ヴィドック回想録1
フランソワ・ヴィドック/三宅一郎訳
目 次
第一部
一 悪童時代
見習いパン職人
船をさがす
南海の蛮人
軍旗の下で
二 恐怖政治
ギロチン楽団
収容所に入る
士官ヴィドック
十八歳で結婚
三 国境地帯を放浪
ニセ将校
巡回軍隊
浮気女
四 酒宴と入獄
謎の巡回医者
フランドルの定期市
軽罪裁判所
五 徒刑囚の泣きっ面
あたため強盗
殺人未遂の嫌疑
密輸団
六 無実の罪
見世物一座
有罪宣告
判決
七 ビセートルへ
森の中の反乱
八 ブレスト送り
くさり
徒刑囚護送人《アルグザン》
九 ブレスト徒刑場
一〇 ブレスト脱出
囚人狩り
フランソワーズ尼
泥棒かァちゃん
一一 パリへ向かう
ショレの青空市
ヴィルジュー大尉
一二 海の男になる
教師ヴィドック
人買い屋
私掠船
一三 二度目のクサリ
まごつく司直
天晴れジョサス
ローヌ河の暴風雨
国有調度品保管所の盗難
一四 ツーロン脱出
産業を興す
聖歌集売り屋
二重の鎖
売春婦とオトムライ
約束した秘密
一五 自由でいたい
たれこみ
リヨン出発
[#改ページ]
第一部
一 悪童時代
私はアラスで生まれた。しょっちゅう変装して顔かたちを変え、老《ふ》けづくりにする好みもあって、私の年齢について、世間では、まちまちなことを言っているので、ここではっきりさせておくのは余計なことではあるまい。私は、一七七五年七月二十三日に、この世に現われた。場所は、その十六年前にロベスピエールが生まれた家の隣家であった。夜だった。雨が滝のように降り、ごろごろと雷が鳴っていた。産婆と巫女《みこ》を兼ねていた名付親は、私の生涯が波瀾に富んだものになるだろうと御託宣を下した。そのころは、まだまだ前兆などを信ずる者が大勢おった。しかし、何事も当時より明らかになっている今日では、おしゃべりな小母さんたちでもなければルノルマン女史〔一七七二〜一八四三、革命当時の占い師、ロベスピエールやダントンなども占ってもらったという〕の言うことでも何人の人間が信ずるだろうか。
見習いパン職人
それはさておき、大気が、わざわざ私のために引っくりかえるように騒ぐとは考えられないし、たとい、ときには珍しい現象が人を迷わすことがあるとしても、天の高みで神さまが私の誕生を気にかけていたとはまったく思わない。私は、たいへん頑丈な体質にめぐまれ、からだの材料が気前よく使われていた。だから、生まれてすぐから二歳の子供だと思われたくらいだった。つまり、そのときからもう、運動競技者のような体格や強大な身体構造を前もって表わしていたわけで、以来、いかにも大胆不敵でごつい奴らでも、ぞっと怖がらせることができた。
父親の家は練兵場に面していて、いつも界隈の腕白小僧たちが集まり、私は、たっぷり時間をかけて仲間を殴るのがお定まりになり、そうやって自分の腕力をきたえた。すると、さっそく親たちが私のしたことに苦情を申し込んできた。私の家では、やれ耳をむしられたとか眼にアザを付けられたとか、着物を千切られたなどという声ばかりが聞かれた。八歳になると、私は、隣り近所の犬や猫や子供たちの恐怖のまとになり、十三歳のときには、攻撃されて身をかわさずに、かなり上手に稽古刀が使えるようになった。私が守備隊の軍人たちのところに入りびたっていたのを知っていた父親は、私の剣道の上達を不安がり、最初の聖体拝領を受けさせる旨を言い渡した。二人の信心家が、その厳粛な儀式の準備を引き受けたが、かれらの教えから受けた成果がどんなものかは神さまがご存知だ。と同時に、父親の職業だったパン製造業の修業を始めた。私には年上の兄がいたが、親父は私に跡を継がせる気でいた。
私の主な仕事は、パンを町へ運ぶことだった。この用事を利用して、しょっちゅう剣術道場に立寄った。両親は、このことを知らなかったが、配達先の料理女たちが私の気くばりや正確さを大袈裟にホメてくれていたので、たびたびサボっていることに眼をつぶっていた。帳場の銭箱はいつも鍵を挿《さ》しこんだままになっていたが、引出しの金が不足しているのを確かめるまではかれらの我慢は続いた。ところが、私と競争をして売上金をくすねていた兄が現行犯でつかまり、リールのパン屋へ奉公に出された。私には、その理由は知らされなかったが、兄の処刑があった翌日、いつものようにクスネてやろうとしたところ、福の神の引出しに鍵がかかって、きっちり閉めてあるのに気付いた。そして、同じ日、親父が、もっと配達巡路を早くまわって決まった時間に戻ってこいと言い渡した。こうなると、それからの私は、金も自由もないことがはっきりして、その二重の不幸が面白くなく、私より年上のポワイアンという名の友だちに急いで事の次第を話したところ、銭箱には金を入れる切り穴があるから、とりあえず鳥モチを塗ったカラスの羽根を穴に突っこんでみたらと教えてくれた。だが、この奇抜な方法では軽い小銭しか手に入らず、とどのつまりは合鍵を使うことに落ちつき、巡査の倅《せがれ》に作らせてくれた。そこで、私は、またぞろ銭箱からくすねることができるようになり、私たちのシマの根城《どや》にしていた宿屋の部屋で、みんなと一緒に盗んだ金で買ったものを飲み食いした。そうやって屯《たむろ》しているうちに、土地のガキ大将も加わって、いっぱい悪いことを覚え、シケているワルガキどもは、ふところ具合をよくしようと、私と同じことをするようになった。そして、まもなく私は、アラス地方の与太者《よたもの》みんなと繋《つな》がりをもつようになった。しかし、ある日、親父のやつが、兄貴を押さえたように私をとっつかまえ、合鍵を取りあげて懲罰し、今後は私に収入をピンはねされる心配がないようにした。
こうなると、私の収入源は、パン一かまどの十分の一税を徴収することしか残っていない。つまり、ときどきパンをちょろまかしたが、そいつを手放す段になると、捨値で売らざるを得ず、その売上金では、せいぜいパイや蜂蜜水にありつけるのが関の山だった。必要は行動を生む。私は八方に眼をくばった。ワイン、砂糖、コーヒー、酒など、けっこうなものがあるではないか。お袋さんは、こうした食品が、いやに早く減っているのにまだ気付いてはいないが、おそらく、そういう品物に手をつける際に逸早《いちはや》く気付くだろうとは思ったが、一儲けしてやろうとかっぱらった我が家の二羽の若鶏が声をたてて私の悪事をバラしてしまった。半ズボンの中に押しこんで、パン職人の前掛けで隠したが、鶏冠《とさか》をつん出して歌ったので、盗まれたと知ったお袋さんが、ちゃっかりと現われて邪魔されてしまった。そこで、なんとか元気をとりもどし、夕飯も食べずに寝に行った。眠れなかった。悪意が心の中で眼をさましていたのだと思う。そのうち、銀器をガメてやろうと思ったとたんに起き上がったことしか覚えていない。ただ一つ不安なことがあった。銀器の一つ一つにヴィドックという名が、いろいろな書体で彫ってあったことだ。これについてポワイアンに相談したら、なァに平ちゃらだよと安心させてくれたので、その日の夕飯時に十組の銀器と同数のコーヒースプーンをかっさらった。二十分の後、全部の品を質に入れ、翌々日になると、質屋から借りた百五十フランは一文も残っていなかった。
三日間、親のところに戻らなかったが、ある晩、二人のポリ公がやって来て逮捕され、『収容所《ボーデ》』に送られた。フーテンや怪しいやつや地方の不逞《ふてい》のやからを閉じこめておく拘留所である。私は、逮捕の理由も知らされずに十日間の拘留ということになった。そのうち、やっと牢番が、父親の請求で禁錮されたのだと教えてくれた。これを聞いて、やや不安がしずまったが、親父が仕置《しおき》のために懲らしめたのなら、もっときびしい処置があるかも知れないと思った。その翌日、お袋が釈放してもらいに面会に来た。四日の後、私は自由になり、今後はまっとうな行ないをしますという意志をもって元の仕事に戻った。はかない決意だった!
すぐに、私は元の習慣に戻った。ただし、もう派手な振舞いはしませんという立派な建前があったので、浪費はできなかった。それまで親父さんは、わりかし私に無関心だったように見えていたが、こんどからは保護の大責任があるとして警戒するようになり、その監視が私にヤケを起こさせた。そのうち、根城《どや》の仲間が気の毒がってくれたが、そいつが、例の名うてのワルガキのポワイアンで、アラスの住民は、彼の悪勇伝を思いだせるはずである。彼に私の苦しみを打ちあけた。
「なんだと、そんじゃ縛られてる犬畜生じゃないか。おめェの年で文無しだなんて、いい顔しちゃいられねェやな? オイ、おれがお前の立場だったら、やるこたァ決まっとる」
「ほォ、なにをやるんだい?」
「おめェの親は金持だ。千エキュかそこらは痒《かゆ》くもねェだろう。ケチな古狸にゃ当然の報いさ。お返し願わなくちゃ」
「わかった。小売しねェ分をごっそり卸させにゃ」
「そこんとこを承知なら、おさらばした後は野となれ山となれだ」
「そのとおりだが、元帥夫人がいらっしゃる」
「なにぬかす。おめェは息子じゃないんか? お袋さんは、とっても可愛がっているんだぜ」
この前のいろいろな非行のあとの寛大な扱いに結びついている母親の愛情は、私の心にずしりとくるものがあったのだが、男は度胸だという気持から盲目的に計画を受け入れた。残るは、ただ実行あるのみ。その機会が、すぐにやってきた。
ある晩、お袋さんが独りで家にいると、ポワイアンの弟分が善人ぶって注進してきた。女の子たちと乱痴気さわぎをしていたら、私がみんなをぶん殴り、家じゅうの物をぶっこわしてやると喚《わめ》いている。もし、あのままにしといたら、すくなくとも百フランの損害を私わなくちゃならんようなことになりますよ、と。
そのとき、母は、ソファに腰をかけて靴下を編んでいた。靴下が手から落ちた。びっくり仰天して嘘っぱちの現場へ向かって駈けだした。抜かりなく町の一番はずれの場所を教えてあった。だが、その留守は長くつづくはずない。私たちは、その間を大急ぎで利用した。前の日に隠しておいた鍵を使って店に侵入した。銭箱には鍵がかけられて閉まっていた。ふと、私は、その邪魔にぶつかってややほっとした。そのとき、私への母親の愛情を思いだしたのだ。罰しないと約束してくれたことを思いだしたばかりではなく、今では後悔しはじめているのを感じた。私がやめようとしたらポワイアンが引き戻した。地獄の声とでも言おうか、彼の雄弁に私は自分の気の弱さに顔を赤らめ、かねて用意して持ってきたバールを渡されると、えいとばかりに握りしめた。
銭箱をこじ開けたら二千フラン近くあったので山分けし、半時間のうちに私だけがリール街道にいた。自分からやった行為が招いたトラブルをかぶって、ともかく急いで歩きつづけ、どうにかランスに着いたものの、もうくたくたになっていた。戻りの馬車が通りかかった。そいつに乗って三時間たらずでフランス・フランドル地方の首都〔リール〕に着き、そこからすぐにダンケルクに向かって出発した。できるだけ遠く追跡から逃れようと急いだ。
船をさがす
私には新世界のアメリカを一周したい意志があった。運命は、この計画をダメにした。つまり、ダンケルクの港には船はなかったのだ。そこで、カレーまで行き、すぐに船に乗ろうとしたが、持っていた金以上の料金を請求された。誰かが、オーステンデへ行けば、もっと安い競り船賃で乗せてくれる望みがあると言ったので、そこへ行ったが、カレーより安くしてくれる船長は見つからなかった。
がっかりして、誰でも最初に迎えてくれる者の腕に飛びこみたいという一か八かの気分になっていた。無料で乗船させてくれるか、ふつう若者には興味をもつのが世のならい、せめて私の人相に免じて大割引きしてくれる誰かいい人がいるんじゃないかと、訳もなく期待していた。この思いにとらわれて、ぶらぶら歩っていたら、一人の男が私のそばへ寄ってきた。きっと私の空想を実現させてくれる親切な人がやって来たのだと思った。さいしょに、いろいろと質問の言葉をかけて、私が他処《よそ》者だと知った。彼は、乗船の世話人だと言ったので、オーステンデに滞在している目的を話すと、ではお世話しましょうと申しでた。
「お顔が気に入りました。あかるい顔が好きなんです。ただみたいな料金で渡航させてあげますよ」
私は感謝の意をあらわした。
「礼にはおよびませんよ。早いとこ、あんたのことをすませた上でのことです。なるたけ早くしたいですね。ところで、ここで待っていたら退屈するでしょう?」
ほんとのところ、一人では屈託だと答えた。
「よかったら一緒にブランケンベルグへ行って、フランス人が大好きな陽気な連中と晩飯をやりませんか」
世話人はたいへんいんぎんで、私を誘うのが無作法なことであるかのように心から喜んで招いたので、私は承諾した。彼は、とある家に案内したが、そこではとても綺麗な女の人たちが、昔風の堅苦しい宴会でない歓待ぶりで私たちをもてなしてくれた。たぶん真夜中ごろ、たぶんと言うのは、時間など数えるどころか、頭が重くて、からだを動かそうにも足が立たなかったからだ。私の周囲全体が動いて回っていて、物みなが回りながら着ているものを脱がされているのがわからず、どうやらブランケンベルグの仙女の一人と同じ羽根布団の下で下着一枚の姿になっているみたいだった。たぶん、それは本当のことだったのだが、自分が眠っているなと思っていたことだけしか覚えていない。眼がさめると、ぞくぞくする寒さを感じた……夢の中のように現われていた広い緑色のカーテンの代わりに、にぶい眼に林立する船のマストがぼんやりと映り、港でしか聞こえない用心しあう叫び声が聞こえた。上半身を起こそうと思って、よりかかっていた背中の綱の山を手で支えた。まだ今も夢を見ているのか、それとも、見たのは昨夜だったのか? からだに触わってみた、ゆすってみた。立ち上がって、はじめて夢を見ていないのがわかった。もっと悪いことがわかった。今の私は、眠っていたあいだの少数の幸運な特権階級の者ではなかった。半裸で、別にしておいた二エキュ、つまり六フランがパンツのポケットにあっただけで、一文の金も残っていなかった。となると、世話人の希望どおり「早いとこ私のことがすんだ」ことがはっきりした。私は宿へ戻った。いくらか衣類が残っていたので身なりの不足を埋めることができた。私の災難を知らせるまでもなく、宿の主人が、
「ああもう、ちゃんとわかってますよ。また一人ですな。いいですか、お若いの、無事でよかった。あんな雀蜂の巣の中に入って行って、五体満足で戻って来られるなんて幸せというもんです。今になってわかったでしょう。そこはミュジコ〔ベルギー、オランダなどの下等カフェ〕だったんです。きれいな魔女がいますがねェ。おわかりかね、山賊は海の上にはおらず、鮫《さめ》は海の中にいるんです。断言します。びた一文も残っちゃいないでしょう」
私は得意げに二エキュを取りだして宿の主人に見せた。
「そいつで未払分を払ってください」
と言って、すぐに勘定書を出したので、私は支払って宿を出たが、まだその町を去らなかった。
私のアメリカ行きは決定的に無期延期になり、旧大陸が私の宿命の地になった。私は、文明の最底辺にうずくまろうとし、私の将来は、それだけに、不安なものだった。目下のところ何の策もない。おやじのところではパンを切らしたことがなかった。私は、今更のように親の屋根の下にいたらと悔んだ。かまどは、と独りごとを言った、いつも他人《ひと》のため俺のために熱くしてある。こうした後悔をしたあとで、またも心の中にどっとばかりに人道的な反省の念が横切った。世間の人たちが迷信的な形にして強く打ちだしている『因果応報、悪銭身につかず』である。こんどのような経験をしてみて、この予言的な言葉の真意が初めてわかった。ミセル・ノストラダムス〔天文学者で医者のフランス人(一五〇三〜六六)、彼の予言集『世紀』が著名〕の数世紀にわたる立派な予言より遥かに確実な不変の予言である。後悔の念にかられ、自分の立場がはっきりと見定められた。家出をしてからの一部始終と、だんだん悪くなった状況をふりかえってみると、すべて、その時々の気持は行きあたりばったり式で、そんなに早くラクな道に出られないのは初めからわかっていたことだったのだ。ひとつ新兵になって兵役についてやろうと思ったとき、ふいにラッパの音が注意をひいた。それは騎兵隊からではなくて曲馬団からのもので、その道化役が巡回興行の看板になっている壁掛で囲った小屋の前で吹いていたのだった。かれらのえげつない芸を喜んで見物する町の衆を呼んでいるのであった。私が、行列が始まるのを見ようと、その場所へ行っているあいだに、もうかなりの数の見物人が大声で笑ってはしゃいでおり、私は、その道化役が何かに使ってくれるような気がしてきた。人がよさそうに見えた道化親方の世話になりたいと思った。先んずれば人を制すことを知っていたので、彼が「みなさん、ついてきて下さい」を言いに演台から降りてきたときを狙って、のどが乾いているだろうと思い、なけなしのオランダ銀貨《エスカラン》で買ったオランダ焼酎《ジン》の一杯のうちの半分をどうぞとすすめた。この親切に感じた親方が、すぐに私のために口をきいてやろうと約束し、お互いが飲み終わると座長に引き合わせてくれた。それが有名なコット・コミュスだった。宇宙第一の物理学者だと自称して地方を巡業し、
――いいかね、お立ちあいの諸君、わしは、あの博物学者ガルニエと協力して才能を提供した。この人は、王政復古の前後、パリの全市民がフォンテーヌの庭で見たジャコ将軍の先生だった学者であるんである。
でたらめな大法螺《おおぼら》で、この名の連中は、実は軽業《かるわざ》一座の子分たちであった。コミュスは、私が前へ出ると、いきなり何ができるかと訊いた。
「なんにも」
と答えたら、
「だったら教えてやる。もっと、つまらんやつもおるんだ。それに、お前は、そんなに不器用でもなさそうだ。大道軽業に向いとるかどうか見てやろう。二年はやるんだな。はじめの半年は餌《えさ》もよくし衣服《なり》も立派にしてやる。その期の終わりに六度目のお試し(試験)をする。次の年、もしもモノになったら他のやつらのような役につけてやる。待ってるぜ、若いの、面倒みてやっからな」
こうして仲間にされて、否応なしに道化連中と汚いベッドを共にすることになった。夜が明けたとたんにお頭《かしら》の怖い声で起こされ、便所のようなところへ連れて行かれた。たくさんの照明用のランプと木製の燭台を見せられ、
「いいか、これがお前の仕事だ。全部をきれいにして、ちゃんと使えるようにするんだ。わかったか? 動物の檻《おり》を掃除したら、こんどは部屋を掃け」
ぜんぜん面白くもない仕事をした。脂の臭いにむかつき、猿と一緒にいるとまったく安心できなかった。知らない顔を怖がって、むきになって私の眼を引っ掻こうとした。だが、ともかく、私は、するべきことはした。務めを果たして座長の前へ行くと、こんどは彼の私用を言いつけて、もっと熱心につづけたら何かしてやろうと言った。朝起きたままなので腹ぺこだった。十時になっていた。寝るところと食べることを約束したのに食事の気配はなかった。ふらふらになっていたら、やっと茶色になったパンを持ってきてくれた。歯は丈夫でがっついていたのに、堅くて全部は食べられなかった。おおかたは動物どもに投げてやった。晩になると灯ともしをせねばならなかったが、慣れていないので、どうも恰好よくやれないでいると、残酷な座長がちょっぴり仕置《しおき》をし、翌日も次の日も繰り返された。私は、一月もたたないうちに、ひどい有様になってしまった。着ている物は脂のシミだらけ、猿に裂かれてぼろぼろ、蚤《のみ》や南京虫には刺されっぱなし。けちな食事で見ちがえるくらい痩せてしまい、そうなるとまた、親の家がなつかしく、その一層の苦い思いで元気をとりもどすのだった。家では、十分に食べ、ぐっすり眠り、ちゃんと着て、猿の世話なんかしなかった。
こんな気持でいたところ、ある朝、コミュスがやって来て、あれこれ私に向いていることを考えてみた挙句、私が上手な「飛び屋」になるだろうと確信した、と断言した。そこで、私は、私を一人前に仕込む命令を受けた『小悪魔』ことバルマットさんの手にまかされた。そして、この先生が私にやらせた最初の軽業では、あやうく腰を折りそうになった。一日に二、三回の教練を受けた。その結果、三週間たらずで、鯉《こい》跳ね、猿飛び、びくびく飛び、酔っぱらい飛びなどが完全にやれるようになった。この進歩に驚いた師匠は、私がますます上達するのを喜び……私を向上させるために、彼は私の四肢をばらばらにしてしまうのではないかと幾度となく思った。そして、難しい技術の修業となると、いよいよ練習が猛烈になった。最初に両足の大横開き飛びをやったら、すんでのことに身体が真っ二つになるところだった。椅子飛びでは鼻をくじいた。傷付き、へとへとになって、あんな危険な体操は真っ平です。飛び屋になる気は毛頭ありませんと、コミュスさんに申し出たら、
「ああ、その気がないか」
と言って反対もせず、したたかに何度も鞭でぶちのめした。そのときからバルマットは私をかまわなくなり、私はランプ係に戻った。
南海の蛮人
コミュスさんは私を見限ったが、まもなく、こんどはガルニエが私にある仕事をさせる番になった。ある日、いつもよりひどく私を殴りつけ(コミュスさんと喜びを分かち合う鍛練というやつだった)、足の先から頭のてっぺんまで私を目測し、ひどく胴衣が破れて肌が見えているのを満足げに眺めながら、
「おめェが気に入ったぜ。おれが思ってたのとぴったんこだ。言うとおりにすりゃ、じきに幸せになるというもんだ。今日からは爪を伸ばしっぱなしにするんだ。髪は、けっこうもう長ェし、はだか同然ときた。残るは、葉っぱの煎じ水で肌を色づけすることだけだ」
私は、けっきょくガルニエがどうしようとしているのかわからなかったが、私の友だちの道化役を呼んで、虎の皮と棍棒を持ってこいと命じ、道化役が言いつかった物をもって戻ってきた。
すると、ガルニエが、
「さァ、これから稽古をしようや。おめェは南海の野蛮人の若者で、しかも食人種なんだ。生肉を食い、血を見ると怒り狂う。のどが渇くと小石を口に入れて噛みくだく。うおっ、ぎゃァの声しか出さない。かっと眼をむき、せかせかと動きまわり、飛んだり跳ねたりしかしねェ。つまり、ここの一号の檻にいるオランウータンの真似をしたらいい」
こう指図しているあいだに、まん丸い小石をいっぱいに盛ったお椀が私の足元に持って来られ、そのすぐそばに脚をゆわかれてぐったりしているニワトリが置かれた。ガルニエはニワトリをつかみ、こう言いながら私に突きつけた。
「こいつに咬《か》みつくんだ」
咬みつきたくなかった。おどされ、せっつかれた。反抗した。すぐさまヒマをもらいたいと言ったら、その返答として十何遍もびんたを喰らわせた。ガルニエは思いきり殴った。この仕打ちにかっとなった私は、そこにいた全員が私に襲いかかり、殴る蹴るの霰《あられ》のうちに外へ放りださなかったら、棍棒をつかんで間違いなくニセ博物学の探検家野郎を打ち殺したところだった。
その数日前から、おなじ居酒屋で傀儡《くぐつ》師とその女房と顔を合わせていた。野外で人形芝居を見せる連中である。私たちは顔見知りになり、かれらが私に興味をもったのをはっきりと見た。ご亭主は、『動物虐待』は大いに禁止すべきだと言って私の機嫌をとり、また、ときにはライオンの穴のダニエル〔ユダヤの予言者、ライオンの穴に投げこまれた、旧約聖書〕とくらべて面白がった。彼には学があり、ポリチネッラ〔イタリア笑劇の道化役、人形芝居の道化役のこと〕の芝居をするより何かもっと良いことをするに向いている人だと誰もが言っていた。いずれは地方で演劇指導の才を発揮したにちがいなかった。この未来の舞台監督は大いに才気ある人だったが、奥さんはそれに気付いていなかった。彼は、ひどい醜《ぶ》男だったが、彼女は好男子だと見ていた。しかも、奥さんは、人の気をひくブルネット女で、まつ毛は長く、心はたいへん燃えやすく、火がつけば藁火のように燃え上がるにちがいなかった。私は若かったし、奥さんも若かった。彼女は十七になっておらず、ご亭主は三十五だった。私は、宿なしになったので、すぐにその夫婦を探しに行った。かれらなら相談に乗ってくれてタメになるだろうという心づもりがあった。私に晩飯をふるまってくれて、よくまァあの猛獣使いのガルニエの暴虐なクビキから思い切って脱出したもんだ、と喜んでくれた。
ご亭主が言う。
「きみは、お師匠さんを見つけたんだ。わたしたちと一緒に仕事をして、手伝ってくれなくちゃ。となると、三人なら中休みをしなくてもすむ。エリザが祝儀《はな》を集めているあいだは、きみが人形の紐を引っぱっている。見物人が気がそれないから散って行かない。どっさり収入《あがり》があるという寸法になる。どうだ、エリザ?」
これについて、エリザは、好きなようにしたらいいと夫に答え、彼の意見に賛成だと付け加えて、同時に私に眼くばせをし、その提案がまんざらでもないことを伝えた。つまり、私たちは十分に納得しあった。私は、新規に使ってもらうことを感謝して仕事を引き受け、次の興行から自分の持ち場に陣取った。ガルニエのそばにいるより遥かに具合がよかった。私は痩せてボロ服を着ていたが、がっしりした身体《からだ》つきをしているのを知ったエリザが、こっそりと、あれこれ媚態を示したので、こちらもそれに応じてやった。三日目の終わりに、彼女は、私に気があると打ちあけたので、私も恩知らずにならないように振舞った。私たちは、ほんわか気分になり、切っても切れない仲になった。エリザの夫は、私たちがやっていることすべてを子供の遊びだと思っていた。仕事のあいだじゅう、私たちは、『諸芸いろいろ面白座』という大げさな名称で飾った四枚のボロ布で囲った狭い小屋の下でぴったりとくっついていた。ふつう、エリザは亭主の右、私はエリザの右にいたが、お客の出入りを見るために彼女がいないときは私の場所を替えた。
ある日曜日、芝居に活気が出て、屋台のまわりには大勢の人だかりがしていた。道化人形が一同の者みんなを打ちのめし、ご亭主は、彼が受けもつ人形(夜警巡査)をあやつればよく、道化人形を引っこめたくて、「お巡りさんっ」と呼ばった。私たちには、その声が聞こえなかった。彼は、いらいらして、「お巡りさんっ、お巡りさんっ」と繰り返し、三度目にうしろを振り向いたら、私たちが抱きあって甘い気分にひたっているのが見えた。どきっとなったエリザが言い訳をしようとしたが、ご亭主どのは聞く耳もたぬとばかり、なおも「お巡りさんっ」と叫びながら、夜警人形を吊るす鉤で彼女の眼を突いた。とたん血が流れて見世物は中断し、夫婦の戦闘がおっぱじまり、屋台がひっくりかえり、気がついてみたら、私たちは大勢の見物人の輪の中にいて、その光景に、一斉に笑いと喝采が起こってやまなかった。
この騒ぎで、またぞろ私は路頭に迷う身になった。この上、どう決めたらいいかわからなかった。この際、とる道は一つだけ、アラスへ帰ることだった。だが、それまで、どうやって生きるか?
あれこれ迷っていたら一人の男がそばを通りかかり、その風体《ふうてい》から行商人だと思った。その人と口をきいたら、リールへ行くんだと言った。白粉や膏薬《こうやく》や精気水を売り、オデキを切ったり手足のタコを取ったり、ときには歯も抜くことがあると言った。
「いい稼業だよ。だが、わしは、もう老いぼれとる。誰か行商してくれる者が欲しいと思っとるが、兄さんのような太っ肚の者なら打ってつけじゃ。ごつい足をしとるし、眼ん玉も上等じゃ。どうだ、いっしょに旅せんか」
「ぜひ、そうしたいです」
と私は言い、それ以上の十分な話し合いもせずに一緒に歩いた。八時間も歩くと、もう夜になってきて、やっと道がわかるくらいになったとき、みすぼらしい村の旅籠《はたご》の前で停まった。
「ここだ」
と言って、股旅《またたび》医者が戸をたたくと、
「誰だ?」
しゃがれ声が大きく返答した。
「三下《さんした》といっしょのゴダールとっつぁんじゃ」
先達が答えると、すぐに戸が開き、私たちは二十人ほどの旅の商売人がいる中に入って行った。いかけ屋、軽業師、傘なおし、香具師《てきや》などで、私の新しい親方を歓迎して食事を出してもてなした。私にも彼に劣らぬ敬意を表し、宿の亭主が私の肩を親しげにたたいて、ほんとはゴダールとっつぁんの三下じゃないんじゃないかと尋ねた。
びっくりして私は大声をだした。
「三下って誰のこと? せめて道化者と言ってくださいな」
私は、つい近頃まで曲芸小屋や『諸芸いろいろ面白座』にいて、みじめな下っ端の辛い思い出があることを打ち明けた。とにかく、おっそろしく腹がへっていたので、いろいろ訊いたら夕食にしてくれるだろうと考え、なにもかも喋ってしまうと、べつにゴダールとっつぁんの家来になると決まっているわけでもなかったので、彼の三下で通すことを承知した。そう返事をすると、すぐに亭主が隣りの部屋に連れて行った。納屋のようなところで、十数人の仲間がタバコをふかし、酒を飲み、トランプ遊びをしていた。亭主がみんなに、私が一緒に仕事をすることになったと伝えた。やがて、大柄な娘っ子が木鉢を私のところに運んで来たので、がつがつして飛びついた。スジだらけの蕪《かぶ》といっしょに羊のあばら肉の一切れが、皿を洗った汚れた水の中を泳いでいた。あっという間に、きれいに平らげた。この食事が終わると、ほかの三下連中と一緒に藁束の上に身体《からだ》をのばした。ラクダ〔ろくでなしのこと〕一頭、口から泡をとばす熊二匹、利口な犬の群と寝床を分けあった。こうした連中が寝ている隣りにいては安心するどころではなかったが、なじまねばならなかった。とどのつまり、私は眠れないことになった。ほかのやつらは、安らかにイビキをかいていた。
ゴダールとっつぁんが私の費用を払ってくれた。食う寝るところは悪かったが、アラスに一歩一歩近づくにつれて、とっつぁんと別れたっていいやという気になった。そうこうしているうちに、とうとうリールに着いた。ちょうど市《いち》が立つ日に町に入った。ゴダールとっつぁんは、この機をのがすまいと、まっすぐ広場へ行き、小箱やガラス壜や包みを台の上に並べろと命令し、次に客寄せの道化をやれと言った。私は、朝飯を十分に食べて腹がくちかったので、その言い付けがカチンときた。オステンデからリールまでラクダのように荷物をかついでやって来て、アラスから十里のところで客引きとはとんでもない。そこらを一回りしてきたらと、ゴダールとっつぁんを行かせると、すぐさま故郷の町に向かってトンズラをした。早くも見なれた鐘楼が見えてきた。そして、町の門が閉まる前に城壁の下までたどり着くと、みんなが、どんなふうに迎えるかを考えて身ぶるいした。一瞬、引き退る気にもなったが、なにしろ疲れと空腹でどうしようもなかった。どうしても休息と食事が必要だった。ふらふらしながら親の住居へと走った。
母は独りで店にいた。私は入る。ひざをつき泣きながら許しを乞う。気の毒なお袋さんは、やっと私だとわかったが、いかにも変わりはてていた。私を突っぱねる力はない。なにもかも忘れてくれたかのように私の欲しい物を用意して、元の私の部屋に戻してくれた。だがしかし、私が戻ったことをオヤジどのに知らさねばならなかった。ところが、いきなり落ちる怒りの雷に立ち向かうだけの勇気がないことを悟り、両親の友だちの聖職者で、アラス駐屯隊にいるアンジュ連隊付きの司祭に取りなしの言葉をたのんだ。その結果、父親は、烈火のように怒り狂ったあとで、とくに許して受け入れることを承諾した。私は彼のきびしさにふるえていたが、折れてくれたことを知って飛び上がって喜んだ。例の司祭が、そのことを知らせてくれたのだが、お説教のおまけが付いていた。ひどく感傷的な人情話にちがいなかったのだが、その一言も覚えていない。ただ、彼が、聖書の「放蕩息子」のたとえ話をしたのが思いだせるだけだ。ちょっぴり私のことに似ていたからだ。
私の冒険は町の噂になり、誰もが直接に私の口から話を聞きたがった。だが、アラスで興行していたドサ回りの女役者は別として、いつも私が行っていたトロワ・ヴィザージュ街の二人の婦人服を作る女くらい興味をもった者は誰もいなかった。だが、そのうち、女役者が、私が熱をあげて通うのを特別に許してくれるようになり、あげくの果ては、その女の色香にひかれて悪企みをやらかし、彼女と一緒にフォブラス〔ルーヴェ・ド・クーヴレ(一七六〇〜一七九七)の小説の主人公、女たらし〕物語の場面を再現してしまった。咄嗟《とっさ》の思いつきで浮気女とリールまで駈落ちをやらかし、彼女の亭主と姉だと言っていたたいへん美人な小間使いの女が、なァにじきに最初の道行きの苦労に降参することになりますよ、と私の父に断言した。そのとおり、私の留守は長続きしなかった。どうにかこうにか三週間はすごしたが、金が欠乏すると、女優さんは、荷物の中に私を残してドロンしてしまった。
軍旗の下で
私は、そうっとアラスに戻った。親父は、平衡を失って取り乱していたので、兵隊になるのを承知してくれと頼んだ。この際、そうするのが一番いいと思うから同意してくれと申し入れた。彼がわかってくれて、翌日、ブルボン連隊の軍服を着ることになった。申し分のない身長、いい面《つら》構え、上手な武器の扱いぶりが役にたって、さっそく狙撃隊に配属された。古参兵の何人かが私に腹を立てたので、二人を病院に送ってやったが、まもなく私もかれらの仲間に怪我をさせられ、送ったやつと合流する始末。この出だしが評判になり、みんなが私に騒動を起こさせては意地の悪い楽しみを味わっていた。六カ月の終わりには、『向うみず』というアダ名をもらった私は、二人の男を死なせ、十五回も手に刀傷を負った。それでも、私は、軍隊生活が許す幸せを十分にたのしんだ。兵隊たちは、いつも人のいい商人たちに然るべき筋に賄《まかな》いをしてもらって昇進し、その娘たちが献金して私に休暇をもらえるようにしてくれた。こうした恩恵に加えて、さらに母親が金品を差し入れしてくれ、父親も相当な金を出してくれたが、それでもなお私は借金する手だてを探した。まったくのところ、カッコよくすることだけを考え、ほとんど天罰の重さを感じなかった。点呼を三回さぼったので、たった一度だけ十五日間の営倉入りを申し渡された。防壁の下に掘った土牢で罰に服したが、私と一緒に同郷の友だちの一人も監禁された。
おなじ連隊の兵士だった彼は、たびたびの盗みの咎《とが》で告発され、彼も盗みの事実を認めた。いっしょに放りこまれるとすぐに、拘留されたワケを私に話した。疑問の余地なし、ぜったいに連隊は彼を見すてる。この思いに家族の恥をさらす恐れが加わって、彼は絶望に落ちこんだ。私は可哀そうだと思ったが、その何とも痛ましい状態から救いだす方法がないので、刑罰から逃れるには脱走するか自殺するかしかないと言ってやった。すると、彼は、自殺する前に脱走をやってみると決意したので、私は、私に面会に来た外部の青年と彼の脱獄についての手順を急いで準備した。
真夜中、二本の鉄柵をこわした。囚人を防壁の上に連れて行って言ってやった。
「さァ、飛ぶか吊るされるかだ」
彼は高さを測る。ためらう。とどのつまりは、脚を折るより運を判決にまかせたほうがいいとぬかす。土牢へ戻ろうと言う。だが、そのとき、あっという間もあたえず彼を突き落とす。一声さけぶ。だまって落ちろ、と声をかけてやって地下に戻った。藁の上に寝ころがり、いい事をしたという良心に満足して安らかに眠った。
あくる日、私は尋問されたが、なにも見ませんでしたの一点張りで通した。数年後、私は、たまたまその不運な男に出会ったが、私を救いの神だと言った。墜落してからは跛者になったが、まじめな男になっていた。
いつまでもアラスにはいられなかった。オーストリアに宣戦が布告されて連隊と一緒に出動した。その後まもなく、マルキオンで敗走する羽目になり、勇敢で不運なジーラン将軍〔リールの司令官だったが自分の部隊に虐殺された(一七四五〜九二)〕がリールで虐殺されるという結果になった。この出来事のあと、私たちはモードの野営地へ向かい、次いでラリュヌの野営地に移動したが、その地で、十月二十日、ケレルマン〔ヴァルミイ公、フランスの将軍(一七三五〜一八二〇)〕麾下の地獄部隊といっしょにプロシア兵と交戦した。その翌日、私は第一中隊の伍長に昇進した。これは祝い酒を飲むことを意味し、私のおごりで酒保でわいわいやっていたとき、どういうワケだったかわからないが、これまで所属していた中隊の特務曹長と喧嘩になった。そこで、外へ出て決着をつけようと言ったところ、よかろうということになったが、いったん外の地面に出ると、敵は、階級が違うから相手不足だと言いだした。仕方なく、私は、筋を通してケジメをつけさせることにしたので、彼は上官に訴えて出た。
その晩、私は、証人になってくれる兵と一緒に野営警備所に連れて行かれた。二日後、私たちは軍法会議に召喚されることになったと知らせてきた。さァこうなると、大急ぎで逃げだすこと、これが私たちがやるべきことだった。私の仲間は、膝までの服で略帽をかぶり、懲罰兵のフリをして私の前を歩き、私は、これまでの毛帽をかぶって行嚢と銃を持ち、銃の端に『ヴィトリ・ル・フランソワ〔現在のマルヌ県マルヌ郡の主邑〕駐在同志司令官殿』と表記してある赤蝋で封印した大きな包みを引っかけた。これが私たちの通行証で、無事にヴィトリに着くと、一人のユダヤ人が町民の服を手に入れてくれた。当時は、誰でも軍隊に入隊できた。ヴィトリにいた第十一狙撃隊の軍曹が私たちの志願を受納した。別の隊の兵になったわけである。私たちは、旅行許可証の交付を受けると、さっそく部隊本部があるフィリップヴィル〔現在のベルギー、ナミュール州にある〕へ向かって出発した。
私と相棒は、ほんの少ししか金を持っていなかった。幸い、親切な宿のお上さんがシャーロン〔シャーロン・シュル・マルヌのこと、マルヌ県の主邑〕にいた。私たちと同じ宿屋にボジョレー〔フランス中央山系の東、ロアール川とソーヌ川のあいだの地方〕の兵士が泊まっていて、飲まないかと誘った。気さくなピカール人〔フランス旧県ピカルディ地方の人〕だった。私は彼の国の方言で話し、なんとなくコップに手が行き、私たちのあいだに大きな信頼感が生まれた。彼はアシニヤ紙幣〔革命時に国有財産を見返りに発行された紙幣〕がぎっしり入った札入れを見せて、シャトー・ラアベイ付近で拾ったと言い訳をした。
「な、戦友、おれ、字よめねェ。この紙っ切れの値打、おしえてけれ。分け前やるだ」
ピカール人は、それ以上うまく言えなかった。その量から見て、たいへんな分け前になるはずで、じっさい、その額の九割をいただいたのに、彼は何も疑わなかった。しかし、このお助け金は、とてつもない派手な旅をしているあいだになくなってしまったが、目的地に着くと、残ったのは鍋底の気前よく分けた油だけという体《てい》たらく。だが、そのすぐ後も前線の騎兵隊へ行くのに馬を使うという派手なことをした。二日かかって着いたところはジュマップ〔現在のベルギーのハイノー州にあり、一七九二年、フランス軍がオーストリア軍に戦勝したところ〕で、そこで戦闘が始まった。戦火を見たのは初めてではなかった。怖くなかった。自分の動作が上官の気に入るはずだと信じた。ところが大尉がやって来て、貴様は逃亡兵だなと言われたときは、ぜったいに逮捕されるなと思った。危険は迫っていた。その晩すぐ、オーストリア軍を突破してやれと馬に鞍を置いた。そして、数分のうちに敵の前哨線に着いた。
さて、私は、敵軍に勤務したいと頼んだところ、キンスキイの胸甲騎兵隊に編入してくれた。いちばん恐れたこと、それは友軍と戦うことであったが、翌日もうフランス兵とチャンバラをやらざるを得なかった。そこで、このやむを得ないことから急いで逃げだす算段をした。仮病をつかってルーヴァン〔現在のベルギー、ブラバント州にある町〕に後退し、数日を病院ですごしてから、駐屯部隊に剣術を教えたいと将校に申し出た。この提案は大喜びで受け入れられ、さっそく面や籠手《こて》や撃剣刀を用意してくれた。自称師範の二、三人のドイツ人と試合して突き勝つと、もう十分に私の腕が評価された。やがて大勢の門弟もでき、たんまりフロリン貨の収入《みいり》があるようになった。
私は、自分の成功に得々としていた折しも、当直班長とやや激しいイザコザを起こし、ビンタ二十を頂戴することになった。これは、慣習に従って皆の者が見ている前でやられることになっていた。私は、このやり方に怒り狂い、もう剣術の稽古はやめたと断った。すると、剣術指南を続けるか別の懲戒処分を受けるか二者択一を委されたので剣術指南を選んだ。しかし、ビンタが頭にきていたので、奮起一番、そこを脱け出そうと決心した。ある中尉がシュレーダー将軍の軍団に転属になると聞いたので、従卒にして同行させてくださいと頼みこんだ。まるで彼を聖ジョルジュ扱いにして希望をつないでいたところ、どうにか承知してくれた。彼はだまされたのだった。ケスノワに近づくと彼をすっぽかしてランドルシイ〔前出のケスノワと共にノール県にある町〕へ行き、オーストリア軍を見限ったベルギー人だと名乗った。すると、騎兵隊に入らないかと言ってくれたが、よもや前の連隊の部隊ではあるまいが、もし見付かったら銃殺されるかもしれないと心配して、第十四軽騎兵隊(旧境界狙撃隊)を選んだ。ときに、サムブル・エ・ムーズ軍団は、エクス・ラシャペル〔ベルギー国境に接したドイツ側のアーヘンのフランス呼称〕に向かって行進していた。私が所属した中隊が右の行動に従うように命令され、われわれは出発した。
ロクロワ〔現在のアルデンヌ県にある〕の町に入ったところで、第十一狙撃隊がいるのに気付いて肝をつぶしていたら、なんと元の隊長が急いでやってくるではないか。顔を合わすのを避けるわけにいかなかった。ところが、彼は私を安心させてくれたのだった。この気っぷのいい人物は、私がザクセンやテッセン〔ザクセンはドイツ側、テッセンは現在のチェコ側、いずれもオーストリア軍の傭兵だったと思われる〕の軽騎兵どもを追いつめたのを見て私に興味をもった人だったが、大赦があって私はもう追求されていないと言い、彼の指揮下に戻るなら喜んで引き取ると言ってくれた。誓ってイヤだなんて申すもんですかと断言すると、手続きをしてくれて、私は第十一部隊に復帰し、元の仲間が喜んで迎えてくれた。私は、かれらと再会したのが満足でないはずがなく、幸せいっぱいだったが、そこにはまた何となく色恋というものもあって、幼な友だちとのめぐり合いを楽しもうという気になった。むかしガキだったころの姉さん株の女に十七歳になってから惚れても驚くことはないだろう。マノンというのが、その娘の名だった。私の倍くらいの年齢だったが、私にぞっこんホの字になり、それを証すために大きな犠牲もいとわなかった。どんなムリでもした。私は彼女ごのみのハンサムな狙撃兵、私は彼女のもの、もっと粋《いき》になってもらいたく、私の脇に時計を付けてくれて、私としては何か高価な装飾品で我が身を飾って得意になり、女を惚れさせていると思い上がっていた。そういうとき、彼女の主人の告訴で、マノンが泥棒女中として召喚されたのを知った。マノンは自分の罪を自白したが、同時に、判決のあと私を他の女の腕に渡さないことを確実にするために私を共犯者だと名指しをした。ありそうなことだった。私は告訴の巻添えをくい、もし、たまたま私の濡れ衣《ぎぬ》を晴らす手紙でも見つからないかぎり、その窮地から抜けでるのは、かなり難しいことになった。頭がこんがらがっていたマノンが前言を取消し、スツネ〔現在のムーズ県にある〕の留置場に入れられていた私は釈放され、雪のような潔白な身で送りかえされた。私の有罪を信じていなかった隊長は、また顔を見てたいへん満足だったが、仲間の兵たちは、疑いをかけられたことを許してくれなかった。あてつけや故意の標的になって、六日間で十回以上の決闘をした。そして、とうとう、ひどい負傷をして病院へ送られ、恢復するまで一月以上も入院した。退院すると、上官たちは、しばらくのあいだ隊を離れていないと、また喧嘩を始めるものと思いこみ、六週間の休暇を私に承知させた。
アラスに立寄った。おどろいたことに親父さんが公務についていた。むかしからパン屋をやっていたということで、糧食工場の監督をやらされていた。彼はパンを取り上げられるのを嫌がったにちがいない。食糧欠乏の御時世にそんな仕事をするのは、いくら無給のお勤めだといっても辛いことで、私が臨時に配属されたことのあるラ・コレーズ第二大隊司令官の同志スウアムの保護がなければ、断ったらギロチン台へ送られる羽目になっていただろう。
休暇が切れたので、ジヴェ〔現在のアルデヌン県にある〕で隊に合流した。まもなく連隊は、そこからナミュール伯爵領〔ベルギー側〕に進出するために出発した。ムーズ川の岸辺の村々で宿営し、オーストリア軍が見えてからは、かれらといくらか銃火を交えない日はなかった。さらに激しい戦闘がつづき、ジヴェ渓谷の下まで押し戻された。この退却の際、脚に一発くらって強制入院させられ、ついで留守部隊にとどまった。そうこうしていたら、あるとき、ドイツ部隊が通りかかった。その大半が逃亡兵や剣術教師などで構成されていた部隊である。幹部の一人のアルトワ〔フランス旧州名、現在はアラスがあるパドカレ県〕人が、軍曹の階級にしてやるから、その隊に入らないかとすすめた。
「いったん、この隊に入ると、いいか、どんな追っ手からも安全だぞ」
ぜったいに追求されない、これが私の心を決めた。私は申し出を受け、翌日、部隊と一緒にフランドル街道に出た。その部隊に参加していれば昇進まちがいなし、将校にもなれよう、しかし傷口がまた開くという重大な事故のために、またもや休暇を願い出ざるを得なかった。休暇をもらい、六日後に、もういっぺんまたアラスの町の門へやって来た。
[#改ページ]
二 恐怖政治
ギロチン楽団
町に入ると、住民の顔に満ちている悲しみの表情に心をうたれた。何人かに尋ねてみたが、警戒して私を見つめるだけで、返事もしないで離れて行った。
いったい、どんな途方もないことが起こったのだろうか? うす暗く曲がりくねった街路の人混みをぬって行くと、すぐに魚市場の広場に着いた。
そこで、まず最初に眼に入ったのは、だまりこんだ群集の頭より上のほうに赤い板が高く突き出ているギロチンであった。死の台に縛りつけられている犠牲者は、一人の老人だった……とつぜん、ファンファーレが鳴り渡った。楽団を見下ろす壇の上には、青と黒の縞のカルマニョール服〔革命派が着た広衿《ひろえり》の短い上着〕を着た、まだ若い男が坐っていた。この人物は、その物腰から見て軍人というよりも修道士らしさを感じさせたが、のんびりと騎兵用サーベルに寄りかかっていた。サーベルの大きなつばは自由の帽子をあらわし、帯には、ずらっとピストルを差しこんで、スペイン風に縁がまくれ上がった帽子には三色の羽根飾りが載っていた。この男がジョゼフ・ルボンだった。そのうち、彼が左足で拍子をとっていたのをやめると、ファンファーレが鳴りやんだ。彼が合図すると、老人が刃の下に引きすえられた。半分酔っぱらっている書記みたいなやつが『人民の報復者』の席にあらわれ、だみ声で、ラン・エ・モーゼル軍〔大革命当時の人民軍、底部、高部ラン、モーゼル地方を名乗ったもの〕の宣告文を読み上げた。一節ごとにオーケストラが和音をさしはさむ。朗読が終わると、冷酷なルボンの手下どもが繰り返す「共和国バンザイ!」の叫びと共に不幸な男の首が切り落とされた。そのおぞましい光景から受けた印象は、なんと言い表わしていいかわからない。
私は父の家に着いた。父は、やつれきっていた。さっき見た、むごたらしく最期の瞬間を引き延ばされた男の顔と同じくらいに打ちのめされた感じだった。ほんの数日前、おなじ広場でヴューポンさんが処刑されていた。その罪というのは、飼っていたオウムが喋るわけのわからない言葉の中に、「王様バンザイ」という言葉があったというだけのことだった。オウムは、『ミドリちゃん』と改名させられ、あやうく主人と運命を共にするところだった。噂によると、ルボンの女房が、こやつを必ず改心させると誓約して頼んだので、なんとか特赦されたという。
収容所に入る
ルボンの女房は、元はヴィヴィエの修道院の修道女だった。この点、他のいろんな点においてと同様、ヌーヴィルの元司祭だった男の妻になるのにふさわしかった。また、この女は、アラス革命委員会のメンバーにも大きな影響力をもっていて、義理の兄弟や三人の伯父が判事や陪審員などの役職を占めていた。元ベギン会修道女だったのに、彼女は血に飢え、それに負けず劣らず富にも貪欲であった。ある夜、ここぞという見せ場で、地上に立っている見物人に向かってこんな演説をぶった。
「よござんすか、過激共和派《サン・キュロット》のみなさん、このギロチンは、あなたがたのためにあるのではありません。そうです、祖国の敵を告発しなければなりません……貴族や金持、特権的な商人を知っていますか? そいつらを告発するんです。そうすれば、かれらの富は、あなたがたのものになります」
この怪物女の兇悪さに匹敵できるのは、その夫しかいなかった。ルボンは、ありとあらゆる残虐行為にふけり、乱痴気さわぎのあとで町中を駈けまわっては、若者たちに卑猥な言葉を投げたり、サーベルを振りまわしたり、女子供の耳もとでピストルをぶっ放したりする彼の姿がしょっちゅう見られた。
以前リンゴ商をやっていた女が、赤い帽子をかぶり、袖を肩までまくり上げ、ハシバミの長い棒を持って、いつも彼の行くところについて歩いていた。二人で腕を組んで歩いていることもよくあった。この女は、あの『デュシェーヌとっつぁん』紙〔革命時に発行された過激な論調の政治新聞〕にこじつけて『デュシェーヌかあちゃん』と呼ばれていて、民主主義の祝典の中だけでなく他のところでも自由の女神を気取っていた。委員会の会合にはきちんと出席し、荒々しい怒鳴り声や告発で委員会の判決を導いた。ある街路の住民全員をギロチンにかけさせて、そこを無人の通りにしてしまったこともある。
私は、たびたび自問してみた。こんな嘆かわしい状況にあっても、人間は気晴らしや楽しみを求める情熱を失わずにいられるものだろうか、と。実際はどうだったかというと、アラスでは、あいかわらず昔と変わらぬ楽しみを味わうことができた。以前とまったく同じように楽々と女の子をモノにできることが直ぐにわかった。つまり、幾日もたたないうちに、だんだん私の恋人がふえ、城内の酒保経営者ラチュリップ伍長の一人娘、若くて美しいコンスタンスからキャピュサン街の角に事務所を構えている公証人の四人の娘まで愛の手をのばしていた。そこまでで止めておけばよかったのだが、ジュスティヌ街に住んでいた美人にも敬意を表してみようという気を起こしてしまった。そしたら、待ったをかけた競争相手に出会ったのである。そいつは、むかし軍楽隊にいた男で、自分がもてなかったことは棚に上げて、肘鉄《ひじてつ》を食わされたことなどはないフリをしているような奴だった。そこで、そんなふうに空威張《からいば》りをしていたときに、ちょっと、とっちめてやった。怒った。私は、あおった。彼は、ぐっと怒りを呑みこんで胸におさめたらしかった。そのうち、私が、いざこざを忘れたころになって、彼が私を中傷しているという噂が耳に入ってきた。すぐに、私は決闘を申し込んだ。ところが、彼は応じなかった。そこで、満座の中で、これ以上ないというような侮辱の言葉を投げつけてやったら、やっとその気になった。決闘は翌日の朝ということになり、私は時間きっかりに行ったが、着いたとたんに憲兵と警察の一隊にとり囲まれてしまった。サーベルを渡してついて来いと命令され、私は従った。そして、そのまま例の矯正収容所にぶちこまれてしまった。
収容所は、恐怖政治屋《テロリスト》どもが、アラスの住民の首を次々とバッサリやり始めてからは、以前とは違う目的で使われるようになっていた。頭に赤い帽子をのせた看守のボープレが、いつもそばを離れない大きな黒犬を二匹つれて、だだっ広い部屋に私を連れて行った。そこには、その地方の住民の中でも有名人物と言われているような人たちが、彼の監視のもとに閉じこめられていた。まったく外界との連絡を絶たれ、差し入れの食べ物を受けとることだけが、どうやら許されていた。その食べ物にしても、ボープレが、めった矢鱈《やたら》と引っ掻きまわしてからでなくては届かなかった。用心ぶかい男で、武器や鍵が隠されていないかを確かめるために、ぞっとするほど汚い指をポタージュに突っこむことまでやった。文句を言う人間には、こんなふうに答えた。
「うるせェ野郎だな。今の世の中なんだと思ってるんだ……あした首をちょん斬られるかもしれんのだぞ? ちょっと待て、おめェ、なんて名だ?」
「何々だ」
「ぜったい明日だ!」
夕食後、ジョゼフ・ルボンに、
「あしたは誰を片づけようか?」
と相談されて、件の男を指名するのがボープレなのだから、彼の予言が外れるなんてことはあり得なかった。
私たちと一緒に拘留されていた貴族のなかにベチュヌ伯爵がいた。ある朝、彼を裁判所に連れて行く迎えが来た。彼が中庭に連れだされる前に、だしぬけにボープレが、
「シトワイヤン・ベチュヌ、おめェさんは、あの世へ行くんだから、ここに残したもんは、あっしが貰うよ、いいね?」
「いいですよ、ムッシュ・ボープレ」
老人が静かに答えると、罰あたりの看守は下劣な嘲りをこめて言い返した。
「もうムッシュてのはねェんだ。あっしらは、みんな公民《シトワイヤン》なんだ」
そして、さらに戸口からまた叫んだ。
「シトワイヤン・ベチュヌ!」
ところが、ベチュヌ氏は無罪を宣告され、容疑者なみに牢に連れ戻された。私たちは、彼が戻ってきたのを見て大いに喜んだ。助かったのだと思いこんだ。だが、その夜、ベチュヌ氏は、またも呼び出された。ジョゼフ・ルボンが田舎から帰ってきて、彼の留守中に無罪判決があったのを知り、あれほどの立派な男の血をモノにしそこなったかと口惜しがり、即刻、公安委員会のメンバーに招集をかけた。そして、ベチュヌ氏は、その場で有罪を宣告され、松明の灯りのもとで処刑された。
この出来事は、ボープレが、残忍な喜びを浮かべながら私たちに語ったのだが、それを聞いて、私は、かなり本気に心配しはじめた。毎日のように、財産からいっても地位からいっても、とりたてて政治的狂気の対象にはなりそうにもない人々が、私もそうだが、思いあたる理由もなく逮捕され、死刑を宣告されていた。また、ボープレは、数には細かく気を配るが、質のほうはどうでもいいという男で、指名された人がすぐに見つからないことがあると、任務を遅らせないために、誰でもかまわず最初に眼についた者を送りだすことがよくあった。だから、今この瞬間にも、オイお前だ、とボープレに言われるかもしれない。わかっているとは思うが、その見通しは決して安心できるものではなかった。
ジョゼフ・ルボンがやって来たと聞いたのは、逮捕されてから十六日も経った時だった。女房を同伴していて、そのうしろにはアラス地方の主だった恐怖政治屋《テロリスト》どもを従えていた。そのお伴のなかに、私の父のカツラ師だった男と、井戸さらい屋のデルモット、通称『|提灯もち《ランチレット》』という男がいるのを見つけた。私は、かれらに委員長に口をきいてくれと頼んだ。かれらは請け合ってくれた。二人とも信用のおける人間だったので、きっと巧くいくだろうという気がした。いっぽう、ジョゼフ・ルボンは、残忍そうな態度で収容者を尋問したり恐ろしい質問を発したりしながら所内を見まわった。私のところに来ると、私をじっと見て、冷酷ではあるが、からかい半分の口調で話しかけた。
「ああ、ああ、おまえか、フランソワ!……おまえまでが貴族の仲間入りをしようと思ったってわけか、共和派の悪口を言ってね……昔のブルボン連隊をなつかしんでるんだろう……用心しな、俺は、おまえを料理しちまえ(ギロチンにかける)、と命令をだすことができるんだ。とにかく、俺のところにお袋を寄こせよ」
そこで、面会禁止なので母親に会うことができなかったと述べると、彼は牢番に向かって、
「ヴィドックのお袋を入らせてやれ」
と指図し、私に希望をもたせて出て行った。つまり、彼は、あきらかに私を特別に穏やかな態度で扱ったことになる。二時間後、母がやって来た。母は、私が知らなかったことを教えてくれた。私を告発したのは、私が決闘に呼びだしたあの音楽野郎だったということである。その告発状は、熱狂的なジャコバン党員、恐怖政治屋のシュヴァリエのもとに提出された。彼は音楽家と友だちだったので、彼の姉が私の母の哀願に負けて私の釈放を頼んでくれなかったら、きっと私は殺されていただろう。
牢から出ると、愛国主義者が勢揃いしているところに仰々しく引っ立てられ、そこで、共和国への忠誠と専政君主への憎しみを誓わせられた。私は、言われるままに何でも誓いをたてた。自由を失わないためなら何だってギセイにできる!
