は共同作戦の一部であり、交渉によって決まったスケジュールではあと百キロ秒とたたずに時間切れになってしまう。それまでにこの図書館での作業を終わらせるのはむずかしいし、ましてほかの建物や洞窟の入り口を調べる時間はない。エマージェント側は、この着陸班だけに例外を認めるのには難色をしめした。そして、そんなまだるっこしいことはやめて、大型船を一隻谷底に送って、資料を一切合切かっさらったらどうかと提案した。
「それでも潜伏戦略の基本方針を放棄するわけじゃない」男のエマージェントの声がいった。「谷の壁を爆破して、大規模な崖崩れで村が埋まってしまったように見せかければいいのさ」
「おいおい、ずいぶん乱暴なやつらだな」ベニー・ウェンの声が、班内回線を経由してエズルの耳にとどいた。
エズルは答えなかった。エマージェントの提案は不合理というよりも……とにかく、異質だった。チェンホーがやるのは取り引きだ。なかには商売相手を貧窮させて楽しむ残酷なやつもいるが、ほとんどは次回の取り引きでもおなじ客がカモになってくれることを期待している。
破壊したり盗んだりするのは……野蛮人のやることだ。そもそも、もう一度来て調べればいいだけなのに、なぜそんなことをするのか。
上空では、エマージェント側の提案はていよく断られた。そしてこの貴重な谷を今後の共同作戦の最優先項目とし、ふたたび調査隊を送るということになった。
ジミーはベニーとエズルに本棚あさりを命じた。この図書館の蔵書は十万冊ほどで、データ量にして数百ギガバイトにすぎないが、残された時間ですべて読みとるのは無理だ。となると、選《え》り好みせざるをえない。その過程で貴重なもの――子どもむけの挿し絵入り読本がみつかるかもしれない。
ジミーは歩行機械のスキャナーに本をいれる係も、数キロ秒ごとに交代させた。上の階の棚から本を運んできて読みとらせ、またもとの場所へ返す仕事だ。
エズルが昼食時間をあたえられたときには、天頂近くにあったオンオフ星はだいぶ傾いて、谷のむこうの岩山のすぐ上にかかっていた。建物の影は通りに長く伸びている。エズルは空気雪のあいまに地面がのぞいているところをみつけ、断熱毛布をしいてその上に腰をおろした。やれやれ、疲れた。ジミーからもらった休憩時間は千五百秒だ。給食装置を動かして、フルーツバーを二本ほどゆっくりと食べた。
トリクシアの声が聞こえていたが、とても忙しそうだ。子どもむけの挿し絵入り読本≠ヘみつからなかったものの、それに次ぐくらい貴重な発見があった。物理と化学関連の本の山だ。
トリクシアはここが工業専門図書館のようなところではないかと考えていた。いまはスキャナーの読み取り速度をあげる方法が話しあわれている。トリクシアは蜘蛛族の文章を構成する文字をほぼ正確に分析できたと考えており、それをもとにすればもっと効率のいい読み取り方法に切り換えられそうだった。
エズルは初めて会ったときから、トリクシアの頭のよさには気づいていた。とはいえ、彼女は言語学を専攻した顧客人種の一人にすぎないし、その分野ではチェンホーの学術員もけして劣ってはいない。そんな船団で、トリクシアがなにか貢献できるのかと思っていたが……。しかし上空から洩れてくる回線の声を聞くかぎり、トリクシアの意見はほかの言語学者たちから非常に尊重されているようだった。それも不思議はないのかもしれない。トライランド星の全住人が、遠征隊のかぎられた席をめぐって競ったのだ。五億人のなかから、ある専門分野で最高の人材を選べば……きわめて優秀な人物が手にはいるのは当然だろう。
そう考えると、彼女と親しいのだというエズルの誇らしさもすこしばかり萎《な》えてしまった。実際には、トリクシアにあこがれているエズルのほうが背伸びしているのだ。たしかにエズルは、ヴィン第二十三家の重要な継承者だが、本人は……それほど頭がいいわけではない。それどころか、いつもくだらない空想に時間を費やしてしまう役立たずの実習生だった。
気落ちした考えは、やがてお決まりの道すじをたどりはじめた。もしかするとここで自分がそれほど役立たずではないことを証明できるかもしれない。蜘蛛族はずいぶんむかしにもとの文明を失っているらしく、いまは黎明期といえる時代にちがいない。うまくすれば、船団の財産となるような大きな発見ができるかもしれない。そうすれば、トリクシアもエズル・ヴィンのことを見なおすだろう……。エズルの頭のなかでは、細部をほとんど無視したまま、勝手な楽しい空想が次々と浮かんでいった。
エズルはちらりと時計を見た。よかった、休憩時間はあと五百秒ある。立ちあがり、長くなる影のむこうで山の斜面へ伸びていく通りを見やった。最優先の調査事項に忙殺され、景色を眺める暇などだれにもなかった。それどころか、通りがひろがって広場のようになっている場所のすぐ手前まで来ているのに、だれもそこまで行ってみようとしていないのだ。
明期にはたくさんの植物がはえていたのだろう。山々は、かつて木だったらしいねじくれた残骸におおわれている。谷底のほうでは、植物はていねいに手入れされているようだ。通りぞいには一定の間隔で、観賞用植物だったらしい有機物の残骸が積もっている。広場のまわりにはそんな残骸の小さな山がいくつもならんでいた。
あと四百秒。まだ時間はある。エズルは足早に広場の端へ行き、外周にそって歩きはじめた。広場のまんなかがこんもりと高くなっている。なにか奇妙なかたちのものの上に大気雪が積もっているようだ。広場の反対側まで行って、光のほうをむいた。図書館では集中的に作業がおこなわれているためにだんだんと温度があがり、一時的に霧が発生していた。建物からしみだしてきた霧は、通りの上を流れるうちに凝結《ぎょうけつ》し、また雪となって地面に積もっている。そのなかにオンオフ星の赤い光が斜めに差している。色をべつにすれば、両親の仮設舎のメインフロアで夏の夜に発生する低く這う霧とよく似ていた。そう考えると、谷の岩壁が仮設舎の仕切り壁のように見えてこなくもない。つかのまエズルはその眺めに陶然《とうぜん》となっていた。こんな異質な場所が、ふいに親しみのある平和な風景に見えてきたのだ。
エズルは広場の中央に視線をもどした。こちら側はほとんど空気雪をかぶっていない。手前のほうに奇妙なかたちのものがあるが、暗くてよく見えない。ろくに考えもせずに、エズルは近づいていった。地面に雪はなく、凍った苔《こけ》のようにばりばりと音をたてる。エズルははっと息をのんで立ち止まった。中央にある黒っぽいものは銅像だ。
蜘蛛族の銅像だ!
もちろん、何秒かしたら報告しよう。しかしいまは、しばらく黙って一人だけでこの発見を眺めていたかった。もちろん、ここの種族のおおざっぱな姿はすでにわかっていた。べつの着陸地点で粗《あら》っぽい絵がみつかっているのだ。しかしこれはエズルは映像の解像度をあげた――まるで生きているように精巧な銅像だ。黒っぽい金属で、細部まで精密に表現されている。銅像になっているのは三個体。おそらく等身大だろう。
蜘蛛≠ニいうのはあくまで一般名詞で、科学的に正確にどんな生きものをさしているかは、もはや不明瞭になってしまっている。エズルが子どもの頃に住んでいた仮設舎には六本脚の蜘蛛≠焉A八本脚の蜘蛛≠焉Aときには十本脚や十二本脚のやつもいた。脚が太くて毛むくじゃらのもいれば、すらりとした脚で黒くて毒をもつのもいる。
ここの蜘蛛≠ヘ、すらりとした十本脚の種類のようだ。しかし服を着ているのか、そうでないとしたら、人間の知っている蜘蛛よりずいぶん突起の多い姿をしているようだ。銅像の蜘蛛たちは、おたがいに脚をしっかりと巻きつけ、おたがいの下の見えないところへむかって手を伸ばしている。戦っているのか、愛しあっているのか、それともなにかべつの行為をしているのか。エズルの想像力をもってしてもさすがにわからなかった。
かつて太陽が明るく輝いていた時代には、このあたりはどんな眺めだったのだろう。
4
世の中がいちばん快適なのは、衰微《すいび》期の何年かだという、皮肉っぽい常套句《じょうとうく》がある。
たしかにこの時期の天候は穏やかなので、あらゆる場所にゆったりとした雰囲気がある。どの地方でも、夏はさしたる猛暑《もうしょ》ではなくなっているし、冬はまだそれほどきびしくない。また、むかしからのロマンスの時期だ。あらゆる高等動物が、用事をあとまわしにしてのんびりしたくなる時期なのだ。そして、世界の終わりにそなえて準備をする最後のチャンスでもある。
まったくの偶然だったが、シャケナー・アンダーヒルがランズコマンド市への初めての旅に出たのは、幸運にもこの衰微期のもっとも美しい季節だった。すぐに気づかされたのだが、幸運はこれだけではなかった。海岸ぞいの曲がりくねった道は自動車が走りやすいようにつくられてはおらず、またシャケナー自身も自分で思ったほどには運転がうまくなかった。駆動ベルトが正常に働かなかったために、一度ならず過剰なスピードのままヘアピンカーブに突っこむはめになり、ステアリングとブレーキ操作だけであやうくそこを曲がった。もし失敗したら、青くかすんだ大洋にむかって真っ逆さまに転落していただろう(実際にはそこまでとどかずに崖下の森に落ちただろうが、どちらにしても命はなかったはずだ)。
シャケナーにはそれが愉快だった。何時間かするうちに、この機械を操作するこつも覚え、わざと片側の車輪を浮かせて猛スピードでカーブを曲がるような芸当さえできるようになった。眺めのいい道だった。地元の連中はこの道を|アコード国の誇り《プライド・オブ・アコード》≠ニ呼んでいて、王家からも黙認されていた。夏の盛りで、森の木々はほとんどが樹齢三十年に達している。木の寿命としてはほぼいっぱいだ。緑の枝葉をしげらせてまっすぐ高く伸び、梢《こずえ》は路肩《ろかた》とほぼおなじ高さだ。花の香りと森の樹液のさわやかな匂いが運転席まで流れてくる。
民間の乗用車とはあまりすれちがわなかった。オスプレッチ獣の牽《ひ》く荷車がほとんどで、あとは貨物自動車が何台かと、すこしじゃまな軍用車隊だ。シャケナーとその車を見た者は、むっとしたり、おもしろがったり、うらやましそうだったり、さまざまな反応をしめした。妊娠しているらしい女たちや、背中に子袋を背負った男たちの姿を、プリンストン市よりもたくさん見かけた。彼らのなかにはシャケナーの自動車を見てうらやましそうな顔をする者が多かった。
〈〈ぼくはむしろ、彼らのことをうらやましいと思うときがあるけどな〉〉
シャケナーはしばらく頭のなかでその考えをもてあそんだが、あまり深くは追求しなかった。自分の内面の本能を観察するときのはときとしておもしろいものだ。
そうやって走りつづけた。身体《からだ》と感覚が走る快感に充《み》たされる一方、頭の奥のほうではいろいろなことを考えた。大学院のこと。自分の計画をどうやってランズコマンド市に売りこむか。この自動車を改良するための、文字どおり無数のアイデア……。
初日の午後遅く、森のなかの小さな町にはいった。古ぼけた看板に、|夜の冬眠穴《ナイトディープネス》≠ニ書かれている。地名なのか、なにかの説明なのか、よくわからなかった。
シャケナーは村の鍛冶《かじ》屋の店先に車を止めた。鍛冶屋は、道ですれちがう連中とおなじ奇妙な笑みを浮かべた。
「いい自動車だねえ、旦那」
たしかに高価な、とてもいい車だ。レルマイヒ社製の新車なのだ。ふつうの大学院生に買えるような値段ではない。シャケナーは二日前、その購入資金を大学の近くにあるカジノで稼いだのだ。そのときは少々危ない橋を渡った。シャケナーの人相はプリンストン市じゅうの賭博場で知られている。胴元の組合からは、市内で賭けているところを今度みつけたらぜんぶの手足をへし折ってやると脅《おど》されていた。とはいえ、もうプリンストン市にはおさらばするつもりだったし――とにかく、どうしても自動車の運転というものを経験してみたかったのだ。
鍛冶屋は、銀色の装飾部品や三つならんだ回転動力シリンダーを見るふりをしながら、車のまわりを横歩きで一周した。
「ふむ。ずいぶん遠くから来たみたいだね。しかし、こいつが止まっちまったらどうするつもりなんだい?」
「ケロシン油を買うことはできるだろう?」
「ああ、そりゃあるよ。ここらの農業機械でも使うからね。いや、そういう意味じゃなくて、この複雑な機械が壊れたらってことさ。そういうことはしょっちゅうだからね。荷車を牽く動物とちがって、ひ弱だから」
シャケナーはにやりとした。鍛冶屋の裏の森には、エンジンを降ろされた何台分かの自動車の残骸が捨てられていた。機械いじりをするにはちょうどいい場所をみつけたようだ。
「そうなったら困るね。でもじつは、ちょっとした考えがあるんだ。ここの革と鋳鉄《ちゅうてつ》部品の仕掛けなんだけど、ちょっと見てくれないか……」
午後になって思いついたなかで、簡単に実現できる二つのアイデアを説明した。鍛冶屋は愛想がよく、変わり者との商売にも乗り気だった。しかし前金だという。さいわい、シャケナーのプリンストン銀行発行の通貨は受け取ってもらえた。
そのあと、シャケナーは小さな村のなかを走って宿屋を探した。
見るからに平和で、時間が止まったような村だった。伝統主義者が通う暗黒教会がある。この年代の建物はどこもそうだが、色あせ、傷んでいた。郵便局のわきで売っている新聞は三日前の日付だ。戦争と侵略者について訴える派手な見出しが、大きな赤い文字で踊っている。しかしここの住人は、たとえランズコマンド市へむかう軍用車隊が通っても、見むきもしないようだった。
結局、小さなナイトディープネス村に宿屋はないようだった。しかたなく、郵便局長から二軒ほどの民宿とその道順を教えてもらった。
日が海のほうへ傾いていくなか、シャケナーは田舎《いなか》道を迷いながらのんびり走っていった。森は美しいが、耕作できる土地は少ないようだ。住人たちは外部との商売で生活の一部をまかなってはいるが、それでも山の狭い農地で汗水たらして働かねばならない……とはいえ、作物がよく育つのはせいぜいあと三年で、それからは霜害《そうがい》がひどくなるだろう。収穫物置き場はいっぱいで、荷車がひっきりなしに山の奥とのあいだを往復していた。
教区の冬眠穴は十五マイルほどはいったところにあった。それほど大きな冬眠穴ではないが、この田舎の住民ほぼ全員を収容するくらいの広さはある。いまのうちに食糧をたくわえておかなかったら、暗期がはじまって最初のきびしい数年で飢《う》え死にしてしまうだろう。文明の発達した現代でも、健康な身体をもっているくせにこの数年のためのたくわえを用意しておかないような怠《なま》け者には、施《ほどこ》しもほとんどなされないのだ。
海を見おろす高台で、シャケナーは夕日を見るために車を止めた。そこからは三方が下りの傾斜になっていて、南側は森におおわれた小さな谷だ。谷のむこうの尾根に家が一軒見え、どうやらそれが郵便局長のいっていた民宿のようだ。しかしまだあわてることはない。ここは今日いちばんの眺めのいい場所なのだ。遠い水平線に日が沈み、さまざまな格子縞色がごくかぎられた色へと凝縮されていくようすを楽しんだ。
それからまた車を走らせはじめ、急傾斜の泥道を谷のほうへくだっていった。森の樹冠《じゅかん》が空をおおい隠すようになると……そこは今日走ったなかでもいちばん危険な道だった。歩くのと変わらないほどに速度を落としているのだが、足首ほどの深さがある轍《わだち》のせいで、車は沈みこんだりすべったりした。立ち往生せずにすんだのはひとえに下り坂と幸運のおかげだ。ようやく谷底に着くと、シャケナーはぴかぴかの新車をここに乗り捨てようかと、しばし真剣に考えた。行く手と路肩を眺めてみた。廃道というわけではないようだ。荷車がつくった轍はまだ新しい。
夕方の風が軽く吹いてきて、糞《ふん》と腐った野菜の匂いがした。ごみ捨て場があるのだろうか。この雄大な自然のなかでは不似合いだが。たしかに小さなごみの山のようなものがあった。よく見ると、木々の奥に掘《ほ》っ建《た》て小屋がある。一度も柱の補修をされていないように壁はひん曲がり、屋根は陥没している。穴には藁《わら》が詰めこまれている。道路と小屋のあいだの下草《したくさ》は動物が食《は》んだらしい。それで糞の匂いのもとがわかった。小屋のわきを流れる小川のすぐ上流のあたりを、二頭のオスプレッチ獣がよたよた歩いている。
シャケナーは車を止めた。道の轍は、二十フィートほどむこうの小川にはいって消えている。シャケナーは愕然《がくぜん》として、しばらくそのようすを眺めた。ここに住んでいるのは正真正銘、未開の連中らしい。都会育ちのシャケナー・アンダーヒルにとってはまったく異質だ。彼は車から降りかけた。こいつはおもしろそうだ。いろいろなことが学べるだろう。
しかしそこで、はたと気づいた。彼らが本当に異質な連中なら、こちらの存在そのものを不快に思うかもしれない。
それに……。シャケナーはそろそろと運転席にもどり、ステアリングホイールとアクセルとブレーキを握った。オスプレッチ獣以外の視線を感じる。薄暗がりにもすっかり馴《な》れた目で、あたりを見まわした。二人いる。両側の影のなかにひそんでいる。動物ではないが、村の住民ともちがう。子どもだろうか。五歳と十歳くらいだ。小さいほうの目はまだ幼眼《ようがん》だ。しかしその視線は、ほとんど捕食動物のようだった。
彼らはじりじりと車に近づいてきた。
シャケナーはエンジンを吹かして車を急発進させた。小川にたどり着く直前に、三つめの影に――体格はいちばん大きい気――がついた。小川の上に張り出した枝のなかに身をひそめている。こいつもやはり子どものようだが、本気でこちらを待ち伏せて襲おうとしているらしい。
シャケナーはステアリングを右へいっぱいに切り、轍のついた道からはずれた――いや、そうなのだろうか。前方にもかすかな轍が見える……。こちらが本当の渡河《とか》地点だ!
車が流れに突っこみ、両側に水飛沫《みずしぶき》が高くあがった。枝のなかにひそんでいたやつが飛びかかってきた。長い手が車の側面をひっかいたが、落ちたところはシャケナーの進路のわきだった。シャケナーはむこう岸にたどり着くと、上り坂を駆けあがりはじめた。本当の待ち伏せなら袋小路《ふくろこうじ》になるはずだが、こちらには道がつづいている。
猛スピードで坂を登っていくあいだも、なんとか道の外へ飛び出さずにすんだ。森の樹冠の下から出るときに、危ない一瞬があった。道の勾配が急にきつくなり、車の前輪が浮きあがって、うしろにひっくり返りそうになったのだ。あわててシャケナーが運転席で前かがみになると、前輪が接地して、なんとか坂のてっぺんにあがることができた。
星がまたたきはじめた夕暮れ空の下、谷の反対側から眺めた家のそばに、車をよせた。
エンジンを切って、しばらくは荒い息をつきながら、胸のなかで血管が脈打つ音を聞いた。それほどあたりは静かだった。ふりかえったが、追いかけてきてはいない。考えてみると……どうも奇妙だった。最後に見たとき、体格の大きいやつは小川からゆっくりあがろうとしていた。あとの二人は興味なさそうにそっぽをむいていた。
谷のむこうから見た家の玄関に、灯《あか》りがついた。ドアがひらき、老婦人がポーチに出てきた。
「どなた?」しっかりした声だ。
「エンクリア夫人ですか?」シャケナーの声はすこし裏返っていた。「郵便局長からうかがってきたんです。旅人を泊めていただけるとか」
彼女は運転席の側へ近づいてきて、シャケナーのようすを眺めた。「ええ、そうよ。でも夕食には遅い時間になってしまったわ。冷たい飲みものだけでがまんしてもらわなくてはいけないけれど」
「ああ、それでけっこうです。充分です」
「いいわ。荷物は自分で運んでちょうだいね」夫人は軽く笑って、シャケナーがたったいま脱出してきた谷のほうへ小手をふった。「たしかにずいぶん遠くからいらしたようね、お若い方」
玄関先で聞いた話とはちがって、エンクリア夫人は上等な料理をシャケナーに出してくれた。食後は応接間にすわっておしゃべりをした。
家は清潔だが、だいぶガタがきていた。床が沈んだところは補修されていないし、ペンキはあちこちで剥《は》げている。建物が寿命を迎える時期なのだからしかたない。網戸のはいった窓と窓のあいだには本棚があり、ゆらめく薄暗いランプの光に照らされていた。百冊ほどあるのは、ほとんどが子ども用の教科書だ。老婦人は(シャケナーの二世代前の生まれだというので、本当に高齢だ)、もと教区の教師だった。夫君は前回の暗期を越えられなかったらしいが、成長した子どもたち――彼らももう年寄りの部類にはいる――は、このあたりの丘のあちこちに住んでいるという。
しかしエンクリア夫人は、都会の学校教師とはまったくちがっていた。
「いろんな土地へ行ったわよ。あなたくらい若い頃は、西の海を船で航海したんだから」
〈〈船乗りだって?〉〉
シャケナーは畏敬《いけい》の念をあらわにして、その大嵐や吹雪《ふぶき》や氷山出現といった話を聞いた。たとえ衰微期でも、船乗りになるような酔狂《すいきょう》なやつは多くない。エンクリア夫人が子どもをつくれるほど長生きできたのは、とても幸運だったというべきだろう。そのせいもあったのだろうが、次の明期には学校教師として腰を落ち着け、夫の子育てを手伝った。教区の子どもたちの成長にあわせて、毎年先行して次の学年の教科書を研究し、彼らが大人になるまでそれをつづけた。
この明期には新しい世代を教えた。彼らが成長する頃には、夫人もさすがにいい齢《とし》になっていた。三度めの明期を迎える大人はそれなりにいるが、その終わりまで生き延びられる例は少ない。エンクリア夫人は独力で暗期入りの支度をするには身体が弱りすぎていたが、教会や子どもたちの助けがある。うまくすれば四度めの明期も見られるかもしれない。一方で、噂話をしたり本を読んだりする旺盛な好奇心は健在だった。戦争にも関心があった――とはいえ、熱心な観客としてだが。
「どんどんトンネルを掘って、いまいましいティーファー軍の陣地のうしろにまわればいいのよ。戦線にはわたしの兄弟の孫娘二人も参加していて、とても誇らしく思ってるわ」
シャケナーはその話を聞きながら、目のこまかい網戸のはいった横長の窓のほうを眺めた。山の上なので星が明るく、その千色《ちいろ》のきらめきが森の広葉樹やむこうの山々をぼんやりと照らしている。小さな妖精|蜘蛛《ぐも》が網戸のところでたえまなく鳴いている。森のほうからは、彼らの合唱が聞こえてくる。
ふいに太鼓が鳴りはじめた。かなり大きな音で、耳だけでなく、足の先や胸まで響いてくる。二つめの太鼓がくわわり、最初の太鼓と拍子があったりずれたりしながら鳴りつづけた。
エンクリア夫人は話をやめて、うんざりしたようにその騒音を聞いた。「これが何時間もっつくのよ」
「あの隣人ですか?」
シャケナーは北側の小さな谷のほうをしめした。彼が到着したときに、ずいぶん遠くからいらしたようね≠ニいういい方をした以外は、谷の奇妙な住民について夫人がなにも話さないのが不思議だった。
……いまも話す気はないらしい。エンクリア夫人は席に腰かけたまま、シャケナーが到着したとき以来の意味深長な沈黙をつづけた。それからふいに、こういった。
「怠け者の妖精蜘蛛の話は知ってる?」
「もちろんです」
「問答式授業ではだいじな題材にしているのよ。とくに五歳や六歳の子どもたちには。話のなかでは、彼らはわたしたちを小さくしたような姿をしているので、小さな蜘蛛と呼ばれているわ。彼らがどうやって翅《はね》をはやしたかを教えたあと、暗期入りの準備をせずにいつまでも遊びほうけて、とうとう手遅れになってしまった連中のことを話すの。とても恐ろしい物語としてね」夫人は食手《しょくしゅ》を口にあてて、怒ったような鋭い音をたてた。「このあたりは貧しい村だったのよ。だからこそわたしは船乗りになったのだし、のちに帰ってきてみんなの手助けをしようとしたのも、おなじ理由からよ。教師としてのわたしの報酬は、何年かは農協発行の食糧切符だけだった。でもこれだけははっきりいっておくけど、わたしたちはまじめな住民よ……。ただしこのあたりには、みずからすすんで害虫になる連中も多いわ。数は少ないし、ほとんどはずっと山の奥にいるけれど」
シャケナーは谷底で襲撃された話をした。
エンクリア夫人はうなずいた。「たぶんそんなところだろうと思ったわ。あなたはお尻に火がついたような勢いで登ってきたものね。自動車も無事に逃げてこられたのは幸運よ。でも本当に危険だったわけじゃない。もちろん、じっとしていたら蹴り殺されたかもしれないけれど、基本的にあいつらは怠惰《たいだ》で、それほど危険でもないのよ」
おやおや、本当に堕落しきったやつららしい。シャケナーはあまり興味がないふりをよそおった。
「じゃあ、あの音は――?」
夫人はそっけなく手をふった。「あれで音楽のつもりなのよ。しばらくまえに、薄汚れた発泡酒でもたっぷり手にいれたようね。でもあれは、たんに飲んでああなるだけ――こちらはひと晩じゅう眠れないけれどね。けがらわしいところを教えてあげましょうか。あの連中は暗期の準備をしないのよ……そして自分の子どもたちもだめにしてしまう。ここの谷にいる夫婦は、耕作をする辛抱強さがなくて山に住んでるのよ。ときどき鍛冶仕事をして、盗みができないときは、農場から農場をまわって働かせてもらっている。太陽の中間期にはそれでもいいわ。でも、あの連中は季節かまわず交尾して、子どもをぽろぽろ生んでいる……。あなたはお若いわ、アンダーヒルさん。すこし世間知らずかもしれない。衰微期になるまえ女が妊娠するのがどんなにろくでもないことか、あまりご存じないかもしれないわね。たとえ小さな子袋がひとつふたつできても――まともな女ならむしり取ってしまうわ。でもこの谷に住んでいる害虫夫婦は、年がら年じゅうやりまくっているのよ。男はいつも背中に子袋をひとつふたつしょっている。幸運なことに、その子たちはたいてい死ぬわ。でもなかには、赤ん坊の段階まで成長する子がいる。そして子ども時代まで生きる例もある。でもそれまで何年も、彼らは動物同然の扱いを受けるのよ。ほとんどは頭が空《から》っぽでいつも不機嫌な子になってしまう」
シャケナーは、谷底で見た捕食動物のような視線を思い出した。あの小さい連中は、シャケナーが知っている子どもとは似ても似つかない。
「でも、なかには逃げ出すのもいるでしょう? そして大人に成長するのも」
「いくらかはね。そうやって、自分のもっていないものがわかるようになった連中が、いちばん危険なのよ。ここでもたまに、ひどいことが起きるわ。わたしはむかし、小型の野生蜘蛛を何匹か飼っていたわ――ペットとしてと、多少のお金になることを見込んで。でもそれは一匹残らず盗まれたり、しゃぶりつくした死骸になって玄関ポーチに捨てられていたりしたわ」
夫人はつらい思い出に耐えるように、しばらく黙った。
「頭が空っぽだと、いいものに目がくらむのね。何人かの害虫がこの家に侵入する方法を覚えてしまった時期があったわ。最初は飴《あめ》の袋を盗んでいるだけだった。ところがある日、家じゅうの写真を盗み、それどころか本まで盗んでいったのよ。それからは内扉にしっかり鍵をかけるようにしたわ。ところがどういうわけか三度めの侵入をはたして――あきれたことに、残りの本をもっていったのよ! そのときわたしはまだ教師をしていて、どうしてもその本が必要だったのよ。教区の巡査が下の害虫の住み処《か》を家捜《やさが》ししてくれたけれど、もちろん本はみつからなかった。教師としての最後の二年間のために、教師用の教科書を新しく買いなおすはめになったわ」
夫人のしめす本棚を見ると、いちばん上の段にはすりきれた十数冊の教科書がおさまっていた。その下の段にも、幼児むけのものまで低年齢用の教科書がずらりとならんでいるのだが、こちらは新品同然で、ろくにひらいたこともなさそうだった。奇妙だ。
二つの太鼓の音はしだいに拍子がずれていき、いつのまにか消えてしまった。
「だから、アンダーヒルさん、たしかに、いわゆる時期はずれ≠フ子どもでも一部は大人になるわ。世代としては、この明期に育った子どもとほぼいっしょかもしれない。でも彼らは、次の世代の害虫なのよ。あと二年ほどで世の中はきびしくなる。妖精蜘蛛とおなじように、彼らも寒さを感じるようになるわ。それでも、教区の冬眠穴へやってくるのはごく少数よ。大半は山のなかですごすわ。洞穴《ほらあな》はあちこちにあるのだけど、もちろん動物の冬眠穴と大差ない。この教区でいちばん貧しい農民も、そういうところで暗期をすごすの。そして時期はずれに生まれた害虫が暴れまわるのも、そういう洞穴なのよ」
老婦人はシャケナーの表情に気づいて、にやりと荒々しい笑みを浮かべた。
「わたしはもう次の明期は見られないでしょう。それはそれでいいの。この土地は子どもたちが継ぐわ。眺めもいいし、小さな宿屋を建てるのかもしれない。でももしわたしがこの暗期を生き延びたら、ここにささやかな山小屋を建てて、わたしがこの教区でいちばんの年寄りだと主張する大きな看板を立ててやるわ……。それから、谷底を見おろすでしょうね。そのとき、きれいさっぱりだれもいなくなっているといいのだけどね。もし害虫がもどってきてまた住みはじめたら、それは彼らが貧しい農民の一家を殺して、その冬眠穴を奪ったことを意味するんだから」
そのあと、エンクリア夫人は話題を変えて、プリンストン市での暮らしとシャケナーの子ども時代について訊いた。この教区の暗い秘密をあかしたのだから、シャケナーのほうも、なぜ自動車に乗ってランズコマンド市へむかっているのかを話すべきだと主張した。
「軍に採用されることを期待しているんですよ」
しかしシャケナーが採用してもらいたいと思っているのは、じつは自分ではなく、自分のアイデアだった。そういういい方をするせいで、大学の教授陣を立腹させてしまったのだが。
「あら、そう。でもプリンストン市でもすぐに入隊手続きができるのに、わざわざ遠い道のりを自分で行くというの? あなたの自動車の荷台は、農民の荷車のように大きくふくらんでいたようだけど」夫人は食手を揺すって好奇心をしめした。
シャケナーは曖昧《あいまい》に微笑んだ。「プライド・オブ・アコード道を自動車で旅するつもりなら、予備の部品をたっぷりもっていったほうがいいと、友人から助言されましてね」
「それはたしかにそうね」エンクリア夫人は中手《ちゅうしゅ》と脚で身体をささえて、すこしよろよろと立ちあがった。「わたしも齢ね。こんなに気持ちのいい夏の夜で、いい話し相手がいるのに、眠たくなってきてしまったわ。朝食は夜明け頃に用意するわね」
客を部屋へ案内すると、シャケナーが自分でやりますというのも聞かずに階段をのぼってきて、窓のあけ方と寝台の広げ方を教えた。風通しのいい小さな部屋で、壁紙はやはり古くなって剥がれかけていた。むかしは子ども部屋として使われていたのだろう。
「……それから、お手洗いは家の外の裏手にあるわ。ここは便利な都会ではないのよ、アンダーヒルさん」
「これで充分ですよ」
「では、おやすみなさい」
夫人が階段を降りはじめてから、シャケナーは訊き忘れていたことを思い出した。いつもあとから思い出すのだ。部屋のドアから顔を突き出して訊いた。
「エンクリア夫人、いまはまたたくさんの本をもっていらっしゃるようですけど、なくなった分は教区の勘定で買ってもらったのですか?」
夫人はゆっくりと降りていた階段の途中で立ち止まり、小さく笑った。「ええ、何年もたってからね。そこでまたいいお話があるのよ。買ってくれたのは、本人はいわないのだけど、たぶん新任の教区司祭よ。きっと自分のお金を使ったのでしょう。ある日、玄関先に郵便小包がとどいていたの。中味は、プリンストン市の出版社からじかに送られてきた全学年分の新しい教師用教科書だったわ」夫人は手をふった。「本当に驚いたわ。でもあの本はぜんぶ冬眠穴へいっしょにもっていくのよ。そして次の世代の教区の子どもたちを担当する教師にかならず渡すつもり」そして階段を降りていった。
シャケナーは寝台にあがり、しばらくごそごそと動いて、硬いクッションの上で居心地いい姿勢を探した。とても疲れているのに、なかなか眠れなかった。小さな窓は谷を見おろしている。ひと筋の煙に星明かりがあたり、炭火の色が映っていた。煙そのものも遠赤外光を放っているが、下で炎があがっているのなら混じるはずのちらちらと光る点は見えない。
〈〈堕落した連中もさすがに眠ったんだな〉〉
まわりの森からは妖精蜘蛛の鳴き声が聞こえてくる。交尾したり、食糧をたくわえたりしているのだろう。シャケナーは昆虫学をもうすこし勉強しておけばよかったと思った。虫の音は高くなったり低くなったりしながら響いた。子どもの頃には、怠け者の妖精蜘蛛のお話もたしかに聞かされたが、妖精蜘蛛の歌をちゃかした戯《ざ》れ歌もあった。高いほうも低いほうも、わからないことだらけ≠ニいう歌詞だった。妖精蜘蛛の合唱の節《ふし》回しは、ちょうどその歌詞にあっていた。
歌詞を思い出し、調べに耳を傾けているうちに、ようやく眠りに誘われはじめた。
5
シャケナーがランズコマンド市に着いたのは、それから二日後だった。車の駆動ベルトを改良したおかげで下りの高速カーブを安定して走れるようになったわりには、長くかかったともいえるし、途中で車が三回故障し、そのうち一回はシリンダーが割れていたことを考えると、意外に早かったともいえる。うしろの荷物のことをエンクリア夫人に予備部品だと話したのは、まるっきり嘘ではなかった。田舎《いなか》の鍛冶《かじ》屋で自作するのはむずかしそうな部品も、いくらか積んでいたのだ。
午後遅くに最後のカーブを曲がると、ランズコマンド市がある細長い谷が初めて見えてきた。山肌を何マイルも奥まで切り裂いた深い谷で、両側の岩壁がとても高いので谷底の一部はすでに日陰になっている。谷の奥のほうは遠いせいで青白く見え、頂上のほうから流れくだる川が雄大な滝となってゆっくり落ちている――|王家の滝《ロイヤルフォールズ》だ。一般の旅行者はここまでしか近づけない。王族たちは、ここが新興の公国だった四十暗期前からずっと、この土地と山の下にある王族用冬眠穴だけを行動範囲にしていた。
シャケナーは最後の小さな宿屋でたっぷり食事をとり、車も満タンにして、この王領へ勇躍やってきた。最初の検問所では、従兄《いとこ》からの手紙がすぐに効果をあらわした。遮断機があがって、暗緑色の軍服姿の退屈そうな兵士は手をふって通してくれた。兵舎や閲兵《えっぺい》場があり大きな盛り土のむこうに隠れるようにして弾薬集積所があった。しかしランズコマンド市はたんなる軍事施設ではない。アコード国の建国まもない頃は、ここはまだ王族の保養地という性格が強かった。しかし世代をかさねるにつれて政治が重みを増し、理性的になり、ロマンチックな要素は影をひそめた。総司令部《ランズコマンド》という名のとおり、アコード軍の中枢がおかれる要塞となっていった。そして現在はそれだけではない。ここにはアコード軍の最先端軍事研究の拠点があるのだ。
シャケナー・アンダーヒルの関心の的《まと》はそれだった。シャケナーは、車の速度を落としてまわりにぽかんと見とれたりはしなかった。本来の目的地までまっすぐ行くようにと、憲兵からきつくいわれていたからだ。しかし見まわしたり、運転席のなかで身体《からだ》をねじったりするくらいは問題ない。建物を見わける目印は、めだたない小さな数字の標識だけだが、ひと目でわかるものもあった。無線電信の建物だ。細長い兵舎から、奇怪なかたちの無線アンテナが立っているのだ。とすると、常識的に考えればその隣の建物は暗号学校だろう。道路の反対側には、ただの道路よりはるかになめらかで幅の広いアスファルト舗装の場所があった。その奥に低翼単葉機が二機あるのを見ても、とくに驚きはなかった。その防水シートの下をのぞかせてもらえるなら、どんなことをしてもいいという気がしたが。さらに進んでいくと、ある建物のまえの芝生の下から巨大な掘削機の鼻先が突き出していた。移動用としてはこの世でいちばん遅い乗りもののはずだが、驚くほどの急角度で鼻先を出しているところを見ると、かなり速度も出て強力な機械かもしれないという印象を受けた。
谷の最深部に近づいた。ロイヤルフォールズが目のまえにそそり立ち、その水飛沫《みずしぶき》のなかに千色《ちいろ》の虹が浮かんでいる。図書館らしい建物のわきを通って、円形駐車場へ出た。ここは王家を象徴する色調で飾られ、よくあるアコード国に到着するゴクナの像≠ェおかれている。まわりに建っているのは、ランズコマンド市の神秘性の一部をなす石づくりの建物だ。谷の岩壁に守られているおかげもあって、これらの建物は新生期の熱にもほとんどやられず、屋内のものを守りとおすのだ。
五〇〇七棟≠ニいう標識があった。歩哨《ほしょう》から渡された案内図によれば、資材研究局≠セ。中心地のそのまた中心にあるというのは、さい先がいい。道のわきに駐車されている二台の車をみつけ、シャケナーはそのあいだに自分の車を駐《と》めた。なるべくめだたないようにしたほうがいい。
建物のあがり口の階段をのぼりながら、ふりかえると、ちょうどシャケナーがやってきた方角に日が沈みつつあった。すでに谷の岩壁の最上部よりは低くなっている。円形広場の中心にあるゴクナの像≠ゥらは、長い影が芝生の上に伸びている。ふつうの軍の基地はこんなに美しくないだろうと、シャケナーは思った。
軍曹はあからさまに不快そうなようすでシャケナーの手紙を手にした。
「このアンダーヒル大尉ってのはいったいどこの――」
「いえ、それは関係ないんです、軍曹。その人は――」
「――しかもなぜそいつの希望を、われわれが聞くはずだということになってるんだ?」
「ええと、もうすこし先を読んでいただければおわかりになると思いますが、その人はアコード軍補給部将校A・G・キャスルワース大佐の副官なのです」
軍曹は、検問所の番兵のばかどもめ≠ニいうようなことをつぶやいて、あきらめたように大きな身体でうずくまった。
「いいだろう、アンダーヒル君、戦争遂行のためにどんな貢献をしたいというのか、話してみろ」
シャケナーは、相手の姿勢がなんとなく傾《かし》いでいるような気がしていたのだが、ようやく軍曹の左側の脚すべてにギプスがはまっていることに気づいた。目のまえにいるのは、本物の戦闘を経験した軍人なのだ。
この相手を説得するのは、ひと筋縄ではいかないかもしれない。どうひいきめに見ても、シャケナーは風采《ふうさい》があがらない。若いし、痩せすぎだし、頭でっかちで不器用だ。しかしなんとかして工兵科の将校にとりついでもらいたかった。
「はい、軍曹、軍では三世代以上前から、暗期にはいってもできるだけ長く活動することで、敵に対して優位に立とうと努力していらっしゃいますね。最初は暗期入りからほんの数百日で、敵が予想しない地雷をしかけたり、防御を強化したりするくらいだった。それが一年、二年と延び、それなりの数の部隊を前進させておいて、次の新生期になったら新しい位置から攻撃させるということができるようになりましたね」
軍曹――名札によると、ハランクナー・アナービーという名前らしい――は、黙って見つめているだけだ。
「両陣営が東部戦線で大規模なトンネル戦をおこなっていることは、すでに常識です。今度の暗期には、十年くらいははげしい戦闘がおこなわれるでしょう」
アナービーはいいことを思いついたというように、わざと眉間《みけん》の織を深くした。「そういう話なら、掘削隊に話したほうがいいぞ。ここは資材研究局だからな、アンダーヒル君」
「ああ、それはわかっています。しかし資材を研究しなければ、酷寒《こっかん》の時期に分け入ることはできません。それに……わたしのアイデアはトンネル掘削に関するものではないんです」最後のところはすこし早口にいった。
「ではなんだ?」
「わ……わたしの考えというのは、つまりティーフシュタット国の適当な目標物をあらかじめ選んでおいて、最暗期に目を覚まし、地上を歩いて目標物に接近、破壊するというものです」
その簡潔な表現のなかには、実現困難な問題がいくつもまじっている。シャケナーは手をあげて反論をさえぎった。「困難はよく承知しています、軍曹。わたしはその解決策、あるいは解決策の手がかりをもって――」
アナービーはささやくような声でさえぎった。「最暗期にだと? それでもおまえはプリンストン市の王立大学研究員だというのか?」シャケナーの従兄は手紙にそう書いているのだ。
「ええ。専攻は数学と――」
「うるさい。王家が王立大学のような機関での軍事研究に、何百万という資金を投じていらっしゃることを知ってるのか? その真剣な研究ぶりを軍がずっと見守っていることを、知ってるのか? まったく、西から来た洟《はな》たれ小僧め。暗期入りの準備でもしてればいいものを、それすらろくにやってないくせに。その殻のなかにすこしでも芯《しん》があるなら、志願入隊しろ。東部戦線ではいまも多くの兵が死んでるんだぞ。暗期入りの準備ができないために死ぬやつが何千人もいて、トンネルのなかで死ぬやつがもっといて、新生期の光にやられたり食べものがなくて死ぬやつがさらにいるんだ。なのにここでのんびりすわって、たわけた空想をぺらぺらしゃべってるのか」
アナービーはそこでしばし黙り、怒りをいったんわきへおいたようだった。
「いや、おまえのケツをプリンストン市にむかって蹴飛ばすまえに、ひとつおもしろい話を教えてやろう。見てのとおり、おれは脚が不自由だ」左足をふってみせた。「破砕機にやられたんだ。それからよくなるまでのあいだ、おれはおまえのような連中が送ってくる奇妙きわまりないアイデアをさばく仕事を手伝っていた。さいわい、ほとんどは郵便で送られてくる。そして十日に一度はかならず、低温での錫《すず》の同素体に注意しろといって――」
〈〈おやおや、目のまえの人物が工兵だったようだ〉〉シャケナーは思った。
「――はんだ[#「はんだ」に傍点]の材料には使わないほうがいいと警告してくるやつがいる。内容はあってるが、まったく時間の無駄なんだよ。しかしなかには、ラジウムについてちょっと本を読んだだけで、それを使えば超高性能の掘削|刃《ば》がつくれるはずだとか書いてくるやつがいる。しまいに、おれたちは賭けをはじめたよ。だれのところにいちばんばかばかしいアイデアがとどくかってな。いやいや、アンダーヒル君、きみのおかげでおれが賭け金をもらえそうだ。なにしろ、暗期のどまんなかで目を覚まして、どんな実験室でもつくれない極《ごく》低温と、想像を絶する真空状態のなかで、地上を歩いていこうっていうんだからな」
アナービーはふいに黙りこんだ。機密情報の一片をつい洩らしてしまったことに気づいてぎょっとしているのか。しかしそのとき、軍曹の目がシャケナーの死角になっているほうを見ていることに気づいた。
「スミス中尉! こんにちは」軍曹はほとんど気をつけの姿勢になった。
「こんにちは、ハランクナー」
声の主が見えてきた。彼女は……美しかった。脚は細くて硬く、曲線的で、すべての動作にひかえめな上品さがあった。軍服はシャケナーが見たことのない、黒ずくめのものだ。記章のたぐいは、階級をしめす赤黒い星と名札だけ。ビクトリー・スミスという名前だ。不自然なほど若い。時期はずれの生まれなのだろうか。そうかもしれない。軍曹は、かえって失礼ではないかと思うくらいに特別な敬意をしめしていた。
スミス中尉はシャケナーのほうを見た。その顔はかすかに友好的で、むしろおもしろがっているようだった。
「それで、アンダーヒルさん、あなたは王立大学数学部の研究者なのね?」
「実際には、大学院生なんですが……」
スミス中尉は黙って見つめているだけで、もっと多くの答えを期待しているようだ。
「ええと、数学というのは正式な課程での専攻科目にすぎません。わたしは医学部と機械工学科でも多くの単位をとりました」
アナービーがまたなにか批判的なことをいうのではないかと思ったが、軍曹は急におとなしくなっていた。
「では、最暗期がどんなものかは知っているわね。極低温や、完全な真空についても」スミス中尉がいった。
「はい。これらの問題についてはかなり検討しました」実際に研究した期間は半年弱だが、黙っていたほうがいいだろう。「アイデアはたくさんもっていますし、一部は初期設計をはじめています。解決策の一部は生物学的なものなので、それはまだ披露《ひろう》できる段階にはありません。しかし機械によって解決できる部分については、試作品をつくってきました。車に積んであります」
「ああ、グリーンバル将軍とダウニング将軍の車のあいだに駐めてあるやつね。ちょっと見てきて――もっと安全な場所に動かしたほうがいいわ」
本当にわかったのは何年もあとだが、このときシャケナー・アンダーヒルは、おぼろげな直観を得ていた。ランズコマンド市で――それどころかこの広い世界で――話を聞いてもらうのにビクトリー・スミス中尉ほど適切な相手はいなかったのだ。
6
衰微《すいび》期の最後の数年には、嵐が――しばしば強い嵐がやってくる。しかしこれは、新生期の灼《や》けつくように熱く、爆発的に巻き起こる嵐とは異なる。迫りくる暗期がもたらす風と猛|吹雪《ふぶき》のようすは、まるで世界が致命傷を負って血を流しながら、弱々しくもがいているようだ。世界にとって温度は生きるための血であり、それが暗期に吸いとられていけば、死にゆく世界はもがく力をもしだいに失っていく。
真昼の太陽が昇っているのに、そのおなじ空に百個もの星が見えるようになる。それが千個になり、ついには太陽が昇っていようといまいと変わらない星空になる……。それが本当の暗期の到来だ。大型の植物はとうに死に絶え、粉末状の胞子だけが深い雪の下に眠っている。下等動物もおなじように消えている。雪の積もったところの風下側に菌類がまだらに棲《す》みつき、露出している動物の死骸のまわりにぼんやりとした光が浮かぶ――むかしの観察者はこれを死者の霊魂と記録したが、のちの時代の科学者によって、バクテリアが最後の掃除をしているところだとわかった。
それでもまだ地表には生きた連中がいる。強力な部族(あるいは強力な国家)によって地下の避難場所からしめだされたり、洪水や地震によって先祖代々の冬眠穴が破壊されたりした犠牲者たちだ。かつては、暗期の真の姿を知るすべはひとつしかなかった。地表に居残るのだ。
そこで見たものを書きとめ、新生期の灼熱《しゃくねつ》地獄にも耐えられるようなしっかりとした隠し場所にしまえば、その観察者は記録という名のわずかな不死性を勝ちとることができる。そして特殊な環境や、賢明な事前の準備や、暗期の核心を見たいという欲望の助けによって、これら地表残留者のなかには、暗期にはいって一、二年以上も生き延びる者がたまにいる。
ある哲学者はとても長く生きて、最後の言葉を書き残した。次の明期に冬眠穴から出て、石に刻まれたその言葉を読んだ者たちは、それが狂気のあらわれなのか、それともなにかの喩《たと》えなのかと、解釈に苦しんだ。
そこにはこう書かれていた――そして乾いた空気さえ霜《しも》に変わっていく
アコード国とティーフシュタット国のどちらの宣伝機関も、あることでは見解が一致していた。それは、今度の暗期はこれまでとまったくちがうものになる、ということだ。科学の力が戦争遂行のために本格的な挑戦をした初めての暗期になるはずだ。
何百万もの市民が数多くの冬眠穴で池にはいりはじめたときも、両陣営の兵士はまだ戦っていた。地表の塹壕《ざんごう》で、蒸気機関の熱で暖《だん》をとりながら戦う部隊もいたが、大きく変わったのは地下だ。地表の戦線のはるか地下では、両陣営からトンネルが複雑に伸びていた。トンネルが交差すれば、機関銃と毒ガスによる熾烈《しれつ》な戦闘がおこなわれた。しかし交差しなければ、トンネルは東部戦線地下の白亜《はくあ》質の石灰岩層のなかをどこまでも掘られていった。地表の戦闘がとうに終息しても、トンネルは毎日毎日すこしずつ伸びていった。
暗期にはいって五年めには、軍のなかでも技術的エリートの兵士だけ――アコード軍のおそらく一万人が、まだ東部戦線地下で軍事行動をつづけていた。これだけ深いところでも、気温は氷点をはるかに下まわっている。兵士のいるトンネルでは、空気穴を火で温めながら換気扇をまわし、新鮮な空気を送っていたが、その空気穴ももうすぐすべて氷結してしまうだろう。
「ティーフシュタット軍の活動音が聞こえなくなって、もう十日近くたつ。掘削隊はおおよろこびだそうだな」
グリーンバル将軍は芳香薬を口に放りこみ、ばりばりと音をたてて噛んだ。
アコード軍情報局長官の人当たりの悪さはよく知られていたが、いよいよ最後のときが近づいてきたせいで、将軍はよけいに気むずかしくなっていた。なにしろかなりの高齢であり、ランズコマンド市に確保された環境は世界じゅうどこよりもいいとはいえ、さすがにきびしい状態になりつつあるからだ。王族用冬眠穴の隣にある掩蔽壕《えんぺいこう》では、約五十人がまだ目を覚ましていた。空気は一時間ごとに悪くなっている。グリーンバルは立派な書斎を一年以上前に出て、いまは共同寝室の上にある奥行き二十フィート、幅十フィート、高さ四フィートの狭苦しい空間を執務室にしていた。壁は地図でおおわれ、テーブルには戦況報告の電文がたくさん散らばっている。
電文は有線通信で送られてきたものだ。無線はとうとう数日前に不通になった。去年までアコード軍の無線兵は出力を強化された送信機で実験をくりかえしていて、このぶんなら最後まで無線を使えるのではないかという期待もあったのだが、実際には、残った通信手段は有線の電信と、せいぜい見通しのきく位置での無線だけだった。
グリーンバルは訪問者のほうを見やった。おそらく彼女を最後に、ランズコマンド市への訪間者は二百年以上|途絶《とだ》えるだろう。
「それで、スミス大佐、きみはたったいま東部戦線からもどってきたわけだな。なのに、なぜそんなに仏頂面《ぶっちょうづら》なのだ? 敵より長くもちこたえたというのに」
ビクトリー・スミスは、将軍の展望鏡を熱心にのぞきこんでいた。グリーンバルがここを仕事場にした理由もこれだった――世界の最後の景色を見たいのだ。谷の奥までがきれいに見通せた。暗い大地は、岩にも氷にもはてしなく積もっていく不気味な霜におおわれている。空気から分離した二酸化炭素の霜だ。
〈〈でもシャケナーは、これよりもっと寒い世界を見ることになるんだわ〉〉
「大佐?」
スミスは展望鏡から顔を離した。「失礼しました……。掘削隊の成果については心から賞賛したい気持ちです」
〈〈すくなくとも、実際にトンネルを掘っている兵士についてはね〉〉スミスは彼らの野戦用冬眠穴にいたのだ。
「しかし敵の潜伏位置までトンネルをとどかせるには、まだ何日もかかります」スミスはつづけた。「暗期が終わったときに戦える状態にある部隊は、半分以下でしょう。掘削隊は潜伏位置について見込みをまちがえたのではないでしょうか」
「そうだな」グリーンバルは不機嫌そうにいった。「掘削隊は記録的な長期間にわたって行動をつづけたが、ティーファーどもはさっさと戦線離脱することで損失を抑えた」ため息をつき、情況によっては免職にもされかねないような悪態をついたが、世界の終わりから五年もたつと、それを聞く人はまわりにほとんどいなかった。「ティーファーどもだけが悪党だというわけじゃない。長期的に見れば、むしろわれわれの連合国のなかにも卑劣《ひれつ》なやつらはたくさんいるはずだ。アコード国とティーフシュタット国が戦争で疲弊するのを待っているんだ。そうやってわれわれを狙っている次の悪党どものことも考えて、計画を立てなくてはいかん。この戦争には勝てるだろうが、トンネルと掘削隊だけで勝とうとしたら、新生期にはいってもさらに何年も戦いつづけなくてはいけないだろう」
グリーンバルは芳香薬をわざと大きな音をたてて噛み砕くと、前手《ぜんしゅ》でスミスをさした。
「それをすっきり決着させる唯一のチャンスが、きみの計画なのだ」
スミスはぶっきらぼうに答えた。「そのチャンスは、わたしが特任部隊とともに行動することを許していただけたら、もっと拡大していたのですが」
グリーンバルはその訴えを無視した。「ビクトリー、きみはこの計画に七年前からかかわっているわけだが、本当にうまくいくと思うかね?」
空気が悪くなっているせいで頭が働かなくなったのか。そんな確信のない態度は、ストラット・グリーンバルの一般的なイメージにふさわしくなかった。スミスはこの将軍と九年前からのつきあいだった。側近《そっきん》たちの知るグリーンバルは、とても度量の広い人物だが――それは最終決断がくだされるまでのこと。一度決めたら迷いはいっさいなく、なみいる将軍たちも、国王の政務補佐官たちさえも、強引に説《と》き伏せる男だ。そんな彼から、こんな不安そうで迷った質問をされるとは思わなかった。いまスミスの目のまえにいるのは、おそらくこれが最後となる暗期にあと数時間で身をゆだねなくてはならない、疲れきった老人の姿だった。そう思うと、まるでいつもの手すりによりかかったら、それがぐらりと倒れかけたような恐ろしさを感じた。
「将軍……アンダーヒルの特任部隊は、慎重に選ばれた目標をめざしています。それが破壊されたら、ティーフシュタット国はまちがいなく降伏するでしょう。部隊はその目標から二マイルと離れていない湖にいます」それだけでもたいへんな成功だった。ティーフシュタット国でもっとも重要な補給センターのすぐそばにあるその湖は、敵地に百マイルも侵入したところなのだ。「アナービーとアンダーヒルとほかの兵士たちは、ほんのわずかな距離を歩くだけでいいのです。彼らが使う気密服や外温細菌は、ほぼ同等の環境で長期間にわたってテストを――」
グリーンバルは弱々しい笑みを浮かべた。「ああ、わかっている。数字なら参謀本部でいやというほど列挙してやった。しかしいまは、それを実行しようとしているのだ。考えてもみろ。過去数世代にわたって、われわれ軍人は暗期のはじっこのほうでちょっとした神聖|冒涜《ぼうとく》を試みただけだった。しかしアナービーの特任部隊は、最暗期を見ようとしているのだぞ。いったいどんな光景なのか。ああ、頭ではわかっている。空気が凍結し、真空になっているのだろう。しかしそれは推測にすぎない。スミス大佐、わたしは宗教を信じてはいないが、しかし……彼らの目のまえにいったいなにがあらわれるだろうと、つい考えてしまうのだ」
宗教うんぬんはともかく、将軍の言葉の裏には、雪おばけや地霊《ちれい》といった古代からの迷信の影が感じられた。ある意味で世界そのものが存在しなくなる暗期のすさまじさを考えると、どんなに理性的な人物でもひるんでしまう。グリーンバルの言葉によって自分のなかでも呼び起こされた恐怖感にあらがいながら、スミスはいった。
「ええ、たしかに、初めて出会うものごとはあるはずです。わたしもふつうであれば、こんな計画は失敗するにちがいないと思うでしょう。ただし今回は、重要な要素がひとつあります――シャケナー・アンダーヒルです」
「わが軍の切り札である、奇天烈《きてれつ》男か」
「ええ、とてつもない奇天烈男です。わたしは七年前から――車につくりかけの試作品をいっぱいに積み、頭には突拍子もないアイデアを山と詰めこんでここにあらわれたときから、アンダーヒルを知っています。わたしがあの日の夕方まで暇だったのは、さいわいでした。話を聞いて、すぐに感心しました。平均的な学者は一生のうちに二十個ほどのアイデアを思いつきますが、アンダーヒルの場合は一時間に二十個です。彼にとってはそれがごくあたりまえのことなのです。ただ頭の回転が速いだけの人物なら、情報訓練学校で何人も見てきました。アンダーヒルの場合にちがうのは、そのアイデアが約一パーセントの割合で実現可能なことです。そして彼は、使えるアイデアとだめなアイデアをかなり正確に見わけることができます。沼地の泥を改良して外温細菌をつくるということは、べつのだれかでも考えたかもしれません。気密服というアイデアも、きっとだれか思いついたでしょう。しかしアンダーヒルは、いくつものアイデアをまとめ、具体化させるのです。それだけではありません。シャケナーがいなかったら、われわれはこの七年間にこれだけ多くの計画を実現できなかったでしょう。彼は頭のいい連中を自分の計画に引っぱりこむ魔法のような才能をもっているんです」
あの日の午後、ハランクナー・アナービーは怒りと軽蔑の態度をしめしていたが、シャケナーの口から機関銃のように射《う》ち出されるアイデアの銃弾を数日にわたって浴びつづけた結果、逆に自分の工学的な想像力を根底からくつがえされてしまったのだ。
「ある意味で、アンダーヒルは細部を検討するのはあまり得意ではありません。しかしそれは問題ではないのです。彼のまわりに自然発生する側近たちが勝手にやりますから。彼はとにかく……すごいのです」
いまむきあっている二人にとって、この話は新しくもなんともなかった。グリーンバル自身がみずからの上司にむかって何年もまえからおなじことを主張している。しかしいま、ビクトリーが目のまえの老人を安心させるためにいちばんいいのは、この話だった。グリーンバルはにやりとして、奇妙な表情になった。
「ではどうして彼と結婚しないのだい、大佐?」
スミスはそんな話をする気はなかったのだが、まあいい。ほかにだれかが聞いているわけではないし、いまは世界の終わりなのだ。
「いずれそうするつもりです。ただ、いまは戦時中ですし、それにわたしは……あまり伝統にはこだわらないんです。わたしたちは暗期明けに結婚するつもりです」
初めて会った日の午後のうちに、シャケナー・アンダーヒルほど変わったやつはいないとわかった。それから二日ほどあとには、きわめて活動的な天才であり、大戦争の流れを文字どおり変えられる人物だということに気づいた。五十日後には、ストラット・グリーンバルにもおなじように確信させ、アンダーヒルに専用の研究室をあたえた。その研究室は、計画のさまざまな必要性から、施設、要員ともにどんどん拡大していった。
スミスは自分の任務をこなしながら、このアンダーヒル現象を――彼女は彼をこう考えていたし、情報局長官もそう考えていた――恒久的に自分の利益とするためにはどうすればいいかと考えた。結婚というのは、当然の一手《いって》だ。先行き昇進することをめざしているスミスにとっては、伝統にのっとって衰微期に結婚するほうがふさわしい。そのほうがいろいろな点で好都合だったのだが、ひとつだけ不都合があった。それがシャケナー・アンダーヒル自身だ。シャケナーには自分なりの考えがあったのだ。
スミスにとってシャケナーは、いつのまにか最高の友人になっていた。計画を練《ね》る対象であると同時に、いっしょに計画を練る仲間になっていた。シャケナーは暗期明け以後について、スミス以外には明かしていないいくつかの計画をもっていた。スミスの何人かの友人は――ハランクナー・アナービーもふくめて――彼女が時期はずれの生まれであっても、気にせずつきあってくれていたが、シャケナー・アンダーヒルは、それどころかスミスとのあいだに時期はずれの子どもをつくろうと考えていたのだ。時期はずれという生まれを、たんに受けいれるという以上に積極的なこの態度は、スミスにとって新鮮な驚きだった。いまはまだ戦争中だ。もし二人が生き延びられたら、またさまざまな計画と、ともに生きる暮らしが待っているはずだ――暗期のあとに。
ストラット・グリーンバルの目は曇っていない。このような事情の多くは察知しているはずだ。ふいにスミスは上官をにらみつけた。
「ご存じだったのですね? だからわたしが特任部隊といっしょに行動することを許してくださらなかったのですね? これは死を覚悟した任務だから、わたしの判断がゆがめられてしまうだろうと懸念《けねん》なさったのでしょう……。たしかに危険ではあります。しかし将軍はシャケナー・アンダーヒルを誤解なさっている。彼の行動目標のなかに、自己犠牲という項目はありません。わたしたちの目から見ると、アンダーヒルは臆病といえるくらいです。わたしたち軍人が信奉しているような考えには、とくにとらわれていません。彼は純粋な好奇心から、今回のような危険を冒しているのです――しかし自分の身の安全については慎重すぎるくらい慎重です。特任部隊は任務を成功させ、そして生還する[#「そして生還する」に傍点]はずです。わたしが同行すれば、成功する確率はさらに高くなったはずなのですよ、将軍!」
その最後の言葉の効果を劇的に高めるかのように、一個だけともった部屋の灯《あか》りがすこし薄暗くなった。
「やれやれ」グリーンバルはいった。「じつは、燃料油がすでに十二時間前に切れているのだ、大佐。今度はついに鉛蓄電池も消耗してきたらしい。もうすぐダイアドル大尉が整備科の最後|通牒《つうちょう》をたずさえてくるぞ――"失礼ですが、将軍、最後の冬眠池がいまにも氷結しそうになってきました。最終的に閉鎖するために、将軍にもなかへはいっていただきたいと、工兵科の者が要請にきております=v
グリーンバルは側近のかん高い声を真似た。そして立ちあがり、机の上に身をのりだした。
確信なさそうな態度はふたたび隠され、以前の鋭さがもどった。
「そのあいだに、きみへの命令と今後について、いくつかあきらかにしておきたいことがある。たしかに、きみを呼びもどしたのはこの任務にともなう危険にさらしたくなかったからだ。アナービー軍曹とも長時間をかけて話しあった。わたしたちは九年間、きみがどんな危険な場所へ行くのも黙認してきたし、作戦の成功に何千人もの命がかかっている場合にきみがどんな考え方をするかも見てきた。もうきみを特殊任務の第一線から退《しりそ》かせるべきときなのだ。きみは現在もっとも若い大佐の一人だし、もうすぐ、もっとも若い将軍になるだろう」
「アンダーヒルの作戦が成功したらの話です」
「黙って聞きたまえ。アンダーヒルの作戦がどうなろうと、国王補佐官たちはきみの優秀さをよく知っている。わたしが今回の暗期を生き延びられるかどうかは関係なしに、きみは新生期がはじまって数年後にはわたしの職を継いでいるだろう――つまり、個人的な冒険ができる日日は終わったということだ。アンダーヒル君が生き延びようと、きみが彼と結婚しようと、子をなそうと、わたしはどうでもいい。しかし金輪際《こんりんざい》きみの身を危険にさらすわけにはいかないのだ」スミスの頭にむけて尖《とが》った手の先をむけた。冗談まじりのおどかしだが、真剣さもあった。「もし今後危険なことをしでかしたら、わたしは墓から起きあがって、その分厚い殻を叩き割りにくるからな」
狭い廊下から足音が聞こえ、ドア代わりになっている厚手のカーテンをひっかく音がした。ダイアドル大尉だ。
「失礼します、将軍。工兵科からの強い要請です。外で使える電力はあと三十分が限度になってきました。工兵科のいうところでは――」
グリーンバルは汚れた痰壺《たんつぼ》にむかって最後の芳香薬を吐き飛ばした。
「よくわかった、大尉。すみやかにおりることにする」
スミスのわきを通って、カーテンをあけた。スミスが先に行くことをためらっていると、グリーンバルは手をふってうながした。
「この場合は、階級の上の者があとだ。こんなふうに暗期に敵の裏をかくのはわたしのやり方ではないのだが、やらねばならないとなったら、最後に灯りを消すのはわたしがやる」
7
本来、ファム・トリンリには船団長の船橋にはいる資格はないし、まして重要な作戦の進行中に出入りできるはずはなかった。ファムは予備の通信管制席のひとつにすわっていたが、そこでなにをしているわけでもなかった。
ファムは三等戦闘プログラマーだが、その地位の低さを考慮しても、生産的な仕事などろくにしていないように見えた。いろいろな場所によく好き勝手に出入りしているが、たいていは船員娯楽室でだらだらしていた。パーク船団長は、これは年長者への敬意≠フ問題だと、少少筋のとおらない主張をしていた。とにかくファム・トリンリは、人々のじゃまにならないかぎり、馘《くび》にはならないようだった。
ファムは通信管制席から横をむいて、静かな会話や、点検と復唱をつづける声を、不機嫌な顔で聞いた。技術者や戦闘員の背中こしに、その共用ディスプレーを見た。
チェンホーとエマージェントが船艇を着陸させる過程は、とにかく慎重なダンスのようだった。パーク船団長が指揮する組織では、エマージェント船団に対する不信感が上から下まで浸透している。そのため人員の共同派遣はせず、通信ネットも完全に二重化されていた。パーク船団長はおもな船を三つのグループに分け、それぞれ惑星の三分の一ずつの範囲で作業を見張らせた。すべてのエマージェント船、すべての着陸船、船から離れているすべての作業員が、背信行為の兆候をしめしていないかと監視された。
船橋の同感性映像にはそのほとんどが映し出されていた。東<Oループからは、二十五万トンの氷の塊《かたまり》が三隻のエマージェント起重船のあいだに吊られて、凍結した海底から引きあげられる映像が送られてきている。この作戦で六回めの引きあげ作業だ。地表はロケットの噴射炎を受けてあかあかと輝いている。下には深さ数百メートルの穴が見えた。海底の溝は沸騰《ふつとう》する泡でおおわれている。地質調査からこのあたりの大陸棚には大量の重金属が埋蔵されていることがわかり、このように氷を切り出すときとおなじ荒っぽいやり方でそれを採掘していた。
〈〈下ではなにも疑わしいことは起きていないな。しかし戦利品を山分けする段になったら、変わるはずだ〉〉
ファムはそう考えながら、通信情況窓を調べた。両船団は合意にしたがって、それぞれの船団内通信を公開放送している。エマージェント船団の何人もの専門技術者が、チェンホー側のおなじ担当の技術者とつねに協議通信をおこなっていた。ジミー・ディエムの着陸班が涸《か》れ谷で発見した内容について、むこうはむさぼるように情報を集めているようだ。地上の物品を委|細《さい》かまわず軌道上へ引きあげてしまってはどうかとエマージェント側が提案したのは、ファムからみると興味深かった。チェンホーの流儀にはまったく反するやり方だ。
〈〈むしろ、おれのやり方に近いな〉〉
パーク船団長は、エマージェント船団が到着する寸前に、船団が運んできた超小型衛星のほとんどを惑星周辺空聞にばらまいていた。握り拳《こぶし》大の装置が何万個もあたりを漂っているわけだ。ひそかに操縦操作をくわえることで、それらは偶然よりもはるかに高い確率でエマージェント船艇のあいだを通過している。それらの報告が、この船橋の電子情報画面に映し出されていた。それによると、エマージェント船艇間では、二点間以外には探知できない見通し通信が、通常考えられるよりはるかに多くおこなわれているという。とくに意味はない自律機能系の動作かもしれないが、やはり暗号化された軍事通信が隠されている可能性が高い。敵はずる賢く準備を進めているわけだ。ファム・トリンリはエマージェント船団のことを、はなから敵とみなしていた。
パークの上級船員たちは、もちろんその気配を察していた。チェンホーの戦闘員は、ときに高慢に思えることもあるが、たしかに優秀だった。ファムは、三人のスタッフがエマージェントの電波船からこちらの船団へむかって発射されている放送電波のパターンについて議論しているのを見た。一人の下級戦闘員は、これは巧妙に隠された偵察ソフトウェアの物理レイヤではないかと疑っていた。しかし、もしそうだとすると、敵はチェンホーがもつ電子戦兵器よりも高度な技術を使っていることになる。それは考えにくいのではないか……。それに対して上級戦闘員は、大きな頭痛の種をかかえこんだように、しかめ面《づら》で下級戦闘員のほうを見るだけだった。
〈〈戦闘を経験している者でさえ、情況を正確に把握していないんだ〉〉ファムの表情は、しばらくさらに苦々《にがにが》しげになった。
その耳のなかに、ひそかな音声が流れた。「どう思いますか、ファム?」
ファムはため息をつき、ほとんど唇を動かさずに通信機にささやいた。「くさいさ、サミー。いわずもがなだろう」
「あなたにはべつの管制センターにいてもらったほうがありがたいんですよ」
ファム・ヌウェン号の船橋≠ヘここが公式の場所だが、実際には船内居住空間のあちこちに各種の管制センターが分散配置されている。船橋にいるように見える幹部職員たちは、じつはべつの場所にいるのだ。理屈の上では、そのほうが星間船は防御が固くなる。あくまで理屈の上でだが。
「もっといい方法があるさ。タクシー船をハッキングして遠隔司令センターとして使うんだ」
老人は座席から漂い出て、船橋の技術者たちの列を静かに通り抜けた。起重船の映像も、涸れ谷から離陸しようと準備しているジミー・ディエムの着陸班の映像も、熱心に見守るエマージェント職員の映像も……不気味な電子戦兵器のディスプレーも通り抜けた。だれもファムには気づかなかった。船橋の出入り口を抜けるときに、サミー・パークだけがちらりと目をやった。ファムは船団長にむかってかすかにうなずき、出ていった。
〈〈どいつもこいつも根性なしだな〉〉
先制攻撃の必要性を理解したのは、サミーとキラ・ペン・リゾレットだけだった。その二人も、交易委員会のメンバーを説得することはできなかった。エマージェントとじかに会ったあとも、委員たちは敵がかならず裏切ってくることは認識できず、最終判断をヴィン家の一人にゆだねたのだ。
〈〈あんな若造に!〉〉
ファムはひとけのない廊下を漂っていぎ、タクシー船エアロックのまえで減速して止まった。
そして、ハッチをあけて、このちょっとした細工をほどこした船へ乗り移った。
〈〈リゾレットに反乱を起こすよう頼むか〉〉
リゾレット副船団長は自分の船、インビジブルハンド号をもっている。反乱は物理的に可能だ。リゾレットが砲門をひらいたら、サミーやほかの船長も追随するしかなくなる。
ファムはタクシー船にすべりこみ、エアロックのポンプを作動させた。
〈〈いや、おれはこういうことから手を引いたはずだった〉〉
後頭部にかすかな頭痛を感じた。緊張のせいで頭痛がするようなことは、ふつうはないのだが……。
ファムは頭をふった。とにかく実際問題でいうと、リゾレットは名誉を重んじる数少ない人間の一人だから、ただ反乱をもちかけるというわけにはいかない。ファムは手練手管《てれんてくだ》のすべてを使わされるだろう。サミーは本気で兵器を運んできている。ファムはこれからの展開を考えて、にやりとした。
〈〈たとえ敵が先制攻撃をしかけてきても、弾を撃ちつくすのはむこうが先だ〉〉
チェンホー船団の旗艦からゆっくり離れていくタクシー船のなかで、ファムは最新の危険情報を調べ、計画を練《ね》った。敵はどう出るだろう。ある程度長く待ってくれるのなら、そのあいだにサミーの兵器の封印暗号を解読できるかもしれない……。そして、一人だけで反乱を起こすわけだ。
裏切りのきざしはいくつもあらわれていたが、そのなかでも明白な兆候を、じつはファム・トリンリも見のがしていた。敵がどんな攻撃をしかけてくるか予想できなければ、気づくのはむずかしい兆候だったからだ。
エズル・ヴィンは頭上での軍事的展開などつゆほども知らなかった。地上ですごした数キロ秒は重労働だけれども、わくわくする仕事の連続で、疑念をいだいている暇などなかったのだ。
エズルは生まれてからこれまで、惑星上を歩いた経験は合計で数十メガ秒しかなかった。ふだんから運動し、さらにチェンホー製の薬による助けがあっても、やはり重さを感じずにはいられなかった。最初の数キロ秒はまだ楽だったが、いまは全身の筋肉が痛んだ。さいわい、弱音を吐いているのはエズルだけではなく、着陸班の全員がへとへとだった。
最後の後始末では、どこかにごみを残していないか、着陸の痕跡《こんせき》はオンオフ星が再発火したときにきれいに消えるようになっているかを、時間をかけて慎重にチェックした。ディエム船員長は、着陸船へもどる登りの道の途中で足をくじいてしまった。着陸船に荷揚《にあ》げ用ウィンチがついていなかったら、残りの道を登るのは無理だっただろう。ようやく着陸船内にはいると、もはや耐熱ジャケットを脱いでロッカーにしまうのも苦痛なくらいだった。
「やれやれ」
ベニーはエズルの隣の席に倒れこむようにすわった。着陸船がエンジンを噴かして上昇しはじめると、通路ぞいのあちこちからうめき声が洩れた。それでも、そこには無言の満足感があった。船団はこの一回の着陸で、だれも予想しないほど大きな成果をあげたのだ。とても意義のある疲労感だった。
着陸班のメンバーはろくに雑談もしなかった。着陸船のエンジン音は可聴周波数より低いうなりで、体内の骨が最初に振動して外につたわってくるように思える。エズルにはまだ上空の会話音声が聞こえていたが、そこにトリクシアの声はもうなかった。だれも着陸班に話しかけようとはしていない。いや、キウィがエズルと話をしたがっていたのだが、エズルのほうは疲れきっていて、小娘の相手をする気力など残っていなかった。
地平線のむこう側では、起重船の作業が予定より遅れていた。放射性物質を残さない核兵器を使って数百万トンの凍結した海を砕くことはできたものの、採掘場に噴き出した蒸気のせいで、ほかの作業に支障が出ているのだ。エマージェント船団のリッツァー・ブルーゲルが、起重船の一隻と連絡がとれなくなったと文句をいいはじめた。
「そちらの角度のせいだと思いますよ」チェンホーの技術者の声が応じた。「こちらではすべて視認しています。三隻はまだ地上にいます。一隻は現場の靄《もや》につつまれてかなりかすんでいますが、正常な位置にいるようです。あとの三隻は上昇中です。距離も正確にとって、きれいにあがっていて……ちょっとお待ちください……」
そのまま数秒が経過した。べつの遠く≠フ回線で、医学的な問題について訴えている声があった。どうやらだれかが無重力環境で吐いたようだ。それからようやく、飛行管制官がもどってきた。
「おかしいな。東海岸での作業の映像が途切《とぎ》れてしまった」
ブルーゲルがとげとげしい声でいった。「予備回線くらいあるだろう」
チェンホーの技術者は答えなかった。
三人めの声がいった。「こちらで電磁パルスを観測した。エマージェントによる地表での爆破作業は終わったはずではなかったのか?」
「終わってるとも!」ブルーゲルはむっとした声で答えた。
「またパルスを三回観測したぞ。これは――了解!」
〈〈電磁パルスだって?〉〉エズルはなんとか身体《からだ》を起こそうとしたが、加速が強すぎた。そしていきなり、いままで経験したことがないほど強烈な頭痛に襲われた。〈〈おい、もうちょっとなにか話せよ!〉〉
しかし、了解≠ニいった男は――声からするとチェンホーの戦闘員らしい――それを最後に通信を切ったようだった。というより、モードを切り換えて通信内容を暗号化しはじめたのだろう。
怒り狂ったエマージェントの声が響いた。「責任者との交信を求める。いますぐだ! 照準レーザーがあたったらすぐにわかるんだ。レーザーを止めないと、みんな後悔するはめになるぞ」
エズルのヘッドアップディスプレーが真っ白になり、目のまえに見えているのは着陸船の隔壁だけになった。予備の壁紙映像がまたたきながらともったが、動画のほうは緊急プロセス用映像だけが脈絡なく流れている。
「くそ!」
ジミー・ディエムが大声でいった。船員長は操縦コンソールを拳で叩いている。うしろの席でだれかが嘔吐する音がした。まるで悪夢のように、おかしなことがいっぺんに起きている。
ちょうどそのとき、着陸船がエンジンの燃焼終了ポイントに達した。エズルの胸を押さえつけていた圧力は三秒で消え、懐《なつ》かしく心地よい無重力がもどってきた。エズルは座席ハーネスの解除レバーを引いて、前方のジミーのほうへ漂っていった。
天井側にいれば、ジミーの視界をさえぎることなく、ほぼおなじ頭の位置から緊急ディスプレーを見ることができた。
「本当にこっちがエマージェントを攻撃しているのかい?」
〈〈ちくしょう、頭が痛い!〉〉ジミーの指揮コンソールを読もうとすると、目のまえを記号が流れはじめた。
ジミーはちらりとエズルのほうをむいた。苦悩の表情で、身動きもできないようだ。
「情況がよくわからない。同感性映像が切れたんだ。身体を固定しろ……」まるで目の焦点がうまくあわないように、ジミーはディスプレーのほうに身をのりだした。「船団ネットは高度暗号化モードにはいっていて、この船は安全レベル最低のままなんだ」
つまり、パークの指揮する戦闘員からじかにくだされる命令以外、情報はほとんどなにもはいってこないということだ。
天井がふいにエズルの尻にぶつかり、エズルは船室後方へむかってずるずると押しもどされはじめた。着陸船がむきを変えようとしているのだ。なんらかの緊急割り込み命令がはいったらしい――自動操縦装置はなんの警告も発しなかった。おそらく船団の指令にしたがって、船が次のエンジン燃焼にむけた姿勢変更をしているのだろう。エズルはジミーの席のすぐうしろで身体を固定した。すぐに着陸船のメインエンジンに点火し、十分の一Gの加速がはじまった。
「低高度軌道へ移動させるつもりらしい……しかし、ランデブーする相手なんかいないぞ」ジミーはディスプレーの下にあるパスワード入力窓をためらいながらさわった。「よし、ちょっとのぞいてみるか……パークに怒られるかもしれないけど……」
後方では、さらに吐く音がつづいた。ジミーはふりむきかけて、顔をしかめた。
「おまえは動けるんだろう、ヴィン。面倒をみてやれ」
エズルは通路に張られた誘導ケーブルをつたい、十分の一Gの荷重《かじゅう》にまかせてうしろへ降りていった。もともとチェンホーはさまざまな加速環境で生活するし、よい遺伝形質と薬剤の助けがあれば、空間認識障害による酔い≠ヘめったに起きないはずだ。しかしここでは、現実にツフ・ドゥとファム・パティルが吐き、ベニー・ウェンは座席ハーネスのなかで身体をまるめている。両手で頭を押さえ、苦しそうにふりながら、「圧力が、圧力が……」とうめいているのだ。
エズルはパティルとツフ・ドゥに近づき、それぞれのつなぎ服に付着している嘔吐物を、吸い取り装置でとりのぞいてやった。ツフは困惑した顔でエズルを見あげた。
「吐いたのなんて、生まれてはじめて」
「きみが悪いんじゃないよ」エズルはいいながら、頭のなかの割れそうな痛みをなんとか忘れようとした。
〈〈ばか、ばか、ばか。どうしてこんなことにすぐ気づかないんだ〉〉
チェンホー船団がエマージェント船団を攻撃したわけではない。たぶん、その逆だ。
ふいに、また船外が見えるようになった。
「船内の同感性映像が生き返ったぞ」ジミーの声がイヤホンから聞こえたが、すぐにそれは、断片的で苦しげな言葉に変わった。「エマージェント船団の位置から出た高速爆弾が五発……目標、パークの旗艦……」
エズルは座席の列のあいだから顔をあげた。着陸船の視点からだと、ミサイルの噴射炎は反対方向をむいているので、五個のかすかに光る星がしだいに加速しながら空を動き、ファム・ヌウェン号に近づいているように見えた。しかしその軌跡《きせき》はなめらかな弧ではない。鋭角的に曲がったり、蛇行したりしている。
「こちらはレーザー攻撃しているんだ。だからミサイルは回避行動をしている」
小さな光のひとつが消えた。「一発しとめたぞ! あと――」
四つの光点が、いきなりまばゆく輝いた。輝きはどんどん増して、まだ暗い太陽の円盤より千倍も明るくなった。
そしてまた映像が途切れた。船室照明が消えて、またともり、また消えた。システムの最下層にある非常モードになり、装置ベイやエアロックや非常コンソールの位置がぼんやり光る赤い線でかこまれた。システムが放射線に対する防御を固めたのだ。しかしそのために機能は単純なものだけに制限され、電力供給も絞られた。予備映像もない。
「船員長、パークの旗艦は?」エズルは訊いた。
四発のミサイルが密集して、まばゆい光とともに爆発した――獲物をとりかこむ正四面体の四つの頂点で。その映像は消えたが、脳裏には永遠に刻みつけられた。
「ジミー!」エズルは船室の前部へむかって怒鳴った。「ファム・ヌウェン号はどうなったんだよ!」
赤い非常照明がぐるぐるまわって見える。怒鳴ったせいで意識が遠のきそうになった。
ジミーの返事はしゃがれた声だった。「た……たぶん、や……やられた」破壊されたとか、消えたとか、どんな言い換えをしてもショックはやわらげられない。「なにもアクセスできない。だって四発の核ミサイルが……ちくしょう、あんな至近距離で爆発したんだぞ!」
ほかに何人かが声をあげたが、ジミー・ディエムより弱々しかった。エズルが誘導ケーブルをつたってジミーのほうへ行こうとすると、十分の一Gの燃焼が終わった。照明も頭脳も停止したら、着陸船など暗い棺《ひつぎ》となんのちがいもない。エズル・ヴィンは生まれて初めて、地上生まれの連中の空間認識障害による恐怖を感じた。ゼロGになったのは、予定の軌道に乗ったことを意味するのかもしれないが、もしかすると地表に激突する放物線軌道に乗って落ちていくところかもしれない……。
エズルは恐怖をこらえて、船室前部へ泳いでいった。非常用コンソールを使えるはずだ。だれかと通信できるかもしれない。自動操縦システムを使って生き残ったチェンホーの船と合流できるかもしれない。頭痛がとてつもなくはげしくなった。赤い小さな非常照明がどんどん暗くなっていく。意識が遠ざかるのを感じて、恐怖に息がつまりそうになった。このままではなにもできない。
すべてが暗くなる寸前、冷酷な運命のなかでひとつだけほっとする事実を思い出した――トリクシア・ボンソルは、ファム・ヌウェン号には乗っていなかった。
8
その時計仕掛けは、いくつものぜんまいの張力を使いながら、凍った湖の下で二百年以上にわたって忠実に動きつづけていた。そうやって最後のぜんまいが伸びきったのだが……最終段の引き金は、一片の空気雪にひっかかって動かなかった。そうやって新生期までひっかかったままになってもおかしくなかった。
ところがそこで、予期せぬ出来事が起きた。二百九年と七日めに、凍った海から大きな地震がつづけざまに何度かつたわってきて、引き金はついに動いた。ピストンが少量の有機性の混合液を、凍結した空気のはいったタンクに押しいれた。しばらくはなにも起きなかった。しかしまず有機物がぼんやりと輝きはじめ、ついで温度があがりはじめた。窒素、酸素、そして二酸化炭素の沸点を超えた。活動をはじめた何兆という外温細菌の発する熱が、小さな乗りものの上にある氷を解かしはじめた。
そして乗りものは水面へむかって上昇していった。
暗期からの目覚めは、通常の眠りからの目覚めとはちがう。これまで何千人もの詩人がその瞬間について書いてきたし、最近では、何万人もの学者が研究してきた。シャケナー・アンダーヒルにとっては二度めの体験だった(とはいえ、最初のは数のうちにはいらないだろう。マウントロイヤル市の冬眠穴の池にはいった父親の背中に、まだ赤ん坊としてしがみついていたので、ぼんやりした記憶しかないのだ)。
暗期から目を覚ますときは、なにもかも断片的に感じられる。見えるもの、ふれるもの、聞こえるもの。記憶、認識、思考……。本当にそんなふうに順番に目覚めるのだろうか。それとも実際にはいっぺんに起きていて、たんに各部が連携して感じられないだけなのだろうか。こんな断片のどこに、精神≠ヘ存在するのだろう。シャケナーの想像力をかきたててやまない疑問だった。また彼の究極の目標にとっては理解すべき基礎的なことがらでもある……。しかしこの断片化した意識状態のときには、もっと重要な仕事があった。自分をまとあるのだ。自分がだれで、なぜここにいて、生き延びるためにいまなにをすべきかを、思い出さねばならない。百万年にわたってつづく本能がものごとを支配していた。
時間がたつうちに、しだいに明瞭な思考ができるようになって、シャケナー・アンダーヒルは船のひび割れた窓こしに、外の闇をのぞいた。なにかが動いている。立ちのぼる蒸気だろうか。いや、むしろ、船をつつむぼんやりとした光のなかで結晶が渦巻いているといったほうが正しい。
だれかがシャケナーの右肩を強く叩き、何度も名前を呼んだ。シャケナーは記憶をつなぎあわせた。
「はい、軍曹。目をさめ……いや、目を覚ましました」
「よろしい」ハランクナー・アナービーの声もまだ弱々しかった。「負傷はないか? 訓練どおりにやれ」
シャケナーはいわれたとおりに脚を振り動かした。ぜんぶ痛い。やれやれ。中手《ちゅうしゅ》、前手《ぜんしゅ》、食手《しょくしゅ》。「右の中手と前手の感覚がはっきりしません。くっついているようです」
「そうか。まだ凍ってるんだろう」
「ギルとアンバーのようすはどうですか?」
「べつの音声ケーブルで話しているところだ。頭はとっくに目覚めているが、身体《からだ》の大部分がまだ凍ってるようだ」
「わたしが話してみます」
音声ケーブルをアナービーから受けとり、シャケナーは残りの二人の隊員にじかに話しかけた。身体は不均一な解凍にもかなり耐えられるが、完全に解凍しないとそこが凍傷になってしまうのだ。原因は船が氷を解かして浮上していくさいに、外温細菌と燃料の袋があちこちへ動いてしまったことだった。シャケナーは袋をもとの位置にもどし、外温細菌の混合液と空気がうまく混ざるようにした。小さな袋のなかに見える緑色の光が輝きを増し、シャケナーはその明るさを利用して曝気《ばっき》チューブに破れがないか点検した。外温細菌は熱源として欠かせないが、こちらの吸うべき酸素まで消費されてしまったら命が危ない。
三十分たつと船内は暖かくなり、二人の手足は動くようになった。ギル・ヘブンの中手の先が軽い凍傷になった程度ですんだ。安全性については、たいていの冬眠穴より優秀なくらいだ。シャケナーの顔に大きな笑みが広がった。うまくいったのだ。最暗期に自力で目覚めることができた。
四人はしばらく休憩しながら、空気の流れを監視し、シャケナーの外温細菌制御法にしたがった作業を進めた。アナービーとアンパードン・ニジニモルは詳細なチェックリストを見ながら点検をおこない、破損やその疑いのある袋をシャケナーのところへよこした。
ニジニモルは化学兵、ヘブンとアナービーは工兵で、三人とも優秀な頭の持ち主だ。そして戦闘のプロでもある。彼らは研究室から戦場へ出たとたんに態度ががらりと変わったのだが、シャケナーにはそれが興味深かった。
とりわけアナービーはその変化がはげしかった。頭のいい工兵であると同時に百戦|錬磨《れんま》の兵士で、その内面は昔|気質《かたぎ》の堅苦しい道徳観の持ち主だ。シャケナーはこの軍曹と知りあって七年になる。シャケナーのアイデアに対する軽蔑的な態度は、もう遠いむかしのことで、いまは親友といってよかった。しかし特任部隊が東部戦線に出ていくと、態度が急によそよそしくなった。シャケナーのことを先生≠ニ呼び、敬意のなかにときおりいらだちをまじえるようになった。
シャケナーはこのことについてビクトリーに尋ねたことがある。東部戦線で最後まで機能を維持した気密基地の、冷たい地中兵舎のなかで二人きりになった最後の機会のことだ。ビクトリーはその質問を聞いて大笑いした。
「ばかね、なにをいぶかってるの。部隊が敵地に移動したら、ハランクは作戦命令を受ける立場になるのよ。あなたは軍事訓練をなにも受けていない民間の助言者であり、それをハランクは自分の指揮下におかなくてはいけない。あなたに命令をくだす立場でありながら、あなたの想像力や柔軟な発想を必要としているのよ」声をしのばせて笑った。狭い兵舎のなかで、部屋と広間をへだてるのは薄いカーテン一枚なのだ。「あなたがただの新兵なら、アナービーはもう何回もあなたの殻を黒焦げにしてるわよ。かわいそうにあの男は、一秒も無駄にできないような緊迫した場面で、あなたが天才ゆえに場ちがいなことがらに――たとえば天体観測などに注意を惹《ひ》かれはしないかと心配しているのよ」
「ふーん」たしかにシャケナーは、星の色を乱す大気がないときに星空がどんなふうに見えるか、興味をもっていた。「きみのいうことはわかったけど、それをべつにしても、ぼくを特任部隊に参加させるというグリーンバル将軍の決定を、アナービーがよく受けいれたなと不思議なんだ」
「ばかなこといわないで。あなたを連れていくと主張したのはハランクのほうよ。かならず予想外の事態は起きるし、そのときそれに対処できるのはあなただけだとわかっているからよ。さっきもいったように、ハランクはとても心配性なのよ」
シャケナー・アンダーヒルが驚いてまごつくことはめったにないのだが、このときばかりは例外だった。「ぼくはちゃんとやるよ」
「ええ、わかってるわ。わたしがわかってほしいのは、ハランクが……。そうね、これは行動学的な謎だと考えてみたらどうかしら。あなたたちみたいに極端に性格のちがう者どうしが、かつてだれも生きて出ていったことのない苛酷《かこく》な環境でどのように協力し、生き延びていくかという」
ビクトリーは冗談のつもりでいったのかもしれないが、たしかに興味深い問題だった。
それはまちがいなく歴史上もっとも奇妙な乗りものだった。潜水艇のようでもあり、移動可能な冬眠穴でもあり、また混合液の大きな容器でもあるのだ。全長十五フィートのその船体は、あかるい緑と鈍《にぶ》い赤の光につつまれた浅い水たまりに浮いていた。真空にさらされた水は沸騰《ふっとう》したガスとなって噴きあがり、冷えて小さな結晶となってふたたび舞い落ちてくる。
アナービーが下からハッチを押しあけた。四人の特任部隊は一列にならんで、装備品や外温細菌のタンクを順番に受け渡していった。水たまりのむこうの岸にはすぐに装備類が山積みになった。
四人は、シャケナー、アナービー、ヘブン、ニジニモルという順番で音声ケーブルでつながれていだ。シャケナーは携帯式無線機の完成にぎりぎりまで期待をかけていたのだが、やはりそのような装備はまだかさばるし、そもそもこのような条件下で正常に動作する保証はない。そのせいで、彼らは音声ケーブルで隣の仲間としか話せないことになった。まあ、命綱もつけているので、音声ケーブルがとくにじゃまというわけではない。
シャケナーが先頭に立って、そのうしろにアナービーがつづき、ヘブンと二ジニモルが荷物用の橇《そり》を牽《ひ》きながら、四人は湖岸へもどっていった。潜水艇から離れるにつれ、あたりは闇につつまれはじめた。それでも熱源から出るかすかな赤い光がある。地表に撒《ま》かれた外温細菌が放つ光だ。潜水艇は何トンもの燃料を燃やすことで氷を解かし、水面に出てきたが、任務のここから先の行程は、四人が携行している外温細菌と、雪の下からみつかる燃料だけが頼りだ。
こうして暗期の地表を歩けるのは、なんといっても外温細菌のおかげだ。顕微鏡の発明以前の偉大な思想家たち≠ヘ、最暗期を個体として生き延びる能力があるかどうかが、高等動物とそれ以外の生命とのちがいだと主張していた。植物や単純な形態の動物は死に絶え、被嚢《ひのう》をもつ卵だけが生き延びるのだと考えられていた。現在では、多くの単細胞生物が、冬眠穴にはいらなくても凍結状態をなんなく生き延びることがわかっている。
シャケナーが学部生の頃に王立大学の生物学者が発見したところによると、さらに奇妙なことに、火山のなかに棲《す》んで暗期でもずっと活動をつづける下等な細菌がいるのだ。シャケナーはこれらの微生物にとても興味を惹かれた。教授たちは、これらの生物は火山が活動を休止しているあいだ、休眠したり胞子を形成したりしているのだろうと考えたが、シャケナーは、みずから熱をつくりだして凍結状態でも生命活動をつづける種類が、もしかするといるのではないかと想像した。暗期とはいっても酸素はたっぷりあるのだ。それに空気雪の下には死んだ有機物の層もあちこちにある。超低温下でも酸化反応を開始させられるような触媒があれば、火山活動がない時期でも、それらの細菌は有機物を燃やして$カきることができるのではないか。暗期にも生きられるようにもっともよく適応した生物は、それらの細菌であるはずだ。
いまから考えると、シャケナーの頭にそういうアイデアが浮かんだのはやはり無知だったからだ。この二つの生命戦略はまったく異なる化学反応なのだ。外的酸化作用はとても弱く、暖かい環境では起きない。さらに、多くの情況でこのしくみは微生物にとって不利に働く。この二つの代謝作用は、一般的にいっておたがいに有毒だからだ。ただ暗期には、周期的に活動する火山性ホットスポットの近くにいる微生物にとってはわずかに有利かもしれないと考えられた。
このアイデアは、シャケナーが追求しなかったらだれからも注目されないままだっただろう。シャケナーは学部の生物学研究室から、凍結した沼地に飛び出し、大学も一時的に休学した。そうやって発見したのが、外温細菌だ。
資材研究局における七年間の選択飼育の結果、この細菌は純粋で高速な酸化代謝をおこなうようになった。だからシャケナーが外温細菌の混合液を空気雪の上に撒くと、一気に蒸気が噴きあがってわずかな輝きがあらわれる。しかし液体のままの滴《しずく》が沈んでいって温度がさがるにつれ、輝きは消えていく。ひと呼吸待って、気をつけて見ると(そして水滴にふくまれた外温細菌が幸運なら)、雪の下から[#「雪の下から」に傍点]かすかな光が見えるはずだ。雪に隠されたなんらかの有機物に外温細菌がとりついて活動をはじめた証拠だ。
シャケナーの左のほうでかすかな光が強くなった。見ると、空気雪がかすかに揺れて陥没し、わずかな蒸気があがった。シャケナーはアナービーにつながった音声ケーブルを引っぱり、部隊をその燃料≠フ密度の高いほうへ導いていった。方法として特殊ではあるが、外温細菌を使うのは火を熾《おこ》すことと基本的にはおなじだ。空気雪はどこにでもあるが、燃やす材料はその下に隠れている。それを探して使えるようにするのは、何兆という細菌群の働きなのだ。
資材研究局でもこの外温細菌の扱いにひどく慎重になっていた時期がある。南海の浅瀬に棲む筵《むしろ》状|藻類《そうるい》とおなじように、この細菌群はある意味で社会性をもっている。筵状藻類が浅瀬を這いまわるときのように、かなりの速度で動き、繁殖するのだ。こんなものを増やしたら、世界が火につつまれるのではないか。しかし実際には、高速酸化代謝は細菌にとって自殺行為でもある。シャケナーと部隊の仲間たちがもっている外温細菌は、長くても十五時問で死滅してしまうはずなのだ。
四人はすぐに湖を離れ、衰微《すいび》期には基地司令官が球技に使った平坦《へいたん》な芝地を歩いていった。ここでは燃料に困らない。ある場所では外温細菌が大きな植物の残骸をみつけた。倒れたトローム木だった。枯《か》れ木はどんどん温度があがって輝き、雪の下からまばゆいエメラルド色の輝きが放たれた。しばらくは雪原と、そのむこうの建物群がはっきりと見えた。やがて緑色の光は薄れ、熱による赤い輝きだけになった。
四人は船から百ヤードほど来ていた。障害物がなにもなくても、道のりはまだ四千ヤード以上ある。きつい手順のくりかえしになった。数十ヤード歩いては、立ち止まって外温細菌を撒く。ヘブンとニジニモルが休んでいるあいだに、アナービーとシャケナーはじっと観察して、外温細菌がみつけた燃料豊富な場所を探す。そしてそこへ行って全員が背中にしょった混合液容器を満タンにするのだ。ときには(コンクリートで広くおおわれた場所を歩いていたりすると)燃料が充分にみつからず、空気雪をすくいとるしかできないこともある。息をしなくてはいけないので空気雪も必要なのだが、外温細菌にあたえる燃料がないと、スーツの関節部分や靴底からたちまち寒さがしみこんできた。任務の成否は、シャケナーが進むべき方向をうまく推測できるかどうかにかかっていた。
実際には、シャケナーはかなりうまくやっていた。外温細菌によって燃える木の光で方向を決められたし、植物が隠れている位置も空気雪の積もり方から見当をつけられた。うまくいっている。ふたたび身体が凍ってしまう心配はなさそうだ。しかし手や足の先には鋭い痛みがあるし、関節部分はスーツの圧力による腫《は》れや、寒さや、スーツ擦《ず》れのせいで丸く火がついたように痛んだ。痛みというのはおもしろいものだ。役に立つ面もあるが、不快でもある。ハランクナー・アナービーのようなベテランでも完全に無視はできない。音声ケーブルを通してアナービーの荒い息づかいがつたわってきた。
立ち止まり、背中の混合液容器をいっぱいにし、空気雪を補給し、ふたたび歩きだす。そのくりかえしだ。ギル・ヘブンの凍傷はだんだんひどくなっているようだ。四人は立ち止まって、ヘブンのスーツの具合をなおしてやったり、アナービーが交代してニジニモルといっしょに橇を牽いたりした。
「だいじょうぶですよ。中手だけですから」ヘブンはいったが、その乱れた息づかいはアナービーのよりひどかった。
それでも、シャケナーが予想したより順調に進んでいた。暗期のただなかを歩いていく手順にも、しだいに身体が馴染んでいった。そうすると、ほかにあるのは苦痛と……驚嘆する眺めだった。シャケナーはヘルメットの小さなのぞき窓から外を眺めた。外温細菌の放つ輝きと渦巻く霧のむこうには……なだらかな丘がつらなっている。真っ暗闇ではない。ヘルメットがたまたまそちらをむいたときには、西の空に低くかかる赤黒い円盤が見えた。最暗期の太陽だ。
さらにヘルメットの天窓からは、星空が見えた。
〈〈とうとう来たんだ〉〉
最暗期の世界を眺める世界最初の一人になったのだ。古代の哲学者たちが存在しないといっていた世界だ。たしかに、観察できないものを存在しているなどといえるだろうか。しかしいまはたしかに見えている。存在するのだ。何世紀もつづく寒さと静寂の世界……。そして一面の星空だ。のぞき窓の分厚いガラスを通して、しかも頭頂《とうちょう》の目だけで見ても、いままで見たことのない色の星々が見えた。すこしだけでも立ち止まって頭をめぐらせ、すべての目で見ることができたら、いったいどんな眺めが展開することだろう。オーロラはその源《みなもと》である太陽が輝いていなければあらわれないはずだと、ほとんどの理論家は考えていた。オーロラを発生させているのは地下の火山活動だという説もあったが、とにかく、ここには星以外の光もあるかもしれない……。
音声ケーブルを引っぱられて、シャケナーははっとした。
「動いてる、動いてる」
あえぎながらいうヘブンの声が聞こえた。アナービーの命令を伝達しているのか。シャケナーは立ち止まったことを謝ろうとして、じつは足を止めているのは最後尾で橇を牽いているアンバードン・ニジニモルであることに気づいた。
「どうしたんだい?」シャケナーは訊いた。
「……アンバーが……東の空で動いてる光を……みつけたんだ」
東……。つまり右手だ。ヘルメットのそちら側は曇っていたが、ぼんやりと稜線《りょうせん》が見えた。ここは海岸線から四マイルほど内陸にはいったところで、その尾根に登れば水平線が見えるはずだ。その光が近いのか遠いのか、よくわからないが……。あった! たしかにかすかな光が見える。青白い輝きが横に広がりながら上昇している。オーロラだろうか。シャケナーは好奇心を抑えて、また一歩踏み出した。ああ、地下にまします神よ、あの稜線上に登ってみたい! そうすれば凍った海が見わたせるはずだ。
シャケナーは兵士として従順に次の停止位置まで歩いた。外温細菌によって輝く混合物と、燃料と、空気雪をすくいとってヘブンの容器にいれているときに、それは起きた。
五つの小さな光が西の空へむかってはしっていったのだ。ゆっくりとした稲妻のように、あちこちで小さく曲がりながら動いていく。五つのうち一つは途中でふいに消えたが、残りの四つは急速に一ヵ所に集まり――強烈な光に変わった。
シャケナーの頭頂の目はまばゆさのあまり痛くなったが、横の視野では見えた。光はどんどん明るくなって、火が消えた太陽の千倍もの光量になった。四人のまわりではいくつものくっきりとした影ができた。四つの光はもっと輝きを増し、シャケナーはスーツの装甲を通して熱がしみこんでくるのを感じた。平原をおおった空気雪が一気に蒸発して真っ白な霧となり、視界をとざした。熱はさらに増して、火傷《やけど》しそうなほどになり――やがておさまりはじめた。中間期の夏の日に日陰にはいったときに感じるような火照《ほて》りだけが、背中に残った。
四人のまわりで霧が渦を巻き、潜水艇を離れてから初めて風が感じられた。ふいに、急激に寒くなった。スーツの温度が霧に奪われはじめたのだ。防水性をそなえているのは靴だけなのでしかたない。光は薄れていき、空気と水分は冷えて結晶化し、地上に舞いもどった。シャケナーはあえて頭頂の目でようすを見た。四つの強烈な光源はそれぞれ広がって輝く円盤になっていたが、すでに光は弱まりつつあった。それらの光が交差するところは、オーロラのように襞《ひだ》状になって揺れている。角度だけでなく距離の上でも集中しているのだ。接近した四つの点は、正四面体の各頂点になっているのだろうか。とても美しい……。大きさはどれくらいなのだろう。上空数百ヤードのところにできた球電光のようなものか。
しばらくすると、それらの光は薄れて見えなくなった。しかしほかの光もあった。東の稜線のむこうで閃光《せんこう》が何度かひらめき、西の空からは小さな光の点が、しだいに速度をあげながら天頂めざして駆けあがっていった。光の点のうしろにはゆらめく光の幕をたなびかせている。
特任部隊の四人は身じろぎもせずにそれらの光景を見ていた。アナービーの顔からはつかのま兵士らしさが消え失せ、畏怖《いふ》の表情にとってかわられていた。よろよろと橇から離れ、シャケナーの背中に手をかけた。接続が悪いためにか細く聞こえる声でいった。
「あれは何なんだ、シャケナー?」
「わかりません」シャケナーにはアナービーの手の震えが感じられた。「でも、いつか理解できる日はくるでしょう……。いまは先を急ぎましょう、軍曹」
ぜんまい仕掛けの人形がふいに動きだすように、四人は背中の容器への補給を終え、ふたたび前進をはじめた。上空の眺めはまだつづいていた。さきほどの四つのまばゆい太陽のようなものはなかったが、どんなオーロラより美しく派手な光が舞っていた。二つの動く星はさらに速度をあげながら空を横切っていく。うしろにつづく薄い光のカーテンは西の地平線までとどいている。東の高い空まで来たところで、その二個はまばゆく輝いた。最初の四つの光の爆発を小規模にしたようなものだ。光は薄れて広がり、その消失点を中心に光の足が伸びていった。光の足は後方の光のカーテンを突き抜けるたびに明るく輝いた。
派手な展開はなくなったが、幻のように穏やかな光の動きはつづいた。もしあれが本物のオーロラのように何百マイルも上空で発生している光なら、なにか巨大なエネルギー源があるはずだ。すぐ頭の上の出来事なら、夏の雷《かみなり》のようなものが最暗期にもあって、それを見ているのかもしれない。どちらにしても、こんなすばらしい眺めを見られただけでこの冒険行の価値はあった。
