ヴィドック回想録4
フランソワ・ヴィドック/三宅一郎訳
目 次
三四 犯罪都市パリ
蝿取会員
大口あけて小物をぱくり
ひらめき発見
ベクート氏とモデーヌ公
強盗諸君から始めよう
三五 日曜日は御用心
愛のペンダント
情けは恋のためならず
ムッシュ七変化
三六 転落の唄
第一歩
熟練女工
三七 行きだおれは哀し
三八 神も仏もあるものか
両面の司祭
自殺から盗みへ
三九 一に用心、二に用心
ロンバール夫妻
昼食の支度
空巣と店師《たなし》
四〇 犯罪手口その一
魔法の言葉
四一 犯罪手口その二
スリさまざま
地金師
四二 アルファ、オメガ、べータ
カモ
強盗さん今日は
訳者あとがき
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三四 犯罪都市パリ
蝿取会員
われわれが着いたという噂がぱっとひろまり、住民たちが、肉屋を殺したやつらを見ようと駈けだす。私も、かれらの好奇心のマトであった。この際、パリから二十四キロも離れたところで、私がどう思われているかを知るのも一興であった。牢獄の門前に集まった群集を縫って進むと、おなじ言葉が耳にとどくだけだった。あいつだ、あいつだ、と見物人が繰り返し、くぐり戸を開けて部下たちが出入りするたびに爪立ちして背伸びをした。
「オイ、見えるか? あの寸足らずの黒いチビ助」
「アホかいな、ありゃ一寸法師やがな。わてのズボンの丈しかありまへんな」
「一寸法師さ。だがな、あいつはいつも、おめェのスキを狙ってる大物なんだ。天使|面《づら》して、おめェのボロ靴を掻っさらって足がらみをかけ……」
「やかましい、このガキ。だけんど、あんな顔色、見たことあるかいな?」
別の者が、
「痩せてるなァ。赤毛で人相の悪いこと」
「のっぽだ、あの野郎は。俺のポッケに手を入れたら二つにヘシ折ってやらァ」
「あんたが?」
「そうよ、俺がだ」
「ほォ、あんた、あいつの腕っぷしを知っていますか? あんたが、それほど阿呆だとはね。世間の噂じゃ、あいつは、なれなれしく話しかけてきて、油断したとたんにミゾオチ(胃のくぼみ)にガンと一発くるか、話に乗ったところで眼から火がでるほど桑の実つぶし(鼻への一撃)を見舞ってくる」
こう言った男よりさらに私の近くにいた肥った眼鏡男が私をじろじろ眺めながら、
「旦那のおっしゃるとおり。あのヴィドックというやつは並の人間じゃない。やつが誰かをパクろうと思ったら、まず一発くらわし、たちまち自分が親分になってしまうそうだ」
この言葉を荷馬車の馬方がとって、
「わしにも言わせてくんろ。やつは、いつも鋲釘《びょうくぎ》(大釘)を打った靴をはいとって、おめェに拳骨をくらわせながら、イヤちゅうほど長靴で足骨を蹴上げて飛び上がらせるだ」
この馬方が、うっかりして若い娘の魚の目を踏んづけ、きゃっと娘が叫ぶ。
「気いつけてお歩きよ、のろま」
田舎者が言いかえす。
「気持いがったべ、あねこよォ、屁の河童だよな。おっ死《ち》ぬ前に、もっと面白ェことがいっぺェあんだよ。もすもヴィドックめが靴のかかとでドタ指(足の親指)ば踏んづけたらば……」
「まっこと、そうなるぞな」
「そのうち、ひでえ目に遭うさ。まだ青二才だ」
このとき、私が会話に加わって馬方に言う。
「この娘さんは、とても可愛らしい眼をしてるんで、ヴィドックが、なにしろ悪いやつだからね、いたずらしたくなるかもしれん」
「なるほど、そこまで女に眼がねェやつとは知らなんだ。それに、根っからの助平野郎だからよォ、そうとも、根っからだ、あそこにゃ手が早え。まだある。誰かのドタ指を踏むときは、どんなに強く踏んでも、中途でやめて足を上げる。相手が足を引っこめなんだら、そのまま残らァな」
ときに、がやがやの声が起こる。
「わァ、わァ、わァ」
「帽子を下げろ」
「オヤ、かつらのおっさんか」
「あいつが人殺しか?」
「あれだ、あれだ」
「どれ、どやつだと?」
「そんなに押すなよ」
「この野郎、腕ずくでケリをつけたいんか?」
「ぶんなぐっちまえ」
「どうも女子《おなご》衆はあられもなく、こないなときに無茶しなはる」
「痛いっ、おお痛た」
「わしの肩に乗っかれや」
「ん、あそこで貴様は飲まなんだなァ」
「こんなん騒動《そうど》してアホとちがうか?」
「平気、平気。天下御免だ」
「密偵《いぬ》もおるんかいな?」
「イヌか! 四匹しかいねェや」
わいわい、がやがやが静まると、私は、ひき潮みち潮の群集に流されて、別の新しいグループのど真ん中にいた。十数人の蝿取り会〔一種のフリーメイスン団的な友愛的な秘密結社〕の連中が私の相手になる。
第一の会員(この人は白髪)「そうなんじゃ、ムッシュ、そやつはな、百と一年の懲役になりましたわい。死刑赦免囚じゃ」
第二の会員「百と一年だと。一世紀以上だ」
老婆「ああ、神さま、わしに向かって何たらこと言うだ? 百と一年だと。そいつァ、世間で言うとるように一日じゃないのう」
第三の会員「そう、そのとおり、一日じゃない。けっこう長い時間だ」
第四の会員「やっぱり殺人罪でか?」
第五の会員「なんと、あれを知らないんですか? 罪に罪を重ねた極悪人、なんでもしました。ギロチン二十回にも相当するやつですが、狡賢《ずるがしこ》い極道者で、まんまと命びろいをしました」
老婆「笞でたたかれ、いれずみされたちゅうこんだが、本当け?」
第一の会員「そのとおり、マダム、両肩に焼きごてじゃ。むきだしの肌に当てられると百合の花の烙印が付くというわけ」〔罪人の肩にフランス王家の紋章の百合の花の烙印を付けて前科者の目印にした〕
別の会員(会員番号は思いだせない。覚えているのは、黒い服でトンガリ帽子をかぶっていたことだけだ。察するに、教区の財産管理委員の一人だったらしい)「百合の花ですと? もっといいのがあります。足輪の強制着用です。警視さんから聞いた事実です」
私「ねェ、ちょっと。その輪は人に見えないんじゃ?」
黒服の会員(そっけなく)「そうです、ムッシュ、人には見えません。ところで、あなた、二キロから二キロ半もある重さの鉄の足輪を首に付けられますか? わたしが申しているのは黄金の輪で、とても軽く、付けているのが感じられないくらいのものなんです。ああ、まったくです、もしその男が、わたしみたいに半ズボンをはくことを思いついたら一目瞭然ですが、長ズボンだったら、そっくり隠せます。長ズボン、たのしい流行です。革命以来のことです。チトウス〔七九〜八一年のローマ皇帝〕風の髪形みたいに堅気の人か囚人か、区別がつかなくなりますからね。どうか、みなさん、長ズボンをはいて下さい。もしヴィドックが、わたしどもの周りにいるとしても、あんな哀れな囚人仲間の中で簡単に見つかると思いますか? どうお考えです、勲章さん?」
聖ルイ勲章|佩用《はいよう》者「ぼくとしては自信がないが、あんた、橋番おばさんの御亭主さんは?」
橋番女の亭主「じつのところ、あんまりホメたことじゃねェな。性悪の囚人が警察のイヌ。やっこさんは、今日、さっき引っぱってきたみてェな悪党しかパクらねェが、どんな条件で、あいつが牢から引き抜かれたか知っとるかね? てめェが自由になりたいばっかりに、月に百人もサツに渡し、罪があろうがなかろうが、やつとしては、言うまでもねェこと、うろんな連中を見つけにゃならん。さもないと、てめェが捕まってたところへ逆戻り間違いなしだからだ。きまった数をこえると奨励金がもらえる。イギリスでも、こんなんですかい、ウィルソンさん?」
ウィルソン卿「ノン。わが大英帝国政府は、刑罰の取り替えは認めていません。わたくし、そのヴィドックという人、よく知っていませんが、彼がナラズ者なら、頭の上に刀を吊るされているようにビクついている者たちより安心しているでしょうが、いつかは、そのいやらしい取引が不可能のときが来ます。オメアラ氏は、わたくしほど政府の肩をもっておられないので、この点について、ヴィドックなる者に、まだまだ利用価値があることを証言されましょう。だまっておられるが、博士、ご高説をどうぞ」
オメアラ博士「タイバーン〔当時のロンドンの死刑執行場〕やボタニイ湾〔オーストラリアのシドニー近くの流刑地〕にいる豪傑どもの中には、ロンドン警察の職員として優にヴィドックに匹敵する者が大勢いる。泥棒が泥棒を追っかけるとなると、たがいにグルにならぬとも限らない。すると、捜査はどうなる?」
聖ルイ勲章佩用者「まさに然《しか》りだ。どんな御時世であろうとも、警察が前科者しか雇わなんだというのは不可解だ。世の中には、まともな人間が山といる」
私「では、あなたはヴィドックの代わりを引き受けますか?」
勲章佩用者「ぼくが? いやはや、まっ平ごめんだ」
私「だったら、できもしないことをガタガタ言いなさんな」
ウィルソン卿「できもしないことですと。これまで裏の制度、つまり、あいかわらずの悪だくみしかやっていないフランス警察が、スパイ行為をやめるとか、公共の秩序と社会の治安を保つための表だった力になったとでもおっしゃるのですか」
イギリス婦人(おそらくレディ・オウィンソン、三、四人の半俸給士官の中にいて口説かれている模様)「万事は、将軍が、ちゃんとわかっていらっしゃいますわ」
士官の一人「ほら、ボーフォール将軍が、一族のピカールさんと一緒にお見えになった」
レディ・オウィンソン「あら、こんにちわ、将軍。お悔みを申しあげなくちゃなりませんわ、タバコ入れの事件を聞きまして。古い諺がございます。〈溝の中で眠るより宿屋のテーブルの下で眼をさますほうがましだ〉」
将軍(苦々しく)「肉屋を儲けさす教訓じゃ」
レディ・オウィンソン「で、将軍は、なんでヴィドックに申し出てタバコ入れを見つけてもらわないんですか?」
将軍「ヴィドックじゃと、泥棒で雲助のゴロツキにか。あやつと同じ空気を吸うておるとわかっただけで、すぐにも首が吊りたいわ。ヴィドックに申し出るなどとは慮外《りょがい》千万」
ピカール大尉「なぜです、品物を取りかえしてくれるかも?」
将軍「ああ、なんたることを、おい、きみ(偉そうに)、ピカール君、きみは由緒ある家柄の者なのだぞ」
大尉「ありがとうございます、将軍」
将軍「きみは騎馬憲兵隊長の子息じゃなかったのかい? きみの父上が、かの有名なプーレイエを逮捕したことを、わしに百遍も語ったのではなかったのかい?」
レディ・オウィンソン「有名なプーレイエ? ねェ、ピカールさん、なら、その有名なプーレイエのことを話して下さいな」
ピカール「奥さまのお言いつけならばですが、長くなりますし、誰もが知ってる話ですから」
レディ・オウィンソン「おねがい、ムッシュ・ピカール」
ピカール「プーレイエより狡賢い泥棒はいなかったそうです。カルツーシュ親分このかた、あんなやつは見たことがないとのことです。ぼくの母が話してくれた四分の一だけを話してもキリがありません。善良な母は、まもなく八十歳になりますが、大昔のことが思いだせるんです」
将軍「事実だけにしたまえ、弁護人、脇道へそれるな」
レディ・オウィンソン「将軍、じゃましないで下さい。さァ、ムッシュ・ピカール……」
ピカール「はしょって話しますと、フォンテーヌブローに宮廷があったころ、ある結婚の祝賀宴がありました。ときに騎馬憲兵隊長だった父のところに急使がやって来て言うには、踊りがつづいたあいだに、お偉方に仮装していた幾人かの者が消えてしまい、カドリールを踊っていた大方の御婦人がたのダイヤモンドの装身具が持ち去られていて、被害はかなりの額にのぼるとのことでした。この盗みは、大胆かつ迅速に行なわれ、とりもなおさずプーレイエの仕業だということになりました。彼が、六人の騎馬隊の先頭になって堂々と乗りこなし、パリ街道を駈けて行ったのが目撃されており、かれらが盗賊で、エソンヌを通るはずだと推測されました。そこで、父は、ただちにエソンヌに向かい、騎馬隊の連中が『大鹿』という宿屋で馬を降りたことを知りました。今日では廃屋になって、単に農家と呼ばれています。みんな寝ており、馬は馬小屋に入れてありました。父は、まず馬を取り上げてやろうと思いましたが、なんと鞍も轡《くつわ》も付けたままにしてあり、反対向きに蹄鉄を打っていました。来た場所へ行くかのように見せるためでした」
レディ・オウィンソン「なんて狡いんでしょう。よく知恵がまわるのね、悪者は」
ピカール「父は馬の腹帶を切り、すぐにプーレイエの部屋に上がって行きましたが、早くも見張りの者が知らせてフケており、一味は野原に散っていました。そこで、一刻の猶予もならじと追跡を始め、父は、クール・ド・フランスまで行って立ち停まりました。すると、ある人がこう言ったのです。一人の立派なムッシュが酒場に入って行くのを見た。金ピカの服を着て、きれいな羽根飾りをつけた帽子をかぶっていた。さては、てっきりプーレイエにちがいないと、父が、まっすぐ酒場に行ってみると、や、そこに立派なムッシュがいました。
『王の名において逮捕する』
父は、その男に申しました。すると、
『ひゃァ、旦那、召捕らんでくだせェな。おら、旦那が思ってるやつではねェだ。七面鳥ば持って、パリさ行くしがねェもんだば。来る途中で偉い旦那に会ってよォ、七面鳥ば買ってくれた上に、おらのボロ着を取っ替えてくれた。取っかえっこに損はしなかった。品物の勘定は別でよ、金貨で十五ルイくれただ……おめェ様が探しとるのがあん人ならば、悪さしねェでくんろ……いい人だば。こう言っただ、お偉方と暮らすのはイヤになった、下々の暮らしがしてみてェ、とな……もすも道で見かけたら、きっと誰もが言うだんべ、あん人は、まっこと世のためになることすかしねェ人だ、とな。七面鳥ば持って行っただが、そうとも、鳥めが道をハグれる心配はねェべ』
この話を聞くが早いか、父は、俄《にわ》か作りの七面鳥商人を追いかけて馬を飛ばしたところ、すぐに発見しました。プーレイエは、見つかったと知って逃げにかかりましたが、父が追いつきました。とたんに、悪党がピストルを二発ぶっぱなし、すかさず父が馬から飛び降り、プーレイエのノド首をひっつかんで大地にたおして縛り上げました。いいですか、プーレイエは手ごわいやつでしたが、おなじく父も手ごわい男だったんです」
ボーフォール将軍「ふむ、ピカール大尉、きみが親の職を継いどると言うたのは間違うてはおらなんだ」
私(ボーフォール将軍に)「将軍、失礼ですが、あなたを見ていればいるほど、どこかでお目にかかったことがあるような気がします。モンス〔ベルギー、エノー地方の主邑、フランドル語のベルゲン〕で憲兵隊長をしておられませんでしたか?」
将軍「そうだ、きみ、一七九三年に……デュムリエ〔ベルギーを征服したフランスの将軍(一七三九〜一八二三)〕と現在のオルレアン公と一緒じゃった」
私「そうなんです、将軍、私は、あなたの指揮下にいました」
将軍(熱情をこめて手を差しのべ)「えっ、そんなら、きみが、わが戦友。抱きしめよう。晩飯に呼んだぞ。諸君、われらが旧憲兵の一人を紹介する。力は抜群、プーレイエを逮捕したような男じゃ。どうだ、ピカール君?」
将軍が私の手を握りしめていると、一人の憲兵が見物人の中にいる私を見つけ、そばへやって来ると軽く肩にふれ、
「ヴィドックさん、検事が呼んでいますよ」
とたんに、私のまわりに、けったいな顔、顔が、ずらっと並んだ観を呈した。
「なんだって、ヴィドックだと?」
次いで、みんなが、
「ヴィドックだ、ヴィドックだ」
と繰り返し、我も我もが私のところまで来ようと肱《ひじ》でかき分け、押しあい、へしあいし、近くから遠くから私を見ようと他人の肩の上に乗る者もあった。おそらく、物見高い群集は、私が人間の顔をしていないのではないかと思ったのかも知れない、まるで空を飛んでいるのを捕まえたかのような驚きの叫び声をあげて私を確かめたが、その中には忘れられない声もあった。
「見ろよ。やつはブロンドだぜ。茶色かと思ってた……悪いやつだそうだが、そんなふうには見えねェや……えらく機嫌がいいが……顔はアテにならねェぞ」
だいたい、こうしたものが、私の挙止や特徴を大衆がとらえた観察のあらましであった。とにかく、たいへん大勢の人があふれていたので、検事のそばまで行くのはラクではなかった。彼は、容疑者を予審判事のところへ連行するように命じた。さいしょに連れて行ったクールは、たくさんの人々の前に出てビクついている様子だった。あらためて自白を繰り返すように促すと、肉屋を襲った顛末はすらすらと述べたが、ニワトリ商人について問われると、私に述べた前言をひるがえし、ラウールとの他の共犯事件を明らかにさせることはできなかった。別室でさらに問いただしたところ、クールは、逮捕直後の尋問調書に書いてある事柄を全面的に確認するには至らず、不一致で均衡がとれなかったが、あの不運なフォンテーヌとの間に起きたすべてのいきさつについては、殴った時点までを冷静に平然として長々と語った。
「あの野郎は、うっかりしていて棒を二つくらったんだが、やつが倒れないのを見て、俺は、やつをつかまえにそばへ寄った。俺の手には、そこのテーブルの上にあるドスがあった」
こう言うと、クールは、机のほうへ身をひるがえし、やにわに犯行に使った匕首《あいくち》をつかみ、うしろに二歩さがると、怒りに燃える両眼をぎらつかせて脅しの身構えをした。
この思いがけない振舞いに、その場の全員があっと驚き、ぞっとした。居合わせた次長は危うく失神しそうになった。私も、いくらか怖かったが、彼はその態度で、ラウールに共犯の十分な動機があったことを慎重に示したのだと信じ、うすら笑いを浮かべながら、
「みなさん、なにを恐れているんですか? これで、ラウールも、その場で、びくついてはいられなかったし、彼についての証言を悪用できないのがわかるというもの。クールのやつは、ただ、かれらの行為をよりよく判断してもらうために短刀を握ったんです」
この私の説明にほだされて、彼は静かに短刀をテーブルに置きながら、
「ありがとう、ジュール」
と言い、さらに、
「俺は、ただ、ちゃんと協力していることを見せたかっただけだ」
容疑者たちとフォンテーヌとの対決は、予審の前提を完全なものにするには欠かせないことだった。そこで、そういう辛い試練に患者が堪えられるかどうかを医師に相談したところ、大丈夫だという返事をもらったので、クールとラウールを病院に連れて行った。かれらは、肉屋がいる病室に入ると、きょろきょろと被害者を探した。フォンテーヌは、頭をぐるぐる巻きにされ、顔も包帯で覆われていて誰だか見分けがつかなかったが、そばに残酷な襲撃を受けたときに着ていた服や下着が、これ見よがしに置いてあった。
「ああ、気の毒なフォンテーヌ」
血まみれの衣類が陳列してあるベッドの足元にひざまずいてクールが声をあげた。
「こんなことにした罰当たりどもを許してくれ。命びろいをしたのは神さまのお蔭なんだ。俺たちに悪事の罰をあてられるために助けられたんだ。かんべんしてくれ、かんべん」
両手で顔を覆《おお》って繰り返した。クールが、こうして自分の気持を訴えているあいだ、ラウールは、おなじく膝をついて黙っていたが、やはり深い苦悩に沈んでいるように見受けられた。
「さァ、立って病人の顔をよく見るんだ」
同行の判事が言うと、かれらは立ち上がった。フォンテーヌが叫んだ。
「人殺し野郎をどかしてくれ。顔もよく覚えてるし、声もわかる」
この共犯者たちにたいする認知と面識によって、クールとラウールが肉屋を襲ったことが十分に立証された。私は、かれらが他にも多くの犯罪をやっており、それを行なうには二人以上のはずだと信じていた。これを聞きだすのは、まだ伏せておいて、すべてが明らかになるまでかれらにへばり付いていてやろうと決心した。そこで、対決から戻ると、容疑者と私との三人分の夕食を牢内でおごることにしたが、テーブルにナイフを置いてもいいかと牢番が訊いたので、
「いいとも、ナイフを置いてくれ」
二人の会食者は、この世で一番のマジメ人間のような態度でがつがつ食べた。かるく酔いがまわった頃合いをみて、私は、たくみにかれらの犯罪のことに思いを持っていった。
「お前らは根っからのワルじゃない。断言する、引きずりこまれたんだ。どこかの悪党が、お前らをオシャカにしたんだ。なんでまたグルになったんだい? フォンテーヌを見て、気の毒だ、申しわけないと思ったものな、からだを張って相手の命までとろうとは思わなかったことがわかったよ。いいか、その共犯《れつ》のことを黙っていると、そいつらがやった悪事の全部を背負いこむことになる。お前らが襲った大勢の人が、すくなくとも四人で仕事をしていたと証言している」
こう言ってやると、ラウールが、
「そりゃ違う、正直いって、ジュールさん、あっしら、三人以上だったことはねェ。もう一人は、元の税関主任で、ポンス・ジェラールという名の男です。国境のすぐ近く、エーヌ県〔ベルギーと国境を接している〕のラ・カペルとイルソンのあいだの小さな村にいます。だが、やつをパクろうとしても、なかなかどうして、面《つら》の皮が千枚張りのタマだってことだけは言っときまさァ」
クールが、
「そのとおり、やつに手綱を付けるのは容易なこっちゃねェ。よっぽど用心してかからねェと、ひでェ目に遭うぜ」
「まったく手に負えない曲者《くせもの》だ。そりゃ、あんたは抜かりのない人だが、ジュールさん、あんたみたいのが十人かかってもビクともしないやつだ。とにかく、言っときますが、まず、誰かが自分を探している気配を感じたら、我が家から遠くないベルギーにフケてしまう。不意打ちをかけると手向かう。だから、寝こみを襲う方法を考えなくちゃ」
「うん、でも、やつは眠ってないぞ」
と、クールが意見を述べた。
私は、ポンス・ジェラールの日頃の生活状況を聞き、彼の特徴を覚えこんだ。そして、その男を確認する上で必要と思われる一切の情報をつかむと、それまでに聞いたことを確かめておこうと思い、かれらの自白調書で字体を知っている検事宛に手紙を書いてくれと二人の拘留者にたのんだ。ラウールがペンを握り、書き終わると、朝の一時ちかくだったが、私自身で検事のところへ手紙を持参した。おおむね、こんな言葉で書かれていた。
『はいけい、私どもの立場を深くかんがえなおし、あなたさまのごはいりょにむくいようと、つみになるヤマのぜんぶを申しあげ、第三のレツのことをお知らせしようと決心しました。ですから、どうか私どものところへお出でくださり、申したてをお受けください。せつにおねがい申しあげます」
検事が急いで牢獄へ行くと、クールとラウールは、ポンス・ジェラールについて私に語ったすべてを彼の前で繰り返し述べた。という次第で、こんどは私がポンスにかかわることになり、仲間のドジを知る時間をあたえずに、すぐにも彼を逮捕せよという命令を受けた。
馬喰《ばくろう》に変装し、グーリとクレマンという部下を私の息子ということにして、三人で出発した。懸命に先を急ぎ、きびしい季節と悪路だったが(冬だった)、あくる日の晩、定期市の前日にラ・カペルに着いた。その地方には土地勘があった。軍隊にいたときに歩きまわっていたので、即座に自分の位置がわかったし、土地の言葉も使えた。ところで、ポンス・ジェラールのことを尋ねた土地の人は、誰彼なしにペテンと掠奪で生きている悪党だと語り、彼の名は恐怖のまとで、みんな彼を怖れていた。毎日のように彼にたいする訴えを受けていた地方当局は、すすんで彼を処罰しようとせず、けっきょく、彼は、そのあたり一帯の法律的な怖るべき存在になっていた。私は、危険な計画を前にして退却することには、あまり慣れていなかったが、冒険をやりたいなどとは言わないことにした。しかし、ポンスについて聞いたことは、私の自尊心をチクリと刺した。このままだと、私の名誉はどうなる? まだ五里霧中であったが、いい考えが浮かぶのを待ちながら部下と一緒に昼飯を食べ、おなかが十分くちくなると、ラウールとクールの共犯者を探して先へすすんだ。
密輸屋の隠れ家になっている一軒だけ離れたところにある宿屋をラウールが教えてくれていた。ポンスは、そこへよくやって来ていて、宿の女主人とはとくに懇意にしており、女将は最上等のお客として大いに気をつかっているとのことだった。この宿屋のことは詳しく聞いていたので、べつに他の案内を必要としないで見つけることができた。私は、二人の同僚にまもられて宿屋に着く。入る。なんの遠慮もせず平気な態度で、よそ者でなくて常連らしく、
「こんにちわ、バルドーかぁちゃん、元気にやっとるかね?」
「こんにちわ、みなさん、よく来たね。見てのとおりさ、どうにかこうにか、なんにする?」
「飯だ。腹がへって死にそうなんだ」
「じきできるからね。部屋の奥へ行って、あたたまってよ」
食事をこしらえている彼女と話の口火をきる。
「やっぱり、おれを思いださねェな」
「なら、ちょっと待って」
「去年の冬、ポンスと一緒に泊まりに来て、二十回も顔を見てるんだぜ」
「なに、あんたが?」
「この俺がだよ」
「やっと、はっきりわかったよ」
「で、ジェラールの兄貴はどうしてる? いつも元気かな?」
「ああ、そのことだったら、そのとおりさ。今朝も、ここで一杯やったよ。ラマール屋敷へ仕事に行く途中だった」
私は、その屋敷がどこにあるのかまったく知らなかったのだが、その場所を知っていると思われているので、なにも訊かないことにした。また、直接の質問はさけるようにしていると、そのうち場所がわかるだろうと思った。そして、最初の一口を呑みこんだところへバルドーかあちゃんがやって来て、
「さっきジェラールのことを言ったね。あそこに娘がいるよ」
「どれ?」
「いちばん小さい子」
私は、すぐに立ち上がって女の子のほうへ行き、私をよく見るひまをあたえずに抱いた。そして、つづけざまに質問をして子供をまごつかせ、個々の家族の者の近況を矢つぎ早やにたずねた。彼女が答えると、
「そう、そりゃ結構だ、いい子だね。ほら、リンゴだ、おあがり。あとで一緒にお母さんのところへ行こう」
いそいで食事をすまして少女と一緒に外へ出て、彼女について行った。はじめ、母親の住居のほうへ向かったが、もう宿屋の女主人に確かに見られないところまで来たので、案内の少女に、
「ねェ、ラマール屋敷はどこだか知ってる?」
「あっちだよ」
イルソンの側を指さしながら答えた。
「ではね、あんたはお母ァさんのところへ行って、お父さんの友だちが三人きたと言ってね。お母さんは四人分の晩御飯をこさえる。おじさんたちはお父さんと戻るからね。さようなら、おねェちゃん」
ジェラールの娘は、じぶんの道を行き、まもなく、われわれは、行手の正面にラマール屋敷を見つけた。そこでは誰も働いていなかった。一人の農夫にたずねたら、みんなは、も少し向こうにいるという。われわれは歩きつづけ、とある小高いところに着いた。見ると、じっさいに三十人ばかりの男が大道の修理作業をしていた。ジェラールは、現場監督として、その群の中にいるはずだった。われわれは前進する。人夫たちから五十歩のところで、顔や体つきが私が教わったものにそっくりに思われる一人物がいたので、それを部下に注目させた。ジェラールに間違いないと思い、部下たちにもそう伝えた。だが、あまり大勢の人に取りまかれていて捕まえにくかった。一人でいても、その向こう見ずな性分には怖るべきものがあり、もし仲間の連中が庇《かば》ったら令状の執行は失敗することがあり得る。ややこしい状況であった。ちょっとした出方次第で、ジェラールは、われわれをひどい目に遭わせるか、国境の向こうへ逃げることができる。これほど慎重さの必要を感じたことはなかった。とりあえず、この場合、二人の部下に相談することにした。二人とも豪胆な男だった。
「あんたの好きにしなさいよ。おれたちは、なにがなんでも、あんたに助力するだけだ。決断あるのみ」
「よし、おれについて来い。いざという時以外は手をだすな。やつらより強くないと、こっちが悪者になっちまうぞ」
まっすぐ、ジェラールと睨んだ人物のところへ行った。二人の部下は二、三歩うしろについていた。近づくにつれて、ますます私が間違っていないという自信をもった。ついに男のそばへ来る。なんの前置きもなく、両手を彼の首にかけて抱く。
「こんにちわ、ポンス、元気かね? 女房や子供もマメかな?」
いきなりの挨拶に、ポンスはポカンとし、びっくりして私が誰かをたしかめる。
「ヤイヤイ、いったい全体、どこの悪魔が俺の知り合いだという野郎を連れて来たんか知りてェもんだ。おめェは誰だ?」
「なんだと、おれを知らんだと、そんなに、おれは変わったかなァ?」
「断じて知らねェな。てんで思いだせねェや。おめェの名を言ってみな。どっかで見た顔だが、いつ、どこか、とても思いだせねェ」
そこで、彼のほうへ身をかしげて耳うちをした。
「クールとラウールの友だちだ。あいつらが寄越したんだ」
「ああ」
ポンスはうなずき、なつかしげに片手を握りしめながら人夫たちのほうに向きなおり、
「忘れてなるもんか。知りすぎてらァな。友だちだ、で……なんとかいう友だちだ。さァ、あいさつに抱いてやるぜ。息がつまるほど腕をしめてくれ」
この有様を見物しながら、部下は私から眼を放さなかった。ポンスは、かれらに気付いて一緒の者かと訊いた。
「伜《せがれ》どもだ」
「妙なやつらだと思ったぜ。そうかい。では、このままじゃだめだ、くつろがなくちゃ、このおにィさんたちもな。パイ一やらにゃ」
「おれだって、わるかねェからな」
「腹はたたねェやな。だけんど、この狼村にゃなんにもねェ。イルソンにしかねェんだ。ここより大きな町で一杯やれるところがある。たしか、通って来たと思うが?」
「よかろう、イルソンへ行こう」
ポンスは仲間たちにアバヨを言って、われわれと一緒に出発した。私は、道々あれこれ観察して、その男の腕っぷしを大袈裟には聞いていなかったが、見たところ相当なタマだということがわかった。背は高くなく、せいぜい一メートル七十くらいだったが、胴まわりが四角ばっていた。顔は浅黒く、陽焼けはしていないが、精力的な顔付きにエネルギーがあふれていた。肩、頸、太もも、腕、みんな大きくてがっしりしていて、これに凄い頬ひげと顎《あご》や口のまわりいっぱいを青ひげが覆い、短くて広い手の甲には指の先まで毛が生えていた。動かせば笑える顔付きに、きびしい冷酷な感じがあって、その表情には決して微笑みは浮かばない。
並んで歩って行ったが、ポンスが私を頭から足の先までじろじろ眺め、もっとよく見るために、ちょっと立ちどまって、
「にくいね、なんてキザな野郎だ。革ズボンに折目をつけて気取っちゃって」
「まさか? 鹿皮は折目がつかないんだ」
「とてものこと、俺はスマートじゃねェ。だが、見たところ、俺たち二人は似たり寄ったりと言えらァ。こんなチビ助たァちがう」
と、私の班でいちばんの小男の部下のクレマンをそう呼び、
「昼飯で、どんくれェ俺が食うか知っとるか?」
「あてられねェ」
「さもあらんだ。だが、ときによると、ずんぐり男が神経|ちゃびん《ヽヽヽヽ》なことがある」
そのとおりだとも言えないことなどを話してから、ポンスは、クールなど友だちの消息をたずねた。みんな元気でいるらしいが、アヴェン事件〔アヴェン云々というところは三カ所あるが、いずれもベルギーに接した北部のパドカレ県とノール県にある〕以来かれらがどうなったのか気がかりのままだと言ってやった(アヴェン事件は殺人事件だったが、その話をしてもポンスは眉一つ動かさなかった)。
「で、この辺へ誰が連れて来たんだ。まさか抜け荷をやらかそうとでも?」
「図星だよ、相棒、馬のインチキ取引に来たんだ。お前さんが一肌ぬいでくれると聞いたもんで」
「ああ、俺なら当てになる」
ポンスは、はっきり言い切った。こんな話をしながらイルソンに着くと、酒の小売りもしている時計屋に案内し、四人がテーブルについた。酒が来て、みんなで飲みながら、また話をクールとラウールのことに戻した。
「今ごろ、ひょっとすると、あいつら、えらい目に遭っているかもしれねェ」
「なんで、また?」
「すぐには知らせたくなかったんだが、あいつら、とつぜん不幸なことになっちまって、つまり、その、パクられているんだ。まだ牢屋にいるかもしれねェ」
「そのワケは?」
「わけは知らねェ。知ってることはこれだけだ。ラウールのところでクールと昼飯をやってたら、サツが踏みこんで来て、三人ともいろいろと聞かれた。おれは、すぐに放免されたが、あいつらは留められて、どうなったかわからん。もしラウールが調べ室から戻ってきたとき、そっと二言いってくれなかったら、お前さんに知らせることはできなかった。だから、用心しろと知らせに来たのは、お前さんのことをサツが口にしたからなんだ。これ以上は言うにゃ及ぶめェ」
「パクったなァ、どやつだ?」
びっくりした様子でポンスが訊いた。
「ヴィドックだ」
「うーん、あん畜生か。といって、そのヴィドックって野郎は、どんなやつかな、いっぱい噂はあるが? まだ面と向かって見たことがねェ。たった一度、コーゼットの家へ入っていくのを、うしろから見たことがある。あいつがそうだと誰かが言ったが、やつのことは何も知らん。やつを拝ませてくれたら、喜んで上等の酒を何本でもおごってやるぜ」
「やつに会うのは、とうていダメだ。のべつ旅をしてるからな」
「俺の縄張りにハマって来ねェとはな。もし、ここにいたら、四半時ばかり可愛がってやるところだが」
「ふむ、お前さんも、ほかの連中と同じことを言うな。もし、やつがここにいても、お前さんはじっと動かずに、ぐっと飲んでくれとすすめるさ」
こう言いながらコップを差しだすと、彼が注いでくれた。
「俺が、そんな、なんならぶっ殺してやらァ」
「ぐっと飲んでくれとすすめると言ったんだぜ」
「そんなことするくれェなら死んだほうがマシだ」
「この際、死にたけりゃ死ぬさ。おれだよ、おれが貴様を逮捕する」
「なに、なに、なんだと?」
「そうだ、貴様を逮捕する」
顔に顔を寄せながら、
「いいか、まぬけ、パクられたんだ。じたばたしたら、鼻をへし折るぞ。クレマン、この旦那に手錠をかけろ」
どんなにポンスが驚いたかは、とても書きあらわせない。顔じゅうがくしゃくしゃになり、眼玉が眼窩《がんか》から飛びだしたかのようで、頬がぴくぴく、歯はカチカチ、髪の毛が逆立った。しかし、上体だけがふるえていたケイレンの症候が少しずつ消え、あたらしい変動が起こった。両腕を縛ると、二十五分間も化石のように身じろぎもしなくなり、ぽかんと口をあけ、舌が口蓋にへばり付いて、なんとか努力を繰り返して、やっとのことで舌が放れた。唇を湿そうとしたが唾が出ない。半時間たらずのうちに、その悪党の顔が、青白い色から黄色、さらに鉛色といった具合に次々と変わり、腐りかけた死体のような様々な色合いを見せた。そして、とうとう、一種の麻痺状態から脱したポンスは、こんなふうに口をきいた、
「くそっ、てめェがヴィドックか。近よってきたときに知ってたら、びり糞をひっかけてやったのに」
「上等だ。ありがとさん。おまけに、貴様がだまされるのを待ちながら、うまい酒を御馳走になった義理もある。さようならじゃすまされねェや。ヴィドックを拝みたいというから御開帳してやった。これからは、悪魔を誘っちゃいけねェことが得心いったろう」
ポンスの逮捕後に呼んだ憲兵たちは、かれらの眼を疑った。ポンスが教えた彼の住居の家宅捜索が行なわれているあいだに、自治体の長は、われわれと神への感謝をごちゃまぜにして、
「なんたら、どえらい御手柄だんべ。おめェ様が、おらがの国さござらっしゃったとはな。おらはァ、みんな、おっ魂げただ。ふんとの天罰ちゅうもん見せてくださったもんな、ポンスめがふんづかまったのを見て、村一同、胸をなでおろしてるだ。これからはもう、この悪党がとらまったんで、手下のもんは、ただもう、びっくらこいて、おとなしうなるだんべ」
住居改めが終わり、われわれはラ・カペルへ行って泊まった。ポンスには部下の一人が付きっきりで、夜昼なく見張っていた。最初の休憩場所で服をぬがして何か武器を持っていないかを調べた。はだかにしてみて、一瞬、これが人間だろうかと疑った。全身が、房々として艶のある黒い毛でおおわれていた。まるで、熊の皮を着たヘラクレス・ファルネーズのようだった。
ポンスは、いちおう、おとなしくしている様子だった。とりわけて、これといった異常は見られなかったが、夜のあいだに二十五箱もタバコを呑みこんだことを次の日に気付いた。なんらかの形でタバコを常用している人間は、極度の不安状態になると、かならず並外れた服用をするもので、このことは前々から知っていた。裁判所で宣告を聞いたばかりとか、体刑が近づいているとかを問わず、死刑を宣告された者より早くパイプ一服を吸う喫煙者はいない。しかし、ポンスのような立場におかれた悪人が、ひりひりと忌わしい効果しかもたらさない物質を大量に呑みこんだのは見たことがなかった。だから、彼の気分が悪くならないかと心配し、たぶん服毒のつもりだったのだろうと思って、残っていたタバコを取り上げ、噛むだけにするという条件で部分に分けて返してやることに定めた。ポンスは、この処方に従い、もうタバコを呑みこまなくなり、前に呑んだものも何ら害をあたえた様子は見受けられなかった。
大口あけて小物をぱくり
私はまっすぐパリに戻った。ポンスをヴェルサイユ監獄へ連れて行った。そこにはクールとラウールが拘留されていたので、到着すると二人に会った。
「おい、例の野郎をつかまえたぞ」
「パクった? ああ、よかった」
とクールが言うと、ラウールが、
「あいつは肉屋とは関わりがねェ。ほかのところで、のうのうとしてた」
大声をだしたので、私が、
「ほんとか? でも、やつは、肉屋の件で観念してるみたいに神妙にしているぞ」
「なんだと、なんで抗弁しないのか……オイ、聞いたか、ラウール? やつは抗弁しないんだって」
「あいつらは何を考えとるのかわからん怖ろしい連中だ、ポンス一味は。大口あけて小物しか呑みこまないんだ」
「とにかく、お前らのタレコミで損はなかったよ」
ヴェルサイユを出発する前、二人の囚人に気晴らしをさせてやろうと一緒に夕飯をおごってやった。かれらは、はっきりと満足の意をもって受け入れ、一緒にすごしたあいだは、かれらの顔に悲しみの影は少しも見られなかった。もはや諦めきっていて、真人間に立ち戻ったといってもよく、すくなくとも、その言葉からはそう思われた。クールが、
「なァ、ラウール、俺たちゃ因果な仕事をやったもんだな」
「それを言うなよ。自分の首を吊るす仕事ばっかり……」
「そんだけじゃねェ、しょっちゅうビクついていて、片時も気が安まらず、知らねェ顔を見るたんびにおびえてよ」
「まったくそのとおり。そこらあたりの者が密偵か変装した憲兵に見える。ほんの小さな音や、ときには自分の影にどきっとする」
「俺はな、見知らぬやつにじっと見られると、俺だってことを知ってるんじゃねェかと勘ぐってよ、カーと血がのぼって、いや応なしに眼が赤くなるのを感じるんだ」
「いったん道をふみはずすと、自分のことがわからなくなっちゃって、やり直して堅気になるくらいなら頭をぶち抜いたほうが、なんぼかいいかしんねェ、と思ったもんだ」
「俺にゃ二人のガキがいるが、あいつらがグレるようだったら、早いとこ息の根をとめてやれと女房に言いてェな」
「苦労して悪事をするより、おなじ苦労してマトモなことをしてたら、こんなところにはおらなんだはずだ。もっと幸せだったろうよ」
「仕方ねェか? 俺たちのサダメさ」
「そうは言わんでくれよ……じぶんの運命を作るのは自分自身だ……サダメだと。ふざけるな。サダメなんてもんは有るもんか。悪い友だちがいなかったならばだ、あっしだって、極道者になるように生まれてきたわけじゃない。覚えているかい。これまでの仕事のたびに、どんなにラクな気持が欲しかったかを? だから、いつも五十キロの重さが胃にもたれかかり、抜けない竿|秤《ばかり》を呑みこんでいるみたいだった」
「俺は、熱い鉄で心臓を焼かれる思いがし、その気持がしずまると、左側を向いて眠る。うとうとする。ズボンの中で五百万匹の悪魔がうごめき、血だらけの服のまま死体を埋めていると、ふいに誰かに捕まる。これが何度も繰り返され、気がつくと、まだ死体をおんぶしている。眼がさめる。びしょ濡れだ。おでこから汗が流れて、スプーンで集められそうだ。このあとは、なんとしても眠れない。寝帽子が窮屈だ。いろんなふうに回し、また回す。いつも鉄の輪っかが頭をしめつけ、二つの尖った先っちょが両側からコメカミの中に突き刺さる」
「ああ、おめェも、やっぱり、そんな目に遭ったんか。針地獄だ」
私が言ってやった。
「たぶん、それが良心の呵責《かしゃく》というもんだ」
「カシャクだろうがなかろうが、ひでェ責苦だ。ねェ、ジュールさん、俺ァこれ以上がまんできねェ。こんなの終わりにしてェ。ほんと、もうまっ平だ。ほかの連中も、なにかと頼みこむだろうが、てェへん御世話になりましたと言っとこう。なんとか言えよ。ラウール?」
「あっしら、なんもかもゲロしたんですから、以前にくらべりゃ極楽にいるみたいです。ぞっとすることばかりして来やしたが、婚礼の場で殺《あや》めたんじゃありません。それにまた、せめて、あっしらが見せしめになりやしょう」
別れぎわに、ラウールとクールは、どうか判決があったら、すぐに会いに来て下さいと頼んだので、私は約束して誓った。二日後、死刑に処すという判決が宣告され、私は会いに行った。かれらの房に入っていくと、わっと喜びの叫び声をあげ、私の名が救い主の名のように薄暗い丸天井の下にひびいた。かれらは、こんなに嬉しいことはないと私の訪問を喜び、キスさせてくれと頼み、それを断る力は私にはなかった。かれらは手足に鉄鎖を付けられ、折りたたみ式のベッドにつながれていた。私が上がると、長く苦しい別れのあとで再会した親友と同じ心情あふれる思いで私を抱きしめた。すると、会見に立会っていた知り合いの看守が、二人の殺人者の思いのままに、そんな真似をしている私を見てたいへん怖がったので、
「大丈夫だ」
「ハイ、そのとおり、大丈夫。あっしらがジュールさんに悪さをするなんて、そんな心配はいらないよ」
ラウールが晴ればれと言い、クールが、
「ムッシュ・ジュールは男一匹だよ。俺たちにゃ、この人以外に友だちはいねェんだ。俺たちを見棄てなかったのが気に入ってるんだ」
さて、引き退る段になって、かれらの横に二冊の小さな本があるのに気付いた。一つが半開きになっていた(『キリスト教徒の冥想』であった)。
「どうやら本を読んでいるらしいな。もしや、信心してるんでは?」
と言うと、ラウールが、
「なにがお望みなんで? ザンゲ(告解)しろとオキョウ(坊主)が来たんです。そいつが、あれを置いて行ったんです。あの本のとおりにしたら、やっぱし、世の中、いいことずくめでしょうかね」
「ああ、そうだとも、いいことずくめさ。よく言うじゃないか、宗教は道楽じゃないって。人間は、犬のように土の上で死ぬようにはできていないんだ」
私は、かれらの心のうちに働いた幸運な変化で新しい改悛者が生まれたことを祝福した。
「二カ月にもならねェのに、と言うかもしれんが、まんまと坊主にまるめこまれちまった」
とクールが言うと、ラウールが、
「あっしと来たら、知ってのとおり、坊主なんて鼻もちならなかったんですが、首切台へ上るときは、二度も坊主を見なくちゃならんとか。死ぬなァおっかなかァありゃせん。コップ一杯、水を呑むみてェに平ちゃらだ。あそこへ行くときは来てくれますか、ジュールさん」
「そうだとも、来てくれなくっちゃ」
とクールが私に言ったので、
「約束するよ」
「きっとだね?」
「きっとだ」
死刑執行の日、私はヴェルサイユへ出向いた。朝の十時に牢内に入ったが、二人の死刑囚は聴罪師と話していた。私を見ると、さっと立上がって、こちらへやって来た。
ラウール(私の手をとって)「あんたは、あっしらにしてくれていることが、どんなに嬉しいかわかんないだろうが、ほれ、死出の旅路の支度をしていたところでさァ」
私「邪魔じゃなかったかな」
クール「おめェさんが、ムッシュ・ジュール、俺たちの邪魔をするって、冗談かい?」
ラウール「あんたとは十分間も話ができないんだ。(聖職者たちをふり向いて)あの人たちが許してくれるかな」
ラウールの聴罪師「どうぞ、わが子よ、どうぞ」
クール「ムッシュ・ジュールみたいな人は、たんとはいねェ。ごらんのとおりだ……俺たちをパクった人だが、そんなこと、どうでもいいんだ」
ラウール「彼でなかったら、ほかの人だった」
クール「だったら、こんなによくしてはもらえなかったぜ」
ラウール「ああ、ジュールさん、あんたがしてくれたこと、金輪際、忘れませんからね」
クール「友だちだって、こうはいかねェや」
ラウール「で、やっぱし、あっしらが、もんどり打つのを見物にくるのがおるでしょうな」
私(会話を変えようと嗅ぎタバコを差しだし)「さァ、一つまみ、いい品だよ」
ラウール(強く吸って)「わるかないや(くさめを何回もする)。へェー、これは外出許可証じゃありませんか、ジュールさん?」
私「そういうもんだ」
ラウール「あっしは、やっぱし、病気なんです(と言ったかと思うと、ぱっと私のタバコの箱を手にとり、ていねいに開けて中をしらべる)。けっこうなクサイレ(タバコ入れ)だ。なァおい、クール、世の中、これ、なんだか知っとるか?」
クール(眼をそらし)「黄金《きん》だ」
ラウール「そっぽを向くのも道理だ。黄金は人間の亡びのタネさ。そいつが、あっしらをどこへ連れこんだか、わかってるな」
クール「ちえっ、そんな御託をならべながら、みんな、あくせくして黄金へとっつこうとしてるんだ。でも、そうやって働くほうがいいんじゃねェのかな? 今日ただいま、おめェにゃ堅気の親がある。俺にもある。おたげェ、家族を汚しちゃならなかったんだ」
ラウール「あっしの心残りはそれじゃない。バラした人たちのことだ……あの気の毒な人たちのことだ」
クール(ラウールを抱き)「おめえ、ほんとに後悔してるんだな。ああいう人たちを死なせたやつは、生きる資格なんかねェ。人間じゃねェ、化物だ」
クールの聴罪師「さァ、わが子よ、時間がすぎる」
ラウール「神々の神(至上者)なんて言ったって詮《せん》ないことさ。たった一人の神でも、あっしらを勘弁してくれるもんか」
クールの聴罪師「神の慈悲は限りがないのです……十字架で死なれるとき、イエス・キリストは、無知な盗賊のために天の父に赦しを願って取りなされたのですぞ」
クール「俺たちのために取りなして下せェな」
聴罪師の一人「わが子よ、なんじの魂を神にささげ、ひれ伏して祈りなさい」
二人の死刑因は、しなくてはならないことを私に相談するかのように私を見つめ、私が、かれらの弱さを叱るのではないかと心配そうだった。
私「恥ずかしいことはないんだよ」
ラウール(相棒に)「おい、言われたとおりにしようや」
ラウールとクールがひざまずく。その姿勢で約十五分間そのまま……敬虔な思いに没入している。時計が鳴る。十一時半だ。互いに顔を見合わせて一緒に言う。
――三十分以内に、おれたちは。
こう言いながら立ち上がり、私に何か話したい様子なので、ちょっと脇に寄ってやると、クールが近づいてきて、
「ムッシュ・ジュール、あんたに本当の親切心があるなら、さいごの頼みがあるんだが」
「なんだね? なんでも聞くよ」
「俺たちにゃ、パリに女房がいる。俺の女房……あいつのことで胸が痛むんだ……とても……」
眼に涙があふれ、声が上ずって皆まで言えない。すると、ラウールが、
「おい、クール、なら、どうだというんだ? ガキのことは言わんのか? そんなやつとは思わなんだよ、この野郎。それでも人間か、それとも、でないのかい? 女房がいるからだって? じゃ、あっしにゃ女房がいないとでも言うんか? さァ、もちっと元気をだしな」
「今となっちゃ、すんだことだ。俺が言いてェなァ、ムッシュ・ジュール、俺たちにゃ女房があるんで、たってと言うわけじゃないが、ちっとばかし、ことづけを頼みたいんだ」
私は、かれらの頼みなら何でもやってやると約束し、思っていることを打ち明けてくれるなら良心的に履行すると再保証した。
ラウール「断らないことはわかっていましたよ」
クール「できのいい子供があるのは、いつも宝を持っているようなもんだというからな……ところで、ムッシュ・ジュール、いったい、俺たち、どう思われてるんだろう?」
ラウール「ザンゲ坊主(聴罪師)が言うのが出鱈目《でたらめ》でないなら、あっしら、いつかは生まれかわるねェ」
私「それを希望しなくちゃ。たぶん、じきに、そんなことを考えなくなるよ」
クール「間に合わない旅のようなもんだ。もうすぐ出かけるんだ」
ラウール「ジュールさん、あんたの時計、ちゃんと合っている?」
私「すすんでいると思う」(時計を取りだす)
ラウール「どれ。や、お午《ひる》だ」
クール「牝《めす》の狆ころ(死)め、早いなァ、駈けて来るのが」
ラウール「今に長い針が短いのにかさなる。名残りがつきないや、ジュールさん……だが、行かなくちゃならない。この寺小屋は取っといて下せェ。あっしらにゃもう要らないもんだ」(寺小屋というのは例の二冊の『キリスト教徒の冥想』のこと)。
クール「それから、このブドウ畑の二太郎(二つの十字架)も持って行きなせェ。ちったァ俺っちの思い出になりまさァ」
車の音が聞こえる。二人の罪人の顔がまっさおになる。
ラウール「ちゃんと後悔してるんだから、ひょっとしてオマンをさせてくれるかな? いや、だめだ。間違っても、そんなことがあるはずがない。お堅くしていなくちゃ」
クール「そのとおり。お堅く後悔してな」
死刑執行人が到着する。荷馬車に乗せられると、死刑囚たちは私にさようならを言う。
「でも、あんたは、死人の首にキスしに来てくれた」
とラウールが言い、行列が刑場へ向かって進む。ラウールとクールは、聴罪師の励ましの言葉に聞き入っている。とつぜん、二人が身ぶるいするのが見えた。ある声が彼らの耳を打ったのだ。負傷から立ち直って見物の群集に交じって来ていたフォンテーヌの声だった。彼は、復讐の念に燃え、残忍な喜びに我を忘れていた。ラウールが彼を見つけ、あざけり憐れむ無言の表情で睨みつけられ、その男がいるのがやりきれないと私に訴えたい様子だった。そこで、フォンテーヌが私のそばへ来たので、もっと離れていろと命令した。ラウールと相棒は、この心づかいを喜んでいるというしるしに、頭をふって私に知らせた。
クールが最初に処刑された。死刑台に上がると、これでよいのかと私にたずねるように、まだ私を見つめていた。ラウールは、まったく身体をこわばらせないで、いきいきとした態度だった。二回、彼の首が地獄板の上でもんどりを打ち、もの凄い勢いでビュッと血がほとばしって、二十歩以上も離れたところにいた見物人に飛び散った。
これが二人の男の最期であった。かれらの悪業は、堕落した者たちとの付き会いから生じたもので、根っからの悪人の所業にくらべると大したものではない。本来の悪人たちは、一般社会のふところの中で別個の社会をつくり、かれらだけのオキテや仁義が悪徳をもっている。ラウールは、三十八歳かそこらで、背が高く、すらりとしていて、きびきびと張りきっていた。眉が立っていて、眼は小さいが、いきいきと黒くかがやいていた。おでこは低くないが、こころもち後ろへ引っこんでいた。耳は開いておらず、イタリア人の耳のように、二つの突起の上に接ぎ足した感じで、あかがね色をしていた。クールの人相は謎めいていて説明するのが難しい。眼付きは濁ってはいないが曇っており、全体の顔付きが、正直いって、福相でも悪相でもなかった。ただ、きわだって骨が出っぱっていて、前頭部分の土台にも、二つの頬骨にも、なにか兇猛な感じが表われていた。この残忍性のあらわれは、おそらく殺しの習慣から発達したものであろう……その他のこまかいこと、とくに顔の動きについては、あまり深みを感じさせないものがあり、これらを合わせて考えると、見る人が不安と身ぶるいを感じる何か邪悪なものがあった。クールは四十五歳になっていて、若いときから犯罪の道に入っていた。ながいこと罰をのがれていたのは、たいへん狡猾で機敏だったからだった。