士官ヴィドック
こうした形式的な儀式がすむと、私は、いったん収容所に戻された。仲間は、私が戻ったのを見てたいへん喜んでくれた。事の成行きから見て、シュヴァリエを救い主と思わなかったら感謝の念が欠けていることになると思い、私は御礼を言上《ごんじょう》に行った。そして、彼の姉にも、哀れな囚人に情けをかけていただいて、どれほど感謝しているかを伝えた。この女性は、褐色髪の女のなかでもとくに情熱的なほうだったが、その大きな黒い瞳もブスであることの埋め合わせにはなっていなかった。私が礼儀ただしかったので、彼女は、私が惚れているものと思いこんだ。こちらのお世辞を文字どおりに受けとってしまい、はなっから私の感情を誤解し、私を自分のものと思いこむまでになった。そして、結婚話が持ちだされ、その件について私の両親の意向が探られたが、両親は、十八歳では結婚に若すぎると答えた。だが、この問題は、だらだらと長くつづいた。
そうこうしているうちに、アラスで徴兵部隊が編成されることになった。私は優秀な剣術教官として知られていたので、七人の下士官と協力してパドカレ部隊〔アラスは現在のパドカレ県の主邑〕の第二大隊を教練して欲しいという要請を受けた。この七人の中にラングドック連隊〔ラングドックは昔の県名。南仏の地中海に面していた〕の擲弾兵《てきだんへい》伍長がいた。セザールという名の男で、今はパリ近くのコロンブかピュトーで田園監視人をやっている。彼は副官に任ぜられた。私のほうは、宿営地のベユール近くのサン・シルヴェストル・カペルに着くとすぐ、少尉の階級に進級した。セザールはラングドック連隊で剣術師範をしていたし、私はキンスキーの胸甲騎兵隊の剣術師範代を相手に繰りひろげた武勇伝が覚えられていた。われわれは、大隊の士官に操典以外の剣術も教えることにした。みんな、その取りきめを大いに喜んだ。私たちは、稽古をつけていくらか金を貰ったが、それは生理的欲求を満たすには、ほど遠い額だった。いや、こう言ったほうがいい、自分たちが思っていた実力に見合った額には、ほど遠かった、と。だが、とりわけ何とかしなくてはならなかったのは食事の件だった。私は相部屋の同僚と一緒に市長の家の一部屋を宿舎にしていたが、市長のやつは御馳走を食べているというので、食欲と恨みが倍になった。なんとか母屋に忍びこもうとしてみたが、そのたびに古参の女中頭のシスカが私たちの悪企みの前に立ちふさがって胃袋作戦の邪魔をし、がっかりして腹はぺこぺこ。
ついに、セザールが、なんとしても私たちを市の役人の常食から遠ざけている魔力を打ち破る秘法を考えついた。彼にそそのかされた鼓手長が、ある朝、市長邸の窓の下にやって来て起床太鼓を打ち鳴らした。大騒ぎになったと思っていただきたい。果たせるかな、そのドンドコをやめさせようと、例の意地わる婆さんが、われわれに助けを求めたのが想像つくと思う。セザールは、やんわりと、こんな騒ぎが二度と起こらないようできるだけのことはしますと約束し、鼓手長のところに行って、この次は、もっと激しくやれと言いつけた。そして、その翌日は、隣りの墓地の亡者が眼をさますほど轟《とどろ》き鳴り渡った。果ては、中途半端なやり方はいかんとばかりに、鼓手長に屋敷の裏手で太鼓の訓練をさせた。その結果、シカール神父〔聾唖者教育で有名(一七四二〜一八二二)〕の生徒も我慢できなくなり、婆さんは降伏して、かなり愛想よく仕掛人セザールと私を招待してくれるようになった。だが、まだまだ不満足、鼓手たちはコンサートを続けて、かれらの尊敬すべき隊長どのが私たちと同じように市主催の宴会に招かれるまでやめなかった。それ以後は、サン・シルヴェストル・カペルでは、分遣隊が通過するときしか太鼓の音は聞かれなくなり、みんな平和に暮らした。ただし、私は別だった。色婆ァの深情けがおっ始まって、私がビクつくことになったからだ。そのいまわしい情熱が起こしたごたごたは、あの地方の人ならまだ覚えているに違いない町中の大評判になった。
村祭りだった。みんなが歌い、踊り、よく飲んだ。私は、その場にふさわしく振舞いすぎて、けっきょくは、親切な人に寝床まで運んでもらう始末になった。あくる日、お天道さまが出る前に眼がさめた。浮かれて騒いだ後はいつもそうだが、頭が重く、口の中はねばねばし、胃がきりきり痛んでいた。水が飲みたくて、からだを起こそうとした。すると、首のまわりに、つるべ井戸の綱みたいに冷たい手がまきついているではないか。昨夜の飲みすぎで頭はぼォっとしていたが、わっと悲鳴をあげた。その声で、隣りの母屋で寝ていた市長が、彼の弟と老人の下男を連れてかけつけて来た。二人とも棒を持って武装していた。セザールは部屋に帰っていなかった。その時にはもう、夜這い女がシスカだとわかっていたが、いちおう怯えたフリをし、駈けつけた連中に、私の横にお化けが居って、ベッドの奥にもぐりこんでいると言った。と、たちまち、かれらは、その化物を棒でぶちのめし始めた。すると、シスカは、これじゃ打ち殺されてしまうと思って叫んだ。
「ああ、だんな様よォ、ぶたねェで下せェましな。シスカですよ……寝呆けちまって、その、士官さんの隣りに寝たんです」
こう言いながら、頭を布団からツンと出した。それで助かった。というのは、シスカの声だとはわかったのだが、迷信ぶかいフラマン人〔ベユールは現在のノール県にあるが、ベルギーのフランドル地方に接している〕たちは、また殴り始めようとしていたからだ。この事件は、さきほども大評判になったと言ったように、『トマ伯父さん』や『フェルシャイムの男爵たち』の場面を彷彿《ほうふつ》とさせて、宿営地じゅうの噂の種になり、カッセル〔現在のノール県の一邑〕にまで広まった。おかげで私は、もてもてになった。なかでも、ぜひ述べておきたいのは、ある凄い別嬪の酒場のマダムが、初めて次のことを教えてくれたことだった。つまり、色男は、ある種の酒場で勘定を払うとき、チップを渡すんじゃなくて受け取ることもできるということだ。
宿営して三カ月たったころ、師団はシュチンヴァルト〔現在のノール県ダンケルク郡にあるステーンホールドのこと〕に出動せよとの命令を受けた。オーストリア側は、ポーペリンゲ〔現在はベルギー東フランドルにあるフランス国境に近い町〕に向かうと見せかける牽制行動をとった。パドカレ第二大隊は第一線に配置された。われわれが到着した日の夜、敵は味方の前哨を不意に突いて、私たちが占領していたラ・ベルの村に攻めこんで来た。われわれは急いで戦闘態勢をとった。この夜間行動で、わがほうの若い徴集兵たちは、フランス人ならではの知恵と機敏さを発揮した。ところが、朝の六時ごろ、敵のヴュルムゼル将軍の軽騎兵隊が左翼から進出し、われわれは散りぢりにされて攻撃できなくなった。騎兵隊の後には歩兵の縦隊がつづき、いっせいに銃剣を構えて突撃してきた。はげしい白兵隊を繰りひろげたが、数において劣るのはどうしようもなく、わが軍は司令部があるシュチンヴァルトに退却した。
そこに着くと、ヴァンダム将軍から賞讃の言葉とサントメル〔パドカレ県にある〕の病院行きの許可書をもらった。というのは、オーストリアの軽騎兵との戦いで二太刀を受けていたからだ。その兵士は、しつこく私に喚いた。
「エルギブ ディッヒ! エルギブ ディッヒ!(降参しろ、降参しろ)」
私の場合は、それほど重くはなかった。二カ月後にはハーゼブルーク〔ノール県ダンケルク郡〕にいた大隊に復帰することができた。『革命軍』と呼ばれる奇怪な軍隊にお目にかかったのはその地であった。
その軍隊を構成する男たちは、槍を持って赤い帽子をかぶり、どこへ行くにもギロチンを引っぱって歩いた。国民公会は、戦闘態勢にある十四の軍団の士官たちの忠誠を確保するには、裏切者を待っている処刑道具を眼の前に突きつけておくのが一番いい方法だと考えたという。何はともあれ、私に言えるのは、その陰惨な機械が行く先々の住民を死ぬほど怖がらせたということである。軍人には、もっと気に入らなかった。私たちは、『ギロチンの番人野郎』と呼んでいた共和派の連中とよく悶着を起こした。私はといえば、そいつらの隊長の一人をぶん殴ってしまった。毛織布の肩章以外は着用すべからずと規則に明記されているのに、私が金の肩章を付けていたのを見つけて気を悪くしたのだった。この軽はずみな行動が私を窮地に追いこんだ。カッセルへ行けるように取りなしてくれた人がいなかったら、私の奢侈《しゃし》取締令違反は高いものにつくところだった。私は、カッセルで部隊と合流したが、部隊は、他の徴集兵大隊と同じように解放させられ、士官はただの兵士に戻り、私も一兵卒として第二十八志願兵大隊に配属された。その隊の任務は、ヴァランシェンヌとコンデ〔いずれも現在のノール県にあり、コンデはコンデ・シュール・レスコのこと〕の町からオーストリア軍を追っぱらうことだった。
十八歳で結婚
大隊はフレーヌ〔現在のノール県にあるフレーヌ・シュール・エスコのこと〕に宿営した。ある日、私が泊まっていた農家に船頭さん一家がやって来た。夫婦と子供二人の家族で、十八になる娘のほうはどこにいても人目をひきそうだった。オーストリア軍に食糧を積んだ持船を徴発されてしまったという。その船は、かれらの全財産だったので、哀れ一家は、着のみ着のままで親戚だったこの農家を頼って逃げてくるほかはなかった。そうした境遇や辛い立場、それにデルフィヌという名の若い娘の美しさが私にジーンときた。
偵察に行って、その船を見た。敵は、配給のときだけしか荷を降ろしていなかった。私は、十二人の仲間に、オーストリア兵の戦利品を分捕ってやろうと持ちかけた。仲間は同意し、大佐も承認してくれた。そして、ある雨の夜、敵の歩哨に気づかれずに船に近づいた。その歩哨は、銃剣の五突きでエスコ川の魚の相手に投げこまれた。すると、どうしてもと言ってついてきていた船頭のお上さんが、いきなりカラス麦の中に隠しておいた銭袋に駈けより、そいつを担いでくれと頼んだ。次に、船を解き放して、われわれの野営陣地がある地点まで流れて行くようにした。だが、船が流れに乗ったとき、
「誰何《ヴェルダ》?」
という声にびっくりした。葦の中に身をひそめていた歩哨に気づかなかったのだ。二度目の誰何と共に銑声が起こり、隣りの哨戒所の兵が武器を執った。一瞬のうちに河岸は兵隊で埋まり、雨あられと弾丸が船に降ってきた。こうなっては船を棄てるしかない。私と仲間は船べりにもやっておいた小舟にとび移った。お上さんもそうしたが、船頭は、混乱のなかで我を忘れたのか、一縷《いちる》の望みをすて切れなかったのか、オーストリア兵の手に落ち、たっぷりと拳骨や銑床で可愛がられた。
われわれは、この企てで、別に三名の兵を失った。私自身も撃たれて二本の指を骨折した。デルフィヌが精いっぱい看病してくれた。そうこうしているうちに、亭主が捕虜としてガン〔現在のベルギー、東フランドル地方の中心地。一七九五年当時はフランス領エスコ州の主邑〕に送られたと聞いて、お上さんはそちらに向かい、われわれはリールまで行ったが、そこで私は怪我の恢復期をすごした。デルフィヌが、カラス麦のなかから取り戻した金の一部を持っていたので、私たちは、けっこう楽しいチンカモの日を送った。結婚しようかという話になり、もう抜き差しならなくなって、ある朝早くアラスへ発った。必要な書類と親の承諾をもらってくるためだ。デルフィヌのほうは、まだガンにいた両親からの承諾を得ていた。リールから一里ほど行ったところで、傷病治療許可書を忘れたことに気がついてリールへ引き返した。アラス市役所で書類を作ってもらう際に入用なものだった。宿に着いて部屋へ上がった。ドアをたたく。誰も答えない。デルフィヌが、こんなに朝早くから出かけるなんてあり得ないことだ。まだ六時になるかならないかだった。もういちどドアをたたいた。やっとデルフィヌが出てきた。とつぜん叩き起こされた人らしく、腕をのばしたり眼をこすったりしている。ひとつ試してやれと、両親に引き会わせたいから一緒にアラスへ行かないか、と誘ったら、彼女は落ち着きはらって同意した。私の疑いは消え始めた。それでも、なんとなく裏切られているような気がしてならなかった。そのうち、彼女が、衣裳戸棚のほうにチラチラと眼をやるのに気がついた。そこで、その戸を開けるそぶりを見せたら、わが貞淑な婚約者ちゃんは、よく女どもが即興にぺらぺらやらかす口実を設けて、そうはさせじと妨げた。だが、私は我を張って、とうとう戸棚を開けてしまった。そして、汚れた下着の山の下に、私の治療をしてくれていたお医者さまが隠れていたのを見つけた。爺いの醜《ぶ》男で、うす汚いやつだった。まず感じたのは、こんなやつがライバルか、という屈辱感だった。そいつが美男子だったら、おそらく、もっと腹が立っただろうが、そういう楽しい経験をたくさんお持ちの皆さんに判定をまかせることにしよう。とりあえず、いい思いをしている名医をぶちのめしてやりたい気が先に立ったが、私にしては珍しいことだが、後々のことを考えて思いとどまった。私たちは戦地にいた。休暇許可証に難癖をつけられて嫌な目に会うかもしれない。それに、なんといっても、デルフィヌは、まだ私の正式の妻ではなかった。私には何の権利もないのだ。とはいえ、女の尻を蹴とばして部屋から叩きだした。窓から荷物とガンまで行けるくらいの金を投げてやった。残りの金はいただいておいた。正当な取り分だと思ったからだ。なんといっても、オーストリア兵からあの金を取りもどすことのできた天晴《あっぱ》れな作戦の指揮をしたのは私だったのだから。言い忘れていたが、医者どのには穏やかに退場してもらっておいた。
浮気女から解放されたあとも、私は、許可証の期限が切れていたのにリールに残っていた。その町では、パリと同じくらい簡単に身を隠していられた。その滞在のあいだは、読者に詳しく語るほどの色恋沙汰もなかったが、これだけはお知らせしておこう。ある妻君とねんごろになり、やきもち焼きの亭主の怒りから女装して逃げを打っていたところを捕まって地区司令部に引ったてられた。
さいしょ、私は、頑として釈明を拒んだ。喋ってしまうと、私にやさしくしてくれた女と本当にこれっきりになってしまうか、許可期限が失効した逃亡兵であるのがわかってしまうにちがいないと思った。しかし、何時間か牢屋ですごしたら決意が変わった。陳述を受けてもらうために上級士官を呼んでもらい、自分の立場を率直に話したところ、彼は興味を持ったように見えた。そのうち、師団の総司令官が、私本人の口から話を聞きたがり、失敗談を語ると、将軍は、二十回も吹きだしそうになり、そのまま私を釈放しろと命令し、ブラバン〔ベルギー中央部〕にいる第二十八大隊に加わるための通行証を公布してくれた。だが、私は、その方角へは行かずにアラスのほうへ進んだ。いよいよのどたん場にならないかぎり、けっして軍隊には戻るまいと決心していた。
アラスで最初に訪ねたのは愛国者シュヴァリエだった。彼はジョゼフ・ルボンに影響力を持っているから、彼に口をきいてもらえば傷病休暇の延長の許可がもらえるかもしれないと思ったからだった。それは確かに手に入ったが、またしても彼の家族に引き会わされる羽目になった。彼の姉が私にぞっこんな有難めいわくな女であることは既にご存知と思うが、ますます露骨にモーションをかけるようになった。いっぽう、私は、毎日見ていると、なんとなくその醜さにもなじんできて、つまり、事のありようは、ある日、彼女から妊娠していると告げられても驚くことはないという関係にまでなっていた。彼女は結婚のケの字も口にしなかったが、弟に復讐される危険を冒したくなければ、けっきょく、ケッコンシマスと言わざるを得ないということは百も承知之助だった。イヤだと言おうものなら、かならずや、かれらは、私を反革命容疑者、特権階級者、とりわけ逃亡兵として告発するにきまっている。私の両親は、事情を聞いて驚き、他面、私をそばに置いておけるという望みもあって、やいのやいのとシュヴァリエ家がせき立てる結婚に同意した。そして、とうとう、話が決まり、私は十八歳で妻のある身になった。おまけに、近く父親にもなるのだと覚悟していた。ところが、その後、幾日もたたないうちに妻が告白した。私を結婚の場に引きだすために妊娠したフリをしたのだ、と。
この打ち明け話を聞いた私が、どれほど満足したかは想像にまかせよう。しかし、結婚を約束したときと同じ理由で、口をつぐんでいる他なく、くやしさに歯ぎしりしながらじっと堪《こら》えた。とにかく、二人の結婚は波乱ふくみで始まった。妻が開店した小間物屋は、ぜんぜん巧くいかなかった。原因は、しょっちゅう彼女が店を空けているせいだと思った。一日じゅう弟のところに入りびたっていた。私が、このことで意見を述べたところ、しっぺ返しに、ツールネェにいる原隊に復帰せよという命令を出されてしまった。うるさい亭主を追っぱらうこのやり方に文句を言うこともできたが、こちらもシュヴァリエのくびきの下にいるのは、ほとほと参っていたから、あれほど前には喜んで脱ぎすてた軍服を嬉しいような気持で再び身につけた。
ツールネェでは、旧ブルボン連隊の将校で、今は首席副官になっていた男が、私を事務局に配属してくれて、経理部の主計士官補として衣服係を専任することになった。そのうち、師団の用事で信頼できる者をアラスに出張させる必要ができて、私が行くことになった。早馬で出発し、夜の十一時にアラスの町に着いた。命令を持っていたので門を開けさせた。ふと、なんとも説明のしようもない衝動に駈られて妻のもとへ急いだ。ながいこと家の戸をたたいたが、返答がない。やっと隣りの人が出入り道のほうの入口を開けてくれた。私は、すばやく妻の部屋へ上がった。近づくと、サーベルの落ちる音が聞こえた。次に窓を開ける音、そして男が道に飛び降りた。私の声だとわかったにちがいない。すぐに私は、大急ぎで階段をかけ下り、まもなくラヴレイス野郎〔サムエル・リチャードソン(一六八九〜一七六一)の小説の女たらしの主人公〕をとっつかまえた。そして、そいつが、アラスで半期休暇中の第十七猟騎兵隊の副官であることがわかった。半分、裸だった。そいつを私たち夫婦の住居に連れ戻し、彼が服を着終わると、われわれは翌日の決闘を約束して別れた。
この一幕は、近所じゅうの噂になった。大方の隣人は窓に駈けよって、私が間男をつかまえるところを見ていた。かれらの前で事の次第は明白にされていた。だから、離婚を申し立てて認められるだけの証人には事欠かないで、私は、ずばり離婚を提案した。しかし、貞女の家族は、これからは付添婦をつけるからと言い、すぐさま私が離婚のために奔走するのをやめさせるか、すくなくとも動きがとれないようにしようとして、翌日、相手の副官と立会う前に、私を警官と憲兵に逮捕させ、さっそく収容所にぶちこむぞと言わせた。幸い、私は自信があったので、自分の立場に何の不安も感じていなかった。ジョゼフ・ルボンのところに連れて行けと要求した。これは拒むことができないものだった。私は、人民の代表者の前に出た。彼は、おっそろしくたくさんな手紙や書類の山にかこまれていた。
「オヤ、きみか。許可もなくやってきて……また奥さんをイジめたってな……」
私は、即座に言い返すことができた。出張命令を伝達し、女房の隣人と副官本人の翻すことのできない証言を引きあいに出した。けっきょく、はっきりと事件の釈明をしたので、ジョゼフ・ルボンも、悪いのは私ではないと認めざるを得なかった。だが、彼は、友人のシュヴァリエの立場を考えて、これ以上アラスにとどまっていないように勧めた。私は、風向きが変わるのを恐れて、そんな例は山ほど見てきていたので、できるだけ早く彼の意見に従うことを約束した。任務は終わった。みんなにさようならを言って、翌日の夜明けにツールネェに向かった。
[#改ページ]
三 国境地帯を放浪
ニセ将校
ツールネェには首席副官はいなかった。すでにブリュッセルへ出発していた。そこで、すぐさま馬車で合流する手筈をし、翌日、目的地に向かって発った。ところで、最初チラと見ただけで、リールで顔見知りになった三人の男が旅行者の中にいるのがわかった。一日じゅう酒場ですごして、すこぶる怪しい生き方をしていた連中である。驚いたことに、三人が別々の部隊の服を着ていて、一人は中佐の、他の二人は大尉と中尉の肩章を付けていた。やつらは軍人ではないのに、どこでそんな物を手に入れたのだろうか? 私は胸のうちで独り言をいって臆測をたくましくした。かれらの側では、はじめは出会ったことにやや戸惑ったようだったが、やがて平静に戻り、私がただの一兵卒でいることに親しみのある驚きをあらわした。そこで、実は徴集大隊が解散したので階級がなくなったのだと説明すると、『中佐』どのが保護してやるからと約束してくれたので、当の保護者のことはてんで知らないままに厚意を受けることにした。はっきりと見られたのは、彼が金を持っていて、彼が食事代を払い、熱心な共和主義をひけらかし、どこぞの旧家の出身らしく仄《ほの》めかしていたことだった。
ブリュッセルではツールネェ以上にツイていなかった。首席副官は、私から身をかわしているかのようにリエージュに去ったばかりであった。私は、こんどこそムダ歩きはすまいつもりでリエージュに向かって出かけた。ところが、着いてみると、ご親切なお方は、その前の日にパリへ出発していた。国民公会廷に出頭することになっているという。となると、十五日以上の留守はしないはずだ。私は待った。誰も現われなかった。一カ月すぎても音沙汰なし。物事すべてが私には落ち目になっていく。そこで、またブリュッセルに戻ることにした。ブリュッセルへ行けば、当面の窮地から案外ラクに抜け出せるだろうと希望をつないだ。私の生涯の話を自慢できるだけの正直さで語るとするなら、何事も、とくに困難でないラクな方法をえらぶというズルイやり方で始めたことを白状せねばならない。私の受けた教育では真面目な男になれるはずもなかったし、年少のころから経験した兵営という忌わしい社会が、もっと幸せになれる本性を腐らせたのだった。
さて、ブリュッセルでは、あまり自分の弱味を見せないで、かねて知り合いの浮気女のところに落ち着いた。ヴァン・デア・ノット将軍の囲われ女だったが、なんとなく誰のものにでもなるところまで落ちこんでいた。私は、そうした不安定な生活に落ちこんだ誰ものように何もしないでのらくらと日がな一日『カフェ・トルコ」や『銭《ぜに》亭』ですごした。詐欺師や賭博者が好んで集まるところだった。この連中は、散財をしたり一か八かのバクチを打ち、これといった策もなく、二度と同じ連れは見なかった。この点を近づきになった若い男に尋ねたところ、私の青さにびっくりした顔をしたので、あんたの言う新米なんですからと、どうにかこうにか口説いた末、やっとこう話してくれた。
「ここに一日じゅう顔をだしているやつらはペテン師なんだ。一度しか現われないやつは、だまされた連中で、いったん金を捲き上げられると二度と姿を見せないのさ」
こんなふうに教わって、それまでは気にとめなかった一群の連中に注目し、信じられないようなイカサマを実際に見た。そうなると、私に好意をもってくれる人には、裸にされる不幸を前もって何度も知らせてやった。そのうち、仕掛人が私に目をつけていると知らせてくれた者があった。
ある晩、カフェ・トルコで手なぐさみの集まりがあった。私は十五ルイをアンペリアル五枚ゲーム〔キングやクイーンを五枚集める〕に賭けた。カモ(だまされた男)は五十ルイすって、明日、雪辱戦をするぞと言って出て行った。彼が一歩、外に出たとたんに、勝った男が、今日でもパリで毎日のように見うけるようなやつだったが、私に近寄ってきて、ぶっきら棒に言った。
「よォ、大将、お互い、めでたいな。おれの腕に賭けていたら、外れっこねェよ。十の賭場で勝ってるんだ……お前さんが賭けた四クラウン、つまり十ルイは〔実際は十五ルイ賭けた〕……ほら、これだ」
「おっと、そいつァ間違いですし、あんたの腕に惚れこんでいるわけじゃありませんよ」、と言ってやると、何も答えずに私の手に十ルイ握らせてから、くるりと背を向けた。
「とっときな」
バクチ場のカラクリを教えてくれた例の若い男が私のそばにいて、
「とっときな。ついて来な」
と言い、私は機械的に彼の言葉に従い、二人が通りに出ると師傅《メントル》がさらに付け加えた。
「兄《にい》さんが、あちこちの賭場に顔をだしてるのはわかってる。どうやら怖いものなしのようだから秘密をさぐりだそうなんて気紛れを起こすのが心配なんだ。腕っぷしが強くて手くせが悪いのがわかったんで、分け前をやることにしたんだ。とまァ、こういうわけで、安心してやれるよ。あの二軒の酒場をシマにしな。おれみてェに、毎日、四から六クラウンのあがりがあるぜ」
その若い男の心づかいは百も二百もわかってはいたが、こちらの意見も言いたかった。だが、その親切な友だちは、なおもこう言った。
「お前さんは、まだ子供だ。なにも、ここで泥棒しろとは言っていねェ……ちょっと運命を変えるだけさ……いいかな、すべて物事は、お上品ぶっている客間でも安宿でも同じように動いてるんだ……人間はだます……誰もが知ってる言葉だ……問屋の主人なんざ、朝のうち帳場にいるだけで、お前さんの一時間分の儲けをピンハネするという罪を犯してるんだ。おなじく、お前さんも、いとも簡単にバクチでイカサマに引っかかる」
こんな途方もない議論に何と答えられるか? 何も答えられない。私としては自分の金を守っているだけのことで、それが私のできることであった。
こうしてわずかな分配金にあずかり、ある金額を母親に送り、なんとか恰好がつく状態《さま》になり、世話になっていたエミリにも御礼ができたが、彼女の心づくしには何も感じなかった。とにかく、私たちは、かなり巧くいっていたが、ある晩、公園劇場で数人の警官に逮捕されてしまった。身分証明書の提示を求められたのであった。これは私にとって相当に危険なことだった。持っていないと答えたら感化院へ送られ、その翌日、尋問しらべがあったが、相手が私のことを知らないか、それとも別人と間違えていることがわかった。そこで、私は、リール生まれのルソーだと名乗り、ブリュッセルへ遊びに来たのだが、身分証明書を携帯しなくてはいけないとは思わなかったと付け加えた。とどのつまり、費用は自分で持つから憲兵二名にリールまで送ってもらいたいと申し出た。要求が承諾され、クラウン銀貨を少し使って、私の護送には可哀そうなエミリも同行してよいということになった。
ブリュッセルから出されるのは御《おん》の字だが、リールまで行ってはいけないことのほうがさらに大事なことだった。リールに行けば脱走兵だとわかるにきまっている。なんとしても、ここを切り抜けねばならない。私の計画をエミリに伝え、彼女の考えでツールネェに着いたら実行することにした。私は憲兵たちに言った。明日ここを発ってリールに着いたら即自由になるのだが、その前に晩飯を御馳走してお別れしたい、と。すると、かれらは、それまでの私の行儀のよさや陽気だったのが気に入っていたので、大喜びで私の申し出を受けた。その晩、かれらがビールとラム酒で酔っぱらってテーブルにノビているあいだに、かれらは私も同じ状態であると思っていた、シーツを使って二階の窓から下に降りた。エミリもついて来た。そして、とうてい誰も探しに来っこない抜け道を突きすすんだ。
こうして、私たちは、リール城外のノートルダムにたどり着き、そこで、猟騎兵の制服外套に着換え、用心のために黒いタフタ絆創膏《ばんそうこう》を左の眼の上に貼って私だとわからないようにした。とはいえ、自分の生まれた場所の隣り町に長くとどまっているのは利口ではないと判断してガンに向かって出発した。ところが、そのガンの町で、たまたま小説的とも言える出来事から、エミリが実の父親に出会った。父親は、彼女に家族のもとに戻れときめつけたが、彼女は、いわゆるブリュッセルでの私の用事がすみ次第、戻って一緒になるという条件を私が表明しないかぎり、私と離れるのを承知しなかったのは事実である。
ブリュッセルでの私の用事というのは、またぞろカフェ・トルコや銭《ぜに》亭で分配金にありつくのを始めることだった。しかし、その町に顔をだすには、逃げる前の尋問で答えたようなリール生まれのルソーであることを証明する書類が必要だった。けっきょく、フランス軍所属のベルギー人重騎兵のラブルという大尉が、十五ルイの金で私に必要な書類を揃えてくれることを引き受けた。そして、三週間後、ルソー名儀の出生証明書と旅券と退役証書を間違いなく持ってきてくれた。みんな完璧な作りで、それまで、どんなニセ物作りのところでも見なかったようなできばえだった。さて、私は、この書類を持って堂々とブリュッセルに現われ、ラブルの昔の同僚で今は地区の司令官になっている男が万事うまく計ってくれることになった。
この面でひと安心した私は、さっそくカフェ・トルコに駈けつけた。部屋に入って、まず眼についたのはニセ将校たちの連中で、いつか一緒に旅をしたのを思いだした。かれらは私を大喜びで迎え、私の冒険談から今の立場がぱっとしていないのを察し、軍の外套を着ていたもんで、猟騎兵少尉の階級にならないかとすすめた。トクになる昇進は断るものではない。私の任命は、その場で決定され、ルソーというのは仮名であると御一同に告げると、中佐殿が、貴様の好きにしろ、と言った。名前について、それ以上のいい知恵はないと見てとったのだ。そこで、ルソーという名をつづけることにし、私に、辞令ではなくて第六狙撃隊少尉の旅行許可証なるものをくれた。騎馬で旅行をし宿泊と調達の権限を与うるものなりとあった。こうして、私は、この『巡回軍隊』に編入された。辞令なしの部隊を持たない将校で編成され、ニセの身分とニセの旅行証をもって、当時の軍政下では規律が甘かった各地の軍事委員を、まんまとだました。つまり、たしかに私たちがオランダを巡回していたあいだ、誰にも文句をつけられずにどこでも食糧配給を受けた。とにかく、当時は、二千人くらいのハッタリ野郎が『巡回軍隊』と称して水の中の魚のように生きていた。もっと奇妙なことがある。それは、臨機応変に早いとこ自分で昇進するのだ。昇進すると、いつも利益が多くなる。配給を受ける食糧の質や量をふやせる。といった具合で、私は軽騎兵大尉に、仲間の一人は大隊長になった。だが、困ったのは、わが中佐殿ことオーフレェが自分勝手に准将の階級に昇進したことであった。もし、あまり偉い階級になると、そういう段階での移動は世間によく知られているので、ニセ者でまかり通るのが一層むずかしくなるのは必至で、大胆すぎる組み合わせは、かえって疑いをひろげることになる。
ブリュッセルに戻ると、宿泊券を交付して、私は金持の未亡人、イ……男爵夫人の家へ回された。世間並みに迎えられた。当時のブリュッセルでは、フランス人を腕をひろげて、つまり快く迎えたという次第。とても綺麗な部屋を私の好きに使ってよかった。女主人は、私の遠慮ぶかさが気に入って、たいへんやさしい感じを初めから示し、時間さえ都合がつけばいつでも食事の用意を致しますからと言ってくれた。とにかく、その世話ずきな申し出を断ることは不可能だった。私は恐縮して礼をのべ、当日の夕食に出席しないわけにはいかなかった。会食者には、男爵夫人の他に、五十代にはなっていない三人の老婦人がいた。この皆さんが軽騎兵大尉のお行儀のよさに感心した。パリでは、こうしたお仲間うちでは、私のような者をやや左巻き扱いにするが、ブリュッセルでは、申し分のない人物とし、若者にとって早くから軍隊入りをすることは、教育上かならず害があるとする。この点について、男爵夫人は、なにか考えるところがあったに相違なく、私が大いに考えさせられるような細かい気くばりをしてくれた。
ときたま、『将軍』〔ニセ准将、旧ニセ中佐〕との会食に出かけて、招待を断れないんですと言い訳した。留守をすることがあると、彼女は、他のお友だちも一緒に紹介してくださいと強く希望した。私は、まさか仲間を夫人の世界に引き入れるなんてまったく思っていないことだった。世間に顔が広い彼女のことだ、われわれのちゃちなハッタリを見破る誰かと彼女の家で出くわすことがあり得る。でも、彼女は言い張ってきかなかった。とうとう私が負けて希望を実現させましょうということになった。ただし、将軍は身分を伏せたがっておられるので、内輪の者だけならお受けしますと答えた。
そこで、彼がやって来た。夫人は、うやうやしくもてなし、彼は夫人のそばに陣取り、ながいこと小声で話しあっている。それが私をチクリと刺した。仲よく向かいあっているのを邪魔する気になり、ピアノを弾いて何か歌っていただけませんかと将軍にお願いした。彼が楽譜を読めないことは百も承知で、機会《おり》があったらひと泡ふかせたいのと、その場のみんなが自然にすすめるのをアテにした。ところが、私の戦略は半分しか成功しなかった。仲間の『中佐』〔ニセ大尉だった男がニセ中佐になっていた〕が、みんなが『将軍』に強くすすめるのを見かねて、親切にも彼に代わることを申し出た。彼は、じっさいにピアノに向かい、みんなが感心する程度に二、三の曲を歌った。こん畜生め、と思って私は彼を見ていた。
しかし、いつまでも続きそうだった宴会も終わりになり、各自めいめいが退出した。恋心とは言わないが、夫人の親切な厚意を私から奪ったライバルに復讐してやろうと頭の中で計画をめぐらした。その考えで頭がいっぱいになり、起きぬけに『将軍』のところへ押しかけた。彼は、そんなに朝早く私を見てびっくりし、こちらが口を開くひまをあたえずに、
「わかっとるかな、きみ、あの夫人は……」
私は、はげしくさえぎった。
「誰が夫人のことを言ってる? ここで問題にしているなァ、あのひとがどうだとか、どうでないかじゃねェ」
「困ったな。彼女のことを言うんじゃないなら、聞く耳もたねェよ」
こうして、しばらくのあいだは私を困らせていたが、彼は、ついにこう言った。彼が夫人と話していたのはもっぱら私についてであって、さらに突っこんで話したところ、彼女は、実際ほんとに……私と結婚する気になっていると見てとった、と。
まず、私は、気の毒だが仲間の頭がイカれているなと思った。プロヴァンス・ユニ〔オランダ連合州〕で最も金持で爵位のある女の一人が、家族のことも財産のことも先祖のこともわからない一介の風来坊と結婚するなんて、信じろというのが、どだい無理な話である。まして、この私が、遅かれ早かれペテンがバレて身の破滅になることをやるはずもあるまい。しかも、アラスで、ちゃんと正式に結婚しているではないか? こうした異議や、いろいろな他の理由から、私に親愛の情をそそいでくれている立派な女性を裏切ることになるという一種の後ろめたさが頭に浮かび、話相手に一瞬も口を出させなかった。だが、彼は、こう答えた。
「なるほど、きみが言ってることは立派だ。まったくもっともだと思うが、勝手を言わせてもらうなら、一万リーヴルだけ収益《みいり》が足りない。だから、ここでビクつくことはねェと思う。夫人は何を欲しがっているか? 夫だ、気に入った旦那様だ。きみは、そういう夫じゃないというのかね? あらゆることで彼女のためになり、同時に我々のためにもなるように振舞う気持がないのかね? そうしてくれたら何も言うことはねェんだがな。きみは財産の不釣合いを言っとるが、夫人は、そんなことには、こだわっちゃいねェ。となると、残るはただ一つ、肩書だ。いいか、そいつを付けてやる……そうとも、肩書をやるよ……よっく目ん玉ひんむいて見ろ、いや、よく聞くんだ、命令は繰り返さないぞ……きみは、故郷の誰か貴族を知っとるはずだ、おなじ年頃のやつをな……きみがその貴族なんだ。両親は亡命してハンブルクにいる。きみは親の家を第三身分〔平民階級〕で買い戻すためにフランスに戻った。客間の裏板の下に隠しておいた無垢の銀皿と二千ルイの金貨を安心して取りだすためだ。恐怖政治が始まったときは、邪魔者がいたり出発がさしせまっていたり、父親に逮捕状が出たりしたために、一刻もぐずぐずしておられず、隠し財産を持ちだせなかった。この国に来ると、皮なめし職人仲間に変装したが、きみの計画を探索する男に密告されて告発状が出て共和国当局に追われ、死刑台に首をのせる直前、不安と飢えで半死人になって街道にいたのをおれが見つけた。おれは、きみの家族の古い友人で、ルソーという名で軽騎兵将校の辞令をもらってやった。ハンブルクにいる身分の高い親御さんに会いに行ける機会を待たしている……夫人は、この話をぜんぶ聞いている……そうだ、全部だ……ただし、遠慮したフリをして名前は言ってないが、ほんとのところは、きみがどういう名にするのか知らんからだ。これは、きみだけにする内緒話だ。
という次第で、これはもうできてしまったこと、きみは、うん、貴族なんだ。つべこべ言う余地はないんだ。浮気女房のことを言っちゃならねェ。きみはアラスへ行ってヴィドックの名で離婚し、某伯爵の名でブリュッセルで結婚するんだ。こうなったからにゃ、よっく聞きな。これまでは、うまく事が運んだが、万事が一瞬のきっかけで変わることがある。すでにもう、うさん臭い何人かの軍事委員がいるのがわかっている。手強いやつに出会って配給停止をくらい、ツーロンの小意気な浜辺〔南仏ヴァル県のツーロンには重罪人の徒刑場があった〕に送られるかもしれん。わかる……よろしい。きみは、もっと幸せになるには、元の連隊で、ちゃっかり背嚢《はいのう》と十字架を取り戻すことだと思っているが、逃亡兵として銑殺を覚悟せねばならぬ。反対に、結婚すれば結構な生活が保証され、友人たちを有利な地位につけられる。おれたちが、このことに関わった以上、ちょっとした約束をしてもらいたい。きみの妻君は十万フロランの収入がある。われわれは三人、一人千エキュの年金を前払いし、おれはパン屋の伜《せがれ》を伯爵に仕立てた手当として別に三万フランを受けとる」
もうすでに私の心はぐらついていた。この長談義で、『将軍』は、私が置かれている危険な立場を巧みに持ちだしてきて、けっきょくは私の抵抗に打ち勝った。実を言うと、こちらも、それほど強情を張らなかった。私は一切を承諾した。さァそうなると、みんなで夫人の屋敷へ行く。ニセ伯爵が彼女の足もとにひれ伏す。こういう場面が演じられ、私が、とても信じられないくらいに真に迫った演技をやってのけたので、ときには本人の私でさえ自分ではないような気がした。嘘をつく者には往々そういうことがあるものだと世間では言う。夫人の感情のあらわし方や言葉は魅力的で、私は自分の立場にのぼせてしまった。将軍は、私の成功を喜び、一同うっとりとなった。私は、ここやかしこで、やや軍隊の酒保を感じさす言葉の表現をもらしたが、政治的な騒動のせいで、とくに私の教育がおろそかになったせいですと、将軍が気をつかって前もって夫人に言っておいてくれたので助かった。彼女は、その説明で満足したのだった。その後、彼女の血族の者が、のちのアルブフェラ公爵、シュセ元帥〔一八一二年、イギリス軍とアルブフェラで戦って勝つ〕に書き送って、この度の非常に若い男の亡命結婚を弁解したが、べつに難しい顔はされなかったという。もっとも、彼は、フランス語がよくわからなかった。
巡回軍隊
みんながテーブルにつく。夕食が盛大に行なわれる。デザートになって、夫人が私の耳にささやく。
「ねェ、わたくし知っていますのよ。あなたがたの財産はジャコバン党〔大革命当時の過激派〕の人たちの手にあるんですってね。だから、ハンブルクにいらっしゃる御両親はお困りとか。ですから、三千フロランの手形を送らせてくださいね。明日の朝、銀行の人がお渡しします」
私がお礼を言いかけると、彼女は、それをとどめて客間へ行った。そのひまを見て、いま彼女が言ったことを『将軍』に知らせたところ、
「エエ、ばかな。おれから何か知ったとでも? きみの親が金に困ってるなんて夫人に吹きこんだのは俺じゃねェよ……さしあたっては親じゃなくて、おれたちだ……資金は落ちこんでいる。そいつを手に入れるため一か八か一発かまさにゃ。自分から危ない橋を渡って大仕事を成功させるんだ……手形のことは話をつけてやる……と同時に、結婚前の支度に少し金がいるのですと夫人にほのめかしとく。今から挙式までとしよう、月に五百フロランいただかせて下さいとな」
事実、翌日その額の金が私の書き物机の上に置いてあり、それに加えて赤い化粧着と装身具が添えてあった。いっぽう、将軍が欲しがっていたニセ伯爵名儀の出生証明書やその他の書類が、作らせている者から届かないでいた。そこで、こういうことには盲目な夫人を説得し、その立場にいない者には想像もつかないが、ペテン師どものインチキや厚かましさを信じるところまで追いこんでルソーという名で結婚することを承諾させた。これだと、証明に必要なすべての書類は持っていた。残るは父親の同意書だけで、ラブルに頼めばなんのことはなく、まもなくそいつを入手した。だが、たとい彼女が、実名でないとわかっている名で結婚するのを承知したとはいっても、私の首を救うための方便でしかない一種の文書偽造の共犯になるのを嫌がることはあり得た。
この困惑の打開を打合わせていたところ、占領地方での『巡回軍隊』の数がますます多くなり、政府もやっと眼をあけて、ニセ軍人の弊害を厳しく取締る命令をだした。これを知った一同は制服を棄て、それで心配はないと思った。しかし、いよいよ追求が厳しくなり、『将軍』は、急拠、町を去ってナミュール〔ベルギー南部地方と同名の主邑〕へ逃げた。そこなら人目につきにくいと思ったのである。私は、この突然の出発を夫人に説明し、将軍は、何々の名目で私の勤務先を決めるために配慮奔走に出かけたと言った。彼女は、この出来事に私の身を心配して、オランダへ逃げれば安全だということになり、その気持を鎮めるためにはブレダ〔オランダ南部の町〕へ出かけるほかなくなり、彼女は、ぜったいについて行きますと言ってきかなかった。
感傷的になるのは私らしくなかった。勘がよくて気転がきいて、いい感じをあたえる、これが私にそなわっているとされている一般の評判だが、めそめそしたら評判のぶちこわしになる。だが、そのとき、どっと献身的な心情にとらわれた、と言い切るのを是非とも信じてもらいたい。良心の呵責の声が、聾者でもなんでもない十九歳の私に聞こえてくる。私は見た、あれほど私に親切にしてくれた立派な女を引きずりこもうとしている底なしの淵を。やがて、こんどは、逃亡兵や浮浪者や重婚者や文書偽造者を恐れおののきながら押しのけている彼女を見た。そして、こうした思いから彼女に一切を告白しようと決心した。こんどの策謀に誘いこんだ連中からは遠く離れており、その者たちもナミュールで捕まるだろうと考え、なおさら決心を固くした。ある晩、夕食がすんだとき、いよいよ口火を切ろうと決めた。
これまでの行状には深く立入らずに、ブリュッセルに行ったときの状況は、とても説明しきれないが、彼女も知っている二つの名を使わざるを得なかったこと、その二つとも本当の名ではないことを話した。さらに、いろいろな事情から私の幸福をもたらした縁《えにし》を結ぶだけの力がなくてオランダを去らねばなりませんが、これまでの親切にされた思い出は永久に忘れません、と言い足した。
ながいこと話した。感動して熱をこめて話した。われながら驚くほどすらすらと話せて、夫人の返事を聞くのが何だか怖いみたいだった。彼女は、身じろぎもせず、頬が蒼ざめ、夢遊病者のように眼をすえ、だまって聞いていたが、恐怖の眼《まな》ざしを私に投げながら、ふいに立上がって自分の部屋へ走って行って閉じこもった。それっきり彼女を見ることはなかった。私の告白で万事がはっきりし、苦しまぎれに洩らした私の言葉で自分に降りかかっている危険をさとり、当然の不信感から、実際に私が置かれていた状況よりさらに罪ぶかいものがあるだろうと察したのであろう。たぶん、なにか大犯罪に捲《ま》きこまれているのだと思ったろうし、おそらく血を見ることもあるだろうと……他の面から見れば、われわれの手のこんだ変装が強い不安を引き起こしたのかもしれないが、私が自発的に告白したことが、やはり、ちょうど巧く彼女の不安を鎮めたと思われる。おそらく、この最後の安心感が彼女を支配したのであろう。というのは、その翌日、眼をさますと、宿の亭主が金貨で一万五千フランが入った小箱を私に渡し、夫人が、朝の一時の出発前に私にと言って彼にあずけたとのことだった。私は、その伝言を有難く聞き、眼の前に亭主がいるのが気を重くした。もうブレダに私を引きとめるものは何もなかった。行李を支度し、数時間後にはアムステルダム街道にいた。
前にも述べたが、また繰り返して言うと、こうした危ない芸当をする連中には、どうしても不自然に見えるグループがいて、かならずインチキだとわかる。しかし、いかにも本物らしく化けるのがいないこともない。この三十年間のブリュッセルで、この道で知られている人物たちの頭文字を挙げてもよい。この他には、すべてこれ、三文小説的な似たり寄ったりの例しかない。もし、もっと細かく何か詳しく立入って述べる場合は、メロドラマ的な『効果』を狙っているのではなく、常套的なペテンを使って意外な成功をおさめる徒輩《やから》から大いに信頼できる人々をあらかじめ護ってあげようという老婆心からである。これがまた、この回想記の目的でもある。願わくば、王の検察官や判事や憲兵や警官が、こうした徒党に全力投球をして、ある晴れた朝、仕事がヒマにならんことを。
アムステルダムには、ほんのちょっとしか滞在しなかった。私が見たいと心を燃やしていたのはパリだった。男爵夫人が置いて行ってくれた金の一部である二通の手形を現金化すると、すぐに旅路について、一七九六年三月二日、いつの日か私の名前が評判になることになっていた首都に入った。エシェル街の『すずが森ホテル』に投宿し、まずデュカ貨をフランス銀貨に両替し、私には必要のない小さな装身具や贅沢品をどっさり処分した。城外のどこかの町で独立し、何かの職業につきたいというコンタンがあったからだ。もっとも、そんな計画が私に実現するはずがなかったのだが。
ある晩、いつもホテルにいて旅行者と近づきになろうとしている連中の一人が、バクチを開帳している家を紹介してやると申し入れてきた。私は、カフェ・トルコや銭亭の経験での自惚れもあって、退屈しのぎに案内してもらうことにした。だが、はじめは有利だったが、やがて、ブリュッセルのイカサマ野郎などは、パリの勝負師にくらべたら小僧っ子にすぎないことがわかった。今日の賭博の仕組には『やり直し』だけがあって、いつも莫大なテラ銭があがる仕掛けになっている。これだと、けっきょく、チャンスは双方にほぼ平等にあることになる。これに反して、私が話している時代の警察は、『火消し壷』という名の特殊な賭博テーブルを何台か置くのを大目に見ていて、ババ札をつかませたり同種の札を集めたりして客をクサらせた。これが、ある期間、ラフィット、エス親子、ラロッシュの某の家で行なわれた。常連の客は、こうした日常のトリック合図が出ると、ぜったいに負けねばならなかった。私は、二回の勝負で百ルイばかり捲き上げられ、まったくザマはなかった。しかし、男爵夫人がくれた金は、私をダメにする宿命になっていたのだが、それは鉄火場ではなかった。運命の使者は、ときどき食べに行っていた定食屋で出会った、おっそろしく綺麗な女だった。ロジイヌは、そういう名だった、はじめは無関心の標本みたいだったのが、一カ月もすると、私は彼女の恋人ということになり、御馳走、見世物見物、乗物、服飾り、手袋、リボン、花など、なにもかも私がもつことになった。パリでは、すべての物が……払わない側の者にとってはタダになる。
浮気女
あいもかわらずロジイヌに熱を上げ、一刻も彼女から離れなかった。ある朝、いっしょに朝食をとっていて、彼女に心配事がある様子だったので、しつこく質問したが答えてくれない。だが、しまいには婦人服屋と家具屋に少々の借りがあって悩んでいるのだと打ち明けた。私は、喜んで役に立とうとしたが、滅相もないと断られて、その二人の債権者の場所を知ることができなかった。堅気の衆は、口先で上手を言うだけですますが、真に義侠心のある者、つまり私は、女中のジヴィヌが、その大事な住所を教えてくれるまでは一瞬も心が安まらなかった。
私は、マダム・ド・サンミセルと称してロジイヌが住んでいたヴィヴィアンヌ街からクレリ街の家具店まで走った。私が訪ねた目的を言うと、そういう場合はいつもそうだが、たちまち私にぺこぺこして計算書を渡した。それを見たら、なんと千二百フランにもなっていたので驚き桃の木。それでも、私はのめりこんでしまっていて、もう後へは退けなかった。私は支払った。婦人服店でも同じ光景と同じ結末で、約百フラン。そこで、これ以上の大様な貢ぎは控えたくなったが、最終的な言葉は口に出さなかった。しかし、この債権者に清算した日から数日後、二千フランの宝石を買いに連れて行かれ、そうした一連の行為は一向に減らなかった。私は、なんとなく私の金が出て行くのを見ていたが、金箱を確かめるのが怖くて一日また一日と延ばしていた。だが、ついに調べたところ、二カ月間に一万四千フランという金を、くだらないことに浪費していたのがわかり、私は大いに反省した。ロジイヌは、早くも私が金のことばかり考えているのに気付き、私の財布が軽くなっているのを察した。こういうことになると、女は、めったに狂わないカンを持っている。彼女は、私に冷たくなった本心はとくに表にあらわさなかったが、以前より遠慮がちになった。その点に驚きを示したら、つっけんどんな調子で答えた。
「個人的なことで機嫌がわるいのよ」
そこにワナがあって私を捲きこもうとしたのだが、『個人的なこと』に首を突っこもうとしたといって大いに叱られた。そこで、じっと我慢して元の澄ました顔に戻った。彼女は、さらに一層むすっとしただけだった。ふてくされた日が何日かすぎ、とうとう爆弾が破裂した。
まったく無意味な言い合いをしているうちに、彼女が一段と無遠慮な口調で、
「邪魔されながら愛する気にはなれないのよ。あたしのやり方にそぐわない人は、自分ん家《ち》にいたらいいんだわ」
こう言われると、私は弱くなり、そんなこと聞かせないでくれと頼みこみ、さらに新しい贈り物をして幾日かは彼女のやさしさを取り戻し、その優しさにまいって、ますます卑屈になる体たらく。すると、どこから見ても私の盲目的な惚れこみようがわかり、まもなくロジイヌは、総額二千フランの為替手形の決済を押しつけてきた。そうしてもらえれば身柄を拘束される刑罰を受けないですむというのだった。ロジイヌが投獄。それを考えるのは堪えられなかった。そこで、またも金を払ったのだったが、そのとき、たまたま一通の手紙が手に入って迷いの眼を開けてくれた。
その手紙は、ロジイヌの『親友』からのものだった。ヴェルサイユに引きこもっている興味ある人物で、元の場に戻してくれる「阿呆が干上がるのはいつ」かを問うてきていた。その面白い手紙は、ロジイヌの住居の門番の手にあったのを私が横取りしたものだった。私は裏切女の部屋へ上がった。留守だった。怒りと屈辱がごっちゃになって自分を抑えきれなかった。寝室に入った。瀬戸引きの丸テーブルと姿見の鏡を蹴飛ばしたら粉々にふっ飛んだ。すると、私から眼をはなさないでいた女中のジヴィヌが、私の足元に身を投げて、高いものにつく乱暴はよして下さいと止めた。私は、じっと彼女をながめ、ためらい、彼女に十分な道理があることを良識のかけらで理解した。矢継ぎ早に質問した。日頃、おとなしくていい子だと思っていた気の毒な娘が、女主人の行状を洗いざらい話してくれた。その話をとくにここで述べるのは、パリでは、毎日同じようなペテンが行なわれているので、時宜《じぎ》を得たものではないかと思うからである。
ロジイヌが私と出会ったときは、二カ月も『男なし』でいたときであった。私なら金を捲き上げられると見込み、あれこれの状況を利用する計画をたてた。私が驚いた手紙の情夫は、私の金を吸いつくすまでヴェルサイユへ行って暮らしていることを承知し、この情夫の名で為替手形を請求し、私が気前よく決済してやったのだった。婦人服店や家具商の借りも同じように仕組んだものだったのだ。
というわけで、自分の馬鹿さ加減に腹をたてながらも、私から巧く金を捲きあげた正直女が帰宅するのが一向に見えないのには驚きだった。ジヴィヌが言うには、たぶん私が手紙を横取りしたことを門番が知らせたので、そうそう早くは戻って来ないのではなかろうか、と。この推測は当たった。私から最後の羽根の一本までもむしり取ろうとしたのが邪魔が入り、万事おしまいだと知ったロジイヌは、ヴェルサイユ行きの馬車でフケていた。誰と落ち合うかは知れたことだった。彼女が家具付きアパートに残したボロ切れ同然の品は、家主に払う二カ月分の家賃には足りず、私が出て行こうとしたら、家主のやつが瀬戸引きテーブルと鏡の弁償を強引にさせたので、今更ながら最初の怒りを味わった次第。
なんともひどい打撃を受けて、私の財布は滅茶滅茶に傷めつけられ、とっくの昔にへとへとになっていた。千四百フラン! これが男爵夫人からもらったデュカ金貨の残り全部であった。私には命取りになりかけた首都が怖くなって、土地カンがあるリールへ戻ろうと決心した。せめてものこと、パリでは探しそこなった生活手段が見つかるかもしれない。
[#改ページ]
四 酒宴と入獄
謎の巡回医者
リールは、戦場でもあり国境の町でもあったので、私のような者には、駐留軍の中や、フランス・ベルギー両国を股にかけて、どちらにも本当の住居を持たない連中の中に、なんとか役にたつ知り合いがいそうだった。このことを、苦境を脱するために、ちょっぴりアテにしていたが、期待は裏切られなかった。私は第十三狙撃隊(第二分隊)にいたことがあるが、ここの第十狙撃隊に当時の知り合いだった大勢の士官がいた。とりわけヴィルジューという名の中尉と親しくなった。この男は、また後で登場してくるが〔第十一章では大尉になっている〕こういう人たちの連隊での名前は、当時の習慣だった戦時名〔敵に本名を知られないために偽名を使った〕しか知らなかったし、かれらのほうも、こんど私がルソーと名乗っても別に驚きもしなかった。かれらとカフェや剣術道場で日々をすごしたが、そんなことをやっていたんではまったく金にはならず、あい変わらず文無しのぎりぎりだった。そんなとき、規則ただしい生活ぶりから金利生活者《ランチエ》と呼ばれていたカフェの常連がいて、他の者にはひどくケチだったが、私には何度もおごってくれていた。彼は、私の境遇に興味をもって話しかけ、いっしょに旅をしないかと持ちかけてきた。
旅、いい話だ。でも、どんな身分で? もう道化者や猿や熊の世話をするような年ではない。まさか、そんな話を持ちかける気になる者もいまいが、とにかく事情を知っておくのがいい。私は、新しいパトロンに、彼について行って何をすればよいのかと控え目にたずねた。すると、濃い頬ひげと陽にやけた特徴のある顔の件《くだん》の男が言うには、
「わしは巡回医者なんだ。効能てきめんな処方で性病を扱っている。動物の治療も引き受ける。つい最近も、軍の獣医が見放した第十三狙撃隊の馬を何頭も治したばかりだ」
オヤ、やっぱりニセ医者だったのか……と心のうちでは思ったが、ひき退《さが》ることもなかった。次の日に発つことにし、朝の五時に開くパリ門で落ち合うことに決めた。
私は約束の待ち合わせを守った。例の男も、きちっとやって来て、便利屋に運ばせてきた私の行李を見ると、その必要はない、三日しか旅をしないつもりだし、歩いて行くんだからと言った。そう言われたので荷物を宿に送り返し、私たちは、かなり急ぎ足で歩きはじめた。彼は、昼までに五里行かねばならないと言い、じっさい、その時間に一軒だけポツンと離れている農家に着いた。家の者が両手をひろげて彼を迎え、カロンさんと呼んで挨拶した。クリスチャンと呼ばれるのは聞いていたが、そういう名だとは知らなかった。二、三の言葉を交わすと、その家の主人が部屋に戻り、六フラン銀貨が入った袋を二つか三つ持って現われてテーブルに並べた。それを手にした私の主人は、気取った仕草で一つ一つを念入りにあらため、百五十フランを別にすると、いろいろな硬貨で同じ金額を農夫に支払い、おまけとして六クラウン〔当時の混乱期には諸国の貨幣が通行しており、クラウン貨にはイギリス系と北欧系があり詳細不明〕をのせた。私には、それが何の取引なのかさっぱりわからなかった。それに、二人のやりとりは、私が生半可にしかわからないフラマン方言で行なわれていた。農家を出ると、クリスチャンが、そのうちまたここへ来ると言い、分け前だと言って三クラウンを私にくれたときには本当にびっくりした。私は、分け前をもらうワケがわからなかったので、そのことをたずねたら、彼は謎めいた調子で答えた。
「わしの秘密さ。そのうち教えてやるよ、お前の仕事ぶりが気に入ったらな」
そこで彼に言ってやった、私は何も知らないんだから、秘密をもらす心配はないはずだ、知っているのは銀貨《エキュ》を他の貨幣と取り換えたことだけだ、と。すると、彼は、黙っていなくちゃならんのは正にそこのところなんだ、競争者が出てこないようにするにはな、と言った。私は言われるままに受けとめ、何がどうなっているのかわからないままに金を受け取った。