ようやくティーフシュタット国の駐屯地《ちゅうとんち》のそばまでやってきた。奇妙なオーロラが空に残るなか、四人は出入り口のトンネルをくだりはじめた。
目標は最初からほぼ決まっていた。シャケナーが最初に想定したものであり、ビクトリー・スミスがランズコマンド市での最初の午後に提案したものでもある。最暗期に四人の兵士が目を覚まして、多少の爆発物をもって行動できるとしたら、敵の燃料貯蔵庫にも、地上軍がひそむ浅い冬眠穴にもそれなりの被害をあたえられるし、場合によってはティーフシュタット軍の参謀を倒すことさえできるだろう。しかしシャケナーが必要とする莫大《ばくだい》な研究費用を正当化するには、この程度の目標ではとうてい割にあわなかった。
難問もあった。現代の戦争においては、暗期のはじめにできるだけ長く戦闘をつづけて、眠りについた敵を出し抜こうとするのだが、それとおなじくらいに、新生期のはじめに最初の攻撃部隊をできるだけ早く戦場にもどして、決定的な優位性を勝ちとることが重視されていた。
両陣営はそのために大量の備蓄をしているのだが、困ったことに、そこでは衰微期や暗期のはじめとは異なる対策が求められるのだ。現代の科学で観測されるところによれば、新生期の太陽は再発火からほんの数日、もしかすると数時間で最大の明るさになる。そして数日間は灼熱《しゃくねつ》の火の玉となり、中間期や衰微期の百倍以上の明るさで輝く。それぞれの世代にたてられた建築物のほとんどが破壊されるのは、暗期の寒さではなく、この爆発的な光と熱によってなのだ。
このトンネルの先にあるのは、ティーファーの前進補給処だ。戦線にはほかにもさまざまな拠点があるが、ここはそれらの機動部隊を後方支援する基地なのだ。この施設がなければティーファーの精鋭軍も戦闘ができない。アコード軍の戦線とむきあうティーファーの前進部隊は、補給を断たれるのだ。この補給処を破壊すれば、悪くても有利な休戦協定を結べるし、うまくすれば一気にアコード軍の勝利まで突き進めるかもしれないと、ランズコマンド市では計算していた。そのために必要なのは、わずかに四人の兵士による巧妙な破壊工作だけなのだ。
……ただしそれは、凍《こご》えずにトンネルを最後までくだれたらの話だ。
階段には空気雪がわずかに積もり、ところどころ板石《いたいし》のすきまから草がはえているだけだった。立ち止まるのは、ニジニモルとアナービーが牽いている機から混合液のバケツをまえに受け渡していくときだけだ。まわりは真っ暗闇で、撒いた外温細菌がときおりぼんやりと光るだけだ。情報局の報告によると、このトンネルは二百メートルもないはずだが……。
前方に楕円形の光が見えてきた。トンネル出口だ。四人はよろよろと平坦な地面に出た。そこからはかつて空が見えていたはずだが、いまは銀色の日除《ひよ》けでおおわれていた。そこらじゅうにテントの支柱が林立している。落ちてきた空気雪によって崩れているところもあるが、ほとんどはしっかりと立っていた。
細長く切りとられた薄暗い光のなかで、蒸気機関車や、レール敷設車や、機関銃車、装甲自動車が見えた。暗いとはいえ、空気雪のあいだに光る銀色の塗装は見てとれた。新生期の太陽に灼《や》かれても、これらの兵器は無傷で残るはずだ。氷が蒸発したり解けたりして、補給処内を縦横にはしる排水溝にそって勢いよく流れていくあいだに、ティーファーの兵士たちは近くの冬眠穴から出てきて、安全なこれらの車両のなかに駆けこむのだろう。水はタンクに溜《た》められ、冷却スプレーとして上から撒かれる。装備の点検と機器の状態確認を数時間かけてすばやくこなし、二世紀におよぶ暗期と数時間の熱い新生期の太陽によって故障したところを、さらに数時間かけて修理する。そして司令官の命じる方角の線路へと出発していくのだろう。暗期と新生期を生き延びる方法を何世代もかけて研究した成果が、ここに集約されているのだ。彼らの兵站学は多くの点でアコード軍のそれを凌駕しているかもしれないと、情報局は推測していた。
アナービーは全員に話しかけられるように、特任部隊を集合させ、全員と音声ケーブルをつないだ。「新生期の最初の日差しがさして一時間後には、ここには歩哨《ほしょう》がうようよしているはずだが、いまはおれたちのやりたい放題だ……。では、ここで各自の背中の容器を満タンにしたあと、分かれて予定の行動をとる。ギル、やれるか?」
ギル・ヘブンはトンネルをくだってくるときも、足の悪い酔っぱらいのようによろよろとしていた。スーツの不具合が歩行脚にもおよんでいるのではないかと、シャケナーには思えた。しかしアナービーの言葉を聞くと、ヘブンはしゃんとして、いつもとほとんど変わらない声で答えた。
「軍曹、同僚たちが働くのをすわって眺めるためにここまで来たわけではありません。自分の役割はこなせます」
もっとも重要な任務がはじまった。四人は音声ケーブルをはずして、あらかじめ割りあてられた爆発物や黒い染料をそれぞれ装備した。ここからの作業は何度も練習していた。作業から作業へ駆け足で移動し、排水溝に落ちて脚を折ったりせず、さらに記憶した地図にまちがいがなければ、凍え死ぬまえに作業を終わらせられるはずだった。特任部隊は四方に散った。日除けの下に設置した爆発物は、手榴弾ほどでしかなかった。彼らが出ていったあとにこれらは小さく爆発し、計算された部分の日除けをつぶすはずだ。さらに黒い染料の発射装置が作動する。見ためは地味だが、資材研究局で予測するとおりの効果があるはずだ。補給処のかなり多くの機器が、黒い染料によってまだらに塗られた姿で、新生期の太陽の一撃を待つのだ。
三時間後、四人は補給処の一マイルほど北へ来ていた。補給処をあとにしてから、アナービーは部隊の最後にして、あまり重要でない目的である生還≠めざして、彼らをせかしにせかした。
あとわずかでそれは達成されるところだった。もうすこしで。補給処での作業が終わったとき、ギル・ヘブンは意識が混乱し、奇妙にせかせかと動きまわるようになっていた。一人で勝手に補給処から出ていこうとさえした。「穴を掘る場所を探さなくちゃ」ヘブンはその言葉をくりかえし、命綱の列につなぎとめようとするニジニモルやアナービーに抵抗した。
「これからみんなでそこへ行くんだ、ギル。おとなしくしろ」
アナービーはヘブンの扱いをニジニモルにまかせ、シャケナーはしばらくアナービーとしか話ができなくなった。
「さっきまでより元気になりましたね」シャケナーはいった。
ヘブンは義足をつけた男のようにひょこひょこと動きまわっている。
「もう痛みすら感じなくなったんだろう」アナービーの返事は、かすかだがはっきりと聞こえた。「心配なのはそのことじゃない。やつは冬眠|彷徨《ほうこう》症になりかけているようだ」
暗期がもたらす狂気だ。外におきざりにされたと精神の中枢が判断すると、だれしもこの恐慌状態にとらわれる。動物的な本能に支配されて、どこでも、なんでもいいから冬眠穴のかわりになる場所はないかと探しまわるようになるのだ。
「ちくしょう」
そのくぐもった悪態は、アナービーが接続を絶ったために途中で切れた。アナービーは全員に移動を命じた。あと数時間で安全な場所へ行けるはずなのだが……。ギル・ヘブンの混乱ぶりを見ると、だれもが原初的な本能を触発されそうになった。本能とは本当に興味深いものだ――しかし、いまそれに身をゆだねたら、死あるのみだ。
二時間後、四人は補給処から離れた丘のふもとまできた。ヘブンは二度、命綱をはずして逃げ出し、本来の道からはずれた険《けわ》しく細い道のほうへ、誤った希望をいだいて突き進もうとした。そのたびにニジニモルが力ずくで引きもどし、説教をした。しかしヘブンはもう自分がいまどこにいるかもわかっておらず、暴れるうちにスーツの数ヵ所に裂けめをつくってしまった。手足の一部は凍って動かなくなっていた。
最後は、最初の急峻《きゅうしゅん》な崖を登りはじめたときだった。権はおいていくしかない。背中の容器にはいるだけの空気雪と外温細菌で残りの道を歩き通さねばならない。ヘブンは三度めの脱走を試み、命綱をはずして、奇妙なひょこひょことした動きで走りはじめた。ニジニモルがあとを追った。ニジニモルは大柄な女で、ここまではギル・ヘブンを苦もなく抑えこめたが、このときはちがった。ヘブンは冬眠彷徨症の極限にいたっていたのだ。ニジニモルの手で崖のふちから引きもどされようとしたとき、ヘブンはふりむいて、その尖《とが》った手の先で彼女を突き刺した。ニジニモルはよろけてうしろに退《さ》がり、手を放した。アナービーとシャケナーは彼女のすぐうしろにいたのだが、まにあわなかった。ヘブンは手足をばたばたさせながら道から転落し、眼下の闇に消えていった。
三人はしばらく呆然《ぼうぜん》としていた。それからニジニモルが雪の下の石を慎重にたしかめながら、崖のふちに近づいていった。アナービーとシャケナーはその手をつかみ、引きもどそうとした。
「いいえ、行かせてください! 凍っていれば助かるかもしれない。身体を運んでいけばいいだけですから」
シャケナーは崖のむこうをそっとのぞいてみた。ヘブンは落ちていく途中で岩に何度か叩きつけられたらしい。身体はぴくりとも動かなかった。もしまだ死んでいないとしても、乾燥と不均一な凍結のために、道まで引っぱりあげるまえに息絶えるだろう。
アナービーもそう考えたようだった。「あきらめろ、アンバー」穏やかに声をかけたあと、軍曹らしい口調にもどった。「まだ任務は終わっていないのだぞ」
しばらくして、ニジニモルの自由な手が納得したように内側に巻かれた。しかしなにか返事をしたかどうかは、シャケナーには聞こえなかった。ニジニモルは道へもどり、手助けされて命綱と音声ケーブルを接続した。
三人はやや速足になって、ふたたび道を登りはじめた。
目的の場所に着いたとき、生きている外温細菌は柄杓《ひしゃく》数杯分しか残っていなかった。暗期のまえまでは、このあたりの丘は青々としたトローム木の森におおわれ、ティーファーの貴族が所有する猟場の一部をなしていた。その奥には岩場の割れめがのぞいている。自然の冬眠穴への入り口だ。狩猟の対象となる大型動物がいる原生地域には、かならず動物が使う冬眠穴がある。植民された地域では、たいていそれらは住人たちが使うために占拠、拡張されているか、あるいは使わないまま放置されている。ここの貴族の地所に住むティーファーのなかにアコード軍のスパイがいなかったら、こんなところに冬眠穴があるなどという情報はアコード軍情報局に伝わらなかっただろう。しかしここは、あらかじめ用意された避難場所ではない。ファーブランラーゴ地域にあるような、野生そのままの場所に見えた。
特任部隊のなかで本格的な狩猟の経験があるのは、ニジニモルだけだった。彼女とアナービーは、野生|蜘蛛《ぐも》が口から吐いた糸でつくった網状の三重の防壁を切り裂いて、下へ降りていった。シャケナーは上で待機し、暖かさと光が下へとどくようにした。
「池が五つと……成体の野生蜘蛛が二匹見える。もっとこっちを照らしてくれ」
シャケナーは体重のほとんどを網にあずけて身体を穴のなかにいれ、いちばん下の手にもった照明が穴の奥をむくようにした。二つの池が見えた。空気雪はほとんどかぶっていないようだ。氷は典型的な冬眠池のそれで、気泡がまったくない。そのなかに、野生蜘蛛の姿が見えた。凍った目が照明を反射してきらりと光った。ずいぶん大きい! しかしそれでも雄のようで、背中には何十個という子袋がある。
「ほかの池はみんな食糧庫だ。殺したての獲物がはいってる」
このような野生蜘蛛の夫婦は、新生期の最初の一年間は冬眠穴のなかにとどまる。食糧庫に保存しておいた獲物の体液をすすり、子どもを育て、狩りのしかたを教えながら、外の暑さや嵐がおさまるのを待つのだ。野生蜘蛛は純粋な肉食で頭はよくないが、見ためは彼らとあまり変わらない。自分たちが生き延びるためには、こいつらを殺して食糧を奪わなくてはならないのだが、狩りというよりは、冬眠穴|殺戮《さつりく》を犯そうとしているように思えてしかたなかった。
作業にはさらに一時間かかり、残りの外温細菌をほとんど使いつくした。そのあと地上にもう一度もどり、網の防壁をできるだけつくりなおした。シャケナーはいくつかの肩の関節が痺《しび》れ、何本かの左手は先端の感触がなくなっていた。スーツは最後の数時間で酷使《こくし》され、あちこちに穴があいて継ぎをあてていた。ニジニモルのスーツにいたっては、空気雪と外温細菌に何度もさわったために手首の関節部分が焼けこげていた。そうやって手足が凍りはじめるのは、あえて放置した。何本かの手は失うかもしれないが、意に介さず、三人はしばらくその場に立ちつくした。
沈黙のあと、ニジニモルがいった。「これは勝利といえるんでしょうか?」
アナービーは力強く答えた。「そうだ。ギルもそう思ってくれるはずだ」
三人はおたがいに腕をまわし、しっかりと抱擁した。アコード国に到着するゴクナの像≠ニそっくりの姿勢だ。失われた一人め仲間≠ニいう要素までおなじだ。
アンバードン・ニジニモルは岩の割れめにもどっていった。網のあいだを通り抜けるときに、緑色に光る霧が立ちのぼった。下で彼女は外温細菌を池に混ぜるはずだ。氷は冷たい半解けにしかならないだろうが、それでもなかにはいることはできる。スーツを大きくひらけば、身体は均一に凍るはずだ。この最後の試練をまえにして、できることはもうあまりない。
「この景色をよく眺めておけよ、シャケナー。おまえの仕事の成果なんだから」
アナービーの声からは、自信たっぷりの響きが消えていた。アンパードン・二ジニモルは兵士だが、彼女に対するアナービーの仕事はもう終わっていた。いまのアナービーは戦闘モードから脱して、疲れきっているようだった。肺のなかに空気雪が詰まってでもいるかのように、声が弱々しい。
シャケナーは外を眺めた。ここはティーファーの補給処より二百フィートほど高い地点だ。オーロラは薄れていた。動く光の点も、空にひらめく光も、とっくに消えている。星明かりだけの灰色の風景のなかで、補給処はしみがついたように黒っぽく見えていた。しかしその黒は、影ではない。彼らが施設内でぶちまけた黒い染料のせいなのだ。
「たいしたことはしてないのにな」アナービーはいった。「数百ポンドの染料を撒いただけだ。あれで効果があるのか?」
「ありますよ。新生期にはいって最初の数時間の太陽は、灼熱地獄のようになるはずです。黒い染料をかけられた機械類は、設計許容値を超えた熱をおびるはず。そんな熱のなかではなにが起きるか、おわかりでしょう」
じつは、アナービー軍曹自身がその実験をやっていた。中間期の太陽の百倍におよぶ光を、黒い染料を塗った金属にあてたのだ。金属が接触している部分はたちまちスポット溶接されたようになる。ベアリングは受け側の金具に固着し、ピストンはシリンダーに固着し、車輪はレールに固着する。敵の部隊は地下へ退却せざるをえなくなるだろう。前線でもっとも重要な補給処が事実上失われるのだ。
「おまえの作戦がうまくいくのはこれが最初で最後だろうな、シャケナー。防壁をいくつかと、地雷をいくつかしかけられていたら、おれたちは途中でお陀仏《だぶつ》になっていたはずだ」
「そうでしょうね。しかしまわりの情況も変わりますよ。蜘蛛類がずっと眠ってすごす暗期は、これが最後になるはずです。次は気密スーツを着た四人だけではなく、全住民が目を覚ましてすごすにちがいない。わたしたちは暗期を征服するんですよ、ハランクナー」
アナービーは笑った。そんな話は信じられないようだ。彼は手をふって、シャケナーを岩の割れめと、その下の冬眠穴へうながした。どんなに疲れていても、最後になかに降り、最後の防壁をめぐらせるのは、軍曹の仕事だからだ。
シャケナーは灰色の大地と、その上にかかる不思議なオーロラを、最後に一瞥《いちべつ》した。
〈〈高いほうも低いほうも、わからないことだらけ……〉〉
9
エズル・ヴィンがすごした少年時代は、おおむね保護がいきとどいて安全だった。一度だけ生命の危機にさらされたときがあったが、それは犯罪的なほど愚かしい事故だった。
チェンホーのなかでも、ヴィン第二十三家はかなり広がりをもつ家系だ。何千年も接触のない分家がいくつもあった。ヴィン第二十三・四家と、ヴィン第二十三・四・一家は、人類宇宙の半分ほども遠く離れ、それぞれ財をなし、家の勢力を広げていた。それだけの時間をへだててしまった親戚とあらためて交流するのは、はじめから好ましくなかったのかもしれない――しかしたまたま、この三つの分家がオールドキール星でいっしょになる機会があった。そこで彼らは、ほとんどの着生文明なら豪華居住棟≠ニ呼びそうな仮設舎を建て、おなじ出自《しゅつじ》をもつはずの分家がそれぞれどんなふうに変わったかをたしかめようとした。
ヴィン第二十三・四・一家は選出家長制をとっていた。だからといって家の交易関係に影響するわけではないが、フィリパ伯母さんが憤慨して、「選挙で財産権を奪われるなんて、冗談じゃないわ」というのを、子どもだったエズルは聞いてよく憶えていた。ヴィン第二十三・四家は、エズルの両親が憶えている分家のようすにまだ近かったが、その固有語はひどく聞きとりにくかった。第二十三・四家は放送標準語にあわせようという努力をあまりしていないのだ。
しかし標準へのこだわりは――商売相手の選別に使うブラックリストへのこだわり以上に――重要であることが、このあとの事件であきらかになった。
ピクニックのときは、大人が子どもたちのスーツを点検し、自律機能系がそれを二重にチェックする。しかし、空気/倍≠ニいう記述が、遠縁《とおえん》の従兄弟《いとこ》たちの吸う空気と異なる設定を意味するとは、だれも気づかなかった。エズルは、ピクニック場所の小惑星帯に浮かぶ岩によじ登って遊んだ。自分だけの小さな世界の上で手足を動かすと、自分が動くのではなく世界が動くことに気づいて、エズルはおもしろかった。しかし彼のスーツの空気がなくなったとき、ほかの子どもたちはそれぞれ自分の岩をみつけて遊んでいた。ピクニック監視装置は、エズルのスーツが発する緊急信号を無視しつづけ、あやうく彼は蘇生不能になるところだった。
エズルが憶えているのは、専用に新しくつくられた保育室で目覚めたことだけだ。それからの何キロ秒も、彼は王さまのような待遇を受けた。
そんなわけで、エズル・ヴィンは冷凍睡眠から目覚めるとき、いつも楽しい気分だった。時間や場所の見当を失ったり、身体的な不快さがあるのはだれでもおなじことだが、少年時代の記憶のおかげで、これからいいことが待っているはずだという確信があるのだ。
今回もはじめはそのとおりだったし、いつもより穏やかなくらいだった。エズルは無重力に近い環境で暖かいベッドにはいっていた。広い空間にいる気がする。天井が高い。ベッドのむこうの壁には絵が描かれている……とても精密で、まるで写真のようだ。
〈〈トリクシアが大嫌いだった絵だ〉〉
そういう考えが浮かんだとたん、この目覚めにいたる脈絡が甦《よみがえ》ってきた。トリクシア。トライランド星。オンオフ星への遠征。これはここに来て最初の目覚めではない。なにか悲惨な事件があった。エマージェント船団の攻撃だ。どうやってそれに打ち勝ったのだろう。眠りにはいる直前の記憶はなんだったか。
〈〈機能不全を起こした着陸船に乗って闇のなかを漂った。パークの旗艦が破壊された。トリクシアは……〉〉
「これで目が覚めたようです、領督《りょうとく》」女の声がした。
いやいやながら、その声のほうに顔をむけた。ベッドの横にある椅子にアン・レナルトが腰かけていた。その隣にはトマス・ナウがいる。
「ヴィン実習生、きみが生者《せいじゃ》の世界へもどってくれてとてもよかった」ナウの微笑みは真剣で心配そうだった。
エズルはしゃがれ声で何度かうめいたあと、ようやく意味のつうじる言葉をしゃべった。
「いったい……なにが起きたんですか? ここは?」
「ここはわたしの居室だ。きみの船団がわたしたちに攻撃をしかけてから、八日ほど経過している」
「え……?」こちらが攻撃をしかけた? エズルの言葉が聞きとりにくいらしく、ナウはいぶかしげに首をかしげた。
「きみが目覚めるときにそばにいたかったのだ。レナルト局長が詳細を説明してくれるはずだが、わたしはきみを支持するつもりだ。きみを船団管理主任に任命し、チェンホー遠征隊の残りの船と人員をまかせたい」
ナウはエズルの肩を軽く叩いて立ちあがった。エズルは部屋を出ていくその背中を目で追った。
〈〈船団管理主任だって?〉〉
エズルはレナルトから渡されたノート型の参照機を通じて、信じられない事実を次々に教えられた。まさか。しかし、まるっきり嘘ではないらしい……。
チェンホー側は千四百人が死んだ。乗組員総数の半分近い。チェンホーの星間船七隻のうち四隻が破壊され、残りはラムスクープエンジンが稼働不能になっている。小型船艇の大半は破壊されたか、大破している。ナウの部下たちは軌道上に散らばる武力衝突の残骸を掃除しているところだ。
共同作戦≠ヘまだ継続させるつもりらしかった。アラクナ星から引きあげられた揮発物資源と鉱物資源があれば、太陽‐惑星系におけるラグランジュ点のひとつ――L1点にエマージェントが建設している居住棟を、充分に維持できるはずだからだ。
乗組員のリストも見せられた。ファム・ヌウェン号は全乗組員とともに消滅していた。パーク船団長と交易委員会の一部の委員は死んだ。生き残った船の乗組員はおおむね無事だが、上級船員は冷凍睡眠にいれられている。
着陸船での最後の数分間に襲われたはげしい頭痛は消えていた。不運な感染症≠ヘ治療されたと、レナルトはいったが、あれほど都合のいいタイミングでいっせいに発症するのは、ウイルス兵器としか考えられない。エマージェントは慇懃《いんぎん》な態度をとりつくろうために嘘をついているのだ。はじめから最後の瞬間まで、計算ずくの攻撃だったのだ。
とりあえずアン・レナルトは、嘘をつきながら笑みを浮かべたりはしなかった。もともとめったに笑わないのだが。レナルトの肩書きは、人的資源局長――その意味するところをトリクシアでさえ気づかなかったのは不思議だ。
はじめレナルトは、自分たちの卑劣《ひれつ》な行為を恥じているように見えた。エズルの目をまっすぐに見ようとしないのだ。しかしやがて、そうではないことがわかってきた。レナルトにとっては、エズルの顔を見るのも隔壁を見るのも、おなじくらい無意味なのだ。エズルを人間として見ていない。死人に興味などないのだ。
エズルは文書を黙って読んでいった。死亡者のなかにスム・ドトランの名前をみつけても、笑いも泣きもしなかった。トリクシアの名前はどこにもない[#「トリクシアの名前はどこにもない」に傍点]。最後に、目覚めている生存者とその居場所が書かれたリストをみつけた。三百人近くがチェンホーの仮設舎にいる。仮設舎もL1点へ移動させられていた。エズルはリストに目をはしらせ、名前を憶えていった。下級船員ばかりで、トライランド人や学術員はほとんどいない。トリクシア・ボンソルもいない。さらにページを送ると……べつのリストがあった。今度はトリクシアの名前がある! 言語課≠ニいう区分のなかだ。
エズルは参照機から顔をあげ、さりげない口調をよそおって訊いた。
「ええと……この名前のわきにある記号はどういう意味なんだい?」
トリクシアの名前にその記号がついているのだ。
「集中化≠諱v
「それはどういう意味?」あまり聞きたくないことを尋ねるような響きが混じった。
「まだ治療を受けているということよ。みんながあなたみたいに簡単に回復したわけじゃないのよ」
レナルトの視線はきびしく、無表情だった。
翌日、ふたたびナウがやってきた。
「きみの新しい従属者たちにひきあわせよう」彼はいった。
長いまっすぐな廊下を移動し、移乗用エアロックへ行った。この居住棟は晩餐会がおこなわれた場所とはちがう。小惑星かなにかの上に設置されているらしく、かすかな重力を感じる。
エアロックのむこうのタクシー船は、チェンホー船団が運んできたものよりも大きかった。豪華だが、どちらかというと装飾過多で野暮《やぼ》ったい。低いテーブルと、どの方向にも飲みものを出せるバーがある。まわりには実景を見ることのできる大きな窓がならんでいる。エズルは外を眺める時間をあたえられた。
タクシー船は、地上に設置された居住棟の骨組みのあいだを上昇しているところだった。この居住棟はまだ完成していないが、チェンホーの外交官用仮設舎とおなじくらいの大きさがあるようだ。
骨組みの上に出た。すぐそばの地平線のあたりに、灰色の巨大なものがごろごろところがっている。ダイヤモンドの塊《かたまり》だ。ここに集められたらしい。クレーターのないところが奇妙だが、あとはふつうの小惑星とおなじようにのっぺりとしている。表面の黒鉛《こくえん》が削りとられたところに弱い日光があたり、虹のような光を反射させている。二つのダイヤモンド塊のあいだに青白い雪原のようなものと、切りとられたばかりの岩と氷のブロックが雑然と積まれているのが見える。アラクナ星から引きあげた海氷と海山の断片らしい。
タクシー船はさらに上昇した。ダイヤモンド塊のむこうに、何隻もの星間船が見えてきた。どの船も全長六百メートル以上あるが、ダイヤモンド塊にくらべると小さく見える。どれも係留索《けいりゅうさく》でしっかりと固定されている。まるでひとくくりにされてごみ捨て場におかれた廃品のようだ。エズルは陰になって見えないところも推測しながら、すばやく船の数をかぞえた。
「つまり……このL1点にすべて移動させたんですか? 本当に潜伏戦略をとるんですね」
ナウはうなずいた。「そういうことだ。正直なところ、それが最善の策なのだ。今回の戦闘によって両船団はぎりぎりの状態に追いこまれた。まだ自分たちの勢力圏へ帰還する資源はあるが、その場合は手ぶらで帰ることになる。しかし、もし協力できれば……。まあ、このL1点からは蜘蛛《くも》族が観察できる。彼らが実際に情報化時代にはいるようなら、最終的にはその資源を使って船を修復できるはずだ。どちらにしても、両船団は遠征の目的をかなり達成できる」
なるほど。長期問の潜伏をして、顧客文明が成熟するのを待つわけだ。チェンホーもしばしばとる戦術であり、うまくいくときもある。
「困難な面もあるでしょう」
エズルの背後から声がした。「おまえにとってはな。しかしエマージェントはいい暮らしをしてるんだよ、小僧。こうして見ればわかるようにな」
聞き覚えのある声だ。自分たちから攻撃の口火を切ったあとも、まだチェンホーの攻撃の意図を非難しつづけていた声。リッツァー・ブルーゲルだ。エズルはふりむいた。金髪の大柄な男は、にやにやして立っていた。外交的な態度はみじんもない。
「こっちには勝算もある。そのうち蜘蛛族も思い知るさ」ブルーゲルはいった。
この男がファム・トリンリに得々《とくとく》と講釈を垂れるのを、エズル・ヴィンが晩餐会の席で聞かされたのはつい最近だった。この金髪男の無作法さや横柄《おうへい》さについて、当時はなんとも思っていなかった。
エズルは、絨毯《じゅうたん》の敷きつめられた床のむこうにいるアン・レナルトのほうに目をやった。こちらをじっと見ている。外見だけとれば、彼女とブルーゲルは姉弟《きようだい》のようによく似ている。
ブルーゲルの金髪はわずかに赤みがかってさえいる。しかし似ているのはそれだけだ。不愉快であることはともかく、ブルーゲルの感情は明瞭で強烈だ。それに対してアン・レナルトから感じられるのは、いらだちでしかない。庭土のなかに虫をみつけたような表情で、こちらの会話を聞いているのだ。
「しかし心配いらねえぞ、行商人の小僧。おまえたちの住み処《か》は適当にめだたないようにしてある」ブルーゲルは正面の窓を指さした。丸い輪郭がぼんやりと見てとれる、緑色がかった物体がある。チェンホーの仮設舎だ。「ここの岩石群を八日でまわる軌道上においてある」
トマス・ナウが、まるで議場で発言権を求めるように礼儀正しく手をあげた。ブルーゲルは黙った。
「あまり時間がないのだ、ヴィン君。アン・レナルトから概要を教えられたはずだが、きみの新しい仕事について念を押しておきたい」
ナウが袖口《そでぐち》でなにか操作すると、チェンホーの仮設舎の映像が拡大された。エズルははっと息をのんだ。なぜだろう。さしわたし百メートルほどの、どこにでもある現地設営用の仮設舎だ。詰め物のはいったでこぼこの外壁を眺めた。このなかに住んでいた時間は二メガ秒にも充たないし、そのあいだじゅう簡素で狭苦しいことに不満をならべていた。なのにいまは、わが家《や》と呼べそうな場所はそこしかないのだ。そのなかには生き残った友人たちがたくさんいる。仮設舎など、破壊しようと思えばあっというまのはずだが、見たところどの区画もきちんと膨らんでおり、つぎはぎの跡《あと》もない。パーク船団長はこの仮設舎を船からかなり離していたし、ナウも破壊する気はなかったようだ。
「……つまりきみの今度の立場はとても重要だ。船団管理主任として、亡きパーク船団長に匹敵する責任を負ってもらう。こちらからは一貫して支持をするし、人々にもそのことを周知徹底させる」ナウはちらりとブルーゲルのほうを見た。「しかしこのことは憶えておいてほしい。われわれが成功できるかどうかは――それどころか、生き延びられるかどうかは――ひとえにこの協力関係にかかっているのだ」
10
自分が人を動かす仕事にむいていないことは、エズルにはよくわかっていた。
ナウのたくらみはあきらかだ。教科書にも載っているようなやり方だ。仮設舎に着くと、ナウは猫なで声で演説をはじめ、新しいチェンホー船団の管理主任≠ニしてエズルを紹介した。船主家の一員として生き残っているなかではエズル・ヴィンが最年長であることを強調した。ヴィン家の所有する星間船二隻は、先日の交戦でも比較的軽微な損傷をこうむっただけだった。チェンホー船団の正統的な主《あるじ》を決めるとしたら、エズル・ヴィンをおいてほかにない。この正統的な権威者にみんなが協力するなら、だれもが利益を得ることになるだろう……。
そのあとエズルはまえに押し出され、友人たちのあいだにもどれたのがうれしいことや、みんなの協力を期待していることを、口ごもりながら短くしゃべった。
それから数日がすぎるうちに、職務と忠誠心のあいだに打ちこまれたナウの楔《くさび》が、しだいにあきらかになってきた。エズルにとってこの仮設舎は、わが家《や》であってそうではなかった。よく知っている顔を毎日見る。ベニー・ウェンもジミー・ディエムも生き延びていた。ベニーとは六歳のときからのつきあいだ。しかしいまのベニーは他人だった。協力的な他人だ。
そんなある日、計画的にではなく偶然に、エズルは仮設舎のタクシー船用エアロックのそばでベニーに行き会った。エズルは一人だった。エマージェントの副官につきまとわれることはしだいに少なくなっていた。信用されはじめたのか。盗聴されているからか。放っておいても害はないと思われているのか。どの可能性も不快だったが、一人になれるとほっとした。
ベニーは数人のチェンホーからなる作業班を連れて、仮設舎のいちばん外側の壁のところにいた。エアロックのそばなので、壁のなかの詰め物はない。近くをタクシー船が通るたびに壁の布地のむこうを光が動いていった。ベニーの作業班は壁のあちこちに散らばって、接近制御をおこなう自律機能系のノードをいじっていた。広い部屋のむこう側にはべつのエマージェントの作業班がいて、班長が目をひからせている。
放射状トンネルから出てきたエズルは、すぐにベニー・ウェンの姿をみつけ、軽く壁を蹴ってそちらへ漂っていった。
ベニーは作業から顔をあげ、慇懃《いんぎん》に一礼した。「主任」
こんな形式ばった挨拶《あいさつ》にももう慣れたが――いまでも顔を蹴飛ばされるような苦痛を感じた。
「やあ、ベニー。さ……作業の調子はどうだい」
ベニーは、部屋のむこう側にいるエマージェントの作業班長のほうをちらりと見た。その男は灰色の作業服姿で、個性的な服装のチェンホーにくらべると逆にひどくめだった。三人の作業員にむかって声高《こわだか》になにか話しているが、遠いせいで仮設舎の布素材に声が吸収され、なにをいっているのかよくわからない。
ベニーはエズルのほうに目をもどして、肩をすくめた。「ああ、うまくいってる。おれたちがなにをやってるか、知ってるか?」
「通信用の周辺機器を交換してるんだろう」
エマージェントはまず最初に、チェンホーのヘッドアップディスプレーをすべて没収した。ヘッドアップディスプレーやそれに類する周辺機器は、解放闘争で使われる古典的な小道具だからだ。
ベニーはむこうの作業班長から目を離さずに、軽く笑った。「さすがエズル。そういうことだ。どうやらおれたちの新しい……雇用主は……問題をかかえてるらしいからな。やつらはこっちの船を必要としている。装備も必要としている。自律機能系をはずしたらなにも動かなくなるが、そうはいってもチェンホー製の自律機能系を信用するわけにはいかないだろう」
機能する機械にはすべて制御システムが埋めこまれている。もちろんそれらの制御システムは船内ネットワークの見えない手でつながれ、それによって整然と動くようになっている。
そのためのソフトウェアは何千年もまえに開発され、チェンホーが何世紀もかけて改良をかさねてきたものだ。それを破壊したら、船団はただの屑鉄《くずてつ》の集まりになってしまう。しかしこんなふうに何世紀もかけて組みこまれたものを、やすやすと信用するような征服者がいるだろうか。たいていの場合は、敗者の装備をすべて破壊するという手段がとられる。しかしトマス・ナウがすでに認めているように、いまはどんな資源も無駄にできない情況なのだ。
「やつらも自前の作業班をまわらせ、すべてのノードを調べてる。ここだけじゃない。残ったすべての船でだ。新しいご主人さまをいちいち教えこんでるわけだ」とベニー。
「ぜんぶを書き換えるのは無理だよ」たぶん……。埋めこまれたノードすべてにみずからのロジックを要求する政府というのが、いちばんたちの悪い圧制者だ。
「おまえも連中の書き換え作業を見たら、驚くそ。おれは見た。やつらのコンピュータ技術は……変わってるよ。おれも知らないようなものをシステムから掘り出してくる」ベニーは肩をすくめた。「でもたしかに、最下層に埋めこまれている部分には手をつけていない。いじってるのはおもに入出力のロジックだ。かわりにおれたちには、新品のインターフェース装置をくれたよ」ベニーは奇妙な笑みを浮かべ、ベルトから長方形をしたプラスチック製の黒い板を抜いた。キーボードの一種だ。「しばらくはこれしか使わせてもらえないらしい」
「そんな古臭いものを」
「単純なだけだ。古臭くはない。エマージェントがそのへんに放り出していた予備の装置だろう」ベニーはまたエマージェントの作業班長のほうを見やった。「重要なのはこういうことだ――この箱のなかの通信装置の仕様はエマージェントだけが把握している。不正に改変したら、船内ネットを通じて警報が鳴るはずだ。ようするに、やつらはおれたちのやることを逐一《ちくいち》監視できるんだよ」ベニーはキーボードを見おろして、もちあげた。ベニーもエズルとおなじ実習生にすぎず、技術的なこともエズルとおなじ程度にしかわからない。しかし巧妙な仕掛けをみつける特別な嗅覚をもっているのだ。「どうもへんだ。これまでに見たエマージェントの科学技術はみんな程度が低かった。しかしあらゆる情報をかき集めて監視するということには、えらくこだわりがあるらしい。やつらの自律機能系には、おれたちがまだ理解していないなにかがある[#「なにかがある」に傍点]……」最後はほとんど独《ひと》り言だった。
ベニーの背後の壁に映る光がどんどん大きくなり、ゆっくりと横に動きはじめた。タクシー船がドッキングベイに近づいているのだ。光が壁の曲線にそって動いてまもなく、カチャンというこもった音が聞こえた。ドッキングベイの振動がまわりの壁にかすかなさざ波となってつたわった。エアロックのポンプがまわりだした。どういうわけか、ドックの入り口にいるよりここのほうが騒音がひどい。エズルはためらった。これだけうるさければ、ここでの会話はむこうの作業班長まで聞こえないはずだ。
〈〈そうだ。もし盗聴器があっても、この騒音のなかではなにも聞こえないだろう〉〉
だから、ひそひそ話をするような小声ではなく、ポンプの騒音に負けない大声で話せばいいのだ。
「ベニー、いろんなことが起きたけど、わかってほしいんだ。ぼくは変わってないってことを。ぼくは――」
〈〈裏切ったわけじゃないんだ!〉〉
しばらくベニーの表情にはなにもあらわれなかったが……ふいに笑みが浮かんだ。
「わかってるよ、エズル。わかってる」ベニーはほかの作業員たちがいる方向へ、壁にそってエズルを案内していった。「おれたちがほかにやっていることを見せてやるよ」
エズルのまえで、ベニーはあちこちを指さし、エマージェントがドッキング手順にほどこした変更を説明した。エズルはふいに、このゲームについてまたすこし理解した。
〈〈敵はぼくらを必要としてるんだ。何年も働かせたいんだ。つまりぼくらはいろんなことを話しあえる。仕事をこなすために情報交換をしてもにらまれはしないし、この先どうなるかについて推測してもだいじょうぶなんだ〉〉
ポンプの回転音がおさまった。壁のむこうのドッキングベイでは、人や荷物が船から出てきているはずだ。
ベニーは汎用《はんよう》ダクトのあけっぱなしのハッチに近づいた。
「ここにはかなりの数のエマージェントが引っ越してくるそうだな」
「そうだ。とりあえず四百人。もっと増えるかもしれない」
この仮設舎は、船団が到着した数メガ秒前にふくらませた、いってみればただの風船だ。しかしトライランド星から五十光年の距離を移動してくるあいだ棺《ひつぎ》にはいっていた乗組員を、すべて目覚めさせて収容できるくらいの広さはある。その場合は三千人だったはずだ。しかしいまは三百人しかいない。
ベニーは眉をあげた。「やつらは自分たちの仮設舎をもってるし、ここよりましな設備なんだろう?」
「それは――」
エズルはためらった。むこうの作業班長が声のとどきそうな距離にいる。しかし、べつに陰謀をめぐらせているわけではないのだ。自分たちの仕事について話してもかまわないはずだ。
「連中は口でいっているより大きな損害をこうむっているんだと思う」
〈〈あとほんのすこしで勝てたはずなんだ。敵に攻撃の先手をとられ、ウイルス兵器で叩かれたという情況のなかでも〉〉
ベニーはうなずいた。どうやらそのあたりはすでに知っているらしい。しかしこのことは知っているだろうか……。
「それでもまだ余裕がある。トマス・ナウは冷凍睡眠中のこちらの人間をもうすこし目覚めさせるつもりなんだ。たぶん、一部の上級船員も」
もちろん上級船員はエマージェントにとって危険な存在だが、ナウが協力の実効性をあげたいのなら……。残念ながら、集中化≠ニいうのがなにを意味するのかについて、領督《りょうとく》はあまり教えてくれなかった。
〈〈トリクシア……〉〉
「へえ」ベニーは関心なさそうな口調だったが、ふいに目つきが鋭くなった。横をむいてつづけた。「それは大きなニュースかもしれないな。一部の仲間にとっては……とりわけこのダクトのなかで働いてるお嬢さまにとっては」ハッチのなかに首を半分ほど突っこんで怒鳴った。
「おい、キウィ、まだそこは終わらないのか?」
あのうるさい小娘が? 武力衝突からあと、エズルは二、三度しかキウィを見かけていなかった。怪我《けが》はしておらず、拘束されてもいないということが確認できただけだ。そもそもキウィは仮設舎にほとんどおらず、エマージェントのあいだをうろちょろしていた。幼いので警戒されないのだろう。しばらくして、道化師のようなおかしな恰好をした小さな影がダクトから飛び出してきた。
「ええ、ええ、終わったわよ。改変防止装置からずっとこっちまで――」エズルに気づいた。「あら、エズル!」
今回はさすがに突進してこなかった。軽くうなずいて、曖昧《あいまい》な笑みを浮かべただけだ。だんだん大人になってきたのか。そうだとすると、すこしかわいそうな気がした。
「エアロックのこっち側まで線を引っぱってきたわ」キウィはつづけて報告した。「簡単よ。でも暗号化しちゃえばすむことなのに、どうして連中はそうしないのか不思議ね」
笑顔だが、目のまわりに隈《くま》がある。幼い子どもの顔とはとても思えなかった。無重力のなかで、チェック模様のブーツを壁の手がかり穴に突っこんだ楽な姿勢で立っている。しかし脇を締め、軽く腕を組んでいる。武力衝突以前の、小さな拳《こぶし》ですぐに打ちかかってきた活発さはどこにもない。キウィの父親は、トリクシアとおなじようにまだウイルス兵器の感染症から回復していないらしかった。やはりトリクシアとおなじように、もう目覚めない可能性もある。上級戦闘員であるキラ・ペン・リゾレットについては、いわずもがなだ。
少女はダクトのなかの設定についてしゃべりつづけた。たしかに能力はある。ふつうの子どもたちなら玩具《がんぐ》やゲームで友だちと遊んでいたはずの齢《とし》の頃、キウィは星間空間を飛ぶ無人に近いラムスクープ船のなかに、ずっと放り出されていたのだ。ひとりぼっちで長いことすごすうちに、彼女はいくつかの専門技能を身につけていた。
キウィは、エマージェントの要求にそったケーブル敷設を短時間ですませるアイデアをいくつか披露《ひろう》している。ベニーはうなずきながらメモをとっていた。
それからキウィは話題を変えた。「仮設舎に新しい住人がやってくるって聞いたんだけど」
「そうだ――」
「だれ? だれっ?」
「エマージェントだ。それからこっちの人間もたぶん何人か」
キウィの顔につかのま大きな笑みが広がったが、すぐに、あきらかに意志の力でうれしそうな表情を消した。
「わたし、ハマーフェスト棟に行ってたの。冷凍睡眠の関連設備をファートレジャー号に移すまえに、その状態を点検してほしいとナウ領督から頼まれたのよ。その……そのなかにママがいたわ、エズル。のぞき窓こしに顔が見えた。緩徐《かんじょ》呼吸も確認したわ」
ベニーがいった。「だいじょうぶだ。そのうち……ママもパパも起きてくるさ」
「そうね。ナウ領督もそういってるわ」
その目には希望の光があった。どうやらナウから期待をもたせるようなことをいわれ、キウィはかわいそうに、それを頼みの綱にしているらしい。ナウのいうことの一部は本当かもしれない。キウィの父親のウイルス症はそのうち治されるかもしれない。しかしどんな圧制者も、キラ・ペン・リゾレットのような戦闘員は脅威と感じるだろう。逆襲うんぬんはべつにしても、キラ・リゾレットはずっと眠らされるはずだ。逆襲うんぬんは……。
エズルはさっとベニーのほうに目をやった。友人の目は無表情で、さきほどとおなじようになにも知らぬげだ。しかしその瞬間、逆襲計画は実際にあるのだと、エズルはさとった。遅くとも数メガ秒後には、チェンホーの一部が立ちあがるにちがいない。
〈〈協力するよ。絶対に〉〉
エマージェント側からの命令はすべてエズル・ヴィンをとおして実行に移す、ということになっている。その自分が計画にくわわれば……。しかし、いくらトマス・ナウから軽くみられているとはいっても、やはりエズルは厳重に監視されている身だ。
ふいにエズルのなかで怒りが湧きあがった。自分は裏切り者ではないことを、ベニーはわかってくれている――しかし逆襲計画に協力しようとしたら、たちまち敵に洩れてしまうのだ。
チェンホーの仮設舎は、武力衝突を無傷で生き延びた。電磁パルスによる電子機器の損傷もなかった。エマージェントは船団内ネットワークを改変するまえに、チェンホーのデータベースをあさって大きな収穫をあげていた。
ネットワーク改変後も、日常業務へのさしさわりはなかった。仮設舎の人口は数日ごとに数人ずつ増えていった。ほとんどはエマージェントだが、冷凍睡眠による拘束状態から解放されたチェンホーの下級船員もいくらかいた。
エマージェントとチェンホーは、まるでどちらも災害からの避難民のようだった。エマージェントもおなじように人員を失い、装備を失っていた。やはりトリクシアは死んだのかもしれない。集中化≠ウれた人間は、エマージェントの新しい居住棟であるハマーフェスト棟に収容されているということだったが、実際に見た者はいなかった。
チェンホー仮設舎の生活条件はすこしずつ悪くなっていた。人口は設計定員の三分の一にも充《み》たないのに、システムが機能不全を起こしているのだ。原因のひとつは自律機能系が機能制限を受けているからであり、もうひとつはたいしたちがいではないが住んでいる人間が適切な作業をしていないからだ。機能の低下した自律機能系や生命維持装置に対するエマージェントの無知などのせいで、システムが負担に耐えきれなくなっていた。
逆襲計画のメンバーらにとってはさいわいなことに、キウィはめったに仮設舎にいなかった。彼女ならすぐに噂を嗅ぎつけただろう。エズルが逆襲計画に協力するやり方は、ひたすら沈黙し、なにが起きていても気づかないふりをすることだった。ささいな出来事をひとつずつ片づけ、あたりまえの仕事をしながら仲間たちが裏で進めていることを推測するだけだった。
仮設舎には実際に異臭が漂いはじめていた。そこでエズルは、エマージェントの副官たちをつれて、仮設舎の最深部にあるバクテリア槽へ降りてみることにした。エズルにとっては実習生として何キロ秒もすごした場所だ。パーク船団長とほかのみんながもし甦《よみがえ》るのなら、実習生として永遠にここにいれられてもいいと思った。
バクテリア槽は、学校の実習で失敗したときのようなとんでもない臭気を放っていた。微生物フィルターのむこうの壁は黒い軟泥《なんでい》におおわれ、それが不気味な贅肉《ぜいにく》のように垂れさがって、換気口からの風で揺れている。シレトとマーリはうっと息をつまらせ、一人はマスクのなかで吐いた。マーリがあえぎながらいった。
「うえ! こんなの耐えられねえよ。外にいるから、一人でやってくれ」
二人は汚水を跳《は》ねちらしながら逃げ出し、ドアをしめた。エズルは悪臭のなかに一人残された。しばらく呆然《ぼうぜん》としていたが、ふいに気づいた――完全に一人きりになりたかったら、ここは恰好の場所ではないか!
汚染の原因はどこかと探しはじめたとき、汚物の陰から、軟泥まみれの防水服とマスク姿の人影があらわれた。なにもいうなというように片手をあげて、人影は信号ユニットでエズルの全身を検査した。
「よし。盗聴器はない」こもった声がした。「あるいは、やつらからよほど信用されてるのかもな」
ジミー・ディエムだった。エズルはバクテリアの汚物もなにもかまわず、抱きつきたくなった。あらゆる危険を排して、逆襲計画のメンバーが接触してきたのだ。しかしジミーの声にうれしそうな響きはない。ゴーグルに隠されて目もとは見えないが、その姿勢からは緊張感がありありとつたわってきた。
「なぜあいつらにおもねってるんだ、ヴィン?」
「おもねってなんかいないよ! とりあえず演技してるだけさ」
「こっちの仲間の一部も……そうじゃないかと思ってるんだ。しかしおまえはナウからずいぶんたくさんの特権をあたえられているし、おれたちはなにをするにもいちいちおまえから許可をもらわなくちゃいけない。自分は残された船団の所有者だと、本気で思ってるのか?」
ナウはいまもそれを根拠にしているのだ。
「ちがう! やつらはぼくを買収したつもりかもしれないけど……でも、交易神にかけて、ぼくは忠実な乗組員だよ。そうだろう?」
軽い笑い声とともに、ジミーの肩から力が抜けた。
「そうだな。おまえはいつもよそみばかりしているぼんやり屋だ」叱責されるときのいつもの形容だったが、いまは愛情をこめた口調だった。「しかしばかじゃないし、家系のコネをかさに着たりもしなかった……。わかったよ、ヴィン実習生。仲間として歓迎する」
こんなにうれしい昇進は初めてだった。かぞえきれないほどの質問がこみあげてきたが、ほとんどは答えを教えてもらえそうにないものばかりだった。しかし、トリクシアについてだけは――
しかし、ジミーはもうしゃべりはじめていた。「おまえに憶えてほしい暗号がいくつかある。しかしこうやってじかに顔を会わせなくてはいけない場合は今後ともあるはずだ。だから仮設舎内の悪臭は、すこしはましになっても、完全には消えないだろう。おまえがここへ降りてくる口実はいくらでもあるわけだ。とりあえず、おおまかな話をいくつかしておく。まず、なんとかして仮設舎の外へ出たい」
エズルの頭には、ファートレジャー号と、そこで冷凍睡眠にはいっているチェンホーの戦闘員たちのことが浮かんだ。あるいは生き残ったチェンホーの船のどこかに秘密の武器庫があるのかもしれない。
「そうだね。こちらが熟練している船外修理作業がいくつかあるけど」
「わかってる。肝心なのは、修理班のメンバーとして適切な人間を選び、適切な作業場所を選ぶことだ。メンバー表はあとで送る」
「わかった」
「もうひとつある。集中化≠ウれた仲間について知りたいんだ。彼らがどこにとじこめられているのか。すぐに動ける状態なのか」
「こっちでもそれについて探りをいれているところなんだ」〈〈ぼくにとってはいちばんの関心事なんだよ、船員長〉〉「レナルトによると、彼らは生きていて、ウイルス症の進行は止まっているらしい」
そのウイルス症は、精神腐敗病≠ニいう名前らしい。ぞっとするこの言葉を聞いたのは、レナルトからではなく、うっかり口をすべらせたエマージェントの下級船員からだった。
「会いたい人がいるといって、許可を求めてるんだけど――」
「ああ、トリクシア・ボンソルのことだろう?」軟泥だらけの手が、同情するようにエズルの腕に軽くふれた。「そうだな。たしかにおまえはしつこく要求するだけの動機がある。ほかの件ではおとなしくしているべきだけど、この問題だけはうるさく追求してくれ。たとえば、ここで指導者の立場にとどまるには、それについて知ることがどうしても必要だとかいって……。よし、そろそろおまえは出たほうがいい」
ジミーは悪臭芬々《ふんぷん》々たる軟泥の幕のむこうに消えていった。エズルは袖《そで》についたジミーの指紋をこすって消した。出口のハッチのほうへ歩きはじめたときには、悪臭はもうほとんど感じなかった。やっと仲間と合流できたのだ。今度こそ勝ちめはある。
トマス・ナウは、残されたチェンホー船団に傀儡《かいらい》の船団管理主任≠ニしてエズル・ヴィンを指名したように、その活動を補佐する船団管理委員会≠ネる組織ももうけた。裏切る気持ちなど毛頭《もうとう》もっていない人々を、あきらかな裏切り行為の集団に押しこめるのも、ナウが得意とするやり方だ。一メガ秒ごとにおこなわれるこの委員会の会合は、エズルには拷問とおなじだった。救いがあるとしたら、ジミー・ディエムが委員の一人であることだった。
会議室にはいってくる十人の委員たちを、エズルはじっと見た。
ナウはこの会議室の内装を、光沢《こうたく》のある木板《きいた》とそこにはめこんだ高性能な表示窓で仕上げさせていた。そして船団管理主任とその委員たちだけにこのような豪華な待遇がされていることを、わざと仮設舎じゅうの住人に知らせるようにした。キウィ以外の委員は、自分たちが利用されていることをよくわかっていた。
生き残ったチェンホーが冷凍睡眠による拘束状態から解放されるのは、もしそんな日が来るとしても、何年も先のはずだ。しかし上級船員はときどき秘密裏に目覚めさせられ、尋問されたり短期間働かされたりしているのではないかと、ジミーをふくめて一部の者は考えていた。そうすればエマージェントはつねに優位性をたもてる。なんとも卑劣《ひれつ》なやり方だった。
とにかく、ここには裏切り者はいない。とはいえ、ひどく消沈する眺めだった。なにしろ実習生が五人、下級船員が三人、十四歳の小娘が一人、役立たずの老いぼれが一人という顔ぶれなのだ。まあ、ファム・トリンリは、肉体的には老いぼれというわけではない。齢のわりには健康でしっかりしているといえるだろう。ようするに、いてもいなくても関係ないとみなされているのだ。冷凍睡眠にいれられていないのがその証拠だ。チェンホーの戦闘員のなかで目覚めたままにされているのは、トリンリだけなのだから。
〈〈ぼくは道化《どうけ》のなかの道化というわけか〉〉
ヴィン船団管理主任は、委員会の開会を宣言した。影の支配者にあやつられる人形の集まりなのだから、さっさとすませてしまいたい。しかし実際には、この会議はしばしば何キロ秒もつづいて、委員一人ひとりの任務についてこまごまとしたことまで討議されるのだ。
〈〈せいぜい盗聴して楽しんでくれよ、薄ぎたないナウ〉〉
最初の議題は、バクテリア槽の腐敗についてだった。いちおうなんとか抑制されつつあり、広範囲にひろがった悪臭も次の委員会までには消えそうだった。バクテリアのなかにはまだ暴走している菌株が何系統かあるが(これが好都合なわけだ)、仮設舎が危険におちいることはない……。
エズルはその報告を聞きながら、あえてジミー・ディエムのほうは見ないようにした。これまでに三回、バクテリア槽の部屋でジミーと会っていた。話は短く、一方的だった。エズルが本当に知りたいことは、最初から教えてもらえるはずがなかった。たとえば、ジミーの計画に参加しているチェンホーは何人か。だれなのか。エマージェント船団を叩きつぶし、拘束されている人々を解放する具体的な作戦はあるのか。
二番めの議題はもうすこし活発な議論になった。全船団の業務についてはエマージェントの時間単位を適用せよと求められているのだ。
「なぜいけないんだ?」不愉快そうな面々にむかって、エズルはいった。「エマージェントの一秒はぼくらの一秒とおなじだ。船団内の作業のほうは、カレンダーのちょっとした手直しですむ。顧客文明のカレンダーにあわせてソフトウェアをいじるくらいのことは、いつもやってるじゃないか」
たしかに日常会話における問題はほとんどないだろう。エマージェントの母星であるバラクリア星の一日は、チェンホーが一日≠ニいうシフトの長さとして使っている百キロ秒とさしてちがわない。彼らの一年も三十メガ秒にまあまあ近いので、年≠ノからむ言葉も混乱をきたす心配はない。
「もちろん、異質なカレンダーに対応するのは可能だよ。ただしそれは、フロントエンドの応用プログラム内での話だ」アーロ・ディンが答えた。彼は実習生プログラマーで、現在はソフトウェアモジュールの担当者だ。「いまの新しい……その……雇用者は、チェンホーの内部ツールを使ってるんだ。絶対に副作用がある[#「絶対に副作用がある」に傍点]」不気味に節《ふし》をつけて予言した。
「わかった、わかったよ。ぼくがなんとか――」そのときふいに、エズルの頭に管理職らしいアイデアが浮かんだ。「アーロ、その件でレナルトと話しあってみてくれないか。問題点を説明するんだ」
アーロの不愉快そうな視線を無視して、エズルは手もとにおいた議事予定表を見た。
「次にいこう。住人はこれからどんどん増えるぞ。領督によると、エマージェントが三百人以上、そのあとチェンホーが五十人引っ越してくるそうだ。生命維持システムは充分にこなせる範囲だけれども、ほかのシステムはどうかな。ゴンレ?」
階級がそれなりの意味をもっていた頃のゴンレ・フォンは、インビジブルハンド号補給課の下級職員だった。まだ将来性のはっきりしない年齢であり、エマージェントとの小ぜりあいがなかったら、彼女は一生、補給課下級職員のままだっただろう。ちょうどいいところで昇進が止まり、適切な職場で充分に能力を発揮していたにちがいない。しかしいまは……。
質問されたフォンは、うなずいた。「ええ、ちょっとこの数字を見て」
まえにおいてあったエマージェント仕様のキーボードを叩きはじめたが、いくつかタイプミスをし、修正しようとした。部屋の反対側の窓には、その悪戦苦闘のたびにさまざまなエラーメッセージが流れた。
「うるさいわね……」フォンは悪態をついた。また打ちそこねると、とうとう怒りを爆発させた。「もう、なによこれ! こんなもの使えないわ!」
キーボードをつかんで、つやのある木製テーブルに叩きつけた。突板《つきいた》にひびがはいったが、キーボードはなんともない。フォンはもう一度叩きつけた。部屋の反対側で表示されていたエラーメッセージが揺らぎ、虹色にゆがんで消えた。フォンは席からなかば立ちあがり、おかしなかたちにゆがんだキーボードをエズルの顔のまえでふってみせた。
「使える周辺機器はみんないまいましいエマージェントに奪われてしまったわ。音声入力もできないし、ヘッドアップディスプレーも使えない。表示窓とこの原始的な代物《しろもの》だけよ!」
キーボードをテーブルにむかって投げると、跳ね返って、くるくると回転しながら天井へ飛んでいった。
同意する声がいくつかあがったが、それほど熱をこめてはいなかった。「キーボードですべての用事はこなせないよ。ヘッドアップディスプレーくらい必要だ……。下層システムが正常でも、これじゃあ片手を縛《しば》られてるのとおなじだよ」
エズルは両手をあげ、反抗する相手が落ち着くのを待った。「理由はよくわかってるはずだ。エマージエントはこっちのシステムを信用していないんだ。だからせめて周辺機器で制限をくわえないとまずいと思ってるんだよ」
「そりゃそうさ!」だれかがいった。「こっちのやりとりをすべて監視したいんだ。データを横取りされている自律機能系だって信用できないな。でも、こんなの冗談じゃないぜ。やつらの周辺機器を使うのはがまんするにしても、せめてヘッドアップディスプレーやアイポインターは……」
「そうよ。わたしが知ってる何人かは、むかしの機器をいまでも使ってるわ」
「静かに!」エズルは怒鳴った。傀儡の役を演じる上でつらいところだが、できるだけ怖い顔でフォンをにらんだ。「言葉に気をつけろ、フォン職員。たしかにとても不便だろう。しかしナウ領督は、この問題での不服従は反逆罪とみなすといってるんだ。エマージェントの視点からはたいへんな脅威なんだよ」
〈〈だから、危険を承知の上で、古い周辺機器は隠しておくんだ……〉〉最後のところは口に出さずに、心のなかで念じた。
フォンはテーブルを見おろしていたが、顔をあげ、苦々《にがにが》しそうな顔でうなずいた。
「いいか」エズルはつづけた。「ほかの機器がほしいという話は、ナウやレナルトにしておく。すこしは解禁されるかもしれない。しかし、ここは工業文明から何光年も離れた場所であることを忘れないでほしい。新しい機械装置をつくろうとしたら、その材料はエマージェントがこのL1点に運んできたものしかないんだ」新たにつくれるものなどろくにないはずだ。「部下たちにも、周辺機器の禁止令についてかならずよく説明しておいてほしい。本人の安全のために」
エズルは委員たちを見まわした。みんなにらみ返しているが、本心ではほっとしているはずだ。仲間たちのところにもどったら、エマージェントの要求をそのまま押しつけてくるふぬけ野郎として、エズル・ヴィンをさんざんにけなせばいい――そうすれば自分たちの立場は悪くせずにすむのだ。
エズルは自分が重要な役割を演じていることを意識しながら、しばらく黙っていた。
〈〈ディエム船員長もこういうやり方に賛成してくれるといいんだけど〉〉
しかしジミーの表情は、ほかの委員たちとおなじく険《けわ》しいものだった。彼もバクテリア槽の外では役割をうまく演じていた。
しばらくして、エズルは身をのりだして穏やかにフォンに訊いた。「新しい住人がやってきた場合について説明してくれるはずだったな。なにが問題なんだ?」
フォンは癇癪《かんしやく》を起こすまえに話していたことを思い出して、低く悪態をついた。そして驚いたことに、こう話しだした。
「こまかい数字は忘れたわ。結論から先にいえば、人口が増えてもだいじょうぶよ。なにしろ、自律機能系さえうまく制御しておけば、この風船居住棟には三千人まで住めるんだから。引っ越してくるエマージェントは――」肩をすくめたが、それほど怒っているようすではなかった。「典型的なカモの客よ。専制君主制はいくらでも見てきたけど、みんなおなじ。管理者≠ニ称していても、実際にはただの小役人よ。表面では威張りちらしているけど、内心はわたしたちが怖いのよ」ごつい顔にずる賢そうな笑みを浮かべた。「こういう顧客の扱いには慣れてるわ。一部では友だちづきあいするようにもなった。連中が本来話してはいけない内容も聞き出してるわ――たとえば、精神腐敗病≠ニいうのがかなり危険な病気であるらしいことも。敵の大将が隠していても、こちらはちゃんと自力で探り出せるのよ」
エズルは、笑いをこらえた。〈〈聞いてるか、ナウ領督。隠しているつもりでも、こっちではすぐに真実がわかるんだ〉〉
そしてわかったことは、ジミー・ディエムの計画に利用できるのだ。
この会議をはじめるまで、エズルの頭は予定表の最後の議題についてでいっぱいだった。しかしいまでは、ようやく全体のつながりがわかってきた。じつは自分は、けっこうこの役をうまく演じているのかもしれない。
最後の議題は、これから起きる太陽の爆発現象についてだった。ジミーはこの問題の担当者としてわざと愚か者を――本人は愚か者だと思っていないだろうが――選んでいた。ファム・トリンリだ。老戦闘員はおおげさな身ぶりでテーブルの正面に出てきた。
「さあて、お待ちかねだな。見てもらいたい映像がいくつかある。ちょっと待ってくれ」
部屋のまわりの窓に一ダースほどの合成画像があらわれた。トリンリは演壇に飛び乗って、ラグランジュ安定点について講義しはじめた。奇妙なことに、この男の声や身ぶりは指導者のような威厳をただよわせていた。しかしそのわりに、話の内容は平凡だった。
エズルは百秒ほど勝手に話させたあと、口をはさんだ。「あなたの担当する議題は、再発火にそなえての準備≠フはずだ、トリンリ職員。エマージェントは具体的にぼくらになにをしろといってるんだい?」
老人は船員長のように怖い目つきでエズルをにらんだ。「トリンリ戦闘員[#「戦闘員」に傍点]と呼んでもらえんかな、主任」さらに一秒間にらみつづけた。「いいだろう。では本題にはいろう。ここには五兆トンもの質量のダイヤモンドの塊《かたまり》がある」
赤い指標が、背後の窓のなかでゆっくりと回転する岩石群をしめした。どれもパーク船団長がこの星系で発見した漂流物だ。アラクナ星から引きあげられた氷と鉱物は、これらの小惑星の亀裂やあわせめに、小さな山のように詰めこまれている。
「これらの岩は接触して寄り集まった状態にある。われわれの船団は現在のところ、この岩石群に係留《けいりゅう》されているか、その周辺の軌道をまわっている。さて、さっき説明しかけたように、エマージェントはこのなかの主要な塊に電子ジェットをすえつけ、動きを制御するよう求めている」
ジミーがいった。「再発火のまえに?」
「そうだ」
「再発火のあいだも、接触して集まっている状態を維持するようにしろというのか?」
「そのとおりだ」
テーブルのまわりに不安そうな表情が広がった。星系内における位置維持は、日常的で、むかしからおこなわれている操作だ。L1点で位置をたもつのは、適切にやればほとんど燃料をくわずにすむ。L1点は太陽とアラクナ星のあいだで、両天体を結ぶほぼ正確な直線上にあり、アラクナ星からの距離は百五十万キロ以下だ。たしかに太陽が輝きはじめれば、まばゆい光のなかにうまく隠れられるはずだ。
とはいえ、エマージェントの考えていることは無茶だ。彼らはすでにこの岩石群の上に、ハマーフェスト棟をはじめとするいくつかの施設を建設している。さらに再発火前に、岩のあちこちに位置維持用の電子ジェットを据えつけさせようとしている。オンオフ星は、比較的落ち着いた状態になるまで標準太陽の五十倍から百倍の明るさで輝くはずだ。そのあいだ巨大な岩があちこちへ動かないように、電子ジェットで姿勢制御しろというのは、とても危険であり、ばかげている。しかしいまは、エマージェントのいうことを聞くしかない。
〈〈それに、この任務を利用すればジミーは仮設舎の外へ出られるな〉〉
「べつにたいした問題はないでしょう」ふいにキウィ・リゾレットが席から立ちあがり、ファム・トリンリが見せている画像のほうへ泳いでいった。そしてトリンリがなにかいうまえに勝手にしゃべりだした。「船団の移動中に、こういう練習問題はいくらでもやったわ。母はわたしを技術者に育てるつもりだったし、今回の遠征では位置維持の問題が重要だと考えていたのよ」
いつになく大人びてまじめな口調だ。リゾレットグリーン色の服を着ているところも、エズルは初めて見た。表示窓のまえまで漂っていって、しばらくこまかい数値を読んでいたが、ふいにその大人びた落ち着きが消えた。
「ちょっと、これはたいへんよ! この岩石群はごくゆるい力で引きあっているだけよ。どんな数学を使ってもこの内部の力をすべて計算するのは無理だわ。もし揮発物の氷が日光を浴びて昇華しはじめたら、もっと問題が複雑になる」口笛を吹き、子どもらしく愉快そうな笑みを浮かべた。「再発火のさいちゅうにも電子ジェットをあちこち移動させなくてはいけないかもしれないわね。そうすると――」
ファム・トリンリは娘をにらみつけた。千秒におよぶ自分の解説がだいなしにされたのだから、無理もない。
「ああ、たしかに大仕事だとも。そもそも手持ちの電子ジェットエンジンは百基しかない。岩石群のなかには要員を常時配置しておかなくてはいけないだろう」
「いえいえ、そんなことはないはずよ。つまり、ジェットのことよ。電子ジェットならブリスゴーギャップ号にもっとたくさん載ってるわ。わたしがいままで取り組んだ問題の何百倍もむずかしいというわけじゃないけど――」
キウィはすっかり問題に夢中になっていた。とりあえず今回は、その対象はエズル・ヴィンではない。
今回の要求をだれもが素直に聞いているわけではない。ジミーをふくむ下級船員たちは、再発火のあいだは岩石群を分散させ、揮発物の氷は最大のダイヤモンド塊の影側に集めておくべきだと主張していた。ところがまったく逆に、こんな難題を押しつけられたのだ。トリンリはいらいらして、そういうことはとっくにエマージェントに指摘したと怒鳴り返した。
エズルはテーブルを叩き、さらに大声で怒鳴った。「静粛《せいしゅく》に! これはぼくらにあたえられた任務なんだ。仕事を責任もってやりとげることが、仲間を助ける近道だ。この問題ではエマージェントからさらに協力を得られると思うけれども、それにはこちらが本気で取り組まないとはじまらない」
まわりでは議論がさらにつづいた。
〈〈いったいこのうち何人が逆襲計画に参加しているんだろう〉〉エズルは思った。まさかキウィもということはないだろうが。
議論はしばらくつづいたすえに、最初の結論にもどった。黙ってやる以外にない、ということだ。
ジミー・ディエムが背中を椅子に倒し、ため息をついた。「いいだろう。いわれたとおりにしよう。しかしすくなくとも、連中がおれたちを必要としていることはわかった。ナウに圧力をかけて、何人かの上級専門技術者を解放させるようにしよう」
委員たちからは同意するつぶやき声があがった。エズルはじっとジミーを見ていたが、目をそらした。この問題にからめて何人かの拘束者を解放させられる可能性はあるが、あまり期待しないほうがいいだろう。
しかしそのときふいに、決起の日がいつかを、エズルはさとった。
11
もしかしたらオンオフ星は、原初地球にあった有名な間欠泉《かんけつせん》にちなんでオールドフェイスフル≠ニいう名前でもよかったかもしれない。光度が激変する性質を最初に観測したのは、原初地球の黎明期の天文学者だった。単一の褐色惑星(特異)≠ニ分類されていた二十六等星が、ほんの八百秒弱のうちに四等星にまで輝きを増したのだ。そして三十五年後にはふたたび、ほとんど見えない暗い星にもどった――その観測結果にもとつく多くの学位論文を研究機関に残して。
以来、この星は注意深く観察されてきたが、謎は深まるばかりだった。再発火時の瞬間的な光の強さは最大で三十パーセントも変動したが、全体として光量のグラフはきわめて規則的に変化した。明、暗、明、暗……。周期は約二百五十年で、発火のタイミングは一秒単位まで正確に予測できる。
黎明期から千年、二千年とたつうちに、人類文明は原初地球の太陽系からすこしずつ広がった。オンオフ星の観測もしだいに正確に、しだいに近くからおこなわれるようになった。
そしてついに人間たちはオンオフ星系内に立ち、カウントダウンの声を聞きながら、次の再発火をいまや遅しと待ちかまえていた。
トマス・ナウは短い演説をし、その最後を、興味深い一幕になるはずだ≠ニいう言葉でしめくくった。再発火を見守る場所には、仮設舎でいちばん広いホールがあてられた。人でいっぱいになったホールは、岩石群の微小重力でもあきらかに床が沈んでいた。ハマーフェスト棟ではエマージェントの専門技術者たちが情況を監視していた。各星間船にも必要最小限の人員が乗り組んでいる。しかしほとんどのチェンホーと非番のすべてのエマージェントは、ここに集まっているはずだった。
両船団の交流はおおむねなごやかで、おおむね友好的だった。武力衝突から四十日。再発火のあとはチェンホーに対する警戒態勢が大幅に緩和《かんわ》されるらしいという噂が流れていた。
エズルは天井近くの手がかり穴にしっかりつかまっていた。ヘッドアップディスプレーがないので、部屋の壁紙にひらかれた窓の映像を見るしかない。この位置からはもっとも興味深い三つの窓が――視線上にだれかが漂ってこないかぎり――同時に見えた。ひとつはオンオフ星の全球画面。もうひとつはオンオフ星の低高度軌道上にある小型衛星からの映像だ。高度五百キロから眺めても、恒星の表面はまだ平穏そのものだ。輝く雲海の上を飛ぶ飛行機からの映像のようにさえ見える。表面での重力を無視すれば、人間が着陸することもできそうだ。小型衛星の視界をゆっくりと横切っていく雲≠フあいまに、ちらちらと赤い輝きが見えた。これこそ褐色|矮星《わいせい》の不機嫌な赤い光、黒体放射にまじった赤い色だ。大変動の兆候はあらわれていないが、もう……六百秒後のはずだ。
ナウと上級の飛行技術者がエズルのほうに近づいてきた。ブルーゲルの姿はない。ナウがくつろぎたい気分のときはすぐわかる――リッツァー・ブルーゲルが遠ざけられているのだ。
領督《りょうとく》はエズルの隣の手がかり穴につかまり、どこかの顧客文明の政治家のような愛想笑いをした。
「この作戦にまだ不安があるのかね、船団管理主任?」
エズルはうなずいた。「こちらの委員会が諮問《しもん》したとおりです。再発火のあいだ、揮発物の氷は一個の岩の裏に隠して、遠くに移動させておくべきでした。われわれも星系の外周部に退避しているべきだったと思います」
両船団の船艇とすべての居住棟は、太陽からみて最大のダイヤモンド塊の裏側に係留《けいりゅう》されている。再発火の光からは陰になるが、もしこの岩石群がぐらぐら動きはじめたら……。
ナウについてきた技術者が首をふった。「岩石群の表面にはすでに多くの施設が設置されているんだ。そもそも手持ちの資源が乏しいのに、大量の揮発物を消費して星系内を飛びまわる余裕はない」
この技術者、ジョー・シンは、エズルとおなじくらい若く、性格も悪くない。しかしチェンホーの上級船員ほど頭が切れる印象ではなかった。
「そっちの技術者には感心したよ」ジョーはもうひとつの窓のほうに首を傾けた。「岩石群の扱いは、おれたちがやるよりよっぽどうまい。どうしてそんなに計算が速いんだ? そっちには愚……」
急に口ごもった。やはりまだいろいろ秘密があるのだろう。しかしそれらは、エマージェントが考えているより早くあきらかにされるかもしれない。
ジョー・シンの言葉が途切《とぎ》れたすぐあとを、ナウが引き継いで話しだした。「たしかに優秀だ、エズル。きみたちがこの計画にあれほど反対した理由がわかったよ。完璧主義すぎるんだ」オンオフ星を映した窓を見やった。「さあ、もうすぐ歴史的瞬間だぞ」
エズルたちのまわりや下では、エマージェントのグループとチェンホーのグループができている。しかし議論はあらゆるところでかわされていた。遠くの壁の窓には、岩石群ののっぺりとした表面を見おろす映像がうつされている。ジミー・ディエムの作業班は氷の山の上に銀色の断熱テントを広げていた。ナウがいぶかしげな顔をした。
「氷と空気雪をおおっているんですよ」エズルはいった。「先端のあたりにはオンオフ星の光があたってしまいますからね。ああやって覆いをしておけば、沸騰《ふっとう》するのを防げるはずです」
「なるほど」ナウはうなずいた。
岩の表面には十人以上の人影が散らばっている。命綱をしている者もいれば、していない者もいる。岩の表面では、重力は無にひとしい。彼らは子どもの頃から宇宙空間での作業に親しんできた者の強みで――そしてチェンホーがもつ千年におよぶ経験の蓄積も利して――命綱を氷の山のむこうへ軽々とふりあげていた。
エズルはその人影に目を凝《こ》らし、どれがだれかを見わけようとした。しかし全員が気密スーツの上に耐熱ジャケットを重ね着しているので、暗い風景の上で躍る彼らの姿はみんなおなじに見えた。エズルは、逆襲計画の詳細は知らなかったが、ジミーからいくつかの用事を頼まれたので、そこからある程度の推測はしていた。これほどの好機は二度とないだろう。ブリスゴーギャップ号に積まれていた電子ジェットを使える立場になったし、居住棟の外へ、しかもエマージェントの監視者の目のとどかないところへほぼ無制限に行ける。さらに再発火の直後にはある程度の混乱も予想される――チェンホーは位置維持任務を担当しているので、ジミーたち決起隊にとってその混乱が有利に働くよう操作することも可能だ。
〈〈でもぼくは、トマス・ナウといっしょにここに立っていることしかできない……うまく演技するしかないんだ〉〉
エズルは領督のほうに笑顔をむけた。
キウィ・リゾレットは怒り狂ってエアロックから飛び出してきた。
「ちくしょう、ちくしょう! ばか野郎――」
際限なく悪態をつきながら、耐熱ジャケットの上下を脱ぎ捨てた。頭の片隅では、これからはゴンレ・フォンともっと親しくしてみようと思っていた。そうすれば、こういう最悪のときを表現できる薄汚れた罵《ののし》り言葉をもっと覚えられるはずだ。耐熱ジャケットをロッカーに投げこむと、気密スーツとフードは脱ぎもせずに、中央トンネルに飛びこんでいった。
〈〈まったく、どうしてこんな仕打ちを受けなくちゃいけないの! わたしがやるはずだった仕事をジミー・ディエムにとりあげられて、あげくに屋内に放りこまれて、それでばかみたいな顔して眺めてうっていうの?〉〉
ファム・トリンリは、作業班が氷山の上にかぶせようとしている断熱テントの、三十メートル上に浮いていた。ファムは位置維持任務のおもてむきの指揮官だったが、ここから怒鳴るのはいわずもがなの注意だけにとどめていた。作戦の実質を仕切っているのはジミー・ディエムだ。さらに驚いたことに、あのちびのキウィ・リゾレットは電子ジェットを設置すべき場所を正確に計算し、位置維持プログラムもうまくはしらせていた。すべてあの娘のいうとおりにしていたら、再発火をなにこともなくやりすごしてしまったかもしれない。
それでは困るのだ。
ファム・トリンリは逆襲計画≠ノ参加していた。とはいえそこでの地位はきわめて低く、計画の根幹部分にかかわらせてもらえるほど信頼されてはいない。ファムにとってはそれでよかった。
身体《からだ》をひねって、月くらいの輝きのオンオフ星に背中をむけ、岩石群が頭上にくるようにした。岩と岩のあいだの陰のところには、こまかいものがさらにごちゃごちゃと寄り集まっている。係留された船艇や、仮設舎や、揮発物の精製所だ。まもなく空を灼《や》くほど強烈になるはずの光から、身を隠しているのだ。
居住棟のひとつであるハマーフェスト棟は、もともと地上に設置することを前提にした設計だ。まわりのごちゃごちゃとした補機類がなければ、ある種の風変わりな美しさが感じられただろう。チェンホーの仮設舎は、地上につながれた大きな風船のようだ。そのなかには目覚めているチェンホー全員と、エマージェントの大部分がいるはずだ。
居住棟のむこうには、第一ダイヤモンド塊のむこうになかば隠されるようにして、ラムスクープ船群が係留されている。苦々《にがにが》しい眺めだった。星間船をこんなふうに接近させて、しかも岩塊がゆるく集まったような場所に係留するなど、いったいエマージェントはどういう神経をしているのか。記憶の底から浮かびあがってきたのは、交尾するように身を寄せあったまま死んで腐っていく鯨《くじら》の群れの光景だった。これは船着き場の眺めではない。ごみ捨て場だ。エマージェントは武力衝突の代償として高い値段を敗者に払わせたわけだ。
サミーの旗艦が破壊されたあと、ファムは小破したタクシー船のなかにとじこめられてまる一日漂流していた――しかしそのあいだずっと、残された戦闘用自律機能系に接続していた。ナウ領督は、その戦闘をだれが指揮していたかつきとめられなかったようだ。もしつきとめたのなら、ファムは即座に殺されたか、すくなくともほかの戦闘員とおなじくファートレジャー号のなかで冷凍睡眠|棺《ひつぎ》に放りこまれていただろう。
不意打ちを受けたとはいえ、チェンホーはあと一歩で勝てるところだった。
〈〈エマージェントがばらまいた精神腐敗病にやられなかったら、こっちの勝ちだったはずだ〉〉
慎重さを覚えるにはいい教訓だった。戦いのつけは重く、両船団は心中に近い状態に追いこまれた。ラムスクープ航行がまだ可能な船はおそらく二隻しか残っていないだろう。ほかの廃船から部品をとれば、あと二隻くらいは修理できるかもしれない。しかし揮発物精製所の稼働状態を見るかぎり、一隻をラム航行速度まで加速するのに必要な水素を得るのさえ、ずいぶん長い時間がかかりそうだった。
再発火まで五百秒を切った。ファムはゆっくりと頭上の岩石群のほうへ泳いでいき、まもなくごみ捨て場は断熱テントにさえぎられて見えなくなった。岩石群の表面では仲間たちが――キウィは屋内に帰されたので、ディエムとドゥとパティルの三人だ――電子ジェット推進器群の最終チェックをしていることになっていた。作業班用の通信チャンネルからはジミー・ディエムの声が聞こえている。しかしこれは録音だった。ジミーたちはテントに隠れて岩石群の反対側へこっそり移動しているはずだ。いまは三人とも武装している。チェンホー仕様の電子ジェットは、いじればいろいろな使い方ができるのだ。
とにかく、ファム・トリンリはあとに残された。もちろんジミーは最初から老人を中心メンバーとして使うつもりはなかったのだろう。信用はしても、計画のなかでは単純な役回りしかあたえなかった。こんなふうに、作業班がまじめに仕事をしているかのようにみせかける役目だ。ファムはジミー・ディエムの録音された声に応答しているふりをしながら、ハマーフェスト棟や仮設舎から姿が見え隠れするはずのあたりを移動した。
再発火まであと三百秒。ファムは断熱テントの下にはいった。ここからはぎざぎざの氷の山や慎重に固定された空気雪が見える。影のなかで、これらの山の裾野《すその》はテントの外までつづき、最後はダイヤモンドの山にぶつかって途切れていた。
ダイヤモンドの山。ファム・トリンリが子どもの頃、ダイヤモンドといえば究極の富だった。
宝石品質のほんの一グラムのダイヤモンドが、王子を一人暗殺する代金になった。しかし平均的なチェンホーにとっては、ダイヤモンドはたんなる炭素の同素体であり、トン単位で生産できる安価な素材だった。
しかしさしものチェンホーも、この巨大な塊《かたまり》には圧倒された。こんな小惑星は理論だけの存在と考えられていたからだ。これらの岩は、さすがに一個の宝石というわけではないが、たしかに巨大な結晶構造をもっている。大むかしに爆発した巨大ガス惑星の中心核だろうか。オンオフ星系の謎のひとつだ。
ファムは、岩石群での作業がはじまったときからその地形を詳しく観察していたが、その目的はキウィ・リゾレットとはちがっていたし、ジミー・ディエムともちがっていた。第一ダイヤモンド塊と第二ダイヤモンド塊のあいだにはすきまがあり、氷と空気雪はそこに詰めこまれている。そんなことはキウィもジミーも知っているが、それは岩石群の維持管理に関係することがらとしてだけだ。しかしファム・トリンリにとってそのすぎまは……すこし雪を掘るだけで、どの船からも居住棟からも見られることなく、こちらの作業現場からハマーフェスト棟へ行ける抜け道になるのだ。ジミーには教えていなかった。逆襲計画では、ファートレジャー号を奪取《だっしゅ》したあとにハマーフェスト棟を制圧することになっているのだ。
ファムはV字形の断面になったすきまを這って、エマージェントの居住棟へすこしずつ近づいていった。ジミーたちが知ったら驚くだろうが、ファム・トリンリは宇宙生まれではない。このようなところをよじ登っているときは、顧客文明の地上生まれの人間とおなじような目眩《めまい》に襲われるのだ。本能的な想像に身をまかせると……いまは狭い溝を匍匐《ほふく》前進しているのではなく、断崖《だんがい》絶壁の細い亀裂のなかで手足をふんばり、ロッククライミングしているのだ。絶壁はしだいに反対にそっていくので、そのうち墜落してしまうにちがいない……。
ファムはつかのま動きを止め、その場にしがみついた。アイゼンやロープはないのか、まわりの壁にしっかりと打ちこまれたハーケンはどうしたと、身体が震えながら叫んでいる。
〈〈くそ〉〉
地上生まれの目眩がこれほど強烈に甦《よみがえ》ってきたのはひさしぶりだ。ファムはまた前進しはじめた。あくまで前進だ。上へ登っているのではない。
腕を動かした回数からすると、そろそろハマーフェスト棟の通信アンテナのある側に近づいたはずだ。飛び出したら、カメラに姿をとらえられる危険が非常に大きい。もちろんいまは、人間もプログラムもそんな映像を真剣に監視してはいないだろう。それでもファムは姿を隠しつづけた。必要なら接近できるが、いまはのぞき見したいだけだ。足を氷に、背中をダイヤモンドの壁につけてすきまに寝そべり、小さなアンテナを繰り出した。
武力衝突以後、エマージェントは笑顔の暴君としてふるまっているが、ひとつだけ物騒な脅《おど》し文句とともに禁じたのが、承認のない周辺機器の所持だった。もちろん、ジミーと逆襲計画の中核メンバーはチェンホー仕様のヘッドアップディスプレーをもっているし、船団内ネットでは裏暗号を使っていた。逆襲計画のほとんどはエマージェントの目と鼻の先で話しあわれたのだ。一部の通信は自律機能系さえ通さなかった。若者たちのほとんどは、むかしのいわゆるトン・ツー≠フ一種である点滅信号に通じていて、それを使った。
逆襲計画のなかで補助的なメンバーにすぎないファム・トリンリがそうした秘密を知っているのは、彼自身がこれら禁断の電子技術にたけているからだ。この小さな巻き取り式アンテナ線は、平時《へいじ》でもよからぬ目的で使われる小道具だった。
繰り出した細い線は、このあたりで光を反射するものにまぎれればほとんど見えなくなるはずだ。先端には電磁波スペクトルを嗅ぎとる小さなセンサーがついている。最大の目標は、チェンホーの仮設舎から見通し位置にあるハマーフェスト棟の通信アンテナだ。ファムは釣り糸を新たな位置に投げ入れようとする釣り人のように、慎重に腕をのばしていった。細い線はほどよく硬く、この微小重力環境ではとても都合がいい。
〈〈よし〉〉
ハマーフェスト棟と仮設舎のあいだの通信ビームを、センサーがつかまえた。ファムは指向性素子をすきまのふちにそっとあげ、チェンホーの仮設舎の使われていない通信ポートにむけた。そこから船団内ネットにじかにはいれるし、エマージェント側のネットワークにもうけられた防壁もすべて突破できる。ナウとその配下の連中が恐れているのはまさにこのような行為であり、だからこそ試みる者は死刑だと脅したのだ。ジミー・ディエムは賢明にもその危険を冒さなかった。ファム・トリンリになぜできるかというと、チェンホーの装置に埋めこまれたきわめて古い[#「きわめて古い」に傍点]隠し機能を知っているという、ちょっとした有利な事情があるからだ……。それでも、ジミー以下の決起隊が今回の計画にこれほどいれこんでいなかったら、あえてやりはしなかっただろう。
やはりジミー・ディエムにはっきりと忠告すべきだったかもしれない。このエマージェントという連中についてはわからないことが多すぎる。なぜ彼らの自律機能系はあんなに優秀なのか。武力衝突のさいの銃撃戦では、敵は高度な戦略性においてはあきらかに劣っていたのに、射撃の命中精度はファム・トリンリがこれまでに戦ったどんなシステムより高かったのだ。
角《かど》を曲がる寸前に感じるような、いやな予感がした。決起隊の連中は、これがエマージェントを倒す最高かつ最後のチャンスと考えているようだ。そうかもしれない。しかしどうも条件が整いすぎて、話がうますぎないか。
〈〈だから慎重にも慎重を期すんだ〉〉
ファムはフード内の表示窓を見た。仮設舎へ送信されている遠隔測定データと映像の一部を傍受できた。解読できるものもある。エマージェントのばかどもは、見通し通信をすこしばかり信頼しすぎなのではないか。そろそろ本格的なのぞき見をはじめてみよう。
「再発火まであと五十秒」
単調なカウントダウンの声が、二百秒前からつづいていた。大ホールではほとんどの者が黙って表示窓に視線を釘づけにされていた。
「あと四十秒」
エズルはホールのなかをさっと見まわした。飛行技術者のジョー・シンはいくつもの表示に目をはしらせている。緊張が高まっているようすだ。トマス・ナウはオンオフ星の表面を低高度軌道からとらえた映像に見いっている。真剣なのは、恐怖や疑念からではなく、むしろ好奇心からのようだった。
キウィ・リゾレットは断熱テントとジミー・ディエムの作業班を映した窓をにらみつけている。険《けわ》しいしかめ面《づら》は、ホールに飛びこんできたときからずっとおなじだ。なにがあったのかは、エズルには容易に想像できたが……これでよかったのだと思った。ジミーはなにも知らない十四歳の娘を、逆襲計画のカムフラージュとして利用した。しかし完全な冷血漢ではなく、最後の瞬間には彼女を安全地帯へ追い出したのだ。
〈〈でもキウィは、たとえ真実を知ったあとでも、ジミーを許さないだろうな〉〉
「十秒後に波面《はめん》がおもてに到達します」
小型衛星からの映像には、いまだに[#「いまだに」に傍点]変化はない。流れていく雲のあいだからかすかな赤い輝きが洩れているだけだ。このオールドフェイスフル≠ヘ、宇宙的な規模で彼らをからかっているのか、それともこれこそが変化のまえぶれなのか。
「再発火」
全球画面で、円盤のどまんなかにまばゆい光の点があらわれ、二秒とたたずに円盤全体に広がった。その途中で、低高度軌道からの映像は消失した。光はどんどん明るくなった。さらに明るくなる。大ホールからは低い驚嘆の声があがった。反対の壁に人々の影ができるほど明るくなったところで、壁紙は出力を絞った。
「再発火から五秒経過」これは機械音声のようだ。
「ここで受ける熱量は、一平方メートルあたり七キロワット」こちらはべつの技術者の声で、抑揚《よくよう》のないトライランド人のアクセントがある。
〈〈エマージェントではない?〉〉エズルの頭をその疑問がさっと横切ったが、すぐにさまざまな動きのなかでのみこまれていった。
「再発火から十秒経過」
大ホールの横のほうには小さめの窓があり、蜘蛛《くも》族世界が映し出されていた。さきほどまではいつものように暗く陰っていたのだが、いまは輝きがもどってきていた。標準太陽の五倍の明るさになったオンオフ星の光によって、氷と大気が目覚め、惑星の円盤そのものが輝きを放っている。そしてさらに明るくなっていく。
「一平方メートルあたり二十キロワット」
甦った太陽の映像の下に棒グラフが表示され、その出力を過去の記録と比較している。今回の再発火はかなり強力なほうらしい。
「中性子|束《そく》はまだ検出限界以下です」
ナウとエズルは、このときだけはおたがいに心から安堵した視線をかわした。恒星間の距離をへだてた観測では、この危険についてだけは知りえなかったのだ。過去の通過型無人探査機も、再発火の瞬間にうまくタイミングをあわせることはできなかった。すくなくともこれで、遠くからは見ることのできない放射線で焼かれる心配はなくなったわけだ。
「再発火から三十秒経過」
「一平方メートルあたり五十キロワット」
外のようすを見ると、驚いたことに、太陽の光をさえぎっているはずの岩石群が輝きはじめていた。
ファム・トリンリは一般用音声チャンネルも聞いていたが、それがなくても太陽が再発火したのはすぐにわかった。しかしいまそのことは頭の片隅にとどめて、ハマーフェスト棟の秘密回線のようすに全神経を集中させていた。技術者が外部要因に気をとられ、安全管理がおろそかになるのは、まさにこのような瞬間なのだ。ジミーたちが予定どおりに進んでいるのなら、いま頃ファートレジャー号の係留地点に到着しているはずだ。
フードの視野のほとんどを占めるようになった半ダースほどの表示窓に、さっと目をはしらせた。船団内ネットに埋めこんだプログラムは遠隔測定データをうまく横取りしてくれている。ふむ。やはり古い裏口は便利だ。エマージェントはちょうどいま、大量の演算能力を必要としていて、チェンホーの自律機能系の利用比率をどんどんあげている。それにしたがって、ファムののぞき見は効率がよくなっていた。
信号がふいに弱まってきた。受信位置がずれたのだろうか。いくつかの表示窓を消して、あたりを見まわした。オンオフ星は山のむこう側だが、じかに光を浴びている山の頂上がまばゆく輝いている。氷や空気雪が露出しているところからは蒸気が流れ出ていた。ジミーたちが設置した銀色の断熱テントはまだしっかり張られているが、布地がゆっくりと揺れてはためいている。空はかすかに青みがかって見えた。何千トンもの水や空気が沸騰して霧となり、この岩石群を彗星とおなじ状態に変えているのだ。
そのせいでハマーフェスト棟との接続状態が悪くなっているのか。ファムはアンテナをすこし動かした。しかし、つながらなくなったのは霧だけのせいではないはずだ。なにかが変化している。よし。ハマーフェスト棟の通信がまた拾えるようになった。解読システムもすぐに同期を回復し、もとの状態にもどった。しかしファムはまわりの嵐にも目をむけはじめていた。甦った太陽がもたらす影響は予想以上に大きいようだ。
ネットワークを探るファムのプログラムは、すでにハマーフェスト棟に侵入していた。すべてのプログラムが異常な状態で動いていた。設計者がとても責任をもてないと考えるような情況だ。そしてこのような極限状態のつねで、いくつかの抜け道がひらいていた……。
奇妙だ。システム中枢に何十人ものユーザーがログインしているような感触があるのだ。エマージェントのシステムにはファムが認識できないかなり大きな階層がふくまれていて、それは共通の基盤に構築されたものではないようだった。しかしエマージェントは、チェンホーのネット放送を聞いてハイテク技術をとりもどしたふつうの顧客文明ではなかったのか。どうも不可解なところが多すぎる。
ファムは音声の流れを聞いてみた。エマージェントの固有語は聞きとれるのだが、短縮形や特殊用語が多かった。「……ディエム……岩をまわって……予定どおり……」
〈〈予定どおり?〉〉
ファムは関連データを調べてみた。するとそこには、ジミーの決起隊が携行しているまさにその武器の絵があるではないか。さらにファートレジャー号への侵入経路として使おうとしている入り口の図。名前のリストは……決起隊のメンバー一覧だ。ファム・トリンリの名前も、重要度の低い協力者として記載されている。さらに表がある。ジミー・ディエムが使っている裏暗号だ! 最初のバージョンはあまり正確ではなかったが、あとのファイルはジミーたちが使っている暗号をぴたりと読み取っていた。決起隊のたくらみは筒抜けになっていたらしい。
内通者がいるわけではなく、機械の目によって細部まで見抜かれていたのだ。
ファムはアンテナを引きおろして岩の縁に近づいた。顔を出し、ハマーフェスト棟のせりだして下向きになった屋根の部分に、指向性ビームをむけた。ちょうどいい角度だ。ビームを反射させて、ファートレジャー号の係留地点に送れる。
「ジミー、ジミー!聞こえるか?」
チェンホー専用暗号をかけてはいるが、敵が聞いたら、発信位置も受信位置もすぐに割り出されてしまうはずだ。
ジミー・ディエムの希望は、船員長として実績を残して管理職に昇進することであり、そうしたらツフ・ドゥと結婚するつもりだった。その頃にはオンオフ星への遠征も利益を生みはじめているだろうし、すべて都合がよかった。もちろんそれはエマージェント船団がやってくるまえであり、武力衝突のまえの話だ。
いまはどうか。いまは決起隊の隊長であり、とてつもない危険をともなうこれからの数分間にすべてを賭けている。やっと行動のときがきたといううれしさはあったが……。
四十秒に充《み》たない時間で四千メートルもの距離を、岩石群の太陽側をぐるりとまわって移動してこなくてはならなかった。太陽が火を噴いているときでなくても、また銀色の金属箔で全身をおおっていなくても、無重力空間でザイルを使ってそんな短時間にそれだけの距離を移動するのは、たいへんなことだ。ファム・パティルは命が危なかった。ハイペースでのザイル懸垂《けんすい》移動は、次にハーケンを打ちこむ位置の目星《めぼし》がついていることと、ザイルにつかまって岩石表面すれすれを吹っ飛んでいくときにそのハーケンがどれくらいの力に耐えられるかが重要だ。しかし岩石群全体の調査は、位置維持用の電子ジェットを設置するために一度すべてやっていたので、ハーケンの打ちこみ位置を確認してまわるための口実はつくれなかった。打ちこまれたハーケンが抜けたとたん、パティルは半G近い加速度で外へ振り出された。ツフとジミーがしっかりと身体を固定していなかったら、彼はそのまま永遠に宇宙を漂うはめになっただろう。そして影側へまわりこむのがあと数秒遅かったら、まにあわせの耐熱装備など強烈な直射日光に簡単につらぬかれて、みんな丸焼けになっていたはずだ。
〈〈しかし、なんとか成功したんだ!〉〉
敵が警戒しているのとは反対の方角から星間船に近づくことができた。人々が太陽に注目し、まばゆさに目がくらんでいるすきに、予定の場所に到達できた。
三人はファートレジャー号の係留地点のすこし手前で身をひそめた。頭上六百メートルのところにある船は、あまりに巨大なために、燃焼管の一部と前部一次タンク群しか見えない。しかし慎重に情報収集した結果では、チェンホーの船のなかでこれがいちばん損傷が少ないようなのだ。船内には装備と――これがいちばん重要なのだが――仲間たちが眠っている。そのふたつをとりもどせるのだ。
ここは影のなかだが、岩石群のまわりにはかなり高いところまでガスが発生しており、それが反射する光でうっすら明るかった。ジミーたちは銀色の金属箔と耐熱服を脱ぎ捨てた。気密スーツとフードだけになると、急に寒くなった。装備品や即席の銃を運びながら、それが空の光を反射しないように注意しつつ、もの陰づたいに移動していった。
〈〈まさか、これ以上明るくはならないだろうな〉〉
しかし時間表示によると、再発火からまだ百秒もたっていない。最大の明るさになるのはさらに百秒後くらいのはずだ。
三人は係留用の杭《くい》のそばまでいった。ファートレジャー号の巨大な燃焼管の吸入口が迫ってくる。ラムスクープ船のような大型船に忍びこもうというときには、こちらの動きのせいで船が揺れる心配がほとんどないので、その点は都合がいい。船内には維持管理要員が乗っているはずだが、こんな宇宙的大変動のまっさいちゅうに武器をもった客がやってくるとは、予想もしていないだろう。危険は重々承知しているが、それはしかたない。しかし船を奪えば、残されているなかで最良の部類に属する装備と、本物の武器と、そして生き残ったチェンホーの戦闘員がこちらのものになるのだ。悪夢のようないまの情況に終止符を打てる。
そのとき、ふと気づいて驚いた。ダイヤモンドの岩の表面から太陽光が洩れ出してきているのだ。
ジミーは仰天《ぎょうてん》してしばらくそのようすを凝視した。山のかなり高いところにいるとはいえ、オンオフ星の直射日光があたっている面からここまでには、すくなくとも三百メートルの厚みのダイヤモンドの岩盤があるはずだ。しかしそれでも障壁としてはまだたりないらしい。無数のひび割れから侵入したオンオフ星の光は、内部で反射し、減衰《げんすい》し、散乱し、回折《かいせつ》しながら、一部がこちら側へ通過してきているのだ。その光は虹色で、まるで岩の表面のあちこちからごく小さな丸い太陽が顔をのぞかせ、輝いているように見えた。しかもその光は刻一刻と強くなっていき、ついには山の内部構造が透《す》けて見えるほどになった。ひび割れや、結晶構造が一定方向の面にそって割れる劈開《へきかい》が、ダイヤモンドの何百メートルも奥までつづいているのが見える。光はなおも強くなっていった。
〈〈闇のなかでいつまでもぐずぐずしてはいられない〉〉
ジミーは幻想的な光景から目を引き離し、地面を蹴って船のほうへ泳いでいった。下から見るとハッチはラムスクープ船の吸入口のふちにある小さな織のようだったが、近づくにつれて大きくなり、ついに頭上いっぱいに広がった。ツフとファム・パティルに手で合図して、ハッチの両側に待機させた。エマージェントはもちろんハッチの開閉プログラムを改変しているが、仮設舎でもそうであるように、物理的な機構はそのままだ。暗証コードはツフがあらかじめ双眼鏡で盗み見てわかっているし、彼らの手袋は正しい鍵として認証されるはずだ。船内に警備員は何人いるのだろうか。
〈〈倒せるはずだ。だいじょうぶだ〉〉
ハッチの操作パネルから入力しようと手をのばした。そのとき――
だれかが通信でこちらを呼び出している。
「ジミー、ジミー! 聞こえるか?」
かすかな音声だ。情報表示によると、ハマーフェスト棟の屋根から飛んできている通信レーザーを解読したものらしい。しかし声は、ファム・トリンリのものだった。
ジミーは凍りつき、二つのケースを考えた。最悪なのは、敵がトリンリを利用してこちらをからかっている場合。最良なのは、ジミーたちがファートレジャー号を狙っていることをファム・トリンリが察して、想像を絶するほどよけいなことをしでかしているという場合だ。
〈〈あのばかのやることなんか無視するんだ。生きて帰ったら袋叩きにしてやる〉〉
ジミーはハマーフェスト棟の上の空をちらりと見た。かすかな空気がオンオフ星の光を浴びて青紫色に輝きながら、ゆっくりと渦巻いている。レーザー通信を宇宙空間で傍受するのはきわめて困難なのだが、ここはもうふつうの宇宙空間ではない。彗星の表面にいるのとおなじなのだ。エマージェントがその気になれば、トリンリが発射している通信レーザーは、おそらく目で見える[#「目で見える」に傍点]だろう。
ジミーは返答を一ミリ秒に圧縮して、相手のレーザーの方向へ発射した。「ばか野郎、消せ! 早く!」
「すぐ消す。まず、敵はこの計画を把握している。おまえの裏暗号を解読していたんだ」その声はたしかにトリンリだが、まるで別人のような印象だった。それに、トリンリは暗号のことを知らないはずだ。「これは罠だ、ジミー。しかし敵もすべてを知ってるわけじゃない。引き返せ。やつらがファートレジャー号のなかにどんな罠をしかけているにせよ、事態をさらに悪くするだけだ」
〈〈なんてことだ〉〉
つかのまジミーは身動きできなくなった。失敗して殺されるかもしれないという考えに、武力衝突からあとの日々の眠りをずっとじゃまされてきた。たいへんな危険をいくつも乗り越えて、やっとここまで来たのだ。計画が露呈《ろてい》したらという恐怖はつねにあったが、こんなかたちであきらかになるとは予想していなかった。あの老いぼれが発見したと主張しているのは、本当に重要なことなのか、それともなんでもないのか。いまここで引き返すというのは、ほとんど最悪の結果を意味する。
〈〈もう遅すぎるんだ〉〉
ジミーは意を決して口をひらき、唇を動かした。
「消せといっただろう!」
ファートレジャー号の船体にむきなおり、エマージェントの暗証コードをハッチに入力した。わずかな間《ま》があって――観音開きのドアがひらいた。ツフとファム・パティルは頭上の暗いエアロックに飛びこんでいった。ジミーはひと呼吸おいて、ドアの外の船体に小さな装置を貼りつけ、あとにつづいた。
12
ファム・トリンリは接続を切ると、身をひるがえして岩のすきまの奥へ急いで這っていった。
〈〈おれたちは手玉にとられたわけだ〉〉
トマス・ナウはすさまじく頭が切れて、しかもなにか不思議な武器をもっているらしい。ファムはこれまで数多くの諜報活動を見てきたし、なかにはこれより小規模なものも、何世紀も時間をかけたものもあったが、ジミーの裏暗号に対するエマージェントの傍受記録ほど正確かつ詳細なものはなかった。異常なまでの精密さなのだ。ナウはとてつもなく高性能なソフトウェアを使っているのか、偏執狂的な解読チームをもっているのか。頭の奥のほうでは戦略家としてのファム・トリンリが、それはなにか、いつかそれをうち負かすことができるだろうかと考えはじめていた。
いまは生き延びることが先決だ。もしジミーがファートレジャー号をあきらめて引き返したら、ナウがしかけた罠は作動しないかもしれないし、すくなくともそれほど窮地《きゅうち》には立たされないかもしれない。
ファムの左側にそそり立つダイヤモンドの壁面がきらめいていた。この世で最大の宝石が、あらゆる方向に太陽の光を放っているのだ。前方にもおなじくらいまばゆい光がある。オンオフ星の光を浴びている氷の山頂が、輝く雲におおわれているのだ。銀色の断熱テントを固定するアンカーはもはや三ヵ所しか残っておらず、空高くはためいていた。
ふいにファムの両手両足が岩壁から勝手に離れた。さっと身をよじって、片手で手がかりをつかんだ。その手をつうじて、山鳴りのような振動がつたわってきた。岩のすきまから四方八方に霧が吹き出しているダイヤモンドの山が動いているのだ。毎秒一センチにも充《み》たないほどゆっくりとだが、たしかに動いている。すべての開口部から光が見えた。
