目次
罪と罰
第一部
第二部
第三部
第四部
第五部
第六部
エピローグ
解説(工藤精一郎)
年譜
罪と罰
第一部
1
七月はじめの酷暑のころのある日の夕暮れ近く、一人の青年が、小部屋を借りているS横町のある建物の門をふらりと出て、思いまようらしく、のろのろと、K橋のほうへ歩きだした。
彼は運よく階段のところでおかみに会わずにすんだ。彼の小部屋は高い五階建の建物の屋根裏にあって、部屋というよりは、納《なん》戸《ど》に近かった。賄《まかな》いと女中つきでこの小部屋を彼に貸していたおかみの部屋は、一階下にあって、彼の小部屋とははなれていたが、外へ出ようと思えば、たいていは階段に向い開けはなしになっているおかみの台所のまえを、どうしても通らなければならなかった。そして青年はその台所のまえを通るたびに、なんとなく重苦しい気おくれを感じて、そんな自分の気持が恥ずかしくなり、顔をしかめるのだった。借りがたまっていて、おかみに会うのがこわかったのである。
しかし、彼はそんなに臆病《おくびょう》で、いじけていたわけではなく、むしろその反対といっていいほどだった。ところが、あるときから、彼はヒポコンデリーに似た苛《いら》立《だ》たしい不安な気持になやまされるようになった。彼はすっかり自分のからにとじこもり、世間からかくれてしまったので、おかみだけでなく、誰《だれ》と会うのもおそれた。彼は貧乏におしひしがれていた。しかしこの頃《ごろ》はこのぎりぎりの貧乏さえも苦にならなくなった。毎日の自分の仕事も、すっかりやめてしまったし、しようという気もなかった。実をいえば、どんな悪だくみをされようと、おかみなんかすこしもこわくはなかったのである。といって、階段でつかまって、自分にはなんの関係もないくだらないこまごました世間話を聞かされたり、おどかしや泣きおとしで、しつこく払いを催促されて、のらりくらり逃げをうち、あやまったり、ごまかしたりするのは、――やりきれない。それよりはむしろ猫《ねこ》のようにそっと階段をすりぬけて、誰にも見とがめられずに逃げ出すほうがましである。
しかし今日は、通りへ出てしまってから、おかみに会いはしないかと自分でもあきれるほどびくびくしていたことに気がついた。
《これほどの大事をくわだてながら、なんとつまらんことにびくびくしているのだ!》彼は奇妙な笑いをうかべながら考えた。《フム……そうだ……すべては人間の手の中にあるのだ、それをみすみす逃がしてしまうのは、ひとえに臆病のせいなのだ……これはもうわかりきったことだ……ところで、人間がもっともおそれているのは何だろう? 彼らがもっともおそれているのは、新しい一歩、新しい自分の言葉だ。だからおれはしゃべるだけで、何もしないのだ。いや、もしかしたら、何もしないから、しゃべってばかりいるのかもしれぬ。おれがしゃべることをおぼえたのは、この一月《ひとつき》だ。何日も部屋の片隅《かたすみ》にねころがって、大昔のことを考えながら……。ところで、おれはいまなんのために行くのだ? 果しておれにあれ《・・》ができるだろうか? いったいあれ《・・》は重大なことだろうか? ぜんぜん重大なことではない。とすると、幻想にとらわれて一人でいい気になっているわけだ。あそびだ! そうだ、どうやらこれはあそびらしいぞ!》
通りはおそろしい暑さだった。おまけに雑踏で人いきれがひどく、どこを見ても石灰、材木、煉《れん》瓦《が》、土埃《つちぼこり》、そして別荘を借りる力のないペテルブルグ人なら誰でも、いやというほど知らされている、あの言うに言われぬ夏の悪臭、――こういったものが一度にどっと青年をおしつつんで、そうでなくてもみだれた神経をいよいよ不快なものにした。市内のこのあたりには特に多い居酒屋から流れでる鼻持ちならぬ臭気と、まだ明るいというのに、たえず行きあたる飲んだくれが、まわりの風景のむかむかするような陰欝《いんうつ》な色彩を、いよいよやりきれないものにしていた。深い嫌《けん》悪《お》感《かん》が青年の端正な顔にちらとうかんだ。ついでながら、彼は黒い目がきれいにすみ、栗色《くりいろ》の髪をした、おどろくほどの美青年で、背丈はやや高く、やせ気味で、均斉《きんせい》がとれていた。だがすぐに、彼は深い瞑想《めいそう》にしずんだように見えた、いやそれよりも、忘却にとらわれたというほうがあたっていよう。そしてもうまわりを見ないで、しかも見ようともしないで、歩きだした。時折り、この頃のくせで、ぶつぶつひとりごとを言ったが、そのくせもいまはじめて気がついたのだった。いまになって、彼は、自分の考えがときどき混乱することと、身体《からだ》がひどく衰弱していることを、自分でも認めた。昨日からほとんど何も食べていなかった。
彼はひどい服装をしていた。ほかの者なら、いいかげん汚ないものを着なれている人間でも、こんなぼろをまとっては恥ずかしくて、おそらく昼の街へは出られまい。しかしこのあたりは、身なりで人をおどろかすことはむずかしかった。センナヤ広場に近いし、いかがわしいあそび場が多く、特にここらはペテルブルグのどまん中にあたり、街筋や路地裏は工員や職人などの吹きだまりになっていて、奇妙な服装が街の風景をいろどることは珍しくなかった。だからへんな風采《ふうさい》に会ったからといって、びっくりするほうがおかしいようなものだ。しかも青年の心には毒々しい侮《ぶ》蔑《べつ》の気持がいっぱいにつまっていたから、だいたいが気にするほうで、時には少年のように恥ずかしがるのに、いまはぼろをまとって通りを歩いていることがすこしも気にならなかった。しかし知人とか、常々会いたくないと思っているような旧友たちに出会うとなれば、話は別である……ところが、そのとき大きな駄馬《だば》にひかれた大きな荷馬車が通りかかって、どういうわけでどこへ運ばれて行くのか、その上にのっかっていた一人の酔っぱらいが、通りしなにだしぬけに、彼のほうを指さしながら、《おいこら、ドイツのシャッポ!》とありたけの声でどなったとき、青年は思わず立ちどまって、あわてて帽子へ手をやった。それは山の高い、まるい、ツィンメルマン製の帽子だが、もうすっかりくたびれて、にんじん色に変色し、虫くい穴としみだらけで、つばもとれ、そのうえかどがぶざまにつぶれて横っちょのほうへとびだしていた。だが、彼をとらえたのは、羞恥《しゅうち》ではなく、驚愕《きょうがく》にさえ似たぜんぜん別な感情だった。
「だから言わんことじゃない!」彼はうろたえながらつぶやいた。「こんなことだろうと思っていたんだ! これがいちばんいまわしいことだ! よくこういううかつな、なんでもない小さなことから、計画がすっかりくずれてしまうものだ! それにしても、この帽子は目立ちすぎた……おかしいから、目立つんだ……このぼろ服にはぜったいに学帽でなきゃいけなかったんだ。せんべいみたいにつぶれていたってかまやしない。へまをやったものだ。こんな帽子は誰もかぶってやしない。一キロ先からでも目について、おぼえられてしまう……まずいことに、あとで思い出されると、それが証拠になる。とにかく、できるだけ目につかないようにすることだ……小さなこと、小さなことが大切なのだ!……その小さなことが、いつもすべてをだめにしてしまうのだ……」
そこまではいくらもなかった。彼の家の門から何歩あるかまで、彼は知っていた。ちょうど七百三十歩だ。もうすっかり空想にとらわれていた頃、一度それをはかったことがあった。その頃はまだ自分でも、その空想を信じていなかった、そして何ということなく、その空想のみにくいが、しかし心をひきつける大胆さに、いらいらさせられていたのだった。それから一カ月すぎたいまでは、彼はそれをもう別な目で見るようになった、そして自分の無力と優柔不断にたえず自嘲《じちょう》の言葉をあびせてはいたが、いつの間にか、自分ではそんなつもりもなく、その《いまわしい》空想を既定の計画と考えることになれてしまった。とはいえ、まだ自分にそれができるとは信じていなかった。彼はいまでさえ、自分の計画のリハーサル《・・・・・》をするために歩いているのだ、そして一歩ごとに、興奮がいよいよはげしくなってきた。
彼は心臓が凍りそうな思いで、過度の緊張でがくがくふるえながら、運河と裏通りに前後を接しているおそろしく大きな建物へ近づいて行った。この建物は全体が小さな貸間にわかれていて、仕立屋や錠前屋などあらゆる種類の職人、料理女、さまざまな職業のドイツ人、売春婦、小役人といったような人々が住んでいた。だから出入りがはげしく、二つの門と二つの内庭にはほとんど人の行き来がたえたことがなかった。庭番も三、四人はたらいていた。その一人にも出会わなかったので、青年はほっとして、目立たないように急いで門から右手の階段へすべりこんだ。階段は暗くてせまい《裏口階段》だったが、彼はもうすっかり調べつくして、そらでおぼえていた。条件はことごとく彼の気に入った。こう暗くては、もの好きな目でも心配はなかった。《いまからこんなにびくびくしていたら、いよいよ実際にこと《・・》に直面するようなことになったら、いったいどうなるだろう?……》四階への階段をのぼりながら、彼は思わずこんなことを考えた。ここまで来ると、除隊兵の運送人夫たちが行く手をふさいだ。ある部屋から家具をはこび出していたのである。彼はもうかねがね、この部屋にはドイツ人官吏の一家が住んでいたことを知っていた。《ははあ、あのドイツ人はいま引っ越して行くところだな、とすると、四階には、この階段も、この踊り場も、しばらくは、婆《ばあ》さんの部屋だけになるわけだ。ありがたい……万一の場合には……》彼はまたこんなことを考えて、老婆の部屋の呼鈴《よびりん》を押した。呼鈴は銅ではなく、ブリキでできているみたいに、弱々しくわれた音をたてた。このような建物の中のこのような小さな部屋には、ほとんどといっていいくらい、こんな呼鈴がついていた。彼はもうこの呼鈴の音を忘れていた、そしていまこの異様な音が、不意に彼にあることを思い出させ、それをはっきりと見せてくれたような気がした……彼はぎくっとした。この頃は神経が極度に弱っていたのである。しばらくするとドアがわずかに開いて、細い隙《すき》間《ま》ができた。そしてその隙間から老婆がいかにもうたぐり深そうに客をじろじろ見まわした。闇《やみ》に光る老婆の目だけが見えた。しかし踊り場にたくさんの人がいるのを見ると、老婆は安心して、ドアをいっぱいに開けた。青年はしきいをまたいで暗い控室へ入った。そこは板壁で仕切られて、かげは小さな台所になっていた。老婆は黙って青年のまえにつっ立ったまま、うろんそうに相手を見つめた。それは六十前後のひからびた小さな老婆で、意地わるそうなけわしい小さな目をもち、小さな鼻がするどくとがって、頭には何もかぶっていなかった。白いものがあまりまじっていない灰色の髪には油が濃すぎるほどに塗られていた。鶏のあしのようなひょろ長い首には、フランネルのぼろのようなものがまきつけられ、この暑いのに、肩にはもうすっかりすりきれて黄色っぽく変色した毛皮の胴着がかけられていた。老婆はたえず咳《せき》をしたり、のどを鳴らしたりした。きっと、老婆を見る青年の目に普通でないものがあったのだろう、老婆の目にも不意にまたさきほどの警戒の色がうかんだ。
「ラスコーリニコフ、一月ほどまえに一度うかがったことのある学生です」青年は、もっとやさしくしなければならないことに気がついて、軽く頭を下げながら、あわててつぶやくように言った。
「おぼえてますよ、学生さん、あなたが来たことは、よくおぼえてますよ」うたがわしそうな目を青年の顔からはなさずに、老婆ははっきりと言った。
「それはどうも……ところでまた、例の用事で……」とラスコーリニコフは、老婆のうたぐり深さにおどろきながら、いささかうろたえ気味につづけた。
《ひょっとしたら、この婆さんはいつもこうで、あのときは気づかなかったのかもしれん》と考えて、彼は不愉快な気持になった。
老婆は思案しているらしく、しばらく黙っていたが、やがてわきへ身をひいて、奥の部屋のドアを指さし、客を通しながら、言った。
「お入りなさい、学生さん」
青年が通されたのは、小さな部屋だった。黄色い壁紙がはってあり、ゼラニウムの鉢植《はちうえ》がいくつかおいてあって、窓にモスリンのカーテンが下がっていたが、ちょうどそのとき入日をまともに受けて、明るく染まった。《あのとき《・・・・》も、きっと、こんなふうに日がさしこむにちがいない!……》だしぬけに、こんな考えがラスコーリニコフの頭にうかんだ、そして彼は、できるだけよく見て、室内の配置を頭の中に入れておくために、室内のすべてのものに急いで視線を走らせた。しかし室内には目ぼしいものは何もなかった。家具類は、ひどく古いマホガニー製のものばかりで、そりかえったおそろしく高い木の背がついているソファと、そのまえにおいてある長円形の卓と、窓のそばの壁際《かべぎわ》の小さな鏡のついた化粧台と、やはり壁際に椅子《いす》が数脚、それに小鳥をてのひらにのせたドイツ娘が描いてある、黄色い額縁に入った安物の絵が二、三枚、――これで全部だった。片隅には小さな聖像のまえに灯明がともっていた。すべてがひじょうに清潔だった。家具も、床《ゆか》もつやぶきをかけられて、ぴかぴかひかっていた。《リザヴェータのしごとだな》と青年は考えた。部屋の中にはちり一つ見あたらなかった。《強欲な後家婆《ばば》ぁのところにかぎって、よくこんなふうにきれいになっているものだ》ラスコーリニコフは腹の中でこんなことを考えつづけながら、小さな次の間に通じるドアのまえに下げられた更《さら》紗《さ》のカーテンを、さぐるように横目で見た。そこは老婆の寝台とタンスがおいてある部屋で、彼はまだ一度ものぞいて見たことがなかった。住居はこの二つの部屋からできていた。
「ご用は?」老婆は部屋へ入ると、またさっきのように青年の目のまえに立ちはだかって、相手の顔をまともに見すえながら、とげとげしく言った。
「質草を持って来たんですが、これです!」そう言って彼は、ポケットから古い平べったい銀時計をとりだした。蓋《ふた》の裏に地球儀が描いてあった。鎖はスチールだった。
「でも、まえの口はもう期限ですよ。もう一月を三日すぎましたからねえ」
「もう一月分の利息を入れますから、こらえてくださいよ」
「さあ、こらえてあげるか、いますぐ流してしまうか、それはわたしの勝手ですよ」
「この時計でどのくらい貸してもらえるかね、アリョーナ・イワーノヴナ?」
「よくもまあ、くだらないものばかり持ってきますねえ、学生さん、値段のつけようがありませんよ。このまえは指輪で二枚貸してあげたけど、あんなものは宝石店へ行けば新しいのが一枚半で買えるんだよ」
「四ルーブリほど貸してくださいよ、流しません、親父《おやじ》のですから。もうじき金がはいります」
「一ルーブリ半で利息天引きだね、いやなら結構だよ」
「一ルーブリ半!」青年はおもわず大きな声をだした。
「どちらでもお好きに」
老婆はそう言って彼のほうへ時計をさしだした。青年はそれをひったくると、かっとなって、とび出そうとしたが、すぐに思い直した。ここを出ても行くあてがないことと、ここへ来たのにはもう一つ別な目的があったことを、思い出したのである。
「まあいいや!」と彼はつっかかるように言った。
老婆はかくしへ手をつっこんで鍵《かぎ》をさぐり、カーテンのかげの次の間のほうへ行った。青年は部屋のまん中に一人だけになると、身体《からだ》中《じゅう》を耳にして、計画をねりはじめた。老婆がタンスを開ける音が聞えた。《おそらく、上の小ひきだしにちがいない》と青年は考えた。《鍵は、右のポケットに入れていることがわかった……全部ひとまとめにして、鉄の輪に通してある……一つだけ、ほかの三倍も大きい、ぎざぎざのきざみのついた鍵があったが、あんなものは、もちろん、タンスの鍵じゃない……とすると、ほかにまだ手箱か、長持があるにちがいない……こいつはおもしろいぞ。長持の鍵ってたいていあんなやつだ……しかし、おれはなんということを、ああいやだ……》
老婆がもどってきた。
「じゃ、学生さん、一月一ルーブリで十コペイカとして、一ルーブリ半だと十五コペイカ、一月分の利息としてひかせてもらいますよ。それにこのまえの二ルーブリの分が二十コペイカ、これもひかせてもらうと、全部で三十五コペイカ差引きということになります。そうするといまあなたがこの時計をあずけて受けとる手取りは、一ルーブリ十五コペイカになるわけですね。さあどうぞ」
「なんですって! それじゃいまもらえるのは一ルーブリ十五コペイカだけですか!」
「そうですとも」
青年はあらそう気もなくなって、金を受け取った。彼はじっと老婆を見つめたまま、かえりしぶっていた。まだ何か言いたいことが、したいことがありそうな気がするのだが、それが何なのか、自分でもわからないらしかった……
「アリョーナ・イワーノヴナ、もしかしたら、二、三日うちにまた来るかもしれません、今度は……銀の……すばらしいやつですよ……シガレットケースです……友だちからとりかえしたら……」
青年はどぎまぎして、口ごもった。
「まあ、それはそのときの話にしましょうよ、学生さん」
「じゃ、失礼します……あなたはいつも一人きりですね、妹さんは?」と彼は控室のほうへ出て行きながら、できるだけ何気ない様子で尋ねた。
「妹にどんな用事があるんだね?」
「いや、別に。ただ聞いただけですよ。あなたはすぐに……じゃさようなら、アリョーナ・イワーノヴナ!」
ラスコーリニコフはすっかりうろたえてそこを出た。この狼狽《ろうばい》はますますはげしくなった。階段の途中で、突然何かにおびえたように、二、三度びくっと立ちどまりさえした。そして、もう通りへ出てしまってから、彼はこらえきれなくなって叫んだ。
《ああ! なんといういまわしいことだ! いったい、いったいおれは……いや、こんなことはたわけたことだ、愚劣だ!》そして彼はきっぱりと言い加えた。《それにしても、よくもこんな恐ろしい考えが、おれの頭にうかんだものだ! おれの心は、なんというけがらわしいことに向いているのだ! なんとしても、けがらわしい、きたない、ああいやだ、いやだ!……それなのにおれは、まる一月も……》
しかし彼は言葉でも、叫びでも、心のみだれを表現することができなかった。老婆の家へ出かけて行くときからもう彼の心を圧迫し、さいなみはじめていた、底知れぬ嫌悪感が、ここへきてその頂点に達し、それをまざまざと見せつけられたので、彼はそのやりきれないさびしさから逃れるすべを知らなかった。彼は酒に酔ったように、通行人の姿に気づかないでつきあたりながら、ふらふらと歩道をたどって行った。そして次の通りへ出てからやっと気がついた。あたりを見まわすと、彼は居酒屋のそばに立っていた。居酒屋は地下室になっていて、入り口には歩道から階段が通じていた。ちょうどそのとき、ドアが開いて、酔っぱらいが二人もつれあって、わめきちらしながら、通りへ出てきた。ろくに考えもしないで、ラスコーリニコフはすぐに階段を下りて行った。彼はこれまで一度も居酒屋へなど入ったことがなかったが、いまは頭がくらくらしていたし、それに焼けつくような渇《かわ》きに苦しめられていた。冷たいビールを飲みたかったし、まして、思いがけぬこの弱りようは空腹のせいだと思ったのである。彼はうす暗いきたない隅のほうのねとねとするテーブルについて、ビールをたのみ、はじめの一杯をむさぼるように飲んだ。たちまちわずらわしさがすうッととれて、考えがはっきりしてきた。《なあに、みんなつまらないことさ》彼は救いを見つけようとして言った。《何もうろたえることなんかなかったんだ!ただの肉体の不調さ! 一杯のビール、一かけらの砂糖――それでどうだ、たちまち、頭がしっかりして、考えがはっきりし、意志が定まってくるじゃないか! チエッ、何もかもなんてくだらないんだ!……》ところが、こう侮《ぶ》蔑《べつ》の言葉をはきちらして強がってはみたものの、彼はもう、何かおそろしい重荷から不意に解放されたように、晴れやかな顔になって、親しげにあたりの人々を見まわした。だが、その瞬間でも彼は心のどこかで、こう何でもよいほうにとりたがる気持も、やはり一種の病気なのだと、かすかに感じていた。
その時間、居酒屋には客がちらほらしかいなかった。階段で会ったあの二人の酔っぱらいのほか、すぐにあとを追うようにして、女を一人まじえて、アコーデオンを鳴らしていた五人ばかりの一団が、どやどやと出て行ったので、店内は急にしずかになって、広くなった。あとにのこったのは、ビールをまえに坐《すわ》っている、そう酔っていそうにも見えない、町人風の男と、その連れの立襟《たちえり》の短いカフタンを着て、白いあごひげを生やした、ふとった大男だった。この大男はひどく酔っていて、椅子にかけたままねむっていたが、ときどき、だしぬけに、寝呆《ねぼ》けたように、指をパチパチ鳴らし、両手を大きくひろげて、椅子にかけたまま上体だけをぴょんぴょんさせて、文句を思い出そうと苦しみながら、ばかげた唄《うた》をうたいだすのだった。
女房《にょうぼう》を一年かわいがった、
女ォ房を一《イイ》 年《ネン》かァわいがった……
そうかと思うと不意に、目をさまして、またうたい出す。
ポジヤーチイ通りを歩いていたら、
むかしの女を見かけたよ……
しかし誰もその男の幸福を喜んでくれる者はなかった。むすっとした連れは、あやしいものだというような顔で、敵意をさえうかべて、この発作をながめていた。店内にはもう一人、退職官吏らしい風采の男がいた。彼は一人はなれて、びんをまえにし、ときどきちびりちびり飲みながら、あたりを見まわしていた。彼も何か気になることがあるらしい様子だった。
2
ラスコーリニコフは人ごみの中に出つけなかったし、それに、まえにも述べたように、およそ人に会うことをさけていたが、最近は特にそれがひどかった。それがいまどうしたわけか急に人が恋しくなった。新しい何ものかが彼の内部に生れ、それと同時に人間に対するはげしい飢えのようなものが感じられた。彼はまる一月《ひとつき》にわたる思いつめた憂欝《ゆううつ》と暗い興奮に、へとへとに疲れはてて、せめてひとときでも、どんなところでもかまわないから、ほかの世界で息をつきたかった。だから、まわりのきたならしさなど気にもかけないで、彼はいま満足そうに居酒屋の中に身をおいていたのである。
店の亭主《ていしゅ》は別な部屋にいたが、ときどきどこからか階段を下りて店へ入って来た。そのたびに先《ま》ず、大きな赤い折返しのついたてかてかのしゃれた長靴《ながぐつ》が見えた。亭主はシャツの上に、あぶらでとろとろの黒繻《くろじゅ》子《す》のチョッキを着こみ、ネクタイはつけていなかった。顔は全体があぶらを塗りこくったようで、まるで鉄の南京錠《ナンキンじょう》のようだった。スタンドの向うには十四、五の給仕がいた。さらにもう一人いくらか年下の男の子がいて、その男の子が注文をうけて、品ものをはこぶ役だった。小さな胡瓜《きゅうり》と、黒い乾パンと、こまかく刻んだ魚がおいてあったが、それがみな鼻のまがりそうな悪臭をはなっていた。息苦しくて、じっと坐《すわ》っているのさえがまんができないほどなのに、店中《みせじゅう》のものにすっかり酒の臭《にお》いがしみこんでいて、その空気だけで五分もしたら酔ってしまいそうに思われた。