四日のあいだ、私たちはいくつかの農家を同じように巡回して、毎晩、私は二、三クラウンを受け取った。クリスチャンは、どこでもカロンと呼ばれていて、ブラバンのその辺りでは誰もがよく知っていたが、もっぱら医者として顔が売れていた。というのは、あちこちで両替作業は続けたが、かならず人や動物の病気のことから話をはじめたからだ。その上、彼には、家畜にかけられた呪いを解くという評判があることも、うすうすわかってきた。ヴェルヴィク村に入ろうとしたときに私に持ちかけた話は、彼の魔術の種明かしだったにちがいない。ふいに立ち停まって、
「お前をアテにしてもいいな?」
「大丈夫……でも、やっぱり、何のことか知らなくっちゃ?……」
「よく聞け、それから見るんだ……」
と言って、肩にかけていた一種の革袋から、特効薬でも入っているみたいな薬屋が作るような四角な包みを四つ取りだした。
「あの四軒の農家が見えるな、お互い、やや離れている。誰にも見られないように用心して裏から入って行くんだ……牛小舎や馬小舎へ行って、この包みを一個ずつ中の粉を飼葉桶に入れてこい……ぜったい見られないようにするんだぞ……後は、わしが引き受ける」
私は反対した。柵をよじ登っているところを見つかって捕まり、厄介な質問を浴びせられるかもしれないではないか。眼の前にクラウン銀貨がチラついたが、きっぱりと断った。いくらうまいことをクリスチャンが言っても、私の決心は揺るがなかった。彼の本当の正体を明かし、なんとも怪しげな両替の謎を教えなければ、今すぐアバヨだとまで言った。こう言われて、彼は困ったようだった。そして、やがてわかるが、私に半分だけ安心させて、その場を切り抜けようと考えた。
彼は、私の問いにこう答えた。
「わしの国はのう……わしに国なんかないんだ……母親は、去年、テムスヴァル〔現在のルーマニアにあるチミショアラの旧称〕で絞首刑になったが、ハンガリーとバナト地方〔現在のルーマニアとユーゴスラヴィアにまたがるドナウ河中流の地域〕の国境あたりを流れ歩っていたボヘミヤン集団の仲間だった。わしは、カルパチアの山|間《あい》の村で生まれた……わしは今、ボヘミヤンと言ったが、お前にわかるように言ったまでで、これは、わしらの呼び名じゃない。わしらのあいだではロマニシェルと名乗っている。こいつは隠語で、誰にも教えちゃならない。ふつう、わしらは独り旅は禁じられている。だから、十五人から二十人のグループしか見られないんだ。わしらは、ながいあいだ呪いや崇《たた》りでフランス人を食いものにしてきたが、その商売もきょう日じゃあがったりだ。百姓が利口になりすぎた。わしらは、またフランドル地方に戻った。ここは、あんまり開化しとらんからな。それに、貨幣がごちゃごちゃ入り交じっていて、わしらの稼業にはもってこいなんだ……わしは、三カ月前に特別な仕事をしにブリュッセルに派遣された。でも、その仕事は全部すんだ。三日のうちにマリーヌ〔ブリュッセルの北約二〇キロにある大きな町〕の定期市にいる仲間と合流する……いっしょに来たければ来てもいいがな?……お前は役に立つ……だが、もっと子供っぽいといいんだが!」
フランドルの定期市
どう決めたらよいかわからないのと、この冒険を最後までやり抜きたい好奇心との半々の気持で、私が何の役に立つものやらわからないまま、いちおうクリスチャンについて行くことにした。そして、三日目にマリーヌに着いたが、クリスチャンのやつ、ブリュッセルに戻ると言いだし、町を素通りしてルーヴァン〔ブリュッセルの東約二〇キロにある〕の城外で立ち停まった。みすぼらしい家の前だった。黒ずんだ壁には深いひびが縦横に走り、こわれた窓ガラスの代わりにワラ束がたくさんつっこんであった。真夜中だったが、月明かりで、そこらを見とどける時間のゆとりがあった。というのは、私たちは三十分ちかくも待たされて、これまでに見た一番おそろしげな婆さんが戸を開けてくれたからだ。
私たちは広い部屋に通された。そこには男女三十人ばかりが、陰気で淫《みだ》らっぽく、ごっちゃになって入り乱れて煙草を吸い酒を飲んでいた。男たちは、赤い刺繍をした青い上っ張りの下にアンダルシアの騾馬《らば》曳きが着ているような銀ボタンが付いた紺のビロードの上着を着ていた。女の服装は、あざやかな色とりどりのものだった。みんな恐ろしげな顔付きをしていたが、それでも祝宴の最中だったのだ。鈴が付いた手太鼓の単調な音が、テーブルの足につながれた二匹の犬の吠え声と混じりあい、葬式のお題目かと思うような奇妙な歌声の伴奏をしていた。煙草と薪の煙が場所いっぱいに立ちこめていて、部屋の中央で、緋色のターバンを巻いた女が、ものすごく煽情的な身ぶりで野性的な踊りをしているのが、やっと見えるといった有様だった。
私たちの姿を見ると、ぱったりと酒盛り騒ぎが熄《や》んだ。男たちがやって来てクリスチャンの手をとり、女たちは抱きついてキスをした。次に、みんなの視線が私に集中した。かなり私を邪魔者と見ている気配だった。これまでジプシーについて色々と聞いていた話では、まったく油断のならない連中とのことだった。こちらの疑心暗鬼の影を嗅ぎとると、おっぽりだすかもしれない。そうなったら、この隠れ家に私が来たことは誰も知らないのだから、私はどうなるかわかったもんではない。こうした不安がだんだん強まっているのをクリスチャンが気付き、私を安心させようとして、私たちは『公爵夫人』(義理のある仲間一党の母親という意味の名称)の家にいるんだから絶対に安全なんだと言った。そして、けっきょく私は、腹がへっていたので酒盛りに加わってしまった。
ひっきりなしにジンの壷が一杯にされては空けられているうちに、私は寝床へ行きたくなった。クリスチャンにそう言ったら、隣りの部屋に連れて行ってくれた。そこでは、もう、何人かのジプシーが新しい藁の上に寝ていた。そんなところに寝るのは、べつに困ったことではなかったが、どうしても親方に訊いてみずにはいられなかった。いつも上等な宿に泊まっているのに、なんだってこんな粗末な寝床にするのかと言うと、彼が答えるには、ロマニシェルの家がある町では、必ずその家に泊まる。さもないと、裏切者だと思われて部族の掟によって仕置きを受けるのだ、と。また、女や子供も、そうした軍隊式の寝床を分けあい、すぐに眠りこむところから察して、それに馴れているのがわかった。
夜が明けるとすぐ、みんな起き上がって普段の服を着た。話している言葉や漆黒の髪、てらてら光る赤銅色の肌、こういうものがなければ、これが昨晩と同じ人たちだとするのは難しいくらいだった。男は、オランダの裕福な馬商人のように装い、ポワシイ〔パリ西北約一〇キロにある町〕の市《いち》の常連のように皮袋帯を締めていた。女は、身体じゅうに金銀の飾りを付けてゼランド〔オランダ南端のベルギーと接した地方〕地方の百姓女の服装になっていた。ゆうべはボロをまとっていた子供たちも、小ぎれいな服を着て、あたらしい別の顔付きをしていた。まもなく、一同は家を出て、それぞれ違う道に散っていった。市《いち》がある場所に一緒に着かないようにするためだった。近郷の人々の群が繰りだし始めていた。クリスチャンは、私がついて行く支度をしているのを見て、今日は一日じゅう用はない、好きなところへ行ってもいいが、夕方までには『公爵夫人』の家に帰ってきて彼と会うようにと言った。それから、私に何クラウンかを握らせて姿を消した。
昨夜の話では、私はまだ、仲間の連中と一緒に泊まらなくちゃならんというほどのこともないんだ、と言われていたので、いちおう旅籠《はたご》を予約しておいたが、さァどう暇をつぶしていいかわからず、マリーヌに引き返して定期市へ行ってみることにした。四回も回り歩ったかと思ったときに、徴兵大隊の昔の士官だった男とばったり出会った。マルガレという名で、ブリュッセルのカフェ・トルコのイカサマ賭場で知り合った男だ。まず挨拶をかわした後で、マリーヌで何をやってるんだと尋ねた。私が作り話を聞かせると、彼のほうも、あれこれの訳で旅をしてるんだといい加減な話をした。二人とも相手をだましたと思いこんで満足した。二人で冷たいものを飲んでから、また市に戻った。人だかりのしているところには、かならず『公爵夫人』宅の泊まり客がいたが、マリーヌには知り合いはいないと相棒に言っていたので、ジプシー連中に気づかれないように顔をそむけていた。そういう知り合いがあるのを打ち明けるつもりはなかったのだったが、相棒は目ざとい男で、私が顔をそらすのを見のがさなかった。
「オヤ、いやにしげしげと貴様を見てるのが大勢いるぞ……ひょっとして、知ってる人じゃないか?……」
まじめに私をのぞきこんで言うので、誰だか知るはずがないじゃないかと振り向きもしないで答えると、
「だったら、何者か教えてやろう……貴様が知らんと言うんだとすれば……あいつらは泥棒だ!」
「泥棒だと……なんでわかる?……」
「おれについて来な、じき自分の眼でわかるから。ちょっと行けば、やつらが仕事をするところがバッチリ拝めるよ……さァ、一見に如かずだ!」
動物の見世物小舎の前の人垣に眼をやっていたら、じっさいにニセ馬商人の一人が、太った牧場主から財布を抜きとるのがはっきり見えた。すぐ後で、スラれた男がポケットというポケットをひっくり返して財布をさがすのが見られた。次に、ジプシーは、宝石屋に入って行った。店の中には、前もって密輸稼業の仲間のゼランド女が二人いた。それを見て相棒が断言して言うには、あいつは自分の前に並べさせた宝石のどれかをクスねないうちは出て来ないや、と。われわれは観察するのをやめて飯を食いに行った。食事が終わるころ、相棒が喋りたい気分になっているのを見てとって、さきほど知らせてくれた連中は本当は何者なのか教えてくれとせっついた。自分は知っているように見えたかも知れないが、ほんの生半可にしか知らないんだからと口説いた。すると、彼は、とうとう話す気になって、次のように説明してくれた。
「二、三年前のことだ、イカサマさいころを使っていた賭場にかかわってガンの監獄《ラスフュイス》に六カ月ぶちこまれていたが、さっきマリーヌで会った一味のうちの二人と知り合いになった。おなじ獄房だった。おれは根っからの泥棒で通っていたから、あいつらも包み隠さず自分らの手口を語り、やつらの変わった生きざまを全部くわしく話してくれた。あの連中はモンダヴィア〔ルーマニアの東部、ソ連領のベッサラビアと接している〕の平原からやって来たんだ。そこでは十五万人ほどの同族が、ポーランドのユダヤ人みたいに、死刑執行人の他はどんな公職にもつけずに細々と暮らしている。かれらの呼び名は行く先々の国によってちがう。ドイツではチゴイネル、イギリスではジプシー、イタリアではジンガリ、スペインではヒタノス、フランスとベルギーではボエミヤンだ。かれらは、最も卑しい最も危険な仕事をしながらヨーロッパじゅうを歩きまわっている。犬の毛を刈り、こわれた瀬戸物を接ぎあわせ、銅に錫《すず》メッキをする。居酒屋の戸口でいやらしい音楽をやらかし、兎の毛皮の思惑買いや、普通の流通経路を外れた外国の硬貨を両替したりする。
かれらは、家畜の病気を治す特効薬も売る。売行きをよくするために、前もって一味の者を農場に送りこむ。そいつは、牛や馬を買いたいという口実で家畜小舎に入りこみ、動物が病気になる薬を飼葉桶に投げこむ。そうやっておいてから薬売りが現われる。もちろん、大歓迎だ。病気の原因を知っているんだから、やすやすと元に戻してやる。となると、百姓は、お礼のしようもないほど有難がる。それでもう終わったわけじゃない。農家を去る前に主人に尋ねる。お宅では、これこれの年の、しかじかの貨幣を持っていませんか、あったらプレミアムを付けて買い取りますよ、と約束する。農家では、現金をかせぐ機会なんて減多にないから、その話に興味をもって、ありったけの種類の銭コをひろげて見せる。その際、いつも一握りをクスねる。信じられないのは、おなじ家で何回も同じことを繰り返してもバレないことだ。
おしまいに、かれらの仕事の中でも一番ヤバいのがある。かれらは、いろいろな状況や土地カンを利用して、現金を持っている人里はなれた農場を『あたため強盗』〔侵入した家で主人その他の者の足を煖炉や焼鉄で焼いて財宝の所在を白状させる強盗団。足焼き強盗ともいう〕に教え、そこに入りこむ方法を手引きしてやる。次は、言うまでもなく、その分け前にあずかるという寸法だ」
マルガレは、さらに詳しくジプシーについて教えてくれた。その話を聞いて、私は、今すぐそんな危険な一味とは別れようと決心した。
彼は、われわれの食事テーブルの横の窓から時おり外の通りを眺めながら話を続けていたが、ふいに大声をあげた。
「そうだ、あいつだ。ガンのラスフュイス監獄で一緒だった男だ!……」
私も見た……クリスチャンだった。大急ぎで歩き、ひどく忙しそうだった。私は、思わず叫び声をあげた。マルガレは、私がジプシーの内幕話を聞いて動揺していたのにつけこみ、私がジプシーと関わった経緯《いきさつ》を苦もなく聞きだした。私が一味をすっぽかす決心をしているのを知ると、クルトレ〔リールの北三十キロにあるベルギー側の町〕まで一緒に行かないかと誘った。そこでは、賭場がいくつか開かれるはずだと言った。私は、『公爵夫人』のところから持ってきたわずかばかりの荷物を宿屋から引きとって新しい仲間と出発した。しかし、クルトレでは、マルガレが会うつもりでいたカモ連中が見つからなかった。そして、連中の金をいただく代わりに、こっちの金がオケラになってしまった。そこで、狙った連中が現われるのを待つのはあきらめて、われわれはリールに戻った。私は、まだ百フランばかり持っていた。それを賭けて、マルガレが丁半をやり、彼の残りの金までスッてしまった。相手とグルになって私を裸にしたことが後になってわかった。
にっちもさっちもいかなくなって、知り合いのあいだを駈けずりまわった。何人かの剣術師範に苦しい立場を話したところ、賭け試合を手配してくれて、おかげで百エキュほど手に入った。この金で、当座はしのげるようになり、またもや悪所や踊り場などへ通い始めた。そして、当時の境遇や続いて起こった一連の事情によって、私の一生の運命を全面的に変えた因縁が生じたのはまさにこの時であった。この重かつ大な自伝の中のエピソードの始まりは、まったく単純なものだった。『お山の大将』という店で一人の色っぽい女と出会い、まもなくその女といい仲になった。フランシーヌというのが女の名だったが、いちおう私にぞっこんなように見え、その都度、私に貞節を誓った。ところが、こっそりと何度も工兵隊の大尉をもてなして平気な顔をしていた。
ある日、リウール広場の食堂で、二人が差し向かいで夕食をとっていた現場をとっつかまえた。すっかり頭にきて、びっくり仰天の大尉にでっかい拳骨をお見舞いしてやった。フランシーヌは髪をふり乱して逃げだしたが、相手はその場に残った。私は暴力行為で訴えられ、逮捕されて『小別荘《プチトテル》』監獄に連行された。事件が予審に付されているあいだに、なじみの女たちが、差し入れをしなくちゃと、どっと面会にやってきた。それを聞いたフランシーヌが妬《や》いて、いまいましい大尉をポイして、彼と同時に出していた最初の告訴を取り下げ、ヨリをもどしたいと頼んできた。私は弱気になって承知した。ところが、この事を裁判官たちが知る一方で、私とフランシーヌがグルになってハメたのだと大尉が上申して、事を悪化させた。判決の日がきて、私は三カ月の禁錮を宣告された。
私は、『小別荘』から『聖ペテロ塔』監獄に移されて、『牛の眼』と呼ばれていた特別房に入れられた。一日のうち一定の時間はフランシーヌと一緒にいて、残りの時間は他の囚人とすごした。その中に二人の元主計曹長、グルアルとエルボーがいた。エルボーはリールの靴屋の息子。二人とも文書偽造で有罪を宣告されていた。それにボワテルという農夫がいて、穀物窃盗で六年の禁錮重労働を言い渡されていた。この男は、大家族の当主で、逮捕されて小さな開墾地から引き離されたのをひっきりなしに嘆いていた。その土地を価値あるものにできるのは彼しかいないんだと言っていた。彼が犯したのは軽罪だったが、彼にというより子供たちに同情して、多くの村人たちが減刑の嘆願書を出していたが一向に効果がなかった。不幸な男は絶望し、自由が買えるものなら、これこれの額の金をだすとよく言っていた。グルアルとエルボーは、徒刑囚として送り出されるまでのあいだ『聖ペテロ塔』にいたのだが、二人で陳情書を作ってボワテルの特赦を取り付けてやろうと考えた。というより、かれらは、かねてから、私に不幸をもたらすことになるある計画をたくらんでいたのだった。
まもなくグルアルは、こんなうるさい部屋では落ち着いて仕事ができない、一日じゅう十八人から二十人の囚人が、歌ったり喋ったり喧嘩をしたりしている同じ部屋じゃたまらんと文句を言いだした。そして、かねて何かと私に親切にしてくれたボワテルに、陳情書を作る連中に私の房を貸してやってくれないかと頼まれて、気はすすまなかったが、日に四時間だけ使わせてやることにした。すると、次の日から私の房に鎮座して、ひそかに看守までが何度も出入りする有様。この出入りや謎めいた気配は、牢獄で企まれる陰謀に詳しい者の疑いを呼びさましたが、そうした陰謀に疎《うと》かった私は、訪ねてくれた友人たちと食堂で気晴らしをすることにかまけていて、『牛の眼』でかれらがやっていること、やっていないことについては、ほとんど関心を持たなかった。
八日目に、かれらは私の好意に感謝し、陳情書ができあがったことを告げた。その際、書類をパリまで送らなくても、リール駐在の人民の代表者の強力な保護のアテがあるから特赦が得られることを確信していると言った。この話は、あまりすっきりしていないようには思ったが、大して注意も払わなかった。私にはまったく関係のないことだし、べつに気にする理由もなかったからだ。ところが、私の無関心をよそに事態は展開した。陳情書の完成から二日たったばかりなのに、ボワテルの二人の兄弟が国許から急いでやって来て、看守のテーブルでボワテルも一緒に食事をしていた。食事が終わるころ伝令がやって来て看守に包みを渡すと、看守が開いて叫んだ。
「いい報せだぞ、ほんとに!……ボワテルの釈放命令だ」
この言葉を聞いて、一同わっと立ち上がり、抱きあい、命令書を点検し、お祝いを言いあった。〈前日に荷物を送り出していた〉ボワテルは、囚人仲間の誰にも別れを告げないで、すぐに監獄を出て行った。
翌日、朝の十時ごろ、刑務監察官が監獄を視察に来た。看守がボワテルの釈放命令書を見せると、一目で命令書はニセ物だと言い、当局に問い合わせるまでこの囚人を釈放してはならんと命じた。すると、看守が、ボワテルは前の日に出獄しましたと言うと、監察官は、彼の知らない名で署名された命令書にだまされたと今更のように驚いて、看守を禁足にした。それから、彼は、命令書を持って出かけたが、まもなく確証をつかんだ。署名がニセだということの他に、この種の書類にあまり馴染みのない者にもわかるような脱落や書式の誤りがあった。
軽罪裁判所
ニセの命令書で、看守がボワテルを釈放して、監察官から禁足をくらったことは、すぐに監獄中に知れ渡った。そうなると、私は、真相が気になり始めた。なんとなく事件に巻き込まれるような気がしたので、グルアルとエルボーに、なにもかも白状しろと迫った。すると、かれらは、陳情書を書く以外のことはしていないと神かけて誓い、こんなに早く巧くいったのには自分たちも驚いているのだと言った。私は一言も信じなかった。しかし、かれらが申し立てていることの反証もないので、成り行きを待つより他なかった。
翌日、私は裁判所の書記室に呼び出された。予審判事の質問に答えて、私はニセ命令書の作成については何も知らないし、弁明の陳情書を作る際、監獄の中で静かなのは私のところだけだというので、ただ自分の房を貸しただけだと答えた。そして、さらに付け加えて、その間の詳しい事情は看守に確かめて下さい、彼はボワテルにたいへん興味をもっていたようで、二人が陳情書の仕事をしていた間じゅう、あの房にしげしげと出入りしていましたからと申し立てた。グルアルとエルボーは、同じような尋問を受けてから独房に入れられた。私は、そのまま自分の部屋にいることになった。部屋に入るとすぐに、ボワテルと同室だった男が会いに来て、まだ疑っていただけだった陰謀の一切を話してくれた。
グルアルは、自由になれるのなら喜んで百エキュ払うと、しょっちゅうボワテルが繰り返し言っているのを聞いて、彼を出獄させる方法をエルボーと相談した。その結果、ニセの命令書を作るのが最も簡単な方法だと考えた。さて、誰もが察するように、この話がボワテルに打ち明けられ、二人は、買収しなきゃならない人間が大勢いるから四百フランよこせとだけ言った。という次第で、どうしても他の囚人に気どられずにニセの命令書を作らねばならなかったので、私の部屋を貸してくれと頼んだ。看守も、私の房に頻繁に出入りしていたこととボワテルの出所前後の状況から考えて一枚かんでいた。命令書を運んで来たのは、エルボーのダチ公でストフレという男だ。また、偽造犯たちは、ボワテルに四百フラン出す決心をさせるために、部屋を貸した以外には何の役にも立っていない私にも分け前をやらねばと言ってボワテルを説得したらしい、と。
陰謀の全容を知らされた私は、とりあえず右の事実を教えてくれた男に証言してくれと頼んだ。しかし彼は、誓いを立てて打ち明けられた秘密を司法当局にバラすわけにはいかない、また、サシた(密告した)というので、遅かれ早かれ囚人仲間に袋叩きにされる、その心配はしたくねェ、と言って、どうしても承知しなかった。なァに、なんの心配もいらねェよ、と請合ってくれて、予審判事にバラすのを断念させた。しかし、やがてボワテルが国元で捕まり、リールに連れ戻されて独房に入れられ、脱走の共犯者としてグルアル、エルボー、ストフレ、それにヴィドックの名を挙げた。私たちは、彼の自白にもとづいて尋問された。私は、ボワテルの同室の男から聞いたことをすべて供述して苦境を脱することができたが、牢内の仁義を堅くまもって最初の供述を変えなかった。なんの咎《とが》も受けるはずはないと聞いたのを信じきっていたので、三カ月の刑期を終え、さァ出られるぞと思ったら、〈公文書偽造ノ共犯〉で拘置、と囚人台帳に記されていたのを見てびっくり仰天。
[#改ページ]
五 徒刑囚の泣きっ面
あたため強盗
そのとき、これは、まずいことになりかねないぞと疑心暗鬼になりはじめた。だが、何の証拠も持たずに前言を撤回するのは、黙っているよりヤバくなる。それに、前言を断ち切ろうと考えても、もう遅すぎた。こうして、あれこれ、ひどく悩んで病気になってしまい、その間、フランシーヌが精いっぱい看病してくれた。そして、からだが治ったとたんに、それ以上あいまいな立場にいるのが我慢できなくなって脱獄を決意した。かなり難しそうに思えたが、正門から逃げだすことにした。他の方法をとらずに、その途をえらんだのは、とくにいくつか気づいたことがあったからだ。
『聖ペテロ塔』監獄の門番は、終身刑を宣告されてブレストの刑場にいたことのある徒刑囚だった。一七九一年の法令で刑の見直しが行なわれた際、禁錮重労働六年に減刑されてリールの監獄に移されて門衛の助手をすることになった。ここの門衛が、徒刑場で四年も暮らしてきた男なら、脱獄の手口を一から十まで知っているから、門番の役目には抜かるまい、安心して任せられると考えたのだった。しかし、私は、その抜かりのない利口馬鹿なところを衝いて計画を成功させようと考えた。彼は、その眼力に自信満々であるだけに、それだけ欺しやすいように思えた。私が考えていたのは、一言でいえば、上級士官の制服で彼の前を通り抜けることだった。『聖ペテロ塔』は衛戍《えいじゅ》刑務所も兼ねていたので、週に二度の士官の見まわりが来ることになっていた。
毎日のように面会に来ていたフランシーヌが、必要な服を揃えてマフに隠して持って来てくれた。すぐに着てみた。ぴったり似合った。この制服姿を見た囚人たちが、これなら欺《だま》されること請合いだと保証してくれた。ほんとのところ、私は、化けるつもりの士官と同じ体格だったし、皺《しわ》を描いたので二十五歳も老けて見えた。さて、幾日かたって、当の士官が定期巡回にやって来た。私の仲間の一人が食べ物を検査してくれと言って彼を引きとめている間に、急いで変装して門に現われた。門番が帽子を正して会釈し、扉を開けてくれて、私は、あっという間に外に出た。そして、うまく脱獄したら行くことになっていたフランシーヌの友だちの家まで駈けたが、まもなく彼女もやって来た。
そこにじっと隠れていれば、けっこう安全だったのだが、そうやって奴隷状態になっているのは『聖ペテロ塔』にいるのと大して変わりがない。それまで三カ月間も四つの壁に囲まれっぱなしで、ながいあいだの元気が溜まってハケ口がなかった。外へ出たくてたまらんと嘆いた。どうも、私には、どんなバカげた気まぐれの場合にも、鉄の意志のような呆れたオマケがついていて、むりにも出かけてしまった。最初の遠足は上々の首尾だった。次の日、エクレモワズ街を横切っていたら、拘留中の私を見たことのあるルイというポリ公とばったり出くわし、釈放されたのかと尋ねられた。かなりのワルで通っていたやつだった。ちょいと仕草すれば、二十人くらいは呼び集められよう……私は言った、おとなしくついて行きますから、どうかオピタル街にいる情婦《すけ》にさよならを言わせて下さいな。やつが承知し、じっさいにフランシーヌと会ったが、そんな男と一緒なのを見てひどく驚いた。私は彼女に言った。牢破りが判事の心証を悪くするかもしれないと考え直して、『聖ペテロ塔』に戻って裁判の結果を待つことにした、と。
はじめ、フランシーヌは、四日ばかりで牢に戻るのになぜ三百フランも使わせたか解《げ》せなかったらしかったが、合図をして本音をわからせ、ルイと私がラムを一杯やっているあいだに、ポケットに灰を入れろと伝えた。それから私たちは監獄に向かい、人気のない通りに誘って行って、灰の一握りで目つぶしをくらわせ、一目散に隠れ家に戻った。
すぐにルイが報告し、憲兵と巡査たちの追っ手がさしむけられた。その中にジャカールという警視がいて、私が町を出ていないかぎり必ず捕まえてみせると豪語していた。私は、そんなことにはお構いなしに、すこしは足取りを慎重にするどころか、図に乗ってバカげた空威張りをしていた。まるで、自分の賞金首で得をしている気分になっていた。だが、私は必死になって追いかけられていたのだった。どんなことがあったかは今にわかる。
ある日、ジャカールは、私がノートルダム街のバクチ場で夕食するはずだと聞きこんで、さっそく四人の部下を連れてやって来た。部下を一階に待機させて、私が二人の女と食事をしようとしていた部屋に踏みこんで来た。四人会食の一員になるはずの、ほやほやの下士官どのはまだ来ていなかった。都合がよいことに、私は警視の顔を知っていたが、彼は私を知らなかった。それに、私の変装が人相書とはまったく違ったものにしていた。私は、ぜんぜん慌てずに警視のそばへ行き、ごく自然な口調で隣りの小部屋に通した。その部屋のガラス戸越しに会食の部屋が見える。私は言った。
「ヴィドックを追ってるんでしょう……十分待てば会わせてあげますよ……ほら、あいつの分の支度もしてあります。じきに来ますよ……あいつが入ってきたら合図しますが、あなた一人で捕まりますかな。武器を持ってるし、抵抗する気でいますからね」
「やつが逃げたら、階段の上に部下がおる……」
「あんなとこはマズい。もしヴィドックが気づいたら、待伏せを警戒して、鳥はサヨナラしますよ」
私は、大いに熱意をこめて言ってやった。
「だったら、どこに待機させたらいい?」
「ああ、そうだ。この部屋がいい……いいですか、音をたてちゃだめですよ、さもないと万事オジャンです……あいつをブチこんでもらえれば御《おん》の字です」
という次第で、御覧のとおり、頑丈なドアには二重に鍵がかけられ、わが警視殿は部下と一緒に小部屋に閉じこめられた。さて、逃げる時間はたっぷりある。私は、囚われた連中に呼びかけた。
「ヴィドックを捜してたんでしたね……ああそう、そんなら、あんたがたを籠の鳥にしたのがヴィドックなんです……アバヨ!」
助けてくれっと叫んで、縁起でもない部屋から出ようとムキになっている連中を置きっぱなしにして、得々としてさようならした。
おなじようにして、まんまとトンズラしたことが二回あったが、とうとう捕まって『聖ペテロ塔』に連れ戻された。こんどはさらに用心して、脱獄を二回やってみたというカランドランと一緒に懲罰房に入れられた。この男は、最初の入獄のときに知っていたやつで、さっそく私に、新しい牢破りの計画があることを教えてくれた。徒刑囚たちがいる房の壁に穴を開けて逃げだせることになっているという。徒刑囚たちとは行き来ができるようになっていた。再入獄から三日目の晩、じっさいにオサラバさせてくれることになった。最初に八人の囚人が通り抜けたが、幸い、ほんの近くにいた歩哨に気づかれずにすんだ。
あと七人残っていた。そういう時のしきたりで、短い藁しべを引いて、七人のうち誰が先頭になるかを決めた。私はツイていた。穴がたいへん狭かったので、通り抜けやすいようにと服を脱いだ。だが、身体がつかえてしまって、いやもう、みんな、がっかり。二進《にっち》も三進《さっち》もいかなくなった。仲間たちが力いっぱい引っぱり出そうとしたが、どうにもならない。万力に挾まれているようで、からだの痛みは増すばかり。もう仲間うちの助けはダメだと思って、歩哨に助けを求めた。歩哨は、不意打ちを警戒しながら近寄ってきて、私の胸に銃剣を突きつけて動きを封じた。彼の叫びで、監視所の連中は武器をとり、門番が松明を持って駈けつけてきた。けっきょく、私は引っぱり出されたが、穴の中に、どっさり肉の切れ端を残してきた。傷だらけの私は、即座に『小別荘』に送られ、手|枷《かせ》足枷を付けられて独房にたたきこまれた。
十日の後、頼みます拝みますをかさね、もう脱獄は、すっぱりやめましたと約束して独房から出され、他の囚人たちと一緒になった。それまでに付き含ってきた人間は、非の打ちどころだらけの連中ばかりだった。たとえば、ペテン師、盗っ人、ニセ札作り。だが、今度のところでは、根っからの兇悪犯たちと雑居だった。その中に同郷の男がいた。名前はデフォスー、頭が切れ、めっぽう腕っぷしが強いやつだった。十八歳で懲役刑に処せられ、徒刑場から三度も脱走したが、その都度、元の鎖を付けて舞い戻る羽目になったという。囚人たちに手柄話をし、
「いずれは俺の肉もギロチンで挽き肉にされちまうさ」
などと冷ややかに言うのを聞かされた。はじめは、その男には内心ぞっとさせられたが、彼がやってきた風変わりな稼業のことを訊いてみたくてたまらず、そんなことからとくに彼と関わるようになった。というのも、私は、いつも脱獄の方法を探していたからだった。おなじ理由から、『あたため強盗団』の一味として捕まっていた大勢の男たちとも関わりを持った。悪名たかいサランビエに率いられ、四、五十人で近郷近在を荒らしまわっていた連中である。知り合いになったのは、ナントっ児ことショピーヌ、(ドーエの)ルイ、リール野郎ことデュアメール、プロヴァンス野郎ことオーギュスト・ポワサール、青二才カロン、せむしカロン、それにブリュッセル男の『肝っ玉』。このアダ名がついたのは、一件書類の中でも滅多に見られないような度胸の一幕をやってのけたからだ。
六人の仲間と農場に押し入ろうとした時、閂《かんぬき》の栓を外そうとして鎧戸にあった隙間に左手を突っこんだ。だが、手を引こうとしたら、手首に輪結びが懸っているのを感じた……物音で眼をさました農家の者がワナを仕掛けたのだった。ところが、農家側は、うまく仕掛けたものの、外へ出て悪名とどろく盗賊団と対決するだけの勇気がなく、どうしても外へ出られない。強盗団のほうは、仕事が手間どっているうちに夜が明けたら見つかってしまう……呆然として、ブリュッセル男は仲間たちを見た。みんなが、もじもじしているのがわかった。さては、俺が捕まって口を割るのを恐れて、俺の頭に鉛玉をぶちこもうとしているなとピーンときた……右手で、いつも持ち歩いている両刃の短刀を鞘《さや》から抜くと、すぽっと左の手首を関節から切り落とし、痛くて立ちどまることもせずに仲間と一緒に逃げた。この凄まじい一幕は、いろんな地方が舞台になっているが、本当はリールあたりで起こったことだ。ノール県では、よく知られている話で、当の主人公の片腕《マンショ》男の処刑を見たのを覚えている人が今も大勢いるはずだ。
同郷のデフォスーという実力者の口利きがあったので、この強盗仲間に両手をひろげて迎えられた。かれらは、朝から晩まで新しい脱獄方法のことばかり話していた。そういう環境で目立つのは、他の多くの監獄でも同じだが、囚人たちの自由への渇望が一つの固定観念になっていて、まったく平静な精神状態で物事を云々する人間には、とても考えられないような策謀を思いつくのだった。自由!……一切が、この考えに結びつく。いかにも長い毎日毎日を何もしないで生きのびて、まったくの闇の中ですごさねばならない冬の夜など、いらいらと悩まされながら、自由が囚人たちを駈りたてる。どんな監獄でもいいから入ってみるといい、ワァーという歓声が聞こえる。遊び場へでも来たのかと思う……近づいてみる……苦笑いの口、だが眼は笑っていない。一点を見すえ、血走っている。かれらの、この型にはまった陽気さは、ジャッカルが柵を破ろうとして檻の中で体当たりしているのと同じで、めちゃくちゃに跳ねまわっているだけの擬態である。
看守たちは、相手がどんな人間なのか百も承知していたから、厳しく監視していて、こちらの計画は全部パアになった。しかし、ついに、成功確実な唯一のチャンスがやって来た。私は、抜け目のない仲間たちが同じことを考えつく前にチャンスをつかんだ。われわれ約十八人が尋問に連れだされて、予審判事の控え室に入れられた。整列した兵隊と二人の憲兵が警備についていた。憲兵の一人が、判事室に入るのに帽子とマントを脱いで私の近くに置いた。まもなく、もう一人も、呼び鈴を叩かれ、続いて入って行った。すぐに私は帽子をかぶりマントにくるまって、囚人を用便に連れだすときのように一人の囚人の腕をかかえてドアのところへ行った。すると、警備の伍長がドアを開けてくれたので、なんなく外へ出た。だが、金も身分証もなくて、どうなるか? 連れだした仲間は田舎へ逃げ、私は、またパクられる危険を承知で、フランシーヌのところへ立ち戻った。彼女は、私を見て嬉しがり、いっしょにベルギーへ逃げるために家財道具を売ることにした。その決心を実行に移し、いざ出発しようというときに、思いがけない出来事が起きて、万事がフイになってしまった。すべてこれ、私の呆れかえった不行跡のせいであった。
出発の前の日、ブリュッセルの女で、エリザというブルネットに出会った。以前、割りない仲になった女だ。彼女は、私の首にかじりつくみたいにして食事に引っぱって行き、弱気の私に勝ち誇って次の朝まで放してくれなかった。さて、朝帰りをすると、心配して町じゅうを探しまわっていたフランシーヌに、実は警察に追われて、ある家にとびこみ、夜明けまで出るに出られなかったんだと思いこませた。彼女は、初めは信じたが、ひょんなことから、女の家で一夜をすごしたのがバレてしまい、ドカンと焼き餅が大爆発した。そこで、ひとまず火の粉を避けて酒場まで逃げたが、追っかけてきて泣きじゃくりながら私の恩知らずな振舞いを責め、腹立ちまぎれに、あんたを逮捕させてやるからなと喚《わめ》いた。フランシーヌは、言ったとおりにする女だったので、ここはひとつ、怒るだけ怒らせて気を鎮ませるのが利口だ、ただし、しばらくしたら現われて打合わせどおりに出発しようと考えた。とすると、当座の身の回りの品が必要だが、そいつを渡してくれと言うと、また新しい爆発があるかもしれない。私は、酒場の裏口から逃げて一人で家に戻った。ところが、部屋の鍵は彼女が持っていた。やむなく鎧戸を破って必要な物を取りだして姿を消した。
五日たった。百姓姿で城外の隠れ家を後にした。町に入り、仲直りの橋渡しをしてもらおうと思って、フランシーヌの親友の裁縫女の家を訪ねた。だが、迷惑そうな気配が見え見えだったので、巻き添えにしてはいけないと思い、ただフランシーヌを呼んできてくれないかとだけ頼んだ。
「ああ、そう……」
なんとも意外な感じで返事をしたが、眼を上げて私を見ようともしない。彼女は出て行った。あとに一人残った私は、その奇妙な応待ぶりは何だろうかと考えこんだ……。
ドアがノックされる。私が開ける、フランシーヌを腕の中に抱きしめようと思いこんで……飛びついてきたのは憲兵と警官の大群だった。私をふんづかまえ、がんじがらめに縛りあげ、治安警察の親玉の前に引っ立てた。
彼は、この五日間どこに隠れていたのかと訊くことから始めた。私の返事は短かった。私は、私を親切に迎えてくれた人たちを巻き添えにするような真似はしなかった。すると、警察《さつ》の親玉は、強情を張っているとタメにならんぞとか、笠の台〔首〕がすっ飛ぶかもしれんぞ、などなど、と脅した。ただ笑いとばしてやった。そんな文句は、容疑者をビクつかせてゲロさせる手だと思っていたから、だんまりをきめこんだ。私は、『小別荘』監獄に連れ戻された。
殺人未遂の嫌疑
監獄の中庭に足を踏み入れたとたんに、みんなの視線が私にそそがれた。たがいに呼び合い、耳うちし合っている。なーに、この変装姿を見てザワめいているんだと思い、あまり気にしなかった。足枷を付けられ、たった一人、監禁室の藁の上におっぽり出された。二時間後、看守が現われて、残念がったり同情したりするフリをして、五日間の居場所を言わなかったのは判事たちの心証を悪くするかもしれないと仄《ほの》めかした。そんなこと、私は屁《へ》とも思わなかった。また二時間たった。また看守が門衛と一緒にやって来て、足枷を外し、二人の判事が待ち受けていた階下の文書課に連れて行った。あらためて尋問、おなじ返答。私は、頭から足の先まで素っ裸にされ、ものすごく強く右肩を叩かれた。以前に烙印を捺《お》されていれば、その痕が浮き出るからだ。服が押収されて、文書課所管の調書に記載された。私は、帆布製の黒と灰色のだんだら二色のシャツを着せられて監禁室に戻った。ぼろぼろもいいとこ、どうやら二代の囚人が着古したものらしかった。
こうなってくると、私としても考え始めた。裁縫女が密告したのは明らかだ。だが、なんのトクがあって? あの女は私に恨みなんかない。フランシーヌは、なるほど逆上はしていたが、密告する前に慎重に考え直しただろう。じつを言うと、私が何日か身を隠していたのは、密告されるのが怖いというより、眼の前に私がいると彼女を怒らせるばかりだから、それを避けるためだった。その他、なぜ何度も尋問を繰り返すのだろうか、あの看守の謎めいた言葉は、衣類の押収は?……いろいろな疑問があって、勘ぐりの迷路に入りこんで、わけがわからなくなってしまった。そして、ほんとに厳しい独房で二十五日間を待ちつづけて、次のような尋問を受け、やっと道筋が見えてきた。
「何という名だ?」
「ウージェーヌ・フランソワ・ヴィドック」
「職業は?」
「軍人です」
「フランシーヌ・ロンゲという娘を知っとるか?」
「ハイ、私の情婦《いろ》です」
「その女が、いまどこにおるか知っとるか?」
「きっと誰か女友だちのところです、家財道具を売っちまったもんで」
「女友だちの名は?」
「マダム・ブルジョワ」
「どこに住んどる?」
「サンタンドレ街、パン屋の家作です」
「お前が逮捕されたのはロンゲという娘と別れてから何日目だ?」
「五日目です」
「なんで別れたんだ?」
「あいつが怒ってるもんで。よその女と泊まったのを知って、焼き餅が頭にきて私を逮捕させてやるって脅したんです」
「どんな女と夜をすごしたんだ?」
「むかしの情婦《いろ》です」
「なんちゅう名だ?」
「エリザ……としか知りません」
「どこに住んどる?」
「ブリュッセルです。もう帰っていると思います」
「ロンゲという娘のところに置いてあったお前の持ち物はどこにある?」
「ある所にあります。必要なら申します」
「ドタバタ争って、女の顔も見たくないだろうに、どうやって荷物を取り戻した?」
「喧嘩のあげく、私が避難していた酒場に追っかけてきて、こいつを逮捕して下さいって、ひっきりなしに大声で警官を呼んで脅したんです。あいつの石頭はわかっていましたから、裏道を通って逃げだし、家まで行きました。あいつは、案の定、まだ帰っていませんでした。とにかく、身の回りの品が入用だったんで、鎧戸を破って部屋に入り、必要な物を持ちだしました。さっき、その荷物のありかを尋ねられましたが、いま申し上げます、サンソヴール街のデッボックって人の家にあります。彼があずかっています」
「本当のことを言っていないな……家にいたフランシーヌと別れる前に、二人で、ひどい喧嘩をした……女に暴力をふるったのはわかってるんだ……」
「ちがいます……喧嘩のあと、家ではフランシーヌとは会っていません。だから、乱暴なんかしていませんよ……彼女に聞けばわかります!」
「このナイフに見覚えがあるか?」
「ハイ、いつも私が食事に使っているやつです」
「刃と柄に血がついているのが見えるか?……これを見ても何も感じないか?……あわてとるな」
ドキッとして私は答えた。
「そりゃあ、いったい、フランシーヌに何かあったんですか?……教えて下さい、なんでもはっきり申しますから」
「荷物を取りに行ったとき、とくに変わったことはなかったか?」
「ぜんぜんありませんでした、覚えているかぎりでは」
「供述は変えないんだな?」
「ええ」
「司直をだましとる……自分の立場をふりかえり、強情を張っているとどうなるか考える時間をやる。尋問を中断する。明日また尋ねる……憲兵……この男をよく見張れ……行け」
独房に戻ったのは遅い時間だった。食事が運ばれて来たが、尋問で動揺していたので食べ物がノドを通らない。眠れなかった。一晩じゅう、まんじりともせず朝まで眼を開けていた。犯罪が行なわれたのだ。誰に?……誰が? なぜ私のせいにしようとするのか?……こうした質問を千度も自分にしたが、筋が通った答えは見つからなかった。翌日も尋問を続けるために呼び出された。
いつもの質問がすむと、ドアが開いて二人の憲兵が入って来た。女を支えている……フランシーヌだった……フランシーヌは、青白い、ゆがんだ顔で、やっと彼女だとわかるくらいだった。私を見て気を失った。そばに行こうとした。憲兵が引きとめた。それっきりで、彼女は連れて行かれた。私は予審判事と後に残ったが、判事は、あの可哀そうな女を見て何もかも白状する気になったかと訊いたので、フランシーヌが病気だったなんて今の今まで知らなかったと言って無実を主張した。私は一般の牢屋に戻されて監禁室から解放された。どうやら、これで、なんとも奇妙なギセイ者にされた事件の詳細がわかりそうだった。看守に尋ねてみたが、口をつぐんだ。フランシーヌに手紙を書いた。ところが、彼女に出す手紙は文書課で抑えられるぞと教えてくれた者がいた。と同時に、彼女が面会禁止になっていることも聞かされた。苦境に立った私は、最後に弁護士を呼んでもらった。彼は、訴訟書類から知り得たとして、私がフランシーヌにたいする殺人容疑者になっていると教えてくれた……私が彼女と別れた同じ日に、彼女が五カ所もナイフで刺されて血まみれになっているのを発見されたのだという。私が、あわただしく出発したこと、ひそかに荷物を持ち出して別の場所に運んだことが、当局の追求をくらますためだったと思われ、部屋の鎧戸を破って侵入したこと、いろいろな侵入の痕跡に私の足跡が残っていたことなど、すべてが私を犯人だと思わせるものだった。さらに、百姓姿に変装していたのもマズかった。フランシーヌが、私を名指しせずに死んだかどうかを確かめるために変装していたのだと思われた。これまでの他の場合だったら有利になった私独自の振舞いも、かえって一段と不利な状況にさせていった。フランシーヌは、医者が話をしてもよいと許可すると、ぞっこん打ちこんだ男に捨てられて絶望し、自分で我が身を刺したのだと申し立てた。しかし、彼女が私に惚れているということで、その証言は信用されなかった。その言葉は、私を救いたい一心からの偽りだと受けとられた。
弁護士は、十五分も前に話すのをやめていた……私は、まるで悪夢を見ている男のように話を聞いていた。二十歳で、文書偽造と殺人未遂という二つの重い罪がのしかかっていた。その二つの犯罪ともまったく身に覚えがないのに! 心は千々に乱れ、できることなら寝床になっている藁の紐でもかけて独房の鉄格子からぶら下がりたかった……気が狂いそうだった。しかし、どうにか気をとりなおし、身の証しをたてる事実を集めることにした。
この前の尋問のとき、判事は、私の手に血がついていたことを大いに力説した。私が荷物を運ばせた運送屋が見たと証言しているという。その血は、戸を破ったときガラスを割ってできた傷からのものだったのだ。それを裏付ける証拠を二つ提出できた。そこで、弁護士に抗弁の全材料を提供したところ、フランシーヌの証言だけでは役に立たないが、私のと合わせると起訴が取り下げになる効力があると保証してくれた。そして、じっさい、ほんの数日後には、そのとおりになった。フランシーヌは、まだたいへん衰弱していたが、すぐに面会に来てくれて、尋問で明らかになった詳しい事情のとおりだと認めた。
こうして大きな重荷は厄介払いをしたが、まだ心配事から抜けきったわけではなかった。あい次ぐ私の脱獄のせいで、例の巻き添えをくった文書偽造事件の予審はのびのびになっているところへ、こんどは自分の番だとばかりグルアルが門衛に挨拶なしのトンズラをきめこみ、裁判はいつ終わるのか見当もつかなかった。いっぽう、私は、殺人未遂の告訴では勝利を収めたので、いくらか楽観的になっていた。脱獄しようなどとはまったく考えていなかった。ところが、そんなとき、チャンスが向こうからやってきて、いわば本能的に、そいつをつかんだ。
私が入れられていた部屋には、移送途中の囚人たちがいた。ある朝、看守が、そういう囚人を二人、連絡便に引き渡すために呼びだしに来て、戸に鍵をかけるのを忘れた。私は、それに気づいた。あっという間に一階まで下りて、あたりの様子をうかがった。夜が明けたばかりで、他の囚人たちは、みんな眠っていた。階段では誰にも出くわさず、門にも誰もいなかった。それを乗りこえたが、監獄の向かいの居酒屋でアブサンを飲んでいた看守が私を見て飛びだしてきた。
「待てェー、待てェー」
あらん限りの声で叫びながら追っかけてきた。叫んでもムダだった。まだ通りには人気がなく、自由への希望が私に羽根を生やした。数分で看守の眼がとどかないところまで逃げ、やがてサンソヴール区にある家に行き着いた。そこまでは追いかけて来ようと思わないのはわかっていた。とにかく、一刻も早くリールを離れねばならない。ここでは顔が売れすぎて、ながくは安全でいられない。
夜になると捜索が始まった。城門は閉鎖されているという。くぐり戸からしか出られず、警官と私服の憲兵が配置されて、片っぱしから現われる者を見張っていた。これでは、とても門からは出られない。私は、城壁を乗り越えて逃げようと決めた。どこが一番いいかはよく知っていた。夜の十時にノートルダム砦の上に行った。計画を実行するには最適の場所だと思った。さて、私は、わざわざ隠れ家の人に買ってきてもらった綱を木に結びつけ、それを伝わって下り始めた。だが、すぐに、からだの重みで予想外の加速がつき、綱が擦《す》れて手が熱くなり、地面から五メートルくらいのところで綱を放してしまった。堀に落ちた。落ちたとき、ひどく右足をくじいて、いざ堀から出る段になったら、とてもダメだとわかった。だが、どえらい苦労をしてやっと這い出したが、石垣の上に着くと、それ以上遠くへは行けなくなってしまった。
その場に坐りこんで、堀に、綱に、捻挫《ねんざ》に、思いっきり呪いの言葉を吐いた。だが、そんなことをしても窮地から抜けだせるはずはない。そのとき、フランドル地方でよく見かける手押しの車を押した男が通りかかった。私が持っていた一個だけの六フランのエキュ銀貨を出して頼んだら、手押し車に乗せて隣り村まで連れて行ってくれることを承知した。
その男の家に着くと、私をベッドに寝かせ、ブランデーと石鹸を足に塗って、せっせとマッサージをしてくれた。お上さんも、堀の泥水で汚れた服を見て眼を丸くしていたが、一所懸命に手伝ってくれた。二人ともワケは尋ねなかったが、なんらかの説明をしたほうがいいと思い、考える時間をかせぐために、とにかく一休みしたいから、ちょっとのあいだ一人にしておいてくれと夫婦にたのんだ。二時間後、いま眼が覚めたかのようにして二人を呼んで簡単な説明をした。城壁に密輸の煙草を運び上げていたら落っこちてしまった。税関の役人に追っかけられて、仲間は、堀の中に私を置いてきぼりにせざるを得なかった。あとは、あんたがたに任せますよ、と付け加えた。夫婦ともいい人で、国境あたりに住んでいる者は誰であれ税関吏は大嫌いときているので、ぜったいに私を突き出したりはしないと約束してくれた。そこで、国境の向こう側にいる親父さんのところに私を運ぶ手だてはないものかと探りを入れて尋ねてみた。すると、夫婦は、そいつはヤバい、と答え、足が少し良くなるまで待ったがいいと言ってくれたので、私は同意した。疑われるといけないから、親戚が訪ねて来ていることにしてもらったが、誰も詮索する者はいなかった。
いちおう一安心して、自分の身の上や、これからどうするかを考えた。この国を出てオランダに行こうとはっきり決めた。しかし、この計画を実行するには、どうしても金が必要だ。その家の主人に進呈した時計の他には四リーヴルと十スウが残っていたにすぎなかった。フランシーヌに助けを求めることはできたが、彼女には見張りがついているにちがいない。ちょっとした伝言を送るだけでも、捕まえて下さいと言うようなものだ。すくなくとも、初動捜査の熱が下火になるのを待つ他はない。私は待った。二週間たって、はじめてフランシーヌに手紙を書くことにした。その家の主人に手紙を托《たく》して、その女は密輸屋の連絡係をやっている者だから、こっそり会わなくてはならないと注意した。そして、彼は見事に使命を果たし、夜になって百二十フランの金貨を持って帰ってきた。その翌日、私は夫婦に別れを告げたが、かれらは、ほんのわずかな金しか要求しなかった。六日後、私はオーステンデに着いた。
私の意図は、最初その町に来た時と同じように、アメリカかインドに渡るのが目的だった。しかし、その港にいたのはデンマークやハンブルクの沿岸航路船ばかりで、旅券を持っていない私を乗せてくれなかった。リールから持ってきたわずかの金は、あっという間に底をつき、またもや私は、読者の皆さんも多少は覚えがあるかもしれない、あの境遇になろうとしていた。とにかく、それは、不愉快なことに変わりはない。たしかに、金は、天分や才能や知性をあたえるものではないが、金がもたらす精神の安定や平静は、右のような諸々の資質の代わりを果たしてくれる。いっぽう、その平静さを欠くと、多くの人々を無力化する。金を手に入れるために全精神力を発揮しなければならない時に、その金がないことが精神力を奪ってしまうという結果を招く。あきらかに、私は、右のようなギリギリの状況にいた。一方では食わねばならない。食べるには食欲さえあればいいと思っている幸せな人たちが想像するよりも、ここで言う食うことは、往々にして遥かに難しいことなのだ。
沿岸の密輸団の暮らしが、危険は多いが金になるという話をよく耳にしていた。囚人たちも熱っぽくホメちぎっていた。財産や地位を危険な密航にさらしてまで、情熱にかられてその仕事をする者もあるというのだ。実のところ、私は、崖っぷちで夜どおし働くのにはまったく魅力を感じていなかった。岩がゴロゴロしているところで、有名な北海の風と、おまけに税関の役人の鉄砲の弾丸《たま》に身をさらして。
だから、ほんとうは嫌々ながらペテルという男の家へ行ったのだった。その男はよからぬことをやっていて、そこへ行けば雇ってもらえると聞いたからだ。戸口には、よく田舎家の入口で見かける羽根をひろげたモリフクロウやハヤブサのようにしてカモメが釘づけされていて、すぐに目ざす男の家だとわかった。その家の主人は穴倉のようなところにいて、ロープや帆布、櫂やハンモックや樽などが、ごちゃごちゃと周囲に詰めこまれていて、船の中甲板にでもいるような気がした。彼は、彼のまわりに立ちこめている煙の中から、まず私をジロリと見た。疑りぶかい目付きだったので悪い予感がした。その予感は、すぐに当たった。つまり、私が仕事をやらせてくれと言ったとたんに、いやというほど丸太ん棒でなぐりつけた。私は、その気になれば、もっと強く殴りかえせたが、びっくりして身を守る考えが浮かばなかった。それに、中庭に六、七人の水夫と、でっかいニューファンドランド犬がいるのが見え、そいつらに酷い目にあわされるかもしれなかった。通りに放りだされた私は、この風変わりな歓迎の意味を考えてみた。そして、ははァ、ペテルのやつ、私をスパイだと思ったのかもしれない、だから、こんな扱いを受けたんだ、と思い当たった。
密輸団
このように考えて、オランダ人の商人のところへ戻ることにした。私を信用してペテルの家へ行ってみろと教えてくれた男だ。彼は、私が少々ドジをふんだと聞くなり笑いだし、その後で合い言葉を教えてくれた。それを言えば、ペテルのところに自由に入れるはずだった。この教えを受けて、またぞろ私は、あのおっかない住居に出かけた。もっとも、また襲いかかられた場合の退却用に、ポケットに大きな石を詰めこんでおいた。しかし、幸い、この備えはムダになった。その言葉、「サメ(税関吏)に御用心」、を言ったら、なんとなく親しい態度で迎えられた。というのも、すごく重い荷物を、あっちこっちと素早く運ばねばならないその稼業では、私のように機敏で力持ちの者は貴重な人材だったからだ。一味の中にボルドーの男がいて、私を訓練して仕事のコツを教えてくれることになったが、ろくに教育が進まないうちに実地にかり出される仕儀になった。
ペテルの家では、十二人から十五人の密輸屋と寝起きを共にした。オランダ人、デンマーク人、スウェーデン人、ポルトガル人、ロシア人までいたが、イギリス人は一人も居らず、フランス人は二人だけだった。私が住みこんだ翌々日、みんなが簡易ベッドやハンモックにもぐりこんでいた時だった。とつぜんペテルが寝室に入ってきた。寝室といっても、ペテルの穴倉と似たり寄ったりの代物で、大樽や梱《こり》が、ぎっしりと詰めこまれていて、ハンモックを吊る場所を探すのに苦労するほどの所だった。ペテルは、船の修理工や帆作り職人のような普段着を脱いで、馬のタテガミで織った帽子をかぶり、赤い毛織のシャツを着て、銃の火口《ほくち》も掃除できる銀の飾りピンを胸に留めていた。漁師用の大きな長靴を穿いていたが、そいつは腰までとどく長さがあって、必要に応じて膝の下まで下げられる。彼は、騎兵銃の台尻で床をたたきながら戸口に立って怒鳴った。
「ヤイ、ヤイ、起きろ、起きろ……寝るのは他《ほか》の日だ……今夜の上げ潮でリス号が入ってくるぞ……何を積んでるか、おたのしみだ……モスリンかタバコか……ヤイ、ヤイ……行くぞ、野郎ども!……」
それっとばかりに全員が起きあがり、武器の箱を開けた。思い思いに騎兵銃やラッパ銃、ピストル二丁、短剣や接舷用の斧を持ち、ブランデーとアラク酒をひっかけ、水筒にも詰めこんでから出発した。出発したときは二十人そこそこだったが、他所《よそ》にいた仲間が、あちこちで合流し、海岸に着いたら四十七人という数になっていた。そのほかに女が二人と、海岸の洞窟に隠しておいた馬車馬を曳いてきた隣り村の百姓が数人いた。
すっかり夜になっていた。風向きが刻々と変わり、ものすごい勢いで波が岸に砕けていて、これでは、どんな船も海岸に近寄ったら叩きつけられてしまうのではないかと思った。星明かりで、一艘の小さな船が岸に漂着するのを恐れているように海岸に沿って走っているのが見えた時は、さっきの思いが一段と強まった。ところが、そんなふうに船を操っているのは、荷揚げの態勢をととのえるためで、ぜんぜん危険はないんだ、と後になって教えられた。事実、ペテルは、仲間の一人に持たせた反射ランタンに火を点けて、すぐに消した。すると、リス号のトップマストに合図の灯が高くかかげられ、夏の夜の螢のように光ったかと思ったら消えてしまった。次に、船が追い風を受けて、われわれがいた地点から小銑の射程内に停船したのが見えた。仲間たちは三隊に分かれ、ひょっとして税関野郎が来たときに備えて、二隊が五百歩後方に陣取った。その隊の男たちは間隔を置いて並び、互いに左腕を紐で結び合い、いざというときは軽く引っぱって知らせ合うことになっていた。その合図があったら発砲する命令を受けていて、全線にわたって銃撃戦の火蓋が切られ、税関吏どもを食い止める手筈になっていた。私が属していた第三の隊は海岸にとどまって、荷揚げ場を守りながら荷物の積みこみを手伝うことになっていた。