頭にいれてある作業班の岩石群地図によると、第一ダイヤモンド塊と第二ダイヤモンド塊はおたがいの平らな面で接している。それにそってできる谷は、アラクナ星から引きあげた氷や雪の固定場所として都合がいいとエマージェントの技術者は考え、そうしていた。とても理にかなっているが……モデル計算が不充分だったようだ。揮発物の一部は二つの山のあいだにはいりこんでおり、二つのダイヤモンド塊のあいだで何度も反射した光の一部がその雪と氷にあたっている。それが沸騰《ふっとう》することによって、第一ダイヤモンド塊と第二ダイヤモンド塊が離れはじめているのだ。
何百メートルも厚みのある遮光板だったはずのものが、いまや何百万枚ものぎざぎざに割れた鏡と化している。そこを通過してくる光は、まさに地獄から発する虹だった。
「一平方メートルあたり百四十五キロワットです」
「これが極大です」だれかがいった。
オンオフ星は標準太陽の百倍以上の明るさで輝いている。過去の再発火とおなじ曲線をたどっているが、明るさはかなり強いほうだ。この明るさが十キロ秒ほどつづいたあと、急激に落ちこんで標準太陽の二倍強になり、それから何年かはその状態にとどまるはずだ。
勝利の叫びはあがっていなかった。仮設舎に集まった人々は数百秒前からほとんど押し黙っていた。キウィも、はじめは屋内に放りこまれたことで腹がたってしかたないようすだったが、やがて黙りこみ、銀色の断熱テントの固定アンカーが次から次にはずれていくようすを見つめた。氷の山の一部には直射日光があたりはじめている。
「絶対もたないって、ジミーにいったのに」
その声にはもう怒りの響きはなかった。光のショーとしては美しかったが、被害は予想をはるかに超えていた。放出されるガスの帯があらゆる方向に流れている。ちっぽけな電子ジェットで抑えこむのはとうてい無理だ。岩石群の揺動《ようどう》は何メガ秒もつづきそうだった。
そして再発火から四百秒後、断熱テントがついに吹き飛んだ。ゆっくりと舞いあがり、青紫色の空のなかでねじれていく。その下に避難しているはずの作業班の姿は、ない。心配そうなつぶやき声が広がった。
ナウが袖口《そでぐち》でなにか操作し、ふいにその声が大ホールじゅうに響いた。「心配はいらない。断熱テントがはずれそうなことは数百秒前からわかっていたはずだ。影のなかに移動する時間は充分にある」
キウィはうなずいたが、小声でエズルにいった。「ふり落とされていなければね。そもそもどうしてあんなところにとどまってるの?」
岩石群からふり落とされて直射日光のなかに漂っていったら……たとえ耐熱ジャケットを着ていても、全員焼け死んでしまうだろう。
手のなかにキウィの小さな手がすべりこんでくるのを、エズルは感じた。
〈〈やっぱりこの小娘は、自分がどういう役割をやらされたか気づいていないんだな〉〉
しかしすぐに、やさしくその手を握り返してやった。キウィは最大の作業場所だったところをじっと見つめている。
「わたしもあそこにいるはずだったのよ」
屋内に帰ってきてからずっといっている台詞《せりふ》だが、はじめとは正反対の口調になっていた。
ふいに、居住棟の外を眺める映像がいっせいに揺らいだ。まるですべてのカメラにいっぺんに衝撃がはしったようだ。第二ダイヤモンド塊の表面から洩れ出ていた光が、明瞭なぎざぎざの線に変わった。そして、音が聞こえはじめた。なにかのうなりが、かん高くなったり低くなったりしながら、しだいに大きくなっていく。
「領督《りょうとく》!」だれかが切迫した大声でいった。ロボットのようなエマージェント技術者の声ではない。「第二ダイヤモンド塊が動いて、離れはじめています――」
目で見てもわかる。山全体が傾いているのだ。何兆トンもの塊《かたまり》がずれはじめているのだ。大ホールに響いている低いうなりは、仮設舎を岩の地面に固定している編みケーブルがねじれている音にちがいない。
「こちらへはむかってきていません」
エズルにもそれはわかった。巨大な塊はゆっくりゆっくり動いているが、その揺動方向は仮設舎やハマーフェスト棟や係留《けいりゅう》された星間船のほうにはむいていない。屋外の眺めもゆっくりと回転しているが、いまは方向が反転している。大ホールにいる人々は、どこかつかまる場所を求めて移動していた。
ハマーフェスト棟は第一ダイヤモンド塊に固定されている。この巨大な塊はまだ落ち着いているようだ。すこし離れた星間船はどうか……。ダイヤモンド塊の巨大さにくらべるとちっぽけだが、どれもが全長六百メートル以上、質量百万トンの、燃料を抜かれた船だ。それらは係留地点を中心にゆっくりと揺れていた。まるで巨獣のダンスのようだが、このままつづいたら完全に破壊されるだろう。
「領督!」ブルーゲルがいった。「ディエム船員長から音声による通信がはいっています」
「つなげ!」
エアロックから上は暗かった。照明はつかないし、空気もない。ジミーたちは上へ伸びるトンネルを泳いでいった。フードにとりつけられたヘッドランプをあちこちにむけて、トンネルのむこうの、がらんとした空間をのぞきこんだ。区画は仕切り壁がなくなり、五十メートルもむこうまでぶち抜きになっている。これは損傷をまぬがれた船のはずではなかったのか。ジミーは腹の底が冷たくなってくるのを感じた。敵は戦闘が終わってから乗りこんできて、内部を破壊し、外側だけを残したのだ。
うしろでツフがいった。「ジミー、船が動いてるわ」
「そうだ。ここで壁にじかにふれてるんだけど、係留地点を中心に船全体がねじれるような動きをしているようだ」パティルもいった。
ジミーは誘導ケーブルにつかまったまま、壁にフードを押しあててみた。たしかにそうだ。空気があったら、きっとばりばりという破壊音が響いていただろう。どうやら再発火によって予想を超える岩の揺動が起きているらしい。これを知ったのが昨日なら、もっとぞっとしただろうが……。
「いまはどうでもいい、ツフ。行こう」
ドゥとパティルをせかして誘導ケーブルを昇っていった。どうやらファム・トリンリのいうとおり、この逆襲計画に勝機はなさそうだ。しかしエマージェントが自分たちになにをしたのかという謎は解きあかせるはずだ。そしてうまくすれば、その真実を仲間に伝えられるかもしれない。
内部のエアロックはことごとく破壊され、どの区画も気密が抜けていた。かつて修理ベイや工作室だったところを通り抜け、ラムスクープエンジンの始動注入装置がおさまっていたはずの深い穴をのぞきこんだ。
ファートレジャー号最後尾の遮蔽壁でかこまれた中心部には、病室区画があった。冷凍睡眠タンクはここにおさめられていたはずだが……。ジミーたちは遮蔽壁にそって移動していった。壁にさわると船体のきしみが聞こえ、ゆっくりとした揺動が感じられる。係留索を短くしてつながれた星間船どうしは、いまのところは衝突していない。しかし安心はできなかった。船はきわめて大きく、重いのだ。ぶつかったら、たとえ毎秒数センチの速度でも船体はたがいにめりこみ、すくなからぬ衝撃があるだろう。
病室区画の入り口に達した。生き残った戦闘員を眠らせていると、エマージェントが主張している場所だ。
ここも空《から》っぽなのか。それも嘘なのか。
ジミーはドアからなかへはいった。三人のヘッドランプが部屋のなかでひらめく。
ツフ・ドゥが悲鳴をあげた。
空っぽではなかった。死体がある。光を動かすと、そこにも、ここにも……。冷凍睡眠用の棺《ひつぎ》はなくなっているが、部屋のなかは……死体で埋めつくされていた。ジミーはヘッドランプをフードからはずして、壁のなにもないところに貼りつけた。それでも三人の影は不規則に動くが、全体はよく見えるようになった。
「み……みんな死んでるのか?」ファム・パティルの声は呆然《ぼうぜん》としている。問いではなく、たんなる恐怖の表現だ。
ジミーは死体の列のあいだを移動していった。何百という数の死体だが、数人ずつきれいに積み重ねられている。見覚えのある戦闘員がいた。キウィの母親だ。急激な減圧による損傷のある遺体はごくわずかだった。
〈〈ほかの人々はいつまで生きていたんだろう〉〉
穏やかな表情の遺体もあるが、なかには……。ジミーはぎょっとして動きを止めた。ある遺体のかっと見ひらかれた目ににらみつけられたような気がしたからだ。その顔はやつれ、額には凍結した傷の跡《あと》がある。この男は武力衝突のあともしばらく生きていたのだろう。さらにべつの見覚えのある遺体をみつけた。
恐ろしい光景の上を影が横切り、うしろからツフが近づいてきたのがわかった。「それはトライランド人ね?」
「そうだ。地質学者の一人だと思う」
ハマーフェスト棟で拘束されていると聞かされていた学術員の一人だ。ジミーは壁に貼りつけたランプのほうへもどった。いったい何人分だろう。積み重ねられた遺体の列は、かつて壁があったところのむこうの闇までつづいていた。
〈〈一人残らず殺したのか?〉〉ジミーの喉に吐き気がこみあげてきた。
パティルはさきほど呆然とした問いを洩らしたきり、凍りついたようになって漂っている。しかしツフの身体《からだ》は小刻みに震えはじめ、声も脱力したようすからくすくす笑っているように聞こえてきた。
「人質《ひとじち》にしては数が多すぎると思ってたのよ。でもじつは、みんな死体になってたのね」かん高く笑った。「でもそれでかまわなかったのよね。わたしたちは信じこんだし、やつらにとってはそれで都合よくことが運んだんだから」
「いや、そうでもないぞ」
ジミーの吐き気はふいに消えた。自分たちは罠にかかった。まもなく死ぬことになるはずだ。しかしあとほんのすこし生きていられれば、やつらの化けの皮を剥《は》がせるかもしれない。ジミーは気密スーツから音声装置をとりだし、壁のなにもないところをみつけて貼りつけた。
〈〈これも御法度《ごはっと》の周辺機器さ。所持罪は死刑だって? 好きにすればいいだろう〉〉
これを使えば、音声が船体を通じて、エアロックのわきに貼りつけた送受信機にとどく。その電波は居住棟のこちら側をむいた壁に送られる。そこに埋めこまれたプログラムがメッセージを受信し、一部はその優先指標にしたがって、チェンホーがいるところにとどけてくれるはずだ。
ジミーは話しはじめた。「チェンホーのみんな! 聞け! おれはファートレジャー号の船内にいる。この内部は徹底的な破壊を受けている。ここで眠っていると聞かされていた仲間は、じつは一人残らず殺されていた……」
エズルも仮設舎の大ホールにいるだれもが――黙って、リッツァー・ブルーゲルが回線をつなぐのを待った。そしてジミーの声が流れてきた。
「チェンホーのみんな! 聞け! おれは――」
「船員長!」トマス・ナウが割りこんだ。「だいじょうぶか? 外にはきみたちの姿が見あたらないが」
ジミーは笑った。「おれたちがファートレジャー号の船内にいるからさ」
ナウはいぶかしげな顔をした。「理解できないな。ファートレジャー号の乗組員からはなんの報告も――」
「もちろん報告はないさ」ジミーの声のむこうに、そのにやりとした顔が見えるようだとエズルは思った。「なぜなら、ファートレジャー号はチェンホーの船であり、おれたちはそれを奪い返したからだ!」
エズルの位置から見える人々の顔に、ショックとよろこびの表情が広がった。これが逆襲計画の内容だったのだ! 損傷の少ない星間船を、おそらくそこに残されているであろう武器とともに奪取する。中央の病室区画には、武力衝突を生き延びた戦闘員と上級船員がいる。
〈〈これでまたチェンホーに勝ちめが出てきたんだ!〉〉
トマス・ナウもおなじことに気づいたらしい。いぶかしげな表情が、怒りと恐怖のしかめ面《づら》に変わった。「ブルーゲル?」宙をむいたままいった。
「領督、むこうの言い分は本当のようです。通信はファートレジャー号の保守管理用チャンネルを経由しており、こちらから管理要員への呼びかけにはだれも答えません」
太陽からとどく熱量をしめす表示窓のグラフは、一平方メートルあたり百四十五キロワットをやや下まわるあたりで安定している。第一と第二ダイヤモンド塊のあいだで反射する光は、影のなかにあった雪と氷を沸騰させはじめていた。何千トンあるいは何万トンという鉱物や氷の塊が、二つの巨大なダイヤモンド塊のすきまで揺れ動いている。秒速数センチというわずかな動きだが、それら鉱物や氷の塊の一部は外に漂い出てきていた。いくら速度が遅いといっても、衝突されたら人間の建造物はひとたまりもない。
ナウはしばらくその窓を見ていたが、やがて命令するときよりも強い口調で話しだした。
「いいか、ディエム。それはうまくいかないぞ。再発火による損害はだれも想像しない規模になっていて――」
通信チャンネルのむこう側からかん高い笑い声が響いてきた。「だれも想像しないだって? そんなことはないさ。こちらは位置維持ネットワークを逆に使って、岩がすこしよけいに動くようにしてやっているんだ。不安定になっているところをさらに押してやるわけだ」
エズルにつかまったキウィの手に力がこもった。少女の目は驚きで見ひらかれている。エズルもすこしぞっとした。電子ジェットはどちらにしてもたいした位置維持効果をあげられなかっただろうが、それを逆に使うなんて……。
まわりでは、気密スーツを着ている人々がその各部を密封しはじめ、着ていない人々はあわててそれを求めて大ホールの外へ出はじめた。わずか百メートルほど離れたところに大きな鉱物の塊が浮いているのだ。ゆっくりと上昇していて、上部は直射日光を受けている。仮設舎のてっぺんをかすめていきそうだ。
「しかし、しかし――」いつもは饒舌《じょうぜつ》な領督が言葉につまった。「きみたちの仲間が死ぬかもしれないのだぞ! それに武器はすべてファートレジャー号から運び出してある。それは病院船なんだ!」
返事はなく、しばらくむこうでいい争う声が聞こえた。エズルは、飛行技術者のジョー・シンのようすに注意を惹かれた。黙ったまま、仰天《ぎょうてん》した顔つきで領督のほうを見つめている。
ジミーの声がふたたび聞こえはじめた。「くそったれ。武器システムも破壊したんだな。しかしそれはそれでもいいさ。こちらはS7を四キロ用意してるんだ。爆発物を手にいれられるとは思わなかっただろう? 電子ジェット推進器にはいろんな仕掛けがあるんだよ」
「なんてことだ」ナウは呆然としたように首をふった。
「それにこれは病院船だといったな、領督。ここには冷凍睡眠にはいった仲間の戦闘員のほかに、そっちの人間もいる。船に大砲がなくても、交渉するための人質はあるんだ」
ナウは懇願《こんがん》するような視線でエズルとキウィのほうを見た。「停戦にしよう。岩石群の揺動がおさまるまで」
「だめだ!」ジミーが叫んだ。「事態が落ち着いたとたんにおまえは手を打ってくるはずだ」
「いいか、ファートレジャー号にはおまえたちの仲間も乗っているんだぞ」
「彼らも、もしいま冷凍睡眠から目覚めたら、おれに賛成するはずだ、領督。さあ、これが最後|通牒《つうちょう》だ。こちらは病室区画内にいるおまえたちの人員二十三人と、維持管理用員五人を人質にとっている。人質交換のやり方は心得ているぞ。おまえはブルーゲルを連れてここに来い。安全で乗り心地のいいタクシー船を使っていいぞ。千秒やる」
エズルはナウを、非常に計算高いタイプだと思っていたが、早くも最初のショックから立ち直りはじめていた。憤然《ふんぜん》と顎《あご》をあげ、ジミーの声のするほうをにらみつけた。
「したがわなかったら、どうする気だ?」
「おれたちの負けだ。しかしおまえも負けるんだ。まずここにいるエマージェントを殺す。次にS7を使ってファートレジャー号の係留索を切り、ハマーフェスト棟に突っこませる」
キウィはここまでずっと目を見ひらき、青い顔で聞いていたが、ふいにわめきながらジミーの声のほうに身をのりだした。
「だめよ、だめよ! ジミー! お願いだからやめて!」
つかのま人々の注目がキウィに集まった。フードや手袋をあわてて装着する音もやみ、仮設舎の係留索がゆっくりとよじれる低いうなりだけになった。キウィの母親はファートレジャー号におり、父親はほかの精神腐敗病患者とともにハマーフェスト棟にいる。冷凍睡眠か集中化≠ゥのちがいこそあれ、生き延びたチェンホーのほとんどはそのどちらかにいるのだ。トリクシアも……。
〈〈やりすぎだよ、ジミー。落ち着いてくれ!〉〉
しかし喉もとまで出かかったその言葉を、エズルはのみこんだ。運命はジミーに託したのだ。このいちかばちかの要求にエズル・ヴィンが肝《きも》を冷やしているのだから、きっとトマス・ナウも肝を冷やしているはずだ。
ジミーはキウィの叫びを無視して、ふたたび話しだした。「あと九百七十五秒だぞ、領督。ブルーゲルといっしょにさっさとこちらへ来たほうがいいぞ」
タイムリミットまでにむこうへ着くのは、ナウが急いで仮設舎から飛び出していってもむずかしいだろう。ナウはジョーのほうをむいて、低い声で話しあいはじめた。
「ええ、むこうへ行くのは可能です。危険ですが、浮遊している物体の速度は秒速一メートル以下ですから、避けられます」
ナウはうなずいた。「では行こう。まず――」気密スーツとフードをとじたので、あとの声は聞こえなくなった。
チェンホーとエマージェントの人々は潮が退《ひ》くように二人から離れ、大ホールの出口へむかっていった。
そのとき、音声チャンネルが大きな音を響かせ、同時に切れた。大ホールのだれかが叫び声をあげ、中央の表示窓を指さした。ファートレジャー号の船腹のあたりになにかきらきら光るものがある。小さくて、かなりの速さで飛んでいく。船体の一部だ。
ナウは大ホールのドアのところで止まり、ファートレジャー号の映像を見あげた。
「システム情報によれば、ファートレジャー号船体の密閉状態が破られたようです」ブルーゲルがいった。「船尾の第十五放射状デッキで複数の爆発が起きました」
冷凍睡眠庫と病室区画のある場所だ。エズルはその場に釘づけになり、映像から目を離せなくなった。ファートレジャー号の船体のさらに二ヵ所が吹き飛び、穴のなかで光がまたたいた。再発火の嵐にくらべれば小さな変化であり、素人《しろうと》目には船はなんの損傷もないように見えるかもしれない。船体にあいた穴は直径二メートルほどにすぎないのだ。しかしS7はチェンホーがもっているなかでもっとも強力な化学爆薬であり、どうやら四キロすべてが爆発したようだ。第十五放射状デッキは四重の隔壁に守られ、最外周の船体から二十メートルも引っこんでいるのだ。内側へ伸びた爆風の勢いはラムスクープエンジンの燃焼管も押しつぶしたにちがいない。
星間船がまた一隻、廃船になったのだ。
キウィは身動きもせず、どんな慰《なぐさ》めの手も拒絶するように、大ホールのまんなかの空間に浮かんでいた。
13
それからの数キロ秒は、エズルの人生でもっとも忙しかった。ジミー・ディエムの恐ろしい失敗のことは、脳裏に押しこめたままだった。あふれださせるような余地がないのだ。人間と自然の両方がもたらした災害のあと、残されたものを回収して守ることだけで精いっぱいだった。
翌日、トマス・ナウは仮設舎とハマーフェスト棟の生存者にむかって演説した。表示窓に顔をあらわしたナウは、見るからに疲れきり、いつものよどみない話しぶりではなかった。
「諸君、おめでとう。われわれはオンオフ星観測史上二番めに強烈な再発火を生き延びた。しかもたいへんな裏切り行為が発生したにもかかわらず、やりとげたのだ」
大ホールに集まっている疲れきったエマージェントとチェンホーをのぞきこむように、ナウはカメラにむかって身をのりだした。
「これから何メガ秒かは損害の確認と再生作業がもっとも重要な仕事になるだろう……。しかしここでは正直にいっておかなくてはならない。両船団の最初の戦闘によって、チェンホー船団は大きな損害をこうむった。残念ながら、じつはおなじくらいの痛手をエマージェント側もこうむっているのだ。われわれは損害の規模を隠していた。なぜなら、予備の機器も医療設備も、アラクナ星から引きあげた資源も豊富にあったからだ。安全管理上の問題が解決されたら、専門技術をもつチェンホーの上級船員の助けも借りられるはずだった。それでも、安全マージンはぎりぎりだったのだ。昨日の事件によって、そのマージンはすべて吹き飛んだ。現在、機能を保持しているラムスクープエンジンは一基もない。廃船の使える部品を組みあわせて再生させられるかどうかも不明だ」
星間船どうしで衝突したのは二隻だけだったが、機能をもっともよく維持していたのはどうやらファートレジャー号だったらしい。しかしジミーの行動の結果、その推進機関と生命維持システムの大半は屑鉄《くずてつ》と化した。
「諸君の多くはこの数キロ秒のあいだ、揮発物の一部を命がけで回収してくれた。この部分の災害はだれの責任でもない。今回の再発火がこれほど激烈になることも、ダイヤモンド塊のあいだにはいりこんだ氷がこのような結果をもたらすことも、だれも予想できなかった。すでに耳にはいっているとは思うが、おもな氷の塊《かたまり》はほとんど回収できた。いまも浮遊しているのは三個だけだ」
この三個とさらに小さないくつかの塊を回収する作業では、ベニー・ウェンとジョー・シンが協力していた。距離はほんの三十キロほどなのだが、大きな塊は質量が十万トンにもなる。曳航《えいこう》してくるために使える機材はタクシー船何隻かと、機能の一部を失った起重船一隻しかなかった。
「オンオフ星の放射エネルギーは一平方メートルあたり二・五キロワットまでさがった。その程度の光のなかでなら船は作業できる。適切な装備をした作業員も短時間なら作業できる。しかし漂い出した空気雪は消えたし、氷もかなりの割合が失われたはずだ」
ナウは両手を広げ、ため息をついた。
「いまのわれわれは、チェンホーのネット放送から学んだ多くの歴史とおなじ事態におちいっている。戦いに明け暮れた結果、絶滅の危機に瀕《ひん》するというストーリーだ。いま手もとにある機材では、故郷に帰ることはできない――どちらの故郷に帰ることもできない。せいぜい、回収した資源でいつまで生き延びられるかを計算できるだけだ。五年か、百年か。古くからいわれている真理のとおりだ。支持基盤としての文明がなくては、孤立した船や人間の集団はその中核技術をつくりなおせないのだ」
弱々しい笑みがわずかに浮かんだ。
「しかしまだ希望はある。ある意味で、この災害によってわれわれは当初の遠征目的に注目せざるをえなくなった。もはや学術的興味でも、チェンホー流の商売でもない――われわれの生存そのものが、このアラクナ星の幼い文明にかかっているのだ。彼らは情報化時代のとば口にいる。これまでの調査結果からすると、この明期のうちにかなり強力な産業経済を獲得すると思われる。われわれがあと数十年生き延びられれば、蜘蛛《くも》族はわれわれの必要とする産業力をもつようになるだろう。われわれ二つの遠征隊は、目的を遂げられるのだ……もちろん、どちらも想像しなかった甚大《じんだい》なる人的被害のすえにだが」
ナウはつづけた。
「われわれはあと三十年、ないし五十年生き延びられるだろうか。おそらく可能だろう。資源を回収し、温存すれば。しかし本当の問題は、われわれが協力できるかどうかだ。これまでの成績はよくない。攻める立場にせよ守る立場にせよ、われわれの手は血塗られてきた。ジミー・ディエムについていまさら説明することはないだろう。その陰謀には三人以上の協力者がいた。おそらくもっといるだろう。しかし血の粛清《しゅくせい》をおこなうのは、かえってわれわれの生き延びるチャンスを減らすだけだ。だからチェンホーのなかで、たとえわずかでもあの陰謀に加担した者たちにいっておきたい。ジミー・ディエムとツフ・ドゥとファム・パティルがおこない、あるいはおこなおうとしたことをよく思い出してほしい。彼らはすべての船を破壊し、ハマーフェスト棟をつぶそうとしたのだ。そして結果的には、自分たちのもちこんだ爆発物によって死に、われわれが冷凍睡眠にいれていたチェンホーを死なせ、病室区画にはいっていたエマージェントとチェンホー全員を死なせた……。つまりいまの情況は、われわれがもたらした孤立生活といえるだろう。自分たちの過《あやま》ちによってもたらされた孤立生活だ。わたしは指導者として最大限の努力をつづけるが、諸君の協力がなくては成功はおぼつかない。おたがいのちがいや憎しみは棚上げしなくてはならない。われわれエマージェントは、チェンホーについてよく知っている。きみたちの放送ネットワークを何百年も聞いてきたし、そこから得られる情報は科学技術の回復にきわめて重要な役割を果たした」
また疲れた笑みを浮かべた。
「きみたちがよりよい顧客を生み出すためにそうしたことはよくわかっているし、われわれはそれでも感謝している。しかしわれわれエマージェントは、諸君が予想するような文明にはならなかった。われわれは強力ですばらしく、まったく新しい技術を人類宇宙にもちこもうとしている。それが集中化技術≠セ。諸君の目には、最初は奇妙なものに映るだろう。どうかひるまないでほしい。われわれが諸君のやり方を学んだように、諸君もわれわれのやり方を学んでほしい。全員が心から協力すれば、生き延びられるはずだ。それどころか、最後は大きな利益をあげられるだろう」
表示窓からナウの顔が消え、再整列した岩石群の映像だけになった。部屋のなかではチェンホーがひそひそと話しあっていた。
商人はプライドが高く、とりわけ顧客を低くみる傾向がある。ナムケム星系やキャンベラ星系といった大きな勢力をもつ顧客文明でも、彼らにとっては野に咲く花にすぎない。どんなにきれいに咲いていても、その場から動くことはできず、やがては枯《か》れる運命なのだから。しかしエズルはこの日はじめて、多くのチェンホーの顔に、みずからを恥じる表情を見た。
〈〈ぼくもジミーを手伝ったんだ。計画に加担したんだ〉〉
たとえ無関係だった者でも、ファートレジャー号からのジミーの第一声に歓喜《かんき》しなかったはずはない。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
エマージェントから派遣された警備員という立場になったシレトとマーリが、エズルを呼びにきた。
「調査に関連していくつか質問があるそうだ」
二人はエズルを内部へ、さらに上階へ連れていったが、行き先はタクシー船ドックではなかった。ナウはわざわざエズルの船団管理主任℃コにやってきていた。リッツァー・ブルーゲルとアン・レナルトもいっしょだ。
「すわりたまえ……主任」ナウは穏やかにいって、テーブルのまんなかの席をエズルにしめした。
エズルはゆっくりとそこに近づき、腰をおろした。トマス・ナウと視線をあわせることはとてもできない。あとの二人は……。アン・レナルトはいつものように不機嫌そうだった。視線うんぬんより先に、エズルをまっすぐ見たりしないのだ。リッツァー・ブルーゲルは領督《りょうとく》とおなじように疲れたようすだが、奇妙な笑みをしばしば浮かべていた。こちらはエズルをじっと見つめている。ふいに、ブルーゲルは言葉にあらわさないが勝利感でいっぱいなのだとエズルは気づいた。これだけの死者が――両船団で――出たのに、このサディストはなんとも思っていないのだ。
「主任」ナウの穏やかな声を聞いて、エズルはそちらをむいた。「J・Y・ディエムの陰謀についてだが――」
「わかっています、領督」その声は反抗するようでもあり、また告白するようでもあった。「ぼくは――」
ナウは手をあげて制した。「いいんだ。きみが関与した度合いは小さい。ほかの加担者も特定している。たとえばあの老人、ファム・トリンリだ。ディエムたちの動きを隠す目くらましの役をした――そしてあやうく死にかけたのだ」
ブルーゲルが軽く笑った。「ああ、もうすこしで茄《ゆ》で蛸《だこ》になるところだったんだ。まだ痛くてぴーぴー泣いてるはずだぜ」
ナウはブルーゲルのほうをむいた。なにもいわず、ただ見つめるだけだが、しばらくしてブルーゲルはうなずき、不機嫌そうに黙りこんだ。
領督はエズルのほうにむきなおった。「この件で怒りや勝利を表現する余裕はだれにもない。全員が必要な人材なのだ。ファム・トリンリさえも」
意味ありげにエズルを見つめた。エズルはその視線を受けとめた。
「ええ、わかっています」
「陰謀の全体像についてはあとで教えるつもりだ、主任。特別観察が必要な人間はすべて特定しなくてはならないからな。しかしいまは、過去を蒸《む》し返すよりだいじなことがある」
「こんなことがあっても、まだぼくを船団管理主任の地位にとどめるのですか?」いままでも大嫌いな仕事だったが、いまはまったくべつの理由からうんざりしていた。
しかし領督はうなずいた。「以前からきみは適切な人材だったし、いまでもそうだ。なにより継続性が必要なのだ。きみが外見上も、また内面からもリーダーとしての職務に献身してくれるなら、われわれのコミュニティにはよりよい展望がひらけるだろう」
「そうですね」これは罪をあがなう機会なのだ。ジミーとツフとファム・パティルがやったことより重要なのだ。
「よろしい。さて、物理的情況は安定をとりもどしているように思える。緊急事態がつづいているところはひとつもない。シンとウェンの作業はどうだ? 追いかけている氷の塊はつかまえられそうか? 彼らに燃料を供給するのこそ最優先の仕事だぞ」
「こちらには稼働させられる揮発物精製所があります。数キロ秒後には原材料の供給をはじめられるはずです」そうすればタクシー船に給油できる。「うまくすれば、四十キロ秒以内に最後の氷の塊を引きもどし、影のなかにいれられるはずです」
ナウはアン・レナルトのほうをちらりと見た。
「その見積もりは妥当です、領督。ほかの問題はありません」
「では、重要な人的資源についての話に移ろう。ヴィン君、われわれは今日じゅうにいくつかの発表をするつもりだが、そのことできみにはあらかじめ理解しておいてほしいことがある。きみとキウィ・リン・リゾレットは陰謀の残りの加担者を特定する上で協力してくれたと、その発表のなかで感謝の言葉を述べるつもりだ」
「でも――」
「わかっている。たしかに作為的な部分はある。しかしキウィは陰謀に加担していなかったし、われわれに全面的に協力した」ナウはしばし黙った。「かわいそうに、あの少女は今回のことで取り乱していた。怒り狂っていた。だから彼女のためにも、両船団のためにも、この筋書きにそって演技してほしい。チェンホーのなかにも理性的にわたしへの協力を誓う人々はたくさんいることを、強調したいのだ」
そこでまたしばらく黙ったあと、つづけた。
「では、もっとも重要な用件だ。わたしの演説のなかで、エマージェントのやり方を学んでほしいという部分は、憶えているだろう」
「それは……集中化技術≠ノついてですか?」彼らがトリクシアになにをしたのかという、まさにその問題だ。
ナウの背後で、ブルーゲルがまたかすかにサディスティックな笑みを浮かべた。
「ようするにそういうことだ」ナウはいった。「もっと早くあきらかにすべきだったかもしれないが、訓練期間がまだ終了していなかったのだ。集中化は、われわれのおかれた情況で生死を分ける要素になるはずだ。エズル、アンがきみをハマーフェスト棟に案内して、すべてを説明してくれるはずだ。きみが最初の一人になる。動揺せず、理解し、納得してほしい。それができたら、ほかの人々に集中化技術がどんなものかを説明し、受けいれさせてほしい。それができるかどうかに、両船団の生死がかかっているのだ」
こうして、エズルがことあるごとに探りをいれ、ここ何メガ秒ものあいだ眠りを妨《さまた》げる原因になってきた秘密が、ついにあきらかにされることになった。レナルトのあとについて、中央通路をタクシー船エアロックへむかったが、一メートル進むごとに心臓が苦しくなった。集中化……治療できない感染症……精神腐敗病……。さまざまな噂があり、悪夢に悩まされた。それを知ることになるのだ。
レナルトがタクシー船のなかにエズルを招きいれた。「そこにすわりなさい、ヴィン」
逆説的だが、アン・レナルトのほうが相手としてはつきあいやすかった。彼女は軽蔑的な態度を隠さないし、リッツァー・ブルーゲルから漂ってくるようなサディスティックな勝利感はすこしももっていないのだ。
タクシー船のドアが閉鎖され、外に押し出された。チェンホーの仮設舎はまだ岩石群に係留《けいりゅう》されている。太陽光線がもっと弱くならないと、宇宙空間を漂わせるわけにはいかないのだ。青紫色だった空は黒にもどっているが、星空には尾をのばした彗星が半ダースほど見えた。数キロメートル離れたところを漂っているさまざまな氷の塊だ。ベニーとジョーはあのどこかにいるはずだ。
ハマーフェスト棟はチェンホーの仮設舎から五百メートルも離れていない。レナルトが許すなら、命綱なしでジャンプしても行ける距離だ。しかし二人は、普段着のまま乗れるタクシー船で渡るほうを選んだ。
再発火以前を知らなければ、ここが大きな変動に襲われたとはだれも気づかないかもしれない。巨大なダイヤモンド塊はとっくに揺動《ようどう》をやめている。ばらばらになった氷と空気雪は、岩石群の影の側で、大きな塊からしだいに小さな塊へとフラクタル図形を描くように再配置された。ただしいまは氷の量が減り、空気雪もかなり減った。
岩石群の影の側は、明るい月の光に照らされていた――アラクナ星が反射する光だ。タクシー船は、電子ジェットを設置しなおしている作業班の五十メートル頭上を通過した。このまえ調べたとき、キウィ・リゾレットはそれに参加していた。システムの運用を大なり小なりまかされているようだった。
レナルトはエズルのまえにすわってハーネスを締めた。「集中化に成功した者はみんなハマーフェスト棟にいる。たいていだれとでも好きに話せるわ」
ハマーフェスト棟は、まるで豪華な個人用邸宅に見えた。エマージェント船団の豊かさの中心だ。それはエズルにとっていくばくかの慰《なぐさ》めでもあった。トリクシアとほかの人々はそこで人並みの処遇を受《う》けているのだと、自分にいい聞かせていた。チェンホーの歴史に登場する、たとえばファープヨリア星での百年≠ノ語られる人質《ひとじち》たちのように暮らしているのだと。
しかし正気の商人なら、小惑星のゆるい集合体に居住棟を係留したりしないだろう。
タクシー船は不気味な美しさを漂わせる塔に近づいていった。ダイヤモンドの野にそびえ立つ現実離れした城だ。まもなくその城のなかになにが隠されているかを知ることになる……。
ふいに、レナルトが最後にいった言葉に注意を惹《ひ》かれた。「集中化に成功した者≠ニいうと?」
レナルトは肩をすくめた。「集中化は、制御された精神腐敗病よ。最初の転換期で三十パーセントが死んだ。これから数年でさらに死ぬはず。症状の重い者はファートレジャー号に移されていたわ」
「つまりそれは――」
「黙って聞いて」レナルトはエズルの肩のむこうに視線をやって、しばらく口をつぐんでいた。「あなたは武力衝突のときに気分が悪くなったことを憶えているわね。そして、それはわたしたちが意図的につくりだした病気だと推測している。たしかにその潜伏期は計画のなかで重要な部分を占めているわ。でも実際には、このウイルスの軍事利用は二次的なものにすぎないのよ」
精神腐敗病はウイルス性疾患だ。自然界からあらわれたときの形態のウイルスは、エマージェントの故郷の星系で何百万人もの人を殺し、彼らの文明を崩壊させた……。そして、現在の繁栄の礎《いしずえ》ともなったのだ。というのも、この初期型のウイルスはきわめてめずらしい特性をそなえていた。彼らはさまざまな神経毒を発生させる宝庫だったのだ。
「疫病時代から何世紀もかけて、エマージェント文明は精神腐敗病を手なずけ、文明に寄与するように変えていったわ。現在の型のウイルスは外部から特別な手助けをしないと、血液と中枢神経とのあいだの物質移動を選択的におこなう血液脳関門を突破できない。脳のなかではほとんど障害を起こすことなく広がり、神経ニューロンのあいだを埋める細胞要素である神経|膠《こう》細胞の九十パーセントに感染する。その段階で、わたしたちは神経刺激物質の放出をコントロールできるようになるのよ」
タクシー船は減速し、ハマーフェスト棟のエアロックに正確にハッチをむけるために回転した。空をアラクナ星が横切った。視角にして〇・五度に近い満月≠セ。惑星は一面が真っ白い雲におおわれ、激烈な天地再生のようすは外から見えない。
しかしエズルの関心はそちらにはなかった。アン・レナルトの機械的な説明に触発されたイメージで頭がいっぱいになっていた。エマージェントの手なずけたウイルス……脳への侵入……何十兆という単位で増殖していく……まだ生きている脳に毒をたらしていく……。着陸船がアラクナ星から上昇していくときの割れるような頭痛を思い出した。あれはウイルスが精神の入り口をはげしくノックしている音だったのだ。エズルをはじめとしてチェンホーの仮設舎に集められているのは、その攻撃をなんとか耐えしのいだ人々なのだ――あるいはウイルスはまだ脳に感染していて、沈静期にあるだけなのか。
しかしトリクシア・ボンソルや、名簿のなかで集中化≠フ記号をつけられていた人々は、レナルトらの手で特殊な処理をほどこされた。治療するのではなく、果物《くだもの》にはえる徽《かび》のように、脳のなかでウイルスを増殖させられたのだ。タクシー船のなかにわずかでも重力があったら、エズルは吐いていただろう。
「でも、なぜ?」
レナルトは無視して、エアロックのハッチをひらき、エズルをハマーフェスト棟に招きいれた。ふたたび話しはじめたとき、その口調は抑揚《よくよう》のないなかにも熱っぽさがまじりはじめていた。
「集中化は人を高める手段よ。エマージェント文明を成功に導いた鍵であり、あなたの想像を絶する神秘的なもの。わたしたちはたんなる向精神性ウイルスをつくりだしたのではないわ。脳のなかでのその成長は、ミリ単位の正確さで制御される。そしてその処理が完成すると、脳全体の活動がおなじ正確さで誘導されるようになるのよ」
エズルがあまりにあっけにとられているので、かえってレナルトの注意を惹いた。
「わからないの? 意識における注意力のむく方向を改善できるのよ。人間を分析マシンに変えられるの」
レナルトは不快きわまりない細部まで解説しはじめた。エマージェントの世界では、専門教育の最終学年あたりから集中化処理がおこなわれ、大学院を終える頃にはみんな天才レベルになっている。トリクシアやほかの人々に対してはもっと短期間に処理を完成させる必要があった。レナルトをはじめとする技術者たちは何日ものあいだウイルスをいじり、思考にかんする化学物質が目標どおりに放出されるよう、遺伝的表現型の発現のしかたを操作しつづけた。従来方式の脳診断によって集めたデータをエマージェントの医療コンピュータにいれ、それがウイルスの操作を制御した……。
「訓練はもう完了しているわ。生き延びた連中は、いままでではとてもこなせなかったような研究に取り組めるようになっているのよ」
レナルトに案内されて、壁をカーペットでおおわれた、豪華な家具のある部屋を抜けていった。進むにしたがって廊下はどんどん細くなり、ついには直径一メートルほどしかないトンネルになった。まるで歴史書で見た毛細管《もうさいかん》建築のようだ。たしか……専制君主制の都市の中心部がこんなふうになっていた。そしてついに、一枚のドアのまえにたどり着いた。まわりのどのドアともおなじように、番号と専門名があるだけだ。これには、F〇四二、探査言語学≠ニ書かれている。
レナルトはひと呼吸おいた。「最後にひとつだけ。ナウ領督は、あなたがこの部屋でかなり取り乱すだろうと考えているわ。異文化に属する人間が集中化を初めて見たときに、極端なふるまいをすることはわたしも知っている」エズル・ヴィンの理性を測るように、首をかしげた。
「そこで領督は、このことをはっきり教えておくようにと命じられたわ。集中化処理は、ふつうは解除可能よ。すくなくともかなりの部分まではね」定型文をしゃべっているかのように、肩をすくめた。
「ドアをあけてくれ」エズルはしゃがれ声でいった。
狭い部屋のなかが、十数枚の表示窓の輝きでぼんやり照らされていた。その光が、室内にいる一人の人物の頭のまわりに光輪をつくっている。短い髪、ほっそりとした身体《からだ》つき、地味な作業服。
「トリクシア?」エズルは小声でいった。近づいて肩に手をかけたが、彼女はふりかえらない。
エズルは恐怖をこらえ、むこう側にまわって顔をのぞきこんだ。「トリクシア?」
つかのま、トリクシアはエズルの目をまっすぐ見た。しかしすぐに肩の手をふりはらい、エズルのむこうの窓を見ようと身体をよじった。
「じゃまよ。見えないじゃないの!」いらいらして、いまにも自制心を失いそうだ。
エズルは顔を引っこめ、なにがそんなに重要なのかと窓を見た。トリクシアのまわりの壁は構文図や世代図で埋めつくされている。ある窓にはさまざまな語彙《ごい》の選択肢がしめされているらしい。固有語と、発音も意味も不明な断片とが無数の枝分かれによって対応させられている。
典型的な言語分析環境だが、ふつうでは考えられないほどたくさんの窓がいっぺんにひらいている。そのなかでトリクシアの視線はあちこちへすばやく動き、指はキーを叩いて選択肢をえらんでいた。ときどき小声で命令をいう。顔は完全に集中しているときの表情だ。見たことのない表情ではないし、恐ろしくはない。言語学の問題に夢中になっているときのトリクシアは、しばしばそういう顔になったからだ。
エズルが視界から消えると、その存在もトリクシアの意識から消えた。これまで見たことがないほど……集中している。
エズル・ヴィンはしだいに理解しはじめた。
しばらくトリクシアのようすを眺め、いくつもの窓に展開された図を眺めた。語彙が選択されるようすや、構文が変化するのを見た。それから静かに、なにげない口調で声をかけてみた。
「調子はどうだい、トリクシア?」
「上々よ」答えは即座に返ってきた。かつてのトリクシアがひと息つきたい気分になっているときの口調だ。「蜘蛛族の図書館にあった本よ。すごいわ。ちょうどその書記素のしくみがのみこめてきたところ。蜘蛛族はものの見え方がわたしたちとまるっきりちがうのよ。視覚における融像《ゆうぞう》のできかたがまったくちがう。これが物理の本でなかったら、このばらばらの書記素がどんなつながりになっているのか見当もつかなかったと思うわ」
その声は遠く、わずかに昂奮している。話しながらもエズルのほうは見ないで、指はキーを叩きつづけている。薄暗い光に目が馴れてきたエズルは、ちょっとした、不気味な事実に気づきはじめた。トリクシアの作業服は新しいのだが、襟《えり》の下にはべとべとしたしみがついている。髪は短く切られているのだが、ぼさぼさで脂《あぶら》ぎっている。唇のすぐ上のところには、なにかのかす[#「かす」に傍点]が――食べものか、鼻水か――こびりついている。
〈〈入浴もしてないのか?〉〉
エズルはドアのほうをふりかえった。三人がはいるのは無理な狭い部屋なのだが、レナルトは顔と肩をなかに突っこみ、肘《ひじ》だけをささえに宙に浮いている。強い好奇心をあらわにしてエズルとトリクシアを見つめていた。
「ボンソル博士は優秀よ。大学院時代から集中化されているうちの言語学者たちもかなわないくらい。彼女のおかげで、蜘蛛族が目覚めるまえにその言語を文字のほうから理解できるようになりそうよ」
エズルはもう一度トリクシアの肩に手をかけたが、またふりはらわれた。怒りや恐怖のしぐさではない。たんに、うるさい蝿《はえ》を追いはらうような動作だ。
「ぼくを憶えてるかい、トリクシア?」
返事はない。しかし、憶えてはいるはずだ。いちいち返事をするまでもないことだからだろう。トリクシアは魔法をかけられたお姫さまであり、悪い魔女だけが目覚めさせることができるのだ。しかしそもそも、エズルがもっとお姫さまの不安に耳を傾け、スム・ドトランに反対していれば、こんな魔法はかけられなかったのだ。
「ごめんよ、トリクシア」
レナルトがいった。「訪問時間は終わりよ、船団管理主任」部屋から出るように合図した。
エズルは退《さ》がった。トリクシアの視線は仕事の窓から離れない。そのひたむきさに、最初にエズルは惹かれたのだ。トリクシアは、チェンホーの遠征隊に採用された数少ないトライランド人の一人で、親しい友人も家族もいない船団に単身乗りこんできた。トリクシアの夢は本物のエイリアンと出会い、人間にとってまったく未知の言語を研究することだった。どんな怖いもの知らずのチェンホーにも負けない壮大な野心だ。その求めてやまない夢を、トリクシアはこうして手にいれた……そして、それ以外のすべてを失ったのだ。
ドアの外へ出ようとしたところで、エズルはふと止まり、部屋の奥のトリクシアの背中にむかって尋ねた。
「きみはしあわせかい?」
ささやき声で、返事はあまり期待していなかった。
トリクシアはふりかえらなかったが、指の動きが止まった。エズルの顔を見ても、手でふれられても、なんの反応もしめさなかったのに、こんなくだらない問いかけの言葉が、やっとその注意を惹いたのだ。愛《いと》しい人の頭脳をおおった集中化の層を、その問いかけは通過し、わずかのあいだだけ考慮された。
「ええ、とても」
そしてまた、キーを叩く音が聞こえはじめた。
エズルは仮設舎までどうやって帰ってきたか、憶えていなかった。そのあとも断片的な記憶しかない。ドッキング区画でベニー・ウェンと会った。ベニーは話したいことがあるようだった。
「思ったより早く終わったよ。ジョーの部下のパイロットたちはとんでもなく優秀だったぜ」
ベニーは声をひそめた。「そのなかの一人に、アイ・スンがいたんだ。ほら、もとインビジブルハンド号の乗組員さ。彼女が航法を担当してたんだ。おれたちの仲間がだぞ、エズル。でも彼女は心が死んだようになっていた。ほかのパイロットや、エマージェントのプログラマーもそうだ。ジョーに訊いたら、彼女は集中化されてるって。詳しいことはおまえに訊けっていうんだ。エズル、ハマーフェスト棟にはおれの親父がいるんだよ。いったいなにが――」
エズルが憶えているのはそこまでだ。ベニーにむかって怒鳴りちらしたかもしれないし、たんにわきへ押しのけていったのかもしれない。
〈〈――ほかの人々に集中化技術がどんなものかを説明し、受けいれさせてほしい。それができるかどうかに、両船団の生死がかかっているのだ……〉〉
理性がもどってきてみると……。
エズルは一人で仮設舎の中央公園にいた。そこをさまよった記憶もなかった。まわりはすべて緑で、豊かに葉の茂った梢《こずえ》が五つの方向からエズルのほうへ伸びてきている。古い格言に、"バクテリア槽がなければ居住棟は住人の生命を維持できないし、公園がなければ住人は心を維持できない≠ニいうのがある。星間空間を飛ぶラムスクープ船のなかにも、船長用の盆栽がある。大規模な仮設舎――とりわけキャンベラやナムケムにある千年もつづくような居住棟では、棟内最大の空間が公園に割りあてられている。何キロもかなたまで自然が広がっているのだ。しかし小さな公園でも、その設計には長い時間をかけて築かれたチェンホーの知恵が組みこまれている。この公園はまるで深い森のようで、近くの木々のすぐむこうには大小の動物がいそうな気がした。こんな小さな公園のなかで生命のバランスを維持するのは、たぶん仮設舎のなかでもっともたいへんな仕事だろう。
公園は夕闇が深くなる時間帯で、暗い方が下だ。右を見ると、青い空の最後の輝きが木々のむこうからのぞいていた。エズルは梢に手をのばし、枝をたぐって地面のほうへ降りていった。たいした距離ではない。この公園は端から端まで二十メートルもないのだ。エズルは木の根もとの深い苔《こけ》のなかで膝をかかえてうずくまり、ひんやりしはじめた夕暮れの森のもの音に耳を傾けた。空を一匹の蝙蝠《こうもり》が飛んでいぎ、どこかから蝶の群れがたてる音楽的なつぶやきが聞こえた。蝙蝠は本物ではないだろう。こんな小さな公園では、大型の動物やその餌《えさ》となる小動物をかこっておくことはできない。しかし蝶は本物のはずだ。
こんなゆったりとした時間と空間では、さまざまな思いが解放され……
……そして、鋭い切っ先が甦《よみがえ》ってきた。ジミー・ディエムは死んだ。ツフ・ドゥも、ファム・パティルも。何百人も道連れにして。その人たちが生きていたら、いまどうすればいいか教えてくれたかもしれないのに。
〈〈なのにぼくだけが生きている〉〉
ほんの半日前のエズルなら、トリクシアの変わり果てた姿を見て怒り狂っただろう。しかしその怒りも、いまは恥ずかしさに抑えられて出てこなかった。ファートレジャー号で多くの犠牲者が出た責任の一端は、エズル・ヴィンにもある。ジミーの企《くわだ》てがあとほんのすこし成功≠オていたら、ハマーフェスト棟の全員が殺されていたかもしれないのだ。愚かしいことだったのか。愚かしく暴力的な連中の手助けをしてしまったのか。背信的な奇襲攻撃をしかけるのとおなじくらい邪悪な行動だったのか。
〈〈それはちがう! それはちがう!〉〉
しかし結果的に、ジミーは武力衝突を生き延びた人々の大部分を殺してしまったではないか。
〈〈だから、ぼくはその埋めあわせをしなくてはいけない。なんとかしてみんなに集中化技術がどんなものかを説明し、受けいれさせなくてはいけない。それができるかどうかに、両船団の生死がかかっているのだから〉〉
エズルは声をころして泣きだした。自分が絶対にやらせたくないと思うような行為を、みんなに納得させ、受けいれさせなくてはいけないのだ。学校で勉強し、たくさんの本を読み、十九年生きてきたけれども、この世にこんな苦しみがあるとは想像もできなかった。
公園の半分ほどの距離のところで小さな光がひらめき、枝がかきわけられた。だれかが公園にはいってきたのだ。中央の空間に近づいている。光がつかのまエズルの顔にあたり、消えた。
「やっぱりな。地面に降りてるだろうと思ったぜ」
ファム・トリンリだった。老人は低く伸びた枝をつかんで、エズルの隣の苔の上にすわった。
「元気を出せ、若いの。ディエムの考えてることはまちがっちゃいなかった。おれはできるだけ助けてやったんだが、やつは不注意で性急だった――あのときのしゃべり方を憶えてるだろう? あそこまでばかだとは思わなかったぜ。おかげで多くの人間が死んじまった。ひどい話だが、そういうこともある」
エズルは声のするほうをむいた。相手の顔は夕闇のなかでぼんやりとした灰色の塊にしか見えない。つかのまエズルは暴力をふるいたい衝動にかられた。その顔をめちゃくちゃに殴ってやったら胸がすっとするだろう。しかしそうはせず、さらに闇の奥へすわる位置をずらして、息を整えた。
「ああ、そういうこともあるね」
〈〈おまえもひどいめに遭《あ》えばいいんだ〉〉しかし口に出してはいわなかった。ナウは公園も盗聴しているはずだ。
「おまえには勇気がある。いいことだ」
暗いせいで、トリンリが笑っているのかどうかも、その空虚な賛辞を本気でいっているのかどうかもわからなかった。トリンリはさらに近づいてきて、声をころしてささやいた。
「あんまり落ちこむな。生きていくには妥協も必要だ。あのナウってやつも、おれはうまくあしらえると思うね。あいつの演説は気づいたか? ジミーが多くの人間を殺したことを逆手《さかて》にとって、ナウはおれたちを抱きこもうとしてるんだ[#「抱きこもうとしてるんだ」に傍点]。あいつの演説はチェンホーの歴史的資料からの盗用だ。まちがいない」
地獄にも道化《どうけ》がいるということか。老いた軍人、ファム・トリンリ。こいつの考える狡猾《こうかつ》な陰謀とは、仮設舎の中央公園でのひそひそ話か。トリンリは無知|蒙昧《もうまい》だ。それどころか時計の針を逆むきにまわそうとしている……。
漆黒《しっこく》に近くなってきた闇のなかで、二人はしばらくじっとすわっていた。ありがたいことにファム・トリンリは黙っていた。その愚かしい言葉は、エズルの絶望の池に投げこまれたたくさんの石とおなじで、さまざまな要素がかき乱され、浮上してきた。自分では気づかなかったようなことに、その愚かしさのおかげで気づいた。
ナウの演説は……こちらを抱きこもうとしているものだって? 和解という意味ではそうかもしれない。ナウは傷ついた集団のリーダーだ。しかし傷ついているのはこちらもおなじだ。協力するしか脱出の手だてはないのだ。
エズルはナウの言葉を思い出してみた。いわれてみればそうだ。一部の言いまわしは、ブリスゴー間隙《かんげき》でファム・ヌウェンがおこなった演説からの借りものだ。ブリスゴー間隙はチェンホー史上ひときわ輝く成功の地だ。商人たちはその場所で、高度な文明と何十億人もの人々を救ったのだ。チェンホーのように巨大な勢力を時空間の一点でとらえることができるとするならば、ブリスゴー間隙こそは現代チェンホーの出発点といえるだろう。自分たちのいまの情況との類似点は皆無だが……。いや、さまざまな場所から集まった人々が力をあわせて、恐るべき背信行為による災厄をしのぎきったという意味では、類似しているかもしれない。
ファム・ヌウェンの演説は、それから二千年のあいだ人類宇宙で何度も放送されてきた。トマス・ナウが知っていても不思議はない。あちこちにそのフレーズをちりばめて、共通性をしめそうとしたのだろう……ただし、トマス・ナウのいう協力≠ニは、集中化を受けいれ、トリクシア・ボンソルのような状態を受けいれるということだが。
エズルは、自分がどこかで演説の共通性を感じとり、感動していたのに気づいた。しかしどのように盗作されているかをはっきり見せられると、印象は変わってくる。たしかに都合がよすぎるようだ。そして最後は、エズル・ヴィンは集中化を受けいれなくてはならないという結論になるのだ……。
この二日間は恥ずかしさと罪悪感に圧倒されて、なにも考えられなかった。しかしいまは頭が働きはじめた。
ジミー・ディエムはエズルの友人≠ナはなかった。何歳か年上で、初めて会ったときから船員長であり、エズルにとってはつねに教官にあたる人間だった。そんなジミーを、なるべく客観的に考えてみようとした。エズル・ヴィンは、自分ではなんの取り柄《え》もない人間だと思っているが、腐ってもヴィン第二十三家の出身者だ。伯母や伯父やいとこたちのなかには、人類宇宙のこちら側でもっとも成功した商人が何人もいる。彼らの話を子守歌がわりにしたり、いっしょに遊んでもらったりしながら育ったのだ……。
ジミー・ディエムは、そんな人々にはとうていおよばない人間だ。勤勉だが、想像力に欠けている。彼の人生の目標はささやかだが、あれほど勤勉でもなかなか実現するとは思えなかった。なにしろ作業班ひとつ満足に管理できなかったのだから。
〈〈彼をそんなふうに考えたことはなかったな〉〉
ジミー・ディエムはじつは融通《ゆうずう》のきかない船員長であり、もしかしたら友人になれたかもしれない好感のもてる相手だったのだと気づいて、エズルは驚き、また寂しく思った。
そしてふいに、ナウに対するあんないちかばちかの過激な脅迫を、ジミーが好きこのんでやるはずがないと気づいた。彼にそんな駆け引きの才能はないし、最後は単純な計算ちがいを犯した。ジミー・ディエムの希望は、ツフ・ドゥと結婚して中間管理職になることだったのだ。
〈〈どうもおかしい〉〉
ふいにまわりの暗闇が意識されはじめ、木々のあいだで眠る蝶のかすかな羽音《はおと》が聞こえるようになった。湿った苔の冷たさがシャツやズボンにしみこんでくる。
大ホールのスピーカーから聞こえてきた声を、できるだけ正確に思い出してみた。声はまちがいなくジミーのだし、アクセントはディエム家の固有語だ。しかしその口調や言葉|遣《つか》いは、自信たっぷりで、尊大で……楽しそうですらあった。ジミー・ディエムがそんな熱狂したようすを演技できるはずがないし、そんな熱狂を感じるはずもない。
とすると、結論はひとつだ。ジミーの声とアクセントを模倣するのはむずかしいはずだが、エマージェントはなんらかの方法でそれをやったのだ。あの声が嘘なら、ほかにどれだけの嘘があるのか。
〈〈ジミーはだれも殺していないんだ〉〉
ディエムやドゥやパティルがファートレジャー号に乗りこむまえに、チェンホーの上級船員たちは殺されていたのだ。トマス・ナウはみずからの道義的立場を優位にするために、人殺しの上に人殺しをかさねたのだ。
〈〈――ほかの人々に集中化技術がどんなものかを説明し、受けいれさせてほしい。それができるかどうかに、両船団の生死がかかっているのだ……〉〉
エズルはわずかに残った空の光を見あげた。あちこちの枝のあいだで星の光がまたたいている。何光年も離れた世界の空を投影した、偽物《にせもの》の星空だ。
ファム・トリンリが身動きする音が聞こえた。老人はためらいながらエズルの肩に手をかけ、痩《や》せこけた身体を軽く地面から浮かびあがらせた。
「よし。もうめそめそしてないな。すこししゃんとさせてやりたかっただけだ。いいか、これだけは憶えておけ。生きていくには妥協も必要だ。ナウは基本的にはへなちょこ野郎だ。どうにでもできる」
エズルは震えていた。喉もとに怒りがうなり声となってこみあげてきたが、それを抑えこむと、むせび泣くような声になった。息もできないほどの怒りが、疲れきってわなわなと震える声に変わった。
「わ……わかった。妥協すればいいんだな」
「そうだ」トリンリはもう一度エズルの肩を叩くと、また枝をかきわけて梢へ登っていった。
エズルは、再発火後のトリンリについてリッツァー・ブルーゲルがいっていたことを思い出した。道義心を逆手にとったトマス・ナウの人心|掌握《しょうあく》術にも、老人はまるめこまれなかった。しかしそれはべつにどうでもいい。トリンリは自己|欺隔《ぎまん》的な臆病者でもあるからだ。
〈〈――生きていくには妥協も必要だ……〉〉
ファム・トリンリにくらべたら、ジミー・ディエムのほうが何倍も価値がある。
トマス・ナウは生き残ったチェンホーを巧みに操作した。トリクシアをはじめとして何百人ものチェンホーから心を奪った。重要な働きをしたかもしれない人々をみんな殺した。そしてその人殺しを利用して、エズルたちを唯々諾々《いいだくだく》と働く道具に変えようとした。
エズルは偽物の星空を見あげ、空へむかって鉤爪《かぎづめ》のようにカーブしながら伸びていく木々の枝を見た。
〈〈もしかすると人は、追いつめられすぎると、壊れてしまってもはや道具として使えなくなるのかもしれないな〉〉
まわりの黒い鉤爪を見あげながら、エズルは自分がいくつかに分裂していくのを感じた。一つめは受け身の観察者で、エズル・ヴィンにこんな分裂が起きたことに驚いていた。二つめの部分は内側に引きこもり、悲しみの池で溺れたスム・ドトランはもどってこないし、S・J・パークももどってこない。トリクシアの集中化処理が解除できるという説明は、嘘にちがいない……。
しかし三つめの部分は、冷ややかで分析的で、凶暴だった。
チェンホー船団にとってもエマージェント船団にとっても、この孤立生活は何十年もつづくだろう。その期間の多くは冷凍睡眠にはいることになるはずだが……それでも目覚めて待つ時間は何年もあるだろう。トマス・ナウは生き残った人々全員を必要としている。いまのチェンホーは打ちのめされ、尊厳を奪われ、そしてだまされている――すくなくともトマス・ナウはそう考えているはずだ。エズルのなかの冷ややかで凶暴な部分は、危険な意図をもってその未来を眺めた。自分がこんな生き方をすることになるとは、夢にも思わなかった。考えを打ち明けられるような安全な友人はいない。まわりは敵と愚か者ばかりだ。
トリンリの手にした明かりが公園の出入りロへと消えていくようすを見た。ファム・トリンリのような愚か者は利用できる。有能なチェンホーを巻きこむくらいなら、トリンリを捨て駒に使ったほうがましだ。
エズルはトマス・ナウによって、終わりのない任務につけられたのだ。その報酬として、復讐くらいはやらせてもらってしかるべきだろう(しかし――と、最初の観察者の部分がいった――トリクシアの集中化処理が解除できるというレナルトの説明は、もしかしたら本当かもしれないではないか)。
エズルの冷ややかな部分は、これから何年もつづく地道な仕事をもう一度展望し……そして奥へ引っこんだ。公園内を監視しているカメラもあるはずだ。これだけのことが起きたのにあまりに落ち着いたようすをしているのはまずいだろう。エズルは膝をかかえ、自分の泣き虫の部分に身をゆだねた。
[#改丁]
第二部
[#改丁]
14
新生期に新世界が生まれる≠ニいういい方を否定するのは、よほど頭の固い者だけだろう。たしかに新生期の太陽の光を浴びても惑星の芯《しん》が変わるわけではないし、大陸の輪郭もほぼそのままだ。しかし太陽が再生して最初の一年間に吹き荒れる蒸気嵐は、地表に残されたかつての生活の跡を、乾いたがらくたとしてすべて吹き飛ばしてしまう。森もジャングルも平原も湿地も、最初からつくりなおされる。蜘蛛《くも》類が地表に築いたなかで残るのは、深い谷間に隠れた石造建築物だけだ。
胞子から生まれる植物は、嵐によって引きちぎられながら何度も何度も芽《め》を吹く。最初の数年間、高等動物たちは冬眠穴から鼻面を出し、できるだけ早く縄張り確保に出るべく、ようすを探る。しかしそれはとても危険だ。新世界の誕生≠ヘ、喩《たと》えとは裏腹にとても暴力的なのだ。
……それでも三、四年たつと、嵐にもときどき切れめがあらわれる。雪崩《なだれ》や蒸気の大波はめったに襲ってこなくなり、生き延びる植物が毎年増えていく。冬になり、嵐の切れめにはいって風が弱まった日には、大地を遠くまで眺めて、この明期にも生命が豊かに充《み》ちるだろうと想像できるようになる。
プライド・オブ・アコード道は、過去の世代にひけをとらない広く立派なハイウェイとして整備されていた。ビクトリー・スミスの駆るスポーッカーは、直線では時速六十マイルを超え、急カーブの手前では三十マイル以下に減速した。後部座席にすわったハランクナー・アナービーは、次々とあらわれる断崖《だんがい》絶壁を心臓が止まりそうな思いで見ていた。すべての手と足で座席にしがみついているのだが、どんなに力いっぱいつかまっていても、次のカーブではきっと車から放り出されてしまうと思った。
「運転を交代する気は、やはりないのですか、少佐」アナービーは訊いた。
スミスは笑った。「そしてついでに席を交代しようというの? ごめんこうむるわ。後部座席からの眺めがいちばん恐ろしいのは、よくわかってるから」
シャケナー・アンダーヒルが、顔を傾けて横の窓から外へ出しながらいった。「ぼくも、助手席に乗っているのがこんなにどきどきするものだとは知らなかったよ」
「はいはい、わかったわよ」
スミスは速度を落とし、これ以上はないくらいに慎重な運転に切り換えた。しかしじつは、道路の状態は最高によかった。山から吹きおろす熱い風が雨雲を追いはらい、コンクリートの路面はきれいに乾いているのだ。あと一時間もすれば、また雨でびしょ濡れになるだろう。山腹を縫《ぬ》うようにはしる道の頭上をかすめるように、切れぎれの雲がかなりの速さで流れており、南のほうの景色は雨に煙っていた。
プライド・オブ・アコード道からの眺めはこれまでどおりよかった。二年めの森は、堅い皮をかぶった円錐形の若木《わかぎ》からちぎれやすい葉が芽吹《めぶ》いているところだ。ほとんどの木はまだ一ヤードほどの背丈しかないが、なかには六フィートから十フィートにも達しそうな若木や柔らかい灌木《かんぼく》もある。緑の土地は何マイルもつづき、そのなかに茶色い雪崩の跡や、水飛沫《みずしぶき》をあげる滝が点在している。この時期の最西部の森は、神の庭のように美しい。プライド道のどこからでも海が見わたせた。
アナービーは座席をつかんだ手をすこし緩《ゆる》めた。ふりかえると、スミスの護衛班の車がひとつうしろのカーブを曲がってあらわれるところだった。この旅のあいだ、護衛たちはほとんどずっと余裕しゃくしゃくであとをついてきていた。雨と風のせいでビクトリーがかなりの低速走行を余儀なくされていたからだ。ところがいまの彼らは必死の形相《ぎょうそう》だ。きっとかんかんになっているだろう。しかし残念ながら、護衛たちが苦情をいうべき相手は、まさに彼らの上官であるビクトリー・スミスなのだ。
スミスはアコード軍補給部少佐の軍服を着ていた。この所属名は嘘ではない。というのも、アコード軍情報局はふだん、補給部の一部門という装いになっているのだ。しかしスミスの階級は、少佐ではない。アナービーは四年前に退役していたが、むかしの仲間とはまだ飲み友だちとしてのつきあいがあり、だから大戦争終結にいたる経緯はよく知っていた。現在ビクトリー・スミスがアコード軍情報局の新しい長官でないとしたら、アナービーはおおいに驚いただろう。
ほかにも驚くことはあった――すこし考えればわかることだが、最初は驚かされた。スミスから電話がかかってきて、軍にもどらないかと誘われたのが二日前。そして今日には、プリンストン市にあるアナービーの会社に本人がわざわざ迎えにきたのだ。護衛がめだたないようについてきているだろうことは予想していたがシャケナー・アンダーヒルの存在はまったく予想外だった。二人との再会で強いよろこびが湧いてきたことは、さして驚きではなかった。
ハランクナー・アナービーが大戦争を早期決着に導く活躍をしたことは、世間では知られていなかった。暗期に地上を歩いた記録が公表されるのは、早くても十年後だろう。しかしその任務による報奨金は、彼のこれまでの貯金の二十倍にも達した。それは、やっとみつけた退役のための言い訳であり、工兵としての知識と技術を使ってなにか建設的なことをはじめるチャンスだった。
太陽が生まれ変わって最初の数年は、やるべき仕事がたくさんあるにもかかわらず、まわりの環境は戦争をしているように危険だ。ときには本当に戦闘も起きる。この文明の世の中になっても、新生期は無法者がのさばりやすい時期なのだ。窃盗、殺害、不法占拠などが日常的にみられる。ハランクナー・アナービーはそんななかでとてもうまくやっていた。だから、ビクトリー・スミスの誘いに応じて自分が簡単に一時的再入隊に同意してしまったのには、アナービー自身がいちばん驚いていた。再入隊の期間は三十日――「それだけあれば、わたしたちがなにをやろうとしているかを詳しく知って、もっと長期の軍務にもどるかどうか判断できるでしょう」と、スミスは説明した。
そして、こうしてランズコマンド市へむかっているわけだ。
これまでのところは、旧友たちとの再会を楽しむ、いい休暇だった(そもそも将校が運転手役をつとめて、その後部座席で一介の軍曹がくつろげる機会などめったにない)。シャケナー・アンダーヒルはあいかわらずの才気|換発《かんばつ》ぶりだが、まにあわせの冬眠穴で負った神経障害のために、すこし老《ふ》けて見えた。スミスはこれまでになく開放的で上機嫌だった。
プリンストン市を出て十五マイルほど走り、仮設の連続住宅が途切《とぎ》れて、最西部山脈の裾《すそ》にかかったとき、二人はアナービーに秘密をあかした。
「な……なんだって?」アナービーは座席からずり落ちそうになった。熱い雨粒が車体をばたばたと叩いており、そのせいで聞きまちがえたのかと思ったのだ。
「聞こえたでしょう、ハランクナー。将軍とぼくは、妻と夫になったんですよ」アンダーヒルはへらへらと笑っている。
ビクトリー・スミスが手を一本あげた。「訂正をひとつ。わたしを将軍と呼ばないで」
ふだんのアナービーは驚いた表情をみせないほうだ。しかし今回ばかりはべつで、アンダーヒルもその驚きぶりを見て、よけいににやにやしている。
「ぼくらがただの上官と部下の関係でないことには、暗期にはいるまえから気づいてたでしょう」
「それは……」
たしかにそうだ。しかしまさか、こういうことになるとは思っていなかった。なにしろシャケナーは、成功するかどうかまったくわからない暗期の冒険行に、ぜひにといって参加してきたくらいなのだ。もしもなにかあったらと、アナービーは二人のためにいつも重苦しい気分だった。
まあ、たしかに、二人は絶妙なコンビだろう。シャケナー・アンダーヒルは、軍曹が知っている頭のいいやつを十人たばねたよりも、はるかに才知《さいち》にたけている。しかしそのアイデアは、蜘蛛類が一生のあいだに実現させるという意味ではとても不可能なものが多い。ところがビクトリー・スミスは、そのなかから実現可能なものをみつけだす眼力《がんりき》がある。そもそも、遠いむかしのあの午後にたまたまスミスが居合わせなかったら、アナービーはあわれなシャケナーの尻をプリンストン市のほうにむかって力いっぱい蹴飛ばしていたはずだ――そして大戦争を勝利に導いた奇抜なアイデアも、日のめを見ずに終わっていただろう。
だから、たしかにそうだ。タイミングをべつにすれば、なにも驚くべきところはない。そしてビクトリー・スミスがすでにアコード軍情報局長官の地位に就《つ》いているのだとしたら、この国の将来はますます安泰だろう。
そのとき、ふと浮かんだ不快な考えが、勝手に口から飛び出してしまった。「しかし、子どもはまだだろう? まさかそんなことはないな」
「そのまさかですよ。将軍は妊娠中で、ぼくは半年後に子袋を背負うことになるはずです」
アナービーは自分でも気づかないうちに、困惑のあまり食手《しょくしゅ》を口に突っこみ、もごもごとわけのわからない声を出していた。車内はしばらく沈黙におおわれ、フロントウインドウに熱い雨粒のあたる音だけが聞こえていた。
〈〈どうしてわが子にわざわざそんなひどいことを?〉〉アナービーは思った。
やがて将軍が穏やかに訊いた。「なにか疑問があるのかしら、ハランクナー?」
アナービーは食手をさらに口の奥へ突っこみたくなった。ビクトリー・スミスのことは、彼女がランズコマンド市にやってきたときからよく知っている。さっそうとした新任の少尉は、変わった名前で、見るからに若かった。軍にいるといろいろ奇妙なものを見る機会があるので、だれもがすぐに察した今度の少尉はたしかに若い。時期はずれの生まれなのだ。にもかかわらず、士官学校に入学できるほど頭がいいらしい。噂によれば、ビクトリー・スミスは東海岸に住む変わり者の資産家の子で、その資産家はとうとう本家から絶縁されて、娘は存在しないことにされたのだそうだ。
最初の頃は、隊内の行く先々で彼女の陰口が聞かれた。しかし、スミスはそういった差別に立ちむかい、生まれた時期を恥ずかしいとする意識に、知性と勇気で対抗していった。アナービーはそのようすを見て、こいつは将来大物になるぞという予感をもったのだ。
ようやくアナービーは口がきけるようになった。「ええと……ええ、まあ、たしかにそうです。お二人の考えは尊重しますが、しかし……。自分はある種の考え方を幼いときから植えつけられていますので」
まともな蜘蛛類はどのように生きるべきか、という考え方だ。まともな者は衰微《すいび》期に子どもを妊娠し、その終わりに出産するものだ。
将軍は返事をしなかったが、シャケナーが手の裏側でアナービーを軽く叩いた。「いいんですよ、軍曹。わたしの従兄《いとこ》の反応なんかもっとひどかった。でも、しばらく見ていてください。世の中は変わります。今度時間があったら、古い慣習が意味をなさなくなる理由を説明しますよ」
シャケナー・アンダーヒルを見ていていちばん心配になるのは、そういうところだった。彼は自分たちの行動をきちんと説明できるだろう――そしてまわりの者がどんなに反発しようと平気の平左《へいざ》なのだ。
とりあえず、困惑させられる話はそれで終わりだった。この二人が堅物《かたぶつ》の軍曹にあえてこんな話をしたのだから、アナービーとしても二人の……奇行に、あえて気づかないふりをするしかなかった。戦時中にはもっといやなことにも耐えてきたのだから。それにビクトリー・スミスは適切さの基準を独自につくりだす性格のようだった――そして一度つくった基準には、どこまでもこだわるのだ。
シャケナーのほうは……その注意はとうにどこかべつのほうに飛んでいた。神経障害による震えのせいで老けて見えるが、その精神はこれまでどおり鋭いあるいは突拍子《とっぴょうし》がない。さまざまなアイデアを次々と思いつき、ふつうの頭のように落ち着くことがないのだ。雨はやみ、風は熱く乾きはじめていた。道の傾斜がきつくなるなかで、アナービーはさっと時計に目をやり、これから何分かのあいだにシャケナーがとんでもない考えをいくつ思いつくか、かぞえてみることにした。
(1)シャケナーは堅い皮をかぶった森の若木をしめして、蜘蛛類も冬眠穴から大人と子どもとして出てくるのではなく、暗期が終わるごとに胞子から新しく生まれなくてはならないとしたら、いったいどんな姿になっていただろうかと、さまざまな推測をめぐらせた。
(2)さいわいにも道の行く手に雲の切れ間があらわれた。しばらくあたりが真っ白く見えるほど強い日差しが照りつけ、雲も明るく輝き、車のそちら側に日除《ひよ》けをかけなくてはいけないほどになった。上のほうには直射日光が照りつける山腹が見える。シャケナー・アンダーヒルは、山のてっぺんに温度差を利用して発電する太陽熱発電所≠つくって、ふもとの町に給電できないかと考えた。
(3)道路の上を緑色のなにかがちょこちょこと動き、あぶないところでタイヤをよけて逃げていった。シャケナーはそれについても、進化と自動車にまつわるひとつの見解を述べた(ビクトリーは、そのような進化はどちらにころぶかわからないものだと意見をいった)。
(4)しかしシャケナーは、自動車や飛行機よりも高速で安全な交通手段のアイデアをもっていた。「プリンストン市からランズコマンド市まで十分、大陸横断だって二十分でできるよ。最短時間でいける弧状のトンネルを掘って、内部の空気を抜けば、あとは重力が乗客をむこう側まで送りとどけてくれるってわけだ」アナービーの時計によると、そこで五秒間の沈黙があった。「いや、ちょっとした問題があるな。プリンストン市とランズコマンド市を最短時間で結ぶトンネルは、少々深くなりすぎる……およそ六百マイルだ。そんな予算をくれといっても、将軍を納得させるのはむずかしいだろう」
「その点はたしかよ!」
さらに二人は、最適ではない曲線のトンネルを検討し、飛行機に対して有利な点と不利な点について長い議論を戦わせた。そして、深いトンネルを掘るというアイデアはまったく使いものにならないという結論になった。
アナービーはしばらく時間を測れなくなった。というのも、シャケナーがアナービーのやっている建設業についていろいろな質問をしてきたからだ。シャケナーは聞き上手で、その質問に答えているうちに、ふだんだったら思いつかないようなアイデアがアナービーの頭に次々と浮かんできた。なかには実際に金になりそうなアイデアもある。かなり儲《もう》かりそうだ。ふむ。
スミスはそのようすに気づいた。「だめよ。この軍曹には貧乏でいてもらうのよ。入隊特別手当が魅力的に見えるようでないと困るわ。まどわせるようなことをいわないでちょうだい」
「そりゃ悪かったね」といいつつも、シャケナーにまったく悪びれたようすはなかった。「本当にひさしぶりですね、ハランクナー。この数年間の出来事を間近にお見せできればよかった。憶えてますか、ぼくが大きな……なんていうか――」
「あのときのとんでもないアイデアのことか?」
「そう、そうですよ!」
「ティーファーの動物用冬眠穴にはいるすこしまえに、おまえは、文明全体が眠りにつくのはこの暗期が最後になるだろうとかなんとかいってたな。暗期明けの病院でもまだそのことを口ばしっていた。おまえはまるで空想科学小説の作家だよ、シャケナー」
シャケナーはそれを賛辞として受けとめたらしく、陽気に手をふってみせた。「たしかに小説にはもう描かれてますね。でも実際のところ、それを実現できる段階にはいったのはこの時代が最初なんですよ」
アナービーは肩をすくめた。最暗期の地上を歩いたのさえ、彼にとってはまだ寒けがするほど恐ろしいことなのだ。
「最暗期の探検はこれからもっとおこなわれるだろうし、おれたちより装備もよくなり、規模も大きくなるだろう。たしかにすごいことだ。スミス将軍……もとい、少佐も、さまざまな計画をあたためていらっしゃるだろう。最暗期に大規模な戦闘が起きることも、あながち空想ではなくなると思う」
「いまは新時代なのですよ、ハランク。科学がもたらした成果は、見まわせばそこらじゅうにあるでしょう」
カーブを曲がると、乾いた道路はそこで終わりで、車は熱い雨のなかにふたたび飛びこんでいった。ずっと見えていた雨雲の下だ。スミスはあらかじめ予測して落ち着いていた。窓はだいたいしめてあったし、雨のなかにはいったときは速度も時速二十マイル以下に落としていた。とはいえ運転のための条件はいきなり悪くなった。窓は急速に曇って、車の送風機を全開にしても追いつかないくらいだし、雨があまりはげしいために、暗赤色の雨天用ライトをつけても路肩《ろかた》がよく見えない。窓のすきまからはいりこんでくる雨水は、赤ん坊の唾液くらいに温かかった。後方の闇からは二組の暗赤色ライトが近づいてきた。スミスの護衛班があいだを詰めてきたのだ。
外の嵐のようすから注意をそらして、シャケナーがさきほどいったことを思い出すのには努力が必要だった。
「科学の時代というのは、たしかにそうだ。建設業という商売では、おれもそれを売りにしているんだ。前回の衰微期には、無線機、飛行機、電話、録音技術などがあった。新生期からの再建の時期にも進歩はつづいた。おまえが暗期のまえまでもっていたレルマイヒ社製の車にくらべたら、この車は信じられないくらいよくなってるじゃないか――あの車だって当時としてはずいぶんな値段だったのに」シャケナーが大学院生の給付金でどうやってあんなものを手にいれたのか、いつか知りたいものだと思っていた。「こんなすごい時代に居合わせられるというのは、望むべくもない幸運だよ。飛行機はもうすぐ音速の壁を突破するだろうし、王家は全国にハイウェイ網を建設中だ。べつにあなたがもくろんでやっていることではないでしょうな、大佐?」
スミスは笑みを浮かべた。「そんな必要はないわ。補給部にやる連中はいくらでもいるのよ。そもそも政府が手を出さなくても、ハイウェイ網は勝手にできるはずよ。でもそうやって関与することで、睨みをきかせてるわけ」
「とにかく、大事業が次々とはじまっている。三十年たって、次の暗期にはいるまえには、世界じゅうを空の定期便が飛んで、絵の出る電話を使っていても不思議じゃない。太陽のまわりを惑星がまわるように、ロケットで打ち上げられた通信衛星がこの世界のまわりをまわっているかもしれないな。これっきり戦争が起こらなければ、おれは寿命をまっとうできるだろう。しかし、おまえのいう、文明全体が暗期をやりすごすなんて話は――失礼ながら伍長、しっかりとした数字にもとついていっているとはとても思えない。それをやるには、おれたちは小さな太陽をつくりだすくらいのことをしなくてはいかん。どれくらいのエネルギーが必要か、わかってるのか? 戦時中、暗期入りしたあとまで掘削隊を働かせるのはたいへんだった。戦争全体で消費した以上の燃料を、その作戦で使ったんだぞ」
どうだ! さしものシャケナー・アンダーヒルも、今度ばかりは即答できないだろう。しかしシャケナーは、将軍がなにかいうのを待っているようだ。しばらくしてビクトリー・スミスが一本の手をあげた。
「ここまではいい世間話だったわ、軍曹。敵を利する話題というのがどういうものかはわかると思うけど――わたしのいまの仕事については、見当がついてるでしょう?」
「ええ。おめでとうございます。あなたがストラット・グリーンバルのあとを継いだのなら、これ以上の適任者はいない」
「それは……ありがとう、ハランクナー。でもわたしがいいたいのは、シャケナーの雑談がいつのまにか、あなたに三十日間の一時入隊を求めた本当の理由に近づきはじめたということよ。これから話すことは、完全に戦略上の機密に属することよ」
「わかりました」
任務の説明がこんなかたちでおこなわれることになるとは思ってもみなかった。車の外では嵐が荒れ狂っており、スミスは直線でも二十マイルそこそこの速度しか出していなかった。新生期のはじめの数年は曇りの日でも危険なほど日差しが強いのだが、この雨雲はかなり分厚く、空はたそがれ時のように薄暗かった。強い横風が吹きつけ、車を道からはじき飛ばそうとする。車内は蒸《む》し風呂のようだった。
スミスはシャケナーに、話をつづけるようにと手をふった。シャケナーは後部座席のほうへ身をのりだすようにし、嵐に負けない大きな声で話しはじめた。
「じつは、しっかりとした数字≠ヘ計算したんですよ。戦争が終わってから、ビクトリーの同僚たち何人かに自分のアイデアを説《と》いてまわったんです。そのせいで彼女のキャリアをあやうくだいなしにしかけましたけどね。彼らもあなたとおなじように、数字をもとに否定的な意見だった。しかし情況が変わったんです」
「訂正をひとつ」スミスが口をはさんだ。「情況が変わるかもしれない、よ」
車が横風に流され、アナービーが目をそむけるような断崖絶壁の縁に近づいた。スミスはギアをひとつ落とし、力ずくで車を道のまんなかへもどした。
「じつは――」シャケナーは平然とつづけた。「暗期のあいだも文明を維持できるエネルギー源があるんです。さっき、小さな太陽をつくりだすくらいのことをしなくてはいかん≠ニおっしゃいましたが、それに近いんです。もちろん、太陽がどんなしくみで輝いているかはまだ解明されていませんけどね。しかし原子のエネルギーについては、理論的かつ現実的な研究が進んでいます」
すこしまえの話の流れであれば、アナービーは笑い飛ばしていただろう。いまでも嘲《あざけ》りの響きを禁じえなかった。
「放射能か? 精製ラジウムを何トンも用意して暖まろうっていうのか?」
戦略上の機密≠ニいうのは、じつはアコード軍最高司令部の連中がアメージング・サイエンス誌ばかり読んでいるということか……。
そんな不信の言葉も、シャケナーはいつものように軽く受け流した。「可能性はいくつかあります。活発な想像力をもってそれらを追求すれば、次の衰微期までには、ぼくは数字≠味方につけられると確信してますよ」
さらに将軍がいった。「わかったでしょう、軍曹。個人的には、わたしもまだ疑問に思ってるわ。でも、だからといって見過ごせる問題でもない。たとえシャケナーの計画どおりにいかなくても、その失敗作が、大戦争で使われたどんな兵器よりも何千倍も強力な兵器になるかもしれないのよ」
「冬眠穴に流しこむ毒ガスより強力な?」
ビクトリー・スミスの話を聞いていると、外の嵐がなんでもない穏やかなものに思えてきた。ふいに将軍がじっとこちらを見ているのに気づいた。
「ええ、そうよ、軍曹。もっとひどいわ。主要な都市が、ものの数時間ですべて破壊しつくされるかもしれない」
シャケナーが座席から跳びあがるようにした。「最悪の場合だよ、最悪の場合! きみたち軍人はかならずそういうふうに考えるんだから。いいですか、アナービー。これから三十年かけて研究すれば、暗期がやってきても地下都市を――冬眠穴ではなく、目覚めた都市を――維持できるだけのエネルギー源を手にいれられるでしょう。そして最暗期になってもそのままやっていけるはずだ。地上の交通は、明期よりかえって楽になっているかもしれない」スポーツカーの窓に叩きつける雨をしめした。
「ああ、それに飛行機も話が簡単になっていいだろうな」
〈〈なにしろ、空気はすべて凍って地上に積もってるんだから〉〉しかしアナービーの皮肉は、自分でも弱々しく聞こえた。〈〈たしかにエネルギー源さえあれば、やれるかもしれない〉〉
アナービーの気持ちの変化は、外から見てもわかったようだ。シャケナーはにっこりした。
「わかってくれましたね! 五十年後にふりかえったら、どうしてこんな自明のことがわからなかったんだろうと思うはずです。暗期は、じつはほかの時期よりはるかに暮らしやすいんですよ」
「ああ」アナービーは身震いした。とんでもない神聖|冒漬《ぼうとく》かもしれないが――。「たしかに、もし実現したらすごいことだな。まだおれは納得したわけではないが」
「もし実現するとしても、かなりたいへんなはずよ」スミスはいった。「次の暗期までまだ三十年ある。原子力が――理論的には――うまくいくと考えている物理学者も何人かいる。でも、原子が発見されたのは五八//一〇年のことにすぎないのよ! わたしはこの計画を最高司令部に売りこんだわ。つぎこまれる費用を考えると、もし失敗したらわたしは馘《くび》ね。でも、シャケナーには悪いけど、わたしはなぜか、失敗してくれたほうがいいという気がするのよ」
彼女がこういう問題で保守的な立場を支持するのは不思議だと、アナービーは思った。
シャケナーがいった。「新世界発見にも比肩《ひけん》することなんだぞ!」
「ちがうわ! いまある世界をもう一度征服するだけよ。シャケナー、わたしたち軍人がいつも無視しているという最良の<Vナリオを、もう一度考えてみて。科学者たちの研究が進み、十年後には――遅くとも六〇//二〇年までには――原子力発電所の建設にとりかかれるとしましょう。あなたのいう、暗期都市≠フためにね。たとえほかの国が原子力を自力で発見していなくても、こんな大規模な建設事業を隠しとおすことはできないわ。だから、たとえ戦争を起こす原因がなくても、軍備拡張競争が起きる。それは大戦争よりひどいことになるはずよ」
アナービーはいった。「ああ、まさにそうですね。暗期を最初に制した者が、世界を制する」
「そうよ」スミスはいった。「そういう情況のなかで王家が個人の所有権を尊重するかどうかは、まだよくわからない。でも、かわりにキンドレッド国のような連中が暗期を征服したら、世界は奴隷となって目覚めるか、あるいは永遠に目覚めないか、どちらかになるはずよ」
アナービーが軍を辞《や》めたのは、まさにそういう悪夢にさいなまれはじめたからだった。
「命令にそむくつもりはないのですが、このアイデアをお蔵入りにするという考えはないんですか?」そしてシャケナーのほうに皮肉っぽく手をふった。「おまえももっとほかのことを考えればいいんだ」
「それは軍人としての考え方ではないわね。でもたしかに、わたしもこの研究を中止することは考えたわ。シャケナーさえ口をつぐんでいてくれれば、それでいいのよ。どこかの国がおなじ研究を先にはじめたりしないかぎり、今度の暗期がだれかに乗っ取られる心配はない。この理論が実行に移されるのは何世代も先になるでしょう――一部の物理学者はそう考えているわ」
「でも、実際には――」シャケナーが口をはさんだ。「あとは工学的な技術開発だけなんだよ。ぼくらが手をつけなくても、十五年か二十年後には原子力は大きな話題になっているだろう。そのときからでは、原子力発電所や密閉された地下都市を開発するには遅い。暗期を征服するのはもう無理だ。となると、原子力の残された利用方法は兵器としてだけになる。ハランクナー、あなたはラジウムのことをいっていたけど、戦争用の毒物兵器としてそれがどれだけすごい破壊力をもつと思いますか? ちょっと考えただけでもこれくらいは思いつく。ようするに、ぼくらが研究をやろうとやるまいと、文明は危機にさらされるんです。ぼくらがすべてを手がければ、すくなくとも平和利用の道はひらける。文明が暗期を乗りきるというかたちでね」
スミスは、不愉快ながら同意するというように手をふった。どうやら二人のあいだでは何度もくりかえされた議論らしい。ビクトリー・スミスはシャケナーの計画に引きこまれ――その推進を最高司令部に認めさせたのだ。
これからの三十年は、ハランクナー・アナービーが想像もできないほどめまぐるしい時代になりそうだ。
その日もかなり遅くなって、一行は山あいの集落にたどり着いた。嵐のなかで、最後の三時間に進んだ距離はわずかに二十マイルだ。小さな村まであと二マイルほどになったところで、空は晴れた。
ナイトディープネス村は、新生期も五年めにはいってほぼ再建されていた。石づくりの基礎部分は、最初の灼熱《しゃくねつ》地獄と、すさまじい速さで流れくだる洪水にも耐えていた。何世代もまえからつづく暗期明けの習慣で、村人たちは森に最初にはえる堅い皮をかぶった若木を使って、住まいや店や小学校の一階の床を張っていた。六〇//一〇年頃にはもうすこしちゃんとした木《き》板が出回るようになって、二階や、教会などでは三階の床も張れるようになるだろう。しかしいまは、どの建物も低く緑色をしている。短い円錐形の木材を使っているために、外壁は鱗《うろこ》模様になっていた。
シャケナーは、街道ぞいにあるケロシン給油所では止まらず先へ進むように主張した。
「もっといいところを知ってるから」
そして運転するスミスに細い旧道を教えた。
全員が窓をあけた。雨はやんでおり、乾いた、涼しくさえ感じる風が流れこんだ。たれこめた雲に切れ間があらわれ、そこから日差しを浴びる雲の上層がのぞけた。しかし光は、昼間の重苦しい灼熱のかまどのようなそれではない。太陽は沈みかけているのだろう。渦巻く雲は赤やオレンジやアルファ格子縞色に明るく輝き、そのむこうには青や紫外色の澄んだ空が見えた。明るい光が、通りや建物やそのむこうの山裾に点々と散っている。まるでシュールレアリストの画家が描いた風景のようだ。
あった。砂利《じゃり》道の奥に低い納屋《なや》と、ケロシンポンプを一基だけおいた給油所が見えてきた。
「ここがもっといいところ≠ネのか、シャケナー?」アナービーが訊いた。
「まあ……もっと興味深くはありますよ」シャケナーはドアをあけ、座席から跳び降りた。「あの男は、ぼくのことを憶えてるかなあ」
身体《からだ》の凝《こ》りをほぐすために、車のわきを行ったり来たりしはじめた。長いこと車のなかにすわっていたせいで、身体の震えがいつもよりひどい。
スミスとアナービーも外に出た。しばらくして納屋から、工具袋を腰に提《さ》げた、店の太った主人が出てきた。うしろから二人の子どもがついてきている。
「満タンかね、おじいさん」男はいった。
シャケナーは笑顔をむけ、年齢については訂正しようとしなかった。
「ああ、頼むよ」
あとについてポンプのところへ行った。空はさらに明るくなり、空の青さと夕日の赤い色が地上を明るく照らしはじめている。
「ぼくのことを憶えてるかい? 暗期のすこしまえに赤い大きなレルマイヒに乗ってここを通りかかったことがある。当時のあんたは鍛冶《かじ》屋をやっていたね」
店の主人は立ち止まり、シャケナーをじっと見た。「レルマイヒは憶えてるが」
五歳の二人の子どもは父親のむこう側に隠れ、このへんな客を観察している。
「あれからずいぶん変わったものだね」
シャケナーがなにを話しているのか、はじめ主人はわからないようすだったが、しばらくすると、まるでむかしからの友人のように昔話をはじめた。たしかに主人は、これから普及するであろう自動車が大好きで、鍛冶屋は廃業していた。シャケナーはずっとむかしにやってもらった仕事について礼をいい、表通りにケロシン給油所ができていてたいへんだねといった。元鍛冶屋は、あっちの店は修理の腕はよくないはずだといい、最近のプリンストン市では通りぞいの広告看板はどんなふうに出しているのかと尋ねた。スミスの護衛班が道のむこう側の空《あ》き地に車を停《と》めたが、店の主人はほとんど気づいたようすもない。どうやらシャケナー・アンダーヒルは、相手の話にあわせて該博な知識の出し方を調節し、だれとでも仲よくなる才能があるらしかった。
そのあいだにスミスは道を渡って、護衛班の班長である大尉と話をした。シャケナーがケロシンの代金を払った頃に、スミスももどってきた。
「困ったわ。ランズコマンド市の観測によると、深夜にかけてもっとひどい嵐が来そうなの。わたしが初めて自分の車で出かけたときにかぎって、天気が悪くなるのね」
スミスは怒っている声だが、それはたいてい自分に対して腹をたてているという意味だ。全員が車のなかにもどり、スミスは点火モーターをまわした。二度。三度。しかしエンジンがかからない。
「ここでひと晩すごすしかなさそうね」スミスは気が抜けたようにじっとすわっていた。あるいは南の空を見ているのか。「この村の西に王家の土地があるはずよ」
スミスの運転する車は砂利道を行き、さらに泥だらけの道にはいっていった。アナービーはスミスが道に迷ったのかと思いかけたが、そのわりには一度もためらったり引き返したりはしなかった。うしろからは護衛班の車両が、まるでオスプレッチ獣の隊列のように控えめについてくる。泥道はしだいに細くなり、海を見晴らす高台に出たところで消えていた。三方が急傾斜の崖になった岬《みさき》だ。ここもいつかは丈高《たけたか》い森におおわれるのだろうが、無数にはえた堅い皮の若木も、いまはまだむきだしの岩がならぶ崖を隠してはいなかった。
スミスはその突端《とったん》で車を停め、座席に背中をもたせかけた。「ごめんなさい。どうも……道をまちがえたみたいだわ」そして護衛班の先頭車両にむかって、こちらまでくるよう手をふった。
アナービーは海と空を眺めた。ときには道をまちがえるのもいいものだ。「かまいませんよ。こいつは絶景だ」
雲の切れ間がまるで深い渓谷《けいこく》のように見える。そこから差しこんでくる光は、夕日のためにまばゆい赤と赤外色に染まっている。まわりの木々の葉についた水滴が、無数のルビーのようにきらめいている。アナービーは車から降りて、岬の突端にむかって若木のあいだを歩きだした。森の下生《したば》えは濡れたスポンジのようになっていて、足首まで沈んだ。しばらくするとシャケナーもやってきた。
海からの風は湿ってひんやりしている。嵐が近いのは、気象局に訊かなくてもわかった。アナービーは海を見おろした。波打ちぎわまでの距離は三マイルもない。太陽のこの時期にこれ以上近づくのは危険だ。ここからでも乱流が見えるし、ごうごうという音が聞こえる。
波打ちぎわのすこしむこうには、暗礁に乗りあげた氷山が三つそびえていた。さらにそこから水平線までのあいだには、何百という氷山が漂っている。甦《よみがえ》った太陽が吹きつける炎と大地の氷は、こうして永遠の戦いをくりひろげているのだ。しかしこの戦いに決着がつくことはない。最後の氷が浮かびあがって解けるまであと二十年かかるはずだが、その頃には太陽も衰微期にはいっているのだ。この壮大な眺めのまえでは、シャケナーさえ口数少なくなっていた。
ビクトリー・スミスも車を降りていたが、二人のほうへは来ないで、岬の南側のふちを歩いてもどっていた。
〈〈将軍もかわいそうに。この旅を楽しむべきか、仕事として先を急ぐべきか決めかねているんだ〉〉アナービーとしては、ランズコマンド市まで一足《いっそく》飛びに着いてしまわないほうがむしろよかった。
二人はスミスのほうへもどった。岬のこちら側は小さな谷になっており、むこう側の高台には建物らしいものが見える。小さな宿屋のようだ。スミスは岬の上層の岩盤が欠けて、傾斜がそれほど急でないところの上に立っていた。かつては道がここから小さな谷にくだり、むこう側の高台まであがっていたのだろう。
シャケナーは妻のかたわらに立って、左の数本の腕をその肩にかけた。スミスはしばらくして二本の腕をそちらにまわしたが、なにもいわなかった。アナービーは崖のふちに近づいて下をのぞきこんでみた。道路の痕跡《こんせき》が下までつづいているが、谷底は新生期の嵐と洪水によって大きく削りとられている。きれいさっぱり生まれ変わった谷だ。
「あはは、車ではどうしたって降りられないよ、将軍。道が洗い流されてる」シャケナーはいった。
ビクトリー・スミスはしばらく黙っていた。「ええ。洗い流されてるわ。それでよかったのかも……」
「谷底を歩いて渡って、むこう側へ登るという手もあるよ」谷のむこうの高台に立つ宿屋を一本の手でしめした。「もしかしたらエンクリア夫人が――」
ビクトリーが彼にまわした腕にさっと力をこめた。「やめて。あそこにわたしたち三人が泊まれるほどの広さはないわ。護衛班といっしょに野宿しましょう」
しばらくして、シャケナーは軽い笑い声をたてた。「……ぼくはかまわないよ。最新の自動車のなかでの野宿がどんなものか、興味があるからね」
彼らはスミスのあとについて小径《こみち》をもどっていった。車のわきまで来たときには、シャケナーはいつもの調子にもどっていた――新生期の嵐にも耐えられる軽量テントのアイデアを披露《ひろう》しはじめていた。
15
トマス・ナウは寝室の窓に立って外を眺めていた。実際には、部屋は第一ダイヤモンド塊の表面から五十メートル内部につくられているのだが、窓にはハマーフェスト棟最上部の尖塔《せんとう》からの映像がうつされていた。この居室は、再発火のあとからすこしずつ上等になっていた。切り出されたダイヤモンドの板は、ちょうどいい壁材として使われた。生き残った専門職人が昼夜を徹して、研磨《けんま》したり、切《き》り子《こ》面を刻んだり、ナウが故郷で所有しているものにひけをとらない精巧な帯状装飾を彫ったりしている。
ハマーフェスト棟のまわりの地面はたいらに均《なら》され、第二ダイヤモンド塊の鉱石の山からとりだされた金属をタイル状に成形したものが敷かれている。ハマーフェスト棟でいちばん高い尖塔だけが日射のなかに突き出るように、岩石群のむきは調節されていた。昨年あたりまでそんな注意は不要だったのだが、つねに影のなかにいれば、氷を遮蔽材として使ったり、一部では接着剤として使ったりできるのだ。
アラクナ星は空のなかほどにかかっていた。視角にして約〇・五度の大きさの、青と白の明るい円盤だ。その光が明るくやさしく、ナウの城の敷地を照らしている。再発火から数メガ秒の地獄が信じられないほどの静けさだ。この平穏で美しい眺めをつくりだすために、ナウは五年をかけたのだ。
五年……。あと何年ここにとどまらなくてはならないのだろう。専門技術者の見積もりでは、短くても三、四十年だ。とにかく蜘蛛《くも》族がいつまでに産業経済を築きあげてくれるかに、すべてはかかっている。こんなことになるとは思いもしなかった。孤立生活は覚悟していたが、バラクリア星で考えていた計画とはまったく異なるかたちになってしまった。
当初の遠征計画は、もうすこし性格の異なる冒険だった。故郷の政治体制のなかではげしさを増す権謀術数から二百年ほどのがれ、財産権を不当に侵害する輩《やから》のいないところで資産を増やす機会であり、またそれとはべつに、宇宙旅行をおこなう非人類系種族の秘密を知るまたとないチャンスでもあった。
しかしチェンホーに先を越されるとは、予想していなかった。
チェンホーから学んだ知識は、バラクリア星のエマージェント文明の核をなしている。トマス・ナウもずっとチェンホーを研究してきた。しかしこの行商人たちがどれだけ異質な連中か、実際に相《あい》まみえるまではわかっていなかった。彼らの船団は考え方が軟弱で青臭かった。時限発症型の精神腐敗病に感染させるのはいとも簡単だったし、奇襲攻撃を準備するのもたやすかった。しかし実際に攻撃をはじめてみると、行商人どもは猛烈に反撃してきた。あらかじめ用意していたとしか思えない予想外の攻撃を数多く浴びせられた。彼らの旗艦は、戦闘開始から百秒後には破壊されたが、それは敵の反撃の火にかえって油をそそいだようだった。最後は精神腐敗病が行商人どもをすべて黙らせたが、そのときには両船団はずたずたになっていた。
そして戦闘のあとには、第二の誤算が待っていた。精神腐敗病を使ってチェンホーを殺すことはできたが、その多くは精神を消去することも、集中化させることもできなかったのだ。個別の尋問を試みたが、結果は惨憺《さんたん》たるありさまだった。しかし最終的にナウは、この大きなつまずきを逆に利用して、生き残った両船団を団結させることに成功した。
つまりハマーフェスト棟の屋根裏部屋≠焉A集中化クリニックも、豪華|絢爛《けんらん》な内装も――すべて廃船となった星間船からとりだしてきたものだ。船のあちこちにはまだ使える高度な技術の産物がいろいろと残されていた。しかし残りはすべて、岩石群に積みあげられた資源によるしかない――そして蜘蛛族の文明が花ひらくのを待つしかない。
三、四十年……。それならもちこたえられる。生き延びた人員を収容するだけの冷凍睡眠|棺《ひつぎ》はあるのだ。いまのおもな仕事は、蜘蛛族の言語と歴史と文化を研究することだった。
なにしろ数十年という待ち時間があるので、船団内では当直の者が数メガ秒にわたって任務についたら、一、二年は冷凍睡眠にはいるというふうに、分担して仕事をこなしていた。しかし翻訳者や科学者のような一部の職員は各当直期間が長めに設定されているし、逆にパイロットや戦略担当の職員は、はじめの頃はほとんど用がなく、待ち時間の最後のほうでは継続して任務にあたるようになっていた。ナウはこのような時間割りをすべて、両船団の乗組員を集めた場で説明していた。説明した内容のほとんどは真実だ。チェンホーはこのような作戦に慣れていて、平均的な職員はこの孤立生活の期間に、主観時間で十年から十二年ほどを費やすだけだろう。
そのあいだに、ナウは行商人どもの船団ライブラリを略奪するつもりだった。チェンホーがこれまでに得た知識をすべてこちらのものにするのだ。
ナウは窓の表面に手をおいた。壁に張られたカーペットとおなじくらいに温かい。疫病の名にかけて、チェンホーの壁紙はたいした代物《しろもの》だ。なにしろ横からのぞきこんでもまったく歪《ゆが》みがないのだから。ナウは軽く笑った。孤立生活のあいだ、行商人の組織を運営するのは案外簡単だった。なにしろナウが提案した任務の時間割りに対して、わざわざむこうから経験をもとにした助言をよこしたのだ。
しかし自分は……。
ナウはつかのま、自分をあわれむ気持ちにとらわれた。最後に全員をふたたび目覚めさせるときまで、信頼できる有能な者がここで当直についていなくてはならない。それができる人間は、トマス・ナウ自身しかいないのだ。
リッツァー・ブルーゲルにまかせたら、あのばかは貴重な資源を浪費してしまうだろう。あるいはナウを殺そうと躍起《やっき》になるか。アン・レナルトにまかせたら、数年は信頼できても、不測の事態が起きたときにどうなるかわからない……。まあ、チェンホーは完全におとなしくなっているようだし、個別尋問の結果からすると、もはや大きな秘密はなにもなさそうだ。しかしもしチェンホーがふたたび陰謀をくわだてたら、レナルトでは対処できないだろう。
つまり、ここで勝利の日を迎えるときには、トマス・ナウは百歳になっているはずだ。バラクリア星の標準では中年にあたる。ナウはため息をついた。それはそれでいい。いまはチェンホーの医療技術が手にはいったので、肉体年齢についてはその失った時間以上を補《おぎな》える。そして――
