ヴィドック回想録3
フランソワ・ヴィドック/三宅一郎訳
目 次
第二部
三一 今は昔の語り草
総監の気晴らし
カルツーシュ親分の死
密偵ガフレ
片棒かつぎ
仕掛人が仕掛ける
ヴィドック班
手袋をはめろ
かげ口と予言
私は一八七五年に死亡
三二 いいやつ盗っ人たち
オストラシズムと貝殻
リブーレとブロンド・マノン
泥棒仁義
なにを震える
健胃の効用
新作狂言『ヴィドックの末路』
泥棒を逃がす
一味の壊滅
ペテン師たれこむ
ユダさんの俗語
オト旦那と公爵夫人の朋輩
おしどり夫婦
三三 捕物夜話あれこれ
私の評判
親不孝息子
神父と宝石商
鏡盗っ人
スケコマ師を追う
ヴィンテルの唄
女店主は眠れない
発見された所書き
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第二部
三一 今は昔の語り草
総監の気晴らし
さて、今では昔話になっている逸話を少し述べてみよう。盗賊やスリなどを取締まるために就任したド・サルチィヌとルノワールの両氏〔アントワーヌ・ド・サルチィヌは一七五九〜七四年のあいだ警視総監だった。ヴィドックの生まれる前の話〕が、どういう御仁だったかは、もちろん面識はないが、お二人の支配下では、かえってスリが大手をふってまかり通り、かなりの数のスリがパリにいたという。総監は、連中を取締まることには、あまり熱心ではなかった。直接に自分で捕まえる仕事ではなかったからだ。だから、スリのことは承知していたが、べつに腹もたてず、ときおり、かれらの名人芸の話を聞いて気晴らしにしていたという。
ある外国の要人がパリに来たばかりのとき、総監〔パリ警視総監の呼称は時代によって異なり、パリ奉行、王国総奉行、治安総代官などという名称があるが、以下総監とする〕は、さっそくスリのピカ一にツナギをつけて、誰でもよい、その要人の時計とか高価な宝石を手際よく盗んだら褒美をやろうと約束した。
盗みはやってのけられ、すぐに総監に通報されていた。だから、当の外国人が訴えて出て、びっくらこいた。つまり、盗まれた物を申し出たとたんに、その品が返されたからだ。ド・サルチィヌ氏のことは、いろいろと語られていて、誤ったり買いかぶって伝えられてもいるが、とにかく、彼は、フランス警察が世界一の警察であることを実証しようなんて夢にも思っていなかった。先任者と同様、巾着切りに奇妙な偏愛をもっていて、いったん腕前に感服すると、ぜったいに処罰されなかった。なんどもスリたちを部屋に呼んで、かれらが出頭すると、
「諸君、要はパリのスリの名誉を保つことである。みっともない盗みはせんでくれたまえ。誰しも用心している。だから、くれぐれも気をつけて天晴れな成功をとげるべく心したまえ」
こうした今は昔の楽しい時期に、総監は、今は亡き隠密情報員シカール神父以上にスリの器用さを面白がり、お歴々、大使や王候、王さまさえも連中のカモになった。当時は、人々がスリたちの指先の早さに賭け、財布を切る神技に賭けた。世間では連中をほめて楽しみ、警察よりスリ、憲兵よりスリをひいきする。ド・サルチィヌ氏は、いつも二十人ばかりの飛びきり狡くて腕のいいのを手の内に握っていて、宮廷の人たちから小遣い銭をまき上げていた。ごくありふれた侯爵や伯爵や騎士、または宮廷人の愚かさを身につけている人たちがカモで、こういう連中をなるたけ大勢ひっかけて、どうやら詐取《さしゅ》に近いことを誰彼なしにやってのけていた。
手口と習慣がスリと本質的には違っていない他のグループも、ヤバくないというのでスリ仲間に飛びこんできた。ルイ十五世治下の記録を読むと、スリたちを夜会に招き、有名な伯爵や名声のある歌姫の手に銭をもたせておいてスラせるという趣向で遊んだという。
カルツーシュ親分の死
ある公爵夫人の、たっての依頼で、早業で鳴らした盗賊の首領が一度ならずビセートルから出してもらったことがあった。もし、その貴婦人が設けたお試しに彼の技《わざ》が高い評価を得れば、名人のホマレを持ちつづけるというものだったが、総監は、おいそれとは、そういう重要な囚人を自由にすることには同意しなかった。もっとも、特赦が乱発され、誰のポケットにも王の印璽《いんじ》がある封印状があるといわれた時代では、やや厳格なくらいの高官の権威などより、大して面白くもなく、うまく仕組んだものでなくても、悪党のいたずらが面白いとされた。世間をあっと言わせたり笑わせたりすると特赦されたものだった。
つまりわれわれの先輩は物事におおらかで、われわれよりずっと陽気だったのだ。おっそろしく単純で無邪気だったのだ。ということは、やはり事件のほうも単純で無邪気なものが多かったというわけだ……みんなの眼には、一人の悪党が超人的な存在に映り、そやつを褒めて賞賛し、そやつの手柄を語ったり、そやつに語らせるのを好んだ。例の気の毒なカルツーシュ親分が死刑にされるためにグレーブ広場に護送されたときなど、宮廷の御婦人たち一同が涙にくれて深い悲しみに沈んだ。
旧体制のもとでの警察は、盗賊どもを利用することをまったく思いつかなかった。気晴らしの趣向に盗賊を使うことしか考えず、警察がやらねばならない仕事を彼らに分担させて委せることは、後になってしか思いつかなかった。さて、思いつくと、いちばん名のある泥棒をえらぶことにした。たぶん、やっこさんは頭がいいはずだったからだ。警察は、そういった者の若干名をえらんで密偵にした。ところが、かれらは、自分らの生活の主な手段だった盗みはやめないで、泥棒稼業では二流どころの仲間をあばくことをやった。その代償として、かれらが得た利益は、かれらの犯罪は追求されないこと、これが警察との約定であった。そのかわり、べつに手当などはなく、罰せられないという汚れた特権を受けていることが十分かつ大きな恩恵であった。この無処罰条件は、司法当局が関与した現行犯にかぎって無効とされたが、そういうことは極めて稀《まれ》であった。
ながいあいだ、警察は、まだ有罪か無罪かを宣告されていない盗賊だけを使ってきた。ところが、共和国の六年ごろになると、パリの路上で刑事として使うために、策を弄《ろう》して脱獄囚も利用した。これは、たいへん危険なやりかたで、またまったく信用できない連中なので、やつらが役に立たないとわかると、とたんにお払い箱にした。その方法は、かれらに新顔の刑事を送りこみ、ニセの事件に引きこみ、ヤバイことに巻きこんで逮捕の口実をつくった。リシャール一味、止め爪一家、忘八組、ボーモン一家、その他大勢が警察のイヌにされ、みんな牢獄に逆戻りさせられた。牢獄では、かれらが裏切った昔の仲間にさんざんひどい目に遭って末路をとげた。つまり、これが世のならい、密偵が密偵に戦いをしかけて、かれらの世界は、ますます狡賢《ずるがしこ》くなっていった。
この手の者で、これまでに話に出た者は百人にもなる。相棒組、老セザール、ロングビル、シモン、ブーティ、狐組、金ぴか一味、ボンバンスことペテン師たち、盗っ人大将、ミンゴ、ダリッソン、エドワール・ゴロー・イザァク、マイエ、窪地組、ベルナール・ラザール、とんずら一家、フロランタン、エリー泥棒大将一味、手づかみ組、たくらみ一家、ナゾン、ルベスク、ボルダリ一味たちは、牢内で何らかのつながりを持っていて、おたがいにタレコミをやったが、ガセではなかった。どいつもこいつも盗みをやっていたが、警察も大目にみて、なれっこになる必要があった。警察が、かれらの生活をみてやらない以上、盗みをせずにどうやって生きていけたろう?
もともと、二足の草鞋《わらじ》をはきたい盗賊は、たいへん少なかった。獄中でニセの兄弟分になっても、密偵になる者は増えなかった。かれらが一種の忠誠心を持っていると考えるのは、盗賊たちを曲解していることになる。ほとんどの者がタレコミをやらないのは、殺されるのが怖いからだが、やがて直面せざるを得ない危険に慣れてくると、しだいに怖れが弱まり、ずうっと後になると、警察が構える勝手気ままな無体な仕打ちから逃れるために密告の習慣がひろまっていった。
それが単に警察の喜びだけのためで、他に正当な告訴手続きがとれないときは、名の通った連中を(矯正などしたことのない国ではバカげた名称だが)、『矯正不能な盗賊』という新しい品級に入れた。こうなると、そういう多くの不幸な連中は、限界がない当局の憎悪に疲れて、じぶんたちの自由を得るために独特の方策を思いついた。ほんとうに『矯正不能な』有名な『盗賊たち』も、仲間のあいだで一種の仲間疑いをもつようになり、とどのつまりは、受刑者の境遇をうらやむようになった。というのは、受刑者になれば刑の満期には釈放されるからだ。あいつらは、やりもしなかった小さな盗みを自首したんだろう、と想像し判断した。おなじく、軽い罪を犯して召喚されたいと望んでいた者は、わずかの報酬で仲間を密告して自分の罪を売った。だから、二度も売る罪を持っている者は、なんとも幸せだったことになる。かれらは、かれらの悪業の買手である警察の健康を祝して安食堂で乾杯した。すすんで自首する者には大吉の日で、ビセートル未決監から呼びだされてラ・フォルス監獄に移された。判事の前に連れて行かれ、あと何カ月の禁錮だと宣告される者などには小吉の日であった。ところが、その期間がすぎて、ついに待ちに待った出所が告げられるが、二つの小門のあいだでサツに身柄を押さえられ、またぞろ警察の裁量権の手に落ちて埃《ほこり》をたたきだされてビセートルに逆戻りし、いつまでもそこにとどまる。
女たちも、いい扱いはされなかった。サンラザール刑務所は、不幸な女たちを締め上げ、不法な苛酷な扱いで絶望にかりたてた。
密偵ガフレ
当局は、こういうやり方の禁錮を倦《う》むことなく続けたが、そのうち収容場所がなくなり、とりあえず、囚人が過度に詰めこまれている牢獄からはじめて、諸牢獄の囚人の減員をせざるを得ない時が来た。そこで思いついたのは、例の矯正不能とされた者たちの拘束を停止することだった。そのことに過剰囚人の打開がかかっていた。そこで、植民地の軍隊に志願する者には直ちに旅行許可証を交付することにしたところ、たちまち、わんさと志願登録者が名乗りでた。一同は、あとで自由に集合してよいと言い聞かされ、そういう約束だった。ところが、憲兵がやって来て、かれらを分隊に分けて部隊から部隊へ連行して目的地まで連れて行ったのには驚かなかったろうか? あっという間に素早く制服を着せられた。このやり方に囚人たちの熱が急に冷めたのを知った当局は、志願をすすめるようにと看守に指図し、その奇妙な徴兵係は、もし拒否した者には苛酷な処遇を強制してよいという命令を受けていた。こうした場合、たしかなことだが、看守は、いつもの行ない以上のことをするのが常である。ビセートルの看守たちは、正常の囚人を勧奨したばかりでなく、そうでない者にも志願をすすめた。やや重症者でも免除の理由になる病弱者とはしなかった。せむしも盲人も、跛者も老人まで、すべてが適応者とされた。抗議したがムダで、当局は、かれらを兵士にすることを決めていて、よかれ悪しかれ、オレロン島かレ島に送りこみ、そこでは、全軍の中で最も残忍な者からえらばれた隊長たちが、かれらを黒人のように扱った。この方策の残虐性が知れ渡ると、なんとなく兵役志願に応じようとした若い囚人たちが、助手になりたいと警察に申し出る原因になった。この、たった一つの助かる道にいどんだ最初の連中の一人がココ・ラクールだった。はじめ、彼を許可するのには若干の困難があったが、しまいには、ほんのガキのときから泥棒付き合いがあったことが優秀な実績とされ、総監は、密偵組織に加入させることに同意した。ラクールは、型どおり堅気になると誓ったが、その決心を続けられたろうか? お手当はなかった。腹が減っているときは、胃袋のほうが良心より大きく叫ぶものだ。
無給ではあるが密偵であることは最悪の条件ではないが、それは、つまり、密偵であり盗賊であることである。そうなったのは、はっきりと必要やむを得なかったのだが、密偵たちは、無罪になるか有罪になるかはともかく、いつも刑を背負っているという、いやな気分にとらわれていた。密偵に報復してやろうという盗賊は、証拠の有無にかかわらず、自分の共犯者だと名ざしすることを思いついた。ぜったいに無罪なんかにならせるもんか、と。
私は、召喚された犯罪には無関係だった密偵が法廷で負けた多くの実例を挙げることができるが、ここでは次の二例を記すにとどめよう。
エマール会長が郷里に帰って行った。馬車から降りる際、身の回り品が入っていた鞄が盗まれているのを知った。盗んだ泥棒に怒り狂った彼は、犯人を突きとめるまで全財産を注ぎこむと誓い、犯人の頭上に法の厳しさが加えられるのを望んだ。その鞄泥棒が受けるのは軽罰だったが、エマール氏は、微罪では承知しなかった。罰が甘すぎる。歴とした犯罪だ。この趣旨で、窃盗罪後ノ強盗ニハ加重罪ガ成立スル、を決定づけるように裁判長に請願書を提出した。
エマール氏は、右趣旨の肯定を迫り、その決定は思惑どおり取り運ばれた。そうこうしているうちに、かねてから刑法学者も怒りに燃えていた大胆不敵な盗賊たちが見つかって逮捕された。かれらは、しこたま弁明できない金を貯めこんでいて、犯行を否認するのが難しく、昔の仲間がサシたのだと疑い、ボネという密偵が共犯だと偽証した。ボネは無実だったのだが、例の加重罪とやらで十二年の禁錮刑を宣告された。
しばらくして、別の二人の密偵、エリー弟と、その義弟のルドランがトランク泥棒をかさねて中身を掻《か》っ払い、かれらの仲間のトルメルの親父と息子のところに預けていた。そのうち、親子は密偵たちの報せで捜索され、一個の盗品が見つかって承服させられ、密告者だけの儲けになった。ビセートルでもラ・フォルスでも、こうした連中の誰かが入ってきて、お互いの卑劣さを咎め合わないのを見ない日はなかった。朝から晩まで、ハミだしスパイたちが喧嘩をしあい、その浅ましい争いを見ていて、これからやろうとしている私の仕事が、どんなに危険なものかを思い知らされた。だが、私は、仕事の危険性から逃げようとは思わなかった。自分が証人である一切の災難は、それだけ経験になり、その経験によって管理規則を自らに課し、私の境遇を先達たちより不安定でないものにすべきだった。
この回想録の第二巻でユダヤ人のガフレのことを書いたが〔第二十七章〕、私が警察の仕事をしはじめた頃は、いわば彼の指揮下にあった。当時は、彼だけが有給密偵だったが、私の面倒を見てくれるどころか、むしろ遠去けようとしていた。私は、彼の意図を探っていないフリをし、もし辞めてくれと言ったら、こっちとしては、彼の計画の裏をかいてやろうと考えていた。相手は手強かった。ガフレは狡い男だった。私が彼を知ったときは、彼は盗賊の頭だった。八つのときから盗みをはじめ、十八のとき、ルーアンの旧市場の広場で笞刑を受けて烙印を押された。彼のお袋は、その町の警察署長フランバールの情婦《いろ》で、とりあえず息子を助けようと思った。だが、彼女は当時ピカ一のイスラエル美人だったが、総監は、その魅力について来なかった。ガフレは、とても塩《しょ》っぱく、(有罪的で)、別嬪《ヴイナス》一人では判事たちを動かす力がなかった。彼は所払いになったが、フランスからは出なかった。ときに革命が勃発し、すかさず彼は馬車盗賊団に入って一連の手柄をたて、仲間から『鶉《カーエ》』という名で呼ばれていた。
ほとんどの盗賊は、こんなもので、ガフレは獄中で囚人たちに教育をやってのけた。ピンからキリまで、つまり、先生が教えない盗みの種類はなかった。また、しきたりに反して、彼はまったく専門的な技《わざ》は使わなかった。根っからのチャンス男であった。殺《ばら》しから掏《むし》りまで(殺人からスリまで)、すべてが彼に都合よく運んだ。なんでもござれ的な能力と手口の多様性で小さな稼ぎを集め、世間でいうお大尽になって、もう稼がずに生活ができた。しかし、ガフレの仲間たちはせっせと働いた。ガフレは、警察からどっさりお手当をもらっていたが、不法な横領物を俸給に加えるのをやめなかった。これを彼のシマ(当時のマルタン区域)では誰も異とせず、そこでは、相棒の別のユダヤ人、陸軍大将という名のフランコフォールも同様に振舞った。
ガフレは、私が彼に取って代わるのを心配していたが、古狐、その懸念をうまく隠すほど利口ではなかった。じっと様子を見ていて、私を罠に落とそうとしているのを逸《いち》早く見抜いた。低姿勢をよそおっていると、早くも内心してやったりと勝った気で、彼が考えていた捜査を私にやらせ、まんまと彼の網の中で私をつかまえ、事件の成行きで、無実の私は八カ月のあいだ牢につながれた。
ガフレの裏切りを疑っていることは、ぜったいに当人に気付かれないようにした。彼も私に抱いている憎しみを隠しつづけた。だから、二人は、見かけは実に仲のよい友だちであった。私が入牢していたあいだに連絡をとっていた大勢の密偵泥棒たちも同様で、連中は、心から私を憎み、お互い、うわべはいい顔をしていたが、腹の中では仕返しをたくらんでいた。『古靴の聖ジョルジュ』のグーピルも私に反感をもつ者たちの一人で、いつも付きまとって誘いの役目をしたが、ガフレほど上手でも器用でもなかった。コンペール、マニガン、コルヴェ、ルルトル、こうした連中も私を鉤《かぎ》で引っかけようとしたが、アンリ警視の助言のお蔭で私は傷付けられなかった。
ガフレは、私が自由をとりもどすと、私を危ない目に遭わせるコンタンをすてず、マニガンとコンペールをかたらって私に勘定させる(罪におとす)ことを企んだ。初回をしくじっても、次の攻撃をあきらめないやつで、私は、いつも挑戦されていた。さて、こちらが足もとを固めて待っていたところ、ある日、聖ロク寺院での祝祭に人出が大勢あるはずだから、私と一緒に警戒に行けという指図を受けたと言ってきた。
「友《だち》のコンペールやマニガンも連れて行く。聞くところによると、祭のときは外国の盗っ人どもが大勢パリに来るそうだ。マニガンたちが、知り合いの奴らを教えるそうだ」
「そうしたけりゃ、連れて行きな」
私が答えて、みんなで出かけた。
着いてみると、かなりの群集だった。われわれは、全員が同じ場所に集まらなくてもよいことになっていて、マニガンとガフレが前のほうを行っていた。とつぜん、かれらがいるところで一人の老人がやられているのが見えた。柱に押しつけられ、無体な仕打ちにどうしようもなく、聖なる場所柄のせいか大声もあげず、たおされてカツラがひん曲がる。ひっくり返った。まぶかに被った帽子が、あちこちと肩から肩にはね上がる。
「おねがい」――哀れっぽい調子で出した唯一の言葉だった――「おねがい」。
金の握りの付いたステッキを片手に、もう一方ではタバコ入れとハンカチをつかみ、二本の腕を振りまわして腰を上げて立ち上がろうとしていた。時計を巻きあげたなと見てとったが、私に何ができたか? 老人から遠すぎたし、注意するには遅すぎた。しかも、ガフレが、その場の証人であるはずではなかったか? もし彼が、この出来事を黙っているようなら、時計強奪が黙っている原因にちがいなかろう。私は、お利口さんをきめこみ、成行きを見るために黙っていることにした。祭の行事は二時間つづいた。その間、ガフレとマニガンを五、六日も見張っていたような気がした。マニガンは、今はブレスト徒刑場で十二年の刑をつとめているが、その頃のパリ随一の抜け目のないスリの一人で、他人のポケットの金を瞬間的に自分のポケットに移す名人だった。彼に言わせると、錬金術師が金属を変化させるのは、信じられないような素早さの単なる取り替えにすぎない、という。
聖ロク寺院での私たちの警戒は、これといった成績もなく終わったが、例の老人の時計はさておいて、二つの財布とたいして値打ちのないいくつかの品物が誰かの内ポケットに入れられていた。
片棒かつぎ
祭の行事は終わった。われわれは居酒屋へ飯を食いに行った。常連として、みんな一括して勘定を払うのでケチる必要はなく、みんな十分に飲んだ。食後、かれらは私に隠しだてはしないとばかり、まずいくつかの財布を空けて百七十五フランあったことは文句のないところであった。これで飲屋に支払った残りが百フラン、秘密をまもるようにと私の分として二十フランをくれた。お金には名前が書いてないので受け取っても別に不都合はなかった。会食者たちは私を共犯《れつ》にしたことを大喜びし、私の加盟を祝ってボーヌ酒二本を空けた。時計のことは誰も口にしなかった。もちろん私は何も言わなかったし、私が知らないのをよしとしている以上、もっと知っている様子など見せなかった。しかし、眼と耳を集中し、たしかにガフレが時計をガメているなと早くも知った。そこで、酔っぱらったフリをし、吐きたいと偽ってボーイに吐く場所を教えてくれと頼んだ。案内された。独りになるとすぐ、次のように紙切れに鉛筆で書いた。
≪ガフレとマニガンは聖ロク寺院で
時計を盗《と》った。一時間以内はその
ままでサンジャン市場へ行くはず。
ガフレがブツを持っている≫
大急ぎで階下に降りた。ガフレ一味は、まだ私が六階で吐いているものと思っていた。私は、通りへ出るとアンリ警視に急を知らせて、すぐに階上に戻った。それほど長く席を外してはいなかった。
席に戻ったときは息を切らし、雄鶏のような赤い顔だったので、気分はラクになったかと尋ねられた。
「ああ、すっかり」
テーブルに倒れかかりながら口ごもった。
すると、マニガンが、
「なら、しゃんとしろよ」
「ガブ呑みしたからな」、とガフレ。コンペールが口をだして、
「なに、ほろ酔いだ。そうだよ、こいつは。外気に当たりゃ治るさ」
砂糖水をくれたので、私は大声で、
「んん……くれよ。水をくれ、水を」
「ホラ、飲め、よくなるぜ」
「ほんと?」
腕をのばしてコップを取ろうとしてひっくりかえす。コップがこわれる。次に酔っぱらいの所作事をやって連中を困らせ、アンリ部長が報せを受けて対処した頃合いを察し、すこしずつ落ち着きをとりもどした。
さて、帰りの道順を変えなかったので嬉しくなった。みんなはサンジャン市場のほうへ向かって行く。しばらくすると衛兵所があり、遠くのほうから門の前に兵隊がいるのが見えたので、大道に兵士が出ているからには、てっきり私の報せでメナゼ警視が背後で見守っているとしか考えられなかった。そこを通りすぎようとしたら兵士たちが近づいて来て、おとなしく一同の腕をとって屯所へ来て下さいと言った。ガフレは、いったい何のことかわかりようがなく、兵士が何かの間違いをしているのだと思った。彼は文句を言いたかったが、言うことをきけと言われ、身体検査に従わざるを得なかった。私から始められたが、何も出てこなかった。次はガフレの番で、彼は気が気でなかったろうが、とうとう致命的な時計が内ポケットから出てきた。いささか慌てたが、尋問されて、とくに警視が書記に、
「さァ書け。ダイヤ囲みの時計一個」
というのを聞いたときは、青ざめて私をにらんだ。このいきさつで私をいくらか疑ったかどうか? そうは思わなかった。というのは、彼は時計を盗ったのを私が知らなかったものと決めていたし、さらに、私が彼のそばを離れていないでバラすことはできなかったはずで、もし私が通報したと知らされても、右の事実は確かなことだった。
ガフレは尋問された。時計は買ったものだとしらっぱくれたが、嘘をついていると思いこまれた。だが、盗られた人の被害届が出ていなかったので断罪できなかった。それでも、彼は行政的に拘束され、ビセートルでの長期間の禁錮のあと、ツールで監視下におかれ、その後パリに移送され、この悪党は一八二二年に死んだ。
当時、警察は、あまり密偵たちを信用していなかった。そこで、手段をえらばずにかれらを試した。
ある日、グーピルがやって来て奇妙な相談をもちかけた。
「おめェも知ってるだろう、ほら、酒場の持主のフランソワ……」
「ああ、あいつがどうした?」
「あいつの痛ェ歯を一本抜いてやんないか」
「どういうことなんだ?」
「あいつ、もう何度も終夜営業の許可を警察に願い出てるんだが、それが何だか知ってる警察は許可しねェ。おれ、あいつの望みを叶えてやるには、おめェに頼るしかねェと悟ったんだ」
「見当ちげェだ。おれにゃできねェ」
「できねェだと、上等だ! だが、できねェくせに、なんだって、いつも、なんかしてやれるような気をもたせているんだい」
「そりゃそうだが、で、やつに何のトクがあるんだ?」
「おれたちに何のトクがあるかって言ってもれェてェな。うまくやってくれたら、フランソワは金を儲けさせてくれる旦那になるぜ。あいつに言ってあるんだ。つまり、おめェは、その筋のお天気を雨にでも晴れにでもできるってな。あいつは、おめェを見こんでるし、それに、きっと最初の口のきき料としてたんまり出すさ」
「やつが金を出すと本気で思ってるんか?」
「おれの見たところ、な、オイ、やつは一スウだして六百フラン儲けたいのさ。その儲けをいただくんだ、やつをハメた後でな。これが肝心な点だ」
「そんならタナボタだが、やつが感づいたら?」
「なァに、きっとハメてみせる。心配いらねェってば、おれが引き受ける。書いたもの(証文)はねェんだ。たとえば、こういう諺《ことわざ》を知ってるだろう。書くのは男、しゃべるのは女」
「まァな。風向き次第だ、受領書なしでポッポに入れるのは」
「一か八かだ。それに、なにが起きても、そこらのバカどもは、知らんことにして行っちまうもんさ。おれは仲裁をするために待っている。やつは乗ってくるにきまってるからな」
グーピルは私の手をとって握りしめ、話をつづけた。
「おめェとの橋渡しをフランソワに知らせる。今夜、知らせるよ。八時に会うことにするが、おめェは十一時に来るんだ。つまり、その、遅刻するんだ。夜中の十二時になると、お退きとり願いますということになる。ときに、おめェは腹をたてたフリをし、すかさずフランソワが一発かます。おめェは悪者になるんだ。あとは言わずもがな、おれが仲に入る。あばよ」
「あばよ」
と私も答えて別れた。しかし、背と背が向かい合ったとたんにグーピルが戻ってきて、
「あのな! のろま野郎からは何度もむしれってことを知ってるな。むしらにゃ損々だ、さもないと……」
と言いかけて、とつぜん放心したような身ぶりで大きな口をあけ、まるで舗石を引っ掻きたいかのように両手を地面に近づけてぶらぶら揺すり、からだを退《ひ》き、両脚を前へ出して気味わるく足をうごかし、つまり、おどしの恰好をした。
「わかった。おれを信用しないんか。別れよう。承知したぜ」
「盗っ人の誓いにかけてもか?」
「だ、安心しな」
すぐにグーピルは、行きなれたクルチィユの盛り場へ行く道をとり、私は本庁への道をとって、こうした相談を受けたことをアンリ部長に報告したところ、警視は、
「その陰謀には乗らんほうがいいな」
と言い、私もまったくその気がないことを言上すると、よく知らせてくれたと喜び、
「現在、わしがお前に興味をもつ証拠を見せてやろう」
立ち上がって棚からボール箱をとって開け、
「ほら一杯あるだろう。みんなお前に関する報告だ。細大もらさずある。それでもお前を雇っておくのは、お前のことを誰がどう言おうと、ひとことも信じておらんからだ」
それらの報告は、刑事や治安警察官からのもので、妬み心から引きつづき私を盗みで告発していた。いつもの彼らの手で、それからまた私が現行犯で挙げた盗賊たちの常套手段でもあった。かれらは私を共犯だと証言したが、偏見による一切の不利状態で、私は中傷に挑戦して彼らの攻撃に立ち向かい、かれらの目論《もくろ》みは堅い真実の壁にぶつかって砕けた。事実というものは動かし難く、他方面からのアリバイで共犯は不可能ということが明白になるのであった。十七年間、毎日のように訴えられたが、召喚されたことはなかった。たった一度、ヴィニイ予審判事に尋問されたことがあった。彼の前に私を引きだした告訴人は、確証らしきものを提出したが、私が反論しただけで崩れ去り、ただちに私は帰宅を許された。
仕掛人が仕掛ける
ガフレとグーピルが私をハメる芸当をトチったので、こんどはコルヴェが私を凹《へこ》ませるかどうかを試す番になった。
ある朝、あれこれ情報をとるために、女房も警察と通じていたコルヴェのところに行った。夫婦は家にいた。これまでかれらとは、さして重要でない仕事で組んだことがあるきりで、それだけの知り合いだったが、私が求める情報や彼と関わりのある連中の渡世ぶりを快く知らせてくれた。そこで、私は、すぐ隣りの飲み屋で一杯振舞いたいと申し出た。コルヴェだけが受けて、二人そろって出かけて個室に落ち着いた。
酒は上物、まず一本あけた。ついで二本、それから三本になり、個室で三本の酒をあけると、ざっくばらんにならざるを得ない。一時間ほど前から、コルヴェが何か打ちあけたがっているなと察していたが、とうとう、ちょっぴり調子づいてコップをテーブルに音をたてて置き、
「ねェ、ヴィドックさん、あんたはいい人だ。でも、友だちとはすっきりしていない。おれたちゃ、あんたが裏の仕事をしているなァ承知してるが、あんたはしんねりむっつり屋だ。そうでなきゃ、おれたちと巧くやれるんだが」
とりあえず、私は、なんのことかわからない態度をとった。彼は話をつづけた。
「なァ、おれには誰もそうとは言わんが、あんたは猫っかぶり、あんたが小便してるのを見たこたァねェが、いずれは化けの皮がハガれるさ。だが、兄弟分みてェに語ろう。そのほうが回り道をしなくてもすむと思う。サツの役にたつのは結構なこった。まっとうだ。でも、それだけじゃ稼ぎがねェ。銀貨《エキュ》一枚はすぐに何かに替えられる。な、もし内緒にしてくれるんなら、おれが狙ってるヤマが二つ三つある。そいつを一緒にやったって、仲間をヒビ割って仲を裂くことにゃなるめェ」
「なんだって、お前さんに寄せている仲間の信頼を裏切るつもりかい? そいつァよくねェ。もしその仕事のことを仲間が知ったら、遠慮なくビセートルに送りこんで二、三年つとめさせるようにするにきまっている」
「ああ、あんたも、みんなみたいだ。それじゃ、物事うまくやるってもんじゃあるめェ? こまかいなァ、あんたは。でもよォ、あんたのこたァ誰も知らねェんだ、たぶんな」
そんな言葉を私に言うとは驚きだ、とはっきり言ってやって、私を試すのか、それとも、ひょっとしたら罠《わな》にかけようとしているとしか思えないと付け加えると、
「ワナ」、彼は大声をあげた。「ワナだと。おれが、あんたをひどい目に遭わせたいんだと。そんなことをするくれェなら、生涯判決(終身刑)になったほうがましだ! おれって、そんなふうに思われるほど間抜けかな。いちどに四つの道は歩けないよ。おれが、なんか言ったって、そりゃそれさ。おれと一緒なら、うしろの戸を閉められるこたァねェ。信用しねェかもしれんが、今夜、|盗み《ショパン》をやることを今にも打ち明けようとしていたところだ。もう何もかも用意してある。合鍵もお試しずみだ。もし一緒に来るなら段取りをつけるぜ」
「べつに疑っちゃいないが、おれを巻きこんだがために頭にきたり腹が立ったりしないかな」
「とにかく来いよ。おれが、そんな気がねをする男かどうか? (声を高めて)料理を手伝わないかと言ってるんだ。それ以上、なにがある? おれと女房が片付けるよ。あいつを連れて行くなァこれが初めてじゃないが、あんたと組むなァこれっきりさ。二人組って、いつも実入りがあるもんだぜ。ま、今日のところは何も心配はいらんから、タブレッテリ通りの角のコーヒー屋で待っててくんないか。ちょうどあそこが稼ごうって家の前なんだ。おれたちが出てくるのが見えたら、すぐについて来な。盗品《ぶつ》を売りに行くから、あんたの取り分をとったらいい。あとは、もう、おれたちを用心しなくなるというもんよ。なんか言うことあるかい?」
この話には、いかにも率直な本気らしい様子が見られ、ほんとのところ、私がコルヴェという男について知っている以上のわからないものがあった。ほんとうに相棒をさがしているのか、それとも私をやっつけようとしているのか? 私は、どちらにも疑いしか持たなかったが、あれこれ思いめぐらしてみて、やはりコルヴェは食えないやつだと判断した。彼自身の打ち明け話によると、彼と女房は泥棒をやっている。もし彼が本当のことを話したのなら、彼を司直の手に渡すのが私の義務であり、反対に、もし私の正体をあばいて当局に示すために犯罪行為に引きずりこみたさの一心から嘘をついているのなら、どたん場で巧く奸策を弄《ろう》したことになるのだが、いずれにしても時間のムダだった。
私は、打ち明け話の計画をやめるようにコルヴェにすすめたが、言い張ってきかなかったので、誘いに乗ったフリをした。
「よかろう、肚をきめているなら話を受けるよ」
彼が私に唇をあて、すぐに四時に酒屋で落ちあうことが決まり、コルヴェは家へ戻って行った。彼が出て行くと、すぐに私はサンニコラ墓地通りにいるアルマン警部に今晩盗みが行なわれることを知らせ、同時に、犯人たちを現行犯で逮捕する要点を教えた。
私は定刻に約束の場所にいた。コルヴェと女房も遅れずにやって来た。私どもは四分の一スチエきっかりの酒を呑み、それで元気づいた夫婦は仕事に出かけた。かれらがオームリ通りの小路に入ったのを見ると、すぐに警部が抜かりなく手配りをし、稼いだ部屋から盗品を持って出てきたところを逮捕した。この乙《おつ》な夫婦は十年の刑を受けた。
法廷論争のあいだ、コルヴェと、その似合いの女房は、私が煽動者の役割を演じたと偽ったが、私のしたことには教唆《きょうさ》を示す影も形もなかったし、その上、私が盗みをそそのかしたとは考えられないことだった。まともな人間と、そうでないのがいるとして、どう考えてみても、まともな人間に犯罪を犯させる有力な決定づけはできない。ところが、まともでない人間には、常に悪のチャンスがあって、おそかれ早かれチャンスがやってくるのは見え見えではあるまいか? そして、そのチャンスで犠牲者が出たら、盗賊は殺人者になり得ないだろうか? 弱い人間に仕立て上げ、次に殺人者にしてしまうという怖ろしい喜びをたのしむためにいろいろな心得を教えこむやつは、たしかにいちばん恥ずべき極悪人と言えよう。一人の人間が堕落し、仲間と反目していると悟ったときに、彼が欲しがっているエサで釣ってワナにかけ、彼が捕まえそこなっている獲物を嗅ぎつけさせることは、社会にたいする真の奉仕にならないだろうか? この餌は、掠奪本能をもっている狼に差しだす羊ではない。やはり、彼も盗みにかたむいている。彼は、その道の先輩で、きちっと仕事をやってのける男であり、盗賊は、この時あの時、いつも仕事の射程距離内にいるものである。これは重要なことで、かれらは何の偏見も持たずに仕事にかかれる状態で犯行を企てる。こうした事実が確認される社会は、犯罪を監視はしているが、山ほどの犯罪をかかえこみ、ながいこと忘れられている犯罪の張本人は、たぶん致命的な処罰を受けないで、ぬくぬくと生きていよう。結局、毒を吐きださせてしまう布切れをマムシに投げるのはよくないと私を納得させた者はいないということだ。
パリのような大都会では、腐った根性の手合や根っからの犯罪野郎に事欠かない。だが、この町にひそんでいる悪党どもの一人一人が、おでこに首吊り台のしるしを付けているわけではない。かれらは、見つけだされる前に、けっこう利口に立ちまわって長い犯歴を重ねている。やつらは、すでに犯罪人であり、追いつめて罪を明らかにするなんてことは論外で、つまり、財布に手を人れたところを押さえることだ。よろしいかな、この種の連中の挙動が怪しいとか、生活の手段が不明なのに楽しくやっているとかが私にわかると、財布を差しだしてやって連中の手柄をちょん切るのが私なのだ。私は臆面もなく誓い、気がひけるなんてことはない。盗っ人というのは他人の物を横取りするのが天性で、羊の群を襲うように生まれついている狼が、がつがつしているケモノであるのとやや似ている。狼と仔羊を一緒にしておくことは絶対にできないが、もし誰かが羊の皮を着て隠れていることができて、食い殺されるぞと前もって知らせ、羊飼いが、先々の襲撃を避けるために、咬《か》んで食べたいやつの欲望をそそのかして狼を捕まえるのが非難できようか? その場合、咬みつくのは咬みつきそうなやつではないことがわかる。コルヴェと女房が盗みをはたらいたことは既成の事実で意思があったことであり、かれらは盗賊である。いっぽう、私は、まったくかれらをそそのかしてはいない。ただ、かれらの申し出に従ったまでだ。お前は、かれらが共謀した盗みの実行を妨げることができたはずだ。お前は、かれらを脅《おどか》してやめさせることもできた、と反論する向きもあろうが、脅すことは改心させることではない。今日やめても、明日は新しい兎〔財布〕を巻き上げる。そいつを撃つときは、私を呼ばないにきまっている。その際は、どんな結果になったろうか? かれらを罪人にする道義的責任は、すべての結果と共に私にかかっていた。次に、もしコルヴェが、ある要求と引きかえに警視庁と約束していて、私を悪事に巻きこむ使命を帯びていたのなら、あの事件のあと、そういう陰謀や、陰謀を考えて密偵を使う黒幕を非として、私個人の安全を守ったり警戒してくれることはなかったのではあるまいか? だから、あのとき、私が入手した最小限の情報から、警視庁に知らせないでコルヴェがヤマをふむはずの地区の警部に知らせたのは正解だったのだ。こうした歩みをつづけながら私が確信したのは、もし先手を打たないと、前言をひるがえされて予定どおりの裁判になることだった。
もし私が、こうした事件で、私がそそのかしましたと主張したら、これまでに現行犯で捕えた大半の被告を大いにかばうことになったろう。また、次の章で見られるように、いかにも同情的な顔で弁明してくれて上訴するようにと、しばしば私の敵によって示唆された。ともかく、私の班の四人の密偵、ウチネ、ヌレチャン、デコスタール、ココ・ラクールたちがたくらんだ謀略の話で、私にたいして最も強く仕掛けられた攻撃が、どう決着したかがわかろう。
ここでは、他の場所で述べたような政治的な謀略による挑発については繰り返さない。正当な、あるいはそうでない不満や興奮、激怒や狂信でさえも非行は引き起こさないが、これらは一種の盲目状態をつくりだし、一時的ではあるが、その影響下で、最も廉直《れんちょく》な人物や最も道徳的な市民が容易に錯乱する。息子たちには内緒の、もっともらしい詭弁や反逆者たちの結合や陰謀が、彼を深い淵にみちびく。サタンがやって来て山の上に連れて行き、そこから地上の諸々の王国を見せる。悪魔は、妄想の兵器庫、軍隊、大砲、兵士、抑圧に抗して起ちあがろうとしている人民を見せる。不可能なことで誘惑し、不可能なことについて彼を解放者と呼んで敬礼する。すると、その不幸な男は、空想の世界で夢の行進を想像し、ついにこの世を支える点と世界を動かす槓杆《てこ》を見つけたと信ずる。そして、いかにも忌わしい悪魔どもに励まされて、彼は、すすんで夢の宣言をする。
――地獄が証人で、判事でもある。
こうして彼の妄想は死刑台の下で終わる。
これは、言ってみれば、恥さらしのシチリア人によって煽動された一八一六年の愛国者たちの物語である〔一八一六年、ナポリ、シチリアを合併してシチリア王国を作ったフェルジナンド一世を指す〕。だが、警視庁の密偵班の話に戻ろう。
ヴィドック班
この班を作ったあと、これまで、たいへん私を欲しがっていた治安警察のお役人や部下たちが非難をあびせた。私についてバカげた雑音の種をまいた連中である。「ヴィドック班」というアダ名をつけて、いちおう警察のスタッフだが、前科者か、財布や時計に器用な元スリたちで構成されているものにすぎないと言いひろめて、噂をバラまいた。
――そんな連中に取りまかれるのを許せるか? 市民の生命とお金を好き勝手にさせられるか?
また別のときには、私を「お山の古狸」にたとえ、お偉いさんのイヴリエ氏いわく、
――やつは、その気になれば、われわれを皆殺しにする。やつは犯罪者の手下どもを飼っている。汚辱だ。なんて世の中なんだ。モラルも糸瓜《へちま》もあったもんじゃない、警察でさえも。
――人の道をわきまえた堅気の人間を使え!