私は、あたえられた権限で、この両名の殺人犯の心が、やはり生来の善意に近づき得たことを証明した。私は、時間いっぱい努力した。かれらから贈られたプレゼントは、ちゃんと保管してあり、私の家には、二冊の『キリスト教徒の冥想』と二個の十字架がある。
ポンス・ジェラールについては、殺人の確証が得られず、終身懲役刑を宣言された。
ひらめき発見
多くの経験をかさね、仕事をしていて自分でも驚くような一種の直感がはたらくようになった。この勘で、なにか盗まれたと訴えてきた人たちを幾度となく驚かしたものだ。二、三の状況を聞くと、すぐに現場へ出かけて話を聞き、それ以上の十分な情報を待たないで、
――犯人は誰それだ。
と断定すると、みんな、びっくりしたが、感謝していたかどうか? 私は推測はしない。というのも、ふつう、告訴人は、私が盗みをやらせているのだとか、私が悪魔と契約しているなどと思いこんでいたからである。私のところへ訴えてくる人たちは、こんなふうに信じていて、そうでもなければ、あんなに巧く犯人がわかるはずがないと思っているのだった。つまり、事件の主人公は私で、多くの窃盗事件の煽動者だという意見が一般に広くひろがっていた。誰もが、私がパリじゅうの泥棒みんなと直接につながっているものと思っており、泥棒たちがたくらむヤマを前もって知らされていて、いいチャンスを逃がしたくないために私に知らせなかった場合は、成功したら必ず分け前をとどけているんだと考えていた。とにかく、世間の人は、私が泥棒のオトシマエにあずかっており、私に十分なミイリがあるまでは、泥棒の活動を放っといて逮捕しないのだとも思われていた。どうせ泥棒たちはヴィドックのカモ仲間で、遅かれ早かれ司直に引き渡すべき人間なんだから、こんなふうにしてギセイにするのは彼、つまり私にとっては都合がいいのだ、と。まったくもって不条理な作り話だが、浮世社会では、こんなことしか考えられないものだ。いちばんバカげているのは、たまさか、ぜんぜん根も葉もないことから、いかにも本当らしさが生まれてくることだった。気になって、任務上、できれば真相を知ろうとして、本職の盗賊や女泥棒に小銭をつかませ、盗っ人たちの懐具合を知らせてくれるように頼む。もし、以前とは打って変わって羽振りがよくなっていたら、なにかのミイリがあったなと当然の結論をする。そして、その変化が告訴と一致すれば、右の結論は、より一層の真実味を帯びてくるが、まだ推測の域を出ていない。そこで、私は、その犯罪についてのわずかな特徴も考慮しながら、犯罪を行なうのに実際にとられた手口を明らかにするために現場に足を運び、まだ何も捜査していないのに訴えた人に言ってやる。
「安心しなさい。泥棒や盗まれた物を必ず見つけだしますから」
次の実話は、この種の話の一つのものであるが、こうしたものの証《あか》しとして書いておこう。
サンドニ街の衣料商、プリュノー氏が夜のあいだに盗難に遭った。倉庫に押し入られ、インド更紗《さらさ》五十点と多くの高価なショールを盗まれた。朝になると、すぐにプリュノー氏が私の執務室に駈けつけたが、彼の災難を語り終わらぬうちに窃盗犯人の名前を言ってやった。
「そいつはね、ベルトとモンゴダル、それに子分どもの仕業としか考えられないな」
そこで、すぐさま部下たちにかれらの身辺を洗わせ、金遣いが荒いかどうかを調べるように命じた。そして、幾時間もたたないうちに次のような報告があった。私が疑っていた二人の男が、ツールーズいう男と通称モロシニことルヴランという名の連中と某悪所で会っていたというのであった。誰も彼も新調の服を着ていて、見たところ懐具合がいいらしく、みんな女連れだったという。私は、かれらの故買屋が誰かピーンときた。そこで、そやつの家にガサ入れをしたところ、盗まれた品物が見つかった。故買屋は、おのれの不運からのがれられずに懲役に送られた。盗っ人たちを服罪させるには、私の考えた策略上、動かぬ証拠を用意する必要があり、かれらは、これを突きつけられて一も二もなく降参した、
ちゃんと任務を果たす能力をもつには、物事を正しく推測することが大いに必要で、私は自信をもって行動することが多く、いきなり盗賊の名前や住居を示し、その盗みの手口なども云々しながら犯人を言い当てて間違わなかった。世間一般の人は警察の策略を知らないから、誰が本当に白なのか黒なのかわからず、深く洞察してみようとしない。物事をよく考えてみる習慣がない人は、誰しも似たような想像をするもので、私には、これっぽっちの邪心もないのに、ありもしない「見のがし」があると、はなっから勘ぐってかかるのである。とにかく、パリの住民の半分のフランス人が、私には、何でも見通せる眼と地獄耳があり、すべてを知っている能力があると信じ、掛値なしに言って、かれらの眼には私が一匹狼の神仙《しんせん》に映り、なんでもかんでも私に助けてくれと持ちこみ、私の仕事以外の事柄に時間の四分の三をつかってしまう。人々は、私に訴える要求が、まともでない風変わりなものだとは思わず、誰でも警察に自由に来られるかぎり、そのような訴えの会見に応じねばならなかった。一人の農夫が入ってくる。
「だんな、おら、植物園さぶらつきに出かけただ。けだもんば見物しとったら、御前さまみてェなムッシュが、ブルゴーニュ者《もん》じゃあんめェかと訊いたんで、おら、ハイそうでがすと答えただ。そんで、その人は、ジョワニィ〔ブルゴーニュ地方ヨンヌ県にある地名〕者《もん》で、国では材木屋やっとると言うた。ぼつぼつ国のことさ語って知りあいになったが、髑髏《されこうべ》ば見せべいかとぬかした。ふんとだ、まっとうな人でな、保証するだよ。だもんで毛ほども怪しまねェで一緒に行っただ。植物園の外さ出た。柵のところを行くと他所者《よそもん》と出会った。太物|商人《あきんど》だった」
「そいつらは二人づれじゃなかったかい? 若いのと年とったのと?」
「だ」
「年とったのがブドウ酒の倉庫へ連れて行ったろう?」
「だ」
「お前さんに何があったかわかったよ。すってんてんに捲《ま》きあげられた?」
「当たりだ、だんな、三千フラン奪《と》られちまった。二十フラン貨で千エキュ」
「ふむ、虎の子だったというわけか? で、やつらは雲がくれ?」
「ドロンしただ。うまくドロンばしてけつかって、見っからねェ」
「なるほど、その連中ならわかっている。おい、グーリー(部下の一人に声をかける)、こいつァ、エルメルにデプランク、それにファミリイの父《とっ》つぁんじゃないかな?」
刑事「きっとそうです」
「そいつらの中に天狗鼻がいなかったかな?」
「うん、ハイ、てェへん長ェのが」
「おれの眼に狂いはねェ」
「だば、だんなは、ちきしょう、一発で言い当てただ。即座にピッタンコだ。天狗鼻、やれやれ、ヴィドックのだんな、おめェ様はいいやつだ。だったら、おら、今はもう、すんぺェしねェだ」
「なんでまた?」
「おらから奪ったなァ、だんなの友だちだんべ、おらの金みっけるなァ朝飯前。そうなるように早くやってくんろ。今日でも大丈夫けェ?」
「そう手っとり早くはいかんよ」
「だけんど、おら、なんぼでも早ェとこ国さ帰らにゃならねェだ。かあちゃんに淋しい思いをさせてるだよ。おらのかあちゃん、たった独りで待ってるだ。それに、四日のうちにオーセール〔ヨンヌ県の主邑〕で定期市があるだ」
「ああそう、急いでいるんだ、お前さんは?」
「んだ。そうだば。だども、こうすたらよかっぺ、おらに今すぐ、さっと千五百フランくんろ。残りはあずけとくだよ。どうだべ? これほどいい折り合いはあんめェ」
「道理だ。だが、そんな取引はせんよ」
「だどもハァ、おめェ様しか頼るほかねェだ」
ブルゴーニュ人のお百姓を納得させると、こんどはマルタ勲爵者《シュヴァリエ》の番になった。たぶん、貴族の結婚許可をとっての上だろうが、女中を連れた奥方を同伴していた。
シュヴァリエ「わしは旧亡命者のデュボアヴェレス侯爵だ。ブルボン家ゆかりの者として正式に認められとる」
私「それは名誉なことで、ムッシュ。で、どんな御用で?」
シュヴァリエ「わしが、ここに懇願に参上したのは他でもない、ただちに我が家の下男を探索して逮捕してもらいたいためだ。彼は、三千七百五十フランと、わしが、こよなく愛着しておった格子模様入りの金時計を窃盗におよんで逐電いたした」
私「あなたが盗まれたのはそれだけですか?」
シュヴァリエ「だと存ずる」
夫人「もっとほかの物も盗《と》ったにちがいありません。ようございますか、侯爵、ずうっと以前から、なにか一つ二つとなくならない日とてはございませんでした」
シュヴァリエ「そのとおりだが、公爵夫人《マルキーズ》、さし当たっては三千七百フランと時計だけを提訴することにしような。なにはさておき、あの時計は、価格がいくらであろうと、わしにはなくてはならないもの、名付け親の故ヴェレルベル夫人がくだされた物で、あれをなくしたくない気持がわかろうというもの」
私「それァまァ、なくしたくないでしょうが、それより先に、どうか、その下男の姓名、年齢、特徴などをお聞かせください」
シュヴァリエ「名前か? むずかしいものではない。ローランという名だ」
私「出身地は?」
シュヴァリエ「ノルマンディだと思う」
夫人「あら、あなたは間違っています。ローランはシャンパーニュが出です。サンカンタン生まれだと言っていたのを何度も聞いていますわ。これについては、キュネゴンドが、もっとはっきりさせます。(女中のほうへ向いて)、キュネゴンド、ローランはシャンパーニュ生まれじゃなかった?」
キュネゴンド「奥さまにお詫びいたします。あの人はロレーヌ生まれだと思います。いつもディジョンから手紙が来ていました」
私「どうやら、あなたがたは出生地について一致しないようですな。また、ローランというのは、たぶん洗礼名にすぎず、世の中には同じ名の者が大勢おるもんです。だから、彼の家族名か、せめて彼だとわかる詳しい人物像を教えてくださることが必要です」
「彼の家族名? そんなものがあったとは知らんね。ああいう連中には名はないものなんだ。通常、みんなから呼ばれている名がある。わしはローランと呼んどった。それが便利だったし、先任者の名だったからだ。仕着せ者に引き継がれるものなんだ。出身地については、言わなかったかな? あいつは、ノルマンディー人でありシャンパーニュ人、ピカルディ人、ロレーヌ人でもあるのだ。人物像に関しては、背丈は並で、眼は、うん、やはり、みんなのような……つまり、きみのような、わしのような、そこらの娘のような眼をしとった。鼻は、とくにどうということはなく、口は、彼の口などに注目したことはない。下男を雇うのは仕事をしてもらうためで、わかるだろう、きみ、べつにじろじろ見てはいない……そうだな、気付いていたようにも思うが、髪は茶色か褐色だった」
夫人「あなた、あたくしはブロンドだったような気がしますわ」
キュネゴンド「エジプト・ブロンドでした。人参色の赤毛でした」
シュヴァリエ「かもしれんが、重要なことではない。このお役人が知りたいのは、盗みの前からローランと呼んでいたこと、まだ他の名を名乗っていないなら、その名で返事をするにちがいないということだ」
私「まさにそのとおりです。それ以上わかりきったことはありませんな。だが、私が探索をすすめる上では、どうしても、もっとはっきりした何かを教えてもらえたら好都合なんです」
シュヴァリエ「これ以上、知ってもらうことはないな。だが、これで十分のつもりだが、きみの部下が、ちょっと巧く立ち回れば、わしには滑稽な行動に思えるが、彼がどこで金を費《はら》っているかがわかるはずだ」
私「心から同意しますが、だからといって、そんなわずかな手掛りで、どうやって捜査に乗り出せますか?」
シュヴァリエ「ふむ、わしは、このように明白な情報をもって、ここに来たのだが、どうも気に入らんようだな。しかし、わしが持ってきたのは、これが精一杯なのだ。ところで、まだ、あやつの年のことは聞かないが、三十歳から四十歳くらいだ」
キュネゴンド「そんなに年とってはいません、侯爵さま、せいぜい二十四から二十八くらいでした」
シュヴァリエ「二十四、二十八、三十、四十歳。差はないな」
私「あなたの推定はバラバラです。だが、ムッシュ、その下男、なんらかの筋から来たのでしょう。独りで来たか、推薦されてか、それとも誰かが連れてきたか」
シュヴァリエ「誰もいない、馬車の御者が寄越したのだ。それだけだ」
私「勤務手帳を持っていましたか?」
シュヴァリエ「いんや、ぜったい、そんなものは持っていなかった」
私「なにか証明書とか身分証は?」
シュヴァリエ「何枚か紙っ切れを見せたが、あんなのはどうでもよい、見もしなかった」
私「となりますと、どうやってその泥棒を見つけろとおっしゃるんですか? そいつを追跡できる何の手掛りもいただけない。徹底して何もナシ」
シュヴァリエ「きみは、ほんとは面白がっとる……何もいただけないだと? このとおり、十五分ちかくも、わざわざ、きみを相手に話しているじゃないか、きみの質問には、ぜんぶ答えた。泥棒を捕まえないのなら、警察はなきに等しい。ああ、もうサルチィヌ殿〔第三十一章参照〕はいない。彼がいて、これまで話した百分の一も話したら、とっくに下男も時計も金も見つかっている」
私「サルチィヌさんは偉い方でした。ところが、私は、奇跡を仕出かすようにはできていませんので」
シュヴァリエ「よろしい。これから総監に、きみの無関心を訴えてやる。きみが動くのを拒む以上、法律面の友人たちや、わしの州の代議員たちが、警察の無能を知って、そのことを演壇で繰り返すだろう。わしには信望と影響力がある。これから、それを行使するぞ。今に見ておれ」
私「どうぞ、ムッシュ。ごきげんよろしゅう」
この貧乏貴族につづく者は作業着の男。給仕が案内してきた。
「泥棒を上手にとらまえる探偵の親分さんがおられるなァここですかい?」
「まァこちらへ。なんの用かね?」
「わしの頼みちゅうなァ、さっき、あそこんとこで銀時計を盗られたんじゃ」
「ふむ、あんた、どんな事情か、もっと詳しく話しなさい」
「つまり、わしゃ、ルイ・ヴィルルーという者《もん》で、コンフラン・サント・オノリィヌ〔セエヌ・エ・オアズ県ヴェルサイユ郡にある〕でブドウ畑を作っとる百姓でがんす。正式な結婚をしとる一家のオヤジでな、子供が四人おるが、子供の母親は、わしの女房じゃ。樽《たる》を買いにパリに来た。道を来ながら、ここから遠くねェところを通っていたら、ふと用が足しとうなって、ちょっくらごめんと壁の前へ行った。で、肩をたたかれたんで、ふり向いて見たら娘っ子がいて、こう言うた。〈あら、テオドールじゃないの? そうだわ、あんただわ。おいでよ、抱いたげる〉。というわけで、わしが言わぬ先から酒を一本ねだられた。わしゃ、ブドウ作りだもん、ブドウ作りは、いつだって飲むちゅうことは知っていなさろう、願ったり叶ったりだった。やんがて、オナゴが、友だちの女《めめ》っ子を探してくっからとぬかしたんで、けっこうだ、行きなよ、だが長くならんようにな、と言うてやった……オナゴは行った。わしゃ待ちに待った。いっこうに戻らんので、しびれを切らして時間を見べいと時計を引っぱり出そうとしたら、こりゃどうじゃ、時計がなくて手がすべった……ワナにかかったわ、オナゴが時計を盗ってさようならも言わずに行っちまったんだ……わしゃ走った。が、オナゴは見つからなんだ。たずねまわったら、みんなが、ここさ来れば、おめェ様らが五十五フランの銀時計ば見っけてくれる言うてくれた。あれは、ポントワーズの時計屋で買った暦《こよみ》時計で、神さまみてェに狂わねェ。何月何日が出てくるやつで、わしの娘の髪を手編みした紐《ひも》が付いとる。あんな結構なもんはどこにもねェ」
「どんな様子の女だったか、なにか、すこしでも気付いたことがある?」
「わしから盗ったオナゴかい?」
「そうだ」
「あんまり年とってもおらず、若くもなかった。胸は張っとったが、肥えても痩せてもいず、よくも悪くもなかった。一メートル六十四、五センチの女で、ほぼ、わしくらいじゃった。レースの帽子をかぶり、ちょっくら大きめの反り鼻だった。まァな、どんくれェなデカ鼻だったか言っておくべ。あのな、近くで見ると、紙が飛ばんように置いてある、そこにある大理石の梨みたいだった。それとも馬のたてがみ鼻とでも言っておくか。赤いスカート、青い眼、うろこ模様の匂い袋、こいつにバラの匂いがしみこませてあって、そこらがいい香りでいっぱい」
「お前さんは、かなり妙に詳しい話をするね。そいつァ作り話のタワ言だ。お前さんが盗られたのは大道の上じゃないことがわかった。つまり、そんなに詳しく観察したということは、その女を、長いこと、すぐそばで見ていたということだ。さァ、常識はずれの物語をしないで、売春宿へ連れて行かれたと白状したまえ。相手に一発うちこんでいたあいだに銀時計が消えましたとな」
「おめェ様にゃ何も隠せねェことがわかった。そう、そのとおりだ」
「だったら、なぜ作り話をした?」
「わしの、五十五フランする銀の暦時計を見つけるには、あんなふうに話すのがいいと人に言われたからだわ」
「女と行った家の場所がわかる?」
「そりゃもう、ちゃんと。通りの角の二階家で、部屋にはテーブルがあった」
「では、その家を見つけるための、もっと詳しい話をしたまえ」
「よかったなァ。じゃ、わしの時計は見つかるんで、だんな?」
「それは、どうとも言えん。なにしろ、お前さんは、変てこな話ばかりするんで」
「なんとな? わしゃ、赤い眼の女とかなんとか、今しがた詳しく話したばかりじゃねェか、つまり、ああそうか、赤いスカートで青い眼、レースの帽子だった。はっきりしないが、レースだったかな? 靴下の色は覚えていねェ。だが、靴下どめが紐だったのはよく覚えている。靴にも紐が付いとった。このほかは、こまかいところを話すこともあんめェ。語って欲しいことは言ったはずだ。わしの時計を取り戻してくれたら、半瓶一本おごり、お仲間との呑み代《しろ》に十フラン進上するだよ」
「ありがとさん。そんなこと気にしていないよ」
「これで万事よいことずくめだ。誰しも自分の仕事で生きなくっちゃ」
「なにも要求してはいない」
「そいつァいい。だが、わしの暦時計は返してくれるな」
「ああ、誰かが持ってきたら返してやるよ」
「とにかく、おめェ様を当てにしてるだ。忘れん坊じゃ困るからな」
「安心しな」
「じゃ、ごきげんよろしく、親方さん」
「さいなら」
「ハイ、そのうちまた」
ブドウ作りのおっさんが、夫婦間の罪を犯して罰《ばち》に当たり、それでも希望に満ちて暇《いとま》を告げると、サンドニ街の名店主の一人が部屋に入ってくるのが見えた。ぽかんとした顔だったが、哀れなアクテオン〔ギリシア神話。アルテミス女神の水浴を見て鹿に変えられて自分の犬に八つ裂きにされた狩人〕が変身させられたような趣《おもむき》をとどめていた。
「ムッシュ(商人が話す)、今すぐ家内を探していただきたくて参りました。昨晩、店員と駈落ちしたんです。二人が、どっちの道へ行ったかわかりませんが、あまり遠くへは行っていないはずです。わたしの財産、金と商品をそっくり持ち出しているからです。つかまらないかな。もし捕まえてもムダ骨かも。でも、まだ、パリにいるのは確かです。あなたが、早いとこ追跡されたら捕まります」
「注意しておきますが、そういう泣き言だけでは動けないのです。動くには命令が必要なんです。あなたの奥さんと誘拐者にたいする姦通《かんつう》の告訴状を持参してください。なお、その中で、財産と商品を騙取《へんしゅ》されたことも訴えてください」
「は、はい、告訴状を持ってきます。でも、くだらんことで時間をつぶしているうちに、裏切者どもに大儲けをさせてしまうんでは」
「かもね」
「危急存亡なときに、そんなにモタついて。とにかく、わたしの妻は妻、毎日毎夜の浮気の罪が、とてつもない重大事になったんです。わたしは夫、わたしは侮辱されたんです。わたしには権利があります。あれは、わたしとしか、子供ができないことになっている以上、誰が父親になりますか? 誰も父親になれないで、わたしが父親になっちまいます。そうなんです、離婚していないから、法律が規定して……」
「あ、もし、法律は何も規定していません。一定の書式があって、それから外れてはならんのです」
「あれは可愛い女です。書式ですって。そんなもんがどうであろうと、下世話で言うのにピタリなんです、ひょうたんから駒が出るって。あわれな亭主族」
「あなたの嘆きはよくわかりますが、どうしてあげることもできません。それに、訴えてくる人は、あなた一人ではないのです」
「ああ、ジュールさん、たいへん親切にして下さって、どうも。どうか、ひとつ、今日ただ今でもとっつかまえてくださるよう、わたしのために御尽力ください。とくと心にとめていただき、くれぐれもお願いします。いやだなんて言わんで下さいよ。怒るなんてありませんね」
「繰り返しますが、ムッシュ、あなたの希望どおりにするには司法当局の令状がいるんです」
「わかりました。もうたくさんです。わたしは、家内と財産を奪われました。だが、誰が守ってくれます? 悪徳警察にぴったりだ。ナポレオン党員を逮捕するとなると、あんたがたはムキになって宙を飛ぶ。裏切られた夫のこととなると、ピクリとも動かない。警察がやっていることを見ていると|面黒い《ヽヽヽ》ですね。こんど、わたしと会うときはチャンバラですぞ。男が惚れていても、家内は戻って来ます。もういちど家内が盗まれても、あなたには頼みませんからね。わたしのほうに神の御加護を、です」
ベクート氏とモデーヌ公
ご亭主が、憤懣《ふんまん》やるかたない態《てい》で引き退ると、ちょっと私に話したいことがあるという、風変わりな訴人が来ていると言ってきた。
男があらわれた。長身で、丈長の服と胴長のチョッキを着て、長い腕、長い脚、蒼ざめた氷のように冷たく、やつれた長い顔に硬直した頸《くび》が接木《つぎき》のように付いていて、全体が、のっぽの姿かたちで、全身がバネで動いているようだった。鱈《たら》の尾っぽみたいなものが踵をたたき、ゲートルが垂れ下がり、胸飾りがだらしなく片寄り、それにカラーが付いて、カフスは留めてない。これらに加えての大きな雨傘と、たいへん小さな絹の帽子などを見て、その人物の鼻先で思わずぷっと噴きだすのを止めるには、四人がかりで押さえつけてもらわねばならないほどだった。いかにも、その顔付きが滑稽で、身なりがグロテスクだった。
「どうぞ、ムッシュ、おかけになって、ここへ来られたワケをお話し下さい」
すると、その男は、世にも奇怪なフランス語らしき言葉で、
「もっしお〔ムッシュの意〕、ワタクシ、ワザワザキタネ。いぎりす、けーぷてーる、ばう・すとりいと、ぽりすまん、みすたー・ろうえんだーショウカイ、アイニキタ。ワタクシ、オクサン、ミツケルタメ、もっしお、アイニクル、イワレタ。オクサン、もっしお・がヴぃあにト、ぱりニゲタ。ぱぶデスキアッタいたりあジン、グンジンサンアルネ」
「残念ながら、ムッシュ、たった今、まったく同じような捜査の願いがあって、当役所の援助はできないと断ったばかりです。もし、内密に探索したいとおっしゃるのなら、ロウエンダーさんの顔をたてて、誰かを紹介してあげることはできます。まァまァの費用で、状況に応じた、あらゆる手だてをとってくれます」
「いえす、いえす、ナイミツノタンサク……ワカリマス。タイヘンマンゾク」
「では、どうか、あなたの奥さんの名や特徴、わたしどもが知っていて便利だと思われることを詳しく教えてください」
「オクサンノナマエ、イッテヤルネ。みせす・べくーとイイマス。ワタクシ、みすたー・べくーと。オトウトモべくーと。チチガ、ヤハリべくーとサンダカラネ。オクサン、千八百十五ネン、ろんどんケッコン。ベッピンサン、ぶろんど。オメメぶらく(黒)。オハナ、リッパ。ハ、シロイ、チイサイ。オ……オッパイ、タイへンオオキイネ。ワタクシヨリふらんすゴ、ペラペラ……スマイ、ミツケタラ、イヤデモ、フネ、ろんどんツレテユク」
「さっき申し上げたとおり、ムッシュ、お世話するのは私ではありませんが、あなたの眼鏡にぴったりの人物に引き会わせてあげます。おいジヴェ〔ヴィドックの部下か給仕〕、モデーヌ公爵をさがして、すぐにマルタンとっつぁんと一緒にこっちへ来るように言ってくれ」(モデーヌ公爵というのは某密偵のアダ名で、もったいぶった男、盛り場を受けもたせていた)
「オオ、オオ、ワタクシニ、コウシャク。アア、ウレシイ、コウシャク。ショウコウトオクサン、ツカマエタラ、リエンスル。カミナリ、オチル」
「いっしょのところを見つけますよ。きっと、ベッドにいる二人をつかまえることと信じます。そのほうが都合がよろしいなら」
「オオ、オオ、ネドコデ、チンカモヲ。タイヘン、リエンニヨロシイネ。ベッド、イッショ、キモチイイ、オメコノツミノショウコ……アア、もっしお、タイヘン、タイヘン、アリガトゴザイマス」
モデーヌ公爵は、ながくは待たさなかった。彼が入ってくると、ベクートさんは、さっと立ち上がって三度お辞儀をし、涙をうかべて、
「コウシャクサマ、ツマニステラレタ、アワレナオットガ、オタスケ、ホシイノコトアリマス」
このイギリス人は、刑事をバカにしている気持がぬぐいきれずにいたが、私の部下は、恩を着せるのはこの時とばかり、抜かりなく尊大な態度をとり、もったいつけて謝礼の商談を取りきめ、ベクート氏が、さきほど私に語ったと同じ手掛りをメモした上で、結果が早く得られるように、すぐに捜査を始めると約束した。ここまで話が来たとき、私は、検事室に呼ばれたのでベクート氏と別れ、検事との会談が翌日までかかってしまった。従って、彼の事件に戻る前に脇道にそれており、ベクート事件の成行きを知るには遅れてしまったが、たぶん、読者は怒らないことと思う。
四十八時間たって、やっとモデーヌ公が、不倫のやからの隠れ家を見つけたと言って来た。彼女はイタリア人と一緒におり、夫がやって来たことを知って用心はしているが、大丈夫、あの旦那の前で二人を見せ、横になって可愛がりあっている動く証拠、現場を押さえさせて未練が残らないようにする自信があります、と言うのであった。公爵がたくらんでいる計略の説明を聞いていると、あらかじめ通知しておいたベクート氏が入ってきた。弟を連れていた。これまた、そっくり別のイギリス風の漫画的な人物だった。
「ばけもの一対」
部下が低くつぶやいた。
「コニチワ、もっしお・ヴぇどく、アア、コレハ、コウシャクサマ、ツツシンデアイサツスルネ」
「侯爵どのには、あなたに聞かせる耳よりな話があるそうです」
「オオ、ミミヨルハナシネ、ミツケマシタカ? コノもっしお、イッテモヘイキ。コノもっしおモべくーと、ワタクシノオトウトアル。ミツケタ、ホントニミツケタカ?」
「さァ、侯爵どの、なにがあったか御両所に話してやってください」
「いえす、いえす、チョト、ハナシテクレ、コウシャクサマ」
「よろしい、そうだ、見つけたぞ。貴公は、あまり乗気ではないようじゃが、両人が同衾しとるところをお目にかけようと画策しておる」
すると、弟のベクート氏が大声をあげた。
「オナジべっどノコトネ。キセキダ。アナタ、マホウツカイアルヨ」
「まやかしなどではないわい」
「いえす、いえす、フツウノヒト、タクサンフツウノヒト。オナジべっど、ステキナ、キョウドウセイカツネ。ステキ、ステキ」
ベクート夫人の義弟が有頂天になって繰り返し、ご亭主のほうは気を失いかけてぼォとなり、ひどく滑稽に取り乱し、にがにがしげに満足を感じていることを表明した。
レディ・ベクートと愛人は、フィドー街に何カ月か住んでいた。自分の儲けと外国人の便のために間貸しをする女家主の家にいて、人目を忍びながら定食を食べていた。ところが、風のたよりで二人の双《ふた》子がイギリスを出帆したと聞いて迫害を予想し、姦夫姦婦はベルヴィル〔現在のパリ二十区にある一区域〕に避難し、間貸し夫人の友だちの某将軍が二人のめんどうをみてくれた。そこで、その隠れ家で二人を押さえようということになり、ベクート氏も急いでいたので、すぐにも大詰めの決着をつけることになった。
翌日は日曜日で、将軍邸では大がかりな夕食会があり、食事につづいて同家恒例の手なぐさみがあるはずだった。モデーヌ公は、昔から一流のペテン師として知られた男で、然るべく勝負師として振れこみ、そういう集会へ難なく入りこむことができた。彼は機会をのがさなかった。ベルヴィルへ行って、宴会のときは将軍のサロンにいた。朝の二時までねばった末、さて二人の兄弟と合流するために外へ出た。二人は、ほど遠くないところに停めてあった馬車の中にいた。
公爵が言った。
「突撃のときだ。二匹はつながっとる」
ベクート氏が叫んだ。
「ツナガル!」
「そうだ、ムッシュ、梯子を登る勇気があるなら、寝間まで案内してやる」
「ナントナ? ハシゴ、ナゼ、ハシゴカ?」
「庭の壁を飛びこえるんじゃ」
「ヒャー、トビコエル……ワタクシ、ノボルカ? ジョチュウドモ、オラブ、ドロボーッ……ダメ、ダメ、トビコエラレナイ……マタ、シュジン、テッポウ、パン、パン、ウツネ。ワタクシ、オシャカ……もっしお・がヴぃあに、ニコニコ。トテモ、トテモ、トベナイ」
「だが、犯罪の物証を確かめたいのなら」
「べくーと・ふぁみりい、アブナイコトキライ」
「ならば、将軍邸の外で罪人どもを取り押さえねばならん。この方法なら何の危険もない。朝飯がすむと、やつらは、馬車でパリへ行くと聞いとる。馬車の中でつかまえるのがよくはないかな?」
「バシャノナカ、いえす、いえす、ヌカリナクネ」
モデーヌ公、捕助員のマルタンとっつぁん、それに島国の両名は、馬車の出発を待ち伏せる行動を起こした。そして、ベクート氏は、待ち伏せをしているあいだに、あれこれ、山ほどの突飛な質問や思いつきをあびせていたが、やっと午後二時ごろ、一台の馬車が門のところへ来て停まった。
馬車の戸が、ベクート夫人と色男を迎えてさっと開いた。これを見ては、もはやベクート氏の怒りは抑えきれまいと思われたが、彼は眉一つ動かさなかった。イギリス人の亭主族って不思議なもんだな、とモデーヌ公たちは思った。
「ミロ、ミロ、ワタクシノオクサン、アイジントイッショ」
と弟に言うと、
「ウン、ウン、ミエル……クルマノナカ」
馬車は、フィドー街へ向かうことがわかっていた。イギリス人たちは、さァ行けと御者に命じ、前方のやつらに追いつくようにし、ボンヌ・ヌーヴェル大通りに通ずる登り道のところ、サンドニの門がある高みに来ると、車から降りて徒歩になった。まもなく前方の馬車を見つけた。並足で進んでいた。私の部下たちが追いついて停めた。ベクート氏は、昇降口の戸を開けると、妙に落ち着いて、
「オオ、コニチワ、もっしお、ゴメンナサイネ。カクシタオクサン、モライニキタ」
弟が言葉をそえて、
「サァ、まだむ、モウ、マオトコ、ヤメルノトキネ。イッショニクルノコトアル」
ガヴィアニとベクート夫人はふるえあがり、だまって二人とも車から降りた。イタリア人がコースの料金を支払っている間に、不運なレディは、否応なしに情け容赦なく別の四輪馬車に押しこまれ、二人のベクートのあいだ、用心棒たちと面と向かわされた。みんな、だまっていた。しかし、すこしずつ恐怖から我にかえったベクート夫人が、とつぜん出入口に飛びついて大声で叫んだ。
「ガヴィアニ、ガヴィアニ、ねェ、安心して。死ぬまで離れないわよ」
「ダマレ、ダマレ、メイレイダ。ワルイオクサンネ。ヨクモ、がヴぃあにニ、ホザイタナ。ウラギリモノメ。ウン、びっぐウラギリオンナ。ぶらく(黒)・ほーるニイレテヤル」
「どうせ、できないくせに」
「ヤル、ヤルトモ……」
曲がりが鹿の角になっている二本の傘の柄のあいだで頭をふりながら、おでこを妙ちくりんに傘の柄にぶつけていた。
「ベクートさん、なにをしてもムダよ……ああ、いとしいガヴィアニ」
「マダ、がヴぃあにカ。イツモがヴぃあに」
「そうよ、ずうっとよ。あなたはきらい、ぞっとするわ」
「ワタクシノオクサンヨ」
「でも、考えて、ベクートさん。あんたは妻をもつにふさわしいかどうか? まず、だいいちに醜いし、それに年寄り、みっともない男でヤキモチやき」
「ホーリツ、ムコアル」
「離縁したいんでしょう、そう言ってたじゃないの? あたしは逃げたげる。これ以上どうしたいの?」
「マオトコ、バラシタイ」
「スキャンダルを望んでいるのね」
「オマエ、ウワキ、マオトコシタ。ワタクシ、スキニスル。マオトコ、セケンニバラシテ、ホーリツ、ショバツシタイ」
「あんたは化物、暴君よ。あんたとなんか、金輪際イヤよ」
「ローヤデクラスネ」
「死んでやるから」
おどし文句を吐きながら、彼女は、じぶんの顔を掻きむしるかに見えた。
「オイ、テヲオサエロ」
弟が、彼女の両手を押さえて首尾よく義務を果たしにかかったが、彼女は、ちょっとバタバタあばれ、まもなくおとなしくなった様子。だが、眼の光は、火と燃える怒りをあらわしていた。
赤く燃える火のような顔だったが、やはり美しく、それだけ情熱的な彼女が、身じろぎもしない凍ったような連中の横、異様な面《つら》がまえの男どものそばにいる有様は、二匹の猿のあいだにいる酒神《バッカス》の巫女たちの女王のようでもあり、それともむしろ、二つの氷の峯のあいだの恋の火をふく火山のようであった。なにはともあれ、ベクート氏は、ラペ街の宿泊ホテルへ勝ち誇って戻ってきた。まず淫婦を部屋に閉じこめることが最初の仕事で、その部屋の鍵は余人にはあずけなかった。だが、亭主が女房の番人のときは、見張りをゴマ化すのは甘っちょろいものなのである。世間には、こういう歌がある。
♪かんぬき、番人ありとても、云々。
さて、夫人の監禁が三日目ともなると、ベクート夫人も、どうやら籠の鳥に参ってきたらしいとのことであった。そこで、四日目に、私がベクート氏を訪ねてみた。まだお午にはなっていなかったが、彼は弟といっしょに食卓についていて、その前にはプラム・プディングと栓を抜いた十二、三本のシャンパンの空き瓶がころがっていた。
「アア、コニチワ、もっしお・ヴぇどく、アイニキタネ、タイヘン、シンセツ。しゃむぺんノムアルカ?」
「ありがたいが、空《す》きっ腹では飲まないことにしている」
「いぎりすオンナ、ヨクナイ」
「ふむ、だが、嬉しくてたまらんようですな。モデーヌ公爵が、奥さんを取りもどしたといって来たんで、挨拶に来たんですよ」
「アイサツ! |くそっ《ゴダム》、オクサン、マタニゲタアル」
「なんだって! 見張っていなかったんですか?」
「ニゲタ、ニゲタトイッテイル、ウラギリオンナ」
「そんなら、もう、なにも言うことはありませんな」
「ダメ、モット、シャベッテ、しゃむぺんノム。しゃむぺんウラギラナイ」
兄弟は、あらためて私に一緒に飲んでくれとすすめたが、こちらは、あくまで冷静にしていなくてはならないので、一杯だけで勘弁してくれと頼み、私の挨拶を受けてくれたので二人にさようならをした。かれらは、きっと、すぐにまた酔いつぶれたであろう。
強盗諸君から始めよう
ヨーロッパの、どこの首都も、ロンドンは別として、パリほど盗賊をかかえこんでいるところはない。当世風なリュテース〔パリの古名〕の舗道には、あらゆる種類の泥棒たちが、ひっきりなしにあふれ出てくる。これは、別段の驚きではなくて、群集にまぎれこむと好都合なので、フランスにいる者であろうと外国人であろうと、悪党という悪党が流れこんでくるのである。そして、その物凄い数の連中が、この巨大都市に定着し、これらの他にやって来るのは、大きな祭典が近づいているときとか、決まった季節に顔を見せる渡り鳥のような連中である。これらの他所《よそ》者と並んで地元の連中がおり、その人口比の分数の分母はかなり大きなものになる。
一般に、パリっ児の盗賊は、地方から来た盗賊を憎んでいる。かれらは、ちょっとやそっとでは自分の自由のために仲間を売らないというパリジャン盗賊の評判を当然のことだとしていて、なにか、ひょんな事情から仲間はずれにされると、なじめる者をみつけるのは容易でないことを知っている。さらに、かれらは、生まれ育った場所にたいする偏愛を抱いており、パリっ児《こ》たちは母親から離れられない。つきることのない母親にたいする優しさを本質的にもっている。
ふるさとの町はよきかな。
いったん田舎へ入ると、パリジャン盗賊は西も東もわからない。月から放りだされた隕石のように、扱いにくい新品である。阿呆になってしまう。てんで言葉が通じない本当の阿呆だ。事あるごとに何かを取り違えないかとビクつく。土地カンがないのは怖ろしいことで、手足の置き場がなく、熱い炭火の上を歩っている感じ。苦痛灰《チネリ・ドロゾ》。ニセ軽業師だ。一歩も踏みだせない。目隠しされているも同然で、怪我をするかもしれない。誰も、「危いっ」と言ってくれる者がいないことは先刻承知だ。それどころか、みんなは、彼が危い目に遭っているのを見物して喜び、彼を臆病者だと思いこんでしまう。ヘマをしそうになると、してしまうまで放っておく。こうした具合で、彼をおっぽり出す。もし道で憲兵に会おうものなら不幸なことになり、あげくの果ては参ってしまい、目隠し鬼ごっこの意地悪どもの生《なま》の餌になる。
小さな町のふところの中は、盗っ人の稼ぎ場所にならない。彼は、牝鶏に抱かれているたった一羽のひよっ子のようなもの、それとも油の中の魚のようなもので、フライになるのが魚の本分ではない。小さな町は、あまりにも平穏無事で、町のいとなみは、いかにも型にはまっている。澄んでいて見通しがよすぎる。盗賊にとっては、もっと多くの喧騒、混雑、摩擦、障害、混乱、ゆれ動く激動が欲しい。ところで、こういうすべてのものがパリという狭い場所に集中していて、盗っ人には都合がよい。セエヌ県の、王侯の庭園の敷地そこそこの広さの周囲二、三十キロの中に、そうした要件が満ちあふれている。パリは地球上の一点にすぎないが、この一点は掃きだめである。この点に、あらゆる汚物が隅々までひろがり、高度の生活をかかえている無数の人々が、この点の上をぐるぐる回り、通りすぎ、また通り、すれ違い、交叉する。パリジャン盗賊は、この雑踏に慣れている。そこ以外では、空を泳ぎ、腕前もパアになる。彼は、このことを百も承知していて、それを確実に証明する。脱獄者は、また誰からか奪ってやろうとパリを目指して逃げる。すぐに捕まるかもしれないが、そんなことは構っていられるかい? 彼は、またぞろ自己流に稼ぐ。
地方から来る盗賊たちは、かなり早々と居坐りをきめこむ。これは、パリが他所より別段に気候がよいからではなく、盗みができるところなら、どこでも我が故郷だとする住所不定の連中の常なのである。ウビ・ベネ、イビ・パトリア〔居心地よければ、そこが祖国。キケロが引用したパクヴィウスの詩句〕、これがかれらの金言である。獲物さえあれば、北京に住もうがローマに住もうが、まったく同じようになじんでしまう。感じのいい外見もしていず、かっこいい姿かたちでもなく、パリジャンの泥棒のように自慢話もしない。パリで一世紀も生活しているくせに、あいかわらずの田舎者である。パンタン〔パリの卑称〕の友だち仲間は、「てめェら、バカ面《づら》ぶらさげ、独りよがりだ」と、いつもかれらをなじる。行儀作法に弱いのもかれらの一面である。どうせ、この世は、上っ面《つら》は光りかがやいているが中身はくだらないもの、これを魅力的なもの陶酔的なものにするために、いい香りの粋な花を添えることなどは何もしない。口説いて欺すことができない。
だが、かれらは、世渡りは下手でも、なにかのときには、なかなかどうして土地の者より役者が一枚上だという優越感をもっている。見たところ重たそうな野暮ったい袋の中に上質で怖ろしい山吹色の妙薬を隠していて、大仕事をする段になると、それで邪魔者を遠ざけ、思慮ぶかい人たちの信頼をかちとる。犯科帳を見ると、すべての大窃盗事件、大胆で周到な、どんな盗みも、地方出の盗賊によって行なわれている。かれらはスマートではないが、大胆不敵で辛抱づよく、じっくりと考えを練りあげる。よく工夫し、手際よくやってのける。
パリ生え抜きのプロの盗賊が、たまに殺人を犯すことがある。かれらは血を見るのは怖いのだが、血を流したあとで、いつも後悔する。思いがけない事態で、やむを得なかったのである。ときたま兇器を持っていることがあるが、ふいに現行犯を押さえられた場合の逃走用にしか使わない。ときとして、パリを舞台にした大犯罪があるが、犯人は、ほとんどが他国人である。殺人事件での、かなり目立つ特徴といえば、ふつう犯人は、泥棒稼業の新米だということだ。これは、本当の本当のことで、詩人の受け売りを繰り返す観察不十分なモラリストには気に入るまい。
徳とおなじく罪に段階あり。
場数を踏んでいる泥棒は、仕事をする前に、その行為の結果が少しでも自分の有利になるように計画する。何がどういう罰に相当するかを心得ている。やらねばならないと思ってやるのだが、なにがなんでもということになると、二度も現場を下見する。盗賊たちが絶えずケンキュウしている法令が教える。
――そこまではやっても、それ以上はするな。
つまり、ほとんどの者が、禁錮重労働、無期懲役、死刑などの前で尻ごみをする……こんなふうに並べたのは、別に他意あってのことではないが、いちおう死刑を最後に置いて、少々こけおどしをしたにすぎない。こうしたことから、わが国の刑罰には然るべく段階がつけてあるのが判断されようというもの。
地方出の盗賊たちは、一般に教育水準がパリより劣っていて文化の程度が低く、殺しを屁とも思わない。自衛の限度をわきまえずに相手を攻撃し、しばしば無鉄砲どころか、とことんまで兇暴残忍に振舞う。裁判記録に記されている何千という野蛮な事件が私の断言を証明する。
――群狼は共食いをしない。
これは諸国民の英知の証し、真実なりとして昔から言われてきたことである。この諺が嘘でない証拠に、盗賊たちは、お互い、同僚のよしみを持ちあっていて、みんなが大家族の一員だと考えている。一般的に言って、地方出の盗賊とパリジャン盗賊は、おたがい助け合う気はあまりないが、反感や偏見で直接に害しあうところまでは行かない。かれら大多数のうちの幾人かが尊重している仁義が常に存在している。ライン河の向こうの某哲学者が言うように、ケダモノは同族のケダモノを嗅ぎわけ、仲間は仲間を見つけて喜ぶ。また、盗賊たちには、お互いを認めあう色々な表示があって、その一つに特殊な言葉がある。この言葉を身につけていることが玄人だという証しであり、たとい巧くあやつれなくとも、好意を受ける資格があり、友だちとして親しめる者だと推定される。だが、フランス人の秘密結社の観念より大切にされるこの観念も、絶対確実な安全保障にはならない。だから、囚人看視人《アルグザン》のように隠語《アルゴ》を知っていても、まだまだ当てにはならないものだということを忠告しておく。なお、ここで一つの小さな出来事を披露するが、これで見ても私が間違っていないことがおわかりになると思う。回想記を中断したのを読者にお詫びし、まもなく続けることにする。
サント・ペラジの看守だったベリイとっつぁんは、数カ月前からサンドニの貧民収容所の番人の職と看守の職を取りかえてもらっていた。かなりブドウ酒が好きな年寄りだったが、招かれたり自分が支払わないときは喜んで飲まない看守だった。二十五年このかた、ベリイ爺さんは泥棒たちとよく飲んだ。ほとんどの者を見知っていた。いかにも好人物に見えたので、みんな彼を慕っていた。かれらを、せいぜい悲しませないようにし、ふところがさびしい者に気をつかってやった。牢番のわずかな心づかいがどんなものか、誰でもよくわかっている。
ある日、この好人物は、倹約して貯めたわずかばかりの金を受け取りにパリにやって来た。老人のへそくり、蟻《あり》のたくわえで、朝の一杯の節約や一日禁煙で貯めたもので、満期が来て、ベリイとっつぁんは、自分の金二百フランを受け取って身につけた。そして、そこらをぶらついているうちに、ほんの少しばかり呑み、そういう状態で持場に戻りかけたときは、ちょっぴり御機嫌になっていた。いい気分でどんどん歩き、満足しきって幸せいっぱい、上機嫌で道もはかどり、サンドニの城門の下に来たとき、かつて囚人だった二人の男が近寄ってきて肩をたたいた。
「やァ、こんにちわ、ベリイとっつぁん」
(ふり向きながら)「よォ、お前ら」
「パイ一どうかな、早いとこ?」
「早いとこ? なら、いいだろう。わしゃ暇がないんだ」
一同、『両面亭』に入る。
「三人で半瓶なら八分の一か、こいつァ早くて味がいいや」
「ときにお前ら、いま何をやっとるんだ? うまくいっとるかい? そうらしいと顔に出とる(気楽な様子をしている)」
「そう見えるかい。当たりだ。言うことなしよ。放《ほ》かされて(出所して)から、万事、上々吉だ」
「よかったな。そういう文句なしのお前らを見て嬉しいよ。鍵乃町に戻らんようにしなよ。ひどい宿屋だからな(コップを呑みほして別れの手を差しのばす)」
「ナニ、もう? おれたち、しょっちゅう会うこたァねェんだ。せっかく、とっつぁんがいるんだ。倍の喜びといこうや。さァ、もう半瓶だ」
「だめ、だめ、またの時にしよう。急いでいるんだよ。それに、足元がしっかりしていなくちゃな。朝から、うんとこさ歩いてるんだ。この先、サンテナーユ(サンドニ)まで、かなりの道だってことわかってるだろう」
元囚人の一人が、
「プラスマイナス一分で遅刻はねェですよ。あっちの部屋に入って落着きませんか、ベリイとっつぁん?」
「ことわり切れんな。じゃ、そうするとするが、早いとこたのむ。ほんの一杯で、それ以上はダメだ。わしは行くからな。雨が降ろうが槍が降ろうが、どうあっても、きちっとキリをつけるぞ。いいな、誓いをたてる」
半瓶を呑んだ。三本目、四本目、五本目、六本目とつづき、ベリイとっつぁんは誓いに背《そむ》いているのに気付かない。とうとう酔って、完全にでき上がってしまった。はては、もうどうしようもなくなって繰り言をならべる。
「言うにゃ及ぶじゃ。行かにゃならん。夜になっとるな。それだけじゃない、わしゃ荷物ん中に二百フラン持っとる。道でお世話される(盗まれる)かもしれん」
「怖いのかい? そんなバカをする強盗《いちろく》はいねェよ。おやじさんが強ェこたァ誰しも知っとることだ。ベリイとっつぁんの名は、そこらに鳴りひびいてらァ」
「わかっとる。そのとおりだ。だが、パリのやつらなら、わしだとわからせてやるが、初店の田吾作(初めて襲う田舎者)にゃ、隠語《ちょうふ》で合図してもムダじゃろう」
「危かないさ。達者でな、ベリイとっつぁん」
「お前もな。そうとも、心配なんかしていねェ。こんどこそ出かけるぞ。待ったなしだ。じゃあ、元気でな」
「たってと言うんなら、とめねェよ」
かれらが、現ナマが入っている荷物が端っこに付けてある棒を爺さんの肩にのせてやると、ベリイとっつぁんはすぐに荷物をかついで飛びだした。
場末の町を、ふらふら、よろよろ、あちこち、ぐるぐるまわりながら、ふらりふらりと千鳥足ながらも、ジグザグしながら前へ歩っていく。こうして、とっつぁんが、SやZ、いろいろな歪《ゆが》んだアルファベット文字を書きながら歩いている一方、こちら二人の元囚人は、かれらがやろうとすることを相談した。
「おれの考えと同じなら、あの老いぼれ鼠の二百|両《バル》をいただこうや」
「どんぴしゃり、おめェのいうとおりよ。やつの金は他人様のもんとくらァ」
「だとも、つけよう」
「つけよう」
もたもたしながらも、ベリイとっつぁんは城門を通りすぎていた。しかし、二人は早くもカモを見つけた。まだ酔いがさめておらず、風と潮にさからって進む船のように歩っていた。タテ揺れ、ひどいタテ揺れだった。よろよろと後ずさりしたり斜めに行ったりしたが、見た眼より案外しっかりしていた。どんな馬車の御者も気の毒がって、馬車に乗せてやろうとすると、
「さっさと行きな、あほんだら」
ご機嫌の牢番は憎まれ口をたたいた。ベリイとっつぁんの足は大丈夫で、眼もたしかだった。
天の助けか酔いがさめ、やや元気がなくなって天使ヵ原に着いたとき、とっつあんは大災難に見舞われた。二人の盗賊の爪のあいだの牢番頭が想像される。あっというまにノドを締めあげられて荷物を奪られた。助かるはずの合図をして難をのがれようとしたがムダだった。
「|痩せだ《デュ・メグレ》、|痩せっぽ《デュ・メグレ》だ」
声をかぎりに叫んだ。これは、こう通用する言葉だった。
――べリイとっつぁんだよ。
ところが、返事の合図も隠語《ちょうふ》もなく、伝えた名も通らなかった。
「デブでもヤセでもねェや。ゴミバコ(荷物)をバラさにゃ」
爺さんの声を真似て言い返し、すてぜりふを残して消えた。
「こりゃ、ひでェ。だけんど、あいつら、天国にゃ持って行けめェ」
とっつぁんは、つぶやいた。この脅し的な予言は的中し、その後、二人の強盗は裁かれる身になったが、シュレーヌの老人〔ベリイのこと。サンドニにある地名〕の記憶をボカすモヤが脳にかかり、その半円球の上に深い夜の闇がたちこめた。ベリイとっつぁんは埋葬され、私は話を本筋にもどして続けることにする。エヘン。
盗賊たちのほうで階級分けしないかぎり、かれらをクラス分けするのは不可能である。まず、一人の男が出来心から盗んだり奪ったりする。次には彼の前に現われる物を何でも手当たり次第に掻っぱらう。初めは、その、諺に言うように、『きっかけで泥棒になる』のだが、いっぱしの盗っ人になると、反対に、自分で「きっかけ」を作りだす。そうした玄人の域に達するに欠けていたものを身につけられるのは獄内だけである。総じて、初心者には学校が必要である。一度か二度の軽い罰を受けると、彼は学び、自分の能力を他人が教えてくれる。すると、いろいろな方法に明かるくなり、自分を定まったジャンルに当てはめてしまう。彼は、強制されないかぎり、その型から離れない。
生粋《きっすい》の盗賊は、ほとんどがユダヤ人かボヘミアンである。言うなれば赤ん坊のころから親たちに励まされて実行する。足が使えるようになると、手がうまくいかないときの助けにする。ちびっ子スパルタ人であり、朝から晩まで練磨を怠らない。盗みは、かれらの先天的な天職であり、かれらの氏族が日頃やっていることに従い、まちがいなく育成され学習させられる。しかし、盗っ人だらけの中にあって、かれらは、自分の本当の適性は何だろうかと、あらゆることを試みてみて、自分が優れているのはこれだと知ると、それに固執し偏執する。専門家であると信じ、そこから出ようとしない。
ある種の盗賊は、他の種の盗賊をバカにしている。上流人士を気取るペテン師はスリを軽蔑し、器用に時計や財布をちょろまかすことしかしないスリは、部屋《やさ》荒しをやらないかと持ちかけると腹をたてる。自分の部屋でない部屋に入るのに合鍵を常用している者は、大道での泥棒稼業を恥とする。高いか低いか、犯罪の梯子を登り降りしている者には、それぞれの誇りと軽蔑心がある。どこにいても、どんなみじめな生活をしていても、かれらの自我が軽蔑や屈辱に負けないためには、かれらの前後にいる者より自分のほうが偉いんだと信じこむ必要がある。さらに、もっと自分が偉いと思いたくて、外界の最も低いところにいる連中のことしか考えず、そういう連中と自分をくらべて恬《てん》として恥じない。泥沼に突っこんでいるのに泥の上に顔をあげて下のほうを見て、他の者を見下して上空を飛んでいる気になって心うきうき喜びいっぱい。そこで、兇悪な行為との中間地帯、かすかに良心の記憶だけが残っている、を超えない悪党は、他の者より自分のほうが軽い犯罪者だと自《うぬ》惚れることになる。ところが、彼がいる地域の向こう、反対側には、もっと高度の悪事が行列していて、それぞれの種類の犯罪者が、中間地帯の手前で、多少とも不名誉な重荷を感じながら、その分野の第一人者ではないと思うようになる。ということは、もっと悪事に長《た》けて幸せになろう、あるいは最高の悪党になってやろうと奮起さえするのである。
