月曜物語
アルフォンス・ドーデ/大久保和郎訳
目 次
第一部 幻想と歴史
最後の授業
玉突き
コルマールの判事の見た幻《まぼろし》
少年スパイ
母たち
ベルリン包囲
わるいアルジェリア歩兵
ブゥジヴァルの振り子時計
タラスコン防衛
ベリゼールのプロイセン兵
パリの百姓
前哨《ぜんしょう》で
暴動風景
渡し船
旗手
ショーヴァンの死
アルザス! アルザス!
隊商宿《カラヴァンサライ》
八月十五日の叙勲者
わたしの軍帽
コミューンのアルジェリア狙撃兵《そげきへい》
第八中隊の演奏会
ペール=ラシェーズの戦闘
プチ・パテ
船上独語
フランスの仙女たち
第二部 奇想曲と追憶
書記
ジラルダンが約束してくれた三十万フランで!……
アルチュール
三回の解散勧告
初演の夜
チーズ入りスープ
最後の本
売家
クリスマス小話
法皇がなくなった
味覚ところどころ
海辺のとりいれ
赤鷓鴣《あかしゃこ》の驚愕
盲の皇帝
解説
訳者あとがき
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第一部 幻想と歴史
最後の授業
アルザスのある少年の物語
その朝は学校へ行くのにたいへん遅れていたし、ぼくはしかられるのがこわくてたまらなかった。アメル先生が分詞についてみんなにきくと言っていたが、ぼくはてんでおぼえていなかっただけになおさらだった。学校に出ないでそこらをかけまわって来ようかとも、ちょっと考えた。
何しろあたたかく、よく晴れていたのだから!
森のはしでは鶫《つぐみ》の鳴き声が聞こえ、製材所のうしろのリペールの牧場ではプロイセン兵が演習をしているのが聞こえた。このほうが分詞の規則よりもずっとぼくにとっては誘惑《ゆうわく》だった。けれど、どうにかその誘惑にうちかって、いそいで学校へかけつけた。
役場の前を通ったとき、掲示板の小さな枠《わく》のそばに人々がたちどまっているのを見かけた。この二年というもの、敗戦とか徴発《ちょうはつ》とかプロイセン軍司令部の命令とかの、わるい知らせはみんなここから来ていた。で、ぼくはたちどまらずに、
「また何があったんだろう?」と考えた。
それから、駈《か》け足で広場を横切っていると、徒弟といっしょにそこでビラを読んでいた鍛冶屋《かじや》のヴァシュテールがぼくに声をかけた。
「そんなにいそぐなよ、小さいの。どうせ学校に遅れるはずはないんだからな」
ぼくはからかわれているんだと思って、息せききってアメル先生の小さな校庭にはいって行った。
ふだんは、授業のはじまったときは往来まで聞こえるほどの大騒ぎで、机をあけたりしめたり、よくおぼえようとして耳をふさいで大声でいっせいに日課をくりかえしたり、「すこし静かに!」と先生が大きな定規《じょうぎ》で机をたたいたりという始末なのだ。
ぼくはこの騒ぎにつけこんで、みつからぬように自分の席に忍びこんでやろうと思っていたのだ。ところが、あいにくこの日は、日曜の朝のようにひっそりかんとしていた。開いた窓から級友たちがすでにめいめいの席にならんでいるのや、アメル先生がおそろしい鉄の定規をこわきにかかえて行ったり来たりしているのが見えた。ドアをあけて、この静まりかえったなかにはいって行かねばならない。ぼくがどんなに赤い顔をし、どんなにびくびくしていたかは言うまでもあるまい!
ところが、そうじゃなかった。アメル先生はおこりもせずにぼくを見、とてもやさしく言った。
「早く席につきなさい、フランツや。おまえが来ないままで始めようとしていたところだ」
ぼくは腰掛《こしか》けをまたぎ、すぐに机の前にすわった。そのときはじめて、おそろしさが少々おさまると、ぼくは先生がきれいな緑色のフロックコートを着、襞《ひだ》のある上等の胸飾りをつけ、刺繍《ししゅう》のついた黒絹の帽子をかぶっているのに気がついた。視学《しがく》〔学校教育を監督する役人〕の来る日か賞状授与式でなければ先生はこんな服装をしない。そのうえ、教室全体に何か異様な、厳粛《げんしゅく》なものがあった。だがいちばんぼくを驚かせたのは、教室のいちばん奥の、いつもはあいている腰掛けに、村の人たちがぼくたちと同じように静かにすわっていることだった。三角帽を持ったオゼールじいさん、もとの村長、もとの郵便配達夫、そのほかにもいろんな人たちが。この人たちはみんな悲しそうだった。しかもオゼールは縁《ふち》のすりきれた古い初等教科書を持って来ていて、それを膝《ひざ》の上に大きくあけ、開いたページの上に大きなめがねを置いている。
ぼくがこういったことに驚いているあいだに、アメル先生は教壇にのぼり、ぼくを迎えたときと同じやさしくおもおもしい声でみんなに言った。
「みなさん、わたしがみなさんに授業するのはこれでおしまいなのです。アルザスとロレーヌの学校ではドイツ語しか教えてはいけないという命令がベルリンから来ました。〔普仏戦争終結時の和平条約で、フランスはアルザス、ロレーヌをドイツに割譲することになり、この両地方ではドイツ語が国語として教えられることになった〕……新しい先生はあす着任します。きょうはみなさんの最後のフランス語の授業です。どうか注意深く聞いてください」
この短いことばを聞いてぼくは動顛《どうてん》してしまった。ああ、ちくしょう、役場に掲示してあったのはこれだったのだ。
最後のフランス語の授業!……
ぼくはといえば、ろくろく書けもしないのだ! それではもう永久におぼえられないのか! こんな状態にとどまってしまわねばならないのか!……今となっては時間をむだにしたことを、学校をサボって鳥の巣をさがしたり、サール河で氷すべりしたことを、どれほど悔《く》やんだことか! 今しがたまでは退屈きわまるもの、荷やっかいなものに感じられていた本が、文法書や歴史の本が、今では別れるに忍びない旧友のように思われた。それはアメル先生と同じだった。先生が行ってしまうこと、もう先生に会えないことを考えると、罰《ばつ》も定規《じょうぎ》でぶたれたことも忘れてしまった。
気の毒な先生!
きれいな晴れ着を先生が着ているのはこの最後の授業のためだった。そして今ぼくには、村のあのご老体たちが教室のうしろのほうに来てすわっている理由がやっとわかった。それはどうやらここへ、この学校へもっとたびたび来なかったのを後悔《こうかい》していることを意味するらしい。同時にまたそれは、四十年にわたって職務にはげんでくれたことを先生に感謝し、ぼくらから離れて行く祖国に敬意を表するためでもあったのだ……
そこまで考えてきたとき、ぼくは自分の名が呼ばれるのを聞いた。ぼくの暗唱の番だった。あのたいへんな分詞の規則を、声高らかに、はっきりと、一つもまちがえずに暗唱することができたら、ぼくは命だって投げ出したろう! が、最初からしどろもどろになってしまって、胸が張りさけるような思いで顔を上げる勇気もなく、腰掛《こしか》けのあいだに立ったままからだをぶらぶらさせていた。……アメル先生がぼくにこう言うのが聞こえた。
「わたしはおまえをしからないよ、フランツ、もう十分|罰《ばっ》せられたはずだからね……そういうふうに。毎日みんなはこう言う、『なあに、時間はいくらでもある。あしたおぼえよう』と。そして、そのあとでどういうことになるかはごらんのとおりだ。……ああ、教育をいつもあすにのばしていたのは、わがアルザスの大きな不幸だった。今あの連中が、『なんだって! きみらは自分がフランス人だと言う、そのくせきみらはフランス語を読むことも書くこともできないのか!』とわれわれに言ってもしかたがない。この件《けん》について、かわいそうなフランツ、いちばんわるいのはやはりおまえではない。われわれはみな、かえりみて自分にとがめねばならぬところがあるのだよ。
おまえたちの両親は、おまえたちの教育に十分熱意を持たなかった。わずかのお金でもよけいに得られるように、おまえたちが畑や製糸工場で働くほうがいいと思っていた。わたし自身にしても自分に責めるべきことが何もないだろうか? 勉強させるかわりによくおまえたちにわたしの庭の草木に水をやらせはしなかったか? また虹鱒《にじます》を釣りに行きたいというときには、平気でおまえたちを帰らせはしなかったか?……」
つづいてアメル先生はフランス語についてそれからそれへと語りはじめた。フランス語は世界でいちばん美しい、いちばん明晰《めいせき》で、いちばんしっかりとしたことばであること、ある民族が奴隷《どれい》になっても、その国語を保持しているかぎりは、いわば牢獄《ろうごく》の鍵《かぎ》を握っているようなものだから、民族のあいだではこのことばを守り、けっして忘れてはならぬということを彼は言った……。それから彼は文法書を取り、ぼくたちの日課を読んでくれた。よくわかるので、ぼくはわれながらびっくりした。先生の言うことはどれもごくごくやさしいことのように思われた。自分がこんなに熱心に聞いたことも、先生がこんなにしんぼうづよく説明してくれたことも今まで一度もなかったとも思う。立ち去る前にこの気の毒な人は、自分の知っていることすべてをぼくらに教えよう、一挙にぼくらの頭のなかにたたきこもうとしているみたいだった。
日課が終わると習字に移った。この日のためにアメル先生は新しいお手本を用意しておいてくれたのだが、それはきれいな丸い書体で「フランス、アルザス、フランス、アルザス」と書いてあった。まるでぼくたちの机の横棒につるした小さな旗が教室じゅうにひらめいているようなぐあいに見えた。みんながどれほどいっしょうけんめいだったかは想像もつくまい、しかもどんなに静かだったか! 紙の上にきしるペンの音のほかは何も聞こえなかった。一度こがね虫がはいって来たが、だれひとりそんなものに心を向けなかった。いちばん小さい連中までも、まるでそれがフランス語というものであるかのように、心をこめて正しく棒を引くのに余念がなかったのだ……。校舎の屋根の上では鳩《はと》たちが低く鳴いていた。それを聞きながらぼくは心に思った。
「これからはドイツ語で鳴けというんじゃないかしら、あの鳩たちにも?」
ときどき本のページから目を上げると、アメル先生が教壇にすわって身動きもせず、この小さな校舎のすべてを目におさめて行ってしまおうとするかのように、周囲のいろいろなものをじっとみつめているのが見えた…… まあ考えてみるがいい、四十年も彼はずっとここにいたのだ、同じ校庭を前にし、まったく同じような生徒たちを相手にして。ただ生徒の腰掛《こしか》けや机はみんなの尻《しり》や手でこすられて光っていた。校庭のくるみの木は背が伸びたし、彼が自分で植えたホップが今では窓をおおって屋根まで這《は》い上がっている。これらすべてのものから別れること、彼の妹が下の部屋《へや》を行ったり来たりしてトランクの口をしめているのを聞くのは、このあわれな人にとってはどれほどやりきれないことだったろう! この兄妹はあすは出発しなければならないのだ。永久にこの国を去らなければならないのだ。
それでも、彼は最後まで授業をつづける気力を失わなかった。習字のあとは歴史だった。それから下級の生徒たちが「バベビボブ」の歌を合唱した。教室のいちばんうしろではオゼールじいさんがめがねをかけ、初等教科書を両手で持って小さいのといっしょにたどたどしく文字を拾って読んでいた。彼もいっしょうけんめいになっているのがわかった。彼の声は感動にふるえており、その読み方がとてもおかしかったので、ぼくたちはみんな笑い泣きしたくなった。ああ、ぼくはけっしてこの最後の授業のことを忘れないだろう……
突然教会の大時計が十二時を打ち、それからアンジェリュスの鐘〔朝六時、正午、夕方六時に、祈りの時間を知らせるために教会で鳴らす鐘〕が鳴った。と同時に、演習から帰って来るプロイセン兵のラッパが教室の窓の下でひびきわたった……。アメル先生は真《ま》っ蒼《さお》になって教壇に立ち上がった。彼がこんなに背が高く見えたことは、ぼくには一度もなかった。
「みなさん」と彼は言った。「みなさん、わたしは……わたしは……」
しかし何かが彼の喉《のど》にひっかかっていた。彼は最後まで言うことができなかった。
と、彼は黒板のほうを向き、白墨を取り、全身の力をこめてできるだけ大きく書いた。
「フランス万歳《ばんざい》!」
そうして頭を壁《かべ》に押しつけたまま動かなかった。それから何も言わずに彼は手で合図した。
「おしまいだよ……お帰り」
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玉突き
もう二日も戦闘がつづき、豪雨のなかで背嚢《はいのう》を背にしたまま夜を明かしたので、兵隊たちはへとへとになっていた。それなのにもう三時間というもの、彼らは銃を足もとに置いて、街道《かいどう》の水たまりや水びたしの畑のどろ土のなかでこごえながら死ぬ思いをさせられているのだ。
疲労や不眠の夜や吸いこめるだけ水を吸った軍服のためにからだが重くなった彼らは、ぴったりと身を寄せて、たがいにあたため合い、支《ささ》え合っている。隣の男の背嚢によりかかって立ったまま眠っているものもあり、そして彼らの眠りに落ちこんで緊張《きんちょう》を失った顔のほうにこそかえって疲れが、忍苦が、はっきりとあらわれている。雨、ぬかるみ、火もなく、スープもなく、空は低く垂《た》れて暗く、敵の気配《けはい》はそこらじゅうに感じられる。まったく暗澹《あんたん》たるものだ……
あちらのほうでは何をやっているのか? どうしたのか?
大砲は口を森のほうへ向けて何かをねらっているように見える。身をひそめた機関銃はじっと地平線をみつめている。攻撃の準備はすべてととのっているかに見える。なぜ攻撃にかからないのか? 何を待っているのか?
皆は命令を待っている。ところが司令部は命令を送って来ない。
しかも、遠くないのだ、司令部は。雨に洗われた赤い煉瓦《れんが》が山の中腹の木立ちのあいだに見える、あのルイ十三世〔王権の確立に力をつくしたフランスの国王〕時代ふうの城がそれなのだ。フランスの元帥旗《げんすいき》をかかげてもいっこう恥ずかしくない、まさに真の王侯の居城である。街道から大きな濠《ほり》と石の手すりとでへだてられた芝生《しばふ》は、草花を植えた鉢《はち》に縁《ふち》どられて≪むら≫もなく緑に、正面階段までまっすぐに立っている。むこう側、家の裏手のほうでは、灌木《かんぼく》の生垣《いけがき》は光に満ちた通路を作り、白鳥の泳ぐ泉水は鏡のようにひろがり、巨大な鳥小屋の仏閣ふうの屋根の下では、草木の葉のなかでするどい鳴き声を発しながら、孔雀《くじゃく》や錦鶏《きんけい》がはばたきし、尾羽根をひろげている。住人たちは去ってしまったが、打ち捨てられたようすも、戦時のあの何もかも投げ出して行ってしまった感じもない。司令官の旗のおかげで、芝生に咲くいちばん小さな花一輪まで守られているのだ。そして、すべてのものがきちんとととのい、木立ちはまっすぐにならび、通路は静まりかえって奥深く伸びていることから来る、こんな豊かな静けさを戦場のすぐそばで感ずるのは、何か強く心を打つことだった。
あちらの道の上ではひどいぬかるみを作り出し、車輪の跡を深くえぐらせる雨も、ここでは煉瓦《れんが》の赤や芝生《しばふ》の緑をあざやかにし、オレンジの葉や白鳥の白い羽を艶々《つやつや》させる、優雅な貴族的な時雨《しぐれ》でしかない。すべてが光り、すべてが平和である。まったくのところ、屋根のてっぺんにひるがえっている旗がなく、門の大扉《おおとびら》の前に歩哨《ほしょう》に立っているふたりの兵隊がいなければ、だれもここを司令部などと思いはしないだろう。馬は厩《うまや》で休んでいる。あちこちで従卒や、台所のあたりをふらふらしている略服の伝令や、大きな中庭の砂を静かに熊手《くまで》で掻《か》いている赤ズボン〔軍服のズボン。ここでは園丁として使役されている兵隊のこと〕の園丁か何かに出会う。
正面階段にむかって窓を開いている食堂には、なかばかたづけた食卓、栓《せん》を抜いた壜《びん》、しわのよったテーブル・クロスの上にぼんやりと白く曇った≪から≫のコップが見える。食事が終わり、会食者は席を立ったのだろう。隣の部屋《へや》からがやがやいう声、笑い声、玉のころがる音、コップのぶつかる音が聞こえる。元帥《げんすい》は一勝負やっているところだ。そしてそれがために軍は命令を待っているのである。元帥が勝負をはじめたとなれば、空がくずれ落ちようとも何が起ころうとも、最後までやらずにはすまない。
玉突き!
これが彼の弱いところなのだ、この偉大な武人の。彼は戦いの場にあるように真剣な顔で、正装をし、胸にいっぱい勲章《くんしょう》をつけ、食事と勝負とグロッグ酒で心がはずんで、目を輝かせ頬《ほお》をほてらせていた。幕僚《ばくりょう》たちは彼の一突き一突きにのけぞるほど感心しながら、慇懃《いんぎん》にうやうやしくまわりに侍《はべ》っている。元帥《げんすい》が一点取ると一同はわっと得点票へかけより、元帥が喉《のど》がかわくと皆がグロッグ酒を作ろうとする。肩章や帽子の前立てがざわざわし、勲章や飾緒《しょくちょ》〔軍人が正装したとき、右肩から胸にかけて付ける飾り〕がかちかち鳴る。庭園や前庭にむかって開かれているこの樫《かし》材造りの天井の高い広間のなかで、廷臣《ていしん》たちのこの感じのいい微笑や上品なおじぎを見、これほどたくさんの刺繍《ししゅう》や新しい軍服をたくさん見せられると、コンピエーニュ〔パリ北東にある森に囲まれた町で、国王の離宮があった。ナポレオン三世も好んで滞在〕の秋がそぞろにしのばれて、あちらの道ばたにこごえ、雨に打たれてあんなに暗いかたまりをなしているよごれた外套《がいとう》の連中のことはちょっと忘れていられる。
元帥のお相手役は小柄《こがら》な参謀大尉、ぴったり革《かわ》帯をしめ、髪《かみ》をちぢらせ、きれいな手袋をはめ、玉突きでは第一人者で、世界じゅうのありとあらゆる元帥を負かす力を持っているが、自分の上官からは、うやうやしく一歩引きさがることを心得ており、勝ちもせず、といってまたあまり簡単に負けもしないように心がけている。こういうのが前途有望な将校と呼ばれるのだ……
気をつけろよ、若いの、うまくやろう。元帥は十五点、きみは十点かせいでいる。最後までその調子で持って行かなければならないんだ。そうすればきみは、ほかの連中と同じように外のあの地平を浸《ひた》す雨のなかで、なかなか来ない命令を待ちながら美しい軍服をよごし、飾緒《しょくちょ》の金の輝きをくもらせているよりも、昇進のために努力したことになるんだ。
まったくおもしろい勝負だった。玉は走り、ふれ合い、色が交差する。クッションはよくはねかえす、ラシャは熱くなる……。突然砲撃の炎が空を走る。にぶい音が窓ガラスをゆるがす。だれもぎょっとする。不安そうに顔を見合わす。ただ元帥《げんすい》だけは何も見ず、何も聞かなかった。玉突き台の上に身をかがめて、すばらしいクッションの手を考えているところだ。こいつは彼のお得意なのだ、このクッションの効果というやつは!……
が、またしても閃光《せんこう》、そしてまた一つ。砲撃は相次ぎ、ますます急になる。幕僚《ばくりょう》たちは窓ぎわにかけつける。プロイセン兵は攻撃するのだろうか?
「よし、攻撃するがいいさ!」と元帥はチョークをぬりながら言う……。「きみの番だよ、大尉」
参謀一同は感歎《かんたん》の身ぶるいをする。砲架《ほうか》の上で眠ったチュレンヌ〔十八世紀フランスの猛将〕も、戦闘の時に当たって玉突き台の前でこうまでおちつきはらっているこの元帥にくらべれば問題にならない……。そのあいだにも騒ぎはひどくなる。大砲の衝撃に引き裂くような機関銃の音や分隊の銃撃の音がまじる。縁《ふち》が黒く中が赤い煙が芝生《しばふ》のはしに立つ。庭園の奥のほう一帯が燃えているのだ。おびえた孔雀《くじゃく》や雉《きじ》が鳥小屋のなかで叫ぶ。アラブ種の馬たちは火薬の匂《にお》いをかいで厩舎《きゅうしゃ》の奥で後足で立ち上がる。司令部はざわざわしはじめる。電報に次ぐ電報。伝令が全速力で馬を駆《か》って駈《か》けつける。元帥に会わしてくれというのだ。
元帥は人を寄せつけない。ほら言ったでしょう、どんなことがあっても彼は勝負を終えずにすまされないのだ。
「きみの番だよ、大尉」
けれど大尉は気が気でない。やはり若さというものは争えぬものだ! 周章狼狽《しゅうしょうろうばい》し、心得を忘れ、つづけて二突き当て、もうすこしで勝ちそうになる。こうなると元帥は怒気《どき》心頭に発する。驚きが、怒りが彼の男性的な顔にさっとあらわれる。まさにその瞬間、全速力で突っ走って来た馬が中庭に飛びこんで来る。どろまみれになったひとりの幕僚が歩哨《ほしょう》の制止も聞かずに一挙に階段をかけのぼる。「元帥閣下、元帥閣下!……」だがこの幕僚がどんなふうに迎えられたかは見物《みもの》だった……。怒りのあまり息をはずませ、雄鶏《おんどり》のように赤くなって、元帥はキューを手にしたまま窓ぎわにあらわれる。
「どうした?…… なんだ、それは?……ここは歩哨はおらんのか?」
「ですが、元帥閣下……」
「よろしい……。すぐ後で行く……。わしの命令を待て、畜生《ちくしょう》!……」
そして窓は乱暴にとざされる。
彼の命令を待つんだ!
実際そうした、気の毒な兵隊たちは。風は雨と霰弾《さんだん》を彼らの顔いっぱいにたたきつけて来る。ある大隊は壊滅《かいめつ》し、一方他の大隊は、自分らがどうしてこう動かないでいるのかわからずに、武器をかかえたまま手をつかねている。どうしようもないのだ。命令を待つだけだ……。いや冗談《じょうだん》じゃない、死ぬためには命令の必要はないから、兵士たちはひっそりとした大きな城を前にして、藪《やぶ》のかげ、溝《みぞ》のなかに何百人と倒れていく。倒れたものすらをも霰弾はなお引き裂き、彼らの傷口からはフランスの高貴な血が音もなく流れ出る……、むこうの撞球室《どうきゅうしつ》ではすさまじい熱戦がくりひろげられる。元帥《げんすい》は優勢をとりもどした。しかし小柄な大尉は獅子奮迅《ししふんじん》の防戦をつづけている……。
十七! 十八! 十九!……
点を数えるひまもないくらいだ。戦いの音は近づいてくる。元帥はもうあと一突きするだけだ。すでに砲弾は庭園のなかまで落ちて来ている。その一つ一つが泉水の上で炸裂《さくれつ》する。鏡のような水面に≪ひび≫がはいる。一羽の白鳥が血だらけの羽のうずまきのなかでおびえながら泳いでいる。最後の一突きだ……
今やすべてが静まりかえる。生垣《いけがき》の上に注ぐ雨と、丘のふもとで何かがごろごろというような音、そして水びたしの路上には、道を急ぐ畜群の足音のようなものが聞こえるばかり……。軍は敗走中である。元帥は勝った。
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コルマールの判事の見た幻《まぼろし》
ヴィルヘルム皇帝に対して宣誓《せんせい》するまでは、法官帽をななめにかぶり、ほてい腹、みずみずしいくちびる、三重にくびれた顎《あご》をモスリンのリボンの上にのせて法廷にあらわれるときの、コルマール〔上ライン県の県庁所在地で、控訴院があった〕裁判所の小男のドランジェール判事ほど幸福な人はいなかった。
「ああ、これで一眠りできるな」と、彼は腰をおろしながら心に思っているように見えた。そして彼がぽってりとした脚を伸ばし、大きな肘掛《ひじか》け椅子《いす》の上、ひんやりとしてやわらかい革《かわ》の座《ざ》ぶとんの上にどっかとすわりこむところを見るのは愉快だった。この革《かわ》の座ぶとんのおかげで、もう三十年も座位法官〔壇上に座って裁判を行う法官(判事)、これに対して検事は立って弁論を行うので、立位法官と呼ばれる〕の職にありながら、彼はまだ平静な気分と明るい顔色を保っていられたのだ。
不幸なドランジェール!
この革の座ぶとんが彼の身の破滅《はめつ》となったのだ。その上にすわっているとあまりに気持ちがよかった。模造革のこの小さいふとんの上はあまりにすわりごこちがよかった。それがために、そこを去るよりもプロイセン人になるほうがいいと思ったほどだった。ヴィルヘルム皇帝は「そこにすわっていなさい、ドランジェールさん!」と彼に言った。そうしてドランジェールはすわりつづけた。で、今彼はコルマール裁判所の判事として、ベルリンの皇帝陛下の名においてりっぱに裁《さば》きを下しているのである。
彼の身のまわりのものは何も変わっていない。あいかわらず同じ色あせた単調な法廷、同じ問答の部屋《へや》で、ベンチは光っているし、壁はなんの飾りもなく、弁護士たちはがやがや言っており、同じ薄明りがサージのカーテンを張った高い窓から落ちて来、同じほこりだらけの大きなキリスト像が両腕《りょううで》をひろげて頭を垂《た》れているのだ。プロイセンのものとなってもコルマールの裁判所は格が落ちはしなかった。法廷の奥にはあいかわらず皇帝の胸像《きょうぞう》がある……。が、そんなことはどうでもいい! ドランジェールは自分が場違いなところにいるような気がした。自分の肘掛《ひじか》け椅子《いす》の上でいくらもぞもぞしても、憤然《ふんぜん》としてお尻《しり》を沈めてみてもどうにもならない。以前のあのこころよい眠りはもうどうしてもやって来ないのである。そしてたまたま公判中に居眠りすることがあったとしても、きまって恐ろしい悪夢《あくむ》を見てしまうのだ……
ドランジェールはル・オネックやバロン・ダルザス〔いずれもヴォージュ山脈中の山〕のような高い山の上にいる夢を見る……。いじけた樹木と、うずを巻いて乱舞《らんぶ》する小さな蠅《はえ》しか見られないこんなとほうもなく高いところで、たったひとりで法官服をきて大きな肘掛《ひじか》け椅子《いす》に腰かけて、いったい何をしているのか?……ドランジェールにはわからない。冷汗《ひやあせ》と悪夢の不安にわななきながら彼は待っている。大きな赤い太陽がライン河のむこうのシュヴァルツヴァルト〔ドイツ西南部の針葉樹に包まれた低い山脈〕の樅《もみ》のうしろから昇る。そして日が高くなるにつれて、下のほうのタンやミュンスターの谷、アルザスのはしからはしまで、はっきりしないざわざわという音、足音や車の音がしはじめる。そしてその音は大きくなり、近づいて来、ドランジェールは胸をしめつけられるような気持ちになるのだ! やがて、山腹を這《は》い上がる長い九十九折《つづらお》りの道を通って、果てしもない陰鬱《いんうつ》な行列が自分のほうへやって来るのをコルマールの裁判官は見る。整然と移住しようとして、ヴォージュ山脈のこの峠《とうげ》で落ち合うことにしていたアルザスの住民たちだ。
前のほうには四頭の牡《お》牛に引かれた長い荷車が来る。収穫のときには藁束《わらたば》をこぼれるほど積んだのによく出会う、あの格子《こうし》のついた細長い荷車だが、今は家具や衣類や仕事道具を積んで行くのだ。大きなベッド、背の高いたんす、インド更紗《さらさ》の装飾品、パンの捏槽《こねおけ》、紡《つむ》ぎ車、子ども用の小さな椅子《いす》、先祖伝来の肘掛《ひじか》け椅子、すみのほうから引っぱり出して積みかさねた古いだいじな品々が、路上の風に当たって家庭のなつかしいほこりを吹き散らしている。家全体がこの荷車におさまって出発するのだ。だから車はうめきながらでなければ進まないし、牛たちは力をふりしぼって引いているのだ。まるで大地が車輪にくっついてしまっているかのように、馬鍬《まぐわ》や鋤《すき》やつるはしや熊手《くまで》にこびりついている乾いた土くれが荷をますます重くして、この出発の苦しさを根こぎにされる木の苦しさと同じものにしたかのように。車のうしろには、ふるえながら杖《つえ》によりかかっている三角帽の老人からズボンつりに綿入りの麻《あさ》のズボンをはいた、ちぢれた金髪の少年にいたるまで、りっぱな若者の肩に負われた中風のおばあさんから母親が自分の胸に抱きしめている乳飲み子たちまで、ありとあらゆる身分、ありとあらゆる年齢の人々が黙々とひしめいている。じょうぶな者も弱い者も、来年兵隊になる者も凄惨《せいさん》な戦争に従軍した者も、手や足を切断されて松葉杖にすがってからだをひきずって行く胸甲騎兵《きょうこうきへい》たちや、ぼろぼろになった軍服のなかに今なおシュパンダウ〔ベルリン近郊の町で、ここの要塞は古くから拘禁所とされていた〕要塞《ようさい》の地下牢のかびを残している青い顔の疲れきった砲兵たちも、皆が皆|誇《ほこ》らかに行列を作って道を行く。この道ばたにコルマールの判事はすわっている。そして彼の前を通るとき、だれもが怒りと嫌悪《けんお》の表情をうかべて顔をそむけるのだ……
おお、不幸なドランジェール! できることなら彼は身をかくしたかった、逃げ出したかった。が、それは不可能だった。彼の肘掛け椅子は山にはめこまれており、彼の革《かわ》の座ぶとんはその椅子に、そして彼自身はその座ぶとんにはめこまれているのだ。そこで彼は、自分がこうして晒《さら》し台にかけられていること、そして彼の恥ずかしい姿がどんな遠方からも見えるように晒し台がこんなに高いところに置かれているのだということを悟った……。そして行列は村ごとに分かれてつづく。スイスとの国境の村の連中は数知れぬ羊の群れを引き連れて、サール河の村の連中は鉱石を運ぶ荷車にごつごつした鉄製の道具をのっけて。それから町の連中がやって来る、製糸業の連中、鞣《なめ》し工、各種の織り屋、中産階級の連中、司祭、ユダヤ教の教師、法官、黒いガウンの連中や赤いガウンの連中……。そら、老裁判長を先頭にして、コルマールの裁判所の連中が来た。そしてドランジェールは恥ずかしさに居たたまれず、顔をかくそうとしてみるが、手は麻痺《まひ》している。目をつぶろうとしてみるが、まぶたはかたくこわばって動かない。彼は見なければならない、そして人から見られなければならない、そして同僚たちが通りがかりに自分に投げる軽蔑《けいべつ》の視線を一つなりと見落としてはならないのだ……
晒《さら》し台上のこの判事、これだけでもいいかげんおそろしいことだ! しかしそれよりなおおそろしいことは、彼の身内の者が皆この群衆のなかにおり、そしてその身内の者たちが彼を知っているようなようすを見せないことなのだ。彼の妻も子どもも顔を伏せて彼の前を通って行く。まるで彼らも恥ずかしがっているようだ、彼らまでも! 彼があんなに愛している小さなミシェルまでも、彼に一|瞥《べつ》をくれようとさえせず、永久に去って行くのだ。ただ老裁判長だけがちょっと立ちどまって、低い声で彼に言った。
「わたしたちといっしょに来たまえ、ドランジェール。そこにとどまってはいけないよ、ねえきみ」
しかしドランジェールは立ち上がることができなかった。彼はじたばたし、呼ばわる。そして行列は何時間もつづく。暮れがた行列が遠ざかって行くと、鐘楼《しょうろう》や工場がいっぱいあるこれらの美しい谷はひっそり静まりかえる。全アルザスが立ち去ったのだ。残っているのはただ、高い晒《さら》し台の上に釘《くぎ》づけにされたようにすわって永久に動けぬコルマールの判事だけなのだ……
……突然場面は変わる。水松《いちい》、黒い十字|架《か》、墓標の列、喪服《もふく》の一群。
それは盛大な葬儀の日のコルマールの墓地だ。市のすべての鐘が鳴っている。ドランジェール裁判官が死んだのだ。名誉がなしえなかったことを死が引き受けてやってのけた。死はあの革《かわ》の座ぶとんからこの終身裁判官を引き離し、すわることに執心《しゅうしん》していたこの男を長々と横たわらせたのである……
自分が死んだ夢を見、自分のことを泣く、これほどおそろしい感じは味わえない。悲痛な心でドランジェールは自分自身の葬式に参列する。しかも、自分の死ということよりももっと彼を絶望させるのは、彼のまわりにひしめているこの数知れぬ群衆のなかに、ひとりとして彼の友人、彼の近親のいないことだ。コルマールの人はひとりもいない、プロイセン人だけなのだ! 儀仗隊《ぎじょうたい》を出したのもプロイセン兵なら、葬儀を主宰したのもプロイセンの法官たちであり、彼の墓の上で述べられた弔辞《ちょうじ》もプロイセン語の弔辞なら、墓の上にかけられた、そして彼が実に冷たいと思った土もプロイセンの土なのだ、ああ!
不意に群衆はうやうやしくわきへ寄る。みごとな白|胸甲騎兵《きょうこうきへい》の軍服の人が近づく、大きな麦藁菊《むぎわらぎく》の花輪らしく見えるものをマントの下にかくしながら。周囲の連中は言っている。
「ビスマルク〔鉄血宰相と呼ばれたドイツの政治家でドイツ統一後、欧州外交の指導者となる〕だ!……ビスマルクが来た!……」
そしてコルマールの判事は憂鬱《ゆううつ》な気持ちで考える。
「おいでくださったのはわたしにとって過分の名誉です、伯爵閣下《はくしゃくかっか》。しかしわたしの小さなミシェルがここにいてくれたら……」
ものすごい哄笑《こうしょう》が起こって彼は最後まで考えつづけられない。気ちがいじみた、言語道断《ごんごどうだん》な、荒々しい、こらえられない笑い声だ。
「いったいやつらは何をしているんだ?」と、判事はおびえ上がって考える。身を起こし、目をやる……。彼の座ぶとん、あの革の座ぶとん、それを今ビスマルク閣下は敬虔《けいけん》に彼の墓の上に置いたのだ。その模造革には次のような文字が丸く記されていた。
座位法官の誉《ほま》れ
ドランジェール判事に
追憶と哀悼《あいとう》のため
墓地のすみからすみまでだれもが腹をかかえて笑っている。そしてこのプロイセン式の野卑《やひ》な陽気さは墓室の奥までひびいた。そのなかで故人は永久の嘲笑《ちょうしょう》に押しひしがれて恥ずかしさに泣いている……
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少年スパイ
彼の名はステンヌ、ちびのステンヌといった。
ひよわそうで顔色のわるいパリの少年で、年は十歳、ひょっとすると十五歳にもなっていたろうか。こういったわんぱく小僧のことはてんでわからぬものだ。母親は死んだ。海軍軍人あがりの父親はタンプル区の辻公園の番人をしていた。赤ん坊、女中たち、折りたたみ式の椅子《いす》を持って来る老婦人たち、まずしい母親たち、往来の車をのがれて歩道に縁取《ふちど》られたこの花壇にやって来るパリのちょこちょこ歩きの女たちは、ステンヌおやじのことをよく知っており、彼をとても愛していた。犬や公園の浮浪者をおびえ上がらせるあのごつい髯《ひげ》のかげに、やさしい善良な、ほとんど母性的な微笑がひそんでおり、そしてその微笑が見たければ、「お宅の坊やは元気ですか?」とじいさんに言いさえすればいいことを皆知っていた。
そんなにも坊やを愛していたのだ、ステインおやじは! 夕方、学校が終わって子どもが迎えに来てくれ、ふたりで公園の通路を歩きながら、一つ一つのベンチにたちどまって常連たちに会釈《えしゃく》し、おせじに答えるとき、彼はほんとに幸福だった。
包囲とともに不幸にも事態は一変した。ステンヌおやじの小公園はとざされ、石油置き場になった。そして気の毒な男はたえず見張りをしなければならなくなって、人気《ひとけ》もないごちゃごちゃした罐《かん》の山のなかでただひとりでたばこもすわずに日をすごし、夜ずっとおそく家に帰ってしか子どもに会えないのだった。だから、彼がプロイセン兵のことを話すときのその口髭《くちひげ》ときては見物《みもの》だった……。ところが子どものほうは、この新しい生活にあまり不平を言わなかった。
包囲! わんぱくどもにとってはこいつはまったく愉快なことなのだ! 学校もない! 生徒同士の相互授業もない! ずっと休暇で、町の通りは縁日《えんにち》みたいなにぎやかさだ……
子供は夜まで外を走りまわっていた。地区の大隊が城塞《じょうさい》へ行くのについて行く。いい楽隊を持っているのを特に選んで、だ。そしてこの点については、ステンヌ少年はとてもくわしかった。九十六大隊のはたいしたことはないが、五十五大隊はすばらしいのを持っているなどと、みごとに言ってのけるのだった。また別のときには、彼は遊動兵の教練をながめていた。それからまた配給のための行列もあった……
籃《かご》を小脇にかかえて彼は、ガス燈もともらない暗い冬の朝、肉屋やパン屋の格子《こうし》の前にできる長い行列に加わった。そこでは水のなかに立ったまま、人々はおたがいに近づきになり、政治を論ずるのだが、ステンヌ氏のむすことして彼も意見を求められるのだ。けれどもいちばん愉快なのはやはりコルク倒し遊び、ブルターニュの遊動兵たちが包囲のあいだに流行させたあの有名な大独楽《ガローシュ》遊びだった。ステンヌ少年が城塞にもパン屋にもいないときには、シャトー=ドー広場の大独楽《おおごま》遊びをしているところで見つかることはうけあいだった。彼自身はもちろんやらない。金がかかりすぎるからだ。
ほかの連中がやっているのをながめるだけで彼は満足していたのだ!
特にそのなかのひとり、百スーしか賭けない青い作業ズボンの大きな子が、彼の感歎《かんたん》をよびおこした。この子が走ると、そのズボンのなかで金貨が鳴るのが聞こえたものだ……
ある日ステンヌ少年の足もとまでころがって行った貨幣を拾いながら、その大きな子は小声で彼に言った。
「うらやましいんだろ、え?……それじゃ、知りたいならどこで手にはいるか教えてやるぜ」
勝負が終わると大きな子は彼を広場の片すみに連れて行って、自分といっしょに新聞をプロイセン兵に売りに行かないかと彼に言った。一度行けば三十フランになるという。最初ステンヌはすっかり憤慨《ふんがい》してことわった。それから三日間、彼は遊びを見に行かずに過ごした。たまらない三日だった。彼は食べることも眠ることもできなくなった。夜はベッドの足もとに大独楽《おおごま》がたくさん立ちならんでおり、ぴかぴか光る百スーの貨幣が床に列をつくっているのが見えた。誘惑《ゆうわく》はあまりにも強かった。四日目に彼はまたシャトー=ドーに行き、あの大きな子に会い、そして誘惑に負けてしまった……
ある雪の日の朝、麻袋《あさぶくろ》を肩に、新聞を上っぱりの下にかくして彼らは出かけた。フランドル門に着いたときにはわずかに明るくなっていた。大きな子はステンヌの手を取り、歩哨《ほしょう》――鼻の赤い、人のよさそうな実直な駐屯軍《ちゅうとんぐん》兵士だった――に近づいて、あわれっぽい声で言った。
「ぼくたちを通してくださいな、親切なだんな……。おふくろは病気で、おやじは死んじまったんです。弟といっしょに畑でじゃがいもを取れるかどうか行ってみたいんです」
彼は泣いて見せた。ステンヌは恥ずかしくてたまらず、顔を伏せた。歩哨は彼らをちょっとながめ、人気《ひとけ》のない白っぽい街道《かいどう》へ目をやった。
「早く行けよ」と言って彼はそこを離れた。こうして今、彼らはオベルヴィリエへの道を歩いていた。大きい子のほうは笑った!
夢で見るようにぼんやりとステンヌ少年は兵営に変わった工場や、濡《ぬ》れたぼろきれをならべたバリケード、霧《きり》を突き抜けて空にそびえている亀裂《きれつ》のはいったうつろな長い煙突を見た。ところどころに歩哨がおり、頭巾《ずきん》をかぶった将校が双眼鏡でむこうをながめており、また消えかかった火を前にして溶《と》けた雪で水びたしになっているテントがあった。大きな子は道をよく知っていて、哨所《しょうしょ》を避《さ》けるために畑を突っきって行った。それでもしまいに、ここはどうしてもよけて行くわけに行かなかったので、ある義勇兵の前哨中隊のところまで来てしまった。義勇兵たちは小さな防水|外套《がいとう》を着て、ソワソンへの鉄道線路にそって水のたまった溝《みぞ》の底にうずくまっていた。今度はいくら大きな子が例の話をしてもだめで、義勇兵は彼らを通してやろうとはしなかった。そのうち、大きな子がぐずぐず泣き言《ごと》をいっているときに、踏切り番の家からひとりの年取った軍曹《ぐんそう》が道路へ出て来た。髯《ひげ》はまっしろで、しわだらけで、まるでステンヌおやじみたいだった。
「さあさあ、ちびたち、もう泣くんじゃない!」と彼は子どもたちに言った。「行かせてやるよ、じゃがいものところへな。だが、まず中にはいってちょっとあったまって行け……。こごえてるようじゃないか、そっちの小僧《こぞう》は!」
ああ、小さいステンヌがふるえていたのは寒いからじゃなかった、こわかったから、恥ずかしかったからなのだ……。彼らが哨所にはいってみると、幾人かの兵士がとぼしい火のまわりにちぢこまっていた。まったくみすぼらしい火だったが、彼らがその炎《ほのお》で銃剣のさきにさした凍《こお》ったビスケットをあたためていた。皆はたがいにつめよって子どもたちに場所をあけた。そして火酒やコーヒーをすこしばかり飲ませてくれた。子どもたちが飲んでいるあいだに、ひとりの将校が戸口に来て軍曹を呼び、ごく低く何かささやいて大急ぎで立ち去った。
「みんな!」と軍曹は顔をかがやかせて帰って来て言った……。「今夜は≪一戦あるぜ≫……。プロイセン軍の暗号を横取りしたんだ……。今度こそ奪回《だっかい》してやれると思う、あのいまいましいル・ブゥルジェを!」
万歳《ばんざい》と笑い声がいっせいにわきあがった。皆は踊り、歌い、銃剣をみがいた。そしてこの騒ぎをいいことにして子どもたちは姿を消した。
塹壕《ざんごう》を越えるともう見渡すかぎりの平野があり、そのむこうに銃眼《じゅうがん》を穿《うが》った白い壁があった。その壁にむかって彼らは、じゃがいもを拾うふりをするために一足行くたびに立ちどまりながら進んで行ったのだ。
「帰ろう……。行くのはやめようよ」としょっちゅう小さいステンヌは言っていた。
相手は肩をそびやかし、あいかわらず進みつづけた。不意に彼らは銃に装填《そうてん》する、カチカチという音を聞いた。
「伏せろ」と地面に身を投げながら大きな子は言った。
身を伏せてから彼は口笛を吹いた。雪の上で別の口笛が答えた。彼らは這《は》って進んだ……。壁の前の地面すれすれのところに、垢《あか》だらけのベレ帽の下の黄色い二つの口|髭《ひげ》があらわれた。大きい子は塹壕のなかのプロイセン兵の横へ飛びこんだ。
「こいつは弟です」と彼は連れをさして言った。
あまりにも小さかった、このステンヌは。で、プロイセン兵は彼を見て笑い出し、壁のさけめのところまでとどかせるのに抱いてやらねばならなかった。
壁のむこう側には大きな盛《も》り土や倒した木があり、雪のなかに黒い穴があき、その穴の一つ一つに同じ垢《あか》だらけのベレと同じ黄色い口髭《くちひげ》の兵士らが子どもの通るのを見ながら笑っていた。
片すみに、木の幹で掩蓋《えんがい》を作った園丁の家があった。階下は兵隊でいっぱいで、トランプをしたり、どんどん燃えている火でスープをつくったりしていた。キャベツや脂《あぶら》のいい匂《にお》いがした。義勇兵たちの野営とはどれほどの違いだろう! 上の階には将校たちだ。彼らがピアノをひいたりシャンパンの栓《せん》を抜いているのが聞こえた。パリっ子たちがなかにはいると万歳《ウラー》の歓声《かんせい》が彼らを迎えた。子どもたちは新聞をくばった。それから彼らは飲み物をもらい、しゃべらされた。この将校たちはみんなえらそうな意地のわるい顔をしていた。しかし大きい子は場末のわんぱくらしい活気とよたものふうのことばづかいで彼らを楽しませた。彼らは笑い、彼の言ったことばをまねてみせ、こんなところへ持ちこまれたパリのきたない泥《どろ》のなかで嬉々《きき》として笑いころげた。
小さなステンヌもしゃべって見せたかった、自分がばかでないことを証明してやりたかった。彼の前に、ほかの連中よりも年上でまじめなひとりのプロイセン人がいた。仲間から離れて、何かを読んでいた、というよりも読むふりをしていた。なぜならその男の目はステンヌから離れなかったからだ。その視線のなかにはやさしさと非難があった。まるでこの男にはステンヌと同じ年ごろの子どもが国にいて、
「うちのむすこがこんなまねをしているのを見るくらいなら死んだほうがましだ」と心のなかで思っているかのように。
このときからステンヌは、だれかの手が心臓の上に置かれて鼓動《こどう》をさまたげているような気がした。
この良心の呵責《かしゃく》をのがれようとして彼は酒を飲みはじめた。まもなく彼のまわりのものがすべてぐるぐるまわり出した。騒々しい笑い声のただなかで自分の仲間が国民軍やその演習ぶりをちゃかし、マレー区での武装|閲兵《えっぺい》式や堡塁《ほるい》での夜間警急配置のまねをするのがぼんやりと彼の耳に聞こえた。それから大きい子は声を落とし、将校たちはひたいをあつめ、その顔はいかめしくなった。悪党は義勇兵の攻撃を知らせていたのだ……
今度という今度は小さなステンヌも酔《よ》いがさめて憤然《ふんぜん》として立ち上がった。
「そいつはいけないよ、おい……ぼくはいやだ……」
しかし相手は笑うだけで取り合わずにしゃべりつづけた。彼が話し終えるより先にすべての将校は立ち上がっていた。そのひとりは子どもたちに扉《とびら》をさして言った。
「うせろ!」
そして彼らは仲間同士で非常な早口でドイツ語を話しだした。大きい子は銀貨をじゃらじゃら鳴らしながらヴェネチアの総督《そうとく》のようにいばって出た。ステンヌは頭を垂《た》れてそのあとにつづいた。そして彼にあんな気まずい思いをさせた視線を送ったプロイセン人のそばを通ったとき、つぎのように言うかなしげな、ドイツなまりの声を彼は聞いた。
≪よくない、それは……よくない≫
彼は目に涙がうかんできた。
平野に出ると子どもたちは走りだし、いそいで帰った。彼らの袋にはプロイセン兵のくれたじゃがいもがいっぱいはいっていた。それのおかげで彼らは義勇兵の塹壕《ざんごう》を難なく通過した。塹壕では夜の攻撃の準備をしていた。部隊は黙々としてやって来て、壁のうしろにかたまっていた。老軍曹《ろうぐんそう》もいて、わきめもふらずに兵隊を配置していた、いかにも幸福そうな顔で! 子どもたちが通ったとき、軍曹は彼らに気がついて、人のよさそうな微笑を送った……
おお、この微笑は小さなステンヌの心をどれほど痛ませたことであろうか! 一瞬彼はこうさけびたいという気持ちにかられた。
「行っちゃだめです……。ぼくらがあなたがたをうらぎったんです」
しかし大きい子が前に「おまえがしゃべったらおれたちは銃殺されるんだぞ」と言っていたので、おそろしくて何も言えなかった……
クゥルヌーヴで彼らは金を分けるために、見捨てられた家にはいった。分配が正直におこなわれたこと、きれいなエキュ銀貨が上っぱりのなかで鳴るのを聞き、これからやろうとしているガローシュ遊びのことを思うと、小さいステンヌには自分のおかした罪がそれほどおそろしいものと感じられなくなったことは、真実を重んずるために言っておかねばならない。
しかし、かわいそうに、ひとりだけになると、市門をすぎてから大きい子がわかれて行ってしまうと、彼の服のポケットはひどく重くなりはじめ、彼の心臓をしめつける手はいやが上にも力を強めた。パリは彼の目にはもういつものパリには見えなかった。通りすぎる人々はまるで彼がどこから来たのかを知っているかのようにきびしく彼をみつめた。彼の耳にはスパイということばが車輪の音のなかからも、運河沿いで稽古《けいこ》している太鼓《たいこ》の音のなかからも聞こえた。やっと家についた。そして父親がまだ帰っていないのでほっとしながら、彼はいそいで自分の部屋《へや》に上がって、ひどく心の負担《ふたん》になっているあのエキュ銀貨をまくらの下にかくした。
ステンヌおやじは、この夜帰って来たときほどやさしく楽しげだったことは一度もなかった。地方のニュースがはいったのだ。国内の問題は好転していた。食事をしながらこの元《もと》軍人は壁にかけた銃をながめ、いつものようにやさしく笑って子どもに言った。
「なあ、ぼうず、おまえも大きかったらどんなふうにプロイセン兵にむかって行くだろうかな!」
八時ごろ砲声が聞こえた。
「あれはオベルヴィリエだ……。ル・ブゥルジェでたたかってるんだ」と、味方の堡塁《ほるい》のことはなんでも知っているおやじさんは言った。小さいステンヌは蒼《あお》くなった。そしてひどく疲れていると言って寝に行ったが、彼は眠れなかった。砲声はなおもつづいていた。彼は奇襲するため夜しのびよって、かえって自分のほうが待ちぶせに会う義勇兵たちを思いえがいた。自分にほほえみかけたあの軍曹《ぐんそう》を思いだし、その軍曹が雪のなかに倒れているところを眼前《がんぜん》に思いうかべた、そして軍曹とともにどれほど多くの兵士たちが!…… このすべての血の代価が、ここに、彼のまくらの下にかくされているのだ。そして自分が、ステンヌさんの、軍人のむすこである自分が……。涙で息ができなくなった。隣の部屋で父が歩いているのが、窓をあけるのが聞こえた。下の広場で呼集の号音がひびき、遊動兵の一大隊が出撃のために番号をかけていた。たしかに今度こそ本当の戦闘があるのだ。かわいそうに、彼は嗚咽《おえつ》をおさえることができなかった。
「いったいどうしたんだ?」とステンヌおやじははいって来て言った。
子どもはもう堪《た》えられず、ベッドから飛び出し、父親の足もとに身を投げた。そのはずみにエキュ銀貨が床に落ちてころがった。
「これはなんだ? ぬすんだのか?」と老人はふるえながら言った。
と、息もつかずに小さなステンヌは、自分がプロイセン軍のところへ行ったこと、そして何をしたかということを打ち明けた。しゃべるにつれて心臓が楽になるのを感じた。自分の罪をみとめることは彼の心を軽くした……。ステンヌおやじはおそろしい顔をして聞いていた。告白が終わると彼は両手で顔をかくして泣いた。
「おとうさん、おとうさん!……」と子どもは言おうとした。
老人は答えずに彼を突きのけ、金を拾って、「これだけか?」ときいた。
小さいステンヌはそうだとうなずいた。老人は自分の銃と弾薬入れをはずし、金をポケットに入れながら言った。
「よろしい。わしがこれをやつらに返しに行く」
そして、それ以上ひとことも言わずに、うしろをふり返りさえせずに彼は下に降りて、夜の闇《やみ》のなかに出発して行く遊動兵のあいだにまじった。それ以来だれひとり彼の姿を見たものはない。
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母たち
包囲の思い出
その朝わたしは、セーヌ県遊動兵の中尉だった友人の画家B……に会いにヴァレリヤン山《ざん》に行ったのだった。ちょうど奴《やっこ》さんは配置についていた。どうしても部署を離れられないという。で、その堡塁《ほるい》の入り口の前を離れずに、パリのこと、戦争のこと、この地を去った親しい人々のことを話しながら、まるで当直勤務中の水兵のように歩きまわる以外になかった……。突然、遊動兵の軍服を着ながらも徹底して絵かきであることをやめなかったわが中尉君は、ことばを切り、はっと立ちどまり、わたしの腕を取って、「おお、すばらしいドーミエ〔フランスの画家。風刺画で名高い〕だ」と低くわたしに言った。
そして、猟犬の目のように、にわかにかがやきだしたこの灰色の小さな目のはしで彼は、ヴァレリヤン山の丘の上にあらわれたふたりの年寄りのシルエットをわたしにさして見せた。
なるほど、すばらしいドーミエだ。栗色《くりいろ》の長いフロックコートに、木についた古い苔《こけ》で作ったように見える緑がかったビロードの襟《えり》飾りをつけた男のほうは、やせて、背幅が広く、赤ら顔で、ひたいはくぼみ、目はまるく、梟《ふくろう》のくちばしのような鼻をしている。おごそかでおろかしげな、しわのよった鳥の頭のような顔だ。おまけに、壜《びん》の口がのぞいている花模様のつづれ織りのバッグをぶらさげ、もう一方の小脇には罐詰《かんづ》めをかかえている。それを見ればパリの人々ならあの五か月の封鎖《ふうさ》を思わずにいられない、あのおきまりの罐詰めを……。女のほうは、ばかでっかい鍔広帽子《シャポー・カプリオル》と、みじめさをはっきりときわだたせるためででもあるように上から下までぴったりとからだに寄せつけた古いショールしか最初は目にはいらない。やがてときどき、頭巾《ずきん》の色あせた襞《ひだ》飾りのあいだからとんがった鼻の先と幾本かの白くなりかけたまずしい髪の毛がのぞく。
丘の上まで来るとじいさんのほうは立ちどまって、息をつき、ひたいをぬぐった。十一月の末の霧《きり》のなかのこの丘の上で暑くはなかったのに。だが、彼らはそんなにもいそいで来たのだ!……
ばあさんのほうは止まらなかった。まっすぐ堡塁《ほるい》の入り口のほうへ進みながら、何か話しかけようとするかのように彼女はためらいながらちょっとわたしたちを見た。だが、たぶん将校の金筋の階級章に気おくれしたのだろう、彼女は歩哨《ほしょう》のほうに話しかけた。彼女がおずおずと、パリの第三大隊第六中隊の遊動兵であるむすこに会わせてくれと頼んでいるのがわたしの耳に聞こえた。
「ここで待っててください」と衛兵《えいへい》は言った。「今呼ばせますから」
安堵《あんど》の吐息《といき》をついてほんとうにうれしそうに彼女は夫のほうをふりかえった。そしてふたりはちょっと離れた斜面の縁《ふち》へ行って腰をおろした。
彼らはそこでずいぶん長く待った。このヴァレリヤン山はひじょうに大きくて、庭や斜堤や稜堡《りょうほ》や営舎や穹窖《きゅうこう》〔弓形のあなぐら〕が複雑に入りくんでいるのだから! 天と地のあいだにぶらさがって、ラピュタ島のように雲のただなかに螺旋《らせん》状にただよっているこの錯綜《さくそう》した一都市のなかで、第六中隊の一遊動兵をさがしに行ってみたまえ! しかもこの時刻は、堡塁は太鼓手《たいこしゅ》やラッパ卒、かけまわっている兵隊やがらがら鳴っているブリキ罐でいっぱいなのだ。衛兵交代、使役《しえき》、配給、血だらけのスパイが義勇兵に銃の台尻《だいじり》でこづかれながら来る、ナンテールの百姓たちが将軍に苦情を述べに来る、騎馬伝令が全速力でやって来る、馬上の人はこごえきり、馬は汗《あせ》みどろで。前線陣地から負傷兵を椅子つきの鞍《くら》にのせて帰って来る騾馬《らば》たち、負傷兵は騾馬の脇腹で病んだ子羊のように静かにうめいている。笛の音とともに「えいさ、ほ!」と新しい大砲をひっぱって行く水夫たち、シャスポ銃を負《お》い革《かわ》で背にかけて、長い棒を手に持った赤ズボンの牧夫に追われて行く堡塁の羊の群れ。これらすべてが広場を右往左往し、すれちがい、東洋の隊商宿の低い門をくぐるように堡塁の門のなかへなだれこんで行くのだ。
「むすこのことを忘れてくれなきゃいいが!」と、そのあいだあわれな母親の目は言っていた。そして五分ごとに彼女は立ち上がり、そっと入り口に近づいて、じゃまにならないように壁に身をよせながら前庭にちらっと目をやる。が、子どもが物笑いにされるのをおそれて彼女はもう全然きこうとはしない。亭主のほうは彼女よりもっと小心で、すわったところから動かない。そして彼女ががっかりした顔で心を痛ませながらもどって来て腰をおろすたびに、亭主が彼女のこらえ性《しょう》のないのをしかり、知ったかぶりをしようとするおろか者らしい身ぶりで、勤務上のやむをえない事情をくどくどと説明しているのが見てとれた。
見るというよりも推察《すいさつ》される、こういうひっそりとした内輪なささやかな場面、町を歩いているときすぐそばで演じられているのが、何かの身ぶりでふと気づかれるようなこういう街頭の無言劇には、わたしはいつもひじょうな好奇心を持っていた。しかしここでとりわけわたしの心をとらえたのは、この人物たちのぎこちなさ、素朴《そぼく》さだった。そしてわたしは、天使長を演ずるふたりの俳優の魂のように表現に富んで透明な彼らの身ぶりを通じて、愛すべき家庭ドラマの一部始終をたどることに本当の感動をおぼえたものだ……
ある朝、母親がこうひとりごとを言うところがわたしの目に映じた。
「あのトロシュさんて人もこまったもんだね、うるさいことを言ってさ……。もう三か月もあたしゃ子どもに会ってないんだよ……。行って接吻《せっぷん》して来てやりたいわ」
小心で無器用《ぶきよう》な生き方しかできない父親は許可証を得るために歩きまわらねばならないのを考えるとおたおたして、さしあたり彼女を説得しようとする。
「まあ冗談《じょうだん》じゃないよ、おまえ。あのヴァレリヤン山てのはたいへんなんだよ……。どうしてあすこへ行くっていうんだい、車もなしに? そのうえあれは要塞《ようさい》なんだぞ! 女ははいれないんだ」
「あたしははいるよ、あたしは」と母親は言う。
そして、細君のしろと言うことはなんでもする亭主だったから、彼は≪おみこし≫をあげた。地区へ行き、区役所に行き、司令部へ行き、警察へ行った、こわくて冷汗《ひやあせ》をかき、寒さにこごえ、どこへ行っても何かにぶつかり、ある役所では二時間も行列に加わったあげくそれがおかどちがいだったというような目にあいながら。やっと夕方彼は司令官の許可証をポケットに入れて帰って来た……。あくる日はきびしい寒さのなかでランプをつけて朝早く起きた。父親はからだをあたためるためちょっと何かたべたが、母親のほうはひもじくなかった。彼女にはあちらでむすこといっしょに食事をするほうがよかったのだ。そしてあわれな遊動兵に少々ごちそうしてやろうと、大急ぎで包囲にそなえた食糧のたくわえの取って置きのものまでも大きなバッグにつめこむ。チョコレート、ジャム、壜詰《びんづ》めの上等のぶどう酒、罐詰《かんづ》め、最悪の食糧|欠乏《けつぼう》の日にそなえて後生《ごしょう》だいじにしまってあるあの八フランの罐詰めにいたるまでの何もかもを。そうして彼らは家を出た。彼らが城壁《じょうへき》のところへついたときは、ちょうど門があいたばかりだった。許可証を見せねばならなかった。今度はびくびくしたのは母親のほうだ……。だが、だいじょうぶ、許可証はちゃんとしたものだったらしい。
「通してやれ!」と当直の準士官は言った。
それでやっと彼女は息をついた。
「とてもていねいだったわね、あの将校は」
そして、まるで鷓鴣《しゃこ》の雛《ひな》のように身軽に彼女はちょこちょこ歩いて行く。彼女はいそぐ。亭主は遅れまいとすると苦労する。
「なんて足がはやいんだね、おまえは!」
しかし彼女は亭主の言うことなど耳に入れない。むこうの、地平線の靄《もや》のなかで、ヴァレリヤン山が彼女をさしまねいているのだ。
「早くおいで……あんたの子はここにいるよ」と。
そしてようやくたどりついた今、新しい不安にさいなまれている。
もしあの子が見つからなかったら! もし来られなかったら!