そのとき部屋が振動し、ごくかすかな地鳴りが聞こえた。壁にふれた手をつたって振動がナウの骨を震わせた。この四十キロ秒で三度めの岩石地震だ。
部屋の反対側にあるベッドで、行商人の娘が身動きした。
「なに?」
キウィ・リン・リゾレットは眠りから覚め、動いたせいでベッドから軽く浮かびあがった。彼女は岩石群の配置を安定させる仕事をひきつづき担当しており、いまも三日近くぶっつづけで働いたあとだった。寝ぼけまなこでまわりを見ている。なにが原因で目が覚めたのかもわかっていないようだ。窓ぎわに立つナウを見ると、同情的な笑みを浮かべた。
「ああ、トマス。まだわたしたちのことが心配で眠れないの?」
キウィは慰《なぐさ》めるように手をのばした。ナウは照れくさそうに笑みを浮かべ、うなずいた。まあ、彼女のいうことは、あたらずといえども遠からずなのだ。ナウはそちらへ泳いでいき、キウィの背後の壁に片手をついて止まった。浮かんでいるその身体《からだ》にキウィが腕を巻きつけ、二人はゆっくりと下のベッドへ沈んでいった。ナウが彼女の腰に腕をすべりこませると、キウィの力強い脚がからみついてきた。
「あなたはやれるだけのことをやってるわ、トマス。だから、がんばりすぎないで。そのうちなんとかなるわよ」
キウィの手がナウのうなじにかかった髪をなでた。そのとき、ナウはキウィの身体が震えるのを感じた。不安がっているのは、むしろキウィなのだ。自分たちが生き延びられる可能性を一パーセントでも高められるなら、死ぬまで働こうとしている。二人はそのまましばらく黙って宙を漂っていたが、やがて弱い重力によって、ベッドがわりの薄いレースの膜の上に降りていった。
ナウがその脇腹をやさしくなでていると、やがてキウィの不安はおさまっていった。この遠征では不測の事態がいろいろと起きたが、このキウィ・リン・リゾレットは小さな勝利のひとつにかぞえていいだろう。ナウがチェンホー船団を制圧したとき、彼女は十四歳の早熟で、純情で、わがままな娘だった。精神腐敗病には感染している。集中化処理にかけようと思えばかけられる。そうやって、寝室の慰みものにすることも考えた。〈〈そうしなくて本当によかった〉〉
はじめの二年ほど、娘はこの部屋でほとんどずっと泣いていた。母親をディエムに殺された≠アとで、キウィは最初の思想転向者になった。ナウは何メガ秒もかけて娘を慰めた。はじめはたんに敵対者を説《と》き伏せるための手練手管《てれんてくだ》を使っているだけだった。キウィをそばにつけることによってほかの行商人どもの信頼を獲得するという副次的効果も、もちろん狙っていた。
しかし時間がたつにつれて、この娘は予想以上に危険で、また利用価値があることにナウは気づきはじめた。
キウィはトライランド星からの航海中に、その子ども時代の大半を費やす連続当直をしていた。そして孤独な生活のなかで、ほとんど集中化されているのとおなじくらいの熱心さでもって、建築工学や、生命維持技術や、交易実務などを勉強していた。ずいぶん奇妙な話だ。どうしてこの子だけがそんな特別な扱いを受けたのか。チェンホーを構成する多くの家系もそうだが、リゾレット家にもまた家系伝来の秘儀があり、独特の習慣がある。尋問にさいしてキウィの母親から引き出した話によると、リゾレット家では家長になるべき娘に、星間空間航行中に帝王学をまなばせるのだという。
もしキラ・ペン・リゾレットの計画どおりになっていたら、この娘は母親に対する忠誠心に完全に支配され、こちらの組織内にいながらも母親の指示を待ちつづける心理状態になっていただろう。
しかし事情がわかったいまでは、この娘はトマス・ナウの目的にちょうどよかった。若く、才能があり、忠誠心を捧げる相手を強く求めている。ナウは彼女を冷凍睡眠にはいれず、自分とおなじようにずっと目覚めさせておいた。これからもいい話し相手になってくれるだろう――また、ナウの計画の完全性をためす試金石《しきんせき》にもなる。キウィは頭がよく、その人格のかなりの部分はまだ独立性をたもっているのだ。いまこの瞬間にもなにかの手ちがいが起きて、彼女の母親とほかの仲間たちの身になにが起きたかという真相が発覚してしまわないともかぎらない。
そういう意味で、キウィをそばにおいておくのは、遊園地のスリリングな遊具に乗っているようなものであり、度胸試しだ。しかしすくなくとも、いまある危険を認識し、予防策をとるという役には立つ。
「トマス」キウィはまっすぐ彼を見つめた。「本当にいつかわたしはこの岩石群を安定させられるかしら」
まあ、そういうことを心配してくれている分にはとても都合がいい。ここですべき返事は、相手への脅《おど》しでも、失望させることでもない。しかしそんなことは、とてもリッツァー・ブルーゲルには――それどころか若い頃のトマス・ナウにも――わからないだろう。
「ああ。きみはなにか方法を考えつくだろうし、わたしたちもなにか考えつくだろう。ここで何日か休みをとりなさい。いいね? この当直シフトではトリンリが冷凍睡眠から目覚めている。岩石群のバランスはしばらくあのじいさんにまかせればいい」
キウィは外見よりさらに幼い笑い声をたてた。「ああ、そうね。あのファム・トリンリにね!」ジミー・ディエムの共謀者のなかではこの老人に対してだけ、キウィは怒りよりも軽蔑の念を強くもっているのだ。「このまえあいつがバランスを調整しようとしたときのことを憶えてる? 偉そうなことをいっていたくせに、いざとなったらびくびくしてなにもできやしない。そのうち岩石群全体が秒速三メートルでL1からはずれはじめたわ。トリンリはそれを修正しようとして、やりすぎて――」
また笑いだした。この行商人の娘が笑いだすきっかけはよくわからない。ナウにとっては謎のひとつだった。
キウィはしばらく黙っていたが、今度は領督《りょうとく》を驚かせることをいった。
「ええ……たしかにそうかもね。四日間だけだったら、あのトリンリにもまかせられる程度に準備できるかもしれない。一歩退《さ》がって考えてみたいのよ。塊《かたまり》どうしを氷で接着したほうがいいのかもしれない……。それに、この当直シフトではパパも起きてるから、すこし話をしにいってみるわ」
そして、もの問いたげにナウのほうを見た。休暇を許可するといってほしいらしい。
〈〈おやおや〉〉どうやらキウィに対する心理操作は思ったほどうまくいっていないらしい。彼女が休暇の提案を拒否するほうに、愚人《ぐじん》を三人賭けてもいいと思っていたのだが。〈〈まだ引きとめることはできる〉〉しかし同時に、キウィに恥をかかせることにはためらいもあった。やはり今回は好きにさせよう。〈〈引きとめないのなら、心から寛大に許可してやるべきだ〉〉
ナウは彼女を抱きよせた。「もちろんだとも! きみももっと楽しむことを学んだほうがいい」
キウィはため息をつき、わずかにいたずらっぽい笑みを浮かべた。「ええ、そうね。でも、それならもう学んでるわ」
そしてキウィは下に手をのばした。二人はそれからしばらくなにも話さなかった。キウィ・リゾレットはまだ不器用な十代の少女だが、いろいろなことを覚えはじめている。トマス・ナウから見れば、教える時間は何年もある。キラ・ペン・リゾレットにはそれほどの時間はなかったし、すでに強情な大人だった。ナウはそんなことを思い出しながら、にやりとした。ああ、そうだ。それぞれ異なるかたちでだが、この母娘《おやこ》はとても役に立つ。
アリ・リンは、リゾレット家の生まれではない。キラ・ペン・リゾレヅトの婿《むこ》として迎えられていた。アリは、公園と生きものにかけては一兆人に一人の天才だ。そしてキウィの父親でもある。キラやキウィのような才能はもちあわせていないが、それでも母娘はアリをとても愛していた。
アリ・リンはエマージェントにとって重要な人材だ。おそらく集中化人材のなかでもっとも重要だっただろう。ハマーフェスト棟の狭苦しい屋根裏部屋以外に仕事場をあたえられる者はごく少数だったし、アン・レナルトやその配下の管理職員による継続的な監視を受けていない者もごく少数だったが、アリはそのどちらにも該当した。
キウィはその父親といっしょに、チェンホーの公園の木立で梢《こずえ》の上にすわって、虫を相手に時間と手間のかかる作業をやっていた。キウィは十キロ秒前からここに来ていて、父親はもっとまえからいた。
アリはごみ集め蜘蛛の新しい系統を育成しているのだが、キウィはそれに対するDNAの変異操作をまかされていた。いまはその作業をすっかりまかされ、数キロ秒ごとにアリの点検を受けるだけだった。アリはあまった時間で、葉のようすをこまかく調べたり、アン・レナルトから命じられた任務をどうやってこなそうかと、宙に視線を漂わせながら黙考していた。
キウィは足もとに目をやり、公園の地面を見た。植えられているのは花をつけるアマンドール木で、アリ・リンのような職人たちが微小重力環境にあわせて何千年にもわたって改良してきた種類だ。葉のついた枝はねじれながらしなだれ、しかも枝分かれしていくので、影になった下≠ゥらは二人のいる高い止まり木はのぞけない。
重力がなくても、青空の位置と枝のむきから、公園にはいってきた人にはわずかながら上下の感覚をもてるようになっていた。ここに棲《す》んでいるいちばん大きな動物は蝶と蜂だ。キウィには蜂の羽音《はおと》が聞こえ、ときおり弾丸のように飛んでいく姿も見えた。蝶はどこにでもいる。微小重力適応型の変種であるこれらの昆虫は、太陽をその位置感覚の基準にしているので、その飛行する姿からも公園の訪問者は心理的な上下感覚を得るようになっていた。
いま公園にはほかに人影はない。おもてむきは整備のために閉鎖されているのだ。罪のない嘘といったところだが、そのためにキウィがトマス・ナウから叱られる心配はなかった。もともとこの公園は訪れる人が多すぎるのだ。すくなくともエマージェントは、チェンホーとおなじくらいに公園が好きだった。あまりに人の出入りが多すぎるせいで、生態系が支障をきたしはじめているのをキウィは感じていた。小さなごみ集め蜘蛛だけでは処理が追いつかなくなっているのだ。
キウィは父親の無表情な顔を見て、笑みを浮かべた。たしかにある意味で、メンテナンスが必要な時期のようだ。
「これがいちばん新しい変異よ。こんな感じでどうかしら、パパ」
「ふーん」アリは自分の仕事に一心に打ちこんでいる。そしてやっと聞こえたように顔をあげた。「そうか。じゃあ見せてもらおうか、キウィ」
キウィはリストを渡した。「見て。こことここよ。求めるパターンが一致してるでしょう。成虫の円盤状組織はパパの希望どおりに変わるはずよ」
父親は個体数の制限をはずすことなく、代謝効率だけを高めようと考えていた。この公園には昆虫の天敵となるバクテリアはいないので、生存競争の要素は遺伝子のなかに組みこまれているのだ。
アリはリストを娘の手からとった。そしてやさしく微笑んだが、娘のほうを見ているようでもあり、見ていないようでもあった。
「よし。乗数《じょうすう》効果をうまく使ったな」
そういう言葉を聞くと、キウィ・リン・リゾレットのなかではむかしの記憶が甦《よみがえ》った。九歳から十四歳までは、リゾレット家伝統の学習期間だ。孤独な期間だが、母親の説明には納得していた。キウィは星間空間を孤独に旅することで学び、成長するために、わざわざここへ連れてこられたのだ。父親の専門である生命維持システムについて学び、母親の建設作業を可能にしている精密な機械工学を学んだ。とりわけ、ほかの人々が目覚めている期間に、彼らにまとわりつく楽しみを覚えた。両親はこの期間のうちそれぞれ数年ずつ冷凍睡眠から目覚めて、キウィやほかの技術者といっしょに維持管理任務をこなした。
しかしその母親はいまは死に、父親は集中化されて、生態系の維持管理というひとつの任務に全身全霊をささげている。しかし集中化されていても、キウィはまだ父親と話すことができた。武力衝突からこれまでの数年、二人は共通の当直シフトのときに何メガ秒もここですごした。キウィはいままでどおりに父親から学ぶことができた。そして、多くの種が複雑にからみあって安定状態をたもっている生態系の奥深くに分けいっていると、以前とすこしも変わっていないような気がすることさえあった。キウィが子どもの頃、父親は生きものに対する情熱にわれを忘れ、娘の存在さえ忘れてしまうことがよくあった。そうやって二人とも、自分たちよりはるかに大きな驚異の世界にのみこまれていったのだ。
キウィはDNA変異を調べながらも、父親のほうをじっと観察していた。アリはごみ集め蜘蛛のプロジェクトについて、すくなくとも自分の仕事はほぼ終えていた。長い経験から、集中化された脳が次の対象を探しているわずかな時間を狙えば、アリ・リンの注意をこちらにむけられることがわかっている。キウィは小さく微笑んだ。
〈〈わたしもべつのプロ。シェクトをもってきたのよ〉〉
それはレナルトやトマスが父親に命じるようなものに近い。だからうまくやれば、父親の注意をこちらに引きつけられるはずだった。
〈〈いまだ〉〉
アリ・リンはすこし息をついて、満足げにまわりの枝や葉を眺めはじめた。許される時間は五十秒ほどのはずだ。キウィはすわっていた枝から下へ降りて、つま先で姿勢を確保しながら、こっそりもちこんだ盆栽球をとりだして父親に見せた。
「これを憶えてる、パパ? とても小さな公園よ」
父親はその言葉を無視しなかった。ふつうの人とおなじようにさっと娘のほうをむくと、透明なプラスチックの球を見て、目を丸くした。
「もちろんさ! 光以外は完全に自給自足の生態系だ」
キウィは父親の手のほうへ球を押し出した。飛行中のラムスクープ船の窮屈《きゅうくつ》な環境のなかでは、盆栽球はよくつくられる。ただの苔《こけ》の塊から、この仮設舎の公園くらい複雑なものまでさまざまなレベルがある。
キウィはいった。「これはわたしたちが取り組んでいる問題にくらべるとすこし小さいわ。パパの解決策がこのなかでうまく働くかどうかわからないんだけど」
かつてのアリに対してはプライドに訴えかけるやり方が、愛情に訴えかけるのとおなじくらい効果的だった。いまはちょうどいいタイミングで父親の気持ちをつかまえなくてはならない。アリは球のなかをのぞきこみ、両手のなかでその規模を感じとろうとしていた。
「いやいや! うまくいくとも。わたしが考え出した方法はかなり強力なんだ……。小さな湖をつくってもいいかな? たいらに広がるように脂質《ししつ》を材料にして」
キウィはうなずいた。
「そしてこのごみ集め蜘蛛をいれる。体形を小さくして、きれいな色の翅《はね》をもたせよう」
「そうね」
レナルトはアリにごみ集め蜘蛛のプロジェクトをもっと進めるよう命じるだろう。この中央公園だけでなく、ほかのところでもそれが必要なのだ。戦闘では多くのものが破壊された。アリの仕事がうまくいけば、生き残ったすべての施設に小規模な生命維持モジュールを埋めこむことができる。ふつうならチェンホーの専門家が数人がかりで、船団のデータベースを奥深くまであさらなくてはならないような大仕事なのだがアリは集中化されていて、しかももともと天才だ。数メガ秒もあれば、一人でそれを設計できるはずだ。
あとは正しい構想へむかってひと押ししてやればいいだけなのに、アン・レナルトのようなとりすましたおばさんには、なかなかそれができないのだ。だから――
アリ・リンの顔がふいに満面の笑みに変わった。「ナムケム星系のハイトレジャーズ居住棟のを上まわる作品をつくれるぞ。ほら、濾過《ろか》網はまっすぐ張れる。藪《やぶ》は標準か、おまえがつくった変異種の虫をいれるためにすこし小さくしたほうがいいかもしれない」
「そうね。そうよ」キウィはいった。
そうやって数百秒は会話らしい会話がつづいたが、やがてアリの意識は問題に強く惹きつけられていき、そのちょっとした変更≠ェ実際にできるかどうかを真剣に検討しはじめた。最大の難関はバクテリアとミトコンドリアのレベルなので、キウィの手にはとても負えないのだ。彼女はにっこりして、もうすこしで父親の肩に手をかけそうになった。母親も誇らしく思ってくれるだろう。アリの考え出した製法はまったく新しいものかもしれない――すくなくとも、歴史的データベースのわかりやすい場所には載っていないはずだ。うまくすると、非常に高度な微小公園ができるかもしれない。そこまでは期待してもいなかったのに。
ハイトレジャー産の盆栽は、大きさもこれとほぼおなじ直径三十センチほどだ。なかには二百年ももつものがある。動物と植物の生態系をもち、擬似的な進化さえするのだ。その製法は知的所有物として保護されており、チェンホーでもすべてを買うことはできなかった。遠征隊のかぎられた資源だけでそんなものをつくるのは奇跡に近い。もし父親がそれを上まわるものをつくれるとしたら……。
〈〈それはなかなかいいわね〉〉
トマスをふくめてほとんどの人は、キウィが軍人である母親にならって戦闘員として育てられたと思っている。しかしそうではない。リゾレット家はチェンホーの一員なのだ。戦闘の優先順位は遠く引き離された二位でしかない。たしかに戦闘についてそれなりの勉強はしているし、ほかがすべて手詰まりになったとき≠ノどうすべきかは、十年も二十年もかけてしっかり学ぶべきだと母親はいっていた。しかしそれらはすべて、商売のためなのだ。商売をして利益をあげるのが第一だ。
だからチェンホーは、あえてエマージェントに主導権を譲《ゆず》り渡したのだ。しかしトマスは誠実な人間だった――そして想像を絶するほど困難な役割を背負っていた。そんなトマスに、キウィは両船団が生き延びられるように全面的に協力してきた。トマスは、自分たちの文化がチェンホーによってひっかきまわされるのを見ながら、いまはなにもできなかった。実際には、トマスが理解しようとすまいと関係ないのだ。キウィは、空洞になったプラスチック球を見て笑みを浮かべ、そのなかに父親のつくった世界が充《み》ちるさまを想像した。文明のある場所では、最高級の盆栽は星間船一隻分の値段で取り引きされることもあるのだが、ここではどうだろう。
まあ、当面はこっそりやるしかないだろう。役に立たないものであるのはたしかだし、おそらくトマスは認めないはずだ。物資の退蔵《たいそう》や、奉仕行為を媒介にした取り引きは禁止されている。
〈〈やれやれ、しばらくは彼の目を盗んでやるしかなさそうね〉〉
事後承認を得るほうがよほど簡単なはずだ。エマージェントがチェンホーを変えるのではなく、最後はチェンホーがエマージェントの暮らしを変えていくにちがいない。
新しいDNA変異を手がけはじめたとき、下のほうでなにかを引き裂くような音がした。葉の茂みに隠れたあたりだ。しばらくキウィはそれがなんの音かわからなかった。
〈〈床の点検口だわ〉〉本来は建設時にのみ使用するものだ。完成後に開閉したら苔の層を破いてしまう。〈〈なんてことを〉〉
キウィは枝から身体を振り離した。小枝を折ったり、下に影をうつしたりしないように気をつけながら、静かに降りていった。閉鎖中ということになっている公園に勝手にはいってくるのは、まあ、迷惑という程度のことでしかない。それどころかキウィも平気でやっただろう。
しかし床の点検口を使うなんて、冗談じゃない。公園の雰囲気がぶち壊しになるし、下生《したば》えも傷む。こんなことをするなんて、どこのばか野郎だ。エマージェントはおもてむきのルールや規則にいちいちこだわるはずなのに。
キウィは木のいちばん下の枝まで降りて、そこで止まった。侵入者はすぐに姿をあらわすはずだが、声はすでに聞こえていた。リッツァー・ブルーゲルだ。
副領督は苔のあいだから出てきて、藪のなかのなにかを叩きながら悪態をついている。この男は本当に口が悪い。キウィはそういう薄ぎたない言葉に興味をもっていて、ブルーゲルのしゃべり方を観察したことがあった。ブルーゲルはエマージェント船団でナウにつぐ権力者だが、それは同時に、エマージェントの指導者は低能ぞろいなのではという疑いをいだかせた。トマスはこの男が厄介者だとわかっているらしく、副領督の部屋を、岩石群上をすこし離れたインビジブルハンド号の船内においていた。さらにブルーゲルの当直シフトも一般の乗組員とおなじ周期にしていた。トマスが遠征隊の安全を守るために一年ずつ確実に齢《とし》をとっているのに、ブルーゲルは四十メガ秒ごとに十メガ秒だけしか冷凍睡眠から出てこないのだ。
〈〈もしこいつが信頼して仕事をまかせられるやつだったら、トマスはこんなふうにみんなより先にどんどん年をとらなくてもすむのに〉〉
キウィはもうしばらく黙ってブルーゲルの悪態を聞いた。
〈〈なかなかのいいまわしね〉〉
しかしブルーゲルの場合、ふつうの人々の悪態とはちがって、文字どおりの意味でいっているような響きがあった。
キウィはわざと音をたてて枝のあいだを通り抜け、地面から五十センチのところで宙に浮かんだ――それでエマージェントとちょうど目の高さがあう。「公園は管理のために閉鎖中なのよ、副領督」
ブルーゲルはすこしぎくりとした。つかのま言葉を失ったが、すぐに薄いピンク色の肌がこっけいなほどどす黒く変わりはじめた。
「礼儀知らずのちびめ……。そういうおまえはここでなにをしてるんだ」
「その管理をしてるのよ」まあ、かならずしも嘘ではない。次は反撃だ。「あなたはなにをしに?」
ブルーゲルの顔がさらにどす黒くなった。すこし伸びあがって、顔をキウィの十センチ上にやった。足はもう宙に浮いている。
「うすのろから質問されるいわれはないな」
ブルーゲルはいつものように鉄の杖《つえ》をもっていた。飾りなどはない金属製の細い棒で、あちこちに黒っぽいしみのついたへこみがある。片手で身体をささえると、杖をきらりと光らせてふりおろし、キウィの顔の横にあった若枝を折った。
これでキウィも頭にきた。木の下枝をつかんで身体を引きあげ、もう一度ブルーゲルとおなじ目の高さになった。
「それは説明じゃなくて、公共物破壊行為ね」
トマスは公園を監視しているはずだ。チェンホーが公共物を破壊したら罰せられるのだから、エマージェントの場合にもおなじように罪になるはずだ。
副領督は口もきけないほど怒りだした。「破壊してるのはおまえらだ。この公園は、おまえたちのようなうすのろがつくったとは思えないような美しいところだったのに、いまはわざとめちゃくちゃにしてる。昨日ここへ来てみたら、なんてこった、害虫がいるじゃないか」
そういってまた杖をふり、枝のなかのめだたないところにあったこみ集め蜘蛛の巣を叩き壊した。蜘蛛たちは糸を引きながら四方八方に散っていった。ブルーゲルは巣をつついて、甲虫《こうちゅう》の殻や、枯《か》れ葉や、その他さまざまなごみをまわりに散らした。
「ほら見ろ。きたないったらありゃしない」ブルーゲルは上から顔を近づけ、キウィをにらんだ。
しばらくキウィはぽかんとしていた。わけがわからないのだ。まさか本気でいっているのか。そんな無知なやつがいるのか。
〈〈でも、そうよ、こいつはとんでもない大まぬけなのよ〉〉
キウィはさらに身体を引きあげてブルーゲルを見おろし、顔を近づけて怒鳴った。
「ばか、ここは無重力の公園なのよ! 空中にごみやくずが浮いてないのは、いったいなぜだと思ってるの? いろいろなごみ集め虫がいるからよ。……最近はちょっと働きすぎみたいだけど」べつにそういう意味でいったわけではないが、目のまえに浮いているのが特大のごみだというように、副領督を上や下から眺めはじめた。
二人はもう木の下枝より上に来ている。キウィの視野の隅には父親の姿がかすかに見えていた。いくつかの枝のむこうには、どこまでも青い空がある。頭のてっぺんが偽物《にせもの》の日差しで暖かかった。怒鳴りあうたびに順番に上へあがるのをあと何回かやったら、プラスチックの天井に頭をぶつけてしまうはずだ。キウィは笑いだした。
それに対して、ブルーゲルは黙ってじっと彼女を見ている。鉄の杖を何度もてのひらにふりおろしている。その棒についた黒っぽいしみについては、いろいろな噂があった――ブルーゲル自身もそんなふうに気味悪がられるほうがいいらしい。とはいえ、じつはそれほど強そうには見えなかった。杖をふりまわしながらも、相手から反撃される可能性があるとは、まったく考えていないようなのだ。いまは枝のあいだにひっかけた片方のブーツの先だけで姿勢をたもっている。キウィはこっそりと両足を固定して踏んばり、精いっぱい不敵な笑みを浮かべてみせた。
ブルーゲルはしばらくじっとしていた。キウィの左右に視線をさまよわせていたが、ふいになにもいわずに枝から離れ、すこしだけまごついたあと、枝をつかんで床の点検口へむかって頭から飛びこんでいった。
キウィは黙って宙に浮かんでいた。奇妙な感覚が背中を這いのぼり、両手の先へおりていく。しばらくそれがなんなのかわからなかった。公園のほうは……リッツァー・ブルーゲルがいなくなってやっと雰囲気がよくなった。さきほどまでは怒っている副領督に全神経を集中させていたのだが、いまは蜂や蝶の小さな羽音が聞こえるようになった。腕の皮膚がむずむずし、心臓がどきどきする感覚がなんなのか、ようやくわかった。怒りと恐怖だ。
キウィも人をからかったり怒らせたりすることはある。船団の出発前はそれがいちばんの遊びだったのだ。それは、星間空間に出たらひとりぼっちになるということへの怒りが、頭のどこかに隠れているせいだと母親はいっていた。そうかもしれない。しかし純粋にそれがおもしろかったからでもある。しかし、これはちがう。
キウィは父親のいる場所へもどりはじめた。長年のあいだに彼女はたくさんの人たちを怒らせてきた。もっと子どもっぽかった頃には、エズル・ヴィンに何度も癇癪《かんしゃく》を起こさせそうになった。
〈〈かわいそうなエズル……〉〉
しかし今日のはちがう。リッツァー・ブルーゲルの目はそれらの人々とまったくちがっていた。あの男は本気で彼女を殺したがっていて、もうすこしで実行に移しそうだった。思いとどまったのはただ、トマスに知られたらどうなるかと考えたからだろう。しかしブルーゲルと彼女が二人きりで、監視カメラに映らない場所だったら……。
アリ・リンのいる枝へもどったとき、キウィの両手は震えていた。
〈〈パパ……〉〉
しっかりと抱きしめてほしかった。震える身体を慰めてほしかった。しかしアリ・リンは娘のほうを見もしなかった。集中化されて何年かたつが、そのまえがどんな父親だったか、キウィははっきり憶えていた……。下で口論する声が聞こえたら、父親はすぐに駆けつけただろう。
ブルーゲルが鉄の杖をもっていようといまいと、キウィとのあいだに割ってはいったはずだ。しかしいまの父親は……。さっきのやりとりのあいだは、リッツァー・ブルーゲルしかほとんど目にはいっていなかったが、断片的には憶えている。アリは表示窓とそこに映る分析データを見つめたまま、動こうともしなかった。口論する声は聞こえていたはずだし、怒鳴り声が大きくなって近づいたときには、そちらを見おろしさえした。しかしその表情は、じゃましないでくれ≠ニでもいいたげな、いらいらしたようすだった。
キウィはまだ震えている手でアリの肩にふれた。しかし彼は、うるさい虫を追いはらうようにその手をふりはらった。父親は生きてはいるが、ある意味では母親よりも完全に死んでいるのだ。
集中化は解除可能だと、トマスはいっていた。しかしトマスにとっては、キウィの父親やほかの集中化された人々をこのままの状態で働かせる必要があるのだ。それにトマスは生粋《きっすい》のエマージェントだ。彼らは人間を所有するために集中化技術を使ってきたし、そのことを誇りにしているのだ[#「誇りにしているのだ」に傍点]。集中化は解除可能≠ネどというのは嘘にきまっていると主張するチェンホーの生き残りもたくさんいた。これまでのところ、集中化から解除された人間は一人もいないのだ。
〈〈そんな重要なことでトマスが嘘をつくはずがないわ〉〉
父親に協力してとてもいい働きができたら、もしかすると早い時期にもとの父親にもどせるかもしれない。死ねばそれっきりだが、彼はそうではないのだ。
キウィは父親の隣にもどって、また新しいDNA変異を眺めはじめた。彼女がリッツァー・ブルーゲルと口論しているあいだに、プロセッサは最初の計算結果を出していた。
父親がよろこびそうな結果だ。
ナウはいまも、船団管理委員会との会議を一メガ秒ごとにおこなっていた。もちろん出席者の顔ぶれは当直シフトごとに大きく変わる。今日はエズル・ヴィンもいた。今回予定している驚くべき発表に、この少年がどんな反応をしめすか楽しみだ。
リッツァー・ブルーゲルも出席しているので、キウィには来ないようにいってあった。ナウは思わずにやりとした。
〈〈まったくあの娘は、こいつにひどい恥をかかせたようだな〉〉
ナウはこの会議をエマージェント幹部会議と統合して、当直管理主任会議≠ニ名づけていた。過去の行きちがいはともかく、両船団はいまこうして手を結んでいるのだ。そしておたがいが生き延びるためには、この協力関係をどうしても成功に導かねばならない、というのがこの会議の趣旨だった。
実際には、ナウがアン・レナルトとおこなう秘密の話しあいや、リッツァー・ブルーゲルやその警備局員らとおこなう打ち合わせにくらべると、こちらはたいした意味をもっているわけではない。レナルトやブルーゲルとの話しあいはしばしば当直交代のあいまにおこなわれた。それでも、一メガ秒ごとのこの会議には重要な議題がないのかというと、そうでもなかった。
ナウは議事予定表の上に手をかざした。「では、最後の議題だ。太陽探査についての、アン・レナルトによる報告だ。アン?」
レナルトはにこりともせずに、ナウの言葉を訂正した。「宇宙物理学者による&告です、領督。まず最初に、お願いしたいことがひとつあります。この分野では、集中化されていない専門家が最低でもあと一人必要です。技術的な結果を判定していくのはたいへんな作業なのです……」
ナウはため息をついた。秘密の話しあいでもレナルトはおなじことをいっていた。
「アン、余分な人的資源はないのだ。この分野で生き残っている専門家は三人しかいない」その三人は、全員がすでに愚人になっている。
「それでも、常識をそなえて論評できる人間が必要なのです」レナルトは肩をすくめた。「それはいいでしょう。領督の指示にしたがって、再発火前から二人の宇宙物理学者を連続当直させています。二人はこの報告を五年間にわたって検討してきたのだということを、頭にいれておいてください」
レナルトが空中で手をふると、改造されたチェンホーのタクシー船が窓に映し出された。両脇に補助燃料タンクが固定され、前部からは無数のセンサー類が針山のように突き出している。
船体片側に仮設されたフレームの上には、銀色の遮蔽|帆《はん》が張られている。
「再発火の直前に、リー博士とウェン博士はこの探査機を、オンオフ星をまわる低高度軌道に飛ばしました」二枚めの窓がひらいて、降下軌道と、オンオフ星の表面からわずか五百キロの最終軌道がしめされた。「遮蔽帆を適切なむきに維持することで、この高度で一日以上もちこたえられます」
この飛行を計算したのは、実際にはジョー・シン配下の愚人パイロットだろう。ナウはジョーにむかってうなずいた。
「よくやった、パイロット管理主任」
ジョーはにやりとした。「ありがとうございます、領督。そのお言葉を子々孫々まで自慢することができます」
レナルトはそのやりとりを無視して、さらに複数の窓をひらいた。低高度軌道からの、さまざまなスペクトル領域による映像だ。
「この分析は当初から難航をきわめました」
録音された二人の愚人のやりとりが聞こえはじめた。リーはエマージェント生まれだが、もう一人の声にはチェンホー訛りがある。こちらがウェンらしい。
ウェンはいった――「オンオフ星は質量も密度もふつうのG型星とおなじであることが、ずっとむかしからわかっている。今回こうして内部温度と密度の高解像度の解析マップが手にはいったわけだが――」
そこでリー博士が、愚人特有の性急なしゃべり方で割りこんだ――「いや、もっと小型衛星が必要だ。資源不足などといってる場合じゃない。すくなくとも二百機は飛ばして、再発火の瞬間を観測しなくては」
レナルトが音声を止め、注釈をくわえた。「彼らには百機の小型衛星をあたえていました」
さらにいくつかの窓がひらき、再発火後にハマーフェスト棟にもどってえんえんと議論をつづけるリーとウェンが映し出された。レナルトの報告はしばしばこんなふうに、映像と図表と音声が洪水のように繰り出されるのだ。
ウェンは疲れた声で話している――「オフ状態でも、中心密度は典型的なG型星のそれだ。しかし崩壊は起きていない。表面の乱流も深さ一万キロまでにとどまっている。なぜだ? なぜだ? なぜだ?」
リーがいった――「そして再発火後も、深部の構造は変わっていないようだ」
「はっきりとはわからない。近づけないんだから」
「いや、いまから見ればまったく典型的だ。モデルがある……」
ウェンの声がまた変わった。いらだち、苦しそうなほどの声で早口にしゃべっている――
「これだけデータがあるのに、謎は謎のままだ。反応の経過を五年間にわたって研究してきたのに、黎明期の天文学者とおなじように、手がかりさえつかめない。拡大した中心核のなかでなにかが起きているはずだ。そうでなければとっくに崩壊している」
もう一人の愚人がいらいらした声でいった――「オフ状態でもたしかにエネルギー放射はある。しかし放射しているのは、弱い相互作用しか起こさないように転換されたものなのだ」
「しかし、それはなんだ? なんなのだ? もしそんなものがあるとしても、なぜ上層は崩壊しないのだ?」
「その転換が光球の下部で起きているからで、たしかに崩壊しているんだ! きみのモデリング・ソフトウェアを使って説明してやるよ!」
「いまからやっても無駄だ。こんなに時間がたってるのに」
「しかしデータがあるんだ!」
「だからなんだ? きみの断熱曲線は――」
レナルトは音声を消した。「こういう調子で何日もつづきます。緊密な関係で仕事をする集中化人材特有の仲間言葉が頻出します」
ナウは背中をのばした。「おたがいとしか話さなくなっているのなら、こちらは割りこむすべがない。この二人は制御できなくなっているのか?」
「いいえ。ふつうの意味でそうなってはいません。ウェン博士はいらだちのあまり、無関係なことを考えるようになりはじめています。ふつうはここから創造的な能力が発揮されるものですが」
ブルーゲルはひどくおかしそうに笑った。「その天文学者たちは集中力を失ったってわけか、レナルト」
レナルトはそちらを見もせずに、「黙りなさい」とだけいった。
その言葉に、行商人たちはひどく驚いたようすだった。ブルーゲルは副領督であり、幹部のなかではあきらかに暴力的傾向がある。なのにいま、レナルトから一喝《いっかつ》されたのだ。
〈〈行商人どもがそのわけを察するのはいつかな〉〉ナウは考えた。
ブルーゲルの顔につかのま渋面《じゅうめん》が浮かんだが、すぐににやにや笑いが広がった。そして椅子にすわりなおして、ナウのほうに愉快そうな視線をちらりとむけた。
レナルトは間《ま》をおかずに話をつづけていた。「ウェンは問題から離れ、しだいに文脈を広げながら考えています。はじめはある程度の関連性がありました」
ウェンの声がまた流れはじめた。さきほどまでとおなじ、抑揚《よくよう》のない早口だ――「オンオフ星の銀河系における軌道。これが手がかりだ」
オンオフ星の推定される銀河軌道が――ほかの恒星との接近遭遇がなかったと仮定してのものだが――窓にしめされた。レナルトが博士のノートブックから引っぱり出してきたものだ。軌道は五億年ほどまえまでさかのぼっている。ハロー種族に属する星の典型で、花弁《かべん》の輪郭を描くように動いている。つまり二億年に一度、オンオフ星は謎の銀河中心部に進入しているのだ。そこから出ると、どんどん星の密度が薄いところへ離れていき、ついには暗黒の銀河間空間がはじまるあたりまで行く。トマス・ナウは天文学者ではないが、ハロー種族星は利用価値のある惑星系をもたず、そのためほとんどだれも訪れないことは知っていた。しかしオンオフ星の奇妙なところは、それにとどまらないようだ。
ウェンはなぜかこの星の銀河軌道にすっかり注意を惹きつけられていた――「これは――星ではなく、これ[#「これ」に傍点]は――万物の中心を見ているんだ。何度も、何度も、何度も――」
レナルトは、ひとつの考えをいつまでも反復するあわれなウェンの声を飛ばし、先のほうを再生した。
ウェンの声はすこし落ち着いた――「手がかりだ。手がかりはたくさんある。物理学など忘れて、光度曲線だけを見るんだ。二百五十年のうち二百十五年間は、褐色|矮星《わいせい》より少ないエネルギーしか放出していない」ウェンの思考にあわせてさまざまな窓がひらいた。褐色媛星の映像。ずっとむかしのオンオフ星の姿として物理学者たちが推定した、はるかに早い明滅周期。
「外からは見えないところで、いろいろなことが起きている。再発火したあとの光度曲線は、周期的に発光するQ型新星のそれにやや似ている。そして数メガ秒後には一定の明るさになるが、そのときのスペクトルは、中心核で核融合を起こしている星と説明するのがほぼ妥当なものだ。そして光はゆっくりと消えていく……。あるいは、こちらには見えないなにかに変化する。これはどうみても恒星ではない! 魔法だ。いまは壊れてしまった魔法の機械だ。かつては高速の矩形《くけい》波発生装置だったにちがいない。そうだ! 銀河の中心から出てきた魔法だ。いまは壊れているせいで、理解できないだけだ!」
音声はふいに止まり、万華鏡のようにまたたいていたウェンの窓も変化をやめた。「ウェン博士はこのアイデアに十メガ秒前から完全にとりつかれています」レナルトがいった。
ナウはどういう結論になるのか最初から知っていたが、ここでは心配そうな顔をよそおった。
「もう一人はどうなのだ?」
「リー博士はだいじょうぶです。ウェンから引き離すまでは、反対意見をいいつづけるサイクルにおちいりかけていました。いまは――じつは、チェンホーのシステム同定ソフトを使って、数学モデルを構築することに熱中しています。すべての観測結果と整合するきわめて複雑なモデルをつくっています」さらに映像があらわれた。リーの理論による新種の素粒子だ。「リー博士はフンタ・ウェン博士の独占的専門分野である認知領域にも範囲を広げ、しかしまったく異なる結論にいたっています」
リーの声――「そうだ、そうだ! わたしのモデルによると、銀河中心の巨大ブラックホールのすぐそばでは、このような星はありふれているはずだ。これらの星はごくごくまれに相互作用を起こし、強力に結合した爆発を起こす。その結果生まれたものは、銀河中心部から遠くへはじき飛ばされるのだ」もちろん、リーが仮定する爆発のあとの軌道は、ウェンのものとおなじだった。「すべての変数がぴったり合う。明滅する星は、銀河中心部ではかすんでしまって見えない。それらは明るくないし、非常に高速に明滅しているからだ。しかし十億年に一度の割合でこのような非対称破壊が起こり、放り出されるものがある」
オンオフ星を破壊した仮説の星が、映像のなかで爆発した。オンオフ星がもともともっていた惑星はすべて吹き飛ばされるが、その破壊する星から見てちょうどオンオフ星の反対側にあった小さな惑星だけが残される。
エズル・ヴィンが身をのりだした。「すごい。これならほとんどすべて説明できる」
「そうだな」ナウはいった。「この太陽系に惑星が一個しかない理由も」ごちゃごちゃと重なりあった窓からレナルトのほうへ視線を移した。「それで、きみの意見は?」
レナルトは肩をすくめた。「わかりません。だからこそ、集中化されていない専門家が必要なのです、領督。リー博士は思考の範囲をどんどん広げています。古典的な、なんでもそれで説明できるはずだ≠ニいう落とし穴です。リーの素粒子理論は膨大《ぽうだい》です。シャノン型の冗長性のためかもしれません」
そこでしばし沈黙が流れた。いやはや、アン・レナルトは聴衆の笑いを引き出す能力にまったく欠けている。そしてナウが質問によって誘導したとおりに、最後に爆弾が落とされた。
「しかしこの素粒子理論は、まさしくリーの専門とするところです。それが結論づけるところからは、おそらく、いまより高速なラムスクープエンジンの可能性が導かれるでしょう」
しばらく、だれもなにもいわなかった。チェンホーは、ファム・ヌウェンのまえの時代から何千年にもわたって星間エンジンをいじりまわしていた。さまざまな文明から新技術を盗んだりしたのだが、この千年でなしえた性能向上は一パーセントにも充たなかった。
「これはこれは……」
大きな賭けをして勝ったときの気分がどんなものか、トマス・ナウはよく知っていた。行商人どもでさえ、ほうけたようににやにや笑っている。部屋中にいい気分が広がった。利益が出るのはこの孤立生活が終わってからだとはいえ、これはたいへんなニュースなのだ。
「われわれの宇宙物理学者は貴重な商品になったというわけだな。ウェンについてはどうするつもりだ?」
「フンタ・ウェンは、残念ながら回復不能です」レナルトは医療情報の窓をひらいた。チェンホーの医者が見れば単純な脳診断図だが、彼女にとっては戦略マップとおなじだった。「じつは、こことここの接続がオンオフ星についての仕事と結びついています。一部の接続を弱めることでそれは確認されています。ウェンを現在の執着対象から切り離そうとしたら、過去五年間の仕事の記憶を消してしまうことになるでしょう――それと関連する一般的な専門能力もすべて。ご承知のとおり、集中化手術は、せいぜいミリ単位の解像度しか得られないなかでの手探り作業に近いものですから」
「大脳機能を失う、ということか」
「そういうわけではありません。集中化を解除しても、個性や、過去の記憶の大半は残るでしよう。もはや物理学者ではなくなる、というだけです」
「ふむ」
ナウは考えた。単純にこの行商人を集中化解除して、レナルトの要求するべつの専門家を連れてくるというわけにはいかない。
〈〈三人めのやつまで集中化解除する危険を冒すわけにはいかないからな〉〉
しかしうまい解決策があるし、そうすれば三人それぞれを利用できるはずだ。
「よろしい、アン。わたしの考えはこうだ。もう一人の物理学者を任務につかせるが、ゆっくりとしたテンポで使う。リー博士は冷凍睡眠にいれ、そのあいだに新しい物理学者にリーの計算結果を検討させる。集中化されていない者による検討より質は落ちるだろうが、きみがうまく指揮すれば、それなりに偏《かたよ》りのない結果が得られるだろう」
レナルトはまた肩をすくめた。うわべだけ慎ましくするような人間ではないが、実際にはそれとおなじことをしていた。
「フンタ・ウェンについては――」ナウはつづけた。「たいへんにいい仕事をしてくれたし、これ以上は望むべくもないだろう」アンの報告によれば、文字どおり、今後はなんの役にも立ちそうにない。「彼は集中化解除しろ」
エズル・ヴィンは目を丸くし、ぽかんと口をあけている。ほかの行商人も驚いた顔だ。ここではちょっとした危険があった。フンタ・ウェンは、集中化が解除可能であることを証明するうえで最善の例にはならないだろう。困難な例とはいえるが。
〈〈ここで同情心をあらわしておいたほうがよさそうだな〉〉ナウは考えた。
「ウェン博士は五年間連続で働いてもらったために、いまでは中年になっている。使用できる医療用品はなんでも使って、健康をできるだけ回復させるように」
予定議題はそれで最後で、会議はまもなく終わった。人々がリーの大発見と、ウェンが隷属状態から解放されることについて、口々に話しながら部屋から出ていくようすを、ナウは見守った。エズル・ヴィンは最後まで残っていたが、だれとも話していなかった。若者はぼんやりした顔でこちらを見ている。
〈〈そうだ、ヴィン。いい子にしていれば、いつかおまえの女を解放してやるかもしれないぞ〉〉
16
当直ずれ≠フ期間は、とても静かだ。
各当直シフトはたいてい数メガ秒で、次の当直者にそのときどきの問題をひきつげるよう、本来は最初と最後が重なりあうように設定されている。これにときどきずれが生じてしまうことはだれもが知っていたが、おもてむきは、スケジュール管理プログラムのバグだということになっていた。こうして、当直シフトのあいだにしばしば四日間のずれができる。ある意味で、消えた七階の謎≠竅A第一曜日と第二曜日のあいだにいつのまにかはさまっていた魔法の一日≠フような、現代の伝説といえた。
「故郷に帰っても、この当直ずれがあるといいと思いませんか?」ブルーゲルは、ナウとカル・オモを棺《ひつぎ》倉庫に案内しながら、冗談をいった。「フレンク星で五年間警備局の仕事をやりましたが、こんなふうにしょっちゅうタイムを宣言して、ゲームの流れを自分のいいように変更できたら、どんなに楽だったか」
その声は倉庫区画じゅうに響き、あちこちからこだまが返ってきた。スイビア号の船内で目覚めている人間は彼らだけなのだ。ハマーフェスト棟にはレナルトと一定数の愚人《ぐじん》がいる。岩石群の安定化ジェットの操作には、必要最小限のエマージェントと、キウィ・リゾレットをふくむ行商人があたっている。しかし愚人をのぞけば、この最高機密事項を知っているのは九人だけだ。そしてこの当直ずれのあいだだけ、彼らはこの領土を守るために肝心なことをできる。
スイビア号の冷凍睡眠庫の内部隔壁はとりはずされ、数十基の棺が追加で設置されている。ここには七百人近い当直A群の全員が眠っていた。B群とその他のグループはブリスゴーギャップ号に、C群とD群はコモングッド号に収容されている。この当直ずれのあとにはA群のシフトがはじまる予定だった。
壁の赤いランプが点灯した。庫内の独立型データシステムがアクセス可能になったことをしめしている。ナウはヘッドアップディスプレーを装着した。すると、それぞれの棺の上に名前と所属が見えるようになった。すべて正常な状態のようだ。
〈〈よし〉〉
ナウはかたわらの領兵長のほうをむいた。するとカル・オモという名前と階級と生命情報が、顔のわきの空中に浮かんだ。データシステムが忠実に仕事をしているのだ。
「数千秒後にはアンの医療スタッフがここにやってくるはずだ、カル。リッツァーとわたしの作業が終わるまでは彼らをなかにいれるな」
「わかりました」
領兵長はかすかな笑みを浮かべ、背中をむけて、すべるようにドアの外へ出ていった。カル・オモにとっては慣れた仕事であり、ファートレジャー号での詐欺《さぎ》にもひと役かっていた。
やるべきことはわきまえているのだ。
そうやって、ナウとリッツァー・ブルーゲルは二人だけになった。「さてと。その後、不満分子は出てきたのか、リッツァー?」
ブルーゲルはにやにやしている。驚かせる話をもってきたらしい。
二人は棺の架台《かだい》のあいだを泳いでいた。倉庫内の照明は足もとのほうにある。どの棺もひどい情況をくぐり抜けてきたにもかかわらず、しっかりと機能していた――すくなくともチェンホー製のはそうだ。行商人どもは頭がいい。人類宇宙じゅうに技術情報を放送していながら、自分たちの製品にはそれらより高い品質をもたせている。
〈〈しかしこちらはもう船団のライブラリを手にいれたのだ……そしてそれを理解できる人材も〉〉
「諜報活動は精力的に進めています、領督。当直A群は問題ありません。ただ――」ブルーゲルは架台に手をかけて身体《からだ》の流れを止めた。すると架台を構成する長くて細いフレームがたわんだ。ここは急ごしらえの設備なのでしかたない。「ただ疑問なのが、反乱を起こした過去をもっていて、任務遂行にはほとんど役に立たないこんなやつを、どうしてまだ生かしているのかということです」棺のひとつを、領督《りょうとく》用の杖《つえ》で軽く叩いた。
行商人の棺は幅が広く、曲面の窓と内部照明をもっている。視界に表示されるデータを見なくても、そのなかで眠っているのがファム・トリンリであることはわかった。じっとしているいまの顔は、いつもより若く見える。
ナウが黙っているのを、ブルーゲルはためらいととったようだ。「こいつはディエムの計画を知っていたんですよ」
ナウは肩をすくめた。「わかってる。それをいうならヴィンも知っていたし、ほかにも知っていた者はいる。しかし彼らのことはもう調べつくしている」
「しかし」
「いいか、リッツァー。この件ではすでに意見が一致したはずだ。もはやつまらない理由で血を流している余裕はないんだ」
この遠征における最大の失敗は、武力衝突のあとにおこなった個別尋問にあった。
ナウは疫病時代にとられた災害後管理戦略にしたがった。それは一般市民には知らされていないきびしい戦略だ。しかしそれをつくりだした初期領督たちは、いまとはまったく異なる情況にいたのだ。彼らにとって人的資源は無尽蔵《むじんぞう》だったが、いまは……。
とにかく、集中化されたチェンホーに対する尋問は問題なかった。しかしほかの連中は、驚くほどの抵抗をしめした。脅迫しても、道理にかなわない反応をするのだ。ブルーゲルはなかば理性を失い、ナウもそれに遠くない状態になった。敵の心理をきちんと理解するまえに、チェンホー上級船員たちの最後のグループは殺してしまった。総合的に考えるとそれは大失敗だったが、いい勉強にもなった。生き残った連中をどうあつかうべきかという教訓が残った。
ブルーゲルはにやりとした。「わかりました。すくなくとも、道化《どうけ》として笑う役には立つ。あなたやわたしにごまをすりながら、しかもまわりには偉そうにふるまおうとするんだから!」ならんだ棺にむかって手をふった。「では、こいつらはスケジュールどおりに目覚めさせましょう。また不具合≠ェあったと、いろいろ説明しなくてはいけませんけどね」ナウのほうにむきなおった。まだにやにや笑いを浮かべているのだが、下からの照明のせいで本来のしかめ面《づら》のように見えた。「本当に問題があるのはA群ではありません、領督。この四日のあいだにべつのところで、明白な反逆行為をみつけたんです」
ナウはやや驚いた顔をして、相手をじっと見つめた。これが待っていた話題なのだ。
「キウィ・リゾレットか?」
「そうです! いや、先日わたしがあいつとにらみあいをした場面は、ごらんになったはずですね。それだけでもあのふざけた娘は死刑に値するが――いまからお話しするのはそのことではないんです。あいつが領督の法を犯し、しかもほかに協力者がいるという動かぬ証拠をつかんだんです」
これにはナウもすこし本気で驚いた。「具体的には?」
「あのとき、あの娘は父親といっしょに行商人の公園にいました。勝手に公園を閉鎖していて、それでわたしは怒ったんですが……。そのあとで、うちの調査員を娘にはりつけたんです。いままでの断片的な監視では、気づくのに何シフトかかかったかもしれません。じつはあのばか娘は、この領土の資源を濫用《らんよう》しているんです。揮発物精製所から製品の一部を盗んだり、精製所の稼働時間をごまかしたりしています。そして父親の集中化された注意をそらして、私的事業のために使っている」
たしかに有害行為だ。キウィからもそこまでは聞かされていなかった。「それで……その資源で具体的になにをしているんだ?」
「たいへんな量の資源ですよ、領督。娘はいろいろな計画を立てているし、一人でやっているわけでもない……。これらの盗品とのバーター取り引きで、みずからの権益拡大を狙っているんです」
ナウはしばらく返答につまった。もちろん共同体保有資源の横領は罪だ。疫病時代には、疫病そのもので死ぬよりも、バーター取り引きや物資|退蔵《たいそう》の罪で処刑される人間のほうが多かった。バラクリア星では、それは定期的な大量|殺戮《さつりく》の口実として使われてきた――しかし、あくまで口実だ。
「リッツァー」ナウは慎重な口調で、嘘をつきはじめた。「じつは、それらの活動はすべて承知している。もちろん厳密には、領督の法に違反している。しかしよく考えてみろ。ここは故郷から二十光年も離れているし、相手にしているのはチェンホーだ。彼らは行商人なんだ。認めがたいことだが、共同体をだますことは彼らの本質なのだ。それをすぐに抑制するのは――」
「ちがいますよ!」ブルーゲルは架台のフレームを放して、ナウのすぐわきの手すりをつかんだ。「やつらはみんな人間のくずだが、あなたの法を破っているのはリゾレットと数人の悪質な陰謀者だけです。そいつらの名前もわかっているんですよ!」
キウィたちがそういうことをはじめた理由は、ナウには想像がついた。キウィ・リン・リゾレットは、チェンホーのルールさえ無視するような性格なのだ。おかしな母親によってあやつり人形になるよう教育されているが、それでも彼女をじかにはコントロールできない。なによりもキウィは駆け引きが好きなのだ。かつてこんなふうにいっていたことがある――許可を得るより、赦《ゆる》しを得るほうが楽だ≠ニ。なによりその短い言葉が、キウィの世界観と初期の領督たちのそれとのあいだに横たわる深くて暗い溝を、はっきりしめしている。
攻めるブルーゲルのまえで退《ひ》かないようにするのには、意志の力が必要だった。
〈〈今日のこいつはひと味ちがうな〉〉
ナウはまっすぐに相手の目を見つめ、その手に握りしめられた杖を無視するようにした。
「たしかにそいつらを特定するのは簡単だろう。それがおまえの仕事だからな、副領督。しかしわたしの仕事は、わたしの法を解釈することだ。いいか、キウィは精神腐敗病から解放されてはいない。必要とあればすぐに……手綱《たづな》をつけられるのだ。この違反容疑についてはひきつづき報告しろ。しかしいまのところわたしは、あえて目をつぶるつもりでいる」
「目をつぶるですって? あえて? そんな――」ブルーゲルはしばらく言葉を失っていたが、もっと抑制され、計算された怒りをともなう声でつづけた。「たしかにここは故郷から二十光年離れていますね。あなたの家族からも二十光年離れている。伯父上はもはや支配者ではいらっしゃらないのでしょう?」
アラン・ナウ暗殺の報は、船団がオンオフ星に到着する三年前にすでにとどいていた。
「故郷では、あなたはどんなルールを破ってもよかったし、法律違反者がいても、いいカモだからという理由だけで放置することもできた」ブルーゲルはゆっくりと杖をてのひらにふりおろした。「しかしいま、ここでは、あなたは孤独なのですよ」
領督どうしがふるう致死的暴力は、あらゆる法の対象外だ。それが疫病時代からの原則なのだ。しかし同時に、人間の本質でもある。もしいまブルーゲルが彼の脳天を叩き割ったら、カル・オモはたちまちこの副領督の支持者になるだろう。
しかしナウは、あえて穏やかな口調でいった。「おまえのほうがもっと孤独なのだぞ、友人よ。おまえを所有者としてすりこんである集中化人材は何人いるのだ?」
「そ……それは――シンの配下のパイロットたちと、調査員たちと……。レナルトも用途に応じて意識の方向を変えられますよ」
ブルーゲルは、ナウもいままで気づかなかった奈落《ならく》のふちでよろめきはじめた。そしてだんだんと気落ちしはじめた。
「アンについてはおまえもよくわかっているはずだ、リッツァー」
ふいにブルーゲルのなかで血なまぐさい火が消えた。「ええ、そうです。たしかにそうです」がっくりと肩を落とした。「ああ……この遠征はいったいどうして想像とかけ離れたものになってしまったんでしょう。ここで高位領督のような生活ができるくらいの資源をもってきたはずだった。宝の世界をみつけられるはずだった。ところがいまや、愚人はほとんど死んでしまい、安全に帰れるだけの装備もない。何十年もここに足留めをくうことになってしまった……」
ブルーゲルはいまにも泣きそうだ。脅《おど》しの態度からこのひ弱さまでの変化は、なんとも興味深い。ナウは静かに、慰める調子で話した。
「わかっている、リッツァー。わたしたちは疫病時代以来もっとも困難な情況を経験しているんだ。おまえくらい強い人間にも苦痛だとしたら、一般の乗組員はもっとつらいだろう」
それはそうだが、ほとんどの乗組員はリッツァー・ブルーゲルほど特殊な性格ではなかった。彼らもまた、家族をもったり子育てを楽しんだりできない袋小路《ふくろこうじ》から何十年も出られない運命であり、そのことはたしかに看過《かんか》できない危険な問題だ。しかし一般の乗組員は、新しい相手をみつけて新しい関係を築くことが容易にできる。集中化されていない人間はまだ千人近くいるのだ。しかしブルーゲルの衝動を満足させるのはむずかしい。彼は人間を消費するのだ。そしていまは、消費していいような余分な人間などほとんどいない。
「しかしまだ宝が手にはいる見込みはある――おそらく期待以上の宝の山がな。チェンホー船団を支配下におさめるのは命がけだったが、おかげでやつらの秘密が手にはいった。そしてこのまえの当直管理主任会議であきらかになったとおり、チェンホーさえ知らない物理学上の発見をした。そして最高の宝の箱は、これからひらかれるんだぞ、リッツァー。蜘蛛《くも》族は、いまは原始的だが、こんな苛酷《かこく》な星系で自然に生まれた種族とはとうてい考えられない。ここを調べにやってきた種族はわれわれが最初ではないはずだ。考えてもみろ、リッツァー。非人類系の星間旅行能力をもつ文明だぞ。下にはその秘密があるはずだ。蜘蛛族のあわれな過去のどこかに」
ナウは副領督といっしょに棺の列の端まで行き、次の列にそってもどりはじめた。ヘッドアップディスプレーにしめされる情報ではすべて正常だが、やはりエマージェント製の棺は消耗がはげしかった。やれやれ。数年もしたら使える棺が減って、当直スケジュールをうまくまわせなくなるかもしれない。星間船団は、自力で新たな船団をつくりだすことはできないし、それどころかハイテク装備品を無限に供給しつづけることもできないのだ。むかしから変わらない困難な真理だ。高度な技術製品をつくるには文明がまるごと必要になる――熟練者のネットワークと、奥行きのある資本集約型の産業基盤をもつ文明が必要だ。近道はないのだ。万物《ばんぶつ》生成機械≠ニいうようなものを人間は夢想してきたが、それはやはり夢にすぎなかった。
ブルーゲルは落ち着いてきたようだった。切迫した怒りは消え、理性がもどってきた。
「……わかりました。大きな犠牲をはらったけれども、最後は勝利を手にして帰れるというわけですね。わたしだって耐えることはできます。しかし……どうしてこんなに長い時間がかかるんですか? 蜘蛛族のどこかの王国に着陸して乗っ取ってしまえば――」
「こいつらはようやく電気を再発明したところなんだぞ、リッツァー。もっと時間が――」
副領督はいらいらして首をふった。「ええ、わかってますよ。それは当然です。確固《かっこ》とした産業基盤がいる。わたしはロービタ造船所で領督をしていましたから、よくわかっているつもりです。われわれが生き延びるには、かなり大規模な再建修理が必須になる。しかし、このL1点に隠れている理由はないでしょう。蜘蛛族の一国を乗っ取るか、せいぜい同盟を組むふりだけすれば、話が早くなるはずです」
「そうだな。しかし問題は、どうやって蜘蛛族をコントロールするかだ。そのためにはタイミングが肝心になる。わたしがギャスパー星征服に参加していたのは知っているだろう。実際には、征服後の初期の段階だ。最初の船団に参加していたら、わたしはいまごろ億万長者になっていたはずだ」
ナウは自分の口調に悔《くや》しさがにじむのをどうしようもなかった。ブルーゲルにもわかるはずだ。ギャスパー星はたいへんな大当たりだったのだ。
「あの最初の船団はなにをしたと思う? たった二隻の船団だったのだぞ、リッツァー! 考えてもみろ。愚人は五百人しかかかえていなかった。わたしたちより少ない数だ。しかし彼らは姿を隠してじっと待った。そしてギャスパー星が情報化時代に復帰すると、惑星上のデータシステムをすべて牛耳《ぎゅうじ》った。財宝の山が手のなかに転がりこんできたんだ!」
ナウは首をふって、頭のなかの夢想をふりはらった。
「たしかにわたしたちは、いま蜘蛛族を乗っ取ることもできる。進歩は速くなるだろう。しかしこちらは、正体もろくにわからない異種族を相手に嘘をつぎつづけなければならないんだぞ。もしそこで計算ちがいをしたり、ゲリラ戦になったりしたら、あっというまにすべてを失いかねない……。最終的には勝てる≠ゥもしれないが、それは三十年後ではなく五百年後になるかもしれないんだ。それに似た失敗の例は過去にある。わたしたちの疫病時代ではないがな。キャンベラ星のエピソードは知ってるか?」
ブルーゲルは肩をすくめた。キャンベラ星は人類宇宙でもっとも強力な文明かもしれないが、遠すぎるので興味がないのだ。多くのエマージェントとおなじく、ブルーゲルも広い宇宙にあまり関心がなかった。
[三千年前、キャンベラ星は中世の段階にあった。ギャスパー星とおなじで、もともとの植民文明は戦争によって崩壊し、住人は原始生活におちいっていた。ただしキャンベラ星の場合は、半分もあともどりはしていなかった。そこへ小規模なチェンホーの船団がやってきた――とんでもない計算ちがいの結果、キャンベラ星にまだ有益な文明があると思ってしまったんだな。それが行商人どもの第一のまちがいで、第二のまちがいはさっさと引きあげなかったことだ。苦しまぎれに、そのままの状態のキャンベラ人と交易しようとした。もちろんチェンホー船団のほうがはるかに強力だから、原始的なキャンベラの社会を自由にあやつれた」
ブルーゲルはうなり声をたてた。「結論はみえてきましたね。しかしその地元の連中は、ここの蜘蛛族よりさらに原始的なようですが」
「そうだ。ただし、相手はあくまで人間だったし、船団はわれわれよりはるかに豊富な資源をもっていたがな。とにかく、両者は同盟を組んだ。チェンホーは地元の科学技術をできるかぎり支援して進歩させた。さらに世界征服に着手し、それもなんとか成功させた。しかしそういった段階をひとつへるごとに、彼らは疲弊していった。第一世代の乗組員たちは石づくりの城のなかで年老いていった。冷凍睡眠さえできなくなっていたんだ。行商人と地元住人による混血文明は、最終的には非常に高度で強力なものになった――しかし、第一世代の乗組員にとっては遅すぎたんだ」
領督とその副官は中央出入り口の近くまでもどってきていた。先を泳いでいくブルーゲルはゆっくりと身体を反転させ、ちょうど床に降りるように、足から壁に着地した。そして、近づいてくるナウを真剣な目で見守った。
ナウもおなじように壁に着地した。反動で身体がふたたび浮きあがろうとするのを、靴底の付着布が防いだ。
「この話をよく考えるんだ、リッツァー。ここでの孤立生活は必要なことであり、その報酬は想像を絶するほど豊かなものになるはずだ。それまでのあいだ、おまえの苦痛についてはなんとか対策をとろう。領督に不快な人生など似あわない」
若者の顔に驚きと感謝の表情が浮かんだ。「ありがとうございます。ときどきちょっとした手助けをしていただければ、わたしとしては充分です」
二人はさらにしばらく話し、必要な妥協策を決めていった。
スイビア号からの帰り道、ナウには一人で考える時間があった。タクシー船から眺める岩石群はきらめく岩の集まりで、そのまわりの空に、ゆっくりと周回する不規則なかたちの仮設舎、倉庫、星間船などが浮いている。当直ずれの期間であるいまは、人の動きは見られない。キウィの作業班も見あたらない。たぶん岩石群の影の側にいるのだろう。
ダイヤモンドの山々のはるかむこうには、アラクナ星が明るくぽつんと浮かんでいる。今日は雲の切れ間が多く、広い海がのぞいていた。とくに熱帯収束帯はよく晴れ、青い海か見える。この蜘蛛族世界は、人類の普遍的無意識に存在する母なる地球≠ノどんどん似てきていた。人間が着陸して繁栄できる、千に一つの世界だ。あと三十年はこの楽園がつづくだろうそして太陽の消灯とともに、楽園も閉鎖されるのだ。
〈〈それまでにここを手にいれなくてはな〉〉
いまはその最終的な成功へむけて、可能性をすこし広げたところだ。謎をひとつ解きあかし、不必要な危険をひとつ取り去った。
ナウは唇をゆがめて、あまり楽しくない笑みを浮かべた。アラン・ナウの最年長の甥を自分の意志にしたがわせようとは、リッツァーはとんだ考えちがいをしたものだ。
トマスがアラン・ナウのお気にいりだったのはたしかだ。エマージェント文明のナウ家支配体制をトマスが継ぐというのは、はじめから決まっていた。問題はどのような道すじでやるかだ。というのも、家の継承は――領督の家系内であっても――しばしば暗殺によってなされるものだからだ。その意味でトマスは、年長のナウにとってひどく危険な存在でもあるのだ。しかしアラン・ナウは賢明だった。甥に継がせたいと思ってはいるが、天寿《てんじゅ》をまっとうするまでは自分が支配したい。そこでトマス・ナウにオンオフ星遠征を命じた。支配者とその継承予定者のどちらも傷つけない、巧みな経国《けいこく》の策だ。トマス・ナウは二世紀にわたって世界政治の舞台から消えることになる。帰ってきてからは、遺産をうまく利用してナウ家の支配を継続できるわけだ。
しかしリッツァー・ブルーゲルという副官は、じつは巧妙にしかけられた妨害工作ではないかという気がしてしかたなかった。故郷にいるときは、副領督として最適な人材に思えた。若く、ロービタ造船所で問題勢力を一掃《いっそう》するという実績をあげていた。フレンク星の血筋で、その両親はアラン・ナウの侵攻を最初に手引きしたグループに属していた。新たに土地を征服したときのエマージェント文明は、疫病時代にバラクリア星がやられたのとおなじ混乱を導入してそこをつくり変えようとする。すなわち大量死、精神腐敗病、領督階級の確立などによってだ。それによって確立される新秩序を、若きリッツァーはすべてわがものとしてきたのだ。
ところがこの孤立生活がはじまる頃から、こいつはどうしようもない役立たずだとわかってきた。不注意で、ずさんで、しかも傲慢《ごうまん》だ。それは副領督が悪役を演じるべき立場だからでもあるが、リッツァーのは演技ではなかった。どんどん不機嫌で非協力的になった。となれば、結論はひとつ。ナウ家の敵勢力はとても頭がよく、長期的な計画のもとに動いているということだ。なんらかの方法でアラン伯父の安全管理システムをくぐり抜け、こんなスパイをもぐりこませたのだろう。
ところが今日は、その疑念と謎がぶつかりあった。
〈〈そして、じつは妨害工作でも、たんなる能力不足でもないことがわかったわけだ〉〉
副領督は単純な欲求不満をかかえていて、しかしそれをだれにも相談できずにいたのだ。もとの文明圏にいれば、その欲求は簡単に充《み》たせる。大きな声でいうようなことではないにせよ、正常な欲求であり、領督がもって生まれた権利でさえあるからだ。しかしこの荒野のただなかで難破したも同然の状態では……。リッツァーはさぞかし苦しんでいることだろう。
タクシー船はハマーフェスト棟最上部にそびえる尖塔《せんとう》の上を静かに通りすぎると、下降してその影のなかにはいった。
ブルーゲルの欲求を充たすのはむずかしい。あの若者はちゃんとした自制心のあるところをしめさなくてはならない。ナウはすでに乗組員と愚人の名簿に目をとおしはじめていた。
〈〈たぶんなんとかなるだろう〉〉
その価値はあるはずだ。ナウ自身をのぞけば、リッツァー・ブルーゲルはこの二十光年の範囲でただ一人の領督なのだ。領督階級はしばしばたがいに牙をむくが、仲間としての絆《きずな》ももっている。だれもが冷酷な秘密の戦略を知っている。だれもがエマージェント文明の真価を理解しているのだ。リッツァーは若く、まだ成長の途中だ。適切な関係が築ければ、ほかの問題は御しやすくなるはずだ。
そして最終的な遠征の成果は、ブルーゲルに話したのよりさらに大きくなるかもしれない。アラン伯父の想像を超える規模になるかもしれないのだ。こうして行商人どもとじかに出会わなかったら、ナウ自身もその見通しに気づかなかっただろう。
アラン伯父は遠方からの脅威をそれなりに意識していたし、バラクリア星の伝統である電波漏出規制をずっとやっていた。しかしそのアラン伯父も、自分たちがばかばかしいほど小さな池のなかで支配者ごっこをやっているのだとは、気づいていなかった。
パラクリア星、フレンク星、ギャスパー星……。ナウはさきほどリッツァー・ブルーゲルに、キャンベラ文明の成立について話した。ふさわしい例はほかにもあるのだが、キャンベラ星の物語はトマス・ナウのお気にいりなのだ。同僚たちはエマージェント文明の歴史を死ぬまで研究して、やっと自分たちの戦略にごくわずかな改善をくわえられるだけだった。一方のトマス・ナウは、人類宇宙の歴史を研究した。疫病時代のような大災害も、大きな宇宙の流れのなかではありふれた出来事だった。歴史上の英雄たちの活躍する舞台は、バラクリア星などよりはるかに広かった。
そうやってトマス・ナウは、遠い世界の何千人という戦略家に親しんでいった。マケドニアのアレクサンドロス大王、ターフ・ルー……そしてファム・ヌウェン。チェンホー最大の偉人であるファム・ヌウェンは、ナウの精神的支柱だった。
ある意味で、現代チェンホーを築いたのはヌウェンだ。行商人はヌウェンの生涯をことこまかに描いたドラマを放送しているが、それは見栄えをよくするための演出だらけだ。異聞《いぶん》も多く、矛盾《むじゅん》するエピソードが宇宙のあちこちで語られている。その人生はすべての局面において研究する価値があった。
ファム・ヌウェンは、チェンホーがやってくる直前のキャンベラ星に生まれた。つまりヌウェン少年はよそ者としてチェンホーにはいり……それを変革したのだ。数世紀にわたって行商人たちを率《ひき》い、帝国を築いた。かつてない巨大帝国だ。人類宇宙をまたにかけるアレクサンドロス大王といえるだろう。そしてアレクサンドロスのときとおなじく、その帝国は長続きしなかった。
文明を征服し、組織化することにかけては、この男は天才だった。たんに必要な道具をもっていなかっただけだ。
ナウはハマーフェスト棟の何本かの塔のむこうに消えていく、青く美しいアラクナ星を見守った。
ナウには夢があった。いまのところは自分のなかだけにとどめている夢だ。数十年後には、かつて星々の世界を飛びまわっていた、しかも非人類系の種族を支配下におさめているだろう。数十年後にはチェンホー船団の自律機能系を徹底的に調べているだろう。そこまで達成すれば、ファム・ヌウェンと同等になれるはずだ。それだけあれば、星間帝国を築けるはずだ。
しかしトマス・ナウの夢はもっと遠大だった。なぜなら、ファム・ヌウェンやターフ・ルーや、その他の偉人たちがもっていなかった道具を、彼はもっているからだ。それが、集中化技術≠セ。
この夢が達成されるのは人生の後半であろうし、まずこの孤立生活を終わらせ、想像を絶する危険を乗り越えていかねばならないだろう。本当に達成できるのか、自分でも疑わしくなるときがあった。しかしその夢は、ナウの心のなかで熱く燃えていた。
集中化技術があれば、トマス・ナウは望むものを手にいれられるだろう。トマス・ナウのエマージェント文明は、人類宇宙に広がる唯一の帝国になるだろう。そしてそれは永続するはずだ。
17
いうまでもないことだが、ベニー・ウェンの経営する酒場は公式に存在を認められているわけではなかった。
ベニーは、仮設舎内部の風船型隔壁のあいだにある利用されていない空間に目をつけて、自由時間に父親を連れて設備や無重力用ビリヤードを運びこみ、映像壁紙を貼っていった。壁にはまだ汎用《はんよう》配管がのぞいているが、それもカラーテープで隠した。
ファム・トリンリは、自分の所属する当直群が目覚めているあいだ、ほとんどの自由時間をここでぶらぶらしてすごしていた。L1の安定化業務でへまをやらかしてキウィ・リゾレットに仕事をとりあげられて以来、自由時間はたっぷりあった。
ファムが戸口をくぐったとたん、ホップと麦芽《ばくが》の香りが押しよせてきた。ビール臭い水滴の群れが耳の横を漂っていったと思うと、ドアわきの吸い取り口に吸いこまれていった。
「よう、ファム。どこへ行ってたんだ。すわれよ」
いつもの飲み友だちはほとんど顔をそろえ、ビリヤードのある天井側の席にすわっていた。ファムは手をふって部屋のなかを泳いでいき、奥の壁の席についた。彼らに対して顔が横むきになってしまうが、狭い酒場だからしかたない。
トルード・シリパンは、バーのわきに浮いているベニーにむかって手をふった。
「ビールとつまみはどこだ、ベニー? それからここにいる天才軍人に、大きいのを一杯くれよ!」
みんな大笑いしたが、ファムはむっとしたように鼻を鳴らしただけだった。ばかなほら吹き老人の役を演じつづけていたからだ。豪気《こうき》なやつの話を聞きたいって? じゃあファム・トリンリの話を百秒ほど聞いていけばいい。もちろん、現実というものをすこしでも知っていれば、話の大半が嘘っぱちだとわかるし、そうでなければ他人の話から英雄的な部分を剥窃《ひょうせつ》したものだ。
ファムは酒場のなかを見まわした。いつものように客の半分以上は追従者階級のエマージェントだが、ほとんどのグループにはチェンホーが一人二人まざっている。再発火から六年――つまり、あのディエムの虐殺《ぎゃくさつ》事件≠ゥら六年がたっていた。ほとんどの者の主観時間では二年だ。生き残ったチェンホーは教訓を得て、適応した。同化したわけではないが、ファム・トリンリのように、孤立状態におちいった船団の一員として役割をはたすようになっていた。
フンタ・ウェンがバーのほうから網袋を引っぱりながらやってきた。網袋のなかには、彼とベニーが危険を冒してこの酒場にもちこんだ酒やつまみの食べものがたっぷりはいっている。網袋が近づいてくると、いっとき話し声が静まり、商品と奉仕券との交換がおこなわれた。
ファムは酒をひとつつかんだ。容器は新品のプラスチック製だ。ベニーは岩石群の表面に出る作業班になんらかのコネをもっているらしい。岩石群の空気雪や氷や地面のダイヤモンドは、小さな精製プラントにのみこまれ、資材となって吐き出されてくる。そのひとつであるプラスチック材から、この酒の容器や設備や無重力用ビリヤードが生まれてくるわけだ。酒場の最大の売りものである陽気な液体も、岩石群からつくられた原材料に、仮設舎のバクテリア槽の魔法をちょっとくわえたものだ。
容器の側面には鮮やかな色の文字で、ダイヤモンド・アンド・アイス醸造所謹製≠ニ書かれ、岩石群がビールの泡のなかに溶けていこうとしている絵が添えられている。なかなか細部まで凝《こ》った絵で、手|描《が》きらしい。ファムはその上手な作品をしばらく見ていたが、頭に浮かんだ質問を口に出すのはやめにした。そのうちだれかが、それなりの訊き方できいてくれるだろう。
トルードとその友人たちが絵に気づくと、笑い声が広がった。「おい、フンタ、これはあんたが描いたのかい?」
父親のほうのウェンは照れ笑いとともにうなずいた。
「けっこううまいよ。あたりまえだけど、集中化された絵描きにできる仕事じゃねえな」
「解放されるまえまでは、たしか物理学者かなにかだったんだよな?」
フンタ・ウェンは答えた。「宇宙物理学者だよ。そのことは……あまり記憶がないんだがな。いまは新しいことに挑戦してる」
エマージェントはしばらくそうやってウェンとしゃべっていた。ほとんどは友好的であり――トルード・シリパンをのぞけば――心から同情的だった。ファムは武力衝突前のフンタ・ウェンのことをかすかに憶えていた。話し好きな明るい学術員だったはずだ。まあ、明るい性格は残ってはいる。いつも笑顔なのだが、そこにはすこしばかり陰があった。フンタの人格は、ある意味で陶器の壷のようだった。一度こなごなに割れたのを、破片を集めてなんとか修理し、また使えるようにしたが、とてももろいのだ。
フンタは支払いの最後の奉仕券を受けとると、バーのほうへもどりはじめた。しかし途中で止まり、壁紙に近づいていった。そこには岩石群と太陽が映し出されている。すっかり忘れてしまったオンオフ星の謎に、もう一度魅了されはじめているようだ。
トルード・シリパンが軽く笑い声をたて、ファムのほうに身をのりだしてささやいた。「完全にいかれちまってるな。集中化解除術は、たいていもうちょっとうまくいくもんだが」
ベニー・ウェンがバーから出てきて、父親を奥へ引っぱっていった。ベニーは以前からエマージェントに対してとても反抗的だった。かつてのジミー・ディエムの共謀者の一人だと、看板をぶらさげて歩いているようなものだ。
会話は一日のおもな出来事に移っていった。ジョー・シンが、当直A群からB群に変わってくれるやつがいないかと探していた。妻がA群にいて、そこから動けないらしい。そのような交代は本来、領督《りょうとく》の許可をあおがねばならないのだが、当直群の全員の同意が得られればその必要はない……。補給部のチェンホーの女が、一定の奉仕券とひきかえにそのような取り引きを仲介していたはずだと、だれかが助言した。
「行商人はなんにでも値段をつけやがる」トルードがつぶやいた。
そこでファムは、自分が指揮官だったときの出来事として長期当直任務の話を披露《ひろう》した――本当は実際にあったことなのだが、だれもそうは思わないように誇張たっぷりに話した。
「四グループの当直班だけで、五十年すごさなくちゃいけなくなったんだ。最後はしかたねえから規則を破って、航行中に子どもをつくってもいいことにした。しかしその頃には市場価値が――」
ファムがオチを話すまえに、トルード・シリパンが肘《ひじ》でその脇腹を小突《こづ》いた。
「おいおい、チェンホーの英雄さんよ、天敵ご登場だぜ」
それを聞いた連中にくすくす笑いが広がった。ファムはトルードをにらみつけて、そちらをむいた。
キウィ・リン・リゾレットが酒場の戸口をくぐって飛びこんできたところだった。キウィは空中で身体《からだ》をひねると、ベニー・ウェンのわきに着地した。つかのま酒場の喧騒《けんそう》が静まって、天井近くにいるファムたちのグループにも彼女の声が聞こえた。
「ベニー! あの交換書類はとどいた? ゴンレに渡せば――」
あとは二人がバーのむこうに移動し、ほかの人々が会話を再開したために聞こえなくなった。キウィはなにやら新しい条件をベニーに提示し、値段の交渉をしているようだ。
「あの女がまだ岩石群の安定化業務を受けもってるってのは、本当なのか? あんたの仕事じゃなかったのか、ファム?」トルードがいった。
ジョー・シンがわきでしかめ面《づら》をした。「やめろよ、トルード」
ファムは、ちょうどいらだって偉そうに見せかける老人のように、片手をあげた。「まえもいったろう。おれは昇進したんだ。リゾレットが現場のこまごました仕事をやり、おれはナウ領督のかわりに業務全体に目を配るってわけだ」
そして辛辣《しんらつ》によそおった目つきでキウィのほうを見た。
〈〈この娘は今度はなにをたくらんでいるのか〉〉たいした子だと、ファムは思った。
視野の隅のほうで、トルードが謝るようにジョー・シンのほうに肩をすくめるのが見えた。人々はファムのことをほら吹きだと思っていたが、それなりに好ましくも思っていた。嘘八百だとわかっていても、おもしろいのはたしかだからだ。トルード・シリパンがぬけているのは、つっこんではいけない話題がわからないというところだ。そこで今度はすこし埋めあわせをしようという気になったらしい。
「そうだな」トルードはいった。「領督の直属の部下なんて、たしかにめったにいない。じゃあ、キウィ・リン・リゾレットについていいことを教えてやろうか」酒場の顔ぶれを確認するようにあたりを見まわした。「知ってるだろうが、おれはレナルトの下で愚人《ぐじん》を動かしてる――じつは、そうやってリッツァー・ブルーゲルの監視員に協力してるんだ。その連中から聞いたんだが、われらがリゾレット嬢はそのブラックリストに載ってるみたいだぜ。ふつうに思われてるより薄ぎたない取り引きに手を突っこんでるんだ」酒場の設備をしめした。「このへんのプラスチックがどこから来てると思う? あいつはファム・トリンリの仕事をとりあげたおかげで、岩石群の上に自由に出られるようになった。そうやってベニーのような連中に物資を横流ししてるんだよ」
テーブルの一人が、ダイヤモンド・アンド・アイス醸造所と書かれた容器をトルードのほうにふってみせた。「おまえだってその分け前を楽しんでるじゃないか、トルード」
「そういう問題じゃねえだろう。いいか、あの娘とベニー・ウェンの仲間たちは、共同体保有資源を横領してるんだぞ」
テーブルのまわりで何人かが真剣な顔でうなずいた。
「たまたまいい目的で使われたとはいっても、公共財を盗んでいることには変わりない」トルードはきびしい目つきになった。「疫病時代なら極刑《きょっけい》に値する行為だ」
「そうはいっても、いまは領督も承知してることだろう。たいした被害はないからって」
トルードはうなずいた。「そうだ。いまは黙認されてる」にやりとした。「あいつがナウ領督と寝ているかぎりは、ずっとそうかもな」
それも巷《ちまた》に流布《るふ》する噂のひとつだった。
「なあ、ファム。あんたはチェンホーだが、基本的には軍人だ。名誉ある職業であり、生まれはどうあれ、高い地位にある。いいか、社会には徳の高さによる階層ってものがあるんだ」トルードは教えこまれたことをまるごと引いて講釈しているようだ。「いちばん上が領督だ。まあ、政治家といってもいいな。その下が軍の指導部で、そのさらに下が幹部戦略策定者、技術者、そして戦闘員とつづく。その下は……有象無象《うぞうむぞう》だな。価値ある職域からは落ちこぼれたものの、まだ復活のチャンスは残されている者たちだ。そしていちばん底辺にいるやつらくずのなかのくずそれが行商人だ」
トルードはファムにむかってにやりとした。相手を生まれついての貴族にみたてて、ほめそやしているつもりなのだ。
「商人は死んだり死にかけたやつの肉を食らうだけだ。臆病だから、力で奪い取れないんだ」
ふだんは仮面をかぶっているファムも、この意見にはさすがにむっとなり、おもわず声を荒らげた。
「チェンホーは何千年もいまの勢力をたもってるんだぞ、シリパン。負け犬にできることとは思えないな」
トルードは心から同情する笑みを浮かべた。「認めがたいのはわかるさ、トリンリ。あんたは立派な人物だし、忠誠心をもつのは正しいことだからな。しかしそのうちわかるようになる。行商人はいつもおれたちにくっついてくる。そして裏道で非合法の食いものを売ったり、星のあいだをうろついたりするんだ。星々を渡る人間たちは文明と称してさしつかえないが、やつらは真の文明の端っこに寄生した下層民さ」
ファムは低い声でいった。「お世辞と侮辱《ぶじょく》をこんなふうにいっしょくたにいわれたのは初めてだよ」
テーブルのみんなは笑い、トルード・シリパンは自分の講釈でファムが気分をよくしたと思ったようだった。ファムは中断したままだった小咄《こばなし》にもどり、最後まで話した。話題はアラクナ星の蜘蛛《くも》族のことに移っていった。いつものファムなら、熱心さを隠しながらその話に耳をそばだてるのだが、今日は演技ではなく、ほとんど聞く気になれなかった。
バーのほうに視線をもどすと、ベニーとキウィはなかば陰に隠れて、なにやら熱心に交渉している。トルード・シリパンのさきほどの話には、エマージェント流のくだらない思想がまじってはいるものの、いくばくかの真実はふくまれていた。ここでは最近二年ほどのうちに地下経済が花ひらいていた。それはジミー・ディエムの陰謀を換骨奪胎《かんこつだったい》したものではない。そもそもチェンホーはこれを陰謀だとは思っていなかった。たんなる商売だ。ベニーと父親のフンタ、そして数十人の仲間たちは、日常的に領督の法を曲げたり破ったりしている。
いまのところ、ナウからの処罰はなにもなかった。またチェンホーのこの地下経済は、ほとんどの人々の日々の暮らしに役立っていた。ファムはこのような活動が自然発生するのを、これまでも何度か見ていた――それはいつも、チェンホーが自由人として商売をできず、逃げることも戦うこともできない情況下でだった。
その地下経済の中心にいるのが、ちびのキウィ・リン・リゾレヅトだ。ファムはいつのまにか感嘆のまなざしを彼女にむけ、辛辣な目つきをよそおうのは忘れていた。キウィは多くを失った少女だ。裸一貫といっていい。なのに、いまもこうして連続当直をつづけ、あらゆる相手と取り引きできる立場にいる。
唇に浮かびかけた賞賛の笑みを、ファムはあわてて抑え、しかめ面をよそおった。ファムがキウィ・リゾレットを本当はどう思っているかを、トルード・シリパンやジョー・シンが知ったら、おそらく頭がおかしくなったのかと疑うだろう。しかしトマス・ナウくらいに頭のいいやつがそれを理解し、そのほかの情報と総合して考えたら――ファム・トリンリにとっては身の破滅だ。
ファムはキウィ・リン・リゾレットのなかに――これまでに出会っただれよりも――自分自身の姿を見ていた。たしかにキウィは女だ。そしてファムがもっている性差別思想は、演技ではなく、彼がもともともっていた性質のひとつだ。しかしキウィとファムの類似性は、性別より深いところから発していた。キウィはこの旅に参加したとき、たしか――八歳だったか。子ども時代の半分を星のあいだの闇で、船団の維持管理をする当直者以外はだれもいない環境ですごしたのだ。そしていまは、まったく異なる文化のなかに放りこまれながら、生き残り、新しい困難に次々に立ちむかっている。そして勝利をおさめつづけているのだ。
ファムはしだいに内省に落ちていった。飲み友だちの話し声も耳にはいらなくなり、キウィ・リン・リゾレットのほうももう見ていない。三千年以上過去へ、三世紀におよぶ人生の出発点へと、思いをはせていた。
キャンベラ星……。
ファムは、北大陸全土を征した偉大な王トラン・ヌウェンの末子で、十三歳だった。凍《こご》える海のそばに建つ石づくりの城のなかで、剣と毒薬と陰謀にかこまれて育った。あの中世の生き方をつづけていたら、まちがいなく殺されていただろう――あるいは王のなかの王になっていたか。
しかしファムが十三歳のときに、すべては変わった。
飛行機や無線機は伝説としてしか残っていない世界に、星間商人のチェンホーがやってきたのだ。城の南側にある大湿地帯に彼らの小型艇がつくった焼けこげの跡《あと》を、ファムはいまもよく憶えていた。わずか一年のあいだに、キャンベラ星の封建政治は崩壊した。
チェンホーは三隻の船に投資し、キャンベラ星に遠征させていた。しかしそこには重大な計算ちがいがあった。到着する頃にはキャンベラ星の科学技術がもっと高いレベルに到達していると予想していたのだ。ところが実際には、トラン・ヌウェンの全領土の資源をかき集めても、彼らの船団を補給するにはたりなかった。そこで二隻が残り、もう一隻が帰ることになった。そしてその船に、ファムが乗せられることになった――父親が星の人々と結んだつもりになっている愚かしい契約のなかで、人質《ひとじち》、つまり生きた担保として差し出されたのだ。
ファムのキャンベラ星での最後の日は、寒く、霧がたちこめていた。城壁を出て沼地に着くまでに午前中のほとんどを費やした。訪問者たちの巨大な船を間近に見るのはそのときが初めてで、ファム・ヌウェン少年は歓喜《かんき》の絶頂にあった。しかしファムの人生のなかでこれほど多くの勘ちがいをしたときもないだろう。霧のなかにそびえ立つ星間船に見えたものは、実際には小型着陸艇にすぎなかった。ファムの父親を迎えに出てきた長身で奇妙な顔だちの船長と思った男は、ただの二等航海士だった。彼から三歩さがってついてくる、不愉快そうな表情をあらわにした若い女は、妾《めかけ》か、侍女かと思ったのだが、じつはこちらが本当の船長だった。
王であるファムの父親が、手をふって合図をした。すると少年の個人教師と陰気な召使いたちが、ファムを連れてぬかるみのなかを星界の人々のほうへ歩きはじめた。ファムの肩にかけられた手はきつく握られていたが、彼はほとんど気づかなかった。ファムは驚嘆のまなざしで星間船≠見あげ、金属でできているらしい船体の輝く曲面美をむさぼるように眺めた。こんな完璧で美しいものは、ファムのまわりには絵か小さな宝石しかなかった。まさにこれは夢が具現化したものだった。
そこにシンディがあらわれなければ、ファムは裏切り行為に気づくことなく艇内にはいっていただろう。シンディ・ドカイン……。トランのいとこの娘だ。彼女の家族は、宮廷内に住まわされるくらいには重用《ちょうよう》されているといえたが、それ以上ではなかった。十五歳のシンディは、ファムにとってはとても変わっていて野性的だった。どんな表現が適当かわからないがまあ、友人≠ニいうにとどめておこう。
突然そのシンディがあらわれ、彼らと星界の人々のあいだに立ちはだかったのだ。「やめて! これはまちがってるわ。ひどいことになるわ。やめて――」
シンディは彼らの行く手をさえぎろうとするように、両手を高くあげていた。横のほうからべつの女の叫び声が聞こえてきた。シンディの母親が娘にむかって叫んでいるのだ。
なんとも愚かしく、無駄な行動だった。ファムを連れた一行は足どりを緩《ゆる》めることさえしなかった。個人教師は六尺棒を低くふってシンディの両脚を打ち、彼女は倒れた。
ファムはふりむき、手をのばそうとしたが、彼の身体は何本もの力強い手に引っぱりあげられ、腕も脚も押さえこまれた。最後にちらりと見えたシンディは、泥のなかからようやく起きあがり、斧《おの》をもった兵士たちが駆けよってくるのにも気づかず、呆然《ぼうぜん》とファムのほうを見ていた。
身体を張って王子を守ろうとした一人の人間がどれだけの代償を支払わされたか、ファム・ヌウェンが知ることはなかった。何世紀ものち、すっかり文明化された状態のキャンベラ星でもまるごと買いとれるくらい金持ちになって帰ってきたときに、ファムは、あとに残った者たちについて調べるために古いライブラリをあさり、断片的なデジタル記録をかき集めた。シンディの行動がどのような結果を招いたかという記録は残っていなかったが、シンディの家系については、その時代からあとのはっきりした出生記録もみつけられなかった。とにかく、シンディの存在と行動、そしてその代償は、時の流れのなかでとるにたらないことだったのだ。
そうやってファムはかかえあげられ、足早に艇内へ連れていかれた。兄弟姉妹の顔がちらりと見えた。冷たく硬い表情の若い男女だ。彼らにとっては、ほんのわずかな脅威の種がとりのぞかれようとしているのだ。召使いたちは、ファムの父親である王のまえでつかのま足を止めた。老人――といってもたかだか四十歳だったが――は、すこしだけ少年を見おろした。ファムにとってトランは、遠くにある自然の力のように、個人教師たちや相《あい》争う後継者たちや廷臣たちをふりまわす気まぐれな存在だった。その唇は真一文字に引き結ばれていた。きびしいまなざしに、わずかに思いやりともとれる光が浮かんだ。王はファムの頬に手をあてた。
「強くなれ、子よ。わたしの名を継いでいるのだからな」
トランは星界の人々のほうをむき、通商用の混合言語でなにかいった。そしてファムは見知らぬ人々の手に引き渡された。
キウィ・リン・リゾレットとおなじように、ファム・ヌウェンも闇の奈落《ならく》に放り出された。
そしてキウィとおなじように、ファムもひとりぼっちだった。
船に乗せられて最初の一年の出来事は、ファムの人生でいちばん鮮明な記憶として残っている。乗組員たちははじめから、こんなガキはさっさと冷凍睡眠庫に放りこみ、最初の寄港地で追い出そうと思っていたはずだ。なにしろ世界はたいらでひとつしかないと思っていて、剣をふりまわす以外になんの教育も受けていないのだ。乗せておいてなんの役に立つというのか。
しかしファム・ヌウェンの考えはちがった。冷凍睡眠の棺《ひつぎ》を見ると、怖くてたまらなくなった。リプリーズ号がキャンベラ星の軌道を出るか出ないかのうちに、ファム少年は指定された部屋から姿を消した。年齢のわりには小柄だったし、その頃には遠隔管理システムがどんなものか理解できるようになっていたからだ。リプリーズ号の乗組員をまる四日間にわたって捜索に走りまわらせたが、最後は当然ながら、ファムのほうが迷子になった。そして怒り狂ったチェンホーたちの手で、船長のまえに引っ立てられていった。
それまでには、沼地で見た侍女≠ェ船長であることは知っていた。知ってはいたが、信じられなかった。一人のか弱い女が、一隻の星間船と千人の乗組員を(まもなくそのほとんどは非番に――つまり冷凍睡眠にはいったが)指揮しているというのか。ふうむ。もともと彼女は船主の妾で、彼を毒殺してその地位を奪ったのではないか。そう考えれば納得しやすいが、だとするとこの女はとても危険な人物ということになる……。
実際には、スラは下級船長で、キャンベラ星残留に反対票を投じた党派のリーダーだった。残留した人々は彼らのことを、へっぴり腰の臆病者≠ニ笑った。リプリーズ号の乗組員たちは破産を覚悟して帰郷の途《と》についたのだ。
ファムは、つかまって船橋に引っぱり出されたときの、彼女の顔をよく憶えていた。スラは怖い顔をして、いまだにキャンベラ星の貴族の衣装であるベルベットの服を着た若い王子をにらみつけた。
「あなたのせいで当直開始が遅れたのよ、おちびさん」
当時のファムはその言語をまだろくに理解できなかった。恐怖と孤独をこらえて、にらみ返した。「船長殿、わたしは人質であって、あなたの奴隷でも生《い》け贄《にえ》でもないのですよ」
「ねえ、この子はなんていってるの?」スラ・ヴィンは副官たちを見まわした。「いいこと、おちびさん。この旅は六十年かかるのよ。おとなしく眠ってちょうだい」
その最後の部分の意味だけは、言語の壁を越えてつたわってきた。しかしそれはまるで、畜舎《ちくしゃ》の親方が馬の首をはねるといっているような響きに聞こえた。
「いやだ! あの棺だけはいやだ!」
それもスラ・ヴィンには通じた。
そのとき副官の一人が、ヴィン船長にむかってなにかいった。たぶん、本人の希望など聞く必要ありませんよ≠ニいうような言葉だったのだろう。
ファムはふたたび勝ちめのない抵抗にそなえて身構えた。しかしスラはしばらくファムの顔を見つめただけで、彼だけを連れて自分の執務室にはいった。二人は混合言語で数キロ秒ほど話した。ファムは宮廷流の駆け引きや作戦は心得ていたが、ここではまったく通じなかった。
話が終わる頃には、少年はがっくりとうなだれて泣き、スラはその肩に腕をまわして話した。
「何十年もかかるのよ。わかる?」
「ううん」
「冷凍睡眠にはいらないと、目的地に着く頃には、あなたはおじいさんになっちゃってるのよ」
しかし、おじいさん≠熈冷凍睡眠≠烽ィなじくらい不吉な言葉だった。「いやだ、いやだ、いやだ! それより先に死んじゃうよ!」理屈もなにもない。
スラはしばらく黙っていた。何年ものちに、彼女は自分の側から見たその出会いをファムに語ってくれた――
「ええ、うむをいわさず冷凍睡眠庫に放りこむこともできたわ。そのほうが賢明で倫理的にも正しい――それにさまざまな問題に頭を悩ませる必要もなくなる。ドンの船団委員会にずいぶん厄介なお荷物を押しつけられたものだと思ったわ。あいつらはばかで最低だけど、これはひどすぎる……。とにかく、あなたは父親に売り飛ばされたあわれな子どもとして、目のまえに立っていたわ。父親や委員会があなたに対してしたようなひどい仕打ちは、わたしは絶対にしたくなかった。それに、旅のあいだずっと氷漬けになっていたら、あなたはナムケム星に着いたときも頭が空《から》っぽのまま。ハイテク文明に徒手空拳《としゅくうけん》で放り出されることになる。だから、いっそのこと冷凍睡眠にいれないで、基礎教育をしてやったほうがいいかしらと思ったのよ。星間空間を渡る船のなかでは一年一年がどんなに長く退屈かも、経験すればわかる。数年すれば、冷凍睡眠用棺に対する拒否反応もすこしはやわらぐだろうと思ったわ」
しかし、そう単純にはいかなかった。船内警備システムは、責任能力のない人間が一人いることを前提にプログラムを変更しなくてはならなかった。目覚めている乗組員が一人もいない当直ずれ≠ヘ、絶対にあってはならない。それでもプログラム変更は無事におこなわれ、一部の当直者は冷凍睡眠入りを遅らせてもいいと申し出てくれた。
リプリーズ号は光速の三十パーセントにあたるラム航行速度に到達し、闇のなかをどこまでも飛びはじめた。
こうしてファム・ヌウェンは宇宙での時間をすごしはじめた。最初の数回の当直シフトを目覚めたままつきあってくれたスラをはじめ、何人かの乗組員が個人教師役をつとめてくれた。
はじめはなにもかもちんぷんかんぷんだったが……時間はいくらでもある。そのうちスラの言語を覚え、チェンホーについておおまかなことがわかるようになった。
「わたしたちは星と星のあいだで貿易をしているのよ」スラはいった。
ラムスクープ船の船橋にいるのは二人だけで、窓には、チェンホーが巡回している五つの星系が単純化された図で映し出されていた。
「チェンホーは帝国なんだね」少年はその星々を見つめながら、その版図《はんと》が父親の王国にくらべてどれくらい大きいかを想像した。
スラは笑った。「いいえ、帝国ではないわ。どんな政府も光年単位の距離を超えて支配地を維持することはできない。そもそも、数世紀以上も命脈をたもてる政府などないのよ。政権は栄枯盛衰するけれど、商売は永遠につづくのよ」
ファム・ヌウェン少年は眉をひそめた。スラの言葉はまだときどき理解できないことがある。
「ちがうよ。これは帝国だ」
スラは反論しなかった。数日後、彼女は当直を終え、不気味な冷たい棺のひとつにはいって死体になった。ファムは本当は、自殺しないでくれとスラに懇願《こんがん》したかった。そしてそれから数メガ秒は、自分でも意外なほどの傷心に苦しめられた。その日から会うのは見知らぬ人ばかりになり、ファムはほとんど口をきかなくなった。そのうち固有語を読めるようになった。
二年後、スラは死から甦《よみがえ》ってきた。少年はまだ棺にはいるのを拒否していたが、そのときから俄然《がぜん》、勉強に熱がはいるようになった。ここにはキャンベラ星の王もかなわない力があり、それを自分も使える立場になりうるのだと知ったからだ。そうやって文明世界の子どもが五年かけて学ぶことを、ファムは二年で習得した。とりわけ数学に才能を発揮した。チェンホーのプログラム用インターフェースの第一階層と第二階層を使えるようになった。
スラは冷凍睡眠にはいるまえとほとんど変わりないように見えた。奇妙なことに、むしろ若くなったような気さえする。ある日ファムは、彼女がじっとこちらを見ているのに気づいた。
「ぼくの顔になにかついてるかい?」ファムは訊いた。
スラはにっこりした。「長距離航行中の船でずっと目覚めている子どもというのは、初めてだからよ。あなたはキャンベラ人の年でいうと……十五歳になったのかしら。ブレットの話ではずいぶん勉強が進んだそうね」
「うん。ぼくはチェンホーになるんだ」
「ふーん」スラは微笑んだ。それはかつての保護者めいた、同情に充《み》ちた笑みではない。本当に満足していて、ファムの主張をまじめに聞いている。「それには勉強すべきことが山ほどあるわよ」
「時間だって山ほどあるさ」
スラ・ヴィンはそれから四年間、連続して当直についてくれた。ブレット・トリンリもその最初の一年は、自分の当直期間を延長してつきあってくれた。三人はリプリーズ号の船内で人間が行けるあらゆる区画をまわった。病室区画、冷凍睡眠庫、操縦デッキ、燃料タンク。リプリーズ号はその二百万トンの水素を、ラム航行速度に達するためにほとんど燃やしつくしていた。つまりいまは、巨大な船体になにもはいっていない状態で飛んでいるのだ。
「そして目的地で大量の補給が得られなければ、この船は二度と飛び立てないのよ」
「目的地の星系に巨大ガス惑星がひとつあれば、補給はできるよ。ぼくはそのためのプログラムだって書ける」
「ええ。わたしたちもキャンベラ星ではそうしたわ。でもエン・シンはときどきオーバーホールしなければ遠くまでは飛べないし、それができる場所はかぎられてるのよ」スラはそこで黙りこみ、低く悪態をついた。「ばかなやつら。どうしてあんなところに残ったのかしら」
スラはいまだに、キャンベラ星を征服するために残留した船長たちに対する軽蔑の思いと、彼らを残してきたことからくる罪悪感とのあいだで揺れているようだった。
ブレット・トリンリが沈黙をやぶった。「自分を責めることはないですよ。彼らはたいへんな危険に賭けたわけだけれども、それに勝てば、われわれが予定していた顧客を独占できるんですから」
「わかってるわ――それにひきかえ、こちらは文無《もんな》しでナムケム星に帰り着くのが確定しているってわけね。このリプリーズ号も失うことになるわ」心に巣くった悩みを押しのけるように、首をふった。「しかたない。それまでのあいだに、訓練のいきとどいた船乗りをもう一人養成することにしましょう」そして芝居がかった目つきでファムをにらみつけた。「わたしたちがいちばん必要とする専門技能はなにかしら、ブレット?」
ブレット・トリンリは目をぐるりとまわした。「いちばん金になる職種という意味なら、もちろん、考古学プログラマーでしょう」
とはいえ、ファム・ヌウェンのように野で育った子どもがそうなれるのか。たしかに少年はこれまでに、標準的なインターフェースをほぼすべて使えるようになっていた。自分のことをプログラマーとして意識するようになっていたし、船を操る能力すらあった。標準的なインターフェースを使えば、リプリーズ号を飛ばすのも、惑星軌道に投入するのも、冷凍睡眠庫を維持管理することもできる――
「でももしなにかあったら、あなたはあっというまに、完全に、きれいさっぱり死ぬのよ」自分の伎倆《ぎりょう》をならべたてるファムを、スラはそんなふうにさえぎった。「あなたはしっかりしたことを学ぶべきなのよ。それは文明圏の子どもたちが誤解していることでもあるの。わたしたちは文明のはじめから、それどころか宇宙旅行以前の時代から、コンピュータやプログラムを使ってきたわ。でもコンピュータにできることには限界がある。想定外の不具合から自力で脱出したり、本当に創造性のあるものをつくったりはできないのよ」
「でも! そんなことはないよ。ぼくはときどき機械とゲームをするけど、腕前レベルを高く設定すると絶対に勝てないよ」
「それはコンピュータが単純な処理をものすごく高速にやっているから。コンピュータが賢いように見えるのは、たんにそれだけの理由なのよ。何千年分ものプログラムをすべてたくわえていて、そのほとんどをいつでも実行することができる。ある意味で、人類がこれまでに考え出したずるい手口をすべて憶えている機械、ともいえるわね」