ここで私が云々しているのは、もちろん泥棒たらんと誓いをたてた盗賊のことで、さしずめ文明社会のコザック正規兵とでも言うところか。ニセ金づくりのヘボ職人や他人の不動産をゴマ化して転売するのを手伝ったり死人の口述誓約書を作る公証人から小麦一束を盗む百姓については、それは純粋の偶然な事件、こういうのはコザック不正規兵で、ちゃんとした分類に入れられない者である。さまざまな悪だくみをする一匹狼の連中も同じく分類外である。だが、かれらは、興奮や憎悪、忿怒《ふんぬ》や嫉妬や恋情、熱狂的に堕落した貪欲や狂暴を沸きたたせることができる。プロの殺し屋については、そのカテゴリーで述べることにする。その前に、おとなしい素行の者たちと比較してみようと思う……会議は開会された。強盗諸君を紹介しよう。
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三五 日曜日は御用心
愛のペンダント
強窃盗は、押しこみであれ、合鍵を使うのであれ、つまりは部屋を襲う盗賊である。都市にいるのは定職を持っていないので、かれらを見分けるのは、それほど難しくはない。ほとんどが若い連中で、最年長の者も三十歳を超えない。十八から二十歳、これが強窃盗の適齢期である。たいてい、いつも小ぎれいな身なりをしているが、ナリはどうであれ、上衣かオーバーかスーツを着こみ、いつも世間なみの恰好をしているけれど、一見して普通の家庭の息子でないことがわかる。手が汚れていて、大きなビー玉を口にふくんで、たえず片側から他の側へ移し、その顔が、たいへん不規則に奇妙なふうに変化する。たまにステッキを持っている者がおり、もっと稀には手袋をはめているのがいるが、それこそ時たまのことである。
強窃盗は、狙った部屋の住人の習慣を多少とも知らない前に押し入るようなことはしない。住んでいる者が留守か、そこに獲物があるかどうかなど知っておく必要がある。門番がいない家は、仕事をするのには最も都合がよい。ひとヤマふむことを企むと、三、四人で出かけ、誰かが入りこむと、つづいて皆が、すぐに階上へ上がる。一人がドアをたたいて誰かいるかを確かめる。返事がないのが吉の合図、仕事の準備にとりかかり、ふいに現われる者にたいする気くばりをしながら、錠前の止め金をこわし、錠前をこじあける道具を使う。仲間の一人が最上階へ見張りに行き、次の者がその下の階に陣取る。こうして侵入口を開けにかかっていると、間借人の誰かが上がって来たり下りてきて、見知らぬ人が階段にいるのを怪しんで声をかけることが十分に有り得る。そのときは、便所へ行くところだとか、でたらめな名前を言って逆にたずねる。ちかごろ引越してきた洗濯女、看護人、靴屋、産婆などを探しているフリをすることが多い。その場合、盗賊は、ちゃんと話さないで口をもぐもぐさせて尋ねるのが特徴である。まともに相手を見るのを避けて、いそいで通り道をあけ、できるだけ立ち停まらないようにさせ、背中を手摺に向けて壁に向かって並ぶ。
次に、これはまったく奇妙な独特の習わしとでも言おうか、名の知れた泥棒が、ある種のネクタイやチョッキを身に付けだすと、それを真似て仲間うちの誰も彼もが、その二つのナリをするようになる。かれらは、派手な赤や黄色などをたいへん好む。私は、一八一四年に二十二人の盗賊団を逮捕したが、そのうちの二十人までが同じ形の同じ布地のチョッキを着ていた。おなじ型で裁断し、おなじ物で仕立てたのだろう。泥棒たちには、言うなれば娘っ子のように、どんな仕事をしているかがわかる何かがあるものだ。いちばん好きな色合いはチグハグな調子のもので、目立つ人の猿真似をしようと気をつかい、かれらが真似のできる一番イカス風采《ふうさい》は晴着姿の職人さんの恰好である。
耳飾りを好かない者は少ないと言ってよい。いろいろな小さな環や毛髪を編んで金の飾り物を付けた首飾りは、かれらの身なりに欠かせない装身具である。首飾りは、チョッキの上にはっきり見えるように置く。それは愛の記念品で、みんなに見せびらかすものだ。かれらは、毛の半分が立っていて残り半分が寝ている毛帽子を途方もなく気に入っている。ここで私が云々しているのは、泥棒稼業のしきたりに忠実な盗っ人のことではない。伝統から離れる連中は、何故そうなのかわからないが、堅気の人には見られない態度を見分けることができる。臆病が邪魔をしているのではなく、相手が裏切りはしないかという気持からのぎごちなさである。たがいに窺《うかが》いあい、探られていないかとビクつく。かれらのお喋りには固苦しさと曖昧さがあり、意味のわからない滑稽な言葉のために、キザっぽく変てこりんで、でたらめな関わりが多すぎる感じをあたえる。まともな話をしないで、ぺらぺら喋るだけ、しょっちゅう話題を変え、行き当たりばったりに前へ進んで、たえず話を変える。気まぐれに一つの考えから別の考えに移り、あらゆる機会を利用して自分の観点をそらす。
盗賊は、ときどき仕事に女を連れて行くことがある。手籠や洗濯女の背負い籠を持たせ、その中に盗品を入れる。これに似たような持ち物を持って、女が階段を下りて来たり路地から出て行くときは要注意であり、とくに初めて見る女の場合はなおさらのことである。界隈で見られない人間が、何度も行ったり来たりしているのは、たいていは、いつも悪だくみがあることを表わしている。
泥棒たちが、いちばん稼ぐ日は、夏の晴れた日曜日である。この期間、パリの大多数の働く者は、城門の外へ出て田舎をたのしむ。とたんに、盗っ人たちにとっては、おあつらえ向きに警戒が薄くなる。だから、門番がいない家に住んでいる人は、かならず誰かを住居に残して家を離れる。そこで、しまいには、悪人どもは、かれらに都合のよい致命的な人気のない状態をあきらめ、住民たちがそのようにさせてしまう。住民たちは、おたがい利害が一致していることを理解し、隣家が隣家を見張る。入ったり出たり、階段を上ったり下りたりする見かけない顔の人すべての者に疑いをかけ、そこにいるワケを説明してくれと迫り、ちょっとでもためらうと、なにかが盗まれていないかを確かめるまで引き留めておく。すべての住民は、不審な見知らぬ者が現われた場合、すぐに他の住民に知らせて、みんなで警戒するようにする。部屋にいて、誰かが空々しく名を呼んで鈴を鳴らしたりドアをたたくときは、不機嫌にドアを閉めなおすだけで満足せず、呼んだ者を見送っていて、出て行くのを確かめるまで眼をはなさない。ノックをせず鈴も鳴らさない者、開けてやるのを待たないで入ってくる者、こういうのは悪いやつと定めて乱暴に追いかえす。この場合、適当に棒切れなどを使う心掛けが必要というもの。
盗賊どもを困らせたくないですか? いつも部屋の鍵を安全な場所に置く。家の内外どちらであれ、けっしてドアの上のほうに置いてはならない。まして、どこかに引っかけて置くのは禁物で、玄関わきの植木鉢の中、マットの下など、初心の泥棒でも百も承知している。なにかワケがあっても、誰にも貸してはならない。鼻血を止めるときでもダメだ。もし、どうしてもしばらくのあいだ家の外に出ていなくてはならないときは、いちばん大事な物の隠し場所を工夫する。最も眼につくところ、つまり、いちばん平凡な所は探さないものだ。私は読者に安全な隠し場所を教えたいのだが、盗っ人にヒントをあたえるのが心配だ。隠し場所は、いつも同じところでないほうが利口というもの。
みなさんは、私が述べた注意を守っていますか? 鍵束を家具の上に置きっぱなしにするなどは以ての外《ほか》、泥棒が来ても侵入するのが難儀なほどよく、書きもの机や戸棚に秘密な物があるなら、鍵をかけずに開けておく。さもないと、泥ちゃん旦那に、ここを荒してくれと教えているようなもので、ごついバールで、どんな組合わせ錠も朝飯前のイチコロになる。開けとけ、開けとけ、そして隠せ。これが盗まれないための肝心な点である。
門番がいる建物は、彼に給金を払っている各部屋の間借人たちの悪口を門番が言わないで、まじめに義務を果たしていれば、私が言うような盗みは完全に避けられる。ところが、とかく門番というのは危なっかしい手合で、なんの役にもたたない、と同時に危険な好奇心を持っている。あらんかぎりの悪口や蔭口を言いふらし、とことん勘ぐって告げ口ぺらぺら。他人の悪口を言う自分の癖に何事も合わすことだけを気にかけている。だから、門番の警戒をゴマ化す必要がある場合、門番小舎から出したり遠ざけたりするのは実に容易である。私は、門番たちを看視一筋にさせる方法はないものかと何度も考えた。方法はあると思う。それには、まず、現在の給金を大幅に増してやり、次に、押しこみ強盗その他の場合は別として、かれらが警備する建物内での盗みには責任をとらせるという実行保証をさせる。
強窃盗のことに戻ろう。はっきりと異なった二種類がある。第一のものは『流し泥棒』(行き当たりばったりの盗賊)で、前もって目星をつけないで家宅に侵入する。こうした即席泥棒は、ドアからドアへ当たってみる。べつに何のアテもないが、獲物があればいただき、なければ泥棒の権利を失う。流し泥棒は、あまりミイリのない呑気屋である。四回のうち三度はローソク代にもならない。かれらは、日曜日の素人衆や、お祭その他のお祝い騒ぎに頼って生きている。一週間の労苦をいやすために、まじめな勤労者は、家族にかこまれて水上競争の見物や食料品の買いだしに出かけたり、徒刑囚や合鍵屋や女白浪が登場する面白い芝居などへ行く。花束にうっとりしたり、笑い者にされる悪者に夢中になって興奮しているあいだに、彼の家では、もっとリアルな悪者が、ちょっとした仕事をやらかし、一日のたのしみのあとの家には、空巣が捧げる本物の花束が待っている。
第二類の盗賊は『合鍵泥棒』である。この手合は無理をしない。召使いや床の蝋引き職人、マットやクッションの梳《す》き男や梳き女、ペンキ屋、表具屋、敷物屋などの情報をつかみ、獲物があるのが確かで目的が達せられる場所を十分に知った上で、さらに正確な状況と案内を把握してから仕事をするので、けっしてヘマをしない。ほとんどの時間を合鍵を作ることに費やす。共犯の内通者が持ってくる鍵型で作る。
第三類は『子育て泥棒』である。獲物を育てるので、こう呼ばれている。ある物件を育てるということは、予想をたてながら実行するのに絶好なチャンスを待つことである。子育て泥棒は、長い手でばっさりやる時間をじっとあたため、熟れていない前の梨をもぎとるような軽はずみなことはしない。自力で見つけたか誰かに教えられたか、どちらにしてもヤマが見えていても、ドジをふまないという確実さがないかぎり動かない。公債や年金などの収入がある者をカモろうと目論むときは、どの時期に収入金を受け取るかを知っておく。小売商の家に押し入ろうと決めたら、銭箱を拝みに行くのは月末か一月の上旬にする。なにごとにも明確な予備知識をもち、なるたけ金銭を取り集めたときにする。
ふつう、子育て泥棒は中年男である。人相は、きわ立って上品ではないが、ゆったりとした感じをあたえる。たくみに人に取り入って一仕事しようと思う家に近づく。間借人の数が多いときは、靴屋とか洗濯女、その他の働く者の誰彼なしに近づき、言葉をかけて親しくなる。そういう働き手は何も疑わないので、こちらはただ、そういう人たちが出入りする口実を見聞きしている必要があるという次第。
ある建物内での盗みを企てて、そこに部屋を借りるのも子育て泥棒である。そうなると、けっして急がず、新しく隣人になった人たちに疑いをそらすだけの信用を植えつけるまでは、たといチャンスがあっても行動しない。彼は親切で、まれに見る礼儀ただしい人物である。掛け買いはせず、きちっと家賃を払う。部屋で物音をたてず、毎日、ちゃんと帰宅して早やばやと寝る。その行動は実に規則ただしく、そうあるべき時はなおさらのこと、いつも信心ぶかいことを言いふらす。母親や子供がおれば一緒にミサに出かける。どこの国でも信仰は一つの顔をあらわすが、パリでは、もう一つの顔、往々にして信仰が悪だくみを隠していることがある。
数カ月がすぎ、いよいよ周りの評判がよくなったとなると、子育て泥棒は、ゆうゆうと仕事にとりかかる。彼は行動する。とたんに、ある日、家主そのものの場合もあるが、借家人の一人が、ごっそり貴重な品々を盗まれたことが知れる。噂が大きくひろがり、みんなが憤慨し、びっくりする。盗っ人は、みんなのことを知っているやつにちがいない。こう最初に言いだすのが当の盗っ人である。彼は、盗品を始末するには抜かりないので、誰にも見つからないと高をくくっている。彼は一同と相談し、みんなの家探しをしたらどうかと煽《あお》りたてる。次の家賃の期限がくると彼は引越してしまい、みんなは残念がる。
――いい人だったなァ!
犯人が見つからない盗難事件が非常に多いことから判断して、まず考えられるのは、前に述べたような種類の盗賊住民の数が相当に多いので、従って、かれらを識別するのがたいへん難しいということになる。だが、今日は見つけだせなくても、明日は見つかるかもしれない。犯罪者が、罰を受けないでいられる期間には限度がある。私は、多くの事実を挙げて、このことを証明せねばならないのであるが、いちおう、次の例だけを示すことにする。
ラヴィエイユ・ドラプリ街の角にいた公証人のタルジフさんは、ずうっと以前から盗賊団の標的になっていた。ボードリとロべという名うての盗賊集団が狙っていた。ある朝、ロべ一味が公証人の家の前を通りかかったところ、『貸間あり』の貼紙が出ているのに気付いた。お誂え向きの部屋だった。つまり、タルジフさん所有のアパートの貸間は、あまり清潔ではなかったのだ。ロベ一味は、どうしても新しい壁紙に貼り替え、板張りは塗り替えてもらわないと困ると申し出た。タルジフさんは、その差しせまった修復を誰にたのもうかと迷った。ところが、ちょうど同じアパートに一人の若いペンキ屋が住んでいた。うってつけの探していた男というわけで、公証人は自宅へ呼んで、先に壁紙にとりかかるか、ざっと窓枠を塗るかを相談した。
公証人にとって不幸なことに、人は色々な場所を覚えて場所カンを持つということである。タルジフさんの家は、どこがどうなって、何がどこにあるか、すぐに思い浮かべられた。何の目的のためにあるのかわからない隅の三角戸棚、奥まった隅っこ、場所はわかっているが使い道がわからない家具など、先のほうを見ないでも、すべてが頭の中にあるとおりになっている。
六週間の後、タルジフさんは盗難に遭った。犯人は誰か? 誰もわからない。あえて推理するのさえ難しかった。しかし、裏切るのは仲間内からときまっている。盗賊の一人が、分け前をもらってから共犯者たちを売り、全員が逮捕されて断罪された。かれらにたいする宣告は当然の報いだったが、もし例の若いペンキ屋にも同じ処罰がなくて、彼が盗賊一味に公証人宅の間取りなどを喋ったのは軽はずみな失言だったとする正しい判決になったかもしれない。彼は、そのために十四年の刑を受けてブレスト監獄に収容された。
出獄以後、その男は、名は言わないが、今も無実を主張しながらパリに住んでいる。ある事業に成功して社長になり、立派な市民として、夫として父親として幸せに生活している。だから、彼を犠牲にした不公正な裁きのために、いったん有罪になった者がフランス帝国の法規上の誓約に違反せぬかといつまでも監視をつづける必要は少しもないのである。私は、この監視の命令を受けたが、こうした職権濫用の役目を実行する気はなかったし、私の後継者にも、その遂行を引き継がせなかった。
こうした腹のたつ警察の勝手な振舞い、つまり前科者を監視することは、法の厳正を高く評価するのが大好きなドラヴォ総監の気に入っていた……ところが、ベレイム新総監になってたいへん良くなった。ドラヴォ方針は追放すべきだとし、事実、旧方針は追放された。私は機会あるごとに言っていた。ああした監視体制は、なげかわしい厳格さとでも言うべきもので、きりのない恥ずべき報告です、と。思うに、ここで問題にしている出獄というものが、もし本当の自由をあたえることにならないなら、どんな結果を招くか? まず定期的に私の部屋に出頭せよと強制し、次に月に一回、近くの所轄署の警視のところに顔を出させる。すると、彼の知り合いの連中は、彼を単なる前科者とは思わず、密偵活動をしている者と見るようになる。噂がひろがる。恥辱と軽蔑のうちに誰からも見放され、とどのつまりは飢えて死ぬか、生きるために犯罪に走る。無実であれ有罪であれ、一人の前科者にとっては、監視体制がもたらす怖ろしい結果を避けることができない。飢えと死刑台の中間にいる被監視人を……私が誤って自殺に追いやることになる。
情けは恋のためならず
シャルパンチエという名の盗賊の情婦がいたが、『酒やけ女』とか『くそ婆ァ』という二つのアダ名のほうが通っていた。この女が、合鍵で窃盗を幇助《ほうじょ》したとして拘留され、情夫と一緒に移送されてきた。ところで、主犯の情夫は懲役刑を受けたが、彼女は証拠不十分で無罪になった。この女はアンリエットという名で、ロザリ・デュビュスという女と組んで空巣をやっていたが、ロザリは釈放になったばかりだった。だが、いろいろと警察に申し立てたことから、すぐに警察はこの二人の女友だちに眼をつけた。アンリエットはルグラン・ユルルール街に住んでいたが、私は彼女の監視を命令された。そこで、まず、彼女の顔見知りの者のように振舞うことにし、ある日、通り道で張っていて、出てきたところへ近づいて、
「よォ、おねェさんじゃないか。うまく会えたもんだ。ちょうどお前さんのとこへ行くとこだったんだ」
「あんた誰だか知らない人だけど」
「シャルパンチエと一緒に『恋の島』〔たぶん酒場の名〕で会ったのを思いださない?」
「かもね」
「なら、よしと。おれ、ブレストを出所して来たんだが、言《こと》づてを持ってきた。早く戻って一緒になりてェのは山々だが、かわいそうに、やっこさん、目をつけられていて、とてもじゃない、ズラかるのが難しいって」
「ふん、ちきしょうめ。あんたのこと、今わかった。ラ・シャペルのデュセーヌのところで一緒だったのをはっきり思いだしたわ。友だちとガブって(大飲みする)さ」
こうして了解ずみとなると、あとは文句なし、何か目論《もくろ》んでいるかとアンリエットに尋ねたら、とても実現しそうもないことを約束し、どんなに私が役に立つか当てにできる、ぜひとも家に落ちついてもらいたいと言い、好意で住居を提供しようと言ったので受けざるを得なかった。
アンリエットは小さな部屋を借りていた。たった一つの椅子と麻布を張った寝台、これが家具の全部で、屑毛のマットが付いていて、どうみても安らかに休息できるものには程遠かった。彼女は、すぐにその片隅に連れて行って、
「そこに腰かけててよ。あまり暇どらないからさ。誰か叩いても開けないで」
彼女は、なるほど、暇どらずに戻ってきた。片手に半瓶一本、もう一方の手に焼豚の皮二包みとパン一斤を持って入ってくるのが見えた。彼女が振舞ってくれる悲しい御馳走だった。私は、がっついて食べるフリをした。さて、食事がすむと、彼氏の親父さんを探してくるから戻るまで横になって待っていてくれと言って出て行った。私は、ひと眠りしたいみたいだったので、おんぼろベッドに身を横たえた。なんとも固くて釘の袋の上にいるみたいだった。
二時間もすると、シャルパンチエの父親がやって来た。私を抱き、涙を流し、息子のことを話す。
「いつまた会えるだろうか?」
大声をあげ、また泣いた。だが、どんなに悲しくても、ときどき涙を拭かねばならない。そして、シャルパンチエの父っつぁんは悲しむのをやめ、ラ・ヴィレット〔パリ郊外にあった昔の区域〕城外地の『やんばる』亭で晩飯を一緒にやろうと言いだした。
「金をこさえてくっからな」
言い残して出て行った。
だが、我が物にしようとする金を、いつも世間の人が持っているとはかぎらない。シャルパンチエの父っつぁんは、いっぱい金が集まるものと夢見ていたにちがいなかったのだが、晩になって、やっと帰ってきた。サンジャン市場を通りがかったときに買った残料理《アルルカン》〔大料理店などの料理の残りをまとめて貧乏人に売るもの。残飯ではない〕と三フラン五十というわずかな金をもって駈けずりまわったのだった。風呂敷の底は煙草でいっぱい、それと一緒にムカつくごった混ぜの料理をつつみ、そいつをベッドの端にひろげてアンリエットにすすめた。
「さァ、娘や、今日はシケちまった。城外へは行けねェよ。二リットルで十六サンチームの酒とパン、|肉あえ《ペリヤード》〔一種のコールドビーフ。油と酢であえる〕をこさえる油と酢を二スウずつ買ってきな。(同時にアルルカンの旨さを考えて)、あの中にゃ、すてきな牛肉が入っている。さァ、走って行って、早いとこ帰ってくるんだ」
アンリエットは足が早い。みんなを待ちくたびれさせない。三杯酢の肉あえができて、私は舌つづみを打つマネをした。一同、べつに閉口もせずに食べて人心地になり、また、食べているあいだに父っつぁんが、
「のう、お前さん、こんなんでいいなら、日曜たんびに御馳走してやるよ」
おなじ舟に乗ったロクデナシといった恰好で、十五分もたつと、すっかり親しくなった。二リットルめに手をつける前に、私は、アンリエットと彼女の義父とは十年このかた一緒にいたかのような感じになっていた。彼は、まだ動けるなら、何でも屋の、ごろつき爺いだった。私は、彼のダチ公に渡りをつけてくれるように話をつけ、翌日になると、さっそく『腹ペコひよっ子』と呼ばれているマルチノという名の男のところへ連れて行ってくれた。その男は次々と質問をして、ある小事件のことを云々し、元をただせば私の仕事だろうと言った。
「ああ、あれか。あのことはバラしたくないな。もったい付けときたいんだ」
トボけた返事をすると、マルチノが言いかえして、
「なら、好きにしな。だが、おれたちの仕事は二、三日しねェときまらねェんだ。鍵はできていねェ。首尾よくいったら、まっ先に仲間にしてやるよ。そう考えときな」
私がマルチノに有難うを言うと、いっしょに仕事をすることになっている他の三人の盗っ人に引き会わせてくれた。私としては、かなり巧く事が始まったわけだったが、誰かに出会って計画が狂わせられるのを怖れ、新しい仲間と一緒に出歩くのをひかえた。一日の大半をアンリエットとすごし、晩になると、グルネタ街の角にある酒場へ一緒に出かけて、彼女の手で稼いだ三十スウで飲んだ。
私が密偵の道に入ったころ、私を手伝ってくれた別のアネットという女がいた。なんとか決まった役割をあたえてやろうと、かねてから秘かに心づもりをしていた。その晩、たった独りでテーブルに向かって夕食をとっている一人の女がいるのに気付いた。アネットだった。はてなといぶかって眺めていると、先方も同じようにこちらを見ている。あの女、あんなに俺たちをしげしげ見ているが、あの人を知っているんか、とアンリエットにたずねたら、
「知らない人だわ」
「だったら、なんで俺を見てるんだろう。見たことがあるような気がするんだが、どこだったか言えないや」
はっきりさせるために、その女のそばへ行って茶番をやって見せた。
「失礼ですが、マダム、知っている方のように思ったもんで」
「あら、ムッシュ、あたしも、さっき思いだそうとしていたんです……まァ、やっぱりどこかで見た人だわ。ルアンにいませんでしたか?」
「こりゃどうだ、あんただ、ジョゼフィヌ、ご主人は? いとしのロマンは?」
「ああ、もうダメなの。あのひとカネル〔パリ西北二二四キロにあるカルヴァドス県の首邑カンの俗称〕で病気になってるの(カンで逮捕されている)」
「ずうっと長いこと?」
「三マルク(三カ月)。すぐには起き上がれないのが心配なの。ひどい熱病でね(大いに関わっている)。で、あんたは? 病気、なおってるみたいだけど(自由になっている)?」
「うん、治った。でも、そのうちブリかえすかもしれん」
「そうならないように祈らなくっちゃいけないわね」
アンリエットは、その婦人の上品な様子に惚れこんで友だちになりたがり、しまいには、お互いがすっかり気に入って、今後は手の指のように結ばれるだろうということになった。一つの帽子をかぶった三つの頭、それとも同じ下着の中の三つのからだ、とでも言おうか。さらに、ニセのジョゼフィヌは、いかにも胸を打つ物語をしたので、アンリエットが感動し、彼女がゲラン・ボアソー街の家具付きの家に住んでいることもわかった。お互いの住所を知らせあったあと、彼女が私に、「ねェ、聞いてよ。あんたが、うちのひとに二十フラン貸した時のことを覚えてるでしょ。あたしが返すのがスジなんだけど、二十フラン作るのは、ちょっとばかし難しいんで、かんにんしてね」
この態度に、身上話以上に参ってしまったアンリエットは、話半分の私の友だちの妻君と大いに打ちとけて話すようになった。そのうち話題が私にまわってきて、シャルパンチエの情婦だった女、つまりアンリエットが私を指さしながらアネットにハッタリをかました。
「ごらんのとおりの人だから、奥さん、十倍もいい男がいたって、他の男と変える気はないわ。このひと、あたしの可愛いヤクザ男よ。だから、一緒になって十年にもなるけれど、ひと言だって争ったことがないのがわかるでしょ?」
この茶番に、アネットは、みごとに合わせてみせた。毎晩、きちっと待ち合わせて、いっしょに夕食をとった。そして、ついに私が協力せねばならない盗みを実行する時が来た。用意万端がととのい、マルチノとその一味の準備ができた。週利息をとる金貸しの部屋を荒らそうというのだった。モントルグユ街にある高利貸の住居も教わり、何時に押しこむかも知らされた。私はアネットに必要な指示をして警察に報《しら》せ、一味が、私と一緒でないと行動しないことを確かめた上、仲間からも、いとしのアンリエットからも離れないことにした。
われわれは仕事に出発した。マルチノが階段を上がり、ドアを開けて、また降りてきた。さァ、入るんだ、と彼が言い、私と彼が見張っているあいだに、仲間たちが、自分のため皆のために高利貸から強奪しようと駈けこんだ。しかし、そのときはもう警官たちが、すぐそばまで追っていた。それを知った私は、ちょっとのあいだマルチノに反対側に顔を向けるように仕向けた。家具を破壊していた三人の泥棒が、びっくりして叫び声をあげたので、私とマルチノは逃げた。鍵はマルチノが持っていたので、仲間たちは徒刑をまぬかれた。というのは、おそらくかれらのいつもの言い訳で、ドアが開いていたから、つい出来心でと抗弁したからであろう。従って、鍵を用意したマルチノを逮捕するだけではなく、すでに捕えてある犯人たちとの関わりをつかむことが重要であった。こう結論に達する他なく、アネットはたいへん私の役にたった。マルチノは、すべての動かぬ証拠品と共に挙げられたが、アンリエットは知らぬが仏であった。彼女は、ただ私が元気で張りきっていさえすれば、それが彼女の愛情にこたえる何よりのしるしであると思っていた。しかし、とうとう音をあげて仮病をつかい、全力をあげてぶつかってくる彼女の情欲に応じきれないことを見せ、二人で何とかなるくらいの金では、とても及びもつかないような高価な強精剤でなくては元気になれないと居直った。すると、アンリエットは、是が非でも薬を手に入れたくて、私に内緒で空巣を計画した。ロザリ・デュビュスが手伝うことになり、盗みをたくらみ、実行を開始した。だが、私が陰謀を見抜き、けっきょく、アンリエットと女友だちは現行犯で捕まって十年の懲役を宣告された。
満期になって、アンリエットは、私の監視下にあったが、私を咎める権利があるのに、そういうことはオクビにも出さなかった。
アンリエット、ロザリ・デュビュス、マルチノは、いうなれば哀れな泥棒だったが、おなじ泥棒の中には、図々しさを信条にしていた盗っ人もいた。ボーモンという名の泥棒は、その最たるものであった。その一生のうちの十二年をすごすことになっていたロシュフォール監獄を脱走してパリにやって来ていた。前にも稼いだことのあるこの町に戻ってくると、さっそく手をだして収穫《みいり》の少ない盗みをいくらかやった。泥棒仲間の小ぜりあいがあって、昔の名声にふさわしい仕事をやって見せるぜと、ある財宝を盗むことを思いついた。
その財宝なるものは想像もつかない代物であった。それは、今日の警視庁、そのころの『本庁』が保管していた財物であった。あちこちの鍵型を手に入れることは先ず難しい。ボーモンは、この第一の難関を越えるために、自力で錠を開ける色々な技術を身につけた。しかし、錠前を開けるのは雑作もないとはいっても、要は、誰にも知られずに開けること、なんの苦もなく入りこむこと、目撃者なしに仕事をし、大手をふって出て行くことにある。ボーモンは、なんとも障害が大きいことを見越しながらも、けっして怖れひるまなかった。彼は、侵入しようとしていた場所のすぐそばに保安部長のアンリ警視の部屋があるのに注目した。ここぞという機会をうかがった。その、いかにも危険な隣人がしばらく席を離れている状況が望ましかった。それが望みどおりになった。ある朝、アンリ部長は、どうしても外出しなくてはならない用事ができた。ボーモンは、部長が一日じゅう戻って来ないのを確かめると、大急ぎで自宅に帰って黒い服を着た。当時、黒い服装は、長官とか高級官吏の服装ということになっており、彼は、その姿で警備詰所にあらわれた。案内を請われた主任は、おそらく警視殿だろうと勘ぐり、さァどうぞと兵士を一人つけてくれた。兵士は、押収品保管所に通ずる廊下の入口で見張りに立ち、誰も入れてはならんという命令を受けた。ふいに人に驚かされない安全な場所を設けるのには、これほど巧いやり方はない。という次第で、ボーモンは、宝の山の中で、ゆっくりと、まったく安全に、自分の好きな物を気ままにえらんだ。時計、貴金属、ダイヤモンド、宝石類など持てるだけ手に入れ、品物《ぶつ》を掻っさらうと哨戒の兵士の任務を解除してやって、消えた。
この盗難は、その日は知られずにいて、翌日になって気付いた。どかんと本庁に雷が落ちた。いや、雷が落ちた以上にこの新しい出来事に腰を抜かした。聖なる祭壇にまで侵犯されたのだ。なんとも異常な事件なので、誰もが首をかしげたが、盗みが行なわれたことは明白な事実で、いったい誰が? 次から次と内部の者に疑いがかかったが、たまたまボーモンが友だちに裏切られて逮捕され、二度目の刑を受けた。彼の盗みは十万フランにも相当するものだったが、その大部分は見つかった。
「そりゃ、まともな人間になろうと思ったこともあったし、なれもしたさ。金持は気楽だろうが、金持ほど悪いやつはいねェよ」
身柄を抑えられたとき、これだけの言葉しか言わなかった。この驚くべき盗賊はブレストに送られ、六回ばかり脱獄をつづけ、ますます自分を追いつめただけに終わり、精根つきはてた怖ろしい状態で死んだ。
ボーモンは、盗賊たちのあいだで凄い人気を博していた。今日でもなお、ホラ吹き男が手柄を自慢すると、こう言われる。
「だまらねェか、おめェなんざ、ボーモンの靴紐を解く値打ちもねェくせに」
事実、警察から盗んだということは、盗っ人にとって最高の所業ではなかったか? そのような盗みは、斯道《しどう》の傑作ではあるまいか? だが、素人衆の眼にはそう見えても、本人は英雄とは言えないのではなかろうか? あえて自分を彼とくらべる者が誰かいるだろうか? ボーモンは警察から盗んだのだ。吊るせ、勇者のクリヨン、吊るせ、コワニャール、吊るしたまえ、ペルトリュイザール〔反対派の人民の多数を絞首した将軍たち。たとえばクリヨン(一五四三〜一六一五)は宗教戦争の一方の雄〕、吊るしたまえ、こいつらを。だが、ボーモンのそばでは、お前さんらは、ただの聖ヨハネ様くらいのもんだ! 国家機関から盗んだり、ライン軍団の財宝を奪ったり、教団の金庫を掻っぱらうくらい何だろう? ボーモンは警察から盗んだのだ。吊るしたまえ、そんなやつ。それともイギリスへ行きたまえ……お前さんらが吊るされるだろう。
ムッシュ七変化
小猪口《プチ・ゴデ》、侯爵《マルキ》、デュラン、カプドヴィルなどなどの名がある凄腕の盗賊がいた。その長い盗歴で使った名前を全部ここに書いたらキリがない。卸売商、船主、亡命貴族、金利生活者などに代わる代《が》わる化けた。ながいことフランス南部を荒した盗賊団で主だった役割をやってのけた後、ルアンに逃げこんでいたが、たまたまある盗みの主犯と目され、断罪されて無期懲役になった。十七回目か十八回目かの有罪累犯であった。カプドヴィルには三人の主だった腹心の手下、デルスク、フィアンセット、コロンジュがいた。いずれも盗賊史上に名をとどめているお歴々である。カプドヴィルは、うんと若いころから稼ぎを始め、六十代になっても現役だった。貫禄がある人物に見え、太鼓腹、顔立ちがよく、作法ただしく、一見して信頼されるものを具えていた。かてて加えて気転がきき、服装の力というものを心得ていた。言うなれば、その押し出しが貿易商か元小売商人ふうだったと思われる。私は有名なセガン氏〔不明、マルク・セガン(一七八六〜一八七五)?〕の簡素な服装を見たことはないが、そういうものだったにちがいない。だが、どなたにも誤解のないように、誰かと比較するのはやめる。思うに、その狡賢《ずるがしこ》い悪党は、人を安心させるソツのない外見をしていて、地味で上質な衣服で金持だと思わせたのだと申しておこう。彼ほど厚かましくて辛抱づよく生まれついていた盗賊は少ない。
ある日、サンジェルマン・アンレ〔既出、パリの西、ヴェルサイユ郡の主邑〕のポトージュレ街に住んでいた金持の未亡人から盗んでやろうという気になった。そして、まず、彼女の家の周辺を歩きまわって調べてみたが、家のある場所へは入りこめないことがわかった。彼は合鍵を作るのも上手だったが、合鍵というものは当てずっぽうには作れないし、鍵型図も入手できなかった。あれこれ空しい試みをやって二カ月がすぎた。だが、カプドヴィルにとっては、計画に多くの困難が伴うから放棄するなど飛んでもないことで、こう独りごとを言った。
――やったるで。しくじってヤな思いはしたくねェや。
未亡人宅の隣りに住んでいる借家人がいた。これを他へ移ってもらう計画をたてて、たいへん巧くやってのけて、まもなくその家におさまった。つまり、ムッシュ・フィエルヴァルが後家さんの新しい隣人になったというわけ。ほォ、と界隈の連中は感心した、前いたやつとは違うぜ、すげェ家具だ。誰しも、立派な人が引越してきたと思いこんだ。その、家具を運びこんでから三週間ばかり経ったころ、隣家の未亡人が、しばらく外の空気に当たっていないから、ちょっと散歩したいと言いだし、忠実な女中のマリイのお伴で公園に出かけた。田園を歩っている感じの散歩を終わろうとしていたとき、リンネ〔スエーデンの博物学者、一七〇七〜七八〕学徒かツルネフィール〔植物学者で航海家、一六五六〜一七〇八〕学徒か、採集の道具一式を持った見知らぬ人が近寄ってきた。片手に帽子、もう一方の手に草をもって、そばまでやって来て声をかけた。
「あなたの前にいるのは、マダム、自然を愛する一介の学究です。美しい自然こそが気高くて優しい魂をとらえます。植物学、これが私の情熱です。これはまた、あの感じやすいジャン・ジャック〔ルソーのこと。一七一二〜七八〕や徳の高いベルナルダン・ド・サンピエール〔『ポールとヴィルジニイ』の作者、一七三四〜一八一四〕の情熱でもあるのです。これらの偉大な学者たちを手本にしまして、私は薬草を探しているのですが、私の間違いでないなら、この素晴らしい地方で奥さまのような御方にお会いできて大へん幸せです。ああ、マダム、人間性の幸福を望むのは、つまり誰もがその功徳を承知しているからです。この草をご存知ですか?」
「あら、ムッシュ、それ、この辺ではとくに珍しいものではありませんね。でも、あたくしは無学なもんですから、その名も特性も知りませんの」
「とくに珍しくない? とおっしゃいましたね。おお、なんという恵まれた土地だろう。とくに珍しくない。これが、いっぱい生えている場所を教えて下さいませんか?」
「喜んで、ムッシュ、でも、その草は何に効きますの?」
「なんに効くかですと、マダム、あらゆることにです。これこそ本当の宝、万能薬です。この草を用いると、もう他の薬は不用です。この根を煎じて飲めば、悪血のかたまりを清浄にして不快を追い払い、血行をよくします。鬱気を散じ、四肢をしなやかに、筋肉に活力をあたえ、一切の病気をなおして、百歳までも生きられるようになります。湯治に使うなら茎が最高です。浴槽に一束、常用すれば青春の泉にもなります。傷口に葉を貼ると、あっという間に治ります」
「で、花は?」
「ああ、この草の花、ご婦人がたが知っておられたら、それこそ神さまのお恵みそのものです。花一つ……それでもう未亡人よ、さようならです」
「花が夫を見つけてくれるんですか?」
「もっとよいことをしてくれます。マダム、これまで、誰も、ぜったいに使ったことのないものです。一服、二服、三服、それ以上は必要ありません」
「すてきな花だこと」
「そうです、すてきと言われたとおりのものです。とにかく、言っときますが、結婚生活に無関心な方に効き目がある最も強力な媚薬がこの花から作れるのです」
「からかっておられるんでは?」
「とんでもありません、マダム、神よ照覧あれ、薬にするのも、ただの飲物にするのも、すべての秘伝は、調合の仕方と用い方にあります……」
「その処方を教えてくださいと申したら失礼ではないかしら?」
「ぜんぜん、マダム、訊いて下さい、喜んでお教えします」
「ああ、それより前に、その興味ある薬草の名を教えて下さいな」
「名前ですか、マダム、かんたんです。鬼緋衣草《ラ・ツート・ボンヌ》ですが、万能女中草《ラ・ボンヌ・アツー》とも呼びます」
「マリイ、万能女中って、わかる? よく覚えときなさいよ。ラ・ボンヌ・ア・ツー。この方を公園の奥にお連れしたら、たくさんあると思うんだけど」
「そんなに遠くではねェす。どっさりあるところへ案内するだ。ある、ある、ハマムギみてェにあるだよ。なんども行って、うんとこさ、抱えるほど集めて来たことがあるだ。なんつうことはねェす、だれも知んねェもん。兎に食《か》せるためだったかな……だけんど、ムッシュは、あそこまで行きたくねェかも」
「この世の果てまでも行きますよ。ただ、あなたがたの親切に甘えすぎてはと」
「心配なさらないで、ムッシュ、心配無用ですわ。同意してくださっただけで十分に有難いですわ」
「ああそう、なるほど、そこまでは考えませんでした」
マリイが薬草さがしの先生を案内して行き、彼は、道々、煎じ薬の煎じ方とその使用法、洗浄剤や結婚上の秘薬の作り方などをマダムに説明した。そして、ついに目ざす場所に着いた。その植物学者は、彼がその効能を明かしたばかりの草が、そんなにたくさんあるのを見たことがないと言い、夢中になって喜び、熱狂し、嬉しがった。有頂天がおさまると、ぜひともこれをとばかり採集をはじめた……マダムもまた、その草の貯えにとりかかり、マリイも仕事をさせられる……いい気分で草を集め、二十分たらずで気の毒な娘は、へたばるほどの重荷を背負いこんだが、泣きごとなどは言わなかった。それどころか、また戻って来て草取りをしようと申し出る始末。マリイは、例の薬学講義を一言ももらさず聞いており、女主人に劣らず色事の経験に渇《かつ》えていたからだった。続けて警備隊の二人の馬丁にだまされ、目下、いいことしたさに三人目の男に入れあげていた。この次の守護聖人の祝日には、徳行賞をもらってバラの冠をつける純潔娘にしようという話が人の口にのぼっていた。ああ、それに選ばれたいなァ。どっちみち、マリイには、冠でなくとも飾り帽子をかぶって、顔も赤らめずに、先例のないニセおぼこ娘を気取り、理想の福娘をこなせる自信があった。こうした希望が彼女を力づけ、おなじくマダムも勇気百倍といった有様。
早くも植物採集が終わり、たがいに感謝しあって本草学者と寡婦は別れた。学者は新しい発見に向かって飛び去り、サンジェルマン・アンレのキルケー〔『オデュッセイア』に登場する魔法を使う女神〕は、美と健康、英知と魅力と蠱惑《こわく》に満ちた財宝を生まれて初めて我が物にして、意気揚々、女中と共に屋敷に御帰還あそばされた。
住居に戻る。いやに長い遠足だったので、マダムは、おなかぺこぺこ。
「はやく、はやく、マリイ、すぐに食事にしてちょうだい。いっしょに食べましょう」
「でも、奥さま、なんの支度もしてねェす」
「かまわないわ、残り物をいただきましょう。今朝の鱈《たら》と昨日の鶏肉を出しなさい」
女主人よりもっと腹がすいているマリイが言い付けを守って急ぐ。
「ああ、たいへん、たいへん、たいへん」
「マリイ、そんな大声をださないで。お腹にひびくわ」
「ああ、奥さま」
「どうしたの、マリイ、足でもくじいたの……」
「銀器……」
「ほォ、銀器が」
「盗まれているだよ」
「おまえ、頭がイカれてるんじゃないの」
「ふんとだば……」
「おだまり。しっかりしなさい。皿を洗っていて食器を置きっぱなしにしたんでしょう。あたくしが立ったままで、手がとどくところにあるはずよ」
「ああ、奥さま、ぜんぶ奪られているだ」
「なんと言いました、おまえ」
「考えられねェ、なんにもねェす」
「なにもないですと、あんまりふざけないで……なにもないですと。ばかねェ、イカれたマリイったら」
こうした言葉を吐きながら、未亡人は、いらいらして立ち上がり、戸棚のほうへ走って行って、はげしくマリイを突きのけ、
「どきなさい、まぬけ。まァ大変、ああ、なんてこと。おお、悪党め、極道め、畜生め。ちょっと動いて、マリイ、動いてったら。ミイラみたいにじっとしていてさ。ねェ、驚かないの、この罰あたり。ミルクでも流れているの、おまえの血管?」
「でも、奥さまァ、どうしろと言うだか?」
「やっぱり、おまえがボーとしてたせいよ。戸じまりしときなさいと言ったのにムダだったようね。きびすを返してるひまに食堂に入られた。それが、このていたらく。帰ったとき、出かけたときのように閂《かんぬき》がちゃんとしていなかったかしら とにかく、よくって、泥棒に入られたのは、ぜったいに、あたくしのせいじゃないよ。行こうが帰ろうが、出ようが入ろうが、鍵は身に付けています。それなのに、おまえ……六千フランの銀器……けっこうな一日をすごさせてくれたもんね。あの人、なんで付きまとったのか知らないけれど、あたくしがお前を……さァ、もう眼の前をどいて。どきなさいと言ってるのよ」
びっくりしてマリイが隣りの部屋へ引っこむが、すぐさま引き返してきて大声をあげる。
「ああ神さま、奥さまの部屋も荒らされているだ。机も開けっぱなし、なにもかんも上を下へとごったがえし」
未亡人は、マリイが勘違いをしているのではないかと確かめたくなる。だが、破局は本当の本当でしかない。ちらっと眺めて、万事納得。
「鬼っ! おしまいだわ」
と言って気を失う。
マリイは十字路のほうへ飛んで行って助けを求める。
「どろぼう、人殺し、お巡りさん、消防っ、」
これがポトー街に鳴りひびいたマリイの警報の叫び声である。それっとばかり住民や憲兵や警視が後家さんの家に踏みこむ。屋根裏から地下一階まで全体の家宅捜索をするが、誰も何も見付からない。そこで一人の弥次馬が地下室へ降りてみようと提案する。
「地下室だ、地下室だ」
みんなが一斉にくりかえしてローソクをつける。そのあいだ、マリイは、懸命に女主人の介抱をし、やがて気をとりもどすと、灯りを持った者たちを先頭に、警視が、地下へ降りるのを実行する。最初の地下室、なにごともなし。二番目の部屋、やはり無事平穏。三番目の部屋は隣りの家の地下室と接している。足もとに漆喰の破片がある。さらに進んで境界壁に見たものは……大人が通れるほどの、ぽっかり開いていた大きな穴。
この瞬間から一切が判明した。二時間ばかり前、パリから来た大男が住んでいる隣りの家の前に馬車が一台とまっていた。さては、そやつがカプトヴィルで、たいへん重そうなトランクを載せてから馬車に乗って立ち去ったことが確認された。トランクには、未亡人の金銀宝石や、銀食器が詰めこまれていたにちがいなく、かなりの額にのぼるものであった。カプドヴィルは二度と現われなかった。また、誰も彼に会うことはできなかった。ただ、数日後、彼の住居に備えつけた家具代金を請求する者が現われた。請求してきたのは誰だったのか? 代金を立替えた使いの者がカプドヴィルにか? ちがう。信用貸しで売った家具商であった。人々は彼に、万事メデタシ、鬼緋衣草《ラ・ツート・ボンヌ》の話をして聞かせた。
後家さんは、彼女に会いに来た家具屋に枯草の束を見せた。家具屋は、その残酷でインチキな証拠物件をつくづくと眺めて、
「無念残念というよりほかありませんな」
「なにが?」
「この四倍あっても安楽椅子に入れるには足りません。長椅子の詰めにはできます、毛がのぞくようだったらね」
家具屋が枯草を見て残念ながらと言ったことで、大きな真実がはっきりした。つまり、サンジェルマン何とか公園には、薬草採集者などはいないということだ……馬の尻っぽが短くても、クレリ街の家具屋のせいではなく、歯が長くても、それはまた別のこと、秣《まぐさ》が高値で拾い集めねばならないからだ。
未亡人をスッテンテンにしたあと、カプドヴィルはルアンへ行っていたが、まもなくパリの近くへ戻って来た。しかし、どこかに居を構えることはしなかった。他人に仕える召使いの辛さに心を痛めたり、世間の人間の不実にイヤ気がさし、健康にも自信をなくして、自分自身や他人に不満で、カプドヴィルは、一個の人間ぎらいになってしまい、できるなら田舎に埋もれていたいと周囲の人に語っていた。彼は、この目的でパリ周辺をうろつき、ベルヴィル〔現代のパリ二十区あたり〕に孤独を愛する生活に向いたアパルトマンがあるのに気付いた。これからは、そこの木蔭の下でメランコリイな散歩をして、なやめる魂の溜息を発散させたいのです。こう言って、カプドヴィルは、その建物の一室を借りた。この住居を眺めていると、なんとなく懐しくなってきて心が休まります。
ところが、人間ぎらいというものは、他の人間と同じ屋根の下で長いこと住んでいるのは我慢できなくなるもの、彼にとって必要なのは、この土地で独りぽっちだと納得できる棲家《すみか》である。そこで、彼は、どんな値段でもよい、そういう住居が欲しいと言いだした。たとい藁ぶき屋根の家でも、くそ面白くもない俗世間の名残りが残っていないなら結構、晩年をすごす隠居所を見つけたいのですと、カプドヴィルは大っぴらに吹聴した。
彼は、半径四十キロ内で売りに出されている全部の田舎家物件に問い合わせたので、まもなく、売家をさがしている人だという噂が一般に高まった。人々は、そのあたりに彼が関心をもつような家が何軒かあるのは先刻承知だったが、彼は遺産として残せるようなものしか求めなかった。
「ふむ、そこまで心配して探しておられるのか」
まわりの人は感心したが、事実、それが彼の方針だった。ひとまわり気に入りそうなのを探し終わると、彼は、大っぴらに旅立ちの支度にとりかかった。三日か四日、留守にするが、出かける前に持ち歩きたくない一万フランばかりを机の中に置いて行っても危くはないだろうかと相談すると、まわりの者たちが大丈夫だと保証し、それなら安心しましたと、安心しきって、さっさと旅に出かけた。
カプドヴィルは遠くへは行かなかった。今まで滞在していたあいだに、おなじ建物の一画にある家主の部屋に入るのに必要な鍵型をそっくり手にいれる時間は十分にあったし、さらに、家主は、パリで夕食をとるのが習わしで、夜早くは帰って来ないことも観察していた。日暮れに引きかえせば、たっぷり時間をかけて仕事ができるのは間違いなしだった。陽が沈み、闇にまぎれてベルヴィルを人に知られずに通り抜け、目ざす建物に忍びこむと、合鍵を使って家主の部屋に入り、下着一枚まで持ち去った。
五日目の終わりのころ、まわりの者たちが、人間ぎらいの旦那が顔を見せないのを気にしだした。翌日になると疑いをもった。二十四時間おそかった。それでも、彼が泥棒で、家主の盗難の犯人は彼だとする意見は、ただの一つも出なかった。こうした謀略を知ったからには、人間ぎらいには用心しなさいよ。では、誰を信用したらいいんですか? 人間好きの博愛家ですか? もっと、わりいや。
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三六 転落の唄
第一歩
いかにも大胆不敵な女賊にアデール・デスカールという名の女がいた。それまで私は、そんなに可愛らしい女を見たことがなかった。まるでラファエルが想像した幼児を抱く聖母像のモデルになるために創られたかのようだった。ふさふさとしたブロンドの髪、魂の苦悩をたたえている碧い眼、気高い額、うっとりと魅入られる口、あどけない顔付き、ほっそりした胴体、神々しいくらいな気品、アデールは、こうした諸々の美しさを一身に集めている稀に見る娘であった。肉体は完璧であったが、道徳面は、運命のいたずらか、それとも生まれついた悪い性向のせいか、肉体と同じように、申し分なくぱっと輝いてはいなかった。
アデールは、まともな家庭の娘だったが、ちょっとばかり気ままに育った。十四歳になったばかりのとき、両親が、パリに大勢いる女衒《ぜげん》の一人に丸めこまれ、彼女は売春宿に連れこまれた。誰もが、その絶世の美人姿だけを見て、もう一人前の女だと思った。ところが、アデールは、まだ善悪をわきまえないウブなおねんねだった。だが、彼女を泥沼に引きずりこむのは難しくはなく、身寄りの者に探されないように、まず名前を変えろと言われて承知してしまい、その魅力を買いにくる恥も外聞もない男どもの眼には若すぎるので、実際より年上だということにされた。
アデールは警察に連れて行かれ、当時の慣行に従って登録された。これをしないと、風紀係の旦那がたは、常習的に助平男どもの相手をしている女として許可してくれない。当時は、こうした場合、登録料として一枚のエキュ貨〔約五フラン〕を納めさせて、風俗規制を口実に徴税権を警察が僭取《せんしゅ》し、売春の特権をあたえた。ということは、つまり、こう考えたらよろしい、すべての社会的な堕落を抑制し取り締る責任がある首長庁舎内の風紀係で、ちょっとした忠告をしてやれば貞潔を取り戻せるはずの若い娘が、最低の下劣な仕事をする許可をもらっていたということである。もらえるはずのない許可を風紀係でもらい、その許可が警察の庇護のもとで行使される。なんというモラルだろう。しかも、その警察の長は神の信奉者である。
相談相手に裏切られたり、軽蔑されたり、あるいは一時の絶望から途方にくれた若い娘は、不吉な決意を突きすすむ。それは、血気にはやった悪魔的なひらめきである。そのとき、ふと思いなおしてみるとか、時間をおくとかすると、おそらく意識の流れが変わるのだが、そこに風紀係が介在する。鬼か仏か、娼家のマダムは、警察承知の上で、郊外に貸間を借りてやって、贈物などして娘の歓心を買うくらいの金は持っているのであるが、そんなことをするまでもないのではあるまいか?