こうして全員が位置についた。前に話したニューファンドランド犬も一緒に来ていて、命令一下、泡立つ海に飛びこみ、リス号めざして力強く泳いで行った。そして、まもなく、ロープの端をくわえて現われた。それをペテルが素早くつかんで手《た》ぐり寄せ、みんな手伝えと合図した。私は機械的に指図に従った。何|尋《ひろ》か引くと、ロープの端に小さな樽が十二個、数珠つなぎになって漂いながら引き寄せられて来るのが見えた。なるほど、こうして船が陸に近づきすぎて座礁するのを防いでいるのかと初めて合点がいった。
またたく間に防水塗料を塗った樽がロープから外されて馬に載せられ、たちまちのうちに陸地の奥に消えていった。二度目の受け渡しも同じように巧くいった。だが、三度目の荷を受けとったとき数発の銃声が聞こえ、われわれの陣地が攻撃されているのがわかった。
「さァ、ダンスパーティの始まりだ。ダンスをするやつを見物しなくっちゃ……」
ペテルが落ち着いて言うと、騎兵銃を手にして既に集結している見張りの陣地に加わった。銃撃戦は激しくなった。二人が死んで数人が軽傷を負った。税関吏が撃つ銃火で、かれらのほうの数が多いのが簡単にわかったが、伏兵を恐れて怖気づき、むりには近づいて来ない。われわれは、すこしも妨害されずに退却することができた。リス号は、戦闘が始まるとすぐに錨を上げて沖に出ていた。政府の監視船が銃火を見て、この海域に引きよせられるのを恐れたのだ。残った積荷は、おそらく、沿岸の他の地点で降ろしてしまうだろうということだった。密輸品の発送屋は、そこらあたりに大勢の取引相手を持っている。
ペテルの家には、夜明けになって帰り着いた。私はハンモックに転げこみ、出てきたのは四十八時間もたってからだった。夜の疲れや絶えず着ている物に染みとおる湿気、と同時に動きまわって汗みづくになり、こんどの新しい仕事についての不安、これらが一緒くたになって私を打ちのめした。熱がでた。やっと熱が下がったのでペテルに申しでた。とても仕事がきつすぎるので、悪いけど辞めさせてくれないか、と。すると、彼は、意外にも平気な顔をして、百フランばかりくれた。後で知ったのだが、リールに帰ると言ったのが本当かどうか、何日か私を尾行させたそうである。
私は、ちゃんとリールへの道をたどった。たわいのない望みに胸を焦がしていた。もういちどフランシーヌに会いたい。二人でオランダへ行って小さな店でも持つんだ。だが、そんな軽率な気持の報いが間もなくやって来た。居酒屋で飲んでいた二人の憲兵が、通りを横切っていた私を見て、追っかけて行って身分証明書を調べてやろうと思いついた。かれらは、とある道の曲がり角で私に追いついた。憲兵を見て慌てた顔色を見せたのがいけなかった。怪しいやつだというので逮捕され、憲兵隊の留置場に入れられた。私が逃げだす手だてを考えていたところ、憲兵たちに話しかける別の声が聞こえた。
「リールからの連絡便だ……連行者は?……」
ときにもう、リールの憲兵隊から来た二人の男が留置場の前にやってきて、カモはいるかと尋ねている。私を捕まえた二人が答える……
「ああ、レジェ(私はこの名を使った)っていう野郎がおるよ。身分証を持っていなかった」
戸が開く。『小別荘』で何度も私を見たことのあるリールの憲兵班長が声をあげる。
「やっ、なんだ、こいつは。ヴィドックじゃないか!」
認めざるを得なかった。私は出発した。数時間の後、二人の身柄護送者に挾まれてリールの町に入った。
[#改ページ]
六 無実の罪
見世物一座
『小別荘』監獄では、私が脱獄する前に出獄した囚人のほとんどが、またぞろ舞い戻ってきていた。ほんのチョンの間だけ留守にしたような者もいた。また新たな罪を犯したか、なにか新たな法律違反をやって拘置されたのである。この大勢のなかに前章で述べたカランドランがいた。十一日に放免されて十五日には捕まっていた。彼は、当時、その名を聞けば泣く子もだまる『あたため強盗団』の共犯として押しこみ強盗罪で告訴されていた。連中は、私が、あれこれの脱獄で評判になっていたので、頼りになる男だとして私を求めてきた。私のほうも、かれらを避ける気は毛頭なかった。かれらは、重罪犯人として起訴されているので、脱獄計画の秘密をまもれば大きな利益があるが、いっぽう、単なる軽罪で起訴されている不運な連中は、われわれの脱獄の巻きぞえを食うのを怖れて密告するかもしれなかった。これが、牢獄の論理である。
だが、この脱獄は、朝飯前などという甘っちょろいものではなかった。ここで牢屋の実状を述べて判断していただこう。一辺が約二メートルの四角な房で、二メートル近い厚い壁を厚板を交叉して覆い、鉄ボルトで締めつけてあった。窓は、横が一メートルそこそこ、高さが半メートルで、三本の鉄柵が順に並んで塞《ふさ》ぎ、ばっちり二重の扉が取りつけてある。これだけ用心堅固だと、看守は下宿人に安心していられた。そこで、彼の監視の裏をかくことにした。
私は、デュアメールという名の男と三階の房にいた。看守の助手をしていた囚人を六フランで買収し、たて挽き鋸《のこ》を二挺、たがね一本、ねじ釘二本を手に入れた。われわれは錫のスプーンを使わされていた。たぶん、看守は、そいつが囚人の役に立つとは知らないでいた。私は、房の鍵が同じ階の他の全部の房に共通であることを知っていた。太いニンジンで鍵の模型をこしらえ、次にパンの中身とジャガイモをこねてメス型を作った。火が必要だった。豚の脂肉と木綿帽の切れ屑でカンテラを作った。そして、ついに錫を流しこんで鍵ができたが、その鍵では、まだ回らなかった。そこで何回も試したり修正して使える物になった。これで、自由に戸が開けられるようになったが、市役所の倉庫と隣り合っている壁に穴を開けねばならなかった。これは、同じ階のいちばん端の房にいたサランビエという男が、厚板を切って穴を開ける方法を考えた。こうして脱獄の準備が完了、夜のうちに実行せねばならなかった。ところが、ちょうどその時、それまでにいた房の期間が終わったとして、私は他の囚人と一緒の大部屋に移された。
おそらく、これほどツイていないで、がっかりさせられたことは、ついぞなかった。すべての準備が水の泡になり、やはり、同じようなチャンスを長いこと待つしかなかった。とにかく、自ら助ける者が助かるんだと悟ってはいたが、看守の話によると、私の評判は断じて凶であった。これは都合が悪いことであり、囚人の全員が計画を知っているという点が心配になった。囚人の一人が私を説得して、みんながびっくり仰天するような秘密計画はよしたほうがいい、サランビエやデュアメールのような男と一緒にズラかるのは危険この上もないことだ、とまったく筋の通った意見をしてくれた。おそらく、やつらは、二十四時間も殺人をやらないではいられまい。だから、今回の脱獄は、やつらだけにやらせておいて、別の機会到来まで待つんだ、と私に約束をさせた。私は、この忠告に従い、なるほどもっともだと理解した。と同時に、デュアメールとサランビエに、お前らは怪しまれている、もう一刻も猶予はできないぞ、とまで言ってやるほど気をつかった。かれらは、私の計画を文字どおり実行し、二時間のちには四十七人の『あたため強盗団』に合流した。だが、そのうちの二十八人は、次の月にブリュージュ〔ベルギー、西フランドルの主邑〕で処刑された。
デュアメールとサランビエの脱獄は、牢内はもちろん市中でも大評判になった。脱獄の状況は、まったく他に類を見ないものであることが知れた。だが、それにもまして看守が魂消《たまげ》たのは、私が仲間に加わっていなかったことだった。とりあえず、破られた箇処を修理せねばならなかった。職人たちがやって来た。職人以外は通すなという命令を受けて獄舎の階段の下に番兵が配置された。その命令の裏を巧くかいてやろうという考えが浮かび、破られた同じ穴を逃亡の役に立てようと思った。
毎日のように面会に来ていたフランシーヌに大急ぎで三オーヌ〔一オーヌは一・一八八メートル、三オーヌは約三・五メートル〕の三色旗色のリボンを持って来させた。この品で腰帯を作り、さらに帽子をかぶって役人ふうに変装して番兵の前を通った。番兵は、市役所の役人だと思って捧げ銃《つつ》をした。いそいで階段を上がる。壁の穴のところへ行く。二名の番兵が警備している。一人は市役所の倉庫側、もう一人は獄舎の通路側にいる。こいつに言ってやる、こんな穴じゃ大の男が抜けられないな、と。すると、番兵がムキになって反対する。この言葉を向こう側の兵が聞いて、かんたんに抜けられるよなァと同僚に加勢する。じゃ試してみたいなと私が言い、穴にもぐったら苦もなく倉庫側に出た。通り抜けた際に傷を負ったフリをして、こっち側にいるんだから、すぐに事務室へ降りるよ、と二人の兵士に言うと、倉庫側の兵が、
「だったら戸を開けますから、お待ち下さい」
と言って、錠前の鍵を回してくれた。私は、市役所の階段を二段とびに駈け降りて外の通りへ出た。あいかわらず三色旗の腰帯をしていたが、日が暮れないと目立ってとっ捕まることになるなと思った。いっぽう監獄では、私が外へ出たばかりのころ、私から眼をはなさないでいた看守が呼ばわった。
「ヴィドックはどこだ?」
庭を一周りしてるぜ、と誰かが答えてやると、自分で確かめようと、建物の隅々まで大声で呼びながら探したがムダに終わった。そこで、こんどは、正式に家探しをしたがダメで、そのくせ誰も私が外へ出たのを見た者がいなかった。けっきょく、やがて、私が牢獄内にいないことが確認されたが、ではどこへフケたか? ここで、誰一人フランシーヌのことまでは考えなかった。もっとも、正直いって、彼女も、私がどこへ行ったかは知らなかった。また、リボンを持って来たが、私が何に使おうとしていたかは知らなかったのだ。彼女は足止めをくったが、そんな小細工では何も見つからなかった。私を通した兵士たちは、その勤務ぶりを大いに自慢していた。
こうして、私の脱獄については、みんながマボロシ人間を追っているあいだに、私は町を出てクルトレにたどり着いた。そして、その町にいた奇術師のオリヴィエと曲芸師のドヴォワが、かれらの一座に入れてくれて、私は無言劇をやることになった。一座には脱獄囚が大勢いたが、それぞれの役柄の衣裳で、まんまと警察の眼をくらましていた。他に着替えがないという簡単な理由で、着たきり雀の衣裳を付けていた。われわれは、クルトレからガンに戻り、まもなくアンジン〔ベルギー、ボリナージュ州の一邑〕の定期市に向かって出発した。その町に着いて五日がすぎ、私がもらう収入《みいり》も大いに増えたころ、ある晩、出番になろうとしたとき、私は警官たちに逮捕された。私が座員頭になったのに腹をたてた道化役がタレこんだのだった。私は、またしてもリールに連れて行かれ、かわいそうにフランシーヌが、私の脱獄を幇助《ほうじょ》した罪で六カ月の禁錮刑に処せられたと知って胸が張り裂けんばかりに悲しかった。門衛のバプチストも、やはり運が悪くて同罪で禁錮刑になっていた。彼の罪は、『聖ペテロ塔』監獄から、うやうやしく敬礼して私を外へ出したことであった。おそろしい責苦が彼にのしかかった。他の囚人たちが、今こそ仇を討つチャンス到来とばかり、十九の若者になって五十代の老兵の相手をしろ、いやなら百エキュ出せと脅した。
私のほうは、ドーエ〔ノール県の一邑〕にある州刑務所に送られ、危険人物として登録された。このため、直ちに手足に鉄鎖を付けられて兇悪犯人房に入れられた。そこで、同郷のデフォスーと再会し、十六年の刑を宣告されていたドワイヤネットという名の若者とも会った。親父やお袋、十五歳以下の二人の弟と一緒に押しこみ強盗をした共犯者だった。かれらは、その房に四カ月前からいたのだが、そこに私も放りこまれ、南京虫などに噛まれながら藁の上に寝て、パンと空豆と水だけで生きた。そこで、私は、食べ物の差し入れをしてもらうようにしたところ、あっという間に周りの連中に食べられてしまうのだった。次に、お互いの身の上を語りあっていたところ、お客さんたちが打ち明けたところによると、かれらは、ここ半月以上も監房の床下に穴を掘っていて、穴の先が牢屋の壁の外側を流れているスカルプ川の水面にとどくはずだという。そこで、まず私は、その計画はたいへん難しいだろうと見てとった。たえず見回ってくる牢番の疑いをそらして、作業すると出る土を少しも見られずに約一メートル半の厚さの壁に穴を開けねばならないのだ。
とりあえずの邪魔物、つまり坑道から出る土やセメントは、スカルプ川に面している鉄格子の窓から一握りずつ棄ててゴマ化した。さらに、デフォスーが鉄鎖を外す方法をみつけたので、あまり疲れず困難なく仕事ができるようになった。穴は、もう人間一人が入れるくらい大きくなって、いつも誰か一人が中に入っていた。そして、ついに、われわれが、その作業と囚われの身が終わりになるぞと思ったとき、探ってみたら、並の石だと思っていた土台石が、とてつもなく大きな砂岩の列であるのがわかった。こうした状況のために、どうしても地下道を広げなくてはならず、一週間、休みなしに働いた。巡視があるとき作業をしている者がいないのをゴマ化すために、そいつの上衣や下着に藁を詰めた人形を眠っているように寝かしておいた。五十五日の日夜をかけた不屈の作業の結果、われわれは、ついに目的点に達した。残るは石を一つ取り除くだけで川端に出られる。一夜、ケリをつけようと決めた。首尾は上々のようだった。牢番が、いつもより早く見回り、濃い霧が立ちこめていて、橋の番兵は絶対に気付くまい。みんなで力を合わせて、ぐらついていた石を動かした。石が地下道に落ちたとたん、水車の水門を開けたように、どっと水が噴出しはじめた。距離の計算を間違えたのだ。川の水面から二、三歩下に穴を開けたのだった。数分のうちに水びたしになる。最初、開いた穴に飛びこもうと思ったが、水流が速くて到底ダメ、一晩じゅう水につかっているのはたまらんわいと、けっきょく助けを呼ばざるを得なくなった。われわれの叫び声で、牢番と看守が駈けつけてきて、足半分まで水につかっている一同を見て驚いたのなんの。やがて、なにもかもがバレて、破られた箇処が修復され、われわれは、同じ廊下に面した別々の独房にぶちこまれた。
このみっともない大詰めに、かなり佗《わび》しい気分に落ちこんでいたところをデフォスーの声で我にかえった。彼は、てんで気落ちのしていない隠語で話しかけ、その態度で勇気をとり戻した。デフォスーは、ほんとのところ、生まれつき何ものにも負けない根性を具えていた。十五キロの鉄|枷《かせ》を付けられて、やっと横になれるくらいの房の中で、半裸の身を藁の上に投げだして元気なノドで歌っていた。彼は、なにか新しい悪さを一発やって脱獄する方法はないものかと、そればかりを考えていた。そして、早くもその機会がやってきた。
おなじ監獄に、リールの『小別荘』の牢番と『聖ペテロ塔』の門衛のバプチストが入牢していた。二人とも、金をもらって私の脱獄を幇助したとして告訴されていた。かれらの裁判の日がきて、牢番は放免になったがバプチストの拘留は延期された。補足予審をして私からさらに聴取することを裁判所が要求したからだった。そこで、不運なバプチストが私に会いにやって来て、本当のことを供述してくれと頼んだ。はじめ、私は、逃げ口上しか答えなかったが、デフォスーが、その男は役にたつ、俺のほうで巧くやるからと言ったので、望みどおりにするからとバプチストに約束してやった。すると、相手は、有難う有難うの連発で、どんな御用もいたしますとなった。そこで、その言葉尻をつかまえて、デフォスーが入用だと言っている小刀一丁と大釘二本を持って来てもらうことにし、一時間後に品物を受けとった。デフォスーは、そうした物を手に入れたと知って、狭い房で重い鉄枷を付けているなりに飛び上がって喜んだ。おなじく、ドワイヤネットも大喜びで、みんな陽気になっていったが、さして気にもとめずにラクな気分になっていた。
みんなの有頂天ぶりがやや鎮まったころ、ようやくデフォスーがこう言った。お前の房の天井の迫持《せりもち》を見てみろ、五個だけ他より白い石が見えるだろう、と。そのとおりだと答えると、小刀の尖で接ぎ目を突いてみろ、と言ったので、突ついてみたら、接ぎ目のセメントが、木屑などを混ぜて白っぽくしたパンの中身と替えられているのがわかった。さて、そこで、デフォスーが次のことを教えてくれた。つまり、私より前にその房にいた囚人が、そうやって石を動かしてトンズラしようとしたのだったが、あいにく他の監獄に移されたのだという。私がデフォスーに小刀を渡してやると、彼は必死になって石を外しにかかり、先輩と同じように気を配りながら私の房まで来られる通路を開けた。ところがだ、なんの風の吹きまわしか、牢番のやつが房を変更し、こんどは三人いっしょにスカルプ川ぞいの房に入れ替えた。数珠つなぎにされたものだから、ちょっとでも一人が動くと他の二人に伝わるといった按配で、ながいことそのままだと、ぜったいに眠れないという怖ろしい責苦になる。二日目の終わりになって、私たちがノビているのを見たデフォスーは、いざという時でしか使わない手を使うことに決めた。彼には、脱獄準備の作業用としての取っておきの常套手段があった。
そうとうな数の徒刑囚がやっているように、いつも彼は、小さな鋸をつめこんだ筒を肛門の中に入れていた。この道具で、彼は作業にとりかかり、三時間たらずで鎖を断ち切って、格子窓から川に投げこんだ。そのすぐ後で、牢番が、おとなしくしているかどうかを見に来て、鎖が消えているのを見て腰を抜かした。クサリをどうした、と訊いた。冗談とばして答えてやった。まもなく、ユルトレルという名の廷丁を連れて刑務官がやって来た。あらためて尋問するから従えとぬかした。じりじりしたデフォスーが大声をあげた。
「どこにクサリがあるんかと言うんだろう?……ふん、ノミやシラミが食っちまったよ。また付けたって食っちゃうぜ……」
刑務官は、いまだどんな植物学者も発見していない、かの有名な『斬鉄草』を持っているなと思って、着ている物を脱がして頭のてっぺんから足の先までを調べた。それからまた、新規に鎖を付けなおしたが、その夜のうちに前と同じように切った。虎の子の筒は、まだ見つかっていなかった。そして、今度こそは、刑務官と廷丁ユトレルの面前で、切ったクサリを地べたに放り投げて面白がってやった。かれらの思いもよらぬことだった。この話は町の中にまで伝わって、牢屋には魔法使いがいて、触わる端から鉄を砕くそうだと噂した。さらに国家訴追官〔大革命当時の検察官〕が、鉄枷を外す方法に他の囚人が注目しないように、私たちに特別の監視を付けて拘留しておくようにとの命令をだし、私たちがドーエを去るのを待ってはいないが、それより早く去っても万やむを得ないと勧告した。われわれのほうも待ってはいなかった。
週に二回、決まった廊下で弁護人と面接することが許されていた。その廊下にある一つのドアの向こうが裁判所になっていた。私は、そのドアの鍵型をとる方法を考えだし、デフォスーが合鍵を作った。そして、ある晴れた日、弁護士が二件の殺人で起訴されていた別の依頼人と応待しているすきに、われわれ三人は誰にも気付かれずにドアの向こう側に出た。さらに、別の二つのドアに出くわしたが、あっという間にこじ開けて、やがて、牢屋は遠くなりにけりになった。しかし、不安なことが一つあって気をもんでいた。三人全部を合わせても六フランしかなかった。これっぽっちのお金では、とても長いワラジは穿《は》けない。このことを一言、仲間に言ったら、かれらは無気味な笑いを浮かべてじろっと私をながめた。私は、そのことを言い張った。すると、かれらは、夜になったら出口入口が全部わかっている近郊の農家に押しこみ強盗をやるつもりだと言った。私には、そんなコンタンはなかった。まして、ジプシーみたいなことをするとは、もってのほかだった。デフォスーの経験を脱獄に利用したのは自分でも承知しているが、そんな悪党と組む気なんかまったく念頭になかった。だが、その気持を説明するのは避けた。
その晩、われわれはカンブレ街道ぞいの村ちかくにいた。監獄の朝飯このかた何も食べていなかったので、腹がへって参っていた。そこで、食べ物をさがしに村へ行くことになった。半裸姿の仲間二人は疑いを持たれる。私が仕入れに行くのが適当だとなった。そこで、私が居酒屋まで出かけてパンと火酒を買い、入ったところでない別の戸口から外へ出た。こうして、二人の男を残してきた場所とは反対のほうへ歩いて、やっとのことで厄介ばらいをした。一晩じゅう止まらずに歩きつづけ、夜明けになって乾草の山の中で数時間だけ眠った。
四日後、コンピエーニュにたどり着き、ひたすらパリに向かった。パリへ行って、お袋さんからのいくらかの援助を待ちながら、生きる手だてを見つけようと思った。ルーヴル〔セーヌ・エ・オワーズ県ポントワーズ郡にある自由都市、パリのルーヴルではない〕でハンガリア黒軽騎兵〔服装がハンガリア騎兵に似ていたのでこう呼ぶ〕の分遣隊と出会ったので、仕事をさせてもらえないかと軍曹に頼んでみた。誰も雇わないという返事だった。次に声をかけた中尉も同じように断ったが、私が困っている様子に動かされて、パリに来るはずの補充馬のブラシかけに使ってやろうと承知してくれた。むろん、私は、すすんで引き受けた。略帽と軍隊用の長外套が支給されたので、どこの検問所でも何も訊かれずにすんだ。こうして分遣隊と一緒に士官学校に宿泊、ついで本隊がいるグイズ〔オワーズ川にのぞんだヴェルヴァン郡の一邑〕について行った。町に入ると連隊長のところに連れて行かれた。大佐は、私が逃亡兵かと疑ったが、ラノワという偽名を認めてくれた。どんな書類も立証しないインチキ名である。さて、私は、新たな制服に隠れ、連隊の大行列にまぎれこんで、まんまとズラかったと思いこみ、早くも軍隊の道を歩もうと考えていたが、ある不運な出来事のために、またしても深い淵に投げこまれてしまった。
ある朝、兵営への戻り道で一人の憲兵と出会った。ドーエの駐在官邸からグイズの公邸に立寄ったのだった。一目で私だと知って、じろじろと長いこと見ていたが、ふいに私を呼びとめた。町のど真ん中にいた。逃げを考えるのは不可能だった。私は、まっすぐ彼のそばへ行き、しゃあしゃあと、再会できて嬉しいフリをした。彼は、先手をとられて返事をしたが、そのぎこちなさが不吉な感じをあたえた。そんなことをしていたら、騎兵隊にいる一人の軽騎兵が通りかかって私のほうにやって来て、
「よォ、ラノワ、つば帽子とモメごとかい?」
「ラノワだと?」
憲兵が驚いて言った。
「ああ、戦時名だ」
「今にわかる」
私の襟をつかんで言い返した。こうなると、彼について牢屋まで行かねばならない。旅団にある記録で身元が確かめられ、即刻、特別便でドーエに逆戻りとなった。
この最終的な打撃は、私を徹底的に打ちのめした。さらにドーエでわかった事態が、私を立直らせないものにした。グルアル、エルボー、ストフレ、それにボワテルが、のるかそるかの訴えを起こすことを決心し、かれらのうちの誰か一人が文書偽造をしているが、その偽造は、たった一人の仕事ではない、ヴィドックを最終的に再審すれば、彼が少しは加担していたことがわかるはずだと訴えて、私を罰してやろうとしていた。さらに、まずいことに、私の無実を証言できる例の囚人が死んだのを知った。その際、なにか慰めになったことがあったかと言えば、デフォスーとドワイヤネットと頃合いをみて別れたことだった。かれらは、脱獄して四日後に逮捕されていた。ポンタマルク〔ノール県リール郡のマルク川ぞいの町〕の小間物店に押し入って奪った品物を持っていた。さて、私は、まもなくかれらと顔を合わせたが、ふいに私が消えたのには驚いたと言ったので、食料を買っていた居酒屋に憲兵が来たからやみくもに逃げざるを得なかったのだ、と説明してやった。こうして、われわれは、また一緒になって脱獄計画をやり直したが、関連する裁判が近づくので、なおさら気が気でなかった。
ある晩、護送囚人たちがやって来た。そのうちの鉄鎖でつながれていた四人が、われわれと同じ房に入れられた。デュエーム兄弟だった。ベユール〔ノール県ダンケルク郡のベック川ぞいにある〕の富裕な農夫で近所の評判もたいへんよかったが、思いがけないことから正体がバレた。四人は、並はずれた腕力の持主で、近郷近在に恐怖をふりまいた正体不明の『あたため強盗団』の首領株だったのだ。デュエーム兄弟の誰かの小さな娘が、かれらの面《つら》の皮をひんむいた。その子が、たまたま隣家の女とおしゃべりをしていて、ゆうべは、とても怖かったと話した。
「なんして?」
ちょっと好奇心にかられて隣家の女が尋ねたら、
「あのナ、またお父《ど》が黒っ子だちば連れてきたス」
「なんだべや、黒っ子だちつうは?」
「夜さなると、お父《ど》と出はらい……朝まになると戻ってきて……毛布《けっと》の上で銭コかぞえるだ……お母《が》ちゃがランプで照らし、ジュヌヴィエーヴ伯母コも同じことするだ。伯父コだちもハァ、黒っ子だちと一緒だちゃ、……ある日、おら、ありゃまず、なんだべや、とお母《が》にきいたらば……お母《が》ちゃが、ええ子してけつかれ、お父《ど》は銭コば運んでくる黒ニワドリば持っとるだ。そだとも、運ぶなァ夜にかぎるちゃ。そんでァ、おっかながらせちゃなんねから、羽根コと同ずに顔《つら》コまっ黒けにせにゃならん。ええ子してけつかりゃ、お前さが見たごと一|言《ごと》でも言うたら、もう黒ニワドリは戻って来んでェ」
世間では、これを不思議なニワトリの話とは受けとらず、デュエーム一家が、煤《すす》を顔に塗って誰だか見分けがつかないようにしていると判断した。隣家の女も同じように考え、その疑いを亭主に話した。すると、こんどは亭主が、あらためて少女に質問をし、『黒ニワドリ』を可愛がっている連中は、あたため強盗に他ならぬと確信して当局に注進した。そこで、万全の手配りをした上で、これから新しいヤマに出かけようとしていた黒々と変装した一味を逮捕した。
デュエームの末弟は、ベユールからドーエに護送される途中で靴底にナイフの刃を隠していた。彼は、獄内のことなら何でも知っているのは私だと聞き、ナイフの件を打ち明けて、脱獄に利用できないものかと相談してきた。そこで、それを考えていたところ、憲兵を伴った治安判事がやって来て、われわれの房と囚人を厳しく捜索した。何故なのか、その動機は誰にもわからなかったが、私は、いつも身に付けていた小さなヤスリを用心ぶかく口の中に隠した。だが、憲兵の一人に動作は見られてしまった。
「なにか呑んだな?」
と叫んだので、みんなキョロキョロしたが、ガサ入れの目的は、ボワテルを放免したニセの命令書に捺すのに使った印鑑を見つけるためだとわかった。だが、私は、今しがた見られたせいで疑われ、呑んだ物を取り上げるために市役所牢に移されて独房に入れられた。右手で左足をつかみ、左手で右足をつかんだまま鎖で縛られた。独房は、ひどく湿っぽく、藁の上に二十分も放りだされていたら、水につかったようにじとじとになった。
この怖ろしい状態で八日間をすごした。当局は、私を普通の監獄には戻さないと決めていたが、常識的な筋道から考えて、私が印鑑を取りもどすのは、不可能なことがはっきりした。この報せを受けた私は、こうした場合いつもやる手だが、ものすごく身体が弱ったフリをし、これ以上は独房に置けないように仕向け、真っ昼間の光に堪えられない態度をとった。不衛生な独房では、ごく自然に起きることである。憲兵たちは完全にだまされ、気を使って私の眼を布で覆い、馬車にのせて出発した。そこで、私は、道の途中で布を下げ、それこそ誰も見たことのないほど器用に馬車の戸を開けて道に飛び降りた。憲兵たちは追いかけようとしたが、サーベルと重たい長靴が邪魔になって馬車から出るのがやっとの有様。とっくに私は遠くにいた。すぐに町を離れ、かねてから船に乗ろうと決めていたので、お袋が送って寄こした金をもってダンケルクに行った。そこで、スウェーデン帆船の船荷監督に渡りをつけたら、乗せてやると約束してくれた。
出帆を待っていたら、その新しい友だちが、サントメル〔ノール県境に近いパドカレ県側にあるアー川ぞいの町〕へ一緒に行こうと言う。大きな金が動く賭場で遊ぼうというのだった。水夫の服を着て行けば見破られる心配はないというので、私は承知した。なにかと義理ができた男をムゲには断れなかった。という次第で、私は出かけたが、血の気の多い性分から、居酒屋で起きた喧嘩を他人事だとして見物だけしておれず、けっきょく騒動を起こしたとして逮捕されて豚箱にぶちこまれた。
身分証明書を見せろと言われた。持っていなかった。私の返答から推して、どこか近くの監獄からズラかった者だということになり、翌日、ドーエの中央刑務所に送られた。例の船荷監督にはさようならも言えなかったが、私の冒険談を聞いたら驚いたにちがいない。ドーエでは、またも市役所監獄に移され、はじめ牢番はいくらか親切にしてくれたが、その心づかいも長つづきしなかった。看守と喧嘩をして、けっこうハデにやったので、市の塔の下に作ってある暗黒房に放りこまれた。そこには五人の囚人がいたが、そのうちの一人は死刑を宣告された脱走兵で、ただもう自殺することだけを口走っていた。私は、その男に言ってやった、そんなことを考えるときじゃない、それよか、この怖ろしい房から出る手だてを考えなくっちゃ、と。そこでは、鼠が、野原の兎のように駈けまわり、眠っているあいだにパンをかじり顔を咬んだ。われわれは、金で雇われて監獄勤務をしている民兵からちょろまかした銃剣で壁に穴を開けることにした。靴屋が靴底を叩いている音が聞こえる方角へ掘った。十日十晩で二メートルちかく掘り進み、靴屋の音が近くなったようだった。十一日目の朝、レンガを一つ引っぱって外したら明るみが見えた。それは街路に面した十字格子窓の一つで、房に隣接する区画の明かりとりになっていた。そこで門衛が兎を飼っていた。
この発見で新たな力が湧いてきた。すっかり夜になってから、前もって外してあったレンガを全部穴から引っぱり出した。壁の厚さからみて、たぶん荷車二台分くらいはあったろう。そいつを内側に開く房の戸のうしろにバリケードふうに積み上げた。そうしておいて一心不乱に作業にかかり、あっと思ったら夜が明けたが、そのときには穴の長さが約二メートル、先端の出口に今一歩と迫っていた。そのうち、牢番が食事を配りに来て、戸が開かないので覗き窓を開けて見たらレンガの山がチラと見えた。いや、驚いたのなんの、開けろっとドアをたたいたが応じない。すぐに衛兵、次に刑務官、その次に国家訴追官、はては三色の飾り帯をした市の役人までがやって来た。内と外との談判がはじまった。そのあいだ、われわれの仲間の一人は穴の中で作業をつづけていたが、暗いので気付かれなかった。このぶんだと、たぶん、ドアが突破される前に脱出できるだろうと思ったが、思いもよらぬ事が起こって最後の希望もふっ飛んでしまった。
兎に餌をやろうとして来た門衛の女房が、床に新しくこぼれ落ちていた漆喰《しっくい》の屑に気付いた。監獄内では何事にも無関心であってはいけない。念入りに壁を調べた。何個かのレンガで元通り穴をふさいでおいたのだが、レンガがズレているのがわかった。女房が大声をあげ、衛兵が駈けつけた。銃の床尾で一突きしたら、外れているレンガ積みが崩れ、われわれは挾み打ちになった。ドアの邪魔物をどけろ、さもないと撃つぞ、と両側から怒鳴った。こちらはレンガの山のうしろに立てこもり、最初に入ってきたやつはレンガと鎖でぶっ殺すぞ、と言い返した。監獄側は、われわれの激昂にびっくりして、数時間そのままにして鎮まるのを待った。正午に、一人の市役所の役人が、脱け穴同様に警戒を怠らなかった覗き窓に顔を出し、とくに許してやるからと申し入れてきた。そして、けっきょく、特別赦免を受け入れた。ところが、防柵を取りのけたとたん、銃の床尾やサーベルの平《ひら》、鍵束などで殴りかかり、やつらに加わっていない門衛の犬までが私の腰に飛びかかって、あっという間にそこらじゅうを咬まれた。われわれは中庭に引っぱって行かれ、鉄枷を付けるあいだ分隊の兵十五名に横に寝ころがらされた。その作業が終わると、いま出てきたところよりさらに怖ろしい独房に放りこまれ、翌日になって初めて看護人のデュチュール(現在はサンマンデ〔パリ郊外の町〕の救護所の守衛)がやって来て、全身の咬み傷や打撲傷の手当てをしてくれた。
有罪宣告
なんとか今回の騒動から立直ったと思ったら、裁判の日が来た。何度も繰り返した私の脱獄と、私が再逮捕されたときも逃げまわっていたグルアルの逃亡で八カ月前から裁判が延期されていた。公判が開かれ、私は負けそうだった。私の共同被告たちは、私が、遅まきながら事の次第を説明して暴露したので怨みをもった。だが、その暴露で私は有利にはならなかったし、かれらの立場を別に悪くもしなかった。ボワテルは、牢から出るのにいくら金をだすかと私が要求したのを思いだしたと陳述し、それに合わせてエルボーが次のような追加供述をした。――私はニセ命令書を作ったが、それにはまだ署名はなかった。ところが、ヴィドックが、署名までは作れないんだろうと挑発したので、ニセの署名もこしらえたが、すぐにヴィドックが取り上げてしまった。そのときは、それほど重大なこととはまったく思わなかった。その上、宣誓した書記たちが、私が本犯罪に物質的な協力をしたことを示すものは何もないと断言した、と。こうして、私にたいする重圧は、ますます増したが、あの忌々しい印鑑を私が提供したという証拠はなく、かれらの主張にも限界があった。しかし、ニセ命令書を依頼したことを認めたボワテル、それを門衛のところに持参したストフレ、すくなくともすべての作業に加わったグルアル、かれらは無罪になり、私とエルボーに八年の懲役が宣告された。
ここに、この判決の謄本がある。これを、ここで原文どおりに再録する。今なお、悪意からの話や馬鹿げた話がでっち上げられ、そこに言いふらされているのに応えるためである。数多くの連続殺人をして死刑を宣告されたという話もあれば、ながいあいだ強盗団の首領をしていて多くの馬車を襲ったという話もある。いちばん穏やかなものでも、たしか梯子を使って押込み強盗をやり無期懲役を言い渡されたことになっている。果ては、こんなふうにまで言われるようになった。つまり、私は、次々と極道者を犯罪に誘いこみ、かれらを私の都合のいいときに法廷に立たせて、私の明敏さを目立つように宣伝させ、真犯人の追求をおろそかにしている、と。盗賊たちの中には、ニセの『兄弟分』がどこにもいて、ときには犯罪計画を教えてくれたことは確かにあった。しかし、前もって知らされた犯罪を確認するには、実行にとりかかるのを見て見ぬフリをしていなくてはならない場合が往々にしてあるのも確かなことである。老獪《ろうかい》な悪党は現行犯でしか押さえられないからだ。とにかく、私は借問する、私が犯罪を挑発したらしいものは何もないではないか? と。この非難は警察から出されているもので、多分に妬《ねた》みからだと思う。その非難は、公判の場にも持ち出され、後年、私が指揮した警視庁の活動の場でも云々された。それは証拠があってのことではなく、私を面白く思っていない連中の山師根性からのお先走りで、本庁では、ドラヴォ氏より先任の有能な行政官たちが私を信頼してくれたので、みじめな対応をせずにすんだ。ある日、ドラヴォ氏は、他の刑事たちが失敗した事件を私が解決したことをアングレス課長〔新任のドラヴォ総監がたぶんヴィドックの上司に〕に語りながら、
「ヴィドックはツイてるんだ」
と言い、くるりと刑事たちに背を向けて、
「きみたちもツクようにな」
尊属殺人や大逆罪で恩赦されたのではない。私には罰を受けたり刑に服する理由《いわれ》はまったくなかった。そのことを言明したことは以下の判決文が示すとおりであり、私の恩赦状も証明している。あの忌々しい文書偽造にはまったく協力していません、と私が断言したとき、裁判所は、私の言葉を信ずべきだったのだ。今日では、獄内での悪い冗談には、せめて軽い罰の適用ぐらいですまされていることが実証されている。しかし、裁判所が断罪したのは、ニセ笑いを浮かべていた疑わしい共犯者ではなくて、強情で大胆不敵な活動的な囚人、また同じことをやりかねない、多くの牢破りをたくらんだ主人公であった。私はギセイになったのだ。
判決
唯一にして不可分のフランス共和国の名において――
判決理由
ノール県刑事裁判所による左記の者にたいする革命五年共和暦|葡萄月《ヴァンデミエール》二十八日に発付された起訴状は、カンブレ郡陪審員長によって以下の内容をもって公文書偽造を告訴したものである。セバスチアン・ボワテル、約四十歳、労務者、アヌラン在往。セザール・エルボー、二十歳、元ヴァンダム猟騎兵曹長、リール在住。ウージェーヌ・ストフレ、二十三歳、古物商、リール在住。ジャン・フランソワ・グルアル、十九歳半、陸軍輸送乙種指揮者、リール在住。フランソワ・ヴィドック、アラス生まれ、二十二歳、リール在住。
下記署名のノール県民事裁判所判事は、カンブレ郡陪審員長の職権を行使し、身分上の諸障害を慮り、ノール県刑事裁判所による先の共和暦|実ノリ月《フリュクチドール》七日発効の判決に拠って、リール郡陪審員長による先の芽月《ジェルミナール》二十日および二十六日付けの起訴状の破棄無効を申し立てる。本件は、セザール・エルボー、フランソワ・ヴィドック、セバスチアン・ボワテル、ウージェーヌ・ストフレ、ブリス・コケルの出廷被告とアンドレ・ボルドローの欠席被告にたいする、リール所在の通称『ペテロ塔』監獄より前記セバスチアン・ボワテルの脱獄を目的とする公文書偽造罪の共犯者として告訴されたものである。前記ブリス・コケルは、セバスチアン・ボワテルが同監獄に拘留中、同監獄の看守として警備していたにもかかわらず、偽造文書を用いて囚人を脱獄させたのである。被告人全員は関係書類と共に下記署名人に返送され、改めて起訴陪審に付さるべきである。なお、当該書類を検分した結果、本件訴訟に連坐し、通称『ペテロ塔』監獄に拘留中のジャン・フランソワ・グルアルは、右起訴から除外される旨が上記陪審員長より通告された。なぜならば、執行権のある警察部長の結論と上記|実ノリ月《フリュクチドール》二十四日付けの命令に従って前記グルアルにたいする拘引状が発せられ、続いて、その旨を本人に通告した後、本件偽造の共犯被告として逮捕状が交付されるからである。いかなる告訴人も、本郡の留置場に被告を二日間の留置はできないが、下記署名者は、可及的速かに被告全員の拘留ならびに逮捕の理由に関する書類の調査を行ない、各被告が拘留された罪の性質を検討し、これらの罪は体刑もしくは加辱刑に該当する性質のものと判断し、その結果、当日の命令を発し、よってもって前記の全被告を特別起訴陪審に付すべく召喚した。而して、右の命令に従って下記署名者は、法的必要手続きの後、本起訴状が前記陪審員に提出されるように発付した。
よって、下記署名者は、次のように表明する。いわく、すべては書類調査の結果次第であり、とくにリール自治体第四部の治安裁判所書記が先の雪月《ニヴォス》十九日に作成した調書にかかわりがあり、次いで牧月《プレリアル》九日と二十四日に作成されたドーエ自治体の南部治安判事による調書は本起訴状に添付されている。
リール所在の通称『ペテロ塔』監獄に拘置中のセバスチアン・ボワテルなる者は、カルノ、ルザージュ・スノーおよびルコアンドル署名の共和国四年|霧月《ブリュメール》二十日パリ発の立法委員会ならびに破棄院の虚構の刑の執行停止命令によって自由の身になった。この命令書の裏面には、人民代表者タロが弁護を行なう旨が添記されているが、立法委員会も前記代表者タロも、当該命令書を発付したり弁護引き受けもしていない。さてこそ、本停止命令と添書は偽造公文書であることが確実であり、『立法委員会、破棄院による執行停止』という表題が付いていて、問題書類の検査要点を自ら暴露している。同じ政府機関に二つの異なる機関が混在しているという滑稽な表題になっている。
先の牧月九日、ドーエ監獄の一房で寝台の脚下に隠した把手なしの銅製印鑑一個が発見された。先頃、前記ヴィドックは同監房に起居しており、右の印鑑は本件偽造命令書に押捺された印影と符合し、正に同一のものであることを示している。過日、前記ドーエの南部治安判事がヴィドック在房中を訪ねて寝具を翻転捜索した際、銅または銀の音と共に何物かが落ちるのを耳にした。そのときヴィドックは寝台の上に殺到、落ちた品を隠匿し、それに代えて鑢《やすり》の一片を一同に見せた。前記エルボーとストフレは、ヴィドックが印鑑を所持したるを前もって見ており、同人は、同印鑑に記名されている大隊の中尉からもらったと申しておった。
前記セザール・エルボー、フランソワ・ヴィドック、セバスチアン・ボワテル、ウージェーヌ・ストフレ、ブリス・コケル、アンドレ・ボルドローならびにフランソワ・グルアルは、上記文書偽造の共犯者であり、拘留宣告の判決によって拘置されていた監獄より前記セバスチアン・ボワテルの脱獄計画を計ったとして告訴されたものである。
前記ブリス・コケルは、前記監獄の看守の任にありながら虚構の執行停止の手段を用いて前記セバスチアン・ボワテルの前記監獄より脱獄させたとして別して告訴され、前記ブリス・コケルは、リール陪審員長の面前で当該偽造書類によって先の霜月《フリメール》三日に前記セバスチアン・ボワテルを釈放したことを認めた。
本件命令書は、ストフレが持参してコケルに手交し、ストフレは治安判事の前で持参者であったことを認めた。前記ストフレはエルボーの請いに応じて十日の間に五度乃至六度は牢獄を訪れ、コケルと二、三時間を過ごすを常とした。エルボーおよびボワテルは同一獄房に同居し、前記ストフレは両名に交互に会話をし、虚構の執行停止を告げられた際、ボワテルは偽造文書であることは疑わず、署名については知る由もなかった。前記ストフレは『ペテロ塔』監獄へ書翰を持参したと疑われたが、「あれはウソを申したのでありまして、私はエルボーと面会するために何度もあの牢へ行っておりますが、手紙を持って行ったことはありません」、と供述し、彼の知り合いのブリス・コケルがセバスチアン・ボワテルが自由になった虚構命令書を同人に渡したと治安判事の前で言えと強制したと言を翻した。
フランソワ・ヴィドックは、ボワテルについて知悉《ちしつ》していることとして、ボワテルがコケルのもとに持参された命令書によって出獄したこと、ボワテルがコケルの兄弟と飲酒していたこと、別の囚人プレヴォがドルドレック酒場でかれらと夕食を共にしてコケルとプレヴォが深夜になって戻ったこと、以上だけであるとヴィドックは供述し、ドーエの治安判事に次のことを断言した。寝台の脚の下にあった印鑑は彼の所持品ではなく、同印鑑にある名の大隊に勤務したことはなく、同大隊が彼が勤務した他の一隊と合隊したか否かも関知していない。判事一行が監房を訪れた際に抵抗したのは鑢《やすり》を持っていたからで、鉄鎖を切るのに使うつもりだろうと疑われるのを怖れたためである、と。
前記ボワテルは六年の拘留宣告によって『ペテロ塔』監獄に拘置されていたものであったが、次のことを思い出したとして供述した。ある日、エルボーとヴィドックが、自由になれるためならいくら出すかと言ったので、正貨で十二ルイ出すと約束し、前金七ルイを与え、残金は我が家に戻れたら渡すとした。彼は、ブリス・コケルおよび二名の兄弟と共に牢獄を出て、ドルドレックの酒場で夜十時まで共に飲酒した。ヴィドックとエルボーが手配した偽造命令書によって出獄したことは承知していたが、何人が命令書を持参したかは知らなかった、と。
前記グルアルは、下記署名者の面前で以下の事項を確認した。(イ)、前記ボワテルが上級命令によって釈放されたことを知った、(ロ)、ボワテル出所後に前記命令書を見て偽造だと疑った、(ハ)、エルボーの筆蹟だと思った、(ニ)、前記ボワテルの出所ならびに偽造文書作成にはまったく関与していない。
前記エルボーは、下記署名の陪審員長に次のことを供述した。すなわち、ヴィドックおよび他の囚人たちと共にあった際、ボワテルのことに話がおよび、前記ヴィドックが、ボワテルが自由になれる命令書が作れるかと挑んだので、挑戦を受け、上質紙を入手して署名を入れない問題の命令書を作成し、テーブルに放置しておいたところ、ヴィドックが持ち去った。ボワテルを出獄させた命令書は彼が作成したもので無署名である、と。
欠席被告アンドレ・ボルドローに関しては、偽造文書の件を知悉していたものの如く、よってもって、ボワテル出獄の当日、前記エルボーの来信をストフレに手交し、脱獄の翌日、ボワテルが逃避していたアヌランに赴かしめた。
前記書類と前記調書を証拠として以上の細目を結論すると、公文書一通が偽造され、同偽造文書によってセバスチアン・ボワテルなる者を看視警備のもとに拘留されていたリール所在の『ペテロ塔』なる監獄より先の霜月三日に脱獄させたということになる。この二重の罪について、陪審員一同は、刑法に照らし、前記ボワテル、ストフレ、ヴィドック、コケル、グルアル、エルボーおよびボルドローにたいし、本起訴状に述べられた諸罪に応じて告発するものである。
カンブレにて作成、唯一にして不可分の共和国五年葡萄月二十八日
ノレッケリッツ 署名
共和暦五年霧月六日付けで前記告訴状の下部に記載されたカンブレ郡告訴陪審員の宣言は、前記起訴状に述べられた告訴に関して次のことが行なわれるべきことを記している。
前記陪審員長の告訴に基づく、セバスチアン・ボワテル、セザール・エルボー、ウージェーヌ・ストフレ、フランソワ・グルアルならびにフランソワ・ヴィドックにたいする即刻の身柄拘束命令。
先の霧月二十一日に一同の身柄を県処刑場に移送するための書類作成。
この日付けの判決の特別陪審員の宣言は、次の各項目が記載されている。
一、告訴状に述べられている偽造事実は確実である。
二、被告セザール・エルボーは本件偽造を行なったと認められる。
三、右行為は拙劣かつ悪意をもって行なったと認められる。
四、フランソワ・ヴィドックは本件偽造を行なったと認められる。
五、右行為は拙劣かつ悪意をもって行なったと認められる。
六、前記偽造は公文書を偽造したことが確実である。
七、被告セバスチアン・ボワテルは、贈与、契約、単独犯人または複数犯人に教唆《きょうさ》されて前記偽造を犯したものでないことが確実である。
八、ウージェーヌ・ストフレは、前記偽造文書を工作するか工作に便宜を与えるか、作成遂行の実行に関与するか、そのいずれにも単独犯人または複数犯人を援助または幇助したとは認められない。
九、ジャン・フランソワ・グルアルは、前記偽造文書を工作するか工作に便宜を与えるか、作成遂行の実行に関与するか、そのいずれにも単独犯人または複数犯人を援助または幇助したとは認められない。
右宣言の結果、裁判長は、以下のように判決した。共和暦四年霧月三日の罪罰法第四百二十四章に基づき、前記セバスチアン・ボワテル、ウージェーヌ・ストフレ、ジャン・フランソワ・グルアルに対して提起された起訴を中断し、別件訴因で拘束されていないかぎり、直ちに釈放することを県処刑場管理者に命ずる。
裁判所は、司法委員ならびに被告弁護人デプレ氏の意見を聴取、刑法第二部第二条第二項第四十四章に基づき、フランソワ・ヴィドックとセザール・エルボーに懲役八年の刑を宣告する。本章は左記のように規定している。
公文書偽造ノ刑ハ懲役八年トスル。
刑法第一部第一条第二十八章に基づく命令を発付する。本章は左記のように規定している。
何人ト雖モ監獄、拘留所、留置所ニ禁錮中ニ懲役刑ヲ宣告サレタ者ハ、刑ニ服スルニ先立チ、告訴陪審員ヲ召喚臨場サセタ都市ノ公共広場ニ連行サレル。広場ノ処刑台ノ柱ニ繋ギ、懲役刑マタハ獄内禁錮重労働ニ処セラレタ者ヲ六時間、公衆ノ面前ニ晒ス。拘留刑ニ処セラレタ者ハ四時間、留置所刑ニ処セラレタ者ハ二時間トスル。罪人ノ頭上ニ掲示ヲ行ナイ、大イナル文字デ姓名、職業、住所、罪状、判決ヲ記ス。
共和暦四年霧月三日の罪罰法第四百四十五章は左記のように規定している。
ソレ(罪人晒シ)ハ当該刑事法廷ガ開廷サレル自治体ノ公共広場デ行ナワレル。
前記フランソワ・ヴィドックとセザール・エルボーは、右の規定によって当該自治体の公共広場に設置された処刑台に六時間のあいだ晒される。
司法委員の要請に基づいて本判決は執行される。
唯一にして不可分の共和国五年雪月七日、ノール県刑事裁判所ドーエ法廷において作成朗読、人民《シトワイヤン》代表の裁判長ドエルト、判事、ハヴィン、リケ、レアおよびルグラン出廷のもとに本判決時点に署名した。
国命により、すべての執行官、検事長、第一審法廷担当の検察官は、要請に応じて前記判決の執行に着手し、すべての警察指揮者は正規の要請あるときは本執行に協力せよ。
上記に基づき裁判長および書記が本判決書に署名した。
謄本符合。
書記 ルポアス 署名
欄外に記載。第十三年牧月十六日、ドーエにて登録、六十七折り。裏面、区画二、五フラン受領。ただし、判決分二フラン、弁護分三フラン、全体国庫補助五十サンチーム。
ドマグ 署名
初冊の欄外に記載。民法第二百二十七章により、欠席裁判長に代わってベチュヌ郡第一審法廷判事が、第十三年牧月三十日、本日の調書に略署名。欄外付記承認。
デルディック 署名
[#改ページ]
七 ビセートルへ
森の中の反乱
ドーエ監獄で目の仇にされて種々さまざまな虐待を受けたのには心底まいった。おまけに、判決を受けてからの一段と厳しくなった監視に疲れ切って、上告を見合わせることにした。上告すれば、あと何カ月も、そこに留めおかれることになる。だから、次の話を聞いて、ますます上告断念の決意を固めた。つまり、刑が決まった囚人は、すぐにビセートル〔パリ南郊にあった施療院、狂人収容所、監獄が併立していた施設〕に送られ、鎖を付けられて徒刑囚の列に組みこまれてブレスト〔ブルターニュ半島の端のフィニステール県の主邑で軍港。海軍管理の徒刑場があった〕に移送されるとのことだった。もちろん、移送の途中でトンズラするつもりだったのは言うまでもない。上告については、徒刑場に行ってからでも恩赦の請願を出すことができる、そうすれば上告と同じ効果があるのは間違いなしと聞いていた、ところが、なんと、それから何カ月もドーエに置かれっぱなしにされたので、こんなことなら上告しておくんだったと後悔した。
だが、とうとう移送命令の通達があった。これを聞いて一同は大喜びした。これから徒刑場に送られる男たちがまさかと信じられないかもしれないが、それだけ看守のマランの横暴に悩まされて参っていたのだった。だが、こんどの状態も決して満足いくなんてものではなかった。なぜだか知らないが、看守のユルトレルというやつが一緒にくっついて来た。この男が新式の足枷を発明したおかげで、われわれ一人一人が足に十五リーヴル〔七・五キログラム〕の鉄の玉をつけられ、同時に、幅の広い手枷で二人ずつ繋《つな》がれた。しかも、この上なく監視が厳しいときた。こうなったら小手先の技《わざ》を考えてもダメで、力づくの攻撃しか遁《のが》れられるすべはない。このことを仲間に持ちかけたところ、十四人が応じ、コンピエーニュ〔パリ北東約六〇キロにあるオワーズ川に沿った地域。多くの史的事件がある地〕の森を通るときに計画を実行することにした。デフォスーも一行の中にいた。いつも彼が肛門に入れて持ち歩いていたヤスリ鋸《のこ》を使って、三日がかりで鉄鎖を切った。特別なパテを塗りつけておいたので、護送兵は細工のあとに気がつかなかった。
森に入った。指定の地点で、合図をきっかけに鎖をふり落とし、ぎゅうぎゅう詰めにされていた馬車から飛びおりて籔《やぶ》まで走りこもうとした。護送隊の五人の憲兵と八人の竜騎兵がサーベルを抜いて襲ってきた。われわれは木立をたてに、道路に敷くために積んであった石や最初のドサクサにまぎれて奪った武器で応戦した。一瞬、兵士たちはひるんだが、武器も人数も優っていて、すぐに態勢をたて直した。かれらの最初の射撃で、こちらは即死者が二名、重傷者が五名、残りのやつらは跪《ひざまず》いて命乞いをする始末。けっきょく、降参する他なかった。まだまだ元気でいたデフォスーと私、それに数人の者が馬車に戻ろうとしたとき、戦闘のあいだは少し離れたところに逃げていたユルトレルが近寄ってきて、もたもたしていた運の悪い男にサーベルで袈裟がけに切りつけた。われわれは、その卑怯な振舞いに怒って、まだ馬車に乗っていなかった囚人たちが石を拾いなおし、近くに竜騎兵がいなかったのを幸いに、さんざんにユルトレルを打ちのめした。すると、彼が、自分の首をしめることになるぞっ、と喚いたが、なるほど事態は、はっきりとその通りだったので、仕方なく武器、つまり石を捨てるしかなかった。だが、この事件でユルトレルの横暴も終わりになった。それからというものは、震えながらでなくてはわれわれのそばへ来られなくなった。
サンリス〔パリの北東約三〇キロにあるオワーズ県の一邑〕で、われわれは中継監獄に収容された。私が知っている最高に恐ろしい牢獄だった。看守は、田園監視員〔警察権を持った市町村の警備員〕を兼任していて、牢獄のほうは女房がとりしきっていた。到着するとすぐに、その鬼婆が奥まった場所で身体検査をした。脱獄に使える道具を持っていないか自分の眼で確かめたかったのだ。われわれが、そこらの壁の具合を調べていたら、しゃがれ声で怒鳴るのが聞こえた。
「ヤイ悪党ども、今っから鞭ば持って、オタオタ節の歌い方を教えてやっからな」
ハイよくわかりましたとばかり、みんな、おとなしくなった。翌々日、パリ地区に着いた。外周の大道路に沿って進み、午後の四時にビセートルが見えるところまで来た。
フォンテーヌブロー街道につづく大通りのはずれに着くと、馬車は右に曲がって鉄柵の門をくぐった。私は、門の上の表札を機械的に読んだ。『養老院』。最初の中庭には、灰色の粗末な服を着た大勢の老人たちが歩きまわっていた。カタギの貧乏な人たちであった。単調な、動物的になりきった生活から生まれるバカげた好奇心から、われわれの通り路にわっと集まってきた。これは、よくあることだが、ふつうの人間が養老院に入ると、もう生活の糧《かて》を稼ぐこともなくなって、わずかな能力を使うことなんかやめてしまい、はては完全な恍惚状態になってしまう。二番目の中庭に入ると礼拝堂があった。ふと気がつくと、ほとんどの仲間が手やハンカチで顔を隠していた。これは、多分いくらか恥ずかしい気持になったからだろうと考えるかもしれないが、とんでもない、脱獄する場合に逃げやすいように、なるたけ顔を覚えられないようにと考えてのことだけなのだ。
「さァ着いたぞ。あの四角い建物が見えるな……あれが監獄だ」
私の隣りに坐っていたデフォスーが言った。そして、その言葉どおり、われわれは内側で歩哨が守っている門の前で降ろされた。記録所に入って登録だけされ、人相などの特徴の記載は翌日にまわされた。しかし、看守が、うさん臭そうにデフォスーと私を眺めているのに気づいた。コンピエーニュの森の事件以来、いつも十五分ほど先行していたユルトレルが二人のことをとくに報告したにちがいないと思った。薄い二重の鉄板づくりの低い頑丈な扉をいくつも通り、独房があるくぐり戸を抜け、広い四角な中庭に連れて行かれた。そこには六十人ほどの囚人がいて、叫び声をあげながら陣取り遊びをしていて、その声が建物じゅうに響きわたっていた。われわれが現われると、みんな一斉に遊びをやめて周りをとり囲み、われわれが付けられていた鉄枷をじろじろと眺め、びっくりした様子だった。とにかく、ビセートルに威張って入るには、そういう恰好で現われるのがよいとされていた。というのは、囚人の『貫禄』、つまり脱獄する知恵と度胸は、その男にとられている用心の程度で判断されるからだ。デフォスーは、勝手知ったる他人の家へ来たようなもので、われわれをノール県の指折りの兇状持ちだと披露《ひろう》するぐらい朝飯前のことだった。その上、特別に私を持ち上げた。おかげで、私は、監獄の重要人物みんなに取り囲まれて盛大な歓迎を受けた。ボーモン一家、ギョームとっつぁん組、モージェ一家、ジョサス一家、マルタ人党、コルニュ一味、ブロンディ一家、トルフラ一家、リシャール一味などの身内やリヨンの飛脚殺しの共犯の一人などが私から離れなかった。旅のあいだに付けていた鉄枷が外されると、すぐに私は酒保に引っぱっていかれ、二時間というものたいへんな数の人間の相手をさせられた。時に、監視主任だという警官の帽子をかぶった大男が私たちを連れに来て、アオン砦という名がついた大きな部屋に連れて行った。そこで、黒と灰色がだんだらになったカザック風の囚人服に着替えさせられ、同時に主任が、私を班長にすると言い渡した。つまり、私は班員の食糧の分配をとりしきることになった。おかげで、私は、他のやつらは簡易ベッドで寝るのに、かなり上等なベッドが与えられた。
