タルタラン・ド・タラスコンの大冒険
ドーデ/辻昶・庄司和子訳
目 次
第一話 タラスコンの町
一 バオバブの庭
二 愉快な町タラスコンの概観
三 いんや!いんや! いんや!
四 やつら!
五 タルタラン、クラブへ出かける
六 二人のタルタラン
七 シャンハイのヨーロッパ人
八 ミテーヌ動物園
九 蜃気楼の不思議な効力
十 出発の前に
十一 剣をとれ、諸君、剣でグサリと突いてこい!…卑怯ものめ、針でチクチクとは!
十二 バオバブのちいさな家での話し合い
十三 旅立ち
十四 マルセイユの港
第二話 トロンコ人の国
一 航海
二 武器を取れ!戦闘用意!
三 セルバンテスへの祈り
四 はじめての待ちぶせ
五 ダン!ダーン!
六 雌の出現
七 乗合馬車とムーア女と数珠《じゅず》つなぎのジャスミンの花
八 アトラス山脈のライオンどもよ、眠れ!
九 モンテネグロのプリンス・グレゴリー
十 ≪告げよかし、父君のみ名を。さればこの花の名を伝え申さん≫
十一 シーディ・タルトリ・ベン・タルトリ
十二 「タラスコン通信」
第三話 ライオンの住みか
一 アフリカに追っぱらわれた乗合馬車
二 乗り合わせたちび紳士
三 ライオンの修道院
四 ライオン狩りの一行は進む
五 夾竹桃《きょうちくとう》の茂みで夜の待ちぶせ
六 とうとう来たなっ!……
七 踏んだりけったり
八 タラスコン! タラスコン!
解説
タルタランをめぐって
年譜
訳者あとがき
[#改ページ]
第一話 タラスコンの町
一 バオバブの庭
私はタルタラン・ド・タラスコンをはじめて訪ねた日のことを、一生涯忘れられないだろう。もう十二年、いや十五年もまえのことなのだが、昨日のことよりもはっきりと覚えている。大胆不敵なタルタランが当時住んでいたのは、町の入口から三軒目の家で、街道に面した左側に建っていた。タラスコン風のこぎれいな家で、手前には庭、裏にはバルコニーがあり、壁は真っ白で、よろい戸は緑色だった。戸口のところには、サヴォワ〔フランス南東部からイタリア北西部にまたがる地域。この地域の住民は大人も子供もフランスやイタリアなどによく出かせぎに行った〕の子供たちが集まって石けりをして遊んだり、商売道具の靴磨きの箱を枕に、日だまりで昼寝をしたりしていた。
外から見たところでは、これといって変わったところのない住まいだった。
これが英雄の家だなんて、だれだって信じられなかっただろう。ところが、一歩中に入ると、これはたまげた!……
地下室から屋根裏部屋にいたるまで、どこもかしこも英雄的な様子をしているのだ。庭までそうなのだ!……
ああ!、このタルタランの庭ときたら! ヨーロッパのどこをさがしたって、こんな庭にはお目にかかれっこない。この地方の木など一本もないし、フランスの花など一つとして見当たらない。みんな異国の植物ばかりだ。ゴムの木、ひょうたんの木、綿の木、椰子《やし》の木、マンゴーの木、バナナの木,しゅろの木それにバオバブの木が一本。このほか、うちわサボテン、サボテン、ひらうちわサボテン……なんだか、タラスコンから四万キロメートルも離れた、中央アフリカのど真ん中にでもいるみたいな気分になってくる。勿論《もちろん》、まともな大きさの木は一本も見当たらない。ココ椰子の木といっても砂糖大根とほとんど変わらない大きさだし、(巨人の木と言われる)バオバブの木にしたって木犀草《もくせいそう》の植木鉢の中にゆったりと植わっている。だが、大きさなんてどうでもいい! これでもこの庭は、タラスコンの人たちの目には、なかなかすばらしいものに見えたのだ。みんなは観覧を許される日曜日になると、タルタランのバオバブの木を拝ませてもらいにやってきて、ほめちぎりながら帰ってゆくのだった。
はじめてタルタランを訪ねたあの日、このとてつもない庭を歩いて、わたしはどんなにびっくりしたことか!……ところで、英雄タルタランの書斎にとおされてみると、これまた、びっくりぎょうてんするような代物だった。
町の名物の一つになっているこの書斎は庭に面していて、ガラス張りのドアをあけると、そのままバオバブの木のところに出られるようになっている。
壁の上から下まで、鉄砲だの剣だのが、びっしりと飾りつけてある広間を思いうかべていただきたい。なにしろ、世界中のありとあらゆる武器が集まっているのだ。カービン銃、ライフル銃、らっぱ銃。コルシカのナイフ、カタロニアのナイフ、ナイフのついたピストル、短刀、マライの短剣、カリブ人の矢、火打ち石の矢、手斧《ておの》、棍棒《こんぼう》、メキシコの投げ縄、いやはや、どうにもかぞえきれない!
そうした武器の上にすさまじい強い日差しが照りつけ、鋼鉄の剣だの銃の床尾だのが、ぎらぎらひかるので、見物人はいっそう鳥肌立ってくる……。ただ、ちょっとばかりほっとしたのは、こうした異国の武器も一つ残らず整理整頓《せいりせいとん》されていることだった。おまけに、どれもこれも手入れがゆきとどき、ぴかぴかに磨かれ、ラベルまで張ってあるので、なんだか薬局にいるような気がしてくる。ところどころ小さな注意書きがさり気なく張ってあったが、見ると、
毒矢。さわるべからず!
とか、
実弾装填《じつだんそうてん》ずみ、注意!
なんて書いてある。
こうした注意書きがなかったら、こんな書斎に入りこむ気になんか、とてもならなかっただろう。
この書斎の真ん中には、小さなテーブルが一つ。そのテーブルの上には、ラム酒のびんが一本とトルコのタバコ入れが一つ、それにキャプテン・クック〔一七二八〜七九、ポリネシア、ニューカレドニア、ニュージーランドを探検〕の航海記、クーパー〔一七八九〜一八五一、著書に『モヒカン族の最後』〕やギュスターヴ・エマール〔一八一八〜八三、著書に『牧場のピラト』〕の小説、熊狩りとか、鷹狩りとか、象狩りとかいった狩猟記が何冊も置いてあった……。それから、そのテーブルに向かって一人の男がすわっていた。四十歳から四十五歳ぐらいのずんぐりむっくりした、赤ら顔の男だった。上着を脱ぎすて、ネルの股引《ももひき》だけ。濃いひげを短めに伸ばし、目をらんらんと輝かせている。片手に本を持ち、もう一方の手は鉄ぶたのついたどでかいパイプを振りまわしている。そして、得体の知れない恐ろしい頭皮狩りの話を読みきかせながら、下唇を突き出して、ものすごい仏頂面をしている。こうした仏頂面のおかげで、タラスコンの町の小金もちといったこの男の律儀な顔には、この家の中にみなぎっている、あの無害な狂暴性といったようなものがただよっているのである。
この男こそ、ほかでもない、タルタラン・ド・タラスコン、大胆不敵な大人物、天下に並ぶもののないタルタラン・ド・タラスコンだったのである。
[#改ページ]
二 愉快な町タラスコンの概観
――帽子狩りの仲間たち
いまでこそタルタラン・ド・タラスコンといえば、南フランス中にその名が知れわたった大人物であるが、当時はまだそれほどの有名人ではなかった。とは言うものの――このときすでに――タラスコンでは名士だったのである。
では、どうして彼がこんな名士になったのだろうか。
まず承知しておいていただきたいのだが、この町では猫も杓子《しゃくし》もみんな狩猟家なのだ。狩りと聞いただけで、タラスコンの男たちの血は騒ぎだす。怪獣タラスク〔ギリシア・ローマ以来人間に飼い慣らされた動物で、現在では狩りの際にウサギを穴から追い出すのに使われている〕がこの町の方々の沼を荒らしまわったとき、町の男どもが怪獣退治の狩り出し隊を作ったという伝説もあるくらいだ。もちろんこれは昔の話だが。
そんなわけで、日曜の朝ともなると、タラスコンの人びとは武器を手にして、城壁の外へ出かける。リュックサックをしょって鉄砲をかつぎ、猟犬と白いイタチをひき連れ、狩猟ラッパや角笛を吹き鳴らす。いや大変な騒ぎだ。まさに目を見張るばかりである……。ところがあいにく、肝心の獲物がいない。一匹もいないのだ。
どんなに愚かな動物どもだって、こうも追いかけられてばかりいれば、そのうちには人間不信におちいろうというものだ。
タラスコンの町をとりまく二十キロ四方というもの、巣穴には獣の気配もなく、鳥の巣も空っぽ。つぐみ一羽、うずら一羽いない。子ウサギ一羽、ちっぽけなノビタキ一羽見当たらない。
でも、このタラスコンの美しい丘陵はじつにすばらしい。テンニンカや、ラヴェンダーや、マンネンロウの花の香りに満ちあふれている。ローヌの河辺の段々畑の、甘い甘いみごとなマスカットぶどうも、ひどく食欲をそそる……。それはたしかにそうなのだが、タラスコンの町がひかえている。鳥や獣の間では、タラスコンといえばめっぽう評判が悪い。渡り鳥たちだって、自分たちの旅行地図に出ているタラスコンのところには、特大の×じるしをつけているくらいだ。鴨《かも》の一群が、細長い三角形に隊を組んでカマルグ地方へ向かう途中、この町の鐘楼を遠くのほうから見つけると、先頭の一羽が大声で叫びだす。「タラスコンだぞ!……タラスコンがみえたぞ!……」すると、群れは一羽残らずわざわざ回り道をして、飛んでいってしまう。
とにかく、ここで獲物といえば、たった一羽、年とったしたたかもののウサギが残っているだけだった。このウサギは、奇跡的にタラスコンの人たちの大虐殺をのがれて、この土地にがんばって暮らしていたのだ! タラスコンの名物ウサギだ。名前までちょうだいしていて、「特急うさ公」と呼ばれている。すみかがボンパール氏の地所の中だということもわかっている。――話はそれるが、おかげでこの土地の値段が、なんと二倍、三倍にもはね上がったのである。――ところが、このうさ公をいまだに仕留めたものはいない。
こいつを追いまわして、やっきになっている男は、いまではもう二、三人ぐらいなものだ。
ほかの者はみんな、このウサギのことなど見限ってしまった。それに、「特急うさ公」はもうずいぶんまえから、この土地の神さまみたいに言われるようになっていたのだ。タラスコンの人たちは、もともと迷信などあまり気にしないたちで、つかまえれば、燕《つばめ》だろうと料理して食べてしまう連中なのだが。
「えっ、それじゃあ! 獲物のいないタラスコンで、町の狩猟家たちは毎日曜、狩りに出かけて、一体なにをするんだね?」とみなさんはきくだろう。
何をするかって?
それがなんとこういうことなんだよ! みんなは町を出て、十キロばかり離れた野原の真ん中までやってくる。そして、五、六人ずつの小さなひとかたまりになり、グループごとに、井戸だとか古壁だとかオリーブの木だとかの陰に集まって、ゆったりと足をのばす。そこで、獲物袋から蒸し煮にした牛肉のうまそうなかたまりだの、生の玉ねぎだの、「ソーセージ」だの、塩漬けのいわしだのを取り出すと、えんえんと果てしもない昼食をはじめる。酒はローヌの上等なワイン、飲むほどに笑いうたうといわれるあの代物である。
さて、こうして腹ごしらえがすむと、みんなは腰を上げる。口笛を吹いて犬を呼び集め、銃に弾をこめ、いよいよ狩りにとりかかる。どういうふうにするのかというと、まず、めいめい自分の帽子を取って、力いっぱい空にほうり投げる。それから、五つとか六つとか二つとか、そのつど決めておいた数をかぞえてから、投げあげた帽子めがけて、ズドンとやるのである。
いちばん回数多く帽子を撃ち抜いた者が狩りの王者と認められて、夕方にはタラスコンの町へ凱旋《がいせん》してくる。銃の先には蜂の巣みたいに穴だらけの帽子をひっかけ、猟犬のほえ声や、ラッパの音もにぎやかに。
こんなわけだから、もちろんこの町では鳥打ち帽が飛ぶように売れる。中には、下手くそな連中のためにあらかじめ穴をあけて、ぼろぼろにしたのを売る帽子屋まで現れるしまつだった。だが、そんな帽子を買うのは、薬屋のベジュケぐらいのものだ。なんとも恥さらしなやつである!
帽子狩りの腕前にかけては、タルタラン・ド・タラスコンにかなうものはいなかった。日曜ごとに彼は、朝、真新しい鳥打ち帽をかぶって出かけ、夕方には穴だらけのやつをぶらさげてもどってくる。バオバブの木のあるこの男の小さな家の物置には、こうした栄《は》えある優勝記念品がところ狭しと置かれている。そんなわけで、彼はタラスコン中の人びとから名人と認められていた。タルタランは狩猟の法規を知りつくしていたし、狩りと名のつくものなら帽子狩りからビルマの虎狩りまで、解説書といわず指導書といわず、なにからなにまで読みあさっていた。そこで町の人びとは、狩りに関しては彼を大審判官とあおぎ、もめごとというもめごとを彼にさばいてもらうのだった。
毎日、三時から四時にかけて、武器商コストカルドの店は帽子狩りの連中でごったがえすが、立ったまま、ああだ、こうだと議論をやらかす客人の真ん中に、見ると、緑色の皮張りの肘掛け椅子にすわりこみ、いかめしい顔をして、パイプをくわえている一人の太った男がいる。これこそ、いろいろ裁きを下しているタラタラン・ド・タラスコンその人だった。ソロモン王〔古代イスラエルの王。夢の中に現れた神から、だれよりも深い知恵をさずけられたと伝えられる〕の知恵を兼ねそなえたニムロデ〔聖書中の人物。地上の最初の権力者とされ、狩猟家としても知られている〕といってもよいだろう。
[#改ページ]
三 いんや! いんや! いんや!
―もう一度、愉快な町タラスコンを概観すれば
狩猟が三度の飯より好きというタラスコンのおえら方がもう一つ夢中になっているものがある。恋歌である。ちっぽけなこの土地の恋歌の消費量ときたら、信じられないくらい多い。古ぼけたボール箱の中で黄ばんでいるような、すたれてしまったセンチメンタル歌だって、タラスコンでは、はなばなしい流行歌として息を吹きかえす。タラスコンでうたわれていない恋歌なんてありはしない。どの家にもそれぞれ、わが家の恋歌というものがあって、しかも町中がその恋歌を知っているのだ。たとえば、薬屋ベジュケの家の恋歌は、
[#ここから1字下げ]
白く輝く星よ、われ、きみをたたえん……
武器商コストカルドの家の歌は、
きみ来らずや、ひなびたこの里へ?
登記所の役人の家の歌は、
透明人間でもあったなら、人目につかずにすむものを。(おどけた小唄)
[#ここで字下げ終わり]
タラスコンの町のどこへ行っても、ざっとこんなぐあいである。週に二、三度どこかの家へ集まっては、めいめい恋歌を披露《ひろう》し合う。おかしなことに、いつもおんなじ恋歌である。ずいぶん長いことうたいつづけていながら、義理がたいタラスコンの人びとは、絶対に歌を変えようとしないのだ。父親から息子へと代々うたい継がれ、手を加えたりするものなどだれもいない。神聖な宝ものなのである。よその家の歌をうたうことなども、いっさいやらない。コストカルド家の連中は、ベジュケ家の歌をうたってみようなどとはけっして思わないし、ベジュケ家の連中も、コストカルド家の歌をうたおうなどとは考えもしない。四十年ものあいだ聞きなれている歌なんだから、お互いによく知っているはずなのに。ところがである! みんな自分の家の歌を大事に守っているだけで、満足していたのだ。
帽子狩りでもそうだったが、恋歌にかけても、この町でタルタランの右に出るものはいなかった。タルタランが町の連中よりひときわすぐれているというのには、つぎのようなわけがあった。タルタラン・ド・タラスコンだけは、わが家の恋歌というものをもっていない。そのかわりなんと町中の恋歌を一つ残らず自分のものにしていたのである。
そうだ、一つ残らずである!
ただ、タルタランにうたわせるのは、ひどくやっかいなことだった。このタラスコンの英雄は、サロンでちやほやされることなんかには、もうずっと昔から熱がさめていた。タラスコン産の二本のろうそくに照らされ、ニーム製のピアノの前に立って、みんなの気を引こうとするよりは、狩りの本に読みふけったり、クラブで夕方のひとときを過ごしたりするほうが、ずっと楽しいと思っていたのである。人前で歌をうたうなんて自分のような人物にはふさわしくない、と考えていたのだ……。それでも、薬屋ベジュケの家でうたいっこなどあると、まるでたまたま来合わせたみたいな顔をして、ぶらっと店の中に入っていった。そして、みんなに、さんざんせがませたあげく、ようやくみこしをあげて、ベジュケの母親といっしょに、『悪魔のロベール』〔ドイツで生まれパリでも活躍したマイアベーア(一七九一〜一八六四)作の歌劇。一八三一年初演。パリはもとより地方にまで広まり、大流行した〕の大二重唱を聞かせるのだった……。この歌を聞かないで、歌を聞いたことがあるなんてゆめゆめ言うべからず……。たとえ百歳になっても、わたしはタルタランがうたったときのあの顔をけっして忘れないだろう。そんなとき、大タルタランはいともおごそかな足どりでピアノに近づくと、ピアノに肘《ひじ》をもたせ、いつもの仏頂面をして見せた。そして、「悪魔のロベール」ばりの恐ろしい残忍な表情を、なんとか浮かべてみようとしたものである。あの男がピアノの前に立ったと見ると、客間に集まった人びとはぞくぞくっと身震いした。なんだかものすごいことが持ちあがりそうな気がしたのだ……。一同シーンと静まったところで、ベジュケ老夫人の弾き語りがはじまる。
[#ここから1字下げ]
ロベール、わたしの恋人よ、
わたしと愛を契ったロベール、
あなたがこわいの。(くりかえし)
あなたに、神のお恵みを、
そしてわたしにも、神のお恵みを。
[#ここで字下げ終わり]
そこまでうたうと、夫人は小声で言いそえる。「さあ、タルタランさん、どうぞ」すると、タルタラン・ド・タラスコンは、片方の腕をさし出し、こぶしを握りしめると、鼻の穴を震わせながら、ものすごい声で三度どなる。その声は、ピアノの腹の中でまるで雷みたいに鳴りひびく。「いや!……いや!……いや!……」しかも正真正銘の南仏人だから、「いんや!……いんや!……いんや!……」とひびくのである。ベジュケ老夫人がもう一度くりかえす。
[#ここから1字下げ]
あなたに、神のお恵みを、
そしてわたしにも、神のお恵みを。
[#ここで字下げ終わり]
――「いんや!……いんや!……いんや!……」と、タルタランはいっそうすさまじい声でほえたてる。それでおしまいというわけだ……。ごらんのとおり、長い歌ではない。だが、そのうたいっぷりにしろ身振りにしろ実にみごとで、まるで「悪魔」のようだったから、薬屋に集まっていた一同は思わず震えあがってしまったのだ。そして、四回も五回も、
この「いんや!……いんや!……」をアンコールするしまつだった。
そこで、タルタランは額の汗をふくと、婦人たちにはほほえみかけ、男どもには目くばせをする。そして大当たりをとったのを潮時とばかり引きあげていく。その足でクラブへ出かけて、なにくわぬ顔つきでこう言うのだ。「ベジュケの家で、『悪魔のロベール』の二重唱をうたってきたよ!」
なにしろ、本人は歌を聞かせたと思いこんでいるんだから、ひどい話ではないか!……
[#改ページ]
四 やつら!
タルタラン・ド・タラスコンがこの町で名士になれたのは、こうしたいろんな才能にめぐまれていたからだ。
それに、この一風変わった男が、みんなの心を捕らえる術《すべ》を心得ていたことも事実だ。
タラスコンの軍人たちはタルタランびいきだった。退役した軍服支給部隊長、勇ブラヴィダ少佐は、タルタランのことをこう言っていた。「あいつは、|つわもの《ラパン》〔フランス語のラパンは本来は「ウサギ」を指すが、ここでは「つわもの」の意味で使われている〕だ!」ご存知のように、少佐はなにしろ、たくさんのつわものどもに軍服を支給してきたのだから、そういった男たちのことはよく知っていたのである。
司法官連中もタルタランのファンだった。年とったラドヴェーズ裁判長は、法廷で二、三度、タルタランについてこう言ったことがある。
「あの男はひとかどの人物ですぞ!」
さらに、町の人びとまでがタルタランの大ファンだった。がっしりした体格、堂々たる歩き方。ラッパ卒用の名馬、それも、ラッパの音にビクともしない名馬に似た風貌。だれが言いはじめたのか、あいつは英雄だとのうわさ。戸口に並んだ靴磨《くつみが》きのちびどもにくれてやる駄賃《だちん》の銅貨だの、びんた。こうしたことが積もり積もって、タルタランはとうとう、この土地のシーモア卿〔イギリスの貴族(一八〇五〜六〇頃)。数々のとっぴな行いをして有名になり、パリの社交界に君臨した〕、タラスコン市場の王者に仕立てられてしまったのである。日曜日の夕方、タルタランが銃の先っぽに鳥打ち帽をひっかけ、綿と麻のまじった上着を窮屈そうに着こんで、狩りからもどってくる。すると、河岸では、ローヌ河の荷揚げ人がうやうやしくおじぎをする。それから、タルタランの両腕で上がったり下がったりするどでかい力こぶを、目くばせして教えあっては、感激したように、ひそひそ声で、言い合うのだった。
「すげえ力もちだぞ、あのだんなは!……なんたって、二重づくりの筋肉だからな!」
二重づくりの筋肉だって!
これは、タラスコンでしか聞かれない言葉だ。
ところが、数々の才能にめぐまれたり、二重づくりの筋肉をもっていたり、町の人気者だったり、おまけに、退役軍服支給部隊長、勇士ブラヴィダ少佐がそれはそれは高く買ってくれたりしていたというのに、タルタランはどうしても幸せな気分になれなかった。小さな町でのこんな暮らしは気が重かったし、息がつまりそうだった。このタラスコンの偉人は、タラスコンの町にあきあきしていたのである。タルタランのように根っからの英雄で、合戦だの、大草原の旅だの、猛獣狩りだの、砂漠の砂だの、ハリケーンだの、台風だのしか頭にない冒険やろうにとっては、日曜ごとに帽子狩りに出かけるだけで、あとはコストカルドの店で判決を下しているといったようなことでは、どうにも我慢ができなかったのだ……。ああ、気の毒なタルタラン! このままだと、精も根も尽き果て、死んでしまうかもしれなかった。
自分の世界を広げようと思ったり、クラブだの市場だののことはほんのちょっとでも忘れようとしたりして、家のまわりに、バオバブなどのアフリカ産の植物をあれこれ植えてみたが、だめだった。いろんな武器や、マライの短剣を山ほど買いこんでみたが、やっぱりだめだった。あの不滅のドン・キホーテみたいに、容赦なく襲いかかってくる現実から、夢想の力を借りて逃げだそうとして、空想小説をいやというほど読んでみたが、やっぱりだめだった……。残念! 激しい冒険熱をなんとか静めようとして、タルタランが打った手はどれもこれも、冒険熱をいっそうつのらせるだけだったのだ。集めたいろんな武器を見ていると、いつもイライラと気が立ってくる。ライフル銃が、矢が、投げ縄が、タルタランに向かってこう叫ぶ。「たたかうんだ! たたかうんだ!」バオバブの木の枝を渡る風は、さあ、大旅行に出かけろよと、タルタランによからぬ考えを吹きこむ。おまけに、ギュスターヴ・エマールやフェニモア・クーパーの冒険物語を読むのだから、どうにも手におえない……。
ああ! 夏のむしむしする昼さがり、刀剣にかこまれて、一人きりで本を読んでいたときなど、何度、タルタランは大声でわめきながら立ち上がったことだろう。何度、読みかけの本をほっぽりだし、甲冑《かっちゅう》をはずそうとして、壁に向かって突進したことだろう!
かわいそうに、この男は頭にスカーフを巻き、股引姿でタラスコンのわが家にいるのも忘れて、本に書かれていることをそのまま本当にやりだすのだった。自分のあげた大声に興奮して、斧《おの》やインディアンのまさかりを振りまわしながら、わめくのだった。
「やつらめ、かかってこい!」
「やつら」?「やつら」とは、一体何者だ?
タルタランにも、よくはわからなかった……。「やつら!」襲ってくるやつ、たたかうやつ、噛《か》みつくやつ、ひっかくやつ、頭の皮をはぐやつ、ほえるやつ、わめくやつ、そいつらがみんな「やつら」だったのだ……。「やつら!」それは、運悪く捕われた白人を戦場の柱にしばりつけ、まわりでおどっているインディアンのスー族のことだったのだ。
「やつら」それは、ゆさゆさと体をゆすり、血だらけの長い舌で毛並みをそろえるロッキー山脈の灰色熊だった。あるいはまた、砂漠のツアレグ族も、マライの海賊も、アブルッツーの山賊も「やつら」だった……。「やつら」とは、ともかく「やつら」なのだ!……つまり、戦争、旅行、冒険、栄光、なのだ。
だが、残念無念! 大胆不敵なタルタランが、いくら「やつら」に呼びかけてみても、挑戦してみても音沙汰なし……。「やつら」はいっこうにやってこなかった……。かわいそうに! 「やつら」に、タラスコンくんだりまでやってくる、いわれなどあっただろうか?
それでも、タルタランは性懲りもなく、「やつら」がやってくるのを待っていた。――とりわけ、夜、クラブへ出かけていく途中などで。
[#改ページ]
五 タルタラン、クラブへ出かける
城をかこんだ異教徒めがけていざ出撃という聖堂騎士〔一一一八年に設立された聖堂騎士団という修道会に所属する騎士。聖地に巡礼する人びとを護衛するのが主な仕事であった〕、決戦にそなえて華々しい身支度をととのえる中国の猛将、戦場に向かうコマンチ族の戦士。こういった勇士たちのものものしい格好も、タルタランにはかなわない。軍隊で帰営ラッパが鳴ってから一時間ほどして、つまり夜の九時に、頭のてっぺんから爪先までごてごてと武器をつけてクラブへ出かけていくタルタラン・ド・タラスコンのいでたちに比べれば、まるで子供だましといってもいい。
水兵に言わせれば、「ハンモックたため! 戦闘用意!」といったところだ。
左手には鉄の釘《くぎ》がついた手斧、右手には仕込み杖、左のポケットには鉛入りの棍棒《こんぼう》、右のポケットにはピストル。胸にも、ウールの上着とネルの下着のあいだに、マライの短刀をひそませている。だが、毒矢なんかはもってのほか。なにしろ卑怯千万《ひきょうせんばん》な武器だから!……
クラブへ出かけるまえにはかならず、シーンと静まりかえった書斎の暗がりの中で、いっとき武術の訓練をする。剣を手に取り、片足を大きく前に出して突っこみ、壁にいどんで、全身の筋肉を働かせてみるのだ。そのあと、合鍵を手に取り、重々しい悠然とした態度で庭を横ぎっていく。――イギリス風に、諸君、イギリス風にふるまおうではないか! これがほんとの勇者というものなんだ。――さて、庭を出るときは鉄の重い扉をひらく。いきなり乱暴にひらくので、ひらいた扉は塀の外側に激突……。そこに「やつら」がひそんででもいたら、まさにぐちゃぐちゃになるところだ!……だが残念なことに、「やつら」はかくれていなかった。
扉をひらいて外に出ると、タルタランはすばやく目を左右に配り、手ばやく、しっかりと門に鍵をかける。さあ、出陣だ。
アヴィニヨン街道には、猫の子一匹、見当たらない。家々は扉を閉ざし、窓の明かりも消えている。あたりは真の闇。ところどころ、街灯だけが、ローヌ河の夜霧の中でまたたいている……。
タルタラン・ド・タラスコンは堂々とした落ち着いた態度で、夜の道を進んで行く。靴音はコツコツとリズミカルにひびき、杖につけた鉄の先っぽが、敷石に当たって火花を散らす……。並木のある大通りでも、往来でも、路地でも、彼はいつも道の真ん中を歩くように気をつける。なんとおみごとな予防策だ。こうしていれば、危険が襲ってきてもすぐ気がつく。おまけにタラスコンの夜道には、ときどき窓から変な物が落ちてくるので、なおさらのことだ。慎重居士《しんちょうこじ》タルタランのやり口を見ても、どうぞ、臆病風《おくびょうかぜ》に吹かれてのことだとは思わないでほしい……。そんなことは断じてない! ただ、警戒おさおさ怠りないだけなのだ。
タルタランがこれっぽっちもおじけづいていないことは、クラブへ出かけるのに、散歩道なんかはとおらずに、町なかを歩いて抜けていったのをみればすぐわかる。つまり彼は、いちばん遠回りでいちばん暗い道すじを、そのはずれにローヌ河が不気味にひかっているのが見える、ごたごたとしたたくさんの路地を抜けていったのである。物騒な曲がり角の暗やみから「やつら」がとび出してきて、うしろから襲いかかってくればなあと、タルタランははかない望みを抱いていたのだ。襲ってでもきたら、「やつら」はきっと、こっぴどいめにあわされただろう……。だが、残念無念! 運命の神に鼻もひっかけられなかったのか、タルタラン・ド・タラスコンは一度たりとも、たったの一度たりとも、こうした凶漢どもに出くわすチャンスにはめぐまれなかった。犬ころ一匹、酔っぱらい一人にも出くわさない。なんにもとび出してはこないのだ!
ところが、すわ、敵来襲と勘違いすることもあった。足音と、おし殺したような声……。「さては!」とタルタランはつぶやき、その場に釘づけ。闇をうかがい、様子をさぐり、インディアン風に地面に耳を押しつける……。足音が近づき、話し声もはっきりしてくる……。疑いなし! 「やつら」がやってきたのだ……。それ、そこにいる。はやくもタルタランは目をらんらんと輝かせ、息をはずませ、まるでジャガーみたいに、ぐっと身をちぢめてかまえる。ときの声をあげて、敵にとびかかろうとしているのだ……。と、そのとき突然、闇の中から、いともおだやかな調子でタルタランの名を呼ぶ、人のよさそうなタラスコンなまりの声が聞こえてきた。
「おや!……タルタランじゃないか……。じゃあまたね、タルタラン!」
ちぇ、なんてこった! 家族連れの薬屋のベジュケだった。コストカルドの家で「わが家の歌」をうたっての帰り道である。「やあ! じゃあまたね!」と、タルタランは不満そう。思い違いをしたのが腹立たしくてたまらないのだ。すさまじい顔をし、仕込み杖を高く振りかざして、深い闇の中につっこんでいく。
クラブの前の通りに出ても、タルタランは、すぐにはクラブへ入ろうとせず、入口の前をうろうろしながら、もう一度ちょっとのあいだ待ってみる……。とうとうタルタランはしびれをきらし、もう「やつら」はきっと現れっこないと思うと、もう一度、これが最後と挑みかかりでもするように闇をにらみつけ、おっかない顔でつぶやく。「なんにも!……なんにも!……猫の子一匹出てこんとは!」
こう言って、タルタランは中へ入り、少佐といつものトランプ遊びをすることになる。
[#改ページ]
六 二人のタルタラン
こんなぐあいに冒険熱にとりつかれ、ああ、なにか感激するものはないかと、やれ旅だ、遠出だ、遠征だとうつつを抜かしているタルタラン・ド・タラスコンが、このタラスコンの町から一歩も外に出たことがないというんだから、驚くではないか?