ブレット・トリンリが鼻を鳴らした。「なんの意味もないこともすべて、ね」
スラは肩をすくめた。「そうね。じゃあ、ファム、この船の総員数は――星系内にはいって全員が目覚めているときは、どれくらい?」
「千二十三人」ファムは答えた。リプリーズ号とこの航海についての具体的な数字はすべて暗記しているのだ。
「いいわ。ではいま、どの星からも何光年も離れた虚無の空間にいると仮定して――」
トリンリが口をはさんだ。「仮定しなくても、純然たる現実ですよ」
「そこでなにかまずいことが起きたとするわ。一隻の星間船をつくるには専門技能をもつ人間がおそらく一万人は必要になるし、そもそも巨大な資本集約型の産業基盤があることが前提になる。船の乗組員がすべてを憶えておくというのは不可能なのよ。たとえば星のスペクトルを分析したり、バクテリア槽の極端な変化に対してワクチンをつくったり、用心しなくてはならない欠乏症をすべて理解したり――」
「そうか!」ファムはいった。「そのためにプログラムやコンピュータがあるんだね」
「そしてそれなしでは、わたしたちは生きられないのよ。何千年ものあいだにつくられた使えそうなプログラムが、機械の記憶にはぜんぶ詰めこまれているわ。でもブレットがいったとおり、そのほとんどはまがいものだし、すべてにバグがひそんでいる。わたしたちの要求どおり正確に働くのは、第一階層のプログラムだけよ」
そこですこし黙って、意味ありげにファムを見つめた。
「使えそうなプログラムを探し、そのなかから適切なものを選んで手をくわえ、その結果を正確に解釈できるのは、頭脳明晰で高度に訓練された人間だけなのよ」
ファムはしばらく黙りこんで、いままで機械がこちらの望みどおりに働いてくれなかったときのことをひとつひとつ思い出した。あれはファムのせいではなかったのだ。キャンベラ語を固有語に変換するプログラムは本当にばかだった。
「だから……ぼくにもっといいものをプログラムできるようになってほしいんだね?」
スラはにっこりしただけだったが、ブレットは軽く笑い声を洩らした。
スラはいった。「あなたがいいプログラムを書けるようになって、それから既存のプログラムを上手に使えるようになってくれれば、わたしたちは満足よ」
ファム・ヌウェンはそれから何年もかけてプログラム、すなわち探索の方法を学んでいった。プログラミングとは、時のはじまりへさかのぼる行為だった。父親の城の裏手にあったごみの山にも似ていた。そこは小さな川によって十メートルほど侵食された崖があって、地層から潰れた機械の胴体がのぞいていた。農民たちは、空飛ぶ機械だといいつたえていた。キャンベラ星の偉大な植民地時代の遺物だと。
しかしリプリーズ号の船内ネットにくらべれば、城のごみの山のほうがよほどきれいで新しいと思えた。なにしろこちらには五千年間、人類が地球をあとにする以前からのプログラムが堆積《たいせき》しているのだ。驚くべきことに――スラは恐ろしいことに≠ニ表現した――キャンベラ星に残る大むかしのがらくたとちがって、これらのプログラムはまだ動くのだ! それどころかこれら太古のプログラムの多くが、入り組んだ無数の経路をたどって代々継承され、いまだにチェンホーのシステム最深部ではしっているのだ。
たとえばチェンホーの計時システムはどうか。時間の枠組みを修正するプログラムはおそろしく複雑だが――その最下層にあるのは、カウンターを動かしている小さなプログラムにすぎない。チェンホーの時間は、人間が原初地球の月に最初の一歩をしるした瞬間から一秒ずつえんえんとかぞえつづけられている。しかしもっと詳しくみると……かぞえはじめは、実際にはその数億秒あと。すなわち人類最初のコンピュータ・オペレーティング・システムのひとつにさだめられたゼロ秒が、計時の起点になっていた。
つまりあらゆる最上層インターフェースの下には、無数にかさなった支援プログラムの層があるわけだ。そのなかにはまったく異なる情況を想定して設計されたものもあり、これらの矛盾《むじゅん》がしばしば致命的な事故を惹《ひ》き起こす。ロマンチックな宇宙旅行の物語とはちがって、もっとも一般的な事故の原因は、じつはこのように不適切に使用されていた古いプログラムの破綻《はたん》だったりするのだ。
「ぜんぶ書きなおせばいいんだ」とファム。
「やったわ」スラは顔もあげずに答えた。彼女は当直を離れる準備をしていて、冷凍睡眠の自律機能系に起きているある問題を根本的に解決しようと、四日前からかかりきりになっていた。
「試みられた、というべきですね」冷凍睡眠庫からもどったばかりのブレット・トリンリが訂正し、ファムのほうをむいてつづけた。「船団のシステムコードは、最上層だけでも膨大《ぼうだい》な量になる。それをいちからつくりなおすには、千人がかりで一世紀かかるよ」意地悪そうににやりとした。「それをやりとげたとしても、どうなると思う? 完成した時点でまた新たな矛盾を大量にかかえこむだけだ。そしてさまざまな情況で使われるたびに次々に矛盾が発覚していく」
スラはしばらくデバッグ作業をあきらめた。「こういうのを、成熟したプログラミング環境≠ニいうのよ。ハードウェアの性能がぎりぎりまで高まって、プログラマーが何世紀もコードを書きかさねていくと、ある時点で、有意なコードが増えすぎて合理的に説明できる限界を超えてしまう。プログラマーにできるのは、全体の階層構造を理解して、そのなかから使えそうな変わり種のツールを探してくることだけになる。わたしがいまやっているのがいい例ね」
スラは目のまえのフローチャートをしめした。
「じつはいま、棺に使う冷却用媒体が不足している状態なの。あのキャンベラ星では入手できなかった無数の補給資材のひとつよ。とにかく常識的に考えると、棺を後部の船体近くに移し、放射冷却するしかない。でもこのやり方を支援するのにちょうどいいプログラムがないのよ。そこでいま、自分なりに考古学的手法を使ってみているところ。どうやら五百年ほどまえにトーマ星周辺で起きた星系内戦争の直後に、似たような情況があったようね。当時のプログラマーが切ったり貼ったりしてでっちあげた温度維持パッケージがあって、それがわたしたちの用途にぴったりなのよ」
「かなりのところまで[#「かなりのところまで」に傍点]ぴったり、ですね」ブレットがまたにやりとした。「いくらか手直しをしなくてはならない」
「そうよ。その作業がほぼ完成したところ」スラはファムのほうに目をやって、その表情に気づいた。「ああ、あなたは棺にはいるくらいなら死んだほうがましなのだったわね」
ファムはまだ子どもだった六年前を思い出し、恥ずかしそうな笑みを浮かべた。「いや、はいるよ。いつかね」
そのいつか≠ヘ、結局ファムにとって五年後の話になった。それはあわただしい五年間だった。ブレットとスラは非番にはいり、ファムはその交代要員たちとあまり親しくなれなかった。
そのなかの四人のグループが楽器を演奏した――それも、宮廷の吟遊楽士《ぎんゆうがくし》のように手であやつる楽器だ! 彼らは何キロ秒も演奏をつづけた。そうやって合奏することで精神的、社会的に奇妙な高揚感を得ているようだ。ファムは音楽からぼんやりとしたものしか感じないのに、この連中はこんな平凡な演奏にも熱中している。そんなものを相手にしているのは耐えられないので、ファムは彼らから離れていった。一人でいるのは得意だし、学ぶべきこともたくさんある。
勉強するにつれて、スラ・ヴィンがいった成熟したプログラミング環境≠ニはなんなのかわかるようになった。プログラマーとしてのファムは、ほかの乗組員にくらべても優秀だった。スラが、近くにいる彼に気づかずに、大天才≠ニ表現しているのを聞いたこともある。ファムはどんなプログラムでも書けた――しかし人生は短く、ほとんどの有意なシステムはとてつもなく大きい。そこでファムは過去の偉人たちの仕事を切り貼りすることを憶えた。エルドリッチ・フェアリーの兵器コードを、宇宙探検以前の時代に円錐《えんすい》図法で描かれたつぎはぎだらけの地図上で動かすこともできるようになった。それとおなじくらい重要なことだが、船内ネットワークのどこをどう探せば、使えそうな応用プログラムが出てくるかもわかるようになった。
……そして、成熟したプログラミング環境≠フ意味するところで、スラがはっきり語らなかった部分についても、だんだんとわかるようになってきた。システムがそれより下層のシステムに依存し、それがさらに古いシステムに依存していると……もはや全体がどうなっているかを把握するのは不可能になる。船団内自律機能系の奥深くには、おそらく――いや、かならず――無数の入り組んだ裏口があるのだ。ほとんどは何千年もまえに死んだプログラマーが書いたものなので、今後とも闇に葬られたままかもしれない。また企業や政府が時の流れのなかで影響力を失わないようにするためにもうけた裏口もあるだろう。スラやブレットはリプリーズ号のシステムのなかのそういった秘密の出入り口をいくつか知っていて、そのおかげで特別な力をもちえているのかもしれない。
中世の王子であるファム・ヌウェンは、このことに気づいて陶然《とうぜん》となった。
〈〈宇宙のあらゆるところで使われているごく一般的なシステムの、いちばん下の層にもしもぐりこむことができたら……〉〉
上の層があらゆるところで使われているのなら、これらの裏口を知る者は永遠の王になれる。
そしてそのシステムが使われている宇宙全体を支配できるのだ。
十三歳のおびえた少年がキャンベラ星から連れ去られて、十一年が経過した。
冷凍睡眠庫からスラが出てきた。ファムにとっては心待ちにした日……彼女が棺にはいってから指折りかぞえた日だ。話したいことが山ほどあった。訊きたいことや見せたいものが山ほどあった。しかしいざその日がやってきてみると、冷凍睡眠庫の入り口に迎えにいく勇気がなかった。
ファムを探したスラが、ようやく後部船体に接した備品庫にやってきた。そこは狭い穴ぐらのようなところだが、星空を眺められる本物の窓があり、数年前からファムは自分の部屋として勝手に使いはじめていた。
薄いプラスチックの蓋《ふた》にノックの音がして、ファムはそれを横に引いた。
「ファム……」
スラは奇妙な笑みを浮かべていた。いや、その顔が奇妙なのだ。とても若い。実際には年をとっていないのだ。そしてファム・ヌウェンのほうは二十四歳になっていた。彼はスラを狭い部屋に招きいれた。スラはそのわきを通り抜けて、すぐにふりかえった。笑みを浮かべながらも、視線は真剣だ。
「すっかり大人になったわね、わたしの友人」
ファムはゆっくりと首をふった。「そうだけど……きみにはまだ追いつけない」
「そうかもね。ある意味では。でもあなたはわたしの倍以上も優秀なプログラマーになったわ。このまえの当直シフトであなたがツォンのために書いたものを見たわよ」
二人はすわり、スラはツォンのかかえた問題とそれに対するファムの解決策について尋ねはじめた。ファムの頭からは、一年前から練《ね》りにねった弁舌《べんぜつ》も恰好のいい台詞《せりふ》も吹き飛び、つっかえつっかえ会話することしかできなかった。しかしスラはなにも気づいていないようだ。
〈〈ちくしょう。チェンホーの男はどうやって女をものにするんだ?〉〉
キャンベラ星の少年時代は騎士道や犠牲の精神を信じていたが……実際の方法がそれとずいぶんちがうことは、あとからだんだんと気づいていった。男が欲しいものをみつけたら、それがべつのもっと強い男のものではないことを確認して、ただ奪えばいいのだ。ファム自身の経験はごくかぎられていたし、とうてい典型的とはいえなかった。彼はシンディに奪われた[#「奪われた」に傍点]のだ。
まえの当直シフトがはじまったばかりのときに、ファムはキャンベラ流のやり方を女性乗組員のシーナ・ラオに試してみた。その結果、手首をへし折られ、告訴された。そのことは遅かれ早かれスラの耳にもはいるだろう。
そんなことを考えたせいで、ようやくつづけていた会話は完全に途切《とぎ》れてしまった。ファムは沈黙にどぎまぎしながらスラを見つめ、ふいに、特別なときのためにとっておくつもりだった決心を思わず口ばしった。
「お……おれも非番にはいるようにするよ、スラ。冷凍睡眠にはいる決心をしたんだ」
スラは予想していなかったことを聞いたように、まじめな顔でうなずいた。
「どうしてそう決心したのか知りたくないかい、スラ? なにがきっかけか。三年前のことだ。きみが非番のときだ」
〈〈だからこそ、きみに次に会えるのがずっと先だということを意識せざるをえなくなったんだ〉〉ファムは思った。
「おれは第二階層の天体力学プログラムをいじっていた。それに必要な数学の問題でどうしても理解できないところがあって、おれはしばらく悩んでいた。そしてなんとなくここへやってきて、星空を眺めはじめたんだ。これまでにもここへ来たことはあった。年ごとにおれの太陽が薄暗くなっていく。それが恐ろしかった」
「そうでしょうね」スラはいった。「でもここからまうしろの星が見えるとは知らなかったわ」
直径四十センチの狭い出入り口に近づいて、明かりを消した。
「見えるんだよ。すくなくとも目が馴れればね」ファムはいった。
部屋のなかは漆黒《しっこく》の闇になっている。窓は、本物の[#「本物の」に傍点]窓で、強調処理された映像を表示しているのではなかった。ファムはスラのうしろにまわった。
「ほら、あの四つの明るい星が槍兵《やりへい》座だ。いまはキャンベラ星の太陽がくわわったおかげで、槍がすこし長くなったように見える」
〈〈ばかばかしい。スラはキャンベラ星の星座など知らないのに〉〉しかし本心を隠すために、ひたすらしゃべりつづけた。
「おれが驚いたのはそのことじゃない。おれにとっての太陽も、実際には星のひとつにすぎない。そんなことはわかってるよ。問題は星座さ。槍兵座、雁《がん》座、鋤《すき》座。それらはまだ見分けがつくけど、すでにかたちが変わりはじめている。たしかに、すぐに予想できることではあった。そのときのおれはもっとむずかしい数学の問題に取り組んでいたんだから。なのにやっぱり……愕然《がくぜん》としたんだ。十一年のあいだに、星空が変わるほど遠くまで来てしまったんだ。そのとき、自分たちがどれだけ遠くへ来たか、どれだけ遠くまで行くのかが、実感としてわかったんだ」
ファムが闇のなかで身ぶりをしようとしたとき、てのひらがスラのうしろのなめらかなふくらみに軽くふれた。ファムは軽い悲鳴のような声を最後に黙りこみ、手をスラのズボンにあてたまま、何秒かじっとしていた。指先はスラの腰の線のすぐ上で、素肌にふれている。いま初めて気づいた――スラはブラウスの裾《すそ》をズボンにたくしこんでいないのだ。
ファムの手は腰のくびれからまわりこんで、下腹部のなめらかな曲線を斜めに横断し、ついに両方の胸の下側に到達した。それは奪いとる%ョ作だった。いくらか加減し、ためらいがちかもしれないが、たしかに奪いとる意思があった。
スラの反応は、シーナ・ラオとおなじくらいにすばやかった。ファムの腕のなかでさっと身体をひねって、彼の反対のてのひらに片方の胸を押しつけるようにした。ファムは逃げようとしたが、時すでに遅く、スラの手に首根っこを押さえられて、ぐいと引きよせられ……強く、長いキスがはじまった。ファムは重なった唇と、自分の手がおかれているところと、からみついてくる脚から、複数のショックを味わった。
さらにスラはファムのシャツの裾をズボンから引っぱり出し、おたがいの身体の接触面をひとつの細長いものに変えていった。そして唇を離して顔をもちあげ、軽く笑った。
「ああ、あなたが十五歳のときから手を出したくてうずうずしてたのよ」
〈〈じゃあ、なぜそうしなかったんだ? おれはきみに支配されていたのに〉〉
しかし脈絡のある思考はしばらくできなくなった。闇のなかにはもっと興味深い問題がいくつもひそんでいたからだ。どこをどうやって支点にすればいいのか、どうすれば硬い部分と柔らかい部分を合体させられるのか……。二人の身体は壁と壁のあいだをでたらめに跳《は》ねまわった。あわれなファムは、パートナーに誘導してもらわなかったらどうすることもできなかっただろう。
そのあと明かりをつけて、就寝用ハンモックのなかでどうやってやるかを教えてもらいながらやり、さらに明かりを消してまたやった。だいぶ時間がたって、二人はようやく疲れきって闇のなかで身体を漂わせた。ファムはよろこびと安堵につつまれ、両腕はスラの身体をつつんでいた。薄暗く魅惑的な星明かりは、充分に目が馴れたおかげで明るすぎるほどで、スラの瞳を輝かせ、白い歯をくっきりと浮かびあがらせた。
「星はたしかにそうね。星空の広がりを見ると、自分たちがいかにちっぽけかを感じて、すこし謙虚な気持ちになるわ」
ファムはスラを軽く抱きしめたが、しばらくは充ちたりてぼうっとしていて、相手のいったことしか考えられなかった。
「……ああ、恐ろしいね。でも同時にまわりに目を転じて、星間船や冷凍睡眠庫のことを考えると、おれたちは星から飛び出し、星々を超える存在になったんだと思える。おれたちは宇宙を意のままに変えていけるんだ」
スラの笑みのなかで、白い歯ののぞいた部分が広くなった。「ああ、ファム。やっぱりあなたは変わってないのかしら。初めて会った日の、なにをいっているのかさっぱりわからなかった少年を思い出すわ。あなたは、チェンホーは帝国だといいはった。わたしは、チェンホーはただの商人であって、それ以上ではないといった」
「憶えてるよ。でもまだ納得がいかないんだ。チェンホーはどれくらいの歴史をもっているんだい?」
「商船団≠フ名前として? ざっと五千年かしら」
「たいていの帝国よりは長いね」
「そうよ。そしてその理由のひとつは、わたしたちが帝国ではないからよ。ずっとつづいているように見えるのは、わたしたちの機能だけ。五千年前のチェンホーは、いまとは異なる言語を話し、文化もまったく異なっていた。こういう集団は人類宇宙のあらゆるところで、生まれたり消えたりしているはずよ。チェンホーは政府ではなく、変化の過程なのよ」
「たまたま似たようなことをしているやつらの集まり、というわけかい」
「そういうこと」
ファムはしばらく黙った。やはりまだスラにはいいたいことが通じていないようだ。
「なるほど、現状はそうだということだね。でも、それによって自分がたいへんな力をもらっていることには気づかないのかい? きみは数百光年の空間的広がりと数千年の時間的奥行きをもつ、高度な科学技術を手にしているんだぞ」
「いいえ。それは浜辺に打ち寄せる波が世界を支配しているといっているようなものよ。波はどこにでもあって、強力で、規則正しく動いているように見えるでしょう?」
「ネットワークをもてるはずだ。キャンベラ星できみたちが使っていた船団内ネットワークのようなものが」
「光速の壁があるのよ、ファム。わかる? なにものも光より速くは進めない。人類宇宙の反対側にいる商人たちがなにをしているかを知ることはできないし、たとえそんな情報があっても、それは何世紀もまえの古文書にすぎないわ。あなたが見たことがあるのはリプリーズ号の船内ネットワークだけでしょう。小規模な船団内ネットワークがどのように動いているかは勉強したはずね。惑星規模の文明をささえるネットについては、まだ想像もつかないでしょう。ナムケム星でじかに見ることになるわ。そういうところに寄港するたびに、かならず何人かの乗組員が船を降りるのよね。わずか数ミリ秒の待ち時間で何百万人もの人々とやりとりできる惑星ネットワーク内での暮らしは――まだあなたには想像もつかないと思う。あなたもナムケム星に着いたら、船から降りていくと思うわ」
「おれは絶対に――」
しかしスラはファムの腕のなかで身体をまわし、乳房を彼の胸の上にすべらせ、手をその下腹部へ、さらに下へとのばしていった。ファムの否定の言葉は、肉体の強い反応にかき消された。
それ以後、ファムはスラの私室に引っ越した。二人がそこにとじこもる時間があまりに長いので、ほかの当直者たちは、「うちの船長を誘拐するなよ」とファムをからかった。たしかにスラ・ヴィンとすごす時間はファムにとって尽きせぬよろこびだったが、それはたんに欲望が充たされるからではない。二人はいつまでも話し、どこまでも議論した。そうやって、自分たちの今後の進路を設定していった。
ファムはときどきシンディのことを考えた。シンディもスラもむこうから近づいてきて、ファムを新しい意識の段階に押しあげてくれた。いろいろなことを教え、議論し、ファムを魅了した。しかし二人は夏と冬ほどに、池と大海ほどにちがっていた。シンディは、居並ぶ王の兵士たちのまえに一人で立ち、命がけでファムを守ろうとしてくれた。スラ・ヴィンがそんな危険に身をさらす姿は、どんなに想像をたくましくしても思い浮かばなかった。
スラはどこまでも思慮深く、慎重なのだ。なにしろキャンベラ星残留の危険を分析して、成功の見込みはきわめて少ないと結論づけ、充分な数の仲間を説得した上で、多少の危険を冒しながら船団委員会から一隻の船をせしめ、キャンベラ星域から脱出してきたのだ。先の先まで見通し、だれも気づかないような問題を見抜くのが彼女だ。危険があれば避ける。やむをえなければ全力でぶつかっていく。混乱のきわみにあるファムの道徳観のなかでは、スラはシンディに劣るようにも思えたし……シンディにまさるようにも思えた。
チェンホーは星間帝国だというファムの考えを、スラはまったく相手にしなかった。しかし単純に否定するのではなく、ファムにさまざまな本を読ませた。すでに十年分もあるファムの読書予定表を見て、洩れていると思われる経済や歴史の本を追加した。多少なりとももののわかった人間なら、スラのやり方に納得するだろう。これまでのファム・ヌウェンには、常識≠ノ属するような概念がかなり欠けていたからだ。それでもファムは頑固な主張を捨てなかった。もしかしたら、目隠しをして走っているのはスラのほうかもしれないではないか。
「星間ネットワークを築けるはずだ。問題はただ……遅いということだけど」
スラは笑った。「そうよ、遅いわ! 三人が握手しあうのに千年かかるくらいにね」
「まあ、もちろん、通信規約はかなり異なるものになるだろう。使い方もね。しかし、いまの行き当たりばったりの交易行動を、もっと……利益の出やすいものに変えられるはずだ」ファムは強力なものに≠ニいいそうになったが、そういう表現では、中世の思考法≠ニ批判されるのがわかっていた。「流動的な顧客のデータベースをつくれるはずだ」
スラは首をふった。「数十年から数千年も時代遅れのデータになるわ」
「人類の標準言語を維持することはできる。顧客の政府が盛衰しても、チェンホーのネットワーク・プログラム標準は生きつづけるはずだ。チェンホーの交易文化は永遠につづくんだ」
「でもチェンホーは、有象無象の商人たちが泳ぐ海に棲《す》む一匹の魚にすぎなくて……ああ」スラはいいよどんだ。
ようやくいいたいことが通じたらしいと、ファムはにやりとした。
スラはつづけた。「つまり、チェンホーが文化≠発信すれば、仲間となる商人は商売上の強みを得られるのね。だからますます仲間か増え、情報が増えて、強みも増えていく」
「そうさ、そうなんだ! 近くの商売|敵《がたき》に対しては、放送を暗号で囲いこむことで対処できる」
ファムはずる賢い笑みを浮かべた。これから話すやり方は、幼い頃のファムや、それどころか北大陸全土の王であるファムの父親でさえも、けして考えなかっただろう。
「実際には、一部の放送は公開してもいいはずだ。たとえば標準言語を広めるための内容。それから技術ライブラリのなかで低次元のものなどだ。顧客文明の歴史をいろいろ読んだけど、原初地球からずっとくりかえされているのは、混乱、文明の勃興《ぼっこう》、崩壊、そしてしばしばその星における人類絶滅というパターンだ。長期的には、チェンホーの放送はこういったはげしい振幅をやわらげられるはずだ」
スラは遠くを見る目でうなずいていた。「そうね。うまくすれば、顧客文明がはじめからおなじ言語を話し、こちらが求める交易品をはじめからつくり、おなじプログラミング環境をはじめから使っているようになるかもしれない――」その視線がさっとファムの顔を見あげた。「まだこれは帝国だと思ってるわね?」
ファムは黙って微笑んだ。
スラはまだ無数の反論をかかえ、ぶつけてきた。しかしアイデアの肝心な部分は理解し、それを自分の経験にあてはめ、そしてファムの考えにそって想像力を働かせはじめていた。何日かたつと、スラのぶつける反論はしだいに提案に変わり、二人の議論は胸躍る未来の計画に変わっていった。
「あなたは頭がおかしいのよ、ファム……。でもそれでいいわ。こんな途方もないことを考えられるのは、頭のおかしい中世人しかいないかもしれない。これはまるで……まるでひとつの文明を白紙から設計しているようなものよ。独自の神話や独自のルールを設定できる。わたしたちはすべての原点に立ち、すべてに対して有利になれるのよ」
「そしてどんな商売敵にも勝てる」
「神よ」スラはつぶやいた(交易神≠ニその他|八百万《やおよろず》の神々がつくりだされるのは、これよりあとのことだ)。「じつは、ナムケム星はそれをはじめるのに最適な場所なのよ。文明は極限まで進歩しているけれども、人々はややシニカルで退廃的な気分になっている。そして人類史上最強といえる宣伝技術をもっている。あなたの提案は奇妙だけど、惑星ネットワーク規模の宣伝キャンペーンにくらべたらちっぽけな計画よ。わたしのいとこがもしまだナムケム星域にいたら、きっとこの計画に資金提供してくれるわ」
スラはほとんど子どものようにうれしそうに笑った。そのようすを見て、彼女がどんなに破産とその不名誉を恐れていたかに、ファムは気づいた。
「それどころか、利益をあげられるかもしれないのよ!」
それから当直シフトが終わるまで、二人の想像力と創意と欲望は沸騰《ふっとう》しつづけた。ファムは、特定の相手むけと不特定多数むけの内容を組みあわせた星間放送システムや、何世紀もばらばらになったままの船団や家系を同期させるスケジュールプログラムを考え出した。スラはほとんどの通信規約の設計を引き受け、驚嘆と歓喜に目を輝かせながら取り組んだ。人事管理については、ファムは世襲貴族や軍艦隊を想定して計画したが――スラに笑い飛ばされ、ファムも反論しなかった。結局のところ、人間にからむことがらではファムは十三歳の中世人のままなのだ。
実際のところ、スラ・ヴィンはファムに対して保護者然としているのではなく、むしろ畏敬《いけい》の念をいだいていた。ファムは、初めて冷凍睡眠の棺にはいる直前の最後の会話を思い出した。
スラは放射冷却システムを調節し、低体温麻酔薬をチェックした。
「わたしたちはほぼ同時に目覚めるわ、ファム。わたしが百キロ秒ほど早く起きて、あなたが目覚めるのを手伝うから」スラは微笑み、やさしく探るような視線でファムを見た。「心配しないで」
ファムは軽口を叩いたが、心のなかの不安はもちろん見抜かれていた。ファムが棺のなかにはいるあいだ、スラはほかのことを話した。これからの計画や、夢や、ナムケム星に着いたらはじめることについて、独《ひと》り言のようにしゃべりつづけた。しかしそのときがくると、ふいに黙りこんだ。かがみこんで軽く唇をかさね、かすかに悲しげな笑みを浮かべた。しかしファムのように冗談めかした言葉を忘れなかった。
「おやすみなさい、王子さま」
そしてスラは離れ、薬が効《き》いてきた。寒さは感じない。最後に憶えているのは、過去へもどっていくような奇妙な感覚だ。キャンベラ星にいた子どもの頃、ファムの父親は遠い存在だった。血を分けた兄弟は命をおびやかす危険な相手だった。シンディ……。シンディのことは結局よく理解できないままだった。スラ・ヴィンに対しては……成長した子どもが愛する親にいだく思い、男が自分の女にいだく思い、一人の人間が大切な友人にいだく思いを感じた。
根源的な部分で、スラ・ヴィンはそのすべてだった。長い人生の大部分において、スラ・ヴィンはファムの友人だった。最後の最後には裏切られたが――出会った頃のスラ・ヴィンは、たしかに誠実な女だった。
だれかがそっと肩を揺すり、顔のまえで手をふっている。
「おい、トリンリ! ファム! だいじょうぶか?」それはジョー・シンで、とても心配そうな顔をしていた。
「ああ……なんでもない。だいじょうぶだ」
「本当か?」ジョーはさらにしばらくファムを見つめたあと、もとの席にもどった。「以前、伯父がいまのあんたみたいにどんよりした目つきになったことがあって、どうしたのかと思ったら発作だったんだ。それで――」
「いや、おれは元気だ。ぴんぴんしてるって」ファムは虚勢《きょせい》を張った声にもどった。「ちょっと考えごとをしてたんだ。それだけさ」
それを聞いた連中が新たな笑い声をあげた。「考えごとだって? そんな慣れないことをするからさ、ファムじいさん!」
しばらくすると彼らの関心はべつのところへ移った。ファムは熱心に聞き、ときどき大声で意見をはさんだ。
じつは、急に白昼夢におそわれるのはファムの人格の問題で、すくなくともキャンベラ星を出てからときどきあった。思い出や計画のなかに意識が吸いこまれ、没入ビデオを鑑賞しているように、われを忘れてしまうのだ。そのせいで取り引きをしくじったことが、すくなくとも一回はある。
視野の隅で、キウィがもういなくなっているのを確認した。たしかに、あの娘の少女時代はファムのとよく似ている。いまのキウィの想像力や行動力はそれで説明できるかもしれない。
それどころか、ストレントマン人のおかしな子育て術は、リプリーズ号で育ったファム・ヌウェンの物語をもとに編み出された方法ではないかと思うことさえあった。しかし、ファムが目的地に着いたときには、すくなくともまえよりましな世界が広がっていた。ところがあわれなキウィが着いた場所にあったのは、裏切りと死だけ。それでも彼女はへこたれていないのだ……。
「最近の翻訳はすごいぜ」トルード・シリパンは蜘蛛族の話題にもどっていた。「おれはレナルト女史の翻訳担当の愚人を管理してるんだが――」トルードは管理職というより、ひらの職員なのだが、そのことはだれも指摘しなかった。「蜘蛛族のもともとの文明がどんなものだったかという情報だって、きっともうすぐわかるようになるぜ」
「どうかな、トルード。みんなここが没落した植民星にちがいないというけど、もし蜘蛛族がほかにも宇宙のどこかにいるのなら、どうしてそいつらの通信電波にだれも気づかないんだ?」
ファムは口をはさんだ。「おい、その話はまえにすんだだろう。アラクナ星は植民世界にまちがいないんだ。この星系の環境は、生命が自然発生するには苛酷《かこく》すぎる」
べつのだれかがいった。「チェンホーみたいに放送好きなやつがいないんじゃないのか?」
くすくす笑いが広がった。
「いや、それでも通信電波はたっぷり洩れてくるはずだから、聞こえてもおかしくないはずだ」
「ほかの蜘蛛族はすごく遠くにいるんじゃないのか? ペルセウス座のつぶやき≠ンたいに――」
「あるいは技術がすごく進歩していて、電波による通信はもうしてないのかも。やつらが一度没落して、文明を再建する過程でようやく気づけるのかもしれない」
よくある論争であり、挫折時代からつづく謎のひとつだ。そもそも人類の遠征隊がアラクナ星に惹きつけられたのはその謎ゆえだし、ファムが惹きつけられた理由はまちがいなくそれだった。
そして実際に、ファムはすでに新たな発見≠していた。とても強力で、蜘蛛族の起源などもはや些末《さまつ》なことに思えるくらいのもの。それは、集中化技術≠セ。
集中化技術によって、エマージェントは頭脳明晰な人間を専用の思考機械に仕立てているのだ。そしてトルード・シリパンのような下《した》っ端《ぱ》でも、キーを叩くだけでその翻訳結果を入手できる。トマス・ナウのような怪物にとっては、休まない無数の目をもっているようなものだろう。集中化によって、エマージェントはかつてだれも手にしたことのない力をもちえている。
どんな機械も真似できない繊細《せんさい》さと、どんな人間も真似できない忍耐力だ。それはまさに挫折した夢≠フひとつだが――エマージェントはそれを実現しているのだ。
トルードが偉そうな口調でしゃべりつづけているのを見ながら、ふいにファムは、自分の計画が次の段階にはいったことに気づいた。エマージェントの下級船員はファム・トリンリを受けいれている。ナウも許容しているし、それどころかチェンホーの軍事機密をのぞき見る未知の窓かもしれないと考えて、ファムの機嫌をとろうとさえしている。集中化についてもっと調べはじめていいだろう。シリパンやレナルトから聞き出し……いつかは技術面の知識も手にいれたい。
ファムはかつて、人類宇宙にあまねく広がる真の文明を築こうと試みたことがある。ほんの数世紀にせよ、成功したように思えたこともあったが、最後は裏切りによって崩壊した。しかし裏切りとは、失敗の表面化にすぎない――そのことに、ファムはずっとまえに気づいていた。スラとその一派がブリスゴー間隙《かんげき》で彼にした仕打ちは、必然だったのだ。星間帝国は空間的にも時間的にもたいへんな広がりをもつ。帝国というシステムのよさや正義を説《と》くだけでは、ささえていけない。技術的な強みが必要なのだ。
ファム・ヌウェンはダイヤモンド・アンド・アイス印の酒容器をもちあげ、一人でこっそり乾杯した――過去の教訓と、未来の展望に。今度こそうまくいくはずだ。
18
エズル・ヴィンにとって、武力衝突からあとの最初の二年は、客観時間における八年弱の期間にふりわけられて経過した。トマス・ナウは、チェンホーの優秀な船長とおなじように、乗組員たちの勤務期間を現場の事情にあわせて加減した。キウィとその作業班はだれよりも冷凍睡眠から縁遠かったが、それでも仕事のペースをしだいに落としていた。
アン・レナルトは宇宙物理学者を働かせつづけていた。オンオフ星は、過去数世紀に観察されてきたとおりの光度曲線をたどって落ち着いていった。素人《しろうと》目には、水素を燃やし、黒点もあるふつうの太陽にしか見えない。レナルトははじめの頃、ほかの学術員の勤務サイクルをまばらにして、蜘蛛《くも》族の活動再開を待った。
アラクナ星から軍用無線の電波がとどいたのは、まだ再発火から一日もたたず、地表を蒸気嵐が荒れ狂っている頃だった。どうやら太陽が消灯状態にはいったために中断されていた戦争があるらしい。一、二年のうちに、電波の発信地は二大陸の数十ヵ所に広がった。
蜘蛛族は二世紀ごとに地上の建築物をほとんど基礎から再建しなくてはならないわけだが、その点ではかなり優秀なようだ。雲に切れ間があらわれるたびに、新しい道路や新しい町が観察された。
四年後には、電波発信地は二千ヵ所に増えた。どれも古典的な固定発信局らしかった。この頃から、トリクシア・ボンソルをはじめとする言語学者たちは多忙な勤務スケジュールにはいった。研究対象となる音声がついに連続的にとどくようになってきたからだ。
当直シフトがかさなっているときは――いまはたいていそうなるが――エズルはトリクシア・ボンソルの部屋を毎日訪れた。はじめトリクシアは、いままで以上によそよそしかった。エズルのいうことなど聞いておらず、仕事部屋には蜘蛛語の音声がずっと流れていた。
蜘蛛族の声はキーキーとかん高かった。トリクシアとほかの集中化された言語学者たちは、その音響スペクトルのなかで意味の隠されている位置を判定し、今後の研究のために音と視覚の両方で適当な指標をつけていった。こうしてトリクシアのもとには使えるデータ指標がたまっていった。
それから本格的な翻訳作業がはじまった。レナルトの集中化された翻訳者たちは、手当たりしだいに素材を取ってきて、なかば意味不明の数千語のレポートを毎日作成した。いちばん優秀なのはトリクシアで、それは最初からあきらかだった。最初の突破口となった物理学の教科書を解読したのは彼女だし、ラジオで放送される話し言葉のうち三分の二に、それらの文字を対応させてみせたのも彼女だ。チェンホーの言語学者とくらべても、トリクシア・ボンソルは優秀だった。その評価が本人にわかるなら、どんなに誇らしく思うだろうか。
「彼女は欠かせないスタッフです」
レナルトは、いつものように抑揚《よくよう》のない声でそう断言した。賞賛するでもなく、サディスティックに楽しむのでもない、ただ事実を述べる調子だ。フンタ・ウェンのように早期に解放されることは望むべくもないようだった。
エズルは翻訳者たちが訳したものをすべて読むようにしていた。はじめは言語学的に解析している途中の試訳ばかりだった。どの文にも何十ヵ所もポインター経由で註がつけられ、そのほかに考えられる意味や構文の候補が書かれていた。しかし数メガ秒もするうちに、だんだんと読める翻訳になっていった。アラクナ星の地上には生きものがいて、これは彼らの言葉なのだということが感じられるようになってきた。
集中化された言語学者のなかには、注釈だらけの翻訳スタイルから一歩も出ようとしない者もいた。こまかな意味にこだわり、異種族の本質をつかもうとはしないのだ。それはそれでいいのかもしれない。というのも、そのこまかな解釈から、蜘蛛族はかつて栄えた文明のことなどなにも知らないらしいとわかったからだ。
「科学技術の黄金時代を示唆《しさ》するような言葉はまったく発見できません」レナルトはナウに報告した。
ナウは懐疑的なようすで見つめ返した。「そのこと自体が疑わしいな。原初地球でも、失われた過去についての伝説があったんだぞ」あらゆる文明の原点となる世界は、原初地球にほかならない。
レナルトは肩をすくめた。「過去の科学技術文明についての言及があるとしても、積極的にとりあげられてはいないということです。たとえば、いままでの観察からすると、考古学は学術研究のあまり重要でない一分野とみなされているようです」
没落した植民星によくみられる世界再創造の熱狂とは、ずいぶん対照的だ。
「くそったれ」リッツァー・ブルーゲルが毒づいた。「こいつらからなんの知識も掘り出せなかったら、がらくたを積んで帰るしかなくなる」
〈〈その程度のことも出発前に想定しておかなかったのか、ばかめ〉〉エズルは思った。
ナウも苦々《にがにが》しげで意外そうだったが、ブルーゲルに対しては反対意見をいった。「まだリー博士の成果があるだろう」
そして、テーブルの下座についているチェンホーたちのほうをちらりと見た。ナウの頭にはべつの考えがよぎったにちがいない。それにまだチェンホーの船団ライブラリがあるし、それを解読してくれる行商人どももいる≠ニいうわけだ。
トリクシアはエズルが手をふれることを許すようになっていた。ときどきは髪を梳《す》いたり、肩を叩いたりするのも受けいれた。エズルがあまり多くの時間をトリクシアの仕事部屋ですごすので、備品のひとつだと思うようになったのかもしれない。音声操作できる機械のように安全なものというわけだ。最近はヘッドアップディスプレーを使うようになっていて、そのおかげでときどき本当にこちらを見ているように思えることがある。錯覚とわかっていても、エズルはほっとさせられた。質問をすると、その内容が集中化した意識の範囲内にあって、装置やほかの翻訳者との彼女の会話をじゃましなければ、答えてくれることもあった。
トリクシアは薄暗い部屋にすわりっぱなしで、聞くのと訳文を話すのを同時にやっていた。
一部の翻訳者もおなじようにして、まるで自動人形のように仕事をしていた。しかしトリクシアはちがうーヴィンはそう思って笑みを浮かべた。彼女も分析をくりかえすが、構文ごとにさまざまな解釈を一ダースもつけくわえたりはしない。トリクシアの訳文は話し手の頭のなかにある意味にじかに迫っていくようで、読んでいると蜘蛛族世界が親しみのもてるふつうの場所に思えてくるのだ。トリクシア・ボンソルの翻訳は……芸術だった。
しかしアン・レナルトが求めているのは芸術ではなかった。はじめの頃は、あまりいちいち文句はいわなかった。翻訳者たちは訳文のなかで異なる文字体系を使う必要にせまられ、x[#「x」の右上に黒丸]≠竍q[#「q」の右上に黒丸]≠ニいうふうに記号を付加するのではなく、二個の文字で一音をあらわす連字という手法を採用するようになった。そのせいで彼らの翻訳はとても古臭い感じになったのだが、さいわい、この奇妙な体系を最初にはじめたのはトリクシアではなかった。彼女はもっと疑わしい新奇なやり方の考案者だった。
ある日、レナルトがたいへんな剣幕《けんまく》で、エズルをトリクシアの仕事部屋から――トリクシアと会える唯一の場所から――追い出すと脅《おど》した。
「あなたが部屋のなかでやっていることは、トリクシア・ボンソルを混乱させているだけよ。翻訳が比喩的表現ばかりになっているわ。たとえばこの名前――シャケナー・アンダーヒルとか、ジェイバート・ランダーズ≠ニか。ほかの翻訳者がみんな認めるような複雑な要素を、勝手に無視している。そうかと思えば、無意味な音節をつないででっちあげたものもある」
「トリクシアは、こうあるべきだというかたちにしてるだけだよ、レナルト。きみはいままで自動人形ばかりを相手にしすぎなんだ」
ただレナルトの場合は、ほかのエマージェントにくらべても鈍感《どんかん》な部類にはいるとはいえ、悪意はもっていないのだ。議論をすることもできる。しかしトリクシアの部屋からしめだされるとなると……。
レナルトはじっとエズルを見た。「あなたは言語学者ではないわ」
「ぼくはチェンホーだ。商売のためには何千という人類文明と、ときにはいくつかの非人類文明の本質を理解することが必要になる。きみたちは人類宇宙の狭いところをうろついているだけだし、通用しているのもチェンホーの放送標準語をもとにした言語だ。しかしほかの宇宙には根本的に異なる言語もいくらでもあるんだよ」
「ええ。だからこそ極端な単純化は受けいれられないのよ」
「そうじゃない。エイリアンの精神を深く理解して、そのちがいのなかでなにが重要かを教えてくれる存在が必要なんだ。たしかにトリクシアが訳した蜘蛛族の名前はばかばかしく思えるかもしれない。でもこのアコード≠ニ名づけられたグループは、若い文化をもっている。彼らの名前のほとんどはまだその日常言語における意味をもっているはずだ」
「すべてではないし、すくなくとも姓名の名のほうはちがうわ。実際の蜘蛛族の名前は、同時発声によって姓も名もいっしょくたに発音されるのよ」
「いや、トリクシアがやっていることは正しいんだ。おそらく名のほうはもっと古い関連言語に起源があるんだと思う。その証拠に、かすかに意味がわかるものもあるじゃないか」
「それがよくないところよ。ラディル語やアミニーズ語に似たところもある。インチ∞時∞分≠ネんて単位は、内容をわかりにくくしているだけだわ」
たしかにエズルも不自然なラディル語の単位には困っていたが、レナルトのまえでそれを認めるつもりはなかった。
「ここでぼくらが話している固有語は、アミニーズ語やラディル語との関連性をもっているんだ。トリクシアはそれとおなじ関連性を、自分の翻訳の根幹《こんかん》についてみいだしているはずだ」
レナルトは無表情にエズルを見ながら、長いこと黙っていた。それはしばしば、議論は終わりで、そのことをわざわざ相手に告げる気さえないという意味だった。そうでなければ、理解しようと真剣に考えているときだ。
「つまり彼女は高いレベルの翻訳作業をおこなっているのであり、わたしたちの意識を利用して直観的に理解させようとしている、といいたいのね」
レナルトらしく、ぎこちないが、正確な分析だった。
「そうさ、そういうことなんだ。もちろん、こちらはまだ理解を進めていく段階だから、注釈やただし書きだらけの翻訳も必要だ。でも商売において肝心なのは、相手方が求め、期待していることを実感としてわかることなんだ」
レナルトはその説明を受けいれた。そもそもナウは、単純化どころかラディル語の古臭い単位もよしとしていた。そして時間がたつにつれ、ほかの翻訳者もトリクシアのやり方を採用するようになっていった。
そもそも集中化されていないエマージェントには、翻訳のよしあしを評価する能力などないのではないか。エズル自身も、レナルトに対してはあんなふうに解説してみせたものの、それほどの自信はなかった。トリクシアによる蜘蛛語のメタ翻訳は、武力衝突の直前にエズルが彼女に対して説《と》いた黎明期の歴史の話に似ている気がしてきたのだ。ナウやブルーゲルやレナルトには理解できないだろうが、エズルにとっては専門分野なので、いくつもの共通点が見てとれるのだ。
トリクシアは蜘蛛族の身体特徴をつねに無視していた。人間が蜘蛛に対していだく嫌悪感を考えれば、これはあたりまえかもしれない。しかしこの生きものは人間とまったく異なる姿をしているのだ。外見もライフサイクルも、かつて人類が出会ったどんな知的生命体より異質だ。
手足の一部は人間の顎《あご》の役割をはたしているし、手や指にあたるものはなく、かわりに多くの脚を使って対象物を操作する。
しかしトリクシアの翻訳には、こういったちがいはほとんどおもてに出てこない。ときどき尖《とが》った手=iおそらく前脚をたたみこめるように、短剣のようなかたちになっているのだろう)や、中手《ちゅうしゅ》や前手《ぜんしゅ》といった言葉が出てくるが、それだけだ。エズルは学生時代にそういったこなれた翻訳を読んだことがあったが、それは顧客文化と何十年にもわたってじかにふれあった経験をもつ熟練者の仕事だった。
蜘蛛族世界では、子どもむけのラジオ番組――すくなくともトリクシアはそう考えていた――がはじまっていた。彼女は番組のタイトルを、〈子どもの科学の時間〉と訳していて、いまでは蜘蛛族について知る最大の情報源になっていた。というのもこのラジオ番組では、人間の理解がもっとも進んでいる科学用語と、日常文化をいう口語とが理想的にまじりあっているのだ。本当に学校にかよう子どもたちにむけたものなのか、それともたんなる娯楽番組なのかは、知るよしもない。もしかすると軍の徴集兵むけの強化教育なのかもしれなかった。しかしトリクシアの訳したタイトルが定着すると、そこからすべての要素が純真でかわいらしいニュアンスに色づけされていった。
トリクシアのアラクナ星は、まるで人類の黎明期に書かれた妖精|譚《たん》のようだった。エズルは彼女の仕事部屋にかよいつめ、そのあいだこちらにむかってひとことも話さず、強い集中化によって人間性をすべて否定されているトリクシアを眺めつづけた。そしてそのうちに……この翻訳こそが、かつてのトリクシアではないかと思うようになった。人類史上最強の奴隷システムに支配されながら、希望をもちつづけているトリクシアのあらわれなのだ。集中化によって意識は蜘蛛族世界に固定されている。そこで、そこから聞こえてくる物語を歪曲《わいきよく》し、自分に残された唯一の方法で、楽しい夢の世界として描きなおしているのだ。
19
太陽は中間期にはいり、プリンストン市はその美しさをかなり回復していた。これから涼しくなる季節にはもっと建設作業がつづくだろう。野外劇場、衰微《すいび》期のための宮殿、大学の植物園などだ。六〇//一九年までには、何世代もつづく街路はひとつ残らず復旧していた。中心部のビジネス街は完成し、大学は通年で開講していた。
それとはべつのところで、六〇//一九年は、五九//一九年とはちがっていた。それ以前の世代の十九年めとくらべたら、たいへんなさまがわりだ。世界は科学の時代にはいったのだ。これまでの時代に水田が広がっていた川ぞいの低地は、空港の滑走路になっていた。市でいちばん高い丘には無線塔が林立し、夜になるとその遠赤外色の標識灯が何マイルも離れたところから見えた。
六〇//一九年までに、アコード国のほとんどの都市はおなじように変わっていた。ティーフシュタット国やキンドレッド国の大都市も同様で、それ以外の小国の都市も程度の差こそあれ変わっていた。しかしこの新しい時代の基準からみても、やはりプリンストン市は特別な場所だった。おもてには見えなくても、そこでは巨大な変革の種が生まれようとしていた。
ハランクナー・アナービーは、雨の降る春のある朝に飛行機でプリンストン市に降り立った。空港のタクシーに乗って川ぞいの地域を離れ、市の中心部へはいった。プリンストン市はアナービーが育った場所であり、経営する建設会社もここにある。着いたときにはまだほとんどの店はあいておらず、タクシーのまわりでは街路の清掃人があちこち走りまわっていた。冷たい小糠雨《こぬかあめ》に濡れた店や木々が、千色《ちいろ》のきらめきを放っている。アナービーは古いダウンタウンが好きだった。石づくりの基礎の多くが三、四世代以上も生き延びていて、生きているだれよりもむかしに設計されたこれらにあわせて、上の階の新しいコンクリートや煉瓦《れんが》も築かれているのだ。
ダウンタウンを抜けると、新しい住宅の建ちならぶ坂を登りはじめた。このあたりは元王領で、大戦争――新しい世代は対ティーファー戦争と呼んでいる――の軍資金を得るために政府が売却したのだ。この新しい地区の一部はすぐにスラム街になったが、ほかの場所――もっと眺めのいい高い場所には、広壮な邸宅が建てられた。タクシーはつづら折りの道を登っていき、ついにこの新興住宅街でいちばん高いところに着いた。丘の頂上は雨にそぼ濡れた羊歯《しだ》植物が欝蒼《うっそう》と茂って見通しが悪いが、あちらこちらに離れ家《や》が建っているのは見てとれる。門番はいないようなのに、勝手に音もなく門がひらいた。おやおや。こりゃとんでもない大豪邸だ。
円形駐車場の奥に、シャケナー・アンダーヒルが立っていた。大きな玄関にくらべ、なんだか場ちがいな姿に見える。雨はちょうど気持ちいい霧という程度なのに、シャケナーは傘を広げてアナービーを迎えにきた。
「ようこそ、軍曹! よくいらっしゃいました! 何年もまえから一度このちょっとした丘の家を見にきてほしいと思ってたんですが、やっと来てくれましたね」
アナービーは肩をすくめた。
「お見せしたいものはたくさんあるんですが……まず最初に、小さいけれどもだいじな二つの宝物から」
シャケナーは傘を傾けた。なにかと思うと、背中の育児|毛《もう》のなかから小さな二つの頭がこちらをのぞいていた。父親の背中にしがみついている赤ん坊だ。ふつうの子どもでいえば新生期のはじめ頃の成長具合で、その点では、かわいい盛りだ。
「女の子はラプサ、男の子はハランクナーです」
アナービーはあたりまえの態度に見えるよう気をつかいながら、一歩まえに出た。〈〈たぶん二人は、友情の証《あかし》のつもりでハランクナーと名づけたんだろうな。やれやれ〉〉
「こんにちは、お嬢さんと坊や」
アナービーはいったが、そもそも子どもとのつきあい方などまったく心得がなかった。子育てにいちばん近い経験といえば新兵訓練くらいだ。そのせいでぎこちないのだと思ってもらえれば、むしろさいわいだが。
赤ん坊たちはアナービーの内心の嫌悪感がわかったらしく、恥ずかしそうに隠れた。
「気にしないでください」シャケナーのほうはなにも気づいていないようだ。「家のなかにはいったら、出てきて遊びはじめますから」
シャケナーは彼をなかに案内しながら、見せたいものがどんなにたくさんあるか、ようやく訪れてもらえてどんなにうれしいかをしゃべっていた。数年見ないうちにシャケナーは、すくなくとも身体《からだ》のほうはかなり変わっていた。数回脱皮して、あの痛々しいほどの痩《や》せ方ではなくなった。背中には父親らしい育児毛がふさふさとしているが、この太陽期にそういうものがはえているのはやはり違和感があった。頭と上半身の震えは、むかしよりもひどくなったようだ。
二人はホテルのように広いロビーを歩いていき、幅の広い螺旋《らせん》階段をのぼっていった。そこからは、シャケナーのちょっとした丘の家≠ノつらなるいくつもの翼棟《よくとう》が見わたせた。廊下を行きかう者も多い。使用人なのだろうが、大金持ちが着せたがるようなお仕着《しき》せ姿ではない。
むしろここには、会社か政府施設のような実用第一の雰囲気があった。
アナービーは相手のたえまないおしゃべりをさえぎった。「ここのはすべて見ぜかけなんだな、アンダーヒル? 王はこの丘を売却なさったわけじゃない。所属を移転させただけだ」
――情報局に。
「いえ、ちがいますよ。ここはわたしの土地です。自分で買ったんです。ただ、なんていうか……いろいろと意見はいいました。そしてビクトリーが――というより、アコード軍情報局長官が――ここに研究室をもうけるのが安全管理上もっとも適切だと判断したんです。お見せしたいものがあるんですよ」
「ああ、それが今回ここへ来た理由だからな、シャケナー。おまえのやり方は正しいとは思えない。おまえはまるで王家を……。ここでは自由に話していいのか?」
「ええ、もちろんだいじょうぶですとも」
軽い口調のそんな返事を聞いても、そう簡単に信用するアナービーではないのだが、この建物が万全の安全対策をほどこされているのはだんだんとわかるようになってきた。シャケナーらしい設計もあちこちに見てとれて、たとえば部屋のほうへあがるための対数関数にもとつく螺旋階段もその一例だが、ビクトリーが目をひからせているらしい箇所《かしょ》もいくつもあった。ようやく気づきはじめたのだが、警備員はあらゆるところにいるし、絨毯《じゅうたん》や壁にはしみひとつないのだ。たぶんここは、ランズコマンド市にあるアナービーの研究室とおなじくらい安全だろう。
「わかった――。おまえは王家が総力を挙《あ》げてこの原子力開発にとりくむようにしている。おれは億万長者でもかかえきれないほどの人員と施設を動かしているし、そのなかにはおまえとおなじくらいの天才科学者が何人もいるんだ」
じつはハランクナー・アナービーはまだ軍曹なのだが、まかされている仕事の規模はその階級とかけ離れていた。プリンストン市の建設業者が想像もしないような日々を送っているのだ。
「それでいいんです。ビクトリーはあなたをとても信頼しているんですよ」
シャケナーは客を広くて奇妙な部屋に案内した。たくさんの本棚と机があり、机の上は報告書であふれ、本やノートが乱雑に積まれている。しかし本棚には子ども用のジャングルジムが固定され、難解な専門書と子どもの本がまざっているのだ。二人の赤ん坊はシャケナーの背中から跳び降りて、ジャングルジムをするすると登り、天井の近くから彼らを見おろした。シャケナーは低い席から本や雑誌をとりのけ、アナービーにすわるよううながした。あやうく話題を変えそうになったが、そうしなくてよかった。
「そうかもしれないが、しかし、おれの報告書を見てないだろう」
「いや、見ましたよ。ビクトリーが送ってくれました。ただ、まだなかに目をとおす時間がないんですけどね」
「おいおい、読んでくれよ!」〈〈重大な機密事項にかんする報告書を受けとって、まだ読む暇がないだと? プロジェクトの提唱者がそんなことでどうするんだ〉〉「いいか、シャケナー。おれがいいたいのは、うまくいきっこないということだ。理論的には、原子力はわれわれの要求を完全に充《み》たすエネルギー源だ。しかし実用上は――すくなくとも非常に危険な毒物ができてしまう。たしかに、ラジウムに似ているけれども、もっと大量生産しやすい物質もみつかった。ウランのある同位体は、単離するのが非常にむずかしいけれども、もし成功したらたいへんな爆弾をつくれるだろう。ひとつの都市を暗期の終わりまで暖められるだけのエネルギーをとりだせるが、そのかわり一瞬でどかんと出ちまうわけだ」
「すばらしい! 出発点としては上々です」
「そのすばらしい出発点が、とんでもないところへ行っちまいそうなんだよ。おれの管理下の三つの研究室が、爆弾科学者に占領された。まずいことに、いまは平時《へいじ》なんだ。この技術はすぐに洩れる。最初は鉱山会社に、次に外国に洩れるだろう。キンドレッド国やティーフシュタット国なんかがおなじものをつくりはじめたら、いったいどうなると思う?」
シャケナーの無関心さの鎧《よろい》も、さすがにそれにはつらぬかれたようだ。「……ええ、そうなってはとてもまずいですね。あなたの報告書は読んでいませんが、ビクトリーはしょっちゅうここへ来ますから。技術は便利さと危険が背中あわせになっているものです。どちらか一方だけというわけにはいかない。しかしこの原子力にかんしては、あえて開発しなければ、わたしたちは生き残れないんです。そこは確信があります。あなたは問題の一部しか見ていないんですよ。じゃあ、ビクトリーに頼んで資金をもっと集めさせましょう。アコード軍情報局は王家から信頼されていますからね。目に見える成果が十年以上なくても、予算投入をつづけてもらえる。研究室も好きなだけ増設してもらって――」
「シャケナー、学習曲線≠ニいうものを知ってるか?」
「それは、まあ――」もちろん知っているはずだ。
「いまの段階でいくらでも金をかけてよければ、都市暖房システムはつくれるさ。ただし数年ごとに大事故を起こすだろうし、正常稼働≠オているときでも、作業流体――この場合は高温の蒸気とかだが――それが強い放射能をおびてしまって、暗期にはいって十年もたたないうちに全住人が死んでしまうだろう。ようするに、ある限界点を超えると、いくら金や技術者を投入しても問題は解決しなくなるんだよ」
シャケナーは、すぐには返事をしなかった。どうやらジャングルジムの上のほうに注意がいっているらしい。二人の赤ん坊を見守っているのだ。
この部屋は、富と、シャケナー・アンダーヒル独特のごたまぜの知性と、彼が新たに獲得した父親としての役割が、まさにごった煮になっていた。床をおおいつくした本やがらくたのあいだからは、かなり上等な絨毯がのぞいている。壁紙はとんでもなく高価なことで知られる騙《だま》し絵の模様だ。高い天井までとどく窓には石英ガラスがはまっている。いまはすこしあけられ、そのむこうにある錬鉄《れんてつ》製|格子垣《こうしがき》をとおして、羊歯の匂いがする涼しい朝の空気が漂ってきていた。シャケナーの机と本棚の足がかりのわきには電灯がおかれているが、いまは消されていた。
部屋にさしこむ光は羊歯の葉こしの緑と近赤外色だけだ。そばにある本の背表紙を読む分には充分だ。心理学、数学、電子工学、まれに天文学――そしてたくさんの子どもの絵本があった。本は低く横積みにされていて、すきまにはおもちゃや道具が詰めこまれている。いつものことながら、どれがアンダーヒルのおもちゃでどれが子どものか、区別がつかなかった。ところどころにまじっている旅行|土産《みやげ》のようなものは、ビクトリーが軍の任地からもち帰ったのだろう。ティーファー製の脚磨きや、島民からもらった花輪らしいドライフラワーがあった。さらに隅のほうに立てかけてあるのは……なんと、マーク7ロケット弾ではないか。弾頭の蓋《ふた》はとりはずされ、高性能爆薬がはいっていたはずのところに、人形の家がすえつけられている。
しばらく黙っていたシャケナーが、やっと話しはじめた。「たしかに、金で進歩を買うことはできないですね。機械をつくる機械はそう簡単につくれないのとおなじで。でも残り時間はまだ二十五年あるし、こういう大きな組織を動かすことにかけてはあなたは天才だと、将軍もいってましたよ」
アナービーはそれを聞いて誇らしかった。大戦争でもらったいくつもの勲章をあわせたより、大きな誇らしさを感じた。しかしスミスとシャケナーがいなかったら、自分のそんな才能も発見されずじまいだったはずだ。その賞賛の言葉に自分がどれだけ感動しているか、さとられないように、わざとうなるような声で答えた。
「ありがとうよ。しかしおれがいいたいのは、それだけではどうにもならないということだ。二十年以内にこれを完成させたいのなら、これではまだたりない」
「たとえばなにが必要なんですか?」
「おまえだよ! おまえの直観力だ。計画の一年めにかかわったきり、プリンストン市のこの屋敷に引っこんで、あとはなにをしてるのか皆目《かいもく》わからないというんじゃ、どうにもならないだろう」
「ああ……それはすみません、ハランクナー。じつはもう、原子力には興味をなくしてしまったんですよ」
アナービーはシャケナーと長年のつきあいなのだから、これくらいの言葉に驚いていてはいけないはずだった。しかしそれでも手を噛みたい気分に襲われた。だれも考えもしなかったような大事業をはじめさせた男が、それをもう忘れたというのだ。目のまえにいるのがただの変わり者だったらどんなにいいか。もしそうなら、アナービーはよろこんでこいつを殺しただろう。
「わかりました」シャケナーはつづけた。「もっと優秀な人材が必要なんですね。それはいまわたしが力を注いでいる分野でもあるし、お見せしたいものというのもそれなんですよ。ただ――」そこでまたアナービーを怒らせるようなことを、無造作にいった。「原子力のほうは簡単にできるだろうという気がするんですけどね。ほかのむずかしい計画にくらべたら」
「その、ほかの計画、というのは?」
シャケナーは笑った。「たとえば、子育てとかですね」わきの壁にかかった古い振り子時計をしめした。「そろそろ生徒たちが来ている頃だ。先に工科大学をお見せしましょう」
席から立って、親が小さな子どもを呼ぶとき特有のおかしなやり方で手をふった。
「降りておいで、降りておいで。ラプサ、時計はだめだよ!」
遅かった。女の子のほうはジャングルジムから降りる途中で、時計の振り子に飛びつき、そのままするすると床まですべり降りてきた。
「ここはいろんなものがありすぎるな。いつかなにかが落ちてきて、子どもたちを下敷きにしてしまいそうだ」
二人の赤ん坊は床を走ってきて、父親の背中に飛び乗って定位置におさまった。どちらもまだ妖精|蜘蛛《ぐも》くらいの大きさだ。
シャケナーはこの工科大学を、おもてむき王立大学の一部門ということにしていた。この邸宅には、敷地の境界線に接するかたちでいくつもの教室が建てられていた。ここの運営予算をまかなっているのは、じつは王家ではない。すくなくともシャケナーはそう説明した。ほとんどの研究施設はシャケナーに共鳴した企業の所有物であり、その財布でまかなわれているのだ。
「王立大学の最高の頭脳を何人か引っぱってくることができましたよ。ただし、いくらか取り引きをしてね。ここの教授陣はダウンタウンでも引きつづき教鞭《きょうべん》をとり、研究をできる。しかしこの丘の上でも仕事をしてもらう。そのかわり、われわれが受けとるもろもろの収入のうち一定割合を王立大学側に還元する、というしくみです。こちらでだいじなのは研究成果だけですから」
「授業はないのか?」
シャケナーは肩をすくめた。すると背中から二つの小さな頭があらわれ、ひょこひょこと上下しながらうれしそうにぴーぴー鳴いた。たぶん、もっとやって、パパ!≠ニいう意味だろう。
「いえ、授業はありますよ……まあ、授業のようなものがね。そこでだいじにしているのは、みんなが専門分野の垣根を越えていろんな話をすることです。学生にとっては、話が体系化されていないのでわかりにくいという危険はある。とても興味深いという学生もいれば、ついていけなくて悩む学生もいます」
ほとんどの教室では黒板のまえに二、三人がいっぺんに立ち、みんながそれを低い席にすわって見ていた。だれが教授でだれが生徒かわからない。そもそもどういう分野かアナービーには見当のつかない授業さえあった。
二人は、あるドアのまえでしばらく立ち止まった。現世代生まれの若者が、年配者たちにむかって講義している。黒板に書かれた文字からすると、天体力学と電磁気学が混ざった内容らしい。立ち止まったシャケナーは、教室の生徒にむかって笑みの手ぶりをした。
「暗期の空に見たオーロラのことを憶えてますか?」シャケナーはアナービーにむかっていった。「この教室のやつは、それは宇宙空間にある、非常に暗い物体が原因となってあらわれたのではないかと考えているんです」
「おれたちが見たものはどこも暗くなかったぞ」
「そうなんです。あれは新生太陽の発火となにか関係があるのかもしれない。わたしは疑問ももっていますけどね。なにしろジェイバートは天体工学をまだよく理解していないので。しかし電磁気学のほうはすごい。波長わずか数インチの電磁波を出せる無線装置を開発中なんです」
「波長数インチだって? 電波というよりは、超遠赤外線の範囲にはいりそうだが」
「ぼくらの目に見えるほどではありませんが、たいしたものです。彼はこれを反射測定器として使って、その宇宙の石を探すつもりなんです」
二人は廊下をまた歩きだしたが、シャケナーはしばらく黙りこんだ。どうやらアナービーにこのアイデアについて考えさせたいらしい。
ハランクナー・アナービーは実用第一主義の性格で、だからこそスミス将軍の野心的な計画のいくつかにおいて不可欠な役割をあたえられているのだ。しかしそんなアナービーでも、こんな壮大なアイデアには驚かずにいられなかった。それだけ短い波長の電磁波がどんなふるまいをするかは、ぼんやりとしかわからなかったが、すくなくとも指向性はきわめて高いはずだ。反射測定に必要な出力は距離の四乗に比例する――とすると、宇宙の石ころを探してなんらかの成果をあげるより先に、その波を地上にむけたほうがよほど使いでがありそうだ。ふむ。このジェイバートというやつの計画していることは、むしろ軍事的な利用価値のほうが高そうだ。
「その高周波送信機は、だれか実際につくったのか?」アナービーは訊いた。
その好奇心がはためにもわかったらしく、シャケナーはさらににやにやと笑いだした。
「ええ。それこそジェイバートの天才的発明品で、本人は空洞発振器と呼んでいます。うちの屋根にアンテナが立っていますよ。無線塔というよりは、反射望遠鏡の鏡のようですけどね。ビクトリーが最西部山脈ぞいにランズコマンド市まで中継器を設置してくれたので、いまでは電話線を経由するより確実に彼女と話ができます。ある授業では、暗号研究の実験台にも使っていますよ。もうすぐ安全性がきわめて高くて感度もいい無線機ができるはずです」
〈〈たとえジェイバートの天体観測がうまくいかなくてもな〉〉アナービーは思った。
やはりシャケナー・アンダーヒルはとんでもないやつだ。そしてアナービーは、彼がなにに夢中になっていて、そのせいで原子力研究から興味を失ってしまったのか、だんだんわかってきた。
「ランズコマンド市が必要とする天才科学者は、この学校から育つはずだと考えているわけか」
「すくなくとも、みつけられるはずですよ――そしてここでなら、みつけた人材の才能を引き出してやれるはずです。こんな楽しい仕事はない。でも、だいじなのは柔軟さですよ、ハランクナー。本物の創造性とは、ある種の遊びの精神のなかにあるんです。ひとつのものごとに深くはまりこむのではなく、いろいろなアイデアを次から次へもてあそぶことです。もちろん、求められているとおりの答えが手にはいるとはかぎらない。これからの時代は必要性が発明を生むのではなく、発明が必要性を生むようになるはずです」
シャケナー・アンダーヒルがそういうのは簡単だ。科学を現実のものとしてつくりだす仕事はしないのだから。
シャケナーはだれもいない教室で立ち止まり、黒板をのぞきこんだ。ここにも、なにやらわけのわからないことが書いてある。
「戦時中にランズコマンド市で弾道計算の表をつくるのに使われていた、機械仕掛けの計算尺のことを憶えてますか? あれを真空管と磁気コアでつくろうとしているんです。計算尺より百万倍も速いし、副尺《ふくしゃく》を動かすのではなく記号列で数値を入力できる。あなたのところの物理学者もよろこぶと思いますよ」軽く笑った。「こういうことですよ、ハランクナー。発明の第一特許権はスポンサー企業にあるとはいえ、あなたやビクトリーには充分に満足してもらえるんです……」
そこから長い螺旋階段をあがっていくと、丘の頂上近くにある中庭に出た。プリンストン市のまわりにはもっと高い丘もあるが、ここからの眺めも、冷たい霧雨が降っているとはいえ、充分すばらしいものだった。三発エンジンの飛行機が空港へ降りていくのが見えた。中間期になって宅地開発が進んでいる谷の反対側は、濡れた花崗岩《かこうがん》と敷いたばかりのアスファルトの色だった。
アナービーはその工事を請け負っている建設会社を知っていた。彼らは、次の暗期が来てもずっと目覚めていられるようなエネルギー源ができるらしいという噂を信じていた。もしそれが現実になったら、プリンストン市はどんなようすになるだろうか。星空と真空の下でも眠らず、だれも冬眠穴にはいらない都市。いちばん危険なのは、衰微期が終わりに近づいて、住人が決断を迫られるときだろう。いままでどおりに暗期にそなえて物資を蓄《たくわ》えるか、ハランクナー・アナービーの技術者たちがいうことに賭けてみるか……。
アナービーがいちばん心配しているのは、失敗ではなく、生半可《なまはんか》に成功することだった。
「パパ、パパ!」
二人の五歳児がうしろにあらわれ、駆けよってきた。そのまたうしろから、さらに二人の子どもがついてきているが、彼らは正常な子どもとおなじくらいの齢《とし》に見えた。
ハランクナー・アナービーは十年以上にわたって、上司の堕落した行為を無視しようとつとめてきた。ビクトリー・スミス将軍は考えられるかぎり最高の情報局長官であり、もしかするとストラット・グリーンバルより優秀かもしれない。スミスの個人的な性癖がどうだろうと関係ないし、彼女自身が時期はずれの生まれであることなど、アナービーはまったく気にしていなかった。それは本人にはどうしようもないのだから。しかし、スミスが新生期の最初から家庭生活をはじめたり、自分の生《お》い立ちを汚されたのとおなじやり方で、子どもたちの生い立ちを汚すのは……。
〈〈しかもこの子たちは、おない年でさえないんだ〉〉
シャケナーの背中から二人の赤ん坊が跳び降りて、草の上を走っていき、いちばん年上の二人の兄弟の脚をよじ登った。
これはまるで……スミスとアンダーヒルは世間の目にわざと腐肉をなすりつけているようなものではないか。長いこと避けてきたこの訪問は、恐れたとおりにひどい展開になってきていた。
最年長でどちらも男の子の二人は、赤ん坊を抱きあげ、父親の真似をして背中に乗せようとした。しかしもちろん背中の育児毛はないので、赤ん坊は殻の上をすべっていった。赤ん坊は兄の上着につかまり、歓声をあげながらなんとか這いあがろうとした。
シャケナーは四人を軍曹に紹介した。そして彼らは濡れた草の上を移動して、張り出し屋根の下に避難した。アナービーは、校庭以外でこんな広い運動場を見たのは初めてだった。しかし奇妙でもあった。ふつうの学校には特定の学年の生徒しかいないので、設備もその年齢にあわせている。しかしここの運動場はさまざまな年齢の子が遊べるようになっていた。たとえば垂直に張られた運動用ネットは、二歳児にちょうどいい大きさだ。ほかにも砂箱があり、大きな人形の家があり、絵本やゲームのある低いテーブルがあった。
「パパとアナービーさんを下で待っていられなくなったのは、ジュニアがいけないんだよ」十二歳児が尖《とが》った手で五歳児をしめした。ジュニアというのは、ビクトリー・ジュニアのことか。
「アナービーさんにおもちゃをぜんぶ見てほしいから、上へあがろうっていいだしたんだ」
五歳児は自分の気持ちをうまく隠すことができない。ビクトリー・ジュニアはまだ幼眼《ようがん》だった。幼眼は数度の範囲で動くが、二個しかないので、見たいもののほうへ直接顔をむけるしかない。大人の注意がどこへむいているかを見わけるのはむずかしいが、ジュニアの場合は簡単だった。彼女の大きな目は、はじめシャケナーとアナービーのほうをむき、次に兄のほうをむいた。
「告げ口屋! 自分だってあがってきたがったくせに」きつい口調でいって食手《しょくしゅ》を兄にむかってふると、シャケナーに身をすりよせた。「ごめんなさい、パパ。わたしの人形の家を見せたかったの。それにブレントとゴクナはまだ勉強が終わってなかったし」
シャケナーは前手《ぜんしゅ》で娘を抱いた。「どのみちみんなでここへ来ようと思ってたんだよ」そしてアナービーのほうをむいた。「どうやら将軍はあなたのことを、ずいぶん偉い方だと子どもたちに吹きこんでいるようですよ」
「そうよ。だって、技術者さんなんでしょう?」もう一人の五歳児がいった。こちらがゴクナだろうか。
ジュニアの希望とは反対に、最初にアナービーに自分たちの生活を見せるのはブレントとジャーリブになった。二人が実際にどれくらいの教育段階にあるのかは、よくわからなかった。一定の学習カリキュラムにもしたがっているのだが、あとは興味のおもむくままに自分から勉強することを許されているのだ。ジャーリブ――ジュニアのことを告げ口した男の子は、ものを集めるのが好きで、とりわけ化石集めに熱をいれていた。王立大学図書館から大人の学生にとっても難解な本を借りてきている。両親といっしょにランズコマンド市へ旅行したときに採集したダイヤモンド有孔虫《ゆうこうちゅう》のコレクションを大切にしていた。そして父親に負けないくらい突飛《とっぴ》な仮説をもっていた。
「ぼくらが最初の文明じゃないんだよ。ダイヤモンド層のすぐ下にある一億年前の地層からは、いわゆるケルムの歪曲《わいきよく》生物≠フ化石が出てくる。多くの科学者は、彼らが知性のない動物だったと思っているようだけど、それはまちがいだ。彼らは魔法の文明をもっていたんだ。ぼくはそれがどんなものだったか解明したいんだよ」
まあ、まったく新しい突飛な仮説というわけではない。しかしシャケナーが自分の子どもにばかばかしいケルムの古生物学の本を読ませているとは、少々驚かされた。
もう一人の十二歳児であるブレントは、時期はずれの子どもに特有の症状が出ていた。ひっこみ思案で、すこしばかり無愛想で、おそらく知恵遅れだろう。手や脚の動きにもぎこちなさがある。目はたくさんひらいているのに、幼い子のようにおもに前方視だけを使っていた。本人がパパの試験≠ニ呼ぶもの以外には、あまり興味をしめさないようだ。組み立て玩具《がんぐ》の袋をもち歩いていて、なかには金属のピンや連結金具がたくさんはいっていた。それを使って組み立てた精巧な作品が、いくつかのテーブルいっぱいにのっている。ピンと連結金具の組み方にはいくつもの種類があるので、さまざまな曲線をもつ構造物がつくれるのだ。
「パパの試験は一生懸命考えるんだ。どんどん上手になるよ」
ブレントは注意深く組まれた作品を壊して、大きな円環体をつくりはじめた。
「試験だって?」アナービーはシャケナーのほうに手をふってにらんだ。「いったい子どもたちになにをしてるんだ?」
その声にふくまれた怒りの響きに、シャケナーは気づかないようだ。「子どもは楽しいですよ――ときどきうるさく思うこともありますけどね。赤ん坊の成長を見ていると、思考のメカニズムが段階を追って組みあがっていくのがよくわかる」背中に手をやって、安全な子袋にもどってきた二人の赤ん坊をやさしく叩いた。「いまのこの二人の知能は、ある意味でジャングルの野生蜘蛛以下かもしれない。赤ん坊にはまだいくつかの思考パターンが欠けているんです。この子たちと遊んでいると、それを壁として感じられそうなくらいだ。しかし何年かたつうちに精神は成長し、秩序立ってきます」
シャケナーは話しながら、子どもたちの遊び用テーブルにそって歩いていった。五歳児の一人、ゴクナが、父親のすこしまえでその歩き方を真似している。身体の震えまでそっくりだ。シャケナーは、美しい吹きガラスの瓶《びん》がならんだテーブルで立ち止まった。瓶は色もかたちもさまざまで、いくつかには氷と果汁飲料がはいっている。まるで奇妙なピクニックパーティのようだ。
「しかし五歳児でも思考のいくつかをさまたげる壁があるようです。言語能力は優秀だけれども、まだ身についていない基本概念がいくつか――」
「それにセックスのことも知らないしね!」とゴクナ。
これにはシャケナーもすこし困惑したようだ。「この言葉は何度か聞いて憶えてしまったみたいですね。なぞなぞ遊びをするときも、どんな答えをいえばいいかえたちから入れ知恵されてますし」
ゴクナが父親の脚を引っぱった。「ねえ、すわって遊びましょうよ。アナービーさんに見てほしいの」
「わかったよ。じゃあーおいおい、あの子はどこへ行ったんだ?」ふいに声が鋭くなった。
「ビキ! 降りてきなさい! そこは危ない」
ビクトリー・ジュニアは赤ん坊の運動用ネットによじ登り、張り出し屋根のすぐ下をいったりきたりしていた。「だいじょうぶよ、パパ。だってパパもいるし!」
「いいや、だめだ。早く降りてきなさい」
ジュニアはぶうぶう文句をいいながら降りてきたが、しばらくするとまたべつのところで目立ちたがり精神を発揮しはじめた。
アナービーはそうやって子どもたちのやっていることを次から次へと見せられた。最年長の二人は国営ラジナ放送のなかで番組をもち、若者むけに科学の解説をしていた。番組の仕掛け人はあきらかにシャケナーだが、なにをたくらんでいるのかはわからなかった。
アナービーは笑顔で答え、笑い声をあげ、演技をしながら、耐えていた。すばらしい子ばかりだ。ブレント以外はみんな頭がよく、アナービーが知っているどんな子より素直といえるくらいだ。だからなおのこと、彼らが外の世界に出ていったときにどうなるかと思って、憂欝《ゆううつ》になるのだった。
ビクトリー・ジュニアは、子どもたちがもぐりこめる大きさの人形の家をもっていた。一部は羊歯の茂みのなかまでつづいている。順番がようやくまわってくると、ジュニアは二本の手をアナービーの前手の下にかけ、なかば引っぱるようにその家へ連れていった。
「見て」ジュニアはおもちゃの地下室にあいた穴をしめした。どちらかというと白蟻の巣のように見える。「このお家には専用の冬眠穴もあるのよ。配膳室もね。それから食堂があって、寝室が七つあって……」
お客さまにはすべての部屋を案内し、すべての家具を説明しなくてはならないらしい。ある寝室の壁をはずすと、なかでなにかがさっと動いた。
「この家には住人もいるのよ。ほら、蜘蛛ちゃんよ」
たしかにビクトリー・ジュニアの家は、この小さな生きものにちょうどいい大きさだった。
すくなくとも太陽のこの時期にはいいだろう。まあ、そのうちこいつらは、なかほどの脚がきれいな色の翅《はね》に変わり、妖精蜘蛛に変態するはずだ。そうしたらここにはふさわしくなくなる。しかしいまのうちはたしかに、小さな住人が部屋のあいだをうろうろしているように見えなくもなかった。
「蜘蛛ちゃんたちはわたしが大好きなのよ。自由に森のなかへもどれるんだけど、部屋のなかに食べものをすこしおいておくから、毎日遊びにきてくれるの」
ジュニアが小さな真鍮《しんちゅう》の把手《とって》を引っぱると、床の一部が戸棚の引き出しのように出てきた。なかには、薄い木の板でつくられた複雑な迷路がある。
「蜘蛛ちゃんで実験もするのよ。パパがやるようにね。パパのやり方にくらべたら簡単だけど」ジュニアの幼眼はどちらも下を見つめているので、アナービーがどんな反応をしているかは見えていないはずだ。「出口のそばに蜂蜜を一滴たらして、反対側に蜘蛛ちゃんをおくの。そしてどれくらい時間がかかるかを計るんだけど……。あら、迷っちゃったの、おちびちゃん? 二時間もこのなかにいたのね。ごめんなさい」
行儀悪く食手を箱のなかにつっこみ、そっと野生蜘蛛をつまみだして、羊歯のそばにある壁の出っ張りにおいた。
「あはは」ジュニアはシャケナーによく似た笑い声をたてた。「なかにはすごく頭の悪い子もいるのよ――運が悪かっただけかもしれないけど。でも、あの子は迷路を結局抜けられなかったわけだけど、時間はどれくらいということにすればいいのかしら」
「さ……さあてね」
ジュニアはアナービーのほうをむいた。美しい目で見あげている。「ママは弟の名前があなたにちなんだものだっていってたわ。そうなの、ハランクナー?」
「ああ、たぶんそうだろう」
「ママは、あなたが世界一の技術者さんだっていってたわ。パパの無茶なアイデアでも実現させてしまうくらいに。そしてあなたが、わたしたちのことを好きになってくれたらいいなって」
子どもの視線は独特だ。真正面から見るからだ。その対象となる者は、自分が見られていないふりなどできない。この訪問にともなう気まずさと悩ましさが、すべてこの瞬間に集約されているようだった。
「きみたちのことを好きだよ」
ビクトリー・ジュニアはしばらく黙って見つめていたが、やがて視線をそらした。
「そう」
子どもたちといっしょに中庭で昼食をとることになった。雲が切れて空は晴れあがり、暑くなってきた。すくなくともプリンストン市の十九年めの春らしい暑さではある。張り出し屋根の下にいても、すべての関節から汗をかくほどだ。しかし子どもたちは気にしておらず、幼い弟の名前の由来になった見知らぬ男にまだ興味津々だった。ビキをのぞけば、いままでどおりに騒々しく、アナービーはいちいち返事をするのに苦労させられた。
食事が終わりに近づいた頃、子どもたちの家庭教師があらわれた。工科大学の学生らしい。子どもたちは本当の学校に通わなくてもすむわけだ。しかし、それではのちのち苦労するのではないか。
子どもたちは勉強のあいだもアナービーにいてほしがったが、シャケナーがだめだといった。
「勉強に集中しなさい」
こうして――ありがたいことに――この訪問のいちばん疲れる部分は終わった。赤ん坊をまだ背負っているとはいえ、シャケナーとアナービーは二人だけで工科大学地下の涼しい書斎にはいり、アナービーが訴える問題について話しあった。シャケナーは直接手助けすることには乗り気でなかったものの、たしかにここには優秀な研究者がいるようだった。
「うちの理論家の何人かと話してみてくださいよ。とくに計算機械の専門家とね。あなたがかかえている面倒な問題のいくつかは、微分方程式を手早く解く手段があれば解決できそうな気がする」
シャケナーは机のわきの席から身をのりだし、ふいに尋ねるような表情になった。
「ハランクナー……社交はべつにして、今日は十本の電話をかけるよりも大きな成果がありましたよ。この工科大学はあなたに気にいってもらえたようだ。もちろん、学生としてということではありませんよ! うちには技術者がたくさんいるが、理論家は自分がトップに立ってなんでもできると錯覚しがちだ。あなたはそうじゃない。あなたは理論家たちのトップに立って、彼らのアイデアを技術的な目標へ導いていく力をもっている」
アナービーは弱々しく笑った。「これからは発明が必要性を生むんじゃなかったのか?」
「うーん、だいたいにおいてはね。あなたのようにばらばらのものをまとめていける人材が必要なのは、そのためですよ。午後にはその意味がわかると思います。ここの連中を部下にして、プロジェクトを進めてみたいと思うはずです……。もっと早くあなたがここへ来てくれるとよかったんですけどね」
アナービーは曖昧《あいまい》な言い訳をいくつかいおうとしたが、やめた。もうこれ以上演技はできなかった。それに、面とむかっていいにくいことをいうには、将軍よりシャケナーのほうが楽だ。
「おれがいままで来なかった理由は、わかってるだろう、シャケナー。実際のところ、スミス将軍からあからさまに命令されなかったら、今回もなんとか断っていたはずだ。スミス将軍には地獄の果てまでついていくつもりだが、彼女はそれでもまだ満足してくれない。おまえのつむじ曲がりのやり方を受けいれうというんだ。なんというか……子どもたちはみんないい子だよ、シャケナー。しかし、その子たちになぜこんなことをするんだ?」
そんな問いかけは笑い飛ばされるか、スミスがそういった批判をすこしでも示唆《しさ》されたときにしめす冷たい敵意によって応じられるか、どちらかだろうと思っていた。しかしシャケナーは黙りこくり、古い子ども用のパズルで遊んでいるだけだった。小さな木のピースがかちゃかちゃとぶつかる音だけが、書斎に響いた。
「子どもたちが楽しく健康に育っていることは、納得してもらえましたか?」ようやくシャケナーはいった。
「ああ。ただ、ブレントはすこし……遅れているようだが」
「わたしが子どもたちを実験動物のようにあつかってはいないことも、わかっていただけましたね?」
アナービーはビクトリー・ジュニアと、その人形の家のことを考えた。しかし、べつにたいしたことではない。アナービーだってあれくらいの齢の頃には、虫眼鏡で野生蜘蛛を焼き殺したりしていたではないか。
「まあ、おまえはなんでも実験するからな、シャケナー。そういう性格なんだ。おまえはよき父親として子どもたちを愛していると思う。しかしだからこそ、なぜあの子たちを時期はずれの子としてこの世に送り出したのかが、理解できないんだ。精神に障害のある子はたしかに一人しかいないが、だからどうだというんだ? 同世代の遊び友だちの話題は一度も出てこなかったぞ。ほかにこんな変わった子どもはいないからだろう?」
シャケナーの表情から、その問いは痛いところを突いたらしいとわかった。
「シャケナー、あのかわいそうな子どもたちは、彼らの存在そのものを自然に対する罪とみなす社会で、ずっと生きていくことになるんだぞ」
「そこはなんとかしようと手を打っているんですよ、ハランクナー。ジャーリブから、〈子どもの科学の時間〉の話は聞いたでしょう」
「あれはなんなのだ? ジャーリブとブレントは本当にラジオ番組に出てるのか? あの二人は正常な子としてとおるかもしれないが、長い期間のうちにはだれかが察して――」
「わかってますよ。もしそうならなくても、ビクトリー・ジュニアは番組に出たくてうずうずしてますからね。むしろ聴取者には、いつか気づいてほしい[#「気づいてほしい」に傍点]と思ってるんです。番組ではあらゆる科学の分野をあつかいますが、とりわけ生物学と進化論はずっととりあげていく予定です。わたしたちの生き方が、暗期の存在にどれだけ影響されているか、そしてどんな社会的理由によって出産時期が固定化されているにせよ、科学技術の発達とともにそれが意味を失っていくことを、伝えていきますよ」
「暗黒教会は納得しないだろう」
「それはかまいません。ハランクナー・アナービーをはじめとする、何百万人ものひらけた精神の持ち主を納得させられれば、それでいい」
アナービーはどう反論すればいいのかわからなくなった。こうも立て板に水で話されてはかなわない。シャケナーはわかってないのか。みんなの健康な暮らしのためといった一般論では、世間の理解は得られるだろう。これからいろんなものごとが変わっていくかもしれないが、だからといってルールを投げ出してしまうのはあまりに自分勝手だ。たとえ暗期に生活できるようになったとしても、一定の生活サイクルは求められるはずなのに……。
沈黙が長くなり、シャケナーの動かす小さなパズルの音だけが響いた。
ようやくシャケナーが話しだした。「将軍はあなたをとてもだいじにしています。あなたは彼女の大切な片腕だ。しかしそれだけではなく、新任の少尉だった彼女がごみの山にぶつかってキャリアがおしまいになりそうだったときに、あなたはわけへだてのない態度で接してくれたと」
「将軍はたいへんな能力の持ち主だ。生まれた時期は、本人の力ではどうしようもない」
「……それはそうです。しかしそのせいで、今度はあなたが悩むはめになっている。彼女はだれよりもあなたに、わたしたちのやっていることを受けいれてほしいと思っているんですよ」
「わかってるよ、シャケナー。しかし、できないんだ。今日のおれがどんなだったか見ただろう。できるだけ態度をとりつくろおうとしたが、子どもたちには見透《みす》かされてしまう。すくなくともジュニアには見透かされていた」
「あはは。たしかにあの子はそうですね。名前は伊達《だて》じゃない。ビキは母親のように頭がいいんですよ。しかし、おっしゃるとおり、ビキはもっとひどい視線に耐えなくてはいけなくなるでしょう……。じゃあ、こうしましょう、ハランクナー。これからわたしは将軍とすこし話をしますが、彼女も受けいれなくてはならないことがある。すこしは寛容というものを学ばなくてはいけない――あなたの不寛容に対する寛容、ということになりますけどね」
「それは――そうしてくれると助かるよ、シャケナー。ありがとう」
「そのかわり、あなたにはもっと頻繁にこちらへ来てもらうことになると思いますよ。まあ、がまんできる範囲でけっこうです。子どもたちはあなたに会いたがるでしょうが、ご希望なら、もうすこし距離をおかせるようにします」
「わかった。子どもたちのことは好きなんだ。しかし彼らの期待するほどではないかもしれない」
「いや、適切な距離を知ることも、子どもたちにとってはちょっとした経験になるでしょう」
シャケナーはにっこりした。「あなたが柔軟な態度であれば、子どもたちもそうなれるはずです」
20
船団が出航準備をしていた時期、エズルはファム・トリンリのことなどほとんど興味をもっていなかった。無愛想で、怠《なま》け者で、たぶん無能なやつだろうとしか思っていなかった。だれかの関係者≠ニいうだけだ――乗組員として参加できた理由はほかに考えられない。その粗野で口数の多い態度が気にさわるようになりはじめたのは、武力衝突からあとだった。たまには愉快に思えることもあるが、不愉快なことのほうが多かった。
エズルとトリンリの当直シフトは六十パーセントの確率でかさなる。ハマーフェスト棟へ行けば、レナルトのところの技術者と薄ぎたない話をしているファム・トリンリがいたし、ベニーの酒場へ行けば、数人のエマージェントとつるんで、いつも以上に大声で偉そうな口をきくトリンリがいた。こういう態度が裏切り行為だとは、もう何年もまえから――実際には、ジミー・ディエムが死んだときから――だれも思わなくなっていた。チェンホーとエマージェントは協力しあわなくてはならないし、そもそもトリンリのグループのなかにはチェンホーも何人もはいっていた。
この男に対するエズルの不快感は、今日、いちだんとけわしいものに変わった。
それは一メガ秒ごとにひらかれ、いつものようにトマス・ナウが議長をつとめる当直管理主任会議の席上だった。この集まりは、かたちばかりだったエズルの船団管理委員会≠ニはちがった。この情況で生き延びるためには、両船団の専門家が協力しなくてはならない。だれがリーダーかはいうまでもないが、ナウはこの会議で述べられた意見を尊重していた。リッツァー・ブルーゲルは非番だったので、薄汚れた口調の発言はなかった。ファム・トリンリをのぞけば、有能な管理主任ばかりだった。
最初の一キロ秒は、順調に議事が進んだ。カル・オモの部下のプログラマーたちは一定数のヘッドアップディスプレーの保安システムを、チェンホーにも使わせていいように消毒≠オた。新しくなったインターフェースは機能が限定されていたが、ないよりましだった。アン・レナルトは新しく集中化された人々の名簿を発表した。全体のスケジュールは秘密のままだが、これでトリクシアもすこしは休みをもらえそうだった。ゴンレ・フォンは何人かの当直シフト変更を提案した。彼女が裏でやっている取り引きの結果なのだろうが、ナウはなにもいわずに承認した。ゴンレ・フォンやベニーが牛耳《ぎゅうじ》っている地下経済のことは、トマス・ナウも知っているはずだが……何年もまえからずっと無視しつづけていた。
〈〈まあ、その恩恵を受けているんだからな〉〉
L1点にあるこの狭い閉鎖社会のなかでは、自由貿易をやったからといって効率が高まるとは思えなかったのだが、実際には生活にそれなりに改善がみられた。ほとんどの人々は親密なパートナーといっしょの当直シフトに移ることができた。どこの個室にも、キウィ・リゾレットお手製の小さな盆栽球があった。装備の配置はほぼ完璧に最適化された。それは逆に、それまでのエマージェントによる配置システムがいかにでたらめだったかという証拠なのだが。
エズルは、トマス・ナウは本質的にとんでもない悪党で、大量殺人者で、その嘘を隠すためにまた人を殺したのだと、ひそかに信じていた。しかし頭がよく、おもてむきは融和的だ。それだけ賢《さか》しいのだから、役に立つ地下経済を大目《おおめ》に見るくらいのことはするはずだ。
「よろしい、では最後の議題だ」ナウはテーブルの面々に笑みをむけた。「いつものように、いちばん興味深くてむずかしい問題だ。キウィ?」
キウィ・リゾレットはすっと立ちあがり、低い天井に手をついて身体《からだ》の浮きあがりを止めた。ハマーフェスト棟に重力はあるが、飲料容器がかろうじてテーブルにのっている程度の微弱なものでしかない。
「興味深い? それはどうかしら」顔をしかめた。「とてもうんざりする問題ではあるわね」
キウィは大きなポケットをあけて、ヘッドアップディスプレーの束をつかみだした。どれも行商人使用可≠ニいうシールが貼られている。
「カル・オモのおもちゃを使ってみましょう」
当直管理主任たちにそれを配った。エズルもひとつ受けとり、キウィのいたずらっぽい笑顔に笑みで応《こた》えた。
キウィはまだ子どものように小柄だが、ストレントマン人としてはすでに平均的な大人の身長に達し、身体つきも締まっている。もう少女ではないし、再発火の頃の手に負えない性格の孤児でもない。再発火からあとは何年も連続当直をしていた。一年すぎるごとに一歳、年齢をくわえているのだ。オンオフ星の光がある程度落ち着いてからはときどき非番にはいっているようだが、エズルはその目尻に小さな皺があらわれはじめているのに気づいていた。
〈〈いまは何歳なんだろう。ぼくより年上なのかな〉〉
かつてのいたずらっぽさはまだときどき顔を出すが、エズルをからかうことはもうなかった。
キウィとトマス・ナウの噂も本当らしい。かわいそうな、ばかなキウィ。
しかしキウィ・リン・リゾレットは、予想以上に大物になった。なにしろいまでは、山を動かしているのだから。
キウィは全員がヘッドアップディスプレーを装着するのを待って、話しはじめた。
「みんな知ってのとおり、わたしはこのL1のまわりの軌道を制御しているわ」
テーブルのまんなかにいぎなり岩石群があらわれた。エズルの側には小さなハマーフェスト棟が突き出し、ちょうどその高い塔に係留《けいりゅう》されているタクシー船も見える。きわめて鮮明な映像で、背後の壁と人はきれいに切りとられている。しかしエズルが岩石群とキウィとのあいだですばやく顔を動かすと、岩石群の映像はかすかにぶれた。位置決めを制御する自律機能系がうまく動きについていけず、視覚の操作に失敗するのだ。カル・オモのプログラマーたちは最適化された部分を一部交換せざるをえなかったらしい。それでもチェンホー品質に近いレベルはたもたれているし、映像は一人ひとりのヘッドアップディスプレーの視野にあわせてそれぞれ描画《びょうが》されていた。
岩石群の表面に、小さな赤い点が数十個あらわれた。
「これらは電子ジェットの配置で――」さらに黄色い点があらわれた「――こちらはセンサーのグリッド」キウィは、むかしのままの軽くいたずらっぽい笑い声をたてた。「いかにも有限要素法の解にもとづくグリッドという感じよね。とはいえ、数がそれだけしかないのよ。グリッドの各点では本物の機械がデータを収集しているわ。とにかく、わたしとわたしの班には二つの課題があたえられていて、そのそれぞれはとても簡単よ。まず、この岩石群をL1のまわりの軌道に維持すること」
岩石群は縮小されて様式化されたシンボルに変わり、L1≠ニ表示された点のまわりを、変化しつづけるリサジュー図形にそってまわりはじめた。片側にはアラクナ星がある。かなり遠いが、オンオフ星から岩石群へのばした直線の先にある。
「蜘蛛《くも》族から見て、できるだけ太陽の縁の近くにいるようにしなくてはいけない。わたしたちがここにいることを探知できるだけの技術を彼らがもつには、まだ何年もかかるでしょうね……。さて、安定化業務のもうひとつの課題は、ハマーフェスト棟と、残り少ない海水の氷と空気雪の塊《かたまり》を、影のなかにとどめることよ」
最初の岩石群の映像にもどったが、今度は揮発物の氷が青と緑で表示されている。この貴重な資源は、人間による消費と宇宙空間への昇華によって年々減っている。
「残念ながら、この二つの課題は相反するわ。岩石群はとてもゆるい[#「ゆるい」に傍点]集合体だから、L1における位置維持を目的とした操作をすると、ねじりモーメントが発生して、岩がずれてしまうのよ」
「岩石地震だな」ジョー・シンがいった。
「そうよ。このハマーフェスト棟でもしょっちゅう感じるわ。つねに監視していないと、きっともっとひどくなる」
会議テーブルの表面が、第一ダイヤモンド塊と第二ダイヤモンド塊の接合部のモデルになった。キウィが手をふると、その表面のなかで四十センチ幅の帯状の部分がピンク色に変わった。
「手に負えないことになりそうだったずれ[#「ずれ」に傍点]の跡《あと》よ。しかしこれ以上人的資源を割《さ》くのは――」
ファム・トリンリはここまでずっと黙って、怒りをこめた目つきで話を聞いていた。安定化業務の担当者としてもともとナウから選任されていたトリンリにとって、この話題は長い屈辱《くつじょく》の歴史以外のなにものでもないからだ。しかしついに彼は爆発した。
「ばかばかしい。氷をいくらか解かしてダイヤモンド塊のあいだに流しこめば、糊《のり》がわりになるじゃないか」
「それはやったわ。多少は有効だったけど――」
「でもまだ安定させられないというんだな?」トリンリはナウのほうをむいて、椅子からなかば立ちあがりかけた。「領督《りょうとく》、まえにもいったように、この仕事の適任者はおれなんです。リゾレットの小娘はたしかに力学プログラムはうまくあつかえるし、努力していることも認めるが――いかんせん経験不足だ」
〈〈経験不足だって? キウィはもう何年もこれを実践してるのに、まだ不足だってのかい、じいさん?〉〉エズルは思った。
しかしナウはトリンリに笑顔をむけただけだった。この愚か者がどんなばかばかしい争いを起こしても、ナウはけして会議から追い出しはしなかった。そうやってなにかサディスティックな楽しみを感じているのではないかと、エズルはずっと疑っていた。
「そうまでいうなら仕事をやってもいいぞ、戦闘員」ナウはいった。「しかし、いまでもすでに当直人員の三分の一以上を使っているんだ」
ナウの口調は穏やかだが、トリンリは挑戦するような響きを感じたらしい。老人のなかで怒りが燃えあがるようすが、エズルにはわかった。
「三分の一ですと? おれは五分の一でやってみせましょう。作業班のメンバーがまったくの未経験者でもかまわない。ジェットをどんなに巧みに配置しても、うまくいくかどうかは誘導ネットワークの質にかかっているんだ。リゾレット嬢は自分が使っているローカライザーの性能をすべて理解していないんです」
「どういうことか説明して」アン・レナルトがいった。「ローカライザーはただのローカライザーよ。このプロジェクトでは両船団のを使っているわ」
ローカライザーはどんな技術文明でも使っている基本的な道具だ。この小さな装置はごく短いコードを発して通信しあい、飛行時間計測と配分されたアルゴリズムを使って、それぞれの装置の位置を正確に測る。岩石群には数千個が配置されて、位置計測グリッドをつくっていた。
そうやって電子ジェットと岩石群の位置、移動方向、相対速度といった情報を伝えあう、低レベルのネットワークをなしているのだ。
「じつはそれがうまくないんだ」トリンリはあわれむような笑みを浮かべた。「うちのローカライザーはあんたらのとうまく連携して働いているが、そのために本来の性能を出していない。装置はこういうものなんだが――」老人は手もとの入力パッドを操作した。「リゾレット嬢、このインターフェースは使えんぞ」
「わたしがやろう」ナウが空中にむかってしゃべった。「これが現在使われている二種類のローカライザーだ」
岩石群の表面が消えて、真空使用可能な二つの電子機器がテーブルの上にあらわれた。こういう表示のしかたは何度も見ているのだが、やはりエズルは驚かされた。事前に準備された発表で、提示する映像の順番が決まっているのなら、音声認識によるコントロールはさしてむずかしくない。しかしナウがいまやってみせたような芸当は、チェンホーのインターフェースにはとてもできなかった。ハマーフェスト棟の屋根裏部屋のどこかで、一人ないし複数の愚人《ぐじん》がこの部屋でのやりとりを細大洩らさず聞いていて、ナウの言葉の文脈を判断し、解析結果を船団の自律機能系か、ほかの愚人の専門技術者に送る。その結果、ここにすばやく映像が出てくるわけだ。はためにはまるで、ナウの頭のなかに船団の全データベースがおさまっているかのようだった。
もちろんファム・トリンリは、そんな魔法には無頓着《むとんちゃく》だった。「そうだ」装置のほうに身をのりだした。「ただしこれは、ローカライザー本体によけいなものをいろいろくっつけた状態だがな」
キウィが口をはさんだ。「どういうこと? 電源ユニットは必要だし、センサー類もいるわ」
トリンリはにやりとした。勝利感があふれている。「おまえはそう考えてるわけだ――たしかに、オンオフ星が灼熱《しゃくねつ》地獄だった最初の数年はそういえたかもしれない。しかしいまは――」手でじかにさわろうとしたが、指先は小さな筐体《きょうたい》の側面を通り抜けてしまった。「ローカライザーの中心部を見せてくれませんかね、領督」
ナウはうなずいた。「わかった」
するとチェンホー版の装置は切りひらかれ、装置の層が次々と剥《は》がされていった。そして最後に残ったのは、直径一ミリにも充《み》たない、小さな黒いかけらだった。
トマス・ナウの隣にすわっているエズルには、その緊張が感じとれた。急に、強い興味をもちはじめていた。わずかな沈黙の時間が、さらにその緊迫感を増した。
「これは、ずいぶん小さいな。拡大してみよう」
かけらくらいの映像がふくれあがり、直径一メートルで高さ四十センチくらいになった。へッドアップディスプレーの自律機能系が、適切な反射や影を描《か》きくわえている。
「ありがとう」トリンリは立ちあがり、そのレンズのようなかたちをした装置の上に自分の姿がよく見えるようにした。「これがチェンホー製ローカライザーの基本ユニットだ。通常は保護壁などにつつまれている。しかし穏やかな環境では――外の影のなかくらいなら――これだけで充分に自給自足可能なのだ」
「電源は?」レナルトが訊いた。