四日のあいだに、私は全囚人に知れ渡った。みんな、私の武勇は大したもんなんだなと評判したが、ボーモンは、私を試してやれとばかりに、理不尽なイチャモンをつけてきた。二人は殴りあったが、相手はサヴァト〔フランス式キックボクシング〕という体術の達人だったので、私は、こてんぱんにのされてしまった。だが、その次は獄房の中で復讐戦をやった。そこでは、ボーモンも技《わざ》の冴えを発揮できる広さがなく、こんどは彼の負けになった。しかし、私は、最初の敗北を反省し、サヴァト秘術の手ほどきを受けようと思いついた。そして、ちょうどその頃、サヴァトの神様、有名なジャン・グーピルがビセートルに投獄されていて、やがて彼は、師の名を高める門弟たちの中に私を加えてくれた。
ビセートル監獄の敷地は広大な四角形になっていて、その中に、いろいろな建物と、それぞれ違った名がついている多くの中庭があった。囚人が散歩する『大庭』、『台所庭』、『犬庭』、『ヤキ入れ庭』、『くびき庭』などがあった。この最後の庭に面して五階建の新獄舎があり、各階に四人の囚人を収容する四十の房があった。平屋根の上には夜も昼も龍號《ドラゴン》という犬がうろついていて、用心ぶかいのと買収がきかないので通っていた。しかし、後になって、囚人たちは、羊の腿《もも》肉ローストという方法で買収に成功した。やはり、それを受けるという犯罪的な弱味があったのだ。とかく誰かを誘惑するのに一番効き目があるのは食い意地に訴えるのがいいというのは本当のことで、食欲は、すべての生き物に公平に作用するからだ。なにかの野心、賭事、色恋の欲望には、自然に定められた終わりというものがあるが、食欲には年齢がなく、ときには消極的な抵抗があるけれども、消化剤をのめば抵抗は消える。それはさておき、ドラゴン君が腿肉を賞味していたあいだに会食者《アンフィトリヨン》どもはトンズラをきめこんだので、ドラゴン君はぶん殴られて『犬庭』へ追放された。そこでは、鎖につながれて平屋根で味わっていた自由な空気を奪われ、身から出た錆でどうしようもなく、日に日に衰弱していって、とうとう悔恨にひしがれて息を引きとった。一瞬の貪欲と過失のギセイになったのである。
いま話した建物のそばに旧獄舎があった。ほとんど同じような作りになっていたが、地下に保護房というのがあって、騒乱罪とか死刑を宣告された囚人が入れられていた。そうした房の一つに大盗カルツーシュ〔十八世紀初頭の盗賊団の大親分、一六九三〜一七二一。グレーブ広場で車責めの刑に処せられた〕の共犯者が四十三年間も入っていた。カルツーシュは、自分を助けるためにその男を裏切ったのだ! その男は、一瞬でもいいから陽の光を浴びたいと思い、なんども死んだフリをした。それが、いつもあまりにも真に迫っていたので、彼が本当に息を引きとってから二日間も首枷をはめたままにしておかれた。三番目の建物は『強力《ラフォルス》』棟〔パリのマレー地区にあった同名の監獄とは別〕と呼ばれていて、いろいろな房があり、地方から着いた囚人や、われわれのような徒刑場行きの者が入れられていた。
当時のビセートル監獄は、千二百人の囚人を収容できたが、ただもう監視を厳しくすることだけで維持していた。囚人たちは、ぎゅうぎゅう詰めにされ、看守たちの態度ときたら、その我慢ならない状態を和らげる気持なんかまったくなかった。しかめっ面で、だみ声の乱暴な口をきいて囚人を虐待し、しかめっ面が消えるのは銭コの顔を拝んだときだけだった。その上、どんな悪行も見て見ぬフリをし、脱獄さえしようとしなければまァまァといった態度だったので、監獄の中は何でもやりたい放題で、なんの邪魔も心配もなかった。強姦罪で刑を受けても平気な男たちが大ぴらにワイセツ行為の実践教育を行ない、泥棒たちが獄内で稼業に精をだしていても、職員たちの誰も文句を言わなかった。
いい服装《なり》をした新入りが地方から送られて来た。初犯で刑を受け、まだ牢内の風習や慣例になじんでいなかった。眼をパチクリさせているあいだに服をはぎとられ、眼の前で競売にかけられて最高値で売りとばされた。その男は、おなじく社会のタメだといって、宝石やお金も捲き上げられた。さらに耳飾りを外すのに時間がかかりすぎるといって、本人に四の五の言わせずに、むしり取ってしまった。男は、前もって、もし喋ったら夜のうちに格子窓からブラ下がることになるぞと脅かされていたが、まもなく、喋らないまま自殺してしまった。
ふつう、囚人は、用心のために自分の持物を枕にして寝る。その男が寝こむのを待って、男の足に敷石を縛った紐を結びつけ、その石を簡易ベッドの端っこに置く。ほんのちょっと動いただけで敷石がベッドの下に落ち、その不意のショックで眼を覚ました寝呆け男が身体を起こす。何が起きたか気づく前に枕にしていた包みは紐で引き上げられ、窓格子のあいだを通り抜けて上の階にとどくという仕掛け。
私は、冬のさ中に、そんなふうに身ぐるみはがれた哀れな男たちが、下着一枚で中庭に立って誰かが裸を覆うボロ服を投げてくれるのを待っている姿を見たことがある。そういう男たちもビセートルにいるあいだは、言うなれば藁の中にでも潜りこんで厳しい季節に堪えることができるが、徒刑場へ出発するときになって、上っ張りと包装布で作ったズボンしか着る物がないとなると、最初の宿泊地に着く前に寒さのために死ぬことがよくある。
説明しておかねばならないのは、こうした事実が、容易に真人間に立ち戻らせる男たちを急に堕落させ、とことん背徳行為をすることによってしか今の惨めさから遁れられず、かれらの実際の、あるいは見せかけの悪事を誇張して自分たちの辛い境遇を和らげようとする。世間では、誰もが恥を恐れるが、囚人仲間では、破廉恥でないものを恥とする。囚人は別の国を作っていて、そこへ来た者は誰であれ、かれらの言葉で話し、かれら流の考え方をしなければ敵として扱われる。
獄内の悪習は、いま述べたようなものだけではなくて、もっと恐ろしいことがあった。裏切者とか警察のイヌだとされた囚人は、なさけ容赦なく立ちどころに殺され、看守たちは誰一人として仲に入って助けてやろうとはしなかった。予審の際、共犯者を巻き添えにするような供述をした男には別の房をあたえざるを得ないというところまで来ていた。いっぽうでは、盗賊たちの破廉恥と職員の背徳が度を越して、外部の人間をダマす、いかさまや詐欺が獄中で大ぴらに行なわれたりした。ここでは一つの例しか示さないが、だまされる側の欲にからんだ軽信と詐欺師の大胆さの程度を知るには十分であろう。
ペテン師は、田舎に住んでいる金持の住所を手に入れる。これは、たえず入所してくる囚人たちから簡単に入手できる。次に、その金持に手紙を書く。いわゆる隠語で『エルサレムからの手紙』というやつで、次のようなことが書いてある。場所や人名は状況に応じて変わるのは言うまでもない。
――ムッシュ、
見ず知らずの者からの唐突なお願いの手紙で、さぞ驚かれることと思います。ですが、私はたいへん困った立場にありまして、立派な方々の御援助がないと破滅してしまうのです。こうして貴方様に声をかけますのも、一時は私の身の上を申し上げるのはためらったのですが、あまりにも貴方様のお人柄の良さを聞かされたからでございます。私こと、××候爵の下男をしておりましたが、革命さわぎで御主人と一緒に亡命いたしました。怪しまれないように徒歩で旅をし、私が荷物を持ちました。荷物の中には小箱があって、金貨で一万六千フランと亡くなられた候爵夫人のダイヤモンドが入っていました。たまたま、私どもは○○軍団に出くわしそうになり、気づかれて義勇軍の分隊に追われました。追手が迫っているのを見た侯爵様は、例の小箱を側《そば》の深い沼に投げこめと命令されました。そんな物を持っていて捕まったら身分がわかってしまうからです。私は、夜になったら箱を探しに戻ろうと思っていましたが、分隊長が私どもを追うために早鐘を鳴らし、集まってきた百姓たちが私どもが隠れていた森の山狩りを懸命に始めたので、逃げだすのが精いっぱいでした。外国に着くと、侯爵様は××公爵からいくらか借金をされましたが、それも、やがて底をつき、沼にある小箱を取りに私を行かそうと考えられました。すぐに見つけだす自信はありました。と申しますのは、当分は戻れないと思って、箱を手放した次の日に記憶をたよりに地図を書いておいたからです。私は外国を出てフランスに戻り、私どもが追いこまれた森の近くの××村に無事に着きました。この村は貴方様の御住居から四分の三キロしか離れていませんから、よくご存知のことと思います。ところが、私が任務にとりかかろうとした矢先、私が泊まっていた宿の主人というのが熱狂的なジャコバン党員で、国有財産をせしめた男だったのですが、共和国バンザイを唱えて乾杯したときに私がためらったのを見てとって、私を反革命の容疑者として逮捕させたのです。私は身分証明書を持っていませんでしたし、運悪く逮捕命令で手配されていた男に似ていたものですから、共犯だと申し立てている人たちと対決させるために監獄から監獄へとタライ回しにされました。以上のような次第でビセートルまで来て、二カ月前から病舎に入っております。
この辛い境遇の中で、いつだったか私の主人の親戚の御婦人で、そちらの小郡《カントン》に土地をお持ちの方が、貴方様のことを話しておられたのを思いだしまして、できましたら例の小箱を引き上げて、中身の金の一部を私めに送っていただくことを伏してお願いする次第でございます。そのあかつきには、私も差しせまって必要な物を手に入れられますし、この手紙を書き取りしてくれた弁護士さんにも支払いができ、また、いくらかの付け届けをして目下の苦境から脱けだせるのは確実でございます。
何某様、敬具など。
N……署名
このような手紙百通のうち、二十通は返事がくる。このことは、旧体制の秩序に愛着をもち、党派心などまったくない人物にしぼって呼びかけることを心掛けているのを知れば、さして驚くことではない。それに、受託者を指名されて限りない信頼を寄せられると、その自尊心や欲ボケ心に効果てきめんである。そこで、田舎者は、その荷物を取ってくるのを引き受けましょうと返事してくる。下男と称する男からの次の手紙は、わずかな金額の代わりに、何も持物がないので、問題の地図を二重底に入れてある鞄を看護人にあずけてしまった、という内容のものである。すると金がとどく。こうやって千二百から千五百フランくらいまでの金を受け取る。そうこうしていると、わしは利口者なんだとばかりに、幾人かの送金者が、はるばる田舎からビセートルまで押しかけて来る。すると、詐欺師は、例の謎の森へ行くための地図を渡す。だが、騎士物語のマボロシの森のように永遠に眼の前には現われない。ときには、パリの人間でさえワナにかかることがある。新橋《ボンヌフ》の橋弧を爆破しようとしていたところを見つかったプルヴェール街の毛織物商の事件は、いまだに世間の記憶に残っている。彼は、その下にブイヨン公爵夫人のダイヤモンドが見つかると思っていたのだった。
ともあれ、宝探しをする田舎の人からの手紙を最初に受け取るのは監獄の職員だから、こうしたやり方は職員がグルになって手を貸さないと実行できないのは誰でもわかる。ただ、看守側としては、囚人が食べ物や酒で消費を増やして得られる間接的なミイリとは別個に、かれらが、そんなことでもして忙しくしていれば、脱獄をたくらむことも少ないだろうと考えていた。おなじ原理で、いろいろな細工物を作ることも黙認されていて、藁や木や骨の細工物、それに一時パリにあふれていた二スウのニセ硬貨まであった。これらの他にも内密に作られていたものがあった。こっそりと、ペン書きの人目をあざむくニセ旅券や金《かな》ノコやカツラなどが作られた。カツラは、徒刑場から脱走するときには大いに役に立つ。徒刑囚は、とくに見分けがつくように丸坊主にされるからだ。これらの様々な品物はブリキの容器に隠されて肛門に差しこまれていた。
さて、私は、あい変わらず、徒刑場へは行かないでどこかの港へ行って船に乗って逃げることばかり考え、日夜、ビセートルから出る方法を練っていた。そして、ついに次の方法を思いついた。『マオン砦』房の床に穴をあけて建物の下にある水道水路に達し、さらに短い坑《あな》を掘れば狂人収容所の中庭に出られて、そこから外へ出るのは難しくないはずだ。この計画を十日と十夜かけて実行に移し、その期間中は、要注意と思われる囚人、つまり秘密をもらしそうな仲間が外に出るときは、かならず確かな男が付き添うことにした。だが、月が下弦になるのを待たねばならなかった。そして、ついに、一七九七年十月十三日、朝の二時、われわれ三十四人は水路に降りた。龕灯《がんとう》は何個も用意しており、まもなく地下坑を掘って『フーテン庭』に出た。ところが、庭から外へ出るには壁を越える梯子か、せめてその代わりになるような物を見つける必要があった。けっきょく最後に、かなり長い竿が手に入った。そして、誰が最初に登るかを『濡れ指』〔いかなる方法のクジか不明〕で決めようとしていたとき、とつぜん鎖の音が夜の静寂を乱した。
庭の隅にあった犬小舎から犬が出てきた。われわれは、そのまま息を殺して立っていた。決定的な瞬間……犬は、居場所を変えたかっただけだとでもいうふうにアクビをして寝そべり、中に入りたいかのように小舎に片足をかけた。助かったと思った。が、ふいに、犬が、われわれが固まっているほうを振り向き、燠《お》き炭のような両の眼でじっとこちらを見すえた。ウーという唸り声が吠え声に変わって、建物いっぱいに響きわたった。最初、デフォスーが、犬の首をひねり殺してやろうかと言ったが、あの図体の敵さんでは、どっちが勝つか危ないぞと引きとめ、それよか狂人どもの治療場に使われる開けっぱなしになっている大部屋に隠れたほうがいいということになった。だが、ワン公は、一向にワンワンを低めずに吠えつづけ、仲間の犬どもまでが合唱を始め、なんとも騒ぎがひどくなったので、監視主任のジルーが、入所者に何か特別に変わったことでも起きたかと様子を見にやってきた。監獄内のことなら知りつくしていたジルーは、マオン砦から巡回を始めたが、そこに誰もいないのを見てびっくり仰天、あやうく腰を抜かしそうになった。彼の叫び声で、門衛、牢番、看守たち、みんなが駈けつけてきて、すぐに脱出ルートを発見し、おなじ道をたどって『フーテン庭』に出てきた。そして、鎖を解かれた犬が、まっしぐらに我々を目ざして突進してくる一方、牢番が、敵の堡《とりで》を奪取するかのような意気ごみで銃剣を構えて部屋に踏みこんできた。われわれは手錠をかけられた。監獄では、大して重大でない事の始まりを示す並の扱いである。その後、べつに痛めつけられもせずに、マオン砦ではなくて独房に戻された。
この企ては、その監獄を舞台にした過去最高の大胆なものとして、管理者たちを大混乱に陥れ、マオン砦の囚人が一人足りないことが二日間も気づかれずにいた。それはデフォスーのことで、彼の抜かりのなさは承知していたから、私は、とっくに遠くにフケているものと思っていた。ところが、三日目の朝、蒼《あお》ざめて打ちのめされ、血だらけになった彼が私の房に入って来たではないか。房の戸が閉まると、その冒険談の一部始終を語ってくれた。
われわれを牢番が捕まえた時、彼は、たぶん行水か風呂に使われていたらしい桶みたいな物の中に身をひそめた。物音が聞こえなくなったので隠れ桶から出てきて、竿を使っていくつか壁を越えたが、いつまでたっても『フーテン庭』から抜け出せなかった。そのうち、夜が明けかかってきて、建物の中では早くも人が行き来する音がしている。施療施設ほど朝の早いところはないのだ。まもなく、それぞれの中庭に面した建物を必ず見回りに来るはずの職員の眼を避けねばならない。とある狂人用の独房のくぐり戸が半開きになっていたので、そこから入りこみ、用心の上にも用心と思って大きな藁の山に潜《もぐ》りこもうとした。ところが、そこに裸の男がしゃがんでいたので、いや驚いたのなんの。髪はボサボサ、ひげボウボウ、血走った兇暴な眼つき。そいつは狂人だった、デフォスーを猛々《たけだけ》しく睨みつけ、ちらっと眼くばせをし、デフォスーが動かないでいたら、八つ裂きにでもする勢いで不意に飛びかかってきた。しかし、あれこれ宥《なだ》めたら、おとなしくなったみたいで、デフォスーの手をとって自分の横に坐らせ、猿のような、ぶっきらぼうで、ぎくしゃくした動作で、ありったけの藁をかき集めてデフォスーに敷かせた。
朝の八時、くぐり戸から黒パンが投げこまれた。狂人は、それを拾ってしばらくのあいだ矯《た》めつ眇《すが》めつしてから大便桶に投げこみ、あっと思ったら、そのパンを引っぱりだしてむさぼり食った。昼間、またパンがとどけられたが、狂人が眠っていたので、一か八か、そいつを失敬して食べた。もし運悪く食べ物を横取りしているのを見られたら、その怖ろしい仲間に自分が食われるかもしれないと思った。夕暮れになると、狂人は眼をさまし、しばらくのあいだ引っきりなしに喋りつづけた。夜になった。狂人は、ますます興奮し、嬉しそうに鎖を振りまわしながら、飛んだり跳ねたり、ものすごく身体をねじったりし始めた。
この怖ろしい状況の中で、デフォスーは、くぐり戸から外へ出てやろうと思って、辛抱づよく狂人が眠るのを待った。真夜中ごろ、狂人の動く音がしなくなったので、くぐり戸に近づき、片腕を通し、頭を……としたときに足をつかんだ者がある。狂人だった。すごい腕力でデフォスーを藁の上に投げとばし、くぐり戸の前に陣取って、夜が明けるまで銅像のように動かなかった。次の夜、あらためて脱出を試みたが、再度の妨害に会った。デフォスーは頭がおかしくなりそうになり、力づくで出ようとして、すさまじい争いになった。彼は鎖でたたかれ、からだじゅう咬み傷と打身だらけになり、仕方なく番人を呼んだ。はじめ、番人は、彼を迷い子になった施療患者だと思って狂人独房に入れようとしたが、なんとかわかってもらって、やっとのことで、われわれ仲間のところに帰してもらった。
われわれは八日間、独房に留めておかれ、そのあと、『堤防』部屋に入れられ、私が来たとき大歓迎をしてくれた囚人たちと再び顔を合わせた。かれらはたいへん贅沢をしていて、好き放題のことをしていた。『エルサレムからの手紙』の金とは別に知り合いの女たちがせっせと面会に来て差し入れをしていたからだ。私は、ドーエのときと同じに監視の眼玉囚人になっていたが、脱獄してやろうという思いは一向に衰えなかった。だが、そのうち、とうとう鎖を付けられて徒刑場へ出発する日が来た。
[#改ページ]
八 ブレスト送り
くさり
一七九七年十一月二十日だった。この日の午前中、監獄内にただならぬ動きがあったのは誰しも気づいたはずだ。囚人たちは房から外へ出されていなかった。そこらの戸が開いたり閉まったりして、そのたびにギイギイ音をたてた。看守たちが忙しそうに行ったり来たりしていた。広場で鉄枷を外している音が我々のところまで聞こえた。私は、八日前からマオン砦の脱獄仲間と一緒にされていたが、十一時ごろ、青い制服の二人の男が入って来た。鎖の責任者で護送隊長の大尉と中尉だった。その大尉が、なれなれしい親切ごかしの微笑を浮かべて、
「オイ、ここには戻り馬(脱獄して再び徒刑囚になる者)はおるかね?」
こう言っていると、そこらのみんながゴマをすって大きな声で、
「こんにちわ、ムッシュ・ヴィエ、こんにちわ、ムッシュ・チエリ」
ヴィエやチエリに会ったこともない囚人たちも、よくしてもらおうと、さも見知っているかのように挨拶する。おだてられて、まんざらでもないが、ヴィエ大尉は、こうした強《こわ》もてには慣れていて、本心は失わず、万事、ちゃんと心得ていて、デフォスーを見つけて、
「オヤオヤ、『てっきり屋』(鉄枷を切るのが上手な囚人)さんがおるわい。いっしょに旅したことがあったっけ。ドーエで飛ばされ(ギロチンで首が飛ぶ)そこなって、わしのとこへ舞い戻ったってわけか。笠の台が飛ばなくってよかったな、死にぞこないめ。なァおい、やっぱり別荘(徒刑場)へ戻ったほうがマシだよ。わしらと首斬り人足(死刑執行人)とはオツム(頭)の出来がちがうもんな。それに、いいか、みんな、よい子にしていればパセリ付きのステーキが出るぞ」
大尉は、下見を始めただけで、『商品』、つまり彼の言う囚人たちに悪い冗談をとばしつづけた。
決定的な時が近づく。われわれが『くびき』庭に降りると、監獄医が、どうにか全員が道中の疲労に堪えられるかを確かめにやって来て、からだが悪いのが何人かいても、全員良好だと報告する。次に、各人が囚人服を脱いで自分の服に着替える。中には自分のものなどなくて、寒さと湿気に堪えるには心細いが、官給の上っ張りと帆布製のズボンだけをもらう者もいる。帽子とか、囚人には不似合な服は、脱走を防ぐために変わったやり方で千切られ裂かれる。たとえば、帽子の鍔《つば》や服の襟をちょん切られてしまう。どんな囚人も六フラン以上は所持できない。右の額を超える分は大尉にあずけておいて、必要に応じて途中で交付を受ける。しかし、この方法の裏をかくのは朝飯前で、旋盤でえぐった二スウ貨の中にルイ金貨を隠す。
こうした前ぶれ行事がすむと、広い中庭に連れて行かれ、そこにはアルグザン〔徒刑囚の監視人のこと、スペイン語のアルグワシル、警官、に由来する〕の名で有名な徒刑囚の見張人どもが待機している。こいつらは、たいていの者がオーヴェルニュ〔現在のピュイ・ド・ドーム県、カンタル県、オート・ロワール県にあたる地方〕人で、水運び、使い走り、炭焼きを本業にしていて、囚人護送の合いの間かせぎをしていた。かれらの中央には大きな木箱が置いてあり、引きつづき同じような護送があるのに備えて、どっさり鉄製の刑具が納まっていた。われわれは身長順に列を作らされ、二人ずつ約二メートルの鎖でつながれて、たちまち二十六人の囚人がクサリ組にまとめられた。こうなると、集団でしか動きようがない。めいめいが、鎖に付いている三角の形をした首輪《クラヴァット》をかけられる。片側は連結ボルト付きで開いており、他の側は冷えたリベットで固定されている。さて、次は、鉄《かな》床の上に首をのばし、危険なボルト打ちの作業になる。どんなに反抗的で兇暴な囚人も、そのときだけはじっと身動きしない。ちょっとでも動いたら、頭をかすめるハンマーが鉄床を打たずに脳天を砕いてしまうからだ。これがすむと、長い鋏を持った一人の囚人が、徒刑囚全員の髪やヒゲを切って、わざと不揃いにしておく。
晩の五時に鎖付けが終わり、アルグザンたちが引き退ると、中庭に残ったのは囚人だけになった。連中は、自分たちだけになると、絶望して落ちこむどころか、ぜんぜん手放しで陽気に賑かになった。あくどい冗談を喚きちらし、なんとも下卑た声の調子で同じことを繰り返したり、いやらしい身振りで仲間のバカ笑いを誘ったりした。恥も外聞もどこへやら、見るもの聞くもの、ピンからキリまで人の道に外れた聞くにたえないことばかり。つまり、これは本当の本当のことで、いったんクサリを付けられると、囚人は、彼を押しのけて入れてくれなかった社会が尊重している一切のものを踏みにじってやらねばと思いこむ。もう彼を抑えつける障害物は何もない。そのクサリの長さが彼の憲章の長さで、彼にとって法律とは、彼を痛めつけた加害者の棍棒だけである。神聖なものなど屁とも思わない連中の中に投げだされ、心から後悔して、あきらめきっている態度を見せるように気くばりをする。すると、まわり全体からあざけられ、牢番は、ほんとうにマジなのかどうか不安になって、なにか企んでいるんだろうと責めたてる。もし、そんな考えでいて気がおさまるなら、そのまま何食わぬ顔をしていたらいい。自分の運命を賭ける囚人は信用していい。徒刑場から脱走する大半の徒刑囚の経験がいい証拠である。われわれの中で脱走に最大の関心をもっている者たちは、誰よりもメソメソなんかしておらず、はやし方になっていた。
夜になると、かれは早々と歌いはじめる。ほとんど酔っぱらっている五十人の悪党どもが、さまざまな調子で大声をあげて歌っているのを想像して下さい。その騒ぎのド真ん中で、一人の『戻り馬』が、徒刑囚の哀歌の数節を大声で歌いはじめた。
クサリは、
つめたい。
どうでもいいや、
痛かァないもん。
おいらの服はまっ赤っか、
囚人頭巾と首輪の接ぎ目
帽子の代わりになっていて、
胸の飾りを引きたてる。
ぐちを言うのは筋ちがい、
甘やかされたワルガキだ、
だもんで家出を心配し
おいらを鎖でつなぐんだ。
おいらは作る立派な細工
ワラでも作るココナツも、
ずらり並べて陳列し
店の税金払わねェ。
徒刑場へ来る人は
きっと買い上げたのんだぜ。
おいらは儲けで、
のどしめす。
腹いっぱいに詰めこむ時は、
インゲン豆だよまず最初!
うまくはないが
大牢の珍味。
おいらの不運はひどいもの、
もしも可愛い小僧のように、
おくやみ山の道場に
おいらを入門させてれば。
仲間たちみんなが同じように浮かれていたわけではなかった。三番目のクサリ組は、やけにおとなしくしていて、いきなり啜《すす》り泣きをはじめ、にがい涙を流すのが見えた。ただし、その苦悩または悔悟のしるしは、他の二組のクサリ組に弥次《やじ》られ侮辱されたからで、この点、私は、はなっから、あんな弥次りかたをすると危ないなと予見していた。私のそばに二人の男がいた。一人は元学校教師で窃盗罪、もう一人は元軍医で文書偽造罪の囚人で、かれらは喜びも落胆もせず、たいへん静かに、とても自然に一緒に話し合っていた。教師が言う。
「ブレスト行きかな?」
「うん、ブレストへ行くと思う……おれ、あそこは知ってるんだ……第十六半旅団の軍医補でいたことがある。いいところだ、ほんと……また行ったって腹は立たないよ」
「なにか楽しみがある所かな?」
私には、それほど強い印象をあたえていなかった教育者が、こう言いかえすと、ちょっとびっくりした様子で、話し相手が、
「楽しみ?」
「そうだ、楽しみだ……なにか甘い物が手に入るかどうか、待遇がいいかどうか……食べ物が安いかどうかを訊きたいんだ」
すると、話し相手が静かに答えた。
「とにかく、飯《めし》は食わせてもらえる……ちゃんと食わせてもらえるよ。ブレストの徒刑場じゃ、スープの中の空豆を見つけるのは二時間しかかからないが、ツーロンじゃ八日かかる」
ここで、第二のクサリ組が大きな叫び声をあげたので会話が途切れた。三人の囚人が鎖で打ちたおされた。元軍事委員のルミエール、参謀将校のシモン、『チビの水兵』こと泥棒の三人だった。監獄側は、誰かが何かをバラして仲間を裏切ったか、それとも獄内の何らかの陰謀に失敗したかであると断定した。かれらに徒刑囚たちの仕返しがあるぞと報せたのは一人の若者で、こいつとの出会いで、彼を画家か役者だと思ったのが運のつきだったのだ。その若者は、緑色の粗末なスリッパをつっかけ、ボタンがとれた狩猟上衣をひっかけ、きびしい季節にも堪える南京木綿のズボンをはいていた。庇《ひさし》のないハンチングを頭にのせて飾り、その三つの穴に古びたスカーフの端が通してあった。ビセートルでは、彼のことを、ただ『マドモワゼル』と呼び、彼こそパリに巣食っていて忌わしいオカマをやっていた男で、不潔な淫欲の舞台を牢獄に見つけたのだった。とりあえず、騒ぎを聞いてアルグザンたちが駈けつけ、身動きできなくなっていた『チビの水兵』を徒刑囚たちの手から引き離したが、彼は、出発して四日目に受けた打撲で死んだ。ルミエールとシモンも、私がお節介をやかないうちに息をひきとった。ルミエールは、私が巡回軍隊で知り合って何かと役に立ってくれた男だった。
マオン砦の床に穴を開けるのに必要だった道具を用意してくれたのはルミエールだったと私が証言してやったところ、徒刑囚たちは、それから死んだ彼とその仲間のことを忘れてくれた。
徒刑囚護送人《アルグザン》
われわれは、その頃は倉庫に変わっていた教会の藁の上で夜をすごした。アルグザンたちは、のべつ見回りにやってきて、バイオリンを弾いている(鎖を切っている)者がいないかを確かめた。昼間になると、みんなを立たせて点呼して鎖を調べた。六時、われわれは背中あわせに長い荷車に乗せられ、足を外にたらし、霧氷《むひょう》にさらされ、寒さにこごえっぱなし。それだけでも閉口しているのに、サンシールに着くと、靴下、靴、下着、口、耳、鼻の孔、もっと内緒な他の所も、調べられる場所は徹底的に検査された。これは、例の筒に入れたヤスリばかりでなく、三時間たらずで鎖が切れる振り子時計のゼンマイも見つけるためだった。検査は一時間ばかりかかったが、それこそ奇跡的に半数の者が鼻も足もこごえずにすんだ。さて、寝る段になると、われわれは牛小舎にスシ詰めにされ、あまり詰めこまれたので、先の者のからだが、後からの者の枕になる始末。クサリ付きの自分と、同じくクサリ付きの隣りのやつとで身動きができず、もたついていると、たちまち棍棒の雨が降った。使い古した牛の寝ワラが幾握りかある上に横になると、とたんにピュッと呼笛《ふえ》が鳴って、金輪際もう口をきいてはならんと命令され、ちょっとでも何か言うと、小舎の端に陣取っている番人が立ち上がり、アルグザンどもは、われわれの身体の上を平気で歩った。
晩飯は、いんちきインゲン豆スープと、ほんの少しの腐りかけた肉だった。配給食は三十人分の木のバケツに入れてあって、大さじを構えた炊事係がその前に囚人が立つと、かならず一人一人にこう繰り返して言う。
「一、二、三、四、鉢をだせ、ドロボー野郎!」
スープと肉に使った同じバケツでワインが配られ、さて、アルグザンは、ボタン穴にぶら下げている笛を手にとり、三度鳴らしてから言う。
「いいか、泥棒野郎、ウイとかノンとか答えろ。パンを食ったか?」
「ウイ」
「スープは?」
「ウイ」
「肉は?」
「ウイ」
「ワインは?」
「ウイ」
「……よォし、だったら寝るか寝たフリをしろ」
この間に、牛小舎の入口には食卓が用意され、大尉、中尉、アルグザンの班長たちが、われわれのよりはちイとばかし上等な食事をしに席につく。この連中は、事あるごとに囚人の金を捲きあげてゴチにありつくのをよしとしていた。このころになると、牛小舎は一段と世にも醜悪な光景になる。片や、畜生同様に囲いに入れられた百二十人の囚人が、うつろな眼をぎょろつかせ、苦しくて眠るどころではなく、他方では、人相の悪い八人の看視人が、瞬時も騎兵銃と棍棒から眼をはなさないでいる。牛小舎の黒ずんだ壁に取りつけられた何本かのローソクが、その凄まじい情景を弱い黄色っぽい光で照らし、その静けさを乱すのは、かすかな苦しみの声と鎖の音だけである。アルグザンどもは、意味もなく囚人をぶん殴るのは物足りないので、さらに怖ろしい余興じみたことをやった。たとえば、ノドが渇いてたまらない男が水をたのんだとすると、アルグザンは、でっかい声で言う。
「水が欲しいやつは手をあげろ」
すると、男は、なんの疑いも持たずに言われたとおりにする。とたんに、いやというほどぶん殴られる。もっとも、いくらか金を持っている囚人には、それ相応の手加減がされる。しかし、そういうのは少数で、たいていの囚人は、わずかな所持金を使い果たしていた。
徒刑囚の護送で見られた悪習は、こうしたものだけではなかった。護送費をピンはねするために、大尉は、いつもクサリ組の一群を荷車に乗せずに徒歩で歩かせた。そういう一群は、きまって、いちばん強そうな連中、つまり、わいわい元気で騒いでいる囚人たちであった。こんな連中に出会った女や、かれらの通路にある店はたまったものではない。女たちは、兇暴の限りをつくして乱暴され、あっという間に店が荒らされる。私が、じっさいにモルレーで見た食料品店では、一山の砂糖も一かけらの石鹸も残っていなかった。たぶん、それは、護送人が違法行為をやらせているのではないか? と尋ねられるかもしれない。そういえば、護送人は、事実、何の妨げも受けずに囚人たちをケシかけて、結局は盗みを利用していると十分に信じられる。つまり、徒刑囚が掻っぱらい品を売りたいとか強い酒と交換したいとかと申し出る相手は護送人だからだ。これと同じやり方で、護送途中の囚人に強奪が行なわれる。一般に、クサリを付けられたとたんに、まわりの連中が取り囲んで、持てるはずのなけなしの金を盗られてしまうものである。
こうした盗みを防止したり盗む者を捕まえたりするどころか、アルグザンは、しょっちゅう囚人たちをケシかけた。パンツの中に何ルイか隠していると思われていた元憲兵に仕掛けられたのを私は見たことがある。
「アブラ身があるぜ」
こう、その連中が言ってから三分たつと、哀れな男はシャツ一枚の姿になった。ふつう、こうした場合、ギセイ者は大声をあげてアルグザンの助けを呼ぶ。ところが、アルグザンは、すべてが終わってからでないと……盗んだやつを棍棒でどやしつけには、ぜったいに来ない。レンヌでは、この私が話しているグループが、その夜泊まることになっていた調馬場で、タバコと金をとどけに来た慈善団体の修道女を犯すという破廉恥を働くまでになった。こうした言語道断な悪行は今では消えたが、まだまだいくらか残っていて、徒刑囚の護送者たちと、かれらがやっている事柄をじっくり見てみると、非行根絶はかなり難しいようである。
つらい旅が二十四日つづいた。ポンタルザンに着くと、徒刑場の留置場に入れられ、囚人は、ある意味での検疫期間をすごす。この間に疲労を恢復させ、伝染病にかかっていないかを見とどける。到着するとすぐに、ぬるま湯を一杯にした大桶に二人ずつ入れて洗い、湯槽から出ると徒刑囚の衣服一式が渡される。私も他の者と同じように赤い上衣《カザック》、ズボン二本、帆布製の下着二枚、靴二足、緑色の頭巾を受けとった。これらの支度品の一つ一つには、頭文字でGALの印が付いていて、さらに頭巾には白い鉄のプレートが付いていて、囚人台帳に登録された番号が彫りこまれていた。衣類の支給がすむと、足枷を付けて固定したが、二人一組にはしなかった。
ポンタルザンの留置場は一種の検疫所で、それほど看視はきびしくなかった。そこの部屋を出て、次に外壁を登るのは確かに造作ないことだ、と言ってくれた者がいた。ブレスト徒刑場を脱走したことのあるブロンディという男が教えてくれたのだが、これを私はよく覚えていた。そして、こいつを役立てようと思いながら、かねてから機会をうかがっていた。ときおり、十五斤くらいの重さがあるパンの配給があったので、モルレーを出発してから、そういうパンに穴をあけて下着とズボンとハンカチを詰めこんでおいた。それこそ新型の旅行鞄というやつで、誰も中身は調べない。チエリ中尉は、とくに私に看視の眼を光らせてはいず、それどころか、私が刑を受けた動機を知って、私は他の者同様に神妙にしており、「女子寄宿学校ノ生徒ノゴトク徒刑囚ヲバ護送セリ」と当局に報告した。
となると、私は文句をつけようがなく、自分の計画の実行にとりかかった。問題は、まず私どもが閉じこめられていた部屋の壁に穴をあけることであった。そこで、足枷を締める役目の悪徳《スビル》囚人がベッドの足元に置き忘れたタガネを使って穴をあけることにし、ブロンディは私のクサリを切るのに専念した。さて、作業が終わると、仲間たちが人形を作ってくれて、番人のアルグザンの警戒の眼をごまかすために私の場所に置いた。すぐに、私は、隠しておいた品物を身につけると留置場を脱出して中庭に出た。周囲にめぐらされている壁は五メートル以下の高さだったので、これなら越せるなと見てとったが、梯子のような物が必要だった。そして、梯子の代わりに棒を見つけたが、いかにも重くて長いものだったので、そいつで壁を越えて向こう側へ降りるのはできそうにもなかった。しかし、たとい難しくてダメだとしても、なんとしても飛び越えねばならなかった。けっきょく、なんとも下手くそな成功に終わって、両足をひどく挫《くじ》いてしまい、なんとか力をふりしぼって隣りの茂みの中へ身体をひきずった。そして、痛みがやわらいだら、夜が明ける前に逃げられるだろうと思ったが、だんだん痛みが激しくなり、びっくりするほど脹《は》れてきたので、脱走の望みを断念せねばならなくなった。そこで、自分から戻ることにして、やっとの思いで留置場の入口まで身体を運んだ。もとより、すぐに棍棒で打ちのめされるのは覚悟の上だった。
入口で声をかけた尼さんに事の次第を打ちあけたところ、部屋に通してくれて足の手当てをしてくれた。さらに、その殊勝な婦人は、私の運命に同情し、場長に私のことを嘆願してくれて、なんと、許してやろうと承知してもらえた。そして、三週間の終わりになると、私の足も完全に治ってブレストに連れて行かれた。
徒刑場は港内にある。門の前に小銃が叉銃してあり、二門の大砲が砲口を向けている。さて、部屋の入口へ行くと、その施設にいる警備員の全員が私を検視した上で中に入れてくれた。そこにいる連中はフランス一の手強い猛者《もさ》ぞろいだと聞かされていた。また、少々の剛の者でも、そこの物凄い場所を一見したら、いやでもぶるってしまう。各部屋には『腰かけ』と言われている折りたたみ式のベッドが二十八あって、そういうベッドの上に六百人の徒刑囚が寝るわけである。赤い獄衣の長い列、丸坊主にされた頭、くぼんだ眼、やつれた顔、たえず鎖がカチあう音、すべてが一つになって内心ビクついている魂をぐさっとつらぬく。だが、囚人にとっては、そういう印象は一時的なものでしかない。すくなくとも、そこでは人前で恥ずかしい思いをしないで自分自身をとりもどす。下品なあざけりや仲間たちの憎たらしい面白がりの標的にならないで、むしろ自分も一緒にそんな気持になり、さらに乗り越えて、身振りも話し方も心底から堕落した慣習になってしまう。こうしたわけで、アンヴェルス〔ベルギー、アントベルペンのフランス呼称〕の元司教が罪を犯して送られてきたが、いきなり徒刑囚たちから一斉に卑しい嘲けりの笑いを浴びた。かれらは、ただもう『御前様』と呼んで、どうか俺たちのケガレを祝福してくんねェかとせがんだ。そして、その都度、罰あたりな文句で古くさい御託を汚して元司教の口を封じた。けっきょく、さんざん冒涜を繰り返されて洗脳され、やがて徒刑場の酒保係になり、あいかわらず『御前様』と呼ばれていたが、囚人たちが罪の赦免を要求して困らせるようなこともしなくなり、彼も罰あたりな言葉で答えるようになったという。
脱走して、できるだけ徒刑場にいる期間を短くしたいというのが私の何よりも強い願望だった。こうした場合、まず二人一組にされている相棒の口が堅いのを確かめるのが第一の仕事である。私の相棒は、ディジョン付近のブドウ作りで、年のころは三十六歳くらい、押しこみ強盗の再犯で二十四年の刑を受けていた。悲惨な牢獄生活と苛酷な仕打ちで、すっかり頭がイカれてバカみたいになっていて、棍棒の下で身をちぢめ、アルグザンの笛に猿か犬のように素早く応ずるという知恵しか残っていなかった。こんなタマはいただけない。私の計画を実行するには、棍棒でどやされるのがわかっていてもビクともたじろがない根性がある男が必要で、ヒイキされていると怪しまれている囚人たちを手なずけるのが得意か、それとも脱獄で名が通っている囚人を味方にせねばならない。そこで、そのブルゴーニュ人を追っぱらうために、気分がすぐれなくて落ちこんでいるフリをしたところ、彼を他の者と二人組にして労役につかせることにしてくれた。私が立ち直ると、こんどは司察館の構内でニワトリを盗んで八年の刑に処せられた気の毒な男と一緒に労役につくことになった。
[#改ページ]
九 ブレスト徒刑場
この男には、まだいくらか元気が残っていた。はじめて『腰かけ』に寝て二人だけになったとき、彼はこう言った。
「なア、相棒、おめェはいつまでもお上《かみ》のパンを食ってるつもりはねェって顔してる……隠さなくってもいいんだ……損はしねェから……」
そこで、私は、できるだけ早い機会に脱獄するつもりだと打ちあけた。
「そうか、じゃひとつタメになることを言ってやろう。アルグザンの鬼|犀《さい》どもに面《めん》(顔)を覚えられねェうちにトンズラすることだ。だが、やる気があるだけじゃダメだ……おめェ、シンタ(金銭)あるんか?」
少々なら箱に隠してある、と私が答えると、彼は、服なら二重クサリを付けられている男からラクに手に入るが、疑いをそらすために、おとなしく刑期をつとめる覚悟をしているフリをして所帯道具を買わなきゃならんと言った。所帯道具というのは、木の桶が二個、ワイン入れの小樽、『パタラス』(鎖や枷が擦れるのを防ぐ一種の当て物)が数個、それに『蛇布団』、これは槙皮《まいはだ》〔杉や檜の内皮を砕いたもので、ふつうは船や桶の継ぎ目に詰めて漏水を防ぐ〕を詰めた小さなマットレスだ。私が徒刑場に入ってから六日目が木曜日で、土曜の晩に船員服が手に入った。すぐに、そいつを囚人服の下に着こんだ。売ってくれた男に支払いをしながら、その男の手首のまわりに焼きごての深い傷痕があるのに気づいた。レンヌで焼きごての拷問を受けたが、告発された盗みを白状しなかったので、一七七四年に終身懲役を宣告され、一七九一年の法令発布の際に減刑されて二十四年の懲役になったとのことだった。
翌日、私の班は、砲声一発を合図に、休みなく動かしているポンプ作業に出かけた。囚人部屋の出口では、いつものように手枷と服を調べている。この慣行があるのはわかっていたから、船員服の胸のところに肌色に塗った膀胱袋〔ふつうは豚の膀胱。豆や酒などを入れる容器に用い、乾したものを色々な用途にする〕を貼りつけておいた。そして、わざと上着とシャツの胸を開《はだ》けておいたので、どの看視人も立ち入って調べようとせず、私は、すんなりと通された。ドックに着くと、用を足すフリをして相棒と一緒に板が積んである山のうしろへ行った。手枷は前の日に切ってあったので、えいと力を入れたら鋸目の跡を隠しておいた継ぎ目が離れた。枷が外れると、大急ぎで囚人服と囚人ズボンを脱ぎ、ビセートルから持ちこんだカツラをつけて革帽子をかぶり、約束したわずかな御礼を相棒に渡してから、角材の山のうしろにすべりこんでドロンした。
[#改ページ]
一〇 ブレスト脱出
囚人狩り
私は誰にも妨害されずに柵を通り抜けた。西も東もわからないブレストの町で、どの道を行こうかとためらっていれば、人目につくのではないかと心配されて余計に不安がつのった。くねくねと数えきれないくらい道を曲がり、やっとのことで町に一つしかない市門にたどり着いた。そこには常設の監視所があって、元は徒刑場で見張り人をしていたラシックという男が、身ぶりや体つきや人相などから徒刑囚を見破っていた。その監視をラクにしているものは、ある期間、徒刑場で暮らした者は、かならず足枷が付いていた足を無意識に曳きずることであった。ともあれ、私は、その恐ろしい男の前を通らねばならなかった。彼は煙草を吸っていた。門を出たり入ったりする者みんなにじっと鷲《わし》の眼を向けながら猛烈に煙草をふかしていた。この男のことは前々から聞かされていたが、一か八かやってみることにした。まず、ラシックの前に行くと、変装を仕上げるのに買ったバターミルクの水差し型の壷を彼の足元に置き、パイプに煙草をつめて火を貸してくれと頼んだ。すると、彼は、精いっぱいな丁重な態度で、いんぎんに火を点けてくれた。そして、そのあと、おたがいの顔に何度か煙を吐きかけ合い、私は、眼の前に延びている道に踏み出して、彼とさようならをした。
その道を四十五分ほど行ったとき、徒刑囚の脱走を知らせる三発の砲声が聞こえた。逃亡者を捕まえた者には百フランの賞金がもらえるぞと、そこらあたりの農民に知らせるためである。大勢の人間が、銃や鎌を手に、小さなエニシダの草むらまで念入りに茂みを叩きながら野原を駈けまわっているのが実際に見えた。百姓たちのうちには、いざという時のために武器の携行を義務づけているのか、農具から離れるときに畝《うね》から銃を引っぱりだして行くのを何人も見かけた。そんな百姓が一人、私が砲声を聞いた間道で、すぐそばを通って行ったが、べつに私を確かめようとはしなかった。まず第一には、私がたいへん小ざっぱりした服装をしていたし、さらには、暑くて帽子を小脇にかかえて、編み髪を見せて歩いていたからだ。徒刑囚には髪がないはずだった。
村や離れてある集落を避けて、どんどん奥のほうへと歩いて行った。たそがれ時に二人の女と出会ったので、ここはどこですかと尋ねたが、方言で答えたので一言もわからなかった。だが、金を見せて何か食べたいのだという仕草をして見せたら、小さな村の入口にある居酒屋に連れて行ってくれたが……そこの亭主が田園監視人だった。監視人のバッジを付けているのがこっそり見えた。ドキリとしたが、すぐに立ち直って、村長に話があるんですがと亭主に言った。
「おらが村長だス」
小さなテーブルでソバ粉のクレープを食っていた毛糸帽をかぶり木靴をはいた百姓爺さんが横から返事をした。あれま、これまた目算が狂った。居酒屋から村役場へ行く途中でズラかるつもりだったのに。だが、なんとかして、その場から遁れねばならない。そこで、木靴のお役人、村長様に、モルレーからブレストへ行く近道をして道に迷った、ブレストまでどのくらいあるのか、今晩ブレストまで行って泊まりたいのだが、と言ったところ、
「ブレストまでは五里だども、晩に着くなァムリだべなァ。ここさ泊まるんだら、おらがの納屋さ泊めてやるだが。あすた、田園監ス人と一緒に出かければいいでねか。きのう、づかめェた脱獄囚ば連れてくことになっとるだ」
この言葉の後のほうを聞いて、今さらのようにぞっとした。村長の口調には、私の話を鵜呑《うの》みに信じてはいないぞという感じが嗅ぎとれたからだ。しかし、私は、彼の親切な申し出を受けた。夕食がすんで納屋へ行こうかという時になって、私はポケットに手を入れ、精いっぱい絶望した男の身ぶりをして大声をあげた。
「ああ、なんてこった。モルレーに財布を忘れて来ちまった。あん中にゃ身分証明書とルイ金貨が十六枚も入ってるんだ……すぐに戻らなきゃ……そう、すぐにだ。でも道がわからないな?……田園監視人さんは、このへんに詳しいから一緒に行ってもらえないかな?……明日《あす》、囚人の出発時間までには戻れるよね」
この申し出が、きれいに疑いを晴らした。逃亡者が田園監視人の同行を頼むことは、もともとあり得ないからだ。いっぽう、当の監視人のおっさんは、私の言葉を聞いたとたんに、もう礼金を皮算用しながらゲートルを巻き始めていた。という次第で、われわれは出発し、日の出にモルレーに着いた。連れの男には、道々、たっぷり飲ましてやったので、そのころは、もう十分にできあがっていたが、町に入って最初に見つけた居酒屋で、ラム酒を飲ませて仕上げをした。彼は、居酒屋のテーブルで、ひょっとしたら酔いつぶれてテーブルの下で、私を待ったが、ながいこと待ったことだろう。
さて、私は、最初に出会った人にヴァンヌ〔モルレー県の南、大西洋に面したモルビアン県の主邑〕へ行く道を尋ねた。すると、その人は、じつにバカ丁寧に教えてくれたが、オランダの諺にいう『足元に火がついている』私は、そこを早々に出発した。二日間は何事もなく過ぎた。三日目、ゲメネから数里のところで道を曲がったら、連絡便の戻りの憲兵二人とばったり出くわした。私は、ふいに黄色いズボンにツバ帽子の姿を見たので、どぎまぎして逃げようとした。すると、二人は、肩にかけた騎兵銃を手にとり、思わせぶりな身がまえをして待てと叫び、私のそばにやって来た。私は、かれらに見せる証明書などは持っていなかったので、とっさに口から出まかせに答えた。
「自分はロリアン〔モルビアン県西端の軍、商港〕生まれのデュヴァルです。現在、サンマロに停泊しているフリゲート艦『コカルド』の脱走兵です」
言うまでもなく、この独自の知識は、ブレストにいると、毎日、そこらじゅうの港のニュースが聞けるからであった。
「なんだと! すると、お前はオーギュストか、デュヴァルとっつぁんの息子の……ロリアンの『金球亭』の横に住んでいる?」
と憲兵班長が声をあげたが、あえて私は反対しなかった。脱獄囚だと知れたら、なおさらマズイことになる。
「オヤオヤ、だったら、つかまえるんじゃなかった……だが、こうなった以上、どうにもならんな……ロリアンかサンマロ〔ロリアンとは正反対にブルターニュ半島の北側、英仏海峡サン・マロ湾に臨む港〕に送らにゃならんわい」
こう班長が言ったので、どうかロリアンにはやらないでくれと必死に頼んだ。見ず知らずの家族と対面しても、どうせ私の身元を保証してくれるとは思えなかったからだ。しかし、軍曹は、ロリアンへの移送命令を出し、翌々日にロリアンに到着、ブレスト脱走囚の留置場になっていたポンタニオー監獄の囚人台帳に記入された。
その翌日、海軍の兵籍登録の係官から尋問された。私は、あらためてオーギュスト・デュヴァルと名乗り、両親に会いたさに許可なく艦を離れたと申し述べた。そのあと獄房に戻されたが、水兵たちの中に、海軍大尉に暴力をふるって告発されていたロリアン出身の若者がいた。ある朝、しばらくのあいだ私と雑談したあとでこう言った。
「故郷《くに》のことだがな、昼飯をおごってくれるんなら少し教えてやってもいいよ。聞いて損はないと思うがな」
謎めかした態度や、いわくありげに≪くに≫くになどと言ったのが気になって、退きさがるわけにはいかなかった。昼飯のあと、デザートになると、彼はこう語った。
「おれを信用するかい?」
「ああ」
「よしきた! だったら、助けてやるよ……お前さんが誰かは知らないが、デュヴァルの倅《せがれ》でないことだけは確かだ。やつは、二年前、マルチニク島のサンピエール〔西インド諸島中の仏領小アンチル列島のマルチニク島の一港、一九〇二年プレ山の噴火で壊滅した〕で死んでいるもんな(私はギクッとした)。そのとおり、やつが死んでから二年になるが、ここの連中は誰も知らないときた。植民地の病院は出鱈目《でたらめ》もいいとこだからな。さて、両親の眼にも、あの男で通れるように、あいつの家族のことをしっかりと教えてやろう。いやなに、あいつが家を出たのは、うんと若いときだったから簡単さ。だが、念には念を入れろだ、海の苦労と病気のせいで神経が参っているフリをすればいい。もう一つある。オーギュスト・デュヴァルは、船に乗る前、水兵や兵隊がよくやるみたいに左腕に刺青《いれずみ》をした。どんな図柄かちゃんと覚えている。花輪がのってる祭壇の絵だった。いっしょに二週間も独房に入る気があれば、みんなが騙されるような同じのを彫ってやるが」
食事の相手は、正直で開けっぴろげな男らしかった。彼が、私の事に手を貸す気になったのは、囚人たちに共通している当局に一杯くわせたいという気持からだったと説明しておこう。かれらにとっては、司直の眼をくらまし、進行を妨げ、エラーを誘うことは、数週間の独房入りという代償を払っても、すすんでモノにしたい復讐の喜びなのだ。となると、どうやって独房入りをするかが問題になったが、すぐにいい方法がみつかった。われわれが昼食をしていた部屋の窓の下に歩哨が立っていた。われわれが、パンの中身を丸めて、そいつにぶつけ始めたところ、看守を呼ぶぞと脅したので、呼べるもんなら呼んでみろと煽《あお》った。そうこうしているうちに交代がやって来て、すわ一大事とばかりに伍長が書記局に駈けこみ、すぐに看守が来ると、有無を言わさず二人を引っ立てた。
われわれは、湿った地下牢のようなところに入れられたが、そこがジトジトしてはいるが明るいことに気づいた。閉じこめられるとすぐに相棒が仕事にとりかかり、申し分のないできばえになった。ただ束にした針を墨と赤インキに漬けて腕に刺すだけのことだった。十二日もたつと刺し傷が治り、いつ彫ったかわからないほどになった。また、この籠城時間を利用して、相棒が子供のころに知っていたデュヴァルの家族について、さらに詳しく話してくれた。どうやら、その一家とは親戚関係にあったらしく、本人の、ちょっとした癖まで教えてくれた。
この情報は大助かりだった。やがて、独房に入ってから十六日目、父親と対面するために引っぱり出された。兵籍登録の係官が父親に知らせたのだ。相棒が、見まちがえないように人相などを説明してくれていた。そこで、この人だと思った男の首っ玉にとびついた。とたんに彼は私を息子だと認め、すぐ後から来た妻君もそうだとし、従妹も叔父さんも認めた。これで、私は、押しも押されもせぬオーギュスト・デュヴァル本人であり、もはや疑う余地はなくなって、兵籍係官も納得した。だが、これで自由になるわけにはいかなかった。私は『コカルド』の脱走兵としてサンマロへ送られ、若干名を病院に残した後で海軍の軍法会議に告訴されることになっていた。実を言うと、そんなのは少しも恐ろしくはなく、かならず護送中に脱走してやろうときめていた。そして、とうとう出発した。『両親』の涙に送られ、前にも述べた隠し筒に餞別《せんべつ》の何ルイかを詰め加えて出かけた。
私を途中で引き継ぐ連絡便の者に渡すことになっていたカンペール〔ブレストがあるフィニステール県の主邑〕までは、護送の憲兵をゴマ化すチャンスがなかった。私の他には、泥棒や密輸屋や脱走兵など大勢がいて、みんな市の監獄に入れられた。夜をすごす部屋に入ると、粗末なベッドの足元に赤い囚人服があるのが見えた。その背には、私が百も承知のGALという大文字があり、そこに、番号を打ったブリキ板が付いた緑色のフチなし帽の男が、おんぼろ毛布をかけて眠っていた。徒刑囚だ。私を見てわかるかな? 正体をバラされるかな? いやはやビクビクものだった。その時、男は、錠前と閂の音に眼をさまして身体を起こした。見ると、グーピイという若造で、私と同じ時にブレストに送られてきた男だった。ノルマンディのベルネー近辺で、夜の押しこみ強盗をやって終身懲役刑を受けたが、父親がブレスト徒刑場のアルグザンの仕事をしていた。グーピイとしては転地療治に行ったわけでもなく、毎日、親父に見張られていたくもなく、ロシュフォールの徒刑場に移してもらうことにして、そこへ行く途中だった。私が事情を打ち明けると、彼は秘密を誓った。私を裏切っても何のトクにもならないので秘密をまもった。
引き継ぎの連絡便の者が来ないので、カンペールに着いて半月にもなるというのに、まだ出発の話がなかった。このように逗留が延びのびになったので、壁に穴をあけて脱走してやろうかと思いだした。だが、とてもダメだとわかったので、看守にとり入って信用させ、あわよくば、安心させたところで計画を実行するチャンスを狙うやり方に切り換えた。そこで、看守に告げ口をよそおい、囚人たちが何か企んでいるそうだと言って、かれらが小細工をやっていた場所というのを教えた。看守は念入りに調べ、当然のように私が掘りかけた穴を見つけた。このニセ密告のおかげで、私の待遇は良くなったが、さっぱり前進はなかった。というのは、かえって全般的に監視がきびしくなり、私のたくらみは何もかもドジに終わってしまったからだ。そこで、こんどは病院に移ることを考えた。病院なら計画が巧くいくだろうと思った。そのために二日間、タバコの汁を呑んだら高熱がでた。すると、すぐに医者が病気証明書をだしてくれて、病院へ行くと、着ていた服を脱がされて灰色の長い患者服に頭巾という姿で隔離病人たちと同居させられた。
しばらくのあいだは病院にいて、いろいろな出口を覚えることが討画に入っていた。だが、タバコの液で起こした病気は、飲んでから三、四日しか続かないはずなので、急いで他の病気をひねりださねばならなかった。というのは、まだ同室の連中は誰も知り合いになっていなかったので、もういちどタバコ液を作るわけにはいかなかったからだ。ビセートル監獄にいたとき、傷や腫瘍をこしらえる秘法を教わったが、その方法で大勢の乞食が世の人々の同情をひき、いかにも上手に作ったニセのオデキなどで施しをせしめている。そういった数ある方法のうちから、頭をボワソー桝《ます》〔約一二・八リットル〕くらいに脹《ふく》らますというのを選んだ。これなら医者は、まず絶対に間違えるだろうし、それに、ぜんぜん痛くなく、次の日までに痕跡を消せるからだ。私の頭は、たちまち異様に大きくなった〔その方法の具体的な説明はない〕。病院じゅうの医者が大騒ぎをし、とくに冴えているのがいないらしく、なんとも診断がつけられない始末。それでも、象皮病とか脳水腫症とか言っているのが聞こえた。ともあれ、ご大層な診察の結果、どこの病院も同じこと、きびしい節食療法という処方でケリになった。