若い娘が風紀係に出頭すると、一冊の帳簿が開けてあって、事前調査などはなく、いきなり申し出どおりの名前と年齡が書きこまれる。記帳され、背丈などを測られ、検査されて、その瞬間から、決定的に売春権を取得する。あとでどんなに後悔しても、早まった過ちを撤回して汚辱と縁を切ることは認めてもらえない。彼女の貞操を汚す自由を認めた風紀係の職員は、彼女が更生することなどには無関心である。恥ずべき行為、それが稼業なのだ。警察の権限から脱けだし、悪魔の爪から遁れるには、多くの手続きを踏まねばならず、悔い改めている保証を立証してもらうために大勢の人を呼び出さねばならず、堅気の生活に戻るのは、ほとんど不可能であった。
いったん登録されると、不幸な娘は、彼女を取りまく恥の友だちから抜けだすことはできない。もし、元の社会に復帰しても、時々刻々、一歩々々、登録抹消前の過去の名残りに直面して恥をさらすことになる。記帳されるのは易しいことで、内密に行なわれ、両親や保護者に相談されることもない。ところが、登録の取り消しは、身元確実な市民たちの同意を得て公示され、いろいろと試されてから決定される。娼婦は、たえず自由意志におびやかされている。まったくの自由意志で、つまり商売抜きで行為するときは売春の習慣を放棄していることになる。だから、ほんとは、みじめな売春稼業はやめたと女が宣言すれば事足りるはずなのである。その上で、彼女が他の仕事で生活の手段を見つけるには、世間が過去の売春生活を忘れてくれることが必要になってくる。しかし、警察は、これとは反対に、彼女のことを覚えておく必要があるとする。彼女に押された烙印は永久的なもので、その汚点は消えないものとする。彼女は世の中を毒したくせに、今さら堅気に転向して警察権に抗《あらが》い、管下の玄人女の数を減らそうとするのは間違っているんじゃないか? と言う者がいる。私は言ってやった。そういう考えは、餌食に襲いかかる悪魔の論理だ、と。事実、私は、売春婦を担当する刑事たちが、売春の旗を降ろして堅気の作業場で働いている奥まで行って彼女らに付きまとっていたのを見ている。彼女らが若くて綺麗なほど、刑事たちは、なんだかんだと執拗に警察の権利をふりまわす。父親の気持のカケラもない忌わしい風紀係では、ウブな娘ほどモテていたのを見てきた。
若い娘が風紀係に出頭するときは、たいてい娼家のお母ァさんが付きそっている。その間、かれらにとって、いちばん都合のわるい連中、つまり悲しみに魂を痛めている父親や母親は、第二部にいて失踪した子供の捜索を家出人係の主任に頼みこんでいる。
ベレイム新総監が、手際よく諸改革を行なった。彼のおかげで、娼婦の税金は警察の収入にならないことになったが、彼がいなくなると、権力の濫用が大いに残った。
さて、アデール・デスカールの話に戻ろう。
ひとたび連れこまれた苦界《くがい》に身を沈めたアデールは、いそがしく泳ぎまわり、さまざまな浮き沈みを経験した。さいしょのナジミ客は密偵たちだった。その頃の密偵と名のある盗賊は娼家で幅をきかし、わがまま勝手にふるまう特権をもっていた。どんなムリを言われても、女郎屋のマダムはイヤだと断らなかった。彼女は、警察の手先には法律力、盗賊には財力を読んでいた。
アデールは、あいかわらず警察の手先に尻を追っかけられながら、ギョーム、ルルージュ、ヴィクトル・デボア、ココ・ラクール、ペリエなどの一味の規律《おきて》に従うようになり、連中は、かわるがわる、否応なしに、彼女を自分たちの情婦《いろ》にした。この、かれらの仲間になったことから、盗みの観念になじむようになった。はじめは、なにかと気がひけるが、知らず知らずのうちに、かれらは女たちを仕立てあげて堕落させる。かれらがやっている仕事がボロ儲けになるのを見せつけ、いつの間にか、それが彼女の仕事になる。アデールの初仕事は立派だった。ほかの多くの者のように財布や時計を盗むことから始めず、そういうのは、下世話に言う前座の道化芝居だとし、もっと高いところに目標を置いていた。彼女の情夫《いろ》のなかには、腕のいい合鍵作りが大勢いた。彼女は、そのヤバい技能を身につけることに打ちこみ、その世界では、いかにも早い進歩を示し、やがて、押しこみ強盗たちの集まりで発言権をもつようになり、かれらの仕事に加わることになった。
アデールは、早くも、頭のいい女だという評判になり、うんと親しくしている友だちに多少とも何らかの事故が突発すると、心もあたたかいことを示す機会になった。みんなが、彼女には、いわゆる『実《じつ》がある』婦徳が備わっていることを知るようになった。盗っ人たちの誰かの運命が危いときは、けっして放っておかなかった。惚れている男が刑に服して別れる段になると、これまで彼の親友だった者のうちから代わりの者を選んだ。ただし、獄中の不幸な彼氏を援助しても文句はないというのでなくては彼女の間夫《まぶ》にはなれなかった。こうして、アデールは、次々と愛情のハケ口を切らさずに、同じように可愛がり、結局は徒刑場か、よくて牢獄に相手を放りこむことになるのであった……そういう男たちの立場を心配し、しょっちゅう居所を変え、その度ごとに生気を倍加した。しかし、食わせてやる者の数がふえて、莫大な手当てをやるのを中止せざるを得なくなり、あこぎな盗みを自分からせねばならなかった。愛人は亭主と同じで、儲けのうちから獅子の分け前を取ってしまう。そこで、彼女は、もう愛人を持たなかった。アデールは、単なる仲間としての経験を十分に生かし、自分の翼で飛び、思いがけない幸福な二年間の独り働きをした……すべてが巧くいった。とうとう貯えがたまって望んでいた額を超えるときが来て、はじめて金持の苦労を味わった。
アデールは、お高くとまっている自分の姿をながめて、ふいに、ひしひしと孤独の重さを感じた。はっきり、こうだとは言えない空しさを味わった。いや、むしろ、自分では、その空しさがどういうものかわかっていた。そこで、彼女は、自分自身にこう誓った。いろいろと苦労話をしてくれるような、あたし好みの男なら、最初に言い寄ってきた者のいうことを聞いてやるわ、と。そして、彼女が気に入り、彼も気に入ったのは、リゴッチエという名の男で、ひどく愛想のいい玉ころがしのペテン師だった。リゴッチエは、ほんとうに欲情に燃えていたので、雌鶏と一発やって勝ち誇って小舎から出ると、そっと若鶏に代わってやる雌鶏のように、女が感じた情愛の火が身体に残ってほてっていた。アデールも、以前なら、先手をとらされるのは死ぬほどイヤなことだったが、彼の言うまま、させるまま、嬉しくなって無我夢中、男が恋の溜息を吐くにまかせた。
アデールは、同棲生活をしている女は男に隠し事があってはならないくらい百も承知していた。だが、彼女は、おいそれとは自分の金とリゴッチエの金を一緒にせず、自分の腕で稼げる儲けを洗いざらいブチまけて、こまごました彼女の技能の片棒をかついでくれと彼をせっついた。その素質があるかどうかを試したものだ。それがあることをアデールは認めて育て、ひたすら惚れた男の素質を早く有効に利用することだけのための勉強をさせた。おかげで、ほんの一寸の間に、リゴッチエは、最も凄腕の錠前師と同じ仕上げっぷりで合鍵を作ることを覚えた。だが、アデールは、彼が完全に仕込まれない前に危い橋を渡らせたくなく、押しこみに連れて行っても見張りしかさせなかった。しかし、彼も、ただ腕を組んで立ちん棒をしている見張りのヤマをいくつかふむにつれ、いつしか料理を手伝うことを許された。
フェロヌリ街に一人の婦人が住んでいた。おしゃべりな家政婦の話では、お金持でケチン坊だということだった。アデールは、一丁いただいてやろうと考え、合鍵の用意もできた。みごとなできばえだった。家政婦が女主人の留守を教えると約束していた。ある日、奥さまが夜会に出かけると知らせてくれたので、アデールたちは、すぐに実行方法を打ち合わせた。
弟子である情夫に、
「よくって、おまいさん、尻ごみは禁物だよ。あたしと一緒に入るんだ。おまいさんの働きを見たいね。またとない仕事だよ。一発やってみたら、いちばんいいやり方がわかるというもんさ」
リゴッチエは尻ごみしなかった。アデールと一緒に出発、例の御婦人が出かけたのが確かだとわかると、彼女のアパルトマンへ上がって行き、難なく部屋に入った。いったん入りこむと、まるで自分の家のように閂を下ろして閉じこもり、すぐに金が蔵《しま》ってありそうな家具全部を引っかきまわし、ブチこわした。書き物机、たんす二|棹《さお》、衣裳戸棚、手箱など、これはと思われる多くの物にガサを入れたが、家政婦が話した銭コはどこにも見つからなかった。では、お金はどこへやったのだろうか? 職業柄あらためて部屋を見渡して考えられたことは、昨日のうちに場所を変えて公証人のところへでも移したらしいと判断した。二人は、がっかりして髪をかきむしって口惜しがったが、ただムダな絶望をしてあきらめてはいなかった。金を見つけるために家じゅうを引っかきまわした山積みの物にとり囲まれた混乱のまっ只中で、まだそれ相当の取りかえしがつくと考え、その取りかえしだとばかり、宝石類や銀器、レースやリンネルなどを掻っぱらった。
たちまちのうちに掠奪はすんだ。いくつかの包みに貴重品を包み、閂を抜いてオサラバしようとした。そのとき、ふいに、もったいないような四本の酒が戸棚にあるのに気付いた。十年物のシャンベルタン酒だった。そうなると、仕事の成功を祝って一杯やらないではすまされなかった。神々の御神酒《ネクタール》だ。一杯が二杯になり、一本が空くと二本、それが三本、四本となった。
酔いがまわる。もう、どうでもよくなって、なにもかも忘れ、正気でなくなる。憲兵がなんだ、くそ商人《あきんど》め、法律がなにさ、裁判所がなにさ、昔のことがなにさ、先行きがなにさ。リゴッチエは歌い上手、アデールはノド自慢。声をかぎりに有名な掛け合い歌を歌いはじめた。題する歌は、
宿なし泥ちゃん
靴なしシャツなし泥まみれ、
皿洗いよりひどいやつ。
ある晩、酔った宿なし野郎
ばったり泥棒と顔をあわせ、
キンキン声で言うことにゃ、
ヤイヤイ酒代払ったか?
泥ちゃん答えて、酒代なんか!
泥棒になれよ!(クリカエシ)
泥ちゃん
おいらが銭コをモノするように、
ちびりちびりとやっとくれ、
のべつタバコをふかさずに、
リゴドン踊りでウサ晴らせ。
牢屋なんか怖れるな、
くさりに用心、こわかない。
元気に女郎屋にしけこむぜ、
泥棒になれよ!
宿なし
わしに盗みをさせたいか、
ワナに落ちても怖くはないが
盗んで金持にゃなれないさ。
宿なし暮らしは美味しい御菓子
わしらのところへ来るがよい、
熱いドラ焼き食ってみな。
ほんとのことだ、思案しな、
宿なしになれよ!
泥ちゃん
おいらはいつもお祭り気分、
いつでもあるぜ時計と乳房。
どこでも頭を突っこんで、
忍び姿で庭からズラかる。
ときどきブルって悲しいときは、
なにか辛くてたまらぬときは、
スケで慰め忘れてしまう。
泥棒になれよ!
宿なし
泥棒さまだといい気でいるが、
わかっちゃいないぜ、お気の毒、
お前の一生は牢屋でちょん、
あそこじゃ誰も偉くない。
闇の世界で満足したら、
さァ行け牢屋へ、わしは別、
お前の運はそこまでさ。
宿なしになれよ!
宿なし
十年たっても無事息災
さかずき傾け天下泰平。
泥ちゃん
おいらはのんびり昼寝して、
さァさ強盗《たたき》だデュフルの店。
宿なし
心配だなァ憲兵と白洲、
アバヨ泥ちゃん、ご機嫌よう。
泥ちゃん
まかせておけよ、うまくやれ。
泥棒になれよ!(クリカエシ)
歌につづいて、滅茶苦茶なスペイン踊りをやらかした。雷が落ちたみたいで、床が抜け、家が崩れ、この世の終わりかの感じだったが、二人は、見れども見えず、聞けども聞こえずで、アデールとリゴッチエは現実世界の人ではなくなっていた。かれらにとって、人生は茨《いばら》の道でも険しい坂でも苦い水でもなく、人生は、よろこびが詰まった羽根ぶとん、魂を天外にとばし熱狂して踊った。
ところで、パリでは、道の両側に家が並んでいて、よく考えてみると、家が向かいあっているので都合が悪いことがある。例の御婦人の留守を物怪《もっけ》の幸いとばかり二人は踊っていたが、当人は遠くへは行っていなかった。彼女の家の真向かいの家の、正に同じ階に女友だちが住んでいて、そこでトランプ遊びをしていたが、誰かがカードを配っていると、ふいに彼女の視線が通りの向こうのある一点に機械的に釘付けになった。
「ねね、ちょっと、なんだか只事でないことが私の寝室で起きているわ」
大きな声をだした。
「なによ? なによ?」
「ほら、わかる、灯りがあるわ」
「勘違いよ。反射だわ」
「なんですって、反射ですって? 私、盲目じゃないわ。ほら、動いてるのが見えるでしょ」
「ああ、そうね、動いてる。いつも、あんなになってるの」
「とんでもない。こんどこそマボロシだとは言わないわね……ね、ね、プラナールさん、よく見て頂戴。私のベッド脇に交叉しているカーテンが揺れているのが見えるでしょ?」
「おっしゃるとおりだ。たしかに何かが動いているのが見える」
「動きがひどくなったわ……ベッドの枠も総《ふさ》飾りも、みんな揺れ、みんな動いている。あんな調子だと横木が落っこっちゃうわ」
「やみませんな。いったい、あれは何かな? ひょっとして泥棒では」
「泥棒ですって。ああ、プラナールさん。そんな気にさせて。神さま、泥棒ですって。早く、早く、下へ降りましょう」
「降りましょう、降りましょう」
一同、口々に繰り返して、それぞれ足早に一人、二人、三人、四人と階段を飛んで降りた。
当のご婦人は、知らぬ間に誰かが自分の部屋に来ているとあって震えがとまらず、例の寝室のカーテンよりも大きく身体が揺れた。いきなり門番の小窓を押し開けると、矢も楯もたまらぬふうに急いで、
「灯りを、灯りを。あしたの分まで芯を出して」
「そんなんしたら蝋がたれますがな……」
「家の中に泥棒がいると言っても」
「泥やんがおる?」
「そう、そのとおりよ」
「どこに泥やんがおるん?」
「私の部屋よ」
「あんたの部屋、ブルジョワ奥さん、あんたのとこに?……おちょくろう思うて?」
「ちがう。冗談じゃないのよ。早く大家さんに知らせて」
「デロワイエさんに? 行きまひょ」
「すぐ来てくれるよう頼んで頂戴」
門番が大急ぎで役目を果たし、たちまちのうちにデロワイエさんを連れて戻ってきた。彼は、泥棒という一言で攻撃の用意をした。ぶしつけな寝ていたままの姿で、寝巻も脱がず、木綿の寝帽もとらず、眼鏡の代わりに緑色のタフタ織りの目庇《めびさし》をかけ、靴下をたくしてガーターを付け、通りすがりに台所の焼き串をつかんで武装した。
みんなに向かって、
「いいかね、みなさん、用心ぶかくな。とくに音を立てんようにな。これから上がろうと思うが、どうかね? しいっ、音がしたようだ……馬車の音だ。ちょい待ち、急《せ》いてはいかん。みんな靴を脱ぐんだ。しっ……(門番に向かって)トリポさん、やつらは力ずくでくるかもしれん、斧を持つんだ。カミさんは箒を握り、娘さんは石炭スコップをな。奥さんがたは、めいめいが椅子を持って敵をやっつけるんだ。わしは今、前におるが……逃げ道を守る役を引き受ける。もし手向かったら、臨機応変に、どこへでも駈けつけるからな。わかった。以上だ、いいな? さァ、わしの前を行くんだ。わしは後から行く」
一同、そろりそろりと階段の踊り場から踊り場へと動いて、二階までたどり着くと立ち停まった。
「しいっ、そこだ……」
先頭の門番が、そっと鍵を錠に差し入れ、ドアが開く……
「ああ」
みんな一斉に声をあげた。ただもう、びっくり仰天し、腹が立つやら、呆きれるやら。
アデールとリゴッチエは、くたびれて酔いつぶれ、敷物の上にぶっ倒れ、こわれた家具、ぶちまけた酒、てんやわんやの包みのドまん中で眠っていた。
門番が大声をだした。
「あんれま、新顔や。警視はんと煙《けむ》もうもうのヒゲの判事はんに来てもらわにゃ」
隣りの人が探しに行って、警視や憲兵や警官たちが、待つほどもなくやって来た。恋人たち二人は逮捕され、まずアデールが尋問された。彼女は、とくに慌てる様子もなく、不意打ちをくったあの部屋にいたのはまったく偶然のことだと言い張った。一緒にいたのは知らない男だし、これまでに見たこともない者だ。通りで近寄って来て、あの家へ一緒に上がって行った。連れこみ宿だと思った。階段を上がるとドアが開いていたので入ったまでだ……また、包みを作ったなんて、ぜんぜん関わりはありません。盗みがあったとしても責任はございません、と。
この嘘は、かなりよくできていたが、アデールが共謀しないというリゴッチエは同じ陳述をせず、この口裏の合わないことから、二人とも十六年の刑を宣告された。リゴッチエは、一八〇二年、鎖を付けられて送り出され、それから十年後に、私は波止場で彼と再会した。脱獄していた彼を捕まえたのだった。その後、彼は、牢内で死んだ。
熟練女工
アデールは、刑が終わり、労役収入の積立残額九百フランをもってサンラザール刑務所を出所した。完全に改心していて、まっとうな行ないをしようと思っていた。
彼女が最初に気をつかったのは、きちんとした身なりをととのえ、ささやかな一通りの調度をそろえることだった。そうしたものを調えたら百五十フラン残った。これでしばらくは、みじめな恰好にならずにすむが、それも、そう長続きするはずがなかった。彼女は仕事を探すことにした。婦人服の仕立てにたいへんいい腕を持っていたので、なんなく職が見つかった。ある商店に何カ月か雇われていて、その境遇に満足していたが、男であれ女であれ、前科者が生きていくのは何とも不安定なものである。彼女がサンラザールの囚人だったことが知れると、とたんに辛い苦労が始まった。そういう時期の頃のことをとくに私も思いだすが、いったん裁きを受けたら最期、そのことから滅多に脱けだせるものではない。自分の苦境をどこかに訴える手段を持たなかったアデールは、情け容赦もなくクビになった。彼女は住む区域を変え、新しい職場に落ちつくことに成功した。安ホテルのリンネルや下着類の係になり、以後は、そこを避難場所にして、ぶしつけな人とも、信頼を寄せる人とも関わりを持つのをあきらめた。しかし、それだけの用心をしたのに、やはり過去の生活の名残りから身を守れなかった。告げ口をされ、身元がわかり、またも追い出された。この日から、彼女は、一生つきまとう悪名をもたらすことになる非難の程度を調べた上でなくてはどこへも姿を現わさなかった。
アデールには、裁縫の腕にたよる以外の生活手段がなかった。それにふさわしい仕事を探したがダメだった。三カ月がすぎ、彼女の技能を生かして生計を立てさせてやろうと思うような親切な人には会えなかった。とうとう生きるために衣類などを処分する時が来て、すこしずつ借りが続き、たんすの中のもの全部が公営質屋の、あんぐり開いた大口に吸いこまれてしまった。
ぎりぎりのドン底に落ちて、ある晩、セーヌ川に飛びこむつもりで走ったが、たまたま新橋《ポンヌフ》の上でシュザンヌ・ゴリエとぱったり出会った。懲役仲間の一人だった。アデールは窮状を語った。すると、シュザンヌが、
「オヤまァ、そうだったの。人が溺れるのを放っとける? あたしんとこへおいでよ。姉と刺繍屋をやってんの。仕事はあるわ。手伝ってもらいながら一緒にやろうよ。パンしかなかったら、いっしょにパンだけ食べようよ」
こんな都合のよい話は、またとはなかった。アデールは承知した。
もう冬になっていた。刺繍工房は、かなり巧くいっていた。しかし、謝肉祭が終わると閑《ひま》な季節になる。アデールと友だちは、これまでにないほどの、ひどい苦境に落ちこんだ。シュザンヌの姉の亭主のフレデリックは錠前金具店をやっており、業績が上がっていれば助け舟をだしてくれるのだったが、あいにく、彼も、家賃や営業税を払うのをあきらめるほど商売不振だった。極端な窮乏が眼に見えていた。
ある日、アデールは、その男の店にいた。彼も彼女も、四十八時間以上も食べる物を口にしていなかった。
「こうなったら、死んじまわなくちゃ。ちきしょうめ、パンのパの字もねェや。そうとも、死ななくちゃならん」
冗談か本気か、錠前屋が、いやに気味のわるい調子の声で繰り返した。
むりに笑おうとして顔がゆがみ、ひたいを冷汗が流れた。死人のような顔色のアデールは、だまって仕事台によりかかっていた。と、ふいに彼女は立ち上がって身ぶるいをした。
「死ななくちゃあ……それとも、やらなくちゃか」
なんとも言いようのない思いで、まわりにある工具を見つめながら大きく息を吐いた。
それは、彼女がちらっと見た怖ろしい野望の光である。アデールは、ぎょっとなる。彼女は揺れ動く。熱い興奮が身体をかけめぐって、彼女をくたくたにする。飢えの苦しみと良心の恐怖との間にあって、もっとも残酷な責苦に堪える。彼女は、こうした苦悩にさいなまれながら鍵束に手をのばし、突き放す。
「神さま、あんな犯罪道具はどけて下さい。いっしょけんめい堅気になろうとしました。ですから、それだけが頼りなんです。だめなんですか?」
こう叫んで、負けてはならじと、その不運な女は急いで逃げだす。
これまでに述べた話の中にあるものと同様に、これから続く話の中の、いろいろな人物像や、かれらの性格や素行などは、私がありのままに述べている時代特有の事柄に関係があることがおわかりだと思う。もし、後々、私の話を読まれる方で、私が語っている事柄に何か違っている点を見つけられたら、その発見された事柄を遠慮なく私に知らせていただきたい。なぜなら、誤りを匡《ただ》すには、その誤っている点を知らねばならないから。
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三七 行きだおれは哀し
アデールは、彼女が住んでいる地区に慈善救護所があるというのを聞いていた。まともに生きたいという一心が勇気をよみがえらせ、残っていた力をふりしぼって民生委員の戸口までたどり着いた。その人が、地区の施しを分配していると教えられていたのだったが、そんな人はいないと断られた。
アデールは出て行く。入口の敷居をまたいだとたんに、両脚が、がくっと折れて気を失う。腰掛に載せられ、二人の労務者が支える。早くも弥次馬が取りまき、おおかたの者は彼女が死んでいると思う。だが、そのうちに、コップのブドウ酒を呑むのを見て、ははァ行き倒れだなと知る。衰弱がひどくて、パンを与えても呑みこむことができない。
奇特な人たちが彼女のための募金をつのり、大勢の通行人が善行をしようと身銭をきろうとするが、ふいに二人の下士官がやって来て弥次馬を追っぱらって、むりにアデールを立たせる。
アデールが、
「かんにんして。休ませて」
「ブタ箱で休むんだ」
彼女は、足で立とうと努めるが、弱りきっていて、倒れてしまう。怒った下士官が辻馬車を停め、すぐに瀕死のアデールを引きずって行く。下士官の一人が馬丁に、
「オイ、警備隊へ行け」
到着する。下士官たちは、二、三の言葉を将校と交わして引き退り、馬車から引きだされたアデールは、ストーブのそばの担架に寝かされる。
ちょっとのあいだ、彼女は死にかけていると思われたが、生きかえった証拠に、かすかに顔がゆがむのが見られた。アデールは起き上がり、あたりを見わたして、ひどく動顛した声で叫ぶ。
「ここはどこ? 屯所、牢屋、ああ、神さま……牢屋」
将校が、やさしく彼女をなだめて安心させ、どうしてまた大道の真ん中で気絶する羽目になったのかを尋ねる。ブランデーを何杯か呑まされて生気をとり戻したアデールが、つらい身の上話の一部始終を語る。その場にいた兵士たちが感動を隠さずに話に聞き入る。やがて、みんながポケットに手を入れ、神妙な彼女に施しの金をだす。隊長も十フラン銀貨をアデールにあたえてから、こうたずねる。
「歩ける気がするかい?」
しかし、まだ弱っていてダメだと察し、二名の兵に家まで送ってやれと命令する。かれらが出してくれたのを集めたら二十四フラン五十サンチームあった。だが、この金額は限りがないものではない。二日目の朝になると、もう鍋が底をついた。
フレデリックが、
「こんどこそ、首でも吊るしかねェ。どう思う、アデールさん?」
アデールは気を強く持とうと思い、救済所へ行って困っていることを取り上げてもらおうと決心する。
貧民救済事務所の所長は、のんきに安楽椅子におさまって新聞記事に夢中になっていた。アデールが、
「ムッシュ、お願いがあって来たんですが……」
「わかっとる。お前さん、一家の母親かね?」
「いいえ、ムッシュ」
「お前さんは若い、どうしたいんだい? 誰も相手にしてくれんのかい?」
「あたしは女工です。働きたいためだけに頼みにきたんですが」
「われわれに仕事をくれというのか? お前さんみたいな者みんなを救済せんならんとはね。推薦状をもっとるかね?」
アデールは持っていないと答える。
「お前さん、教区の司祭を知っとるだろう。かんたんだ、司祭さんの添え状を持ってきな」
そこで、アデールは、神父の住居へと向かう。教会などへは行ったことがないから、司祭さんが会ってくれるかなと不安になる。宗教は誰でも迎えることになっているんだわ、ちょっとしたことをお願いするだけだもん、と独りごとを言う。
だが、そう易々《やすやす》と神父に会って話すことはできず、教会の人たちは誰も本気になってアデールのことをわかってくれない。みんながムキになって素っ気なく追いかえしたがっているみたいだった。幸い、年をとった家政婦が同情してくれて、神父さんは香部屋におられると教えてくれた。
アデールは、間髪を入れずに香部屋のほうへ駈けだす。
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三八 神も仏もあるものか
両面の司祭
彼女はもう、教会の内陣の丸屋根の下にいる。香部屋をさがして見つける。香部屋係が、司祭は更衣中で、祭服を脱いでおられるから待っていただきたいと告げる。
「司祭さんは、そりゃもう御立派な方です」
「そう聞いただけで心が清まる思いです」
「思いやりがあって、情けぶかい方です。あの方のまわりで生きている者は、ほんとうに幸せです。この教区は、司祭さんにたいへん世話になっています。まず、聖櫃《せいひつ》と聖歌隊席の格子を金色に塗り替えられました……二万フランかかりました。だから、わたしどもは、先任者のときより幅広く奉仕しているのです。ところが、神よ、先任司祭の魂をみそなわし給え、先任司祭は、いつも貧しき者、怠け者、とるに足らぬ者たちに追いかけられておられ、かれらに色目をつかって教会の年収を当てておられました。もっとも、そのために、わたしどもは食うや食わずでしたが……ご本人は一切の贅沢を拒まれ、この点、あの方を責められません。極貧の石工も、あの方よりよい生活をしていました。いったん、その気になられたら、たしかです。そういう人々を喜ばすためなら、すすんで無一文になり着たきり雀になられたでしょう。上から命ぜられた慈善は、まず御自分の身近から始められました。代表者としてです。なるほど、見たところケチなお人のようで、おんぼろ衣、古帽子、着古したチョッキといった姿でした……誰でも先任司祭さんの手に一文銭を置けるのでしたが、古着の切れ端もお貰いになりませんでした。あの方と私どもは、教会へ来る第一級の貧しい人たち顔負けのみじめな生活をしました。言うなれば、あの司祭さんはヤンセニスト〔コネルリウス・ヤンセン(一五八五〜一六三八)はイエズス会と対立、ヤンセン派創立者〕だったのでした。問題は、あの方を司教に昇進させることでしたが、もしあの方が司教になられたら、その司教区はひどいことになったでしょう。ところが、冬のある夜、肺炎にかかられ、病人に与える臨終の聖餐で先祖回帰《アドパトレス》されたのでした……これが先任者の司祭さんで、すんでのことに私どもはクビになるところでした」
「なにが言いたいんじゃ?」
案内されたアデールに司祭がたずねた。
「あなたの前に御覧になっているのは途方に暮れている哀れな女でございます。なんとも悲しいことですが、あたし一人でなくて四人いるのです。ハイ、司祭さま、四人なんです。女が三人、男が一人なんです……みんな、そこらの石ころみたいに見すてられ……口に入れるパンのかけらも……売るとか質草にするボロ切れ一つありません……なんなら、あたしたちのアバラ家へ来てみて下さい。ぞっとして身ぶるいしますわ……とにかく、もうおわかりでしょうが、眼の前に見本がいます。石が割れるほどの寒さです。この寒さに木綿の薄着しか着ていないのです。ごらんのとおり、こんなボロボロ姿でハダシで歩いているんです」
「うむ、気の毒にのう、わかるとも。じゃが、いったい、わたしにどうしてくれと言うんじゃ? 伝道者たちもハダシで歩ったのですぞ」
「神さまの御名において、司祭さま、見すてないで下さい。もし、お助けくださらねば、あたしたちは、もう、おしまいです」
「ひとつ言うておくことがある。みなさんは、わたしどもが大金持だと思いこみ、知ってのとおり、わたしどもをひどく困らせ、まるでお金でも鋳造しているかのように、付きまとわれ、悩まされとる……救護委員会というのがあるが……委員会にたのんでみなさったかい?」
「ああ、司祭さま、委員会だなんて、飢え死にしそうなときに……」
「行って、何もかも話すんじゃ。パリには飢え死にするものなんか一人もおらんよ」
「でも、とても信じられないほどみじめです。そのみじめを通り越した死ぬに死ねない怖ろしい有様なんです」
「お前さんが話しとる窮状を疑うわけではないが、なにもしてあげることができんのでな。それはさておき、お前さんの、信者の恩恵を受ける資格はどうなんじゃ? わたしは施物の分配者、これは本当のことだ、だが、わたしは施しの収支について信者たちに責任がある……お前さんをここに寄越したのは誰かね? これからザンゲして聖体をいただくかね? お前さんの教会の教導者は?……」
アデールは眼を伏せて黙ってしまう。
「あたしは咎められても仕方のない女です。大罪人なんです」
とうとう泣きじゃくりだす。
「お前さんは強そうだし、がっしりしとる。なんで働かんのじゃ?」
「どんなに働こうとしても、のけ者にされ、イヤがられ、どこでも追い出されるんです。ええ、そうおっしゃるのは、ごもっともです。あたしたちは呪われているんです。どこにいても不運が付きまといます。これで、なんで人生を出直せましょう。もう媚びは通用しません。若いときは、先々どうなるか見えないものです。親もとから顔の向きを変えて、あの女衒《ぜげん》の言うことをきいた、この頸を捻《ね》じ切ってしまいたいくらいです。きれいな服や飾りで、まんまと釣られてしまいました。あれは魔法使いの女です。また、あたしとしたことが、あの女が、あたしの幸せを願っているものとばかり信じたんです。あの女が、すべての根源です。あいつが苦しみの淵に投げこんだのです。あいつがいなかったら、あたしをダメにした連中など知らないですんだんです。知らない間に(手で両眼を覆う)……父さんも母さんも、ああもう、悲しんで死にました。ああ、なんてひどい罰が当たったことでしょう。まだ続いています。一生のうちの十六年をサンラザールで過ごしたというのに。そうです、司祭さま、十六年も」
「なんじゃと。刑を受けた身で、おめおめと、ここへやって来たとは……」
このとき、司祭を訪ねて教区財産の管理委員が姿を見せる。現われたその大男を見て、アデールがぎょっとなる。というのは、その管理委員は、他ならぬあの救済事務所長であったからだ……急いで司祭が彼女を追いかえす。
彼女が外へ出ると、その絶望のさまを見ていた芝居の役者が、二十フラン金貨を彼女の手に握らせた。
「さァ、元気を落とさないで。涙をふきなさい。いい坊さんもおれば、いい人間もいます……そういう人に会えますよ。神さまは偉大です。とにかく今日は食べることですな……」
「ああ、ムッシュ、あなたが、おられなかったら……」
「そんなことを言っていないで昼飯にしなさい。そのほうが大事です。さァ行きなさい」
アデールの友だちは、首を長くして帰りを待っていた。部屋に入るなり二十フラン金貨を投げだし、
「ほら、あんたがた」
「山吹色だ」
「ああ、そうさ。そいつをくれた情けぶかい人は役者さんだよ」
「喜劇役者?」
「あとで話すからさ。とにかく食べ物を仕入れに行かなくちゃ。ねェ、救済事務所長とか善男善女なんてクソくらえだ。口先だけのやつらだ。なるたけ控え目にやりくりして我慢して生きなくちゃね。いちばん欲しいときに恵んでくれたのは坊さんじゃないんだよ。まず安食堂に行って死なないだけの物を譲ってもらおうよ。羊の頭と野菜スープでいい。これが献立表、わかった? いったん戻って一緒にやろうよ」
やがて、いかにも質素な食事をすますと、みんなで市場へ出かけて、ジャガ芋二袋といくらかの野菜を買った……十五フランを費《つか》った。腹八分目に食べていれば、一カ月くらいは生きられるはずだった。
その月は、やけに早く過ぎて、不況期になる前に終わってしまった。四人は、足を棒にして職さがしをしたが、またぞろ新しい飢えにおびえるようになった。三月末になっていた。
「パンなし日が三十と一日、ドイツにいるみてェにみじめだ」
眼をさますなり錠前屋がボヤくと、
「父親を殺した者みたいな落ちこみようね」
シュザンヌが声をあげる。
「ほんとのほんと。もうじき干上がるのは見え見えだわ」
シュザンヌの姉が溜息をつくと、フレデリックが受けて、
「そうだ、おれたち、もとのところへ戻ったんだ。ちょうど一月前の昨日にだ。もしアデールが、おっかねェが人のいい第十八分隊の兵隊さんの誰かか、それとも情けぶかいコメディアンにでも、また出っくわせたらなァ」
「そんなことをアテにするくらいなら首をたたき折る石ころでも見つけるわ」
アデールが言うと、
「んや、お前さんはツイている。いつも、みんなが困ってるときに出かけてくれている。またやってくれたら手ぶらじゃ戻らねェさ」
「毎日毎日が同じじゃないのよ」
「なんだって斧を捨て、こんどは柄も捨てるんだい?……お前さんはコツを知っとる。言うまでもないが、うまくやれるよ」
「あたしに何をやれというの?」
「おれたちの命を取りもどしてくれた兵隊たちや、あの優しいコメディアンは死んじゃいねェんだぜ」
「わかった。でも、どこで見つけるの? 兵隊さんのほうは易しいだろうが、役者さんのほうは名も知らないのよ。だから、まるで枯草の山の中で針をさがすようなもんじゃないの」
「その人の教区はわかっとるはずだ」
「なるほど、そうね。はじめに兵隊さんを見つけださなくっちゃ。文句なし。見つけたら見殺しにはしないわよね」
「けっこう、そりゃいい、ばんざいだ」
出かける支度に暇はかからなかった。アデールは大急ぎで兵舎へ駈けつけたが、軍隊は、昨日のうちに移動して撤退したと近所の人が教えてくれた。この報せは、彼女にとって青天のヘキレキだった。となると、どうしても最後の恩人、あのコメディアンの住居を探さねばならないからだ。彼女は、暗い気分になって考えこみ、いろいろな不吉な予感で胸騒ぎをしながら、命とりになる新しい失望が次から次と続くのを考える。そのとき、はじめは何のざわめきかわからなかった音が、その物思いから彼女を引きはなした。葬儀車の長い列が、ゆっくりと動いている。先頭には、前立て飾りと派手な馬被いを付けた四頭の馬に曳かれた、すっかり葬飾された霊枢車があって、これに黒布でつつんだ二十四台の四輪馬車がつづく。してみれば、死者は、そんな盛大な葬儀を出してもらえるほどの大物にちがいなかった……
「泣き女がいるはずだわ。加えてもらえば、お金がもらえる」
アデールは独りごとを言い、霊枢車を先行して行くと、悲しみにつつまれた大きな屋敷が見えた。そして、その家からほど遠くないところに、百人ばかりの粗末な身なりの男や女が街路でたむろしていた。こちらの者は足の裏をぶつけあい、あちらの者は両腕で強く胸をたたき、ある者は近くの酒場で憂さばらしのパイ一をやって身体をあたためていた。
葬式の常連たちである。
アデールは新顔である。まだ口をきかない前から、誰も彼もが軽蔑心をもち、彼女に不安なものを感じ、前もって話合いもせずに、みんな一斉に彼女をノケ者にしようとたくらむ。
一人の乞食が大きな声をあげる。
「そんなに急ぐこたァねェや。おれたちゃ、もう満員なんだ」
酔っぱらい野郎が通せんぼをして、
「このアマ、どこへ行こうってんだ?」
次は、魚売りの女のように口ぎたない婆ァの番になる。
「よォ、なんとか言いなよ、あねさん、口に泡ふいてナニもたついてるンだ? 早起きは三文のトク、暗いうちに松明をつけてボロ切れ引っかけ、時間に間に合って来なくちゃだめなんだ。な、お仲間さんよ、おら、ちいと布地が要るんだ。きっぷがいいんだろう。だったら着てるもん脱いで、おらにくれないかい?」
「へェー、こいつが喪章がもらえる帳面にのっている女かい?」
「そう、そう、そういうこんだ。そこでだ、マダムが切れっぱしを欲しがっておられる。なんでもねェ切れっぱしだ。ビタ一文くれェのもんさ。いやだとはおっしゃるめェ」
こうした悪口雑言を押しのけて、アデールは歩きつづけ、スイス人傭兵の宿舎の前を見つからないように通り抜け、通せんぼうの透しになった列柱のようなものがあるところまで行った。その下には制服のボーイの群がいて、大声をあげたりカード遊びをしていた。いっぽう、そこから数歩のところの玄関の下は遺体仮安置所になっていて、二人の追悼神父が棺のそばで死者の連祷を唱えていた。
一人の下男が、
「うん、おれは地下室の鍵をいつも持ってるぜ」
「ぼくは事務所の鍵をあずかっている」
「毎日、公爵さまの埋葬でもあるまい。生きていたときは、けっこうムカムカさせられたなァ。死んでくれて少しはラクになって……」
次には、死者については真実を語るべきだという口実のもとに、お互い他の者より激しく故公爵殿を責めて悪口をあびせた。
葬儀人夫がやって来たので、下男たちの騒ぎはおさまる。
アデールは、そっとドアを押して奉公人たちに知られないように入りこみ、ふいに見つかって叩き出されるハメになる恐怖心もなく、むりに息を切らすこともなかった。棺を覆う布の片隅に身を隠し、使用人たちの雑談や手なぐさみが鎮まったころ、ぼやっと幽霊のように姿をあらわした。
「雲から落ちて来たんか、あの女?」
「用心、用心」
「ここで何してるんだ?」
みんなが大事件が出現したように眺める。てんでに御座《おざ》なりの形式的な質問をあびせ、誰一人として彼女が答えるのを待ってやる者はいない。かれらは、単なる好奇心から彼女のところに集まってきたという感じで、すぐに取り巻くのをやめて元に戻った。アデールは、露営中をフランス軍の前衛部隊に奇襲されたコザック兵の橇《そり》のように取り残された。かれらは影のように過ぎて見えなくなってしまう。アデールは、この人あの人のところへ行って哀願する。
「あの、もし……」
「かまってる暇なんかないんだ」(こちらが実体、むこうは影、その影が怒鳴りつける)
「あの、ムッシュ……」
「おれは、この家のもんじゃねェ」
「もし、スイスの方、貧乏な者は誰にお願いしたらいいんでしようか?」
「たしか、あそこにいる誰かだよ。玄関先の階段で、こそこそ食べている連中のところにいる帽子に羽根をつけた黒マントの旦那にきいてみな」
「胸飾りと剣を吊っている人?」
「そうだ、葬儀長だ」
「そうそう、あいつが下っぱ連中の親方だよなァ」
黒ん坊の下男がスイス人の肩をたたく。
アデールは、葬儀の世話人に近づいて願いの筋を手短かに申したてる。
「名前は?」
彼はポケットから手帳を取りだす。
「アデール・デスカールです」
「あんたは名簿にないな。ただの志願者なのかね? 役所へ出頭した?」
「いいえ、でも生きるのがやっとくらいの貧乏なんです」
「そんなことではなくて、登録されているかを訊いているんだ? なにかの団体に所属しているかね?」
「いいえ、ムッシュ」
「ふむ、では、いったい何が欲しいんだね?……役所は貧困者を救済している。シーツをあたえ、灯りをあたえ、なんでも与えている、お役所はな」
「たいしてアテにはしていません。どうやら、ここには、あたしのすることはないようですね」
アデールは、ついそう言ってしまう。
彼女は引き上げようとするが、人の群が出口をふさぎ、二進《にっち》も三進《さっち》もならず、群集のまん中に立往生させられ、さまざまな連中が、がやがやと奇妙な悪口を言いあっている。
「とうとう、ありがてェことに、あのゴロツキが埋《と》められる」
「ワン公よりはもったいぶってな」
「なんでも貧乏人に一万フラン出したそうだ」
「ずっしり来るぜ、手から手へ渡って……」
「施しなんてぬかしとるが、捲き上げたのを返してくれるちゅうこんだ。あいつが生きとったら、奪ったものは、金輪際、返しっこねェだべ」
「そのくせ墓石にゃ、もったいぶった御託を並べてよ、大理石の記念碑にゃ偉そうな文句を刻むんだ」
「大理石かて紙みたいなもんや、いつかは、なんもかんも吹きとびまっす」
「ペールラシェーズ〔パリの墓地名〕は、さしずめ善人ガ原か」
「善人ガ原……。大昔は、あんなやつらのために天までとどくピラミッドを建てた。ところが、おれたち貧乏人は共同の墓穴ときた。シャベル一杯の土で、言うにゃ及ぶ、誰も見ざる知らざる、跡かたなしだ」
「悔みが残るぜ。それもいいさ。しかも、おいらは誰にもワリいこたァしていねェのにだよ」
「わかる……が、そいつァ、たぶん弱気というもんだ。おれは、でっけェ共同穴に放りこまれたって構わねェや」
「どっちだって同じこんだ。いったん身動きがとれなくなったら、したいようにされちゃうよ」
「あっしは旦那と同じ気持だ。公爵さんには記念碑が建つ。バカげた見本だ。そいつがダイヤモンドでできていたって、他のやつより悪者ではないことにはならねェ」
「オイ聞け、聞けよ、太鼓が鳴っている」
「軍隊がいるんだろうか?」
「なァに在郷軍人さ」
「将軍を撃ったやつらだ」
「モスクワ部隊、精鋭中の精鋭か?」
「そうだ、いやちがう、いつも将軍を死刑にしているわけじゃない」
「おれは、ちゃんと知ってるぜ、やつらはガキみたいに泣いてやァがった」
「そりゃおかしい? 鉄砲をこめていてか」
「名誉をたたえるためだということがわからんのか?」
どろどろと、こもった音の太鼓が鳴り、その悲しげな響きで出棺を知らせる。
「おーい、貧乏人ども、位置につけ」
葬儀長が命令する。
行進がはじまり、会葬者が行列をつくって流れる。アデールは、胸が締めつけられてせつなくなり、乞食の組に入りたいと願いながら行列から離れ、追い払われた自分をごまかすために悪魔的な笑いを爆発させて満足する。乞食たちは、習慣上のお定まりで集められているのを忘れ、気前のよい葬式の施しを受ける特権者気取りで、ボロを着て足を踏み鳴らし、松明を振りながら怖ろしげに身体をねじって動きまわり、たんまり儲けてやろうと松明が消えるまで力をこめて振りまわす。かれらの喜びはたいへんなもので、神に見放された者の責苦を悪魔たちに見せつける観がある。かれらに軽蔑されたアデールは、わざとうしろを見ずに足の速さを倍にする。
意地悪女の群のところまで行くと、そのうちの一人が挨拶がわりに、
「オヤ、この女、だんまりをきめこんでいるよ」
すると、次の女が、
「いいじゃないの。どうせ、こっちだって信用してないもん」
アデールは、むりにうしろに退らされる。しかし、苦難の絶頂にある彼女の光は、なんとも弱々しくて救いの燈台としての輝きがない。
彼女は、それでもまだ、ある望みをいだいていた。いちど救いの手を差しのべてくれた役者さんが見つかるかもしれない。この望みに夢中になって、例の教会へ出かけて前庭に入って尋ねたところ、誰かが恩人の住居を教えてくれた。
その住居へ行ってみたところ、なんと、その不幸せな役者の遺骸が、破門された者として拒否されて教会から返されたというのだった。
うつろな憂鬱な眼で、アデールは、枢車が引かれて行くのを眺めた。もう涙は出なかった。まわりが、まるで荒涼たる砂漠になったような気がした。
すべてのものが逃げて行き、すべてが消え失せる。だんだん輪が大きくなって、建物そのものも土台から動きだし、広大な地平線の涯《はて》にとどきそうになる。アデールは息苦しくなり、なにもない空っぽの沈黙が、苦しい悪夢の中の鉛の棒のように重苦しく魂にのしかかる。コーン、コーンという鐘の音がまわりの空気にひびく。弔いの鐘だ。おぞましい弔い鐘。もう、めまいはしない。逃げ去っていたものが、また近寄ってくる。両開きの扉が開く。もったいぶった長い葬列が見渡され、信仰もない見栄だけの葬儀を長々と見せる。寺院が墳墓に変貌する。いたるところで、葬儀用の布覆いが自然にひろがっていく。教会の回廊も尖塔も、聖別された物、聖なる主の礼拝、真理の座、祭壇、聖者などを傲慢の幕が隠してしまう。紋章や楯形紋地、記号や題銘、暗い夜の無数の光る星が、ぴかぴかと輝いて飛びだす……霊柩車が停まり、十字架があらわれる。そのうしろに、主任司祭と助任司祭を先頭に立てて、教区の聖職者全員、司祭、助祭、副助祭たちがひかえている。遺体が担架の上に安置され、合唱隊の少年たちや聖歌隊員が『|怒りの日《デイエス・イラエ》』の哀歌を歌いはじめる……故人の友人三名が、急いで棺衣を手に持つ。四人目の人があらわれる。一同、敬意をはらって敬礼し、彼の行く道をゆずる。みんなが恭々《うやうや》しくお辞儀をするその人物は、なるほど堂々とした恰幅である。
アデールは、その男を知っていた。彼女は独りごとを言う。
「もうたくさん、あいつとはどこでも出会うし、どこでも敬われている。でも、まったくのインチキ、嘘っぱち、差別じゃないの。あんなやつ大嫌いだ、呪ってやる」
自殺から盗みへ
