ヴァーツヤーヤナ作/大場正史訳
カーマ・スートラ
目 次
緒言
序説
第一部 ヴァーツヤーヤナ・スートラ
第二部 性的結合について
第三部 妻の獲得について
第四部 妻について
第五部 他人の妻について
第六部 娼婦について
第七部 人を惹きつける法について
訳者あとがき
古代東洋の風俗習慣の研究に進歩的な関心を抱く
少数のイギリス読者に捧ぐ
……リチャード・バートン
緒言
すべての国の文学には、特に愛を扱った作品がかなり見うけられるはずである。この主題はそれぞれの国によって扱い方も観点もちがっている。本書は、サンスクリット文学のなかで愛に関する権威的な書とみなされている『ヴァーツヤーヤナのカーマ・スートラ』またはヴァーツヤ著『愛の格言集』の完訳を目的とするものである。
つぎの序説では同作品の成立時期に関する資料と、それについて書かれた注釈を紹介し、序説につづく各章では、作品自体の翻訳を紹介するつもりである。けれども、ここで、ヴァーツヤの死後なん年も生きて書き、しかも彼を偉大な権威とみなし、インド教徒の好色文学への第一級の案内者として常に彼を引合いに出した作者たちの手になる同種の作品群について、簡単な分析を行なうのも妥当であろう。
ヴァーツヤーヤナの著作のほかに、インドでは同じ主題を扱った次のような著作を入手することができる。
一 Ratirahasya 愛の秘密(または愛秘)
二 Panchasakya 五本の矢(または五箭)
三 Smara Pradipa 愛の光(または愛燈)
四 Ratimanjari 愛の花環(または愛華)
五 Rasmanjari 愛の若芽(または味華)
六 Ananga Ranga 愛壇。これは別名 Kamaledhiplava すなわち「愛の海に浮かぶ船」ともいう。
一 『|愛 秘《ラチラハスヤ》』の作者はクッコーカと呼ばれる詩人で、彼はおそらく国王であったろうと思われるヴェヌドゥッタという人物を喜ばすために本書を書いた。彼は各章の終わりに自分の名をしるし、自ら Siddha patiya pandita つまり「賢人中の賢人」と呼んでいる。この作品は数年前にヒンディー語に訳され、その翻訳では作者の名前がコーカと綴ってある。さらに、同じ名前がインドの他の言語のあらゆる翻訳書にもはいりこんだために、同書は一般に知れわたって、俗にコーカ・シャストラ(コーカの教義)またはカーマ・シャストラ(愛の教義)と呼ばれるようになった。そして、コーカ・シャストラとカーマ・シャストラという言葉は無差別に使われている。同書には八百近い詩篇が含まれ、内容は十章(Pachivedas)に分かれている。
この作品でとり扱われている事柄のいくつかは、ヴァーツヤーヤナのなかには見当らない。たとえば、婦人の四つの階層パドミニ、チトリニ、シャンキニ、ハスティニなど。また、それぞれの階層に属する婦人が愛の虜《とりこ》になる日時の一覧表も見当らない。作者はこれらの事柄を、ヴァーツヤーヤナも言及したゴンカプトラとナンディケシュワラの意見に従って書いたと付記しているが、この両者の作品は現存しない。『愛秘』が誕生した正確な年代をおおよそでもつきとめることはむずかしい。ただヴァーツヤーヤナの『愛経《カーマ・スートラ》』よりもあとで、現存するこの種の著作よりもまえに書かれたことだけは推測できる。ヴァーツヤーヤナは同じ題目について、自分が参考にした作品の十人の作者名をあげているが、それらの作品はひとつも現存していないし、また、『愛秘』の名をあげてもいない。この事実からして、クッコーカはヴァーツヤよりもあとに書いたことがわかるだろう。さもなければ、ヴァーツヤは同種の本の作者のひとりとして、きっと彼の名前をあげていたことであろう。
二 『|五 箭《パンチャサクヤ》』の作者は ジョティリシャという人である。彼は詩人の最高の誉《ほま》れ、六十四種の技芸に長じた物知り、もっともすぐれた音楽の教師と呼ばれている。彼の言葉によれば、神々によって啓示された愛の格言を熟考し、ゴンカプトラ、ムラデヴァ、バプーラヴィア、ラムティデヴァ、ヌンディケシュワラ、クシュマンドラなどの意見を研究したのち、この本を書き綴ったという。彼がこれらの著者の作品をことごとく熟読したのか、あるいは単に噂を聞いただけなのか、その点はにわかに断定しがたい。とにかく、いずれの作品も現存しないようである。この作品はほぼ六百の詩篇から成り、Sayakas すなわち矢と呼ばれる五つの章に分かれている。
三 『|愛 燈《スマラ・プラディパ》』の作者は、ヴェチャパティの息子、 詩人グナカラである。本書には四百の詩篇が含まれているが、愛の教義に関するものは少なく、ほかの事柄を扱ったものが多い。
四 『|愛 華《ラティマンジャリ》』は、 みずから万能作者と称した有名な詩人ジャヤデヴァの作である。けれども、この作品は非常に短かく、わずかに百二十五の詩篇が含まれているにすぎない。
五 『|味 華《ラスマンジャリ》』の作者は、 バーマダッタという詩人である。原稿の最後の詩篇から判断するに、彼はティルフット地方の住人で、同じく詩人だった婆羅門(バラモンまたはブラーマン)のガネシュワルという人の息子だったらしい。サンスクリットで書かれたこの作品は、年齢や身体的特徴や行動などによって種分けされたさまざまな男女の階層を描いている。内容は三章に分かれており、成立年代は不明で、つきとめるわけにはいかない。
六 『|愛 壇《アナンガ・ランガ》』は、 詩人のクリアンムルがアーメッド・ロディの息子ラドハンを楽しませるために書いたもので、このラドハンがあるところではラダナ・ムル、別のところではラダナバラと呼ばれている。彼は一四五〇年から一五二六年にかけてヒンドスクンに君臨《くんりん》したロディ王家の親戚または縁者だったらしい。だから、十五世紀か十六世紀に書かれたものであろう。内容は十章から成り、かつて英語に翻訳されたが、私家版としてわずか六部印刷されたにすぎなかった。これはこの主題についてサンスクリットで書かれた作品のうち最新のものと考えられており、中味は明らかにそれ以前の類書からとられたものである。
以上の諸著の内容はそれ自体が文学的珍品である。サンスクリットで書かれた詩や劇のなかにも、詩的情緒やロマンスはある程度見受けられ、それらはあらゆる国の、あらゆる言語にあって、この主題に不滅の栄光を与えている。ところが、ここでは、いとも淡々と、無造作な態度で扱われている。男と女は、ビュフォン(フランスの博物学者 1707-88)をはじめとする博物学者たちが動物界を分類し、区分したのと同じような調子で階層や部門に区分されている。ギリシャ人にとってはヴィーナスが美女の典型を示していたと同じように、インド教徒はパドミニ、すなわち蓮《はす》女をもっとも完璧な女性美の典型として、つぎのように描写する。
つぎにあげるような特徴を示す女はパドミニと呼ばれる。顔は満月のようにうるわしく、肉づき豊かな体はシラス、すなわち芥子菜《からしな》の花のように柔かく、肌は金色の蓮の花のようにきめこまかく、柔和で美しく、決して浅黒くはない。目は子鹿のそれのように美しく輝き、ぱっちりとして、目尻はやや赤味をおびている。乳房は固くしまって、豊かに盛りあがり、うなじはすっきりとし、鼻筋はまっすぐ通って愛らしい。そして、体の中央に……臍《へそ》のあたりに……三本の横しわが走っている。ヨニはほころびかけた蓮のつぼみにも似て、愛液《カーマ・サリラ》は開きたての百合の花の香りを漂わせる。歩き方は白鳥のようで、コキラ鳥に似た低い妙《たえ》なる声を発する。白衣と美しい宝石とぜいたくな装いを好み、少食で、眠りは浅く、聡明で礼儀正しいばかりでなく、信仰心も厚く、しきりと神をあがめ、婆羅門《バラモン》たちの対話を聞きたがる。このような婦人がパドミニ、すなわち| 蓮 女《ロータス・ウーマン》 と呼ばれる。
つぎに、チトリニ(|芸 女《アート・ウーマン》)、シャンキニ(|貝 女《コンチ・ウーマン》)、ハスティニ(|象 女《エレファント・ウーマン》)。 彼女たちの享楽の日、いろいろな情熱の座、性交時のとり扱い方、それからまたヒンドスタンの諸地方の男女の特徴などについて、詳細をきわめた説明がつづく。いちいちあげていてはきりがないほど多くの、微に入り細をうがった説明がまじめに縷々《るる》と行なわれているので、ここでそれを紹介することはとても時間と紙数が許さないわけである。
英語で書かれた著作にも、ある程度インド教徒の諸作品に似たのがひとつある。それは『カロジノミア、または女性美の法則』(Kalogynomia, or the Laws of Female Beauty)というこの道の基本原理を論じた本で、著者は医学博土T・ベル、挿し絵二十四枚入り、一八二一年ロンドン発行である。内容は美、愛、性交、性交を規制する法則、一夫一婦制、一夫多妻制、売春、姦通などを扱い、最後は女性美の欠陥についての|解説つき一覧表《カタログ・レゾネ》で終わっている。
その他の英語の書物も私生活や家庭生活を論じている。たとえば一八八〇年にロンドンで発行された某医学博士著『社会学の諸要素、または肉体、性、自然の信仰』だとか、一八二六年発行、ウォーターズ博士著『婦人必携』など。上記の主題に関心を持つ人々なら、これらの作品ほど豊富な内容を持つ本はこれまでほとんど発表されたことはないことを知るだろう。また、これらの本はすべての博愛主義者や慈善家たちに百パーセント理解さるべきである。
上述したインド教徒の諸著や英語の書物を熟読すれば、読者はとにかく物質的、現実的、実際的観点から、この主題を理解するだろう。すべての学問が多かれ少なかれ、事実の積み重ねのうえに成り立っているとすれば、彼らの個人、家庭、社会生活と密接なつながりを持つ、ある種の問題を人類全体に知らせたとて、少しも弊害《へいがい》があろうはずはないのである。
悲しいかな、こうした問題についての完全な無知が、不幸にして多くの男を、また多くの女を破滅に追いやった。これに反して、一般大衆に無視された問題について少しでも知識があれば、多くの人々は彼ら自身不可解だと思うか、もしくは考慮に価しないと思うかしていた、いろいろな事柄を理解することができたはずである。
序説
ある人々にとっては、どうしてヴァーツヤーヤナがはじめて世間の脚光を浴びて、英語に翻訳されたかの経緯《いきさつ》を知ることは興味があろう。事の次第はこうである。サンスクリット学者たちといっしょに『アナンガ・ランガ(愛壇)』を翻訳しているあいだに、ヴァーツヤという人物がしばしばひきあいに出されることに気がついた。賢者ヴァーツヤの意見はこれこれ、賢者ヴァーツヤはこう言った、という具合に……。
当然のことながら、その賢人はいったいどういう人物なのかという疑問が口に出た。すると、学者たちは、ヴァーツヤはサンスクリット文学のなかで愛についての権威的な書物を書いた人であり、この作品がなければ、いかなるサンスクリット図書館も完全とは言えない、だが、今日それを完全な形で手に入れることはきわめて困難であることなどを教えてくれた。ボンベイで手に入れた写本は満足なものではなかったので、学者たちはベナレス、カルカッタ、ジャイプルなどのサンスクリット図書館に手紙を書いて、写本の写しをなん種類か送ってくれるよう依頼した。こうして手に入れた写しを相互に比較検討し、『ジャヤマングラ』という注釈本を参考にしながら、全体にわたって改訂をほどこしたものが出来あがった。そして、その写しにもとづいて英訳が行なわれたのである。つぎの一文は第一流であった学者の証言である。
「添付《てんぷ》の写本はわたしの手で四種の異なる写しを比較したのち、修正されたものである。はじめの第五部までは、訂正を行なうにあたって『ジャヤマングラ』という注釈本を参考にしたが、残りの部分の訂正は非常に困難であることがわかった。なぜなら、四種のコピイのうちかなり正確であった一通の写しを除けば、ほかの三通はあまりにも誤りが多すぎたからである。けれども、過半数の写しが相互に一致する部分は正しいと思った」
ヴァーツヤーヤナ著『カーマ・スートラ(『愛の格言』)』は約千二百五〇のスロカス、つまり詩頌によって構成され、それらは部に、部は章に、章は節に分かれている。全体は七部三十六章六十四節から成り立っている。作者についてはほとんど何もわかっていない。彼の本名はマリナガまたはムリラナと想像され、ヴァーツヤーヤナは姓である。巻末で作者は自分自身についてつぎのようにのべている。
「バブーラヴィアその他の古代作家の書を読んで熟慮し、彼らが示した愛の基準の意味を勘考《かんこう》したのち、ヴァーツヤーヤナは、ベナレスにおいて修業僧としての生活を送り、ひたすら神を見つめながら、聖典の教えに準じて、世の利益のためにこの論稿を作成した。本書は単に欲望を満足させるための道具としてのみ利用されてはならない。この学問の真の原理に通暁し、ダルマ(美徳または宗教的価値)、アルタ(富)、カーマ(快楽または官能の喜び)を修め、民衆の習慣を尊重する者は、必ずや自己の感覚を制御することができよう。要するに、知性ある博識な人間はダルマ、アルタ、カーマの習得を怠らず、情欲の奴隷と化することなくば、なにをやっても成功を収めるであろう」
ヴァーツヤーヤナの生没年も、彼の作品の成立年代も、これを正確につきとめることは不可能である。ただ、西暦紀元一世紀から六世紀のあいだの人であったことは、つぎの理由によってほぼ推察がつく。
彼はクンタルの王サトカルニ・サトヴァハンが、激しい情欲にもえながら、カルタリという道具で妃のマラエヴァティを打ち殺した例を引いて、こうした欲望に駆られて女を殴るという古い習慣から生じる危険性について、人々に警告を与えている。ところで、このクンタルの王は西暦紀元前一世紀に生存して王位についた人物と信じられており、従ってヴァーツヤーヤナは少なくともそれ以後の人にちがいない。いっぽうヴィラハシヒラはその著『ブリハトサンヒタ』の第十八章で性愛の技術を論じているが、その大部分はヴァーツヤーヤナから借用したらしい。さて、このヴィラハシヒラは六世紀の人といわれており、ヴァーツヤはその前に著書を書いたはずだから、ヴァーツヤーヤナの大体の生存年代は紀元前一世紀以前ではなく、紀元六世紀以後でもない、と推定せざるをえないわけである。
『カーマ・スートラ』の評釈本はこれまで二冊だけ発見されている。ひとつは『ジャヤマングラ』もしくは『スートラバーシャ』であり、もうひとつは『スートラ・ヴリッティ』である。『ジャヤマングラ』は十世紀から十三世紀のあいだに書かれたものと推定されている。というのも、六十四芸を論じながら、十世紀ごろ書かれた『カーヴヤプラカーシャ』から一例を引いているからである。それにまた、われわれが手に入れたこの注釈本は明らかにかつてチャウルクアン王ヴィシャラデヴァが所蔵した写本から転写したものであった。そのことはおしまいのつぎの一文からうかがい知られるのである。
「『ヴァーツヤーヤナのカーマ・スートラ』に関する注釈のうち、性愛の技術に関する部分はここで終わる。注釈には、王者中の王者にして、第二のアルジュナとも言うべき強大な英雄、そしてチャウルキア王家の至宝、ヴィシャラデヴァ王の蔵書からの写本を用う」
ところで、この王は一二四四年から一二六二年までグゼラート(グジャラト)で統治し、ヴィサルナグルという都市を建設したことが判明している。従って、右の評釈本は十世紀から十三世紀のあいだに書かれたものと思われる。著者はヤショダーラという人物と想像されるが、師から与えられた名前はインドラパーダであった。彼は一人の聡明で意地悪な女から別れて悩んでいたときに、この本を書いたらしい。少なくとも各章の終わりで、彼自身がそうのべている。『ジャヤマングラ』の書名も実は別れた情婦の名前か、でなければ、彼女の名前の意味となんらかの関連があるように思われる。この評釈本はヴァーツヤーヤナの真の意味を解明するのに非常に役に立った。というのは、評釈者はヴァーツヤーヤナの活躍した時代についてかなり深い知識を持っていたようで、いくつかの個所ではきわめて詳細な情報を提供しているからである。
『スートラ・ヴリッティ』と呼ばれるもうひとつの評釈本についてはそうは言えない。これは一七八九年ごろに、サルヴェシュワル・シャストリの弟子ナルシング・シャストリによって書かれたものである。サルヴェシュワル・シャストリと同じく、この著者もまたバースクルの子孫であった。というのは各部の終わりで自分をバースクル・ナルシング・シャストリと呼んでいるからである。彼はベナレスに住んでいるときに、博学な貴族《ラジャ》ヴリジヤララの命によってこの本を書いたが、その評釈本としての価値については、たいして推賛に価するものではない。原作者の意味を理解できなかったと思われる個所がたくさんあり、しばしば自分の説明に都合のいいように原文に手を加えている。
以下、原作の完訳がつづくわけだが、これは写本の原文と一字一句ちがわないように、また、よけいな注釈を加えずに、原文のまま翻訳されたものである。
第一部 ヴァーツヤーヤナ・スートラ
序章 ダルマ、アルタ、カーマへのあいさつ
はじめに、万物の主は男と女を造りたまい、十万章からなる聖訓の形で、ダルマ、アルタ、カーマに関連して彼らの生活を規制する掟《おきて》を定められた。聖訓のなかのあるもの、すなわちダルマを扱ったものは、スワマンブー・マヌにより別途に書かれ、アルタに関するものはブリハスパティによって編纂され、カーマに言及したものは、マハデヴァの門弟ナンディによって、一千の章を費して解説された。
ところで、ナンディによって一千章を費して書かれたこれらの『カーマ・スートラ』(『愛の格言』)は、ウッドヴァラカの息シュヴェタケツによって五百章に要約され、それはさらに同じように、プンチャラ(デリーの南)国の相続者バブーラヴィアの手で百五十章に短縮された。この百五十章につぎの表題を持つ、七つの項目、または部に分けられた。
第一部 Sadharana(総論)
第二部 Samprayogika(抱擁など)
第三部 Kanya Samprayuktaka(男女の結合)
第四部 Bharyadhikarika(妻について)
第五部 Paradika(他人の妻について)
第六部 Vaisika(娼婦について)
第七部 Aupamishadika(誘惑術、強壮剤、媚薬などについて)
本書のうち第六部は、パタリプートラ(パトナ)の娼婦たちの求めに応じて、ダッタカにより別個に詳述され、同じようにシャラヤーナはその第一部を解説した。残りの各部、つまり第二、第三、第四、第五、第七はそれぞれつぎのように、別個に詳述された。
スヴァルナナバー(第二部)
ゴータカムハー(第三部)
ゴナルディア(第四部)
ゴニカプトラ(第五部)
クチュマラ(第七部)
このように各部別々の作者によって書かれた作品はほとんど入手しがたいし、ダッタカその他の解説者たちは各部に関連した主題の特殊部門だけを扱っており、そのうえ、バブーラヴィアの原本はあまりにも長すぎて通読が困難であった。そのため、ヴァーツヤーヤナは、上述の作者たちの諸著を要約して、一冊の小著にまとめたのである。
第二章 ダルマ、アルタ、カーマの習得について
人間は、人生百年のさまざまな時期に、ダルマ、アルタ、カーマを実践すべきだが、この三つは調和を保って、おたがいに衝突しないようにしなければならない。幼少時代には学問を身につけ、青年期と中年期にはアルタとカーマに専念し、老年期にはダルマを成就すべきで、こうしてモクシャの獲得に、いいかえれば、輪廻《りんね》から解放されるように努力しなければならない。しかし、人生は不安定なものであるから、実行を求められた時点で、これを実践してもよろしい。ただし、ひとつだけ忘れてならないのは、習得が終わるまでは修業者の生活を送るべきことである。
ダルマとはシャストラ、すなわちインド教徒の聖典の命ずるところに従って、犠牲《いけにえ》を捧げるといったような、ある種のことをなし、肉を食べるといったようなことをしないことである。犠牲は現世に属さず、目に見える効果を生まないので、行ないがたく、肉食を断つことは現世に属し、目に見える効果があるので、しばしば実行される。
ダルマはシュルティ(聖典)や、これに精通した人々から学ぶべきである。
アルタとは技芸、土地、金銭、家畜、富、日用品、友人などを獲得することである。さらに、いったん手に入れたものを保持し、保持したものを[より]いっそうふやすことである。
アルタは王の役人や、取引きに熟達した商人から学ぶべきである。
カーマとは聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚の五官の働きに、心と魂の協力をえて、特定の対象を享楽することである。その本質は感覚器官と対象の一種独特な接触にあり、この接触から生ずる快楽の意識がカーマと呼ばれる。
カーマはカーマ・スートラ(『愛の格言』)から、また市民の実行から学ぶべきである。以上の三つが、つまりダルマ、アルタ、カーマがそろった場合、前者は後者よりも価値がある。いいかえれば、ダルマはアルタにまさり、アルタはカーマにまさる。けれども、国王は常にまずアルタを実践すべきである。なぜなら、人民の暮しはアルタからしか得られないからである。さらに、カーマは娼婦の職業であるから、彼女たちは他のふたつよりもこれを選ばなければならない。原則にはこのような例外がある。
[異論一]
学者のなかには、ダルマは現世の事柄と関係がないから、書物の中で適当に取り扱えると言う者がある。また、アルタについても同様のことが言われている。なぜなら、それは適切な方法を用いて実践されるだけで、その方法についての知識は研究と読書によってのみ獲得できるからである。ところが、カーマは野獣でさえ実行できるもので、いたるところで見うけられるから、なにもこの題目についての書物を必要としないのである。
[答え]
それはちがう。性交は男と女によるものであるから、男女が適切な方法を用いることが必要で、そうした方法はカーマ・シャストラ(性典類)から学ぶべきである。適切な方法を利用しないのは、動物界に見られるように、牡牝《おすめす》に自制心がないこと、牝《めす》は特定の季節にだけ発情して性交が行なえること、性交以前にいかなる思考も存在しないことなどによって生じるわけである。
[異論二]
物質主義者《ロカヤティカ》たちはつぎのように言う。
宗教的な儀式は遵守《じゅんしゅ》すべきでない。なぜなら、宗教的儀式は来世の果報を生むだけだから。と同時に、来世の果報などというものがみのるかどうかも疑わしい。自分の手にある物を他人にくれてやるような愚か者がいるだろうか? それに、明日の孔雀《くじゃく》より今日の鳩のほうがましだし、手にはいるかどうかわからない金貨より確実に手に入る銅貨のほうがすぐれている。
[答え]
そうではない。第一に、ダルマの実践を命じた聖典は、疑いの余地を与えない。
第二に、敵の破滅や雨乞いのために捧げられるような犠牲《いけにえ》は、現に成果をあげている。
第三に、太陽、月、星、惑星、その他の天体は、この世の福祉のために運行しているように思われる。
第四に、この世の存在は、人間の四つの階層と人生の四段階についての掟を守ることによって保たれている。
第五に、周知のとおり、種子を地中にまくのは将来の収穫を予想してのことである。
従って、ヴァーツヤーヤナは、宗教の掟は遵守されねばならないと考える。
[異論三]
運命がすべてを決定すると信じている人々はこう言っている。富を得ようとしてあくせく努力すべきではない。いくら手に入れようと努力しても、手にはいらないこともあれば、また、こちらで努力しないでも、向うからひとりでにやってくることもある。従って、すべては、得失、成否、快楽と苦痛などを意のままに牛耳《ぎゅうじ》る運命の力に左右される。たとえば、バリは運命によってインドラの王位につき、同じ力によって王位からしりぞけられた。彼をしてふたたび王位に復帰させることのできるのは運命だけである。
[答え]
その言葉はまちがっている。なにを手に入れるにしても、とにかく前提となるのは人間の側の努力である。正しい方法を適用すれば、どんな目的でも達成されようし、正しい方法の適用はこのように必要であるから(たとえなにかが起こる運命であっても)なにも努力をしない人間は幸福を楽しむわけにはいかないだろう。
[異論四]
アルタの獲得こそ人生の最大の目的であると考えがちな人々は、こんなふうに主張する。快楽は[より]すぐれたダルマとアルタの実践をさまたげるから、これを求めるべきではない。快楽はまた有徳の士のいみ嫌うところである。快楽は人を不幸にし、賎《いや》しい人々とつきあわせる。快楽のために人は不正を行ない、不純な心をはぐくみ、来世を忘れ、不謹慎《ふきんしん》になり、軽率になる。そして最後には人々の信頼を失い、だれにも相手にされなくなり、自分をも含めてすべての人に軽蔑されるようになる。おまけに快楽にのみ没頭した多くの人々が、家族や親戚を道連れにして身を滅ぼしたことは周知のとおりである。
ボージャ王朝のダンダキア王は、悪心を抱いて婆羅門の娘を誘拐し、その結果、身を滅ぼして王国も失った。アハルヤの純潔を汚したインドラもまた、その報いで苦しまなければならなかった。同じようにドラウパディを誘惑しようとしたキチャカも、シタをわがものにしようとしたラヴァナも、それぞれの罪のために罰せられた。このほかにも快楽のために倒れた人間は大勢いる。
[答え]
この意見には賛成できない。なぜなら、快楽は、肉体の存在と健康にとって食物と同じように不可欠なものであるから。従ってまた同じ程度に必要なわけである。そのうえ、快楽はダルマとアルタの結果である。だから、快楽は節度と慎重さを保って追求されなければならない。乞食にねだられるからといって、食物の調理をひかえたり、あるいは実った穀物を鹿に荒らされるからといって、種まきをやめたりする人はいないだろう。
このように、ダルマ、アルタ、カーマを実践する者は、現世においても来世においても、幸福に恵まれる。すぐれた人物は、来世に禍根《かこん》を残す恐れのない、また自らの幸福をおびやかす恐れもない行為だけを遂行する。ダルマ、アルタ、カーマのすべての実践につながる行為、あるいは、そのうちのふたつ、ないしはひとつにつながる行為なら、これを実行すべきだが、他のふたつを犠牲にして残りのひとつだけにつながるような行為は遂行さるべきでない。
第三章 習得すべき技芸について
人はダルマとアルタに含まれるもろもろの技術や学問に加えて、カーマ・スートラと、それに付随する技術や学問を学ばなければならない。また未婚の処女であっても、結婚前にカーマ・スートラとその技術や学問を学ぶべきだし、結婚後も夫の承諾があれば、その学習をつづけてもよい。
一部の賢者たちはこれに反対して、女には学問の研究が許されていないから、カーマ・スートラも学んではいけないと主張する。
しかし、ヴァーツヤーヤナはこの反対意見は有効でないと考えている。なぜなら、女性はすでにカーマ・スートラの実践に通じているし、その実践はカーマ・シャストラ(性典の類)すなわちカーマそのものの学問から由来しているからである。そのうえ、この場合にかぎらず、ほかの多くの場合でも、学問の実際的応用はだれでも知っているが、その学問の基盤となっている原理や法則に通じている者は意外に少ない。
たとえばヤドニカ、つまり犠牲を捧げる僧たちは、文典のことなどなにも知らないが、さまざまな神に呼びかけるときは適切な言葉を利用する。だが、それでいて言葉の構造についてはなにも知らない。また人々は占星学《せんせいがく》によって定められた吉日にいろいろ必要な儀式をとり行なうが、それでいて占星学という学問については知るところがない。同様に馬や象に乗る者は、調教という学問を知らなくても、練習の結果それを会得している。それと同じに、どんなに辺鄙《へんぴ》な田舎に住む人々でも、習慣によって王国の掟に従っているが、それは彼らが王をいただいているからであって、ほかに理由はない。また女性のなかに、たとえば王侯や大臣の娘、娼婦などが実際にカーマ・シャストラに精通しているが、これはみな経験によるものである。
従って、女性はカーマ・シャストラを、少なくともその一部を、信頼のおける友だちから実地に教えてもらって、学ばなければならない。カーマ・シャストラの一部を形成する六十四芸を、自分ひとりでこっそりと学ぶべきで、教師はつぎのような人々のなかから選ぶべきである。自分といっしょに育てられ、すでに結婚している乳母の娘、あるいは、なにごとにも信頼のおける女友だち、さもなければ、母方の叔母、年とった女の召使い、昔は家庭生活を営んでいたと思われる女乞食、常に信頼のおける自分の姉妹など。
カーマ・スートラとともに習得すべき諸芸はつぎのとおりである。
1 声楽
2 器楽
3 舞踊
4 歌舞音曲をともに演じること
5 習字と絵画
6 入れ墨
7 米と花による偶像の装飾
8 地面にしとね、または花の寝床を広げること、もしくは花をまきちらすこと
9 歯、衣服、髪、爪、体を色どること、つまり、それらの染色と彩色
10 床に彩色ガラスをはめこむこと
11 寝床作り、絨毯《じゅうたん》、座ぶとんの敷き方
12 水をはったグラスでの演奏
13 水道、水槽《すいそう》、貯水池の貯水
14 絵を描き、飾りつけをすること
15 珠数《じゅず》、首飾り、花環類の作り方
16 ターバン、花冠の結び方、羽飾りと花の髪飾りの作り方
17 舞台の演出、演技
18 耳飾りの作り方
19 香料の製造調合法
20 宝石や装飾品の正しい用い方、正しい着つけ
21 魔術または呪術《じゅじゅつ》
22 手先きの器用さ、または手芸
23 調理術、つまり料理
24 果汁、シャーベット、酸っぱい飲料、適当な香りと色をそえたアルコール飲料などの作り方
25 仕立屋の仕事と裁縫
26 編み糸による鸚鵡《おうむ》、花、飾りふさ、飾り束、浮彫り、玉飾りなどの作り方
27 謎や隠語解き、字探し、判じもの
28 詩句を反覆する遊び。甲が終わると、その最後の詩句の文字をとって、乙がすぐに別の詩句を読み出さねばならない。詩句が口に出ない者は負けとみなされ、なにがしかの罰金、または賭け金を払わなければならない。
29 模倣術、または物まね
30 朗読、詠唱をふくむ読書
31 発音のむずかしい文章の研究。主として婦女子の遊びで、むずかしい文章が出されると、早口にこれを繰り返す場合、しばしば順序をまちがえたり、発音をまちがえたりする
32 剣術、木刀術、六尺棒術、弓術
33 推理、推論
34 木工、大工仕事
35 設計術、または建築技術
36 金貨や銀貨、宝石類についての知識
37 化学、鉱物学
38 宝石類や玉などの彩色
39 採鉱、採石の知識
40 園芸。樹木や草本の病害|駆除《くじょ》、栽培法、樹齢の見分け方
41 闘鶏、闘鶉、闘羊
42 鸚鵡《おうむ》と椋鳥《むくどり》に言葉をしゃべらせる法
43 香料入り軟膏《なんこう》を体に塗る法、軟膏や香水で整髪し、これを編む法
44 暗号を解読する法、特殊な書体による文字の書き方
45 言葉の形を変えて話す法。これにはいろいろ方法があって、語頭と語尾を変える人もいれば、各音節のあいだに不要な文字をはさむ人もいる。
46 言語と方言の知識
47 花車の飾り方
48 神秘的な図形の描き方、呪文のかけ方、護符《ごふ》の結び方
49 頭の訓練。たとえば、詩の一部を受取って、その節または詩文を完成させたり、それぞれちがう詩から任意にとりだした詩句に一、二行または三行を補って、全体として意味が通る詩にしたり、母音と子音を切りはなして雑然と並べられた詩句、または文字を脱落させた詩を、元の形にしたり、記号や象徴で表わされた文章を詩または散文になおしたりすること。このような練習問題はまだほかにもたくさんある。
50 作詩
51 辞書および単語集の知識
52 変装の方法に関する知識
53 綿を絹に見せたり、粗末な安物をりっぱな高級品に見せたりする法
54 さまざまな賭博《とばく》法
55 呪文《ムントラ》によって他人の財産を手に入れる法
56 若者の運動技能
57 社交原則と、他人に敬意を払い、賛辞を呈する法についての知識
58 戦術、武器、軍隊の知識
59 体操の知識
60 容貌から性格を見分ける法
61 韻律、作詩の知識
62 数学的な遊び
63 造花作り
64 粘土による彫像、肖像作り
気だてがよく、美人で、そのほか人好きのする性質に恵まれ、しかも、上述の技芸に通じた娼婦は、ガニカ、すなわち高等内侍の名を与えられ、男の集まりでは栄光の座をしめる。そのうえ、彼女はいつも王侯に尊敬され、学者に賞賛される。
こうして万人がこぞって彼女の好意を求めるので、彼女は衆庶の尊敬の的《まと》となる。王者の娘や大臣の娘もまた前記の諸芸に秀でているので、たとえなん千という妻妾があっても、夫の寵愛を一身に集めることができる。同じように、もし妻が夫から別れて、不幸な境遇におちいるならば、たとえ異国にあっても、これらの諸芸の知識を利用して、たやすく生計をたてることができる。時と場合の状況によって、それを実際に行なうことが可能であったり、または不可能であったりするけれども、ただの知識だけでも婦人の魅力はいっそう加わるわけである。
男でもこれらの諸芸に精通し、能弁で、艶事《つやごと》の技術に長じていれば、たとえわずかの期間の知りあいでも、すぐに女性の心をかちえるのである。
第四章 市民の生活
こうして学問を身につけたのち、人は、贈与、征服、取引、貯金、または先祖からの相続などによって財産を手に入れ、一家の長となって市民生活を営むべきである。彼は都市や大きな村に、あるいはりっぱな人たちの近くに、あるいはまた多くの人々が集まる場所に、一家を構えなければならない。