ところが、不安なのは、そういうことではなかったのだ。治安警察の役人たちは、私たちが徒刑場にいるほうを喜んだろうが、警察が察知できない盗賊を見つけだしたり捕まえたりすることとなると、すこしは私たちを頼りにしなければならなかった。私たちのやり方や経験は、お偉方の意見の中では無視されていた。また、あらゆる努力をして私に免職を言い渡させようとしたことが無駄だったと知ると、こんどは争いの方法を変えた。直接に私を攻めないで、私の部下たちを攻め、忠実な連中と見ていた当局に憎いやつらと思わすいろいろな方法をとった。劇場の入口であれ内部であれ、一つの盗みがあると逸早く通報され、私という怖ろしいやつの班の者が容疑者にされた。大群集がいるパリで毎度のことだった。治安警察の役人たちは、班を非難するためには、たった一件でも見のがさず放っておかなかった……盗まれましたとなると、猫一匹ものがさなかった。
手袋をはめろ
こうした際限のない嫌疑に、とうとう疲れ果てた私は、一つの区切りをつけようと決心したが、治安警察の役人たちを黙らせるために部下の腕を切り落とすことはできなかった。かれらに腕は必要だ。あれこれ思案したあげく、今後は常に鹿皮の手袋をはめているように言いつけ、戸外で手袋をしていない者に出会ったら直ちに班から外すと申し渡した。
この方法は、先方の悪意をまったく狂わせた。以後、私の部下が人ごみの中で悪事をしていると非難するのが不可能になった。まるっきり素手でない手が器用に働けないことを百も承知の治安警察のお歴々は、だんまりをきめこんでしまった。かれらは次の諺をご存じだったのだ。
――手袋をはめて鼠を捕る猫は利口じゃない。
ある朝、私が見つけだした方策、つまり部下たちを目の仇《かたき》にする悪口をやめさせる手だてを、命令として部下たちに伝えた。
「諸君、世間は坊さんたちの貞潔を信じちゃいないが、それ以上にお前らの誠実さを信じていない。いいか、この信用していないことは間違いだと知らすには、あれこれの場合、罪を犯す道具になる物をダメにするより自然な手だてはねェと考えた。お前らの場合、諸君、そいつは手だ。もう悪いことには使わんのは知っとるが、疑いの言いがかりを避けるために、今後は手袋なしで外へ出ないことを要求する」
この用心は、言っておかねばならないが、部下たちの行為のせいで行なったものではない。私が使っていた泥棒や囚人は、そんなに長くは班の者としてとどまってはいなかった。ある者は犯罪に逆戻りしたが、かれらが犯罪者になったのは、きまって私の用がすんだ後であった。こうした人間の前歴や身分を考えた上での私の権力行使は、なんとなく気ままなものがあったが、義務づけを保つためには、鉄の意志と一段と強い決意が必要であった。かれらに及ぼす私の支配力は、主として、警察に入る前の私のことを知らないというところから来ていた。軍隊や刑務所では見知っていたが、仲間だったことはなく、そのくせ、かれらが別のグループと一緒にやった仕事のことまで知っていた。
ここで注目すべきは、私の部下の大半は、かれらが司直と張りあって悪事をしていたときに私が逮捕し、今は自由の身になっている者たちだったということだ。刑が満期になると私のところにやって来て、班に入れてくれと頼み、私は、その知能程度がわかると警察の仕事を手伝わせた。いったん班に入ると、一時的には行ないをあらため、その点だけから見れば、もう盗みはしなかったが、別の観点から見ると、放埒《ほうらつ》に身を持ちくずし、酒に女に、とくにギャンブルにおぼれる。その多くは、飲食店でツケで飲み食いし、貸し売りにしてもらった衣料店に支払わないで、月々の手当を他に使ってしまう。かれらに暇な時間を少なくさせるのは難しく、つい、よくない習慣に走ってしまうのだった。そこで、一日十八時間を警察に奉仕する時間だと義務づけ、どうやら窓際族的に落ちこむのが少なくなった。しかし、ときどき気ちがいじみたことをやらかすのが常だったが、軽い行ないなら勘弁してやることにしていた。かれらを甘く扱わないためには、古い諺を忘れることにせねばならなかった。
――川の流れは停められない。
かれらの非行は、不身持ちにすぎなかったのだから、私は処分を自制すべきだった。たいていの場合、私の小言は糠《ぬか》に釘だったが、ときには相手の性格に応じて効果があった。それにまた、私の指揮下にあった部下のみんなが、いつも私が見張っているのを百も承知していた。というのは、私にはタレコミ屋がいて部下のやっていることを逐一しらせていたからだ。遠くにいながら近くにいるかのように見のがさず、義務とされていた規律《おきて》の違反は直ちに罰せられた。ところで、魂げたことのようだが、つまりその、私どもが働いたどの場合でも、なにかと手の負えないこの連中が、危い橋を渡るとなると私の意志に従ってくれた。私以外の誰も、あえて言うが、それほど彼らの献身を受けた者はいまい。
総じて、班を作っている部下の中で、いわゆる仕事に精をだす者には、たえがたい事柄が次々と出てくる。つまり、昔の習慣から脱けだして別の習慣に入るために、これまでの道とは違った道をすすまねばならない。これとは逆に、仕事をいやがる者は、けっきょくは不幸になる不埒《ふらち》な行ないに再び陥ちてしまう。事務所で秘書の仕事をしていたデプランクという名の男を監視したことがあった。
このデプランクは育ちのよい若者で、性根があって文書作りも上手、きれいな字を書き、その他の才能もあって立派な男として世渡りができたのだが、不幸なことに、生まれつき盗癖があり、いちばん彼にとって不幸なのは、どうしようもない怠け者だったことだ。ペテン師的な性向がある泥棒で、言いかえると、勤勉や努力がいることにはまったく向いていなかった。ドジをふんだり、ぜんぜん間尺に合わないので、しょっちゅう私に叱られて口返答をした。
「ぼくが怠けるといって、のべつコボしていますが、なんだって、あんたの奴隷でなくちゃならんのですか。いいですか、ぼくは言いなりになるなァ慣れていないんです」
デプランクは束縛から出て行ったが、六年間しか保《も》たなかった。
彼を班に入れたときは、いい奴を部下にしたと思いこんだが、この男は度《ど》しがたいなと逸早く心にきめ、送りかえさざるを得まいと見てとった。当時、彼には収入がなく、そういう状態で、暇な仕事なら好きだとばかり、私のところで働くようになり、それが唯一の生活手段になった。ある晩、バク街を歩っていて、両替屋の前窓のガラスを破り、純金のお椀をかっぱらって逃げる。同時に、ドロボーと叫ぶのが聞こえ、人が追う。ツカマエロ、ツカマエロという声援があちこちから繰り返され、デプランクは速さを倍にし、やがて手がとどかなくなりそう。だが、ある通りを曲がったとたんに昔の仲間の二人の男の腕の中に飛びこむ。その鉢合わせが運のつきだった。遁れようとするが無駄なあがき。密偵たちは彼を連行して警部に突きだし、たちどころに現行犯が認められる。デプランクは再犯だったので無期懲役になり、今はツーロンで服役している。
事実によって物事を明らかにせずに、なにもかも判断しようとする人たちは、泥棒階級から出た密偵は、かならず頭がよくて、すくなくとも長いあいだ盗みの魅力に舞いもどらずにいたことを必要だとする。私は証言するが、泥棒たちにとっては、警察の旗のもとに集まった昔の仲間ほど残忍な敵はいない。あらゆる裏切者の見本のような赦免囚たちは、友達《だち》付きあいがあったが、元の仲間を捕まえるとなると、いつになく、おっそろしく熱心になる。一般に、改心したと信じられる盗賊は、音の相棒を容赦しない。その当時、すごいやつだったほど、仲間にたいして仮借ないところを見せる。
ある日、セール、マコラン、ドルレという三名の男が窃盗犯人として部屋に連れて来られた。かれらを見ると、三人とは長いあいだの仲間で親しかったココ・ラクールが、憤然として立ち上がり、次のような言葉でドルレをきめつけた。
ラクール「ヤイ、おとぼけ野郎、やっぱり足を洗わなかったな?」
ドルレ「なんのことかわからねェや、ココさん、お説教かい?」
ラクール、怒り狂って、「誰のことをココなんて呼ぶんだ? いいか、そいつァ俺の名じゃねェ。俺ァ、ラクールってんだ。そうとも、ラクールだ、わかったか?」
ドルレ「ええ、なんてこった、お前のこたァ知りすぎてらァ、お前はラクールだ。だが、まさか、おれたちが仲間だった頃のことを忘れちゃいめェ。ココ以外の名は嫌うんで、ダチ仲間は誰も他の名じゃ呼ばなかった。なァ、セール、このコケコッコウ面《づら》、見たことあるかい?」
セール、肩をそびやかし、「言ってることは子供じゃねェんですが、猫も杓子《しゃくし》もごちゃまぜにしとるんです、ラクールさん」
ラクール「うむ、よし、時が変われば品かわるだ。|笑ッテ行ナイヲ匡ス《カスチガート・リデンド・モーレース》。俺も若いときにゃ間違えたことがあるが……」
ラクールは、立派な言葉を言おうと、なにやら文句をひねっていたが、相手の言うことを聞く気がないドルレは、いっしょに仕事をしたあの事この事を思いださせてラクールの口をつぐませた。ラクールは、いくども、こうした不愉快さを味わった。彼が泥棒たちに、がんこに盗みにしがみついているのを咎めると、いつも彼の善意に無礼な言葉がしっぺ返しされた。
かげ口と予言
いったん警察の班長の地位につくと、これまで何度も私を引きこもうとした罠から、もう我が身をまもらなくてすんだ。試練の時はすぎたが、私の職を渇望し、あらゆる手段で私に取って代わろうとする部下たちの誰彼の下劣な妬みにたいして、自分をまもらねばならなかった。そういう者の中ではココ・ラクールが悪の筆頭で、私にすり寄ったり害をあたえたりの両刃を使った。この口上手な男が、五十歩も向こうから教会の椅子をがたがた引っくりかえしながらやってきて、「神の祝福あらんことを!」と私に挨拶したが、たまたま、同時に、くしゃみをするのが聞こえ、こいつはチト臭いなと直感した。ちょっと頭を下げる必要があるかないかくらいの時に最敬礼をする男の、ちゃちな気配りを私以上に感じた者はおるまい。しかし、私には、勤務中だという良心があったので、まことか嘘か、その度はずれな礼儀のひけらかしは、あまり効果がなかった。日ならずして密偵たちが知らせてくれたのは、こういうことだった。ラクールは、いっぱしの両股膏薬《ふたまたごうやく》で、私の考えには何でも賛成するやつだ、と。また、ある者は言った。やつは私を失脚させようと企んでいて、私が打倒すべき暴君だとする点で彼と協力する仲間をつくった、と。はじめのうち、陰謀者たちは、かげ口をしあって満足していた。たえず私の失墜を見越し、たがいに我れ先に失墜を予言しては喜びあい、各人それぞれがアレクサンドル大王の遺産を先取りした気になっていた。この遺産が、いちばん妥当な者の手に落ちるかどうかは私の知ったことではなかったが、次のことは百も承知していた。つまり、私の後継者は、まちがいなく仕事を運び、立派に勤めをなしとげるだけの腕があることが私の辞職の前に認められねばならない。
ラクールと腹心の連中は、かげ口と悪口をたたきながら、その陰謀をいよいよ具体化していった。仲間入りをした者の中には、プヨワ、ルブラン、ベルテレ、ルフビュルなどの名があるに違いないと考えた。いずれも強盗の前科があるやつらで、かれらは、私が破滅寸前にあって、とてもそれから免れられそうにもない、という噂をひろめた。
この予言が、裁判所の界隈にある酒場ぜんぶに行きわたり、すぐに私のところに知らされた。だが、私は、そんなことは実現しないとする大勢の人たち以上に心配しなかった。ただ、ラクールが、これまでに倍して私になつき、なにかと心づかいをするのに気付いた。いつも以上に敬意と親愛をこめて挨拶し、その眼は、だんだん私の眼と合うのを避けるようになった。それは、甘い汁を狙っているのを、くるくる回る動きに助けられてゴマ化している眼であった。おなじ頃、他の三人の部下、クレチャン、ウチネ、デコスタールが、やけに仕事に熱心になり、びっくりするくらい私に気をつかうのが眼につき、この連中が、たびたびラクールと会合しているという知らせもあった。だが、私は、かれらがしていることを探ろうとは夢にも考えておらず、個人的な興味から、そっと耳うちをして驚かしてやるくらいでいいとしていた。
ある晩、わざわざ礼拝堂の庭を通ってみたが(かれらは正にその御堂内で謀議していたからだ)、かねてから、かれらの一人が、突きつけられた突きを、どうやって私が払いのけるか楽しみだ、と言っているのを聞いていた。だが、その突きとは何だろう? 思い当たるフシがないなと思っていた矢先に、プヨワと彼の共同被告たちが召喚され、法廷でのやりとりから、その犯罪をそそのかしたのはヴィドックだとする怖ろしい陰謀がわかった。私が呼ばれてプヨワについて尋問され、身代わり人をさがしていた徴兵係を知っていたかと尋ねられ、さらにまた、私の一存でプヨワに盗みを提案し、ラバティさんのところに押し入るのに使った鉄《かな》てこ購入のために三フランを与えたかと尋ねられた。ベルテレとルフビュルがプヨワの言を確認し、かれらと同じように誘いこまれていたルブランという名の酒場の亭主が、必要品の入手のための資金貸しをよそおい、無罪になるためには、私のことが認められることが必要であり、あくまで弁護するからとかれらを元気づけた。この事件を弁護した敵方の弁護人たちは、私に負わした、いわゆる教唆になるものの一切を引っぱりだすことを忘れなかった。そして、かれらが確信をもって語ったように、もし陪審が依頼人たちに有利な決議を下すことを決めないでも、すくなくとも私にたいする怖ろしい偏見を判事の心と世人に植えつけることになる。そのときから、私は、私の無実の確実性を急いで釈明せねばならないと思い、真実確認の調査をお命じ下さるようお願い申し上げますと警視総監に懇願した。
結果、プヨワとベルテレとルフビュルは有罪になった。今後いくら嘘をついても何の得もないと思って、私を中傷したことを告白したのだろう。さらに、私は、かれらの行動が誰かの指図によるものだったら、大胆にも法廷にまで持ちだして中傷の助言をさすようなことは、以後は一段と難しいものになるだろうとも考えた。総監は、私が懇願した調査を命じ、シテ地区担当のフルリエ警視に調査の指揮をとることを一任した。そして、私が云々されている最初の文書で、早くも私の無実が立証された。無罪を主張していたベルテレが酒場の亭主ルブランに宛た手紙だった。ここに、その手紙を転写するのは、いつも警察側に立っている私を、どのように告訴にみちびいたかを、それが示しているからである。それ以来、彼を部下にするのはやめたが、これが手紙の全容である。
パリ城外ショピネット通り、コンバ門外居住の、十字看板のある酒場主人ルブラン様
はいけい、のぶれば、おまえの元気なようす知りたく書く。おなじく、おれたちのサイバンがうまくいってることを知らせる。おれのあわれな立場よくわかっているな。それなら、もしおれを見すてたら、おまえのところにまだあるお前がくれたバールのことをあばくことになる。このことをサイバンで隠したのは知ってのとおり、ケイサツはんちょうは、こんどのことではムジツだ。イケニエになるやつをさがした。ホウテイで味方するとお前のへやでしたやくそく忘れはすまい。おまえの女房に砂トウやローソク売ったの忘れはすまい。だから、もしおれを見すてると、かたいやくそくまもる人げんとは思わない。
サイバンショにはケンリがあり、おれはお前をよびだせるのをかんがえろ。
このてがみ内々にわたすが、おそれること何もないベルテレ。
(はるか下部に) じょう記の字はわたくしの字です。
昵懇《じっこん》ニナリタル牢番ニ託サレシ本信ハ、慣例ニ従イテ極秘扱イトシ、直ニ警視総監ニ届ケラレタリ。結果、るぶらんハべるてれニ答エズ救ワズ、辛抱シカネタルべるてれハ脅迫ヲ実行セムモノト左ノ如キ文面ノ別信ヲ刑務官タル小官ニ書キタリ。
当一八二三年九月二十九日
はいけい
じゅうざいサイバンショのやりとりとハンジさんのせつめいによりますと、ラバティさんの戸口をこわした道具を買う金三フラン也をわたされたというプヨワという男のウソのはなしでツミを申しわたされました。
わたくしことベルテレは、いまいちどお上がシンジツとムジツをおしらべくださることをおねがいし、つぎのことを知っていると申しあげるものでございます。
一、どこでバールを買ったか?
二、どの家にバールがあるか?
三、バールをあたえた本人?
ベルテレ
(はるか下部に) じょう記の字はわたくしの字です。
さらに下方に、裁判所印と主任刑務官の手になる次の記述がある。
上記ノ文字ト署名ハべるてれノモノナリ。エグリ
フルリエ警視に尋問されたベルテレは、件《くだん》のバールの値が四十五スウで、城外の寺町にある古物商で買い、ルブランが、それを使うべきだと教え、支払い用の前金をくれたと陳述した。彼の陳述はつづく。
「取引がきまってから、すこしうしろにいたルブランが言いました。
『誰かが、バールで何するんだい、と訊いたら、宝石細工師だ。仕事に使う車を締めつけねばならんのだと言うんだ。身分証を見せろと言ったら俺を呼べ。おれんとこの奉公人だと言ってやるからな』
バールを手に持ってプヨワに会いに行ったんですが、お巡りに会うかもしれないからコートの下に隠して持って、やつに渡せと言いました。ルブランは、すぐに彼の家に案内してくれて、そこに着くと、まずはバールを隠しに地下へ降りて行きました。その晩は十時まで飲んで、あっしとルフビュルとプヨワは、お寺の尖塔がある名も知らぬ小さな通りへ出かけ、あっしとルフビュルが見張っているあいだに、プヨワが、下着商の戸に錐《きり》で三十三の穴をあけました。それから、彼が、小刀で二つの穴と穴との間を切ったのですが、小刀が折れて他に方法がなく引き返しました。それから、あっしらは、サン・ウスタッシュ教会の向かいの市場へ行き、プヨワが例のバールを使って小間物商の戸をこじ開けようとしました。ところが、内側にいた者が誰だいと尋ねたので、一目散に逃げました。ときに朝の二時でした。あっしら三人はイギリス旅館へ行き、プヨワは、かねて見知りごしの女主人に持っていた雨傘を返しました。旅館に入る前、プヨワは、パレロワイヤルのそばの露天コーヒー屋のお上さんに袋に入れたバールをあずけました。あっしらは、朝の五時ごろイギリス旅館を出て、プヨワは、あずけてあったバールをコーヒー屋のお上さんから返してもらいました。言っておきますが、その女は、それが何だかは知っていませんでした。バールを持ったプヨワは親分のルブランのところへ行き、あっしとルフビュルは晩の五時にルブランの家に連れ立って戻って、十時まで休みました。ルブランは、役に立てろと燐火器と燃えさしのローソクを渡しました。鉛製の燐火器には、小刀の先でルブランのイニシァルLが刻んであったのが面白いと思いました。あっしらは一緒に家を出ましたが、プヨワはバールを持っていて、柵を開けたりしましたが、後であっしらにあずけました。途中で立ちどまり、彼はヴィクトワール・ビガンと共同で借りている家へ行き、あっしとルフビュルはラバティの家で盗みをやらかしたんですが、あっしらは捕まってしまいました。バールと盗んだ品のいくらかは、ルフビュルがルブランのところへ持って行きました。
あっしらと一緒に裁判にかけられたルブランは、彼を巻きこまないように、バールを買う三フランをくれたのはヴィドックさんだと言うことになっているから、プヨワを裏切らないようにと誓わさせられました。また、このことを守ったらお金をやると約束しました。本当のことを言うともっと悪い羽目になるのが怖くて、承知しました」(一八二三年十月三日供述)。
次に出頭したルフビュルは、ベルテレとは連絡できない状態にあって、ベルテレの供述を確認した。ルブランに関するところでは、
「わしは言わなんだが、バールを買う金をベルテレにやったのはルブランです。自分が買ったことにするからと口裏を合わさせたのはプヨワです。この盗みを噛んだプヨワは、ルブランを巻きぞえにしたくなかったんです。めんどうみてもらってるし、先々、ためになる人だからね」
主任刑務官のエグリ氏と同所に拘置されていたルコントとヴェルモンという名の両人が、フルリエ警視に訊かれて多くのことをしゃべった。つまり、ベルテレ、ルフビュル、プヨワの三人とも故意に容疑者を作りあげたと語り、かれらの証言によると、すべての受刑者は、ヴィドックが悪事をするようにしろと絶えずそそのかされていると口をそろえた。さらに、ヴェルモンは、こうも語った。ある日、彼が、動機もないのにヴィドックを巻きぞえにしたのは汚ねェじゃねェかと言ったら、三人が、こう答えたという。
「ふん、なんならケツでも掘り合うぜ。おれっちが助かるためなら、神さまだって道づれにしてやらァ。ドジをふんだがな」
有罪になった者の中で若かったプヨワが、いちばん正直な答えをした。ひとまずは、ルブランとの友情から真実の一部を隠したものの、バール購入については、私が関わっていないことをすらすらと認めた。
「このまえ、重罪裁判所での裁判で、ぼくが捕まった盗みをやるに使ったバールを買った三フランをくれたのはヴィドックさんだと証言し、ベルテレやルブランやルフビュルもそう申し上げ、そのように、いつも同じことを言い張ったのは、罪が減らされたり軽くなるのを望んだからです。ぼくが、このやり方を考えたというのも、相棒たちが協力してくれると言ったからです。今日は、ほんとうのことを申し上げねばなりませんが、問題のバールを買う金をくれたのはヴィドックさんじゃありません。ぼくの金で、ぼくが買ったんです。あのバールは四十五スウしました。古鉄屋の店で買ったんです。ノートルダム橋の脇のアルキス街に入って、最初の右の通りにあります。その古鉄屋の名前は知りませんが、その店はよくわかっています。通りを下って右側の十二番目です。あれを買ったのは、この前の三月八日か九日でした。古鉄屋と女房が店にいました。あそこで何かを買ったのは、あれが初めてでした」
三日後に、プヨワはビセートル監獄に送られ、警視庁の第二部長に上申書を書き、その中で、これまで司直をだましてきたことを告白し、事実を明らかにしたい願望を表明し、これで、すべての真実がわかることになった。誣告《ぶこく》の容疑で公判に出廷していたウチネ、クレチャン、デコスタール、ココ・ラクールたちの嘘の皮は、たちまちはがされ、私を警察から追放する陰謀の御膳立てをしたのはクレチャンだったことが判明した。ジャンチリ市長が受理した公表文によって、ラクールとクレチャンとウチネが、この陰謀の完全な成功を誓いあっていたことなど、すべての汚れた計画が白日のもとにさらされた。かれらは、プヨワを私のところに寄こして、身代わりを探している徴兵係を教えてくれませんか、そういう人を探しているんです、という口実で私と会わせ、また、私の部屋にベルテレを出頭させ、そのうち必ず行なわれるいくつかの盗みの情報を知らせた。こうして、かれらは、私を打倒するという重大な計画の告発を有利にするために、かれらの逮捕前に、私と盗賊たちとの関係から、いかにもありそうな事柄をでっちあげて、かれらの足場を打ち建てたのであった。どこから見ても、プヨワ一味がやっている盗みは、当分のあいだ警察が眼をつぶってくれるようなものではなかったので、もし現行犯で捕まっても、かれらの利益をまもる防備を確たるものにしておこうとしたのだった。
いっぽう、私としては、こうした事件の処理の未決は残してはならず、処理をするからには、私の部下の足どりは、公判中であれ判決後であれ、あいまいな点や疑わしい点が一つでもあることは許されなかった。プヨワが逮捕され、すぐさまウチネとクレチャンがラ・フォルス監獄へ送られたが、私を告発さえすれば、事件を有利に運べると口説かれたものであるという添書が付けられていた。有罪にならないためには、自分に都合のよい誰彼の証人を呼ぶほかなく、証人たちは彼の言葉を支持し、おなじ意見であると証言し、つまり、三フランの金額を彼にあたえた私を見たと言うだろう。
二人の密偵は、この相談に逆らえなかった。あらゆる事態に応じて大丈夫なようにプヨワは食言しないし、陰謀者たちには意のままになる強力な後ろ楯《だて》があり、その影響力は、どんな判決からも彼を救い、万が一、有罪が避けられないときでも、その人の腕は判決をホゴにするくらい長いものである、と言いくるめる。
公判が開かれ、ウチネ、クレチャン、ラクール、デコスタールたちは、プヨワが私になすりつけた事柄を証明しに急いでやって来る。ところが、罰せられない約束だった若者は、評決を聞いてびっくり仰天し、けっきょくは自分の立場がバレるのではないかと心配し、かれらの裏切りをバラして欺《だま》した連中に思い知らそうとしたので、かれらは慌てて彼の希望をつなぎとめようとする。そのためには、単に本人のために上告させるようにするだけではなく、自分らで弁護費用をもち、上告にかかる一切の費用も支払ってあげるからという。プヨワのお袋さんも、悪だくみ屋たちに同じように取り入れられ、同様の援助の提供と同様の約束を申し入れた。ラクールとデコスタールとクレチャンは、裁判所広場の酒場バジルさんの店へ母親を引っぱりだし、一本のブドー酒とルブランの女房の前で、あんたが俺たちに味方してくれて、息子さんが俺たちの言うとおりにしたら、彼を助けだすのはおやすい御用だ、とお袋さんに大風呂敷をひろげた。
「心配しなさんな、やらにゃならんことは、やりやすからね」
私は一八七五年に死亡
以上が調査結果の公表された事実で、ヴィドック作為のバール事件なるものは、密偵たちの作り話であったことが明らかになった。以後、この実話に多少とも奇妙な尾鰭《おひれ》を付けて粉飾が行なわれ、もし印刷業者チゲル、もしくはその後継者が、露店本の山に次のような気まぐれ文句を付けたら、プルタルコス作といわれる『文《ふみ》乃柱』も真正の著作とするに吝《やぶさ》かでなくなろう。
驚天動地の実話、かの有名なヴィドックの事件簿と捕物帖、奇想天外な不朽の冒険譚。偉大な密偵の活《い》きた素顔の生前肖像付き。キリスト紀元一八七五年七月二十二日の深夜、サンマンデの自宅で安楽往生。
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三二 いいやつ盗っ人たち
オストラシズムと貝殻
私の悩みや部下たちのチンケな悪意のことで読者を長いこと引っぱってきたのをお許し願いたい。自分の評判しか述べないような退屈な章は割愛したいのだが、もっと先々のことを書く前にお願いしたいのは、みなさんの敵を司直の手に渡す話の駄弁を信じてもらいたいもので、読者というものが、いつもお人好しでいるとは限らないことは先刻承知の助、金持でなくては金を貸してもらえないものだ。とにかく、密偵や盗賊や詐欺師どもは、ほかの誰よりも私が警察を追放されるのを見たがっているのではあるまいか?
「あの野郎、パクられたぜ」
あの野郎のダチ公が、朝か晩かに宿所《やさ》に戻ってきて女房に話す。
「うそっ」
「ほんとのほんと、そうなんだ」
「いったい、誰に?」
「聞くまでもねェや、ごろつきヴィドックにだ」
パリの路上にわんさといる仕事師の二人、ぱったり出会う。
「知ってるかい? アリッソンのやつ、ラフォルスに送られたぜ」
「冗談だろう」
「冗談ならいいけどよ。あいつ、品物《ぶつ》をまわしてた最中でな。おれの取り分もあったんだ。ところがよ、いいか、悪魔が陰で糸をひいてやァがった。受けとる段になってパクられた」
「誰に?」
「ヴィドックに」
「かわいそうに」
どえらい大物が捕まったぞと警視庁の各課に知らされたり、いちばん抜かりのない刑事が百遍も足どりを見失ったような大犯罪者を私が捕まえたとなると、たちまち密偵たちは不平たらたら。
――またヴィドックの畜生がパクったんだとよ。
密偵仲間の終わることのない非難だった。その谺《こだま》は、エルサレムの、サンタンヌ〔仏領西インド諸島のガドループ島にある港〕の、居酒屋から居酒屋の、すべての道にそって軽蔑口調で繰り返された。
――またヴィドックだ。いつもヴィドックだ。
この名は、私に反目している連中の耳には、なおさら不愉快にひびいた。怒れるアテネ人たちが、『義人』という綽名《あだな》の亡きアリステイデスに嫌悪の情を催した以上のものがあった。
もし、わざと私を追っぱらう方法が編みだせたら、盗っ人やペテン師や密偵一味にとって幸せもいいとこ、かれらのお陰でオストラシズム〔オストラキスモスのことで、オストラコン(陶片)に国家に害がある者の名を書いて投票する古ギリシアの陶片追放のこと。これを貝殻追放とするのは誤訳。前記のアリステイデス(前五二〇〜四七八)はアテーナイの政治家で軍人、その廉直さで「義人」と呼ばれたが、テミストクレスと対立してオストラキスモスで追放された〕の法規が復活したことであろう。そして、そのときこそ、かれらの悪の貝殼がぴたりと合わさったろう。だが、ココ君と共犯者たちは、いかにも巧く結束したが、ああいった手合の企みは、あのくらいが関の山、ほかに何ができたろうか? 巣箱の中のスズメバチは沈黙を強いられる。上役たちは蜂どもにハッパをかける。
――ヴィドックをみろ。あいつを見習え。すごい活躍ぶりだ。いつも足で捜査し、昼も夜も眠らない。あんなのが四人いたら、パリの治安は万全だが。
こうしたホメ言葉は、寝ぼけ野郎どもをいらだたせたが、そんな言葉に乗せられはしない。眼がさめたとしても、けっして盃を手ばなしてはいなかった。かれらは、義務が呼んでいるところへ羽ばたきして飛んで行かずに、内輪だけで集まって、私こと囚人服《カザカン》が働くのを面白がっていた。次の悪口は私のことではないとは言うが、私を指していた。
一人が言う。
「いや、とてもかなわない。現行犯で泥棒を捕まえるには、泥棒と仲良してなくっちゃ」
別の男が受けて、
「そうだとも、だが、あいつは、いろんな手を使う。猫の手もな……」
「フン、なんて悪い猿《えて》公なんだ」
三人目が言葉を加える。
おまけとして、次の四人目がもったいぶって、
「あいつは、泥棒がいないと泥棒をつくる」
では、どんなふうにして泥棒をつくったか。
この『回想録』の読者のなかには、間違っても、ギヨタンのところに足を踏み入れた御方は一人もいないと思う。
――な、なんだと、ギヨタンだと。
利口な医者が、
同胞いとしく
死なして悲しむ
みなさんは、そんなところへは行かない。ここで言っているのは、かの有名な医師ギヨタン〔ギヨチン(日本の俗称ギロチン)という断頭台を考案したパリ大学教授〕ではなく、このギヨタンは、ただの温厚な水割り酒場のオヤジさんである。その酒場一帯を取りしきっているのがデノワイエで、下等な泥ちゃんたちが集まる溜り場になっている。城門界隈の盗っ人たちが「クルチィユの大サロン」と呼んでいる場所である。ある程度、まっとうに暮らしている労働者が、通りがかりにデノワイエ親分の息がかかったその酒場に危険を冒して入り、もし肝っ玉が太くて丸太ん棒も古靴も怖くないなら、ゴロツキ連中が鼻汁《はな》をかんでいるのが聞こえ、憲兵に助けられて、ぶん殴られずにそこを出ることができよう。そのときは、自分の分だけで他人の分を払わないでもすむ。ギヨタンのところでは、とくに身なりがよかったり懐《ふところ》具合がいいと見られると、あまり安くはあがらない。
むかしは白かった壁が、ありとあらゆる発散物で黒ずんだ、かなり広い四角な部屋を考えていただきたい。これが、酒神《バッキュス》や歌舞神《テルプシコール》の礼拝にささげられた、たいへん簡素な神殿の情景である。まずかなり自然な光がかもす錯覚から場所の狭いのに驚くが、やがて眼が、臭くないとは言えない無数の霧がこもった厚い空気を見通せるようになり、もやもやの空間からもれる細部が、しぜんに現われてくる。それは創造のひととき、すべてがはっきりとしてきて、霧が晴れる。あつまり、生気を帯び、いろいろな形が現われる。ゆれ、うごき、空しい影ではなく、反対に、四方八方に交じわり絡みあう実体である。
最高の幸せ、なんという楽しい生きざま、これほどの至福が享楽者《エピキュリアン》たちに集中したことはない。悪にふける者は、そこらじゅうで泥団子が手に入る。たくさんのテーブルの列の上では、一日に百回も、誰も飲まないような汚いお神酒《みき》が繰り返して注がれる。テーブルの列は枠をつくり、踊り屋と呼ばれる者たちのために中を空けてある。この悪臭をはなつ洞窟の奥には、四本の虫食い棒杭に支えられた船の破片で作られた一種の高台が高まっていて、二、三の古い壁掛けの切れ端を集めた粗末なもので覆いかくしてある。このニワトリ籠のような高台の上に音楽屋がいる。クラリネット二名、安バイオリン弾き一名とトロンボン野郎、それに耳を聾《ろう》するばかりの大太鼓、この五つの楽器が、オーケストラの指揮者、寸足らずの跛者の十六分音符氏《ドゥブル・クロシュ》の松葉杖の動きで調子を合わせ、おそろしい調和音をだす。
ここでは、すべてが調和している。面《めん》も服装《なり》も、うまく似合っている。正シキ服装ハ心ヲ厳ニスだ。ここには杖や傘やマントをあずける|預り所《ビュロウ》はない。錠前切りを持ったまま入れるが、入口のところで道具を(籠に)置くように言われる。女たちはワン公アタマ、つまり自由な髪型で、ハンカチを頭のてっぺんに前結びで留め、四隅をバラの花結びの趣向にするか、田舎のバラの帽子みたいに眼を覆うかはお好み次第。男どもは、ひさし帽と折襟つきの上着にシャツというのがお定まりの服装。パンツはいらない。いちばん粋《いき》なのは、砲手の略帽、軽騎兵の長外套、槍騎兵のズボン、狩猟用の長靴に三、四回、軍隊で使い古されたボロ服か、戦闘服を着ることである。御婦人たちの頭巾まがいの子供服《ファンファン》のようなのはダメだ。御婦人たちは騎兵が好きで、どんな退役軍人が着ているものも良しとされる特別な趣味をもっておられる。ただし、口ひげと自分の皮で飾っている銅釜《あかがね》頭は、とんとお気に召さない。
この集まりの中では、つぶれていない、あるいは縁がとれていないフェルト帽子は、たまにしか眼に入らない。誰も、そこへ衣服を見に行こうなんて思わない。常連だからといって、誰かが、あえてフロックコート姿を見せに行くとしたら、鎧《よろい》チョッキを付けて行くに違いない。衣服のピンからキリまでをじろじろ眺めるお兄ィさんたちの視線をさえぎり、かんべんしてくれと頼んでもムダである。もし、その場のみんなから、つまり満場一致でモダンぶりをあざけり笑われてから、それでも若造どもの中に残っていられたら本当に幸せで、そのときは、むしろはしゃいで熱中し、独特の節まわしで次の歌をわめいたらいい。
だから行かせろ行きたいな
クルチィユで無一文。
だから行かせろ行きたいな
デノワイエで無一文。
デノワイエは、ごろつきの親玉《カドラン・ブルー》〔コルドン・ブルー(板前頭)のもじり〕だが、ギヨタン酒場の敷居をまたぐ際は、よくよく用心してからにする。その巣窟に次のような連中しかいないかどうかを確かめるのだ。ヒモと一緒の娼婦、あらゆる種類の泥棒、最低のイカサマ師、夜の愚連隊といった手合いで、これらの図々しい場末者のほとんどは二つの面で生きている。一つは借金、もう一つは盗み。この愛すべき社会で話される言葉は隠語《アルゴ》にかぎられているというのは眉唾《まゆつば》もので、たいていは、いつものフランス語である。しかし、原語の意味をひん曲げているので、かの有名な四十名会員〔アカデミイ・フランセーズ、会員数は四十名〕でも、ちょっぴりはわかるよと得意になる者はいない。とは言うものの、ギヨタンの常連は、かれらなりの潔癖な言葉を使う。アカデミイの先生たちは、隠語《アルゴ》はロリアン〔ブルターニュ半島のモルビアン県の港町〕で発生したものだと主張し、東洋学者の資格が問われることなどお構いなしに、ごろつき常連をアルゴ船〔ギリシア神話。金羊毛皮を取りに遠征した英雄たちが乗った船〕の乗組員に無造作に当てはめる。そして、ツーロン港にある帆柱が折れた動かない船の上で監視人《アルグザン》の指図で労役する徒刑囚について研究を成しとげたとする。もし、私が、好き好《この》んでこんなことを書いているのなら、好機の髪をつかんで〔好機の女神は禿げている、という諺があり、その後髪をつかむのは難しい〕大学者を何人か作りだし、たぶん大論文を書いたろうが、目下、ばか騒ぎをやらかす連中の楽園の有様を述べている最中だ。話を戻そう。
ギヨタンの店で飲むと、やはり食べもするが、その楽園店の台所の秘密をアバクのはちょいと難しい。ギヨタンの親父は肉屋ではないが、廃馬の屠殺屋をお抱えにしている。そこの銅鍋の中では、緑青は毒にもならず、疲れ果てた馬の肉が、お好み風の牛肉に変わり、ゲネゴォ街で死んだムク犬の腿肉が、ぴりっと塩がきいた羊の股《もも》肉になり、死んで生まれた乳牛の赤ん坊が強力ソースの魔法で一見ポントワーズ〔いかなる料理か不明。ちなみにポントワーズはパリの北約五〇キロにあるオワーズ川沿いの町〕らしい食欲をそそる料理に化ける。そこの御馳走は、冬のあいだ霙《みぞれ》が降っているときが最高に美味しいとされている。ドラヴォ総監の管下、たまたま夏だとパンは別値段だが、羊が大量に屠殺されているあいだは、かならず安い羊肉料理があった。
このお化けの国では、野兎が市民権をとったことがなく、その地位を飼兎に譲ってしまい、飼兎は、……鼠どもは幸せだ、モシ……知ラバ…ハルカニ幸セナリで、これはサン・マンデ〔パリの東、セーヌ・エ・マルヌ県のヴァル・ド・マルヌにある町〕の田舎教師が教えてくれた引用句で、なんでもこれはラテン語で、ひょっとするとギリシア語かヘブライ語かも知れんが、どっちだって構わない、何が起ころうと神さまのお思召しのままだ。だが、もし鼠どもも、私が見ていたものをいつも見ていたなら、恩知らずで背徳的な一族でないかぎり、ギヨタン親父に感謝して、その彫像を建立する奉加帳を回したろう。
ある晩、善良なフランス人なら独りでいられない欲望にせきたてられるときがあるもの、私はハケ口を求めて起き上がり、あるドアを押す。女が身をまかせる。外の空気は涼しく、気がつくと中庭にいた。いい感じの場所である。手さぐりで前へすすむ。不意につまづく。誰かが敷石を散らかしたらしい。両腕をのばして身体を支えると、片手が棒杭、もう一方が何だかたいへんやわらかくて長いものを握る。暗闇のなかにいたが、火花のようなものが光ったのが見えたような気がし、手ざわりで、四本足の動物の毛が生えた背中の出っぱった部分に触っていることがわかる。片方の長靴を引っぱり上げると、片方に掻っぱらい品の包みがあった。それを持って酒場に戻る。と同時に十六分音符氏《ドゥブル・クロシュ》が踊っている者たちを指さしながら「猫の尻っぽ」を声をからして歌い喚《わめ》く。
みんなが、このことを云々するかどうかを訊くには及ばない。集まっている連中の中から一斉に弥次《やじ》が飛ぶが、ただの巫山戯《ふざけ》で、ジブロット〔兎肉などの白ワイン入りのフリカッセ、一種のシチュウ〕好みの連中も他の者と同じように弥次を飛ばし、帽子を深くかぶり、指をなめながら、
「さァ、ちょっぴり楽しくやろうぜ、猫っかぶりの大食い。おれたち、抜かりはねェと来た。オス猫のお袋ァ生きてらァ」
ギヨタン親父のやり方は、もともと綿《めん》より棉《わた》の実油を使うといったもので、当時、彼の酒場では呑んで気晴らしをする大盤振舞いができたが、リシュ酒場やグリニヨンの店より高い値段でなかったことは断言できる。六人の男を思いだす。その名は、ドリアンクール、ヴィラット、ピトール他三名で、かれらは一晩に百六十六フランも散財する稼ぎをやっていて、それぞれの情婦を連れていた。一般の人は、かれらの化けの皮を少しは剥いでいたにちがいないが、かれらは別に異議も唱えず、ラブレエが苦労した十五分間〔金がないのに支払い時間をすごす〕など、かれらにはとんと無縁のことだった。気前よく支払い、給仕にチップを忘れなかった。私は、かれらがバクチの支払いをしているときに逮捕した。調べるのは雑作もなかった。盗っ人は、うまい仕事があったときは鷹揚なものだ。この泥棒たちは、かなり多くの盗みをやっていて、今日ではフランスのあちこちの牢獄で罪をつぐなっている。
文明社会のど真ん中にギヨタンの店みたいな怖ろしい巣窟があるのは信じ難いことだが、私のような者は見聞しておかねばならない場所である。男や女、みんな踊りながら煙草をふかし、口から口へパイプを回し、寄って来た女に好いたらしい色事をしかける。女たちは、その出会いで、あられもなく大騒ぎをし、艶姿媚態で優しさいっぱい、男に噛みタバコをくれる。つまり、親しみの度合いに応じての承知不承知を表わすものとして、最初に噛んだらそれが証しと、丸めた煙草、情けのつぶてをくれるのである。
リブーレとブロンド・マノン
治安当局の役人や警視は、こうした大衆酒場に乗りだすには、あまりにもお偉方なので、そういう所からは用心ぶかく離れているようにし、かれらを嫌っている者との接触を避けていた。私もまた嫌われていたが、といって悪者どもを見つけたり捕まえたりするのに、こちらの腕の中に飛びこんでくるのを待っているわけにはいかなかった。そこで、連中を探しに行くことに決め、むだな探索をしないように、連中がとくに好んで出没する場所を知ろうと努めた。次に、魚の集まる場所に出くわした漁師よろしく、たしかな手ごたえのある釣糸を投げこんだ。しかし、下世話にいう、干草の山から針を見つけだす時間のムダはしたくなかった。
水が欲しいとき、川が乾上がっていないなら、雨を当てにするのは馬鹿げている。だが、たとえ話はやめて説明しよう。これはみな、次のことを意味する。盗賊を効果的にやっつけようとする密偵は、やつらの頭に法の網をかぶせる機会をつかむためには、盗賊たちの中に入って一緒に暮らす必要がある。これを私はやっていた。それはまた、私の競争者たちが『盗っ人もどき』と呼んでいたもので、私が警察に入ったばかりの頃は、とくに盛んにやったものだった。一八一一年の冬のある午後、ギヨタンの店での談合に顔をだしたが、どうして収獲《みいり》があるものになった。どういうものか私は、迷信というのではなく、いつも勘にたよるところがあった。この勘で、風態《なり》に気をつかい、当世風にならないようにつとめた。リブーレという名の同じ密偵と一緒に我が家を出たが、この男、どう見てもヤクザふうで、|糸ねェちゃん《コトニューズ》(製糸女工)のあいだでは場末ピカ一のイカス男に見え、|呑み屋《ギンシュ》(酒場)の助平女たちは、のきなみ、騎士《いろ》にしたいと願っていた。遠出をたくらむには、どうしても女という荷物が入用で、リブーレは、腕の下に似合いの女をかかえていた。正式のスケということにしている金髪《ブロンド》マノンという娼婦で、彼にぞっこんだという触れこみだった。ちょっとの間に、彼女は遊冶郎《ゆうやろう》ふうにウールの靴下をはき、まっ赤なワンピースの腰を紐で締め、白ぶちの灰色アンゴラの肩掛けを引っかけ、羊皮を張った木底靴を穿き、髪をひっつめにし、彼をなおざりにしても構わなかったのだが、旦那に虚勢を張らせ偉そうに見せようとした。マノンは、両手に男といった気分で浮きうきしていた。
こうして、われわれは、互いに腕と腕を組んでクルチィユ街のほうへ足をはこんだ。酒場に着くと、まず隅のテーブルにつき、成行きが見聞きできる距離のところに陣取った。リブーレは、そこにいるだけで恰好《さま》になっているという男で、二人とも語らず、ニコリともしなかったが、リブーレが、
「な、親父《ダロン》は注文は心得とるんだ。御神酒《ピヴォワ》(ブドー酒)と焼肉とサラダさ。マトロット〔ワインを使った魚のシチュー〕ができるか訊いてみらァ」
マノンが声をあげた。
「うなぎがいいよ、あんた、かまわんでしょ。玉葱《プリュラン》入りの鱶《カポ》(鮫と玉葱)も、けっこういかすわよ」
私は注文をつけなかった。三人は、ギヨタン親父の秘密を知らないかのように、かなりの食欲で少しずつ食べていった。
食事の最中に入口の横で物音がしたので気をひかれた。勝鬨《かちどき》をあげて入ってきた勝利者たちであった。六人の男と女が三組のカップルになっていたが、とても人間とは思えない御面相で、どの顔にも傷があるか、まぶたが黒くなっていて、でたらめな化粧をしたように血がつき、乱れた衣服が生々しかった。かれらが、互いに強力なパンチをやりとりした喧嘩《でいり》の英雄であることは一目瞭然であった。私たちのテーブルのほうにやって来た。
英雄の一人「ごめんなすって、おにィさん。ここんとこ、開けてくんねェか」
私「すこし窮屈になるぜ。ま、いいや、狭ばめあって……」
リブーレ(私の言葉をとって)「なら、おい、舎弟、友だちのために台机《カラント》(テーブル)を引っぱりな」
マノン(やって来た連中に)「女の子たちも仲間なの?」
女武者の一人「なんだって?(仲間のほうへ向いて)こいつ、なんてったのさ?」
その女「おだまり、チチィヌ(セレスチィヌ)、奥方は、おちょくっちゃいねェ」
部隊全員が着席。
一人の英雄「おーい、ここだ、ギヨタンのバカ。八匹のガキを連れた四歳のチビ黒お父っちゃんだ(八スウの四リットル壜)」
ギヨタン「ただいま、ただいま」
給仕《ギャルソン》(酒びんを手に)「三十二スウです、すみませんが」
「へー、三十二スウたァ、がっかりさせるぜ。なら、おれっちは当てにならねェってわけか(我々を信用しないのか?)」
ギャルソン「いいえ、みなさん、でも、前金がならわしでして、なんなら、この店の定まりと思ってください」
全部のコップに酒が注がれ、私たちのにも一杯にした。
「勝手をして、ごめんよ」
注いだやつが言った。
「けっこうなこっで」
リブーレが答えた。
「わかってらっしゃる、礼には礼で」
「おいおい、驚かすなよ」
「はいときた、呑みましょう、誰が払うんかな? 阿呆になるやつは」
「言ったな、お前さん、さ、呑もうや」
みんな十分に飲んだ。晩の十時ごろともなると、反論だらけと酒臭いやさしさが一気に噴きでる中に互いの共感が自然にあらわれ、人間の心の弱さが表面でぶつかり合うようになった。
お開きになったとき、その新しい知り合い、ことに女たちは、とことん酔っぱらっていた。リブーレと情婦も、ただもう陽気になっていたが、私同様、頭はしっかりしていた。しかし、連中に同調しているように見せるために、やっと歩っているようなフリをした。われわれは、風よ吹け、怖かないぞとばかり、一隊になって極楽酒場から遠ざかっていった。
ときに、リブーレが、歌を繰り返して一行の千鳥足を揃えてやろうと、やけに底ひびきのする声で当節の生《なま》の隠語《アルゴ》で歌いだした。場末の町より長たらしい反復がついた俗謡であった。
町から町へぶらぶらと、
流れ流れて白浪渡世、
女の商人《あきんど》に会ったっけ、
でぶちんドンドコ、
安物ワインを売ってたよ、
でぶちんドンとコイ。
女の商人に会ったっけ、
安物ワインを売ってたよ、
おれは隠語《ちょうふ》で声かけた、
でぶちんドンドコ、
ところで何か食ったんか?
でぶちんドンとコイ。
おれは隠語で声かけた、
ところで何か食ったんか?
天下一品の水割《たま》なし酒と、
でぶちんドンドコ、
味一番のパンがある、
でぶちんドンとコイ。
天下一品の水割《たま》なし酒と
味一番のパンがある、
一枚の戸、一本の鍵、
でぶちんドンドコ、
おねんねするベッドが一つ。
でぶちんドンとコイ。
一枚の戸、一本の鍵
おねんねするベッドが一つ。
おれは入った部屋のなか、
でぶちんドンドコ、
チンカモしたさに、
でぶちんドンとコイ。
おれは入った部屋のなか、
チンカモしたさに、
合戦場にいるではないか、
でぶちんドンドコ、
白河夜舟の野郎が一匹、
でぶちんドンとコイ。
合戦場にいるではないか
白河夜舟の野郎が一匹。
うしろのポケット探ったよ、
でぶちんドンドコ、
銀貨ごっそりいただいた、
でぶちんドンとコイ。
うしろのポケット探ったよ、
銀貨ごっそりいただいた、
銀貨や、時計も、
でぶちんドンドコ、
それにバンドの留金も、
でぶちんドンとコイ。
銀貨や、時計も
それにバンドの留金も、
財布やズボン、
でぶちんドンドコ、
飾り紐付き帽子まで、
でぶちんドンとコイ。
財布やズボン、
飾り紐付き帽子まで
服やナイフも、
でぶちんドンドコ、
刺繍付きの靴下も、
でぶちんドンとコイ。
服やナイフも、
刺繍付きの靴下も。
ヤバい、ヤバいぞ、色女、
でぶちんドンドコ、
おれたちゃ今に吊るされる、
でぶちんドンとコイ。
ヤバい、ヤバいぞ、色女、
おれたちゃ今に吊るされる、
町の広場で、
でぶちんドンドコ、
いや応なしに絞首《くび》られる、
でぶちんドンとコイ。
町の広場で
いや応なしに絞首《くび》られる
泥棒の女房はよっく見な、
でぶちんドンドコ、
お集まりの皆の衆も、
でぶちんドンとコイ。
泥棒の女房はよっく見な
お集まりの皆の衆も、
腕に覚えの首吊人、
でぶちんドンドコ、
そっくり仕事を渡したぜ、
でぶちんドンとコイ。
リブーレが十四節を歌い終わると、ブロンド・マノンが、彼のいい声に聞き惚れて、
「ね、みんな、あたいがラザール〔サンラザール施療病院女子刑務所〕で覚えた歌があんのよ。お耳かたむけて、あたいについて繰り返して頂戴な」
ある日、赤十字病院に、
十から十二人いたという。
と歌ってから途中でやめ、
「今日び歌ってるふうにね」
おいらは十から十二人、
いま評判の泥棒さまだ。
夜を待ち、
ごっそりお宝ぬすみたい、
十億フランも稼ぎたい。(クリカエシ)
山分けしようが、するまいが、
みんなおいらの使い分。
ポワトォ野郎にやっとくれ、
住居《やさ》あるヒモにやっとくれ
野郎に女《め》郎、
抜かりはねェな。(クリカエシ)
両替商の番台で
両替屋の番頭が、
泥棒っと声あげた、
つかむは時計、
ぴかぴか鎖、
銭コも一緒《もろ》に。(クリカエシ)
夜中の鐘が鳴るときは
泥棒仲間のお帰りだ
モントロンの盗っ人宿。
モントロンが戸をあける、
おいらの帰りを待っている
お前の妙開《ふいご》に帰るのを。(クリカエシ)
女房にたずねるモントロン、
かわいい女房《おかか》や言うてくれ、
あいつら泥棒は何やつだ?