アデールが全人類に誓った憎しみの感情は、もうどうしても我慢できずに抱くようになったもので、それは、だんだん高ぶって熱狂的なものになりそうである。いらだって、というより怒り狂って、彼女は、通りを広場を四辻を駈ける……あてもなく歩きつづけて、ふと我にかえると自分が住んでいる地区にいた。家の入口へ行って階上へ上がる。だが、はっと気付いて、ふいに引き返し、一軒の店に入ったが、すぐに出てきて、あらためて住居のほうへ向かう。
シュザンヌは、アデールの帰りを聞き耳をたてて待っていたが、彼女が異常な精神状態になっているのに気付く。彼女の前へ行って心配そうにたずねる。アデールは、つんつんした態度で返事もせず、脇目もふらずに部屋を横切り、窓の十字|棧《さん》の把手の掛金を震える手でつかむ。うめき、ため息をつき、地団駄をふみ、髪を掻きむしる。
シュザンヌ「ねェ、言っておくれよ、アデール、怖いよ、あんたは」
フレデリック「いったい、なにがあったんだい? 牡牛みてェに鼻息を荒らくして?」
オーヴェルニュ女〔オーヴェルニュ地方出の女〕(ドアを押しながら)「炭ィ注文したのは、ここだかね?」
アデール(怒って)「そうだよ。そこへ置いときな。払ってあるからね」
オーヴェルニュ女「請求なんかしてねェだ。注文あったで、炭もって上がってきただ」
アデール「けっこう……さっさと行きな」
オーヴェルニュ女「二種《ふたいろ》の桝があるだよ。得《とく》な桝目のやつは、わかっとるな? べつのやつが欲しいときは……」
アデール「なんで同じ御託を並べているの? けっこうだってば」
オーヴェルニュ女は、ぶつぶつ言いながら引き退る。
シュザンヌ「この炭、なんのため? 料理する物でもあるの?」
アデール「ないわ」
シュザンヌ「だったら、あんたはバカよ」
アデール「聞いて、シュザンヌ……みんなも聞いて。あたしは正気よ。で、あたしの考えはきまったの……これ以上もう苦しみたくないの……あたしたちがやってるような生き方は続きっこないわ……あたしに四十スウ残ってた。隠して持っていたのよ……そいつを使う考えがあったの……その時が来たってわけ……つまり、それを何に使ったかというと……」
シュザンヌ「炭なのね……パンを買う代わりに」
アデール「パンねェ……パンは遥か遠くの物になっちゃったんじゃない?……ちがうのよ、ねェ、もう生活に疲れきっちゃったの……あんたらも、あたしと同じなら、することは決まってる」
フレデリック「なにをしようってんだ?」
アデール「ここで、まっ赤な炭火をおこすのよ」
シュザンヌ「それで?……」
アデール「うまく燃えてきたら、戸を閉め、出口を全部ふさぎ、部屋のまん中に炭火を持ってくる」
アンリエット〔シュザンヌの姉、フレデリックの妻〕(泣きながら)「なんてこと、みんなで自殺しようと考えて……」
シュザンヌ「もう死んでるも同様よ」
フレデリック「泣くのはよせよ、お前さんらはどう?……アデールさんが言うとおりだ。それしかねェや。どうか、おれのことを信じてくれ。アデールさん、おれだって、何度お前さんが言いだしたのと同じ考えになったかしれねェ。だけんど、お前さんが何かにつけて元気なのをずうっと見てきたもんだから、こう自分に言い聞かせた。男一匹、そんな考えになっちゃいけねェ、とな……お前さんの仲間になるのはイヤじゃねェぜ」
アンリエット「あんたまでが」
フレデリック「もう何の望みもなくなって……清掃請負所へ行った。道路の掃除夫かドブさらいになろうと思った。おれは、臭くない溝がある場所へ行ったが、おれの仕事場はなかった。そこで、こんどはモンフォコンへ出かけ、廃馬の屠殺業者のところへ行き、賃金の半分でいいから働こうと思ったが、そこでも仕事はもちろんなかった。工員が蠅のようにおっ死《ち》ぬというクリシイにある鉛白工場へも行ったが、やはり仕事にはつけなかった。前の雇主の推薦状を見せろといわれた。水銀の毒気に侵される鏡製造所でも雇ってくれなかった。保証人が要るというんだ。港では船からの荷揚人足を、運河では土方たちと荷車を転がす仕事をしようとしたが、どれもありつけなかった。からだに震えがきて、毎日、どこでも断られた。患者を交替させている市立病院や陸軍病院では、医者の紹介がなくてはと受け付けてくれなかった。ヴェルサイユ監獄の死刑執行人が助手を欲しがっていると話してくれた人がいた……」
アンリエット(ぞっとした身振りで)「なりたいと申し出たのかい……」
フレデリック「しずかにしろ。なろうかなと思っただけだ……だが、言うなれば、きょう日は、何かの仕事を見つけるのが、どんなに難しいかということだ。三百人以上の人間が仕事を追いかけているんだ……しかも、自分の好きな仕事なんかないに決まってる……おれなんか、これならと選んで……のザマだ。誘いがあるものは恥ずかしくてダメだし……どんなに落ちぶれていてもなァ」
アンリエット「ああ、安心した」
シュザンヌ「あたしもホッとしたわ」
アデール「どうだか……」
フレデリック「おれが、死刑屋の子分……わかってくれるはずだ、アデールさん、他の仕事なら、どんなもんでもイヤとは言わねェが……死刑台に上がって仕事をするくらいなら、川底を引っ掻いてるほうがマシだ。けっきょく、おれたちゃ悪い星の下にいるんだ。アデールさんが考えた救いしかねェということになる」
シュザンヌ「けっこうなもんね、その救いとやらは」
フレデリック「だったら、お前は何をする気だい? 靴下のかがり直しがあるって話だったが、あったらいくらかになったろう。それでもって食いつなげたはずだ。仕事をもらいに行って、なんと返事をされたんだ? そこで、どうなって、仕事をもらえなかったんだ?」
シュザンヌ「なんて不幸せなんでしょう」
アンリエット「わたしたちが、めいめい売場台の前に立つとしたら何を売ったらいいかしら?」
フレデリック「何かを売るだと? 捕まるためにか……許可をもってるかい? 許可を買わにゃならんし、商品を仕入れる金がいる。こんなのは火口《ほくち》にすぎない。何をアテに、そういったもんを手に入れる、おれのヒゲでもカタにするつもりかい?」
シュザンヌ「子供じみてるかもしれんけれど、貼紙広告で仕事をお願いしますとやってみたくてたまんないの……」
フレデリック「貼紙広告だと、おれが好きな可愛いガキどもにやらせるコンタンか。そりゃ、やつらに一文くれてやったらオンの字だろうが、さて、望みどおりにお前を欲しがる雇い主がいるかな? かりに、いたとして、もし、その家で盗みがあったら、誰が訴えられる? シュザンヌ、前科者たちがいるところなら、盗んでもわかるまいと思って盗むだろう。だが、そこにいる全員がハネかえる。よくよく考えてみると、どっちみち、おれにもお前にも分《ぶ》があるが、とどのつまりは……」
シュザンヌ「あたしゃ、バラすような真似はしないさ……ああ、いっそ水の中にドブンするままにさせとくよ……」
アンリエット「溺れる人を助けられないたって、こっちのセイじゃない。つまらんことさ」
アデール「貼紙広告なんてしたら……あたしのせいね……でも、反対すれば嘘になる……とにかく、大いに、あたしのせいよ……生きるということより大事なことはないね。そこに絞って、あたしは全力をあげねばならなかった……我慢できるだけの我慢をしたわ……あんたが、あたしだったら、なんか生きる手だてがある? もっと若かったら、貸間ありの後家さんの下宿屋の案内を首にかけることもできようが、それだって運命じゃない?……眼の前に見本がいるわ……うぬぼれじゃなくて、あたしは綺麗だった、が、その綺麗さがどこへ連れて行ったと思う? ちょんの間の客をさっさと片付けてさ……飢え死にするのがいい?……あの兵隊さんが恵んでくれた夜、その次に我慢したことを思いだしてよ……今日は、もう兵隊さんはいないのよ……」
シュザンヌ「もう兵隊さんがいないって?」
アデール「行っちまったの」
アンリエット「役者さんは?」
アデール「棺桶の中を探しに行きな」
アンリエット「死んだのね」
フレデリック「火が消えるぞ」
アデール「まだ燃えてる(炭の上に火をのせる)。炭をおこすからね。覚悟はいい?」
シュザンヌとアンリエットが金切り声をあげる。フレデリックがドアのほうへ飛んで行って二重に閉めてから鍵をポケットに入れる。
フレデリック「さァ、わめけ」
アンリエット(彼の首に身を投げかけ、いっぼうシュザンヌの固く握った両手に涙が流れている)「フレデリック、ねェ、おねがい、わたしはもう、あんたのアンリエットじゃないの?」
フレデリック「どう言ったらいいんだい?」
アンリエット「だって、そこで、わたしの前で息を引きとるのを見てろというの。そんな勇気があるの……」
フレデリック(感動し、抱いているのを放そうと努力しながら)「ああ、放してくれ……おれは、もう、どうにも……」
アンリエット「わたしの死体を見たらいいわ」
フレデリック「やっぱり気持わりいよ」
アンリエット「そっぽを向いて……答えてくれないのね……ちゃんと、わたしを見てよ、ねェあんた」
フレデリック(憐れっぽく)「それで?」
アデール(離れたところで)「もう独りでに火がおきる。たった独りだけで死ねないのが残念でならないわ」
アンリエット(フレデリックを抱きしめて)「あんた、ほんとは死にたかないんだろう?」
フレデリック「アデールには逆らえないよ。ああ、お前……惚れてるというのに……といって……どっちみち同じだ。なにもかにも考えなおして、おれたち、死ぬのはやめようよ」
アデール「パンは?」
フレデリック「なんとかなるさ。ヴィドック班のことを聞いたことあるかい?」
アデール「いやというほど聞いてるわ」
フレデリック「おれだけには目をかけてくれてるんだ。一日に三フランもらえる。みんなで分けよう」
アンリエット「なんだって、あんたは……あんた、死のうよ。今では、わたしがそうしようと言ってるのよ」
シュザンヌ「あとへは退かないわ」
アデール「炭に火がついた」
フレデリック「上の階が火事にならんように気をつけな。子供がいるんだ」
アンリエット「可愛い、あどけない子たちよ。焼き殺しちゃだめ」
アデール「そうなったら、ひょっとして功徳になるかもしれない」
シュザンヌ「あたしらだけでたくさん……四人、めったにないことだ。新聞に出るね」
フレデリック「新聞に出るだろうな?」
アデール「あたしらのことがパリで話されるさ。いつも面白半分にね」
アンリエット「それから、たぶん他の人のタメになるよ。誰が、ほんとのことを知るかな?」
アデール「まっ赤に炭がおきたわよ」
シュザンヌ「牛肉を焼きたいね。だって、今日が最期の日だもの」
アデール「ええ、そうね。だけど、まだ全部が終わっていないわ……用心しても落としているところがある。顔を見られるかもしれない。窓枠に毛布を当てた?」
フレデリック「ムダなこった。石工の連中しかいねェんだから。ずうっと高い階に住んでいるし、今は飯時だと思うな。ここから出かけて戻ってくるんだ」
アンリエット「やっとかなきゃいけないことがあるわ。暖炉をふさがなくちゃ?」
アデール「そうだったわね」
アンリエット(煙突を毛布でふさぎながら)「フレデリック、お願いがあるの?」
フレデリック「なにを?」
アンリエット(暖炉の中の鋳鉄の薪立てを持ち上げながら)「女は男より強かないと言うでしょ。わたし、決心はしたけれど……」
フレデリック「言っちまいな、お前」
アンリエット「自信がないの。見てよ、この薪立て……もし気が変わったら……(いとおしげに亭主の手を握りしめる)。わかる……」
フレデリック「わかった……こわい土壇場だ」
シュザンヌ「万事いいよ。なにかすることある?」
アデール「ないわ。横になって待つだけ」
(どさっと床に身をなげる。続いてシュザンヌとアンリエットとフレデリックが例に倣《なら》い、夫婦は互いに抱きあう)
シュザンヌ「死……顔を覆ったら少しは怖くないような気がする。死がやって来るのが見えないもんね……」(ハンカチで顔をかくす)。
アンリエット「フレデリック、前掛けを眼の上にやって。明るいと怖い……」
アデール「あたしは見とどけたい」
アンリエット「息ができない」
シュザンヌ「胃がふくらまる。息がつまるわ」
アデール「頭が痛くなりだしたわ」
アンリエット「脳が煮えてるみたい」
シュザンヌ「汗が出てきて気分が悪くならない、あたしみたいに?」
アデール「おでこに輪っかがはまってるみたい。からだの中に重しを入れたみたい……」
フレデリック「おかしいな。おれは何ともねェ。なれてるせいかな」
アデール「眼がおかしくなったみたい。眼の前に布が下がっていると言ってもいいくらい。ふくらんで、ぼォとなっちゃった」
シュザンヌ「すごく苦しい」
フレデリック「やっぱり、おれは平気だぜ」
アデール「血が凍る」
フレデリック「おれ、生き残っちゃうよォ……」
アンリエット「フレデリック、あんたァ、頭が割れそう。ああ、苦しい。胸が裂ける。心臓を咬んでいる蛇をどけて……どこへ連れて行くの? わたしを持ち上げているのは誰なの? あんた? 今はラクになったわ……大丈夫よ……ああ、いい気持。からだがふわふわして、天国にいるんだわ。さようなら、フレデリック、みなさん、わたしのために祈って……」
アデール「頭が、おお、重くて我慢できない。心臓がドキドキして……打って……大きくなって……ああ、眼がくらむ」
シュザンヌ(全身の筋肉をゆがめて床の上でもがく)「槌《つち》でたたかれて鼓膜が破れるみたい……雲が……行っちゃう……ああ、もう……停められない……魂が抜ける……お慈悲を」
フレデリック「アンリエット、アンリエット!(彼女をゆさぶる)。もうだめだ……おれは……ピストルがあったら、武器が……(がばと起き上がり、戸棚を開けて短刀をつかむ)。ありがたい。さァ、お前と一緒になれる……自分でやれるぞ……ほら、お前のそば……お前のからだの上に……おれの血が流れるぞ……両脇のあいだで……脈を打つのはここだ……おれはまだ打っている(かがんで手を構える)。だめだ……(彼女を抱き、自分の胸に刃をあてる)、抜かりなくやろうよ」
あわや、彼が突き刺そうとしたとき……もの凄い物音と人声が聞こえる。
――たいへん、たいへん、下の階だ。あぶねェ、気をつけろ。
短刃が手から離れ、がちゃんと窓の棧が開いて砕けたガラスが粉々になって部屋に飛び散る。いっぽう一人の石工が階段の上のほうで大声で喚いて安心させている。
――怪我人じゃなくて集団自殺だが、誰もくたばっちゃいねェ。
屋根裏の傾斜面から大きな漆喰のかたまりが雪崩のように飛びだしてフレデリックの足もとに落ちる。
「あーあ、悪魔が糸をひいていて死ねないや(じっとアンリエットをながめながら)、幸せな女だ」
そうこうしているうちに、どっと空気が入ってきて新しいものになり、炭火も青い焔をあげなくなった。北風が強く吹きこんで、炭火がぱちぱち音をたてて、火花がアンリエットの手に飛んできた。彼女は、ちょっと身体を動かして正気に戻った。
アンリエット「ああ、あらしは去ったのね。すごいカミナリだった。(すこしずつ生気をとり戻し)、フレデリック、あんたなの?……おお寒い……足が氷みたい……あたためて、こごえちゃう。窓の棧を閉めて頂戴。あんたバカじゃないの? この火は何なの?」
今しがたの出来事には、ただもう仰天しているだけで、アンリエットは、まだ、ほんの少しも何かを思いだす状態ではなかった。アデールとシュザンヌは、もっと早く記憶を取り戻し、そのようになった炭火を、うつろな物凄い眼で見つめていた。
アデール「こんなことってある?……よくって、あたしたちは死のうとしたのに……死ねない」
シュザンヌ「神さまがワケをご存知です」
フレデリック「まだ、その時が来ていねェんだ」
アデール「こういうことよ……ムダ死にするより羊番のよき番犬として死ぬべし」
シュザンヌ「子供があったら顔向けできない母親ね」
フレデリック「おれたちは誰も後に残さねェ。子供なしだもん」
アンリエット「不幸の種は残さないよ。これ以上の無一物はないからね」
フレデリック「おれたちは前進したんだ……たいへん御厄介になったのは?」
アデール「それを言わないで。怒るわよ」
フレデリック「ムダだった炭のことを言ってるんだ」
アデール「ちがうわ。ムダじゃなかったわ。炭は、あたしらを殺そうなんて思いやしない。生かしてくれる」
フレデリック「なにが言いたいんだい?」
アデール「鍵を作ろうよ」
シュザンヌ「低い声で、あんた、誰かが聞くかも」
アデール「かまやしないさ。どうしていいか、わかんないのよ。今の気持は、雌鶏一羽を絞めるよりもっと平気で人を殺せるみたい」
アンリエット「そんなこと言っちゃだめ、アデール、神にそむくことになるし、良心に反することだわ」
アデール「神、神、たった一つの良心さえ誰にも与えないで、あたしたちを飢え死にさせようとしたじゃないの。神、あたしは認めないね……良心、良心って何さ? だったら、良心でも誠実でも持ちなさいよ、どんなことになるか、これまでの経験で見てきたはずよ。ご立派ですこと」
フレデリック「わかってるね、アデールさん、そんな言葉づかいはよくないよ。おだやかでないのは、お前さんが……殺すは一層おだやかでないぜ」
シュザンヌ「このひと、そんなに悪いひとじゃない。あんなこと言ったって、口先だけで本音じゃないよ」
アンリエット「腹を立てているからよ。ほんとの考えとは見当ちがいの遠くのほうのことを言ってるんだわねェ」
アデール「そのとおり、あたしたちは誰も殺しはしないさ……でも、よくって、食べなきゃならない、いつも話はそこへ戻っていく。だったら、もう、一つしか手だてはないわ。狼は、腹がへるから森から出てくる。もし、あたしを信用してくれるなら、ある仕事を探してみようじゃないの。そいつが見つかったら鉄を火にぶちこむのよ。どう思う。あんたたち?」
フレデリック「ある仕事って……泥棒?」
シュザンヌ「では、いけない?」
フレデリック「なんにでも従うよ。どんな仕事でもするぜ。だが……」
アデール「鼻血までは出さないというの?」
フレデリック「出させたいんか? よかろう、盗みに行こうじゃないか」
アデール「でもね、余計には盗まない。それでも盗みは盗み。必要なだけをいただく」
アンリエット「今みたいな暮らしに逆戻りしないように励まなくちゃ。お金があれば、ちょっとした商いもできる……わたしは、革帯などを作ってみたいな……よく売れる物だそうよ。そしたら足を洗うことにしようね」
アデール「そんなこと、後のこと、後のこと。それよか、いちばん急がなくちゃならいことに十五分以内にとりかかることよ……なによりも先ず聖人伝の人らしくすること」
一同「そうね、聖人伝の人みたいにしていなくっちゃ。あとのことはあとのこと」
四人の仲間は、では一回りしてくるかと意見が一致し、黒い決定から三時間もたたないうちに鍵型をとって合鍵を作り、二つの部屋を荒らした。しかし、その稼ぎの収穫《みいり》は少ないものだったので、四日後には、またも飢える羽目になった。そうなると、またヤマをふむか、それともおっ死ぬかということになり、二回目をやってみようと肚をきめ、次いで三回目になった。そして、二カ月たらずのうちに二十何回にもなったが、連中の暮らしは、あいかわらずみじめだった。一同、急な流れに身をまかせ、その激流が犯罪から犯罪へと彼女たちを運んで行った。
ある日曜日の朝、夜明けとともにアデールは出て行った。フレデリックと妻、それに義理の妹は、まだ眠っていた。やがて、かれらは眼をさまし、
シュザンヌ「アデールったら、やけに早くから飛びだしたみたいね。出かけたの気付かなかった」
フレデリック「おれも知らなんだ。ご苦労なアネさんだよ。おれたちが、なんとかしないからって、なにも彼女のせいじゃねェのになァ」
アンリエット「そうね、たしかにそう、苦労性すぎるのよ」
フレデリック「あの人は自分でカブリすぎるんだ。獣脂《あぶら》あってローソクなしさ……おれたちァ運がねェんだ、運が」
シュザンヌ「たしかに、泥棒をはじめるのはラクだけれどね」
フレデリック「悪銭身に付かずというからな。儲け方を知らねェんだ。まだ、これというチャンスに巡り会わねェ」
アンリエット「いまにあるさ。ばちっと一発」
フレデリック「そいつを待ってドン底暮らしか」
アンリエット「あんたは堪《こら》え性がないからねェ」
フレデリック「つまり、その、いつもピーピーしてるなァ楽しかねェし、あげくの果てに食べる物がなくなるなァやりきれねェということよ」
アンリエット「そういう性根を入れかえたら、細々ながら暮らせるのに」
フレデリック「ああ、なんとかな」
アンリエット「勝手におしよ。わたしは、いったん運が向いたら……」
シュザンヌ「運なんか向かなくたって、損した分を取りもどしたいよ……たらふく御馳走を食べてやるよ」
アンリエット「わたしも同じさ。いい目をみたいよ……」
フレデリック「で、そのときは、おれをワン公並の分け前で放っとこうと思ってるのかい? 浮かれて遊んでやるからな……だが、そんなことアテにゃしてねェよ。階段で歌うのが聞こえないかい?」
シュザンヌ「アデールの声だよ。あんなに上機嫌になって、何があったんかな?」
フレデリック「いい天気でもねェのに魂げたぜ。空は曇ってる。モンマルトルの上あたりに雲が……」
アンリエット「夕立になりそう」
フレデリック「いまにも降ってくるぞ」
アデール(元気よく入ってきて鍵をいくつか暖炉の上に置きながら)「あんたがた、みじめな思いはさようならよ、鍵を試してきたわ。この鍵が宝石そのものみたいなもんよ。それがいただけるってわけ。今日でも遅くないわ」
シュザンヌ「わけを聞かせて」
アデール「これから何だかを話したげる……赤い卵よ。八つ持ってるの。ゴブラン街の八百屋で買ったのよ。あんた、よく知ってるでしょう、あのお喋りが好きなチビのせむし女」
アンリエット「わたしらの悪口を何か言った? わたしらのことは気にしていない女だけど」
アデール「あたしに話させてくれないの?」
フレデリック「アンリエット、口をはさむな」
アデール「女八百屋の家の奥には家主の住居があるのよ、因業《いんごう》地主の。なんでも自分でも数えきれないほどの金を持っている金持で、奥さんと二人で一日に百フラン以上も使い、たった一匹の番犬しか飼っていないんだって……八百屋さんが話してくれた話よ。わかるでしょ、あたしが八百屋のお上さんとお喋りしたのはプラムのことじゃなかったのよ。口を割らせて聞きだすためよ……そんで、ずうっとお喋りしながら、ぱっと眼を開けたと思ってちょうだい。何食わぬ顔はしていたけれど、眼の前をお金が入っている革財布がいくつも通りすぎて行くのが見える。あの半分あったら、こんな生活も、こんな毎日もオサラバして、盗みなんかしないですむにきまっている。あれが手にあったら、あんなふうに巧く使うんだが、なんて思っちゃった。でもね、運というものは、いつも、お金を名誉あることには使いたくない者に向けるものなのよ。あのゴロツキ家主の借家人の八人に一人は、決められた期日に家賃が払えないと思っていいわ。すると、家主が、たちまち家具を外へ運び出してしまうのよ……この眼で見たことがあるわ。いたましい光景だった。父親と六人の子供、お上さんは前の日にお産したばかり、かわいそうに涙で溺れそうになっていた。家族のみんなが家主に頼みます拝みますと哀願し、まるで石でもやさしい気持にさせるほどだったのに、その家族みんなを大道へおっぽり出したのよ。界隈あげて怒ったわ。よくって、あたしに言わせると、ヤイ悪党のクソ爺い、お前からは眼をはなさずに、きっと仕返しをしてやるからね。人を呪わば穴二つだよ。一丁かませるならドジはふまないよ、とまァこんなとこよ。そのときから機会《おり》を狙っていたの。それが今日やってくる。万事抜かりはないわ。このチャンスは逃げっこない。ケチン坊の高利貸よ。世の中にゃ盗まれて当たり前のやつがゴマンといるけれど、あいつにお鉢がまわってきたのさ……」
シュザンヌ「泥棒が共食いしたら悪魔が笑うわ」
アデール「悪魔ちゃん、笑わば笑え、これが、あたしの返事。宵のうちに家主の悪銭を捲きあげてやる。ごってりあるような気がするわ」
フレデリック「どうだかな……店子は喜ぶだろうが」
アデール「妊婦をたたき出したやつよ……あたしなら、十フランしかなくても半分は恵むわ。これで納得いったら、その家族を助けてやろうよ。みんな承知? 善を積めば福がくる」
一同「そう、そう」
シュザンヌ「そうしてやるのが当然の人たちにしてあげるわけね。だったら、あたしたちに似合ったことをするまでさ」
フレデリック「だが、その家族は、誰が恵んでくれたのかわからず、わかれば、おれたちがヤバくなる」
アデール「たしかに、わからずじまいだろうね。そんなことは兎も角、今から計画を話すね。高利貸は女房と一緒にサンモールへ歩って出かけたばかり、あしたにならないと戻って来ないはずよ。だから、たっぷり時間はあるけど、こういうことは遅いより早いほうがいい。これから出かけるからついて来てよ。アンリエットは道路に残って見張りをして頂戴。あたしが店の奥で八百屋女を引きつけているあいだに、フレデリックとシュザンヌは、家主の家に出入りする露路にすべりこむ。そこは裏手の二階で、正面に階段がある。くぐり戸が門のところにあって、呼鈴に曲がった足が付いている。小さい鍵で閂を開け、大きいほうで本錠を開ける。まちがえちゃだめよ。あ、それからバールを用意するのを忘れちゃいけないわ、金庫があった場合に……」
フレテリック「シュザンヌがスカートの下に隠したらいいや」
アデール「ふいに誰か帰ってきたときの用心に、留め針を通した小さな鉄輪を忘れないこと。錠の裏から挿しておくと鍵が入らない仕掛けよ。手抜かりなくね……リゴッチエとの話を覚えてるでしょ」
フレデリック「いい勉強になった」
アデール「生意気な女だとでも……」
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三九 一に用心、二に用心
ロンバール夫妻
一同が身支度をして泥棒準備をするには、あっという間で事たりた。用意ができると、すぐにゴブラン街に向かい、半時間の後、シュザンヌを伴ったフレデリックが仕事にとりかかった。
かれらは、これまでついぞ、それほどのお宝を眼のあたりにしたことはなかった。カドリュプル金貨、ギニー金貨、デュカ金貨、ナポレオン金貨、あらゆる時代のルイ金貨が、いくつかの小箱のフチまで一杯になっており、中身を示した荷札が付いた袋や包み、そのそばに手形や銀行券でふくらんだ鞄があった。
さて、二人が、これから宝の山をいただこうとしたとき、物音が聞こえ、人の足音だとわかった。
「動くな、誰か上がってくる」
と、フレデリックが言い、二人は息もできないでいると、足音は門のところで停まった。鍵をいじっている。なんという怖ろしさ。
「ちょうど具合よく帰ってきたわね。今にも夕立が来そう」
「早くしろ、お前ったら、のろまだから……」
「鍵を挿しこむ間くらい待ってくれたっていいじゃないの」
「わしだったら、もう十回も開けているよ」
「ああ、そうね、あなたは手が早いからね」
「いつも、そうなんか? こっちへ寄越しな。お前がモタついてるのを見とるとイライラしてくる……」
「モタモタしているわよ。鍵を押しこんでも入らないのが見えないの?」
「たぶん機嫌が悪い女なんだろう」
「不機嫌な女なんて言わずに鍵の管《くだ》がつまっているとおっしゃいな。あなたの悪い癖で、ポケットにパンの皮を入れて歩くもんだから、パン屑が鍵の管につまるのよ」
「わしの落度かどうか、いずれわかるさ。ちょっと鍵をかしてみろ、中を吹くから」
「ハイ、あなた、お好なように」(鍵を渡す)
「これでよしと(鍵の中を吹き、手摺の上で叩き、交互に叩いたり吹いたりしてから)、ちゃんと吹き抜ける。こんどはラクに通るはずだ」
ロンバール夫人(再度試みながら)「ラクに通るはずですかね。前より入りにくいわ」
「回さなくちゃならん側に回していないんじゃないのか?」
「どっちの側にも回していません。だって、半分しか入らないんだもの。(呼ぶ)、ブローさん」
女八百屋「どうしたんです、奥さん?」
ロンバール夫人「つまった鍵を通す物を持っていない?」
女八百屋「マッチ棒を探して来ましょう」
ロンバール氏「マッチ棒、中で折れちゃうんじゃない?」
女八百屋「そんなら樺箒《かばぼうき》、あれなら最高でしょう?」
ロンバール氏「枝を一本、いちばん固そうなのを持って来てくれ」
女八百屋が下へ降りて行き、すぐさま樺の小枝を持って戻ってくるとロンバール氏に手渡す。
ロンバール氏「これじゃまるで薪ざっぽうだ、お前が持って来たのは」
女八百屋「それより細いのはなかったんです。ムリすれば巧くいきますよ」
ロンバール氏「ああ、いいことさせてくれたよ。ハイ、今、枝が折れました、どうやって引っこ抜く?」
女八百屋「釘を使ったら?……」
ロンバール夫人「短かすぎるわ」
女八百屋「待って下さい。うちのガラクタの中を見て来ます。鯨のヒゲがあったのを思いだしました」
ロンバール氏「鯨のヒゲ、鯨だって。象まで持ちだすんじゃなかろうな?」
女八百屋「そうだ、仕方ない、小町娘なら必ず持っている物」
ロンバール氏「ははァ、お前は編物針を持っていないということか?」
女八百屋「まァね。十七号の女の門番なら靴下を編んでいる傷病兵を知っています。たぶん、からかい相手になってやっているんでしょうがね。ひとっ走りして来ます」
まもなく彼女が編物針を持ってくる。家主は鍵をせせり、吹き、叩き、またせせり、また叩く。
ロンバール氏「ますますつかえる。これが動かないのが何故かを知らなくちゃ。(鍵を錠にあてがう)。さっぱりわからん。これ以上は動かん。狂ってるんだ、この鍵は」
ロンバール夫人「ひょっとして、錠前の中がおかしいんじゃない」
ロンバール氏「どうしてもと言うんなら……板が一枚あれば台所の窓から入る橋をかけられるが」
女八百屋「首を折るのがオチです」
ロンバール夫人「埒《らち》もないこと、四フランの窓ガラスをこわすだけよ」
ロンバール氏「早く、ブローさん、錠前屋を呼んで来とくれ。そのほうが安くつく」
女八百屋が、急いで下に降りて、まだ通りに出ないうちに、錠前の舌が、がちゃっと受座から外れる。
ロンバール夫人「夢みたい、錠前が」
ロンバール氏「誰かいるぞ……泥棒だ。どろぼう、どろぼうっ」
とつぜん門が開き、二つの人影が飛び出す。わっと遠のき、押し合い、尻餅をつき、ロンバール夫妻は門の前の階段を一段また一段と転がる。かれらを突き飛ばしたのは、まぼろしの騎兵隊か、つむじ風か、氷解けの鉄砲水か竜巻きか? なんとも物凄い突風でショックが強烈だったので、夫婦が受けた激しい衝撃が何で起こったのか見当がつかなかった。
原因は消えたが、影響は残った。ひっくり返った夫婦二人が大災難を嘆く。
ロンバール氏「痛い、痛い。もうダメだ。打身になった。ずきずきする。骨が折れた。虐殺だ、撲殺だ。あ痛たた」
ロンバール夫人「人殺し、人殺しっ、助けてっ、つかんでいるのよ……助けて、あなた、助けて……」
ロンバール氏「ああ、神さま、おお痛い。腰の感じがない……砕《くだ》けているんだ、あん畜生めら……時計のガラスも眼鏡も。わしのカツラはどこだ?」
ロンバール夫人「あなた、こっちへ来ないなら、持ってる物を放すわ。お巡りさん、お巡りさんっ」
女八百屋が錠前屋を探しだして一緒に戻ってくる。
「あらまァ、こりゃどういうこと? こっちに旦那、あっちに奥さん。なにがあったんだろう? オヤ、門が開いている」
錠前屋「門の中に飛びこもうとして仰向けにひっくりかえったんだ……」
ロンバール夫人(起き上がりながら)「ああ痛い、痛いわ。足の皮が、すっかり擦りむけてる」
ロンバール氏「背中がワヤになっとる……坐れないや……腹ばいになるしかない」
錠前屋「頭から落ちてはいませんな」
ロンバール夫人「頭がイカれていると思ったら大まちがい。あいつらを捕まえてやるわ。ごらんよ、泥棒の前掛けを千切り取ってやったわ」
ロンバール氏「十二人まではいなかったが、なんしろ素早いやつらだったんで、眼から火が出たのしか見えなんだ……」
ロンバール夫人「ねェ、ブローさん、あいつら、わたしのからだの上を通って行ったのよ。なんてひどい襲いかた、ああ神さま……そこらじゅう怪我だらけよ……つかまえていて頂戴、おねがい、支えて……」
ロンバール氏(錠前屋に)「のう、あんた、事務室へ行くから支えてくれないか」
ロンバール夫人(先に入って)「オヤ、部屋はちゃんとしている。でも、盗まれ、荒らされ、破滅されたんだわ」
ロンバール氏(安楽椅子に落ちこんで)「悪党め、残してくれたのは泣いているわしらの眼だけだ」
錠前屋「あっしなら残った物だけで満足ですが」
女八百屋「うちらも……」
ロンバール夫人「警察に知らせて調書を作ってもらわねば」
ロンバール氏「だが、どうやって入りこんだのかな?」
錠前屋「馬鹿じゃないな。合鍵を使っている。悪いやつらが多いね(錠をしらべて、留め針が通してある小さな鉄輪を錠の中から引っぱり出す)。これで外から開かないようにしてあったんだ。だから、あんたら開けられなかったのも道理、やつらは巧い仕掛けをしていたんだ。この輪をこさえたやつは相当なタマにちげェねェ。奥さんの手に残った前掛けはどこ?」
ロンバール夫人「ほら、ここよ」
錠前屋(ひどく興奮して)「こんなものを見ようとは。仲間だ……あいつはマトモだと思っていたのに。誓ってもよかった。誰を信じたらいいのか?」
ロンバール氏「いったい、なんのことを言っとるのかね?」
錠前屋「ひとり言を言ってるんで……不運なやつだ」
ロンバール氏「不運なのは、わしだ」
錠前屋「旦那よりもっと不幸せな者がおるんです。(前掛けの切れ端の留金を見せながら)、このホックをご覧なせェ、こいつは、あっしが作ったもんなんで。十一カ月ほど前でしたが、友だちとクルチィユの酒場へ行ったとき、こういうのが好きな仲間の一人が、よかったら前掛けごと売ってくれないかと言ったんで、売りはしねェが、気に入ったんなら喜んでくれてやるぜと言うと、彼は受け取って四リットルばかり振舞ってくれやした。そのとき以来、このホックは、持主が変わっていないかぎり、やっこさんのものなんで」
ロンバール氏「その友だちの名は?」
錠前屋「フレデリック。同業者です」
ロンバール氏「いいことを聞いた。ブローさん、その足で警察へ行って、わしと家内が殺されかかったと告げ、わしらのために直ちにここへ来て、訴えと申告を受けてくださいとお願いしてくれ、さァ行った」
昼食の支度
危機一髪の危ないところだったが、フレデリックとシュザンヌは、ロンバール氏の金箱から掻っぱらうだけの根性は残っていた。金貨が一杯になっている二、三の小箱から大急ぎでポケットに詰めこんだ。住居へ戻る途中、いましがた味わった恐怖を一瞬たりとも思い浮かべないときはなかった。一同は、その輝かしい戦利品を見て飛び上がって喜んだが、それは、かれらにとって、やがて不吉なことが続く前触れかもしれなかった。
そのとき、フレデリックは、前掛けを千切られたのを自分だけで気付いた。
不安なかげりが彼の額を横切ったが、それが通りすぎるにまかせて、気持の流れに陽気さを取りもどした。一同、金勘定にとりかかり、全部では望んだ以上の額になった。
フレデリック「すくなくとも、こんどは、これで生き残れるさ。故買屋の爪の垢で暮らすこともなかろう」
シュザンヌ「あたしたちの世渡り舟を幸せに生きるように操らなくちゃ」
アデール「堅気にね。いつものように元に戻るのよ」
アンリエット「言うまでもないけどさ、堅気にならないと幸せになれないもんかね?」
アデール「なにはともかく、ねェみんな、あたしたちには果たさなくっちゃならない責任があるのを忘れちゃだめよ。神聖よ、この責任は。あす朝、あたしが先ず出かけて……千フラン札を持って行ってやるつもりよ」
フレデリック「誰に?」
アデール「あたしたちが約束したことを思い出さないの?」
アンリエット「覚えていないの、フレデリック、あのお産の女?」
フレデリック「金貸し家主が情け容赦なく追いだした家族の亭主か? イヤだなんて言わねェよ……いいとも、可哀そうな連中に千フランやる、けっして多かねェや」
その日の残りと続く夜は、空中楼閣的な空想をしてすごし、みんな、まんじりともしなかった。朝の四時になるとアデールは、仲間をあげて賛成した慈善行為を果たしに行くために起き上がり、シュザンヌとアンリエットは、衣服を付けると市場へ出かけた。食事の買物をするためで、すごい御馳走になるはずだった。二時間後には、山ほどの食糧と家庭道具をいくらか持って帰ってきた。その中には、食器やアイロン、大小のカッスロール、焼網、焼肉器、くるみ材のテーブルなどがあった。
シュザンヌ「そこへ置いてよ、おにィさん。ほら、チップよ、取っといて。それで足りた?」
運搬人「四十スウも。お金持が、このくらいたっぷりくれたら、パンが高いたァ思わんのだけど」
アンリエット(酒を注ぎながら)「飲みたい者は寄っといで。便利屋さん、さァあんたのぶんだよ。なみなみと生一本の御祝儀酒ときた……」
フレデリック「飲むのは誰なんだ?」
運搬人「旦那がいいとおっしゃるんなら……乾杯、奥さんがた……あんたも、旦那さん」(コップを置いて引き退る)。
フレデリック(籠の中の品物を取りだしながら)「グリーンピース、スープ鍋、さやインゲン、桃、こいつァ初物だ。誰もイヤたァ言わねェもんだ」
アンリエット「そこらに鼻をつっこんでさ。ガキじゃあるまいし」
フレデリック「で、これは何だ……」
シュザンヌ「ガラスを拭く白布よ」
フレデリック「なるほど、必要なもんだよな、白布は?」
アンリエット「これからも不潔な生活をして行けると思う?」
シュザンヌ「思いません、旦那さま、ここを小さな御殿のようにしたいのでござァます」
アンリエット「顔が映るくらいぴかぴかにしましてね」
フレデリック「コーヒーに砂糖、それにブランデーか。うへっ、さしあたり、いちばん欲しいなァこの股《もも》肉だ。もう腹が立つこたァ何もありませんよ、だ……焼肉器があっても今は驚かねェ……」
アンリエット「そうよ、あんた、焼肉器よ。今日は、ここで焼串を回すんだから。さァ、しっかり、シュザンヌ、ちょっと早いとこ手をかして。アデールが戻ってくるまでに支度しとこうよ……テーブルに付けばいいようにやっとかなくちゃ……」
やがて最初の祝宴、ながいこと憧れていた豪勢な御馳走の準備がととのった。股肉が程よく焼けると、シュザンヌが食卓に並べた……
アンリエット「どう、フレデリック、文句ある? 妹が、こんなに巧く作ったじゃないか?」
フレデリック「上手なのはわかった」
シュザンヌ「これでも、あたしらが料理の名人でないと言うかしら」
フレデリック「誰が言う? 悪い冗談だ」
シュザンヌ「チラッと見ただけでわかるわよね」
フレデリック「匂いでもな」
シュザンヌ「今のところ銀器はないけど、パリは一日にして成らずだわ」
フレデリック「オレンジなしでもウズラは食えらァ。腹がへって死にそうだ」
アンリエット「わたしも」
シュザンヌ「あたしだって。でも、アデールが戻ってから始めようよ」
アンリエット「そんなに遅くはならないさ……オヤ、あのひとかしら、もしや、あの騒ぎは?」
フレデリック「ではねェと思うな。まさか例の家族を連れて来やしねェとは……」
シュザンヌ「そういうバカなところがあるひとだから……アンリエット、ちょっと見に行ってよ」
アンリエット「面白そうね」(部屋を走って横切り、テーブルにぶつかる)。
シュザンヌ「おっちょこちょい、塩入れをひっくりかえした」
アンリエット「いいじゃないの、肩の上から振りかけてやるわ」(廊下まで行き、胆をつぶして戻ってくる)「ああ、もう、おしまいだわ」
たちまち、一人の警視を先頭に憲兵と警官の群が部屋になだれこむ。
司法官である警視が言う。
「法の名において、お前らの鍵の全部を引き渡すことを要求する。憲兵、家宅捜索をするあいだ、この男と二人の女を見張ってもらいたい。返事をしたまえ」
憲兵班長「逃がしはしませんです」
警視「ふむ、この家では大盤振舞いをやらかそうとしているようだな。(ふと嗅ぎタバコ箱に気付き)、わしのヒガ目でなければ、ほら、そこに調書にある品があるわい。確認してみよう。なになに、金の環をめぐらした螺鈿《らでん》箱。蓋にはメダル型にはめこまれたロンバール夫人の肖像。蓋の裏には、燃えているハートと恋むすびの中にパンジーをあしらった、若い時代のことさ、夫婦の頭文字の乱れ組みの装飾がある。まさにこれだ。見たまえ、諸君。ロンバール夫人も、昔はイカした女じゃないか。どうだ、きみたちも、わしと同様、これこそ申告とぴったんこだと思わんかね?……」
部下の一人「疑う余地はありません」
警視「つまり、われわれは泥棒どもを見つけたことになる。(フレデリックに)ジャック・リシャールという名の男を知っとるかね、ゴブラン街の?」
フレデリック「リシャールと呼んでいる仲間なら知っていますが、場末のポワソニエールに住んでいます」
警視「おなじことだ。その男から何か受け取らなかったか?」
フレデリック「(傍白)前掛けを売ってくれました。(声高く)警視さん、ありませんと申してもムダでしょう。おれが盗みの本人です」
警視「十分な証拠がないならゲロしなくてもいいんだぞ(前掛けの千切れたのを出させて拡げる)。これに見覚えがあるかね?」
フレデリック「いやんなるほどあります」
警視「放免囚だったね?」
フレデリック「放免、はい、そうでした」
警視「この女たちもだな。なにもかもわかっているんだ。憲兵、こいつを、わしにつなぎ、女どもに手錠をかけろ」
フレデリック「あいつらには罪はありません」
警視「憲兵、任務を果たせ」
警視の命令が執り行なわれ、なおも彼がガサを続けていると、おとなしくドアを叩く者があったので、警官が開けると、きちんとした身なりの、なんとなく好感がもてる上品とも言ってよい顔立ちの一人の女が入ってきた。
警視「なんの御用です、奥さん。奥さんは泥棒じゃなさそうだが、この際、なんの用でここに来たか訊かないわけにはいきませんな」
婦人「なんですって、私が何しに来たかですって? 仕事を持って参ったんです」
警視「ああそう」
婦人(籠の中をさぐり)「ほれ、ほれ、怪しい物はないでしょう。これは、花|綱《づな》かざりに持ってきたモスリンの帯綱ですよ。三十四オーヌ〔オーヌは約一メートル〕あります。拡げなくちゃいけませんか?」
警視「その必要はないが、そういう仕事をされているなら、さだめし商売もやっておられるわけで?」
婦人「刺繍品を扱っています。最新の物は、なんでも取り揃えています。旦那さまは結婚していらっしゃる、と思いますが、もし奥さまが何か御買物をなさりたいときは、これが私の住所です(と印刷した名刺を渡す)。マダム・ドルヴァル、アンヴァリッド大通り、バビロン街わきです。私のところには、奥様が御入用のものは何でもございますし、適正な値段でたいへん御気軽にお出で下さることができます」
警視「本当のことだとわかりました。動機は自然だし、ここへ来られたのを疑ってはおりません。どうぞ、お引き取りになって結構です。お許し下さい、マダム。われわれは任務の上で、ときとして失礼やむなきことがありますものでして」
警視の丁重な詫びにこたえて、その婦人が今まさに引き退ろうとしたとき、二人の密偵、ココ・ラクールと蛙小僧ファンファンが新たにやって来た。彼女に気付くと、しげしげと眺めて、
ココ「失礼ですが、マダム、あなたを知っているように思うんですが」
ファンファン「ぼくもです、たしかどこかでお目にかかっています」
婦人(やや不安げに)「かも知れませんが、思いだせませんわ」
ココ「いや、やっぱり私を知っとられるはずです」
婦人「誓って、ムッシュ、そんな名誉なことがあるとは思えません」
ファンファン「見れば見るほど間違っていないと思われますなァ。蛙小僧の名に誓って、ぼくは、あなたを知っていますよ。シラきりなさんな。あんたは昔の女白浪《カレージュ》(女泥棒)、じゃないですか?」
婦人(だんだん不安がはっきりとあらわれる)「なんのことか、さっぱり」
ファンファン「いや、いや、ちゃんとわかってる。(ココ・ラクールに)この御婦人は、ぼくや、おめェ以上にグレて(隠語を理解する)おられるぜ」
ココ(元気よく)「わかった。おめェさんは、ルルージュの昔の情婦《すけ》だ。アデール・デスカールといったな?」
婦人(口ごもりながら)「わたくし、わたくし、お間違いです。そんな名ではありません」
ファンファン「おめェの言うとおりだ、ココ、こいつはアデールだ……ぼくが、いつかは死ぬのが確かなように、たしかにあの女だ」
ココ(婦人の籠の下に手を通して持ち上げる)「賭けてもいい、この中にゃヤバイ品があるぜ。金具の音がする。さァ確かめようや」
婦人「その手間を省いてあげるよ(籠を開け、包みと一緒に鍵束を取りだして部屋の中央に投げる)。そうよ、あたしはアデール。なら、どうだというの?」
警視「四人目のホシということになるだろうな」
憲兵班長「これで四人組が勢ぞろいだ」
警視「マドモアゼルは容疑者だ。そのつもりでな」
アデールは、法廷で一切の罪を告白した。しかし、その過ちを軽くしようと、これまでの苦労話を告白に付け加えた。
それを聞いて判事たちは悲しみ嘆いたが、かれらは、終身刑より軽くするような意見理由は付けなかった。
一人の女に下された初めての怖ろしい宣告だった。
丸坊主にして灰色の囚人服を着せる係員が現われると、アデールは、どっと涙を滝のように流した。
彼女はつぶやいた。
「まじめに生きて死のうとしたのに、生きながら墓穴に投げこまれ……あたしの背中でサンラザールの門が閉まるのを見たら、もう開くのが見られない……」
そして、引き裂くような声をあげて、ひっきりなしに繰り返した。
「イヤよ……イヤよ……無期は、無期は!」
こうして私が書いているこの時間、すすり泣きで途切れ途切れの彼女の嘆き声が聞こえる。嘆き声はやまない。
アデールは、今も苦しんでいる!