こんな処方をされても、金を持っていたのであまり心配はしなかった。それでも、筒には金貨しか入れていなかったので、両替をするときに人目につくのが心配だった。そこで、看護人として働いていた元徒刑囚の男に何がしかの金をやることに決めたところ、金のためなら何でもやる男だったので、まもなく欲しい物を手に入れることができた。そして、実は二、三時間、町に出てみたくてたまらんのだがと言ってみたら、壁は二メートル半くらいの高さしかないから変装すればできないことはない、彼や仲間が賭場へ通う道があるという。それなら女たちのところで食事をするだけだから、その夜の遠足に連れて行ってくれと頼むと、じゃ着る物を調達してやろうということになってナシがついた。ところが、彼が病院の中で手に入れた服は、どれも小さすぎて、この計画は、おあずけになった。
フランソワーズ尼
そんやこんやの合間に、病院の尼さんがベッドの前を通りすぎることがよくあった。これまで何度も見かけていた尼さんだったが、私は、かなり俗人の気持で見ていた。フランソワーズ尼は、色っぽい可愛い修道女などではなかった。オペラに出てくる聖母訪問童貞会の尼さんたちは寄宿女学生に変身し、修道服の胸当てが緑色のエプロンに置き換えられるが、フランソワーズ尼は、そんな甘っちょろい女ではなかった。自分から三十四歳だと言い、ブリュネットで血色がよく、医学生や看護人に罰当たりな情熱を抱かせる堂々とした色気たっぷりな胸をしていた。百キロ以上もあろうかと思われる、その魅惑的な生き物を見ているうちに、ちょっとのあいだ、彼女の修道服一式を拝借したらという考えが浮かんだ。これを看護人に、ふざけ半分に話したら、彼はマジにとって、明日の晩にはフランソワーズ尼の衣裳一式を手に入れてきてやると約束した。当日の朝の二時ごろ、尼僧服や胸当てや靴下などが入った包みを本当に持ってやってきた。尼さんが朝課〔聖務日課の第一区分、深夜に誦えられる〕を誦えている間に控え室からくすねて来たと言った。私と同じ部屋の九人の病人は、ぐっすり眠っていたが、階段の踊り場へ行って着替えをした。いちばん厄介だったのは被り物だった。どう付けてよいかわからない。尼僧の服装は、いつもきちんと整って釣り合いがとれていなくてはならないのに、頭巾や服が乱れていては、かならず正体がバレてしまう。
やっとのことで、『ヴィドック尼』の気付けがすんだ。われわれはいくつかの中庭や庭園を横切り、いちばん乗りこえやすい壁のところに行き着いた。そこで、残っていた有り金のほとんど全部、五十フランを看護人に渡した。彼に手を貸してもらって人気のない路地に出ると、そこから、かなりあいまいな彼の教えに従って城外に出た。ペチコートが足にからまったが、日の出前に、たっぷり二里は離れておこうと思い、かなり急いで歩った。カンペールに野菜を売りに行く百姓に会ったので道をきいたら、その道はブレストへ行く道だという。そんなところへ行くつもりは、はなっからない。レンヌへ行きたいのだと相手にわからせたら、レンヌへ通じている本街道に出る近道を教えてくれた。すぐにその近道に入りこんだが、イギりス軍の兵隊に出会いはしないかと、しょっちゅうビクビクものだった。当時、イギリス軍は、ナントからブレストのあいだの村々に宿営していた〔第二次対フランス大同盟戦争が始まったのは一七九九年早々であるが、前年の一七九八年、ヴィドック二十四歳のときには既にイギリス軍がブルターニュ半島の南部に進出していたと考えられる〕。私は兵隊が怖くてその村に兵隊がいるかどうかを尋ねた。実際に乱暴されるかもしれないし、そんなことをされたら一発で男だとバレてしまう。村の様子を尋ねた相手は教会の聖具係だった。おしゃべりで、えらく気さくな男で、休んでいけと言ってきかず、すぐ眼の前の白い壁に緑の鎧戸がついた司祭館に連れて行った。
いかにも人のよさそうな顔の年寄りの司祭が親切に私を迎えた。
「シスター、これからミサを始めるところですが、お祈りがすんだら御一緒に食事をいただきましょう」
となると、教会に行かなくちゃならない。私にとって十字を切ったり教義どおりに跪いたりするのは苦手なんてものではなかった。幸い、司祭のところの老僕が隣りに坐ったので、いちいち真似をして、どうにか切り抜けた。さて、ミサが終わって司祭館に戻り、食卓につくと何やかやと問われだした。贖罪の苦行を果たしにレンヌへ行くところですと、その善良な人たちに言った。司察は、それ以上は訊かなかったが、聖具係はしつこく迫って、何故そんな罰を受けたのかを知ろうとした。そこで、
「それはね、あんまり人様のことを詮索したからです!……」
と答えてやったら、相手はグーの音もなく、それっきりで話題を変えた。だが、私の立場は、そうとうに若しいものだった。男みたいな食いっぷりを見破られるのが心配で、もりもり食べることもできないし、また一方では、ブラザーと呼ばずに司祭様と何度も呼んでしまい、そんな具合で、さっさと昼食を切り上げないと、うっかりボロをだしかねなかった。それでも、なんとか、あちこちの宿営地を教えてもらい、私のことを忘れずに祈ってくれると約束してくれた司察の祝福を受け、修道尼の服にもなじんで、またも旅路についた。
街道では、あまり人に会わなかった。革命の戦乱で、この不運な地方には住む人がいなくなり、通りすぎた村々には満足に建っている家は一軒もなかった。夜になって、数軒の家がかたまっている集落に着いて、一軒の茅屋《ぼうおく》の戸をたたいた。老けこんだ女が戸を開けてくれて、かなり大きな部屋に案内してくれた。しかし、その汚さにかけては、ガリシアかアストゥリアス〔いずれもスペインの北西部の山岳地方〕あたりの掘立小屋にもひけをとらない。家族は父親と母親、それに小さい息子が一人と十五か十七歳くらいの娘が二人。私が入っていった時は、ちょうどソバ粉でクレープのような物を作っているところだった。みんながストーブのまわりに集まり、炉の明かりだけでレンブラント風に照らしだされた顔が、画家がうっとりとするような一幅の絵になっていた。私のほうは、光の効果に気をとられている暇などはなく、何か食べたいという素振りをしたところ、尼僧服の霊験あらたかで、最初にできたクレープをどうぞとすすめられ、口の中が焼けつくほど熱いのも平気でがっついた。その後、何度も豪華な食卓について、最上のワインや精選吟味の料理をふるまわれたが、このときの、低地ブルターニュの農家で食べたクレープの味を忘れさせるものに出会ったことはない。
夕食がすんで、一同がお祈りをし、寝る時間を待ちながら父親と母親は煙草をくゆらせた。私は、その一日の興奮と疲れでくたくたになっていたので、できれば休みたいのですがと言うと、船乗りをしていたというその家の主人が、いちおうちゃんとしたフランス語で、
「使っていただくようなベッドがねェんですよ。娘っ子どもと寝てくだせェ……」
私は、苦行中なので藁の上に寝なければならないと説明し、牛小屋の隅でもかまいませんと付け加えた。すると、主人が、
「ああ、そんなら、ジャンヌとマドロンと寝ても誓いを破ることにゃならねェです。娘どものベッドは藁だけでできとるんですから……それに、牛小屋には、もう場所がねェんです……泊めてくんろと言う金物屋と半期帰休とやらの兵隊が二人いるんでさァ」
もう何も言えない。その兵隊たちと顔を合わさずにすんだのは、すごく運がよかったのだ。私は娘たちの寝所へ行った。そこは物置になっていて、リンゴ酒用のリンゴ、チーズ、べーコンなどがぎっしりと置いてあり、片隅には十二、三羽のニワトリがとまり木にとまっており、下のほうには兎が八羽かこってあった。家具らしい物といえば、縁の欠けた水差しとガタになった腰掛け、鏡のかけらだけで、ベッドは、その地方ではみなそうなのだが、ただのお棺型の箱に半分くらい藁が入っていて、幅は一メートルそこそこしかなかった。
一難去ってまた一難。私の前で、二人の娘が、おおっぴらに服を脱いだ。私のほうには、つつしみ深さをあらわす立派な理由があった。誰もが察する理由とは別に、私は女の服の下に男物の下着を着ていたので、こいつが性別と『忍び』の正体をバラしてしまう。秘密を見せないようにして、ゆっくりと何本かピンをはずし、二人の娘が横になったのを見てから、うっかりしたフリをして部屋の明かりの鉄製ランプをひっくり返した。そこで安心して女の服を脱いで帆布のシーツのあいだにもぐりこみ、具合の悪いことはバレないように横になった。つらい一夜だった。美人ではないけれど、身動きするたびに触れてくるジャンヌはピチピチ、むっちりしていて、ながいことまったく女っ気なしの暮らしを強いられてきた男には刺激が強すぎた。おなじような目にあったことのある人なら、私が一睡もできなかったというのを文句なしに信じてくれるだろう。
という次第で、私は、穴の中の野ウサギのように眼を開けたままじっと動かずにいた。そのうち、日の出まではまだまだという頃に、表の戸を銃尾でたたく音が聞こえた。あぶない橋を渡っている人間なら誰しもおなじ、まず頭に浮かんだのは、足どりがたどられて逮捕に来たのではないかということだった。もはや身の置きどころがない。だんだん音が大きくなるうちに、やっと牛小屋に兵隊が泊まっていたのを思いだし、ほっと胸をなでおろした。
「誰だ?」
眼をさました主人が飛び上がって声をかけた。
「きのうの兵隊だ」
「ああ、なんだ。なんだね?」
「火を貸してくんないか。出かける前に一服やりたいんだ」
主人が起きだして灰の中から火をさがし、兵隊に戸を開けてやるのが見えた。兵隊の一人がランプの明かりで時計を見て言った。
「四時半……さァ、もう行こう、道のりは長いぞ……歩きながらやれ、このグズ野郎」
かれらは、ほんとうに去って行った。主人はランプを吹き消し、また床についた。私は、服を脱ぐときも着るときも娘たちの前でやるわけにはいかない。そこで、まだ二人が眠っているのを幸いに、すぐに起きてランプを点け、あらためて尼僧服を着こんで部屋の隅にひざまずき、家族が起きてくるのを待ちながら祈っているフリをしていた。そう長いこと待たなくてもよかった。五時ごろになると、お上さんがベッドから大声をだした。
「ジャンヌ……起きな。尼さんにスープこさえてやんねば。早立ちされたいんだから」
ジャンヌが起きて、バターミルクのスープをこさえてくれた。私は、たっぷりと食べ、あたたかくもてなしてくれた善良な人たちに別れを告げた。
せっせと一日じゅう歩いて、夕方にヴァンヌの近くの村に着いた。そこまで行って、間違った教え方をされたのか、それとも私の聞きちがいだったのかわからないが、違う道に来ているのがわかった。私は、ずうっと前々からレンヌへ行くつもりでいたのにヴァンヌに来てしまったのだ。レンヌからならラクにパリに行けると思っていた。そこで、その夜は村に泊まり、翌朝うんと早くヴァンヌの町を通りすぎた。ところが、町を出はずれたとき一人の女に出会って予定を変えることにした。子連れの女が、ゆっくりと同じ街道を歩いていた。聖遺物の箱を背負っていて、行く先々の村で御詠歌を歌いながら遺物を開帳し、聖ユベールの指輪と称する物や祝別されたロザリオを売り歩いていた。その女は、間道を通ってナントへ行くところだと言った。本街道を避けるのはオンの字だったので、一も二もなく新しい道案内について行くことにした。それに、ナントへ行ってみたらレンヌよりもいいことがあった。それは、これからわかります。
泥棒かァちゃん
ナントには一週間後に着いた。城外に宿をとるという聖遺物売りの女と別れて、フェドー島〔ナントを流れているロアール川の中島?〕を目指した。ビセートルにいたとき、ナント生まれのグルニエという男から聞いていたが、彼の家は、その界隈で宿屋みたいなことをしていて、盗っ人たちが誰にも咎められずに安心して集まっているとのことだった。だが、なんとかいう宿の名を言えば、すぐにわかると教わったのだが、住所のほうもはっきり覚えていず、尋ねるアテもなかった。仕方なしに考えたやり方が巧くいった。次々に宿屋に入っては、グルニエさんのところですか、とやった。四軒目に声をかけたら、女主人が、用談中の二人の相手をほっといて、私を小部屋に通して言った。
「シスターは、グルニエにお会いになったの?……あれはまだ病気ですか?(入獄中?)」
「いいえ、たいへん元気です(釈放されている)」
これで、私が泥棒かァちゃんの家にいるとわかったので、ためらわずに私が誰だか、どんな境遇にいるかを話した。すると、彼女は、だまって私の腕をとると、板壁の仕掛け戸を開けて、天井の低い部屋に入れてくれた。男が八人と女が二人、ブランデーとリキュールを飲みながらトランプをしていた。
ふいに修道尼が現われたので眼を丸くしている一座の者に、かァちゃんが私を引き会わせた。
「ほら、お前らを改心させに尼さんが来られた」
と同時に、尼僧頭巾をむしり取ったら、そこにいた三人は徒刑場での顔見知りで、すぐに私だとわかった。ベリィ、ビドー・モージェ、カンペールで会った若僧のグーピィの三人だった。残りはロシュフォール徒刑場からの脱獄囚だった。みんな私の変装を面白がり、陽気に夕食が始まると、女の一人が尼僧服を着たがって、着たとたんに言葉も態度もがらっと変わったのがおかしくて、寝る時刻になるまで涙がでるほど笑いころげた。
眼がさめてみたら、ベッドの上に新しい服や下着など、身支度一式が置いてあった。それらの品はどこから出たのか? そんなことを詮索してはおられなかった。なんでもバカ高くついたカンペールの病院で使わなかった残りわずかの金も旅のあいだに使ってしまっていた。服も金もなく、知人もいないし、お袋に助け舟をたのむ暇もなかった。だから、私は、出された物をそのまま受け取った。だが、ある特殊な事情で、フェドー島での滞在を自分から切り上げることになった。一週間後のある晩、私の疲れがすっかりとれたのを見た居候仲間たちが、明日グラスラン広場の家に押しこむから手を貸してくれと切りだした。私には、モージェと一緒に家の中で仕事をするという名誉ある役目が割り当てられていた。
こんなことになるはずではなかった。私は、ただ苦境を脱してパリへ行くために、その場を利用しようと思っていたにすぎない。パリまで行けば、故郷の家族とも連絡して何とかなるにきまっている、と考えていたのだった。強盗一味に一役を買うなんてことは私の計画にはまったく入っていなかった。ペテン師たちと付きあって、そんな暮らしはしてきたが、犯罪稼業に足を突っこむのは何としてもイヤだった。ませたガキのときからの経験で、それが碌《ろく》なことにはならないのがわかっていた。だが、そうかといって、拒絶したら新しい仲間から裏切り者と思われるにちがいない。人目のとどかない盗っ人宿でこっそりと始末され、ロアール川の鮭やキュウリ魚の餌にされるのがオチだ。となると、とるべき途はただ一つ、なるたけ早くオサラバすることだ。私は、そうと決めた。
宿を脱けだして、もらったばかりの新しい服を百姓の上着と交換したら十八フランのお返しがあった。どう見ても、その辺の人間のような姿で、棒に食べ物を入れた籠をぶら下げてナントを離れた。間道を通ったのは言うまでもない。ついでに言うと、憲兵たちは、お上と何かワケありの者などは滅多に通らない表街道にいるよりも、裏街道で張っていたほうが遥かに効果があろうというものだ。この考えは、さらにまた、自治体警察組織という構想に結びつく。このシステムからは非常に大きな効果が得られると思う。厳密に保安上のことに限って言えば、そういうシステムがあれば、自治体から自治体へ犯罪者を追跡できるし、いったん大都市から出た犯罪者は、あらゆる行政体の追求を受けることになる。いろいろな時代で、いつも大きな災害が起こると、たとえば、ノール県で『あたため強盗団』が暴れまわったとき、カルヴァドスやウール県で飢饉《ききん》があったとき、オワーズ県で毎夜のように火災が発生したときなど、このシステムが部分的に適用された。結果、その有効性が明らかになっている。
[#改ページ]
一一 パリへ向かう
ショレの青空市
籠の食糧のおかげで、ナントを離れてから一日と二晩、どこの村にも寄らずに歩いた。いつもパリを目指すか、船に乗せてもらえるかもしれない海岸を行くことにしていたが、行き当たりばったりに歩っていたと言ったほうがよい。そのうちに初めて人家がある町に着いた。さいきん、戦争の舞台になったらしく〔一七九三〜九六年、ヴァンデ県から起こった王党派と革命派の内戦〕、ほとんどの家が焼けて黒ずんだ瓦礫の山と化していた。広場のまわりの家は、みんな完全に壊れていた。教会の塔だけが残っていて、大時計が、住人がいないのに時刻を告げて鳴っていた。同時に、その悲しい場面に何とも異様な光景が見受けられた。一軒の宿屋の一つだけ焼け残った壁の一部に、こんな言葉が読みとれた。
『いいお宿、歩き旅も馬車の旅もどうぞ』
あちらでは、兵隊たちが、礼拝堂の聖水盤で馬に水を飲ませ、ずうっと向こうでは、かれらの仲間が、オルガンの音にあわせて土地の女たちとダンスをしていた。見すてられ、みじめにあえぎ、軍用パンと引き換えに共和派の兵士に身を売らざるを得ないのだ。この皆殺し的な戦禍の跡を見ると、そこが南米のサヴァンナか、それとも砂漠のオアシスのただ中で、未開の部族が盲目的な怒りにかられて互いに殺し合いをしたところだと思われるくらいだった。しかも、それをしたのは、どちらもフランス人で、ただもう狂信的にぶつかりあったのだ。ここはヴァンデ県、ショレの町。
エニシダに覆われた小汚い居酒屋で一休みしたら、そこの亭主が、明日のショレの定期市に来たかと尋ねたので、なるほどその振れこみがいいわいと、暗に私の役どころを教えてくれたことになった。そこで、そのとおりだと答えたが、まず驚いたのは、そんな廃墟に人が集まって来ることと、だいいち、そのあたりの農民に売る物があるだろうかということだった。亭主の説明によると、その市に出るのは家畜だけで、それもかなり遠くの郡部から連れてくるとのことで、まだ戦禍の修復は、まるっきり手つかずだが、オッシュ将軍のおかげで、ほとんど秩序は回復しており、いまだに界隈で共和派の兵士を見かけるのは、王党派が手強く盛りかえすのに備えて、鎮圧のために残っているのだということだった。
あくる日の朝一番に市へ出かけた。そこを足場に何とかしようと思って、気に入ったお面《めん》をした牛商いの男に、ちょっと話を聞いてくれないかと頼んでみた。はじめ、男は、たぶん私をスパイとでも思ったのか、警戒の眼付きで見たので、まったく個人的な事なんですと力説して安心させ、ブランデーを売っている納屋に引っぱりこんだ。私は手短かに説明した。パリにいる両親に会いたくて第六連隊を脱走して来た、捕まる心配なしにパリまで行けるような奉公口を本気で捜している、なにかありませんかね、と口説いた。すると、その人のいい男は、そういう仕事は見つけてはやれないが、ソー〔パリ郊外〕まで牛追いをする気があるなら連れて行ってやってもいいと言った。私は、その話に渡りに舟とばかりにとびのった。新しい主人に少しでもサービスをしなくちゃと、すぐに仕事にかかった。
その日の午後、町にいるある人に手紙をとどけに行かされた。その人は、主人から何か受け取ってくるように言われていないかと尋ねたが、そんなことは言われていないと答えた。
「どうでもいいさ。どっちにしろ、この三百フラン入りの袋を主人に渡してくれ」
たぶん公証人だと思われたが……その人が言った。
その金を、ちゃんと牛商人に手渡したところ、彼は、私の几帳面さにどうやら感心したようだった。翌日、一行は出発した。旅の三日目に、主人が私を呼びつけた。
「ルイが言っとったが、字が書けるそうだってな?」
「ハイ、だんな」
「そろばんは?……」
「ハイ、だんな」
「帳簿がつけられるか?」
「ハイ、だんな」
「よし! わしはサント・ゴービュルジュに痩せ牛を見に回り道をせにゃならん。お前は、ジャックとサチュルナンと一緒にパリまで牛を連れて行け。お前は今から牛追い頭《かしら》だ」
こう言って、さらに何かと指示をあたえてから行ってしまった。
こんどは偉くなったので、歩かずに馬で行くようになり、これまでより眼に見えてラクになった。徒歩の牛追いは、しょっちゅう牛がまきあげる砂埃に息をつまらせ、牛が通過して一層ひどくなったぬかるみに膝までつかることもある。私は、そのほか、賃金も上がり食い物もよくなった。しかし、おなじ街道を行く他の大抵の牛追い頭がやっているような地位の濫用はしなかった。家畜の飼料が、牛追い親方のトリ肉料理や羊のモモ肉に化けたり、宿の亭主に特別待遇を要求したりしていると、哀れな動物たちは、みるみるうちに衰弱していく。
私は、できるだけ誠実にやった。だから、主人が先に行って待っていたヴェルヌユに着いたら、牛たちの状態が上々だとホメられた。ソーに着くと、われわれの牛は、他よりも一頭につき二十フランも高く売れたし、私が使った旅費は他の牛追い頭より八十フランも少なかった。主人は、すっかり感心して四十フランも心付けをくれ、私のことを牛追い大将だと牛飼い仲間にふれまわった。ソーの市は、私の噂で持ちきりの感じになり、そのかわり、同僚たちは、思いっきり私を叩きのめしてやろうとしていた。そのうちの一人、低地ノルマンディ生まれの力自慢で小生意気な奴が、私の仕事にケチをつけて、みんなのために制裁をすることを引き受けた。だが、へなちょこ田舎者が達人グーピル〔格闘技の名人ジャン・グーピル、第七章参照〕の高弟にかなうはずがない……低地ノルマンディ男は、とうてい忘れられないような連続パンチをくらって降参した。その模様は、肥えた牝牛の取引に来た市の常連がまだ覚えていることだろう。
この勝利が華々しかっただけに、私は大いに行ないをつつしみ、万やむを得ないときしか闘わないことにした。主人は、ますます私を気に入り、どうしても牛追い頭にしておきたくて、彼の取引高から少しは歩合を出すから年間契約をしないかと持ちかけてきた。私のほうは、母からの助け舟をアテにしてパリに出てきたのだが、いっこうに便りがなかった。とどのつまりは、こんどの衣服《なり》が、なかなか上出来の変装になっていたので、しょっちゅうパリ市内へ出かけていたが、ぜんぜんバレる心配はなかった。事実、顔見知りの人間と何度もすれ違ったが、こちらを見ようともしなかった。だが、ある晩、ドーフィヌ街を横切って『地獄番所』〔城門または城外の区域ごとに入市税をとるために設けられた関所〕のほうへ戻ろうとしたとき、ポンと肩をたたかれた。とっさに、ふり向かずに逃げようと思った。肩をたたいて人を停めた奴は、こちらが振り向く動きを勘定に入れて捕まえようとしているからだ。ところが、馬車の往来が道をふさいで逃げられない。一巻の終わりかと観念したが、相手を見たとたんに、すべてがドジなウロタエぶりだったとわかった。
そんなに私に怖い思いをさせたのは、なんと、あのヴィルジューだったのだ。その大尉〔第四章冒頭では中尉〕とは、私が第十三狙撃隊第二分隊にいたとき、リールで親しくしていた友だちだった。蝋引きの帽子に作業服、それに革ゲートルという私を見て驚いたようだったが、途轍《とてつ》もない話があるんだと言って、親切に夕飯に誘ってくれた。彼は軍服を着ていなかったが、それには別に驚かなかった。パリに滞在中の将校は、たいてい平服を着ているものだ。それよりも気になったのは、彼が、ひどく蒼い顔をしていて心配そうな様子をしていたことだった。城外で食事をしたいと言ったので、辻馬車をひろってソーまで行った。
ヴィルジュー大尉
『大鹿亭』に着くと、小部屋に入り、食事が出されると、ヴィルジューは、すぐに戸に二重に錠をかけて、その鍵をポケットに入れてから、眼に涙を浮かべ、とり乱した様子で話しはじめた。
「なァ、俺はもうダメだ……おしまいだ……追われてる……おまえの着てるみたいな服を手に入れてくれ……欲しければ……金はある……たんまりある。いっしょにスイスへ行こう。おまえの脱走の腕前は承知してる。俺を助けられるのはお前しかいないんだ」
のっけからこの調子だと、こりゃあんまり安心していられないぞと思った。わが身一つでも苦労しているのに、こちらの身元をバラしかねない追われている男とツルんだら、早いとこ捕まるにきまっている。そんなのは真っ平だ。こう胸の中で考えて、ヴィルジューのことは慎重にあしらわねばならないと思った。おまけに、なんのことかもまったくわからないのだ。リールでは、この男が、俸給以上の金の使いっぷりをしていたのは見ていたが、若くてカッコいい士官なら、金を手に入れる方法はたんとあるから、そんなことは誰も気にしていなかった。だから、次のような話を聞かされてひどく驚いた。
「俺たちが知り合う前のことは話さんでもいいだろう。俺は、勇気も頭も人並だったが、実力者の引き立てで、三十四歳で狙撃隊の大尉になれたとだけ言っておこう。ちょうどリールの『お山の大将』という飲み屋でお前と会ったころだ。あそこで、俺は、ある人物と親しくなった。実直そうなところが気に入ったんだ。知らず知らずのうちに付き合いが深くなって、その人の家にまで出入りするようになった。たいへん気楽な暮らしをしている家といった感じで、俺には色々とこまかく気をつかってくれた。ルメールさんは楽しい食事の相手だったし、奥さんも魅力的だった。彼は宝石商で、商品を持って旅行するので、一週間くらい家をあけることが多かった。となると、奥さんと会うことのほうが多くなり、もう察しがつくだろうが、すぐに俺は彼女の情夫《いろ》になった。ルメールさんは、なにも気づかなかったか、それとも眼をつぶっていたかだ。とにかく俺は、たのしい日々を送っていたわけだが、そんなある朝、ジョゼフィヌが泣いているのを見た。統制外の品物を売って、旦那と使用人がクルトレで逮捕され、家宅捜査があるだろうから一刻も早く品物を他処《よそ》へ移さなくちゃならないと言うので、いちばん大事な物を行李につめて俺の宿舎に移した。すると、ジョゼフィヌが、俺の肩書が亭主を助けるのに役に立つからクルトレに行ってくれないかと頼むんだ。一秒も尻ごみなんかしなかったね。まるっきり女にイカれていたんで、女が考えるとおりに考え、女の望みは俺の望みって寸法でしか頭が働かなかったと思っている。
大佐の許可をもらって馬と駅馬車を都合し、ルメール逮捕を報せに来た急使便の男と出発した。俺は、その野郎の顔が気に入らなかった。ジョゼフィヌをお前よばわりして、やけに馴れ馴れしくしていたのが、はなっから面白くなかったってわけだ。そいつは馬車に乗りこむと隅っこに陣取って、俺が何か食おうと思って馬車を停めたムナンまで平気で眠っていた。途端に、ぱっと眼をさまして気安く言った。『大尉さんよ、わしゃ降りとうないんだ。ブランディ一杯、持って来させてくんねェか……』。この口調に驚いて給仕女に望みのものを持って行かせたら、すぐに小娘が戻ってきて、お連れさんは返事がない、きっと寝ているんだわと言う。しかたなく馬車に戻ってみると、野郎はハンカチで顔を覆って隅っこでビクとも動かない。俺が小声で、『オイ、寝てるのか?』、と言うと、『いんや』、と答えて、『眠くなんかねェよ。いってェ、なんだって給仕女なんか寄こすんだ。あんな奴らに顔を見せとうねェって言わなかったっけ?』。俺がブランディを持っていってやると、野郎は一気に飲みほして、それからまた出発した。彼は、もう眠りたくないようだったので、『忍び』を通そうとする理由や、詳しいことがわかっていない俺がクルトレで何する事件とやらについて軽くさぐりを入れてみた。すると、彼は、ルメールには『あたため強盗団』の一味だという疑いがかかっているんだと手短かに説明し、心配させるといけないから、このことはジョゼフィヌには伏せといたと付け加えた。やがて、クルトレに近づいて、町まで百五十メートルくらいのところまで行くと、連れの男が、ちょっと停まれと御者に言って、カツラをつけ、つば広の帽子を目深にかぶり、左の眼に大きな絆創膏を貼りつけ、チョッキから二丁拳銃をひっぱり出して雷管を入れかえて元に戻し、馬車の戸を開けて飛び下りると、姿を消した。
こうした彼の行動は何のためだかわからず、いろいろと不安がつのるだけだった。ルメールの逮捕は、単なる口実だったんじゃないか? ワナにおびき寄せられたのかな? なんかの陰謀か悪事に一役買わされようとしているんじゃないか? など、そんなことは信じる気にはなれなかったが、これからどうしていいかわからないまま、例の謎めいた男が泊まれと言ったダミエホテルの部屋の中を大股に行ったり来たりしていた。と、その時、ふいにドアが開いて、見ると……ジョゼフィヌが! そして、彼女を見たとたんに、俺の疑いは雲散霧消した。だが、その出し抜けに現われたことは、俺とは別行動をとって時間を置いて大急ぎでやって来たので、駅馬車を使えば簡単なことかもしれないが、ほんとは大いに怪しまねばいけなかったのだ。でも、俺は女に惚れていたんで、ジョゼフィヌに、あんたと離れていると思うのはやりきれなかったのよ、と言われると、さもありなんと思って別に聞きたださなかった。俺たちは、うきうきして裸になって抱きあい、まもなくジョゼフィヌは服を着て出かけたが、戻ってきたのは十時で、リエージュ地方の百姓姿の男と一緒だった。だが、その男の態度や顔付きは、その恰好とはまったくチグハグなものだった。
冷たい飲物を注文し、給仕たちが出ていくと、すぐにジョゼフィヌが抱きついてきて、あらためて亭主を救ってやってくれと頼み、助けられるのは、あなた次第よ、と繰り返した。俺が、なんでもするからと約束すると、それまで黙りこくっていたニセ百姓が、すごく立派な言葉で口をきき、何をしなくちゃならないのかを説明した。彼は、こう言った。ルメールは、道連れになった見知らぬ旅行者たちとクルトレに着いたところ、憲兵の一隊にとり囲まれ、法の名において止まれと命令された。ところが、見知らぬ男たちが抵抗してピストルを撃ち合い、ルメールと使用人は、悪いことはしていないから恐れるには及ばないと思って、逃げようともせずに撃ち合いの場に残っていたところを捕まえられた。だが、彼には、かなり強い容疑がかけられた。その郡へ行ってする商いの内容をちゃんと説明できなかった。それがだな、ニセ百姓が言った、そのとき密輸品を持っていたからなんだ、それからまた、草むらの中で二丁の拳銃が見つかり、逮捕の際、彼と使用人が投げ捨てたのを確かに見たという者がいた。さいごに、ある女が、一週間前のガン街道で、憲兵に逮捕された日の朝までは見たこともありませんと彼が言い張っている連中と連れだって歩いていたのを見たと証言したんだ。
とまァ、こういう状況になっているんで、次のことを証明する方法を見つけなくちゃならないんだ。
その一、ルメールは、この一カ月間は家にいて、リールを離れたのは三日前であること。
その二、彼はピストルを持ち歩いたことがないこと。
その三、出発前に誰それから六十ルイを受け取ったこと。
と、その語り手は付け加えた。
本来なら、こんな打ち明け話をされたら、自分に何をやらそうと企んでいるかが見えて来なくちゃいけないんだが、ジョゼフィヌの色香に盲目になっていた俺は、先行き悲惨なことになるぞと何回となく思ったが、けっきょく、そんな考えはポイしてしまった。この夜、俺たち三人はリールへ向かって出発した。リールに着くと、必要な手配をするのに一日じゅう駈けまわり、晩までには証人が全員そろった。そして、証人たちの供述書がクルトレに着くと、すぐさまルメールと使用人は釈放された。かれらの喜びはたいへんなもので、すこし度がすぎているように思った。釈放されて、そんなに有頂天になるのは、よっぽどヤバいことがあったにちがいないと考えざるを得なかった。ルメールが帰ってきた次の日、彼のところで御馳走になったが、ナプキンに百ルイの棒包みがくるんであって、俺は弱かった、そいつを受け取ってしまった。俺は、その時からダメ人間になったんだ。
大バクチを打ち、仲間におごって散財し、あっという間に悪銭を使い果たした。ルメールは、毎日のように、なにかお役に立つことがありましたらどうぞと言ってくる。それをいいことにして次々と借金をかさねて二千フランにもなったが、それで金持になったわけでもいくらか分別がある人間になったわけでもない。ユダヤ人から千エキュの無記名手形で借りた千五百フランも主計将校から前借りした二十五ルイも、おなじ早さで消えてしまった。そのあげく、とうとう、俺は、部下の中尉が馬商人に支払う金を商人が来るまであずかっていてくれと頼まれた五百フランにまで手をつけてしまった。この最後の金は、『お山の大将』亭であそんでバクチでスッてしまった。相手はカレという男で、もう連隊の半分の人間を破産させたプロだった。
その夜はひどいもんだった。中尉の有り金全部を使いこんだ慙愧《ざんき》の念とカモにされた腹立たしさ、それにも懲りずに、まだバクチをやりたいという抑えきれない欲望とが代わる代わる心をかき乱して、何度も自分の頭をブチ抜こうとした。起床ラッパが鳴ったときまで一睡もしなかった。週番だったんで、厩舎の見まわりに行こうと階下におりた。最初に顔を合わせたのが中尉で、馬商人が着いたから、のちほど従者に五百フランをいただきに参上させますと言った。俺は絶体絶命になって何と言ったのか、何か返事をした。厩舎が暗かったおかげで中尉には気どられずにすんだ。上司や同僚からの評判をダメにしたくないなら一刻の猶予もならない。
そんな恐ろしい立場に追いこまれても、ルメールに頼みに行く気にはなれなかった。それまでイヤというほど彼の友情を踏みにじって来ていたからだ。しかし、もう他に手だてがなく、とうとう短い手紙を書いて苦境を知らせることにした。彼は、すぐに駈けつけてきて、テーブルの上に金製の煙草入れを二つ、時計を三個、紋章入りの食卓セットを一ダース並べて、ちょうど今は金子《きんす》の持ち合わせがないが、この品物を公営質屋へ持って行って好きなように処分して下さいと言った。俺は御礼もそこそこ、そっくり従者に持たせて質屋へやった。従者は千二百フラン持って帰った。まず、あずかった額を中尉に返し、次に、悪い星にみちびかれて『お山の大将』亭にすっ飛んで行った。そこにいたカレに雪辱のチャンスをあたえてくれと長いこと粘ったあげく、残りの七百フランが、俺の財布から彼の財布に宿がえした。
俺は、とどめの一撃に呆然となった。あれこれ不吉な思いを頭にめぐらしながら、あてもなくリールの街を何時間もさまよった。そんな思いつめた気持になっていたとき、なんとなくルメールの家の戸口の前に来ていた。ふらふらっと入って行った。ちょうど食事が始まるところだったが、俺の顔色が真っ青なのに驚いて、ジョゼフィヌが、何があったのか、体が悪いのかと訊いた。俺は、とことん打ちのめされた気分だったんで、どんなに遠慮がちな者でも、気が弱くなって何もかもぶちまける状態になっていた。これまでの浪費を洗いざらい白状して、二カ月もたたないうちに四千フラン以上も支払うことになっているが、もうビタ一文もないんだと付け加えて言った。
この話を聞いたルメールは、じいっと俺を見つめた。まだまだ長く生きていたかったが、生きている限り忘れられない眼付きだった。
『大尉さん、あんたが困ってるのを放っとくもんですか……魚心あれば水心です……助けてもらった人にゃ何も隠せませんや……こうなるところをね』
と言って、ぞっとするような笑いを浮かべて左手で首をバッサリやる真似をした……俺は、ぶるった……ジョゼフィヌを見た。平気な顔をしていた……おそろしい瞬間だった……ルメールは、俺の動揺なんか気にもせず、その驚くべき打ち明け話を続けた。彼はサランビエ強盗団の一味だった。クルトレ近くで憲兵につかまった時は、ガンの近辺の農家で武装強盗をやって来たばかりだったのだ。抵抗しようとした使用人を三人殺し、二人の哀れな下女をワイン貯蔵部屋で吊るした。俺が質入れしたのは殺しの後で奪った品物だったのだ……クルトレ近くで捕まったいきさつを話したあと、ルメールは、こう付け加えた。今後は二、三回、遠征に加わって損をとり戻し、実入りをふやすかどうかは俺の気持一つだ、と。
俺はポカンとなっていた。それまでのルメールの行動や、逮捕されたときの状況、俺が奔走してやった釈放の内容などに臭いなと思われる節はあったが、疑いが確かなものになるような一切の考えからは努めて遠ざかるようにしてきた。悪夢にうなされる時のように、眼が覚めるのを待っていた……ところが、眼がさめたら、もっと恐ろしいことになっていた。
ジョゼフィヌが、感にたえられないような顔付きで言う。
『ねェ、返事しないの……ああ、わかった……嫌われてしまったのね……死んじゃうからいいわ!……』
わっと泣きだした。俺は、頭がイカれてしまい、そこにルメールがいるのも忘れて、狂ったように女の膝にとりすがって叫ぶ。
『あんたと別れる……いや、けっして、けっして』
俺も泣きじゃくって声が途切れる。ジョゼフィヌの眼に一粒の涙が見えたが、すぐに気をとりなおす。ルメールはというと、ダンス場で踊り子にアイスクリームを差しだす伊達男よろしく、もの静かに俺たちにオレンジの花を差しだす。
てな訳で、俺は、ノール県、リス川、エスコー川地方の恐怖の的になっている強盗団に加わった。そして、二週間もたたないうちに、あのリエージュの百姓姿をして俺と同行したサランビエ、デュアメル、ショピーヌ、カランドランその他の『あたため強盗団』の主だった連中に引き会わされた。俺がふんだ最初のヤマはドーエの近郷で、あらかじめ小間使いとして屋敷に入りこんでいたデュアメルの情婦《すけ》が押しこみの手引きをし、屋敷に雇われていた植木屋が数匹の犬に毒を盛って始末してくれていた。俺たちは、主人夫婦が寝こむのを待って仕事をするなんてことはしなかった。どんな錠前もカランドランにかかるとイチコロだった。物音一つたてずに客間のドアの前まで行った。家族は、主人夫婦と大伯母、二人の子供と訪問中の親戚の者で、『湯たんぽ』というゲームをしていた。『パス』、『とる』、『勝ち逃げだ』こんな簡単な声だけが繰り返し聞こえてくる。と、いきなり、サランビエが、ドアの把手をさっと回し、まっ黒にススを塗った顔の、ピストルや短剣を手にした六人の男を従えて姿を現わした。これを見て、全員の手からカードが落ちた。娘たちが叫ぼうとしたが、サランビエが身振り一つで黙らせた。仲間の一人が猿のように身軽に暖炉棚に飛び乗ると、天井に付いていた二本の呼び鈴紐を切った。女たちは気絶したが、誰もかまってやらなかった。屋敷の主人は、ひどく動揺していたが、一人だけ、なんとか正気を保っていたけれど、ぱくぱく口を開けるだけで言葉が出ない。やっとのことで、何が欲しいと尋ねた。『金だ』、サランビエが答えたが、まるで声変わりして聞こえた。カードテーブルの燭台をつかむと、隣りの部屋へついて来いと主人に合図した。その部屋にお金や宝石がしまってあることはわかっていた。まさに騎士隊長の立像を先導するドンファンそっくりだった。
俺たちは、灯のない暗い持ち場でじっと待っていた。聞こえるものは、女どもの息づまった溜息と貨幣《かね》の音、それに、ときどき、『まだある、まだある』と繰り返す墓場からの声のようなサランビエの言葉だけだった。二十分後、サランビエが、いっぱい銭《ぜに》を包んで四隅を結んだ赤い風呂敷を持って出てきた。宝石はポケットの中だった。婆さんの伯母と母親からイヤリングを、まずい時に訪ねてきた親戚の者から時計を取りあげるのに抜かりはなかった。そのあと、とっくに寝てしまっている使用人たちが侵入に気づかないように、家族一同を入念に閉じこめておいてフケた。
それからも何度か押しこみ強盗に加わったが、いま話したのよりも厄介なヤマばかりだった。抵抗されたり、主人が金を隠していて、そいつを吐かせるのに最高に手荒なことをした。原則として、灼《や》いたシャベルで足の裏を焼くまでくらいにしていたが、もっと手っとり早い方法を使って、強情な野郎の爪を剥がしたり、フイゴで身体《からだ》を風船をふくらますように空気を入れることもあった。なかには、見込みちがいで本当に金を持っていなくて、苦しみながら死んでいく者もいた。
なァ、お前、こんな稼業だったんだ、俺が足を突っこんだのは。この俺は、生まれもよくて真面目に十二年も勤めてきて、すこしは手柄もたて、同僚の評判も上々の士官だったのに、かなり前から誰彼を裏切ってきて、もうすぐ後へは引っ返せないところへ落ちるにきまってるんだ」
ここでヴィルジューは言葉を切ると、思い出に打ちひしがれたようにガックリとうなだれた。私は、しばらく、そのままにさせといたが、彼が口にした名前の者は、私がよく知っている連中ばかりだったので、もっと話を聞きたいという好奇心が強かった。彼は、二、三杯シャンパンを飲むと元気をとり戻し、また話を続けた。
「そのうち、ますます犯行が多発して兇悪になり、憲兵だけじゃ取り締まれなくなり、いろいろな都市の駐屯軍に機動捜査隊が設けられ、俺は、その一隊の指揮をまかされた。当局の期待とはアベコベの措置だったのはわかるだろ。つまり、俺が前もって知らせておくから、強盗団は、俺が部下と巡回する場所を避けたからだ。というわけで、さらに事態が悪化し、当局は、どんな手を打っていいかわからなくなった。それでも、強盗団の大半がリールに住んでいることを知ると、すぐさま市の城門の監視を倍にした。だが、俺たちは、その新しい警備の裏をかく方法を考えついた。戦場の町々にいる古着屋たちのところには優に一連隊分の被服があるが、サランビエは、そういう古着屋から第十三狙撃隊の軍服十五着を手に入れた。さて、おなじ数の強盗どもが軍服を着こみ、俺が隊長になって、隠密作戦に出動するように見せかけ、たそがれ時に町を出た。
この作戦は完璧に成功したが、俺だけがとくに監視されていることに気づいた。リール界隈に狙撃騎兵に変装した強盗たちが出没するという噂がひろまり、大佐が俺を怪しみだして、それまでは俺一人で指揮していた機動隊の任務を交代で行なうように、もう一人、同僚が命じられ、こんどからは、前日に命令を受けないで、憲兵隊の士官のように出動間際まで命令の内容が知らされないことになった。そして、とうとう、名指しで咎められて大佐の面前で釈明しなきゃならないことになり、強盗どもと関わりがあるなら隠すなとなったが、どうにかこうにか言い訳をして、そこで事態を食いとめた。ただし、俺は機動隊の任務を解かれ、その活動がたいへん活発になって、強盗団は遠征に出かけるのが難しくなった。
だが、サランビエは、いつまでも、おとなしくしている気はなかった。障害がふえただけ図太くなって、たった一夜のうちに同じ村で三件の盗みを働いた。ところで、最初に襲われた家の主人が猿ぐつわと縛りを解いて警報を出した。八キロ四方に早鐘が鳴らされ、強盗団が助かったのは、ただもう馬の足が速かったせいだった。とくにサランビエ兄弟は、しつこく追っかけられ、ブリュージュ〔ブリュッセル西北六〇キロにある都市、ベルギー呼称はブルッゲ〕あたりで、やっと追手が二人の足どりを見失った。かれらは、行き着いた大きな村で、七、八キロのところへ出かけて夕方には戻るからと言って馬車と二頭の馬を惜りた。
御者が馬車を走らせた。海岸に着くと、兄のサランビエが、うしろから短刀でブスッと刺し、御者は、ひっくりかえって台座から落ちた。そいつを兄弟二人で海辺まで運び、波が死体をさらってくれようと海中に投げこんだ。かれらは馬車を自分の物にして街道を進んだが、日暮れに出会った土地の男が、今晩は、と挨拶をした。二人が答えないので、男は声をかけながら近寄ってきた。
『よォ、ヴァンデック、わしがわからんのか?……わしじゃ……ジョゼフだ……』
そこで、サランビエが、三日間、御者なしで馬車を惜りているんだと言い訳をした。しかし、その答えっぷりや、汗みづくになっている馬の状態、馬車の持主は御者なしでは絶対に貸さないことなど、なにもかも解せないので、男は不安になり、話を早目に切りあげ、近くの村に駈けつけて警報を発した。それっとばかりに七、八人が馬に乗って馬車を追いかけ、まもなく、ゆっくり走っている馬車を見つけた。追手が足を早めて追いついてみると……車は空っぽ……すこしガッカリしたが馬車を取りもどし、ある村の秣《まぐさ》小屋に入れ、かれらもその村に泊まることにした。そして、食事を始めようとした時、外で大騒ぎをするのが聞こえた。漁師が海岸で刺し殺された男を見つけ、二人の旅人が犯人らしいとして大勢で村長のところへ引ったてて来たのだった。ジョゼフが見ると、馬車にいた男たちで、ジョゼフと対決させられると、すごく慌てて、馬が歩かなくなったので馬車をすてて歩っていたのだと弁解した。だが、事実、かれらはサランビエ兄弟で、やがて二人の身元が判明し、『あたため強盗団』の一味であるという容疑でリールに送られ、『小別荘』に着いたとたんにサランビエだと確認された。
『小別荘』監獄で、兄のサランビエが当局の手の者に丸めこまれて、仲間全員を売ってしまい、どこで、どうやって逮捕できるかまで教えた。彼のタレコミで男女四十三人が逮捕され、その中にはルメール夫婦も入っていた。と同時に、俺にも召喚状が出た。面倒をみてやったことのある憲兵軍曹が知らせてくれたんで、逃げだしてパリまで来ることができたってわけだ。十日前から居る。お前と出会ったときは、昔の知人の住居をさがしていたんだ。そいつなら匿《かく》まってくれるか外国へ飛ばしてくれると思ってね。だが、これで安心した。ヴィドックに会えたからな」
[#改ページ]
一二 海の男になる
教師ヴィドック
すっかりヴィルジューに頼りにされて悪い気持はしなかった。それはそうだが、そんな男とくっついていたらヤバいどころではない。そこで、何をして暮らしているのかとか、どこに住んでいるのかと訊かれたが、でたらめな作り話を聞かせてやった。というわけで、彼のほうから言いだした翌日の会合は、すっぽかすつもりになっていた。我が身を危険にさらすだけで、彼にとってもタメにはなるまい。夜の十一時に別れたが、警官につけられるのが心配で、何度も回り道をして宿に帰った。主人は、もう寝ていたが、翌日の夜明け前に私を起こし、今すぐ出発してノジャン・ル・ロトルーに行くと言った。その町の近くにある彼の牧場に帰るのだ。
旅は四日かかった。主人の家族は、真面目で働き者の召使いとして迎えてくれたが、しばらく前から考えていた故郷へ帰りたいという気持に変わりはなかった。なにしろ、二度も出した手紙は梨のつぶてで、家からは手紙も金も届かなかった。そこで、またパリに家畜を連れて来たときに、その気持を主人に告げたところ、だいぶ残念がったが暇をくれた。主人と別れて、シャトレ広場のカフェに入り、運送屋が荷物を運んでくるのを待っていて、たまたま新聞を手にした。まっ先に眼についたのはヴィルジュー逮捕の記事だった。彼は、逮捕に来た警官二人を投げとばし、彼も重傷を負った。二カ月後、ブリュージュで十七人の仲間の一番あとに処刑されたが、一瞬もたじろがず、平然として仲間の首が落ちるのを見ていたという。
この成行きを知って、自分がとった行動が身の幸いになったと思った。牛商人の家にいたときは、すくなくとも月に二度はパリに出なければならなかったが、反革命の陰謀や外国のスパイを取り締まっていた政治警察が、西部諸州に住んでいて仕事上でパリに出てくる者は、シュワン党〔俗にシュウアン党、ふくろう党と呼ばれているブルターニュやヴァンデ地方を荒らした反革命王党派集団〕が首都にいる仲間と連絡しているものと考え、そういう者すべてを細心の注意を払って監視し、やけに力を入れていたので、私にとってはヤバいことになりかねなかった。という訳で、私は大急ぎで出発し、三日目にアラスに着いた。夕方、労働者が家に帰るころ町に入ったが、まっすぐ父の家へは行かずに伯母のところへ行って両親に知らせてもらった。両親は、私の二通の手紙を受けとっておらず、私はもう死んだものだと思っていた。けっきょく、どこに手紙が迷いこんだのか奪われたのか、ついにわからずじまいになった。ながながと自分の苦労話をしたあとで家族の近況を尋ね、当然、妻についても尋ねた。すると、父が言うには、しばらくのあいだ家に引き取っていたが、どうにも身持ちが悪くて持てあまし、恥ずかしながら追いだしたが、なんでも町にいる三百代言の子を孕《はら》んで、その男が、なんとか生活費を出してやっていたそうだが、しばらく前から噂も耳に入らなくなったので心配するのもやめたとのことだった。
私のほうも、あの女のことを気にするつもりは更々なかった。ほかに考えなきゃならないことが山ほどあった。今にも見つかって、親の家で逮捕される羽目になるかもしれなかった。なによりも先ずアラスほど警察の監視が厳しくない隠れ家を見つけねばならない。家族の者がアンブルクールという近郊の村に父の友人で元カルメル会修道士が住んでいたのに当たりをつけ、その人が私を置いてくれることになった。この時代(一七九八年)の聖職者たちは、別に迫害されていたわけではないが、まだ人目を忍んでミサを行なっていた。そんなわけで、私の主人のランベール神父は、納屋のようなところで聖務日課を執行していた。ろくすっぽ体も動かせないヨボヨボの爺さんしか手助けする者がいなかったので、私が香部屋係などの役目を買って出た。あんまり巧くやってのけたので、生まれてから他の仕事はしていないんじゃないかと言われたほどだった。同じように、ランベール神父が近所の子供たちに勉強を教えるときの助手も務めるようになった。私は、生徒が早く上達する素晴らしい方法を使ったので、私の教え方が上手だという評判が、その界隈一帯にひろがった。それというのは、私が鉛筆で書いた文字を生徒がペンでなぞり、鉛筆の残り跡を消しゴムで消すというインチキなものだった。親たちは、えらく感心した。ただし、生徒たちは、先生なしで書くのは、ちっとばかし難しかったのだが、なにかの取引にかけては無闇《むやみ》とセコいアルトワ〔アラスがある旧地方名、現在のパドカレ県〕のお百姓も、親バカちゃんりんでインチキに気づかなかった。
私は、その暮らしがかなり気に入っていた。文盲兄弟会〔キリスト教徒が経営する学校の修道士教師を軽蔑した言い方、または修道士が謙遜した自称〕の修士のような服をまとい、当局が見のがす仕事をしていれば、まず疑いの的になる心配はないはずだった。いっぽう、いつも私が相当に気にかけていた動物的な生きざまのほうはウヒヒだった。生徒の親たちが、その都度ビールや鶏肉や果物などを届けてくれて、しまいには可愛い村娘たちが生徒に加わり、たいへん素直に勉強した。しばらくは万事順調だったが、とうとう私は怪しまれだし、ひそかに付け狙ったあげく、確かに飛んでもない授業をしているとランベール神父に苦情が持ちこまれた。そこで、神父が、その苦情を私に話したので、私は徹底して否定した。すると、苦情屋たちは黙ったが、こんどは見張りを倍にした。そして、ある夜、昔から人間にある情熱にかられて、十六歳の女生徒を秣《まぐさ》小屋に連れこんで特別な授業をしようとしたところ、ビール醸造所で働いている四人の若い衆にとっつかまり、ホップ畑に連れて行かれ、まっ裸にされてイラクサとアザミの鞭で血が出るまでぶん殴られた。あんまり痛くて気を失ったが、気がついてみると、肉|刺《まめ》と血だらけの裸で道におっぽり出されていた。
どうしよう? ランベール神父のところに帰るのは新たな危険を求めるようなものだ。まだ夜は更けていなかった。焼けつく熱にさいなまれてはいたが、伯父の一人がいるマルーユに行くことにした。伯父の家には午前二時に着いた。へとへとになって、沼のそばで拾った汚い茣蓙《ござ》にくるまっただけの姿だった。私の災難を笑ったあとで、家の人が油を混ぜたクリームを全身に塗ってくれた。一週間たつと、すっかり元気になってアラスに帰ったが、アラスには留まってはいられなかった。私の滞在は、いつか警察が嗅ぎつけるにきまっている。そこで、向こうで落ち着く覚悟でオランダに向かった。持っていた金で、目鼻がつく機会があるまで待っていられるつもりだった。
人買い屋
ブリュッセルを通ったときに、イ……男爵夫人〔第三章参照〕がロンドンに定住したことを聞いた。そのあとで、アンヴェルスとベルダを通ってロッテルダム行きの船に乗った。ロッテルダムで、居酒屋と宿屋を兼ねているところを教わり、そこで一人のフランス人に会った。彼はたいへん親切な男で、何度も晩飯をおごってくれて、いい仕事を世話してあげるからと約束してくれた。私は、オランダ政府が水兵を徴募するのに手段を選ばないことを知っていたので、その男の親切ごかしには、ひたすら油断を怠らなかった。ところが、それほど用心していたのに、その新しい友人は特別な酒を呑ませて、まんまと私を酔いつぶした。あくる日、眼がさめてみたら、停泊中のオランダ戦艦《ブリッグ》〔二本マストの帆船〕の甲板の上にいた。もう疑いの余地はなかった。飲みすぎたばかりに人買い屋(水兵狩り)のカモになったのだ。
マストから舷側に張ってある網索《シュラウド》のそばに横たわって、次から次へと事件が重なる自分の奇妙な宿命に思いをめぐらしていたとき、乗組員がやって来るなり私を蹴とばし、起きて水兵服を取りに行けと言った。私は、わからないフリをした。すると、水夫長がやって来てフランス語で命令した。彼は、私が船乗りじゃないのを見てとると、ロープをつかんで私をひっぱたこうとした。その身振りを見て、私は、メーンマストの根元で飯を食っていた水夫のナイフに飛びついてもぎとり、大砲を背にして身構えると、かかってくるやつは土手っ腹を切り裂くぞと怒鳴った。乗組員みんなが大騒ぎをし、艦長が、騒ぎを聞いて甲板に出てきた。四十がらみの温和な顔付きの男で、その態度には海の男によくある荒々しいところは全然なかった。私の言い分に好意的に耳をかたむけたが、彼にできるのはそれだけで、政府の海軍機構を変える権限はなかったのである。
イギリスでは、軍艦で働くほうが商船の作業よりも遙かに辛くて、金にもならないし自由もないと言われている。海軍当局は、強制して人を集めていたし、今でもそうやっている。戦時中は、洋上の商船で強制徴募をやった。疲れ果てた水夫や体の弱い水夫を渡して、活きのいい丈夫な連中をかっさらうことが応々にしてある。強制徴募が、大都市のどまん中、陸上で行なわれることもあるが、たいていは身のこなしや服装などから海に無縁の者でないとわかる人間しか徴用しないようにしている。これと反対に、オランダでは、この話の頃は、ほとんどトルコと同じようなことをやっていた。緊急の時には、石工、馬丁、仕立屋、床屋、役に立ちそうな者は誰彼なしにとっ捕まえて艦隊に投入する。だから、いったん港を出たら、なんの作業もできない、こうした乗員を抱えて戦闘に行かねばならない。トルコのフリゲート艦が、ギリシアのオンボロ船に拿捕《だほ》されたり沈められたりしたのも、こういった事情から説明がつくと思われる。
という次第で、気質も生活習慣も、およそ水兵稼業とは縁遠い連中が乗船していたわけで、かれらを海軍に入れると考えただけでも滑稽に思われるような男たちだった。私のように強制徴用された二百人のうち、船というものに足を踏み入れた経験があるのは、おそらく二十人もいなかった。大多数が力ずくか泥酔に乗じて連れてこられていた。何人かは、出稼ぎに行くバタヴィア〔今日のジャカルタ〕まで無料で乗せてやると甘い言葉で約束された者もいた。その中にフランス人が二人いた。一人はブルゴーニュ生まれの簿記係、もう一人はリムザン地方の庭師で、さぞや立派な水兵になったことだろう。
お有難い話だが、乗組員が話してくれたところによると、われわれは、脱走の心配があるので、だいたい六カ月間は上陸させてもらえないというのだ。とくに、イギリス海軍では、これが、ときどき行なわれていて、水兵たちは何年も生まれ故郷の地を見られない。見えているのは、いつもトップマストの上や横に張ってある帆だけ。上陸用ボートの係は信頼できる男たちで、外国生まれの乗組員を使う。禁足の辛さをやわらげるために港々にゴマンといる売春婦を船に呼んでいいことになっており、なんのためか知らないが、女たちはカロリーヌ女王の娘(クィーンズキャロラインドーターズ)と呼ばれている。この話は、ずっと後でイギリスの水兵から聞いたのだが、いい加減な話だとは思わないでくれと念を押してから、こうも言った。清教徒《ピューリタン》の艦長の場合には、そういう不道徳なやり方を隠すために、女たちに従妹とか姉妹だとかを名乗らせることもあった、と。
私としては、ずっと以前から船乗りになりたいと思っていたので、そのときの境遇には文句はなかった。ただし、無理やりにそうされたことと、先々の見通しが奴隷状態だというのがなければの話だった。かてて加えて、水夫長の仕打ちはひどいものだった。私の、あの最初の無礼が許せなかったらしく、ほんの少しのミスをしても、徒刑場のアルグザンの丸太ん棒が懐かしくなるようなロープの雨を降らせてひっぱたいた。私は、やけっぱちになって、マストのてっぺんから動索の滑車を野郎の頭めがけて落っことしてやろうか、それとも夜の当直のときに海におっぽりこんでやろうかと幾度となく考えた。もしも私から剣術を習って仲良くしていた大尉が、なにかと庇《かば》ってくれなかったら、きっと何かをやらかしていただろう。それに、われわれは刻一刻とへルヴォツルイスに向かって航行していた。その港に停泊中の『ハインドラック』の乗組員に加えられることになっていたが、途中で逃げられるかもしれなかった。