ぜんぜん見知らぬ人で、まだ一言も口をきかないうちから、どうしたわけか不意に、一目見ただけで妙に心をひかれるような、奇妙なめぐりあいがあるものである。ちょうどそうした印象を、すこしはなれて坐っていた、退職官吏らしい風采《ふうさい》の男が、ラスコーリニコフにあたえた。青年はあとになって何度かこの第一印象を思いかえしてみて、それを虫の知らせだとさえ思った。彼はたえずちらちらと官吏のほうを見やった、むろんそれは、先方でもうるさいほど彼のほうを見つめていて、ひどく話しかけたそうな素振りを見せていたせいでもあった。亭主をふくめて、店内にいたほかの客たちを見る官吏の目には、妙ななれなれしさと、もうあきあきしたというような色さえ見えて、同時に、話すことなど何もない、地位も頭も一段下の人間に対するような、見下すようなさげすみの色もあった。それはもう五十をすぎた男で、背丈は大きいほうではないががっしりした体つきで、頭は禿《は》げあがって、髪には白いものがまじり、酒浸りで黄色くむくんだ顔は青っぽくさえ見えた。はれぼったい瞼《まぶた》の下には、割れ目みたいに小さいが、生き生きした赤い目が光っていた。しかし、何かこの男にはひどく不思議なものがあった。その目には深い喜悦の色さえ見えるようで、どうやら思慮も分別もある男にちがいないと思われたが、同時に、狂気じみたひらめきがあった。彼はボタンもろくについていない、古いぼろぼろの黒いフロックを着ていた。ボタンは一つだけまだどうにかくっついていたが、礼を失したくないらしく、それをきちんとかけていた。南京木綿のチョッキの下から、酒のしみとあかでひかったしわくちゃの胸当《むねあて》がとびだしていた。顔は官吏風に剃《そ》ったあとはのこっていたが、もういつからかかみそりを当てていないらしく、一面に灰色の濃いごわごわのひげが生えはじめていた。その態度にもたしかにどことなく官吏くさいかたさがのこっていた。しかし彼はおちつかない様子で、髪をかきむしったり、ときどき、酒がこぼれてべとべとするテーブルに穴のあいた肘《ひじ》をついて、両手で頭をかかえこみ、ふさぎこんだりしていた。とうとう、彼はラスコーリニコフの顔をまっすぐに見て、大きなしっかりした声で言った。
「まことに失礼ですが、ひとつ話相手になってくださらんか? どうしてって、なるほど、あなたは見かけはあまりよくないようだが、年の功をつんだわたしの目から見れば、あなたが教養ある人間で、酒をあまり飲みつけていないくらいのことは、すぐにわかるからですよ。わたし自身つねづね、あたたかい心情ととけあった教養というものを尊重してきましたし、それにわたしは九等官の職を奉じております。マルメラードフ――これがわたしの姓で、九等官です。失礼ですが、お勤めですかな?」
「いや、勉強中ですよ……」と青年は、一風変った気取った話しぶりにも、自分に向けられた不躾《ぶしつけ》なしつこい視線にも、いささかおどろいて答えた。彼はついいましがた、ちらと、どんな相手でもいいから話しあってみたいと思ったばかりなのに、実際に言葉をかけられてみると、たちまち、彼の人間にふれる、あるいはふれようとするだけの、あらゆる人々に対するいつもの不快な苛《いら》立《だ》たしい嫌《けん》悪《お》感《かん》をおぼえた。
「すると、学生さんですな、それとももう卒業なすったか!」官吏は大声をだした。「わたしのにらんだとおりだ! 年の功、いやまったく、積みあげられた年の功ですよ!」彼は自慢そうに指を一本額にあてた。「学校へ通ったか、あるいは通信教育を受けられたのですな! では、失礼させてもらって……」
彼は腰をうかすと、ぐらっとひとつよろめいて、自分のびんとコップをつかみ、青年のテーブルへ来て、いくらかはすかいに坐った。彼は大分酔っていたが、口ははっきりしていた。たまにいくらかもつれて、言葉がだらけはしたが、はきはきとしゃべった。彼もまたまる一月も誰《だれ》ともしゃべらなかったみたいに、まるでくいつきそうな勢いで、ラスコーリニコフにおそいかかった。
「なあ、あなた」と、彼は妙にもったいぶった調子できりだした。「貧は罪ならず、これは真理ですよ。飲んだくれることが、善行じゃないくらいのことは、わたしだって知ってますよ。そんなことはきまりきったことだ。しかし、貧乏もどん底になると、いいですか、このどん底というやつは――罪悪ですよ。貧乏程度のうちならまだ持って生れた美しい感情を保っていられますが、どん底におちたらもうどんな人でもぜったいにだめです。どん底におちると、棒で追われるなんてものじゃありません、箒《ほうき》で人間社会から掃きだされてしまうんですよ。これだけ辱《はずか》しめたらいいかげんこたえるだろうってわけです。それでいいんですよ。だって現にこのわたしがどん底におちたとき、先ず自分で自分を辱しめてやろうと思いましたものね。そこで酒というわけですよ! あなた、一月ほどまえ、わたしの家内がレベジャートニコフ氏にぶちのめされたんですよ。わたしじゃなくて、家内がですよ! わかりますか? もうひとつ、あなたにうかがいますが、いいですか、ただの好奇心からでも、ネワ河の乾草舟《ほしくさぶね》にねたことがありますか?」
「いや、まだ」とラスコーリニコフは答えた。「でも、それはどういうことです?」
「いやなに、わたしはそこから来たんですよ。もう五晩《いつばん》になります……」
彼は小さなグラスに酒を注《つ》いで、飲むと、考えこんだ。たしかに、服や髪の毛にまでところどころに乾草の小さな茎がくっついていた。もう五日間着たままで、顔も洗っていないことは、すぐにわかった。わけても手の汚なさはひどく、あぶらぎって赤く、爪《つめ》が黒かった。
彼の話は一同の注意をひいたらしい。といってもものうげな好奇心だが。スタンドの向う側で給仕たちがヒヒヒと笑いだした。亭主は《おどけ者》の話を聞きにわざわざ上の部屋から下りてきたらしく、すこしはなれたところに坐って、けだるそうに、そのくせもったいぶってあくびをした。どうやら、マルメラードフはこの店では古顔らしい。それにもったいぶった口のきき方をするくせは、いろんな未知の人々とちょいちょい酒の上の話をする習慣から生れたものであろう。酔っぱらいによってはこの習慣は必要なもので、わけても家でいためつけられ、日《ひ》頃《ごろ》それをなげいている者に、それがひどい。だから人といっしょに飲んだりすると、そういう連中はきまって自分の言い分を認めてもらおう、できることなら尊敬までもかちえようと、躍起となるのである。
「おい、おどけさん!」と亭主が大声で言った。「どうしてはたらかないんだい、官吏なら、勤めたらいいじゃないか?」
「どうして勤めないかというとですね、あなた」とそれを受けてマルメラードフは、まるでラスコーリニコフにそれを聞かれたように、ラスコーリニコフの顔だけを見ながら言った。「どうして勤めないかって? それじゃ、わたしが何もしないでこんなみじめなざまをさらしていることが、平気だとでもおっしゃるんですか? レベジャートニコフ氏に、一月ほどまえ、家内をなぐられ、わたしが飲んだくれてひっくりかえっていたとき、わたしが心の中で泣かなかったとでも思うのですか?失礼ですが、学生さん、あなたは……その……見込みのない借金をしようとしたことがありますか?」
「ありますよ……でも、その見込みがないというのは、どういうことです?」
「つまり、ぜんぜん見込みがない、はじめから、頼んでもどうにもならないことがわかっているんですよ。例えばですよ、いいですか、この人間、つまりこの限りなく有徳にして有用なる人物が、どうまちがっても金を貸してくれる心配のないことは、はじめからわかりきっています、どうです、貸す理由がありますかね? だって、わたしが返さないくらいのことは、彼は百も承知ですよ。同情から?どういたしまして、レベジャートニコフ氏は、新思想を研究しているから、同情などというものは今日では学問によってすら禁じられている、経済学の進歩しているイギリスではもうそれが実行されている、とこの間説明してくれましたよ。どうです、貸してくれる理由がありますか? ところがいま、貸してもらえないことを承知で、それでもあなたは出かけて行くわけです……」
「どうして行くのです?」とラスコーリニコフは尋ねた。
「ところで、誰のところへも、どこへも、もう行くあてがないとしたら、どうでしょう!だって、誰だってどこかへ行っていいところがなきゃ、やりきれませんよ。なぜって、どうしてもどんなところへでもいいから行かなければならないようなときが、あるものですよ。わたしのたった一人の娘がはじめて黄色い鑑札をもらいに行ったときでさえ、わたしは出かけましたよ……(わたしの娘は黄色い鑑札で暮しているんですよ……)」と彼は不安そうに青年の顔をうかがいながら、つけ加えた。「なんでもありませんよ、あなた、なんでもありませんよ!」二人の給仕がスタンドの向うでヒヒヒと笑い、亭主までがにやりと笑うと、彼は急いで、いかにもさりげない様子で、言った。「平気ですとも! かげでこそこそ笑われるくらい、すこしもこたえませんな。だってもう誰知らぬ者がないんですからねえ。隠れたるすべてはあらわる、ですよ。わたしはね、あんな笑いを軽蔑《けいべつ》もしません、むしろ謙遜《けんそん》の気持で受けとめているんですよ。笑うがいい! 笑うがいい! 《視《み》よ、この人なり!》ですよ。失礼ですが、学生さん、あなたはできますかな……いや、もっと強いはっきりした言葉をつかって、できます《・・・・》か《・》なんてじゃなく、勇気がありますか《・・・・・・・・》と言いましょう、何のって、いまわたしの顔をまともに見ながら、わたしが豚だと、きっぱり言いきる勇気がですよ?」
青年は一言も答えなかった。
「どうです」と彼は、またしても店内におこったヒヒヒという笑いがおさまるのを待って、今度は一段と威厳をさえ見せて、おちつきはらって言葉をついだ。「なあに、わたしは豚でもかまいません、だが彼女《あれ》はりっぱな女ですよ! わたしはけだものの皮をかぶった男ですが、カテリーナ・イワーノヴナは、これはわたしの家内ですがな、――佐官の家に生れた教養ある婦人ですよ。わたしなんか下司《げす》な男でいいですよ、結構ですとも、だが家内だけは別です、心がけだかく、生れからくる美しい感情が教養でみがかれて、身体中《からだじゅう》にみちあふれているのです。それでいながら……まったく、ちょっとでもわたしをあわれんでくれたら、申し分ないのだがねえ! だって、あなた、人間なんて誰でも、せめてひとつでも、あわれんでもらえる場所がほしいものですよ! それがカテリーナ・イワーノヴナは寛容な心をもっているくせに、どうもかたよったところがありましてなあ……わたしだって自分ではわかっているんですよ、家内がわたしの髪をつかんでひきずりまわすのだって、わたしをあわれと思えばこそだ、そのくらいのことはわかっているんだがねえ」またヒヒヒという笑い声を耳にすると、彼はいっそう威厳をこめてくりかえした。「こんなことを言っても別に恥ずかしくもなんともありませんがね、学生さん、家内はほんとにわたしの髪をつかんでひきずりまわすのですよ。それはいいとして、まったく、家内がせめて一度でも……いやいや! よそう! いまさらむだだ、言ってもはじまらん! ぐちは言わぬものだ!……だってこれまで思いどおりになったことも一度や二度じゃないし、あわれんでもらったことだって何度かあったんだ。それにしても……これがおれの性根なんだ、おれは生れながらの畜生なんだよ!」
「そのとおりだよ!」と亭主があくびまじりに言った。
マルメラードフはきっとなって、拳骨《げんこつ》でテーブルをどしんとたたいた。
「これがおれの性根なんだよ! どうです、まさかと思うでしょうが、あなた、わたしはね、家内の靴下まで飲んでしまったんだよ!靴じゃありませんよ、靴ならまだ話がわからんこともありませんがね、靴下ですよ、家内の靴下を飲んじまったんですよ! それから山羊《やぎ》の毛皮の襟巻《えりまき》も酒に化けましたよ。これなんか昔家内がひとからおくられたもので、わたしになんの関係もない、家内だけのものですよ。わたしたちの住んでいる部屋は寒くてねえ、この冬家内はかぜをひいて、咳《せき》がひどくて、しまいに血まではきましたよ。子供は小さいのが三人ですが、カテリーナ・イワーノヴナはごしごし床《ゆか》をこすったり、拭《ふ》いたり、子供たちに湯をつかわせたり、朝早くから晩おそくまではたらきづめ、なにしろ小さいときからきれい好きに育っておりますのでなあ。ところが胸が弱く、肺病にかかりやすい体質なんですよ、わたしにはそれがわかるんです。わからずにいられますか! だから飲む、飲めば飲むほど、ますますそれが気になる。飲めば、あわれみと同情が見つかるような気がして、それで飲むんですよ……飲むのは、とことんまで苦しみたいからさ!」
そう言うと、彼は絶望にうちのめされたように、テーブルの上に頭をたれた。
「学生さん」また顔をあげて、彼はつづけた。「あなたの顔に、わたしは、何か苦しそうないろが沈んでいるのを読んでますよ。あなたが入ってくるとすぐ、わたしにはそれが読めたんだよ、だからすぐにこうして話しかけたわけさ。というのは、あなたにこんなわたしの身の上話をして、いまさら言わんでももうすっかり知りぬいているそこらののらくらどものまえに、恥をさらしたいためじゃなく、知と情のある人間をさがしていたんですよ。実は、わたしの家内は由緒《ゆいしょ》ある県立の貴族学校で教育を受けましてな、卒業式のときには県知事をはじめおえら方のいならぶまえで、ヴェールをもって舞いをおどり、そのために金メダルと賞状をもらったんだよ。金メダル……金メダルなんて売ってしまいましたよ……もうとっくの昔に……うん……賞状はいまでも家内のトランクの中にありますよ、ついこの間も家主のかみさんに見せてましたっけ。かみさんとはそれこそのべつがみがみ言いあいをしているんだがねえ、誰もいなけりゃ、そんな相手にでも幸福な昔を思い出して、自慢話のひとつもしたくなるんですねえ。でもわたしはそれがいけないとは言いません、言いませんとも、だってそれが家内の思い出の中にのこった最後のものですもの、あとはすっかりあとかたもなく消えてしまいましたよ! そうですよ、そうですとも、あれは気性がはげしく、気位の高い、負けずぎらいな女ですよ。床は自分で洗うし、黒パンばかりかじってはいても、ひとにさげすまれることはがまんできないのです。だからレベジャートニコフ氏にだって、その無礼が許せなかったのですよ、そしてレベジャートニコフ氏になぐられたときでも、なぐられた傷よりは、心の傷で、とこについてしまったのさ。だいたいわたしが家内をひきとったときは、小さな三人のこぶつきの寡婦《かふ》だったんですよ。最初の良人《おっと》は歩兵士官でね、好きでいっしょになって、親の家をとびだしたんです。その男を心から熱愛していたが、男は賭《と》博《ばく》にこって、裁判沙汰《ざた》にまでなり、それがもとで死んでしまいました。死ぬまぎわにはよくあれをなぐったらしい、あれもそれを大目には見なかったらしいがね、これはたしかな証拠があるんでね、わたしはくわしく知っているんだよ。ところがいまだに前夫を思い出しては、泣いたりして、前夫をだしにしてわたしを責めるのさ、だがわたしにはそれがうれしいんだよ、うれしいんだよ、だってせめて思い出の中ででも、家内は幸福だった自分の姿を見ているわけですからねえ……というわけであれは良人に先立たれ、三人の小さな子供をかかえて、けだものの出そうな遠い片田舎にのこされたわけです。その頃その田舎にわたしもいたんですがね。そしてあれのおかれた救いのない貧しさといったら、わたしもずいぶんいろんなことを見てきましたが、とても口には言えないほどでしたよ。身よりの者にはみなそっぽを向かれるし、それにあれはえらく気位が高くて、人に頭を下げるような女じゃないし……ちょうどその頃、わたしも男やもめで、死んだ妻にのこされた十四の娘と二人暮しでしたがねえ、あれの苦しみを見るに見かねて、手をさしのべたわけですよ。あれの窮状がどんなにひどいものであったかは、教養もあり、教育もうけ、名門の出のあれがですよ、わたしのような者の申し出を受けたことでも、察しられるというものですよ。後妻に来ましたよ! 泣いて、手をもみしだきながら――来たんですよ! どこへも行くところがなかったからです。わかりますか、わかりますかね、学生さん、もうどこへも行き場がないということが、どんなことか? いやいや! あなたにはまだそれがおわかりにならん……それからまる一年わたしは自分の義務を神につかえるような気持で実行しました。こんなものには(彼は指で酒の小びんをつついた)ふれもしませんでしたよ、人間らしい気持をもっていましたからねえ。ところが、それでも喜んでもらえなかった、おまけに失業ときた、それだってしくじりがあったわけじゃなく、定員が改正になったためですよ、そこで酒に手をだしたというわけさ! わたしたちが流れ流れて、さんざんな目にあったあげくに、やっと、このたくさんの記念碑にいろどられた壮麗な首都にたどりついてから、もうじき一年半になりますかねえ。ここへ来て、わたしは職にありつきました……ありついたのに、またなくしてしまいましたよ。わかりますかな? 今度はもう自分のしくじりのためですよ、くさった性根がでましてねえ……いまはアマリヤ・フョードロヴナ・リッペヴェフゼルという婦人の家に間借りをして、物置みたいな部屋に暮してますよ。どうして暮しをたて、どうして家賃をひねりだしているのか、わたしにはとんとわかりませんがね。あそこには、わたしたちのほかにも、たくさんの人がいますが……その醜悪なことったら、まさにソドムですな……うん……まさに……そうこうするうちにわたしの娘もそだってきました、前妻にのこされた娘ですがね。この娘は、年頃になるまでに、継母《ままはは》にそれはひどくいじめられましてなあ、でもまあそんな話はよしましょう。なにしろカテリーナ・イワーノヴナは心は寛容な思いやりでいっぱいなのですが、気性がはげしくて、おこりっぽく、じきにかっとなって……いやまったく! でも、まあいまさら思い出すこともありませんや!こんなわけですから、お察しできるでしょうが、教育なんてものは、ソーニャは受けておりません。四年ほどまえ、わたしは娘に地理と世界史を教えかけてみたことがありましたが、わたし自身がそうしたものに弱いうえに、適当な参考書もないありさまでな、だってその頃あったといえば……フン!……なあに、いまはもうそんな本もありませんわ、というわけで、勉強はそれでおしまい。ペルシャ王キュロスでストップですよ。その後、もう年頃になってから、ロマンチックな小説を二、三冊読んでいたようでした。それからついこの間、レベジャートニコフ氏からルイスの『生理学』とかいう本を借りて、――ご存じですかな?――たいそう熱心に読んでいましたよ、そしてところどころ声をだして、わたしたちにまで読んでくれたんですよ。これがあの娘の知識のすべてですよ。そこで、学生さん、つかぬことをお尋ねしますがね、どうでしょう、貧乏だが心のきれいな娘がですよ、まともなしごとでたくさんのお金をかせげるでしょうか?……心がきれいなだけで、特殊な才能がなけりゃ、はたらきづめにはたらいたところで、日に十五コペイカもかせげませんよ! いいですか、五等官のクロプシュトーク、イワン・イワーノヴィチは、――ご存じですかな?――あの娘にワイシャツを六枚も仕立てさせておきながら、いまだに金を払わないどころか、襟が寸法にあわないとか、まがっているとか難くせをつけて、地だんだふんで怒りつけ、聞くにたえないような侮辱の言葉をあびせかけて、追いかえしたんですよ。家じゃ子供たちが腹をすかしている……カテリーナ・イワーノヴナは、手をもみしだきながら、部屋の中を歩きまわっている、頬《ほお》には赤いぶちがうきだして、――これはこの病気にはつきものでねえ、そしてこんな悪態をついたんですよ。《この無駄《むだ》飯《めし》食《く》い、よくも平気な面《つら》で、よくもここで飲んだり、食ったり、ぬくぬくと暮していられるわね》子供たちが三日もパンの皮も見ていないのに、何が飲んだり食ったりするものがあるものかね! わたしはそのときねころがっていましたよ……なあに、いまさらいいことを言ってもしようがない! 飲んだくれてねころがっていたのさ。そして聞いていると、ソーニャが言うんですよ(あれはあまり口答えをしない娘ですが、声はひどくやさしくてねえ……髪の毛はブロンドで、いつもやせた、色つやのわるい顔をして)、こんなことを言うんですよ。《まあ、カテリーナ・イワーノヴナ、わたしにあんなことができると思って?》実は、性悪女で、もう何度も警察の厄介《やっかい》になっているダーリヤ・フランツォヴナが、家主のおかみを通じてもう三度ほどすすめていたんですよ。《なにさ》とカテリーナ・イワーノヴナはせせら笑って、こう答えたんですよ。《そんなに惜しいものかい? 宝ものでもあるまいし!》でも責めないでください、責めないでください、学生さん、責めないでください! あれは健康な頭でこんなことを言ったんじゃない、たかぶった感情と、病気と、飢えた子供たちの泣き声が、言わせたんだ、それも本当の意味よりは、あてつけに……カテリーナ・イワーノヴナにはそんなところがあるんですよ、なにしろ子供が腹をすかして泣いても、すぐにぶつような女ですからねえ。それからわたしは見ていたんです、五時をまわった頃でしたか、ソーネチカは立ち上がると、プラトークをかぶり、外套《がいとう》を着て、部屋を出て行きました、そしてもどって来たのは、八時をすぎていました。部屋へ入ると、まっすぐにカテリーナ・イワーノヴナのまえへ行って、黙って三十ルーブリの銀貨を机の上にならべました。そのあいだ口もきかなければ、見もしない、そして大きな緑色の毛織のショールをとると(この毛織のショールはわたしたちがみんなで共通につかっていたのですよ)、頭も顔もすっぽりつつんで、寝床に横になりました。壁のほうを向いて、ただか細い肩と身体だけがたえずわなわなとふるえて……わたしはね、さっきからのそのままの格好で、ひっくりかえっていたんですよ……すると、どうでしょう、学生さん、しばらくするとカテリーナ・イワーノヴナが立ち上がって、やはり無言のまま、ソーネチカのベッドのそばへ行って、足もとにひざまずいたんですよ、そしてそのまま一晩中立とうともせずに、ソーネチカの足に接吻《せっぷん》しておりましたよ。そのうちに二人ともそのまま眠ってしまいました、抱きあって……二人は……そのまま……そうなんですよ……ところがわたしときたら……飲んだくれてひっくりかえっていたのさ」