空巣と店師《たなし》
空巣泥棒を別名で『あいさつ盗』とか『コンニチワ盗』という。あいさつ泥棒は、家に侵入すると、あっという間に目ぼしい品物を掻っさらう。最初の『あいさつ盗』は、たしか失業下男たちだったといわれている。はじめは少数だったが、やがてボスの下に子分がふえて、一八〇〇年から一八一二年にかけて、かれらの仕事が増えていき、パリでは、十二ないし十五籠分の銀器が盗まれない日とてはないといってよかった。この事を教えてくれたココ・ラクールが語ったところによると、もともと『あいさつ盗』は稼ぎの上がり勘定を一緒にしていたが、後になって、労せずして取り分にありつく怠け者どもが見つかり、それまでの仲間うちの平等分配をやめ、各人が自分の見込みで独り働きをするようになったという。
『あいさつ盗』の主だった連中で、私が警察に入ったころに知ったのは、すくなくとも次の者たちであった。ダルッサン、フロラン、サロモン、ゴロー、ココ・ラクール、フランクフォル、シモー、オートヴィル、マイエ、イザーク、ルヴィ、ミシェル、テーチュ、この他に数名がいたが、その名前は記憶に浮かんでこない。
『商業年鑑』や『王室年鑑』に載っている二万五千の住所は、『あいさつ盗』にとって非常に関心があるものである。毎朝、出発前、それを検討し、目指す家を決めるとなると、その建物に住んでいる二人の者の名を、あらかじめ必ず知っておくことにする。門番に挨拶して巧く入りこむには一人を訪ね、別の者のところで盗む。あいさつ泥棒は、いつもスマートな身なりで、いちばん軽い履物をはく。鹿皮の靴を選び、さらに気をつかって破れても音をたてない裏底にする。あるときはフェルト、また別のとき、とくに冬には、鹿皮靴や舞踏靴をラシャ靴に取り替え、それで音もなく上がり、歩き、下りる。コンニチワ泥棒は、押し入ったり合鍵や梯子を使ったりせずに仕事をする。盗賊は、どこかの部屋のドア付近で鍵を見つける。まず軽く数回ノックし、次に静かに叩き、さいごに強く叩く。返事がないとハンドルを回し、ほらもう、控え間に入っている。食堂へ行き、隣りの部屋に侵入して誰もいないのを確かめてから引き返す。そこらの見えるところに戸棚の鍵がないと、得てして隠しそうなあらゆる場所を探す。さて、鍵を見つけると、すぐにそれを使って銀器を奪う。たいていは、紳士の持物らしく白く洒落ている絹スカーフか麻ハンカチをかぶせて帽子の中に入れる。侵入前に誰かが帰ってくると、あいさつ泥棒は、まっすぐにその人のところへ行き、なれなれしく笑みを浮かべてコンニチワと挨拶し、もしや貴方はエムさんではありませんかと尋ねる。その人が、もっと上の階とか下の階とかを教えてくれると、たえず微笑みながら、なんども丁重に詫び、大いに敬意を表して恐縮して引き退る。盗みを果たす時間がない場合も、盗れるだけは盗るので、部屋の主が気付いたときは後の祭である。かれらは、ちょっと見たところでは、ぜんぜん感じがよくないが、だんだんコンニチワ屋の御面相になる。たえず唇に微笑をうかべ、その必要がないときでも愛想がよくインギンである。しかし、すべてこれ、猫をかぶるのが習い性になっているのである。何年かやっているうちに心にもなく笑えるようになる。顔の筋肉をゆがめることが、時がたつにつれて慢性になり、なんの蟠《わだかま》りもなくお辞儀ができるようになる。
こうした巧いやり方をしても、ときには、ただ怪しむだけではなく根掘り葉掘りセンサクしようとする人に出会うことがある。そういう場合、心得がある挨拶泥棒なら、怒っている相手の膝元にひれ伏して、ヤバいときのために前もって考えておいたたいへん悲しい身の上話を泣きながらヘラヘラしゃべって相手の気をしずめ、彼の不運を気の毒に思うように持っていく。たとえば、私には実直な両親があるんですが、なんの因果かバクチに熱をあげ、それがもとで悪事をするようになりました。これは、ほんの出来心です。もし司直の手に渡されるようなことになれば、父や母は悲しんで死んでしまうでしょう、とかなんとか。結果、予期したとおりの涙の効果があって、どこへでも行って首でもくくれと追い出されたら、門のところまでは如何にも後悔しているらしい態度をとる。もし相手が頑固で勘弁してくれない場合は、ポリ公の姿が見えないかぎり嘆き悲しむ。しかし、警官が来たら、とたんに元の平静さに戻り、ほほえみの筋肉作用をいつもの調子に立ちかえらせる。
食卓仕事人は、朝っぱらから侵入を開始する。まだ、そこらの主人たちはベッドにおり、女中たちがクリームを取りに行ったり、近所同士でお喋りをしているあいだに仕事をする。これとは別のアイサツ泥棒は、昼飯時が近づかないと活動を始めない。銀食器がテーブルに置かれたばかりの瞬間を狙う。盗っ人が家に入る。あっという間に食器が消える。これを『食卓仕事人』(食卓を片付ける者)と呼ぶ。
ある日、一人の食卓仕事人が食堂で仕事をしていた最中に、魚料理をのせた二枚の銀皿を持って女中が入って来た。彼は、あわてず、うろたえずに女中の前へ行って、
「ねェ、ポタージュを出さないか? 向こうの旦那衆がお待ちかねだ」
会食者の一人だと思った女中が、
「はい、ムッシュ、今すぐいたします。どうか皆さんにそうおっしゃって下さい」
彼女が台所へ駈けだすと同時に、仕事人は大急ぎで二皿を平らげ、チョッキと下着のあいだに皿を押しこんだ。若い娘さんの女中がポタージュをもって戻ってみると、ニセ会食者は姿を消し、テーブルには銀器の一かけらもなかった。
この盗みが私のところに訴えて来られ、報告された状況や犯罪の特徴からホシの見当がついた。ボワイエことシモーという名の男の仕業にちがいなかった。見つけだして、サント・カテリーヌ市場で逮捕した。ソースがついた皿の跡が下着に残っていた。
この他の別のアイサツ泥は、下宿屋だけを稼ぎ場にしている。この連中は夜明けに足を運ぶ。つまり、朝駆けをする。門番の見張りをゴマかす芸当は謎であるが、とにかく何かを口実にしたり言い訳をしたりして階上に上がり、片っぱしから部屋を見てまわって、たいていそうだが、ドアの上に鍵を見つけると、できるだけ昔がしないように鍵をまわす。いったん部屋に入ると、もし部屋の主が眠っていたら、財布、時計、宝石、彼が大事にしている品物を残らずいただく。もし彼が眼をさましたら、訪問者は、待っていましたとばかりに言い訳をする。
「ほんとうに申し訳ありません、ムッシュ、十三号室だとばかり思っていました。旦那さまは、靴屋か洋服屋か床屋をお呼びではなかったですか?」
などとやらかす。ユダヤ人やイスラエル人でない女どもが主にこの種の仕事をしている。さらに、かれらは、眠っている旅行者から身ぐるみを剥ぎとり、背中に下着一枚しか残さない。
空巣泥棒の心配はしたくないと願っておられる読者の皆さん、ドアの上には絶対に鍵を置かないで下さい。そこらに食器棚の鍵を隠さないで下さい。かれらは必ず見つける。鍵はポケットに入れること。門番は、見知らぬ人が来たら、どの階へ行っているかを呼鈴や呼子で知らせるようにする。洋服屋か、ふつうの靴屋か長靴屋でなくても、門番には何食わぬ顔をするものだ。ドアを閉めておくか、娘さんその他の者の見張りなしでは、朝っぱらから掃除をさせないこと。前にも述べたと思うが、盗っ人は、戸口のマットや敷物の下、戸棚の壺や瓶の中、壁の絵のうしろ、ストーブの角、家具の縁取りの上、などなどを探す習慣がついている。これを忘れてはならない。みなさんに注意してあげたいのは、家の一室に誰か一人だけ残しておくようにすることだ。もし留守に誰かやって来て、では御主人に伝言を書きますからと言っても、女中さんなり留守番の者が用心して紙など取りに他の部屋へ行かないようにしたほうがいい。もしひとつ紙をと頼まれて応じると、そのスキに、まんまと彼は欲しい物を手に入れる。
用心して下さい、巡回してくるガラス屋、スプーンや匙《さじ》のメッキ屋、陶磁器の修理屋、ちゃちな煙突掃除屋、毛布や布地、キャラコやモスリンなどを売って歩く男女の行商団。板紙や古着その他を持って上がってくる婦人服屋、その他いろいろな品物を売りにくる者を警戒することだ。すべて、流しの男や女は、泥棒か泥棒の下見をする手先と心得るべきで、みなさんが住んでいる建物に職人が住んでいたり、または仕事をしている場合はとくに気をつけること。石工、敷石工、屋根屋、家屋の塗装工などが仕事をした後で多少の盗みが行なわれていないことは稀である。衣類や古物の露天商にはかかわらないこと。洗濯女、医者、産姿、民生委員、治安裁判所員、警視、代訴人、金融公庫員、執達吏などとはできるだけ同じ建物に住まないこと。ひんぱんに移転があるとか一般の出入りがはげしい建物は避けたほうがよい。
夜のうちに店を荒らす盗賊を『店《たな》師』という。店師は、あらかじめ計画の障害になるものが何かを調べた上でなくては商人を襲わない。ある日、ある店に侵入しようと計画すると、かれらは店のまわりをうろついて、開いているところと閉まっているところを見とどける。戸閉まりの具合や、どこに閂があって、下ろしたり外したするのが難しいかどうかを見きわめる。また、店に番犬がいるか、誰かが宿直しているかを知るために苦心する。もっと確かな観察をするために、かれらは、往々、なにかを買う口実で商店主の前に現われる。ときには買うが安物ばかりで、後々になって売れるような品物である……かれらが品定めをするくらい暇がかかることはない。とつ追いつ、また元に戻る。これが頃合いの値段だと決めても、まだ、どれにしようかとためらっている。あなたの店舗の近くを同じ人物がぶらぶらしているのに気付くか、お客の一人が一スウまた一スウと値切って高い高いと言うのがいたら、それが店師だと大いに警戒しなくてはならない……よい犬を飼うように心掛ける。ものすごく大きいのが防犯に最も適しているが、よく番をさせるには、私なら小柄なのを選ぶ。つまり、吠える小犬で、耳が敏感で眼ざとい。誰かを店に泊まらせるのが、いちばん賢いやり方である。店師たちは、ごく並の泥棒として警察の捜査の対象になっているが、当局の捜査員に出会うのを怖れて昼間は滅多に外に出ない。
たいてい、商店主は、寝る前に、男女の店員に、万事ちゃんとなっているかと念を押すものだ。腰掛とか三脚、つまり動かせる小道具が決まった所にあるかということだ。ところが、じっさいは、言いつけのまったく反対になっているほうが有利なのだ。というのは、店が乱雑になっているほど泥棒にはやりにくいからだ。椅子が一つ引っくりかえっていたばかりに、腰掛けにつまずく。ちょっとした物音や、かすかなショックで見つかる結果になる。店師たちは、滅多に瀬戸物店や子供の玩具店には押し入らない。陶磁器屋では物がこわれるのがたいへん怖ろしく、おもちゃ屋では、ごちゃごちゃしているのが危険だからである。動物がいる暗闇を走り抜けるほどヤバいことはない。片手が突っかえたり、運悪く片足で踏んだりしようものなら、狆《ちん》ころが吠えわめき、子羊がメーと鳴く。逃げるが勝ち、家の者が眼をさます。
田舎の店師は、そのほとんどが商人を自称して馬車で旅をしている。一山ふもうと思う町に着くのは必ず夜になってからにする。しばらくすると、やる事をやってのけ、適当に盗んだ品物を馬車に積みこむ。作業が終わると別の土地へ向かい、そいつを小売りして大儲けをする。足がつきやすい金銀の品物をモノしたときは地金に変えてしまう。
店師が最初に手がけるのは盗んだ品を変形させることである。絹かウールの布地、リンネル、更紗などは、布地の織りはじめの部分を取り去り、ときにはその製造業者がわかっているときなどは、どこそこで作られたことがわかるような標識や番号などを消してしまう。
店内に一〜一・五メートルくらいの高さに非常に細い紐を二本張り、これに何枚かの軽い板を載せておくと、かれらが灯りを用意せずに仕事をしたとき、板が落ちて店師を驚かす最もよい方法になる。手探りで暗闇を歩くときは両手を前へ出す。手が紐にぶつかる。となると、盗賊は何も盗れない。板が落ちる小さなショックで十分である。大きな音だったら、人が来るだろうと疑い、現行犯で捕まるのが心配で、かなり大胆なやつでもズラかってしまう。床の上にバラ撒《ま》かれた豌豆《えんどう》の音も、かれらにとっては雷電と同じ、ドカンと爆発的な効果をもたらす。
店師の襲撃から守る方法は多々あるが、そうした方法も内密にしておかないと効果がないので、ここで種明かしをしては思慮がないことになろう。ドイツの諺に、『精巧な錠が器用な泥棒を育てる』というのがある。つまり、精巧な錠だといっても開けるのに不可能なものではないということだ。それを説明するのは憚《はばか》るが……もし堅気の衆が、綿密に計画した盗みをやってみても歯がたたない状態を作る気になれば、盗賊たちは早々と活動をしなくなるだろうと思われる。
数年前から錠前技術者たちが、ひみつ錠、わな錠、びっくり錠など多くの錠を考案している。しかし、こうした発明品は費用がかさむので一般には使われていない。そこで、わずかな費用で自分の安泰や持物の保証を願う人々が私のところへ相談にくる。私は、金がかからない方法を喜んで教えている。盗みは一種の詐取であって、盗もうと思うのを断念させればよい。警察の監視は、とかく失敗しがちなので、そういう警察の助けなしに確実に盗まれない結果が得られる方法に興味がある人たちには、内密にしか教えてあげられない。
田舎の店師のことを述べたが、殺人強盗や殺し屋のことを言うのを忘れていた。かれらは、いつも規則どおりの欠点のない旅券を用意しており、通過する市町村当局の正規のビザをもらっている。これは注目してよいことで、フランスでは、一般の庶民だけが証明書なしに旅行するのは危険で、逆に、悪人どもは、ちょっとした移動にも必要な旅行許可上の法律や命令に違反しないように巧く自分を保護している。
もし私が憲兵なら、ビザがある旅券を携行している人物を常に疑うことにするだろう。危険な渡り鳥野郎については、ひょっとしたら浮浪罪にならないかを確かめて大いに注意を払うことにする。
やましさがない人間は、こういった形式については大して心配しない。そんなことは気にかけないか、無関心だからか、警察の者と接触するのが嫌いだから、そうなるのであろう。
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四〇 犯罪手口その一
魔法の言葉
『万引』は、店で買物をしながら盗むことをいう。この盗みは数人が組んで男も女も行なうが、総じて、万引女のほうが万引男より腕が冴えているといわれている。だが、この優越性の理由は、ただ衣服が違っていることによるだけのことである。女は、かなり大きな物でもラクに隠せる。私が尾行した女たちは、三十から三十五メートルもある反物を股のあいだに挾んで落としもしないで歩き、ぜんぜん苦にならないようだった。
さて、男や女の泥棒が、どんなふうに万引するかを御紹介しよう。まず、一味の幹部級の一人が店に現われる。彼は、あれこれ品物を求めて、そこらに拡げて並べ、どれにしようかと迷っているフリをしている。と、そこへ子分の一人か二人が別の品物を買いにやってくる。かれらは、いつも、商人のうしろの高いところに置いてある物を見せてくれという手を使う。商人は、お客の気に入るようにせねばならない。そこで、うっかり眼をそらしたとたんに、盗っ人の一人が、これはと思う品物を素早く隠してドロンをきめこむ。
万引女たちは、いつも上品な服装をしている。すくなくとも田舎女のようなものは着ていない。という次第で、いかにも金持ふうな身なりで、いわゆる、いいことずくめである。たいていは、女商人だと自称している。
かれらにチョロまかされない一番よい方法は、いちおう眼を通した品を元に戻してからでないと、新たに品物を見せないことである。いったん見せた品を売台の上に片付けることも考えてよい。客が多い大きな店で、大勢の客を相手にするときは、店員たちが、ときどき、お互いにこう言うとよい。『あの十人の中の二人だ』とか『あの男と女に気をつけろ』とか。千に一つ、こうした言葉を聞いた耳ざとい盗っ人たちは、すたこらとズラかってしまう。
万引男や万引女は、商人から盗むためには、あらゆる手だてを使う。ふつう、仕掛人の役をする者が先に店に入り、着服したい品物を他の物から離して売台の上に置く。万事よしとなって、今だという時に外にいる子分たちに合図をする。子分たちが入ってきて、何かを注文して急《せ》かせる。商人は、買手を逃がすまいと一所懸命になり、誰に受け答えをしているのかわからぬうちに売台の商品が消える。薄いモスリンやレース、薄地の綾絹その他の軽くて嵩《かさ》ばらない品物を狙う泥棒は、見た眼には丁寧に紐でくくってあるボール箱を用意する。箱の底が動くようになっていて、品物のそばに箱を置き、下から中に突っこめる仕掛けである。
万引女は、オーバーやマントを着ていて、裏側が、どっさり布切れが入る広いポケットになっている。マントを着ていないときは、ぴったり目的に沿う広いショールをかける。農婦がはくペチコートは、まさに隠し袋そのものであり、離れ座敷である。
万引女の中には女中を連れているのがいる。女中は、やけに長い服を着せた子供を抱いている。女中が幼児を売台の上にのせ、奥様が目星をつけた品物を子供と一緒に抱き上げる。あまり腕ききでない万引女は二重底の籠を持ったりしている。私は、デュマという名の有名なレース盗みの女を知っていたが、この女は、かなり奇妙な手を使って盗んだ。店員が、マリヌ産レースとかイギリス産レースを見せると、品物を点検しながら、なんとかして一枚を足下に落とす。もし店員が気付かないと、足指が外に出ている右足でレースがラクに入るくらい大きな靴の中に器用に取りこむ。ときには、マダム・デュマが店を出ない前に、店主が、品物をお返し願いますと言うと、彼女は、どうぞ身体をあらためてくれと開きなおる。まさか靴の中に隠しているとは誰も考えず、探しても見つからないので平あやまりに謝り、てっきり彼女が来る前に失くなったものだと思いこむ。『手より足を調べよ』なんて誰が思おうか? 逆の諺をおすすめする次第である。
宝石商は、万引屋の訪問を特別に受けやすい。通称アンリこと『|ひげ《ヴリュ》』は、シモン実業会社の役員というふれこみで、時計のあいだに陳列してある宝石類を眺めて時間をつぶしていた。たくさんな指輪や結婚指輪のケースが、どこの店も同じこと、外側のガラスに向かって並べられ、値段票が引っかけられていた。彼は、それらを注意して見ておいて、翌日、指輪を買いたいといって店に現われた。店は、習わしどおり、客に品物を選ばせ、彼は、あれこれ試している顔付きをしながら、金指輪だと思ってまったく同じような銅指輪とスリ替えた。ところが、残念なことに、スリ替えたのも銅指輪だった。もし、彼が買わないとペテンが怪しまれる状況だった。彼は値切らずにちゃんと支払った。そして、彼の銅指輪は、カモのお客が来るまで店の陳列台に置いたままになった。
フロランタンが、とある宝石商のところで紙の上に宝石《いし》を並べて値切っていた。すると、一人の男がドアのところに現われて施しを乞うた。フロランタンが財布から小銭を一個とりだして与える。小銭が落っこちる。乞食がしゃがんで小銭を拾って行ってしまう。この状況を見すえるのは難しい。さて、商談が成立し、フロランタンが四百フランを支払って計算書を要求する、すべてが終わり、宝石商がケースを片付けようとすると、五、六千フランの品物《ぶつ》が入っていた小箱が足りないのに気付く。探すが見つからない。フロランタンは、身体検査をしてくれないうちは帰りたくないと言う。店の者が、失礼がないように彼の身体を調べるが、さきほど取引した品以外は出てこない。彼は歴とした身分証も持っており、けっきょく、フロランタンは申し分のないムッシュだということになる。そこで、どうぞお引きとり下さいとなるが、彼はどこへ行くのであろうか? 通称フランツこと乞食のトルメルと落ち合うのである。フロランタンが手際よく落としたダイヤモンドの小箱を小銭と一緒に掻っさらった彼の子分である。
どんな商人も、とくに小売商は、警戒することを知らなすぎる。パリには、何千という男や女の万引をする者がいるのを見のがしている。ここで私が言っているのはプロの万引屋のことではなく、いかにも安全な物蔭で、こっそりと小さな盗みをする素人衆のことである。世間では、いっぱしのまじめ人間が、稀書やミニアチュール、カメオやモザイク、写本や版画、気に入ったメダルや宝石などを、出来心から平然とロハでガメる。つまり、コソ泥である。コソ泥が金持なら店は腹をたてないで、あなたは、こんな盗みくらいで罪になるような御方じゃありませんよね、と言って代金を請求し、貧乏人なら検事に告発し、必要もないのに面白半分に盗んだのではないとして徒刑場に送られる。われわれは、奇妙な考え方でマジメ人間と、そうでない者とを決めねばならない。
次は、盗むのではなくカタリ取る近ごろ発明された方法だが、どんなふうに行なわれるかをお知らせしておくのは、商いをする人にはタメになろう。まず、どう見ても女中に見える服装をした女が、表通りを物色して、ほぼ向かい合っている、やや大きな二つの店を探す。二つの店の一つが時計屋で、もう一軒が帽子店だとしよう。泥棒女が帽子店に入って帽子を買いたいと言うが、彼女が欲しいのは絶対に店に置いてないような品である。では、取って来ますからとなる。一時間は待つことになる。待っているあいだに、彼女は、そこらを行ったり来たり、また店に入ったりしながらドアのところで見ていて、向こう側の時計屋が自分を見たのを確かめると、大急ぎで道路を横切って時計店に入って言う。
「あの、何々さん(帽子屋の名前を言う)が、百二十から百三十フランくらいの金時計二個を私にあずけるようにお願いするとのことです。弟へ贈物をするんです。旦那さんが選んでやるっておっしゃるもんで」
時計屋は、てっきり帽子屋の女中だと思い、安心しきって時計を渡すと、彼女は受けとって店へ戻って行く。彼は、じっさいに彼女が帽子店へ戻って行くのを帳場から見る。彼は、お客の品物えらびに立会いっきりで、自分の手から客の少年たちの手に渡す品物を見ていて、べつに何の心配もしていないが、くつろぐひまもない。しばらくすると注文の帽子が届き、それを持って女中が真っすぐに時計店へ引き返す。
「御主人さま、百三十フランのにしました。この帽子をすぐそこへ届けてから戻ってきて勘定しますわ。でも、すこしは負けてくれなくっちゃ」
「いいとも、いいとも」
時計屋が答えて、一時間、二時間、三時間がすぎてから、なにもかもがバレる。
二軒の店が、おなじ人間にカタられることがよくある。こうした女中に化ける女の一人に『しし鼻』というのがいた。まず一軒の下着屋に現われて、向かい側の金銀細工物店の者ですが、奥さんが、二、三レースをあずかっておいでと言われまして、とたのむ、下着屋は、ためらわずに品物を渡す。しし鼻は、レースの入った紙箱を手にして細工物店へ行き、向かいの下着店のお上さんの金鎖を二本くださいと頼み、紙箱を持ったまま下着店へ引きかえす。
「おくさま、わたしの女主人が、お友だちにもレースを見せたいとおっしゃっているんですが」
「どうぞ御自由に。ご遠慮なく」
しし鼻は、すぐに細工物店に戻り、
「うちのお上さんは鎖の品定めをしています。手がすいてお勘定に来たとき、わたしの分に小さいのもいただきますわ」
女中は消える。二つの店とも、彼女が、その用事で動いているものと思いこんでいる。しかし、とうとう下着店のマダムが待ちきれなくなって向かいの店へ行く。
「ねェ、レースいかがでした? きっと全部をお買いになると思いますが」
「鎖を買っていただいたんですもの、こちらもレースを買うとは思わないけれど?」
「今朝、お宅の女中さんに紙箱を持たせたでしょう?」
「あれっ、あんたが二本の鎖をえらぶからって、あんたとこの女中が来ましたよ」
「まァ、おくさん、あんた、夢でも見てるんじゃないの」
「あんたこそコーヒーでも飲んで眼を覚ましたらどう」
「なるほどコーヒーね。でもね、あたしゃ冗談いってるんじゃないのよ。金鎖のことを言ってるの。あたしのとこから二本届けたはずよ」
あれこれ掛け合っているうちに、だんだん乱暴な言葉になり、議論が白熱していると、細工物店の亭主が、ようやく女房どもが騙《かた》り盗《と》られたことに気付く。
お客が多い店に幾人かの男か女が現われ、なにがしかの品物を買って、二十フラン貨か、あるいは買物の値段より遥かに高い金で支払いをする。商人が差額の釣り銭をかえす。かれらは受けとった金を数えながら、とつぜん、一、二枚の貨幣が他のに似ていないのに気付く。それが本当だったのか嘘だったのかは別として、けっきょくは取り替えるということになる。ともかく、かれらは、店が出したのか、出したとみなされたのか、そういう貨幣を商人に見せる。
「おたくには、こんなのがたくさんあるのかね? もしあって、おれたちに譲ってくれるなら、一個一個に儲けをのせるよ」
牝牛が付いていたりW字が付いている昔の二十四スウ貨や十二スウ貨、小エキュ貨や六リーヴルのエキュ貨は、こういう申し出をするのにたいへん都合がよい理由になる。だが、そういう儲けの餌に食いつく商人は不幸なことになる。もし、そういう変わった貨幣をさがす際に儲けさせてくれる連中を銭箱の引き出しにでも近づけたら、なんとも手際よくチョロマカされるのは請合いである。こういう銭箱から盗む悪者どもは銭箱泥棒と呼ばれた。
この種のイカサマ泥棒は、相手をごまかすためには、ありとあらゆる方法にたよる。今日、ある策略を使ったかと思えば、明日は別の悪だくみを使う。とにかく出納台での交換は常日頃あることで、顔見知りでない男や女や子供が金を換えてくれという場合、耳が遠いフリをする者には用心をし、相手の話に釣りこまれるのは危険である。両替商、宝くじの売子、タバコの小売人、パン屋などが、このような器用な手品師どものゴマカシに何と多くかかったことか。かれらは、あらゆる小売商をとくに好んで襲う。
銭箱泥棒は容易に見分けがつく。かれらが望む貨幣を選びだそうとして銭箱の引き出しを開けると、すかさずそこへ手を出して拾い出しを手伝うフリをし、あれだこれだと好みの貨幣を指摘する。もし、たまたま、商人が、かれらのために何か特定の金貨を取りに店の奥へでも行こうものなら、どんどん平気でついて来て、おなじように親切ごかしに振舞って袋に手をかける。ほとんどの銭箱泥棒は、ボヘミア人かイタリア人かユダヤ人である。
さきほども述べたような銭箱泥棒にカロンおばさんという凄腕の女がいた。ある日、サンジャック市場に店を構えているカルリエさんという酒店に入って行った。カルリエのお上さん一人だけが店番をしていた。カロンおばさんは、アニス酒一本を注文して金貨で払った。細工は流々という具合で、十分ほど世間話をし、お上さんが七百五十フラン入っている袋を取りに部屋へ行った。十五分後にカロンおばさんが店を出た。彼女が出て行くとすぐに、カルリエのお上さんが、もういちど確かめておこうと金を数えたら半分が不足していた。お客がいたときは確かに倍あった。女銭箱泥棒が一瞬のうちにゴマ化したのだった。この盗難が訴えて出られ、私は、その手口から犯入の目星がつき、彼女は逮捕され、確認され、断罪された。
この『回想録』の、かなり前段で述べた有名な『公爵夫人』の右に出るほどのワザ師はいないと思う。ある日、ルーアンのマルテンヴィル街で、パン屋のお上さんが、エプロンに入れて持っていた二千フランを『夫人』と一緒に数えなおしたが、その間に半分ちかくをちょろまかされた。あきらかにパン屋の女房は盗まれていた。そこで、公爵夫人を追いかけてつかまえたが、夫人は騒がず動ぜず、
「数えてごらんなさいな、おくさま、も一度、お金を数えて下さいましな」
パン屋のお上さんが数える。一エキュも不足していなかった。銭箱泥棒の男や女は、元に戻す腕前にも冴えているものだ。宝石商が金製品や宝石類を見せると、かれらは、安物を一品だけ買い、高価な品物の代わりに模造金や人造宝石を置いて行く。
カロンおばさん、公爵夫人、それにもう一人のガスパールというボへミア女がいた。この女は、独自の方法で聖職者から盗むことを考えついた。喪服を着こんで(もともと彼女らの服装は裕福な農家の後家さん姿に近かった)教会へ出かけ、なんとかして椅子ならべの女かローソクともしの女と話し合うきっかけをつかむ。とかく下っ端の奉仕者というものはお喋りが好きなものだ。ニセ未亡人は、教区の坊さんたち一人一人の懐具合をたずねた上で、カモ(女泥棒たちはこう表現する)らしいのは誰だと知ると、ミサか、それとも『おののく魂』の祈祷を頼み、わたしの良心の判断はおまかせいたします、とやらかす。すると、坊主は、私の最善をつくして勤めますると約束する。では、いろいろと施しをしたいので、困っている人を少しでも助けてあげたいから、そういう不幸な方を教えて下さいと聖職者にお願いする。坊さんは、援助を必要とする貧乏な家庭のいくつかを教えてくれて、どうか慈善をと言うにきまっている。ニセ未亡人は、さっそく急いで教わった貧困家庭に僅かな金なり衣類なりを持って行ってやる。
「これは何々神父さんのおすすめからのものです。あの方に感謝しなくてはいけませんよ」
さァ、教区の貧乏人たちは何某神父のところへ御礼を言いに行き、神父は信者たちに御満悦ということになる。彼は教導者、良心の裁きを心得ており、その未亡人は徳以外の何ものでもない女だと信じこみ、ザンゲもしないのに聖餐をあたえる。しかし、こうなったら百年目、彼女の聖心を信頼したことが高価なものにつく。ある朝か晩、その日の何時かなんてどうでもよい、聖職者は目ぼしい物が盗まれているのに気付く。あの信仰あつい婦人は二度と現われない。
このようにして、この手の女が、サンジェルヴェの司祭から時計と金貨が一杯の財布、そのほか色々な高価な物を盗み、サンメダールの司祭は、おなじようにボヘミア女に寄進させられた……こうしてニセ未亡人たちは、神に仕える聖職者を実際に使徒的な貧しさに落とし、いったん援助した不幸な人たちから盗むというこの上ない悪どい真似をした。もういちど、そういう人たちのところへ行って、なにか入用な物はございませんかと尋ね、戸棚やタンスなどを勝手に開けて、すぐにも良い品と取り替えてあげますからと、一枚ずつ衣服を調べる。そんなことをしているうちに、もし時計とか金銀の盃、金環、鎖、そのほかいくらかでも値打のある宝石《いし》などがあると、素早くガメクリ、やがて、ではお暇いたしますと挨拶をする。
「よござんすか、みなさん、あなたがたに何が不足しているかがわかりました。あなたがた以上に承知してるんですのよ」
カロン母ァさんは、こう言って外へ出るが、すぐに調べられては困るから、階段の下までついて来てもらう。こうした非道なやり方で捲き上げられる不幸な人たちは、その怖ろしいドン底生活にあっても、昔の裕福なときの何か名残りの品を保存しているものだ。
私が警察にいたあいだに、六十件以上のこの種の盗みの訴えがあり、それがカロン母娘の仕業とわかった。けっきょく、私は、この憎むべき二人の逮捕に漕ぎつけ、今なお二人は牢屋にいる。ボヘミア人は、こうした方法だけで他人の財物を横取りするとは限らない。しばしば、かれらは人殺しをする。殺人をするのが少ないのを恥じ、かれらなりの償い方があって、ぜんぜん後悔などはしない。一年間、罪を清めるための厚っぽい粗《あら》織の下着を着て、そのあいだは働く(盗む)のを差しひかえる。この期間がすぎると、雪のように潔白になったと信ずるのである。
フランスでは、この階級のほとんどの連中がカトリック教徒だと自称し、たいへん信心ぶかく見せている。いつも数珠と小さな十字架を身につけて、朝晩の祈祷をとなえ、規則ただしくお勤めをする。ドイツでは、博労《ばくろう》や薬草売り以外の職業に就いている者は稀である。医療をやっている者もいるが、つまりは病気を治す秘法や秘伝を知っているフリをしているわけである。かれらの多くは集団で旅をし、ある者は吉凶を占い、ある者は銅食器や鉄フォークなどの錫《すず》メッキをしたり、陶器類の修繕などをする。こうした流浪民が歩きまわる田舎の住民は災難である。まちがいなく家畜がやられる。ボヘミア人は家畜殺しの名人で、その悪業を告発できる痕跡は残さない。長くてたいへん細い針を心臓に刺して牛を殺す。このやり方だと内出血するので、動物が病気で死んだものと思われる。硫黄で鶏を窒息させる。おまけに村人が病死の家畜をタダでくれることを知っている。かれらは、腐った動物の肉を好んで食べる連中だと思われているが、どっこい、かれらは美食家で、ちゃんと美味しい肉を食べているのである。ハムが入用のとき、ときどき塩漬けニシンに豚肉の臭いをつけ、それを世界の涯まで臭わす。私は、これ以上ボヘミア人の風習を知ろうとは思わないが、この漂泊民族についてもっと十分な知識が得たい好奇心のある読者には、ドイツで発行されているグレルマンという学者の興味ある話を読んでいただくことをお勧めする。当代一流の作家によるボヘミア人の話は、あまりにも真実からかけ離れているが、右の本では正確な観念が得られるはずである。
『車師《くるまし》』というのは、馬車に積んである行李や牛、そのほか何でも盗むやつのことである。ほとんどの車師は労務者出である。たいてい、いつも運送屋か荷車引きの上着を着ている。その数が多かった時期には、馬車が頻繁に到着する地域を主な稼ぎ場にしていた。アンフェル街、サントノレ地区、サンドニ、各大通り、ルイ十五世広場、ブールドネー街とラヴァンジエール街、チールシャップ街とモントルグイユ街、こうした場所には絶えず車師が出没していた。この種の泥棒が一台の荷馬車に目をつけると、その馬車を追って行き、最初に停まった時点で盗みをやってのける。かれらにやられなかった馬車は数少ない。車師のうちの主な手だれの者たちとしては、ファンファン一家、セルヴィエ兄弟、ジャン組、グピ組、エリイ組、カデ組、ニッセル組、威張り屋デュボア組、ロブロ組、ラフランス組、リニ組、ドレ組で、いずれ劣らぬ兇猛果敢な凄腕の連中であった。駅伝馬車、ベルリン型馬車、四輪馬車、乗合馬車、どんな車でも何かやらかされないものはなかった。とても信じられないような大胆さで襲った。一人が、ひょいと御者のそばへ寄って髪をつかんで押さえこむと、他の連中が幌をはずして荷物を放り出す。
それについて、人から聞いた実話がある。セルヴィエ兄弟と他にもう二人の車師が、日暮れにシャンゼリゼにいた。兄のほうが御者に話しかけて笑わせているひまに仲間が仕事をしていた。ふと、御者が、馬の轅《ながえ》掛けが動いて、すこし車が尻のほうへ傾くのに気付き、何で動くのかを見ようとした。
「うしろを向くんじゃねェ」
セルヴィエが凄《すご》むと、おとなしく御者が従ったという。
停まっている乗合馬車に、白昼堂々と乗りこんで、さも自分たちの物かのようにトランクを降ろしているグピ組を見たと語った者もいた。
ある日、私は、ゴスネという有名な車師の後をつけた。サンドニ街に入ると、一台の馬車に飛び乗り、片手に木綿帽、マントを羽織り、立派な姿になって腕に旅行鞄を持って降りてきた。午後二時になっていなかった。ゴスネは、地上に降りると、疑いをそらすために真っすぐ御者のところへ行って言葉を交わしてから、まんまと、とある通りの曲がり角まで逃げてきた。私は、そこで待っていて逮捕し、有罪になった。
車師たちは、世間でいう教養人ではない。だから、たまたま、貴重な品物を奪っても、その価値をまったく知らないことがある。ナポリ王妃のトランクを盗んだ泥棒が王冠の持主になった。彼は女の子のヒモになって生きていたのだったが、王冠を女にプレゼントした。前々から約束していた陳列窓の銀の櫛の代わりにしたつもりでいた。王妃は、やむなく王妃飾りを頭に巻き、そういう整髪でフレピヨン街のサンマルタン庭園舞踏会に出席された。盗賊は、生まれて初めてダイヤモンドを見たにちがいなかった。
車師たちの仕業を避けたいとは思いませんか? 行李や牛は、革紐や綱で繋《つな》がずに鉄の鎖にする。これは隠し鈴を鳴らさずには断ち切れない。これは旅行者にすすめる勧告である。御者にたいする勧告は、いい犬を置くことで、敵に兇猛なやつほどよい。番犬は車の下でなく上に居らせたほうがよい。かれらが手出しできないように、運送者は一人でないほうがよい。かれらは荷物泥棒をあきらめると、何はともあれ酒場に入る。友だちのおごりで払ってあるからという売台の上の酒壜は、得てしてカモをだますエサでしかない。ふるまってくれているのは泥棒さまなのだ。
洗濯屋は慎重に用心して自分の車を大男に番をしてもらう。眠ってしまったり欺されやすい子供などには頼まない。車師は子供にコガネ虫を見せる。コガネ虫を見ているひまに泥棒たちがごっそり盗む。
空き車で帰る運送業者は、それが習慣になっているが、けっして空袋の中の一つの袋に金を入れてはならない。反対に、いつも眼のとどくところに置いておくべきだ。さもないと、歩いているみたいにゆっくりと戻り道をたどっているあいだに、探され、引っかきまわされ、見つけられて逃げられてしまう。盗っ人たちは、小さな幌付きの車で一定の間隔を保って何キロもつけてきて、逃げる機会を待っている。
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四一 犯罪手口その二
スリさまざま
「スリ」は、はじめは「|人ごみ屋《フルウール》」という名だった。この名は、巾着《きんちゃく》切りよりはおとなしい別の種類の詐欺師にふさわしい。というのは、もともとペテン師とかカタリ屋というのは、詐欺《フル》してやろうと群集あるいは雑踏の中のカモを探すことを意味したからだ。
スリ、つまり掏《す》り盗る泥棒は、他人のポケットの中の時計や財布やタバコ入れなどを盗む者のことである。かれらは、総じて身なりがよく、ぜったいに杖を持ったり手袋をはめていない。つまり、素手の自由を十分に発揮させるためばかりでなく、十分にデリケイトなタッチが必要だからである。この旦那衆は、十本の指を使うと言われているのは誤りで、ふつうは三本、ときには四本の指を同時に使う。かれらの仕事は雑踏の中で行なわれる。また、集会や祭礼、舞踏会や音楽会、あらゆる見世物の人ごみの中で仕事をする。入るときと出るときを狙う。かれらがとくに好きな場所は、ステッキや傘をあずける所である。いつも混雑しているからだ。かれらはまた教会にも出かける。ただし、祝祭日で信者が大勢いっぱい集まるときにかぎる。どんな人だかりにも寄って行き、人だかりがないと、八百長の喧嘩とか、その他いろいろな方法で人だかりを作りだすことさえよくある。香具師《てきや》と組んでいるのは掏摸《ちぼ》である。バリじゅうが覚えている『利口なロバ』の見世物の親方はスリ一味の仲間だった。ロバが後脚で蹴とばしているとき、スリたちは、ぼけーっと自分のポケットに手を入れてはいない。大道歌手、露天でやっている手品師や魔術師のほとんどが巾着切りとグルになっていて、スリ取ったオトシマエにあずかる。パリでは、がやがやと人が集まっていれば、そこには必ずスリがおり、つまり、そこらじゅうにチボの旦那衆がおられるということになる。
ある日、両手をズボンに突っこんで、一人のイギリス人が行列行進を眺めていた。デュリュクというチンピラのスリが、その男の時計の紐を切った。一分ほどして、イギリス紳士は、何かがないのに気付き、舗道の上を探し、次に飾り帯をしらべ、すぐに紐が切られたのがわかったが、さらにそこらをさぐり、爪先から頭のてっぺんまで探した。とうとう、失った物が見つからず、はじめてびっくり仰天し、
「畜生《ゴッダム》っ、悪魔野郎が時計の紐飾りを盗みやがった」〔時計を盗まれているのに気付いていない〕
そのお人好しぶりを周りの者に笑われていると、そこから数歩のところで、仲間と一緒に当のスリが、ジェントルマンの声を真似て面白がっていた。
スリを見分けるくらい易しいことはない。彼は一カ所にじっとしていない。たえず行ったり来たりしている。この動きが必要なわけは、そうすることでカモを見つける機会が多くなり、ひいては収穫《みいり》を確かにするからだ。スリが人ごみに近づくと、行き当たりばったりに手をだすが、このときは中身を勘ぐるために内外のポケットを打診するだけである。
さて、スリ盗《と》ってみるだけの価値があるカモが見つかると、『尼さん』とか『小僧さん』とか呼んでいる二人の手下が、それぞれの位置につく。つまり、盗もうと思う人間の両脇に寄り添って万力のように押しあい締めつけあい、仕事人の手をかばってやる。この、わざと押しあいをした結果、時計か財布がモノにできたとたんに、それは『貸し人』という仲間《ぐる》の手に渡り、貸し人は、気どられないようにできるだけ早くショバから離れる。
とくに注意してあげたいのは、見世物や教会、そのほか大衆の場から一同が外へ出るときである。みんなが出ようとして押しあっているときに、スリたちは入りたいようなフリをする。いいですか、読者諸君、上のほうを見ながら激しく押している動作をしている一人もしくは数人の者を見たら用心することです。頼りになるのは安全鎖でもポケットのボタンでもない。そんなものは、スリにとっては邪魔物でもなんでもなく、そういう用心をして素人衆(町人)が安心していてくれるのが却って有難いというわけだ。時計に鎖をつけてポケットを閉め、なんの心配もせず時計にも気をつけないで、もう余計な心配はいらん、とする。ところが、何が起きるか? 鎖は切られ、ボタンはすっ飛び、時計が消える。スリが触わった気配はない。しかし、かれらの指先には眼が付いているのだ。
だが、そういう早業をダメにする方法がある。首をしめる、つまり時計ポケットをねじっておく。一回りか二回りで十分である。そうしておくと、財布や時計やタバコ入れを抜きとる凄腕のスリたちに立ち向かうことができる。
パリには、想像もおよばない神技で盗む一匹狼のスリがいたことがある。誰かの前に立つと、片手を自分のうしろにまわし、もう相手が身に付けている時計や宝石をいただいていた。この種の盗みを『妖《あや》かし泥棒』と呼ぶ。
『帽子屋ムーラン』ことモランがフランス座の柱廊の下にいた。壁のそばにいた立派な男の財布をいただこうと狙いをつけた。当の男は、誰かに狙われているような気がしていた。やる気まんまんのモランが、さっと動いて男のポケットから財布を抜き取った。すこし歩ってから財布を開けてみたら硬貨が一個しかなく、札《さつ》を探したが、ない。と、うしろから盗まれた男が声をかけた。
「ねェ、きみ、ぼくの財布を盗ったな。返してくれたまえ」
「まさか」
びっくりしたフリをして答えたモラン、しげしげと財布を眺め、
「なーんだ、おれのだとばかり思ってた。いや、どうも、ムッシュ、ごめんなすって」
そう言いながら財布を返した。まわりにいた者たちは、彼が無意識に間違えたものと思った。図々しいと言おうか、それとも何と言ったらよいかわからない。
濃霧の季節に、モランとドルレという男がイタリア広場の近くで網を張っていた。一人の老人が通りかかり、ドルレが時計をスリ取ってモランに渡した。濃い霧が立ちこめて、ぼんやり物が見えたので、それが時《とき》打ち時計かどうかはっきりしなかった。モランは、そいつを確かめようと時計の尻にあるボタンを押した。とたんに槌《つち》が鈴を叩き、その音で老人が自分の宝物だと気付いて大声をあげた。
「わしの時計、わしの時計じゃ。たのむけェ返してつかァさい。爺さまから伝わっとる家の形見じゃけん」
こう嘆きながら時計を取り戻そうと音がするほうへムキになって進み、ここだとばかりモランのすぐそばへやって来た。すると、モランは、霧があるのをいいことにして老人のほうへ寄って行き、善良な年寄りの耳から少し離して時計をかざし、またもボタンを押した。
「さァ聞いた。聞きおさめの音をな」
残酷な〈さようなら〉の音を残して、二人の盗っ人が姿を消した。
昔のスリたちのことをさらに述べよう。腕達者なプロとして鳴らした二人のイタリア人、『はりきり兄弟』というのがいた。兄が馬車強盗団の一味と決まって死刑を宣告された。処刑の日に、自由の身だった弟がコンシェルジェリ〔恐怖政治下で死刑前の囚人を入れたパリ裁判所付属牢獄〕を出る兄に会いたいと思った。彼は数人の仲間と一緒に出かけて、兄が通る道ばたで待った。ところで、盗っ人たちは、夕暮れ時の群集の中などでは、一味の者を見分ける合言葉を持っているものだ。『はりきり弟』は、運命の馬車を見ると、彼の呼び言葉、『山《リルジュ》』と大声で叫び、その声に囚人が呼んでいる者の眼をさがして『川《ロルジュ》』と答えた。仲間たちは、変わった挨拶のやりとりが無事にすんだので、たぶんハリキリ弟は帰ったのだろうと思ったが、彼は、帰りしなに早くも時計二個をスリ取っていた。彼は、兄の首が転がり落ちるのを見た。その直前と直後の状況に応じて、ぎりぎりの瞬間をとらえたいと思っていた。さて、死刑見物の群集が流れはじめると、彼は仲間と酒場に入った。
「どうだ見ろよ、危ねェ瀬戸際を巧く切り抜けたつもりだ。ダイキョウ(兄弟)の死で、こんないいゴチ(仕事)にありつけるたァ思わなかったぜ。だが、ひとつだけ気に入らねェことがある。分け前(取り分)をやる兄貴がいねェことだ」
こう言いながら、四個の時計と財布一つをテーブルに並べた。
この言葉に死刑賛成論者は何と言うだろうか? 死刑の効果は? これがいい証明だ。
むしろ勝負師と呼ぶべきかもしれないが、イカサマ賭博師は、ふつう三人か四人がグルになっている。そのうち一人が、他国者《よそもの》のような顔付きをした男を見ると、二十スウか四十スウ貨の硬貨を手に握って、その男の前を歩って行く。着ている物や長靴や帽子などの形、髪型、多少とも陽焼けした顔、きょろきょろともの珍しげな態度、こんなことで田舎者だとすぐにわかる。この、私が言う他国者の特徴を前を歩っている勝負師が確認すると、例の小銭を上手に落とし、次に身をかがめ、後から来るカモが、いやでも気付くように銭コを拾い、立ち上がりながら悪党が言う。
「もし、あんた、もしかしたら、これ、あんたのポケットから落ちたんじゃありませんか?」
「んや、そうでないス」
他国者は、たいてい、こう答える。すると、悪党が、
「そりゃもう、これが値打ちもんだったら、半分は、あんたに差しあげるところだが、どうやら安い小銭らしいので、そんな心配はいらんようですな。ところで、どうですか、よかったら一杯おごらせてくれませんか」
もし他国者が受けてくれたら、悪党は、誰それに挨拶するときのようにネクタイに手をやったり帽子を脱いだりする。この合図を『サンジャン』〔聖ヨハネ〕といい、それを見た子分たちは二人より先に酒場へ走って行ってトランプ遊びを始める。すると、すぐ後から小銭を拾ったと見せかけた男がイカサマにかけようとしている他国者と一緒にやってくる。二人は腰をおろすが、他国者をカード遊びをしている一人の手の内が見えるところに坐らせる。カモの注意をひくように八百長の一勝負をし、相棒、つまり誘った男が、勝負はお強いんでしょうなと持ちかける。賭金のやりとりがあり、けっきょく、他国者がゲームに誘いこまれる。はじめは彼にツカせて、たしかに勝つと思いこませると、やがて自分からカードを配り、組になっている相棒だから当然の成行き、連れて来た男が儲かるように仕向ける。こうして勝負をするが、そのうち信じられないような不運で負けてしまう。悪者どもは笑い、ウスラ(ばか者)のお蔭で飲む。これはカモに付ける名で、この連中が企《たくら》み賭けるトランプ遊びを『花さかずき』と呼ぶ。
抜作《ぬけさく》が前記のような手口で酒場に連れて来られてトランプ遊びを見せられた。
「ふん、おれが賭けていいなら、勝ち点二十五ルイで勝ってみせるぜ」
賭が成立し、勝負することになったが、ゲームする前に『ウスラ』が大きな声で、
「ちょっと待った、みなさん、きれいな勘定ニコニコ友だち、だ」
と言うと同時に、ポケットから小さな秤《はかり》を取りだし、
「おめェさんらのルイ金貨が正しい量目かどうか知りてェな。おれのは正真もんだ。怪しいのがねェんなら平気のはずだ」
金貨を量った。相手の金貨は全部で十三グラン〔一グランは五四ミリグラム〕不足していた。彼は、差引き三フランを自分の分から減らし、金額が完全に一致したところで勝負をした。ところが、彼は負けて、ぽかんとなった。切札で勝つ瀬戸際だったのに。キングとクイーンと九の切札、それに別のキング二枚を持っていたのに。
イカサマに引っかからないためには、秤を持っているだけではだめで、見知らぬ者と飲みに行かないこと、とくに連中とはバクチをしないことである。
パリでは、朝から晩まで通りに人気が絶えない。あてもなく散歩をしている人たちである。しかし、人々は習慣的に主な街路に集まってくる。また、常日頃、民衆が集まる場所というところがある。たとえば、チュイルリー庭園、パレロワイヤル、植物園、ルクセンブルグ庭園、ルーヴル、カルーゼル広場、パレードがあるときのヴァンドーム広場、いろいろな博物館。けっきょく、至るところに大勢の他国者や田舎者がうようよしているというわけだ。
ここで私が云々する『ぶらつき族』なるものは、いつも身なりがよく、でないとしても上品で、すくなくとも小ざっぱりとしている。問屋の主人か、すくなくとも旅の商人だと思わせる。この旦那衆は三人で組んでいる。そのうちの一人が前のほうを歩っていて、一見して少々甘ちゃんだなと感じた他国者に気付くと、そばへ寄って行って、この近くの何々街へ行きたいのだが、どうか教えて下さいなと頼む。
すると、パリに住んでいない他国者は答えられない。しめたとばかりに悪者が、「わても皆目わからんのや。都《みやこ》へ来たのは、ずうっとずうっと昔のことやさかい、そこらがえろう変わってしもて、なんぼにも方角の見当がつきまへん」
とある町角へ来ると、迷い子はんが掲示板を読む。
「ああ、ここやがな。わてが言う通りは。やっとわかりましたわ」
他国者の横に並んで歩きながらお喋りをつづけ、いま見物しておくべき名所のことに話題を持っていく。王室家具保管所のことやらチュイルリー宮殿の建物群のこと、興趣ある景色のことや体験話、そのうちナポレオンの聖別式の衣裳の話になり、そのあとはローマ法王の下着のこと、さらにボルドー公の下着のことも言い、さらにまたオーセージ族〔ミズーリ川流域のアメリカインデアン〕やジラフ〔きりん〕やアルジェの大使の話になり、たぶん中国人のことにまでなる。おしまいに、『ぶらつき族』の男は、甲から乙へと話題を変えながら、いましがた言った名所が見られる観覧券を頼んである、二人用だから一緒に行ってくれませんかと切りだす。頼んだ人は誰でもよい、軍の将校、宮廷勤め人、うんと偉い誰それ、と券を約束していて、この近くのカフェで会うことになっているから、いっしょに行ってくれないかと口説《くど》き、他所者が同行を承知すると、後からつけている二人の仲間に適当に合図を送る。カフェは遠くなく、まもなく他所者は案内人と一緒に到着する。店に入ると、案内してきた『ぶらつき族』の男は、待っている人が来たら報せてくれるように頼みに行くフリをして帳場へ行ってから、玉突き部屋へでも行っていて下さいと誘い、彼もすぐ後からやって来て、もうすぐ相手の人が来ますからと告げて、
「待ってるあいだ、ほんの一口受けてくれまへんか」
その一口を受けて、玉突きゲームを見物する。そのうち、ゲームをしている仲間の一人が、まぐれ当たりのフロックをすると、案内人が、ほらあれ、と他所者にフロックしたことを指摘する。さて、サクラ組はゲームをつづけ、一突きごとに下手な突きがありありとわかる。膀つことになっている仲間が阿呆をよそおう。案内人が、
「あん人は、負けたくて勝っとるんやで。伯父さんの遺産そっくりもろてな、ここで無一文にならはっても、まだ仰山《ぎょうさん》あるんや」
こんなことをぺらぺら喋りながらポケットの銭をじゃらじゃら音をさせる。変てこな一突きがあって賭けになり、案内人もゲーム仲間に入り、いっしょに組んで加わりませんかと他国者を誘う。もし他国者が玉突きゲームに弱いなら、彼の金は消えてなくなる。
他国者とて、いつも賭けを自制しているとは限らない。ときには、突棒《キュー》を握りながら、下手なフリをしているサクラと腕くらべをしようと思い、突き勝ちになろうとするが、突けば突くほど捲きあげられるのが確かになってくる。下手をよそおっている者がフロック、フロックをつづけて勝ち抜いてしまう。私は、こうした勝負で三、四千フランまで負けた者を知っている。
パリ大学参事のサルヴァジュ・ド・ファヴェロル氏は八十歳ちかくの人だったが、右のような場所で時計二個、金鎖一本、ナポレオン金貨二百、それに加えて署名した六百フランの為替手形を失った。ゲームはしなかったのだが、賭けていたと騙《だま》され脅かされたのだった。案内人は、彼を元医者で博物学のアマチュアだと判断し、ガラガラ蛇の毒液の性質や効果を知る目的の実験に立ち会わせてあげましょうと申し出た。
「で、その蛇だが、いつ見せてくれますかね?」
サルヴァジュ氏がしつこく繰り返した。
「すぐにもです。すこしでも早くガラガラをお見せしたくて、うずうずしているんです」
案内人も繰り返し言ったが……彼が聞いたガラガラは、老人の金の音だったのだ。
こんなふうに人をだまして金品を奪うペテン師には『ビリヤード・ガイド』という名が付いている。私が警察の仕事をはじめたばかりの頃は、この手の悪党が二十五人から三十人ほどもいたが、今日では、その五分の一に減った。この減少は、あえて言わせてもらうと、私が行なったのだ。今でもやっている連中は金持にはなっておらず、その他の者は、多少の差はあるが、長い拘留のあと四散している。私のところでは、ビリヤード・ガイドは行政処分にしかできず、つまり自由裁量的なもので、数カ月ビセートルへ送り、出所したら憲兵が故郷の県に護送する。私は、いちおう、刑法第四〇五条の詐欺罪を適用することにし、私の申し立てが正しいと判断されると、現行犯で逮捕された者は二、三年の投獄を宣告される。
かれらの犯罪方法を暴露して厳罰に処することは、首都の浄化に大いに貢献する。
地金師
詐欺と窃盗を兼ねる借り入れサギは、他人の財産を横領する最も巧妙な方法の一つである。
革命のどさくさの時くらい借り入れサギ師が派手に活躍したときはない。かれらの仕事に都合のよかった絶好の時期で、次のようなやり方で行なった。
中年の二人の男が急ぎ旅をしている。召使いに拵《こしら》えた第三の男を伴に連れている。
この旦那がたは、どう見ても金満家ふうで、とりすました顔、上品な物腰、適切な言葉、宮廷人のような行儀のよさを備えている。
かれらがどういう人物なのかまったく見当がつかない。ただ、その散財ぶりから判断して、お金持だということはわかる。
かれらは特級の旅館か最高の格式があるホテルにしか泊まらない。とくに、宿の主人が地方の大物であるところを選ぶ。かれらは、いつも前もって宿の主人の資産状況を知っていて、もし現金をたくさんもっていないようなら、どうしても彼の信用に望みを托さねばならない。この関係の事情を知るには郵便局長が好都合な情報源になる。
二人の旅行者は、これはと選んだ宿に着くと、いちばん上等な部屋をとる。えらい豪勢なお客が御入来と、宿のほうは家をあげて大騒ぎをしていると、ニセ下男が馬車を片付けたり主人の荷物を降ろしたりする。この作業は、十中八九まで宿の者の眼の前でする。主人、女主人、使用人、馬小屋の小僧、料理人から皿洗いまでが、そういう機会に会ったことを大喜びし、お客から眼をはなさない。みんな、ちょっぴり好奇心をもつ。いやでも荷物を降ろすのを見せられては、ちょっとでも新来の客人の便になること、不便をかけることを見のがさずに気をつかう。これは宿の者に荷物を運ぶのを手伝わせて重さを知らせるためである。下男が運びはじめると、誰しも手伝うのをいやがる筈はなく、触わってはいけないと言われる箱には大きな不安の種を植えつける。見たところ重そうで、なにか神秘な感じをあたえる。となると、あれこれ憶測の輪がひろがり、到来の客はクロイソス〔ギリシア史、リューデイアの王(前五六〇〜五四六)、百万長者〕のような人たちで、宝物を持って旅をしているんだということになり、どこまでも信頼の度をたかめ、ますます親切に、こまかく気をつかい、あらゆるサービスを惜しまなくなる。お客のために全力を尽くす。地下の酒倉、料理場、馬小屋、それに家全体が革命さわぎ。
私が、そのやり口の一端を述べた旅行者たちは、わざと見せて注意をひかせた箱が、どのくらいの価値があるかは元より承知している。かれらと連繋して労働の主役を演じている下男は、皇帝陛下の御用箱を扱うかのように慎重に、牝牛のように苦労して箱を引っぱる。たいへんな努力をして持ち上げるわりには、なんとも小さな荷物である。
「ほォ、羽根は入っていないようですな」
見ている者たちが言うと、
「だと思うな」
労働の主役が答えて、宿の女主人か、その場にいる誰かのほうへ首をのばし、さも内緒だというふうに、そのくせ皆に聞こえるように、
「大金なんだ」
「どれ、どれ」
五、六人が親切心から繰り返す。
「手伝ってあげますから待ちなさいよ」
主人が、重い荷物は何だろうと思って前へ出てくる。そして、箱が地上に降ろされると、みんなが箱の閉じ具合を調べにかかるが、なんとも巧く蓋ができていて感心する。みんな、それぞれ、何が入っているのかなと考える。その中で最も思案をめぐらすのが宿の主人だ。サギ師たちの下男は、八方に眼と耳をきかせ、もしも革命で没収した聖職者の財産を担保にしたアシニヤ紙幣の時代なら、主人は、正貨ではなかったのかと、がっかりした身振りや気持、まなざしを見せるが、その身振りや気持、まなざしで話に乗るかどうかの目安にする。そして、こいつは間違いなく成功するなと見てとると、旅行者たちは、攻撃のチャンスの瞬間を狙う。
相手に好意を持たせるように口説けること確実なりとなったある晩、主人か女将か、それとも二人で部屋に上がって来てくれないかと頼む。さっそく取るものも取りあえず招きに応じてやってくる。すると、旅行者の一人が下男に、
「コントワ、席を外してくれないか」
コントワが出て行くと、すぐにもう一人の客が話をはじめる。
「ねェ御主人、お互い、人間の誠実さが珍しくなった世の中に生きていて、あなたがたのような、まっとうな方に出会ったのは、ほんとうに、たいへん幸せなこととしなくてはなりません。お宅に泊まって、幸い、そういう方々と出会うことができました。そこで、わたしどもにとっては誠に重大な秘密を打ち明けても何の危険もないことを、あなたがたの当然の評判が保証してくれるものと信じます。今日、貴族が、どんなに激しく追求されているかはご存知のとおりです。貴族の名がついている者は猫も杓子も追放される。わたしどもも、革命の嵐から遁れて自分の国を仕方なく逃げだしました。不逞《ふてい》のやからは、わたしどもの首と財産を欲しがり、それを放棄させようとしています。そのときが来たら、わたしどもも、かならずやそうなりましょう。だが、ありがたいことに、今は、ごらんのように、一時的ですが、安全なところで善良な人たちと一緒にいます」
これは序の口、それとも前口上で、旅の客は、苛酷な不運な話を口から出まかせにあれこれ喋ると、いちおう、ちょっと一休みする。そのあいだ、聞き手が話し手の立場にどの程度の興味を示すかを窺いながら待つ。もし、満足できる手ごたえありと見てとると、さらに言葉をつづける。
「あなたがたは、旅をしていると金貨や銀貨を没収されることはご存知ありますまい。貴族として怪しまれて調べられるときのことを怖れ、何よりも心配して現金を隠すものなんです。わたしどもは五万フランの金貨を持っていました。それだけの額ともなると厄介なものです。そこで、取り調べから巧くのがれるために、金貨を溶かして地金にしました。ところで、こういう時代では、どこまで追放がつづくものか見通しがつかないし、急いで出発だというような時があっても、今のところ、ほとんど手許が不如意なんです。これまでは、すこしばかり別にしておいた金で足りてきたんですが、この先、どのくらい旅をするのかわからないけれども、多分いっぱいしなくてはならんでしょう、今の金欠状態で、どのくらいの期間が保《も》ちこたえられるのかもわかりません。という有様で、どうしても現金が必要なんです。地金では御者に払えませんからね。金銀細工商に頼むことはできますが、かといって密告しないと誰が保証しますか? この懸念から、つまりは、あなたがたの好意にすがるほかないと決心したのです。できましたら、地金の一個か二個で五、六千フランをお貸し願えませんでしょうか(要求する割当額は常に旅館の主人の金銭的資力に釣り合わせる)。言うまでもなく、元金の返済には利息を支払います。返済期は、あなたがたの都合のよいように定めていただき、期限切れの場合、地金の使用の必要があれば、なんの支障もございません。この件に関してまったく自由である旨の一札を入れます」
籔《やぶ》から棒の申し出なので、宿の主人が返答もできかねて眼を白黒させていると、やがて小さな箱から地金が取りだされて一同の眼の前にさらされた。一個の価値では、借りたい金額に足りないといけないから、一つでなく二つあずけますと言われる。二倍の抵当物件だ。こんな安全な投資は、またとあるものではないし、おまけに、もし返済がなかった場合には担保が我が物になる。こりゃどえらい幸運だぞ。といったところで、宿の主人が、ぴかぴか輝く有利な話に一肌ぬぎましょうと承知しても別に不思議でもなんでもない。そうかといって、彼は拒絶することもできるのだ。そこで、サギ師たちは、こう提案する。あなたの善意はゆめうたがっているわけではありませんが、なんなら、財布の紐をゆるめて下さるような土地のお金持の誰方《どなた》かを見つけて下さるか、それとも、金銀細工商のとこへ一走りしてもらえたら大損を覚悟しますから、と頼みこむ。ここで、事の成行き次第で、途方もなく高い利息を申し出るかどうかはデリケイトな駆け引きである。とにかく、さっそく、宿の主人が、知人のうちの親切な資本主を探してきて商談が成立する。しかし、旅行者は、現金を受けとる前に、念には念を入れるのが私どもの建前ですからと、金の純度を確認して下さいと貸す側に要求する。