でも、なにしろ、それはまぎれもない事実なのだ。四十五歳のこの年まで、大胆不敵なタルタランは、タラスコンの町以外の土地で泊まったことは一度だってなかったのだ。れっきとしたプロヴァンスっ子なら、成年に達すれば、せいぜい一度は自腹を切ってやってのけるあのマルセイユ旅行だって、まだすませていない。ボーケールを知っているのが関の山だったが、ボーケールといえば、タラスコンとは目と鼻の先、橋一つまたげば行ける向かいの町なのだ。ところがあいにく、この橋がやっかいなやつで、風が吹けばすぐすっ飛ぶし、ひょろひょろ長いばかりでなんとも頼りない。おまけに、ローヌの河幅もこのあたりではうんと広がっている。ほんとうに! そのとおりなんだ……。タルタラン・ド・タラスコンには、陸《おか》のほうが性に合っていたというわけである。
ここで、ぜひとも打ち明けておかなければならないことがある。わが英雄の胸の内には、まるっきり違った二つの性格は住んでいるということなのだ。「私の中には二人の人間が住んでいるような気がする」と、ある神父も言っている。これは、ずばりタルタランのことを言っているみたいだ。タルタランはドン・キホーテの魂をやどしていた。騎士的な情熱や雄々しい理想をもち、空想的なことだの雄大なことだのに夢中になるところなどは、まさに、ドン・キホーテそのものだ。だが、からだつきは、この有名なスペイン貴族ドン・キホーテそっくりとは言いがたい。ドン・キホーテはがりがりのやせっぽっちだから。それで、物質的な生活なんかどうでもよく、よろいを着たままでも二十日も夜を過ごせるし、ほんの一つかみの米だけでも、二日間は楽にしのげるほどだった……。一方、タルタランのからだのほうはドン・キホーテとは反対に、なかなかみごとな代物で、ぜい肉たっぷり、どっしり重く、快楽を好み、我慢がきかず、愚痴っぽく、世俗的な欲望でいっぱいで、おまけに、日常茶飯事にまでなにやかやとうるさく口をはさむタイプだった。出っ腹でずんぐりとしたからだが、あの不滅の下僕サンチョ・パンサがもってでもいる足の上にどかっと乗っかっているのだ。
ドン・キホーテとサンチョ・パンサが一人の人間の中に同居しているのである! 二人がうまくやっていけるわけがない! どんな喧嘩がおっぱじまることやら! どんな仲たがいが演じられることやら!……そのへんのところは、察しがつくだろう。ああ、
この二人のタルタラン、つまり、キホーテ=タルタランとサンチョ=タルタランの会話は、かの対話文学の大家、ルキアノスかサン=テヴルモンの筆にかかったら、さぞかしみごとだろう! ギュスターヴ・エマールの物語を読んでふるいたったキホーテ=タルタランが叫ぶ。「さあでかけるぞ!」
リューマチのことしか頭にないサンチョ=タルタランが言う。「わたしは残りますよ」
【キホーテ=タルタラン】(熱狂して)
タルタランよ、栄光につつまれよ。
【サンチョ=タルタラン】(いたって冷静に)
タルタラン、ネルの下着につつまれよ。
【キホーテ=タルタラン】(いよいよ熱狂して)
ああ、あのすばらしい二連発ライフル銃よ! ああ、あの短剣よ、投縄よ、インディアンの毛皮の靴よ!
【サンチョ=タルタラン】(いよいよ冷静になって)
ああ、すてきなニットのベストよ! 暖かいつなぎの服よ! ああ、耳あてのついたここちよい帽子よ!
【キホーテ=タルタラン】(逆上して)
斧だ! 斧をよこせ!
【サンチョ=タルタラン】(鈴を鳴らしてお手伝いさんを呼び)
ジャネットや、いつものココアを持ってきておくれ。
すると、ジャネットが、熱くて波みたいな膜が浮いたいい香りのするおいしいココアと、アニス入りの汁のしたたるみごとな焼肉の皿を持って現れる。サンチョ=タルタランの笑い声で、キホーテ=タルタランのどなり声は消えてしまう。
まあ、こんなわけで、タルタラン・ド・タラスコンは、タラスコンの町を一歩も離れたことがなかったのである。
[#改ページ]
七 シャンハイのヨーロッパ人
――貿易/タタール人/タルタラン・ド・タラスコンは嘘つきだろうか?/蜃気楼《しんきろう》
ところで、いつのことだったか、タルタランは国を発とうとしたことがある。それも大旅行にである。
タラスコン生まれの、シャンハイで身を立てたガルシヨ=カミュ家の三兄弟が、タルタランに、シャンハイにある商社の一つを任せたいと言ってきたのだ。これこそまさに、タルタランにおあつらえ向きの生き方だ。手広く商売をやり、大勢の社員を動かし、ロシアやペルシアやトルコとも取引きする。つまり貿易だ。
タルタランの口にかかると、この貿易という言葉は、どことなく高尚な感じがするではないか!……
それに、ガルシヨ=カミュ社は、ときどき、タタール人の襲撃というおまけもくらったのだ。そんなときには、すばやく店の戸を閉め、国旗を掲げる。そして社員は一人残らず武器を取り、ズドン! ズドン! 窓からタタール人めがけて撃ちまくるのである。
キホーテ=タルタランが、どんなに狂喜してこの申し出にとびついたかは、いうまでもない。ところが具合の悪いことに、サンチョ=タルタランのほうは、こうした話にはちっとも乗り気ではない。それに、こっちのほうが実力者ときているから、まとまる話もまとまりっこない。町はタルタランのシャンハイ行きの話で持ちきりだ。あいつ、行くのかな? ゆかないのかな? きっと出かけるよ。いや、出かけないさ。いやはや大事件だった……。結局、シャンハイ行きはとりやめになった。だが、この話のおかげで、タルタランの評判は大いに上がったのである。シャンハイにもう少しで行くところだったとしても、実際に行ってきたとしても、そんなことは、タラスコンの人びとにとっては、似たり寄ったりのことだったのだ。タルタランのシャンハイ行きのことを夢中で話しているうちに、町の人びとは、とうとう、あの男はシャンハイ帰りだ、と思いこんでしまったのである。夜になると、クラブでは、紳士たちがタルタランをとりかこんで、シャンハイの生活だの、風俗習慣だの、気候だの、アヘンだの、貿易だの、いろいろなことをききまくるのだった。
タルタランはすっかりシャンハイ通になっていたので、きかれれば喜んで、どんなことでも微に入り細にわたって話してやるのだった。そして、そのうちにはタルタランも、自分が本当にシャンハイに行かなかったのかどうか、わからなくなってしまったのである。そんなわけで、タタール人の襲撃の話を何度も何度も話して聞かせているうちに、ごく自然に、こんな言葉がとび出すようになってしまった。「そんなときはな、わしは社員たちに武器を取らせ、国旗を掲げ、ズドン! ズドン! タタール人めがけて、窓越しにぶっ放してやりますわ」こんな話を聞かされたクラブの連中は、みんな震えあがるのだった……。
「だが、それじゃあ、タルタランってやつは、ひどい大嘘つきってことになるじゃないか」
「いや! 絶対にそんなことになりはしない! タルタランは嘘つきなんかじゃない……」
「だけどね、自分でもシャンハイになんか行ったことがないっていうのは、よく承知しているはずじゃないか!」
「もちろん! 承知していたさ。ただ……」
だけど、つぎのことをしっかり聞いておいてほしい。南フランスの連中は嘘つきだといったうわさを、北の人びとはよく流すが、この点について、いまこそきっぱりと話をつけておかなければならない。南フランスには、嘘つきなんていやしない。マルセイユにも、ニームにも、トゥールーズにも、タラスコンにも、いやしないのだ。南フランスの人間は、嘘をつくのではない。自分で自分にだまされてしまうのだ。いつも本当のことをしゃべっているわけではないが、しゃべっていると思いこんでしまうのだ……。南フランスの連中の嘘は、嘘なんていうものではない。言ってみれば、蜃気楼みたいなものなのだ……。
そうだ、蜃気楼なのだ!……南フランスへ行ってみれば、よくおわかりいただけると思う。この地方はみょうなところで、お天道《てんと》さまが、ありとあらゆるものの形を変えてしまう。それも、実物よりぐんと大きく変えてしまうのだ。本当はモンマルトルの丘と同じくらいの高さのあのプロヴァンスの小さな丘が、どれもこれも、とてつもなく大きな山みたいに見えてくるし、ニームのメゾン・カレ〔ローマ時代に建てられた美しい神殿。縦二十五メートル横十二メートルの小さな建物〕――あのかわいらしい飾り棚みたいな建物――だって、ノートル=ダム大聖堂みたいな大きなものに見えてくる。おわかりになると思うが……。そうさ! 南フランスにたった一人嘘つきがいるとしたら、それは、お天道さまなのだ……。お天道さまの光を浴びると、なんでもかんでもがとてつもなく大きく見えてくるのだ!……栄華をきわめていたころのスパルタはどんなものだっただろう? ちっぽけな村にすぎなかった……。アテネはどうだったのだろう? せいぜい郡庁所在地にすぎなかった……。それなのに、歴史上では、どちらもすばらしく大きな都市みたいに見えてくるのだ。これこそまさしく、お天道さまのなせるわざなのである……。
こんなわけだから、お天道さまの光がタラスコンの町を照らすと、ブラヴィダみたいな退役軍服支給部隊長が、勇士ブラヴィダ少佐に、かぶらがバオバブの木に、シャンハイに行きそこなった男が立派なシャンハイ帰りってことになったとしても、別に不思議はないだろう。
[#改ページ]
八 ミテーヌ動物園
――アトラス山脈のライオン、タラスコンにこわごわか、堂々か、とにかくご対面
これまで、みなさんに、タルタラン・ド・タラスコンの私生活なるものをお目にかけてきた。まだ、栄光の女神のキスを額に受けたり、樹齢を重ねた月桂樹の冠を授けられたりしないころの彼の生活ぶりである。それに、なんとも冴《さ》えない境遇にいたころの、この英雄の暮らしぶりやら、喜びやら、苦しみやら、それに、夢も希望も、なにもかもお話してきたというわけである。さあ、そこでいよいよ、タルタランの一世一代の最高潮の見せ場へと筆を進めていきたいのだが、まずは、たぐい希《まれ》な運命にとびこんでいくきっかけとなった、とっぴな事件をお話しすることにしよう。
ある晩のこと、場所は武器商コストカルドの店。タルタラン・ド・タラスコンは数人の銃の愛好家に向かって、そのころとしては最新式の激針《げきしん》つき小銃の扱い方を実演しているところだった……。と、いきなりドアがあいたかと思うと、帽子狩り仲間の一人が、すっかりうろたえて様子で、「ライオンだあ!……ライオンが出たあ!……」と叫びながら、店の中に転がりこんできたのである。みんなは、あっけにとられたが、そのうち恐ろしさにおののいて、もう上を下への大騒ぎ。タルタランは銃剣をななめにかまえ、コストカルドはあわててドアを閉めにいった。みんなは転がりこんできたその男をとりかこみ、一体どうしたんだ、何があったんだと、せっついたあげく、ことは、こうだった。ミテーヌ移動動物園が、ボーケールの定期市で興行した帰りがけに、タラスコンの町に数日滞在することになり、城の前の広場にテントをかまえたというのだ。王蛇《ボア》だの、あざらしだの、ワニだのがわんさと、それにアトラス山脈のりっぱなライオンも一頭連れているそうだ。
アトラス山脈のライオンがタラスコンの町に! 記憶をたどってみても、いまだかつて、こんなことが起こったためしはない。そこで勇敢な帽子狩りの連中は、顔を見合わせて、得意満面! みんなのいかつい顔がぱっと輝き、コストカルドの店のあちらこちらで、無言のまま握手が幾度かかわされている! それはそれは大きな感動が、しかもなんの前ぶれもなくやってきたものだから、だれも、なんと言ったらいいのかわからなかったのだ……。
タルタランでさえも同じこと。顔は青ざめ、武者震いをしながら、激針つき小銃を両手で持ち、カウンターの前につっ立って、じっと思いにふけっている……。アトラス山脈のライオンがそこに、すぐそこに、目と鼻の先にいるなんて! ライオンが来たんだ! 雄々しさも狂暴さもひときわすぐれた動物で、百獣の王のライオンが。タルタランがあれほど夢に見つづけていた獲物、たとえてみれば、空想の世界でいともみごとな芝居を演じて楽しませてくれた、夢の一座の花形みたいなものだ……。
ライオンだあ、ばんざい!……
しかも、アトラス山脈のライオンが! これでは、さすがのタルタランも感きわまって、どうしたらいいかわからない……。
と、突然、タルタランの顔は血の気をおびて真っ赤になった。
目はらんらんと輝いてきた。そして、引きつったようなしぐさで、持っていた激針つき小銃を肩にひっかつぐと、退役軍服支給部隊長、勇士ブラヴィダ少佐のほうをふり向いて、雷みたいな大声でこう言った。「少佐、やつを見にいきましょうや」
「おや!……あの!……店の銃を!……店の銃を持っていかれっちまっちゃあ!……」と、小心者のコストカルドがおっかなびっくり言いだしたときには、もうあとの祭り。タルタランはすでに通りの角を曲がりきり、すぐうしろからは、ぴったりと帽子狩りの連中が一人残らず、誇らしげについて行く。
一行が移動動物園に着いたときには、もうあたりは黒山の人だかりだった。タラスコンの人たちは、なんといっても英雄の血を受け継いでいたのに、長いこと血の湧くような光景にはお目にかかっていなかった。だから、ミテーヌ動物園のテントをめざしてやってきて、すっかり広場を占領してしまっていたのだ。そんなわけで、太っちょのミテーヌのおかみさんは大満足……。彼女は、カビリア地方〔アトラス山脈の地中海側の地方〕の衣装を身にまとい、袖をひじまでたくし上げて、両方のくるぶしには鉄のアンクレットをはめている。片手には鞭《むち》をにぎり、もう一方の手には、羽をむしられてもまだ生きている若どりをつかんでいる。おかみさんは愛嬌をふりまいて、タラスコンの人たちをテントに招き入れているところだ。彼女もまた、二重づくりの筋肉の持ち主だったから、ミテーヌ動物園の動物たちに負けず劣らず人気者だった。
そこへ、タルタランが銃なんかかついでやってきたもんだから、一座はぞっとしてしまった。
タラスコンの人たちはだれも、危険な目にあうんじゃないだろうかなんてことはつゆほども考えていないから、武器など持たずに、すっかり安心しきって、のんびりと檻《おり》の前を行ったり来たりしている。そこへ、あのタルタランが、恐ろしい武器を手にして、テントの中に入ってきたものだから、ぞっとしてガタガタ震えたのも無理はない。なにか恐ろしいことが起こったにちがいない。なにしろあの男が、あの英雄が……。あっというまに、どの檻の前もくもの子を散らすようにいなくなってしまった。子供たちはおびえて泣きだすし、母親たちは逃げ道をさがしている。薬屋のベジュケは、銃を取ってくるなどとごまかしを言って、姿をくらましてしまった……。
それでも、タルタランの態度を見ているうちに、見物人たちはだんだん安心してきた。大胆不敵なタルタランは、落ち着きはらって堂々と、テントの中をゆっくりとひと回り。あざらしの水槽の前などには立ち止まろうともしない。ぬかがいっぱい詰まった細長い箱も軽蔑したようにちらと目をくれただけ。この箱の中では王蛇《ボア》が若どりの生肉を食べている真っ最中だ。だが、ライオンの檻の前まで来ると、タルタランはぴたりと立ち止まった……。
こわごわか、堂々か、とにかくご対面! タラスコンのスターとアトラス山脈のスターが向かい合っているのだ!……かたや、タルタラン、立てたライフル銃に両腕を持たせ、背筋をピーンと張って立っている。かたや、ライオン、これがまたとてつもなくでかいやつで、わらの上に寝ころんで、目をしばたかせ、ぼうっとしている。黄色いたてがみをつけた巨大な鼻面を、前脚に乗せている……。おたがいに落ち着きはらって、相手をじっと見つめている。
不思議なこともあればあるもの! 激針つき小銃にご機嫌をそこねたのか、タルタランをライオン族の天敵とかぎつけたのか、そのときまでおかしなやつらだなあ、とばかりタラスコンの人びとの姿を眺め、みんなの鼻っ先であくびなどしてみせていたライオンが、このとき急に怒りだしたのである。まず鼻を鳴らし、低いうなり声をあげ、爪を広げ、脚をぐっと伸ばした。やおら立ち上がったかと思うと、頭をもたげ、たてがみをゆさゆさ、大きな口をがっとあけて、タルタランめがけてすさまじいうなり声をあげた。
このひと声に、キャーという恐怖の叫び声があがった。タラスコンの人たちは無我夢中で出口という出口に押しよせた。女も、子供も、荷揚げ人も、帽子狩りの連中も、果ては勇士ブラヴィダ少佐まで、だれもかれもが……。ただ一人タルタラン・ド・タラスコンだけは、身じろぎ一つしない……。檻の前に毅然《きぜん》としてたじろぎもしない。目をぎらぎら輝かせ、町中の人びとがせんこくご承知のあの仏頂面で……。タルタランが落ち着きはらっているし、鉄格子がびくともしないのを見て、いくらかほっとした帽子狩りの連中は、しばらくしてこのリーダーのそばにもどってきた。するとリーダーは、ライオンをじっとにらみつけながら、こうつぶやいているではないか。「ふん、よし、こいつあ、なかなかの獲物だわい」
その日、タルタラン・ド・タラスコンは、それ以上ひとことも言わなかったのだが……。
[#改ページ]
九 蜃気楼の不思議な効力
その日、タルタラン・ド・タラスコンは、それ以上ひとことも言わなかった。それでもまずいことに、そのひとことが余分だったのである……。
あくる日にはもう、タルタランが近いうちにライオン狩りにアルジェリアに出かけるぞという話で、町中が沸きたってしまった。読者諸君、みなさんも一人残らず証人になってくださるだろうが、あの立派な男は、そんなことはひとことも口にしなかったのに。だけど、ほら、例の蜃気楼ってやつがね……。
要するに、タラスコンの町中が、タルタランの出発の話でもちきりだったのだ。
散歩道でも、クラブでも、コストカルドの店でも、人びとは、おったまげたといった様子で、しゃべり合っている。
「ところで、ご存じでしょうな、あの話、さだめし?」
「ところで、えーと、?……タルタランが出かけるってことでしょうな、さだめし?」
こんなぐあいに、タラスコンの町の会話は、なんでもかんでも、ところで、ではじまり、さだめし、で終わる。これが、また、なまって、≪とこんでさだむし≫となるわけだ。それにしても、あとにも先にもこんな日はなかった。なにしろ、あちらでもこちらでも、家の窓ガラスがビリビリ震えるほど、≪とこんで≫と、≪さだむし≫が連発されたのだから。
なんといっても、町中でいちばんびっくりしたのは、タルタランご当人だった。自分がアフリカへ出発することになってしまったのだから。だが、そこはそれ、虚栄心というものがある! 出かけるつもりはさらさらないとか、そんなことは夢にも思ってみなかったとか、さらっと答えておけばよかったのだ。それなのに、タルタランは困ったことに――最初にこの探検のことをきかれたときに――ちょっと逃げ腰になって、返事をしてしまったのだ。「いや!……そう!……まあね……。そんなこと言っちゃいないけど」ところが二度目には、アフリカへ行く話に少しはその気になってきて、こう答えた。「行くかもしれんなあ」それが三度目ときたら、「出かけるとも!」と答えるはめになってしまったのである。
それでとうとうその晩のこと、クラブでもコストカルドの店でも、みんなが集まって、卵入りのパンチで祝杯をあげ、口々にタルタランをほめちぎった。どこに行っても、明かりが煌々《こうこう》とともっている。それで、タルタランはすっかりいい気分になってしまった。おまけに、自分の出発のことが町中の話題をさらっているのに酔いしれて、よせばいいのに、はっきりとこんなことまで口ばしってしまったのである。わしは帽子狩りにもうんざりしたから、近々アトラス山脈の大きなライオンどもをしとめに出かけるんだ、と……。
タルタランがこう宣言すると、いっせいにすさまじい歓声がおこった。そんなわけで、また卵入りのパンチで乾杯だ。タルタランは握手攻めにあったり、抱きつかれたり、いやはやたいへんなもてよう。それからしばらくすると、このバオバブの小さな家の前では、夜中まで松明《たいまつ》の下で音楽が演奏された。
なんといっても面白くないのは、サンチョ=タルタランのほうだ! アフリカへライオン狩りに出かけるなんて、考えただけでもぞっとする。そこで、家に帰ってくるなり、彼は、キホーテ=タルタランにもうれつな勢いで喧嘩をふっかけた。窓の下では祝いのセレナーデがつづいているというのに。あんたは頭が変になっちまった、妄想家だ、おっちょこちょいだ、どあほうだ、とののしり、おまけに探検旅行になんか出かけたらいろんなひどいめにあうぞといって、こまごまとそうした災難を並べたてたのである。難破、リューマチ、脳炎、赤痢《せきり》、ペスト、象皮病《ぞうひびょう》、やれ、なんだかんだとというぐあいに……。
キホーテ=タルタランが、軽はずみなことはしないからとか、用意万端おこたりなくして行くからとか、いくら誓ってみても、馬の耳に念仏だ。サンチョ=タルタランはこれっぽっちも聞くつもりはないのだから。かわいそうに、サンチョ=タルタランは、いやもおうもなく、自分がライオンどもに八つ裂きにされている様子だとか、いまは亡きカンブュセス〔古代ペルシアの王カンブュセス二世のこと。全エジプトをペルシア領としたが、王の軍隊は砂漠で遭難した〕の兵士たちのように、砂漠の砂の中にのみこまれて死んでしまう自分の姿だとかを、想像してしまうのだった。それで、キホーテ=タルタランは、サンチョ=タルタランの気をなんとか静めようと、必死になって、いますぐ出発するわけでも、せかされているわけでもないし、第一まだ出かけちゃいないじゃないか、などと説明してみせてもだめだった。
実際、これはだれの目にも明らかなことだが、こんな大冒険に出かけるには、いくらかでも準備などをしておかなければならない。行き先のことぐらい十分調べておかなきゃいけない。やれやれ! 鳥のように、気の向くままに飛び立つわけにはいかないんだ……。
まず初めに、タルタランは、偉大なアフリカ探検家たちの書いた物語、例えば、マンゴ・パークや、カイエや、リヴィングストン博士や、アンリ・デュヴェリエたちの見聞記を読んでみたいと思った。
本を読んでみると、こうした大胆不敵な探検家たちは、大遠征に出かけるまでには、ずいぶんまえから、飢えや、渇きや、強行軍や、ありとあらゆる窮乏状態に耐えられるように、心身ともにきたえていたことがわかった。タルタランは彼らを手本にして、その日以後は、「スープパン」しか食べないことにした。――タラスコンで「スープパン」といえば、少量のにんにくやら、タイムやら、月桂樹やらで≪だし≫をとったスープの中に、パンを幾切れか浸したものである。――食事制限はかなりきつかった。あわれなサンチョがどんなに渋い顔をしたか、みなさんにもおわかりになるだろう……。
このスープパン療法のほかにも、タルタラン・ド・タラスコンはよかれと思う訓練をあれこれと実行してみた。それで、長い行軍に慣れるように、なにがなんでも毎朝、町のまわりをぶっ続けに七、八周走ることにしたのである。ひじを体につけ、古代の風習にならって白い小石を二つ口の中に入れ、ある時は全力疾走をし、ある時は軽く駆け足をしたりして。
それから、夜間の冷え込みだの、霧だの、夜露だのにからだを慣らさなくてはいけないというので、毎晩、庭に出ては、十時、十一時になるまでじっとつっ立っていた。たった一人で銃をかまえ、バオバブの木のかげで獲物でも待ちぶせするような格好で……。
おまけに、ミテーヌ動物園がタラスコンで興行していたあいだ中、コストカルドの店で遅くまでしゃべりこんでいた帽子狩りの連中は、帰り道でお城の前の広場をとおりかかると、いつも暗やみの中に人影を見たのだった。テントのうしろをうろついている怪しげな男の影を。
この男こそ、タルタラン・ド・タラスコンだった。暗やみの中でほえ声を聞いてもびくともしないように、自分を訓練していたのである。
[#改ページ]
十 出発の前に
こんなぐあいに、タルタランが勇ましい訓練をあれもこれもと重ねているあいだ、タラスコン中の人びとはずっと彼から目を離さなかったのである。だれもタルタランのこと以外は見向きもしない。帽子狩りも下火になり、うたいっこもしばらくお休み。薬屋ベジュケの家では、ピアノが緑色のカバーをかぶせられ今やひかれることもない。このカバーの上で、≪スペインばえげんせい≫が何匹もひからびて、ひっくりかえっている……。タルタランが遠征するおかげで、なにもかも、動きが止まってしまったのである。
タルタランのあちこちのサロンでのもてようったら、じつに見ものだった。みんなから引っぱりだこになり、彼をめぐって、「借りた」の「盗んだ」のという争奪戦がくり広げられるしまつだった。ご婦人がたにとって最高の名誉は、タルタランと腕を組んでミテーヌ移動動物園へ行き、ライオンの檻《おり》の前で、猛獣をどうやって駆りたてるか、銃でどのへんを狙《ねら》うのか、何歩ぐらい距離をおくのか、危険がたくさん待ち受けているのか、といったようなことについて、タルタランからいろいろ講義してもらうことだった。
タルタランはきかれたことは一つ残らず説明してみせた。彼は、ジュール・ジェラール〔フランスの軍人。アルジェリアでライオン狩りを行い有名になる。著書『ライオン狩り』〕の著書を読んでいたので、ライオン狩りのことなら、まるで実際に経験したことがあるみたいに、なにからなにまで知っていた。だから、ご婦人がたへの説明ときたら、まさに立て板に水であった。
しかし、彼がいちばん格好よく見えるのは、ラドヴェーズ裁判長か退役軍服支給部隊長、勇士ブラヴィダ少佐の家での夕食会の席でだった。会食もそろそろ終わりに近づき、コーヒーが運ばれ、椅子をくっつけ合った客たちから、さあ、あなたが行かれる猛獣狩りの話をしてくださいよ、とせがまれるときのタルタランは、そりゃもう立派なものだった……。
そうした席では、英雄タルタランはテーブル・クロスにひじをつき、モカ・コーヒーをすすりながら、感動で声をふるわせ、行く先々で自分を待ち受けているにちがいないかずしれない危険をとうとうと物語るのだった。月もない夜に獣をじっと待ちぶせること、ものすごい悪臭を放つ沼、夾竹桃《きょうちくとう》の葉の毒で汚れた川、雪、灼熱の太陽、さそり、いなごの大群。それにまた、アトラス山脈の巨大なライオンの習性だの、たたかい方だの、驚くべきたくましさだの、発情期の狂暴さだのも……。
そのうち、自分の話に興奮してくると、彼は席を立って、食堂の真ん中で跳ねまわる。ライオンのほえ声だの、ダン! ダーン! カービン銃の音だの、ヒューン! ヒューン! 空《くう》を切る弾丸の音だのを口真似し、身振り手振りをまじえながらわめき散らし、あげくの果ては、椅子をひっくりかえしてしまうありさまだった……。
テーブルのまわりで見ている人びとはみんな青ざめている。男たちは首をふり顔を見合わせ、ご婦人がたは恐ろしそうに小さくキャッと叫びながら目をつむり、老人たちはさあ、来いとばかり、長い杖を振りまわしている。そのうち、早くから 寝かされていた男の子たちが、猛獣のほえ声だの鉄砲の音だのにぎょっとして目をさまし、ひどくおびえて、明かりをつけてよう! と、となりの部屋から叫ぶのだった。
ところが、こんなことをしておきながら、当のタルタランは、いっこうに出発しようとはしなかったのである。
[#改ページ]
十一 剣をとれ、諸君、剣でグサリと突いてこい!…卑怯ものめ、針でチクチクとは!
タルタランは本気で旅に出ようとしたのだろうか?……これは微妙な問題だ。タルタランの語り手である私でさえ、おいそれと答えなど出せるものではないだろう。
とにかく、ミテーヌ移動動物園がタラスコンをひきはらってからもう三か月以上にもなるというのに、このライオン狩りの名人がみこしをあげる気配は、いっこうになかったのである……。結局、こういうことなのだろう。この天真爛漫な英雄はまたまた蜃気楼《しんきろう》に目がくらみ、わしはアルジェリアに行ってきたんだと、しんそこ思いこんでしまったのだ。これからやるはずの狩りの話を、何度も何度もくりかえしているうちに、すっかりライオン狩りをやってのけた気になってしまったのだ。なにしろ、シャンハイで国旗を高く掲げ、タタール人めがけて、ズドン! ズドン! と鉄砲をぶっ放したと本当に信じこんだくらいの男だから。
こんなぐあいに、タルタラン・ド・タラスコンは、またもや蜃気楼の餌食になっていた次第だが、あいにくのことに、タラスコンの町の人びとのほうはそういうわけにはいかなかった。三か月も待ったのに、タルタランは出発の準備をまだなに一つしていない。このことに気づいた町の連中は、ひそひそ陰口をききはじめた。
「シャンハイの二の舞だろうなあ!」と言って薄笑いを浮かべるコストカルド。コストカルドのこの言葉は町中で大はやりになった。もうだれ一人、タルタランを信用しなくなっていたからだ。
世間知らずだの臆病だの、つまりベジュケみたいな連中がとくに手厳しかった。こうしたてあいは、蚤《のみ》が一匹とび出しただけでも逃げ出してしまうだろうし、目をつむってでなければ一発のたまも撃《う》てないくせに、クラブでも、広場でも、タルタランを見かけるとすぐそばにやってきて、ひやかし半分にこんな質問をするのだった。
「≪とこんで≫、ご旅行はいつですかな?」
コストカルドの店でも、タルタランの言葉はまるで信用がなくなっていた。帽子狩りの連中は、もうタルタランをリーダーだとは認めなくなっていた!
おまけに、当てこすりの歌まで現れるしまつだった。ラドヴェーズ裁判長は、日ごろ暇を見ては、プロヴァンスの詩の女神の爪のあかを少しでも分けてもらおうとしていたが、このたび土地の言葉で歌の文句をこしらえあげ、すごい大当たりをとった。その歌というのが、ジェルバイ先生とかいう狩りの名人の話で、先生の恐ろしい鉄砲は、アフリカ中のライオンというライオンを皆殺しにするはずだった、という内容のものだ。ところが、あいにく、この鉄砲が一風変わったへそまがりな代物で、「たまをこめても、いつでも不発」
いつでも不発! この当てつけはおわかりになるだろう……。
あっというまに、この歌は大はやり。タルタランがとおりかかると、河岸の荷揚げ人たちや門前の靴磨きの小僧どもが、声をそろえてうたうのだった。
[#ここから1字下げ]
ジェルバイせんせのてっぽうは、
たまをこめても、たまをこめても、
ジェルバイせんせのてっぽうは、
たまをこめても、いつでも、ふはつ。
[#ここで字下げ終わり]
ただ、タルタランのあの二重づくりの筋肉のせいで、みんなは遠くからこわごわうたうだけだったが。
ああ、タラスコンの町の人たちっていうのは、なんと熱しやすくさめやすいものなんだろう!……
ところで、豪傑タルタランのほうは、そんな町の様子なんか、まるで見ないふり、まるで聞いて聞かないふり。とはいうものの、タルタランは、心の底では、このちょっとした、チクチクと陰険ないじわるにすっかり気を滅入《めい》らせていたのだ。タラスコンの町の人気が自分の手からすり抜けて、ほかの男どもの手に渡る、そう思うと、やりきれないほど苦しい気持ちになるのだった。
ああ! 人気というご馳走の煮えたぎる大鍋、その前にすわるのはほんとうに楽しい。だが、ひとたびひっくりかえってごらん、それこそ大やけどだ!……
こんなにせつない気持ちになっていたのに、なんとタルタランはにこやかで、なにも困ったことは起こらなかったような顔をして、のんきにいつもと変わらない生活を送っていた。
ところが、プライドの高いタルタランのこと。無理にかぶっていた仮面が、不意にぱっとはがれてしまうことがよくあった。そして、こんなぐあいににこにこ笑っている仮面がはげると、怒りと苦しみに満ちたほんとの顔が現れるのだった……。
ある日の朝、タルタランの家の窓の下で靴磨きの小僧どもが、例のはやりうた「ジェルバイせんせのてっぽうは」をうたっていた。そして、あわれな豪傑の部屋まで、こうした悪童たちの歌声が届いてしまった。そのとき、タルタランは、鏡の前でひげ剃りの真っ最中だった(彼はいつもひげをもじゃもじゃはやしておいたが、それでも伸びほうだいにしておくわけにはいかなかったのだ)。
と、いきなり、ものすごい勢いで窓があき、タルタランが現れた。シャツ一枚で、頭には鉢巻、顔は石けんの白い泡《あぶく》だらけ。かみそりと石けんを振りまわし、ものすごい剣幕でがなりたてた。
歴史に残ってもいいくらいの名文句だったが、惜しいことには、この文句を投げつけられた相手は、オーヴェルニュの小僧どもだったのだ。商売道具の靴磨き箱と同じくらいの背丈で、剣などとてもじゃないが、握れもしないちびっ子騎士どもだったのである!