マルメラードフは、まるで声がぷつッと切られたように、黙りこんだ。しばらくすると思い出したようにそそくさと酒を注ぎ、一気にあおって、むせたように咳をした。
「そのときから、あなた」と彼はしばらくの沈黙ののち言葉をつづけた。「そのときから、一度かんばしくないことがあり、それにろくでもないやつらの密告がありましてな、――それというのも、相応のあいさつをしなかったとかで、ダーリヤ・フランツォヴナが煽動《せんどう》したんですよ、――そんなこんなで、わたしの娘ソーニャ・セミョーノヴナは、黄色い鑑札を受けねばならんはめになりましてなあ、もうわしらといっしょに暮すことができなくなってしまったんだよ。おかみのアマリヤ・フョードロヴナが、そんな女は家へ入れられないと言い出しおって(まえには自分からダーリヤ・フランツォヴナにたきつけたくせにさ)、おまけにレベジャートニコフ氏まで……うん……ここにまた、ソーニャがもとで、彼とカテリーナ・イワーノヴナの間に一騒動がもちあがったんですよ。はじめはソーネチカのあとを追いまわしていたくせに、こうなると掌《てのひら》を返したようにお高くとまって、《わたしのような文化人が、こんな女と一つ屋根の下に住めるか?》とぬかしくさった。そこでカテリーナ・イワーノヴナが黙っていられなくなって、つっかかった……そこでもちあがったというわけですよ……この頃ではソーネチカはたいていうす暗くなってから訪ねて来て、カテリーナ・イワーノヴナの手助けをしたり、あれなりの仕送りをしたりしてくれるんですよ……いまは仕立屋のカペルナウモフの家に住んでいます、間借りをしましてな。カペルナウモフはびっこで、おまけにどもり、わやわやいる家族が一人のこらずどもりですよ。女房までどもりで……みな一つ部屋に住んでるが、ソーニャだけは別に部屋があるんですよ、板壁で仕切った……うん、そう……貧しいどもりの一家ですよ……その朝、わたしは起きるとすぐ、ぼろを着て、両手を天にさしのべてお祈りをしてから、イワン・アファナーシエヴィチ閣《かっ》下《か》のところへ出かけました。イワン・アファナーシエヴィチ閣下、ご存じかな?……知らない? おやおや、あんな神のようなりっぱな方を知らんとは! あの方は――ものやわらかなお方で……聖像のまえのろうそくのように、やわらかにとけなさって!……わたしの話をすっかりお聞きになると、閣下は涙ぐまれて、《なあ、マルメラードフ君、きみはすでに一度わしの期待を裏切った男だが……もう一度わしの個人の責任において採用してやろう、いいな、これを忘れちゃいかんぞ、よし帰りたまえ!》こうおっしゃってくだすったんですよ。わたしは、心の中で、閣下の足のちりをなめましたよ、だって閣下は高官で、新しい政治意識と教育思想の持ち主ですもの、ほんとにそんなことをしようと思っても許すはずがありませんよ。家へとんでかえって、また官職についたぞ、月給がもらえるぞ、と言うと、ああ、そのときの喜びようはどんなだったか……」
マルメラードフは深い感動にとらわれて、また口をつぐんだ。そのとき通りのほうからもうかなり酩酊《めいてい》した酔っぱらいの一団がどやどやと店へ入って来て、入り口のあたりで連れこまれたアコーデオン弾きの伴奏と、《小さな村》をうたう七つぐらいの子供の甲高《かんだか》い声がひびきわたって、にぎやかになった。亭主と給仕はそちらにかかりきりになった。マルメラードフは、新《あら》手《て》の客たちには見向きもしないで、また身の上話のつづきをはじめた。彼は、もうかなりまいったらしく見えたが、酔うほどに、ますます口がまわりだした。先頃の官職復帰成功の思い出は彼を元気づけたらしく、顔に晴れやかな生色のようなものさえあらわれた。ラスコーリニコフは注意深く聞いていた。
「それはね、あなた、つい五週間まえのことでしたよ。そうそう……これを知ったときのあれら二人、カテリーナ・イワーノヴナとソーネチカの喜びようったら、ほんとに、まるでわたしは天国へ行ったようでしたよ。それまでは、豚みたいにごろごろねそべって、悪態ばかりつかれていたのが、どうでしょう、そっと爪先《つまさき》立《だ》ちで歩いて、《セミョーン・ザハールイチはお勤めで疲れて、休んでいらっしゃるんだよ、しずかにしなさい!》なんて子供たちをしかりつける始末ですよ。朝出かけるまえにコーヒーはわかす、クリームは煮る! どうです、あなた、ほんもののクリームが出されるようになったんですよ! おまけに、どこから捻出《ねんしゅつ》したのか、とんとわからんが、十一ルーブリ五十コペイカをかけて、上から下までちゃんとした服装をととのえてくれました! 長靴、キャラコのワイシャツの胸当――これがすばらしく上等なやつなんですよ、それに制服、これが全部十一ルーブリ半でみごとにそろえられたってわけですよ。初出勤の日、勤めからもどって来ると、カテリーナ・イワーノヴナが料理を二品も作って待っていてくれましたよ。スープと、それにわさびおろしをかけた塩《しお》漬《づ》け肉、こんなものはそれまで見たことも聞いたこともありませんでしたよ。衣装なんて、あれには満足なものは一枚もなかった……文字どおり、一枚もなかった、それがどうです、まるでお客にでも行くみたいに、着飾っているじゃありませんか。それも何か別なものを着たというのじゃなく、あれには何もないところからなんでも作り出す才覚がありましてな。髪をきちんとなでつけ、ちょっとした工夫で小ざっぱりした襟や袖当《そであて》をあしらっただけですが、それですっかり見ちがえるようになって、おまけに若やいで、きりょうまでがあがったようで。ソーネチカは仕送りだけは欠かさずしておりましてな、自分では、ここしばらくの間あんまり来るとよくないから、人目につかないように暗くなってからこっそり来ますなんて、いじらしいことを言うんですよ。ねえ、泣かせるじゃありませんか? わたしが昼飯のあとでひとねむりしようと思ってもどって来ると、どうでしょう、カテリーナ・イワーノヴナはもう黙っていられなかったのですねえ、つい一週間まえにおかみのアマリヤ・フョードロヴナとあんなひどい言い合いをしたばかりなのに、もうコーヒーに呼んで、二時間も坐りこんで、ぺちゃくちゃやってるんですよ。《今度うちのセミョーン・ザハールイチが勤めについて、俸給《ほうきゅう》をもらうようになりましたのよ。うちが閣下のところへ出かけて行きましたらね、閣下がご自分で出ていらして、みんなを待たせておいてですよ、そのまえをうちの人の手をとって別室へ案内したんですって》ええ、どうです? 《そして閣下のおっしゃるには、わしはな、セミョーン・ザハールイチ君、きみがよくやってくれたことは忘れはせん、だからきみには少々軽はずみな弱点はあっても、いまはきみも約束していることだし、それに何よりも、きみがいなくなってからどうも成績があがらんのじゃよ(どうです、おどろくじゃありませんか?)、そこで、まあきみの誓いを信用することにしよう。こうおっしゃったんですって!》こんなことはみな、あれがその場で思いついたことですよ、それも軽はずみからでも、ただ自慢したいからでもありません! ちがいますとも、あれは自分でそう信じこんでいるんですよ、自分でそう思って自分をなぐさめているんですよ、ほんとうです! でもわたしは責めません、どうしてそれが責められますか!……六日まえ、はじめての俸給、二十三ルーブリ四十コペイカを、手つかずのまま持ちかえったとき、わたしを可愛《かわい》いペットて言いましたよ。《あなたはなんて可愛らしいペットでしょう!》それも二人きりでですよ、どうです? まったく、わたしに可愛らしいところがあるみたいじゃありませんか、こんな亭主にねえ? ところが、わたしの頬《ほお》をちょいとつついて、《ほんとに可愛いペット!》なんて言うんですよ」
マルメラードフは言葉をきって、笑おうとしたが、不意に下顎《したあご》がひくひくふるえだした。それでも、彼はこらえていた。この居酒屋、おちぶれはてた姿、乾草舟の五夜、酒びん、そのくせ妻と家族に対するこの病的な愛が、聞き手の心を乱した。ラスコーリニコフは一心に、しかし痛ましい気持で、聞いていた。彼はこんなところへ寄った自分がいまいましかった。
「学生さん、ねえ学生さん!」とマルメラードフは気をとり直して、大きな声で言った。「あんたにも、他《ほか》の連中みたいに、こんなことはつまらないお笑い草で、わたしの家庭生活のくだくだしい馬《ば》鹿話《かばなし》が、ただいやな思いをさせただけかもしれん。だがわたしにしてみれば、笑いごとじゃないんだよ! だって、その一つ一つが胸にこたえますでなあ……まったく、わたしの人生に訪れたその天国のような一日は、昼も、夜も、まる一日中わたしまでが、あれやこれや空想しながら暮しましたよ。これですっかり生活をたて直せる、子供たちには着るものを買ってやり、家内を安心させ、たった一人の娘を泥水《どろみず》の中からあたたかい家庭へひきもどしてやろう……それからあれもしよう、これもしよう……いろんなことを考えましたよ……無理もないですよ、ねえ。それがですよ、あんた、(マルメラードフは突然誰かにどやされでもしたようにぎくっとして、顔をあげ、じっと聞き手に目を注いだ)、それが、あくる日になると、あんなにいろいろ楽しい空想をしたあとでですよ、つまりいまからかぞえるとちょうど五昼夜まえになりますが、日暮れ近く、わたしはうまいことだまして、まるでこそ泥みたいに、カテリーナ・イワーノヴナのトランクの鍵《かぎ》をぬすみ出し、持ちかえった俸給ののこりを、いくらあったかおぼえていませんがね、とにかく全部かっさらって、そして、ごらんなさい、いまのこのざまですよ! 家を出てからもう五日、家じゃ血まなこになってわたしをさがしていることでしょうよ、そして勤めもおじゃん、制服はエジプト橋のたもとの飲み屋に眠ってますわ、代りにこのぼろをあてがわれたってわけだよ……これで何もかもおしまいさ!」
マルメラードフは拳骨で自分の額をゴツンとたたくと、歯をくいしばり、目をつぶって、片肘をテーブルにおとして強くもたれかかった。ところが一分もすると、その顔が急に変って、妙にわざとらしいずるさと、つくった図々《ずうずう》しさで、ラスコーリニコフの顔を見上げ、にやッと笑って、言った。
「今日はソーニャのとこへ行ったんだよ、酒《さか》代《て》をねだりにね! へへへ!」
「ヘエ、くれたかい?」と入って来た客の一人が横あいから叫んだ、そして割れるような声で笑いだした。
「この小びんがあれの金だよ」マルメラードフは、よそには目を向けようともしないで、ラスコーリニコフに言った。「なけなしの三十コペイカをくれましたよ、自分の手で財布の底をはたいてさ、わたしはこの目で見ていたんだよ……なんにも言わないで、ただじっとわたしを見つめました……これが生身の人間といえますか、まるで天使ですよ……家族たちの身を悲しんで、泣いていながら、とがめない、とがめてくれない! とがめられないほうが、つらいよ、どれだけつらいか!……三十コペイカ、そうです、この金が、いまのあの娘にだって、どんなに欲しいかわかりませんよ! そうじゃありませんか、学生さん? だっていまのあの娘《こ》には身なりをきれいにすることが大切ですからな。この身なりをきれいにするってことは、おわかりでしょうが、えらく金のくうものでなあ。そうでしょう? まあ何ですよ、紅やクリームも買わにゃならん、まさかこれなしじゃね、どうにもなりませんわ、それに糊《のり》のきいたスカート、それに靴だって、水たまりをこえるとき、ピョイと足をあげても、なんとはなし風《ふ》情《ぜい》のあるようなものでなきゃね。どう、おわかりかな、学生さん、身なりをきれいにするってことが、どんな意味か? ところが、この吸血鬼みたいな親父が、虎《とら》の子の三十コペイカを、酒代にふんだくったんだ! そしていま飲んでいる! もう飲んじまった!……どうです、わたしみたいなこんな男を、あわれんでくれる人がありますかね? ええ? あんたはいまわたしに同情しますかね、どうです? おっしゃってください、同情しますか、しませんか? へへへへ!」
彼は酒を注ごうと思ったが、もう一滴もなかった。小びんは空になっていた。
「なんでおまえをあわれむのさ?」と、またいつの間にか彼らのそばに来ていた亭主が、叫んだ。
どっと笑いが起った。ののしる声さえ聞えた。聞いていた者はもちろん、聞いていなかった者も、退職官吏の身なりを見ただけで、わあわあ笑って、罵《ば》声《せい》をなげつけた。
「あわれむ! なぜおれがあわれまれるのだ!」不意にマルメラードフは、片手をまえにさしのべて立ち上がると、まるでこの言葉を待ちかまえていたように、きっとなって叫んだ。「どうしておれがあわれまれるのだ、言ってみい? そうとも! おれにはあわれまれるような理由はない! おれみたいな奴《やつ》ははりつけにすりゃいいんだ、十字架にはりつけにすりゃいいのさ、あわれむなんてまっぴらだ! でもな、判事さん、十字架にかけるのはいい、かけなされ、そしてかけたうえで、あわれんでやるものだ! そしたらおれはすすんで十字架にかけてもらいに行くよ。それだって愉悦に飢えているからじゃない、悲しさと涙がほしいからだ!……おい、亭主、おまえが売ってくれたこの小びんが、おれを楽しませたと思うのかい? 悲しみさ、悲しみをおれはびんの底に求めたんだ、悲しみと涙、そしてそれを味わい、それを見つけたんだ。おれたちをあわれんでくれるのは、万人をあわれみ、万物を理解してなさるお方、唯一人《ただひとり》のお方、そのお方が裁《さば》き主《ぬし》なんだよ。裁きの日にそのお方があらわれて、こう聞きなさるだろう。《性悪な肺病の継母と、幼い他人の子供たちのために、わが身を売った娘はどこにいる? 役にも立たぬ飲んだくれの父に、そのけだものにも劣る行為をもおそれずに、あわれみをかけてやった娘はどこにいる?》そしてこう言いなさるだろう。《ここへ来るがよい! わしはもう一度おまえを許した……一度おまえを許してやった……そしていまも、生前おまえはたくさんの人々に愛の心を捧《ささ》げたから、おまえのたくさんの罪は許されるであろう……》こうしてわたしのソーニャは許される、許されるとも、わたしは知ってるんだよ、許されることを……それをわたしは、さっきあの娘のところへ行ったとき、心の中で感じたんだ!……みんなが裁かれ、そして許されるんだ。善人も悪人も、かしこい者もおとなしい者も……そしてひとわたり裁きがすんでから、はじめてわしらの番になるのさ。《おまえたちも出てくるがいい! 飲んだくれも出て来《こ》い、弱虫も出て来い、恥知らずも出て来い!》そこでわしらはみな臆面《おくめん》もなく出て行って、ならぶ。すると裁き主が言う。《おまえたちは豚どもだ! けだものの相が顔に押されている、だが、おまえたちも来るがいい!》すると知者や賢者どもが申したてる。《主よ、どうしてこのような者どもを迎えるのです?》するとそのお方がおっしゃる。《知者どもよ、賢者どもよ、ようく聞くがいい、これらの者どもを迎えるのは、これらの誰一人として自分にその資格があると考えていないからじゃ……》そしてその御《み》手《て》をわしらのほうへさしのべる、わしらはひれ伏して……泣き出す……そしてすべてがわかるようになる! そこではじめて目がさめるのだ!……みんな目がさめる……カテリーナ・イワーノヴナも……やはり目がさめる……主よ、汝《なんじ》の王国の来たらんことを!」
彼は疲れはてて、まわりに人がいることを忘れたように、誰の顔も見ないで、ぐったりと椅子《いす》にくずれ、深いもの思いにしずんだ。彼の言葉はかなりの感銘をあたえたらしく、ちょっとの間店内がしーんとなったが、すぐにまた笑い声や、ののしる声々が起った。
「えらそうな口ききゃがったぜ!」
「でたらめさ!」
「そこは官吏さまだ!」
こんな罵言が次々ととびだした。
「行きましょう、学生さん」マルメラードフは不意に顔をあげて、ラスコーリニコフを見ると、言った。「わたしを連れてってくださらんか……コーゼルの家の、中庭のとこですよ。もうそろそろ……カテリーナ・イワーノヴナのとこへ……」
ラスコーリニコフはもう先ほどから出たいと思っていたところだし、送って行こうとは、自分でも考えていた。マルメラードフは、立ち上がってみると、口よりは、足のほうがずっと弱っていて、青年の肩に重くもたれかかった。そこからは二百歩から三百歩の距離だった。家が近づくにつれて、酔っぱらいをとらえた狼狽《ろうばい》と恐怖がますます大きくなってきた。
「わたしがいま恐れてるのは、カテリーナ・イワーノヴナじゃない」と彼はそわそわしな
がらつぶやいた。「髪の毛をかきむしられることでもないよ。髪なんかなんだ!……くだらん! はっきり言うけど、髪をひっつかんでくれたほうが、かえってありがたいよ。わたしはそんなことが恐《こわ》いのじゃない……わたしは……あれの目が恐いんだ……そう……目だよ……頬の赤いぶちも恐い……それから――あれの息づかいも恐いよ……あんた、あの病気にかかった者が……気がたかぶったとき……どんな息づかいをするか、見たことがあるかい? 子供の泣き声も恐い……だって、ソーニャが食物をあてがってくれなかったら、いま頃は……どんなことになっているか! とても考えられん! だが、なぐられることなんぞなんでもない……なあ、学生さん、わたしにはね、せっかんが苦痛でないどころか、かえっていい気持なんだよ……だってそうされなきゃ、自分でも気持のやりばがない。なぐられたほうがいいんだよ。なぐってなぐって、せいせいした気持になってくれりゃ……ありがたいよ……そらもう家だ。コーゼルの家だよ。ドイツ人の錠前屋さ、金持で……連れてってください!」
彼らは中庭から入って、四階へのぼって行った。階段は上に行くほど、暗くなった。もうほとんど十一時近くで、その頃ペテルブルグは白夜《びゃくや》の季節とはいえ、階段の上のほうはひじょうに暗かった。
階段をのぼりつめたつきあたりに、煤《すす》だらけの小さな戸が、あけたままになっていた。燃えさしのろうそくが奥行十歩ばかりのみすぼらしい部屋を照らし出していた。入り口からすっかりまる見えだった。何もかも乱雑にひっちらかしてあったが、特にさまざまな子供のぼろが目立った。奥の隅《すみ》が穴だらけのシーツで仕切られていた。そのかげには寝台がおいてあるらしかった。室内には椅子が二つと、ぼろぼろの油布をはったソファが一つあるきりで、そのソファのまえに白木のままで、被《おお》いもかけてない、古い松の食卓がおいてあった。食卓の端に鉄の燭台《しょくだい》にさしたろうそくが燃えつきようとしていた。つまり、マルメラードフは片隅だけではなく、一つの部屋を借りていたのである。もっとも、その部屋は通りぬけになっていた。奥の戸がすこしあいていて、その向うはたくさんの小さな部屋というよりは、蜂《はち》の巣《す》のようになっていた。アマリヤ・リッペヴェフゼルは自分が借りた住居をこまかくいくつにも仕切ってまた貸ししていたのである。そちらのほうは騒々しく、どなりちらす声が聞えた。にぎやかな笑い声がしていた。トランプをやったり、茶を飲んだりしているらしかった。ときどきとんでもない卑《ひ》猥《わい》な言葉がとんできた。
ラスコーリニコフはすぐにカテリーナ・イワーノヴナがわかった。それはおそろしいほどやせた女で、背丈はかなり高いほうで、すらりとして格好がよく、暗い亜麻色の髪はまだつややかで、たしかにぶちに見えるほどの赤味が頬にういていた。彼女は両手を胸にあて、かさかさに乾《かわ》いた唇《くちびる》、きれぎれに乱れた息をしながら、せまい部屋の中をせかせかと歩きまわっていた。目は熱病やみのようにギラギラ光っていたが、視線はけわしく、うごかなかった。そして燃えつきようとするろうそくのちらちらゆれる最後の光に照らし出されて、肺病にそがれ、神経がたかぶっているその顔は、痛ましい印象をあたえた。ラスコーリニコフには彼女が三十前後に見えた、そしてたしかにマルメラードフには過ぎていると思った……彼女は人の入ってきたもの音も聞えなければ、姿も見えなかった。彼女は意識喪失のような状態におちているらしく、見えも、聞えもしないらしかった。部屋の中は息苦しかったが、彼女は窓もあけていない。階段のほうからは悪臭が流れこんでくるのに、入り口の戸はあけっぱなしだ。奥のほうからは、すこしあいた戸の隙《すき》間《ま》から煙草《たばこ》のけむりが波のように入ってきて、彼女は咳《せ》きこんでいるのに、戸をぴったりしめるでもない。六つばかりの末の娘が、床の上に妙な坐り方をしたままちぢこまって、ソファに頭をつっこんで眠っていた。一つ年上の男の子が、隅っこでぶるぶるふるえながら、泣いていた。いましがたぶたれたばかりらしい。九つばかりの、ひょろひょろとのびて、マッチの棒みたいに細い上の娘は、粗末なほころびだらけのシャツ一つで、裸の肩に古ぼけた毛織のマントをひっかけて、――それも、いまは膝《ひざ》までしかないところを見ると、おそらく、二年ほどまえに縫ってもらったものであろう、――隅っこの小さな弟のそばに佇《たたず》んで、マッチの棒のように細長いかさかさの腕で弟の首を抱きしめていた。彼女は弟をあやしていたらしく、何ごとかささやいて、また泣きださないように一生けんめいにおさえていた、そして同時に、大きな黒い目でこわごわ母の様子をうかがっていた。その目は、顔がやせ細っておびえきっているために、ますます大きく見えた。マルメラードフは、部屋へ入ろうとしないで、戸口のところにひざまずき、ラスコーリニコフをまえへ押しやった。女は、見知らぬ男に気づくと、ぼんやりそのまえに立ちどまった。はっとわれにかえって、この男は何しに来たのかしら? と考えたらしかった。しかし、すぐに、この部屋は通りぬけになっているから、ほかの部屋へ行く人だろう、と考えたらしい。そう思うと、彼女はもう男には見向きもしないで、戸をしめに入り口のほうへ歩きかけたが、しきいの上にひざまずいている良人《おっと》に気づいて、不意に叫んだ。
「アッ!」と彼女は気ちがいのように叫びたてた。「もどってきやがった! ごろつき!ろくでなし!……お金はどこへやった? ポケットには何があるの、見せなさい! 服もちがう! あの服はどこへやったの? お金はどこにあるの? おっしゃい!……」
そういうと彼女は良人の身体をさぐろうとしてとびかかった。マルメラードフはとたんに、ポケットがさぐりやすいように、おとなしく両腕をよこへひろげた。金は一コペイカもなかった。
「お金はどこへやったの?」と彼女はわめいた。「まさか、全部飲んでしまうなんて! だって、トランクにはまだ十二ルーブリものこっていたんだもの!……」そして突然、はげしく身ぶるいすると、やにわに彼の髪をつかんで、部屋の中へひきずりこんだ。マルメラードフは妻がひきずりやすいように、自分から膝ではった。
「これがうれしいんだよ! 苦痛じゃないんだ、う、うーれしいんだよ、学生さん」と彼は髪をつかんで小突きまわされ、一度などは額を床にぶっつけながら、叫びたてた。寝台にねていた末娘が目をさまして、泣きだした。隅っこの男の子はがまんができなくなって、がくがくふるえだし、わっと叫ぶと、いまにも失神しそうにおびえきって、姉にしがみついた。姉娘はなかば気を失いかけて、木の葉のようにふるえていた。