トリンリは、たいした問題ではないというように手をふった。[一秒間に十回ほどマイクロ波のパルスを送ってやればいい。詳しいことは知らないが、なにかのプロジェクトでこいつがもっと大量に使われているのを見たことがある。微妙な制御もできるはずだ。温度、光度、音響といった基本的なセンサーは内蔵している」
ジョー・シンがいった。「しかし、キウィやほかの連中はなぜこのことを知らないんだ?」
エズルにはこの先の展開がみえていたが、どうしようもなかった。
トリンリは偉そうに肩をすくめた。自分のエゴが暴走していることにまだ気づいていないようだ。
「さっきもいったように、キウィ・リン・リゾレットは若くて未経験なんだよ。たいていのプロジェクトはこの砂粒くらいのローカライザーで充分こなせるんだ。それに、こういう高度な機能はおもに軍事用途の場合が多いから、キウィが読んだような解説書ではそのあたりをわざとぼかしてあるにちがいない。それにくらべると、おれは技術者であり戦闘員だ。おもてだっていうことじゃないが、じつはこのローカライザーは監視装置として最適なんだよ」
「たしかにな」ナウは考えこんだ顔でいった。「ローカライザーにセンサーをつければ、適切な保安システムの心臓部になりえる」
しかもこれは、砂粒のような大きさのなかにセンサーも独立動作機能もはじめからもっているのだ。システムに埋めこまれた部品ではなく、システムそのものとなりえる。
「どうだ、キウィ? これがどっさりあれば、きみの仕事はずいぶん楽になるのではないか?」ナウはいった。
「たぶんそうでしょう。わたしは初めて知りました。まさか技術書が嘘をつくなんて」キウィはすこし考えた。「でもたしかに、ローカライザーがもっとたくさんあれば、処理能力は必要なレベルまであがるでしょうし、監視要員も減らせるはずです」
「よろしい。トリンリ戦闘員から詳細を聞いて、ネットワークの拡大をはかってくれ」
「わたしにこの仕事をやらせていただけませんか、領督?」トリンリがいった。
しかしナウはばかではない。首をふって答えた。「いや、きみは全体の監督役として貴重な存在だ。それより、この問題でアンと話しあってくれ。リッツァーが当直に復帰したら、やはり興味をもつだろう。この装置には公共の保安システムに役立つ用途がたくさんありそうだからな」
こうしてファム・トリンリは、より性能のいい手かせ足かせをエマージェントの手に渡してしまったわけだ。それに気づいて後悔するような表情が、かすかに老人の顔をよぎった。
エズルはその日いちにち、できるだけだれとも口をきかないようにした。愚かな道化《どうけ》一人にこんなに憎悪を感じるとは思わなかった。ファム・トリンリは大量殺人者ではないし、ひねくれた性格はその愚かしい一挙一動を見ていればあきらかだ。しかしその愚かしさのおかげで、敵が予想もしていなかった秘密を渡してしまったのだ――エズル自身も知らなかったし、もしほかに知っている者がいたとしても、トマス・ナウやリッツァー・ブルーゲルに譲《ゆず》り渡すくらいなら墓場までもっていったほうがましだと思うような、重大な秘密を。
これまでナウは、笑いの種としてトリンリをまわりにおいているのかと思っていたが、そうではないことがわかった。エズルは、ずっとむかしに仮設舎の公園で声をかけられた夜以来初めて、冷血な殺人者になりたい衝動にかられた。ファム・トリンリが致命的な事故にでも遭《あ》ってくれれば……。
第二食事のあと、エズルは自室にこもった。不審な態度を見せるわけにはいかないからだ。どうせこの時間のベニーの酒場には、音楽好きが集まっている。そうやってみんなで即興演奏をするのがチェンホーの習慣のひとつなのだが、エズルは聴き手としてもあまり楽しいとは思わなかった。そもそも、やるべきことが山積みなのだ。あまり人に話すような内容ではないものもある。
エズルは新しいヘッドアップディスプレーをつけて、船団ライブラリをのぞきこんだ。
ある意味で船団ライブラリが残っているのは、パーク船団長最大の失敗だった。すべての船団は、万一|拿捕《だほ》されそうになったときには船団内ネットワーク上のライブラリの核心部分を破壊できるよう、巧妙な予防策がとられているものだ。もちろん、そのような対策に完璧ということはありえない。ライブラリは船団に所属する各船に分散しておかれているし、そのときの使用情況によって何千というノードに断片が一時的にたくわえられている。個々のチップには――あのいまいましいローカライザーもふくめて――膨大《ぼうだい》な保守および操作マニュアルが内蔵されている。それでもデータベースの大半は、ごく短い処理で消去可能なのだ。残されたものにも利用可能な部分はいくらかあるが、肝心の設計思想や、何テラバイトもの信頼にたる実験データは消えている。せいぜいハードウェア内に具体例が残っているだけで、それを理解するには膨大な手間暇《てまひま》をかけて逆行分析《リバースエンジニアリング》するしかない。
ところがどういうわけか、その破壊がなされなかったのだ。エマージェント船団の奇襲によってパークの船団の船すべてが大きく劣勢になったと、あきらかにわかっていたのに。あるいは、パークは破壊処理を実行したのに、保守管理ルールにまったく反して、ネットワークからはずれたノードやバックアップにライブラリの全コピーが残っていたのかもしれない。
トマス・ナウはすぐに、宝の山をみつけたことに気づいた。アン・レナルト配下の奴隷たちが、集中化人材特有の非人間的な正確さで分析をはじめた。チェンホーの秘密はいつかことごとくあばかれてしまうだろう。しかし、それには何年もかかるはずだ。愚人は探索のとば口を知らず、やみくもな作業しかできないからだ。そこでナウは集中化されていないさまざまなスタッフにライブラリのなかを歩きまわらせ、全体像を報告させた。
エズルもこれまでに数メガ秒ほどその作業に従事させられた。それは危険な仕事だった。というのも、ある程度の成果を挙げなくてはならないが、そこからすぐに有益な分析結果に結びつくことはないように、探索の方向を微妙にそらしていきたいからだ。いつかはへまをして、非協力的な態度をナウに気づかれてしまうだろう。あの巧妙な怪物のことだ。どこにスパイをひそませているかもしれない。
しかし今日は……ファム・トリンリのせいで本当に頭にきていた。
エズルは自分に落ち着けといい聞かせた。
〈〈ライブラリをのぞいて、つまらない報告書でも書きなぐってやろう〉〉
それなら仕事をしたことになるし、不適切な言動を人に見られることもない。
エズルは、消毒≠ウれたヘッドアップディスプレーといっしょに渡されたグローブ型制御装置をいじってみた。とりあえず単純な命令コードは認識するようだ。ヘッドアップディスプレーは、実景として見える室内をライブラリのエントリー層にきれいにつないだ。首をまわすと、自律機能系が頭の動きを感知して映像をなめらかに変化させ、まるで文書が本物の物体として部屋のなかに浮いているように見えた。しかし、制御装置をさらにいじっていくと……。くそ、カスタマイズをほとんど受けつけない。インターフェースが根こそぎ取り去られたか、エマージェント標準のものに入れ換えられたのだろう。これではただの壁紙のほうがましだ。
ヘッドアップディスプレーを顔から剥ぎ取り、手のなかでまるめた。
〈〈落ち着け〉〉
トリンリのへまのせいでまだいらいらしているのだ。それに、壁の表示窓にくらべればたしかに改善ではある。ふと、ゴンレ・フォンが罵詈雑言《ばりぞうごん》を吐きながらキーボードにやつあたりしたことを思い出して、笑いをかみころした。
では今日はなにを探索しようか。ナウからは自然な行動に見えて、それでいて有益な結果はもたらさないなにかだ。ああ、そうだ。トリンリの夢の機械、ローカライザーだ。どこか人目につかないセクションの、ひっそりとした小部屋に隠されているにちがいない。
エズルは何本かの糸をたぐり、通い慣れた方向へ移動していった。ただの実習生がこんな視点からライブラリを眺めることは、本来許されない。しかしナウは、最高レベルのパスワードと保安パラメータを手にいれているのだ――どうやって手にいれたかは想像するしかないが、それでもエズルにとっては悪夢のもとになりそうだった。
いまエズルは、パーク船団長だけが許されていた視点からライブラリを見ていた。
やられた。ポインターはローカライザーのありかを、はなからしめしていた。砂粒大の寸法はとくに秘密ではなかったが、付属の目録にはセンサーをそなえていることなど書かれていなかった。チップ内蔵のマニュアルにもおなじように隠し機能の記述はない。
〈〈どういうことだ〉〉
すると、ライブラリ内で船団長の視点からも見えないようなマニュアルの裏口を、トリンリは知っていると主張しているわけか。
腹のなかで煮えたぎっていた怒りが、いつのまにか消えていた。エズルはまわりに広がるデータの地平を眺めながら、奇妙な安堵感を覚えた。トマス・ナウはこの情況の不自然さには気づかないだろう。生き残ったチェンホーのなかではエズル・ヴィンただ一人が、トリンリの主張がいかにばかげているか気づける立場にある。
エズル・ヴィンは偉大な商家の中心で育ったのだ。夕食のテーブルでは大人たちが実践している船団戦略の議論がかわされており、エズルは子どもの頃からずっとそれを聞いていた。船団ライブラリに対する船団長用のアクセスレベルからは、通常は隠された部分など存在しないのだ。もちろん、失われてしまうものはつねにある。継承されてきたアプリケーションは、その古さのせいでしばしば検索エンジンでも矛盾《むじゅん》をみつけられないことがあるのだ。しかし妨害工作や、船団長自身による意図的なカスタマイズでもないかぎり、ふつうは船団長の視野から隔離された秘密などありえない。そのような処置は、長期的にいってシステム管理者の負担が重すぎるからだ。
エズルは声をたてて笑いそうになったが、この消毒済ヘッドアップディスプレーは、使用者がたてる音声をブルーゲルの愚人に報告しているのではないかという疑念があったので、がまんした。しかし今日はじめて愉快な気分になったことは事実だ。
〈〈トリンリは嘘八百をならべてたんだ!〉〉
大口を叩くのが好きなあのほら吹きじじいも、トマス・ナウのまえでは慎重にしていたはずなのだが……。しかしレナルトに詳細を説明しろと命令されて、トリンリはあわててチップ内蔵マニュアルをあさるだろう。そして、なにもみつけられずにすごすごと帰るわけだ。
どういうわけか、エズルはあの老人に同情を覚えた。ついに年貢《ねんぐ》の納めどきがきたわけだ。
21
キウィ・リン・リゾレットはかなり多くの時間を屋外ですごしていた。トリンリのいうローカライザーの機能が本当なら、この忙しさもすこしは改善されるだろう。
キウィは第一ダイヤモンド塊と第二ダイヤモンド塊の接合部にそって低く泳いでいた。いまは日差しがあたるようになっていて、かつてここにあった揮発物は移動させられたか蒸発してしまった。ダイヤモンドの表面のうち、ぶつかって削れたりしていない部分は、なめらかで鈍《にぶ》い灰色で、乳白色に近い。そのうち表面の一ミリほどが太陽に焼かれて黒鉛《こくえん》に変わり、薄い表土となって下の輝きを隠してしまうだろう。
接合部の縁にそって十メートル間隔で虹色の輝きがあるのが、センサーの設置場所だ。電子ジェットはその両側に離れて設置されている。これだけ近づいてもその動作はほとんど目に見えないが、キウィはそのしくみをよく理解していた。電子ジェットは、センサーを監視するプログラムにしたがって、ミリ秒単位の短い噴射をくりかえしている。しかしそれでもまだ、制御が粗《あら》すぎるくらいなのだ。
キウィは勤務時間の三分の二を費やして岩石群を飛びまわり、電子ジェットを調節しているのだが――いまだに危険なほど大きな岩石地震が起きる。トリンリが主張するようにきめこまかなセンサーネットとプログラムがあれば、もっといい噴射プログラムを設計できるだろう。
何百万回と地震が起きるだろうが、身体《からだ》には感じないほど小さなものになるはずだ。そうすればキウィはこんなにずっと外に出ていなくてもよくなる。
ほかの人々のように緩《ゆる》やかな当直サイクルになったら、どんなだろうか。医療資源の節約にはなるが、かわいそうなトマスはさらに孤独になってしまうだろう。頭のなかにはさまざまな心配が渦巻いていた。
〈〈まあ、自分で直せることと直せないことがあるわ。トリンリのローカライザーでうまくいくのなら、よろこばなくちゃ〉〉
岩のすきまから浮かびあがり、ほかの作業員のようすを確認した。
「いつもの問題よ」フローリア・ペレスの声が耳もとで響いた。フローリアは第三ダイヤモンド塊の上り坂≠フ上を見まわっている。そこは岩石群における現在のゼロ高度よりさらに上で、毎年いくつかの電子ジェットが失われる場所だった。「三基の台座がゆるんでいたわ……なんとかつかまえられたけど」
「いいわ。アーンとディマをそっちへ送るから、作業はすぐ終わるはずよ」キウィはほくそ笑んだ。もっとおもしろい予定にたっぷり時間を割《さ》けそうだ。通信機の回線を作業班共用のものから切り換えた。「ねえ、フローリア。たしかこの当直シフトは精製所の担当だったわね」
「そうよ」フローリアのくすくす笑いが聞こえた。「毎回できるだけこの仕事をやるようにしてるの。あなたの用事を聞くのは、それに付随する義務的な雑用ってとこね」
「いいものをあげるわ。取り引きしない?」
「いいかもね」
フローリアはわずか十パーセントの勤務サイクルについているだけだが、こういう取り引きはまえにもやったことがある。それに、彼女はチェンホーなのだ。
「二千秒くらいあとに精製所で落ちあいましょう」フローリアはいった。「お茶をごちそうするわ」
岩石群の影の側をずっとまわっていった先に、揮発物精製所はあった。何本もそびえ立つ蒸留塔には霜《しも》がこびりつき、アラクナ星の光を浴びてきらきらと輝いている。分留《ぶんりゅう》や再結合がおこなわれている場所は、逆にぼんやりと赤く輝いている。そこからできてくるのは、工場むけの資材や、バクテリア槽行きの有機物の軟泥《なんでい》などだった。
L1精製所の核心部はチェンホー船団のものだ。エマージェント船団も同様の装置をもっていたが、戦闘で失われた。
〈〈残ったのがわたしたちのでよかったわ〉〉
修理や新しい部分の建設のために、チェンホーはあらゆる船から部品を剥《は》ぎとってこなくてはならなかった。精製所の核心部がエマージェントの技術でつくられていたら、いま頃なにも動かなくなっていたかもしれない。
キウィは精製所から数メートルのところにタクシー船を係留《けいりゅう》し、耐熱カバーでおおった荷物をおろして、入り口へむかう誘導ケーブルをつたって泳いでいった。
まわりには残された揮発物が薄く堆積《たいせき》している。アラクナ星の地表から運びあげた空気雪と氷だ。長い距離を運び、たいへんなコストがかかった資源だが、とくに空気雪のほうは、再発火とそれ以後の偶発的な日射のせいでかなりの割合が失われていた。残った分は安全な影の部分ヘバランスがとれるように移動させられたり、岩石群を接着するというむなしい試みのために解かされたりした。人間が息をしたり食べたりするのに使われたのは、ごくごく一部だ。トマスが、第一ダイヤモンド塊の一部をくりぬいてもっと安全な保存用の穴をつくろうと計画したこともあった。しかしもう必要ないだろう。太陽が暗くなれば、残りを保存するのも容易になる。
精製所は氷と雪の堆積物のあいだを、年に十メートルにも充《み》たない速度でゆっくりと動いていた。通ったあとには、星の光を浴びてきらめくダイヤモンドの層と、点々とつづく固定アンカーの穴が残された。
フローリアの管制室は、精製所最後尾の蒸留塔の下にあった。もともとのチェンホー製モジュールの一部であるこの管制室は、食事をしたり仮眠をとったりするための狭苦しい与圧空間でしかない。しかし長い孤立生活のあいだに、さまざまな使用者がいろいろな工夫をくわえていた。
地上からあがってきたキウィは……ふと足を止めた。キウィの生活圏は密閉された部屋とトンネルのなかか、逆に広大な虚無の空間のどちらかだった。しかしフローリアが手をくわえたこの場所は、そのどちらでもなかった。エズルが見たらなんというだろう。まるで妖精|譚《たん》に出てくる農夫が、いにしえの土地の雪におおわれた山裾《やますそ》の、輝く森のそばに建てた小さな山小屋といったおもむきだった。
キウィは張り出し材と固定アンカーのケーブルと――そして魔法の森のきわを通り抜けて、小屋のドアをノックした。
商売は楽しい。トマスにそれを何度も説明しようとしてきたのだが、いかんせん、それを理解できる文化の出身ではないのだ。善良な人間なのだが。
フローリアの最近の生産品に対する支払いの一部として、キウィはあるものをもってきていた――耐熱カバーの下にしまわれた、直径二十センチの盆栽球だ。父親が何メガ秒もかけてつくった作品だ。超矯性の羊歯《しだ》がいくえにも枝葉を広げている。フローリアは天井の照明のほうに球をかかげ、下からのぞきこんだ。
「小さな虫!」一ミリ以下の虫がいるのだ。「きれいな色の翅《はね》!」
キウィは友人の反応を、あえて淡々とした態度で受けとめようとしたのだが、がまんできなくなって笑いだした。
「気づいてくれないかもと心配してたんだけど」父親の作品としては小さいほうだが、これまでライブラリで見たどんなものより美しかった。耐熱カバーの下に手をいれて、支払いの残りの部分を出した。「これはゴンレから。彼女が自分でつくったのよ。盆栽を留《と》める台だって」
「これは……木材なのね」
フローリアは、盆栽には魅了されていたが、木の板に対する反応はむしろ驚きに近かった。
手をのばして、なめらかな木目を指でさわった。
「いまではトン単位でつくれるわ。木材の乾腐《かんふ》病のプロセスを逆転したようなやり方でね。もちうんゴンレは桶《おけ》のなかでこれを成長させるから、見ためがちょっとへんだけど」縞や渦巻き模様は、生物学的な波状変化が木目として固定されたものだ。「本物の年輪をつくりだすには、もっと空間と時間が必要なのよ」
しかし、そんなに長くはかからないかもしれない。キウィの父親は、みせかけの年輪が生成されるように波状変化を調節できるかもしれないといっていた。
「それはべつにいいわ」フローリアはうわの空で答えた。「ゴンレは大成功ね……いえ、あなたのパパがゴンレのために成功したというべきかしら。考えてもみて。本物の木材が量産できるのよ。盆栽球のなかの小枝や、仮設舎の公園にはえた低木《ていぼく》ではなく」にやにやしているキウィのほうをむいた。「ゴンレはきっと、これまでのつけ[#「つけ」に傍点]を払ってもまだあまるくらいの価値が、これにはあると計算してるんでしょう」
「まあ……あなたの態度が軟化することを期待してるわ」
二人は腰を落ち着け、フローリアは約束のお茶を出した。揮発物とダイヤモンドの山から精製所がつくりだした原料を、ゴンレ・フォンの農生産機械が育てた産品だ。二人はベニーとゴンレがつくったリストを見ていった。このリストはたんに二人が欲しがっているものではなく、ベニーの酒場で日ごとおこなわれている商売の結果だ。おもにエマージェントしか使わない品物もふくまれていた。それどころか、トマスが注文したにちがいないものや、きっとリッツァー・ブルーゲルが注文したのだろうと思われるものさえあった。
フローリアが注文を拒絶するときの理由は、すべて技術的問題だった。精製所であれこれやる以前に必要なものがある。いくら報酬を提示されても、技術的にできないものはできないのだ。
キウィは船団出発前の七歳の頃、父親に連れられてトライランド星の精製所を見にいったことがあった。「これがバクテリア槽の餌《えさ》になるんだ、キウィ。バクテリア槽が公園の植物をささえているようにな。その階層は上へいくほど複雑になるが、いちばん下の精製所を動かすのにもたいへんな技術がいるんだぞ」アリ・リンは階層のいちばん上での自分の仕事を誇りにしていたが、下の階層への敬意も忘れなかった。フローリア・ペレスは才能豊かな化学者であり、彼女がつくりだす軟泥は驚くべき産品のもとになるのだ。
四千秒後、フローリアの残りの当直シフトにおけるさまざまな特典や利益の提供について二人は合意し、お茶を淹れなおして、当面の目標を達成したらなにをするかについて軽いやりとりをはじめた。キウィはトリンリのいうローカライザーの隠し機能のことを話した。
「そればいいニュースね。あいつがまたほらを吹いてるのでなければ。これであなたも、いまみたいな超過勤務サイクルからのがれられるかも」フローリアは、ふと奇妙な悲しい表情を目もとに浮かべてキウィを見た。「あなたは小さな女の子だったのに、いまではわたしより年上になってしまったわ。そんなに急いで命をすり減らすことはないのよ。たかが岩の塊《かたまり》を整列させるために」
「そ――そんなにたいへんじゃないのよ。たとえ充分な医療サポートを受けられなくても、やらなくちゃいけないことだから」
〈〈それに、トマスはずっと連続当直をしてるし、わたしの助けを必要としてるのよ〉〉キウィは思った。
「目覚めている時間が長いのにもそれなりの利点があるわ。どんな取り引きにでも一枚噛めるのよ。どこで取り引きがおこなわれているか、どこへ行けばおいしいものが探せるかもわかる。商人としていい勉強になるわ」
「そう……」フローリアは顔をそむけていたが、ふいにキウィにむきなおった。「こんなのは本当の商売じゃないわ! ただのくだらないお遊びよ!」穏やかな声にもどった。「こめなさい、キウィ。あなたにわかるわけはないのよね……。でもわたしは、本当の商売がどんなものか知ってる。キーレ星にも行ったし、キャンベラ星にも行った。でもこれは――」L1点全体をしめすように手をふった。「これは、ただのふり[#「ふり」に傍点]よ。なぜわたしが精製所の仕事をいつも希望するか、知ってるでしょう? この管制室に手をくわえて自分の家のようにしたのは、わが家にいるふり[#「ふり」に傍点]をするためよ。遠くで一人でいるふり[#「ふり」に傍点]をするため。まともな人間のふり[#「ふり」に傍点]をしているエマージェントとは、仮設舎のなかでいっしょに暮らせないから」
「でもエマージェントのほとんどはまともよ[#「まともよ」に傍点]、フローリア!」
フローリアは首をふり、声を大きくした。「そうかもしれない。でも、それがいちばん不愉快なところでもあるわ。リタ・リヤオやジョー・シンのようなエマージェントは、ふつうの人よね。でも彼らは毎日のように人間を動物以下のように――いいえ、機械の部品のように使っているのよ。それどころか、それが彼らの生き方なのよ。リヤナはプログラマー管理主任≠ナ、シンはパイロット管理主任≠謔ヒ。この世でいちばん邪悪な連中なのに、平然としてベニーの酒場でわたしたちと席をならべている。そしてわたしたちはそれを受けいれてしまっているのよ!」
その声は金切り声に近くなり、ふいに途切《とぎ》れた。目をしっかりとじると、宙に漂い出た涙がゆっくりと下へ沈んでいった。
キウィはフローリアの手にふれたが、相手からひっぱたかれそうな気がして、おそるおそるだった。このことで思い悩む人は何人も見てきた。なかには慰《なぐさ》めることができる人もいる。しかしエズル・ヴィンのようにすべてを胸の内にしまいこんで、キウィにはひそかに脈打つ怒りしか感じられない場合もある。
フローリアはしばらく背中をまるめて黙っていたが、やがてキウィの手を両手でつかみ、そこに頭をつけて泣きだした。むせぶ声のせいで言葉はよく聞きとれない。
「あなたを責めてるんじゃないのよ……そうじゃない。あなたのお父さんのことも知ってるし」しばらく黙って泣きつづけたが、もっとはっきりした口調でつづけた。「あなたがトマス・ナウを愛してるのもわかってるわ。それはいいのよ。彼はあなたなしではやっていけないんでしょう。でもわたしたちのほうは、みんな殺されてしまうかもしれない」
キウィは相手の肩に腕をまわした。「わたしは、愛してなんかいないわ」
ふいに飛び出してきたその言葉に、キウィは自分でも驚いた。フローリアも驚いて顔をあげた。
「なんていうか、彼を尊敬してるのよ。たいへんな時期のわたしを救ってくれた。わたしの母がジミーに殺されたときに。でも――」
自分のなかだけでくりかえしてきたこの言葉を、実際にフローリアにむかって話すのは、なんだか不思議な気がした。トマスはキウィを必要としている。彼は邪悪なおそろしいシステムのなかで育った、善良な人間なのだ。これほど遠くまで来たことや、邪悪さを理解してそれをなんとかしようとしていることが、その善良さの証拠だ。キウィは、自分だったらおなじようにしたとは思えなかった。リタやジョーのようにやみくもに受けいれ、集中化の網に自分が引っかからなかったことを単純によろこんだだろう。トマス・ナウはそんな情況を本気で変えようとしているのだ。しかし、そんな彼を愛しているか? ユーモアや愛情や知恵はわかるが、トマスとのあいだには……距離があった。自分がそんなふうに思っていることを、彼には気づかれたくなかった。
〈〈反体制派のフローリアのことだから、リッツァーの盗聴器を働かなくしてくれているといいんだけど〉〉
キウィはそんな考えを押しのけた。しばらく二人は見つめあい、おたがいがあらわにした本心に驚いていた。
〈〈おやおや〉〉
キウィはフローリアの肩を軽く叩いた。
「当直がかさなっている時期の合計で一年以上のつきあいになるけど、あなたがこんなふうに感じているなんて、ぜんぜん知らなかったわ……」
フローリアはキウィの手を放し、目にたまった涙をふいた。声はだいぶ穏やかさをとりもどしている。
「そうね。これまでわたしはずっと自分に蓋《ふた》をしてきたわ。めだたないようにして、征服されたつまらない行商人を演じて≠ニ自分にいい聞かせてきた。それはうまくやってきたでしょう? 長期的にはそれでいいはずだけど、いまは……。わたしの妹が船団にいることは知ってる?」
「いいえ」
〈〈ごめんなさい〉〉武力衝突以前のチェンホー船団はかなりの人員数だったので、子どもの頃のキウィはほとんどだれも知らないのだ。
「ルーアンは非専門職員よ。頭はそれほどよくないけど、人づきあいが上手だから……。賢明な船団長がリストのなかに巧みにまぜておくような人材ね」笑みが浮かびかけたが、つらい思い出のためにのみこまれた。「わたしは化学工学で博士号をとったわ。なのに彼らはルーアンを集中化して、わたしは放っておいた。わたしがそうなるはずだったのに、妹は身代わりになったのよ」
フローリアの顔はすじちがいの罪悪感のためにゆがんだ。フローリアは一部のチェンホーとおなじように、精神腐敗病に恒久的な感染はしない免疫体質だったのだろう。いや、そうではないかもしれない。トマスは集中化されたのとおなじくらい、自由の身の人員も必要としているのだ。そうでないと、組織は細部への目配りを失って崩壊してしまう。キウィは説明しようとしかけたが、フローリアは聞いていなかった。
「それにはなんとか耐えたわ。わたしはルーアンの消息を追ったの。集中化されたルーアンは、エマージェントの芸術≠フために働かされていたのよ。ほかの連中と連続当直をしながら、ハマーフェスト棟の帯状装飾を彫らされているの。あなたはたぶん、妹と何度もすれちがっているはずよ」
〈〈そうかもね〉〉
彫刻班は集中化された者がやるなかでも最底辺の仕事だ。アリ・リン・リゾレットや翻訳者たちのような高い創造性は求められない。エマージェントの伝統芸術≠ヘ、パターンどおりにやればよく、創造性など不要なのだ。彫刻作業員たちはダイヤモンド製の廊下をハンマーで叩き、あらかじめ決められたパターンにそって壁を一センチずつ削りとっていく。もともとこれはリッツァー・ブルーゲルが、無駄な人的資源≠処分するために考えた計画だった。つまり、医療処置をあたえずに働かせつづけ、みんな死なせるつもりだったのだ。
「でももう彼らは、連続当直はしていないわ、フローリア」キウィはいった。
それはリッツァー・ブルーゲルに対するキウィの最初の勝利のひとつだった。彫刻作業は軽い内容にあらためられ、医療処理は目覚めている全員にほどこされることになった。彫刻作業員は孤立生活の最後まで、つまり、トマスが約束する奴隷解放の日まで生きられることになった。
フローリアはうなずいた。「そうね。わたしとルーアンの当直シフトはほとんどかさならないんだけど、それでもなるべく無事をたしかめるようにしていたわ。廊下をうろうろして、だれかが来ると、ただの通行人のふりをしたり。そうやって妹にやっと話しかけたわ。妹が夢中になっている、薄ぎたない彫刻のことをね。その話しかできなくなってるんだから。あのフレンク星の凶獣|征伐《せいばつ》≠フことしか」フローリアは唾を吐くようにその題名をいった。怒りは萎《な》え、全身の力が脱《ぬ》けたようになっている。「それでもまだルーアンと会うことはできたし、もしわたしがおとなしくてまじめな行商人という態度をつづけていたら、いつか妹は解放されるかもしれないと思っていた。でも……」キウィのほうをむいて、ふたたび震えはじめた声でいった。「……妹はもういないのよ。名簿にも載っていない。棺《ひつぎ》の故障だって。冷凍睡眠中に死んでいたって。嘘つきで、破廉恥《はれんち》な、ばか野郎ども……」
チェンホー製の冷凍睡眠棺はきわめて安全性が高く、適切に使用していれば、四ギガ秒以下の期間における故障率はゼロにひとしい。しかしエマージェント製の機械はそれほどあてにならないし、武力衝突以降は完全に信頼できる装備などだれももっていなかった。ルーアンの死はおそらく悲劇的な事故であり、両船団の全員を死の淵《ふち》へ追いやりかけた狂気の残響といえるだろう。
〈〈でもそれを、どうやってフローリアに説明すればいいの?〉〉
「いわれたことを素直に信じられないのはよくわかるわ、フローリア。エマージェントのシステムは邪悪だから。でも……わたしは長いこと百パーセント当直についていたし、いまでも五十パーセント当直をしてる。ほとんどすべてを見てきたのよ。でもそのあいだ、トマスの嘘など一度もみつけたことはないのよ」
「そう……」不満そうだ。
「それに、だれがルーアンを殺したがるというの?」
「殺した≠ニはいってないわ。それにたぶん、あなたのトマスも知らないことよ。ダイヤモンドの彫刻班のまわりをうろついていたのは、わたし一人じゃないのよ。リッツァー・ブルーゲルを二度見かけたことがあるわ。一度は女たちを全員集あて、そのむこうで眺めていただけだった。その次のときは……ルーアンと二人きりだったの」
「まあ」キウィは小声でつぶやいた。
「証拠はないわ。わたしが見たのはちょっとした身ぶりや、姿勢や、表情でしかない。だからわたしは黙っていたわ。でもそのあとこうして、ルーアンがいなくなったのよ」
フローリアの疑心暗鬼のわけがようやくのみこめてきた。リッツァー・ブルーゲルは冷酷非道なやつだ。領督《りょうとく》制度によってようやく手綱《たづな》をかけられているだけなのだ。キウィはあの男と対決したときのことを思い出した。ブルーゲルが怒りをこめて鉄の杖《つえ》をゆっくりと自分のてのひらにふりおろす音は、ずっと頭にこびりついていた。あのときキウィは、相手を追いはらった勝利感しか覚えなかったのだが、あとになって自分が心の底からおびえていたことに気づいた。トマスがいなかったら、キウィはまちがいなくあの場で殺されていただろう……。いや、もっとひどいめに遭《あ》っていたかもしれない。ブルーゲルはトマスに知られることだけを恐れていたのだ。
領督でも、法的裏付けがないまま人を死刑にするのはむずかしいのに、まして死を擬装《ぎそう》するのはむずかしいだろう。領督は独特の記録責任制度をもっている。ブルーゲルがとても利口でないかぎり、なんらかの手がかりは残っているはずだ。
「ねえ、フローリア。わたしが調べてみることはできるわ。ルーアンのことは、もしかしたらあなたの疑っているとおりかもしれないけど、どちらにしても真実をたしかめたほうがいい。そしてもしあなたのいうとおりだったら――そんな職権|濫用《らんよう》をトマスが黙っているはずはないわ。彼はチェンホー全員の協力を必要としていて、そうでなければだれも生き延びるチャンスはないんだから」
フローリアは厳粛《げんしゅく》なおももちでじっとキウィを見ていたが、やがて腕をまわしてしっかりと抱きしめた。キウィはその身体にはしる震えを感じたが、フローリアは泣いてはいなかった。
だいぶたってから、フローリアはいった。「ありがとう。ありがとう。この何メガ秒か、とても怖くて……とても恥ずかしかったのよ」
「恥ずかしかった?」
「ルーアンはだいじな妹だけど、集中化によって他人になってしまった。彼女が死んだと聞かされたときに、人殺しめと叫ぶべきだったのに、そうしなかった。いいえ、ブルーゲルが妹といっしょにいるときになにかいうべきだったのよ。なのに、自分の身が心配で……」フローリアは腕をゆるめて、震える笑みを浮かべてキウィを見た。「もしかしたら、べつのだれかを危険に巻きこんでしまったのかもしれないわね。でもあなたならできるかもしれない……。それに、ルーアンがまだ生きている可能性だってあるのよ。すぐにみつけられれば」
キウィは片手をあげた。「そうかもしれないわね。とにかくたしかめてみなくちゃ」
「ええ」
二人はお茶の残りを飲みながら、フローリアが妹についてほかに憶えていることや、見たことについて話した。フローリアはなるべく落ち着こうとしていたが、安堵と不安のせいですこし早口で、身ぶりもおおげさになりがちだった。
部屋の照明のすぐ下に張り出した木製スタンドに盆栽球を固定するのを手伝いながら、キウィはいった。
「木材はもっとたくさん手にはいるわよ。ゴンレはあなたにメタクリル酸の生成プログラムをどうしても書いてほしいと思ってるのよ。むかしの船の船長室のように、磨いた木の板でぜんぶの壁を張ることだってできるわ」
フローリアは狭い部屋のなかを見まわしながら、すこし返事を引きのばした。「やろうと思えばできるわ。取り引きできるかもしれないって、ゴンレにいっておいて」
そのあとキウィはエアロックの内扉のまえに立ち、気密スーツのフードをおろした。
つかのまフローリアの顔に恐怖の表情がもどってきた。「気をつけて、キウィ」
「わかってるわ」
キウィはタクシー船をときどき停止させて岩石群のようすを点検し、問題や変更点を愚人《ぐじん》ネットに送信していった。そのあいだ、頭のなかではさまざまな恐怖がかけめぐっていた。ようやく考える余裕ができたのだ。もしフローリアのいうとおりなら、たとえトマスが味方についてくれていても、とても危険なことになる。ブルーゲルは多方面に影響力をもっているのだ。彼が冷凍睡眠施設に対して妨害工作をしたり、死亡記録を捏造《ねつぞう》したりしているのなら、トマスの支配体制の根幹《こんかん》がゆらいでいることになる。
〈〈ブルーゲルは、わたしがなにか知ってると思ってるかしら〉〉
キウィは第三ダイヤモンド塊と第四ダイヤモンド塊を分ける深い渓谷《けいこく》の上を泳いでいた。アラクナ星の青い光がちょうどキウィの背後にあるので、岩塊《がんかい》の粗い接合面の奥までよく見える。接着剤がわりに注入した水の氷から昇華した霧がいくらか立ちのぼっていた。センサー網にも表示されないくらいかすかだが、表面すれすれに顔を近づけて飛ぶと見えた。
問題点を口述しながらも、頭のべつのところでは危険な疑問について考えていた。フローリアはばかではないから、あの狭い部屋はなかも外もきれいに掃除してあるはずだ。キウィも自分のスーツには気をつけていた。公的なものも秘密のものも、盗聴器はすべてはずしていいとトマスから許可をもらっていた。しかしネット上ではそうはいかない。もしフローリアが考えているとおりのことをブルーゲルがしているのなら、あいつは愚人ネットも監視しているだろう。気づかれないように調査するのはとてもむずかしい。
〈〈だから、慎重なうえにも慎重を期さなくては〉〉
これからはなにをするにも口実が必要だ。そうだ、エズルといっしょに職員調査をまかされたことにすればいい。岩石群の点検はほぼ終わりだから、そういう作業に移るのはなんら不自然でないはずだ。
キウィはエズルに優先順位の低い打ち合わせ申し込みメッセージをいれ、当直と職員データベースの大部分をダウンロードした。ルーアンについての記録はこのなかにあるはずだが、いまはローカルなノードにたくわえられている。キウィのプロセッサはトマスのセキュリティシステムによって守られていた。
まず、ルーアン・ペレスの履歴《りれき》を呼び出した。たしかに、冷凍睡眠中に死亡と記載されている。キウィはさっとテキストを読んでいった。装置がどのように故障したかについて、専門用語だらけの推測がえんえんと書かれている。キウィは現場技術者としてとはいえ、冷凍睡眠装置にかんして何年も訓練を受けたことがあり、なんとかその論旨にはついていけた。しかし、まるでほかのことに気をとられた愚人が、もっともらしい故障の理由をでっちあげうといわれて書いたような、だらだらした冗長な論文に思えた。
タクシー船が岩石群の影の側を出ると、穏やかな青いアラクナ星の光をまばゆい太陽光が圧倒した。岩石群の太陽の側は、ダイヤモンドの表面が黒鉛に変化しており、ただのごつごつした岩のようだ。
キウィは視野を暗めに調節し、ルーアンについての報告書にもどった。とくに疑念をもって読まなければ、またエマージェントの書類要件に通じていなければ、だまされたかもしれない。しかし……検死についての第三、および第四照合確認がないではないか。レナルトは自分の管理下にある愚人について、そういうことをなおざりにはしない。愚人の不慮の死にはとてもうるさくて、厳格な報告を求めるのだ。
この報告書は偽物《にせもの》だ。キウィが指摘すれば、トマスもわかるだろう。
そのとき、キウィの耳もとでチャイム音が鳴った。
「やあ、エズルだけど」
しまった。エズルにメッセージを送ったのは、大きなデータの塊をダウンロードしてルーアンの記録を調べる口実にすぎなかったのに、こうして返信が来てしまった。しばらくエズルはタクシー船内でキウィの隣の席にすわっているように見えていたが、やがてヘッドアップディスプレーがその視覚操作を維持できないと判断したようで、エズルの映像はまたたいて消え、疑似ディスプレーのなかの固定位置におさまった。エズルの背後にはハマーフェスト棟の屋根裏部屋らしい青緑色の壁が見えている。不思議はない。トリクシアの部屋を訪れているのだ。
映像は鮮明なので、エズルの怒った表情はすぐにわかった。「六十キロ秒後には非番になる予定だから、すぐに返事することにしたんだよ」
「ああ、じゃましちゃってごめんなさい。職員データを調べてたのよ。あなたとわたしに押しつけられた計画策定委員会の仕事でね。それで質問があるんだけど――」
しゃべりながら次の言葉を探し、さっきのメッセージを正当化する質問を必死で探した。小さな嘘を隠そうとするとかならず大きな嘘をつくはめになるのは、いったいどうしてだろう。
しばらく口ごもったあと、とうとう専門技術者の混成率についてとても愚かしい質問をした。
エズルはすこし奇妙な顔をしてキウィを見つめたあと、肩をすくめた。
「そりゃ孤立生活が終わるときの話だろう。蜘蛛《くも》族がこちらと接触できる段階に達したときに、どういう人材が必要になるかはわからないんだ。そのときは専門技術者をすべて冷凍睡眠から出して、総員警戒態勢を敷くさ」
「もちろんそういう計画ね。でも、ちょっとこまかいことで――」どうすれば疑われずにすむだろうと必死で考えた。とにかくこの会話を早く終わらせることだ。「――じゃあ、自分でもうすこし考えてみるわ。あなたが冷凍睡眠から出てきたら、じかに会って話しましょう」
エズルは眉をひそめた。「それはずいぶん先のことになるな。今度の非番期間は五十メガ秒なんだ」
五十メガ秒といえば二年近い。通常の非番の四倍以上ではないか。
「なんですって?」
「まあ、新入りとか、いろいろ問題があるからね」
エズルの当直群の一部に、現場経験の少ない者がいるのだ。トマスと管理主任委員会――そこにはキウィとエズルもふくまれているのだが――は、全員が現場に出て、通常の訓練を受けるべきだと考えていた。
「ずいぶん早くからはじめるのね」それに五十メガ秒とは、予想より長い。
「ああ。まあ、だれかが最初にはじめないとね」エズルは映像の視点から目をそらした。トリクシアを見ているのだろうか。またこちらを見ると、さきほどまでのいらいらした口調とは変わって、なぜか追いつめられたような響きでいった。「キウィ、ぼくはこれから五十メガ秒も氷漬けになるし、そのあともしばらくは緩やかな勤務サイクルのままだ」反論をさえぎるように手をかかげた。「べつに不満があるわけじゃないよ!その意思決定の過程にはぼくも参加したんだから……。でも、トリクシアはそのあいだずっと当直だ。こんなにずっとひとりぼっちにされるのは初めてなんだ。そばで守ってやれる人間がいない」
キウィはできることなら手をのばして慰めたかった。「彼女をいじめる人なんていないわよ、エズル」
「わかってるよ。トリクシアはとても貴重な人材だからね。きみのお父さんみたいに」目になにかの表情があらわれたが、いつもの怒りではなかった。エズルはキウィに頼みごとをしているのだ。「トリクシアは、体調には気をつかってもらえるだろうし、それなりに清潔な恰好もさせてもらえるだろう。でもこれ以上、仕事で追いつめさせたくないんだ。トリクシアを守ってやってくれないか、キウィ。きみにはその力がある。すくなくとも、トルード・シリパンのような雑魚《ざこ》は追いはらえる」
エズルから頼みごとをされるのは初めてだった。
「気をつけておくわ、エズル」キウィはそっといった。「約束する」
通話を切ったあと、しばらくキウィは身動きできなかった。偶然の通話にすぎないし、しかも相手はあんないやなやつなのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろう。しかし、エズルのまえではいつもそうだったのだ。十三歳の頃のキウィにとって、エズル・ヴィンは宇宙でいちばんすてきな男だった――その彼の注意を惹《ひ》くのに、しつこくつぎまとって怒らせる方法しか知らなかったのだ。そんな十代ののぼせあがりは、ふつうはすぐにさめるものだ。ディエムの虐殺《ぎゃくさつ》事件をきっかけにキウィの心は封印され、愛情も純真だった頃のまま凍結されたと思っていたのだが……。どういうわけか、エズルの力になれるのはうれしかった。
猜疑心《さいぎしん》は伝染するのかもしれない。ルーアン・ペレスが死に、今度はエズルが予定より長期の冷凍睡眠にはいろうとしている。
〈〈だれがこんな当直シフトの変更を指示してるのかしら〉〉
キウィは取りこんだデータを調べてみた。スケジュール変更は、名目上は当直管理主任委員会の承認をへなければならないが……実際にはリッツァー・ブルーゲルが一手《いって》に仕切っていた。
よくあることなので、領督のだれかが変更を承認すればすむのだ。
キウィのタクシー船はゆっくりと上昇をつづけていた。この距離から見ると、岩石群はごちゃごちゃとした岩の集合体だ。第二ダイヤモンド塊が日差しを浴びてまばゆく輝き、かなり明るい星以外をすべて隠している。自然の風景のようだが、じつは人工的な形状をしたチェンホーの仮設舎が横から突き出し、輝いている。強調された映像として見ているキウィには、このL1点の周囲をまわる数十棟の倉庫がわかった。岩石群の影の側にはハマーフェスト棟と精製所、さらにL1Aと呼ばれる兵器庫がある。周囲の宇宙空間には仮設舎や倉庫や、両船団の人々をここへつれてきたあとに廃船になったり、なかば廃船になりかかった星間船が軌道をまわっている。キウィはそれらを電子ジェットの穏やかな補助動力として使っていた。よく管理された動的システムなのだが、孤立生活の初期にひとまとめに係留されていたのとくらべると、ごちゃごちゃして見えるのはたしかだった。
キウィはその配置を熟練者の目で確認しながら、頭のほうでは、はるかに不安定で政治的にこみいった問題について考えていた。リッツァー・ブルーゲルが私的に占有しているかつてのインビジブルハンド号は、岩石群からすこし離れたところにあり、このタクシー船との距離は二千メートルに充たない。その燃焼管吸入口から千五百メートル以下のところを通過するはずだ。
〈〈さてさて……〉〉ブルーゲルがルーアン・ペレスを誘拐していたとしたら、どうか。トマスに対するかつてなく大胆な反逆行為ではないか。〈〈それだけではないかもしれないわ〉〉ブルーゲルをこのまま放っておいたら、もっと犠牲者が出るかもしれない。〈〈エズル……〉〉
キウィは深呼吸した。
〈〈問題はひとつずつ片づけていくものよ。まず、フローリアのいうとおりルーアンがまだ生きていて、ブルーゲルの私的空間でおもちゃにされているとしたら、どうかしら?〉〉
いくらトマスでも、ほかの領督に対してそれほどすばやい処置はとれない。キウィが声をあげたときにすこしでも対応の遅れがあったら、ルーアンは本当に死ぬだろう。そしてあらゆる証拠も……消えてしまう。
キウィはシートのなかで身をよじり、インビジブルハンド号を肉眼で見た。距離は千七百メートルを切った。こんな絶好の機会をわざとつくりだすには何日もかかるだろう。星間船の無骨な姿が眼前にせまり、緊急補修したときの溶接|跡《あと》や、ラムスクープエンジンの突き出しフランジがX線砲火を浴びたときの焼けこげなどもわかった。インビジブルハンド号の構造はこのL1点にいるだれよりもよく知っている。ここへの航海のあいだ何年もこの船のなかですごしたし、学校で船について教わるまでもなく、自分の手でこれを動かしてきた。その盲点だって知っている……。さらに重要なことに、領督レベルのアクセス権ももっているのだ。トマスから信頼されてあたえられているもののひとつだ。これまではこういう……なんというか、刺激的な使い方をしたことはなかったのだが――
計画がきちんと組みあがるまえに、キウィの手は勝手に動きはじめていた。トマスへの専用秘密回線をひらき、これまでにわかったことと、疑われること、そしてこれからやろうとしていることの概要を早口に説明した。そして、自分が死んだら配達されるという条件づけをして、メッセージを送信した。これでどんなことがあってもトマスの耳にははいるし、ブルーゲルにつかまっても逆に脅《おど》すための材料になる。
インビジブルハンド号まで千六百メートルに近づいた。キウィは気密スーツのフードをさげ、タクシー船内の空気をタンクにもどした。勘《かん》で見積もった軌道と、ヘッドアップディスプレーに表示される軌道が一致した。インビジブルハンド号のこちら側では唯一の盲点である、燃焼管吸入口へ飛びつくための軌道だ。タクシー船のハッチをあけ、軽業師《かるわざし》的な本能が教える瞬間を待ち――そして虚空《こくう》へ飛び出していった。
キウィはインビジブルハンド号の空《から》っぽの船倉《せんそう》を、もの音を立てないように指先でつたっていった。トマスからもらった権限と船の構造についての深い知識のおかげで、音響警報は鳴らさずに居住区画まで侵入できた。数メートルごとに壁に耳を押しあて、もの音を聞いた。当直者のいる区画に近づいているので人の気配はする。とくに異常なようすはない。急激な動きの音も、不安げな話し声もしないが……ふむ、これはだれかの泣き声のように聞こえなくもない。
キウィは先を急ぎながら、ずっとむかしにリッツァー・ブルーゲルと対決したときの、目眩《めまい》に似た怒りを感じた。あの頃にくらべて冷静にはなったが、そのぶんだけ恐怖も増した。公園でのあの一件以来、当直シフトがかさなったときはブルーゲルの視線をよく感じた。だから、また対決するときがくるだろうと予期していた。ジムで身体を鍛え、武道を習ったのは、母親の思い出のためという面もあるが、ブルーゲルとその鉄の杖に対する保険の意味もあった。
〈〈あいつが鉄線銃を撃ってきたら、目にもの見せてやるわ〉〉
しかし弱虫のブルーゲルはそうやって攻撃せず、ただ眺めてにやにやするだけだろう。その対決のときがきたら、トマスに送ったメッセージを材料に脅してやれるはずだ。キウィは恐怖をこらえて、泣き声のほうへ近づいていった。
ここから先も通行できるかどうかは、キウィがもっている領督用マスターキーにかかっている。不充分である可能性は高い。
〈〈ほんのすこしの時間でいいのよ……〉〉
キウィは記録装置とデータ回線を最後にもう一度調べた。そして、思いきってハッチをくぐり、乗組員用通路にはいった。
〈〈これは……〉〉
つかのま呆然《ぼうぜん》と眺めた。通路は記憶のままの大きさだ。十メートル先で右へ曲がり、船長の居住区画へむかっている。しかしブルーゲルは四面すべての壁に壁紙を貼り、そこには渦巻くピンク色の映像が映し出されているのだ。空気は霧香《じゃこう》の匂いがする。キウィが憶えているインビジブルハンド号とはまったく異なる世界になっていた。勇気をふりしぼり、ゆっくりと通路を進んでいった。奥のほうから音楽が聞こえてくる。トン、トン、トンという打楽器の音だ。
歌声も聞こえる。鋭い悲鳴のような声が、そのリズムにあわせて響いている。
画肩の筋肉が緊張し、勝手に壁を押して引き返しそうになった。
〈〈これ以上の証拠が必要かしら?〉〉
必要なのだ。ローカル優先でデータシステムをのぞいてみるだけでいい。ブルーゲルの不気味な映像や音楽についてヒステリックな訴えをくりかえすより、そのほうがはるかに重みがある。
ドアをひとつひとつ通りすぎながら通路を進んでいった。ここにならんでいるのは上級船員用の寝室だが、トライランド星からの航海中は当直員が使っていた。キウィは奥から二つめの部屋に三年間住んでいた――いまその部屋がどうなっているか、あまり知りたくなかった。
角《かど》を曲がったところに、船長の戦略会議室があった。マスターキーを錠前にすべらせると、ドアはすっとひらいた。のぞいてみると……なかはもはや会議室ではなかった。ジムのようでもあり、寝室のようでもある。壁はやはり映像壁紙でおおわれている。奇妙なむかいあわせになった棚があり、キウィは戸口から隠れたそのあいだにはいって、ひと息ついた。ヘッドアップディスプレーに手をふれて、ローカル優先で船内ネットに接続するよう命じると、彼女の位置とアクセス資格を確認する沈黙のあと、目のまえに名前と日付と写真のデータが流れ出した。
〈〈やっぱり!〉〉
ブルーゲルはこのインビジブルハンド号で、自分勝手な冷凍睡眠サービス業をいとなんでいたのだ。ルーアン・ペレスの名前もある。こちらでは生存者扱いで、しかも当直中だ!
〈〈もう充分よ。この狂気の館《やかた》から逃げ出さなくちゃ〉〉
しかしキウィはしばしためらった。このリストにはたくさんの名前がある。ずっとむかしの、憶えのある名前や顔がふくまれている。写真のわきには死亡を意味する小さな記号がついている。この人々と最後に会ったのは子どもの頃だが、写真は当時のようすとずいぶんちがう……。
写真の彼らは、不機嫌そうだったり眠っていたり、ひどい傷や火傷《やけど》を負っていたり、さまざまだった。生きている者、死んでいる者、殴られた者、はげしく抵抗している者……。
〈〈これはジミー・ディエムの事件よりまえの写真だわ〉〉
戦闘から当直シフト再開までの数メガ秒のあいだに尋問がおこなわれたらしいことは知っていたが……。キウィは腹の底からわきあがってくる痺《しび》れるような恐怖を感じた。さらにリストを先へ進めると――キラ・ペン・リゾレット。ママ……。傷だらけの顔が、じっとこちらを見ている。
〈〈ブルーゲルになにをされたの? どうしてトマスはこのことを知らないの?〉〉
映像に添付されたデータリンクにさわった覚えはなかったのだが、ふいにヘッドアップディスプレーが没入ビデオを再生しはじめた。部屋は変わらないのだが、ずっとむかしの光景と音に充たされている。棚のむこう側から荒い息づかいとうめき声が聞こえてきた。キウィが動くと、映像もきれいに追従する。棚の角をまわると、そこにいたのは……こちらをむいたトマス・ナウだった。若い頃のトマス・ナウだ。低いべつの棚のむこうで腰をふっているようだ。
キウィがこれまで何度も見た恍惚《こうこつ》とした表情を浮かべている。二人きりになり、キウィのなかにはいっているときに見せる表情だ。しかしこの何年もまえのトマスは、赤い飛沫《しぶき》の散った小さなナイフをもっている。ナウがキウィから見えないところへかがみこむと、あえぎ声が鋭い悲鳴に変わった。キウィは棚の上に身体を引きあげ、真実の過去を見おろした。ナウがナイフで切り裂いている女を見た。
「ママ!」
過去の映像はキウィの叫びになど気づかない。ナウは作業をつづけた。キウィは腹をかかえこみ、棚とそのむこう側へ嘔吐物を撒《ま》きちらした。もうなにも見えないのだが、過去からの音だけは、まるで棚のすぐむこう側で実際に起きていることのように聞こえてくる。胃のなかのものを吐き出しながら、ヘッドアップディスプレーを顔からむしりとり、力いっぱい放り投げた。息がつまり、あえいだ。全身がわけのわからない恐怖に支配されていた。
照明のようすが変わり、部屋のドアがひらいた。声がする。現在の声だ。
「やっぱり、ここにいるみたいだぜ、マーリ」
「うえっ、きたねえ」
二人の男が部屋のなかを捜索しながら、キウィの隠れているところへ近づいてくる。キウィはとっさに身体を低くし、不気味な装置の下にもぐりこんで床に這った。
そこに男の顔があらわれた。
「ああ、ここに――」
キウィは突進した。相手の首に手刀を叩きこもうとしたが、空振《からぶ》りだった。手は男の背後にある仕切り壁を叩き、腕に激痛がはしった。
麻酔矢が刺さるチクリとした痛みを感じた。身体のむきを変え、敵に飛びかかろうとしたが、もう脚が動かなくなっていた。男たち二人はさらにしばらく用心のために待った。それから、矢を射たマーリがにやりとして、空中でゆっくりと回転するキウィの身体をひっつかんだ。キウィは動けなかった。息もろくにできない。しかし感覚はあった。マーリが彼女を引っぱりながら、胸をあちこちまさぐるのを感じた。
「もう動けないから心配いらねえよ、トウ」マーリは笑った。「いや、おまえは心配かもな。こいつが壁にあけた穴を見ろよ。あと四センチずれてたら、おまえは首のうしろから息ができるようになってたかもな!」
「くそ」トウの声は不愉快そうだ。
「つかまえたか? よし」
ドアのほうからトマスの声がした。マーリはさっとキウィの胸から手を放し、装置のあいだから広い空間に彼女を引っぱり出した。
キウィは顔を動かせないので、たまたま目のまえにきたものしか見えなかった。トマスは、いつものように落ち着いたようすだ。いつものように落ち着いている[#「いつものように落ち着いている」に傍点]。通りすぎるキウィをちらりと見て、マーリにむかってうなずいた。キウィは叫ぼうとしたが、声が出なかった。
〈〈トマスはわたしを殺すんだわ。ほかのみんなとおなじように……。でも、殺さなかったら? もし殺さなかったら、絶対、絶対、こいつを許さない〉〉
トマスがうしろをふりかえった。リッツァー・ブルーゲルだった。服は乱れ、半裸に近い。
「リッツァー、これは弁解の余地がないぞ。こいつにアクセスコードをあたえているのは、侵入を予測して簡単につかまえられるようにするためだ。なのにおまえがそんなに隙《すき》だらけでどうするんだ」
ブルーゲルはあわれっぽい声で答えた。「でも、このまえの精神洗浄からこんなに早く気づくなんて思わなかったんですよ。こいつがここに侵入しようとしていると領督から警告されたのも、ほんの三百秒前だし。こんなことは初めてですよ」
トマスは副領督をにらみつけた。「二度めはたんなる不運だったが、まあ、そういうこともありうる。一度めは……」キウィのほうに目をもどし、怒りから考える表情になった。「今回は予想外の要因があったようだな。直前にこいつがだれと話していたか、カル・オモに調べさせよう」
マーリとトウにむかって手をふった。
「箱詰めにしてハマーフェスト棟へ運べ。いつものとおりにやれと、アンにいえ」
「記憶の切除はどの時点からにしますか?」
「あとで自分からアンにつたえる。すこし記録を調べてからだ」
キウィは通路と、自分を引っぱっていく手を見た。〈〈こんなことがいったい何度くりかえされたの?〉〉必死に力をこめたが、筋肉一本動かせなかった。キウィは身体のなかで叫んでいた。
〈〈今度こそ忘れないわ、かならず思い出してやる!〉〉
22
ファム・トリンリはトルード・シリパンのうしろについて、ハマーフェスト棟の中央尖塔《せんとう》にのぼっていた。めざす先は屋根裏部屋だ。
何メガ秒にもわたってこの男と無駄話をしてきたのは、ある意味でこの瞬間のためだった。集中化システムの内側をのぞくため――結果だけではなくその過程を見るためだ。ここへはもっと早く来ることもできた。トルードからこれまで何度か、見にこないかと誘われていたのだ。当直シフトのあいだに何度も顔をあわせて親しくなると、ファムは集中化について愚かしい主張をくりかえし、それがまちがっていたら奉仕券をいくらでもくれてやると、トルードとジョーのまえで豪語してきた。もっともらしいかたちで案内されるのは時間の問題だった。しかし時間はたっぷりあったし、ファム自身が充分な口実をみつけられずにいたのだ。
〈〈思いちがいをするな。ローカライザーの話をトマス・ナウのまえでぶちあげたからには、これまでで最大の危険を背負いこんだことになるんだぞ〉〉ファムは自分にいい聞かせた。
「さて、ついに現物を見ることができるわけだな、ファムじいさん。これを見たあとは、もうくだらない説をがなりたてるのはやめろよな」トルードはにやにやしている。自分もこの瞬間を楽しみにしていたらしい。
二人は上へのぼりながら、枝分かれする細いトンネルをいくつも抜けていった。ずいぶん狭苦しいところだ。
ファムは、まえをいくトルードに近づいた。「ふん、冗談じゃない。エマージェントが人間を自動機械にできるからって、それでどうだってんだ。愚人《ぐじん》だって一秒間にできる掛け算は一、二回がせいぜいだろう。ただの機械のほうが何兆倍も速い。おまえらは愚人を集めて、人をこき使うことを楽しんでるだけさ。それでなにができるっていうんだ。人類が文字を覚えて以来、いちばん遅くてお粗末な自律機能系じゃないか」
「ああ、わかったよ。あんたは何年もまえからそういってるからな。でも、そうじゃないんだよ」片足を突き出してつま先を壁にすべらせ、静止した。「グループ室では大声厳禁だからな、いいか」
二人のまえにあるのは本物のドアだった。下にあったような狭いハッチではない。トルードは手をふってそれをあけ、二人はなかにはいった。
ファムが受けた第一印象は、体臭と、たくさんの人の気配だった。
「ちょっと匂うだろ? でもこいつらは健康だ。それは保証するぜ」技術者の誇りとともにトルードはいった。
三次元の格子状になった架台《かだい》が積みかさなり、そのなかに微小重力用の座席がひとつずつおさまっている。本物の重力がある環境では不可能な構造だ。ほとんどの座席には人がすわっている。さまざまな年齢の男女で、灰色の服を着て、ほとんどは最上級のチェンホー製ヘッドアップディスプレーを使っているようだ。
こんな光景は予想外だった。
「個室にいれてるんじゃないのか?」酒場でエズル・ヴィンが何度か涙ながらに語ったような、狭い部屋を考えていたのだ。
「そういうやつもいる。用途によるんだ」トルードは手をふって、病院の看護助手のような恰好をした二人の世話係をしめした。「こっちのほうが経費がかからないからな。二人いれば、トイレの呼び出しにもすべて対応できる。喧嘩にもな」
「喧嘩?」
「いわゆる職業上の意見の不一致≠ニいうやつさ」トルードは軽く笑った。「ただの口喧嘩だよ。精神腐敗病のバランスまで崩れると、ちょっと危険だけどな」
二人はぎゅうぎゅう詰めの架台のあいだを斜めに上へ漂っていった。ヘッドアップディスプレーが透明な光をまたたかせ、愚人の目がときどき動いたが、ファムとトルードにはだれも気づいていない。どこかべつのところを見ているのだ。
あらゆるところから低いつぶやき声が聞こえていた。部屋にこもった愚人たちの声だ。ほとんどの愚人が声を発していて、それはすべて短い単語の集まりだ――固有語だが、意味はわからない。それらがあわさって、まるで眠気をさそう歌声のように聞こえた。
愚人たちは同時打鍵キーボードをひっきりなしに叩いている。トルードは彼らの手を、とくに誇らしげにしめした。
「ほら、腱鞘炎《けんしょうえん》の症状が出ているのは五人に一人もいない。こいつらを無駄にはできないからな。もともと数が少ないし、レナルトも精神腐敗病を完全には制御できないんだ。それでも、単純な医療事故による死者は毎年のように出る――それは避けられないんだ。どういうわけか、健康診断で異常なしとされた直後に腸穿孔《ちょうせんこう》をわずらったりするからな。そいつは個室にはいった専門職だった。作業効率が落ちてきたんだが、なかなか原因がわからない。わかったときには、もう完全に匂ってたよ」
奴隷たちは苦痛も訴えられないほど仕事に没頭し、だれからも気づいてもらえないほど粗末にあつかわれたすえに、身体《からだ》のなかから腐って死んでいくわけだ。トルード・シリパンもその数が減るのを心配しているのにすぎない。
二人はいちばん上まであがり、つぶやきつづける人間の格子構造を見おろした。
「ある意味ではあんたのいうとおりだよ、トリンリ戦闘員殿。こいつらのやってるのが算数やデータの分類だったら、ばかばかしいのもいいところだ。指輪より小さなプロセッサのほうが一兆倍も速くこなせるんだから。しかし、愚人たちがしゃべってるのは聞こえるか?」
「ああ。意味はわからんが」
「仲間言葉なんだよ。愚人を集団にすると、すぐああいうふうにしゃべりはじめる。しかしだいじなのは、こいつらがやっているのは機械のような低次元の機能ではないってことだ。こいつらはコンピュータ資源を使ってるんだよ[#「使ってるんだよ」に傍点]。おれたちエマージェントにとっては、愚人はソフトウェアの上にのっているシステム層なんだ。こいつらはシステムのなかで人間の知性として働くけど、機械のような持続性や忍耐力もそなえている。また、だからこそ、集中化されていない専門職員――とくにおれのような技術者が重要になるんだ。ふつうの人間が方向性をさだめ、ハードウェアとソフトウェアと集中化人材の適切なバランスを探してやらないと、集中化システムはなんの役にも立たない。うまくやれば、その組み合わせはチェンホーがこれまでに達成したどんなシステムより強力になる」
ファムは、そのことはずっとまえから理解していたが、トルード・シリパンのようなエマージェントから詳しい説明を引き出すために、わざとわからないふりをしてきたのだ。
「それで、このグループは具体的になにをしてるんだ?」
「教えてやろう」ファムにヘッドアップディスプレーをつけるように合図した。「ほら、見えるだろう? ここは三つのグループに分かれてる。上の三分の一は単純処理レイヤで、意識の集中する先をわりと簡単に変えられる。問い合わせを振り分けるような機械的な作業が得意だ。まんなかの三分の一はプログラムを書く。あんたは戦闘プログラマーだから、これに興味をもつだろう」
ファムの視野にフローチャートが映された。内容はしっちゃかめっちゃかで、整然と進化した形跡がないまま、大きないくつかのブロックでできている。
「あんたが書いた兵器照準プログラムを、書きなおしたものだ」トルードがいった。
「ばかばかしい。おれにこんなものは管理できないね」
「たしかに無理だな。しかし、リタ・リヤオのようなプログラマーの管理者で、愚人プログラマーの集団を率《ひき》いていれば、できる。彼女はこいつらを使ってプログラムを再編成し、最適化したんだ。ふつうの人間が無限に集中力をたもてればできるはずの内容だ。性能のいい開発ソフトウェアをあたえたら、この愚人たちは、あんたのオリジナルの半分のサイズで、おなじハードウェア上で五倍も高速に動くコードを書いた。ついでにバグも何百個と探し出した」
ファムはしばらく黙って、迷路のようなフローチャートを眺めていった。兵器プログラムを切ったり貼ったりするのは長年やってきた。たしかにバグはあるが、大きなシステムにバグはつきものだ。しかし兵器プログラムは何千年ものあいだ作業の対象とされ、つねに最適化して、欠陥をとりのぞく努力がされてきたのだ。それが……。
ファムはヘッドアップディスプレーを消し、整然とならぶ奴隷たちを見た。
〈〈すごい成果だが、そのためにこんな犠牲を……〉〉
トルードが軽く笑った。「ごまかすなよ、トリンリ。驚いたって、顔に書いてあるぞ」
「ああ。まあ、これが動くのなら驚くね。それで、最後の三分の一のグループはなにをするんだ?」
しかしトルードはすでに出入りロへむかっていた。「ああ、それか」無関心そうに手をふって、右側の愚人たちをしめした。「レナルトが進めているプロジェクトだよ。あんたらの船団システムのコード全体を調べて、裏口みたいなものがないか探してるんだ」
それは、もっとも偏執的なシステム管理者にとっても見果てぬ夢だったが、こうしてすさまじいものを見せられたあとでは……ファムはあまり落ち着いていられなかった。
〈〈おれが大むかしに挿入したモジュールも、早晩気づかれそうだな〉〉
二人はグループ室をあとにして、中央尖塔をくだりはじめた。
「なあ、ファム。あんたは――チェンホーはみんな――目隠しをされて育ったようなものなんだ。この世には絶対不可能なことがあると思ってただろう。あんたらの文献には常套句《じょうとうく》が出てくるよな。ごみを入力したらごみが出力される∞自律機能系の困ったところは、いわれたことを正確にやることだ∞自律機能系は真に創造的にはなりえない=c…。人類はそういう主張を何千年も信じてきた。しかしおれたちエマージェントは、それがまちがいだということを証明したんだ! 愚人の助けを借りれば、曖昧《あいまい》な入力からでも正確な結果を導ける。満足できる自然言語翻訳も可能だ。人間に匹敵するレベルの高い判断力を、自律機能系に組みこめるんだよ!」
二人は秒速数メートルで下へ降りていった。すれちがう人影は少ない。尖塔の下側からの光がだんだん明るくなってきた。
「なるほど。それで、創造性はどうなんだ?」ファムは訊いた。
それはトルードがいちばん自慢したいところだったらしい。「それも実現できるのさ、ファム。もちろん、どんな創造性でもというわけにはいかない。さっきもいったように、おれやりタ・リヤオのような管理者は必要だし、その上に立つ領督《りょうとく》も必要だ。しかし、本当に創造性があって、歴史の本に残るような芸術家がどんな連中かは知ってるだろう? 社会生活のできない暗い人間であることが多いんだ。なにかひとつのテーマを学びつくそうと全身全霊を傾ける。正気の人間には、そうやって友人や家族を捨ててまでなにかに打ちこむなんてことは受けいれられないさ。しかしそのおかげで、連中はなにかを発見したり、だれも思いつかないようなことをなしとげたりする。つまり、そのくらいのちょっとした意識の集中は、人類の歴史にむかしからあるものなんだな。おれたちエマージェントはたんにそういった犠牲を制度化し、地域社会全体がその濃縮された利益を整然と享受《きょうじゅ》できるようにしただけなんだ」
トルードは両側の壁に手を出し、軽く減速していった。ファムがおなじように減速をはじめるまで、しばらくうしろになった。
「アン・レナルトとの面会時間までどれくらいあるんだ?」トルードは訊いた。
「一キロ秒とすこしだ」
「じゃあ、次は手短《てみじか》にすませよう。ご主人さまを待たせるわけにはいかねえからな」そういって笑った。
トルードはアン・レナルトに敬意のかけらももっていないらしい。本当にあの女が無能なら、ファムはとても助かるのだが……。
二人は耐圧ドアを通り抜け、かつては病室区画だったらしいところへはいった。冷凍睡眠|棺《ひつぎ》がいくつかならんでいるが、これは医療用に一時使用するためのものらしい。そのむこうにはべつのドアがあり、領督専用という表示がされている。トルードは心配そうな目つきで一度だけそちらを見たが、あとはふりかえらなかった。
「さて、ここがすべてのはじまりの場所だ、ファム。集中化の奥義《おうぎ》を見せてやる」
トルードはそのなかば隠れたドアとは反対方向へ、ファムを引っぱっていった。一人の技術者が、ぐったりとして動かない愚人のわきで作業をしている。部屋の大部分を占めるような大きなドーナツ形の装置が何台もあり、そのひとつに、この患者≠フ頭をいれようとしていた。
ドーナツ形の装置は画像診断をおこなうものらしいが、エマージェント製のハードウェアのなかでもとりわけ不恰好で大きい。
「基本的な理屈はわかってるな、ファム?」
「ああ」ジミー・ディエムの虐殺《ぎゃくさつ》事件のあと、最初の当直シフトで詳しく説明されたのだ。
「おまえらは精神腐敗病という特殊なウイルスをもっていて、それをおれたち全員に感染させたんだったな」
「そうだ。しかしあれは軍事作戦としてだった。精神腐敗病ウイルスは、ふつうは血液脳関門を突破できない。しかしそれに成功すると……。神経|膠《こう》細胞というのは知ってるか? 脳のなかには、じつはニューロンよりもこの膠細胞のほうがたくさん詰まってるんだ。とにかく、腐敗病ウイルスはこの膠細胞を培地がわりにして、そのすべてに感染する。そして四日もたつと――」
「――愚人ができるわけか?」
「いや、愚人の素材だけだ。あんたらチェンホーのほとんどはこの状態でとどまった。集中化はされず、健康で、しかし恒久的に感染している。その場合、脳のすべてのニューロンは感染した細胞に接しているわけだ。感染した細胞はさまざまな神経刺激物質を分泌できる。そこでこいつを――」昏睡状態の愚人のわきで作業している技術者のほうをむいた。「ビル、こいつはなんで運ばれてきたんだ?」
ビル・フオンは肩をすくめた。「喧嘩してたんだ。アルが気絶させて運んできたよ。精神腐敗病が暴走したわけじゃないけど、レナルトがこいつの基底第五の再訓練を――」
二人は専門用語をやりとりしはじめた。ファムは興味のないふりをしながら、ちらちらと愚人を観察した。エギル・マンリだ。船団出航前のエギルは駄洒落《だじゃれ》の好きな戦闘員だったが、いまは……おそらく生まれ変わったように優秀なシステム分析者になっているだろう。
トルードはフオンにむかってうなずいた。「そうか。基底《きてい》第五なんかこだわっても無意味だと思うが、まあ、上官のいうことは聞かないとな」にやりとした。「ちょっとこいつをいじらせてくれないか。ファムに見せてやりたいんだ」
「じゃあ、サインしといてくれよ」
フオンはすこしうんざりした顔で席を立った。トルードは、灰色に塗装されたドーナツ部分のわきにすべりこんだ。ファムは、太さ一センチもある電源ケーブルが何本も平行して装置につながっているのに気づいた。
「画像診断装置の一種なんだろう、トルード? 大むかしのがらくたじゃないか」
「ふん、そう思うか? ちょっとこいつの頭を受け台に乗せるのを手伝ってくれ。まわりにさわらないように……」
警報が鳴った。
「おい、ファム、そりゃだめだ。指輪をはずしてビルに預けてきな。立ってる位置によっては、こいつの磁力であんたの指はちぎれちまうぜ」
微小重力環境とはいえ、昏睡状態のエギル・マンリの身体を正確に動かすのはむずかしかった。挿入する空間が狭いうえ、岩石群の弱い重力でもエギルの頭はさがって、穴の下側にふれてしまうのだ。
トルードはようやく作業を終え、席にもどって笑みを浮かべた。「準備よしと。これからこいつの正体を見せてやるからな、ファム」
トルードが口頭でいくつか命令すると、医学的な映像がファムとのあいだに浮かんだ。どうやらエギルの頭のなからしい。ファムにも肉眼解剖学的な特徴はわかったが、これまでに学んだようなものとはずいぶんちがっていた。
「たしかに画像診断もできるんだよ、ファム。こいつはむかしながらの核磁気共鳴映像装置《MRI》だ。しかし非常に優秀だ。見ろ、基底第五ハーモニーが発生してる」
ポインターで脳の表面近くの複雑な曲線をしめした。
「さて、ここからが、精神腐敗病がただの奇妙な神経障害ではない、おもしろいところだ」
小さな光の点が空中の三次元映像のなかにたくさんあらわれた。色はさまざまだが、ほとんどはピンク色だ。小さな点は群れをなしたり連なったりしていて、多くは隣といっしょに明滅している。
「こいつは感染した神経膠細胞で、そのなかでも関連のあるグループだ」トルードはいった。
「色は?」
「現在分泌している脳内物質の種類をしめしている……。さてと、ここでやりたいのは……」
さらに命令をいうと、トルードは初めてこのドーナツ形装置のユーザーマニュアルを見た。
「……この経路ぞいの分泌物と発火頻度の変更だ」小さな矢印が光の線にそって動いた。トルードはにやりとした。「これからがただの画像診断とちがうところだ。精神腐敗病ウイルスはある種の定磁性|蛋白質《たんぱくしつ》と反磁性蛋白質をつくりだす。その二つが磁場にさまざまに反応して、特定の神経刺激物質の産生を促進ずるんだ。つまり、チェンホーやほかの人類がMRIをたんなる観察するための道具として使っているのに対して、おれたちエマージェントは能動的に変化をうながすために使ってるのさ」
トルードがキーボードを叩くと、超伝導ケーブルがたがいに反発して離れようとするきしみが聞こえた。エギルが何度かぴくりと動き、トルードは手をのばして押さえようとした。
「ちくしょう。ばたばたされると、ミリ単位の解像度が得られないんだよ」
「脳のマップにはなにも変化がないぞ」ファムはいった。
「能動モードを切ってからだよ。画像取得と操作を同時にはできないからな」トルードは黙って、マニュアルを順番に眺めていった。「だいたいできたかな……。よし! じゃあ、どう変わるか見てみよう」
映像が更新された。今度は光の線がほとんど青ばかりになり、はげしく明滅している。
「落ち着くまで何秒かかかるはずだ」三次元モデルを見ながら話しつづけた。「どうだ、ファム。おれにはこういうことができるんだ。あんたらの文化圏ではどんな職業にあたるんだろうな。プログラマーにも似てるが、コードを書くわけじゃない。神経学者にも似てるが、こっちは対象に働きかけるんだ。むしろハードウェア技術者かな。お偉方の指示にしたがって設備を運用するわけだ」
トルードは眉をひそめた。
「……ん? ちくしょう」部屋のむこう側で作業しているもう一人のエマージェントのほうを見た。「おい、ビル。こいつのレプチンドーパミンの比率は低いままだぞ」
「磁場は切ったのか?」
「もちろんだ。基底第五はもう再訓練されたはずだけどな」
ビルは近づいてはこなかったが、自分の席で患者の脳内モデルを見ているようだ。青い光の線はまだばらばらに変化している。
トルードはつづけた。「このへんはまだ片づいてないからだが、なんでこうなるのかなあ。おい、あとはまかせるぜ」
ファムのほうを親指でしめして、ほかにだいじな用事があることをしめした。
ビルは心|許《もと》ない顔で答えた。「サインはしたんだろうな」
「ああ、したとも。あとはよろしく頼むぜ」
「ああ、わかったよ」
「じゃあな」トルードはMRIから離れるようにファムに合図した。脳の映像は消えた。「レナルトめ。彼女の仕事はひねくった内容が多くて、教科書どおりにいかない。まともにやろうとしても問題の山にぶつかるだけなんだ」
ファムはそのうしろについて部屋の外に出て、第一ダイヤモンド塊の内部をえぐった横むきのトンネルにはいっていった。壁はモザイク模様が彫りこまれている。ずっとむかしの歓迎晩餐会≠ナファムが目を奪われた、正確きわまりない絵画《かいが》とおなじ手法だ。
愚人はハイテク技術者ばかりではないのだ。トンネルのまわりには、針のような道具を手に拡大鏡の上にかがみこんでいる奴隷の彫刻家が何人もいた。ファムは何度かまえの当直シフトのときにもここを通ったことがあったが、当時の帯状装飾はまだおおまかな輪郭線しかできていなかった。山の風景のなかを、なにか曖昧模糊《あいまいもこ》とした目的地へむかって軍勢が移動しているところらしかったが、それもフレンク星の凶獣|征伐《せいばつ》≠ニいうタイトルからの推測だった。いまは人の姿もほぼ完成している。虹色に輝く屈強な英雄的戦士たちがむかう先は、なにかの怪物らしかった。それほど目新しい姿の怪物ではない。よくいる海からあがった大型獣で、長い鉤爪《かぎづめ》で人間を引き裂き、食べている。エマージェントはこのフレンク星征服をずいぶん誇らしく思っているようだが、ファムには、彼らの戦った凶獣もそれほどすごい敵だとは思えなかった。
ファムの移動速度が鈍《にぶ》ったのを、トルードは感心して見とれていると思ったようだった。
「彫刻家たちの作業は一メガ秒に五十センチずつしか進まないんだ。でもこういう壁画は、遠い時代の熱情を思い起こさせてくれるからな」
〈〈熱情だって?〉〉
「レナルトはやっぱり美しく飾るのが好きなのか?」なにげなく訊いた。
「まさか。レナルトはなにも気にしねえよ。ブルーゲル副領督が命じたんだ。おれの提案にしたがってな」
「しかし、領督は自分の支配領域に主権をもってるんじゃなかったのか?」このまえの当直シフトではあまりレナルトを見かけなかったが、ナウもいた会議では、彼女はリッツァー・ブルーゲルをあからさまに虚仮《こけ》にしていた。
トルードは黙って、そのまま数メートル先へ進んだ。顔は、ベニーの酒場で雑談しているときによく浮かべるばかにした笑みでゆがんでいる。しかし今回はその笑みがはじけて笑い声になった。
「領督だって? アン・レナルトが? おい、ファム、あんたのばかさ加減にあきれてこうして一日つぶしてるのに、いまだにとんでもないばかだな」笑い声を洩らしながらしばらく漂っていたが、ファム・トリンリのむっとした顔にようやく気づいた。「いや、悪かったよ、ファム。あんたら行商人は頭のいいところもあるが、文化の基本的なところでは子どもみたいに無知だからな……。集中化クリニックを見せる許可をもらったんだから、ほかのこともいっしょに説明してかまわないだろう。アン・レナルトは領督じゃないんだ。かつてはおそらく、かなりの権勢をふるった領督だっただろうけどね。じつはレナルトも愚人なんだよ」
ファムのむっとした顔が、ぽかんとした驚きの表情に変わった――それは本心からだ。「しかし……それにしてはずいぶん高い地位じゃないか。おまえの上司だろう」
トルードは肩をすくめ、笑顔から苦虫《にがむし》を噛みつぶしたような顔になった。「ああ、おれの上司だ。あまり前例のないことだが、ありえなくはないんだ。おれとしてはブルーゲル領督やカル・オモの部下であるほうがいいくらいだが、やつらはちょっと……荒っぽいからな」おびえたように声が小さくなった。
ファムは顔をあげた。「なるほど、わかったよ」と嘘をついた。「専門家が集中化されるとその専門分野にとりつかれるわけだ。だから芸術家はこんなふうにモザイク模様を彫りはじめ、物理学者はフンタ・ウェンのようになる。管理主任は……なんていうか、地獄の管理主任になるんだな」
トルードは首をふった。「そうじゃないんだ。たしかに技術的な専門家は集中化がうまく働く。チェンホーの場合でも七十パーセントの割合で成功した。しかし対人関係における伎倆《ぎりょう》――たとえばカウンセリングや、政治や、人事管理といった能力は、集中化処理をおこなうと、ふつうはまったく残らない。愚人がどんな連中かはずいぶん見ただろう。彼らに共通しているのは感情の欠落だ。正常な人間がなにを考えているかを想像するような能力は、これっぽっちも残っていないんだ。今回、優秀な翻訳者をこれだけたくさん仕立てられたのは幸運だったよ。こんな規模で試みられたことはないんだ。じつは、アン・レナルトはとても特殊な例なんだよ。噂では、彼女はゼバル党の高位領督だったらしい。ゼバル党の連中はほとんどみんな殺されたか精神洗浄されたかしたんだが、レナルトはノーリー党を本気で怒らせたので、笑いものにするために集中化されたらしいんだ。たぶん、おもちゃとして身体をもてあそぶつもりだったんだろう。しかしそうはならなかった。おれの推測だが、レナルトはもともと偏執狂的なところがあったんじゃないかな。万に一つもありえないことが起きて、レナルトの人事管理能力は生き残った――対人関係の能力さえ一部は残ったんだ」
ファムの目には前方にトンネルの終わりが見えてきていた。装飾のないハッチに照明があたっている。トルードはそこで止まり、ファムのほうをむいた。
「レナルトはいかれた女だ。しかしナウ領督にとってはもっとも価値ある所有物だ。だいじな右腕なんだ……」トルードはしかめ面《づら》をした。「とはいえ彼女から命令されて、あまりいい気はしないぜ。個人的には、領督はあの女を過大評価してると思うな。奇跡的ないかれ方をしてるのはたしかだが、だからどうだってんだ? 犬が詩を書いてるようなものさ――だれもそうとは気づかないだけで」
「そういう本心を、べつに気づかれてもかまわないようすだな」
またトルードはにやにやしはじめた。「もちろんかまわないさ。そこはいいところだな。仕事のことでごまかすのはほとんど不可能だが、仕事以外では、レナルトもほかの愚人と変わらない。ときどきけっこうきたないジョークを――」いいかけて、やめた。「まあいい。あんたはナウ領督からいわれたとおりのことを彼女に話せば、それですむよ」
トルードはウインクしてレナルトの執務室のドアから離れ、通路をもどっていった。
「よく観察してみるんだな。おれのいったことがわかるから」
アン・レナルトについてこの事実をもっと早くから知っていたら、ローカライザーがらみのペテン行為は延期していたかもしれない。しかし彼女の執務室で椅子に腰をおろしたいまとなっては、もうどうしようもなかった。とはいえ、即興的にしゃべってしまったのは、ある意味で気分がよかった。ジミーの死からあと、ファムは熟慮をかさねて、慎重すぎるほど慎重な行動しかとってこなかったからだ。
はじめ、レナルトはファムのほうに顔をあげもしなかった。ファムはなにもいわれないまま机のむかいにある椅子に腰かけ、部屋のなかを眺めた。ナウの執務室とはずいぶんちがう。壁は粗《あら》く削ったむきだしのダイヤモンドで、なにも飾られていない。エマージェントで芸術としてとおっている醜悪《しゅうあく》な絵画もなかった。レナルトの机には空箱《あきばこ》とネットワーク関連の装置がごちゃごちゃと積み重ねられていた。
では、レナルト本人はどうか? ファムはこの機会に相手の顔をじっくりと観察した。レナルトとおなじ部屋にいたのはこれまで合計で二十キロ秒ほどだろう。それも会議の席で、彼女はたいていテーブルの反対側にいた。服装はいつも地味で、ブラウスの下にかけた銀のネックレスだけがきらりと光っている。赤毛や青白い肌など、リッツァー・ブルーゲルの姉か妹でもおかしくないように思えた。身体つきは人類宇宙のこのあたりではめずらしいタイプで、おそらく突然変異によって生まれた特徴だろう。年の頃は三十歳か――良質の医療支援を受けた二百歳か。異様で不気味でありながら、レナルトは美人だった。見かけは美人だ。
〈〈なるほど、かつては領督だったのか〉〉
レナルトの視線がさっとあがり、槍《やリ》のようにファムをつらぬいた。「ああ、ローカライザーの詳細を説明にきたのね」
ファムはうなずいた。奇妙だ。ちらりと見ただけで、その視線はファムの目から離れた。ファムの唇や喉を見ているばかりで、目にはろくに視線をやらない。そこには共感がなく、コミユニケーションもない。しかしファムは寒けとともに、仮面をすべて見|透《みす》かされているように感じた。
「では、その標準搭載のセンサー類について話して」
ファムは口ごもりながら、詳しいことは知らないのだと主張した。
レナルトは、怒ったようなようすは見せなかった。その質問はどれも冷静で、かすかに軽蔑的な口調だった。そしてこういった。
「それでは情報がたりない。使用マニュアルがいるわ」
「もちろんだ。そのために来たんだ。完全なマニュアルはローカライザーのチップ上に載っていて、暗号化されているが、ふつうの技術者ならだれでも見られる」
またしばらく視線があちこちを探る。「探したわ。しかしみつからなかった」
ここがいちばんあやういところだ。うまくいけば、ナウとブルーゲルはファム・トリンリの道化《どうけ》の仮面にごまかされるだろう。しかし悪くすると……。ファムの話していることが、最上級の戦闘員でも知らないような秘密だと気づかれてしまう。そうしたら一大事だ。
ファムはレナルトの机におかれたヘッドアップディスプレーを指さした。「それをちょっと……」
レナルトは無礼ないい方も意に介さず、ヘッドアップディスプレーを装着して同感性映像を受けいれた。
ファムはつづけた。「パスコードは憶えてるんだが、なにしろ長いんでね」
じつはファムの身体がパスコードになっているのだが、そんなことはいわなかった。何度か不正確なコードを入力して、それがはねつけられると、いらいらしてあせるふりをした。ふつうの人間なら、たとえナウでも、いらいらしてなにかいうだろう――あるいは笑いだすか。
しかしレナルトはなにもいわず、じっとすわっているだけだった。そしてふいにいった。
「時間の無駄よ。無能なふりをしないで」
〈〈こいつ、わかってやがる〉〉
トライランド星を出発してからいままで、ファムの仮面をここまで鋭く見抜いた者はいなかった。時間がほしい。エマージェントがローカライザーを使いはじめたら、こちらはまた新しい仮面を仕立てられるのだ。くそ。
ふと、トルードがいっていたことを思い出した。レナルトはなにがしか気づいているのだ。おそらくファムのことを、たんに消極的な情報提供者と思っているだけなのだろう。
「失礼」ファムはつぶやいて、正しいコードを打ちこんだ。
チップ上の文書サブセクションから、船団ライブラリの短い承認の返事がかえってきて、二人のあいだの空中に銀色の文字が流れ出した。秘密の目録データや部品の仕様書だ。
「よろしい」
レナルトはいって、手もとでなにか操作した。すると執務室の眺めが消え、二人は目録データのなかを漂いはじめた。そしてローカライザーの仕様書のなかにたどり着いた。
「たしかにそうね。温度、音響、光度……多スペクトル。会議であなたが話したよりも精巧なようだわ」
「優秀な装置だといったろう。使わないようなこまかい機能がいろいろあるんだ」
レナルトは各機能を次々と参照しながら小声でつぶやいていた。昂奮した口調といっていい。エマージェント製の同様の装置にくらべてはるかに奥が深いのだ。
「裸のローカライザーは、優秀なセンサー類と独立機能をもっているのね」
しかしレナルトが見ているのは、じつはファムが見せたいと思っているところだけだった。
「電源はマイクロ波のパルスを送ってやらなくちゃいけないがな」ファムはいった。
「それはかまわないわ。この内容を完全に理解するまではそうやって使い方を制限できる」
レナルトは手をふって映像を消し、荒削りのダイヤモンドの壁がきらめく執務室にもどった。
ファムは自分が汗びっしょりになっているのに気づいた。
レナルトはすでに彼のほうを見てもいなかった。「目録データによると、このほかに数百万個のローカライザーが船団のハードウェアに埋めこまれているそうだけど」
「そうだが、機能は停止されている。すべて集めても、容量は数リットル程度だ」
レナルトは穏やかに感想を述べた。「あなたたちがこれをセキュリティ管理のために使わない理由がわからないわ」
ファムはじろりと相手を見た。「そういうふうに使えることは、われわれ戦闘員は知ってる。軍事的な場面では――」
しかしその問題は、アン・レナルトの集中化された意識の範囲外であり、彼女は手をふってファムを黙らせた。「こちらの目的にはそれで充分よ」
暴君の美しい手先は、ファムの顔を見た。つかのま、その視線がファムの目を刺しつらぬいた。
「あなたのおかげで制御の新時代がひらかれたわ、戦闘員」
ファムはその澄んだ青い目を見てうなずきながら、その制御≠ニいう言葉の真に意味するところを、レナルト自身が理解しないでくれればと思った。同時にファムは、自分の計画にレナルトが中心的な役割をはたしうることに気づいた。アン・レナルトはほとんどすべての愚人を管理している。そしてトマス・ナウのさまざまな作戦を代行指揮している。革命を成功させるためにエマージェントについて知るべきことをすべて知っている。さらにアン・レナルトは愚人だ。
彼女はいつかファム・トリンリの意図を見破るかもしれない――あるいは、ナウとブルーゲルを倒すための重要な道具となるか。
仮設の居住棟は、あまり静かではない。チェンホーの仮設舎は直径わずか数百メートルで、人々がなかを飛びまわっていると、それによってかかる力を吸収しきれないのだ。温度変化によって大きくはじけるような音が響くこともある。それでもいまは、ほとんどの住人は就寝時間にはいっており、ファム・ヌウェンの小さな部屋はそれなりに静かだった。
ファムは眠っているふりをしながら、暗い部屋のなかを漂っていた。彼の裏の生活は、これからとても忙しくなるはずだ。エマージェントはまだ気づいていないが、彼らはチェンホーの船団長もほとんど知らないような深いところで、罠にはまったのだ。それはファム・ヌウェンが大むかしにしかけたいくつかの落とし穴のひとつだった。落とし穴の存在は、スラをふくめて数人が知っていたのだが、どういうわけかブリスゴー間隙《かんげき》以後の時代にも、その知識はチェンホーの全装備体系のなかに浸透していなかった。なぜなのかと、ファムはずっと不思議に思っていた。これもスラの巧妙なやり方か。
レナルトとブルーゲルは、どれくらいの時間でローカライザーを使えるように部下を再訓練できるのだろう。装置のほうは、L1点安定化業務を運営して、さらにすべての居住空間を監視するのに充分な数量がある。第三食事のときに、通信員が仮設舎の幹線ケーブルに流れてくる奇妙なスパイク波について話しているのがちらりと聞こえた。一秒間に十回、マイクロ波のパルスが仮設舎じゅうに広がっている――ローカライザーを稼働させるのに充分な無線送電だ。
就寝時間にはいる直前に、ファムは換気口から漂ってくる最初の微細な塵《ちり》≠ノ気づいた。
ブルーゲルとレナルトがシステムの試用と微調整をしているところなのだろう。ブルーゲルとナウは高品位の音と映像に驚嘆しているはずだ。うまくすれば、彼らが使っている鈍重《どんじゅう》な監視機器類は段階的に廃止されるだろう。それほどうまくいかなくても……まあ、数メガ秒以内にファムはそれらの機器が送り返す情報を操作できるようになっているはずだ。
塵よりすこし重い物体がひとつ、頬の上に舞い降りた。ファムは顔をこするふりをして、それを瞼《まぶた》のわきに移動させた。しばらくしてもう一個を右耳の外耳道《がいじどう》にもぐりこませた。エマージェントが信頼できないインターフェース装置を使用停止させるのにやっきになっていたことを考えると、なんとも皮肉に思えた。
ローカライザーは、ファムがトマス・ナウに話した機能をすべてもっている。人類史上に登場したこの種のさまざまな装置とおなじように、これも幾何空間に点々とちらばる――飛行時間計算とおなじくらいに単純なやり方だ。チェンホー版の装置で異なるのは、かなり小型で、短距離からの無線送電で働き、基本的なセンサー類をそなえていることだ。ナウ領督が求めているとおりの、理想的な監視装置になる。
ローカライザーは本質的に一種のコンピュータネットワークであり、もっとはっきりいえば、一種の分散型プロセッサだ。埃《ほこり》のようなこの小さな粒は、ちょっとした演算能力をもち、おたがいに通信しあう。チェンホーの仮設舎じゅうに撒《ま》かれた数十万個があわされば、ナウとブルーゲルがもちこんだ機器を上まわる演算能力をもつのだ。もちろん、ローカライザーと呼ばれる装置はすべて――エマージェントの鈍重な代物《しろもの》でも――演算能力をもっている。チェンホー版がすぐれているのは、そこにインターフェース機器を追加しなくても入出力が可能なことだ。やり方さえ知っていれば、ローカライザーにじかにアクセスできる――身体の位置を感知させ、適切なコードを解釈させ、内蔵されたエフェクターによって答えを返させるという芸当ができるのだ。エマージェントによって仮設舎じゅうのインターフェース機器がとりはずされていても、もはや関係ない。やり方を知っている者にとっては、チェンホー用のインターフェースがそこらじゅうにあるのとおなじなのだ。
アクセスするには特別の知識と、ある程度の集中力がいる。たまたま成功したり、強制されてアクセスできるようなものではないのだ。ファムはハンモックのなかでリラックスし、眠りに落ちたふりをしながら、これからの作業にむけて気分を高めていった。必要なのは特定の心拍パターンと、特定の呼吸リズムだ。
〈〈ずいぶんむかしのことだが、まだ憶えているだろうか〉〉
ふいにファムは不安にかられた。この塵のひとつが目のわきに、もうひとつが耳のなかにはいっていれば、部屋のなかを漂っているはずであるほかのローカライザーと充分に接続できる。
そのはずだった。
しかし必要な気分にはなかなかはいれなかった。
頭にくりかえし浮かぶのは、アン・レナルトと、トルードに見せられた光景のことだ。集中化人材たちはファムの計略を見抜くだろう。時間の問題にすぎない。集中化技術は奇跡だ。もしかつての自分が集中化という道具をもっていたら――たとえスラの裏切りがあっても――チェンホーを真の帝国にできただろう。たしかに代償は大きい。ハマーフェスト棟の屋根裏部屋にいた気味の悪い連中のことを思いだした。システムを穏やかなものにする方法はいくらでもあるが、しかし集中化技術を道具として使うかぎり、結局のところ、ある程度の犠牲は避けられないのだ。
最終目標である真のチェンホー帝国は、その犠牲にかなうものだろうか。その代償を払えるのか。
〈〈払えるとも。払ってみせる!〉〉
こんな調子ではいつまでたってもアクセス状態にははいれない。ファムは頭を落ち着かせ、またリラックス状態をめざした。想像力が記憶のなかへすべりこんでいった。
はじまりはどんなふうだったか。スラ・ヴィンは、リプリーズ号とまだ単純素朴なファム・ヌウェンを、ナムケム星系で最大規模の大都市のある月に連れていったのだ……。
ファムはナムケム星系に十五年間とどまった。ファム・ヌウェンの人生のなかでいちばん楽しい十五年だった。
スラのいとこたちも星系内にいて、スラとその若い野蛮人が提案する構想に魅了された。星間規模で情報を同期させる方法。商売に影響しない範囲で技術情報をやりとりすること。一貫性のある星間交易文化という見通し……(その先の目標については、ファムはいわないほうがいいと学んでいた)。スラのいとこたちは大きな利潤をもたらした遠征を経験していたが、いきあたりばったりの交易に限界があることもわかっていた。大儲けすることも、損得差し引きゼロのこともあるが……いつかは星間空間に広がる暗い時間と距離のなかですべてを失うのだ。だから彼らは、ファムの目標の多くに、直観的に賛同した。
スラとナムケム星系ですごした時間は、ある意味で、リプリーズ号での最初の数日によく似ていた。しかし今度はそれがいつまでもつづいた。たくさんのことを想像し、たくさんの人々と出会った。そして、壮大な構想でいっぱいになったファムの頭では思いつきもしなかった驚きにも出くわした――子どもだ。子どもたちの存在によって家族がこれほど変わるものだと思わなかった。ラトコ、ブトラ、コウは最初の子どもたちだ。ファムは彼らとともに暮らし、教え、鬼ごっこや点滅信号遊びをし、ナムケム世界園の七不思議を見せてまわった。子どもたちのことを自分よりも愛し、スラとおなじくらいに愛した。子どもたちと離れがたくて、大構想さえ放棄しかけた。しかし子どもたちとはまたの機会があるだろうし、スラも許してくれた。
三十年後にファムが帰ってきたとき、スラは待っていて、大構想のほかの部分は順調に進んでいると報告してくれた。しかし最初の三人の子どもたちはすでにそれぞれの旅に出て、新しいチェンホーを築くための役割をはたしはじめていた。
ファムは三隻の星間船からなる船団をもった。挫折も大失敗もあった。裏切りにもあった。
ザムレ・エングによってキーレ星系の彗星雲に置き去りにされ、もうすこしで死ぬところだった。船団を失ったままキーレ星系で二十年すごし、そこから脱出するためだけに、裸一貫から巨万の富を築いた。
最初の何度かの遠征にはスラもついてきて、二人はいくつかの世界で新しい家族を築いた。一世紀がすぎ、いつのまにか三世紀がすぎた。かつてリプリーズ号でさだめた遠征規約はうまく機能し、長い年月をへたのちにも子や孫たちとの再会をはたせた。なかにはラトコやブトラやコウよりも強い絆《きずな》をもちえた子や孫もいた。しかし最初の子どもたちほどには愛せなかった。ファムには新しいしくみができあがりつつあるのがわかった。家族の絆というよりも、ただの交易関係に変おっていった。この傾向はさらに強まるはずだ。
いちばんつらいのは、すくなくとも最初の何世紀かは中央にだれかが残らなくてはならないとわかってきたことだった。スラは留守を預かり、ファムとほかの遠征隊との調整役をやることがしだいに多くなった。
にもかかわらず、子どもは生まれつづけた。ファムと何光年も離れているあいだにも、スラは次々に息子や娘をもうけていた。ファムはこの奇跡について冗談をいいながらも、本心ではスラが愛人たちをかこっているのかと思って傷ついた。しかしスラはやさしく微笑んで、首をふった。
「いいえ、ファム。わたしにとってのわが子は、みんなあなたの子でもあるわ」いたずらっぽい笑みになった。「長年のあいだにわたしのお腹《なか》はあなたの子種《こだね》でいっぱいになったわ。その贈り物をいっぺんにぜんぶかたちにはできないけど、気がむいたときに使ってるのよ」
「クローンはやめろよ」ファムの声は、意図したよりもきつくなった。
「まさか、ちがうわ」スラは顔をそむけた。「だって……あなたみたいな頑固者は一人で充分でしょう」彼女もファムとおなじくらいに迷信深いのかどうか。「あなたのは自然な配偶子として使っているだけよ。もう片方の提供者《ドナー》はかならずしもわたしだけではなく、複数いるわ。ナムケム星系の医者はこういうことがとてもうまいのよ」ふりかえって、ファムの顔に浮かんだ表情を見た。「ファム、あなたの子どもたちはみんな家族のなかで育てられているし、一人残らず愛情をそそがれているわ……。わたしたちには彼らが必要なのよ。大きな家族がいるの。とてつもない大家族が。大構想がそれを必要としているのよ」それでも不満げなファムを軽くつつき、からかった。「あら、ファム、征服に命を燃やす野蛮人の王さまにとって、これはなまめかしい夢の実現じゃないの? あなたはどんな征服王より多くの子をもうけたのよ」
たしかにそうだ。何十人ものパートナーとのあいだに、何千人もの子どもをもうけ、父親としての負担はいっさいなしで育てさせる。ファムの父親も北海岸諸国で戦いをくりひろげ、王を殺して妾《めかけ》をかこった。はるかに小規模なかたちでおなじことを試みたのだが、それほどうまくはいかなかった。ファムはだれも殺さず、暴力をふるうことなくそれをやりとげたのだ。とはいえ……。
スラはいったいいつからその計画を実行しているのだろう。提供者《ドナー》は何人いて、子どもは何人いるのか。スラのやろうとしていることはわかった。血統の管理だ。適切な才能の持ち主を割りあてた新しい分家をつくり、新生チェンホーの各方面に配置しているのだ。その情況を頭のなかでさまざまな角度から検討しながら、ファムは二重写しの映像を見ているような奇妙な思いにとらわれた。スラがいうように、これは野蛮人のなまめかしい夢かもしれないが……なぜだか、自分がレイプされているような気もした。
「はじめるまえに話しておくべきだったかもしれないわ、ファム。でも反対されるのではないかと心配だったのよ。これは計画のなかでとても重要な部分だから」
結局、ファムは反対しなかった。たしかに二人の大構想を押し進める上で必要なことだからだ。しかし、自分の子どもの多くを顔さえ見ることができないのだと考えると、すこしばかり胸が痛んだ。
光速度の三十パーセントで、ファム・ヌウェンは遠くまで旅した。商人はどこにでもいたが、三十光年を超えるとチェンホー≠ニ名のる者はめったにいなくなった。しかしそれはそれでもかまわない。彼らは大構想を理解したし、ファムが出会った連中はその思想をさらに遠くまで伝えた。彼らが行けば行くほど――いや、ファムが宇宙空間に飛ばした無線メッセージだけでその思想に感化された者も多いので、さらに遠くまで――チェンホーの精神は広がっていった。
しかしファムは、大構想を分解寸前まで押し曲げてでも、ナムケム星系に何度も何度も帰ってきた。スラは老いつつあった。すでに数世紀にわたって生きているのだ。その身体は医学が若さとしなやかさをたもてる限界に達していた。二人の子どもたちのうち何人かさえも、陸《おか》にあがってすごす期間が長すぎたために年老いていた。ファムはスラの目を見て、自分には理解できない経験の光をかすかに感じるときがあった。
ナムケム星系に帰ってくるたびに、ファムはスラに質問を投げかけた。そして、これまでにない最高の愛をかわしたある夜、とうとうファムは声を荒らげた。
「これでいいわけはないじゃないか、スラ! 大構想はおれたち二人のためにあるんだ。いっしょに来てくれ。すくなくとも旅に出てくれ」
〈〈そうすれば、おたがいが生きているかぎり何度でも再会できるんだ〉〉
スラは身体を離し、ファムの首に手をまわして、奇妙にゆがんだ悲しげな笑みを浮かべた。
「わかってるわ。でもおたがいがすれちがいになることは、はじめからわかっていたことよ。もともとの構想のなかでそれが最大のまちがいだったなんて、おかしいわね。でも、正直に考えてみて。どちらか一方が中央となりうる場所に残って、ある意味で長い連続当直をしながら、大構想にかかわるものごとを処理していかなくてはならないことは、あなたもわかっているはずよ」
宇宙を征服していくには無数の雑事がともなう。冷凍睡眠にはいっていては、それらをこなせないのだ。