この住まいは川の近くに位置して、それぞれ異なる目的のためにいくつかの部分に仕切られるべきで、周囲に庭を配し、少なくとも外部屋と奥の部屋のふたつがなければならない。奥の部屋には婦人たちが住み、豊かな香料の匂う外部屋には、柔らかくて、見た目にも快適で、清潔な白いシーツにおおわれ、まん中がくぼみ、花環と花束で飾られ、頭上には天蓋《てんがい》をいただき、頭部と脚部にふたつの枕をおいたベッドがなくてはならない。また、そのかたわらには長椅子を置き、その鼻さきに一種の床几《しょうぎ》をすえて、夜のための香料入り軟膏をはじめ草花、目薬、その他の香科、口をかぐわしくするための材料、ふつうのレモン樹の皮などを入れた壷をのせておく。長椅子の近くの床には、痰壷《たんつぼ》、装飾品入りの小箱などを置き、象牙《ぞうげ》で作った釘にルートをつるし、そのほか画板、香水瓶、書物数冊、黄色い|不凋の花《アマランス》の花環なども用意する必要がある。同じく長椅子からあまり遠くない床の上に、丸い座ぶとん、おもちゃの手押車、さいころ用の遊戯板などをおいておかねばならない。
部屋の外には鳥篭をつるして、糸紡ぎや木彫りなどの憂さ晴らしのために離れの部屋を設けるべきである。そして、回転ぶらんこやふつうのぶらんこをつり、蔓草《つるくさ》をからませた花いっぱいの亭《あずまや》を作り、中には憩いのための一段高い芝生をこしらえなければいけない。
さて、家長は朝起きて必要なつとめをすませたら歯を磨き、体に少量の軟膏《なんこう》や香料を塗り、装身具を身につけ、まぶたと目の下に目薬をつけ、唇はアラクタカで色どり、最後に自分の姿を鏡に写して見るべきである。つぎに、キンマの葉やほかの香料を噛んだり、口中をかぐわしくする他のものを用いたりしてから、日課の仕事にとりかかるがよい。入浴は毎日行なうべきで、一日おきに体に香油を塗り、二日おきに泡の立つ材料を用い、三日おきに頭(顔もふくめて)を剃り、五日または十日めに一度、体のほかの部分を剃らなければならない。
以上のことは必ず実行すべきで、腋《わき》の下の汗も拭い去らねばならない。食事はチャラヤナの規定に従って、午前と午後と夜の三度にわたってとるべきである。朝食後に鸚鵡《おうむ》やほかの鳥に言葉を教え、つづいて闘鶏、闘鶉、闘羊などを行なう。わずかな時間を割《さ》いてピタマルダ、ヴィタ、ヴィドゥシャカなどといっしょに憂さ晴らしをし、そのあとで午睡をとるがよい。家長たる者はこのあと衣服や装身具を身にまとって、午後のあいだは、友人たちと語りあわなければならぬ。
夕刻になれば、歌を楽しみ、そのあと友人とともに、あらかじめ飾り立てて、香をたきこめた自分の部屋で、気に入りの女性の到着を待つか、さもなければ、女の使いを出して彼女を呼びにやるか、自分で彼女を迎えにいくかすればよい。彼女が到着したら、友人とともに歓迎し、愛情にあふれた、快い会話で彼女を楽しませなくてはいけない。こうして一日のつとめが終わるのである。時おり気晴らしのために行なわれる行事につぎのようなものがある。
1 神々のために祝祭を催すこと
2 男女の社交的集会
3 宴会
4 遊山《ゆさん》
5 その他の社会的娯楽
祭り
ある特定の祝日には、サラスワティの神殿で市民たちの集会を招集しなければならない。そこでは歌い手をはじめ、町へ移ってきてまもないその他の芸人たちの芸能審査が行なわれ、その翌日常に全員になにがしかの賞金が与えられる。その後、彼らは集会者の好みに応じて、お抱えになったり、お払い箱になったりする。集会に参加した成員は悲境のときも、好況のときも、互いに協力しなければならない。また、集会に参加すべくやってきた異郷の人々も手厚くもてなすのが市民の義務である。ここにのべた事柄は神々を賛えて催されるほかのすべての祝祭にも、現行法によって適用されていると見なければならない。
社交的な集会
性格や能力も同じなら、娯楽や教養の程度も同じ同年輩の男たちが、遊女たちをまじえて同席したり、市民の集会に出席したり、あるいは仲間のひとりの家に集まって楽しい会話にうち興じるとき、それは寄合い、もしくは社交的集まりと呼ばれる。その話題は他人の未完成の詩を完成させたり、種々さまざまな技芸についてお互いの知識をためしあったりすることなどである。こういった席では、いちばん美しい女、男性の出席者と趣味を同じくする女、そしてまた、他人の心を惹きつける魅力を持った女たちに敬意が捧げられる。
宴会
男女はお互いの家庭で酒を飲まなければならない。男たちはまず遊女たちに飲み物をすすめ、それから自分たちも飲むべきである。たとえばマドゥー、アイレヤ、サラ、アサワなどの苦味または酸味を持った酒、また、さまざまな樹皮や野生の果実や木の葉などから調合した飲み物など。
花園ゆき、または遊山
男性は午後になると、衣服をまとって、遊女や召使いを従え、馬に乗って花園へ出かけるべきである。そこで一日のつとめをすっかりはたして闘鶉、闘鶏、闘羊などの、いろいろ楽しい遊びで時をすごし、同じく午後に花束などをたずさえてわが家へ帰るべきである。夏期の水浴についても同じことが言える。ただし水浴の場所から、前もって有害または危険な動物をとり除き、四方に囲いをした場所で水浴を行なうべきである。
その他の社交的娯楽
夜のさいころ遊び。月夜の外出。春を賛えて宴《うたげ》を催すこと。マンゴー樹の新芽と果実摘み。蓮根《れんこん》の賞味。トウモロコシの柔らかい実の賞味。新緑の季節に森へピクニック。ウダカカシュヴェディカ、つまり水遊び。木々の花でおたがいを飾りあうこと。カダンバ樹の花を投げあうこと。その他全国に知れわたった、もしくは特定の地方に特有な遊戯の数々。こうした遊びやその他の類似の娯楽は常に市民の手で行なわれなければならない。
これらの遊びは、ひとりの男が遊女ひとりを相手にして単独で楽しむか、あるいは下女や市民たちを相手にできる遊女が同じくひとりで楽しむべきものである。
ピタマルダとは富も身寄りもなく、マリカと泡の出る材料(石鹸代用)と赤い布だけが彼の全財産で、よき国に生まれ、あらゆる技芸に通じた男性のことである。彼はそれらの技芸を教えることによって、市民の会合や遊女の家へ招かれる。
ヴィタとは幸運という快楽を味わい、親しく交際している市民と同郷人で、家長としての資格をそなえ、妻を持ち、市民の会合や遊女の家などで優遇され、彼らの資力と彼ら自身に頼って生活している男のことである。
ヴィドゥシャカ(ヴァイハスカとも呼ばれる。笑いをふりまく者の意)とはいくつかの技芸だけに精通《せいつう》した者で、道化師であり、万人の信頼をえている。
これらの人々は市民と遊女のあいだに争いが起こったとき、または、両者の和解のときに、雇われる。
また、乞食女、頭を丸坊主にした女、密通女、諸芸にひいでた老遊女などについても、同じことが言える。
このように、町や村に住んで、人々の尊敬を一身に集めている市民は、自分と同じ姓《カスト》に属する人で、知りあってためになるような人々を訪問しなければならない。そして、ともに語りあい、交際によって友人たちを喜ばせ、さまざまな問題について他人を助け、相手にも同じように互いに助けあうようにしむけなければならない。この問題に関しては、つぎのような内容の詩がある。
世の中のさまざまな話題について、サンスクリット語だけではなく、あるいは方言だけでもなく、議論する市民は、深い尊敬の念をかちえる。賢明な人は、大衆に嫌われ、秩序を持たぬ、他人を滅ぼすことにのみ熱心な仲間と交際すべきではない。これに反し、庶民の希望にそうて行動し、快楽を唯一の目的とする仲間とともに暮らしている賢者はこの世で大いに尊敬される。
第五章 市民が足しげく訪れる女、友人、仲介者について
四姓《カスト》の男子が聖典の掟に従って(つまり、合法的な結婚によって)それぞれの姓《カスト》の処女らとともにカーマを実行する場合、それは合法的に子孫を残して、名声を獲得する手段となるわけで、現世の習俗にも反しない。これに反して、自分より高い姓に属する女、または同じ姓であっても、まえに他人がもて遊んだ女とともにカーマを行なうのは法度《はっと》である。しかし、[より]低い姓の女、自分の姓から追放された女、遊女、二度結婚した女とカーマを行なうことは、特に禁止されてはいない。こういう女たちとカーマを行なう目的は、ただ快楽の一語につきる。
従って、ナイイカスには三つの種類がある。すなわち女中、二度結婚した女、それに遊女である。ゴニカプトラは四番めの種類の女があるという所説をのべている。つまり、たとえ前にほかの男と結婚した経験があっても、特別な場合にかぎり男が通ってもいい女である。特別な場合とは男がつぎのように考える場合である。
この女に自由意思があって、これまでにわたし以外の多くの男を楽しませてきた。だから相手がわたしより高い姓に属していても、遊女と同じだと考えて、彼女のもとにかようことはなんらさしつかえないし、そうした行為で、わたしはダルマの掟を破ることにはならない。
あるいはまた、
この女は二度結婚した女で、これまでにわたし以外の男たちが彼女を慰んでいるから、わたしが彼女のもとにかよっても文句はない。
あるいはまた、
この女は権勢家の夫の心をしっかりつかみ、意のままに操っている。が、彼女の夫はわたしの敵の友人である。だから、もし彼女がわたしとまじわれば、彼女は夫にわたしの敵を断念させることであろう。
あるいはまた、
この女の夫は大変な権力家で、現在のところわたしに不満をいだき、何かよからぬことを企らんでいるが、彼女はきっとわたしのために夫の心を変えてくれるだろう。
あるいはまた、
この女と友だちになれば、わたしは友人の目的をとげさせたり、敵を滅ぼしたり、その他のむずかしい目的を成就することができよう。
あるいはまた、
この女と交われば、わたしは彼女の夫を殺し、わたしがほしがっている莫大な財産を手に入れることができよう。
あるいはまた、
この女と交わっても別に危険はないし、むしろ貧しくて生活能力がないため、わたしがいまひどく必要としている富を持ってきてくれるだろう。だから、わたしはそのように、なにも苦労せずに、彼女の莫大な富を手に入れることができよう。
あるいはまた、
この女はわたしを心から愛していて、わたしの弱点をことごとく知りつくしている。だから、もし彼女との交わりを拒めば、わたしの欠点を世間にさらけだして、わたしの人格と名声を傷つけるだろう。でなければ、とんでもない言いがかりをつけられて、身のあかしをたてることもできず、破滅してしまうかもしれない。もしくは、権勢家だが、彼女の言いなりになる夫をわたしから切り離して、彼をわたしの敵に協力させるか、あるいはみずからわたしの敵と手を組むかするだろう。
あるいはまた、
この女の夫はわたしの妻妾の操を犯したから、彼の妻妾をたらしこんで、同じ損傷を彼に与えるかもしれない。
あるいはまた、
この女の助けをかりれば、彼女のもとにかくまわれている国王の敵を殺すことができよう。わたしは王からその男を殺すよう命じられているのだから。
あるいはまた、
わたしの愛する女はこの女の支配下にある。だから、彼女の力をかりれば、愛人を手に入れることができるだろう。
あるいはまた、
この女はわたしのもとにひとりの処女をつれてくるだろう。彼女は美貌で金も持っているが、なかなか近づきにくいし、別の男の支配下にある。
あるいはまた、最後に、
わたしの敵はこの女の夫の友人である。だから彼女をわたしの敵に結びつけて、夫と彼のあいだに敵意を生ませたい。
これらの、またほかの同じような理由で、他人の妻と交渉してもさしつかえない。ただし、これはあくまでも特別の理由がある場合にかぎられ、単なる肉欲のためには許されないことをはっきり承知しておかねばならない。
チャラヤナは、このような状況のもとでは、五番めのナイイカも存在すると考える。すなわち大臣に囲われているか、もしくはしばしば大臣のもとに出入りする女、さもなければ、頼りにしている人物の力を借りて、ある男の目的を遂げる寡婦《かふ》のことである。
スヴァルナナバーは、寡婦の状態で禁欲生活を送っている女は六番めのナイイカと見てもよいと付記している。
ゴータカムハーによれば、まだ処女である娼婦の娘や、女の召使いなどは七番めのナイイカであると。
ゴナルディヤは、成年期に達した良家の女子ならば、だれでも八番めのナイイカになるという所説を開陳している。
しかし、あとにあげた四種のナイイカも、前四者とたいした相違はない。なぜなら、八種のナイイカのうちだれを相手にするにしても、その目的はみな同じだからである。そこで、ヴァーツヤーヤナはナイイカは四種類にすぎないという見方をしている。
つまり、処女、重婚女、娼婦、特定の目的で求められる女性である。
つぎにあげる女を楽しんではいけない。
癩《らい》病女
気ちがい女
姓《カスト》から追放された女
秘密を守れない女
交接欲を公然と口にする女
極端に色白の女
極端に色黒の女
悪臭を放つ女
近親の女
女友だちである女
禁欲生活を送る女
近親者、友人、学識ある婆羅門、国王などの妻
バブーラヴィアの後継者たちは、五人の男に弄《もてあそ》ばれた女なら、享楽の相手として申し分ないとのべている。しかし、ゴニカプトラは、その場合でも、近親者、学識ある婆羅門、国王などの妻は例外だという意見をとっている。
友人の種類にはつぎのようなものがある。
・子供のころ、泥にまみれていっしょに遊んだ人
・義務観念の強い人
・同じ性格で趣味も同じ人
・学生時代の友人
・諸君の秘密や欠点をよく知り、相手の欠点や秘密も諸君がよく知っている人
・乳母の子供
・諸君といっしょに育てられた人
・親の代からの友人
この友人たちはつぎのような資格をそなえていなければならない。
・嘘をつかないこと
・時がたっても心変わりしないこと
・あなたの計画に反対しないこと
・意志堅固なこと
・貪婪《どんらん》でないこと
・ほかの人間の意になびかぬこと
・諸君の秘密を洩らさないこと
チャラヤナによれば、市民は洗濯屋、床屋、牛飼い、花屋、薬屋、きんまの葉売り、酒場の主人、乞食、ピタマルダ、ヴィタ、ヴィドゥシェカ、それに、これらの人々の妻たちと友情を結ぶという。
仲介者はつぎのような資格をそなえていなければならない。
・熟練
・大胆
・外見によって人々の意図を見抜く能力
・狼狽《ろうばい》しないこと。つまり臆病でないこと
・他人の行為または発言の正確な意味を知る能力
・正しい礼儀作法
・事を行なうにあたり、時と場所柄をわきまえること
・器用に仕事をこなす能力
・理解が早いこと
・急場を救う能力、すなわち機敏で迅速《じんそく》な応変の才
そして、この部分はつぎの諺《ことわざ》で終わっている。
「機才に富み、頭がよく、友を持ち、他人の意図を見ぬき、なにをするにも、時と場所柄をわきまえた男こそ、難攻不落の女性といえども、これをたやすく手に入れることができる」
第二部 性的結合について
第一章 性器の大きさ、欲望または情熱の強さ、時間などによる性交の種類
結合の種類
男性はリンガ(男性の性器)の大きさにより、兎男、牛男、馬男の三階級に区分される。
女性もまたヨニ(女性の性器)の深さによって、鹿女か、馬女か、あるいは象女かのいずれかである。
つぎのように、全部で九通りの組み合わせがある。つまり、性器の大きさの一致する等結合が三種、一致しない場合の不等結合が六種類ある。
等結合
兎男……鹿女
牛男……馬女
馬男……象女
不等結合
兎男……馬女
兎男……象女
牛男……鹿女
牛男……象女
馬男……鹿女
馬男……馬女
これらの不等結合のうち、サイズの点で男性のほうが女性よりも大きい場合、もっとも近い大きさの女性との結合を高結合といい、これには二種類ある。いっぽうサイズの点でいちばんかけはなれた女性との結合を最高結合といい、これは一種類しかない。逆に、女性のほうがサイズの点で男性よりも大きい場合、もっとも近い男性との結合を低結合といい、これにも二種類ある。同様にいちばんサイズのかけはなれた男性との結合を最低結合といい、これも一種類しかない。
言いかえれば、馬男と馬女、牛男と鹿女は高結合であり、馬男と鹿女は最高結合である。女性の側から言えば、象女と牛男、馬女と兎男は低結合であり、象女と兎男は最低結合である。
だから、大きさによって九種類の組合わせがある。そのなかでも、等結合がもっとも望ましく、最上級のそれは、つまり最高結合と最低結合は最悪である。その他は普通だが、低結合よりは高結合のほうがすぐれている。
また、情熱もしくは肉欲の強さによっても、つぎの九とおりの結合がある。
弱男………弱女
普通男……普通女
強男………強女
弱男………普通女
弱男………強女
普通男……弱女
普通男……強女
強男………弱女
強男………普通女
性交時の欲望が弱く、精液の量も少なく、女性の情熱的な抱擁に耐えることのできない男を弱少性欲者という。こうした性質とは異なる男性は普通性欲者と呼ばれ、いっぽう強大性欲者は欲情にあふれている。
同じように女性の場合も三様の欲望の度合を持っていると考えられる。
最後に、時間によっても、三とおりの男女が存在している。すなわち短時間、普通、長時間の男女で、まえにのべた場合と同じように、これにも九とおりの組み合わせがある。
しかし時間については、女性の場合重要な意見の相違があるので、つぎに紹介しよう。
アウドダリカはこうのべている。「女性は男性とちがって射精しない。男性は簡単に欲望をみたすことができるが、女性の場合は欲望を意識することによって、ある種の喜びを感じ、それで満足感がえられるが、自分でどんなに喜びを感じているかは口に出しては言えないのである。以上で明らかになった事実は、交接中の男は射精後にひとりでに行為を中止して満足するが、女性の場合はそうではないということである」
しかし、男性が長時間型であれば、女性はいよいよ深く彼を愛するが、もし彼が短時間型であれば、女性は不満だという理由で、この意見に反対する者もある。またなかには、そうした状況によって、女性もまた射精することが証明されると主張する者もいる。
けれども、この意見は根拠薄弱である。なぜなら、女性の欲望をしずめるためには長い時間をかけることが必要であり、その間に彼女が非常な喜びを味わっているとしたら、彼女がその継続を望むのはきわめて当然だからである。この問題については、つぎのような諺がある。
「男との結合によって、女の色欲、欲情、または情熱はみたされる。そして、それを意識するところから生じる喜びは女たちの満足感と呼ばれる」
ところが、バブーラヴィアの弟子たちは、女性の場合も交接の初めから終わりまで精液を出しつづけると言っている。そして、そうあるのがほんとうで、もし精液を持たなければ、胎児はできないというのである。
これに対しては、反論もある。交悦のはじめには、女性の欲望は中位で、愛人の激しい嵌入には耐えられないが、だんだん欲望がたかまるにつれて、自分の体のことなど考えなくなり、最後にはそれ以上の交悦は止めたいと思うようになる。
だが、この説は正しくない。なぜなら、非常な速度で回転する尋常なもの、たとえば陶工のろくろや独楽《こま》などは、はじめは遅いが、しだいに回転速度が増す。同様に、女性の場合も、しだいに欲望がたかまり、精液がすっかり出つくしてしまうと、交会の中止を望むようになる。これに関してはつぎのような諺がある。
「男性の射出はかならず交悦の最後に生じるが、女性の場合は絶えず射精をつづける。そして、両者の精液が完全に底をついたとき、彼らは交悦の中止を望む」
最後に、ヴァーツヤーヤナは女性の愛液は男性のそれとまったく同じように射出されるという見解をとっている。
ここで、つぎのような疑問を発する人もあるだろう。男も女も同種の存在であり、同じ結果をもたらすことに専念するとすれば、なぜちがった行為をしなくてはならないのかと。
ヴァーツヤーヤナはそのとおりだと言っているが、それは喜びの意義だけでなく行為の方法も男と女ではちがうからだという。この行為のしかたのちがいは、たとえば男性は能動者で、女性は受動者であるということは、男女の本質によるわけである。でなければ能動者が時にはされる側に、また、その反対になるはずである。そして、行為の方法のちがいから喜びの意識のちがいが生じる。なぜなら、男は「この女はわたしと結ばれた」と思い、女は「わたしはこの男と結ばれた」と考えるからである。
もし男女の行為の方法がちがうとしたら、その結果であるところの、男女の感じる喜びにも相違があって当然だと言えるかもしれない。しかし、この反対意見には根拠がない。なぜなら行為する男性とされる女性はちがった種類だから、行為の方法にちがいがあるのは当然である。けれども、彼らの感じる喜びにまで相違があろうはずはない。というのは、当然両者ともにそれぞれ行なう行為から喜びを引き出しているからである。
この問題については、さらに、ふたりの異なった人間が同じ行為をすれば、同じ目的が達成されるはずだが、これに反して男と女の場合は、それぞれが別々に自分の目的を達成するから、その議論は矛盾している、という意見が出るかもしれない。しかし、この考え方は誤っている。なぜなら、時にはふたつのことが同時に行なわれるからである。たとえば、闘羊の場合のように、いずれの雄羊も同時にそれぞれの頭にショックをうけるのである。もっと例を引けば、二個のリンゴをぶっつけた場合も、あるいはふたりのレスラーの格闘もそうである。それらの場合には、同じ種類のものが用いられているではないかという反論があれば、こう答えよう、男女の場合でも、ふたりの人間の性質は同じであると。そして、行為の方法のちがいは男女の性質のちがいからのみ生じるのだから、当然男も女と同じ快楽を体験するわけである。
この問題に関してもつぎのような諺がある。
「男と女は同じ性質だから、同じ快楽を感じる。従って、男はいつまでも自分を愛するような女と結婚すべきである」
以上で男女の快楽が同じ種類のものであることが証明されたわけで、従って、欲望の強さによって九種類の性交があるように、時間の点でも九とおりの組み合わせがあるのである。
以上のように、性器の大小、欲情の強弱、時間の長短などによって、それぞれ九とおりの結合があるから、それらをさらに組み合わせると、結合の種類は数えきれないくらいになろう。だから、それぞれの交悦にあって、男性はその時々にもっとも適していると思う方法をとらなければならない。
性交時のはじまりには、男性の欲情のほうが強く、時間も短い。だが、同じ日の二度め以後の性交では、それが逆になる。女性の場合は反対に、最初の時は欲情が弱く、時間も長いが、同じ日の二度めからは欲情も強く、満足するまでの時間も短い。
さまざまな愛の種類について
男女の道に明るい人たちの所見によれば、愛には四種類があるという。すなわち、
一 継続的な習慣によって得られる愛
ある行為を継続的にくりかえすことによって得られる愛は、不断の修練または習慣によって得られる愛と呼ばれる。たとえば、交悦愛、狩猟愛、飲酒愛、賭博愛など。
二 想像から生まれる愛
ふだん慣れていない物ごとを求める愛、純粋に観念から出る愛は、想像から生まれる愛と呼ばれる。たとえば、ある種の男女や宦官《かんがん》などが求めるアウパリソシュタカ、すなわち口淫や、万人が望む抱擁、接吻など。
三 信頼から生まれる愛
男女がおたがいに誠意をもって愛しあい、相手を自分のものと見なすとき、学者たちはそれを信頼から生まれる愛と呼ぶ。
四 外的対象物の知覚から生まれる愛
外的対象物の知覚から生まれる愛は明々白々で、だれでもがよく知っている。なぜなら、この愛が与える快楽はそれ自身のために存在している、ほかのどんな愛の快楽よりもすぐれているからである(視覚などによる愛、たとえばひと目惚れなどをいうのであろう)。
学識ある人間にとっては、本章で交悦の問題についてのべた程度で十分だが、無知な人々の蒙《もう》をひらくために、以下さらに詳しく論述しよう。
第二章 抱擁について
性的結合を扱うカーマ・シャストラ(性典)のこの部分もまた、〈六十四〉(チャトゥシュシャシュティ)と呼ばれている。古代の著作家のなかにはその部分に六十四章がふくまれているため、そう呼ばれるのだと言う者もあり、またなかには、この部分の作者がパンチャラという人であり、リグ・ヴェダ(詩篇吠陀)の中の六十四篇の詩から成るダシャタパという部分を口述した人もパンチャラという名前であるところから、リグ・ヴェダをたたえてこの部分が〈六十四〉と名付けられたという意見を持つ者もある。
いっぽうバブーラヴィアの門弟たちは、この部分では八つの項目、すなわち抱擁、接吻、爪または指による触傷、歯咬、横臥、さまざまな漏声、男の役割の演じ方、口淫《アウパリシュタカ》が扱われていて、それぞれの項目がさらに八種類ずつあるところから、八かける八で〈六十四〉と呼ばれるのだと主張している。
けれども、ヴァーツヤーヤナは、この部分にはまた殴打、叫声、交悦中の男性の動作、いろいろな交会その他の項目が含まれているから、〈六十四〉という名称は偶然にすぎないと主張している。たとえば七葉でもないのにサプタパルナつまり七葉樹といったり、五色でもないのにパンチャヴァルナー(五色米)の供物と言ったりするたぐいである。
ともあれ、ここでは〈六十四〉の部分が論題になるわけで、まず抱擁が最初の題目になっているので、つぎにこれを考察したい。
一体となった男女の相互の愛情を表わす抱擁には、接触、貫通、摩擦、圧迫の四種があり、それぞれの場合の動作はこれを表示する言葉の意味によって明らかである。
一 接触
男がなんらかの口実をもうけて女の前または横に立ち、体を相手のそれに触れあわせるとき、それは〈接触抱擁〉と呼ばれる。
二 貫通
人気のない場所で女が落とし物を拾うようなそぶりをして腰をかがめ、坐るか立つかしている男を自分の乳房でいわば貫通するように強く触れ、いっぽう男がその乳房を握りしめるとき、それは〈貫通抱擁〉と呼ばれる。
以上ふたつの抱擁は、まだ率直に話しあうほど親しくない男女のあいだでのみ行なわれる。
三 摩擦
恋人同士が暗がり、人出の多い場所、あるいはさびしい場所などをゆっくり散歩しながら、おたがいの体をこすりあわせるとき、それは〈摩擦抱擁〉と呼ばれる。
四 圧迫
〈摩擦抱擁〉の場合に、いっぽうが相手の体を壁または柱に強く押しつけるとき、それは〈圧迫抱擁〉と呼ばれる。このふたつはおたがいの気持ちを知りぬいている男女に特有なものである。
交会のさいには、つぎの四種の抱擁が利用される。
一 ジャタヴェシュティタカ(つる草の纏蔓《てんまん》)
女性が立木にからむつる草のように男性にからみつき、接吻の欲望に燃えて男の顔を自分のそれにひきよせ、ちゅっ、ちゅっという軽い音をたてながら、優しく男性のほうを眺めるとき、それは〈つる草の纏蔓《てんまん》のごとき抱擁〉と呼ばれる。
二 ヴリクシャディールダーカ(木登り)
女性が片足を恋人の足に、もういっぽうの足を相手の腿《もも》の上におき、片腕を背中にまわして、もういっぽうの腕を肩にかけ、歌うような甘え声を軽く発しながら、接吻を求めて、いわば男の体によじのぼりたがるとき、それは〈木登り〉のごとき抱擁と呼ばれる。
以上の二種の抱擁は恋人が立っている場合に行なわれる。
三 ティラ・タンドゥラカ(ごまと米の混合)
恋人たちがベッドに横たわり、いっぽうの腕と腿が相手の腕と腿にすっぽり包みこまれて、強い摩擦を受けるほど激しく抱きあうとき、それは〈ゴマと米の混ぜあわせ型抱擁〉と呼ばれる。
四 クシラニラカ(乳と水)
男女が深く愛しあっており、女が男の膝、男の前、またはベッドの上に坐って、苦痛など忘れておたがいの体の中にめりこもうとするかのようにきつく抱きあうとき、それは〈乳水型の抱擁〉と呼ばれる。
以上ふたつは性交のときに行なわれる抱擁である。
バヴーラヴィアは以上八種の抱擁について述べている。
さらにスヴァルナナバーは、体の各部分による四種の抱擁をあげている。
一 太腿による抱擁
恋人の一方が相手の片腿または両腿を自分の腿にはさんで強くしめつけるとき、それは〈太腿による抱擁〉と呼ばれる。
二 ジャグハナ、つまり下腹部による抱擁
男が女の下腹部を自分のそれに強く押しつけ、相手にのしかかって爪や指でひっかいたり、咬んだり、軽く打ったり、接吻したり、女の髪をばらばらにといたりするとき、それは〈下腹部による抱擁〉と呼ばれる。
三 胸による抱擁
男が女の乳房に胸を押しつけるとき、それは〈胸による抱擁〉と呼ばれる。
四 額による抱擁
恋人同士が唇や目や額をこすりあわせるとき、それは〈額による抱擁〉と呼ばれる。
マッサージも体に手を触れるから抱擁の一種だと主張する人もいる。けれども、ヴァーツヤーヤナは、マッサージは行なわれる時も目的も性格もちがうから、抱擁のなかに含めることはできないとしている。
抱擁についてもつぎのような一節がある。
「抱擁は、人がそれについて質問し、話を聞き、みずから語るとき、享楽の欲望を生む性質をそなえている。カーマ・シャストラに述べられていない抱擁も、それが愛情や情熱をたかめるものならば、性交のときに実行すべきである。シャストラの教えは男性の欲望が普通の場合にのみあてはまるもので、いったん愛の車輪がまわりはじめたら、あとはシャストラも掟もない」
第三章 接吻について
抱擁、接吻、爪または指による圧迫、もしくは触傷などには一定の順序やきまりがあるわけでなく、原則として性交前に行なわれるいっぽう、軽い殴打や発声は性交後に行なわれる、と説く人がいる。だが、ヴァーツヤーヤナは、愛は時やきまりなどを気にしないものだから、いつなにを行なってもいっこうにさしつかえないと考える。
最初の性交の場合は、接吻をはじめ上述の行為をほどほどにしておかねばならないし、あまり時間をかけずに、しかもひとつずつ交互に行なうがよい。けれども、二度めからはいくら激しく長時間つづけてもかまわないし、愛情をたかめる目的で全部を同時に行なってもよい。
接吻の対象となる部分には額、目、頬、のど、胸、乳房、唇、口腔などがある。さらにラット地方の人々は腿のつけ根、腕、臍《へそ》などにも接吻を行なう。しかし、ヴァーツヤーヤナは、接吻は愛情が激烈であるために、そして地方地方の習慣で、うえに述べたような部分に行なわれるが、万人が接吻を行なうのは適切でないと考えている。
ところで、若い娘の場合には以下の三種類の接吻がある。
一 形式接吻
処女が恋人の唇に自分の唇を重ねるだけで、自分からはなにもしない場合、それは〈形式接吻〉と呼ばれる。
二 鼓動接吻
処女が羞恥心をわずかに払いのけて、自分の口中にさしこまれた唇に触れることを望み、そのために下唇は動かすが、上唇は動かさない場合、それは〈鼓動接吻〉と呼ばれる。
三 接触接吻
処女が舌を使って恋人の唇を探り、自分は目を閉じて両手で相手の目もおおいいかくすとき、それは〈接触接吻〉と呼ばれる。
このほか以下の四種の接吻をあげている人もある。
一 直線接吻
ふたりの唇が一直線に触れあう場合、それは〈直線接吻〉と呼ばれる。
二 傾斜接吻
おたがいに顔を傾け、傾けたまま接吻が行なわれれば、〈傾斜接吻〉と呼ばれる。
三 上向接吻
いっぽうが相手の頭や顎をつかまえて顔を上向けにして、接吻が行なわれると、〈上向接吻〉と呼ばれる。
四 圧迫接吻
最後に、下唇を強く圧迫する場合、〈圧迫接吻〉と呼ばれる。
このほか〈強圧迫接吻〉と呼ばれる五番めの接吻がある。二本の指のあいだに下唇をとらえ、舌で触れたあと、唇で強い圧迫を加えるのがそれである。
接吻するときには、どちらが先に相手の唇をとらえるかについて賭けるのもよい。女が負けた場合は、泣くふりをして手で恋人を払いのけ、彼に背をむけて「もう一度賭けましょう」とすねてみせるべきである。二度めも負けたら、さらに悲しそうな顔をし、恋人が警戒をゆるめるか眠るかしたら、彼の下唇をおさえて、逃がさないように歯でくわえる。それから大声で笑い、彼をあざけり、踊りまわり、言いたいほうだいの冗談を言い、眉を動かし、目をくりくりっと動かす。接吻の場合の賭けと競争は以上のとおりだが、これを圧迫、爪または指による圧迫、またはひっ掻き、愛咬、軽い殴打などに応用してもよい。ただし、これはきわめて情熱的な男女の遊びである。
男が女の上唇に接吻し、女が男の下唇に接吻するとき、それは〈上唇の接吻〉と呼ばれる。
いっぽうが相手の両唇をくわえこむとき、それは〈しめつけ接吻〉と呼ばれる。けれども、女がこの接吻をするときは、口ひげのない男にかぎられる。この接吻でいっぽうが舌で相手の歯や舌や口蓋に触れる場合、それは〈舌戦《ぜっせん》〉と呼ばれる。同じようにして相手の口に歯を押しつける方法もある。
接吻にはそれを行なう体の部分によって、おだやかな接吻、きつい接吻、押しつける接吻、軽い接吻の四種類がある。接吻する場所がちがえばそのやり方もちがわねばならない。
女が恋人の寝顔を眺めながら、自分の気持や欲望を知らせるために行なう接吻は、〈愛をかきたてる接吻〉と呼ばれる。
恋人が仕事をしているとき、彼女と争っているとき、ほかのことに気をとられているときに、自分のほうに関心をひこうとしてする接吻は〈誘いの接吻〉と呼ばれる。
男が夜おそく帰宅して、欲望を知らせるために愛する女にする接吻を〈目ざまし接吻〉と呼ぶ。このような場合、女は最初眠っているふりをして男の気持をたしかめ、彼に尊敬させるよう仕向けねばならない。
鏡や水面や壁にうつった愛する女の姿に接吻するとき、それは〈意思表示の接吻〉と呼ばれる。
愛する人の前で膝にのせた子供や、絵や彫刻に接吻するとき、それは〈身がわり接吻〉と呼ばれる。
夜、劇場やカストの集会で、男が女に近づいて、女が立っている場合は手の指に、坐っている場合は足の指に接吻する場合、また、恋人の体をもんでいる女が彼の情熱をかきたてるために腿や足の親指に接吻する場合、それは〈挑発接吻〉と呼ばれる。
接吻に関してもつぎのような諺がある。
「恋人同士のあいだではなにかしてもらったら、かならずお返しをしなければならない。女に接吻されたら接吻をかえし、軽く打たれたら打ちかえすがよい」