時計盗っ人か、
店《たな》おしこみか、
知らんのかいな?(クリカエシ)
さァさ急いだ色女、
おいらがお勤めする時にゃ
いつでも用意万端だ。
やさしさ一杯、気分は上々
おいらは降りる穴倉へ
お前に小遣いやるために。(クリカエシ)
だけど早くもポリ公が、
月のあかりに遠くから、
狙ってるぜ気をつけろ。
縁は異なもの味なもの、
両替屋の番頭が、
つける刑事を尾行《つけ》ていた。(クリカエシ)
世の人なんども笑ったり、
愚痴タラタラもよいけれど、
ドジをふんだら泣きをみる。
サツや兵士や憲兵が
おいらをパクる本庁《ボス》のため
みんな御用だ口惜しやな。(クリカエシ)
この終わりの文句は、マノンの口から歌が終わったとたんに、そこら界隈の窓ガラスをふるわすくらいの大声で八遍も十遍も繰り返して歌われた。その、酒のいきおいからの大笑いや大合唱のあと、まっ先に酔っぱらって、いちばん張りきっていた連中が少しずつおとなしくなってきて、おたがい言葉を交わすようになった。打ち明け話は、それが世のならい、質問することから始まった。私は、答えようとして耳をそばだてることをせず、いつも相手が知りたがっていることから遠くに身を置いていた。自分がパリは不案内で、リブーレとは彼が脱走兵として身柄を送られてきたときにヴァランシェヌ監獄で通りすがりに知りあったにすぎない。つまり、同窓生(牢屋仲間)と娑婆で再会したというわけだ、と語り、さらに気をつかって連中が感心するような色艶をつけて身の上話をした。自分は、極め付きのゴロン棒で、悪いことは何でもやったし、何でもやる気だ、と、いかにも、ざっくばらんな調子で話し、かれらが、ざっくばらんに話す番になるように持っていった。これまで幾度も成功した手管《てくだ》であった。すると、やがて、かれらはカササギのようにしゃべりだした。ふむ、私は胸のうちで独り言を言った。お前らのことは、よく覚えておいて、けっして忘れはせんぞ。私は、かれらの名前、住所、手柄、失敗、願望などを知った。かれらは、正に信頼するに足る男と出会ったことになる。また会おうや、気に入ったぜ。みんな、そう言った。
私の作り話は、いつも多少は変化するが、どれも似たようなものであった。私たちの行く手に現われる酔っぱらいは、みんな何か悪事をやっているはずで、おたがいのキズナを強めるためには、こちらも百も二百も毒を呑んでいること、つまり悪事を重ねていることにしなくてはならない。さァそうなると、もう別れられなくなる。
「来なよ一緒に、来なってば」
ひどくせがんだので、私としては懇望もだしがたくフィユ・ジュウ街十四番地の貸家に住んでいた彼等の住居に同行するのを承知した。いったん、おんぼろ部屋に入ってしまったので、ベッドを分け合うというのを断りきれなかった。かといって、連中をよい子のように思えというのはムリで、こちらも同じように思われているはずだった。兄弟分のリブーレでさえ私に心を許してはいないし、かれらは、そのリブーレ以上にそのような肚づもりだったにちがいない。眠っているフリをしていた一時間ほどのあいだ、かれらは低い声で私をホメていたが、私の話は半分も本当であるはずがなく、そうでなければ無期を十回も宣告されていただろう。私は、才気あふれたフィガロ〔ボオマルシェ作『セヴィラの理髪師』の主人公〕のように滑稽な訊問をして誰かの化けの皮をはがすほどの理髪師には生まれついていなかったが、好運な利発な生まれつきで、まっとうな人間の生涯を悲しみのうちに死なせてみせるほど悪運の強い幸せ者だった。そして、けっきょく、リブーレが、かれら一味に私たちを加えてくれる話をつけたので、ラヴェルリ街でやろうとしていた朝がけ泥棒行に一緒に行かないかと申し入れてきた。
時間がなくて、本庁第二部長に知らせるのがやっとだったが、部長が、たいへん手際よく手配して、盗品を持っていたところを逮捕した。リブーレと私は、見張り役として外に残され、ヤバいときは知らせることになっていて、盗賊たちは、そうしてくれるものと信じたのだが、実は警察の手の者がその役についているのかもしれないことを知る必要があったのだ。かれらが私たちのそばを通りすぎて車に乗せられたとき、そこからは私たちを見分けることはできなかった。リブーレが、
「ふん、まるでマノンの歌みたいだ。ミンナ御用ダ口惜シヤナ」
そのとおり、かれらは、みんな有罪になり、もしドビュイル、ローレ、牝鹿《ビシュ》ことイポリットの三人の名が囚人名簿にあるなら、太陽の子たちが集まるギヨタンの店で私が一夜をすごしたせいである。
盗賊たちは、あまり私が期待していないときに、ひょいと私の言いなりになることがよくあった。このことは、こう言ってもよかった、つまり、かれらの悪い根性が私を信用するように仕向けたのだ、と。自分から猿の口に飛びこむやつは、おっそろしく冒険ずきか、どうしようもない阿呆だと思わざるを得ない。かれらの大半は、いとも簡単に我が身を投げだした。それから、いつも私は驚いていたが、かれらが選んだ職業は、危険を避けるために、なんと多く気をつかわなくてはならないことだったことか。そのくせ、なかには、いかにもお人好しで、その犯罪に私がぶつかる瞬間まで、とても罰を受ける者のようには見えない者もいた。とうてい信じられないことだが、わざと世間の人たちをワナにかけるように生まれついた連中が、捕まるために警察にやって来て私に会おうと待っていたこともあった。以前から警察は、私のことを、常識を無視した、いやそれ以上のところで仕事をする一匹狼のハッタリ屋だとしていた。あらゆる場合が、俗にいう一か八かの勝負で、これから述べることで判断していただこう。
泥棒仁義
ある日の夕暮れどきに、沖仲仕《おきなかし》のナリをしてジェーヴル河岸の手摺に腰をかけていたら、一人の男が、こちらへやって来るのが見えたが、泥棒のあいだでは誰もが知っている二軒の酒場、『小椅子』屋と『よか穴』屋の常連の一人であることがわかった。私に近づきながら、
「やァ、今晩は、ジャン・ルイ〔ヴィドックの変名〕」
「こんばんは、若ェの」
「なにしていなさる? やけに落ちこんで辛そうに」
「なんと思うか知らんが、腹がへって死にそうなときは笑えんもんさ」
「腹がへって死にそうだって。そいつァちいとばかりキツいな、泥棒仲間《アミ》だと思ったが」
「だけど、このざまだ」
「なら、来なよ。ニゲナック親父のところで一杯やろうや。まだ二十スウあるんだ。とにかく、食わなくっちゃ」
彼は私を居酒屋に連れて行って、ショレット一杯(半リットル)を注文した。ちょっとのあいだ私を独りにし、ジャガ芋二人前を持って戻ってきた。
ほかほかの湯気が立っているのをテーブルに置きながら、
「ほら、砂原にツルハシを打ちこんで漁《と》れた川ハゼだ。フライにしてはないがな」
「馬鈴薯《オレンジ》だな。塩をもらってくれないかな……」
「浪乃花《モルガーヌ》か、そうだ、べつに高いもんじゃねェや」
自分で食塩を運んできてくれた。私は、一時間前にマルタンの店で御馳走を食べていたのだったが、ジャガ芋にとびついて、二日間も食べなかった者のようにがつがつと平らげた。
「おめェさんたら、パクパクだね。おめェさんを見てると、肉でも食ってるみてェだ」
「うむ、だってよォ、口から入れなきゃ腹にゃたまらねェときた」
「わかってる、わかってる」
びっくりする早さで詰めこみを続けた。ひたすら噛んで呑みこむだけだった。息はつまらなかったが、私の胃が、それほど御機嫌ななめだったことはなかった。とうとう配給量の終わりにこぎつけ、食事がすむと、すぐさま相棒が一口すすめて、こう話す。
「なァ、ポン友、おいらはマッソンっていうんだ。こいつァ親父の名でもあり自分のでもあるんだ。おめェさんは、いいやつだと見てきた。でェぶ辛い目に遭ったもんとも見た。そう顔に書いてあらァ。だけどよォ、いつもいつも貧乏神が取りついてるたァ限らねェ。その気があるなら、なんか稼がせてやるぜ」
「きっとだな。だって、自慢じゃねェが、少しでもたくさんでもねェ、まったくの文なしときてるからな」
「いいってことよ……わかる、わかる(かなりボロの私の服をながめて)、ま、そのナリでいるのも十五分間だ」
「ああ! わかってる。なんとしても元に戻りてェよ」
「だったら、おいらについて来な。オレハ強盗ノ大将サ(押しこみをやる)。今晩、タタクゼ(強盗する)」
「なら、語ってくれ、ヤマをふむんなら知っとかなくちゃ」
「トロい(間抜け)やつだな。見師《けんし》(見張り)が心配するこっちゃねェ」
「へェ、それだけのことをやるんか。でもよォ、おれは家来役、ちょっとくれェは言えるんじゃ……」
「心配しっこなし。いいか、おいらの計画はできてるんだ。銭になること請合いさ。留人《とめにん》(盗品隠匿者)は、すぐその先にいる。得たりや応だ(盗んだら売る)。たんまりイタダキだ。損はさせねェ」
「たんまりイタダキだと、よォし、行こう」
マッソンは、サンドニ大通りに私を連れて行き、大きな石の山積みがあるところまで来ると、そこで停まり、誰かが私たちを見ていないかを確かめるために周りを見回してから石積みに近づいた。そして、いくつかの切石を取りのけ、それらが塞《ふさ》いでいた空洞に腕をつっこんで鍵の束を取り出した。
「ほら、おいらは聖ヨハネさまの万能薬を持ってるんだ。さてと、いっしょに穀物取引所のほうへ行こう」
そのあたりに着くと、すこし前のほうを指さした。衛兵所の真向かいに彼が押し入るはずの一軒の家があった。
「さしあたり、あんまり向こうへは行かんこった。目ん玉かっぴろげて待っててくれ。女がフケてるかどうか(部屋にいる女が外出しているかどうか)見てくっから」
マッソンが家の出入り口の戸を開ける。彼が戸を閉めたとたんに私は屯所へ駈けた。所長に会って、盗みが行なわれている最中だと大急ぎで知らせ、もし金持から盗った品物を持っている泥棒を捕まえたいのなら一刻の猶予もできないと伝えた。警告して引き退り、マッソンが私を置き去りにした場所へ戻った。そこへ、やっと着いたか着かないかのとき、誰かが私のほうへやって来た。
「おめェか、ジャン・ルイ?」
「うん、おれだ」
手ぶらで戻った彼に驚いた様子を見せながら答えた。
「そのことなら言うな。となりの畜生に邪魔されたんだ。先に延びただけさ、仕事をフイにしたわけじゃねェ。チクタク、チクタク、羊を煮ていろ、今にわかる。このままじゃすまさねェ」
まもなく、彼は、またも私を残して行ってしまう。やがて、大きな包みをかついで早々と現われる。その重みの下でつぶれそうだ。だまって私の前を通りすぎる。そのあとに私が従う。五歩間隔で歩っていくと、銃剣だけを身につけた二人の衛兵が、物音ひとつ立てないでこちらを見ている。
その荷物をどこに置きに行くかが重要なことだった。フール街に入ると、『亡者首』という女商人のところに運んだが、ほんのちょっとの間しかいなかった。そこから出てくると
「重かったぜ。だが、まだ、やらにゃならん楽しい旅があるんだ」
やりたいままにさせた。またも、さっきの空巣へ上がって行って引越しをやってのけた。つまり、十分かそこら経つと、寝台を頭にのせて降りてきた。マット、クッション、シーツ、毛布など、そっくりそのまま。別々に分ける時間がなかったのだ。敷居を越えるとき、戸口が狭すぎて邪魔され、あわやひっくり返りそうになったが、獲物を手放したくないので、すばやく平衡を取り戻して歩きだし、ついて来いと私に合図をした。街角を曲がると、私のそばへ寄って低い声で、
「三度目の正直だ。おいらと上がって行って、ベッドのカーテンや大枠を外すのを手伝ってくんねェか」
「合点承知、ボース〔パリの南、オルレアンとの間の地方をいう。単調な平原の穀倉地帯〕の羽根(藁のこと)の上に寝るときゃ、カーテンなんざ贅沢だ」
すると、笑いながら、
「うん、ゼイタクだな。ま、もう話はたくさんだ。遠くへ離れるな。戻りに会うから」
マッソンは歩きつづけたが、二歩でたところで、一人ずつ捕まってしまった。まず屯所、それから警視のところへ連行されて尋問された。
「二人か」、役人がマッソンに言ってから(私を指し)、
「この男は何者だ、お前と同類の泥棒にちがいあるまい?」
「この男は何者ですかって? おいらが知ってる? 誰だか訊いてくだせェな。もういちど見ようたァね。そこにいるから、二人になってるんで」
「共犯でないとは言わさんぞ。一緒にいたところを捕まえたんだ」
「共犯なんかじゃありやせん、警視さん、あいつは片側、おいらは別を来ていたんですが、ひょいとすれ違ったとき、ふいに何かがすべり落ちたように感じたんですが、カンタン(枕)でした。こんなふうに言ってやりやした。
『オイ、落ちたんじゃねェのか。拾わにゃ。拾いなよ』
そのとき捕り方がやってきて二人ともパクったんです。というわけで、旦那の前にいることになったんですが、これが真実《まこと》でねェなら死にたいな。とにかく、あいつに訊いてくだせェ」
かなり上手な作り話だった。私は、マッソンに反対する気がないどころか、大いに彼の気持に同調していた。そのうち、とうとう警視が説き伏せられたらしく、
「身分証明書を持っとるか?」
と私に言った。
居住許可証を見せると、ちゃんとした正規のものだと認められ、すぐさま私の釈放が言い渡された。
「おやすみ」
この言葉を私にかけたマッソンの表情には、はっきりとわかる満足の様子が浮かんでいた。私が自由になったことへの挨拶であったが、すべて知らぬが仏だったかも知れない彼は大いに愉快そうであった。
盗賊が逮捕され、あとは贓物《ぞうぶつ》をあずかる故買女が盗品を処分する前に押さえることだけで、ただちに捜索が開始され、証拠歴然たる品々の中で唖然とした『亡者首』が、思いもよらぬ取引最中に検挙された。
マッソンは警視庁の留置場に送られた。その翌日、私は、仲間が有罪になったときの盗賊仲間の大昔からのしきたりに従って、四リーヴル〔一リーヴルは約半キログラム〕の丸パンとハム、それに小銭をそえて差し入れた。彼は、この心づかいを喜んだが、仲間ではないと否定してやった当人が彼の失敗の原因だったとは疑っていなかった、という報告を受けた。彼が、ジャン・ルイとヴィドックが同一人物であったことを知ったのは、ラ・フォルス監獄に入れられてからであった。そこで、彼は、奇妙な自衛方法を思いついた。つまり、彼が犯人だとされた盗みの本ボシは私で、品物を運ぶのに彼が必要だったので、私が彼を探しだして頼んだのだと主張した。この申し立てを裁判所で長々と述べたが、よい実りがなく、マッソンは、その無実を通すことに無駄骨を折り、重労働刑を宣告された。
まもなく、私は、移送する囚人の出発に立会ったが、逮捕されてから会っていなかったマッソンが、格子のあいだから私を見つけて、
「よォ、おめェ、ジャン・ルイさんよ、やっぱり、おめェがパクったんだな。あーあ、おめェがヴィドックだと知ってたら、馬鈴薯《オレンジ》の代金を払わせたのになァ」
「だって、払いたがったなァお前だぜ、じゃないかな? ついて来いって言ったのもお前だったな?」
「そのとおり、だが、自分がイヌ(密偵)だとは言わなかった」
「それを言ったら役目にそむく。よしんば、それを言ったところで、お前は押しこみをやめはしない。ただ、先にのばしただけだったろうよ」
「おめェほど、いやな野郎はいねぇぜ。おいらは人がよすぎると来たもんだ。いいか、心の臓が身体ん中で打ってるかぎり、おめェみてェに自由だが他人をコケにしてるより、ここにいるほうがましなんだ」
「蓼《たで》食う虫も好きずきだ」
「そいつァいい、おめェの好みは……イヌ野郎、上等だな」
「泥棒するよか上等さ。おれたちがいなかったら、堅気の衆はどうなる?」
この言葉に、彼はワッハッハと高笑いをして、
「堅気の衆、ふん、笑わせるな、羨しくもなんともねェや(彼が使った表現は、もっと適切でなかった)。堅気の衆だって、どうなるかって?……だまりゃがれ、おめェの心配することか。別荘にいたときゃ、ほかの題目を唱えてたくせに」
やりとりを聞いていた一人の囚人が、
「また舞い戻ってくらァな」
「こいつが? おめェなんか戻ってきてもれェたかねェや。そのうちな、大将、勝手にしやがれだ」
なにを震える
任務を果たして、ビセートル監獄へ出向くたびごとに、マッソン事件が原因で、私に呼びかける囚人たちの非難を浴びたのは事実であった。私は、私をののしる囚人とは滅多に言い合いはしなかったが、軽蔑しないで返事だけをした。なめてはいない、怖れているのだという考えを相手に持たせてはならないという懸念からだった。悪者どもの前に出ると、みんな多少とも不満をぶつけた。かれらはみな、私の手か私の部下の手にかかった者たちなのだから止むを得ないが、どうしても厳しい態度を示さなくてはいけないと思う。そういう怖ろしい連中の中に初めて姿を現わす日ほど、その厳しさが必要なときはないのである。
私は、治安警察の主だった部員で、妬みがいっぱいな仕事をまかされているのだとは考えないで、むしろ、自分の身分に必要と思われる考え方を真剣につかもうとした。そして、できることなら司直に捕まった全員の特徴などをメモに分類しておくと役に立つと考えた。もっとよく、かれらを知っておけば、逃亡したり出獄になっても、私に命ぜられていた監視がラクになるはずだった。そこで、アンリ部長に、部下と一緒にビセートル監獄へ行く許可をお願いした。パリや地方で労役させるために囚人たちに鉄クサリを付ける作業中に見ておこうというものだった。アンリ部長は、私のやり方を思いとどまらせようと、いろいろな意見を述べた。つまり、その方法がもたらす利益は、私が我が身をさらそうとしている切迫した危険にくらべて大したものとは考えられないというのであった。
「囚人たちは、お前をやっつけてやろうと企《たくら》んでいるそうだ。もし、お前が、囚人どもの前に出てみろ、やつらが長いこと待ってた機会をあたえることになる。間違いなし、どんな用心をしていいか、わしにはわからんよ」
私のためを思っての部長の配慮には感謝したが、と同時に私の要求の目的にそってくれるように主張し、とうとう、彼は、私の目的が得られるように命令をだす決心をした。
鎖付けの日、数名の部下とビセートルへ行く。中庭に入ると、とつぜん、わァという物凄い喚声があがり、こう叫ぶのが聞こえる。
――密偵《いぬ》をたおせ、悪党《わる》をたおせ、ヴィドックをたおせ!
この声が四方八方からあがり、囚人たちが群をなして互いの肩の上にあがって格子に顔をおっつけている。私が数歩すすむ。怒号が倍加する。まわりの空気全体が、怒り狂った声の罵《ののし》りと死の脅しで反響する。それは、まるで、人食い人種の顔、顔がとりまく地獄の光景さながらで、それらの顔は、血に飢え復讐に燃えて怖ろしく引きつっていた。建物全体が、一個の怖ろしい大騒ぎと化していた。怖いなと思わざるを得なかった。おのれの無思慮を自ら咎めて、あやうく退却の道をとるところだったが、ふと、とつぜん、もういちど勇気が湧いてくるのを感じた。
――なんてこった。私は自分に言い聞かせた。こいつら悪人どもの隠れ家を襲ったとき、お前は慄えちゃいなかった。ここでは、やつらは監禁されていて、声で怖がらせているだけだ。行こう、たとい死のうと暴風雨《あらし》の中に突っこもう。だったら、お前が腰抜けだとは思うまい。
自分が持たねばならない所信を確かめ決意して、素早く退却から後戻りをしたので、自分の弱さを気付くひまなどなかった。私は活力を取りもどした。もはや何の疑念も持たずに全部の鉄格子をきっとなって睨《ね》めまわし、中二階の格子窓にも近寄って行く。とたんに、囚人たちが新たな発作を起こす。かれらは、もはや人間ではなくて吼《ほ》えたける猛獣である。喧騒と騒音。ビセートルの土台を引っくりかえし、牢屋の壁を半ぶち抜きにしそうだとも思えた。その、わいわい、がやがやの真っただ中で、私は、一言のべたいという合図をした。すると、無気味な沈黙が暴風雨のあとに来て、一同は、私の言葉を聞く。
「ヤイ、悪党ども、喚いてどうなる? おれがパクったときは声もあげねェで引っくくられたくせに。おれに悪口たたいて得になるかい? イヌだと言ったな。そうとも、おれはイヌだが、おめェたちもそうなんだ。この中にゃ、おれんとこに仲間を売りに来た者は一人もいねェたァ言わさねェぞ。もっとも、そんな相談にゃ乗れもしねェし乗りたくもねェがな。おめェらが罪人だったからこそ司直に渡したんだ。おれは容赦はしなかった。そいつァわかってる。どんなわけがあって情けをかけなきゃならんのだ? おれとは無縁で、いっしょにヤマを踏んだこともねェのに、おれを咎めようっていう、そんなやつ、誰か、ここにいるのかい? それからまた、おれが泥棒だったと証してくれないか。でないと、おめェらより器用で幸せもんだということにならァ。でもな、おれは現行犯で捕まったことはねェんだ。おれが盗みや騙《かた》りで罪になった証拠の記録を見せてくれる極悪野郎は出て来やがれ。わざわざ難しく考えることじゃねェ。事実だ、たった一つの事実をあげて、おれと張りあったらどうだ。そしたら、おめェら全員よりワルだと白状してやるぜ。おめェら、人を悪く言うのが仕事か? この場で、いちばん、おれを悪者よばわりするやつは正直に答えろ、百回も怒鳴って、おれみたいになりたくても、その日が来るかな?」
一席ぶっているあいだ、誰にも中途で止められなかったが、そこらじゅうが嘲りと罵りの声でいっぱい。やがて、怒号と喚声が、またぞろ始まったが、もう屁とも感じず、腹もたたなかった。怒りを超えて自分の力以上に大胆になったようだった。罪人たちが鉄鎖を付けられる庭へ連行されると知らされたので、私は通路に陣取り、呼びだしに応じて出てきたとき、殺られる前に敵をやっつけてやろうと心に定め、かれらが脅しをやりとげるのを待った。正直なところ内心では、二人のうちの一人が復讐に燃えて私に手を下してくれと願った。私にいどむやつに不幸を、と。だが、その憐れな連中の誰一人も、そんな動きは少しもしなかったので、私としては、はげしく睨《にら》みつけるのはやめて、敵の調子を狂わす確信をもって反撃に出た。点呼が終わると、耳が遠くなるほどのワイワイガヤガヤが新たな騒ぎの前奏になった。私に向かって呪いの言葉が吐きかけられる。
――ほら、やつが来る。門のところで立往生してらァ。
この上もない下品な言葉を私の名に付けて罪人たちが繰り返す。この、人を白痴《こけ》にした挑発に、勘忍袋の緒が切れて、部下の一人と入って行くと、や、二百人の悪党どもの真っただ中。ほとんどが私が逮捕した者である。
――おーい、相棒、元気をだしな。
禁錮囚が閉じこめられていた牢屋から外にいる連中に叫ぶ。
――豚野郎を取り巻け、やつを殺せ、ぐうの音も出させるな。
正面きって立ち向かえない場面である。私は囚人たちに、
「さァ、みんな、おれを殺せ。おれは、そうなるように生まれついてるんだ。いい応援があるじゃないか。やってみな」
そのとき、どんな革命が、かれらの心に起こったのか知らないが、みんなが、なんとなく控え目になっていくにつれて、だんだん鎮まるように見えた。鎖付けが終わるころになると、私をやっつけると誓った連中がおとなしくなってきて、その中の数人が、なにか少々の役に立ちたいと頼みこむ始末。私の親切をアテにして後悔したのではなく、翌日、私たちの出発にあたっては、感謝の言葉を述べてから、真心いっぱいのさようならを言った。すべてが、黒から白に変わったのだった。昨日の暴動者たちはおとなしくなり、すくなくとも外見は低姿勢、卑屈でさえあった。
この経験は、私にとって忘れられない教訓になった。それは、このような素質《たち》の連中と接してわかったことで、人間は、その堅固さを発揮するとき、いつも強くなり、後々まで相手に一目おかせるには、たった一度でよい、相手を制しておけばよいということである。このとき以来、徒刑囚の送りだしを見すごすことはなく、罪人に鉄鎖を付けるのを必ず見に行った。そして、若干の例外を除き、もう私を罵らなくなった。囚人たちは私を見るのに慣れ、私が行かないと、なにかが欠けているみたいらしく、事実、ほとんど皆の者が私に伝言を持っていた。かれらが国家権力のもとで亡ぶとき、いわば私は、かれらの遺言執行人であった。いっぽう、ごくわずかな連中の怨みは消えていなかったが、盗賊の怨みは長続きしないものだ。私が盗っ人たちと渡りあった十八年間には、大なり小なり、向こうみずで鳴らした囚人に何度も脅されたものだ。娑婆に出たら、すぐに貴様を殺してやると誓うが、みんな誓いに背き、今後もそうであろう。なぜだか知りたい?
まず第一に、泥棒稼業はただ一つ、盗むことで、他のことはそっちのけで盗みに専念する。もし私の他に盗む相手がいないなら、財布を奪《と》るために私を殺す。それが仕事だからだ。彼を破滅さす私という証人を消すために私を殺す。それも彼の仕事だ。罰をのがれるために私を殺す。しかし、罰を受けてしまえば、殺したって何の役に立つ? 盗賊は、時をムダにしてまで殺しはやらない。
健胃の効用
中央市場あたりの悪所で月の半分をすごしていたある夜、誰か盗っ人どもに会えないものかと戻ってきたときのことだった。盗っ人というものは、善良な気持になってくると、スリッパの裏でぴしゃりとやられた心境になり、昔のこと、今のこと、これからのことで、みすみす欺されてしまうものだ。私は、わが胃袋に迷惑をかけて、安ブランデーとして支払わされる、あの甘口の酒を小コップでムダ呑みをかさね、かなり不機嫌だった。と、そのとき、クーチュール・サンジェルヴェ街の角のすぐ近くで、門のくぼみに身をひそめている数人の男に気付いた。街燈の明りで、大きな包みを小さく分けようと懸命になっているのがすぐさま眼についた。無遠慮な白い包みなので、いやでも視線が引きつけられた。こんな時刻に包みを持って、一滴の雨も落ちていないのに門のくぼみに引っこんでいる連中。かれらが何者かを見分けるのには、強い洞察力などはいらなかった。そういう状況は、事の疑わしさをはっきりさせる。男たちは泥棒で、やつらが関わっていたのは盗品の包みだと結論した。
――よし、と私は思った。なにもしないでいよう。歩きだしたら列をつけてやろう。もし警備隊の前を通ったら、やつらはパアだ。そうでない場合は、連中のヤサまでくっついて行き、家の番号をしらべて警察へ送ってやる。
そこで、うしろにいる者など気にしないで足を速めた。十歩も歩ったかどうか、私を呼ぶやつがいた。
「ジャン・ルイ」
盗っ人の溜り場で何度も会ったことのあるリシュロという名の男だった。私は立ち停まる。
「やァ、今晩は、リシュロ。いったい、こんな時間に、こんなとこで何してるんだい? ひとりかい? びっくりしてるみたいだな」
「つまらんことがあってな、寺通りでパクられそこなったばかりだ」
「パクられる、また、どうして?」
「どうしてだって? ほら、前のほう、仲間とゴミ箱(包み)が見えるだろう?」
「もっと語ってくれないか。もしガメナシを付けられてるなら(もし盗品を引き受けているなら)……」
私は近づく。ふいに全員が身体を起こす。かれらが立ち上がったとたんに、ラピエール、コムリ、ルノワール、ジュビュイッソンだとわかる。四人とも逸早く好意をもって迎え、私に友情の手をのばす。
コムリ「やァ、やっとズラかったんだ。おれ、まだ、早鐘を打ってフウフウだ(心臓)。手をあててみな、どきどきしてるのがわかる?」
私「なんともないよ」
ラピエール「ああ、おれたち、とってもヤバイ(恐怖)目に遭ったんだ。背中に緑野郎《ヴェール》〔帽子、服、ズボンなどが緑色の兵?〕どもの手がとどきそうになってよ、やっとクラブ札が三十一になって逃げきったってわけだ」
ジュビュイッソン「回り道の市場の上《かみ》手で、グレーヴ広場の燕《つばめ》ども〔巡査のこと〕の馬の鼻面と鼻がぶつかり、すんでのことに蹴っとばされるとこだった」
私「なんて抜作《ぬけさく》(バカ)なんだ。お土産ごっそりの車をあつらえなくちゃ(包みを載せる辻馬車を停めておかねば)。おめェら、ただのドジドロ(間抜け泥棒)だ」
リシュロ「ドジドロと思えば思えよ。だが、こちとら、車がねェんで、あそこからズラからにゃならなかったんだ。だもんで、狭い路に入りこんだ」
私「で、これからどこへ行く? おれに、なんか手伝えること……」
リシュロ「ブツを置きに行くサンセバスチャン街まで見張りをしながら来てくれるなら、取り分(分け前)があるぜ」
私「合点だ、ポン友」
リシュロ「いいか、先に行ってくれ。カタギかカチカチを見たらマッチをすってくれ(町人か夜警を見たら)」
リシュロと仲間が包みを持ったので、すぐに私は先に立った。道中は邪魔もなく無事に目ざす家の戸口に着いた。みんな、それぞれ靴下を脱いで、階上へ上がる足音を忍ばせた。さて、三階の踊り場へ上がると、一同を待っていた者がいた。一つの戸が音もなく開き、暗い灯の広い部屋に入る。その部屋の借主は私が知っていた男で、これまでに司直に捕まったことのある鳶《とび》職人だった。見知らぬ私がいるのが不安そうで、ベッドの下に包みを隠すのを手伝いながら、低い声で訊いていた。返事は、はっきりと大きく、話の中身がよくわかった。
リシュロ「こいつはジャン・ルイだ。いいやつなんだ。心配無用、フランス野郎だ」
借主「上等だ。今日びはオトボケや板前《ほうちょう》〔刑事と密偵〕が、うようよいるが、そんな心配はまったくねェってわけか」
ラピエール「安心、安心、おれも答えてやろう。ダチ公でフランス人だ」
借主「そういうわけなら信用するぜ。あの上で一杯やろう。(踏台のような物に上がって古戸棚の棚に腕を差し入れ、酒がいっぱい入った膀胱袋を取りだす)。ほら小便袋だ。火刑(火酒)とくらァ。ぜんぜん汚ねェぞ。こいつァ、おいらが忍《のび》して(侵入)ガメたもんだ。さァ、ジャン・ルイ、おめェが毒味だ」
私「喜んで(緑色の腰高コップに注いで飲む)。こいつァ凄えや。いける。回し飲みするといいや。さ、お前さん、ラピエール、のどをうるおしな」
コップと膀胱袋が手から手に渡り、みんな十分に飲んで、翌日までベッドで雑魚寝《ざこね》。明け方、煙突屋の呼び声が通りで聞こえる(パリでは、煙突掃除人《サヴォヤール》が人気のない朝の町で雄鶏がわりをする)。
リシュロ(隣りの男をゆさぶって)「おい、ラピエール、ズヤ(故買女)のところへ行こうよ」
ラピエール「眠らせてくれ」
リシュロ「な、起きろってば」
ラピエール「独りで行くか、ルノワールを連れてけよ」
リシュロ「お前が来いよ。前にバラした(売った)ことがあるし、たしかだもん……」
ラピエール「そっとしといてくれよ……眠いんだ」
私「やれやれ、ものぐさだなァ。おれが行こう、おれが。場所さえ教えてくれたら」
リシュロ「そいつァ結構だが、ジャン・ルイ、お前さん、けいず買いの女に顔がねェし、あの女、おれたちとしかバイ(故買する)しねェんだ。だが、そうしてくれるんなら一緒に行こうや」
私「いいとも、おれたち二人なら、おれがインチキ野郎たァ思うめェ」
私たちは出かけた。故買女は、ブルターニュ街十四番地の、たぶん家主らしい豚肉商の家に住んでいた。リシュロが店に入り、マダム・ブラは在宅かと尋ねた。はい、と誰かが答えたので、小路に入りこんで三階まで階段をのぼった。マダム・ブラは在宅していたが、その名誉にかけて、断じて昼間は会いたくないという。リシュロが、
「いま、品物を受けとることができんのなら、せめて内金をくだせェな。な、いい取引ですぜ。おれたちが嘘つかねェことがわかりますよ」
「そのとおりかも。でもね、あんたの上等な眼付きに巻きこまれたくないのさ。今晩、またおいで。夜になると、どの猫も灰色に見えるもんよ」
リシュロは、あれこれ巧いことを言っていくらか引きだそうとしたが、相手は頑として動かず、私たちは手ぶらで退きさがった。彼は、女に聞こえよがしに悪態をつき呪った。
「まァまァ、これで、万事がパアになったと思うのかい? なんで、めそめそする? 棄てる神あれば、だ。あの女がイヤだというなら、ほかにウンというのがいる。おれの故買女のところへ一緒に行こう。四個や五個玉(五フランの銭)なら貸してくれること請合いだ」
われわれは、私の住居があったヌーヴ・サンフランソワ街へ向かった。アネットに聞こえるように口笛をピッと吹くと、女が急いで降りてきて、旧寺院街の角のところで落ち合った。
「こんにちは、マダム」
「こんにちは、ジャン・ルイ」
「ね、いい子だから二十フラン貸してくれないか。今晩かえす」
「いいわ、今晩よ。でも、稼いだらクルチィユの溜り場へ行っちゃうんじゃない」
「行かない。きちっと間違いなし」
「ほんとかな? あんたを断ろうとは思わないから、あたしとおいでよ。そのあいだ、お友だちは、イカサマ街の角の酒場で待つといいわ」
アネットと二人きりになると、あれこれ指示をあたえ、ちゃんと得心したのを確かめてからリシュロに会いに酒場へ行き、二十フラン見せて、
「ほら、これが情婦《ばした》、お手伝いさんというもんだ」
「なーるほど、あの女に包みを売《ばい》することに定めた」
「ところがだ、あいつが欲しがるのは何だと思う? シロテラとマンジュウ、それにイシコロしか買《ばい》しねェんだ(銀器、時討、宝石しか買わない)」
「そいつァ厄介だ。せっかく上等のオマ……おれも、あんなスケが欲しいところだが」
半リットルほど呑んでから盗っ人宿へ戻って行ったが、いちばん大きなノルマンディ鵞鳥と、リヨン風にあしらった料理を持って帰った。と同時に、みんなに見せて金を出すと、頭株が、補給のときとばかりに、酒十二リットルとパン四斤を買いにやらせた。一同は、いかにも腹が減っていたので、これらの食物が、あっという間に見えなくなった。膀胱袋、火酒の小便袋は最後の一滴までしぼられた。さて、みんな元気が回復すると、そろそろ包みを開けようやと話し合った。包みの中身は、高級リンネル、ラシャ、極上の下着、立派なマリヌ糸レースの刺繍が付いた婦人上衣、ネクタイ、靴下などであった。泥棒どもが私に語ったところによると、これらの獲物は、エシケ街の某豪邸にあったもので、十字ヤットコで鉄柵をこわして侵入したという。
品物の点検がすんだところで、私は、そっくり全部を同じ場所に売らないで、いくつかに分けて売ったらどうかという案をだした。全部でなく半々にすると、一回売りより二回売りのほうが合計の値が高くなることを仄めかした。仲間たちは私の意見に同意して、獲物を二つに分けた。こんどは売り場所を決めるのが問題になった。一組は売るところが決まっていたが、残りの組の買い手をみつけねばならなかった。私は、ジュイヴリ街にいる赤リンゴ堂という衣類屋を一同に教えた。この男は、前々から私に、誰からでも買いますよと言っていた。彼を試す機会がきたわけで、これを逃がしたくなかった。もし彼が負けに回れば、故買屋の現場で二人を逮捕して一石三鳥ができ、私の計画の結果がめでたしとなるからであった。
けっきょく、私がいう男に売りこむことに決まったが、夜になる前はやる気がなく、そのときまで死ぬほど退屈してしまう。何をしゃべる? ごく普通の並の泥棒は、他人と十五分以上いっしょに同席できる精神的な土台がない。何をする? 盗っ人というものは、稼いでいないときは何もしない。稼いでいるときは、もちろん他のことは何もしない。だが、時間をつぶさねばならない。まだ眼の前になにがしかの金があったので、満場一致、酒だということになり、またぞろ酒神バッカスを祝うことになった。メルキュール神〔ローマ神話の商業、盗み、賭博、競技の保護神〕の子たちは、ぐいぐい、がぶがぶと呑む。だが、いつまでも呑みつづけられない。もし、呑ン兵衛の五体がダナード〔ギリシア神話、篩《ふるい》で水を汲む罰を受けたダナオス王の五十人の娘〕たちの樽のように一端が開いて他端が底抜けなら、いくら飲んでも飲み足るまい。ところが、残念なことに人間それぞれの量というものがあり、膀胱と脳天のあいだの川口が大へん狭いと、流れが水源に逆流するので、言うまでもなく、皆さん、もし氾濫を避けたいなら一休みしなくてはならない。盗っ人たちは、この休憩をやった。かれらは、脳天|壊了《ファイラ》にならないように行動を取り締る支配神経を覆っている骨太の円屋根の下に、すでに厚い霧がもくもくと湧きだしているのを感じ、ちょっぴり脳の動きをにぶらさねばと考え、無意識のうちに口を漏斗《じょうご》にするのをやめて、もっぱら喋ることだけに開けることにした。何が、かれらを持ちこたえさせて時間をつぶしたか? かれらの会話は、ともすれば打ち明けるのを大いに渋りがちだったが、別荘にいる仲間やハンショ調べ(裁判中)の連中の話になっていった。またイヌ(密偵)のことも語った。
新作狂言『ヴィドックの末路』
トビ職人が切りだした。
「イヌと言えば、悪名たかい凸助《でこすけ》のことォ聞いたこたァねェかい。板前(密偵)になってるヴィドックというやつだ。お前さん知ってるか? ほかのもんは?」
一同(私も和して)「それ、それ、誰でも知ってる名だ」
ジュビュイッソン「みんなが、よく話してるやつだ。なんでも、懲役二十四年を食らってて、別荘(牢屋)から出てきたばかりだそうだ」
鳶の者「知っちゃいねェな、天保銭(ばか者)。このヴィドックって野郎は盗っ人で、牢抜けにかけちゃ古狸(老獪)より狡る賢いやつで、お上の手伝いをする約束で牢を出た。だもんで、パリにいるんだ。誰か泥棒を御用にしようと思うと、なんとしても友だちになり、なったところで盗品を相手のポッケに入れてから、こう言うんだ。〈ヤマの品、どっから持ってきた? 現行犯だ〉。バユイやジャケやマルチノをぶちこんだなァこの野郎よ。ええ、ちくしょうめ、ほんとだ、やつなんだ。この話、おどろいたろう」
一同(やはり私も和して)「へェー、おどろき桃の木だ」
鳶の者「やっこさんと同業の別の泥棒、ほら、場末のリブーレ、マノンの情夫《いろ》の、あいつと一緒に呑んでいて」
一同「ブロンド・マノンか?」
鳶の者「そう、当たりだ。四方山《よもやま》の話をしていて、こうヴィドックが言う。〈ひとヤマふんだばかりだが、仕事仲間を探してるんだ〉。てな調子でワナにはまる(だまされる)他の連中をあつめる。うまく連中をまるめこんで仕事に誘い、グラン何とか街に案内し、へマをやったと見せかけて、ドジったところをサツ(警察)がばっさり。つまりブツを持ちだしたとたんに御用になる。どさくさまぎれに悪党はズラかる(友だちと助かる)という寸法だ。ほら、こうやって人のいい連中をパクるんだ。自分が先頭に立っていた強盗たちをバラした(処刑)なァあの野郎だぜ」
語り手が中断するたびに、一同ぐっと一杯やって元気をつけた。こうした中休みをとらえてラピエールが話を取る。
「うんざりの話ばかりかよ? うちのワン公みてェに吠えてやがる(この連中の言葉では、『うんざりする』と『犬ころ』は同義語で使われるが、用例を挙げるのはひかえる)。そんなにペラペラしゃべりてェか? おれたちが面白がってるとでも思っとるんか? 面白がりてェけどな」
鳶の者「じゃ、どうしてェというんだ? トランプ(カルタ)があるなら、イカサマ遊びができるぜ(カード遊びができる)」
ラピエール「ああ、おれがやりてェなァ狂言(喜劇)だ」
鳶の者「では、タリマ丈(タルマ)さま」〔フランソワ・タルマ(一七六三〜一八二六)のこと。悲劇の名優〕
ラピエール「おれ独りでできるかな?」
リシュロ「手伝うよ。だが、どんな演《だ》し物だ?」
ジュビュイッソン「セザール〔カエサル、日本の俗称シーザー〕劇だ。あの、その、やつが言うのを知っとるだろう。最初に王になった者は運がよかった兵士だ、とな」
ラピエール「それだけじゃだめだ。ヨセフみたいに兄弟を売ったあとの『ヴィドック撲滅』劇をやらなくちゃ」〔じっさいはヨセフが兄弟に売られる旧約聖書、創世記の話〕
私は、この奇妙な気まぐれ遊びを深くは考えなかったが、どぎまぎしないで、ふいに大きな声で、
「おれがヴィドックを演《や》ろう。やつは肥ってるというから、おれが似てるだろうよ(似合いだ)」
ルノワールが、
「お前さんは肥ってるが、やつは、もっとデカデブのはずだぜ」
「どっちだっていいや。まァ、ジャン・ルイでも悪かねェさ。かなりの目方だぜ」
と、ラピエールが意見をだすと、
「さァさァ、四分の一ポンドばっかりのパンにゃ、たんとはバターはいらねェよ」、と、話を取ったリシュロが部屋の隅にテーブルを動かしながら、「おい、ジャン・ルイ、それからお前、ラピエール、あそこに立つんだ。ルノワール、ジュビュイッソンにエチエンヌ、自称トビのお兄さんよ、片方の端に陣取るんだ。おめェらは友だち仲間って趣向だ。おれは床《ベッド》のほうを向いて一般のお客さん」
「それが、なんで一般のお客なんだ?」
エチエンヌが言葉尻をつかまえる。
「えーい、そういうことにするんだ! わかったか、世間一般の人だ。まじめにやれ、トビ野郎」
「おれは見物人になる」
「だめだ、この野郎。見物人は、おれ様だ。おめェはダチ公、自分の場所へ行けよ。さァ、見世物がはじまるぞ」
一同は、クルチィユの酒場にいるという思い入れで、めいめい勝手にしゃべっている。私が立ち上がり、タバコをくれないかという仕草よろしく、別のテーブルの仲間に繋ぎをつけ、二、三の符牒で声をかける。みんなは、(私が隠語《ちょうふ》をこなすので)私をソレ者と認め、意味深のほほえみを送り、私も同じく笑みを返し、同じ稼業の者であることは疑う余地がなくなってくる。さァそれからは月並の丁寧な態度になり、どうしても、まァ一杯ということになる。私は浮世の無情をなげき、ヤマがふめない不平をこぼす。みんなも不平をこぼし、こぼしあう。一同、感動と同情の気分にひたる。私がサツ(警察)を呪うと、みんなも呪う。私を目の仇にする(好かない)地区の警察官(警視)をののしると、連中は、たがいに顔を見合わせ、眼くばせをし、私を仲間にしてよいか、それとも差障りがあるかを相談する……誰かが私の手をとって握手する。私が握りかえす。私が信用できることが決まり、さて次に肝心な場面になる……私が演ずる役は、少々の演技ちがいは別として、たえず身体を動かしていて……ややワザとらしく仲間のポケットに盗品を入れる……とたんにわっはっはという大きな笑い声と共に一斉に拍手喝采が起こる……おみごと、おみごと。この場景の役者と観客が同時に叫ぶ。リシュロが、
「いや、おみごと、文句なし。だが、ブルゴーニュさん(太陽)が沈まれてバイする頃合いのようだ。ブツはクルマ(馬車)で運んで売るのが得策というもんだ。これから一丁さがしてくる。こいつァ、ジャン・ルイの考えだが、ほかの者はどうだ?」
「けっこう、けっこう。出かけようや」
芝居は順調にすすんで大詰めに近づいた。つまり、大団円は、狂言の外題どおりになってはいけなかったからだ。一同そろって馬車に乗り、ブルターニュ街とツーレェヌ街の角に停まるように御者に言いつけた。ブラという故買屋の女は眼と鼻の先に住んでいた。ジュビュイッソンとコムリとルノワールが、売ると決めた品物の一部を持って車から降りた。
かれらが商談を取りきめているあいだ、門衛所のほうへ頭をまわしてみると、アネットが私の考えを抜かりなくやってくれているのがわかった。見知りごしの刑事たちが、ある者は番地をさがすフリをして鼻を空に向けて張りこみ、他の者は、所在なげに点々と長く並んで散歩をし、配置された区域をきちっとうろついていた。
十分のちに、マダム・ブラのところへ行った相棒たちと合流した。百二十五フランせしめて戻ってきたが、すくなくともその六倍の値打がある品物だった。構うもんか、元はとったんだ。そうなったことに誰も不服はなく、早いとこ楽しみたいばかりだった。
赤リンゴ堂向けに取りのけておいた包みが残っていた。ジュイヴリ街に近づくと、リシュロが、
「ああ、そうだ。けいず買いを知ってるお前さんがバイしに行く番だ」
「そんな計画はなかったぜ。おれァ、やつに金を借りてる。こんがらがった話になる」
赤リンゴ堂に借りなどなかったが、おたがい顔見知りで、彼は、私がヴィドックなのをよく知っている関係上、私が顔を見せるのはマズかった。そこで、事の処理は連中にまかせ、連中が戻ってきたらアネットが隣りの店から出てきて、警察が動きだす確認を知らせ、私は馬車を帰らし、プランシュ・ミブレ街の角のプルチエ河岸ぞいのグラン・カジェエル亭で晩飯を食べる手筈になっていた。
泥棒を逃がす
赤リンゴ堂を訪ねたあと、一同は八十フラン以上の金持になっていた。この、みんなの自由になる金額は、短くなるのを心配せずに心おきなく裁断できる十分に広い布といったものだった。だが、そいつをのんびりと費う暇はなかった。一杯やったとたんに門番の女がやって来たが、女のうしろに刑事たちの一行がつづき、いやでもベテラン刑事や密偵たちの顔が並んでいるのを見ないわけにいかなかった。ついで、大声一番、
「御用だ」
チボー警部が身分証明書の提示を求める。持っていないやつもいたし、持っていたやつのはニセの証明書。
私のは後の部類に入る。警部が命令する。
「さァ、コン畜生どもをしっかり捕まえとくんだ。こりゃ濡れ手に粟《あわ》だわい」
二人ずつ繋がって署へ連行される。ラピエールは私と組になっていた。
「足は早いか?」
小声で言うと、
「うん」
タンリ街の高みに来たとき、袖に隠していたナイフを引きだして綱を切った。
「がんばれ、ラピエール、がんばれ」
大声で叫び、胸を一突き、私をかかえこんでいたベテランのデカをひっくりかえす。たぶん、彼は、おもちゃの熊の餌食になるような間抜けだったかも知れないが、であろうとなかろうと、危機一髪ずらかって、大股で駈けてセーヌ川に通じる路地まで逃げた。ラピエールが私のあとを追い、オルム河岸に一緒にたどり着いた。
追手は私たちの足どりを見失い、私は、正体を確認してもらわずに助かってホッとした。ラピエールは、私以上に安心な気分になり、まだ前後を考えるひまなどはなく、私の下心を疑うどころではなかった。私が彼の逃亡を助けたのは、さらに別の盗賊グループに彼の顔で紹介されたい希望があったからだ。いっしょに逃げながら、彼の仲間と彼自身が、私の本当の目的に気付かないで好感をもち続けるように疑いを遠ざけ、そんなふうにして新しいものを見付けて関わっていきたいと念じた。なぜなら、私は密偵であり、ほんの少しの可能性にも心がけるのが義務であったからだ。
ラピエールは、いちおう自由になったが、私は眼のとどくところで見守っていて、もう用がなくなったらいつでも司直に引き渡すつもりでいた。
二人は、ずうっと走りつづけて施療院河岸まで行って立ち止まり、一息いれて休もうと一軒の酒場に入った。気持を落ちつかせるために小瓶一本を注文し、ラピエールに、
「おい、ほら、汗かき薬だ」
「ああ、まさに。そいつァ口当たりが強いぜ」
「消化にゃいいんじゃない?」
「心の憂《うさ》は取れねェ……」
「何のこった?」
「まァ飲もう」
ラピエールは、盃を干さないで、だんだん考えこんでしまった。
「いや、だめだ、おれの考えは取れねェ」
「そうかい、じゃ、何だか言ってみな」
「おれが話すときは……」
「言いたくねェんなら、それでいいよ。なァ、靴下を脱いで頸《くび》のネクタイを取ったほうがいいんじゃないか」
ラピエールは、かの有名な羊足の作家〔誰であるか不明〕が、パレロワイヤルの庭園に降り立つための服装と大体おなじような恰好をしていた。情婦にあたえるためのレース編みの靴下と白サテンの短靴という履物。私は、相棒の眼に黒い疑惑の影を読みとり、それが急に大きくなっていくような気がしたので、相手が用心していないかどうか、その暗い考えをたしかめるのに効果がある人目につく点を何気なく注意してやったのだった。それが私の狙いで、ためにならない物、獲物の点検のあいだに仲間と彼が逸早くガメて身につけた品物を外したらどうかと言ってやったのだった。ラピエールが、
「で、どうしろって……言うんだ?」
「川へ捨てるんだ」
「ばか言っちゃいけねェ。まっさらな絹の靴下と、まだ縁も折ってねェマドラス織のネクタイだ」
「つまらん物だ」
「冗談じゃねェ(笑わす気か)、この野郎、おめェのもんを投げこめよ」
私がヤバイ物は何も持っていないことが彼にわかったところで、さらに、こう言ってやった。
「野兎みてェに忘れっぽいやつだな。走りながら記憶をなくしちまったのかよ。いいか、おれはネクタイなんかガメなかった。それに、この大きさのふくらはぎで(とズボンをたくし上げ)、女の靴下がはけると思うかい? 女郎買いに持って行くお前には似合いだな」
「おなじ調子に合わせろ、そう言いてェのかい?」(と言うと靴下を脱ぎ、くるくる巻いてマドラス織のなかに包んだ)
泥棒というものはケチで、同時に金づかいが荒い。彼は、証拠の品をなくする必要がわかったようだったが、なんの得もしないで手放すことに血が騒いだ。盗んで物を手に入れるのは、しばしばたいへん高くつき、そのための犠牲的な行為は骨が折れる仕事である。
ラピエールは、靴下とネクタイを売りたいと力説した。私たちは一緒にビューセリ街に行き、ある商人に品物を渡すと四十五スウくれた。こうして、ラピエールは、けっきょく、その臨時の大儲けを独り占めにしたいらしかったが、そうするのを気兼ねしたのは、私の努力で私を信用する気持が戻ったせいかも知れなかった。だが、私は、彼の内心をよぎるものを察して、ますます疑いを深めた。その判断は、私の計画にはなかったものだったが、果たせるかな、彼は、できるだけ早く私とのつながりをケリにしたい気配を見せたので、いつまでも待ってはいられないと思い、
「よかったらモベール広場で晩飯をやりに行かないか」
「ぜひ、そうしたいな」
『二兄弟亭』へ伴って、酒と牛カツとチーズを注文した。十一時になったがテーブルでねばった。みんなが引きあげ、四フラン五十サンチームの勘定書を持ってきた。すぐに私は自分のからだをさぐった。
「五フラン玉、五フラン玉、どこへいった?」
ポケット全部をあさり、頭から足の先まで探った。
「くそっ、走ってるうちになくしたんだ。探してくれ、ラピエール、お前さん持っていないか?」
「んや、四十五スウしかねェ……一フランも」
「払やァいいんだ。娘っ子の親と話をつけてみるよ」
私は、そこの亭主に二フラン五十サンチームを払い、残りは明日もってくると約束したが、聞く耳もたぬという。
「そりゃないでしょう。この場で、たらふく食べて、さて金が足りないときた」
「つれないこと言わんでさ。約束は守る。まじめ人間にだって起きることなんだ」
「言うこたァそれだけですかい。金が足りないときは、食わずにすますか、一杯だけやるかして、借りてまで(信用貸し)たらふく晩飯はやらんもんですぜ」
「怒んなよ、大将。早いとこちゃんとするからさ」
「いいから、つべこべ言わねェで払って下せェ。さもないと警備兵を呼びにやらせますぞ」
「警備兵だと、ほォ、夜警と貴様の点数かせぎか」
世間一般に通用している、ひどく人を馬鹿にした剣幕で毒づいてやった。
「エーイ、この乞食野郎、わしんとこの物をタダで盗むだけじゃ足りねェんだな」
私の鼻の下に拳骨を突きつけて叫んだので、私は叱りつけるように怒鳴った。
「なぐるな、なぐるな、でないと……」
亭主が前進する。こちらから逆に、ぱしっと、みごとな平手打ちを見舞ってやった。
いよいよ殴り合いになった。こいつは喧嘩になるわいと見てとったラピエールが、足払いの時だと判断して足がらみをかけたとき、給仕男が彼の首をつかんで叫んだ。
「どろぼう」
屯所は、すぐ近くにあった。兵士たちが駈けつけ、私たち二人は二列に並んだモブージュ〔フランスの北端、ノール県アヴェン郡にある町。ローソクの産地だったらしい〕のローソクのあいだに引きすえられ、芯の焦げる臭いは硝煙の臭いがした。わが友は、自分の咎《とが》でないことを伍長にわからせようと努めたが、その古参兵は得心せず、二人ともブタ箱にぶちこまれた。そのときから、ラピエールは黙りこんでしまい、トラピスト修道院の神父のように悲しげに無口になり、かたく口をつぐんでしまった。ついに、朝の二時ごろ、警視が巡回にやって来て、逮捕者を連れてこいと命じた。最初にラピエールが引き出され、勘定を払えば釈放すると告げられた。
一味の壊滅
私が呼ばれる番になった。部屋に入ると、ルゴワ警視がいた。彼は私を見知っていたので、手短かにいきさつを説明し、靴下とネクタイを売った場所を教えた。警視がラピエールを有罪にする動かぬ証拠の品を急いで取りに行かせているあいだに、私はラピエールのところに戻った。彼は、今はもう、だんまりではなかった。
「組は亡んだ。見てのとおりだ。自業自得というもんだ」
「いいってことよ、お前さんは自分の役をこなしただけさ。たが、もっと有体《ありてい》に言ってやろうか、そうとも、自業自得なんだ。おれから、そいつを言ってもれェてェなら、おれたちをパクらせたなァお前さんだと思うよ」
「いや、違う、おれじゃねェ。とんでもねェ。こうなったなァ、おめェだと疑ってるんだ」
私は怒った。彼は、もっと怒った。いきおい、互いに罵りあい、殴りあい、引き分けられた。それっきり二人は一緒にされなかったが、私は百スウ残っていたのを見付けだした。酒場の亭主が平手打ちを勘定に入れなかったので、その百スウを追加して払ったところ、亭主の要求額を満たしただけでなく、警備兵の諸君にほんの一滴、別れの盃とまではいかないが、地方人として喜んで差し上げることができた。この御礼がすんで、私は留置されるいわれがなくなった。拘留を更新されたラピエールにはさようならを言わずに立ち去ったが、翌日、首尾は上々、万事が私の筋書どおりに運んだことを知った。ブラ小母さんと赤リンゴ堂の二組の夫婦は、かれらが関わった汚い取引の証拠の品々のなかでびっくり仰天。盗っ人たちが、現場で自分のものにして使った品物も押さえられ、泥を吐かざるを得なかった……
ラピエールだけは否認の道をとろうとしたが、けっきょくビューセリ街の商人と対決させられ、人物と靴下とネクタイで告訴を認めた。一味の者みんな、盗賊や故買人たちはラ・フォルス監獄に収容されて裁判を待つことになった。