「たしかに最初の何世紀かはそうだ。しかし……しかし一生だなんて!」
スラは首をふって、ファムの首をやさしくなでた。
「わたしたちはまちがっていたのかもしれないわね」ファムの顔にあらわれた苦悩の表情を見て、スラは相手を引きよせた。「わたしのかわいそうな野蛮人の王子さま」愛情をこめてからかう響きだった。「あなたはほかに代えがたいわたしの宝物よ。なぜだかわかる? あなたはとてつもない天才だから。とりつかれているから。でもわたしがずっとあなたを愛している理由は、ほかにあるわ。あなたは頭のなかにとても大きな矛盾《むじゅん》をかかえこんでいるのよ。幼いファム少年は荒れはてた地獄の星で成長した。裏切りを目撃し、自分も裏切られた。残酷な悪行も知っているし、血なまぐさい悪党も知っている。にもかかわらず、ファム少年は騎士道精神や名誉や探求の旅といった神話も信じている。あなたの頭のなかにはどういうわけかそれらが同居しているのよ。そして残りの人生をかけて、宇宙をそれらの矛盾に合致するものにつくり変えようとしている。その目標にとても近づいているわ。わたしや理性的な判断のできる人間には、近づいていると思える。でも、あなた自身はまだ満足していないようね。だからよ。だからわたしは後方に居残って、この大構想を成功へ導く役目をしなくてはならない。そしておなじ理由で、あなたは外へ出ていかなくてはならないの。残念だけど、あなただってわかってるでしょう、ファム?」
ファムは黙って、スラの部屋をぐるりととりまく実景窓から外を眺めた。ここはナムケム星で最大の都市衛星にそびえ立つオフィスビルの最上階だ。タレルスク月のオフィス用不動産価格はとてつもなく高い。ネットワーク通信の威力を考えればばかばかしいほどだ。このビルがこのまえ市場に出たとき、最上階の年間の賃料で星間船を一隻買えるくらいだったのだ。過去七十年間はチェンホーの家族ほとんどはファムとスラの子孫たちが、このビルと周辺オフィス街の大部分を所有していた。しかしそれは家族の所有物のなかのごく一部であり、ちよっとした見栄《みえ》のための買い物でしかなかった。
ちょうどいまは夕刻で、三日月形のナムケム星が空に低くかかっていた。タレルスク月のビジネス街の光は、母世界の輝きにも負けないくらいだ。あと何キロ秒かしたら、ヴィン・アンド・マンソー社の造船所が空に昇ってくるはずだ。ヴィン・アンド・マンソー社はおそらく人類宇宙で最大の造船所だろう。それでも彼らの家系がもつ富のなかではごく一部にすぎない。それよりもっと大きな富が、人類宇宙の果てをめざして、しだいに薄くなりながら拡大をつづけている。それがチェンホーの共有財産だ。ファムとスラは史上最大の交易文化をつくりあげたのだ。それがスラの考えだった。スラの視野にあるのはそれだけであり、スラが求めるものはそれだけだった。最終的な成功をみる時代まで自分が生きていなくてもよかった……なぜなら、そんな成功はありえないと思っていたからだ。
だからファムは、あふれそうになっていた涙をこらえ、そっとスラに腕をまわして首にキスした。
「ああ、わかってるよ」ようやくそう答えた。
ファムはナムケム星からの出発を二年延期した。それはさらに五年に延びた。ファムがじっとしているために大構想そのものが支障をきたしはじめた。さまざまな予定がすっぽかされた。
これ以上の遅れが出たら大構想は崩壊してしまう。
そこでついにファムはスラのもとから旅立った。しかしそのとき、彼のなかでなにかが死んだ。パートナーとしての二人の協力関係は残ったし、愛さえも、抽象的なかたちでは残った。しかし二人のあいだには時間の深い溝がぱっくりと口をあけていて、そこに橋をかけることはけしてできないのだと、ファムにはわかったのだ。
百年生きるあいだに、ファム・ヌウェンは三十以上の太陽系をまわり、百もの文化を見た。もっと多くを見た商人もいることはいるが、多くはない。ナムケム星系で運営体制を守りつづけるスラは、当然ながらファムが見たものを見ていなかった。スラが目にするのは、遠くからとどけられる帳簿と歴史と報告書だけだった。
地上に固着した文明はもちろん、宇宙へ出ていった文明でも、永続するものはない。人類が地球から脱出できるほど長く生き延びられたのは、奇跡に近いのだ。知的種族が絶滅するシナリオはいくらでもある。行き詰まり、逃亡、疫病、大気の大変化、小惑星の衝突――これらの危険は単純なほうだ。人類は長生きしたおかげで、それらの脅威のうちいくつかのしくみを解明できた。しかしどんなに注意しても、科学技術文明はかならず破壊の種を内に宿すものだ。遅かれ早かれ、文明はいつかかならず硬直化し、政治が原因で没落するのだ。
ファム・ヌウェンが生まれた頃のキャンベラ星は、ちょうど暗黒時代の底だった。しかしその悲劇は、宇宙的な基準では穏やかなほうだったのだと、いまにしてみればわかる。キャンベラ星では、科学技術は失ったものの、人類は生き延びたのだから。
ファムの最初の百年間には、何度も訪れた世界もあった。数世紀の時間差をおいて再訪したところもある。ニューマーズ星という名の理想郷だったところが、行ってみると、人口過剰の独裁政治体制になっていて、スラム街となった海上都市には何十億人もの人が住んでいた。七十年後に再訪したときには、人口は百万人に減り、小さな村がまばらにあるだけで、人々は顔に彩色して手斧《ておの》をふりまわす野蛮人になり、悲嘆の歌を伝統にしていた。ビルニオスの歌という収穫がなければ、その航海は破産の憂《う》きめを見ていただろう。
しかし死に絶えた世界にくらべれば、ニューマーズ星は運がよかったのだ。なにしろ原初地球は、人類離散がはじまった時代以来、ゼロからの植民を四回も経験しているのだから。
もっとましなやり方があるはずだ。新しい世界を見るごとに、ファムはそのましなやり方≠ノ確信を深めていった。
帝国だ。
太陽系まるごとの死滅でも、災害として処理できるくらいの大規模な政治体制だ。チェンホー交易文化はその出発点であり、いつかはチェンホー交易帝国になるだろう。そしていつかは、真の統治システムとしての帝国になるのだ。
それが可能なのは、チェンホーが特異な立場にあるからだ。顧客文明は、その頂点では驚くべき科学技術をもつ。そして、過去に存在した最高の技術にささやかな改良をくわえることができる。しかしほとんどの場合、文明が死ぬと同時にこれらの改良も死ぬのだ。しかしチェンホーは永遠につづいて、顧客文明の最高の発見を集めていくことができる。スラはこれを、チェンホーがもつ最大の交易上の武器とみなしていた。
しかしファム・ヌウェンにとっては、それはそれだけではなかった。
〈〈なぜおれたちは学んだものをすべてまた売らなくてはいけないのか? 部分的には正しいことだ。おもにそうやって生計を立てているんだから。しかし人類の進歩の輝かしい頂点だけはとっておいてもいいではないか。そしてそれをたくわえておくことが、全体の利益につながるんだ〉〉
チェンホー製<香[カライザーは、そうやって生まれた。
ファムはトリュグヴェ・イェトレ星を訪れていた。そこはナムケム星系からもっとも遠い場所のひとつで、住民も人類宇宙で一般的な人々とは異なる原形人種を祖先としていた。
トリュグヴェ星の太陽は、よくある小さく薄暗いM型星で、植民可能な星団ではかす[#「かす」に傍点]とみなされている種類だ。原初地球の太陽のような恒星が一個あるごとに、こういう恒星は何十個もある――そしてそのほとんどは惑星をもっていた。こういう場所に植民するのは危険だ。星系のなかで生物が存在しうる生命圏≠ヘ、ひどく幅が狭く、技術をもたない文明は生き延びられない。人類が宇宙の征服をはじめた最初の千年間には、そういったことは無視され、このような世界がいくつも植民された。楽観的なこれらの人々は、自分たちの科学技術が永遠に維持されると思っていたのだ。そして最初の衰退期がやってくると、人々は氷の世界に――惑星が星系生命圏の内側に近ければ、炎の世界に取り残された。
トリュグヴェ・イェトレ星は、そのなかでは比較的安全な位置にあったが、情況は共通していた。ここの恒星は巨大ガス惑星であるトリュグヴェ星をともなっており、これは主星の生命圏のわずかに外側をまわっていた。巨大ガス惑星がもっている月は二つだけで、その一方が地球サイズだった。ファムが訪れたときは両方の月に住人がいたが、環境がいいのはやはり大きいほうの月、イェトレだった。トリュグヴェ星の放射熱と潮汐《ちようせき》加熱が、弱々しい太陽のそれを補《おぎな》っており、イェトレ星には陸と空気と液体の海があった。ここの住人はすくなくとも一回は文明の衰退を経験していた。
当時の彼らは人類が獲得しえたなかでも最高の技術レベルに達していた。ファムの小船団は歓迎された。太陽から十億キロほど離れた小惑星帯に適当な錨地《びょうち》をみつけ、ファムは乗組員を船に残して、地元の交通機関を使って、系内のトリュグヴェ・イェトレ星にむかった。
ナムケム星系でもないのに、ここにはほかの商人がよく訪れているようだった。ファムのラムスクープ船を見ても、またその予備的な交易品リストを見ても、だれも驚かなかった。それどころかイェトレ星の驚異的な産品のまえでは、ファムのもちこんだ品物さえ色あせて見えたほどだ。
ファムはイェトレ星に、地元の基準で数週間滞在した。イェトレ星が巨大なトリュグヴェ星のまわりを一周するのに六百キロ秒かかり、それが一週間≠ニ呼ばれている。トリュグヴェ星のほうは太陽のまわりを六メガ秒とちょっとでまわるので、イェトレ人のカレンダーはちょうど十週間でできていた。
この世界は炎熱地獄と氷地獄のあいだを行ったり来たりしているが、多くの地域は居住可能だった。
「ここは原初地球よりも安定した気候の世界だからね」地元民は自慢した。「イェトレ星はトリュグヴェ星の重力井戸の深いところにあって、摂動《せつどう》を起こさせる大きな要因がない。潮汐加熱の影響はどの地質年代をとっても穏やかだ」
それでも、思わぬ危険はあるものだ。M3型の太陽は視角にして一度強の大きさにすぎない。愚か者がこの赤い円盤をじかに見れば、渦巻くガスや大きく暗い黒点が見えるだろう。しかし数秒間もそんなふうに太陽をじかに観察していると、重症の網膜火傷《やけど》を負う。なぜならこの恒星の放射は、可視光よりも近赤外線がはるかに多いのだ。推奨される保護眼鏡は、一見するとただの透明なプラスチックのようだが、ファムはかならず装着するようにした。
ファムの招待者は地元企業のグループで、彼の宿泊費用ももってくれた。ファムは昼間の時間も使って彼らの言語を学び、船団がもってきたもののなかに顧客が価値をみいだす品物がないか探した。顧客のほうもおなじ努力をしていた。まるで産業スパイの裏返しをやっているような案配だ。
この世界の電子機器は、ファムがこれまで見てきたものよりややすぐれていたが、そのプログラムの面ではチェンホーが改善を示唆《しさ》できるところがありそうだった。医療用自律機能系はかなり遅れていた。これは交渉のとっかかりとなり、また値切るためのカードにもなりそうだった。
ファムは部下たちとともに、この出会いからもち帰るべき品目を分野別にリストアップしていった。それらはおそらく航海の経費を返して余りあるだろう。しかしファムは、いくつかの噂をしいれていた。彼の招待者は多くの企業連合《カルテル》=\―うまい訳語がみあたらないが、仮にそう訳しておこう――を代表していた。カルテルはおたがいに情報を隠している。ファムが聞きこんだ噂というのは、新型のローカライザーについてだ。過去のどんな製品より小型で、内部に電源を必要としないという。ローカライザーの改良はつねに利益になる。なぜならこの装置は高い位置決定能力をもち、埋めこまれたシステムを強力なものにするからだ。そのうえこの超高性能<香[カライザーは、センサーやエフェクターを内蔵しているというのだ。もしこれがたんなる噂でなければ、イェトレ星において政治的、軍事的に重要な意味をもつだろうその安定性さえ揺るがしかねない重要さを。
ファム・ヌウェンは技術文明社会において、たとえそこの言語を流暢《りゅうちょう》にしゃべれなくても、それどころかたとえ監視されていても、情報を収集できる能力を身につけていた。存在するのかどうかも不明なその発明品を、もしもっているとしたらどのカルテルか、ファムは四週間でつきとめた。その経済界の大立て者の名前もわかった。ガナー・ラーソンだ。
ラーソンのカルテルは、交易交渉の席でその発明品にひとこともふれなかった。交渉のテーブルには出されなかったのだ。またファム自身も、まわりの視線があるところでその話をしたくはなかった。そこでラーソンと一対一で会見する段取りをつけてもらった。中世のキャンベラ星にいるファムの伯母や伯父たちがこの場にいたら、舞台裏でかわされる技術的なひねったいいまわしは理解できないにせよ、こういうやり方そのものには納得するだろう。
イェトレ星着陸から六週間後、ファム・ヌウェンはダービー市でもっとも高級な屋外の通りを歩いていた。ちぎれて空を飛ぶ雲は、さきほどまで降っていた雨の名残《なごり》だ。太陽が姿を消してもまだ明るい空で、ピンクと灰色に染められている。太陽はトリュグヴェ星の巨体のむこうにちょうど隠れたところなのだ。巨大ガス惑星の縁にある金色と赤の弧が、日蝕《にっしょく》にはいった太陽の痕跡《こんせき》だ。空に浮かぶガス惑星は視角にして十度にもなる。その両極では青い稲妻が音もなくひらめいていた。
空気はひんやりと湿っていて、そよ風がどこからか自然の香りを運んでくる。ファムは一定の足どりで歩きつづけ、ときおり遊歩道のわきを探索したがる唸《うな》り犬の引き紐をひっぱった。この扮装では、なにごとものんびりしなくてはならない。眺めを楽しみ、すれちがうおなじような服装の人々には上品に手をふるのだ。屋外に出てきた裕福な引退者なのだから、そうやって光を楽しみ、自分の犬を見せびらかすのが当然ではないか。とにかく先方との仲介者がそうしろと求めてきたのだ。――「フシュケシュトラーデ地区の警備はそれほどきびしくはない。しかしなんの理由もなく歩いていたら警察に呼び止められるだろう。高価な唸り犬を手にいれなさい。それを連れていれば、遊歩道を散歩する充分な理由になる」
遊歩道ぞいの木立のまにまにのぞく何軒もの広壮な邸宅を、ファムは眺めた。ダービー市は穏やかな場所だ。警備もしっかりしている……。しかし充分な数の人々が体制の転覆を望んだら、炎と暴動の一夜ですべては崩壊するだろう。カルテルは商売上のきびしい競争をくりひろげているが、文明はわが世の春を謳歌《おうか》していた。
もしかするとカルテル≠ニいう訳語が不正確なのかもしれない。ガナー・ラーソンやほかの大立て者は、古来の英知をもつ賢人という雰囲気をただよわせている。ラーソンはたしかに親分肌の男だが、その地位をあらわす言葉はそれ以上の意味をふくんでいるようだ。ファムの語彙《こい》には哲人王≠ニいう言葉があったが、ラーソンは実業家だ。哲人大立て者≠ニでも称するべきか。
ラーソンの邸宅にたどり着き、その私道にはいった。私道とはいえ、遊歩道とおなじくらいの道幅がある。ヘッドアップディスプレーの出力が弱まり、二、三歩進んだところで実景だけになった。ファムはすこし困惑したが、驚きはしなかった。わがもの顔に歩いていき、二メートルも丈《たけ》のある花の茂みの裏で犬に糞《ふん》をさせさえした。
〈〈あらゆる謎に対するおれの深い敬意を、哲人大立て者はこうやって知ればいいんだ〉〉
「こちらへどうぞ、お客さま」
穏やかな声が背後から聞こえた。ファムはぎくりとしたのをなんとか隠し、ふりかえって、穏やかに相手にうなずいてみせた。赤みがかった薄暮《はくぼ》のなかで、武器らしいものは見あたらない。空高く、二百万キロむこうでは、トリュグヴェ星の表面で一連の青い稲妻がひらめいていた。案内してくれるらしい男と、その背後の闇に隠れた三人を観察した。社員用のローブをはおってはいるが、その物腰はあきらかに軍人のそれだったし、目の上にはヘッドアップディスプレーを装着していた。
唸り犬の引き紐は彼らに渡した。べつに惜しくはなかった。この四匹は大柄で獰猛《どうもう》で下品な顔つきをしている。穏やかな性格に改良されてはいるのだろうが、薄暮のなかの散歩を一度試みたくらいでは、ファムは犬好きにはなれなかった。
ファムとほかの警備員たちは、そこから邸内へ百メートル以上歩いていった。いいかたちに曲がった枝や、ちょうどその根もとにはえた苔《こけ》が目にはいった。ここの連中は、社会的地位が高くなればなるほど、ひなびた雰囲気を好む傾向がある。そして細部まで完璧な仕立てを求めるのだ。この森の小径《こみち》≠焉A自然な雰囲気を醸《かも》し出すように一世紀くらいまえから手入れされているにちがいない。
小径の先にあったのは山裾《やますそ》の庭で、そばに小川と池があった。トリュグヴェ星のまわりから差してくる赤みがかった弓形の光のなかで、テーブルと、そこから立ちあがって彼を迎える小さな人影が見えた。
「ラーソン大兄《たいけい》」
ファムは対等な関係でかわされる半分の深さのお辞儀をした。ラーソンもお辞儀を返したが、そのときなぜかファムには、相手がにやりと笑ったように思えた。
「ヌウェン船団長……。どうぞおすわりください」
とりとめない雑談に全員が死ぬほど退屈してからでないと交渉がはじまらないという文化もあるが、ここではそんなことはないはずだった。ファムは二十キロ秒後にはホテルにもどる予定になっていたファムの居場所をほかのカルテル関係者に気づかれないようにすることは、双方の利益にかなうからだ。
ところが、ガナー・ラーソンはすこしも急ぐようすを見せなかった。トリュグヴェ星の稲妻がときおり相手の姿を浮かびあがらせる。典型的なイェトレ人の顔だちだが、とても高齢で、ブロンドの髪は薄くなりかけ、薄いピンク色の肌は皺だらけだ。稲妻のひらめく薄暮のなかで、二人は二キロ秒以上も雑談した。老人はファムの経歴や、トリュグヴェ・イェトレ星の歴史についてしゃべりつづけた。
〈〈おいおい、花壇で犬に糞をさせた仕返しのつもりか?〉〉
あるいは深遠なるイェトレ人の流儀なのか。とりあえずラーソンはアミニーズ語を流暢にしゃべり、ファムもその言語ではひけをとらないので、意思の疎通に支障がないのはいいことだった。
ラーソンの邸宅は奇妙なほど静かだった。ダービー市の人口は百万人に近く、きわだって高い建物はないものの、高級なフシュケシュトラーデ地区から千メートルの範囲は都市化されている。なのにここにすわっていると、聞こえてくるのはガナー・ラーソンの無意味なおしゃべりの声と――そばにある小さな滝の音だけだった。
ファムの目もしだいに薄暗がりに馴れてきた。池の水面に映ったトリュグヴェ星の弓形の光がわかるようになった。そこにさざ波が立ち、なにか甲羅《こうら》をもった大きな動物が水面に出てきたのが見えた。
〈〈イェトレ星の明暗の周期にもだんだん馴染んできたな〉〉
こんなふうに感じるようになるとは、三週間前のファムなら思いもよらなかっただろう。ここでは夜も昼も耐えがたいほど長いのだが、真昼に起きる日蝕にはほっとさせられた。そしてこれからしばらくすれば、あらゆる風景が赤の濃淡だけで描かれていたことなどすっかり忘れ去られるのだ。この世界には居心地のいい安心感があった。ここの人々は千年近くにわたって裕福な平和を楽しんでいる。とすると、やはりここには英知が隠されているのかもしれない……。
ふいに、とるにたらない話題という口調のまま、ラーソンがいった。「ところで、あなたはラーソン製ローカライザーの秘密を知りたいのですな」
ファムの驚きは目もとにしかあらわれていないはずだ。「まず最初に、そのようなものが実在するかどうかを知りたいですね。噂の内容はとても派手で……同時にとても曖昧ですから」
老人は歯を見せた。「実在しますとも」そして、周囲に手をふった。「これらのおかげでわたしにはすべてが見える。闇を真昼に変えてくれているのです」
「なるほど」
しかし老人はヘッドアップディスプレーをつけてはいない。それでファムの顔に浮かんだ嘲《あざけ》るような笑みを、本当に見わけられるのだろうか。
ラーソンは軽く笑った。「本当ですよ」眼窩《がんか》のすこしうしろの、こめかみのあたりを指で押さえた。「このなかに一個はいっているのです。ほかのローカライザーはそれと接続し、わたしの視神経を正確に刺激しています。どちらの側も調整にはかなりの時間がかかりますが、充分な数のラーソン製ローカライザーがあれば、膨大《ぼうだい》な量の情報があつかえるようになる。どんな方向からの映像でも思いのままに合成できるのです」
両手で謎めいた動きをした。
「あなたの表情は真昼のようにはっきり見えているのですよ、ファム・ヌウェン。あなたの手や首に塵のように付着したローカライザーによって、体内をのぞくこともできる。心臓の鼓動、肺の呼吸音も聞こえる。すこし集中すれば」軽く首を曲げた。「あなたの脳の各部位における血流量を推定することもできる……。心から驚いていらっしゃるようだな、お若い方」
ファムは自分への怒りから唇をこわばらせた。こちらにむけて機器の調整をするために、相手は二キロ秒もくだらない雑談をしていたのだ。こんな静かでほの暗い庭ではなく、オフィスのなかであれば、ここまで無防備になるはずはなかったのだが。
ファムは肩をすくめた。「イェトレ星の文明段階を考えると、あなたのローカライザーはなかなか高度で興味深い産品だ。サンプル品をいくつかいただけるとありがたいですね――プログラムベースと出荷時の仕様を教えていただけると、もっとありがたい」
「なんのために?」
「それはまた、あけすけで筋のとおらない返事ですね。重要なのは、ひきかえにこちらがなにを提供できるか、です。あなたがたの医学はナムケム星系やキーレ星系のものより劣っているようだ」
ラーソンはうなずいたようだった。「まだ没落以前のレベルにも回復していない。かつての技術をすべて復活させられたわけではないのですよ」
「さきほどわたしをお若い方≠ニ呼ばれましたね」ファムはいった。「しかし、あなた自身はおいくつですか? 九十歳? 百歳?」ファムと部下たちはイェトレ人のネットワークを詳しく調べ、ここの医学がどの程度かを推測していた。
「三十メガ秒を一年とするあなたがたの尺度にしたがえば、九十一歳です」ラーソンは答えた。
「なるほど。わたしは百二十七歳ですよ。もちろん、冷凍睡眠中の経過時間は抜きで」
〈〈それでもこれだけ若く見えるんだぞ……〉〉
ラーソンはしばらく黙りこみ、ファムは勝ったと思った。この哲人大立て者≠焉Aそれほど深遠ではないのかもしれない。
「たしかに、わたしももう一度若くなれればと思う。この望みのためなら、多くの人々が多くの財産をはたくだろう。あなたがたの医学ではどこまで可能なのかな?」
「一、二世紀は、いまのわたしのような外見をたもてます。さらに二、三世紀たつと、外見も老いていく」
「ほう。それは没落以前に達成されていた技術よりさらに高度なようだ。しかしきわめて高齢になれば、やはり外見も醜《みにく》く、身体的な苦痛も大きくなる。ふつうに年をとるときとおなじだ。どんなに寿命を延ばそうとしても、やはり人体には限界があるようですな」
ファムは礼儀正しく黙っていたが、内心ではにやりと笑っていた。医療技術はたしかに客を惹《ひ》きつける材料だ。適切な医学システムとひきかえに、ファムは彼らのローカライザーを手にいれる。両者ともたいへんお得だ。ラーソンは寿命を数世紀延ばせる。うまくいけば、現段階の文明は彼よりいくらか長持ちするはずだ。しかしいまから千年後には、ラーソンは土に還《かえ》り、文明は地上に固着したものの運命にしたがって滅びているだろう。一方のファムとチェンホーは、千年後にも星々のあいだを飛びまわっているはずだ。そしてラーソン製ローカライザーはまだその手中にある。
ラーソンの喉が奇妙な低い音を洩らした。しばらくして、それは咳きこむような笑いなのだと、ファムは気づいた。「ああ、失礼。あなたは百二十七歳かもしれないが、精神は若者だな。暗闇と、表情を抑えた顔のむこうに隠れたつもりになっている――いや、悪気はないのですよ。あなたは正しい感情の隠蔽《いんぺい》術を学んでいないのだから。わたしはローカライザーのおかげで、そちらの心拍数も、脳の血流も見えるのですよ……。つまりわたしが死んだあとにだれかが大笑いをすると思っているのですね?」
「いや――」
くそ。いくら高性能の探知機器を使っている熟練者でも、そこまで相手の態度を見抜けるわけがない。ラーソンはあてずっぽうでいっているだけだ――それとも、ローカライザーが本当にそれほどすごい性能をもっているのか。ファムの恐れと慎重さに、怒りがまじりはじめた。
相手はからかっているのだ。では本当のことをいってやろう。
「ある意味では、そうです。こちらの希望する取り引きを受けいれてもらえれば、あなたはわたしとおなじ年齢まで生きるでしょう。しかしわたしはチェンホーだ。星々のあいだを何十年も眠りながら渡っていく。あなたがた顧客の文明は、わたしたちの目にはとても短命なものに映るんですよ」
〈〈さあどうだ。これで血圧があがるだろう〉〉
「船団長、あなたはその池のなかにいるフレッドによく似ている気がする。またおなじことをいいますが、けして侮辱《ぶじょく》しているのではありませんよ。フレッドというのは、ルクシュターフィシュケという動物のことです」どうやら滝のそばで泳いでいた生きものをさしているらしい。
「フレッドはいろいろなものに興味をしめす。あなたが来てからずっと、まわりをうろうろして正体をたしかめようとしているんですよ。いまも池のほとりにいるんですが、わかりますか? 甲羅のついた二本の触手があなたの足から三メートルのところで芝生をひっかいているんですがね」
ファムはぎょっととした。ただの蔓《つる》植物だと思っていたのだ。細いその触手をたどって水面のほうを見ると……たしかに、四本の眼柄《がんぺい》と四個のまばたきしない目玉がのぞいている。トリュグヴェ星の弓形をした弱々しい光を浴びて、黄色くきらめいている。
「フレッドは長生きなのです。考古学者らがこの子の飼育記録を発見しました。文明の衰亡前に野生生物を材料におこなわれたちょっとした実験の産物で、ある金持ちのペットだったようです。唸り犬とおなじくらいの知能がある。しかし、とにかく長生きなのですよ。なにしろ衰亡前から生きているのだから。このあたりでは伝説の生きものだった。船団長、たしかにあなたのいうとおり、長生きすればそれだけ多くのものごとを見られますな。文明の交代期には、ダービー市ははじめ廃嘘で、そのあと強大な王国ができた。王たちはまえの時代の秘密を掘り出しては、みずからの利益とした。この丘にはしばらくそういった支配者たちの行政府がおかれていたのです。文明復興期には、ここはスラム街となり、丘の下の湖は大きな汚水|溜《だ》めになった。現代ダービー市の高級住宅街の代名詞となっているフシュケシュトラーデ≠ニいう地名も、もともとは屋外便所通り≠ニいう意味だったのですよ。そういったさまざまな時代を、フレッドは生き延びてきた。この子は下水に棲《す》む伝説の生きもので、ほんの三世紀前まで、まともな人間はだれもその存在を信じていなかったのです」
老人の口調には愛情がこもっていた。
「とにかく、フレッドは長生きで、いろいろなものを見てきた。いまでも知性の働きは活発ですよ。ルクシュターフィシュケなりにね。あのきらきらとしたつぶらな目をごらんなさい。しかし、文字から歴史を学ぶわたしとくらべると、フレッドはこの世界についても自分の経歴についても、ほとんど無知だ」
「そのたとえは妥当ではない。フレッドはばかな動物にすぎないでしょう」
「たしかに。あなたは利口な人間であり、星々のあいだを飛びまわり、寿命は数百年ある。しかしその時間は、フレッドのとおなじくらい長い期間に散らばっているわけです。本当に多くのものごとを見ているといえるのでしょうか? 文明は盛衰をくりかえすが、すべての技術文明は最大の技術的秘密をすでに手にいれている。どんな社会システムがうまく働き、どれがたちまちだめになるかも知っている。破局をできるだけ先に追いやり、もっとも愚かしい破局を避ける方法も知っている。それでも、すべての文明は没落をまぬがれないのだということも、正しく心得ている。あなたがわたしから手にいれたがっている電子機器は、いまのところ人類宇宙のどこにも存在しないかもしれないが、かつてかならず人間によって発明されたはずだし、いつかふたたび発明されるはずだ。われわれが欲《ほっ》しているはずだとあなたが正しく推測している医療技術についても、同様のことがいえます。人類は、その版図《はんと》はすこしずつ広がっていても、全体としては一定の状態にとどまっているのです。たしかにあなたにくらべれば、わたしはほんの一日しか生きられない、森のなかの一匹の虫にすぎないかもしれない。それでもあなたとおなじくらい多くのものごとを見て、おなじくらい長く生きるのですよ。歴史を学び、星星のあいだを流れるネット放送を聞くことができる。あなたがたチェンホーがおこなうさまざまな成功やさまざまな蛮行《ばんこう》を見ることができるのです」
「わたしたちチェンホーはそれぞれの文明の精髄を集められる。それらはわたしたちのもとにあるかぎり、死に絶えることはないんです」
「どうかな。わたしが若い頃、このトリュグヴェ・イェトレ星にべつの商船団がやってきたことがあります。あなたとはまったく異なる連中だった。言葉もちがえば文化もちがう。星間商人はたんなるすきまの生きものであって、文化ではありませんよ」
おなじことを、スラも主張していた。しかしこの古びた庭園で穏やかな言葉で語られると、スラ・ヴィンからいわれるより重みがあった。ガナー・ラーソンの声はほとんど催眠術のようだった。
「これら初期の商人は、あなたのような雰囲気はもっていませんでしたよ、船団長。彼らはなんとか大儲けをして、最終的にはどこかに腰を落ち着け、地上で文明を築きたいと考えていた」
「それではもう商人とはいえなくなる」
「そのとおりです。しかしもしかすると、彼らは商人以上の者になれるかもしれない。あなたはたくさんの惑星系を見てきたようだ。経歴書類によると、あなたはかなり多くの時間をナムケム星ですごしているから、惑星文明がどんなものかはよく知っているでしょう。ここでは数光秒以内の範囲に何千億人という人々が住んでいる。トリュグヴェ・イェトレ星をおおうネットワークのおかげで、ほぼすべての市民が人類宇宙を眺めることができる――一方のあなたは、港にはいったときしかそれを見ることはできない……。星々のあいだを渡る商人としてのあなたの生活は、おとぎの国ルリタニアのようにつかみどころがないのですよ」
ファムはルリタニア≠ェなんのことかわからなかったが、だいたいの意味はつかめた。
「ラーソン大兄、あなたは本当に長生きしたいのですか? そこまで悟りきっているのに――宇宙で万物はかならず死に、よいものが蓄積されることはなく、なにも進歩はしないと」
その言葉はなかば皮肉だったが、なかば正直な困惑の気持ちだった。ガナー・ラーソンは窓をひらいたが、その眺めは荒涼としているのだ。ラーソンは聞こえるか聞こえないかくらいの、小さなため息をついた。
「あなたはあまり本を読んでいないようですね」
奇妙だ。どうやらラーソンはもう装置を使ってファムを調べてはいないようだ。その問いには、悲しそうでありながら、同時に愉快そうな響きがあった。
「本はたくさん読んでいますよ」
ファムはスラから、いつもマニュアル本ばかり読んでいるといわれたくらいなのだ。しかし学びはじめた時期が遅かったから、追いつこうとずっと必死だった。だから教育にすこしばかり偏《かたよ》りがある可能性はいなめない。
「あなたの問いは、まさに重要な点なのですよ、船団長」ラーソンはいった。「わたしたちはそれぞれ自分の道を歩まねばならない。それぞれの道には、それぞれの長所と危険がある。しかしあなたは、人間として考えなくてはならない。すべての文明には寿命があり、どんな科学にも限界がある。人間は死ぬべき運命をもっており、千年期の半分も生きることはできない。これらの限界を本当に理解したときに……あなたは成長できる。本当に重要なものがわかるのです」
ラーソンはしばらく黙った。
「そう……この平穏さに耳を傾けてごらんなさい。そうできるのはありがたいことです。あわただしい時間ばかりすごしていてはいけない。レストラ木のあいだを抜ける風の音をお聞きなさい。こちらを観察しているフレッドをごらんなさい。子どもたちや孫たちの笑い声をお聞きなさい。あたえられた時間が長かろうと短かろうと、それを楽しむのです」
ラーソンは椅子の背もたれに背中を倒した。星がなく、暗いトリュグヴェ星の円盤のまんなかを見ているようだ。その裏側に隠れた太陽の円弧状のぼやけた光は、いまは円盤の周囲にまんべんなく広がっている。稲妻はずっとまえに消えている。見る角度や、トリュグヴェ星の積乱雲の位置によるのだろうか。
「いい例をお見せしましょう、船団長」ラーソンはいった。「ゆっくりすわって、見て感じてください。日蝕のさいちゅうだけに見られる特別の光景があるのです。トリュグヴェ星の円盤の中央に注目してください」
数秒がすぎた。ファムは空を見つづけた。トリュグヴェ星の低緯度のあたりは、ふつうは真っ暗なのだが……いまはかすかに赤みがかって見えた。あまりにほのかな光なので、暗示による錯覚かと思ったほどだ。しかし光はゆっくりと明るくなった。まだ槌《つち》で叩けるほどには熱くなっていない鋼《はがね》のように、深く暗い赤だ。その上を黒っぽい帯が横断している。
「あの光はトリュグヴェ星の内部から発しています」ラーソンは説明した。「ご存じのように、このイェトレ星はあの母惑星の放射熱によっても暖められています。雲の渓谷《けいこく》がちょうどいいむきになって、上層大気の雲が消えると、惑星のかなり深くまでのぞきこめるときがある――そしてその輝きを肉眼でも見られるのです」
光はさらにすこし明るくなった。ファムは庭を見まわした。すべては赤の濃淡だけで描かれたようになっているが、稲妻のひらめきのなかでよりははっきりと見えた。池畔《ちはん》にはぽつんと立った数本の丈高《たけたか》い木があり、それらは滝の一部となって水流をいくつかに分け、それぞれに滝壷と渦をつくっていた。枝のあいだで翅《はね》をもつなにかの群れが動き、つかのま鳴きはじめた。
フレッドは池からすっかりあがって、水掻きのある数本の脚でしゃがみ、短い触手を空の光のほうへのばして震わせている。
二人は黙って眺めつづけた。ファムは小惑星帯からここへ来るまでのあいだに、トリュグヴェ星をあらゆるスペクトル域で観察していたから、べつに新しい発見があったわけではない。配置とタイミングがもたらした偶然の事象でしかない。とはいえ……。ひとつの場所に縛《しば》られ、人間の力では変えることのできないコースに乗っていると、そのときたまたま宇宙のほうから見せてくれる現象に顧客が感動するのも、わかるような気がした。そして不思議なことに、ファム自身も畏敬《いけい》の念を呼び起こされた。
しばらくしてトリュグヴェ星の中心はふたたび暗くなり、森の鳴き声もやんだ。この宇宙のショーも百秒以下の短いものだった。
ラーソンが沈黙をやぶった。
「あなたとは取り引きできると思いますよ、お若い老人の方。あなたがたの医療技術はたしかに欲しい――どの程度欲しいかは、あかすつもりはありませんけれどね。しかし、できればわたしの最初の質問に答えてほしいのです。ラーソン製ローカライザーをなにに使うつもりなのですか? なにも知らない人々のあいだで使えば、それは魔法の諜報システムになる。悪用すれば、司法の目が社会の隅々まで監視するようになり、文明はあっというまに崩壊してしまう。あなたはこれをだれに売るつもりなのですか?」
なぜか、ファムは正直に答えた。トリュグヴェ星の東のふちがゆっくりと明るくなるなか、ファムは全人類を統《す》べる帝国の構想を話した。一介の顧客にあかすような内容ではない。チェンホーのなかでも頭がよく、柔軟性に富んだごく一部の相手にしか話したことはない。それでも構想全体に納得する者は少なかった。たいていはスラのように、ファムの最終的な目標は拒否しつつ、生粋《きっすい》のチェンホー文化がもたらす利益だけを歓迎した……。
「ようするに、ローカライザーは手もとにとどめるつもりです。それでは利益が生まれないが、顧客文明に対する強みはほかにあります。共通の言語、同期した航海計画、共通のデータベース――これらによってチェンホーは一貫性のある文化をもてる。ローカライザーはそれらをさらに越える一歩になります。最後には、わたしたちは散発的なすきま商売≠ナ糊口《ここう》をしのぐ行商人ではなく、永続する人類文化の担い手になるのです」
ラーソンは長いこと黙っていた。
「壮大な夢をおもちだ」ラーソンの口調から、さきほどまでのわずかにおもしろがるような響きは消えていた。「人類の一集団が時の流れを打ち破る……。いや、もうしわけないが、わたしたちにはあなたの夢の頂上を見通すことはとてもできそうにない。しかしその裾野なら、緩い斜面のあたりまでなら見える……。ある意味で壮大であり、おそらく達成可能でしょう。輝かしい時がさらに輝き、さらに長くつづくようになる……」
ラーソンは、顧客であるにせよないにせよ、非凡な人物だった。しかしどういうわけか、スラ・ヴィンとおなじ狭い視野しかもっていない。ファムは木のベンチに背中を倒しこんだ。
しばらくして、ラーソンはつづけた。
「失望したのですね。あなたはわたしを尊敬し、それ以上の反応を期待していたようだ。あなたはものごとを正しく見抜く力をもっていますね、船団長。すばらしく明晰な観察眼をもっている……おとぎの国ルリタニアから来たにしては」
その声はかすかな笑みをふくんでいるようだった。
「わたしの家系は二千年の歴史をもっています。商人にしてみればわずかな時間でしょうが、しかし商人はそのあいだほとんどずっと眠っている。一方のわたしたちは、実体験で得た知恵のほかに、わたしや先祖たちがさまざまな時代や場所について記録を読んで蓄積した知識もある。何百という世界、何千という文明について知っているのです。あなたのアイデアのなかにはうまくいきそうなものもある。挫折時代以後に提案されたアイデアより期待できそうなものがある。わたしの直観もなんらかの助けになるかもしれません……」
それから日蝕の終わりまで、二人は話しつづけた。トリュグヴェ星の東の縁が輝き、惑星の闇のなかから太陽が出てきて、空のなかにすっかり姿をあらわした。空が明るい青にもどっても、まだ二人は話していた。しゃべっているのはほとんどガナー・ラーソンのほうだった。彼はひたすら説明し、ファムはその意味を記録しようとしていた。しかしアミニーズ語は思ったよりも共通語として貧弱だったのか、ファムには理解できない部分がかなり残った。
しかしその過程で、ファムのもつすべての医療技術と、ラーソン製ローカライザーについての取り引きは成立した。いくつか付随的な項目――日蝕のさいちゅうに鳴いていた生きものの繁殖用個体など――はあったが、すんなりと話はできた。両者ともにたいへんな利益を手にいれたが……ファムが圧倒されたのはやはり、取り引き以外のことでのガナー・ラーソンの話だった。
それは無益な助言かもしれないが、知恵の匂いがした。
トリュグヴェ・イェトレ星への旅は、ファムの交易歴のなかでも実り多いもののひとつになった。しかしファム・ヌウェンの記憶にもっとも深く刻みこまれたのは、赤黒い日蝕のなかでかわした謎の老イェトレ人との対話だった。ラーソンからなんらかの向精神薬を飲まされたにちがいないと、ファムはあとから思った。そうでなければ、自分があんなふうにぺらぺら打ち明け話をするはずない。しかし……たぶん、それはどうでもいいのだ。
ガナー・ラーソンはいいアイデアをもっていた――すくなくともファムが理解できる範囲ではそうだった。あの庭と、まわりの平穏な雰囲気は、とても強力で印象的だった。トリュグヴェ・イェトレ星から帰ってくると、ファムは生きた庭から得られる平穏さがいかに重要かを理解した。たんなる装いとしての知恵[#「たんなる装いとしての知恵」に傍点]がいかに強力かを理解した。その二つの洞察は結びつけられた。生物学的品目はもともと重要な交易品だったが……それからはさらに重要になった。新生チェンホーは、その中心に生命体重視の価値体系をもたなくてはならない。内部で公園を維持できる船は、かならず公園をもたなくてはならない。チェンホーは技術の精髄とともに、生命の精髄をも熱心に集めなくてはならない。この点での老人の助言ははっきりしていた。チェンホーは生命体を理解し、自然に永遠のこだわりをもっているという評価を受けなくてはならない。
ここから公園と盆栽の伝統が生まれた。公園の維持はかなりの負担になったが、トリュグヴェ・イェトレ星訪問から千年後には、もっとも奥深く、もっとも愛されるチェンホーの伝統になっていた。
トリュグヴェ・イェトレ星とガナー・ラーソンが、その後どうなったか……。
もちろんラーソンは千年もまえに死んだし、イェトレ星の文明もそれほど長持ちしなかった。司法の目が社会の隅々まで監視する時代があり、恐怖が社会の隅々に配置された時代があった。おそらく、ラーソンのローカライザーが破局を早めたのだろう。あれだけの知恵も、あれだけの深遠さも、彼の世界を救うにはたりなかったのだ。
ファムは就寝用ハンモックのなかで寝返りをうった。イェトレ星とラーソンのことを考えると落ち着かなくなるのだ。そんなことは時間の無駄なのだが……今夜はべつだった。今夜は、あの対話のあとの気分が必要なのだ。ローカライザーとやりとりするときの身体記憶を甦《よみがえ》らぜたい。ローカライザーはもう何十個とこの部屋のなかにはいってきているはずだ。それらをこちらに応答させるには、どんな動きと身体の状態が必要だったか……。
ファムはハンモックのカバーを手の上まで引きあげ、その下で、存在しないキーボードのキーを叩きはじめた。しかしこれはめだちすぎる。接続するまではいくらキーを叩く真似をしても無駄なのだ。ファムはため息をついて、もう一度呼吸と心拍リズムを変えてみた……そのときふいに、ラーソン製ローカライザーについて初めて練習したときの畏敬の気持ちを思い出した。
青白い光が見えた。はっきりと青いなにかが、視野の隅で一度だけひらめいたのだ。ファムは細目をあけた。部屋は真っ暗だ。就寝時操作パネルの表示は暗すぎて、色などとてもわからない。動いているものといえば、通気口からの風を受けてゆっくりとそよぐハンモックだけ。青い光の出所は部屋ではない。ファム自身の視神経のなかだ。
目をとじて、さきほどの呼吸をつづけてみた。青い光がまた一度だけあらわれた。これはローカライザーの列が発する同期したビームで、それをこめかみと耳のなかに配置した――二個が誘導しているのだ。そうやってつづいたやりとりは、とても粗雑で、ほとんどの人がいつも無視している突発的な光のまたたきほどにもめだたなかった。システムが姿をあらわす段階はきわめて慎重にプログラムされているのだ。
今度は目をとじたまま、呼吸のリズムや脈拍の穏やかさも変えず、二本の指をてのひらのほうに曲げた。わずかな問《ま》をおいて、応答の光が点滅した。ファムは咳をする真似をして、しばし待ってから、左手もおなじように動かした。青い光が点滅した。一、二、三……。パルス列だ。ファムのために二進法でかぞえているのだ。ファムは遠いむかしに設定したコードを使って、それに対するエコーを返した。
ファムはプログラムの誰何《すいか》/応答モジュールを通過した。なかにはいれたのだ!
目のなかでまたたくのはまだ無秩序な光刺激のようでしかなかった。このやり方による高精度の表示能力を完全に発揮させるには、何キロ秒もかけてローカライザーのネットワークを訓練しなくてはならないだろう。視神経は規模が大きく複雑なので、すぐに明瞭な映像をうつしだすのは無理なのだ。それはそれでかまわない。ネットワークはすでに確実に反応しはじめている。大むかしのカスタマイズ設定が隠し場所から引き出されてきたのだ。ローカライザーはファムの身体パラメータを確定したので、これからはどんなやり方でもやりとりできる。
この当直におけるファムの残り時間は三メガ秒弱。絶対必要なことをやる時間としては、とりあえず充分だ――すなわち、船団ネットに侵入して、新しい隠れ蓑《みの》となる偽《にせ》の経歴をでっちあげなくてはならない。どんな経歴にするか。なにか恥ずかしいものだ。ファム・トリンリ≠ェこれまでずっと道化を演じつづけなくてはならなかった、恥ずべき理由だ。ナウとブルーゲルが参照できて、ファム・トリンリをあやつる手段として使おうと考えるようななにか。さて、どんなものにするか。
ファムは思わずかすかな笑みに唇がゆがむのを感じた。
〈〈ザムレ・エング、おまえの奴隷商人の魂《たましい》にいまもつづく地獄の苦しみあれ。おまえからは本当にひどいめに遭《あ》わされたが、かわりに死後のおまえの名前は利用させてもらうからな〉〉
23
〈子どもの科学の時間〉……。
なんて無邪気《むじゃき》な命名だろう。長い非番の眠りから覚めたエズルを待っていたのは、彼にとっては悪夢のようなこの番組だった。
〈〈キウィは約束したくせに。なぜこんなものをはじめさせたんだ〉〉
この生放送は、回をかさねるごとにサーカスのようなばか騒ぎの度合いを強めていた。なかでも今日のは最悪かもしれない。運がよければ、これが最後になるかもしれないが。
放送開始の千秒ほどまえに、エズルはベニーの酒場にはいった。ぎりぎりまで自分の部屋で観《み》るつもりだったのだが、またマゾヒズムに負けて人ごみにまじり、まわりの会話に耳を傾けることにした。
十六年めにはいったベニーの酒場は、L1点における人々の生活の中心になっていた。ベニー自身は二十五パーセントの当直サイクルでやっていて、酒場は彼と父親、さらにゴンレ・フオンとほかの何人かが分担して切り盛りしていた。古くなった壁紙はあちこちに白っぽい斑《ふ》ができて、場所によっては立体映像が成立しなくなっていた。
この酒場のものはすべて不正ルートを通ってきている。L1点の雲のなかにあるほかの拠点からくすねてきたり、ダイヤモンドと氷と空気雪からつくったりしたものだ。本物そっくりの木材も、アリ・リン・リゾレットが菌類の共生体を使ってつくりだしている。ちゃんと木目や年輪もあるのだ。エズルがしばらくいないあいだに、酒場の壁は黒みがかったぴかぴかの板ですべて張られていた。居心地のいい場所だ。まるで自由の身のチェンホーがつくるような……。
酒場のテーブルには、当直シフトがかさならないために何年も会えない人々の名前が彫りこまれていた。バーの上のほうにはナウが作成した当直チャートが表示され、常時更新されている。エマージェントはここでもチェンホーの表記法を採用しているので、当直チャートをひとめ見ただけで、特定のだれかと会えるまでに――客観時間にせよ主観時間にせよ――あと何メガ秒待てばいいかがわかるようになっている。
当直チャートには、エズルが非番のあいだにベニーの名前がくわえられていた。そこには現在の蜘蛛《くも》族の日付が表示されている。トリクシアの表記法で六〇//二一年。蜘蛛族のいまの世代≠ノとって二十一年めで、むかしの王朝かなにかの成立からかぞえて太陽の六十周期めという意味だ。
チェンホーのことわざでは、地元の暦《こよみ》を使いはじめたら、長居《ながい》しすぎている証拠だ≠ニいうのだが。
六〇//二一年……。再発火から二十一年。ジミーとその仲間たちの死から二十一年たったのだ。
世代数と年数のあとには、日数と、ラディル語の時≠竍分≠使った時刻が表示されていた。これは六十を単位にした計時法で、翻訳者たちはなぜこれを採用したのか合理的な説明はしないが、酒場ではだれもがこの時刻表示を、チェンホーの時計を読むようにやすやすと読んでいた。トリクシアの番組があと何秒ではじまるかさえ知っていた。
トリクシアの番組……。
公開された奴隷ショーではないか。しかも最悪なことに、だれもそのことを気にしていない。
〈〈ぼくらもすこしずつエマージェントに似てきてるんだ〉〉
ジョー・シンとリタ・リヤオをふくむ何組かのカップルが――そのなかにはチェンホーが二人まじっていた――いつものテーブルのまわりに集まり、今日はどんな番組だろうと話していた。エズルは興味と反感がないまぜになった気持ちで、そのグループのそばにすわっていた。
最近は友だちになったエマージェントもいる。たとえばジョー・シンだ。ジョーとリタはエマージェントらしい倫理的鈍感《どんかん》さももっているが、とても人間的ではっとさせられる問題もかかえていた。だれも気づかないが、エズルはジョーの目のなかに、ある感情をみつけることがあった。
ジョーは頭がよく、学術方面の才能があった。しかし、だからといって大学へ行っても、そのあとにエマージェント流の運命のくじ引きで悪いカードを引いてしまったら、集中化処理が待っているのだ。それを回避することを、ほとんどのエマージェントは正しい選択だと自分のなかで正当化するのだが、ジョーはそう思いきれていないようだった。
「――だからこれが最後の番組になるんじゃないかしら」リタ・リヤオは心から残念そうだ。
「あまり悪いほうに考えるなよ、リタ。そんなに深刻な問題かどうかわからないんだから」
「そうよ」ゴンレ・フォンが上から逆さまに降りてきた。みんなにダイヤモンド・アンド・アイス印の酒瓶《さかびん》を配っている。「愚人《ぐじん》の連中が――」といいかけて、もうしわけなさそうにエズルのほうを見やった。「――翻訳者たちがとうとう匙《さじ》を投げたのよ。今日の番組の予告はわけがわからなかったでしょう?」
「いや、そんなことはない。ちゃんとわかったよ」
エマージェントの一人がいって、時期はずれの堕落≠ェどんなものかについて、筋道立った説明をした。問題があるのは翻訳者ではなく、奇妙な習慣を受けいれられない人間のほうだ、と。
〈子どもの科学の時間〉は、トリクシアとその同僚たちが最初に翻訳を試みた音声放送のひとつだった。これまでに訳した文字と音声を一致させるだけでもひと苦労で、初期の番組――客観時間で十五年前のもの――は、印刷形式での翻訳だった。ベニーの酒場でそれなりに話題にはなったが、愚人がオンオフ星について分析した最新の仮説についてとおなじように、はじめは抽象的な興味しかもたれなかった。それが何年もたつうちに、しだいに番組そのものが人気を博するようになってきたのだ。それはそれでいい。しかし五十メガ秒ほどまえから、キウィがトルード・シリパンと取り引きをして、九日か十日ごとにトリクシアたち翻訳者をおおやけの場に引っぱり出すようになった。つまり生放送をはじめたのだ。
この当直シフトにはいってから、エズルはキウィとほとんど口をきいていなかった。
〈〈あいつはトリクシアを守ると約束したんだ。約束を破るようなやつと口をきけるか〉〉
キウィのことを裏切り者だとは、エズルはまだ思っていなかった。しかしトマス・ナウと寝ているのだ。その立場≠利用してチェンホーの利益を守れるのだといえば、たしかにそうだろう。しかし結局は、すべてナウの思いどおりに運んでいるではないか。
エズルはこれまでに四回、この生放送≠観た。愚人の翻訳者たちは、機械システムよりはもちろん、どんなふつうの人間の翻訳者よりも感情をこめ、身ぶり手ぶりをまじえて通訳した。
番組の司会者を、愚人翻訳者たちはラバポート・ディグビー≠ニ名づけた。こんな妙な名前をつけてるのはどこのどいつだと、みんなは口々にいったが、エズルは、その名付け親はトリクシアだとわかっていた。この話題についてだけは、トリクシアはまともに話をしてくれるのだ。エズルの古典の教養をあてにして、なにか新しい言葉を教えてくれないかといわれることがよくあった。じつは、ディグビー≠ニいう名前を何年もまえに提案したのはエズルだった。トリクシアはこの蜘蛛族の個体の経歴を見ていて、なにかその名前と響きあうものを感じたのだろう。
ラバポート・ディグビーを演じている翻訳者がだれかも、エズルは知っていた。ジンミン・ブロートは、番組以外の場では、怒りっぽくてこだわりが強く、話の通じない、典型的な愚人だ。しかし蜘蛛族のラバポート・ディグビーとして登場したときには、親切で饒舌《じょうぜつ》で、子どもたちに辛抱強く説明する……。それはまるで魔術で生き返った死体に、一時的にだれかの魂《たましい》がはいっていきいきと動きだすような眺めだった。
蜘蛛族の子どもたちは、新たな当直シフトにはいって目覚めるたびにすこしずつ変わっているように感じられた。それもそうだろう。ほとんどの当直シフトは二十五パーセントの勤務サイクルなので、宇宙にいる彼らが一年すごすあいだに蜘蛛族の子どもたちは四つ齢《とし》をとるのだ。
リタとその仲間たちが、その声にあわせて動く人間の子どもたちの絵をつくりだしていた。その絵は酒場の壁紙のあちこちに散らばっている。想像で描かれた人間の子どもたちの絵に、トリクシアの選んだ名前がついている。ジャーリブ≠ヘ小柄で、もじゃもじゃの黒い髪といたずらっぽい笑顔の男の子だ。ブレント≠ヘもうすこし背が高く、きょうだいほど生意気そうな顔ではない。
ベニーの話では、一度それらの笑顔がリッツァー・ブルーゲルの手で本物の蜘蛛族の顔にさしかえられたことがあるそうだ。上目づかいで、ごつごつとして、全身を甲殻《こうかく》につつまれているアラクナ星に着陸したときにエズルが見た彫像そのままのイメージを、偵察衛星から撮《と》った低解像度の写真で補《おぎな》ったものだったらしい。
ブルーゲルの野蛮な破壊行為による影響は、とくになかった。〈子どもの科学の時間〉の人気をなにがささえているのか、ブルーゲルは理解していなかったのだ。
しかしトマス・ナウは、どうやら理解しているようだった。彼のこの小さな王国では、ある問題が職員たちの大きな欲求不満のもとになっているのだが、ベニーの酒場はそれを昇華、解消させる場として機能しているのだ。それはナウにとって好都合なことだろう。
チェンホー船団の遠征とちがって、エマージェントたちはもっと豊かな暮らしを予定していたのだ。手にはいる資源はどんどん拡大し、故郷で約束した結婚は、このオンオフ星系で子どもや家族という結果に結びつくと期待されていた……。
しかしそういった期待は、すべて延期を余儀《よぎ》なくされた。こちら側での時期はずれのタブー≠ニいうわけだ。ジョーとリタのようなカップルは、夢を先送りしなくてはならない。そして〈子どもの科学の時間〉の翻訳によって子どもたちの言葉や思考にふれ、満足するしかないのだ。
生放送がはじまるまえから、子どもたちがみんなおなじ年齢であることに人々は気づいていた。アラクナ星の一年がすぎるごとに子どもたちの年齢はあがるが、番組に出演する子どもが交代しても、その新しい子はまえの子とおなじ齢《とし》なのだ。
初期の翻訳でおこなわれていた授業は磁気学と静電気学で、数式は使われていなかった。しかしのちには定量分析の手法が導入された。
二年ほどまえ、そこにわずかな変化があらわれた。愚人の報告書でも言及されていたが、ジョー・シンとリタ・リヤオは即座に、本能的に気づいた。番組にジャーリブ≠ニブレント≠ェ登場したときのことだ。二人はほかの子どもたちとおなじように紹介されたが、トリクシアの翻訳では、なんとなくほかの子どもたちよりも若いように感じられたのだ。司会のディグビーはそのちがいについてなにもいわず、番組のなかの数学と科学はそのまましだいに高度になっていった。
今回の当直シフトからは、そこにビクトリー・ジュニア≠ニゴクナ≠ェくわわっていた。エズルはトリクシアがその二人を演じるところを、わきで見たことがあった。子どもらしい性急さで声が裏返ったり、うふうふと笑ったりする。リタはこの二人の蜘蛛族を、笑っている七歳の子として描いた。ぴったりだった。
なぜ番組に出る子どもたちの平均年齢がさがっているのか。ベニーは、簡単なことだと説明した。〈子どもの科学の時間〉の運営体制が変わったのだ。いたるところに登場するシャケナー・アンダーヒル≠ェ、いまは授業の台本を書いているとして名前が出るようになったのだ。アンダーヒルは、どうやらこの新しい子どもたちの父親らしかった。
エズルが冷凍睡眠からもどってきたときには、番組は放送のたびに酒場を満席にするほどの人気になっていた。エズルは放送を四回観て、そのたびに心のなかで恐怖を味わった。そしてその後、しばらく休止期間にはいった。〈子どもの科学の時間〉は二十日前から放送されなくなっているのだ。そのまえにはきびしい口調の告知がおこなわれた。
「数多くの聴取者のみなさんからのご指摘により、当放送局の所有者グループは、シャケナー・アンダーヒルの家族が時期はずれの禁忌《きんき》を犯していることを確認した。この事態を解決するまでのあいだ、〈子どもの科学の時間〉は放送を休止する」
これを読んだときのジンミン・ブロートの口調は、ラバポート・ディグビーを演じるときとはまったくちがって、冷たくよそよそしく、怒りに充《み》ちていた。
希望的観測が多くなっていたところへ、このときばかりはアラクナ星の異質さが侵入してきたようだった。とにかく蜘蛛族の伝統では、新しい子の誕生は新生期のはじめにかぎられているらしかった。各世代ははっきりと分かれ、それぞれがおなじ年齢のグループとして生きていく。なぜそうなのかは、人間には憶測することしかできないが、〈子どもの科学の時間〉はこの大きな禁忌違反の隠れ蓑《みの》になっていたらしい。
放送予定日に番組が流れないことが一度、二度とつづいた。ベニーの酒場には人々の喪失感や空虚感が広がった。リタは、子どもたちの絵をはずそうかといいはじめた。エズルだけは、これっきり残酷な見せ物が終わってくれることを期待しはじめた。
しかしそうは問屋がおろさなかった。四日前、謎は残ったままだが、暗い雰囲気だけは一気に晴れた。問題の番組の"適切さ≠審理するために、暗黒教会の代理人がシャケナー・アンダーヒルと話しあいの席をもつと、ゴクナン・アコード国≠カゅうのラジオ局が放送したのだ。
トルード・シリパンは、この新しい番組を翻訳できるように愚人たちを待機させると約束した。
そしていま、ベニーの酒場にある番組用の時計は、この〈子どもの科学の時間〉特別版の放送開始時間に刻一刻と近づきつつあった。
トルード・シリパンは酒場の反対側にあるいつもの席で、この高まる期待感を無視しているようだった。ファム・トリンリと低い声で話している。この二人はいつもの飲み友だちで、大きな取り引きを話しあっているようなのだが、その内容はけして外に洩れてこなかった。
〈〈不思議だな。トリンリはただのほら吹きの道化《どうけ》だとずっと思っていたのに〉〉
ファムのいう魔法のローカライザー≠ヘ、じつははったりではなかった。空中を漂う微細な塵《ちり》には、エズルも気づいていた。ナウとブルーゲルはこの装置を使いはじめているのだ。ファム・トリンリはどういうわけか、船団ライブラリの最深部にも書かれていないローカライザーの隠し機能を知っていたわけだ。その事実に気づいているのはエズル・ヴィンだけかもしれないが、ファム・トリンリはただの道化ではない。じつはとんでもない切れ者なのではないかと、エズルは疑いはじめていた。船団ライブラリのどこを探してもみつからない秘密というものは、たしかに存在するだろう。しかしそれらはとても古く、とても深いところに隠されているはずだ。しかしそれだけ重要な秘密を知っているということは……ファム・トリンリはずいぶんと長い経歴の持ち主らしい。
「ねえ、トルード!」リタが時計を指さしながら、大声で呼んだ。「愚人たちはまだなの?」
酒場の壁紙はまだバラクリア星の自然保護区の森を映しているだけだ。
トルード・シリパンは席を立ち、人々のまんなかに漂い出た。
「聞いてくれ、みんな。いま連絡があった。プリンストン市のラジオ局が〈子どもの科学の時間〉のイントロを流しはじめたそうだ。もうすぐレナルト局長が愚人たちを画面に出してくれるだろう。いまは言葉の流れに同期しようとしているところなんだ」
リタの顔からいらいらした表情がさっと消えた。「よかった! ありがとう、トルード」
トルードは、自分はなにもしていないくせに、その賞賛をうけたまわるようにお辞儀をした。
「とにかく、もうしばらくで、このアンダーヒルというやつが自分の子どもたちになにをしたのかがわかるわけだ……」そして首をかしげ、自分だけに聞こえるデータ通信を聞いた。「さあ、はじまるぞ!」
緑したたる森の風景が消え、バーの側の壁がいきなりハマーフェスト棟の会議室につながったようになった。右手からアン・レナルトがはいってきたが、角度によっては姿がゆがんで見えた。その部分の壁紙が立体映像を表現できなくなっているからだ。レナルトのうしろからは二人の技術者と五人の愚人……いや、集中化人材がはいってきた。トリクシアの姿もあった。
エズルはそれを見たとたん、どこか暗いところに逃げこんで、世界が存在しないふりをしたくなった。ふだんのエマージェントは、まるで一抹《いちまつ》の差恥《しゅうち》心が残っているかのように、愚人たちをシステムの奥深くに隠している。コンピュータやヘッドアップディスプレーから、フィルターを通した清潔なデータや映像を受けとるだけだ。ベニーによると、このキウィの怪奇な見せ物も、最初は愚人たちの音声を酒場に中継するだけだったらしい。しかしトルードが、翻訳者たちがいかに身ぶり手ぶりの演技をしているか話したのをきっかけに、映像による中継がはじまった。もちろん愚人たちも、蜘蛛族の音声からその身ぶり手ぶりがわかるわけではないが、そんなことはどうでもいい。ここにいる怪奇趣味の連中が、その無意味な演技を見たがっているのだ。
トリクシアはゆったりとした作業服姿だった。漂う髪は、一部がもつれている。エズルが四十キロ秒前に梳《と》かしてやったのだが。トリクシアは看守の手をふりはらい、テーブルの端をつかんだ。なにかつぶやきながら、きょろきょろ見まわしている。作業服の袖《そで》で顔をぬぐい、椅子の拘束装置のほうに腰をおろした。ほかの愚人たちも、トリクシアとおなじようにぼんやりした顔でそれにならった。ほとんどがヘッドアップディスプレーを装着している。彼らが見たり聞いたりしているのがなんなのか、エズルは知っていた。蜘蛛族言語の中間変換データだ。それがトリクシアの世界のすべてなのだ。
「同期がとれました、局長」技術者の一人がレナルトにいった。
エマージェントの人的資源局長は、奴隷たちの列にそって移動しながら、そわそわする愚人たちをすこし動かした。どういう理由からかは、エズルにはわからなかった。しかしこの女が特別な才能の持ち主であることは、長年のあいだにわかるようになっていた。冷たい目をしたいやな女だが、愚人をあやつらせたら天下一品なのだ。
「いいわ、はじめて――」
レナルトは愚人たちから離れた。ジンミン・ブロートが椅子から立ちあがり、偉そうなアナウンサーの声でしゃべりはじめた。
「こんにちは、ラバポート・ディグビーです。〈子どもの科学の時間〉のはじまりです……」
パパはその日、みんなをラジオ局へ連れていった。ジャーリブとブレントは車の二階席で、おとなしく、とてもまじめな顔ですわっていた。そもそも正常な子どもと変わらないくらいに成長しているので、もうそれほどめだたない。ラプサとリトル・ハランクはまだパパの育児|毛《もう》のなかに隠れていられるほど小さかった。二人が赤ちゃんと呼ばれなくなるには、まだあと一年くらいかかるだろう。
ゴクナとビキは後部のそれぞれ独立した座席にすわっていた。ビキは黒っぽく着色されたガラスごしに、プリンストン市の通りを眺めた。こうしているとまるで王族になったような気分だ。ビキはいたずらっぽくきょうだいのほうを見た――そうすると、ゴクナはさしずめ侍女だろうか。
ゴクナは尊大なようすで鼻を鳴らした。似たものどうしのきょうだいなので、おなじことを考えていたようだ。ゴクナも偉大な支配者のつもりになっていたのだろう。
「パパ、今日は自分で番組に出るんでしょう? だったらなぜわたしたちまで連れていくの?」
パパは笑った。「それはどうなるかわからないぞ。暗黒教会は自分たちに決める権利があると思ってるらしいが、派遣されてくる女性の論客は、そもそも時期はずれの子どもを見たことがないんじゃないかな。彼女は怒ったようすをしていても、性根《しょうね》はいいかもしれない。実際に会えば、おまえたちが正常な年齢でないというだけでひどいことをいったりはしないだろう」
それはありそうなことだ。ビキはハランクナーおじさんのことを思い出した。あの人はビキの家族構成に反感をもちながらも、子どもたち一人ひとりには愛情をしめしてくれた。
車は町を横断する混雑した通りを抜け、ラジオの丘≠ヨむかっていった。プリンストン局はこの街でもっとも古いラジオ局だ。パパによると、放送をはじめたのはこのまえの暗期で、当時は軍用無線基地だったそうだ。この世代では、所有者たちはもとの基礎の上に建物をつくりなおしていた。町なかにスタジオを移すこともできたのだけれど、伝統をだいじにしたわけだ。おかげでラジオ局への道は楽しかった。一家が住んでいる丘よりもっと高い丘へ、道はぐるぐると裾野《すその》を巻きながら登っていくのだ。
地面には朝霜《あさじも》が降りていた。ビキはゴクナの座席に割りこみ、いっしょに身をのりだしてそれを見た。いまは冬のさなかで、太陽は中間期にはいっているのだけれど、霜を見たのはこれがまだ二度めだった。ゴクナが東の方角に手を突き出した。
「見て、こんなに高く登っちゃった――ゴツゴツ山が見えるわ!」
「それに雪が積もってる!」二人いっしょにおなじ台詞《せりふ》をいった。
しかしその遠くのきらめきは、実際には霜の色をしていた。たとえ真冬でも、プリンストン市に初雪が降るのはまだ二年ほど先のはずだ。雪のなかを歩くのはどんな感触なのだろう。吹きだまりに飛びこむのはどんな気分だろう。しばらく二人はその想像にどっぷりとつかり、今日のだいじな用事を忘れていた――今日はみんなラジオの討論会のことで頭がいっぱいなのだ。
十日前にはママ――ビクトリー・スミス将軍も帰ってくるほどだった。
はじめはみんな――とくにジャーリブは、この討論番組のことを心配していた。「番組はこれで終わりだよ」最年長の彼はいった。「世間に知られてしまったんだから」
するとママがわざわざランズコマンド市から帰ってきて、心配することはない、苦情はパパがみんな対応してくれるからと諭《さと》した。けれどママも、番組が再開されるとまでは明言しなかった。ビクトリー・スミス将軍は兵士や参謀たちに作戦を説明するのが仕事なので、子どもを安心させるこつはよくわからないようだった。ママは戦時中に何度も危険を乗り越えているらしいけれども、このラジオ番組の騒動にはむしろ動揺しているのではないかと、ゴクナとビキはひそかに思っていた。
陽気なのはパパだけだった。「ぼくはこの機会をずっと待ってたんだよ」ランズコマンド市から帰ってきた将軍にむかってパパはいった。「機は熟している。世間に知らせていい時期だ。この討論番組によって多くのことがおおやけになるはずだ」
おなじことをママもいっていたが、パパはうれしそうなくらいだった。この十日間はいつも以上に子どもたちといっしょに遊んでくれた。
「おまえたちはこの討論番組のためにとくに訓練した論客なんだ。おまえたちとこうやって遊ぶのも、勤勉に働いているのとおなじなんだよ」
そういって、暗い顔で横歩きしながら工場かなにかで仕事をしている手つきをしてみせた。
赤ん坊二人は大よろこびし、ジャーリブとブレントも父親の楽観的な気分を受けいれた。将軍は前日の夜に南へ出発した。いつものことだが、家族の心配よりさらにだいじな問題を、いくつもかかえているのだ。
ラジオの丘の頂上は森林限界線より高いところにあり、円形駐車場のまわりの地面は棘《とげ》のある低木《ていぼく》におおわれていた。子どもたちは空気に残る寒さに驚いた。ビキは息をしたところに白い煙が残るのに気づいた。まるで……まるで空中で霜ができているようだ。そんなことがあるのだろうか。
「みんなおいで。ゴクナ、ぽかんと見てないで」
パパと年上の兄たちは二人をせかして、ラジオ局の古い階段をのぼっていった。石段は熱によるしみがたくさん残っているけれども、磨いて消そうとはしていない。局の所有者たちはこれを伝統の証《あかし》として見せたいらしい。
なかの壁には写真がたくさん飾られていた。所有者たちとラジオの発明者たち(この場合はおなじ人たちだが)の肖像だ。ラプサとリトル・ハランク以外は、みんなここへは来たことがある。ジャーリブとブレントは、パパが番組の運営権を買いとった二年前から、正常な子どもと交代して番組に出演していた。二人とも実際より年上に聞こえる声をしていたし、ジャーリブは大人とおなじくらいに頭がいいので、だれも彼らの本当の年齢に気づかなかった。パパはそのせいですこしいらいらしていた。
「聴取者のほうから気づいてほしかったのに――どうも想像力がたりなくて、真実がわからないらしい!」
そこでとうとう、ゴクナとビキも番組に出された。年上のふりをしたり、番組で使われるばかばかしい台本にそって演じたりするのはおもしろかった。司会のディグビーさんは本当の科学者ではなかったけれども、親切にしてくれた。
とはいえ、ゴクナとビキの声はまだとても幼く聞こえた。そのためにとうとうだれかが、ラジオ放送はすべて善良なものと頭から信じるのをやめて、たいへんな堕落が大衆のまえに大手をふってあらわれたと理解したのだ。
しかしプリンストン・ラジオ局は民間企業であり、さらには一定の周波数帯と、近くの帯域との干渉|緩和帯《かんわたい》を所有している。第五十八世代に属する所有者たちは、稼《かせ》ぎ頭《がしら》の番組を捨てるつもりはまだなかった。しかし、暗黒教会が不聴取運動という効果的な手段に訴えてくると、そうもいかなくなってきた。ラジオ局としては〈子どもの科学の時間〉はつづけたい。そこでこの討論番組が企画されたのだ。
「まあ、アンダーヒル博士、ようこそいらっしゃいました!」
サブトライム女史が局長室から出てきた。プリンストン・ラジオ局長は手も脚もすべてそろっていて、頭と胴体の大きさがほとんどおなじだ。ゴクナとビキは彼女の真似をしては、笑いの種にしていた。
「この討論番組にはたいへんな関心が集まってますのよ。東海岸にも中継しますし、同じ内容を短波でも流します。掛け値なしにもうしあげて、ありとあらゆる聴取者が耳を傾けているのですよ」
局長から見えないところでゴクナは、掛け値なしにもうしあげて……≠ニ口を動かしてみせた。ビキはそれに気づかないふりをして、すました表情をなんとかたもった。
パパは局長に会釈した。「そんなに人気があるとは光栄です、局長」
「あら、本当ですのよ! スポンサーたちはこの時間に枠を得ようと必死です。血みどろの争いをはじめかねないくらいなんですから!」子どもたちのほうを見て微笑んだ。「あなたたちは調整室から見られるように手配しておいたわ」
調整室がどこにあるかはみんな知っていたが、ぺらぺらとおしゃべりをつづける局長のあとを行儀《ぎょうぎ》よく歩いていった。サブトライム女史がジャーリブ以下の子どもたちをどう思っているのか、本当のところはわからなかった。ジャーリブは、彼女は見ためほどばかではなく、すべての言葉の裏では冷静に金の勘定をしているのだと主張した。
「大衆を挑発することでスポンサーからいくらころがりこんでくるか、最後の十ペニーまで計算しているのさ」
そうかもしれない。しかしそれでも、ビキはサブトライム女史が好きだったし、そのきんきん声やうるさい話し方も許していた。自分の考え方に凝《こ》りかたまって他人の意見に耳を貸さない者も、めずらしくないのだから。
「この時間はディディが担当しているわ。ディディのことは知ってるわね」
サブトライム女史は調整室の入り口のまえで立ち止まって、初めてパパの肩口から顔をのぞかせている赤ん坊たちに気づいたようだった。
「あら、本当にいろんな年齢の子をかかえていらっしゃるのね。その……この子たちが教会の人たちにみつかったらどうなさいます? どこか安全なところに隠れさせておいたほうが……」
「だいじょうぶですよ、女史。それどころかわたしは、ラプサとリトル・ハランクを教会の代表者に紹介するつもりなんですから」
サブトライム女史は身をこわばらせた。忙しく動いていた脚や手が、すべてしばらく動きを止めた。彼女がこんなふうに本気で驚いているようすを、ビキは初めて見た。それからようやく局長は身体《からだ》の力を抜き、大きな笑みを浮かべた。
「アンダーヒル博士! あなたは本当に天才でいらっしゃいますのね」
パパはにっこりした。「この件にかんしてだけはね……。ジャーリブ、ディディの調整室のなかではみんなを頼むぞ。出てきてほしいときには合図するから」
子どもたちは調整室へあがっていった。ディダイア・ウルトモットはいつものように操作卓の上にかがみこんでいた。スタジオとのあいだは分厚いガラスで仕切られている。ガラスは防音になっていて、むこう側がほとんど見えない。子どもたちはそばに近づいた。スタジオ内にはすでにだれかがすわっている。
ディディは子どもたちにむかって手をふった。「なかにいるのは教会の代表者よ。一時間もまえから来てるの」
ディディはいつものように、かすかにいらいらした口調だった。二十一歳でとても美人の彼女は、パパの学生ほどではないが、充分に頭はよかった。十四歳でプライムタイムを担当し、いまはプリンストン・ラジオ局の主任技術者だ。電子工学にはジャーリブとおなじくらいに詳しい。本当は大学で電子工学をまなびたかったらしいのだ。ジャーリブが番組に出るようになったときに、二人が親しくなったのはそういう共通点があったからだ。その出会いについて話すときのジャーリブが、とても奇妙だったことをビキはよく憶えていた。まるでディダイア・ウルトモットという生きものを崇拝しているかのようだった。当時ディディは十九歳。ジャーリブは十二歳だったが、年齢のわりには身体が大きかった。ジャーリブが時期はずれであることにディディが気づいたのは、二度めの番組出演のあとだった。ジャーリブがその事実を隠していたことを、ディディは意図的でひどい侮辱《ぶじょく》だと受けとった。かわいそうなジャーリブは、それから数日は脚が折れたようにふらふらと歩いていた。しかしなんとかそこから立ちなおった。まあ、将来はもっとひどい拒絶を受けることもあるはずだ。
ディディもそれなりに立ちなおっていた。ジャーリブが距離をおいているかぎりは、充分に礼儀正しかった。ビキにとっては、なにかに夢中になっているときのディディは現世代のなかでいちばんおもしろい相手だった。スタジオにはいっていないときのビキとゴクナは、その隣の席にすわらせてもらい、何十個ものつまみを器用にあやつる手つきを見物した。ディディはこの操作卓をとても誇りにしていた。フレームは鉄板ではなく家具用の板でできているのだが、それをのぞけば、丘の上の彼らの家――ヒルハウスにある実験機材とおなじように見えた。
「教会の代表者って、どんな感じなの?」ゴクナが訊いた。
彼女とビキは、スタジオとのあいだを仕切るガラス窓に主眼をぴったり押しつけていた。ガラスがあまりにも分厚いので、透過してくる色が少ないのだ。スタジオですわっている見知らぬ相手は、遠赤外色だけで見るとほとんど死体のようだった。
ディディは肩をすくめた。「ペデュア師≠ニいう名前で、言葉がすこしへんよ。たぶんテイーフシュタット国出身だと思うわ。聖職者用の肩掛けをしているでしょう? この調整室からはよく見えないけど、色がとても暗いのよ。遠赤外色以外のすべての色をもっている」
ふーん、ずいぶん高価そうだ。ママもそういう正装用軍服をもっていた。それを着ているところはほとんどだれも見たことがなかったが。
ディディの表情に意地悪そうな笑みが浮かんだ。「あなたたちのお父さんの育児毛のなかにいる赤ん坊を見たら、きっとゲーってもどしちゃうわよ」
それですめば幸運だ。
しばらくしてパパがスタジオにはいってくると、ペデュア師は不恰好な頭巾《ずきん》の下でさっと身体をこわばらせた。つづいてラバポート・ディグビーがはいってきて、ヘッドホンをつかんだ。ディグビーは、ジャーリブとブレントが番組に出はじめるよりずっとまえ、〈子どもの科学の時間〉の放送開始当初から司会を担当していた。愉快な老人だが、じつは局の所有者の一人なのだとブレントは主張していた。しかしビキは、彼に対するディディの乱暴な口のきき方から、そんなことはないのではと思っていた。
「よろしいですか、みなさん」ディディの声が大きく響いた。パパとペデュア師は背筋をのばし、それぞれの側にあるスピーカーに耳を傾けている。「あと十五秒で番組開始です。準備はいいですか、ディグビーさん? それとも放送中断しますか?」
ディグビーはメモの束《たば》に鼻面《はなづら》をつっこんだままだ。「笑わば笑え。しかし放送時間は一秒一秒が金なんだよ、ミス・ウルトモット。そのうちわたしはきっと――」
「三、二、一……」ディディはスピーカーの音声を消して、長く尖《とが》った手でディグビーのほうをさした。
ディグビーはずっと気持ちを張りつめていたように、その合図に即座に反応した。十五年以上もつづけて、いまや番組のトレードマークになっている威厳に充ちたなめらかな声でしゃべりはじめた。
「こんにちは、ラバポート・ディグビーです。〈子どもの科学の時間〉のはじまりです……」
ジンミン・ブロートが通訳をはじめると、その動作はもう神経質でも不機嫌でもなかった。まっすぐまえをむいて、とても真実味のある感情にしたがって微笑んだり、眉をひそめたりしている。おそらくその感情は、真実なのだろう――アラクナ星の地上で暮らしている、硬い殻をもつ蜘蛛型生物にとっては。
それでもときどき会話がわずかに途《とぎ》切れることがあった。ヘッドアップディスプレーの隅のほうになにかの合図があらわれたように、ふいに視線をわきにむけることもある。しかしそういったことに気づかなければ、ジンミン・ブロートは母言語で書かれた原稿を読む人間のアナウンサーとなんのかわりもないほど、流暢《りゅうちょう》にしゃべっていた。
ディグビー役のブロートは、このラジオ番組の歴史を自画自賛とともにふりかえり、ついでここ数日のあいだにふりかかった影について説明した。時期はずれ∞出生の堕落行為≠ニいった言葉を、まるで日常語のように口にした。
「今日はお約束どおりに放送を再開しました。ここ数日のあいだにわたしたちに寄せられた非難の声は、とても重いものです。そこで訴えられている内容は、じつは事実なのです」
そこで劇的効果を狙うように、三拍の間をおいた。
「それでもこうして放送再開したのは、どんな勇気あるいは厚顔無恥《こうがんむち》ゆえかとお考えでしょう。それを知っていただくためにも、今日の〈子どもの科学の時間〉をぜひ聴いていただきたいのです。将来も番組をつづけられるかどうかは、ひとえにこれを聴いたみなさんの反応にかかっているのですから……」
トルードが鼻を鳴らした。「金に目のくらんだ偽善者のくせに」
ジョーやほかの連中がそちらにむかって、黙れというように手をふった。トルードはエズルの隣にやってきてすわった。こういうことは以前にもあった。エズルがみんなからすこし離れてすわっているので、自分の解釈を話して聞かせられるかもしれないと思ったのだろう。
壁紙のむこうではブロートが討論者たちを紹介している。トルードは膝にコンピュータを固定し、ひらいた。エマージェント製の無骨《ぶこつ》な代物《しろもの》だが、愚人による処理支援を受けているので、いままで人類がつくったどんなものより高性能だ。トルードが説明キーを押すと、小さな声が背景情報をしゃべりはじめた。
「おもてむきは、ペデュア師は伝統主義教会の代表者ですが――」コンピュータの声はわずかに中断した。データベースを検索しているのだろう。「――ペデュアは、ゴクナン・アコード国においては異邦人です。キンドレッド国政府のスパイではないかと思われます」
つかのまブロート/ディグビーの話から注意をそらされたジョーが、二人のほうをむいた。
「おやおや、宗教は隠れ蓑《みの》ってわけか。アンダーヒルはこのことを知ってるのか?」
トルードのコンピュータの声が答えた。「おそらく知っています。"シャケナー・アンダーヒル"という名前は、アコード国の秘密通信と強い関連性をもっています……。いまのところ、この問題に言及した軍事的交信はみつかっていませんが、蜘蛛族文明はまだそれほど自動化されていないので、こちらの目のとどかない部分もかなりあると思われます」
トルードはコンピュータにむかって命じた。「以下の問いを、優先順位最低で裏処理しろ――キンドレッド国はこの論争の推移にどんな利害をもっているのか」ちらりとジョー・シンのほうを見て、肩をすくめた。「答えがみつかるかどうかわからないけどな。処理が混雑してるから」
ブロートは討論者の紹介を終えようとしていた。ペデュア師は、ソピ・ルンが演じていた。
ソピは痩《や》せた小柄なエマージェントだ。エズルは彼女の名前を名簿で見たり、アン・レナルトとの話に出てきたおかげで知っているだけだった。
〈〈ほかにこの女の名前を知っている者がここにいるかな〉〉エズルは思った。
ジョーとリタは知らないだろう。トルードは、原始時代の家畜の番人が自分の所有物を知っているのとおなじ意味で、知っているだけだ。
ソピ・ルンは若い。トルードいうところの老衰によって故障した愚人≠フ代役として、冷凍睡眠から引き出されてきた。それから約四十メガ秒にわたって当直をつづけている。担当しているのは蜘蛛族のほかの言語、とりわけティーファー語≠セった。またアコード国標準語≠ノついても二番めに優秀な翻訳者になっていた。ここがまともな世界なら、ソピ・ルンの名は特別に優秀な学者として星系内に知れわたっていただろう。しかし彼女は領督《りょうとく》のくじ引きではずれ札を引いてしまった。ジョーやリタやトルードが完全に目覚めた生活を送っているのに対して、ソピ・ルンは自律機能系の一部として壁のなかに住まわされ、こういうまれな場合でもないかぎり人目にふれることはないのだ。
そのソピ・ルソが話した。「ありがとうございます、ディグビーさん。わたしたちに話す機会を用意してくださったことを、プリンストンのラジオ局は名誉にしていいと思います」
ブロートが紹介しているあいだ、ソピの視線は鳥のようにあちこちをむいていた。ヘッドアップディスプレーの調子が悪いのか、重要な合図を視野のあちこちに散らばらせる設定が好みなのか。しかしいったん話しはじめると、その目にはなにか残忍な表情が浮かんだ。
「あまりうまい通訳じゃないな」だれかがいった。
「こいつはまだ経験が浅いんだよ」トルードが答えた。
「それとも、このペデュアというやつの話し方のほうがへんなのかもしれないぞ。異邦人らしいといってたじゃないか」
ペデュアを演じるソピはテーブルに身をのりだし、なめらかな低い声で話した。
「これまで何百万という家庭にとどけられて、夫や子どもたちの耳にはいっていたラジオ放送に、じつは堕落した膿《うみ》がひそんでいたことが、二十日前にあきらかになりました」そうやってひどく独善的に聞こえる主張が、ぎこちない言葉でしばらくつづいた。「つまりこうして、家庭の空気を浄化する機会をわたしたちにあたえられたことは、プリンストンのラジオ局にとって適切なことです」そこでしばし黙った。「つまり――つまり――」
どうもうまい言葉がみつからないようだ。つかのまソピは不機嫌な愚人にもどったように、首をかしげた。そしてふいにテーブルに片手をばしんと叩きつけると、椅子に身体を引きもどして黙りこんだ。
だれかがいった。「ほら、やっぱり通訳が下手《へた》なんだよ」
24
ビキとゴクナは主眼をガラスに押しつけるには、すべての手と前脚を壁にべったりくっつけなくてはならなかった。どうもやりにくいポーズなので、二人は窓の下のところをあちこち動きまわっていた。
「ありがとうございます、ディグビーさん。わたしたちに話す機会を用意してくださったことを、プリンストンのラジオ局は――」とかなんとか、ペデュア師がしゃべっている。
「話し方がへんね」ゴクナがいった。
「いったでしょう。彼女は異邦人だって」ディディが気のない口調でいった。
彼女は操作卓の複雑なつまみを調整するのに忙しく、スタジオで話されている内容にはあまり関心がないようだった。ブレントはスタジオのようすをぼんやりと見つめている。ジャーリブは窓のほうを見ながらも、できるだけディディの近くに立とうとしていた。彼女に技術的な助言をしたがる癖はもう顔を出さなくなっていたが、そばにはいたいのだ。ときどきその場にかなった質問をおそるおそるすることがあり、そのときディディが忙しくなければ、返事を期待できた。
ゴクナがビキのほうをむいてにやりとした。「ちがうわよ。ペデュア師≠ノしては、話してることがへんだっていいたいの」
「ふーん」
ビキにはよくわからなかった。ペデュア師が見慣れない恰好をしているのはたしかだ。聖職者用の肩掛けなど本でしか見たことがないし、不恰好な外套《がいとう》が両側をおおい隠していて、外にのぞいているのはペデュア師の頭と口だけだ。しかしその服装の下には、力がみなぎっている印象があった。
ビキは、自分のような子どもに対しておおかたの大人がどんなふうに考えるか知っていた。ペデュア師はそういった見方の代弁者にすぎないではないか。しかしその話し方にはなんとなく威圧感がある……。
「彼女は本気でああいうことをいってるんだと思う?」
「もちろん本気よ。だからこそ話し方がへんなのよ。ほら、パパはにやにやしてるでしょう?」
パパはスタジオのむかい側の席にすわり、黙って赤ん坊たちをなでている。いままでひとことも発言していないが、かすかに笑みを浮かべていた。赤ん坊二人の目は、パパの毛のあいだからこわごわと外をのぞいていた。ラプサとリトル・ハランクはなにが起きているのか理解できないはずだが、なんとなく不安そうだった。
ゴクナもそれに気づいた。「かわいそうな赤ちゃんたち。彼女のことを怖がるのはこの二人だけだわ。そうだ、このペデュア師に十本脚をやってやろうっと」
ゴクナは窓から離れて、わきの壁に走っていき、オーディオテープのおさめられた棚をよじ登りはじめた。ゴクナとビキは七歳で、もう軽業《かるわざ》をこなすには身体《からだ》が大きくなりすぎているのだ。危ない! 固定されていない棚が傾き、テープやその他さまざまな装置類が各段の縁《ふち》まですべってきた。しかしゴクナがいちばん上までよじ登ったときにも、そのことに気づいているのはビキだけだった。ゴクナはそこから、スタジオとのあいだを仕切るガラス窓の上の回り縁に飛びついた。身体のほうは大きくふられて窓にべちゃっと張りつき、つかのま窓こしに完璧な十本脚のポーズができた。ガラスのむこう側ではペデュア師がびっくり仰天《ぎょうてん》している。ゴクナとビキは大笑いしはじめた。これほど完璧な十本脚を決めて、相手に下着を見せつけてやれることは、めったにないのだ。
「やめなさい!」ディディが低い声で叱った。手はまだ操作卓の上を忙しく動いている。「あんたたちはもう二度とわたしの調整室にいれてあげないからね。ジャーリブ、ちょっと来て! その妹たちを黙らせるか、ここから追い出して。すくなくともふざけた真似はこれっきりよ」
「ああ、わかった、悪かったよ」ジャーリプは本当にすまなそうだ。
すぐにゴクナのところへ行って窓から引き剥《は》がした。しばらくしてブレントもつづき、ビキを引っぱっていった。
ジャーリブは怒っているのではなく、困惑しているようだった。ゴクナを顔のそばに引きよせて、話した。
「静かにしろ。いまだけはおとなしくするんだ」
どうやらディディが彼に対して怒ったせいで、困惑しているようだ。しかしそんなことはどうでもいい。ゴクナはもう笑うのをやめていてえの口に食手《しょくしゅ》をあて、ささやいた。
「わかったわ。あとは番組が終わるまでおとなしくしてるから。約束する」
二人のむこうでは、ディディが話しているのが見えたどうやらディグビーのヘッドホンとのあいだで話しているようだ。言葉は聞こえないが、ディグビーはうなずいている。そしてディグビーはペデュア師をすわらせ、なにごともなかったようにパパの紹介に移った。ガラスのこちら側で起きたことは、むこう側になんの影響もあたえなかったようだ。あとでビキとゴクナはこっぴどく叱られるかもしれないが、まだまだ先のことに思えた。
ソピ・ルンは混乱したようすで腰をおろした。愚人《ぐじん》たちはたいてい、ほぼリアルタイムで番組をやろうとする。トルードは、それはそうなるように自分がしむけたからだと主張していた。愚人の翻訳者たちは言葉の流れに同期している状態を好む。ある意味で、演技を楽しんでいるのだ。ところが今日はそれがあまりうまくいっていなかった。
しばらくしてブロートが気をとりなおし、比較的なめらかな口調でシャケナー・アンダーヒルを紹介しはじめた。
シャケナー・アンダーヒル。彼を通訳するのはトリクシア・ボンソルだ。ほかに適任者がいるだろうか。蜘蛛《くも》族の話し言葉を最初に解読したのは彼女なのだ。ジョー・シンによると、番組の生中継がはじまった当初、子どもの声も大人の声も、電話で寄せられる質問の声さえも、すべてトリクシアが一人で演じていたという。ほかの愚人たちが流暢《りゅうちょう》に訳せるようになり、共通のスタイルが確立したが、中心的な役割はいまでもトリクシアが担当していた。
シャケナー・アンダーヒル。それは最初に名前をつけられた蜘蛛族だ。アンダーヒルという名前はきわめて多くのラジオ放送に登場する。はじめは彼が、産業革命の三分の二におよぶ発明をなしとげたかのようだった。しかしやがてそれは誤解だとみなされるようになった。アンダーヒル≠ニいうのはよくある名前で、シャケナー・アンダーヒル≠ニ言及される場合も、実際になにかをやったのはその教え子なのだ。つまりこの男は官僚であり、そのほとんどの教え子の出身校らしいプリンストン工科大学の創立者にちがいない。
しかし蜘蛛族がマイクロ波の中継器を発明すると、偵察衛星は国家機密通信を大量に傍受し、簡単に解読できるようになった。すると、ゴクナン・アコード国のあいだでやりとりされる最高機密情報のじつに二十パーセントに、シャケナー・アンダーヒル≠フIDがみいだされたのだ。これはどうみても、なんらかの機関名にちがいない。ほかに考えられない……。
ところがこうして、シャケナー・アンダーヒル≠ノは何人も子どもがいて、このラジオ番組に出演させていたらしいとわかった。まだ詳しいことはわからないが、この〈子どもの科学の時間〉には、なにか重要な政治的意図があるらしい。きっとトマス・ナウもハマーフェスト棟でこの中継を見ているだろう。
〈〈キウィもいっしょだろうか……〉〉
トリクシアが話しだした。「ありがとうございます、ディグビーさん。今日はお招きいただいてとてもうれしいです。この問題についてひらかれた場で討論するには、機が熟していますからね。とくに若いみなさんが――正常な子も時期はずれの子も――聴いてくれることを期待しています。すくなくともわたしの子どもたちは聴いていますよ」
トリクシアはソピ・ルソのほうに自信たっぷりの穏やかな視線を送ったが、その声にはかすかな震えがあった。エズルは彼女の顔を見つめた。トリクシアは何歳になったのだろう。愚人の当直スケジュールは秘密にされている。おそらく多くが百パーセントで働かされているからだろう。トリクシアはすでにふつうの人間の一生分の知識を学んでしまっているだろう。はじめの数年はともかく、エズルが当直で目覚めているあいだは、トリクシアもずっと目覚めていた。集中化されるまえより十歳は齢《とし》をとったようだ。アンダーヒルを演じているときはさらに年上に見える。
トリクシアは話しつづけていた。「しかし、ペデュアさんのおっしゃったことをひとつ訂正しておきたい。わたしの子どもたちの年齢を隠しておこうとする秘密のたくらみなどはありません。最年長の二人は、いまは十四歳になっていますが、この番組にしばらくまえから出演していました。ほかの子どもたちにくわわってもなんの違和感もなかったし、聴取者からの手紙からみるかぎり、二人は現世代の子どもたちにもその親の世代にも、たいへん人気があったようです」
ソピ・ルンはトリクシアのほうを見ていった。「もちろんそれは、彼らが本当の年齢を黙っていたからです。ラジオではそのような小さな違いはわかりません。ラジオではそのような……不品行は……気づかれないのです」
トリクシアは笑った。「たしかにそうですね。しかし、聴取者のみなさんにはこの点をよく考えていただきたいのです。みなさんはジャーリブとブレント、さらにはゴクナとビキをとても気にいってくださった。ラジオという音だけのメディアを通じて子どもたちに会うことで、やっとみえてくる真実があるのです。時期はずれの子もまた、ちゃんとした子であるという真実です。くりかえしますが、わたしはなにも隠していません。最後には……まあ、最後には当然のことがあきらかになって、だれも無視できなくなったというだけです」
「露骨なやり方が、という意味ですわね。あなたが番組に連れてきた次の時期はずれの二人は、まだ七歳でしかなかった。さすがにそんな不品行は、ラジオでも隠せませんでしたね。そして今日、スタジオでじかに会ってみると、あなたの育児|毛《もう》のなかには二人の赤ん坊がいるではありませんか。いったいどこまで不道徳な真似をつづけるつもりなのですか?」
「ペデュアさん、どこが不道徳なのですか? 聴取者のみなさんはわたしの子どもたちの声を二年にわたって聞いてきました。ジャーリブとブレントとゴクナとビキが、実体のある好ましい子どもたちであるとわかっていらっしゃいます。わたしの肩からあなたをのぞいているのは、リトル・ハランクとラプサです――」トリクシアは、相手に見る時間をあたえるようにしばらく黙った。「衰微《すいび》期からこんなにはずれた時期に赤ん坊を見るのは不愉快なのでしょうね。しかし一、二年したらこの子たちも話せるようになる。そうしたら〈子どもの科学の時間〉にうちのすべての年齢の子を出演させるつもりです。番組を何度も聴けば、聴取者のみなさんには、この子たちが衰微期の終わりに生まれた子どもたちとなんら変わりないことがわかるはずです」
「ばかばかしい! あなたがたくらんでいるのはようするに、まじめな市民にひそかに近づいて、この道徳性の放棄をなんとなく認めさせ、そして最後は……最後は……」
「最後は、なんですか?」トリクシアは穏やかに微笑みながら訊いた。
「最後は――」半透明のヘッドアップディスプレーのむこうでソピ・ルンの視線が忙しく動いているのが見えた。「最後はあなたの背中にはりついている異常な時期に生まれた蛆虫《うじむし》たちに、まじめな市民たちがキスするようにしむけるのでしょう!」席から腰を浮かせ、トリクシアにむかって腕をふった。
トリクシアは笑みを浮かべたままだ。「ペデュアさん、ある意味でそれはたしかにそうです。あなた自身も、これが受けいれられるものだと認めていらっしゃる。しかし時期はずれの子は蛆虫ではありませんよ。暗期の洗礼を浴びなくても魂《たましい》はちゃんと宿っている。もって生まれた力で、愛すべき蜘蛛類に成長するのです。何年かたつうちに、この番組によってそれはあきらかになっていくでしょう。あなたにもわかるはずです」
ソピ・ルソは腰をおろした。いかにもいい負かされて、べつの反論の糸口を探す討論者というようすだ。
「どうやら、あなたに品行のよしあしを訴えても無駄のようですね、アンダーヒル博士。そして聴取者のなかにも、あなたのひそかな接近戦術に惑わされて堕落におちいる弱い方がいらっしゃるかもしれない。だれでも不道徳におちいりやすい傾向があるのはたしかです。しかし道徳的な傾向もいっしょにもっている。両者のあいだを導くのは伝統なのですが……どうやらあなたは伝統を軽んじていらっしゃるらしい。あなたは科学者なのですね?」
「まあ、そうです」
「そして暗期の地上を歩いた四人のうちの一人でいらっしゃる」
「……そうです」
「聴取者の方々は、こんな著名な人物が〈子どもの科学の時間〉にかかわっているとはご存じなかったでしょう。あなたは最暗期をその目で見た四人のうちの一人であり、もはやこの世に神秘などないと思っていらっしゃるのですね」
トリクシアが反論しようとしたが、ペデュアを演じるソピはそれをさえぎってつづけた。
「それがあなたのおかしな主張の原因なのです。あなたは過去の世代の努力を無視している。蜘蛛類にとってなにが危険でなにが安全かを、ゆっくりと学んできた知恵を無視している。道徳律は理由があって存在しているのですよ! もし道徳律がなかったら、勤勉な貯蔵家は、衰微期の終わりに怠《なま》け者に財産を盗まれてしまうでしょう。もし道徳律がなかったら、冬眠穴でぐっすり眠っている者たちは、先に目覚めた連中によって虐殺《ぎゃくさつ》されてしまうでしょう。ものごとを根本的に破壊してしまう危険なやり方というのが、この世にはあるんです」
「最後の部分はたしかにそうです、ペデュアさん。それで、なにをおっしゃりたいのですか?」
「わたしがいいたいのは、ルールには理由があるということです。とりわけ時期はずれの出産を禁じるルールには。暗期の地上を歩いたあなたにはいろいろなものが些末《さまつ》に思えるでしょうが、それでも暗期が大いなる洗浄役をはたしていることはご存じでしょう。番組でのあなたの子どもたちの声は聴きました。今回の放送前に、調整室にいるお子さんたちを実際に見ました。あなたの秘密のなかにはひとつの汚点がありますね。驚くにはあたりませんが……。すくなくとも子どもたちのうち一人は――ブレントという名前でしたか?――知恵遅れなのではありませんか?」
ソピは話すのをやめたが、トリクシアは答えなかった。視線は宙の一点を見すえているが、中間層データの表示を読みとろうとしているわけではない。
ふいにエズルは、ものの見え方が奇妙に変化するのを感じた。想像される部分での変化だが、とても強力だ。翻訳者の言葉や、そこにこめられた感情によって惹《ひ》き起こされたのではない。
それは……沈黙によってだ。はじめてエズルは、蜘蛛族の一人を一個の相手として、傷つきやすい一人の存在として感じた。
沈黙はさらに長くなった。
「なるほど」トルードがいった。「これでいろいろな仮説が確認されたな。蜘蛛族は大量に子どもを生んで、そのなかの弱い者は暗期のあいだに母なる自然の力で淘汰《とうた》させるわけだ。よくできたしくみだ」
リタが顔をしかめた。「ええ、そうね」そして夫の肩に手をのばした。
ジンミン・ブロートが沈黙をやぶった。「アンダーヒルさん、ペデュア師の質問に答えていただけますか?」
「ええ」トリクシアの声にひそんでいた震えが、これまでよりはっきりとあらわれていた。「ブレントは知恵遅れではありません。ほかの子どもたちほど多弁ではなく、学習ベースが異なるというだけです」しだいに熱のこもった口調になったが、笑顔には影があった。「知性とはおもしろいものです。ブレントの場合は――」
ソピがさえぎった。「――ブレントの場合には、時期はずれの子に特有の先天性異常が認められます。みなさん、たしかにこの世代において教会の権威は大きく傷つけられました。いろいろなものごとが変わり、むかしのやり方は専制的だったとだれもが考えるようになりました。かつてブレントのような子どもが生まれるのは、野蛮さと堕落の巣窟《そうくつ》である田舎《いなか》の集落だけでした。かつては簡単に説明できたことです。すなわち、その両親は暗期の洗礼を避けるという、動物にも劣《おと》る行為をした。そして不完全な短い人生しかあたえられないあわれなブレントを産み落とした。ゆえに両親はその残虐さゆえに憎まれるべきである≠ニ。しかし現代においては、アンダーヒル博士のような知的人物が――」トリクシアのほうにうなずいてみせた。
「――その罪を犯しているのです。彼は伝統を笑えといっている。しかしわたしはおなじ理由から彼と戦わねばなりません。あの子をよくごらんください、アンダーヒル博士。あんな子をほかに何人おもちなのですか?」
トリクシアは答えた。「わたしの子どもたちはみんな――」
「ええ、そうでしょうとも。ほかにも障害のある子はいるはずです。こちらにわかる範囲で六人のお子さんをおもちですが、ほかに何人いるのですか? あきらかに障害のある子は殺したのですか? 全世界があなたの堕落した生き方に追従したら、文明はできそこないの弱い子どもたちの群れに圧倒されて、次の暗期がくるまえに窒息死してしまうでしょう」
ペデュアはその文脈での主張をしばらくつづけた。いいたいことははっきりしていた。先天性異常、人口過剰、政策的な子殺し、暗期のはじめに冬眠穴で起きるであろう暴動――大衆が時期はずれの出産へと一気に動いたら、そういった問題が発生すると警告しているのだ。ソピは、最後は息が切れて黙った。
ブロートはアンダーヒル役のトリクシアのほうをむいた。「反論がありますか?」
トリクシアは答えた。「ええ。やっと反論の時間をあたえてもらいましたね」笑顔がもどって、番組のはじめのように軽い口調になっていた。アンダーヒルが息子への攻撃で動揺していたとしても、ペデュアの長広舌《ちょうこうぜつ》のあいだに落ち着きをとりもどしたようだ。「まず、わたしの子どもは全員生きていますし、六人だけです。それはそうでしょう。時期はずれの子どもを妊娠するのはむずかしい。これはみなさんもご存じだと思います。それに子どもの目が成長しきるまで時期はずれの子袋《こぶくろ》を維持するのも、またたいへんです。たしかに自然は、暗期の直前に子づくりをするほうを好んでいるのです」
ソピは身をのりだし、声を張りあげた。「お聞きになりましたか、みなさん! アンダーヒル博士はたったいま、自分が自然に対して罪を犯していることを認めたのです!」
「いいえ、そうではありません。進化の力は、あたえられた自然条件のなかでわたしたちが生き延び、繁栄するように働くものです。しかし一方で、時代は変化し――」
ソピは皮肉っぽい声になった。「時代の変化、ですか? 科学のおかげで暗期の地上を歩いただけで、自分が自然より偉くなったと思っているのですか?」