「飲んじまった! すっかり、すっかり飲んじまった!」と哀れな女はやけになって叫んだ。「服までなくして! 食うものもなくて、腹をすかしている子供たちを、どうしてくれるの!(そう言うと、彼女は両手をもみしだきながら、子供たちを指さした)。ああ、地獄の生活だ! あなたもあなたよ、恥ずかしくないの」突然彼女はラスコーリニコフにつめよった。「酒場から来たのね! いっしょに飲んだのね? あんたまでいっしょになって! 出て行きなさい!」
青年は何も言わずに、急いで部屋を出た。それに、奥の戸がすっかり開いて、もの好きそうな顔がいくつかのぞいていた。煙草やパイプをくわえて、まるいトルコ帽をかぶった頭がいくつか、無遠慮ににやにや笑っていた。だらしないガウン姿や、夏ものをはおってみだらに前をあけっぴろげにした者や、トランプを手に持ったままの者もいた。マルメラードフが、髪をつかんでひきまわされ、これがうれしいんだと叫んだとき、彼らの笑いは一段とはげしく爆発した。中には部屋の中へ入りこんでくる者まででてきた。そのうちに、ぞっとするような金切り声が起った。それはアマリヤ・リッペヴェフゼルが、明日中に出て行ってくれと口汚なく言いわたすことによって、哀れな女をおどしつけるという、もう百ぺんもつかった彼女一流のて《・》で、騒ぎをしずめようとして、人垣《ひとがき》をかきわけて出てくる前ぶれだった。ラスコーリニコフは出がけに、ポケットに手をつっこんで、居酒屋でくずれた一ルーブリのおつりの銅貨を、手にふれただけつかみ出し、誰にも見られずにそっと小窓の台へのせた。そしてもう階段を下りかけてから、思い直して、もどりかけた。
《チエッ、ばかなことをしたものだ》と彼は考えた。《彼らにはソーニャというものがいるじゃないか、ところがおれは自分がどうにもならんのだ》しかし、とりもどすことはもうできないし、よしんばできたところで、やはりとる気にはなれまい、と考えて、あきらめたように手を振り、自分の家のほうへ歩きだした。《ソーニャには紅やクリームも必要だろうからな》彼は通りを歩きながら、こんなことを考えて、とげとげしく笑った。《その身ぎれいにするってやつは金がかかるよ……フン! ところで、ソーネチカとやらは、今日にも破滅しかねない。なにしろ猛獣狩りみたいな危険な稼業《かぎょう》だ……金鉱さがしみたいなものさ……そうしたら、おれのあの金がなかったら、あの一家は明日あてがはずれて、どうにもならんことになる……たいしたもんだよ、ソーニャ! それにしても、よくまあこんな井戸を掘れたものだ! そしてくみ上げている! くみ上げて、飲んでいる! あたりまえのような顔をして。はじめちょっとは泣いたが、もう慣れてしまっている。人間なんてあさましいものだ、どんなことにでも慣れてしまうのだ!》
彼は考えこんだ。
「だが、おれの言ったことがうそだとしたら」と彼は思わず大きな声を出した。「実際は、人間が、おしなべて、つまり人類全部が、卑《・》劣《・》でないとしたら、あとのことはすべて――偏見ということだ、見せかけの恐怖にすぎぬ、とすれば何の障害もあり得ない、当然そういうことになるわけだ!……」
3
彼は翌朝おそく不安な眠りからさめた。眠りも彼に力をつけてくれなかった。彼はむしゃくしゃするねばつくような重い気分で目をさますと、憎《ぞう》悪《お》の目であなぐらのような自分の部屋を見まわした。それは奥行六歩ばかりの小さな檻《おり》で、黄色っぽいほこりだらけの壁紙はところどころはがれて、いかにもみすぼらしく、天井《てんじょう》の低さは、なみよりちょっとでも背丈の高い者には窮屈で、いまにも頭がつかえそうに思われた。家具も部屋にふさわしく、どれも満足でない。古ぼけた椅子《いす》が三脚と、隅《すみ》っこに塗りの机が一つ、その上には何冊かのノートと本がのっていたが、ほこりがいっぱいにつもっているのを見ただけでも、もう長いこと誰《だれ》の手もふれていないことは明らかだった。それから、最後に、ほとんど壁の面を全部と、部屋の幅を半分も占領している、ばかでかい不細工なソファ。これは昔は更《さら》紗《さ》がはってあったらしいが、いまはぼろがひっついているだけで、ラスコーリニコフの寝台代りになっていた。よく彼は服もぬがず、シーツもしかずにその上に横になり、古いすりきれた学生外套《がいとう》をかぶり、それでもぺしゃんこの枕《まくら》だけはあてて、その下に洗ったのから汚れたのからありたけの下着をつっこんで、いくらかでも頭を高くしてねていた。ソファのまえに小さなテーブルが一つおいてあった。
これ以上落ち、これ以上不潔にすることは、容易なことではなかった。しかしラスコーリニコフのいまの心境には、このほうがかえって快かった。彼は亀《かめ》が甲《こう》羅《ら》にもぐったように、徹底的に人から遠ざかって、彼の世話がしごとなのでときどき部屋をのぞきに来る女中の顔を見ても、むかむかして、ふるえがくるほどだった。偏執狂が何かに熱中しすぎると、往々にしてこんなふうになるものである。家主のおかみが食事を出さなくなってからもう二週間になるが、彼はいまだに話をつけに下りて行こうとは思わなかった。食べないでじっと坐《すわ》っていたほうがましなのである。おかみのたった一人の女中で、料理女もかねているナスターシヤは、下宿人のこうした気持を、いっそ喜んでいるふうで、彼の部屋の片づけや掃除からすっかり手をぬいてしまって、週に一度だけ、それも気まぐれに、箒《ほうき》を持つくらいだった。その女中がいま彼をつつき起した。
「起きなさい、いつまでねてるの!」と彼女はラスコーリニコフの耳もとで叫んだ。「もうすぐ十時よ。お茶をもってきてあげたわよ、せめてお茶でも飲んだらどう? さぞお腹《なか》がすいたでしょうに?」
下宿人はぎくっとして目をあけると、ナスターシヤだった。
「この茶はおかみがよこしたのかい?」と彼は病人くさく、ゆっくりソファの上に身を起しながら、尋ねた。
「どこのおかみさんさ!」
彼女は出がらしの茶を入れた、少々ひびの入った自分の茶わんを彼のまえにおくと、黄色い砂糖のかけらを二つそえた。
「すまんが、ナスターシヤ、これを持って」そう言いながら彼は、ポケットをさぐって(彼は例によって着たままねていたのだった)、一つまみの銅貨をとりだした。「固パン《サイカ》を買ってきてくれんか。ついでに肉屋へよってカルバスをすこし、なるべく安いやつを」
「サイカはすぐ持ってきてやるけど、カルバスの代りに、シチーじゃどうお? おいしいシチーがあるのよ、昨日のだけど。昨日からあんたにとっておいたんだけど、帰りがおそかったでしょ。おいしいわよ」
シチーがはこばれて来ると、彼はそれをすすりはじめた。ナスターシヤはソファにならんでかけて、しゃべりだした。彼女は田舎生れで、ひどいおしゃべりだった。
「プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナがね、あんたを警察に訴えるつもりなのよ」と彼女は言った。
彼はひどくしぶい顔をした。
「警察? なんのために?」
「金は払わないし、部屋はあけないからよ。なんのためかなんて、わかりきってるじゃないの」
「チエッ、これでまだ足らんのか」と彼は歯をくいしばって、つぶやいた。「いや、なにいまはその……ちょっと都合がわるいんだよ……ばかな女だ」と彼は大声でつけ加えた。「今日おかみのところへ行って、話すよ」
「そりゃおかみさんは馬鹿《ばか》だわよ、わたしみたいにさ。じゃあんたは何なの、いくら利口だって、嚢《ふくろ》みたいにごろごろねそべってばかりいて、なんにもしてやしないじゃないの?まえには、家庭教師をしてるとか言ってたけど、この頃《ごろ》はどうして何もしないのさ?」
「しているよ……」としぶしぶ、ぶっきらぼうに、ラスコーリニコフは言った。
「何をしてるの?」
「しごとだよ……」
「どんなしごと?」
「考えごとさ」彼はちょっと間をおいて、まじめな顔で答えた。
ナスターシヤはいきなり身体《からだ》をおりまげて笑いだした。彼女は笑い上戸《じょうご》で、笑わされると、身もだえし、全身をゆすりながら、胸がへんになるまで、声も立てずに笑いころげるのである。
「お金がたくさん入ることでも、考えついたのかい?」と彼女はやっと言った。
「靴《くつ》がなけりゃ子供たちに教えにも行けん。それにいやなこった」
「でもあんた、井戸に唾《つば》なんか吐くもんじゃないわよ」
「子供を教えたって銅貨にしかならんよ。銅貨で何ができる?」と彼は、自分の考えに答えるように、気のない受け答えをつづけた。
「それじゃ何さ、一度に大金をにぎりたいというの?」
彼は異様な目で彼女を見た。
「そう、大金を」彼はちょっと間をおいて、きっぱりと答えた。
「まあ、せかないことよ、びっくりするじゃないの。おお恐《こわ》い。それよりサイカを買ってくる、それとももういらない?」
「どうでもいいよ」
「そうそう、忘れてた! 昨日あんたの留守に手紙が来てたのよ」
「手紙? ぼくに! 誰から?」
「そんなこと、知らないわよ。郵便屋さんに三コペイカたてかえておいたわ。お金、返してくれるわね?」
「いいから持ってきてくれ、たのむよ、持ってきて!」ラスコーリニコフはひどく興奮して、叫んだ。「さあ、はやく!」
一分後に手紙がはこばれてきた。果して、R県の母からだった。彼はそれを手にとると、いくらか顔が蒼《あお》ざめさえした。もう久しく手紙というものをもらわなかった。しかしいまは、それとは別な何ものかが不意に彼の心をしめつけた。
「ナスターシヤ、たのむから、一人にしてくれないか。はい、たてかえの三コペイカ、いいね、おねがいだから、早く向うへ行ってくれ!」
手紙が彼の手の中でふるえていた。彼は彼女のいるところで封を切りたくなかった。手紙と二人だけ《・・・・》になりたかった。ナスターシヤが出て行くのを待って、彼は急いで手紙を唇《くちびる》にあて、接吻《せっぷん》した。それから長いことしげしげと宛《あて》名《な》の筆跡をながめた。むかし彼に読み書きを教えた母の、見なれた、なつかしい、いくらか曲りかげんの細かい字体だった。彼はぐずぐずしていた。何かを恐れているようにさえ見えた。とうとう、封を切った。二十グラムをこえる、ひどく長文の手紙で、二枚の大きな便箋《びんせん》に細かい字がびっしり書きこんであった。
《わたしのかわいいロージャ》と母は書いていた。《わたしがおまえと手紙でおはなしをしなくなってから、もう二カ月の上になります。それが苦になって、あれやこれや考えて、夜も眠られないことがときどきあります。でも、おまえはきっと、わたしの心にもないこの無《ぶ》音《いん》を許してくれることと思います。だって、わたしがどんなにおまえを愛しているかは、おまえがよく知っているはずですもの。おまえはわたしたち、わたしとドゥーニャのたった一人の頼りです、わたしたちのすべてです、わたしたちのすべての願いと望みはおまえ一人にかかっているのです。おまえがもう何カ月もまえに、生活が立たなくなったために大学をやめてしまい、家庭教師の口も、そのほかの収入の道もとだえてしまったことを知らされたとき、わたしの気おちはどんなだったでしょう! わたしも年に百二十ルーブリの恩給でほそぼそと暮している身ですもの、どうしておまえに満足な仕送りができましょう? 四カ月まえにおまえに送った十五ルーブリは、おまえも知っていることと思いますが、この恩給を担保にして、アファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシンという当地の商人から借りた金なのです。ワフルーシンさんはやさしいお方で、それにおまえのお父さんのお友だちだった人です。それで、わたしの代りに恩給を受け取る権利をワフルーシンさんにわたしてしまったものですから、わたしは借金がすっかり片づくまで、待たなければなりませんでしたが、それがいまやっとすんだところなのです。そんなわけで、その間ずっとおまえに何ひとつ送ってあげられなかったのです。ところがいまは、おかげで、もうすこし送ってあげられそうだし、それに今度こそいよいよ運がひらけてきたことをおまえにも喜んでもらうことができそうです。それを早速おまえにお知らせしましょう。先《ま》ず第一に、かわいいロージャ、おまえの妹はもう一カ月半もわたしといっしょに暮しているんですよ、おどろいたでしょう。そしてこれからはもう別れて暮さずにすむのです。おかげで、あの娘《こ》の苦労もすみました。それでこれから、どんな様子だったか、どんなことをいままでおまえにかくしていたか、おまえによくわかってもらうように、順序をおってすっかりおはなしをしましょう。二月《ふたつき》ほどまえ、ドゥーニャがスヴィドリガイロフさんの家で乱暴なあつかいを受けて、ひどい苦労をしているというような噂《うわさ》が、誰かの口からおまえの耳に入ったと見えて、くわしい事情を知らせてくれと手紙で言ってきたことがあったけど、――あのときはどうにも返事の書きようがなかったのです。もしも本当のことをすっかり知らせたら、おまえのあの気性ですもの、きっと何もかもうっちゃって、歩いてでもかえって来て、妹に恥ずかしい思いをさせておかなかったにちがいありません。わたしだってまっくらな気持でしたが、そうかといってどうしようもなかったのです。それにわたし自身があの頃は、本当のことがすっかりわかっていたわけではありませんでした。いちばん困ったことは、ドゥーネチカが去年あの家に家庭教師に入るとき、俸給《ほうきゅう》から毎月かえしてゆくという約束で百ルーブリ前借りしたことです。だから、それが全部すまないうちは、やめたくもやめられなかったのです。この金は(いまだからおまえに言いますけど)あの娘が、あの頃おまえがあんなに欲しがっていた六十ルーブリをおまえに送るために、借りたものなのです。去年送ってあげたあのお金です。あのときはうそをついて、ドゥーネチカがまえに貯《た》めておいたお金からだしたなんて書いてやりましたが、そうではなかったのです。でもいまはすっかり本当のことを知らせます。というのは、いまはおかげで思いがけなく事情がいいほうに変りましたし、それにドゥーニャがおまえをどんなに愛しているか、あの娘はどんな美しい心を持っているかを、おまえに知ってもらいたいからです。ほんとうに、スヴィドリガイロフさんははじめのうちあの娘に辛《つら》くあたり、いろんな不躾《ぶしつけ》なことをしたり、食事の席でからかったりしたそうです……でもこんないやなことをくだくだとならべたてるのはよしましょう。もうすぎてしまったことですし、おまえにいやな思いをさせるだけですもの。簡単に言いますと、スヴィドリガイロフさんの奥さんのマルファ・ペトローヴナや、家族の人たちみんながやさしくしてくれたけど、やっぱりドゥーネチカにはひどく辛かったそうです。特に主人のスヴィドリガイロフさんが、昔の軍隊のときから習慣で、お酒をめしあがっているときなどは、たまらなかったそうです。そのうちにわかったことですが、おどろくじゃありませんか、この気ちがいじみた男がもうまえまえからドゥーニャに気があって、それをかくすためにわざとじゃけんにあたったり、軽《けい》蔑《べつ》したりしていたというのですよ。おそらく、あの人はもういい年をして、しかも一家の主人である自分が、こんな浮わついた気持でいるのを見て、自分でも恥ずかしくなり、同時に恐ろしくなって、そのために心にもなくドゥーニャを憎んだのでしょう。あるいはまた、乱暴にあつかったり、嘲笑《あざわら》ったりしたのは、ほかの人々の目から自分のほんとうの気持をかくすためだけだったのかもしれません。ところが、しまいには、とうとうがまんができなくなって、図々《ずうずう》しくドゥーニャに見えすいたけがらわしい申し出をして、あれもあげるこれもやるとか、そのうえ、何もかもすてていっしょにどこかほかの村へ逃げようとか、外国へ行ってもかまわないなんてまで言ったそうです。あの娘がどんなに苦しい思いをしたか、おまえにもわかるでしょう! 前借りをしているてまえもあるが、それよりも突然やめたりしたらマルファ・ペトローヴナがあやしむにちがいない、そうしたら平和な家庭がめちゃめちゃになるだろう、そう思うとマルファ・ペトローヴナが気の毒で、いますぐやめるわけにもゆかない。おまけにドゥーネチカにとっても、大きなスキャンダルになって、ただではすみそうもない。それにいろんなわけがあって、六週間というものドゥーニャはどうしてもこの恐ろしい家からぬけだす決心がつかなかったのでしょう。むろん、おまえも知ってるように、ドゥーニャは利口で、気性のしっかりした娘です。ドゥーネチカはたいていのことはがまんができて、どんなに辛いときでもしっかりした態度を失わないだけのひろい気持をもっています。わたしたちはこまめに手紙のやりとりをしていましたが、そのわたしにさえ、あの娘は心配させまいと思ってそのことを詳しくは知らせてきませんでした。破局は思いがけないときに訪れました。マルファ・ペトローヴナが偶然に、庭で良人《おっと》がドゥーニャをくどいているところを盗み聞いてしまったのです。そして奥さんは、反対にとり、あの娘のほうからもちかけたものだと考えて、あの娘だけを悪者にしてしまいました。たちまち庭におそろしい場面がもちあがりました。マルファ・ペトローヴナはドゥーニャをぶちさえしたそうです。そして何を言っても聞こうともしないで、まるまる一時間もわめきちらしたあげく、いますぐドゥーニャを百姓馬車にのせて町のわたしのもとへ送りかえせ、肌《はだ》着《ぎ》から服から、持ち物はいっさい、たたんだりつつんだりしなくてもいいから、そのまま馬車にほうりこめ、と言いつけたそうです。わるいことに篠《しの》つくような雨になりました。そしてドゥーニャは、さんざんな辱《はずか》しめを受けたあげく、覆いもない馬車にゆられて、百姓と二人きりで十七露里もの道をもどって来《こ》なければならなかったのです。考えてもみてください、二カ月まえにおまえの手紙をもらったとき、こんなことをおまえに知らせてやれたでしょうか? わたし自身がまっくらな気持でした。そしてとてもおまえに本当のことを書き送る気にはなれませんでした。だっておまえにひどいみじめな思いをさせるだけで、それはおまえはかんかんになって、くやしがるでしょうが、だからといっておまえには何をどうすることもできなかったでしょうもの。それにやけでも起されたらたいへんですし、ドゥーネチカもとめましたし。心の中にこんな悲しみがあるのに、つまらないことを書きならべてお茶をにごすなんてことは、わたしにはできなかったのです。まる一月《ひとつき》というもの町中《まちじゅう》にこの事件の中傷が流れて、しまいにはさげすみの目やひそひそ話のために、それどころかわたしたちのまえで聞えよがしに悪口をいう人まででてくるしまつで、ドゥーニャといっしょに教会にも行かれなくなってしまいました。知人たちは申しあわせたようにわたしたちをさけ、街で会っても会釈《えしゃく》もしなくなりました。たしかに店の手代や事務員たちの仕《し》業《わざ》ですが、わたしたちに下品ないやがらせをしようとして、家の門にコールタールを塗りつけました。そのため家主に立《た》ち退《の》きをせまられるしまつでした。これというのもみんなマルファ・ペトローヴナのせいでした。あの女が軒なみにドゥーニャの悪口をしてあるいたのです。あの女は町中の人を知っていますし、この一月はのべつ町へ出て来ました、そしてすこし口軽なところへもってきて、非常によくないことですが、自分の家の中のことを人にしゃべったり、殊《こと》に自分の良人のことを相手かまわずにこぼすのが好きというのですから、たちまちのうちに町中はむろんのこと、郡中にまでこの噂をひろめてしまったのです。わたしは病気になってしまいました。ドゥーネチカはわたしよりもずっと気丈でした。そしてあの娘はじっとこらえぬいたばかりか、かえってわたしを慰めたり、励ましたりしてくれたのですよ。ほんとうにおまえに見せてあげたいくらいでした! あの娘は天使です! しかし、神さまもあわれんでくださったと見えて、わたしたちの苦しみをちぢめてくれました。というのは、スヴィドリガイロフさんが思い直して、自分の非を悔い、おそらくドゥーニャがかわいそうだと思ったのでしょう、ドゥーネチカにはぜんぜん罪がないというはっきりした証拠をすっかりマルファ・ペトローヴナに示したのです。なんといってもきめ手になったのは、庭であんなことになるまえに、ドゥーニャがあの人にしつこく迫られたひそかなあいびきや告白をことわるために、やむなく書いて、あの人にわたした手紙でした。その手紙が、ドゥーネチカが去ったあと、スヴィドリガイロフさんの手もとにのこったわけです。その手紙の中であの娘ははげしい怒りをこめて、せつせつと、マルファ・ペトローヴナに対するあの人の態度の不実を責め、あの人が一家の父親であることを述べ、そして最後に、そうでなくても不幸で、頼りのない娘を苦しめて、不幸にすることは、あの人としても実に恥ずべき行いだということを、はっきりと訴えていました。一言でいえばね、かわいいロージャ、その手紙にはあまりにも美しい心と胸をうついじらしさがにじみ出ていて、わたしは読みながら、もらい泣きしてしまったんだよ。いまでも涙なしに読むことはできません。そのうえ、しまいには召使たちまでドゥーニャの無実を証言してくれました。よくありがちなことですが、召使たちはスヴィドリガイロフさんが思っていたよりも、はるかに多くのことを見たり聞いたりしていたのでした。マルファ・ペトローヴナはひどいショックを受けて、あとでわたしたちに打ち明けてくれましたが、それこそ《改めてうちのめされた》ということです。でもその代りにドゥーネチカに罪のないことがつくづくわかって、あくる日は日曜日でしたので、さっそく教会に出かけて、主のまえにひざまずいて、この新しい試練に堪えて、自分の義務を果す力をおあたえくださるよう、涙ながらにお祈りしました。それがおわると、教会からどこへも寄らずにまっすぐわたしどもへ見えて、一部始終をわたしたちに打ち明けて、よよと泣きくずれ、すっかり後悔して、ドゥーニャを抱きしめ、許しを乞《こ》いました。そしてその日の朝、すこしもためらわずに、わたしどもを出るとその足で町中の家を軒並みに訪ねて、どの家でも、口をきわめてドゥーネチカをほめちぎりながら、涙ながらに、あの娘の潔白と、心と行いのりっぱなことを証明してくれました。それだけでは足らずに、ドゥーネチカがスヴィドリガイロフさんにあてた手紙をみんなに見せて、朗読し、さらにそのうつしをさえもとらせました(これまでなさらなくてもと思いますが)。こんなわけで、あのひとは何日かぶっつづけに町中をまわらなければなりませんでした、といいますのは、他人《ひと》に見せてわたしに見せないなんて不公平だなどと、ぶつぶつ言う者がでてきたからです。