監獄で、かれらは早くも『ヴィドックの末路』劇の人物を演じた仲間が当の仕掛人ヴィドックであったのを知って腰を抜かすほどびっくらこいた。私のようなコメディアンに、まんまと自分たちからワナにかかりたがったとは、と歯ぎしりした。逮捕が追認され、全員が徒刑場に送られることになった。かれらが送致される前日、運命の首輪をはめられるときに立会った。私を見ると、みんな、うすら笑いを浮かべ、ラピエールが、
「てめェの仕業を、とっくりと考えろ。これで満足か、くそったれ野郎」
「とやかく言われる覚えは、これっぽっちもねェや。盗みをすすめたなァ俺じゃねェ、お前らだ。おれを仲間に寄せたんじゃなかったかな? うぬぼれるんじゃねェ。お前らのような仕事をするときァ、もちっと用心してかからなくっちゃ」
コムリが、
「やっぱり、こいつが。よくもバラした(密告した)な。いずれ、おめェも虫に咬まれるさ(徒刑場に戻る)」
「そのうちな、あばよ、おれのことをよく覚えといて、パンタン(パリのこと)〔パリ郊外の町〕に戻るこたァあるめェが、もうワナにかからんようにな」
こう言い返してやると、かれらだけでガヤガヤ言いはじめた。リシュロが、
「もし、まだ、おれたちをコケにするようだったら、いいか、おれのスケの亭主に可愛がってもらってやっからな」
トビのお兄さんが抗弁した。
「おめェのせいだ。ごちゃごちゃ言うない。やつを連れてきたなァおめェだ。やつのこと知ってたんならタメにならねェ(裏切りかねない)やつだとわかってたはずだ」
「そうとも、リシュロが請けあったんだ。ハンマーで一発、あいつのド頭《たま》をカチ割りてェや」
と赤リンゴ堂が溜息をつく。
「動くんじゃない」
首輪を付けていた役所の金具屋が怒鳴る。
故買屋の赤リンゴ堂が言葉をつづけ、
「あいつは、いつも、ひょうたんを売りに来やがったっけ。あの野郎がイヌだと……」
「ヤイ、気いつけろ。雁首《がんくび》を用心しろ」
こうしたやりとりが、私が聞いた最後のものだったが、遠ざかるにつれ、かれらの身ぶりから、話が次第に勢いづいていくのが見えた。何を話しあっていたのだろうか? さっぱりわからない。
ペテン師たれこむ
一八一二年の夏、オトというプロの泥棒が、サンクルー〔パリ郊外の町〕の祭礼のときに手伝いたいと言ってきた。私が警察に入る前に勤めていた男で、以前から密偵の仕事に戻りたいと熱心に希望していた。この祭は、ご存知のようにパリ近郊でたいへん賑わう祭の一つで、かならずや大勢のスリがどっと流れこんでくるにきまっていた。金曜日、オトが私の部下に連れられて私の家へ来た。彼の、このやり方は私にとってはまったく意外で、以前、私は彼の報告によって重罪裁判所に呼びだされたことがあった。おそらく、なにか私に悪い役まわりをさせようと近づいたのではあるまいか。
これが私の最初の考えだったが、彼を快く迎え、お前さんは役に立つ男だと思っているんだが、そいつを信じてくれているのは有難いと述べ、はっきりと好意ある言葉で厚情をあらわし、彼の希望を通さないわけにはいくまいと言ってやった。すると、ふいに彼の顔色が変わったので、とっさに彼の申し出を受ける気になった。信頼したくなかった彼の計画も好意的に受けたが、内心では私をダシにすることができたのを喜んでいると見てとった。ともあれ、私は心底から信頼しているフリをし、翌々日の日曜日の午後二時に中央泉水のあたりに陣取って、そのあたりに稼ぎにくる、と彼は言った。見知っている泥棒たちを教えてくれることに話が決まった。
約束の日、そのころ私の指揮下にあった二人の部下とサンクルーへ出かけた。指定の場所に着くと、オトを探して、あちこちぶらついた。すみずみまで探したが、オトはいない。とうとう一時間半も待って痺《しび》れを切らし、部下の一人を大通りへやり、人混みの中を探して助っ人のオトを見付けてくれと言いつけた。やはり、その出鱈目《でたらめ》さ加減からして、彼の熱心な申し出は疑わしかった。
部下はたっぷり一時間さがした。庭や公園など、あらゆる方角を歩きまわって疲れはてて戻ってきて、オトには出会わなかったと告げた。その直後だった、オトが走ってくるのが見えた。汗びっしょりだ。
「あのな、掏摸《あい》ちゃん六匹を釣ったんだが、みんなお前さんを知ってるやつだったんでトンズラしちまった。あいつら、ひと稼ぎしたかと思うと口惜しいけど、今後のことがなくなったわけじゃない。またのとき釣りだすからな」
私は、この話を現金《なま》の本物だとする態度をとった。すると、オトは、私がその真実性に疑いをさしはさんでいないものと信じこんだようだった。私どもは、その日の大半を一緒にすごし、晩になってから別れた。そのあとで憲兵詰所へ寄ってみたら、そこの警察官が、私どもが見張っていたオトが指示した場所の正に反対側でたくさんの時計がスラれたことを知らせてくれた。してみると、オトは、私たちを一点に引きつけておいて、別の場所で気楽に行動ができたことがわかった。警察を怖がらずに仕事ができるようにニセ情報を流して他へ牽制する策略に巻きこむ盗っ人たちの古い奸計《かんけい》である。
オトには、私が完全に引っかかったと思っていることを気どられずに、ほんの少しの咎めだてもしないようにした。なにも言わず、あのことは念頭にないとなれば、ますます友情が厚くなり、彼は、サンクルーのいたずらを繰り返すことを考えるだろう。彼を打ちのめすのは、その機会までとって置く。という次第で、好ましい関係がつづき、私が望んでいたより早々とその機会が先様からお出でなすった。
ある朝、ガフレと一緒に一夜をすごした場末のサンマルソーからの戻り途で、ひょいと気まぐれを起こして、わが友オトを訪ねてみることにした。われわれは、彼が住んでいたサンピエール・オーブフ街から遠くないところにいた。そこで、前の日からの相棒のガフレに一緒に来ないかと言うと、ついて行こうと承知した。オトのところへ行き、ドアを叩くと開けてくれたが、私たちを見て驚いたようだった。
「これは珍しい、こんな時間に」
「びっくりさせたな。一杯おごろうと思ってやって来たんだ」
ベッドから起きてドシンと腰をかけ、
「ともかく、ようこそお出《い》でた。で、その一杯とやらは?」
「ガフレが喜んで買いに行くさ」
私はポケットをさぐり、ガフレはユダヤ人根性から、お金銭《あし》ほど足にはケチでなく、喜んでお使いを引き受けて降りて行った。ガフレが出かけているあいだに気付いたのは、オトには、一般の習わしより朝寝をする者に見られる疲れた様子があった。おまけに、部屋は散らかしっぱなしで、異様な有様だった。整頓しないで投げだしてある服は夕立にでも会ったみたいで、靴は白っぽい泥だらけ、やはり濡れていた。その有様は、オトが、今しがた帰宅したばかりのようだ、とは決めかねたが、私ならそんなふうにはしない。さし当たって、それ以外には考えられなかったが、やがて私の心は臆測から臆測へと移りかわり、うまく自分の考えは言えなかったが、とにかく、ある疑いを抱いた。しかし、好奇的、つまり無遠慮にならないように心がけた。オトという友だちを心配させてはと何も訊かなかった。天気のことを語り合ったが、もう飲むものが底をついたので、われわれは引き退った。
いったん外へ出ると、とても我慢しきれないで、自分が気付いた色々な点のことをガフレに話した。
「おれが、ひどく間違っているか、それともオトが外泊したかだ。あわてて片付けたようだ」
「おれもそう思う。だって、まだ服は濡れていたし、靴は泥んこだった。埃の中を歩ったんじゃねェ」
オトは、こちらが問題にしているとは夢にも思っていなかったのだが、われわれの噂話でくしゃみをしていたはずだ。彼はどこへ行ったのか? なにをしたのか? 私たちはお互いに尋ねあった。おそらく、なにかの一味に加わっている。ガフレは、私よりも大いに好奇心にかられ、考えた揚句の仮定は、オトの潔白に好意的どころか、その反対だった。
いつものように、お午に前夜の監視報告に行った。われわれの報告は、およそ興味のないものだった。ピンからキリまで〈ナシ〉であった。アンリ警視が、
「やれやれ、サンマルソー界隈には、まじめ人間ばかりか。サンマルタン大通りへ行くように言えばよかった。鉛板泥棒〔当時はしばしば鉛板で屋根を葺《ふ》いた〕たちが、またぞろ仕事を始め、建築中の建物から四百五十リーヴル〔一リーヴルは半キログラム〕も掻っぱらった。夜警が追ったが追いつけず、四人組だったことを確かめただけだ。侵入したのは大雨の最中だった」
「大雨の最中ですって、警視は泥棒の一人をご存知です」
「誰だ?」
「オトです」
「警察の務めをした男で、また戻りたいと言ってるやつか?」
「そやつです、まさに」
私が、今朝がた眼にとめたことを部長に話すと、私の説を納得したので、すぐに活動を開始した。まだ推測でしかなかった証拠を本物にするためだった。そこで、盗みが行なわれた地区の署長と現場へ行ってみたところ、鉄具を打った靴の非常に深い二つの足跡を見付けた。消されていなかったその足跡は貴重な手掛りになった。オトの履物とぴったりなのはほぼ確実であった。そこで、ガフレも加えて一緒にオトの家へ行き、犯人になることは知らさずに確証をとることにした。これが私の方法であった。オトの住居に着くと、はげしくドアをたたいた。
「おい、起きろ、起きろよ、食べ物を持ってきたぞ」
彼が眼をさまして鍵をまわすと、私たちは酔っぱらいのように、よろけながら部屋に入る。
「おや、もう挨拶はすませたぜ。朝っぽらけから御入来だったじゃないか」
「そのことよ、ポン友。二の舞をやらかしに来たんだ。おめェは悪賢いやつだが、中に何があるか当ててみろや」
来る途中で買った買物包みを見せた。
「なんで俺に当てさせたいんだ?」
紙の隅を破って家禽《とり》の脚を見せる。
「ちえっ、七面鳥か」
「いかにも、おめェの兄弟分だ……見てのとおり焼き鳥の足だ。この意味がわかるか?」
「なにを言いてェんだ?」
「焼いてあると言ってるんだ」
「ばかばかしい。お前さん、なに冗談いってるんだ。焼いてないんなら、けだもんの肉じゃねェか」
「けだもんの肉だと。なら、自分で嗅いでみな」
彼に家禽《とり》を渡す。嗅いでみる。あちこち引っくりかえしているひまに、ガフレが身をかがめてオトの靴を拾い上げ、帽子の中に押しこむ。
「で、いくらした、この肉?」
「おっぱい一つおまけ、面《つら》が二つ、百姓が十人」
「三……四……、七リーヴル十スウ。靴一足の値段だ」
「おっしゃるとおり、お立ち会い」
手品師よろしく揉み手をしながら相手になる。
「値段のことは、どうってことはねェが、食い気をそそるな。めっぽういい匂いだ。うまそうだ……あん畜生め。いや、こっちのことだ」
「おれが知ってるやつじゃないのかい?」
「そうとも。だが、何で切る? おれは、なんにもしねェからな、おれは」
「わかったよ。おれたちがやってやるよ。この家に包丁ある?」
「ああ、たんすの引出しをさがしてみな」
ほんとに包丁があった。さて、こんどは、ガフレを外へ出す口実が問題である。
「あのな、ガフレ、食事をこさえてるあいだに頼まれてくれないか。おれんちへ行って、晩飯は待たんでいいって言ってくれないか」
「合点承知。おっと、まさか独りで腹の皮を破る気じゃ。だめだ、やめた、ゴチになる前は、この場を動かんぞ」
「飲まずに食いっこないよ」
「じゃ、お神酒を持って来させようか」
ガラス戸を開けて酒屋を呼んだ。といった成行で、オトをだますきっかけがない。
ガフレは、違反(裏切り)は別として、たいていの密偵と同じような男で、いいやつなのだが、ちょっぴり呑んべェで、人好きのする食いしん坊だった。いつも、彼は、仕事の前には自宅で食いだめをした。だから、せっかくオトの靴を拾いあげたのだが、彼が御馳走の分け前にあずからないかぎり、その場を放棄するのは不可能と見てとった。そこで、とにかく大急ぎで鳥を食べることにし、酒が着くと食いしん坊野郎に、
「さァできた、食らったら行けよ」
食卓はオトのベッドだった。その上で、指のほかにはフォークはなく、からだの中の神、つまり腹の神に、人民を代表してか、しないでか、古代人の作法でイケニエをささげた。食人鬼のように食べて、あっさり食事が終わった。すると、ガフレが、
「やれやれ、これで歩ける。あんたが俺と同じかどうかは知らんが、お天道さんが胃の中を照らしていないと何もできないんだ。腹いっぱいだと違ってくる」
「現在ただいまは、ムッシュがっつき?」
「やる気まんまん」
帽子をつかむと出て行った。
「ああ、行っちゃった。なァ、ジュールさん〔ヴィドックの変名〕、オトの仕事場はねェもんかね?」
ちょっとのあいだ私と二人きりになったオトが別に気を悪くした様子もなく言った。
「仕方ないじゃないか。辛抱するこった。今にあるさ」
「だけんど、お前さんに肩をたたかれただけじゃどうにもならねェ。アンリ警視に何とか言ってもらえたら……」
「今日すぐってわけにゃいかないんだ。慎重にさっと切りだす機《おり》を待っているんだ」
なにしろ、彼と関わりあってから二日だったので、オトは、それ以上は言いつのらなかった。
この嘘には、べつにコンタンはなかった。オトは、彼が噛んでいたと思われる盗みを知らせて私を信用させてはいけなかったのだ。彼は私を疑っていなかった。その安心の中に彼を置き、起き上がりたくなるかもしれないと心配しながら、もっと興味をもつことに話を戻した。彼は、つづけざまに色々なことを喋った。ほっと溜息をつきながら、
「ああ、もし、百二十か百五十フランの手当てで警察に戻れるのが確かなら、知らせる情報があるんだ……ちょっとした押しこみ強盗のことを今すぐでも知っているんだ。アンリ警視への本当のお土産になると思うがな」
「なるほど」
「そうなんだ。だから言っちまうが、泥棒三人、ビセートルでベルシエといわれていたやつ、それにカファンとリノワだ。こいつらの隠れ家も知っているんだ。おっと、お前さんと俺の二人だけの話だぜ」
「知っているんなら、なんで話さないんだ? そうすることが一か八かの賭になるからか?」
「わかってるんだ、だが……」
「おれに先を越されるのが心配なのかい? お上の役にたちたいんなら、心配無用、採用になるようにせいぜいやってみるよ」
「おお、さすが友だちだ、血のめぐりをよくしてくれるぜ。採用になるようにやってくれるかい?」
「うん、むずかしいことじゃない」
「そうと決まったら乾盃だ」
オトは、大喜びに我を忘れて叫んだ。
「よォし、やがての歓迎のために飲もう」
「明日といわず今日のために」
ユダさんの俗語
オトは夢中になって喜んだ。早くも手引きの思案をまとめて幸せの夢を追っていた。しかし、脛《すね》の傷が、バラ色の将来を見こんでいる希望に不安な痛みをあたえていたはずである。私は、彼がベッドから降りて来やしないかとヒヤヒヤしていた。やっと、誰かが戸をたたいた。ガフレだった。アネットが渡したブランデーの小瓶を手にし、
「トレフ〔脱走者、うまく抜けだしたの意〕」
入って来ながら、イスラエル人の相棒がヘブライ俗語で言った。ユダヤ御大のお気に入りの言葉だった。トレフもマロン〔フランス語の隠語〕もまったく同じ意味である。私は、ひとかどのヘブライ語の学者気どりで、首尾が上々だったことを理解した。警察の人間が、新入り希望者に酒を注いでいるあいだに、ガフレが靴を元のところに戻した。われわれは、語りながら飲みつづけ、アバヨを言う前に、オトの口から鉛板盗みを一味にそそのかしたことや、タネリ街の屑鉄屋のベルモン親父が故買屋だということを教わった。
話の中身が面白い、すぐにもアンリ部長にツナギをつけるから、三人の盗っ人がいる場所を教えてくれと言うと、オトは、かれらの宿所《やさ》を教えると約束し、打合わせを決めてさようならをした。ガフレは、まだ一緒だった。
「なァ、やつだよ。靴はピッタンコだった。深い足跡は窓から飛んだとき、そっくり体重がかかったんだ」
これが、トレフという言葉の内容で、それだけで十分だった。その言葉がオトの仕業だと報告したことになり、彼がひと芝居うとうとしていることがよくわかった。まず、はっきりしていることは、彼はひと儲けしようと盗みをやり、同時に二兎を追っていた。共犯者をタレこんで第二の目的を達しようとしていた。つまり、警察を喜ばせて再採用されようというのだ。この組み合わせの結果を考えると身ぶるいした。悪党め! 私は独りごとを言った。あいつに罪のつぐないをさせてやるぞ。あいつの悪事に加担した罰当たりどもが刑を受けたら、あいつも運命を分けあうのが当然だ。私は、みんなのうちで、いちばん罪が深いのはオトだと一も二もなく思いこんだ。オトの性分からして、事件と呼ばれるようなきっかけに皆を引きずりこむことは大いにあり得る。また、こうも考えた。つまり、彼は、自分ひとりでも盗みはやれるのだが、みんなの悪事が疑われるためには、一人ひとりの悪事が露見しやすいように仕掛けたほうがいいことを悟るにちがいない、と。こうした仮定の一つ一つで、いつもオトが一番の悪党ということになる。私は、彼の身辺から片づけようと決心した。
彼に二人の情婦がいることは知っていた。一人は、エミリ・シモネで、彼とのあいだの子供が幾人かあり、夫婦のような生活をしていた。もう一人は、娼婦のフェリシテ・ルノーで、彼に首ったけであった。この二人の女を噛み合わせてやろうと考え、この際、やきもちを妬《や》かせ、どちらが正しいか、正義を照らす炬火《たいまつ》を私が照らしてやろうというのだった。ときに、オトは、すでに厳重に監視されていた。
ある日の午後、オトがフェリシテとシャンゼリゼにいると知らせを受けた。私は出かけて行って二人を見つけると、とても大事な話があると言ってオトを脇へ引っぱり、
「いいか、おめェをパクって留置場に入れるから、今晩ブチこむ盗っ人をハメてもれェてェんだ。おめェは、やつより先にブタ箱にいるんだから、おめェがオトリだとは疑わないや。やつを連れて行ったら、わたりをつけるなァ雑作ないだろう」
オトは、この頼みを大乗り気で引き受けた。「おお」、大きく息をして、「それが密偵というもんだ。合点だ、まかせとけ。が、その前にフェリシテにアバヨを言わなくちゃ」
女のほうに戻ったが、夜の客引き、それとも夜風の流し〔客拾い〕の時刻が近かったせいか、男が早々に別れることに文句は言わなかった。
「さてと、二号さんとバイしたところで、手筈はこうだ。モンマルトル大通りのヴァリエテ座の向かいにある小さな喫煙所《タバジ》を知っとるな?」
「うん。ブリュネっていう店だっけ?」
「そのとおり。あそこへ行ってビール一本で店の奥に陣取るんだ。保安のデカ二人が入って来たら……メルシエってやつ覚えてるかな?」
「覚えていらいでか。お前が頼りにしてるなァ古強者《ふるつわもの》の俺様じゃなかったんかい?」
「覚えているなら上等だ。あいつらが入って来たら自分を合図するんだ。いいな、他のやつと取り違えねェためだ」
「安心しな。とっ違ェねェようにする」
「堅気さんをつかまえたら気分がわりいからな」
「ドジはふまねェ。でなかったら行かねェよ。合図する。合図、だけだな」
「呑みこめた?」
「ああ、だけんど、おれを頓馬あつかいにするつもりかい? 一目でわかるようにするよ」
「よかろう。デカたちは前もって命令を受けている。おめェを見つけたら、どうするかわかっている。おめェをつかまえてリセ派出所へ連れて行く。二、三時間は待たされる。おめェが白状させねばならねェやつに、おめェが前々からブタ箱にいたことを見せるためだ。でそのあとでブタ箱に送られてきても誰も怪しまねェ」
「心配無用、ソツはねェよ。うまく立回っているとはわからせねェように悪党ぶりをやってみせらァな。まァ、おれが、どんなに巧くさばくか見ていなよ」
オトは、なんとも素直に承知したので、そんなふうに彼をだますのを後ろめたく思った。しかし、彼の仲間にたいする行為を思い起こすと、この一瞬に感じた軽い気持の同情は永久に消えた。彼は私の手を握り、去って行く。得々として足どりも早く、足が宙に浮いてるようだ。
私のほうは彼よりも急いで本部へ行き、オトに話した刑事たちに会った。その一人はコショワという名で、現在はビセートル監獄の典獄をしている。どんなふうにやるのかを彼等に説明し、私は刑事たちの後をつけた。かれらが喫煙所《タバジ》に入る。
オト旦那と公爵夫人の朋輩
刑事たちが敷居を跨《また》いだか、またがぬかに、オトは、私が言いつけた指図どおりに、〈私です〉と指で自分の胸を指し示した。その合図で、まっすぐ刑事たちが彼のところへ行って、身分証明書を見せてくれと言うと、オトは、アルタバン〔『ラ・カルプルネード』という小説の主人公。尊大で傲慢な人間のたとえ〕のように傲然と、そんなもの持っていねェやとうそぶいた。
刑事たちが、
「となると、一緒に来てもらうことになりますぞ」
ひょっとして、ひょんな気を起こして逃げないようにオトに縄を打つ。それをしているあいだ、オトの顔に心のうちでの一種の満足が浮かんだ。縛られて幸福だったのだ。束縛を祝福し、愛情に近い気持で刑事たちを眺めた。つまり、彼の気持からすると、そうした用心のためのやり方は、単なる形式的なものにすぎないと思われたからだ。なにか古い哲学では深い説明がされるのかも知れないが、彼は〈捕縄《ほじょう》の中で自由〉を誇っていたのであった。だから、刑事たちに低い声で冗談を言った。
「悪魔くん、助けて頂戴な、だ! スイゲソをバシられちゃった(手足を縛られた)。たかが聖歌隊のガキ(とんがり帽子)をゆわくのに、ほかのやり方はできんときた。こいつァ、めっぽう上等だ。点数かせぎ(働く)というもんだ」
オトは、夜の八時ごろブタ箱に入れられた。十一時になったが、ゲロさせる人物は連れて来られず、この遅れは、彼にとって思いもよらないことだった。たぶん、その男が追求をのがれているのか、それとも、もう泥を吐いてしまったのかな。となると、オトリの助けはいらなくなる。
囚われていた彼が、どんな推測をしたかはわからないが、私の知るかぎりでは、けっきょく、誰も来ないのにうんざりし、忘れられたのかと思って、まだ警視さんがいるなら来てくれるよう派出所長にたのんだ。
「居るんなら居らしとけ」
と警視は言ったというが、これは私のあずかり知らぬことであった。
この返事がオトに伝えられたが、刑事たちの怠慢によるのだという考えしか彼には浮かばなかった。
「まだ俺を待ち呆けにしとくなら、俺をバカにしとるというもんだ。おれは、ここにブチこまれているというのに、やつらは、ぬくぬくと脂ぎってけつかる」
滑稽なというより、やや感動的な泣き笑いの、おかしみのある哀れっぽい調子で繰り返した。二、三度、苦情を訴えるために巡査部長とか警部補を呼んだ。そして、当直の警備官にまで訴えて釈放を求め抗議した。
「なんなら戻ってきてやってもいいんだ。おれは見せかけで入ってるだけなんだから、それでもお前さんの責任があるというんかい?」
翌日、このいきさつを報告した警備官は、オトにとっては運悪くカチカチの強情っぱりで、人を信じない男だった。
「彼は食欲に苦しんでいるだけであります。無実ではないかと推測するのもけっこうですが、本官は手錠を信ずる者であります」
警備官殿が、この種の人間であったのがオトの運命であった。また、彼は、なにも要求してはならんとオトに禁じたが、いくらか好奇心があって、頃合いをみて留置場の閂《かんぬき》を抜いてうかがうと、房の入口から切れ切れの独り言が聞こえたという。もう刑事たちの軽はずみを思い出すことはできず、あきらめと焦燥が交じった奇怪なつぶやきが代わる代わる聞こえた。
「おお、こいつァ、だし殻じゃねェと思うが、ちょっぴり濃いコーヒーだね、というようなのを出して一晩あかせと言ったらどうだ……だめだ、いまに戻ってくるさ……デカのやつ手のひらのバターより早く消えちまった……たぶん遅れて来るんだろう……お前さん〔ヴィドックを指す〕が、やつらを動かすように、やつらのうしろで指図してェや。……やつらの過ちでなくたって、なにも言えねェ……きっと、おれを更生させるために放りこんだんだ……だけど、いくら待っても、おれが知り合いになる新入りを引っぱって来ねェじゃねェか……えーい、こんどこそ、つらい浮世で一発かまさにゃ……まったくのところ、おれがパクられてやらにゃ、あいつ何もできねェ……無茶だ、つかまってから屁《へ》でもねェときた……ヤイ、みんな、おれがあそこにいるから好きにしろって頼まれたとき……デカどもの犬畜生、犬畜生め!……いつも手前勝手しやァがって……くそったれ野郎! これがまっとうな仕打ちか? まっとうだろうがなかろうが、おれはブチこまれてるんだ。食いてェときに……食うことを喋っちゃいけねェかよ……ああ、はらわたが泣いてる……ちきしょう、あいつらの腹は泣いちゃいめェ……仇を討ちてェと泣いてるんだ。……ほんと、これが仕事というもんで、これが御祝儀か。けっこうな御祝儀をもらったもんだ、似合ってるぜ……あいつら殴られなかったかな? サツのタライまわしはひでェからな、たとえばだ……断食だ、若ェの、断食だ……こいつァ面白ェや。……なーに、なんの、食いっぱぐれたって死にゃしねェ。あすの朝は、たっぷり食ってやるぞ……賭けてもいい、やつらは、たらふく食ってる、悪党どもめ……やつらをつかまえたら、迷惑どころか、茶番だぜ。茶番とは上等だ……神さまの、じゃなくて、神さまの名を三度かけてだ。……えーい、なんだって、若造、怒ってるな……せっぱつまるとな、狼は、ひもじいから森から出てくるんだ……出てこい、出てこい……かんたんだ……もし朝までコケにされていたら……友だちのジュール〔ヴィドックのこと〕がここにいたら……知らねェんだ、知ってたら……」
オトは、誰しも同じく〈王さまがご存知なら〉とか言って、彼の苦境を私が知らないのを嘆き、ニセの逮捕だと思いこんで、その逮捕から起こる将来のことをまったく見通していなかった。そのあいだに、私は、シャートレ広場界隈の小路を探しまわり、みじめな貧民街でエミリ・シモネを見つけだした。女家主が、貧しい財布で楽しめるように、酒と女の子を用意していた。女たちは、互いに客をくわえこんで、看板にいつわりあり、なるほど他の女より上玉ではないというサービスをした。ここの酒は、宝くじ屋の裏口入門証のようなもので、狐が狸をたぶらかす手だてであった。堅気の衆は、ちょっと一杯と言って恥ずかしそうに入ってきて、二度、毒をのまされる。つまり屑物になった売春婦の群のなかで、水みたいなコーヒーを飲まされ、酔いと助平心を利用されてカモになる。かてて加えて、昔は美人だったが、今は落ちぶれて粗末なキャラコの服、メルトンのスカート、木靴(みじめになりたくない女は十五か二十か二十五スウの靴)といった姿で、これが、けっこういい加減な風習になって行なわれている。とはいえ、近頃は、女武者の魅力は、モンモランシイ〔パリの北約三十キロにある森林保養地で別荘地〕の乗馬隊の中にいた女や、あるいは上品な二輪馬車に乗って、バガテル〔ブーローニュの森の端に建築家ベランジェがアルトワ伯に建てた城館〕に囲われていた緑色のべールの女に価値があるようになった。
私は、こうした転落した大勢の女たちを見てきた。そのうちの一例だけを挙げよう。エミリの友だちで(カロリィヌという名だった)、ロシアの公爵の愛妾だった女のことだ。全盛時代には、年に十万エキュでは召使い一同をまかなうに不足だったという。馬車、馬匹、従僕、家来などをもっていた。美しかった。とても美しく、すべてがその美の前に色あせた。今ではエミリの友だちで、エミリよりも落ちぶれていた。いつも酒びたりで、いっときも正気のときがなかった。女家主が、彼女の身なりを心配してやっていた。カロリィヌは、ぼろ服一着も持っておらず、なにか持っている物を売りとばさないかと、火にかけた牛乳のように見張っていなくてはならなかった。いくどとなく虫けらのように裸で宿に連れて来られた。下着まで飲んでしまうのだった。これが、こうした女たちの悲しい実態で、ほとんどの者が、その生涯のうちで豪奢な幸福な生活をしたことがあった。両手いっぱいに金貨をもって、浪費の極みをつくした彼女たちが、兵舎のパンを切望するようになる。トルトニ軒のソルベ〔酒、香料、果汁入りのシャーベット〕を楽しんだ口が、グレーヴ広場のジャガイモの味を味わうようになる。お嬢さんと呼ばれていたのは、この手の娼婦たちで、石工や馬車屋や水売りの男をたのしませた。この種の働く女たちは、その色気のお蔭で、そのときどきの収入がある。兵士や香具師《てきや》や演歌師をカモにしないときは泥棒たちの相手をし、(格が上の)姐御なら、ひいきの償いに、かれらが牢にいたりシケているときは貢いでやる。
公爵夫人カロリィヌの友だちエミリ・シモネ、それともマダム・オトは、まさにこの型の女だった。善意は終わっていた。私は、バリオル・ママさんの家で出会った。バリオル・ママさんは、どこにもいないような気っぷのいい女で、商売していてもまっ正直で、棒組で店をひやかして歩き、女明神さまの山門でむかっ腹をたてる放蕩者のあいだでも一種の敬意をもたれていた。どんな嫌なことも受けて立ち、そこでは極道と悲惨が、たがいに乳くりあう。およそ半世紀ちかくもバリオル・ママさんの施設は、一つの神殿であり、すたれ者の最後の避難所になっていた。とことん恥をさらしつづけ、侮辱されながら、あっという間に時が流れ、裁きの世界の小さな川や境界を逃げまわって、あわてふためいて避難所にとびこむ。そこは古めかしい魔窟で、優雅な幻想を画いて楽しみたいと思う者は入ってはいけない場所だ。魔女の拠点になっていて、アンタン陸橋あたりに出没するアルミイド〔イタリアの詩人タッソー(一五四四〜九五)の『エルサレム解放』の中の悲惨な女たちの一人〕も、しょせんは醜い淫売婦にすぎず、病院と牢獄のあいだで甲から乙と男を渡り歩き、わが身をまもるのに精も根もつき果てて、有為転変の生涯の最後の希望も舗道の上に消える。
この聖域の中の目抜き通りのヴィヴィエンヌ街は、女明神を中心にした古着屋町になってしまった。さわれば落ちそうな初見世女を軽蔑する海千女も、束の間の華やかさに魅されて、色あせたよそおいの身を飾ろうとし、バリオル・ママさんの衣料預り所に殺到する。いっぽうでは、やせた辻君が、むかし彼女をあざけった、女の栄光にかがやく素晴らしい丸いお尻をしていた夜鷹を乱暴に吊るし上げる。お上品さを較べたら、正直いって、彼女が劣っているとは思えない。
そこには本当に奇妙な話ばかりが転がっていて、ことにバリオル・ママの同居人の女どもの話は教訓に値する。たぶん、その尊敬すべき女主人の伝記に結びついているからだろうが、殴られ蹴られ刀を向けられ、かすり傷一つ負わないで五十年という長いあいだを頑張りとおしたママは、警察の友であって泥棒の友、兵隊の友でもあった。つまり、みんなの友だった彼女は、数えきれない乱闘のど真ん中で不死身を通し、彼女が証人の喧嘩や騒動は千と一つという有態。サビナ組〔紀元前二二〇年ごろイタリア中央部に国家を形成したサバン族をいう。ローマに屈服しなかった〕とローマ組が、女の子たちのことで喧嘩をしたとき、ママの髪の毛一本にもさわった不幸なやつはいなかった……彼女の帳場は聖なる箱舟的な存在で、遠慮して酒瓶を投げない中立地帯だった。だからこそ、みんなが|最愛の人《シェリイ》と呼び、サビナ組の誰一人として彼女に血を流さすようなことはしなかった。朝になると、女たちは、急いで宝くじを買って夢を托すのが必ず見られた……部屋代の期限が近づくと、間に合うようにと倹約したが足りないときや、先々のための貯金箱を掻っぱらわれたときなど、あわれな女たちは不足を埋めるのに苦心|惨憺《さんたん》する。なんという辛い悲しさ、女家主を満足させようと、ママ、この銀盃を抵当にとってくれないか? 彼女たちは、しょっちゅう砂糖を入れたブドー酒をスイスチーズでちょっぴり飲んであったまる。仲のいい女づれと一緒にぐちをこぼしあい、当節のきびしさの不満をこぼし、鼻を突きあわせ、テーブルに肘をつき、ちびりちびりやりながら苦労を忘れるのか? 親愛なるバリオル母ァさんは、ときどき公営質屋へ出かけ、風紀係の連中に牡蠣や白ブドウ酒を振舞う。刑事たちは、その親切に感謝し、盗賊たちも情にほだされる。けっして裏切らない。仕事にあぶれている連中の訴えを熱心に聞いてやる。空豆をとるために豌豆《えんどう》を蒔《ま》き、個人の将来については友情の外見の下で楽観的な予測をする。なぐさめの盃をすすめ、女郎にも信用貸しをし、もし怠けて(あるいは仕事にアブレて)無一文になった者が、誰かに代わって彼女の銀貨《バター》を貰いにきたら、誰彼なしにこう言う。
「働きなよ。みんなに喜ばれるようにな。働かなくちゃ」
軍隊に関わりのある者には同じ勧告はしない。召集や再召集について、どこまでも思いやりのある心づかいをし、そういう人から好かれていた。みんなと一緒に警察を呪い、喧嘩のときなどは、とことん納得がいくように、ぎりぎりまでポリ公や兵隊を呼びにやらなかった。大佐とか大尉、曹長や少尉など、肩章を付けているやつみんなを嫌っていた。だが、袖章にはホの字で、一般に下士官にたいしてはたいへんやさしかった。彼女に親切を見せる下士官にはとくにそうだった。かれら一同の母親だった。
「あらまァ、補給屋さん! よござんすか、こんど軍曹さんと戻ってくるときは曹長さんも連れてきて頂戴」
「いいとも、バリオル・ママさん」
というわけで、演習の合間は、その家は、いつも客でいっぱいだった。
バリオル・ママさんは今でも生きているが、あの家が彼女の足の上で経営されているかどうかは知らない。私が知りあっていた頃の彼女は、密偵が要求するどんなことにも応じてくれた。お気に入りのエミリ・シモネを指名すると躍り上がって喜んだ。マダム・バリオルは、私がハレムの中のエミリに白羽の矢を立てに来たものと信じた。
「あの女《こ》を呼ばなかったら、やはりあの子を付けるつもりだったよ」
「なら、ママは、あの子がお気に入りってわけ?」
「なにが欲しいの? あたしは子供づれが好きでね、もし、あの女が子供たちをどこかへおっぽってたら、あの女の面倒はみなかったよ。ちびっ子たちは可哀そうじゃないか、生んでくれって頼んだんでもないのにさ。なぜキリスト教徒は、動物と同じように自然に従わないんだろう? 末の女の子は、あたしが名付け親なんだ……オトの顔かたち、そっくりだよ……あの子供をみてやってくれないか。キノコみたいに成長してるよ……な、あれはワルじゃない。なにも言いっこなし、もう何もかも知ってるよ……」
「ませている……」
「ああ、かわいいよ。色気たっぷり、十五スウで独り立ちさ。あの子くらい大きくなったら、お袋さんにお金をかせいでやるのは当たり前だ。娘っ子って、いつも金のなる木だもんね」
「わかってる」
「そうか、そうか。エミリ、親切な神さまのお蔭があるよ。これでもう、たった今から男と苦労しなくてもいいよ」
「親切な神さまとやらが助けてくれるかな?」
「もちの論さ! 不信心者のお前さんなんか、何も信じていないもんな」
「なら、あんたには信仰があるのかい、バリオル・ママさん?」
「あると信じてるよ。あたしゃ坊主は好かんが、どうってことはないさ。ブリュッセルの宝くじの抽せんで、三つ組を当てるために聖ジュヌヴィエーヴさまに九日の願かけを始めてから八日しか経っていない。聖物箱の下に札《ふだ》を通したんだよ」
「ローソクの端っこまで燃やしきった?」
「おだまり、外道《げどう》」
「復活祭のツゲの枝を寝床の頭のほうに置いたにきまっとる」
「ほんの少し、おにィさん! 女たちと一緒に、いつまでケダモンみたいに生きなくちゃなんないというの?」
信条に逆らわれるのを好かなかったバリオルは、エミリを呼びにやった。
「急ぐんだ、エミリを」
それから私に、
「あんたは待ってて。そうね、すんだかどうか見てきてあげよう」
「うまくやってくれ、急いでるんだから」
まもなく、エミリが、消防の分隊長と一緒に現われた。彼は、見向きもせずに早いとこ女とさようならをした。
バリオルが勘ぐって、
「あいつは自分の酒のことは忘れてたようだわね。徳利に残ってるはずだ」
「あたいが飲んじゃう」
とエミリ。
「だめだよ、リゼット〔源氏名〕」
「冗談でしょう……(飲みながら)あの人が払ったんよ。アラ、蝿がいるわ」
「心の臓が強くなるぜ」
と私が茶化すと、
「そうかね。うまいこと言ったとは思わないけど、あんた、ジュール、このシマで何してるの?」
「お前さんが、ここにいると知って、こう自分に言いきかせたんだ、オトの女房に会わねばいけない。会って一杯ふるまおう、とな」
バリオル・ママが、
「アガト、小瓶を持っといで」
すぐに、アガトが、例によって穴蔵に降りる顔付きをしながら、うしろから抜けだして酒屋へ行き、一リットル瓶を持ってくると、四分の三を取って、残りに水を割って一杯にした。それをエミリのコップに注いでやっていると、
「生一本よ、これは。どう? がぶがぶやらなくっちゃ、そんでいいのよ。今日は、あたい、飲んでやる」
エミリの肺をうるおさせてもらってたいへんうれしいな、と私は言ったが、それは、私を信頼させる第一歩でしかなく、知らず知らずのうちにオトにたいする怨みつらみに持って行かねばならなかった。私は、女に怖れを抱かせないように、かなり巧く事を運んだ。まず、自分の身の上を嘆くことから始めた。女たちは、かれらと同じような境遇にある不幸について嘆くと、一も二もなく唱和するものである。私は、娼婦たちと一緒に涙のうちにお代わりの酒をしこたま飲んだ。三回目の酒になると、もう私は女たちの親友だった。そうなると、彼女たちは、もう我慢がしきれないで、心のなかにある全部をどっと爆発させた。この奔流の瞬間こそが、いつも物語の序説になるのである。
〈人それぞれの近道あり〉
昼間のうちから、かなりの苦い酒を飲んでいたエミリは、早くもライバルの女やオトの不実について不満をぶちまけた。
「やっぱり、オトは、そこらの碌《ろく》でなしなみの小利口なやつと違うかな? あれで女を持つ資格があるかな? お前さんはフェリシテという女を勘ぐってるが、おれとお前さんとの間には悪魔もフェリシテもいやしない。もし俺が誰かをえらぶとしたら、太鼓判を押す、お前さんをえらんだぜ」
「あら、ジュールったら、また打《ぶ》ってる(からかっている)。フェリシテは、あたいより立派な(きれいな)くらい百も承知よ。でも、あたいは可愛く(やさしく)ないとしても、ひとはいいのよ。ロルスフェに食いもん(ラフォルス監獄に食べ物)を差し入れたのを見たなら、あたいに実《じつ》(おもいやり)があったかどうかわかったはずよ」
「まっこと本当だ。あいつの面倒をみたことは、おれが証人だ」
「ね、ジュール、あたい、せいいっぱいやったよね、違う? だから、あのねじくれた(ひねくれた)悪党の根性をぶったたいてやりたいの。あたいの商売をとことん邪魔しくさってさ。あたいだって、またぞろ、こんな稼業を始めたって、あいつに一文の得があるとは思っていないよ。あたいは結婚した正式の女房、ただそんだけのことさ。もう、これっきり何もしないよ」
「なんと言った? もう何もしないだって?」
「ああ、しないよ、はっきりと。二度とたくさんだ。あいつは、あたいがガキどもを養ってることを知ってる。あいつが十五カ月の刑をくらっていたとき、あいつ抜きで子供を産んだかい? 婦徳《みさお》かね? あたいから何もかも奪って、たんまりいい思いをしたんだよ。それを知ってるのは、あたいのボロ靴だけさ。あいつに語らせたら弁解たらたらだろうが、バリオル・ママにかがす鼻ぐすりの十スウもあったためしがない。これも思いださせてやらにゃならないが、悪党の死出の旅路の支度でもしておくれよ……」
「お前さんの言うとおりだ。慈悲をほどこしたのはフェリシテじゃないというこった」
「フェリシテ! あいつだったら自分で食べちまったろうさ。でも、いつだって一番かわいいのは子供たちだよ(ため息をつき、飲み、また溜息をつく)。ね、あっちで二人っきりになったら一緒に子供に会ってくれるかい? ほんとうのことを言っておくれよ、あたいの本当の名、エミリ・シモネの名前にかけて、あたいの喇《コルネ》に入ったもの、これからも入るものが、みんな毒になって即死するのか、下の口だけ開けといてお偉方から掻っぱらってチョンとなる(一級人物にたいする盗みの現行犯で捕まる)のか、どうなんだよう?」
「おれに何を言わせたいんだ? おしゃべりがすぎるぞ」
「誓いの言葉よ。(気どって厳《おごそ》かな調子で)汝のごとくながらえて死にたる我が父の灰にかけて……」
このホメロス風な文句は、ヴィナスの神殿〔娼家のこと〕の娼婦たちのあいだでしか使われていない。どこから伝わったものだろう? これについては何も知らない。おそらく、洗濯女の誰かが母親の灰にかけて誓ったものらしいが……〈我が父の灰にかけて〉という文句は、フォントネル〔ベルナール・ル・ボウィエ・ド・フォントネル(一六五七〜一七五七)。アカデミイ会員の弔頌朗読で有名〕の予言者的な難句のふるえ声よりまだ始末が悪い。この文句は、専門の学問で扱われるもので、実直なことを示すために女が口の中でこの文句を唱えると、こちらはたいへん縁起が悪いとされる。そこで、彼女の服装や身分がどうであれ、この文句を言われたら、こう答えれば間違いがない。
〈わかっているぞ、猫っかぶり〉
例の呪文は、そいつを濫発する者の人柄からみて、いつも私は可笑しくてたまらず、とたんに私が笑いたくなるのを知っている者は、私の前では言わないようになった。エミリが、
「なら、笑ってよ、ね、笑いなさいよ。でも、そんなに可笑しかないんじゃない? へー、だったら、おだまりよ。ほんと、あいつと一緒だと楽しみなんてないわ。あいつったら、てんで人を信用しないのよ。
あたい、もっとあばずれ女になって、青カンしかやらないようになりたい。この世で一番いとしいもの、つまり子供の命にかけては絶対に誓わない。あんたのことをオトに話したら、どっさり不幸せがやってくるわ」
と言いながら、上の歯並びをいじっていた右手の親指の爪を前へ引いたので軽い音がもれ……同時に、唾を吐きながら十字を切って、さらに付け加えた。
「ほら、ジュール、神さまに誓ったわ。だから、わかるでしょ、公証人の手を通したみたいに、あたいの言うことに嘘はない」
こうしたやりとりの間に何回も半リットル瓶のお代わりをし、飲むほどに、オトのペネロペ〔ギリシア神話のユリシーズの貞節な妻〕は、いよいよ元気づき、自分がしっかりしていることを確言した。
「ね、ジュールちゃん、どうしたの? あいつには何も話さないからって約束したでしょ」
「わかった、いい子だ。彼のことは、みんな話すよ。だが、用心してくれよ。死ぬほど、心底そう願うぜ。言っとくけど、白状なんかしなくていい、オトは友だちだ、わかるな?」
「ヤバいことにはならないよ。誰か何か言ったら、(手を胸にあてて)、ここに……死が」
「では、と、おれは今晩シャンゼリゼに行って、フェリシテと一緒だったお前さんの亭主と会った。はじめ二人は言い争っていたが、お前さんをサンピエール・オーブフ街の部屋にオトが住まわしている、と女が言い……彼は、ぜったい違うと女に誓い、そんなに繁々とお前さんには会っていないと言った。よくわかってくれるはずと思うが、おれとしても、女と面と向かっていると、オトのように言うしかないな。二人は煮つまった(仲直りをした)。二人が喋った言葉の端々から察して言えるが、昨日の夜から今日まで、彼はパレロワイヤルでフェリシテと寝たことになる」
「ああ、それは違う。オトは友だちと一緒だったわ」
「おれにオトが言ってたが、カファンにビセートル〔盗賊の名〕、それにリノワとか……」
「どうしてまた、そう言ったの、あんたに? あたいにゃ口止めしといて。ほらね、あいつらしいわ。あとから自分でブチこわす。わざと、そこへ持っていったんなら、あたいをオチョくったんだ(からかった)」
「となると、怖いと思わないかい? いいな、おれは友だちを裏切るような真似はしない。たとい、おれがサツ(密偵)だとしても、情というもんが残っていらァな」
「わかってるよ、ジュールの気持、別荘(牢)へ戻らずに無理して堅気になったんだものね」
「堅気であろうがなかろうが同じこんだ。おれは、まっとうだ。誰かを困らせてやろうとするとしても、オトにはしない」
「道理だねェ、いい男、友だちを裏切るはずがないよ。で、教えてよ、あいつは、その、なにと一緒にどこへ行ったの……?」(モリエールにこの言葉があるが、読者において探されたい)。
「知りたい? ビセートルのところへ巣ごもりに(寝に)行った。だが、訊かなかったんで住所はわからん」
「ああ、そう、ビセートルのところにね。けっこう、けっこうよ……きれいにやっつけてやる」
「いっしょに行くよ。遠いところに住んでるんかい?」
「ボンピュイ街を知ってる?」
「ああ」
「あそこよ、ライールの家、十四番地の。大丈夫、あの女に痣《あざ》をつけてやる。ジュール、六リアール銅貨を持っていない? あいつのお面に銅貨の条《すじ》をつけてやる」
「持っていねェや」
「やっぱり……じゃ、ハンカチの中に鍵を入れよう、おほほ、ひと騒ぎになるよ。朝からそんな気がしてた、ジャックが三枚、手の内に来るとね」
「ね、聞いてくれ、軽はずみはいけねェよ……そこに二人がいなかったら、お前さんが現われるなァ得策じゃあるまい。おれを信じるなら委せてくれ。まず、おれが出しゃばる。そのまま出てこなかったら、言ったとおりだったと思え。つまり、二羽のカモを見つけた、とな」
「なるほど、ドジはふまないコンタンね。ドンパチやる前に確かめなくっちゃね」
私たちはボンピュイ街に着く。私が入る。ビセートルが住居にいたのを確かめてから、エミリのところに戻る。彼女は、酒と嫉妬で脳が乱れきっていた。
「いいか、へまやっちゃいけねェ。二人は、今しがたビセートル夫婦と一緒にリノワのところに夜食を食いに行ったそうだ。もっとも、そこがどこだか教わらなかったが」
「教えたくなかったんだろう。でも、平気、平気、リノワの宿《やさ》がどこだかは知ってる。お袋さんのとこよ。ついて来な。ヤケドはさせないからさ(心配無用だ)」
「やれやれ、明日まで引っぱりまわす気かい?」
「あら、ジュール、いやなら結構。あーあ、憎いひと。ね、いやがらないで、いやがらないでよ。後悔はさせないからさ。なんなら、二十日鼠《チュウ》(キッス)したげる」
逆らえばチュウなしか? 私は、ジョクレ街を引きまわされるままにまかせ、さて、当の建物の六階に上がってリノワと会った。名前はもとより私を知らない男だった。
「オトさんを探しているんですが、見ませんでしたか?」
「いんや」
と彼が答え、寝ていたので、おやすみを言って立ち去ろうとしたら、
「なんだって、こうバクチに負けなきゃならんのだ。おいら、あいかわらずの土方だよ。あいつら来たぜ。だが、酒をおごらせる義理があるとかで、カファンをつかまえに行っちまったよ……」
エミリのところに戻って事情を話し、
「どこに住んどるんかな、カファンは?」
「それについちゃ、はっきり言えないけれど、あいつはスケコマ師(女漁り男)だから、ヴォ広場の女たちなら、ぜったい知ってるわ。おねがい、行こうよ」
「パリの隅々まで歩かそうというのかい? もう遅いし、時間もないし」
「おねがい、ジュール、あたいから離れないで。行きずりのデカども(一般の刑事たち)にパクられるにきまってるからさ」
なさけは人のためならず、あまり逆らわないで承知し、エミリと一緒にヴォ広場のほうへ足をすすめた。片っぱしから酒場を訪ね、はしご飲みをしながら元気をつけ、必要な情報がものにできてケリをつけられる所はないものかと、女と共に宙を飛ぶ。宙を飛ぶという表現は突飛だが、彼女を腕で支えていたものの、エミリのやつ飲みすぎて、千鳥足もやっと、足が地についていなかったからだ。しかし、足のよろめきがひどくなるにつれて、インチキ野郎のオトの秘密の考えが一層よく私に伝わってきた。私は、彼女のおしゃべりによって、オトの企みのすべてがわかって納得し満足した。警察に渡そうと申し出た盗賊たちを采配しているのはオト自身らしいという私の判断は誤っていなかった。
朝の一時、まだ案内女と連れだって探しまわっていた。エミリはオトを、私はカファンを見つけだそうと期待していたが、法螺《ほら》ふきルイゾンという女とぱったり出会った。その女が言うには、カファンはエミリイ・タケと一緒にいたから、バリオル・ママか、やはり連れこみ宿をしているブロンダン・ママのところに泊まったんじゃないかとのことだった。
「ありがとよ、おねェさん」
すかさずエミリは、貴重な報せをしてくれた朋輩に礼を言い、さらに続けて、
「これでよし、ビセートルはお上さんと、リノワとカファンは女と、オトはフェリシテと、それぞれ男と女。極道め、いのちを取るか取られるか、死のうとままよ、だわ(歯ぎしりして髪をむしる)。ジュール、離れないで、あいつらをバラさにゃ」
復讐に猛り狂いながらも歩くのをやめなかった。そして、とうとうアルシス街の角まで来た。
「なんやね、メリ〔エミリの別称〕?」
地下室の換気窓からもれているような嗄《しゃが》れ声をだした者がいた。街燈の光で、一人の女が、〈背に腹はかえられぬ〉と説明してある版画にあるような恰好でしゃがんでいるのが見えた。起き上がって近寄ってくる。
「マデロンはんよ」
とエミリが叫んだ。
「おばさん、呼んでもムダ、お門違いだ。カファンを見なかった、今夜?」
「カファン、と言うたね?」
「ああ、カファンだ」
「バリオル・ママはんのとこにおるわな」
酒を飲むには決まった時間というものはない。エミリと私はママのところに戻った。私たちは家のなかに入り、なるほどカファンは部屋にいるのがわかったが、オトの姿はなかった。これを知ると、オト夫人は、探しているバラの鉢を隠しているものと勘ぐって、バリオル・ママさんに噛みつく。
「へェー、悪党に味方するんだね、亭主を返しな、くそ婆ァ、鬼婆ァ!」
エミリが次々と吐いた悪態の多くは思いだせないが、ブドウ酒ででき上がっていた焼餅にカンフル(ブランデー)のコップを注ぎこんだからたまらない、火を吐く気焔が十五分もつづいた。
脅しには、びくともしないバリオルがさえぎった。
「いい加減で言いたいことをケリにしたら? おまえの男だと? 水車小屋にいるよ。悪魔が連れ戻したのさ。亭主を蔵《しま》っといてくれと頼んだかい? 願かけ坊主じゃあるまいし、男の全部がそうなのさ。男ってそうなんだ、山ほど知ってるよ……カファンと一緒だと思うなら行ってみな。タケの部屋に上がって行ってみなよ」
おなじことを二度も言わせないで、エミリは、じっさいに確かめてから戻って来た。
「ほら、納得いったろう」
「カファンしかいない」
「言わないこっちゃないだろう?」
「どこにいるの、化物は? ねェ、どこにいるの?」
「なんなら」、と私が言った。「彼がいるところへ連れてってやるぜ」
「えっ、ほんと! 連れてってよ……あたいのためにそうして、ジュール」
「ここから遠いが、イギリス旅館だ」
「そこにいると思ってるの?」
「そう聞いている。一、二時間、フェリシテが夜のお仕事をすますのを待ってから、フロワ・マントー街で女と落ちあうはずだ」
エミリは、私が、完全に見通しているものと思って疑わず、もうバリオルのところにいたくはないとばかり、破裂しそうなくらいにむかっ腹をたてながら、有無を言わさずイギリス旅館へ同行することを承知させた。道のりが長く感じられた。というのは、私は御婦人に付き添う騎士といった役目で、御婦人の重心が、おっそろしくふらついていて、私自身の平衡をとるのに大苦労をしたからだ。そして、その間、女を引っぱりながら抱えながら、目指す男に出会えると彼女がアテにしたサントノレ街にあるモグリの売春宿の戸口にたどり着いた。
部屋から部屋へと訪ねてまわった。向かいあって抱きあっている恋人たちの邪魔になるのも平気で、廊下に二列になっている別々の小部屋の一つ一つに眼をこらしたが、オトは、そこにもいなかった。フェリシテの恋仇は、とことん打ちひしがれ、眼は飛びだし、唇は泡にまみれ、泣き、わめき、てんかん女か悪魔にとりつかれた女のようだった。髪は乱れ、蒼ざめ、おそろしく顔がひきつり、首の筋がぴーんと張り、一つの筋肉が電流で動かされている死体の筋肉のようにピクピクして、なんとも怖ろしい形相を見せていた。愛情とブランデー、嫉妬とワインが作りだす怖ろしい効果。そのくせ、たぎりたつ激情のなかで、エミリは私から眼をはなさず、ぴたりと寄りそっていて、山ほどの苦しみをあたえた恩知らず男をとっつかまえるまでは私から離れないと誓うのであった。しかし、彼女は、私の謀略には露ほども気付かず、私としては、喜んでさようならをしてくれるのを待ちながら、かなり長いあいだ引っぱりまわし、フェリシテは、門番がいる家に住んでいるので、戻っているかどうかを訊いてみようやと言って聞かせるのは易いことだったのだが。
エミリは、ここまでは私の親切をたいへん喜び、新しい手掛りを教える私の熱心さに、ただもう感謝するばかりだった。だが、彼女が、もう私についてくる気持がないと見て、その家を出ると、こちらがすすめたオト探しをやめて給水塔のところにあった衛兵所に出向いた。隊長に会って彼女の逮捕と秘密厳守を要請した。けっきょく、こうした残酷な処置になったのは辛いことだったが、これまでの彼女のすべての行動のあとでの今夜の行ないが、すくなくともエミリにふさわしい最高のものだったと誰しも同意するはずだ。彼女は、その夜を留置場ですごした。義務を果たすということは、ときには何と困難であることか。彼女が呪った惚れた男がどこにいたかは私以外には誰も知っていなかった。彼女がオトを有罪だと思っているのに、彼女の涙で無罪だとして満足できようか?