[#改ページ]
十二 バオバブのちいさな家での話し合い
こんなふうに町中の人びとがタルタランに背を向けてしまったというのに、ただ軍人たちのタルタランびいきだけは、いまも変わらなかった。
退役軍服支給部隊長のあの勇士、ブラヴィダ少佐は、いままでどおりタルタランを高く買っていた。「あいつは、つわものだ!」と、少佐は言いはるのだった。少佐のこういう毅然とした言葉は、薬屋ベジュケのいやみに十分対抗できるものだったと思う……。少佐は、タルタランのアフリカ旅行について、それまでただのひとこともさしでがましいことは言わなかったが、町の人びとの非難の声があんまりうるさくなったので、とうとう口を出す決心をした。
ある日の晩、かわいそうなタルタランが一人書斎であれこれ悲しい思いにふけっていると、そこへ少佐が入ってきた。耳もとまでボタンをきっちりはめ、黒い手袋をして、深刻な顔つきをしている。
「タルタラン」と、少佐は威厳のある声で呼びかけた。「タルタラン、きみはやはり、出発しなくてはならんよ!」こう言ったきり、少佐はじっと立っていた。ドアの枠を背にしている姿は、一幅の絵画を見ているようだった。――まるで義務そのものが人間に変わりでもしたように、少佐の姿はいかめしく、高々とそびえていた。
「タルタラン、きみはやはり出発しなくてはならんよ!」このひとことにこめられた少佐の気持ちが、タルタランにはすっかり飲みこめた。
タルタランは真っ青になって立ちあがり、しみじみとしたまなざしで書斎の中を見まわした。こざっぱりとしたこの書斎は隙間《すきま》などなく、暖かで、やわらかい光にあふれていた。ゆったりしてとても快適な肘掛け椅子、読みふけった何冊もの本、踏みなれた絨毯《じゅうたん》、窓に掛かった白い大きなブラインド。そのうしろでは、小さな庭の中で細い小枝がゆれている。やがて、タルタランは少佐のほうに歩み寄って、少佐の手を取り、ぎゅっと力をこめて握りしめた。そして、涙にむせびながらも、しっかりした男らしい調子で言った。「出発するとも、ブラヴィダ少佐!」
そして、この言葉どおり、タルタランは出発した。だからといって、すぐにというわけにはいかなかった……。なにしろ、旅じたくをするには、それ相応の時間が必要だったから。
まずタルタランは、ボンパールの店で、銅で裏張りした大型のトランクを二個注文した。そのトランクには長い金属板を打ち付けさせ、こう彫りこませた。
[#ここから1字下げ]
タルタラン・ド・タラスコン
武器箱
[#ここで字下げ終わり]
銅で裏張りしたり文字を彫りこんだりするのには、ずいぶん時間がかかった。また、タルタランはタスタヴァンの店では、ものすごく立派な旅行日誌を注文した。日記をつけたり感じたことを書きとめたりするためである。ライオン狩りとはいっても、道中やはり考えたりもするからだ。
それから、タルタランはマルセイユからつぎのようなものを取りよせさせた。貨車いっぱいのかん詰、板状のスープ用干し肉、ワンタッチの一人用小型テント、水兵用の長靴、雨がさ二本、防水コート一着、眼炎《がんえん》予防用の青いサングラス。おまけに、薬屋ベジュケにたのんで小型の携帯用薬品箱を作らせ、その中に、絆創膏《ばんそうこう》だの、打ち身や捻挫《ねんざ》用のアルカニカチンキ〔キク科の多年草。根や葉を乾燥させて湿布に用いる〕だの、殺虫剤だの、防腐剤だのをぎっしり詰めこませた。
かわいそうなタルタラン! 彼は、なにも好きこのんでこんなことをしていたわけではなかったのだ。出発が決まってからというもの、昼も夜もごきげんななめのあのサンチョ=タルタランをなんとか、なだめすかそうとしていたのである。万一に備えて細やかな下準備をしてでかけるからな、といい聞かせながら。
[#改ページ]
十三 旅立ち
いよいよ、記念すべき日、晴れの日がやってきた。
夜が明けたばかりというのに、タラスコン中の人びとはもう起きだして、アヴィニヨン街道や、バオバブの小さな家のまわりにあふれていた。
窓辺にも、屋根にも、木の上にも人が群がっているではないか。ローヌ河の船頭、荷揚げ人、くつみがき、町のだんながた、織物織りの女、タフタ織りの娘、クラブのおえらがた、とにかく町中の人びとがせいぞろいというわけだ。そのうち、ボーケールの人たちも橋を渡ってやってきた。町はずれの村で野菜作りをしている農家の人たちや、大きな幌《ほろ》をつけた荷馬車も何台か姿を見せる。リボンだの、毛のふさだの、いろんな鈴だの、ちょう結びだので飾りたてたみごとな雄のラバに乗ったぶどう栽培者たちもいるし、空色のリボンで髪におしゃれをしたかわいいアルルの娘までが、カマルグ産の鉄灰色の小馬にまたがった恋人のうしろに相乗りをしてやってくるのも、ちらほら見える。
こんなに大勢のやじうまが、これから「トロンコ人」の国へライオン狩りに出かけるタルタランさんの家の門前にひしめいて、押し合いへし合いしていたのだ。
タラスコンの住民たちは、アルジェリア、アフリカ、ギリシア、ペルシア、トルコ、メソポタミア、こういった国々がみんな集まって、神話にでも出てきそうな、とらえどころのない一つの大きな国を作りあげていると信じていたのだ。そしてこれを「トロンコ人」(トルコ人)の国と呼んでいたのである。
こんなにごったがえしている人びとの中を、帽子狩りの連中は、リーダーの凱旋《がいせん》将軍さながらの人気に気をよくして、行ったり来たり。人波を分けてとおるうしろ姿も晴れがましい。
バオバブの家の前には、大きな手押し車が二台止まっている。ときどき門がひらいて、小さな庭の中を物々しい様子で歩いている四、五人の人たちが見える。男たちが、トランクだの、箱だの、手さげカバンだのを運び出してきては、手押し車に積み上げていく。
荷物が運び出されるたびに、みんなはざわめいた。何が入っているか、大声で言い合っている。「あっ、小型テントだ……。あっ、かん詰だぞ……。薬箱だな……。武器箱だ……」すると、帽子狩りの連中が、いろいろのうがきを言ってやる。
十時ころ、突然群衆の中でどよめきが起こった。蝶つがいがギーっときしんで、庭の門が乱暴にひらかれたのだ。
「あの人だ! あの人が出てきたぞ!」とみんなは叫んだ。
そのとおり、あの男だった……。
男が戸口に姿を現すと、みんなはあっけにとられて、叫び声をあげた。ある人たちは、
「『トロンコ』人だ!……」
他の人たちは、
「めがねをかけてるぞ!」
そのとおり、タルタラン・ド・タラスコンは、アルジェリアに行く以上、アルジェリア風の服装をするのが当たり前だと思ったのである。白い麻のだぶだぶのズボンに、金《かね》のボタンのついた窮屈そうな短い上着を着こみ、胴には幅が六十センチもある赤いベルト、むきだしの首、そり上げた額、やけにでかい「アフリカ帽」(赤い縁なし帽)をかぶっている。おまけに、帽子にはとてつもなく長い青いふさまでつけて!……そこへもってきて、重い銃を二丁、両肩に一つずつかつぎ、ベルトには大きな猟刀を一本、お腹には弾薬盒《だんやくごう》。皮のサックにしまいこんだピストルが一丁、腰でゆらゆらゆれている。まあ、こういった格好なのだ……。
おっと! いけない、めがねのことを忘れていた。このとびきり大きな青いサングラスは、英雄タルタランのものものしいいでたちをやわらげるのに、まさに打ってつけのものだったのである!
「タルタランばんざい!……タルタランばんざい!」と、みんな大騒ぎだ。この大人物はほほえんだだけで、頭は下げなかった。二丁の銃がじゃまだったのだ。いずれにせよ、いまや、世間の人気者になるとどういう破目になるか、思い知っていたのである。タルタランはおそらく、この同郷の人びとをやりきれないやつらだと、心ひそかに呪《のろ》ってさえいただろう。なにしろこの連中のおかげで、緑色のよろい戸のついた、白い壁に囲まれたこぎれいなわが家をすてて、旅立たなければならないことになったのだから……。でも、こんな気持ちはおくびにも出さなかった。
ちょっぴり青ざめた顔はしているものの、落ち着きはらい、胸を張って、彼は道路に進み出た。手押し車をじっと見つめ、用意万端ととのったと見てとると、駅に向かって元気いっぱい歩きだした。バオバブのわが家のほうなど、ただの一度も振りかえろうともしないで。うしろにつづくのは退役軍服支給部隊長、勇士ブラヴィダ少佐、ラドヴェーズ裁判長、武器商コストカルド、帽子狩りの連中、それに手押し車が二台、最後にその他の人びと。
発車ホームの前で駅長が待ちうけていた。――一八三〇年のアフリカ遠征〔一八三〇年には、フランスの遠征軍はアルジェを占領した〕のヴェテランだが、タルタランと何度も熱のこもった握手を交わした。
パリ発マルセイユ行きの急行はまだ着いていない。タルタランとその取り巻きの幹部連中は待合室に入っていった。混雑をさけて、こうしたおえら方が入ったあと、駅長は格子の仕切りを閉めさせてしまった。
タルタランは十五分ばかり、待合室にたむろする帽子狩りの仲間たちのあいだを、あちこち歩きまわった。これからする旅行のことだの狩りのことだのを話して、ライオンの毛皮を送ってやろうと約束した。みんなはご相伴にあずかろうと、彼の手帳にめいめい、自分の名前を書きこんでいる。その時の様子ときたら、カドリールの踊りを申し込みでもするみたいだった。
毒杯をあおるときのソクラテスそっくりな、落ち着いた穏やかな態度で、大胆不敵なタルタランは一人一人に言葉をかけ、みんなに微笑をふりまいた。気取らず、愛想の良い話しぶりだった。出発するにあたって、自分が旅立ったのちも、みんなから愛されたり、なつかしがられたり、良い思い出をもってもらったり、そんなことを望んででもいるようだった。リーダーがこんなふうに話しているのを聞いて、帽子狩りの連中は一人残らず涙ぐんだ。ラドヴェーズ裁判長や薬屋のベジュケみたいに、タルタランを旅に追いたてたのを後悔している者さえいた。
駅員たちはあちこちの隅で泣いている。待合室の外では、群衆が格子の仕切り越しにこちらをながめて、こう叫ぶ。「タルタランばんざい!」
とうとう発車の合図が鳴った。車輪がにぶい音をたててまわり、耳をつんざくような汽笛の音が駅の丸天井を震わせた……。「発車あ! ご乗車くださあい!」
「さようなら、タルタラン!……いってらっしゃい、タルタラン!」
「さようなら、諸君!……」とタルタランはつぶやくと、なつかしいタラスコンよ、さらばとばかり、勇士ブラヴィダ少佐の両頬にキスをした。
それから汽車のほうへ駆けていき、客車に乗りこんだ。車内いっぱいのパリジェンヌたちは、カービン銃や連発ピストルなどをやたらに身につけた変な男が入ってくるのを見て、恐ろしくて息がとまりそうな気がした。
[#改ページ]
十四 マルセイユの港
――乗船だ!
一八六…年十二月一日、時は正午、プロヴァンスの冬の太陽が照り、きらきらとひかり輝く。天気は快晴。マルセイユっ子たちはびっくりぎょうてん。なにしろカヌビエール通りに「トロンコ人」が一人現れたのだから。いやはや、まさに「トロンコ人」なのだ!……マルセイユっ子たちも、こんな「トロンコ人」にお目にかかれるのは生まれて初めてだった。マルセイユには「トロンコ人」がたくさんいたのだけれども!
このトロンコ人というのは――言うまでもあるまい――あのタルタラン、偉大なタルタラン・ド・タラスコンだった。武器箱、薬品箱、かん詰め類を道連れに、トゥワーシュ商会の桟橋めざして、タルタランは波止場を進んでいく。商船ズワーヴ丸に乗って、目的地まで連れていってもらおうというわけだ。
タラスコンの人びとから送られた拍手かっさいの音は、まだ耳の中で鳴りひびいている。それに、日の光と湖の香りに酔いしれて、晴れやかな顔つきでタルタランは、銃を肩に意気揚々と歩いていった。歩きながら、マルセイユのすばらしい港を、目を皿のようにしてながめている。この港を見るのは生まれてはじめてだったが、すっかり幻惑されてしまったのだ……。タルタランは夢でも見ているような気持ちだった。自分がシンドバッドという船乗りで、『千夜一夜物語』に出てくるような不思議な町をさまよっている気になっていたのだ。
見渡すかぎり、マストや帆桁《ほげた》がごたごたと交叉して四方八方に延びている。ロシア、ギリシア、スウェーデン、チュニジア、アメリカといった、あらゆる国の旗……。着岸している船舶。銃剣を並べたみたいに岸壁に突き出した斜檎《しゃしょう》の群れ。
その群れの下には、船の名前になっている水の精だの、女神だの、聖女だのの彩色を施された木彫りの像が見える。こうした彫像は、どれもこれも海水に洗われて、すり減り、水をしたたらせ、黴《かび》まではやしている……。ときどき、船と船とのあいだに海がちらちら見えるが、まるで油で汚れた波形模様のある大きな布地みたいだ……。もつれ合う帆桁のあいだを、かもめの大群が青空に美しい≪しみ≫を作って飛び交い、少年兵たちがいろんな国の言葉で話し合っている。
波止場には、石けん工場から排出される油とソーダの混じり合った、黒味をおびた緑色のどろどろした廃液が幾すじも流れているが、そんな中で、税関吏だの、いろんな商売人だの、コルシカ産の小馬に二輪車を引かせた荷揚げ人だのといった連中が、みんな働いている。
奇妙な既製服を売る店、水兵が自分のための食事を作っているすすけた屋台店、パイプを売る商人、猿を売る商人、オウムを売る商人、綱を売る商人、帆布を売る商人、それにまた、えたいのしれない古道具屋も出ている。その売り場には、古い細身の長砲、金メッキされた大きな角灯、時代物の巻揚げ機、歯の折れた古い錨《いかり》、古い綱、古い滑車、使いふるしのメガホン、ジャン・バール〔ルイ十四世時代に活躍したフランスの有名な海将〕やデュゲ・トルーワン〔フランスの有名な船乗り。一七一一年にリオ・デ・ジャネイロを征服した〕の時代の船員用望遠鏡といったものがごたごたと並べられている。ムール貝やはまぐりを売る女たちは、貝のそばにしゃがみこんで、甲高《かんだか》い売り声をあげる。水兵たちがタールのつぼを持ったり、湯気の立つ鍋《なべ》をさげたりしてとおっていく。大ざるいっぱいの蛸《たこ》をかかえて、給水場の白くにごった水で洗いにいく水兵もいる。
どの店を見ても、ありとあらゆる種類の商品が所狭しと並んでいるのには驚かされる。絹織物、鉱石、筏《いかだ》、砂袋、毛織物、砂糖、いなごまめの実、油菜、かんぞう、砂糖きびといったぐあいに。東洋と西洋がごちゃごちゃに混ざり合っているのだ。ジェノバの女たちが、うずたかく山積みされたオランダ・チーズを一つ一つ赤く染めている。
向こうの波止場では麦の荷揚げ作業がおこなわれている。荷揚げ人たちが、高い足場のてっぺんから、下の岸壁めがけて袋の中味をあけている。麦は金色の滝となって下へ落ち、黄金色の煙をあげる。すると、赤いアフリカ帽をかぶった男たちが、その麦をつぎつぎに大きなロバ皮のふるいにかけてから、荷馬車に乗せる。荷馬車が出ると、小さなほうきと落ち穂を入れるかごを持った女や子供が大勢あとを追っていく……。もっと遠くのほうには船底を掃除するドックがある。大きな船が何せきも横倒しにされ、船底にこびりついた海草をとりのぞくために、たきぎの火で焼かれている。帆桁は水につかり、松やにのにおいがただよい、船大工たちがすさまじい音をたてながら、大きな銅板で船体を二重張りしている。
林立するマストのあいだに、ときおり、隙間ができることがある。その隙間からタルタランには、港の入口だの、はげしく行き来する船の姿だのが見えた。きれいにおめかしをし、船体を洗われ、黄色い手袋をはめた仕官たちを乗せて、マルタ島へ向けて出港するイギリスのフリゲート艦。また、叫び声だの、罵《ののし》り声だのが飛び交う中を出港していくマルセイユの大型帆船。船尾には、フロックコートを着こみ絹の帽子をかぶった太っちょの船長が、プロヴァンス方言で船の操縦を指図している。船が何せきも、帆という帆をいっぱいに張って走り去っていく。はるか遠くに見えた船が、日の光を浴びて、空中をすべりでもするようにゆっくりと港に入ってくる。
それに、四六時中ものすごい騒ぎ。荷車のガラガラいう音。水兵たちの「よいしょ! よいしょ!」というかけ声、ののしり声、歌声、汽船の汽笛の音、サン=ジャン要塞《ようさい》とサン=ニコラ要塞から聞こえてくる太鼓やラッパの音。ラ・マジョール教会やレ・ザクール教会やサン=ヴィクトール教会の鐘の音。上空では、北東風《ミストラル》がこうした響きや騒ぎを一つ残らずつかまえて、転がしたりゆり動かしたりしながら、自分の声と混ぜ合わせ、気がふれたような、荒々しくて、勇ましい音楽をつくりだす。まるで、旅人を送るにふさわしいファンファーレ、旅立ちたい、遠くへ行きたい、翼を手にいれたい、こんな気持ちをかきたてるあのファンファーレの音楽にそっくりだ。
そうしたすばらしいファンファーレに送られて、大胆不敵なタルタラン・ド・タラスコンは、ライオンの住む国に向かって船出したのである!……
[#改ページ]
第二話 トロンコ人の国
一 航海
――アフリカ帽、五つの姿を見せる/三日目の夕方/大変だあ
さて読者諸君、わたしは絵かき、それも大と名のつく画家であったらと、つくづく思わずにはいられない。というのは、フランスからアルジェリアに向かうつごう三日の船旅のあいだ、ズワーヴ丸の船上でタルタラン・ド・タラスコンのかぶったアフリカ帽がつぎつぎにどんな姿を見せたか、そこのところをこの第二話のはじめで、とくとお目にかけたいからだ。
まず、手初めにお見せしようというのは、いよいよ船が出ようというとき、甲板に立つタルタランのみごとな頭に後光がさすようにのっていた、あのアフリカ帽の雄々しい晴れ姿である。つぎにお目にかけたいのは、港を離れたズワーヴ丸が波間をゆらゆらゆれはじめると、アフリカ帽は震えおののき、はやくも船酔いの気配というところである。
つづいてお見せするのは、船がリヨン湾の中をだいぶ進んだところで、いよいよ荒くなる波に、英雄タルタランの頭上でぎょうてん、仁王立ちになり、吹き荒れる風と大格闘をするアフリカ帽の姿である。その大きな青い毛のふさは、霧の中で突風に吹きあげられて逆立っている……。さて四番目の姿。夕方六時、コルシカ島の浜も見えてきたとき。あわれなアフリカ帽は、船べりから身を乗り出して、痛々しい様子で海を見つめ、いったいどうなるんだろうと心配している……。いよいよ大づめ、五番目の姿。せまくるしい船室の中で、まるで箪笥《たんす》の引き出しみたいな小さなベッドの枕の上を、なにやら得体の知れないわびしげなものが、ブツブツ言いながら、転げまわっている。これがあのアフリカ帽なのだ。船出のときに見たあの雄々しいアフリカ帽の姿はもはやなく、どこにでもあるナイトキャップというありさま、病人のように青ざめひきつった顔のタルタランの頭を、耳まですっぽり覆っている……。
ああ! もしタラスコンの人たちが、目も当てられないタルタランの姿を見たならば、彼らは、タルタランを無理やりライオン狩りなんかに行かせるんじゃなかったと、さぞかし後悔したことだろう。タルタランは、調理場やしめきった木から発散するいやな臭い、客船につきもののあのむかむかする臭いにかこまれ、舷窓《げんそう》から射しこむ青白くて弱々しい日の光に照らされて、箪笥の引き出しみたいなベッドの上で、ごろっと横になっている。スクリューがひとかきするたびに、タルタランはハーハーあえぎ、五分ごとに茶を持ってこさせ、蚊の鳴くような声でボーイにやつ当たりしている……。語り手であるわたしの名誉にかけて申しあげよう! あわれなトロンコ人タルタランの姿は、本当に気の毒なものだった。予想すらしなかった船酔いにあって、かわいそうにタルタランは、アルジェリア風のベルトをゆるめる気力もなければ、身につけた武器をはずす元気もない。胸は猟刀の太い柄で押しつぶされ、脚はピストルの皮サックで傷だらけ。こんなタルタランに向かって、サンチョ=タルタランは文句たらたら。愚痴とののしりをいつまでも浴びせかけてくるものだから、タルタランはすっかりお手あげである。
「こいつめ!……あれほど言ったじゃないか!……ああ! アフリカへ行こうなんて……それ! これがアフリカってもんだ!……どうだい、ご感想は?」
いちばん残酷なのは、船室の奥にひきこもったきり、うめき声をあげている気の毒なタルタランの耳に、大広間の船客たちの笑ったり、食べたり、うたったり、トランプ遊びをしたりする声が伝わってくることだった。ズワーヴ丸の乗船客は、人数が多いばかりか、陽気ときている。隊へもどる士官たち、マルセイユのカフェ・アルカサールのホステスたち、売れない役者たち、メッカ参りから帰る金持ちのイスラム教徒が一人、それにラヴェル〔十九世紀に後半に活躍したフランスの人気喜劇役者〕やジル・ペレス〔当時流行の喜劇俳優〕の物まねを披露するおどけ者のモンテネグロのプリンス……。客の顔ぶれはこんなものだが、船酔いなんかにかかる者はいやしない。みんな暇つぶしに、ズワーヴ丸の船長とシャンパンを酌《く》み交わしている。船長はでっぷり太った陽気なマルセイユ人で、アルジェにも所帯をかまえている。バルバスー〔この名はひげ(バルブ)とスー(小銭)との組み合わせからできているので、おかしな感じを与えるのであろう〕という愉快な名前がぴったりくる名前だった。
タルタラン・ド・タラスコンは、あいつらは血も涙もないやつらだと、一人残らず恨んでいた。連中が陽気にさわげばさわぐほど、船酔いが身にこたえるのだから……。
とうとう三日目の午後になった。船の上にものすごい騒ぎが起こったので、わが英雄も長い船酔いからさめた。船首の鐘が鳴りひびく。大きな長靴をはいた船員たちのドタバタと甲板を駆けまわる足音。
「前進《ぜんしーん》!……後進《こうしーん》!」と、バルバスー船長がしゃがれ声で叫んでいる。
つづいて「エンジン停止!」の声。船はがくんと止まり、大きくひとゆれして、それっきり……。右に左にと静かにゆれているだけ。まるで空にただよう風船みたいに……。
あまりの静けさに、タルタランはぞっとした。
「大変だあ! 沈没するぞ!……」と、タルタランはすさまじい声で叫んだ。すると、魔法にでもかけられて力がもどったのか、タルタランはベッドからとび降りると、身に武器をつけたまま甲板へ駆け上がった。
[#改ページ]
二 武器を取れ! 戦闘用意!
船は沈没したのではない。到着したのだ。
ズワーヴ丸はちょうど停泊地に入ったところというわけだ。黒ずんだ水をたたえた美しい停泊地だったが、ひっそり閑《かん》としていて、陰気で、人影はほとんど見当たらない。正面の丘には、くすんだ白い小さな家々が海辺までびっしりと軒をつらねている「白い町」アルジェが見える。ずらりと洗濯物が干してある、あのムードン〔パリ市西南の町〕の丘みたいだ。家並みの上に広がる青いサテンの大空。それにしても! なんて青いんだろう!……。
大タルタランは、沈没の恐怖もどうにかおさまり、そばに立っているモンテネグロのプリンスの話をうやうやしく聞きながら、あたりの景色を眺めていた。プリンスは、カスバだの、山の手だの、バ=バズーン通りだのと、アルジェの町の地名を一つ一つ教えてくれる。このモンテネグロのプリンスはいかにも育ちがよさそうだ。それに、アルジェリアで知らないところはないときているし、アラビア語も達者だ。そんなわけで、プリンスとはずっとつきあっていこう、とタルタランは考えた……。ふと気がつくと、二人が寄りかかっていた甲板の手すりに、真っ黒い大きな手がたくさん、船の外側から一列にずらりとしがみついているではないか。そのとき、今度は髪の毛がちりちりの黒人の頭が、目の前に、にゅっと出てきた。タルタランがあっと言うまもなく、百人ばかりの海賊があちこちから甲板へどっとなだれこんできた。黒い肌や、黄色い肌の連中、半分裸の連中、荒々しい面構えのやつら。
こんな海賊どもなら、タルタランはよく知っている……。「やつら」、そう、あの「やつら」なのだ。タルタランはこうした名うての「やつら」を求めて、夜になるとよくタラスコンの方々の通りを歩きまわったものだ。「やつら」め、とうとう姿を見せる気になりおったな。
……思ってもみなかった「やつら」の出現に、最初のうち、タルタランは一歩も身動きできなかった。「やつら」は荷物めがけて駆けよると、荷物にかけてあった覆いをはぎ取り、いよいよ船の略奪にかかった。そのとき英雄は、はっとわれにかえり、猟刀をさっとひき抜くと、「武器を取れ! 戦闘用意!」と船客に向かって叫び、真っ先に海賊どもに跳びかかっていった。
「なんじゃってんで? どうしたんですかい? どうしたってんです?」と、中甲板から出てきたバルバスー船長がきいた。
「やっ! 船長、そこにおったんですか!……さあ、はやく。乗組員に武器を取らせるんだ」
「えっ! なんでまたそんな、いやはや?」
「船長には、これが見えんのですか?……」
「これって、なんです?……」
「ほれ……あんたの目の前の……海賊ども……」
バルバスー船長はあっけにとられてタルタランの顔を見ている。と、そのとき、黒人の大男が一人、英雄タルタランの薬品箱をかついで、二人の前を駆けぬけていくではないか。
「このやろう!……おい、待て!……」と、タルタランはどなると、例の猟刀を突き出して突進した。
船長はつっ走っていくタルタランに追いつくと、そのベルトをぎゅっとつかんでとり押さえた。
「お静かになせえったら!……海賊なんかじゃありませんや……。海賊なんて、もう、とうの昔にいなくなっちまったからねえ……。やつらあ、荷揚げ人ですよ」
「荷揚げ人だと!……」
「ああ、! そのとおり、荷物を陸揚げしにきた作業員でさあ……。猟刀はしまってもらいましょうや。切符をこっちによこして、あの黒人のあとについておいでなさい。あいつはいいやつでね、だんなを陸《おか》まで連れてってくれるし、お望みなら、ホテルまでだって案内してくれますからな!」
タルタランは、ばつが悪そうに切符を渡すと、その男のあとについていった。そして、手すり綱につかまって船を降りると、船のわきでゆれている大きなボートに乗りこんだ。ボートにはもう、トランクから、武器箱、食料のかん詰めまで、タルタランの荷物が一つ残らず積みこんであった。タルタランの荷物がボートをすっかり占領してしまっているので、ほかの客を待つこともなかった。さっきの黒人は積み上げたトランクによじ登ると、膝《ひざ》をかかえて猿みたいな格好でうずくまった。別の黒人が櫂《かい》を握った……。二人とも白い歯をむき出して、にやにや笑いながらタルタランを見ている。
大タルタランは、故郷の人たちを震えあがらせたあの恐ろしい仏頂面をして船尾につっ立ていた。そして、先ほどの猟刀の柄《え》を熱に浮かされたようにひねくりまわしていた。バルバスー船長がなんと言おうと、真っ黒い肌の荷揚げ人たちにはあまり気をゆるすわけにはいかないからだ。タラスコンの正直者の荷揚げ人とは、似ても似つかないやつらなんだから……
五分ほどでボートは岸に着き、タルタランは、バーバリーの小さな波止場に上陸した。この波止場で三百年ほどまえ、ミゲル・デ・セルバンテス〔ドン・キホーテを書いた十六世紀の有名なスペインの大作家。遠征からの帰国の途中、フランスの海岸近くで海賊におそわれ、アルジェリアに連れてゆかれ、そこで、五年間奴隷生活を送った〕というスペインの一徒刑囚が、――アルジェリアの奴隷たちに加えられる棍棒《こんぼう》におびえながら――その後、『ドン・キホーテ』という名でおおやけにされることになる、あのみごとな小説の構想を練ったのである!