「これは、わたしどものためでなくて、あなたがたのためです。わたしどもは、ルイ金貨、デュカ金貨、ゼッキーノ金貨、スペイン金貨など、いろいろな種類のものを溶かしました。というわけで、わたしどもが、どんなものを持っていたかを知っていただければ、この地金についても御安心されるものと思います」
すると、よくあることだが、貸す側が、
「いやいや、あなたがたの誠実さにお任せしますよ」
と謙遜すると、ニセ貴族は主張する。
「でも、宝石商を相手にしているとして、その相手に疑いの念をもたずに、どうやって品物を確認しますか?」
そこで、各人が、めいめいの意見を述べるが、人間の考えは、いつも、それぞれ食い違いがあるもの、つまるところ、みんなの考えはアヤフヤなものだということになる。すると、悪党の一人が、ふいに大きな声で、
「いやはや、まったく、みなさん、ほんとに易しいことじゃありませんか。相手の宝石商を信用しないこと、このくらい易しいことはないでしょう。そこで、どうです、任意の地金を鋸《のこぎり》で挽いて、最初に出てきた屑を試してみてはいかがでしょうか?」
この案は申し分のないものと判断され、一同の同意のもとに、すぐさま貸し手が地金にさっと一引き鋸を入れ、その貴重な少量のノコギリ屑を、わざわざテーブルに用意した紙に集める。作業が終わり、借り手たちがノコギリ屑を紙につつむ。決定的な瞬間。かれらは要領よく紙包みをこさえるが、その動作のあいだに銅屑の紙包みと純金の屑が入った瓜《うり》二つの別の紙包みとを取り替える。それを貸し手が検査してもらいに出かけるが、まもなく晴ればれとした顔で戻ってきて、一日が無事にすんだ満足した労働者のように揉み手をしながら部屋に入ってきて、
「みなさん、これは第一級品です。これで落着です。お金を貸しますから、どうか地金をあずからせて下さい」
「もとより当然のことですが、この世では、誰が死誰が生きるか明日のことはわかりません。一切のごたごたを避けるために、この箱(常に箱を用意している)に地金を厳封しておいて、あちこちにお互いの封印を捺しておくのがよいと思います。そうしておけば、わたしども自身が引き取りに来られない場合でも好都合でしょう。お手数ですが領収書を交換させていただき、あなたは箱をあずかって誰かに運ばせる。それで言うことなしです。運ぶ人は何事も知りません。領収書は、こんなふうにします。
『ここに私は一個の箱を我が手に受領したることを実証し、本受領書を提示して……額の金員を支払う者に該箱を返却するものなり』」
封印をすることと、この用心ぶかさでサギを強固にし、誰も地金を調べないことが保証される。こうして、惜り入れ詐欺師は他の地方で稼ぐ余裕をつくり、他の地方は知らぬが仏、そこの土地柄と状況に応じて、いろいろと手を変えながら、またぞろ仕事を始めるのである。
借り入れ詐欺師たちの事業は、アシニヤ紙幣でも損をしなかった。ただし、おなじ目的をとげるに新しい方法を使った。次の実話が証拠になろう。
この類に入る二人の盗賊、『チビ兵』ことフランソワ・モトレとイタリア人の『フーテン野郎』ことフェリチェ・カロニアは、三万五千フランの値がある切子ダイヤとサファイアをあしらったネックレスを作らせて、この品と計算書を持ってブリュッセルへ出かけた。同地にはチンベルマンという顔見知りがいた。金銀細工商をやめて有名な質屋の主人になっていた男である。二人は、サブロン広場にあった彼の住居を訪ねて、そのネックレスで二万フラン貸してもらいたいと要求した。チンベルマンは慎重に宝石類を鑑定し、その価値に疑いなしと認めると、一万八千フランは貸すが、それ以上はダメだと言った。借り入れ師たちは承知し、その場で質草が箱に納められ、各自が封印を捺した。一万八千フランから貸し主の取り分の利息を天引した額が勘定され、チビ兵とイタリア人はパリへ戻って行った。
二カ月後、かれらはブリュッセルへ二度目の旅をした。返済期限が来ていたが、かれらは正確に守った。チンベルマンは、その几帳面さに感心し、手放すのは惜しかったが、ネックレスを返す際に、今後ともお役に立ちたいと言い添えるのを忘れなかった。二人は、その申し出を喜んで受け、必要なときは世話になりますからと約束した。さて、この約束をしながら、詐欺師たちは、こいつに必ず仕掛けてやるぞと肚をきめた。もっとも、相手も質屋商売、しこたまお客から捲き上げていたが。
その頃、パリに、四十年このかた王や王妃、王子や王女の装身具の御用達を独占していた宝石商がいた。ヨーロッパの諸劇場の舞台も彼の商品が光りかがやいていた。彼の店は、隅から隅までダイヤモンド、エメラルド、サファイア、ルビーなどできらきらしていた。ところが、ゴルコンド〔一六八七年に滅亡したインドの王国の首都(今日のハイデラバード)、そのサルタンは無数の宝石を集めていたという〕は、それほど多くの財宝を所蔵していたわけではなく、みんな本物まがいの幻物だった。そのピカピカの魔術には真正の価値はなく、いかにも豪華な色彩の魅力をもった光の焔が、実質のない作り物に虚妄の光を反射させているにすぎなかった。とはいえ、一見したところ、まやかしどころか、その店以上の本物らしい光景はまたとなく、そうした数々の貴金属品の所有者であるフロマジェ氏は、いわゆる玄人の鑑定家というより、むしろイミテーション作りの名人で、素人は、ただ眼がくらむだけである。イタリア人とチビ兵は、そうそういつまでも三万五千フランのネックレスを持っているわけにいかず、フロマジェ氏の腕が確かなことを知っていたので、彼のところへ行って『複製品』を作ってくれと注文した。そこで、宝飾品の模造師が仕事にとりかかり、ちょっとした傑作を作りあげた。二つのネックレスを見くらべると、どちらが姉か妹か区別がつかなかった。どう見ても単なる同類の感じではなく、ほれぼれする瓜二つの双児だと言えた。つまり、その二つは、代わる代わるソジ〔モリエールとプラウトウス作『アンフィトリヨン』の中の召使い、瓜二つの人のたとえ〕の役がつとまるくらいのできばえで、どこの宝石商に見せても、眼のそばへ持って行って確かめる気など起こさせない代物になっていた。
チビ兵とイタリア人のダチ公は、これだけのできなら、たといチンベルマンがゴマ化されなくても、もって瞑《めい》すべしだとした。そこで、またぞろブリュッセルへ出かけ、もう一度、姉のほうを前と同額で質入れした。二日後、チビ兵が高利貸し質屋のところに現われて、ネックレスを受け出しに来たと言い、金を払い、装身具が入れてある箱が渡された。紐と封印を切り、担保の品を確かめるために箱を開けた。しかし、ユダヤ人が、支払われた金を確認しているあいだに箱の中の姉をまったくそっくりな妹とスリ替え、それを机の上に出しながら、素早い手さばきで気付かれずに、だぶだぶのマントの裏に作ってある脇ポケットに姉をすべりこませた。チビ兵が帰ろうとし、チンベルマンに挨拶し終わったところへイタリア人が入ってきた。おびえた顔付きで友だちのそばへ寄ると、
「オイ、きみ、困った報せを聞かせに来た。きみがシャンプウ・ド・ゲント氏に振り出した手形が落ちていないんだ。買い戻しを求められている。七千フランに上がるんだぞ」
「なんてこった」
「だからもう、えいくそ、そのネックレスを旦那の手に戻して事に備えるしかない。またの時に受け出しに来たらいい」
すると、チンベルマンが、
「お好きなように。金庫を開ける前に言って下さいな、何をあずかるんですか、ほかの品、それともネックレス?」
「ネックレスだ」
とチビ兵が言い、こんどは妹を質入れた箱に紐がかけられ封印され、二人の詐欺師は一万八千フランを持って出て行った。
それから幾月かたって、借り主が戻って来ないのに待ちくたびれたチンベルマンが、封を破ろうと思いたった。ああ悲しいかな、切子ダイヤやサファイアが消え失せて、人造宝石と金の代わりに銅を使ったネックレスがあっただけだった。だが、その手並は天晴れというほかなかった。
総じて宝石細工商、宝飾品商、ダイヤモンド商などは、妹を作ることにはまったく平気である。私は知っているが、四人以上の者がブラバン〔ブリュッセルを中心とするベルギーの州〕の高利貸と同じ手口で騙し盗られている。悪党どもの想像力は豊かで、今日ある悪だくみを考えついたかと思うと、明日は別のを発明する。かれらが大抵いつも成功するやり方はこうだ。
値段の張る物を買いに店に入る。あれこれ選んで、やがて売れ行きのよい品に定め、二言三言で売買を取りきめる。ところが、あいにく持ち合わせの金では入用の額に足りない、内金を払って出直して来ると言い、その品がどうしても欲しい、他のと替えないように箱に入れて紐をかけ封印をしといてもらいたいと頼む。かなりの内金に眼がくらんだ商人は、かれらの申し出に応じ、つい手練の指業《ゆびわざ》を見のがしてしまう。結果はどうなるか? スリ替えた品の箱に紐をかけたりハンコを捺しているあいだに、肝心の商品《ぶつ》は堅気ふうの男のポケットにすべり落ち、彼が戻ってくるかどうかはあてにならない。あさってが過ぎても商人は大事に内金を蔵《しま》っておくが、けっきょく九割の損をする。そこで、ひどい目に遭った日が土曜日だったのを思いだし、その一週間は何も売れなかった勘定になると悟る。
海をへだてた隣りの人たちが、フランスの気候を好むようになってからというものは、テムズ川の霧をのがれて憂うつから脱出したと思いこむ一風変わった大勢の連中が、ひっきりなしにフランスの四方八方を歩きまわっている。こうした退屈しきっている旦那《ミロード》たちを、そこらじゅうの宿屋が大歓迎する。客のふところが英金貨《ギニー》で唸っていると勘ぐるからだ。かれらは風変わりで気まぐれ、移り気で気むずかしく、応待するのが実に厄介である。しかし、いやな顔をするどころか、一所懸命に連中の望みをいれて飛びまわり、かれらが突飛で薄気味わるく馬鹿げていればいるほど、かれらの意に沿って気にいるように努める。ギニー、ギニー、これが宿屋の亭主に微笑みかける。イギリス金貨が世界じゅうのホテル業者の媚《こび》へつらいを左右しているのだ。さて、風変わりな旅行者をもてなすのが世間の評判になると、いやでも悪人諸君の注目のまとになる。当然のことだが、かれらは実態を観察し、その観察に基づいて稼ぐことを知っている。たぶん、読者にとっては興味がないかもしれないが、以下、かんたんに人を信じて儲けようと思う心理につけこむ独創的なサギ話を紹介しよう。
ここで、ひとつ、一人のイギリス紳士とフランス人かイタリア人の下男ジョンを想定しよう。このジョンという名前の響きが、日常の生活で、いやしい下等な者だとする専政的な習慣をもつ横柄で、陰気で、ぶっきらぼうな主人の感じが出るのである。
ジェントルマンが駅伝馬車を降りる。耳の下までずらした黒い頭巾をかぶって、けったいな頭の形になっている。どうやら苦しそうで気むずかしげで、やっと何かの合図をしている。脇目もふらずに庭を横切り、まとっているアルパカの長外套が敷石を引きずっているのも気付かず、通路に出迎えている可愛らしい顔の女中たちにも見向きもしない。一切無関心、嫌悪万物、不能忍耐、これが彼で、たった一度だけ振りかえり、ジョンがソーダ水の瓶と貴重な保健薬『携帯用ロンドン新薬』を持って随行しているのを確かめるだけである。これがないと、彼が鬼でないかぎり、どんなに偉そうにしていても、四マイルの距離も旅ができない。ところで、この携帯品そのものが、ちっとばかし変テコな物であるのに、かてて加えて、その服装やその動作、その他いろいろな状況の中での、ちらっと振り向いた様子の気味わるさ。こうして、ジェントルマンの御到着から三時間もたたないうちに、宿をあげて変人として見るようになり、宿の主人がジョンに尋ねる。
「お前さんの主人って、いったい誰方なんですか? 東ゴートの変わり者みたいだね。御受難〔キリストの受難〕よりも悲しげで、ぜんぜん口をきかず、牛みたいに大息吐息だ。ほんとだよ、これまで、かなりのイギリス人を見たが、あんな気むずかしい人は来たことがない……いつも後についていなくちゃならないんですかい? 好きでやっているの、それともイヤイヤながら? 勝手にやったり、やめたりしているの?……あのひと、病人それとも阿呆?」
すると、誰よりもお喋りなジョンが答える。
「そんなこと言わんで下さいな。あのとおり、うちの旦那さまは、この上なくいい方なんだが、人となりを知らんとわからんさ。いっしょに四年も旅をしとるが、けっして他人をじろじろ見たりはなさらねェ。うん、ほんとだとも、嘘は言わねェ。今のところ仕えていて悪い気分はしていねェ」
「へー、四年も旅をねェ……こんどはどこへ行くのかね?」
「どこへ行くかって? 旦那さまに訊くんだな……旦那さまも知らんのだ……散歩しているんだよ。今日はここ、あしたは別のところ……どこか落ち着ける所を探しているとはおっしゃっているが、年柄年中の旅の空さ」
「そんなに旅をすると、お金がかかりますな?」
「うん、そりゃもう。だが、おれは、御者にやる酒手をもらうほかは旦那さまの懐《ふところ》具合は知んねェな」
「なら、そうとうなお大尽ってわけで?」
「金持かということかい? ご自分でもわからないくらい持っていなさるんだ……一日に千リーヴル・スターリング〔イギリスのポンド〕を費《つか》われたのが何度かあったのを覚えている」
「ほほォ、そうだ、お前さんたちは、この土地に落ち着くのがいいと思うね。いいところだよ。それに、今にわかるが、ここの人は人柄がいい。つまり、言うことなしのところだ。猟ができる森もあるし、釣りが好きなら、どっさり魚がいる川がある。牧場、野原、ブドウ畑、果樹園もある。年中やっている芝居小屋やショーを見せる劇場もあって、いい役者さんたちがおる。ここの社交界は立派な方たちばかりで、郊外のお屋敷には元帥閣下、そのすぐそばの居館《シャトー》には伯爵夫人がいらっしゃって、某公爵さまが恒例のように夫人のところに季節のいいときをすごしにお出でになる。さらに、侯爵や将軍や勲爵士《シュヴァリエ》の方々、市長さんや助役の奥さんは言うまでもなく、週に二回お集まりになる……ここには気晴らしがいっぱいある……文学サークルもあって議論しあい、あらゆる新聞を読む。農業振興会は、この国の最も立派な学者たちをかかえているのを名誉にしている……すばらしい散歩道がいくつもあり、種痘委員会もある。王国一の美しい教会、冬には素敵なコンサートや舞踏会、夏にはチボリ〔ローマ近郊の保養地〕人がセレナードを奏でる。年じゅうミサ曲付きのミサが行なわれ、大祭の行列のみずみずしい若い娘たちは、いくら眺めても見あきない。だから、けっこう楽しいと思うがね……ここにはまた、立派な兵営があって、秣《まぐさ》も上質、二千人以上の騎兵がおり、あかるく輝くコーヒー店、粋な酒場、パリにあるようなビリヤード場があって、素人衆も粗末にしないこと請合い。第一級の腕前のハスラーたちがいる……言うのを忘れていたが、駐屯隊の将校さんたちは、眼の保養になるほどの惚れぼれする騎兵さんたちだ……四年間も旅をしていて、こんな町にたんと出くわせたかね?……もっと言わせてもらうなら、ここは県の中心地で、県庁、地裁、治安裁判所、重罪裁判所、各行政機関、司教館、大学、相互教授、実業学校、税務署、そこらあたりにはないような病院があり、カプチン僧もおるし告解僧やイエズス会士もおる。十五日ごとに市《いち》がたち、その他の楽しみが手のとどくところにゴマンとあって、詳しいことを話したらキリがないや」
「あんたが並べてくれた絵には気をひかれるよ。旦那さまが普通の人だったら、ここにしばらく滞在されるのは間違ェのねェとこだが、知ってのとおり、しょっちゅう身体のことを苦にしておられるんでねェ」
「それだけのことなら、ここのお医者さんがブルセェ〔フランソワ・ブルセェ(一七七二〜一八三八)、フランス人の医師〕療法をして、気持よく吸玉《すいだま》を使ってくださるよ」
「気持がいい吸玉か。そうだろうな。だが、空気なんだ。その、旦那さまが格別に気になさるのは空気なんだ」
「ここの空気は、きれいだよ。病気なんかになりっこなし」
「たしか、病院があるとか言ったっけ」
「ああ、あれは貧乏人のためのものだ。昔は、殺されないかぎり誰も死ななかった」
「ここの医者はブルセェ療法をする……吸玉は気持がいいからな。空気はきれい。では、こんどは水という段取りだ。あの、水、水、それこそ旦那さまの命の綱なんだ」
「なんなら、ここの水以上にきれいな水が他で飲めるか賭けてもいい」
「で、酒は?」
「天下の美禄だ」
「新鮮な卵はあるかい?」
「ニワトリからの採りたてだ」
「ミルクは、バターは?」
「ありがたいことに極上のものがどっさり」
「ローストビーフやビーフステーキも、もしかしたら土地の産物かな?」
「ここの牛はでっかい」
「なるほど、してみれば、ここは地上の小楽園だ。おれ、ここに落ち着きたくなっちゃった。ああ、旦那さまが、おれの願いの半分もわかってくださればなァ……だが、とても考えられねェこった。旦那さまは、なにもかもがうんざりで、おっくうで、やりきれんのだ。いっしょにヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカと世界の隅々までをまわり、いい景色、山、急流、みずうみ、底なしの淵、火山、滝など、行かなかったところはない。それなのに、旦那さまを引きつけるだけの凄く美しい自然なんてものは一つもなかった。着く、眺める、あくびをし、また出発する。ほかへ行こう、ジョン、こうおっしゃって、おさらばする」
このやりとりの後、ジョンは、旦那さまに御用うかがいに行く。そして、たちまち、数えきれないほどの富の話がひろまり、宿に泊まっている旅行者の旦那こそが当人で、数えきれない富の持主だが、たいへんな変わり者だと知れわたる。宿の主人は、そういう宿泊客があったことに腹がたつわけがなく、召使いたちに応待の心得を教え、彼の女房は、たえず口のあたりに微笑をうかべ、言葉に敬語を使う。いいな、いつもの親切を倍にするんだ。ミロードさんについては耳と足を惜しんではならんぞ。こうした命令が出るころを見はからって、すかさずジョンが階下に降りてきて、
「明日は、この界限をちょっと散歩なさるそうだ。朝早く起こしてくれとおっしゃった。いつもより御機嫌がいいよ。あの暗い御気分がふっ飛んでくれたらいいんだがなァ。いや、だめだ、気まぐれもいいとこなんだ。五分もすると、もう天気が変わってしまう。なんにもアテにはできねェんだよ」
その晩、旦那さまは生卵二個と水一杯の夕食をとり、翌日の朝食に水一杯と生卵二個を召し上がりになる。度を越した飲まない食べない御方である。食養生をしておられるのだ。ジョンのほうは別で、もも肉の薄切りを何枚も丸呑みにし、おっそろしく早く何本も徳利を空ける。食事がすむと、前の晩に計画した散歩に出かけ、陽が沈んでからでないと戻って来ない。さて、ご帰還になると、意外や意外、宿のお上さんに挨拶をされる。いくぶん今朝より御機嫌がよいようだ。たいへん陰気な感じだが、二、三の挨拶の言葉を申される。狼が、おとなしくなり始めたのだ。いくらか額の皺《しわ》が消え、黒い頭巾も、すっぽりと眼の上まで下げていない。うれしい効果だ。人の心を奪う素晴らしいその地が、ミロードさまの憂欝症に、はっきりと良い影響をあたえたのだ。ジョンだけでは、そのように主人を急に変えることはできない。あきらかに恢復のきざしが見え、さらに、驚くべき徴候が現われるのである。というのは、旦那さまが、六皿のフランス料理が付いたローストビーフを注文され、酒倉の極上銘酒を味わい、お茶にラム酒をたらし、おやすみになると、ぐっすり眠られたからだ。ジョンは喜びを爆発させ、もしかすると主人は助かるのか、もうすぐ死ぬのではないかとも考え、でも、あんなにお食べになったのは奇跡だと大声をあげ、みんなもミロードさまのようなお客様に引きつづき御逗留してもらいたいと、ジョンと一緒に大喜びをする。
旦那さまがお目ざめになる。たいへん心地よく一夜をすごされた。そして、ついぞこのかたなかったように楽しく食事をとられ、満足しきって宿の主人を呼ばれる。ジョンが四段飛びに階段を降りる。
「おれの思いちがいかな、こんなのは初めてだ。今日の旦那さまは本当に元気だ。これまで、あんな旦那さまを見たことがねェや。こうおっしゃる、ジョン、もうどこへも出かけないぞ。すまんが宿の主人にすぐ上がって来てもらうように頼んでくれ、とな。たぶん、御逗留なさると思うよ。ぜったい間違いねェったら」
「ほんと?」
「こりゃ、お宅には福の神だ。あの方が、どう思われているか知らねェが、何か取り決めをされると思うな。相談されたら受けるんだ。逆らわないことが肝心だ。知ってのとおりイギリス人というもんは、ときどき、いろんなことを思いつくからな……だが、旦那さまは気前がいい方だ。なんとなく逗留なさる気があるように感じるんだがな」
「まことに結構なことで。そのように努めますよ、ムッシュ・ジョン」
すぐさま、亭主が旦那《ミロード》さまの言いつけに応じて伺候すると、いかにも打ちとけた態度、つまり、顔は笑っているようで、ズボンの縫目にそって腕をぶらつかせ、頭には何もかぶらないで現われる。
「ミロードさまには私めにお話がありますとか?」
「イエス、イエス、足ヲ、ジユウニ、ゴシュジンドノ」
亭主が何のことかわからないでいると、ジョンがやって来る。
「殿さまは坐れとおっしゃっておられる。肱掛椅子《フォトゥイユ》に掛けな」
「イエス、イエス、フォトゥイユ」
お偉い外人さんが下男の言葉をとって、
「オマエト話シアイタイ。イマスグ解決、オカネイルカ。食ウ寝ルトコロ、住ムトコロ。アタタマル、センタクスルネ。コレガサキ。ふぉっくす狩り、ウマ四ツト犬、ジョンノホカ四ニン、ワタシノ馬車、ワタシノ領地」
さっぱりわからない亭主が返事ができないで困っているのを見たジョンが主人の代弁者になる。
「旦那さまは、まず第一、殿さまが一年間お宅に逗留なさるとしての食費と宿代はいくらかと訊ねておられる。次に、狐狩りをしたいが、五人の下男と四頭の馬や犬の費用はとおっしゃっている」
「そいつは、考えさせていただかねば」
「カンガエル、カンガエ、イラナイ。スグ話セ」
「では、えーと、一万五千フラン、多すぎますかな?」
「一万五千フラン……アア、ナント立派ナヒト……正直アタマ、神ヤドル。オマエノ正直、ぐらんど・ぶりたにかノヒトビト、シンセツ、カンシャ。イツモ、ワレワレ、アタマデ計算、えこのみネ。タマシイ計算、贈物《りべらりてぃ》ネ。ワカルカ、ゴ主人ドノ? えこのみ一万五千、りべらりてぃデ二万ト五千」
「なんて良い御方でしょう、ミロードさま」
「ヨクナイヨ。オマエノ旅籠《はたご》、イギリス人タイヘンタノシイ。オクサン、ヴぇりい、キレイ。コドモカワイイ、イイカゾク。タイヘンイタズラ、タイヘンスキ。アア……ワタシ、コドモノトキ、イタズラネ。ワラッテイルナ、ゴ主人ドノ……アア、ワルイヒト、ワラウナ」
「ミロードさま、つい、その」
「ジョチュ、サン、あくせさり、クロイ眼、アカイホッペ、タイヘン気ニイッタ。ココノ土地ホレボレスル。キレイナ丘、キレイナブドウ畑、キレイナ野菜畑、キレイナ岸ベ、キレイナ川、キレイナ泉、オイシイ水。ココニ牙虫類《イトロフィル》愛好会アルカ?」
「ここには、ミロードさま、古代文字《イエログリフ》などはございません」
「アア、ザンネンムネン、フランス人、ジブンノ国ノタカラ知ラナイ……イギリス、いとろふぃるノホンバ……ワタシ、いとろふぃる会ノカイチョウサン……オマエ、カイインニナルヨロシ」
「旦那《ミロード》さま、殿様の一員になる名誉をになうような者ではありません」
「ユルセ、ユルセ、牙虫《がむし》ドノ。ジョン、いとろふぃるニナルヨウ、今イチドススメロ。ゴ主人ドノ、ココノ太陽、ワタシノ夢ドオリ、大地ノオモムキ、自然ノママ、タノシイ。ソヨカゼ食欲ススメル。イツモ気モチヨク、タイザイシタラ、シアワセイッパイカ? ワタシノめらんこりナオス魅力ニ、二万五千フラン進上。返答シロ、二万五千フランモラッテクレルカ?」
「もったいない、ミロードさま、望外のありがたさでございます」
「アアソウ、モラッテクレル」
「全力をあげて御満足がいくようにつとめまする」
「マンゾクサセタイカ?……アア、ジョン、旅スル者ノタカラ、アタエロ」
ジョンが机から大きな袋を引っぱり出して主人に渡すと、ミロードは袋から金貨を百フランずつ掴んでテーブルに並べ、十五の山ができると袋をジョンに返し、木綿の頭巾を寄越せと命令する。これは、いよいよ大詰めが近づいた合図で、どたん場の離れ業が演出されるのである。たしかに、宿の主人としては、その旦那のように鷹揚に支払ってくれる泊まり客には、それ以上の要求はできない。いっぽう、にせイギリス人の旦那は、彼と家来が一カ年の滞在をするという契約を交わし、おたがい、その実行を保証して違約しないという手だてをしておきたいと言う。
「タンス、アルカ?」
「はい、そこにございます」
「アア、タンスアルネ。コノ頭巾ニ金貨千ルイト五百フラン入レル。オマエモオナジ、五百フラント千ルイ入レル。オタガイ、アンゼンノタメ頭巾タンスニ入レル。ワタシ、カギモツ。八日カンデカエル。ヤドチン、ホカンスル。月ノスエ、モドルアル。ライゲツ二日、キゲンネ。モドラヌ、ジョウマエコワス。ヤクソクヤブタ、頭巾ノカネ、モラウ自由アル。ワタシ、オマエ見ナイ。ホウリツ、ベンショウ、ヤクソクヤブタ、ハラウネ。ジョン、スコシモウケル」
何を提案しているのか、どうもはっきりしない。そこで、ジョンが、いい加減な通訳をして説明する。
「ミロードさまは、御主人に両手をあげて契約を承知してくれとおっしゃっている。つまり、この頭巾に、この千五百フランを入れてあずけるから、あんたも、この頭巾に千五百フランを入れ、計三千フランをタンスに蔵ってもらい、鍵は旦那さまがあずかる。よんどころない用事で八日間の留守をするから、来月の三日以前は勝手に部屋を使っては困る。もし、期限までに戻らなかったら、タンスをこじ開けて三千フランを自分のものにしていい。千五百は違約金だ。反対に、戻ってきた場合、もし取引がしたくなかったら、旦那さまの分を返してもらえばいい。以上、これだけのこった。あんたは約束は破らねェとは思うが……うちの旦那さまは、いつも、こういう用心をされる方なんだ……」
「ミロードさまの御しきたりなら、そりゃもう、お気のすむようにしますとも」
「アア、ワタシ、ヨロコブ、ソウシタイカ?」
「ミロードさま、では、金子をととのえて参ります。これだけはお許し願います」
「行ケ、行ケ、ゴ主人ドノ。行ッテ、ワタシ、ヨロコブコトシロ」
宿の主人が出て行くと、ジョンが口説くために後について行く。鉄は熱いうちに打たねばならない。首尾よくいけば、宿の亭主が千五百フランを倍にしてくれる。亭主自身であれ、その知人であれ、早いとこ金を都合してくれれば倍が実現する。やがて、ジョンのすすめもあって、亭主が金貨を持って上がってくる。ミロードは、肩にマントを引っかけて、あちこち部屋の中で動いている。
「オマエ、ブンタン金モテキタカ?」
「はい、ミロードさま、頭巾に入れますよ」
「ズキンニ入レル――アア、ケッコ、ケッコ……」
木綿の頭巾を取りあげて両手でひろげ、
「サァ、底ニ入レロ、マズ、ワタシノ金貨」
宿の主人が、テーブルの十五の金貨のかたまりを次々と頭巾に投げ入れ、それが終わると、自分の分担金が一文も欠けていないことを見せようとする。
「アア、ゴ主人ドノ、タイヘン気ニシテイルネ。オマエノ正直、ワタシ信ジテイルノ心ソコナワズ、オマエノブン、数エズニ入レロ」
宿の主人は、ジョンが通訳した指示にちゃんと従って頭巾に金貨を入れる。二つの金額が一緒になると、ミロードはリボンで全体を縛ってから、もったいぶってタンスのほうへ行く。
「ゴ主人ドノ、フタリブン、アズケ金モテコイ」
へい、と亭主が預金を腕にかかえて前へ出ると、ミロードは、いちばん上の棚にとどかすために椅子の上に上る。
「アズケ金、モチアゲロ」
鼻を天井に、眼を上のほうの棚に向け、亭主が殿様の右手に頭巾を渡すが、ジョンが背のびをしながら間抜け亭主をおだてたり冷やかしたりして微笑みかける。そうしているあいだに、ミロードは、さっと右手の物を左手に持ちかえ、いま隠したのとそっくり同じな別の頭巾をマントの下からつかみ出す。たえず上でもぞもぞやっているので、一瞬の中断は気付かれずに、まんまと取り替えてしまう。動きがやむと、亭主は、自分の一万五千フランとミロードの金を一緒にしたものが確かにタンスの棚におさまったものと思う。
「コレデ、オ金、持出禁止《アンバルゴ》ネ」
ミロードは、鍵を二回まわして椅子から降りると、それまでの費用を値切らずに支払い、宿の者一同にさようならを言い、忠僕ジョンと馬車に乗る。
「パカポコ、パカポコ、御者イソゲ。馬ツブレテモ、ワタシノクビ折ルナ。馬車チン糸目ツケヌワイ」
いっぽう、宿の主人は、馬車が道の端っこを走って殿様に万一のことがあってはと心配し、声をからして女房に、
「やれやれ、この辺の道がどんなに悪いもんか知らぬが仏ならいいんだがなァ。幸い今は乾いとるが」
「そうね、でも埃っぽいよ」
「おまえ、なんだってレモンシロップの一本を馬車の中に置かなかったんだい?」
「そこまでは思いつかなかったよ」
「まったくお前ったら、ほんとに気がきかないんだから」
とは言うものの、ほくそ笑《え》む亭主、胸中《インペット》で独りごとを言う。
――御者もムッシュ・ジョンもミロードも、ふん、みんな悪魔にさらわれろだ。神さま、わたくしに地位と富をもたらすよう馬どもをお導きあらんことを!
とうとう次の月の三日が来る……亭主は、ミロードさまに無礼になってはと懸念して、さらに六週間ちかくも待つ……そうした期間もすぎて、持出禁止《アンバルゴ》の解禁を決意する……タンスの扉をこじ開ける。頭巾は、そのままある。ひったくってリボン紐を解く……何を見るか? 銅貨《かね》を見る。
イギリス人になりすますサブランという男は、この分野の盗みの親分株で通っていた……ある日、たまたま、ある宿屋の主人から五千フランをちょろまかした。その亭主はトロアに住んでいたが、幸いギリシア人ではなかった。シャンパーニュのトロアだった。〔トロイア戦争の木馬の故事を想起させた。ギリシア人だったら欺されただろうの意。ここでペテン師は逮捕されたと見てよく、トロアはシャンパーニュ地方の中心地〕
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四二 アルファ、オメガ、べータ
カモ
たいていのペテン師はドサ回りをしていることが多く、年じゅう馬車か徒歩で街道を流している。かれらは、いつも、それなりのやり方で場数をふんでいる腕っこきとグルになって仕事をする。三人で組んでいて、めいめいが独り旅をしながらイカサマ仕事を探す。ときには、一人だけがカモの見付け役をし、他の者は本拠《ねぐら》で待っていることがある。
カモと近づきになることを引き受けているペテン師が、こいつなら仕掛けられると見こんだ人を見付けると、なんとかして当人と関わりをもつように努力し、その人の内緒事などを聞きだし、引っかける方法を考えつくと、すぐに仕事が片付く機会がない場合は、とりあえず友人だというふれこみで同じホテルに泊まりこむ。そして、捲きあげてやろうと狙っているカモが、まとまった金を受け取ったとか、パリに商品を運ぶとか、その人の収入状況を見のがさない。と同時に、カモが持っている商品を確実にのがさないために、ペテン師自身が商品を買う手筈をととのえたり、あるいは、せめて販売の便をはかってやることが往々にしてある。
カモの動きをさぐるために張りついている見張り役が、その行動の一部始終を看視し、なんらかの方法で、その報告を時間ごとに仲間に伝える。さて、いよいよ出動の時だと判断すると、仕掛ける用意をしろと知らせて、実行にうつす決定的な時刻がくると、なにかにかこつけるとか、その他の口実をもうけ、ペテン師は、カモと同時に外出して一緒に通りを行く。だが、ほんの少し歩ったところで、妙ちきりんな言葉から察して他国者と知れる男が近寄って話しかけ、やっとのことでパレロワイヤルへ行く道をたずねていることがわかる。
「なにをしに行くんですか?」
他国者にペテン師がたずねると、男は、何枚かの金貨を取りだして見せる。この場合、ふつうスペイン金貨か四十フランの値があるイタリア金貨を見せる。男は、それをフランスの金に換えたい素振りをして、ある物語をする。その要旨は次のようなものである。
その人は、ある大富豪に仕えていて、主人の死に際して、そういう金貨を山ほどもらったが、その価値は知らない。その一枚を換えたら銀貨六枚になったという。どんな銀貨かと尋ねると、百スウ貨を見せてくれる。つまり、その金貨一枚が三十フランになったわけだ。すると、ペテン師が、すぐにポケットから五フラン貨を六枚とりだし、ニセ元召使いに金貨一枚と換えてもらえないかというと、相手は有難く承知する。彼は、たいへん満足げで、その片言の言葉で、もっと銀貨が欲しいみたいなことを言う。そこらに安直な露店でも出している両替屋はないもんだから、なんてことも言う。こうしたやりとりが自分の眼の前で行なわれているのを見ていたカモは、つい釣りこまれて三人で酒場に入る。すると、他所者《よそもの》は、金貨が百枚ほど入っている小箱を開けて見せてくれる。一枚が三十フランの比率で換えられる金貨だ。ペテン師はカモを脇へ呼んで、こんなボロい取引はありませんな、と言うのを忘れず、さらにこう付け加える。
「ですが、取引きする前に、あれが、まともな金貨かどうかを金銀細工師に見せて確かめてからするのが用心ぶかいやり方だと思いますな」
カモも、友だちになったペテン師と同じように考える。彼は、金貨一枚をあずかって出て行き、やがて交換して受けとった四十フランを持って戻ってくる。疑いの余地なし、見込みどおり、一枚で十フランの儲けとは笑いが止まらない。途方もない儲けだ。カモは、持っている銀貨を残らず吐きだす。足りない分は借りにしてでもという……けっきょく交換話が成立し、金貨を数えて小箱に戻す。だが、腕におぼえのニセ召使いが、いつの間にか金貨を戻した小箱とまったく同じの小箱とをスリ替え、眼にもとまらぬ早さで巧く隠してしまう。この手品をやってのけると、金貨を確かめたのだから銀貨も確かめたいと言いだす。
「もっともな話です。わたしは何の文句もありませんな」
カモの助言者《メントール》が自分の考えを述べると、度外れな儲けをしたつもりで頭がイカれているカモは、どうぞ私の百スウ貨も調べて下さいと同意する。ヤバいことなんか、あるか? 現物は握っているんだ。召使いが金銀細工師のところへ行くといって消え、イカサマ仲間も便所へ行くフリをし、ちょっと外しますと言って逸《いち》早く相棒と合流する。
カモはパクリ取られ、二度と二人の姿を見ることはない。しかも、まだ自分の不幸に気付いていない。十分、二十分、半時間、一時間を待ち、まず我慢できなくなり、次に気が気でなくなり、こんどは心配になってきて、ついには疑念と大きな不安が湧いてくる。小箱を開ける。あるいは念のために封をした箱を開けるが、そこには数枚のスウ貨と狩猟用の鉛の弾丸《たま》しか見出さない。ペテン師たちは、ときには小箱の代わりにブリキ缶か南京錠が付いた小さな革袋を使う。
カモが疑いぶかい男だなと見てとると、ペテン師二人は、もっと違った策略を用いる。地ならしをした男がスリ替えた箱を相棒のニセ召使いから、あと一歩で完全に網にかかるカモに渡し、
「では、今から残りの金貨を調べに両替屋へ行って来ましょう。金貨をあずかるんですから、いちおう、あなたの銀貨をこの男にあずけておいて下さいな」
と立ち上がると、カモは、友だちになった人の用心ぶかさに感心し、ニセ召使いを酒場に残して、すぐに一緒に出かける。そして、いっしょに歩って行くと、とつぜん悪党が立ち止まる。ふいに何かを思いだした様子である。
「鍵ですよ、箱の鍵。あなた持っています?」
「いんや」
「持っていない? 早く、早く、走って行って持ってきなさいよ。それとも、わたしが行きましょうか。ここで待っていて下さい」
この好意を受けても受けなくても、どっちでもいいわけで、イカサマ師は独り芝居をやってはいない、まんまと大金を詐取したグルの仲間が、とっくにフケているのを承知の上で、彼も消えてしまう……もし、ひょっとして、カモが、友だちになってくれた者とは離れたくないと言いだしたら、抜け道その他の都合のいい場所でマイてしまうまで引っぱりまわして歩く。
両替を利用する詐欺には、かなり多くの人が引っかかっていて、地方の商人、旅行者、パリジャンさえ相当な金額をこの詐欺でやられている。ペテン師は、現金が儲けたい馬鹿者が、がつがつすればするほど騙しやすい。こうした悪党どもの悪だくみから身を守るには、見知らぬ者とは何事にもかかわり合わないこと、かれらの前では自分の所持金のことは話さないこと、とくに四十フランの相場がある金貨を三十フランで買うような真似はしないこと、こうした心構えでいれば十分である。自分の仕事だけしていれば無事である。
悪名たかいサブランと『瓦屋とっつぁん』ことジェルマンは、当代随一の凄腕のペテン師だった。ある日、ある田舎者から三千五百フランを捲きあげた。狩猟家としての腕前を自慢する田舎者に、ジェルマンが助言者になりすまして茶化し、スリ替えた小箱を渡しながら煽《あお》った。
「いや、ほんと、ムッシュ、ぼろい儲けをやりましたな。この冬は気分よくすごせて猟に出かけられますよ」
小箱には、ほんとは小粒の鉛の弾丸しか入っていなかったのだ。私は、この事件の告訴人と二人のペテン師を扱ったが、この話は、めったにない悪どい棄て台詞《ぜりふ》としてよくできている。
『拾い師』は、多くの他のイカサマ師と同様、だまされる側が欲張りのときに限って成功するインチキ屋である。三人がグルになって仕事をするか、すくなくとも二人で組んでやるものと考えられる。かれらが、どんなふうに他人の財物を横取りするかを述べよう。夜が明けるとすぐ、城門の外側地帯の大道で物色をはじめる。行ったり来たりする人々を念入りに観察し、人相や服装がひどく単純でない者をさがす。かれらが触手を動かすのは、すぐ誰でも信じる阿呆である。お百姓であれ何であれ、来たのか帰るのかはどうでもよく、いつもバッチリ仕事になるのは、たしかに金を持っていると睨んだ田舎者である。やがて、これはと思う男を見つけると、たいていは、三人のうちで人に取り入るのがいちばん上手なのが近づいて行って、なんやかやと巧くお世辞を言いながら質問し、その返答から問われている者の懐具合が尋ねている者に遠まわしにわかってくる。これがわかると、大丈夫だという合図をする。すると、前を歩いている二番手の悪党が、小箱か財布か包みを落とす。その品がなんであれ、他所者のカモさんが、どうしても気付かざるを得ないように落とす。はたせるかな気付いた。拾おうとして身をかがめる。とたんに、さっきから話しかけている男が、
――山分けだ。
と大声をあげる。
二人は立ちどまって拾った物に何が入っているかを見る。ふつう、それは、高価な宝石などである。そうした宝石類には書状が添えてある。なんと書いてある書状だろう? たいていの場合、カモも読めないし、拾い師も読めない。だが、その紙切れは有力な手がかりになるはずだ……とにかく書いてあることを知るに越したことはないが、いったい誰に宛てたものなのかな? うかつな真似はできないぞと心配しながら歩いて行く。とつぜん、とある通りの角で広告の貼り紙を読んでいる人を見る。そのときは、その人が偶然そこにいたとしか思わない。道連れになった男が、
「そうだ、いいとこで出会った。あの人が難儀を助けてくれるよ。紙切れを見せるんだ。なにが書いてあるかわかりますよ。だが、品物のことは言わないようにしなさいよ。あいつが分け前を欲しがるかもしれないものね」
カモは、なるほどと感心して、慎重にやるだよと約束し、まっすぐ、その人のところへ行って読んでくんろと頼むと、喜んで引き受けてくれて、読む。
――拝啓、再カットのダイヤ指輪をお届けします。なお、あなたが召使いに支払いをさせられた金二千七百二十五フランの受領証を同封します。
宝石商、ブリズバール
二千七百二十五フラン、その金額が読みあげられると、その半分が自分のものになると思えば、その声が、田舎者の耳に心地よく響くのは察するまでもない。三人目のグルである親切な読み手は、その数字を口にして眼を白黒させるのを忘れない。こちらは、その親切に礼を述べて、その場から遠ざかる。
さて、こんどは、指輪について肚をきめる段になる。誰かに返すか? とんでもない、返さない。どっちみち、どこかの貧乏野郎に拾われるんだ。それに、よほどの大金持でなくては、そんなダイヤは買えまい?……大金持にとって二千七百二十五フランは何だろうか? はした金を失うだけのことだ……返さんということは、こっちの手の内に品物があるということで、わかりきった話だが……つまりは金に換えることになる……だが、どこで換える?……宝石商でか? いや、たぶん、もう指輪の持主が品触れを回している。となると、宝石屋なんかに持ちこむのはヤバイ。いちばんいいのは、しばらくのあいだは売らないことだ……こうした理屈を田舎者は十分に納得する。できることなら、この場で山分けして、お互いアバヨと別れるのがいいんだが……分配はできないし、しかも二人とも用事をたしに行かなくちゃならない。二人は、ほんとうに気が気でなくなり、とつおいつ、いい考えはないものかと額をこするばかり。
「わたしが金を持っていたら喜んで払うところですが、あいにくと空っけつでね。どうしよう?」
こう言ってから、ちょっと思案し、
「ねェ、あんたはまっ正直で堅い人だと見た。ぴったり、わたしと気が合う。どうですかね、ひとつ、できたら、ここで、何百フランか前金を払ってくれて、品物を売ったら残りをくれませんか。もちろん前金の分の利息を差し引いてな。念のため住所を教えといて下さい」
このような提案が受け入れられないことは滅多にない……田舎者は儲けたい下心から餌に食いつき、すすんで財布を空にする……もし金が不十分なときは、否応なしに時計を外させる。私は、靴の締め金まで与えた例を見たことがある。さて、取り決めが成立し、両者とも、これっきりだと肚《はら》で決めていながら、また会うことを約束して別れる。
この手で騙された二十人のお百姓のうち、すくなくとも十八人が嘘の名と嘘の住所を教えている。これは何も驚くべきことではなく、この場含は、騙す前にだまされているからだ。
ほとんどの『拾い師』はユダヤ人で、かれらの女房もイカサマ稼業をしている。いつも大小の市場をうろついて、新米の女中や料理女が軽く人を信ずることにつけこむ。金じゃないと言うのは難しいくらい巧く金メッキがしてある銅の鎖をペテンにかける材料にする。そういう女の餌食になった一人、いっぱしの料理女だったが、ある日、警察に駈けこんできた。有金みんなと耳環にショール、一日分の食糧が入った買物籠を不足分の十五フランの担保に残し、律義な女だったので、不足分を取りに家に戻り、急いで約束を果たしに引き返したが、相手の女も籠も食糧も消えていた。そこで、ちょっぴり疑いをもって、貴金属商へ行って試金石で検査をしてもらったところ、まんまとしてやられたことがわかったという。ある時期には、拾い師どもがいっぱい居《お》って、パリのどこの区にも姿を見せた。おなじ午前中に、拾い師とイカサマ女にしてやられたと訴えてきた夫婦者があった。亭主のほうはサントノレの城外町で、お上さんはイノサン市場でやられた。
亭主が不幸な目にあった女房どのに、
「おめェぐれェドジなやつはいねェや。真鍮《しんちゅう》の鎖の代わりに金鎖と十フランをくれちまったとはなァ」
「あんただって、なんてバカな真似をしたのさ。いい調子になって、なにさ。だったら、そのニセ留めピンとガラス玉を持って質屋へ行って頼まァ、だんな、こんなもんで貸したかねェだろうが、どうしても六十フランもって家に帰らなくちゃならねェんで。もう家にあるもんは二人分の食器と女房の時計だけなんで、かね」
「おれのしたいようにしたまでだ。おめェの知ったことか」
「ペテンにかかりっぱなしでいいと言うんかい」
「ペテン、ペテン、上等だ、おくさまよ。しょっちゅう仲間のペテンにかかってらァな。おめェったら、いつも、誰彼みさかいなしに、べらべら喋って喜んでいやァがって……」
「道を歩っていて、やって来たもんと話なんかせずに立ち止まらなければ……」
「用事があれば話すさ、するとも、おめェなんざ、どうだ?……」
「ふん、けっこうな用事をたしたもんだ……」
「おめェよりかマシだと思うな。今からでも行って、金鎖を取り戻して来いよ。今のうちだ。おめェのは三回巻きだぜ。おめェにゃもったいねェくれェ長いやつをやったんだ。ま、長かろうがどうだろうが、あれで満足しなきゃならねェもんだった。ところが、もう三巻き多いのにだまされた」
「じっくり時間をかけりゃよかったのに、まんまとハメられたもんよ」
「だまれ、バカ女……」
「なら、これでいいのかい。そんなら、これでいいのかよォ。ちゃっかりワナにかかってさ、よかったね、おまいさん。もっと捲き上げられなかったんが口惜しくってならないよ」
「なんだと、言わせておけばどこまでも。おめェが家のことなんか心配しねェやつだってことを知ったなァ今日がはじめてじゃねェや」
夫婦者は、喧嘩をしながら事務室を出て行った。かれらの争いが、どのくらい続いたかは知らないが、やがて反省して咎めあうのにケリをつけたものと思われる。仲直りを急ぐあまり、暴力汰沙にならないように、神さま、どうか、という気持であった。
三人の拾い師が組むときは、それぞれの役にかなった服装をする。カモに近づく男は、いつも職人ふうで、石工や靴職人や大工ふうである。ときによると、ドイツ人かイタリア人の口調を真似て、フランス語で話すのがたいへん難しいフリをする。年輩者だったら好人物、若かったらノロマ野郎を装う。『ニセ落とし役』は、だぶだぶのズボンを穿いているのが特徴で、片方の脚から品物を巧く地上に落とす。『読み役』は、他の二人よりずっと立派なナリをしていて、毛の長い毛皮で飾ったビロードの襟がついたコートを着ている。
これまで、ながいあいだ、『拾い師』は軽罪裁判所に召喚されて、最高刑五年の禁錮に処せられていた。私は、かれらの罪を区別するべきだと思った。偽造文書を使って詐欺が行なわれた場合は、軽罪がさらに重くなる性質が生じ、重罪裁判所で裁くべきではあるまいかと思われた。そういう事件を扱ったら、とりあえず、この件に関しての意見を司法当局に提出しようと決意した。まもなく、そういう事件に出くわした。拾い詐欺を働いた二名のベテランを逮捕した。候爵ことバレーズとその共犯者であった。最初、私が具申した意見には誰も関心をもってくれなかった。当局は、該時点までに確立されている法律に準じて犯人を扱うべきだと固執した。さらに私は上申した。もういちど主張し、とうとう二人の詐欺師は、判事の前で文書偽造犯として烙印されて重労働に服すべしと宣告された。
強盗さん今日は
殺人強盗を職業にしている殺し屋は、ほとんどが行商人か家畜商か博労などを表の稼業にしている。かれらのナリやフリは、いつでも、そういう仕事をする者に似通ったものになっている。総じて、おとなしい物腰で、つめたくて静かな感じをあたえる。酒におぼれることは滅多にない。酔うと思慮を失うからだ。いつも丈夫な紙定規を持っていて綿密に正確に測る。宿屋では、あまり気前のいいところは見せないような金の費いかたをし、しまり屋だという評判をたてられたいと思っている。倹約家は実直な人だとされるからだ。ところが、勘定を払う段になると、宿の娘や子供たちにも気をつかう。殺人者にとっては、宿の使用人たちが、あの人はいい方だと言ってくれるのは大事なことだからだ。
行商を商売にしているフリをしている殺し屋は、あまりたくさんな商品を持っていない。時間つぶしに刃物やノミ、カミソリや糸紐、編紐その他かさばらない品物を売る。町の場末にあって市場の近くにある宿に好んで泊まり、そこでカモを物色する。ほんとうの商人であろうが農作物を売りにきたお百姓であろうが、そういう者たちの中の一人を狙う。持っている金の額、出発の時、通って行く道などの聞きこみに専念し、必要なことがわかったとなると、たいていは町の外の別の家で待機している仲間に知らせる。すると、そいつらが出張って行って、目論んでいる犯罪を成しとげるに最も都合のよい場所でカモが来るのを待つ。
切り盗り強盗犯人は、平素、一般の人が警戒していない悪者である。というのは、かれらが何食わぬ顔をして国中を歩きまわっているのを見ているのに慣れているからだ。きまった頃合に、ちゃんと姿を見せる行動が、人々の疑いをそらしてしまう。この『回想録』の最初のほうで述べたコルニュ一家などは殺人強盗の一家だった。二十年以上ものあいだ、のうのうと罰せられずにいて、告発される前に百件以上の殺人を犯していた。
こうした極悪人に襲われることから身を守る一番いい方法は、なるたけ自分の本来の稼業のことは話さないようにし、これから金を受け取りに行くんだなどとは絶対に口外せず、予定している旅の目的や目的地を言うのは避けることである。旅をする者は、街道でのおせっかいやきにとくに用心しなくてはいけない。かれらは、あらゆる機会をつかんで近づき話しかけてくる。何かを尋ねる話しかけ屋、とくに道中の安全のことや武装する必要などについて話す者がいたら、その下心を疑わねばならない。ときによると、夜の幕が落ちてからでなくては市場から帰れないお百姓は、俗に言う旅の道連れになりたいという連中に大して用心しない。さらに、ひょんな行きがかりというのがあるが、これは心にもない軽はずみから起こる。
殺人強盗犯の女房も、たいへん危険な生き物である。殺しに馴れっこになって、すすんで犯罪の手伝いをする。子供たちを幼いときから見張り役に仕込んで、自分や亭主に役立つ情報の伝達をやらせる。血を見るのに馴れさせ、仕事が巧くいったらトクになることを覚えさせるために、一つの殺しごとに分け前のようなものを小さな怪物どもにあたえる。
殺人強盗の男や女に親切にする者はいない。誰も慈悲をかけてくれないが、乞食は、みんな友だちである。乞食たちは、いつも役にたつことを教えてくれる年じゅう旅をしている街道の天然スパイである。女の殺し屋は、とことん偽善を押しとおし、いかにも信心ぶかいことを表わす記しを公然と身につけるまでになる。数珠やスカプラリオ〔修道服の一部、胸と背に垂れる、聖母聖衣〕や十字架などを持ち歩き、きちんと礼拝に参列、聖体の拝領を欠かさない。
年じゅう仕事着か青い上っ張りを着ている連中は、それが血を流す服だと思って間違いない。かれらは、一つの殺人をすると上衣を湮滅《いんめつ》する。そのときの余裕の多少に従って、埋めるか焼くか洗うかする。鞭の握りのようになっている棒を持ち、ゴム引きのタフタ絹をかぶせた帽子をかぶり、帽子の下に頭をつつむ赤か青の布を置く。こうして、いかにも下等な貧民のような姿になりすまして、その場その場に備えることが巧みで、必要に応じてアリバイ工作の役もする。こうした服装は、とくに、かれらが通る町や村で通行手形を査証してもらう目的のためでもある。
今日では、われわれの社会にとってたいへん幸せなことに、若干の南部諸県を除いて殺人強盗の数が少なくなっている。しかし、殺し屋どもを根絶やしにするまでにはなっていないので、ガラス屋、こうもり傘なおし、聖歌集売り、鋳掛屋《いかけや》、香具師《てきや》、手品つかい、軽業師、曲芸師、青空歌手、手回しオルガン弾き、熊つかいラクダつかい、幻燈屋、靴なおし、縁日の賭事師、ほん物ニセ物の不具者などが、フランスの諸処方々を横行していると断言してはばからない。この、いちばん後の連中については、かれらを避けるように旅行者にすすめるにやぶさかでない。溝の中でちぢこまり、出られないフリをして助けを呼ぶ。ある足萎えが、こんなふうにして通行人をひきつけて殺したが、被害者は、つい哀れに思う情にほだされて不幸を招いたのであって、常日頃、この話を思いだしていただきたい。溝から助けだそうとかがんだ瞬間を狙って短刀を心の臓にぶちこんだ。怪しげな居酒屋に泊まるのも危険で、とくに人里はなれた場所にあるのは危ない。主人は律義者でも、泊まっている連中もそうだとは限らず、そういう安宿ではヤバいこと、つまり夜のあいだに身ぐるみ剥ぐようなことに手をだす極道悪魔がいないとは言えない。
『あたため強盗』も、殺人強盗あるいは野っ原野郎とおなじように、ふつうは物売りか行商人を兼ねている。こいつらは、人の足を熱する、というより焼いてどこに金があるかを吐かせる盗賊である。ある家に目星をつけると、商品を売る口実で入りこみ、家の中の作りを調べ、すべての出口を覚えるまでは出て行かない。近づきにくい家の場合は、乞食に変装した仲間の一人が、慈善のため庭の隅でも一夜の宿をと頼みこみ、もし泊めてもらえたら、夜中に起きあがって戸を開け、共犯者をみちびき入れる。犬に番をさせている屋敷がよくある。そうした場合、ニセ乞食は、サカリがついた牝犬がこぼす液をしみこませたスポンジから発する匂いや、火鍋で煮こんだ馬の肝の匂いで犬を迷わせて黙らせてしまう。これは、どんな獰猛《どうもう》な番犬でも参ってしまう誘惑方法で、ワンちゃんも、匂いを追いかけてそこらじゅうを歩きまわるから、乞食は犬から離れて悪党仲間を自由に家の中に入れる。ときには、強盗たちが夜になると毒物を庭に投げこむことがある。その毒物は犬に即効性があって、押しこむときには死んでいるというものだ。
哀れな乞食や道に迷った者、つまり路頭に迷った人を泊めてやるのは確かに立派な行ないだが、人道的なことをしていて押しこみ強盗に宿をしてやったんでは立つ瀬がない。だから、こうした慈善の習慣をやめたがらないお百姓とか田舎の人たちは、見知らぬ旅人の扱いには慎重になるべきである。高窓が大きな鉄格子の柵で閉じてあり、ドアには外せないような錠が付いている部屋に見知らぬ人を泊めて朝まで鍵をかけておけば、かれらの悪《わる》だくみを怖れることはないだろう。
強盗たちは、かれらの悪業の証人を残さないために殺しをやることがよくある……また、あるときは、顔を知られないためにお面で顔を隠すか、ある種のポマードをこすりつけて黒くして顔の様子を変えることさえある。黒い縮織布《ちぢみ》で覆面もする。顔を黒く塗る手合は、たいてい二重底の小箱を携帯していて、黒い顔料とそれを除去する物を入れている。ヤマをふむときは、四、五尺の細紐を用意していてガイシャを縛るのに使う。この追剥は独りでしか歩かない。人に知られぬような落ち合い場所を定めると、なるたけ人通りがないルートをえらんで別々の道から集まる。夜にならないと家から出ない。出かけ間際に、ひょいと近所の人に見られないように十分に用心する。帰りも同じ戦術を使い、留守にしなかったと信じさせる効果を狙い、と同時に、必要の際はアリバイを証言してもらうことを考える。
『あたため強盗』は、荷物になる物を好まない。せいぜい嵩《かさ》ばらないダイヤモンドや貴金属類ぐらいしか盗らない。田舎では滅多にお目にかからないような品は別として、かれらが欲しいのは現金である。
悪名たかいサランビエは、かねてからポプリング〔フランス国境に近いベルギーの一邑〕界隈にある富裕な農家を襲ってやろうと企んでいた。だが、その農夫は、がっちりと防備していて、当時その地方では押しこみ強盗の話が持ちきりで、なんとかするのは難しかった。農場内には相当な数の人間がおり、でっかい二匹の犬が近づく者を防いでいた。サランビエは、計画実行のチャンスをうかがって、それまでにいろいろなことを調べて知ったが、考えれば考えるほど、いろいろな障害を乗りこえられそうにもなかった。とはいうものの、その農夫が莫大な金を持っていることは疑いのないところだったので狙うのはやめなかった。どうやったら奪えるか? ひとえに彼のオツムにかかっている問題だった。そして、ついに次のような方法を思いついた。
かねてから顔見知りの数人の住民連名の善行証を作ってもらい、それをポプリング市長に公認してもらった。その証明書を塩酸で洗い、市長の署名と市庁印だけを残し、空白のところにルイ・ルメールという仲間の名を書き入れて次のような命令書を作った。
駐屯司令官殿
明夜、十名乃至十二名ノ強盗ガ、えるめいゆ農場ヲ襲ウハ必至トノ報告ヲ受ケタノデ、貴官ハ兵十名ヲ地方人ニ変装サセ下士官一名ニ引率セシメ、右農場ニ派遣セラレタイ。而シテ、臨機応変、農場主ニ協力シ、強奪ニ現ワレル強盗ヲ逮捕サレタイ。本命令ハるべるノ市助役ニ伝達ノ上、然ルベク派遣隊ノ東道ニ務メ、既知ノ農場主宅ニ駐在サセルモノデアル。
このニセ命令書を作ると、サランビエは、軍曹に変装して出発した。十人の共犯者の先頭に立って、大胆にもルベルにいた助役の前に現われると、知らぬが仏、助役は彼の犯罪計画を支持せざるを得ず、市長の署名を認めて一同を急いで農場へ案内した。部下たちは抜かりなく引率され、サランビエと子分たちは大手をひろげて迎えられ、盗賊どもと軍曹に化けた親分を解放者のように歓迎した。
「オイ、ここには何人おる?」
サランビエが言うと、農場主が、
「十五人おるだよ。おなご四人と子供一人を入れてな」
「女四人とガキが一人か。むだ飯ぐらいは放っとけ。まさかのときは邪魔になるだけだ。武器はあるか?」
「鉄砲が二挺あるだ」
「そいつを持ってきな。自分らの手もとに置いとく。役に立つもんかどうか知りたいしな」
サランビエに鉄砲が渡されると、こんどは農家側の意向を変えることにとりかかる。
「ただいまは、現状がわかった以上、防衛のことは自分にまかせて結構。いざという時が来たら、各自の部署を指示する。それを待つあいだ、当家の者がするべき一番いいことは安心して眠ることだ。分隊が夜警をする」
夜中になるまで、サランビエは、何の動きもしなかったが、とつぜん何かの物音が聞こえたフリをして仲間に命令した。
「オイ、起きろ。ぐずぐずするな。一人も逃がさんように配置につけい」
分隊長の声に分隊が起立する。農場主がランプを手に行く手を照らそうとする。とたんに、サランビエが胸に二挺のピストルを突きつけて、
「お構いなく。おれたちが強盗なんだ。へたに動くと命はねェぜ」
強盗たちは完全武装していた。農場の人たちが抵抗しようとしてもムダなことで、背中に手をまわして縛られるままになった。それが終わると、みんなは地下室に閉じこめられたが、農場主は、ほかの者と同じように縛り上げられて暖炉のそばに残された。どこに金が蔵《しま》ってあるのか言え、とせっつかれた。
「春だもんで、一スウもねェだよ。そこらあたりを強盗がうろつきだしてからちゅうもんは、大事なもんを家に置いとくこたァしねェもんな」
「ふん、逃げ口上ときたな。いいとも、本当のことを吐かせてやるぜ」
こうサランビエが言うと、たちまち二人の盗賊がお百姓をふんづかまえ、靴をぬがせて足をハダシにしてグリースを塗りたくった。すると、哀れな男が大声で叫ぶ。
「強盗さん、おねげェだ。かんべんしてくんろ。家にゃ一枚の銭コもねェと言ったんべ。なんなら探してけれや。鍵がいるだべ? なんでも言いつけてくんろ。のう、おめェらの言うとおりにするだ。もし要るんだったら手形をこさえるだよ」
サランビエが、
「だめだ。ははァ、話し合いとお出でなすったな。手形だと……そんなもんに用はねェ。おれたちが欲しいなァ現ナマだ」
「だども、おめェら……」
「ほォ、強情なやつだな。今のところはダンマリをきめこんどるが、五分もたたねェうちに喜んで場所を教えてくれるさ」
炉床にどっと火が燃やされ、極悪親玉が命令した。
「野郎ども、このおっさんをあっためろ」
ところが、その世にも怖ろしい拷問にかけている最中に、ぎゃあという男の悲鳴、猛り狂った犬と格闘している叫び声が、ふいに強盗どもの注意をひいた。その男、動物どもの怒りにまかされている者は、縛られていたのを解いて助けを求めようと換気窓から逃げだした農場の若者だったのだが、運命のいたずらとでも言おうか、犬どもが勘ちがいをして他所者だと思ったのだった。サランビエは、その、わけがわからない出来事に驚いて、仲間の一人に外で起きていることを見てこいと命じた。だが、その盗賊が庭に現われたとたんに、一匹の犬が飛びかかり、咬みつかれたらたいへんと、あわてて家に戻らざるを得なかった。
「助けてくれっ、助けてくれっ」
この恐怖の叫び声にびっくり仰天した強盗団の全員が、庭に面した窓に殺到して……とんずらし……同時に、農場主が、やっと犬どもに声がわかってもらえた若者を連れて地下室へ降りて行き、家の者みんなを解き放した。そして、すぐさま強盗たちを追いかけて、懸命に急いだが追いつくことはできなかった。
この冒険談を私に語りながら、サランビエが、心の底から打ち開けて言ったが、退却せざるを得ない仕儀になったことは悔しくも何ともなかったというが、
「だって、だんな、ふん捕《づか》まるんじゃねェかと、おっかなびっくりでやってたら、強盗稼業は成りたちゃせんからな」
サランビエ一味は、仲間数の多いほうの最たるものだった。やたらに枝葉のグループがあって、壊滅させるまでに数年かかった。一八〇四年、アンヴェルスで大勢の一味徒党を処刑したが、その中の一人に、どうしても本当の名前がわからずじまいになった者がいた。高度の教養があるらしい男だったが、死刑台に上がると、一切のケリをつける首切り刃を見上げ、別の死刑囚が、
「あそこが一生の終点だぜ」
と言った首穴のところまで視線を下げ、
「われアルファを見て、いまオメガを見る」
つぶやいてから死刑執行人のほうへ向き、
「ほら、ここにべータあり。さっさと仕事をしたまえ」
ギリシア語学者か何かでなければ、|死の真際《イン・アルチクロ・モルチス》にこんな形で比喩が言えたのは、きっと冗談魔や洒落魔がとりついていたのではあるまいか?