突然わたしは、彼女がびくっとし、老人の腕をたたき、さっと身を起こすのを見た……。遠くの堡塁《ほるい》の門のアーチの下に、彼女は子どもの足音を聞きつけたのだ。
あの子だ!
彼があらわれたとき、堡塁の正面は彼の姿から発する光で照らされていた。
いやまったく。背の高い美男子だ、背嚢《はいのう》を背に、銃を手にしてすっくりと立って……。快活な顔をしてふたりに近づき、男性的なうれしそうな顔で言う。
「こんにちは、おかあさん」
たちまち背嚢も毛布《もうふ》もシャスポ銃も何もかも、大きな鍔広帽子《シャポー・カプリオル》のなかにかくれてしまう。それから今度は父親の番だが、彼のほうは長くはなかった。鍔広帽子はすべてを自分でひとりじめにしたいのだ。飽《あ》くことを知らない……
「元気かい?……着るものはちゃんと着ているかい?……下着はどうだい?」
そして頭巾《ずきん》の襞《ひだ》飾りのかげに、接吻《せっぷん》や涙や小さな笑い声の雨のなかで足の先から頭までむすこの全身を包む愛情のたけをこめた視線をわたしは感じとった。三か月もたまっていた母性愛をいちどきに吐き出しているのだ。父親のほうもひじょうに感動していた。しかし彼はそういうようすを見せたがらなかった。わたしたちが見ていることを彼はさとって、
「ゆるしてやってください……女ですからね」とでも言おうとするかのように、わたしたちのほうへまばたきして見せた。
ゆるすのなんのって!
ラッパの号音がふいにこの美しいよろこびの上にひびきわたった。
「呼んでる。もう行かなくちゃ」と子どもは言った。
「なんだって! あたしたちといっしょにお昼をたべないのかい?」
「だめだよ! そんなわけにゃ行かない……。堡塁の上で二十四時間|歩哨《ほしょう》に立つんだから」
「おお!」とあわれな女は言った。
それ以上彼女は言えなかった。
三人はしばらく、茫然《ぼうぜん》としたようすで顔を見合わせていた。それから父親が口を切って、
「せめて罐詰《かんづ》めを持って行ってくれ」と、食いしんぼがごちそうをあきらめたときのいじらしくもこっけいな表情をして、悲痛な声で言ったものだ。
ところが、別れに胸がせまっておろおろしているので罐詰《かんづ》めが見つからない、あのいまいましい罐詰めが。熱っぽくふるえる手がせかせかと動き、さがしまわっているのは見るもあわれだった。こんな家庭の些事《さじ》を大きな苦痛のなかにまじえることを恥じもせずに、「罐詰《かんづ》め! 罐詰めはどこだ!」と言っている、涙でとぎれとぎれな声を聞くのは……。罐詰めが見つかると最後の長い抱擁《ほうよう》、そして子どもは駈け足で堡塁《ほるい》へ帰った。
この昼食のために、彼らははるばるとやって来たのだということ、この昼食をたいへんな饗宴《きょうえん》のように思いなしていたこと、そのため母親は夜も眠らなかったことを考えてもみたまえ。≪おじゃん≫になったこの楽しみ、ちょっと扉が開いたかと思うとたちまちこのように乱暴にとざされたこの天国の片すみ、これ以上うらめしいことがはたしてあるだろうか?
彼らはなおしばらく待っていた、その場に身動きもせず、子どもが姿を消した入り口にじっと目をそそぎながら。ようやく亭主が気をとりなおし、くるりと向きを変え、まことに健気《けなげ》な顔で二、三度|咳《せき》をして、今度はゆっくりした声で、
「さあ、おかあさん、行こう!」と、いやにはしゃいで声高く言った。
それから彼はわたしたちにていねいにおじぎをし、細君の腕《うで》をとった……。わたしは道のまがるところまで彼らを見送った。父親は非憤《ひふん》やるかたないようすだった。絶望的な身ぶりで彼はバッグをふりまわしていた……。母親のほうはそれよりおちついているらしく見えた。頭を下げ、両腕をからだにつけて亭主とならんで歩いていた。けれどもときどきそのせまい肩の上で、ショールが引きつったようにふるえるのが見えるようにわたしには思われた。
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ベルリン包囲
わたしたちはV……医師といっしょにシャン=ゼリゼ大通りをのぼりながら、砲弾に穴をあけられた壁や榴霰弾《りゅうさんだん》にえぐられた歩道に包囲時代のパリの歴史をさぐっていたが、エトワール広場に出るちょっと手前で医師は立ちどまり、凱旋門《がいせんもん》のまわりに華美《かび》をきそいながらかたまっている、あの大きな町かどの家々の一つをさしてわたしに言った。
「あのバルコンの上に、とざされた四つの窓があるでしょう。八月の、嵐《あらし》と災禍《さいか》に満ちた去年のあの八月の初め、わたしは急性の卒中の患者《かんじゃ》のためにあそこへ呼ばれたんです。第一帝政時代の胸甲騎兵《きょうこうきへい》で栄光と愛国主義にこりかたまったジューヴ大佐のところへ。大佐は戦争がはじまるとすぐシャン=ゼリゼへやって来てバルコンつきの部屋に住んだ……なぜだかわかりますか? わが軍隊の凱旋を見るためなんですよ……。かわいそうに! 食事を終えて立ち上がろうとしたときにヴィサンブールのニュース〔プロイセン王子の率いるドイツ軍が仏軍を奇襲して後退せしめた〕を聞いたのです。この敗報の終わりのほうでナポレオンの名を読むなり雷に打たれたように彼は倒れました。
行ってみると、もと胸甲騎兵は部屋の絨毯《じゅうたん》の上に長々と横たわっていた。頭を棍棒《こんぼう》でなぐられたように血だらけの生気のない顔をして。立ったらよっぽど背が高かったでしょう。倒れたままでも、ものすごく大きく見えました。顔だちはととのって、みごとな歯をし、すっかりちぢれた白髪《はくはつ》はふさふさしている、八十歳なのが六十代にしか見えない……。かたわらに孫娘がひざまずいて涙にくれていました。娘も彼に似ている。ふたりならんでいるのを見ると、同じ鋳型《いがた》で鋳られた二つのギリシャのメダルみたいでした。ただ一方は古く、どろでよごれ、輪郭《りんかく》がすこしぼやけているに対して、もう一方はかがやかしく鮮明で、新しい刻印《こくいん》のつややかさとなめらかさを持っているだけです。
この子のかなしみようはわたしの胸を打ちました。軍人の子であり孫である彼女、父は、マク=マオンの司令部にいましたが、自分の前に横たわっているこの背の高い老人を見ると、同じようにおそろしいもう一つのイメージが彼女の心にうかぶのでした。わたしはできるだけ彼女を安心させてやった。が、実はわたし自身あまり希望は持っていなかったんです。なにしろ典型的な半身|麻痺《まひ》で、八十歳という年じゃあ、まず恢復《かいふく》することはない。事実三日というもの、病人はずっと動けず意識|朦朧《もうろう》のままでした……。そうしているあいだにライシュスオッフェンのニュース〔この小村で仏軍司令官マオンは指揮下の胸甲騎兵に独軍を奇襲させたが、失敗に終わる〕がパリにとどいた。おぼえておいででしょう、実に奇妙な話で。夕方までわれわれはみんな大勝利を信じていました、プロイセン軍の死者二万、王子を捕虜《ほりょ》にした、と……。どんな奇跡、どんな磁力によってか知りませんが、この国をあげての喜びの反響が、中風で意識もない耳も聞こえず口もきけないこのあわれな病人のところまでとどいたのでしょう。とにかくその夜、彼のベッドに近づいたとき、そこにいたのはもう全然別の人間でした。目はほとんど澄み、舌《した》も前ほどもつれていない。わたしに微笑するだけの力もあり、どもりながら、
『勝……利……!』と二度言いました。
『ええ、大佐、大勝利ですよ!……』
そしてわたしがマク=マオンの成功について委細《いさい》を話して行くにつれ、彼の表情がやわらぎ、顔がかがやき出すのが見えました……
部屋《へや》を出ると、娘がわたしを待っていました、蒼《あお》い顔でドアの前に立って。すすり泣いているのです。
『あのかたは救われたんですよ!』とわたしは彼女の両手をとって言ってやりましたよ。
不幸な子どもにはわたしに答える元気すらほとんどなかった。ライシュスオッフェンの真相がちょうど掲示されたんです。マク=マオンの敗走、全軍の壊滅《かいめつ》……。わたしは彼女と茫然《ぼうぜん》として目を見かわした。彼女は祖父のことを考えて悲歎《ひたん》にくれていた。わたしも老人のことを考えてからだがふるえた。もちろん彼はこの新しい衝撃《しょうげき》には堪え得ないだろう……。それにしてもどうしたらいいか?……彼をよみがえらせたよろこびを、幻影《げんえい》をうばわないでおこうか?……が、そうなれば嘘《うそ》をつかねばならない……
『いいわ、あたし嘘をつきます!』と雄々《おお》しい娘はすばやく涙をぬぐってわたしに言いました。
そしてはれやかな顔をして祖父の部屋へもどったのです。
彼女がこうして引き受けたのはやりきれない仕事でした。はじめの数日はそれでもなんとかきりぬけられた。なにしろ相手は頭が弱くなっていて、子どもみたいにたわいなくだまされている。けれど健康をとりもどすとともに、頭もだんだんはっきりしてくる。軍の動きを知らさなければならないし、戦報も彼のために取捨《しゅしゃ》してやらねばならない。この美しい娘が夜昼問わずドイツの地図の上に身をかがめて、小さな旗をあちこちに立てながら、勝利のいくさをうまくこしらえあげようと頭をしぼっているのは、まったく見るもあわれでした。バゼーヌはベルリンへ向かい、フロワサールはバイエルンに陣し、マク=マオンはバルト海へ向かうといったぐあいに。
このすべてについて彼女はわたしの助言を求め、そしてわたしもおよぶかぎり彼女を助けました。が、この架空《かくう》の進攻についてわたしたちの力になったのは、だれよりも当の祖父なのでした。この人は第一帝政時代に何度もドイツを征服したんですからね! 彼はすべての手をあらかじめ知っていました。『今度はこちらへ進むぞ……。今度やることは……』そしてこういう予想はいつも的中しました。もちろんこれは彼をますます得意にさせずにはおかない。
困ったことに、われわれがいくら町を占領し、戦闘に勝ってもなんにもならない。彼にとっては、われわれの進撃はいつもおそすぎるんですよ。飽《あ》くことを知らなかった、この老人は! 毎日出かけて行くたびにわたしは新しい武勲を聞かされたもんです。
『先生、わが軍はマインツを占領しました』と、娘はかなしい微笑をうかべてわたしを迎えに歩みよりながら言う。
そしてドアのむこうからたのしげな声がわたしに向かってさけぶのが聞こえる。
『うまく行くわい!……一週間後にはベルリン入城でしょう』
このときプロイセン軍はもはやパリからわずか一週間の距離にいたのですよ……。わたしたちははじめ、彼を田舎《いなか》に移したほうがよくはないかと考えました。が、一歩外へ出たら、フランスの現状がいっさいを彼に教えてしまうだろうし、わたしの見るところ彼はまだあまりにも弱く、あのひどい打撃によってひどく麻痺《まひ》しているので、真相を知らせることはとてもできない。で、とどまることにきめたのです。
包囲の最初の日、わたしは――今でもおぼえていますが――ひどくみだれた心で彼らの家に行きました。パリのすべての城門がとざされ、城壁の下で戦闘がおこなわれ、市の郊外が国境になったことに、皆と同じくやりきれない不安を感じながら。行ってみると、じいさんは喜色満面《きしょくまんめん》にうかべて得意そうに床の上にすわっている。
『どうです! いよいよはじまりましたよ、あの包囲が!』
わたしは唖然《あぜん》として彼を見た。
『なんですって、大佐、知ってらっしゃるんですか?』
孫娘がわたしのほうをふりむいて、
『知っていますとも、先生……。大ニュースですわ……。ベルリン包囲がはじまったのです』
彼女はそれを、縫《ぬ》い物をしながら、いかにもおちついてものしずかなようすで言ったんです……。どうして彼が何かに感づくはずがありましょう? 弔砲《ちょうほう》など彼は聞くことができない。暗澹《あんたん》とした、色をうしなった不幸なパリなど見ることはできない。彼のベッドから見えるのは、凱旋門《がいせんもん》の一部と、部屋のなかの自分の身のまわりの、彼のいだく幻想《げんそう》をかえって助長するような第一帝政時代の骨董品《こっとうひん》ばかり。元帥《げんすい》たちの肖像、戦争の版画、ベビー服を着たローマ王。それからひどくごつごつした足のまがった大きなテーブル、これらは銅の武器飾りをつけ、帝政時代のさまざまの遺物、メダイユやブロンズやガラスのおおいに入れたサン=テレーヌ〔ナポレオン一世が配流されたセントヘレナ島〕の岩や、袖《そで》のふくらんだ黄色いローブという舞踏会の衣装姿の、すずしい目をしてこまかく髪《かみ》をちぢらせた同じ貴婦人をえがいたいくつかのミニアチュールがその上にのっている。これらのテーブルも、ローマ王も、元帥たちも、ウェイストラインが高く帯《おび》が高くついた――一八〇六年代には優美と見られた、あの四角ばったかたくるしさ――黄衣の貴婦人たちも、すべては……。ああ、正直な大佐! わたしたちが話して聞かせたすべてのことよりも、この戦勝と征服の雰囲気《ふんいき》こそ、彼にこれほどまで素朴《そぼく》にベルリン包囲を信じこませていたのです。
この日からわたしたちの作戦はまことに簡単なものとなった。ベルリン攻略、これはもう根気の問題でした。ときどき、老人が退屈しすぎている場合には、むすこの手紙を読んでやる。むろん、架空《かくう》の手紙です。もうパリには何もはいって来なかったのだし、スダンの敗戦以後マク=マオンの幕僚《ばくりょう》はドイツ国内の要塞《ようさい》へ送られていたのですからね。このあわれな娘の絶望は想像できるでしょう。父親が捕虜になって、すべてをうばわれ、もしかすると病気にもなっているかもしれないのに、なんの消息もない、しかもその父親に手紙で語らせなければならない、征服した国のなかへたえず前進をつづけている出征軍人がいかにも書きそうな、愉快そうな、あまり長くない手紙のなかで。ときには彼女の気力も失せた。何週間も消息がなくなる。老人は心配し、眠らなくなる。すると、たちまちドイツから手紙が来、彼女は涙をおさえながらベッドのそばで快活にそれを読んでやるのです。大佐は夢中になって耳をかたむけ、心得顔に笑って見せ、賛成し、批評し、少々はっきりしない箇所をわたしたちに説明してくれる。が、何より彼があっぱれなところを見せたのは、むすこに送った返事のなかででした。
『自分がフランス人だということをけっして忘れてはいけない……。あわれな人々に対しては温情《おんじょう》を持て。彼らにとってあまりにもたえがたい侵略をするな……』
それからはもうとめどもない忠告、所有権の尊重、婦人に対する礼儀についてのすばらしいお説教ばかりでした。まさに征服者のための軍紀集です。政治について、敗戦国に課すべき講和条件についての一般的考察もそのなかにはいっていました。この点については、これは言っておかねばなりませんが、彼はきびしくはなかった。
『戦費|賠償《ばいしょう》以上は何も要求しない……。いくつかの州をうばったところで何になる?……。ドイツをもってフランスが作れるというのか?……』
彼はこれをしっかりとした声で口述《こうじゅつ》したのですが、そのことばのなかにはひじょうな無邪気《むじゃき》さとじつにりっぱな愛国的信条が感じられ、聞きながら胸を打たれずにはいられませんでした。
そのあいだにも包囲は着々と進んでいました、残念ながらベルリンの包囲ではありませんが!……それはちょうど厳寒と砲撃と伝染病と飢餓《きが》の時期でした。けれどもわたしたちの配慮《はいりょ》、わたしたちの努力、彼の身をますます包んで行く疲れを知らぬやさしいいたわりのおかげで、老人の心の平静は全然みだされませんでした。最後までわたしは彼のために白いパンと新鮮な肉を手に入れてやることができた。いやまったくの話、彼の分だけしかなかったんですよ。まことに何も知らずに手前勝手なこの祖父の昼食以上にいじらしいものは想像もつかんでしょうよ。じいさんは床の上でナフキンを顎《あご》の下にあてて元気よく笑っている。そのかたわらでは耐乏《たいぼう》生活のためちょっと顔色の悪い孫娘が、祖父の手をみちびいて、飲ませたり禁断のごちそうをたべさせたりしている。すると、外では冬の北風が吹きまくり、窓には雪がうずをまいて吹きつけているというのに、快適なあたたかい部屋のなかでする食事に元気づいて、この元|胸甲騎兵《きょうこうきへい》は、これまでもう百遍近く聞かせた、こおったビスケットと馬の肉しか食べるもののなかった、あの惨憺《さんたん》たるロシアからの退却の話をまたはじめるのでした。
『わかるかい、娘や! わしらは馬を食っていたんじゃよ!』
もちろん娘にはよくわかったでしょうよ、この二か月、彼女はそれ以外のものをたべていないんですから……。けれども恢復《かいふく》が進むにつれて一日一日と病人のまわりでのわたしたちの仕事はむずかしくなりました。あらゆる感覚の麻痺《まひ》、四肢の麻痺は、それまでわれわれにとってひじょうにつごうのいいものだったのですが、それがなくなりはじめた。すでに二度か三度、マイヨ門での猛烈な一斉射撃を聞いて、彼は猟犬のように耳を立てて飛び上がったことがあったのです。バゼーヌがベルリン近傍《きんぼう》で最後の勝利を得、それを祝って廃兵院《アンヴァリッド》で祝砲をうっているのだという作り話をしなければなりませんでした。
また別の日、ベッドを窓ぎわへ寄せたとき――ビュザンヴァルの合戦〔パリを攻囲した独軍にトロシュ将軍麾下の仏軍が攻撃を加えて敗北した〕のあった木曜だったと思いますが――グランダルメ大通りに集っている国民軍を彼ははっきりと見てしまった。
『いったいなんだ、あの部隊は?』とじいさんは言いました。
それから彼が口のなかで、『ひどい服装だ! ひどい服装だ!』と腹だたしげにつぶやいているのが聞こえたものです。
それ以外のことは起こらなかった。しかしわたしたちは、今後よほど気をつけねばならないとさとりました。が、不幸にしてまだ足《た》りなかったのです。
ある夜わたしが行ったとき、娘はひどくとりみだしてわたしのほうへ来ました。
『あす入城です』と彼女は言いました。
祖父の部屋は開いていただろうか? とにかく、あとで考えてみると、その夜の彼の顔つきはただならぬものだったことが思いあたります。おそらく彼はわたしたちの話を聞いてしまったのでしょう。わたしのほうはプロイセン軍のことを言っていたのだ。ところがじいさんはフランス軍のこと、彼がもうずっと前から首を長くして待っていたあの凱旋《がいせん》のことを考えてしまった。花の雨と軍楽隊の奏楽のなかにマク=マオンは大通りを進んで来る、自分のむすこは元帥《げんすい》のかたわらにいる。そして老人自身はリュッツェン〔ナポレオン一世はここで露軍およびプロイセン軍に襲われたネー将軍を助けた〕のときのように正装でバルコンに立って、穴をあけられた軍旗や火薬ですすけた鷲《わし》のしるしに敬礼するのだ……
かわいそうなジューヴじいさん! きっと彼は、わたしたちがあまりはげしい感動をさけさせるためにわが軍のこの分列行進を見させまいとしていると思ったのでしょう。だから彼は気をつけて何も言わぬようにした。そして翌日、プロイセン軍の大隊がマイヨ門からチュイルリーに通じる長い道をおずおずと進み出したときに、上の窓がそっと開かれ、大佐がバルコンにあらわれたのです。ヘルメットをかぶり長い軍刀をおび、昔のミヨー麾下《きか》の胸甲騎兵の名誉ある古装束《ふるしょうぞく》をことごとく身につけて。どのような意志力、どのような生命力の昂揚《こうよう》によって彼が起き上がり、軍装に身をかためることができたのか、今でもわたしにはふしぎです。とにかくはっきりしているのは、彼が手摺《てすり》のうしろに立って、どの大通りもひろびろとして音もなく、家々のよろい戸はとざされ、パリは大きな検疫所《けんえきじょ》のように無気味《ぶきみ》で、そこらじゅうに旗は立っているが、しかしそれは白地に赤い十字の奇妙な旗であり、だれひとりわが軍の兵士たちを迎えに行かないことに驚いていたということです。
一時《いっとき》彼は自分の見まちがいではないかと思った……
が、ちがう! むこうの、凱旋門《がいせんもん》のうしろに、ざわざわという物音、そして朝日をあびて進む黒い列……。やがてだんだんとヘルメットの尖頂《せんちょう》がかがやき、イエナの小太鼓《こだいこ》が鳴り出し、エトワール広場の凱旋門の下で、各部隊の重い足音とサーベルのがちゃがちゃいう音にリズムを合わせてシューベルトの『軍隊行進曲』がはじまった!……
そのとき、広場の陰鬱《いんうつ》な沈黙のなかで、一つのさけび、おそろしいさけびが聞こえました。『武器を取れ!……武器を取れ!……プロイセン軍だ』そして前衛の四人の槍騎兵《ウーラン》には、むこうのバルコンの上でひとりの背の高い老人が腕をふりまわしながらよろめき、ばったりと倒れるのが見えた。今度こそジューヴ大佐は本当に死んだのです」
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わるいアルジェリア歩兵
サント=マリ=オ=ミーヌの大男の鍛冶屋《かじや》ロリはその夜どうもおもしろくない気持ちだった。
ふだんは日が暮れて鍛冶屋の炉《ろ》の火が消えるやいなや、彼は戸口の前のベンチに腰をおろして、一日はげしく働いて来たあとの、あのこころよい疲れを味わい、そして徒弟たちを返す前に、工場の出口をながめながら彼らといっしょにつめたい一杯のビールをあおるのであった。ところがその夜は、大将は食事になるまで鍛冶場《かじば》を離れなかった。しかも食卓へも、まるでいやいやながらといったぐあいにやって来る。ロリのかみさんは亭主を見ながら考えた。
「この人どうしたんだろう?……もしかすると連隊からわるい知らせがあって、それをあたしに言いたくないのかしら?……ひょっとすると長男が病気にでも……」
が、あえて何もきかずに彼女は、クリームをかけた黒蕪《くろかぶ》のおいしいサラダをかじりながら食卓のまわりで笑いさざめいている、焦《こ》げた麦の穂《ほ》のような金髪の三人の子どもをだまらせることにかかりきっていた。
しまいに鍛冶屋は憤然《ふんぜん》と皿をおしやった。
「ああ、やくざども! ああ、悪党どもめ!……」
「まあ、だれのことをおこっているのよ、ロリ?」
彼は爆発した。
「フランス兵の軍服を着てバイエルンのやつらと腕を組んでけさから町を歩きまわっている五、六人の野郎どものことさ……。そのうえ――やつらはどう言ってやがるのか知らねえが――プロイセンの国籍をえらんだのもやつらの仲間だ……。しかも毎日むこうから帰って来やがるじゃねえか、あのいんちきアルザス人どもは!……いったいどうしやがったんだろう?」
母親は彼らを弁護しようとした。
「しかたがありませんよ、あの連中がわるいとばかりは言えませんからね……。何しろ遠いもの、連中のやられるアフリカのアルジェリアってところは!……故郷がなつかしくてたまらなくもなろうしさ。それに、兵隊をやめて国にかえりたいっていう誘惑はずいぶん強いでしょうよ」
ロリはげんこつでテーブルをどかんとたたいて言った。
「だまりな、おっかあ!……おまえたち女ってものはこういうことは全然わからねえんだ。いつも子どもたちといっしょに、子どもたちのためだけに生きてるから、ありとあらゆることを自分の餓鬼《がき》の背たけまでちぢめっちまいやがる……。いや、おれは断言《だんげん》するぞ、あんなやつらはやくざだ、うらぎり者だ、卑怯者《ひきょうもの》中の卑怯者だ、そしてもし不幸にしてうちのクリスチャンがあんな恥知らずをやってのけたら、おれがジョルジュ・ロリという名で七年間フランス猟騎兵《りょうきへい》をつとめたという事実と同じくこれはいつわりない話だが、おれはサーベルであいつを串《くし》ざしにしてやるぞ」
そうしておそろしい顔をして腰を浮かして、鍛冶屋《かじや》は自分のむすこの写真、アフリカの現地で撮《と》った|アルジェリア歩兵《ズワーヴ》姿の写真の下の壁にかけた猟騎兵の長剣をさした。けれども、強烈な光線に当たってどぎつい色が白くぬけて見える、日にやけて黒くなったそのアルザス人らしい実直な顔を見ると、たちまち気もしずまって彼は笑いだした。
「おれとしたことが、こう興奮《こうふん》するとはどうかしているな……。うちのクリスチャンがプロイセン人になろうと思うはずがねえじゃないか、戦争のあいだあれほど敵をたおしたっていうのに!」
そう考えてまた上機嫌《じょうきげん》になったおやじさんは、愉快そうに食事を終えると、さっそく『ヴィル・ド・ストラスブール』の店にジョッキを二杯ひっかけに行った。
今はロリばあさんがひとり残された。もう寝かされた三人の金髪の子は隣の部屋で眠りにはいろうとする鳥の巣のようにぺちゃくちゃさえずっていたが、彼女は針仕事《はりしごと》をはじめ、庭のほうの扉《とびら》の前でつくろい物にとりかかった。ときどき彼女はため息をつき、胸のなかで思った。
「そう、そりゃたしかにそうだろう。卑怯者《ひきょうもの》、うらぎり者だよ……でも、そんなことはどうだっていい! あの連中の母親たちは子どもをとりもどしたのをよろこんでいるわ」
彼女は自分のむすこが軍隊にはいる前、この家でちょうど今ごろの時刻に、小さい庭の手入れをしていたことを思い出す。
むすこが仕事着姿で髪《かみ》を長くのばして――アルジェリア歩兵になるとき、あの美しい髪も切られてしまったが――如露《じょろ》に水をくみに行った井戸のほうを彼女はながめる。
と、突然彼女はぎくっとした。奥の小さな戸、畑に通ずる戸が開かれたのだ。犬どもはほえなかった。けれども、はいって来た男はどろぼうのように壁にそい、蜜蜂《みつばち》の巣箱のあいだを足音をしのばせて来る……
「こんにちは、おっかさん!」
むすこのクリスチャンが彼女の前に立っている、軍服をだらしなく着て、恥ずかしそうにへどもどして、ろくろく口もきけないで。ふがいない子どもはほかの連中といっしょに国へ帰って来ていたのだ。そしてこの一時間、父親が出かけるのを待ってなかにはいろうとして家のまわりをうろついていたのだ。彼女はむすこをしかりつけようと思ったが、そんな元気はなかった。こんなに長いことむすこを見ず、むすこに接吻《せっぷん》しないでいたんだから! それに彼はまことにりっぱな理由をならべたてた、故郷が、鍛冶場《かじば》がなつかしかったんだ、いつも両親と遠く離れて暮らすのがたまらなかった。おまけに軍紀は前よりきびしくはなるし、アルザスなまりのために仲間たちに「プロイセン人」と呼ばれるし。
彼の言うことのすべてを母親は信じた。むすこを信じるには母親はむすこをながめさえすればよかった。話をつづけながらふたりは天井の低い広間にはいっていた。小さい子たちは目をさまして、はだしで寝間着のまま、にいさんに接吻《せっぷん》しに駈けて来た。何か食べさせようとするが、彼は腹はすいていないと言う。ただ喉《のど》がかわいている。ちょっちゅう喉がかわいていると言って、朝から居酒屋でさんざんひっかけてきたビールや白ぶどう酒の酔《よ》いをさまそうとがぶがぶ水を飲む。
が、だれかが中庭を歩いている。鍛冶屋《かじや》が帰って来たんだ。
「クリスチャン、おとっつぁんだよ。さあ、早くかくれて。あたしがそのあいだに話しておくから、わけを言ってやるから……」
そして彼女は陶器《とうき》の大きなストーヴのうしろにむすこをおしこみ、ふるえる手でまた針仕事《はりしごと》をはじめる。あいにくとアルジェリア歩兵の赤帽《シェシア》がテーブルの上に残されていた。そしてロリがはいって来て第一に目にはいったのがそれだった。母親の蒼白《そうはく》な顔、困惑《こんわく》の体《てい》……。彼はすべてをさとった。
「クリスチャンが来てるな!……」と彼はおそろしい声で言った。
そして狂ったような動作でサーベルをはずし、アルジェリア歩兵が蒼白《そうはく》になって、酔いもさめ、倒れまいとして壁によりかかってうずくまっているストーヴのほうにすっとんで行った。
母親はふたりのあいだに身をおどらせた。
「ロリ、ロリ、この子を殺さないで……。あんたが鍛冶場《かじば》でこの子を必要としているからと言って、帰って来いとあたしが書いてやったんだよ……」
彼女は夫の腕《うで》にしがみつき、からだをひきずり、すすり泣いた。寝室の闇《やみ》のなかで子どもたちも、だれの声かもうわからないほど変わった、怒りと涙にみちたこの声を聞いて泣きわめいた……。鍛冶屋は思いとどまり、細君に目をやって言った。
「ああ、おまえが帰らせたのか……。それならよし、こつは寝るがいい。どうするかはあすになって考える」
翌朝クリスチャンが悪夢と理由のない恐怖にみちた重苦しい眠りからさめてみると、そこは昔ながらの子ども部屋だった。鉛《なまり》の枠《わく》のついた、ホップの花の咲いている小さな窓ガラスを通して、日はもう高く昇ってあたたかかった。下ではハンマーが鉄砧《かなとこ》の上で鳴っている……。母親はまくらもとにいた。彼女は一晩じゅう彼のそばを離れなかったのだ。亭主の怒りがそれほど彼女をおびえさせたからだ。おやじさんも寝なかった。泣き、ため息をつき、たんすをあけたりしめたりしながら、朝まで彼は家のなかを歩きまわっていた。そして今、長いゲートルに大きな帽子、さきに鉄のついたがんじょうな登山杖という旅に出るような身なりで、いかめしくむすこの部屋にはいって来た。まっすぐに彼はベッドへ歩みよった。
「さあ、立て!……起きろ!」
むすこは少々もじもじしながらアルジェリア歩兵の装具《そうぐ》に手を出そうとした。
「ちがう、それじゃない……」と父親はきびしく言った。
すると母親はおずおずと、「だって、おまえさん、この子にはほかにないじゃないか」
「おれのをやれ……。おれはもう何もいらん」
子どもが服を着ているあいだに、ロリは軍服、小さな上着と大きな赤いズボンをていねいにたたみ、荷物ができると、軍の旅行許可書をおさめたブリキの小箱を首にかけた……
「それでは下へ行こう……」と、それから彼は言った。
そうして三人は何も言わずに鍛冶場《かじば》に降りた。≪ふいご≫はうなりをたてていた。みんな仕事にかかっている。むこうであんなによく思い出したこの開かれた大きな仕事場を見ると、アルジェリア歩兵は子どものころのこと、あつい道路と黒いほこりのなかにきらめいている炉《ろ》の火花とのあいだで長いあいだ遊んだことを思い出した。急に胸がせまり、父にゆるしてもらいたいという気持ちがこみ上げて来た。しかし目を上げると、あいかわらず容赦《ようしゃ》のない視線にぶつかるのだ。
とうとう鍛冶屋《かじや》は意を決して話し出した。
「せがれ」と彼は言った。「鉄砧《かなとこ》、道具……これはみんなおまえのものだ……。そしてこれもだ!」と、鉄のいぶされた框《かまち》のむこうに見える、日の光がいっぱいに注ぎ蜜蜂《みつばち》の飛び交っている小庭をも指さして彼はつけくわえた……。「蜜蜂の巣箱も、ぶどうの木も、家も、何もかもおまえのものだ……。おまえはこうしたもののために名誉をなげうったのだから、せめてこうしたものは自分で持っているがいい……。今からおまえはここの主人だ……。おれは行く……。おまえは五年間フランスにつとめねばならない、その負債をおまえのかわりにおれがはらってやるんだ」
「ロリ、ロリ、あんたどこへ行くの?」とあわれなばあさんはさけんだ。
「おとっつぁん!……」とむすこは哀願《あいがん》した……
しかしもう鍛冶屋は行ってしまった、大股《おおまた》に、ふりかえりもしないで……
シディ=ベル=アベスの第三アルジェリア歩兵の倉庫に、数日前から五十五歳の志願兵がいる。
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ブゥジヴァルの振り子時計
ブゥジヴァルからミュンヘンへ
それは第二帝政時代の振り子時計だった。桃色のリボンのはしにX字形にぶらさがっている鍵《かぎ》といっしょにブゥルヴァール・デ・ジタリヤンで買える、アルジェリアの縞瑪瑙《しまめのう》でできた、カンパナふうの意匠《いしょう》で飾った振り子時計の一つなのだ。まったくこれ以上とはなくかわいらしい、これ以上とはなくモダーンな、これ以上とはなくパリ好みの品だった。まさに喜歌劇《ブッファ》に登場する代物《しろもの》で、澄んだきれいな音色《ねいろ》で鳴るが、良識ってものはこれっぱかりもなく、突っ拍子もなくて気まぐれしごく、でたらめに時を告げ、半のところは飛ばし、旦那《だんな》さまには取引所の時刻を、奥方には密会の時刻を正しく知らせたためしは一度もないという始末。戦争がはじまったときにはブゥジヴァルの別荘にいた。こういういかにも脆弱《ぜいじゃく》な夏の館《やかた》、こういう切り紙細工の蠅《はえ》の籠《かご》、明るい色の薄地の絹の上にひらひらしている糸レースやモスリンみたいな一夏だけの家具調度にいかにもぴったりした時計だったのだから。バイエルン兵がやって来たとき、まっさきに掠奪《りゃくだつ》されたものの一つがこれだった。いや、まったくの話、ラインのむこうのこの連中が荷造りにかけてはまことに堪能《たんのう》だったことはみとめねばならない。雉鳩《きじばと》よりたいして大きくもないこのおもちゃ時計が、クルップ砲や榴霰弾《りゅうさんだん》を積んだ輜重車《しちょうしゃ》にまじってブゥジヴァルからミュンヘンまでの長旅をし、≪ひび≫一つ入らずに到着し、翌日早々オデオン広場《プラッツ》の骨董商《こっとうしょう》アウグストゥス・カーンの店頭に陳列されることができたのだから。疲れたようすもなく、かわいらしく、まつ毛のように黒く反《そ》った細い二本の針《はり》も、新しいリボンのさきに十字型にかかった小さな鍵《かぎ》も失わずに、だ。
有名なオットー・フォン・シュヴァーンターラー教授
ミュンヘンではこれは一大事件だった。この土地の人はブゥジヴァルの振り子時計などまだ見たことがなかった。そしてだれもがジーボルト博物館の二本の貝がらでも見るように、ものめずらしげにこの時計をながめに来た。アウグストゥス・カーンの店の前には、朝から晩まで三列のパイプが煙を上げていた。そしてミュンヘンの庶民は目をまるくし、びっくり仰天《ぎょうてん》して Mein Gott!(おお!)とさけびながら、この奇妙な小さな機械は何に使うものかと言い合ったものだ。絵入り新聞はその絵をのせた。その写真はありとあらゆるショーウィンドーに出ていた。そしてこの機械のために有名な博士にして教授なるオットー・フォン・シュヴァーンターラーが、六百ページにおよぶ哲学的・諧謔《かいぎゃく》的研究論文、あの名高い『振り子時計についての逆説』をあらわし、諸国民の生活に対する振り子時計の影響を論じて、狂った羅針盤《らしんばん》をもって海に乗り出した船と同様、このブゥジヴァルの振り子時計のような調子の狂った時計によって時間割をきめるほど頭がおかしい国民はどのような災厄《さいやく》に会うかわからないと、論理的に証明したのである。(文章は少々長いが、わたしは原文どおりに訳したのだ。)
ドイツ人は何事も軽率《けいそつ》にはおこなわない。有名な教授はその『逆説』を書く前に、そのものを徹底的に研究し、昆虫学者のように綿密《めんみつ》に分析してみるため、現物を自分の目で見たいと思った。そこで彼は振り子時計を買った。こうしたわけで時計はアウグストゥス・カーンの店頭から、ルートヴィヒ|通り《シュトラーセ》二十四番に居住する、ピナコテーク〔ミュンヘンにある有名な絵画館〕主事、学芸アカデミー会員たる有名な教授オットー・フォン・シュヴァーンターラー博士のサロンへ移ったのである。
シュヴァーンターラー家のサロン
講演会場のようにアカデミックで厳粛《げんしゅく》なシュヴァーンターラー家のサロンにはいって、まず目を打つのは、簡素な大理石製の、ポリュムニア〔ギリシャ神話の歌の女神〕のブロンズ像がついた、からくりのたいへん複雑な装飾つき振り子時計だった。大きな文字盤のまわりにいくつかの小さな文字盤があって、時も分秒も季節も春分や秋分も何もかもわかり、それのみか台座の中央の透明な青い雲のなかで、月の盈虚《えいきょ》(満ち欠け)までわかるのだ。この強力な機械の音は家じゅうにひびきわたった。階段の下からでも、人生を斉一な小片にきざんで測《はか》っているかのような、アクセントのついたどっしりとした動きで重い振り子が動くのが聞こえた。このカチカチとひびきわたる音のなかで針はふるえながら進むのだ。秒を示す文字盤の上で、時のねうちを知っている蜘蛛《くも》のように仕事に身を燃やしてあたふたと。
そうして時を打った、学校の大時計のように陰気にゆっくりと。そして時が打たれるたびにシュヴァーンターラー家で何かが起こった。シュヴァーンターラー氏が書類をかかえてピナコテークへ出かけて行くとか、あるいはのっぽのシュヴァーンターラー夫人が三人の令嬢と、ホップのささえ棒のように飾りたてたひょろ長い三人の令嬢といっしょにお説教から帰って来るとか。さらにまたシタールやダンスや体操のおけいこがはじまる。クラヴサンのふたが開かれる、刺繍《ししゅう》台や合奏用の譜面台《ふめんだい》がサロンのまんなかに引き出される。それらすべてにおそろしく四角四面に順序手続きがきちんときまっているので、時を告げる最初の音とともにシュヴァーンターラー家の家内一同が動き出し、大きく開いた扉を出たりはいったりするのを聞くと、人はストラスブールの大時計のなかにある十二使徒の人形の行列のことを思いだし、最後の一打ちとともにシュヴァーンターラー一家が時計のなかにまた姿を消してしまうのではないかといつも考えてしまうほどだった。
ブゥジヴァルの振り子時計がミュンヘンの良家におよぼした奇妙な影響
この古色|蒼然《そうぜん》たる代物《しろもの》のかたわらにブゥジヴァルの時計は置かれたのであった。この時計の愛嬌《あいきょう》ある、こまちゃくれた御面相《ごめんそう》がどう見えたかはただちに察せられよう。ある夜のこと、シュヴァーンターラー家のご婦人がたは大サロンで刺繍《ししゅう》をしており、有名な博士は学芸アカデミーの幾人かの同僚に『逆説』の最初のほうを読んで聞かせていた。ときどき読むのをやめて時計を取り、いわば実物に即して証明をしながら……。突然エヴァ・フォン・シュヴァンターラーが何か知らぬ呪《のろ》われた好奇心にかられて、顔を赤らめながら父に言ったものだ。
「おお、パパ、それを鳴らしてちょうだいよ」
博士は鍵をはずし、二巻きした。と、たちまちいかにも澄んだ、いかにも溌剌《はつらつ》とした水晶のようなかわいい音色《ねいろ》が聞こえて、快活な気分が謹厳《きんげん》な一同のあいだにさっと走った。だれもが目をかがやかせた。
「まあ、きれい! なんてきれいなこと!」と、これまでになかったようないきごんだようすでお下げの髪をふりながらシュヴァーンターラーのお嬢《じょう》さんたちは言ったものだ。
で、フォン・シュヴァーンターラー氏は得意げな声で、
「見てごらんなさい、この気ちがいのフランス女を! 八時を打って三時をさしているじゃないか!」
これは一同を大笑いさせた。そしてもう夜もふけていたのに、このお歴々はフランス国民の軽佻《けいちょう》さについての哲学的理論や、はてしもない考察を夢中になって弁じはじめた。だれももう帰ろうなんて考えない。普通はどんな社交界もお開きにさせてしまうあのおそろしい時刻がポリュムニアの文字盤で鳴るのさえ人々の耳にはいらない。大時計はとんと納得《なっとく》が行かなかった。シュヴァーンターラー家のなかでこれほどの陽気さを見たことも、こんなおそくまでサロンに人々を見たことも大時計にはけっしてなかったのだ。まったくあきれかえったことに、シュヴァーンターラーの令嬢たちは自分らの部屋に帰ってから、夜ふかしと笑いころげたために胃袋がからっぽになったような気がし、夜食をたべたいというような気がしたのだ。そして人もあろうに感傷的なミンナが腕をのばしながら言ったものだ。
「ああ、えびの足がたべたいわ」
「陽気に、子どもたち、陽気に!」
一度ねじを巻くとブゥジヴァルの時計は例の狂った生活を、放心の癖《くせ》をまたはじめた。人々は最初はその気まぐれを笑った。しかしでたらめに鳴るこのきれいな鈴の音をさんざん聞かされているうちに、おごそかなシュヴァーンターラー家はだんだん時間をとうとぶことを忘れ、愛すべき無頓着《むとんじゃく》さで日々を送るようになった。だれももう遊ぶことしか考えない。時間がもうすっかりめちゃくちゃになった今では、人生はまことに短いものに思えたのだ! すべてがひっくりかえってしまった。もうお説教もなければ研究もない! 騒音が、騒ぎが必要だった。メンデルスゾーンやシューマンは単調すぎるように見えた。『大公妃』や『小ファウスト』がそのかわりにかなでられ、そしてこの令嬢たちは手をたたいたりとびはねたりし、高名な教授その人も一種の幻惑《げんわく》にとらわれて、倦《あ》きもせず
「陽気に、子どもたち、陽気に!……」と言いつづけるのだった。
大時計のほうはもう問題にされなかった。この令嬢たちは安眠のさまたげになると言ってその振り子を止めてしまい、家じゅうがこの狂った時計の気まぐれに引きずりまわされてしまった。
有名な『時計に関する逆説』があらわれたのはこのころである。この機会にシュヴァーンターラー家は大夜会をもよおした。光や音のとぼしい昔の学者仲間の夜会ではなく、はでな仮装舞踏会で、フォン・シュヴァーンターラー夫人とその娘たちは腕《うで》をむきだしにし、短いスカートにあざやかな色のリボンのついた小さなひらべったい帽子というブゥジヴァルのボート漕《こ》ぎの姿に扮《ふん》してあらわれたのである。これは町じゅうの話題になったが、しかしまだこれは手始めにすぎなかった。喜劇、活人画、夜食、バッカラ、ミュンヘンの人々は一冬じゅうこんなものをアカデミー会員のサロンで見せられてうんざりさせられたのだった。
「陽気に、子どもたち、陽気に!……」と、ますますのぼせあがった気の毒なおやじさんはくりかえした。
そして事実、みんなはたいへん陽気だった。ボート漕ぎに扮して成功したのがやみつきになって、フォン・シュヴァーンターラー夫人はとっぴょうしもない服装でイーザル河で日々を送った。家に残った令嬢たちは町で捕虜となっている驃騎兵《ひょうきへい》の士官たちからフランス語を教わった。そして自分がブゥジヴァルにいるものとまことに当然ながら信じている小さい時計はでまかせに時を高鳴らした、三時をさしているときに、いつも八時を打ちながら……。やがて、ある朝、この陽気さのつむじ風はシュヴァーンターラー家をアメリカへ引きさらって行き、そしてピナコテークのもっとも美しいティツィアーノ〔文芸復興期のヴェネツィアの画家〕の数点もこの高名な主事のあとについて逃げて行ってしまった。
むすび
シュヴァーンターラー家が行ってしまってから後、ミュンヘンはまるでスキャンダルの伝染病みたいなものにおそわれた。えらい尼《あま》さんがバリトン歌手を連れてかけおちするは、学士院院長が踊り子と結婚するは、枢密顧問官《すうみつこもんかん》が泥酔《でいすい》するは、貴族の婦人の修道院で夜大騒ぎして閉鎖されるは……
おお、現実は皮肉なものだ! あの小さな振り子時計は妖精《ようせい》であり、バイエルン全土を魔法にかけようとつとめたかに見えた。この時計は、そのあらわれるところ、そのきれいな音色をかろやかにひびかせるところではどこでも、人を狂わせ、頭をおかしくさせた。遍歴《へんれき》をつづけてある日、時計は王宮までたどりついた。そしてこの時以来、熱狂的なヴァグネリアンたるルートヴィヒ王のピアノの上にいつも開かれていたのはどんな楽譜か?……
「『マイスタジンガー』〔ワーグナーの歌劇〕ですか?」
「ちがう……『腹の白いあざらし』〔当時の通俗的な喜歌劇であろう〕ですよ!」
これをもってわが国の振り子時計をどんなふうに使うべきかわかるというものだ。
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タラスコン防衛
ありがたい! やっとタラスコン〔南仏セーヌ河沿いの町〕の消息がわかった。五か月も前からわたしは生きたここちもなかった。気が気でなかったのだ! この善良な町の昂奮《こうふん》とその住民の好戦的な気質を知っているので、わたしはこう心に思った。「タラスコンがどうしたか知っているものはないかな? 大挙《たいきょ》して野蛮人どもにおそいかかっただろうか? ストラスブールのように砲撃され、パリのように餓死《がし》させられ、シャトーダンのように生きたまま焼かれるのにあまんじはしなかったか? それとも狂暴な愛国心の激情にかられてラーンの町とその勇猛な城塞《じょうさい》のようにみずから爆破しなかったろうか……?」
そんなことはいっこうになかったのだ、諸君。タラスコンは焼けなかった、タラスコンは爆破されなかった。あたたかい日の光は通りにみち、上等のマスカット酒を地下倉に充満させて、タラスコンはもとどおりぶどう畑のまんなかに平和に腰をすえており、この愛すべき土地を洗うローヌ河は昔同様幸福な町の姿を、緑色のよろい戸や手入れのとどいた庭や河岸にずっとそって教練している新しい軍服姿の民兵の映像を海へはこんでいるのだ。
けれども、タラスコンが戦争のあいだ何もしなかったなどと考えるのは禁物《きんもつ》である。それどころかこの町はあっぱれなふるまいをしたし、これからわたしの物語ろうとするその英雄的な抵抗は、地方的抵抗の典型、南部《ミディ》の防衛の生きた象徴として青史にとどめられるであろう。
男声合唱隊
で、話をはじめるが、スダンの陥落《かんらく》まではわれらの勇敢なタラスコン人たちはおとなしく自分の家におちついていた。この誇《ほこ》り高いアルピーユ山脈の子らにとっては、スダンで死んだのは祖国ではなかった。死んだのは皇帝の兵士たちであり、帝国だったのだ。しかし九月四日になり、共和国が宣せられ、アッティラがパリ城下に陣したとなると、そうだ! タラスコンはめざめた。そしてこれが国民戦争にほかならぬことを人々は知ったのだ……。まず手始めはもちろん男声合唱団のデモだった。南仏の連中がどんなものすごい音楽をやるかは諸君もごぞんじだろう。とりわけタラスコンではそれはもう狂乱である。通りを歩くと、ありとあらゆる窓から歌が聞こえ、ありとあらゆるバルコンからロマンスが頭の上に降って来る。
どの店にはいってみてもかならず売り台のところでギターが恋のなげきをうたい、薬屋の若い衆《しゅ》までも「鶯《うぐいす》と……スペインの琴《こと》……トラララ……ララララ……」と口ずさみながら薬を売る。こうした私的な演奏会のほかに、タラスコンの人々はなお町のブラスバンド、学校のブラスバンド、それからまた数知れぬほどの男声合唱団を持っているのだ。
国民的な運動に最初の刺激《しげき》を与えたのは、サン=クリストフ合唱団とその「フランスを救わん」のすばらしい三部合唱だった。
「しかり、しかり、フランスを救わん!」と善良なタラスコンの人々は窓からハンケチをふりながら叫んだ。そして男たちは手をたたき、女たちは旗を先頭に立て昂然《こうぜん》と歩調を取って四列縦隊で広場を横切る音楽団の隊伍にキッスを送った。
意気は上がった。この日からして町は様相を変えた。もはやギターはない、船歌《バルカロール》は聞かれない。いたるところで「スペインの琴」はラ・マルセイェーズにとってかわられ、週に二回人々は広場につめかけて学校のブラスバンドが「出陣の歌」を奏するのを聞いた。
椅子《いす》の借り賃はべらぼうに高かった!
しかしタラスコンの人々はそれだけで満足しなかった。
騎馬行列
男声合唱団のデモのあとで、負傷兵のために歴史的な騎馬行列がおこなわれた。よく晴れたある日曜日、タラスコンのいさましい青年たちが色のうすい革のやわらかいぴったりとした長靴《ながぐつ》をはいて、家から家へと義捐金《ぎえんきん》を集め、戟槍《ほこやり》や捕蝶網《ほちょうもう》を持ってバルコンの下を馬を走らせるありさま以上に優雅《ゆうが》なものはなかった。しかし何よりすてきだったのは、クラブのお歴々が三日つづけて広場でもよおした愛国的な馬上|模擬戦《もぎせん》――題して「パヴィアの合戦におけるフランソワ一世」という――だった。これを見ないうちはけっこうなどということばは使えない。マルセーユの劇場が衣装《いしょう》を貸してくれた。金、絹、びろうど、刺繍《ししゅう》をした軍旗、楯《たて》、かぶとの頭飾り、馬飾り、蝶結びやばら結びをしたリボン、槍《やり》の穂《ほ》先、よろいが、ひばりを招きよせる鏡罠《かがみわな》のように広場にさまざまの光を放った。たしかに壮観だった。不幸にして、激戦の後、フランソワ一世――クラブの幹事ボンパールさん――がドイツ騎兵の主力にかこまれたとき、ボンパールさんは、不運なボンパールは剣をわたすとき、まことにわけのわからぬ肩の動かし方をした。「名誉のほかはすべてが失われた」と言うかわりに、「やつに来いと言ってくれろよう、なあ!」とでも言っているように見えたほどだ。しかしタラスコンの人々はそんなこまかいところまで見ていなかった。そして愛国心の涙がすべての人の目に光っていた。
血路
こういう見物《みもの》、歌、日の光、ローヌ河の河風、それだけでもう彼らの頭はのぼせあがった。政府の掲示は昂奮《こうふん》を絶頂にまで持っていった。広場で人々が顔を合わせるときには、きまって歯を食いしばってものすごい顔をし、弾丸《だんがん》でも投げつけるような口のきき方しかしなかった。会話には火薬の匂いがした。空気のなかに煙硝《えんしょう》がただよっていた。とりわけカフェ・ド・ラ・コメディで、朝この血の気の多いタラスコン人たちが食事をしながらしゃべっているところを聞かねばならない。「ああ、いったい何をしてやがんだろう、パリのやつらとあのろくでなしのトロシュ将軍は? いつまでたっても出撃しやがらねえ……。まったく運がわるいや! もしこれがタラスコンだったら!……ちょっ!……もうとっくの昔に切り開いてら、血路をよ!」そしてパリが黒パンで喉《のど》をつまらせているあいだに、このお歴々はシャトーヌフのうまいぶどう酒をひっかけながら風味ゆたかな赤鷓鴣《あかしゃこ》をくらっていた。そしててらてら光り、飽食《ほうしょく》し、耳までソースでよごしながら、テーブルをたたいてつんぼのようにわめくのだ、「さあ開くんだぞ、君らの血路を……」と。そしてたしかに彼らは正しいのだ!
クラブの防備
そのあいだに野蛮人の侵略は日一日と南へおよんで来た。ディジョンは降伏し、リヨンはおびやかされ、すでにローヌ河の香り高い草の匂いをかいでドイツ驃騎兵《ひょうきへい》の馬どもは、早くそれをたべたいといっていなないている。「われわれの防備をかためよう!」とタラスコンの人々は言い合い、みんなは仕事にかかった。またたくまに町は防壁やバリケードや掩蔽壕《えんぺいごう》が作られた。一軒一軒の家が≪とりで≫になった。武器商コストカルドのところでは、店の前に跳《は》ね橋までついたすくなくとも二メートルの塹壕《ざんごう》ができていたが、これはなかなかたいしたものだった。クラブでも防禦《ぼうぎょ》工事はまことに大がかりなもので、人々はめずらしがって見に行ったほどだ。
幹事のボンパールさんはシャスポ銃を手に階段の上に立って、ご婦人がたに説明していた。
「やつらがこっちから来たら、パンパン!……反対にあっちから上がって来たら、パンパン!」
それのみか、どの町かどでも人々はあなたを引きとめて、意味ありげな言い方で「カフェ・ド・ラ・コメディは難攻不落《なんこうふらく》ですぞ」とか、あるいは「広場に地雷《じらい》を埋めたところですよ」とか言って聞かせる。これでは野蛮人どもも二の足を踏まねばならなかったろう。
義勇兵
それと同時に、いろいろの義勇兵中隊が熱狂的に編制された。「死に神の兄弟」、「ナルボネの山犬」、「ローヌ河ラッパ銃隊」といったぐあいに、畑にはえた矢車草の類みたいにありとあらゆる名称、ありとあらゆる色合いがあった。しかも羽飾りをつけたり、雄鶏《おんどり》の羽をつけたり、ばかでかい帽子をかぶったり、ものすごく幅広な帯をしたりしている!……できるだけおそろしいようすをしようとして、義勇兵はみんな顎髯《あごひげ》や口髭《くちひげ》をはやす。そのため散歩していてもだれがだれだとおたがいに見分けがつかないほどだ。アブルッツィ山脈の山賊がカイゼルひげをおったて目を爛々《らんらん》と光らせて、サーベルと拳銃と半月刀をがちゃがちゃいわせながらきみのほうへやって来るのが遠くに見える。やがて近づいてみるとそれは収税人のペグゥラードなのだ。かと思うと、とんがり帽子をかぶって刃のぎざぎざになった短剣を持ち、両肩に銃を一丁ずつかついだロビンソン・クルーソーその人に階段で出会う。よく見るとそれは町で食事をして帰って来た武器商コストカルドなのである。因果《いんが》なことに、あまり獰猛《どうもう》なようすばかりしているのでタラスコンの連中はしまいにおたがい同士相手をおびえさせることになってしまって、やがてもうだれもあえて外出しようとしなくなったものだ。
野兎《のうさぎ》と家兎
国民軍編制に関するボルドー政府の命令がこうした言語道断《ごんごどうだん》な状態に終止符を打った。三巨頭の力強い鼻息一つで鶏《とり》の羽はたちまち飛び散り、タラスコンのすべての義勇兵は――山犬もラッパ銃手もその他も――合同して、もとの被服廠《ひふくしょう》勤務将校たる勇敢なブラヴィダ将軍の麾下《きか》にまともな民兵大隊になったのだ。ところがここでまた新しい≪ごたごた≫がおこった。ボルドーの政令はごぞんじのように二種類の国民軍を定めている。遊撃国民軍と駐屯《ちゅうとん》国民軍だ。「野兎と家兎」と収税人ペグゥラードはなかなか滑稽《こっけい》なことを言ったものだ。結成当初は野兎国民軍は当然花形だった。毎朝勇敢なブラヴィダ将軍は彼らを広場に連れて行って射撃訓練、狙撃《そげき》の訓練をさせた。「伏せ! 立て!」その他。この戦争ごっこはいつもたくさんの人々を引きつけた。タラスコンのご婦人がたはひとりとして欠けなかったし、それどころかボーケールのご婦人がたまで時には橋をわたって来てわれらの兎たちに見とれたものだ。そのあいだあわれな家兎国民軍のほうはひかえめに町の勤務に服し、博物館の前に番兵に立った。ただし守るものといっては、苔《こけ》をつめた剥製《はくせい》の大きなトカゲと善良な国王ルネの時代の二羽の若鷲《わかわし》だけだったのだ。ボーケールのご婦人がたがそれっぱかりのもののために橋をわたって来るなんてことは冗談《じょうだん》にも考えられない……。ところが、三月《みつき》も射撃訓練をしながら、野兎国民軍が依然として広場から動かないのを見ると、人々の感激はさめはじめた。
勇敢なブラヴィダ将軍がいくら「伏せ! 立て!」と兎どもにさけんでも、だれももう彼らを見はしなかった。まもなくこの戦争ごっこは町の物笑いの的《まと》となった。それにしても、この不幸な兎たちが出陣させられないのは、何も彼らがわるいからではないということは神さまもごぞんじだ。彼らもこれはだいぶ肚《はら》にすえかねた。ある日などは彼らは教練するのをこばみさえした。
「見世物はもうごめんでさあ!」と彼らは愛国的熱情にかられてさけんだ。「進撃させてもらいたいよ!」
「進撃するとも、でなけりゃわしの名折れだ」と勇敢なブラヴィダ将軍は言った。
そして怒気《どき》心頭に発して彼は役場に説明を求めに行った。
役場は命令を受けていないし、それは県庁の所管だと答えた。
「よし、県庁へ行こう!」とブラヴィダは言った。
こうして彼は県知事に会おうとして急行でマルセーユへ発《た》った。こいつは簡単な仕事じゃない。何しろマルセーユにはいつも五人か六人の常任知事がいて、どれが本当の知事なのか教えてくれるものはひとりもなかったのだから。めったいにない幸運で彼は即座に本物の知事をつかまえることができた。そして県庁の会議の最中に勇敢な将軍は、もと被服廠《ひふくしょう》勤務将校の権威をもって部下のために発言したのであった。
彼がしゃべりだすやいなや、県知事は彼をさえぎった。
「失礼だが、将軍……あなたの兵士たちがあなたには出陣を求め、わたしにはとどまることを求めるのはどういうわけでしょうな? まあこれをお読みなさい」
そして口もとに微笑をうかべて知事は一通のあわれっぽい請願書《せいがんしょ》を彼にさしだしたが、それは二ひきの野兎――いちばん進撃に熱心な二ひき――が医者と司祭と公証人の添《そ》え書きとともに県庁へ送って来たばかりのもので、病弱のため家兎の仲間にまわしてもらいたいとたのんでいるのだった。
「こういったものがわたしのところには三百通以上もありますよ」と知事はあいかわらずにやにやしながらつけくわえた。「なぜわたしたちがあなたの部下を進撃させるのをいそがなかったか、将軍、これでおわかりでしょう。不幸にしてわれわれは、とどまりたいという連中をあまりにもたくさん出陣させすぎたんですよ。もうそんなことをしてはなりません……といったしだいで、神さまが共和国をお救いくださるように、そしてあなたの兎さんたちによろしく」
別盃
タラスコンへ引き返す将軍の体裁《ていさい》のわるさは言うまでもない。ところがここにまた別の話がある。あろうことか、彼の留守ちゅうにタラスコンの人々は出陣する兎たちのために醵金《きょきん》をつのってお別れのポンスの会をもよおそうと思いついたのだ! 勇敢なブラヴィダ将軍がいくらそんな必要はない、だれも出陣はしないと言っても、お金は集められ、ポンスは注文され、こうなってはもはや飲むほかはなく、そして事実飲むことになった……。で、ある日曜の夕べ、ポンスの別盃《べつぱい》をくみかわす胸を打つ会は役所のサロンでおこなわれ、東の空が白み出すまで乾盃《かんぱい》と万歳《ばんざい》と演説と愛国歌は役場の窓ガラスをふるわせたのである。もちろんこの別盃がいかなるものであるかはだれも知っていた。醵金に応じた家兎の国民軍は戦友たちが出陣しないものとかたく信じていたし、飲んでいる野兎のほうも同じく、そう信じていた。そしてこのいさましい人々すべてにむかって、自分こそきみらの先頭に立って進撃する覚悟だと感動の声で誓《ちか》った尊敬すべき助役は、進撃なんてまるっきりおこなわないんだってことをだれよりもよく心得ていた。が、そんなことはどうだっていい! この南国人たちはまったく変わっているから、別盃の終わりにはみんなが泣きだし、みんなが抱擁《ほうよう》し合っていた。しかもまったくもってあきれかえったことには、だれもがほんとにその気になっていたのだ、将軍すらも!……
タラスコンでもほかの南フランス一帯と同様、わたしはしばしばこういう幻影《げんえい》の効果を見たものである。
[#改ページ]
ベリゼールのプロイセン兵
これは今週わたしがモンマルトルの或《あ》る居酒屋で聞いた話だ。こいつをうまく話して聞かせるには、ベルゼール親方の場末ことばと、彼の指物師《さしものし》の大きな前掛けと、マルセーユ生まれの人にさえパリなまりをしゃべらせるあのモンマルトルの白ぶどう酒の二、三杯が必要だろう。そうしたらわたしも、ベルゼールが職人仲間のテーブルの前であの無気味《ぶきみ》な実話をするのを聞きながら感じたおののきを、きみらの脈管に伝えることができるにちがいないんだが。
……「大赦《アムニスチ》(ベルゼールは休戦《アルミスチス》のことを言っていたのだ)の翌日のことさ。女房が子どもとふたりでヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌのほうへちょっと行って来いってんだ。そっちのほうの河っぷちにうちの小さなバラックがあるんだが、包囲以来そこのようすがちっともわからなかったからさ。おいらは餓鬼《がき》を連れて行くのはいやだった。プロイセン兵に出っくわすこたぁわかってたし、まだ一度もやつらと面と向き合ったこたぁなかったが、何かいざこざをおこしゃしねえかと心配したんだ。ところが、かかあのやつめ、あくまで言いはりゃがる。
『お行きったら! お行きったらね! そうすりゃいい空気を吸わしてやれるよ、子どもにさ』
まったくの話、いい空気を吸う必要はあったろうさ、かわいそうに、五か月も包囲下でかびのなかに暮らしてたんだから!