それで、順序が定《き》められました、それでどの家でももうその日を心待ちにしている有様で、どの日はどこでマルファ・ペトローヴナがドゥーネチカの手紙を朗読するということを、みんなが知っていて、自分の家や順番にあたった知人たちの家でもう何度も聞いた人たちまで、また聞きに集まってくるというふうでした。わたしとしては、何もそれほどまでしなくてもと思いましたが、マルファ・ペトローヴナはそういう気性のひとなのです。すくなくともあのひとはドゥーネチカの名誉をすっかり回復してくれましたが、その代りこのできごとの恥がことごとく、張本人である良人の肩に消すことのできない汚辱となってのこったわけです。なんだか気の毒なような気さえします。いくら気ちがいじみた良人に対する仕打ちでも、あまりに酷《ひど》すぎたようです。ドゥーニャはたちまち何軒かの家から子供の勉強をみてくれとたのまれましたが、あの娘はことわりました。とにかく、急に掌《てのひら》をかえしたように、みんながあの娘をことさらに尊敬の目で見るようになりました。こうしたことが大きな原因となって、わたしたちの運命を変えるといってもさしつかえないような、あの思いがけぬ幸運が訪れたのです。ねえ、かわいいロージャ、ドゥーニャが結婚を申しこまれて、もう承諾をあたえてしまったんだよ。その事情をこれから大急ぎでお知らせしましょう。これはおまえに相談もしないできめられてしまったけど、でもおまえは、きっと、わたしにも、妹にも反対しないだろうと思います。だってこの手紙を読んだら、おまえの返事が来るまでぐずぐず待っていられなかった事情を、わかってくれるでしょうから。それにおまえだって、はなれていては、何から何まで正確に判断することはむずかしいでしょうし。それはこういうわけなのです。その方はピョートル・ペトローヴィチ・ルージンといいまして、もう七等文官になっている方です。マルファ・ペトローヴナの遠縁にあたり、こんどのことではマルファ・ペトローヴナがたいへん骨折ってくれました。マルファ・ペトローヴナを通してわたしたちと近づきになりたいと言ってきたのが、事のおこりです。わたしたちは失礼にあたらないように迎えて、コーヒーをだしました、ところがそのあくる日早速手紙をよこして、びっくりするほどていねいに結婚の希望をのべて、至急にはっきりした返事をほしいとたのんできたのです。あの方は実務家で、忙しい身体《からだ》で、もうすぐペテルブルグへ行かなければならないので、一分の時間も惜しいというのです。あまりといえば急ですし、思いがけない話ですので、わたしたちははじめぽかんとしてしまいました。無理もありません。わたしたちはその日一日中いっしょにいろんなことを思いあわせて、思案に思案をかさねました。あの方は人間は見込みがあるし、生活は安定している、勤めは二つもっていて、もうかなりの財産を貯《たくわ》えている。もっとも、年はもう四十五だけれど、見てくれはかなりよく、まだまだ女に好かれそうだ、それにだいたい人間がしっかりしていて、礼儀をわきまえている。ただいくらか陰気なところがあって、高慢そうに見えるのが難といえば難だが、でもそれは、ちょっと見にそんなふうに思われるだけかもしれない。それから、かわいいロージャ、あらかじめおまえに注意しておくけど、ペテルブルグであの方に会ったら、もうじきにそういうことになるでしょうが、第一印象で何か気に入らないところがあっても、いつもの癖をだして、あまりにせっかちにきびしい判断など下したりしないように、くれぐれもおねがいしますよ。わたしがこんなことを言うのは、大丈夫あの方はおまえにいい印象をあたえるだろうとは信じていますが、万一ということがあるからなのです。それに、どんな人でもよく知るためには、ゆっくり時間をかけて注意深くつきあってみなければならぬものです。さもないとまちがいや偏見にとらわれてしまって、あとになってそれを直そう、消そうと思っても、なかなかできるものではありません。でもピョートル・ペトローヴィチは、まずまずどの角度から見ても、ほんとうにりっぱなお人です。はじめてお見えになったとき、あの方は、自分は実際家だと、はっきりわたしたちに申しました、でも多くの点で、あの方自身の言葉ですが、《もっとも新しい世代の信念》に共鳴しているそうですし、なべて偏見というものを嫌《きら》っています。それからいろんなお話をしました。どうやらいくらか見栄《みえ》っぱりらしいところがあり、人に話を聞いてもらうのがひどく好きらしいのです、でもこんなことはまあ欠点とはいえませんものね。わたしは、むろんのこと、あまりわからなかったけど、ドゥーニャが、あの人は教育はあまりないけど、頭がよくて、性質もいいらしいと、わたしに説明してくれました。ロージャ、おまえは妹の気性をよくのみこんでいるでしょう。あれはしっかりしていて、思慮が深く、忍耐強く、しかもおおらかな心をもった娘です。もっとも気性がはげしいことは、わたしも重々思い知らされてはいますけど。むろん、ドゥーニャのほうからも、あの人のほうからも、別に強い愛情というものがあったわけではありませんが、ドゥーニャは利口なうえに、天使のように気だてのやさしい娘ですから、良人を幸福にすることを自分の義務とするでしょうし、そうなれば良人のほうでもあの娘の幸福を考えるにちがいありません。それにいまのところ、ドゥーニャが不幸になるのではないかと案ずるような大きな理由は別にありませんもの。それはたしかに、きまるのが早すぎたことはわたしも認めます。それにあの方はひどく計算のこまかい人ですから、ドゥーネチカが結婚して幸福になればなるほど、自分たちの家庭生活の幸福がますます確かなものになるということくらい、わからないはずがありませんよ。性格にいくらかねじけたところがあるとか、古い習慣がぬけきらないとか、それに考え方にいくらかくいちがいがあるとかいったところで、たいしたことではありません(考えのくいちがいなどはどんなに幸福な夫婦の間にもきっとあるものです)。そのことではドゥーネチカが自分からわたしに言いました、自分というものを信頼しているから、すこしも心配はいりません、先々ずっと神に恥じない正しい関係がつづくことが約束されるなら、たいていのことはがまんできますって。例えば、あの人ははじめはわたしにもすこしぶっきらぼうすぎるみたいに見えました。でもそれはおそらく人間が率直だからそんなふうに見えたのでしょう、きっとそうにちがいありません。その証拠に、二度目に見えたとき、もう承諾したあとですけど、ドゥーニャを知るまえから、嫁にもらうなら人間が誠実で、しかも持参金のない娘、それもぜったいに苦しい境遇に堪えてきた娘にきめていたなんて、はっきり言うんですよ。その理由は、良人は妻に対してすこしの借りもあってはいけないし、妻に恩人と思わせたほうがはるかにいいからですって。でも、ことわっておきますけど、あの方はわたしが書いたよりもいくらかやわらかくやさしく言ったんですよ。それがわたしはその言いまわしを忘れて、意味だけをおぼえているものだから。おまけに、決してそう言うつもりがあって言ったわけじゃなく、つい話に身が入って、うっかり言ってしまったらしいのですよ。だってあとであわててそれを訂正し、やわらげようとしていましたもの。でもやっぱりわたしにはすこしぶっきらぼうすぎるように思われて、あとでドゥーニャに言いました。ところがドゥーニャは腹さえ立てて、《言葉はまだ行いじゃないわ》なんて答えたんですよ。それは、むろん、そのとおりだけどねえ。行くと決めるまえに、ドゥーネチカは一晩中ねむりませんでした、そしてわたしがもうねむっていると思って、ベッドから出て、一晩中部屋の中を行き来していました。しまいには、聖像のまえにひざまずいて、一心に祈っていました、そして朝、嫁ぐ決心をしたことを、わたしに打ち明けたのです。
ピョートル・ペトローヴィチがもうじきペテルブルグへ発《た》つことは、もう書きましたね。あの方はそちらに大きなしごとがいくつもたまっていて、それにペテルブルグに法律事務所を開く考えなのです。あの方はもうまえまえからいろんな訴訟事件の弁護をひきうけていて、ついこの間もかなり大きな訴訟に勝ったばかりです。今度ペテルブルグへ行かなければならないのは、元老院に大切な用件があるからだそうです。こんなわけで、かわいいロージャ、あの方はおまえにも、何ごとにつけても、ひどく役に立つ人かもしれません。わたしとドゥーニャはもう、おまえは今日からでも将来のしごとをきめてかかり、自分の運勢はもうはっきりときまったものと考えてさしつかえないと、こんなふうに考えているんですよ。ほんとにそうなったら、どんなに嬉《うれ》しいことでしょう! これはもったいないような幸運で、神さまがわたしたちにおめぐみくださったお慈悲と考えないと、それこそ罰《ばち》があたります。ドゥーニャはそればかり空想しています。わたしたちはもう思いきってちょっとだけこのことをピョートル・ペトローヴィチに話しました。あの方はひどく慎重な態度で、それはもちろん、秘書がいなければ困るから、どうせ俸給を払うなら、他人よりは身内に払ったほうがとくだ、といっても、兄さんがそのしごとに向いていることがわかったうえでの話だが、と言いました(おまえにそのくらいの力がないなんて、そんなはずがあるものですか!)。でもそのあとからすぐに、おまえには大学の授業があるから事務所ではたらく時間があるかしらなんて首をかしげていました。そのときはそれでおわりましたが、ドゥーニャはいまはそのことだけしか考えておりません。あの娘は、ここ数日、まるで熱病にとりつかれたみたいで、あとあとおまえが弁護士のしごとでピョートル・ペトローヴィチの友だちに、いや相談相手にさえなることができるようにと、もうこまかいプランを作りあげました。ましておまえは法科の学生ですもの。わたしはね、ロージャ、あの娘にすっかり賛成で、あの娘のプランと希望がきっとそっくりそのまま実現するものと信じています。そして、いまはピョートル・ペトローヴィチがなんとなく煮えきらない様子ですが、これはまったく無理もありません(だってまだおまえのことを知らないのですもの)、それでもドゥーニャは、未来の良人に心からやさしくはたらきかけることによって何もかも思いどおりにできると、かたく信じていますし、おまえのことにも自信をもっています。もちろん、わたしたちは用心して、ちょっぴりでもわたしたちの未来のゆめ、特におまえがしごとの上であの方の仲間になるなどということは、ピョートル・ペトローヴィチにもらさないように心がけています。あの方は実際家ですから、こんなことはみなただのゆめのような気がして、おそらくまじめにはとりあわないでしょう。そんなわけですから、わたしも、ドゥーニャも、おまえが大学を卒業するまで学資を援助していただけたらと、強い希望をもっていますが、そのこともまだおくびにも出しておりません。というのは、第一に、いずれはひとりでにそうなるだろうと思うからです。あの方は、きっと、よけいなことは言わなくても、自分からそれを申し出るでしょう(これくらいのことをドゥーネチカにことわるはずがありませんもの)。まして、おまえが事務所であの方の右腕になることができるとなれば、学資の援助だってほどこしとしてじゃなく、当然の報酬として受けることになるのですもの、なおのことです。ドゥーネチカはそんなふうにもってゆきたいと考えていますし、わたしもまったく賛成です。第二に、もうじきわたしたちは会うことになるでしょうが、そのときおまえにすこしのひけ目も感じさせたくないからです。ドゥーニャがわくわくしながらおまえのことを話したとき、あの方は、どんな人間でも判断するためには先ず身近に観察しなければならない、だからおまえと近づきになって、誰にも先入観念をあたえられることなく、自分でおまえという人間についての意見をまとめたい、という返事でした。ねえ、わたしのかけがえのないロージャ、わたしはいろいろ思いあわせてみましたが(でも、これは決してピョートル・ペトローヴィチに関したことではなく、ただ自分だけの、もしかしたら婆《ばあ》さんの気まぐれとさえいえるかもしれませんが)、――わたしは、もしかしたら、あの娘の結婚後は、いっしょにではなく、いまのように別々に暮すほうがいいのではないか、なんて気がするのですよ。あの方は心根が美しく、思いやりのこまかい人ですから、きっと自分からわたしに同居をすすめ、もうこれからは娘とわかれわかれになんて暮さないようにと言ってくれるにちがいありません、わたしはそう信じこんでいます。いままでそれを言いださないのは、むろん、言わなくてもわかっているからでしょう。でも、わたしはことわります。姑《しゅうと》が婿《むこ》とあまり気持がしっくりしない例を、わたしはこれまで何度となく見てきました。わたしはちょっとでも誰かの重荷になりたくないばかりか、自分でも、どんなにささやかでも食べるものがあり、それにおまえやドゥーネチカのような子供たちがいる間は、完全に自由な身でいたいのです。できることなら、おまえたち二人のそばに住みましょう。というのはね、ロージャ、いちばん嬉しいことをわたしは手紙のおしまいにとっておいたんですよ。ねえ、かわいいロージャ、もしかしたらもうじきわたしたちはいっしょになれて、もう三年になる別れののちに、また三人で抱きあうことができるかもしれないんだよ! わたしとドゥーニャがペテルブルグへ行くことは、もう確実《・・》です。たしかな日取りは、まだわかりませんが、いずれにしてももうじきです。もしかしたら、一週間後かもしれませんよ。何もかもピョートル・ペトローヴィチの気持次第ですが、ペテルブルグに落ち着いたら、すぐにわたしたちに知らせをよこすことになっています。あの方は、考えるところがあって、できるだけ急いで結婚式をあげたい意向です。できたら今度の肉食期に行いたいが、それが間に合わなかったら、どんなにおそくとも、聖母マリヤ昇天祭がおわったらすぐに、というのです。ああ、わたしはどんなにしあわせな思いでおまえを胸に抱きしめることでしょう! ドゥーニャはおまえに会える喜びで、まるでそわそわしていて、一度なんか冗談に、このひとことだけでもピョートル・ペトローヴィチと結婚したいくらいだわ、なんて言いました。あれはほんとに天使のような娘です! あの娘はいまこの手紙には何も書きそえませんが、わたしにだけたっぷり書くように言いました。おまえと話すことがあんまりたくさんありすぎて、いまはとてもペンをにぎる気になれないんですって、だって二、三枚では何も書けないし、気がいらいらするだけだなんて言うんですよ。おまえをしっかり抱きしめて、数かぎりない接吻を送ってくれとのことでした。ところで、おそらく、わたしたちはそれこそもうじきに会えるものと思いますが、それでも二、三日うちにできるだけたくさんのお金をおまえに送ります。この頃は、ドゥーニャがピョートル・ペトローヴィチに嫁ぐことがもうみんなに知れわたって、そのためにわたしの信用が急に増したのですよ。それでアファナーシイ・イワーノヴィチが年金を担保に七十五ルーブリくらいまでは貸してくれることは、ほとんどまちがいありません。だから、ひょっとしたら、二十五ルーブリないしは三十ルーブリくらいまで送ってあげられると思います。もっとたくさん送ってあげたいのですけど、わたしたちの旅の費用のことも考えなければなりません。ピョートル・ペトローヴィチが親切にもペテルブルグ行きの費用の一部を引き受けてくださいました、というのは、わたしたちの荷物と大きなトランク類を自分の費用で送ってくれることを、自分から申し出てくだすったのです(どうやら知り合いの人の手を通じてやるらしいのです)。それでもやはりペテルブルグへ着いて当座の費用も考えなければなりません、まさか文無しでいるわけにもいきませんし、せめてはじめの二、三日だけでもね。でも、もうドゥーニャと二人でこまかいところまですっかり計算してみましたが、旅費は思いのほか少なくてすみそうです。わたしたちのところから汽車の駅までは九十露里くらいしかありませんし、わたしたちはもうそのときにそなえて知り合いのお百姓の御者さんと話をきめました。その先はドゥーネチカと二人で三等車で楽しい旅をするつもりです。ですから、おそらく、二十五ルーブリではなく、なんとか三十ルーブリくらいは送ってやれるのではないかと思います。ではこのへんでやめにしましょう。二枚の便箋にびっしり書いてしまって、もう余白がありません。わたしたちの身辺のことを洗いざらいすっかり書いてしまいました、よくもまあこんなにたくさんいろんなできごとがたまったものです! では、わたしのかけがえのないロージャ、もう間もない会う日までおまえを抱きしめ、母親の祝福でおまえをつつみます。ロージャ、妹のドゥーニャを愛しなさい。あの娘がおまえを愛していると同じように、あの娘を愛してあげなさい、そしてあの娘ははかり知れぬほど強く、わが身よりもおまえを愛していることを、知ってあげなさい。あの娘は天使です、そしておまえは、ロージャ、おまえはわたしたちのすべてです――わたしたちの望みと頼みのすべてです。おまえだけが幸福になってくれたら、わたしたちも幸福なのです。ロージャ、いままでどおり神さまにお祈りしていますか、造物主と救世主の慈悲を信じていますか? いまどきはやりの無信仰におまえがとりつかれていはしないかと、わたしはひそかに案じています。もしそうでしたら、わたしはおまえのために祈ります。かわいいロージャ、おまえが幼い子供だった頃、お父さんが生きていらした時分のことをおぼえていますか。おまえはよくわたしの膝《ひざ》の上でまわらぬ舌で祈りを唱えたものでした、そしてあの頃はわたしたちはみんなとっても幸福でした! さようなら、いやそれよりは、また会う日までといいましょう。おまえをつよくつよく抱きしめ、かぎりない接吻を送ります。
死ぬまでおまえの変らぬ母
プリヘーリヤ・ラスコーリニコワ》
手紙を読みはじめるとすぐから、ほとんど読んでいる間中、ラスコーリニコフの顔は涙でぬれていた。だが、読みおわったときは、顔は蒼白《そうはく》で、みにくくひきつり、重苦しい、ひくひくふるえる、意地わるい薄笑いが、蛇《へび》のように唇をはった。彼は汚れたぺしゃんこの枕《まくら》に顔を埋めて、じっと、長いこと考えていた。心臓がはげしく動《どう》悸《き》し、考えがはげしく波打っていた。とうとう、この納《なん》戸《ど》か長持のような黄色っぽい穴ぐらにいるのが、息苦しく窮屈になった。視線と考えが広々としたところを求めた。彼は帽子をつかむと、部屋を出た。今度はもう階段で誰かに会いはしないかなどという危《あや》ぶみはなかった。そんなことは忘れていた。彼はV通りをこえて、ワシーリエフスキー島のほうへ道をとった。まるでそちらに用事でもあるようにせかせかと急いだが、いつもの癖で、あたりに目をやりもしないで、歩きながらぶつぶつつぶやいたり、声にだしてひとりごとを言ったりして、道行く人をびっくりさせた。多くの者が彼を酔っぱらいだと思った。
4
母の手紙は彼をひどく苦しめた。しかしもっとも重要な根本問題については、まだ手紙を読んでいる間でさえも、彼の心にはちらとも疑いが生れなかった。問題のもっとも大切な要点は彼の頭の中で決められていた。しかもそれはもう動かすことのできない決定だった。《おれが生きている間は、この結婚はさせぬ、ルージン氏なんて知ったことか!》
《だって、あまりにも見えすいてるよ》彼はせせら笑って、自分の決定の成功を意地わるく前祝いしながら、つぶやいた。《だめだよ、母さん、だめだよ、ドゥーニャ、あんた方にはおれはだませないよ!……おまけに、おれに相談をしないで決めてしまったことを、あやまったりしてさ! あたりまえだ! いまとなってはもう話をこわすことができないと、思っているようだが、まあこれからのおたのしみだね――できるか、できないか! いやはやたいへんな言いわけだよ、〈何しろピョートル・ペトローヴィチは実務家で、ひどくてきぱきした人だから、結婚も駅馬車の中でなきゃだめだ、汽車の中でなんて言いかねない〉、おどろいたね。だめだよ、ドゥーネチカ、おれはすっかり見通しだ。おまえはおれに話したいことがたくさん《・・・・》あるそうだけど、それが何だかおれにはわかっているんだよ。おまえが一晩中部屋の中を歩きまわりながら、何を考えていたかも、母さんの寝間にあるカザンの聖母の像のまえで、何を祈っていたかも、おれにはわかるんだよ。ゴルゴタの丘へのぼるのは苦しい。フム……なるほど、それじゃきっぱりと決心したわけだな、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、実務家でわけのわかった男、自分の財産をもっていて(すでに《・・・》自分の財産をもっているといえば、重味もちがうし、聞えもぐっといいものだ)、勤めも二つもっており、新しい世代の信念にも理解があり(母さんの手紙によると)、しかもドゥーネチカ自身の言葉では〈善良な方らしい《・・・》、〉男のもとへ嫁ぐんだね。このらしい《・・・》が何よりも素敵だよ! あのドゥーネチカがこのら、し、い、と結婚する!……素敵だ! 実に素敵だ!……》
《……ところで、ちょっと気になるが、いったい何のために母さんは『新しい世代』なんて書いてよこしたのだろう? その男の人間をよく説明するためだけか、それとも遠い目的があってか? つまり、おれをたぶらかしてルージン氏に好意をもたせるというような? へえ、考えたものだよ! それからもう一つはっきりさせておきたいことがある。その日、その夜、そしてそれからずうっと、母さんと妹がどの程度まで腹をわって話し合ったかということだ。二人の間で言葉《・・》がすっかり思ったままに話されたか、それとも二人とも気持も考えも同じであることが、互いによくわかっていて、もう何もかもすっかり打ち明けて語り合うまでもなく、口をうごかすだけむだというものだったか? おそらく、そういうことも多少はあったろう。手紙を見てもわかる。母さんには彼がいくらか《・・・・》ぶっきらぼうなように思われて、悪気のない母さんのことだからそのとおりにドゥーニャに言った。ところがドゥーニャは、当然、腹を立てて、〈ぷりぷりしながら答えた〉というわけだ。あたりまえだ! つまらないことを聞かれるまでもなくもうすっかりわかっていて、おまけにもう決ってしまって、何も言うことがないときに、そんなことを言われたら、怒らないほうがどうかしている。さらになんてことを書いているのだ。〈ドゥーニャを愛してあげなさい、ロージャ、あの娘はわが身よりおまえを愛しているのです〉なんて。娘を息子の犠牲にすることに同意したことで、もうひそかに良心の苛責《かしゃく》に苦しめられているにちがいないのだ。〈おまえはわたしたちの望みです、わたしたちのすべてです!〉ああ、母さん!……》
憎《ぞう》悪《お》がラスコーリニコフの身内にますますはげしく燃えたぎってきた。そしていまルージン氏に会ったら、いきなりたたき殺したかもしれぬ!