第四章 爪による圧迫、またはしるし、またはひっ掻きについて
愛情がたかぶると、相手の体に爪をたてたり、ひっ掻いたりすることがあるが、それはつぎのような場合に、つまり、最初の訪問のとき、旅立ちと旅から帰ったとき、怒った恋人と和解したとき、女が酔っているときなどに行なわれる。
けれども、爪をたてるのはあまり一般的でなく、極度に情熱的な人たちだけにかぎられている。愛咬とともに、それによって快感を得る人々によって、行なわれるわけである。
爪による圧迫には、それによってできる爪痕《つめあと》に応じて音響型、半月型、円型、直線型、虎爪型、孔雀《くじゃく》の爪型、兎の足跡型、青い蓮の葉型の、八つの種類がある。
爪で圧迫さるべき部分は腋の下、喉、胸、唇、下腹部、太腿などである。しかし、スヴァルナナバーは、情熱がたかまった場合は、どこに爪痕をしるしてもかまわないという意見をいだいている。
よい爪の条件としては、色がさえ、きれいにととのい、清潔で、無きずで、表面に丸味をおび、やわらかく、見た目に艶《つめ》がなければならない。爪には大きさによって大、中、小の三種がある。
大爪は手を美しく見せ、女性の心を惹きつける。ベンガル人たちの爪がそれである。
小爪はさまざまな方法で利用されるが、快感を与える目的にのみ使用されるべきである。南部の人々がこの爪を持っている。
大小双方の美点を兼ねそなえた中爪は、マハラシュトラ地方の人々に見られる。
一 音響型
顎、胸、下唇、下腹部などを、爪痕は残らないが、体毛が逆立って、かすかな音を発する……ただし爪自体は音をたてない……程度に軽く圧迫するのを、〈爪による音響、または圧迫〉という。この方法は処女の体をもみながら、髪の毛をかきむしって彼女を困らせ、驚ろかせようとするときに行なわれる。
二 半月型
首や乳房の上に加えられる、湾曲《わんきょく》した爪痕は〈半月型〉と呼ばれる。
三 円型
半月型をふたつ向いあわせにしるせば〈円型〉となる。この爪痕はふつう臍の上、臀部《でんぶ》の周辺の小さなくぼみ、腿のつけ根などにしるされる。
四 直線型
体のどこにつけてもよい、短い線型の痕は〈直線型〉と呼ばれる。
五 虎爪型
同じ線を曲げて胸につけた痕を〈虎爪型〉という。
六 孔雀の爪型
曲線型の痕を五本の指で胸につけたものを〈孔雀の爪型〉という。この印は人に見せて自慢するためのものである。というのも、これを美しくしるすには非常な熟練を要するからである。
七 兎の足跡型
五つの印を乳首のまわりにつけたものが〈兎の足跡型〉である。
八 青い蓮の葉型
胸または腰に青い蓮の葉のような形に配した印が〈青い蓮の葉型〉である。
旅立ちの前に胸または太腿につけた印は〈思い出の印〉と呼ばれる。この場合は密着した三本ないし四本の線を刻みつける。
爪痕についての説明はこれで終わる。爪痕の種類はこのほかにもいろいろあって、古人も言うように、人間の技巧が無数であるごとく(爪痕の技巧は万人が知っている)爪痕の種類もまた無数である。そして、爪痕は愛とは別個のものだから、どれほどの種類があるかを正確に知ることはだれにもできない。ヴャーツヤーヤナによれば、その理由は愛には変化が必要なため、さまざまな方法によって愛が作られなければならないからだという。さまざまな方法に通じた娼婦が求められるのもこのためである。弓術のようなスポーツにさえ変化が求められるとしたら、愛技により多くの変化が求められるのは当然である。
既婚婦人には爪痕をつけてはならないが、思い出と愛情を刺激するため、秘密の場所に特別な印をつけることは許される。
これに関してもつぎのような諺がある。
「女が自分の体の秘密の場所にしるされた爪痕を見るとき、たとえ時間がたってそれが消えかかっていても、愛がふたたびよみがえる。愛の交りを結んだ人を思い出させる爪痕がないと、長いあいだ性交を行なわない場合と同じように、愛は衰えてしまう」
遠くから若い女の乳房にしるされた爪痕を見れば、見知らぬ男の心にも彼女に対する愛情と尊敬の念が湧いてくる。
また、体の一部に爪痕や歯型をつけた男を見れば、どれほど志操堅固な女でも気持が動揺する。ひと口で言えば、爪痕や歯型ほど愛情をかきたてるものはない。
第五章 愛咬および、各地の女に用いるべき技巧について
接吻の対象となる場所は、上唇と口腔と目をのぞけば、すべて愛咬を行なうことのできる場所でもある。
良質の歯はつぎのような条件をそなえていなければならない。歯並みが揃っていて、白く輝き、染めることが可能で、一本も欠けていず、先端がとがっていることなどである。
反対に質の悪い歯とは、不恰好で、歯ぐきからとび出し、不揃いで、もろく、大きくて、ぐらつきやすいものをいう。
愛咬にはつぎのような種類がある。
一 秘咬
咬まれた部分の肌がくっきり赤くなっているのを〈秘咬〉という。
二 脹咬
まん中が腫れあがっているのを〈脹咬〉という。
三 点咬
肌の一点を上下二本の歯だけで咬んだものを〈点咬〉という。
四 点線咬
肌の一部を全部の歯で咬んだものを〈点線咬〉という。
五 珊瑚《さんご》宝石咬
歯と唇で咬んだものを〈珊瑚宝石咬〉という。唇の痕が珊瑚、歯の痕が宝石である。
六 宝石鎖咬
全部の歯で咬んだものを〈宝石鎖咬〉という。
七 乱雲咬
歯と歯のあいだに隙間があるため、でこぼこの円型の歯型が残されたものを〈乱雲咬〉という。これは乳房に行なう。
八 猪咬
密着した幅の広い歯型の列で、列のあいだが赤くなっているものを〈猪咬〉という。これは乳房と肩に行なう。最後のふたつは気性の激しい人に特有の愛咬である。
〈秘咬〉〈脹咬〉〈点咬〉は下唇に、頬には〈脹咬〉と〈珊瑚宝石咬〉が行なわれる。接吻、爪掻き、愛咬はすべて左頬に行なわれるから、頬という場合は左頬の意味である。〈点線咬〉も〈宝石鎖咬〉も腋の下、太腿のつけ根に行なわれるが、〈点線咬〉だけは額と太腿にも行なわれる。
愛する女が身につけている額飾り、耳飾り、花束、きんまの葉、タマラの葉などに爪痕、歯型をつけるのは、彼女と寝たいという欲望の表現である。
さまざまな愛咬の説明をこれで終わる。
***
情事に際して、男は女の出身地に応じた喜ばせ方をしなければならない。
中央部(ガンジスとジュムナのあいだ)出身の女は気位が高く、不快な行為に慣れていないから、爪痕や歯型をつけられるのを好まない。
バリーカ地方の女は殴りつければ、言うことをきく。
アヴァンティカの女は不潔な行為を好み、行儀がよくない。
マハラシュトラの女は六十四芸の実行を好み、低くしゃがれた声で話し、相手からもそういう声で話しかけられるのを喜ぶ。そして性欲がきわめて旺盛である。
パタリプトラ(現代のパトナ)の女はマハラシュトラの女と同じだが、欲望をこっそり口にする点だけがちがう。
ドラヴィダ地方の女は性交のさいにいくら摩擦し、圧迫を加えても、なかなか愛液を出さない。つまり性行為中、反応がおそいのである。
ヴァナヴァシの女は適度に情熱的で、あらゆる快楽を好む。肌をあらわにすることを好まず、低い、下品な、しゃがれた声を発する人間を軽蔑する。
アヴァンティの女は接吻や爪の印や愛咬を毛嫌いするが、いろいろな種類の交悦を好む。
マルクの女は抱擁と接吻を好むが、爪や歯などによる傷跡を好まず、殴れば、おとなしく言うことをきく。
アブヒラやインダスや五河地方(つまりパンジャブ地方)の女は、口淫《アウパリシュタカ》によってものにすることができる。
アパラティカの女はきわめて情熱的で、ゆっくり〈シーッ〉という声を発する。
ラット地方の女はより欲望が強く、やはり〈シーッ〉という声を発する。
ストリ・ラージャとコショラ(ウーデ)地方の女は欲望が強く、愛液の量も多いが、そのために媚薬を用いることを好む。
アウドラ地方の女は体がしなやかで享楽向きであり、みずからも官能の喜びを好む。
ガンダの女は体つきがきゃしゃで、やさしい話し方をする。
スヴァルナナバーによれば、個人の好みは一地方全体の好みよりも重要であるから、その場合はかならずしも地方的特性に従う必要はないという。一地方のさまざまな快楽、衣裳、スポーツがいつのまにか他の地方へ移入されることがあるが、その場合には本来その地方に属するものとみなすべきである。
うえに述べた抱擁や接吻などのうち、欲望をたかめる行為をはじめに行ない、楽しみや変化のためだけの行為はあとまわしにすべきである。
この点についてもつぎのような諺がある。
「男が女を強く咬んだら、女は腹をたてて二倍の強さでお返しをしなければならない。〈点咬〉には〈点線咬〉で、〈点線咬〉には〈乱雲咬〉をもって報いる。そして、女がひどく腹を立てた場合は、ただちに愛のいさかいをはじめるがよい。このようなとき女は恋人の髪の毛をつかんで顔を下向きにし、下唇に接吻する。やがて愛に酔って陶然としたら、目を閉じて男の体のさまざまな部分を咬む。昼間、人目の多い場所で恋人が彼女につけられた痕を見せつけたら、彼女はそれを見て微笑を浮かべ、彼をとがめるように顔をそむけると同時に、怒ったような顔をして彼につけられた自分の体の痕も見せつけるべきである。このように男女がおたがいの気に入るようにふるまえば、彼らの愛情は百年たっても衰えることがない」
第六章 態位と交悦の種類について
〈高結合〉の場合には、ムリギ(鹿女)はヨニを拡げる姿勢で横たわらなければならないし、〈低結合〉の場合は、ハスティニ(象女)はヨニをひきしめる姿勢をとらなければならない。だが、〈等結合〉の場合は正常位のままでよい。上述したムリギとハスティニに関する事柄はヴァダワ(馬女)の場合にもあてはまる。〈低結合〉の場合、女性はすみやかに欲望をみたすために媚薬を用いなければならない。
鹿女のとるべき態位にはつぎの三つがある。
一 広開位
頭をさげ、腹部を持ちあげるのを〈広開位〉という。この場合男性は挿入を容易にするため軟膏を用いる。
二 高開位
腿を高くあげて、大きく開いて性行為にはいる場合は〈高開位〉という。
三 インドラ女の態位
膝を折り、腿を腹部に重ねながら横臥して行為を行なう場合は〈インドラ女位〉という。これはかなり熟練を要する態位で、〈高結合〉の場合にも有益である。
〈閉塞位〉は〈低結合〉に、また〈圧迫位〉〈交叉位〉〈牝馬位〉などとともに〈最低結合〉にも利用される。
男女ともに両脚を相手のそれの上にまっすぐにのばすのが〈閉塞位〉であり、男女の横たわり方によって横臥型と仰臥型の二種類がある。横臥型の場合、男はかならず左を下にして、女には右脇を下にした姿勢をとらせる。この原則はどんな女と寝る場合にも守らなければならない。
閉塞位による性交がはじまってから、女が腿で相手を圧迫するのが〈圧迫位〉である。
女性が片腿を男性の腿に交叉させるのは〈交叉位〉である。女性が挿入されたリンガをヨニで強くとらえるのは〈牝馬位〉である。これはかなり修練を要する態位で主としてアンドラ地方の女によって行なわれる。
以上はバブーラヴィアの述べている態位だが、スヴァルナナバーはさらにつぎのような態位をつけ加えている。
女性が両腿を直立させるのを〈上昇位〉という。
女性が両脚を持ちあげて男性の肩にのせるのを〈高開位〉という。
脚を折り曲げて男性の胸に押しつけるのを〈圧迫位〉という。
〈圧迫位〉から片脚のみ、まっすぐにのばしたのを〈半圧迫位〉という。
女性が片脚を男性の肩にのせ、片脚をまっすぐにのばし、これを左右交互にくりかえすのを〈竹割り位〉という。
女性が片脚を男性の頭にのせ、片脚をまっすぐにのばすのを〈釘打ち位〉という。これは修練を必要とする。
女性が両脚を折り曲げて腹部に密着させるのを〈蟹《かに》位〉という。
両腿を上下に重ねるのを〈密閉位〉という。
脛を上下に重ねるのを〈蓮型位〉という。
性交の途中で男性が向きを変えて、リンガを挿入したまま女体を鑑賞し、いっぽう女性は男性の背中を抱擁しつづけるのを〈回転位〉といい、これは熟練を要する。
スヴァルナナバーは、横臥位、坐位、立位などのさまざまな性交法を練習するには、水中がよいと述べている。なぜなら、水中では簡単に練習できるからである。けれども、ヴァーツヤーヤナは、水中の性交は宗教の掟で禁じられているから、穏当を欠くと言って反対している。
男性が壁によりかかって前に組み合わせた手に女性をのせ、女性は相手の首に抱きつき、腰に太腿を押しつけて、足で壁をふんばりながら体を動かすのを、〈浮上位〉という。
女性が四つばいになって男性が牡牛のようにその上に覆いかぶさるのを〈牝牛位〉という。この場合男性は女性の胸に対して行なったすべての愛技を背中にも行なわなければならない。
これと同じ方法で犬、山羊、鹿、ロバ、猫、虎、象、猪、馬などの交接をまねることができる。この場合それぞれの動物になりきることによって、彼らの特徴を現わさなければならない。
男が同じ程度に自分を愛しているふたりの女性と同時に寝るとき、それは〈複合交〉と呼ばれる。
多数の女と同時に交わるのを〈牝牛群交〉という。
水中交または象群交(牡象が多数の牝象と交わるときはかならず水中で行なうという)、山羊群交、鹿群交などを行なう場合は、それぞれの動物をまねるわけである。
グラマネリ地方には、多数の若者たちがそのうちのひとりと結婚している女を交替で、あるいは同時に、楽しむ風習がある。たとえば、ひとりが彼女をおさえ、ふたりめが挿入し、三人めは彼女の口を利用し、四人めは腹部を占領するといったぐあいである。こうして交互に女体のいくつかの部分を楽しむわけである。
数人の男とひとりの娼婦が一緒にいる場合も、これと同じやり方が可能であり、逆に王の後宮の女たちがたまたまひとりの男を手に入れた場合も、同じ方法がとられる。
南部諸地方ではアヌス交も行なわれる。これは〈下等性交〉と呼ばれている。
交会の種類についてはこれで終わりだが、例によって、つぎのような諺がある。
「器用な人は獣や鳥を見習って変化に富んだ交会を行なうべきである。それぞれの地方の習慣や個人の好みに従って行なわれる変化に富んだ性行為は、女性の心に愛と友情と尊敬を生じさせる」
第七章 愛打の種類とその適切な音について
愛のさまざまなくいちがいと、ともすれば衝突を招きやすい傾向があるため、性交を争いにたとえてもよい。情熱に駆られて愛打を加えるところはもちろん肉体だが、その肉体のなかでも特殊な部分はつぎのとおりである。
肩
頭
乳房の谷間
背中
下腹部《ジャガーナ》
脇腹
打ち方には四種類ある。
手の甲打ち
指打ち(少しまげて)
拳《こぶし》打ち
平用打ち
愛打の苦痛によって音が生ずるが、これには種々あって、また、つぎの八種の叫び声も生じる。
ヒンという音
とどろく音
喉を鳴らす音
泣き声
プーという音
パッという音
スーという音
プラッという音
このほか〈おかあさん〉という意味の言葉や、〈やめて〉〈もうたくさん〉〈許して〉〈痛い〉〈すばらしいわ〉などの意味を表わす言葉があり、さらにカッコウ、鳩、青鳩、鸚鵡《おうむ》、蜂、雀、フラミンゴ、家鴨《あひる》、鶉《うずら》などの鳴き声も時おりまねされる。
拳打ちは膝に坐っている女の背中に行なわれるべきで、女はそれに対して打返し、怒ったように罵《ののし》りながら、喉を鳴らしたり、泣き声をたてたりしなければならない。交会中には乳房の谷間を手の甲で、はじめはゆっくりと、興奮するに従って速度を増しながら、終わるまで、叩きつづける。
このときに女はヒンという音やほかの音声を発するかもしれない。交互にくりかえすか、ひとつだけにするかは、習慣によるわけである。男性がパッという音を発しながら、軽く折りまげた指で女の頭を叩くとき、それはプラスリタカと呼ばれる。つまり、この語は少し折りまげた指先きで叩くことを意味している。この場合にふさわしい女の声は喉を鳴らす音、口内で発するパッまたはプーなどの音である。
また、性交の終わりには溜息の音やすすり泣きがふさわしい。パッという音は竹の割れる音をまねたものであり、プーという音は水に物が落ちる音である。接吻その他の愛技がはじまったら、女性はつねにスー音(摩擦音)で答えなければならない。女性が愛打に慣れていないときは、興奮がたかまると、溜息、すすり泣き、どなり声などの合間に、絶えず「やめて」「もうたくさん」「許して」「おとうさん」「おかあさん」などの言葉を口にする。交会の終わりに近づいたら、女性の乳房や下腹部や脇腹などを掌で力強く圧迫し、最後までそれをつづけねばならない。そして、鶉《うずら》や家鴨《あひる》のような声を発すべきである。
愛打についてつぎのような諺がある。
「男らしさは荒々しさと性急さによって代表され、いっぽう女性の特徴は弱々しさ、やさしさ、感じやすさ、いやなことから目をそむける性質だといわれる。興奮に駆られたり、一風変わった習性を発揮したりすると、時には逆効果を招くこともある。だが、それは長つづきはせず、けっきょくは自然な状態にもどる」
手を使った四種類の愛打とともに、胸にくさび、頭に鋏《はさみ》、頬に錐《きり》、乳房と脇腹に釘抜きなどで刺激を加える方法もある。つまり全部で八種類の方法が考えられる。しかし器具を使うのは南部地方の人たちだけで、その地方の女性の胸にはありありとその痕跡が残っている。これは地方的な特色であり、ヴァーツヤーヤナはそうした慣行は苦痛をともない、野蛮で、下劣だから、ぜんぜん見習う値打ちがないと述べている。
このように一地方の習慣をどこまでもとり入れてよいというものではなく、また、一般に行なわれている習慣でも、ゆきすぎは避けなければならない。度をすごした危険な例につぎのようなものがある。
パンチャラ族の王は交会中にくさびを用いてマドハヴァセナという娼婦を打ち殺してしまった。クンタラスの王シャタカルニ・シャタヴァハナは鋏《はさみ》を用いて愛する妃マラヤヴァティの命を奪い、手が不具だったナラデヴァは誤って錐で踊り子を失明させた。
これに関してもつぎのような諺がある。
「愛打については、何種類あると断定することもできなければ、これといった定則もない。いったん交悦がはじまれば、あとは情熱だけで当事者ふたりのいっさいの愛技が生まれる」
こうした情熱的な行為や、愛の身ぶりまたは動作は、性交中のはずみで起こるもので、これといった定義もなく、夢のようにとらえどころのないものである。興奮した馬は穴や溝や柱も目に入らず、ただ盲目的に走りつづけるが、これと同じに愛する男女が性交中に情熱で目がくらむと、つい極端に走りがちである。だから性愛の道に通じ、自分の体力と女性のやさしさ、激しさ、体力を知っている人間は、その点をよくわきまえて行動しなければならない。さまざまな享楽方法はいつだれにでも行なってもよいというものではなく、適当な時に、適切な土地や場所でのみ利用されるべきである。
第八章 男性の役割を演じる女。男性の任務について
恋人が満足できないまま、絶え間ない交悦のために疲れていることがわかったら、女は彼の許しを得てあお向けに寝かせ、男の役割を演じて、彼に手を貸してやらねばならない。
また、相手の好奇心や自分のもの好きを満足させるために、そうしてもよい。
これにはふたとおりのやり方がある。ひとつは交会中に快感を妨げないように、くるっと体のむきを変えて、男の上に乗る方法、もうひとつは最初から男の役割を演じる方法である。このとき女は髪に花をさし、激しい息づかいで微笑をとぎらせながら、男の胸に乳房を押しつけ、何度も頭をさげて、いつも男がやるように愛打を返し、「わたしはあなたの下敷きになって激しい性交で疲れてしまったから、今度はあなたを下敷きにするわ」とからかってやるべきである。それから、恥ずかしそうに疲労を訴え、もうやめたいと言い出すべきである。そんなふうにして彼女はすぐあとで述べるような男の役割を演じなければならない。
男が女を喜ばせるためになにごとを行なうにせよ、それは男の任務と呼ばれるが、それにはつぎのようなものがある。
女が男のベッドに横たわって彼の言葉に心を奪われているあいだに、彼女の下着の紐をとき、彼女がいけないと言い出したら、接吻で口を封じなければならない。やがてリンガが勃起したら、両手で相手の体のいろいろな部分を愛撫する。女が恥ずかしがれば、また、はじめての同衾《どうきん》ならば、おそらくは固く閉じているはずの女の腿のあいだに両手を割りこませるがよい。相手が年若い娘の場合は、まず最初に、おそらく両手で覆いかくしているはずの乳房に、それから腋の下と首に両手で触れるがよい。だが、相手が経験を積んだ女の場合は、双方にとって好ましく、その場にふさわしいことなら、なにをしてもよい。そのあと女の髪の毛をつかみ、接吻のために指先で顎《あご》をつかまえる。そのとき、若い娘であれば恥ずかしがって目を閉じるだろう。いずれにせよ、男は女の身のこなしから、交悦中になにが女を喜ばせるかを察知しなければならない。
スヴァルナナバーは言っている。男は交会中に自分のもっとも好むことを行ないながらも、相手が目をむける肉体の部分に必ず圧迫を加えてやらなければならないと。
女性の快感と満足のしるしはつぎのとおりである。体が弛緩し、目を閉じ、いっさいの恥じらいを棄て、ふたつの器官をできるだけ密着させたがる。いっぽう、快感が少なく、満足できないしるしはつぎのとおりである。手をふり、男を起きあがらせずに、うちしおれ、男に咬みついたり、蹴ったりして、男が終わってからもなお体を動かしつづける。このようなとき、男は交悦にはいるまえに手と指でヨニを摩擦し(象が鼻でものをなでるように)、柔軟になってから、リンガを挿入する。
男のなすべき行為にはつぎのようなものがある。
一 嵌入《かんにゅう》
両性器が正しく直結する場合、〈性器の嵌入〉と呼ばれる。
二 摩擦または撹拌《かくはん》
リンガを手で持ち、ヨニの中で回転させる場合、〈撹枠〉という。
三 貫通
ヨニをさげて、その上端にリンガを嵌入する場合、〈貫通〉という。
四 摩擦
同様にヨニの下部にこれを行なえば〈摩擦〉という。
五 圧迫
リンガを長時間ヨニに押しつける場合、〈圧迫〉という。
六 一撃
リンガをヨニからある程度引き離しておいて強く突入させる場合、〈一撃〉という。
七 猪の一撃
ヨニの一部だけをリンガで摩擦する場合、〈猪の一撃〉という。
八 牡牛の一撃
ヨニの両側を摩擦する場合、〈牡牛の一撃〉という。
九 雀のたわむれ
リンガをヨニに嵌入したまま、これを抜去せずに、何度も上下に動かせば〈雀のたわむれ〉と呼ばれる。これは交媾の終わりに行なわれる。
女が男の役割を演じるときには、上述の九つの行為のほかに、つぎのことをしなければならない。
一 やっとこ
女がリンガをヨニの中にとらえ、圧迫を加え、よくその状態に保つ場合、〈やっとこ〉と呼ばれる。
二 独楽《こま》
交悦中に車輪のように体を回転させる場含、〈独楽〉という。これは練習して学ぶほかはない。
三 回転
そうしたさいに男が腹部を持ちあげ、女が腹部をまわす場合、〈回転〉という。
女が疲れたら、男の額に自分のそれを重ねて、性器の結合をさまたげることなく休息し、疲れがなおったら、男が上位になって交媾を再開すべきである。
これについても、つぎのような諺がある。
「女は慎み深く、感情を外に表わさないものだが、いったん男の上にのれば、あらゆる愛情と欲望を露呈する。男は女の行為から彼女の気質や好みを読みとらなければならない。月経中の女、出産後間もない女、肥満した女は男の役割を演じてはならない」
第九章 口淫《アウパリシュタカ》について
宦官には二種類ある。男を装った宦官と女を装った宦官である。女を装った宦官は服装、話し方、身ぶり、やさしさ、はじらい、慎ましさ、当りのやわらかさなど、あらゆる点で女性のまねをする。女の中心部《ジャガーナ》で行なわれることを宦官は口中で行ない、これをアウパリシュタカと呼ぶ。彼らはこの種の交会から空想上の快楽と生計を得て、娼婦のような生活を営む。女を装った宦官についての記述はこれでおしまいである。
男装の宦官は欲望を外に現わさず、なにかやりたいと思うさいには、マッサージ師の生活を送る。彼らはマッサージを口実にしてマッサージしている男客の太腿を抱いてひき寄せ、それから腿のつけ根や中心部《ジャガーナ》に手を触れる。そして、相手のリンガが勃起していることがわかると、それを両手で握りしめて、相手がそういう状態になったことをからかう。相手が彼の意図を見抜いたのちもなおそ知らぬ顔をしているようだったら、自分からすすんで交媾にとりかかる。しかし、相手の男にそうするよう命令されるとすれば、彼はまず首を横にふって断わり、最後にやっと渋々承諾する。
宦官はつぎの八種の技巧を順に行なう。
一 形式交接
片手でリンガを持ち、これを口唇のあいだにおいて、口を動かす場合、〈形式交接〉と呼ばれる。
二 側咬
花のつぼみのようにすぼめた指でリンガの根元をおさえ、歯も使いながら、リンガの側面を唇で圧迫する場合、〈側咬〉という。
三 外圧
その先をせがまれて、閉じた唇でリンガの根元を圧迫し、あたかもこれを抜去するがごとく接吻する場合、〈外圧〉という。
四 内圧
さらに先を求められて、リンガを口中深く含んで、唇で圧迫し、つぎに、これをひき出す場合、〈内圧〉という。
五 接吻
リンガを片手で支えながら、下唇に接吻するように接吻する場合、〈接吻〉という。
六 摩擦
接吻のあと、いたるところ舌で触れる場合、〈摩擦〉という。
七 マンゴー吸い
このときその半分を口腔に含み、強く接吻しながら、吸う場合、〈マンゴー吸い〉という。
八 鵜呑み
相手の承諾を得てリンガをすっかり口腔に含み、さながら呑みこもうとするかのように、根元まで圧迫する場合、〈鵜呑み〉という。
宦官は上の行為がひとつおわるたびに、もうやめてほしいと言い出すが、それでも相手がつづいてもっとやれと言えば、彼は順を追ってこれを行なう。
アウパリシュタカは淫らな浮気女、侍女、召使い女など、つまり、マッサージによって生活し、だれとも結婚していない女たちによってもまた行なわれる。
|古代の賢者たち《アチャリア》は、このようなアウパリシュタカは卑しい行為で、聖典の教えに反するし、また、宦官や女の口腔にリンガを含ませると、体に害があるという理由で、それは人間ではなく、犬の行為だときめつけている。けれども、ヴァーツヤーヤナは、聖典の教えは娼婦のもとへ通うことを禁じておらず、既婚の女を相手にアウパリシュタカを行なうことを禁じているだけと言う。男性の肉体がこうむる障害について言えば、これは簡単になおすことができる。
東インドの男はアウパリシュタカを行なう女のもとへは通わない。
アヒチュハトラの男たちはこの種の女のもとに出入りするが、口腔に関するかぎり、何の交渉も持たない。
サケタ地方の男たちはこの種の女とあらゆる種類の口淫を行なうが、ナガラ地方の男たちはほかのことを全部やっても、それだけはやらない。
ジュムナ川南岸のシュラセナ地方の男たちは、どんなことでもためらわずに行なう。彼らに言わせれば、女は生まれつき不潔であり、その性格や純粋さや品行や約束ごとや話などはもともと信用がおけない。だからといって女を見限るのは正しくない。なぜなら女を純粋なものとみなす宗教上の掟が、インド人は牝牛や仔牛の口を不潔なものと考えるけれども、授乳の際の牛の乳首は不潔ではないと規定しているからである。それにまた、犬が触れた食べ物は不潔だが、狩猟中に鹿をつかまえた犬は清潔とみなされるし、カラスその他の鳥の餌は不潔だが、木の実をついばんで地に落とすときの鳥は清潔だと考えられている。同様に媾合《まぐわい》のさい接吻やその他を行なうときの女の口も清潔だと考えられる。さらに、ヴァーツヤーヤナは、性愛に関するかぎり、人はみなその地方の習慣と自分の好みに従って行動すべきだと考えている。
これに関してもつぎのような諺がある。
「男の召使いたちは主人を相手に口淫を行なう。これは親しい市民同士のあいだでも行なわれる。ハレムの女たちは欲望を感じると、おたがいのヨニを口で刺激しあうし、男のなかにも女に対してこれを行なう者がいる。その方法(ヨニの接吻)は口唇接吻から学ぶべきである。男女が逆方向に向かって、つまり相手の足のほうに頭を向けて横たわりながら行なう交合を〈カラスの交わり〉という」
そうしたことのために、自由で頭のよいりっぱな男を見捨てて、奴隷や象追いのような卑しい男に惹かれる娼婦もいる。学識あるブラーマン、国事を司どる大臣、声望家などはアウパリシュタカを、つまり口淫を行なってはならない。性典類《シャストラ》で認められているからといって、かならずしもそれを行なわなければならない理由はないし、要は特別な場合だけに行なえばよいのである。たとえば犬の肉は味がよく、栄養があり、医書によれば消化もよいからといって、賢者がこれを食べるべきだということにはならない。従って、場所と時と、さらに実行さるべき行為について考慮を払うと同時に、また、自分の性格や自分自身にとってそれが好ましいかどうかを考え、そのうえで状況に応じて実行してもさしつかえない。だが、結局こういったことは秘密に行なわれることだし、人間の心は移り気なものだから、だれが、いつ、どんな目的でなにをするかは知るよしもない。
第十章 交合のはじめと終わりについて、結合の種類と痴話げんか
市民は、花を飾り、香水をふりまいた寝室で、友人や召使いとともに、沐浴《もくよく》ののち正装に整えた女を迎え入れ、冷たい飲み物を存分にすすめてもてなさなければならない。それから女を自分の左に坐らせ、髪をなで、着物の裾と紐の結び目にさわりながら、右腕でやさしく抱きしめる。ついで四方山《よもやま》話に移り、卑猥なこと、ふつう人前では話せないようなことをそれとなく口にする。身ぶり入りで、またはなしで歌をうたい、楽器を奏で、芸について語り、おたがいに飲み物をすすめあう。やがて女が愛と欲望でうっとりしはじめたら、男は同席者に花や香油やきんまの葉などを与えて部屋から送り出し、ふたりきりになったところで、前章で述べたような行為にとりかかる。
これが媾合のはじまりである。結合が終わったら、ふたりは慎み深く、おたがいに顔をそむけながら別々に浴室へひきあげる。そのあと、それぞれの席についてきんまの葉を噛み、男は女の体に白檀《びゃくだん》油その他の香油を塗ってやる。それがすんだら左手で女を抱き、やさしい言葉をかけながら片手に握ったコップの水を飲ませてやるか、あるいは女が自分で飲むようすすめる。それから、砂糖菓子その他好みにあった物を食べ、果汁、スープ、薄粥《うすがゆ》、肉汁、シャーベット、水、マンゴーの果汁、砂糖入りレモン果汁、その他地方の好みに応じて、甘く口当りのよい飲み物で喉をうるおす。宮殿や邸宅のテラスに坐って、月明りの下で快い会話を楽しむのもよい。このとき、男は女に自分の膝を枕がわりに貸してやり、空に目を向けさせて、さまざまな星、つまり暁の明星や北極星や北斗七星や大熊座を教えてやらねばならない。
以上で交悦は終わりである。交媾にはつぎのような種類がある。
一 相愛交
まえからしばらくのあいだ愛しあっている男女が苦心|惨憺《さんたん》していっしょになるとき、どちらかが旅から帰ってきたとき、またはけんかして別れ別れになっていたふたりが和解したとき、その交悦は〈相愛交〉と呼ばれる。それはふたりの好みに従って、いつまででも好きなあいだ行なわれる。
二 後続愛交
まだ愛しあってまもない男女が、いっしょに同衾する場合、〈後続愛交〉と呼ばれる。
三 偽装愛交
男が接吻をはじめとする六十四種の方法で自分自身を興奮させて交合をつづけていく場合、または男女が実際はそれぞれほかの人を愛していながら結ばれる場合、それは〈偽装愛交〉と呼ばれる。これにはカーマ・シャストラ(性愛教典)に述べられたあらゆる方法が用いられなければならない。
四 代償愛交
男が交接のはじめから終わりまで、ほかの愛人のことを考えながら行なう場合、〈代償愛交〉という。
五 宦官愛交
自分より下の階層の水汲み女や召使い女などを相手に、単に欲望をしずめるために行なう場合、〈宦官的性交〉という。この場合外部的な接触や接吻や前技などはいっさい行なわれない。
六 欺瞞《ぎまん》交
娼婦と田舎者、市民と田舎女や僻地《へきち》の女との交渉を〈欺瞞の性交〉という。
七 自然愛交
相愛の男女のあいだで望み通りに行なわれる結合は〈自然愛交〉と呼ばれる。
以上で媾合の種類を終わる。
つぎは痴話げんかについて述べよう。
男を深く愛している女は、恋仇の名前が出たり、恋仇のことが話題にのぼったり、ついまちがって彼女の名前で呼ばれたりすることに我慢ができない。もしそういうことがあると激しいいさかいが持ちあがり、女は泣き叫び、怒り、髪をふり乱して男に打ってかかり、ベッドや椅子から転げ落ち、花輪や装身具を投げすてる。そんなとき男は彼女をなだめすかし、注意深く助け起こしてベッドに寝かせてやることによって和解するよう努力すべきである。けれども、女は男の言葉に耳をかさず、いよいよ腹を立てて、相手の髪をかきむしり、腕や頭や胸や背中などを二、三度蹴ってから、部屋の出口のほうへ進むがよい。それから、ダッタカの言葉によると、腹立たしげにドアのそばに坐って涙を流し、決して部屋の外へ出てはいけない。男から家出のかどで咎《とが》められるからである。しばらくして、男の和解の言葉やしぐさが最高調に達したら、彼を抱擁し、依然として恨みつらみを口にしながらも、同時に性交の欲望に燃えていることを相手にわからせなければならない。
恋人と争ったあとで自分の家にいるときは、男のところへいって、自分がどんなに腹を立てているかを見せてやってから戻るべきである。やがて男がヴィタ、ヴィドゥシャカ、ピタマルダなどをつかわして和解を求めてきたら、彼らといっしょに男の家へ戻り、その夜はともにすごすがよい。
痴話げんかについては以上で終わる。
結論として。