で、ふたりで畑のなかを歩いて行った。小僧め、また木があり鳥がいるのを見、たがやした土の上を思うぞんぶん歩きまわれてよろんでいたかどうかはわかんねえ。おいらのほうはそんなによろこんで出かけたわけじゃねえんだ。往来にゃあ、とんがりかぶとの野郎《やろう》どもがうようよしてやがる。運河から島までのあいだ出っくわすのはあいつらばかりなんだ。しかも横柄《おうへい》でよ! なぐりかかるまいとしてよっぽどしんぼうしなけりゃならなかった……。が、ほんとに怒りがこみ上げて来るのを感じたのは、いや、まったくの話、ヴィルヌーヴにはいって、庭がめちゃくちゃにされ、家はあけっぴろげられ、荒らされ、あの悪党どもがフランス人の家々に陣取って、窓から呼び合い、おれたちのよろい戸、おれたちの金網の上で毛糸の編み物をかわかしていやがるのを見たときだ。さいわい子どもがならんで歩いている、そして手がむずむずするたびにおいらは子どもをながめながら思ったもんだ。『早く行っちまおうぜ、ベリゼール! 餓鬼《がき》に不幸がおこらないように気をつけようぜ』おいらがばかなまねをしでかさなかったのは、その一念があったからこそよ。かかあが子どもを連れて行かせようとした理由が、そのときおいらにもわかった。
小屋は町はずれの、河岸《かし》の右側のいちばん最後にあった。着いてみるとほかの家と同様上から下までからっぽにされている。家具一つ、ガラス一枚残っちゃいねえ。藁束《わらたば》がいくつかと、暖炉《だんろ》のなかでぱちぱち燃えている大型|肘掛《ひじか》け椅子《いす》の足一本だけさ。いたるところにプロイセン兵の匂いがする、だが姿はどこにも見えない……。けれども地下室で何かが動いているような気がした。地下室は手なぐさみに小細工をする小さな仕事台があったんだ。子どもに待ってろと言って、おいらは下を見に行った。
ドアをあけるが早いか、背の高いヴィルヘルムの兵隊野郎がぶつぶつ言いながら木《こ》っぱのなかから立ち上がって、目玉をかっとくりむいてわけのわからねえ悪態《あくたい》をさんざんつきながらこっちへやって来やがる。よっぽどめざめがわるかったにちげえねえや、このけだものは。何しろおいらが何か言おうとすると、いきなり野郎、サーベルを引っこぬこうとするじゃねえか……
こうなっちゃおいらのほうも血がにえくりかえらあ。一時間もこらえていたかんしゃくがぱっと顔に出て来る……。仕事台の板止めをひっつかんでなぐりつけた……。おめえらも知ってのとおり、このベリゼールの腕《うで》の力は普通でも強《つえ》えんだ。だがこの日は腕の先に雷さまのような力がこもっていたものと見える……。一発くらわしただけでプロイセン兵のやつ長々とのびちまいやがった。おいらは目をまわしただけだと思ったんだが、いや、そうじゃねえのさ、うん……かたづいちまったんだ、これ以上とはないほどきれいにな。いや、まったくきれいなものよ。
こちとらは生まれてから一度も殺したことはねえ、ひばり一羽もな。それでも、この大きな死体が目の前にあるのはどうも奇妙な感じがした……。きれいな金髪でな、ほんとに。しかもトネリコの木屑《きくず》みたいにちぢれた≪むくげ≫の小さな髯《ひげ》をはやしてやがる。そいつを見てると両足ががくがくしてきた。一方|餓《が》鬼のほうは上で退屈して、声をかぎりにわめいてやがる。
『とうちゃん! とうちゃん!』
プロイセンの兵隊どもが往来を通る。やつらのサーベルとでっかい足が地下室の換気窓《かんきまど》から見える。『やつらがはいって来たら子どもは助からん……、やつらは手あたりしだい皆殺しにするにきまってる』と不意に思いついた。できたことはできたことだ、おいらぁもうふるえなかった。手ばやくプロイセン兵を仕事台の下につっこんだ。板きれや木っぱや鋸屑《おがくず》をできるだけたくさん上にのっけて、チビをさがしに上に行った。
『来《き》な……』
『いったいどうしたのさ、とうちゃん? なんて蒼《あお》い顔をしてるんだい!……』
『歩け、歩け』
いや、うけあってもいいが、たとえコザック兵がこちらを突きとばそうと、横目でにらみやがろうと、おいらは全然文句を言わなかったろうよ。いつも追っかけられてる、うしろから呼ばれてるような気がしたんだ。一度は馬が全速力でおれたちの上にとびかかって来るのが聞こえたような気がした。ぎょっとして自分が倒れるんじゃねえかと思ったよ。それでも、橋をわたってしまうとどうにか正気《しょうき》がもどってきた。サン=ドニは人でごったがえしている。この人ごみのなかで見つけられる心配はねえ。このときになっておいらははじめてあのかわいそうな小屋のことを考えた。プロイセン兵のやつらは仲間を発見したら、仕返しにあの小屋に火をつけかねねえし、そのうえ隣の漁番のジャコはあのあたりに住んでいるただひとりのフランス人だから、あの兵隊がやつのうちの近くで殺されたとなりゃあ、やつに迷惑がかかるかもしれねえ。まったくの話、こんなふうに逃げ出すなんてえのはあんまり男らしいこっちゃねえや。
せめてなんとかしてあの兵隊を消しっちまわなきゃならねえところだ……。パリのほうへ近づくにつれてこの考えはますますおれをなやました。どうもいけねえ、あのプロイセン兵を地下室に置いてきたのが気にかかる。で、城壁まで来ると、もうがまんができなくなった。
『先に行け』とおいらは餓鬼《がき》に言った。『サン=ドニで会わなくちゃならねえおとくいさんがいるんだ』
そう言って坊主に接吻《せっぷん》してやってからこちらは引きかえした。ちょっと胸の動悸《どうき》が早くなったが、しかしそんなこたぁどうでもいい、子どもがいなくなったのでおいらはすっかり気が楽になっていた。
ヴィルヌーヴにもどったときには暗くなり出していた。そりゃあもう目を大きくあけて、一歩一歩慎重に進んで行ったよ。ところが町はかなり平静に見える。小屋はもとのようにむこうの霧のなかに立っている。河岸にそって長い黒い列が見える。プロイセン兵が点呼してやがるんだ。しめしめ、これなら家にはだれもいめえ。垣にそって足音をしのばせて行くと、ジャコじいさんが中庭で投網《とあみ》をひろげているのが見えた。たしかにまだ何も知られていねえんだ……。小屋にはいる。下へ降りる。手さぐりする。プロイセン兵はあいかわらず木っぱの下にいる。それどころか二ひきのでかい鼠《ねずみ》がやつのかぶとをかじってやがる。その顎紐《あごひも》が動いているのを感じて、ほんとにぎょっとしちまったね。死人が生きかえるんじゃねえかと一瞬思ってな……。が、そんなこたあねえ、頭は重く、つめたい。おいらは片すみにしゃがみこんで待った。ほかの兵隊どもが寝っちまったらセーヌ河に投げこもうという肚《はら》だったのさ……
死人がそばにいたせいかどうか知らねえが、その晩はプロイセン兵の帰営ラッパはいやに陰気に聞こえた。ラッパは三回ずつ三度タ、タ、タと大きく鳴る。まったく蟇《がま》の音楽さ。あんな曲じゃフランス兵なら寝ようとしまいよ……
五分間ほどサーベルを引きずる音やドアをノックする音が聞こえた。それから兵隊どもは中庭にはいり、
『ホフマン! ホフマン!』と呼びはじめた。
かわいそうなホフマンは木っぱの下でじっとおとなしくしてた……。気が気じゃねえのはおいらのほうさ!……やつらがいつ地下室にはいって来るかもしれねえとおらあ覚悟してた。死んだ野郎のサーベルを取り、身じろぎもせずに心のうちで自分にこう言い聞かせていた。『もし逃げられたら、なあ、おっさん……ベルヴィルのサン=ジャン=バチスト教会にりっぱなろうそくを立てなけりゃなんねえぞ!……』ってな。
ところが、さんざんホフマンの名を呼んだあげく、あの借家人どもは引きあげる気になった。やつらのでっかい長靴《ながぐつ》の音が階段でして、しばらくすると小屋じゅうがいなかの大時計みてえないびきの音を立てていた。まさにそうなるのを待って外に出ようとおいらは思ってたんだがね。
土手にゃあ人影もねえ、どの家のあかりも消えている。おあつらえむきだ。いそいでまた下へ降りた。ホフマンを仕事台の下から引っぱりだし、立たせて、運送屋の背負子《しょいこ》みてえにおんぶする……。何しろ重かったからね、この悪党は!……そのうえこわくはあるし、朝からずっと腹に何も入れてねえ。……目的のところまで行ける力なんぞとてもあるめえと思ってたよ。それに、今度は河岸のまんなかまで来るとだれかがうしろを歩いて来るような気がする。ふりむくと、だれもいねえ……。月が昇ったのさ。『気をつけろ、もうじき……歩哨《ほしょう》にうたれるぞ』とおいらは心のなかで言った。
そのうえ申し分のねえことに、セーヌ河の水が落ちてると来やがる。河っぷちから投げこんだ日にゃあ、仏さんはまるでたらいのなかにはまったようにそこから動かなかったこったろう……。河にはいって、前へ進んだ……。あいかわらず水はねえ……。こちらはもうこれ以上力がつづかねえ。からだの節々《ふしぶし》が引きつっちゃっている。……最後にもう充分進んだと思ったときおいらは仏さんを離した……。どこへでも行きやがれってんだが、ぬかるみにはまりこんじまいやがる。もう動かしようがねえ。さあ押したのなんのって……。よっこらしょ、それ!……さいわい東の風が吹いて来た。河の水は上がり、仏がゆっくり流れだすのがわかった。あばよ! おいらは一すくい水を飲んで、いそいで土手へ上がった。
ヴィルヌーヴの橋をまたわたるとき、何か黒いものがセーヌ河のまんなかに見えた。遠くからだと小さな平底舟《ひらぞこぶね》みたいだった。流れに乗ってアルジャントゥイユのほうへ下って行く例のプロイセン兵さ」
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パリの百姓
包囲のあいだ
シャンロゼ〔パリ近郊のセーヌ河畔の村〕ではこの人たちはたいそう幸福だった。ちょうどわたしの窓の下が彼らの鶏小屋《とりごや》で、一年の半分は彼らの生活は少々わたしの生活と入りまじっていた。夜が明けぬうちからおやじが厩《うまや》にはいり、荷車に馬をつけ、野菜を売りにコルベーユに出かけて行くのが聞こえた。それからおかみさんが起きて、子どもたちに服を着せ、雌鶏《めんどり》を呼び集め、牛の乳をしぼり、そして午前中はずっと木の階段を大きな木靴《きぐつ》や小さな木靴がどたどたと昇り降りしている……。午後はすべてが沈黙している。父親は畑で働き、子どもたちは学校、母親は中庭で黙々と下着類を乾《ほ》したり、いちばん小さい子を見張りながら戸口の前で縫い物をしていたりする……。ときどきだれかが道を通りかかると、針《はり》を動かしながらおしゃべりだ……
一度、八月の――あいかわらず八月の――なかばごろのことだったが、おかみさんが近所の女にこう言っているのを聞いた。
「冗談《じょうだん》じゃないよ、プロイセン兵なんて!……だいたいやつらはフランスにいるなんてことがあるだろうか?」
「やつらはシャロンにいるんだよ、ジャンのおっかさん!……」とわたしは窓から声をかけてやった。
これを聞いて彼女は大笑いをした……。このセーネ・オワーズ県の片すみでは百姓たちは侵攻なんて信じていなかったのだ。
それでも毎日荷物を満載した車が通るのが見られた。ブルジョワの家はとざされ、日の長いこの美しい月なのに、花は咲き終えて、庭はとざされた格子《こうし》のむこうに人気なく陰鬱《いんうつ》に見えた……。だんだんわたしの隣人たちも不安を感じてきた。このあたりでだれかが引きあげるたびに彼らは憂鬱《ゆううつ》になった。自分らが見捨てられるように感じるのだ……。それから、ある朝、村のすみずみに太鼓《たいこ》が鳴りひびいた! 役場の布告。パリに行って牝牛《めうし》も飼料も売らねばならない、プロイセン兵のために何一つ残してはならないという……。おやじはパリへ出かけた。そしてこれは悲しい旅だった。街道の鋪石《ほせき》の上に重い引っ越し車が入りまじって列をなしてつづき、豚《ぶた》や羊の群れが車輪のあいだをうろうろし、足をしばられた牛どもが荷車の上でないている。道ばたの溝《みぞ》にそって気の毒な人々が、色あせた安楽椅子だのアンピールふうの机だのインド更紗《さらさ》で飾った鏡だのの古い時代の家具をいっぱい積んだ小さな手車を押しながら歩いて行く。それを見ると、これらすべての上に積もったほこりをかきみだし、これらすべての遺物を動かし、山と積んで街道《かいどう》に引っぱって行くには、どれほどの災禍《さいか》が人々の家のなかに押し入ったかがわかるのだった。
パリの市門では人々はひしめき合っていた。二時間も待たねばならなかった……。そのあいだ気の毒な男は自分の牝牛に押しつけられながら、砲眼や水のたまった壕《ごう》や、みるみるうちに進んで行く築城《ちくじょう》工事や、イタリア広場のひょろ長いポプラの木が切り倒されて道ばたに枯《か》れているのをびっくり仰天《ぎょうてん》してながめていた……。たぶん彼は動顛《どうてん》して帰って来て、見て来たことを何もかも細君に話して聞かせた。細君はこわくなり、あしたにもさっそく逃げ出したいと思った。しかし、あした、またあしたと、出発はいつも延期された……。収穫《しゅうかく》をしなくちゃならないとか、どこかの畑をたがやさねばならないとか……。ぶどう酒を倉にしまうだけの時間はあるかもしれないじゃないか……。それにまた心の底には、もしかするとプロイセン兵がこのあたりを通らないのではないかという漠然とした期待もひそんでいたのだ。
ある夜、彼らはものすごい爆発音で目がさめた。コルベーユの橋が爆破されたのだ。村では人々が戸をたたいてまわる。
「敵の槍騎兵《そうきへい》だ! 槍騎兵だ! 逃げろ!」
大いそぎで起き、荷車に馬をつける、半分眠っている子どもらに服を着せる。そして近所の人たち数人といっしょに抜け道から逃げだす。坂を上がりきったとき、鐘楼《しょうろう》で三時が鳴った。これを最後と彼らはもう一度ふりかえる。水飼い場、教会前広場、彼らのかよいなれた道、セーヌ河のほうへ降りて行く道、ぶどう畑のあいだを走る道、すべては早くも疎《うと》ましいものに思え、そして白い朝霧のなかで見捨てられた小さな村の家々はたがいに身を寄せ合っていた、おそろしい期待にわななくように。
彼らは今パリにいる。陰気な通りの五階の二間に……。おやじのほうはあんまり不幸ではない。仕事をみつけてもらったのだ。それに彼は国民軍に属している。城壁の勤務や教練があり、できるだけ頭をからっぽにして何もなくなった納屋《なや》や種をまいていない草地のことを忘れている。細君のほうはもっと非社交的なので、かなしみにくれ、退屈し、これからどうなるかわからない。年上の娘ふたりは学校にやったが、庭のない暗い通学制の学校で小娘たちは、蜜蜂《みつばち》の巣のようにがやがやして陽気ないなかの修道院経営のきれいな女学校を、そして毎朝の通学のために歩いて行った森のなかの半里の道のりを思いだして胸がふたがる。母親は娘たちがかなしんでいるのがたまらないが、しかし何より心配なのはいちばん小さな男の子だ。
いなかではこの子は中庭でも家のなかでもどこにでも母親のあとについて来て、母親と同じだけ敷居《しきい》の段を飛び越え、小さな赤らんだ手を洗濯《せんたく》バケツにつっこみ、母親が骨休めに編み物をするときには戸のそばにすわっていたものだ。ここでは五階まで昇らねばならず、暗い階段はつまずきやすく、小さな暖炉《だんろ》に火はとぼしく、窓は高く、見わたすかぎり灰色の煙と濡《ぬ》れたスレートなのだ……
遊ぼうとすれば遊べる中庭もたしかにある。しかし管理人の女がそれをよろこばない。これもまた都会の産物なのだ、この管理人というのは! 村ではだれも一国一城の主《あるじ》なのだ。そしてだれもがおのずと他から守られた自分のささやかな場所を持っている。一日じゅう家は開放されている。夜になると大きな木の閂《かんぬき》をかけ、家全体は安らかに黒一色のいなかの夜のなかに沈む。この夜のなかでは人はぐっすり眠れるのだ。ときどき犬が月にむかってほえるが、それに眠りをみだされるものはいない……。パリにあってはまずしい家では管理人がほんとの持ち主なのだ。小さい子はひとりで下へ降りる勇気がない。それほど彼は、牝山羊《めやぎ》がちょっとばかりの藁《わら》と野菜の屑《くず》を中庭の敷石《しきいし》のあいだに散らかしたという理由で、その牝山羊を売らせてしまったあの意地の悪い女をこわがっているのだ。
退屈している子どもの気をまぎらすためにどうしたらいいか、かわいそうな母親はもう思案もつきてしまった。食事が終わるやいなや母親は畑へ行くときのように子どもにあたたかい服を着せ、手をつないで並木通りぞいに町を歩いた。つかまえられているし、人にはぶつかるし、道に迷うしで、子どもはほとんどあたりを見る余裕がなかった。彼の興味をひくのは馬だけだった。彼が知っているもの、彼が見て笑えるものはそれだけだった。母親も何を見てもたのしめない。自分の財産、自分の家を思いながらゆっくり歩いて行く。そして実直そうなようす、小ざっぱりとした服、つやのある髪《かみ》の母親と、まるい顔をして大きな木底靴をはいた子どものこのふたりを見ると、ふたりが知らぬ国に追放された身であること、村のさわやかな空気と人気《ひとけ》のない道を心底からなつかしがっていることがわかった。
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前哨《ぜんしょう》で
包囲の思い出
ここにある覚え書きは前哨をあちこちかけまわりながら日を追うて書かれたものである。パリの包囲の記憶がまだなまなましいあいだにノートから切り取った一ページなのだ。すべてきれぎれの、ごつごつした、膝《ひざ》の上で走り書きしたもので、砲弾の破片のように妙に切りこまざかれているのだが、全然手を加えずに、読みかえすことさえしないで、そのままここにかかげる。創作し、興味的なものにし、すべてをだいなしにしてしまいはしないかと心配でならないので。
十二月のある朝、ラ・クゥルヌーヴで
寒さで真っ白の、かーんとひびくような、殺風景な白亜質《はくあしつ》の平原。道の凍った泥土《でいど》の上を歩兵大隊が砲兵と入りまじって行進して行く。のろのろした陰気な行進だ。もうじき戦闘に行くのだ。兵士らはつまずきながら頭を垂《た》れて進む、銃を負《お》い革でかけ、両手をまるでマフに入れるように自分の毛布のなかにつっこんで。ときどき「止まれ!」の声がかかる。
馬はおびえいななく。弾薬箱は飛び上がる。砲兵たちは鞍《くら》の上でのび上がって、ル・ブゥルジェの大きな白壁の向こうを不安そうにながめる……
「やつらが見えるか?」と兵士たちは暖《だん》を取るため足の裏をぶっつけながらきく……
それからまた前進だ!……束《つか》の間《ま》せき止められていた人間の波が、あいかわらずのろのろと、あいかわらず黙々と流れ出す。
地平線のあたりの、オベルヴィリエの砦《とりで》の前面の丘、つやのない銀色の朝日に照らされた寒空に、総司令官とその幕僚《ばくりょう》がかぼそい一団となって、日本の真珠貝の上にはめこんだように浮き出している。もっと手前には小鴉《こがらす》の大群が道ばたにとまっている。親愛な巡回修道士たちだ。立って、両手をマントの下で組みながら、彼らはいずれ大砲の餌食《えじき》となるさだめのこの兵隊たちの行列をつつましい、献身的なかなしげな顔でながめている。
同じ日。――人影のない見捨てられた村々、あけっぱなしの家々、穴のあいた屋根、死人の目のようにこちらをみつめているひさしのない窓。ときどき、どんな物音もよくひびくこういう廃屋《はいおく》の一つで何かが動く音がする。足音、扉のきしむ音。そしてきみらが通ってしまうと、ひとりの歩兵が戸口に出て来る、くぼんだきょときょとした目をして――家のなかをひっかきまわす空巣《あきす》ねらいか隠れ場を求める脱走兵だ……
お午《ひる》ごろ、そういう農家の一つにはいった。まるで爪《つめ》で丹念にかきけずったようにからっぽでがらんとしていた。階下の部屋はドアも窓もない大きな台所で、禽舎《きんしゃ》にむかって開いていた。中庭の奥には生垣《いけがき》、そしてそのむこうは見わたすかぎりの平野。一|隅《ぐう》に石の小さな螺旋《らせん》階段があった。わたしはその段の上に腰をおろし、長いことそこから動かなかった。この日の光と万物の静けさはほんとにこころよかった。過ぎ去った夏の大きな蠅《はえ》が二羽か三羽、光をあびてよみがえり、天井《てんじょう》の梁《はり》のあたりをぶんぶん飛んでいた。火を燃やした跡の見える暖炉《だんろ》の前には血がこびりついた赤い石が一つあった。まだ熱い灰《はい》の片すみのこの血にそまった座は、ここでだれかが陰惨《いんさん》な夜をすごしたことを語っていた。
マルヌ河ぞい
十二月三日、モントルイユの門から出る。空は低く、つめたい北風、霧。
モントルイユにはだれもいない。柵《さく》のうしろで鵞鳥《がちょう》の群れがガアガアいっているのが聞こえた。ここでは百姓は逃げ出さず、身をかくしている。ちょっと行くと開いている居酒屋が見つかった。なかはあたたかく、ストーブは音を立てて燃えている。三人の地方遊動兵がほとんどその上にのしかかるようにして昼食をしている。だまりこくり、目を腫《は》らせ、顔をまっかにし、肘《ひじ》を机の上について、あわれな遊動兵はなかば眠りながら食べているのだ……
モントルイユを出て、野営の煙で青く包まれたヴァンセンヌの森を横ぎる。デュクロ軍がここにいるのだ。兵士たちは暖を取るために木を切る。白楊《はこやなぎ》や樺《かば》やトネリコの若樹《わかぎ》が根をさらし、細い金色の髪のような梢《こずえ》を道の上に引きずって運ばれて行くのは見るもあわれだ。
ノジャン、またしても兵士たち。大きな外套《がいとう》を着た砲兵、丸い頬《ほお》をした、じゃがいものようにどこもかしこも丸いノルマンディの遊動兵、頭巾《ずきん》をかぶった敏捷《びんしょう》な小柄なアルジェリア歩兵、青いハンカチを軍帽の下の耳のまわりにまきつけて、からだが二つに切れたように背をまげている歩兵、こういったのが通りをひしめき、ぶらつき、店を開いている二軒の食糧品店の戸口で押し合いへし合いしている。まるでアルジェリアの小さな町みたいだ。
ようやく田園となる。マルヌ河のほうへ降りて行く長い人気《ひとけ》のない道。真珠色のすばらしい地平線、靄《もや》のなかでわなないている葉の落ちた木々。背景には鉄道の大きな陸橋、欠《か》けた歯のように橋弧《きょうこ》がくずれた姿は見るも無慙《むざん》だ。ル・ペルーを横ぎるとき、庭は踏みしだかれ、建物は荒らされて陰気くさい道ばたの別荘の一つで、格子《こうし》門のうしろに三つの大輪の白菊が虐殺《ぎゃくさつ》をまぬかれて咲きほこっているのを見た。わたしは格子戸を押しあけて中にはいった。けれどあまり美しかったので、わたしは摘《つ》み取る気になれなかった。
畑を横ぎってマルヌ河へ降りる。河べりまで来ると、雲を払った日の光が河面《かわも》いっぱいに注いでいる。すてきだ。向かい側のプチ=ブリでは前夜あんな激戦があったのに、ぶどう畑にかこまれた斜面に白い小さな家々が平和に積みかさなっている。河のこちら側には蘆《あし》のなかに一そうの小舟。岸では一団の人々が正面の小丘をながめながらおしゃべりしている。ザクセン兵がもどって来たかどうかを見るために派遣《はけん》された斥候《せっこう》たちだ。わたしは彼らとともに河をわたる。平底船が河を横ぎって行くあいだ、うしろのほうにすわった斥候のひとりが声をひそめてわたしに言う。
「シャスポ銃がほしければ、プチ=ブリの役場に山とありますぜ。そのうえやつらは歩兵大佐をひとり残して行きやがった。金髪の大男で、肌《はだ》が女みたいに白くて、まっさらな黄色い長靴をはいてやがる」
何よりこの男の目を打ったのは死者の長靴なのだ。しょっちゅう話はそこへ行く。
「いやまったく! きれいな長靴さ!」
そしてわたしに長靴の話をするとき彼の目はかがやく。
プチ=ブリにはいろうとしたとたん、ズック靴をはいてシャスポ銃を四、五丁腕にかかえた水夫が路地から飛び出して、わたしたちのほうへ走って来る。
「気をつけろ、プロイセン兵だぞ!」
小さな壁のうしろにうずくまってながめる。
わたしたちの頭上、ぶどう畑のずっと上のほうに、まずひとりの騎兵があらわれる。鞍《くら》の上で前かがみになり、ヘルメットをかぶり、騎兵銃を手にした、いかにもメロドラマ的なシルエットだ。ついでほかの騎兵たちが来、さらに歩兵たちが匍匐《ほふく》してぶどう畑のなかに散開する。
彼らのひとり――わたしたちのところからいちばん近いやつ――は一本の木のかげに陣取り、そこからもう動かない。長い褐色《かっしょく》の外套を着、色のついたハンカチを頭にまいている大男だ。わたしたちのいるところからは絶好の小銃の的《まと》だ。が、射《う》ったって何になる?……斥候たちは自分らの目的を心得ている。こうなってはいそいで舟にもどるのだ。船頭がののしりはじめる。わたしたちはふたたび無事にマルヌ河をわたる……。が、岸についたかつかぬうちに、むこうの岸からおさえた声がこちらを呼ぶ。
「おーい、舟!……」
それはさきほどの長靴に惚《ほ》れていた男とその仲間三、四人で、役場まで前進しようとしたが、あわただしく引きかえして来たのだ。あいにく彼らを迎えに行くものはもうひとりもいない。船頭は姿を消してしまった。
「おれは漕《こ》ぐことができねえんだ」と、わたしといっしょに穴のなかにうずくまっていた斥候《せっこう》の軍曹がいいかげんみじめな顔をしてわたしに言う。
そのあいだ向こうの連中は焦《あせ》っている。
「来てくれったら! 来ねえのか!」
行かねばならない。たいへんな苦労だ。マルヌ河は流れが重く手ごわい。わたしは力のかぎり漕ぐ。そしてたえずわたしは、向こうの木のかげで身動きもせずわたしをみつめているザクセン兵を背中に感じていた……
岸に近づくと斥候のひとりがひどくあわてて飛びこんだので、舟は水につかってしまう。沈む危険をおかさずにみんなを乗せて行くことは不可能だ。いちばん勇敢なのが土手に残って待つ。それは義勇兵の伍長《ごちょう》だ。青い軍服をきて帽子の前部に小鳥をくっつけた、おとなしい若者。わたしは彼を迎えに引きかえしたかったが、河をはさんで射ち合いがはじまった。彼は何も言わずにしばらく待っていた。それから壁にぴったり身をよせてシャンピニーのほうへ立ち去った。彼がどうなったかわたしは知らない。
同じ日。――事件の場合でも人間の場合でも、劇的なところと滑稽《こっけい》さがまじると、異常に強烈な恐怖あるいは感動をひきおこすものだ。おかしな顔にあらわれた大きな苦しみは他の場合よりもきみの心を動かしはしないだろうか? ドーミエ〔風刺画で名高いフランスの画家〕の描くブルジョワが死の恐怖におびえたり、自分のむすこが殺されて運ばれて来たときその死体の上にさめざめと泣き伏したりしているところを想像できるだろうか? ところで、マルヌ河畔《かはん》のこれらのブルジョワの別荘、薄桃色だのりんご色だのカナリヤ色だのと、とりどりの色のふざけた牧人小屋《シャレ》、トタン屋根の中世ふうの小塔、模造|煉瓦《れんが》の亭《ちん》、ホワイトメタルの擬宝珠《ぎぼし》がゆれているロココふうの小庭園、今そうしたものが砲弾で傷つけられ、風見《かざみ》はこわれ、塀は一面に銃眼《じゅうがん》をあけられ、そこらじゅうに藁《わら》が散らばり血が流れているさまを硝煙のなかに見ると、わたしはあのおそろしい相貌《そうぼう》をそこにみとめる……
服をかわかそうとしてわたしがはいった家もたしかにそういう家のタイプだった。二階の赤と金色の小さなサロンにはいった。壁紙はまだ張り終わってなかった。巻いた紙や金色の棒のはしがまだ床に置いてあった。それにまた、家具は跡形《あとかた》もない。壜《びん》のかけらがあるだけ。そして片すみの藁《わら》ぶとんの上に仕事着をきたひとりの男が眠っている。それらすべてを包んで、火薬とぶどう酒とろうそくとかびのはえた藁《わら》のぼんやりとした匂い……。わたしは桃色のヌガーのようなばかげた形の暖炉《だんろ》の前で、テーブルの足を一本燃やして暖を取る。ときどき目を上げてこの暖炉を見ると、いなかの善良なプチ・ブルジョワの家で日曜の午後を過ごしているような気がする。わたしのうしろのサロンで人々は双六《すごろく》でもやっていないだろうか?……いや! いるのはシャスポ銃に弾《たま》をこめては射っている義勇兵たちだ。砲声を別にすれば、まるで将棋《しょうぎ》の音だ……。一発ごとに向かいの岸からも射ちかえして来る。水面をわたる音は反響して、丘々のあいだに際限《さいげん》もなくひびいている。
サロンの銃眼から、きらきら光るマルヌ河、日の光にみちた土手、大きなグレイハウンドのようにぶどうの支柱のあいだを駈け降りて行くプロイセン兵が見える。
モンルージュの砦《とりで》の思い出
砦のずっと上のほう、稜堡《りょうほ》の土嚢《どのう》でかためた包眼のなかに、長い海軍砲がシャチィヨン要塞に対抗しようとして砲架《ほうか》の上に高らかに頭をもたげていた。砲口を空に向けてこのようにねらいをつけ、側板を耳のように両側に突き出しているところは、まるで死にものぐるいで月にむかってほえている大きな猟犬《りょうけん》みたいだ……。そのすこし下の塁道《るいどう》に、水兵たちが軍艦の一|隅《ぐう》に作るような箱庭の英国式庭園を手すさびに作っていた。ベンチもあずまやも芝生《しばふ》も作り岩も、いやバナナの木すらも一本あった。むろんそんなに大きくはない、ヒヤシンスよりもほとんど高くないほどだ。が、そんなことはどうでもいいじゃないか! とにかくバナナの木は傑作だった。そしてその緑の梢《こずえ》は、土壌と砲弾の山のただなかで見た目に涼《すず》しかったのだ。
おお、モンルージュ砦での箱庭! これを柵《さく》でかこい、この名誉の稜堡の上でたおれたカルヴェ、デプレ、セセその他すべての勇敢な水兵たちの名をしるした記念碑をそこに置いてもらいたいものだとわたしは思う。
ラ・フゥイユーズで
一月二十日朝。
あたたかな、かすんだいい天気だ。遠くに海のように波打っている広大な耕地。左のほうには、ヴァレリヤン山の要塞をささえている砂礫《されき》の多い高い丘陵。右手にはジベの風車小屋。翼《つばさ》のこわれた小さい石造りの風車小屋だが、その前の台地に砲列がしかれている。風車へ通ずる長い塹壕《ざんごう》を十五分ほどたどる。塹壕の上には河霧《かわぎり》のようなものがただよっている。野営の煙だ。うずくまった兵士らはコーヒーをいれ、煙に盲《めし》い咳《せき》をしながら生木《なまき》を吹いている。塹壕のはしからはしまで空《から》咳が長々とつづいている……
ラ・フゥイユーズ。小さな森に周囲を画《かく》された農場。着いたときにちょうど退却中のわが軍の最後尾を見ることができた。指揮官を先頭にし、完全軍装で整然と行進して行く。わけのわからない潰走《かいそう》ぶりを昨夕から見せつけられているので、これで少々心が引き立つ。彼らのうしろからふたりの騎馬の男がわたしのそばを過ぎる。将官とその副官だ。馬は並歩《なみあし》で行く。ふたりはしゃべっており、その声はよくひびく。副官の声、少々へつらうような若い声が聞こえる。
「はい、閣下《かっか》……、いいえ、閣下……、たぶん、閣下……」
そして将官のほうはおだやかな悲しみの口調で、
「何! 殺されたか! おお、かわいそうなやつ……かわいそうなやつ!」
やがて沈黙、そして粘土質《ねんどしつ》の土地の上を行く馬のひづめの音。
わたしは一時《ひととき》ひとりとどまって、どこかシェリフかミチジャ〔いずれもアルジェリアの地方名〕の平原に似た、この憂鬱《ゆううつ》な広々とした風景をながめる。ねずみ色の上っぱりを着た担架卒《たんかそつ》が白地に赤十字の旗を立ててくぼんだ道を上って行く。まるで十字軍時代のパレスティナにいるような気持ちになりかねない。
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暴動風景
マレー区で
薬品やロッグウッドの匂いのするこれらの長いまがりくねった街路《がいろ》のじめじめした、田舎《いなか》びた闇《やみ》のなか、近代工業によってゼルツ水〔皮膚の荒れ止め用の化粧水〕やブロンズや化学製品の工場に変えられたこれらのアンリ二|世《せい》やルイ十三世の時代の古い邸宅《ていたく》とか、箱でいっぱいのかびくさい小庭園とか、重い荷車が通っている大きな鋪石《ほせき》をならべた前庭のあいだ、これらの太鼓腹《たいこばら》のように突き出た露台や高いよろい戸や教会のろうそく消しのようにすすけた虫の食った切妻の下では、騒擾《そうじょう》は〔一八七一年三月に起こったパリ・コミューンの擾乱のこと〕、とりわけ最初の数日は、あるひじょうに特殊な相貌《そうぼう》、何か好人物的な素朴《そぼく》な感じのものを持っていた。通りのあらゆる角にバリケードらしいものがあるが、それを守るものはひとりもいない。大砲も機関銃もない。方式もなく確信もなく、ただおもしろ半分に道をふさぎ、大きな水たまりにしようとして積み上げた鋪石。その水たまりのなかをわんぱく小僧《こぞう》どもの群れがはねまわり、紙で作った船がたくさん浮いている……。どの店も戸をあけ、店の主人は戸口に立って笑いながらお向かいさんと政治論をしている。騒擾《そうじょう》をおこすのはこんな連中ではないが、これらの平和な界隈《かいわい》の鋪石を掘り返すことで町人的なひょうきんな、かるがるしい古いパリの魂を呼びさましたかのように、彼らが騒擾のおこるのを見て満悦していることは感じられた。
昔フロンド〔十七世紀中葉、フランス首相マザランに対して不満貴族が起こした騒擾〕の風と呼ばれたものがマレー区にそよいでいた。大邸宅の破風《はふ》で装飾の怪人像のしかめ面《づら》が「ははん、あれだな」と言っているようだった。
そして自分らの町の鋪石がはがれるのを見て腹をかかえ、自分らの店の前にバリケードがあるのをものすごく誇《ほこ》りにしているらしく見える薬屋や金泥師《きんでいし》や香料屋というこの実直な庶民たちに、わたしは思わず頭のなかで、花模様の長上着や短ズボンや縁《ふち》のそりかえった大きなフェルト帽という昔の装束《しょうぞく》を着せていた。
ときどき長い暗い路地のはずれに、日の光で金色に染められた古い市役所の一端とともに、グレーヴ広場に銃剣がきらめくのを見た。日に当たったこの一|隅《ぐう》を騎兵が通りすぎた、長いねずみ色のマントを着、羽飾りをひらひらさせながら。群衆は走り、叫んだ。帽子をふりまわした。ド・モンパンシエ姫〔フロンドの乱で活躍した王家に連なる貴族の娘〕か、それともクルメール将軍〔普仏戦争のさい、国防政府のために戦った〕か?……わたしの頭のなかで時代が錯綜《さくそう》する。日の光のなかに遠く見える全速力で馬を駆《か》るガリバルディ軍の伝令のような赤シャツが、わたしにはカルディナル・ド・レス〔フランスの政治家、文人。フロンドの首謀者の一人〕の長いガウンのように思えた。どのグループのなかでもうわさに上っている、その食わせ者中の食わせ者というのが、チエール氏なのかマザランなのかわたしにはもうわからなくなった……。三百年前に生きているようなつもりになっていたのだ。
モンマルトルで
先日の朝ルピック通りを上りながら、わたしはある靴《くつ》直しの店先でひとりの国民軍の将校を見かけた。肘《ひじ》まで山形|徽章《きしょう》をつけ、サーベルを腰につるして、軍服をよごさぬように革の前掛けをかけて長靴《ながぐつ》の底革を張り替えているのだ。蜂起《ほうき》したモンマルトルの全景がこの店の窓という額縁《がくぶち》のなかにおさまっている。
すきまなく武装をかためた大きな村を思いうかべていただきたい。水飲み場の縁《ふち》には機関銃がすえられ、教会前広場には銃剣が林立し、学校の前にはバリケードが立てられ、牛乳箱の横には霰弾《さんだん》の箱があり、すべての家屋が兵舎に変えられ、どの窓にもゲートルが乾してあり、集合命令を聞きもらすまいとして軍帽をかぶった頭が下にむかって突き出され、古着屋の小さな店の奥では銃の台尻《だいじり》が鳴り、丘の上から下へと水筒、サーベル、飯盒《はんごう》ががらがらところげ落ちる。それでもやはりこれは、武器をかかげ、顎紐《あごひも》をかけて、「あくまで負けぬぞ。反動派はおれたちの姿を見るがいい!」とつぶやいているような顔つきでたけだけしく歩調を取りながらブゥルヴァール・デ・ジタリヤンを行進する、あの兇暴なモンマルトルではもはやない。ここでは反徒たちは自分の家にいる。そして大砲やバリケードにもかかわらず、何か自由な、平和な、家庭的なものが彼らの反乱の上にただよっているのをわたしは感じる。
見ていてやりきれないのはただ一つ、うようよしているあの赤ズボンども、一週間の髯《ひげ》をのばしたままのぼろぼろのきたない身なりで、酔っぱらってベンチの上に寝たり歩道に大の字になったり役所前の広場にあふれている、アルジェリア歩兵、戦列歩兵、遊動兵などありとあらゆる兵科の脱走兵どもだ……。ちょうどわたしが通ったとき、そういうろくでなしのひとりが木によじのぼって、嘲笑《ちょうしょう》や野次《やじ》のただなかでどもりながら群衆に演説していた。広場の片すみでは一個大隊が城壁に上るために動き出していた。
「進め!」と将校たちはサーベルを打ちふりながらさけぶ。太鼓《たいこ》は突撃の号音を鳴らし、善良な民兵たちははげしい戦意に燃えて人気《ひとけ》のない街路《がいろ》を突進する。街路のはしでは幾羽かの雌鶏《めんどり》が悲鳴をあげてあわてふためいている。
……上のほうの緑の庭と、黄色みがかった坂のあいだに見えるあたりは、陣地と変わったムーラン・ド・ラ・ガレットだ。国民兵たちのシルエット、ならんだテント、煙を上げている露営の焚火《たきび》、それらすべてはまるで望遠鏡で見たように、雨もよいの黒い空と丘のきらきらする黄土とのあいだにはっきりと、きれいに浮き出している。
フォブール・サン=タントワーヌで
パリ包囲中の一月のある夜、わたしはナンテール広場で義勇兵の一大隊のまんなかにいた。敵はわが方の前哨《ぜんしょう》部隊を攻撃したところで、その救援に向かうためこちらはあわただしく準備していた。風と雪のなかで兵士らが手さぐりで番号をつけているあいだ、角燈を先頭にした偵察隊《ていさつたい》が町かどにあらわれるのをわれわれは見た。
「止まれ! だれか?」
「一八四八年の遊動兵〔二月革命のときの国民兵〕」とふるえる声が答えた。
短いマントをきて軍帽を横にかしげてかぶり、いかにも若そうな感じの小さなじいさんたちだった。ちょっと離れたところからならば、兵営で育てられている兵士の子どもと思われたろう。けれども、むこうの軍曹が自分がだれかを知らせるため近づいたとき、われわれの提燈《ていとう》は白い山羊髯《やぎひげ》をはやして目をしょぼしょぼさせている皺《しわ》だらけの、枯れた小柄な老人を照らし出したのだ。この兵営の子どもは百歳にもなっている! ほかの連中もほとんど同じ年配だ。そのうえパリなまりで、いやに向こう気の強そうなようす! 年取ったわんぱく小僧どもだ!
前夜この前哨に到着したのだが、この気の毒な遊動兵たちは最初の偵察で道に迷ってしまったのだった。いそいでちゃんとした道にもどしてやった。
「いそげよ、戦友たち。プロイセン軍がこちらを攻撃するぞ」
「ああ、ああ、プロイセン軍がこちらを攻撃するって」とあわれな老人たちはすっかりおろおろして言った。
そしてまわれ右をして、銃撃のショックで揺れている角燈とともに彼らは闇《やみ》に消えた……
この小さな地霊《グノーム》たちがわたしに与えた異様な印象はどうにも言いようがない。ひどく年をとって、ひどく疲れ、まったく度をうしなっているように見えたのだ! まるでずっと遠いところからやって来たようなようすだったのだ! 一八四八年以来戦場をさまよいつづけ、二十三年も前から道をさがしている幽霊偵察隊をわたしは思ったものだ。
フォブール・サン=タントワーヌの反徒たちはこの幽霊をわたしに思いださせた。わたしは永遠に道に迷った、年をとったが「雀《すずめ》百まで踊り忘れず」の、四八年の老兵たちをそこに見た。白髪《はくはつ》の暴徒、そして古い内乱ごっこ、三階か四階の層をなす古典的なバリケード、そのいただきにひるがえる赤旗、大砲の閉鎖機《へいさき》の上に身をもたげてのメロドラマ式のポーズ、腕まくりし荒々しい顔つきで、
「たちどまるな、市民《シトワイヤン》たち!」
そしてたちまち銃剣をななめに突き出す……
そしてバベルの塔のようなこの大きなフォブールのなんという騒ぎ、なんという昂奮《こうふん》! ル・トローヌからラ・バスチーユまで、やれ警報だ、やれ戦闘配置だ、やれ家宅|捜索《そうさく》だ、逮捕《たいほ》だ、屋外の集会だ、記念柱|詣《もう》でだ、一杯機嫌《いっぱいきげん》で合いことばを忘れっちまった斥候兵だ、シャスポ銃の暴発だ、バフロワ街《がい》の委員会へ引き立てられる淫売婦だ、そして集合だ、非常号音だ、警鐘だ。おお、警鐘、彼ら、この熱狂した連中はどんなによろこんで鐘を打ち鳴らすことか! 日が暮れるやいなや鐘楼《しょうろう》は狂乱におちいって、道化師《どうけし》の笏杖《しゃくじょう》の鈴みたいにその鐘を乱舞させる。喘《あえ》ぎながらの、気まぐれな、不規則な、しゃっくりと人事不省のためときどき中断される酔っぱらいの警鐘もあれば、綱が切れてしまうまで鳴りに鳴る、確信的な、獰猛《どうもう》な、力いっぱいの警鐘もある。それからまた、まるで消燈の号音のように眠そうな音が重たげにひびいて来る、だらけた熱のない警鐘……
この喧騒《けんそう》、この鐘と人間の頭の狂乱のただなかで一つのことがわたしの心を打った。それはラップ街とそこから四方へのびている路地や横町の静けさだ。そこにはオーヴェルニュ人〔フランス中西部の地方の人々で、パリに出稼ぎに来ていた〕の特殊居留地《ゲットー》とでもいったものがあって、カンタル地方の子どもらが蜂起《ほうき》などまるで千里もかなたのことでもあるかのように問題にもせずに古い屑鉄《くずてつ》の上で安らかに商売しているのだ。通りがかりにわたしはこの実直なレモナンクの人々が皆それぞれの暗い店のなかでいやにいそがしく働いているのを見た。女たちは戸口の石の上で編み物をしながらわけのわからぬ方言でしゃべり、小さな子どもたちはちぢれ毛を鑢屑《やすりくず》だらけにして横町のまんなかでころげまわっていた。
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渡し船
戦争の前には、そこにはりっぱな吊橋《つりばし》があった。白い石の高い橋台が二つ、セーヌ河の水面の上にさしかわされる瀝青《れきせい》を塗った索具《さくぐ》。宙にかかったその姿のおかげで気球や船はとてもきれいに見えた。そのまんなかの大きなアーチの下を、船列《せんれつ》は一日に二回煙のうずをまいて通る。煙突をひっこめる必要もない。両岸には洗濯|箆《べら》や洗濯女たちの腰掛けや鐶《かん》でつないだ小さな釣舟がならぶ。水のつめたさにふるえる緑のカーテンのように牧場のあいだにのびるポプラの並木道が橋に通じている。こころよいながめだった……
今年は何もかも変わってしまった。ポプラはあいかわらず立っているが、その先には何もない。橋はもうないのだ。二つの橋台は吹きとばされ、あたりに散った石がそこらに残っている。衝撃《しょうげき》でなかばこわれた橋番の白い小さな家は、ごく新しくできた廃墟《はいきょ》かバリケードか取りこわし跡みたいに見える。綱や鋼索《こうさく》はみじめに水につかっている。砂のなかにめりこんだ橋板は水のなかで、船頭たちへの警告のために赤い旗を立てた大きな漂流物みたいな形で、セーヌの流れのはこぶ草のきれっぱしや朽《く》ちた板はみんなそこに引っかかり、堰《せき》となって逆流や渦《うず》をたくさん作っている。この風景のなかには裂け目が、開かれた、災厄《さいやく》の匂いのするものがある。このながめをますます陰気にするのは、橋に通ずる並木がまばらになってしまったことだ。あんなにしげっていた美しいポプラがすべて、梢《こずえ》まで虫に食われて――樹木にとってもやはり侵略ということがあるのだ――めちゃめちゃにされた痩《や》せた芽《め》のない枝をのばしている。そして用のなくなった人気《ひとけ》のない通りには大きな白い蛾《が》が重そうに飛んでいる……
橋が再建されるまでの間にあわせに、近くに渡し船が置かれた。例のばかでかい筏《いかだ》で、馬をつないだままの車でも犂《すき》をつけたままの耕作馬でも、水の流れを見て静かな目をみはる牝牛《めうし》たちでもそれに乗せる。動物と馬をつけた車や犂《すき》は中央にいる。はしのほうは乗客、百姓たちや村の学校へ行く子どもたちや別荘暮らしのパリの人たちだ。ヴェールやリボンが繋馬索《けいばさく》のそばにひるがえっている。まるで難船した人々の筏だ。
渡し船はゆっくりと進む。横ぎるのにいやに時間がかかるセーヌ河は昔よりもずっと幅が広くなったように見え、くずれた橋の廃墟のむこう、ほとんどたがいにまったく縁がないように見える両岸のあいだに、地平線はいわば、ものがなしい厳粛《げんしゅく》さをもってひろがっている。
その朝は、河を渡ろうとしてわたしは早朝にやって来た。岸にはまだだれもいない。渡し守の小屋はしめった砂の上にすえられた古い客車だが、霧に濡《ぬ》れそぼってまだ開いていない。中から子どもたちの咳《せき》が聞こえた。
「おーい、ユジェーヌ!」
「はい、はい!」と言って渡し守は足をひきずってやって来た。
男前の船頭で、まだかなり若いが、この前の戦争に砲兵として従軍し、片足に砲弾の破片を受け、顔はきずだらけになり、リューマチですっかり動けなくなって帰って来たのだ。この律儀《りちぎ》な男はわたしを見てほほえんだ。
「だんな、けさはうるさいことはありますまいて」
実際、渡し船の客はわたしひとりだった。が、彼が舫《もや》い綱《づな》をとかぬうちにお客さんたちがやって来た。まずコルベーユの市場へ出かける目の澄んだ太った農家のおかみさんで、二つの大きな籠《かご》を両脇にかかえている。籠のおかげで百姓女らしいそのからだはまっすぐにのび、しっかりとした足取りでまっすぐ歩くのだ。やがて彼女のうしろからほかの乗客たちがくぼんだ道をやって来る。その姿は霧のなかにぼんやりと見え、その声が聞こえる。涙に満ちたやさしい女の声だ。
「おお、シャシニョさん、お願いです、あたしたちをそんなに苦しめないで……。あの人、今は働いているじゃありませんか……。お払いできるまで待ってやってください……あの人の求めているのはそれだけなんです」
「もう十分待ってやったよ……必要以上待っていらあね」と、歯の抜けた無慈悲《むじひ》な老百姓らしい声が答えた。「今度は執達吏《しったつり》の出る幕だ。執達吏が好きなようにするだろうよ……。おーい、ユジェーヌ!」
「あのごろつきのシャシニョですよ」と渡し守は声をひそめてわたしに言って……「はい! はい!」
このときわたしは、粗《あら》いラシャのフロックコートにいやに高い真新しい絹の帽子といういでたちの背の高い老人が水際にやって来るのを見た。日にやけ、皮膚《ひふ》はひびわれて、つるはしを握るために形のくずれた節《ふし》くれだった手をしたこの百姓は、紳士の身なりをしているためよけいに黒く、よけいに日にやけているように見えた。因業《いんごう》そうなひたい。アパッチ・インディアンのような大きな鉤《かぎ》っ鼻《ぱな》、悪意にみちた皺《しわ》のよったゆがめた口が、シャシニョなどという名にいかにもふさわしい残忍な人相を彼に与えていた。
「さあ、ユジェーヌ、早く船を出せ」と彼は渡し船に飛びこみながら言った。その声は怒《いか》りでふるえていた。
渡し守が舫《もや》い綱《づな》をといているときに百姓女は彼に近づいた。
「いったいだれのことをおこってるのさ、シャシニョじいさん?」
「おや、おまえかい、ブランシュ……。もうこの話はやめてくれ……。わしは肚《はら》をすえかねてるんだ……。あのマジリエ家の悪党どものことだ!」
そして彼は、すすり泣きながらくぼみ道を引きかえして行くみすぼらしい小さな影のほうへこぶしを向けた。
「いったい何をしたのさ、あの人たちは?」
「家賃を四期《よんき》もため、酒の代も払わねえ。一文も取れねえんだ!……だからわしはこの足で執達吏《しったつり》のところへ行って、あの悪党どもを家から追い立てさせてやるのさ」
「でもあれは律儀《りちぎ》な男だよ。あのマジリエは。あんたにお金を払わなくても、たぶんあの人がわるいんじゃないだろうよ……。この戦争で損害を受けた人はたくさんいるからね」
老百姓はかんしゃくを破裂させた。
「ばかだよ!……プロイセン軍といっしょになって一財産作れたのに。あいつはそうしようとしなかったんだ。……やつらがやって来たその日にあいつは店をしめ、看板をはずしてしめえやがった……。ほかのカフェの主人たちは戦争のあいだぼろ儲《もう》けしてるってのに、あいつは一文もあきないをしようとしなかったんだ……。それどころじゃねえや。横柄《おうへい》なことを言ってやがったから、牢屋にまで投げこまれたんだ……。ばかだよ。まったく……。そんなことがあいつにどんな関係があるってんだい? やつは軍人じゃねえじゃねえか……。客にぶどう酒とブランデーを出しておきさえすりゃよかったんだ。そうすりゃおれに払う金もあったろうに……。悪党め、愛国者ぶった報《むく》いだ!」
そしてまっかになって憤慨《ふんがい》しながら、大きなフロックコートを着ているくせに労働服を着なれた田舎者らしいもっさりした身ぶりで、彼はじだんだ踏んだ。
彼がしゃべるにつれて、今しがたまではマジリエ家のものに対する同情にあんなにあふれていた農家のおかみさんの澄んだ目は白々《しらじら》しく、ほとんど軽蔑《けいべつ》的になった。彼女もまた百姓だったのだ。そしてこの連中は、金をかせぐことを拒《こば》む人間などあまり尊敬しないのである。最初彼女は「おかみさんがほんとにかわいそう」と言った。それからしばらくして、「そうね、ほんとだよ……。幸運に背を向けるもんじゃないね」そして彼女の結論はこうだった。
「あんたの言うとおりだよ、とっつぁん、借金があったら払わなくちゃあね」
シャシニョのほうはあいかわらず噛《か》みしめた歯のあいだでくりかえしていた。
「ばかだよ!……ばかだよ!」
渡し船の船べりにそって棹《さお》を動かしていた渡し守はとりなしてやらずばなるまいと思った。
「まあ、シャシニョじいさん、そう意地のわるいことを言いなさるな……。執達吏《しったつり》のところへ行って何になります?……たとえやつらに商売させたところでだめだったでしょうよ。まあもうちょっと待ってやんなさいよ。あんたは待てるんだから」
老人は噛《か》みつかれたようにふりむいた。
「大きな口をきくなよ、え、ろくでなし! きさまもあの愛国者の仲間だな……。同情もへったくれもねえもんだ! 五人も子どもをかかえて、一文なしで、そのくせ道楽に大砲をぶっぱなしに行こうってんだからな、別にそんな義理もねえのによ……。ちょいとうかがいますがね、旦那(これはわたしに言ったらしい、いやな野郎!)、こんなことがわたしたちにとってなんの役に立ちましたかね? たとえばこいつですよ、顔をめちゃめちゃにされ、それまで持っていたいい職をうしなったのがオチでさあね……。今こいつは浮浪人みてえな吹きっさらしの小屋に住んで、子どもらはしょっちゅう病気だ、かみさんは洗濯でへとへとだ……。ばかじゃねえですかい、この野郎も?」
渡し守の目には怒《いか》りのひらめきが走った。そして彼の蒼白《そうはく》な顔のまんなかに刀傷《かたなきず》が深く白くえぐれるのをわたしは見た。しかし彼は自制することができた。憤怒《ふんぬ》を棹《さお》のほうへ移して、彼はねじれるほど棹を砂のなかへ突っこんだ。もう一言相手が言ったら、彼はこの職をもうしなったかもしれなかった、シャシニョ氏はこのあたりのお偉方《えらがた》だったのだから。
氏は村会議員なのだ。
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旗手
連隊は鉄道道路の土手の斜面でたたかい、正面の森のなかに集結した敵の集中射撃の的《まと》となっていた。八十メートルの距離で射ち合っていたのだ。将校たちは「伏せ!……」とさけんだが、だれも伏せようとしなかった。そして勇敢な連隊は軍旗のまわりにかたまって立ったままでいた。落日と麦の穂《ほ》と牧場のこの広大なながめのなかで、攻めたてられ、ぼんやりとした煙に包まれたこの人間集団は、野原のただなかですさまじい嵐の最初の旋風《せんぷう》にまきこまれた畜群みたいに見えた。
この土手の斜面には鉄の雨が降っていたのだ! 小銃のぱちぱち鳴る音、溝《みぞ》のなかにころがる飯盒《はんごう》のにぶい音、よくひびく無気味《ぶきみ》な、楽器の張りつめた絃《げん》のように戦場のはしからはしまで長々と空気をふるわす弾丸の音のほかは何も聞こえない。人々の頭上で榴霰弾《りゅうさんだん》のまきおこす風に激しくひるがえる軍旗はときどき煙のなかに没した。するとだれかの声が、おもおもしく、誇《ほこ》らしげに、銃声や負傷者の喘《あえ》ぎや罵声《ばせい》を圧してひびきわたった。
「旗だ、みんな、旗だ!……」
たちまちひとりの将校がおどりだすのがこの赤い霧のなかの一つの影のようにぼんやりと見えて、雄々《おお》しい軍旗はふたたび生命をとりもどして戦いの上にまたたなびくのだった。
二十二回軍旗は倒れた!……死なんとするものの手から落ちた、まだなまあたたかいその旗竿《はたざお》は、二十二回も別のものの手に移り、ふたたびかかげられたのだ。そして日が暮れて、連隊の生き残り――ほんのわずかの兵士たち――はゆっくりと退却した。その日で二十三番目の旗手となったオルニュ軍曹《ぐんそう》の手にある軍旗は、もはや一片の襤褸《らんる》でしかなかった。
このオルニュ軍曹というのは、自分の名もろくろく書くことのできぬ、二十年もかかってようやく下士官の階級に上った三本筋の袖章《そでしょう》の老骨だった。捨て子としてなめたあらゆる不幸、軍隊生活のおかげでますますひどくなった愚《おろ》かさのすべてが、せまくて依怙地《いこじ》そうなそのひたい、背嚢《はいのう》でまがったその背、無意識のうちに出て来る列伍中の歩兵らしい歩き方にあらわれていた。おまけに彼は少々どもりだった。といって、騎手になるには雄弁の必要はない。戦いのあった日の夜、連隊長は彼に言った。
「おまえが旗を持っとるのか。よし、ずっとおまえが持っていろ」
そしてすでに雨と砲火ですっかり色あせた見る影もない彼の野戦|外套《がいとう》に、酒保の女がさっそく少尉の金筋を縫いつけてくれた。
これはこの謙虚《けんきょ》な生涯の唯一の誇《ほこ》りだった。たちまち老兵の背はしゃんとのびた。背中を丸め、目を伏せて歩くくせのついたこのあわれな男は、これ以後|昂然《こうぜん》とした顔をし、あの襤褸《らんる》がひるがえるのを見、死とうらぎりと敗走の上に高くそれをかかげつづけようとして、彼の目はいつも上へ向けられていた。
戦いの日の、革の鞘《さや》のなかにしっかり固定した旗竿《はたざお》を両手ににぎっているときのオルニュ以上に幸福な人間など、きみは今まで一度も見たことはなかったろう。口もきかず、動きもしない。司祭のようにまじめで、まるで何か神聖なものを捧持《ほうじ》しているようだった。彼の全生命、彼の全身の力は、弾丸のおそいかかるこの美しい金色の襤褸《らんる》のまわりにひきつったその指、「さあ、これをおれからうばってみやがれ!……」と言っているようなぐあいにプロイセン兵をまっこうからにらみつける、戦意にみちたその両眼に集中していた。
なんびともうばおうなどとはしなかった、死すらも。ボルニー、グラヴロットの、もっとも犠牲《ぎせい》の多い戦いのあとで、軍旗はいたるところへ行った、ずたずたにされ、穴だらけになり、透《す》いて見えるようになりながらも。しかしそれをかかげているのは、あいかわらずオルニュの手だったのだ。
それから九月が来た。軍はメッツにとどまり、重囲におちいる。そしてぬかるみのなかでのこの長い停止、大砲は錆《さ》び、世界最強の軍隊は無為と糧食や情報の欠如《けつじょ》とのために士気をうしなって、銃《じゅう》を交差して立てかけたまま熱意と退屈をもてあましていた。将卒ともにもはや信念を失った。ただオルニュだけはまだ確信をいだいていた。彼にはこの襤褸《らんる》の三色旗がありさえすれば何がなくてもよかった。それがそばにあるのが感じられるかぎり、何も失われていないような気がした。不幸にして戦闘はもはやおこなわれなかったから、大佐は軍旗をメッツの郊外町の一つの自分の家に置いていた。そして勇敢なオルニュは、いわば子どもを乳母《うば》にあずけている母親みたいなものだった。始終旗のことを考えていた。で、あまりやるせない気持ちになってしまうと一気にメッツまでかけつける。そして旗がいつものところにちゃんと壁にたてかけられてあるのを見ただけで、元気|溌剌《はつらつ》として忍耐力をとりもどして帰る。濡《ぬ》れそぼった幕舎《ばくしゃ》のなかへ、戦いの夢を、大きく広げた三色旗を向こうのプロイセン軍の塹壕《ざんごう》の上にひるがえしながら前進する夢を持ち帰るのだ。
バゼーヌ元帥《げんすい》の命令が、この幻想《げんそう》を打ちくずした。ある朝オルニュは目をさまして、全軍がわきたっているのを見た。ひどく気負いこんだ兵士らがあちこちにかたまって昂奮《こうふん》し、憤怒《ふんぬ》のさけびをあげ、みながこぶしで町のなかの同じ方向をさしていた、まるで彼らの怒りの的《まと》であるひとりの罪人を指示するかのように。「あいつを引きさらおうじゃないか!……銃殺すればいいんだ!……」と口々にさけんでいる。将校らはそれを止めなかった……。部下に合わす顔がないというように、頭を垂れて彼らはわきのほうを歩いていた。実際恥ずかしいことだった。十分武装した、まだ無傷《むきず》の十五万の兵士の前で、戦いもせずに彼らを敵の軍門に降《くだ》らせるという元帥の命令が今、読み上げられたのである。
「で、軍旗は?」とオルニュは顔色を変えてきいた……
軍旗もほかのものといっしょに、銃や装具の残りやその他すべてのものといっしょに敵に引きわたされていた……
「と……と……とんでもねえや!」とあわれな男はどもりどもり言った。「おれのだけはどうしてもわたさんぞ……」
彼は町のほうへ走りだした。
町もたいへんな騒ぎだった。国民兵、市民、遊動兵たちはさけび、昂奮していた。代表者たちがからだをわなわなさせながら元帥のところへ出かけて行く。オルニュの目には何もはいらず、耳には何も聞こえなかった。ル・フォブール通りを歩きながら彼はひとりごとを言っていた。
「おれの旗を取り上げるって!……冗談《じょうだん》じゃない! そんなことがありえようか? そんな権利があるだろうか? 自分のものをプロイセン軍にやりゃあいいんだ、金塗りの四輪馬車だろうとメキシコから持って帰った美しいお皿《さら》だろうと! が、こいつはおれのもんだ……おれの名誉だ。だれにもこれには手をふれさせねえ」
こういうことばのはしはしは、駈け足と、どもるためにきれぎれになっていた。しかし実は彼にはある考えがあった。このおっさんには! はっきりとした、確固とした考えが。旗をうばい、連隊のまんなかに持ちこみ、彼に従おうとするすべてのものどもとともにプロイセン軍のどてっぱらにつっこもうという考えだ。
めざすところへついたが、中に入れてさえくれない。大佐自身も激昂《げきこう》していてだれにも会おうとしなかったのだ……が、オルニュはそういうふうには取らなかった。
彼はののしり、わめき、当番兵を押しのけた。「おれの旗……おれの旗をかえしてもらいたい……」しまいに窓があいた。
「オルニュか?」
「はい、大佐殿、わたしは……」
「旗はみんな兵器庫にある……、兵器庫へ行きさえすりゃいいんだ、受取りをくれるだろう……」
「受取り?……なんのため?」
「元帥の命令なのだ……」
「ですが、大佐殿……」
「うるさいぞ!……」
そして窓はしまった。
老オルニュは酔っぱらいのようによろめいた。
「受取り……受取り……」と彼は機械的にくりかえした……。とうとう彼は歩きだした。わかっていたことはもうただ一つ、旗は兵器庫にある、どんなことがあってもそれを取りもどさねばならぬということだった。
兵器庫の扉は、中庭にならんで待っているプロイセン軍の輸送車を通すために大きく開かれていた。オルニュは中にはいってぎょっとした。すべての旗手がそこに来ているのだ、悲痛な思いで黙々としている五十人か六十人ばかりの将校が。そして雨に打たれている陰気な車、そのうしろにかたまった無帽のこの人々、まるで葬式だった。
一|隅《ぐう》にバゼーヌ軍のすべての軍旗がどろだらけの敷石の上にごっちゃまぜに積み上げられていた。これらのけばけばしい絹のきれはし、金の総《ふさ》や細工した旗竿の名残《なご》り、地面に投げ捨てられ雨とどろによごれたこれらすべての栄光の品々ほどなさけないものはなかった。係の将校が一つ一つそれを取り上げ、そして連隊の名が呼ばれると各旗手が進み出て受取りをもらう。ふたりのプロイセン将校がしゃちほこばって無感動に積み込みを見張っている。
おお、神聖な栄光の襤褸《らんる》よ、おまえたちはそうして裂傷《れっしょう》をさらけ出し、翼《つばさ》の折れた鳥のようにかなしく敷石の上にひきずられながら行ってしまうのだ! どろをぬられた美名の屈辱《くつじょく》をいだいて行ってしまうのだ、そしておまえたちの一つ一つとともにフランスはすこしずつ解体するのだ。長い進軍のあいだ、日の光はおまえたちの褪《あ》せた襞《ひだ》のあいだにまだ残っている。弾痕《だんこん》のなかにおまえたちは、ねらわれた旗の下にたまたま倒れた無名の死者たちの思い出をとどめている……
「オルニュ、おまえの番だ……。呼んでるぞ……受取りをもらいに行け……」
やはり受取りのことを言っているのだ!