《フム、それはそうだ》彼は頭の中に旋風のように吹き荒れている考えのあとをたどりながら、ひとりごとをつづけた。《どんな人でもよく知るためには、ゆっくり時間をかけて注意深くつきあってみなければならぬものです。それはたしかにそのとおりだ。だが、ルージン氏の人間はもうわかっている。要は、〈実務家で、善良な人らしい《・・・》〉とのことだが、荷物を引き受け、大きなトランクを自分の負担で運んでやるのは、たいへんなことだろうさ! まあ善良でないとはいえまい。ところが花嫁《・・》と母親の二人は、百姓をやとって、むしろをかけた馬車に乗って行くんだ! おれも何度か乗ったがね。それはまあいいよ! たかだか九十露里だ、ところが〈その先は三等車で楽しい旅をする〉、約千露里だぜ。本人たちはそれでいいよ、分相応ってことがあるからな、ところでルージンさん、あんたはどういうつもりですかね?……だってこれはあんたの花嫁じゃありませんか……母が自分の年金を担保にして旅費を前借りしていることだって、知らなかったでは通りませんよ。そりゃもちろん、あんたにはこんなことは普通の商取引みたいなもので、儲《もう》けもお互い、分け前も平等だから、支出も半々だというでしょうよ。諺《ことわざ》にも、パンと塩はいっしょだが、煙草《たばこ》銭《せん》はめいめい持ちっていいますからね。なるほど、実務の腕にものを言わせて女たち二人をちょいとだましましたな。荷物のほうが二人の旅費より安いし、うまくすれば、無《た》料《だ》になるというわけか。いったいあの二人は、これしきのことがわからないのだろうか。それともわざと知らぬふりをしているのか? 何しろ満足なのだ、満足しきっているんだ!これはまだ花が咲いただけのことで、本当の果実は先のことだってことを、考えないのだろうか! だってここで大切なことは、けちなことでもなければ、がめついことでもない。そうしたことすべてのトーン《・・・》なのだ。そうさ、それが結婚後の将来のトーンになるんだからな。予言みたいなものさ……それにしても、母さんはいったい何をうきうきしているのだろう? 何をどれだけもってペテルブルグへ来るというのだ? 銀貨三枚か、札《・》を二枚じゃないか、この札《・》ってのはあの……婆《ばば》ぁの口癖だが……フム! そのあとペテルブルグでいったい何をして暮そうというのだ? だって、もうどんな理由があったのか知らんが、結婚後は、その当座だけでも、ドゥーニャといっしょに暮すことはできない《・・・・》だろうと、見ぬいているじゃないか? おそらく、いわゆる親切な男が何かのはずみにうっかり口をす《・・・》べらして《・・・・》、生地《きじ》を出し、さすがの母さんも両手をふって、〈こちらからことわりますよ〉てなことになったのだろう。とすれば、母さんは誰《だれ》をあてにしているのだ、百二十ルーブリの年金か? それだってアファナーシイ・イワーノヴィチの借金をさしひかれるではないか。そのうちに冬の襟巻《えりまき》を編んだり、袖当《そであて》を縫ったりして、老いの目を悪くする。それに襟巻の手内職をしたところで、一年かかって百二十ルーブリに二十ルーブリを加えるくらいがおちだ、そんなことはわかりきっている。つまりは、やっぱりルージン氏の高潔な気持とやらをあてにしているのだ。〈先方から申し出て、頼んでくるようになるでしょう〉というわけだ。財布のひもをしめることだ!ああいうシラーの劇の人物みたいに美しい心の持ち主はいつもそんな目にあうんだよ。いよいよというときまで相手を孔雀《くじゃく》の羽でかざり立て、ぎりぎりまで悪くはとらないで、よいことだけを当てにしている、そして事の裏側をうすうす感じても、そうなるまえに自分に本当の言葉を聞かせようとは決してしない。そんなことは考えただけで気が滅入《めい》ってしまうのだ。そしてりっぱだと思いこんでいる相手にまんまと鼻をあかされるまでは、両手で真実を突っぱねているのだ。ところで、ルージン氏は勲章をもっているだろうか。賭《か》けをしてもいい、ぜったいに聖アンナ勲章が襟穴についている、そして請負人や商人のところへ食事に招かれて行くときは、それを胸に光らせて行くことはまずまちがいない。ひょっとしたら、自分の結婚式にもつけかねない!しかし、あんなやつはどうでもいい!……》
《……でも、母さんはまあいいさ、しかたがないよ、ああいうひとなんだ。ところでドゥーニャはどうなんだ? ドゥーネチカ、かわいい妹、おれはおまえのことはよく知っているんだよ! おれが最後に会ったとき、おまえはもうかぞえで二十歳だった。おまえの気性がおれにはもうわかっていた。〈ドゥーネチカはたいていのことには堪えられます〉と母さんは書いている。そんなことはおれだって知っているさ、それはおれはもう二年半まえに知っていたんだ、そしてそれ以来二年半の間そのことを考えてきたんだ、〈ドゥーネチカはたいていのことなら堪えられる〉ってことをさ。スヴィドリガイロフ氏と、それにからんで起ったすべてのできごとに堪えられたのだから、たしかにたいていのことには堪えられるわけだ。ところで今度は、母さんといっしょに、妻は貧しい家からめとって、良《おっ》人《と》の恩に感謝の気持を抱かせたほうがいいなどという説を、しかも一度や二度目の訪問で口にするようなルージン氏だって、しんぼうできると思ったわけか。まあ、うっかり〈口をすべらした〉というのなら、それでもいいさ。わけのわかった人間でもそういうことはあるだろうからな(ひょっとしたら、決して口をすべらしたわけではなく、早いとこはっきりしておこうと思ったのかもしれん)、だがドゥーニャ、おまえはどうなんだ? おまえにはその男の人間がよくわかってるはずじゃないか、一生連れそう相手だぞ。あの娘は黒パンだけかじって、水をのんでも、自分の魂は売らない女だ。まして楽をしたいために自分の精神の自由を渡すはずがない。ルージン氏どころか、シュレスイッヒとホルスタインを全部やるといわれたって、自分を売るような女ではない。いいや、おれが知っているかぎりでは、ドゥーニャはそんな女ではなかった、そして……そうとも、今だって、むろん、変ってはいまい!……わかりきっている! スヴィドリガイロフ夫妻も酷だ! 二百ルーブリの金のために一生家庭教師として県から県をわたり歩くのも辛《つら》いことだろう、しかしそれでもおれは知っている、おれの妹なら、尊敬もしていないし、いっしょになっても何もすることがないような人間と、自分一人の利益だけのために、永久に自分を結びつけて、自分の精神と道徳感をけがすくらいなら、いっそ植民地の農園に奴《ど》隷《れい》となって雇われて行くか、あるいはバルト海沿岸地方のドイツ人の下女になるだろう! また、ルージン氏が純金か高価なダイヤモンドに埋まっているような人間なら、妹はルージン氏の合法的なかこい者になることを承知しまい! それならいまどうして承諾しているのか? どこにどんなわけがあるのか? どこにこの謎《なぞ》のかぎがあるのか? 真相ははっきりしている。自分のために、自分の安楽のために、自分を死から救うためにさえ、自分を売りはしないが、他人のためなら現にこのように売るのだ! 愛する者のために、尊敬する人間のために、売る! 要するに、これが真相なのだ。兄のために、母のために、売る! すべてを売る! おお、この殺し文句のために、時によるとわれわれは道徳心をおしつぶしてしまうのだ。そして自由も、安らぎも、良心までも、何もかも古物市へ運び去ってしまう。生活なんかどうにでもなれ! 愛する人が幸福になれさえすれば! そのうえ、勝手な詭《き》弁《べん》を考えだし、ジェスイット教徒の教えを研究して、こうでなければならないのだ、崇高な目的のためならばこれでいいのだと、自分に納得させて、ひとときの安らぎを得ようとする。われわれとはこんな人間なのだ。そして何もかもが白日のようにはっきりしている。この芝居では、ほかならぬロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフが登場し、しかも主役であることも、はっきりしている。なにいいさ、彼の幸福が築き上げられるのだ。彼を大学に学ばせ、事務所で主人の片腕にしてやり、彼の生涯《しょうがい》を保証してやることができる、もしかしたら、彼はのちに金持になり、人に尊敬されるようなりっぱな人になり、しかも名誉ある人間として生涯をとじるかもしれぬ! だが母は? でもいまはロージャが第一だ。かけがえのない長男のロージャさえよくなってくれたら! この大切な長男のためならば、こんなかわいい娘でもどうして犠牲にせずにいられよう! おお、なんというやさしい、しかしまちがった心だろう! なんということだ、これではわれわれはソーネチカの運命も否定できないではないか! ソーネチカ、ソーネチカ・マルメラードワ、世界あるかぎり、永遠のソーネチカ! 犠牲というものを、犠牲というものをあんた方二人はよくよくはかってみましたか? どうです? 堪えられますか? とくになりますか?分別にかないますか? ドゥーネチカ、おまえは、ソーネチカの運命がルージン氏といっしょになるおまえの運命にくらべて、すこしもいやしいものでないことを、知っているのかね? 〈愛情というようなものがあったわけではない〉――と母さんは書いている。愛情ばかりか、尊敬もあり得ないとしたら、それどころか、もう嫌《けん》悪《お》、侮《ぶ》蔑《べつ》、憎悪の気持が生れているとしたら、どうなるだろう? そうなれば、またしても、〈身なりをきれいにする〉ってことが必要になってくる。そうじゃないかね? わかるかね、わかるかね、ドゥーニャわかるかね、このきれいということの意味が? わかるかね、ルージンのきれいがソーネチカのきれいと同じだということが。いやもしかしたら、もっと悪く、もっといやらしく、もっときたないかもしれん、というのは、ドゥーネチカ、なんといってもおまえにはすこしでも楽をしようという打算があるが、あの娘は餓死というぎりぎりの線に追いつめられているからだよ! 〈ドゥーネチカ、このきれいというやつは、高くつくよ、ひどく高くつくんだよ!〉あとで力にあまるようなときがきたら、どうする? 後悔してももうおそいよ。どれだけ悲しみ、なげき、呪《のろ》い、人にかくれて涙を流さなければならぬことか、だっておまえはマルファ・ペトローヴナのような女じゃないもの! そうなったら母さんはどうなるだろう? もう今から心配で、胸を痛めているというのに、何もかもがはっきりわかるときがきたら、いったいどうなるだろう? ところで、おれは?……本当のところおれについておまえは何を考えたのだ? おれはおまえの犠牲なんかいらないよ、ドゥーネチカ、いやですよ、母さん! おれが生きている間は、そんなことはさせぬ、させないよ、させるものか! ことわる!》
彼は不意にはっとして、足をとめた。
《させるものか? じゃ、それをさせないために、おまえはいったい何をしようというのだ? ことわる? どんな権利があって? そういう権利をもつために、おまえのほうから母さんと妹に何を約束してやれるのだ? 大学を卒業して《・・・・・・・》、就職したら《・・・・・》、自分のすべての運命、すべての未来を二人に捧《ささ》げるというのか? そんなごたくは聞きあきたよ、それにはっきりしない先のこと《・・・・》じゃないか、いまはどうするんだい? いまどうにかしなきゃならないんだよ、わかるかい? ところがいまおまえのしていることは何だ? かえって二人を食いものにしているじゃないか。その金は二人が百ルーブリの年金とスヴィドリガイロフ家の屈辱を抵当にして借りたものなのだ。スヴィドリガイロフたちやアファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシンとやらから、おまえは二人をどうして守るつもりだね、未来の百万長者さん、二人の運命をにぎるゼウスさん? 十年後に? その十年の間に母さんは襟巻編みの手内職で、いやもしかしたら涙で、目をつぶしてしまうだろうよ。精進料理でやせほそってしまうよ。それに妹さんは? まあ、考えてみるんだな、十年後に、いやこの十年の間に妹さんの身にどんなことが起り得るか? わかったかい?》
こうして彼は自分を苦しめ、このように問いつめることによって、一種の快感をさえ感じながら、自分をからかった。しかし、こうした自問はどれも新しいものでも、突然のものでもなく、もうまえまえからの古い病みつきのものだった。もういつからかそれらが彼をさいなみはじめて、彼の心をずたずたに引き裂いてしまっていた。このいまのふさぎの虫が彼の身内に生れたのは遠い昔のことで、それが成長し、つもりつもって、それが近頃《ちかごろ》ではすっかり大きくなって、こりかたまり、おそろしい、奇怪な化け物のような疑問の形をとり、執拗《しつよう》に解決をせまりながら、彼の心と頭をへとへとに疲れさせたのである。そのうえいま母の手紙が不意に雷のように彼の胸を打った。いまは問題は解決されないなどと、頭の中でこねまわすだけで、煩悶《はんもん》したり、くよくよひっこみ思案をしているときではなく、ただちに、一刻《いっとき》も早く、どうしてもどうにかしなければならぬことは、明らかだ。いずれにしても心を決めなければならぬ、それがどんなことであろうと。さもなければ……
《さもなければ、生活を完全に拒否するのだ!》彼は不意に狂おしく叫んだ。《あるがままの運命を、永遠に、おとなしく受《う》け容《い》れて、行動し、生活し、愛するいっさいの権利を拒否して、自己の内部のいっさいを圧《お》し殺《ころ》してしまうのだ!》
《わかりますか、わかりますかね、学生さん、もうどこへも行き場がないということが、どういう意味か?》不意に彼の頭にマルメラードフの昨日の質問がうかんだ。《なぜって、どんな人間だってどこか行けるところがなかったら、やりきれませんよ……》
不意に彼はぎくっとした。ある一つの、これも昨日の考えが、また彼の頭をかすめたのである。しかし彼がぎくっとしたのは、その考えがかすめたためではなかった。それが必ず《かすめる》ことを、彼はたしかに知っていた、予感《・・》していた、そしてむしろそれを待っていたのだった。しかもその考えもぜんぜん昨日のままではなかった。そのちがいは、一月《ひとつき》まえは、まだ昨日でさえも、それはただの空想でしかなかったものが、いまは……いまは不意に空想の衣をすてて、新しい、おそろしい、まったく見知らぬ形をとって現われたことだ、そして彼は不意にそれを意識した……彼は頭をガンとなぐられたような気がして、目のまえが暗くなった。
彼は急いであたりを見まわした。何かをさがそうとしたようだ。腰を下ろしたかった。ベンチをさがしていたのだった。彼はそのときK通りを歩いていた。百歩ほど先にベンチが一つ見えた。彼はできるだけ足を早めた。ところが途中であるちょっとしたできごとが起って、数分の間彼はそれにすっかり気をうばわれてしまった。
ベンチのほうへ目をあてていると、彼は二十歩ほど前方を歩いている一人の女に気がついた、しかしはじめのうちは、それまで彼のまえにちらちらしたすべての対象と同じように、彼女にすこしも気をとめなかった。家へ帰ってから、歩いてきた道をぜんぜん思い出せないということが、これまで何度となくあったので、彼はもうそんなふうに街を歩くことに慣れていたのである。ところが前方を歩いている女には、一目見ただけで気になるような、どことなく奇妙なところがあったので、しだいに彼の注意はそちらへひかれはじめた、――はじめはしぶりがちで、いまいましそうな様子だったが、そのうちにますます強くひかれていって、どうしても目がはなせなくなってしまった。この女の奇妙なところはいったい何なのか、彼は急につきとめてみたくなった。先《ま》ず第一に、この女は、どう見てもまだひどく若い娘なはずなのに、この炎天に帽子もかぶらないで、パラソルもささず、手袋もしないで、なんとも滑稽《こっけい》に両手をふりまわしながら歩いていた。ふんわりとした絹地の服(いわゆる《絹物》)を着ていたが、その着方がまた実に妙で、ボタンがいまにも外れそうで、スカートの上はしが引き裂かれて、腰のあたりにたれさがり、ぶらぶらゆれていた。小さなショールがむきだしの首にまきついていたが、これもへんてこにまがって、横っちょにつきでていた。そのうえ、少女はおぼつかない足どりで、つまずいてよろけたり、あっちへよろよろこっちへよろよろふらついたりしながら、歩いていた。このめぐりあいは、ついに、ラスコーリニコフのすべての注意を呼びさました。彼はベンチのすぐそばで少女に追いついた。ところが少女は、ベンチまで来ると、倒れこむようにベンチの端へ坐《すわ》って、頭を背のもたれへ投げ、目をとじた。ひどく疲れているらしい様子だった。彼女をのぞきこむと、ラスコーリニコフはすぐに彼女がひどく酔っていることを見てとった。なんとも異様で、奇怪な光景だった。彼は白昼夢を見ているのではないかとさえ思った。彼のまえにあるのはまだ乳臭さの消えない小さな顔だった。十六くらいか、いやまだ十五にもなっていないかもしれぬ、――ちっちゃな、薄あま色の、かわいらしい顔だが、真っ赤にほてって、すこしむくんでいるようだ。少女はもうほとんど正体がないらしかった。足を組んでいたが、片方の足がみだらに高くあがりすぎていたし、どうやら、往来にいるということがほとんどわかっていないらしい。
ラスコーリニコフはベンチにかけるでもなく、立ち去る気にもなれず、困ったように彼女のまえに立っていた。この並木道はふだんからさびしい通りで、ましていまは、かんかん照りの午《ひる》下《さ》がりの二時ときているので、ほとんど人影がなかった。ところが、十五歩ばかりはなれた並木道のはずれに、一人の紳士が立ちどまった。その紳士も、何か下心があるらしく、しきりに少女に近づきたそうにしていた。彼も、どうやら、遠くから少女に目をとめて、追ってきたところを、ラスコーリニコフに邪魔されたらしい。紳士は相手に気取られないように苦心しながら、にくらしそうな視線をラスコーリニコフにちらちら投げて、早くこのしゃくなぼろ男が立ち去って、自分の番がくるのを、じりじりしながら待っていた。それは見えすいていた。紳士は三十前後で、でっぷりとふとり、てらてらに脂《あぶら》ぎって、バラ色の唇《くちびる》の上にちょびひげをたくわえ、ひどくきざな服装をしていた。ラスコーリニコフは無性に腹が立って、不意に、この脂ぶとりの伊《だ》達男《ておとこ》をこっぴどく侮辱してやりたくなった。彼はちょっとの間少女をそのままにして、紳士のほうへ近づいて行った。
「おいきみ、スヴィドリガイロフ! そんなところにつっ立ってなんの用があるのだ?」と彼は拳《こぶし》をにぎりしめ、憎悪のあまり泡《あわ》のういた唇をゆがめてせせら笑いながら、どなりつけた。
「それはどういうことです?」と紳士は眉《まゆ》をひそめ、小ばかにしたようなあきれ顔で、けわしく尋ねた。
「立ち去れ、というんだよ!」
「その笑い方はなんだ、ごろつきめ!……」
そう言うと、紳士はステッキを振り上げた。ラスコーリニコフは、がっしりした紳士が自分のような者が二人くらいかかっても歯のたつ相手じゃないことを考えもせずに、拳を振ってとびかかった。しかしそのとき、誰かのたくましい腕が彼をむんずとうしろからおさえた。巡査が二人の間に割って入った。
「やめなさい、往来で喧《けん》嘩《か》をしちゃいけませんな。どうしたというのです? きみは何者だ?」巡査はラスコーリニコフのぼろぼろの服装をじろじろ見て、急に声をきびしくした。
ラスコーリニコフは巡査を注意深く観察した。それは灰色の口髭《くちひげ》と頬髯《ほおひげ》を生やした強そうな兵隊面《づら》の男で、もののわかりそうな目をしていた。
「あなたに来てもらいたかったんだ」と彼は巡査の腕をつかみながら、叫んだ。「ぼくは元学生、ラスコーリニコフといいます……これはあんたにも知ってもらいたいな」と彼は紳士のほうへ顔を向けた。「あなた、さあ行きましょう、あなたに見てもらいたいものが……」
そういうと、彼は巡査の腕をつかんで、ベンチのほうへひっぱって行った。
「これです、見てください、すっかり酔っています、いましがたこの並木道を歩いていたのです。どこの何者か知りませんが、商売女とも思われません。おそらくどこかで飲まされて、だまされたのでしょう……はじめて……わかりますか? あそばれたあげく、通りへ放《ほう》り出されたのです。ごらんなさい、服がこんなに破られているし、それに、この着方、これは着せられたんですよ、自分で着たんじゃありません。しかも着せたのは、慣れない、男の手ですよ。それは明らかです。さあ今度はこっちを見てください。ぼくがいま喧嘩しようとしたあのきざな男は、何者か知りません、はじめてです。あの男もいま道でこのほとんど正体もない酔った娘を見かけて、しきりに近づこうとしたのです、彼女をつかまえて、――だってこんな状態ですからねえ、――どこかへ連れて行こうって下心ですよ……きっとそうです、ぼくの目にくるいはありませんよ。彼がこの娘をねらって、あとをつけてきたのを、ぼくは見ていたんです。ぼくが彼の邪魔をしただけのことです、だから彼はさっきからずっと、ぼくが去るのを待っているんです。そら、ちょっとはなれて、煙草を巻くような振りをして、立ってるでしょう……どうしたらあいつの手にわたさずにすむでしょうか? どうにかしてこの娘を家へとどけてやりたいものです、――考えてやってください!」
巡査はたちまちすべてを見てとって、ことのあらましを想像した。ふとった紳士の件は、むろん疑う余地がなかったので、のこった問題は少女だけだ。巡査は少女の上へ身をかがめてつくづくのぞきこむと、本当に気の毒そうな顔をした。
「やれやれ、かわいそうになあ!」と彼は頭を振りながら、言った。「まだまるっきり子供じゃないか。だまされたんだな、うんそのとおりだ。もしもし、お嬢さん」と彼は娘に声をかけた。「どこにお住まいですかな?」娘は力ないにごった目をあけて、ぼんやり巡査を見ると、片手を振った。
「ねえ」とラスコーリニコフは言った。「これで(彼はポケットをさぐって、手にふれた二十コペイカをつかみだした)、これで、馬車を呼んで、家まではこんで行くように言ってください。なんとか住所さえ聞き出せれば!」
「娘さん、ねえ娘さん?」巡査は金を受け取ると、また呼びはじめた。「わたしがいま馬車をひろってきて、家まで送ってあげるからね。家はどこ? あ? どこのアパート?」
「あっちへ行って!……うるさいわねえ!……」と少女はつぶやいて、またつきのけるように片手を振った。
「おやおや、よくないことですぞ! えッ、恥ずかしくないのですか、娘さん、いいかげんにしなさい!」彼は屈辱と、同情と、怒りのまじりあった気持で、また頭を振った。「どうも困りましたなあ!」と巡査はラスコーリニコフを振り向いた。そのついでにまたちらッと頭から足へ目をはしらせた。こんなぼろをまとっていながら、気前よく金を出すなんて、どうにも腑《ふ》におちなかったらしい。
「あなたがこの娘を見かけたのは、ここから遠くでしたか?」と巡査はラスコーリニコフに尋ねた。
「さっきも言ったように、並木道のあのへんで、ぼくの前方をふらふら歩いていたんです。そしてベンチまで来ると、倒れるように坐りこんだのです」