[#改ページ]
三 セルバンテスへの祈り
――上陸/「トロンコ人」はどこに?/どこにもいない「トロンコ人」/幻滅
ああ、ミゲル・デ・セルバンテス・サーベドラさま。偉大な人物の魂というのはこの世の終わりまで、自分の住んだ土地の空中をさまよったりただよったりすると言いますが、もしこれは本当の話なら、あなたの魂も、あのときまだバーバリーの浜にとどまっていて、タルタラン・ド・タラスコンが上陸するところを、さぞかし胸震わせてごらんになっていたことでしょう。なにしろ、タルタランは典型的な南仏男、おまけに、あなたの著書のフタリの英雄、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの化身のような男なのですから……。
暑い日だった。太陽のぎらぎら輝く波止場には、五、六人の税官吏にまじって、フランスからの便りを待っているアルジェリア人もいれば、うずくまって長いきせるをふかしているムーア人もいる。マルタ島の水兵たちが大きな網を引きあげた。網目のあいだからすばらしくたくさんの鰯《いわし》がまるで小さな銀貨みたいにきらきらひかる。
ところが、タルタランが上陸したとたん、波止場はにわかに活気づき、様子ががらりと変わった。船の上にいたあの海賊どもより、もっと恐ろしげなあばれんぼうの群れが、今の今まで砂利だらけの岸にすわっていたのに、とつぜんぬっと立ち上がり、上陸したタルタランめがけたどっと押しよせてきたのである。素肌に毛布を羽織っただけのアラブの大男たち、ぼろをまとった小がらなムーア人、黒人、チュニジア人、マホン人、ムザブ人、白いエプロンをつけたホテルのボーイ。どいつもこいつも、どなったり、わめいたり、タルタランの服につかみかかったり、荷物の奪い合いをしたりする。かん詰めの箱を持っていこうとする者もいれば、薬品箱を持っていこうとする者もいる。ちんぷんかんぷんの言葉を口にしながら、聞いたこともないようなホテルの名前をつぎつぎにタルタランに投げつけている……。
この騒ぎにびっくりぎょうてん、タルタランはあわれにも、あっちへうろうろ、こっちへうろうろ。わめいたり、ののしったり、暴れたり、とられた荷物を追いかけたり。こいつらに、なんとかわかってもらおうと、フランス語で演説してみたり、プロヴァンス語で話してみたり、あげくの果てはラテン語で、しかもプールソーニャックのラテン語〔プールソーニャックはモリエールのコメディ・バレー『プールソニャック氏』の主人公。なおこの主人公は劇中でラテン語を話していない。ドーデの記憶違いであろう〕でしゃべりだすしまつ。ロサ〔「ばら」という意味のラテン語〕、ラ・ローズ〔「ばら」という意味のフランス語〕、ボヌス、ボナ、ボヌム〔「よい」という意味のラテン語形容詞の男性単数、女性単数、中性単数形〕、知っている言葉をありったけまくしたてる……。だが、骨折り損のくたびれもうけ、だれも聞いてはくれやしない。ところがそのとき、運のいいことに、黄色い襟《えり》の制服を着て、護身用の長い杖を持った小男が、まるでホメロスの神みたいに、この乱闘の中にとびこんできて、棒をふるって、ならず者を一人残らず追っぱらってくれた。この男はアルジェリアの巡査だった。彼はタルタランにとても丁寧な物腰で、ヨーロッパ・ホテルに泊まるように勧めた。そして、そばにいたボーイたちにタルタランのことをたのんだ。ボーイたちは、タルタランと荷物を何台かの手押し車に乗せて、ホテルへ案内した。
アルジェの町に入ったとたん、タルタラン・ド・タラスコンは目を見張った。彼は東洋《オリエント》風で、神秘的な、神話に出てくるような町を想像していたのだ。なにか、コンスタンティノープルとザンジバルを足して二で割ったみたいな町を……。これじゃあタラスコンにいるのと同じじゃあないか……。喫茶店やレストランが立ち並び、広い通りがいくつも走り、五階建ての家々もあちらこちらに見える。石畳の小さな広場では、バイオリン弾きたちがオッフェンバックのポルカを弾いていたり、紳士たちが椅子に腰かけ、スナック菓子をつまみにビールを飲んだりしている。良家の婦人たちや娼婦の姿も見える。それに軍人たち……。そしてまた軍人たち、相も変わらず軍人たち……。ところが、トロンコ人は一人もいない!……タルタランだけだ……。それで、その広場を横切るときは、さすがの彼も気が引けた。みんなが彼を見つめている。バイオリン弾きは手をとめ、オッフェンバックのポルカは片足を上げたところで、とまってしまった。
二丁の銃を肩にかけ、連発ピストルを腰にさし、ロビンソン・クルーソーそっくりのそれはそれはものものしい格好のタルタランが、広場に集まっていた人たちのあいだを、のっしのっしとおり抜けていく。だが、ホテルに着いたとたん、がっくり力が抜けてしまった。タラスコンを発ったときのこと、マルセイユの港、あの航海、モンテネグロのプリンス、海賊たち、こうしたものが彼の頭の中でごちゃまぜになり、ぐるぐるまわっている……。みんなはタルタランを部屋までかつぎ上げて、武装をとき、洋服を脱がせなければならなかった……。医者を呼びにやろうという話もでたが、頭を枕の上にのせてやるとすぐに、英雄は安心したのか、ゴーゴー高いびきをかきだした。ホテルの主人は、こんなぐあいならもう医学の助けもいらんだろうと思ったので、一同は足を忍ばせて、そっと引きあげたのである。
[#改ページ]
四 はじめての待ちぶせ
タルタランが目をさましたのは、総督府の時計台の鐘がちょうど三時を打っているときだった。ベッドにかつぎこまれたときから、夜、朝、そして昼をだいぶ過ぎるまで、ずっと眠りつづけたというわけだ。例のアフリカ帽のほうだって、この三日間というもの、それはそれはひどい目にあってきたのだが!……
目をあけたタルタランは真っ先にこう思った。「いよいよ、ライオンの国にやってきたんだぞ!」そんなことは百も承知だ。ライオンどもは、すぐそこ、目の前の、いまにも手の届きそうなところにいるんだ、それどころか、やつらと格闘しなければならないかもしれんぞ。ぶるぶる!……ひどい悪寒《おかん》に襲われて、タルタランは恥ずかしげもなく、毛布の下にもぐりこんでしまったのである。
だがしばらくして、外に目をやると、なんて明るいんであろう。真っ青な空、部屋の中にさんさんと射しこんでくる日の光。ベッドまでおいしい朝食を運んでもらい、海に面した窓を大きくあけさせ、おまけに、クレシアのすばらしいワインの小びんを一本空けたものだから、英雄の心には、旅に出たときのあの勇ましい心が、たちまちよみがえってきた。「ライオン狩りだ! ライオン狩りだ!」こう叫んだタルタランは、毛布をはねのけると、すばやく服を着がえた。
彼はつぎのような計画をたてた。だれにもなんにも言わずに町を出て、砂漠のど真ん中に出かけていく。夜のくるのを待って、待ちぶせる。そしてライオンがやってきたら、ダン! ダーン!……あくる日、ヨーロッパ・ホテルにもどって昼食をとる。アルジェリア人たちから祝福を受けたのち、荷車を一台借りて、殺したライオンを取りにいく。
そこで、彼は大急ぎで武器を身につけ、小型テントを背にしょった。テントの太い支柱が、頭の上からたっぷり三十センチは突き出している。そんなわけで、タルタランは棒みたいにからだをつっぱらせて通りにへ出ていった。計画をさとられては一大事、だれにも道などききゃあせんぞ。右のほうに曲がって、バ=バズーン・アーケードを通りぬけた。アーケードの薄暗い店の奥のほうには、アルジェリアのユダヤ人がいっぱい群がって、タルタランがとおり過ぎるのをじっと見ている。隅のほうにかたまって、まるで蜘蛛《くも》みたいだ。タルタランはテアトル広場を横切り、町のはずれに出て、ほこりっぽいムスタファ街道にたどりついた。
街道は信じられないほどの混雑ぶりだ。乗合馬車、辻馬車、二輪馬車、荷馬車、牛が引いている干し草を積んだ大きな荷車、アフリカ猟騎兵の中隊、ちっぽけなロバの群れ、菓子パンを売る黒人の女たち、アルザス人の移民の車、赤マントを羽織ったアルジェリア騎兵たち。どれもこれもほこりの舞い上がる中を、叫び声をあげ、歌をうたい、トランペットを吹き鳴らして歩いていく。道の両側には、粗末な掘立て小屋が軒を連ねている。小屋の戸口で髪をとかしている背の高いマホン人の女たちもいれば、兵隊であふれんばかりの酒場とか、肉屋とか、屠殺《とさつ》業者の店とかいったようなものもある……。
大タルタランは思った。≪東洋《オリエント》、東洋《オリエント》って、一体全体、なにが東洋《オリエント》なんだろう? 「トロンコ人」の数はマルセイユのほうがもっと多いくらいなのに≫
そこへ突然、すぐそばを一頭のみごとなラクダが七面鳥のように身をそらせて、長い脚で大股に歩きながらとおり過ぎた。タルタランの胸は高なった。
もうラクダが出たのだ! ライオンどもも、そこらにいるに違いない。案の定、五分もすると、鉄砲を肩にしたライオン狩りの一隊がやってくるのに出会った。
すれ違いざまタルタランは、「臆病者め!」とつぶやいた。「臆病者め! 隊を組んで、おまけに犬まで連れてライオン狩りに行くとは!……なにしろアルジェリアでライオン以外のものを撃ちに行くなんて、タルタランは考えてみたこともなかったのだ。このハンターたちは、まるで引退した商人みたいにおとなしそうな顔をしている。それに、犬を連れ獲物袋をさげてのライオン狩りとは、なんとものんびりしすぎている。はてなおかしいぞ、ちょっと聞いてみよう。タルタランはそう思って、ハンターの一人に近づいた。
「ところで、お仲間、獲物はどっさりとれましたかな?」
「まあまあですな」相手は、タラスコンのつわものの大げさな武装を、あっけにとられてながめながら答えた。
「しとめられましたかな?」
「ええ……ずいぶん……。こんなもんですよ」と言って、アルジェリアのハンターは、ウサギやヤマシギでぱんぱんにふくらんだ獲物袋を見せようとした。
「なんだ、こりゃ! 獲物袋だって!……しとめたやつを、獲物袋なんかに入れるんですかい?」
「じゃ、どこに入れたらいいんですかね?」
「では、獲物は……うんと小さいやつですな……」
「小さいのも、でかいのもありますよ」と、ハンターは答えた。そして家路を急いでいたので、大股《おおまた》で仲間を追っていった。
さしものタルタランも、このときばかりは、ぽかんとして道の真ん中に立ちつくした……。だが、ちょっと考えてみてからつぶやいた。「へえだ! ほら吹きやがって……。なんにも仕留めちゃおらんくせに……」こう言って、タルタランはまた歩きだした。
そろそろ家並みも人通りもまばらになってきた。夕暮れがせまって、物の形がはっきり見えなくなってくる……。タルタラン・ド・タラスコンは、それでもなお三十分ほど歩いていった。でもそのうち、とうとう立ちどまった……。すでに、日はとっぷり暮れていた。月はなく満天の星。もう道には人っ子一人いない……。英雄タルタランは考えた。待てよ、ライオンは駅馬車じゃないんだから、好きこのんで広い街道をとおるはずはない。そこで、彼は野原をつっきって歩いていった……。歩くごとに溝だの、いばらだの、やぶだのに出っくわす。なんでもこい! とばかり、彼は歩きつづける……。と」いきなり、足を止める! 「このあたりには、ライオンのにおいがするぞ」と、つぶやいたタルタランは、そこらじゅうにおいをかぎまわった。
[#改ページ]
五 ダン! ダーン!
ここは人影もない大きな砂漠だ。奇妙な格好の木がところどころにつっ立っている。恐ろしい獣みたいなあの東洋《オリエント》の木だ。かすかな星明かりを受けて、木々は地面のあちらこちらに大きく影をのばしている。右手には、ぼんやりとだが、どっしりした山影が見える。きっとアトラス山脈だろう!……左手からは鈍い海鳴りの音が聞こえてくるが、海は暗くて見えない……。猛獣どものすみかにはおあつらえむきの場所だ……。
銃を一丁前に置き、もう一丁は手に、タルタラン・ド・タラスコンは片膝《かたひざ》を地面につけた格好で待ちかまえた……。一時間待ち、二時間ねばった……。が、なんにも現れない! そのときふと、本で読んだ話を思いだした。ライオン狩りの名人ともなると、猟にはかならず小山羊を連れていき、少し離れたところにつないでおいて、足に結んだひもをひっぱって、メエと鳴かせるというのだ。でも山羊は連れてきていない。そうだ! 山羊のまねをすりゃいい! はたと思いついたタルタランは山羊みたいな声を震わせ、「メエエ! メエエ!……」とやりだした。
はじめのうちは小声で鳴いた。内心では、やっぱりライオンに聞かれるのが少々こわかったのだ……。でもそのうち、なんにも出てこないとみてとったので、こんどはもっと大きな声で「メエエ! メエエ!……」とやった。それでもまだ出てこない!……もう待ってられんとばかり、いっそう激しく、立て続けに鳴いてみた。「メエエ!……メエエ!……メエエ!……」あんまり力みすぎたので、小山羊のつもりなのが、雄牛をまねているみたいになってしまった……。
と、いきなり、なにやら真っ黒いどでかいものが、すぐ目の前にとびこんできた。タルタランは声をのんだ……。そいつは身をかがめ、地べたをフンフンかぎまわっていたかと思うと、ぴょんぴょんとびはね、転げまわったあげく駆けだしていった。と、みるまにまたもどってきて、ぴたっと立ちどまった……。ライオンだ、そうだ、まちがいない!……そのうち、短い四本の脚、恐ろしい首、それに二つの目、暗やみにらんらんとひかる大きな二つの目までが、はっきり見えてきた。ねらえっ! 撃てっ! ダン! ダーン!……やったぞ。すぐさまぱっと跳びさがると、猟刀をにぎりしめた。
タルタランの銃撃にすさまじいほえ声が返ってきた。
「当たったぞ!」タルタランはこう叫ぶと、足をふんばり身をかがめて、ライオンめ、さあどこからでもかかってこい、と身がまえた。だが、ライオンは思いのほか重傷らしい。ほえ声をあげ、猛スピードで逃げていってしまった……。でも、タルタランはあとを追わない。雌ライオンが襲ってくるのを待っているのだ……。これも本で読んだとおりやっているのである!
ところがどっこい、雌ライオンなんて来やしない。二、三時間は待っただろうか。タルラタンはもううんざりしてしまった。地べたはじめじめするし、夜の空気はひんやりしてきた。おまけに、海から吹きつける北風が肌を刺す。
「ひと眠りして夜明けを待つとするか?」と、彼はつぶやいた。リューマチなんかにかかったら事だ。頼りになるのはこの小型テント……。だが、なんてこった! このテント、仕掛けがあまりこっているので、簡単にはひらかないのだ。
一時間も汗だくになって悪戦苦闘したが、どうにもならない。いまいましいテントめ、ひらきゃしないじゃないか……。そういえば、どしゃ降りの雨の中で、ひらこうとはしないふざけた傘もあるものだ……。奮闘むなしく、タルタランはテントうを地べたにほっぽりだした。そして、いかにもプロヴァンス人らしく、悪態《あくたい》をつきながらその上に寝転んだ。
「ト、テ、チ、タ……。トテチタ!……」
「なんじゃろ?……」ぎょっとして目さまして、とび起きながらタルタランは言った。
ムスタファ兵舎のアフリカ猟騎兵隊が起床ラッパを吹き鳴らしていたのだ……。ライオン狩りの勇者はなにがなんだかわからなくなり、目をこすった……。砂漠のど真ん中にいるつもりだったのに!……でも、本当はどこにいたのだろう?……カリフラワーの畑と砂糖大根の畑にはさまれた、アーティチョークの小さな四角い畑にいたのである。
サハラ砂漠に野菜が植わっているとは……。すぐそばにはムスタファの山の手の美しい緑の丘が広がり、アルジェリア風の真っ白い別荘が夜明けの霧の中に輝いている。なんだかマルセイユ近郊の別荘地の真っただ中にいるみたいな気がしてくる。
あたりのおだやかな風景が家庭的なうえに野菜畑まであるので、あわれにもタルタランはびっくりぎょうてん。しまいにはご機嫌ななめになってしまった。
彼はこう思った。≪なんておかしな連中だ。ライオンがうろつくようなところにアーティチョークなんか植えやがって……。とにかく、あれは夢でもなんでもないんだからな……。ライオンはここまで来とるんだ……。証拠もあるぞ……≫
そうだ、その証拠に、撃たれた獣は逃げるとき血痕《けっこん》を残している。タラスコンの勇者は身をかがめ、目をこらし、ピストルをにぎりしめ、点々とつづく血のあとをたどってアーティチョークの株のあいだを行くと、からす麦の小さな畑に出た……。あたりの草は、踏み倒され、血のたまりができている。その血のたまりの真ん中に、頭に大きな傷を受け、横向きに倒れているのは……。いったいなんなんだ!
「そうだ、ライオンに決まっているさ!……」
ところが大違い! そいつは、ロバだったのだ。アルジェリアでよく見かけるあの小さなロバ、土地っ子が≪ちびロバ≫と呼んでいる、あのロバだったのである。
[#改ページ]
六 雌の出現
――すさまじい格闘/|ウサギ《ラパン》亭
こんなめにあったロバを見たとたん、タルタランの胸にはまず悔しさがこみあげてきた。ライオンのはずが≪ちびロバ≫では、まさに格段の差である!……そのうち、かわいそうなことをしてしまったなあ、という気持ちでいっぱいになった。あわれな≪ちびロバ≫は本当にかわいくって優しい様子をしていた! 脇腹の皮はまだ生温かくて、大きく波打っていた。タルタランは膝をついて、身につけていたアルジェリア風のベルトの端で、あわれな獣の流れ出る血を止めてやろうとした。こんな大人物が、ちっぽけなロバを介抱してやっている。これほど感激的な光景は、思い浮かばないだろう。
やわらかなベルトに触れると、まだ命の灯がほんの少しばかり残っていた≪ちびロバ≫は、灰色の大きな目を片方だけひらいた。そして、「ありがとう!……ありがとう!……」とでも言うように、長い耳を二、三度動かした。が、やがて全身がびくびくっとけいれんしたかと思うと、もうそれきり動かなくなった。
そこへ突然、「くろや! くろや!」と悲しみにのどを詰まらせた呼び声。と同時に、ガサガサとあたりのやぶで枝の動く気配……。タルタランはあわてて立ち上がり、どうにか身がまえた……。雌がかぎつけてやってきたのだ!
雌は雌でも、そいつはスカーフをかぶったアルザス婆さんだった。恐ろしい剣幕でどなりながら、大きな赤いこうもりがさを振りかざし、ムスタファ中に響きわたるような声で、ロバを返せとわめいている。こんなばばあとかかわり合うくらうなら、猛《たけ》り狂う雌ライオンを相手にしたほうがどれほどましだったか知れない……。こんなことになったのも、「くろ」をライオンだと思ってしまったからなんだよ、といくら言ってきかせても、からきしだめだった……。婆さんはタルタランにからかわれているものと決めてかかり、大声で「こんちくしょう!」と言いながら、英雄タルタランを傘でぽかぽかなぐりつける。さすがの英雄もしまつに困り、けんめいになって防戦につとめた。降ってくる傘を騎兵銃で受けとめ、汗だくになってハーハー言いながら、あっちへとび、こっちへとび、「あの、奥さん……あのねえってば……」と叫ぶ。
大声を出したってむだだよ! 奥さんは耳が聞こえないのさ。
運良く、この戦場へもう一人の人間が来合わせた。このアルザス婆さんの亭主で、同じくアルザスの出身、居酒屋をやっている。おまけに金には目のない男だった。亭主は相手が何者か見てとった。このロバ殺しが、自分で殺したロバの弁償をさせてくれと言っているだけだとわかると、怒る女房をなだめ、そこで示談となった。
タルタランは二百フランも払った。ロバはたかだか十フランだったのに。ちびロバは、アラブ人市場ではこの程度が相場だったのだ。金を払うと、みんなでかわいそうな「くろ」を、いちじくの木の根元に埋めてやった。居酒屋の亭主は、ぴかぴかのタラスコン銀貨にすっかり上機嫌になって、自分の店に寄って食事でもしていかないかと、タルタランを誘った。店はそこから目と鼻の先の街道ぞいにあった。
アルジェリアのハンターたちは、日曜ともなると、この店にやってきて昼食をとる。このあたりの野原には獲物がしこたまいて、町の周囲八キロ四方のなかで、ここほどウサギがいっぱいいるところはないからだ。
「それで、ライオンはでますかな?」とタルタランはきいた。
亭主はびっくりした様子で彼を見つめた。「ライオンだって?」
「そう……ライオンだが……。ときには見かけますかな?」気の毒にタルタランはちょっとばかり心細くなって言った。
居酒屋の亭主は吹きだした。
「なんですって! とんでもない……。ライオン……。そりゃまたなんで?……」
「じゃあ、アルジェリアにはおらんのかねえ?……」
「ほんとに! 見かけたことなんかありませんわ……。ここに住んでもう二十年にもなるんですがねえ。でも、どこかで聞いたことはありまさあ……。そう、新聞だったかなあ……。でもまあ、ずっと遠くの南のほうの話ですよ……」
ちょうどこのとき、三人は店の前まで来ていた。ヴァンヴやパンタン〔どちらもパリ近郊の町〕でよくお目にかかるような郊外の居酒屋だ。戸口の上にはからからになった木の小枝が一本飾りつけたままになっていて、壁にはビリヤードのキューの絵が描いてある。そして看板には、つぎのような罪のない屋号。
|ウサギ《ラパン》亭
|ウサギ《ラパン》亭だと!……ブラヴィダ少佐、なつかしい名前だなあ!〔タルタランは「ウサギ亭」の看板を見て、ブライヴィダ少佐から受けた「あいつは|つわもの《ラパン》だ」を思い出したのである〕
[#改ページ]
七 乗合馬車とムーア女と数珠《じゅず》つなぎのジャスミンの花
並みの人間なら、手はじめにこんな事件にぶつかれば、まずがっくりくるところだが、タルタランほどの筋金《すじがね》入りの人物だと、これしきでは弱音《よわね》など吐いたりしない。
英雄タルタランは考えた。≪ライオンは南のほうにいるというわけか。じゃあ! そっちへ行くとしよう≫
そこで最後のひと切れの肉を口におしこむと、さっ立ち上がって亭主に礼を言った。婆さんにも、もう恨みっこなしとばかりに別れのキスをして、あの不運な「くろ」のためにもう一度涙を流すと、すぐにアルジェの町へもどろうとした。荷物をまとめ、なんとしても、その日のうちに南へ向けて出発しようというのである。
ところがまずいことに、ムスタファ街道は、どうやらひと晩でぐーんと延びてしまったらしい。かんかん照りで、おまけにひどい砂ぼこりだ! それにしても小型テントってやつは、なんて重たいんだ!……このぶんじゃあ町まで歩いて帰れそうもないな、と思ったタルタランは、ちょうどとおりかかった乗合馬車を呼びとめて、乗りこんだ……。
ああ! なんとあわれなタルタラン・ド・タラスコン! 彼の名声や名誉のためには、こんな命取りのおんぼろ馬車になんか乗らずに、てくてく街道を歩きつづけたほうがどんなによかったか知れない。たとえ、小型テントや二丁の二連発ライフルが肩にくいこみ、うだるような暑さで息も絶えだえになったとしても……。
タルタランが乗ると、馬車は満員になった。奥の席では、黒いみごとなあごひげをはやしたアルジェの助任司祭が、わき目もふらずに聖務日課書を読んでいる。向かい側の席では、若いムーアの商人が太いタバコをすぱすぱふかしている。ほかにマルタ島の水兵が一人と、白い布を頭からかぶって目だけ出したムーアの女たちが四、五人乗っていた。この女たちはアブドゥル・カーディル〔アルジェリアの愛国者。フランスの侵略に抵抗して戦った〕の墓地へお参りしてきたところだった。墓参りの帰りだというのに、一行はちっとも悲しげな様子には見えない。ベールの下でお菓子をボリボリやりながら、仲間同士笑い声をたてて、ペチャペチャしゃべっている。
タルタランはそのうち、女たちがしきりに自分を見ているような気がしてきた。中でも、彼と向かい合ってすわっている女は、彼の目をじっと見つめたまま、いつまでもその目をそらそうとはしない。ベールで隠されてはいても、アイライナーをひいて、切れ長に見える大きなきらきらした黒い目、ベールのあいだからちらりちらりとのぞく、金のブレスレットをはめたしなやかで、きゃしゃな手首、話し声、かわいらしくて、あどけないといってもいいような首の動かしよう。どれをとってみても、ベールにつつまれているのは、若くて、きれいで、ほれぼれするような女であることがわかる……。かわいそうに、タルタランは身のやりどころがない。言葉を言わずに愛撫するみたいな東洋《オリエント》風の美しい両の瞳に見つめられて、タルタランの心は千々に乱れ、いまにも心臓がとまりそうだった。かっとのぼせたかと思うと寒気がしたりする……。
そこへとどめを刺したのが、女の靴である。タルタランの大きな狩猟ブーツの上を、かわいらしい靴がまるで赤い小さなはつかねずみみたいに、こちょこちょ走りまわっているのだ……。さて、どうしたもんか? ひとつ、あのまなざしやこの靴のちょっかいに答えてやろうか! そうしよう、だが待てよ、そのあげくに……。東洋《とうよう》の色恋ざたといえば、なにしろ物騒だからな!……人のいいタルタランは、いかにも南仏人らしく空想をたくましくして、自分が宦官《かんがん》どもにとっ捕まって、首をはねられるところを思い浮かべていた。おまけに、ごていねいにも胴体は皮の袋に押しこめられて、海にぷかぷか浮かび、ちょん切られた首も、そのそばを漂っているのだ。おかげでのぼせた頭が少し冷やせた……。そのあいだにも、小さな靴は休みなく誘惑をつづけるし、真向かいのぱっちりと見ひらかれた二つの瞳は、黒ビロードの二輪の花のように、
「あたしたちを摘んでちょうだい!……」とでも言っているみたいだ。
馬車がとまった。バ=バズーン通り入口のテアトル広場に着いたのだ。ムーアの女たちは一人一人、ゆったりしたズボンの裾《すそ》で足をとられそうになのにそれでも≪しな≫を作り、身にまとったベールを整えては、馬車から降りていった。一番あとから席を立ったのが、タルタランの向かいにすわっていたあの女だ。立ち上がる拍子に、女の顔がわが英雄の顔のすぐそばをとおったので、彼女の息が鼻先をさっとかすめた。若さとジャスミンと麝香《じゃこう》とお菓子とがまじり合った花束みたいな息吹だった。
こうしちゃあいられない。恋に酔いしれ、タルタランは、当たって砕けろとばかりに、ムーアの女のあとを追って飛び降りた……。革具のきしむ音に振りかえった女は、「しっ!」とでもいうように、ベールで覆った口もとに指をたて、もう一方の手でいい香りのする小さな花の輪をさっと投げてよこした。数珠つなぎのジャスミンの花だった。タルタラン・ド・タラスコンは身をかがめてその花を拾おうとした。ところが、いささか動作が鈍いうえに、からだじゅう武器ずくめときているから、この作業にはかなり手間どってしまった……。
ようやくのこと、ジャスミンの花を胸に当てて立ち上がってみたが、――あのムーア女はもう姿を消していた。
[#改ページ]
八 アトラス山脈のライオンどもよ、眠れ!
アトラス山脈のライオンどもよ、眠れ! アロエや野生のサボテンがあたりに生えている隠れ家の奥で、安らかに眠れ! これから数日のあいだは、タルタラン・ド・タラスコンがおまえたちを退治しにやってくることはないだろう。いまのところ、武器箱、薬品箱、小型テント、食物のかん詰めなど、タルタランの戦闘道具一式は、ヨーロッパ・ホテルの三十六号室の片隅に荷作りされたまま、静かに休んでいるのだ。
安心して眠れ、茶色い大きなライオンどもよ! タルタランは、あのムーアの女をさがしているのだ。乗合馬車の事件があってからというもの、あの男はかわいそうに、いかにも猟師の足みたいなどでかい彼の足の上で、あの小さなはつかねずみみたいな赤い靴がはねまわっているような気がいつもしているのだ。海のそよ風はタルタランの唇をやさしくかすめ、そのたびにいつも――彼がなにをしていようが――菓子とアニスのあのいとしい香りがぷーんと漂ってくるのである。
恋しいマグレブ〔アラブ人がアフリカ北西部の地方につけたアラビア語の名前で、アルジェリア、チュニジア、モロッコを含む〕の女を見つけなくては!
といっても、これはたやすいことではない!
人口十万の町の中から、たった一人の女をさがし出すなんて、それも、息づかいと靴と目の色だけしか知らない女。こんな途方もないことをやってみようなんて気になるのは、恋のとりことなったタルタランだけだろう。
しかも、面倒なことに、ムーア人のどの女も、白い大きなベールをかぶっていて、見分けがつかない。それに、女たちはめったに家から出ない。だから、会いたいと思えば、山の手のあのアラブ人街や、「トロンコ人」街へ出かけなければならないのだ。
この山の手というのは、強盗などが出没するまことに物騒な場所なのだ。屋根がトンネル状につながった妙な造りの家々が立ち並んでいて、そのあいだを、日の当たらない、せまくるしい路地がいくつも急な坂になって登っていく。家々の扉は低く、窓はみんな小さくひっそりしていて寂しげで、どれにも格子がはまっている。そして道の左右には、やけに薄暗い屋台店がびっしり並んでいる。店の中には海賊みたいな恐ろしい顔つきの「トロンコ人」たちが、――白い目をむき、歯をぎらつかせて――長いきせるを吹かしている。そして、悪事の打ち合わせでもしているのか、なにやらボソボソ話し合っている……。
われらのタルタランがこのぞっとするような町を恐れもせずにとおり抜けた、と言ったら嘘になるだろう。それどころか、こわくてたまらなかったので、自分の太鼓腹でふさがってしまいそうな薄暗い路地を、タルタランは用心に用心を重ねながらとおっていったのである。四方八方に目をくばり、指を連発ピストルの引金にかけたまま。まるでタラスコンでクラブに出かけるときみたいな様子だった。うしろから宦官《かんがん》やトルコの近衛歩兵たちが、いまにも一団となって襲いかかってくるのではないかと思えてしかたがなかった。けれどもタルタランには、あの女にもう一度会いたいという一心から、並みはずれた勇気がわいたのである。
大胆不敵なタルタランは、一週間も山の手を離れなかった。ムーア人の浴場の前にいつまでもじっと立っていることもあった。女たちが、ほんのりとお湯の香りをさせながら、ひやっとした外の空気におもわず身を震わせて、つぎつぎに群れをつくって出てくる時刻を待っていたのだ。イスラム教寺院の入口にしゃがみこんでいるときもあった。奥の院へ入ろうとして、その入口で、太い長靴を脱ぐのに大汗をかいていたのである……。
ときにはこんなこともあった。日暮れどきに、浴場でもイスラム教寺院でも。あの女の姿がみつからないのにくさりきって帰る途中、タルタランの耳には、通りすがりのムーア人の家々から、一本調子な歌声だの、ギターのこもった音色だの、タンバリンの鳴る音だの、女のクスクス笑う声だのが聞こえてきた。こういった音だの声だのを聞くと、タルタランの胸はおどるのだった。
≪ここにいるかもしれんな!≫と、タルタランは思うのだった。
そんなときには、通りに人通りがないと、立ち並ぶ家の一軒に近づいていき、低いわき戸についている重いノッカーを持ち上げて、恐るおそるたたいてみた……。すると、それまで聞こえていた歌や笑い声はぴたっとやんだ。寝静まった鳥小屋みたいに、壁の向こうからは、もう、ぼんやりしたささやきしか聞こえてこない。
≪さあ、用心しよう!……なにか起こりそうだぞ!≫と、タルタランは思った。
だが、こんなときにも、頭にたっぷり冷たい水をざぶんとかけられるか、オレンジの皮やうちわサボテンの実がとんでくるのが関の山……。それ以上のひどいめにあったことはなかった……。
アトラス山脈のライオンどもよ、眠れ!