たぶん、あまり遠くまで行かない前に、なぜオトを逮捕したのかを言ってやってもムダではなかったろう。彼が、警察と罰せられない約定をしていたにせよ、盗みに加担した痕跡を消すにせよ、連坐していないように工作する時間をあたえないために逮捕したのだった。だが、やさしいエミリを何の理由で拘禁したのか? 彼女がバリオル・ママのところに戻ると、酔っぱらい女のおしゃべりの中で、カファンのプラスになることを色々と思いだし、くどくど言うのを恐れたのか? しかし、その女は、ひとりでは立っていられない状態だったというではないか、と抗議されるかもしれない。私は、これを否《いな》みはしないが、読者に思いだしていただきたいことがある。つまり、じっさいに子供や酔っぱらいを実験した結果によって、しかじかの学者たちが、女をふくめた人間は、もともと四足獣だったと考える結論に達したという。あのときのエミリはケダモンでしかなかったが、家に戻ることはできた。そうなると、すこしは正気に返って、私のやり方が必ずバレていたろう。
おしどり夫婦
こうした用心を重ねて、もはやオトは私の手の中にあり、残るは三人の共犯者を確かめることであった。そのうちの二人は、どこで逮捕できるかはわかっていた。私は、本庁の刑事二名に同行してもらって、こんどは法の名のもとに改めてバリオル・ママの家を訪ねた。ママが、
「ああ、こんどは刑事《ふんどし》二人がお伴かい。いい感じじゃないね。用心しなくっちゃ。この旦那がたに何を差し上げたらいいんかしら?」
刑事たちに声をかけ、
「なにか召し上がって頂戴な。どう、一杯? 誰か、お友だちに用なの」
話しながら帳場の中をしゃがみこんで探し、ぼろ布につつんだ取っておきの酒が入っている金色の小さな瓶を手にした。
「かくしておかないとダメなんだよ。なにしろ女《あま》っ子たちときたら……でしょう。さァ、どうぞ。女どもと関わりあうとロクなことがないもんで。あたしの持ち物を売る話なら乗ってもいいよ。生きる手だてがある者は幸せね、見てちょうだい、あたしの物ったら、この椅子が一つだけ……貧乏神の皮をはいだみたい、骨が見える」
「そう、そのとおり。ついでに長椅子のことも言ったらどう。縫いつくろった足、きれいな髪と風になびいている立髪、まさにピレモンとバウキス〔ギリシア神話、夫婦仲のよいたとえ〕のようだと言うとこかね」
部屋の隅のテーブルによりかかって居眠りをしていた若い女が顔をあげた。
ママが、
「オヤ、お前かい、レアルちゃん、そこにいたのを知らんかった。お嬢さま、なんだね、その歌、お上品ぶってさ。ピレミスとボーとか……なんとか言っちゃってさ?」
「巫女《みこ》の三脚台〔ギリシア神話、神託を述べるときに巫女が坐った〕のようだと言ってるのよ」
若い女、フィフィヌが答えた。
「わかった、わかった。はらわたがハミでた椅子のことだろう。いつもは、そんなふうに言わないのにねェ。藁を詰めかえるよ。つまりね、みなさん、あの子は教イクを受けてる女で、あたしみたいな下司女じゃないんです。ああなったのも親のお蔭で、全財産をはたいてしまったくらいわかるでしょ。さァ、フィフィヌ、極道者のお客なんかおっぽりだして、こっちへおいで。お前に一杯やるよ」
「親切ね、ママ」
「ほかの者に言うんじゃないよ」
なみなみと盃に酒が注がれ、コニャックの表面に真珠のような二重の列ができる。
「ママは素敵ね。コスチコ・バルバロ〔野蛮な、沿岸国、エジプト以外のアフリカ沿岸国のこと。皮肉〕にいるみたいな人」
フィフィヌが皮肉を言ったが、バリオルが言葉をとって、
「さて、旦那さんがた、カプチン坊主〔カプチン会の修道僧、女郎買いをする僧侶の代名詞〕どものために酒を残しておかにゃなりませんかね? さァ、満杯にして乾杯っ。みなさんの健康を祝してっと。ここに一同そろって睦まじくし、いつの日か死なねばならんと申しまする。みなみな共に友だちになり、仲よきことは良きかなです。ああ、神さま、そうです、いずれは死なねばなりません。あたしは皺《しわ》くちゃになる。この世で、さんざ苦労したあげく、死のほうが強いのよ。この考えが片時も離れないわ……でも、まっ正直でいましょう。これが根本、それなら、いつも上を向いていられる……好みでないものに誘われることはないわ。とにかく、あたしは何時でも死ねる。お前なんか針の頭くらいのもんだとバカにしないでよ。ところで、あんたがた、なんだってこんな時間にやって来たの? 女の子がお目当てじゃないのね? みんな、おねんねしてるよ。(フィフィヌを見せつけながら)、見本が一人いるけれど、いちばんイカれてるよ。おおそうだ、ときにメリはどうしたの?」
「あとで話す。ローソクを貸してくれ」
「あんたが探しているのはカファンにきまっとる。これで厄介ばらいだ。あいつは間違いなくスケコマ師(女を食いものにする男)だよ」
「硬派のヒモだわ」
フィフィヌが半畳《はんじょう》を入れたが、バリオルが続けて、
「金があったタメシがないよ、あいつは。ねェ、ジュール、ちょいと、あいつのツケと敵娼《あいかた》の稼ぎを見ておくれ。女はロハで相手をしていることになってる。あんなやつらを、みんなやっつけたら、どんなにパリもさばさばすることだろう」
ヒモの部屋を案内したがったが、勝手知ったる他人の家、ママの親切に御礼だけ述べた。
「二番目の戸だよ。鍵は上にある」
間違えようもなく部屋に入り、逮捕するぞとカファンに告げた。
「おや、おや、なんのこった? なんだと、ジュール、おれをパクる?」
「なんと思おうが、なァお前、おれは魔法使いでもなんでもねェ、タレコミ(密告)がなかったら安眠妨害に来やしねェ」
「ふん、嘘もいいとこだ。間違いだ。おべっか婆ァのいうことなんか、取り上げるんじゃねェ」
「どう思おうと勝手だが、タレコマれたことは本当だった。眼にもの見せてやるぞ。牢に入るんだな」
「へェー、そう思いこんで水を呑んだって、ぜんぜん酔わないぜ」
「こいつ、鼻たかだかと御託ならべか? いいか、おれは帳場いじめにゃ興味はねェ。繰り返して言うが、もしお前がサンマルタン大通りでトタン板をガメて(鉛板を盗んで)夜警に捕まりかけたと知らされなかったら、とてもそうとは気付かなかったし、今、お前のとこに来やしなかった。はっきりしてるじゃねェか? おめェらの四人のうち、ゲロした(白状した)のが一人いるんだ。誰だと思う。そいつの名を言ってみな。あいつだよ」
カファンは、ちょっと思案して、笠をかぶっている馬のように不意に頭を上げた。
「おい、ジュール、おれたちの中のバラした野郎がわかったぜ。お武家さん(警視)の前へ連れてってくんな。おれもバラしてやらァ。現金で仲間を売るなァ、とりわけ盗みのとき、いちばんのワルじゃねェかね? おめェは別だ。むりしてイヌ(密偵)になりゃあがって。だが、もし、一発いいヤマを見つけたら、チョーホンさん(警視庁)をすっぽかすなァ知れたことだ」
「お前が言うように、な兄弟、いま知ってることが前もってわかるんなら、警察の御用なんかやらなかったと答えてェところだが、気が変わってな、じっさい、もう引っ返せねェんだ」
「これから俺をどこへ連れて行く?」
「シャトレの屯所だ。もし本当のことをゲロする決心なら、先に警視に来てもらってやる」
「合点、呼んできてくれ。オトの畜生をやっつけてやる。バラすことができたなァ他にはいねェからな」
警視が到着する。カファンは、彼の犯罪を自白したが、同時にオトに罪をかぶせることを忘れず、今回のことはオトの単独犯だときめつけた。すると、カファンは裏切者ではないことになる。二人の友だちも誠実さが欠けているようには見えない。ところが、おなじように寝ているのを叩き起こして別々に尋間したところ、あっさりと有罪を認めた。ところが、かれらの不幸は自分のせいだとするオト一人だけが、かれらは無実だと主張した。この〈新しい実行仁義〉という美しい姿のオトの健気《けなげ》な思いやりにもかかわらず、三人とも徒刑場に送られ、裏切者のオトは、かれらと一緒に犯行におよんだと宣告された。オトは、今でも牢獄にいるが、おそらく、あの奇妙な逮捕の一々を思いうかべつづけているにちがいない。
エミリ・シモネは、六時間そこらで釈放された。あとで巡回の者が行ってみたら、これまでに飲んだ酒のせいで半仮死状態になっていて、見えざる聞こえざる話せずで、過去のことはまったく思いだせない有様だったという。そして、その記憶によみがえった最初の微かな光で、彼女は愛人オトを呼んだが、この貞女に返事をするべき当人はロルスフェ(ラ・フォルス監獄)にいるのだった。彼女は叫んだ。
「かわいそうなひと。なんだって屋根の鉛をハガしに行ったの。なにもかも、あたいのためにしたんじゃなかったのかしら?」
それ以来、不幸なエミリは、どうしようもない有様になり、毎日、毒を飲んでは苦しむという典型的な見本のようになった。朝は、ほんの少しだけ飲んでいるなと見えても、毎晩、酔って……死んでいた。愛情と酒、酒と愛情の怖るべき結末!
たいした事件にはなるまいと思われた一つの盗みが、醜悪な人間模様をなぞることになる場合がある。しかし、その絵は、まだまだ汚い現実の非常に不完全な粗描でしかなく、そういう現実を良い文明の推進者であるはずの為政者が恣意的《しいてき》に与えてくれているのである。耐えねばならない。人々が肉体と魂を沈める堕落の淵は絶えず口を開けているが、そこに落ちることは、モラルの否定、自然の冒涜、破廉恥な罪である。これらの記述が放縦だと責めないでいただきたい。想像の火をあおり、淫らな賛成者を作りだすペトロニウス〔古代ローマの風刺作家〕の物語にあるものとは違うのだ。あれこれ悪い風習を記録するのは、それを普及させるためではなく憎ますためである。この章を読んで、こうした悪習と現実に恐怖を覚えない人は、それが、人間をギリギリの愚かなものにしてしまうとは思わないのだろうか?
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三三 捕物夜話あれこれ
私の評判
いちおうの分別がある一個人が、たった一つの目的に全力をかたむけ、たまたま、その目的が特殊なものである場合、競争すれば好結果が得られるというものではない。私の業績は、すべて右のようなものであって、盗賊を見つけだすという大きな能力にかかっていた。密偵になってからは、たった一つの考えしか持たなかった。つまり、すべての努力を定職を持たずに何もしないでいる人間に向けるように心がけた。かれらは、多少とも他人の所有権を犯すことに生活手段を求めることしかしない気の毒な連中である。私は、成功を夢みる野心を持ったことはなく、盗みを根絶できると信ずるような愚かな主張もしたことがなかった。どこまでも盗賊たちと戦いながら、すこしでも盗みを減らそうと望んだ。
私は、あえて言うが、密偵仕事のすべり出しは、さいわい私やアンリ警視の期待を上回ったものになり、嬉しいことに、早くも私の評判が高まったが、有名になったことで、かえって雇われた秘密がバレてしまった。それを知った瞬間、警察の仕事をやめるか、開きなおって務めるか、どちらかにせねばなるまいと思った。また、そのときから仕事がたいへんやりにくくなったが、私は、いろいろな障害を怖れなかった。熱意と奉公心があれば、当局が私にもってくれている厚意を失うようなことはないと思った。以来、悪人ばらと同類だというフリをする手は通用しなくなった。仮面が落ち、かれらの眼には、私は一人の密偵で、それ以外の何者でもなくなった。とはいえ、私は、ほとんどの同僚より恵まれた立場にあったので、私が証人にならざるを得ない場合、これまでの隠密行動ですごした時間が私を有利にした。つまり、これまでに関わりあった事件とか、記憶のなかで分類しておいたすべての事項の特徴や多くの情報の貯えがタメになったのである。だから、私は、人相を見るのが得意だったというポルトガルのある王様を手本にして、彼より確実に、いろいろな連中を顔付きで判断し、社会浄化のためだとして危険分子を当局に知らせることもできはした。当時の警察の自由裁量や行政拘留の権限力の下では、積極的な人相見の知識を活用して異常とも思えるような行動をしても差支えなかった。しかし、公共の利益のためには、もっと軽い気持で動くほうがやり易いように思える。事実、牢屋を一杯にするのは雑作もないことで、盗賊たちは、かれらの運命が最初と最後の役人の手のうちにあるのを知らなかった。かれらを無期限にビセートルに閉じこめておきたければ、まことかウソかの報告をすれば足りた。こうして、何人《なんぴと》といえども事実に反する判断をされ、また酌量もされた。とくに前科のある者は、この種の告発の決定に一段ときびしく従わされ、誰もそれをとやこう言えなかった。このほか、首都パリには、要注意の人物、あるいは理由の有無にかかわらず評判の悪い連中がいたが、手心は加えられなかった。
この抑圧の風潮は重大な不都合をもたらした。個人の権利を主張する者を度し難い不埒者として償いをさせるためと称し、無実の者に罪人と同じように罰金を科することができた。パリで、お祭とか何かの祝いの行事があると、他所者たちもわんさと集まってきて、当局は、舗道をきれいに片付ける、つまり一斉手入れをするには誠に好都合だったが、行事が終わると、拘留した者全員を自由にしてやらねばならず、いたずらに反感をたかめ、犯罪者仲間たちを分散させようとした同じ方法で団結したまま釈放してやることになった。以前の生活を断ち切って、まっとうな道に戻っているような者は、不当な検挙に故意に悪い習憤にもどり、心ならずも昔やったことを再びやらかす。悪事で鳴らした別の者は、行ないを改める直前だったのに、悪党どもの中に放りこまれて味噌も糞も一緒くたにされ、もう真人間に戻れなくなる。すると、こうした成行《なりゆき》につづく制度《しくみ》は、なお一層おぞましいものになり、容疑者たちに厳しくない係員でも、嫌疑の段階で現行犯にしてしまう人がいるのが想像された。そこで、私は、盗賊たちの各人がとくに最も得意とする犯行《しごと》について分類し、発生したことを種目別にして情報を分析できるように配慮し、盗みがあれば必ず報告されて主犯がわかるようにした。私の配下は、犯罪の片棒をかついだことのある男や女だったので、右の仕事は配下の者たちで十分にやっていけた。ただし、誰か相棒が先んじてタレこみ、部下たちの持分を荒らすような場合は、そういう者は一時的にカーテンのうしろに居らせるようにした。
この寛大なはからいは、もともと人間としての自然な気持からだったので、そのために正義が失われることはなかった。密告される者もタレこんだ者も、おなじ行先き地、牢獄へと到着した。罰を受けない者は誰一人もいなかった。タレこみ屋に助けられるのは嫌だった。とくに、かれらに罪状を認めさせたときに、その密告を多として口添えしてやらないのは嫌な思いだったが、パリ警察は、情に溺れるなとばかり、かれらの罪状をそのまま認めた。
――おれに言わせるなら、と私は自分に言い聞かせた。この手のタレこみ屋の罪をあばいたら悪いやつ一人はやっつけられる。もし、今日、やっこさんをケチったら、おれに渡そうとしている五十の密告犯罪が法の裁きから逃げてしまう。だから、その見込みのために、世のタメになる長い取引を連中としなくちゃならん。どうせ、おれと泥棒たちとの戦争は、どこまでも続くんだが、ただ敵との話合いで、やつらが勝手に泳ぐのを黙認してやったり、最初の違犯で自滅して、そこで万事が水の泡になるまで我慢したりしてきた。
相棒が相棒のギセイになる。私には、違反と抑圧のあいだを調停する権限はなく、裏切ったコソ泥が、もっと大きく裏切ったコソ泥に裏切られて亡んでいく。こんな具合に、私は、盗っ人たちが破滅することにおいて盗っ人たちの味方をしてきた。ここに私のやり方があり、すばらしい成果をあげた。七年たらずのあいだに四千人の悪党どもを司直の手に渡したことを知ってもらえば十分だと思う。こうして、盗賊たちのピンからキリまでが追いつめられたが、この数には(馬車の荷物を盗む)「蜂追い」は含まれていない。私は、こいつらを全滅させてやろうと心から切望し、その計画をやってみたところ、すんでのところで命とりになりかけた。忘れもしない、そのときのアンリ警視の決意の言葉はこうだった。
「なんでも巧くやれるとは限らないよ。こんどは立派にやってのけるところを見せなくっちゃ」
ゴスネとドレという名の、おっそろしく大胆不敵な二人の「蜂追い」が、やつらの仕事を絶滅してやろうという私の努力に怖れをなし、ふいと警察に協力する気になり、ちょっとの間に相当な数の仲間を逮捕させてくれて、逮捕者全員が有罪になった。二人は、いかにも熱心な様子だったので、かれらの指示で、なにかもっと高度の重要なこと、とくに盗賊よりもタチの悪い、表向きの商売ではたいへんまっ正直だという評判が高い大勢の故買屋を見付けださねばならなかった。ところで、二人は、いろいろと協力してくれて、かれらは頼りになると思った。そこで、月額百五十フランの手当てで密偵の資格を許可してもらいたいと願い出てやった。二人は喜んだのなんの、百五十フランは望外ですと言っていた。それをまた私は信じた。行く行くは仲間になるだろうと見込んでいたので、どこまでも信頼していることを示した。かれらが、この信頼にこたえたかどうかは、やがてわかろうというもの。
数カ月前から非常に巧妙な馬車荷の強盗二、三人がパリに来ていて犯行をつづけていた。被害の申し立てが警察に山積していたが、考えもおよばないような大胆さで襲撃し、現場を押さえるのはとても難しく、夜しか現われず、犯行時には、いつも完全武装をしていた。このような強盗を捕えることは、とりもなおさず私の名誉になるので、それを実現するために、あらゆる危険に立ち向かう覚悟ができていた。そんなとき、ある日、この件で何度も会っていたゴスネが言うには、
「なァ、ジュール、もしお前さんがモブリ強盗のマイエとヴィクトル・マルケと弟に当たりたいんなら、おれたちのとこに泊まりに来るしかないよ。そうすりゃ、いっしょに好きな時間に出られるというもんだ」
ゴスネが善意で言っていると信ずるほかはなく、ドレと一緒にいる下宿にしばらく逗留することに同意した。そして、まもなく私たちは、マイエとマルケ兄弟が例のごとく現われる通りや街路の夜の探険をはじめた。われわれは何度も連中と出会ったが、現場を捕まえるか、せめて犯行後の盗品運びを押さえたかったので、連中をやりすごさざるを得なかった。こうした散歩を幾度もして得るものがなかった折りしも、ふと、なんだか不安を抱かせる何かが私どもの仲間にあるのに気付いた。私との付きあいに何か窮屈なものが感じられ、なにか悪いツケを仕掛けているような気がした。かれらの考えは読めなかったが、万一を考えて、ピストルを持たずに出かけることはないようにし、かれらは、これを知らなかった。
ある夜、朝の二時に出かけることになっていたが、二人のうちの一人、ドレが、とつぜん腹痛をうったえて、ひどく苦しみだした。だんだん痛みがはげしくなり、のたうちまわって身体を折り曲げる。その状態で歩けないのはわかりきっていた。そこで、探索に出かけるのは翌日にすることにし、私は、なにもすることがないので横になり、うとうとしていた。ほんのしばらくして、はっと眼がさめた。ドアを叩くのが聞こえたような気がした。またも叩かれたので間違いでないことがわかった。
――誰だろう? おれたちに用とは? あり得ない。この隠れ家は誰も知らないはずだ。
と、そのひまに、仲間の一人が起きあがろうとしたので、動くなと合図した。ベッドから出かかったときに、聞くだけで開けるなと小声で言ってやる。彼がドアのそばへ行く。となりの部屋で寝ていたゴスネは動こうとしない。私は急いでズボンをはき上衣を着る。聞き耳をたててから戻ってきたドレが枕をつくろっていたひまに、彼の女が意味ありげな目くばせをした。なんとか読みとれた。足のほうのマットをめくってみた。何を見たか? たくさんの合鍵の大きな束と一本の鉄《かな》てこ。すべては明白、かれらの企みがわかった。では、その裏をかいてやろうと、だまって鍵を帽子、鉄てこをズボンの中に急いで入れ、こんどは俺の番だとばかり、ドアのところへ聞き耳をたてに行った。だが、たいへん低い声なので言っていることがわからない。しかし、そんなに朝早くやって来たのは目的がないわけがないと察し、次の間にドレを引っぱって行って、これから俺が何事か聞いてやるからとあらかじめ断った。
「好きにしなよ」
と彼が答え、さらにドアがたたかれた。私はたずねた。
「誰だ?」
「ゴスネさんは、こちらじゃありませんか?」
猫なで声が問いかえした。
「ゴスネさんは下の階だよ。おなじドアだ」
「ありがとう、起こしてすみません」
「なんの、べつに」
訪門者は下に降りる。私はまったく音をたてずにドアを開け、二足飛びに便所に入った。まず鉄てこを窓から投げ下し、次に鍵を投げようとしたとき誰かがうしろに入って来た。予審判事付きのスピケットという名の、私が知っていた刑事だった。彼も私を知っていた。
「おお、お前を探してたんだ」
「わたしを? なんで?」
「ん、まァ何でもないさ。予審判事のヴィニイさんがお前に会って話したいとさ」
「そんだけのことなら、パンツをはいてから一緒に行くよ」
「急ぐんだ。おれが場所を代わる。待ってろ」
刑事を待ち、いっしょに再び上にのぼる。
部屋は憲兵と密偵でいっぱいで、その中央にヴィニイ氏がいた。彼は、すぐさま、私と部屋の主人およびその妻女に言い渡すべき拘引状を読みあげ、次に、共助の依願に基づく誓約を果たすために厳正な捜索を命じた。私としては、この不意打ちがどこから出ているかを知るのは難しいことではなかった。とくに、スピケット刑事がマットレスを持ち上げ、何も見つからないでびっくり仰天し、ある仕草でゴスネを見やり、ゴスネが唖然となったのも予想どおりだった。私はゴスネの落胆を見のがさなかった。かなり苛立っているのがわかった。私のほうはまったく安心しきって言った。
「判事さん、面白いことになりますよという希望をもたせて、誰かが下手くそな失敗をさせたのが、やっとわかりましたよ。だまされましたね。ここには疑わしいものは何もありません。これでゴスネさんもほっとしたわけです。じゃないかね、ゴスネ、心配していないよね。だったら、判事さんに答えなよ。おれの言ってることを確かめるしかないが、いやいやながら語るしかあるめェ。魔術師でなくたって肝っ玉をぶすっとやれるんだ」
家宅捜索が終わった。われわれは縛られ、二台の馬車に乗せられて裁判所に連れて行かれ、「鼠捕り」と呼ばれていた小部屋に留置された。ゴスネやドレと一緒に閉じこめられたが、かれらの陰謀だと疑っていることを表わすのは控えた。正午になって尋問があり、夕方ごろ、二人の相棒はラ・フォルス監獄に、私はサント・ペラジ〔第三十章既出、一八九九年までパリにあった監獄〕に移された。この先、どうなるかわからなかったが、帽子の中に隠していた鍵束は、牢獄の出入口で頑張っていた監視人には気付かれないままだった。からだを探るのは怠らなかったが見つからなかった。といって、べつに怒ることもなかった。
すぐにアンリ部長に手紙を書いた。私をハメようとした陰謀のことを知らせて、なんとか無実を証せるだろうと告げ、二日後に自由を取りもどした。なんども検査されたが、幸い隠しおおせた鍵を持って本庁に顔をだした。すんでのところで一巻の終わりになるところだったと知り、ほんとうに危いところを遁れたわいとほっとした。ドレの女がいなかったら、私の気転がきかなかったら、間違いなく保護監察人の手に落ちたところだった……盗賊用具携帯、私には耳新らしい罪名であった。これに脱獄歴が勘案されて動機を濃くし、けっきょく牢にぶちこまれたのだった。アンリ部長からは、あやうく命とりになりかねなかった軽率な行動について大目玉をもらった。
ゴスネとドレもラ・フォルス監獄に長くはいなかった。かれらが出所したときに会いに行ったが、かれらの裏切りを察していることは知られないようにした。しかし、私は負けはしなかったが、急いで仇を討ってやろうと一匹の羊〔囚人の中に送りこむスパイ〕を送りこみ、かれらが盗みを働いたことを知り、かんたんに証拠も揃った。逮捕され宣告され、かれらは私のことを四年のあいだ考えることになった。かれらの運命を決めた宣告があったとき、私は会いに行くのを忘れなかった。そして、かれらの計画を知って裏をかいた顛末を話してやったところ、二人とも猛り狂って泣いた。ゴスネはオーレイ〔モルビアン県ロリアン郡にある町〕の牢獄に入れられたが、そこを脱獄して私への復讐の方法を考えたが成功しなかった。悔いあらためたフリをして神父に来てもらい、一般的なザンゲをするという口実で、かなりの数の盗みを告白し、その盗みに私を連坐させる工夫をした。私の偽りの加担の話は、秘密を守る約束にしていなかったので、聴罪司祭が当局に覚書を送り、私の容疑は甚だ黒いと申し立てた。しかし、このゴスネの暴露戦術は、彼がアテにしたような結果にならなかった。
これは裁判官の自由裁量によるもので、盗賊たちのあいだに増えているのだが、たがいにバラし合うという偏執狂《マニア》にたいする見解であった……もしゴスネがとったような表明が許されるなら、かれらを混乱の極にまで推しすすめたであろう。かつて、かれらは、社会の奥深くにいる、裏切らず寝返らない別の社会の者とされていたが、密集させないで群《むれ》ごとに締め出されだすと、それを怖れて昔からの仁義などおっぽって、自分が助かる便法なら、どんなことでも正しいのだという警報の叫びをあげるようになった。大きな盗賊一家の身内たちを結びつけている絆がいったん崩れると、めいめいが個人的な利益のために平気で仲間を売るようになる。世間のみんなが節目にしている、たとえば正月元旦、祝祭日、その他すべての祭典など、とくに目立った時期が近づくと、仲間割れのタレコミがたくさんあるものと心得ねばならない。密偵たちが「根こそぎ命令」と呼んでいた、名のある盗賊全員の逮捕命令から遁れるためには、大いに役に立つ情報を警察に提供する必要があった。かれらが抜かりなく密告してくる容疑者たちは、善良な市民を演ずるに汲々としており、居所がわからない仲間の誰彼には密偵を派遣せねばならなかった。こうして、牢屋は、すぐに満員になるのであった。考えてみると、このような一斉狩りこみの際、多くの誤りがないようにするのは不可能である。憎ったらしい不正のやからが罪を償わずにいることがよくあった。不運な労働者が、ほんの軽い刑が終わるというときに、そのまま労役に残留させられ、まじめに努めて過去の過ちを忘れようとしていた者が、プロの泥棒たちと一緒くたに考えられているのを知っているが、不服を申し立てる手だてすらない。
ブタ箱にぶちこまれ、翌日、おそろしいリモダン判事の前に引き出されて訊問に答えさせられる。その尋問たるや、ああ、神さま、である。
「名前は? 住所は? 判決に従うな?」
「はい、ムッシュ、でも、私が働きまして、その……」
「よろしい、次」
「あの、リモダンさま、私は……」
「だまっとれ、次の者だ。わかっとる」
黙らされた者は、どうか後生ですからと、いちばん言いたいことを主張するが、何年かの後に放免になり、無実の証拠をそろえ、あらゆる点で非がなかったことと、彼が履行した労役の数々の証拠をもって証明しようとするが、リモダン判事は、聞く耳もたぬと突っぱねる。
「そんな、くだらんことにかかわっていたら、きりがないわい」
この兇悪な尋問者は、ときどき、午前中だけで百人もの人間、男や女たちとの仕事を片付け、ある者はビセートル監獄、他の者はサンラザール監獄へ送りこむ。血も涙もない。彼の眼には、一瞬の過ちも許さないものがある。罪の泥道から抜けだした、なんと大勢の哀れな亡者たちが、こうした閻魔《えんま》判事のせいだけで元の泥沼に投げこまれたことか! この仮借のない厳しさの犠牲になった多くの者が改心したことを後悔し、ハナもひっかけてくれなかったことにヤケっぱちになり、いっそ名うての悪党になってやるぞと誓うのであった。ときには、こうした不運な連中が次のように言う。
「おれたちが、まっとうになるのに何をしてくれたというんだ? おれたちにした仕打ちを見ろよ。あれだけで一生を極道でいろと言われたようなもんだ。法律どおりに扱わねェで、なんで法律に従わすんだ? おれたちが改心できねェ人間だとするんなら、なんでまた有期刑にしたんだ? いったんは正道にあったのに、そこにいられないようにするんなら、無期か死刑にしてくれたほうがましだった」
この種の非難のぶちまけをたくさんいっぱい聞いた。ほとんどが同じ根拠によるものであった。一人の囚人が私の前で言う。
「サント・ペラジのムショを出てから四年になります。放免されてから、ずうっと同じ店で働き、邪道に入らず、世間も認めていたのはご存知のとおりです。ところが、どうです、やってもいないちゃちな罪でビセートルに送られ、そのことだけで二年もくらったんです」
総監は、この怖ろしい暴虐を知らなかったに相違ない。私は、そう信じたい。しかし、その暴虐は彼の名において行なわれたのであった。無茶なやり方が認められていたのか、それとも内緒でやっていたのかは別として、当時の警察官はたいへん怖ろしい存在であった。かれらの報告が絶対に信用できるものとして受理されたからである。もし民衆の一人が、危険で度しがたい泥棒だと知らされると、それだけで彼は逮捕された。いつでも、それが当たり前のこととされ、万事休す、なさけ容赦なくぶちこまれた。だから、当時は、密偵の黄金時代だった。個人の自由を侵せば収入《みいり》になったからである。このミイリは、じっさいは大したものではなく、検挙話のときは一エキュぽっちだったが、たった一エキュとはいえ、危い橋を渡らずに一人の密偵が他に何ができたか? おまけに、金額がわずかなら、あとで何度も同じ額を繰り返していただくことができ、その数を見込んでいた。いっぽう、お上の役にたって自由を買いたい盗っ人たちは、行きあたりばったりの嘘っぱちで、堅気になっていようがいまいが、知っている者みんなをタレこむ始末。この代償で、かれらはパリにいることができたが、やがて逮捕された連中が報復に出て、いやでも同じ仲間にされるのであった。
この忌わしい迫害のしくみが、もっと早くから中止されていたら、かれらを再犯に陥れた行政的な拘置処分を受けないですんだであろう。このような濡れ衣を着せられた人の数は想像にあまるものがあった。もし、かれらをそっとしておいてやったなら、自分の身を危くするようなことは決してしなかったのだ。だが、かれらの決意がそうであっても、またぞろ、どうしても盗っ人にならざるを得ない境遇に置かれたのであった。若干の者は、例外として釈放された。留置期限がくると、嫌疑をかけられたままビセートルへは送られなかった人たちである。そういう際には、娑婆に出てから仕事に就けないように身分証明書を交付しなかった。つまり、こういう連中は、飢え死にする身の上になったのである。だが、この、なんとも残酷な責苦に誰も甘んじてはいなかった。かれらは、死なずに泥棒になった。ごく普通のことだが、密告と盗みを同時にやった。
密告ばやりは、とても信じられないような勢いで盛んになり、それを証明する事実は山ほどあるので、どの例を示してよいか迷うほどである。盗みの知らせが少ないなと思っていると、密告屋どもが、本来なら自分らが宣告を受ける動機があるはずの犯罪を他人のせいにして暴露してきた。
いくつかの実例をあげてみよう。
ベイリイという名の、昔の女白浪がサンラザール監獄に囚われていたが、報せるネタがあるからと私を呼んだ。彼女に面会すると、もし自由にしてくれるなら、押しこみ強盗二件をふくむ五件の盗みの犯人たちを教えるというのであった。私は取引を承諾した。そして、教えてくれた内容が、いかにもちゃんとしていたので約束を果たすしかないと思った。とはいうものの、彼女が述べた状況をよくよく考えてみると、やはり、よくできすぎているので驚いた。彼女が教えてくれた泥棒の一人は、サントノレ街のヴィルジニイ小路にいるフレデリックという男だった。まず私は、その男のところへ行き、だんだんと尋ねてみたところ、その店主に害をあたえた盗みの張本人は、バラした女その者であることがわかった。さらに調査をつづけたところ、どこへ行ってみても、教えてくれた通報者がホシなのであった。
検証の開始手続きなどは、もはや問題ではなかった。異議申立人たちはサンラザールに出頭し、ベイリイと直接に立ち会わずに大勢の囚人と一緒にいるところを見せたところ、一同は完全に彼女を確認した。結果、引きつづき法的な対決が行なわれ、ベイリイは明白な事実の前に屈服して自白し、八年の禁錮重労働が適当と判断された。彼女は、終始、すべて己の咎《とが》だと言った。もっとも、この女は、別に二人の共犯者の盗みをバラしたので、道義的に容疑が酌量される度合いを高めたかもしれなかった。屠殺美人《ラ・ベル・ブーセール》というアダ名の別の女盗賊も、ベイリイと同じような暴露をやったが、ベイリイよりも幸せな末路にならなかった。
親不孝息子
ウアッスという名の男がいた。父親は、後になって食品屋プーランの訴訟に連坐したが、この男が三人の男のことを知らせてきた。かれらは、前日、サンジェルマン・オクスロワ街の煙草を売っている家に押し入った強盗犯人だというのだった。さっそく現場に急行して聞きこみをしたところ、さいきん放免になったばかりのウアッスが犯行に無縁でないという動かぬ証拠をつかんだ。しかし、そのことは伏せておいて協力させ、うまく彼をあしらったが、けっきょく共犯として逮捕されて懲役になった。この事件で、彼の密告癖は治るはずだったが、ぜひとも密偵になりたくて、ヴェルサイユに王がいた時代だったが、いろいろと検察官に偽りの言明をし、二、三年間の入牢に当たるとされた。前にも述べたように、盗っ人には根っからの悪意はないものだ。ウアッスは、出獄するとすぐに私のところへやって来て、またしてもある盗みのことを知らせた。だが、誰が彼を信じよう? その泥棒はウアッス本人だったのだ。追求されて屈服し、またぞろ断罪された。そして、この情けない男は、彼の拘留中に父親が逮捕されたと聞くと、さっそく父親にたいする告訴を証拠だてる事柄を私に知らせてきた。私としては、それを当局に移牒《いちょう》するのが義務だったので、そのようにしたが、この親不孝息子の行為に激しい怒りを感じないでは行なえなかった。
私の仕事では、正攻法で盗賊を挙げるのより、もっと効果のある警察流のやり方をするのは禁じられていたが、ぜんぜん盗っ人たちと接触しないで離れているわけにもいかなかったのでいつも盗賊たちを追っていて、そのくせかれらの運命が気になっているみたいな私だった。私は、犬だったのか、狼だったのか? こういう迷いは、かれらの気持に迎合していることになり、この迷いがあることが、私を中傷するには好都合で、ありもしない見のがしが私のせいにされた。しかも、盗っ人たちは、つんぼ桟敷におかれていたので、かれらは私を寝|技《わざ》師のたぐいに仕立てあげ、私としては心の中で思いやりの心情をもっただけなのに公然と私を敵視した。ときどき、盗っ人たちが、私がしているような仕事をやらされて困っていると不平をこぼしに来たが、そうすることで、つまりは私の助けになっていた。本職の盗賊たちのうちにも、警察に情報を求められたり、雇われて手助けするのを喜ぶやつらが少なくなかった。ほとんどが、かれらなりに説得されて、熱心に証拠あつめに全力をつくした。さもないと、なんらかの目こぼしにあずかったり、おかまいなしということにならなかったからだ。その行動を最も疑われていた連中にかぎって、たいてい、いつもお役に立ちたい気になっていた。
この件で思いだすのは、カデ〔泥棒用やっとこ〕のポワニョンこと、ブーシェという名の放免囚の事件である。三週間以上も探していたのだったが、たまたま、サンタントワーヌ街にある『黄金腕《ブラドール》』の看板がある酒場で彼を見つけた。私は一人だったが、彼は大勢の仲間と一緒にいた。彼は自分をまもって遁れるすべを心得ていたので、気どられないように現われて不意《エクサブリュト》につかまえてやろうと考えた。ブーシェは元警官で、私は仕事の上で知り合いだったし、一緒にいたこともあったので、友だちとして近づき、私流に一杯くわせてやろうと考えた。酒場に入ると、まっすぐ彼が腰かけていたテーブルへ行き、手を差しだして、
「よォ、カデ」
「おや、ジュールじゃないか。飲みにきたわけだな。なら、一杯たのむか、おれのをやれよ」
「お前のがいいや、あんまりやっていないじゃないか(私は飲む)。ああ、そうだ、ちょっと個人的に話があるんだが」
「いいとも、お前なら何でも」
彼は立ち上がり、私が腕をとる。
「覚えてるだろう、あのチビの船乗り、お前が御用にした?」
「うん、うん、ぶ細工な豆助野郎、二度目のお縄じゃなかったかな?」
「そう、そのとおりだ、おれが思うかぎりではな。やつを覚えてる?」
「誰しも親父のことはよく覚えていないようなもんさ。やはり、十三番の腰掛けでクサビ(獄囚の脚を繋留するための輪轄《わくさび》)をかけられていたのを見たままよ」
「ある男をパクったんだが、やっこさんのような気がするんだ。確かじゃねェ。ビラグの屯所に待たせてある。あそこを出たとき、お前さんがここに入るのが見えた。こいつはいいや、と独り言をいったんだ、うまいこと出会った、カデじゃないか、あいつなら俺が間違ってるかどうかがわかるというもんだ、とな」
「そんなことで役にたつなら、なァお前、いつでもオンの字だが、出かける前に一杯やろうや。(仲間たちに声をかけ)、なァみんな、待たしゃしねェ、ちょんの間のヤボ用だ、すぐ戻る」
私たちは出発した。屯所の入口に着くと、私は彼に、どうぞお先にと丁寧な態度で敬意をはらう。彼は部屋の奥まで行って、あたりを隈なく見まわし、私が語った男をさがすが見当たらない。
「おい、おれが見物する(識別する)囚人はどこだ?」
ときに私は、入口のそばの壁にはめこんだ鏡の破片に気付いた。たいていの警備隊に見られるもので、隊員のお洒落のためのものである。私はブーシェを呼び、鏡の破片を見せた。
「ほら、ここから見ることになってるんだ」
彼は見た。私のほうへ向きなおりながら、
「ははん、ジュール、おちょくったな。この鏡にゃ、おれとお前しか見えねェ。パクったやつは?」
「ここにゃ、パクられたお前しかいねェんだ。ほら、お前の逮捕状だ」
「くそっ、こいつァ、まっことヤクザのやり方だ」
「そんなら、お前は、世の中にゃ悪の上があるってことを知らんのか?」
「悪の上だと、勝手にほざけ、おとなしくしているのに一杯くわせやがって。ろくな目に遭わねェぞ」
重要なことを見付けだす道がひどくて難儀なときには、女の盗賊のほうが男の盗っ人より遥かに役に立った。一般に、女は、いろいろと取り入るすべを心得ていて、警察の捜査でも男より勝れているとされている。こまかいことに敏感で、かてて加えて、いつもじっと辛抱づよく目標にたどりつくようにできている。女は、相手の疑念をうすめ、どこでも疑いを起こさせずに入りこむことができ、さらに、女中や女の門番に渡りをつけるまったく特殊な才能がある。失礼でないように関わりをもったりお喋りをすることをたいへんよくわきまえている。打ちとけやすく見せかけ、同時に、内心はしっかりしていて、相手の信頼を誘うのに勝れている。最後に、女密偵に適する高度の資質がある者がかなりたくさんいる。警察は、彼女たちが献身的である場合、それ以上の要員は他に求められないだろう。
アンリ部長は利口な人だったので、ひどく厄介な事件には彼女たちを使うことがよくあったが、女たちの頭のよさを褒《ほ》めることは滅多になかった。私も、部長に見ならって、女密偵の役割に頼ることが多く、たいていの場合、彼女らの仕事ぶりに満足した。しかし、女の密偵というものは腹の底から堕落していて、おそらく男の密偵より当てにならず、彼女らを使う場合は、裏切られないように絶えず眼をくばっている必要があった。いかにも熱心に得意になってやっていても、いつも信用してはならないということが次の事例にあらわれている。
まじめに警察に協力するという条件で評判の高い二人の女盗賊を使っていいことになった。腕前のほどは前々から承知していたが、無報酬で雇われて、生きるためにやむを得ず盗みをして現行犯で捕まった。私は、この新しい悪事のための罪の期間を少なくしてやった。ソフィ・ランベールと娘のドメル、あだ名はリズちゃんが、このときから直接に私と関わりをもつようになった。
ある朝、二人がやって来て、お上が長いあいだ捜しているトミノという名の危険な男を間違いなく警察に逮捕させてやると言った。いましがた一緒に昼飯を食べたばかりで、晩になると、サンタントワーヌ街の呑み屋で会うことになっているとのことだった。だが、私は、ほかのことだったら女たちに欺されたところだったが、トミノは、その前の日に私が逮捕していたので、一緒に昼飯など不可能なことがわかった。しかし、女たちにペテンをやるところまでやらせてやろうと思い、いっしょに待ち合わせ場所へ行こうと約束し、事実、そこへ私は行った。だが、わかりきったこと、トミノは来なかった。十時まで待った。とうとう、ソフィが、しびれを切らしたふうに酒場のボーイをそばに呼び、男の人が訪ねて来なかったかと尋ねた。
ボーイが答えた。
「昼飯を一緒された方ですか? 日暮れ前にいらっしゃいましたよ。今夜は会えない、明日にしてくれ、との言づてでした」
このボーイが、前もって言いふくめられていた仲間であるのは疑いもないことだったが、私は、ぜんぜん疑っていないフリをし、女どもが、どのくらいのあいだ私を引っぱりまわすかを見守っていることにした。まるまる一週間、あるときは甲の場所、またあるときは乙の場所へ私を連れて行った。いつも、そこでトミノが見つかるはずだったが、けっして彼と出会うことがなかった。とうとう、一月六日になって、彼を連れてくると誓ったので、私は出かけて行って待ったが、女たちだけが現われて、私を怒らせないような巧い理由を口実にして言い訳をした。ところが、私は、反対に、彼女たちがしてくれた苦労に大満足なんだと言い、その満足のしるしに御公現菓子〔第十八章、公現祭の項の訳注参照〕をオゴるから食べてくれないかと申し出ると、女たちが承知し、一同そろってヴェルリ街の『プチブロック』店へ出かけて行き、菓子の中から空豆を引っぱりだし、ソフィの手に王様人形が当たった。彼女は女王のように上機嫌だった。食べ、飲み、笑い、別れる時が近づいて、この喜びを何杯かの酒で大いに盛り上げようと言いだしたが、酒場の酒なんかお呼びでない、せいぜい中央市場の人足どもにゃ上等だろうが、女王さまがお酔いになるにふさわしい飲物を差上げ奉ろうじゃないか、おれはツールニケ・サンジャンのそばに蒸溜所を持ってるんだ、ひとつ生一本の極上物を取りに行ってくるからと言うと、女は飛び上がって喜び、なるたけ早く行って戻ってきて頂戴とぬかした。私は出かける。二分もするとコニャックの半瓶を持って戻ってくる。あっという間に空っぽになる。半リットル瓶が空になったのを見て、二人の女に、
「ありゃま、おれは、なんて間抜けなんだろう。もてなしが足りないや」
「二人いるんだよ、ジュール、お説のとおり、このとおり」
ソフィが大声をだす。
「いいとも。ところでな、おれの仲間が女の泥棒を二人つかまえたばかりだが、やつらの家にゃ盗品がごってりあるらしいんだ。だが、ガサ入れをするには住居を知らなくちゃならんのだが、そいつを教えないと来た。そこでだ、今のところサンジャン市場の屯所に置いてあるんだが、お前さんらが行ってくれて、なんとか隠してることを聞きだしてもらえないかな。一、二時間もあれば、口を割らせるのはお茶の子だろう。抜かりのねェ姐《あね》さんたちだもんな」
ソフィが、
「心配無用、ジュール、役目は果たすわ。まかせておくれ。この世の涯《はて》でも行けというなら喜んで行くよ。すくなくとも、あたしは」
「うちだって」
リズちゃんも同調する。
「ではな、先方にわかってもらうために伝言を屯所に持って行ってくれ」
私が書いた封印した書付けを女たちに渡し、いっしょに店を出た。サンジャン市場から程遠くないところで別れ、そのまま様子を見ていると、女王と娘が警備隊のほうへ向かっているのが見えた。まずソフィが入って書付けを差しだすと、軍曹が読み、
「よろしい。両名だな。伍長、四名の兵と共にこの御婦人たちを警視庁に連行しろ」
この指示は、酒を取りに外に出たあいだに私が命令の形で軍曹に書いたもので、次のような文面であった。
『屯所長殿は、総監命令で逮捕したソフィ・ランベールならびにリズ・ドメルなる名の者を確実かつ適切に警視庁に連行されむことを』
ときに、二人の女は奇異な思いにとらわれ続け、私がふざけてそんな目に遭わせているんだと勘ぐった。それはともあれ、翌日、私は二人に会いに留置場へ行って居心地はどうかと尋ねると、ソフィが、
「悪かないわ。悪かないわよ。あたしたちゃ盗んじゃいないんだから」
リズに向かって、
「お前がヘマしたんだ。パクられてる男を探したりしてさ」
「知らんかったもん、そりゃ、まァ、知ってたら、きっと、あんたに……で、どうしようというの、できた子供は、あやすしかないわ」
「なにもかも、けっこう毛だらけ、猫灰だらけ。あとは、どのくらい別荘ぐらしになるかだわ。ねェ、ジュール、言って、あんた知ってる?」
「せいぜい六カ月だ」
「それっぽっち」
一斉に二人が声をあげ、ソフィが続ける。
「六カ月、屁でもないわ。すぐに経っちゃう。あっという間よ。つまりは、お恵みのイエスさま、どうかサツに御心を、だわ」