「なげかわしいことだ。この頃の若い者の堕落はまったく目にあまる! こんな西も東もわからぬ小娘が、もう酒を飲みくさって! だまされたんだよ、そうにちがいない。そら、服がこんなに破られて……ああ、この頃はなんというふしだらがはやりだしたものか!……この娘はどうやらもとはよかったが、おちぶれた家の娘らしい……いまどきはこういう娘がたくさんふえてきた。見たところ、華奢《きゃしゃ》で、まるで大《たい》家《け》のお嬢さんのようだ」そう言って、巡査はもう一度娘の上に身をかがめた。
あるいは、巡査にもこんな娘があったのかもしれぬ――《華奢でお嬢さんのような娘》、流行にかぶれて、お嬢さんを気取っているような娘……
「問題は」とラスコーリニコフは心配そうに言った。「あの卑劣な男の手にわたさないようにすることです! どうです、あの男はまだこの娘をなぐさみものにしようとねらっています! あいつの腹の中なんか、見なくともわかりますよ、そら、まだあのへんにうろうろしてるでしょう!」
ラスコーリニコフはわざと大きな声で言いながら、まっすぐに彼のほうを指さした。紳士はそれを聞きつけて、またかっとなりかけたが、思い直して、さげすみの目を投げつけることでがまんした。それからゆっくり更に十歩ほどはなれて、また立ちどまった。
「あの男にわたさないようにすることはできますよ」と下士官あがりの巡査は思案顔で答えた。「ただどこへ連れて行ったらいいのか、それを言ってくれればいいのですがなあ、でないと……お嬢さん、もしお嬢さん!」彼はまたかがみこんだ。
娘は不意にぱっちり目をあけて、まるで何ごとかを思い出したらしい注意深い目になると、ベンチから立ち上がって、もと来たほうへ歩きだした。
「フン、恥知らず、しつこいわね!」彼女はまたはらいのけるように手を振って、つぶやいた。彼女は急いで歩いたが、足もとはまだひどくふらついていた。しゃれ者は反対側の並木をつたって、娘から目をはなさないようにしながら、あとをつけはじめた。
「大丈夫です、わたしません」と髯の巡査はきっぱり言って、二人のあとを追った。
「やれやれ、この頃はなんてふしだらがはやりだしたものか!」と巡査は聞えよがしにため息をつきながらくりかえした。
その瞬間、ラスコーリニコフはいきなり何かに刺されたような気がして、とたんに考えがひっくりかえってしまったようだ。
「おーい、ちょっと!」と彼は髯の後ろ姿に叫んだ。
髯は振り向いた。
「よしたまえ! あなたになんの関係があるんだ? 放《ほ》っておきなさい! あいつに世話をさせるんだな(彼はしゃれ者を指さした)。どうだっていいじゃありませんか?」
巡査はきょとんとして、目を皿《さら》のようにした。ラスコーリニコフはにやりと笑った。
「ば、ばかな!」とはきすてると、巡査はあきれたように手を振って、しゃれ者と娘を追ってかけ出して行った。どうやらラスコーリニコフを頭がおかしいか、あるいはそれよりも始末のわるい何かの病人と思ったらしい。
《二十コペイカを持って行かれてしまったわい》一人きりになると、ラスコーリニコフは苦りきってつぶやいた。《なあに、あいつからもとるんだな、そして娘をわたしてやりゃいいのさ、それでおわりだよ……なんだっておれは助けようなんてかかりあったのだ? おれに助ける力があるというのか? おれは助ける権利をもっているだろうか? なあに、あいつらは生きたまま呑《の》み合《あ》いをすればいいのさ――それがおれにどうしたというのだ?それにあの二十コペイカをくれてやったりして、そんなことがおれにできるというのか。そもそもあれはおれの金か?》
こんなおかしなことを言ってはみたが、彼は苦しくてたまらなくなった。彼は置き去りにされたベンチに腰をおろした。考えはとりとめもなくみだれた……そうでなくとも、そのときはどんなことでもものを考えるということが、彼には苦しかった。彼はすっかり忘れてしまいたいと思った、何もかも忘れてひとねむりし、目がさめてから、まったく新しい気持でやり直しをしたかった……
「あわれな少女だ!」彼はからっぽのベンチの隅《すみ》へ目をやって、つぶやいた。「気がついて、泣く、やがて母親に知られる……はじめのうちはぶつ程度だが、そのうちにはげしいせっかん、口汚ないののしり、そしてもしかしたら、追い出されるかもしれぬ――追い出されないにしても、やっぱりダーリヤ・フランツォヴナのような女どもに嗅《か》ぎつけられて、あの少女は人目をさけて、今日はあちら明日はこちらと袖をひくようになる……やがてたちまち病院行き(母のまえではひどく行儀よくしていて、ちょいちょい目をかすめてはこっそりわるさをしているような娘にかぎって、きまってこんなことになるものだ)、せっかく病院を出ても……しばらくするとまた病院に逆もどり……酒……居酒屋……そしてまた病院……二、三年もすると――廃人、これが彼女の十九年か、あるいは十八年の生涯の結末だ……おれはこんな例をこれまで見てこなかったろうか? 彼女らはどんなふうにしてそうなったか? なあにみんなこんなふうにして、ああなったんだ……チエッ! 勝手にそうなりゃいいのさ! 誰かじゃないが、そうなるようにできているんだよ。何パーセントかは年々おちて行かなきゃならんのだそうだ……どこかへ……まあ悪魔のところだろうさ、ほかの娘たちを清らかにしてやり、邪魔をしないためだそうだ。パーセント! 彼らに言わせれば、これはまったく素晴らしい言葉だ。まったく気休めになるし、科学的な言葉だからな。何パーセントか、それじゃびくびくすることもあるまい、というわけだ。これがもしほかの言葉だったら、それこそ……おそらく、安閑としてはいられまい……それはさて、ドゥーネチカも何かのはずみでこのパーセントの中へおちるようなことになったら!……このパーセントでないまでも、何かほかの?……」
《ところでおれはどこへ行こうとしているのか?》と彼は不意に考えた。《おかしい。おれは何か目的があって出かけて来たはずだ。手紙を読みおわると、すぐに出た……ワシーリエフスキー島のラズミーヒンのところへ行くんだった。そうだ、やっと……思い出した。しかし、何のために? それにしてもラズミーヒンのところへ行くなんて考えが、どういうわけで、それも今日、頭にうかんだのか?実に不思議だ》
彼は自分におどろいた。ラズミーヒンは大学の頃の友人の一人だった。ことわっておくが、ラスコーリニコフは大学当時ほとんど友だちというものを持たず、みんなをさけて、誰のところへも行かないし、人が来てもいい顔をしなかった。そんなふうだから、間もなく誰も相手にしなくなった。彼は学内の大会にも、学生同士の話にも、娯楽にも、どんなことにも、いっこうに加わろうとしなかった。勉強には精を出し、骨身を惜しまなかったから、学生たちは彼に一目おいていたが、誰一人彼を好きになる者はなかった。彼はひどく貧しかったが、妙に傲慢《ごうまん》で、まるで何かを秘しかくしているように、決して人にまじわらなかった。学生の中には、彼は学生全体を子供あつかいにして、まるで自分が知能の発達も、知識も、思想も一歩先んじているかのように、上から見くだし、彼らの思想や関心を何か低級なもののように見ている、と思っている者もいた。
ラズミーヒンとは、彼はどういうわけか親しくなった、とはいってもいわゆる親しみとはちがって、彼とならわりあいに話もしたし、腹もわったという程度である。しかも、ラズミーヒンとではそれ以外の関係はもち得なかった。それはいまでもかわりがない。彼は並はずれて陽気な、かくしごとのできぬ青年で、素《そ》朴《ぼく》なほどお人よしだ。しかし、この素朴のかげには深みも威厳もかくされていた。友人たちの中でも目のある連中はそれを見ぬいていたし、彼は誰にでも好かれた。たしかにときには軽率なことをしたが、彼は決してばかではなかった。その外貌《がいぼう》も印象的だった――ひょろりと背が高く、いつも無精ひげをはやして、髪はまっくろい。彼はときどき腕力を振るって、力持ちで通っていた。ある夜、会合で、大男の警官を一撃でなぐりたおした。酒は飲みだしたら底無しだが、ぜんぜん飲まなくてもよかった。ときどき許せぬようないたずらをしたが、ぜんぜんしなくても平気だった。ラズミーヒンのもう一つの人と変ったところは、どんな失敗にも決して頭をかかえこまないし、どんな困った事態がおきても、外から見ただけでは、決してへこまないということである。彼は屋根の上にでも暮せたし、どんなにひどい飢えも寒さもしのぶことができた。彼はひじょうに貧しく、何やかや仕事らしいことをしては金をかせぎながら、完全に独力で生活を支えていた。彼はかせぎを汲《く》みあげることのできる泉が、その気になりさえすれば無限にあることを知っていた。一度など、彼は冬中火の気なしで暮したことがあった、そして室内は寒いほうがよくねむれるから、このほうがかえって気持がいいなどとうそぶいていた。いまでは彼もやむなく大学をすてたが、といっても一時のことで、学業をつづけられるように、状態のたてなおしに懸命になっていた。ラスコーリニコフはもうかれこれ四カ月も彼を訪ねなかったし、ラズミーヒンはラスコーリニコフがどこに住んでいるのかさえ知らなかった。一度、二月《ふたつき》ほどまえ、彼らは街で出会いそうになったことがあったが、ラスコーリニコフは顔をかくして、見つからないように、横町へ走りこんだ。ラズミーヒンは気がついたが、友人《・・》に迷惑をかけまいとして、素知らぬ顔で通りすぎたのだった。
5
《たしかに、おれはこの間まではまだラズミーヒンにたのんで、家庭教師の口か何か、しごとを見つけてもらうつもりだった……》とラスコーリニコフは考えの糸をたぐっていった。《だがいまとなっては、彼はおれにどんな力をかしてくれることができよう? かりに、家庭教師の口を見つけてくれて、更になけなしの一コペイカをおれに分けてくれたにしてもだ、それもその一コペイカがあればの話だが、というのは家庭教師に行くには、靴《くつ》も買わにゃならんだろうし、服も直さにゃならんからな……フム……さて、その先は? 五コペイカばかりでいったい何ができるのだ? いまのおれにはそんなものが必要だろうか? まったく、おれがいまラズミーヒンのところへ行くなんて、ナンセンスだ……》
いまなぜラズミーヒンのところへ行くのか、という疑問は、自分で思った以上に、彼を不安にした。このすこしもなんでもなく思いたい行為の中に、彼はびくびくしながら自分にとって不吉なある意味をさぐっていたのである。
《なんということだ、いったいおれはすべての事態をラズミーヒン一人によってたてなおそうとして、その出口をラズミーヒンの中にもとめていたのか?》と彼はあきれて自分に尋ねた。
彼はこんなことを考えながら、額の汗をぬぐった。すると、おかしなことに、まったく思いがけず、不意に、しかもほとんどひとりでに、こんなにさんざん考えぬいたあげくに、ある実に奇妙な考えがヒョイと浮んだ。
《フム……ラズミーヒンのところへか》彼はすっかり腹がきまったように、急におちつきはらってつぶやいた。《ラズミーヒンのところへ行く、むろん行くさ……だが――いまじゃない……彼のところへは……あれ《・・》の翌日行くことにしよう、あれ《・・》がもうすんで、すべてが新しい軌道にのってからだ……》
とたんに、彼ははっとわれにかえった。
《あれ《・・》のあとで》彼はベンチからとびあがって、叫んだ。《とすると、あれ《・・》をやるのだろうか? ほんとうにあれ《・・》をやるのか?》
彼はベンチをすてて、ほとんど走るように歩きだした。彼は家へ引き返しかけたが、家へもどるのが急にいやでたまらなくなった。あの隅《すみ》っこで、あのおそろしい納《なん》戸《ど》のような部屋で、あれ《・・》がすっかりもう一月《ひとつき》もまえから熟しつづけてきたのだ。彼はそこで足の向くままに歩きだした。
神経性のふるえが熱病の発作のようなものにかわった。彼は悪《お》寒《かん》をさえ感じた。この炎天に彼は寒気がした。彼は内からの声のようなものにせっつかれて、ほとんど無意識に、行きあうものすべてに無理にひとみをこらして、なんとか気をまぎらわそうと骨折ってみたが、さっぱりその甲斐《かい》がなかった、そして彼はたえずもの思いにおちた。ぎくっとして、顔をあげ、あたりを見まわすと、とたんに、いま何を考えていたのか、そしてどこを通っていたのかをさえ、忘れているのだった。こんなことをくりかえしながら、ワシーリエフスキー島をはしからはしまで歩いて、小ネワ河へ出ると、橋をわたって、群島《オストロワ》のほうへまがった。みどりとさわやかな空気が、都会の埃《ほこり》や、漆喰《しっくい》や、ぎっしりのしかかるようにたちならんだ大きな家々を見なれた彼のくたびれた目には、はじめ快かった。そこには息苦しさも、悪臭も、居酒屋もなかった。しかししばらくすると、この新しい快い感触も病的な苛《いら》立《だ》ちにかわった。彼はときどきみどりの木立ちの間にあざやかに塗装された別荘のまえに足をとめて、垣《かき》の中をのぞいたり、遠くのバルコンやテラスに憩《いこ》っている美しく着飾った婦人たちや、庭先を走りまわっている子供たちをながめたりした。特に彼は花に心をひかれて、花にはほかのものよりも長い時間、目をとめていた。彼ははなやかな軽馬車や、男女の乗馬姿にも出あった。彼は好奇の目でそれらを見送ったが、視界から消えないうちに、もう忘れていた。一度彼は立ちどまって、ポケットの金をかぞえてみた。三十コペイカほどあった。《二十コペイカを巡査にやり、手紙の立替え分としてナスターシヤに三コペイカ……すると昨日マルメラードフの一家には四十五コペイカか五十コペイカおいてきたわけだ》なんのためか金をかぞえながら、彼はこんなことを考えたが、間もなくなんのために金をポケットからとり出したのかさえ忘れてしまった。彼は安食堂風の一軒の飲食店のまえを通りかかったときに、ふとそれを思い出した。そして急に空腹を感じた。店へ入ると、彼はウォトカを一杯飲んで、何やらあやしげなものを詰めたピローグを食べた。そののこりは歩きながら平らげた。彼はもうずいぶん久しくウォトカを飲まなかったので、たった一杯だったが、たちまちききめがでた。足が急に重くなって、ひきこまれるような眠気を感じはじめた。彼は家へ帰ろうと思ったが、ペトロフスキー島までくると、もうくたびれはててどうにも動けなくなり、道をそれて、潅木《かんぼく》の茂みに入ると、草の上に倒れて、そのまま寝こんでしまった。
病的な状態で見る夢は、間々、異常に鮮明で、気味わるいほど現実に似通っていることがある。時によると、奇怪な光景が描き出されるが、その夢ものがたりの舞台装置や筋のはこびが、あまりにも正確で、しかもそのデテールがびっくりするほど細密で、唐突だが、芸術的に絵全体が実にみごとに調和している。それでその夢を見た本人が、たとえプウシキンかツルゲーネフのようなすぐれた芸術家でも、現《うつつ》のときにはとても考え出せないというような場合があるものだ。このような夢、つまり病的な夢は、いつも長く記憶にのこっていて、調子をみだされてたかぶった人間の神経に強烈な印象をあたえるものである。
おそろしい夢をラスコーリニコフは見た。彼が夢に見たのは、まだ田舎の小さな町にいた子供の頃《ころ》のことだった。彼は七つくらいの少年で、お祭りの日の夕暮れ近く、父といっしょに郊外を散歩していた。しめっぽい季節で、息がつまりそうな日で、そのあたりの風景は彼の記憶にのこっているのとそっくりそのままだった。彼の記憶の中でさえ、それはいま夢にあらわれたよりも、はるかにうすれていた。町はまるで掌《てのひら》の上にあるようにまわりがすっかり見通しで、しろやなぎ一本なかった。はるかに遠く、どこか地平線のあたりに、小さな森が黒ずんでいる。町はずれの野菜畑からすこしはなれたところに、一軒の居酒屋があった。大きな居酒屋で、父といっしょに散歩しながらそのまえを通ると、彼はいつもひどくいやな気がして、おそろしくさえなるのだった。そこにはいつも大勢の人々がむらがっていて、わめきちらしたり、笑ったり、ののしったり、調子外れのしゃがれ声でうたったりしていて、喧《けん》嘩《か》もしょっちゅうあった。居酒屋のまわりにはいつも酔っぱらいのおそろしい形相がうろうろしていた……そういう人たちに会うと、彼はしっかり父にしがみついて、がたがたふるえていたものだ。居酒屋のそばを村道が通っていて、いつも埃っぽく、その埃はいつも真っ黒だった。この道はまがりくねりながら先へのびて、三百歩ほど行くと、町の墓地を巻いて右へ折れていた。墓地の中にみどりの円屋根の石造の教会があった。その教会に彼は年に二度ほど、もうずっと昔に死んだ、一度も見たことのない祖母の供《く》養《よう》があるときに、父母につれられてお詣《まい》りに行った。そのときは父母はいつも白い皿《さら》に聖飯を盛って白いナプキンで包んで持って行った。聖飯は砂糖を入れた御飯で、その上に乾《ほし》ぶどうで十字架が形どってあった。彼はこの教会と、その中にある大部分は縁飾りのない古びた聖像と、いつも頭をふるわせている老神父が好きだった。平たい墓石がすえてある祖母の墓のそばに、生後六カ月で死んだ彼の弟の小さな墓があった。彼はこの弟もぜんぜん知らなかったし、思い出すこともできなかった。しかし彼は、小さな弟があったと聞かされて、墓地を訪ねるたびに、小さな墓のまえで敬虔《けいけん》な気持でうやうやしく十字を切り、墓におじぎをし、接吻《せっぷん》したものだった。いまそれが彼の夢にあらわれた。彼は父といっしょに墓地へ行く道を通って、居酒屋のまえまで来た。彼は父の手にしがみついて、こわごわ居酒屋のほうを見た。変った光景が彼の注意をひきつけた。ちょうどお祭りでにぎやかに騒いでいるらしく、着飾った商家のおかみや、百姓の女房《にょうぼう》や、その亭主《ていしゅ》たちや、その他さまざまな連中が群がっていた。みんな酔っぱらって、歌をうたっている。居酒屋の軒先に一台の荷馬車がとまっていたが、それが珍しい馬車だ。それは大きな挽《ひ》き馬《うま》をつけて、品物や酒樽《さかだる》をはこぶあの大型馬車の一つだった。彼はいつもこうしたたてがみの長い、足のふとい大きな挽き馬が、まるで荷物があったほうがないよりも楽だとでもいいたげに、すこしの疲れた様子もなく、ゆったりときまった歩調で山のような積荷をひいて行くのを、見るのが好きだった。ところがいまは、おかしなことに、その大きな荷馬車につながれているのが、小さなやせた百姓馬なのだ。それは――彼はよく見かけたものだが――よく薪《まき》や乾草を山のように積んで、あえぎあえぎひいて行き、特に車輪がぬかるみかわだちにはまりこんだりすると、いつも百姓どもにこっぴどく鞭《むち》でなぐられ、どうかすると鼻面《はなづら》や目までなぐりつけられて、必死にあがいているような、あんな馬だった。彼はそんなところを見るとかわいそうで、かわいそうでたまらなくて、いまにも泣き出しそうになり、いつも母に窓からひきはなされたものだった。そのとき不意にひどく騒がしくなった。居酒屋からどやどやと、わめいたり、うたったり、バラライカをひいたりしながら、赤や青のルバシカの上に百姓外套《がいとう》をひっかけた大男の百姓たちが出てきたのである。《乗れ、みんな乗れや!》と、首がふとく、肉づきのいいにんじんみたいに真っ赤な顔をした、まだ若い男がどなった。《みんな連れてってやるぞ、さあ乗った乗った!》するとたちまちげらげら笑う声やどなり返す声がどっとあがった。
「そんなやせ馬がひけるってか!」
「おい、ミコールカ、気はたしかか。よくもそんなやくざ馬をこんなでっけえ馬車につけたもんだ!」
「まったくだ、この駄馬《だば》はもうてっきり二十《はたち》からになってるぜ、なあ皆の衆!」
「乗れ、みんな連れてってやるぞ!」ミコールカは真っ先に馬車にとびのり、手《た》綱《づな》をにぎると、御者台に仁王立ちになって、また叫んだ。
「栗《くり》毛《げ》はさっきマトヴェイのやつがひいてったんだ」とミコールカは馬車の上から叫んだ。「このめす馬ときたひにゃ、じれったいったらねえや。ぶっ殺してやりてえくれえだよ、無駄飯ばかり食らいやがって。さあ、乗れってば! すっとばすぜ! そら行くぞ!」そう言うと彼は鞭を両手ににぎりしめて、意地わるい喜びにぞくぞくしながら、やせ馬をなぐりつけようと身がまえた。
「かまうこたねえ、乗れや!」群衆の中にどっと笑い声がおこった。「聞いたかい、とばすんだってよ!」
「とばすって、なあにこんなど馬《・・》ぁもう十年も走ったことがねえさ」
「とばせてみろ!」
「容赦するこたねえや、みんな、鞭をもって支度しろ!」
「それそれ! ひっぱたけ!」
みんなげらげら笑いながら、好き勝手なことを言って、ミコールカの馬車にはいあがった。六人ばかり乗りこんだが、まだ場所があった。ふとった真っ赤な顔をした女を一人ひっぱりあげた。女は赤い綾織《あやおり》の晴れ着をきて、ビーズのついた頭《ず》巾《きん》をかぶり、百姓靴《ひゃくしょうぐつ》をはいて、くるみを割りながらにやにや笑っていた。まわりをとりまいた人々も笑っていた、たしかに、笑わずにはいられなかった。このやせためす馬がこの重い積荷をひいて走ろうというのだ! 馬車の上では若者が二人、ミコールカを助けようとして、すぐに一本ずつ手綱をとった。《そら!》というかけ声がかかった。やせ馬は力いっぱいひっぱったが、走るどころか、歩くことさえほとんどできず、その場で足をふみかえるばかりで、ぜえぜえ息をきらし、豆をはじくようにふりそそぐ三本の鞭の下で膝《ひざ》がつきそうにもがいた。馬車の上とまわりの人だかりの笑い声がひときわはげしくなった。ミコールカは腹を立てて、なぐれば走り出すと本気で考えているのか、気ちがいのように、めす馬をますますはげしくなぐりつけた。
「おれも乗せてくれや、いいな!」と人だかりの中から、一人の若者がいたずらっ気をそそられて叫んだ。
「乗れ! みんな乗れ!」ミコールカがどなりかえした。「みんな連れてってやるぜ。ぶちのめしてやるぞ!」
そしてなぐって、なぐって、なぐりまくった。彼はもう頭がカーッとなってしまって、何でなぐったらいいのかわからなかった。
「お父さん、お父さん」と彼は父に叫んだ。「お父さん、あの人たちは何をしてるの! お父さん、かわいそうな馬をあんなにたたいて!」
「行こう、行こう!」と父は言った。「酔っぱらって、わるふざけしてるんだよ、ばかなやつらだ。行こう、見るんじゃないよ!」そう言って、父は彼を連れ去ろうとしたが、彼は父の手をふりきって、夢中で馬のほうへかけだした。だがかわいそうな馬はもういけなかった。馬は息をきらして、立ちどまっては、またひっぱる。いまにも倒れそうだ。
「死ぬまでぶちのめせ!」とミコールカがわめいた。「こんなやくざ馬ぁ、それでいいんだ。なぐれ!」
「おめえは十字架もっていねえのか、鬼め!」と群衆の中から一人の年寄りが叫んだ。
「こんなやせ馬がこんな荷をひくなんて、見たこともねえ」と誰《だれ》かが年寄りの味方をした。
「なぶり殺す気か!」ともう一人が叫んだ。
「つべこべぬかすな! おれのものだ! どうしようと、おれの勝手よ。もっと乗れ! みんな乗れ! こうなったら意地でも走らせてやるんだ!……」
不意に笑いがどっと爆発して、何も聞えなくなった。めす馬はますますはげしくなった鞭にたえられなくなって、力なく後足で蹴《け》りはじめた。いまの年寄りまでこらえきれず、くすッと笑った。たしかに滑稽《こっけい》だった。こんな老いさらばえたやせ馬のくせに、まだ蹴ることは忘れないのだ!