[#改ページ]
九 モンテネグロのプリンス・グレゴリー
かわいそうに、タルタランはまる二週間というもの、あの恋しいアルジェリアの女をさがしつづけた。いや、きっと、それからもなお相変わらずさがしていたにちがいない。だがこのとき、恋する男の味方をしてくれるあの神が、モンテネグロの貴族という姿をとって救援に現れ出たのである。
そのいきさつはつぎのとおり。
冬のあいだ、土曜の夜はいつも、アルジェの大劇場では、オペラ座よろしく仮装舞踏会がひらかれる。おきまりで、味もそっけもないあの野暮ったい仮装舞踏会だ。広間に集まる客はかぞえるほどしかいない。 ビュリエかカジノ〔いずれもパリにあった賭博、ショー、音楽などがおこなわれた娯楽施設。娼婦や学生が出入りした〕から流れてきたホステスが二、三人、軍隊のあとをついて歩く娼婦たち。中年のしゃれ男たち、年とった荷揚げ人たち。ちらほらマホン人の洗濯娘の姿も見える。こんなところにとびこんできた娘たちだが、まだ生娘《きむすめ》の名残をのこして、にんにくとサフラン入りソースの匂いをほのかにただよわせている……。だが、広間の客なんかどうでもいい。おもしろいのは、臨時にゲーム場にされている休憩室のほうだ……。緑色のクロスを張った長いゲームテーブルのまわりには、けばけばしい服を着た、のぼせた顔の人びとがひしめき合っている。給料にもらった二スー貨を張る休暇中のアフリカ狙撃兵《そげきへい》、山の手の町から来たムーア人の商人、黒人、マルタ島からやって来た連中、一丁の鋤《すき》か、つがいの牛を売って作った金を、一か八か、一枚のエースに賭《か》けてみようと、内陸からはるばる百六十キロもの道のりをやってきた入植者たち……。だれもかれも興奮に身を震わせ、顔は青ざめ、歯をくいしばっている。どんよりしてななめに物を見るあの博打《ばくち》打ち独特の目つき。一枚のトランプをにらみつけてばかりいたせいだろう、斜視になってしまったのだ。
向こうのほうには、家族ごとにかたまって賭《か》けをしているアルジェリアのユダヤ人たちがいる。男たちは青いストッキングにビロードの帽子という、なんとも趣味の悪い東洋《オリエント》風の服を着こんでいる。女たちはむくんだ青白い顔をし、窮屈そうな金ぴかの胸当《むねあて》をつけて固くなっている……。方々のテーブルのまわりにかたまって、みんなは甲高い声でわめいたり、打ち合わせをしたり、指で計算したりしているが、なかなか勝負しようとはしない。でも、たまに、ひそひそと長い密談を交わしたあげく、神さまみたいなあごひげを生やした年老いた家長が群れを離れ、一族の銀貨を賭けにやってくる……。賭けたら最後、勝負が終わるまできらきら輝く家長のヘブライ人の目は賭博台《とばくだい》に釘づけ。その恐ろしい目はまるで黒い磁石みたいに、緑のクロスの上にのっている金貨をあちこち動かし、終いには糸でたぐりよせるみたいに、そろりそろりと自分のほうへ引き寄せてしまう……。
勝負が終わると、今度は喧嘩やなぐり合いだ。それぞれ、お国言葉でののしり合い、気が違ったようにわめき合う。刃物の鞘《さや》が払われるので、ガードマンたちは、それっとばかり位置につく。金が足りないぞ!……
ある晩のこと、こうした底ぬけ騒ぎの真っただ中へ、大タルタランは、気分転換をしてみようと、ぶらっとやってきた。
英雄はいとしいムーア女のことを考えながら、連れもなしに、群がっている人びとの中へ入っていった。と、そのとき、ガヤガヤいう叫び声にまじっていきなり一つの賭博台から、金貨のうるさく鳴る中をどなり合う声があがった。
「二十フラン足りないと言ってるんだぜ、あんた!……」
「あんただと!……」
「それがなんだっていうんだ?……あんた!」
「わたしがだれだか、わかってるのか、あんた!」
「それこそ知りたいところだ!」
「なにを隠そう、わたしはモンテネグロのプリンス・グレゴリーですよ、あんた!……」
プリンス・グレゴリーと聞いてびっくりしたのはタルタラン。人だかりをかきわけ、いちばん前に出ていった。船の上で顔見知りになったあの礼儀正しいモンテネグロのプリンスに再会できるとは、なんとうれしく、誇らしいことか……。
このプロンスという称号に、人のいいタルタランはころりと参ってしまったわけだったが……。だがあいにくのことに、こうした称号も、あの将校、いま、プリンスと言い合いをしていたあの猟騎兵将校には、なんの効き目もみせなかった。
「どうってことありゃしない……」と、軍人はせせら笑いながら言った。そして、見物人のほうを振りかえると、「モンテネグロのグレゴリーだと……。だれか知ってるかね? だれも知りっこないだろう!」
タルタランは、むっとして一歩前へ出た。
「失礼ながら……このわしは、≪プレインス≫を存じあげておる!」と、タルタランは断固として言いはなった。みごとなタラスコンなまりを十二分にみせながら。
猟騎兵将校は、ちょっとのあいだじっとタルタランを見つめてから、肩をすくめて、こう言った。
「まあ! いいだろう……。ちょろまかした二十フランは二人でわけなよ。それでもう文句言いっこなしだ」
捨てゼリフをのこすと、くるりと背を向け、人ごみの中へ消えていった。
怒り狂ったタルタランは追いかけようとしたが、プりンスがおしとどめた。
「ほっておきなさい……。わたしがいいようにするから」
こう言うと、タルタランの腕をとって、すばやく外へ連れ出した。
広場に出たところで、モンテネグロのプリンス・グレゴリーは帽子を脱ぎ、タルタランに手をさし出して握手を求めた。そして、彼の名前をぼんやり思い出すと、声を震わせてこう言った。
「バルバランさん……」
「タルタランですが!」と、こちらは恐るおそるつぶやく。
「タルタランだろうが、バルバランだろうが、そんなことはどうでもよい……。これで、私たちは生涯の友ですぞ!」
こう言うと、モンテネグロの貴公子は、ものすごい力をこめてタルタランの手をにぎりしめた……。タルタランの得意になったことといったら。
「≪プレインス≫!……≪プレインス≫!……」を有頂天になって、何度もくりかえした。
十五分ほどのちには、この二人の紳士はレストラン・プラタナスに落ち着いていた。テラスが海の上へ張り出していて、夜のひとときを過ごすのには気持ちがいい店だ。このテラスで、クレシアのおいしいワインを振りかけ、味の濃いロシア風サラダを食べながら、二人は旧交を温めた。
このモンテネグロのプリンスほど魅力的な人物は、そうざらにはいない。ほっそりとしたスマートなからだつき、小さな≪こて≫で整えた波打つ短い髪。軽石できれいに剃った顔、妙ちきりんな勲章をたくさんつけた胸、抜けめのない目つき、甘ったるいしぐさ、そしてかすかにイタリアなまりがあるところなんかは、ひげのないマザラン〔イタリア生まれのフランスの有名な宰相。肖像画で見ると、ひげをたくわえている〕といったところだ。おまけに、ラテン系の言葉に実に堪能《たんのう》で、なにかにつけて、タキトゥスだの、ホラティウスだの、『ガリア戦記』だのをもちだしてくる。
由緒《ゆいしょ》正しい家柄なのだが、自由主義がわざわいして、兄弟からほんの十歳のときに追い出されたのだそうだ。それからというもの、見聞を広めたり楽しんだりするために、哲人殿下として世界を股にかけているというわけだ。……。不思議な偶然もあるものだ! プリンスは、タラスコンで三年の年月を過ごしたという。タルタランが、クラブでも広場でも一度もお会いしませんでしたなあ、と驚いてみせると、「あまり外出しなかったもんだから……」と、殿下は言いのがれをするような口調。そこでタルタランは無作法に思われては大変と、それ以上きくのは思いとどまった。高貴なかたというものには、こうしたいわくありげなところがあるものだ!……
とにかく、グレゴリー殿下はとても親切なプリンスだった。クレシアのロゼワインをちびりちびりやりながら、タルタランが恋しいムーア女のことを話すのを辛抱強く聞いてくれた。おまけに、そういうおんなたちなら知らないものはないから、さっそく見つけ出してあげようと約束してくれた。
二人はいつ果てるともなく飲みつづけた。「アルジェの女性に乾杯! 自由モンテネグロに乾杯!……」
外のテラスの下からは、寄せては返す波の音が聞こえてくる。波は暗やみの中で、ぬれたシーツを振るみたいな音をたてて岸辺を打っていた。暑かった。満天の星。
プラタナスの木立には、ナイチンゲールの声……。
勘定を払ったのはタルタランのほうだった。
[#改ページ]
十 ≪告げよかし、父君のみ名を。さればこの花の名を伝え申さん≫
モンテネグロのプリンスのような男たちが、このような女を見つけるときの実にすばしっこいことといったら。
レストラン・プラタナスで二人が旧交を温めたあのあくる日、夜が明けたばかりというのに、プリンス・グレゴリーはもうタルタランの部屋にやってきた。
「さあ、急いだ、急いだ。服を着たまえ……。例のムーアの彼女が見つかりましたよ……。バイヤという名だ……。年は二十《はたち》、そりゃあかわいくって、気だてもいい。おまけにもう後家さんときている……」
「後家さんですと!……こりゃあいい!」タルタランの声ははずんだ。東洋《オリエント》の亭主族は用心したほうがいいと思っていたからだ。
「だがなあ、困ったことに弟が目をひからせてるんだ」
「ちぇっ! なんてこった!……」
「ムーアの荒くれ男で、オルレアン市場でパイプを売っておる……」
ここで二人とも黙ってしまった。
プリンスが口を切った。「そうさ! あんたはこれしきのことでびくつく男じゃない。それに、パイプを何本か買ってやれば、あんなごろつきなんか、きっとなんとかなるよ……。さあさあ、着替えた、着替えた……。なんて運のいいやつだ!」
顔は青ざめ、胸はドキドキ、あのムーアの女への思いはつのる一方。タルタランはベッドからとびおりると、だぶだぶのネルの股引《ももひき》のボタンをあたふたとかけながら、
「一体、どうしたらいいんですか?」
「ただ、彼女にさらさらっと一筆啓上して、会ってほしいと言えばいいんだ!」
「それじゃあ、そのご婦人はフランス語がわかるんですか?……」と、タルタランはがっかりした様子できいた。|生っ粋《きっすい》の東洋《オリエント》を楽しみにしていたのだ。
プリンス・グレゴリーは平然として答えた。「ひとこともわからんよ……。でも、あんたは手紙の文句を口述すればいい。ひとこと、ひとこと、ムーア語に直してあげよう」
「ああ、プリンス、なんてご親切なことで!」
こう言って、タルタランは部屋の中を大股で歩きはじめた。黙って考えをまとめているのだ。
アルジェのムーア女ともなると、ボーケールの娘に出す付け文というわけにはいかないのは、おわかりだろう。だが、幸いなことに、わが英雄はいままでに書物を山ほど買いこんで読破していた。おかげで、ギュスターヴ・エマールの本に出ている北米インディアンのアパッチ族式修辞法だの、ラマルチーヌの『東方旅行』だの、旧約聖書の「雅歌」の中のうろ覚えの文句だのを、あれこれとりまぜて、それはそれは東洋風《オリエント》な手紙を書き上げることができたのである。手紙の書き出しは、
≪さながら砂漠の駝鳥《だちょう》のごとく……≫
で、結びは、
≪告げよかし、父君のみ名を。されば、この花の名を伝え申さん……≫となっている。
ロマンチックなタルタランは、東洋風《オリエント》に、この文尾で使われた花で花束を作り、手紙にそえておくりたいところだった。ところが、プリンス・グレゴリーのほうは、弟の店でパイプを二、三本買ったほうがいいと考えた。そうすれば、この弟の荒々しい気持ちもきっとやわらぐだろうし、女も大のタバコ好きときているから、とても喜んでくれるだろうというのである。
「じゃあ、早くパイプを買いにいきましょう!」と、タルタランは、はやる気持ちで言った。
「いや!……いかん!……わたしに一人で行かせてくれたまえ。負けてもらえるだろうから……」
「なんですって! あなたが行ってくださる……。ああ、プリンス……プリンス……」すっかり恐縮したタルタランは、親切なモンテネグロ人に自分の財布を渡し、あの女が喜んでくれそうなものは一つ残らずとりそろえてください、とたのんだ。
あいにく、事は――出足はよかったが――お望みどおりにはとんとんと運ばなかった。ムーア女は、タルタランの流暢《りゅうちょう》な手紙にすっかり参ってしまったらしい。それに、もともと彼をまんざらでもないと思っていたのだから、タルタランに会えるのは、ねがったりかなったりというところだった。だが、困ったことに、弟のほうはこちらを警戒している。なんとか丸めこもうとしているうちに、何ダースも、何十ダースも、しまいには数えきれないほどのパイプを買う破目になってしまった……。
「一体全体バイヤは、こんなたくさんのパイプをどうしようってんだろう?」と、気の毒なタルタランは、何度も首をかしげた。――それでも気前よく支払った。
パイプを山ほど買わされ、東洋風《オリエント》な詩を海のようにささげたかいがあって、ようやくデートまでこぎつけた。
タルタランが、どんなに胸をわくわくさせて身じたくをしたか、また、どんなに心をこめて念入りに、帽子狩りの猟人のごわごわしたひげを刈りあげたり、つやを出したり、香水をふりかけたりしたか、そこのところはいまさら申しあげるまでもないだろう。だが――どんなことが起こるかわからないから――釘付きの棍棒《こんぼう》を一本と、連発ピストルを二、三丁ポケットにしのばせることも忘れなかった。
プリンスはまたまたご親切に、このはじめてのデートにも通訳としてついてきてくれた。あの女の住まいは山の手にあった。門の前には、年のころ、十三、四のムーア人の少年がタバコをふかしていた。この少年が先ほどから問題の例の弟のアリーだったのだ。二人のお客がやってきたのを見ると、わき戸をコツコツとたたいてから、そっと引きさがった。
戸があいた。黒人の女が現れて、黙ったまま狭い中庭をとおって、二人をひんやりした小部屋へ案内した。部屋にはあの女が、低いベッドに片ひじをついて横になったまま待っていた……。ひと目見たとき、タルタランは乗合馬車で会ったあのムーアの女よりも小柄で、がっちりしているな、と思った……。ほんとにあの女なのかな? でも、こうした疑いはタルタランの頭をさっとかすめただけで、すぐに消えてしまった。
素足といい、指輪をいっぱいはめたふっくらした指といい、ばら色のきめ細かな肌といい、なんともかわいらしい女だ。金糸織りの胴着や花柄模様のドレスの下には、どちらかといえばずんぐりむっくりした女のからだがあるのが感じられる。まさにいまが食べどきといった、どこもかしこも丸みをおびたからだつきである……。女は、琥珀《こはく》でできた長い水パイプを口にくわえ、亜麻色《あまいろ》の煙に後光のようなぐあいにすっぽりとつつまれている。
部屋に入ると、タルタランは片手を胸に当て、それから、愛情のこもった大きな目をきょろつかせながら、いっしょうけんめいムーア風のおじぎをした……。バイヤはタルタランを黙ったままちょっとのあいだ見つめた。が、すぐに琥珀のパイプをぽとりと落とすと、仰向《あおむ》けにひっくりかえって両手で顔を覆った。もう見えるのは白い首だけだったが、その首は、女がけたたましく笑いはじめたので、真珠がびっしりつまった袋みたいにゆらゆらゆれていた。
[#改ページ]
十一 シーディ・タルトリ・ベン・タルトリ
いつか、夜おやすみまえのひとときにでも、この山の手にある、アルジェリア人経営の喫茶店に入ってごらんになるがいい。そうすれば、今でもまだムーア人たちが、目くばせをしたり、クスクス笑いを漏らしたりしながら、シーディ・タリトリ・ベン・タルトリとかいう男のことをうわさし合っているのをお聞きになるだろう。その男は、愛想のいい金持ちのヨーロッパ人で、――もう五、六年まえの話だが――町の山の手にバイヤという名の小柄な土地の女といっしょに住んでいたのだ。
カスバ一帯にあんな愉快な思い出を残した、このシーディ・タルトリという人物がわれらのタルタランにほかならないことは、すぐおわかりだろう……。
仕方がないではないか? 聖人や英雄の人生にも、こんなふうに分別を失ったり、心が乱れたり、過ちを犯したりするときがあるものなのだ。あの有名なタルタランだって例外ではなかった。彼は――二か月ものあいだずっと――ライオンも光栄も忘れて東洋風《オリエント》の恋に酔い、まるでハンニバルがカプアでしたみたいに〔第二ポエニ戦争(前二一八〜二〇一)のとき、ハンニバルの率いるカルタゴ軍は、ナポリ北方の町カプアに冬営した折り、戦いを一時中断して逸楽にふけったと伝えられている〕、「白い町」アルジェの悦楽におぼれて眠りこんでしまったのだった。
タルタランは、アラブ人街の中心部に、中庭とバナナの木と涼しい回廊と噴水のついた、この土地のこぎれいな家を借りた。彼は、人の世のわずらわしさをさけて、愛するムーアの女といっしょにこの家で暮らしていたのだ。自分も頭ののてっぺんから爪先までムーア人になりきって、日がな一日パイプをふかし、麝香《じゃこう》入りのジャムを食べていた。
バイヤは長椅子の上に、だんなさまに向かい合って寝そべり、ギターを手に単調な曲を鼻歌でうたったり、彼の気をまぎらすためにベリーダンスのまねをしてみせたりした。そんなとき、バイヤは手に小さな鏡を持ち、その鏡に真っ白な歯だの、しなを作った顔だのを映してみるのだった。
女のほうはフランス語をひとことも知らなかったし、タルタランのほうはアラビア語がからきしだめだったので、ときどき意志が通じなくなってしまう。そんなわけで、おしゃべりなタルタランは、薬屋のベジュケの店や武器商コストカルドの店で言いたい放題にしゃべりまくった罪のつぐないを、ここに来てたっぷりさせられたというわけである。
だが、こんなつぐないにもそれなりの魅力はあった。一日じゅう家にこもって、しゃべらずに、パイプのゴボゴボいう音だの、ギターのつま弾きだの、中庭のモザイクをぬらす噴水の軽やかな水音だのに聞き入っていると、もの憂い気持ちになることはなるが、それがまた、なんとも心地よいのである。
彼の生活は水パイプと風呂と恋だけになってしまったのだ。二人はめったに外出しなかった。それでもときどきシディー・タルトリは気丈なラバの背に愛《いと》しいバイヤと相乗りで、近くに買っておいた小さな庭へ、ざくろの実を食べに出かけた……。だが一度も、断じて一度も、ヨーロッパ人街に降りていこうとはしなかった。酔っぱらいのアルジェリア歩兵といい、士官たちがあふれかえっている喫茶店といい、アーケードの下にいつまでもひびきわたるサーベルの音といい、アルジェのヨーロッパ人街には西洋を守る番兵といった風情があり、そこがたまらなくいやだったからだ。
要するに、タルタランはとても幸せだったのだ。とりわけサンチョ=タルタランときたら、トルコ菓子が大好物なもので、この新しい生活に満足しきっていると言ってのけていた……。キホーテ=タルタランのほうは、ときどきホームシックにかかったり、約束したライオンの毛皮のことだのを考えたりして、こりゃあいかんなあと思うのだった……。だが、それも長引きはしなかった。バイヤがちらりと見てくれたり、キルケー〔魔法にすぐれた女神。『オデュッセイア』には、彼女は自分の住む島をおとずれたオデュッセウスの部下たちに魔法の酒を飲ませて豚に変えたと記されている〕の魔法の酒みたいに香りがよくて頭をぼうっとさせるあの悪魔のジャムを一さじ舐《な》めたりすれば、こんな悲しい思いなど、すっとんでしまうのだった。
毎晩、プリンス・グレゴリーが自由モンテネグロのことを少しばかり話しにやってきた……。この愛想のいい殿下は、疲れしらずの親切ぶり、家の中では通訳の仕事を買って出てくれる。執事の役だっておおせとあらばというわけだ。それに、どんな仕事でも、ただで道楽のつもりでやってくれるのである……。タルタランが出入りを許すのは、プリンスのほかには「トロンコ人」だけだった。残忍な顔つきをしたならず者どもめ、薄暗い屋台店の奥でなにをやらかしておるのやらと、タルタランを芯《しん》から震え上がらせたあの連中が、一度つきあってみると、みんな人がよくて悪さなどしない商人ばかりなのだ。刺繍《ししゅう》の商人だの、香辛料の商人だの、パイプの商人だの、育ちも良くて腰も低いし、抜けめがなくて、控えめで、それに、そろいもそろってポーカーの名人ときている。こうした連中が週に四、五回も、シーディ・タルトリの家へ宵を過ごしにやってきては、金を巻きあげたり、ジャムを食べたりする。そして、十時が鳴るとマホメットに感謝しながら、つつましく退散するのだった。
連中が帰ったあと、シーディ・タルトリと操《みさお》正しい奥さんは、テラスに出て寝るまでのひとときを過ごした。大きな白いテラス屋根になっていて、そこから町が見おろせた。まわり中どこもかしこも、やっぱり白いテラスだらけ。家々のテラスは月明かりに照らされて静まりかえり、階段みたいにつぎつぎと海のほうまでつづいている。ギターの震えるような音が微風にのって聞こえてくる。
……と、突然、朗々とした調べが、星の花束のように、空にゆったりと切れ目なく立ちのぼってゆく。となりのイスラム寺院の尖塔《せんとう》のてっぺんにハンサムな祈祷《きとう》時報係りが現れ、濃紺の夜空に白い影を浮かびあがらせながら、遠い地平線まで届くようなすばらしい声でアッラーの栄光をうたっているのだ。
すると、バイヤはギターを手放し、大きく目を見ひらいてその時報係りを見上げ、祈りの声にうっとりと聞きほれているようすである。歌がつづくあいだ、ずっとその場にたたずんで、身を震わせ、恍惚《こうこつ》となり、その姿は東洋《オリエント》の聖女テレジア〔スペインの修道女(一五一五〜八二)。カルメル会を改革した。神秘的体験を述べた著作によって知られている〕かと見まがうばかり……。感きわまってタルタランは、バイヤが祈る姿を眺めていた。そして、これほどの陶酔をひきおこすことができるのだから、きっとしっかりした美しい宗教にちがいないと思うのだった……。
タラスコンよ、目を覆《おお》うんだ! おまえのタルタランは背教者になろうとしているんだ。
[#改ページ]
十二 「タラスコン通信」
青空が広がり生暖かい微風が吹く天気のよい日の午後、シーディ・タルトリはラバにまたがって、一人っきりであの小さな庭から帰ってくるところだった……。シトロンやスイカでぱんぱんにふくらんだイグサの大きな袋の上に両足をひらいてすわり、大きな鐙《あぶみ》から出る音に眠りをさそわれ、ラバがゆらりゆらりと歩くごとに、からだ全体がゆれている。こうしてシーディ・タルトリは、すばらしい景色の中を進んでいった。両手を腹の上で組み、心地よさと暑さのせいで、うつらうつら居眠りをしながら。
町に入ったところで、この男は突然すさまじい大声で呼び止められて目をさました。
「やっ! こりゃ≪たんまげた≫! タルタランのだんなじゃないですか」
タルタランという名前だの、陽気な南仏なまりだのを耳にして、タルタランが顔をあげると、目と鼻の先にバルバスー船長の日にやけた人の良さそうな顔が見えた。このズワーヴ丸の船長は、小さなカフェの入口でパイプをくゆらしながら、アブサンを飲んでいるところだった。
「おや! こんにちは、バルバスー」と、タルタランはラバをとめて言った。
それには答えずに、バルバスーは目を大きく見ひらいて、ちょっとのあいだタルタランの姿をながめてから、笑いだした。あんまりすごく笑うので、シーディ・タルトリはスイカの上にすわったまま、まごまごしてしまった。
「なんちゅうターバンだい、タルタランのだんな!……それじゃ、みんなが言ってんのは本当なんですかねえ。だんなが『トロンコ人』になっちまったてのは?……それからバイヤのやつ、やっぱり『きれいなマルコ』〔フランス語の歌〕をうたってますかね?」
「『きれいなマルコ』だって!……」と、タルタランはむっとして言った。「よく覚えておきたまえ、船長。おまえさんがいま言ったあのご婦人は身持ちのいいムーア娘でフランス語などひとことも知らんのですぞ」
「バイヤがフランス語をひとことも知らないだって?……一体なにをぼんやりしていなさるんで?……」
こう言って、船長はいっそう大声で笑いだした。
だが、あわれなシーディ・タルトリが仏頂面をしたのを見ると、思いなおしてこう言った。
「きっとちがう女でしょうよ……。わたしの思いちがいってことにしときましょうや……。ただね、いいかね、だんな。とにかく、アルジェリアのムーア女だの、モンテネグロのプリンスだのって手合いにゃあ、用心なすったほうがようござんすよ!……」
「プリンスはわしの友人ですよ、船長」
「わかった! わかった! そう怒らんで……。アブサンでも一杯やりませんかな? やらないって。くにの連中に知らせたいことはないかね?……これもない。……それじゃ! これでさよならだ……。ところでだんな、上等のフランスタバコがあるんですがね、ちょっとばかり持っていかれちゃあ。まあまあ! どうぞ! きっとお役に立ちますぜ……。なにしろ、だんなの頭はあの東洋《オリエント》タバコってやつにやられちゃってるんだから」
そう言うと、船長はまたアブサンを飲みはじめた。タルタランは物思いに沈みながら、小さなわが家へ向かって、ラバを小走りに駆けさせて帰っていった……。この大人物、バルバスーの遠まわしの忠告なんかを本気でとりあげようとは思わなかったが、それでもやはり気がめいってくるのだった。それに南仏人特有の、大声だの、お国なまりだのを聞いたせいで、胸の中になんとなく後悔の念がわいてくるのだった。
家に帰ってきたが、だれもいない。バイヤは風呂にいっていたのだ……。タルタランには、あの黒人のお手伝いがみょうに不器量に思え、わが家はうら寂しく見えた……。なんとも言えない憂うつな気持ちに襲われたタルタランは、庭へ出て噴水のそばに腰をおろすと、バルバスーからもらったタバコをパイプにつめた。タバコは、≪セマフォール≫新聞の切れっぱしにつつまれていた。その切れっぱしを広げたときに、故郷の町の名がぱっと目に映った。
[#ここから1字下げ]
タラスコン通信
わが町は不安につつまれている。ライオン狩りのタルタランは、アフリカへこの巨獣を狩りに出かけて以来、もう何か月も消息を絶ったままだ……。勇敢なわが同胞タルタランはどうなってしまったのだろうか?……血気盛んなあの人物の大胆不敵で冒険好きなところを、われわれのようによく知っている者なら、こんなことを考えただけでもやりきれなくなる……。ほかの大勢の冒険家たちの二の舞を演じて、砂に飲まれてしまったのだろうか? それとも、アトラス山脈に住むあの怪獣ライオンの牙にかかって殺されてしまったのだろうか? ライオンの毛皮をみやげに帰ると、みんなに約束していたというのに……。消息がわからないというのは恐ろしいことだ! とはいえ、ボーケールの定期市にやってきた黒人の商人一行の話によると、一行は砂漠のど真ん中で一人のヨーロッパ人にでくわしたことがあるそうだが、その男はタルタランに似た特徴をもっていて、トンブクトゥー〔アフリカ西部の現在のマリ共和国中央部にある町。サハラ砂漠の南端に位置している〕に向かっていた、ということだ……。神よ、われらのタルタランを守りたまえ!
[#ここで字下げ終わり]
読み終わると、タルタランは、真っ赤になったり真っ青になったりしたあげく、しまいには震えだした。タラスコン中のありさまがまぶたに浮かんだ。クラブのおえら方だの帽子狩りの連中だの、コストカルドの店に置かれた緑色の肘掛け椅子だの、勇士ブラヴィダ少佐の恐ろしい口ひげが、翼を広げた鷲《わし》みたいに宙を舞うところだのが。
みんなが、いまごろは野獣を仕留めている最中だと信じてくれているのに、自分はこうしてござの上にのほほんと暮らしている。そう思うと、タルタラン・ド・タラスコンは、我と我が身の暮らしぶりが恥ずかしくなって、涙を流した。
そのうち突然、英雄タルタランはおどりあがって叫んだ。
「ライオンだ! ライオンだ!」
そして家の中にかけこみ、部屋の片隅でほこりだらけになって、ほっぽり出されていた小型テントだの、薬品箱だの、かん詰め類だの、武器箱だのを中庭へ引きずり出してきた。
サンチョ=タルタランはいまや息を引きとり、キホーテ=タルタランだけが生き残ったわけである。
持ち物を点検する、武器を身につける、例のアルジェリア風の服装をする、大きな長靴をはく、プリンスにあててバイヤをよろしくたのむとひとこと手紙を書く、涙にぬれた青い札《さつ》を五、六枚封筒にすべりこませる。こうしたことをみんな片づけるとすぐさま、大胆不敵なタルタランは、乗合馬車で街道をブリダの方向へ向かっていった。あとに残った黒人のお手伝いは、パイプだの、ターバンだの、靴だの、タルタランがイスラム教徒シーディ・タルトリだったころ愛用した品物がみんな、回廊の白い小さなクローバー飾りの下にあわれな姿でちらばっているのを前にして、あっけにとられて口もきけないありさまだった……。
[#改ページ]
第三話 ライオンの住みか
一 アフリカに追っぱらわれた乗合馬車
タルタランが乗っていたのは、時代物の古ぼけた乗合馬車だった。座席のクッションも、すっかり色あせた安ものの濃紺のラシャ張りで、いかにも時代がかった代物だった。おまけに、クッションには、ごわごわした毛糸の大きな房がいくつもついているものだから、二、三時間もすわって旅をしようものなら、お灸《きゅう》をすえたような跡が背中についてしまう……。タルタラン・ド・タラスコンは、後部座席にわずかな空間を見つけて、なんとか、そこに腰を落ち着けたのだった。アフリカに住む巨大な猫、つまりライオンのかぐわしい麝香《じゃこう》のようなあの匂いをかぐまでは、この英雄も、せいぜい乗合馬車の古き良き香りをかぐだけで満足していなければならなかったのだ。その香りときたら、男だの、女だの、革だの、食べ物だの、黴《かび》のはえたわらだの、そうしたものの数知れない匂いが、ごちゃまぜになってかもしだした、とてもへんてこな代物だったのだが。
ところで、後部座席には、いろんな種類の人間が少しずつ乗り合わせていた。トラピスト修道士が一人、ユダヤ人の商人が数人、自分たちのお客さまである連隊――第三軽騎兵連隊――にもどる隊付きの娼婦が二人、オルレアンヴィルの写真家が一人……。まことに色とりどりで楽しい相客だったが、タルタランはだれとも口をきく気にならなかった。腕を車の腕掛けにとおし、騎兵銃を膝《ひざ》のあいだにはさんで、深い物思いにふけっていた……。あわただしかった今度の旅立ち、バイヤの黒い瞳、間近に迫った恐ろしい狩り、こうしたことがいっぺんに押しよせて、タルタランの心を乱していた。それに、アフリカのど真ん中でめぐり会ったヨーロッパ製の乗合馬車、古き良き時代の面影をもったこの乗合馬車が、タルタランに故郷の昔をしのばせもしたのである。若いころのタラスコンの町の様子、近郊への遠足、ローヌ河のほとりでとった軽い食事、そうした思い出の数々が、ぼんやりとタルタランの頭の中に浮かびあがってきたのだ……。
刻一刻と夜のとばりが下りてきた。御者がカンテラに火をともす……。錆《さび》ついた馬車はキーキーいいながら古びたばねの上でとびはね、馬は早足で駆け、鈴はチリンチリン鳴る……。ときどき、屋上席の幌《ほろ》の下で、ギコギコ古鉄のぶつかり合う恐ろしい音がする……。タルタランの武器がたてる音だった。
タルタラン・ド・タラスコンはうつらうつらしながらも、ほんの一とき、乗客たちの姿を見つめた。車の振動につれて、乗客たちがぴょこぴょこおかしな格好ではねあがり、まるで珍妙なお化けのダンスでも見ているような気がした。やがて目の前が暗くなり、頭がぼんやりしてきた。車の軸のうめき声や馬車の胴の泣き声が、もうかすかにしか聞こえない……。
と、そのとき突然、声がした。まるで強突《ごうつ》くばばあがしゃべってでもいるような、つぶれた、がらがらの、しゃがれ声がタルタランの名を呼んだ。「タルタランのだんな! タルタランのだんな!」
「だれだ? わしを呼ぶのは」
「あたしですよ、タルタランのだんな。あたしがだれだかわかりませんかねえ?……いまじゃ、老いぼれちまった乗合馬車ですよ。――もう、かれこれ二十年にもなりますか――タラスコンとニームのあいだを行ったり来たりしていた、あの定期便のね……。おめえさまやおめえさまのお仲間を何べんお乗せしたか知れやしませんよ。おめえさまがたが、ジョンキエールだとかベルガルド〔どちらもタラスコン付近の村〕だとかへ、帽子狩りに行きなさったときにねえ!……。今日はまた『トロンコ人』の帽子をかぶっておいでだし、それに太りなすったもんだから、はじめは、おめえさまがだれだかさっぱり見当がつきませんでしたよ。でもねえ、グーグーいびきをかきはじめなすったとたん、まあ、どうじゃろう、すぐにタルタランのだんなだとわかりましただ」
「もういい! わかった!」いくぶん、むっとしてタルタランは言った。
だが、やがて、気持ちをやわらげて、
「でもな、ばあさん、一体全体、なにしにあんたは、こんなところへ来たんだね?」
「ああ! それがですよ、タルタランのだんな。あたしゃ、なにも好きこのんでこんなところに来たわけじゃないんですよ、まったくのところ……。ボーケール行きの鉄道が出来あがっちまうとね、さっそく、あたしなんぞはなんの役にもたたないってことになって、アフリカ送りになったってわけですよ……。それも、あたしだけじゃないんでね! フランス中の乗合馬車があらかた、あたしみたいにアフリカに追っぱらわれちまったんですよ。ご時勢に逆らったけしからんやつらだといわれて、あたしたちは、いまじゃ、みんな、こんなところで、毎日、強制労働をやらされてるんですよ……。こんなあたしたちのことを、フランスのだんながたはアルジェリア鉄道なんて言ってなさるわけですがね」
ここまで言うと、老いぼれ乗合馬車はフーと長いため息をついて、またしゃべりだした。