彼女たちは、私が言ったのより一カ月少ない刑期ですんだ。そして、自由になるとすぐ、新しい情報を知らせに私のところにやって来た。こんどの情報は確かなものだった。ふつう、女の泥棒は男の盗賊より性根が治らないもので、これが目立った特徴である。ソフィ・ランベールは、身についた罪悪を絶対に棄てることができなかった。十歳のときから盗みの道に入り、二十五年間の三分の一以上を牢屋ですごした。
私は、警察に入って間もないころに彼女を逮捕し、二カ年の拘留になった。彼女が、その悪事を行なったのは主として客の多いホテル内であった。誰しも門衛の見張りを器用にゴマ化したり、かれらの質問をかわす術に長《た》けてはいないものだが、とにかく、彼女は、いったん入りこむと、各階段の中途で立ち停まって周りを見まわし、どこぞのドアの鍵を見付けると、音もなく錠をまわして部屋にすべりこみ、部屋の主が眠っていると、浅く軽い眠りかもしれないが、ソフィの手はもっと軽く、根こそぎ、時計や宝石やお金などをそっくり〈獲物袋〉に取りこむ。この名称は、上っ張りで覆い隠してある秘密のポケットに彼女が付けたものである。もし、ソフィが入った部屋の主が起きていた場合は、まちがいましたと詫《あや》まって出て行く。仕事中に眼をさましたら、どぎまぎせずにベッドに駈け寄ってぐっと抱きしめ、
「ああ、かわいいミミちゃん、キスさせて」、と言ったり、「ああ、ムッシュ、ごめんなさい、あら、ここ十七号じゃないの? 恋人《アマン》のところだと思った」
てな調子でゴマ化してしまう。
ある朝、ある商社員が、彼女の盗みの最中に、ふと眼をさまして箪笥のそばの女を見てびっくり仰天、すかさずソフィがその場をゴマ化しにかかったが、厚かましい男で、嘘の間違いを利用してやろうと考えた。もしソフィが逆らえば、じたばた争って銭コの音がして部屋に来た目的がバレるかもしれない……もし言いなりになると、さらに、危険が大きくなる……どうしよう? なにはともあれ、いっそう事は面倒になるばかりだ。ソフィは、つれない態度はとらず、ある偽りの仕草の助けをかりて難儀を切り抜けた。男は満足し、帰らせてくれた。彼は、そのたわむれで財布と時計、毛布六枚を失っただけだった。
この女は、なんとも図々しい生物で、二度も私の網にかかったが、こんど出獄してからは、罠にかけてみたがムダだった。それだけ自分で要心していて、これ以上、監視をつづけても、まんまと法網をのがれるのが落ちだった。そこで、現行犯で捕まえる努力はやめて、まったくの偶然の場合にたよることにした。
わが家を出て、あけぼのの光のなかをシャートレ広場を横切っていたら、ばったりソフィと鉢合わせになった。気軽に私にスリ寄ってきて、
「こんにちわ、ジュール、こんなに朝早くからどこへ行くの? 友だちの誰かをパクリに行くにきまってるわよね?」
「かもね……お前じゃないことだけは確かだ。だが、そういうお前はどこへ?」
「コルベイユ〔パリの南三六キロにある町、コルベイユとエソンヌの二地区〕へ行くのよ。妹がいて、どっかの家に落ちつかせてくれることになってるの。学校(牢獄)の飯にゃうんざり、脂ぎらなくっちゃね(肥る)。一杯どう?」
「よろこんで。おれがオゴるよ。ルプレートルの店の魚、六ソルだ」
「行きましょう。まかせるわ。でも、急がなくっちゃ、急いでるのよ。いっしょに来てくれないかな? いま、急いでるのはドーフィン街なんだけど」
「だめだ。教会に用があるんだ。もう遅れているんで、ほんのちょっと、一杯しか付き合われねェ」
ルプレートルの店に入った。飲みながら二、三の言葉をかわしてアバヨを言った。
「じゃねェ、ジュール、うまくやんなよ」
ソフィが遠ざかっているあいだに、私は、オームリ街を迂回して駈け、プランシュ・ミブレ街の角に隠れた。そこから、両替橋の上を大急ぎで行く彼女が見えた。大股で歩きながら、たえず背後を見ている。たしかに、つけられるのを怖れている。それなら、ひとつ、つけてやろうと決心した。そこで、ノートルダム橋まで行って急いで渡り、見失わないように早いとこ河岸に着いた……ドーフィン街に着くと、彼女は、実際にコルベイユ行きの馬車発着所に入って行った。しかし、彼女が朝早くから出てきた目的は別にあって、あの話は私をだますためのいい加減な作り話にすぎないと確信し、発着所から出てくるのが見える路地に身をひそめた。張りこんでいると、辻馬車が通りかかったので、そいつに乗りこみ、これから教える女を巧くつけてくれたら酒手をはずむからと御者に約束した。ほんのしばらく、私たちは停まって待っていなくてはならなかったが、まもなく一台の馬車が出発した。しかし、たしかに乗っているはずだと思ったソフィは乗っていなかった。だが、数分後、彼女が車の出入門に現われた。あたりを用心ぶかく見まわしてから、元気いっぱい歩きだし、クリスチィヌ街を急ぐのであった。
彼女は、次から次と数多くのアパートに入っていった。しかし、その歩きっぷりから見て、どうやら間《ま》がうまくないことがよくわかった。だが、しつこく同じ区域をあさっている……自然、私は、仕事がうまく運んでいないなと結論し、まだ物色が終わっていないことを確信し、お邪魔をしないように気をくばった。とうとう、アルプ街で、とある果物屋の入口から入って行ったかと思うと、とたんに大きな洗濯物の籠をかかえて出てきた。やっと重そうに持っていた。ゆっくりと、まもなくマチュラン・サンジャック街からマソン・ソルボンヌ街にさしかかった。ところが、ソフィにとっては運悪く、その道はアルプ街からマソン街に通じていた。私は辻馬車を降り、走って行って待ち伏せをし、まさに彼女が通りの出口に来たときに飛びだした。ばったり面と面が向かいあった。彼女は、私の姿に、さっと顔色が変わり、なにか言おうとしたが、あまりどぎまぎしたので言葉の糸口がつかめない。だが、すこしずつ落ち着きを取りもどして何食わぬ態をよそおい、
「女が怒ってるのよ。洗濯女が大急ぎで下着を持ってくることになってたのに約束をたがえたんで、取り戻して友だちのところでアイロンをかけてもらいに行くところなの。だから、邪魔しないで」
「おれも同じなんだ。教会へ行ったところ、誰かが言うには、目指す男はこっちの地区にいるというんだ。だから、ここへ来たんだ」
「けっこうじゃないの。あたしを待ってくれるんなら、すぐそこへ籠を持って行くから、焼肉でもやりましょうよ」
「そんな心配はいらんが、おれは……オヤ、はて、なんの声かな?」
ソフィと私は唖然として立ちすくんだ。するどい叫び声が籠から洩れ出てくる。私が、覆っていた布を持ち上げて見ると……二、三カ月の赤ん坊がいて、その泣き声は死人の鼓膜も破れんばかり。
「ふむ、この赤ん坊は、お前の子に違いあるまい。男か女か言えるな?」
「ほら、また、そんなこと言って、あたしを困らせる。この恨み忘れないからね。なぜだと訊かれたら返答はこうよ。なんでもありません。なんでもないと言っていいんです。子供がいたというだけのことです。それとは別に、下着を盗ったことなら関わりがありますが」
「この雨傘は赤ん坊のものかな?」
「ちきしょう、そうよ、見てのとおりよ。あたしが差したって邪魔にゃならんわ。その必要があるなら、誰だって……」
私はソフィをフレーヌ警視のもとに連れて行った。その近辺に彼の駐在所があった。傘は証拠品として保管され、知らずに掻っぱらった子供は、すぐに母親に返された。そして、その女泥棒は五年間の入獄になったが、たしか、五回目か六回目の服役であった。以来、彼女は、なおも審きを受けることを繰り返し、いつもサンラザール監獄にいると聞いても私は驚かない。ソフィは、自分がしている仕事がごく当たり前のことだとしか考えず、仕事をさせないようにする規制は、彼女にとってはまったく別の事柄であった。だから、牢獄は怖くなかった。それどころか、そこは自分の縄ばり区域みたいなものだった。
ソフィは、牢獄で、怪しげな楽しみの契りを結び、昔のサッポーの実例を正当化するというのではなかったが、牢内では、恥ずべき堕落行為にふけることがたいへん頻繁に行なわれていた。これは、誰でも考えるように、牢内でも、ほんの少しは自由があるのが動機ではない。いったん逮捕されると、なんらかの苦痛な出来事が身の上に起こるが、それは一時的な感じにすぎず、やがて自分が好きな習慣を当てにして自らをなぐさめるようになる。それが、この女の奇妙な性質だったと判断される。たとえば、悪の交際をしながら一緒に暮らしていたギリオンという女が盗みで捕まった。この女の共犯だったソフィは、うまく遁れて怖れることはなかったのだが、女友だちと別れるのが我慢できないで自首し、二人一緒に二年間という判決を読み上げられたとき、やっと安心したという。この種の女たちのほとんどは牢屋を遊び場にしている。単独犯の軽罪なのに、仲間の女の共犯者として起訴され、いっしょに送致される多くの女を見た。そういう女は、たとい無実であっても甘んじて罪の宣告を受けて、自分の快楽を取るのである。
神父と宝石商
同盟軍が、はじめてパリに侵入した時より少し前〔一八一四年三月、ナポレオン敗退後にオーストリア、ロシアなどの同盟軍がパリに侵入、その後一八一五年六月にもパリを占領〕、セナール氏が友人のリヴリ地区〔パリ北東郊外地区〕の神父に会いに行った。この人は、パレロワイヤル界隈の一番の金持の宝石商だった。神父は、その善良な友人が敵兵に掠奪されるのが眼に見えている今日この頃、彼もまた狙われる物を持っていて戸惑っていた。まずは聖なる壺、次は、ささやかな貯え、これを兇暴なコザック兵から守ることが問題であった。神父は、職業柄、土に埋めることには慣れていた。ながいこと、ためらった揚句、守りたい物を隠すことに決め、セナール氏も、そこらのバカやケチン坊なみに、今にもパリが掠奪されるかのように想像し、店にある一切の貴重品を神父と同じ方法で安全な場所に隠そうと決心した。そして、二人の財宝を同じ穴に入れることに意見が一致したが、さて、その穴を誰が掘る?
聖歌隊で歌っている正直者の見本のような男、モアズレのオヤジさんがいい。そうだ、あの男になら全幅の信頼がおける。びた一文ごま化すようなことはない。三十年このかた、樽《たる》屋をしていて、司祭館のブドー酒を壜詰《びんづ》めにするという彼だけの特権的な仕事をし、そこで上等なやつをいただいていた。教区の財産管理委員で香部屋係と食品係を兼ね、鐘|撞《つ》き男で寺男、主任司祭の従者もつとめる。必要なら朝早くから起きだし、馬鹿か利口か、信心者か罰当たりか、そんなことは別として、とにかく申し分のない奉仕者の資格を備えていた。こうした事情のもとでは、モアズレに眼を向けるほかないことは初めからはっきりしていたことで、彼が選ばれたのであった。隠し場所には、えらい苦労をしたが、まもなく保管する財宝を受け入れる用意ができた。約二メートル立方の土が神父の用地に投げだされ、セナール氏が十万エキュの値打ちがあるダイヤモンドを小箱に入れて隠した。穴が埋められて完全に土が平らにされ、天地創造このかた断じて動かされていないように見えた。セナール氏が揉み手をしながら、
「モアズレの親方、みごとにやってくれたわ。誓って、コザックの兵隊は、こいつを見つけるほど鼻ききじゃあるまい」
数日後、同盟軍は新たな進撃をし、あらゆる色の、さまざまな遊牧民であるキルギス人やカルムク人やタルタール人の兵士たちがパリ周辺の野原に散開した。この迷惑なお客さんたちは、ご存知のように、ひどく獲物にがっついていて、至るところで眼にあまる狼籍をはたらき、かれらに何かを奪《と》られなかった住民はいなかった。かれらは略奪に熱狂し、地上だけでは飽きたらず、地球の中心までが我が物だとばかり、厚かましい地質学者が求める物を取りこぼさないように、群をなして地下に探りを入れた。ところが、残念なことに、この国の国土には、つまりフランスの地下の深いところには、ペルーほど金や銀の鉱石はないのである。しかし、かれらは、ついぞなく活発に掘りかえし、かれら好みの似たり寄ったりの発見をしたが、てっきり隠し場所だと思ったのが空っぽのときは、大地の片隅から百万長者になるはずだった者たちをがっかりさせた。呪われたコザック兵たち。また、たしかな勘で掘る所を当てた者も、神父の隠匿場所へはみちびかれなかった。まるで、天の恩寵だった。毎朝、陽が昇り、目新らしいことは何もなく、陽が沈むときは、なおさら目新しいことはなかった。
モアズレが執行した推測不能の埋葬の秘密は、神さまの指のほかは断じて知られないものだった。セナール氏は、すっかり感激し、とどのつまりは、ダイヤモンドを安らかに保管休息させた自分自身への感謝と神さまへのお祈りがごちゃ混ぜになってしまった。大願成就を確信し、だんだん安心が大きくなって、枕を高くして眠れるようになったが、ある晴れた日、たしか金曜日だったが、モアズレが、生きている人間というよりも死人みたいになって神父のところへ駈けこんだ。
「ああ、和尚さん、もうだめだ」
「どうした、モアズレ?」
「とても言えねェ、気の毒な和尚さま、ガンと一発くらわされ、まだ突っ立ってはいやすが、逆さにされたって、もう血のひとしずくも出ねェ」
「なにがあったんだ、怖がっとるな」
「隠し場所が……」
「神よ、助けたまえ。それ以上は言わずともわかっとる。ああ、怖ろしい、戦争の災い。ジャネトン、ジャネトンや、さァ、早く、靴と帽子だ」
「だが、和尚さま、朝飯前で」
「朝飯などどうでもよいわ」
「なんも食わんで出かけると胃けいれんが起こるのは承知でござんしょう」
「靴だと言ってるんだ」
「胃が痛んで、うめきますぜ」
「胃なんかどうでもいい、そうじゃ、どうでもいいんだ。破産したんだ」
「破産したと……イエス・マリアさま、お助けの神さま! そんなことってあるもんか? ああ、和尚さん、では、駈けて……駈けてくだせェ」
神父は、モアズレに合わせて駈けていたが、食べずにいる苦しさのあまり、速い足について行けない。モアズレは、彼が見たことを嘆きながら語る。
「ほんとに確かか? ひょっとしたら全部はやられてないんじゃないか」
「ああ、和尚さま、どうか神さまよ、です。そこんとこを見とどける勇気がござんせんでした」
かれらは一緒に古い納屋のほうへ向かったが、さて、なにもかも完全に奪い去られていることがわかった。神父は、つくづく己の不幸を考えているうちに、あやうく引っくり返りそうになった。いっぽう、モアズレは、同情する側だったが、この男、もし彼個人の損害だったら、神父以上に嘆き苦しんだに違いない。それでも、彼の溜息や呻《うめ》き声が聞こえたが、それが隣人愛というものだった。セナール氏は、リヴリに隠して安心しきっていたので、その悲嘆は、いかにも大きなものだった。事件の報せを受けたときの彼の絶望はいかばかりだったろう。パリでは、盗難に遭った者にとっては警察がお助けの神様である。セナール氏の最初の考えは、ごく自然の考えであるが、その盗難はコザック兵の仕業だとし、そう訴えて出た。この仮定のもとでは、警察は大したことはできなかったが、セナール氏は、どうしてもコザック兵が無実であるとは思えなかった。
ある月曜日、私はアンリ部長の部屋にいたが、かさかさ、こせこせした、ちゃちな一人の男が部屋に入ってくるのが見えた。一見して、我利で猜疑心の強い男と知れた。それがセナール氏であった。彼は、手短かに今度の災難のことを語り、モアズレには大して好感をもっていないと話を結んだ。アンリ部長は、彼なりにモアズレが窃盗の本人だと考え、私も同意見だった。
「ただし、これはたいへん結構な考えだが、臆測に拠《よ》っているにすぎない。もし、モアズレが、軽はずみなことをやっていないなら、納得できる捜査は不可能だ」
「不可能ですって? そんなら、わたしはどうなるんです? いやですよ、あなたがたに頼んでもフイになっちまうなんて。やる気をだしても、何もわからん、何もできん、ですか? わたしのダイヤモンド。かわいそうなダイヤモンド。あれを取り戻してくれたら十万フラン差し上げますよ」
「もし泥棒が抜かりないなら、その倍を出しても、わからずじまいさ」
「ああ、ムッシュ、絶望させるんですか」
宝石商は、熱い涙を流しながら部長の前にひざまずき、
「十万エキュのダイヤモンド。あれを失くしたら嘆き死にをします。お願いです、後生です」
「後生か、軽く言ってのけるが、そうだな、その男が大悪党でないなら、腕ききの部下たちを張りこませたら、たぶん、やつの秘密を引っぱり出せるかもしれん」
「御礼はどのくらい、お金はないんです。五万フランの成功報酬では?」
「うむ、ヴィドック、どう思う?」
「厄介な事件ですが、私がまかされたら、名誉にかけてやりますよ」
「おお」
セナール氏は、愛情たっぷり私の手を握りしめながら、
「生きかえった心地です。けちけちしないで下さいよ、ね、ムッシュ・ヴィドック、いい結果のためなら金に糸目はつけません。財布をあずけます。どんなギセイもいといません。で、勝算は?」
「まァね」
「なら、わたしの小箱を見つけてくださいね。一万フラン差しあげます。一万フランです。大口たたくようですが、嘘は申しません」
セナール氏は、だんだん値を下げたが、どうやら彼には発見が確実らしいと思われてきたらしいこの際、力いっぱいやって発見してやると約束してやった。ところが、まだ何にも手をつけていないのに、さっさと告訴してしまい、けっきょくは、セナール氏も神父もポントワーズ〔パリの北西二七キロにあるヴァルドワーズ県の主邑〕に帰って行ってしまった。そして、両人の申し立てによって犯罪が確定してモアズレが逮捕され、尋問を受けることになった。結果、決定的な犯罪の自供を得るために、あらゆる点を取りあげて尋問したが、彼は、あくまで無実を言い張って、反証がないので拘置理由がなくなってしまう。そこで私は、できれば彼をしっかりマークしておこうと、部下の一人を彼の身辺にもぐりこませた。
部下の男は、軍服姿で左腕を包帯で吊り、宿泊証をもってモアズレのお上さんのところに入りこんだ。病院に通うため四十八時間のあいだリヴリに滞在できることになっていた。ところが、到着してすぐにどこからか落っこち、命令がねじ曲げられて勤務から外された。その時から足止めの状態になって、町長は、彼が完全に恢復するまで樽屋の妻の客人たるべしと決定した。
モアズレのお上さんは、気のいい陽気な肥った女といったタイプで、負傷した新兵さんと同じ屋根の下で暮らすのはまんざらでもなかった。彼女は、若い兵士を自分のそばに引きとめた事故に嬉しがって一役買った。彼は、亭主の留守のあいだの女房をなぐさめることができたし、彼女は、まだ三十六歳にはなっておらず、まだまだ女が慰めをいやがらない年齢であった。それだけではなく、口下手な言葉で、酒呑みは嫌いだというモアズレのお上さんをたしなめ、これが、ちょっぴり田舎者の評判をよくした。ニセ兵士は、彼女が接するすべての弱者、女子供や動物などを抜かりなく可愛がった。さらに、率先して彼女の役にたち、その職人の女房の機嫌をとりむすぶために、ときどき酒を振舞い、かなり立派なバンドをゆるめて尻帯を外すのであった。
樽屋の女房は、親切づくしにメロメロになっていた。兵士は読み書きができたので、お上さんの書記みたいになった。だが、彼女が愛する亭主に宛てた手紙からは、彼が事件に関わっていることは窺《うかが》えなかった。二重の意味があるものはまったくなく、無実の者が無実であるという潔白性を表わすものであった。書記は、モアズレのお上さんに同情し、拘留されている旦那を気の毒がり、なんとか釈放の道をと、ありとあらゆる方法を語って、心の広い思いやりをひけらかした。しかし、お上さんは、そんな言葉にだまされるほど甘くはなく、いつも警戒していて、行動より言葉のほうに気をくばった。けっきょく、幾日間も験《ため》してみたが、私の腕ききの部下も、任務の成果としては何も引きだせなかったことが明らかになった。
そこで、私は、自分で動こうと思い、行商人に変装してリヴリ界隈を歩きまわった。シーツ、装身具、ルアン綿布などなどの、よろず屋のユダヤ人になりすまし、金銀宝石類その他、何でもござれの両替も引き受けた。その辺りの土地カンのある、昔は泥棒だった女がお伴をしてくれた。有名な盗賊、ジェルマン・ブージエ、一名『屋根瓦のとっつぁん』の後家さんであった。彼は、おおよそ六年ほどの判決を受け、ちかごろサント・ペラジ牢獄で死んだばかりであった。彼女も十六年の刑でズルダン〔セーヌ・エ・オアズ県ランブイエ郡にある町〕の監獄に入っていたが、恭順と献身の態度から『修道女』と言われるようになった。女をスパイしたり誘惑するには安物の小間物や装身具で餌付《えづ》けするにかぎる。彼女は、いわゆる超一流の釣り糸師であった。私は、モアズレのお上さんが、元女白浪のお弁ちゃらと私の商品に誘われて、うまく呼吸が合ったときに、神父のお金とか、もっとピカピカの金貨や聖盃や聖皿を持ちだしてくるものと思いこんでいた。ところが、私の計算どおりには運ばず、樽屋の女房は乗って来ず、おべっかでは丸めこめなかった。
モアズレのお上さんは婦女の亀鑑《かがみ》であるわいと感嘆し、彼女を承服さす何の証拠もない以上、この新しい作戦では時間を損しただけだと悟り、こんどは亭主に仕掛けてみようと考えた。そして、まもなく、ユダヤ人の行商人はドイツ人の下働きの男に変身し、その変装姿で、逮捕されるつもりでポントワーズ周辺をうろついた。私は憲兵を求めて歩った。出会ったら避けるフリを上手にしようと思った。かれらを避けていると思わせ、身分証の提示の催促をさせる。かれらは、私が持っていないと疑うにきまっている。こうして、かれらは私をつかまえ、さァ出発だ、いっしょに来いと命令して司法官の前に私を連れて行ったが、質問に答えた私のデタラメ外国語がわからず、ポケットの中に何があるかをとくに知りたがり、ただちに彼の面前で徹底した検査が行なわれた。かなりの金と二、三の品物が出てきたが、私が持主であることに驚いたはずだった。司法官は警視みたいに首をひねり、どこからその金や品物を持ってきたかを、あくまで知ろうとした。私は、いい調子で二、三の悪態を吐いてニべもなく突っぱねた。すると、司法官どのは、別の場所でお行儀を習わせてやるといって私を未決監獄に送った。
さて、私は入牢した。私が着いたとき、囚人たちは庭で休憩していたが、看守が皆のところへ連れて行き、こんな言葉で紹介した。
「でくの棒を一匹つれてきた。できたら仲良くしてやんな」
それっとばかりに一同が私のまわりを取りかこみ、ランズマンだ、マイナーだ、と名乗って入所祝いの言葉をかけ、いつ終わるともわからない始末。この歓迎のあいだじゅう、眼、眼をさがした、樽屋の眼を。職人と田舎者の半々の眼にちがいあるまいと思った。みんなが一斉に私にかけた声のなかでランズマンと発音した猫なで声の主、いつも祭壇の残り物で生きている教会鼠に集約できる、そうなってしまうのだが、肥りすぎない身体つきで、いくぶん痩せぎすな健康にかがやいている男。狭まった頭蓋、顔のてっぺん、つまり頭と同じ高さについている小さな茶色の眼、でっかい口、その顔をしげしげ見ると、なにかひどく不吉なものが感じられ、そのくせ、全体としては、悪魔にでも楽園の戸を開けてやるといった優しさがあった。かてて加えて、その肖像を仕上げるならば、その服装からして少なくとも四、五世紀ごろの昔の人物像の観があり、廉直で聞こえた老人たちが、いつも個人のために意見を述べた国にいる人のようであった。
このたびの手のこんだ悪事が、モアズレの仕業にちがいないと何故そう考えるのか私自身にもわからなかった。見たところ善良そうで、老人たちが一致して彼を教会の仕事に投票し、そういう年寄りたちと同じような恰好をしている。その他、とくに目立ったところはなく、一対の眼鏡が立派な鼻に乗っており、あかるい色合いの四角ばった薄茶色の上衣、短いズボン、古い型の三角帽と雑色の靴下、こんなものが私の注意をひいた特徴であった。しかし、姿かたちはととのっていたが、私の考えが正しいと信ずる十分な動機があった。それを確かめてやろうと思い、モアズレを知っているらしい囚人に声をかけた。
「モッシー、モッシー、聞いてくんろ、兎《うさ》コの旦那(名前を知らないし、肉色の服を着ていたのでこう呼ぶ)。とても、おっかねェ。舌がまわらん。飲め、フランス人。おら、|みめじ《ヽヽヽ》だ。おら、ブド酒を|飲む《トリンク》。たくさん、うまい酒|のむ《トリンク》。|黒い、酒《シュヴァルツ・ヴィント》」
こう言いながら彼の黒い帽子を指さす。彼は、私の言っていることがわからないが、飲むように合図すると、ちゃんとわかってくれた。私のオーバーのボタンは、みんな二十フラン貨で代用してあるので、その一個を相手の男にくれてやって、酒を都合してくれとたのんだ。しばらく待っていると、番人が大声で言うのが聞こえた。
「モアズレのオヤジ、二本、上《うわ》のせだな」
『肉色の服』がモアズレだったのだ。私は彼と一緒の部屋にいるのだ。私たちは二人の鐘撞き男のように飲みはじめた。別口の二本が差し入れられ、なにもかも二人一緒におっぱじめた。聖歌隊員、樽屋、香部屋係などなどの肩書きがあるせいか、モアズレは、しゃべる前に酔っぱらってしまった。たのしみの音頭をとり、私みたいにチンプンカンな外国語を使って話すのをやめなかった。
「わしゃ、とってもドイツ野郎が好きなんだ。ここで寝てくれや、のう、皇帝派《キンゼルリック》」
そのうち、看守が一緒に飲みに来たが、彼の横に私のベッドを作ってくれとたのんでくれた。
「おぬしのだ。満足か、キンゼルリック?」
「おめェと同じだ、満足だ」
「おぬしのために、しこたま|飲んだ《トリンケ》」
「おれも、|しょっちゅう《チュシュール》トリンケ」
「いつもトリンケだ。ポン友、もっと酒だ」
私の仕事は着々と成就しつつあった。この状態が二、三時間つづいてから、酔ってふらふらになったフリをした。モアズレは、酔いざましに砂糖ぬきのコーヒーを一杯くれた。コーヒーの次に水を何杯も呑ませてくれて、どう見ても私の新しい友だちが懸命に私の世話をしている形になった。しかし、酔っているときは死人同然で、うまく振舞える……酔いが私をダウンさせる。横になって眠る。すくなくともモアズレは、そうだと信じる。だが、私は、はっきり見ていた。モアズレは、私と彼のコップに何回も一杯に注いで両方とも呑みほした。
翌日、眼をさますと、酒代を払ったからと、いかにもきちんと勘定するかのように、三フラン五十サンチームを返して寄こした。私の二十フラン貨の釣り銭だというのである。とにかく、彼にとって私は素晴らしい同僚で、それがモアズレにはっきりすると、もう私から離れられなくなっていた。私は、二十フラン貨でとどめを刺した。四十フラン、二個を切りとって与えると、彼は同じような速さで蔵《しま》いこんだ。二個目を取るのを見ると、それが最後のものかと心配し、
「まだ、おぬしの分のボタン、あるんか?」
ひどく滑稽な調子で心配して言った。
私が別の新しいのを見せると、
「ほォ、まだ、ごついボタンがあったんだ」
飛び上がって喜んだ。
大きなボタンは、それまでのボタンと同じ目的のもので、けっきょく、連れ呑みしたのが縁で、モアズレは、私のデタラメ言葉がわかったり話したりができるようになった。そこで、おたがいの苦労話をするようになり、私の来歴をひどく知りたがった。私の作り話は、たしかに彼をそそのかせると確信できるようにでっち上げた。
「親方とフランスに来っと、おれ、下男《ぎなん》になった。親方はオーストリアの馬屋番、オーストリアのお屋敷、たくさん黄金《きん》あった。親方、悪《わる》。いっぺェ仰山のワル。いつも罰くらい、いつも|叩かれる《シュラーク》。シュラーク、いぐねェ。親方、兵隊にしてモントルー〔セエヌ・エ・マルヌ県にあって 一八一四年ナポレオンが連合軍を敗ったところ〕に連れてきた……モントルー、ああ、かぬさま、イエスさま。でっけェ、でっけェ戦《いぐさ》だ。仰山な人殺しだ。おれ、いつも昼寝、フランツ、ナポレオン、どんどん、ぱちぱち、プロシア、オーストリア、ロシア、みんなブチ殺す……ブチ殺す、おっかねェ。歩った、|大女のお女郎《アイネ・グロス・ピタン》と歩った。親方、おれの馬に乗っかって手提鞄《アーフルザック》もった。おれとお女郎、かわいそう。あばよ親方、おれとお女郎、もっと可哀そう。金貨ざくざく、いっぺェあった、あんときゃいがった……駈けろ、駈けろ、フリッツやい。家じゃフリッツだ。駈けろフリッツ、ポンジ〔セエヌ・サンドニ県にあるボンディのこと。そこの森は昔は盗賊の隠れ家とされていた〕で|止まった《ハルト》。手から手と、そこを掘って鞄を入れた。誰もわからん。ドイツへ戻る、おれは金持、情婦《いろ》も金持、おやじも金持、おめェも金持になる」
この身の上話はいい加減なものだったが、モアズレのオヤジさんは事の次第を間違えずに聞きとり、モントルーの戦いで、親方の鞄を掻っぱらってトンズラし、ボンディの森に隠したことをちゃんと理解した。彼は、この打ち明け話に驚く様子もなく、かえって、この出鱈目な話が、彼と私との親しみを一致さす効果さえあった。私を泥棒と認めた上で、倍の友情をもったことは、彼がたいへん太っ腹な男である証しでもあった。このときから、セナール氏のダイヤモンドの行方を誰よりも彼が知っており、彼しか耳よりの情報をくれる者はいないという確信を持ちつづけた。
ある晩、しこたま晩飯を平らげてから、ライン河の向こうにあるお楽しみの自慢話をした。すると、彼は、ふうと長い溜息をついて、その国には上等の酒があるかと尋ねた。
「ヤァ、ヤァ、酒はうまいし、女は別嬪だ」
「女も上等か?」
「ヤァ、ヤァ」
「ランズマンは気に入ったぜ。おぬしと行ってもいいかい?」
「ヤァ、ヤァ、あにき、いいともさ。嬉しいな」
「ほォ、喜んでくれるかい。よしきた、フランスはおさらばだ、古女房よさようなら(モアズレの女房が三十五歳であることを指で教えた)。おぬしの国へ行ったら、かわいい娘っ子、十五歳以下のをもらうんだ」
「ヤァ、けっこう、けっこう、|新品の娘っ子《アイネ・ノイエ・マムセル》、子供でねェのをな。うん、たぶん、かわいい助平女をな」
モアズレは一度ならず移民の計画をたてて大真面目に考えたのだが、移民するには釈放されねばならなかった。しかし、今は気ままに歩きまわることもままならぬ身である。そこで、私が、機会をつかんで一緒に脱走する考えをほのめかしたところ、私となら一蓮托生だと誓い、その時ではなかったが、お上さんにさようならを言いたいんだと低い声で言ったので、まんまと私のワナに落ちたなと確信した。この確実性は、まったく簡単な理由からである。モアズレは、私についてドイツに行きたいと言い、ドイツで生活したいと考えている。それには金が要る。貝殻をもって旅はできない。年寄りなので、ソロモン王のように可愛いスネムのアビサグ〔旧約聖書、シュナミ人の処女アビシャグは老ダビデ王に献上されたが王子ソロモンが継承した〕との暮らしを夢見ている。そうか、してみれば、モアズレは黒い牝鶏を見つけてあるのだ。ここでは金もないし黒いメンドリもいない。では、どこにいるのか? 今後、私とは一蓮托生だと決めたからには、やがてわかるにきまっている。
モアズレが、あれこれ考えて、その頭はドイツで住む家のことでいっぱいになり、いよいよドイツ亡命を決心したなと見てとると、すぐに検察官に手紙を送り、私が警察の特捜刑事であることを知らせた上で、モアズレと一緒に呼び出し、彼をリヴリに、私をパリに送致する命令を出していたたきたいと願い出た。
待つほどもなく命令があって、看守が、モアズレの審判の前日に知らせてきた。そこで、私は、彼の決心を固めさせようと夜どおし努力した。これまでになく執拗に口説き、できるだけ早く護送の途中で逃がしてやる、途中、思いもかけないときに素早くやってのけるから合点してくれと説得した。
当日になった。おれは、おめェが泥棒だと思っているからこそ片棒をかつぐんだと言ってやり、
「なんたって、掻っぱらいにかぎるよな。おい、悪党《シュリム》、悪党のフランスウ野郎、行こうが行くまいが、おめェは泥棒《シュピッツブーベ》なんだ」
彼は返事をしなかったが、なんとなく私の指を握って承知の仕草を見せた。あえて言葉を出さなかったが、承知《ウイ》の表現を恥ずかしそうな微笑であらわさざるを得なかった。猫っかぶりにも恥ずかしさがある。もちろん、信心家ぶるやつの羞恥心だ。
ついに、あれほど望んだ護送の時が来た。このときにこそわれわれの計画が成就するのだ。モアズレが覚悟をきめるのに、たっぷり三時間かかった。私は、抜かりなくブドー酒やブランディをすすめて元気づけた。あの手この手の、あらゆる秘蹟《まじない》をしてやらないと、牢から出る気にならなかった。
われわれは、たいへん細い紐で繋がれていただけだったので、道々、その紐を切るのは難しくはないように思えた。それを切ることは、疑いもなく、そのときまで彼を引きとめていた束縛を断つことでもあった。行けば行くほど、彼が救いの希望を私に託しているのがはっきりわかった。一分ごとに、見棄てないでくれと頼みを繰り返し、私は答えてやった。
「ヤァ、フランスウ、ヤァ、見放しゃしねェよ」
とうとう、決定的な瞬間がやってきた。紐を切った。私は、こっちだと雑木林との間にある溝を飛びこえた。モアズレは、十五歳の若い足を取りもどしたかのように私のあとから飛んだ。憲兵の一人が馬から下りて追っかけてきたが、乗馬用の長靴と大きなサーベルを付けて走ったり飛んだりは無理で、回り道をして追いつこうとしているひまに、われわれは茂みの中に姿を消し、まもなく追っ手がとどかないところにいた。
細道をたどって行き、ヴォジュール〔パリの北東郊外ポントワーズ郡にある町〕の森に中に入った。モアズレが立ち止まった。あたりを見まわしてから藪《やぶ》のほうへ進んだ。身をかがめ、一段と密生している茂みに手を差し入れてシャベルを引っぱり出すのが見えた。さっと立ち上がると、一言もださずに何歩か歩き、枝が幾本も折られている樺《かば》の木のそばまで行くと、素早く帽子と上衣を脱いで地面を掘りにかかった。さァこれから、やらねばならん仕事があるんだという真剣さがあった。しばらくすると、ふいに仰向けにひっくりかえり、オーと長く満足の溜息が胸からもれたので、魔法の杖を振りまわさずとも宝物を見つけたのがわかった。だが、もしかして樽屋のやつ気絶したのではないかとも思ったが、すぐ元に戻り、さらにシャベルで掘りつづけ、いとしい小箱がムキだしに現われると、えいとばかりに掴《つか》んだ。と同時に、私が採掘屋の道具をつかんで振りかぶり、とつぜん言葉を変え、ちゃんとしたフランス語で皇帝派《カイゼルリッヒ》の友人、私の囚人に向かって怒鳴った。
「歯向かうと、脳天をカチ割るぞ」
この脅しに、彼は、一瞬、夢でも見ているみたいだったが、眼の前の鉄の手が彼よりも強い悪党でもやっつけることに気付くと、夢ではないと悟ったにちがいない。モアズレは羊のようにおとなしくなり、私は、逃がしはしないぞときめつけて、事実その言葉どおりに振舞った。彼を留置して憲兵隊の屯所へ行く道すがら、彼は幾度も繰り返して叫んだ。
「もうおしめェだ。こんなことになるなんて誰が思ったろう? いいやつみたいだったが」
彼はヴェルサイユ重罪裁判所に移されて、六年間の重労働の刑を言い渡された。
セナール氏は、十万エキュのダイヤモンドが見つかって有頂天になって喜んだ。そして、彼流の割引方式に忠実に従って報酬を半分に値引きし、渋々五千フランを出すことにしたが、そのうち二千以上は必要経費に使っていた。つまり、ここで、私の骨折賃がはっきりしたわけである。
鏡盗っ人
樽屋には命とりだった困難な捜査が落着して間もなく、ある窃盗犯人たちの捜査を引き受けた。ブルボン王宮に続いているコンデ公の屋敷に夜のあいだに梯子《はしご》を使って押し入った曲者《くせもの》がいた。とてつもなく大きな鏡が幾枚も消えていた。じつに用心ぶかく犯行が行なわれ、徹夜で交替警備をしていた二人の番人がまったく気付かなかったという。鏡が取りつけられ、はめこまれていた裏板は、すこしも傷付けられていなかった。そこで、まず私は、鏡職人か指物師の仕業だと思った。だが、パリには、そういう職人は無数にいて、私の疑いを晴らしてくれそうな者には心当たりがなかった。とはいうものの、かならずホシを見つけてやるぞと決心し、そこに行きつくために聞きこみをはじめた。そして、アンヴァリッド広場の四辻ちかくにあった彫刻アトリエの番人が糸口をつかむ最初の情報をくれた。
朝の三時ごろ、門の近くのところで、たくさんの鏡の番をして、そこで待っているといった様子の一人の若者を見た。馬車の梶棒でもこわれて運搬人を待っている感じだった。二時間ほど経って、若者のところに二人の運送屋がやって来て、鏡を持たせて一緒に広場の噴水のほうへ向かって行ったという。さらに番人が言うには、彼が見た若者は二十三歳くらいで、百五十センチちょっとしかなかった。濃いグレーのオーバーを着ていて、かわいい顔をしていた、と。この話は、すぐそのまま役には立たなかったが、盗みがあった翌日、一人の運送屋が、みごとな大鏡を何枚かサンドミニク街のカラマン・ホテルに運んだという間接的な情報が耳に入った。その鏡は盗まれたものではないかも知れないし、盗品だったら、転送先とか所有者の名がウソの住所氏名になっているかどうか? ホテルでの受取人はわかっていたので、その人に会ってみようと思ったが、相手を怖がらせないために、一見して板前だと見える身なりをすることにした。捺染《なっせん》キャラコの上衣と木綿の縁なし帽、これが、板前という職業を表わすものだった。そこで、そんなふうに身をやつし、ちゃんと役割を胸にたたきこんで、カラマンの小さなホテルへ行くと一階〔日本流に言えば二階にあたる〕へ上がった。戸が閉まっていた。叩《たた》いたら開いた。いかにも色男の若者が、なんの用で来たのかと尋ねたので、所番地を言ってから、料理人が要ると聞いたので、役に立ちたいと思って来たのだと言うと、
「おやおや、あんた、それゃたぶん何かの間違いでしょう。あんたが言う住所にゃ、ぼくの名は出ていません。サンドミニク街というのは二つあるから、あんたが行かなくちゃならんのは、きっと、ほかの所でしょう」
美青年《ガニュメデス》の全部がオリンピアへさらわれたとは限らない〔ギリシア神話。トロイのガニュメーデスは最も美しい少年で、ゼウスがさらってオリンピアの神々の相手をさせた〕。私と話を交わしたその美青年は、その態度や身ぶり、その場に応じた言葉つきから、とっさに怪しいやつだと直感した。そこで、とたんに私は、とびきりの衆道を好む博愛者になって、以心伝心、はっきりわかる合図をし、私を欲しくないと言うなら怒るからね、と、こちらの気持を披露した。
「ねェ、ムッシュ、お前さんと一服してもいい、ほかで稼げる半分だけでもいい。おいらが、どんなに不幸せかわかってもれェてェや。六カ月も宿無しで、毎日、どうしようもねェ……もすこしすると三十六時間も食べていねェなんて信じられるかい?」
「そいつァたいへんだ、あんた、なにも食べていないとはね。さァさァ、ここで食べなさいよ」
じつのところ、私は空腹だったので、いかにも本当らしい嘘がつけたわけだった。パン二斤、鶏肉の半分、チーズ、ブドウ酒一瓶がテーブルに長いあいだは残っていなかった。そして、満腹になったところで、こちらの辛い立場をおっぱじめた。
「ねェ、ムッシュ、もっとグチをこぼさせてもらいやすとね、おいらは、手に職が四つもあるくせに、その一つも役にたったことがねェ。仕立屋、帽子屋、それに板前ときた。どれも、ちょっぴりカジッただけで、ちっとも上達しねェ。最初の仕事は指物《さしもの》鏡職人だった」
「指物鏡職人だったと?」
彼が乱暴に言いかえした。
私は、その軽はずみな大声を反省するひまをあたえずに言葉をつづけた。
「そうともさ、指物鏡職人だった。四つの仕事のうちで、いちばん手なれてるんだが、なにしろ物事が巧くいかねェんで、現在ただいま、まるっきりやってねェ」
色男の若者が一杯すすめて、
「ねェ、あんた、ブランデーよ。いけますよ。ぼくに気があるのは、もうわかってるはず。二、三日かかる仕事をあげようと思うんだけど」
「ああ、ムッシュ、お前さんはいい人だ。命の恩人だ。どんな仕事をやらせてくださるんか、どうか教えてくだせェな?」
「鏡職人の仕事だ」
「取り付ける鏡がおありなら、壁鏡、姿見、仕事鏡、うぬぼれ鏡、なんでござれ言いつけてもらえば、下世話に申す細工は流々、やってのけますぜ」
「ぼくは、とっても綺麗な鏡を何枚か持っている。田舎に置いといたんだが、コザック兵などに気紛れに壊されるのが心配で、こちらへ持って帰った」
「それゃあいいことをしなすった。ひとつ、拝見させてもらえますかい?」
「いいとも、あんた」
一室に案内されたが、ひと目でブルボン宮の鏡だとわかった。その美しさ、その大きさに感嘆し、そういう物に精通している者のフリをして、こまかく気をくばりながら調べたあとで、鏡の裏箔に傷をつけずに外した職人をほめたたえた。
「職人だと、ふーん、職人ね、ぼくなんだ、それは。誰にも触らせたくなくてね、車に積むときでもね」
「ああ、ムッシュ、言葉を返して申し訳ねェが、お前さんが言ってることはできっこねェことだ。そういう仕事をするのは玄人でなくちゃ。しかも、よほどの仕事達者でも、一人じゃできねェや」
こう意見を述べたが、彼は、誰の助けも借りなかったと言ってきかなかった。そこで、逆らってもムダだと思って、それ以上は言い張らなかった。
この反論は、彼の気にさわるはずだったが、かえって、こちらの真面目さを表わす礼儀でもあった。彼は、べつに機嫌をそこなわずに話をつづけ、なにかと指示したあと、明日また来て、できるだけ早く仕事をはじめてくれと頼んだ。
「ダイヤモンドのガラス切りを持ってくるのを忘れないで。旧式の拱架《サントル》を取りのけてもらいたいのでね」
彼は、それ以上もう何も言うことはなく、私も、それ以上なにも知る必要がなかった。私は、彼のもとを去ると二人の部下に会い、彼の人相を教え、もし外出した場合は尾行するように言いつけた。逮捕するには令状が必要だったので、それを入手し、しばらくしてから服装を取りかえ、警視や私の部下たちと一緒に鏡愛好家のところに立ち戻った。彼は、そんなに早々と私が行くとは思っておらず、はじめは私を思いださなかったが、やっと捜索がすんだころになって、つくづくと私を眺めて言った。
「あんたを覚えているような気がするんだが、板前さんじゃなかったかしら?」
「そうなんだ、ムッシュ、私は板前で仕立屋、帽子屋で鏡職人、それにお前の世話をする密偵でもあるんだ」
平然と私が答えたのに面くらって、一言もだす元気もなかった。
この男は、アレクサンドル・パリュイットという名前で、ブルボン宮から盗んだ鏡や金泥ブロンズの二体のシメール像以外に、ほかの所で盗んだ物がどっさり見つかった……この手入れに同行した刑事たちが彼を留置場に連行することになったが、途中でヘマをして逃げられてしまった。だが、十日と経たないうちに、たまたま私がサルタン・マームード大使閣下の公邸の門のところで彼と出会った。トルコ人の四輪馬車に乗っていたのを逮捕した。どうやらオダリスク〔トルコ皇帝のハレムの女〕たちを売って出てきたところらしかった。
この事件には、盗賊仲間の中で優秀だとされている連中が、ぜったい見破られないとした壁があったのだが、それが何だったかを自問自答した。パリュイットは盗みをはたらき、私と二度目に会ったときに逮捕されたが、終始、共犯者はいないように見せかけた。予審の過程でも、それにつづいて懲役刑に処せられたのだが、誰が共犯者かを推測させるような、ほんの些細なヒントも洩らさなかった。
パリュイットがブルボン宮の鏡を盗んだのとほぼ同じ頃、盗賊たちが夜中にリシュリュウ街十七番地のヴァロワ館に侵入して、ブウシュ旅団長の屋敷を荒らした。奪われた物は三万数千フランと見積もられた。安物の木綿のハンカチから星のついた将軍の房飾りまで根こそぎかれらの餌食になった。泥棒諸君は、洗濯に出す布切れまで一物も残さずに持って行った。この、盗む相手のボロ切れ一つも容赦しないというやり方は、盗っ人たちにとって、ときにはたいへん危険なものである。そういうやり方をするには、そこらじゅうを探しまわらねばならず、もたもたしている連中が皆を致命的な目にあわせることがあるからである。だが、こんどの場合、かれらはまったく安全に仕事をやってのけていた。将軍が在宅していることが、かれらの作業に邪魔が入らないという保証になり、かれらは、死後の財産目録の作成にとりかかる裁判所の書記と同じように安全のうちにタンスやトランクを空っぽにした。
将軍は屋敷にいたんでしょう、それなのに、なんで? と訊かれるなら、残念ながら、はい、と答えざるを得ないが、夕食の御馳走を食べていたときは、誰しもああいうことが起ころうとは夢にも思わなかった。一同は、誰を憎むでもなく怖れるでもなく、まして何かを予測するなどということはさらさらなく、ボーヌ産ワインからシャンベルタン産ワイン、シャンベルタン・ワインからクロヴージョ産のワイン、クロヴージョ・ワインからロマネ産のワインと、たのしくグラスを重ねた。さらに、こうしてブルゴーニュ酒の生一本を順に呑むと、銘酒を取りに梯子を登り、ウイッとげっぷを吐きながら下の棚にあるシャンパーニュ酒を取りに降り、会食者たちは、愉快な回し呑みの思い出いっぱいで大いに楽しくなって退散したが、じぶんの住居を見つける力もなくなるほどには頭がぼんやりはしていなかった。将軍は、この種の酒宴の高まりに応じて、せいいっぱい理性をもちこたえていた。私は、あまり信じたくないが、ともかく、彼は、なんとも眠くてたまらなくなって自分の部屋に戻った。そういう場合、窓を閉めることよりベッドに行くのを急ぐもの、彼は、盗賊の出入に便利なように、窓を開けっぱなしにしておいた。うっかりもいいとこだ。彼が眠るには子守唄は要らなかった。たのしい夢を見たかみないか知らないが、彼の訴状の歌い文句には、幼児の聖ヨハネのように眼ざめた、とあった。