男はバブーラヴィアの説く六十四芸によって目的をとげ、第一級の女を手に入れることができる。たとえほかの点ではどれだけ話題が巧みでも、六十四芸に通じていなければ、教養ある人々の集まりで尊敬されない。逆に、ほかの知識はなくとも、六十四芸に通じてさえいれば、男女の集まりで中心人物となることができる。六十四芸が有識者や世故にたけた人や娼婦たちからも重視されていることを考えれば、だれしもそれに敬意を抱くのが当然である。六十四芸は人々に重視され、魅力的で、女の才色によりいっそう磨きをかけるものであるところから、アチャリアたちは女性にとって大切なものと言っている。六十四芸を身につけた男性は、自分の妻からも、他人の妻からも、娼婦からも愛される。
第三部 妻の獲得について
第一章 結婚について
聖典の教えにのっとって同じカストの処女と結婚した場合、その結果はダルマとアルタの獲得につながる。また子孫と親戚を作り、友人知己を増し、汚れない愛を獲得する結果にもなる。だから男は、生まれがよく、両親が健在で、自分より三歳以上年下の処女に愛情を注ぐべきである。娘は名門の出で財産もあり、親戚に有力者が多く、友人の多いのがよい。そのうえ、美人で気だてもよく、体のどこかに幸運の痣《あざ》があり、美しい髪と、大きすぎも小さすぎもせず、欠点も病気もない爪、歯、耳、目、乳房などを持っていなければならない。もちろん男のほうもまたこうした美質をそなえていなければならない。いずれにせよ、ゴータカムハーも言っているように、すでにほかの男と交わった娘(つまり非処女)を愛してはならない。それは非難されるべき行為だからである。
さて、うえに述べたような処女との結婚を実現するために、男性側の両親や親戚はそれ相当の努力をしなければならないし、双方の友人たちの協力も望ましい。友人たる者は今も将来も、娘を嫁にもらいたいと名乗り出る男たちの欠点を彼女の両親に知らせてやると同時に、先祖伝来のものであれ、親ゆずりのものであれ、彼らの美点、とりわけ娘の母親の気に入りそうな美点は、多少の誇張があってもほめあげてやらねばならない。友人たちのひとりは占星術師に化けて、花婿侯補の身にそなわるあらゆる吉兆幸運のしるしや、星まわりのよさ、太陽が黄道帯に入っためでたいしるし、縁起のよい星々や彼の体の幸運のしるしなどを花嫁側に知らせてやるべきである。また、ほかの連中は娘の母親に、実はお宅のお嬢さんよりもっといい縁談もあるのだが、と言って、彼女の対抗意識をあおりたてるべきである。
運勢、兆侯、それに周囲の人々の言葉が好ましければ、求婚者はためらわずに娘を妻として迎え、娘の親も惜しまず花嫁としてさし出すべきである。なぜなら、ゴータカムハーも言っているように、男は自分の好き勝手なときに結婚すべきではないからである。求婚されたときに眠っている女、泣いている女、家を出ていく女、またはほかの男と婚約している女などとは結婚はしてはいけない。
つぎのような女との結婚は避けたほうがよい。
箱入り娘
耳ざわりな名前を持つ女
鼻の低い女
鼻孔が天井を向いた女
男のような体つきの女
猫背の女
がにまたの女
額の突きでた女
頭の禿げた女
清潔を好まぬ女
ほかの男に汚された女
グルマ病にかかった女
どこか不具の女
すっかり思春期に達してしまった女
女友だち
自分の妹
さらに二十七星のいずれかと同じ名前を持つ女、木や川と同じ名前を持つ女も値打ちがないと考えられているし、rまたはlで終わる名前の女も同様である。だが、著作家のなかには、気に入った娘と結婚したときにのみ繁栄がもたらされる、だから、愛する少女以外の女と結婚すべきではないと言う者もある。
娘が適齢期に達したら、両親は彼女を美しく装わせて、人目につく場所へ出さなければならない。午後は毎日娘を美しく着飾らせ、化粧させて、付添女といっしょに遊びや祭祀《さいし》や結婚式などに送り出し、一種の商品だから、彼女を社交界で目に立つようにすべきである。また友人や親戚に伴われて求婚しにくる有望な男を快くもてなし、適当な口実をもうけて娘を着飾らせ、その男にひきあわせるべきである。あとは運を天にまかせて、はっきりした返事を聞く日どりを決める。こういう場合、娘の両親は訪問客に入浴と食事をすすめ、「何ごとも適当な時期に」と言い、その場で確答を求めたりせずに、とりきめは後日に持ちこすほうがよい。
こうしてその地方の習慣、または自分自身の望みに従って娘の承諾を得たら、男は聖典の教えに準じ、四種類の結婚のひとつに即応して娘と結婚すべきである。
結婚についてはこれで終わる。
この問題についても、つぎのような諺がある。
「他人の作りかけの詩を完成させるといったような社交上の楽しみとか、結婚、あるいはめでたい儀式などは身分のより高い、もしくはより低い人々とではなく、同じ身分の人々と行なうベきである。男が上流の娘と結婚すれば、妻とその親戚に対して召使いのごとく仕えねばならない。賢者はこういう縁組みを非難する。反対に下流の娘と結婚すれば、男は自分の親戚といっしょになって妻に威張りちらすようになるから、賢者はこれを低級な縁組みとよんでいる。夫と妻がたがいに喜びをわかちあい、双方の親戚が敬意をもって相手に接するような結婚こそ言葉のほんとうの意味で良縁というべきである。だから、男は結婚後頭があがらなくなるような高級な縁組みも、万人に非難される低級な縁組みもともに行なうべきでない」
第二章 娘に信頼される方法について
結婚後三日間は、夫婦は床に寝て性的快楽をさしひかえ、アルカリまたは塩味抜きの食事をしなければならない。つぎの一週間は、めでたい音楽を聞きながら入浴し、自らを飾り、いっしょに食事をとり、親戚や新婚の様子を見にやってくるかもしれない人々を十分にもてなすべきである。これはどのカストの場合もあてはまる。十日めには、夫は妻とふたりきりの部屋でやさしい言葉をかけてやり、相手に信頼感を植えつけなければならない。著作家のなかには妻をわがものにする目的で話しかけることを三日間禁じている者もあるが、バビーラヴィアの弟子たちは、三日間も無言のままですごせば、妻は柱のように無気力な夫に失望してがっかりし、彼を宦官として軽蔑しはじめるおそれもあると述べている。
いっぽうヴァーツヤーヤナは、夫は妻をわがものにして彼女に信頼感を植えつけねばならないが、最初は性的快楽を控えるべきだと言っている。女性は繊細な性情の持ち主だから最初はいたわりを必要とする。知り合ってまもない男に力ずくで求められると、時には突然、媾合《まぐわい》を憎むようになり、時には男性そのものを憎むようにもなりかねない。従って男はあくまでも女の気持に応じて接近し、だんだん相手の信頼感を増してゆけるような手だてを講ずべきである。その方法とは……まず最初に妻がもっとも好む形で抱擁する。なぜなら、最初の抱擁はそう長くつづかないからである。
はじめは上半身で妻と抱擁すべきである、というのは、そのほうが容易で簡単だからである。妻が一人前の女になりきっている場合、あるいはおたがいにかなりまえから知り合っている場合は、ランプの明かりのなかで抱擁してもよいが、知り合って間がないか、妻がまだ少女であれば、暗闇のなかで抱きしめるがよい。
妻が抱擁を受けいれたら、夫は〈タンブラ〉つまり、ねじった檳椰子《びんろうじ》の実か、きんまの葉を口に含ませてやる。彼女がいやがったら、ひざまずいて、なだめたり、すかしたり、おどしたりして無理にも口に含ませる。というのも、女はどんなにはじらったり、腹を立てたりしていても、男にひざまずかれては断わりきれないのが通則だからである。この〈タンブラ〉を与えるとき、夫は妻の唇に音をたてずにやさしい接吻をしなければならない。妻がそれを受けいれたら、夫は彼女の口を開かせるためにいろいろと質問をする。その場合、自分の知っていることでも知らないふりをして、しかも、簡単に答えられるような質問を選ばなければならない。妻が口を開かなかったら、彼女をこわがらせないようにやさしい態度でなんども同じ質問をくりかえす。それでもなお答えないときは、答えを要求してもよい。というのは、ゴータカムハーも言っているように「娘たちは男の言葉を一言も聞き洩らさないが、自分からは一言も口をきかないことがある」からである。
それほどまでに答えを求められたら、妻のほうとしてもうなずいたり、首を横にふったりして意思表示をすべきだが、夫とけんかをしている場合には、それさえしてはならない。夫に「わたしが欲しいか、愛しているか」とたずねられたら、しばらくは無言のままでいる。重ねて答えを求められたときはじめて、かすかにうなずいて、色よい返事をするのがよい。
夫が結婚前から妻と知り合いならば、自分に好意を持っていて、妻とも親しい女友だちをひとり招いて語りあうのがよい。このとき妻はかすかにうつむいて微笑を浮かべ、もし友だちが自分にかわって口に出しては言えないようなことまで言ってくれたら、こわい顔をして、それを否定する。友だちは新妻が恥ずかしがるようなことまで言って「彼女はこう言ってたわ」と念を押す。そうしたら妻は消え入るような声で「まあ、そんなことを言ったおぼえはないわ!」と打ち消し、時どき夫のほうにちらと視線を向ける。
結婚前から夫と親しい間柄のときは、無言のままタンブラ、香油、花輪など、夫が望むかもしれないものを彼のそばにおくか、彼の上着の胸にそれらを結びつけてやる。その間夫は妻の若々しい乳房に爪を押しつけて愛撫し、もし拒まれたら、「わたしを抱いてくれればやめてもいいよ」と答えて、彼女を抱擁に誘いこむ。抱かれながら夫は妻の全身を愛撫する。やがて、徐々に妻を自分の膝にのせ、もっと許してくれてもいいだろうとせがむ。妻が拒むときは、つぎのように言っておどかしてやるのもよい。「おまえの唇と胸に歯型と爪痕をつけ、わたしの体にも同じような痕をつけて、それを友だちに見せておまえがやったんだと言いふらすが、それでもいいかね?」
こうしたさまざまな手管《てくだ》を用いて、子供を叱ったり、おだてたりするような調子で、妻を自分の欲望に従わせる。
二晩め、三晩めとたって、妻の信頼感がいよいよ増したら、両手で体中を愛撫し、接吻で全身をおおってやる。腿をマッサージしてやり、それがうまくいったら、腿のつけ根まで手をのばしてもよい。もし妻が拒むそぶりを示したら、「こうしても別にさしさわりはないんだよ」と説いて、彼女を納得させる。そこまでいったら、今度は秘密の場所に手を触れ、帯と着物の紐をゆるめて、裸の太腿のつけ根を愛撫する。
こうして言葉巧みにさまざまな愛撫を行なうが、この時点でいきなり交悦にはいってはならない。このあと夫は妻に六十四芸を教え、愛をささやき、結婚前彼女に大きな望みをかけていたことを打ち明ける。また、将来絶対に裏切らぬことを誓って、恋仇に関する彼女の不安を一掃してやり、最後に、彼女の羞恥心をとりのぞいたところで、できるだけやさしく、不安を抱かせないように妻の肉体を楽しむ。新妻の信頼を得る法については以上のとおりだが、例によって、この題目についてはつぎのような諺がある。
「新妻の気持を汲みながら行動する夫は、彼女に愛され、信頼されるように演出しなければならない。夫が妻の言いなりになったり、何かにつけて反対ばかりすると、けっきょく愛も信頼もかちえることができないから、何ごとも中庸をむねとすべきである。女に愛され、彼女たちの名誉心と信頼を増させる[こつ]を知っている男こそ、彼女たちの愛を得ることができる。だが、相手があまりに内気であるという理由でそれを無視する男は、女心の微妙な動きを知らぬ獣として軽蔑される。そのうえ、女心を解さない男によって力ずくでものにされた妻は、やがて神経質で落ちつきのない、絶望的な女になり、突然相手の男を憎みはじめる。そして、自分の愛情が夫に理解されず、夫からも愛してもらえないと、彼女は失望して人間嫌いになるか、夫嫌いになって、ほかの男に頼るようになる」
第三章 求愛。身ぶりによる愛情の表現について
すぐれた才能はあっても貧しい男、才能は人並みだが、素姓のいやしい男、女の近くに住む金持ちの男、親兄弟の監督下にある男などは、相手の女が少女のころから自分を愛し尊敬するようにさしむけておいてから、彼女と結婚すべきである。また、親元をはなれて叔父の家に居侯《いそうろう》している男は、叔父の娘か、あるいは前に一度ほかの男と婚約したような娘を手に入れるよう努力すべきである。
このようにして妻を手に入れる方法は、少しも道をはずれていない。なぜならダルマの獲得はほかの結婚方法によると同じく、この方法によっても実現するからである、とゴータカムハーは述べている。
青年が娘に求愛しはじめたら、なるべく彼女といっしょに時をすごして、自分たちの年齢と交際にふさわしいゲームや気晴らしで彼女を楽しませるようにしなければならない。それには花摘み、花輪作り、ある架空の一家の一員の役目を演じてみせること、料理、サイコロ遊び、カルタ、丁半《ちょうはん》あて、中指探し、六つの石ころゲーム、そのほかその地方で人気があり、娘の気に入りそうなゲームならなんでもよい。さらにまた、数人がいっしょになってやる楽しいゲーム、たとえば隠れんぼ、種子を使った遊び、麦の中に物を隠してそれを探し出す遊び、目隠し鬼ごっこ、運動、それから、娘の友だちや女の召使いたちをまじえてやれる種々の遊びなども悪くない。
青年は彼女が信頼に価すると考えている女に対しても親切な態度を示し、新しい友だちを作らなければならないが、とりわけ重要なのは、思いやりとちょっとした奉仕によって彼女の乳母の娘を味方にひき入れることである。そうしておけば、相手はたとえ彼の下心を見抜いたとしても、邪魔をせず、時には愛する娘との橋渡しをひき受けてくれるだろう。また、彼の本当の性格を知っていても、それは口に出さず、頼まれなくても愛する娘の両親や親戚に、彼の長所を売りこんでくれるだろう。
このように青年は娘の喜ぶことをしてやり、彼女が欲しがるものを手に入れてやらなければならない。ほかの娘たちはだれも知らないようなおもちゃを手に入れてやったり、さまざまな色に染めわけた珍しい鞠《まり》などの珍しい品物を与えたりする必要がある。また、布、木、水牛の角、象牙、蝋《ろう》、こね粉、土などで作った人形、料理道具、男と女、ひとつがいの羊、山羊などの木彫り、土、竹、または木で作ったさまざまな女神の神殿、鸚鵡《おうむ》、カッコウ、椋鳥《むくどり》、鶉《うずら》、鶏、シャコなどの鳥篭、優雅な形をしたさまざまな壷、撒水器《さんすいき》、ギター、肖像画立て、腰掛、ラック塗料、黄色い香油、朱、目薬、白檀《びゃくだん》、サフラン、檳榔子《びんろうじ》、きんまの葉なども、贈り物として適当である。
贈り物は娘に会うおりをとらえて、いちどきにやらず、少しずつ与えるのがよい。時と場合によってこっそり渡すほうがよいものと、公然と渡すほうがよいものとがある。要するに、この人なら自分の望みをなんでもかなえてくれそうだと娘に思いこませる努力が肝心である。
つぎに必要なのは、こっそり娘と会って、彼女に内密に贈り物をするのは両親の不興を買いたくないからだと説明し、これまでに与えた贈り物をほかの娘たちもたいそう欲しがっていたとつけ加えることである。やがて娘の愛情がしだいにつのるような徴候が現われたら、彼女の希望に応じておもしろい話を聞かせてやる。手品の好きな娘だったら、さまざまな手品を、芸事好きの娘だったら、いろんな才能を披露して喜ばせてやる。歌の好きな娘だったら、音楽で楽しませてやり、時おりいっしょに夜店やお祭へゆくときとか、彼女が家へ帰るときなどに、花輪や花冠や耳飾りなどを贈る。このような贈り物にはそういう時がもっとも適当だからである。
また彼女の乳母の娘にも男の六十四種の楽しみを教えてやり、それを口実にして自分がいかに愛技に長じているかを彼女にわからせる必要がある。この場合、彼はいつもりっぱな服装をして、できるだけ外見をととのえなければならない。若い女は美男子で、りっぱな服装をした男といっしょに暮らすことを好むからである。女は恋をしても、自分から働きかけて男を獲得しようとはしないものだという説があるけれども、それは根拠のない見方である。女はつぎのような合図やしぐさによって愛情を表現する。
男の顔を正視できず、相手に見つめられて顔をあからめる。もっともらしい口実をもうけて四肢を見せつける。自分のそばからはなれた男にひそかな視線を送る。なにかたずねられると、恥ずかしそうにうなだれ、消え入りそうな声で尻切れとんぼの答えをつぶやく。長時間男といっしょにいることを好む。ある程度はなれているときに、男の注意をひくため、一風変わった声で付添いに話しかける。男のいる場所からはなれたがらない。口実をもうけて男の目をいろんなものに向けさせる。いつまでも語りあっていられるように、ゆっくりと話をする。子供を膝にのせて接吻したり、抱きしめたりする。女の召使い女の額に模様を描く。恋人の前で付添いにからかわれると、軽やかで優雅な身のこなしを示す。恋人の友人たちを信頼し、彼らに敬意と従順さを示す。恋人の召使いに親切な態度を示す。彼らが自分の主人のことを人に話すときは、熱心に耳を傾ける。乳母の娘に誘われると、恋人の家にあがりこみ、彼女に助けられて恋人と話し合ったり、遊んだりする。着飾っていない姿を恋人に見せたがらない。女友だちを通して、恋人が見たがるかもしれない耳飾りや指輪や花輪を彼に与える。恋人から贈られたものをいつも身につけている。両親からほかの花婿候補の名前を持ち出されると悲しそうな顔をする。その男の知り合いや彼の希望を応援する人物と会いたがらない。
このことについてもつぎのような諺がある。
「娘が自分に対して好意を抱いていることを感じたとき、はっきりした合図や身のこなしで表現されたその好意に気がついたとき、男は彼女と結ばれるために全力をつくさなければならない。相手が幼い娘だったら、子供っぽい遊びによって、妙齢の娘だったら、諸芸の才能によって、自分を愛している娘だったら、彼女が信頼している人々を利用して、その心をとらえなければならない」
第四章 男性だけがしなければならぬ事柄とそれによる少女の獲得。さらに、男性を手に入れて、わがものとするために少女がしなければならない事柄について
女が前章で述べたようなそぶりをあらわにして愛情を示しはじめたら、男はつぎにあげるさまざまな方法によって彼女を獲得すべきである。
いっしょにゲームやスポーツを楽しんでいるとき、わざと彼女の手を握る。第二部第二章で述べたさまざまの抱擁を行なう。時おり木の葉でこしらえたひと組の男女を見せてやる。水浴をしているとき、はなれた場所で水に潜《もぐ》って、彼女のすぐ近くで浮きあがる。若葉やそれに似たものを見て、大いに感激する。彼女を思うときの胸のうずきを打ち明ける。ほかの女が出てくる美しい夢を見たと言う。同じカストの集まりのときは、彼女の隣りに坐り、あれやこれや口実をもうけて、彼女の体にさわる。そして、彼女の足に自分の足を重ねておいて、ゆっくりと相手の足の指をおさえつけ、爪先きを押す。これがうまくいったら、今度は手で同じことをくりかえす。彼女に足を洗ってもらうような機会があったら、足の指で同じようにして彼女の手の指をしめつける。贈り物をやったり、もらったりするときは、態度とまなざしで深く彼女を愛していることを伝える。
また、うがい用の水を彼女にふりかけてやる。人気のない場所や暗がりにふたりきりでいるときは、さっそく愛を打ち明け、相手を失望させないように自分の本当の気持ちを伝える。
彼女といっしょに椅子やベッドに坐っているときは、かならず「内緒でお話ししたいことがあるんですが」と言う。そして、彼女が静かな場所へそれを聞きにやってきたら、言葉よりも態度やしぐさで愛情を表現する。相手の気持ちをつかんだら、病気をよそおって、彼女を自宅へ見舞いにこさせる。そして、計画的に彼女の手を握って自分の目や額の上にのせ、つぎのような言葉で薬を作ってくれと頼みこむ。「この仕事はあなた以外の人に頼みたくないんです」
彼女が帰りたいと言ったら、ぜひまた訪ねてきてくれと頼んでから帰らせる。この仮病は三日三晩つづけなければならない。その後、彼女がひんぱんに訪ねてくるようになったら、長時間ひきとめて語りあう。「いくら女を愛していても、長時間話しあわなければ、彼女を獲得することはできない」と、ゴータカムハーは言っている。
とうとう女の心を完全につかんだと確信できるようになったら、はじめて彼女の肉体を楽しんでもよい。女というものは夜がきて暗くなると、ふだんより大胆になって、交会を欲するようになり、男の要求を拒まなくなるものだから、性行為は夜になってから行なうべきであるという説があるが、これまた確実な根拠はない。
男が単独で望みを達することができない場合は、乳母の娘、または彼女が信頼する女友だちを利用して、こちらの意図を見抜かれないように彼女を連れてきてもらい、それからうえに述べたような方法で彼女を手に入れる。あるいは、はじめ自分の召使い女を彼女のもとへ送って、友だちとしていっしょに住まわせ、それから、召使いの手引きによって彼女を手に入れる。
最後に、宗教的な儀式、結婚式、市、お祭、劇場、集会などでの態度やしぐさから彼女の気持ちをたしかめたら、ふたりきりでいるときは、ためらわず彼女の肉体を楽しむべきである。ヴァーツヤーヤナも言っているように、女は適当な時期に適当な場所へ通ってくる恋人を拒まないからである。
すぐれた才能とりっぱなしつけを身につけていながら、身分の低い家や貧しい家に生まれたために同じカストの男からは求婚されない女、みなし児、両親をなくしたが、一族やカストの掟に従って適齢に達したら自分で結婚の相手を見つけたいと望んでいる女たちは、力強くて眉目《びもく》うるわしい青年、憐れみの気持ちから両親の許可がなくても自分と結婚してくれそうな青年などを選ぶよう努力すべきである。
そのためにはたびたび男と会うだけでなく、積極的に彼に好かれるようにつとめねばならない。また、母親も娘の女友だちや乳母の娘を利用して、絶えずふたりを会わせるように仕向ける。娘は娘でどこか静かな場所で恋人とふたりだけになることを心がけ、時どき花や檳榔子やきんまの葉や香料を贈る。また、諸芸にすぐれ、マッサージや爪掻き、爪圧《つめお》しなどが上手なことを誇示し、彼がいちばん好む話題をとりあげ、女の愛情を獲得するもろもろの手段について、彼と話しあうことが必要である。
けれども、古人は、女のほうがどれほど男を愛していても、自分から身を捧げたり、交悦に誘ったりすべきでないと述べている。女がそうい態度を示せば、品位が失われ、けっきょくは男に軽蔑され、嫌われることになりがちだからである。もっとも、男のほうから媾合を望む態度を示すときは、その希望をすなおに受けいれてやり、抱擁されても、それまでの態度を変えず、まるで男の気持ちを全然知らないような態度で彼の愛の告白を聞くのがよい。だが、男が接吻を求めたら、ひとまず拒み、同衾を迫られたら、ある程度じらしたあとで隠しどころに手を触れさせてやる。相手がどんなにせがんでも、自分からすすんで身をまかせたような感じを抱かせないように抵抗すべきである。そして、男が身も心も捧げて自分を愛しており、心変わりのおそれがないことをたしかめたとき、はじめて体を許し、すぐに結婚してくれるよう彼を説得する。こうして処女を失ったら、信頼する友だちにさっそくそのことを打ち明けなければならない。
女が男の心をつかむ方法についてはこれで終わりである。これについても、つぎのような諺がある。
「多くの男から求婚されている女は、そのなかからもっとも気に入った男、自分に対して従順、多くの喜びを与えてくれそうな男を選んで結婚すべきである。けれども、親の命令で金のために人柄も容貌も劣る金持ちの新郎と結婚した場合、もしくは、すでに数人の妻を持っている男と結婚した場合は、その男がいかに才能に恵まれ、彼女に対して従順で、力強く健康的な活動家で、彼女を喜ばせるためにいくら気をつかってくれても、決して彼に惚れこみはしない。金がなく、容貌がすぐれなくても、従順でありながら自制心を持った夫を選ぶほうが、男前で魅力的ではあるが、多くの女の共有物になっている夫を選ぶよりは幸福である。一夫多妻の金持ちの妻たちは一般に夫を愛していず、信頼もせず、人生のあらゆる見せかけの快楽は所有していても、心のうちではほかの男を愛しているものである。心が卑しく、自分の社会的地位から脱落して放浪生活を送っているような男、たくさんの妻や子供を抱えた男、スポーツや賭事に血道をあげる男、自分が望むときしか妻と寝ない男などは夫たる資格がない。恋人のなかで真の夫たるにふさわしい男とは、妻の好むような性質をそなえた男でなければならない。このような夫こそ愛情深い夫であるから、妻をりっぱに統御することができる」
第五章 結婚のある種の形態について
女が恋人と内証でしょっちゅう会えないときは、信頼のおける乳母の娘を、もちろんまえもって彼女を味方にひき入れておいて、恋人のもとへつかわしてもよい。乳母の娘は先方へいって、主人の使いできたのではないように見せかけながら、世間話の合い間に主人の高貴な生まれ、りっぱな性格、美貌、才能、人間についての知識や愛情などをそれとなく話題にのせて、男の心に彼女に対する愛情をうえつける。また、自分の女主人に向かっても、先方の男のすぐれた才能、とりわけ彼女がうれしがるはずの才能を宣伝する。さらに彼女のほかの恋人たちをけなし、その男たちの両親の吝嗇《りんしょく》ぶりや無分別、親戚の気まぐれなどを指摘してみせる。
たとえばサクンタラその他の古代女性をふんだんに引き合いに出して、同じカストに属する恋人を自ら選んで結ばれた彼女たちが幸福な生涯を送ったことを指摘してやるのもよい。大家族の家に嫁いで競争相手の妻たちにいじめられ、みじめな境遇に追いこまれて、ついには捨てられた女たちのことを話してやるのもよい。そうしておいて相手の男の財産、いつまでもつづく幸福、貞節、従順、愛情などをたたえ、女がこの結婚から生じるかもしれないとおそれている不幸を、不安や羞恥心などとともに追い払ってやらねばならない。要するに、乳母の娘は女仲介者の役目をひき受けて、男の愛情や彼がよく出入りする場所や彼女に会うために払っている努力を自分の主人に伝え、なんべんもつぎのようにくりかえすべきである。「もしあの方が不意にお嬢さまを力ずくで奪いにきたとしても、決して恐ろしがることはございません」
結婚の形態
さて、こうして女が結婚を承諾し、公然と妻としてふるまうとき、夫は婆羅門の家からもらい火をし、クーシャの葉を床にまき散らし、聖なる火に供え物をしたのち、戒律の教えるところに従って婚儀をとり行なう。それがすむと、夫は結婚が実現したことを両親に知らせる。というのも、古人の考えによれば、聖なる火の前で厳粛《げんしゅく》にとり行なわれた婚礼を、のちに解消することはできないからである。
新郎新婦の床入りのあと、夫の身内と妻の身内にその事実が知らされる。そうすれば双方とも結婚に同意せざるをえないし、それが自分たちの知らないまに行なわれた事実をついうっかり見のがしてしまう。そして、おたがいに和解して心のこもった贈り物をとりかわし、好意的な態度を示すようになる。このようにして行なわれる結婚をガンダールヴァ形式の結婚という。
女が心を決めかねている場合、もしくは承諾の返事を口に出せないでいる場合、男はつぎのいずれかの方法で彼女を手に入れなければならない。
一 適当な時期をみはからい、口実をもうけ、仲のよい女友だちを利用して、相手の女をいきなり自分の家につれてきてもらい、婆羅門の家から聖火をもらってきて、さきに述べたような儀式をとり行なう。この場合、なかだちの女友だちは信頼ができて、女の家族とも親しい人でなければならない。
二 愛する女にほかの男との結婚が迫っているときは、女の母親の前でその男を散々けなし、母親の同意を得たうえで、彼女を近所の家までつれ出して、婆羅門の家から火をもらい、結婚の儀式をとり行なう。
三 愛する女の兄と親交を結ぶ。自分と同年配のこの男が娼婦のもとに足しげく出入りし、人妻との情事にうき身をやつしている場合は、そういった問題でいろいろと彼を助けてやり、時おり贈り物をして機嫌をとっておく。それから彼の妹に対する深い愛情を告白する。こんなとき若者というものは、自分と年齢も習慣も性質も似通っている男のためなら命を投げ出しても働いてくれるものだ。だから彼に頼んで人目につかない場所へ妹をつれ出してもらい、婆羅門の家から火をもらって、前述の儀式を行なう。
四 お祭りの日に乳母の娘を口説いて女に酔い薬を飲ませ、なにかの用事にかこつけて人目につかない場所へつれ出してもらって、まだ酔いのさめない彼女の肉体を楽しんでから、例の儀式をとり行なう。
五 乳母の娘に見て見ぬふりをしてもらって、眠っている女を家からかつぎ出し、目をさますまえに彼女の肉体を楽しんでから、前述の儀式を行なう。
六 愛する女が庭に出ているとき、または近くの村に出かけたところを狙《ねら》って、友人とともに従者を襲って殺すか、追い散らすかし、力ずくで彼女をさらって、前述の儀式を行なう。
これについてもつぎのような諺がある。
「本章で述べた結婚の形態は先きに挙げたものほど望ましく、順を追って宗教的な掟と相いれなくなるから、前者を実行に移すことが不可能な場合だけ、後者を利用するようにすべきである。すべての理想的な結婚の成果は愛であるから、たといガンダールヴァ形式の結婚が不利な環境のもとで生まれても、所期の目的を達成するものであるため、大いに尊重されているわけである。ガンダールヴァ型の結婚に敬意が払われるもうひとつの理由は、それが幸福をもたらし、ほかの形式によるよりも問題が少なく、とりわけより以前の愛情の成果であるということである」
第四部 妻について
第一章 貞淑な女の生き方と、夫の留守中の彼女の行動について
夫を愛している貞淑な妻は夫を神のごとくみなして、彼の希望どおりに行動し、夫の同意を得て家族の世話を一手にひき受けねばならない。家の中をきちんとかたづけ、ところどころに種々の花を飾り、家全体を清潔に見せるため床をぴかぴかに磨きあげる。建物の周囲には庭を配し、朝昼晩の神への供物に必要な品々をいっさい用意しておく。さらに、家の護り神の祭壇をあがめ奉らなければならない。というのは、ゴナルディアも言っているように、「うえに述べた事柄を注意深く守る主婦ほど一家の主人に愛されるものはない」からである。
また夫の両親、親戚、友人、姉妹、召使いなどに対しても、それぞれの人にふさわしい態度で応接しなければならない。庭には菜園を作り、砂糖黍《さとうきび》、無花果《いちじく》の木、芥子《からし》、パセリ、茴香《ういきょう》、ザンソキィマス・ピクトリウスなどを植えるのがよい。トラパ・ビスピノサ、ジャスミン、ガスミヌム・グランディフロルム、黄色い不凋花《アマランサス》、野生のジャスミン、タベルナモンタナ・コロナリア、ナディアウォルタ、中国のバラ、それに芳香を発するアンドロポゴン・シェナントゥスという草、根から芳香を発するアンドロポゴン・ミリカトゥスの木なども植えるべきである。また庭にベンチやあずまやを作り、中央に井戸、水槽、または池を掘るがよい。
一家の主婦は常に女乞食、仏教徒の女乞食、身持ちが悪く無頼な女、占い女、魔女などを避けなければならない。食事についても夫の好き嫌いや、何は体によく、何は害があるかを心得ておかねばならない。夫が帰宅する足音を聞きつけたら、すぐに起きて、言いつけられた仕事をする用意をし、召使いに命じて彼の足を洗わせるか、あるいは自分で洗っでやる。
夫といっしょに外出するときは、装身具を身につけなければならないし、夫の許可なしで招待を受けたり、結婚式や宗教的な儀式に出席したり、女友だちの集まりに出たり、神殿に詣でたりしてはならない。ゲームやスポーツも夫の許可なしでやってはならない。夜寝るときはいつも夫のあと、朝は夫より早く起きるように心がけ、夫が眠っているときに目をさまさせてはならない。台所は他人の目に触れないように、奥まった場所におき、常に清潔に保たねばならない。
夫がなにか不始末をしでかしたとき、少しくらいいやな顔をするのはいいが、あまり悪く言いすぎてはならない。そのことで夫を口ぎたなく罵《ののし》ってはならず、友だちがいっしょにいるいないにかかわらず、やさしく叱る程度にしておくのがよい、とにかく絶対に口やかましい女になってはならない。「口やかましい妻ほど夫にとっていやなものはない」と、ゴナルディアも言っている。
最後に、下品な言葉を口にしたり、ふくれっ面をしたり、ひとりごとを呟《つぶや》いたり、戸口に立ちはだかったり、家の中から通行人をのぞいたり、公園でおしゃべりをしたり、人気のない場所に長時間とどまったりしてはならないし、歯や髪など自分の体を常に清潔に保つべきである。夫のそばへこっそり近づこうとするときには、種々の装身具や花で飾りたて、さまざまな色合いの衣裳を身にまとい、甘い匂いのする香油や香料を用いるがよい。けれども、ふだん着は薄手の、目のつんだ布地で作り、装身具や花飾りも香油も度をすぎないよう気を配らなければならない。夫の断食や誓いには自分も従うようにつとめ、夫がそれをやめさせようとしても、頑として応じないことが望ましい。
粘土、竹、薪《たきぎ》、革製品、鉄鍋《てつなべ》、塩、油などは、一年中でいちばん値段のさがる時期を見はからって買いこんでおく。そのほか香料、ライテア・アンティダイセンテリカ、または長円形の葉を持つライテアの実でこしらえた容器、薬品などの日用品も必要に応じて買いととのえ、貯蔵室にしまいこんでおく。
大根、馬鈴薯、蕪《かぶ》、苦芋、マンゴー、胡爪《きゅうり》、茄子《なす》、クシュマンダ、瓢箪《ひょうたん》、スラナ、ビクノニア・インディカ、白檀《びゃくだん》、プレムナ・スピノサ、大蒜《にんにく》、玉葱《たまねぎ》などは種子を買ってきて季節になったら、自分で植えるがよい。
妻は自分の財産の額や、夫に打ち明けられた秘密を他人に洩らしてはならない。また聡明さ、容貌、料理の知識、誇り、夫に仕える作法など、すべての点で、同じ階級のほかの女よりまさっていなければならない。食卓の残りのミルクは捨てずにバターを作る。油と砂糖は自家製に頼り、糸つむぎとはた織りは家庭内で行ない、縄、紐、紐を作る木の皮などは常時家庭にそなえておく。脱穀や米つき作業にも加わって、くず米やもみがらを無駄なく何かに利用する。