「ああ! タルタランのだんな、あたしゃ、きれいなタラスコンの町がとっても恋しいですよ! あたしも、あのころが花でした。なにせ、若くてぴちぴちしてましたからねえ! 朝、出発するときのあたしをひと目見てほしかったですよ。たっぷり水をかけてもらって、あたしの体はぴかぴかまぶしいくらいでした。なにしろ、車は塗り変えたばっかり、カンテラは二つともお天道《てんと》さまがぶらさがったみたい、それに幌だって、いつも油で磨かれてましたからねえ! そのあとがまた見ものでねえ! 副御者が『ラガディガドゥー、ラ・タラスク! ラ・タラスク!』なんて歌に合わせて鞭《むち》をピシピシ鳴らす。すると、御者のほうは――この男はいつも肩からななめにラッパをかけて、縫い取りのある帽子をあみだにかぶってるんですがね――、いつも気が立っている自分の小犬をぽいと屋上席の幌の上にほうり投げる。そして、自分もそこに、さっととび上がってこう叫ぶんですよ。『さあ、いけ! それ、いけ!』ってね。そのとたん、鈴はチリンチリン、犬はワンワン、ラッパはブーブー。鳴り物入りのすごい騒ぎに、あたしをひっぱる四頭の馬がいよいよ走りだすってわけですよ。すると、通りに沿った家々の窓がいっせいにひらいて、タラスコンの町中の人たちが、誇らしげに見送るんですよ。国道を走り去ってゆくあたしの姿をね。
なんてすてきだったんでしょう。あの国道は、タルタランのだんな! 広くって、手入れがゆきとどいている。きちんきちんと間《ま》を置いて道路沿いに積まれた小石の小さな山は、一キロメートルごとの路標になっている。そして道の両側には、オリーヴやぶどうの木のきれいな野原が広がってねえ……。おまけに、ちょっと走れば宿屋があったし、五分も行けば、換え馬を用意している宿屋があった……。それに第一、あたしに乗ってくれるお客さんたちが、ほんとに気のいい人たちでねえ! 知事さんや司教さんに会いにニームへ行きなさる村長さんや司祭さん、なかなか行儀よく農家からひきあげてきなさる気さくなタフタ売りのかたがた、学校が休みの生徒さんたち。縫い取りのある仕事着をつけた農民たちは、朝、ひげを剃ったばかりで、さっぱりした顔をしていましたっけ。それに、上のほうの屋上席では、おめえさまがた、帽子狩りのだんな衆が、いつもにこにこ上機嫌。夜、星空の下をあたしに乗って家に帰りなさるときなんか、どなたも『わが家の恋歌』を、そりゃあ上手にうたっていなさったもんですよ!……
こうしたことも、もう昔話ですがね……。いま、あたしが運んでる連中ときたら、まったく! どこのどいつだかしらないけどさ、不信心なやつらがどやどや乗りこんできちゃあ、あたしを蚤《のみ》としらみだらけにしやがるんですよ。黒人、ベドゥイン人、野卑で乱暴な兵隊、いろんな国からやってきた冒険家、とまあ、こういったやつらが乗るんですからねえ。おまけに、ぼろぼろの服を着た植民地の白人なんぞは、パイプをすぱすぱやらかして、あたしにいやな匂いをふきかけるんです。あんなやつらがしゃべる言葉なんて、神さまだってわかりっこありませんよ……。それに、ごらんのとおり、あたしが受けているひどい仕打ちったら! ブラシで磨いてくれたことも、洗ってくれたことも、一度だってありゃしません。そのくせ、車の軸の油が汚いといって文句を言うんですよ……。昔は、立派で肉付きがよくっておとなしい馬に引かれていたのに、いまじゃあ、ちっぽけなアラブの馬に引っぱられてるんですよ。こいつらときたら、まったくひどい暴れ馬でしてね、仲間同士でけんかしたりかみつき合ったりするやら、走ってる最中に山羊みたいに跳びはねるやら、あたしの梶棒を足でいやというほど蹴とばして壊しちまうやら……。あ、痛《いた》!……あ、痛《いた》!……ほら! やりはじめましたよ……。それに、なにしろ、道路ときたらねえ! この道なんか、まだ、ましなもんですよ。総督府が近いですからねえ。だけど、もっと先へ行くと、道もなにもあったもんじゃないんですよ。行きあたりばったりに進むんですよ。山越え野越え、低いしゅろの林の中、ピスタキア・レンチスクスの茂みの中をね……。決まった宿場なんか、たった一つもありゃしない。御者の気まぐれ任せで、あちこちの農家に泊まるんですよ。
このとんでもない御者は友だちの家に寄って、アブサンだとか、アルコール入りのコーヒーだとかを飲もうとして、このあたしにときどき八キロも遠まわりさせるんですよ……。一杯やったあとは、『鞭《むち》をいれろ、副御者! 遅れた時間をとりもどさにゃなんねえぞ』とくるんです。日差しは焼けつくようだし、もうもうと立つほこりは燃えるようです。『じゃんじゃん鞭をいれろ!』ぶつかったり、ひっくり返ったりしちまいます!『もっと強く鞭をいれろ!』川を泳いで渡ります。風邪をひきます。濡れねずみになります……。それでも、『鞭をいれろ! 鞭をいれろ! 鞭をいれろ!』やがて、夕方になります。びしょ濡れのまま――えらいこってすよ、あたしの歳じゃ、リューマチもあるってえのにねえ!――外で寝ろってんですよ。つまり、隊商宿の吹きっさらしの庭でね。夜になるとジャッカルだのハイエナだのがやってきて、あたしの荷物入れのにおいをかいだり、畑どろぼうが露に濡れるのをいやがって、あたしの客室に入ってからだを温めたりするんですよ……。ね、タルタランのだんな、あたしゃこんな毎日を送ってるんですよ。それに、これからだって、こんな暮らしをつづけるでしょうよ。お日さまの光に焼かれ、夜の湿気で腐っちまって、あげくの果ては――だって、ほかにどうしようもないじゃありませんか――、どこかのひどい道ばたで倒れるまではね。その道ばたでね、きっとアラブ人どもは、あたしの古ぼけた枠組のかけらを焚《た》いて、クスクス〔アラブ料理の一種。粗びきの小麦を皿にしきつめてふかし、肉や野菜を添え、香辛料のきいた煮汁をかけて食べる〕をこしらえるこってしょうよ……」
――「ブリダ! ブリダ!」車のドアをひらいて、御者が叫んだ。
[#改ページ]
二 乗り合わせたちび紳士
タルタラン・ド・タラスコンが水蒸気でくもった窓ガラスごしに外をながめると、きれいな郡役所前の広場がぼんやりと見えた。まわりをアーケードでかこまれ、オレンジの木が植えてあって、広場はいかにも整然としている。広場の真ん中では、ばら色に輝く明るい朝もやの中に、まるで鉛でできたおもちゃみたいな背の低い兵隊たちが訓練にはげんでいる。立ち並ぶ喫茶店がよろい戸をあけにかかっている。広場の隅っこには野菜の市が立った……。うっとりするような眺めだ。だが、ライオンの気配はまだちっともしない。
「南へゆこう!……もっと南へ行かにゃならん!」タルタランはこうつぶやくと、席にどっかりとすわりなおした。
ちょうどそのとき、馬車のドアがひらいた。さわやかな一陣の風がさっと吹きこみ、その風の翼に乗って、オレンジの花のいい香りといっしょに、ものすごくちびの紳士が馬車の中に入ってきた。薄茶色のフロックコートを身にまとったこの紳士は、やせこけて皺《しわ》だらけで、おまけに、かたくるしい感じの老人だった。顔はげんこつみたいに小さくて、黒い絹のネクタイは長さ十センチ近くもある派手なやつだ〔この当時は、現在とちがって、一般に蝶ネクタイぐらいの短いネクタイが使われていた〕。それに、革のかばんを小脇にかかえ、こうもりがさまでぶらさげている。村の公証人を絵に描いたような男だった。
このちび紳士はタルタランの真正面にすわったが、タルタランの軍用品に気がつくと、よっぽどびっくりしたとみえて、いやになるほどしつこい目つきで、相手の顔を穴のあくほど見つめはじめた。
ここで、いままでの馬をはずして新しい馬をつなぐと、乗合馬車は出発した……。例のちび紳士はまだタルタランを見つめている……。とうとうタルタランは腹を立ててしまった。
「これが、そんなに不思議ですかな?」こう言って、今度はタルタランのほうが相手の顔をじっと見つめた。
「いやあ! ただ、ちょっと窮屈なんじゃよ」と、ちび紳士は落ち着きはらって答えた。なるほど、小型テント、連発ピストル、ケースに納まった二丁の鉄砲、猟刀、こうしたものが幅をきかせ、――そのでっぷり太った図体を勘定に入れなくても――タルタラン・ド・タラスコンは、とても広い場所を一人占めしていたのだった……。
ちび紳士の言いぐさに、タルタランはむかっときた。
「あんたは、わしがライオン狩りにいくのに、そんなこうもりがさを一本持つだけで足りるとでも、お思いかな?」と、この大人物は傲然《ごうぜん》とした態度でやり返した。
ちび紳士は自分のこうもりがさを見て、にっこり笑った。そして、相変わらず落ち着いた調子でこう言った。
「してみると、あんたは?……」
「いかにも、タルタラン・ド・タラスコン。ライオン退治に乗り出してきたんじゃ!」
こう言い放ちながら、大胆不敵なタルタランはアフリカ帽の房を、まるで猛獣のたてがみみたいにゆすってみせた。
乗合馬車じゅうの人がびっくりぎょうてん。
トラピスト会修道士は十字を切り、娼婦たちはちぢみあがって、思わずアッと小さな悲鳴をあげた。オルレアンヴィルの写真家などは、写真を一枚撮らせてもらえたらすばらしい名誉だぞと早くも考えて、ライオン狩りの名人のそばにやってくる。
ところが、あのちび紳士だけはまるで驚かない。
「もう、ずいぶんライオンをしとめられたんでしょうな? タルタランさん」と、とても落ち着きはらってきいてくる。
タルタランはこっぴどくやっつけた。
「ああ、ずいぶんしとめましたとも!……あんたの頭にだって、せめて、わしがやっつけたライオンの数ぐらいの髪の毛がはえておりゃあなあ」
乗合馬車じゅうが笑ったのなんのって。ちび紳士の頭には、カデ=ルーセル〔十八世紀終わりの流行歌の主人公。髪の毛が三本、帽子が三個、靴が三足など、持ち物が何でも三つだった〕張りの黄色い毛がたった三本、ぴんとつっ立っているだけだったのだ。
今度は、オルレアンヴィルの写真家が口をはさんだ。
「なんて、まあ、恐ろしいご商売なんでしょうねえ、タルタランさん!……ときには危険な思いだって、されるでしょうに……。あのボンボネル〔実在した狩猟家。豹狩りで有名〕さんなんぞも気の毒に……」
「ああ、あれ、あの豹《ひょう》狩りの……」さも軽蔑したような口調で、タルタランが言う。
「あの男をご存じなのかな?」と、ちび紳士がきいた。
「ああ! もちろん……知ってますとも……。あの男とは、もう二十回以上もいっしょに狩りをしたんですからな」
ちび紳士はにやりと笑った。「というと、あんたは豹狩りもおやりになるわけかな、タルタランさん?」
「ときには、まあ、ほんの暇つぶしにですがな……」と、タルタランはむっとして答えた。
そして、雄々しい身振りできっと頭をもちあげると、タルタランはこう言いそえた。その身振りに、二人の娼婦は思わず胸をときめかせた。
「ライオンにくらべりゃ、豹なんぞ、つまらん獲物じゃよ!」
これを聞いて、オルレアンヴィルの写真家がこう言いきった。「要するに、豹なんて、せいぜい大きめの猫ってところですかねえ……」
「そのとおり!」と、タルタランは言った。とくにご婦人がたの前で、ボンボネルの名声をちょいとばかり格下げしてやるのは、なかなかいい気持ちだったのだ。
ちょうどそのとき乗合馬車がとまり、御者がドアをあけにやってきた。御者は例の年寄りのちび紳士に向かって、
「着きましたでごぜえます、だんなさま」と、たいそううやうやしい物腰で告げた。
ちび紳士は立ち上がり、馬車から降りた。そして、ドアをしめるまえにこう言った。
「ひとつあんたにご忠告申しあげてよろしいかな、タルタランさん?」
「一体、どんな?」
「実際ねえ! まあ、こういうことなんじゃよ。あんたはいいかたのようだから、本当のところを申しあげようと思うんだが……。タラスコンへ早いとこお帰りなさい、タルタランさん……。ここにいても、時間を無駄にするだけじゃよ……。なるほど、地方へ行けばまだ豹は多少は残っておる。だがな、あいにくと! 豹なんぞは、あんたにとっちゃあ、まるで取るに足らぬ獲物じゃろう……。ライオンとなると、もうおしまいじゃよ。アルジェリアには一頭も残っちゃおらんから……。わしの友人のシャサン〔実在した狩猟家。ライオン狩りで有名〕がせんだって最後の一頭を仕留めたんじゃ」
こう言うと、ちび紳士はあいさつをして、ドアをしめた。そして折りかばんとこうもりがさを手にもって、笑顔のままたち去っていった。
いつもの仏頂面をして、タルタランがきいた。
「御者君、やつは一体何者だね?」
「なんだって! ご存じなかったんですかい? あれが、そのボンボネルさんでさあ」
[#改ページ]
三 ライオンの修道院
タルタランはミリアナーで降りたが、乗合馬車はもっと南のほうへ走っていく。
まる二日も馬車にガタガタゆられどおしだった。おまけに、道路沿いの野原にライオンの恐ろしい影がいま現れるかと、ドアの窓をとおして見つめどおしで、まる二晩まんじりともしなかった。だから、すっかり寝不足になってしまって、これからたっぷり二、三時間は休まなければならなかったのだ。それに、洗いざらい言ってしまえば、ボンボネルのことでへまをやらかしてからというもの、この生真面目なタルタランは、武器とか、ものすごい仏頂面とか、赤いアフリカ帽とかで、なんとか威厳をつくろってはいたものの、オルレアンヴィルの写真家や第三軽騎兵連隊付きの二人の娼婦と顔を突き合わせているのが、どうにも気づまりでたまらなくなっていたのだ。
そんなわけで、タルタランはミリアナーの町の大通りをとぼとぼ歩いていたのである。
大通りには、美しい並木がつづき、ところどころに泉も湧《わ》いていた。だが、手ごろなホテルをさがしながらも、かわいそうにタルタランは、ボンボネルの言ったことばを思い出さずにはいられなかった……。ひょっとしてやつの言うとおりだったら? アルジェリアにもうライオンが残っていないとしたら?……こんなにあちこち駆けずりまわったところで、骨折り損のくたびれもうけではなかろうか?
と、そのとき、町角をまがったとたん、いきなりわれらのタルタランは出くわしたのである……。なんに出くわしたかって? 当ててごらん……。なんと、一頭の威風堂々《いふうどうどう》たるライオンにである。ライオンは、いかにも百獣の王らしく、どっしり尻を落ち着けてすわり、黄色いたてがみを日の光にきらきら輝かせて、喫茶店のドアの前で待ちかまえていたのだ。
「もう残っておらんなんて、よくもぬけぬけと!」うしろにぱっと跳びのきながら、タルタランはこう叫んだ……。すると、叫び声を聞きつけて、ライオンは頭を下げた。そして、目の前の歩道に置いてあった物乞《ものご》い用の木のお椀《わん》を口にくわえて、そっとタルタランのほうにさし出した。あっけにとられたタルタランは身じろぎ一つしない……。とおりかったアラブ人が二スー貨をお椀の中に投げ入れた。ライオンがしっぽを振る……。なるほどな。こういうことだったのか。ライオンに出くわした喜びで最初は目に入らなかったのだが、見れば、この目が見えない、すっかり飼い慣らされた、かわいそうなライオンのまわりには、人だかりがしているではないか。おまけに、ライオンを町中連れて歩く大男の黒人二人も棍棒《こんぼう》を持ってそこに立っている。これではまるで、サヴォワ地方の男がモルモットをかごに入れて、町の中を連れてまわるのと同じではないか。
タルタランはかっとなった。
「悪党め、気高い動物に、こんなみっともないまねをさせるなんて!」と雷みたいな声でどなった。そしてライオンにかけ寄ると、堂々たる獣がくわえていた、けがらわしいお椀をもぎ取ってしまった……。これを見て、てっきりどろぼうだと思った二人の黒人は、棍棒を振りかざしてタルタランにおどりかかる……。ひどい騒ぎになった……。黒人二人はボカンボカンなぐり、女たちはギャーギャーさけび、子供たちはゲラゲラ笑う。「裁判所《ぜえばんしょ》だ! 裁判所《ぜえばんしょ》へ連れてゆけ!」と、年とったユダヤ人の靴屋が店の奥からわめきたてた。目の悪いライオンまでがウォーウォーとほえだすしまつ。必死にたたかったあげくの果てに、タルタランは気の毒にも、二スー貨とごみの散らばる地面に転がされてしまった。
と、そのとき、一人の男が人垣をかき分けてやってきた。そして、たったひとことで黒人をさがらせ、身振りひとつで女子供を押しのけると、タルタランを助け起こした。服のほころをパタパタ払ってやってから、ハーハー息をきらしているタルタランを境界石の上にすわらせてくれた。
「おやっ! ≪プレインス≫、あなたでしたか?……」と、脇腹をこすりながら、われらのタルタランが言った。
「そのとおり! 勇敢な友よ、わたしだよ……。あなたの手紙を受け取るとすぐに、バイヤをあれの弟にあずけ、駅馬車を雇うと、二百キロの道をつっ走ってきたんだよ。それで、危機一髪、がさつ者どもの手からあなたを救い出せたというわけだ……。だが、一体なにをなさったというのかな? まったく! こんなひどいめにあうなんて」
「でも、しょうがないでしょう、≪プレインス≫……。物乞いのお椀を口にくわえて、このかわいそうなライオンが、はずかしめられ、すっかり気力をなくして、こんなイスラム教徒どもの、物笑いのたねになっておるのが、見るにしのびなかったもんで……」
「あなたは勘違いをしているんだよ、タルタランさん。このライオンは、それどころか、町の人びとから敬われたり愛されたりしておるんだ。これは神聖な獣でしてな。『ライオン修道院』で飼われているのだ。その修道院というのは、三百年もまえに、モハンマド・ベン・アウダが建てたものでね、まあ、獣のほえ声やらにおいでやらでいっぱいの、恐ろしくて獰猛《どうもう》なトラピスト修道院ともいえるところなんだ。そこでは、変わり者の僧侶たちが何百頭というライオンを育てて、うまく飼い慣らしては、募金係の僧といっしょに北アフリカ中に送りだしているんだ……。この僧たちが集めた寄付金は、修道院とその付属の寺院の維持費に当てられるわけでしてな。先ほど黒人二人があなたを相手にあんなにいきりたったのも、それこそ、連れ歩いてるライオンにすぐに食われてしまうと、二人がかたく信じているからなんだよ」
嘘みたいに感じられるが本当にちがいないこの話を聞いて、タルタラン・ド・タラスコンはすっかりうれしくなり、思わず高らかに鼻を鳴らした。
「いまのお話で、ひとつわしにうれしいことがありましたぞ。ほかでもない、ボンボネル君には悪いが、アルジェリアにまだライオンがおるってことです!……」と、話に決着をつけようとしてタルタランは言った。
プリンスが熱のこもった口調で言う。「いるとも!……さっそく、明日からでもシェリフ平野にライオン狩りに出かけようじゃないか!。そうすればすぐわかるよ!……」
「なんですって! プリンス……。では、あなたもいっしょに狩りをしてくださろうというんですか?」
「もちろんだとも! このわたしが、あなたをたった一人で、アフリカのど真ん中へ行かせるとでも思ってるんですか。言葉も習慣もあなたにはちんぷんかんぷんの、あの荒々しい部族たちが住む真っただ中へね……。いいや! とんでもない! タルタランさん、もうあなたから離れはしませんよ……。あなたの行くところへは、どこでもついていくつもりです!」
「ああ! ≪プレインス≫、≪プレインス≫……」
タルタランは大喜びで、このりちぎなプリンス・グレゴリーをしっかり胸に抱きしめた。これで、ジュール・ジェラールやボンボネル、それにほかの有名なライオン狩りの名人と同じように、異国のプリンスといっしょにライオン狩りに行けるんだ、こう思ってタルタランは大いに得意になったのである。
[#改ページ]
四 ライオン狩りの一行は進む
あくる日、夜明け早々、大胆不敵なタルタランと、これまた大胆不敵なプリンス・グレゴリーは、黒人の荷揚げ人を五、六人従えて、ミリアナーの町を出発した。ジャスミンや、このてがしわや、イナゴマメや、野生のオリーブの木が、ずっと影を落としている気持ちのいい急な坂道を、一行はシェリフ平野に向かって下っていった。道の両側には、土地の人たちの家の小さな庭の垣根がつづき、あちらこちらでこんこんと清水が湧き出ていて、うたいながら楽しげに岩から岩へと流れ落ちていた……。まるで、レバノンの風景を見ているようだった。
プリンス・グレゴリーは大タルタランに負けず劣らず武器をしこたま身につけていたし、おまけに、ぎょうぎょうしいへんてこりんな円筒帽までかぶっている。その帽子ときたら、金モールがごちゃごちゃついていて、銀糸で縫い取りされたかしわの葉っぱの飾りまでついていた。おかげで、プリンスはメキシコの将軍みたいにも見えるのだった。
タルタランはこの奇怪な円筒帽が気になってしようがなかった。そこで、恐るおそる、なぜまたそんなものを、ときいてみた。
「アフリカ旅行にはなくてはならない帽子なんだよ」と、プリンスはおごそかに答えた。そして、袖《そで》の折り返しで帽子のひさしを磨きながら、アラブ人を相手にするには、この帽子がどれほど大切な役目を果たすかということを、なにも知らないこの狩りの道連れに説いてきかせた。つまり、アラブ人をちぢみあがらせるのに特別な威力があるのは、エリートの軍人だけだというのである。だからこそ、役所は、道路作業員から登記所の役人にいたるまで、職員全員にやむなく円筒の軍帽をかぶらせているわけだ。要するに、アルジェリアを統治するには――これもまたプリンスの言葉だが――、しっかりした頭脳なんてものは要りはしない。それどころか、頭なんて全然必要ない。エリートのかぶる円筒帽さえあればそれでいい。金モールの付いた立派な円筒帽、『ヴィルヘルム・テル』に出てくる代官ゲスラーのトック帽〔法官などがかぶるふちなし帽〕さながらに、棍棒《こんぼう》の先できらきら輝く円筒帽がありさえすればいいのだ。
こんなふうにおしゃべりをしたり、大問題を論じたりしながら、一行は予定どおり進んでいった。荷揚げ人たちは――素足で――猿みたいな叫び声をあげながら、岩から岩へとぴょんぴょん移っていく。武器箱がガタガタ鳴る。鉄砲がぎらぎらひかる。とおりかかった土地の人たちが、円筒帽を見て、魔法にでもかかったみたいに土下座をする……。ミリアナーの町を囲む高い城壁の上では、アラブ庁長官が、気持ちのいい風に誘われて夫人と散歩の最中だったが、この異様な騒ぎを聞きつけ、木々のあいだに武器が輝くのを見て、すわ一大事だと思いこんでしまった。そこで、城壁の跳ね橋を下ろさせ、非常事態発生の警鐘を打ち鳴らさせて、すぐに町に戒厳令をしいてしまったのである。
まことにおみごとな狩猟隊の旅立ちぶりと言うべきだろう!
だが、惜しいことに、まだ日も暮れないうちから、だいぶ様子がおかしくなってきた。荷物を運んでいた黒人のうち、まず一人が救急箱の絆創膏《ばんそうこう》を食べたのがたたって、ひどい腹痛にみまわれた。樟脳《しょうのう》入りの蒸留酒を飲んで道ばたに酔いつぶれる者も出た。また別の一人などは――旅行日誌を運んでいた男だが――日誌の金メッキの留金に目がくらみ、メッカの宝物〔メッカの聖域の中央部にあるカーバの神殿に納められている神聖な黒い石〕をかっさらいでもするようなつもりで、日誌をねこばばしてザッカール山中へまっしぐらに逃げこんでしまった……。
善後策を練らなければならない……。一行は歩みをとめ、葉のまばらなイチジクの老木の木かげで会議をひらいた。
「わたしの意見はね」と、プリンスが切り出した。底が三重にもなった改良鍋の中で、干し肉を一枚柔らかくしようとしているが、見れば、いっこうにうまくいっていない。「わたしの意見はね、もう今夜から、黒人の荷揚げ人はおはらいばこにしたほうがいいということだ……。ちょうどうまいぐあいに、この近くでアラブ人たちが市《いち》をひらいている。あそこに寄って、ちびロバを何頭か買い求めるのが上策だ……」
「いや!……まっぴらごめんです!……ちびロバなんて!……」とタルタランはあわててプリンスの言葉をさえぎった。ちびロバの「くろ」を相手にしでかした例のへまを思い出して、タルタランは恥ずかしさで真っ赤になっている。
うわべをとりつくろうとして、タルタランはこう言い足した。
「だって、あんなちっぽけな動物に、わしらの山のような荷物を運べるわけなんてないでしょうが」
プリンスはにっこり笑った。
「それが、ちょっと違ってね、タルタランさん。からだつきはやせてひよ弱そうに見えるがね、アルジェリアのちびロバは足腰が頑丈なんだよ……。じっと我慢して、あれほどつらい仕事をやれるんだから、やはり足腰はしっかりしているはずだ……。まあ、アラブ人たちにきいてみたまえ。アラブ人たちはこの植民地の制度をこんなふうに説明しているがね……。つまり、連中はこう言っているんです。上のほうにはトック帽をかぶった総督閣下がいなさって、太い棍棒で参謀たちをおなぐりになる。参謀たちはその恨みを晴らそうとして兵隊をぶんなぐる。兵隊は植民地の白人をなぐり、植民地の白人はアラブ人をぶんなぐる。アラブ人は黒人をぶんなぐり、黒人はユダヤ人をなぐりとばす。ユダヤ人は、今度は、ちびロバをぶんなぐる。ところが、かわいそうにちびロバは、ぶんなぐろうにも相手がいないもんだから、背中をさし出して、なんでも運んでやる、というわけです。これで、わかったでしょう、ちびロバがあなたの荷物を運べるわけがね」
タルタラン・ド・タラスコンは答えた。「それにしても、われわれの狩猟隊の格好を考えますとな、ロバではあんまりしっくりしないような気がしますよ……。わしが欲しいのは、もっと東洋風《オリエント》なものなんですよ……。たとえば、ラクダを一頭手に入れられたら……」
「何頭でも、好きなだけ買えますよ」と、プリンスは言った。タルタラン一行はアラブ人の市場に向かって出発した。
市《いち》はそこから数キロ先の、シェリフ河のほとりでひらかれていた……。市場には、ぼろを着たアラブ人たちが五、六千人もいて、日向《ひなた》でうようようごめいていた。黒いオリーブの実のつまったびん、蜂蜜の入った壷《つぼ》、香辛料のつまった袋、山のように積まれた葉巻、そうしたものの真ん中で、アラブ人たちは騒々しく売り買いしている。あちこちで火が盛んに焚《た》かれ、その上ではバターの滴《しずく》をしたたらせながら、羊が丸焼きにされている。それに、露天の肉屋もあり、足を血の海に漬け、腕を血で真っ赤に染めた素っ裸の黒人たちが、竿《さお》のあちこちにぶらさがった小山羊を、小さな包丁を使ってばらばらにしていた。
市場の一隅には、色とりどりの大きなつぎを当てたテントが一つ立っていて、その中に、めがねをかけたムーア人の書記が大きな帳簿に向かってすわっている。手前のひとだかりでは、なにやらみんなが、がなりたてている。小麦をはかる桝《ます》の上にルーレットを置いて博打《ばくち》をやっているのだ。そのまわりで、カビリア人たちが腹のところからなけなしの金を取り出している……。また、向こうのほうからは、大喜びで足を踏み慣らす音や笑いが聞こえてくる。ユダヤ人の商人が、飼っている雌ラバもろともシェリフ河でおぼれそうになっているのを、みんながよってたかって見物しているのだ……。それに、サソリも犬もカラスもいっぱい。おまけにハエも……このハエがまた五万といるのだ!……
ところが、ラクダはというと、これが全然見当たらない。それでも、やっとのことで一頭だけは見つかった。ムサブ人たちが盛んに売っぱらいたがっているやつだ。でも、正真正銘の砂漠のラクダである。毛がなくて、悲しげな様子で、べドゥイン人そっくりの長い顔をした昔ながらのラクダだった。背中のこぶは、長いあいだ、餌《えさ》にありつけなかったのがたたってたるんでしまい、わびしく横っちょに垂れさがっていた。
それを見て、タルタランは、なんてすばらしいラクダだろうと思い、人間も荷物もそっくり、背中に乗せてみたくなった……。相も変わらぬ東洋《オリエント》かぶれだ!
ラクダがうずくまったので、みんなは荷物をゆわえつけた。
プリンスはラクダの首にまたがった。タルタランは、もっと威風堂々と見えるようにと考えて、二つの荷物にはさまれた、ラクダのこぶのてっぺんに高々と押し上げてもらった。こぶの上に得意満面で腰を落ち着けると、駆け寄ってきた市場の人びとに威厳たっぷりなあいさつを送りながら、出発進行の合図を出した……。いまいましいこった! タラスコンの町の人たちに、この晴れ姿をひと目でも見せてやれたら!……
ラクダは立ち上がると、節くれだった足で大股に走りだした……。
なんたる驚き! ラクダが大股で五、六歩も走ったかと思うと、タルタランの顔が真っ青になり、頭にのせた例の勇ましいアフリカ帽は、ズワーヴ丸の船上での動きそのままに、またもやとんだりはねたりしはじめた。このラクダめは、まるでフリゲート艦みたいに|縦揺れ《ピッチング》をやらかすのだ。
「≪プレインス≫、≪プレインス≫」タルタランは真っ青になって、蚊のなくような声で言った、こぶのかさかさの毛にしがみつきながら。「プレインス、降りましょう……。だって……だって……みっともないところを見せて、フランスが笑われでもしたら……」
おあいにくさま! 走り出したが最後、ラクダは、雨が降ろうが、槍が降ろうがとまりっこない。四千人ものアラブ人が、身ぶり手ぶりも大げさに、大笑いし、何万枚もの白い歯を日の光に輝かせながら、はだしで追いかけてくる……。
タラスコンの大人物ももうお手上げである。すっかりしょげて、ラクダのこぶの上にうつぶしてしまった。「アフリカ帽」はあっちへ行ったりこっちへ行ったり、勝手放題にはねまわる……。というわけで、フランスはみごとに嘲笑《ちょうしょう》されたのである。
[#改ページ]
五 夾竹桃《きょうちくとう》の茂みで夜の待ちぶせ
この新しい乗り物は見ばえはなかなかよかったのだが、アフリカ帽のことを考えると、タルタランもプリンスもラクダに乗りつづけるわけにはいかなかった。そんなわけで、いままでどおり、歩いて旅をつづけることになり、一行は南へ南へと少しずつではあるが、平穏無事に進んでいった。タルタランが先頭、プリンスがしんがり、そしてあいだには、武器箱を積んだあのラクダ。
探検旅行はほぼ一か月もつづいた。
このひと月というもの、タルタランはがむしゃらにライオンをさがして歩いたが、いっこうに見つからず、果てしないシェリフ平野のテント村からテント村をさまよい歩いた。そこは妙ちきりんで、恐ろしいアルジェリアの真っただ中であった。この地方には、古い東洋《オリエント》の香りが、アブサンと兵営の鼻をつくようなにおいとまじり合ったなんとも複雑な香りがただよっている。アブラハムとアルジェリア歩兵がまるで同居しているといってもいいような地方で、幻想的なところがあるかと思うと、素朴で滑稽《こっけい》なところもある。言ってみれば、あの神を恐れないラ・ラメー軍曹やピトゥー騎兵伍長が旧約聖書の一パージのお説教でもしているといってもいいような地方だ……。見る人が見れば、なかなか面白い風景だっただろう……。荒々しくて堕落した民族に、フランスはその悪徳を植えつけて文明開化しようとしているのだ……。この地方の総督たちは、法外でめちゃくちゃな権力をふるうとんでもない連中で、レジヨン・ドヌール勲章の飾りひもでぎょうぎょうしく鼻をかんでみたり、どうでもいいようなことで人を捕まえては、足打ちの刑にしてみたりする。裁判には道理もへったくれもあったものではない。裁判官は、大きなめがねをかけて格好をつけ、コーランと法律を信じているようにみせかけてはいるが、八月十五日の祭日〔ナポレオン一世の誕生日を祝う日〕にはしゅろの木かげで昇進させてもらいたいと思っているのだ。そしてエサウ〔旧約聖書中の人物。レンズ豆のスープとひきかえに、弟ヤコブに長子権を譲った〕が自分の長子相続権を売ったみたいに、レンズ豆一皿とか砂糖入りのクスクスとかと引きかえに判決を売ってしまうのである。ユースフ将軍〔アルジェリアで活躍したイタリア生まれのフランスの将軍。アブドゥル・カーディルの軍隊を破りなどした〕かなんかの従卒から成りあがった村の酋長は、放蕩者《ほうとうもの》の飲んだくればかりだ。マホン人の洗濯女をはべらせて、飲み放題、羊の焼肉は食べ放題といったありさまだ。テントの外では、村中の連中が死にそうに腹をすかせて、この大名顔まけの大酒盛りの残飯をグレーハウンド犬どもと争って食べているというのに。
まわりはといえば、荒れ果てた平野。日に焼けてからからになった草、葉のない木ばかりのやぶ、それに、群生するサボテンやピスタキア・レンチスクスの木があるばかり。これが、フランスの穀倉地帯なのだ!……一粒の穀物もみのらない穀倉地帯とは、なさけないことだ!……はびこっているのはジャッカルや南京虫ばかり。恐怖にかられた部族は、なんとか飢えから逃れようと、テント村をうちすてて、どこへ行くという当てもなくさまよい歩く。道すじに死体をまき散らしながら。ちらほらとフランス人の村もあることはあるが、家はくずれ落ち、畠はたがやしたあともない。空腹に狂ったイナゴどもは、窓のカーテンまで食い荒らす。それなのに、入植者たちはだれもかれも喫茶店に集まって、アブサンを飲みながら、改革案だとか、憲法案だとかについてあれこれ言い合っているばかり。
タルタランは、見ようと思えば、こんな光景を見ることができたはずだ。だが、ライオン一筋に情熱を傾けたタルタランには、右も左もありはしない。いまだに姿を見せない幻の野獣だけをしつこく追い求めて、ただただ、まっしぐらに進むだけだった。
小型テントはなんとしてもひらこうとしないし、干し肉のかたまりのほうもやわらかくなってくれないので、ライオン狩りの一行は、朝といわず晩といわずテント村にたち寄らざるをえなかった。プリンス・グレゴリーの円筒帽のおかげで、一行はどこでも大歓迎を受けた。族長の家に泊めてもらうのだが、その家というのがへんてこな宮殿で、窓のない白い大きな農家といった造りだ。家の中にはいろんなものがごちゃごちゃに置かれている。水パイプ、マホガニーの洋服だんす、スミルナ製のじゅうたん、油量調節器のついたランプ、トルコ金貨がいっぱい詰まった、ヒマラヤ杉でつくった金庫、ルイ=フィリップ様式の人形付きの掛け時計……。行く先々でタルタランは大歓迎を受けた。「イスラム風の宴会」がひらかれ、「アラビア騎兵の芸当」も披露《ひろう》された……。タルタランに敬意を表して、補充原住民部隊が総出で、フード付きマントを日の光にひらめかせながら、銃の撃ち合いをやってみせる。撃ち合いが終わると、族長がやってきて、勘定書きをさし出す。これがアラビア式歓迎というやつだ。
ところで、ライオンはいっこうに出てこない。パリのポン=ヌフ橋にいるのとちっとも変わりはないのだ!