旗は彼の前にあった。それはたしかに彼の旗、もっとも美しい、もっともいたんだ旗だった。これをふたたび目にすると、彼はまだあの土手の斜面にいるような気がした。弾丸がうなり、飯盒《はんごう》がくだかれるのが聞こえ、「旗だ、それ!……」という大佐の声が聞こえた。それから地面に倒れている二十二人の戦友、そして二十三人目の彼がとびだして、ささえる腕《うで》がなくなってゆらいでいるあわれな軍旗をふたたびかかげ、ささえる。ああ、この日彼は死ぬまでこの旗を守り、この旗を手放さぬと誓ったのだった。それが今……
このことを思うと心臓の血がことごとく頭へ奔騰《ほんとう》した。酔いしれ、われを忘れて彼はプロイセン軍の将校におどりかかり、愛する軍旗をうばい取って両手ににぎりしめ、それからつぎのようにさけびながら、なお高くまっすぐにさし上げようとした、「旗……」が、その声は喉《のど》の奥で止まった。旗竿《はたざお》がふるえ、自分の手からすべるのを感じた。このものうげな大気のなか、降伏した町々の上に重くたれこめるこの死の大気のなかでは、旗はもはやひるがえることができず、誇《ほこ》りあるものはもはや生きることはできなかった……。そして老オルニュは卒中で倒れた。
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ショーヴァンの死
わたしが彼にはじめて会ったのは、当時スペイン・プロイセン事件〔普仏戦争の原因となった、スペインの王位継承をめぐる独仏間の紛議〕と呼ばれていたものの始まりだしたばかりのころ、八月のある日曜日の客車のなかだった。一度も会ったことがなかったが、彼だとすぐにわかった。背が高く、やせこけて、ごま塩頭、燃えるような顔、鷹《たか》のくちばしのような鼻、目はいつも怒気《どき》をたたえてまるく、はしのほうの勲章をつけた御仁《ごじん》に対してしか愛想っけを見せない。ひたいはせまく小さく頑固そうだった。同じ考えがしょっちゅう同じ場所に働いているうちに、しまいに一本ひどく深い皺《しわ》をきざみこんでしまったというようなひたいなのだ。全体のようすに何か人のよい気まぐれなところがあるが、何よりすごいのは、「フルランス」とか「フルランスの旗」などについて語るときのrを捲《ま》き舌で発音する、そのおそろしい言い方なのだ。「これはショーヴァン〔第一帝政時代の愛国的な兵士を言ったが、後に偏狭な愛国主義をショーヴィニストと呼び、ショーヴァンはそれの擬人化〕だな」とわたしは心に思った。
事実ショーヴァンだった。しかも朗々と弁じたて、身ぶり手まねをし、手に持った新聞でプロイセンをぽんとなぐり、ベルリンに入城し、ステッキをふり上げ、酔いしれ、何も聞こえず何も見えず、狂ったようにいきまいているという、その真髄《しんずい》を発揮しているところなのだ。もはや遅滞《ちたい》は許されぬ、妥協《だきょう》は不可能だ。戦争だ! 彼にはどうあっても戦争が必要なのだ!
「しかしこちらの準備ができていなかったら、ショーヴァン?……」
「あなた、フランス人はいつも準備ができているのです!……」とショーヴァンはきっとなって答えた。
そして逆立《さかだ》った髭《ひげ》の下からすごい捲き舌《じた》のrの音が窓ガラスをふるわせるほどぽんぽんととびだして来た……。どうも癇《かん》にさわるあほうな男だ! 昔から彼の名につきまとい、彼を滑稽《こっけい》な有名人物にしているあの揶揄《やゆ》や小唄が、どれほどよくわたしに納得《なっとく》されたことか!
この最初の出会いの後、わたしはこれから彼を避けようとかたく心に誓ったものだ。ところが妙な運命で、ほとんどたえず彼はわたしの行くところへあらわれるのだ。まず第一に元老院〔フランスの上院〕で、ちょうどド・グラモン氏〔フランスの外相。対プロイセン強硬論者で、開戦の責任者〕が戦いが宣せられたとおごそかに議員たちに告げに来た日。老人らしいたよりない歓声《かんせい》のただなかで、ものすごい「フランス万歳《ばんざい》」のさけびが特別傍聴席から上がり、そしてわたしは上のほうの長押《なげし》のところにショーヴァンの大きな腕《うで》がゆれているのを見た。しばらく後わたしはオペラ座で彼をまた見かけた。ジラルダン〔有名なジャーナリスト〕の桟敷《さじき》に立って、「ドイツのライン」を歌えと要求し、この歌をまだ知らない歌手たちにむかって、「それじゃあ、ドイツのラインを占領するよりもその歌をおぼえるほうが時間がかかるだろうぜ!……」とさけんでいた。
そのうちにもう悪魔に取りつかれたようなぐあいになってしまった。町かどだろうがブゥルヴァールのかどだろうが、いたるところで、いつもベンチや机の上にのっかって、この無軌道《むきどう》なショーヴァンはわたしの前にあらわれるのだった、太鼓《たいこ》やひるがえる旗や「ラ・マルセイエーズ」の歌声のまんなかで、出発する兵士たちに葉巻をくばり、傷病兵運搬車にむかって拍手し、人々の頭上にほてった頭をもたげて、騒々しくわめき、うなり、のさばり出、まったくパリにはショーヴァンという人間が六十万もいるのじゃないかと思われるほどだった。実際、この鼻持ちならぬ人間の姿を見ないですまそうとすれば、自分の家にとじこもって門も窓もしめきるほかはなかったのである。
けれども、ヴィサンブール、フォルバッハ、そしてわれわれにとってあの陰鬱《いんうつ》な八月の月を、ほとんど絶えることのない長い悪夢、熱っぽく重苦しい夏の悪夢のようなものにしてしまった一連の災禍《さいか》のあとで、どうしてなおじっとしていられよう? ニュースや掲示があればそれっとかけつけ、一晩じゅうガス燈の下をおびえ驚愕《きょうがく》した顔で歩きまわる人々のなまなましい不安にどうして無縁でいられよう? そうした夜にもわたしはショーヴァンに出会った。彼はブゥルヴァールの人の群れから群れへと歩きまわり、黙々とした群衆にむかって長広舌《ちょうこうぜつ》をふるっていた。希望にあふれ、吉報を山ほど持って、何があろうと成功を確信し、「ビスマルクの白|胸甲騎兵《きょうこうきへい》は最後の一兵まで粉砕《ふんさい》された」と二十回もぶっつづけにくりかえすのだ。
妙なことだ! すでにショーヴァンはわたしの目にそれほど滑稽《こっけい》と映じなくなっているのだ。わたしは彼の言っていることなど一言も信じない。しかしそんなことはどうでもいい、とにかく彼の話を聞くのがわたしには楽しいのだった。いかに物を見る目がなく、気ちがいじみた自尊心を持ち、無知であろうとも、このやかましい男のなかには心をあたためてくれる内面の炎《ほのお》のような、ある生き生きとしたしぶとい力が感じられた。
長い包囲の期間、ひどいパンと馬肉で生きたあのおそろしい冬のあいだ、われわれはたしかにこの炎を必要としていた。パリの人々はみんな「ショーヴァンがいなかったらパリは一週間ともたなかったろう」と証言してくれるだろう。最初からトロシュは言っていた。
「敵はその気になればいつでもはいって来るだろう」
「敵ははいって来ない」とショーヴァンは言った。
ショーヴァンには信念があったが、トロシュは信念を持たなかった。ショーヴァンはすべてを信じた。彼は公表された計画もバゼーヌも味方の出撃も信じた。毎夜彼はエタンプの方角にシャンジー軍の砲声を、アンギヤンの向こうにフェデルブの狙撃兵《そげきへい》の銃声を聞いていた。そしていちばん信じられぬことは、われわれ自身もそれらを聞いたことだ。この英雄的なおっちょこちょいの魂は、ついにはそれほどまでにわれわれの内部に浸透《しんとう》してしまったのだ。
勇敢なショーヴァン! 雪をはらんだ黄色の低い空のなかに、鳩《はと》たちの小さな白い翼《つばさ》を最初に見つけるのはいつも彼だった。ガンベッタ〔包囲下のパリから気球で脱出したフランスの政治家〕がわれわれに例のタラスコン流の大言壮語を送って来たとき、区役所の門前でいつもながらの朗々たる声を張り上げてそれを朗読したのはショーヴァンだった。十二月の厳寒の夜、がたがたふるえる人々の長い列が肉屋の前で待ちくたびれているとき、ショーヴァンは敢然《かんぜん》と列のいちばん最後に加わる。そして彼のおかげでこれらの空腹をかかえたすべての人々は、なお笑い、歌い、雪のなかでロンドを踊る元気をとりもどすのだった……。
「ル、ロン、ラ、通してやりなよロレーヌへ、プロイセンの軍隊を」とショーヴァンは音頭を取る。と、木底靴《ガローシュ》は拍子《ひょうし》を打ち、毛の頭巾《ずきん》の下で蒼《あお》ざめたあわれな人々の顔はつかの間生色をとりもどすのだ。ああ、残念ながらこうしたことはなんの役にもたたなかった。ある夜ドルゥオ通りの前を通って、わたしは区役所のまわりに不安げな群衆がつめかけているのを見た。そしてわたしは車も通らず、ともし火もないこの大きなパリのなかにショーヴァンの声が荘重《そうちょう》に高まるのを聞いた。
「われわれはモントルトゥー丘陵を占領する」
一週間後すべては終わった。
この時以後ショーヴァンはもう長い間をおいてしかわたしの前にあらわれなかった。二、三度ブゥルヴァールで、大きな身ぶりで復讐《ふくしゅう》をとなえているところを見かけた――あいかわらず空気をふるわすようなrの音を聞かせて。けれども、もうだれも彼に耳をかさなかった。しゃれ者のパリは昔のたのしみをとりもどすこと、労働者のパリはその怒りをふたたび爆発させることしか望んでいなかった。そしてあわれなショーヴァンがいくらその大きな腕《うで》をふりまわしても、人々は彼のまわりにつめかけるどころか、彼が近づくと散ってしまった。
「うるさいやつ」とある人々は言った。
「スパイ!」とほかの連中は言った……
それから暴動の日が来た、赤旗、コミューン、使用人《ネグロ》どもの支配下のパリ。ショーヴァンは疑《うたが》いを受ける身となり、もはや家から外に出ることができなかった。けれどもあの有名な記念柱倒し〔ナポレオン一世の武勲を記念した記念柱で、コミューンの叛徒によって倒された〕の日には、彼はヴァンドーム広場の一|隅《ぐう》でそれを見ていたにちがいなかった。群衆のなかに彼がいるものと人々は推測した。ごろつきどもは彼の姿を見ずに彼をののしった。
「おーい、ショーヴァン!」と彼らはさけんだ。
そして記念柱が倒れたとき、司令部の窓ぎわでシャンパンを飲んでいたプロイセンの将校たちは
「ああ、ああ、ああ、モッシエ・ショーファン」と嘲笑《ちょうしょう》しながらグラスを上げた。
五月二十三日までショーヴァンの消息はまったく不明であった。ある地下室の奥に身をひそめてこの不幸な男は、フランス軍の砲弾がパリの屋根の上を風を切って飛ぶのに絶望していた。とうとうある日のこと、砲撃の合い間に思いきって彼は外へ出てみた。通りは人影がなく、広くなったように見えた。一方にはバリケードが大砲をすえ赤旗を立てて威嚇《いかく》的に立っていた。もう一方のはしには、ヴァンセンヌ側のふたりの小男の猟兵が銃を前に出して背を丸めながら壁にぴったり寄って前進していた。ヴェルサイユ河の軍隊がパリにはいったところだったのだ……
ショーヴァンの心臓はおどった。「フランス万歳《ばんざい》!」と、兵士らのほうへ駈けだしながら彼はさけんだ。彼の声は両岸からの銃火のもとに消えた。おそるべき誤解によってこの不幸な男は対峙《たいじ》する双方の憎悪《ぞうお》にはさまれ、彼らはたがいに相手をねらいながら彼を殺したのである。敷石をはがされた車道に彼がころがるのが見えた。そして二日間、両腕をひろげ動かぬ顔で彼はそうして横たわっていた。
このようにしてショーヴァンはわれわれの内戦の犠牲《ぎせい》となって死んだのだ。彼は最後のフランス人だった。
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アルザス! アルザス!
数年前わたしはアルザスの旅をしたが、この旅はもっとも楽しい思い出の一つとなっている。レールと電線で区切られた風景しか何も記憶にとどめぬあの味気ない鉄道旅行ではなく、袋を背に、がんじょうな杖《つえ》を手に、あまりおしゃべりでない道連れひとりをともなっての徒歩旅行だったのだ……。すばらしい旅のやりかただ。しかもすべての見聞がどれほどよく心に残ることか!
特にアルザスをめぐる障壁《しょうへき》ができてしまった今は、失われたこの国についての昔のすべての印象が、すばらしい田園を長々と歩きまわったときの思いがけない味わいとともにわたしの心によみがえる。森は日の光にあふれた平和な村々の上に大きな緑のカーテンのようにそびえ、山をまわって行くと鐘楼《しょうろう》や構内を小川が横切る工場や製材場や製粉所や、見たことのない服のあざやかな色調が、平原のみずみずしい緑のなかから突然あらわれる……。
毎朝夜明けにわれわれは起きていた。
「モッシエ!……モッシエ〔アルザス人は元来ドイツ人なので、ムッシュウをドイツなまりで発音する〕! 四時ですよ」と宿屋の小僧がわれわれにさけぶ。
いそいでベッドから飛び出し、袋の口をしめて、よく足音のひびくもろい小さな木の階段を手さぐりで降りる。下に降りてから、出発する前にわれわれは、はやくから火の燃やされているあの宿屋の大きな台所でキルシュを一杯飲む。ぶどうの蔓《つる》が燃えながらひくひく動いているのを見ると、霧や湿《しめ》った窓ガラスのことを考えてしまう。やがて出発だ!……
最初のうちはつらい。この時刻には前日の疲れがすっかりよみがえって来る。目のなかにも大気のなかにもまだ眠気が残っている。けれどだんだんとつめたい露は消え、靄《もや》は日の光のなかに消散する……。歩みをつづける……。暑さが堪えがたくなると、わたしたちは昼食のために泉や小川のそばに足をとどめる。それから流れる水の音を聞きながら草のなかに眠りこみ、弾丸のようにうなりをたててそばをかすめて行く大きな丸花蜂《まるはなばち》の羽音で目をさます……。暑さがやわらぐとわたしたちはまた歩きだす。まもなく日はかたむき、それにつれて道も短くなるように感じられる。めざす場所をさがし、宿泊の場所をさがす。そしてくたくたに疲れた身を、あるいは旅籠《はたご》のベッドの上に、あるいは開いた納屋《なや》のなかに横たえる。さもなければまた、露天の藁塚《わらづか》の下に、鳥たちのつぶやき、草のなかの昆虫のうごめき、軽い跳躍《ちょうやく》やひっそりとした飛翔《ひしょう》、深い疲労のなかでは夢のはじまりと思えるようなあの夜の物音に包まれて……
なんという名だったろうか、われわれの見た街道《かいどう》ぞいに散在する、あのこころよい村々は? 今はもう、どの名も思いだせない。しかしそれらの名は、特にライン上流地方ではすべてひじょうによく似ているので、いろいろの時刻にいろいろの村を横ぎったのに、ただ一つの村しか見なかったような気がするほどだ。大通り、ホップやバラがまつわりついている鉛枠《なまりわく》の小さな焼き絵ガラス窓、透《すか》し格子《ごうし》の門と、それによりかかって太いパイプを吸う老人たちや、そこから身を乗りだして道路にいる子どもたちを呼んでいる女たち……。朝、わたしたちが通るときにはそれらすべては眠っている。厩《うまや》の藁《わら》ががさごそするのや門の下の犬の喘《あえ》ぐような息がわずかに聞こえるだけだ。二里ほど行くと村は目ざめる。よろい戸の開く音、バケツのぶつかる音、溝《みぞ》に水のあふれる音がする。牝牛《めうし》たちは長いしっぽで蠅《はえ》を追いはらいながら、おもおもしく水飼い場へ行く。さらに行くと、まだ同じ村だが、夏の午後の大きな静寂《せいじゃく》のなかで、農家の棟《むね》までとどく木々の枝を伝って行く蜜蜂《みつばち》のうなり声と、学校から聞こえるだらだらとした朗唱の声ばかり。ときどきずっと奥まったあたりの、もはや村とは言えず、この地方の片すみといった場所に、まあたらしくぴかぴかした保険会社の表札、公証人の看板、または医師の呼び鈴をつけた三階建の白い家。通りがかりにピアノでひくワルツが、緑色のよろい戸から日の当たる街道《かいどう》にもれる少々古めかしい歌が聞こえる。さらに時は進んで薄暮《はくぼ》となると、家畜たちは小屋へもどり、人々は製糸工場から帰る。騒々しくなり、活気も多くなる。だれもが戸口に出、ブロンドの子どもらは通りに出、そしてどこからさしこんで来るのか、落日の光線が窓ガラスを燃え立たせる……
なおまたわたしが思い出して楽しいのは、日曜の朝の礼拝の時刻のアルザスの村だ。通りは人気《ひとけ》がなく、家々はがらんとして、ただ戸口で何人かの老人が日なたぼっこをしているだけだ。教会は満員、白昼のろうそくのおぼつかなげな桃色のあのきれいな色調でいろどられた焼き絵ガラス、通りがかりに断片的に聞こえるグレゴリオ聖歌、緋色《ひいろ》の法衣をきた聖歌隊の少年がひとり、帽子をかぶらずに香炉《こうろ》を手に持って、身軽く広場を横ぎってパン屋の店に火をもらいに行く……
ときにはまた何日にもわたって一つの村にもはいらずに過ごすこともあった。わたしたちは雑木《ぞうき》林や森でおおわれた道、ライン河にそったあのひょろひょろした小さな森をさがす。ライン河の緑の美しい水は、昆虫のぶんぶんうなっているそれらの森の沼沢地《しょうたくち》のどこかへまぎれこんでいるのだ。ときどき木々の枝のまばらな網目を通して、筏《いかだ》や、島で刈って来た牧草を満載してそれ自体あちこちに散らばって流されて行く小島のように見える舟をうかべた大河が見えてくる。やがてローヌ河とライン河をつなぐ運河だ。その長い岸にはポプラの木がつらなり、木々の緑の葉末《はずえ》はせまい両岸のあいだにとじこめられた、いわば自分の家庭のような親しいこの水のおもてでからまり合っている。土手《どて》の上のあちこちに、水門管理人の小屋、はだしで水門の防材の上を走る子どもら、そしてほとばしる泡《あわ》のなかを、大きな筏が河幅いっぱいになってゆっくりと進む。
そうしてまがりくねった道を行ったり、ぶらぶら歩きをするのに倦《あ》きてしまうと、わたしたちはまたすずしい影をおとす胡桃《くるみ》の木の植わった直行する白い街道《かいどう》に出る。その街道はヴォージュ山脈を右手に、シュヴァルツヴァルトを左手に見ながらバーゼルへむかって行くのだ。
おお、七月のたえがたい日の光をあびながら、このバーゼルへの道のほとりでどんなにこころよい休息をたのしんだことか、溝《みぞ》のかわいた草の上にのびのびと寝ころがって、畑から畑へと呼びかわしている鷓鴣《しゃこ》の声を聞き、わたしたちの頭上にものさびしく走っている街道《かいどう》を見上げながら。荷車ひきの罵声《ばせい》、馬の鈴の音、車軸《しゃじく》の音、石割人夫のつるはしの音、行進中の鵞鳥《がちょう》の大部隊をおびえさせて馬を駆る憲兵のあわただしい疾駆《しっく》、重い荷物にへとへとになった行商人ども、急に大通りから離れて、その奥に小部隊が、農家が、孤寂《こじゃく》な生活のいとなみがあるらしい、自然のままの生垣《いけがき》にかこまれた小さな里道にはいって行く、赤い飾り紐《ひも》のついた青い上っぱりの郵便配達夫……。
そして徒歩旅行のもたらすこういうこころよい、思いがけぬもの、近道かと思えばそうでない道、荷車の轍《わだち》や馬のひづめで自然にできた、畑のまんなかへ出る意地のわるい小道、開こうとしないかたくなな扉、満員の宿屋、そして夕立、暑い大気のなかにたちまちに蒸発し、平原から、群れをなす羊たちの毛皮から、それのみか羊飼いの外套《がいとう》から湯気をたちのぼらせるあのこころよい夏の夕立。
バロン・ダルザスから降りて来るとき、森のなかでわたしたちをおそったすさまじい雷雨をわたしはおぼえている。山の宿屋を出たときには雲はわたしたちの下にあった。いくつかの樅《もみ》の木の頂《いただき》がその雲の上に出ていた、しかし下るにつれてわたしたちは確実に風と雨と雹《ひょう》のなかにはいって行くのだった。やがてわたしたちは四方八方から稲妻《いなずま》に包まれて完全に嵐につかまってしまった。すぐそばの一本の樅が雷に打たれて倒れた。そして木馬道《シュリッタージュ》をころがるように降りて行きながら、わたしたちは篠《しの》つく雨の幕を通して、一群の小さな娘たちが、ある岩のくぼみに逃げこんでいるのを見た。おびえ、ひしとからだを寄せ合いながらも、彼女らはインド更紗《さらさ》のエプロンと摘《つ》んだばかりの黒い苔桃《ミルチーユ》でいっぱいの小さな柳籠《やなぎかご》を両手にかかえていた。その果実はまたたくように光り、そして岩の奥からわたしたちをながめる小さな黒いひとみもまた濡れた苔桃ににていた。斜面に横たわったあの大きな樅《もみ》の木、あの落雷、ぼろぼろな服を着て森をかけまわるこの魅力的な子どもたち、まるでこれはシュミット師〔ドイツの童話作家〕のおとぎ話みたいだ……
しかしまた、ルージュ=グットについたときには、なんとこころよい火が燃えていたことか! 着物をかわかすにあつらえむきの炉《ろ》の火。そのあいだにオムレツは炎《ほのお》のなかではねる、ケーキのようにぱりぱりした金色のあの比類ないアルザスふうオムレツが!
この雷雨の翌日、わたしは胸を打つようなものを見たのであった。
ダヌマリへの途上、垣をまわったところで、すばらしい麦畑が雨と雷に荒らされ、なぎ倒され、溝《みぞ》をうがたれて、折れた茎《くき》は四方へ倒れて地面に散乱していた。重く熟《う》れた穂はどろのなかに落ち、小鳥がこの落ち穂《ぼ》におそいかかって濡れた藁《わら》のくぼみのなかをはねまわり、まわりに麦粒をはねとばしている。晴れた空のもと、日の光のあふれるなかでは、これは痛ましかった、この掠奪《りゃくだつ》は……。台なしになった自分の畑の前に立って、ひょろ長い、猫背の、昔のアルザスふうの服装をした大男の農夫が黙然とそれをながめていた。彼の顔にはまぎれのない苦悩があったが、それと同時に何かあきらめきった平静なもの、何かしら漠然とした希望のようなものもあった。まるでこの倒れ伏した穂の下にも、自分の土地は生命を持ち肥沃《ひよく》に忠実に依然として存在している、そして土地があるかぎり絶望すべきではないと自分に言い聞かせたかのように。
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隊商宿《カラヴァンサライ》
アルジェリアの隊商宿にはじめてはいったときに味わった幻滅《げんめつ》を思いだすと、微笑を禁じえない。隊商宿というこのすてきなことばのなかには、『千一夜物語』の夢幻《むげん》の東洋のすべてが、目をくらませる光のようにひらめいていて、尖弓形《せんきゅうがた》に壁を切り取られた通廊の連なり、椰子《やし》の木が植わり、すずしい一筋の水が琺瑯《ほうろう》のようなファエンツァ焼きのタイルの上に憂鬱《ゆううつ》なしずくとなって散っているモールふうの中庭をわたしの頭のなかに作りだしたものだった。まわりにはバブーシュをはいた旅人たちが茣蓙《ござ》の上に寝そべってテラスのかげでパイプをふかす。そしてこの休息場からは麝香《じゃこう》や焼けた皮革やバラの香水や黄色たばこの重い匂いが、隊商を苦しめるかっとした日の光のもとに立ちのぼっている……
ことばというものはいつも実物より詩的である。空想していた隊商宿のかわりにわたしの見出したのは、イル=ド=フランスの古風な旅籠屋《はたごや》だった。荷車ひきが休み、馬を替える、柊《ひいらぎ》の枝を飾り、玄関脇に石のベンチを設《もう》け、中庭だの納屋《なや》だの倉だの厩《うまや》だののごてごてとならんだ街道筋の旅籠なのだ。
千一夜物語のわたしの夢とは程遠かった。けれども最初の幻滅《げんめつ》が去ると、アルジェから百里も離れて、遠く波のように青くかさなりあう小丘に視界をかぎられた広大な平原のなかにぽつんと立った、このフランクふうの旅館の魅力と画趣《がしゅ》をわたしはたちまち感じた。一方には牧歌的な東洋、とうもろこし畑、夾竹桃《きょうちくとう》が岸にならぶ小川、古い墓所か何かの白い円屋根、そしてもう一方の側は、この旧約聖書の風景のなかにヨーロッパ的生活の騒音と活気を持ちこむ街道《かいどう》。ションツ夫人の隊商宿にじつに愉快な、じつに独特な相貌《そうぼう》を与えているのは、東洋と西洋とのこの混り合い、近代アルジェリアのこの感じなのだ。
わたしの目には今なお、あの広い中庭の、ビュルヌー〔アラブ人独特の頭巾つき外套〕と駝鳥《だちょう》の卵をいっぱい積んでうずくまる駱駝《らくだ》たちのまんなかへ乗りこんで来るトレムセンの乗合馬車が見える。屋根だけの納屋の下で黒人がクスクスをつくり、移住して来た農民たちが新型の鋤《すき》の梱包《こんぽう》を解《と》き、マルタ人たちが麦の桝《ます》の上でトランプをしている。旅客は車から降り、馬が替えられる。中庭はごったがえす。赤いマントのアフリカ土人騎兵が宿の女中たちに曲乗りをやって見せ、ふたりの憲兵が台所の前に馬を止めて、乗ったままで一杯ひっかけている。片すみでは青い靴下《くつした》に鳥打帽のアルジェリア系ユダヤ人が、市が開くまで羊毛の包みの上で眠っている。というのは、週に二度隊商宿の壁ぎわでアラブ人の大市が開かれるのだ。
そういう日には、朝わたしの部屋の窓を開くと、目の前に小さなテントがごちゃごちゃと立てられ、色とりどりのやかましい人波が動いているのが見える。そのなかにカビール人の赤いシェシヤ〔アラビア人のかぶる、ふさつきの赤い筒型の帽子〕が畑の雛罌粟《ひなげし》のようにめだつ。そして夕がたまでさけび声、口論、日の光に浮き出したシルエットの雑沓《ざっとう》だ。日が落ちるとテントはたたまれる。人、馬、すべては光とともに消え、どこかへ行ってしまう、太陽がその光線に包んで運び去るあのほこりの小さな渦のように。丘は依然として裸のままで、平原は沈黙にかえる。そして東洋のたそがれはシャボン玉のようなはかない虹彩《こうさい》をもって空中にひろがる……。十分ほどのあいだすべての空間は桃色になる。思いだすが、隊商宿の門前に古い井戸があって、落日のそういう光にすっかり包まれ、すりへったその縁石《ふちいし》が桃色の大理石かと思われたほどだった。桶《おけ》は炎《ほのお》を汲み上げ、綱《つな》は火のしずくをしたたらせているように見えた……
だんだんとこの美しいルビー色は消え、哀愁《あいしゅう》を含むリラ色にかわる。やがてそのリラ色も黒一色にぬりこめられる。はっきりしない物音が広大な平原のはてまで走って行く。と、突然、闇と静寂《せいじゃく》のなかにアフリカの夜の野性的な音楽がひびきはじめるのだ。鸛《こう》の狂ったようなさけび声、ジャッカルやハイエナの遠ぼえ。
そしてときどき、厩《うまや》の馬たちを、また中庭の納屋《なや》の駱駝《らくだ》たちを戦慄《せんりつ》させる、ほとんどおごそかなまでのにぶい咆吼《ほうこう》……。
ひたひたと身にせまるこの暗闇《くらやみ》のなかからこごえきって抜けだして、隊商宿の食堂へ降り、そこで笑いを、熱を、光を、新しいナフキンと澄んだクリスタル・グラスという、これこそいかにもフランス的なすばらしい贅沢《ぜいたく》さを見出すのはなんとこころよく思えたことか! われわれを食卓に迎えるために、ミュルーズの姥桜《うばざくら》ションツ夫人と、少々日焼けした花の頬《ほお》とチュールの縁《ふち》のついたアルザスふうの頭巾《ずきん》のおかげで、蝶《ちょう》の止まったゲブヴィレールかルージュ=グット〔いずれもアルザス地方の地名〕の野ばらのように見える美しいションツ嬢がいる……。この娘の目のためか、それともデザートのとき母親がついでくれるシャンパンのように黄金色の泡だったアルザスの地酒のためかはわからないが、とにかく隊商宿の晩餐《ばんさん》は南部の駐屯軍《ちゅうとんぐん》のなかではたいへんな評判だった……。その席では空色の軍服が、飾り紐と肋骨《ろっこつ》のついた驃騎兵《ひょうきへい》の上着とならんでひしめきあっていた。そしてずいぶん夜がふけるまでこの大きな宿屋の窓ガラスには光が煌々《こうこう》としていた。
食事が終わり、テーブルをかたづけると、もう二十年もそこで眠っている古いピアノの蓋《ふた》が開かれて、人々はフランスの歌をうたいはじめるのだった。でなければ、何かのラウターバッハ舞曲で、剣帯に革嚢《かわぶくろ》をつった若いヴェルテルがションツ嬢とワルツをひとくさり踊る。少々やかましい軍隊式のこの陽気さのただなか、飾緒《しょくちょ》や長剣や小さなコップがかちかちいうなかでかなでられる、このものうげなリズム、ワルツの旋回《せんかい》のなかにとじこめられながらテンポに合わせてときめくこの二つの心臓、音楽の最後の音とともに消えて行く永遠の愛の誓い、これ以上すてきなものは想像できないだろう。
ときどき宵《よい》のうちに、隊商宿の扉は大きく開かれ、馬たちが中庭で棒立ちになる。近所の原住民のお偉方《えらがた》が、自分の細君たち相手では退屈して、西洋の生活に触れ、キリスト教徒のピアノを聞き、フランスのぶどう酒を飲むためにやって来たのだ。「一滴の酒はのろわれたものだ」とマホメットはコーランのなかで言っている。しかし戒律《かいりつ》とはいろいろ折合いをつける手がある。一杯つがれるたびにお偉方は飲む前に指先に一滴つけて、厳粛《げんしゅく》にそれを振り落とす。そしてこののろわれた一滴を追い払ってしまうと、全然良心をなやますことなく残りを飲むのだ。こうして音楽と光にすっかり眩惑《げんわく》されながら、ビュルヌーをきたまま床に横たわって、白い歯を見せて声なく笑い、円を描くワルツを燃えるような目で見守るのであった。
……ああ、今どこにいることだろう、ションツ嬢のワルツの相手をつとめた連中は? 空色の軍服は、雀蜂《すずめばち》のように腰をきゅっとしぼった驃騎兵《ひょうきへい》たちはどこにいるのだろう? ヴィッサンブールのホップ畑のなかだ、グラヴロット〔どちらもアルザス地方の地名〕のうちわ豆の野にだ……。だれももうションツ夫人の隊商宿にアルザスの地酒を飲みに来ないだろう。ふたりの女は火を放たれた自分たちの隊商宿をアラブ人から守ろうとして銃を手にして死んだ。あんなにいきいきしていた昔の宿屋の名残《なご》りとして、壁だけが――この建物の大きな骨組みだけが――黒こげになって立っている。ジャッカルどもが中庭をうろついている。ところどころに厩《うまや》の一部が、炎《ほのお》をまぬがれた納屋《なや》が、幽霊のように立っている。そして風は――ライン河畔からラグワットまで、サールからサハラまで、われわれのあわれなフランスの上に吹きまくっているあの災禍《さいか》の風は、歎きの声をはらんでこの廃墟《はいきょ》のなかを吹き抜け、かなしく扉をばたばたさせているのだ。
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八月十五日の叙勲者
アルジェリアのある夕方、猟の一日が終わって、オルレアンヴィルから数里のシェリフ平原のなかで猛烈な嵐におそわれた。あたりには村の影一つ、隊商宿の影一つ見えない。背の低い椰子《やし》、乳香樹《にゅうこうじゅ》の茂み、地平線までたがやされた広大な土地だけ。その上、驟雨《しゅうう》で水かさを増したシェリフ河は不安になるほどのうなり声を立てはじめ、わたしは沼《ぬま》のまんなかで一夜を過ごす羽目《はめ》になりそうだった。さいわいついて来ていたミリアナーの役所の民間通訳が、すぐ近くに、小さな谷にひそんで住んでいる部族があるのを思いだした。その部族の|お偉方《アガ》を彼は知っていたので、わたしたちは一晩をそのアガのところに泊めてもらいに行くことにきめた。
こういう平原のアラブ人の村は大小のサボテンのなかに埋《うず》もれ、土をかためた小屋はごく低く立っているので、わたしたちは部落《ドゥアール》のまんなかまで来てはじめてそれに気がついたほどだった。そういう時刻だったせいか、雨のためか、また深い静寂《せいじゃく》のためか?……とにかくその土地はわたしにはいやに陰気に思われ、不安が重くのしかかって生命の営《いとな》みが中断されているかのように見えたものだ。まわりの畑では収穫物《とりいれ》がほったらかしたままになっている。ほかではどこでも納屋《なや》におさめられている小麦や大麦は、地面に伏したまま、そこで腐《くさ》りかけている。錆《さ》びた耙《まぐわ》や鋤《すき》は雨のなかに忘れられたままほうり出されている。部族全体がそういううらわびしいなげやりなようすをしていた。わたしたちが近づいても犬はほとんどほえはしない。ときどき小屋の奥から子どもの泣き声が聞こえる。そしてわんぱく小僧の坊主頭《ぼうずあたま》か年寄りかだれかの穴のあいた被布《アイク》が茂みのなかを通るのが見える。あちこちに灌木《かんぼく》の下で小さな驢馬《ろば》がからだをふるわしている。が、馬はいない、男はいない……まるで今なお戦国時代で、騎馬の男どもはもう何か月も前から出陣しているかのように。
アガの家は窓のない白壁の細長い農家みたいなもので、ほかの家と同様、生気が見られない。見ると厩《うまや》の戸は開かれているし、仕切りのなかも飼葉桶《かいばおけ》もからっぽで、われわれの馬を受け取るべき馬丁《ばてい》もいないのだ。
「カフェ・モールを見に行きましょう」とわたしの連れは言った。
カフェ・モールというのはアラブ人の城主たちの応接間みたいなものだ。通りがかりの客にあてられる家のなかの家みたいなもので、そこでとても礼儀正しく愛想のよいあの善良な回教徒たちは、掟《おきて》の命ずるように家の内輪を外に見せずに歓待《かんたい》の美徳を発揮することができるというわけなのだ。アガ・シ・スリマンのカフェ・モールも彼の厩《うまや》と同じく戸があき、ひっそりしていた。≪のろ≫をぬった高い壁、武器飾り、駝鳥《だちょう》の羽、広間のまわりにぐるりとならんだ低い大きな座椅子《ざいす》、すべては強風で扉から吹きこんで来る雨水をかぶってびしょびしょだった……。それでもカフェのなかにはたくさんの人々がいた。第一に、カフェの主《あるじ》の、ボロをきたカビール人の老人がひっくりかえった火鉢《ひばち》のそばで両膝《りょうひざ》のあいだに頭をたらしてうずくまっている。それからアガのむすこの熱病にかかったような蒼白い美少年が、黒い|頭巾つき外套《ビュルヌー》にくるまって座椅子の上に身をやすめ、その足もとに二匹の大きなグレイハウンドがひかえている。
わたしが中にはいってもだれも動かなかった。せいぜい一匹のグレイハウンドが頭をもぞもぞさせ、少年が熱っぽくものうげな美しい黒い目をわたしたちのほうへ向けたくらいのものだ。
「で、シ・スリマンは?」と通訳がきいた。
主は遠い遠い地平線のほうをさすように頭の上で曖昧《あいまい》な手つきをして見せた……。わたしたちはシ・スリマンが大旅行か何かに出たのだと理解した。しかし雨のためこれからまた出発することはできなかったので、通訳はアガのむすこにむかって、われわれはお父上の友人だが、あすまで宿をかしてもらいたいのだとアラビア語で言った。病気でからだが燃えるように熱いにもかかわらず、少年はすぐ立ち上がって、主に命令を与え、それから「よく来てくださいました」と言うように鄭重《ていちょう》なようすで座椅子を指さして、頭を下げ指先で接吻《せっぷん》するアラブふうの会釈をし、悠然《ゆうぜん》とビュルヌーをからだにまきつけて出て行ったが、その態度にはアガたり家長たるの貫禄があった。
少年が行ってしまうと主は火鉢に火をおこし、その上にごく小さな湯わかしを二つのせた。そして彼がわたしたちのためコーヒーの用意をしているあいだに、わたしたちは主人の旅行とこの部族の異様にだらしない暮らしぶりについていくらか事情を聞きだすことができた。このカビール人は老婆のような身ぶり手まねをまじえて喉音《こうおん》の多い美しいことばで早口にしゃべった。話し方はせきこんだかと思うと、ときにはまた長い沈黙でとぎれて、そのときは内庭のモザイクの上に落ちる雨の音、湯のわく音、そして平原に数千匹となく散らばっているジャッカルのほえる声が聞こえてくるのだった。
不幸なシ・スリマンの身に降りかかって来た事件はこういうことだった。四か月ばかり前の八月十五日に、長いあいだ待ちこがれていたレジヨン・ドヌール勲章を彼はさずけられたのである。彼はこの地方でまだそれをもらっていないただひとりのアガだったのだ。ほかの連中はみな勲五等か勲四等に叙《じょ》せられていた。二、三のものはそれどころか、被布《アイク》のまわりに勲三等の大綬章をぶらさげていて、これはわたしが大首領《パシャガ》のブゥアレムが何度もやっているところを見たことだが、なんとも無邪気《むじゃき》にそれで鼻をかんでいた。これまでシ・スリマンが勲章をもらえなかったのは、ブゥイヨット〔トランプ遊びの一種〕のことで彼の地区を管轄《かんかつ》するアラビア人事務所の長とけんかをしたためで、軍人の仲間意識はアルジェリアではひじょうに強いから、このアガの名は何度も推薦《すいせん》名簿にのせられながら、ついに受けつけられるにいたらなかったのである。だから、八月十五日の朝オルレアンヴィルの一土民騎兵が勲記を入れた小さな金塗りの匣《はこ》を彼のところへ持って来、四人の妻のなかでいちばんお気に入りのバイヤがフランスの勲章を駱駝《らくだ》の毛で織った彼のビュルヌーにつけてくれたときの、善良なシ・スリマンのよろこびは察しがつこうというものだ。部族にとってはこれはいつ果てるとも知れぬ饗宴《きょうえん》と騎芸の機会だった。一晩じゅう長太鼓《ながだいこ》と蘆笛《あしぶえ》が鳴りひびいた。踊りがあり、篝火《かがりび》が燃え、数知れぬ羊が屠《ほふ》られた。お祝いの錦上《きんじょう》に花をそえるために、ジェンデル地方の有名な即興詩人がシ・スリマンのために、「風よ、吉報をもたらさんために馬をつなげ……」ではじまるすばらしいカンタータを作った。
翌日の夜明けとともにシ・スリマンは自分の一族郎党を全員召集し、騎馬の部下のものどもとともに総督《そうとく》に謝意を表するためアルジェへおもむいた。市門の前で一族郎党は慣例にしたがってとまった。アガはひとりで総督官邸に向かい、ド・マラコフ公爵に対面し、フランスへの忠誠をちかった。三千年も前から若者はすべて椰子《やし》の木に、乙女はすべて羚羊《かもしか》にたとえられているために比喩《ひゆ》的文体とされている、例の東洋的文体の美辞麗句《びじれいく》をちょっとばかり使ってそう言ったのだ。こうしてこの義務をはたすと、山の手に姿をあらわし、ついでに回教寺院に礼拝して貧者たちに金をほどこし、床屋や刺繍屋《ししゅうや》に寄り、細君たちのために安物の香水、花模様や枝葉模様の絹、金の飾り紐《ひも》のいっぱいついた青い乳当て、むすこのためには赤い乗馬靴《じょうばぐつ》を、値切りもせずに美しいドゥーロ金貨をよろこんでばらまいて買った。市場《バザール》では、スミルナの絨毯《じゅうたん》の上にすわって、祝辞を述べるモール人の商人たちの門口でコーヒーを飲んでいる彼の姿が見られた。彼のまわりには物見高い人々がつめかけた。「シ・スリマンだ……皇帝《こうてい》が勲章を送って来たんだ」と人々は言った。そしてお菓子をたべながら水浴から帰って来るモール人の娘たちは、得々として佩用《はいよう》しているこの美しい銀の勲章にむかって白いマスクの下からまじまじと感歎の視線を送った。ああ、人生にはときどきたのしい時間があるものだ……。
夕方になるとシ・スリマンは一族郎党のところへもどる準備をし、すでに鐙《あぶみ》に片足をかけているときに総督府《そうとくふ》の警吏《シャウシ》が息せききって彼のところへやって来た。
「ここにいたのか、シ・スリマン。そこらじゅうさがしたよ……。いそいで来てくれ、総督が話があるってさ!」
シ・スリマンはなんの不安もなく警吏のあとについて行った。けれども総督官邸の大きなモールふうの中庭を横切るとき、自分の地方のアラビア人事務所長に出会ったが、所長は彼を見て気味のわるい笑い方をした。敵のこの微笑に彼はぎょっとした。で、彼はふるえながら総督のサロンにいった。
元帥《げんすい》は椅子《いす》に馬乗りにまたがったまま彼を迎えた。
「シ・スリマン」と総督はいつもの粗暴さと、側近のものすべてをふるえ上がらせる例の有名な鼻《はな》にかかった声で言った。「シ・スリマン、じつはな、まことにすまないが……誤解があったんだ……。勲章をやることになっていたのはおまえじゃないんだ。ズゥグズゥグの酋長《しゅうちょう》なんだ……。勲章を返してもらわにゃならん」
アガの美しい青銅色の顔は鍛冶場《かじば》の火に近づけたみたいに赤くなった。痙攣的《けいれんてき》な動きが彼の大きなからだをゆすっていた。目は燃え上がった……。が、それは一瞬のひらめきにすぎなかった。ほとんどその場で目を伏せ、総督の前に頭を下げた。
「あなたの命令ならば、殿さま」と彼は言った。
そして自分の胸から勲章をもぎとって机の上に置いた。彼の手はふるえていた。長い睫毛《まつげ》のさきには涙があった。老ペリシエはこれを見て胸を打たれた。
「まあまあ、くよくよするなよ。来年はもらえるさ」
そして彼はお人よしらしい顔でアガに手をさしだした。
アガはそれを見なかったふりをし、返事もせずに頭を下げて退出した。元帥の約束などどんなものか彼は知っており、役所の陰謀《いんぼう》で自分の顔に永久にぬぐえぬ泥《どろ》がぬられたものと思った。
彼の不幸のうわさは早くも町にひろがっていた。ババズゥン通りのユダヤ人どもは彼が行くのを嘲笑《ちょうしょう》しながら見送った。モール人の商人たちは反対に、あわれむように彼から目をそむけた。そしてこのあわれみは笑い以上に彼を苦しめた。彼は壁にそって、なるべく暗い路地を選びながら立ち去った。勲章をもぎとった跡《あと》は開いた傷口のように疼《うず》いた。そしてしょっちゅう彼は考えていた。
「部下のやつらはなんと言うだろうか? 女房どもはなんと言うだろうか?」
するとむらむらと怒《いか》りがこみあげて来た。火事と戦闘でたえず赤くいろどられているあのモロッコ国境で聖域を説《と》いている自分の姿を思いえがく。あるいは一族郎党の先頭に立ってアルジェの町中を馳駆《ちく》し、ユダヤ人を掠奪《りゃくだつ》し、キリスト教徒を虐殺《ぎゃくさつ》し、この大混乱によって自分の恥辱《ちじょく》をおおいかくしてみずからそのなかに死ぬところを。自分の部族のもとへ帰るくらいなら、どんなことでも不可能ではない気がする……。突然、この復讐《ふくしゅう》の計画のさなかに、皇帝《ごうてえ》という観念が一筋の光明のように心のなかにひらめき出た。
≪ごうてえ≫!……シ・スリマンにとっても他のすべてのアラブ人と同様、正義と力の観念はこの一語のなかに要約されていた。それは衰亡《すいぼう》しつつあるこれら回教徒の真の信仰の指導者だった。もうひとりの、イスタンブールの指導者は、遠くから彼らには空想の産物、精神的な力しかその身に保持していない目に見えぬ法皇みたいなものと思えた。そして今の時代ではそんな力にどれだけの価値があるかはだれも知っている。
しかし大きな大砲や歩兵や鋼鉄の艦船を擁《よう》する≪ごうてえ≫は!……そのことを思いだすとシ・スリマンは救われたように思った。皇帝が勲章を返してくれることは疑《うたが》いない。一週間の旅で片がつく。彼はそうかたく信じていたので、一族郎党にアルジェの城門に自分を待たせておこうとは思わなかった。翌日の汽船はメッカへの巡礼へ立つような平静なはればれとした心の彼をパリへ運んだ。
かわいそうなシ・スリマン! 彼が出発して四か月にもなるが、彼が妻たちに送る手紙にはまだ帰国のことは書かれていなかった。四か月以来不幸なアガはパリの霧《きり》のなかに姿を没し、そこらじゅうでばかにされ、フランスの官庁機構のおそるべき歯車にくわえこまれ、役所から役所へとたらいまわしにされ、控えの間《ま》の薪箱《まきばこ》でビュルヌーをよごし、けっしておこなわれることのない謁見《えっけん》を待ち受けながら、省から省へとかけまわって寧日《ねいじつ》ないのだ。そうして夜は、あまりにも威厳がありすぎて滑稽《こっけい》に見える陰気な長い顔で、家具つきホテルの帳場で自分の部屋の鍵をわたしてくれるのを待っている彼が見られた。そうして彼は、かけまわることに、奔走《ほんそう》に疲れ、しかも希望にしがみつき、破産した人間のようにやっきになって名誉を取りもどそうとしながら、あいかわらず悠然《ゆうぜん》と自分の部屋へかえって行く……。
そうするあいだも、彼の部下たちはババズゥンの城門の前にうずくまって、東洋的な宿命論をもって待っているのだ。杭《くい》につながれた馬たちは海のほうにむかっていななく。部族のところでは何もかも中断されてしまっている。作物は人手がないためにその場で朽《く》ちて行く。女子どもはパリのほうへ目をやりながらむなしく日をかぞえる。そしてこの赤いリボンの一片にすでにどれほど多くの希望と不安と破滅がつながっていたかは見るもあわれだった……。いつになったらこうしたことは終わるだろうか?