使用人の手当を払い、田畑の耕作や家畜の世話を監督し、車作りの采配《さいはい》をふるい、芋、 鶏、| 鶉《うずら》、|鸚 鵡《おうむ》、椋鳥《むくどり》、カッコウ、孔雀、猿、鹿などの世話を焼き、最後に一日の収支の帳尻をあわせる。着古した衣類はよく働いた使用人にほうびとして与えるか、ほかの利用法を考える。酒を作って貯蔵する容器には特別注意を払い、時期を見て新しいものととりかえるようにしなければならない。品物の売買にもかならず立会う必要がある。夫の友人には花、香油、香料、きんまの葉、檳榔子《びんろうじ》などを贈って歓迎する。夫の両親をうやまい、決してさからわず、穏やかな口調で口数少なく話しかけ、彼らの前では大声で笑わず、親の友人や敵に対しては自分の友人や敵と同じ態度で接するがよい。
そのうえ、妻は虚栄にうき身をやつしたり、自分だけの楽しみに没頭したりしてはならない。使用人に対しては寛大な態度を示し、休暇や祭の日にはその労をねぎらってやるが、なにか物を与えるときは、まずそのことを夫に断わらなければならない。
貞淑な妻の生活態度についてはこれで終わる。
夫が旅にでかけた留守のあいだ、貞淑な妻は無事を願う飾りを身につけて、神をたたえる断食の行《ぎょう》にはいらなければならない。夫の安否を気づかいながらも、家事の監督を怠ってはならない。一家の年長の婦人のそばで眠り、彼女たちに愛想よく接するのがよい。夫が大切にしている物は万が一にもこわしたりしないように気を配り、出発前に夫がやり残したことは自分であとをつづける。自分の親戚の家へは慶弔《けいちょう》の場合のほかはゆかないようにし、やむをえない場合は、ふつうの外出着姿で夫の召使いといっしょにゆき、あまり長居しないように気をつけるほうがよい。断食や祭礼は一家の年長者の同意を得てから行なうがよい。物を売ったり、買ったりするときは、正直な召使いを監督して、商人のように抜け目なく立ちまわり、財産をふやすようにつとめるべきだし、できるだけ収入をふやし、支出をへらすようにする。夫が旅から帰ったら、留守中どんな暮しをしていたか見てもらうため、最初はふだん着のまま出迎え、神の礼拝に必要な道具類とともに、夫になんらかの贈り物を渡すべきである。
夫の留守中妻の心得ておくべきことについてはこれで終わる。
このことについても、つぎのような諺がある。
「妻たる者は、高貴の生まれであれ、再婚した処女寡婦であれ、または内妻であれ、貞節をむねとし、夫に献身し、なにごとも夫の利益になるようにつとめねばならない。この心がけを忘れない女はダルマ、アルタ、カーマを獲得し、高い地位につき、一般に夫の愛情をいつまでもつなぎとめることができる」
第二章 一家の中で年上の妻が夫の若妻に接するときの態度と、その逆の場合について。再婚した処女寡婦、夫に嫌われている妻、王のハレムに住む女などの行動について。大勢の妻に対する夫の行動について
男が妻の生存中に第二の妻をめとる理由は、つぎのとおりである。
一 妻が発狂したり、ヒステリーをおこしたりする場合
二 夫が妻を嫌っている場合
三 子宝に恵まれない場合
四 女の子しか生まれない場合
五 夫が淫乱な場合
妻は結婚のはじめから、常に献身的な愛情と快活さと聡明さによって、夫の心を惹きつけるよう努力しなければならない。けれども、どうしても子供ができないときは、夫にほかの女をめとるよう自分から進言すべきである。そして、二度めの結婚が行なわれ、新しい妻が家にはいったら、長初の妻は本妻の地位を彼女にゆずり渡して、妹のように扱わなければならない。年上の第一夫人は、午前中、夫の前で強制的に若い第二夫人に化粧させ、夫が若い妻をかわいがったからといって、気に病んではならない。もし若い妻が夫を不愉快にさせるような態度を示したら、それを見て見ないふりをしてはならず、いつでも細々《こまごま》とした助言を与えてやり、夫の前ではどのようにふるまうべきかを教えてやらねばならない。また彼女の子供たちを自分の子供同様に扱い、彼女の召使いに対しては自分の召使い以上に気をつかい、彼女の友だちには愛情と親切をもって接し、彼女の親戚に対しても礼儀正しくふるまわなければならない。
自分のほかに大勢の妻がいるとき、年上の妻は格からいっても年齢からいっても、いちばん自分に近いひとりを選んで特に親しくし、最近まで夫の寵愛《ちょうあい》を受けていた妻と現在もっともお気に入りの妻とを張りあわせるように仕向けるべきである。そうしておいて最近寵を失ったほうの肩を持ち、ほかの妻たちも残らず味方にひき入れたら、彼女たちを煽動《せんどう》して、現在お気に入りの妻は腹黒い悪い女だと非難させる。ただしその場合、自分はあくまで表面に出ないほうがよい。
もしお気に入りの妻が夫とけんかするようなことがあったら、彼女の肩をもって心にもない励ましを与えてやり、夫との不和をいよいよあおりたてる。もしその不和が深刻なものでなかったら、それを拡大させるために、あらゆる手段を用いなければならない。だが、それでもなお夫がお気に入りの妻を愛しつづけるようだったら、作戦を変更して彼らの仲をとりなすようにつとめ、夫の不興を買うことを極力避けねばならない。
年上の妻のとるべき態度については、これで終わりである。
いっぽう若い妻は年上の妻を自分の母親のようにみなし、たとえ自分の親戚に対してであろうと、彼女の承認なしに秘密を打ち明けたりしてはならない。自分のことについても、すべて包み隠さず彼女に打ち明け、彼女の許可なしに夫に近づいてはならない。またどんなことであれ、年上の妻が話してくれたことをほかの妻たちにしゃべってはならず、彼女の子供たちには自分の子供以上に目をかけてやらねばならない。夫とふたりきりでいるときは心をこめて仕えるが、競争相手がいるためにいろいろ難儀なことが多いなどと夫にぐちを言ってはならない。
また夫から特別目をかけてもらっているしるしを秘かに手に入れるようにし、自分はあなたのためだけを思い、目をかけてもらっていることを大いに感謝しながら生きている、と打ち明けるのもよい。
けれども自慢の気持ちからであれ、一時の腹立ちからであれ、夫を愛し愛されているなどと他人に向かって話すべきではない。なぜなら、夫の秘密を洩らすような妻は軽蔑されるからである。夫の寵愛を獲得しようとするときには、年上の妻の不興を買わないように、常にこっそり行動しなければならない、とゴナルディアは述べている。年上の妻が夫に嫌われているか、彼女に子供がない場合は、彼女に同情し、夫にも同情してやってくれと頼むべきだが、貞淑な生活をいとなむという点では、自分のほうが彼女よりすぐれていなければならない。年下の妻の年長妻に対する態度は以上で終わりである。
貧しい生活を送っている寡婦《かふ》、あるいは気が弱いため男と再婚しなければ生活してゆけないような寡婦は、再婚寡婦と呼ばれる。
バブーラヴィアの弟子たちは、処女寡婦は、悪い性格のために離婚せざるをえないような男、あるいは男としてのりっぱな資格が欠けており、そのため彼女がほかの男に頼らざるをえないような相手と結婚すべきではない、と述べている。ゴナルディアの意見によれば、寡婦が再婚するのは幸福になりたいからであり、幸福は夫に男としてのりっぱな資格があり、それに性愛が加わって成り立つものだとしたら、まず第一にその資格をそなえた男を選ぶことが必要である。だがヴァーツヤーヤナによれば、寡婦は自分の好きな男、自分にうってつけと思える男ならだれと結婚してもよい。
結婚にあたって、寡婦は宴会や親戚との遠出の費用、身内や友人に贈り物をする費用を夫に出してもらうべきである。ただし希望によってはそれらの費用を自分で負担してもかまわない。同様に装身具も、夫の所有のものでも自分のものでも、どちらをまとってもよい。夫と妻のあいだでとりかわされる愛情のこもった贈り物については、これといったきまりはない。結婚後妻が自分の意志で離婚する場合、夫からもらった物は愛情の贈り物以外すべて返さなければならない。ただし夫に追い出された場合には、なにも返す必要はない。
結婚後は一家の主要成員のひとりとして夫の家に住まなければならないが、家族内のほかの婦人たちには親切に、召使いたちには寛大に、一家の友人知己には親しみと笑顔で接すべきである。また一家の他の婦人たちよりも六十四芸にすぐれていることを示し、夫と争いが生じた場合にも、激しい言葉で非難してはならず、夫が望むことをこっそりしてやって、性愛の六十四芸を大いに利用するがよい。夫のほかの妻たちには親切な態度を示し、その子供たちには贈り物をしてやったり、装身具やおもちゃを作ってやったりする。夫のほかの妻たちよりも彼の友人や召使いに心の底をうちあけ、宴会、遊山、市、祭、ゲームや遊戯を好きになるようにつとめねばならない。
再婚した処女寡婦のとるべき態度についてはこれで終わる。
夫に嫌われ、ほかの妻たちに厄介者あつかいされている妻は、夫にいちばん気に入られ、身のまわりの世話をしている妻と親しくなり、自分の知っている芸事をすべて彼女に伝授してやるがよい。また自分は夫の子供たちの乳母としてふるまい、夫の友人たちを味方に引き入れておいてから、彼らを通して夫に自分の献身ぶりを伝えてもらう。宗教的な儀式、誓いや断食のときは先頭に立って働くが、自分をよく見せようとして出しゃばってはならない。夫が寝所にいるときは、そばへ近づいてもいやがられないときだけ顔を見せるようにし、夫を非難したり、しつこくつきまとったりしてはならない。夫がほかの妻と争っているときは、ふたりの仲をとりなしてやり、夫が人目を避けて女に会いたがっているときは、その手引きをつとめてやる。夫の性格上の弱点はつかんでおくほうがよいけれども、それを第三者に打ち明けてはならず、全体としてこの女にもなかなか見所がある、と夫に考えなおさせるようにふるまうべきである。
夫に嫌われている妻の行動についてはこれで終わる。
以上で王の後宮の女たちがとるべき態度についてはのみこんでいただけたと思うので、つぎは王について論じることにする。
ハレムの侍女たち(それぞれカンチュキヤ、マハラリカ、マハリカと呼ばれる)は王の妻たちから花、香油、衣裳などを受けとって、王のもとへ運ばねばならない。王は受けとった品物を、前の日に自分で着たものとあわせて、ほうびとして召使いたちに下賜すべきである。午後になると、王は美しく着飾り、宝石を身につけて、ハレムの女たちを訪問する。女たちもまた正装し、宝石で身を飾って、王を迎えねばならない。やがて王は各人にふさわしい席を定め、敬意を表してから、彼女たちと快い歓談の時をすごす。それから、王妃として迎えた再婚処女寡婦、妾、踊り子などをたずねるが、この訪問はそれぞれの個室で行なわれねばならない。
王が午睡からさめたら、その夜伽《よとぎ》をともにする王妃の名前を連絡する役目の女官は、順番に当っている王妃、順番がきても手ちがいで見送られてしまった王妃、たまたまおつとめの日に病気をしていた王妃などの侍女を伴って御前に伺候する。侍女たちは王妃が指輪の印版を押した香油の類を王に献上して、それぞれの王妃の名前と、献上品をさし出す理由を述べる。王はそのうちひとりの香油をおさめ、それを献上した王妃は自分が夜伽の相手に選ばれたことを知らされる。
祭や歌の会や催し物のあるとき、王妃たちはいずれも敬意を払ってもてなされ、飲み物などの饗応をうける。だがハレムの女たちは単身で外出することを許されないし、人柄のよく知られた人々を除いて、ハレム外のどんな女も後宮内にはいってはいけない。最後に、王妃たちはあまり体の疲れる仕事をしてはならない。
ハレムの女に対する王の振舞いや、女たち自身の行動については以上で終わりである。
多数の妻を持つ男は、彼女たち全部に対して、公平にふるまわねばならない。彼女たちのあやまちを見のがしてはならないし、ひとりの妻の愛や情熱、肉体的欠陥、秘密にしている恥などを洩らしてはならない。彼女たちが競争相手について話しかけることを許してはならないし、もしある妻が他の妻の悪口を言い出したら、彼は彼女を叱って、お前にだって同じような欠点があるではないか、とたしなめてやらねばならぬ。
妻たちを喜ばせようとするときは、内緒話やひそかな敬意やお世辞など、相手によって作戦を変えるがよい。また、全員を喜ばせる方法としては遊山、ゲーム、贈り物、親戚に対する敬意、打ちあけ話、愛情のこもった交会などがある。気だてのよい若い妻が、聖典の教えに従ってふるまうときは、夫の愛情を獲得し、他の妻たちより優位に立つことができる。多数の妻を持つ夫の行動については以上のとおりである。
第五部 他人の妻について
第一章 男女の特性について。女はなぜ男の求愛を拒むかの理由。口説《くど》き上手の男と、口説かれやすい女について
本書の第一部第五章ですでに述べたような場合には、他人の妻に言い寄ってもよいが、その前にまず獲得の可能性、同居の適不適、人妻と交わる危険性、そうした結合が将来におよぼす影響などについて検討すべきである。人妻に対する愛情がある段階の強さからさらに他の段階へ移る場合、われとわが命を救うため、彼女に言い寄ってもさしつかえない。その愛情の度合いは十段階に分けられ、つぎにあげるような兆侯で区別される。
一 見て惚れる
二 心を惹きつけられる
三 絶えず物思いにふける
四 眠れなくなる
五 痩《や》せ衰える
六 享楽の対象から遠ざかる
七 恥も外聞もなくなる
八 気が狂う
九 失神する
十 死ぬ
古人によれば、男は若い女の容姿や身ぶりなどから、彼女の情熱の強弱ばかりでなく、性格、誠実度、純粋度、意志なども判断しなければならない。だが、ヴァーツヤーヤナの意見によれば、容姿や身ぶりから性格を判断するのは不確実であり、行動、外に現われた思想、肉体の動きなどを判断の手がかりにするのがよいという。
ゴニカプトラは一般論としてつぎのように述べている。女も男も美しい異性を見れば、恋におちいるのが普通だが、さまざまな配慮があって、しばしばそれ以上には進まない。恋におちいると、女性はつぎのような特性を発揮する。すなわち理非をわきまえずただ盲目的に愛し、ある特定の目的を達成するために男を獲得しようとはしない。そのうえ、男のほうから言い寄られると、本心では彼といっしょになりたいくせに、本能的に尻ごみする。それでもなおくりかえし男に求愛されると、彼女ははじめて承諾する。
ところが、男は恋におちいっても、道徳的考慮と知恵によっておのれの感情を律し、相手の女のことばかり考えているような状態にあっても、女のほうから求愛されると、それに応じない。時おり愛する女を手に入れようと努力することはあるが、失敗すると、あとは見向きもしない。それと同じことで、いったん女を手に入れてしまうと、彼女に対して無関心になってしまうことも多い。男は簡単に手に入るものには執着せず、苦労しなければ獲得できないものだけを欲しがるといわれるが、これは単なる話にすぎない。
女が男の求愛をしりぞける理由にはつぎのようなものがある。
1 夫を愛している
2 私生児を生みたくない
3 機会がない
4 男になれなれしく話しかけられたことに腹を立てている
5 階級がちがう
6 男が旅に出てばかりいるので、不安を感じている
7 男がほかの女を愛しているのではないかと疑っている
8 男が自分の気持ちを人にしゃべるのではないかと恐れている
9 男は友人を大切にしすぎる
10 男のほうは火遊びのつもりなのではないかと懸念している
11 男が有名な人物なので気おくれを感じている
12 鹿女の場合は男が精力家であること、もしくはあまりに激しい気性の持主であることを恐れている
13 男があまりに賢いので気おくれを感じている
14 以前に単なる友人としてつきあったことがある
15 男の非常識を軽蔑している
16 男の卑しい性格に不信を感じている
17 男が彼女の愛情にちっとも気づいてくれないので厭気がさしている
18 象女の場合は、相手が兎男、または情熱のとぼしい男ではないかと考えている
19 この恋のせいで、男の身に不幸が起こってはならないと感じている
20 自分自身の欠点に絶望している
21 露見を恐れている
22 男の白髪やみすぼらしい容貌に幻滅を感じている
23 夫が自分の貞節をためすために、男を使っているのではないかと疑っている
24 男が道義にこだわりすぎると考えている
男は上述の理由のいずれかをかぎつけたら、そもそもの最初から、それをとりのぞくよう努力しなければならない。たとえば、男が大人物で、有能なために女が気おくれしているようなときは、深い愛情でそれをとりのぞいてやる。会う機会がないとか、男に近寄りがたいとかいう場合には、簡単に近づける方法を女に教えてやればよい。女が男を尊敬しすぎているようなら、うちとけた気さくな態度で接して、その尊敬の念をとりのぞくべきである。いやしい性格だと考えられているときは、勇気と知恵のあるところを見せてやらねばならない。女が無視されていると感じるときは、なにくれと気をくばってやり、恐れているときは、適切なはげましを与えてやるがよい。
一般的に言って、首尾よく女を手に入れるのはつぎのような男たちである。
1 愛の学問に精通している男
2 話上手な男
3 子供のころから女を知っている男
4 女の信頼を得た男
5 女に贈り物をする男
6 おしゃべりな男
7 女に好まれるようなことをする男
8 まえにほかの女を愛した経験のない男
9 仲介者として働く男
10 女の弱点を知っている男
11 善良な女たちから愛される男
12 相手の女友だちと親しい男
13 眉目秀麗《びもくしゅうれい》な男
14 いっしょに育った男
15 近所に住む男
16 性的快楽に没頭する男、この場合は召使でもよい
17 乳母の娘の恋人
18 新婚そうそうの男
19 遊山や宴会の好きな男
20 気まえのよい男
21 精力絶倫なために有名な男(牛男)
22 進取の気象に富んだ、勇敢な男
23 教養、容貌、長所、気まえのよさなどの点で彼女たちの夫にまさる男
24 衣服や生活様式がすばらしい男
つぎのような女は簡単に手に入れやすい。
1 家の戸口に立つ女
2 いつも通りを眺めている女
3 近所の家に坐りこんで、おしゃべりをする女
4 いつも男を見つめる女
5 女仲介者
6 横目で男を見る女
7 正当な理由もなしに、ほかの妻をめとった夫の女
8 夫を嫌い、夫にも嫌われている女
9 後見人、監督者のいない女
10 子供をうんだことのない女
11 家族や階級《カスト》のはっきりわからない女
12 子供に死なれた女
13 社交を非常に好む女
14 夫に対してこれみよがしの愛情を示す女
15 役者の妻
16 寡婦
17 貧しい女
18 享楽を好む女
19 弟が大勢いる男の妻
20 見栄っぱりな女
21 階級も才能も自分の夫より上の女
22 学芸に秀でた才能を鼻にかけている女
23 夫の愚行に悩んでいる女
24 子供のころ金持ちの男と結婚させられたが、大人になってからも、その男が好きになれず、自分の好みにあう性格や才能や知恵を持つ男にあこがれている女
25 理由もないのに夫になおざりにされている女
26 階級も容貌も自分と似たり寄ったりの女たちに尊敬されない女
27 旅行好きの男の妻
28 宝石商の妻
29 嫉妬探い女
30 欲ばりな女
31 身持ちの悪い女
32 うまず女《め》
33 だらしない女
34 臆病な女
35 せむし女
36 小人女
37 不具女
38 無教養な女
39 悪臭を放つ女
40 病弱な女
41 老女
この主題についてつぎの諺がある。
「自然から生まれ、技術によってたかめられ、知恵によってすべての危険をとり除かれた欲望は、安全かつ確実なものとなる。自分の能力に自信を持ち、女の心の動きを注意深く観察し、女の愛が衰える原因をとり除いてやる賢い男は、概して首尾よく女を獲得する」
第二章 女と知り合う法と、女を獲得する努力について
古代の著作家たちの所見によれば、女を誘惑するには女の仲介者を利用するよりも男自身の努力に頼るほうが有効だが、人妻の場合はその逆で、自分で口説くよりも女の仲介人の力を借りるほうがよりたやすく手にはいるという。けれども、ヴァーツヤーヤナは、男はできるだけ自分で行動すべきであり、女仲介者を利用するのは自分で行動できない場合だけにかぎるがよい、と述べている。大胆自由にふるまう女は男の個人の努力でかち得られ、いっぽう、そうした大胆さを持ちあわせない女は女の仲介者の手でかち得られると一般に言いならされているが、それは話だけにすぎない。
ところで、男が自分で行動する場合には、まず最初に愛する女とつぎのような方法で知り合わなければならない。
第一に、男は通常の機会にも、特定の機会にも、できるだけ女の目にふれるようにしなければならない。通常の機会とはどちらかが相手の家を訪問するときで、特別の機会とは彼らが友人、同じ階級の人、大臣、医者などの家で会ったり、結婚式、犠牲の奉納、祭、葬式、園遊会などで顔をあわせたりする場合をいう。
第二に、ふたりが顔をあわせたら、男は自分の思いのたけを知らせるように女に視線を送り、ひげをひねくりまわしたり、爪で音をたてたり、宝石をちゃらちゃら鳴らしたり、下唇を噛んだり、その他同じような身ぶりで相手の注目をひかねばならない。女が自分のほうに目を向けたら、友人に彼女やほかの女のことについて話しかけ、自分の寛大さとその道の通人ぶりを彼女に見せつけるべきである。女友だちと並んで坐っているときは、あくびをしたり、身をよじったり、眉をひそめたりして、さも退屈しているようにゆっくりと話しかけ、全く無関心な態度で女友だちの話を聞き流すがよい。また、子供やほかの人間を相手にして話しているときは、いつもふたとおりの意味を持つ会話を行なうようにする。つまり、一見、第三者のことを話題にしているようで、実は自分の愛している女のことを言っているという具合に持ってゆけば、遠まわしに自分の気持ちを表現することができよう。さらに、彼女への気持ちを表わす印を爪や棒きれで地面に書きつけたり、彼女の目の前で子供に抱擁と接吻を与えたり、檳榔子《びんろうじ》ときんまの葉を舌先きでまぜてその子に与えたり、かわいくてたまらないといったふうに子供の顎《あご》を指先きで押したりするがよい。
第三に、女が膝に子供を抱いているとき、その子を愛撫してやり、おもちゃを与えたり、とりかえしたりするがよい。また、彼女を相手にその子のことを話題にすることによって、徐々に親しい感情をつくり出すと同時に、彼女の身内の人々からも気に入られるようにする。こうして彼女と仲よくしておけば、その後たびたび相手の家を訪問する口実ができる。相手の家を訪問したときには、彼女のいないところで、だが、声だけは聞こえるようにして、愛について話すがよい。親密さの度合いが増したら、一種の預金のような形で彼女の手に金をあずけ、時おりその一部をひき出すがよい。でなければ、自分で使う香料や檳榔子などを彼女にあずかってもらうのもよい。
そこまで進んだら、今度は彼女と自分の妻を仲よくさせ、ふたりだけで内証話をするような間柄にまでもってゆく。彼女とひんぱんに会うためには、両家が同じ鍛冶屋《かじや》、宝石商、篭作り、染物屋、洗濯屋などを使うようにしむける必要がある。また、仕事の相談があるという口実をもうけて、公然と長時間の訪問を行ない、その関係をつづけるために、つぎつぎと新しい仕事を作り出す必要がある。彼女がなにかを欲しがっているとき、金銭を必要としているとき、ある芸を身につけたいと願っているようなときは、自分ならどんな希望でもかなえてやれることを彼女にわからせなければならない。また、第三者をまじえた席で彼女と議論をしたり、人々の言動について論じあったり、宝石類のようなさまざまなものを鑑定したりすべきである。このときは彼女にも値打ちのわかる品物を見せてやり、もし品質や値打ちについて意見が割れるようなことがあっても、決してさからわず、なにごとにつけても彼女に同感だという態度を示すのがよい。
女と知り合う法は以上で終わる。
さて、若い娘が以上述べたようにして男と知り合い、さまざまな合図や身ぶりで愛を告白するようになったら、男は彼女を手に入れるために、あらゆる努力をしなければならない。けれども、若い娘には交悦の経験がないから、男は深い思いやりをこめて慎重に事を運ばなければならない。
とはいえ性行為になれている女には、このような考慮は不必要である。女の気持ちがわかり、気おくれもとり除かれたら、男は彼女の金銭を利用しはじめると同時に、衣類や指輪や花を交換する。このとき男は時に美しくて高価な品物を贈るようにしなければならない。そして、檳榔子ときんまの葉を混ぜたものを彼女に求め、集会へ出かける女が髪にさしたり、手に持ったりしている花をもらい受ける。もし男のほうから花を贈る場合には、甘い香りのする花に爪痕や歯型をつけてやるのがよい。こうして、しだいに心づかいを増して彼女の不安を消してやり、やがてどこか静かな場所へ誘い出して、抱擁し、接吻する。そして、最後に、彼女に檳榔子を与えるか、逆にもらうかしたとき、または花を交換しあうとき、男は女の玉門に手を触れて、自分の努力を満足すべき結末へみちびくのである。
ひとりの女を誘惑しながら、同時にほかの女にも手を出すようなことがあってはならない。けれども、最初の女に成功し、しばらくのあいだ彼女を楽しんだら、彼女の好きな贈り物で愛情をつなぎとめておいて、つぎの女に言い寄ってもさしつかえはない。女の夫がどこか自宅の近くへでかけるようなとき、たとえ女が簡単にものになりそうな態度を示したとしても、女を楽しむことは敬遠するほうがよい。世評が気になる賢明な男は、苦労性の女、臆病な女、信頼のおけない女、夫の両親に厳重に監督されている女などを誘惑しようなどと考えないほうがよい。
第三章 女の心理状態を読む法
女を手に入れようとするとき、男は相手の心理状態を読んで、つぎのようにふるまわなければならない。
女が彼の言葉に耳を傾けはするが、自分の気持ちを明らかにしない場合は、仲介者を使って彼女を手に入れるようにすべきである。
一度会った女がまえよりも美しく装ってふたたび会いにきたり、人気のない場所に会いにきたりするようだったら、男は少しばかり腕力を使えば、女体を楽しめるものと確信してよい。自分から男に口説かせるようにしむけておきながら、いっこうに体を許しそうにない女は、恋をおもちゃにする女と考えるべきである。だが、人間は移り気なものだから、たとえこのような女でも、絶えず親密な関係をつづけていれば、ついに征服することができる。
女が男の視線を避け、彼に対する敬意と自分自身の誇りから、会うことはおろか、そばに近づくこともためらっている場合には、男のほうから気さくに話しかけてやるか、あるいは人並みはずれて頭のいい仲介者を利用することによって、簡単にではないが、なんとか彼女を手に入れることができる。
男に言い寄られて柳眉《りゅうび》を逆だてるような女からはすぐに手をひくほうがよい。口では非難しながらも、やさしくふるまう女の場合は、あらゆる方法で言い寄るべきである。人気のない場所で男と会い、男が足で体の一部にさわっても、じっとしている女は、まだ決心がつきかねて、それに気がつかないふりをしているのだから、辛抱強くつぎのような努力をつづけるがよい。
もし彼女が自分の近くで眠るようなことがあったら、左腕で彼女を抱き、目ざめたとき、本気で抵抗するか、それとももう一度そうしてもらいたいためにほんのそぶりだけで抵抗するかを見きわめる。同じことを腕でなく、足でやってもよい。もしこれがうまくいったら、つぎはもっときつく彼女を抱擁する。もし抱擁に耐えきれなくなって立ちあがっても、翌日いつもと同じようにふるまうようだったら、彼女が体を許すことをいやがっていないと解釈してよい。反対にそれっきり彼の前に姿を現わさないようだったら、仲介者をたてて相手を口説きおとすように努力しなければならない。しばらく姿を見せなかったあとで、ふたたび男の前に現われて、ふだんと同じようにふるまうようだったら、彼女が体を許してもいいと思っている証拠である。
女のほうから機会をもうけて愛を告白してきたら、もちろん彼女と交わるのに遠慮はいらない。女が愛を告白するしるしとしては、つぎのようなものがある。
1 男から言葉をかけないのに、まず自分のほうから声をかけてくる
2 人気のない場所で男の前に現われる
3 ふるえながら、ぽつりぽつりと話しかける
4 手足の指にしっとり汗をかき、うれしそうに顔を輝かせる
5 熱心に男の体をマッサージし、頭を愛撫する
6 片手だけでマッサージし、もういっぽうの手で体の一部を愛撫する
7 なにかに驚いたか、疲労にうちのめされたかのように、男の体に両手をおいたまま身動きしない
8 時おり男の太腿のあたりをのぞきこみ、腿をマッサーシしてくれと頼まれても、いやがらない
9 片手を男の体の上においたままじっとさせ、男がそれを手や足でしめつけてもなすがままにさせる
10 最後まで男の誘いに抵抗しておきながら、翌日またなにごともなかったような顔で、マッサージをしにやってくる
女が男に誘いかけるでもなく、そうかといって、避けるわけでもなく、ただ人気のない場所に身をひそめてじっとしているときは、彼女のそば近く仕える小間使いの手引きで、彼女に近づかなくてはいけない。男のほうから声をかけられて同じ反応を示すときは、腕利きの仲介者の助けを借りて彼女を手に入れる。けれども、女が依然としてはっきりした返事を示さない場合は、それ以上誘惑しつづけるべきかどうかを慎重に考慮しなければならない。
女の心理状態を読みとる法については以上で終わる。
男はまず最初に女に紹介してもらい、それから彼女と会話をはじめる。彼は自分の愛を相手にそれとなくほのめかし、それに対する受け答えから、相手も自分を憎からず思っていることを確かめたら、そのときこそなんの懸念もなしに彼女を誘惑しにかかってもよい。はじめて会ったときから男に対して愛情を見せつける女なら、容易に手に入れることができよう。愛の言葉をささやかれて、自分もあからさまに愛の言葉を返してよこす多情な女は、もうその瞬間に体を許したも同然と考えてよい。すべての女についてあてはまる通則は、それが賢い女であれ、愚かな女であれ、あるいは信じやすい女であれ、あからさまに愛情を示す女は容易に手にはいる、ということである。
第四章 仲介者の役割について
女から身ぶりや動作によって愛情や欲望を示されながら、その後たまにしか、あるいは一度も彼女に会う機会がない場合、また一度会っただけの女をなんとかして手に入れたいと望む場合、男は仲介者を得て彼女に接近しなければならない。ところで、この仲介者は、めざす女の好みにあうようにふるまって彼女の信頼を得たのち、女に夫を憎ませ軽蔑させるために、巧みな話術で彼女の心をとらえ、子供のさずかる薬や、他人の噂や、他人の妻の噂などを耳に入れ、彼女の美貌、知恵、寛大さ、すぐれた性質などをほめあげておいてから、こう言うべきである。
「あなたのように一点非のうちどころのないすぐれた方が、あんなご主人といっしょに暮さなければならないなんて、とてもお気の毒で仕方ありませんわ。あんなご主人はあなたの召使いとしてだって落第ですよ」
さらに、仲介者は彼女の夫の情熱が弱いこと、嫉妬深いこと、無頼で不実で、遊びごとが嫌いで、怠け者で、卑しい人柄であることを指摘してやる。とりわけ妻がいちばん被害をこうむっていると思われる夫の欠点を誇大に宣伝してやるがよい。妻が鹿女で、夫が兎男であれば、その点ではまずまずだが、夫が兎男で、妻が象女の場合には、その欠点をはっきり指摘してやらなければならない。
ゴニカプトラは、それが女にとってはじめての情事である場合、あるいは愛情をはっきり口に出すことをためらっているような場合には、男のほうから彼女と知り合いで、信頼もされている仲介者をさしむけるべきだと述べている。
さて本題にもどって、仲介者は相手の女に男の従順さと愛情を伝え、彼女の信頼と愛情がたかまったところを見はからって、彼女につぎのようにしてもらいたいと説明する。
「まあお聞きください。りっぱな家柄の殿方があなたを見そめて、気も狂わんばかりに恋いこがれていらっしゃるんです。あの方は根がやさしい心の持ち主ですし、これまでこんな悲しい思いをした経験はありませんから、苦痛に耐えかねて死んでしまうかもしれませんわ」
それで女が好意的に耳を傾けるようだったら、仲介者は翌日、彼女の表情やまなざしや話し方に好意のしるしを読みとったうえで、ふたたび男のことを話題にのぼせ、アーリアとインドラ、サクンターラ、ドゥシャンティなどの、その場にふさわしい物語を話して聞かせる。また、男は力も才能もあり、バブーラヴィアがあげた六十四種の享楽法にもすぐれ、顔だちもととのっており、そんなことが実際にあったかどうかは別として、彼はさる貴婦人と情交があるらしいといったことを大いに宣伝する。
さらに、仲介者は女のふるまいを注意深く観察しなければならない。そのふるまいが好意的ならば、つぎのようなものであろう。
笑顔を浮かべながら仲介者のすぐそばに坐り、「あなたは今までどこで、なにをしていらしたの? 食事と睡眠はどこでなさったの? 今までどこに坐ってらしたの」と質問する。おまけに、人のいないところで仲介者と会い、さまざまな話をし、物思わしげに溜息をつき、彼女に贈り物をし、お祭りのときには彼女を思い出し、別れるときにはまたお会いしたいと言い、「話上手なお方、どうしてわたしにこんな悪いことを教えてくださるの」とからかい、男と枕を交わすことの罪深さを口にし、そのまえに男を訪ねたり、話しあったりしたことをひた隠しにしているくせに、それとなく探りを入れられると悪い気はせず、男の欲情を笑いはするが、決して非難はしないだろう。女が仲介者に対して示す態度については以上で終わる。