それでもタルタランはがっかりなどしない。南の奥地をめざして勇ましく進み、ひがな一日、潅木《かんぼく》の茂みをたたいて獲物を狩り出そうとする。小型のしゅろの茂みを騎兵銃の先で突っつきまわったり、やぶというやぶをガサ! ゴソ! さがしまわったり。そして毎晩、寝るまえの二、三時間はかならず待ちぶせをした……。だが骨折り損のくたびれもうけ! ライオンは姿を見せなかった。
ところがある晩、夕方の六時ごろ、一行が一面紫色のピスタキア・レンチスクスの林をとおっていたときのことだった。あたりの草むらのあちこちに、暑さにやられて動作が鈍くなった、太ったうずらがひょこひょことんでいた。と、そのとき、タルタラン・ド・タラスコンはなにかが聞こえてきたような気がした。――はるか遠くのほうから、とてもかすかに、風でとぎれとぎれになってはいたが――そうだ、タラスコンのミテーヌ動物園のテントの裏で、何回となく聞いたあのすばらしいほえ声だ。
最初のうち英雄は夢かと思った……。ところがしばらくすると、相変わらず遠くのほうからだが、さっきよりはっきりと、あのほえ声がまた聞こえてくるではないか。そして、今度は、あたり一帯のテント村から犬のほえ声も聞こえてくる。――恐怖におののいたラクダの背中のこぶはぶるぶる震えだし、かん詰の箱や武器箱をガタガタ鳴らしている。――
もう疑いの余地はない。ライオンだ……。急げ、急げ、待ちぶせするんだ。一分だってぐずぐずしてはいられない。
すぐそばに、古いマラブー(イスラム教の聖者の墓所)があった。白い丸屋根のついた墓で、入口の上の壁龕《へきがん》〔彫像などいろいろなものを置くために、建物の壁面にあけた窪み〕の中には故人の使った大きな黄色い靴が置かれている。壁にはずらりと妙ちきりんな奉納物がごたごたとぶるさがっていた。マントの切れっぱしとか、金の糸とか、赤毛の束とか……。タルタラン・ド・タラスコンは、この墓所でプリンスとラクダに待ってもらうことにして、ライオンを待ちぶせる場所をさがしにかかった。プリンス・グレゴリーはいっしょに行くと言ったが、タルタランはきっぱりと断った。どうしても、一対一でライオンと対決したかったのだ。それでも、彼はプリンスにどうか遠くへは行かないでくれとたのみ、用心のために、大切な身分証明書や札《さつ》のいっぱい入った大きな財布をプリンスにあずけた。ライオンに爪《つめ》で巻き上げられたりでもしたら一大事と思ったのだ。こうしておいて、英雄タルタランは待ちぶせの場所をさがしに出かけた。
マラブーから百歩ばかり行くと、水が枯れかかっている河のほとりに出た。夾竹桃《きょうちくとう》の茂みが夕暮れの薄いベールをかぶってゆれている。待ちぶせの場所はここにしよう。タルタランは型どおり、片膝《かたひざ》をついて、騎兵銃を手に握り、大きな猟刀を目の前の土手の砂地に勇ましくつっ立てた。
日が暮れてきた。あたりの景色がばら色から紫色になり、やがて藍色《あいいろ》に変わっていく……。下のほうを見ると、河原の小石のあいだに、すんだ水溜《みずた》まりが手鏡みたいにひかっている。野生の動物たちの水飲み場だ。あちら側の土手の斜面には白い小道がぼんやりと見えるが、あれは野獣たちが大きな足でピスタキア・レンチスクスの茂みの中につくった道だ。この不気味な斜面を見ていると、ぞっとしてくる。おまけに、アフリカの夜に特有のなんとも言えないざわめきが加わる。枝と枝がこすれ合ってキーキー鳴る音、獣がうろつきまわるひそやかな足音、ジャッカルの細く鋭いほえ声がしたかと思うと、上空百メートルか二百メートルの鶴の大群が、喉《のど》をかき切られる子供みたいな鳴き声をあげながら飛んでいく。こんな所にいたら、だれだって怖くてたまらなくなってしまうだろう。
タルタランも怖くなってきた。怖くてどうしようもない。かわいそうに、歯をガチガチ鳴らしている! さっき砂地につっ立てた猟刀の鍔《つば》に、彼の騎兵銃の銃身が当たって、カチカチとまるでカスタネットみたいな音をたてている……。仕方がないじゃないか! 調子の悪い晩だってあるさ。それに英雄の価値は一体どこにあるんだろう……。
そうだ! そのとおり、タルタランは怖かったのだ。しかも怖がりどおしだったのである。それでも一時間、いや二時間はもちこたえた。だが勇気というものにも限りがある……。突然、すぐそばの乾いた河床をなにかが歩く足音がして、小石が転がった。これを聞いて、タルタランはぎょっとしてとびあがった。暗やみに向かって、ズドン、ズドン二発あてずっぽうにやってから、マラブーめざして一目散に退却した。あの猟刀は砂地に突き刺されたまま、つっ立っていた。まるでヒュドラー〔ギリシア神話に出てくる頭が九つある巨大な怪物。ヘラクレスによって退治された〕退治の勇者が味わったいちばん恐ろしい恐怖を記念する十字架みたいだった。
「助けてくれ、≪プレインス≫……ライオンが出た!……」
だが、あたりはシーンと静まりかえっている。
「≪プレインス≫、≪プレインス≫、おいでですか?」
プリンスはいなかった。マラブーの白い壁には、月の光をあびて、あのラクダの、こぶのある奇妙な影だけが映っていた……。プリンス・グレゴリーは札《さつ》の入ったあの財布をさらって、どろんを決めこんだのだ……。このひと月というもの、プリンスはこうしたチャンスがくるのを待ちつづけていたのである……。
[#改ページ]
六 とうとう来たなっ!……
それはそれはひどいめにあった一夜が過ぎて、夜明けに目をさましたわが英雄は、プリンスはやっぱりわしの有り金を持って消えちまったんだ、金もあの男も、もうもどってきっこないんだ、としみじみわかったのだった。しかも自分は裏切られ、金をとられ、おまけに、発展途上のアルジェリアのど真ん中のこの白い小さな墓の中に、たった一人置き去りにされてしまったのだ。わしの持ち物は、一頭のひとこぶラクダと、ポケットの中のわずかな小銭だけだ。こんなことがわかって、はじめて、さすがのお人好しのタルタランも、これはなんだか変だぞ、と思ったのである。モンテネグロのプリンスを疑い、プリンスの友情を疑い、ライオン狩りの手柄を疑っているうちに、とうとうライオンがいるのかどうかさえも怪しく思うようになった。そして、この大人物はまるでゲッセマネの園のキリスト〔ユダに裏切られたイエス・キリストが最後の祈りをささげ、受難におもむいた場所〕みたいに、裏切られた悲しみの涙を流しはじめたのである。
さて、タルタランはあのマラブーの入口に腰をおろすと、両手で頭をかかえ、膝のあいだに騎兵銃をはさんで物思いに沈んでいた。そんな姿を、ラクダはじっと見守っている。と、そのときいきなり、向かいの茂みがぱっとひらき、ほんの十歩ぐらい先に、とてつもなく大きなライオンがにゅっと現れたものだから、タルタランはびっくりぎょうてん。おまけにライオンは頭を振りあげ、ものすごい声でほえたてながら、こちらのほうへやってくるではないか。その声のすさまじかったこと。なにしろ、安っぽい金ぴかの奉納物がびっしりとぶらさがっている墓の壁はもちろん、いや、壁龕《へきがん》に納められた聖人の靴までもがビリビリ震えるしまつだったのだ。
震えなかったのは、ただ一人、タルタランばかり。
「とうとう来たなっ!」彼はとびあがりながら叫び、銃の床尾を肩に当てると……。ダン!……ダーン! プスッ! プスッ! やったぞ……。ライオンは頭に銃弾を二発食らったのだ……。と、その一瞬、粉々になった脳みそだの、血しぶきだの、飛び散った赤茶色の毛だのが、アフリカの焼けつくような空をバックにして、ぱっと舞いあがった。身の毛もよだつような花火だ。やがて、この花火もすっかりおさまって、タルタランの目に映ったのは……怒り狂って、棍棒《こんぼう》を振りかざし、タルタランめがけて駆け寄ってくる黒人の大男が二人。あのミリアナーの黒人たちだ!
なんてこった! タルタランのたまがしとめたのは、なんと、モハメド大修道院に飼われていた、あのおとなしい目の悪いライオンだったのである。
危機一髪、マホメットも照覧《しょうらん》あれ! だがタルタランは、危ういところで命拾いをした。なにしろ、二人の黒人の僧は、かっとしてわけがわからなくなっていた。だから、もしキリスト教の神が救いの天使をよこしてくださらなかったら、タルタランはこの二人の手で、きっとずたずたにされていただろう。救いの天使というのは、オルレアンヴィル町の田園監視官だったが、その男がサーベルを抱えて、小道沿いにやってきたのである。
町の役人の円筒帽を見ると、とたんに黒人たちの怒りはおさまった。バッジをつけた監視官は、穏やかだが物々しい様子で事件の調書を作ると、ライオンの死骸をラクダの背に乗せるようにと言った。それから、告訴人の黒人たちにも、犯人ともどもついてくるように命じて、オルレアンヴィルへ向かった。一件は、この町の裁判所の書記課で審議されることになった。
なんと、だらだらと面倒な訴訟手続きだったろう!
タルタラン・ド・タラスコンがいままで旅して見てきたのは、いろいろな部族民の姿だったが、今度はこれとは別なアルジェリアにお目にかかったのだ。部族民のアルジェリアに負けず劣らず、妙ちきりんでおっかないアルジェリア、つまり、訴訟好きで屁理屈《へりくつ》ばかりこねている町方のアルジェリアだ。喫茶店の奥で悪事をたくらむいかがわしい裁判官たち、法律家くずれ、アブサンの匂いがぷんぷんする書類、ワイン入りのコーヒーでしみだらけの白いネクタイの連中、タルタランは、こんなものにお目にかかったのである。また、執行官とか弁護士とか代理人とかいうような、貪欲《どんよく》で、ぎすぎすしていて、公文書を食い荒らしてしまう連中にも、タルタランは出会った。やつらときたら、いなごが作物を食い荒らすみたいに、入植者たちを骨の髄までしゃぶり、あげくの果ては、とうもろこしの皮でもむくみたいに、一枚また一枚と身ぐるみをはぎとってしまうのだ……。
なによりもまず、ライオンが殺された場所が民間の土地か、軍用地かを見きわめなければならなかった。民間の土地での事件なら民事裁判になるし、軍用地での事件ならタルタランは軍法会議にかけられることになる。軍法会議と聞いただけでもう、感じやすいタルタランの頭には、城壁の下で銃殺される自分の姿や、土牢《つちろう》の奥にうずくまっている自分の姿が浮かんでくるのだった……。
めんどうなことに、アルジェリアでは、二つの所属地の境界線がてんではっきりしていないのだ……。あれこれ走りまわり、策をめぐらし、アラブのいろんなお役所の庭で、さんざん日にさらされて立ちん坊をしたあげく、一か月たってようやく判定が下りた。その判定によると、ライオンが殺されたのはたしかに軍用地だったが、タルタランが発砲したのは民間の土地ということだった。そんなわけで事件は民事裁判にかけられることになり、わが英雄は、訴訟費用のほかに二千五百フランの賠償金を支払うということで、無罪放免になった。
どうやってこんな大金を支払ったものだろうか? プリンスに掠奪《りゃくだつ》されずにすんだ二、三枚のピアストル貨は、とっくの昔に、手続きの書類や、裁判官どもにおごったアブサンに化けてしまっていた。
ライオン狩りのタルタランは、気の毒にも、武器箱に納めてあった騎兵銃を、一丁また一丁というぐあいに売り払わなければならなくなった。何本かあった短刀も、マライの短剣も、棍棒も、残らず売り払ってしまった……。かん詰めは、食料品屋に買い取ってもらった。残っていた絆創膏《ばんそうこう》は、薬屋が買いあげた。大きな長靴までが売りとばされることになり、小型テントにつづいて古道具屋に引き取られた。そして、この店で、南部ベトナムの骨董品と同じくらいの値がつけられた……。裁判の費用を残らず支払ってしまうと、タルタランの手元には、ライオンの毛皮とラクダだけしか残らなかった。毛皮は、ていねいに荷造りして、タラスコンの勇士ブラヴィダ少佐あてに送った(目の玉のとびでるような金を払わされたこの毛皮が、その後どうなったかは、まもなくお話しよう)。ラクダのほうは、アルジェへもどるのに使えるだろうと考えていた。背中に乗って行こうというのではない。売り払って乗合馬車の乗車賃にしようというわけだ。ラクダを使って旅をするには、これが一番|利口《りこう》な方法だ。ところが運の悪いことに、買い手がなかなかつかない。びた一文も払おうという者がいないのだ。
だがタルタランは、どうしてもアルジェに帰りたかった。もう一度、バイヤのあの青い胴着や、小さな家や噴水が見たくて矢もたてもたまらなかった。それに、フランスからの送金を待ちながら、バイヤの家の白いクローバ飾りのついたあの小さな回廊にもたれて、からだを休めたくもなっていたのである。そんなわけで、タルタランはぐずぐずしてはいなかった。なさけなかったが、それでも少しもへこたれず、なにしろ金が無いので、毎日少しずつ歩いて行くことにした。
こんなことになっても、ラクダはいっこうにタルタランを見捨てなかった。この変わりものの動物は、主人に対して妙な愛情を感じていたのだ。タルタランがオルレアンヴィルの町から出て行くのを見ると、ラクダは主人の歩調に合わせて、一歩だって遅れまいと、律儀千万な態度で、うしろからついてきたのである。
はじめは、タルタランも心を打たれた。なんて主人思いなんだろう、どんなめにあってもついてくるんだから。こう思って胸にじーんときたのである。けっこう役に立つし、おまけに餌《えさ》の心配もいらなかったのだから、なおさらのことだ。だが、二、三日もすると、タルタランは、この冴《さ》えない相棒がいつもあとをつけてくるので、うんざりしてきた。このラクダを見ていると、いままでの災難を一つ残らず思い出してしまうのだ。そのうち、いらいらも手伝って、ラクダのみじめったらしい様子や、背中のこぶや、間《ま》のぬけた歩きぶりまで、どれを見てもむかむかと腹がたつようになった。ひとことで言えば、ラクダがいやでいやで、どうしたら追っぱらえるか、そればかり考えていたのだ。ところが、このラクダがなかなかしぶといやつだった……。まこうとしたが、見つかってしまったし、走って逃げようともしたが、駆けっこでは、ラクダにかなうはずはなかった……。タルタランは石を投げつけて、「行っちまえ!」と、どなった。すると、ラクダはちょっと立ちどまって、悲しそうに彼の顔を見つめている。だが、それもほんのわずかのあいだで、すぐにまた歩きだし、やっぱりあとをついてくるのである。もうあきらめるより仕方がなかった。
それでも、こんなぐあいにまる一週間も歩きつづけたかいがあって、ほこりまみれになり疲れ果てたタルタランの目に、とうとう、はるかかなたの緑の木立ちの中にきらきら輝いているアルジェの町の白いテラスが見えてきたのである。やがて、町の入口にある門のあたりの、にぎやかなムスタファ通りにさしかかると、アルジェリア歩兵や、ビスクラ人や、マホン人の女たちが集まってきた。だれもかれも、ラクダを連れて歩いているタルタランの姿をじろじろながめている。今度という今度はタルタランも、もう我慢できなかった。「いやだ! いやだ!! そんなことできるもんか……。こんなやつを連れてアルジェに入るなんて、とてもできやせん!」と、タルタランは言った。タルタランは車の雑踏にまぎれこみ、それから急に野原のほうへそれると、そこにあった溝の中へとびこんだ!……
まもなく、頭の上の道を、心細そうに首を伸ばして、大股《おおまた》で走って行くラクダの姿が見えた。
こうして、ラクダから解放されてほっとしたタルタランは溝を出た。そして、彼がもっていたあの小さな庭の塀ぞいに走っている脇道をとおって、町に帰ったのである。
[#改ページ]
七 踏んだりけったり
ムーア風のあのなつかしい家にようやくたどり着いたものの、タルタランはぎょうてんして立ちどまった。日は暮れかかっていて、通りに人影はなかった。黒人のお手伝いが閉め忘れたのだろう、あけっ放しのゴシック様式の低い戸の向こうから、笑い声だの、グラスの鳴る音だの、ポンポンとシャンパンの栓を抜く音だのが聞こえてきたのだ。しかも、このどんちゃん騒ぎの中をひときわ高く、女のはずんだ、はっきりとした歌声まで聞こえてくる。
[#ここから1字下げ]
好きかい、きれいなマルコ、
花咲くサロンでおどるダンスが……
[#ここで字下げ終わり]
「こんにゃろう!」タルタランは血相を変えて、中庭へ駆けこんだ。
かわいそうに! タルタランの目に映ったのはなんてありさまだったろう……。小さな回廊の丸天井の下には酒びんや菓子が転がり、クッションはあちこちに飛び散り、パイプや太鼓やギターまでが散らばって、足の踏み場もない。バイヤはそのど真ん中に立ち、青い上着も胴着も脱ぎ、銀色の薄い布の半袖ブラウスに薄桃色のだぶだぶのズボンだけといった格好で、頭に海軍士官の帽子をまぶかにかぶり、「きれいなマルコ」(マルコ・ラ・ベル)をうたっている……。バイヤの足元のござの上では、恋もジャムももうたくさんといった様子のバルバスー、あの恥知らずのバルバスー船長が、バイヤの歌を聞きながら、腹の皮をよじって笑いころげていた。
げっそりやつれ果てほこりにまみれになったタルタランが、目をらんらんとさせ、あのアフリカ帽を逆立てんばかりにして姿を現すと、この結構なトルコ=マルセイユ風のどんちゃん騒ぎはぴたっとやんだ。バイヤは、グレーハウンドの雌がおびえたときみたいにキャッと叫ぶと、家の中に逃げこんだ。バルバスーのほうは、少しもとり乱さず、いっそう大きな声で笑うと、こう言った。
「やあ! やあ! これはこれは、タルタランのだんな。いかがですかな? これではっきりわかったでしょうが、あの娘《こ》がフランス語を知ってるってことがねえ!」
タルタラン・ド・タラスコンはかっとなってつめよった。
「船長!」
「鬼さんこちらって言《ゆ》うちゃりや!」ムーア女はこう叫ぶと、二階の廊下の手すりから身をのり出している。なんとも下品なしぐさだ。この言葉を聞いて、タルタランはびっくりぎょうてん。気の毒にも太鼓の上に、へたへたとすわりこんでしまった。いとしいムーア女は、なんとマルセイユなまりまで知っていたとは!
「だから言ったでしょうが、アルジェリア女には気をつけろとね!」と、バルバスー船長はもったいぶって言った。「あのモンテネグロのプリンスと似たようなもんでさあ……」
これを聞いたタルタランは、頭を上げて言った。
「プリンスがいま、どこにいるか知っとるのかね?」
「ああ! ここからすぐのところですよ。むこう五年間は、ムスタファのすてきなムショ暮らしですわい。あいつめ、現行犯で御用となったんですわ……。それに、豚箱《ぶたばこ》入りは今度がはじめてじゃないんでさあ。だんなのプリンスさまは、まえにも三年ばかり、どっかの中央刑務所に……そうだ! あれはたしかタラスコンだったぞ」
はっと気がついたタルタランは叫んだ……。「タラスコンだって!……それで、やつは町の片側しか知らなかったんだな……」
「まあ! そういうことでしょうな……。中央刑務所の窓からながめたタラスコン、とでもいったとこですかな……。まあまあ! だんな、お気の毒だが、こういう物騒な土地へ来たからには、よっく目ん玉をあけておらんことにゃ。でないと、とんでもないめにあいますぜ……。だんなが寺の時報係りにしてやられたって話にしてもねえ……」
「してやられたって? いったいどんなやつに?」
「そりゃもう! きまってまさあ!……向かいの時報係りですわ。ほら、バイヤに言いよっておった……。≪アクバール≫新聞がいつかこいつをすっぱ抜いたんで、いまだにアルジェ中の物笑いになってるんですぜ……。あの坊主、なかなか食えない野郎でね、塔のてっぺんからお祈りを唱えながら、だんなの鼻先であの娘《こ》を口説いてたわけで、アッラーの神の名を呼びながらデイトの約束をしてたんですよ……」
「そいじゃ、アルジェリアってのは、ごろつきばっかりおるとこだっていうのかい?……」と、あわれなタルタランはどなった。
「ねえ、だんな、新興国というのはですな……。こんなことはどうでもいい! さあ、わしの言うことを聞いて、すぐにタラスコンにお帰んなせえ」
「帰るって……。簡単に言うがね……。先立つものをどうしたらいいのかね?……あの砂漠で丸裸にされちまったのを知らなかったのかい?」
船長は笑って答えた。「ご心配ご無用!……ズワーヴ丸はあす出帆だ。よかったら、いっしょにお連れしますぜ……。どうですか、だんな?……よし、そうと決まったからにゃ。やるこたあ、もうこれだけですな。ほれ、シャンパンもまだ何本かあるし、パイ菓子も半分残ってるじゃないですか……。さあ、そこにすわった、すわった。もう恨みっこなしにしましょうや!……」
そこはやっぱり面子《めんつ》ってものがあるので、タルタランはちょっとためらってみせたが、それでも思いきりよく覚悟を決めた。そこで、腰をおろし、船長と乾杯した。カチッとグラスが鳴るのを聞いたバイヤは、二階からおりてきて、「きれいなマルコ」の終わりをうたった。そうして酒盛りは夜ふけまでつづいた。
明け方の三時ごろ、気のいいタルタランは、すっかり意気投合した船長を送ったその帰り道、ほろ酔い機嫌の千鳥足《ちどりあし》で、例のイスラム寺院の前をとおりかかった。まんまと、あの坊主に一杯食わされたかと思うと、おかしくてたまらない。と、そのとき急に、仕返しをしてやるうまい考えがひらめいた。寺院の扉はひらいていた。そこでタルタランは中に入り、ござを敷きつめた長い廊下をとおって上へ上へと登っていくと、しまいにトルコ風の小さな礼拝堂に出た。鉄板を切り抜いて作った角灯が、まわりの白壁に奇妙な影を写しながら天井で揺れている。
いたぞ。例の時報係りは頭に大きなターバンを巻いて白い毛皮つきコートをはおり、モスタガネムのパイプをふかしながら長椅子に腰かけている。信者たちに礼拝を告げる時間になるのを待ちながら、目の前の大きなコップについだ冷えたアブサンを、心をこめてかき混ぜている……。と、そこへ、タルタランが現れたので、どぎもを抜かれて、思わずパイプを落としてしまった。
胸にいちもつあるタルタランは言った。「坊主、声をたてるな……。はやく、お前のターバンとコートをこっちによこせ……」
トルコ人の時報係りは震えあがって、ターバンだろうとコートだろうと、言われるままにさし出した。タルタランは相手のよこしたものを着こんで奇妙きてれつな姿になると、塔のテラスへしずしずと出ていった。
見ると、遠くの海がきらきらひかっている。月明かりで家々の白い屋根が輝いている。潮風にのってこの夜ふけに、ギターの音《ね》が聞こえてくる。タラスコンのにせ坊主はしばらく黙想していたが、やがて両手を高くあげると、甲高《かんだか》い声でお祈りを唱えはじめた。
「ラー・アッラー・イル・アッラー……〔おそらくラー・イラー・イッラー・アッラー(アッラー以外に神はない)をまねて、こう述べたのであろう〕マホメットは老いぼれの道化役者……。東洋《オリエント》も、コーランも、役所も、ライオンどもも、ムーア女めも、みんなくたばっちまえ!……トロンコ人はもはやいない……。どっちを向いてもぺてん師ばっかりじゃ……。タラスコンばんざい!……」
名士タルタランが、四方の海や町や平原や山の果てまで届けと、アラブ語とプロヴァンスなまりをまぜたちんぷんかんぷんの言葉で、タラスコン風の愉快千万な呪《のろ》いの言葉をまくしたてると、別の寺院の僧侶たちが、すんだおごそかな声でこの呪いの言葉に答えた。その声は、塔から塔へとだんだん遠くへ伝わってゆき、これを聞きつけた山の手の遠く離れた信者たちは、心をこめてわが身の胸をたたくのだった。
[#改ページ]
八 タラスコン! タラスコン!