「神さましかごぞんじありませんや」とカフェの主《あるじ》は溜め息とともに言った。
そして半開きの戸口から、彼の裸の腕は紫色の陰気な平原の上の、濡れた空に上る白い小さな三日月を指さして見せた……
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わたしの軍帽
けさわたしは、たんすの奥に忘れられ、ほこりで見るかげもなくなり、縁《ふち》はぼろぼろになり、番号は錆《さ》びつき、色は褪《あ》せ、形もほとんどなくなったそれを見つけた。それを見るとわたしは笑わずにはいられなかった……。
「おや! おれの軍帽が……」
そしてたちまちわたしは、日の光と感激に熱した秋の末の、あの日のことを思いだした。地区の大隊に加わって市民兵としての義務を果たすべく、わたしは自分の新しい帽子に得意になり、小銃をショーウィンドーにぶっつけながら通りを下って行ったのだ。ああ、きみなどパリを救えはしない。独力でフランスを開放することはできないなどとわたしに言うものがあったとすれば、その男はみぞおちにわたしの銃剣を根もとまで突き立てられるような羽目《はめ》になったに相違ない……。
この国民軍というものはそれほど信じられていたのだ。公園にも辻公園にも大通りにも十字路にも、中隊は整列して番号を呼び、仕事着と軍服が、鳥打帽と軍帽がまじってならんでいた。何しろたいへんな急ごしらえだったのだから。われわれはと言えば、毎朝われわれは霧《きり》のたちこめた吹きさらしの、低いアーケードと大きな門のある広場に集まった。数百の名を奇妙な数珠《じゅず》のように連ねた点呼の後で教練がはじまる。肘《ひじ》をからだにくっつけ、歯を食いしばって、小隊は駈け足で出発する。「一、二、一、二!」そして大男も小男も、気取り屋も不具者も、アンビギュ座の思い出をいだきながら軍服を着ている連中も、胸高に青い革帯をしめてそのため聖歌隊の子どものようなかっこうをしている素朴《そぼく》な連中も、すべてが元気よく確信をもって歩き、小さな広場をぐるぐるまわった……
こういったことはまことに滑稽《こっけい》だったことだろう、あの底力のあるバスのような砲声がなかったとすれば。このたえまのない伴奏はわれわれの演習に気軽さとのどかさを与え、かぼそすぎる号令に力をそえ、ぎこちなさ、拙劣《せつれつ》さをやわらげ、そして包囲下のパリのこの大メロドラマのなかで、場面に悲愴味《ひそうみ》を与えるために芝居で用いられるあの舞台音楽の役をつとめていたのだ。
いちばん愉快だったのは城壁の勤務についたときだった……。今なおわたしには、あの霧《きり》の深い朝な朝な、七月記念柱〔バスチーユ広場にある七月革命の記念柱〕の前を堂々と通りながら軍隊式の敬礼をする自分の姿が目にうかぶ。「捧《ささ》げ……銃《つつ》!……」 そして群衆のあふれるあの長いシャロンヌの通り、歩調を取るのにひどく苦労をさせられた、あのすべりやすい鋪石《ほせき》。それから稜堡《りょうほ》に近づくと、隊の太鼓《たいこ》はどんどんと突撃の号音を打つ……。今もその場にいるような気がする……。それほど心を強くとらえるものがあったのだ、あのパリの境界地帯、砲座を穿《うが》たれ、張られたテントや野営の煙でにぎわっていたあの緑の斜面、そして軍帽のてっぺんと銃剣の切っ先だけを土嚢《どのう》の山の上にのぞかせてずっと上のほうに歩きまわっている小さい人影は。
おお、わたしのはじめての夜間勤務。闇《やみ》と雨のなかを手さぐりでかけまわる。巡察隊はすべってころんで、濡れた斜面をぶつかり合いながら落ち、落ちたためにばらばらになり、どんじりのわたしはモントルイユ門の目のくらむような高さの上に置き去りだ。あの夜はなんというひどい天気だったことか! 市と田園の上にひろがる深い静寂《せいじゃく》のなかでは、城壁のまわりを走り、歩哨《ほしょう》の背を丸めさせ、合いことばを吹き消し、下の巡察路の古い街燈のガラスをがたがたいわせていた風の音しか聞こえなかった。あのいまわしい街燈! わたしは音のするたびに敵の騎兵のサーベルをひきずる音と思い、銃をかまえて立ちどまり、もうすこしで誰何《すいか》するところだった……。不意に雨のつめたさが増す。パリの上の空は白んで行く。塔が、円天井《まるてんじょう》が浮き上がって来るのが見える。辻馬車が遠くで走り、鐘が鳴る。巨大な都市は目をさまし、朝の最初の身ぶるいとともに周囲にいささかの生気をかきたてる。雄鶏が斜面の向こう側で鳴く……。わたしの足もとの、まだ暗い巡廻路に、足音が、金属の触れ合う音がする。そしてわたしがおそろしい声でさけんだ「止まれ! だれか?」にこたえて、おずおずとしたふるえるような低い声が霧《きり》のなかからかえって来る。
「コーヒー売りですよ!」
しようがないじゃないか! 当時はまだ包囲がはじまったばかりで、われわれ素朴《そぼく》な民兵などはいつかプロイセン兵が砦《とりで》からの銃火の下をくぐって城壁の下までたどりつき、はしごをたてかけ、ウラーのさけびをあげて火縄竿《ひなわざお》を闇《やみ》のなかに振りまわしながらよじのぼって来るものと想像していたのだから……。そんなことばかり想像していたから、どれほど警報が発せられたかわからない……。ほとんど毎晩のように、「武器を取れ! 武器を取れ!」のさけび、あわてて飛び起きる、また銃をひっくりかえしてわっさわっさする、狼狽《ろうばい》した将校たちは「おちつけ! おちつけ!」とわれわれにさけぶが、実は自分でおちつこうとして言っているのだ。そうして夜が明けてみると、つまらん馬一頭が逃げ出して、防御《ぼうぎょ》工事の上をはねまわり、斜面の草をはんでいるというわけだ、自分ひとりで白胸甲騎兵《しろきょうこうきへい》一中隊ほどの役割をはたし、稜堡《りょうほ》全体の銃火の的《まと》とされていたことなどそ知らぬ顔で……。
わたしの軍帽が思いださせるのはそうしたことどもなのだ。感動や冒険や風景の数々。ナンテール、ラ・クゥルヌーヴ、ル・ムゥラン=サケ、そして勇猛な第九十六中隊が後にも先にもただ一度銃火にまみえたあのマルヌ河畔《かはん》の美しい土地。プロイセンの砲兵隊はわれわれの正面にいた。道路のはしの小さな森のかげに布陣して、枝越しにその煙の見えるあの静かな村落の一つのように見えた。指揮官たちがわれわれを置いて行った掩蔽物《えんぺいぶつ》のない鉄路の上に、砲弾はあたりをどよもす衝撃《しょうげき》と無気味《ぶきみ》な火花とともに降りそそいだ……ああ、わたしのかわいそうな軍帽よ、あの日おまえはあまりいさましくなかったね。しきりに敬礼していたじゃないか、しかも必要以上に頭を下げて。
そんなことはどうでもいい! こういったのは愉快な思い出だ。少々ばかげてはいるが、ヒロイズムも欠けてはいない。ただ、ほかのことを思いださせなければ申し分なかったのだが……。不幸にしてほかにもいろいろあるのだ。パリの夜間警戒、貸店舗のなかの哨所《しょうしょ》、人を窒息《ちっそく》させるようなストーブ、蝋《ろう》を引いたベンチ、町の姿をうつしている冬の汚水《おすい》におおわれた広場を前にしての、区役所の門口の立哨《りっしょう》、街路《がいろ》取締り、水たまりのなかの巡邏《じゅんら》、酔《よ》っぱらってうろついているところをつかまえられた兵士たち、娼婦、どろぼう、そしてほこりと疲労をマスクのように顔につけ、パイプと石油と古い海草みたいなものの匂いを服にしみこませて帰るあの蒼白い朝。また、ばかばかしく長い一日一日、議論やおしゃべりのただなかでおこなわれる将校選挙、別盃、ふるまい酒、カフェのテーブルの上でマッチの軸《じく》を使って説明する作戦計画、投票、政治と、それと切っても切れない縁にあるのらくらした時間、どのようにして満たすべきかわからぬあの無為、あばれまわり身ぶり手まねでもしたくなるような空虚な雰囲気《ふんいき》に人をつつみこむあのむだな時間。そしてスパイ狩り、非常識な猜疑《さいぎ》、法外な信頼、大量出撃、敵陣突破、幽閉《ゆうへい》された民衆のすべての狂気、すべての錯乱《さくらん》。
見るからに醜悪《しゅうあく》な私の軍帽よ、おまえをながめているとわたしはそういったことを思いだすのだ。おまえもまたそういう狂気の沙汰《さた》のすべてをおかしたのだ。そしてビュザンヴァルの戦いの翌日にわたしがおまえをたんすの上へ投げこまなかったとすれば、ほかの多くの人々と同様おまえをかぶりつづけて、麦藁菊《むぎわらぎく》や金筋でおまえを飾り、散り散りになった大隊の残兵であることをつづけていたとすれば、おまえのどこのバリケードへわたしを連れて行ったかわかったものではない……。ああ、反抗と軍紀違反の軍帽、怠惰《たいだ》と酔《よ》いとクラブとうわごとの軍帽、内戦の軍帽よ、たしかにおまえには、私の家の屑物《くずもの》置き場に置く資格すらもない。
屑屋の負い籠《かご》のなかに行ってしまえ!……
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コミューンのアルジェリア狙撃兵《そげきへい》
土民歩兵隊の少年|鼓手《こしゅ》だった。名はカドゥールといい、ジェンデルの部族の出身で、ヴィノワ軍に従ってパリにはいったほんのわずかのアルジェリア狙撃兵のひとりだった。ヴィサンブールからシャンピニーまで彼はすべての合戦に加わって、鉄のカスタニェットとデルブーカ(アラビアの長太鼓)を持って嵐のなかの鳥のように戦場を横ぎったのだ。とても元気がよく、ちょこまかしていて、弾丸《だんがん》も彼を射とめることはできなかったほどだ。しかし冬になると、榴霰弾《りゅさんだん》の砲火で焼けて赤くなったこのブロンズ色のアフリカの少年は、非常警戒の夜や雪のなかに身動きもしないでいることに堪えられなかった。そして一月のある朝、彼はマルヌ河畔《かはん》で足を凍傷《とうしょう》でやられ寒さに打たれてからだをねじまげているところを見つけられた。長いあいだ彼は移動野戦病院にはいっていた。わたしがはじめて彼に会ったのもそこでなのだ。
病気の犬のようにかなしげにがまん強く、このアルジェリア狙撃兵はおだやかな大きな目であたりを見まわした。人が話しかけると彼は微笑をうかべ、歯をむきだして見せた。彼ができることといってはそれだけだったのだ。なぜならわれわれのことばを彼は知らず、サビール語もほとんどしゃべれなかった。これはプロヴァンス語、イタリア語、アラビア語から成り、地中海一帯から貝殻のように拾い集めた多彩な単語でできたアルジェリアの方言なのだが。
気をまぎらすものといってはカドゥールにはデルブーカしかなかった。ときどき彼があまりひどく退屈していると、デルブーカが彼のベッドへ持って来られ、たたいてもいいと言われた。ただ、ほかの患者もいるので、あまり強くたたいてはいけない、と。すると、黄色の日の光と通りに見られるあの陰鬱《いんうつ》な冬の風景のなかですっかりくすんで血の気を失った彼のあわれな黒い顔は、生気をとりもどし、いろんな表情をし、リズムに合わせて変わって行く。あるときは突撃太鼓を打つ、すると彼の白い歯は獰猛《どうもう》な笑いのなかできらきらきらめく。また回教徒の朝の音楽を奏するときは彼の目は濡れ、鼻の穴はふくらむ。そして野戦病院の味気ない匂いのなか、薬壜《くすりびん》や圧定布のただなかに、オレンジのたわわになったブリダの森や白い覆面《ふくめん》をして≪くまつづら≫の香料を匂わせた水浴帰りのモールの娘たちを彼は見るのだった。
二月《ふたつき》はこのようにして過ぎた。パリはこの二か月のあいだにいろいろのことをやった。しかしカドゥールはそんなことは全然知らなかった。彼も病院の窓の下を帰還する疲れた武装解除された家畜の群れが通るのを聞いていたし、もっと遠いところで朝から晩まで大砲ががらがら引きまわされるのも、さらには警鐘や砲撃の音も聞いていた。そういったすべてがなんのことか、とんと彼にはわからなかった。わかっていたのはただ、あいかわらず戦争がおこなわれていること、そして足がなおったから自分ももうじき戦いに加われるということだけだった。こうして彼は太鼓《たいこ》を背にして自分の中隊に復帰すべく出発した。長くさがす必要はなかった。通りかかったコミューン軍の兵隊が彼を広場に連れて行った。長々と尋問をしても bono bezef(とてもよい)、macache bono(よくない)ということばのほか何も彼から聞きだせないので、あげくのはてその日の指揮官は彼に十フランと乗合馬車用の馬一頭を与え、彼を本部づきにした。
このコミューン軍の本部には一応あらゆる毛色がそろっていた。赤い粗毛の外套《がいとう》も、ポーランドふうマントも、ハンガリアふうのぴったりとした胴着も、水兵服も、さらにまた金やビロードやその他きらきらぴかぴかした飾りも。黄色の糸で刺繍《ししゅう》した青い上着にターバン、そしてデルブーカといういでたちで、アルジェリア狙撃兵はこの仮装舞踏会を申し分ないものにしたのだ。こんな派手《はで》な仲間にはいれたのが愉快でならず、日の光と砲声と往来の雑沓《ざっとう》、種々雑多な武器と軍服のあのひしめきに酔って、それにまた、対プロイセン戦が何か前よりいきいきとした、前より自由な感じでつづけられているのだと思いこんで、自分が脱走兵たることを知らぬこの脱走兵は素朴《そぼく》にパリの大狂宴に加わり、時の人気者となった。彼が通るどこでもコミューン兵は拍手し、歓呼して彼を迎えた。コミューンは彼を持っていることを大いに誇《ほこ》りとし、彼を人前に押しだし、見せびらかし、徽章《きしょう》のように彼をかつぎまわった。日に二十度も本部は彼を陸軍省へ、陸軍省は彼を市役所へ行かせた。というのは要するに、おまえらの水兵はにせの水兵だ、おまえらの砲兵はいんちき砲兵だと彼らはさんざん言われていたからだ!……すくなくともこの男だけはまったく正真正銘のアルジェリア狙撃兵だったのである。若い猿のようなこの陽気な顔と、騎芸の妙技を見せながら大きな馬の上でくるくる動くこの小さなからだの野生味をながめさえすれば、だれもそれを疑《うたが》わなかった。
けれども何かがカドゥールの名誉に欠けていた。彼はたたかいたかった、火薬に物を言わせたかったのだ。不幸にしてコミューン政府のもとでも帝政のときと同じで、司令部はそうちょいちょいと戦場には行かなかった。走り使いとパレードのほかは、あわれなアルジェリア狙撃兵はヴァンドーム広場か陸軍省の中庭でひまをつぶした。いつも飲み口のあいているブランデーの酒樽《さかだる》や底の抜けたベーコンの樽や、まだ包囲時代の飢餓《きが》の感じが残っている戸外の食事などで乱雑をきわめているあの天幕のただなかで、だ。こんな乱痴気《らんちき》騒ぎに加わるにはあまりにも敬虔《けいけん》な回教徒すぎたカドゥールは、酒も飲まず物静かに皆から離れて、片すみで沐浴《もくよく》し、一つかみの麦粉で自分でクスクスを作って食べた。それからデルブーカを一くさりたたくと、|頭巾つき外套《ビュルヌー》にくるまって、野営の焚《た》き火のもとに石段の上で眠るのであった。
五月のある朝、アルジェリア狙撃兵はすさまじい銃声で夢を破られた。陸軍省は大騒ぎだった。みんなが駈けだし、逃げて行った。機械的に彼はほかの連中にならい、自分の馬に飛び乗って司令部のあとにつづいた。通りは狂ったようなラッパの音、潰走《かいそう》する大隊にあふれていた。人々は鋪石《ほせき》を剥《は》いでバリケードを作っていた。あきらかに何かたいへんなことが起こったのだ……。河岸に近づくにつれて銃声はいっそうはっきりし、騒ぎはますます大きくなった。コンコルド橋の上でカドゥールは司令部からはぐれた。もうすこし行くと馬をうばわれた。市役所のようすを見に行こうとひどく気のせいている八本筋の軍帽の将校のために取り上げられたのだ。憤然《ふんぜん》としてアルジェリア狙撃兵は戦闘のあるほうへ駈けだした。走りながらシャスポ銃に装填《そうてん》し、Macache bono Brissien……(プロイセン人よくない)と口のなかでつぶやいた。というのは、侵入して来たのはプロイセン兵だと思っていたのだ。すでに弾丸《だんがん》はオベリスクのまわり、チュイルリー宮の木の葉のなかをひゅうひゅうと飛んで行った。リヴォリ通りでフルーランス〔コミューン指導者のひとりで、政府軍との戦闘中憲兵に斬り殺された〕の復讐《ふくしゅう》に立った連中が「おい、アルジェリア狙撃兵、アルジェリア狙撃兵!……」とさけんだ。彼らは十人あまりしかいなかったが、カドゥールはひとりで一軍に匹敵した。
バリケードの上に立ち、軍旗のように誇《ほこ》らかにはなばなしく、榴霰弾《りゅうさんだん》の炸裂《さくれつ》するなかを身をおどらせ雄哮《おたけ》びして彼はたたかった。そのうちふと、地面から立ち昇る煙の幕が砲撃と砲撃のあいだにちょっと切れて、シャン=ゼリゼに密集している赤ズボンが彼に見えた。それからまたすべてがごっちゃまぜになった。彼は自分の見誤りだと思い、いよいよはげしく射ちまくった。
突然バリケードは沈黙した。最後の砲兵が最後の一発を放って逃げだしたのだ。が、アルジェリア狙撃兵のほうは動かなかった。すぐ飛び出せるかまえをして身をひそめ、銃剣をしっかりとつけると、彼はとんがりヘルメットの来るのを待った……。押しよせて来たのは戦列歩兵だった!……突撃のにぶく響く足音のなかで将校たちがさけんだ。
「降伏しろ!」
アルジェリア狙撃兵は一瞬|茫然《ぼうぜん》とした。それから銃を頭上に持ち上げて飛び出した。
≪フランス人、いい、いい≫
未開人の頭のなかで彼は漠然と、これこそパリの人々がずっと前から待ちこがれているフェデルブかシャンジー(ともにフランスの将軍。プロイセン軍を相手に最後まで戦った)のあの解放軍だと考えたのだ。だから、どんなに彼はうれしかったろう、白い歯をいっぱい見せてどんなに彼は笑って見せたろう!……一瞬のうちにバリケードに兵隊はなだれこんだ。彼は取りまかれ、突き飛ばされた。
「銃を見せろ」
彼の銃はまだ熱かった。
「手を見せろ」
彼の手は火薬で黒かった。そしてアルジェリア狙撃兵はあいかわらず人がよさそうに笑いながら得意そうにそれを見せた。すると、壁に押しつけられて、ズドン……
何もわけがわからずに彼は死んでしまった。
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第八中隊の演奏会
マレー区とフォブール・サン=タントワーヌの全大隊がその夜はドメニル大通りのバラックに宿営していた。三日前からデュクロ軍はシャンピニーの丘の上でたたかっていた。わたしたちのほうは予備隊となっているものと思わせられていた。
いくつかの酒屋の店のともし火のほかない、このものさびしい界隈《かいわい》の、工場の煙突や扉をとざした駅や人気《ひとけ》のない工事場にかこまれた外側|環状道路《ブウルヴァール》のこの宿営ほど陰気なものはなかった。十二月の乾ききって固い三和土《たたき》の上にならんだ、窓はよくしまらず扉はいつも開きっぱなしの、風のなかの角燈のように霧《きり》のためすっかりぼやけている煤《すす》だらけのケンケ燈〔ケンケが発明したランプ〕をともした、板張りの細長いあのバラックほど冷たくきたならしいものはなかった。本を読むことも眠ることもすわることもできやしない。からだをあたためようとすれば、足の裏を打ち合わせるとかバラックのまわりをかけまわるとか子どもっぽい遊びを考えねばならない。戦闘をまぢかにひかえてのこの間の抜けた不活動には何か恥ずかしい、神経をいらだたせるものがあった、特にこの夜は。砲撃はやんでいたけれども、何かおそろしい勝負がこれから向こうでおこなわれようとしていることが感じられた。そしてときどき、堡塁《ほるい》の電燈がぐるぐるまわりながらパリのそちらの方角へ光を注ぐと、歩道のはしにかたまって声をひそめた部隊や、またそれとは別に、黒い帯《おび》のようになって大通りをさかのぼり、トローヌ広場の高い円柱のおかげで小さくなって地面を這《は》っているように見える部隊がのぞまれるのだった。
わたしはこごえきり、この大環状道路の夜の闇《やみ》のなかにひたっていた。だれかがわたしに言った。
「八中隊に行ってみなさいよ……。演奏会があるらしい」
わたしは出かけた。各中隊がそれぞれバラックを持っている。八中隊のバラックはほかのよりもずっと明るく、たくさんの人がつめかけていた。銃剣のさきに突き立てた大ろうそくが、黒い煙でかげった炎《ほのお》を長く引き、酔《よ》いと寒さと疲れ、そして顔をしなびさせ青白くする立ったままの眠りのために鈍麻《どんま》した、あの野卑な労働者らしい顔すべての上にいっぱいに光を注いでいた。片すみでは酒保女が、空壜《あきびん》や曇ったコップをのっけた小さなテーブルの前の腰掛《こしか》けに丸くなって口をあけて眠っていた。
歌がうたわれていた。
喉自慢《のどじまん》諸氏は順々に、広間の奥にありあわせのもので作られた台の上に昇って、ポーズを取り、朗々と声を張り、メロドラマの記憶にたよって毛布をからだにまきつけて見せる。なるほどこれは、子どもたちの騒ぎや吊るした鳥籠《とりかご》ややかましい屋台店でいっぱいのあの労働者街の路地奥にひびく、あのワンワンうなるような、ころがるような声だった。仕事道具の音にまじりハンマーや大鉋《おおかんな》の伴奏入りで聞くと、これはなかなか魅力あるものである。が、ここのこの台の上では、こいつはばかばかしくて、しみじみ世がはかなくなるていのものだった。
最初は思想家の労働者だった。長い髯《ひげ》をはやした機械工で、聖女インターナショナルがそのすべての怒りをお吹きこみあそばした喉からしぼりだすような声で、「|あわれなプロレタリアよ《ポヴロ・プロレテロ》……|お《オ》……|お《オ》」とプロレタリアの苦しみを歌う。それからまたひとり、寝ぼけたようなものがあらわれて、有名な「下層民《カナイユ》」の歌をうたってくれた。が、ひどく退屈げな、間のびのしたものうい節《ふし》まわしで、子守歌じゃないかと思うほどだ。「カナイユさ……ほいきた……おいらもその仲間……」そして彼がお経《きょう》のように歌っているあいだ、寝返りを打って楽な場所をさがし、うなりながら光に顔をそむけてしぶとく眠りつづけている連中のいびきが聞こえた。
突然白い閃光《せんこう》が板のすきまから走り、ろうそくの赤い炎《ほのお》をうすれさせた。と同時に鈍い衝撃《しょうげき》がバラックをゆるがし、ほとんど間をおかずにもっと鈍くもっと遠い砲声が向こうのシャンピニーの丘にしだいに間遠になりながら断続的に聞こえた。戦闘が再開したのだ。
けれど喉自慢諸氏は戦闘など問題にしていない!
この台、この四本のろうそくがこの人々すべての内部に、何か役者的本能とでもいったようなものをよびおこしていた。前のものの歌う最後の対句を引き取って歌おうと待ち受けているところや、人の口からロマンスを横取りするところは見物《みもの》だった。だれももう寒さを感じなかった。台の上にいるもの、台から降りるもの、舌《した》の先まで出かかっているロマンスをおさえて自分の出番を待っているものは、だれも赤い顔をし、汗《あせ》をかき、目をかがやかせていた。虚栄心でからだがぽっぽとしていたのだ。
地区で評判の人たちもいた。「わが身かわいや」という繰りかえしのついた「エゴイスト」という自作の小唄を歌わせろという詩人の室内装飾屋もいた。ところがこの男、舌《した》がよくまわらないので、「エゴイフト」「ふぁがみかふぁいや(わが身かわいや)」と言う。これは前線に行くよりも自分の家の炉辺《ろへん》にいるほうが好きだという太鼓腹《たいこばら》のブルジョワどもへの諷刺《ふうし》だった。そしてわたしは、軍帽を横へかしげてかぶって顎紐《あごひも》をかけ、自分の小唄の一語一語を強調しながら皮肉な顔でそのルフランをぶつけて来るこの寓話《ぐうわ》詩の歌い手の人のよさそうな顔をいつまでも思いうかべることだろう。「ふぁがみかふぁいや、ふぁがみかふぁいや……」
そのあいだに大砲もまた歌っていた、その底力のある低音《バス》を機関銃の連続音にまじえながら。大砲は雪のなかで凍死《とうし》しかけている負傷兵たちや、道ばたの氷った血の沼のなかで断末魔、やみくもに飛んで来る砲弾、闇《やみ》のなかを四方八方からおそって来る黒い死を歌っていたのだ……。
そして八中隊の音楽会はあいかわらずにぎやかにつづいていた!
今度は猥歌《わいか》がはじまった。まぶたが裏返った赤っ鼻《ぱな》のふざけたじじいが台の上で大活躍、一同は足を踏み鳴らすやらアンコールだのブラヴォーだのとさけぶやらの熱狂。男同志の猥談《わいだん》の下品な笑いがすべての顔をかがやかす。これには酒保の女も目をさまして、群衆に揉《も》まれ注視の的《まと》になりながらからだをよじって笑いだす一方、じいさんは酒飲みらしいしわがれ声で「神さまがへべれけになって……」と歌いだす。
わたしはもうがまんできなかった。外に出た。わたしの歩哨《ほしょう》に立つ番もそろそろやって来る。が、どうにもしようがない! 広さと空気がわたしには必要だった。そしてわたしは長いこと前へ前へとセーヌ河まで歩いて行った。水は黒く、河岸に人影はなかった。ガスを断《た》たれて暗いパリは戦火の環《わ》のなかで眠っていた。大砲の閃光《せんこう》が四方に点滅し、火事の赤みが丘のところどころに見えた。低い、せきこんだ、寒気のなかにはっきりした声がすぐそばで聞こえた。あえぎ、はげましあっている……
「さあ、引け!……」
それから声は急にぴたりとやんだ、渾身《こんしん》の力を必要とするはげしい労働に熱中するもののように。岸に近づいてようやくわたしは、まっくらな水から反射する微光《びこう》のうちに一隻の砲艦を見分けることができた。ベルシーの橋のところに停止してさらに流れをさかのぼろうとしているのだ。波の動きにつれてゆれている燈火、水兵たちが引っぱる太索《ふとづな》のきしる音で、艦が急に前へ動き出したり後へさがったりする、意地のわるい河と夜に対するこの闘《たたか》いの一進一退のさまがすべてわかった……。勇敢な小さな砲艦よ、こうした遅れがどれほど彼をいらだたせていたことか! 憤然《ふんぜん》として彼は外輪で水をたたき、水をわきたたせる……。ついにあらんかぎりの努力で彼は前へ進む。がんばれ、水兵たち!……そして砲艦が通過し、彼を呼んでいる戦いへ向かって霧《きり》のなかをまっすぐに進みだすと、「フランス万歳《ばんざい》!」の大きなさけびが橋にこだましてひびきわたった。
ああ、八中隊の音楽会とは別世界だ!
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ペール=ラシェーズの戦闘
番人は笑いだした。
「ここで戦闘が?……戦闘なんて全然ありませんでしたよ。そんなのは新聞の作り話でさあ……。なんのことはねえ、まあこういう次第でさ。二十二日の夜、つまり日曜でしたが、三十名ほどのコミューン側の砲兵が七サンチ砲と新式の機関銃を持ってやって来ました。やつらは墓地のずっと上のほうに陣地を布《し》いた。そしてちょうどその区域の受持ちでしたから、わたしがやつらを迎えたんです。機関銃は通路のこのあたり、わたしの番小屋の近くにあった。大砲はもうちょっと下の、あの土手の丘に。やって来るなりやつらはわたしにいくつかの礼拝堂をどうしてもあけろと言う。何もかもぶっこわし、中にあるものを掠奪《りゃくだつ》するんだとわたしは思った。しかし隊長がみんなをしずめ、まんなかに立ってちょっとした演説をしたんです。
『何かに手をふれるやつがいたらたちどころにわしが射ち殺すぞ……。別れ!』
それはクリミア戦争とイタリア戦争の従軍|徽章《きしょう》をつけた、だいぶ気むずかしそうな白髪《はくはつ》の老人でした。部下はこの命令を肝《きも》に銘じたものと見える。これは認めてやらねばなりませんが、やつらは墓から何も取りませんでしたよ、それ一つだけでおよそ二千フランもするモルニー公爵の十字|架《か》すらもね。
それでもやはり恥知らずのやつらの集まりだったね、あのコミューンの砲兵どもは。まにあわせの砲手で、三フラン五十の給料を飲んでしまうことしか考えねえ……。この墓地でのやつらの暮らしと来ては、まったく見ものでしたよ! 墓室のなかにはいって雑魚寝《ざこね》しやがる、モルニーの墓でもファヴロンヌの墓でも、皇帝の乳母《うば》が眠っているあのファブロンヌ家の美しい墓でもですぜ。水盤のあるシャンポー家の墓のなかでぶどう酒をひやす、女どもを呼びよせる。そして一晩じゅう飲んだり食ったりしてるんでさあ。ああ、まったくの話、仏《ほとけ》さんたちにもやつらのふざけているのが聞こえたに相違ありません。それにしても、あのごろつきどもはへたくそなくせに、パリにずいぶん損害を与えたものですよ。やつらは絶好の位置をしめていましたからな。ときどき、
『ルーヴルを射て……。パレ・ロワイヤルを射て』と命令が来る。
するとあのじいさんが大砲の照準を定め、焼夷弾《しょういだん》が町の上をまっしぐらに飛んで行く。その下で起こっていることはだれも正確なところを知らなかった。銃声がすこしずつ近づいて来るのが聞こえた。しかし連盟兵《れんめいへい》〔パリ国民軍の大多数の大隊が連合して作った国民軍共和連合に属する兵士のこと〕は心配しない。ショーモン、モンマルトル、ペール=ラシェーズ〔パリ東部にある大墓地。コミューン最後の戦闘が行われ、政府軍がコミューンの兵士多数を銃殺した〕からの十字砲火にさらされては、ヴェルサイユ兵も進出できないとやつらは思ってたんでしょう。やつらの酔《よ》いをさましたのは、海軍の陸戦隊がモンマルトルの丘に着いてこちらに放った最初の砲弾だった。
何しろまったく予期していませんでしたからね!
わたし自身はやつらに取り巻かれて、モルニー家の墓によりかかってパイプをすっていたところでした。砲弾の飛んで来るのを聞いて、地面に身を伏せる時間しかわたしにはなかった。最初砲手らは誤射か、酔《よ》っぱらった仲間が何かしたんだと思った……冗談《じょうだん》じゃねえ、どっかほかへ行ってくれ! ところが五分もすると、またもやモンマルトルに光があらわれ、砲弾がすっ飛んで来る、最初のやつと同様まっすぐにね。たちまちわが壮丁《そうてい》たちは大砲も機関銃もほっぽりだしていちもくさんに逃げだしてしまった。墓地はやつらにゃ狭《せま》すぎたんだ。
『うらぎられた……うらぎられたんだ……』とやつらはさけぶ。
じいさんのほうは砲弾のもとにただひとり残って、砲陣のまんなかを猛烈にかけまわり、砲手たちが自分を置き去りにしたのを見て泣いて怒っていましたよ。
けれども夕方近く、給料支払いの時刻になると何人かはもどって来た。ほらね、だんな、わたしの番小屋の上を見てごらんなさいよ。あの夕方金をもらいに来たやつらの名がまだ残っています。じいさんは名前を呼び、順々に書きつけたんだ。
『シデーヌ――はい。シュデイラ――はい。ビヨ、ヴォロン……』
ごらんのとおり、せいぜい四人か五人だった。だがそいつらは女を連れて来てやがるんだ……。ああ、あの支払いの夜のことはわたしはけっして忘れまいよ。下のほうじゃパリが燃えてる、市庁も造兵廠《アルスナル》も非常用備蓄倉庫も。ペール=ラシェーズは昼間のように明るかった。連盟兵たちはそれでもまだ大砲をうとうとした。が、人数が足りねえ、それにまたモンマルトルがこわくてならねえ。そこでやつらは一つの墓室にはいって淫売どもといっしょに飲んだり歌ったりしはじめた。あのじいさんはファブロンヌ家の墓の扉の前にある、あの二つの大きな石像のあいだに腰をおろして、パリが燃えて行くのをおそろしい顔つきでながめていた。これが自分の最後の夜ではないかと思っているようなようすでしたよ。
この時以後は、何が起こったのかわたしにはもうよくわかりません。わたしは家に帰った、あすこに見えるでしょう、木の枝におおわれた、あの小さなバラックですよ。わたしはひどく疲れていた。服をきたまま、嵐の夜のときみたいにランプをつけたままでわたしは寝床にはいった……。不意に戸が乱暴にたたかれた。女房がぶるぶるふるえながら開けに行った。どうせまた連盟兵だろうと思ってたんです……。それは陸戦隊だった。隊長と、少中尉たちと、医者でね。
『起きてくれ……。コーヒーを作ってくれないか』とわたしに言う。
わたしは起き上がってコーヒーをいれてやった。墓地にはまるで死人たちが皆、最後の審判のために目をさましたとでもいうように呟《つぶや》き、ざわざわする気配が聞こえた。士官たちは立ったままあわただしく飲んで、それからわたしを外へ連れ出した。
兵隊たち、水兵たちがうじゃうじゃしていましたよ。それからわたしは一分隊の先頭に立たされ、こうしてわたしたちは墓地を捜索《そうさく》しはじめました、墓を一つ一つね。ときどき木の葉が動くのを見て兵隊は通路の奥へ、また胸像や柵《さく》にむかって小銃をぶっぱなした。あちこちで運のわるいやつが礼拝堂のすみに身をひそめているところを見つけられた。見つかったやつの命は長くなかった……。これがわが砲兵たちの運命だったんですよ。後で見ると、男も女もみんなわたしの番小屋の前にかたまって倒れていた、いちばん上に従軍|徽章《きしょう》をつけたあのじいさんが。冷え冷えとした夜明けにそういうのを見るのは気持ちがよくはないやね……ブルル……けれどいちばんわたしを驚かせたのは、一晩収容しといたラ・ロケット監獄からちょうどこのとき連れて来られた国民兵の長い列だったね。葬列みたいにゆっくりと大通路を上がって来るんだ。一言もいわない、いや、歎息一つ聞こえなかった。この不幸な連中はそれほどまでにくたくたになり、それほどまで意気消沈していたんだ。歩きながら眠っているのもいた。もうじき死ぬんだと思っても目がさめないのだ。墓地の奥へ連れて行って、銃殺がはじまった。百四十七人だったんだ。どんなに時間がかかったかわかるでしょう……。これがペール=ラシェーズでの戦闘と呼ばれているものなんですよ……」
ここで彼は自分の監督の姿を見て、さっとわたしから離れた。そしてわたしはひとりで、彼の番小屋の上に残った、炎上するパリのあかりで書かれた最後の給料支払いの名をながめていた。砲弾が行き交《か》い、血と炎《ほのお》で赤いあの五月の夜を、お祭りのときの町のように照らされたこの人気《ひとけ》のない墓地を、十字路のまんなかに打ち捨てられた大砲を、そのまわりの開かれた墓室や墓のなかでの狂宴《きょうえん》を、そしてその近くの、ぱちぱちはじける炎のために生きて動くように見えるドームや円柱や石像のなかに立ち、大きな目でそれをながめているひたいの広いバルザックの胸像を私は思いうかべたものだ。
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プチ・パテ
その朝、日曜のことだったが、チュレンヌ通りの菓子屋スュローは小僧を呼んで言った。
「ほら、ボニカールさんのプチ・パテだ……。配達して、いそいで帰って来い……。ヴェルサイユ兵がパリにはいったようだからな」
小僧は政治のことなどてんでわからず、ほかほかのパテをパテ皿に入れ、パテ皿を白いナプキンで包み、それを丸帽の上にまっすぐにのっけて、ボニカールさんの住んでいるサン=ルイ島へ全速力でかけだした。すばらしい朝で、果物屋の店をリラと桜の花束でいっぱいにする、あの五月の好天の一日だった。遠くの銃声と町かどで鳴る集合ラッパにもかかわらず、この古いマレー区はいつもの平和な相貌《そうぼう》を変えていなかった。中庭の奥で輪を作って踊る子どもたち、門前で羽根をつけている年ごろの娘たち、日曜の気分があたりにただよい、そしてあたたかいパテのいい匂いに包まれてがらんとした車道のまんなかをちょこちょこ走って行くこの小さな白いシルエットは、何か素朴《そぼく》な花やいだ感じをいつの間にかこの戦いの日の朝に与えてしまっていた。界隈《かいわい》すべての活気はリヴォリ通りに流れこんでいるように見えた。大砲が引かれて行き、バリケードの工事がされていた。一歩ごとに人々が群れ集《つど》い、国民兵たちがいそがしく動いている。しかし菓子屋の小僧はうろたえはしなかった。こういった子どもたちは人ごみや町の騒音のなかを歩くのに慣れているのだ! 彼らが走りまわっているのがいちばんよく見られるのは、お祭り騒ぎの日とか、お正月や謝肉祭最後の雑沓《ざっとう》のなかなのだ。だから軍隊の移動するのなんて見ても、彼らはたいして驚きはしない。
白い小さな丸帽が衝突《しょうとつ》を避け、たくみにバランスを取って、あるときはたいへんな早足で、あるときは駈けだしたくてたまらないという気持ちがまだうかがわれるけれども、努めてゆっくりと歩きながら、軍隊と銃剣のあいだを縫って行くのを見るのはほんとに楽しみだった。戦闘など彼にとっていったいなんだったろう、彼にとって! いちばんかんじんなことはお昼に間にあうようにボニカール家に着いて、ひかえの間《ま》の棚《たな》の上に彼のために用意されているなにがしかのお駄賃《だちん》をなるべく早く持って帰ることだったのだ。
突然群衆のなかでものすごい押し合いが起こった。そして共和国の孤児《こじ》たちが歌をうたいながら駈け足で行進して来た。シャスポ銃を持ち赤い革帯《かわおび》に大きな靴《くつ》といったいでたちの十二歳から十五歳までの少年たちで、謝肉祭の最終日に紙帽子をかぶり桃色の日傘《ひがさ》のずたずたになったのを持ってブゥルヴァールのぬかるみのなかをかけまわるときと同じくらい得意そうに兵隊のまねをしている。今度はこの押し合いへし合いのなかで菓子屋の小僧は平衡《へいこう》を保つのにひどく苦労した。しかしパテ皿も彼自身もこれまで何度も氷の上をすべったことがあるし、何度も歩道のまんなかで石蹴りをしたことがあるものだから、プチ・パテはただこわいと思っただけですんだ。が、困ったことに、この威勢のよさ、この歌、この赤い革帯、感歎、好奇心のおかげで、小僧はこんなすばらしい仲間とちょっといっしょに行ってみたいという気になった。そして気づかぬうちに市庁もサン=ルイ島の橋も通りすごして、気がついたときにはこの気ちがいじみた駈け足のまきおこすほこりと風に包まれてどこか知れぬところへ連れて来られてしまっていたのだ。
すくなくとも二十五年以来、日曜にプチ・パテを食べるのはボニカール家の習慣だった。正午きっかりに、全家族が――老いも若きも――サロンに集っていると、呼び鈴が元気よくほがらかに鳴って、
「ああ、菓子屋だ」と皆は言うのだった。
すると、がたがたと椅子《いす》を動かしたり、晴れ着の衣《きぬ》ずれの音を立てたり、用意のととのったテーブルの前で子どもらが笑いはしゃぐなかで、この幸福なブルジョワたちは銀の保温器のなかに対称的に積み上げられたプチ・パテを中心にして座につくのだった。
この日は呼び鈴はいつまでたってもだまっていた。眉《まゆ》をひそめてボニカール氏は時計を見た。蒼鷺《あおさぎ》の剥製《はくせい》が上ののっかっている、これまで一度も進んだことも遅れたこともない古い時計だ。子どもたちはガラス窓のところで、いつも菓子屋の小僧がまがって来る町かどを見張りながらあくびしている。会話はだれて来た。十二時を打つ時計の音がすきっぱらにこたえて、ダマスコ織りのテーブルクロスの上に銀器が光り、きちんと白く小さな角《つの》の形にたたまれたナプキンがぐるりとならんでいるにもかかわらず、この食堂がだだっぴろくいやに陰気に見えてきた。
もう何度も老女中がやって来て、「――肉が焼けました……豌豆《えんどう》が煮えすぎっちまいます……」などと主人に耳打ちした。が、ボニカールさんは強情《ごうじょう》に、プチ・パテなしには食卓につこうとしない。そしてスュローに対する憤懣《ふんまん》やるかたなく、こんなにとほうもなく遅れるのはどうしたわけか自分で見に行って来ようと決心した。ぷんぷんおこりながらステッキを持って彼が出て行こうとすると、近所の人たちが注意した。
「気をつけてくださいよ、ボニカールさん……。ヴェルサイユ兵がパリにはいったそうですから」
彼は何も聞こうとはしなかった。河面《かわも》を渡ってヌイーのほうから聞こえて来る銃声すらも、この界隈《かいわい》一帯のすべての窓ガラスを打ちゆすっている市庁の非常号砲すらも。
「おお、あのスュローのやつ……、あのスュローのやつ!……」
そして元気よく駈けながら彼はひとりごとを言い、もう先方の店のまんなかに立ってステッキで敷石《しきいし》をたたき、ウィンドーのガラスやババ〔火酒にひたした乾しぶどう入りカステラ〕の皿をふるわせている自分の姿を思いえがいた。ルイ=フィリップ橋のバリケードで彼の怒《いか》りはへしおれた。そこには獰猛《どうもう》な顔つきの連盟兵が数人、鋪石《ほせき》をはがした地面の上に寝ころがってひなたぼっこをしていたのだ。
「どこへ行くんです、シトワイヤン〔フランス革命時代、革命派市民のあいだで使われたムッシューに代わる呼び方〕?」
シトワイヤンは説明した。しかしプチ・パテの一件はうさんくさく思えた、しかもボニカールさんは晴れ着のりっぱなフロックコートを着、金縁《きんぶち》のめがねをかけ、いかにも反動派の老人らしいようすをしていたからなおさらだ。
「スパイだぞ」と連盟兵は言った。「リゴー〔コミューンの指導者の一人で、警察委員〕のところへ連れて行かなくちゃ」
そうして、バリケードから去ってもいいという四人の奇特《きとく》な兵隊が、激昂《げきこう》したあわれな男を銃の台尻《だいじり》でうしろから小突きながら追いやって行った。
どういういきさつでそうなったかは知らないが、三十分後にはこの連中はみんな歩兵隊にとっつかまって、ヴェルサイユへ出発しようとしている捕虜《ほりょ》たちの長い列に加わることになった。ボニカールさんはますますはげしく抗議し、ステッキを振り上げ、これまでのいきさつをくりかえしくりかえし話した。不幸にしてプチ・パテのこの話はこういう大騒動の渦中ではあまりにもばかげた、あまりにも信ずべからざるもののように思えて、将校たちは笑うだけだった。
「よしよし、じいさん……ヴェルサイユでくわしく話しなさい」
そして硝煙がまだ白くたちこめているシャン=ゼリゼの大通りを、左右から猟兵にはさまれて縦隊は動き出したのである。
捕虜《ほりょ》たちは五人ずつぴったりと寄りそってならんで進んだ。列がくずれないようにするために、たがいに腕を組むように命じられた。そしてこの長蛇のような人間の畜群は街道《かいどう》のほこりのなかにざくざくとはげしい雷雨のような音を立てて進んだ。
不幸なボニカールは夢を見ているのかと思った。汗をかき、息を切らせ、恐怖と疲れに茫然《ぼうぜん》として、彼は列のしっぽの石油とブランデーの匂いのする妖婆《ようば》のようなふたりの女にはさまれて足をひきずっていた。しかもなお呪《のろ》いの文句のなかにしょっちゅうくりかえされる「菓子屋、プチ・パテ」というこのことばを聞いて、彼のまわりの人たちは彼が発狂したものと思った。
じつはあわれな男はもう正気ではなかったのである。上り坂でも下り坂でも、列のあいだがすこし開くと、彼はほこりに満たされた空間のなかにスュローの店の小さな小僧の白い上着と白い丸帽を思いえがいていたじゃないか。しかも道中十回もだ! その白いひらめきは彼を愚弄《ぐろう》しようとするかのように彼の目の前をかすめ、それから軍服や作業衣やボロのこの波のなかに沈んでしまう。
やっと暮れ方ヴェルサイユについた。そして群衆は服装を乱したほこりだらけの、ものすごい形相《ぎょうそう》のこのめがねをかけた老ブルジョワを見て、いかにも悪党らしい面《つら》をしているとする点ではだれもが一致した。人々は言った。
「あれはフェリクス・ピア〔ジャーナリスト、作家、コミューン指導者の一人。鎮圧後亡命〕だ……ちがうよ、ドレクリューズ〔ジャーナリスト、コミューン議員、市街戦で戦死〕だ」
護送の猟兵たちは彼を無事《ぶじ》にオランジェリーの庭まで連れて行くのにたいへんな苦労をした。そこではじめてあわれな畜群は列を解《と》き、地面に横たわり、息をつくことができたのだ。眠るもの、ののしるもの、せきをするもの、泣くものとさまざまいた。ボニカールといえば眠りもせず泣きもしなかった。石階のはしに腰をかけ、頭を両手でかかえ、飢《う》えと恥ずかしさと疲れでなかば以上死んだようになって、この不幸な一日のことを思い返した。家を出たときのこと、いっしょに食事するはずだった人々の心配、夕方まで食卓に出されたままで、今なお自分を待っているにちがいないあの皿、それから屈辱《くつじょく》、罵声《ばせい》、銃の台尻《だいじり》でたたかれたこと、それもすべてだらしのない菓子屋のせいなのだ。
「ボニカールさん、ほら、あなたのプチ・パテですよ!……」と、不意にそばでだれかの声が言った。
そしてじいさんは頭を上げて共和国の孤児といっしょにつかまえられたスュローの店の小僧が、白い前掛けの上にかくしたパテ皿を取りだして自分にさしだすのを見てびっくりした。暴動と逮捕《たいほ》にもかかわらず、このようにしてボニカール氏はこの日曜もいつもの日曜と同じくプチ・パテを食べることができたのである。
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船上独語
二時間前からあかりは全部消え、舷側《げんそく》はすべてとざされている。わたしたちの寝場所となっている下段砲室は暗く、鬱陶《うっとう》しく、息がつまる。仲間たちがハンモックのなかで寝返り、寝言をいい、眠ったままうめいているのが聞こえる。頭だけがかってに動いてひとりで疲れている、こういう仕事のない日々は、熱に浮かされたり、からだががくっと動いたりしてばかりいて、よく眠れないのだ。しかもそういう眠りでさえ、このわたしにはなかなかおとずれて来ない。わたしは眠れない。考えすぎるのだ。
上の甲板《かんぱん》には雨が降っている。風が鳴っている。ときどき当直が交代すると船のいちばんはしにある鐘が霧《きり》のなかで鳴る。それを聞くたびにわたしはなつかしいパリを、工場《こうば》の六時の時報を思いださせられる。――わたしの家のまわりには工場はたくさんあった。わたしたちの小さな住まいが目にうかぶ。学校から帰って来る子どもたち、仕事場の奥のガラス戸のそばで何かを仕上げようとしている母親、最後の一針を縫ってしまうまでかたむいた日の光の名残《なご》りを引き止めようとしているのだ。
ああ、なさけない、そうしたすべてはいったいこれからどうなることやら!
いっしょに連れて来たほうがよかったのかもしれない、それは許されていたのだから。が、しようがないじゃないか! 何しろ遠いのだ。子どもたちのことを思うと航海や気候が心配だ。それにまた、そうなればうちの飾り紐屋の店を売らねばならなかったろう。ささやかな財産だが、十年かかって営々と刻苦して得たものなんだ。それに子どもたちも学校に行けなくなったろう。そしておふくろはふしだらな女どもにかこまれて生きねばならなかったろう!……ああ、そんなことはとんでもない! わたしはひとりで苦しむほうがいい……。が、そうは言ってもな! 甲板に上がって、あの家族たちが自分の家にいるみたいにおちついて、母親はぼろきれを縫い、子どもたちが母親のスカートにすわっているところを見ると、やはりわたしはどうしても泣きたくなってしまう。
風はひどくなった。波は高まった。三檣艦《フリゲートかん》は横にかしいで走る。マストがきしり帆がはためくのが聞こえる。よっぽど速く走っているんだろう。けっこうだよ、それだけ早く着けるだろうから……。裁判のときにはあんなにおそろしく思えたパン島〔多くのコミューン兵が流された南太平洋上の仏領の小島〕に、今では早く着きたい。それが目的地であり、休息を意味するのだから。今おれはこんなに疲れているんだ! ときどき、この二十か月のあいだ見て来たすべてのものが、目の前に走馬燈《そうまとう》のようにまわり、目がくらんでしまうことがある。プロイセン軍の包囲、城壁、教練、それからクラブ、ボタン穴に麦藁菊《むぎわらぎく》をつけて行く宗教抜きの葬式、記念柱の下での演説、市庁でのコミューンの祝典、クリュズレ〔コミューン軍の総指揮官、軍事委員〕の査閲《さえつ》、出撃、戦闘、クラマール駅と、憲兵をねらって射つために身をかくしたあそこの小さな壁、そうしてサトリ〔ヴェルサイユ南方の台地、ここでコミューンの首脳が銃殺された〕、はしけ、警部たち、船から船への乗りかえ、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、監獄から監獄へと移ってますます囚人らしくなって行く。最後に軍法会議の法廷、奥のほうに馬蹄形《ばていけい》にすわった正装の将校たち、護送馬車、乗船、出帆。そうしたすべては海上のはじめの数日のあいだの船の揺れや茫然自失《ぼうぜんじしつ》の気持ちのなかで混沌《こんとん》と入りみだれていたものだった。
やれやれ!
疲れが、ほこりが、何かわけのわからぬものがマスクのように顔に貼りついているみたいだ。十年もからだを洗ったことがないような気がする。
ああ、そうだ、どこかでちゃんと足を地につけ、休止することができればどんなに気持ちがいいことだろう。あちらに着いたらすこしばかりの土地と道具と小さな家をくれるそうだ……。小さな家! 女房とふたりで空想したものだった。サン=マンデのあたりに、野菜と草花がいっぱいにはいった開かれた引き出しみたいな小さな庭が前にひろがった、ちんまりとした家を、と。日曜日にはそこへ出かけて、朝から晩まで一週間分の大気と日光を吸いこむのだ。それから子どもらが大きくなり、商売をはじめたら、安心してそこへ身を引く。ふん、ばかなことを言ってら、現に今おまえはこうして身を引いているじゃないか、そして別荘も持とうとしている!
ああ、なさけない、すべての原因は政治だと思うと。おれはしかし警戒していたんだ、あのいまいましい政治なんてものは。いつも政治をおそれていた。第一おれは金持ちじゃない。仕入れに金がかかるから、新聞を読んだり集会に行って雄弁家の話を聞くひまなどあまりなかった。ところがあの呪われた包囲がはじまった。国民軍だ。ぎゃあぎゃあわめいたり飲んだりするほかどうしようもない。いかにも、おれもほかの連中といっしょにクラブに行ったさ。そしてあの大言壮語《たいげんそうご》にしまいに酔《よ》わされてしまったんだ。
労働者の権利とか、人民の幸福とか!
コミューンがはじまったとき、おれは貧乏人の黄金時代が到来したのだと思った。おれ自身は中隊長に任命され、参謀にはみな新しい服が作られて、金筋やら肋骨《ろっこつ》やら飾緒《しょくちょ》やらで店にはたくさん仕事がまいこんできた。後になってこういったすべてがどんなふうにいとなまれているかを見たとき、おれはできれば手を切りたいと思ったが、卑怯者《ひきょうもの》と見られるのがおそろしかったんだ。
上のほうではいったいどうしたのだろう? メガフォンがわあわあいっている。大きな長靴《ながぐつ》が濡れた甲板《かんぱん》を走っている……それにしてもあの水兵たちと来ては、まったくなんという生活をしていることだろう。ほら、今一等水兵の呼子がぐっすり眠っている連中をたたき起こした。眠ったまま汗みどろでやつらは甲板へ上がる。闇《やみ》のなか、寒さのなかを駈けねばならないのだ。板はすべる。索具《さくぐ》は凍《こお》って、それをにぎる手が焼けるように痛い。そうしてやつらが帆桁《ほげた》の先端にぶらさがって、空と海のあいだにゆられながらすっかりかたくなった帆を捲いているときに、突風がおそいかかってやつらを吹き飛ばし、舞い上げ、海のただなかに鴎《かもめ》の群れのように吹き散らす。ああ、これはパリの労働者のそれとは別の意味で堪えがたい、別の意味で割りの合わない生活だ。それなのにあの連中は不平も言わず反抗もしない。物静かな態度、決意を秘めた明るい目を見せ、上官に対してはあんなに敬意を示す! なるほど、やつらがおれたちのクラブへあまり来なかったのももっともだ。
たしかにこれは嵐だぞ。フリゲート艦はものすごくゆれる。何もかも踊っている、めりめりいっている。大きな波が雷のような音をたてて甲板になだれおちる。それから五分ほどそこらじゅうに水は細く流れる。まわりの連中もがやがやしはじめた。船酔《ふなよ》いしているやつらもいるし、おびえているやつらもいる。危険に迫られながらこうしてじっとしていなければならないのは牢獄よりもやりきれない……。しかもおれたちがこうして家畜のようにとじこめられ、無気味《ぶきみ》な騒音に取り巻かれながら何も見えずにゆれているあいだに、金の飾り帯や赤い胸当てのあのコミューンのめかし屋ども、気取り屋ども、おれたちを前へ押し出したあの卑怯者《ひきょうもの》どもは皆、フランスのすぐ近くのロンドンやジュネーヴのカフェや劇場でのんびりしていやがるのだ。それを思うと猛烈な怒《いか》りがこみ上げて来る!
砲室の連中は皆、目をさました。ハンモックからハンモックへと呼びかわしている。そしてみんなパリのやつらだから、冗談《じょうだん》やひやかしを言いはじめる。おれはそっとしておいてほしいから眠ったふりをしている。けっしてひとりになれないこと、大勢《おおぜい》で暮さねばならないということは、なんというおそろしい拷問《ごうもん》だろう! 他人が怒ればこちらも怒り、同じようなことを言い、心にもない憎悪《ぞうお》をよそおわねばならない。そうしなければスパイと見られるのだ。そしていつも冗談《じょうだん》、冗談ばかりだ……。なんという海だろう、いやはや! 風がそこらに大きな黒い穴をあけ、艦はそのなかに沈んでぐるぐるまわっているような感じがする……。そうだ、家族を連れて来なくてよかった。国で家のものたちがあの小さな部屋のなかでのんびりとしていると今考えられるのはどんなにありがたいことか! 暗い砲室の奥から、ランプの光が注ぐあの家のものたちの顔、眠っている子どもたちや身をかがめて思いにふけり仕事をする母親が見えるような気がする。
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フランスの仙女たち
幻想的小話
「被告、立ちなさい!」と裁判長が言った。
石油放火犯の女ども〔コミューンの擾乱のさい、石油で火をつけまわった叛徒の女たちのことを、「ペトロルーズ」(石油放火犯)と呼んだ〕の見るからにきたないベンチがざわざわして、ぶるぶるふるえている異形《いぎょう》のものが法廷の柵《さく》によりかかった。ボロと穴と継ぎきれと糸と古い花と古い羽飾りのかたまりみたいなもので、その下にしなびて鞣《なめ》されたような皺《しわ》や皹《ひび》だらけの顔がのぞき、いたずらそうな二つの目が古い壁の割れ目にいる蜥蜴《とかげ》のように皺のまんなかにちらちらしている。
「そのほうの名は?」と問われて、
「メリュジーヌ〔フランスの昔話に出てくる仙女〕」
「なんだって?……」
女はまことにおごそかにくりかえす。
「メリュジーヌ」
龍騎兵《りゅうきへい》大佐みたいな濃い口髭《くちひげ》の下で裁判長はにやりと笑ったが、眉も動かさずにつづけた。
「年齢は?」
「もうおぼえていません」
「職業は?」
「仙女《せんにょ》ですよ!……」
今度こそ傍聴人《ぼうちょうにん》も判事連も検察官たちすらも、みんながどっと笑いだした。しかし被告はいっこう動じなかった。そして法廷のなかに高く舞い上がり夢の声のように漂《ただよ》うふるえるような澄んだ低い声で老婆はつづけた。
「ああ、フランスの仙女たちは今どこに行ってしまったのでしょう? みんな死んでしまったのですよ、皆さん。わたしは最後の仙女です。わたしのほかにはもう残っていません……。ほんとにこれは大きな損失です。なぜならフランスは、仙女たちがいたときのほうがずっとすばらしかったのですから。わたしたちはこの国の詩であり信仰であり、純真さであり若さであったのです。藪《やぶ》でおおわれた庭園の奥であれ、泉水の石であれ、古城の小塔であれ、池の霧《きり》のなかであれ、水のにじみでる荒野であれ、わたしたちの出没する場所はすべて、わたしたちの存在によって何か玄妙《げんみょう》な、何か大らかな感じを与えられていたものです。人々は伝説の幻想的な光のもとに、わたしたちがほとんどいたるところで月光のなかに裳裾《もすそ》をひきながら、あるいは牧場の草を踏むか踏まずに通って行くのを見ていました。百姓たちはわたしたちを愛し、わたしたちを尊敬していたものです。
素朴《そぼく》な人々の頭のなかでは、真珠の冠《かんむり》をかぶったわたしたちの額《ひたい》、わたしたちの魔法の杖、わたしたちの魔法の紡《つむ》ぎ竿《ざお》は崇拝《すうはい》と同時に恐怖をも少々よびおこしました。だからわたしたちの泉はいつも澄んでいました。鋤《すき》もわたしたちの守っている道には踏みこみませんでした。そしてわたしたちは古いものに対する敬意をよびおこさせましたから――何しろわたしたちは世界でいちばん古くからいるものなのです――フランス全土で人々は、森は自然に成長するにまかせ、石は自然にくずれるにまかせていたものでした。
けれども時代は進みました。鉄道が出現しました。トンネルを掘る、沼を埋める、やたらに木を伐《き》る、おかげでやがてわたしたちは身の置き場もなくなりました。だんだんと百姓たちもわたしたちを信じなくなりました。夕方わたしたちがロバンの家のよろい戸をたたいても、ロバンは『風のせいだ』と言ってまた眠ってしまいました。女どもはわたしたちの池に洗濯《せんたく》をしにやって来ます。このときからわたしたちはもうおしまいでした。わたしたちは民間信仰によってのみ生きていたのですから、この信仰を失ったことによってすべてを失ったのです。わたしたちの杖の効力も消えてしまい、それまで強力な女王であったわたしたちは、人から忘れられた仙女のような皺《しわ》だらけの意地のわるい老婆《ろうば》になっていました。その上、生計を立てなければならないのに、全然手に職がない。しばらくのあいだわたしたちは林のなかで枯《か》れ木の束《たば》を引きずったり道ばたで落ち穂を拾ったりしているところを人に見られました。しかし山林官たちはわたしたちに対して冷酷だったし、百姓たちはわたしたちに石を投げました。そこで、自分の国で生計を立てることのできなくなった貧乏人のように、わたしたちは大都会で働いて暮らしを立てようとしたのです。
製糸工場にはいったものもおります。また別のものは、冬、橋のたもとで林檎《りんご》を売ったり、教会の門前で数珠《じゅず》を売りました。オレンジの手押し車を押したり、だれも買ってくれないのに一スーの花束を通行人にさしだしたりしましたが、子どもたちはがくがくするわたしたちの顎《あご》を笑い、巡査はわたしたちを追いまわし、乗合馬車はわたしたちを突き倒しました。それから病気、窮乏《きゅうぼう》、養老院の経帷子《きょうかたびら》……。このようにしてフランスはすべての仙女たちを死なせてしまったのです。そのため、したたか報《むく》いを受けましたが!