女が上述したような形で愛情を表現したら、仲介者は男からの愛のしるしを女に渡して、彼女の愛情をなおいっそうかきたてねばならない。けれども、女が男の人柄をよく知らない場合は、仲介者が彼の長所をほめあげ、彼の愛情を伝えることによって女の気持ちをなびかせねばならない。アウドダラカによれば、男女双方が相手をよく知らず、愛情のしるしを示していないときは、いくら仲介者の助けをかりても無益であるという。
だが、バブーラヴィアの弟子たちは、たとえおたがいによく知らなくとも、愛情のしるしさえ認められれば、そのときは仲介者をわずらわすべきである、と述べている。ゴニカプトラもまた、愛情のしるしをかわしあっていなくとも、双方がよく知り合っている場合には、仲介者を雇うべきであると主張する。けれども、ヴァーツヤーヤナは、面識がなくとも、また、愛情のしるしも交わしていなくとも、仲介者を信頼することはできる、と述べている。
ところで、仲介者は男からゆだねられた檳榔子《びんろうじ》、きんまの葉、香料、花、指輪などの贈り物を女に見せるべきである。それらの贈り物には男の爪痕、歯型などのしるしをつけておくがよい。
また、女に贈る布地には、真剣に懇願するかのように両手を組み合わせた自分の図をサフランで描いてやるべきである。
仲介者はさらに木の葉をさまざまな形に切り抜いた飾りや、耳飾りや、男の欲望を書きつらねた恋文がはいっている花冠などを女に手渡し、彼女からもお返しに愛情のこもった贈り物を受けとらねばならない。こうして双方とも贈り物を受けとったら、仲介者の世話であいびきの段どりとなる。
バブーラヴィアの弟子たちは、このあいびきは神殿に詣でる日、市のたつ日、園遊会、観劇、結婚式、儀牲奉納、祭、葬式、川で水浴する日、天災、盗難、敵国の侵略にあった日などに行なうがよい、と述べている。
いっぽう、ゴニカプトラの所説では、あいびきの場所として適当なのは女友だち、托鉢僧《たくはつそう》、占星術師、隠者などの家であるという。ところが、ヴァーツヤーヤナによれば、出入りがまったく自由であり、不意の出来事に邪魔される心配もなく、中にはいった男がいつでも好ましくない人物と顔をあわせることなく外へ出られる家こそ、あいびきの目的にふさわしいという。
ところで、仲介者にはつぎのような種類がある。
一 自分ひとりで仕事の責任を全部背負いこむ仲介者
男女双方の情熱を見とどけたのち、自分の知恵をしぼって、ふたりをひきあわせて、事を運ぶ女は〈仕事の責任を全部自分で背負いこむ仲介者〉という。この種の仲介者は主として男女がすでに顔見知りで、言葉をかわしたこともあるというような仲のときに利用されるもので、男女いずれの側から送ってもかまわない(ほかの仲介者は男の側からだけ送られる)。おたがいによく知り合っていないのに、似合いの男女だと判断して、ふたりを結びつけようとする仲介者にもこの同じ名称が与えられる。
二 一部だけ手をかす仲介者
情事がかなり進展していることを見抜いて、この恋を成就させてやろうとつとめる人は、〈一部だけ手をかす仲介者〉と呼ばれる。
三 文使いだけの仲介者
愛しあっていながら、ひんぱんに会えない男女のあいだでメッセンジャーの役割を果たす仲介者を〈文使いだけの仲介者〉という。恋人たちのいっぽうから、相手方にあいびきの時と場所を連絡するために送られる仲介者もこの名称で呼ばれる。
四 自分自身のために働く仲介者
自分から男のもとへ出かけていって、夢のなかであなたと媾合《まぐあい》を楽しんだと言い、あなたの奥さんはわたしの名前を呼ばずに恋仇と呼んだといって彼の妻に腹を立て、男に自分の爪痕や歯型をしるした品物を贈り、あなたが以前わたしに欲望を感じたことを知っているといい、奥さんとわたしとどっちが美人だと思うか、とこっそりたずねる女は〈自分自身のために働く仲介者〉と呼ばれる。男はこういう女と会って話すとき、人目につかぬようにしなければならない。ほかの女のために仲介を買って出ながら、自分自身が相手の男とすっかり親しくなって、依頼者である女に失恋のうきめを見させる女もこの名称で呼ばれる。男の仲介者で相手の女を自分の手に入れてしまう者も同断である。
五 無邪気な若妻の仲介者
若い無邪気な人妻の信頼を得て、それとなく彼女の秘密を探り出し、夫が彼女に対してどのようにふるまうかを知った女が、夫に気に入られる技巧を彼女に教え、愛情の表現法や、どんなときにおこるか、あるいはおこったふりをするかなどを指南してから、自分で若妻の体に爪痕や歯型をつけて彼女を夫のもとへいかせ、彼の欲望を刺激する女、そんな女を〈無邪気な若妻の仲介者〉という。この場合夫は同じ仲介者を通して妻に返事を送らなければならない。
六 仲介者としての人妻
男が妻に自分が楽しみたいと思う女の信頼を得させて、妻の口から自分の知恵や才能を相手に伝えさせる場合、この妻を〈自分の夫のために働く仲介者〉という。この場合は相手の女の気持ちも妻を通して夫に伝えられる。
七 無言の仲介者
男が適当な口実をもうけて、若い娘か召使い女かを愛する女のところへいかせて、彼女の耳飾りや花束の中に恋文をそっと忍ばせたり、彼女の身のまわりに自分の爪痕や歯型のついた品物をおかせたりする場合、この若い娘や召使い女は〈無言の仲介者〉と呼ばれる。女からの返事を運んでくるのも、同じ仲介者の役目である。
八 風の役割を果たす仲介者
二重の意味を持つ手紙、過去の情事について述べた手紙、他人にはなんのことかわからない手紙などを女のもとへ運んでゆく人を、〈風の役割を果す仲介者〉という。この場合も、同じ仲介者を通じて女に返事を求めなければならない。
さまざまな仲介者については以上で終わる。
女占星術師、召使い女、女乞食、女芸人などは仲介の達人であり、短時間で相手の女の信頼を得るこつを知っている。また彼女たちは思いのままに人と人を対立させたり、女の美しさをほめたたえたり、ほかの女たちが交会中に行なう秘技を見てきたように説明することができる。男の愛情や愛技や仲介者が話しかけている女よりももっと美しい女たちに対して彼が抱いている欲望なども、この仲介者たちにかかると、いくらでも美化して語られるし、家庭にいるときの男のおとなしさなどもきわめて言葉巧みに説明する。
最後に、仲介者はその巧みな話術で、たとえ女に相手にされなかったにせよ、もしくは高嶺《たかね》の花だったにせよ、ふたりのあいだを結びつけることができる。またなにかの理由で女と別れた男をひきもどすことにかけても、きわめて巧みである。
第五章 人妻に対する権勢家の愛について
王や大臣は他人の家へ足を運ぶことがないうえに、その生活は絶えず一般庶民に監視観察され、お手本にされる。それはちょうど動物界と同じで、日が昇ると動物どもは起き出し、日が沈むと同様に体を横たえる。だから権勢家は公衆の面前で、その地位からしては不可能な、非難に価する行動をしてはならない。ただ万やむをえない場合は、つぎに述べるような適切な方法を利用すべきである。
村長、村に配置された王家の役人、落穂拾いを業とする人などは、ただ求めるだけで、村の女たちを手に入れることができる。漁色家たちに百姓女は尻が軽いといわれる理由はそれである。
前記の男たちとこの階層の女たちとの結合が行なわれるのは、労働奉仕のとき、家々の穀倉をみたすとき、家の中の品物を出し入れするとき、家の掃除をするとき、畑に出て働くとき、綿、羊毛、亜麻、大麻、糸などを買いつけるとき、その他もろもろの品物の買付け、さらにまた、そのほか種々の作業を行なうときなどである。同様に牛舎の監督は牛舎で働く女たちを楽しみ、寡婦をはじめ、扶養者のいない女、夫と別れた女などを監督する役人は彼女たちと性行為を営む。利口な男は夜になると、村の中を歩きまわって目的をとげるし、村人たちは息子の嫁とふたりっきりでいることが多いので、しばしば彼女たちと関係を結ぶ。最後に、市場の監督は市へ買い物にやってきた村の女たちを相手にして、いくらでも楽しむことができる。
八日月の祭のあいだ……つまりナルガシルシヤ月の月が明るく輝く半月のあいだ、カルティカ月の明月祭のあいだ、それにチャイトラの春祭のあいだなどに、都や町の女たちは王宮のハレムの女たちを訪問する。彼女たちはそれぞれ知り合いの女の部屋を訪れて、世間話やゲームなどで夜をすごし、朝がた自分の家へ帰ってゆく。このとき王の侍女は(まえもって王が目をつけた女と知り合っておいて)、ハレムをぶらつき、目あての女が帰ろうとするときに声をかけて、宮殿ですばらしいものを見せてやるからこないかと誘いかける。侍女は祭の夜にさきがけて、目あての女にこの晩は王宮ですばらしいものを見せてあげられるかもしれない、とほのめかしておく必要がある。こうして赤い蔓草におおわれたあずまや、床に宝石をちりばめたあずまや、ぶどうの木に囲まれたあずまや、水上の建築物、王宮の壁の秘密の抜け穴、絵画、競技用の動物、さまざまな機械、珍しい鳥、ライオンや虎の檻《おり》などを見せてやる。そのあと彼女とふたりきりになったところで、王さまが彼女にご執心なこと、王さまと寝れば、すばらしい果報に恵まれることを伝え、このことは決して他言しないことを約束する。女が承知しないときは、王にふさわしいりっぱな贈り物で機嫌をとり結び、しばらく彼女といっしょに歩いてから、さも残念そうに帰してやる。
あるいは、王妃たちが女の夫と知り合って、彼の妻にハレムを訪問させるよう頼んでおく。この場合、王の侍女がハレムにおもむいて上述の役割を果す。
あるいは、王妃のひとりが侍女を女のもとにつかわして、彼女と知り合いになる。侍女は彼女と親しくなったら、王宮へ遊びにこないかと誘いかける。やがて、彼女がハレムを訪問して信頼を得るようになったら、侍女をそこへつかわして、上述の役目を果させる。
でなければ、王妃が王の望む女を王宮に招いて、王妃自慢の芸を見せてやり、彼女がハレムを訪問したら、そこへ侍女をつかわして、前述の役目を果たさせる。
さもなければ、王妃と結託《けったく》した乞食女が、王の目をつけた女に向かってつぎのように言う。その女の夫は財産をなくしたか、なにかの理由で王を恐れている。
「あの王妃は王に対して強い発言権を持っておりますし、そのうえ生来情け深い方ですから、この問題を解決するためには、あの方に会われるのがいちばんですよ。わたしが手引きをしますから、ぜひハレムへいらっしゃい、そうすれば、あの方が王から受ける危険や恐怖をすべてとりのぞいてくださるでしょう」
女がこの誘いに乗ったら、乞食女は彼女を二、三度ハレムへ連れてゆく。そして、王妃は彼女に保護の約束を与える。女が歓待と保護をありがたく思い、再度ハレムを訪問するようだったら、侍女をつかわして、前述の役目を果たさせる。
なにかの理由で王を恐れている男の妻について以上述べたことは、王にとり入って仕官しようという望みを抱く者、王の大臣に圧迫されている者、貧者、現在の地位に不満を抱いている者、王の寵愛を得ようとする者、世間的な名声を得たいと望む者、同じカストの成員に圧迫されている者、同じカストの仲間を中傷したいと望む者、王のスパイをつとめる者、そのほか、なにかの望みを持っている者の妻にも適用される。
最後に、王の目をつけた女が夫以外の男と同棲している場合、王は姦通罪をもって彼女を逮捕させ、奴隷としてハレムに閉じこめる、あるいは、王の代理人に命じて女の夫と一悶着《ひともんちゃく》おこさせ、彼女を王に反抗する人間の妻として投獄し、この方法によってハレムに閉じこめる。以上で人妻をひそかに手に入れる方法について終わる。
他人の妻を手に入れるための前述の諸手段は、主として王の宮廷で行なわれる。けれども、王は決して他人の家に足を踏み入れてはならない。なぜなら、コッタスの王アビーラは他人の家で洗濯夫に殺され、カシスの王ジャヤサナも同様にして、騎兵隊長に殺された前例があるからである。
だが、ある地方の習慣に従えば王が他人の妻に言い寄る簡単な方法もある。たとえばアンドラス地方では、新婚早々の若妻は、結婚十日後に贈り物を持って王のハレムにはいり、王に肉体を捧げたあとはじめて解放されるという習慣がある。ヴァツァグルマス地方では、夜になると、大臣たちの妻が王の夜伽《よとぎ》をつとめる。ヴァイダルバース地方では、住民の美しい妻たちが、王に対する忠誠のしるしに一カ月間をハレムですごす。アパラタカス地方では、住民が美しい妻を王や大臣への貢ぎ物としてさし出す。最後にサウラシュトラス地方では、町や村の女たちが王を楽しませるために、集団、または単独でハレムにおもむく。
これについてもつぎのようなふたつの諺《ことわざ》が添えられている。
「以上はさまざまな地方で王が他人の妻を手に入れるときに用いる手段である。けれども、真に人民の幸福を願う王は、いかなる理由があっても、これらの手段を実行してはならない」
「人類の六つの敵に打ち勝った王は、全世界の支配者となる」
第六章 王家のハレムの女たちについて。自分の妻を護る法について
王家のハレムの女たちは厳重に監視されているから、男に会うことはできないし、たったひとりの夫を多数の妻が共有している状態だから、欲望を満足させることもできない。このため彼女たちはこれから述べるような種々の方法によって、おたがいに快楽を与えあう。
乳母の娘や女友だちや侍女を男装させ、リンガに似た型の球根や果実を用いたり、リンガがはっきり直立している男性像の上に横たわったりして目的をとげる。
情け深い王は、自分は欲望を感じなくとも、妻妾たちの欲望を満足させてやるために、ひと晩になん人も相手にしてやれるよう、強精剤を用いることがある。また、自分が特別気に入った妻だけを楽しむ王もいれば、定まった順番に従って、公平に全部の妻たちと枕をかわす王もいる。東洋の国々ではこういう形が一般的であり、また、ここで述べた女性の楽しみ方は男性にもあてはまる。
ハレムの女たちは侍女の手引きで女装した男を自分の部屋にひき入れる。この秘密を知っている侍女や乳母の娘は、男を口説いてハレムに連れこもうとするとき、そうすれば果報が舞いこむことや、宮殿への出入りがきわめて容易なことや、王宮が広すぎて人目につきにくいことや、見張りが怠慢なことや、ハレムの女たちの身辺の護衛が不規則であることなどを説明しなければならない。ただ彼女たちが心しなければならないのは、嘘をついてハレムに男をひきこんではならないということである。というのは、そんなまねをすると、男の身の破滅になりかねないからである。
いっぽう男の立場に立って言えば、王のハレムにはいりこまぬほうが賢明である。潜入がどれほど容易に見えたとしても、いつどんな危険に遭遇するかしれないからである。
だが、どうしてもはいりこみたかったら、いざというときに楽に逃げ出せる口があるかどうか、まわりは全部庭園に囲まれているかどうか、その庭をほかとへだてる囲いがあるかどうか、見張りが不用心かどうか、王は外出しているかどうかなどをまえもってたしかめておく必要がある。そして、ハレムの女に誘われたら、そのあたりの地理を注意深く観察したうえで、指定された入口からはいるようにしなければならない。さらに、できることなら毎日ハレムのまわりをぶらついて衛兵と友だちになり、ハレムの召使い女に気があるようなふりをして彼女に自分の意図を知らせ、目的をとげられぬ悩みをこぼすがよい。最後に、ハレムに出入り自由の女を仲介者に仕立てる方法もあるが、いずれにしても、王のスパイはすぐそれと見分けられるよう、くれぐれも注意しなければならない。
仲介者がハレムにはいりこめない場合は、男は愛する女の姿が見える場所に立って機会を待つべきである。
しかし、その場所に王の監視人がいる場合は、その場を通りかかる婦人の侍女に変装して、あやしまれないようにする。女が自分のほうに視線を向けたら、合図や身ぶりで自分の気持ちを伝え、絵や、どうとも意味のとれる物や、花冠や、指輪などを見せる。そして、相手の言葉や合図や身ぶりによる答えをよく見きわめてから、ハレムにはいりこむようにする。もし相手がどこか特別の場所にくることがはっきりとわかったら、その場所に身を潜めていて、指定の時間に従者に化けて彼女といっしょに内部にはいりこむ。折りたたみベッドやふとんの中に身を隠して潜入したり、薬を塗って姿を消しながら、潜入したりする方法もある。つぎに述べるのはその薬の処方のひとつである。
マングースの心臓と長いひょうたんの実《ツムビ》と蛇の目を混ぜて煙がでないように焼き、灰を細かく砕いて同量の水で練る。これを自分の目に塗ると、他人の目には姿が見えない。
ドゥヤナの婆羅門やジョガシラなどは、そのほかさまざまな消身術を述べている。
ハレムに潜入するにも、ナルガシルシャ月の第八日月の祭のあいだとか、明月祭のあいだ、ハレムの召使い女たちが仕事に忙殺されているときがよい。
ハレム潜入についてはつぎのような原則が定められている。
若い男がハレムに忍びこむ時期としては、一般に宮殿に品物が運びこまれたり、運び出されたりするとき、宮殿内で宴会が開かれているとき、召使い女たちが忙しく立ち働いているとき、王妃のひとりが住居を変えるとき、王妃たちが庭や市へ出かけているとき、彼女たちが外出先から宮殿に帰ってくるとき、また、王が長期間の巡礼の旅に出て不在のときなどがよい。ハレムの女たちはおたがいの秘密を知っているし、みなひとつの同じ目的を抱いているから、事あるときは、おたがいに助けあうものである。彼女たち全部と関係を持ち、みんなの共有物となっている若者は、そのことを秘密にして外部に知れないようにするかぎり、いつまでもこの関係を楽しむことができる。
アパラタカス地方の王妃たちは十分に監視されていないので、多くの若者たちが宮殿に出入りする女たちの手引きでハレムに忍びこんでいる。
アヒラ地方の王妃たちは、カシュトリアと呼ばれるハレムの衛兵たちを相手にその目的をとげている。
ヴァツァグルマス地方の王妃たちは、恋人が仲介の女といっしょにハレムに忍びこめるようみずから手引きをしている。
ヴァイダルバス地方では、王妃たちの息子が自由にハレムに入りこみ、母親以外の女たちと関係している。
ストリ・ラージャ地方では、王妃たちは同じ階級の男や身内の人間と関係を結んでいる。
ガンダ地方では、王妃たちは婆羅門、友人、召使い、奴隷などと関係を結んでいる。
サムダヴァ地方では、召使い、乳兄弟などがハレムの女たちを享楽している。
ハイマヴァタス地方では冒険好きの市民が監視人を買収してハレムに忍びこんでいる。
ヴァニアスやカルミアス地方では、王を知っている婆羅門たちが、女たちに花を贈り、カーテンのかげから話しかけるという口実でハレムに入りこみ、そうした会話のあとで肉体関係が結ばれる。
最後にプラチャス地方の王室のハレムでは、女たちが九人ないし十人ずつひと組になって、ひとりの若い男をハレムの中にかくまっている。
人妻たちは以上のように行動する。だからこそ、男は自分の妻を厳重に見張らなければならない。
古代の著作家たちによれば、王たる者はハレムの監視人として、肉欲から脱却したことが十分に証明された男たちを選ぶべきであるという。しかし、肉欲とは縁のない人間でも、脅迫されたり、金で買われたりして、男をハレムに引き入れることがあるかもしれないから、王がハレムを監視させる人間は肉欲からの解脱《げだつ》や恐怖心や物欲などを十分に吟味したうえで任用しなければならないと、ゴニカプトラは述べている。最後にヴァーツヤーヤナはこう言っている。ダルマの支配下にある人々はハレムへの出入りを許されるかもしれないから、肉欲、恐怖、物欲のみならず、ダルマからも解放された人間を選ぶべきであると。
バブーラヴィアの弟子たちは、男は自分の妻を若い女と交際させ、その女の口から他人の秘密を聞き出し、こうして妻の貞節についての情報が得られるだろうと説いている。けれども、ヴァーツヤーヤナは、よこしまな人間はかならず女をわがものにしてしまうから、世間知らずな妻をずる賢い女の仲間にいれて堕落させてはならないと警告している。
女の貞節が失われる原因には、つぎのようなものがある。
社交界へ日参して、人々と交際すること
自制心の欠如
夫の放蕩
夫以外の男との交際での無分別
長期間にわたる夫の不在
外国暮らし
夫による愛情の破壊
不身持ち女との交際
夫の嫉妬
この点についても、つぎのような諺がある。
「性典類から人妻を獲得する方法を学んだ賢明な男は、自分の妻の場合は、決して欺《あざむ》かれない。けれども、これらの方法を利用して他人の妻を誘惑してはならない。なぜなら、必ずしも成功するとはかぎらないし、そのうえしばしば不幸とダルマやアルタの崩壊を招くからである。人々の福祉のために、また、自分の妻を護る方法を教えるために書かれたこの書を、他人の妻を誘惑するためにのみ利用してはならない」
第六部 娼婦について
序言
娼婦について述べたこの第六部は、約二千年前にダッタカがパタリプトラ地方(現在のパトナ)の女たちのために書いた文章をもとにして、ヴァーツヤーヤナが執筆したものである。ダッタカの作品は現存していないようだが、ヴァーツヤーヤナによる抄約本はきわめて巧妙にできており、エミール・ゾラをはじめとする今日のリアリズム派作家の作品にも匹敵するほどである。
娼婦について書かれた文章は無数にあるが、娼婦の属性、物の考え方、心の動きなどについて以下の数章より鋭い観察を行なったものはどこにも見当らないだろう。
古代インドの家庭生活や社会生活の全貌は、娼婦をあげないでは完全なものとはなるまい。本章はすべてその娼婦に関する記述に費されている。インド人は昔から娼婦を人間社会に欠くことのできない一部と考える良識をそなえており、彼女たちが節度をわきまえて礼儀正しくふるまうかぎり、ある種の敬意をこめて眺められていた。いずれにせよ、東洋では西洋のように娼婦が悪意と侮蔑をこめて扱われる風習などないし、いっぽう彼女たちの教養は東洋の国々の一般の女たちよりもまさっているのが常であった。
古代インドの教養豊かな踊り子や娼婦は、疑いもなくギリシャの高等内侍《ヘテラ》に似ていて、教育もあり、なかなかおもしろい存在であったから、当時の既婚未婚の一般女性より話相手としてはるかに喜ばれた。すべての時代、すべての地方を通して、娼婦と一般女性のあいだには競争意識というものがほとんどなかった。しかし、生まれながらの娼婦がいて、社会のあらゆる階層で本能のおもむくままに行動するいっぽう、ある著作家も述べているように、すべての女が娼婦的性格をいくぶんなりとも持っていて、男にとり入るために最善をつくすということもまた、真理である。
女性の敏感さ、その鋭い直感、知識、男性とか物事に対する評価の鋭さなどはすべて以下の文章に示されているが、それは世界中の多くの作者たちが長いあいだかかって詳細に描きあげた精髄《せいずい》と見なしてよいものである。
第一章 娼婦が男を求める理由。好きな男を惹きつける法。娼婦が交渉を持ちたがる男のタイプについて
娼婦は男と関係することによって、性的快楽を得ると同時に、自分の生計も立てている。
ところで、娼婦が愛を感じて男と交渉を持つとき、その行為は自然だが、金もうけのために男にはしるとき、彼女の行為は人為的、もしくは強いられたものである。だが、後者の場合でも、彼女は本心から男を愛しているようにふるまわなければならない。なぜなら男は一見自分を愛しているように見える彼女たちに信頼を寄せるからである。男に愛情を知ってもらいたいならば、絶対に貪欲《どんよく》でないところを見せるべきで、将来の信用のためにも、不法な手段で金銭をまきあげることは控えなければならない。
娼婦は正装し、装身具の類をまとって、自宅の入口に立つか、坐るかしながら、大通りに視線を投げかげる。その場合、一種の売り物であるから、通行人の目にふれるようにしなければならない。娼婦が友人として選ぶべき人々は、男女の仲をさいて男を自分に惹きつけるようにしむけてくれる人、不幸を償ってくれる人、金もうけをさせてくれる人、なんらかのかかわりのある人々に攻撃されたり、意地悪されたりしたときに護ってくれる人などである。
その条件にあてはまるのはつぎのような人々である。
町の警備人、または巡査
裁判所の役人
占星術師
権勢家、または顔のきく人物
学者
六十四芸の教師
ピタマルダ、すなわち相談相手
ヴィタ、すなわち幇間《ほうかん》
ヴィドゥシャカ、すなわち道化師
花屋
香料屋
酒屋
洗濯夫
床屋
乞食
その他特定の目的を達成するために必要な人々。
つぎにあげるのは、金銭をもらうだけを目的としてつきあってもよい人々である。
独立できるだけの収入がある男
若い男
係累《けいるい》のない男
王の家臣として権威ある地位についている男
楽々と生計をたてている男
確実な収入源を持っている男
自称美男子
自慢ばかりしている男
宦官《かんがん》のくせに、男性だと思われたがる人間
同僚を憎んでいる男
生来気前のよい男
王や大臣に対して発言権を持つ男
いつも幸運に恵まれている男
財産を鼻にかける男
年長者の命令にそむく男
同じ階級の人々に注目されている男
金持ちのひとり息子
内心欲望をもてあましている禁欲家
派手好みの男
王の侍医
昔の知合い
反対に愛情と名声が欲しいときは、すぐれた性質を持つ人々に訴えるべきである。それにはつぎのような人々がよい。
生まれがよく、学識もあり、世間に通じ、時と場所柄をわきまえて仕事をする男、詩人、すぐれた物語作者、雄弁家、精力家、諸芸にすぐれた男、先見の明ある男、寛大な男、忍耐強い男、献身的な男、腹を立てない男、気前のよい男、親孝行な男、社交好きの男、他人の作りかけの詩を完成させる才能やスポーツの才能に恵まれた男、健康な男、完全な肉体を持ち、力強く、酒癖の悪くない男、精力絶倫の男、女に愛想がよく、彼女たちの心を惹きつけるが、決して女に溺れない男、独立の生計を営む能力のある男、嫉妬深くない男、そして最後に、信じやすい男。
以上は男の美質である。
女もまたつぎのような特性をそなえていなければならない。
美人で愛想がよく、体の一部に幸運のしるしをそなえている。他人の長所を愛し、富を愛する。愛にもとづく交悦に喜びを見出し、志操堅固で、性的享楽の点では男に劣らない。いつも経験と知識を増すよう心がけ、欲ばらず、社交や技芸を愛する。
すべての女はつぎにあげる一般的性質を身につけていなければならない。
知性、善良な気質、りっぱな作法を身につけていること、率直に行動すること、恩義を忘れないこと、なにか実行するまえに将来をよく考えること、行動的でなければならないが、その行動が一貫性を持ち、時と場所柄にかなったものであること、人と話すときに下品な高笑いや、悪意や、怒りや、吝嗇《りんしょく》や、愚かさなどをむき出しにしないこと、カーマ・スートラに精通し、それに関連した技芸をすべて身につけていること。
つぎのような男を娼婦は敬遠すべきである。
肺病男、腺病質の男、虫歯男、息が人糞のような悪臭を放つ男、愛妻家、言葉づかいの乱暴な男、猜疑心の強い男、けちな男、無慈悲な男、泥棒、うぬぼれ男、呪術にふける男、尊敬されても、ばかにされても意に介さない男、金を見せられると敵方にさえ寝返りかねない男、極端に内気な男。
古代の著作家たちの所見では、娼婦が男と交渉を持つ理由には、愛情、恐怖、金銭、快楽、復讐心、好奇心、悲しみ、親しみ、ダルマ、名声、同情、友人を求める気持ち、恥、恋人との相似、幸運を求める心、他人の恋の邪魔だて、性的結合の点で男と同じ種類であること、同じ場所に住んでいること、誠実、貧困などがあるという。だが、ヴァーツヤーヤナは富の欲求と不幸からの解放と愛情と、この三つが娼婦を男に結びつける唯一の理由であるとしている。
娼婦は愛のために金銭を犠牲にしてはならない。というのは、金銭こそは第一の目的で、これに専ら意を用いなければならないからである。けれども、なにかを恐れているときは、腕力その他の特性にも関心を払う必要がある。それにまた、男に誘われたからといって、簡単に同衾《どうきん》を承諾すべきではない。なぜなら男は安易に手にはいるものを軽んじがちだからである。そういう場合には、まず代理としてマッサージ師、歌手、道化師など、あるいは、彼らが不在のさいは腹心の友をつかわして、男の気持ちや心理状態を確かめるがよい。それらの人々によって男の気持ちが純粋か不純か、真剣なのか遊びなのか、愛情があるのか冷淡なのか、気前がよいのかけちなのかを確かめるべきである。もしその男が気に入ったら、幇間《ほうかん》などをやとって男の心を惹きつける。
やがて腹心の友に頼んで、鶉や雄鶏や山羊などの戦いを見せるとか、マイナ(一種の椋鳥)の鳴き声を聞かせるとか、なにか珍しいもの、もしくは珍芸を披露するとかの口実をもうけて、男を自分の家へ連れてきてもらうか、さもなければ、反対に男の家へ案内してもらうようにするがよい。男のほうからやってきたら、彼の好奇心を刺激し、愛情を植えつけるような物、たとえば愛情のこもった贈り物などをして、これはあなたのために特別にあつらえたものだと説明する。また、相手がもっとも喜びそうなことを話したり、したりして、長い時間興がらせなければならない。男が帰ったあと、付添いの女で話術に長けた者にささやかな贈り物を持たせて、なんども先方を訪問させる。時には用事にかこつけて、腹心の友といっしょに自分で出かけてゆくのもよい。
好きな男の気をひく方法については以上で終わる。
この問題についてもつぎのような諺がある。
「恋人が住いに訪ねてきたら、娼婦は檳榔子《びんろうじ》ときんまの葉の混合物、花輪、香油などを贈り、諸芸の腕前を披露し、飽きのこない会話でもてなさなければならない。また愛情のこもった贈り物をし、おたがいの持ち物を交換し、愛技に長じているところを見せなければならない。こうして恋人と結ばれたら、彼女は常に温い贈り物や会話や愛情のこもった享楽法を使って、恋人を楽しませねばならない」
第二章 娼婦が妻のような生活をする場合
娼婦が恋人といっしょに住んで妻のような生活をする場合は、貞女のようにふるまい、恋人が満足するように全力をつくさねばならない。この場合の彼女の義務は、一言でいえば、恋人に喜びを与えることで、表面は彼を愛しているようにふるまうけれど、決して本心から慕ってはならない。
ところで、上述の目的をとげるには、彼女はつぎのようにふるまわなければならない。まず自分に依存している母親が必要である。その母親は、金だけを生甲斐と考えている体《てい》の、粗野な女でなければならない。実際の母親がいないときは年老いた信頼のおける乳母にその代役をつとめさせる。母親または乳母は娘の恋人が気に入らないふりをして、むりやり彼女をひきはなしてしまう。娘のほうはこのことで絶えず腹を立て、失望し、恐れ、恥ずかしく思っているようなふりをするが、母親または乳母の命令に逆らってはならない。
彼女は母親または乳母に恋人が病気していると告げ、これを会うための口実として、外出する。それからまた、男の好意を得るために、つぎのようなことをすべきである。
召使いの女をつかわして恋人が前日に使った花をもらってこさせ、愛情のしるしとしてそれを自分で使う。また、男が噛み残した檳榔子ときんまの葉をもらい受ける。媾合についての彼の物知りぶりや彼の使う数種類の享楽法に驚嘆してみせる。バブーラヴィアの説く性愛の六十四種の快楽を彼から手ほどきしてもらう。彼から教えられたとおり、その好みに従って、絶えず享楽法を練磨《れんま》する。彼の秘密を守る。自分の秘密と欲望を彼に打ち明ける。腹が立っても顔に現わさない。ベッドの上で彼が顔を向けたとき、知らぬ顔をしない。彼の希望に応じて体のどんな部分にも手を触れる。彼が眠っているときは接吻し、愛撫してやる。彼が考えにふけったり、彼女以外のことを考えたりしているときは、心配そうに顔をのぞきこんでやる。
彼と会ったとき、または自分の家のテラスに立っている姿を往来から見られたとき、適度のはじらいを示す。彼の敵をいっしょになって憎む。彼にとって大切な人々を愛する。彼の好むものを自分も好む。彼の心理状態を敏感に読みとって同調する。彼の妻たちに会いたがる。いつまでも腹を立てつづけない。自分で彼の体につけた爪痕や歯型を、ほかの女がつけたのではないかと疑う。彼に対する愛を言葉ではなく、行為や合図やそぶりによって示しつづげる。彼が眠っているとき、酔っているとき、病気しているときは話しかけないで静かにしている。彼が善行を自慢するときは、じっと耳を傾け、あとでそのことを引き合いに出して、彼をほめたたえる。
彼が自分にぞっこん惚れこんでいるようだったら、機智に富んだ受け答えをする。彼の話に注意深く耳を傾ける。ただし、自分の競争相手の話についてはそのかぎりでない。
彼が溜息を洩らしたり、あくびしたり、寝ころがったりしたら、がっかりした悲しそうな表情を浮かべる。彼がくしゃみをしたら、すぐに〈長生き〉のしるしだと言ってやる。自分がみじめな気分のときは体の具合が悪いとか、子供が欲しくなったとか言ってごまかす。他人の長所をほめたり、彼と同じ欠点を持っている人間をけなしたりしない。彼のくれた衣裳はなんでも身につける。
彼が病気で苦しんでいるとき、気落ちしているとき、不幸に悩まされているときなどは、宝石飾りや食事を断ち、親身になって慰め、悲しんでやる。万一、自分から国をはなれたり、王に国外へ追放されたりするようなことがあったら、彼と行動をともにする。彼にむかって「あなたよりあとまで生き残りたくない」と訴える。自分の人生の目的や希望はすべてあなたと関係があると訴える。
彼が金持ちになったとき、希望が実現したとき、病気から回復したときなど、前もって約束しておいた供物を神に捧げる。毎日宝石を身につける。彼に対してあまりにも無遠慮な態度をとらない。彼の名前や彼の家族の名前を歌のなかに織りこんで歌う。彼の手を自分の腰や胸や額におき、その感触を楽しんだあとで眠りにつく。彼の膝に抱かれて眠る。彼の子供を欲しがる。彼の秘密を他人に明かさない。「わたしが身代わりになって罪をかぶります」と言って、彼に願かけや断食を思いとどまらせる。それでも、彼の決心が変わらないときは、自分もいっしょに願をかけ、断食にはいる。もしふたりの意見がくいちがえば、願かけも断食も長つづきしないと彼に訴える。