正午。ズワーヴ丸はエンジンがかかり、いよいよ出航というところだ。バランタン茶館の高いバルコニーでは、将校たちが望遠鏡をのぞいている。大佐を先頭に階級順にやってきては、フランス行きのあの幸せな小さい船をながめているのだ。参謀部の気晴らしといえば、こんなものである……。下に目をやると、停泊地がきらきら輝いている。波止場に沿って埋めこんであるトルコの古い大砲の砲尾が、日の光を受けて火を吹くようにぎらぎらひかる。船客たちがうようよひしめいている。ビスクラ人やマホン人たちが、ボートに荷物を積みこんでいる。
タルタラン・ド・タラスコンには荷物なんか一つもない。タルタランはバナナやスイカを山と積み上げた小さな市場をとおって、マリーヌ通りを下りてきた。連れは、すっかり友だちになったあのバルバスー船長である。かわいそうにタルタランは、あの武器箱も、ライオン狩りの夢も、みんなムーア人の国においてきたのだ。そしていま、空手でタラスコンに向けて出発しようとしているのである……。タルタランが船長用のボートにとび乗ったとたん、動物が一頭、広場のほうから、ハーハー息を切らせて転がるように駆けおりてくると、ものすごい勢いでタルタランめがけて突進してきた。ラクダだ。あの律儀者のラクダだ。この二十四時間というもの、アルジェの町で大事なご主人さまをさがしまわっていたのだった。
ラクダの姿を見ると、タルタランの顔色はさっと変わった。それでも知らん顔を決めこんだ。ところが、ラクダのほうはなかなかしつこい。波止場に沿ってぴょんぴょんとびはねたり、親愛なるタルタランに呼びかけ、いとおしそうに見つめたりする。その悲しそうな目は、まるでこう言ってでもいるようみたいだ。
「ぼくも連れてって。ボートにいっしょに乗せて遠くへ連れてって。いかさまなこのアラビアから、機関車や乗合馬車だらけのへんてこりんなこの東洋《オリエント》から、うーんと遠いところへね。ぼくみたいな用ずみのラクダは、こんなところにいたんじゃ、一体どうなることやら。あんたが最後のトルコ人なら、ぼくは最後のラクダなんだよ……。もう離ればなれになるのはよそうよ、ねえ、タルタランさん……」
「あのラクダ、だんなのかね?」と、船長がきいた。
「とんでもない!」と、タルタランは答えた。なにしろ、こんな妙ちきりんなお供を連れてタラスコンの町に帰るなんて、考えただけでも身の毛がよだつ。恥知らずにもタルタランは、さんざん苦しみを分かち合ったこの仲間を見すてて、アルジェの土をひと蹴《け》りすると、ボートは勢いよく岸を離れた……。ラクダは水の臭いをかぐと、首を伸ばし、関節をギシギシいわせた。それから、ボトのあとを追って死にもの狂いで海にとびこみ、ズワーヴ丸めざして、ボートといっしょに泳いでいった。背中のこぶは、ひょうたんみたいに波間に浮かんでいるし、長い首は、ガリー船の船首の衝角みたいに海面に突き出ている。
ボートとラクダは並んで、ズワーヴ丸の船腹にたどりついた。
大いに感激したバルバスー船長はこう言った。「やれやれ、ラクダのやつ、気の毒になあ! わしの船に乗せてやりたいが。マルセイユに着いたら、動物園に寄付してやりゃあいい」
乗組員たちは巻揚げ機や綱をたくさん使って、ずぶぬれになって重くなったラクダを甲板に引っぱりあげた。いよいよズワーヴ丸は出航した。
まる二日の船旅のあいだ、タルタランは一人っきりで船室に閉じこもっていた。海が荒れていたわけでも、アフリカ帽の容態がひどく悪かったわけでもない。あのいまいましいラクダのやつが、甲板にタルタランの姿を見つけようものなら、そばへ寄ってきては、おかしなご執心ぶりをみせつけたからだ……。ラクダが人間さまへの愛情をこんなに大っぴらに見せびらかすなんて、見たこともないだろう!……
タルタランがときどき船室の小さな丸窓から顔を出してみると、アルジェの青い空は遠くにだんだん色あせていく。そのうちに、とうとうある日の朝、銀色の朝もやの中にマルセイユの鐘がいっせいに鳴りひびくのを聞いて、タルタランはすっかりうれしくなった。到着したのだ……。ズワーヴ丸は錨《いかり》をおろした。
タルタランは荷物もなかったので、黙って船を降りた。ラクダのやつにあとをつけられていやしないかと、心配しいしいマルセイユの町を足早にとおりぬけた。タルタランがほっとひと息ついたのは、三等客車に腰を落ち着け、汽車が一路タラスコンに予定どおり向けて、走りだしたときである……。やれやれひと安心。だが、どっこい、そうは問屋がおろさなかった! マルセイユを出て、十キロも走らないうちに、どのドアにも黒山の人だかりができた。みんな大声をあげ、たまげている。タルタランものぞいてみると……一体なにが見えたと思う?……読者諸君、ラクダだ。逃げても逃げてもついてくる、あのラクダなのだ。クロー半島をつっ切って走る線路の上を、遅れをとってなるものかと、汽車のあとを追ってくる。タルタランはどぎもを抜かれて隅の座席にひっこむと、目をつぶった。
あんなみじめなライオン狩りの旅からは、タルタランはお忍びで帰るつもりだった。ところが、こんなやっかいな四つ足のお供を連れてとなると、ことは簡単にすみっこない。どんなお国帰りになることやら! まったく、なんてこった! 一文なしで、しとめたライオンもない。なんにもありゃしないのだ……。ラクダを一頭ひき連れてとは!……
「タラスコン!……タラスコン!……」
降りなくてはならない……。
びっくりぎょうてん! 英雄タルタランのアフリカ帽が客車のドアの近くに現れたとたん、「タルタランばんざい!」と大歓声があがって、駅のガラスの天井がビリビリ震えた。「タルタランばんざい! ライオン狩りの名手ばんざい!」ラッパをはなばなしく吹き鳴らし、男どもの大合唱がわき起こる……。タルタランは死ぬ思いだ。いやみたっぷりのごあいさつだ、と思った。ところが、そうじゃなかった! タラスコん中の人びとがつめかけてきて、手に手に帽子をうち振り、大歓迎なのである。あの勇士ブラヴィダ少佐の姿も見える。武器商のコストカルドも、裁判長も、薬屋の姿も目にとまった。帽子狩りのおえら方が、いっせいに、わっとリーダーのタルタランをとりかこむと、でかしたとばかり、肩車にのせながら階段を降りてゆく……。
蜃気楼《しんきろう》が実に不思議な結果をひき起こしたものである! ブラヴィダ少佐あてに送ったあの目の不自由なライオンの毛皮が、こんな大騒ぎをひき起こしたのだ。あのささやかな毛皮がクラブに展示されたものだから、タラスコンの町の人びとはおろか、南仏中がすっかり興奮してしまったのである。≪セマフォール≫新聞に記事がのった。芝居にまでなった。タルタランがしとめたライオンは一頭どころの騒ぎではない。十頭、いや二十頭、あんまり多くて、ライオンのつくだにでもできそうなくらいだ! こんなわけで、タルタランがマルセイユに上陸したころには、当の本人が知らないまに、すっかり時の人になっていたのだ。それに故郷のタラスコンの町には、タルタランが帰ってくる二時間もまえに、彼の帰還を知らせる一通の熱狂的な電報が届いていたのである。
だがすぐに、出迎えのみんなは、いっそう大喜びで湧《わ》き立つことになった。なにしろ、タルタランのうしろに、からだ中ほこりだらけ汗まみれという、へんてこな動物が姿を現して、駅の階段をぴょこぴょこ片足で降りてきたからである。タラスコンの人びとは、あの怪獣タラスクがまた出てきたのかと、はっとしたくらいだ。
タルタランはこう言って、みんなを安心させた。
「わしのラクダですよ」
タラスコンのお天道《てんと》さま、あのすばらしいお天道さまのせいで、タルタランはもう罪のない大風呂敷を広げたくなり、ラクダのこぶをなでなで、こう言いそえた。
「まことに立派な動物でしてな!……わしがライオンをしとめるのを、みんな見ておったんですよ」
こう言うと、タルタランはうれしそうにほおを赤らめ、親しげに少佐の腕を取った。ラクダをお供に従え、帽子狩りの連中にとり巻かれ、みんなの拍手かっさいを浴びながら、和やかな顔でバオバブの家に向かった。そして歩きながら、ライオン狩りの話をはじめた。
「まあ考えてみてくれよ。ある晩、サハラ砂漠の真ん中で……」(完)
[#改ページ]
解説
アルフォンス・ドーデのこと
〔暗い少年時代〕
『タルタラン・ド・タラスコンの大冒険』の作者アルフォンス・ドーデは『風車小屋だより』や『月曜物語』などの作品で日本でもしたしまれている。ドーデは一八四〇年五月十三日、南仏のニームで生まれた。父のヴァンサン・ドーデは絹織物の製造と販売を業としていたが、頑固で熱しやすいたちだった。母のアドリーヌは夢見がちな女性であったから、このような夫との結婚生活に満足できず、読書と信仰に慰めを求めていた。二人の間にはアルフォンスのほかに長兄アンリ(アルフォンスが十六歳のときに病死)、次兄エルネスト、妹アンナが生まれている。四人の子供のうちアンリは聖職の道を、エルネストとアルフォンスは文学の道を選んでいる。
ドーデの生まれたころのフランスは、一八三〇年の七月革命を経て貴族社会が崩壊し、ブルジョワ中心の産業革命の時代に移行していた。貴族の没落によって、絹製品の需要が低下したこと、機械の発達によって羊毛製品が安く出回り始めたこと、それに一八四八年の二月革命の影響など様々な理由が重なって、絹織物産業は大きな打撃を受けた。ドーデの父の工場も例外ではなかった。父は、一八四九年四月にニームの工場を売り、事業建て直しのため家族とともにリヨンに赴いた。家業はあいかわらず不振で、両親は子供たちに注意をはらうゆとりがなくなり、家庭は暗いものになった。ドーデは家庭にも学校にも満足できず、外にはけ口を求めた。授業をさぼってボート遊びに夢中になり、こっそり隠れてアルコールを飲んだ。
だが、こうした生活にもかかわらず、学校ではなかなか良い成績をあげている。とくに文学では群を抜いていた。また母の影響もあって、彼の胸の中にはすでに文学への憧れが芽生えていた。兄のエルネストといっしょにユゴー、シェイクスピアなどを手あたり次第に読みあさる一方、詩や小説を書いては、リヨンの新聞に投稿している。一八五七年には、工場はとうとう破産し、ドーデ一家は離散の運命をたどらなければならなかった。大学進学をあきらめたドーデは、高等中学校の自習監督としてニーム西北の町アレスに赴任。父はワイン卸売商のセールスマンになった。母と妹はニームの親戚に、次兄エルネストは職を求めてパリへとそれぞれ発っていった。
〔ちび〕
このアレスでの生活は後に出版された小説|『ちび』(プチ・ショーズ)の前編の中にうかがうことができる。純情で夢見がちな若い教師「ちび」は、生徒たちには無視され、同僚にはあざむかれて学校を追放されることになり、自殺寸前にまで追いつめられる。当時のドーデが経験した苦しみだったのだろう。南仏に生まれたことと、幼いころから味わった貧乏の苦労、この二つは後のドーデに大きな影響を与えている。
『タルタラン・ド・タラスコンの大冒険』の中にも見られるように、すべてを誇張して考え夢と現実の区別がつかなくなってしまうこと、どんなまじめなことでも茶化してしまう冗談《ガレジャード》、こうした南仏人の特徴がドーデの作品のどれにも明瞭にみとめられる。これと並んで目につくのは、まずしい人びとに対する思いやりである。ドーデはその出世作『二代目フロモンとリスレール兄』以後、好んでパリの下層のびとを題材として選ぶようになるが、その描き方には、温かい理解と同情がこもっている。こうした態度は、おそらく若いころに自分が経験した貧乏の苦しみから生まれたのであろう。
〔パリに出る〕
貧しいみじめな生活を送りながらも、ドーデは胸の中に文学への夢をはぐくんでいった。作家への第一歩をはっきりと踏み出したのは一八五七年のことだった。アレスでの生活にたえきれず、わずか六か月で自習監督の職を追われて、逃げるようにパリに出たのである。有り金のほとんどを旅費につかいはたし、二日間飲まず食わず、ぼろ外套にくるまってふるえながらパリに到着したこの弟は、次兄エルネストから温かく迎えられた。モデルのマリー・リューと知り合い、一時同棲生活をおくったのもこのころである。ドーデは後年、当時の生活をもとにして小説『サフォ』を書いているが、パリ風俗やドーデの青春をうかがうことができる作品である。
パリに出た翌年、ドーデは『恋する女たち』という詩集を出版した。この処女詩集は文壇の好評を博した。ドーデはこの前後から方々の文芸サロンや社交界に出入りするようになり、また一方、|気ままな貧しい文士《ボヘミヤン》たちに強くひかれ、彼らとともにかなり乱れた生活を送ったらしい。
一八六〇年にドーデは思わぬ幸運に恵まれた。法制局局長を務めていたモルニー公爵(当時伯爵)の秘書に採用されたのである。モルニー公爵は自分でも劇作するほどの文学好きだった。理解ある雇主と経済的に安定した地位、文学に打ちこもうとするドーデにとっては願ってもない境遇だった。
生活の安定したドーデは、やはりモルニー公爵の秘書を務めていたエルネスト・レピーヌとの共作『最後の偶像』を書いたが、この戯曲は一八六二年二月に上演されて好評を博した。ドーデのアルジェリア旅行中のことである。ドーデは乱れた生活がもとで病にかかり、医者から転地療養を命じられたのである。この時、同行したのが、タルタランのモデルとなったいとこのレーノーである。このはじめての外国旅行は彼の心に強い印象を残した。『タルタラン・ド・タラスコンの大冒険』をはじめ、短編集『月曜物語』『風車小屋だより』の中に含まれるいくつかの物語には、アルジェリアで受けた印象がみごとに再現されている。
〔結婚〕
一八六七年には、ドーデの生活に大きな変化が起きた。実業家の娘ジュリア・アラールと知り合って結婚したのである。ジュリアは夢見がちで情熱的な女性で、生涯夫に献身的に仕えた。また文学好きな両親のもとで育ったため詩作の心得もあり、十八歳のころから雑誌に詩を寄稿していたという。ドーデは妻の才能を高く評価し、彼女からいろいろ制作上の助言を得たらしい。二人の間にはレオン、リュシアン、エドメの二男一女が生まれたが、長男レオンは長じてのち、作家、政治家としてめざましい活躍をしている。レオンの書いた『父の生きていたころ』、次男リュシアンの『アルフォンス・ドーデの生涯』、それにドーデ夫人の『ある文学グループの思い出』などを読むと、ドーデの家庭での姿がうかがえて興味深い。
こうしてすばらしい伴侶を得ることのできたドーデは、生活が落ち着いて、ますます文学に打ちこむようになり、『ちび』『風車小屋だより』『タルタラン・ド・タラスコンの大冒険』などを次々に発表した。だが、今日では傑作と認められているこのような作品も、発表当時は大した評価を得ることができなかったのである。
〔文壇での成功〕
ドーデが本当に認められるようになったのは、一八七四年に刊行した小説『二代目フロモンとリスレール兄』が成功してからのことである。この作品は発表と同時に大評判となり、一八七六年にはアカデミー・フランセーズ賞を受賞している。この作品が成功した理由の一つとしては、ドーデの作風の変化ということがあげられよう。これよりさき、一八七〇年から七一年にかけて起こった普仏戦争とその結果は、フランス国民に大きな衝撃を与えた。ドーデはこの戦争からも、またこれと同時に起こったパリ=コミューンからも、少なからぬ影響を受けている。
それまでどちらかというと短編や随筆の形で故郷南仏を描くことの多かったドーデが、パリの実生活をテーマに選んで長編を書くようになったのも、一つにはこういった影響によるものであろう。彼はまたこれ以後、当時流行していた自然主義的手法を駆使するようにもなる。出世作『二代目フロモンとリスレール兄』はこういった作品の第一作であった。
ドーデは後年、パリに出てきてからの三十年間を振り返りながら、回想録ともいえる随筆集『パリの三十年』を書いているが、彼はその中で『二代目フロモンとリスレール兄』について述べながら≪「自然にならっての描写」以外の方法をとったことはない≫と記している。こうした描写を作者に提供したのは有名な雑記長である。ドーデはどこへ行くにもこの帳面を持ち歩き、会った人びとや訪れた場所の印象を細々《こまごま》と書きためておいた。これはまったく自然主義の制作法だが、事実ドーデは以前からエドモン・ド・ゴンクール、フロベールなどと交際があり、後にはまたゾラと親交を結んでいる。
文壇での地位を確立したドーデは『ジャック』『ナバブ』『ニュマ・ルーメスタン』等、自然主義的傾向の強い長編小説を続々と発表していった。作家として最も充実した幸福な時期であった。
〔病苦との闘い〕
ところが、四十歳を過ぎたころからドーデは病苦に見舞われるようになった。ひどい神経痛に悩まされたのである。青年時代からむしばまれていた病気のためともいわれているが、脊髄を冒され、一八八四年には体の自由がきかなくなってしまった。度々おそう肉体的苦痛を忘れようとして、ドーデはひたすら創作に打ちこんだ。このころの作品のテーマは実に多岐にわたっている。宗教界の模様を扱った小説『伝導者』、すでに述べたように当時の風俗を描いた『サフォ』、それにタルタランの物語の続編『アルプスのタルタラン』『タラスコン港』などである。こうした作品のどれをとっても、作者の胸をみたした、愚かな人間性への哀れみが感じられるが、このような同情の念は、おそらく作者が味わった病苦の中から生まれ出たのであろう。
晩年のドーデの姿には心を打つものがある。不治の病に苦しめられ、モルヒネを打って度々おそう激痛をおさえる。こうした生活を送りながらも、まわりの人びとに対するドーデの明るさはまったく変わらなかったという。彼は、パリ郊外のシャンロゼーの自宅に若い作家たちを出入りさせて夫人ともども文学的助言を与えたりしている。こうした作家の中には、メーテルリンク、ポール・クローデル、マルセル・プルーストなどつぎの時代を担う人びとがいたのである。しかし、生きる努力を捨てなかったドーデにも ついに死がおとずれた。一八九七年十二月十六日、彼はシャンロゼーの自宅で夕食中に発作を起こして倒れた。実に十年以上にわたる病苦との闘いではあったが、愛情深い妻や子供たち、また親しい友人にかこまれた幸福な晩年でもあった。
〔一歩はなれた自然主義〕
ドーデが活躍した十九世紀後半は、写実主義や自然主義の華やかな時代だった。フロベール、ゴンクール兄弟、ゾラ、モーパッサンといった作家たちが代表するこの文芸思潮は、一体どのようなものだったのだろうか?
一言で言えば、科学的態度を文学に取り入れ、物事を客観的に見て、ありのままの事実を書こうとした主張であった。いきおい彼らの目は社会や人間のみじめさに向けられることになり、人間社会の醜さが作品に表現された。ドーデは、フロベールやゾラとの親交から大きな影響を受けた。彼は、さきにも述べたように、写実主義的な方法しか用いないことを明言しているし、ゾラはドーデの小説『ナバブ』を自然主義の小説として紹介している。
しかし、ゾラがその後指摘したように、自然主義作家と認めるには、ドーデはあまりに余分なものがありすぎた。豊かな想像力、南仏人独特のユーモアと皮肉、貧しい人びとに対する理解と同情、そしてすべての作品にあふれる詩情。どれをとってもゾラの主張する自然主義とは相容れないものであった。これはむしろイギリスの作家ディケンズに通じるもので、事実、弱い者に対する温かい目、作品全体に流れるユーモアの点で、彼はしばしばディケンズに比較されている。
要するに、ドーデは自然主義を基調としながらも、生まれながらにもっていたユーモアや優しい心、詩情や空想といった特性のために、自然主義から一歩はなれたところにいた作家だと言えよう。そしてドーデの作品が読む者の心をひきつけるとすれば、それは一つにはこうした特性によるものなのである。
[#改ページ]
タルタランをめぐって
〔実在した主人公〕
「ドン・キホーテがいるからといって、フランス人はスペイン人をうらやむことはない。フランスにはタルタランがいるのだから」スペイン人でナポレオン三世の皇后になったウジェニーはこのように述べたと言われている。これはドーデにとって、何よりもうれしい言葉ではないだろうか?
ドーデが創造した主人公タルタランは、南仏人の特徴を最もみごとに表したと言われている。ところで、こうした人物をドーデはいったい、どんなきっかけから生み出したのだろうか?
ドーデの死後かなりたってからのことだが、あるインタビューの席でドーデ夫人はつぎのように述べている。≪タルタランという人は、ほんとうにいたのです……。夫の知り合いで、いっしょにアルジェリアに行きました≫当時のアルジェの≪アクバール≫新聞をみると、一八六一年十二月二十一日に入港したズワーヴ丸の乗客名簿の中に、ドーデの名前と並んでアンリ・レーノーという名前が目につく。そして、このアンリ・レーノーこそ、ドーデ夫人が実在しているといった人物であり、これがタルタランのモデルになったのである。
レーノーはドーデの母方のいとこで、ドーデの故郷ニームの近くの小村モンフランに住んでいた。ドーデの兄エルネストはこのいとこを「オリンポス山から落っこちたユピテル」みたいな男だと言っているが、まことにそのとおりで、レーノーは片田舎で玉ねぎやチューリップの栽培業をやりながらも、夢だけは空高く舞いあがるといった奇抜な生活を送っていたらしい。結婚生活に満足できなかったこともあって、彼は冒険小説に熱中し、フェニモア・クーパー、ギュスターヴ・エマール、それにジュール・ジェラールのアフリカでの狩猟の本にいたるまで、次から次へと読みつくしている。
そればかりではなく、彼は世界各地の武器を収集したり、狩猟に夢中になったりしていた。銃の腕前はなかなかなもので、はるかかなたの木にとまっている雀を一発でしとめたし、また自分の靴の先にとめたピンをピストルで撃ち落とすこともできたという。こんなレーノーにとって、人口千五百人の小さな村の生活が、やりきれないものであったのは当然である。彼はこの村で死ぬほど退屈していたのだ。要するに、この物語の冒頭に述べられたタルタランに生きうつしの人間だったのである。
しかし、ついに彼の冒険熱を満足させるときがきた。いとこのドーデが医者の勧告を受けてアルジェリア旅行に発つことになったのだ。レーノーはいとことつれだって、アフリカへライオン狩りに行く覚悟をきめた。珍妙なライオン狩りの二人旅が始まるのである。アフリカになどまだ行ったこともないくせに本で得た知識ばかり豊かなレーノー。銃など撃ったこともなく、ひどい近視のうえに病人のドーデ。ところで、ドーデの近視はかなり強度のものであったらしい。ある晩、タバコに火をつけたくなった彼は、タバコ屋のガス灯とまちがえて、あかりをつけた乗合馬車の後ろをどこまでも追いかけて行ったなどという話もある。またあるときなどは、毛皮のコートを着て植物園の手入れをしていた人を、どうまちがえたのか、放し飼いの熊と思いこみ、餌を見せて「熊公、木に登ってみせろよ!」と言ったという。
〔アルジェリアへの二人旅〕
一八六一年十二月十九日、二人はアルジェリアへ向けて出発した。話に聞く東洋《オリエント》、本で読んだライオン狩りの国、二人の南仏男の胸の中で東洋《オリエント》への夢はいやがうえにもふくれあがっていたにちがいない。
二人は期待に胸をふくらませて上陸したアルジェリアからどんな印象を受けただろうか?
人並みすぐれて感受性の強いドーデのことである。焼けつくような済みきった世界、異郷のにおいのたちこめる市場、強い調子の色を並べたパレットのような空、どの光景もこの青年を酔わせるのに充分だった。
その上、モルニー公の秘書の肩書きとアラブ庁への紹介のおかげで、ドーデはアルジェリアの高官たちと親交を結び、アラビア風俗を間近に見る機会を得たのである。「ミリアナーにて」(『風車小屋だより』)「八月十五日の叙勲者」(『月曜物語』)「最初の戯曲」(『パリの三十年』)などの作品には、青年ドーデがアルジェリアで受けた印象が詩情豊かに描かれている。
〔夢は破れる〕
だがこうして大きな感激を味わう一方、ドーデはそれまでに抱いていた夢が無残にも破れるのを認めないわけにはいかなかった。フランスの植民地となったアルジェでドーデたちが見たものは、五階建ての家、客たちが北フランスのビールを飲んでいる飲食店、舗装した道路に流れるオッフェンバックのポルカ。どこにでも見られるヨーロッパの田舎町といった光景だったのである。「東洋《オリエント》、東洋《オリエント》って、一体全体、なにが東洋《オリエント》なんだろう?」この作品の中のタルタランの言葉はそのままドーデの感想だったにちがいない。
おまけにライオンなど一頭も見当たらない。もっともこれは当たりまえといえば当たりまえの話で、地図をご覧いただければおわかりのように、二人の歩きまわった範囲はごく狭いのである。アルジェ、ブリダ、ミリアナー、一番遠いオルレアンヴィルでさえ、アルジェから百九十キロしか離れていない。二人とも近代化の進んだ地方ばかりを歩いたのである。そのうえ、アフリカでの狩猟の専門家ジュール・ジェラールは、その著書『ライオン狩り』の中でわざわざ冬期は猟に適さないと断っている。ドーデたちのアルジェリア滞在は一八六一年十二月から翌年二月までの二か月あまりだから、ライオンめ、なぜ姿を現さんのだ、などと憤慨したところで、所詮むりな話だったのだろう。
〔シャパタン、バルバラン、タルタラン〕
しかし、いたるところでぶつかったこうした夢と現実のくい違いは、ドーデの鋭い感受性を刺激して、タルタランの物語の原型となった短編『ライオン狩りのシャパタン』を生み出した。この作品は銃の名人シャパタンが、ちょっと見栄をはったばかりにアフリカへライオン狩りに出かける羽目に陥るという、『タルタランの大冒険』とほぼ同じ筋をもっている。しかし、ライオン狩りだけに焦点を置いたごく短い作品で、主人公の性格描写は、まことにおそまつである。この短編はアルジェリアから帰国した一年後に発表されたが、なんら世人の注意をひかなかった。
この物語が現在の形をとったのはそれから六年後の一八六九年のことである。ドーデは主人公の名をバルバランと改め、物語を書き直して≪プチ・モニトゥール・ユニヴェルセル≫新聞に発表した。しかし、途中でこの物語を≪フィガロ≫新聞に移さなければならなくなり、そのうえ実際にタラスコンの町に住んでいたバルバラン家から抗議を受けて、主人公の名前をまた変えなければならなくなった。
結局、この物語は『タルタラン・ド・タラスコンの大冒険』という題に落ち着き、一八七二年に一本にまとめて出版されている。
出版後この作品を読んだフロベールは、「イスラム寺院の尖塔で東洋《オリエント》全体にののしり声を浴びせかけるタルタランの思いつきはすばらしい」と言って賞賛した。またその後、アナトール・フランスも同じ場面をほめて好意的意見を発表している。画家のゴッホは弟への手紙の中で、おんぼろ馬車がタルタランに愚痴をこぼす場面はまことに愉快だと述べて、この馬車の絵を描いている。だが、この作品は一般の読者の評価を得ることはできなかった。ほんとうに見直されるようになったのは『二代目フロモンとリスレール兄』の成功の後であるが、以後今日にいたるまで、ドーデの代表作の一つに数えられている。
『タルタラン・ド・タラスコンの大冒険』の魅力、それは、なんと言っても全編にあふれるユーモアである。陽気で話し上手なドーデの特質を生かしたぴちぴちした文体、次から次へと休みなく起こる滑稽な事件、読者は吹き出しながらも思わず最後まで読み進んでしまう。
〔二人のタルタラン〕
ところで、もしドーデがレーノーをモデルにして、その滑稽な姿を誇張するだけだとしたら、こうした生き生きとした面白さは生まれなかっただろう。最初に発表した短編『ライオン狩りのシャパタン』の失敗がそれを物語っている。この短編とは違って、タルタランの物語では、主人公の姿の中に著者自身の姿が見え隠れしているのであり、それがこの物語の文学的価値を高めているのである。
「二人のタルタラン」の章を思い出していただきたい。ある神父の言っている「私の中には二人の人間が住んでいるような気がする」という言葉、これはそのままドーデにあてはまる言葉である。英雄的野心に興奮し、やれ栄光だ、短剣だ、斧だとわめきたてるタルタラン=キホーテと、キホーテがわめけばわめくほど冷静になって、下着やココアがほしいと思う臆病なタルタラン=サンチョ、この二人が同居していたのはタルタランの中ばかりではなかったのである。プロヴァンスの詩人で、ドーデの若いころからの友人ミストラルは、ドーデという男は「幻滅と錯覚、老人の疑いぶかさと幼児の信じやすさとを同時にもった人間だ」と語っている。
ドーデ自身も早くからこうした自分の性格に気づいていたらしい。死後、出版された随筆集『人生ノート』の中に、彼は十四歳ごろからすでに自分の二重生活に気づいていたと記している。そしてドーデは、こうした自分の姿を忠実に面白おかしくタルタランの中に映し出しているのである。
タルタランの中に映し出されたドーデの性格はこれだけではない。勇ましくライオン狩りに出かけたタルタランは東洋《オリエント》の美しい瞳に出会うと、たちまちライオン狩りを忘れてしまう。美しいムーアの女バイヤの物語には、若いころ、女性の誘惑に弱かったドーデ自身の姿が映し出されているのである。この話をそれ以前に書かれた小説『ちび』の一章「イルマ・ボレル」と比べてみると面白い。「ちび」つまり作者のドーデはイルマ・ボレルという女優を相手に恋に悩み、まったく愛欲のとりこになってしまう。これに対して『タルタラン』では、作者はバイヤの物語を一歩離れたところから、揶揄《やゆ》的な調子もまじえた心の余裕を描いているのである。
こうした心の余裕はいったい何によるものであろうか? さまざまな理由が考えられるが、これは主としてドーデの家庭生活によるものと思われる。タルタランの物語が書かれた一八六九年ごろには、すでに愛人マリー・リューとも手を切って、ドーデは幸福な結婚生活に浸っていた。そのためにこうしたゆとりが生まれていたのであろう。
ドーデはまたタルタランに、とどまることを知らない想像力と、現実を見失わせてしまうおしゃべり癖とを与えている。これもまた南仏人ドーデがもっていた性格なのである。
〔二つの続編〕
ドーデはこのタルタランの物語が気に入ったと見え、二つの続編『アルプスのタルタラン』と『タラスコン港』を発表している。一八八五年に発表された『アルプスのタルタラン』は『タルタラン・ド・タラスコンの大冒険』のアルプス版と言ってもよく、ユングフラウとモンブラン登山がライオン狩りにとって代わっているだけである。ところが一八九〇年刊行の『タラスコン港』では様子がかなり変わっている。ペテンにかかったタルタランは、タラスコンの町の人びとを説得して、南海の孤島に地上の楽園、タラスコン港を建設しようとする。しかし、町ぐるみで移住したこの島は人の住めるところではなかった。信用を失ったタルタランは帰国後、タラスコンの対岸の町ボーケールへ去り、やがて淋しく死ぬ。栄光とタラスコンの町を失ったタルタランは、もはや生き続けることはできなかったのだ。
この『タラスコン港』が刊行されたのはドーデの死の七年前のことである。タルタランの死が意味していたのは何だったのだろうか? 明るい態度で病苦と闘っていたドーデも、いつ果てるとも知れない闘いに倦《う》み疲れ、暗い思いにとらわれたのであろうか?
それに対して、ドーデがまだ若々しく希望に燃えていた時代に書かれたこの『タルタラン・ド・タラスコンの大冒険』にあふれる笑いは明るい。そしてこの笑い、ドーデの言う冗談《ガレジャード》はフランス文学はもとより、西欧のどの国の文学にも珍しいものと言ってよいだろう。イギリスのドーデ研究家マリ・サックスは、こうした点でドーデは西洋文学史上、ユニークな存在であると述べている。(辻昶)
[#改ページ]
年譜
一八四〇 五月十三日、南仏の古都ニームに生まれる。父ヴァンサンは絹織物の製造と販売に従事。母アドリーヌは読書好き。父母のあいだには長兄アンリ(八歳)、次兄エルネスト(二歳)がすでに生まれている。
一八四八(八歳)妹アンナ誕生。二月革命の影響などで父の事業悪化。
一八四九(九歳)事業を再興するため、父は家族を連れてリヨンへ移転。
一八五〇(十歳)このころリヨンの高等中学校に入学。
一八五四(十四歳)詩や小説を書きはじめて、新聞に投稿する。
一八五六(十六歳)八月、長兄アンリ病死。一八五七(十七歳)父の事業倒産。大学入学をあきらめ、五月、アレスにある高等中学校の自習監督として赴任する。十一月一日、兄エルネストを頼ってパリに出る。のちに同棲するモデルのマリー・リューと知り合う。
一八五八(十八歳)七月、処女詩集『恋する女たち』刊行。
一八五九(十九歳)南仏の詩人ミストラルと知り合う。
一八六〇(二十歳)法制局長モルニー公爵(当時伯爵)の秘書になる。健康を害しはじめる。
一八六一(二十一歳)十二月、医師の命令でアルジェリアに転地療養。いとこのアンリ・レーノー、ライオン狩りを夢みて、同行。
一八六二(二十二歳)二月、戯曲『最後の偶像』(共作)オデオン座で上演。二月末上演の成功を知ってアルジェリアから帰国。秋、コルシカ島などへ転地療養。
一八六三(二十三歳)六月、小説『ライオン狩りのシャパタン』を≪フィガロ≫新聞に連載。七月、戯曲『不在者』刊行。十二月、南仏で療養。
一八六五(二十五歳)三月、モルニー公爵が死去したので、秘書の職を辞す。四月、戯曲 『白いカーネーション』(共作)フランス座で上演。
一八六六(二十六歳)一月〜三月、『風車小屋だより』と『|ちび《プチ・ショーズ》』の原稿に没頭して、南仏のジョンキエール村にこもる。
一八六七(二十七歳)一月二十九日、ジュリア・アラール嬢(二十歳)と結婚。十一月、長男レオン誕生。十二月、戯曲『兄』ヴォードヴィル座で上演。
一八六八(二十八歳)二月、小説『ちび』刊行。
一八六九(二十九歳)一月、マリー・リュー死亡。短編集『風車小屋だより』刊行。十二月、小説『バルバラン・ド・タラスコン』の第一部を≪プチ・モニトゥール・ユニヴェルセル≫新聞に連載。
一八七〇(三十歳)『バルバラン・ド・タラスコン』の残りの二部を≪フィガロ≫新聞に連載。八月、レジヨン・ドヌール五等勲章を受ける。プロイセン軍のパリ包囲はじまり、ドーデは、国民軍に志願。
一八七一(三十一歳)短編集『ある不在者へのたより』刊行。四月、共和政下のパリを脱出。
一八七二(三十二歳)二月、小説『タルタラン・ド・タラスコンの大冒険』刊行。十月、戯曲『アルルの女』ヴォードヴィル座で上演。
一八七三(三十三歳)三月、短編集『月曜物語』刊行。
一八七四(三十四歳)三月、『二代目フロモンとリスレール兄』刊行。このころからフロベール家で自然主義作家を集めた晩さん会がはじまり、ドーデも出入りする。小説『芸術家の妻』刊行。
一八七五(三十五歳)三月、父ヴァンサン死亡。
一八七六(三十六歳)小説『ジャック』刊行。九月、戯曲『二代目フロモンとリスレール兄』アカデミー・フランセーズ賞を受賞。
一八七七(三十七歳)十一月、小説『ナバブ』刊行。
一八七九(三十九歳)小説『亡命の王たち』刊行。この年、喀血する。
一八八〇(四十歳)戯曲『ナバブ』ヴォードヴィル座で上演。
一八八一(四十一歳)十二月、小説『ニュマ・ルーメスタン』刊行。
一八八二(四十二歳)母アドリーヌ死亡。
一八八三(四十三歳)小説『伝道者』刊行。次男リュシヤン誕生。
一八八四(四十四歳)小説『サフォ』刊行。スイス旅行。脊髄癆《せきずいろう》の兆候があらわれる。
一八八五(四十五歳)小説『アルプスのタルタラン』刊行。
一八八六(四十六歳)長女エドメ誕生。南仏で療養。
一八八七(四十七歳)病状が悪化し、不治の病であることを知る。
一八八八(四十八歳)随筆集『パリの三十年』『ある文士の思い出』刊行。
一八八九(四十九歳)十月、戯曲『生きるための闘い』ジムナーズ座で上演。
一八九〇(五十歳)小説『タラスコン港』刊行。十二月、戯曲『障害』ジムナーズ座で上演。
一八九一(五十一歳)長男レオン、ヴィクトル・ユゴーの孫娘ジャンヌと結婚。
一八九二(五十二歳)二月、戯曲『嘘つき女』(共作)ジムナーズ座で上演。
一八九五(五十五歳)小説『小教区』刊行。イギリスへ旅行。
一八九六(五十六歳)アカデミー・ゴンクールを設立するための発起人になる。
一八九七(五十七歳)最後の小説『家の柱』を書きあげる。十二月十六日、パリ郊外シャンロゼーの自宅で急死。
一八九八 小説『家の柱』刊行。
一八九九 ドーデ夫人、ドーデの手帳をまとめて随筆集『人生ノート』刊行。
一九二九 フランス書店から〈決定版全集〉刊行(〜三十一)
一九四五 随筆集『パリの四十年』刊行。
[#改ページ]
訳者あとがき
アルフォンス・ドーデは、解説にも記したように、わが国では『風車小屋だより』『月曜物語』などの作者として知られている。数年前、私も他の出版社から『風車小屋だより』を刊行する機会を得たが、今回『タルタラン・ド・タラスコンの大冒険』を訳出してみて、やはり前記の二作に匹敵する立派な作品であると思った。ドーデは単にこうした読物の作家であったばかりでなく、人間の苦しみに温かい涙をそそぐ自然主義作家でもあった。故渡辺一夫先生は、ドーデが実に人間的な作家であり、もっと紹介されねばならない、と述べておられる。
非力ではあるが、私は私なりの力をつくして、この翻訳を試みた。諸版の異同を調べ、また不明な個所はフランス本国に問い合わせた。この点で、在パリの稲垣直樹君からはまことにありがたい御協力をいただいた。同君から送られた膨大な資料を前にして、ただ感謝を覚えるだけである。また、私は白百合女子大学児童文学会の皆さんにもいろいろお助けいただいた。中央公論社刊「世界の文学」(一三)所収の萩原弥彦、加藤林太郎両氏のドーデの訳業並びに解説にも大変おせわになった。以上の方々に深くお礼申しあげる次第である。
なお、翻訳にはフランス書店刊行のドーデ〈決定版全集〉第四巻(一九三〇)を底本として使い、ダンチュ=シャルパンチエ版、マルポン=フラマリヨン版、ガルニエ版等を参照した。
一九八〇年二月
以上は一九八〇年刊行の旺文社文庫に載せたあとがきである。今回、大和田伸氏のご好意により、庄司和子氏と共訳して、グーテンベルク二十一社から出すことになり、色々と見直すところがあった。先にあげた参考書の他に、一九九五年版の単行本リーヴル・ド・ポッシュをも併用したことを申し上げておく。
一九九八年五月 (辻昶)
〔訳者紹介〕
辻昶(つじ・とおる)
東京教育大学名誉教授、白百合女子大学教授。一九一六年東京生まれ、東大仏文卒。ヴィクトル・ユゴーを研究する一方、フランス児童文学の紹介につとめる。著書『ヴィクトル・ユゴーの生涯』など。訳書『九十三年』『ノートル=ダム・ド・パリ』(共訳)『レ・ミゼラブル』『東方詩集』(以上ユゴー)『アタラ・ルネ』(シャトーブリアン)『にんじん』(ルナール)など多数。
庄司和子(しょうじ・かずこ)
横浜市に生まれる。上智大学外国語学部フランス語学科卒業。ソルボンヌ大学留学。横浜雙葉学園フランス語講師を勤めた。訳書に『赤ちゃんになった天才博士』(旺文社)『かえるのフリップとフラップ』(電波新聞社)『きつねのパンクラス』(電波新聞社)など。