ええ、ええ、笑ってください。皆の衆。とにかくわたしたちは、仙女のいなくなった国とはどんなものかを見て来たところですからね。わたしたちは満腹した冷笑的な百姓どもがプロイセン兵に食糧を提供し、道を教えるのを見ました。そうでしょ。ロバンはもう妖術を信じない。が、それ以上自分の祖国をも信じなかったんです……。ああ、もしこのわたしたちがいたら、フランスに侵入したあのプロイセン兵のうち、ひとりとして生きて帰るものはなかったでしょうよ。わたしたちの魔物、わたしたちの鬼火が彼らを湿地へ導いたでしょう。わたしたちの名をつけられているあの澄んだ泉のすべてに、わたしたちは彼らを気ちがいにさせる魔法の液をまぜてやったでしょう。そして月光のもとでのわたしたちの集会で、魔法の一言で道や川を混乱させ、彼らがいつも身をひそめるあの森の下生えに茨《いばら》や藪《やぶ》をはびこらせて、モルトケ氏〔プロイセン陸軍参謀総長〕のあの猫のような小さな目ではてんで方角を見定められないようにしてやったでしょう。わたしたちといっしょならば百姓たちもたたかったでしょう。わたしたちの池の大きな花でわたしたちは傷をいやす香油をつくり、蜘蛛《くも》の糸はわたしたちの包帯材料となったでしょう。そして戦場で死にかけた兵士は、自分の国の仙女がなかば閉ざされた目の上に身をかがめて、森の一部か道のまがりかど、故郷をしのばせる何かを指して見せるのを見たはずです。国民戦争というものは、聖戦というものはそのようにしてたたかわれるものなのです。ところが、ああ、信仰が失われた国、仙女がいなくなった国では、そういう戦争はもはや不可能なのです」
ここで弱々しい低い声はちょっととぎれた。そこで裁判長は発言した。
「そういう話をいくら聞いても、そのほうが兵隊にとらえられたとき持っていた石油で何をしていたかはわからんな」
「わたしはパリを焼こうとしていたのです」と老婆《ろうば》はおちつきはらって答えた。「わたしはパリを焼こうとしていたのです。わたしはパリを憎んでいますから、パリは何もかも嘲笑《ちょうしょう》しますから、わたしたちを殺したのはパリですから。わたしたちの美しい奇跡の泉を分析し、鉄分と硫黄《いおう》分がどれだけ含まれているのかを正確に言わせようとして学者たちを派遣《はけん》したのはパリです。パリはその劇場でわたしたちのことを茶化《ちゃか》しました。わたしたちの魔法はぺてんとなり、わたしたちの奇跡は冗談《じょうだん》にされ、わたしたちの桃色の服を着、翼《つばさ》のある車に乗って、ベンガル花火の月光のなかを行く野卑《やひ》な顔をあまりたくさん見てしまったので、人々はもうわたしたちのことを思うと笑わずにはいられなくなったのです……。わたしたちの名を知っており、わたしたちを愛し、わたしたちをちょっとおそれている子どもたちもいました。ところが、金で飾られた挿し絵入りの本で子どもたちはわたしどものことを知ったのですが、今のパリは彼らに、子どもむきの科学書、退屈が灰色のほこりのようにそのなかから立ち昇って来て、わたしたちの魔法の御殿《ごてん》や蠱惑《こわく》の鏡を子どもらの小さな目から消し去ってしまうような部厚い本を与えたのです……。おお、そうですとも、わたしはあなたがたのパリが炎上するのを見てうれしかったのですよ……。放火犯人の女たちの罐《かん》に石油を満たしてやったのはわたしだし、わたしが自分で適当な場所に案内してやったのです。『さあ、おまえたち、みんな焼いておしまい、焼くんだよ、焼くんだよ!……』と」
「たしかにこの老婆は狂っている」と裁判長は言った。「連れて行け」
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第二部 奇想曲と追憶
書記
「ぶるる……なんて霧《きり》だ!……」と、通りに足を踏み出したとたんに奴《やっこ》さんは言った。
いそいで襟《えり》を立て、口をマフラで包み、頭を下げ、両手をうしろのポケットへ入れて、口笛を吹きながら役所へ歩きだす。
なるほど、ほんものの霧だ。通りではまだたいしたことはない。大都会の中心では霧は雪と同様、長く残らない。人家の屋根が霧を引き裂《さ》き、壁が吸いとってしまう。家々が窓や戸をあけるにつれて霧は家のなかへ流れこみ、階段をすべりやすくし、手すりをしめらせる。車の動き、通行人の――いやにせかせかした、いやに貧乏くさい通行人の往来が、霧を切りこまざき、運び去り、散らしてしまう。霧は窮屈で薄っぺらな事務服、女店員のレインコート、たるんだ小さなヴェール、蝋引《ろうび》きの布を張った大きな紙ばさみにまつわりつく。しかしまだ人影のない河岸《かし》や、橋、土手、河の上には、おもおもしく深い霧《きり》が動かず、そのなかで太陽がむこうのノートル・ダム寺院の背後から、曇りガラスのなかの豆ランプのようなあわい光を放って昇って来る。
風にもめげず霧をもおそれずに例の男は河岸を、ずっと河岸ばかりを通って自分の役所へ行く。ほかの道を取っても行けるのだが、河は彼にとって神秘的な魅力を持っているらしい。欄干《らんかん》にそって行くこと、漫歩《まんぽ》者の肘《ひじ》でつるつるしたあの石の手すりをかすめるようにして行くことは、この男のたのしみなのだ。この時刻、しかもこの天候では、漫歩者もめったにない。けれどもときどき下着の荷物をかかえて欄干にもたれて休んでいる女や、うんざりした顔で水の上へ乗り出して肘をついている貧乏人を見かける。そのたびに男はふりむき、好奇心をもってそういう連中をながめ、それから水をながめる。何かそういう人々と河とを結びつける考えが彼の頭のなかで働いているかのように。
この朝は河は明るく見えない。波と波とのあいだから昇って来る霧は河を重くしているように見える。両岸の暗い色の屋根屋根、河面《かわも》に映り、交叉《こうさ》し、水のまんなかで煙を吐いている不ぞろいな傾《かし》いだ煙突は、セーヌ河の底からパリへむかって霧の煙を吹き上げている何かしら無気味《ぶきみ》な工場といったものを思わせる。例の男のほうはそうしたものをそんなに陰鬱《いんうつ》だと思っているようすはない。湿気はそこらじゅうから彼ににじみこみ、彼の着ているものはもう何から何までぐっしょりしている! それなのに彼は口のはたに幸福そうな微笑をうかべて口笛を吹きながら行くのだ。セーヌの河霧にはもうずっと昔から慣れてしまっているのだ! それにまた彼は、役所に着けばふかふかした気持ちのいい裏毛つきのスリッパと、うなりを立てて自分を待っているストーヴと、毎朝食事を作る焼けた小さな鉄板があることを知っている。これこそ勤め人の持つあの幸福、その全生活が小さな片すみにおさまっている、あのあわれな小さくなった人間のみしか知らない獄中のよろこびなのだ。
「林檎《りんご》を買うことを忘れてはならん」と男はときどきひとりごとを言う。
そして口笛を吹き、足をはやめる。こんなにうれしそうに仕事に行く人間など、あなたはけっして見たことがないだろう。
河岸、河岸、それから橋。今はもうノートル・ダム寺院の裏まで来ている。島のこの突先《とっさき》に来ると霧はどこよりも濃い。霧は三方からどっとおそいかかり、高い塔をなかば埋め、何かをかくそうとするかのように橋のかどに集まる。
男は歩みを止める。着いたのだ。
陰気な影が、歩道にうずくまって何かを待っているらしい人々が、そして救済院や辻公園《つじこうえん》の柵《さく》のきわにあるようにビスケットやオレンジや林檎をなかにならべた平籠がならんでいるのが、おぼろに見分けられる。おお、霧のしずくのなかでこんなにも新鮮な、こんなにも赤い美しい林檎……。男は足炬燵《あしごたつ》の上に足をのせてふるえている売り手の女に笑顔《えがお》を見せながら、その林檎をポケットにつめこむ。それから霧のなかで一つの門を押しあけ、荷馬車が一台止まっている小さな中庭を横切る。
「何か持って来てくれたのかい?」と通りがかりに男はきく。
濡れそぼった荷馬車引きが答える。
「ええ、だんな。それもちょっとわるくないのがね!」
それからいそいで男は役所にはいる。
なかはあたたかい、そして気持ちがいい。ストーヴが片すみで音を立てている。裏毛のスリッパはいつもの場所にある。専用の小さな肘掛《ひじか》け椅子《いす》は窓ぎわの明るいところで彼を待っている。霧は窓ガラスにカーテンのように張りついて光を一様にやわらかくし、緑色の背の大きな帳簿は整理棚《せいりだな》の上にきちんとならんでいる。公証人の事務室そっくりだ。
男は息をつく。くつろいだのだ。
仕事にかかる前に大きな戸棚《とだな》をあけて、甲斐絹《かいぎぬ》の袖《そで》カヴァーを取りだしてていねいにはめ、赤い陶器の小さな皿《さら》とカフェから持って来た砂糖のかたまりを取りだし、満足そうにあたりを見まわしながら林檎《りんご》の皮をむきはじめる。実際これ以上陽気な、これ以上明るい、これ以上整頓された事務室は見られるものではない。ところが、これはまた奇妙なのは、まるでここが船室のなかででもあるかのようにいたるところから聞こえ、四方から取り巻き押し包む水の音だ。下のほうではセーヌ河がうなり声をたてて橋弧《きょうこ》にぶつかり、板や杭《くい》や漂流物がいつもごちゃごちゃしているこの島の突先《とっさき》でその泡だつ波が引き裂かれている。建物のなかでもこの事務室のまわりはずっと水甕《みずがめ》の水を思いきりぶちまけるような水の音、たいへんな洗濯《せんたく》の音だ。どういうわけか、この水の音を聞いただけで人はぞっとする。水がかたい地面にぶつかり、広い敷石や大理石の机にはねかえるのが感じられる。そういう敷石や大理石のおかげで水はよけいつめたそうな感じなのだ。
そもそもこの異様な建物のなかでは何をそんなにたくさん洗わねばならないのか? どのような消えにくい≪しみ≫があるのか?
奥のほうでその水の流れる音がときたまやむと、今度は雪どけの大雨のあとみたいにぽとりぽとりとしずくのしたたる音だ。屋根の上、壁の上に積みかさなった霧がストーヴの熱でとけて間断なくしたたっているかのようだ。
男はそんなことは気にとめない。カラメルのかすかな香《かお》りを放って赤い皿《さら》の上で歌いはじめた林檎にすっかり気を取られているのだ。そしてこのこころよい歌のために水の音、あの無気味《ぶきみ》な水の音が耳にはいらない。
「よかったら頼む、書記君!……」と奥の部屋でしゃがれ声が言う。
彼は林檎《りんご》にちょっと目をやり、未練がましげに出て行く。どこへ行くのか? 一瞬細く開かれたドアから蘆《あし》とどろ土の匂いのする、ふやけたつめたい空気がはいって来る。それから縄《なわ》につってかわかしているボロ、色あせた上っぱり、労働者の作業服、袖《そで》から長々とつるされてたえずぼたぼたと水をしたたらせている捺染《なつせん》キャラコの婦人服がちらと目にはいる。
用事が終わる。男は帰って来る。水びたしになったこまごましたものを机の上に置き、寒そうにストーヴのほうにもどって、寒さにかじかんだ手をあたためようとする。
「ほんとに気がちがっていたに相違ないよ、こんな天気だというのに……」と男はふるえながらひとりごとを言う。「ああいう女たちってのは、まったくどうしたんだろうな」
そして、充分あたたまったし、砂糖は皿《さら》の縁《ふち》に真珠のようにかたまりはじめたので、彼は事務机の片すみで食事をはじめる。たべながら帳簿を一つ開いて、満足そうにページをめくる。じつにきちんとつけてあるのだ、この大きな帳簿は! 行はまっすぐだし、役所の名は青インキで刷りこまれ、金粉がこまかく光り、各ページに吸取紙がはさまれている、綿密にきちんと整理されているのだ……
仕事はうまく行っているように見える。奴《やっこ》さんは申しぶんのない年末決算表を前にしている会計係のような満悦の面《おも》もちだ。彼が陶然《とうぜん》として帳簿のページをめくっているとき、隣の広間の戸が開き、大勢の人の足音が敷石の上にひびく。教会のなかのように人々は小声で話している。
「おお、なんて若いんだ……。ほんとにもったいない!……」
そう言って人々は押し合い、ささやき合っている……
その女が若かろうとなんだろうと、そんなことがこの男にはなんの関係があろうか。平然と林檎《りんご》をかたづけながら、彼は今しがた持って来たこまかなものを自分の前に引きよせる。砂まみれの指《ゆび》ぬき、一スーだけはいっている財布、錆《さ》びた――もうけっして使いものにならぬほど――おお、もうけっして――錆びた小さな鋏《はさみ》、ページが貼りついている就労手帳、ぼろぼろになった一通の手紙、文字は消えかかって、「子ども……、お金が、乳母《うば》へのお礼……」などといういくつかのことばがわずかに読める。
書記は「そんなのは先刻ご承知さね……」といった顔で肩をすくめる。
それから彼はペンを取り、大きな帳簿の上に落ちたパン屑《くず》をていねいに吹きはらい、手勝手《てがって》をよくするためちょっとからだを動かし、できるだけじょうずに丸い書体で濡れた手帳から今読み取った姓名を書いた。
フェリシ・ラモー、金属|磨《みが》き女工、十七歳。
〔(訳者註)蛇足かもしれないが一言説明すれば、これは身許不明の屍体を保管する「モルグ」の書記のことを書いている。若い女というのは自殺者である〕
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ジラルダンが約束してくれた三十万フランで!……
足どりも軽く心もうきうきと家を出たが、二時間ほどパリを歩きまわったあげくに、理由のない悲しみ、わけのわからぬ不安に押しつぶされてすっかりふさぎこんで帰って来るということが諸君には一度もなかっただろうか? 「いったいどうしたんだろう?……」と自問する。が、いくら考えてみても全然理由がわからない。歩きまわっているあいだはずっと気持ちはよかった、歩道はかわいていたし、日の光はあたたかかった。それなのに、悲哀《ひあい》を感じたあとのような胸苦しい不安が心臓のあたりに感じられるのだ。
それというのも、人々が自分はだれからも観察されておらず自由だと感じているこの大パリでは、諸君にとばっちりをはねかけてその痕《あと》を残して行くなんらかの人の心にしみこむような苦悩に出会わずには一歩も歩むことはできないからだ。わたしは単によく知られている、そして人々が興味を持つ不運や、親身に共感でき、不意にぶつかってみると良心の疼《やま》しさにも似た心臓のすくむ感じをあたえる友人の悲しみのことだけを言っているのではない。また、いいかげんに耳をかしてやるが、やはりそれとは知らずに心に痛みを残す他人の悲しみのことですらもない。わたしの言っているのは、あわただしい往来《ゆきき》と市街の混雑のなかでほんの一瞬行きずりにかいま見た、まったく赤の他人のあの苦しみのことなのだ。
走りまわる車馬にたちきられた会話の断片、外聞もはばからずに委細《いさい》かまわずひとりでに大きな声で言われる心配事、疲れて萎《な》えた肩、気ちがいじみた見ぶり、熱っぽい目、涙でむくんだ血の気のない顔、愛するものを失ったばかりの人の黒いヴェールの下でなお拭《ぬぐ》いきれていない悲しみといったものがそうだ。それからほんのちょっとした、ごく軽い些末事《さまつじ》も! 人目を避けようとするさんざんブラシをかけてすりきれた襟《えり》、玄関で音もなくからまわりするスリネット〔鳴禽に歌を教えるためのオルゴールのようなもの〕、ねじれた肩のあいだに無慙《むざん》にまっすぐ結ばれている、せむしの女の首のびろうどのリボン……。こういう人に知られぬ不幸のヴィジョンはたちまち過ぎ去って、歩いて行くうち諸君はそんなものを忘れてしまうが、そうしたものの悲哀《ひあい》がかすめるのを諸君はたしかに感じたのであり、それが後に曳《ひ》いている落漠《らくばく》の気は諸君の服にしみこんでいる。そしてその日の終わり、諸君は胸のうちなる驚きの、苦痛の名残《なご》りがうごめくのを感じる。なぜなら、それとは気づかずに諸君はある町かどで、戸口で、すべての不幸をむすびつけて同じように打ち揺《ゆ》する、あの目に見えぬ糸をひっかけて来たからだ。
わたしがこんなことを思ったのは、先日の朝――パリがその悲惨《ひさん》さを示すのはとりわけ朝だから――わたしの前にひとりの貧乏くさい男が薄すぎる外套《がいとう》を窮屈そうに着て歩いて行くのを見たときだ。その外套のためによけい大股《おおまた》に歩いているように見え、挙措動作《きょそどうさ》のすべてがいやに誇張されて見えた。風をまともに受けた人間みたいに不自然にからだを二つに曲げながら、その男はひじょうに足ばやに歩いて行った。ときどき片手をうしろのポケットの一つに入れ、なかで小さなパンをむしって、街なかでものをたべることを恥じているかのようにこっそりとそれをむさぼり食う。
石工が歩道に腰をおろして焼きたての丸パンのまんなかにかぶりついているのを見ると、わたしは食欲をそそられる。また、しがない勤め人がペンを耳にはさんだまま口をいっぱいにして、こうして戸外で食べるのを心からたのしみながらパン屋から事務所へ駈け足で帰るときにも、わたしはうらやましいなという気持ちを起こさせられる。しかしこのときには、ほんとうの飢《う》えにさいなまれているものの恥ずかしさが感じられた。そしてポケットの底でくだいたパンをすこしずつしかあえて食べられないでいるこの不幸な男は見るもあわれだった。
わたしはしばらくその男をつけていたが、こうした方途《ほうと》を失った人々の生活にはよくあるように、男はいきなり考えを変えて方向を一転し、まわれ右したとたん私と面と向かい合った。
「おや、あなたでしたか……」
たまたまわたしはこの男を少々知っていた。パリの町の鋪石《ほせき》のあいだから雨後のたけのこのようににょきにょき生えて来るあの事業家どものひとり、アイディア・マンで、妙ちきりんな新聞の創始者で、しばらくのあいだは彼をめぐって広告だのゴシップ記事だのがわんさと書かれていたが、もう三か月も前に、もんどり打って消えてなくなってしまったという男だった。彼が飛びこんだ場所では数日間波が騒いでいたが、その波もしずまり水が閉ざしてしまうと、もはや彼のことなど話すものはなかった。わたしを見ると彼はへどもどし、すべての質問を封じてしまうため、そしておそらくはまたきたならしい身なりと一スーのパンからわたしの目をそらさせるため、わざとらしく陽気な口調でいやに早口に彼はしゃべりだした……。事業はうまく行っている、ひじょうに順調だ……。あれはほんのちょっと足踏みしただけのことだ。現在はすばらしい商売をしている……。絵入りの大工業新聞だ……。金はざくざくさ、広告の契約高はたいへんなもんで!……。そうしてしゃべるうちに彼の顔は生き生きして来た。背筋もしゃんとのびた。もう自分の編集室にいるかのようにだんだん保護者的な口調になって来て、わたしに記事を注文しさえした。
「いいですか」と彼は意気揚々とした顔でつけくわえた。「こいつは確実な事業なんだ……。ジラルダン〔多くの新聞を創刊したジャーナリスト。有料広告や連載小説の掲載を発案した新聞事業者〕が約束してくれた三十万フランではじめるんです!」
ジラルダン!
まさにこれは、こういう幻想的な連中の口にいつも上がる名前だ。この名がわたしの前で言われると、わたしは新しい敷地、まだできあがっていない大きな建物、株式や重役の名簿をのせた刷り上がったばかりの新聞が目に見えるような気がする。突拍子《とっぴょうし》もない計画のことで、「こいつはジラルダンに相談してみなければなるまい!……」と人々の言うのを何度わたしは聞いたことだろう。
そしてこのあわれな大将も、ジラルダンに相談してみようと思いついたのだ。一晩じゅう彼は計画を練り数字をならべてみたに相違ない。それから彼は家を出た。そして歩いているうちに、昂奮《こうふん》しているうちに、事業はたいへんすばらしいものになり、わたしと会ったときには、ジラルダンが三十万フラン貸さないなどということはありえぬことのように思うまでになっていたのだ。貸すと約束してくれたとこの不幸な男が言ったのは、嘘《うそ》をついたのではなかったのだ。自分の夢を延長したにすぎない。
彼がわたしに話しているあいだ、わたしたちは人々に押されて壁にくっついてしまった。そこは株式取引所から国立銀行に通ずるあのにぎやかな街路《がいろ》の一つの歩道の上だった。これらの通りは自分の仕事のことだけで頭がいっぱいになってせかせか歩いている人々、手形を回収しにかけつけるそわそわした小商人や、歩きながら数字をちょっと耳打ちし合って行く品のない顔つきのけちな相場師などがうようよしている。一六《いちろく》勝負のあわただしさと熱気のようなものが感じられる投機師の町のこの群衆のただなかでこういったすばらしい計画を聞くと、海のまっただなかで難船の話を聞くような戦慄《せんりつ》をわたしはおぼえさせられた。この男がわたしに言っていることのすべては、現実にわたしの目の前にあった。彼の破局はある人々の顔の上に、彼の晴れやかな希望は他の人々の取り乱した目のなかにあらわれていたのだ。話しかけて来たときと同じように不意に彼はわたしから離れ、この人々が真剣な口調で「事業」と呼ぶ、狂気と夢と虚言《きょげん》のあの渦《うず》のなかにやみくもに飛びこんで行った。
五分後にはわたしは彼のことなど忘れていた。しかし夕方家に帰って、町のほこりといっしょに一日のすべての憂《う》さを払い捨てようとしたとき、わたしはあの苦悶《くもん》を秘めた蒼白《そうはく》な顔、一スーの小型パン、それから「ジラルダンが約束してくれた三十万フランで……」というこの景気のいい文句を強調した身ぶりを眼前に思いうかべたのであった。
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アルチュール
数年前わたしはシャン=ゼリゼの十二軒|横丁《よこちょう》にある小さな独立家屋に住んでいた。あまりにひえびえとし、あまりに静かなので人は車に乗ってしかそこを通らないと思えるほどのあの広々とした貴族的な大通り、それに囲《かこ》まれた忘れられたような場末の一|隅《ぐう》を想像していただきたい。地主のどんな気まぐれからか、吝嗇漢《りんしょくかん》もしくは老人のどんな片意地からかは知らないが、このお屋敷街のまんなかにこうしたあき地やかびくさい小庭やひんまがった低い家々がこのように残されていた。それらの家々は階段が外にあって、木製のテラスは洗濯物や兎《うさぎ》の箱や痩《や》せた猫や馴らした鴉《からす》などがうじゃうじゃしている。住んでいるのは労働者夫婦や、しがない年金生活者や幾人かの芸人――樹木が残っているところにはどこにもこの連中はいる――で、そのほかに二つか三つ、代々の貧困の垢《あか》がこびりついたようなきたならしい外見の家具つき貸間がある。まわりはずっとシャン=ゼリゼの栄耀《えよう》と騒音だ。馬具のきしりやきびきびしたひづめの音、おもおもしく閉じられる正門、車寄せをゆるがす幌《ほろ》つきの四輪馬車、ひっそりとしたピアノ、マビーユ舞踏場のヴァイオリン、角《かど》の丸いひっそりとした大邸宅の連なり。その窓ガラスは明るい色の絹のカーテンでぼかされ、裏箔《うらはく》のない鏡には燭台《しょくだい》の金色と花籠の珍奇な花がうつる。
はしにある一つの街燈《がいとう》だけで照らされているこの暗い十二軒横丁の路地は、周囲の美しい舞台装置の裏側といったものだった。表の豪奢《ごうしゃ》さのうちにある安ぴか物がすべてここに逃げこんできている。お仕着せの飾り紐だの、道化師の肉襦袢《にくじゅばん》だの、イギリス人馬丁やサーカスの曲馬師といった浮草稼業《うきぐさかぎょう》の連中だの、曲馬場のふたりの子どもの御者《ぎょしゃ》とそのふたごの小馬《ポニー》と広告ビラだの、山羊《やぎ》の引っぱる車だの、人形芝居だの、ウェファース売りの女だの。さらにまた、夜になると畳《たた》み椅子《いす》とアコーデオンとお碗《わん》を持って帰って来る盲人の一族。この盲人たちのひとりが、わたしがこの横丁に住んでいるときに結婚した。おかげさまでわれわれはクラリネットとオーボエとオルガンとアコーデオンの奇妙きてれつな音楽を夜っぴて聞かされたものだ。それぞれ異なった歌い方でパリのすべての橋がつぎつぎに歌われたものだ……。けれども普通はこの横丁はかなり静かだった。この町の浮浪者たちは夕靄《ゆうもや》のおりるころでなければ帰って来ない。しかもどれほど疲れて帰って来ることか! うるさくなるのは土曜日、アルチュールが給料をもらったときだけだった。
このアルチュールというのはわたしの隣人だった。わたしの家と、彼が細君といっしょに住んでいる家具つきの貸間とのあいだにあるのは背の低い長い格子塀《こうしべい》だけだった。だから、いくらわたしがいやだと言ったって彼の生活はわたしの生活のなかへ闖入《ちんにゅう》して来るのだった。そして毎土曜日わたしは、こういう労働者夫婦のあいだで演じられるいかにもパリ的なものすごいドラマを一部始終聞かされる。幕あきはいつも同じだ。細君は夕食をととのえている。子どもたちは細君のまわりをうろちょろしている。彼女はやさしく子どもらにものを言い、いそがしく立ち働く。七時、八時、だれも来ない……。時がたつにつれて彼女の声は変わって来、涙声になり、ヒステリカルになる。子どもたちは腹はすく、眠くなる、ぶうぶう言いはじめる。亭主はそれでもまだ帰って来ない。待たずに食事をする。それから餓鬼《がき》どもを寝かせ、鶏《とり》小屋も寝しずまってしまうと、彼女は木製のテラスに出る。わたしには彼女がすすりなきながら低い声で言っているのが聞こえる。
「おお、このろくでなしめ! ろくでなしめ!」
帰って来た隣近所の連中はそこにいる彼女を見、彼女に同情する。
「まあ、お寝なさいよ、アルチュールのおかみさん。わかってるじゃありませんか、帰って来やしないよ、給料日だもの」
そうして忠告をしたりおしゃべりしたりだ。
「わたしがあんただったらこうするね……。どうして雇《やと》い主に言ってやらないんです?」
こういう同情に彼女はますますはげしく泣きだす。けれど彼女は望みを持ちつづけ、待ちつづけ、やきもきしはじめる。そして家々の扉がしまり、横丁がひっそりして、自分だけしかいないと思うと、そこに肘《ひじ》をついて、じっと一つのことに思いをこらして、いつも生活の半分を巷《ちまた》にさらけ出している庶民のあのだらしなさで、わが身の辛《つら》さを自分自身にむかって大声で語りつづけるのだ。家賃がとどこおっている、小売商人らにいじめられる、パン屋はパンを売ってくれない……。あの人がまたお金を持たずに帰って来たら自分はどうしたらいいだろう? しまいに彼女は帰り遅れた人々の足音をうかがい時を数えるのに倦《う》んでしまう。彼女は家のなかにもどる。しかしだいぶたって、もう片がついたとわたしが思っていたとき、だれかが近くの廊下で咳《せき》をする。まだいたのだ、この不幸な女は。不安のあまりまた出て来て、あの暗い路地を目が痛くなるほどのぞきこむのだが、見えるものといえば自分の困窮だけなのだった。
一時か二時ごろ、ときにはもっとおそくなって、横丁のはしで歌声がする。アルチュールが帰って来たのだ。たいてい彼はだれかを連れて来る、戸口まで仲間を引っぱって来る。「来いよ……来いったら……」そして戸口まで来てもまだふらふらし、どんなことが家で自分を待っているかを承知しているので中にはいる決心がつかない……。階段を上がるときも、重い彼の足音を反響させる寝入った家の静寂《せいじゃく》は、良心の痛みのように彼を苦しめる。彼は大声でひとりごとを言い、むさくるしい部屋の入り口ごとにたちどまる。「今晩は、ヴェベールの奥さん……今晩は、マチウの奥さん」返事がないと悪口雑言《あっこうぞうごん》のかぎりをつくす。しまいにそこらじゅうの窓、戸口が開いて、彼の呪《のろ》いのことばに応酬《おうしゅう》する。これこそ彼の願っていたことなのだ。彼は酔《よ》うと騒いだりけんかをしたくなる。そうしているうちに彼は昂奮《こうふん》し、怒りだし、そうして家に帰るのもそうこわくなくなるのだ。
すさまじいものだ、その帰り方たるや……
「あけろ、おれだ……」
タイルを踏む細君のはだしの足音、マッチをする音がわたしにも聞こえる。そしてはいりかけながらもう亭主はどもりどもりいつも同じ話をはじめる。「仲間らが、引きずられて……ほら、おまえの知っているあの野郎が……鉄道で働いている野郎が……」細君は聞いていない。
「で、お金は?」
「もうねえよ」とアルチュールの声は言う。
「嘘《うそ》つき!……」
事実嘘なのだ。いくら酒に引きずられていても彼は月曜日の渇《かつ》をいやすためにいつもすこしばかり残しておく。細君がふんだくろうとするのはこの給料の残りなのだ。アルチュールはあばれる。
「みんな飲んじまったと言ってるじゃねえか!」と彼はどなる。
答えもせず彼女は憤怒《ふんぬ》とヒステリーにわれを忘れて彼にしがみつき、ゆすぶり、からだをさぐり、ポケットをひっくりかえす。しばらくすると金が床《ゆか》にころがり、細君が勝ち誇《ほこ》った笑い声とともにその金に飛びかかるのが聞こえる。
「ああ、ごらんよ!」
それから罵声《ばせい》、なぐりつけるにぶい音……。酔《よ》っぱらいが仕返しをしているのだ。一度なぐりはじめるともう止めどがない。場末のあのひどい安酒のなかにひそむ悪質なもの、破壊的なもののすべてが彼の頭に上って来て、外に飛びだそうとする。細君はわめく、きたない部屋にどうにか残っているわずかの家具がこなごなになる、びっくりして目をさました子どもらはおそろしさに泣きだす。横町の家々の窓があく。「アルチュールだ! アルチュールだよ!」と人々は言う。
ときには隣の家具つき貸間に住んでいる年取った屑屋《くずや》の舅《しゅうと》までが娘に加勢するために駈けつける。しかしアルチュールは仕事のじゃまをされまいとして戸に鍵をかけてしまう。そこで鍵穴越しに舅と婿《むこ》のあいだのおそろしいやりとりがはじまり、われわれはたいへんなことを聞かされるのだ。
「それじゃあおめえは二年ぐらい牢屋《ろうや》にはいっていたんじゃたりねえんだな、悪党!」と老人はさけぶ。
すると酔《よ》っぱらいはえらそうな口調で、
「ああ、そうとも、二年はいっていたよ……。それがどうしたってんだい?……。すくなくともおいらのほうは社会に対する借りを払ったよ……。てめえもてめえの分を払うように心がけるがいいや!……」
彼にはこうしたことはごく簡単に見えたのだ。おれはぬすんだ、そっちはおれを牢屋にぶちこんだ。これでもう貸し借りはない……。それでもやはり老人がそのことをあまりうるさく言うと、アルチュールはがまんできなくなって扉をあけ、舅に、姑《しゅうとめ》に、隣人たちに飛びかかり、道化役者《ボリシネル》よろしく相手かまわずぶんなぐる。
それでもわるい人間ではないのだ。こういう乱暴狼藉《らんぼうろうぜき》の翌日の日曜日、酔《よ》いもさめておとなしくなり、飲みに行くにも一文の金もなく、一日家で過ごすこともよくある。部屋から椅子《いす》を持ちだす。ヴェベールのおかみさんやマチウのおかみさんなど間借人一同バルコンに腰をすえて、皆でおしゃべりだ。アルチュールは愛想よくふるまい、才人ぶったところを見せる。そういうところを見たら、夜学に通っている模範労働者のひとりと思われるだろう。しゃべるときには明るい甘ったるい声をし、労働者の権利だの資本の専制だのといったことについて、そこらじゅうで拾い集めて来た思想のかけらをわけもわからず述べたてる。昨夜ぶんなぐられて柔順になってしまったあわれな細君は感歎《かんたん》して彼をみつめる。が、それは彼女だけではない。
「このアルチュールだって、その気にさえなりゃあね!」とヴェベールの細君が溜め息をついてつぶやく。
それからこの奥さんがたは彼に歌わせる……。彼はド・ベランジェ氏〔自由主義的な傾向を持つ俗謡作者で、その歌は民衆に愛された〕の『燕《つばめ》』をうたう……。おお、安っぽい涙をたたえたあの喉声《のどごえ》、労働者のばかげた感傷主義!……紙にタールを塗ったかびのはえたヴェランダの下で、引きまわした綱にかけて乾しているボロのあいだに青空がすこしばかりのぞき、そして彼らなりに理想に飢《う》えているこの賤民《せんみん》どもはその青空へ涙にうるんだ目を向ける。
そういうことがあっても、つぎの土曜日にはあいかわらずアルチュールは給料に手をつけ、細君をぶんなぐる。そしてこの陋巷《ろうこう》には、おやじと同じ年になりさえすれば給料に手をつけ細君をぶんなぐろうという小アルチュールどもはいくらでもいる……。しかもこの手合いどもが将来世界を支配するだろうというのだ!……ああ、この横丁のわたしの隣人たちのことばを借りれば、「ちきしょうめ!」だ。
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三回の解散勧告
おれがベリゼールといって、今|鉋《かんな》を手にしているのが事実なら、チエールのおやじが今度おれたちにあたえた教訓が何かの役にたつと思っているのは、奴《やつ》がパリの民衆を知らねえからだということも同じくらい事実だよ。ねえだんな、奴らがいくらおれたちを大々的に銃殺したって、流刑《るけい》にしたって、追放したって、サトリ〔コミューンの首脳が多数銃殺されたヴェルサイユ南方の台地〕の鼻っ先にカイエンヌ〔当時流刑地だった南米の仏領ギアナの首府〕を持って来たって、廃船の牢屋《ろうや》を鰯《いわし》の樽《たる》みたいにいっぱいにしたってだめさ、パリっ子は暴動が好きなんだから。どんなものを持って来たってこの好みは消えやしねえや! 何しろからだにしみついてるんだからね。しようがねえよな。おれたちにとっておもしろいのは政治よりも、政治が作りだす騒ぎなんだよ。仕事場はしまる、人々が集まる、歩きまわる、そのほかにもまた、口では言えねえようなおもしろいことがある。
おれのようにオリヨン街の指物師《さしものし》の仕事場に生まれ、八つから十五の年まで徒弟に出され、木《こ》っぱを積んだ手押し車に乗っかって場末を歩きまわったものでなけりゃあ、こういったことは充分にはわかるまいて。ああ、まったくの話、あの時代にはおれは革命をさんざん楽しんだと言っていい。長靴《ながぐつ》ほどの背丈《せたけ》もないごく小さいころから、パリに騒動が起こるやいなや、かならずそこにおれの姿もあったもんだよ。ほとんどいつもおれには騒ぎが起こらぬうちからわかっていた。労働者たちが腕を組んで大通りの歩道いっぱい占領して行進し、女どもが戸口で身ぶり手まねでべちゃべちゃしゃべり、あの大群衆が市門のほうからやって来るのを見ると、おれは木っぱを運びながら心に思ったもんだね。「しめしめ、何か起こるぞ……」
実際かならず起こったもんだ。夜|家《うち》に帰ると、店は人でいっぱいだ。おやじの友だちたちが仕事台のまわりで政治の話をしている、近所の人たちがおやじに新聞を持って来る。なぜなら当時は今のように一部一スーの新聞はなかったからね。新聞がほしいものは何人かで金を出し合って、一階から二階へ、三階へというふうにまわして行ったもんだ。おれのおやじはなんといっても始終働いていたが、鉋《かんな》をかけながらニュースを聞いておこっていた。当時いつも食卓につくたびにおふくろがきまっておれたちにこう言っていたのを思いだすよ。
「静かにしてるんだよ、子どもたち……。おとっつぁんは機嫌《きげん》がわるいからね、政治のことで」
そりゃあね、おれにはたいしたことはわかんなかったよ、そんな御大層《ごたいそう》なことなんか。それでも何度も聞いたおかげで頭にきざみこまれてしまったことばもあったよ。たとえば、「あのギゾの悪党め、ガンなんかへ行きやがって!」というような。
おればギゾってのがだれかも、ガンへ行くってことがどういうことかってこともよく知らなかった〔ギゾはフランスの政治家、歴史家。ナポレオンの百日天下のさいベルギーのガンに逃亡していたルイ十八世の後を追い、その後ルイ・フィリップ王朝没落まで内相、外相、首相を歴任〕。が、そんなことはどうだっていいやな、おれもほかの連中の尻馬《しりうま》に乗って言っていたよ。
「あのギゾの悪党……ギゾの悪党!……」とな。
それにおれはそのギゾさんを、オリヨン街のかどに立っていて木っぱの車のことでいつもおれに不愉快な目にあわせやがる大男のいけすかないお巡《まわ》りのことだと思っていたから、よけいいい気になって悪党呼ばわりしたもんだ……。この界隈《かいわい》ではだれもこいつを好いちゃいなかった、この赤毛の大男を! 犬だって子どもだってだれだってこいつのことを怨《うら》んでいた。ただ酒屋だけがときどき機嫌《きげん》を取ろうとして店の戸のすきまからそっと一杯さしだす。赤毛の大男は何食わぬ顔で近づき、上官がいないかと右左を見まわしてから、通りがかりにぐいとひっかける……。おれにはコップをこんなにすばやくからにすることはどうしたってできなかったね。おもしろいのは奴《やつ》が肘《ひじ》を上げているときを見すまして、うしろへ行って、
「気をつけろ、ポリ公!……警部だぞ」とどなることだった。
パリの民衆ってものはこうなのさ。何につけても損な目にあうのはお巡りだ。みんなが、かわいそうに、お巡りをにくみ、犬のように思うくせがついてしまっている。大臣がばかなことをしでかすと、その償《つぐな》いをさせられるのはお巡りだ。そしていったん本当の革命が起こると、大臣どもはヴェルサイユに逃げ出し、お巡りどもは運河に投げこまれる……
もとの話にもどるが、パリで何かあるとおれは最初にそれを知る連中の仲間だった。そういう日には界隈《かいわい》の小僧どもがみんな集まって場末町を下って行く。
「モンマルトル街だぞ……いや!……サン=ドニ門だ」とどなる連中もいる。
そちらのほうに用事に行っていた連中は、通ることができなかったので憤慨《ふんがい》してもどって来る。女どもはパン屋へ駈けつける。大門はとざされる。こうしたすべてがおれたちを昂奮《こうふん》させるんだ。みんなで歌をうたい、大風の日のようにいそいで商品や籠《かご》をかたづけている街頭の小商人《こあきんど》どもを浮き足立たせて進んで行く。ときには運河のところまで来ると水門の橋がもうしまっている。辻馬車や荷馬車がそこに止まっている。御者《ぎょしゃ》たちはののしり、人々は気が気でない。おれたちは当時場末町とタンプル街のあいだにあった、ずっと階段になっているあの大きな陸橋を駈け足で登って|環状大通り《ブゥルヴァール》に出る。
こいつがまたおもしろかったね、このブゥルヴァールが。カーニヴァルの最後の日や暴動の日と同じでね。車はほとんど通らない。あの広い車道を思う存分はねまわれるんだ。そしておれたちが通るのを見ると、その界隈《かいわい》の店屋《みせや》はどういうことになるか知っているから、あわてて店をしめたもんだ。鎧戸《よろいど》が音をたててしまるのが聞こえる。そのくせ、店をしめてしまうとこの連中は店頭の歩道にがんばっている。何しろパリっ子ってものは何よりも好奇心が強いからな。
とうとう黒いかたまりが見える、群衆だ、雑沓《ざっとう》だ。ここだったんだ!……ただよく見るためには最前列にいなくちゃならん。いやはや、どれほどぶんなぐられることか……。それでもぐんぐん押したり突いたり足のあいだをもぐったりしてようやく前に出る……いちばん前のいい場所をしめてしまうと息をついて自慢したもんだ。実際この見物《みもの》にはそれだけの価値があったからね。
いやさ、まったくボカージュだってメラングだって〔二人とも、当時人気のあった俳優〕、向こうの通りのはしのがらんとしたところへ署長が綬《じゅ》をつけて進み出るのを見るときのような心のときめきを味わわしてくれたことは一度もなかったからね……。みんなは、
「署長だ! 署長だ!」とさけぶ。
おれは何も言わなかった。恐怖で、快感で、何がなんだかわけのわからぬ気持ちでおれは歯を食いしばっていた。心のなかでおれは考えた。「署長が出て来やがったぞ……気をつけろ、今度は警棒だ……」
おれの心に焼きついたのは警棒を振りまわされることよりも、黒い上着に綬章をつけたあの奴《やっこ》さんと、軍帽や三角帽のまんなかでまるでよそ行きの感じのするあの大きなシルクハットだった。これがおれにはひどく印象的だったよ! 太鼓《たいこ》の連打が終わると署長は何かもぐもぐ言いはじめる。ずっと遠いところにいるから、あたりはひっそりしているにもかかわらず奴さんの声は宙に消えっちまって、ただ「ムニャムニャ」というふうに聞こえるんだ。
だがおれたちだって奴さんとおんなじぐらいよく知っていたよ、騒擾《そうじょう》取締令というものについては。三度解散勧告をおこなってからでなけりゃ警棒を振りまわしちゃいけねえんだ。だから第一回ではだれも動きはしない。みんな平然として立っている、両手をポケットに入れたまんまで……。さて、二度目の太鼓《たいこ》連打になるとそろそろ顔色が変わり出して、どこから逃げ出したものかと左右を見まわす……。三度目の太鼓となると、ダダダとまるで鷓鴣《しゃこ》の群れが飛び立つような騒ぎだ。さけび声、猫のなき声のようなあざけりの声、前掛けが、帽子が、鳥打帽が飛ぶ。そしてうしろのほうから警棒が振りおろされはじめる。いや、まったく、これほど人をわくわくさせることのできる芝居なんてあるもんじゃねえ。
一週間てものはこいつは話の種になるよ。それに、「おれは三回目の解散勧告を聞いたんだぜ!……」と言える奴《やつ》らはどんなに得意だったか。
この遊びではときには少々≪けが≫をする危険もあったことは言っておかなくちゃならない。まあ考えてもみな、ある日サン=トゥスターシュ教会の出っ鼻で、署長の奴がどんな計算をしやがったのか知らねえが、二度目の太鼓が鳴るが早いか警官隊が警棒を振り上げて突撃しやがった。もちろんおれは突っ立って奴らを待ってはいなかったよ。だが、いくらおれが小さな足で懸命に走っても、あのでっかい奴らのひとりがやっきになっておれを追いかけ追いつめやがった。とどのつまり、二、三度警棒が風を切るのを感じたあげく、とうとう頭のまんなかをがんとやられてしまった。いやはやすげえもんだったよ! あんなに目から火が出たことは一度もねえや……。顔を割られたまま家へ運ばれた。それで懲《こ》りたとお思いかね……いや、まったく、おふくろが湿布《しっぷ》をしてくれるたびにおれはいつもさけんだもんだよ。
「おいらがわるいんじゃねえ……あの署長の野郎がいんちきをしやがったんだ……。あんちきしょう、二回しか勧告をしなかったんだぞ!」
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初演の夜
作者の印象
開演は八時ということになっている。五分後に幕は上がるだろう。道具方、監督、小道具、みんな部署についている。第一場の役者たちは位置につき、姿勢を取っている。わたしは最後にもう一度幕の穴からのぞく。客席は満員だ。千五百人の頭が半円形の階段になってならび、光のなかで笑い、動いている。ぼんやりと見おぼえがあるような顔もいくつかあった。しかし彼らの人相はすっかり変わってしまっているようにわたしには見える。取りすました顔つき、尊大な、横柄《おうへい》なようす、早くもオペラグラスを上げてまるでピストルのようにわたしをねらっている。不安と期待で蒼ざめた親しい顔がいくつかすみのほうにいることはいる。が、冷淡な顔、悪意をふくんだ顔のほうがなんと多いことであろう! しかもこの人々が外から持ちこんで来たすべての不安や懸念《けねん》や猜疑《さいぎ》などの量……。これらを追い散らし、倦怠《けんたい》と悪意のこの雰囲気を貫いて、この何千人かの人々に共通の思想を与えねばならない、冷酷非情なこの人々の目をその生命によって燃えさせなければわたしの戯曲は生き得ないのだ……。もうすこし見合わせたい、幕が上がるのを止《と》めたいとわたしは思う。しかしだめだ! もう開幕合図に床が三度たたかれる、オーケストラは序奏をはじめる……。それから場内はしずまりかえる。ついで舞台裏から聞こえる、にぶい、遠い、広い客席のなかに呑《の》みこまれてしまう声。わたしの芝居がはじまったのだ。ああ、こまったな、おれはなんということをしでかしたんだろう?……
おそろしい瞬間だ。身の置きどころもなく、どうなることかもわからない。舞台道具の支《ささ》え框《かまち》によりかかって胸をしめつけられる思いで耳をすましているのか、自分自身が大いにはげましてもらわねばならぬというのに役者たちをはげますのか、わけもわからぬことをしゃべっているのか、とりとめのない想念に目を血迷わせながら微笑するのか……まっぴらだ! 客席にしのびこんで危険と面と向かい合うほうがまだましだ。
一階|桟敷《さじき》に身をひそめてわたしは超然とした冷淡な観客のポーズを取ろうとしてみる。二か月にもわたってこの舞台のほこりがわたしの作品のまわりに舞っているのを見なかったとでもいうように、これらすべてのしぐさ、これらすべてのせりふ、ドアの仕組からガスの上げ方にいたるまで、この演出のすべての細部をとりきめたのがわたしではないかのように。これは奇妙な感じだ。聞こうとするが、聞くことはできない。何につけてもそわそわし、おちつかない。桟敷《さじき》の鍵《かぎ》を乱暴に動かす音、椅子《いす》を動かす音、だれかが咳込《せきこ》むとそれにはげまされて起こったり呼応したりする咳込み、扇《おうぎ》のばたばたする音、衣《きぬ》ずれ、無数の小さな音がとほうもなく大きく聞こえる。それから敵意のある身ぶりや態度、不満足そうな人々の背のかっこう、退屈そうに伸ばした肘《ひじ》、そういったものが舞台全体を消してしまうように見える。
わたしの前で鼻めがねをかけたごく若い男がむずかしい顔でノートを取り、
「幼稚だね」と言う。
横の桟敷では低い声で話をしている。
「あすだってことをごぞんじですか?」
「あすですって?」
「ええ、あすですよ、まちがいなく」
この連中にはあすがひじょうに重大らしい、ところがこのわたしにはきょうのことしか念頭にないのだ!……わたしの書いたことばは一つとしてこういう混乱のなかを飛んで的《まと》を射ることはできない。役者の声は盛り上がって場内を満たすかわりに、フットライトの線で停止して、≪さくら≫がやけに騒々しく拍手するなかでプロンプターの穴へぶざまに落ちこんでしまう……。いったい何を怒っているのだろう、あっちの紳士は? たしかにわたしはこわいのだ。わたしは立ち去る。
外へ出た。雨が降っていて暗い。が、わたしはほとんどそんなことに気がつかない。桟敷や一般席はそこにならんだテカテカ光る頭とともにまだわたしの前にまわっている。そしてその中央の舞台はぎらぎらする動かぬ一点のように見えるが、わたしが歩いて行くにつれてそれもだんだん暗くなって行く。いくら歩いても、元気をふるいおこしても、それは、その呪《のろ》わしい舞台は依然として目から離れず、≪そら≫でおぼえてしまっている芝居はわたしの頭脳の底で演じられつづけ、無気味《ぶきみ》にだらだらとつづいて行く。まるでわるい夢を運んで行くみたいで、ぶつかる人や街路の混雑や騒音をもわたしはこの悪夢といっしょにしてしまうのだ。大通りのかどで笛の音がしてわたしはたちどまり、顔色を変えた。ばかな! それは乗合馬車の停留所だった……。こうしてわたしは歩く、雨は降りつのる。劇場でもわたしの劇の上に雨が降り、何もかもばらばらになり、水びたしになり、そしてわたしの作品のヒーローたちも恥じ濡れそぼちながらガス燈と水にかがやく歩道の上をわたしのあとからばちゃばちゃ歩いて来るような気がする。
こんな暗い想念を一掃しようとしてわたしはカフェにはいる。何か読もうとしてみるが、文字は入り乱れ、踊り、伸び、渦をまく。語の意味がもうわからない。すべて奇妙な、無意味なものに見えるのだ。数年前ひどい時化《しけ》の日の船上でした読書を思いだす。水だらけの船室にちぢこまっていたわたしは、そこで英語の文法書を見つけた。そして波が騒ぎマストがもぎとられて行くなかでわたしは危険を考えまいとして、甲板の上にざあっとなだれこんで来る大波を見まいとして、一心不乱に英語の≪th≫について研究してみようとしたものだ。しかしいくら大きな声で読んでも、単語をくりかえしさけんでみても、怒涛《どとう》の叫喚《きょうかん》と帆桁《ほげた》の上部の北風の鋭いうなり声でいっぱいになったわたしの頭のなかには何もはいらなかったものだ。
今手に持っている新聞もその英文法書と同じくらいわけのわからぬものに思える。けれども、前にひろげたこの大きな紙面をじっとみつめていると、短い詰まった行のあいだにあすの記事が浮きだし、わたしのあわれな名が茨《いばら》の藪《やぶ》や辛辣《しんらつ》なインキの流れのなかにもがいているのが見えるような気がする……。突然ガス燈の火が暗くなり、カフェはしまる。
もう?
いったい何時だろう?
……ブゥルヴァールは人でいっぱいだ。劇場から出て来るのだ。きっとわたしは、わたしの芝居を見た人々とすれちがっているだろう。たずねてみたい、知りたいとは思いながらも、声高《こわだか》な感想や道のまんなかでの劇評を聞くまいとしていそいで通り過ぎる。ああ、この連中はどれほど幸福だろう、自分の家に帰る、芝居など書かないこの連中は……。気がつくと劇場の前だ。すっかりとざされ、あかりも消えている。もちろん今夜は何もわからないだろう。しかしわたしは、濡れたポスターや入り口にまだまたたいている三角形の燈火台の前で言い知れない悲しみを感じる。つい今しがたブゥルヴァールのこのあたり一帯に音と光をたたえてのさばっていたこの大建築物が、今は音もなく暗く人気《ひとけ》なく、火事のあとのように濡れそぼっているのだ……。さあ、終わった! 六か月の仕事、夢、疲れ、希望、それらすべては一夜のガス燈の炎《ほのお》のなかに燃え失《う》せ、飛び散ってしまったのだ。
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チーズ入りスープ
六階の小さな部屋だ。雨が天窓のガラスにまっすぐに降り注ぎ、そして――今のように夜になると――闇《やみ》と突風のなかに屋根といっしょに呑《の》みこまれてしまうように見えるあの屋根裏部屋の一つだ。それでも部屋はちゃんとしていて居心地《いごこち》がよく、なかにはいると何かしら安楽な感じがし、風の音と樋《とい》を走る雨水の流れでこの感じはいっそう強められる。まるで大木のてっぺんのあたたかい巣にいるような気持ちだ。今はこの巣はからである。部屋の主人はいない。しかしもうじき帰って来そうな感じで、部屋のなかのすべては彼を待っているように見える。よくおこった灰でおおわれた火の上で、小さな鍋《なべ》が満足そうにつぶやきながら静かに煮《に》えている。鍋《なべ》というものにとっては今の時刻は少々おそすぎるらしい。だからこの鍋も炎にあぶられてその横腹が焦げているところから見ると、鍋としての仕事にすっかりなれてしまっているらしいにもかかわらず、ときどき辛抱《しんぼう》しきれなくなり、湯気にゆられて蓋《ふた》が持ち上がる。するといかにもおいしそうな熱気が噴き上がって部屋じゅうにひろがる。
おお、チーズ入りスープのいい匂《にお》い……
ときどき火をおおう灰がすこし落ちる。灰は薪《まき》のあいだにくずれ、小さな炎が床の上を走り、室内を下から照らす、まるで視察し、すべてがきちんとしていることをたしかめようとするかのように。いや、ほんとに、何もかもきちんとしている。主人がいつ帰って来てもだいじょうぶだ。窓の前のアルジェリア織りのカーテンは引かれ、ベッドのまわりではこころよい襞《ひだ》を作っている。向こうの大型|肘掛《ひじか》け椅子《いす》はマントルピースのそばにふんぞりかえっている。片すみのテーブルはすっかり支度《したく》がととのっていて、いつでも火をつけられるようにしたランプ、ひとり分の食器、そして食器の横にはひとりでする食事の伴侶《はんりょ》である本が置いてある……。そして鍋は火で焦げ、皿《さら》の花模様は水に洗われて色あせていると同じく、この本も縁《ふち》に皺《しわ》がよっている。こうしたすべてには、何か心のこもった、少々くたびれたようなようす、なじんだようすがある。部屋の主人が毎夜ずっとおそくなって帰宅すること、このささやかな夜食がとろとろと煮えながら自分の帰るまで部屋にいい匂いとあたたかさを保っていてくれるのを好んでいることがこれでわかる。
おお、チーズ入りスープのいい匂い……
このひとり者の住まいの清潔さを見ると、これはどうも勤め人だとわたしは思う。自分の生活のすべてに執務時間の几帳面《きちょうめん》さとラベルを張った整理箱の秩序を取りこんでいる、あの細心な人々のひとりらしい。こんなにおそく帰るからには郵便局か電信局で夜勤をしているに相違ない。格子《こうし》の向こうで甲斐絹《かいきぬ》の袖《そで》カヴァーをつけ、ビロードの円帽をかぶり、手紙を仕分け、消印をおし、電報の青いテープを繰《く》り、眠ったり遊んだりしているパリの人々のためにあすの仕事の準備をしてやっているその姿が目にうかぶ。ところが、ちがう、そうではなかったのだ。部屋のなかをさぐりながら、暖炉《だんろ》からもれるかすかな光は壁にかけた大きな写真を照らしだした。たちまち闇《やみ》のなかからオーギュスト皇帝、マホメット、ローマの騎士にしてアルメニア総督なるフェリクス、冠《かんむり》や兜《かぶと》や法皇冠やターバンが、金の額縁《がくぶち》にはめられものものしい衣装の襞《ひだ》に包まれてあらわれる。そしてこれらさまざまのかぶり物の下に、いつも同じ首筋を伸ばしたおごそかな顔、この家の主の顔があらわれる。香《かお》り高いこのスープがあつい灰の上で静かに煮えているのはこの幸福な高貴のかたのためなのだ……
おお、チーズ入りスープのいい匂《にお》い……
たしかにそうだ! これは郵便局員ではない。皇帝、世界の支配者、開演中は毎夜オデオン座の円天井をゆるがせ、「衛士ども、きゃつを取り押えよ!」とさけびさえすればただちにその命令の実行される、あの全能の人間のひとりなのだ。今彼は河向こうの彼の宮殿にいるのだ。足には半長靴《はんながぐつ》をはき、肩にはマントをかけて彼は柱廊をさまよい、朗々と弁じ、眉《まゆ》をひそめ、悲劇の長せりふを言いながらいかにもうんざりしたという顔をして見せる。実際まばらな観客を前にして芝居をするということはまことに憂鬱《ゆううつ》なことなのだ! しかもオデオン座の観客席は、悲劇の演じられる夜はいやにだだっぴろく冷え冷えとしているのだ!……緋《ひ》の衣《ころも》の下で少々こごえてしまった皇帝は突然からだじゅうに熱いものが流れるのを感じる。彼の目はかがやき、鼻の穴は開く……。家に帰れば部屋はまだあたたかく、食器もランプもととのい、舞台上の少々乱れた行状の埋め合わせを私生活でつける役者たちのあの市民的な丹念さできちんと整頓されたささやかな「ホーム」があるのだと彼は思う……。自分が鍋《なべ》の蓋《ふた》を取り、花模様の皿《さら》によそうところを思いえがく……
おお、チーズ入りスープのいい匂《にお》い……
このときからもう彼は別人のようになる。マントのまっすぐな折り目も大理石の階段も柱廊の固さも、もういっこうに苦にならない。彼は活気をおび、ずんずんと演技を進めて行く。考えてもみたまえ、もしうちで火が消えようとしていたら……。夜がふけるにつれてあの幻影《げんえい》は近づいて来て彼を元気づける。なんたる不思議! オデオン座の氷がとける。前のほうの席の古い常連たちは朦朧《もうろう》状態から呼びさまされ、このマランクールというやつはすばらしい、特に最後のほうの場面では、と思う。実は大団円の、うらぎり者が刺し殺され王女たちが結婚させられる大詰めで、皇帝の相貌《そうぼう》は異様な幸福感、異様な平静さを示すのだ。かくも多くの感動と長せりふのため腹ぺこになった彼は、自分が家に帰って小さな食卓の前にすわっているような気がし、その目はやさしいいつくしみの微笑をもってシンナからマクシムへ移る、まるでチーズ入りスープがほどよく煮えて皿《さら》につがれるとき、匙《さじ》のはしからきれいな白い糸が引いているのを見ているかのように……
〔(訳者註)ここに出てくるオーギュスト以下マクシムにいたる人名は、おおむねコルネイユの悲劇の登場人物である〕
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最後の本
「なくなりましたよ!……」とだれかが階段でわたしに言った。
もう何日も前からわたしはこれが来るのを感じていた、この凶報《きょうほう》が。いずれかならずこの戸口で凶報にぶつかるだろうとはわかっていた。それでもこの知らせは思いがけぬことのようにわたしを驚かした。胸がふさがり、くちびるをふるわせながら、わたしはこのつつましい文士の住まいにはいった。書斎がいちばん場所を取っており、勉強というものがすべてに優先して、家のすべての安楽、すべての明るさを独占している住まいだ。
彼はごく低い小さな鉄の寝台の上に横たわっており、紙でいっぱいの机、ページの途中で中絶している彼の大きな筆跡、インキ壺《つぼ》のなかに立ったままのペンが、死がどれほど不意に彼をおそったかを語っていた。寝台のうしろには原稿や反故《ほご》のはみだした背の高い槲材《かしざい》の戸棚《とだな》が、ほとんど彼の頭上でなかば開いていた。まわりは本だらけ、本のほかに何もない、まったく何もないのである。棚にも椅子《いす》にもデスクにも、いたるところに本はある。四すみの床に、寝台の裾《すそ》までにも積みかさなっている。ここで机の前にすわって書いているときには、この乱雑さ、ほこりは積もっていないこのごった返しは彼の目にはこころよく映ったかもしれない。そこには生命が、仕事の張りが感じられた。しかしこの死者の部屋では、これは陰惨《いんさん》だった。積んだままくずれかかったこれらすべてのあわれな本は、今にも散佚《さんいつ》して行き、売り立てられ、河岸や露店にならべられ、風やひやかし客にページをめくられて散乱しながら偶然というあの大きな図書館のなかに呑《の》みこまれて行こうとしているかに見えた。
わたしは寝台の上の彼に接吻《せっぷん》すると、石のようにひややかで重い額《ひたい》の感触にぞっとしながらそこに立って彼をながめていた。不意に扉があいた。本屋の番頭が荷物をかかえて息を切らせながら快活にはいって来て、刷り上がったばかりの本の包みを机の上に押し出した。
「バシュランからで」
それから寝台を見てあとずさり、鳥打帽をぬぎ、静かに引き取った。
一か月も遅れていて、病人があれほど首を長くして待ち、死んでから受け取ることになったこのバシュラン書店の届け物には、何かおそろしく皮肉なものがあった……。かわいそうに! これは彼の最後の本、彼が最も期待していた本だったのだ。すでに熱でふるえていた彼の手はどれほど綿密にその≪ゲラ≫を校正したことか! 最初の一部を手にすることをどんなにいそいでいたことか! 最後のころは、もう口がきけなくても彼の目は戸口に注がれていた。そしてもし印刷工、校正者、製本工など、ひとりの人間の作品のために働くこの人々がこの不安と期待の視線を見ることができたとすれば、彼らの手は早く働き、文字は早く刷られ、ページは本にとじられて、間にあうように、つまり一日早く仕上がったろう。そして、すでに自分のうちから逃《のが》れようとし、霞《かす》もうとしているのが感じられる自分の思想が、新しい本の香りと鮮明な活字のなかに装いを新たにしてあらわれるのを見るというよろこびを、臨終《りんじゅう》の彼にあたえたことであろう。
たとい元気に生きているとしても、実際ここには作家にとってけっしてなずんでしまうことのない幸福があるのだ。自分の作品の最初の一部をあけてみること、自分の作品を頭脳のはげしい沸騰《ふっとう》のなか――そこでは作品はいつも少々ぼんやりしている――で見るのではなく、浮き彫《ぼ》りのようにはっきり定着したものとして見ること、これはなんという恍惚《こうこつ》とした感じだろう! ごく若い人ならば目がくらんでしまう。顔いっぱいに日の光をあびているかのように文字は青や黄の色に変わって伸びてきらめく。それからこの創作者のよろこびにはいくらかの悲しみが、自分の言いたかったすべてを言っていないという憾《うら》みがまじる。心のうちにいだいていた作品は常に、実際に作ったものよりもりっぱに見える。頭から手へ移るまでに実にさまざまのものが失われるのだ! 深い夢のなかで見ると、本のアイディアはただよう陰影のように海中を行く地中海のあの美しい水母《くらげ》たちに似ている。砂の上に置けばそれはわずかばかりの水、風がたちまち乾かしてしまう無色の水滴のいくつかにすぎないのだ。
ああ、このよろこびもこの幻滅《げんめつ》も、この気の毒な男は自分の最後の作品から味わわなかったのだ。まくらの上で眠っているこの生気のない重い頭、そしてその横の、もうじきショーウィンドーにあらわれ、町の騒音や日中の生活活動のなかにはいって行くことになる真新しいこの本を見るのはやりきれなかった。町行く人は機械的にその本の表題を読み、著者の名といっしょにそれを記憶のなかに、目の奥にとどめて行くだろう。区役所のあの陰気な帳簿《ちょうぼ》の上に記されているのと同じその名が、明るい色の表紙の上にはまことに快活に、陽気に見えるのだ。魂と肉体の問題のすべてがここにあるように思える、これから埋められ、忘れられようとしているこの硬直した肉体と、目に見える、生きた、そしておそらく不滅である魂のようにその肉体からぬけだしたこの本とのあいだに……
「一冊くれると約束してくださったんですが……」と、わたしのすぐそばであわれっぽい声がごく低く言った。
わたしはふりかえった。そして金縁《きんぶち》のめがねの下の、わたしも、そして文筆を業とする友人諸君、諸君もよく知っている、鋭敏《えいびん》な穿鑿好《せんさくず》きな小さな目をみとめた。愛書家だった。諸君の本の広告が出るやいなややって来て、いかにも彼にふさわしくおずおずと、だが執拗《しつよう》にそっと戸を二度たたく奴だった。背をかがめて笑顔《えがお》ではいって来て、諸君のまわりをうろちょろし、「親愛な先生」と諸君を呼び、諸君のいちばん新しい本を持たずには立ち去らない。最新作しか狙《ねら》わないのだ! ほかのは全部持っている、それだけが欠けているというのだ。ことわり方は? こいつは実にうまいときにやって来る。さきほど述べたようなあのよろこびのさなかに、発送したり献辞《けんじ》を書いたりでばたばたしているところへやって来るのだ。ああ、取りつくしまのない扉も、ひややかなあしらいも、風も雨も道の遠さも、何ものも意としないおそるべき小男。朝はラ・ポンプ街《がい》でパッシーの大長老〔ヴィクトール・ユゴーのこと〕の家の裏門をそっとたたいているのを見かける。夜はサルドゥー〔劇作家〕の新作を小脇にかかえてマルリから帰って来る。こういう調子で、いつも歩きまわりいつもさがしまわりながら、何もせずに生活を満たし、金を払わずに書庫を満たしているのだ。
もちろん、この死の床まで推参《すいさん》するところを見ると、この男の本道楽もよっぽどはげしいに相違ない。
「さあ、持って行きなさい、あなたの分を」とわたしはこらえきれずに言った。
彼は本を、取ったなどというものではない、がつがつと嚥《の》みこんだようなものだ。そうして自分のポケットの底深く本がおさまってしまうと、動きもせずしゃべりもせず、首をかしげて感無量といった面《おも》もちでめがねをふきながら立っている。何を待っているのだ? 何が彼を引きとめているのだ? おそらく少々恥ずかしいのだろう、ただそれだけのために来たかのようにこのまますぐ出て行ってしまうのでは体裁《ていさい》がわるかったのだろう。
ところが、そうじゃないのだ!