自分の財産と彼の財産を区別しない。自分ひとりで社交の集いに顔を出さないようにし、彼に誘われたら、必らずいっしょにゆく。以前彼が使っていた品物を喜んで使い、彼が食べ残したものを喜んで食べる。彼の家族、気質、技芸の才能、学識、階級、性格、生まれ故郷、友人、長所、年齢、やさしい心などに対して敬意を示す。彼に歌を歌ってくれと頼む。恐ろしさや、寒さ暑さ、雨などをものともせずに、彼のもとへ通う。きっと来世もあなたの恋人となるにちがいないと語る。自分の趣味や気質や行動を彼の好みにあわせて改造する。彼のもとへ通うことについて絶えず母親と言い争い、むりやりにほかの場所へ連れていかれたら、服毒、絶食、刃物、首つりなどの手段で死んでやると彼女をおどかす。最後に、代理の者を通じて彼に自分の誠実さと変わらぬ愛を誓い、自分自身で金を受けとるが、金銭上の問題に関して母親と言い争ってはならない。
男が旅に出たら、彼女は一刻も早く帰ることを誓わせ、留守中は神に祈ることをやめ、幸運のおまもり以外の装身具はいっさい身につけないようにする。予定の日がすぎても彼が帰らなかったら、確実な帰宅の日取りを占ってもらい、人々から情報を集め、星や月の位置から、その日取りを確かめるようにしなければならない。うれしいことがあったり、縁起のよい夢を見たりしたときは、「一日も早く彼と結ばれるようにしてください」と祈るがよい。逆に気分がふさいだり、不吉な兆《きざ》しを感じたりしたら、神の怒りをしずめるための儀式を行なわなければならない。
恋人が帰宅したらカーマ神(インドの愛神)に感謝の祈りを捧げるとともに、他のもろもろの神々にも供物を奉納し、水をみたした壷を友人に持ってきてもらって、祖先の霊に奉げる供物をついばむカラスのため礼拝の儀式を挙行しなければならない。最初の訪問のあと、彼女は恋人にもある種の儀式をとり行なうよう頼まなければならない。もし彼が心底から彼女に惚れているならば、この頼みを実行してくれるだろう。
ところで、男の愛が無私無欲のものであれば、もし彼が愛する女と同じ目的を持っているならば、彼女に対してなんの疑いも抱かないならば、彼女に関するかぎり金銭に対して恬淡《てんたん》としていれば、男というものはその女に心底から惚れているといわれる。
男と同棲して妻のように暮らしている娼婦の生活態度は以上のとおりである。これは案内書としてダッタカの諸原則にもとづいて記述したものであり、ここに記述しなかった事柄については、庶民の習慣、各個人の性質に従って実行するがよい。
この主題についてもつぎのようなふたつの諺がある。
「女の愛の深さは愛の対象となる男にさえ測りがたい。女の愛はあまりにも微妙で、女性全体が貪欲《どんよく》で、生まれながらの知恵を身につけているせいである」
「女は男を愛することもあれば、冷淡になることもある。男を喜ばせることもあれば、見捨てることもある。あるいは、男の財産をそっくりしぼりとってしまうこともある。いずれにせよ、女の正体はなかなかわからないものである」
第三章 金もうけの法。恋人の心変わりのしるし。恋人を袖にする法について
恋人の金をしぼりとるにはふたつの方法がある。つまり、自然な、もしくは正当な方法と手管《てくだ》を使う法である。古代の著作家たちは、娼婦が恋人から欲しいだけ金をしぼりとるときは、手管《てくだ》を使ってはいけないという見方をしている。けれども、ヴァーツヤーヤナは、正当な方法でも何がしかの金は入手できるが、手管を利用すればその二倍の金が手にはいるから、金が目的なら、手管にこそ頼るべきだという意見を述べている。
ところで、恋人から金をだましとる手管にはつぎのようなものがある。
1 装身具、食物、飲物、花、香料、衣服などの品物を買うと称して、実はなにも買わないか、あるいは水増しした金を請求する。
2 面と向かって男の聡明さをほめたたえる。
3 願かけ、木、庭、寺院、水槽などに関連した祝いごとのとき、贈り物を買う金が必要だと偽わる。
4 恋人の家へ行く途中で王の護衛兵、または強盗に宝石を盗まれたと偽わる。
5 火事で無一物になったとか、家の倒壊や召使いの不注意で家財をなくしてしまったとか訴える。
6 恋人の宝石を自分の宝石といっしょに紛失してしまったふりをする。
7 恋人を訪問するために出費がかさむことを、友人の口から彼の耳に入れる。
8 恋人のために借金をつくったと言いふらす。
9 恋人ができたために出費がかさみ、母親がそれを認めないので、言い争ったと偽わる。
10 まえもって恋人に友人らから高価な贈り物をもらったことを伝えておき、そのお返しをする金がないので、友人たちの家で開かれる宴会や催しに出席できないとこぼす。
11 金がないという理由で祝いごとをとりやめる。
12 恋人につくしたいために芸人を雇う。
13 ある目的をとげるために医者や大臣をもてなす。
14 友人や恩人にめでた「ことがあったり、不幸に見舞われたりしたとき、祝儀や見舞金をあげる。
15 家庭内の祭式を行なう。
16 女友だちの息子の婚礼の費用を払ってやらねばならないという。
17 妊娠中妙な欲望をみたさねばならないという。
18 病気になったふりをして、治療代を請求する。
19 友人の不幸をとりのぞいてやらなければならないという。
20 恋人に贈り物をするために自分の装身具を売ったという。
21 まえもってしめしあわせておいた道具屋に、装身具や家具や台所用具を売ったふりをする。
22 他家の台所用品よりはるかに高価な物を買わなくてはならないと言う。そうすれば、すぐに見分けがつくし、粗悪な品物とまちがってとりかえられる心配もない。
23 恋人になれそめのころの気前のよさを思いださせたり、友人や追従者にたえずそのことをしゃべらせる。
24 ほかの娼婦たちが、いかに多額の金を受けとっているかを恋人に話す。
25 仲間の娼婦や恋人のいる前で自分の収入がみなのそれよりもずっと多いことを自慢する。実際はそうでなくとも。
26 昔の恋人たちとよりを戻せば収入もふえると母親に言わせておいて、恋人の前でそれに反対する。
27 恋人に彼の競争相手の気前のよさを指摘してやる。
以上で娼婦の金もうけの秘訣は終わる。
女はつねに恋人の気質や態度や顔色の変化から、自分に対する彼の心理状態を判断しなければならない。恋人の熱がさめつつあるときの行為は、つぎのとおりである。
1 女に求められた金銭よりも少なく与え、ねだられたのとちがう品物を与える。
2 いろいろ約束をして女にいつまでも期待させる。
3 ひとつのことをするようなふりをして、実は別のことをする。
4 彼女の願いごとを満たしてやらない。
5 約束を忘れたり、約束した以外のことをしたりする。
6 召使いと妙なふうに話しあう。
7 友人になにかしてやらなければならないという口実をもうけて、よその家で寝る。
8 まえから知っている女の召使いと内緒話をする。
ところで、恋人の心変わりに気がついたら、娼婦は相手に本心を見すかされないうちに、彼の最上等の持ち物をみんな手に入れ、前もってしめしあわせておいた債鬼《さいき》に、偽りの借金の返済にあてるため、その品々を持ってゆかせる。もし恋人が金持ちで、その後も彼女に対する態度が変わらなければ、いつまでも従来どおり尊敬をこめて接すべきだが、相手が貧乏だったら、早いところ見きりをつけて、全然関係がなかったような顔をするのがよい。
恋人を袖にする法にはつぎのようなものがある。
1 冷笑をうかべ、足を踏みならしながら、恋人の不愉快な悪習と欠点をあげつらう。
2 恋人の知らないことを話題にする。
3 彼の学識を笑いものにし、けちをつける。
4 彼の自尊心を傷つける。
5 学識や知恵の点で彼よりすぐれている人に交際を求める。
6 ことごとに彼を無視する。
7 恋人と同じ欠点を持つ男たちをけなす。
8 彼の享楽法に不満をぶちまける。
9 接吻を許さない。
10 ジャガーナ、つまり臍《へそ》と腿の部分への接触を拒む。
11 彼がつけた爪痕や歯痕を嫌悪する。
12 抱擁のときに、体を密着させない。
13 交会中に手足を動かさない。
14 相手が疲れているときに交悦を迫る。
15 彼の愛情を笑いものにする。
16 抱擁にこたえない。
17 抱きはじめたら顔をそむける。
18 眠そうなふりをする。
19 昼間相手が女体を楽しみたがっていることを見てとったら、人をたずねて外出するか、ほかの人とつきあう。
20 故意に相手の言葉を誤解する。
21 おかしくもないのに笑い、相手がなにか冗談を言って笑っても、ほかのことで笑ったと言ってごまかす。
22 自分の召使いに横目で合図を送り、男がなにか言いかけたら、ぱんと手を叩く。
23 話の途中で相手をさえぎり、ほかの話をはじめる。
24 相手の失敗や欠点をあげつらって、とてもなおる見込みはないときめつける。
25 相手の心をひどく傷つけることを計算して、自分の召使い女に話しかける。
26 相手が近づいてきても、そしらぬふりをする。
27 とうてい聞きとどけてもらえないことを、承知のうえで、頼みこむ。
この問題についても、つぎのような諺がふたつある。
「娼婦の本分は、しかるべく、十分に考慮を加えたのち、適当な男と関係を結び、その男の心をしっかりとらえ、財産をしぼりとり、無一物になったところで、見捨てることである」
「このようにして人妻として生活を送っている娼婦は、多すぎる恋人たちに悩まされることなく、ふんだんに富を蓄える」
第四章 昔の恋人とよりをもどす法について
現在の恋人の財産をすっかり使いはたして、彼を捨てたら、昔の恋人とよりをもどすことを考えてもよい。ただし昔の恋人がまた新しく財を作っている場合、あるいは依然として金持ちである場合、そして、いまだに彼女に執着している場合だけ彼のもとへ舞いもどるがよい。そして、この男が現在ほかの女といっしょに暮しているようならば、行動に移るまえに慎重に考えなければならない。
その場合、男の現在の状態としては、つぎの六つの場合が考えられる。
一 男が最初の女と別れたのは自分の意志によるもので、その後また別な女と別れているかもしれない。
ところで、どちらの女とも自分の意思で別れた場合は、移り気な性格でどちらの美点にもまったく目がなかったことになるから、あえて頼りにすべきではない。
二 どちらの女からも追い払われたのかもしれない。
どちらの女からも追い出された男については、ふたりめの女が彼よりもほかの男のほうが金をしぼりとれると判断して見捨てたのならば、頼りにしてもよい。なぜなら、もし最初の女に未練が残っているとしたら、自分を捨てたふたりめの女に対する見栄と対抗意識から、より多くの金をくれるかもしれないからである。けれども、追い出されたのが無一物になったことと、けちのせいであれば、よりをもどすべきではない。
三 最初の女とは自分の意思で別れ、もひとりの女からは追い出されたのかもしれない。
最初の女とは自分の意思で別れ、もひとりの女に追い払われた場合には、もし男が最初の女のもとに帰り、事前に、大金を与えることに同意すれば、頼りにしてもよい。
四 最初の女と自分の意思で別れ、もひとりの女と同棲しているかもしれない。
最初の女と自分の意思で別れ、現在もひとりの女と同棲している場合、前者は(男との復縁を望んでいる)男がもひとりの女のうちに、なにかすばらしい特殊な美質を見つけるつもりで自分と別れたのではないかどうかをまず確かめなければならない。それからまた、そういう美質が見つからなかったので、できたらふたたび最初の女のもとへもどって、罪の償いと、いまだに残っている愛情のために、大金を与えてもよいという気持ちがあることを確かめるべきである。でなければ、もひとりの女が欠点だらけだったので、最初の女のうちに実際以上の美質を認め、そうした美質のためなら万金も惜しまない気持ちになっているかどうかを確かめるべきである。さもなければ、最後に、男が気の弱い人間であったか、大勢の女を楽しみたがる男であったか、貧しい女を好む男であったか、同棲している女のためになにもしてやらない男であったか、などを考えてみる。そういった点をよく熟考したうえで、状況に応じて、その男が頼れるかどうかを決めるべきである。
五 最初の女に捨てられ、もひとりの女とは自分の意思で別れたのかもしれない。
男が最初の女に追い出され、もひとりの女とは自分から別れた場合、最初の女(彼とよりをもどすことを望んでいる)は、まだ自分に対する愛情が残っていて、どっさりお金を使ってくれるかどうか、彼女の長所に愛着を感じていたため、ほかの女が好きになれなかったのかどうか、彼女に対する性的欲望を完全に満足させるまえに追い出されたので、ふたたび彼女のもとへもどって、かつての屈辱に復讐するつもりなのかどうか、彼女の心に信頼感をうえつけておいて、昔彼女がしぼりとった金をとりもどし、最後に彼女を破滅させるつもりなのかどうか、あるいは、最後に、現在の恋人と彼女の仲をさき、そのあと今度は自分が彼女から別れてしまうつもりなのかどうか、などの点をまず確かめる必要がある。
こうした事柄を慎重に考慮したうえで、彼の意図は純粋かつ正直なものであるという結論が出たら、そのときは彼と昔のよりをもどしてもよい。だが、少しでも悪意がまじっているようだったら、その男を避けなければならない。
六 最初の女に追い出され、もひとりの女と同棲中かもしれない。
最初の女に追い出され、もひとりの女と同棲している男の場合、もし彼が最初の女のもとへ帰りたいようなそぶりを見せたら、女は慎重に考えて行動し、もひとりの女が男をつなぎとめようとしてやっきになっているあいだに、(自分は表面に出ないようにしながら)男をひき戻すように努力しなければならない。ただし、それはつぎのような動機にもとづく場合だけである。
1 わたしは正当な理由もないのに彼を追い出した。そして、今彼はほかの女と同棲している。だから、わたしは彼をとりもどすために、あらゆる努力を払わなければならない。
2 彼ともう一度|睦言《むつごと》をかわすようになったら、彼は今同棲している女からむりにでも別れるだろう。
3 昔の恋人を利用すれば、わたしの現在の恋人の自尊心はぺしゃんこになるだろう。
4 彼は金持ちになり、地位もでき、王の臣下として実権をにぎっている。
5 彼は妻と別居している。
6 彼は今独立している。
7 父親や兄弟とも別れて暮している。
8 彼と仲なおりすれば、大金持ちをつかまえることになる。彼がわたしのもとへもどれないのは、わたしの現在の恋人のためである。
9 彼の妻は彼を尊敬していないから、ふたりを引き離すことができるだろう。
10 彼の友人がわたしの競争相手を愛している。その女は心からわたしを憎んでいるから、この手段を用いて友人とその恋人の仲をさけるだろう。
11 最後に、彼をわたしの手につれもどすことによって彼に恥をかかせ、こうして彼の仇心があばかれよう。
娼婦が昔の恋人とよりをもどす決心をしたら、彼女の腹心の友や召使いたちは、彼女が以前あなたを袖にしたのは母親に意地悪されたからであり、本人は今も昔も変わらずあなたを愛しているが、母親の命令にはさからえないので、どうすることもできなかった、彼女は現在の恋人との関係を嫌っており、彼に深い憎しみを抱いている、とかつての恋人に教えてやらなければならない。そのうえさらに、彼女たちは彼女のかつての愛情にふれて、彼の心に信頼感を植えつけ、その愛のしるしを彼女がいまだに忘れていないことをそれとなくほのめかすべきである。この愛のしるしとは、昔彼が行なった悦楽の行為と関係のあるもの、たとえば接吻のしかたとか、交会のしかたといったものでなければならない。
以上で昔の恋人とよりをもどす法は終わる。
女が昔関係のあった恋人とまったく新しい恋人との、どちらかを選ぶ場合、前者のほうが望ましいと、アチャリア(賢者)たちは主張している。なぜなら、彼の気質や性格は昔の注意深い観察のおかげで、すでにわかっているから、彼を楽しませ、満足させるのはきわめて容易だからである。けれども、ヴァーツヤーヤナはこの意見に反対で、昔の恋人はすでに財産の大部分を使いはたしていて、それ以上彼女のために大金を費す意思も能力もないだろうから、むしろ新しい恋人を選ぶほうが賢明だという意見である。けれども、人間の性質のさまざまなちがいから、かならずしもこの通則にあてはまらない特殊なケースが生まれてくることもありうる。
この問題についてもつぎのような諺が書かれている。
「昔の恋人との復縁は、特定の男女の仲をひきはなすか、あるいは現在の恋人にある種の影響をおよぼすかすれば望ましい」
「ある男がひとりの女にぞっこん惚れている場合、彼は女が他の男と接触することを好まない。また彼は女の欠点に気がつかず、かりに気づいたとしても、それを問題にしない。そして、彼女を失いたくないために莫大な富を惜しげもなく与える」
「娼婦は自分を愛してくれる男に愛想よくし、自分に冷淡な男を軽蔑しなければならない。ある男と同棲しているとき、別の男からの使いがやってきたら、全然話合いに耳をかさないか、あるいは先方に訪問の日時を指定する。だが、自分を愛して、いっしょに住んでいる男を決して見捨ててはならない」
「賢い娼婦が昔の恋人とよりをもどすのは、復縁によって、幸運、収入、愛情、友情などが保証される見込みがあると納得したときだけである」
第五章 さまざまな利益について
客が多いため毎日大金がころがりこんでくるとき、娼婦はひとりの恋人にしばられてはならない。そういうときは場所、季節、客のふところ具合、彼女自身の長所と美貌などを考慮し、仲問の娼婦の値段とも比較したうえで、ひと晩いくらと値段をきめればよい。そして、この値段を恋人たちや友人知己に知らせるのである。ただし、ひとりで莫大な金を与える能力のある恋人がいたら、その男とだけ交渉を持ち、夫婦のようにいっしょに住んでもよい。
さて、同じだけ金をくれるふたりの恋人がいたら、彼女が欲しいと思っているものをくれるほうを選ぶべきである。これは賢人たちの見解である。だが、ヴァーツヤーヤナの意見によれば、金貨をくれる男のほうを選ぶべきであるという。金貨はほかの品物のようにとりかえしがきかないし、取り扱いが簡単なうえに、それさえあれば欲しいものはなんでも手にはいるからである。黄金、銀、銅、鐘青銅、鉄、壷、家具、寝台、上着、下着、香料、瓢箪《ひょうたん》の容器、バター油、油、穀物、家畜といったもののなかでは、やはり最初の黄金が最上である。
ふたりの恋人のどちらを手に入れるにも同じ労力が必要であり、また彼らからもらう品物の値打ちも同じときは、友人の助言に従うか、あるいは彼らの身にそなわっている吉凶のしるしから判断して、選択を行なうべきである。ふたりの恋人のうちひとりは彼女を深く愛しており、もうひとりは単に気前がよいというだけの場合は、賢者たちによれば、気前のよいほうを選ぶべきだが、ヴァーツヤーヤナによれば、愛情こそ選択の基準にすべきであるという。なぜならば守銭奴でさえ好きな女のためなら金を惜しまないように、愛情さえあれば、いくらでも気前よくなれるものだが、単に気前がよいだけの男は心から女を愛するようになれないこともあるからである。ただし愛情だけあって、金のない男はもちろん敬遠すべきである。
気前のよい恋人と、彼女のためならどんなことでもする決心の恋人となら、賢者たちによれば、後者を選ぶべきだというが、ヴァーツヤーヤナに言わせれば、後者はあるひとつのことを彼女のためにしてやると、それでもう彼女を手に入れたものと考えるのに反して、気前のよい男は物を与えたことをすぐに忘れてしまうものだという。ここでも選択は将来どちらと結ばれたほうがより利益があるかという判断に従ってなさるべきである。
一方の恋人は恩を忘れない性格だが、もう一方は気前がよいという場合は、後者を選ぶべきだ、と賢者たちは述べている。だが、ヴァーツヤーヤナの意見はそれと反対である。なぜなら、気前のよい男は一般に高慢で、歯に衣《きに》着せず、他人の気持ちをおしはかるということをしない。彼らは長いあいだ親しくつきあっていても、なにかひとつ女の欠点を見つけたり、ほかの女たちから彼女についてありもしない噂を聞いたりすると、それまで十分につくしてもらったことを忘れて、さっさと縁を切ってしまうからである。反対に恩を忘れない男は、彼女がそれまでに自分を楽しませるためにいろいろ気をつかってくれたことを感謝して、すぐに別れ話を持ち出したりはしない。この場合も、将来の見通しを判断したうえで選択すべきことは言うまでもない。
友人の頼みに応じるか、金もうけのほうを選ぶかという場合、賢者は金もうけを優先させるべきだと述べている。けれども、ヴァーツヤーヤナは、金もうけは明日でもできるが、友人の頼みはすぐにきいてやらなければ、友情を失うおそれがあるという意見である。だが、この場合も、やはり将来の利益を考えて判断をくだすべきである。
ただこの場合、娼婦はほかに仕事があるふりをして、ひとまず友人をなだめ、あなたの頼みは明日きいてあげると答えておいて、目前の金もうけのチャンスを逃がさないようにしてもよい。一方に金もうけのチャンスがあり、他方に不幸を避けるチャンスがあるときは、金もうけを優先させよと賢者は教えている。しかし、ヴァーツヤーヤナによれば、金には限られた価値しかないが、一度避けた不幸はふたたび訪れないという。ただこの場合も、不幸の程度によって決断をくだすべきである。
もっとも裕福な、最上級の娼婦は、手に入れた金をつぎのように使うべきである。
寺院、貯水槽、庭などを作る。婆羅門たちに一千頭の牝牛を寄進する。神々をあがめ、祭祀を行なう。自分たちにできる願かけも行なう。
その他の娼婦たちは、つぎのような目的に金銭を使うべきである。
毎日白衣を着る。飲みくいにたっぷり金をかける。タンブラ、すなわち檳榔子《びんろうじ》ときんまの葉を混ぜた香料を毎日食べる。金メッキの装身具をつける。賢者たちは以上が中級、下級の娼婦たちの金銭の使い道だと教えているが、ヴァーツヤーヤナは、彼らの収入は一定しておらず、場所や、客の習慣や、娼婦自身の容貌などに左右されると説いている。
娼婦が特定の男をほかの女から遠ざけたり、彼が惚れている女との仲をさいたり、その女が彼からもらっている金銭を自分で横どりしたいと望む場合、あるいは、自分の地位をひきあげたいとか、すばらしい幸運にめぐりあいたいとか、その男と関係することによってあらゆる男性を魅惑したいとか、不幸を避けるために彼の力をかりたいとか、心の底から彼を愛しているとか、彼を利用してだれかを傷つけたいとか、昔彼から受けた恩を返したいとか、単なる欲望から彼と結ばれたいとか望んでいるような場合、彼女は男からわずかな金銭しか受けとってはならない。
娼婦がひとりの恋人を捨てて、ほかの恋人といっしょになりたがっているとき、恋人がまもなく自分と別れて妻のもとへ帰ってゆくと考えられる理由があるとき、金を全部使いはたしてしまって無一文になり、後見者や主人や父親が連れ戻しにやってくるおそれのあるとき、彼が地位を失いかけているとき、彼が移り気な性格のときなどは、その男からできるだけ早いうちに、しぼれるだけ金銭をしぼりとっておくべきである。
逆に恋人が高価な贈り物を受けようとしているとき、王から権威ある地位を与えられようとしているとき、遺産を手に入れようとしているとき、商品を山と積んだ彼の持ち船が帰港しようとしているとき、厖大《ぼうだい》な穀類などを蓄えているとき、彼のためになにかしてやっても決して損にはならないと思われるとき、彼が絶対に約束を破らない人間であるときなどは、娼婦は自分の将来のことを考えて、妻のように彼といっしょに暮らすべきである。
この問題についてもつぎのような諺がある。
「娼婦は現在の利益と将来の福祉を考えるならば、かろうじて生計の資をかせいでいるような男や、王の寵臣となったがために利己的な、冷酷な人間に変わるような男を避けたほうがよい」
「娼婦は裕福な男や、避けたり、少しでも無視したりすれば危険な男と関係をつけるよう必死に努力すべきである。また、多少の犠牲をはらっても、精力的で気前のよい男と知り合わなければならない。そういう男は、気がむけば、彼女のほうで大した奉仕をしなくても、大金をくれるだろうから」
第六章 得失、付随的な得失、疑念、娼婦の種類などについて
利益を求めながら、もしくは期待しながら、時には労して損失を招くことがある。こうした損失の原因としてはつぎのようなことが考えられる。
無知
過剰な愛
過剰な誇り
過剰なうぬぼれ
過度な単純さ
過剰な自信
過度の怒り
不注意
無鉄砲
悪魔の干渉
偶発的な状況
そのような損失のもろもろの結果とはつぎのようなものである。
無駄な出費
将来の幸福の破壊
手に入りそうな利益の停止
既得のものを失うこと
気むずかしい気質になること
他人に対して不愛想になること
健康上の故障
脱毛その他の障害
利益には三つの種類がある。つまり、金銭の獲得、宗教的価値の獲得、快楽の獲得である。同じように、損失にも金銭、宗教的価値、快楽の損失の三種類がある。利益を求める過程でほかの利益が伴なう場合、これを付随的利益という。利益が不確実で、はたしてそれを利益と呼んでよいかどうかわからないとき、それは単純な疑念と呼ばれる。ふたつの事柄のうちいずれが起こるかわからないとき、それは混合の疑念と呼ばれる。ひとつの行為からふたつの結果が生じたとき、それはふたつの結果の結合と呼ばれ、ひとつの行為からいくつもの結果が生じたときは、多数の結果の結合と呼ばれる。その実例をつぎにあげよう。
すでに述べたように、利益と損失にはそれぞれ三つの種類がある。
(a)娼婦が身分の高い男との同棲によって富を蓄え、上流の人々とも知り合いになり、将来の見通しを開くとともに、万人に羨まれる身分になったとき、これを〈他に余得のある富の獲得〉という。
(b)娼婦が男と同棲することによって金銭だけを得た場合、これを〈余得のない富の獲得〉という。
(c)恋人以外の男から金銭をもらった場合、その結果は、将来現在の恋人からよくしてもらう見込みをなくし、彼の愛情を失い、すべての人々に憎まれることになる。また自分より下級の男と結ばれ、将来を台無しにする可能性も出てくる。これは〈損失を伴う富の獲得〉と呼ばれる。
(d)娼婦が不幸を避けるため、あるいは大きな利益を台無しにするおそれのある原因をとり除くために、自分の身を犠牲にして金ももらわずに地位の高い男や吝嗇《りんしょく》な大臣と関係する場合、それは〈将来の幸福の獲得をともなう富の損失〉と呼ばれる。
(e)娼婦が自分を犠牲にしてまでけちな男や、美男子ぶった男や、女のことを少しも考えてやらないくせに、彼女たちの心をとらえることの巧みな男につくす場合、これは〈余得を伴わない損失〉と呼ばれる。
(f)娼婦が前項に述べたような男で、おまけに王の寵臣で、専横をほしいままにしている男につくし、しかも、いつその男に捨てられるかわからないというとき、それは〈他の損失を伴った損失〉と呼ばれる。
利益と損失、付随的な利益と損失については以上で説明を終わる。
つぎは疑念についてであるが、これにもやはり金銭についての疑念、宗教的価値についての疑念、快楽についての疑念の三種類がある。つぎにその実例をかかげる。
(a)男がいくら金をくれるか、自分を買うのにいくら払ってくれるかがわからないとき、それを〈金銭についての疑念〉という。
(b)娼婦が男から金をしぼりつくしてしまって、もうなんの得にもならないからその男を捨てようとするが、果してそれが正しいかどうか疑わしく感じるとき、それは〈宗教的価値についての疑念〉という。
(c)娼婦が自分の好みにあった恋人を獲得することができない場合、また家族に囲まれた男、または卑しい身分の男から快楽が得られるかどうかはっきりしない場合、それは〈快楽についての疑念〉と呼ばれる。
(d)地位は高いが、高潔な心を持ちあわせない男がいて、もしその男の言葉に従わないと、不利なことになるのではないかと頭を痛める場合、それを〈金銭の損失についての疑念〉という。
(f)自分を愛している男を古草履《ふるぞうり》のごとく捨て、現世でも来世でもその男を不幸にするようなことがあれば、宗教的価値が失われるのではないかとおそれる場合、それを〈宗教的価値の損失についての疑念〉という。
(g)愛情を打ち明ければ、恋人の愛を失うかもしれないと悩んで悶々《もんもん》と日を送る場合、それは〈快楽の損失についての疑念〉といわれる。
疑念についての評釈は以上で終わりである。
混合の疑念
(a)恋人や権勢家から紹介された、性格も知れない未知の男との交渉は、得になるか、損になるか皆目《かいもく》見当がつかないので、これを〈金銭得失についての混合の疑念〉という。
(b)娼婦が友人に頼まれたり、もしくは同情を感じたりして、自分に惚れこんだ、余命いくばくもない有識の婆羅門、修行僧、司祭、信者、隠者などと交渉を持ったものの、それによって宗教的価値が得られるか失われるかはっきりしない場合、これを〈宗教的価値の得失についての混合の疑念〉という。
(c)他人の話(つまり噂)だけに頼って男を判断し、相手がすぐれた素質を持った男かどうかを自分で確かめもせずに彼のもとへいけば、男の人柄のよしあしによって快楽の得失が左右される。これを〈快楽の得失についての混合の疑念〉という。
ウッダリカは両様の得失についてつぎのように記述している。
(a)娼婦が男と同棲することによって富と快楽を手に入れる場合、それを〈両様の利益〉という。
(b)娼婦が一文の得にもならないのに、自分を犠牲にして男と同棲し、そのうえ、前にもらったものまで男に奪い返される場合、それを〈両様の損失〉という。
(c)新しい客が自分を愛してくれるかどうかわからず、愛してくれるとしても、なにかをくれるかどうかわからない場合、それを〈利益についての両様の疑念〉という。
(d)娼婦が自分で作ったにしても、とにかく昔の敵に恨まれて何か仕返しされるかもしれないと心配する場合、もしくは、ふたたび彼に心をよせても、昔彼からもらったものをすべてとりもどされかねないと案ずる場合、これを〈損失についての両様の疑念〉という。
バブーラヴィアは両様の利益と損失についてつぎのように述べている。
(a)娼婦が会いにいってもよい男と、会いにいってはいけない男の双方から金銭をもらう場合、これを〈両様の利益〉という。
(b)男に会いにいけば金がかかるが、会いにいかなくても金がかかるうえに、とり返しのつかない損失を招くおそれがあるとき、これを〈両様の損失〉という。
(c)ある男に会いにいっても、娼婦が自分の金を使わずに男からなにかもらえるかどうかはっきりしていない場合、かといって、その男を無視すれば、ほかの男からなにかもらえるかどうかもわからない場合、それを〈利益についての両様の疑念〉という。
(d)自分の金を使って昔の敵に会いにいけば、昔彼からもらったものをとりかえされるかもしれない、さりとて、会いにいかなければ、なにか仕返しをされるおそれがあるという場合、これを〈損失についての両様の疑念〉という。
以上述べたことを組み合わせると、全部で六種類の、つぎのような結果が生じる。
(a)一面では得をするが、他の面では損をする。
(b)一面では得をし、他の面でも得をするかもしれない。
(c)一面では得をするが、他の面では損をするおそれがある。
(d)一面では損をするが、他の面では得をするかもしれない。
(e)一面では得をするかもしれないが、他の面では損をするおそれがある。
(f)一面でも、他の面でも損失を招くおそれがある。
娼婦は、以上述べてきたすべての事柄を熟考し、友人たちにも相談したうえで、利益を、また、大きな利益をうる機会をつかみ、大きな不幸を避けるようにふるまわなければならない。宗教的価値や快楽についても、金銭の場合と同様の組み合わせができあがる。それぞれの組み合わせから、さらに新しい組み合わせを作り出すことが必要である。
娼婦は男と交わるとき、彼らから快楽だけでなく、金銭も引き出すようにしなければならない。春祭その他のような特別の時期には、これこれの日には娘はこれこれの願いをかなえてくれる人のお相手をすると、母親の口からいろいろな男に告げてもらうのもよい。
若い男たちがうれしそうに彼女に近づいてきたら、その男たちを利用してなにができるかということを考えねばならない。
あらゆる面での利益と損失の組み合わせは、一面だけ得で、他の面ではみな損な場合、一面だけ損で、他の面ではみな得な場合、すべての面で得な場合、すべての面で損な場合とある。
娼婦はまた利益についての疑念と損失についての疑念も、金銭、宗教的価値、快楽のそれぞれに関連させて、考えなければならない。利益と損失、付随的な利益と損失、疑念については以上で終わりである。
娼婦にはつぎのような種類がある。
娼家の女主人
侍女
淫《みだ》らな女
踊り子
女芸人
家出女
美貌を売物にする女
れっきとした娼婦
彼女たちはみな、さまざまな男と知りあって、彼らから金銭をしぼりとる法、彼らを楽しませる法、彼らと別れる法、よりをもどす法などを考えなければならない。また、めいめいの状況に従って、利益や損失、付随的な利益や損失、疑念などにも考慮を払わなければならない。娼婦の考慮すべきことについては以上で終わる。この問題についてもつぎのふたつの諺《ことわざ》がある。
「男は快楽を求めるが、女は金を求める。従って、娼婦は富の獲得を説いたこの第六部を勉強しなければならない」
「女のなかには愛を求める者と金を求める者がいる。愛についてはまえのほうで説明したが、金もうけの方法については、娼婦を例として、この第六部に記述されている」
第七部 人を惹きつける法について
第一章 装飾、他人の心を征服すること、媚薬《びやく》などについて
以上述べてきたいかなる方法によっても欲望の対象を手に入れることができないときは、他人を自分に惹きつけるほかの方法に頼らなければならない。