トリクシアは笑った。「いや、わたしはまだ自然の一部にすぎませんよ。しかし科学技術の時代以前の話ですが――一千万年前には太陽の明暗周期が一年以下だったことは、ご存じですか?」
「絵空事《えそらごと》です。そんな環境でどうやって生物は生き延びて――」
「どうやってでしょうね、いったい」トリクシアは大きな笑みを浮かべ、勝ち誇ったような口調になった。「しかし化石に刻まれた記録は明白です。一千万年前の太陽の周期はいまよりはるかに短く、明暗の差も少なかった。冬眠穴も、そこで冬眠する必要もなかった。明暗の周期が長く、差が大きくなっていったために、すべての生物はそれに適応していったのです。きびしいプロセスだったと思いますよ。大きな変化が必要でした。そしていまや――」
ソピが手でなにかを切るようなしぐさをした。ソピの即興《そっきょう》か、それとも蜘蛛族の放送にそれに類する内容がふくまれていたのか。
「絵空事ではないにしても、まだ証明されてはいませんね。科学者であるあなたと進化についていい争うつもりはありません。まじめな学者たちがそのように考えているのもたしかでしょう。しかしそれは憶測にすぎない――生きるか死ぬかの決断の根拠にはなりえません」
「うふふ。パパが一本とったわね!」
ブレントとジャーリブより上の席で、ゴクナとビキは小声で論評をかわしていた。ディディから見えないのをいいことに、ペデュア師にむかって口を使っていろんな身ぶりをしてみせていた。最初の十本脚からあとはなんの反応もないが、こちらの気持ちを相手にむかって表現できるのは気分がよかった。
「心配ないわ、ブレント。パパはきっとこのペデュアをいい負かすから」
ブレントはいつもよりさらに口数少なくなっていた。「いつかこうなるとわかっていたんだ。むずかしいことになっていたし、パパもとうとうぼくについて説明しなくてはいけないはめになった」
たしかにペデュア師がブレントを知恵遅れといったとき、パパは敗色が濃かった。あんな打ちひしがれたようすのパパを見たのは初めてだ。しかしそこからかe失地を回復してきたようだ。ペデュア師は無知なやつらしいが、パパの論点についてだけはよく勉強していた。しかしそのくらい、どうということはない。ペデュア師はろくにものを知らないし、そもそもパパは正しいのだ[#「正しいのだ」に傍点]。
それにもう反撃に出ていた。
「伝統主義者がこの初期の時代に興味をしめさないのは奇妙なことですね、ペデュアさん。しかしそれはそれでいい。科学がこの世代にとても大きな変化をもたらしているので、それを使って説明したほうがいいでしょう。自然は生物にいくつかの生存戦略をとらせました。世代のサイクルもたしかにそのひとつです。それがなければわれわれは生き延びられなかったでしょう。しかし、それによる無駄を考えてみてください。子どもたちは全員が毎年おなじ成長段階にあるわけです。ある段階がすぎれば、その時期のための学習用具や施設は次の世代までなんの使い道もない。そんな無駄は、もう必要ないのです。科学の力で――」
ペデュア師は皮肉と驚きをこめたかん高い笑い声をあげた。「ほら、認めましたね! 時期はずれはひとつの生き方であり、あなただけの孤立した罪ではないと」
「もちろんですよ!」パパは強くいった。「いまは異なる時代に住んでいるのだということをみなさんに知ってもらいたいんです。太陽がどんな時期にあっても子どもをつくっていいのだということを、みなさんに知ってもらいたいんです」
「そうですね。あなたはわたしたちを侵略しようともくろんでいる。どうなんですか、アンダーヒル博士、時期はずれの子どもたちが集まる秘密の学校がすでにどこかにあるのでは? あなたが育てた六人のほかに何百人、何千人が、世間の認知を待っているのでは?」
「いえ、そんなことはない。いまのところ子どもたちの遊び友だちはみつけられずにいますから」
子どもたちはずっと遊び友だちを欲しがっていた。母親が手をつくして探してくれたが、いまのところみつかっていない。ほかの時期はずれの子はとても厳重に隠されているのか、それとも本当にめずらしいのかのどちらかだろうと、ゴクナとビキは結論づけていた。いつの頃からかビキは、やはり自分たちは誤った存在なのかもしれないと思うようになった。こんなに仲間が少ないのだから。
ペデュア師は席にもたれ、友好的とさえいえそうな笑みを浮かべていた。「そのお答えには安心しました、アンダーヒル博士。この時代でもまだ多くの民衆はまじめであり、あなたのような堕落はめったにないわけです。それでも、正常な生まれの子どもたちが二十歳をすぎているいまでも、〈子どもの科学の時間〉は人気をたもっています。この番組はかつてない誘惑のもとになっています。だからこの意見交換がとても重要なのです」
「ええ、そうですね。同感です」
ペデュア師は首をかしげた。まずい。パパが本気でそういっていることを、この相手は気づいている。パパが思索をめぐらせはじめると……あやうい情況になりそうだ。
ペデュア師は本当に好奇心をかきたてられた考ななにげない口ぶりで訊いた。「アンダーヒル博士、あなたは道徳律について、独特な考えをおもちのようですね。もしかすると、道徳律は創造的なものであると――あなたのような偉大な思想家によって打ち破られるものだとお考えですか?」
「偉大な思想家だなんて、まさか」しかしその問いはパパの想像力をかきたて、論争のためのレトリックから注意をそらした。「道徳律をそんなふうに考えたことはこれまでありません、ペデュアさん。しかしおもしろい考え方ですね! つまり、一部の連中は道徳律を無視してもいいかもしれないというのですね。その連中というのは……なんでしょう。高い善性の持ち主? ちょっとちがいそうですね。白状しておきますが、道徳についての議論はまったく素人《しろうと》なのですよ。わたしが得意なのは、遊ぶことと考えることです。暗期の地上を歩くのは、もちろん軍事的に重要な作戦でしたが、とても愉快な試みでしたよ。科学は蜘蛛類の近い将来にすばらしい変化をもたらすでしょう。わたしはそれをとても楽しんでいますし、大衆も道徳思想の専門家たちもふくめてその大きな変化の流れを理解してほしいと思っています」
「なるほど」ペデュア師のその返事には、ビキのように警戒心をもって聞いていなければわからないくらいの皮肉っぽさがこめられていた。「では、大いなる洗浄役や大いなる神秘としての暗期に、科学がなんらかのかたちで取って代わるとおっしゃるのですか?」
パパは食手をふった。これがラジオであることを忘れているらしい。「科学は太陽の暗期を、毎日めぐってくる夜とおなじくらいに無害で理解できるものにしますよ」
調整室のなかでディディが、はっと驚きの声をあげた。この技術者が自分の担当している放送に反応したのは、ビキが知っているかぎり初めてだった。スタジオではラバポート・ディグピーが、まるで尻をだれかに槍《やり》でつつかれたように、ぴんと背筋をのばした。しかしパパはなにも気づかないようすだ。
ペデュア師の返事もまた、お天気の話をしているかのように軽い口調だった。「まるで長いひとつの夜のように、暗期のあいだも生活し、仕事をするようになると?」
「そうですとも! まもなく登場する原子力はなんのためだと思っているんですか」
「つまり、わたしたちはみんな暗期の地上を歩くようになるのですね。そして暗期はなくなる。神秘はなくなる。蜘蛛類の魂が安らぐ冬眠穴もなくなる。科学によって奪い去られるわけですか」
「ちっぽけなことです。この小さな世界には、もう本物の闇はなくなるでしょう。しかし暗期――つまり暗闇はつねに存在する。今夜、外に出て空を見あげてごらんなさい、ペデュアさん。この世界のまわりは暗闇であり、それは今後ともそうです。そしてわたしたちの暗期が新生期の到来とともに終わるように、この巨大な暗闇も、何億何兆という星々の岸辺で終わるのです。考えてもごらんなさい! わたしたちの太陽の周期がかつて一年以下だったとしたら、もっとむかしの太陽は中くらいの明るさでずっと輝いていたかもしれない。実際にわたしのところの学生の何人かは、空の星々もわたしたちの太陽と基本的に変わりないと考えています。ほかの星々ははるかに若いというだけです。そして多くは、わたしたちが住んでいるのとおなじような惑星世界をもっているでしょう。蜘蛛類が心の拠《よ》りどころとするような、いつまでもなくならない冬眠穴が必要ですか? 冬眠穴――すなわち深い闇の淵《ふち》は、空にありますよ、ペデュアさん。そしてそれは、はてしなくつづいているんです」
そしてパパは宇宙旅行についてまくしたてはじめた。話がこの方向にはいっていくと、大学院生でもさすがについていけなくなる。天文学などを専攻するのは変人中の変人だ。あらゆる上下とあらゆる裏表がひっくり返ったような世界なのだ。空の星のように安定して輝くものが太陽とおなじだとは、どんな宗教が要求する世界観より飛躍した、信じがたい話なのだ。
ディグビーとペデュア師は口をぽかんとあけて、パパが自説を展開し、詳しく説明していくのを見ていた。番組でのディグビーはいつも科学の先生役だったけれども、ここではあっけにとられるしかなかった。それに対してペデュア師は……すぐにショックから立ちなおった。この仮説を聞いたことがあるのか、あるいは意図しない方向に話がそれていっているからだろう。
調整室にかかった時計の針は、番組の最後にかならず流れる騒々しいコマーシャルの時間へとしだいに近づいていた。パパはもうすぐ話しおえそうだけれども……。しかしビキには、ペデュア師がスタジオ内の出来事よりも時計を注視し、戦略的に好都合なあるタイミングの到来を待っているのがわかっていた。
そしてペデュア師はマイクをひっつかみ、パパの思索を破るだけの大きな声でいった。「たいへん興味深いお話ですが、星間宇宙への植民はとても現世代では実現できませんね」
パパはたいしたことはないというように食手をふった。「そうかもしれませんが、しかし――」
ペデュア師は学術的に興味を惹かれたという声でつづけた。「そうすると、わたしたちの時代に訪れる大きな変化は、次の暗期の征服――つまり太陽の周期に依存した生活の終わり、ということだけですね」
「そのとおりです。わたしたちは、このラジオ放送を聴いているみなさんもふくめて、もう冬眠穴を必要としなくなる。原子力がそれを約束しています。すべての大都市を二世紀以上、つまり次の暗期が終わるまで、暖房しつづけられるだけの電力があります。ですから――」
「なるほど。では、都市に覆いをかける巨大な建設事業が必要ですね」
「ええ。それと農場にもね。食糧供給はかならず――」
「それは、あなたが大人の世代を増やしたがっている理由でもあるのですね。だから時期はずれの出産を奨励《しょうれい》しようとしている」
「いえ、直接そういうことを狙ってはいません。たんにそれは新しい環境における――」
「ゴクナン・アコード国は事実上、次の暗期に地上を歩ける者たちを何千万人とつくりだすわけです。世界のほかの国々はどうなりますか?」
パパはようやく罠に気づいたようだ。「まあ、ほかの技術的に進んだ国はおなじようにするでしょう。貧困国には従来の冬眠穴がある。彼らの目覚めは遅れてしまいますが」
ついにペデュア師は、罠にかかった獲物をしとめるような強い口調になった。「彼らの目覚めは遅れる≠ニいいましたね。大戦争では、たった四人の部隊が暗期の地上で作戦をおこなっただけで、世界最強国のひとつを倒しました。次の暗期にはそれが数千万人になるのですよ。史上最悪の冬眠穴殺しが待ちうけているような気がしてなりませんわ」
「いや、そんな心配はないでしょう。まさかそんなことは――」
「残念ながらみなさん、番組の時間がなくなってしまいました」
「ちょっと待って――」
ディグビーはパパの訴えを無視してつづけた。「おふた方、今日はご出演いただきありがとうございました。では――」という具合だ。
ディグビーの最後の口上が終わると、すぐにペデュア師は立ちあがった。マイクの音声が切られているのでなにをいっているのか聞こえないが、ディグビーと儀礼的な挨拶《あいさつ》をかわしているようだ。スタジオの反対側ではパパが呆然《ぼうぜん》としている。ペデュア師がわきを通りすぎようとすると、パパは立ちあがり、なにか早口に話しかけながらスタジオの外まで追いかけていった。ペデュア師はただ、つんとすました笑みを浮かべている。
ビキのうしろでは、ディディ・ウルトモットがレバーを押しあげ、放送のなかでいちばんだいじな部分、すなわちコマーシャルを流しはじめた。そしてようやく操作卓から視線を離した。
かすかな目眩《めまい》に襲われたような表情をしている。
「あなたのお父さんは、なんていうか……とても変わった考えの持ち主なのね」
どうやら音楽らしい和音がいくつか響き、口上が流れはじめた。「尖《とが》った手は楽しい手。ブリキの滝を陽気な楽団でいっぱいにしましょう――」
脚蜘蛛族のコマーシャルは、ときとしてプリンストン・ラジオの番組のなかで主役級の人気を集めることがあった。脱皮後処理薬、目磨《めみが》き粉《こ》、ゲートル……。セールスポイントは理解できなくとも、なるほどと思わせる商品はそれなりに多かった。しかし意味不明の商品もある。とりわけ初登場の商品で、担当翻訳者が二流の場合は、たいていわけがわからなかった。
今日はその二流訳者の日だった。ルンとブロートとトリクシアは、データの流れから切り離されてそわそわしているだけだ。彼らをステージの外へ出すために、看守が会議室にはいってきていた。
ベニーの酒場に集まった客たちも、今日はコマーシャルなどろくに聞いていなかった。
「子どもたちが出演していた回ほどおもしろくなかったけど――」
「あの宇宙旅行についての話は聞いたかい? こっちの交易スケジュールにはどんな影響があるんだろう。もし――」
しかしエズルの関心はそのどれにもむいていなかった。ひたすら壁の映像を見つめ、まわりのおしゃべりは遠い騒音にしか聞こえない。トリクシアはようすがおかしかった。忙しく動く視線からすると、なにか切迫した状態らしい。いままでも何度かそんなふうに感じ、アン・レナルトに訴えたが、人的資源局長の返事はいつも、あれは早く仕事にもどりたいという意欲のあらわれにすぎない、というものだった。
「エズル?」
袖《そで》に手がふれた。キウィだった。番組のあいだにいつのまにか酒場にはいってきていたらしい。いままでもそうやって、黙って番組を観にきたことがあった。しかし今回は、厚かましくも友人のふりをしようとしている。
「エズル。わたし――」
「あとにしてくれよ」エズルは顔をそむけた。
そうやってトリクシアのほうに視線をもどしたとき、それは起きた。
看守たちはまずブロートを部屋から出した。次にソピ・ルンを連れてトリクシアのわきを通ろうとしたとき、トリクシアが金切り声をあげて椅子から立ちあがり、若い同僚にむかって拳《こぶし》で殴りかかったのだ。ソピは看守の手をふりはらって逃げた。鼻から流れ出る血をしばし呆然と見ていたが、やがて片手で顔をぬぐった。悲鳴をあげるトリクシアはすぐにべつの看守にとり押さえられ、それ以上の事態にはならなかった。どういうわけかトリクシアの声は一般音声回線に流れてきていた――「悪いのはペデュアよ。死ね! 死ね!」
「なんてこった」エズルの隣でトルード・シリパンがあわてて立ちあがり、酒場の出入り口へむかって飛びだしていった。「レナルトがかんかんになるぞ。急いでハマーフェスト棟にもどらないと」
「ぼくも行くよ」エズルはキウィのわきをすり抜け、ドアのほうへむかった。
酒場のなかはしんと静まりかえっていたが、すぐにみんないっせいにしゃべりだした。
しかしそのときには、エズルはもう廊下へ出て、トルードを追いかけはじめていた。二人は中央通路を急いで通り抜け、タクシー船接続チューブへむかった。エアロックのまえでトルードはスケジュール管理表になにかを打ちこんでいたが、ふいにふりかえった。
「おまえたち二人はなんの用だ?」
エズルが肩ごしにふりかえると、酒場からファム・トリンリも追いかけてきていた。
エズルはいった。「むこうへ行くんだよ、トルード。トリクシアの世話をするんだ」
トリンリも心配そうな声でいった。「これでおれたちの取り引きがだめになったりしないだろうな、シリパン? だいじょうぶかどうか確認したいんだが――」
「ああ、くそ、そうだな。影響をたしかめたほうがいい。わかった。いっしょに来いよ」そして、エズルをちらりと見た。「おまえはだめだ。来たってしょうがない」
「いいや、行く」エズルはいつのまにか拳をかまえ、相手から十センチのところに近、ついていた。
「しょうがねえなあ。じゃまにならないようにしろよ」
しばらくしてタクシー船へのエアロックに緑のサインが点灯し、三人は仮設舎からタクシー船に乗り移った。岩石群はアラクナ星の青い円盤のすぐわきで日差しを浴びていた。
「ちくしょう。よりによって、いちばん遠いところにいるときかよ」トルードはののしった。
「タクシー船!」
「ご用でしょうか?」
「ハマーフェスト棟へ最短時間で行け」
エズルたちなら、タクシー船のハードウェアをなだめたりすかしたりしなくてはならないところだが――自律機能系はトルードの声と口調を認識したようだ。
「了解しました」
タクシー船は十分の一Gで加速しはじめた。三人はハーネスにつかまり、身体を固定した。前方の岩石群がしだいに大きくなってくる。
トルードがいった。「こいつは本当にまずい情況なんだ。レナルトはおれが持ち場を離れていたことを指摘するだろう」
「それがまずいのか?」トリンリはトルードのすぐ隣に腰を落ち着けた。
「もちろんさ。本当はどうでもいいことなんだけどな。くそったれの翻訳者チームをあつかうのなんか、看守一人で充分なんだ。しかしこういうことになると、おれは立場が悪い」
「でも、トリクシアはだいじょうぶかな」エズルはいった。
「なぜボンソルはあんなふうに癇癪《かんしゃく》を起こしたんだ?」トリンリが訊いた。
「知るもんか」とトルード。「やつらは、とくにおなじ専門分野をもつ者どうしでよく口論や喧嘩をするんだ。しかし今回は原因がわからないな」トルードはふいに話すのをやめて、だいぶ長いことヘッドアップディスプレーを眺めていた。そしてようやくいった。「わかったよ。じつはなんてことなさそうだ。地上から音声が一部洩れてきていたらしい。番組の音声担当者のミスで、スタジオのマイクが切れてなかったのさ。どうやらアンダーヒルがもう一人の蜘蛛族をぶん殴ったらしいんだ。つまりボンソルのあの行動は、妥当な翻訳≠チてわけさ……くそ!」
トルードは本気で心配そうなようすになり、さまざまな解釈を考えはじめた。トリンリは鈍《にぶ》くて気づかないらしく、にやりとしてその肩を叩いた。
「あまり心配するな。キウィ・リゾレットが一枚噛んでるんだから。それはつまり、ナウ領督《りょうとく》は愚人をもっと広範囲に使いたいと思っているってことだ。その詳細を話しあうために、おまえはこっちの仮設舎に来ていたことにすればいいじゃないか」
タクシー船は減速のために反転しはじめた。岩石群とアラクナ星が空を横切った。
25
ペデュア師がラジオ局から出ていくところはわからなかった。パパはすこし沈んだようすだったけれども、子どもたちが番組の討論を楽しんだことを話すと、笑顔をみせてすこし笑った。ゴクナが十本脚をやってペデュア師をからかったことを、叱りさえしなかった。ヒルハウスへの帰り道は、運転するパパの隣にブレントがすわった。
ゴクナとビキは車のなかであまり言葉をかわさなかった。みんな冷静なふりをしているだけだとわかっていたからだ。
ヒルハウスに帰り着いたとき、夕食までまだ二時間ほどあった。厨房スタッフによると、ママがランズコマンド市から帰ってきていて、夕食もいっしょに食べるらしかった。ゴクナとビキは顔を見あわせた。
〈〈ママはパパにどんな話をする気かしら〉〉夕食の席で肝心な話が出てくることはないだろう。
〈〈ふうむ。じゃあ、夕方までなにをしようかしら〉〉
二人はそれぞれヒルハウスの螺旋《らせん》状の廊下ぞいを偵察してまわることにした。廊下ぞいには部屋が――たくさんの部屋があった。それらはいつも施錠《せじょう》されていて、幼い姉妹が鍵をこっそり拝借したりはできない部屋もいくつかあった。ママはここにいくつか仕事部屋を確保していた。もちろん重要なものはすべてランズコマンド市にあるのだけれども。
ビキはパパの地下室や、技術者が集まるカフェテリアへ行ってみたが、軽くのぞいただけだった。ビキはゴクナとのあいだで、パパはわざと姿を隠してはいないはずだと予想していた。
とはいえ今日の場合、隠れていない≠ゥらといって、すぐにみつかる≠ニはかぎらない。
ビキは研究室のならぶ廊下を歩いてみた。すると、パパが歩いた跡《あと》をしめすあきらかな証拠がみつかった。大学院生たちが困った顔をしたり、急にいいアイデアが浮かんだような明るい顔をして歩いているのだ(学生たちはこれを、アンダーヒルの目眩《めまい》≠ニ呼んでいた。困った顔の学生がいるときは、パパが彼になにか有益なことをいった可能性が高い。急にいいアイデアが浮かんだような明るい顔をした学生がいるときは、パパがいいかげんなことをいって、学生も自分も誤ったアイデアにとりつかれてしまっている可能性が高い)。
ヒルハウスのほぼ最上階で、屋根に林立する実験用アンテナのすぐ下の部屋に、新しい通信研究室がある。そこから階段を降りてくるジェイバート・ランダーズに、ビキは出くわした。
彼はアンダーヒルの目眩の症状を呈していない。うーん、困った。
「あら、ジェイバート。わたしの――」
「ああ、二人とも研究室のなかにいるよ」ジェイバートはうしろをさした。
やった! しかしすぐに彼のわきをすり抜けていこうとはしなかった。ママがもうここに来ているということは、さらに情報を得られる見込みがある。
「なかはどんなようすなの、ジェイバート?」
当然ながら、ジェイバートはその問いを自分の仕事に対するものだと受けとった。「最悪だよ。今朝、新しいアンテナをランズコマンド市への接続点にむけたんだ。はじめは良好な受信状態だったんだけど、いつのまにか十五秒の迂回《うかい》接続がはさまるようになってきた。どうも見通し線上に二つの局がはさまっているみたいなんだ。どういうことか、きみのお父さんに訊こうとしたんだけど――」
ビキは階段を何歩かいっしょに降りながら、ジェイバートの増幅段がどうの、一時的受信不良がどうのというわけのわからない話に対して、適当にあいづちをうった。どうやらパパがすぐに関心をもってくれたことを、ジェイバートはよろこんでいるようだった。そしてパパは通信研究室にこもる口実ができたことをよろこんでいるらしい。そしてそこヘママがあらわれたのだ……。
ジェイバートの仕事部屋のまえで彼と別れ、ビキはまた階段を昇っていった。今度は研究室の裏口へまわった。廊下の奥に、細く光が洩れているところがある。ドアがすこしひらいているのだ。ママの声が聞こえる。ビキは忍び足でドアに近づいた。
「――理解できないのよ、シャケナー。あなたは頭がいいはずよ。どうしてあんなばかなふるまいをしたの?」
ビキはためらい、暗い廊下にもどろうかと思った。こんなに怒った調子のママの声を聞くのは初めてだ。なんだか……つらい。しかし、ゴクナはビキの現地報告を聞きたがるはずだ。ビキはそっとまえに進み、顔を横にむけて細いすきまからなかをのぞいた。
研究室は以前に見たようすとほとんどおなじだった。オシロスコープや高速記録装置がたくさんある。ジェイバートの装置のいくつかからカバーがはずされているけれども、パパといっしょに本格的に電子的な分析作業をはじまるまえに、ママがやってきたらしい。ママはパパの正面に立っているので、パパの主眼からはビキが見えないはずだ。
〈〈それにこっちの位置は、ちょうどママの目の盲点になるはず〉〉
「……ぼくはそんなにひどかったかな」パパがいっている。
「そうよ!」
パパはママににらまれ、しょげかえっているようだ。「そうなのかな。油断させられたんだ。ブレントについていわれたせいで。ああいう攻撃は予想していた。きみともまえもって話していたし、ブレントとさえ話しあっていた。それでも、実際にいわれるとショックだったんだ。混乱してしまった」
ママは強く手をふった。「そこは問題じゃないのよ、シャケナー。あれはいい返答だった。あなたの傷ついたようすからは、父親らしい愛情が感じとれたわ。そうじゃなくて、そのすこしあとに、あなたはあの女の罠に――」
「天文学の話はべつとして、今後一年のあいだに公表する予定のことを話しただけだ」
「でも、いっぺんにしゃべってしまったじゃないの!」
「……たしかにね。ペデュアはまるで頭のいい、好奇心旺盛な人物のように訊いてきたんだ。ハランクナーや、このヒルハウスの学生たちのようにね。興味深い質問をされたせいで、つい調子に乗ってしまった。でも、そうかな。いまでも……。ペデュアは利口で柔軟な頭をもっていた。時間さえあれば説得できたはずだよ」
ママはあきれたような笑い声を洩らした。「まったく、どこまでばかなの!シャケナー、わたしは……」そこでふいに黙って、パパに手をのばした。「ごめんなさい。どうしてかしら。部下の職員にもこんなひどい言葉で怒鳴ったりしないのに」
パパは、ラプサやリトル・ハランクに話しかけているときのようなやさしい声でいった。
「そのわけはわかってるはずだ。きみはきみ自身とおなじくらいに、ぼくを愛してるんだ。そして自分自身をもずいぶん責めているだろう」
「心のなかではね。おもてには出さないけれど、心のなかでは」
二人はしばらく黙りこんだ。ビキは、ゴクナとの偵察ゲームには負けたことにしようかと思いはじめた。そのとき、またママが話しはじめた。声はもとの調子をとりもどしている。
「今回はあなたもわたしもしくじったのよ」ママは鍵を使って旅行|鞄《かばん》をあけ、なにかの書類をとりだした。「今後一年のあいだに、〈子どもの科学の時間〉では暗期に生活できる可能性とその長所についての話題をとりあげるわ。最初の建設契約と時をおなじくしてね。いつかは軍事的な展開があるでしょうけれども、いまの段階ではまだ心配しなくていいわ」
「軍事的展開って、もう?」
「すくなくとも危険な作戦行動はあるでしょう。ペデュアという女はティーフシュタット国の出身だということには気づいた?」
「もちろん。アクセントですぐわかるよ」
「身分をうまく隠しているのは、その隠れ蓑《みの》に無理がないからね。ペデュア師は暗黒教会の第三位聖職者だけれども、神の御業《みわざ》派の中間情報員でもあるのよ」
「キンドレッド国か」
「そう。わたしたちはティーフシュタット国とは、戦後それなりに友好的な関係を築いているけれども、キンドレッド国がそれを変えつつあるのよ。彼らはすでにいくつかの小国を実質的な支配下におさめている。正統的な暗黒教会の一宗派ではあるんだけど――」
ビキがいる廊下のずっと遠くのほうで、だれかが明かりをつけた。ママがさっと片手をあげ、じっと動かなくなった。いけない。かすかなシルエットをみつけたり、見覚えのある甲殻《こうかく》の縦溝に気づいたりしたのかも。
ママはふりかえらずに、聞き耳を立てているビキのほうを長い手でさした。「ビクトリー・ジュニア! ドアをしめて自分の部屋にもどりなさい」
ビキは恥じいるような小さな声で答えた。「はい、ママ」
裏口のドアをしめるときに、最後の声がすこしだけ聞こえた。「まったく。通信の安全対策費に毎年何千万も使っているのに、よりによって自分の娘に傍受されるなんて――」
ハマーフェスト棟の集中化クリニックは、ちょうど大混雑していた。
ファムがこれまで何度か来たときは、トルード・シリパンのほかにたまにべつの技術者が一人と、患者≠ェ一人か二人いる程度だった。ところが今日は――まるで集中化された愚人《ぐじん》たちのあいだに手榴弾でも投げこまれたかのような騒ぎだ。MRI装置はすべて使用中だった。看守の一人はソピ・ルンをその一台にかける準備をしている。ソピはうめき、手足をばたばたさせて抵抗していた。むこうの隅ではディートル・リー――物理学者だったか――が拘束され、なにやらぶつぶつつぶやいている。
レナルトは天井の支柱に足をひっかけ、逆さまに立っている。そのほうが、MRIのまわりで動きまわる技術者たちのじゃまにならないからだ。ファムたちがはいっていっても、レナルトは見むきもしなかった。
「磁気誘導は準備できてるわ。腕をきちんと縛《しば》って」
技術者が、担当する患者を部屋のまんなかへ押し出してきた。トリクシア・ボンソルだ。まわりをきょろきょろ見ているが、だれがだれともわからないようすだ。その顔は絶望的にゆがみ、すすり泣いている。
「まさか、集中化解除したのか!」エズル・ヴィンが叫び、トルードとファムを押しのけて突進しようとした。
ファムは足を固定すると同時に、エズルの腕をつかんだ。エズルの前方への動きが反転して、ファムと壁のほうへ軽くぶつかってきた。
レナルトはエズルのほうを見た。「静かにするか、さもなければ出ていって」そして、技術者のビル・フオンのほうに手をふった。「ルン博士を装置にいれて。まず――」
あとは専門用語が矢つぎばやにくりだされるだけだった。ふつうの管理職ならすぐに彼らを部屋から追い出すところだろうが、アン・レナルトは、じゃまにならないかぎり気にしないようだ。
トルードがファムとエズルのほうにもどってきて、暗い顔でいった。「そうだ、黙ってろ、ヴィン」そしてMRIの画面に目をはしらせた。「ボンソルはまだ集中化されてる。言語能力を意図的に低下させただけだ。そのほうが……あつかいやすくなるからな」
トルードは曖昧《》な視線でボンソルを見やった。彼女は拘束具のなかで自由になる範囲で、身体《からだ》をまるめるような姿勢をとっている。絶望的で悲痛なすすり泣きはまだつづいている。
エズルはファムに腕をつかまれたまま、わずかに抵抗したが、すぐにやめた。ファムだけにはそのかすかな震えがわかった。つかのま怒鳴りだしそうな顔をしたが、それもやめて、ボンソルから顔をそむけ、ぎゅっと目をつぶった。
トマス・ナウの声が部屋に響いた。「アン? このネット機能停止のせいで分析スレッドを三つ失ってしまった。それについて――」
レナルトは、エズルに対していうときとほとんどおなじ口調で答えた。「一キロ秒待ってください。こっちには精神腐敗病の暴走した患者が五人以上いるんです」
「なんだって……。あとでまた報告してくれ、アン」
レナルトはそれを聞きおわるより先に、べつの相手に話しはじめていた。「ホム! リー博士のようすはどうなの?」
「ずっと聞いているのですが、理性はたもっているようです。ラジオ放送の途中でなにかあったようで――」
レナルトは技術者や愚人や装置をよけながら、ディートル・リーのほうへ移動した。「それはおかしいわ。物理学者とラジオ放送のあいだに混信などなかったはずなのに」
技術者はリーのシャツについたカードを軽く叩いた。「本人の記録によると、こいつは通訳を聞いていたようです」
トルードがはっと大きく息をのんだのに、ファムは気づいた。トルードがなにか失敗をやらかしたのか。それはまずい。この男が降格させられたら、ファムは集中化業務に通じるパイプを失ってしまう。
しかしレナルトは、無断外出していた技術者の表情など気づかなかったようだ。ディートル・リーに近づいて、そのつぶやきをしばらく聞いた。
「たしかにそうね。こいつは蜘蛛《くも》族がオンオフ星についていったことに考えを惹きつけられている。本当の暴走ではなさそうだわ。症状をよく観察して、ループ状態にはいるようだったらすぐに知らせなさい」
壁からべつの声がした。これは愚人のようだ。「……屋根裏部屋ラボの二十パーセントが混乱におちいっています……推定される原因は、音声データ流ID2738〈子どもの科学の時間〉に対する、専門領域を超えた反応です……不安定性はおさまるようすがありません……」
「聞こえたわ、屋根裏部屋。高速シャットダウンの準備を」
レナルトはトリクシア・ボンソルのほうを見た。泣きじゃくる女を見るその視線は、強い興味とまったくの無関心さが不気味にいりまじったものだった。ふいに首をまわし、刺し貫くような目でトルード・シリパンを見た。
「いるのなら、すぐにこっちへ来て」
トルードはぴょんぴょん跳《は》ねながら上司のもとへ急いだ。「はい、ただいま。はい、ただいま」ふだんの生意気な言動はどこへやら、だ。もちろんレナルトは悪意をもったりしないが、その判断はナウとブルーゲルによって実行されるのだ。「翻訳の効果を調べにいってたんです。一般の連中が――」つまり、ベニーの酒場の客たちという意味だ。「――理解できているかと」
レナルトはそんな言い訳など聞いていなかった。「ネットワークから独立したチームを組織して。ボンソル博士の経過記録を調べるのよ」
それからトリクシアのほうにかがみこみ、探るような視線で見た。翻訳者は泣きやんでいた。身体をまるめ、ぶるぶる震えている。
「こいつはもう救えないかも」レナルトはいった。
エズル・ヴィンがファムの手のなかで身をよじり、また叫びだしそうにした。しかしファムのほうに奇妙な表情をむけると、また黙りこんだ。ファムはつかんでいた手をやるめ、肩を軽く叩いた。
二人は黙って部屋のようすを眺めつづけた。患者≠フ出入りははげしく、さらに何人かが機能の低下処理を受けた。MRIから出てきたソピ・ルンは、トリクシア・ボンソルとほとんどおなじ状態になっていた。
ファムはここ数回の当直でトルードの作業を間近に見られるようになり、そのプロセスについてもいろいろと聞き出していた。集中化技術の入門書さえ見せてもらっていた。さらに今回は、レナルトやほかの技術者が作業しているところを初めて実際に見た。
しかしここでは、どうやらたいへんなことが起きていた。精神腐敗病の暴走だ。レナルトはこの問題に対処しようと、ほとんど感情的なまでになっていた。こんな状態の彼女を見るのは初めてだ。
謎の一部はすぐに解けた。ラジオの討論番組の冒頭でトルードが発した問い合わせがきっかけとなって、多くの専門領域にまたがる検索がおこなわれたのだ。そのために多くの愚人たちが討論番組を聞きはじめた。最初の数百秒はきわめて正常な分析がおこなわれたが、結果が公表されたあと、翻訳者間の通信量が急激に増大した。ふつうは訳語のすりあわせをおこなう相談なのだが、今回はまったく意味不明の内容だった。最初にトリクシアと翻訳者の多くが混乱しはじめた。脳の化学分析によると、精神腐敗病ウイルスが制御不能の反応を起こしているのだ。暴走はトリクシアがソピ・ルンを攻撃する以前にはじまっていたのだが、それをきっかけに急拡大した。愚人ネットでなにかがやりとりされると、同様の激烈な反応が次々と起きていった。緊急事態であることが認識されたときには、愚人総数の二十パーセントが影響を受けていた。脳内のウイルスがさまざまな精神刺激物質やたんなる毒性物質を、めちゃくちゃに、大量に生産していた。
航法担当の愚人は影響を受けなかった。ブルーゲルの監視員はやや影響を受けていた。ファムはレナルトの動きをじっと観察し、細部やヒントをすべて吸収しようとした。
〈〈もしこれとおなじ状態をL1点の基盤ネットワークに起こせたら……。もしブルーゲルの監視員たちを働けなくさせられたら……〉〉
アン・レナルトは八面六臂《はちめんろっぴ》の活躍だった。すべての技術者がその命令にしたがっている。ブルーゲルのほとんどの愚人を救ったのが彼女なら、屋根裏部屋の一部の機能を再起動したのも彼女だ。アン・レナルトがいなかったらなにも回復しなかっただろう。
エマージェントの母星系では、愚人ネットのクラッシュはよくあるささいな不都合にすぎない。代替要員を生み出す大学はいくらでもあり、新しい専門家を集中化するクリニックも何百とある。しかし、そのエマージェント文明から二十光年離れたここでは、事情が異なる。ちょっとした不具合も、手に負えない機能不全に拡大する危険があるのだ……。そしてアン・レナルトのような人並みはずれた管理職員がいなければ、トマス・ナウの組織はあえなく潰れてしまうだろう。
ソピ・ルンは、MRIから出されたすぐあとに心停止した。レナルトは屋根裏部屋の再起動作業からいったん離れ、翻訳者を蘇生するために矢つぎばやに指示を出した。しかしこちらは不首尾に終わった。百秒後には、ルンの脳幹《のうかん》は暴走したウイルスの出す毒素でいっぱいになり……あとはもうどうにもならなかった。レナルトは眉をひそめて、動かなくなった身体をしばらく見つめていたが、すぐに技術者たちに運び出すよう命じた。
トリクシア・ボンソルがクリニックから出されるようすを、ファムは見つめた。こちらはまだ生きている。移動寝台の前側はレナルト自身がもっていた。
トルード・シリパンがそのあとにしたがい、ドアのほうへ近づいてきた。トルードはようやく二人の客のことを思い出したようで、いっしょに来いと合図した。
「じゃあな、トリンリ。見せ物は終わりだ」トルードの顔は青ざめて陰気だった。
暴走の正確な原因はまだつかめていなかった。愚人たちのあいだでなんらかの反応が起きたのだ。トルードがラジオ討論の最初に愚人ネットに問い合わせを送ったのは、べつになんということはない行為だったはずだ。それでもトルードは非常に不運な立場におかれていた。彼の問い合わせが暴走を惹き起こしたわけではないにせよ、関連していることはたしかなのだから。これがチェンホーの組織なら、トルードの問い合わせはひとつのきっかけとしかみなされないだろう。しかしエマージェントはひどく表面的な悪人探ししかやらないようだった。
「だいじょうぶか、トルード?」ファムは訊いた。
トルードはおびえたように小さく肩をすくめ、二人をクリニックから追い出した。「仮設舎にもどれ。それから、エズルがあの愚人のあとを追いかけてこないようにしろよ」そしてレナルトについていった。
ファムとエズルは、ハマーフェスト棟の底から上へ昇っていった。二人きりだが、ブルーゲルの監視員の視線はそこらじゅうにあるはずだ。エズルは押し黙っていた。こんなショックは、ある意味で何年かぶりなのだろう。もしかしたらジミー・ディエムの死以来かもしれない。
計算不能なほど何世代も離れているにもかかわらず、エズル・ヴィンの顔には見覚えがあった。幼い頃のラトコ・ヴィンの面影があるのだ。そしてスラにもよく似ている。そう考えるのは、あまりいい気分ではなかった。
〈〈無意識がおれになにかを訴えているのかもしれないな……きっとそうだ〉〉
クリニックにいるときだけでなく、この当直シフトではずっとだ。この若者がファムを見るときの顔は……軽蔑ではなく、なにかを計算しているような表情のことが多かった。ファムは、自分がトリンリ役をどんなふうに演じてきたかを思い出してみた。たしかに集中化技術にここまで興味をもつのは危険だ。しかしトルードの計画がその隠れ蓑になっていた。いや、クリニックのなかに立って、レナルトやボンソルの謎に意識を集中させているときでもはためには、ややあっけにとられて眺めているようにしか見えなかったはずだ。トルードとの取り引きがこの大騒ぎによってだいなしにならないかと心配している、ばかな瘋癲《ふうてん》老人に映ったはずだ。
なのにエズルは、こちらを見抜いている。どうやってか。それに対してどんな手を打てばいいのか。
二人は垂直の中央通路を出て、タクシー船エアロックへの連絡通路にはいった。愚人たちの彫った帯状装飾で、天井も壁も床も埋めつくされている。ところどころダイヤモンドの壁が薄い平面に削られているところがある。彫刻からは、彫りの深さによって濃淡のある青い光丸く大きなアラクナ星からとどく光が、柔らかくにじみ出していた。L1点から見るとアラクナ星はいつも満月とおなじ姿だ。岩石群は太陽にいつもおなじ面をむけているので、壁の青い光は一年じゅう変化がない。
この帯状装飾を見たのがべつの機会なら、ファム・ヌウェンは魅了されていたかもしれないが、いまはどうやって彫られたものかを知っている。トルード・シリパンとこの連絡通路をとおると、どの当直シフトでもかならず、壁を彫っている作業員たちの姿があった。ナウとブルーゲルは、学術的専門性のない愚人たちの人生をすべてこの壁のまえでついえさせようとしているのだ。ファムが知る範囲でも、すくなくとも二人が老齢で死んでいるはずだ。まだ生き延びている作業員たちは、いまはここにはいない。たぶんべつの小さな廊下で彫刻の仕上げをしているのだろう。
〈〈おれが乗っ取ったら、こんなことはさせないぞ〉〉
集中化は恐ろしい技術だ。それを応用するのは重要性の高い案件にかぎるべきだ。
脇道の通路にはいると、こちらはタンク培養の木でつくった板が張られていた。トマス・ナウの私室までこの板張りの通路がつづいているはずだ。木目はカーブにそってなめらかにつづいていた。
そのむこうから、キウィ・リン・リゾレットがあらわれた。二人がやってくるのが聞こえたのだろう。いやそれどころか、クリニックを出るところから映像でずっと見ていたのかもしれない。どちらにしても、まるでふつうに重力のある惑星に立っているように足がぴったり床についているところを見ると、だいぶ長いこと待っていたようだ。
「エズル、待って。ちょっとだけ話をできる? あの番組ではけして彼女をあんなふうに――」
エズルはファムのすこしまえを、黙って進んでいた。キウィの姿を見るとさっと顔をあげたが、はじめはそのままわきを通りすぎそうだった。ところがキウィが声をかけたとたん、エズルは壁を強く押してそちらへ突進していった。相手の顔に殴りかかるような、強い敵意に満ちた動きだ。
「待て!」
ファムは怒鳴ったが、あえて無能な老人の役柄にとどまった。今日はすでに一度、力ずくでこの若者を押さえこんでいるのだ。今度という今度は監視員に気づかれかねない。それにファムは、屋外で働くキウィのようすを何度も見ていた。彼女はL1点にいる人間のなかでいちばん鍛《きた》えられた身体をもっているし、運動神経も生まれつきすぐれている。エズルが突進していっても、キウィに怒りをぶつけることはできないと思い知らされるだけだろう。
ところが、キウィは反撃しなかった。身じろぎさえしない。エズルは腕を大きくふりかぶり、平手《ひらて》で相手を力いっぱい殴った。反動で二人はくるくると回転しながら離れた。
「ああ、話をしようじゃないか!」
エズルはしゃがれた声でいうと、また壁を蹴って、もう一度キウィを平手で叩いた。今度もキウィは反撃しなかったし、手をあげて顔を守ろうとさえしなかった。
そこにいたってファム・ヌウェンは、思わずそちらへ突進していった。頭の隅のほうからは、なにも知らない一人のガキを助けるために、長年かけて仕立てた擬装《ぎそう》を危険にさらすのかと、自分を笑う声が聞こえた。しかしそのおなじ部分からは、声援も送られてきた。
ファムが身体をぶつけたはずみで、二人の身体は制御不能のスピン状態におちいったように、はためには見えた。そしてファムの肩がエズルの腹に偶然ぶつかったせいで、若者は壁に叩きつけられた、と見えたはずだ。カメラに映らないところで、ファムはエズルに肘《ひじ》の一撃をお見舞いした。直後に、エズルの頭は壁にはげしく叩きつけられた。ここがまだ彫刻されたダイヤモンドの通路だったらひどい怪我《けが》をしていただろう。しかし板張りのおかげで、エズルは弱々しくもがきながら壁から跳ね返ってきた。後頭部からは小さな血の滴《しずく》が漂い出ている。
「弱い者いじめはやめろ、エズル! 臆病でだらしのないやつめ。おまえたち名門商家の出身者はみんなそうだ」
ファムのこの怒りは本物だった――しかし同時に、隠れ蓑をあばかれる危険を冒した自分に対する怒りでもあった。
エズルの目にゆっくりと理性がもどってきた。そして、四メートルほど離れたところに浮かんでいるキウィを見やった。こちらを見つめ返すキウィの表情には、ショックと決意が奇妙にいりまじっていた。それからエズルはファムを見た。ファムは背筋が寒くなるのを覚えた。ブルーゲルのカメラには騒ぎのこまかいところまで映ってはいないだろうが、この若者はファムの攻撃がすべて計算ずくだったことに気づいていた。二人はしばらく見あっていたが、エズルは腕をもぎ離し、急いで連絡通路をタクシー船エアロックのほうへ進んでいった。叩きのめされた男が恥ずかしそうに退散していくときの姿だ。しかしファムはこの若者の目のなかに、ある表情を見ていた。エズル・ヴィンについては、あとでどうにかしないといけないだろう。
キウィはエズルのほうを追いかけはじめたが、十メートルもいかないうちに自分で止まった。廊下がT字になったつきあたりまで漂っていって、エズルが去っていったほうをじっと見た。
ファムはそのそばに近づいた。さっさと立ち去るべきなのはわかっていた。いくつかのカメラに監視されているのはあきらかだし、キウィのような人物のそばに長いこととどまるのは得策ではない。とすると、別れぎわにどんな台詞《せりふ》を残すのが安全だろうか。
「心配いらねえよ。エズルはそんなたいしたやつじゃない。もうあんなことはさせないから。きっとだ」
しばらくして、キウィはファムのほうをむいた。ファムははっとして、ずいぶん母親に似てきたものだなと思った。ナウはこれまで彼女を、ほとんど連続当直に近いサイクルで勤務させていたのだ。キウィは目に涙を浮かべていた。切り傷や血は見あたらなかったが、顔の浅黒い肌は腫《は》れはじめていた。
「エズルを傷つけるつもりなんてなかったのよ。ああ、もし……もしトリクシアが死んだら、わたしはどうすればいいのかしら」
キウィは短く切った黒髪をかきあげた。ずいぶん成長したとはいえ、その顔にはディエムの虐殺《ぎゃくさつ》事件直後とほとんど変わらない混乱した表情が浮かんでいた。ファム・トリンリのような瘋癲老人にも心境を告白せずにいられないほど、孤独でつらいのだ。
「わたしは……小さい頃のわたしは、エズル・ヴィンを宇宙のだれより好きだったわ。両親以外ではね」ちらりとファムのほうをむいたその顔には、痛々しく、震える笑みが浮かんでいた。
「彼に自分のことをよく思ってもらいたかったのよ。ところがそのあと、エマージェントが攻めてきて、ジミー・ディエムがわたしの母を、ほかの多くの人々といっしょに殺して……。いまはとても小さな救命ボートにみんなが乗っている状態なのよ。これ以上、死者を出すことは許されない」首を小さく鋭くふった。「ディエムの虐殺事件以来、トマスは冷凍睡眠にはいっていないのよ。この二十年間ずっと目覚めていた。とてもまじめで勤勉なのよ。トマスは集中化技術を信奉しているけど、ほかのやり方にも寛大な考えをもっているわ」
エズルに話したかったことを、かわりにファムに話しているのだ。
「トマスがいなかったら、ベニーの酒場は存在しなかったはずよ。取り引きも盆栽も存在しなかった。エマージェントはすこしずつわたしたちのやり方を理解しているの。こうしていけばいつか、トマスはわたしの父や、トリクシアや、ほかの集中化された入々を全員解放してくれるかもしれない。いつか――」
ファムは手をのばして慰《なぐさ》めてやりたかった。ジミー・ディエムに本当はなにが起きたかを知っているのは、彼を殺した連中をのぞけば、いまはファム・ヌウェンただ一人かもしれないのだ。そして、ナウとブルーゲルがキウィ・リン・リゾレットになにをしているかも、知っていた。安全のためには、無愛想な態度でキウィのまえから去るべきだった。しかしなぜかそうはできず、ファムは困惑し、混乱した表情のままその場にとどまった。
〈〈そうだ、いつかだ。いつかおまえにも復讐のときが訪れるはずだ、キウィ〉〉
26
リッツァー・ブルーゲルの私室と司令室は、インビジブルハンド号の船内にあった。行商人どもはずいぶん的確な名前をつけたものだ。警備システムの核心を、|見えない手《インビジブルハンド》≠ニいう短い言葉で表現しているのだから。
とにかくインビジブルハンド号は、チェンホーとエマージェント両船団を通じて、もっとも船体の損傷が少ない船だ。当直船員室は無傷で残っている。メインエンジンは、おそらく一Gの加速を数日つづけるくらいの機能を残しているだろう。船が明け渡されてからあと、通信系と電子戦装備は集中化技術にあわせて改装された。インビジブルハンド号に乗っているかぎり、ブルーゲルは神のような力をふるえた。
ただし、物理的に離れているからといって精神腐敗病の暴走からのがれることはできなかった。暴走は、集中化された精神における感情的な、バランスの崩壊によって起きる。通常は親密な関係で作業する愚人《ぐじん》たちのグループでのみ発生するが、その性格から、通信ネットワークを介して伝播《でんぱ》する可能性はつねにあるのだ。
文明世界でのこういう暴走は、日常的なちょっとした不具合にすぎないし、即交換可能な要員がいつでも用意されている。しかしこのような僻地《へきち》では重大な事態に至る危険があった。ブルーゲルはレナルトとほぼおなじ時点で暴走の発生に気づいた――しかし、愚人たちを停止させる余裕はなかった。いつものようにレナルトからは二流の要員しかあたえられていなかったが、それでもなんとかやった。まず監視員を小さなグループに分けて、それぞれ独立して作業させた。それによる情報収集結果は内容がばらばらで、あとから経過記録を詳細に分析する必要がある。それでも大きな見のがしはないはずだ。それに時間さえあれば、細部まですべて分析して追いつけるのだ。
最初の二十キロ秒で、ブルーゲルは三人の監視員を暴走で失った。そいつらはカル・オモに始末させ、ほかは作業をつづけさせた。そのあとブルーゲルはハマーフェスト棟へ行って、トマス・ナウと長い話し合いをもった。レナルトは翻訳部門の中心メンバーをふくむ六人を失ったということだった。ナウは、ブルーゲルの損害が少なかったことに感心した。
「おまえの愚人たちはこのまま働かせろ、リッツァー。アンは、翻訳者たちが蜘蛛《くも》族の議論をの聞きながら両方の意見にそれぞれ肩入れしすぎたのが、暴走の原因だと考えている。よくある愚人の意見の不一致がエスカレートしたというわけだ。たしかにそうかもしれないが、あの議論は翻訳者たちの集中化対象からかなりはずれていた。事態が沈静化したら、経過記録を一秒ずつ分析して、あやしい出来事を探り出せ」
さらに六十キロ秒後、ブルーゲルとナウは、すくなくとも警備局の愚人についての危機的情況はすぎたという認識で一致した。カル・オモ領兵長は監視員たちをレナルトの愚人と協議できる状態にもどしたが、使用する回線には緩衝《かんしょう》処置をほどこした。そしてこれまでの経過を詳しく調べはじめた。
この騒動によってブルーゲルの業務は、短時間とはいえがたがたになったようだ。電波漏出規制策は、およそ千秒にわたってまったく機能しなくなっていた。もっとも、詳細に調査してみても、星系外にむかってなにかが発信された形跡はなかった。つまり長期的な秘密は守られている。一方で星系内にむかっては、翻訳者たちは規制システムを突破してなにやら大声で怒鳴ったらしい痕跡《こんせき》があった。しかし蜘蛛族が気づいたようすはない。あんな混乱した通信電波は一時的なノイズとしか思われないだろうから、当然だ。
最終的にブルーゲルは、この暴走はたんなる不運だったと結論せざるをえなかった。ただその調査過程で、ちょっとしたおもしろい収穫がいくつかあった。
ブルーゲルは、いつもはL1点の岩石群とそのはるかむこうのアラクナ星を一望できるインビジブルハンド号の船橋にずっととどまっている。しかしシレトとマーリがハマーフェスト棟での作業に駆り出されたため、ここで百人近い監視員を働かせるための要員は、タンとカル・オモしか残っていなかった。そこで今日はオモとタンといっしょに、ブルーゲルもシステムの中枢に降りて作業を手伝っていた。
「エズル・ヴィンはこの当直シフトのあいだに三回、要注意指標を立てられています、領督《りょうとく》。二回は、当然ながらこの暴走中ですが」
ブルーゲルはオモの頭上を漂いながら、当直中の愚人たちを見おろした。約三分の一は座席のなかで眠っている。残りはデータ流にひたって、経過記録を調べたり、その結果をハマーフェスト棟にいるレナルトの愚人たちとつきあわせたりしている。
「それで、なにがわかったんだ?」ブルーゲルは訊いた。
「レナルトのクリニックと、ナウ領督の居室のそばの廊下で撮《と》られた映像を分析したものですが……」映像は早まわしされ、監視員が特別視している身ぶりのところだけが強調された。
「犯罪を構成するようなあきらかな外的行為ではないだろう?」
カル・オモの手斧《ておの》のようなかたちをした顔に、おもしろくもなさそうな笑みが浮かんだ。
「故郷の世界でなら起訴されてしかるべき部分はたくさんありますが、現在の執行令下では、ありませんね」
「そうだな」
ナウ領督が敷いている執行令は、ここがエマージェント文明圏内なら即刻解任させられてもしかたないような、ひどい内容だった。なにしろナウは、二十年以上にわたって行商人の豚どもを太らせ、法を遵守《じゅんしゅ》するまじめな市民を貶《おとし》めているのだ。当初ブルーゲルはそのことが頭にきていたのだが……。いまではそのわけがわかるようになった。ナウはあらゆる面で賢明だったのだ。ここではこれ以上の破壊行為を許す余地はない。そして人々が多くの情報、すなわち秘密を容易に口に出すような雰囲気をつくっておけば、ふたたび手綱《たづな》を締めたときに利用できる。
「それで、ここではなにがわかるんだ?」ブルーゲルは訊いた。
「第七および第八分析担当者が、最後の二つの場面を関連づけています」
第七と第八分析担当は、最前列の端のほうにいる愚人だ。子どもの頃は名前があっただろうが、それは警察学校にはいる以前の、遠いむかしの話だ。市井《しせい》の生活ではくだらない名前や、博士≠ニいった肩書きが使われるが、厳粛《げんしゅく》な警察の世界にそんなものはない。
「エズル・ヴィンは、ふだんの心配事以外のなにかに気をとられています」カル・オモはつづけた。「この頭の動きを見てください」
ブルーゲルにはまったく意味不明だった。しかし彼の仕事は指揮することであって、法廷でもちいるようなこまごまとした証拠を理解することではないのだ。
オモはつづけた。「エズル・ヴィンはトリンリに対して、なにか大きな疑いをいだいています。タクシー船エアロックへつづく通路でも、おなじことがまた起きています」
ブルーゲルは、ハマーフェスト棟滞在中のエズル・ヴィンの行動をとらえた映像インデックスを、ばらばらとめくってみた。
「なるほど。トリンリとの喧嘩、トルード・シリパンへのつきまとい。おやおや――」おもわず笑いだした。「――トマス・ナウ専属娼婦への暴行なんてものもある。なのに監視員が指標を立てたのは、視線の動きと身ぶりだけだというのか」
オモは肩をすくめた。「外的行為については、エズル・ヴィンがかかえている個人的問題と一致していて、それは執行令下では許されています」
なるほど、キウィ・リゾレットが、ナウの居室の目と鼻の先で平手《ひらて》打ちされたわけか。ブルーゲルはその皮肉に思わず口もとをゆるませた。ナウは長年にわたってこの小娘をだましてきた。定期的におこなわれるキウィの精神洗浄は、ブルーゲルにとって退屈な日常にともるひとつの明かりだった。とりわけ、キウィがあるビデオを観《み》せられたときの反応が楽しみだった。
それでも、ナウに対する羨望《せんぼう》の気持ちは否定できなかった。たとえ精神洗浄という手段を使っても、ブルーゲルはそんな仮面芝居をつづけることはかなわない。ブルーゲルの女はそんなに長持ちしないからだ。一年に何度かはナウのもとに詣《もう》でて、おもちゃにする女を分けてくれと頼まなくてはならなかった。死なせていいような魅力的な女はもうほとんど使いはたしていた。ときにはフローリア・ペレスのような幸運もある。彼女はキウィが精神洗浄術をほどこされているという事実に気づいたはずで、化学技術者という技能をもっていても、消さなくてはならなかった。しかしそういう幸運がいつもあるわけではない……。
そしてこの孤立生活はまだ何年もつづくのだ。いつものこの暗い考えを、ブルーゲルは決然としてわきへ押しやった。
「わかった。とにかくこういうことか。第七と第八分析担当者は、エズル・ヴィンがいままで意識にのぼらなかったなにか――すくなくとも、いままではこれほどはっきりと意識にのぼらなかったなにか――を隠しているとみているんだな」
ここが文明世界なら話は簡単だ。犯罪者を引っぱってきて、力ずくで自供を引き出せばいい。しかしここでは……まあ、力ずくをやる機会はなくはなかったが、がっかりするほど少なかった。少なからぬチェンホーが効果的な阻害機構をもっていて、精神腐敗病にうまく感染しなかったのだ。
強調された映像を、ブルーゲルはくりかえし見た。
「ふむ。トリンリがザムレ・エングだという事実に、あのガキが気づいたのだと思うか?」
行商人はばかだ。ほとんどありとあらゆる堕落を許容しているくせに、自分たちの仲間の一人が人身売買を手がけたというだけで、そいつを毛嫌いしているのだ。ブルーゲルは不愉快そうに唇を曲げた。
〈〈くそ。おれたちも落ちたものだ。恐喝《きょうかつ》は領督が得意とする武器だが、ファム・トリンリのようなやつは、たんにおどかすだけで充分だろう〉〉
ブルーゲルはもう一度オモの挙《あ》げた証拠をざっと眺めたが、あまりにも根拠薄弱に思えた。
「もしかすると、監視員どもが反応する閾値《いきち》をさげすぎてるんじゃないのか?」
オモも以前、そういうことをいっていた。しかし彼は賢明に、にこりともせずに答えた。
「ありえます。しかし、管理職が判断するような疑問がひとつもあがってこないようでは、現場の職員にも存在理由がありませんから」愚人だらけの宇宙を領督一人が支配するような光景は、幻想の世界にすぎないのだ。「じつは、ひとつ希望があるんです、ブルーゲル領督」
「なんだ」
「チェンホー製の独立機能型ローカライザーを、ハマーフェスト棟にも配備できないものかと思うのです」オモはいった。「チェンホーの仮設舎よりもわれわれの居住空間のほうが警備が手薄だというのは、どうもやり方が逆なのではないでしょうか。今回の出来事が仮設舎で起きていたら、エズル・ヴィンの血圧も心拍数もわかった――それどころか、ローカライザーが対象の頭皮についていたら、脳波さえわかったのです。行商人のセンサー技術とわれわれの集中化技術を合体させたら、対象が頭のなかで考えていることだって見通せるんですよ」
「ああ、わかってる」
チェンホー製ローカライザーのおかげで、L1点の法の執行水準は飛躍的に高まった。大きさわずか一ミリほどのこの装置が、行商人の仮設舎じゅうに何十万個も散らばっている――ナウが両船団の交流規制をゆるめたので、いまではハマーフェスト棟の公共エリアにも何百個かはいってきているだろう。ハマーフェスト棟の運用システムをすこし手直しして、マイクロ波のパルスを出すようにすれば、ローカライザーが機能する範囲は即座に広まる。壁面カメラのような古臭い装置とはさようならだ。
「その件はナウ領督に要請しておく」ブルーゲルはいった。
レナルトの配下のプログラマーたちは二年以上にわたって行商人のローカライザーを調べているが、隠された罠などはみつかっていなかった。
その一方で……。
「まあ、エズル・ヴィンは仮設舎に帰ったんだ。おまえの期待するローカライザーによる監視が存分にできるぞ」ブルーゲルはオモにむかってにやりとした。「愚人を二人ほどやつの専任にしろ。集中分析でなにか引っかかってくるかもしれない」
エズルはそれから非常事態が終わるまで、感情を爆発させることなくすごした。ハマーフェスト棟から出された定時報告によると、精神腐敗病の暴走は停止した。ソピ・ルンをはじめ、九人の集中化された人々が死亡し、三人が重大な損傷≠受けた。しかしトリクシアは、損傷なし、業務に復帰≠ニされていた。
ベニーの酒場では今回の暴走についてさまざまな憶測がやりとりされた。リタ・リヤオは、よくあるシステムクラッシュにすぎないといった。
「バラクリア星のわたしの仕事場では二年ごとくらいに起きてたわ。そのうち原因が特定できたのは一回だけ。こういうのは、精密な社会システムゆえに支払わされる代償なのよ」
しかしこの暴走のために、〈子どもの科学の時間〉の事後音声通訳さえできなくなるのではないかと、彼女もジョー・シンも心配しでいた。ゴンレ・フォンは、そんなことはない、シャケナー・アンダーヒルはペデュアとの奇妙な論争に負けたのだから、放送そのものがなくなると、王張した。トルード・シリパンは議論の場にいなかった。ハマーフェスト棟に行ったまま、しばらくむこうで業務に就くようだった。そのかわりにファム・トリンリが長広舌《ちょうこうぜつ》をふるった。トリクシアは現実の喧嘩にそって演技をしていて、それがきっかけで暴走が起きたというトルードの説を、そのまま話したのだ。
エズルは黙りこくり、ぼんやりとそれを聞いていた。
次の仕事は四十キロ秒後だ。エズルは早めに部屋にもどった。しばらくはベニーの酒場に顔を出す気にもなれないだろう。恥ずべきことや、苦痛なことや、危険な謎など、いろいろなことがいっぺんに起きた。エズルは薄暗い自分の部屋にはいると、苦悩の回転台に身を投げ出した。ひとつの問題をしばらく力なく考え……そこから逃げて、おなじくらい恐ろしいことを考え、また逃げて……。そうやって最初の恐怖に逆もどりするのだ。
〈〈キウィ……〉〉これは恥ずべきことだ。二度殴ったのだ。それも強く。〈〈もしファム・トリンリに止められなかったら、もっとつづけただろうか〉〉
想像もしなかったような恐怖が目のまえに口をあけていた。いつか自分がたいへんなへまをやらかすかもしれない、臆病さをさらけだすような失態を見せてしまうかもしれないと恐れていたが……今日は自分のなかにべつのものをみつけてしまった。どうしようもない野蛮さだ。
キウィはトリクシアを番組に出すのにひと役かった。それはたしかだ。しかし、その経過にかかわったのは彼女だけではない。キウィはトマス・ナウのもとで恩恵を得ているが……。とはいえ、この孤立生活がはじまったとき、キウィはまだ子どもだったのだ。
〈〈なのに、なぜキウィをあんなに責めたんだろう〉〉
彼女がむかしは自分を好きだったようだからか。反撃してこないと思ったからか。そんな声がエズルの脳裏に渦巻いて離れなかった。エズル・ヴィンという人間の核心は、無能なのでも弱いのでもなく、たんに薄ぎたないのかもしれない。エズルの頭はその結論のまわりをぐるぐるまわって……やっと脇道をみつけた。
〈〈ファム・トリンリ……〉〉
これは謎だ。トリンリは昨日、二度行動を起こし、二度ともエズルがもっとばかげて悪辣《あくらつ》な真似をするのを防いだ。エズルの後頭部では傷が瘡蓋《かさぶた》になっている。トリンリの不器用な$g体《からだ》がぶつかってきたために、壁で頭を打ったのだ。エズルはトリンリが仮設舎のジムで運動しているところを見かけたことがあったが、老人の身体はとくに鍛《きた》えられているわけでもなかった。反応速度もたいしたことはない。しかし、わずかな身のこなしで、偶然に見せかけながら、意図したとおりの動きができるようだ。
考えてみれば、ファム・トリンリはいつもうまいタイミングでエズルのそばにいた。ジミーの虐殺《ぎゃくさつ》事件の直後には、仮設舎の公園でも行きあった。
〈〈あの老いぼれは、実際にどんなことをいったのだったか〉〉
カメラにはなにも不審なことは映らなかっただろうし、エズルの注意の方向を変えるようなこともしていない。ただ……トリンリのいったなにかが、ジミー・ディエムは殺されたのであり、ナウが主張するような罪はまったく犯していないと確信する意識を呼び覚ました。実際にトリンリがいったことは誇張が多く、利己的で、なんの役にも立たない内容だったが……。
エズルはこまかい記憶をたぐり、ほかの人々が見のがすような手がかりがなかったかと考えた。もしかすると、絶望のあまり蜃気楼《しんきろう》を見ているだけなのかもしれない。問題が解決不能なほど深刻になると、狂気がしのびこんでくるものだ。それに昨日は、エズルのなかのなにかが壊れた……。
〈〈トリクシア……〉〉
これは苦痛と怒りと恐怖に充《み》ちた問題だ。昨日、トリクシアはもうすこしで死ぬところだった。その身体はソピ・ルンとおなじくらいに苦しみ、もがいていた。いや、もっとひどかったかもしれない……。MRI装置から出されてきたときの顔を、エズルは思い出した。トルードは、トリクシアの言語学者としての能力を一時的に低下させたのだといっていた。だから苦しんでいたのかもしれない。いまでも自分にとってだいじななにかを失いたくなくて、もがいていたのかもしれない。あるいはトルードが嘘をついていたのか。レナルトやナウやブルーゲルもいろいろな嘘をついているように思えるではないか。トリクシアはあのときだけ集中化を解除され、老いたわが身を見たのではないか。人生の大部分を奪われたことに気づいたのではないか。
〈〈でも、ぼくには知りようがないんだ。こうやって何年でもトリクシアを見守りつづけるしかないんだ。怒りながらも無力で……そして無言で〉〉
だれかを殴りたかった。だれかを罰したかった……。
そうやって苦悩の回転台は、キウィの問題にもどった。
二キロ秒がすぎ、さらに四キロ秒になった。解決不能の問題を何度も何度もくりかえさせられた。こういうことはいままでにもあって、この回転台の上で一睡もせずに夜明かししたこともあった。疲れきって眠ったこともあった。眠れば、苦悩はやむ。
今夜は、もう何度めかわからないファム・トリンリの問題に考えがもどったとき、エズルは癇癪《かんしゃく》を起こした。狂ったからどうだというのだ。救済の蜃気楼を見ているだけだとしても、こうなったらそれに飛びついてやればいい!
エズルは起きあがって、ヘッドアップディスプレーをつけた。ライブラリのアクセスルーチンでしばらく手間どった。出来の悪いエマージェントのインターフェースにはまだ慣れないし、簡単なカスタマイズもできないのだ。やがて、まわりに見える窓に、ナウに提出する予定の書きかけの文書が映し出された。
さあ、自分がファム・トリンリについて知っていることといえばなんだろう。ナウやブルーゲルも気づかないようなことを知っているのか。あいつは見かけによらず高度な白兵戦《はくへいせん》技術の持ち主だ――いや、それをいうなら強盗の技術というべきか。そしてそれをエマージェントには隠している。敵船団の目をごまかしているのだ……。そして今日からあとは、エズル・ヴィンがそのことに気づいたはずだとも思っているだろう。
もしかするとトリンリは、船団に溶けこんで生き延びようとしている老いた犯罪者にすぎないのかもしれない。しかし、だとしたら、あのローカライザーの一件はどうなのか。トリンリはチェンホー船団の秘密をトマス・ナウにあかし、そのせいでナウの力は百倍も大きくなった。自律機能系をのせた小さな装置はどこにでも存在している。たぶん、この拳《こぶし》の上にも汗が光っているだけかもしれないが、じつはこれもローカライザーかもしれないのだ。これらがエズルの腕の位置、指の位置、首の角度まで正確に測って報告している。ナウの監視員はすべてを知っているのだ。
こういった機能は、最高レベルのパスワードを使ってはいった船団ライブラリにも書かれていなかった。とすると、ファム・トリンリはチェンホーの遠いむかしにまでさかのぼる秘密を知っていることになる。それをトマス・ナウにあかしたというのは、なにかの隠れ蓑《みの》にしている可能性が高いが……しかし、なんの隠れ蓑だというのか。
エズルはその点についてしばらく頭をひねってみたが、なにも思いつかなかった。しかたなく、ファム・トリンリ老人について考えてみることにした。こいつは食わせ者だ。なにしろチェンホー船団の秘密階層のさらに上にある重要な秘密を知っているのだから。おそらく現代チェンホーの創始期、すなわち、ファム・ヌウェンとスラ・ヴィンとブリスゴー間隙《かんげき》会議の時代から生きているのだろう。そうするとトリンリは客観時間でとてつもない年齢ということになるが、ありえないことではないし、きわめてめずらしいというわけでもない。長距離遠征を何度もやれば、商人が客観時間で千年以上の時を渡ることはありえる。エズルの両親の友人には、原初地球を歩いた人間さえ一人二人いるくらいだった。それでもチェンホー自律機能系の基盤層にアクセスできるようなやつは、おそらくいないだろう。
もし本当にトリンリが、エズルの尋常ならざる推論がさししめすような男だとしたら、かならず歴史に名前が登場しているはずだ。では、だれか……。
エズルの指がキーボードを叩いた。このあとに待っている任務は、エズルがいま知りたい疑問を擬装《ぎそう》するのにちょうどいいと思われた。ナウはチェンホーについてのあらゆる情報に貧欲な興味をもっていて、エズルにいつも概要の報告書を書かせ、愚人を使って検証できるように検索経過記録を提供させていた。エズルは従順で如才《じょさい》ない態度をよそおいながらも、ナウがある意味でブルーゲルよりも狂気じみていることには、とうに気づいていた。将来、支配すべき対象として、ナウはチェンホーを研究しているのだ。
〈〈気をつけなくては〉〉
エズルが本当に調べたいテーマは、これから書く報告に必要なデータと完全に重なっている必要がある。さらには、見ために関係ないと思える事項もランダムにちりばめておかねばならない。こちらの意図について監視員たちがせいぜい頭を絞るようにするわけだ。
エズルが求めるのは名前のリストだ。チェンホーの男性で、現代チェンホーの創始期に生きていて、パーク船団長の遠征隊がトライランド星を出発した時点でまだ死亡が確認されていなかった人物。人類宇宙のこちら側からはるか遠いところにいるとわかっている連中を消去すると、リストはかなり短くなった。ブリスゴー間隙にもいたという条件をつけると、リストはまたぐっと縮小した。
五つの論理演算子を接続するのは、音声入力やキー入力をすこしやればすむことだ――しかし、エズルにはそれほど単純にやるわけにはいかなかった。どの論理演算子も、報告書作成に必要な検索の一部として実行した。そのために、求める名前は数ページにわたる分析結果のあちこちに散らばってしまった。
天井近くを漂う太陽系儀によると、あと十五キロ秒後には部屋の壁が朝の光で輝きはじめるはずだ……。それでもとにかく、リストは手にはいった。これになにか意味があるだろうか。ほとんど考えられないような人物も何人かふくまれている。この検索そのものも曖昧《あいまい》だ。チェンホーの星間ネットは巨大で、ある意味で人類史上最大の構築物といえるだろう。しかしその内容は数年あるいは数世紀単位で古いのだ。それにチェンホー自身も仲間に対して嘘を発信することがある。距離的に近くて、混乱させたほうが商売上の利益になる場合などがそうだ。
名前のリスト……。何人いて、具体的にどんな名前が挙《あ》がっているのか。リストを詳しく調べるのはひどく時間がかかるし、監視員たちに気づかれてしまうだろう。それでも目についた名前はいくつかあった。たとえば、トラン・ヴィン第二十一家。彼はスラ・ヴィンの曾孫《ひまご》で、エズルが属するヴィン姓の分家の、男性側の始祖だ。キング・ゼン第〇三家は、ブリスゴー間隙におけるスラの主任戦闘員だ。しかしゼソとトリンリが同一人物だとはとても思えない。ゼンは身長百二十センチそこそこしかなく、横幅がおなじくらいあったのだ。ほかの名前はあまり有名でなかった。ユン、トラップ、パーク……。パーク?
エズルは思わずはっとした。ブルーゲルの愚人たちが記録を見なおしたら、確実に注意を惹くだろう。いまいましいローカライザーは脈拍や、下手《へた》をすると血圧さえも検知しているはずだ。
〈〈驚いたのに気づいたら、なにかあると思うはずだ〉〉
「まさか、まさか……」
エズルはつぶやきながら、写真と生体情報をすべての窓に呼び出した。たしかにオンオフ星への遠征を率《ひき》いた船団長、われらがS・J・パークのようだ。エズルは子どもの頃からパークを知っている。そんなに年寄りだとは思わなかったのだが……。
しかしじつは、履歴《りれき》に曖昧なところがあったし、DNA記録ものちのパークとは一致しなかった。ふむ。これはナウとレナルトの注意をそらすのにちょうどいい。エズルには由緒《ゆいしょ》ある商家で育った実体験があるが、彼らにそれはわからないのだから。
とにかく、S・J・パークは二千年前のブリスゴー間隙にいて、一隻の船を率いていたようだ。パークはのちにラトコ・ヴィンと結婚していた。破綻《はたん》したその結婚契約については奇怪な噂がいろいろあったが、そのあとの記録はなにもなかった。
エズルはパークについてのおもな手がかりをたぐっていったが――しばらくしてやめた。最初は驚いたが、驚天動地というほどではないことがわかったというように。
リストのほかの名前はどうか……。何キロ秒かかけてざっと調べたが、それらしいものはなかった。S・J・パークのことが頭から離れなくなりつつあるのに気づいて、エズルはあわてた。
〈〈敵はこちらの考えをどこまで読めるのかな〉〉
トリクシアの写真に目を移して、いつもの苦悩に身をゆだねた。ベッドにはいるまえはいつもそうしているのだ。
涙に暮れながら、頭のなかではパークのことを必死で考えはじめた。もしいまの考えが正しいとしたら、パークは遠い過去からやってきたことになる。両親がパークに対して、一介の雇《やと》われ船長とは思えないもてなしをあたえていたのも不思議はない。それどころか、彼もファム・ヌウェンの大遠征に参加していたかもしれないのだ。
ブリスゴー間隙で巨万の富を築いたヌウェンは、大船団を率い、人類宇宙の反対側をめざして出発した。ヌウェンらしい行動だ。反対側は四百光年以上離れており、到着する頃には周辺の交易情報は遠い過去のものになっているはずだ。またその予定航路は人類宇宙のなかでもっとも古い宙域を通過するはずだった。出発から何世紀か、キャンベラ星の王子≠ェ船団の規模をふくらませたり縮小したりしながら前進するようすが、チェンホー・ネットに報告されつづけた。しかしそのうち報告は途絶《とだ》えはじめ、信憑性《しんぴょうせい》も失われていった。おそらくヌウェンは道なかばで倒れたのだろう。子どもの頃、エズルは友だちとよく消えた王子≠イっこをして遊んだものだ。遠征め結末はいろいろ考えられる。冒険、あるいは恐怖の事態、あるいは――これがいちばんありそうなのだが――老齢と経営破綻。何光年ものあいだに破産した船が脱落していったのだろう。そして大船団は二度ともどってこなかった。
〈〈でも、一部が帰ってきた可能性はある〉〉
みずからの時代からはるか遠くへ連れていってくれる大遠征に心奪われた人々が、あちこちにいるのではないか。帰ってきた人々の名前を知っているのは、だれか。
〈〈おそらく、S・J・パークは知っていたはずだ〉〉
おそらくS・J・パークは、ファム・トリンリの正体もちゃんと知っていたはずだ――そしてその秘密がばれないように守ってやっていたのだ。ブリスゴー間隙の時代から来た、それほど重要で、それほど有名な人物とは……。S・J・パークがそれほどまでに忠誠を誓う相手とは……。
だれなのか。
ふいにエズルは、パーク船団長がみずからの旗艦を個人的な意志で命名したという話を思い出した。ファム・ヌウェン号……。
ファム・トリンリ。ファム・ヌウェン。キャンベラ星の消えた王子。
〈〈とうとう本当に頭がおかしくなってしまったのかな〉〉
この結論の妥当性は、ライブラリの検索をやれば一発で決着する。しかし、だからといって、それで誤りが立証されるわけではない。たとえエズルの考えが正しくとも、ライブラリが巧妙な嘘をつく可能性はあるのだ。
〈〈ああ、なにをやるのも無駄だな〉〉
これは絶望的な幻として胸の内にしまっておくしかない。個人的な欲望をおもてに出していれば、その背景雑音のなかに隠れてしまうだろう。
〈〈とはいえ、おかげで苦悩の回転台からはのがれられたじゃないか〉〉
ずいぶん遅い時間になっている。トリクシアの写真をもうしばらく眺め、悲しい思い出に沈んだ。しかし心のなかは落ち着いていた。これからもこうして心をかき乱されることはあるだろう。しかしずっと辛抱強く観察しつづけるしかないのだ。そのうちどこかで地下牢の亀裂をみつけられるかもしれない。そのとき、それが自分の想像からくる錯覚かどうか、迷ってはいけないのだ。
眠りがやってきた。そしていつもの苦悩と、新しい惨《みじ》めさに、さきほどの途方もない考えがいりまじった夢。しばらくするとすこし落ち着いて、エズルは暗い個室に漂った。なにも考えずに。
べつの夢があらわれた。あまりに現実味があるので、それをみているあいだは夢だという気がしなかった。目のなかで小さな光が明滅しているのだ。しかし目をあけると消える。そのまま起きあがった。部屋は暗いままだ。また横になって目をとじる。するとまた光がまたたきはじめた。
内容をふくんだ光だ。点滅信号だ。幼い頃によくこれで遊んだ。小惑星帯の岩から岩へと伝言ゲームをしたものだ。今夜はひとつのパターンがくりかえしあらわれる。夢うつつのエズルの頭のなかには、すぐに意味が浮かんできた。
「ワカッタラ ウナズケ……ワカッタラ ウナズケ……」
エズルは言葉にならない驚きのうめき声をもらしたすると、パターンが変わった。
「ダマレダマレダマレダマレ……」長いことつづいて、また変わった。「ワカッタラ ウナズケ……」
それは簡単だ。エズルは一センチほど首を動かした。
「ヨシ。ネムッテイルフリヲシロ。テヲ マルメロ。テノヒラヲ タタケ」
ずいぶんひさしぶりだが、秘密の会話のこつはすぐに思い出した。てのひらをキーボードにみたてて、仲間への言葉を叩くのだ。なるほど! 両手は毛布の下になっているのでこうすれば見えない。巧妙さに感心して笑いだしそうになったが、はためにおかしいのでやめた。ここまできたら、助けにきてくれたのがだれかはあきらかだ。右手をまるめて叩いた。
「ヤア カシコイ オウジサマ。ドウシテ モットハヤク キテクレナカッタンダイ?」
光の点滅がしばらく止まった。エズルの意識はふたたび眠りの深みへ引きずりこまれそうになった。そして――
「マエカラ キヅイテイタノカ? クソ」長い間《ま》があいた。「スマナイ。オマエヲ ミクビッテイタ」
エズルはすこし誇らしくなり、自分にうなずいた。いつかキウィは許してくれるかもしれない。トリクシアも甦《よみがえ》るかもしれない。そして……。
「ワカッタ」エズルは王子にむかって叩いた。「ナカマハ ナンニンイルンダ?」
「ヒミツダ。オレダケガ シッテイル。オタガイニ ハナセルガ ダレモ アイテヲ シラナイ」すこしの間。「コンヤマデハ ソウダッタ」
なるほど。陰謀をめぐらすにはいい手だ。メンバーどうしは協力できるが、王子以外はだれも仲間を裏切れない。そのほうがいい。
「ボクハ トテモ ツカレテイルンダ。ネムリタイ。ナガイハナシハ コンドニシヨウ」
間があいた。おかしな頼みだろうか。夜は眠るためにあるのだ。
「ワカッタ。マタナ」
ようやく意識が眠りに落ちていった。エズルはハンモックの奥へもぐりこみながら、思わず笑みを浮かべた。一人ではなかったのだ。そして秘密はずっと、身近にあったのだ。すごいことになってきた!
翌朝エズルは、ぐっすり眠ったとき特有の、奇妙なほど爽快《そうかい》な気分で目覚めた。いったいどうしたのか。こんな気分になっていいわけはないだろうに。
シャワー袋にもぐりこんで、泡だらけになった。昨日は本当に隊翻で惨めな日だった。苦々《にがにが》しい現実が甦ってきたが、なぜか切迫感がない……。
そうだ、夢をみたのだ。夢をみること自体はめずらしくないが、たいていは思い出したくないような不快な夢なのだ。エズルはシャワーをドライに切り換え、温風のなかをしばらく漂った。今朝のはどんな夢だったか……。
そうだ! 例によってここから脱出する夢だったが、今回は結末で悪夢に変わらなかったのだ。最後の瞬間になってナウとブルーゲルが飛びかかってきたりはしなかった。
今回の秘密兵器はなんだっけ……。そう、いかにも夢のなかの出来事で、両手が魔法の通信装置に変わって、反乱の指導者との交信に成功したのだ。その指導者は……ファム・トリンリ? エズルは思わず笑った。ばかばかしい夢もあるものだが、奇妙なことに、まだこの夢のことを考えるとほっとする気持ちになった。
着がえて、仮設舎の通路に出ていった。無重力空間特有の動きで壁を押し、引き、曲がり角《かど》で蹴り、動きの遅い者や反対方向にむかう者をなめらかな身のこなしでよけていく。ファム・ヌウェン。ファム・トリンリ……。ファムという名前の男は何十億人もいるだろうし、ファム・ヌウェン号という名の旗艦も何百隻とあるだろう。昨夜、ライブラリを検索したことがゆっくりと頭に甦ってきた。ベッドにはいるまえには、ずいぶん酔狂《すいきょう》な考えにとりつかれていたものだ。
しかしパーク船団長について判明した事実は、夢ではない。
娯楽室にたどり着いたとき、エズルの動きはだいぶ遅くなっていた。頭から娯楽室にはいりながら、ドアのわきにいたフンタ・ウェンに声をかけた。部屋の雰囲気は比較的リラックスしている。レナルトが生き残った愚人たちをネットワークにもどしたことが、すぐにわかった。感情の激発などはもうなかったようだ。反対側の天井近くで、ファム・トリンリがしたり顔で暴走の原因と、その危機が去った理由について話していた。武力衝突からあと、おたがいの当直シフトと目覚めている時間が重なったときに数キロ秒ずつ顔をあわせる、いつもと変わらないファム・トリンリだ。ふいに、夢とライブラリの検索で知った事実が、月並みでまったくばかげたことに思えてきた。
エズルがフンタに話しかけた声が聞こえたらしく、トリンリはこちらをむいた。つかのま、部屋のむこうとこちらからの視線が合った。トリンリはなにもいわず、うなずきもしなかった。エマージェントのスパイがエズルの視線を追っていても、べつになにかあるとは思わなかっただろう。しかしエズル・ヴィンにとって、その一瞬は永遠ほどにも長く感じられた。その一瞬、ファム・トリンリは道化《どうけ》の仮面をはずしていた。その顔に虚勢《きょせい》はなく、ただ孤独で静かな威厳と、昨夜かわした奇妙な会話を再確認する目の表情があった。あれは夢ではなかったのだ。あの交信は魔法ではなかった。
この老人は本当に、キャンベラ星の消えた王子だったのだ。
27
「だって初雪なのよ。見たくないの?」
ビキはあわれっぽい調子でいった。この口調を使って効果があるのは、事実上この兄だけだった。
「雪のなかで遊んだことは、まえにもあるだろう」ブレントは答えた。
たしかにパパに連れられて北へ旅行にいったときに、そういうことはあった。「でもブレント! これはプリンストン市での初雪なのよ。ゴツゴツ山が雪ですっかりおおわれるって、ラジオでいってるのよ」
ブレントは金属ピンと連結金具の組み立ておもちゃに熱中していた。きらきら光る表面がどんどん複雑に組みあがっていく。ブレント自身には、家の外へこっそり出ようなどという考えは毛頭なかった。しばらくはビキを無視して、組み立てるほうに集中した。じつはこれが、思いがけないことに遭遇したときのブレントの対処法なのだ。彼はとても器用だが、もの覚えは悪い。さらにはとても引っこみ思案《じあん》だ――大人たちもそういっていた。
ブレントの頭はじっと動かなかったが、ビキには彼がこちらを見ているのがわかった。手のほうは休むことなく、複雑なおもちゃの表面を動きまわっている。ときには組み立て、ときには壊していた。
ようやくブレントはいった。「パパに黙って外へ出てはいけないんだよ」
「それがなによ。パパはまだ眠ってるわ。今朝は最近でいちばん寒いけど、いま見にいかなかったらもう見られないかもしれないのよ。そうだ。パパにはメモを残していくわよ」
ゴクナにこんな話をもちかけたら、ああだこうだといい返され、最後はもっとうまい理屈で負かされてしまうだろう。兄のジャーリブなら、そんなごまかしは通らないぞと怒るだろう。
しかしブレントは反論しなかった。複雑なおもちゃの組み立てにしばらくもどりながら、一部の目はビキを見て、一部の目は手のなかでかたちつくられていく金属ピンと連結金具のパターンを調べて、一部の目はまわりの山々に白く霜《しも》の降りたプリンストン市の景色を眺めていた。ビキにとってブレントは、きょうだいのなかでじつはあまりついてきてほしい相手ではなかった。しかし命令はブレントしかみつからなかったし、それにジャーリブより大人びた体格なのだ。
さらにしばらくして、ブレントはいった。「しょうがないな。じゃあいっしょに行くよ」
ビキは、こんなに首尾よく運ぶとは思わなかったというように、にやりとした。ダウニング大尉の目をごまかしてどうやって外に出るかという問題もあるけれど――なんとかなるだろう。
早朝で、朝日はまだヒルハウスのまえの通りにはとどいていなかった。
ビキは深呼吸し、冷えきった空気が胸の両側をちりちりと刺激する感触を楽しんだ。暖かい時期に咲く花や妖精|蜘蛛《ぐも》はまだ木の枝のなかで身を縮めている。今日はもう出てこないかもしれない。しかしほかにも、本で読んだことしかない生きものが見られた。いちばん冷たい霜の穴のなかから、水晶虫《すいしょうちゅう》がゆっくりと這い出してきていた。この勇敢な小さな先駆者は、あまり長生きできないはずだ。ビキは去年、ラジオ番組のなかでこの虫について勉強したことを思い出した。この小さな虫は、寒さが一日じゅう続くようになるまで、生まれては死ぬのをくりかえす。そしてもっともっと寒くなった頃に、ようやく根をはやした形態に変化するのだ。
ビキは早朝の寒気のなかで元気よくスキップし、歩幅が広くてゆっくりとした兄の歩き方にも楽についていった。早い時間なので、あたりにはだれも見あたらない。遠くの建設工事の音がなければ、街は空《から》っぽになって二人だけだと想像することもできそうだ。これから何年かすると寒さが定着して、パパがティーファーとの戦争で使ったようなものを着なければ外を歩けなくなるというのだから、不思議だ。丘の下まで歩きながら、ビキは凍《こご》えた朝の景色を、ひとつずつ想像力でいろどっていった。ブレントはそれを聞きながら、ときどきパパの大人の友人たちでも驚くような提案をした。ブレントはばかではない。ちゃんと想像力をもっているのだ。
ゴツゴツ山までの道のりは三十マイル。国王の山城よりも、プリンストン市の市境よりもずっと遠く、とても徒歩ではいけない。しかし今日はたくさんの市民が山の近くへ行きたがるはずだ。初雪の時期はもちろんいろいろで予測できないけれども、降ればどこでもお祭り騒ぎときまっているのだ。こんなふうに早めに雪がやってくるとわかっていたら、パパはもっと早起きしただろうし、ママだってランズコマンド市から帰ってきたかもしれない。ハイキングはだいじな家族の行事なのだ――すこしも冒険色はないけれど。
冒険らしくなってきたのは、丘のふもとに近づいた頃だった。ブレントは十六歳で、年齢よりも大きな体格をしている。正常な子と区別がつかないくらいなので、これまでも一人で外出したことがあった。急行バスが停車する場所は知っているといっていたのに、今日はバスの姿がない。それどころか車そのものがろくに走っていなかった。みんなもう山へ行ってしまったのか。
ブレントはバス停からバス停へと歩きながら、だんだんあせりはじめていた。ビキは、今度ばかりはよけいなことはいわず、黙ってついていった。ブレントは他人からいろいろいわれるのがいやで、自分の考えをめったに主張することはなかった。そんな兄がひさしぶりに――妹に対してとはいえ――自分から主張して行動したのに、それがうまくいかないのは、はためにもすこしかわいそうだった。
三度めの見込みちがいがわかると、ブレントはとうとうしゃがみこんだ。そうやってバスが来るのを待つつもりだろうか。そんなことをして、いい展開があるとは思えなかった。家を出て一時間以上たっているのに、地元のぽんこつ自動車さえ一台も通りかからないのだ。やはりビキ自身が積極的に動いてどうにかしないといけないだろうか……。しかししばらくして、ブレントは立ちあがって道ぞいに歩きはじめた。
「掘削工事の作業員は休みをとっていないはずだ。ここから南へほんの一マイルだし、そこからなら何本もバスが出ているはずだ」
よかった。ビキが提案しようと思っていたのも、まさにそういうことだったのだ。待っていてよかった。
通りはまだ影のなかに沈んでいた。プリンストン市は冬のいちばんきびしい時期にある。あちこちの暗い角《かど》などには霜がたくさんたまり、まるで本物の雪のようだ。しかし二人がいま歩いているあたりはなにも植裁されておらず、雑草や這い回り草がはびこっている。嵐のあいまの暑く湿った時期には、あたりは羽虫や蛾でいっぱいだったにちがいない。
通りの両側には数階建ての倉庫が建ちならんでいた。このあたりまで来ると、もう静かでもないし寂しくもない。姿の見えない掘削作業員たちのたてる音が、ブルブル、ビリビリと地面を震わせていた。貨物を載せたトラックが行きかっている。進入防止柵でかこまれ、作業員以外立ち入り禁止になっている区画が数百ヤードごとにあった。ビキはブレントの腕をつつき、柵をくぐってなかにはいってみようとうながした。
「だってこの工事はパパの案をもとにしてるのよ。わたしたちだって見る資格はあるわよ!」
さすがのブレントもそんな屍理屈は認めなかった。しかしビキが立ち入り禁止の看板の下をさっさとくぐっていったので、保護者としてやむをえずついていった。
二人はうずたかく積みあげられた鉄骨や石材の山のわきを通り抜けていった。ここにはなにか、まがまがしくて力強い雰囲気があった。丘の上の家ではなにもかもが安全で整然としすぎている。ところがここでは……なんというか、ちょっと気を抜くと脚を切断したり、目をえぐられたりしそうな危険が無数にあった。たとえば、あそこに立てかけられている分厚い石板につまずいたら、きっとぺしゃんこに潰されるだろう。あらゆる危険が明瞭にわかった……そしてそれにわくわくした。
作業員の目を盗み、大|怪我《けが》をしかねないさまざまな楽しい危険のまわりを通り抜けて、二人は地下工事用の巨大な円筒形をした土留《どど》め構造物のふちに近づいた。手すりは二本の縄だけだ。
〈〈落ちたら絶対死ぬわ!〉〉
ビキと兄は地面にはいつくばって、奈落《ならく》の上に顔を突き出した。はじめは暗くてなにも見えなかった。吹きあがってくる風は焼けた油と熱い鉄の匂いがする。気持ちいいのと同時に、頭をがつんと殴られたようなショックだった。そして音だ。作業員たちの大声、金属と金属がこすれあう騒音、エンジンの音、奇妙なシューッという音。
ビキはさらに顔をさげて、暗闇に目を馴れさせようとした。光が見えるけれども、それは星の光とも太陽の光ともちがう。小さなアーク放電灯ならパパの実験室で見たことがあったが、こちらのは大きい。そして鉛筆のように細いその光の成分は、ほとんどが紫外色と遠紫外色だった。この色をこんなに明るく放っているのは、ほかには太陽だけだ。光はフードをかぶった作業員たちのまわりにまたたき、干渉によるまだら模様をシャフトの壁じゅうに映している……。それほど派手ではない、もっと地味なふつうの電球も、あちこちで単調な光の点をつくっていた。
暗期までまだ十二年もあるのに、ここでは地下都市が建設されているのだ。石づくりの大通りや、シャフトの壁から奥へはいっていく大きなトンネルが見えた。トンネルのところどころにはさらに暗い穴がかすかに見える……。もっと小さな掘削現場への連絡通路だろうか。ビルや住居や庭はあとからつくられるのだけれども、そのための空洞はほとんど掘り終わっていた。
見おろしていると、ビキはいままで感じたことのない心地よさを覚えた。自然につつまれ、守られているような冬眠穴の心地よさだ。しかしここの作業員たちが掘っている穴は、ふつうの冬眠穴より千倍も大きいのだ。暗期のあいだ凍って眠るだけなら、一人分は冬眠プールと目覚めの食糧庫だけでことたりる。そういうものなら、旧市街中心部の地下に二十世代近くまえから使われている市の冬眠穴がある。ここで建設されているのは、目覚めたまま生活するための場所なのだ。気密と断熱が確実にできる場所では地上に、そうでない場所では何百フィートも地下につくられていた。プリンストン市のビル群を地下に裏返して投影したようなものだと考えると、ちょっと不気味だ。
ビキは目をまるくして眺め、想像にふけっていた。いままではなにもかも遠いお話の世界でしかなかった。本で読み、両親が話しているのを聞き、ラジオで聴《き》いてきた話だ。
自分たち一家がそのせいで大衆から嫌われているのだということも、ビキはよくわかっていた。それにくわえて時期はずれの生まれなので、子どもたちはけして家から出ないようにといわれているのだ。パパはいつも行動による発達を説《と》いていた。子どもたちがさまざまな危険に出くわすことはとても重要であり、そうしなければ生き残った者たちのなかに天才など生まれてこないと主張していた。ところが困ったことに、自分は実践できないのだ。ビキがちょっとでもあぶないことをしようとすると、パパは父親らしくなんでも口を出して、どんな冒険の計画も真綿《まわた》でくるまれたように安全にしてしまう。
ビキはいつのまにかくすくす笑っている自分に気づいた。
「なんだ?」ブレントが訊いた。
「なんでもないわ。今日は現実の世界をちゃんと見られたなって思ったのよ――たぶん、パパがいなかったおかげで」
ブレントの表情が困ったようになった。きょうだいのなかでもブレントは規則に一字一句こだわり、それを破ることをとても嫌うのだ。
「そろそろもどったほうがいいんじゃないかな。地上にも作業員たちがちらほら出てきて、こっちに近づいてきた。それに、雪だっていつまでも解けずに残ってるとはかぎらないだろう?」
ビキは不満の声をあげてうしろにさがりえのあとについて、建設現場を埋めつくす巨大で恰好いい機械や資材の迷路を通り抜けていった。降り積もった雪で遊びたいという気持ちも、いまだけは遠ざかっていた。
この日の本当の驚きは、ようやくたどり着いた運行中の急行バス停で待っていた。雑踏《ざっとう》からすこし離れたところに、なんと、ジャーリブとゴクナが立っているではないか。どうりで今朝二人がみつからないわけだ。こっちをおいて、先にこっそり抜け出していたのだ!
ビキは平然とした表情をよそおいながら、そっと近づいていった。ゴクナはいつものように気どったようすでにやにやしている。ジャーリブは、困惑した表情をするくらいの正しい態度はもっていた。ブレントとおなじく最年長なので、こんな外出はやめさせるべき立場なのだ。
四人はまわりの視線からすこし離れて、顔をつきあわせた。
気取り屋お嬢さまが小声でいった。「あら、どうしてこんなに時間がかかったの? ダウニングの部下たちの目をなかなか盗めなかったの?」
ビキ。「あんたたちにそんな勇気があるとは思いもしなかったわ。こっちはもう朝の予定をいくつもすませたのよ」
気取り屋。「たとえば?」
ビキ。「建設中の地下都市をのぞいてきたり」
気取り屋。「おやまあ――」
ジャーリブ。「黙れ、二人とも。そもそも、どっちもこんなところへ出てきちゃいけないんだぞ」
「でもわたしたちはラジオの有名人なのよ、ジャーリブ」ゴクナは得意そうにいった。「みんな会えてうれしいっていうわ」
ジャーリブはすこし顔を近づけ、声を低くした。「ばか。〈子どもの科学の時間〉を好きなやつが三人いるとしたら、あれを聴いて不安になるやつも三人いる。そして残りの四人は、あの番組が腹の底から大嫌いな伝統主義者なんだからな」
ラジオの子ども番組に出演するのは、ビキにとっていちばん楽しいことだった。けれどもペデュア師の一件をさかいに、ようすが変わってしまった。年齢がおおやけになったので、相応の能力があるところをしめさなくてはならないような雰囲気になったのだ。ほかの時期はずれの子どもも何人かみつかった――けれども、いまのところ番組に出せるような子はいなかった。彼らのなかにはビキとゴクナとおなじ年齢の子もいたが、どうも仲よくなれなかった。奇妙でよそよそしくて――ある意味で時期はずれに典型的な性格の子どもたちなのだ。パパは、それは育ちのせいだといっていた。長年にわたって隠れた生活をしいられていたのだ。恐ろしい話だ。ビキは夜中にゴクナとだけ、声をひそめて話した。もしかしたら教会の主張は正しいのだろうか。ビキとゴクナが自分たちは魂《たましい》をもっていると思っているのは、思いこみにすぎないのだろうか、と。
しばらく四人は黙ってつっ立ち、ジャーリブの指摘をじっと考えていた。
ふいにブレントが訊いた。「ところで、きみたちはなぜここに来てるんだい、ジャーリブ?」
ほかのだれかがいったのなら喧嘩をふっかけているようなものだが、ブレントにそんな裏の意図はすこしもない。単純な好奇心であり、難問の答えを心から知りたがっているのだ。
それはかえってどんな嘲笑《ちょうしょう》よりも効《き》いた。「ああ、それは……ダウンタウンへ行くところなんだ。王立博物館がケルムの歪曲《わいきよく》生物≠フ展示をやってるからね。……ぼくはいいんだよ。正常な子と変わらない齢《とし》に見えるから」
外見についてはたしかにそうだった。ジャーリブはブレントほど大きくはなかったけれども、上着の切り込みからは背中にはえはじめた育児|毛《もう》がのぞいているのだ。しかしビキは、そんな言い逃れで納得する気はなく、ゴクナのほうをさして訊いた。
「じゃあこれはなに? ペットの野生蜘蛛?」
気取り屋お嬢さまはつんとすまして微笑んだ。ジャーリブはビキをにらみつけた。
「おまえたち二人はすごく危険なところを歩いてたようだな」
ゴクナは具体的にどんないい方でジャーリブをまるめこんだのだろうか。ビキにとっては純粋にそのテクニックに興味があった。ビキとゴクナは家族のなかでいちばんの口達者で、おたがいに張りあっていた。
「すくなくともわたしたちは学術的な理由があって外出したのよ」ゴクナはいった。「そちらにはなにか口実があるの?」
ビキはきょうだいの顔のまえで食手《しょくしゅ》をふった。「わたしたちは雪を見に行くのよ。体験学習よ」
「ふん。吹きだまりでころがって遊びたいだけのくせに」
「黙れ」ジャーリブは手をあげて、バス停に立ってこちらをじろじろと見ている連中のほうをちらりと見た。「やっぱりもう帰ろう」
ゴクナがお願いモードになった。「でも、ジャーリブ、それはよくないわよ。ずっと歩くことになるのよ。それより、バスに乗って博物館へ行きましょうよ――ほら、ちょうど来たし」
タイミングよく、急行バスが上り坂のバス用通路にはいってきた。近赤外色のライトがダウンタウン循環の路線であることをしめしている。「博物館を観《み》おわる頃には雪見の客も帰ってきて、家までの路線にもまたバスが走りはじめているわよ」
「ちょっと、わたしはいんちきな怪物を見にきたんじゃないのよ。雪を見にきたんだから」
ゴクナが肩をすくめた。「残念ね、ビキ。家で冷蔵庫に頭を突っこめば、いつでも見られるわよ」
「なんで――」ビキは、ジャーリブが堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》を切らしそうになっているのがわかった。それに反論できる材料もない。ここでジャーリブがブレントにひと言いえば、ビキはいやおうなく家へ歩いて帰るはめになるのだ。「――まあ、博物館へ行くにはいいお日柄《ひがら》かもね」
ジャーリブが皮肉っぽい笑みを浮かべた。「ああ。それに博物館へ行ってみたら、先にラブサとリトル・ハランクがいたりしてな。警備員をまるめこんで、送ってもらっているかもしれない」
それを聞いて、ビキとゴクナは笑いだした。ラプサとリトル・ハランクはそろそろ赤ちゃんとは呼べない大きさだったが、まだパパのまわりを一日じゅう離れられないのだ。その二人がママの警備員をまるめこむところを想像すると、おかしかった。
四人は列の端にならんで、最後にバスに乗りこんだ……。まあ、二人より四人のほうが安全だし、王立博物館は市街でもいちばん安全なところだ。もしパパに気づかれても、子どもたちの慎重な計画ぶりを知ればすこしは安心するだろう。それに、雪を見る機会ならこれからいくらでもあるはずだ。
乗り合いの急行バスは、ビキがこれまでに乗ったことのある車とも飛行機ともちがっていた。
ここではみんなぎゅうぎゅう詰めにされる。ロープで編んだ吊りネット赤ん坊の――運動用ネットのようなもの――が、バスの後部まで五フィート間隔でいくつも張られていて、乗客はすべての腕と脚を広げたぶざまな恰好でつかまる。縦になってぶらさがっていくのだ。おかげでより多くの客を詰めこめるのだけど、恰好悪いといったらない。まともな席があるのは運転手だけなのだ。
バスはそれほど混んでいなかったというよりも、ほかの乗客は子どもたちを避けていた。
〈〈ふん、みんな勝手におびえればいいんだわ。わたしは気にしない〉〉
ビキはほかの乗客を見るのをやめて、窓の外を流れるほかの通りを観察しはじめた。
建設業者がみんな地下の仕事にかりだされているために、道路は補修もろくにされていなかった。段差やへこみを通るたびに車内の吊りネットが大きく揺れる――それがおもしろかった。そのあと急にバスはなめらかに走りはじめた。新しいダウンタウンの高級な地区にはいったのだ。そびえたつビルの上には、地下発電社やリージェンシー電子機器社といった企業の看板がある。アコード国の有力企業のいくつかは、パパがいなかったら存在しなかったはずだ。それらのビルの入り口がにぎわっているのを見て、ビキは誇らしくなった。パパの存在は多くの大衆のためになっているのだ。
ブレントが吊りネットから身をのりだして、ビキに顔を近づけた。「なんだか、ぼくらは尾行されてるみたいだぞ」
ジャーリブがそれを聞きつけ、身を硬くした。「なんだって? どこに?」
「あの二台の高級自動車だよ。バス停のそばにずっと停車していた」
ビキはつかのま恐怖にとらわれたが――すぐに肩の力を抜いて、笑いだした。「だれにも気づかれずに抜け出してきたつもりになっていたけど、きっとそうじゃなかったのよ。パパはわたしたちを止めないように指示していて、ダウニング大尉の警備員がずっとああやってついてきていたのよ」
ブレントがいった。「あの車はどうもようすがふつうじゃないけどね」