どんなやつが、そういう荒らしかたをしたのだろう? そいつらを見つけだすのは容易ではないぞ。さしあたって、かれらについて確信をもって言えるのは、かれらは、いわゆる「厚かまし屋」と言われている連中だということだった。かれらは、将軍が眠っていた部屋で、のうのうと一定の作業をやりとげてから、とんでもない罰当たりどもだが、
――この将軍にフランス一の寝呆助野郎の称号を付与するものなり。
という認可証を残すという無礼をはたらいた。
私は、大いに罪が加重される状況を伴った窃盗罪を科せられるはずの無礼者たちのことを知りたくてたまらなかった。手がかりがないまま、ないところから一歩出ようと試み、めったに間違ったことのない閃きに身をまかせた。そして、とつぜん思いついたのは、将軍邸に侵入した盗っ人たちは、ペルランという名の廃品屋の客になっているかもしれないということだった。ずうっと以前から極めて大胆な盗品|隠匿《いんとく》屋だと聞いていた男だ。私は、ソンヌリ街一番地にあるペルランの住居の近くの見張りを始めた。だが、幾日かすぎたが、その見張りからは何の得るところもなかったので、目ざす目的に達するには計略を使わねばならんと心にきめた。ペルランは私を知っていたので顔を合わせるわけにはいかないから、部下の一人に指図して会いに行かせた。会って四方山《よもやま》の話をし、そのうちに事件のことを口にした。すると、ペルランが、
「へェー、あまり巧くやったとは言えませんな」
「なら、どうやったら気にいるんかね? ヴァロア館の将軍屋敷の連中が嘆いていると聞いているが、なんでも二万五千フランの紙幣が隠してあったという盛装軍服のことが、弥次馬根性で気になるだけさ」
ペルランは、たいへんな強欲者でケチン坊、もし問題の服を持っているなら、思いもかけずに金持になるわけだから、その嘘っぱちで、かならずや喜びの色を包みかくせずに外にあらわすにちがいなかった。もし、その軍服を処分してしまって人手に渡っているなら、逆の表情や態度を示すはずだった。私は、その両方を予見していた。ところが、部下の報告によると、ふいにペルランの眼の輝きがなくなり、唇に微笑が浮かばなくなったが、すぐに顔色が元に戻ったという。しかし、苦悩をごまかそうとしたがダメで、損をしたという感情が、はげしく彼の心の内でほとばしり、足をばたばた、髪をかきむしって大声をあげた。
「ああ、神さま、神さまよ、あの品物《ぶつ》は私だけが授ったものだったのに、なんという不幸せな!」
「ほォ、じゃ、お前さんが買ったとでも……?」
「そ、そうなんだ。買ったんだ。そんなこと訊けるかい? だが、売っちまったんだ」
「誰に売ったか知っていなさる?」
「誰だか、はっきり知ってるとも。フェイドォ小路の鋳物《いもの》屋だ。がらくた物を燃やしている」
「じゃ、がっかりすることはないね。たぶん間に合うさ、鋳物屋が正直者なら……」
ペルランは、とび上がった。
「二万五千フランがフイになった。ああ、二万五千フラン。馬の足跡の下にあるっていうもんじゃない。だが、なんだって、わしに水を向けて急がすんだい? そうだと信じたら、やりきれんじゃないか」
「わかったよ。おれ、おれがお前さんの立場だったら、品物を焼いたり溶かしたりしない前に取りもどすことをするね……なァ、もしよかったら、おれが代わって鋳物屋へ行き、芝居衣装のための刺繍物を欲しがっている人を見つけたから買い戻したいと言ってやる。やっこさんに儲けがあるように話したら、たぶん文句なしに戻してくれるさ」
ペルランは、それは素敵な方策だわいと判断し、大いに乗気になって提案を受け入れた。そこで、部下の密偵は、善は急げと飛び出して、じつは私のところに急いで戻ってきて委細を報告した。すぐさま、私は、家宅捜索令状を用意して鋳物屋の家にガサ入れをした。細工物や刺繍物などは手つかずに置いてあったので、盗品を部下に持たせてペルランのところへ戻らせた。そして、紙幣を手に入れたくて待ちこがれていたペルランが、軍服の襟章のところにぐさっと鋏を入れたとたん、私が警視といっしょに現われた……ペルランのところには、彼が受け取った不法な取引の証拠品が全部あった。彼の倉庫で盗品の山が見つかった。留置所に拘束された隠匿者は直ちに尋問を受けたが、はじめのうち、彼は、漠然とした事情しか答えず、その供述から盗賊一味をたぐり出すことはできなかった。
彼がラ・フォルス監獄へ移されてから、私は彼に会いに行って、事件の解明を頼みこんだが、犯人たちの様子やその他の参考になることしか得られなかった。彼は言った、品物を買っている常連の名前など知らない、と。とは言うものの、彼から知ったわずかな事柄が、そうらしいと思われる疑惑を浮かびあがらせ、その疑惑を実際の事に結びつけるのに役立った。次から次と容疑者を連れてきては面通しをし、ペルランの指示で犯人を割りだした。結果、二十二名が徒刑場送りになったが、一人だけ、ブウシュ将軍に被害をあたえた窃盗犯人が欠けていた。ペルランは、盗品隠匿罪で有罪になったが、彼が協力した情報が役立ったので、最小限の刑しか言い渡されなかった。
まもなく、別の二人の隠匿屋、フェロ兄弟が、ペルランのやり方の真似をして、判事の寛大な配慮を願って自白したばかりでなく、大勢の拘留者の共犯者も教えてくれた。この教えによって、私は、悪名たかい二人の盗賊、ヴァランタンとグランデシことリゴージを御用にした。
おそらく、パリで、盗賊や詐欺師の横行がいちばん累積し、その数が最も多かったのは最初の王政復古の年〔一八一四年三月連合軍パリ入城、ナポレオン退位エルバ島流刑、五月ルイ十八世即位、ブルボン王朝復位〕であった。そのうちで最も巧妙で図々しかったのは、ザールルイ〔現代の西ドイツのザール地方にある町〕のヴィンテルという名の男だった。
ヴィンテルは二十六歳を超えていなかった。きれいな褐色の髪の男で、その弓なりの眉や長いまつ毛、つんと高い鼻や悪党らしさを好く女たちもいた。さらに、ヴィンテルは、背丈が高くすらりとしていたが、およそ軽騎兵の将校にはふさわしくない自堕落な風采だったが、いったん軍服を着ると、すっかり人物が引きたって立派に見えた。今日は軽騎兵、明日は槍騎兵《そうきへい》、その他のときは気まぐれの制服姿に化けた。必要に応じて騎兵少佐、参謀少佐、将官付きの副官、大佐などになった。彼は、上流階級の人たちのあいだに入りこみ、より一層の信用を得るために、名門の一族だと自称することに抜かりはなかった。あるときは勇猛ラサールの息子、または近衛騎兵隊の大佐、あるいは勇者ヴィンテルの息子などと代わる代わる名乗り、やがて将軍ラグランジュ伯の甥、ラップの従弟とも称したが、とうとう、無断借用の名称や、何々家の者だと誇る名家が種切れになった。安楽な生活をしていた両親から生まれた彼は、こうした高級人士に変身するにふさわしい立派な教育を受けていた。上品な容姿と洗練された物腰で完全に化けきっていた。
ヴィンテルほど人生の滑りだしが上々だった者は少ない。その経歴は、早々と軍隊に入ることから始まり、かなり早く昇進して将佼になっている。しかし、すぐに上官の信用を失い、不行跡を罰せられてレ島の植民地大隊に転属になった。しばらくのあいだは、その大隊で、行ないを改めたと信じさせるように振舞ったが、またぞろ新たな非行をやらかし、こんどこそ、許されて同じ階級にとどまってはいられないことがはっきりし、けっきょく、処罰から逃れて脱走せざるを得なかった。そして、パリにやって来ると、ペテン師や巾着切りの悪事をかさね、やがて、この二股かけた仕事師のピカ一だと、おぞましい折紙を警察から付けられるようになった。
スケコマ師を追う
目下、売り出し中のヴィンテルは、世の上流階級のなかで、どっさりカモを仕留めた。プリンスや公爵や、前の元老院議員の子息たちのところに出没し、社交界の裏で、殿方や奥方に不吉な腕をふるった。とくに貴婦人たちは、彼によって身体や金品を巻き上げられても、いっこうに彼女らの欲望はやまなかった。警察は、数カ月前から、このスケコマ師の若者を内偵していたが、彼は絶えず服装《なり》と住居《やさ》を変え、いつも、捕まえたぞと思ったとたんにズラかられていたときに彼を追跡して逮捕するようにと私が命ぜられた。
ヴィンテルは、いわば罪人の首輪でつながれたロブラス〔サムエル・リチャードソン(一六八九〜一七六一)の小説の女たらしの主人公の名。英語読みのラブレイスのフランス呼称〕の一人だった。ぜったいにドジを踏むことなく女から奪った。こう私は思った、彼の犠牲になった女のなかには復讐の念に燃えているのが一人くらいはいて、怪物の足どりを知らせてくれるかもしれない、と。そこで、そうした女を探していたら、お蔭で、こちらに好意的な女に出会うことが多くなったが、往々にして、そういうアリアヌ〔ギリシア神話のアリアドネーのフランス呼称。クレータ島の女王。テーセウスに糸玉をあたえ、ラヴュリントス(迷宮)に住む怪物退治を助けたが、男に棄てられる〕たちは、すっかり諦めてしまっていて、裏切者をやっつける気などはないので用心して近づくようにした。とにかく、計画を実行に移す前に、地下に探りを入れる必要があり、ヴィンテルには並々ならぬ敵意を表わすように気くばりをする一方で、彼の振舞いは本来の彼らしくないものだという思いやりの心も表わすように心がけた。そして、こうした関心が残っているのを無にしたくないからという振れこみで、彼が司令官だったと自称する連隊付きの司祭に化けてニセ大佐の旧愛人に自己紹介をした。私の法衣、私の言葉づかい、老け役のこなしっぷりが演ずべき役割にぴったりと似合い、棄てられた美人の信頼を一も二もなく取りつけて、彼女は、知らず知らずのうちに私が必要とした情報をもらしてくれた。彼女は、これはという競争相手の女のことを知らせてくれたが、その女は、ヴィンテルにたいへんひどい目に遭わされているくせに、それでもまだ彼に会いたがっており、彼の新しい犠牲になるのは避けられまいとのことだった。
私は、この可愛い御方とつなぎを付けたく、ちゃんと会ってもらおうと、ヴィンテルの家族の友人だと名乗った。軽薄な若者の両親から彼の借金の支払いを委任されているので、もし彼と会えるように取り計らってくれたら、まっ先に満足いくように清算するからと申し入れた。すると、そのマダムは、彼女の無けなしの金の損害が償われる機会が到来したことに怒るはずもなく、ある朝、一枚のメモを私に寄越して、その日の晩にタンプル大通りのラ・ガリオットで恋人と食事をすることになったと知らせてきた。そこで、私は、便利屋に変装して四時きっかりに出かけて、レストランの入口のそばで待機した。張りこんでから二時間ばかりすると、一人の軽騎兵大佐が馬に乗って遠くのほうから来るのが見えた。二名の従卒を連れたヴィンテルだった。私が近づき、馬をあずかりましょうと申し出ると、相手が承知してヴィンテルが馬から下りた。やつは、もう、俺から逃げられないぞ、と思ったが、彼の眼と私の眼が合ったとたんに、ひらりと駿馬に飛び乗って両足で強く拍車をかけ、一目散にドロンしてしまった。
捕まえたと信じたので、私の失望は大きかった。だが、逮捕に絶望はしなかった。右の失敗があってからしばらくして、彼がイタリアン大通りのカフェ・アルジに来るはずだという報せを受けた。そこで、こんどは部下数名を連れて先に行っていた。彼は来た。そして、すべての手配は抜かりなく、彼は、私が雇った辻馬車に乗らざるを得ないように仕向けられ、そのまま馬車が警察署の前へ行った。彼は、ヴィンテルではないと主張しようとした。しかし、授与されたと称する階級章や胸に付けた長い勲章飾りも役に立たず、彼こそまさに私が所持していた令状の人物に相違ないことが確認された。
ヴィンテルは、重労働八年の刑に処せられた。本来なら今日では放免されているはずだが、ビセートル監獄に拘置されていたときに犯した虚偽罪で、最初の刑のあと、さらに八年の徒刑船行きが追加された。彼は現在も徒刑場で服役している。身からでた錆《さび》であった。しかし、この冒険男は元気はつらつ、囚人のあいだで大いに流行ったたくさんのシャンソンを作ったのは確かだと言われており、囚人仲間のアナクレオン〔紀元前六五〇年ころのギリシアの詩人〕とされている。ここに彼が作ったとされているものの一つがある。
ヴィンテルの唄
『のんきなピイちゃん』調に
いつもの稼ぎだ、
パリの夜、
たんまりどっさり
盗みは大漁。
やさしい強盗、
がらくたの山、
板切れやコップまで。
図太く生きた、
なさけは無用、
怖れず悔《くや》まず。
苦労して
ジロンド女と縁を切り、
生一本をがぶ呑みし
化粧なしの赤い顔、
エヘンと通る警官《さつ》の前
レースを付けた、
金ピカの伊達男
ごきげんで道中さ。
ある日クルチィユで
ドンチャンあそび。
浮かれていたら、
でっかい旦那が
これ見よがしに、
蔵いこむ金時計。
踊りがハネて、
つけた帰りを道の上、
おどしてブチのめし、
下着をハガして、
時計も服も履物も、
一切合財いただいた。
まずいことに俺の女《すけ》、
お高くとまり、
バカにしてるとお冠り。
腰抜けじゃないぞ俺様は、
お前のポッケをふくらます。
金貨銀貨がざくざくの、
帳場に盗みに忍びこむ。
兵隊さんと人々よばり、
金を女にトンズラしたが、
女は捕まる現行犯。
ポリ公おれの女をからかい、
子分にたかって飯くらう。
やつをハメて捲きあげた、
まっ赤になって腹をたて、
俺を縛りにやってくる。
強盗稼業よ情婦《ばした》ども
たのしいベッドさようなら
警察《さつ》の階段のぼる俺、
土牢ゆきの判決だ、
柱に縛られ十二年。
女は可愛くなくなって、
やっぱり俺も年をとる。
世間をごまかすためならば、
金ぴか身なりの仕掛人。
この世はなんでも色事さ、
つべこべ言っても、
おめこあそびの一発だ。
十二年とは長すぎる、
たった一度のお笑い芝居、
たった一度の一目惚れ。
ヴィンテルには、私が逮捕したとき、大勢の仲間がパリにいた。チュイルリ宮殿が、名うての盗っ人たちの出会い場所として有名で、かれらは世間から尊敬されていると自称し、厚かましく騎士たちの十字架で守られているとしていた。未決拘留の一味徒党の連中を見分けられる者の眼には、当時の宮殿は王侯の館というより悪党どもが出没する森であった。徒刑船帰り、詐欺師、あらゆる種類のスリの群があふれ横行し、シャレット軍団、ラ・ロッシュジャクラン軍団、シュトフレ軍団、カドウダル軍団〔いずれも一七九三年に蜂起した王党のヴァンデ党の将軍たちの名〕等々の旧軍人の仲間として振舞っていた。閲兵式や大宴会の日には、こうした忠節なニセ英雄どもが右往左往するのが見られた。私は、保安警察の上級職員としての身分上、これら場当たりの勤王党の連中を監視するのが義務だと思った。
ある日曜日、部下の一人とカルーゼル広場〔もとはチュイルリ宮殿の敷地内にあった〕で待機していたところ、パヴィヨン・ド・フロール(花亭)から出てくる一人物が眼にとまった。みんなの眼をひく服装で、どう見ても大物だった。いろいろな授章で飾っていなくても、その粋な刺繍飾りや鮮やかな羽毛飾り、金モールが輝く帯剣などで偉い人だと思わせたのだったが……警察の人間の眼から見ると、光るもの必ずしも金ではなかった。私についてきていた部下は、そのお偉方に私の注意を向けさせ、ツーロンの徒刑場で見たことのあるシャンブルイユという名の男とそっくりだと言ってきかなかった。私もシャンブルイユを見たことがあった。そこで、ひとつ、顔をよく見てやろうと彼の正面へ行ってみたところ、一も二もなく元の徒刑囚であることが確認できた。まさに有名な文書偽造のシャンブルイユであった。彼の脱走は、徒刑船の囚人仲間では評判になっていた。彼が最初に刑を宣告されたのはイタリア遠征の日〔一七九六年十月のナポレオン第一次遠征〕だった。当時、彼は、フランスのファランヘ党〔右翼政党だが一九三三年のスペインのファシスト政党とは別〕の御用商人のサインを真似たものを携行して同党に出入りしていた。彼は模倣偽筆の天才で、その技能の証拠を残しすぎたので、とうとう三年の懲役を言い渡される羽目になった。三年は、そのうち過ぎるのだが、シャンブルイユは、おめおめと牢獄に甘んじていなかった。脱獄し、パリにやってくると、上等な生活したさに自分で作ったかなりの数の紙幣を流しはじめた。裁判所に呼びだされ、偽造がバレてブレストに追放され、そこで八年をすごさねばならないことになった。シャンブルイユは、またしても追放令を破って逃げだしたが、文書偽造が日常の生活手段だったので、三度目の仕事をしてパクられ、鎖につながれてツーロンへ送られた。着いたとたんに、またも看守の親切を仇で返して逃亡したが、逮捕されて徒刑場に連れ戻された。悪名たかい第三号房に入れられ、刑期を三年延長された。
この拘置のあいだに、彼は気晴らしに密告と騙《かた》りを交互にやって暇をつぶした。彼がいちばん好きだったいたずらは、架空の手紙を作ることだったが、このためさらに二年間、アンブラン監獄で重労働ということになった。ところが、彼がアンブランに移送されたばかりのころ、アングレーム公爵殿下がその町に立寄られた。シャンブルイユは公爵に嘆願書を出し、自分は旧ヴァンデ党員で献身的な下僕なのに迫害を受けていると訴えた。そして、すぐに彼は釈放され、まもなくいつものように自由に振舞うようになった。
めかしこんだ彼を見つけたとき、てっきり彼はいい運にめぐまれているなと判断したが、ほんとに彼だと確かめるために、ちょっとのあいだ後をつけた。間違いなしとなったので、近づいて前へまわり、逮捕すると申し渡した。すると、彼は、ご大層な身分や称号をひけらかし、自称の顔で私をだまそうとした。彼は、王宮警察本部長でもフランス種馬飼育場長でもなかったのだが、一介の哀れな男である私は、無礼を働いたかどで罰せられることになる、とかなんとか、おどかされたが、どうか辻馬車にお乗りくださいと、しつこく頼みこんだ。だが、どうしても従わなかったので、腕ずくで馬車に押しこんだ。
アンリ部長の前に出ても、王宮警察本部長はビクともしなかった。それどころか、傲然とふんぞり返って本庁の課長たちを震え上がらせた。誰もが、私がヘマをやったなと心配した。シャンブルイユは怒鳴った。
「こんな厚かましいことが考えられるかね。大侮辱だ。償《つぐな》ってもらうぞ。わしのことは証明するが、和解できるかどうか、大臣は許さんだろうな、今にわかる」
彼に詫びをいれて私が叱られる時がきたなと思った。シャンブルイユが徒刑囚だったなんて誰も信じないで、宮廷の覚えめでたい権力者を怒らせることを怖れた。だが、私は、あくまで彼はペテン師でしかないことを力説し、どうしても彼の住居の家宅捜索をしたいと頑張った。そして、私が警視の執行に協力してシャンブルイユに立会ってもらうことになった。
彼の家へ行く途中で、シャンブルイユが私にささやいた。
「ヴィドックくん、わしの手文庫には棄てたい書類がいくつかある。そいつを抜き取ってくれると約束したら後悔しなくてもすむよ」
「約束しよう」
「二重底の下にある。開けかたの秘密を説明しよう」
彼は、その取り出しかたを教えた。そして、じっさい、その場所から数通の書類を取りだしたが、私としては、彼の逮捕を合法的なものにするための証拠あつめだ。文書偽造犯人は、自分のペテンの足場を用意周到に必ず準備しておくものだ。彼の住居からは大量の印刷物も発見された。そのあるものには「フランス種馬飼育場」、他のものには「王宮警察」という表記があり、大型の紙には、陸軍省、公文書、特許、外交などの表題がつけられ、また、つい開けっぱなしにしてある通信帳もあって、まるでスパイと間違えられる有様だったが、それらは、シャンブルイユが高度の活動をしていたという証拠書類でもあった。彼は、たいへん偉いお歴々と付きあいがあると思われていた。プリンスやプリンセスが彼に手紙を書いていた。その手紙と、そういう方たち自身のものを互いに較べてみたところ、まったく異なっていることが判明した。このことは、彼が警視庁で話したこととも違い、そのキメ手は、こうしたニセ信書とは別に、例の通信帳でも判明した。
家宅捜索がもたらした明白な証拠によって、シャンブルイユについての私の断言が完全に固まり、彼は、裁判を待つために逸早くラフォルス監獄に送られた。
裁判では、あくまで私が主張した彼が徒刑囚だったことを自白させるところまで持っていくのは不可能だった。逆に、彼は、共和国第二年このかたヴァンデ県を離れていないことを立証する正真の証明書を提出した。判事たちは、彼と私のあいだに立って、いささか迷っていたが、私が、こちらの言い分を支える強力な証拠をいくつも集めた結果、彼は徒刑囚と同一人物だと確認され、無期懲役を宣告されてロリアン監獄に投獄された。すると、彼は、さっそく昔の癖に戻って密告屋になった。ベリ公爵〔シャルル十世の二男シャルル(一七七八〜一八二〇)、ブルボン王家抹殺を企てたルーヴェルに殺された〕暗殺事件があったころ、シャンブルイユが警察に手紙を書いてきて、この怖ろしい犯罪はジェラール・カレットという名の男と共謀して行なわれた証しがあると言ってきた。シャンブルイユのことはわかっていたので、誰も信じなかったが、幾人かは、暗殺者ルーヴェルに共犯者がいたと考えるのはバカげてはいるが、いちおうカレットという男をパリに連れてきてみろ、ということになった。カレットが護送の旅をしてやって来た。その結果、彼は当局が知っている以上のことは何も知っていないことが判明した。
一八一四年という年は、私の生涯のうちで最も目ざましいことがあった年の一つであった。とくに重要な逮捕を次々と行なった年である。かなり風変わりな事件がいくつかあり、甲から乙と、話をつなぎながら、さらに述べることにしよう。
三年ほど前から、雲つくばかりの大男が、パリでの数多くの盗みの犯人だと知らせを受けていた。告訴人みんなが言うその男の人物像からサブランというやつに相違なかった。たいへん巧妙な図太い泥棒で、二年の徒刑をふくむ数々の刑を受けたあとで放免され、牢内で覚えたことをフルに活用して元の稼業に戻っていた。いろいろな令状がサブランにたいして出されており、腕ききの密偵たちが追ったがムダに終わり、あらゆる追手から逃げきっていた。どこそこに彼が現われたという知らせがあって、それっとばかりに駈けつけると、その都度、逸早く姿をくらまして足どりがつかめなかった。とうとう、本庁の刑事たちも、この眼に見えない泥棒を追いまわすのに根負けし、彼を探して捕まえるという仕事が私にまわってきた。そして、十五カ月以上ものあいだ、なんとかして彼に辿り着こうと捜査を怠らなかったが、パリには数時間あらわれては素早く盗みを働き、どこをどうもぐったかわからぬままにドロンしていた。サブランは、私のことも部下たちのこともいくらか知っており、彼がいちばん恐れているのは私のはずだった。おそらく、彼は、遠くから私を見ていて、たくみにトンズラし、私には、ただの一度も影さえも見せなかった。
だが、辛抱が足りないといっても落度にはならず、ついにある情報をつかんだ。つまり、サブランは、サンクルーにアパルトマンを借りて住居を構え、そこからパリに出てくるというのだった。この報せに、私は、夜になってから着くようにパリを出発した。ときに十一月、ものすごい天候だった。サンクルーに着いたときは衣服がびしょ濡れになっていた。しかし、もしやガセネタで出かけて来たのではないかと、それを確かめたくてたまらず、服を乾かすひまなどなかった。そこで、さっそく新しく住みついた者について聞きこみをしてまわったところ、いくらか知るところがあったが、とうとう、ある女の夫で、行商人だが、一メートル九十ちかい人が、さいきん市営住宅に引越してきていることを聞きだした。
一メートル九十の身長はパタゴニア人〔アルゼンチン南端地方の原住民〕でも普通ではない。これこそサブランの本当の住居を教えてくれたのだと信じて疑わなかった。といって、そこへ顔を出すのは時間が遅すぎていたので、訪問は明日ということにした。だが、その男を確実に逃がさないために、雨が降っていたが、建物の入口の前で徹夜することに決め、部下の一人と張りこんだ。さて、明るくなったと思ったら入口が開いた。念のため確かめておきたかったので静かに建物にすべりこんだ。よし、行動だ、と自分で納得し、階段の最初の段に足をかけようとして、停めた。誰かが降りてくる……
女だった。顔色が悪く、足取りもおぼつかない、あきらかに苦痛にあえいでいる様子だった。私を見ると、きゃっと叫んで階段を駈け上がった。後を追い、鍵をもった彼女と同時に部屋に入ったが、恐怖におびえた声で、
「ねェ、ヴィドックだよっ!」
と知らせるのが聞こえた。次の間にベッドがあった。私は駈けこんだ。横になっていた一人の男が顔を上げた。サブランだった。飛びかかって、有無を言わさずに手錠をかけた。
この動作のあいだ、妻君は、椅子に落ちこんで呻き声をあげながら身をよじり、おそろしい苦痛にさいなまれている様子だった。私がサブランに、
「な、どうしたんだ、お上さんは?」
「産気づいているのが、わからんのか? 夜どおし、ああなんだ。おめェに会ったとき、取りあげ婆さんのところへ行くところだったんだ」
そのとき、呻き声が一段とはげしくなった。
「神さま、神さま、もうダメです。死んじゃうよォ、ね、ね、おねがい、苦しいよォ、痛い、痛いよォ、たすけてェ」
まもなく、途切れ途切れの声しか聞こえなくなった。そういう場面にぶつかったことがない者としては冷酷な心をもつよりほかなかった。だが、どうしよう? とにかく、今は、どうしても産婆が必要だ……といって、誰が産婆を呼びに行く? われわれは、サブランという強力男を二人で捕まえているのがやっとで……出かけることはできないし、さりとて、女を見殺しにすることもできない。人道と義務の板挾みになって、私は、まったくのところ、この世で一番の困りはてた男になった。
とつぜん、歴史的な因縁話を思いだした。マダム・ド・ジャンリス〔オルレアン公の子供の家庭教師(一七四六〜一八三〇)。教育に関する著作あり〕が見事に書いている逸話が心の道を開いてくれた。産院でラ・ヴァリエール公爵夫人〔ルイ十四世の寵妾(一六四四〜一七一〇)〕に付き添った偉大な君主〔ルイ十四世〕の故事を思いだした。
――なぜ、おれがルイ十四世ほど器用ではないというのか? さァ急げ、外科医だ。おれが外科医になるんだ。
すぐに上衣を脱いだ。そして、二十五分もたたないうちにサブランのお上さんは赤ん坊を産んだ。男の子だった。彼女が日の目を見せた玉のような男の子。この世に初めて入ってきた、あるいは初めて出てきた、この二つの表現は同じ意味であるが、その子に産湯をつかわせた後、おむつで赤ん坊をくるんでやった。そして、こうした行事を終わってから、自分がしたことをつくづく考え、母子ともいたって元気なのを眺めて満足した。
さて今度は、新生児を市役所の身分台帳に登録する手続きの問題があった。われわれ全員が関わっており、私が証人を買って出てサインすると、サブランのお上さんが、
「ああ、ジュールさん、そこまでしてくれるんだったら、ひとつ、お願いがあるの」
「どんな?」
「とても言えんけど」
「言いなよ、できることなら……?」
「代父がいないのよ。ねェ、なってくれない?」
「よりによって俺がか。代母はどこにいる?」
サブランの妻君は近所の女を呼んできてくれるように頼んだ。そして、その女の人の支度ができると、私どもは、サブランも一緒に教会へ出かけ、私としても、のがれることのできない役目をやってのけた。名付け親になった名誉には五十フラン以上かかり、それには洗礼菓子代はふくまれていなかった。
辛かったろうが、サブランは、私どものやったことが深く身にこたえ、いやでも感謝せざるを得なかった。
われわれは、産婦の部屋に軽い昼食を持って行ってやってから、彼女の亭主をパリに連行し、彼は五年の入獄を宣告された。やがて、彼は、服役していたラ・フォルス監獄の面会所の小使いになり、サブランは、その仕事をしながら真面目に生きたばかりか、囚人や面会にくる人たちからの心付けを貯めることを始めた。女房と分けあうつもりのわずかばかりの貯えができた。ところが、放免になるころは、サブランのお上さん、他人の財産を横領するのが好きになり、サンラザール監獄で罪ほろぼしをしていた。女房が投獄されているという孤独のなかで、サブランは、他の多くの者たちと同様、悪の道に逆戻りした。そして、ある晩、節約して貯めこんだ金をバクチに賭けて全部すってしまった。二日後、ブーローニュの森で首を吊っている彼が発見された。〈盗賊之道〉といわれている並木道の一本をえらんでブラ下がっていた。
この事件は、右に述べたように、サブランを裁判所に引き渡すまで、あれこれ、どえらい苦労をさせられた。事実、すべての捜査には、こつこつと足で探すことが必要だが、それだけで十分とはいえない。たいていは、いつも成功するとは限らないもので、ときには、あっという間に成功して我ながら驚くこともある。
サンクルーでの出来事があってから間もなく、シャラントン街一四五番地の酒場の経営者、スビロットさんが盗難に遭ったと訴えてきた。彼の届出によると、泥棒たちは、宵の七時から八時のあいだに梯子を使って家に侵入し、一万二千フランと硬貨、金時計二個、銀製食器六組を奪ったという。だが、外部からの侵入というより内部的な匂いが強く、けっきょく、その犯罪の一切の状況が如何にも異常で、スビロットさんの申し立ての真実性が疑われ、それを明らかにするのが私の仕事だった。彼に会って話を聞いてみたが、すくなくとも彼の訴えは本当のことしか述べていないように思えた。
スビロットさんは家主で、気楽に暮らしており、彼が何かをやるはずはなかった。だから、彼の立場に暗い影は見られず、狂言泥棒の訴えをする動機もなかった。だが、この窃盗が右のような事情である以上、それを行なうには完全に家の内情を知らねばならない。どんな連中が、いちばん頻繁に彼の酒場に来ていたかとスビロットさんにたずねたところ、幾人かの名前をあげてから、
「通りすがりの客を除けば、これが、だいたい全部です。それに、家内を治してくれたお客さんたちがいます。ほんとです。あの人たちが来てくれたんで助かりましたよ。うちの山の神ときたら、ここ三年も苦しんでいましてね。あのお客さんたちが薬をくれて、すっかり良くなったんです」
「その連中を何度も見ましたか、その見知らぬ人たちを?」
「ここへ食事に来たんですが、家内が良くなってからは時たましか見えませんね」
「どういう人たちかご存知ありませんか? ひょっとして、なにか話して……?」
「ああ、ムッシュ、あの人たちを疑わんでくださいな。まともな人たちです。証拠があります」
スビロットの奥さんが横から話をとって声をあげると、それを受けて亭主が、
「そう、そのとおり、証拠があります。これの話を聞けばわかりますよ。さァ、旦那に話しな……」
スビロットの奥さんが次のような言葉で話を始めた。
「そうですとも、ムッシュ、まともな人たちです。天地神明にかけて誓います。そうですね、あれから十五日も経っていませんが、ちょうど家賃期限の後の週でした、あたしが家賃の金を勘定していたら、あの人たちの連れの女の一人が店に入ってきて薬をくれたんです。それがよく利いて、とてもラクになったんですが、お礼をとるどころか、一文もくれとは言わないんです。だもんで、そばに坐ってもらい、感謝をこめて顔を見るだけしかできないことが察しがつくでしょう。あたしが銅貨を百フランずつ揃えていると、二人の若い衆に助けられて寄りかかっていた皮当てが肩にある杖を突いていた大男のオヤジさんらしい人をチラと見て、こう言うんです。
『ねェ、あなたのところには、そんなふうに銅貨がたくさんあつまるの?』
『なんで、そんなことを?』
『それはね、つまり、銅貨が百フラン集まると百フラン四スウの値になるからなんです。この値でよかったら、夫が引きとりますよ、百フランずつ別々に分けていただけたら』
あたしは、その女が冗談を言ってるんだろうと思いましたが、その晩また彼女がやって来たんで、いやもうびっくりしました。旦那さんと一緒でした。あたしたちはお金をしらべて、彼が入用な銅貨百スウを三百個ひろい上げて譲ると、あたしの利益分の六十フランをくれました。このことからも、おわかりでしょう、その後も物々交換しかしないあの人たちは、まともな人ですよ」
仕事を見れば職人の腕がわかる。スビロットの奥さんの最後の文句は、彼女がホメたマトモな人たちが、どんな種類の者かをよく語っていた。私が捜査していた盗難事件の犯人は、そのジプシーたちだということは、それ以上たしかめるには及ばなかった。硬貨交換の事実はかれらの手口で、スビロットの奥さんは、私の頭を混乱させながらも、けっきょく、まとめかけていた私の考えを次第に確信あるものにしただけだった。
さっさと夫婦のもとを去った瞬間から陽やけした顔の者を疑うことにした。そういう色合いが濃い者はどこで見つかるかなと頭の中で考えながら寺院広場を通っていたら、ふと『田舎家』という酒場みたいな店のテーブルにいる二人の男に気づいた。あかがね色の顔と奇妙な風体が、私がマリヌ〔ブリュッセルの北二十キロにあるベルギーの都会〕にいたときの微かな記憶を心に呼びさました。私は店に入った。誰を見たか? 仲間の者と一緒にいる昔の知りあいクリスチャンだった。まっすぐかれらのところへ行ってクリスチャンに手をのばし、コロワンと名乗って挨拶した。彼は、ちょっとのあいだ私を眺めていたが、私の顔を思いだすと夢中になって私の頸《くび》に飛びつきながら大声をだした。
「おお、昔のダチ公だ」
われわれは、ほんとうに長いこと会っていなかったので、おきまりの挨拶のあとは、お互い、どうしてもいろいろと質問をすることになる。彼は、私が前ぶれなしに彼と別れてマリヌを去ったわけを知りたがった。私が、なるほどと思わせるような話をすると、
「いいよ、いいよ、そいつが本当だろうとなかろうと、俺に関わりゃねェや。とにかく、また会えたんだ。これが肝心なことよ。なァ、おい、ほかのやつらも、おぬしにまた会えて喜ぶぜ。みんなパリにいるんだ。カロン、ランガラン、リュフレ、マルタン、シスク、ミシュ、リトル、俺たちと一緒だったラヴィオかあちゃんまでな……それから、あのブッチェ……ちっちゃいブッチェちゃん」
「ほォ、で、おめェの上さんは?」
「あいつも喜ぶよ。ここへ六時に来てくれたら全員が揃うぜ。おぬしと会って一緒に芝居見物に行こうや。仲間うちになってくれるな。こうして会った以上、このまま別れるわけにゃいかねェ。飯はまだ?」
「ん」
「俺もまだなんだ。『カピュサン』へ行こう」
「カピュサンか、まァいい、すぐそこだ」
「そうだ、ほんの一足だ。アングレーム街の角さ」
その飲食店の建物には、聖フランシスコの弟子の奇怪な肖像看板が出ていて、その御利益で人目をひき、亭主は、いつも質より量で勘定をふやそうというコンタン。そこで、日曜や月曜の独り者とか、毎週、気晴らしをする庶民にとっては恰好の居心地のよい場所になり、食べ物はそれほど不味《まず》くもなく、誰にも気がねはいらず、どんな服装をして、どんなヒゲを生やしていてもよく、どの程度に酔って現われてもかまわぬという寸法? これが『カピュサン』酒場のいい点で、月並な場所代をボラれるのを気にしなくてもよく、いつでも大衆の財布に応じて店が開いていて、通りがかりの誰でも迎え入れ、ちょっと一服するのを楽しんでもらうのを喜びとしていた。私たちが、この自由で楽しい場所に腰をすえたのは四時だったが、六時までのあいだが長かった。クリスチャンの仲間が集まるはずの『田舎家』へ戻りたくてたまらなかった。食事のあと、連中と合流するために出かけた。六人いた。クリスチャンがかれらに近づいてジプシー語で話した。たちまち、みんなが私を囲み、歓迎し、キスをし、争って祝い、みんなのまなざしが満足にかがやいた。
「芝居はやめだ。芝居はやめだ」
流浪民たちが一斉に叫ぶと、クリスチャンが、
「言うとおりだ。芝居はやめだ。またのときに見に行こう。飲もうや、みんな、飲もう」
「飲もう」
ボヘミアンたちが繰り返した。
ワインやポンスが、あふれて流れ、私は飲み、笑い、おしゃべりをし、仕事をした。みんなの顔つきや癖、身ぶりなどを観察し、なにも見のがさなかった。スビロット夫妻が話した事柄の要点を繰り返して思い浮かべた。私の推理の源は、百スウ云々の硬貨の話だけだったが、これが全面的な確信の基盤になった。そして、クリスチャンか彼の仲間が、警察に訴えてきた盗難の犯人であることは疑う余地がなくなった。たまたま『田舎家』の中をチラと見たのは、なんて間がよかったんだろうと自分に喝采を送った。だが、犯人たちを見つければ事がすむというものではない。アルコールがまわって連中の脳がイカれるのを待ち、全員がローソクが二本に見えるような状態になったとみて、そこを脱けだし、『陽気』寄席まで一目散に駈け、治安係の係官を呼んでもらって盗賊たちと一緒にいることを知らせた。そして、すくなくとも一、二時間のうちに男女とも全員を逮捕する手筈を打ち合わせた。
意見を述べてから、逸早く戻った。誰も私が消えたのに気づいていなかった。そして、十時に家が包囲され、治安係官が踏みこみ、そのあとに怖ろしい憲兵の一隊と密偵たちがつづいた。われわれは別々に縛られて警備隊に連行された。警視が先に来ていて身体検査を命じた。クリスチャンは、ヒルシュという偽名を名乗り、スビロットさんの六組の銀食器を隠そうと頑張ったがムダだった。相棒のマダム・ヴィルマンも、名をいつわったが、きびしい尋問から逃れられず、訴えにあった二個の金時計のありかをゲロした。また、他の連中もかっぱらった金や宝石のことを白状せざるを得なかった。
この出来事を私の昔の仲間だったかれらが、どんなふうに思っているかを知りたくてたまらなかった。かれらの眼からは、私をまったく疑っていないことが読みとられた。これは間違っていなかった。というのは、みんな一緒くたに留置場に放りこまれたとたん、私が、そば杖をくって捕まったとして詫びを入れたからである。クリスチャンが、「思いがけなかったろう? 誰だって、こんなことになるたァ夢にも思っちゃいなかったんだ。俺たちは、赤の他人だと言ってくれたらいい。心配いらんよ。こっちも、おぬしは知らん人で通すからな。おぬしが巻き添えになるようなことが何も出てこないとなったら、大丈夫、いつまでも置いときゃしねェさ」
次に、クリスチャンは、彼や仲間の本当の名前は伏せといてくれと頼み、
「ま、この頼みは余計なことかもしれん。これについちゃ黙秘してる俺たちとは関わりがないもんな」
釈放のぎりぎりまで絶対に味方だからとボヘミアンたちに約束した。すると、すぐにも私が放免されるのをアテにして、私が出たら共犯者たちに知らせてくれとかれらの住居を教えてくれた。そして、真夜中ごろ、警視が尋問するという口実で私が引きだされ、さっそく、われわれは、ルノワール市場へ向かった。そこにはクリスチャンの別の仲間の三人と悪名たかい『公爵夫人』〔もちろんあだ名〕がいて、かれらを逮捕して家宅捜索をしたところ、有罪を証明するに必要な証拠品を手に入れることができた。
この盗賊団は十二人で、男六人、女六人であった。全員が刑を受け、ある者は徒刑、他の者は重労働刑になった。シャラントン街の酒場経営者は、宝石や食器、金銭の大部分を取り戻した。
スビロットの奥さんは、大喜びだった。ボヘミア人がくれた特効薬は効能あらたかで、以前より元気に健康になった。もっとも、一万二千フランが見つかったという報せが彼女を完全に治したのだったが。また彼女が経験したことが確かに損にならなかったせいもある。百フランの銅貨を百フラン四スウで売ったことを後悔するところだったと、一生に一度は思いだしたかもしれない。羮《あつもの》に懲りて膾《なます》を吹く。
このボヘミア人たちと出会ったのは奇跡に近かったが、警察の仕事をした十八年のあいだには、若いときの極道生活でたまたま関わった連中と偶然に出くわしたことが一度ならずあった。そういった出来事については、毎日のように聞かねばならない数多くの馬鹿げた苦情の一つを、どうしてもこの章に書きたくなる。これは、まったく珍しい思い出話ではある。
女店主は眠れない
ある朝、レポートを書いていたら、えらく身なりのよい婦人が私に話があると知らせてきた。とても重大な事件があるという。入ってもらうように言うと、彼女が入ってきた。
「お邪魔をしてすみません。あなたがヴィドックさまですか? ヴィドックさまにお話したいのですが」
「はい、奥さま、私でお役にたてば?」
「そりゃもう、ムッシュ、あなたなら食べること眠ることを取りもどして下さるわ……眠れないし食べられないんです……心配でたまらない不幸な女です……心配がわかって下さる方は大好きです。ほんとです、神さまが与えられた生《なま》の悲しみです……愉快で、しつけがいい子です……あなたが彼を知ったら、きっと好きにならざるを得ませんわ……かわいそうなギャルソン……」
「ま、奥さん、説明して下さいな。時間がムダになるといけませんから」
「あれは、あたくしの唯一の慰めでした……」
「とにかく、いったい、何があったんですか?」
「とても申し上げる勇気がございませんわ(手提《てさげ》袋をさぐって一冊の印刷物を取りだし、視線を避けながら私に渡す)。ともかく読んで下さいましな」
「これは案内広告誌ですね。なにか、お間違いをされているんでは」
「おねがい、ムッシュ、おねがいです。どうか、おたの申します。第三二七四〇番をご覧ください。あたくしの苦しみを、この上、申し上げるまでもないことがおわかりと思います。ああ、なんて、むごい……(涙が眼からあふれ、言葉が途切れ、すすり泣きに身をふるわせ、気絶するかに見えた)。ああ、息が、息がつまる。でも、元気になっていくようですわ……ああ、ああ、ああ、ああ」
ご婦人に椅子をすすめ、彼女が苦悩に我を忘れているあいだに第三二七四〇番まで頁をめくった。『失せ物』の項目で、その頁は涙で濡れていた。私は読んだ。
――スパニエル小型犬、長い銀色の毛、垂れ耳。手入れ完全、両眼の上に赤点あり。極めて精悼な顔立ち、極楽鳥のように拡がった尾。たいへんな甘ったれな性質で白鶏肉しか食べない。名はギャルソン、やさしくギャルソンと呼ぶと答える。女主人は悲歎にくれている。チュレンヌ街二三番地まで連れ戻してくれる方に五十フランの御礼を進呈。
「で、奥さん、このギャルソンについて何をしてくれとおっしゃるんですか? 犬は権限外です。とても可愛がっておられたようですが……」
「ええ、そうですとも、ムッシュ、かわいい! この一言につきます」
その婦人は、心の臓までふるえるような調子の溜息をついた。
「それに利口なんです。あんな利口な子はいません。そばを離れませんでした……かわいいギャルソン! いっしょに教会でお勤めをしていますと、あたくしと同じように神妙に聞いているなんて信じられますか? とにかく、誰もが感心し、神さまの教えがわかっていたのに……ああ、もう、この前の日曜日に、いつものように一緒に礼拝に参りましたの、あの子を腕にかかえましてね。ご存知のように、ああいう小さいのは、のべつ用を足すもんなんです――。教会に入る前に、用を足させに地面に置き、二、三歩、邪魔にならないように前へ出て、ふり返ってみたら……ギャルソンがおりません……ギャルソン、ギャルソンと呼びました……消えたのです……後を追いましたが神の恵みはありませんでした。そして……お察し下さい、この不幸、見つけだせなかったのです。ですから、今日、特別の御厚意をもって探してくださるようにと、あなたさまのもとに参ったのでございます。費用は全部お支払いします。ですが、ひどい目に遭わさないように、とくにお願いします。だって、あの子には何の落度もないんですから」
「私どもとしましては、奥さん、落度のあるなしは問題ではありません。あなたの申し出は聞き入れられる筋合いのものではありませんな。犬や猫や小鳥などにかまけていたら、それこそ際限がありませんからね」
「けっこうでございます、ムッシュ、そんな調子でおっしゃるのなら、あたくし、閣下に訴えて出ます。善意の民衆に思いやりがないのでしたら……あたくし、コングレガシオンに所属しているのをご存知かしら、で……」
「まァお好きなように悪魔にでも所属されたらいい……もうたくさんです。私としては、ギャルソン可愛さの女主人は変質者かなと、ふっとそう思われ、ぜんぜん狂っているなと大笑いしたくなりますな」
「そんなに可笑しいですか? だったら笑いなさいよ、ムッシュ、笑いなさいな」
ふいに笑いたくなった気分が少しおさまったので、
「お許し下さい、奥さん、つい自制できなくて。はじめは自分の仕事を忘れていましたが、どうしたらよいか今はわかってきました。あなたは心底ギャルソンの失踪を悲しんでおられるんですか?」
「ああ、ムッシュ、もう生きてはいられません」
「では、それ以上の悲しい失せ物の経験はないのですね?」
「ありません、ムッシュ」
「でも、あなたには夫と息子さんが一人、それに愛人が何人かいた……」
「まァ、ムッシュ、あつかましい……」