ところで、美貌、すぐれた性質、若さ、気前のよさなどは、その人間を魅力的にするいちばん自然な方法である。けれども、そういったものが欠けている場合は、男でも女でも、人為的な方法や技巧に訴えなければならない。つぎに有益と思われる処方をいくつかあげておく。
(a)タベルナモンタナ・コロナリア(タガラに同じ)、コストゥス・スペシオスス、またはコストゥス・アラビクス(クシュトハに同じ)、それにフラクウルティア・カタフラクタ(ターリサに同じ)をまぜて作った軟膏《なんこう》は、化粧用軟膏として用いることができる。
(b)上記の植物を粉末状にして燈心にあて、胆ぱん油で焼き、その煤《すす》をまつげに塗ると、その人は美しく見えるようになる。
(c)雑草、エキテス・プテセンス、キリナ樹、黄色|不凋花《アマランサス》、ニンフェの葉の油もこれを体に塗布すれば、同じ効果がある。
(d)上の植物から作った黒い顔料(つまり煤《すす》のこと)も同じ効果をあげる。
(e)ネルンブリウム・スペシオクム(カマラ、すなわち蓮花)、青蓮、メスナ・ロクスブルギィ《カリケーサラ》の粉末をバター、蜂蜜と混ぜて服用すると、他人の目に美しくうつる。
(f)それにタベルナモンタナ・コロナリア、クサントキムス・ピクトリウスをまぜて軟膏として用いれば、同じ効果がある。
(g)孔雀またはハイエナの骨を金箔でおおい、右手にしばりつけておいても、他人の目に美しく見える。
(f)棗《なつめ》の実、または巻貝の殻でつくった数珠《じゅず》に、『呪文吠陀《アタルヴァナ・ヴェーダ》』の中の呪文または魔術に通じた人の呪文をかけてもらって、それを手に結んでおいても、同様の効果が生じる。
(i)侍女が思春期に達したとき、主人は彼女を人目につかないよう隔離すべきである。そして、男たちは隔離されたがために、また、容易に接近しがたいので、熱心に彼女を求めるようになる場合、主人は富と幸福をもたらすような男に彼女の手を与えるがよい。
同じように娼婦の娘が思春期に達したら、母親は娘と年齢も気質も知識も同じような一群の青年たちを呼び集め、特別な贈り物をくれる人に娘をとつがせたいと告げるがよい。
そのあと、できるだけ娘が人目にふれないようにしておき、いつでも約束の贈り物をくれる用意のある男にとつがせる。もしあまりもらえなければ、母親は自分自身の持ち物を、花婿から娘がもらったものとして人々に見せなければならない。
さもなければ、まるで自分はなにも知らないような顔付きをして、娘とその男の結婚にこっそり同意を与えておき、あとでそのことを知ったようなふりをして、あらためて結婚を承認してもよい。
娘のほうでも、母親に隠れて富裕な市民の息子たちを惹きつけるようにする。その目的で歌の練習のときや音楽が演奏されている場所や他人の家で彼らと会い、それから女友だちや召使いを通じて、いちばん気に入った男と結婚する許しを母親に求めるがよい。
こうして娼婦の娘が結婚すると、彼女は一年間結婚生活をつづけなければならないが、そのあとは好きなようにしていい。だが、一年すぎてからでも、別に仕事があっても、最初の夫から時どき会いにこいと招待されれば、今の稼《かせ》ぎをやめて彼のもとへ出むいて夜伽《よとぎ》の相手をしなければならない。
以上が娼婦のあいだでの一時的婚姻の風習であり、彼女たちの魅力や価値の増進法である。これは踊り子の娘たちにもあてはまると解すべきで、彼女たちの母親はいろいろな意味で役に立ちそうな男に娘を与えなければならない。自分を美しく見せる法については以上で終わる。
(a)男が白サンザシの実、長|胡椒《こしょう》、黒胡椒の粉末に蜂蜜をまぜたものを、リンガに塗って交接すれば、女は意のままに従う。
(b)ヴァトドブーランタの葉、火葬に付される死体にばらまかれた花、孔雀の骨の粉末、ジワンジヴァ鳥の骨の粉末などを混ぜて用いても同じ効果がある。
(c)自然死をとげた鳶《とび》の死骸を粉末にして、カワチや蜂蜜とねりあわせたものも同じ効果がある。
(d)エンブリカ・ミラボランス樹から作った軟膏を体に塗ると、女を意のままにすることができる。
(e)ヴァジナスニーの芽を細かく刻んで砒素《ひそ》と硫黄《いおう》の溶液に浸し、七回乾かしたのち、その粉末に蜂蜜を混ぜてリンガに塗れば、性的結合をとげたとたんに、女を意のままにすることができる。あるいはまた、ヴァジナスニーの芽を夜のあいだに焼いて、その煙を見つめているとき、金色の月が煙の向うに浮かんだら、どんな女も思いのままになる。またヴァジナスニーの芽の粉末に猿の糞《ふん》をまぜて、処女の体にふりかければ、娘はほかの男と結婚できなくなる。
(f)アリスの根を刻んだものにマンゴー油をまぶして、シスの樹の幹にうがった穴に六カ月間おき、それから取り出して、軟膏にし、これをリンガに塗れば、やはり女を意のままにするのに役立つという。
(g)駱駝《らくだ》の骨をエクリプタ・プロスタタ(マルカヴァに同じ)の樹液に浸してから焼き、その灰で作った黒い顔料を、これも駱駝の骨で作った箱におさめ、アンチモニーとまぜて、これまた駱駝の骨で作った筆でまつげを塗れば、その顔料はきわめて純良で、目にもよく、他人を意のままにする手段としても役立つ。鷹、禿鷹《はげたか》、孔雀などの骨から作った顔料も同じ効果をあげることができる。他人をわが意のままにする方法については以上で終わる。
つぎは精力増強法である。
(a)牛乳に砂糖、ウチュチャタの根、パイパー・チャバ、甘草《かんぞう》をまぜて飲めば、男の精力はぐんぐん強くなる。
(b)牛乳に砂糖をまぜ、その中で山羊や羊の睾丸《こうがん》を煮ても精力が増強する。
(c)牛乳にヘジサルム・ガンゲティクム(ヴィダリカに同じ)、クイリ、クシリカ樹などの液をまぜて飲んでも、効果は同じである。
(d)長胡椒、サンセヴィエラ・ロクスブルギアナ、ヘジサルム・ガンゲティクムなどの種をすりつぶしたものに牛乳を混ぜても、同じ効果がある。
(e)古代の著作家たちの言によれば、トラパ・ビスピノサ、カスリカ、タスカン・ジャスミン、甘草などの種または根にクシラカポリ(玉ねぎの一種)をまぜてすりつぶし、その粉末を牛乳、砂糖、バターといっしょにとろ火で煮つめて飲むと、数えきれぬほどの女を享楽することができるという。
(f)米と雀の卵をかきまぜて、牛乳で煮たものに、蜂蜜とバターを加えて必要なだけ飲んでも、同じ効果が得られる。
(g)胡麻《ごま》の実の外殻をとって雀の卵に浸してから、牛乳、砂糖、バター、トラパ、ビスピノサ、カスリカの樹液などとまぜて煮たのち、麦と豆の粉を加えて飲めば、多くの女を楽しむことができるという。
(h)同量のバター、蜂蜜、砂糖、甘草に、茴香《ういきょう》の汁と牛乳をまぜると、この甘露に似た飲料は神聖で、舌ざわりもよく、性欲を刺激すると同時に長寿を保たせるといわれる。
(i)アスパラガス・ラセモスス、シュヴァダウシュトラ、グドウチ、長胡椒、甘草などを、春のあいだに牛乳、蜂蜜、バターといっしょに煮れば、これまた同じ効果があるという。
(j)アスパラガス・ラセモススとシュヴァダウシュトラを、プレムナ・スピノサの実を砕いたものといっしょに水で煮て飲んでも、同じ効果があるといわれる。
(k)春季のあいだ、朝煮たバターは健康によいし、口あたりもよい。
(l)シュヴァダウシュトラの実の粉末と大麦の花を同量ずつまぜて、少しずつ、つまり重さにして二パラずつ毎朝起床と同時に食べれば、前記の処方と同じ効果がある。
この問題についてもつぎのような諺がある。
「愛と精力を生み出す方法は、医学や吠陀《ヴェーダ》から、魔術に通じている人々から、さらに信頼のおける親戚縁者から学びとるべきである。効き目のあやしい方法は決して試みてはいけない。そうした方法は体に害をおよぼし、家畜を殺しかねないし、また、われわれを不純なものに接触させるわけである。神聖な方法、有効と認められた方法、婆羅門や友人たちに認められた方法などに限るべきである」
第二章 催淫法、さまざまな実験、処方について
男がハスティニ、つまり象女を満足させることができないときは、彼女の欲望をかきたてるため、さまざまな方法に訴えなければならない。まず最初に、手または指でヨニを摩擦し、彼女が興奮し、快感を味わうまでは交悦をはじめてはいけない。これは女を刺激するひとつの方法である。
あるいはまた、ある種のアパドラヴィヤ、つまりリンガの長さと太さを補って、ヨニに適合させるために、リンガに、もしくはその周囲につける道具を利用してもよい。バブーラヴィアによれば、このアパドラヴィヤは金、銀、銅、象牙、野牛の角、各種の木、錫または鉛を材料とし、柔かくて冷たく、精力をそそり、所期の目的にかなうものでなければならないという。けれども、ヴァーツヤーヤナは各人の好みに従って作ってもよいと述べている。アパドラヴィヤにはつぎのようなさまざまな種類がある。
一 〈腕輪〉(ヴァラヤ)これはリンガと同じサイズで、表面に小さな球体をつけて、あら作りにすべきである。
二 〈対腕輪〉(サンガーティ)これは一対の腕輪からなっている。
三 〈組碗輪〉(チュダカ)これは三個以上の腕輪を組み合わせたもので、リンガの必要な長さに達するようになっている。
四 〈単腕輪〉はリンガの大きさに応じて、一本の針金をぐるぐる巻きつけたものである。
五 カントゥカ、またはジャラカ。これは両端に穴のあいた管で、表面はあら作りで、いぼがあり、ヨニの側面に密着するようにこしらえてある。腰にしばりつけて用いる。
これらの道具が手に入らないとき、ウッド・アップルで作った管、瓢箪《ひょうたん》の管茎、油と樹液にひたして柔かくした葦などを紐で腰にしばりつけて使ってもよいし、また、柔かい木片をしばりあわせたものを利用してもよい。以上はリンガに添えて、またはリンガの代わりに用いられるものである。
南部地方の人々はリンガに穴をあけなくては真の性的快楽は得られないと考えているので、幼児の耳たぶに耳飾り用の穴をあけるように、リンガにも穴をあけるわけである。
ところで、若い男がリンガに穴をうがつときは、先きのとがった道具で刺し貫いて、血が流れ出るあいだは水中に立っていなければならない。そして、夜になったら、穴を清めるために、精いっぱい交会にはげまなければならない。そのあと、煎じ薬で洗條《せんじょう》をつづけ、穴を拡げるために籐《とう》の小片やライティア・アンティダイセンテリカなどをさしこんで、徐々に大きくしてゆく。また、甘草と蜂蜜をまぜたもので洗ってもよいし、シマ・パトラの実を押しこんで穴を拡げてもよい。穴には少量の油を塗っておかなければならない。
リンガの穴には種々の形のアパドラヴィヤを挿入してもよい。たとえば〈輪〉〈片輪〉〈木臼〉〈花〉〈腕輪〉〈青鷺の骨〉〈象使いの棒〉〈八つ玉集め〉〈髪束〉〈四辻〉、そのほか形と用途に応じて名づけられたさまざまなものがある。これらのアパドラヴィヤはすべて必要に応じて表面がざらざらしていなければならない。
つぎにリンガそのものを大きくする方法を述べておかねばならない。
リンガを大きくしたいと思ったら、木に巣食っているある種の虫の針毛でそれを摩擦し、つぎに十日間油で摩擦してから、ふたたび虫の針毛による摩擦を行なう。これをつづけると、リンガはしだいにふくらんでくるから、今度は穴のあいた寝台に横たわって、その穴からリンガをたれさがらせる。それがすんだら、冷えた調合液を使って膨張による痛みをとり除く。この膨張法はドラヴィダ地方の住民のあいたで〈スカ〉と呼ばれて、盛んに行なわれており、一度膨張すれば生涯持続する。
フィサリス・フレクスオサ、シャヴァラ・カンダカ、シャラスカなどの植物や、ナス、牝野牛の乳で作ったバター、ハストリ・チャルマ草、ヴァジララサの樹液などで摩擦しても、リンガの膨張は一カ月間つづくだろう。
上記のものを調合して、これに油をまぜて煮てから、それを用いて摩擦すると、同じ効果があがり、六カ月間持続する。
柘榴《ざくろ》や胡瓜《きゅうり》の種、ヴァクラ草、ハストリ・チャルマ草、ナスの汁などといっしょにとろ火で煮た油を塗って摩擦しても、リンガは大きくなる。
このほかにも経験者や腹心の友からいろいろな方法が学べるだろう。
さまざまな実験とその処方はつぎのとおりである。
(a)乳液を出す垣根草とカンタラ草の粉末を猿の糞とランジャリカ草の根の粉末にまぜて女にふりかければ、彼女はそのあとほかの男を愛さなくなる。
(b)カシア・フィストゥラとエウジェニア・ジャンボラナの果汁に、ソマ草、ヴェルノニア・アンセルミンティカ、エクリプタ・プロスタタ、ロホパ・ジヒルカなどの粉末をまぜあわせたものを、女のヨニに塗って交会すれば、男の愛はたちまちさめてしまう。
(c)水牛の乳で作ったバターにゴパリカ草、バヌ・パディカ草、黄色い不凋花《アマランサス》などの粉末をまぜて、その中で体を洗った女と関係しても、同じ結果が生じよう。
(d)ナウクレア・カダンバ、プラム、エウジェニア・ジャンボラナなどの花から作った軟膏をヨニに塗れば、女は夫に嫌われるようになる。
(e)前述の花で作った花輪を女が身につけると、同じ効果がある。
(f)アステラカンク・ロンギフォリア《コキラクシャ》の実から作った軟膏は象女《ハスティニ》のヨニを収縮させ、この収縮はひと晩つづく。
(g)ネルムブリウム・スペツオスムと青蓮の根を砕き、ファイサリス・フレクスオサの粉末、バター、蜂蜜などとまぜて作った軟膏は鹿女《ムリギ》のヨニを拡げるだろう。
(h)エンブリカ・ミラボランスの実を垣根草、ソマ草、カロトロピス・ジガンテアなどの乳液や、ヴェロニア・アンセルミンティカの果汁に浸して作った軟膏は、毛髪を白くするだろう。
(i)マダヤンタカ、黄色い不凋花《アマランサス》、アンジャニカ、クリトリア・テルナテーア、シュラクシュナパルニなどの根のしぼり汁をローションとして使うと、毛髪が成長するだろう。
(j)これらの根を油で煮て作った軟膏をすりこむと、毛髪は黒くなり、徐々に抜毛を復活させるだろう。
(k)ラックを白馬の精液に七度浸して赤い唇に塗れば、唇の色は白くなる。
(l)《j》の項で述べたマダヤンタカその他の薬草を用いると、唇の色がよみがえる。
(m)男がバコパディカ、タベルナモンタナ・コロナリア、コストゥス・スペシオスス、コストゥス・アラビクス、ピヌス・デオドラ、エウフォルビア・アンティクオルム、ヴァジラ、カンタカなどの草の汁を塗った葦笛を吹くのを聞いた女は彼の奴隷となる。
(n)サンザシの実《ダトゥラ》をまぜた食事をとると、中毒をおこす。
(o)水に油とクシャを除いた草の汁をまぜると、牛乳の色になる。
(p)黄色いミラボランス、プラム、シュラワナ、プリヤングなどをいっしょに砕いて鉄の容器に塗ると、容器は赤くなる。
(q)蛇の脱殻《ぬけがら》を芯に使ったランプにシュラワナとプリヤングの油を入れて火をともし、長い木片をそばにおくと、木片は蛇に見えてくる。
(r)白い仔牛をそばに連れている白牛の乳を飲めば、吉兆であり、名声を得て、寿命がのびる。
(s)老婆羅門に祝福してもらっても同じ効果がある。
これにもまた結びの諺がいくつかある。
「かくて、わたしは古代の著作者たちが残した書を読んだのち、そこで言及された享楽法をたどりつつ、〈愛の学問〉をわずかな言葉で書き綴った」
「この学問の真の原理に親しんだ人は、ダルマ、アルタ、カーマに、さらに他人の教えはもちろん自分自身の経験に、敬意を払い、自分だけの欲望の命ずるところに従って盲目的に行動しない。本書であげた愛の学問のなかの誤りについては、著者としてのわたし自身の責任において、誤りを指摘したのちただちにこれを入念に正し、禁じてきた」
「ひとつの行為は、それが学問によって権成づけられているというだけの理由で、過度に信頼されてはならない。なぜなら、それはあくまで学問の理想であり、そこに含まれるさまざまな原則は特殊な場合にだけ準拠されるべきである。カーマ・スートラは、バブーラヴィアをはじめとする古代著作家を熟読玩味し、彼らの作った諸原理の意義をよく考え、聖典の教えに従って、ヴァーツヤーヤナが世の福祉のために編述したものである。その間彼は修業僧の生活を送り、神の瞑想《めいそう》に没入した」
「本書は欲望を満足させるための道具としてだけ利用されるようにもくろまれたものではない。この学問の真の原理に親しみ、ダルマ、アルタ、カーマを保持し、他人の行為を顧慮《こりょ》する者は、かならずやおのれの感覚を御する術を会得するだろう」
「要するに、みずからの情熱の奴隷とならずに、ダルマ、アルタ、カーマの獲得に専念する聡明で、思慮深い人々は、なにを企てても成功する」
結びの言葉
以上で男と女、その相互関係、相互の結合に関する論説ともいってよい、ヴァーツヤーヤナ編述の『カーマ・スートラ』全七部を終わる。
これは老いも若きも、すべての人々に熟読さるべき作品である。前者はそのなかに体験によって集められ、すでにみずから実験した真理を発見するだろうし、後者は、ほかでは一生学べないかもしれない、もしくはかりに学んでも、それを利用するには遅すぎる(「遅すぎる」……ミラボーの不滅の名言である)といったもろもろの事柄を学び知る好機に恵まれるだろう。
本書はまた、社会科学と人類の研究者に対して、とりわけ時という砂時計から漏れ落ちて、今日の人性も古代の人性とほば同じであることを証明していると思われる古代思想の研究者に対して、心から推奨できる書物である。
バルザック(フランス最大の作家とはいえないにしても、偉大な小説家であることに変わりはない)について、彼は男と女の感情を自然に、直観的に見抜く能力をそなえており、学者と呼ぶにふさわしい分析力で男女を描いたといわれている。本書の著者も、また、人文学についてかなりの知識を持っていたにちがいない。彼の評言の多くは素朴さと真理にあふれており、そのため時の試練にもよく耐えて、約千八百年前に初めて書かれたときと同じように、今なお明快さと真実さを失っていないのである。
本書はまさに平明な言葉で語られた事実の収集であって、当時は文学的なスタイルや、美辞麗句や、おびただしい不要な埋め草などで作品を粉飾するという観念が明らかに存在しなかったことを思い出さねばならない。作者は自分の知っている世界を、おもしろく読ませようなどとは考えずに、きわめて簡潔な言葉で書き綴っている。彼があげた事実から、どれだけ多くの小説が書けることか! 事実、第三、第四、第五、第六部に描かれた事柄は、過去数世紀のあいだに生まれた多くの小説の原型をなしているのである。
第七部には、いくつかの珍妙な処方が見られよう。その多くは本書自体と同じように素朴に見えるが、これよりあとで書かれた同種の作品では、この種の処方は質量ともに増加しているようである。『アナンガ・ランガ(愛壇)』に例をとると、少なくとも三十三にのぼる各種の主題に対して百と三十の処方が掲げてあることがわかる。
その細目が興味深いかもしれないので、つぎにその主題を列挙しておく。
1 女性の絶頂感を早めるため
2 男の絶頂感をおくらすため
3 媚薬
4 リンガの強大化と、それを強靱《きょうじん》に頑健にするため
5 ヨニを収縮させるため
6 ヨニをかぐわしくするため
7 体毛を除去するため
8 思いがけぬ月経中断をふせぐため
9 月経時の不潔さを軽滅するため
10 子宮浄化のため
11 妊娠をうながすため
12 流産その他の事故を防止するため
13 安産を確実にするため
14 産児を制限するため
15 毛髪を豊かに美しくするため
16 毛髪を黒くするため
17 毛髪を漂白するため
18 毛髪をよみがえらすため
19 顔に出て、黒い斑点を残す吹出物をとり除くため
20 肌の黒さをとり除くため
21 乳房を豊かにするため
22 たれさがった乳房をひきあげて、ひきしめるため
23 肌をかぐわしくするため
24 汗の悪臭をとり除くため
25 入浴のあと肌に軟膏を塗るため
26 口臭をかぐわしくするため
27 異性を魅惑し、征服するための薬と呪文
28 女が夫の愛情をひきつけ、持続させるための処方
29 恋と友情を手に入れる魔術的薬品
30 他人を従わせるための処方
31 惚れ薬その他の呪文
32 人心をまどわせる香科、または薫香《くんこう》
33 異性をとりこにする呪文
百三十種の処方の大部分は根拠のないばかげたものだが、おそらくは、つい最近までヨーロッパで行なわれていたものにくらべれば、まだましだろう。惚れ薬、呪文、薬草などは、昔はヨーロッパでも東洋におとらずさかんに使われたし、疑いもなく多くの土地には、いまだにその効果を信じている人々がいるわけである。
つぎに本書の著者である老賢者ヴァーツヤーヤナについて一言しておこう。残念ながら、彼の生涯、家族、環境についてはほとんどなにもわからない。第七部の終わりで、修業僧の生活を送り(おそらくベナレスでだろう)、神の瞑想にふけりながら本書を執筆したと述べている。当時はかなりの年齢に達していたらしく、全篇を通じて自分の豊富な体験や意見を述べているが、これは若年よりはむしろ年功の跡を物語っている。事実どう見ても、青年の手になるものとは思われない。
キリスト教徒の吠陀《ヴェーダ》にあらわれたある美しい詩の中には、平穏な死について云々《うんぬん》し、彼らは労働から解放されて休息し、彼らの残した業績があとを継ぐと書かれているが、まさにそのとおりで、天才の業績は彼らのあとを継ぎ、不滅の宝として後世に伝えられる。肉体と霊魂の不滅に関しては賛否の両論があろうが、後代の苦闘する人類にとって輝かしい、導きの星として残る天才の不滅性については、なにびともこれを拒みえないだろう。とすれば、なん世紀もの試練に耐えた本書こそは、ヴァーツヤーヤナを不滅の人の仲間に加えたことになる。本書ならびに作者ヴァーツヤーヤナに対して、つぎの二行にまさるほどの悲歌または賛歌は他にないだろう。
唇が口づけするかぎり、目が物を見るかぎり、
本書は生きつづけ、本書は御身に命を与えん。 (完)
訳者あとがき
わたしが『カーマ・スートラ』Kama Sutra の英訳書(昭和三十五年、啓明社刊、一部省略)や泉芳環の邦訳(原典からの直接訳、昭和四十二年、若竹書院刊)を手に入れたのは昭和四十年頃のことで、これはあとでわかったが、サー・リチャード・バートンとF・F・アーバスノット共訳の海賊版であった。あとでわかったというのは、この英訳書には、バートンとアーバスノットの名前はもちろん、刊行年月も、出版社名も印刷されていなかったからである。
従って、その当時は『カーマ・スートラ』の英訳にバートンとアーバスノットの共訳があることを全く知らなかったわけである。また、そのため、昭和三十七年にわたしが監修した世界セクソロジー全集の別巻に『カーマ・スートラ』を加えたとき、その台本に前記の海賊版を使いながら、バートンとアーバスノットの名前を逸してしまったのである。
だが、それから一年ほどたって、大阪在住の村井市郎氏という篤学者から『カーマ・スートラ』にバートンとアーバスノット訳があることを知らされ、こちらでいろいろ参考文献を漁《あさ》ってみると、たしかに共訳のあることが判明した。つまり、両人がロンドン(刊行物にベナレスとかコスモポリスとあるのはロンドンの隠語)で設立したカーマ・シャストラ協会は一八八三−八五年のあいだに、『カーマ・スートラ』はじめ『アナンガ・ランガ』『匂える園』ほか二点を刊行した事実が記録されているのである。
けれども、その完全な英訳書はなかなか見つからず、やっと二、三年前に次の二点を入手することができた。
The Kama Sutra. Edited by W. G. Archer. Translated by Sir Richard F. Burton & F. F. Arbuthnot. George Allen & Urwin Ltd.
The Kama Sutra of Vatsyayana. Edited by John Muirhead. Intro. by Dom Moraes (1963, Panther Book)
そののち、
Le Kama Soutra ; Regles de L'Amour de Vatsyayana. by E. Lamairesse(大正四年刊、大隅為三抄訳『婆羅門神学』の底本)のほか、
Kama Sutra of Vatsyayana. Intro. by Franklin S. Klaf (1964, Lancer Book) や Kama Sutra, Edited by Dr. Mukherji(Calcutta) などの新訳も手にはいったが、この拙訳はバートン&アーバスノット訳にもとづいて、随時上記の新訳も参照して成ったものである。
ところで、『カーマ・スートラ』は〈愛〉のカーマと、〈経典〉のスートラの合成語で、〈愛の経典〉(略して俗に〈愛経〉)を意味し、カーマ・スートラ(愛の経典類の総称)のなかで最も傑出している。著者は婆羅門の聖賢ヴァーツヤーヤナで、バートンによれば、「長い年月の試練によく耐えぬいた」この著作はヴァーツヤーヤナを不滅の人々のあいだに加えた。この書物については、つぎの詩句ほどすぐれた挽歌、もしくは賛辞を書くことはだれにもできまい。
唇が口づけするかぎり、目が物を見るかぎり、
本書は生きつづけ、本書は御身に命を与えん。
『カーマ・スートラ』の目的
著者は若い男女が夫婦生活にはいるにあたって、新しい人生に必要な性知識を彼らに提供しようと考えたのである。人類の幸不幸を左右する、この学問は若い男女にとって必須不可欠なものである。古人も言ったように、「薬草の知識のない医者、数学の知識のない勘定方、性学の知識のない既婚者……そういう人々は無益の存在である」
そこで、ヴァーツヤーヤナは古代の権威者たちの卓論に適切妥当な修正を加えながら、信頼するにたる性典を書き綴ったのである。いや、性典というよりも、〈人間行動の教科書〉(ドム・モラエス)といったほうがよいかもしれない。とにかく、著者自身も言っているように、性欲を刺激するための好色本では決してないのである。
周知のとおり、セックスは夫婦生活の幸福を左右するばかりでなく、人間の存在そのものがセックスに依存しているわけである。だが、セックスや性的快楽は人生のすべてではない。人間にはそのほか、いろいろな仕事があり、義務もある。
そこで、ヴァーツヤーヤナはこう考えるのである。人生にはアルマ(富)、ダルマ(宗教的価値)、カーマ(愛)の三つの主要目的があり、この三つのあいだに調和がなければならぬと。つまり、物質的繁栄と性的快楽と宗教(行動上の原理)を均等に追求していけば、必ずや幸福な人生が保証されるというわけである。
万人必読の性典
本書がいつ誕生したかはあとでふれるとして、千数百年前の作品でありながら、その観点も、内容も、ある意味ではすこぶる近代的である。
ヴァーツヤーヤナは恋愛結婚を支持し、婚前求愛の必要を説いて、こう言っている。
「恋愛結婚は愛から生まれるゆえに尊重され、すべてのりっぱな結婚は愛をみのらせる」
もっとも、夫婦関係にあっては愛情が重大な役割を担っているが、それだけが唯一の要因ではない。肉体的・精神的要因もそれに劣らず重要である。夫婦生活の破綻《はたん》の多くが肉体的・精神的不調や性的無知に起因していることは既定の事実である。
そこで、ヴァーツヤーヤナは新郎新婦のあいだに性的均衡がなければならぬこと、それには性学や性技の習得が必要であることなどを力説する。さらに、男女の情熱が同じでなく、女性の性感はたいていの場合、異性の手で喚起されなければならぬとも言っているが、これなど現代性学者たちの意見とそっくり同じである。
当代の風俗の鏡
『カーマ・スートラ』はヴァーツヤーヤナが生存していた時代の社会生活をみごとに写した風俗の鏡でもある。およそ二千年前といえば、まだ大部分の世界の国々が文明の恩沢に浴していなかったころだが、インドはすでに高度の文化を持ち、経済的にも繁栄していた。なかでも王侯・貴族階級は栄耀栄華をきわめて、放埓《ほうらつ》無残な生活を送っていた。言いかえれば、彼らの生活のなかではいろいろな道楽や飲酒や売春や情事が大きな役目をはたしていた。炯眼《けいがん》なヴァーツヤーヤナがそのような現実を見逃すはずはなかった。だから、彼は酒宴や遊園会をはじめ、賭博、恋愛事件、不倫な情事、性倒錯などにも言及し、上流階級では、数人の妾をたくわえたり、情婦をかかえたりするのが社会的慣習であったと述べている。
さらに、人妻の誘惑もめずらしくなかった。
だが、おのが妻をないがしろにして、他人の妻をたらしこむ有産階級の有閑人の遊蕩ぶりは今日の資本主義社会でも見られぬわけではない。
学究的な態度
『カーマ・スートラ』を熟読すると、著者の態度がきわめて学究的であることに気がつく。事実また、著者は前代の〈シャストラ〉(性典類)に記述されているからといって、決してそのまま鵜呑《うの》みにはしなかった。彼自身、最後の章でこうのべている。「バブーラヴィアその他の古代の諸権威の教えを読んで検証したうえ、この書を書いた」
これはまさしく近代の学者の科学的態度である。しかし、ヴァーツヤーヤナは読者に対して本書の教えに盲従せよとは言わない。それどころか、実地の経験をつんだ人々から、いろいろな方法を教えてもらうよう忠告している。ところが、現在の形の『カーマ・スートラ』には、別の著作家の手で勝手に挿入されたと思われる部分がかなりある。そうした個所では、ヴァーツヤーヤナ自身の公正な所見が全く見られないのである。たとえば、第七部の〈人をひきつける方法〉のなかに荒唐無稽な処方がたくさんならんでいる。
「自然死をとげた牝の禿鷹の死骸を粉末にして、蜂蜜などにまぜて練りものにし、これを女体にすりこめば、女は自由になる」
「猿のくそを粉末にして、少女の体にふりかけると、その少女は粉をふりかけた男と結婚せざるをえない」
「リンガを虫にささせて、はれあがってから行為にかかれば、快感が増大する」などにいたっては、噴飯《ふんぱん》ものである。
先駆者たち
ヴァーツヤーヤナは本書を自分の独創的な著述だとは言っていない。むしろ、謙虚に、古代の著作家たちの書物を読んで書いたと断わったのち、自著のなかにいくつかの前代の性文献をあげているわけである。
彼によれば、最初の性典を書いたのはナンディという男性だったが、はたして実在の人物であったかどうかはっきりしない。
つぎはスウェタケツで、ナンディの著作の抄略本を作った。スウェタケツの名は『ウパニシャッド』や『マハバーラタ』のなかにも見え、婚姻制度をはじめて創設したといわれる。そのいきさつがおもしろい。ある日、彼が両親のもとに滞在していたとき、ひとりの婆羅門が母親をむりやり拉致《らち》してしまった。スウェタケツはこれに憤慨したが、父親はしきたりだから、どうにもしかたがないと言った。そこで、スウェタケツは婚姻法を作成して、即日これを実施したので、乱交の風習はたちまちやんだという。
その法令にはつぎのような条文がふくまれていた。「男も女も姦通を犯せば、罪の泥沼にはまり、社会に反する犯罪を犯したことになる」
スウェタケツこそは性学の創始者であったかもしれない。
だが、ヴァーツヤーヤナの時代には、スウェタケツが著わした性典は湮滅《いんめつ》していたから、ヴァーツヤーヤナが彼の言葉を引用したのは間接的で、スウェタケツの抄略本を作ったバブーラヴィアから孫引きしたわけである。
バブーラヴィアは七つの題目を論述した。つまり、一般論、処女の新婦、人妻、情婦、娼婦、性技、秘密な処方。性学に関する当代の完全な著作で、ヴァーツヤーヤナはこれを縦横に祖述した。けれども、彼の時代にもすでに珍書であったようで、現在われわれの手には一部も伝わっていない。ヴァーツヤーヤナはそのほかチャラヤナ(ゴータカムハー、ゴナルディア、ゴニカプトラ、ダッタカ、スヴァルナ・ナバークチュマラなど)の先蹤《せんしょう》をあげているが、彼らの論説はすべて湮滅《いんめつ》しているので、今日利用できるサンスクリットの性文献としては、ヴァーツヤーヤナの『カーマ・スートラ』が最古のものである。
その生涯
この不朽不滅の古典を書いたヴァーツヤーヤナの経歴については、残念ながら、ほとんどなにも判明していない。ただヴァーツヤーヤナはこの賢者の姓で、ほんとうの名はマリ・ナガであったらしいこと、また、本書のなかで自らふれるように、執筆中は独身の禁欲者であったことなどがわかっているだけである。
現世の快楽を断った禁欲者にとってセックスは法度《タブー》であるのに、こうした論説を書くとはいささか妙である。だが、ヒンズー教によれば、人生の幸福は三つの要素、つまりダルマとアルタとカルマのつりあいのとれた融合から成り立っているから、たといダルマに心身を捧げても、カルマを、セックスを無視することはできない道理である。
そこで、ヴァーツヤーヤナは人間の幸福を願って性典の筆をとったわけで、それがけっきょく一千数百年のあいだ社会に大きく貢献してきたのである。
ヴァーツヤーヤナの生没についても、いろいろな異論がある。また、『カーマ・スートラ』自体のなかに出てくる人名などから臆測してみても、推論の域を出ない。そこで、その方面の専門家の結論を二、三紹介して、本稿をとじたいと思う。
『古典サンスクリット文芸史』の著者クリシュナ・マチャリアルは紀元前三世紀または四世紀の人であるとし、H・C・チャクテダル教授は西暦紀元三世紀の、K・G・サンカラ・イエルは同じく四世紀の人なり、と推定した。
そのほか、『グラン・ラルース』は〈カーマ・スートラ〉の項で、同書は西暦紀元四〜七世紀のあいだに書かれたと注しているし、岩波の『西洋人名辞典』の〈ヴァーツヤーヤナ〉には、西暦紀元三〜四世紀の人となっている。
そんなところから、訳者のバートン自身は本書のまえがきで西暦紀元一〜六世紀と、大幅に推定年数をひろげたものと思われる。 大場正史
◆カーマ・スートラ
ヴァーツヤーヤナ作/大場正史訳
二〇〇三年一月二十日 Ver1