机の上に半分包み紙を取った幾冊かの特製本を彼は見たのだった。束《つか》があって、縁《ふち》を截《た》ち落としてない、天地が大きくあいた、花模様があって章末にカットのついている特製本だ……。それを横目でにらんでいやがった、いやな野郎!
けれども観察マニアというものはこういうものなのだ! わたし自身も悲しみから心をそらされるままに、死者の枕頭《ちんとう》で演じられるこのなさけない小さな喜劇を涙ごしに見守っていたのだ。静かに、しかし目にとまらぬほど小刻みに、愛書家は机に近づいた。彼の手は偶然のようにそれらの本の一つに置かれた。それをひっくりかえし、あけて見、紙をなでた。目がかがやきだすにつれて血が彼の頬《ほお》に上がって来た。本の魔力が彼の上に働いていた。とうとうもはや抗しきれずに、彼はその一冊を取った。
「これはサント=ブーヴ〔十九世紀最大のフランスの文芸批評家〕先生に持って行きます」と彼は小声でわたしに言った。
そして熱っぽい思いと惑乱《わくらん》と取り上げられないかという不安から、おそらくはまた実際サント=ブーヴ氏に持って行くためだとわたしに思いこませようという気持ちもあって、なんとも言えないまじめくさった口調でごくおもおもしく彼はつけくわえたものだ。
「アカデミー・フランセーズの……」
そうして彼は姿を消した。
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売家
門の――ずっと離れている小庭の砂と街道《かいどう》の土とが混じるのをさまたげられないほど締まりのわるい木の門の――上に、夏の日ざしのなかではじっと動かず、秋の風にはいためられ振りまわされながら、「売家」という札《ふだ》がかかっている。それは売家というだけではなく、見捨てられた家でもあるように見えた。あたりはそれほどひっそりしていた。
それでもだれかが住んでいる。青みがかった細い煙が壁よりちょっと高い煉瓦《れんが》の煙突から昇り、この貧家の竈《かまど》の煙のようにつつましく陰気なかくれた生活がいとなまれていることを示している。それにまた、がたがたする門の板のあいだからは、投げやりさや空虚さや、売却とか(立退《たちの》立退《たちの》きを予告するあのざわざわした感じは見られず、きちんとした通路、丸く仕上げた青葉|棚《だな》、泉水のそばに置いた如露《じょろ》、小屋に立てかけた園芸用具が見えるのだった。ただの百姓家にすぎず、この傾斜した庭の上に小さな階段のおかげで安定して立ち、二階は北に面し、階下は南に面している。この南のほうは温室らしかった。段々の上には鐘形のガラスの蔽《おお》いや、からの植木|鉢《ばち》がひっくりかえっており、また他のジェラニウムやヴェルヴェーヌの植わった植木鉢はあたたかい白い砂の上にならんでいる。そのうえ、二、三本のプラタナスの大木があるほかは、庭は一面に日の光を受けている。針金で扇形《せんけい》に作った、あるいは垣にした果樹がいっぱい光を受けている。葉は少々すくないが、それはもっぱら果実を育てるためだ。苺《いちご》の苗《なえ》や大きな支柱にからまった豌豆《えんどう》もある。そしてそれらすべてにとりかこまれて、この秩序と静けさのなかに、藁帽子《わらぼうし》をかぶったひとりの老人が一日じゅう通路を歩きまわり、涼しい時刻に水をやったり葉を切ったり枝や端《はし》を刈ったりしていた。
この老人はだれひとりこの土地の人とつきあいがない。村でただ一本の通りの門口ごとに止まるパン屋の車をのぞいて、彼の家をおとずれるものは全然なかった。ときどき、どれもこれもひじょうに土地が肥えていてすばらしい果樹園となっている山腹の地所の一つを求める通りがかりの人が、札《ふだ》を見てたちどまって鈴を鳴らす。はじめは家はひっそりしている。二度目の鈴の音で庭の奥から木靴《きぐつ》の音がゆっくり近づいて来、老人が立腹《りっぷく》のていで門をちょっとあける。
「なんのご用で?」
「この家を売るのですか?」
「ええ」とじいさんは無理をして言う。「ええ……売ります。しかしおことわりしますが、高いんですよ……」
そうしてすぐにも閉められるように手は門にかかっている。その目を見ただけでおとずれたものは逃げ出してしまう。それほど怒気を示しているのだ。しかも彼はそこに立ちはだかって、自分の菜園と砂まじりの小さな中庭を龍《りゅう》のように守っているのだ。
で、通行人たちは道を行きながら、なんという偏屈者だろう、あれほど手放したくないと思っている家を売りに出すあの気ちがいざたはどういうわけだろうと考えるのだった。
この謎《なぞ》はわたしには解き明かされた。ある日その小さな家の前を通ったとき、激《げき》した声、議論の声が聞こえたのである。
「売らなければなりません、パパ、売らなければ……約束なさったじゃありませんか……」
そしてひどくふるえる老人の声。
「しかし、子どもたち、わしだって売るに越したことはないと思っているんだよ……、ほんとにさ! わしがあの札《ふだ》を出したんだから」
こうしてわたしは、お気に入りのこの土地をいや応なしに手放させようとしているのは、パリに小さな店を持っている彼のむすこや嫁たちだということを知ったのだ。どういうわけでか? それはわからない。確実なことは、彼らがあまり事が長びきすぎると思いはじめ、この日から日曜日ごとにかならずやって来て不幸な老人をやいやい責めたて、何がなんでも約束を守らせようとしたことだ。土地すらも一週間たがやされ種をまかれて来た苦労から休息する、日曜のこの森閑《しんかん》とした静けさのなかでは、道路からでもそれはわたしの耳にはっきりと聞こえた。商人たちは投げ板遊びをしながらしゃべったり議論したりしたが、「お金」ということばはそれらのつんけんした声のなかで投げる板のようにそっけなくひびいた。夕方になると皆引きあげた。そしておやじさんは彼らを送って通りをすこし行ってから、いそいで帰って来て、これでまた一週間息がつけるぞと思ってすっかり満悦しながら大きな門をしめるのだった。一週間のあいだ家はひっそりしていた。日に灼《や》きつけられた小庭からは砂を踏む重い足音や熊手《くまで》で砂を掻《か》く音のほか何も聞こえなかった。
けれども週を追って老人はますますせきたてられ責めたてられた。小商人たちはありとあらゆる手段を用いた。気をひこうとして孫を連れて来る。
「ねえ、おじいさん、家が売れたらわたしたちのところへ来て暮らすんですよ。みんないっしょにいたらどんなに幸福でしょう……」
そしてそこらじゅうでひそひそ話がかわされる、通路を縫って果てしもなく歩きまわる、声に出して勘定をする。一度わたしには娘のひとりがこうさけぶのが聞こえた。
「こんなバラックなんぞ百スーにもなりゃしないわ……、取りこわすほかはないわよ」
老人は何も言わずに聞いていた。彼のことはまるで死んだ人のように、家のことはすでに取りこわされたもののように人々は話していた。習慣的に切り落とすべき枝や手を加えるべき果実がないかとさがしながら、背中を丸め目に涙をうかべて老人は歩いていた。彼の生活はこの小さな地所にしっかり根を張っていて、ここから遠ざかる気力はとても彼にはないことが感じられた。事実、人が彼に何を言おうと彼はいつもそこを去る日を先にのばしていた。夏、桜んぼやスグリや黒スグリといった、その年のできのわるさを感じさせる少々すっぱい果実が熟《う》れると、「収穫まで待とう……。そのあとですぐ売るんだ」と彼は自分に言った。
しかし収穫が終わり、桜んぼの時期が過ぎると、桃の、次いでぶどうの番が来た。そしてぶどうのあとには、ほとんど雪のなかで摘《つ》み取るあの美しい褐色の花梨《かりん》だ。それから冬になった。田園は黒く、庭園はがらんとしていた。もう通りかかる人もいない、買い手もいない。日曜のあの小商人たちすら来ない。たっぷり三か月の安息を取って、播種《はしゅ》の準備をし、果樹を刈《か》りこむあいだ、役にたたないあの札《ふだ》は風雨にひるがえりながら道路の上でゆれていた。
しまいに、老人があらゆる手を使って買い手を遠ざけているのだと思いこみ、がまんできなくなった子どもたちは一大決心をした。嫁のひとりが彼のところに乗り込んで来たのだ。朝からお化粧《けしょう》をし、あのとっつきのいい、うわべだけやさしそうなようす、商売慣れた人間特有の、あの追従的《ついしょうてき》な愛想のよさをもった小商人の細君だ。道はまるで彼女のものみたいだった。門を大きくあけ、大声でしゃべり、「おはいりなさい……、見てください……、この家は売物ですよ!」と言おうとするかのように通行人にほほえみかける。
気の毒な老人にはもう心のやすまる時はない。ときどき彼女がいるのを忘れようとして畑をたがやし、新しく種をまく、不安をまぎらすために計画をたてることを好む死期の迫った人々のように。しょっちゅう小商人の細君は彼についてまわり、責めたてる。
「つまらない、そんなことしてなんになるのよ?……それじゃあ他人のためにそんな苦労をするんですか?」
老人は彼女に答えず、奇妙な頑《かたく》なさで自分の仕事に熱中する。
自分の庭を捨ててかえりみないことは、すでにいくらかその庭を失うこと、庭から離れはじめることだったのだろう。だから通路には草一つなく、ばらの木にはむだ枝一つなかった。
そうしているあいだも買い手はあらわれなかった。ちょうど戦時で、女がいくら門をあけておいても道のほうへやさしい目つきをしてみても、通るものは引っ越し荷物ばかりだし、はいるものはほこりばかりだった。日に日にこの奥方は気むずかしくなった。パリでの商売には彼女が必要だ。彼女が舅《しゅうと》をさんざん非難し、ほんもののけんかをふっかけ、戸をどんどんたたくのが聞こえた。老人は何も言わずに背を丸め、グリーンピースが伸び、売家の札《ふだ》があいかわらず同じ場所にかかっているのをながめて心をなぐさめていた。
……今年もいなかに来てみると、たしかに家はまだあった。が、ああ、札はもうなかった。張り紙はやぶれ、かびにおおわれながらまだ壁にぶらさがっていた。終わったのだ。家は売られたのである! ねずみ色の大きな門のかわりに、丸い屋根のある緑色に塗ったばかりの小さな門が、庭を見通せる小さな格子戸《こうしど》で開くようになっている。もはや昔の果樹園ではなく、円形花壇と芝生《しばふ》と滝《たき》の俗っぽい寄せ集めで、そのすべてが正面の石段の前にぶらぶらしている大きな金属の球に映っている。この球に映った庭の通路はけばけばしい花の列となり、二つの顔が拡大されて横にひろがっている。庭椅子《にわいす》に身を沈めた汗《あせ》みどろの赤い顔の太った男、如露《じょろ》をふりまわしながら息を切らしてこうさけんでいるばかでかい図体《ずうたい》のご婦人。
「鳳仙花《ほうせんか》に十四杯もかけてやりましたよ!」
一階建て増しし、生垣《いけがき》は植え替え、まだペンキの匂いのするあの模様替えをした片すみでは、ピアノがよく知られたカドリーユや踊り場でするポルカを騒々しくかなでている。道路まで聞こえて来て七月のひどいほこりとまじって暑さを感じさせるこうしたダンス曲、濃厚な花や太ったご婦人がたのこの騒々しさ、あふれるような野卑《やひ》なこの陽気さはわたしの心をしめつけた。あんなに幸福そうに物静かにあそこを歩きまわっていた気の毒な老人をわたしは思った。そして彼がパリであの藁帽子《わらぼうし》をかぶり、年取った庭師らしい肩を見せてどこかの店の裏を退屈そうにおずおずと涙をうかべながら歩きまわり、一方嫁があの小さな家を売って得た金貨の音のする新しいカウンターでいい気になっているところをわたしは想像した。
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クリスマス小話
マレー区のクリスマス・イブ
マレー区のゼルツ水製造業者マジェステ氏はプラース・ロワイヤルの友人の家でささやかなクリスマス・イヴのパーティに出て、鼻歌をうたいながら家路についた……。聖ポール寺院で二時が鳴った。「なんておそいんだ!」と言って彼は足をはやめた。しかし鋪石《ほせき》はすべる、通りは暗い。そのうえ、車というものがめずらしかった時代に作られたこの界隈《かいわい》には、まがった道や角《かど》や馬に乗った人のために設けた門前の馬つなぎ柱が多い。そういったもののために速く歩けない。クリスマス・パーティーの祝盃ですでに足が少々重くなり、目がかすんでいればなおさらである……。とうとうマジェステ氏は自分の家にたどりついた。彼は飾りのついた大門の前にたちどまった。そこには彼が自分の商標にして塗りなおした古い紋章の金塗りの新しい楯《たて》が月の光にかがやいている。
ネモン旧宅
ゼルツ水製造業
マジェステ(弟)
工場のあらゆるサイフォン、明細書、手紙の頭に、ネモン家の紋章がこのように麗々《れいれい》しく書かれて光っているのだ。
大門を通り抜けると中庭だ。風通しのいい明るい広い中庭で、昼間門が開かれると通りいっぱいがこれのために明るくなる。庭の奥はひじょうに古めかしい大きな建物だ。縁取《ふちど》りや模様のある黒い壁、屋根のついたひじょうに高い大きな窓、屋根のなかの小さな屋根のように最上階までとどいている柱頭、そして最後に、棟《むね》の上のスレートのまんなかに、丸く小意気な、鏡のように花飾りにかこまれた屋根裏部屋の明り取り窓。さらに雨にさらされて緑色になった大きな石階、壁にからみついた痩《や》せたぶどうの木。この木は納屋《なや》の滑車《かっしゃ》にかかってぶらぶらしている縄《なわ》と同じくらい黒くねじれている。何かひどく古びた、うらぶれた感じだ……。これがネモン家の旧邸なのである。
真っ昼間は屋敷はこういう景観を呈していない。「帳場」、「倉庫」、「工場入口」ということばが壁のいたるところに金文字できらめき、壁に生気を与え、若がえらせている。鉄の軌道を走る貨車が玄関をゆるがす。事務員たちがペンを耳にはさんで石の階段に出て商品を受け取る。中庭は箱や籠《かご》や藁《わら》や包装用の麻布で足の踏み場もない。ほんとに工場のなからしい……。しかし夜になり、深い静寂《せいじゃく》がおとずれ、雑然とつらなる屋根屋根のあいだに入り乱れた影を落とす冬の月光がさして来ると、昔のネモン邸は領主邸らしいおもむきをとりもどす。バルコンはレースに包まれ、玄関前の庭はひろがり、明暗の入り組んだ深い階段は縁《ふち》のない龕《がん》があったり踏段が欠けて祭壇みたいになっていたりするために、大聖堂にあるような暗がりや隅《すみ》が見えて来る。
とりわけこの夜は、マジェステ氏は自分の家に妙に壮大なおもむきをみとめた。人気《ひとけ》のない中庭を横切るとき自分の足音に驚かされた。階段は巨大に思え、何よりとても昇りにくく感じられた。たぶんクリスマス・パーティーのごちそうのせいだろう……。二階まで来ると彼は立ち止まって息をつき、一つの窓に近づいた。由緒《ゆいしょ》ある家に住むということはこういうことか! マジェステ氏は詩人ではない、いやいや、けっしてそんなものじゃない! それでいて、月が青い光の織物をのべているこの美しい貴族的な中庭や、雪の頭巾《ずきん》をかぶってかじかんだ屋根をいただいて、いかにも眠っているように見えるこの大貴族の古い住まいをながめていると、彼にも別の世界のことがしのばれて来た。
「え、なんだって?……それにしてもネモン家の連中が帰って来たとすれば……」
ちょうどこのとき鈴が大きく鳴った。大門は両側へさっと開かれた。あまり急に開かれたので街燈《がいとう》の火が消えてしまったほどだった。それから数分間、門のくらがりのなかで何かざわざわする音とささやきの声がした。言い争い、いそいで中にはいろうとしているのだ。侍僕《じぼく》どもが来る、大勢の侍僕。月光にきらきら光るガラス張りの豪華な馬車、大門から通《かよ》う風であおられる松明《たいまつ》と松明のあいだでゆれている輿《こし》。たちまちのうちに中庭は雑沓《ざっとう》する。だが石階の下では混乱はおさまった。人々は馬車から降り、会釈《えしゃく》しあい、この家のことをよく知っているかのようにおしゃべりしながらはいって来る。その石階の上では絹のすれる音、剣の触れる音。髪粉《かみこ》で重くし艶《つや》をなくした白い髪《かみ》ばかり。ちょっとふるえ気味の澄んだ低い声、ひびきのない笑い声、軽い足音ばかり。これらの人々はすべてとてもとても年寄りのように見える。光のない目、ものうげな宝石、刺繍《ししゅう》のついた古い絹は松明《たいまつ》の光を受けて静かに光りながら色合いを変えてしっとりと見える。そしてそれらすべての上に、カールに巻いて積み上げた髪から、剣や大きなパニエのために少々気取った感じの、しゃれたおじぎをするたびに立ち昇る髪粉の小さな雲がただよっている……。やがて家全体が幽霊屋敷の観を呈《てい》する。松明は窓から窓へとかがやき、うねうねまがる階段を上下し、屋根裏部屋の明り取り窓すらが饗宴《きょうえん》と生気の火をともす。ネモン邸全体が光りかがやく、落日の最後の光がその窓ガラスを燃え上がらせたかのように。
「やあ、たいへんだ! 火をつけるぞ!……」とマジェステ氏はひとりごとを言った。そして茫然自失《ぼうぜんじしつ》からわれにかえって彼はしびれた足を動かそうとし、中庭に降りた。そこでは侍僕たちが明るい大きな火をおこしたところだった。マジェステ氏は近づいた。侍僕たちに話しかけた。侍僕らは答えずに仲間同士で小声でしゃべりつづけている。それでもこの氷のような夜の闇のなかに彼らのくちびるから全員湯気がもれて来ないのだ。マジェステ氏は心中おだやかでなかった。けれども一つのことが彼を安心させてくれた。あんなに高くまっすぐに燃え上がるこの大きな焚《た》き火は、奇妙な火、かがやくけれども燃えない熱のない炎だということだ。その点だけは安心して、このお人好しは石階を通って倉庫にはいった。
この一階の倉庫は昔は美しい迎賓室《げいひんしつ》だったに相違ない。くすんだ金片がまだ部屋のすべてのかどに光っている。神話に材を取った絵が過ぎ去った時代の形見のようにぼんやりとした少々くすんだ色合いで天井にひろがり、鏡を取り巻き、扉の上に浮かんでいる。残念ながらカーテンや家具はなくなっている。あるのは紙と、錫《すず》の頭のサイフォンがつまった大きな箱、それから窓のむこうに真っ黒な色をして伸びているリラの古木の枯れ枝だけだ。マジェステ氏はそこにはいろうとして、倉庫が光に満ち人々があふれているのを見た。彼は会釈《えしゃく》したが、だれも彼のことなど気にもしない。それぞれ紳士の腕に身をゆだねた淑女《しゅくじょ》たちは繻子《しゅす》のマントを着て、いやに礼儀正しく愛想笑いをしつづけている。人々は歩きまわり、おしゃべりし、散って行く。この老|侯爵《こうしゃく》たちはすべて実際自分の家にいるような調子なのだ。壁の鏡の前に小さな影がぶるぶるふるえながら立ちどまる。「まあこれがわたしですって、わたしがここに!」そう言って彼女は、壁板のなかに立つ――ほっそりと、ばら色に、ひたいに三日月をいただいて――ディアナをほほえみながらながめる。
「ネモン、さあ、お宅の紋章を見て来なさいよ!」
そして人々は皆、包装用の麻布の上にえがかれ、下にマジェステの名が記されているネモン家の紋を見ながら笑う。
「ははは!……マジェステ!……それじゃあフランスにはまだ陛下《マジェステ》がおられるのか?」
こうしてきりもなくはしゃぎ、笛のような小さな笑い声を立て、指を立てて見せ、口もとに愛嬌《あいきょう》をこぼれさせる……
突然だれかがさけぶ。
「シャンパンだ! シャンパンだ!」
「ちがいますよ!……」
「いやいや、シャンパンだ……。さあ、伯爵《はくしゃく》夫人、早くささやかなクリスマスの祝宴を」
彼らがシャンパンだと思ったのはマジェステ氏のゼルツ水なのだ。少々気が抜けているとは思ったが、いや、しかたがない、とにかく皆はそれを飲んだ。そしてこのあわれな小さな亡霊たちはあまり頭がしっかりしていなかったので、だんだんとゼルツ水のこの泡《あわ》が彼らを元気づけ、昂奮《こうふん》させ、踊りたいとまで思わせてしまった。メヌエットの組ができる。ネモンが呼び寄せた四つのみごとなヴァイオリンがラモーの、三連音符だけで書かれた、活溌《かっぱつ》ななかにもかわいらしくてメランコリックなところのある曲をかなではじめる。このきれいな老婦人たちがゆっくりと旋廻《せんかい》し、まじめくさった顔で節《ふし》に合わせておじぎをするのはまったく見物《みもの》だった。彼女らの装身具もおかげで若がえり、金をちりばめたチョッキも錦織りの上着もダイアモンドの尾錠《びじょう》のついた靴《くつ》もおなじく若がえった。羽目板すらもこれらの古い曲を聞いてよみがえるかに見えた。二百年も壁にとじこめられていた古い鏡もこれらの曲を思いだして、きずだらけになり角《かど》は黒くなっているくせにしっとりとした光をおびはじめ、踊り手たちの懐古の思いにかられたように少々うすれた姿を映し出して見せる。こうした優雅な世界のなかでマジェステ氏は窮屈さをおぼえた。彼は一つの箱のかげにうずくまり、ながめた……
そのあいだにもだんだんと夜は明けて行く。倉庫のガラス戸を通して中庭が、ついで窓の上部が、やがてまたサロンの一方が明るくなるのが見える。光がさして来るにつれて人々の顔はうすれ、まじり合う。そのうちマジェステ氏には、片すみに残っていたふたりの小さなヴァイオリン弾《ひ》きしか見えなくなったが、それも日の光に触れて消えてしまう。中庭にはまだ、輿《こし》の形や、エメラルドをちりばめ髪粉をつけただれかの頭、侍僕らが鋪石《ほせき》の上に投げた松明《たいまつ》の最後の火花がごくおぼろながらに見えた。そしてその火花は、開いた大門から大きな音を立ててはいって来る運搬車の車輪から出る火とまじってしまう……
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法皇がなくなった
わたしは少年時代を、ひじょうに交通が多くひじょうに活気のある河で二つに分けられた大きな地方都市で過ごした。この河でわたしは幼いころから旅の趣味と水上生活への情熱をおぼえたのである。特に、サン=ヴァンサンの人道橋とかいったもののそばの河岸の一|隅《ぐう》があったが、今日《こんにち》さえもそれを思うと胸のときめくのを禁じ得ない。「貸し舟、コルネ」と書いて帆桁《ほげた》のさきに釘《くぎ》で打ちつけた板、水のなかまではいり、濡れてつるつるし黒くなっている小さな階段、はしごの下のほうにならんでいる強烈な色に塗られたばかりの小さなボートの群れが目にうかぶ。ボートたちは、「蜂鳥《はちどり》」、「燕《つばめ》」などと白い文字で艫《とも》に書かれている気のきいた名のために身が軽くなったかのように、舷《げん》を接して静かにゆれている。
それから土手《どて》に立てかけて乾してある、白鉛を塗って光るオールのあいだを、ペンキのバケツと大きな刷毛《はけ》を持って歩いて行くコルネおやじ。その日焼けして皹《ひび》割れた顔は涼風の立つ暮れ方の河の面のように小さな皺《しわ》ができている……おお、このコルネおやじ! これはわたしの少年時代のサタン、わたしの苦しい情熱、わたしの罪、わたしの悔恨《かいこん》だったのだ。そのボートで彼はどれほどの罪をわたしにおかさせたであろう! わたしは学校をさぼり、本を売った。ボート遊びで午後を過ごせたらどんなものだってわたしは売ってしまっただろう!
学校のノートはみんな舟の底にほっぽり出し、上着はぬぎすて、帽子をかぶり、髪《かみ》の毛にこころよい河風のそよぎを受けながら、わたしはいかにも古手の船乗りらしく見せようと眉をひそめてしっかりと櫂《かい》をあやつったものだ。町なかにいるあいだはわたしは古手の船乗りとすぐ人にみとめられるように両岸から等距離の河のまんなかから離れまいとした。かぼそい一筋の泡《あわ》でへだてられただけでぶつからないようにしながら行きかう小舟や筏《いかだ》や材木の列や河蒸気のこの大きな動きのなかに身を投ずるのは、なんという誇《ほこ》りだったことか! 流れに乗ろうとして舳《へさき》をまわす大型船もあった。そしてそのおかげでほかのたくさんの船が移動しなければならないのだった。
突然蒸気船の外輪がわたしのそばの水を打った。と思うと、どっしりした影がわたしの頭上にのしかかって来た。それは林檎《りんご》船の舳《へさき》だった。
「気をつけろ、小僧!」としわがれた声がどなりつけた。
そしてわたしは、櫂先《かいさき》に乗合馬車の影を落とすあの橋や小橋によって、たえず町の生活の介入して来るこの河上生活の往来にまきこまれながら汗《あせ》を流し苦闘した。しかも、橋弧《きょうこ》の先端ではきわめてはげしくなる流れ、また逆流、渦《うず》、「悪魔が淵《ふち》」と呼ばれるあの有名な淵! 舵《かじ》を取ってくれるものはひとりもなしに十二歳の痩《や》せ腕でこのなかを縫って行くのは、まったくなみたいていのことじゃなかった。
ときどき運よく曳《ひ》き船にぶつかることもあった。いそいでわたしは曳き船の曳いている船の長い列の尻《しり》にとっついて、滑空する翼のように櫂《かい》をのばしたまま動かさず、あの音もない速度に身をまかせて行く。河は長い泡《あわ》のリボンとなり、樹木や河岸の家々が両側にすべって行く。前のほうの遠いところ、ずっと遠いところに、スクリューの単調な律動、曳かれる船の上でほえる犬の声がする。曳き船の低い煙突からは小さな煙の筋が上がっている。そしてそれらすべてがわたしに、大航海の、ほんとの海上生活の幻想をいだかせてくれた。
不幸にしてこういう曳き船との出会いはめったになかった。たいていは日中は漕《こ》ぎに漕がねばならなかった。おお、河の上に真上から照りつけて来る真昼の光、わたしには今もそれがわたしを灼《や》きつけるような気がする。すべてが燃え上がり、すべてがまばゆくかがやいた。波の上にただよい、ありとあらゆる動きにふれて振動するこの打てばひびくような目くるめく大気のなかでは、水にはいってはすぐ上がるわたしのオール、水をしたたらせながら水中から引き上げられる蒸気ウィンチのワイヤは、みがいた銀のようなあざやかな光をひらめかせた。そしてわたしは目をつぶって漕いだ。ときどき、自分自身のふりしぼる力のはげしさと私の舟の下の水勢のため、ひじょうなスピードを出しているのだと思う。しかし顔を上げて見ると、目の前の岸にはあいかわらず同じ木、同じ壁が見えているのだ。
さんざん疲れ、暑さのため汗《あせ》みどろになり真っ赤な顔をして、ようやく町から出ることができた。水浴や洗濯船《せんたくぶね》や船着き場の浮き桟橋《さんばし》の騒ぎはうすれて行く。広くなった河岸にかかる橋と橋の間隔も大きくなる。場末町の家の庭や工場の煙突がときどき影を映している。水平線には緑の島がちらちらしている。こうなると、もはや力つきてわたしは岸に船をつける。ざわざわ鳴る蘆《あし》のまんなかだ。そこで日の光と疲れと黄色の大きな花の一面にうかぶ水面から立ち昇るむっとした暑気とに茫然《ぼうぜん》としながら、この古手の船乗りは何時間も鼻血を出しつづけるのだった。わたしの航海にはけっしてこれ以外の結末はなかった。が、しようがないじゃないか! わたしはこれをなんとも言えずこころよいものと思っていたのだ。
ところで、おそろしいのは帰路だ、家に帰るときだ。いくら力のかぎり櫂《かい》を動かしてもいつも遅れてしまう。下校時刻よりずっとあとになってしまうのだ。暮れて行く日の印象、霧《きり》のなかにともり出したガス燈、帰営ラッパ、すべてがわたしの不安を、わたしの後悔をつのらせた。おちつきはらって家路につく人々を見ると、わたしはうらやましかった。そしてわたしは、耳の底に貝がらのうなりが聞こえ、日の光と水でいっぱいになった重い頭で駈《か》けた。そして、これから言う嘘《うそ》を考えて顔はもう赤くなっているのだった。
それというのも、戸口に立ちはだかってわたしを待っているあの「どこへ行って来たの?」というおそろしい問いに立ち向かうためにはいつも嘘が必要だったからである。わたしがいちばんおびえたのは、この帰りしなの訊問《じんもん》だった。わたしはその階段の踊り場で片足上げたまま答えねばならなかった。いつも何かの作り話を、何か言うことを用意しておかねばならなかった。しかも、相手がびっくりしてそれ以上のいっさいの質問をやめてしまうような驚くべきこと、気の顛倒《てんとう》するようなことを。そのあいだにわたしは家にはいり、息をつくことができた。そしてそこまで持って行くためにはわたしはどんなことでも平気でした。凶事や革命やおそろしいことをわたしは作りだした。町の一方が燃えているとか、鉄道の橋が河に落っこちたとか。しかしわたしの思いついたいちばんひどいのは次のような話だった。
その夕方はわたしはひどく遅れて帰った。優に一時間もわたしを待っていた母は、階段の上に立って見張っていた。
「どこへ行って来たの?」と母はさけんだ。子どもの頭のなかにどれほどのわるだくみがかくされているかはまったくわかるものではない。わたしは何も思いついていず、何も用意していなかった。あまりいそいで来たからだ……。突然、とほうもない考えが頭にひらめいた。わたしは母がひじょうに信心深く、ローマの女のように熱烈なカトリックであることを知っていた。それでわたしはすっかり動顛《どうてん》して息をきらせながら答えた。
「おお、おかあさん……。おかあさんは知らないんだ!……」
「いったい何です?……まだほかに何があるんです?……」
「法皇がなくなったんだ」
「法皇がなくなった!……」とかわいそうな母は言った。
そして彼女は真っ蒼《さお》になって壁によりかかった。首尾よく行ったことと自分の嘘《うそ》のとてつもなさとに少々おびえながらわたしはいそいで自分の部屋にはいった。けれどもわたしはずぶとく最後まで嘘をつきとおした。陰気なしめやかなその夜のことをわたしは今もおぼえている。父はひどく厳粛《げんしゅく》な顔をし、母は打ちひしがれていた……。食卓のまわりでおしゃべりするものも声をひそめていた。わたしはといえば、目を伏せていた。しかしわたしのエスケープは一同の悲しみのなかに没してしまって、だれももうそんなことを考えてはいなかった。
めいめいが競《きそ》ってこの今は亡きピウス九世の徳行を挙げた。そのうちだんだんと話題は歴代の法皇のことにそれて行った。ローズおばさんはピウス七世〔ナポレオンの皇帝戴冠式を執行したが、その後ナポレオン没落までフランス帝政と抗争し、のちフォンテーヌブローに軟禁された〕のことを話した。この法皇が憲兵にかこまれて駅馬車に乗って南フランスを通るのを見たのを彼女はよくおぼえていた。「喜劇役者《コメディアンテ》!……悲劇役者《トラジェディアンテ》!……」という皇帝とのあの有名なやりとりを人々は思いだした。もう百度もわたしはその話を、このおそろしいやりとりの話を聞いていた。いつも同じ口調、同じ身ぶりで、しかも代々伝えられ、修道院の歴史のようにたわいのない地方的な形で残っている一門の口碑《こうひ》を語るときの、あの型にはまった言い方でそれは語られるのだ。
それはともあれ、この話がわたしにこれほどおもしろく思われたことは一度もなかった。
わたしは偽善的に溜め息をついて見せ、質問をはさみ、ありもしない興味をよそおって耳をかたむけていた。そしてたえずわたしは心のなかで言っていた。「あしたの朝、法皇がなくなりはしなかったと知ったときには、みんなは大よろこびしてぼくをしかろうなんて思うものはひとりもいないだろう」
それを考えているうちにまぶたが自然に合わさって来、そしてわたしは青く塗った舟や、暑さのために重くよどんだソーヌ河のここかしこや、四方に走りまわってダイヤモンドの刃のようにガラス状の水面に筋をつける水蜘蛛《みずぐも》の大きな足のまぼろしを見ていた。
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味覚ところどころ
ブイヤベース
船はサルデーニャ島の岸にそってマダレーナ島にむかっていた。朝の散歩だ。漕《こ》ぎ手はゆっくりと進み、船べりに身を乗り出してわたしは、泉のように澄んで日の光が底まで差し入っている海を見た。クラゲやヒトデが海の苔《こけ》のあいだに手足をひろげている。大きな海老《えび》が長い角を細かい砂の上に落として身動きもせずに眠っている。そうしたものは十八フィートから二十フィートばかりの深さのところに、ガラスの水族館のような、何か人工的な感じのなかに見えるのだ。船のへさきにはひとりの漁師が縦《たて》に割れた蘆《あし》を手にして立ち、漕ぎ手に合図する。
「|そっと《ピアーノ》……|そっと《ピアーノ》……」と思うと、二叉《ふたまた》に割れた蘆《あし》のさきにみごとな海老《えび》がぶらさがっている。海老は眠気のまだたっぷり残っているからだでぎょっとしながら足をのばす。わたしのそばでは別の水夫が艫《とも》から水面すれすれに釣糸をおろし、美しい小魚を釣り上げる。小魚はさまざまのあざやかな色合いに変わりながら死ぬ。まるでプリズムを通して見た死の苦悶《くもん》だ。
漁が終わるとねずみ色の高い岩のあいだに船を入れる。たちまち火がおこされる。照りつける太陽の下で火は色あせて見える。大きく切ったパンを赤埴《あかはに》の皿《さら》に盛り、人々は鍋《なべ》のまわりをかこんで皿をさしだし、鼻の穴をふくらます……。これは風景の、光の、この見わたすかぎりの空と海のせいだったろうか? とにかくわたしは、この海老のブイヤベースにまさるものは今まで全然たべたことはなかった。そしてそのあとで砂の上でした午睡《ごすい》のなんとこころよかったことか! 数千の光る魚鱗《ぎょりん》のようなさざ波が目をつぶってもなおきらきらしているような、海の波のたゆたいに乗った眠りだった。
アイオリ
シチリアの海岸の、テオクリトス〔古代ギリシャの詩人〕の歌った漁夫の小屋にでもいるような気がするが、なんのことはない、プロヴァンスの、カマルグ〔ローヌ河口の大湿地帯〕の島の密漁監視人の家なのだ。蘆《あし》で作った小屋。網が壁にかかっている。櫂《かい》、銃、罠《わな》猟師の、水上と陸上の猟師の道具のような何か。風が吹いてよけい大きく見える平原の風景を劃《かく》している扉の前で、監視人の細君が生きたままのすばらしい鰻《うなぎ》の皮をむいている。鰻《うなぎ》どもは日の光の下で身をよじる。そしてその向こうの、風の吹きまくる白い光のなかでは、ひょろひょろした木々が身をまげ、白っぽい葉裏を見せて逃げ出そうとしているように見える。沼沢《しょうたく》は割れた鏡の破片のようにあちこちの蘆《あし》のあいだに光っている。もっと向こうにはきらめく大きな線が地平線を限っている。ヴァカレス潟《がた》だ。
ぶどうの蔓《つる》がぱちぱちと明るく燃えている小屋のなかで、監視人は細心慎重にニンニクの鱗茎《りんけい》を擂鉢《すりばち》のなかでつきくだき、そのなかにオリーヴ油を一滴一滴とたらしている。屋根裏部屋に通じているはしごがいちばん大きな場所をしめているこのせまい小屋のなかで、小さなテーブルの前の高い腰掛《こしか》けにすわって、わたしたちは鰻《うなぎ》を取り巻くアイオリを味わった。まことに小さなこの部屋のまわりに、風が吹きわたり渡り鳥のあわただしく飛んで行く広大な地平線があるのが感じられた。そして周囲の空間は、馬は牛の群れの鳴らす鈴の音でその広さがわかった。鈴はあるいは朗々と鳴りひびき、あるいは距離のためにかすかになって、ミストラルの突風にさらわれて消えて行く楽符のように聞こえて来るにすぎなかった。
クスクス
アルジェリアの、シェリフ平原の|お偉方《アガ》の家だった。われわれのためにアガの家の前に建てられた豪壮な大天幕から、略式|喪服《もふく》のような色の夜が降りて来るのをわれわれは見ていた。紫色がかった闇《やみ》のなかに華麗《かれい》な落日の真紅《しんく》の色がとけこんで行くのだ。宵《よい》の口の涼気のなかで、なかば開かれた天幕の中心に椰子材《やしざい》で作ったカビールふうの燭台《しょくだい》がその枝のさきにじっと動かぬ炎《ほのお》をともし、それにひかれておずおずと羽音をたてながら夜の虫どもがやって来る。そのまわりの茣蓙《ござ》の上にうずくまってわれわれは黙々と食べた。棒の先につけて運ばれて来るバタがぽたぽた落ちる羊の丸焼き、蜜《みつ》入りのケーキ、マスカットのジャム、そして最後に、雛鳥《ひなどり》がクスクスの金色の荒輾《あらび》きの麦粉のなかに横たわっている大きな木皿《きざら》。
そのあいだに夜になっていた。周囲を取り巻く丘の上に月が上った。星が一つ中にはいっている東洋ふうの小さな三日月だ。天幕の前の露天に大きなかがり火が燃えあがり、踊り手や楽手がそれを取り巻く。軽騎兵連隊の古い軍服を素肌《すはだ》に着て、天幕の布いっぱいに影を走らせながら飛びはねていた巨大な黒人のことをわたしはおぼえている……。この人食い人種の踊り、急調子に喘《あえ》ぐようなこのアラブの小太鼓《こだいこ》、平原の四方八方から呼びかわすジャッカルのするどい遠吠《とおぼ》え。まさにここは未開の国のただなかだと痛感する。一方また、天幕――不動の自然の上に固定した帆にも似たこの遊牧部族のかくれ場――のなかで白い羊毛の|頭巾つき外套《ビュルヌー》をまとったアガは、原始時代からよみがえったもののようにわたしには見え、彼がもったいぶってクスクスを食べているあいだ、このアラビア人のお国料理は聖書に語られているあのヘブライ人のマンナであるかもしれないとわたしは思ったものだった。
ポレンタ
コルシカの海岸で十一月の或《あ》る夜のことだ。――われわれはひどい雨のなかでまったく人気《ひとけ》のない土地に上陸した。ルッカ人の炭焼きが彼らのたき火のそばにわれわれの場所を作ってくれた。それから上から下まで山羊《やぎ》の皮を着込んだ野蛮人みたいなその土地の羊飼が、自分の小屋へポレンタを食べに来いと誘《さそ》ってくれた。われわれは人が立っていられないような小屋のなかに身をかがめ小さくなってはいった。まんなかに四つの黒い石のあいだで青い薪《たきぎ》が燃えかかっていた。そこから出る煙は小屋にあけた穴にむかって昇り、それから雨と風に押しかえされてそこらじゅうにひろがった。小さなランプ――プロヴァンスで「カレイユ」と言われるもの――がこの窒息《ちっそく》するような空気のなかにおずおずと目をあけている。ときどき煙がうすれると細君や子どもらの姿があらわれ、奥のほうで豚が一匹うなっている。難破した船の破片、船の材木で作ったベンチ、送り状のついた箱、何かの船の船首からひっぱがした、海の水ですっかり洗われた人魚の木像の頭が見分けられる。
ポレンタはおそろしい代物《しろもの》だった。よくつぶれていない栗《くり》は黴《か》びたような味がする。まるで雨に打たれながら長いこと木の下にころがっていたようなのだ。お国料理のブルッチオがそのあとで出た。その野趣のある味は野山をさまよう山羊《やぎ》のことを思わせる……。わたしたちはここでイタリアの貧困のただなかにいるのだ。家なんてものではない、ようやく雨露をしのぐだけのものだ。気候はまことによく、生活はいたって楽だ! 大雨の日にそなえてきたない小屋があるだけ。そうなれば、煙だの消えそうなランプなどなんのことがあろう? 屋根などというものは牢獄《ろうごく》にすぎず、人々はもっぱら太陽のもとでのみ暮らしているのだから。
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海辺のとりいれ
朝から平原を歩きまわって海を見ようとしたが、海はブルターニュの海岸が形づくるあの屈曲や岬《みさき》や半島のなかに逃《のが》れてしまった。
ときどきブルー・マリンの一角が、色の濃い動きの多い空の隙間《すきま》ででもあるように地平線に開けた。しかし伏兵《ふくへい》やシュアン党〔大革命時代にヴァンデやブルターニュ地方で王政復古のために闘った叛徒。森や沼沢にかくれて革命政府軍をおそった〕を思いださせるこれらのまがりくねった道の気まぐれが、今ちらっと見えたながめをたちまちかくす。わたしたちはこうして、アルジェリアの街路《がいろ》のように暗く狭《せま》く、堆肥《たいひ》があったり鵞鳥《がちょう》や牛や豚《ぶた》どもがうようよしている道の通じた、古い鄙《ひな》びた小さな村にたどりついた。家々は仮り小屋みたいなもので、その扉は低く、尖弓形《せんきゅうがた》をなし、まわりを白く塗られ、石炭で十字架が描かれているし、その鎧戸《よろいど》は風の強い地方にしか見られぬあの長い横棒でとめてある。それでも雨風からはよく守られ、息をひそめ、いかにももの静かに見えたものだ、このブルターニュの村は。内陸のほうへ二十里もはいっているような感じだ。急に教会前の広場に出て、わたしたちは目のくらむような光、猛烈な風、はてしもない波濤《はとう》のひびきに取り巻かれた。大西洋だ。渺茫《びょうびょう》とした無辺際な大西洋だ。そしてそのさわやかな潮《しお》の匂《にお》い、満ち潮で波の躍《おど》るたびにその波から大きく吹きつけて来る風のそよぎ。村は進出し、波止場《はとば》の縁《ふち》まで立ちならび、道は突堤となって、漁船が幾そうか舫《もや》われている小さな港のはしまでつづいている。教会は海のそばに望楼《ぼうろう》のように鐘楼《しょうろう》をそびえたたせ、教会のまわりには、この小さな土地のどんづまりになっている墓地が、かたむいた十字架や雑草や石のベンチをよせかけたぼろぼろの低い壁をつらねている。
海の趣《おもむ》きと田園の趣きの二面から興味をひく岩のなかに埋《うず》もれたこの小村以上にこころよく俗界を離れたところは、実際どこにも見出されないだろう。すべて漁夫か農夫であるここの住民は、とっつきがわるくてなじみにくい。いつまでもここにいてくれなどと人にすすめるなんてことは思いもよらない。けれどその彼らもだんだん人間らしくなって来、この剣もほろろなあしらいのかげに素朴《そぼく》な善良な人間を見出して人は驚くのだ。彼らはたしかにその郷土に、岩が多くて固く、道が――日が照っているときでさえ――ところどころきらめく銅や錫《すず》の粒をちりばめた黒い色をしているほど鉱物質なこの土地によく似ている。この石の多い土壌《どじょう》をむきだして見せる海岸地帯は厳しく荒々しく岩だらけだ。山崩れ、屹立《きつりつ》した断崖《だんがい》、波で穿《うが》たれた、そして今も波がそのなかに吸いこまれて咆哮《ほうこう》する洞窟がある。潮がひくと浅瀬に乗り上げた巨大な抹香鯨《まっこうくじら》のように光り、泡《あわ》で白くおおわれた怪物の背を波間からあらわす、見わたすかぎりの暗礁《あんしょう》だ。
奇妙な対照だが、岸からほんのちょっと行くと麦やぶどうやウマゴヤシの畑が、生垣《いけがき》ぐらいの高さの野茨《のいばら》が緑にまといついた小さな石垣で劃《かく》されてひろがっている。高い断崖や岩にむすびつけた縄《なわ》で降りて行く深淵や泡《あわ》だつ波浪《はろう》を見てくらみ疲れた目は、平原の単調さのなか、しみじみとした見なれた自然のなかに安らぎを見出す。小道のまがりかど、屋根と屋根のあいだ、壁の割れ目、路地の奥にいつものぞいている海の青緑色を背景にして、どんな小さな田園風景の細部も拡大されて見える。雄鶏《おんどり》の鳴き声も、広い空間のなかだとよけい朗々と聞こえる。しかし本当に美しいのは、海辺に積み上げた収穫物、青い波の上の金色の藁《わら》の山、連枷《からざお》が拍子《ひょうし》を取って振りおろされる麦打ち場、そしてまた切り立った岩の上で風の方角を向いて、死者を呼び出すような身ぶりでさし上げた両手のあいだに麦を振り分けるあの女たちの群れだ。麦粒は一様な密度の濃い雨となって落ち、海の風は藁《わら》を吹きはらい、くるくると渦をまかせる。この仕事は教会前の広場でも、波止場でも、漁網がひろげられて海藻《かいそう》のこびりついた網目を乾かしている突堤の上でまでもおこなわれている。
このあいだにまた別のとりいれもおこなわれている。が、その場所は岩の下の、海の水が蔽《おお》ってはまた引くあの中間地帯だ。それは|ひばまた《ゴエモン》のとりいれである。一つ一つ波は岸にくだけながら、ゴエモンとかヴァレクとか呼ばれる海藻をうねうねとした一線につらねてその跡をしるして行く。風が吹くときは海藻は砂浜にそって音をたてて走りまわり、そして潮が岩の上を引いて行く全域にわたって、これらの濡れた長い髪《かみ》の毛は岩に貼りつき広がる。人々はそれを重い束にして集め、死んで行く魚やしぼんで行く植物のような奇妙な虹《にじ》色の光とともに海の波のあらゆる色合いをとどめた、暗い紫がかった山にして海岸に積み上げる。この山が乾いてしまうと、燃やしてそこからソーダを取るのだ。
この一風変わったとりいれは干潮のときに、引いて行く潮が残して行くあの無数の小さなひじょうに透明な水たまりを縫ってはだしでおこなわれる。男も女も子どももすごく大きな熊手《くまで》を持ってつるつるすべる岩のあいだにはいって行く。彼らが通ると蟹《かに》はあわてふためいて逃げ、かくれ、平べったくなり、はさみをのばす。そして透明な小海老《こえび》は濁った水の色のなかに見えなくなってしまう。引き上げられ積み上げられた|ひばまた《ゴエモン》は軛《くびき》で牛をつないだ荷車に積まれ、牛たちは頭を下げて起伏の多い地面をやっとのことで横切って行く。どちらを向いてもこの牛車が目につく。ときどき、ほとんど人が近づけないような、けわしい小道をたどってようやく達せられる場所に、垂《た》れさがりぼたぼたしずくの落ちる海草を積んだ馬を、手綱を取って挽《ひ》いて行く男の姿があらわれる。また子どもたちがそこらにこぼれているこの海の収穫を拾い集めて担架《たんか》のように組んだ棒の上にのせてはこんで行くのも見られる。これらすべてはものさびしい胸を打つ画面をなしている。おびえた鴎《かもめ》たちはするどく鳴きながら卵のまわりを飛ぶ。海の脅威《きょうい》もここにはある。そしてこの光景をいやがうえにも厳粛《げんしゅく》ならしめるのは、陸上のとりいれのときと同じように、波の通ったあとでおこなわれるこのとりいれのあいだにも沈黙がただよっていることだ。吝嗇《りんしょく》で手に負えない自然とたたかう人々の努力にみちた能動的な沈黙だ。牛を呼ぶ音、洞窟のなかにひびくするどい「どどど」という音、聞こえるのはそれだけだ。トラピスト教団のなかを、永遠の沈黙の掟《おきて》のもとに戸外で労働するあの修道院の一つを横切るような気がする。牛を挽《ひ》く人々は振りかえってわれわれの通るのを見ようとさえしない。ただ牛だけが動かぬ大きな目でこちらをみつめるのだ。けれどもこの人々は陰気ではない。そして日曜日が来るとはしゃいで古いブルターニュのロンドを踊ることも心得ているのだ。夜の八時ごろ人々は波止場にそった教会と墓地の前に集まる。この墓地という語には何かおそろしいところがあるが、その場所そのものを見ればあなたもこわいとは思われないだろう。柘植《つげ》もイチイも生えていないし、大理石もない。月並みなものもおごそかなものもない。ただ十字架が立っているだけで、それにしるされた名さえも、住民同士縁がつながっている小さな国ではどこでもそうであるように、同じものが何度か出てくる。それから、どこを見ても同じような高く伸びた草、子どもたちが上がって遊び、葬式の日にはひざまずいている会葬者が外から見えるほど低い壁。
この小さな壁の裾《すそ》に老人たちは日なたぼっこに来て、荒れたままのひっそりとした囲い地と永遠の旅人である海とのあいだで糸をつむいだり眠ったりする……
若者たちが日曜の夜、踊りに来るのもその壁の前だ。突堤にそった波の上にまだいくらか光がさしているあいだに、娘たちと青年たちの群れが近づく。ロンドの組ができ、まずだれかひとりの細い声が簡単なリズムで歌いだし、その後で合唱がはじまる。
≪プラ=デタンの庭で……≫
みんなの声がくりかえす。
≪プラ=デタンの庭で……≫
ロンドは活気を帯び、白い頭巾《ずきん》はくるくるまわり、蝶《ちょう》の羽のように横へ開く。ほとんどいつも海の風が歌詞を半分吹き消してしまう。
≪……下男がいなく……≫
≪……わが旗を……≫
ことばの意味よりもリズムのほうをだいじにして踊りながら作られる民謡に見られる奇妙な母音省略があって、とぎれとぎれに聞こえると、この歌はよけい素朴《そぼく》に魅力的に思われる。ぼんやりとした月の光のほかはなんの照明もないので、舞踏は幻想的に見える。目で見たものよりもむしろ夢に見たものにまつわりつくあのどっちつかずの色合いのなかで、すべては灰色か黒か白だ。月が昇るにつれてだんだんと墓地の十字架もすみにある大きな磔刑像《たくけいぞう》の十字架も長さを増し、ロンドの列まで伸び、それに仲間入りする……とうとう十時が鳴る。人々は別れる。この時刻になると異様な光景を呈《てい》する村の路地を通って、めいめいは自分の家に帰る。段に穴のあいた外階段や、屋根の角や、夜の闇《やみ》が黒々と濃くたちこめている上屋《うわや》は、かたむき、ねじれ、沈下する。大きないちじくの木の触れる古い壁にそって行く。そしてたたき終えた麦の粒のとれた藁《わら》を踏みつぶして歩いて行くと、海の匂いが収穫物や寝しずまった厩舎《きゅうしゃ》のあたたかい香にまじるのだ。
われわれの住む家はちょっと村からはずれた田園のなかにある。家に帰る途中われわれは、垣根のさきに、半島の海岸一帯にわたってかがやく燈台の光を見た。点滅燈台、廻転燈、固定燈。そして海は見えないので、暗い岩礁《がんしょう》を見張るこれらすべての燈台は平和な田園のなかに埋もれているように見える。
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赤鷓鴣《あかしゃこ》の驚愕
鷓鴣《しゃこ》が群れをなして歩き、ほんのちょっとした危険の気配《けはい》にも飛び立てるように畑のくぼみに巣を作り、飛んで行くときには一つかみの麦粒《むぎつぶ》をまいたように散って行くことはごぞんじでしょう。わたしたちの仲間は陽気で大勢でしたが、大きな森の縁《ふち》の原っぱに居《きょ》をかまえて、森でも原っぱでも餌《えさ》を取り、両方に逃げこめるようになっていました。だからわたしも、羽がそろい餌《えさ》も充分とって走りまわれるようになってからは、生きることはほんとに楽しいことだと思っていました。けれども或《あ》ることが少々わたしには心配でした。それは、おかあさんたちのあいだでささやかれはじめた、あの悪名高い狩猟の解禁日のことです。わたしたちの仲間の古老がこのことについてはいつもわたしにこう言っていました。
「こわがるんじゃないよ、あか公――わたしはくちばしと足がナナカマドの実の色をしていたのでそう呼ばれていたのです――こわがるんじゃないよ、あか公。解禁日にはわしがおまえを連れて行ってやるよ。そうすりゃおまえの身には何も起こりはしないさ」
このおじいさんはぬけめがなく、胸にはもうはっきりと蹄鉄型《ていてつがた》の紋《もん》が出ていたし、ところどころ白い羽がいくらかはえていたが、まだきびきびしていました。ごく若いとき霰弾《さんだん》を一つ翼に受けて、少々動きがにぶくなっていたので、飛び出す前にはよく注意し、ゆっくりと時間をかけ、危険を脱するのです。よく彼は森の入り口までわたしを連れて行きました。そこには奇妙な小さな家がありました。栗《くり》の木のあいだにひそんで、からっぽの巣穴のようにひっそりして、いつもとざされていました。
「あの家をよく見な、坊や」とおじいさんは言うのでした。「屋根から煙が上り、戸口や鎧戸《よろいど》が開いているのを見たら、わしらにとってよくないことがはじまるんだよ」
そしてわたしはおじいさんを信用しました、おじいさんにとってはこれがはじめての解禁日ではないことがわかっていましたから。
事実、ある日の明け方、畑のなかでだれかが声をひそめて呼んでいるのが聞こえました。
「あか公、あか公!」
それはあのおじいさんでした。ただならぬ目つきをしています。
「早くおいで、そしてわしのするようにするんだ」
わたしは寝ぼけながら、翼で飛ぶはおろか跳《は》ねることすらほとんどしないで、土くれのあいだを二十日鼠《はつかねずみ》のようにすべってついて行きました。わたしたちは森のほうへ向かいましたが、途中でわたしは、あの小さな家の煙突から煙が出、窓にはあかりがつき、大きく開かれた扉の前ではすっかり準備をととのえたハンターたちが跳ねまわる犬にかこまれているのを見たのです。わたしたちが通ったときハンターのひとりがさけびました。
「朝は野原だ。森は昼飯のあとにしよう」
そこでわたしは、わたしの年とった仲間がなぜわたしたちを最初大樹林のなかに連れて行くのかわかりました。それでもわたしは胸がどきどきしました、特に気の毒なわたしたちの友だちのことを考えると。
突然、林の縁《ふち》に着こうとしたときに、犬たちがわたしたちのほうにむかって走りだしました……
「地面に這《は》うんだ! 這うんだ!」とおじいさんは身をかがめてわたしに言いました。
と同時に、わたしたちから十歩ほどのところで、おびえ上がった鶉《うずら》が翼とくちばしを大きく開き、恐怖の叫びをあげて飛び立ちました。ものすごい音が聞こえ、変な匂いのする、太陽がまだほとんど昇っていないのにまっ白でいやに熱いほこりにわたしたちは包まれました。わたしはこわくてこわくて走ることができませんでした。運よくわたしたちは森のなかにはいりました。わたしの仲間が小さな槲《かし》の木のかげにうずくまったので、わたしたちは身をひそめて葉のあいだからながめていたのです。
畑ではすさまじい銃声です。まったく動顛《どうてん》してわたしは一発ごとに目をつぶりました。それから、ようやく決心して目をあけてみると、原っぱは広々として何もなく、犬は走りまわってくさむらや藁塚《わらづか》をさぐり、気ちがいみたいに一つ所をぐるぐるまわっている。そのうしろでハンターがののしり、呼んでいる。鉄砲は日の光を受けてきらきらかがやく。一瞬、煙の小さな雲のなかに――あたりに木がないのに――木の葉が散乱するのが見えたような気がした。しかしおじいさんはそれは鳥の羽だと言いました。そして事実、わたしたちの百歩ばかり前に一羽のすばらしい灰色の鷓鴣《しゃこ》が血まみれの頭をのけぞらして畔《あぜ》に落ちました。
太陽はすっかり高く昇って暑くなったころ、銃声はぴたりとやみました。ハンターたちはぶどうの蔓《つる》の火がぱちぱち音をたててさかんに燃えているあの小さな家のほうへ帰って行く。彼らは鉄砲を肩にして仲間同士おしゃべりし、手並みのほどを論じ、犬どもはへとへとになって舌《した》を垂らしながらあとについて行きます……
「やつらは昼飯に行くんだ。わしらもそうしよう」と仲間はわたしに言いました。
そしてわたしたちは森のすぐそばにある蕎麦《そば》の畑にはいりました。巴旦杏《はたんきょう》の匂《にお》いのする、花が咲いているのも実《み》のできているのもある黒と白の大きな畑です。金褐色の羽の美しい雉《きじ》たちも、見られはしないかと心配して赤いとさかを下げながら、そこで餌《え》をついばんでいました。ああ、彼らはいつもほどいばっていませんでした。たべながら彼らはわたしたちにようすをきき、自分らの仲間がひとりすでに殺されてはいないかと聞くのでした。そのあいだ、最初は静かだったハンターたちの食事はだんだんにぎやかになりました。コップのぶつかる音や壜《びん》の栓《せん》がはねる音がわたしたちにも聞こえる。おじいさんはもうそろそろかくれ場に帰らねばならないと言いました。
この時刻には森はまるで眠っているようです。鹿《しか》が水を飲みに来る小さな沼も、それに舌《した》をつけて飲むものはだれもいない。いつも兎《うさぎ》のたくさんいる地域の伊吹麝香草《いぶきじゃこうそう》のなかにも鼻づら一つ見えない。一枚一枚の葉、一つ一つのくさむらにおびやかされた生命がひそんでいるかのように、謎めかしいわななきが感じられるだけでした。こういう森の鳥獣は実にさまざまのかくれ場を持っているのです。巣穴や、藪《やぶ》や、薪束《まきたば》や、茨《いばら》、それから溝《みぞ》、雨が降ったあとずいぶん長いあいだ水をとどめているあの小さな森の溝。実はわたしもそういう穴の奥にいたかったのです。けれどもわたしの連れは、外にいて広い行動の場所を持つこと、ずっと遠くまで見わたせること、前方に開けた空間があることのほうがいいというのです。これはいい考えでした。なぜならハンターたちは森のなかへやって来たのですから。
おお、森のなかのこの最初の一発。四月の雹《ひょう》のように木々の葉に穴をあけ、樹皮に跡を残すこの一発を、わたしはけっして忘れないでしょう。一匹の兎が突き出した爪《つめ》でくさむらを引きむしりながら道を横切って逃げ出して行きました。一匹の栗鼠《りす》がまだ青い実を落としながら栗の木から駈けおりる。大きな雉《きじ》が二羽か三羽重たげに飛んで行き、森のなかの生きとし生けるもののすべてを動揺させ、目ざめさせ、おびえさせたこの射撃のあおりで下枝や枯れ葉のあいだにざわめきが起こりました。野鼠は彼らの穴の奥にもぐりこむ。わたしたちが身をよせてうずくまっていた木の≪うろ≫から出て来た鍬形虫《くわがたむし》は、恐怖のため大きくみひらいた間のぬけた目をぐりぐりさせる。それから青いとんぼ、丸花蜂、蝶《ちょう》と、かわいそうな小動物たちがあちこちにおびえて飛びまわる……。深紅《しんく》の翅《はね》の小さなバッタまでもあわてふためいて、わたしのくちばしのすぐそばにとまりました。しかしわたし自身すっかり肝《きも》をつぶしていたので、彼の恐怖につけこんでたべてしまうどころじゃありませんでした。