私掠船
われわれの積み換え日が来た。二百七十人の徴用兵が小型帆船《スマック》に移された。船には、二十五人の船員と同じく二十五人の護送兵が乗りこんでいた。私は、その護送分隊が弱虫野郎どもと見てとって、一か八か奇襲をかけてやろうと肚をきめた。兵隊を武装解除して船を乗っ取り、アンヴェルスまで行かせるのだ。この陰謀にフランス人とベルギー人の百二十人が加わり、分隊の夕食時に当直の連中を不意に襲えば、食事中の仲間は軽くやっつけられるということになった。この計画は大成功に終わり、陰謀に参加しなかった徴用兵にはまったく気づかれなかった。分隊を指揮していた士官は、お茶を飲もうとしているところを抑えられたが、ひどい目には遭わせなかった。船荷監督をしていて徴用され、水夫作業をさせられていたツールネェの若い男が、士官が言うところの反乱の動機を滔々《とうとう》と述べて説得し、士官は抵抗せずに兵たちと船底へ行くことを承知した。船員たちは操船を続け、ただ舵取りは、われわれの味方のダンケルクの男が操ることになった。
夜になった。沿岸警備艇などに見つからないように帆を少なくして行こう、また、こちらの乗組員が他の船に合図をするのを用心しよう、などと意見を出したが、ダンケルク男は頑として同意しなかった。ほんとは、そのとき、彼を怪しいと思うべきだったのだ。船は帆走をつづけ、夜が明けてみたら、われわれの船は、へルヴォツルイスの隣りにある砦の砲台の下にいた。すると、いきなり、ダンケルク男が、安全に上陸できるかどうか様子を見てくると言ったので、やっぱり仲間を売ったなと合点がいったが、もはや退却の道はなかった。もう合図されているにきまっている。ちょっとでも動けば、砦の大砲で沈められてしまう。成行きを待つしかない。やがて、二十人ほど乗せたボートが岸を離れ、われわれの帆船に接触すると、ボートから三人の士官が恐れも見せずに甲板に上がって来た。甲板では、われわれの仲間と船倉から兵士を出そうとするオランダ人船員とが乱闘をくりひろげていた。
いちばん年長の士官が最初に言った言葉は、陰謀の首謀者は誰かという質問だった。みんなが黙っていたので、私はフランス語で話をはじめた。陰謀などはなかったのです。むりやりに押しこめられた奴隷状態から遁れようとして、みんな、自然に同じ気持から動いたまでです。それに、分隊長にひどい仕打ちなんかまったくしていません。オランダ人の船員に聞いてもらえばわかりますが、アンヴェルスで上陸したら船を返すつもりだったことを知っているはずです。といった私の演説の効果のほどはわからなかった。というのは、最後まで言わせてもらえなかったからだ。ただ、前の晩は兵隊たちを閉じこめておいた船倉に、こんどは、われわれが替わって詰めこまれていた時に、誰かが操舵手に話しているのが聞こえた。
「あしたは、帆桁《ほげた》の端でブランコする奴は一人じゃすまねェだろうな」
その後、小型帆船《スマック》はへルヴォツルイスに向けて舵をとり、その日の午後四時に到着した。停泊地には『ハインドラック』が舫《もや》ってあった。われわれの船に砦の司令官がランチでやって来てから一時間後、私は『ハインドラック』に連れて行かれた。
そこでは、海軍の軍法会議のようなものが開かれていて、暴動の詳細と私が果たした役割について尋問された。私は、先程、砦の司令官に言ったと同じこと、つまり、兵役志願書にサインしていないのだから、あらゆる手段で自由を取りもどす権利があるはずだと主張した。
そのあと、私の陳述と比較するために、小型帆船の護送隊長を監禁したツールネェ出身の若者が連れて来られ、私は退出させられた。どうやら、われわれ二人が陰謀の首謀者とみられているらしかった。こういう状況では張本人が懲罰を受けるものと相場が決まっていて、どっちみち、二人は、まちがいなく絞首刑になる。幸い、その若者とは前もって話をする時間があったので、彼は、私と口裏を合わせて同じ趣旨の申し立てをし、誰からも唆《そその》かされずに、みんな一斉にその気になって大事を決行したのだと断固として主張した。われわれは、すくなくとも仲間に裏切られることはないと確信していた。かれらは、私たち二人のことを大いに心配してくれて、もし有罪になったら、乗っている船を弾薬箱みたいにふっ飛ばしてやるからな、とまで言ってくれていた。つまり、火薬に火をつけて、自分も空高く飛んで行こうと言うのだ。そういう言ったとおりのことをやってのけそうな連中が確かにいた。この脅しが利いたのか、おなじ方法で狩り集めた艦隊の水兵たちに悪い影響を与えるのを恐れたのか、それとも、われわれの行動が法的庇護の範囲から逸脱していないと会議が認めたのか、仲間一同が神妙にしているという条件で、あまり好意は期待できないが、提督に恩赦を願い出てやると約束してくれた。われわれは、何でも言われるままにハイハイと約束した。首に縄をかけられていたんじゃ、あれこれ妥協の条件にケチはつけられない。
予備的な示談がまとまり、仲間たちは軍艦『ハインドラック』に移され、員数が揃ったところで、前からいた乗組員と一緒に中甲板の勤務に割り当てられた。すべては秩序ただしく運び、一言の不平も出ず、とり鎮めねばならないようなごく些細な混乱も起こらなかった。とにかく、最初の戦艦にいたときのように虐待されなかったと言ってよかった。あの船では、例の水夫長が、ロープを振りまわさずに命令したことはなかった。それに、私は、他方で、士官候補生たちに剣術を教えてやったので、いくらか遠慮がちに扱われて、月二十八フロリンの給料で砲手に取りたてられた。
このようにして二カ月がすぎたが、イギリスの巡洋艦が絶えず港外を遊弋《ゆうよく》していたので、われわれは錨地《びょうち》を離れられずにいた。新しい生活にも慣れた。フランス当局が、オランダ船の乗組員になっているフランス人を捜していると聞いたときも、出頭したいとは思ってもみなかった。仲間うちで、この仕事が嫌になっている者には、この話はオンの字だったろうが、そのチャンスを利用しようとする者は誰もいなかった。何故かというと、われわれを欲しがるのは、なんのことはない、ただフランス艦隊に乗りこますためだということがわかっていたからだ。転属したからといって今よりいいことなんかない。それに、ほとんどの仲間は、私と同じに、本国の係官に顔を見せたくない立派な理由を持っていた、と思う。だから、みんな黙っていた。艦長に乗員名簿を提出してもらって調べたが成果はなかった。理由は簡単、みんな偽名を使っていたからだ。台風は去った、と誰しも思った。
しかし、フランス人狩りは続けられていた。ただ、こんどは、船を調べないで、波止場や居酒屋に係官を張りこませて、公用または許可をもらって上陸して来た者を内偵していた。私が捕まったのは、そういった遊びに上陸したときだった。艦のコックがタレこんだのだった。以前から、私は、この男に恨まれていた。バターのかわりにラードを使ったり、鮮魚を使わず腐りかけた干鱈を出したのに文句をつけた以来のことだった。私は、地区司令官のところに連行されたが、オランダ人だと申し立てた。この言葉が、いちおう、おかしくないくらいオランダ語が達者になっていた。さらに、私は、艦に連れて行ってもらえば国籍を証明する書類がありますからと要求した。これは、いかにも正当で当然の要求のように思われた。下士官一名と同行することになり、上陸したときに乗ってきたボートで出発した。そして、たいへん仲良く話し合いながら艦のそばに着くと、下士官を先に登らせた。彼が網索《シュラウド》に取りついたのを見ると、いきなり力のかぎりボートを突き離し、酒手をはずむから精いっぱい漕げと漕ぎ手たちに叫んだ。シュラウドにぶら下がった下士官がもがいているのを母艦の乗組員が見物しているあいだに、ボートは、みるみるうちに水をあけた。乗組員たちは、下士官が何をやっているのかわからなかったのか、それともわからないフリをしていた。陸に着くと、艦には戻らない覚悟で知り合いの家に身を隠した。艦に姿を見せたら捕まらずにいるのは難しいと思った。それでも艦長には、疑いをかけられたら確認させる前に逃げだしますと予告してあった。艦長は、それが身の安全のためだと思ったら、そうするがいいと暗黙のうちに認めてくれていた。
ちょうど、その頃、ダンケルクを母港にしていた私掠船《コルセール》〔北アフリカ沿海のキリスト教国船を掠奪したトルコやサラセン諸国公認のコーセア海賊の義が転じて、敵国商船の捕獲を政府が許可した私船。公認海賊船〕『バラス』丸、船長はフロマンタン、が停泊していた。この時代、こういった船には、あまり近づく者はおらず、一種の聖域になっていた。そういうところで暮らすのは都合がよかった。そこで、尋ねて行ったら分捕隊長とかいう男が船長に会わせてくれた。幸い、フロマンタンは私の評判を聞いていて、剣術隊長にしてくれた。四日後、バラス丸は帆を上げてズント海峡内の巡航に出かけた。一七九九年の初冬のことだった。その年は、荒天のためにバルト海沿岸でたくさんの船が難破していた。船が外洋に出たとたんに真っ向から進路を妨げる北風が吹きつけてきた。縮帆しなければならなくなり、横揺れがひどくて気分が悪くなり、三日間というもの、水割りのブランデーしか口にすることができなかった。乗組員の半数は私と同じで、そんな状態のときに襲われたら、たった一艘の漁船にでもイチコロにやられていただろう。やっとのことで天気がよくなり、とつぜん、風が南西に変わった。優秀な船足のバラス丸は時速十ノットで航行し、一同、たちまち船酔いが治った。とそのとき、見張りが叫んだ。
「左舷に船!」
船長が望遠鏡をつかんだまま言った。
「イギリスの輸送船だ。中立国の旗をあげてるが、風をくらって船団から離れたらしい」
われわれはフランスの旗をかかげ、道い風を受けて追いついた。こちらが大砲を二発うつと、輸送船は接触を待たずに帆を降ろして降参した。われわれは、乗組員を船底に閉じこめて、捕獲船をべルゲン(ノルウェー)に向けて回航した。積荷の西インド諸島産の木材の買手が待っていた。
六カ月間、バラス丸に乗っていた。捕獲の分け前は相当な額になりかけていた。そのころ、たまたまオーステンデに寄港したが、その町は、いつも私には不吉な場所だったことは前に述べたとおりで、こんども、なんとなく運命論を信じかけていた。船が港内の停泊地に入った途端に、警視と憲兵と警官たちが乗りこんできて乗組員の身分証を検査した。後でわかったのだが、その異例の処置がとられたのは、ある殺人事件があって、われわれの中に犯人がいるのではないかと疑われたからだった。尋問の番が来て、ロリアン生まれのオーギュスト・デュヴァルと名乗り、証明書はロッテルダムのオランダ海員事務所に置いてあると申し立てた。すると、相手が何も言わなかったので、うまく切り抜けたと思った。船に乗っていた百三人の尋問が終わった後、八人が呼び出され、兵籍登録所に連行するから更に釈明しろと言われた。そんなことをする気は毛頭ない。最初の角を曲がったところで逃げだし、三十歩ほど憲兵を引き離したかと思ったとき、家の前を掃除していた婆さんが足のあいだにモップを投げた。私は転んだ。憲兵が追いついて手錠をかけた。騎兵銃の床尾やサーベルの柄でイヤというほどブン殴られたのは勿の論である。こうして、縛られたまま兵籍登録官の前に引っ立てられ、私の話を聞き終わると、係官が、カンペールの病院から逃げたんじゃないのかと尋ねた。これで、万事休すだと観念した。ヴィドックだと言ってもデュヴァルだと言ってもヤバいが、けっきょくデュヴァルにした。本名を言うより不利な場合が少ないというものだ。オーステンデからロリアンへ行くほうがアラスへ行くのよりも道のりが長いから、それだけ逃げる余地が残っていた。
[#改ページ]
一三 二度目のクサリ
まごつく司直
その後、一週間すぎたが、一度しか登録官には会わなかった。やがて、リールへ移送される囚人や脱走兵、そのほかの連中と一緒に出発することになった。かつて幾度か暮らしたことのあるリールの町へ行ったら、身元のゴマカシがきかなくなる恐れが多分にあった。そこで、その町へ行くと聞いて念入りに予防策を講じておいたので、以前、私を連行したことのある憲兵たちにも気づかれなかった。泥と煤《すす》の厚化粧をして顔かたちを隠し、その上、教会のフレスコ画にあるような最後の審判のトランペットを吹き鳴らしている天使の頬っぺたみたいに頬をふくらませていた。このような顔で衛戍《えいじゅ》刑務所であるレガリテ監獄に入ったが、そこには数日いるだけの予定になっていた。さて、その監獄では、囚われの退屈をまぎらわすために、思いきって何度か酒保でやる飲み会に顔を出した。面会人にまぎれて逃げるチャンスがつかめるかもしれないという望みもあった。バラス丸で顔見知りになった水兵と出会ったときは、計画を実行するのに験《げん》がいいように思えた。彼に昼飯をおごってやり、食べ終わって房に戻ってから、あれこれ自由を取りもどす方法を思いめぐらしながら三時間ほど過ぎたころ、水兵が私のところに上がって来て、お上さんが晩飯を差し入れに来たので一緒にやらんかと誘った。水夫には女房がいたのだ。となると、そのお上さんから女物の服や変装道具を手に入れて牢番の眼をごまかせるんではないかと思いつき、その考えで頭を一杯にして酒保に下りて、女が待っていたテーブルに近づいた。と、ふいに叫び声がして、女が気を失っている。水夫の女房だ……助け起こそうとした……こんどは私が声をあげた……なんと、フランシーヌじゃないか……軽はずみだったと慌てて、我を忘れた咄嗟《とっさ》の行動をとりつくろおうとした。この有様を見ていた連中が驚き怪しんで、私のまわりに人垣ができた。質問を浴びせられた。しばらく黙っていて、妹かと思ったんだ、エヘヘ、と作り話をして答えてやった。
この出来事は尻切れとんぼになった。われわれは翌日の夜明けに出発したからだ。移送隊は、ランス〔パドカレ県にある町でマルヌ県のランスではない。綴り字が異なる〕街道へ出るのが習わしなのにドーエへの道を行くのを見て私は仰天した。なぜ方向を変えたのだろう? フランシーヌがヘマをやらかしたのではないかとも思った。だが、間もなく、次のことがわかった。つまり、カンブレの監獄に詰めこまれていた徴兵拒否者をアラスに移す必要があったという簡単な理由からだった。
あらぬ疑いをかけたフランシーヌが、最初の休憩地で待っていた……憲兵たちが見ているのに、話をし、キスしたいと言ってきかなかった。さめざめと泣いた。私も泣いた。一切の私の不幸せの原因は、みんな自分が悪かったからだと、彼女は、どんなに我が身を責めて苦しんだことか! 心から後悔していた。私は、喜んで彼女を許した。ときに、憲兵班長の号令でさようならをせねばならなかった。彼女は、精いっぱいのことをしてくれたのだ。二百フランの金貨を私の手にすべりこませた。
とうとうドーエに着いた。われわれは州刑務所の門前にいた。憲兵が案内の鈴を鳴らす。開けに来たのは誰だったか? 門衛のデュチユールだ。私が脱獄しようとして失敗し、一カ月も看護してくれた男だ。私に気づいたようには見えない。もう一人、文書課で知った顔をみつけた。廷丁のユルトレル。えらく酔っていたので忘れているだろうと高をくくった。三日間、なんの声もかからなかった。だが、四日目に予審判事の前に引き出された。ユルトレルとデュチユールが立ち会っていた。お前はヴィドックではないかと尋ねられたが、自分はオーギュスト・デュヴァルですと言い張り、ロリアンに問い合わせてもらえばはっきりします、それにオーステンデでの逮捕理由が証明しています、御用船からの脱走罪としか聞いていません、と申し立てた。判事は、やけに私が落ち着いているので、私の言い分に傾くかに見えた。ためらっていた。だが、ユルトレルとデュチユールは、間違っていないと言い張った。やがて、訴追官のローソンが検分にやって来て、やはりヴィドックだと主張した。それでも、私が、ぜんぜん平気な顔をしていたので、なんとなく心もとなくなり、とうとう、はっきり白黒をつけるために、敵は、ある策略を考えだした。
ある朝、誰かが私に面会に文書課に来ていると言われた。そこで、下りて行ってみると、なんと、アラスから呼び寄せられた母親だった。どういう目的かは御推察のとおり。可哀そうなお袋は、私にとびついて抱きしめた……ワナだということは見え見えだった……静かに彼女を押し戻し、のぞきこんでいる予審判事に言ってやった。はっきりわかってもいないくせに、息子に会えるなんて気の毒な御婦人に望みを持たせるのは腹が立つなァ。お袋のほうも、離れながら私が送った合図を呑みこんで、注意ぶかく私を調べるフリをし、けっきょく、あんまり似ているもんだから魂《たま》げたよ、と言い、人を呼びつけくさって、ぬか喜びをさせるだけだとは、と恨みつらみを言いながら出て行った。
判事と門衛の気持がグラついたところへロリアンから手紙が着いて、そのグラつきに止めを刺すかと思われた。ところが、その手紙には、カンペールの病院から逃げたデュヴァルの左腕にあった刺青のことが書いてあり、ドーエで拘留されている人物、つまり私とが同一人かどうかのキメ手になると言って来ていた。そこでまたもや予審判事の前に出廷。ユルトレルは、早くも自分の眼力に勝ち誇って尋問に立ち会った。私は、判事の最初の一言で何が問題になっているかがわかったので、肘の上まで袖をまくり上げ、かれらが万に一つもあろうとは思っていなかった刺青を見せてやった。それは、ロリアンからの報告のものと正に同一のものだと認められ、みんな天から落ちたみたいに腰を抜かした。さらに、状況をこんがらかせたのは、ロリアン当局が、私を海軍の脱走兵だと言っていることだった。こんなふうにして二週間たったが、私に関しては何の決定も下されないままだった。そこで、私は、自白させるための厳しい取調べにうんざりして、自分は確かにヴィドックだと宣言した手紙を刑事裁判所の裁判長に書いた。なぜ、そんなことをする気になったかというと、すぐにも移送隊に加わったままビセートルへ出発できるのをアテにしたからだ。ただし、途中で脱走することも目論んでいたが、このほうは監視が厳しすぎて無理だった。
一七九九年四月二日、再度のビセートル入りをした。そこでは古参の囚人たちと再会したが、かれらは懲役を宣告されているのに徒刑場送りは猶予になっていた。刑期は、拘留決定の日から数えられるから、この猶予処分は事実上の減刑ということになる。こうした優遇措置は、今日でも時折り与えられている。この措置が、情状酌量の余地がある者とか悔俊の情いちじるしい人間にだけ与えられているならまァまァなのだが、この法律違反は、総じて、州警察と国家警察とのナワ張り争いのようなものから発生している。ところが、囚人は例外なく国家警察の管理下にあるから、国家警察は、適当と思う者をビセートルからでも他のどこの監獄からでも労役場に送ることができる。そのときになって初めて、私が右に述べた批判の正しさがわかる。それまでは、上っ面だけの偽善や信仰をひけらかしていた囚人が、化けの皮を脱いで正体をあらわし、徒刑囚の中の最も太てぶてしい奴になる。
ビセートルでは、ラブル大尉とも再会した。ブリュッセルにいたとき、イ……男爵夫人をだますための書類を用意してくれた男を思いだしていただきたい。彼は、ガンのシャンポン旅館であった重大な窃盗事件の共犯として十六年の懲役を宣告されていた。われわれ一行に加わって次の護送隊で徒刑場に送られることになっていたが、もうすぐにも始まる道中は、かなり面白くない旅になりそうだった。護送隊長のヴィエ大尉は、自分の仕事をよく知っていたので、どんな脱走も防ぐために、ツーロンに着くまで全員に手錠と二重首枷を付けると言った。だが、われわれが逃げないからと誓ったので、やっと、その素敵な計画を断念させることができた。
天晴れジョサス
鎖付けは、最初の徒刑場行きの時と同じように行なわれた。私は、パリやその界隈で、その名も高き盗賊と第一の組になって先頭に立たされた。それがジョサスだった。むしろ、日頃の自称、サンタマン・ド・フォラル侯爵のほうで知られていた男だ。三十六歳、感じのいい姿かたち、必要に応じて最高に振舞える男。彼の『徒刑場』旅行の出《いで》立ちは、ベッドから出て居間を通っていく伊達男の恰好だった。銀鼠色のニットのズボン、おなじ色の上着とアストラカンの毛皮つきの帽子、深紅のビロードの裏が付いた、ゆったりした外套が、すっぽりと全身をつつんでいた。そして、その身なりに似合ったように金をつかった。どの宿泊地でも極上のもてなしを受けないと承知せず、いつも同行の囚人の三、四人におごってやっていた。
ジョサスの教育はゼロだったが、うんと若い頃に植民地の金持の家に奉公して、その人の旅行のお伴をし、どんな集まりに出てもソツがないだけの、かなりな礼儀作法を身につけた。だから、仲間たちは、彼が上流社会に入りこむ様子を見て、『万能合鍵《パスパルツー》』というアダ名をつけた。彼には、その役どころが申し分なく身に備わっていたので、徒刑場で二重クサリを付けられ、みすぼらしい連中の中に混ぜられても、囚人服なりに品位を保っていた。すてきな化粧箱を持っていて、毎朝、一時間かけて身繕いをし、きれいな手をとくに念入りに手入れしていた。
ジョサスは、今日では本当に数少なくなった珍しい盗賊で、まる一年間も、じっくり仕事の計画を練って準備することもあった。主に合鍵を使って仕事をし、まず最初は外側の入口の鍵型をとることから始める。さて、鍵ができると、最初の部屋に入りこむ。もし、行く手をさえぎる別の戸があると、またその鍵型をとって第二の鍵を作らせる。こうして次々と目的を達するまで同じことを続ける。毎晩のように侵入するわけにいかないことは誰しもわかろう。家の主人たちが留守をする時しか入れないから、いきおい、かなりの時間をかけて機会を持たねばならない。だから、この方法に頼るのは他に手だてがないとき、つまり、どうしても家に入りこめない場合だけで、なんらかの口実で家に入れてもらうと、あっという間に全部の鍵型をとってしまう。鍵ができると、シャントレーヌ街の自宅に、その家の人々を夕食に招待し、みんなが食卓についている間に、共犯者たちが狙った部屋に忍びこんでお宝をいただく。召使いたちは、なんらかの方法で家から遠ざけておく。たとえば、いっしょに連れて来て手伝ってくれませんかと先方の主人に頼んだり、小間使いや料理女には恋人を差しむけて連れ出させたりする。たいていは、金と宝石しか盗まないから、門番は何も気づかない。たまに、かさばる品物を盗むときは、すぐ近くに洗濯屋の馬車を停めて待機している相棒に汚れたシーツにくるんだ品物を窓から投げる。
ジョサスの仕業とされる山ほどの盗みがあるが、そのすべてが、きわめて高度な巧緻性、観察眼、創意の心がまえを示している。ハヴァナの外地白人《クレオル》〔とくに西インド諸島の植民地生まれ〕として通っていた社交界では、何度もハヴァナの住民と顔をあわせたが、けっしてボロは出さなかった。何回も立派な家柄の家族にとり入って、その家の子女との結婚話にまで事を運び、いつも、その談合のあいだに持参金の所在《ありか》をさぐりだし、結婚契約書にサインする直前に掻っぱらってドロンした。
彼の手口のうちで、いちばん天晴れだったのは、リヨンの銀行がカモになった一件である。手形の割引きとか売買などの口実で銀行に出入りして、わずかの間に行員たちと親しくなり、そこらじゅうの鍵型をとったが、ただ、金庫の鍵型だけが手に入らなかった。その錠前には秘密の仕掛けがあって、どうしても型がとれないし、おまけに、金庫は壁に埋めこまれて二重の鉄板で囲われていたので、そいつを壊すなんて考えられないことだった。おしまいに、金庫係は、いつも鍵を肌身に付けていて離さない。だが、これほどたくさんな障害にも、ジョサスのやる気はめげなかった。気さくな調子で金庫係と仲良くなり、コロンジュ〔リヨンがあるローヌ県の隣りのアン県の一邑。スイスのレマン湖近くに国境を接する〕にピクニックに行かないかと誘った。約束の日、二人は二輪馬車で出かけたが、サン・ランベールの近くまで来ると、道ばたに瀕死の女が口と鼻から血を流して倒れているのが見えた。そばには、手当てをしようとマゴついているらしい男がいた。ジョサスは、いかにも心を動かされたフリをして、出血を止めるには病人の背中に鍵を押し当てると治ると言った。ところが、金庫係のほかは誰も鍵を持っていなかったので、彼は、まず自分の住居の鍵を出したが、さっぱり効き目がなかった。そこで、どっと流れる血を見て仰天していた金庫係は、金庫の鍵もジョサスに渡すと、それを病人の肩のあいだに押しつけたところ効果てきめんだった。お察しのとおり、背中には型取り用の蝋台が仕掛けてあったので、すべて、前もって仕組まれていたのである。三日後、金庫は空っぽになっていた。
前にも述べたように、ジョサスは派手好みで、ラクに金が手に入る男の冥利だとばかり、てんで気軽に金をつかっていた。さらにまた、思いやりがあった。その風変わりな思いやりの行状が山ほどあるうちの一つを述べるが、詳しい判断は道学者先生がたにお任せするとしよう。ある日、おいしい稼ぎがあると聞きこんで、アザール街にあるアパルトマンに忍びこんだ。まず、オヤと思ったのは、家具や調度が見すぼらしいことだった。さては、この家の主人は余程のケチン坊なのかな? と思い、家捜しをつづけて、隅から隅まで引っ掻きまわし、そこらじゅうの物をぶっこわした。だが、見つかったのは、書物机にあった公営質屋の質札の束だけだった。ジョサスは、ポケットから五ルイを取りだして暖炉の上に置き、『こわした家具の弁償金』と鏡に書いてから、間抜けな泥棒が入って、ジョサスが壊さなかった家具を盗みだすといけないからと、念入りに戸に鍵をかけて退散した。
ジョサスが、われわれと一緒にビセートルを発ったのは、彼の三度目の徒刑場行きの旅だった。その後、二回脱走して捕まり、一八〇五年にロシュフォールの徒刑場で死んだ。
モントローにさしかかったときに、ある光景を目撃した。同じようなことが、また起こりかねないので、お知らせしといたほうがよいと思う。モージェという徒刑囚が、その町出身の某青年を知っていて、若者の両親は息子が懲役になっていると思いこんでいるというのだ。そこでモージェは、隣りの男にハンカチで顔を隠せとすすめ、沿道に駈けつけて来た数人に、内証の話だが、このハンカチで顔を隠しているのが皆さんご存知の若い衆だと教えた。鎖の列は前進をつづけたが、モントローから一キロほど行ったところで、一人の男が追いついてきて、『ハンカチさん』のためのカンパ、五十フランを大尉にことづけた。その夜、その五十フランは関係者に分配された。関係者以外は、誰も、そのオトシマエの原因がわからなかった。
サンスで、ジョサスは、ある茶番劇を演じてみせた。彼は、『金貨館』という宿屋の主人、セルジャンという男を呼んでこさせた。男は、ジョサスを見ると、ひどく辛そうな顔になり、眼に涙を浮かべて声をあげた。
「なんとまァ、あなた様がここにとは、候爵さま……昔の御主人の弟御が……もうドイツにお帰りになったものとばかり思っておりやした……ああ、神さま、神さま、なんてお気の毒な!」
ある時、一仕事しようとしてサンスに来たジョサスが、セルジャンが料理人をしていた伯爵の弟になりすまし、こっそりフランスに戻ってきた亡命貴族に化けていたことがあったらしい。ジョサスは、亭主にこう説明した。国境を越えるときに偽造パスポートで捕まり、公文書偽造で有罪判決を受けた、と。人のいい宿屋の亭主は、らちもない涙は流さなかった。高貴な徒刑囚に飛びきり上等な夕食を用意し、私もお相伴にあずかり、ひどい境遇にあったくせに凄い食欲を発揮した。
シャロン〔マルヌ川ぞいのシャロン・シュール・マルヌのこと〕までは、ボーヌで逃亡しようとした二人の囚人が、こっぴどく棒でぶんなぐられた他にはとくに変わったことは起こらなかった。シャロンで、われわれは、藁をいっぱい積んだ大きな船に乗せられた。パリに石炭を運ぶ船によく似ていて、厚い帆布が船全体にかぶせてあり、ちょっと田園風景を見たいとか、きれいな空気を吸いたいと思って、囚人が布の隅を持ち上げると、たちまち背中に雨霰《あめあられ》と棍棒が降ってくる。私は、そんな暴行は受けずにすんだが、そのときの境遇に平気でいたわけではなかった。ただ、いつも変わらぬ陽気なジョサスが、ほんの一とき苦しさを忘れさせてくれていたが、徒刑場に着いたら、途端に眼をつけられて脱走は不可能になってしまう。この思いは、リヨンに着くまで、ずうっと私につきまとっていた。
『ひげ島』が見えてくると、ジョサスが言った。
「面白いことがあるぞ」
なるほど、その言葉どおり、ソーヌ川の岸に船を待っているらしい優雅な馬車が停まっていた。船が見えると、女の人が窓から顔をだして白いハンカチを振った。
「あの女だ」
ジョサスは言って、合図を返した。船が桟橋につながれると、女は、馬車から降りて見物に来た弥次馬の群に交じり、その顔は厚い黒のべールで覆われていて見えなかった。彼女は、午後の四時から晩方まで立ちん坊をつづけ、その頃になると見物人もまばらになっていた。ジョサスは、護送の士官チエリ中尉に彼女のところに使いに行ってもらった。中尉は、すぐにソーセージを持って帰ってきたが、その中に五十ルイ隠してあった。なんでも、ジョサスは、侯爵に化けて女をモノにし、有罪判決を受けたことを手紙で知らせておいたのだそうだ。たぶん、サンスの宿屋の亭主にしたのと同じような作り話をしたのだろう。この手のインチキは、今日では滅多にないが、当時は、革命とそれがもたらした社会組織の崩壊で世の中が混乱していたので、こんな話はゴロゴロしていた。どんな手を使って彼女をだましたのかはさだかでないが、そのべールを付けた婦人は、翌日も桟橋に現われて、出発間際まで立ちつくしていた。ジョサスは悦に入っていた。金まわりがよくなったからだけではなく、脱走したときの隠れ家のアテができたからだ。
ローヌ河の暴風雨
とうとう船の旅も終わりに近づいた。ところが、ポン・サンテスプリまで八キロのところで、ローヌ河の嵐と言われている物凄い雷雨に出くわした。遠くのほうで、ごろごろと雷が鳴っていたかと思ったら、やがて雨が滝となって落ちてきた。熱帯地方でしかないような突風が吹きまくり、家屋を倒し、樹木を根こそぎにし、大波が捲き上がる度に船が呑み込まれそうで、いやその怖ろしいこと。そのとき、船は、すさまじい光景を呈した。きらめき走る稲妻が、鎖につながれた二百人の男を照らしだし、万事休す、生きた心地はなく、お互いに繋がれている鎖の重みで、もう絶対に死ぬんだと思って恐怖の叫び声をあげた。死刑台と戦ってきた生命《いのち》、これからも悲惨で最低の生き方をせねばならない生命だが、その生命を永らえようとする必死の欲望が、不気味な表情に読みとれた。何人かの囚人は、まったく平然とした顔をしていた。また、反対に、狂ったように嬉しがっているのが大勢いた。幼い頃に習ったのを思い出して何かお祈りをつぶやいている哀れな男がいたり、卑猥な歌ををうたいながら鎖をゆさぶっている連中もいた。祈りが途絶え、わァと長く喚《わめ》く声があがった。
誰も彼も、がっかりして呆然となっていたところへ、さらに船頭や船子どもが、みんな、もうダメだというふうに気落ちしてしまったので、われわれの落胆は倍加した。護送の連中も浮足だち、見る見るうちに水びたしになっていく船を捨てる素振りさえ見せた。すると、情景が一変し、
「上陸だ、上陸だ。全員、上陸だ!」
みんなが叫びながらアルグザンたちに詰め寄った。暗闇が、ちょっとのあいだ混乱に輪をかけた。罰は受けないと高をくくり、大胆な囚人たちは立ち上がって、船が岸に着く前に飛びだしちゃいかんぞと怒鳴った。どうやら冷静さを失っていなかったのはチエリ中尉ただ一人で、平然とした態度で反対して言った。もう、なんの危険もない、その証拠に、彼も船頭たちも船を離れようとは思っていない、と。ときに、天候も目立って穏かになってきたので、なるほどと彼を信じた。夜が明けると、河は鏡のように平らになり、昨夜の嵐が嘘のように思われた。ただし、濁った流れが、死んだ家畜や根こそぎになった木、家具や家の残片を押し流していなかったらの話だ。
われわれは、暴風雨から助かってアヴィニョンに上陸して城にあずけられたが、そこでアルグザンの復讐が始まった。かれらは、昨夜の暴動と称するものを忘れず、まず、たっぷりと棍棒を見舞って思い知らせた。次に、町の人たちが囚人に見舞いの金品を与えようとしたのを邪魔した。旅の期間も終わるので、今後、そういう物は手に入らないはずだった。
「泥棒に施しだと! ドブに金をすてるようなもんでさァ……どうしてもってんなら、隊長に聞いてくんな」
アルグザンの一人、ラミとっつぁんというオヤジが囚人のそばへ寄ろうとした婦人に言った。しかし、チエリ中尉は、これまで機会あるごとに述べてきたような野蛮で人でなしの護送員とは大違いな人物で、主婦たちに許可をあたえた。ところが、アルグザンたちは、あくどい底意地の悪い手をつかい、施し物の分配が終わる前に出発の合図をした。
そして、ついに、三十七日間の地獄旅のあと、鎖の行列がツーロンに入った。
十五台の馬車が港に着いて製綱工場の前に並ぶと、囚人たちが降ろされ、一人の受領職員が監獄の中庭に引率した。いくらかでも値打ちのある服を着て道中してきた者たちは、新入り囚人の到着を見物しに集まってきた群集に急いで裸になって着ている物をあたえた。囚人服が配られ、私はブレストで見て知っていたが、手枷をリベットで打たれた後で、『浮いている徒刑場』として使われている、マストを取り払ったアザール号(今のフロンタン号)に連れて行かれた。パイヨ(書記役をする徒刑囚)が、われわれの特徴事項を記載したあと、戻り馬(脱獄して逮捕され戻ってきた囚人)が区別されて二重クサリが付けられた。脱獄すると刑期が三年延長される。
これに該当した私は、いちばん信用のおけない囚人が入っている三号房に入れられた。そこにいる連中は、港をうろついて脱走の機会を見つけるといけないからというので、ぜったいに労役には出されない。腰掛けに繋がれっぱなし、じかに板の上に寝かされ、ノミやシラミにかじられ、虐待と栄養不良と運動不足で痩せ細り、見るも哀れな姿になる。
ブレストの徒刑場で行なわれていた、あらゆる種類の悪弊については前に述べたので、ツーロンで見たことは省略することにする。囚人は同じように落ち着かず、アルグザンの横暴も変わりがなく、国有財産の着服も同じように行なわれていた。ただ、こちらの軍備品は豊富で、海軍工廠や倉庫で労役している徒刑囚には、それだけチャンスが多かった。鉄、鉛、銅、麻、ピッチ、タール、油類、ラム酒、乾パン、燻製牛肉などが、毎日のように消え、囚人には水兵や港湾労働者の中に強力な協力者がいたので、ガメた品物を隠してくれる者はゴマンといた。抜き取られた船舶用品は、多くの艀《はしけ》や漁船を装備するのに使われ、船主たちは叩き値で買うが、取調べを受けた場合は、払い下げ品の競売で買ったと言うことにしていた。
私と同じ房に、イギリスの監獄にいた囚人がいた。この男は、チャタムとプリマス〔いずれもイングランドの港〕の造船所で大工として労役したことがあったが、もっと大々的な盗みが行なわれていたという話をしてくれた。テムズ川とメドウェイ川の岸沿いにある村々には、年がら年中、海軍の綱や索の撚《よ》りを戻す仕事をしている連中がいて、海軍用具だと見分けるために撚り合わせてある模様や小綱を取り除けた。別に、工廠から盗んだ金物金部についている矢印の刻印を消すためだけに雇われている者たちもいた。この横流しは、かなり大仕掛けなものだったが、テムズ川で横行していた盗賊があたえた損害にくらべたら物の数ではなかった。水上警察が設置されてからは、この悪行も大いに制圧されてきたが、今日でも、いまだに一部の港で行なわれている密輸の内幕を述べるのは、関係者には耳の痛いことだろうが、まんざら無益ではあるまい。
ここで云々する悪党たちは、いくつかの部類に分かれていて、それぞれに固有の名称と縄張りがある。『川海賊』、『軽騎兵』(ライト・ホースメン)、『竜騎兵』(ヘヴィ・ホースメン)、『川猟師』(ゲーム・ウォーターメン)、『はしけ猟師』(ゲーム・ライターメン)、『泥ツバメ』(マッド・ラークス)、『どさくさ屋』(スカッフル・ハンターズ)、『けいず買い』(コープメン)。
『川海賊』は、テムズ川を荒らす海賊のうちで最も大胆で兇悪な連中の集まりだった。かれらは、とくに夜に仕事をし、警備の薄い船を狙う。ときには、非力な乗組員を皆殺しにして勝手気ままに略奪する。ふつうは、船の綱索や杭材、それとも綿の梱包を盗るくらいにしている。キャスレーンテアーに停泊していたアメリカ帆船の船長が、物音を聞いて何事かと甲板に上がった。と、一隻のボートが離れて行く。海賊だった。そいつらは、今晩はと挨拶して、錨をケーブルごといただいたよと言った。かれらは、船荷を見張る役目の夜間当直員とグルになって、いとも易々と盗みをやった。こうした内通者がいない時は、艀《はしけ》のケーブルを切り放して、見つかる心配がないところまで流して仕事をする。こんなふうにして、小さな石炭船などは、一夜のうちに、そっくり積荷を空にされる。ロシアの獣脂は、バカでかい樽《たる》に入っているので動かすのが難しいから大丈夫だろうと思っていたら、やはり安全ではなかった。夜のあいだに三トンから四トンもする大樽が七つも盗まれた例がある。
『軽騎兵』も夜間に掠奪するが、主に西インド諸島から来た船を襲う。もともと、この種の盗みは、副水夫長格の連中と『けいず買い』との取決めが始まりで、故買屋は、クズ、つまり、砂糖のかけらやコーヒー豆、こぼれた酒類などといった積荷を降ろしたあとに船倉に残った物を買い取ることになっていた。ところで、誰しもわかることだが、袋に穴を開けたり樽板をこじ広げたりして儲けを増やすのはチョロいことだ。毎年、大量の油をイギリスに送り出していたあるカナダ人の卸売商が、このことに気づいた。彼は、ふつうの油洩れで起こるのよりも、かなり大量の目減りがいつもあるのに気づいて、この件に関して何度か問い合わせたが納得のいく返事がなかったので、その謎を見究めようとロンドンにやって来た。細大もらさず注意して調べてやろうと肚《はら》をきめて河岸に来ると、徹夜で荷上げをするはずの荷船をじっと我慢して待ったが、だいいち、その荷船の遅れ方が只事ではなかった。やっと荷船が現われた。すると、人相の悪い一団の男が、まるで海賊が獲物の船に乗りこむような勢いで荷船に乗り移るのが見えた。そこで、こんどは卸売商が船倉に入ってみたら、樽が口を下に向けて並んでいたので、あっと声を呑んで立ちすくんだ。荷船に樽を積み終わってみたら、九樽分の油が船倉に洩れていたのがわかった。荷主の卸売商が二、三枚の板を剥がさせたら、その下にも五樽分の油があった。という次第で、一回のハシケ積み替えで十四樽が横領されていたのだった。
ところが、信じられない話だが、乗組員は、自分たちの非を認めるどころか、せっかくの余禄がフイになったと平気で文句を言ったという。
『軽騎兵』は、この手の横領に飽きたらず、『はしけ猟師』と組んで、夜中に砂糖の大樽の底抜きに出かける。樽の中身は、ブラック・ストップス(黒帯袋)と呼ばれている黒い袋に分けて運び、そっくり空っぽにする。
私が警察の仕事をするようになってから、あるとき、私と協力捜査をするために何人かのイギリス警官がパリにやって来たことがあったが、かれらの実話によると、ある夜、こんなふうにして数|艘《はい》の船から二十樽の砂糖が盗まれたという。そして、ラム酒までがポンプ(ギッジャー)を使って抜き取られ、そいつを膀胱袋に詰めて持ち去る。こういうインチキが行なわれる船は、ゲーム・シップ(カモ船)と呼ばれた。当時、酒類の盗みは、そこらじゅうで行なわれていて、海軍でも同じだった。フリゲート艦『ヴィクトリー』で起きた奇妙な事件など、その一例である。この船は、周知のようにトラファルガー海戦で死んだネルソンの遺骸をイギリスに運んだ軍艦である。遺体を保存するためにラム酒の樽に入れたが、プリマスに着いて樽を開けてみたら、中はカラカラだった。酒の番人も、その樽は見に来ないと安心し、水兵たちが、航海中、ストローやギッジャーを使って、とことん飲んでしまったのだった。かれらは、そういうことをするのを『提督の栓を抜く』と称していた。『川猟師』は、荷揚げをしている船に乗りこみ、盗品を受け取ると、その場で陸上げをする。『けいず買い』との交渉を委されていたので、かなりの額をピンはねした。みんな派手に散財し、ある男などは、稼業の収入《あがり》で別嬪さんを囲い、乗馬用の馬まで持っていた。
『泥ツバメ』、この連中は、干潮時に船の竜骨のまわりをうろついているものと思われている。古いロープや鉄や石炭などを漁《あさ》っているフリをしているが、実は、舷側から投げ落とされる品物を受け取って隠しているのである。『どさくさ屋』は、長い前掛けをした職人で、仕事をさせてくれと頼むフリをして集団で押しかけ、ドサクサにまぎれて必ず何かクスねてくる。
最後に、『けいず買い』は、これまで列挙してきた泥棒が持ちこむ物を買い取るだけでは飽き足らず、ときには、誘惑に弱いと眼をつけた船長や副水夫長たちと直接、取引をする。この取引は、関係者だけにわかる隠語で行なわれる。砂糖は≪砂≫、コーヒーは≪インゲン豆≫、唐辛子は≪グリンピース≫、ラム酒は≪酢≫、紅茶は≪ホップ≫。このやり方で、荷受人の面前でも当人の積荷のことだと気づかれずに取引することができた。
三号房には、徒刑場にいた兇悪犯の全員が顔をそろえていた。ヴィダルという男がいて、おなじ徒刑囚仲間からも恐れられていた……十四歳のときに、殺人一味の共犯として逮捕されたが、年齢のせいというだけで死刑台行きをまぬかれて二十四年の禁錮重労働を言い渡された。しかし、監獄に入った途端に喧嘩がもとで仲間を短刀で刺し殺した。禁錮重労働が二十四年の懲役刑になった。その後、何年か徒刑場にいたが、あるとき、囚人の中から死刑を宣告された者が出て、ちょうど死刑執行人が町にいなかったことがあったとき、ヴィダルが熱心に代役を申し出た。それが聞き入れられて、彼は処刑を行ったが、そのあと、監獄側は、ヴィダルを看守台に坐らさねばならなかった。さもないと、仲間に鎖で叩き殺されていたところだった。ヴィダルは、いくら仲間に脅されても一向にビビらず、しばらくすると、またあの忌まわしい仕事をやってのけた。さらに、彼は、囚人を警棒でブチのめす役目まで引き受けた。しまいに、一七九四年、デュゴミエ〔グアドループ生まれのフランスの将軍(一七三八〜九四)〕がツーロンを占領した結果、町に革命裁判所ができて、ヴィダルは捕虜の処刑を命じられた。彼は、もうこれで自由になったと思いこんだが、恐怖政治が終わると徒刑場に逆戻りさせられて特別の監視を受ける身になった。ヴィダルと同じ腰掛け台にユダヤ人のデシャンが鎖で繋《つな》がれていた。国有調度品保管所の盗難事件の犯人の一人だった。この男が事件の話をするのを聞いていた囚人たちの思い入れは禍《まが》々しいものだった。これこれしかじかのダイヤや宝石を盗んだと並べたてただけで、眼がギラつき、筋肉がビクッと引きつった。かれらの表情の動きから見て、いずれ自由の身になったら何をしようと考えているかが読みとれた。こうした意欲は、軽い罪でブチこまれていた連中にとくに目立った。たいして値もない物を狙うなんて、くだらねェ野郎だと嘲けられ、馬鹿にされていたからだ。なんしろ、保管所から盗んだ品は二千万の値打ちがあったんだ、と言ったデシャンは、野菜泥棒をした哀れな男にバカにしたように、
「よォ、キャベツしかなかったんかい?」
国有調度品保管所の盗難
この窃盗事件が起こってからの事件状況の説明や人心の動揺は、たいへん特異なものがあった。
(一七九二年九月十六日)日曜の夜の会議で、内務大臣ロランが国民公会〔一七九二〜九五年までのフランス国会〕の壇上から、この事件を報告し、担当職員と寒さが厳しかったという口実で持ち場を離れた衛兵の警備の落度にたいし遺憾の意を表明した。数日後、この事件の調査委員会の一員、チュリオが大臣の怠慢を非難し、大臣は、保管所の監視以外の他の事項にたずさわっていたとスゲない答弁をした。議論は、そこまでだったが、この論争が世間の注意を呼びさまし、内通者がいて、盗んだ儲けで警備員たちを買収する陰謀があったという噂がもちきりになり、はては、政府みずからが盗んだんだとまで言いだす始末。しかも、この噂を本当らしくしたのは、この事件で有罪になり、真相を暴露するものと期待されていた数名の者が十月十八日に執行猶予になったことだった。しかし、一七九七年二月二十二日、盗品の大部分の発見に功績のあったコルバン夫人に五千フランの報奨金をあたえる提案が長老会議〔一七九五年に設けられ九九年に廃止された二院制の一つ〕に付議された際、チエボーは、はっきりと明言し、本事件には、なんらの政治的な陰謀はかかわっておらず、ひとえに衛兵の監視の手落ちも、当時のすべての行政機関に瀰漫《びまん》していた無秩序によって惹起されたものであると報告した。
『世界報知《ル・モニツール》』〔当時の政府新聞〕は、その論説の中で、勝手に想像をたくましくして、いわく、四十人の武装盗賊が保管所に侵入したが、すぐにも逮捕されるだろうと述べたが、事実、その場で捕まった者は一人もいなかった。当事者が、『レジャン』王冠宝石〔フランス王冠を飾っていた一三七カラットのダイヤ〕や『皇太子のガラガラ玩具』その他、千七百万フランに見積もられる多くの宝石類が消えているのに気づいたときは、デシャン、ベルナール・サル、ポルトガルのユダヤ人ダコスタが、かわるがわる、四晩も続けて忍びこんだ後だった。かれらが持っていたのは武器ではなく、持ち出すつもりのない銀器に嵌《は》めこんである宝石を外す道具だけだった。という訳で、象牙細工の魚の眼になっていた逸品のルビーなどを慎重に外して持ち去ったのだった。
この盗みの発案者としての栄誉ある名を残したデシャンは、ロワイヤル街とルイ十四世広場の角に今もある街灯を伝わって保管所の窓によじ登り、まっ先に陳列室に忍びこんだ。ベルナール・サルとダコスタは見張りをした。最初の二回に手助けしたのは、その二人だけだったが、三回目の夜になると、ブノワー・ネー、フィリッポノー・ポーメット、フローモン、ゲー、国民軍中尉のムートン、サンソーヴール街の宝石商の通称『トルコ人』ことデュランなどが一味に加わり、おなじく大泥棒仲間の大勢の御歴々(一流の泥棒)が、分け前にあずかりに来るようにと友好的な通知を受けた。司令部は、ロアン街のビリヤード場だった。なお、この仕事は、あまり秘密にはされていなくて、最初の盗みの翌日など、アルジャンツーユ街のレストランで女たちと食事をしていたポーメットは、ローズカットや小さな切子ダイヤを一つかみテーブルに取りだして女どもに与えたほどだった。警察は、そんなことも知らなかった。盗みの主謀者が発覚したきっかけは、デュランが、アシニヤ紙幣の偽造の容疑で逮捕され、特赦を受けようとゲロする気になったことからだった。彼の自白によってレジャン王冠宝石も取り戻せた。ルリエーヴルという女の帽子に縫いこめられていたのがツールで押収された。その女は、戦争のせいでイギリスへ渡ることができず、ボルドーにいたグコスタの友人のユダヤ人に売りに行くところだった。はじめ、一味は、パリで処分しようとしたが、千二百万という品物の値は、ヤバい疑いを招くにきまっていた。また、通報される心配があるので宝石細工師にカットしてもらうのも断念した。その中には、ブノワー・ネー、ダコスタ、ベルナール・サル、フローモン、フィリッポノーも入っていた。フィリッポノーは、一七九一年末、ロンドンで三百フランのアシニヤ紙幣の原板を彫っていたところを逮捕され、パリに移送されてラ・フォルス監獄〔パリのマレー地区にあった刑務所、一八五〇年に廃止〕に入牢していたが、九月二日の大虐殺〔一七九二年、パリの囚人を解放しては五日間虐殺した〕のドサクサにまぎれて脱獄していた男である。
デシャンは、国有調度品保管所の窃盗で断罪される以前に、ある重大事件に連座していた。こまかい点までの彼の話からして、彼は、疑いもなく犯人だったのだが、うまく切り抜けて助かったと得意になっていた。それは、古物商フローモンと組んでやった宝石商デロンと女中の二重殺人事件だった。
デロンは、その分野で手広く商売をしていた。個人的な買入れの他に、真珠やダイヤモンドの仲買いもしていた。律義な男として通っていたので、売るとか台から外すとかで、たえず貴重な品を預かっていた。競売にも行き、そこでフローモンと知り合いになった。フローモンは、教会の略奪(一七九三年)で出てくる上祭服その他の装飾品を買うのが主な目的で、せっせと競売場に通っていた。品物を焼いて、飾り紐などの金銀を採りだすのだ。よく顔を合わせたり、なんどか売買で互いに競り合ったりしているうちに、二人のあいだに繋がりのようなものができ、やがて親密なものになっていった。デロンはフローモンに隠しごとをしなくなり、商売のことを相談し、預っている品物の値段も教えるようになった。そして、しまいには、とくに貴重な品物の隠し場所まで打ち明けた。
こうして、すっかり事情を教えられた上に、デロン家への出入りも自由になったので、フローモンは、デロンが、しょっちゅう妻と芝居見物に出かけるのを知り、その留守を狙って盗みをする計画をたてた。誰か見張り役が必要だった。それに、フローモンは家中の者に顔を知られているので、実行当日に家の中で姿を見られたらヤバい。とにかく、まず、徒刑場から脱走していた錠前屋に頼んだ。男は、デロン家に入るために必要な合鍵をいくつか作ったが、警察に追われていてパリを離れねばならなくなった。そこで、その代わりの者として声をかけたのがデシャンだった。
盗みの当日、デロンと妻は『共和国劇場』へ出かけた。フローモンは、女中の帰りを見張って居酒屋に張りこんだ。女中は、いつも主人の留守を利用して恋人に会いに行っていた。デシャンはアパルトマンに上がって行き、そっと合鍵で戸を開けた……と、出かけたとばかり思っていた女中が玄関の前にいたのを見て驚いたのなんの(実は彼女によく似た妹が、しばらく前に出かけたのだった……)。びっくりして怖い顔になったデシャンを見て、娘は持っていた物を落とし……叫ぼうとする……デシャンは飛びかかって娘をたおし、ノドをつかんで、いつもズボンの右ポケットに持っていた鞘付き短刀を抜いて五回突き刺した。可哀そうに娘は朱に染まり……瀕死のあえぎをしているあいだに、殺人者は家の隅々をあさったが、思いがけない出来事に面くらったか、階段で物音が聞こえたせいか、いくつかの銀製品を手にしただけで逃げだし、居酒屋で張っていた仲間のところに戻って一部始終を話した。フローモンはがっかりした。女中が死んだことをではなく、デシャンの知恵と度胸のないのを口惜しがり、あんなに念入りに説明してやったのに隠し金庫を見つけなかったことを責めた。さらに、その不満をつのらせたのは、そんな不始末に終わったからには、デロンが警戒を強くして、こんどのようなチャンスは二度とつかめないだろうということだった。
事実、この事件があってから、デロンは住居を変えた。怖くてたまらなくなったのだ。ひどく用心して、ごく少数の人しか家に入れなかった。フローモンは、顔をださないようにしていたが、デロンはまったく彼を疑っていなかった。あれが彼の犯罪なら、秘密にしていた隠し金庫のことを知っている彼が金庫を荒らさないはずがない、どうして彼を疑えようか? 何日か後に、ひょっこりヴァンドーム広場で出会ったが、しきりに会いに来てくれとすすめ、以前にまして交際を深めるようになった。そこで、フローモンは、また最初の計画に戻った。だが、新しい隠し金庫のことを無理には聞きだせないし、だいいち、いやが上にも用心しているだろうとあきらめて、計画を変えることにした。デロンは、ダイヤモンドの大きな取引きをするという口実でデシャンの家に誘われて殺され、フローモンの話を真に受けて持参していた金貨やアシニヤ紙幣、総額一万七千フランを奪われた。最初の一撃を加えたのはフローモンだった。
二日たった。デロン夫人は、前置きもなしに、そんなに長く家を開けることのない夫が帰って来ないのと、かなり多額の金を持って出たのを知っていたので、きっと何か悪いことが起こったにちがいないと思った。彼女は警察に出頭した。当時、警察は、その他の役所と同じように機構が混乱していたが、なんとかフローモンとデシャンの逮捕までこぎつけた。かれらの盗みに加わるはずだった錠前屋が逮捕されて、事をバラしたのが二人の命取りになった。だが、この男に代償として約束されていた自由は認められず、仲立ちをして約束した警官のカドは裏切りたくなかったので、ラ・フォルス監獄から裁判所へ行く途中で脱走させた。こんなわけで、この事件の唯一の証人がいなくなり、デシャンとフローモンは釈放された。
その後、フローモンは、その他の多くの盗みで十八年の懲役刑を受け、共和暦七年の雪月一日、ロシュフォール徒刑場へ護送されることになった。それでも彼は、へこたれなかった。それまでの盗みで稼いだ金を使って、鎖行列に加わることになった何人かを買収し、チャンスを狙って脱走しようとしたら手助けをするか、いっそのこと、事と次第によっては彼ぐるみ集団脱走することにした。フローモンが、日頃から自由の身になりたいと言っていたわけは、彼に刑を宣告した裁判長のドラランド野郎と塗炭《とたん》の苦しみをあたえた捜査本部の警視を消しに行きたかったからだった。この計画を実行するための準備万端がととのった。そんな時、ある娼婦が、関係者の口から詳しい話を聞いて、おそれながら、と届けでた。結果、対策が講じられて護送係に通知され、フローモンは、囚人一行がビセートルを出発する際に手錠をかけられ、ロシュフォールに着くまで外してもらえず、ロシュフォールでも特別に要注意になった。彼が徒刑場で死んだのは確かなことであるが、一方、デシャンは、まもなくツーロンを脱獄し、オートゥイユでやった盗みで三年後に逮捕された。セーヌ県の重罪裁判所で死刑を宣告され、パリで処刑された。
三号房には、私とデシャンの他にはルイ・ミュロという強盗が一人いるきりだった。ながいあいだノルマンディ地方に恐怖をもたらしたコルニュの息子だった。コルニュの犯行は、まだあの地方では忘れられていない。博労に変装して、ほうぼうの市《いち》をわたり歩き、大金を持っている商人に目星をつけると、近道を通って人里はなれた場所で待ち伏せて殺した。三度目の結婚で若くて可愛らしいベルネー生まれの娘を女房にした。最初のうちは、自分の恐ろしい稼業を内証にしていたが、すぐに、その女が自分にドンぴしゃりの相手だとわかった。それからというものは、稼ぎに出かけるときは必ず女房を連れて行った。彼女は、小間物の行商女に化けて同じように市を巡り、オージュの谷の裕福な農家などにあっさりと入りこんでは亭主の手引きをした。いつも用心して足の速い馬を用意しておき、アリバイを作って成功していた。
一七九四年、コルニュ一家は、親父にお袋、伜《せがれ》が三人、二人の娘と情夫たちになっていた。子供たちには、犯罪に慣れさせるために、年端もいかない頃からスパイをやらせたり納屋に放火させたりした。いちばん下の娘のフロランチーヌが、はじめ、なんとなく尻ごみをしたので、アルジャンタンあたりの百姓女の首を前掛けに入れて八キロの道を運ばせて娘を鍛《きた》えた!……
かなり後になって、悪を悪と思わなくなってから(どんなことにも平気になってから)、この娘は、一八〇二年にパリで処刑された殺し屋カプルーを情夫にした。一家が、『あたため強盗』団になってカンとファレーズ間の地を荒らしていた頃、この娘が、哀れな百姓たちの腋の下にローソクの火を近づけたり、足の指に燃え木を押しつけて金の在りかを聞きだしたものだ。
一家はカン警察と、とくにルーアン警察に激しく追われ、若い連中がブリオンヌで逮捕された。そこで、コルニュは、行方をくらますために、しばらく、パリの郊外に引きこもることにした。セーヴル街道ぞいの一軒家に家族ぐるみで落ち着いたが、別に心配もせずにパリに出かけてシャンゼリゼをぶらついた。散歩していると、いつも顔見知りの盗っ人たちと出くわした。ある日、こう声をかけた連中がいた。
「よォ、コルニュとっつぁんじゃねェか、いま、何やってるんだい?」
「あいかわらずの極楽とんぼよ(殺人)、なァみんな、極楽とんぼだ」
「そりゃ面黒ェや、とっつぁん……でもよォ、通行手形(死刑)の心配が……」
「ああ、名主さん(証人)がおられんもん、心配ねェだよ……あっためてやった鼠どもは、みんな冷たくなっちまったから、もうビビルこたァねェんだ(足を焼いた百姓たちは殺したから、もう恐れることはない)」