「そうです、マダム・デュフロ、あなたには愛人が数人いました、いましたよ。あのヴェルサイユの一夜を思いだして下さい……」
この言葉に、彼女は、しげしげと私を眺めていたが、顔が赤くなってきて、
「ウージェーヌ!」
一声あげて逃げて行った。
マダム・デュフロは小間物店の女主人で、私がアラス警察の追及をのがれて身をひそめにパリに来たとき、しばらくのあいだ彼女の店の店員になっていたことがあった。デュフロ夫人は、なんとも面白い女だった。ととのった顔立ち、上品な眼、くっきりした眉、立派な額で、口は並より大きい受け口だが、三十二枚の歯をきらきら光る白さに磨き、髪は黒くて美しく、それとわかるくらい生えている短いヒゲの上に鷲鼻がまたがっていて、もし二つの胸の隆起と両肩のあいだにのびている頸が操《あやつ》り人形の道化みたいな感じをあたえないなら、いかにも偉そうな顔に見えたであろう。私が初めて彼女を見たときは四十歳ぐらいだった。身なりに凝って、女王のような様子になるのを目指していた。しかし、たかだかと膝を立てて、帳場よりはるか上のほうの高い椅子に鎮座している姿は、セミラミス〔空中庭園を作ったといわれる伝説上のアッシリアの女王〕というより、どこかインドの寺院の奇怪な偶像に似ていた。このような、王座にいるみたいにお高くとまっている彼女を見ていると、まじめな気持を持ちこたえるのがやっとであったが、自分が置かれた立場の重さには背《そむ》けず、生意気な女だとは思ったものの、それをまったく別な尊敬の気持に切り替えるだけの力が私にはあった。
デュフロ夫人は、胸から大きな鼻眼鏡を取りだして私を眺め、頭から足の先までじろじろと見て、
「なにをお望み、ムッシュ?」
私が答えようとしたら、私を紹介してくれた店員が、これがお話した若者ですと言ってくれた。すると、彼女は、また私に向かって、商売の心得があるかと尋ねた。商売ときたらズブの素人だったので黙っていたら、彼女は質問を繰り返し、いらいらしている様子なので、むりにも説明せねばと見てとった。
「奥さま、私は小間物の商いのことは知りません。ですが、お目をかけて御指導くださいますなら、一生懸命、身を粉にして御気に入るようになりたいと思います」
「あらそう、気に入ったわ。正直な人は好きです。テオドールの代わりに雇いましょう」
「お気のままに、マダム、言いつけに従います」
「では、うちにいて頂戴。今日から見習い奉公とします」
その場で私の就職は決まった。しかし、なにしろ末端の店員なので、倉庫や作業場を掃除するのが仕事というわけで、そこでは、いずれがアヤメかカキツバタ、二十人ばかりの若い娘が俗っぽい色気を誘う装身具を作っていた。私は、美女の群のなかに投げこまれて、ハレムにでも運ばれたような気がし、こっちのブリュネット、あっちのブロンドが欲しくなり、みんなに恋のハンカチを回したくなっていたところ、十四日目の午前中だった、色眼をつかう私に驚いたにちがいない、デュフロ夫人が彼女の部屋に私を呼びつけた。
「ウージェーヌさん、あなたには大不満です。ここへ来て間がないのに、あたくしが雇っている若い娘に罪つくりをしようとしています。言っときますけど、そういうことはまったく気に入りません、まったく、まったく」
私は、この当然のお叱りに恐縮し、どうやって私の下心を見抜いたのかはわからないまま、もぐもぐと意味をなさない二、三の言葉をかえした。すると、
「自分のほうが正しいと言おうとして困っているようね。あなたくらいの年頃だと、ある一つの方向へ、どうしても傾いてしまうのはわかっています。でもね、あの女の子たちとは、どんな関わりも持ってはいけないのです。あの子たちは、まだ若すぎるし、おまけに財産もありません。若い男には、援助してくれる者、分別のある人が必要なんです」
このお説教のあいだ、デュフロ夫人は、じだらくに長椅子の上に身体をのばし、女中がやって来て、倉庫で呼んでいますと言わなかったら、むらむらと欲望をそそる眼の動きが確かにうかがわれた。
この会談は、こんなふうに終わったが、今後は用心している必要があることがわかった。そこで、自分の意図は断念せずに、女主人が雇っている女工さんたちには無関心なように見せて、たくみに夫人の炯眼の裏をかいた。彼女は、のべつ私を見張っていて、私の振舞いや話していること、視線の行方などを観察していた。だが、一つのこと、私の商売慣れの早さだけには驚いたらしかった。一カ月たらずの見習いだったが、私は、ショールやファンシイな婦人服、胸当てや帽子などをベテラン店員並に売れるようになっていた。
夫人は悦に入って、親切に言ってくれた。もし、私が、ずうっと彼女の教えに従うなら、小間物商のピカ一にしてもらえるのも夢ではない、と。
「でもね、ひよっ子ねえちゃんたちと仲よくなってはいけません、よくって、ウージェーヌさん、わかっているわね。さらに、おすすめしたいのは、身なりを疎《おろそ》かにしないことです。ちゃんとした身なりの殿方は優しい感じなものです。これからは、あたくしが着る物のめんどうを見てあげます。まかせて頂戴。あなたを愛の神に仕立て上げられないかどうか見て下さいな」
私は夫人に礼を述べたが、まさか彼女がヴィーナスになり、私をキューピッドにするのではないかと、その突飛な趣味が怖くなり、そのような変身はできないと思いますから、その心づかいは御無用です、その考えを取りやめて下さったら、ご厚意を有難く受けて店の利益になるように働きます、と答えた。
それからしばらくして(聖ルイ祭の四日前だった)、デュフロ夫人が言うには、ヴェルサイユの市へ例年のように商品の一部を持って出かけるので、私に一緒に行ってもらいたいとのことであった。私たちは、その翌日に出発し、四十八時間後には市が開かれる敷地に店舗を設営した。いっしょに来ていた下男が店に寝泊まりすることになり、私と夫人は宿屋に泊まることになった。二部屋をたのんだが、他所からの人たちがあふれていたので一つの部屋しかもらえず、あきらめねばならなかった。そして、晩になると、夫人は大きな衝立《ついたて》を持ちこんできて部屋を二つに区切り、それぞれが間仕切りの個室になるようにした。それから、彼女は、床につく前に一時間も私にお説教をし、やっとのことで階上に上がって彼女の仕切りに入った。私は、おやすみなさいと挨拶し、二分後にはベッドに入ったが、まもなく彼女がもらす吐息らしいのが聞こえた。昼間の疲れのせいにちがいなかった。また聞こえた。しかし、灯は消えていて、私は眠った。
ふいに寝入りばなを邪魔された。私の名を呼んだような気がした。耳をすます……ウージェーヌ、夫人の声だ。私は答えなかった。また呼んだ。
「ウージェーヌ、ちゃんと戸を閉めた?」
「はい、奥さま」
「勘違いしてるかもしれないわ。おねがい、見てきて頂戴。ちゃんと閂《かんぬき》がかかっているか確かめてね。こんな宿屋では、用心しすぎるということはありませんから」
私は確認に出かけ、戻ってきて横になる。左向きになったかならぬに、また夫人が不平をこぼし始めた。
「なんて、ひどいベッド。南京虫に食われるのよ。とても眠れないわ。あなた、ウージェーヌ、そちらは虫に悩まされていない?」
私は聞こえないフリをした。彼女はつづける。
「ウージェーヌ、答えなさいよ、あなたのほう、こちらみたいに虫がいます?」
「ぜんぜん、奥さま、まだ何も感じません」
「幸せね、あなたは。不平たらたらなのは食われているからなんです。そこらが腫《は》れて……このままだと、一晩じゅうまんじりともできないわ」
私は沈黙をまもる。だが、それも力つきて守りきれないことになる。というのは、夫人が、ちくちくするやら痒《かゆ》いやらでどうもこうもならなくなり、苦しさのあまり金切声をあげはじめたからだ。
「ウージェーヌ、ウージェーヌ、ちょっと起きて来て、おねがい。宿の者に明かりをくれるように言って頂戴。いやらしい虫を追いだしたいの。急いで、ねェあんた、地獄にいるみたい」
私は階下に降り、ローソクをつけて持って上がると、女主人の寝床のそばの台に置いた。私は、いわゆる竜の略服、つまり裸なみのシャツ一枚だったので、その場を早々に退きあげた。夫人に恥ずかしい思いをさせないためと、どうやらコンタンがあるらしい彼女の大胆なネグリジェ姿の誘惑から遁れるためでもあった。ところが、衝立を周ったか周らないかで、夫人が大声をあげた。
「あっ大きい。怪物だわ。とても殺せない。走って逃げてしまう。ウージェーヌ、ウージェーヌ、ここへ来て、おねがいよ」
もう引っこみがつかなかった。私は、今様テーセウスよろしく、思いきって彼女のベッドに近よりながら、
「どこじゃ、どこじゃ、ミノタウロス? 息の根とめてくれるわい」〔ギリシア神話、テーセウスは牛頭人身の怪物ミノタウロスを殺した〕
「後生だから、ウージェーヌ、そんなふうに、ふざけないで……つかまえて、つかまえて、ほら、走ってく。枕の下を見た? いま、下へ逃げて行く……なんて素早いんでしょう。あんたの先回りをしてるみたい」
懸命にやったがムダだった。危険な動物は、つかまえることも見ることもできなかった。もぐりこめそうな所を隈《くま》なく探し、ありとあらゆる動きをして見つけようとしたが徒労に終わった。そんなふうにドタバタしていたら二人とも眠くなり、さて、眼がさめてから二人のあいだに起こったことをふりかえってみると、デュフロ夫人はポテパルの妻より幸せだったと考えられ、私にはヨセフほどの道義心がまったくなかったのが苦々しく思われた〔旧約聖書、ヨセフは主人のポテパルの妻に言い寄られたが拒否して投獄された〕。
このときから、私は、夫人が南京虫に悩まされなくても、毎夜のようにお勤めをするようになった。昼の勤めは、かなり手ぬるいものになり、彼女は、惜しみなく私に気をつかって親切にし、ちょっとした贈り物もくれるのであった。こうして、私は、女王の官費で養われ、着せられ、履かせられ、寝かされる新参のお小姓みたいになった。ところが、不幸なことに、この女王は少々やきもち焼きで独裁政府であった。デュフロ夫人は、あの関係以外は多くは求めず、私は兎のように遊んでいればよかった。だが、私が誰か他の女に眼を向けると、その都度、怒り狂った。そして、とうとう、その暴君ぶりが度を超したので、ある晩、自由になろうと決心した。
「ああそう、別れたいの。そんなら、こうしてやる」
彼女は、短刀をもって飛びかかり、私の心臓を突き刺そうとした。とっさに腕をおさえ、やがて怒りがおさまったので、どうか聞きわけて下さいよとなだめた。彼女は約束した。しかし、その翌日から緑色のタフタ織のカーテンが小部屋の格子に掛けられ、私は帳簿づけ専門に雇われた者として部屋の隅に追いやられた。このやり方は、たいへんな嫌がらせで、もう倉庫の人などに会う見込みはなくなった。なるほど、夫人は利口な女で、この世の片隅に私を孤立させたのであった。毎日、私を独占する新しい工夫をした。しかし、とうとう、私の奴隷状態があまりにも厳しくなったので、彼女の愛情のお目当てが私であることに誰もが気づくようになり、女主人の頭にガンと一発くらわしたい店の女の子たちが、あれこれ口実をもうけて話しに来るようになった。かわいそうにデュフロ夫人は、きっと悩んでいたことだったろうが、同情はするが……。彼女は、一日じゅう私をなじろうとし、いつ果てるともない場面がつづいた。私は、それ以上、そういう体制にとどまる力がないと自覚し、私の立場も考えて(脱獄していた)、ひょんなことからヤバくなるのを避けるために、黙って真面目に勤めていて、そのうちに逃げた。
はるか二十年も前の当時を考え、警察の事務室でサンマルタン街の可愛い女を夢見るように思い浮かべる私であった。彼女が望んだ諺は、『山と山は出会わない……』であったのだ。
それから四カ月ばかり後のこと、兇器による殺人と強盗事件がパリ近郊の街道で頻発し、犯人を発見できなかった。警察は、評判のよくない何人かを見張って監視したが骨折り損、すべての捜査が空振りに終わったころ、怖ろしい状況を伴った新たな犯罪が手掛りになって、犯人にたどり着ける希望が出てきた。
クルチィユで肉屋を営んでいたフォンテーヌという名の男が、道中袋に千五百フランの金を持ってコルベイユ郡〔本章第一項のソフィの話参照〕の定期市へ出かけた。クール・ド・フランスを通りすぎてエソンヌのほうへ歩って行き、とある宿屋で一服したが、宿屋のすぐ近くで身なりのいい二人の男と出会った。陽が沈みかけていた。フォンテーヌは、連れの旅も悪くないと思い、その見知らぬ二人に言葉をかけると、たちまち互いに話しあう。
「ボンソワール、お二人さん」
「ボンソワール、友だちさん」
交わされた会話。肉屋いわく、
「そろそろ夜になるのを承知かな?」
「それがどうかしたとでも? この季節だ」
「日が暮れるのが早いが、わしには、まだ、かなりの道のりが残っている」
「いったい、どこへ行きなさるんで、べつに気にもしないが?」
「どこへ行くかって? 羊を買いにミリ〔コルベール郡にある地名〕へ行くのさ」
「そんなら、もしよかったら一緒に行こう。おれたちはコルベイユへ行くんでね。だったら、はぐれっこなしだ」
「そのとおり、はぐれっこなしだ。お前さんらの仲間になって、かえって好都合だ。金を持っているときは、わかるね、独りでないに越したことはない」
「ほォ、金を持っていなさるんで」
「持っているんだ、かなりの大金を」
「おれたちも持っているが、田舎では危険はないそうだ」
「そうかな? わしは、いつも棍棒を持ち歩いて自分を守っている。それに、お前さんらもおる。ところで、二度も追剥《おいはぎ》が出たのを知ってるかな?」
「手出しはしないさ」
「そうとも、大丈夫、手出しはしないさ」
こんなふうに話しながら、三人は、小さな家の門口に来た。杜《ねず》松の枝の看板が出ていて酒場と知れた。フォンテーヌが、いっしょに一本あけようじゃないかと連れの二人にすすめ、その家に入った。リットル八ソルのボレジャンシイ酒だった。テーブルにつく。安い。いい機会だ。ちょっぴり飲んだって害はない。一杯だけ飲むんだ。道中の一休みだ。めいめいの割り勘にしよう。四十五分がすぎて、みんなが腰を上げようと決めたときのフォンテーヌは、やや酔っぱらって御機嫌さんの態。そんな状態では、どんな人間も疑いを持たなくなる。
フォンテーヌは、いい人たちに会えたと喜び、かれらに道案内をしてもらうのが一番いいことだと確信し、すべてを委せた。三人は近道をたどる。彼は、見知らぬ男の一人と前を歩き、もう一人が、すぐそばについた。あたりはまっ暗、視界は四歩。だが、犯罪者は山猫の眼をもっていて、漆黒の闇も通して見る。ふいに、なんの予測もしていないフォンテーヌを、うしろにいた男が、頭を狙って棍棒でガンと一撃。よろめき驚いて立ち直ろうとするのを、もう一撃されてひっくりかえった。と同時に、もう一人の悪党が、短刀を手に飛びかかり、死んだと思うまで斬りつけた。フォンテーヌは、ながいことジタバタしていたが、とうとう参ってしまった。そこで、人殺しどもは、道中袋をひったくって中身をかっさらい、血の海のなかに肉屋を残して逃走した。まもなく一人の旅人が通りかかって呻き声を聞いた。つめたい空気にあたって命をとり戻したフォンテーヌだった。旅人は、彼のそばへ来て、献身的に大急ぎで応急手当をしてから、いちばん近い住民に助けを求めに走った。
事件は、ただちにコルベイユの検事に知らされ、殺人現場に検事が到着、そこにいた人たちを尋問し、ほんの些細な状況についても問いただした。浅いのや深いのや二十八カ所の傷が検証され、いかに殺人者たちは被害者が逃げるのを怖れたかがわかった。フォンテーヌは、まだいくらか言葉を出せたが、いかにも弱っていて、当局が必要とする一切の情報を語ることはできなかった。病院に運ばれ、二日後には目ざましい恢復が見られ、助かる希望が持ててきた。
発見された所書き
被害者の身体を持ち上げる際には細心の注意が払われ、殺人犯人の発見にむすびつくものは何物もおろそかにされなかった。足跡が透写され、ボタン、血痕のある紙片などが採取された。ドスの刃を拭いたらしい紙切れが近くで見つかり、それに手書きの文字がいくつかあるのに気付いたが……文字が途切れていて、役に立つ手掛りをつかむことはできなかった。だが、検事は、そうした文字の解明に高度の重要性があると思い、もう一度フォンテーヌが虫の息でいた場所へ行って探索したところ、第二の紙切れが草の中で見つかった。あきらかに住所が千切《ちぎ》られたもので、念入りに調べた結果、次の文字が判明した。
クリ
ロシュ     門
酒場店主
ラウ  殿
この紙片は、一枚の印刷物が千切れたものらしかったが、その印刷物がどんなものか? 明らかにできなかった。ともあれ、こういう場合、これは、なにか確かなことがわかるのを待ってから調べてもよいような小さな事柄ではなかったので、すべて捜査に役立つことは記録しておかれた。
これらの最初の手掛りになる遺留品を集めた検事たちが発揮した熱心さと手腕は賞賛に値し、かれらは、分相応の使命を果たすと、急いでパリに戻り、司法と行政の当局と協議した。そして、かれらの要請で、私は、ただちに一同と顔を合わせ、かれらが作成した調書を受けとり、殺人犯人たちを捜査する仲間になった。ガイ者は犯人たちのことを伝えているが、その供述による情報を拠りどころにすべきであろうか? 大きな事件の中で、ちゃんと物事を見る平静心を保っている人は少ない。こんどの場合、フォンテーヌの証言が非常に正確なものだとすることは疑うべきである。彼の話では、ながく続いた格闘のあいだに、襲った一人が膝を突いて痛ェと叫び、とても痛かったと後で共犯者に言っていたという。私には、フォンテーヌが語ったその他の供述も、発見されたときの彼の状態からすると異常なものに思えた。かすかな意識のもとの記憶が確かなものとは信じ難かったが、その供述を有利に使おうとは考えた。だが、なによりもまず、もっと積極的な出発点から探索を始めるべきであり、私としては、千切られた住所が、まず解明すべき謎であった。脳味噌をしぼり大努力の末、さして暇どらずに、名前を除いて、次のようになると確信した。名前については、なお多くの疑問が残った。
クリニャンクール街道
ロシュショワール門外地
酒場店主
ラウ  殿
してみると、殺人犯人たちは、この地区〔パリの市門の外側の地帯〕の酒場の亭主と関わりがあるのは明らかであり、もしかすると、その亭主自身が犯罪者の一人かもしれない。さっそく、私は、真相を知る計画をたてて、その日の終わりにラウールという名の男が臭いと思ったのが誤りでないことを確信した。たいへん幸先がよく、その男は、あまりよくは私を知っていなかった。彼は、その方面では、めっぽう大胆な密輸屋として名が通っていて、彼が経営していた酒場は、ばか騒ぎをする良からぬ連中の溜りになっていた。また、ラウールは、放免徒刑囚の妹を女房にしており、あらゆる種類の評判の悪い連中となじみだと聞いていた。一言でいうと、なにか犯罪が発生すると、彼が咬んでいなくても、いちおう、こう言ってやってもよかった。
――お前でないなら、お前の兄弟か、お前の身内の誰かだ。
ラウールは、自縄自縛、つまり取り巻き連中によって一種の終身未決拘留の状態になっていた。私は、彼の酒場に来る者を見張ることにし、しょっちゅう出入りする者全部に眼を光らせて、もし、その中に膝に怪我をしているやつがいるかどうかを確かめるよう部下に命じた。この見張り役たちが指示された部署についていたあいだに、私のほうで受けた報告によると、ラウールは、常日頃、かなり人相の悪い二人のゴロン棒を家に迎え、そいつらと親密につながっていることがわかった。近所の人たちの確かだという話によると、その二人は、いつも連れ立って来るのを見かけるが、姿を見せないことが多く、ラウールの目玉稼業は密輸だろうというのであった。
ラウールの住居に出入りしていて、いろいろと見ている某酒場の主人が私に言うには、彼の同業者、つまりラウールは、しばしば夕方に出て行って翌日にならないと戻らず、たいてい、ひどく草臥《くたび》れて泥んこまみれになっている、と。また、こう語った者もいた。ラウールは、庭に射撃標的を設けていてピストルの練習をしている、と。こうした話題が、あちこちから私のもとへもたらされた。
これらの話と同時に、部下たちがホシの一人と思われる男をラウールのところで見たと知らせてきた。その男は、びっこは引いていなかったが、歩くのが難儀のようで、フォンテーヌが述べた男にそっくりな服装だったという。さらに部下たちが付け加えて言うには、その男は、いつも女房を連れていて、その夫婦はラウールと深くむすびついているらしく、かれらがコクナール街の家の二階に住んでいることも判明した。だが、できるだけ秘密裡に調査して慎重を期さねばならないので、相手に気付かれるのを怖れ、それ以上の調査はしなかった、と。
この報告は、私の推理を強いものにした。話を聞くと、すぐにも教えられた家の近くへ張りこみに行こうと思った。夜が明けるのを待ち、その男が現われる前にコクナール街で見張っていた。そして、午後の四時まで同じところでじっと待っていたが、正直いって、いらいらしてきたとき、部下が指し示した人物を見て、その顔付きや名前が不意に記憶によみがえった。あいつですよ、と部下が言った。事実、私は、クールという名を思いだしたとたんに、彼の過去の記憶から、彼こそ私が探しているホシの一人だと確信した。その非情性ゆえに、多くの怖ろしい兇悪事件でいちばん彼が疑われたものだった。六カ月の拘留をつとめ終えたばかりで、暴力詐欺で私が逮捕したのを思いだした。カイン〔旧約聖書、弟アベルを殺した〕のように、その額に殺人者と誌《しる》されている堕落人間の一人であった。
大予言者でなくても、彼こそ死刑台まちがいなしと、ためらわずに言える男だった。これまで外れたことのない私の予感では、いよいよ彼も運がつき、年貢の納め時のドタン場へ来たなと思えた。だが、急《せ》いては事を仕損ずると思い、彼は何によって生活をしているかを確かめる聞きこみをした。結果、誰も彼の仕事のことは知らず、財もなく働いてもいないというのが周知の事実だった。私が聞いた近所の人たちの一致した話では、彼はたいへん不規則な生活をしているとのことで、要するにクールもラウールと同様、まぎれもなく追剥だとみなしてもよかった。世間の人は、人相で悪者だとしていたが、私にはかれらが明らかに悪党であるという理由があり、世間の人の判断が、その罪状をより一層あきらかにしてくれたとも言えた。私は、かれらを逮捕してよいという令状を急いで請求した。
逮捕状をもらい、さっそく次の日の夜明け前、クールの家の入口に出向いた。二階の踊り場に着くと、ドアをたたいた。
「誰だ?」
内側から訊いた。
「開けろ、ラウールだ」
ラウールの声を真似てみた。
すぐに急いで走る足音が聞こえ、ドアを開けると、友だちに話しているつもりで私に言った。
「ほかのもんがいるんか?」
「うん、そう、ほかにいるんだ」
これを私が言い終わらないうちに、うす明かりで私をラウールと間違えたことに気付き、
「おお、ムッシュ・ジュール」(娼婦や盗賊に名乗っていた名だった)
怖くなって声をあげると、
「ムッシュ・ジュール」
もっと驚いてクールの女房が叫んだ。
「オヤ、どうした? おれを怖がってるンじゃあるめェな? 見かけよりワルじゃねェよ」
朝っぱらから起こされてびっくり仰天の夫婦に言うと、亭主が、
「そのとおり、ムッシュ・ジュールはいい人だ。俺をパクったが、そんなこたァどうでもいい、べつに根に持っちゃいねェ」
「そう信じてる。ところで抜け荷(密輸)をやっとるとか、おれのトチリかな?」
「抜け荷?」
クールが言いかえした。重圧から解放され、ほっとした者が自信を取りもどした言葉の調子だった。
「抜け荷だって。なァ、ジュールさん、わかってるだろう、もしそうだとしても、あんたにゃ隠さないよ。ガサ入れ(家宅捜索)してもいいぜ」
彼が、だんだん落ち着いてきているあいだに、私は、任務として彼の住居を捜索し、銃弾をこめたピストル一対、何本かの短刀、さいきん洗ったと思われる衣服その他の品物を押収した。
こうなると、早く仕事を片付ける必要はなくなった。亭主を逮捕して女房を残しておくと、何が起きたかをラウールに知らせるにきまっている。そこで、夫婦をカデ広場の番所へ連行した。クールには捕縄を打ってあったが、ふいに気落ちしたようになって考えこんでしまった。私が、いろいろと警戒したので不安な気持を起こさせたのだった。女房も、あれこれ怖い思いにとらわれているようだった。警備隊に連れて行かれると、二人を離して拘束してくれと頼んだので承知した。かれらの要求は入れてやってくれと警備員に命令しておいたが、二人とも食べたくも飲みたくもないという。この点をクールに尋ねると、ただ首を横に振って答えただけだった。彼は、十八時間も堅く口を閉じていた。眼を見すえ、不動の表情だった。この不動の態度は、彼が有罪であることを証明するものに他ならなかった。私は、日頃、こうした場合の両極端を見てきた。だまりこくって元気がないか、とめどもなくペラペラ喋るかである。さて、クールと女房が警察に移されると、私はラウールだけにかかることができ、すぐに彼のところに出向いたが留守だった。店をあずかる男が、彼はパリ城内に寝泊まりしていると言った。彼はパリに別宅を持っていたのだが、日曜日だったので、かならず朝早く戻ってくるはずだという。
ラウールが留守だと聞くと、まずいことになると察した。わが家に戻る前に、クールのところへ気まぐれに顔を出したくなるかもしれない、と想像して身ぶるいした。クールの逮捕がわかるにきまっており、私から逃げる算段をするだろう。さらに心配なのは、われわれがコクナール街へ出かけたのを見ているかもしれない。こんな懸念が増していたとき、留守番の男が、主人の別宅はモンマルトル界隈にあると言い、そこへは行ったことがないので、はっきりと場所は教えられないが、カデ広場付近らしいといった。こうした話の一つ一つが私の心配を裏付けた。つまり、ラウールは、ひょっとすると、もう何かを疑っているかもしれなかったからだ。九時になっても、彼は戻らなかった。さらに留守番の男に質問したが、反抗心をもたせるようなことは言わず、帳場に坐っていたくないような気持は起こさせなかったが、じっさい彼は不安げだった。私と部下たちのために頼んだ昼食を用意した女中は、主人と奥さんがいつもより遅いのに驚き、なにか事故があって遅れているのではないかと怪しんでいた。女中に言ってやった。居場所がわかっていたら死んでいるかどうか見てきてやるよ。
かれらがパリの住所を出ているのは確かだが、いったい、どうしているんだろう? お昼になったが、なんの報せもなかった。さては、こちらの企みは見抜かれたなと思いこんだとき、戸口の前で見張っていたボーイが駈けだしながら言った。
「ほら、あの人が」
「誰が会いたいって?」
こうラウールが言って敷居をまたいだとたんに私がわかった。私のほうへやって来ながら、
「オヤ、こんにちわ、ジュールさん。今日はまた、誰がお目当てでこのシマへ来なさった?」
用があるのは自分だとは思っていない様子。私は、怖がらせてはまずいと思い、訪問の目的をそらそうとした。
「うん、まァな。ところで、お前さんは太っ肚《ぱら》だというが?」
「太っ肚?」
「そう、そうだ、太っ肚だ。だから余計に泥をかぶせられる……いや、ここでは説明できんよ。さし向かいで話したいな」
「喜んで。二階へ上がって下さい。あとから行きやす」
部下にラウールを見張っていて、もし外へズラかる素振りがあったら身柄を押さえろと合図して二階へ上がった。哀れな男は、なにも気付いていなかった。その証拠に、彼は約束どおりやって来て、まるで陽気なくらいの感じで話しかけた。その安心しきっている様子を見て嬉しくなり、まず私が、
「さァ、これで二人だけになった。気楽に話しあえる。なぜ来たか話そう。あててみな?」
「とても」
「お前さんは、自分がしたことの言い訳をし、あくまでこの酒場内のことにして済まそうとしているが、いろんな悪口を言われて辛い思いをさせられている。毎日曜日、ここで集会があって、反政府的な唄を歌っていると警察に報せがあった。それだけじゃない、お前さんが、うさん臭い連中を家に引きこんでいるのもわかっている。さらにだ、今日のお午から四時までに、かなり大勢の連中を待ち受けているそうじゃないか。警察は、その気になったら知らん顔をしないくらいわかっているはずだ。まだある。お前さんは、いかがわしい罰当たりな歌本を山と持っていて、用心ぶかく歌集を見つからんように隠している。おれたちは、ここへ来るには必ず変装し、ばか騒ぎ連中が集会を開く前はおとなしくしているように言いつかっている。おれは、こんなうす汚ねェ仕事をまかされて腹を立てているんだ。おれの顔見知りの者のところへ行くとは知らなんだ。だったら断ったところだ。だって、お前さんに変装が通用するかな?」
「当たりです。ダメで……」
「まァいいさ。おれだったから、まだしもとしよう。わかってるだろうが、悪いようにはしないつもりだ、うまくやってくれればだ。つまり、持ってる歌本をそっくり渡し……この上あらたな面倒を避けるには、ひとつ教えといてやるが、お前さんを巻き添えにするような根性のやつらとは関わらんようにするこった」
「あんたが政治向きの仕事をしているとは思わなんだです」
「なら、どうだというんだい? 店を構えたら、なんでも少々は扱うよ。おれたちは、どんな鞍《くら》でも置ける馬なんだ、違う?」
「つまり、好きなようにしていなさるわけだ。ま、それはどうでもいい、あっしも公明ラウールと名乗っている以上、誓って嘘はつきません。世の中、いやなやつらばかりでしょうが……あっしは、ただ、しがない暮らしをしてるだけのことです。いつも妬《ねた》むやつがいるもんだと言うのは道理ですが、いいですか、ジュールさん、逃げ口上は言いません、好きなようにやって下さいな。ここに子分衆と一日じゅういてくださりゃ、あっしが欺しているかどうかがわかるというもんです」
「承知した。だが、せめて、どんちゃん騒ぎだけはやめてくれ。お前さんは歌本を隠して平気でいるが、とくに外で悪さはしないでくれたまえ。もしも、ばか騒ぎの歌い手どもに前もって知らせたら……」
「パクるんでしょう、誰かのために? あっしは何もしないと誓う以上、それを押し通します。意地があるやつとないやつがいます。それに、あっしに悪意がないことを証すためには、あんたは、ここを離れられない。たとい、そういうことがあるにしても口には出しませんよ、女房が戻ってきても、女房にも。ざっと、こんな具合ですが、たしか……ときに、肉料理くらいやらせて下さいな」
「喜んで。おれのサービス精神を知らないな? いっちょう手を貸したくているんだ」
「こりゃいい人だ、ジュールさんは。喜んでお受けしやす」
「さァ、とりかかろう」
いっしょに階下に降りる。ラウールは大きな肉切り包丁を手にし、やがて肘《ひじ》まで袖をまくって、私の前に拡げたナプキンを寄こす。それを付けて、私は当日用の仔牛の肉を小さく切る。ぱりぱりのサラダを添え、酒場のルークルス〔紀元前一〇六〜五六のローマの将軍、豪奢な生活で有名〕料理を作る。私は仔牛から羊肉に移る。上手に十いくつかの骨付き脂肉の下ごしらえをする。股肉を丸める。城外地区の御馳走である。二、三羽の七面鳥の尾っぽを引っこ抜く。鳥をこしらえると、台所ですることがなくなり、地下室へ用事をしに行き、リットル六スウの『家主酒』造りを面白半分に手伝う。
この料理仕事のあいだ、二人きりでラウールと面と向かい、すぐそばで親友の役をつとめたが、影におびえず薄刃包丁からも逃げなかった。正直いって、そんなに近くで見張るコンタンを疑うのではないかと身ぶるいもした。もし、そのとき、間違いなく切りつけてきたら、私は数撃のもとに倒れて助かる見込みはなかったであろう。しかし、彼は、私の政治的な尋問を親しみのあるものとしかとらず、私の挑発的な非難についてもまったく平静であった。
板前助手の仕事を四時間ちかく果たしたころ、あらかじめ通報しておいた警視(当時の第二部長)がやっと到着した。私は一階にいた。遠くに警視を見ると、彼のところに駈けて行き、しばらくは姿を見せないで下さいと頼んでからラウールのところへ戻って、
「ちきしょう、やつら来やがった。いま、おれたちがいるのはここじゃなくて、パリのお前さんの住居のはずだと警視にどやされるぞ」
「そうときまってるならパリへ行こう」
「行こう。だが、向こうへ着いたら、またクリニャンクール街道へ引返さにゃならん。あいつらの足は、おれたちほどノロマじゃない。いいか、おれがお前さんの立場だったら、どうか酒場の家宅捜索をして下さい、と警視にたのむな。これはな、お前さんを疑ったのは間違いだったと思わせる便法よ」
ラウールは、このもっともらしい勧告を判断した上で、私がすすめた方法をとった。警視は彼の希望を入れて、念入りにガサ入れを行ったが、何も得るものはなかった。
「さて、これで、だいぶお先が明るくなりましたかな?……大迷惑もいいとこ。人殺しをしたって、これよりひどかねェや」
ラウールは、文句の付けようがない者が言う満足げな調子でうそぶいた。
この自信満々な棄てぜりふに、私はどぎまぎした。まちがいなく彼がホシだと睨んでおり、そのとおりだとしても、こうした彼に有利な印象が私のカンを消してしまう。いや、待てよ、やっぱり彼は強盗のことを考えて苦しみ、その手は、まだ被害者の血の匂いがしているからこそ、危害を加えたことを思いだして大それた発言ができるのだ。ラウールは落ちつきはらって勝ち誇っていた。一同が、彼のパリの住居へ行く馬車に乗ったときなど、まるで婚礼にでも出かける態度だった。
「けっこうなお客さんと一緒なのを見て、さぞ家内がびっくりするでしょうよ」
その家内が戸を開けてくれた。われわれの姿を見ても、その顔は、これっぽっちの変化も見せなかった。みんなに椅子をすすめたが、ぐずぐずしていられなかったので、彼女に失礼して、警視と私は、新たな家宅捜索の任務を開始した。ラウールが立会い、ひどく気をつかって案内した。私がラウールにしたもっともらしい話の狙いは、例の紙切れに結びつく物を探しだすことであった。彼は書きもの机の鍵を渡した。私は手紙の束を取りあげて最初のものに眼をやった。一通の支払命令書だったが一部分が千切れていた。とたんに、コルベイユの検事調書に添付した住所が書いてあった紙片を思いだした……この断片は、あきらかに千切れたものに合致する。私の観察を聞いた警視も同意見だった。ところで、ラウールは、はじめのうちは命令書を調べていて、私たちには、とんと無関心だった。たぶん、そこまでは警戒していなかったのだろうが、とつぜん身体をこわばらせて蒼くなり、弾をこめてあるピストルが蔵ってある用ダンスの抽斗《ひきだし》のほうへ飛んで行ってピストルをつかもうとしたが、間一髪、部下たちが殺到し、抵抗できないように取り押さえた。
ラウールと女房が警視庁に連行されたのは夜中ちかくであった。クールは十五分後に連れて来られた。二人の共犯者は別々に監禁された。その時までは、両名にたいしては推測と準証拠しかなかった。私は、かれらが茫然となっているあいだにゲロさせますと申し出た。まず、おしゃべりをしてクールを試してみた。いわゆる八方口説きをやった。あらゆる議論をして自白する気持にさせようというのだった。
「おれを信じて、みんなゲロしなよ。もうわかってることを、なんで強情はって隠すんだい? これから受ける最初の尋問は、おめェが考えてるほど甘かないよ。おめェが襲った者みんなが死んじゃいねェんだ。おっかねェ証言をすることになる。だまっていたって罪が軽くなるわけじゃねェ。死刑台って、そんなに怖いもんじゃない。怖いのは拷問だ。しぶとさを罰する手きびしさだ。司法の役人どもが、ほんとうに腹を立てたら、死刑ぎりぎりの時まで、のべつ幕なしに痛めつける。とことん食いさがり、ゆっくりと死ぬまでやる。だんまりをきめこんでいたら、牢屋は地獄になるぜ。その反対に、話すんだ、後悔と諦めを見せるんだ。そうすりゃ、今の憂目《うきめ》から脱《ぬ》けられる。せめて、判事が同情して人情をもって扱いたくなるように努めるこった」
ながながと励ましたり勧めたりしているあいだに、クールは内心ひどく動揺し、襲われた連中の全員が死んだわけではないと言うと、顔色が変わって眼をそむけた。知らず知らずのうちに落ち着きを失っているのがわかった。はっきりと胸がふくらみ、苦しげな息をした。そして、ついに、朝の四時半だった、私の頸に抱きついて、どっと眼から涙を流し、泣きじゃくりながら声をあげた。
「ああ、ジュールさん、俺ァ大罪人だ。なにもかも話すよ」
誰を殺した容疑で追求しているのかはクールには言わないようにしていた。たぶん、彼は一つ以上の殺しをやっていると思われたが、それをとくに云々したくはなかった。私が望んだのは、あれこれはっきりと明示せずに漠然とした言葉にとどまったまま、追求されているのとは別の犯罪ルートを私に知らせてくれることであった。
「ああ、そうなんだ。ニワトリ商人を殺《や》ったなァ俺だ。あいつは不死身だったんか。ちきしょう、あんなにやられて生きてるとは。有態はこうだ、ムッシュ・ジュール、嘘ついたらこの場で死んでもいい……何人かのノルマンディ野郎が、パリで品物を売って帰って行くのに眼をつけた……銭を持っとると睨んだ。で、やつらの通り道で待っていて、やって来た最初の二人に待ったをかけたが、二人とも空っけつだった……そのとき、俺は、どん底もいいとこ、あんまりみじめなんで突っ走ったってわけさ。素寒貧《すかんぴん》の女房のことを考えると血のでる思いだった。あげくの果ては、やけくそ気分になっていたところへ馬車の音が聞こえた。俺は駈けた。ニワトリ屋の馬車だった。居眠りしていたのをとっつかまえ、財布を寄越せとせっついた。やっこさん、そこらを手さぐりした。俺も、やつのからだをさぐった。全部で八十フラン持っていた。八十フラン。そこらじゅうに借りがあるとき、それっぽっち何だってんだ? 二期分の家賃を払わにゃならん。家主のやつから追い出すぞと脅かされていた。みっともねェ限りだが、ほかの借金取りにもしつこく悩まされていた。八十フランで何ができる? かっとなって、おっさんの胸に二発、ピストルをぶっぱなした。半月のち、やつがまだ生きてると誰かが知らせてくれた……魂げたのなんの。それからというもんは、一分たりとも心が安まることがねェ。いつかは因果がめぐって来そうな気がしてた」
「おめェの怖れにゃ根があったんだなァ。だが、バラしたなァニワトリ屋一人だけじゃあるまい。道中袋を掻っぱらってからドスで風穴をあけた肉屋はどうなんだい?」
極悪人が、
「それについちゃ、どうか神さま彼の魂を、だ。いさぎよく訴えられる覚悟だが、そいつァ最後の審判のときだけだ」
「とんだ間違いだ。肉屋は死んじゃいねェ」
「ああ、よかった」
とクールが叫んだ。
「そのとおり、死んじゃいねェ。だが、前もって知らせとかねばならんが、やっこさんが言うには、おめェと共犯者がその場にいたことは間違いないとな」
クールは、共犯者はいなかったと頑張ろうとしたが、いつまでも嘘を通す力がなく、とうとう公明ラウールの名を吐いた。そのほかの者の名を追求したがムダだった。私は、以上の自白で一先ず満足せねばならず、もし彼が自白の撤回を考えてはと心配し、すぐさま警視を呼んで、その面前でさらに詳しい供述を繰り返させた。これは、たしかにクールが有罪だと決定づける第一の成果であり、従って、まだ第二の成果は残っているが、彼の宣誓供述にサインさせ得るものであった。だから、次の課題は、いやでもラウールを仲間の列に加えることであった。
私は、ラウールがいる部屋へそっと忍んだ。彼は眠っていた。眼をさまさないように気をつけて、彼のそばへ行くと、その耳に低い声でささやいた。かすかに身動きし、唇がもぐもぐ。答えてくれるように呼びかけ、声を高めないで今度の事件について質問する。わけのわからない二、三の言葉を口にしたが、なにを言っているのかわからない。この催眠状態が十五分ちかくつづいたところで、
「ドスでやったのかい?」
と詰問したところ、いきなりぱっと飛び起きて、なにか途切れ途切れの言葉を発し、私のほうをきっと見つめた。
私だとわかると、ラウールは、びっくり仰天し、身をふるわせた。心の中で抗争し、それを私に知られたと思って身ぶるいしたのだとも言えよう。不安げな様子で私を眺め、なにがあったのかを私の眼に読みとろうとしているのがわかった。もしかすると、眠っていたあいだに自分で自分を裏切ることを喋ったかもしれない。ひたいに汗がにじみ、顔が蒼白くなって、心にもなく歯をきしらせて作り笑いをした。私の前にいる彼の顔付きは、良心の呵責に苦しむ呪われた者の面相であった……それはまさに、エリニュスに追われるオレステースの姿であった〔ギリシア神話、母と情夫を殺したオレステースは復讐の女神エリニュスに追われる〕。おそろしい夢の名残りの霧がまだ晴れないでいた……私は、この状況をつかんだ。ホシ落としの補助手段として、このような悪夢を利用するのは初めてのことではなかった。私がラウールに、
「どうやら怖い夢をみたらしいね。けっこう喋ったし、かなり苦しそうだった。責苦をこらえ、後悔にとりつかれているのから解放してやろうと思って、眼をさまさせてやったんだ。と言っても怒っちゃいけない、白《しら》をきっても、もうダメなんだ。だち公のクールから何もかも聞いた。司法のお上《かみ》は、お前が背負っている罪の、どんな細かいものも見のがさない。お前が加担していることには抗弁できないし、共犯《れつ》の供述がある以上、はっきりした事実はどうしようもない。もし、否認の態度に閉じこもっても、判事の前で、あいつの声でぺしゃんこにされるだろうし、あいつの証言で足りないときは、ミリ付近で殺した肉屋が出てきて訴えるぞ」
このとき、私は、じっとラウールの顔を見た。引きつるのが見えた。しかし、次第に元にもどって力強く答えた。
「ジュールさん、あっしを丸めこもうたってムダですぜ。あんたは悪賢いが、あっしは無実です。クールのことは、あいつが有罪だとは納得いきませんや。まして、彼がやったのが本当らしいという気配もないのに、あいつが、あっしに嫌疑がかかるような真似をするはずがありません」
そこで私は、こちらが真実を知っているのをスリ替えようとしてもムダだと、かさねてラウールに言ってやり、それどころか、お前の友だちと対決させて、あくまで白《しら》をきれるかどうか見てやるよ、と付け加えた。すると、ラウールが、
「あいつを連れて来なさいよ。それに越したことはないや。クールが、悪いことができないやつだというのは確かです。なんだって、やってもいない罪をかぶせ、理由もなく、あっしを巻きこむんですか? あいつは、バカでないかぎり、そんなことはしない。いいですか、ジュールさん、あっしが言ってることは、ほんとの本当です。もし、あいつが殺して、あっしと一緒だったというなら、地上最大の極悪人と言われても仕方ない。あいつの言うことが本当だと認め、いっしょに同じ死刑台に上ることを約束しやす。これで死に、あれで死んでも同じこと、ギロチンも怖かありません、クールがそう言う、そう、何もかも喋り、テーブルクロスが拡げられ、二つの首が板の上にコロリですかな」
そこで、彼を好きなように思わせておいて、ラウールに会えと仲間のクールにすすめたところ、クールは拒絶し、白状した以上、もうラウールに会う元気はないと言ってきかなかった。
「供述書にサインしてるんだから、やつに読ましたら得心しまさァ。俺の字は知っとるもん」
クールは対決を嫌ったが、あまり逆らう気はなかった。これまで幾度となく、一秒もたたないうちに白から黒へ変わる供述の変化を見てきていた。そこで、その毛嫌いを消すことに努め、かなり早々と私の望みどおりにすることに肚を決めるところまで漕ぎつけた。そして、とうとう、私の眼の前で二人を会わせた。かれらは、互いに抱きあい、私が指図もしなかった咄嗟《とっさ》の思いつきで巧くやり、クールは、みごとに私の思惑を助けてくれた。彼はラウールに言った。
「な、おめェも俺みてェにやった。俺たちのことゲロしたそうだな? 上等だ」
こう言われたラウールはポカンとしていたが、やがて気をとりなおして、
「なるほど、ジュールさん、うまく仕組んだもんだ。抜かりなく欺しなすった。こうなっては、あっしも嘘はつかねェ男一匹だ、何も隠さずに言ったことは守ります」
その場で、共犯者の言葉を全面的に確認した供述をはじめた。
この新しい出来事が、法的に必要な書式で警視が受理したので、私は牢内にとどまって二人の殺人犯人と話をつづけることにした。かれらは、いつまでも陽気におしゃべりをした。自白した後で大犯罪者に見受けられるいつもの現象であった。いっしょに夕食をとり、かれらは適当に飲んだ。顔付きも平静にもどり、昨日までの張りつめた感じの名残りはなかった。和気あいあいの場面だった。かれらは、自白することで、正義によって約束のツケを払わされたのだ。食後のデザートのとき、夜中になったらコルベイユへ出発するぞと告げると、ラウールが、
「だったら寝られないや」
と言って、ゲームカードを持ってきてくれと頼み、われわれを運ぶ馬車が来たときは、ふつうの市民と同じように静かにトランプの『百遊び』に興じていた。
かれらは、ほんのかすかな動揺の色も見せずに馬車に乗った。そして、まだイタリア地区の境にも来ていないのに、幸せそのものの人のようにイビキをかいていた。朝の八時になっても眼をさましていなかったが、われわれはコルベイユの町に入った。