サランビエの共犯者の全員が死んだわけではなかった。私は、諸処方々を遍歴していて大勢の残党に出会った。その後、かれらから眼をはなさなかったが、ほんとうに長期にわたって処罰されないやつ、今ものうのうと悪事をはたらいているやつらがいるかと探索したが見当たらなかった。歌手を表芸にしていた強盗の一人は、トルコ衣裳で遠吼《とおぼ》えするみたいにダッタン行進調に歌い、ながいこと善良なパリ市民の人気を博していた。この男は、二スウ銅貨を投げてやれば、七階までもとどくほどの声で流行歌が歌えて、パリの街頭ピカ一の有名人だったが、みんなアダ名でしか呼ばなかった。たしかに、彼は、たいへん世に知られた特別な人物だけのことはあったが、一七九三年九月の大量強盗殺人に加わったとして告訴され、一八二八年十一月のサンドニ街の陳列窓破りの盗賊の頭目とみなされた。
一八一六年以降は、あたため強盗は壊滅したかのように見えた。かれらの最後の仕事は大型付加税の重圧時代にフランス南部で行なわれ、主としてニーム、マルセイユ、モンプリエの周辺を荒らし、金持のプロテスタントやボナパルト派の人たちが足をあっためられ、緑党《ヴェルデ》〔緑党の名をかりた盗賊団もいたの意。緑党については既出〕の仕業だとされ、賊を発見できなかった当局は、やられたのは当然の報いだと言い訳をした。(完)
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訳者あとがき
1
ヴィドックが、はじめて日本に紹介されたのは、大正十二年(一九二三)五月発行の雑誌「新青年」(第四巻六号)所載の上村花水「探偵の元祖ヴィドック」である。今から六十六年も前のことであるが、その翌年(一九二四)には、小酒井不木博士が、その著『科学探偵』(大十三年八月、春陽堂)の中で云々され、次の年(一九二五)の「新青年」(第六巻一号)は、榎本秋村訳「ヴィドック探偵課」を掲載した。当時は、いろいろな人が、さまざまなペンネームで執筆していたので、小酒井氏は別として、これらの筆者や翻訳者が誰だったかは不明である。
昭和三十八年一月(一九六三)、岡田真吉訳「怪盗ヴィドック自伝」が、「人買い伊平治自伝」他二篇と一冊にして『世界ノンフィクション全集』第三十八巻として刊行されたが(筑摩書房)、前記の「新青年」掲載のものとおなじく二、三の挿話を意訳あるいは抄訳したもので、『ヴィドック回想録』(以下『回想録』と略す)の全貌を伝えるものではなかった。その後、昭和四十九、五十年頃になって、東京創元社が『バルザック全集』の第八、十三巻を刊行するに当たって、バルザックと交友があり、バルザック作品の二、三に現われる人物のモデルにされたヴィドックが言及され、安土正夫氏は、
「この人物にはモデルがある。盗賊から秘密警察官に転身したヴィドックである」(第八巻、三六六頁、一九七四、六月)、と解説され、中島河太郎氏は、
「ヴィドックは、脱走兵、文書偽造犯人、詐欺師、脱獄囚などいろいろな悪業の果て、一八〇九年に密告者としてパリ警視庁に雇われ、怪手腕を振るって警視総監にまでなりあがった」(第十三巻月報二十号三頁、一九七五、二月)、と述べられ、岡田真吉氏は、
「密偵としてのヴィドックはつぎつぎにみごとな手柄をたて、一八一一年、みずから創設した刑事局の局長に任命されている」(前掲書、一四一頁、訳者あとがき)、と書かれ、前記の「新青年」の「ヴィドック探偵譚」の冒頭には、「もと曲馬団の中より身を起して、軍籍に入ったが、罪を犯して獄に下ること幾度、後改心して巴里警視庁の密偵となり、巴里の暗黒面に出没して、幾多の重大犯人を逮捕し、遂に警視庁捜査課長となった」(一九四頁)、とあり、小酒井不木氏も、前記の著書とは別の論考で、
「さればハンショーの描いたクリーク探偵の如きは、その前身が大犯罪者であったゞけ、(中略)、フランスの名探偵ヴィドック(一七七五〜一八五七年)は、このクリークに余程似た所がある」(『小酒井不木全集』第一巻一四五頁、殺人論、一九二九、改造社)、と述べられ、ヴィドックは、盗賊、名探偵、捜査局長、警視総監にされ、いっぽう彼は、遺留品を顕微鏡で検べたり、手口カードを作ったとされているが(「リーダーズ・ダイジェスト」、日本版、一九七七、第十二号八一〜八六頁、ジェー・エス・ゴードン「科学犯罪捜査の父、エフ・イー・ビドック」)、『回想録』を見るかぎりでは、犯罪者の人相を識別しておいて役にたてたこと、犯罪現場の足跡と容疑者の靴を比較したことくらいしか述べていない。
思うに、これらの誤聞や誤記は(その依拠が何かは措いて)、いまだ『回想録』が通読あるいは精読されなかった時代だったので、無理からぬ臆説や推察であったと考えられる。『回想録』を読めば明らかなように、ヴィドックは怪盗でもペテン師でもなく、警視庁の局長や総監になったこともない。また、彼は、紙幣贋造罪や除隊証明書を持っていなかったので断罪あるいは投獄されたのではなく、顔見知りの囚人の釈放命令書を偽造したという無実の罪で八年の刑を宣告されたことは『回想録』の中ではっきりと書いている。
こうした謬説は、ヴィドックのことが明らかでなかった日本では已むを得なかったことだろうが、本家本元のフランス(あるいは幾多の訳書が流布しているヨーロッパ諸国)でさえ、ヴィドックといえば脱獄王、変装の名人、色事師、盗賊あがりの刑事というイマージュが定着していて、彼を主人公にした面白おかしい物語やテレビドラマが作られてきた。言うなれば、ヴィドックというヒーローは、元は大犯罪者だった実在したスーパー刑事で、それこそ鬼平か水戸黄門か、助さん格さんに当たる一の子分ココ・ラクール、昔は悪徳医者だった通称ドクトル、軽業師だった通称アクロバットの三人を従えて、フランスはもとよりベルギーでもどこでも出かけて行って悪人退治をするのである。どたん場で、悪人どもは、ヴィドックだと名前を聞いただけで、おそれ入りましたと降参する設定になっている。ミシェル・フーコーは、ヴィドックを分析して、
「すなわち、騒ぎ、冒険、たいていは自分が犠牲になった詐欺、喧嘩、決闘、あるいは兵役志願と一連の脱走、売春や賭博や、やがては大がかりな強盗団などの環境との交渉。しかしながら、同時代人の目そのものに映じた神話的ともいえる彼の重要性は、多分美化されているにちがいないこうした過去に基くのではない。しかも自分の罪をあがなったか買収されたかはともかく、この元徒刑囚が歴史上はじめて警察の一部局の長〔一八〇九年、治安関係の班長になった〕になったという事実に基いてさえいない。むしろその重要性の根拠は、非行性が、それを制圧する一方でそれと協力して活動する警察装置にとって客体ならびに道具という多義的な地位を、ほかならぬ彼のうちに明瞭におびたという事実に存している。ヴィドックは、他の違法行為と分離された非行性が権力によって攻囲され、裏返しにされる、そうした契機を明示している。こうして警察と非行性との直接的で制度的な結合がおこなわれる。犯罪行為が権力機構の歯車の一つに化す、憂慮すべき契機である」(『監獄の誕生』、田村俶訳、二八〇頁、一九七七、新潮社)。
こうした哲学者の竪苦しい考察はさておいて、ヴィドックが今日なお喧伝され、毎年、彼の『回想録』や彼を扱った書がどこからか出版されている理由には二つあると思われる。第一は、彼がバルザックやユゴーやラマルチーヌたちと交際があり、その強烈な個性と異常な体験が作家たちに影響をあたえて、世界文学史上に残る多くの傑作の直接のモデルになったり、彼の体験が物語にヒントをあたえたことである。第二は、やはり『回想録』の内容と二度目の警察退職後に友人の弁護士と共同して一種の興信所(私立探偵事務所と法律事務所と生活相談所を兼ねたようなもの)を設立したのが、ポオをはじめ後世の推理作家たちに影響をあたえたことらしい。
2
ヴィドック以前から、フランスには、国王が任命し数々の特権があたえられた死刑執行人のサンソン一家があった。その役職は、徳川時代の首斬り山田浅右衛門のように世襲で、サンソン一家の眷族《けんぞく》はフランス以外の諸国でも死刑執行人になっているのが多くいた。一家の中でも有名なのはシャルル・サンソン(一七三九〜一八〇六)で、彼はルイ十六世を処刑し、その息子のアンリ(一七六七〜一八四〇)は、マリー・アントワネットやオルレアン公の首を刎《は》ねている。ヴィドックはこのアンリと交際があり、パンジャマン・アベールという好事家の監獄監督官が主催した会食に、サンソンとヴィドックは、イギリスの貴族たち、バルザックや大デュマなどと共に招かれて、そこでヴィドックは作家たちと知りあった。
「バルザックもデュマも、更生した前科者のヴィドックを彼らの作品の中で使うことになる――彼の性向、特質、その生活のエピソードの幾つかさえも。バルザックの描いた架空の人物であるヴォトランは、ヴィドック同様に初めは犯罪人でやがて警官になるが、彼は『ゴリオ爺さん』や『ヴォトランの最後の化身』や『従妹ベット』その他『人間喜劇』中の他の小説の中に登場する。ヴィドックに似た人物は、アレクサンドル・デュマの『ガブリエル・ランベール』にも出てくるし、犯罪や刑罰にあれほど関心を寄せていた作家ユゴーは、ヴィドックを彼の大ロマン『レ・ミゼラブル』の中で使うことになる。ヴィクトル・ユゴーのこの傑作の主人公ジャン・ヴァルジャンは、フランソワ・ユージェーヌ・ヴィドックをモデルにしたものである」(バーバラ・レヴィ『パリの断頭台』、喜多迅鷹、喜多元子訳、二四二頁、一九八七、法政大学出版局)。
とあるが、権威あるル・ロべールの『万国固有名詞辞典』のヴィドックの項では、
「彼はバルザックに感銘をあたえて『高級娼婦盛衰記』中のヴォトランという人物を作らせた」(同書、六二六頁)。
とヴィドックとバルザックの関係を簡単に片付けているが、日本の慣行訳名『浮かれ女盛衰記』中のジャック・コラン別名カルロス・エレーラ神父ことヴォトランは、『回想録』のヴィドックと極めて似た行動をする(たとえば仮死を自演したり脱獄したり)。なお、中島河太郎氏は、この『浮かれ女盛衰記』(『バルザック全集』第十三巻、寺田透訳)に付けられた前掲月報で、
「バルザックはヴィドックに会ったことがあるらしく、たしかに興味をそそる人物には違いない。『ゴリオ爺さん』のヴォートランは、元商人という触れこみで、田舎出の学生に対して、独自の社会観、処生術を吹きこむが、後に脱獄囚だと分って逮捕されている。ヴォートランは後の『浮かれ女盛衰記』で、秘密警察官に転身しているが、バルザックがヴィドックに借りたものはその経歴の一部であって、その卑小で粗笨《そほん》な言動は、ヴォートランとは係わりがなかった。ヴォートランは『幻滅』では、カルロス・エレーラという神父で登場するが、『浮かれ女盛衰記』で、『ふくろう党』、『暗黒事件』に暗躍する探偵コランタンらを相手に奮闘する」(三頁)。
と述べておられて、ヴィドックとバルザックの関係を重視しておられないが、岡田真吉氏は、
「アルセーヌ・ルパンとかシャーロック・ホームズなどという、いわゆる推理小説上の名探偵は、大なり小なり、このヴィドックという人物をモデルにして創り出されたと言われており、(中略)、文学の上でも、バルザックと親交があったために、彼の『人間喜劇』に多くの題材を与えたほか、有名なバルザックの創造した人物ヴォートランは、まさしくこのヴィドックの具象化である。さらに、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンも、このヴィドックにインスパイヤーされたものと言われている。(中略)、はじめてバルザックの作品にヴィドックの存在らしいものが投影したのは、一八二九年の『木菟党』〔書名の原綴を略す、以下同、三宅〕中の、警吏コランタンであろう。つぎに三〇年の『ゴブセック』中の高利貸ジュストは、ヴィドックの古い友人の俤《おもかげ》を伝えたものであり、三四年の『ゴリオ爺さん』中のヴォートランにいたっては、まさしくヴィドックの化身である。また三九年の『イヴの娘』の主題はヴィドックに与えられたもので、四五年の『実業家』中のセゼのすばらしい術策は、ヴィドック自身のよく使った手のひとつ、さらに四六年の『従妹ベット』の中にはヴィドックが彼の偽名の一つサン・テステーヴ卿の名の下に描き出されている」(前記引用文中)。
と述べておられ、ユゴーの『レ・ミゼラーブル』についても、ヴィドックがモデルだというのが定説になっていて、
「それはさておき、ジャヴェールが、脱獄した徒刑囚で後に公安警察長官になったヴィドックという男をモデルにしていることは注目されてよい。(中略)、じつはユゴーもこの人物から、ジャヴェールの特徴を借りているのである。いやそれどころか、一説によると、ジャン・ヴァルジャンの造形にあたってもこのヴィドックが下敷きに使われているという。言い換えればこの二人の登場人物はもともと同根の人物で、ともに≪レ・ミゼラブル≫なのである」(鹿島茂『レ・ミゼラブル百六景』四二頁、一九八七、六月、文藝春秋)。
さらに、鹿島教授は、ジャン・ヴァルジャンが戦艦オリオン号から海中に落ちているスコットの画について、
「ジャン・ヴァルジャンのモデルに擬せられるヴィドックも同じく六回の脱獄に成功している。とくにヴィドックの最後の二度の脱獄は、ジャン・ヴァルジャンのオリオン号からの脱出ときわめてよく似ており、ヴィドックと個人的に付き合いのあったユゴーがこれを下敷きにしたことは充分考えられる。すなわち、ヴィドックはトゥーロンの徒刑場にいたとき入港中のフリーゲート艦ミュイロン号からボートで逃げ出して五回目の脱獄に成功し、六回目はドゥエの監獄の窓からはるか下のスカルプ川にとびこんで姿をくらましたのである」(前掲書、六八頁)。
と述べられており、ヴィドックが退職後サンマンデで製紙工場を経営して前科者を更生させようとした事実とマドレーヌ氏ことジャン・ヴァルジャンが黒玉ガラス工場を経営した話も比較できる。無実で、あるいは些細な罪で重刑を科せられて投獄され、脱獄、逃亡、追う者と追われる者との攻防の実際と物語が重なりあう。つまりヴィドックは、フランス文学史が避けて通れない人物であるわけで、ためかあらぬか、パリの書店などでは、通俗小説や推理、冒険小説類には入れないで、『回想録』が、ユゴーやフローベルやゾラなどの作品と一緒に並べてある。
E・A・ポオは、ヴィドックより後に生まれて先に死んでいるが、『回想録』は一種のベストセラーになり、同時に英訳も出版されており、アメリカにも相当部数が渡り、三十歳頃のポオが逸早く読んだかもしれない。しかし、彼が『回想録』の内容に示唆されて、ああいう短篇のいくつかを書いたとは考えられず、だいたいポオの短篇推理小説は一八四〇〜四五年に書かれており、パリ在住の私立探偵オーギュスト・デュパンのところに警視庁のお偉方が事件の解明を依頼する形をとっている。これは、一八九〇年代になって、コナン・ドイルが、シャーロック・ホームズの自宅に事件の依頼人が来るという設定で踏襲され、今日まで多くの私立探偵物語のパターンになった。ヴィドックが私立探偵事務所のようなものを開設したのは一八三三年であるから、ポオが、それにヒントを得たことは有り得る。ヴィドックが探偵の元祖なら、ポオは推理小説の草分けと言われる所以《ゆえん》かもしれない。このことは、フランス文学史家も認めているところで、
「ポオの小説は、フランスの警察小説のジャンルでの基礎づくりの父になったエミル・ガボリオに決定的な影響をあたえた」(ボルダス『フランス語文学辞典』、一九八九頁、スツルベル担当記事、一九八四、パリ)。
とあり、あえて強引な言い方をするならば、ヴィドックはバルザックやユゴーやデュマには濃く、ポオには薄く影響し、ポオはガボリオに、はてはドイルやルブランなどなどに糸を引いているのではあるまいか。なお、いちおう諸先生の記事の引用を明記するのは、他人の説や意見を安易に自分のもののように書きたくないからである。
3
一八二七年、警視庁を退職したヴィドックは、パリの出版者ツノンのすすめによってか、それとも本人の発意によってか、それまでの体験の回想記を書きはじめた。ツノンは、その最初の部分の草稿あるいはノートをエミル・モリスという男に書き直させた。この部分が『回想録』第一巻として出版され、それが、あまりにも歪曲され改竄《かいざん》されているのに驚いたヴィドックがツノンと折衝し、二、三巻は文章の彫琢だけをルイ・レリチエという者に委嘱したが、第四巻は、ツノンの独断でヴィドックに関与させずにレリチエが単独に仕上げた。してみると、第四巻は原稿にはなっておらずノートだったのではあるまいか。ともかく、こうして『回想録』初版の四巻が世に出た。
これが、ヴィドックの研究家とされているジャン・サヴァンが語っていることであるが、ヴィドックが本訳書第三十章で述べているのとは大いに異っている。彼は言う。脱稿した原稿を、すこしは文学的にしたいと思って、物書きと自称する人に修正をたのんだ。ところが、その男は、ある筋からの内命を受けて原稿を歪曲したり削除したりし、気がついたときには一巻と二巻の一部が印刷されていた。だが、その部分は自分の私生活のところだったので放置し、ブーローニュで私掠船に乗りこむあたりからは自分一人で書いた、と。
どちらが真相なのかはさだかでないが、一八二八〜九年にかけて次のものが出版された。
A『ヴィドック回想録』、四巻、パリ、ツノン版。一八二七年までパリ警視庁特捜班長、現在はサンマンデ所在の製紙工場主。
ところが、奇怪なことに、おなじく一八二八〜九年に同書店から次のような別版が出版されている。
B『ヴィドック回想録』、四巻、パリ、ツノン版。一八二七年まで保安警察班長〔第一巻はヴィドックのノートからエミル・モリスが編纂、二、四巻はルイ・レリチエが編纂〕。
この後者は、よほど大量に出版されたらしく、現在のアメリカの十五の大学、公私立図書館が所蔵しているほどである。では、なぜAB二種が同時期に同一出版社から出版されたのであろうか? ともかく、これら二種(あるいはどちらか一つ)は、たちまち大反響を呼び、たちまち同時期にヨーロッパ諸国語の翻訳本が出版され、他の出版社からいろいろな派生本が出た。しかし、これらはヴィドックの意に叶ったものではなかったらしく、
C『ヴィドック伝』、二巻、一八二九、パリ、ルロゼイ版。彼自身が書いたものに拠り、元警視庁特捜班長、『赤裸の警察』の著者フロマン編。
というのが出版され、ジャン・サヴァンは、これこそ本当にヴィドックの手記に拠ったものであろうと言っている。一八三〇年に再版され、十二年後になると、おそらくCに拠ったもの、
D『完全ヴィドック伝』、二巻、一八四二、パリ、新刊商会版。その異常な人物自身の記録と回想によるもの。
が発行され、同年、これと同じものが、
E パリ、ルノー社から発行。
F Eと同じもの、三巻、一八四三。
G『ヴィドック伝』、二巻、一八四三、パリ、ルノー版。警察退職前後の経歴事項と一八四三年の違警罪の訴訟ならびに無罪獲得の顛末(おそらくFの増補)。
H Gの一八四六年版。
I Hと同じもの、二巻、一八五〇、パリ、都市地方人民書房版。
その後、今日まで多くの派生本が出版されてきたが、右のIに拠ったものとして、
J『ヴィドック回想録』、二巻、一九六六、ヴェルヴェ(ベルギー)、ジェラール・プレス版。
が出版された。これは「マラブー叢書」の第二五五番に当たり、本訳書は、このJをテキストにした。ユベル・ジュアンという人が序文を書いていて、二巻末の四十七頁に亘って隠語集が付いている(書名の原綴などを略す)。
なお、ジャン・サヴァンについては詳《つまび》らかでないが、ヴィドック研究の多くの著書があり、一九五〇年に『真書ヴィドック回想録』(パリ、コレーア社)を刊行して以来、引きつづき新『回想録』や論考を発表しているが、彼の説にも矛盾や理解に苦しむ点が見受けられる。たとえば、
『ヴィドック回想録』、一九五九、パリ、今月愛書クラブ。ヴィドックのテキストに拠る無削除の最初のオリジナル版。
というのを出版しているが、その都度、これこそが本当のものだと銘を打ち、『真書太閤記』や『徳川実紀』ではないが、時と共に研究調査の結果の変改は認めるものの、いったい、どれが真実のものか判断に迷わされる。彼は、アラス・アカデミイや戦争記録所その他の協力を得て『真書ヴィドック伝』(前記の一九五〇年版、岡田真吉氏が拠ったという『ヴィドックの真の回想録』)を発表し、B本の改悪を除去したと言っているが、サヴァン自らがヴィドック自身の本当の手記に拠ったことを認めているC本に拠らずに、なぜ杜撰《ずさん》なB本に拠ったのであろうか?
『回想録』の文章は、お世辞にも立派な文章とはいえず、晦渋ではないが生硬である。訳出に当たってはできるだけ平易なものにすることを心掛けたが、力不足で堅苦しいものになってしまった。もともと、訳者は、ヴィドックや『回想録』を研究あるいは考証する意図はなかったが、すこしでも読者の理解の便になりそうな最小限の注記を本文中に〔 〕で挿入した。本文中には《》などがあるが、これは訳者のものではなくて原文がそうなっているのである。本文には何らの手も触れていない。ただし、原書の章題や小見出しは、まことに乱暴なもので、まったく章題のないものや次章に該当するものが前章に付いたりしていて、小見出しについても同様の出鱈目さである。これは、あきらかにモリスやレリチエ、あるいはサヴァンその他の編者がしたことに違いなく、訳者は、欠けたものを補い、不適格なものを書き直し、一貫した形式に統一した。
テキストの巻末に付けられた隠語集の語彙および語句の総計は一、六三八語で、これらすべてが『回想録』に用いられているわけではない。また、隠語集にないものが使われていることもあって訳者を大いに悩ました。ル・ロべール『万国固有名詞辞典』も、ヴィドックの『回想録』は、「当時の犯罪者の風習と隠語を知る上での注目すべき証言を構成している」(前掲同一引用頁)と述べており、『グラン・ラルース百科事典』は、そのアルゴ(隠語)の項で、「有名な徒刑囚警察官のヴィドックは、一八三七年に『隠語集』を発表し、新しい言葉「フルゴ」=伊助、「アブレ」=支払いに来る、「アフランシ」=盗み達者、などを挙げている」(一九六六、二〇七頁)、と述べているが、これはヴィドックが、一八三七年に、
『盗賊、その習俗と言語の生態』、すべての盗っ人の戦術を暴露し、すべての堅気の衆の必携書たらむを目的とする著作、パリ、著者宅。
というのを自家出版したものを指しているようである。してみれば、『回想録』に付けた隠語集は、その前提かもしれない。前掲『レ・ミゼラブル百六景』で、鹿島茂氏は、ユゴーが『レ・ミゼラーブル』に付け加えた「隠語」の章のバヤールの挿画を説明され、
「ユゴーは隠語を、社会組織のどん底の泥沼にうごめくレ・ミゼラブル(悲惨な人々)が生み出した醜悪な怪物、言語の徒刑囚と規定する。(中略)、ユゴーの隠語にたいする熱の入れかたはいささか異常なほどで、単に登場人物に隠語を話させるだけでなく、わざわざ一章を割いて隠語の研究に捧げている」(前掲書、一七〇頁)。
と述べておられるが、ヴィドックは、ユゴーほどの深い洞察からではなかったろうが、ユゴーに先んじて隠語、とくに犯罪者の隠語に特に関心を持っていたことがわかる。
4
『回想録』を読むと、いろいろと腑に落ちないことがあるのに気付くが、そのうちの大きなものから考えてみよう。第一は、ヴィドックの教養度である。『回想録』の文章が生硬なものであることは前述したが、とかく自叙伝というものは記憶が前後して脈絡を欠くことがあるのは仕方がないとして、かなりの教養がないと書けない文章である。しかし、『回想録』には、ただの一カ所も、どこの学校で学習したとか、誰それについて勉学したとかは述べておらず、道場に通って剣術を稽古したことしか書いていない。監獄内で読書したらしくもなく、たといモリスやレリチエが書き直したとしても、第三十章て自らが云々しているように、ブーローニュで私掠船に乗りこむあたりから後は彼自身のペンによったものであるはずである。モリスたちが教育部分を削除したとも考えられるが、ジャン・サヴァンもヴィドックの教養度については無言である。ヴィドックには、いずれも『回想録』以後のものだが、前述の『盗賊、その習俗と言語の生態』の著作の他に、一八三七年から四四年にかけて出版した『ノール県のあたため強盗』、『パリの暗黒面』その他の著書がある。非行少年から始まって家出、入隊、投獄、脱走をくりかえした彼が、『回想録』以外にも右のような著述をし、警視総監に報告書をホメられたとか、『回想録』の自筆の部分を気に入られたとか(第三十章)自讃するような教養と文章力を、いつどこで身につけたのであろうか?
第二の不審な点は女関係である。『回想録』では、マリイ・シュヴァリエと緒婚して(一七九三)離婚した(一八〇六)ことだけが述べられているが、ジャン・サヴァンに拠ると、ジャンヌ・ゲランと再婚し、一八二四年に彼女が死亡すると、すぐに彼女の従妹のフルリッド・マニエズと三度目の結婚をしている。では、あの陸軍の中隊長の妻で、夫がオランダへ逃亡し、ヴィドックの実際の妻同様になっていた、「この女に生涯で最高の愛情をささげることになる」(第二十章)とヴィドック自身が言っているアネットはどうなったのであろうか?
世には有名無名の人物の自伝なるものが無数にあるが、自分の恥や不利になることは書かないもので、ヴィドックも例外ではない。『回想録』では二、三の女性関係を告白したり仄めかしてはいるが、詳しくは語らず、フランスの俗説になっている艶福家の像はつかめない。彼が八十三歳で死んだときは十一人の美女が悲嘆にくれた(前掲、「リーダーズ・ダイジェスト」同一引用頁)などは『回想録』からは窺えない。おなじような角度から見ると、なるほど彼は怪盗でも人殺しでもなかったことは確かだが、盗賊団に加わったり詐欺師と深く交際していて、いつもいつも傍観者でいられたかどうか、すこしは手伝ったこともあるのではないかとも思われるが、『回想録』では、そんなことはなかったとしている。
第三の疑点は、なぜ彼が度々の脱獄をしたかである。『回想録』によると、脱獄して平穏な生活がしたいだけのためとしか察せられないが、脱獄すればお尋ね者になり平穏な生活はできないはずである。彼の脱獄は、(イ)無実であるのに犯罪者にされているのが我慢ならなかった、(ロ)脱獄して無実を晴らしたい、(ハ)脱獄するスリルにとりつかれた、のではあるまいか?
われわれが最も注意しなくてはならないのは、『ヴィドック回想録』には彼の前半生しか述べられていないことである。つまり、『回想録』は、一八二七年、彼が第一回目の警視庁から退職した直後に、それまでの人生を語ったものであり、その後の自伝は残念ながら書いていないのである。では、後半生はどういう生き方をしたのかを『万国古今伝記大系』第四十三巻(一九七〇、学術出版会、グラーツ、オーストリア)によって簡単にたどってみよう。
一八二七年、特捜班長を辞めたヴィドックは(退職のいきさつはジャン・サヴァンが前掲の『真書ヴィドック回想録』に書いている)、パリの東南十数キロにあるサンマンデに普通の紙とボール紙を作る工場を設立して男女の釈放囚を雇い、かれらの厚生を目的にした。これは、政府の支援がなかったのと、パリの小売商が前科者の作った品を嫌ったので二、三年で倒産、一八三〇年、警視庁に復帰しようとしたが、警察内部の反対で思うようにならず、一八三三年六月、例の興信所と事業相談所を兼ねたものを開設して相当の利益をあげた。この間、二度も警察の謀略によって無実の罪を着せられて入獄、けっきょく破棄院(最高裁)で勝訴したが、一八四七年には三度目の妻フルリッドが死んでいる。翌年、一八四八年の二月革命で第二共和政が成立すると、かねて交際のあった詩人ラマルチーヌが臨時外務大臣になり、ヴィドックは警視庁に復職したが、同年の数カ月でラマルチーヌが外相を辞め、ヴィドックも辞職した。それからの二十年間、どこでどうしていたかは不明だが、
「しかし、彼は、彼が求めた教会の救済を受けて、一八五七年四月二十八日、極端な困窮のうちに死んだ。信仰心を取りもどした証しのある言葉で自分のことを語ったという」(前掲書、三四八頁)。
ところが、この死亡場所が示されていない。一説によると、同年五月十一日にサンマンデで他界したともされ、オランダの百科全書は同年同月日にブリュッセルで死亡としている。もっと奇怪なのは、パリで死んだとし、さも真実らしく死亡場所を示したパリの市街図まである。ちなみに『回想録』にある彼の住居はパリのヌーヴ・サンフランソワ街十四番地となっており、その前後に別の場所に住んだことは有り得る。また、彼の特捜班は警視庁内にあったのではなくサンタンヌ街にあったことも述べている。
ヴィドックは、たぐい稀な体力と健康にめぐまれ、強靱で不抜な精神力の持主だったが、知らず知らずに異常な体験を重ねる結果になったわけで、ここで忘れてならないのは、彼が生きた時代がフランスの有史以来のシュトルム・ウント・ドランク、疾風怒濤の時代で、ルイ十六世、大革命、第一共和制、ナポレオン、王制復古、百日天下、第二次王制復古、七月革命、第三共和制とつづいて目まぐるしく政治体制が変わり、物情騒然、社会不安の背景があったことだ。読者は、いちおう、このフランス史を念頭に置いていないと十分の理解が得られないかとも思われる。しかし、ヴィドックは、終始、今日いうところのノンポリだったらしく、入牢中は勿論のこと脱獄中も政治や体制のことは念頭になかった。信仰心もどこへやらである。もっとも、たいていの囚人は、政治体制や国家|経綸《けいりん》などよりは、まず食物のこと、次は異性や家族のこと、出所してからの正当または逆恨みの復讐などのことしか頭にないのが自然で、ヴィドックも例外ではない。警察の仕事をするようになってからは、自分を陥れて長いこと苦しめた悪人ばらを憎む心が、すべての犯罪者を根絶したい気持になり、自分は正義だという信念を持ったのではあるまいか?
ミセル・ムール『歴史百科事典』(一九七八、パリ、ボルダス)の「警察」の項によると、フランスの警察制度は、ルイ十四世時代の一六六七年三月十五日付けの法令で警察総監が設けられ、その下にパリ総奉行がいたが、革命時の委員会制度を経て一七九六年五月二十八日付けの法律で警視総監制度が発足した。さらにルイ十八世のときには(一八一四)警察大臣が設けられ、やがて警察の頂点に内務大臣がいるようになった(三五七九〜三五八二頁)。この間、官庁や役職の呼称も変わり、訳者は、フランス参考書の他に、隠語については楳垣実教授の研究、京都府警や大阪府警の資料、機構については司法省資料などを参考にした。なお、フランスの憲兵隊は民間犯罪も担当し、その場合は警察の指揮下に入ることになっていて、この伝統は今日まで続いている。
訳者は、ヴィドックを研究したり『回想録』を考証したのではないので、煩雑さを避けるため、すべての引用書や人名などの原綴は割愛した。ここで、この拙い訳書の出版を受けて下さった作品社の和田肇氏、編集部の増子信一氏その他の方に感謝すると共に、訳出や参考資料の渉猟に多くの協力をお願いした藤田真利子さんに篤く御礼を述べねばならない。達眼の士は、こう言っておられる。
「自己形成の歴史は、ほとんど自伝というものの定義である。それはどの時代にも通用する。しかしその内容は、著者のおかれた時代と社会とによって異なる。(中略)、時代の価値体系が多様で、当人が少数派に属し、その人生に挫折を経験してきたとき、自伝はその経験の特殊性を超えて自己の立場の擁護をめざすだろう」(加藤周一「文芸時評」、一九七七、七、二五、朝日新聞)。
5
ところで、いささか蛇足めくが、本年五月、私は、北フランスのヴィドックゆかりの地を何カ処か、リール、ドーエ、アラス、ブーローニュなどを訪ねてみた。現在のドーエは、人口約四万五千人のノール県の地方都市であるが、中世のころは良質の毛織物の産地としてヨーロッパに聞こえ、一五六二年に大学が設置されてからフランドル地方の学術都市になり、一七一三年にフランドル議会が置かれて同地方の行政司法の中心になった。こうした事情から裁判所や監獄などが増強されていったらしく、ヴィドックは、ここの監獄に再度投獄されて再度脱獄を試み、彼の有罪判決は、ここの法廷で宣告され、無罪上申書や検事の情状酌量具申などもここで行われている(第六、二十、二十二章)。ヴィドックが飛びこんだスカルプ川は、町の中央をほぼ南北に流れており、当時の監獄は、その岸辺にあったのだが、現在の刑務所は、この川の西北一キロほどのところを本流と平行して流れている、本流より五倍も広い分流のサンセ運河の更に北西の町はずれにある。周囲二キロもあろうかと思われる広大な一画を高い塀が五角形に囲み、びしりと門が閉まっていて全く人影はなかったが、写真を撮っていたのを買物帰りの職員の奥さん数人に見つかって(職員宿舎が構内にある)通告され、くぐり戸から虎ヒゲを生やしたピストルを持った門衛が出てきて塀の中に連れこまれた。くぐり戸を入ると、もう一つの鉄格子の別の門があり、広い庭と遠くにある建物が見えた。門衛詰所の壁にあった見取図から判断して、獄房建物はダブルY字型、さそり型の構造になっていた。ヴィドックのことを話したが、誰一人知っておらず、それでも、なんとか、こちらの意図をわかってもらって事なきを得た。
アラスもドーエと似たり寄ったりの大きさの町だが、かつてのアルトワ州の主邑、現在はパドカレ県の県庁所在地で人口は約五万人。両次大戦の戦火をあびたが、今は全く復原している。駅前広場に第一次大戦の功労者フォッシュ元帥の銅像が建っている。だが、アラスは、十五世紀から十七世紀にかけてオーストリア軍やスペイン軍が占領したり略奪したり、フランス側が奪還したりし、さまざまな歴史の荒波にさらされた町である。それに、ヴィドックは、この町で生まれ、その隣家がロベスピエールの生家だった(第一章)。
五月二十二日の夜の十時ごろ(といっても日が暮れたばかり)、私は、国家警察アラス隊へ行った。ヴィドックのことは知らなくても、アラスで生まれたフランス大革命の大物、恐怖政治の元締のロベスピエールの生家があった場所は知っているだろうと思った。二百年も昔のことだが、ひょっとすると記念碑くらい建っているかもしれないし、保守的なフランスの田舎町のことだから、何かの名残りをとどめているかもしれないという希望があった。
アラスの町は、国鉄の駅前から緩い下り坂になり、いったん谷底に降りると、こんどは昇り坂になる。町は、谷の両斜面にひろがっていて、アラス警察隊は、坂を昇りきった町のはずれにあった。玄関を入ったところに二人の制服の警官がいたので、いきなりロベスピエールの生家のことを尋ねた。さっぱり要領を得ない返事なので、こちらから説明してやっていると、一人の四十がらみの私服の刑事らしいのが現われて、その場所なら知っているが記念碑などはないと言い、奥に引きかえして警察監修と印刷された地図を持ってきて場所を教え、その地図をくれた。彼は、フランス大革命のことは詳しく、話が合って、いろいろと話題が変わり、こんどは、こちらが答える番になった。ヴィドックの話をだすと、肩をそびやかして知らないと白状した。
あくる朝、さっそく教わった場所へ行ってみた。それまでに何度も通った駅からの下り坂の途中の裏手で、「マキシミリアン・ロベスピエール街」と、フランスの何処の町にもある青地に白字の琺瑯《ほうろう》加工の標識が壁の高いところに出ていた。幅五メートル、長さ八十メートルくらいの裏通りで、片側に六軒の家が並んでいた。面白いことに、その標識にはカッコして小さく「旧ワイロねずみ街」(アンシェンヌ・リュ・デ・ラ・ポルツール)と但し書きがあり、旧町名が付いた標識を初めて見た。もちろん、当時の家屋が現存しているはずはなかったが、あの警官を信ずるなら、その一角にロベスピエールの生家があり、その隣りにヴィドックの生家のパン屋があったにちがいなかった。さらに、その通りのはずれを右に直角に曲がる細い小路があり、なんと、そこには「たれこみ小路」(プチット・リュ・デ・ラポルツール)という標識が壁に取り付けてあった。前記の旧町名は、大勢のワイロ鼠が通ることを意味し、あとの名称は、ラ・ポルツールを一語にしてラポルツール(密告者)にしたのは、フランス人というやつは、なかなか味なことをするわいと感心した。ロベスピエールは、ほとんどパリにいたのだろうが、どこの国も同じこと、彼の生家には親なり眷族が住んでいて、付けとどけ、請願、たれこみに来る者が多かったのであろう。
ブーローニュは、広い砂浜がある海水浴場のような港というより船着場といったほうがいいような長い海岸で、すぐ前の海で海戦があったのは嘘のような静かな海だった。イギリスから来たフェリー船が一隻だけ港に入っていた。ヴィドックが勤務した砲台があったところへは時間がなくて行けなかった。
一九八八年七月
[#地付き]三宅一郎