おじいさんのほうはあいかわらずまことに平然としていました。犬の啼き声や銃声によく注意していて、それが近づいて来るとわたしに合図し、そうしてわたしたちはもうすこし先の、犬の近づけない、葉でよく身をかくせるところへ移りました。それでも一度わたしは万事休《ばんじきゅう》すと思ったことがあります。わたしたちの横切らねばならない通路の両端にハンターが待ち伏せしていたのです。一方には黒い頬髯《ほおひげ》をはやした大男で、猟刀だの弾薬入れだの火薬盒《かやくごう》だの身につけたすべての鉄製のものがからだを動かすたびに鳴る。おまけに膝《ひざ》まで留め金をかけた長いゲートルをつけ、そのためよけい背が低く見えました。もう一方のはしには小男の年寄りが木によりかかって、眠ろうとするように目をしばだたきながらゆっくりとパイプを吸っています。こちらのほうはわたしにはこわくありませんでした。こわいのはむこうの大男でした……
「おまえにゃ全然わからないんだな、あか公」とわたしの仲間は笑いながら言いました。
そして恐れも見せずに翼を大きく開いて彼は頬髯のおそろしいハンターのほとんど足のなかへ飛びこむようにしました。
するとあきれたことに、この男はあわれにもありとあらゆる猟の道具にがんじがらめになっていて、そういう自分の姿を上から下まで夢中になって見まわして悦《えつ》に入っていたので、男が銃をかまえたときにはわたしたちはもう射程外に出ていたのです。ああ、ハンターたちが森の一|隅《ぐう》にいるのは自分らだけだと思っているときに、どれだけ多くの小さな目がじっと藪《やぶ》のなかから彼らを見張っているか、どれだけ多くの小さな、とがったくちばしが彼らの無器用《ぶきよう》さを笑おうとしながらその笑いをかみころしているかを知っていたら!……
わたしたちは進みました、ずんずん先へ進みました。わたしは年取った連れについて行くに越したことはないので、彼の翼のあおる風を受けてわたしは飛び、彼が止まるとすぐわたしも翼をたたみました。そのとき通った場所のすべてが今でもわたしの目にあります。いたるところに死神がひそんでいるのが見えるようなあの槲《かし》の大きな並木のかげの、黄色い木々の根もとにいっぱい巣穴のある、桃色のヒースでおおわれた兎《うさぎ》の遊び場、わたしのおかあさんが五月の太陽をあびてよくそこへ雛《ひな》たちを連れて行ったあの緑の小道。そこではわたしたちは足に這い上がって来る赤蟻《あかあり》をついばみながらはねまわったり、めかしこんだ雉《きじ》の雛たちに出会ったりしたものです。彼らは鶏《にわとり》の雛ほどの重さで、わたしたちと遊ぼうとはしませんでした。
まるで夢でも見ているようにそれを、その小道を見たとき、一匹の牝鹿《めじか》がそこを横切りました。ほっそりとした脚で背が高く、目を大きくみひらいて、いつでも飛びだせるようなかまえで。それから沼です。ここへは十五羽とか三十羽とかの群れを作って、みんなそろって一分で野原から飛び立ってやって来て、泉の水を飲んだり、つややかな翼の上にころがる水玉をはねちらかしたりするのです……。この沼のまんなかにはよく茂った小さい榛《はん》の木の木立がありました。この小島へわたしたちは逃げこんだのです。そこまでわたしたちをさがしに来るには犬たちもよほど鼻がよくなければならなかったでしょう。わたしたちがそこに行ってしばらくして、一匹の鹿が三本足でからだを曳《ひ》きずるようにして、赤い筋を苔《こけ》の上に引きながらやって来ました。見るも無慙《むざん》で、わたしは葉の下へ顔をかくしたほどです。でも手負いの鹿が燃えるような熱に苦しまされながら息も荒く沼の水を飲むのが聞こえました……
日はかたむきました。銃声は遠ざかり、間遠になりました。それからすっかり消えてしまう……。終わったのです。そこでわたしたちはわたしたちの仲間のようすを知るためにそっと野原のほうへひきかえしました。あの小さな家の前を通るとき、わたしはおそろしいものを見ました。
溝《みぞ》の縁《ふち》に、焦《こ》げ茶色の毛の兎《うさぎ》や、尾の白い灰色の小さな兎がならんで横たわっています。死んで小さな手を合わせているところはお恵みを乞うているように見え、曇った目は泣いているようでした。それから赤い鷓鴣《しゃこ》、わたしの仲間と同じように蹄鉄型《ていてつがた》の紋《もん》のある若鷓鴣、わたしと同様羽の下にまだ≪にこ毛≫のある当歳雛。死んだ鳥以上に悲しいものがあるでしょうか? 翼というものはじつに生き生きしたものです! それがたたまれ、つめたくなっているのを見るとほんとにぞっとします……。堂々とした物静かな大きな鹿は眠っているように見え、桃色の小さな舌はまだ何かを舐《な》めようとするもののように口から出ています。
そしてハンターたちはそこで、この修羅場《しゅらば》の上に身をかがめ、血まみれの足やずたずたになった翼を、こうしたなまなましい傷など全然意にも介さずに、数えたりそれぞれの獲物袋のほうへ引っぱって行ったりしている。出発のためにつながれた犬たちは、もう一度林のなかへ飛びこんで行こうとするように、身がまえてまだくちびるに皺《しわ》をよせていました。
ああ、大きな太陽がむこうに沈み、やつらがみな疲れきって土くれと夕方の露で濡れた小道の上に長い影を落としながら立ち去ったとき、どれほどわたしはやつらを憎んだでしょう、人間も犬もひっくるめてやつらのすべてを! わたしの連れもわたしも、いつものように暮れて行くこの日の光に小さな別れの歌を送る元気はありませんでした。
途中でわたしたちは、まぐれあたりの霰弾《さんだん》に射《う》ち落とされて蟻《あり》の手にゆだねられるままになっている不幸な小動物たちに出会いました。鼻づらをほこりだらけにしている野鼠、飛んでいるところを不意にやられた鵲《かささぎ》や燕《つばめ》。彼らはあおむけに横たわって、澄んで冷やかに湿って秋の夜のようにいそいで降《お》りて来る夜にむかって、その小さな硬直した足をのばしていました。しかし何にもまして胸をえぐるのは、森のはしや牧場の縁《ふち》や、またむこうの川の柳《やなぎ》の茂みのなかのあちらこちらでする、不安げな悲しい呼び声の聞こえることでした。それに答えるものはなかったのです。
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北国のニエメン河〔バルト海へ流れる白ロシアの河〕のほとりに、巴旦杏《はたんきょう》の花のように白とばら色の、十五歳の植民地生まれの白人の少女がやって来た。彼女は蜂雀《はちすずめ》の国から来た。そして彼女をはこんで来たのは恋の風だった……。故郷の島の人たちは「行くのはおよし、大陸は寒いからね……。冬になったらおまえは死んでしまうよ」と彼女に言った。が、植民地生まれの少女は冬なんてものがあるとは信じなかったし、シャーベットを食べたときしか寒さというものを味わったことはなかった。それに彼女は恋していた、死ぬことなどこわくはなかった……。そうして彼女ははるか北方のニエメン河の霧《きり》のなかに上陸したのだ。扇《おうぎ》やハンモックや蚊帳《かや》や、故郷の鳥のいっぱいはいっている金色に塗った金網の鳥籠《とりかご》を持って。
「北国」じいさんは「南国」が光に包んで送ってよこしたこの島育ちの名花が来るのを見たとき、かわいそうでたまらなくなった。そして彼は、寒さが来れば少女と蜂雀《はちすずめ》はひとたまりもなくやられてしまうと考えたので、黄色い大きな太陽の光をいそいでともして、彼女らを迎えるために夏の装《よそお》いを身につけた……。植民地生まれの少女は思いちがいをした。このはげしく重苦しい北国の暑さをずっと続く暑さだと思い、この黒っぽい常緑を春の緑だと思い、そしてハンモックを庭園の奥の二本の樅《もみ》の木のあいだにつるして一日じゅう扇を使い、からだをゆすっていた。
「けれど、北国でもとても暑いじゃないの」と彼女は笑いながら言った。
しかし何か彼女を不安にさせるものがあった。どうしてこの奇妙な国では家にヴェランダがないんだろう? こういう厚い壁、絨毯《じゅうたん》、重い壁掛けはなんのためだろう? こういうどっしりした陶器《とうき》のストーブ、中庭に積んであるあの大きな薪《まき》の山、たんすの底で眠っている青狐《あおぎつね》の皮、裏打ちをした外套《がいとう》、毛皮類は? こうしたものはなんの役に立つのだろう? かわいそうな娘、それは間もなく彼女にわかることになる。
ある朝目をさまして植民地生まれの少女はひどい寒さに身のふるえるのを感じた。太陽は姿を消し、夜のうちに地面のほうへ降りて来たかに見える暗く垂《た》れこめた空から、綿《わた》の木の下に落ちるような白いふわふわしたものが音もなくひらひらと落ちている……。冬だ、冬が来たのだ! 風はうなり、ストーヴはごうごうと音をたてる。金色に塗った金網の大きな鳥籠のなかで、蜂雀たちももうさえずらない。ピンク、ルビー、青緑色の彼らの小さな翼はじっと動かず、彼らが細いくちばしと針《はり》の針孔《めど》のような眼をしたからだを寄せ合っているのは見るもあわれだった。庭園の奥ではハンモックは霜におおわれてふるえており、樅《もみ》の枝はガラスをつないだようだ……。植民地生まれの少女は寒かった。もう外に出る気はしなかった。
自分の鳥と同じように火のそばにちぢこまって、彼女は炎をながめながら時を過ごし、思い出によって自分の太陽を作りだした。かがやき燃え上がる大きな暖炉《だんろ》のなかに彼女は自分の故郷のすべてを見た。黒砂糖の溶《と》けて流れる日のかんかん照りつけた広い埠頭《ふとう》、金色のほこりとなって舞うトウモロコシの粒、それから午睡《ごすい》、明るい簾《すだれ》、茣蓙《ござ》、そして星空の夜、蛍《ほたる》、花々のあいだや蚊帳《かや》の薄紗《はくしゃ》の網目のなかでぶんぶん鳴っている幾百万の小さな翼。
こうして彼女が炎の前で夢想しているあいだに、冬は深まってますます日は短く暗くなって行く。毎朝、籠のなかで一羽の蜂雀《はちすずめ》が死んでいる。やがて残ったのは二羽だけになった。片すみに身をよせて緑の羽をふくらましている二つの毛玉みたいに……
その朝、植民地生まれの少女は起きることができなかった。北洋の氷のなかにとじこめられたマホンの単檣船《バランセル》のように、寒さは彼女を打ちくだき、彼女を麻痺《まひ》させた。暗く、部屋は陰鬱《いんうつ》だった。霧氷《むひょう》は窓ガラスにどんよりとした絹の厚い帳《とばり》をかけていた。町は死んだように見え、ひっそりした街路《がいろ》には蒸気除雪機があわれっぽくうなっている……。ベッドのなかで植民地生まれの少女は気をまぎらそうとして扇《おうぎ》にちりばめた金片を光らせて見、西インドの鳥の大きな羽で縁《ふち》を飾った故郷から持って来た鏡に映る自分の姿をながめて時を過ごした。
ますます短く、ますます暗くなりながら冬の日はつづいて行った。レースの寝台カーテンのなかで植民地生れの少女は衰弱《すいじゃく》し、悲歎《ひたん》に沈んでいた。いちばん彼女を悲しませたのは、ベッドからは火が見られないことだった。彼女はもう一度故郷を失ったような気がした……。ときどき彼女はきいた。
「部屋のなかに火はあるの?」
「あるとも、あるとも。暖炉《だんろ》いっぱい燃えている。薪《まき》がぱちぱちいうのが、松かさがはじけるのが聞こえないかい?」
「おお、見たいわ、見たいわ」
しかし彼女がいくらからだを乗りだして見ても、炎《ほのお》は彼女からあまりにも遠かった。彼女は見ることができず、それが彼女を絶望にさそった。ところが、ある夜彼女がそうして思いに沈みながら、蒼白《そうはく》な顔を枕《まくら》のはしにのせ、あいかわらず目をあの見えない炎に向けていたとき、恋人が彼女のそばに来て、ベッドの上にある鏡の一つを取った。
「火を見たいんだね、かわいい子?……それじゃあちょっとお待ち……」
そうして暖炉の前にひざまずき、幻《まぼろし》の炎の反映を鏡で彼女のほうへ送ろうとした。
「見える?」
「いいえ、何も見えない」
「では今度は?……」
「いいえ、まだ……」
それから突然、顔いっぱいに光をあびせられ、それに包まれて、
「おお、見えるわ!」と植民地生まれの少女は嬉々として言った。
そして彼女は双《そう》の眸《ひとみ》の奥に二つの小さな炎をかがやかせて笑いながら死んだ。
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盲の皇帝
――バイエルンへの旅――
日本の悲劇について
1 フォン・シーボルト大佐
一八六六年の春、オランダに仕《つか》えるバイエルン人の大佐で日本の植物誌に関するすばらしい著述で学界によく知られているフォン・シーボルト氏は、彼が三十年以上も滞在したあの驚くべきニポン=ジェペン=ジャポン(日出ずる帝国)の開発のための国際協会という大計画を皇帝に提案するためにパリに来た。チュイルリー宮殿で謁見《えっけん》をゆるされるまで、この有名な――日本滞在にもかかわらず依然としてバイエルン人らしさを失わない――旅行者は、いっしょに旅行しているミュンヘンの若い令嬢を連れてフォブール・ポワソニエールの小さなビヤホールで宵《よい》を過ごすのだったが、彼はこの令嬢を自分の姪《めい》だとふれていた。わたしが彼に出会ったのはそこだった。七十二歳という年にもかかわらず、しっかりとしてからだをまっすぐのばしたこの背の高い老人の相貌《そうぼう》、その長い白髯《はくぜん》、ものすごく長い外套《がいとう》、ありとあらゆる科学アカデミーの色とりどりのリボンのついているボタン穴、ひじょうな臆病《おくびょう》さと臆面《おくめん》のなさが共存している外国人らしいようす、こうしたもののために彼がはいって来るといつも人々は振り向いて見るのだった。おもおもしく大佐は腰《こし》をおろし、ポケットから太い黒い蕪《かぶ》を引っぱり出す。それから、短いスカートに総《ふさ》つきのショール、小さな旅行用の帽子といういでたちで、いかにもドイツ女性らしい連れの小柄《こがら》な令嬢が、国の流儀にその蕪を薄く切り、塩をかけ、「おずさん」にすすめる。二十日鼠《はつかねずみ》のような小さな声で彼女は「おずさん」と言うのである。そうしてふたりは、パリでミュンヘンと同じようにしてはおかしいなどとは全然思ってみるようすもなく、向かい合って平然とそれをかじりはじめる。まことにこれはいっぷう変わった感じのいいご両人で、わたしたちはたちまち大の親友になった。好人物の大佐はわたしが彼の日本の話に興味をいだきはじめたのを見て、自分の趣意書に手を入れてくれとわたしに言った。わたしはこの老シンドバッド〔『アラビアン・ナイト』に出てくる旅と冒険好きの船乗り〕に対する友情もあり、また彼の日本熱に染まってこの美しい国をさらに深くきわめたくもあったので、即座に引き受けた。この訂正の仕事は楽ではなかった。全体が「株主が見つかろうなら」とか「資金が集まろうなら」というような、シーボルト氏のしゃべる奇妙なフランス語で書かれ、しかもかならず「アジアの大詩人《グラン・ポエット》」と言うかわりに「アジアの大箱《グランド・ポワット》」と言い、「ジャポン」と言うかわりに「シャボン」と言うあの発音の取り違えがあるのだ……。おまけに句点も読点《とうてん》も息のつきどころも全然ない五十行もつづく文章だ。それでいて筆者の頭のなかではきちんと整理されているので、一語でもはぶくことは彼には不可能と思われ、わたしが一行取りのぞきでもしようものなら、たちまちもうちょっと先にその行をくっつけるという始末……。が、そんなことはどうでもいい、この奴《やっこ》さんは彼のいわゆる「シャボン」とともにまことに興味ある存在だったので、わたしは仕事の面倒臭さを忘れた。そして謁見《えっけん》の通知書が来たときには趣意書はまずだいたいできあがっていた。
気の毒なシーボルト老人! 晴れがましい日でなければ行李《こうり》から取り出さぬ赤と金のあの美しい大佐の制服を着、持っているかぎりの勲章を胸につけてチュイルリー宮に出かけた彼の姿が、まだわたしの目にうかぶ。長身を起こしてはしょっちゅう「ふん、ふん」と言っていたが、わたしの腕の上に置かれた彼の腕のふるえで、特に彼の鼻の、研究とミュンヘンのビールのおかげで真っ赤になっている学者先生らしい人のよさそうな大きな鼻の奇妙な蒼さで、わたしには彼がどれほど感動しているかわかった……。夜会ったときには彼は意気|揚々《ようよう》としていた。ナポレオン三世はほんのちょっとの間彼に合って、五分ほど話を聞き、「よろしい……、考えてみましょう……」というお得意の文句で彼を引き取らせたのだ。そこでこの世間知らずの日本人は、グランド・ホテルの二階を借り、新聞に書き、説明書をくばろうなどともう言っている。陛下の考慮はおそらく長い時間がかかるだろうし、ちょうどミュンヘンの議会が彼の大コレクションを買い取る予算を議決しようとしているところなのだから、それまでミュンヘンに帰ったほうがよかろうということを彼に理解させるのに、わたしは大骨を折った。わたしの意見はとうとう彼を納得させた。そして彼は、例の趣意書のためにわたしが取った労に報いるため、『盲《めくら》の皇帝』と題する十六世紀の日本の悲劇を送ると約束して出発した。ヨーロッパではまったく知られていない貴重《きちょう》な傑作で、彼はそれを友人のマイアベーア〔ドイツ生まれの軽歌劇作家〕のためにわざわざ翻訳《ほんやく》してやったのだという。この巨匠《きょしょう》は、死んだときちょうどその合唱曲を書いているところだった。見られるとおり、この律儀な男がわたしに贈ろうとしたのは、まことにめずらしいものだったのである。
不幸にして彼の出発から数日後ドイツで戦争〔一八六六年の普墺戦争〕がはじまり、例の悲劇のことはそれっきりになった。プロイセン軍がヴュルテンベルクとバイエルンに侵入したのだから、大佐が愛国の熱情と外敵侵攻の大混乱のなかでわたしの『盲の皇帝』のことを忘れたとしても当然と言えば当然だった。しかしわたしのほうは、よけいそのことばかり考えた。そして、実を言えばあの日本の悲劇を見たいという気持ちと、戦争や侵攻というものがどういうものかを実地に見たい――おお、その惨禍《さんか》のすべては今もなおわたしの記憶に残っている――という気持ちで、わたしはある日ミュンヘンにむかって旅立とうと決心したのである。
2 南ドイツ
いくら血のめぐりのわるい国民だって! 戦争の最中のこのかんかん照りのなかで、ケールからミュンヘンまでのライン彼岸の全域は、まったく冷静でおちつきはらっているように見えた。シュヴァーベン領をのろのろと重たげに横切って行くわたしの乗ったヴュルテンベルクの客車の三十の窓を通して、さまざまの風景がくりひろげられて行く。山、谷、せせらぎの涼気の感じられる豊かな緑のかさなり。列車の動きにつれて転廻して消えて行く山腹には、百姓の女たちが赤いスカートをはき、びろうどのブラウスをきて羊《ひつじ》の群れのまんなかにいやにぎごちなく立っており、彼女たちのまわりで木々は青々として、樹脂《じゅし》と北国の森林の芳香《ほうこう》のする、あの樅《もみ》の小箱のなかから取り出した箱庭の牧場そっくりだった。ときどき緑の服の十人ぐらいの歩兵が牧場のなかを、頭をまっすぐ立て、足を高く上げ、銃を弩《おおゆみ》のようにかついで歩調を取って歩いている。これはナッサウのなんとか公の軍隊だった。ときどきまた大きな舟を積んだ汽車が、われわれのそれと同じようにのろのろと通った。寓意画《ぐういが》に出て来る車みたいにそれに満載されたヴュルテンベルクの兵士たちは、プロイセン軍からのがれながら三部合唱で船歌をうたっていた。そしてわたしたちはどの駅の食堂にもはいる。給仕|頭《がしら》の変わらぬ笑顔《えがお》、ジャムをそえた巨大な肉片を前にして顎《あご》の下にナフキンを結んだあのドイツ人らしい上機嫌な顔、そして大型馬車や脂粉《しふん》や乗馬の人々でいっぱいのシュトゥットガルトの王宮前庭園、泉水をかこんでワルツをかなでる楽団、カドリーユ〔フランスを中心に流行した社交ダンス〕、キッシンゲンでは戦争しているというのに。実際そういうことを思いだしてみると、そしてまた四年後〔普仏戦争の年〕の同じ八月に見た、まるで烈日でボイラーが狂ってしまったように行く先も知らずに錯乱《さくらん》して突っ走る汽罐《きかん》車、戦場のまっただなかに停止した客車、たちきられた線路、立往生した列車、東部の鉄道線が短くなるにつれて日ごとに小さくなって行くフランス、そして見捨てられた線路の全長にわたって辺鄙《へんぴ》な土地にぽつんと残されたあの駅々の混雑、荷物のようにそこに置き忘れられたいっぱいの負傷兵たちを思うと、プロイセンと南部諸国との一八六六年のこの戦争は茶番でしかなく、だれがなんと言おうとゲルマニアの狼《おおかみ》どもはけっして共食いなどしないのだとわたしは信じるようになる。
そのことを納得《なっとく》するにはミュンヘンを見さえすればよかった。わたしが着いたのは満天に星のかがやく、よく晴れた日曜の夜だったが、町じゅうの人々は外に出ていた。はっきりしない、これらの漫歩者たちの足の下から舞い上がるほこりと同じくらい、光の下でぼんやりとした陽気なざわめきが、空中にただよっていた。丸天井の涼しい地下ビヤホールの奥でも、色のついたランターンがにぶい光を揺すぶっているビヤホールの庭でも、ジョッキの重い蓋《ふた》を落とす音にまじって、勝利の歌をひびかせる金管楽器と木管楽器のため息がいたるところで聞こえた……
いつもながらの黒い蕪《かぶ》を前にして姪《めい》といっしょにすわっているフォン・シーボルト大佐をわたしが見出したのは、そうした音楽ビヤホールの一つでだった。
隣のテーブルで外務大臣が国王の叔父《おじ》のお相手をしてビールを飲んでいた。まわりを見まわせば、家族連れの善良な市民、めがねをかけた将校、赤や青や青緑の小さな帽子をかぶった大学生たちで、みんなもったいぶった顔をしてだまりこくって、グンゲル氏のオーケストラに神妙に聞き入り、自分のパイプから立ち昇る煙をながめ、プロイセンなどというものは存在しないかのようにいっこうに意に介するようすもない。わたしを見て大佐は少々|困惑《こんわく》のていで、わたしにフランス語で話しかけるとき彼は少々声を低めたように思った。まわりの人々は「|フランス人《フランツォーゼ》……フランツォーゼ……」とささやいていた。わたしはすべての人の目に敵意を感じた。
「出ましょう!」とフォン・シーボルト氏はわたしに言った。
いったん外に出てしまうと、わたしは以前の彼の人のよさそうな笑顔《えがお》を見出した。この律儀な男は約束を忘れたわけではないのだが、国に売りわたしたばかりの日本に関するコレクションの整理に忙殺《ぼうさつ》されていたのだという。そのためにわたしに手紙をくれなかったのだ。わたしにくれるはずの、あの「悲劇」はといえば、ヴュルツブゥルクのフォン・シーボルト夫人の手もとにあったが、そこまで行くにはフランス大使館の特別の許可が必要だった、プロイセン軍はヴュルツブゥルクに迫っており、この市にはいるのはもう困難というくらいではすまなかったのだ。わたしは『盲《めくら》の皇帝』がほしくてたまらなかったので、もしド・トレヴィーズ氏が寝ているのではないかという心配がなかったら、その夜ただちに大使館に出かけたことだろう。
3 辻馬車《ドロシュケ》で
翌日の早朝「青ぶどう」ホテルの主人は、旅行者に町の名所を見物させるのに使うため常時ホテルの中庭に置いてある、あの小さな貸馬車の一つにわたしをのせた。この車上からは、記念物や大通りがまるでガイド・ブックのページのあいだから出て来るように出現するのだ。この場合は町見物ではなく、単にフランス大使館へわたしを送るだけだった。「|フランス大使館だ!《フランツェージッシェ・アンバサーデ》……」と主人は二度くりかえした。御者《ぎょしゃ》は青服を着てばかでかい帽子をかぶった小男だったが、自分の辻馬車《フィアクル》に、ミュンヘンふうに言えばドロシュケに命じられたこの新しい目的地にひどくびっくりしたようだった。しかし彼がお屋敷町に背を向けて、工場や労働者の家や小さな庭ばかりの長い場末町にはいり、市門をくぐり、市の外へわたしを連れ出すのを見たときには、わたし自身、彼以上にびっくりした。
「アンバサード・フランツォージッシュ?」とわたしはときどき不安になってきいた。
「|ええ《ヤー》、|ええ《ヤー》」と小男は答えた。
そして車は走りつづけた。わたしとしてはもっとくわしくききたかったのだが、困ったことに御者はフランス語をしゃべらないし、わたし自身も当時ドイツ語で知っているといえば、ごく基本的な二つか三つの文章くらいのもの、それもパンとかベッドとか肉とかに関するもので、大使館なんてものは全然出てこない。おまけにその文句も歌としてしか口に出せないのだった。というわけは――
その数年前にわたしは、わたしとほとんど同じくらい調子っぱずれな仲間とふたりで、アルザス、スイス、バーデン公国を横切って、行商人そっくりの旅をしたのだった。留《と》め金でしめた袋を肩に十里も歩き、門しか見たくない町はよけて通り、いつもどこへ通じるとも知れぬごく細い道を取りながら。おかげでしばしば野宿や屋根に穴のあいた納屋《なや》で寝るなどという予期しないこともあった。しかしこの小旅行を波瀾《はらん》に富んだものにしたのは、わたしたちのうち、どちらもドイツ語を一語も解さぬことだった。バーゼルに寄ったときに買った小型のポケット辞典を頼りに、Vir vollen trinken bier(ビールを飲みたい)、Vir vollen essen kase(チーズをたべたい)といった、ごく簡単な、ごく素朴《そぼく》ないくつかの文句をどうにかこしらえあげられるようになった。困ったことに、たいしてややこしくも見えないこういった文句も、おぼえるとなるとたいへんな苦労だった。役者の言い方を使えば、われわれはこうした文句を口になじませていなかったのだ。そこでわれわれはこれを音楽にすることを思いついた。そしてわれわれの作曲した小さな曲は実によくそれに合っていたので、語は節《ふし》に乗って頭にきざみこまれ、語が出て来るとどうしても節も出て来ずにはいられないようになったのだ。夕方、われわれが旅館《ガストハウス》の大広間にはいり、袋の口をあけるが早いか次のように歌い出したときの、バーデンの旅館業者の顔こそ見ものだった。
Vir vollen trinken bier (bis)
Vir vollen, ya, vir vollen,
Ya!
Vir vollen trinken bier.
〔われわれはビールを飲みたい(くりかえし)、われわれは、そうだ、われわれはビールを飲みたい〕
このとき以来、私はドイツ語にひじょうに堪能《たんのう》になった。ドイツ語を学ぶ機会がたくさんあったのだ!……語彙《ごい》も無数の言いまわしや常套句《じょうとうく》をおぼえて豊富になった。それも話すだけだ、もう歌いはしない……。いやはや、もう歌いたいとは思わない……
が、例の辻馬車《ドロシュケ》に話をもどそう。
並木や白い家々が両側にならんだ大通りをわたしたちの馬はゆっくりと小きざみに進んだ。突然|御者《ぎょしゃ》は車をとめた。「|あれです《ダー》!……」と彼は、アカシアの木々に埋《う》もれた、わたしには大使館にしてはいやにひっそりとし、いやに引きこもりすぎたものに感じられる小さな家を指さして言った。扉の横の壁のすみに、三つ縦《たて》にならんだ銅のボタンが光っている。わたしはでたらめにその一つを引いてみた。扉があいた。そしてわたしは品のよい快適な玄関にはいった。そこらじゅうに花が置かれ、絨毯《じゅうたん》が敷いてある。わたしの鳴らした鈴の音で駈けつけて来た六人ばかりのバイエルン女の女中が、ライン彼岸の女たちのだれもが持つ、あの羽をむしられた鳥のような不格好《ぶかっこう》なようすで階段の上にならんだ。
「アンバサード・フランツォージッシュ?」とわたしはきく。女たちはわたしに二度くりかえさせてから、げらげらと笑いだしたものだ、手摺《てすり》をゆすって笑いだしたものだ。かんかんになってわたしは御者のほうへ引きかえし、身ぶり手まねをさんざん使って、おまえのまちがいだ、大使館はここではないということを理解させようとした。「ヤー、ヤー……」と小男は動ずるようすもなく答え、われわれはミュンヘンに引きかえした。
当時のフランス大使はよく住所を変えていたのか、それともわたしの御者は辻馬車《ドロシュケ》の習慣にそむくまいとして、とにかく市街と近郊をわたしに見物させようと思い定めていたのに相違ない。いずれにしても午前中は、この不思議な大使館をさがしてミュンヘンを四方八方駈けまわることで費《つい》やされた。なお二度か三度さがしてみてから、わたしは結局車から降りないことにしてしまった。御者は往ったり来たり、ある通りで車を止め、だれかにきいているようなふりをする。わたしは何も言わずに車の走るにまかせて、もっぱらあたりをながめることにした……。このミュンヘンとはなんという退屈な、冷やかな町だろう、広い大通り、ならんだ宮殿、足音のひびく広すぎる通り、白い彫像《ちょうぞう》となってよけい生命を失ったように見えるバイエルンの名士たちの立ちならぶ野外博物館!
列柱やアーケードや壁画やオベリスクやギリシャ式神殿や記念門や切妻《きりづま》の金文字の二連句などがなんとたくさんあることか! それらすべては壮大たらんとしているのだが、地平線しか見えない凱旋門《がいせんもん》や青空にむかって開いている廻廊を見ると、この表面の壮大さの空虚《くうきょ》と仰々《ぎょうぎょう》しさが感じられるようだ。わたしがあの架空《かくう》の町に、ミュッセ〔フランスの詩人、劇作家〕が『ファンタジオ』〔ミュッセの劇〕の不治の倦怠《けんたい》やマントヴァ公の荘厳《そうごん》で阿呆《あほう》くさい鬘《かつら》をさまよわせたドイツ趣味のイタリアを思い描くのは、まさにこうしたものとしてなのだ。
このドロシュケのドライヴは五時間か六時間つづき、そのあげく御者《ぎょしゃ》はわたしにミュンヘンを見せたことですっかり得意になって、鞭《むち》を鳴らしながら「青ぶどう」館の中庭に得々《とくとく》としてわたしを連れもどした。大使館のほうは、結局わたしの宿から二つ先の通りで見つけたが、見つかったところでほとんどなんにもならなかった。副領事はヴュルツブゥルク行きの旅券をわたしにくれようとしないのだ。当時われわれはバイエルンではひどくわるく思われていたらしい。フランス人が前線まで出かければ危険なしにはすまないだろうという。それでわたしは、フォン・シーボルト夫人が何かの機会を見つけてわたしに日本の悲劇をとどけてくれるのをミュンヘンで待つほかはなかった。
4 青の国
奇妙なことではないか! これらの善良なバイエルン人たちは、われわれがこの戦争について彼らの味方にならなかったことをあんなに怨《うら》んでいたくせに、プロイセン人に対してこれっぱかりも敵意をいだいていなかったのだ。敗戦を恥じる気も、勝利者への憎悪《ぞうお》もない。「やつらは世界最強の兵隊ですよ……」と、キッシンゲンの戦闘の翌日、「青ぶどう」館のおやじはある種の誇《ほこ》りをもってわたしに言ったものだ。そしてこれがミュンヘンの一般の気持ちだった。カフェではベルリンの新聞が争って読まれた。「クラデラダーチュ」誌〔ベルリンで発行されていた風刺週刊誌〕の冗談《じょうだん》、五万キログラムもするクルップ工場の有名な動力ハンマーと同じくらい重い、あの野卑なベルリン式|戯画《ぎが》に、人々は腹をかかえて笑っていた。プロイセン軍が入城することはもはやだれも疑《うたが》っておらず、だれも彼を歓迎《かんげい》する気持ちでいた。ビヤホールはソーセージや肉だんごを仕入れた。金持ちの家では将校を泊める部屋を準備した……
ただ博物館だけは多少の不安を示していた。ある日ピナコテークにはいってみると、壁は裸になって、守衛たちが絵画を入れた大きな箱に釘《くぎ》を打ち、南のほうへ送り出そうとしている。勝利者は個人の財産にはひじょうに良心的であっても、国有のコレクションにはそれほどではないのではないかと人々はおそれていたのだ。だから、市のすべての美術館のなかで、開いているのはフォン・シーボルト氏のそれだけだった。プロイセンの鷲勲章《わしくんしょう》を与えられているオランダの軍人として、大佐は自分がここにいるかぎり何びともあえて自分のコレクションには手をつけまいと考えていた。そしてプロイセン軍の到来を待ちながら、国王が彼に与えた王宮の庭のなかにある三つの細長い広間を礼装して歩きまわるほかはもう何もしなかった。この広間はパレ=ロワイヤルのようなもので、ただ本物のパレ=ロワイヤルよりももっと緑が多くもっと陰気で、フレスコ画をえがいた壁にとりまかれている。
この陰鬱《いんうつ》な大宮殿のなかで、札《ふだ》をつけて陳列されたこれらの骨董品《こっとうひん》は、まさに博物館というもの、つまりその本来の環境から切り離されてはるばると招来された品物の、あのものさびしい寄せ集めをなしていた。シーボルト老自身もこの寄せ集めの一部であるかのように見えた。わたしは毎日彼に会いに行き、彼とふたりで版画で飾られたあの日本の写本や、あるものは開くためには床に置かねばならないほどばかでかく、あるものは縦《たて》の長さが爪《つめ》ほどしかなく、虫めがねでしか読めないような、金色に塗った、繊細《せんさい》で貴重な科学書や史書をひもといて長い時間を過ごした。フォン・シーボルト氏は八十二巻より成る彼の日本百科事典をわたしに見せて感歎させたり、日本の皇帝たちの心入れで刊行されたすばらしい作品である『Hiak-nin』の短詩をわたしに訳してくれたりしたが、この書には日本帝国の百人の最も知られた詩人の伝記と肖像と詩の断章がおさめられているのである。それからわたしたちは、幅広な顎紐《あごひも》のついた金の兜《かぶと》だの鎧《よろい》だの鎖帷子《くさりかたびら》だの、それを持っていた聖堂騎士の体臭《たいしゅう》のうつった、しかもそれを使えばやすやすと切腹できる、両手でにぎるあの大きな刀などの、武器のコレクションを整理した。
彼は金色に塗った貝がらに書いた恋の格言についてわたしに説明し、江戸の彼の家の模型を見せて日本の家の内部のことをわたしに教えてくれが、この模型は漆《うるし》の小さな細工物で、窓の絹の日よけからその土地のかわいらしい植物で飾られたリリパット国〔『ガリヴァー旅行記』中の小人国〕の小庭のような庭園の築石《つきいし》にいたるまで、ありとあらゆるものがそろっているのである。これまた大いにわたしの興味をひいたのは、日本人の礼拝の対象、色を塗った小さな木の神像や、袈裟《けさ》や、祭器や、信者がみな自宅の一|隅《ぐう》に置いている、まさにイタリアの操《あやつ》り人形芝居に出て来るようなあの小型の祭壇だった。赤い小さな偶像《ぐうぞう》がその奥におさめられており、結び目のある細い縄《なわ》が前にぶらさがっている。お祈りをはじめる前に日本人はおじぎをし、祭壇の下に光っている鈴をこの縄でたたく。このようにして彼は神々の注意をうながすのである。わたしはこれらのすばらしい鈴を鳴らし、わたしの夢がその音の波にゆれながら、大きな刀の刃《は》から小さな本の小口にいたるまで、すべてのものが旭日に金色に染まっているように思われるあの東アジアの果てまでさまようて行くにまかせて、子どものように楽しんだものであった……
とりわけ大佐が清純で品位があって独創的でひじょうに深遠な詩情を持つあの日本の短詩の一つを読んでくれた日など、漆《うるし》や玉《ぎょく》や地図のけばけばしい色彩だのの、ああいったきらめきを目のうちに残しながらそこを出ると、ミュンヘンの町はわたしに奇妙な印象をあたえた。日本、バイエルン、わたしにとっては目新しいこの二つの国、わたしがほとんど時を同じゅうして知り、その一方を通して他方を見ているこの二つの国が、わたしの頭のなかでもつれ、混り合い、一種の茫漠《ぼうばく》とした国、青い国となるのだった……。今しがた日本の茶碗《ちゃわん》に描かれた雲の線や水の素描のなかに見たあの旅路の風物の青い線を、城壁の青い壁画のなかにわたしはまた見出した……。そして日本の兜《かぶと》をかぶって広場で教練しているあの青服の兵士たちも、|忘れな草《フェアギスマイニヒト》と同じ青さのあの静かな大空も、わたしを「青ぶどう」ホテルへ連れ帰るあの青服の御者も!……
5 シュタルンベルク湖上を行く
わたしの記憶の底に今きらめいているこのかがやく湖、これもまた、まさにあの青の国のものだった。このシュタルンベルクという名を書いただけで、わたしにはミュンヘンのすぐ近くの、岸にそって行く小さな蒸気船の煙のおかげで親しみと生気を感じられる、大空をうつした波一つたたぬ大きな水面が眼前によみがえって来た。まわりはずっと大公園の鬱蒼《うっそう》とした木立ちで、ただところどころ、いわばそこだけ開かれたように白い別荘をはさんでいる。上のほうには、ぎっしり屋根をならべた集落、山腹にのっかった家のかたまりだ。さらにその上にはティロルの山々が遠く浮き出し、その周囲の空気の色と溶け合っている。そして少々古典趣味の、しかしいかにも魅力的なこの風景の一|隅《ぐう》に、あのじいさんが、長いゲートルに銀のボタンのついた赤いチョッキといういでたちの老船頭がいる。あの日曜の一日、わたしを乗せてまわった船頭で、彼はフランス人を客にしたことをひじょうに誇りとしているらしかった。
彼がこういう名誉にあずかったのはそれがはじめてではなかった。若いころ、ひとりの将校をのせてシュタルンベルク湖を渡ったことを彼はよくおぼえていた。もう六十年も前のことだというが、その話をする彼のうやうやしい口ぶりで、一八〇六年のそのフランス人が彼にあたえたに相違ない印象がわたしにはわかった。短ズボンにやわらかい長靴をはいた第一帝政期のオスヴァールとかいう美丈夫《びじょうぶ》で、ばかでかい槍騎兵《そうきへい》のヘルメットをかぶり、勝利者然とそっくりかえっていた!……シュタルンベルク湖のこの船頭がもしまだ生きているとしたら、今なお同じくらいフランス人に敬服しているかどうかわたしには疑問だ。
ミュンヘンの市民たちが日曜日の歓楽《かんらく》をつくすのは、この美しい湖上と周囲の邸宅《ていたく》の公開庭園でである。戦争はこの習慣をいささかも変えていなかった。わたしが立ち寄ったときには湖畔《こはん》の宿屋はすべて満員だった。太ったご婦人方が輪になってすわって芝生《しばふ》の上にスカートをふくらませていた。青い湖の上にさしかわしている枝々のあいだを、グレーチヘン〔『ファウスト』の登場人物だが、ここではドイツの乙女たちのこと〕たちと大学生たちがパイプの煙に包まれながら三々五々通って行った。ちょっと先のマクシミリアン公園の森の空地では百姓の婚礼がおこなわれている。騒々しく、けばけばしく、脚榻《きゃたつ》をならべた長机の前で飲んでいる。一方、ひとりの密漁監視人が緑色の服を着て銃を手に射撃姿勢を取り、プロイセン兵が使用して大成果をあげたあのすばらしい撃針《げきしん》式の銃〔普墺戦争のさい、プロイセン軍はこの新型の小銃でオーストリア軍を制圧した〕を見せびらかしている。そういうものでも見なければ、そこから数里のところで戦争がおこなわれているなどとわたしは思いだせなかった。けれども戦争はおこなわれていたのだ。その証拠に、その夜ミュンヘンに帰ってわたしは、教会の一|隅《ぐう》のように人目につかないひっそりとした小広場の、マリーエンゾイレ〔聖母マリアをまつった石柱〕のまわりにずっとろうそくがともされ、ひざまずいた女たちが長い嗚咽《おえつ》でふるえる声で祈りをあげているのを見たのだから……
6 バヴァリア
数年前からフランス人の盲目的愛国主義《ショーヴィニスム》、愛国心からの愚行《ぐこう》、虚栄心《きょえいしん》、誇張癖《こちょうへき》についていろいろと書かれているけれども、わたしはバイエルンの国民以上に高慢ちきでいばりくさってうぬぼれた国民がヨーロッパにいるとは思わない。ドイツ全史のなかから取りだした十ページばかりのごくささやかなバイエルンの歴史が、絵画となり記念物となってばかでかく仰山《ぎょうさん》にミュンヘンの町々に誇示《こじ》されている。まるで子どもにお年玉としてやる絵本の趣《おもむき》だ。文章はほとんどなく、絵がむやみに多いのだ。パリには凱旋門《がいせんもん》は一つしかない。バイエルンには十もある。勝利の門だの、元帥の柱廊だの、「バイエルン戦士の勇武のために」建てられたいくつとも知れぬオベリスクだのと。
この国で有名人であるってことはたいしたことだ。その名前はいたるところで石やブロンズに刻まれ、すくなくとも一度は広場の中央に、ないしは白大理石の勝利の女神像にまじってフリーズの高いところに彫像《ちょうぞう》を立ててもらえること請合《うけあ》いなんだから。この彫像や英雄|崇拝《すうはい》や記念物への熱中は、この善良な国民にあっては実にとほうもないものになっていて、そのため彼らは町かどに、まだ未知のあすの名士をのせるため万全の準備をととのえて、主《ぬし》のない台座をちゃんと立てているほどなのだ。今ではどの広場もふさがってしまっているに相違ない。一八七〇年の戦争は彼らに無数の英雄を、無数の武勲談を供給したろうから!……
たとえばわたしは、緑の小公園のまんなかに古代ふうの簡易な衣服で立っている有名なフォン・デア・タン将軍を想像すると楽しい。その美しい台石の片面は「バゼイユの村を焼き払うバイエルンの戦士たち」を、他面は「ヴェルトの看護所でフランス負傷兵を虐殺《ぎゃくさつ》するバイエルンの戦士たち」をあらわすバス・リリーフで飾られているのだ。なんという豪華な記念物となることだろう!
このように偉人らを町じゅうに散らばせておくだけでは満足できずに、バイエルン人はミュンヘンの市門のそばにある殿堂に彼らを集め、この殿堂を Ruhmeshalle(名誉の広間)と呼んでいる。正方形の三辺をなして直角につらなっている大理石の列柱の大きな廻廊には、選帝侯、国王、将軍、法律家その他の半身像が(そのカタログは番人のところにある)小卓の上にならんでいる。
ちょっと前のほうに巨大な一つの像がそびえている。公園の緑のなかで露天に立っているあのまことに陰気な階段の一つのてっぺんに立っている。高さ九十尺の「バヴァリア」の像〔バヴァリアはバイエルンのラテン名、この像はバイエルンを象徴する女性像である〕だ。ライオンの皮を肩にかけ、片手に剣をにぎり、名誉の(あいかわらず名誉だ!)冠《かんむり》をもう一方の手に持ったこのばかでっかい青銅像は、物の影がいやに長く伸びる八月の日の暮れ方の、わたしがそれを見た時刻には、ひっそりとした平原をその仰々《ぎょうぎょう》しい身ぶりで満たしていたものだ。そのまわりの円柱にそって名士たちの横顔は落日にゆがんでいる。それらすべてはまことに索漠《さくばく》とした、まことに暗鬱なながめだった! 自分の足音が石畳《いしだたみ》の上に鳴るのを聞きながら、わたしはミュンヘン到着以来わたしにつきまとっていたあの空虚《くうきょ》における偉大さという印象をまた見出したのだ。
鋳鉄《ちゅうてつ》の小さな階段が螺旋形《らせんけい》にこの「バヴァリア」の像の内部に上って行く。わたしはその上まで昇り、巨像の頭のなかの、二つの目の窓から光を採《と》っている小亭ふうの小さなサロンにしばしすわってみようという気まぐれをおこした。この二つの目がアルプスの青い連なりにむかって開かれているにもかかわらず、中はひどく暑かった。日光に熱せられたブロンズは重苦しい暑さでわたしを包んだ。わたしはいそいで降りざるを得なかった……。が、それはともかく、おまえを知るにはそれで十分だったのだ! わたしはおまえの心臓のない胸を、歌姫のようなぶくぶくした筋肉のない腕を、ハンマーで型をつけたおまえの剣を見、おまえのがらんどうの頭のなかにビール飲みの鈍重《どんじゅう》な酔《よ》いと脳髄《のうずい》の麻痺《まひ》を感じ取ったのだ……。いやはや、あの一八七〇年の狂気の戦争に乗り出すとき、わが国の外交官たちがおまえを当てにしたなどとは〔独仏開戦前にフランスはバイエルンを含む南ドイツ四王国を懐柔しようとした〕。ああ、彼らも一度バヴァリアの像のなかにはいってみたとしたら!
7 盲の皇帝?……
ミュンヘンに来て十日にもなったが、例の日本の悲劇についてはまだなんの音沙汰《おとさた》もなかった。わたしは絶望しかけていたが、ある夜わたしたちが食事していたビヤホールの小さな庭に大佐が喜色満面に浮かべてやって来るのをわたしは見た。
「着きましたよ!」と彼はわたしに言った。「あすの朝、博物館に来てくださらんか……。いっしょに読みましょう、どんなにすばらしいか」
その夜は彼はひどく威勢《いせい》がよかった。話しながら彼の目はかがやいた。大声で悲劇の幾節かを朗唱し、合唱を歌って見せようとした。彼の姪《めい》は二、三度「おずさん……おずさん……」と言って彼をだまらせようとせずにはいられなかった。わたしはこの熱狂、この昂奮《こうふん》を、純粋の詩的霊感によるものだと思った。事実彼が朗読してくれた断片はわたしにもひじょうに美しく思われ、わたしはこの傑作を早く手に入れたいものと思った。
翌日わたしは王宮の庭園にやって来て、コレクションの展示室がとざされているのを見てまことにびっくりした。大佐が自分の博物館にいない、そんなことはあまりにも異常に思われたので、わたしは漠《ばく》とした不安を感じながら彼の家に駈けつけた。彼が住んでいるのは静かな短い場末の通りで、庭や背の低い家々がならんでいたが、そこがいつもよりざわざわしているようにわたしには思われた。人々は門前に集っておしゃべりしていた。シーボルト家の門はとざされ、鎧戸《よろいど》はあいていた。
人々は悲しい顔をして出たりはいったりしていた。この家にはおさまりきらずに通りまであふれだしているほど大きな何かの凶事《きょうじ》がそこに感じ取られた……。家まで来るとすすり泣きが聞こえた。それは小さな廊下の奥の書斎のように乱雑な明るい大きな部屋からだった。そこには樅材《もみざい》の長い机と、書物、原稿、コレクションのガラス箱、錦綾《きんりょう》で表装したアルバムがあった。壁には日本の武器や版画や大きな地図がかかり、この旅と研究の成果が雑然としているなかに大佐は長いまっすぐな髯《ひげ》を胸の上にたらしてベッドの上で横たわっており、あのあわれな「おずさん」嬢は片すみにひざまずいて泣いていた。フォン・シーボルト氏は夜のうちに急死したのだった。
わたしはこのような悲歎《ひたん》をつまらぬ文学的|酔狂《すいきょう》のためにみだすに忍びずに、その夜のうちにミュンヘンを去った。そういう次第で、わたしはあの日本のすばらしい悲劇については『盲の皇帝』というその題名だけしか、ついに知りえなかったのである!……その後われわれは、ドイツから持ち帰ったこの題名がまさにぴったりするような別の悲劇が演じられるのを見た。血と涙にみちた陰惨な悲劇だった。ただしこのほうは日本のものではないが〔フランスのナポレオン三世が「盲の皇帝」だったという暗示である〕。
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解説
アルザスの物語、『月曜物語』
『月曜物語』をほとんど三十年ぶりにひもといてみて、正直なところ、びっくりするほどおもしろかった。文学論はともかくとして、多彩で柔軟なドーデの筆致が、いかにもすなおに、個人的な思い出をさそいだしてくれたせいであるかもしれない。
もう十年以上も昔のことになるが、西南ドイツの大学町、フライブルクを皮切りにして、シュトラースブルク、コルマールへと、美術史研究の旅に出かけたことがあった。シュトラースブルクといえば、ドイツ人と私たち日本人のドイツ文学者とは、すぐにゲーテの青春時代を考えて、シュトラースブルクと呼び、フランス人と日本のフランス文学者とは、どちらも自分のもののような顔をして、ストラスブールと呼んでいる町である。
さてそのシュトラースブルクないしはストラスブールで、旅に同行した皮肉なギリシア人が、町の食堂で食事をするたびごとに、ボーイに向かって「汝《なんじ》はドイツ人なりや、はたまたフランス人なりや?」と意地悪くきいてまわるのだった。すると、どのボーイも口をつぐんでしばらく考えたあと、「私はアルザス人です」と答えたのである。戦後も十年近くて、当時アルザスはもう明瞭にフランス領だった。
もちろんこの問答の際に、質問者であるギリシア人が、ドイツ語を使っていたことも計算に入れなければならないが、それでも私はそこに、もう遠い中世の時代から、独仏両国にはさまれて、いつどちらに分捕《ぶんど》られるかもわからないこの地方の悲劇と、それから生じた自衛の手段、さらにまた、この地方の人々の必死の自尊心とを見る思いがした。
『月曜物語』の感動的な最初の物語、「最後の授業」は、フランスとフランス語を愛する一老先生と生徒を通じて、プロシアに占領されたこの地方の悲哀を、いかにもあたたかくほほえましく、それだけまた一層痛切に描き出したものである。戦争と戦時を描いても、けっして諧謔《かいぎゃく》を忘れないドーデの、心憎いまでに繊細な筆先きに感動しながら、私はこうした自分の体験を、ほほえみながら思い出すのだった。
おなじように「コルマール判事の見た幻」を読んでも、私はこの町の美術館に、ドイツ・ルネサンス期有数の画家である、グリューネヴァルトの名画が収められていることを、かたわらで思い出さずにはいられなかった。
『月曜物語』は成立した時代からして、当時普仏戦争に取材したものを多く含んでいるが、ここで憎まれ、さげすまれ、からかわれているプロシア兵たちとは、プロシアを盟主としたドイツ帝国の再興をはかる鉄血宰相ビスマルクの巧妙な政策のなかで、縦横に動かされていた兵隊たちなのである。スペインが、ホーエンツォレルン家の王子を国王に迎えようとしたことから端を発して、一八七〇年七月十九日、フランスは宣戦布告を行なったが、モルトケ将軍の指揮下にラインを越えたドイツ軍は、八月上旬にアルザス地方を席巻《せっけん》し、一方フランス軍の主力は、メスの要塞に包囲されたまま動けず、その救援に向かったナポレオン三世は、途中のスダンでドイツ軍の捕虜《ほりょ》となり、九月二日にはプロイセンの軍門に降《くだ》ったのである。九月四日、フランスは共和国となるが、九月十九日にはパリの包囲戦が開始されて、長い籠城《ろうじょう》を続けたあと、翌年の一月二十八日に陥落、二月二十六日にベルサイユで休戦条約が結ばれると見るまに、三月から五月にかけては暴動が起き、パリはコミューンの支配下にはいるが、激しい攻防のうちに、結局プロレタリアートの敗北に終わるのである。たいへんな激動期である。そして、この激動期を通じて、もっとも人の心を支配していたのは、プロシアに対する憎しみと復讐の念だった。
だいたいフランスとドイツのナショナリズムを比較してみると、フランスの政治体制が世界にさきがけていたために、そのナショナリズムが後世の審判の前で正当化され、ドイツの政治体制がひどく立ち遅れていたために、そのナショナリズムが、反動と戦犯の罪を犯している例が多い。封建的な分邦主義にわずらわされていたドイツ諸国が、統一を実現しようとしてナショナリズムを発揮するたびごとに、重大な戦争犯罪を犯すその不運と不幸には、国外のドイツ文学者でさえも、まことに長嘆息を禁じ得ないものがある。普仏戦争のときも例外ではない。モーパッサンの短編にも、当時のプロシア兵の残虐行為を扱ったものがあるとおりで、野蛮な軍事国家に占領された先進文化国の胸の痛みは、恐ろしく激しかったようである。
しかしそれはさておき、ドーデはこうした激動期を描いても、やはり『風車小屋だより』のドーデであり、やさしいレアルな目でとらえられた風物と人間とは、読み終えたあとにもまことにすがすがしい印象を残してゆく。
最後の短篇「盲の皇帝」は、ドイツに縁のある日本人が読むものとして、興味が深い。シーボルトは医者として、日本に大きな功績をのこした人物であり、『江戸参府紀行』などの著者でもあるが、一九六六年はその没後百年祭が行われ、シーボルトのドイツにのこした子孫と、シーボルトの日本にのこした子孫とが、東京で顔を合わせている。そしてまた、明治百年ともなれば、シーボルトの名前は忘れることのできないものである。ドーデが、シーボルトの日本にのこした恋人おたきと娘のおいねのことを知っていたなら、またどんな短編が生まれたろうかと、つい想像もしてみたくなる。
『月曜物語』が書かれてからほぼ百年するころに、シーボルトの没後百年と明治百年とが、踵《きびす》を接して回顧されるのも一つの奇縁であろうし、ドーデというフランスの作家によって、このドイツと日本の結びつきが描かれているのも、百年後の日本のドイツ文学者にとっては、いかにもおもしろいめぐり合わせなのである。(辻|※[#「王+星」、unicode7446]《ひかる》)
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訳者あとがき
山の近い小駅のそばの閑散な飲食店のなかのことだ。そろそろ日は暮れかかっていたが、この埃《ほこり》っぽい店を見つけて、東京へ帰る汽車を待つあいだちびちびと酒を嘗《な》めていた。そこへくたびれた暖簾《のれん》をかきわけて女の子が三人ほどはいって来た。リュックサックを背負い、秋の山の花をそれぞれ手に持った、勿論《もちろん》ハイキング帰りの娘さんである。先頭の派手なネッカチーフを頭に結んだ血色のいい娘さんが、リュックサックをおろしながら薄暗い奥のほうに声をかけた。
「すみません、ラーメン、三コね」
ラーメン三コ、――くすんだ店のなかが彼女の出現だけで明るくなるような、都会的な魅力を持ったその娘さんは、たしかに≪三コ≫と言ったのだ。
もう大分前のこと、この「ラーメン三コ」嬢と同じように魅力的な娘さんにフランス語の手ほどきをしたことがある。私はあいかわらず酒を嘗めながら、酔いのこころよい痺《しび》れのようなものに包まれた頭の片隅で、この娘さんがわざとこまっちゃくれた顔をして言った言葉を思い出していた。
「ああ、フランス語って、なぜそんなにうるさい規則だの仕来《しきた》りってものだのがあるんでしょう。もうやめっちゃおうかしら」
フランス語では祖父のことを grand-pere という。その複数は grands-peres である。祖母は grand-mere で、その複数は grand-meres だ。つまり祖母の場合に grand にsがつかない。「どうして?」と彼女はきいた。その理由らしきものを説明してから、「理由はともかく、そうなっているんだということは忘れてはいけませんよ」と私が言ったのに対する答えが、さきほどの歎声だったのである。
ラーメンでも饅頭《まんじゅう》でも、人間でも犬でも象でも鳥でも、紙でも服でも靴でも箪笥《たんす》でも一コ二コと数えればいいと思う娘さんたちと、外国語に「規則だの仕来りだの」があるから勉強したくないという学生諸君とに共通しているのは、ことばというものの軽視である――と言い切ってしまっていいかどうかはわからない。あるいはまた、そう言うのは大人気《おとなげ》ないことかもしれない。しかしもしそうだとすれば、そこにはかなり由々しい問題があるはずだ。便宜主義というものは言葉を乱すだけでなく思考をも乱す。そして言葉を乱すことは結局言葉を殺すことにもなるのである。
厄介な話になったが、こんなことを言い出したのは無論本書の冒頭の「最後の授業」のおかげである。アルザス人であるアメル先生が(元来アルザス人はドイツ系であり、そのそもそもの母語はドイツ語なのだ)、フランス語の美しさ、明晰さ、力強さを讃えるのは、十七世紀以来フランスに属して来たアルザス人の、この国の普遍主義的な文化への帰属感によるのであろう。アルザスの人々は最後までプロイセンの支配を喜ばず、第一次大戦におけるドイツの敗北でようやく血の母国から心の母国に復帰することができた。これはたしかにフランス文化の偉大さを証明する事実だろう。
そういうフランスの国語なればこそ愛着もし尊重もすることができるのだ、それにひきかえ日本語などは、と言う人がいるとすれば、それはその人にとって不幸なことではあるまいか。すべてのナショナリズムを好まない私は、言葉のナショナリズムやお国自慢はとりわけて無意味なものと思う――たといそれがフランス人の場合であっても。私が望むのは、「言葉」というもの自体を尊重し、そして(偶然にであろうと)現にわれわれが使っている日本語を尊重することだ。そうして私は、日本の国語教育者がアメル先生と同じ歎きを持たないように念じている。
言うまでもなく翻訳者も日本語を操《あやつ》る人間である。してみれば、以上に述べたことはそのままこちらへ投げ返される手榴弾《しゅりゅうだん》かもしれない。爆死するのは覚悟の上と≪みえ≫を切る度胸のない私は、コミューンの際のドーデに倣《なら》って戦線を離脱することにしよう。
一九六七年十二月二十日