こうした散歩の折りに、昔の仲間に出会い、その男にヴィル・ダヴレの森の中にある別荘を襲わないかと持ちかけられた。盗みが行なわれ、獲物を山分けにしたが、コルニュはゴマ化されたのに気づいた。森の中央に来たとき、仲間に煙草入れを差しだしてワザと落とした。男が拾おうとし、かがんだ刹那、ピストル一発で脳味噌を吹きとばして身ぐるみ奪って家に帰った。家の者みんなにその話をして聞かせ、わっはっはと高笑いをした。
コルニュは、ヴェルノン近くの農場に侵入しようとしているところを逮捕され、ルーアンに連行されて重罪裁判所に起訴され、死刑を宣告された。上告していたあいだ、まだ自由の身でいた女房が、毎日、食べ物を差し入れに来て慰めた。
ある朝、いつもより沈んでいるように見えたので、女房が言った。
「よくって、ねェ、ジョゼフ、狆《ちん》ころ(死)を怖がってると言われるよ……せめて晴れの舞台(処刑場)に立つときは、チンケな(見っともない)真似はやめとくれよ……ドサ回り(街道追剥ぎ)に笑われっからな……」
「ウム、西瓜《すいか》(首)のことでなきゃ屁の河童なんだが、なんしろ、こっち側にゃ浅右衛門(首斬人)、もう片っ方にゃいのしし(聴罪司祭)、うしろにゃヒモ野郎(憲兵)がいやがって、そんだけでもう、傷口から血が流れてる気分になって嬉しかねェんだ……」
「なら、もう、ジョゼフ、そんなこと考えちゃだめ。あたしゃただの女だけど、ねェ、いいかい、おまいさんと一緒なら、可哀そうなジョゼフ、九日祈祷《ノヴェナ》の女になったつもりで土壇場へ行ってやるよ。そうとも、マルグリットが誓って言うよ、おまいさんとならどこまでも行きたいよ」
「ほんとか?」
コルニュが聞き返すと、ため息まじりにマルグリットが、
「ほんとのほんとさ。オヤ、なんだって席を立つんだい、ジョゼフ?……どうかしたのかい?」
「なんでもねェよ」
コルニュは答えて、廊下の入口に立っていた牢番に近づき、
「ロック、看守を呼んでくれ、検事さんに話があるんだ」
女房が叫んだ。
「なんだって、検事だって……あんた、タレこむ(犯罪をバラす)つもりかい? ああ、ジョゼフ、どんな恥を、子供らに」
それっきりコルニュは無言でいたが、司法官が来ると女房の犯罪をバラした。そして、この不幸な女は、彼の暴露によって死刑を宣告され、亭主と同時にお仕置になった。
この一幕を私に話してくれたミュロは、涙がでるほど笑いながら語った。とにかく、彼は、ギロチンをナメる了見はまったくなく、とっくの昔から、ルーアンで処刑された親父やお袋、兄貴や妹のフロランチーヌの二の舞いになりそうな仕事はしないようにしていた。彼の家族のことや、かれらが仕出かした事の結末を話しては、いつも最後にこう言った。
「火遊びするから、こうなるんだ。だから、俺は、そんなことにはならん」
事実、彼の遊びは、あまり怖いものではなく、ある種の盗みだけにし、なかなかの腕の冴えを発揮した。パリに連れて来た姉に泥棒の手伝いをさせた。彼女は、洗濯女に化けて、籠を背負うか腕にかけるかして門番のいない建物に上がって行くと、一軒一軒のドアを叩いてまわり、留守を確かめた家があるとミュロに知らせに戻る。すると、ミュロは、錠前屋の小僧に変装し、道具一式と鍵束を手にして駈けつける。どんな複雑な錠前も彼にかかるとイチコロだった。もし誰かが通りかかって疑われないように、姉が前掛けをかけて地味な頭巾をかぶり、鍵を紛失して困っている女中よろしく作業を見まもった。言うまでもなく、ミュロも、用心おさおさ怠らなかったが、結局、あっと驚いたのが一巻の終わり、仕事中にとっ捕まって、まもなく懲役を宣告された。
[#改ページ]
一四 ツーロン脱出
産業を興す
ツーロンの徒刑場ほど辛い所はこれまでになかった。二十四歳の身空で、極悪人どもと雑居し、年がら年中かれらと顔をつき合わせていると、いっそのことペスト患者のド真ん中で生きるほうが百倍もいいと思った。悪へ悪へと心がなびいている堕落人間を、いやでも眺め、声を聞かされ、そのお手本が伝染するのが心配だった。夜昼なく、眼の前で最もモラルに反した行為をホメそやし、私の個性の力では、そういう不実で危険な言葉になじむ惧《おそ》れはないという自信がなかった。実のところ、これまで数多くの誘惑とたたかって来たが、物欲しさから、みじめだから、なかでも自由になりたいという願望から、心ならずも犯罪へ一歩を向けることがよくあった。ただ、ここ一番、なんとしても脱走しなくちゃと思われるような状況が、まだ見つからなかった。以来、どうやったら脱走できるかということばかり考えていた。いろいろな計画が心に浮かんだが、どれも納得しかねるものばかりだった。とにかく、ここぞという時を待つしかなく、それまでは、ただ忍の一字で苦境を我慢するしかなかった。もう何度も脱走したことのある本職の盗賊どもと同じ作業台で働いていては、かれらもそうだが、監視の眼を盗むのは難しかった。アルグザンどもが、われわれから少し離れた番小屋(掘立小屋)で頑張っていて、こちらのちょっとした動きも見張っていた。かれらの組頭のマチュウ親方は、いわゆる山猫の眼をしていて、相手に欺す気があるかを一眼で見抜くという男だった。この古狐は六十歳になろうとしていたが、年には似合わない頑丈な身体をしていて、まだまだ元気いっぱい、いくら使っても減らない角ばった体格で、彼を見ていると、小さな尾っぽの灰色の斑点のある毛の狐が、怒った顔をして一仕事にかかろうとしているのを想像した。これ見よがしに、必ず台の上に棍棒を置いてから口をきいた。これまでにやった、あるいは、これからやろうとしている無数の囚人をぶん殴る話をするのが楽しみで、たえず徒刑囚とやりあっていて、どんな巧妙な企みも知らないことはなかった。あまりにも囚人を疑いすぎて、計画などしていないのに企んでいるとして咎《とが》めた。こういうケルベロス〔ギ神、頭が三つある地獄の門の番犬〕を手なずけるのは並大抵のことでないと覚悟せねばならない。だが、私は、彼の気に入るように努め、まだ誰も成功したことのない計画だったが、やがて、まんざらムダな望みではないと思うようになった。はっきりと彼の心をつかんだ感じをもった。マチュウ親方は、ときどき私に話しかけ、私は彼を先輩と呼んで、大いに心服している態度をとり、もう何か頼んでもおかしくない頃合いだと見てとって、労役場に行った徒刑囚たちが持って帰る木切れで子供の玩具を作らせてくれと頼んだところ、おとなしく神妙にやるならいいという条件で、私が望むことに賛成してくれて、さっそく、その翌日から仕事を始めた。仲間たちが粗削りをし、私が仕上げをした。マチュウ親方は、私が作った物が可愛らしい出来だとわかると、ちっぽけな私の仕事にも彼の助けがあってできたと言ったので、彼は満足している証拠だと受けとった。そんなことを言うのは、たえて久しくなかったことだ。
「こいつァいいや、みんなが楽しむってこたァ結構なこんだ。どれもこれも上等に仕上げてもれェてェもんだ。そうなりゃ、おめェも気がまぎれてよ、作ったもんで、ちったァ、なんぼかの旨味があろうってもんだ」
こう、彼は言い、幾日もたたないうちに作業台が細工場《さいくば》に変わり、十四人の男が、せっせと退屈しのぎに一様に精をだし、自分の才覚で何がしかの金をかせぐようになり、大々的に活動をひろげた。原材料を出してくれる他の囚人たちが仲だちをしてくれて小売りが行なわれたからだ。われわれは、いつも商品の手持ちがあり、一カ月のあいだに商売は大繁盛、毎日、かなりの収入があったが、そのうちの一文も徒刑場の事務所には流れなかった。こうして、玩具作りと販売が日常のこととして行なわれるようになり、報酬をまとめる便法としてパンタガラという男を経理の責任者にし、これをマチュウ親方も認めてくれた。徒刑囚の部屋で飲物や食べ物を売る囚人である。ところが、残念ながら、玩具という商品は、製造と消費とのあいだの必要な均衡を破って増産することはできない品物で、これが経済の真実である。販路がなくなって製造をゆるめなければならない時がある。ツーロンの町には、あらゆる趣向の玩具があふれていた。われわれは腕組みせざるを得なかった。
これ以上、どうしようもないと知った私は、ここらで入院してやろうと思って、両足が痛むふりをした。ほんとうに私の味方になっていたマチュウ親方が口添えしてくれた医者は、私に歩く力がないことを信じた。脱走してやろうと目論んでいると、いつも、それ相応のツキがあるものだ。フェラン医師は、私が彼をだましているとは一瞬も疑わなかった。彼は、ほとんどのモンプリエ大学医学部出身の御医者様《ヒポクラテス》のように医神《アスクレピオス》の申し子の一人で、ぶっきらぼうな態度は、職業柄あたり前のことであったが、人間であることに変わりはなく、とくに私にはたいへん親切であった。
聖歌集売り屋
外科主任が好意的で、勝手に治せと治療箱をあずけた。私は自分で包帯を巻いて湿布を用意したところ、ほほォ器用なやつだなということになり、おべっかが役に立ったのがわかり、私が楽しくしているのを面白がらない看護部屋のアルグザンの用はなかった。しかし、ムッシュ・ロンム(職員の名)の冷酷非情にかなう者はいないということだった。みんなは、ふざけて、彼を『エクセ・ホモ』〔コノ人ヲ見ヨ、残忍なピラトがキリストを指して行った言葉〕と呼んでいた。以前、彼が聖歌集売り屋をしていたからだ。私が危険人物だという通知は受けていたが、ムッシュ・ロンムは、私の真面目な行状にすっかり感心し、さらに何本か甘口ワインをまわしてやったところ、私には眼に見えてやさしくなった。
さて、どうやら私に疑念がないと見てとって、彼や同僚の監視のスキを狙う策略をたてた。その頃にはもう、カツラと黒い頬ヒゲを手に入れており、さらにワラ布団の中に蝋をひいて新品に見える古長靴を隠してあった。だが、これらは頭と足だけの用意で、外科主任が、外套と帽子とステッキと手袋を私のベッドに置いておく習慣があるのを計算に入れていた。ある朝、彼が腕の切断手術をすることになり、部屋の隅っこでする手術の手伝いにムッシェ・ロンムが付き添っているのを知った。変装するのに都合がいいチャンスだった。急いで実行に移し、新しい衣裳《なり》で真っすぐ出口に向かった。アルグザンの下っぱ連中のド真ん中を通り抜けねばならなかった。思いきって図々しくやってのけたところ、誰一人として私に注意する気配はなかった。そして、やれやれ、もう大丈夫だと思ったとき、
「つかまえろ、つかまえろ! そいつは脱走囚人だ」
と叫ぶのが聞こえた。ときに、海軍工廠の門まで二十歩そこそこだったので、速さを倍にして門の前に着くと、町に逃げこんだ者がいるんだと告げて、こう門衛に言った。
「だから俺と一緒に走るんだ。病院の脱走者だ」
二重の鎖
この咄嗟《とっさ》の気転で助かりそうだったが、門の格子戸を通り抜けようとしたら、誰かがカツラをつかんで引き戻すのを感じた。ふり向くと、ムッシュ・ロンムだった。抵抗すれば死ぬことになる。あきらめて彼の前を歩き、徒刑場に連れ戻されて二重の鎖を付けられた。懲治監へ放りこまれるのはわかっていたので、そいつを勘弁してもらおうと刑務官の前にひざまずいて哀願した。
「ああ、ムッシュ、どうか叩くのは勘弁して下さい。ぜひとも御慈悲を、それだけがお願いでございます。三年くらい延びてもかまいませんから」
刑務官は、私の哀願に心を打たれ、威厳を保つのがやっとで、けっきょく私の切なる願いと改悛《かいしゅん》の情に免じて許してやると答えた。ただし、外科医の所有物でないカツラとか長靴などを提供した者は誰か申せ、となったので、こう言い返した。
「ご存知ないんですか、私どもの周りにいる連中は、金のためなら何でもする哀れな者たちです。だが、私の役に立ってくれた者を裏切ることは、金輪際できません」
この率直な言分に満足して、刑務官は、ただちに二重鎖を外すように命令し、アルグザンが、それではあまりにも寛大すぎますと、ぶつぶつ不平を鳴らすと、だまっとれと命じて、こう付け加えた。
「きみたちは、彼の意志に反することをしても彼を助けてやるべきだ。なぜなら、きみたちのタメになる教訓をしてくれたからだ」
私は刑務官に感謝し、すぐその後で、これから六年間も強制される地獄の作業台に連れ戻された。だが、気をとりなおして子供の玩具を作ろうという希望をつないで自分をなぐさめたが、マチュウ親方が反対し、心ならずも何もしないでいるしかなかった。二カ月というものが、私の境遇に何の変化もなく過ぎていった。ある夜、眠れずにいたら、とつぜん、暗闇でしか思いつかない考えがひらめいた。ジョサスという男が眼をさましていたので、その考えを伝えた。誰しも、しょっちゅう考えていることは、脱走してみたいということである。ジョサスは、私が考えついた方法が、本当に素晴らしくて驚嘆すべきものだと判断してくれて、抜かりはないと堅く約束してくれた。彼の助言を忘れなかったことは後ほどわかるはずである。
ある朝、徒刑場の刑務官が巡回に来て、私のそばを通ったので、個人的なお願いがありますと言うと、
「ほォ、私に何を? なんか不平があるんか? さァ、言った、きみ、大きな声で言うんだ、正しく扱ってやるぞ」
やさしい言葉に元気づけられて大声をあげた。
「ああ、御親切な刑務官さま、私こそ模範囚がよみがえった第二の模範囚のつもりです。たぶん覚えておられることと思いますが、ここに私が来たとき、私は弟の身代わりだと申しましたね。私は弟を咎めてはいません。それどころか、彼は他人《ひと》になすりつけられた無実の罪をかぶり潔白だと信じて心を休めているくらいです。私の名で、ドーエの裁判所で宣告を受け、ブレストの徒刑場を脱走したのは彼です。今はイギリスに逃げて自由に生きています。ところが、私は、不運な間違いから脱走した弟のギセイになって労役に服さねばならぬことになりました。彼に似ていたのが不運だったんです。でなかったらビセートルには送られなかったんです。ビセートルの看守たちは、私を見知っているとは言いきらなかったのです。上申書で請願しましたが、そのような一致する者は存在しないことを認めるという証言のもとに認めてもらえませんでした。けっきょく、間違いが事実になってしまい、私は、ただもう嘆くだけとなりました。あなたに確定した決定を改めて下さいとは申しませんが、ひとつだけ御親切にすがってのお願いがございます。私が逃げないようにと、泥棒や人殺しや凶悪な極悪人たちの群がいる札付きたちの部屋に入れられています。そして、のべつ幕なしに連中がやった犯罪話や、万一自由の身になったらやってやるという話を聞かされてふるえあがっています。ねェ、どうかお願いします、人道的な思いやりから、ああいう堕落人間たちと長いこと一緒にしておかないで下さい。私を独房に入れてください。クサリを付けて苦しめ、好きなようになさってもかまいません。とにかく、もう連中とは一緒にしないで下さい。もし私が脱走するとするなら、ああいう破廉恥な連中がいるところから遁《のが》れたい一心からということになります(こう言って徒刑囚たちのほうをふり向いた)。ごらんなさい、刑務官さま、あんな凶猛な眼で私を睨んでいます。早くも連中は、私が申したことに仕返しをしてやろうと構えています。私を殺そうと猛りたっています。もういちど、お願いします。あんな怪物どもの復讐に私を見すてないで下さい」
この口上のあいだ、囚人たちは、ただもうびっくりして呆気にとられていた。自分らの仲間が、よもや、そんなふうに眼の前で悪口をたたくとは思いもよらなかったからだ。刑務官も、妙なことを言うもんだとしか思わなかったらしく、じっと黙っていたが、深く心を動かされたなと見ておった。そこで、彼の足元に身を投げだし、眼に涙をうかべて言いつづけた。
「御同情ねがいます。お聞き入れにならないで、この部屋から出して下さらずに行ってしまわれたら、二度と私を見ないことになります」
この最後の言葉が期待していた効き目をあらわした。人のいい刑務官は、眼の前で私の枷《かせ》を外させ、労役場の隣りの部屋に入れるように命じ、サレッスというガスコーニュ生まれの男と相部屋になった。徒刑囚の上をいく悪党らしく、二人だけになると、脱走する気があるかと訊いた。
「考えとらんな。仕事をしないだけ幸いじゃないか?」
と答えてやったが、ジョサスが私の秘密を知っていて脱走の手筈をしてくれていたのだった。もちろん、サレッスは気づかなかったが、私は囚人服の下に普通の服を隠して着ていた。囚人にはめられている籠手《こて》を締めているボルトをネジ釘と取り替え、いつでも出かける用意ができた。そして、相棒が他へ移されてから三日目、私は外へ出て、みんなが労役をしている所へ行き、アルグザンの親方マチュウの前に姿をあらわした。
「さっさと行きァがれ、この極道者《マリアーズ》(碌《ろく》でなし)、忙しいんだ」
とマチュウ親方は言った。そこはロープ置場で、恰好の場所だった。小便したいんだとジョサスに言うと、材木が積んであるところを指したので、そのうしろに姿を隠すと赤い囚人服を脱ぎすてて籠手のネジ釘を抜き、ドックの方向に逃げた。
ちょうど、その頃、ボナパルトと彼の部隊を載せてエジプトから帰国した〔ナポレオンがエジプト遠征から帰国したのは一七九九年十月〕フリゲート艦『ミュイロン』の修理をしていた。私は艦に上がって行って、入院していたときに知った大工の頭梁に会いたいと申し入れた。声をかけたコック(料理人)は、私を新しく来た乗組員だと勘違いをしたので、こいつは巧いぞと、だんだん確かめているうちに、言葉の調子から彼がオーヴェルニュ出身者だとわかった。そこで、自信をもって彼の故郷の方言をあやつって話し合ったが、まるで薄氷をふむ心地だった。というのは、すぐそこで四十組もの徒刑囚が働いており、あっという間に私だとわかってしまうからだった。はらはらしていたら、町との連絡用の一艘のボートが眼についたので、飛んで行ってオールをつかむと、老練な水夫のように大波を切って進み、やがてツーロンの町に入ることができた。早く郊外へ出ようと思ってイタリア門まで走ったが、市役所が発給するグリーンのカードがないと城外へ出られない。待ったをかけられるだろう。自分は通行証なしでいいんだと、どうやって証明してやろうかと思案していたら、遠くのほうで私の脱走を知らせる三発の大砲の音が聞こえた。その瞬間、頭のてっぺんから足の先までぶるっと震えが走り、あのアルグザンどもの暴虐や徒刑場の闘争が早くも眼に浮かび、あれほど卑劣に欺いた善良な刑務官の前に引っ立てられているような気がした。また逮捕され、私はオシマイ。こんな情けない思いにとらわれ、その場を大急きで遠ざかると、なるたけ人目につくまいと城壁のほうへ向かった。
売春婦とオトムライ
さびしい、人気のないところにたどり着き、もう自分しかアテにならないが、どこへ足を運んだらいいのかわからない男になって、のろのろと歩いていたら、若い女が近寄ってきて、いま何時ですけェ、とプロヴァンス語〔南仏方言、現在は旧ラングドック地方をふくめてオック語という〕で尋ねた。わからないと答えると、雨のことや晴れのことを喋りはじめ、あげくの果てはついて来いと言う。じきそこなんじゃ、誰も見とらんけん、と誘われた。そのまま見のがすには、なんとも綺麗なおねェちゃんだったし、もったいない、それに難を避けるチャンスでもある。という次第で案内の女について行き、あばら小舎のようなところで絡みあい、いくらか、さばさばした気分になって話していたら、三発の大砲の音が聞こえた。すると、女が、いかにも満足気に大きな声で、
「ほれみんさい、今日《きょう》は二人目が逃げた」
「おねェちゃん、なんで、そんなに嬉しがるんだい? ほうびでも貰えるアテがあるんか?」
「うちが? 兄《ああ》さんいうたら、なんも知らんくせに」
「ふん、誰だって脱走犯を密告して五十フランもらえたら御機嫌になるさ。そんなカモ野郎が俺のところに飛びこんで来たら、ぜったい俺だって……」
と言うと、女は私を押しのける真似をして大声で、
「うちは、ただのつまらんオナゴじゃけんど、けがれたパンを食うようなセレスチィヌじゃないですらァ」
この言葉は、とうてい彼女を疑えないような真実を語っている口調だったので、それ以上ぐずぐずしていないで私の秘密を打ち明けた。だが、私が徒刑囚だと知ると、その状況でどんな反応を示すかはわからないことだった。
「なんとまァ! しゃあけェ、そがァなもんは、ぼっこう気の毒な人じゃけん、どがんしても助けてあげとうて、これまで仰山助けたんよ」
と言い、すこし思案するように、ちょっと言葉を中断したあとで、
「うちにまかせてつかァさい。うちの情夫《おとこ》が緑色のカードを持っとるけェ、あした借《か》ってきてあげますらァ。兄《ああ》さんは、そりョォ使うて町の外へ出んさったら、うちが教える石の下に置《す》けといてつかァさい。こがんとこにおっても、おえりゃせんがな、うちの部屋へ連れますけェ、あっこで待っとりんさい」
私たちが彼女の部屋に着くと、ちょっとのあいだ独りでいてくれと、こう言った。
「情夫《おとこ》に知らさにゃならんけェ、じき戻って来ますらァ」
女というものは、ときとして名優になることがある。彼女が、どれほど好意を見せていても、裏切りはしまいかと疑っていた。ひょっとすると、セレスチィヌは、密告をしに出かけたのではあるまいか。私は、彼女が通りに出ないうちに急いで後を追って階段を下りると、
「オヤまァ、恐怖《きょうてい》けェ? 信用せんのなら、一緒に来《き》んさい」
こう言われて、私も、そばで見張って用心していようと思った。そしてどこへ行くのか知らないまま一緒に歩いて行った。ところが、すこし歩いたら葬式の行列とすれちがった。すると、わが女守護神が、
「おとむらいについて行きんさい。あんたは助かったで」
と言い、ありがとうを言うひまもなく彼女は姿を消した。
たいへんな人数の行列だった。参列者の群に交じり、葬儀にユカリがある者だと思わせるために老水夫と話をはじめ、同じように故人の徳をほめたたえた。そして、まもなく、セレスチィヌが嘘を言わなかったことが納得いった。あれほど私を遠ざけていた城壁が背中のほうになったときは、嬉しさのあまり泣きそうになった。しかし、事を仕損じないために最後まで悲しみの行事に付き合った。墓地に着き、私の番が来て墓穴のフチに行き、シャベル一杯分の土を棺の上に投げこむと、脇の小道に入ってオトムライの皆さんとオサラバした。それからながいこと歩ったが、まだツーロンの町が見えていた。晩の五時ごろ、椎の林の中に入ろうとしたら、ひょいと、鉄砲を持った男がいるのに気づいた。しっかりした出立《いでた》ちで獲物袋を持っていたので、とりあえず猟師だと思った。だが、ポケットからピストルの銃床がハミだしているのが見えたので、さては大砲の音を聞いて、さっそく脱走した徒刑囚の足どりを追っているプロヴァンス野郎かと心配になった。もし私の心配が当たっているなら、もう逃げてもムダで、こうなったからには、退却より前進がいいと覚悟をきめた。そして、彼が敵意をもっているなら、どういう最初の動きをするかを知ろうと、そばへ寄って行ってイス〔エクサンプロヴァンスのこと。ふつうエクスと呼んでいるが同市の人はイスと発音している〕街道へ出る道を尋ねた。すると、彼は、はっきりとした意志で、
「近道か本道か、どっちかね?」
「どっちでもいいんです」
どうやら、彼は、私に関心がないらしく、こちらの疑いがなくなってくれと念じながら答えると、
「そんなら、この小道を行ったらいい。憲兵隊の詰所があるところまで一本道だが、一緒に行ってやろう。一人旅が好きでなかったら話相手になるよ」
この『憲兵隊』という言葉に顔が蒼ざめるのを自分で感じた。見知らぬ男は、私に起こった変化に気づいて、
「そうか、そうか、むりをして本道は行きたくねェんだな。ではと、それほど急いでいないんなら、プルリエールの村まで送ってやろう。イスから八キロしかないところだ」
彼は、いろいろな場所を手にとるように説明してくれて、どこが都合が悪いのかを尋ねた。そして、けっきょく、私が彼まかせにすると、すこし離れた茂みを指さして、すぐ戻ってくるから、あそこに居て離れないでいてくれと言った。二時間たった。やっと偵察から帰って来て私のところに来ると、
「立ちなよ」
と言ったので、立ち上がって彼について行った。こんもりした森の茂みの中に来ると、森のはずれから五十歩くらいのところに一軒の家があり、その前に憲兵たちが腰をかけているのが見えた。かれらの制服を見て、私は、ぞっとした。
「おい、どうした? お前さんを渡すとでも思ってるんかい? 何かを怖れているんなら、ほら、こいつで身を護ったらいい」
案内の男は、こう言うと同時にピストルを二、三丁とりだして私に貸そうとした。私は断った。
「けっこうだ」
そう言って、私が彼を信頼している証しだとばかりに満足げに彼の手を握った。われわれは、道の縁になっている茂みの陰で立ち停まったが、そんなに敵に近いところで停まった目的がわからなかった。ながいこと、そこに立っていた。とうとう夜になり、四人の憲兵が護衛した郵便馬車がツーロンに向かってやって来るのが見えた。馬車は、すぐ向こうにいる私をびっくりさせた同じ数の警備の憲兵を拾って走りだし、すぐに見えなくなった。すると、連れの男が私の腕をつかんで、あっさりと言った。
「行こう。これで今日は何事もなしだ」
すぐに、われわれは馬車とは逆の方向へ、その場から遠ざかった。一時間ほど歩くと、案内の男は一本の木に近寄って、幹を手でなでまわした。ナイフで刻みつけた筋を数えているのがわかった。
「よし」
何のことかわからなかったが、男は満足そうに言うと、獲物袋からパンを取りだして私に分け、ヒョウタンの水を呑ませてくれた。私に元気をつけるためだった。そのあと、暗いのもかまわず、あんまり早く歩ったので、とうとう私はヘバってしまった。ながいこと鍛えていなかったので足が痛くなり、これ以上は進めないと音《ね》をあげた。ときに、村の時計が三時を鳴らした。
「しっ」
案内の男は、こう言ってから身をかがめて地面に耳をつけた。
「おれみたいに聞いてみな。ポーランド傭兵がいるクソッたれ地域じゃ、のべつ見張ってやァがるんだ。なんか聞こえないかい?」
数人の足音が聞こえたようだと答えると、
「そうか、やつらだ。動くな。つかまるぞ」
彼が言い終わったと同時に、われわれが隠れていた茂みのところにパトロール隊がやって来た。
「お前ら、なんか見えるか?」
低い声がした。
「なんにも、軍曹どの」
「ちきしょう、そうだな。へっついの中みてェに真っ暗だ。あの気違い野郎のロマンめ、雷が落ちてぶっつぶれろだ。夜っぴて狼みてェに森の中をうろついて、やれやれ、どうしても、あいつか、あいつの手下も見つからんとはな……」
「誰だ?」
とつぜん一人の兵が怒鳴った。
「なにか見えたか?」
と、軍曹。
「なにも、でも、こっちのほうで息づかいが聞こえたのであります」
おそらく、われわれが居る所を指したものと思われた。
「ふん、夢でも見とるんか、あんまりロマンを怖がっとるから、いつも身近にいるような気がするんだ」
ほかの二名の兵も、聞こえたと言い張ると、軍曹が、「だまれ、誰もおらん。今回も、いつもの伝で獲物に出会わずにプルリエールに戻らにゃならん。さァ、みんな、戻るんだ」
パトロール隊は出発しようとしているらしかった。
「あれは戦術さ。やつらは森を探しまわり、すきを見て引っ返してくるにきまっとる」
こう案内の男が言ったので、私は安心するどころではなかった。
「怖いか?」
またも案内男が言う。
「そんな時じゃありません」
「だったら、言うとおりにしな。ほら、ピストルだ。何丁もある。おれが撃てったら一度に四発ぶっぱなすんだ。今だ、撃てっ」
四発撃って、一目散に逃げた。追っかけられなかった。兵隊たちは待ち伏せをくうのを怖れて立ち停まったのだった。だが、われわれは、あいかわらず足をゆるめなかった。ぽつんと小さな別荘のような家があるところまで来ると、その見知らぬ男が、
「ほら夜が明けた。が、もう大丈夫だ」
彼は庭の柵の間をくぐり、一本の木の幹の穴に手を入れて鍵を取りだした。その家の鍵だった。われわれは、さっそく中に入って落ち着いた。
暖炉のマントルピースに掛けてある鉄製のランプが、簡素で田舎風な部屋の中を照らしていた。ただ、片隅にある小樽には火薬が入っているらしく、高いところの棚には弾薬筒が散らばっていた。椅子の上の女物の服やプロヴァンス風な黒い大きな帽子が、女が眠っていることを物語っていて、その騒々しい寝息が、こちらまで伝わっていた。きょろきょろと周りを見回していると、案内の男が古い戸棚から山羊の肢肉や玉ネギ、油、ワインの革袋などを取りだし、えらく腹がへっていた私に食事をすすめた。彼は、何か問いたげであったが、がつがつ私が食べていたので、遠慮して、と思った、邪魔しないでいた。食べ終わると、ということはテーブルに何も残っていなくなると、彼は私を納屋のような中に連れて行って、ここなら絶対に安全だ、と繰り返し言った。それから、彼はその家にとどまるのかどうかは知らせずに引き退り、私は、ワラの上に寝ころがったとたんに、どうしようもない眠気がきて前後不覚になった。
眼がさめたときは、お天道さまの高さから判断して午後二時ごろだった。着物や持物を見たあの同じ女にちがいない百姓女が、私が起きて動きだしたのを知って、あばら屋の揚戸から顔をのぞかせて方言で言った。
「じっとしとりんさい。この辺は、そこらじゅうを探しょうる兵隊《サパン》(憲兵)ばァじゃ」
女が言ったサパンという言葉は知らなかったが、良いことを言っていないことだけは察せられた。
約束した秘密
夕方、昨日の男と再会した。なにか意味のない言葉をつぶやいてから、私が誰なのか、どこから来たのか、どこへ行くのかをズバリ尋ねた。この避けられない質問には、あらかじめ備えていたので、自分はツーロンに停泊している軍鑑『オセアン』の脱走兵で、イスへ行き、あそこから故郷へ帰ろうとしている者だと答えた。すると、助けてくれた男が、
「なるほど、そうだと思う。だが、おれを何者だと思っているのかな?」
「そりゃ、正直いって、はじめは田園監視人だと思い、次には密輸団の親分にちがいないと信じ、今は見当がつきませんや」
「やがて、わかるさ……おれたち国じゃ、見てのとおりみんな律義者だが、力づくで兵隊にさせられるのは好かねェ……ほかにすることがない時しか徴用には応じない……プルリエール村に割り当てられた召集も、はなっから、そっくり断った。憲兵がやって来て、徴兵を拒否した者をつかまえようとしたんで抵抗した。両方に、どえらい死人が出て、戦闘に参加した住民は、みんな軍法会議を遁れて森に逃げこんだ。というわけで、おれたちは、ロマン殿とビッソン・ド・トルツ兄弟のもとに六十人という人数が集結した。もし、お前さんが、おれたちと一緒にいたいと言ってくれたら、おれとしてはオンの字だ。だって、昨夜はいい仲間になってくれたし、憲兵に出会っても平気なのを見てとった。それにまた、おれたちにゃ何でもあるし、大きな危険は冒さないことにしている……百姓たちが外の様子を残らず知らせてくれていて、生きるのに必要以上の物まで納めてくれている……どうだ、おれたちの仲間になるかい?」
義理がある男の、この申し出は断りきれないと思ったので、あまり結果のことは考えないで、彼が望むとおりの返事をした。そして、さらに二日、その家ですごし、三日目に仲間と共に出かけた。騎兵銃とピストル二丁をあずかった。いちめんに木が生い茂った小山を越えて何時間か歩き、さきほど出てきた家よりずっと大きな田舎家に着いた。そこがロマンの総本部だった。ちょっとのあいだ、門のところで待たされた。案内の男が、私が来たことを知らせる必要があったからだ。彼は、すぐに戻ってきて、だだっ広い納屋に案内し、四十人ばかりの人間のまっ只中に立たされた。大半の者が、町と田舎の半々の服装をした一人の男のまわりに集まっていて、一見、田舎の金持の地主みたいな感じの男だった。私が紹介されると、その人物は次のように言った。
「きみに会えて嬉しいですな。きみが沈着で冷静なのは知っており、どんな人間かは前もってわかっています。わたしどもと危険を共にしてくれるなら、ここでは、みんなが仲良く、真っ正直にしているのがわかるはずです。みんなは、きみのことを知らないが、きみのような人柄の者は、どこへ行っても友だちができます。また、ここにいる者は、みんな堅気で、みんな勇敢な者ばかりです。しかし、わたしどもは、勇気より誠実さを第一にします」
この演説のあと、ロマンとかビッソン兄弟としか名乗らなかったが、私を抱いて挨拶し、次に部下全員が同じように友愛の抱擁をした。これが私を迎えた入団式で、首領は政治目的の集団だと称していた。ロマンは、最初のころは御用金を運ぶ馬車を襲ったシュワン党のようなことをしたのは事実だが、その後は旅行者を強奪するようになっていた。徴兵拒否者の集団は、広範囲にわたって組織されていたが、こうした襲撃をするのは、かれらには、いささか苦手であった。しかし、放浪や怠け癖がつき、とくに家族のもとに戻るのが難しいということが、かれらを早々と勇猛果敢にした。
私が総本部に着いた翌日、さっそくロマンは、六人の男と一緒にサンマクシマン〔ヴァル県ツーロン郡の一邑〕あたりへ行くように指図した。私は、何事かわからなかった。
真夜中ごろ、道路を分岐している小さな森の外れに着くと、細い溝の中で待ち伏せた。ロマンの代理のビッソン・ド・トルツが、ぜったい静かにしていろと命じた。まもなく馬車の音が聞こえはじめ、われわれの前を通りすぎた。すると、用心ぶかく頭を上げていたビッソンが言った。
「ニースからの乗合馬車だが……用なしだ……荷物じゃなくて兵隊を乗せてやァがる」
そこで、彼は後退命令をだして本部に戻ったが、われわれが手ぶらで帰ったのを見たロマンが怒り狂って喚いた。
「ちきしょう、明日はやったるで」
私が加わった集団には何の夢も持てなかった。しかも、まさに私は、プロヴァンス全州に恐怖をひろげている街道強盗たちの中にいた。万一、私が捕まるようなことがあれば、脱走従刑囚という身の上ゆえに、一緒に居る他の若者なみの赦免の望みはない。私は逃げだそうと考えた。しかし、新参の団員の私には、たぶん、たえず眼が光っているのではあるまいか? と言って、もし退団したい希望を申し出たら、ますます疑われて生命を落とすようなことになるかもしれない? ロマンは、まさか私をスパイだとはすまいが、銃殺にするだろうか?……そこらじゅうで死と屈辱が私をおびやかした……
そうした困惑にとらわれていたさ中に、例の紹介者に探りを入れてみようと思いつき、団長に幾日かの休暇をもらってくれないかと頼んでみた。すると、よっぽど気心が知れた者ならな、こう冷やかに答えて背を向けた。
盗賊たちの名誉ある所業には、なんとしても加わるまいと決心して、かれらと十一日をすごしたある夜、くたくたに疲れて、ぐっすり眠っていたら、異様な騒ぎで眼がさめた。誰かが仲間の一人の、ずっしり入っていた財布を盗み、盗まれた者が騒ぎだしたのだった。私は、一番の新参者だったので、当然のように私に疑いがかかった。型どおり私が犯人にされ、全員が一斉に非難の声をあげた。無実だと言い張ったが、しょせんムダで、身ぐるみ調べることを決定した。服のまま横にして脱がしはじめた。そして、私の下着を見ると、盗賊たちはびっくり仰天……徒刑囚のマークがあった! ロマンが叫んだ。
「徒刑囚……みんなの中に徒刑囚が……たぶんスパイにきまってる……砂埋めか、銃殺だ……早いほどいい」
銃の撃鉄を起こす音が聞こえた……
「ちょっと待った。その前に盗まれた金を取りあげなくちゃ……」
団長が命じたので、私が、
「そうです、金は戻りますが、その前に、どうしても二人だけで話したいことがあります。お願いします」
ロマンが聞きいれてくれて、みんなは私が白状しようとしているものと思った。二人だけになると、私は、あらためて犯人でないことを断言し、むかしベルカン〔アルノー・ベルカン(一七四七〜九一)、フランスの作家〕の小詩で読んだような気がする犯人発見法を教えた。そして、ほどなく、ロマンは、そこにいる人数だけの麦ワラを手にして一同の前に再び現われて言った。
「いいかね、いちばん長い麦ワラを引いた者を泥棒ときめる」
みんなが次々とワラを引き、引き終わると、それぞれが急いでワラを返してきた……たった一人だけが他の者より短かった。そいつを出したジョゼフ・ドリオルという男に、ロマンが、
「さては、お前だったんか? ワラは、どれも同じだったんだ。短くちょん切ったな。自縄自縛だ……」
さっそく、ジョゼフをあらためたところ、帯の中に盗まれた金が見つかった。これで、私の潔白が完全なものになって、ロマンが詫びを言ったので、すかさず団員を辞めますと言い切ったところ、
「仕方ないな、きみは徒刑場にいて……」
と、ロマンは、みなまで言わずに私の手に十五ルイを握らせ、二十四日前から見たことを口外しないように約束させた。
――私は秘密を守った。
[#改ページ]
一五 自由でいたい
たれこみ
ロマンの一味と危険な暮らしをした後で、かれらと別れた嬉しさはわかってもらえよう。政府は、いったん堅固に自立すると、国内の安定のために、より効果的な手を打つのは明らかである。これらの、『太陽の騎士』団とか『イエズス会』党といった残党は、政治的な反動に望みを託して徒党を組んだに違いなかったのだが、その反動は一向にやって来ず、政府が本腰を入れてかかると、かれらは、たちまち全滅するにきまっている。略奪の唯一の大義名分である王政主義は、もはや存在していなかった。だから、イヴェル一家、ルプレートル一家、ブーランジェ一家、バスティド一家、ジョージョン一家、その他の一統の息子たちが、あいかわらず郵便馬車に栄光ある襲撃を加えても、そろそろ世間では、政府の金を一撃で奪うのがカッコいいとは思わなくなって来ていた。ピストル片手に、信書の逓送《ていそう》や税金の輸送を妨害するのが刺激的な気がしていた王党派青年《アンコヤブル》たちは、活躍の舞台から遥か彼方の、前には忘れようとした家庭へと帰って行った。はっきりと秩序が回復し、山賊どもの主義や動機が何であれ、そんなものはまったく通用しない御時世になってきた。だからかれらの悪行にビビることもなく、盗賊団に加わろうと思えば加われたのだが、早いとこ死刑台に上るのは真っ平ごめんだった。とにかく、ある一つの考えが私を駆りたてていた。なんとかして犯罪の場や道から逃げだしたかった。自由でいたかった。どうやったら、その願いが実現するかはわからなかったが、ままよ、私の考えは決まったのだ。徒刑場には|×《ばつ》印をつけた。
心が急《せ》くまま山賊団から遠ざかり、オランジュあたりまでは本街道を避けながらリヨンを目ざした。プロヴァンス人たちの荷馬車隊に出会った。私と同じ道を行くのが積荷を見てわかった。話しかけてみたら、いい人たちのように思えたので、あっさり自分は脱走兵だと話し、憲兵の眼をごまかす助けをしてもらえたら有難いんだがと言うと、すんなり仲間に入れてくれた。連中は、私の申し出にまったく驚く気配はなく、まるで私が、かれらの侵入を許さない隠れ家にかくまってくれと頼むのを待っていたみたいだった。その当時、とりわけ南フランスでは、運を天に任せて軍旗から逃げてくる勇者に出会うのは珍しくなかったので、ごく当たり前のこととして私の話を鵜呑みにしたのだった。荷馬車隊は、こころよく私を迎えてくれて、わざとチラつかせた金のお蔭で、私の身の上に同情をひく結果になり、荷馬車隊の親方の息子で通すことになった。あげくの果ては、変てこな上っ張りを着せられ、また、初旅だという趣向にして、リボンや花束や面白い記章で飾りたてられ、宿場に着くたびに、みんなからお祝いの言葉を浴びせられた。
私は、またも道化太郎になって、かなり上手に役割を演じきったが、役割に似合った祝儀をバラまかなくてはならなかったので財布が底をつき、一行と別れたリヨンのギヨチエール区に着いたときには二十八スーしか残っていなかった。そんなお寒い懐具合では、テロー広場のホテルなど思いもよらなかった。しばらくのあいだ、フランス第二の町の汚ない黒ずんだ通りをさ迷った挙句、私の財政に似合った食事が出そうな居酒屋みたいな店がキャットルーシャポォ街にあったのが眼についた。カンは狂っていなかった。中位な夕食で、あっという間に食べ終わった。まだ食い気が残っているのに宿無《やさぐれ》ときた。あまり脂で汚れてもいない食卓ナイフを拭いたときは、とうとう今夜は星空を眺めながらの野宿《あおかん》かと悲しくなった。そのとき、隣りのテーブルで、くずれたドイツ語で話している声が聞こえた。オランダのいくつかの郡で使われている言葉で、私にはツーカーだった。話していたのは男と女で、これから帰るところだった。顔を見てユダヤ人だと思った。リヨンには、他の多くの町も同じだが、ユダヤ人が経営している安宿があって、旅の密輸人などを喜んで泊めてくれると聞いていたので、どこか宿を教えてくれませんかと、その二人にたずねてみた。声をかけて本当によかった。そのユダヤ人夫婦は宿屋をやっていて、私を泊めてくれると言い、トマッサン街の家までついて行った。案内された部屋には六つのベッドが備えてあったが、もう十時だというのに一つもふさがっていなかった。これなら誰かと相部屋にならずにすんだと思い、安心して眠りについた。
眼がさめたら、耳なれた隠語《ちょうふ》言葉が聞こえてきた。
誰だかわからない声がする。
「ホラ、鉛《なまり》六つと半分が鳴ってる……まだセブってるか」(ホラ、六時半が鳴っている。まだ寝ているのか)
「わかってる。ゆんべ、みなし子を見舞いに行ったが、田吾作がのぼせていてな。こいつァ二十二の切礼を出さにゃならんかと思った。そうなったらジャムだらけになったかもしんねェ」(昨夜、宝石屋に盗みに入ろうとしたが、商人が用心していた。短刀を使わなくてはならないかと思ったが、そうなったら血の海になるところだった)
「ふん、この野郎、残念坂上《モンタルグレ》のお寺に行くのをブルってるな……あんな芸当じゃ、シンタはモノにならねェ」(ヤイ、お前、ギロチン行きが怖いんだな……あんなやり方じゃ金はつかめない)
「おいら、お店《たな》こわしより、ウロでカブせるほうがいいや……いつも背中にアカを背負《しょ》ってるよか」(店に押しこむより街道で人殺しをするほうがいい……いつも憲兵を気にしているよりも)
「つまり、おめェは、なんにもギラなかったんだな……あそこにゃ上等なバター入れやマンジュウやテラサリクもあったてんのに。ギナルさん、ムスメに入れるもんがないときた」(つまり、お前は、何も盗らなかったんだな……あそこには立派な煙草入れや時計や金鎖があったんだ。故買屋のユダヤ人は倉に入れる物がないじゃないか)
「ちがうんだ、アイビキがヤサん中でメゲちまって、ヌクイさんがタゲったんでフケなきゃならなかったんだ」(そうじゃないんだ、合鍵が鍵穴の中で折れて、金持ちの主人が助けを呼んだので逃げなくてはならなかった)
三人目の声がした。
「オイ、おめェら、赤いハンカチをヒラヒラさせるんじゃねェ。タコハルさんがおられるぞ」(ペラペラ喋るんじゃない。聞き耳たてている人がいるぞ)
この忠告は遅すぎたのだが、男たちは口をつぐんだ。私は、相部屋の連中を見てやれと薄目を開けてみたが、私のベッドが誰よりも低くなっていたので何も見えなかった。そこで、眠っていると思わせておきたかったので、じっと動かずにいた。すると、話していた一人が立ち上がった。顔を見て、私より何日か前にツーロンの徒刑場を逃げた脱獄囚のヌヴーだとわかった。もう一人がベッドから飛びだした……別の脱獄囚カデ‐ポールだった。三人目と四人目がベッドの上に体を起こした。やはり徒刑囚だった連中だ。
まるで、まだ三号房にいるような気がした。さいごに、私が粗末なベッドから出て、床板に足が着くか着かないかに一斉に声があがった。
「ヴィドックだ」
かけ寄ってきて、よかったなと言ってくれた。国有調度品保管所の窃盗犯人の一人、シャルル・デシャンは、私のあと幾日もたたないで脱獄していたのだったが、私の大胆さと成功を徒刑場あげて感心していたと言った。九時の鐘が鳴り、一同は、ブロットー大通りに連れて行ってくれて昼飯をふるまってくれた。そこには、キネ兄弟、ボヌフォワ、メトラル、ルマといった南仏の悪名たかい連中が顔をそろえていて、私はモテモテになった。金をくれ、服をくれ、女まで世話してくれた。
という次第で、私は、ナントにいた時〔第十章の泥棒宿を参照〕と同じ立場になった。今はもう、ブルターニュにいるのでもないし、お友だちの仕事を一緒にやる気はなく、お袋からの財政援助を受け取るまで暮らしていなくてはならない。だから、当分は、かれらのようなお勤めをしなくても食っていけるだろうと高をくくっていた。私は、泥棒の仲間になって生きては行くまいと堅く心に決めていた。だが、人、事を計り、天、事を成すである。脱獄囚たちは、私が、ああだ、こうだと言い訳をして、かれらが毎日やっている盗みに加わらないのが気に入らず、危険な存在にもなる邪魔な証人を厄介払いするために、こっそり私を密告した。かれらは、そのうち私がかれらから抜けるだろうと見込み、いったん警察に眼をつけられたら、かれら一味以外に逃げ場がないから、仲間に加わる決心をするものと踏んだのだった。これまでにも何度も同じような状況に追いこまれたことがあったが、密告までして私を仲間に入れたがったのは、私の悪賢さと抜け目のなさ、とくに馬鹿力があるのを高く買っていたからだ。ともすれば、儲けと破滅が紙一重という職業では得がたい特性なのだ。
サンコーム横町のアデール・ビュファンの家で捕まり、ロアンヌ監獄に連行された。そして、尋問が始まったとたんに、仲間に売られたことがわかった。密告されたと知って怒り狂った私は、極端な選択に走ったが、これが、ある意味では、私のまったく新しい経歴の始まりになった。私は、リヨン警察本部長ムッシュ・デュボワに折り入って話があると手紙を書いた。そして、その夜、彼の執務室に連れて行かれ、私の立場を説明したあとで、ベル・コルディエール小路の石工の妻殺しで追われているキネ兄弟の足どりを教えてやると持ちかけた。さらにまた、ユダヤ人の盗っ人宿、エコルシュ・ブフ街の指物師カファンの家作に泊まっている一味徒党を逮捕する手助けをしようと申し出た。報酬として要求したのは、自由になってリヨンを去ることだけだった。ムッシュ・デュボワは、こうした申し出には一度ならず騙されたことがあったにちがいない、私をアテにするのをためらっていると見たので、
「私の誠意を疑っているんですね。では、もし、これから私が監獄へ戻る途中で逃げだし、その足でここに出頭して来ても、まだ疑いますか?」
と言ったら、彼は答えた。
「いんや」
「でしたら、すぐまた会いに来ます。ただ、監視人に特別な命令を出さないことを御承知ください」
本部長は、私の要望を承諾してくれて、私は連れ戻された。ランテルヌ街の角に来ると、両腕をかかえていた二人の護送人を突きたおし、全力疾走して市役所に戻ってデュボワ氏に会った。彼は、なんとも早く私が戻ってきたのにおっ魂化《たまげ》たが、それ以来、たしかに私を信用するようになり、釈放命令を出してくれた。
翌日、みんながヴィダルと呼んでいたユダヤ人に会った。彼は、お友だちはクロワ・ルスへ泊まりがけで行ったといい、その家を教えてくれた。私は、そこへ行ってみた。みんなは、私が脱走したのは知っていたが、警察本部長とナシがついているとは露ほども疑っておらず、私をガンと一撃した事の起こりを、とっくに察知しているとも知らずに、たいへん親しく迎えてくれた。私は、みんなの話の中からキネ兄弟の情報を集め、その夜のうちに本部長に伝えた。彼は、私の誠実さを信じきって、現在はパリで警視になっている警察官房長のムッシュ・ガルニエに引き会わせた。この役人に必要な情報をみんな教え、彼のほうも、抜かりなく機敏に事を運んだことは言うまでもない。
私の指示でヴィダル宅に手入れをする二日前に、私は、また自分を逮捕させてロアンヌ監獄に送ってもらった。その次の日に、ヴィダル御本人、カファン、ヌヴー、カデ‐ポール、デシャン、その他の同時に網にかかった連中が送られて来た。はじめのうちは独房に入っていたほうが都合がいいだろうと判断したので、かれらとは連絡がなかった。数日後、他の囚人に加わるために独房を出て、仲間の全員がいるのを見てびっくり仰天したフリをした。誰一人として、かれらの逮捕に私が一役買っていると少しでも思う者はいなかったようだ。ただ、ヌヴーだけが、なんとなく疑っている眼で私を見ていた。そこで、その訳をズバリ尋ねたところ、警察の捜査や訊問のやり方から見て、私が密告者ではないかと思えて仕方がないと正直に言った。むっとしたフリをした私は、彼の考えが確信に変わるのが怖かったので、関係囚人を集めてヌヴーの疑いを知らせ、私が仲間を売ることができると信じられるかと尋ねた。みんなの答えはノンで、ヌヴーは、私に謝まる羽目になった。私にとっては、こんなふうにして疑いを晴らしておくのは大事なことだった。もし、その疑いが確認されたら確実に死が約束されるからだ。これまで、ロアンヌでは、囚人のあいだで行なわれる、いわゆる配分的正義のたくさんな例が見られた。モワセルという男は、聖杯窃盗の件でタレこんだと疑われて中庭で叩き殺され、はっきりと誰が殺したかは不明のままになった。もっと最近では、別の男が、同じく口の軽さを咎められて、ある朝、窓の鉄格子からワラ縄でブラ下げられていた。捜査はやはり不首尾に終わった。
そうこうしているうちに、デュボワ本部長が私を呼び出した。ほかの者に怪しまれないように取調べがある態にして、他の囚人と一緒に連行された。最初に私が部屋に入った。本部長が言うには、大勢の凄腕のパリの盗賊がリヨンに来ている、たいへん危険な連中で、正規の身分証を持っていて、ヤマを踏むとすぐに姿をくらまして安全でいられるような場合を待っていて仕事をする、と。『かつら師』ことジャイエ、『かなてこ』ことブーテイ、ガラール、ビュシャール、『帽子屋』ことモラン、『黄金の手』ことマルキ、その他あまり名の通っていないのが数人いるという。だが、こんなふうに並べられた名前は、まったく私の知らない者ばかりだった。私は、そのように本部長に言ってから、偽名かもしれないと付け加えた。すると、本部長は、すぐにも私を釈放して、あとで見まちがいのないように酒場かなんかで連中を見分けさせようとした。だが、ふいに釈放されたりしたら、後々の仕事のときに、他の囚人にたいして私の立場が危くなるのは必至ですと答えた。この見通しはもっともだということになり、では明日、差障りがないように放免する方法を工夫してやろうと本部長は納得した。
さて、ヌヴーも、同時に尋問を受けるために他の囚人たちから抜きだされて連行されていた。彼は、私の次に本部長の部屋に入った。数分後、彼はプンプンと怒って出てきた。何があったんだと尋ねたところ、「まさかとは思うだろうが、でっけェ町から来てるノビ野郎どもを売る気はねェかと、お武家さんがおっしゃるんだ……やつらをカマすのは俺だけだとしたら、やつらをフケさすのもチョロいな」(信じられないかも知れんが、警視が、パリから来ている泥棒たちのことをバラしたくはないかと言うんだ。やつらを逮補させるのはおれしかいないというなら、やつらを逃がすのも易しいな)
咄嗟に、私は、その場が利用できると思って答えた……
「おめェがそんなにパァとは思わなかったぜ。おれには盗賊《のび》連中ぜんぶの面が割れてるから、早いとこ締めさせてあげるって約束しちまった」(お前がそんなにバカだとは思わなかった……おれは、泥棒たち全部の顔を知っているから、すぐに逮捕させてあげますと約束してしまった)
「なんだと、おめェ、イヌになる気か……でェいち、おめェは、やつらを知らねェはずだ」(なんだと、密偵になる気か!……それに、やつらを知らないのに)
「かまうもんか……町を歩かせてもらえりゃ、ちゃんとフケてみせるさ。おめェのほうは、まだドラ猫と一緒って寸法だ」(嘘も方便、かまやしない……町に出してもらえさえすれば、うまく逃げてやる。ところが、お前は、あいかわらず牢番と一緒にいる)
ヌヴーは、このアイデアに感心して、本部長の提案を断ったのをひどく口惜しがった。私のほうは、彼がいなくては泥棒さがしに行けないので、さっきの決心を変えろとヌヴーに強くすすめた。彼は同意した。そこで、そのことを本部長に知らせておいたところ、デュボワ本部長が、ある夜、私たち二人を大きな劇場の入口に連れて行かせた。そこからセレスタン広場へ行った。そこにお目当ての全員がいて、あいつらだとヌヴーが教えてくれた。その後は、警官にぴったりと寄りそわれて帰ることになった。ヌヴーに疑われないように計画どおり脱走してみせねばならなかった。そうすれば、すくなくともヌヴーに持たせた希望を実現できる。私は、計画を知らせ、メルシエール街を通っていたとき、いきなり露地に入りこんで入口の戸を閉めた。警官たちが、別の出口に駈けつけているあいだに、いま入ったところから静かに出た。ヘマをやった、恥ずかしい、と思いながら警官たちが戻ったときには、私たちは、とっくに遠くにいた。
二日後、ヌヴーは用ずみになり、しかも私を疑うこともなくなったので、再逮捕してもらった。私は、見つけたい泥棒どもの顔がわかったので、ある日曜日に、礼拝のあとで一ヤマ踏もうとサンニジエ教会に集まっていたのを警察に教えてやった。そこで、これ以上、当局の役に立つこともなかったので、リヨンを離れてパリへ行くことにした。ムッシュ・デュボワのお蔭で何の心配もなくパリに着けることになった。
リヨン出発
私は大急ぎで出発し、ブルゴーニュ街道をたどった。そのころ、人々は日中しか旅をしなかった。リュシ・ルボワで、他の旅人なみに宿をとった。あくる朝の出発の際、馬車が私を乗せ忘れ、眼が覚めた時は馬車が出てから二時間以上もたっていた。その地方はたいへんな山国で街道の起伏が多かったので、駈けたら追いつけると思った。だが、サンブリス近くになって、馬車が、とても追いつけないほど先を行っているのがわかったので、あきらめることにした。私は歩をゆるめた。同じ方向に歩いていた男が、汗びっしょりの私をジロジロ眺めて、リュシ・ルボワから来たのかと尋ねた。そのとおり、あそこから来たんだと答え、二人の話はそれっきりになった。その男はサンブリスで停まり、私はオセールまで足をのばした。へとへとに疲れて宿屋に入り、夕飯をすませると急いでベッドに入った。
何時間か眠ったころ、ドアのところで大きな物音がして眼が覚めた。誰かが、たて続けにドアをたたいている。起き上がって服を半分ひっかけ、ドアを開けた。寝呆け眼に映ったのは、三色たすき、黄色いズボン、それに赤い袖章。軍曹一名と憲兵二人を従えた警視だった。これを見て、思わずドキッとなった。
「ほらね、青くなってる。まちがいない、こいつだ」
横から声が出たので、眼を向けてみると、サンブリスで話しかけてきた男がいた。とにかく、この突然の侵入の理由は、さっぱり見当がつかなかった。
警視が言った。
「順序を決めてやろう……百七十五センチ……うん、そのくらいだ……金髪……眉毛とヒゲも同様《イデム》……ふつうの顔……灰色の眼……鼻すじが通り……中位の口……丸顎……丸顔……血色がよく……強堅な体格」
「こいつだ」
軍曹と二人の憲兵とサンブリスの男が声を合わせて叫んだ。すると、警視も、
「そうだ、この男にまちがいない……青いフロックコート……灰色のカシミヤのズボン……白いチョッキ……黒いネクタイ」
ほとんど私の服装とピッタンコだ。
「ね、そう言ったでしょ? 泥棒の片割れですよ」
ポリ公たちを連れてきた、おせっかい屋が満足そうに言った。
人相書が完全に私と一致していた。だが、私は何も盗んでいない。しかし、この状況では不安にならざるを得ない。人違いにきまっているし、また、おそらく……かれらは興奮し、有頂天になったが、警視は一喝し、書類をめくって読みつづけた。
「静かに! 強いイタリア訛《なま》りで容易に確認できる。また、右手の親指が銃撃で甚しい損傷を受けている」
私は、一同の前で喋ってみせ、五本の指が息災な右手を出して見せた。みんな、互いに顔を見合わせた。とくに、サンブリスの男は面食らったようだった。私のほうは重荷を降ろした気分になって、こんどは私から質問したところ、警視が、昨夜、サンブリスで大きな窃盗事件が起きたのだと教えてくれた。盗みに加わった容疑者の一人が、私と同じような服装をしていて、人相書とも一致していたのだった。そういう偶然の一致と不思議な運命のいたずらのせいで、その不愉快な訪問を受けたのであった。かれらが謝ったので、辛い事もなかったことだし、その善意を快く受け入れた。それでも、また別の災難がふりかかってはと、その夜の乗合馬車に乗りこみ、馬車は、私をパリまで運んでくれて、すぐに、そこからアラスへ急いだ。