群衆の中からさらに二人の若者がてんでに鞭をつかんで、あっち側とこっち側から馬めがけてかけだした。両脇《りょうわき》から打とうというのだ。
「鼻面をくらわせろ、目だ、目をなぐれ!」とミコールカがどなった。
「みんな、歌ではやせ!」誰かが馬車の上から叫んだ。すると馬車の上の連中が声をそろえてうたいだした。威勢のいいみだらな歌がひびきわたり、太鼓がとどろき、口笛がはやしたてた。女はくるみを割りながら、にやにや笑っていた。
……彼は馬のそばへ走って行った、馬の前方へ走りでた、そして目をうたれているのを見た、鞭が目にまともにあたった! 彼は泣いていた。胸がいっぱいになって、涙があとからあとからあふれでた。誰かの鞭が彼の顔にあたったが、彼はなんにも感じなかった。彼は両手をもみしだいて、泣き叫びながら、白いあごひげを生やした白髪の老人にとびついた。その老人は頭を振りながら、非難の目でこの光景を見ていたのだった。一人の女が彼の手をひいて、連れ去ろうとした。しかし彼はその手を振りちぎって、また馬のほうへかけ出した。馬はもう最後のふんばりだったが、それでももう一度蹴りはじめた。
「あ、畜生、くたばりゃがれ!」ミコールカはかんかんになってどなった。彼は鞭をすてると、腰をかがめて、馬車の底から太く長い轅《ながえ》をひっぱり出し、もろ手でその端をつかみ、いきなりやせ馬の上にふりかぶった。
「骨がくだけてしまうぞ!」とまわりの人々が口々に叫んだ。
「殺す気か!」
「おれの勝手だ!」そう叫びざま、ミコールカは力まかせに轅を振り下ろした。にぶい音がひびいた。
「なぐれ、なぐれ! どうしたんだ!」と人だかりの中から何人かの声がけしかけた。
ミコールカはもう一度振りかざし、力まかせの打撃がもう一度あわれなやせ馬の背におちた。馬はへたへたッと後足を折ったが、すぐにまたおどりあがって、ひっぱった。なんとか車をうごかそうと、最後の力をふりしぼって、右へ左へはげしくもがいた。しかし四方八方から六本の鞭が馬をとらえ、轅は風をきって、三度目、さらに四度目、正確な間をおいて馬の背に落下した。ミコールカは一撃で倒せなかったので、すっかりいきり立っていた。
「まだ生きてるぞ!」とまわりが叫んだ。
「もうじき倒れるさ、いよいよおしまいだよ!」群衆の中から一人の物好きな男が言った。
「何をしてるんだ、斧《おの》をくらわせろ! 一思いに殺してやれ」と誰かが叫んだ。
「ええ、うるさい! どけろ!」とミコールカは気ちがいのようにわめくと、轅をすてて、またかがみこみ、今度は馬車の底から鉄棒をひきずり出した。「危ねえぞ!」と叫んで、彼は鉄棒を振り上げ、渾身《こんしん》の力をこめてあわれな馬の背へ振り下ろした。ガッとにぶい音がして、馬はよろめき、へたへたとくずれたが、またはね上がろうとした。鉄棒がまた風をきって馬の背へおちた、すると馬はまるで四本の足を一度になぎはらわれたように、どさッと倒れた。
「息の根をとめろ!」と叫んで、ミコールカは夢中で馬車からとび下りた。一杯機《き》嫌《げん》で真っ赤な顔をした若者が数人、鞭、棒、轅と、手にふれたものをひっつかんで、息もたえだえのめす馬のほうへかけだした。ミコールカは馬の横に立ちはだかって、もう放《ほう》っておいても死ぬのに、めったうちに鉄棒で馬の背をなぐりだした。馬は鼻面をのばして、苦しそうに最後の息をひきとった。
「とうとうくたばらせやがった!」という声が人ごみの中から聞えた。
「どうして走らなかったかなあ!」
「おれのものだ!」ミコールカは鉄棒をにぎりしめ、血走った目で叫んだ。彼はもうなぐる相手がないのが口惜《くや》しそうに、立ちはだかっていた。
「たしかにおめえにゃ、十字架ってものがねえよ!」今度はもうたくさんの声々が群衆の中から叫んだ。
ところで、あわれなラスコーリニコフ少年は、もう何も考えられなかった。彼はわっと泣きながら人ごみの間をぬけると、やせ馬のそばへかけより、もう死んでしまった血だらけの鼻面をだきしめて、顔に、目に、唇《くちびる》に接吻した……そして、不意にとびおきると、小さな拳《こぶし》を振りあげて気ちがいのようにミコールカにとびついた。そのとき、もうさっきから彼のあとを追ってきた父が、やっと彼をつかまえて、人ごみから連れ出した。
「行くんだよ! ね、行くんだよ!」と父は彼に言った。「お家《うち》へかえろうね!」
「お父さん! どうしてあの人たちは……かわいそうな馬を……殺したの!」と彼はしゃくりあげながら言ったが、息がきれて、言葉は叫びとなって彼のしめつけられた胸からはじけ出た。
「酔っぱらいどもが、わるふざけしたんだよ、ぼく《・・》にはなんのかかりあいもないんだよ、さあ行こうね!」と父は言った。彼は父にしがみついたが、胸はますます苦しくしめつけられた。彼は息苦しくなって、叫ぼうとすると、目がさめた。
目がさめてみると、身体中《からだじゅう》汗でびっしょりで、髪までぬれていた。彼は肩で息をしながら、恐ろしそうに身をおこした。
「夢で、よかった!」彼は木の根方に坐《すわ》って、深く息をつきながら、言った。「それにしてもどうしたことだろう? 熱病にかかったのではあるまいか。実にいやな夢だ!」
彼は身体中がうちのめされたみたいで、心はみだれて、暗かった。彼は両膝に肘《ひじ》をついて、両手で頭をかかえこんだ。
「ああ!」と彼は思わず叫んだ。「いったい、いったいおれはほんとに斧で頭をわり、頭蓋《ずがい》骨《こつ》をたたきわって……あたたかいねばねばする血に足をとられながら、鍵《かぎ》をこわし、金をぬすむつもりなのか? そして返り血をあびて、がたがたふるえながら、身をかくすのか……斧をもって……おお、果してそんなことができるだろうか?」
彼はこんなことを口走りながら、木の葉のようにわなわなとふるえていた。
「おれはいったいなんてことを!」彼はまた頭を上げながら、ぎょっとしたように言葉をつづけた。「あれがおれには堪えられぬことは、知っていたはずじゃないか、それならどうしておれはいままで自分を苦しめてきたのか? もう昨日、昨日、あれの……下見《・・》に行ったとき、神経がもたぬことを、とくとさとったはずではないか……それが、いまになってどうして? どうしていままで疑っていたのか? だってもう昨日、階段を下りながら、おれは自分に言い聞かせたじゃないか、あれは卑《いや》しいことだ、いやなことだ、下《げ》の下《げ》だと……あれを現実に《・・・》考えただけでも、おれは吐き気がして、恐怖におそわれたではないか……」
「いや、おれは堪えられぬ、堪えられぬ! たとえこのすべての計算には一点の疑いさえないにしても、この一月の間に決められたことがみな、白日のように明らかで、算術のように正しいとしても、だめだ。ああ! おれはやっぱり思いきれぬ! だっておれは堪えられぬ、堪えられぬのだ!……それなのにどうして、どうしていま頃まで……」
彼は立ち上がると、ここへ来たのが不思議そうに、びっくりしてあたりを見まわした。そしてT橋のほうへ歩きだした。顔は蒼白《そうはく》で、目は熱っぽくひかり、身体中に疲労があったが、彼は急に呼吸《いき》が楽になったような気がした。彼は、こんなに長い間重くのしかかっていたあの恐ろしい重荷を、もうはらいのけてしまったような気がして、心が一時に軽くなり、安らかになった。《神よ!》と彼は祈った。《わたしに進むべき道を示してください、わたしはこの呪《のろ》われた……わたしの空想をたちきります!》
橋をわたりながら、彼はおだやかな目でしずかにネワ河と、真っ赤な太陽の明るい夕《ゆう》映《ば》えを見やった。彼は弱っていたけれど、疲れを感じもしなかった。まるでまる一月の間彼の心にかぶさっていたものが、一時にとれてしまったようだ。自由、自由! 彼はいまあの諸々《もろもろ》の魔力から、妖術《ようじゅつ》から、幻惑から、悪魔の誘惑から解放されたのだ!
あとになって、彼はこのときのことと、この数日の間に彼の身に起ったことを一秒、一点、一線も見のがさず、細大もらさず思い起すとき、必ずひとつのできごとに行きあたって、迷信じみたおどろきにおそわれるのだった。それはそのこと自体はそれほど異常なことではないが、あとになってみるとどういうものか彼の運命の予言のように思われてならなかった。というのは、へとへとに疲れ果てていた彼が、直線の最短距離を通って家へ帰ったほうがどんなにとくか知れないのに、どういうわけか、ぜんぜん立ち寄る必要のなかったセンナヤ広場をまわって帰ったことである。その理由は自分でもどうしてもわからなかったし、説明もつかなかった。まわり道といっても大したことはなかったが、どう見てもぜんぜん必要のないことだ。たしかに、どこを通ったかまるでおぼえがなく、家へ帰ったことが、これまで何十度となくあった。それにしてもなぜ? 彼はあとになっていつも自問するのだった。いったいなぜあんな重大な、彼にとってあれほど決定的な、同時にめったにない偶然のめぐりあいが、(通る理由さえなかった)センナヤ広場で、ちょうどあの時間に、彼の人生のあの瞬間に、それもあんな心の状態のときに、しかもこのめぐりあいが彼の全運命にもっとも決定的な、最後的な影響をあたえるには、いまをのぞいてはないというような状況のときに、起ったのか?まるで故意に彼を待ち受けていたかのようだ!
彼がセンナヤ広場を通っていたのは、九時頃だった。台や箱の上に商品をならべたり、屋台をはったりしていた商人たちは、店じまいをして、商品を片づけ、お客たちと同じように、それぞれ家路へ散って行く頃だった。地下室の安食堂のあたりや、センナヤ広場の家々の悪臭ただよう泥《どろ》んこの内庭や、特に居酒屋の近くには、たくさんの雑多な職人やぼろを着た連中がむらがっていた。ラスコーリニコフはあてもなくぶらりと街へ出たとき、特にこのあたりや、この近所の横町を歩きまわるのが好きだった。このへんでは彼のぼろ服も、誰からも見下すような目でじろじろ見られなかったし、誰に気がねもなく、好き勝手な格好で歩くことができたからである。K横町へ入る曲り角の片隅で、露天商の夫婦が台を二つならべて、糸や、撚紐《よりひも》や、更《さら》紗《さ》のプラトークなどの品物を売っていた。彼らも店をしまいかけていたが、立ち寄った知り合いの女との立ち話に手間どっていた。その知り合いの女はリザヴェータ・イワーノヴナ、あるいは普通みんながただリザヴェータとだけ呼んでいる女で、昨日ラスコーリニコフが時計をあずけに行って下見《・・》をしてきた、あの十四等官未亡人で金貸しをしている老《ろう》婆《ば》アリョーナ・イワーノヴナの妹である。彼はもうまえまえからリザヴェータのことはすっかり知っていたし、リザヴェータも彼のことをいくらか知っていた。それは背丈が高すぎて格好のわるい、いじけたおとなしい売れのこりの娘で、三十五にもなるのに、まるでばかみたいに、すっかり姉のいいなりになり、びくびくしながら昼も夜も姉のためにはたらき、なぐられても黙ってこらえているような女だった。彼女は包みを持ったまま商人夫婦のまえに思案顔に佇《たたず》んで、じっと二人の話を聞いていた。夫婦は何ごとか熱心に説明していた。ラスコーリニコフは思いがけず彼女の姿を見かけたとき、このめぐりあいにはおどろくようなことは何もなかったけれど、深い驚愕《きょうがく》に似た奇妙な感情に、いきなり抱きすくめられた。
「ねえ、リザヴェータ・イワーノヴナ、自分できめたらいいですよ」と町人が大きな声で言った。「明日、七時頃いらっしゃいよ。あの連中も来ますから」
「明日?」リザヴェータはどうしようかと迷っているような様子で、のろのろと考えこみながら言った。
「じれったいねえ、あなたってひとは、アリョーナ・イワーノヴナにまるで頭があがらないんだから!」と威勢のいい商人の女房が早口にしゃべりだした。「あんたを見ていると、まるで赤ちゃんみたいだよ。おまけに姉とはいっても、血のつながりのない義理の姉じゃないの、それなのにすっかり自由にされてさ」
「そうだとも、いいかね、今度のことはアリョーナ・イワーノヴナに何も言いなさんなよ」と商人が口をいれた。「わたしは老婆心から言いますがね、こっそり家へ来なさるがいい。これはいい儲《もう》け口《ぐち》ですよ。姉さんだってそのうちにわかりますよ」
「寄ってみようかしら?」
「七時ですよ、明日の。あっちからも来ますから、自分できめるんですな」
「サモワールの用意もしておきますよ」と女房がつけ加えた。
「いいわ、行ってみるわ」リザヴェータはまだすっきりしない様子で言うと、のろのろとその場をはなれて行った。
ラスコーリニコフはちょうどそのとき通りすぎたので、その先は聞えなかった。彼は一言も聞きもらすまいとして、そっと、気付かれないように通りすぎた。ひどい寒気が背筋を通るように、最初の驚愕がしだいに恐怖にかわった。彼は知った。突然、不意に、しかもまったく思いがけなく、明日、晩のちょうど七時に、老婆の妹で、たった一人の同居人であるリザヴェータが家にいないことを、従って老婆は、晩のちょうど七時には、たった《・・・》一人で家にいる《・・・・・・・》ことを、彼は知ったのである。
家まではもう五、六歩のところまで来ていた。彼はまるで死刑の宣告を受けた人のように、自分の部屋へ入った。何も考えなかったし、ぜんぜん考えることができなかった。しかし不意に全身で、もう考える自由も、意志もなくなり、いっさいが決定されてしまったことを、直感した。
むろん、このような計画を持ちながら、何年間も適当な機会を待ちつづけたとしても、それでさえ、いま思いがけなく彼のまえにあらわれた機会以上に、この計画の成功への確実な一歩は、おそらく望めなかったにちがいない。いずれにしても、明日のこれこれの時間に、謀殺をねらうこれこれの老婆が、たった一人で家にいるということを、その前夜に確実に、ほとんど危険をおかすことなく、いっさいの危ない聞きこみやさぐりをせずに、詳細につきとめるということは、難かしいことにちがいない。
6
あとになってラスコーリニコフは、どうして商人夫婦がリザヴェータを自分の家に呼んだのかを、偶然に知った。それはごくありふれた用件で、別に何も変ったことではなかった。よそから移ってきて、生活に追われたある家庭が、品物や衣類やその他いろんな女ものを手放すことになったが、市場で売ると損なので、売りさばいてくれる女商人をさがしていた。ところがリザヴェータがちょうどそういうしごとをしていたというわけである。彼女は手数料をもらって、得意先をまわって商いをしていたが、ひどく正直で、いつも掛け値なしの値段を言い、一度言ったら、もう絶対にまけないので、なかなか評判がよく、方々で重宝がられていた。だいたい口数が少なかったし、それにまえにも述べたように、いたって気が小さく、おとなしすぎるほどだった……
しかし、ラスコーリニコフはこの頃《ごろ》迷信深くなった。その迷信のあとはその後長く彼の中にのこって、ほとんど消すことができないものになった。そしてこの事件全体に、あとになって考えるといつも、彼は何かしら奇妙な神秘的なものがあるような気がして、目に見えぬ何ものかの力と符合の存在を感じるのだった。まだ冬の頃、ポコレフという知り合いの学生がハリコフへ帰るときに、話のついでに何気なく、何か質入れでもするようなときがあったらと、老婆アリョーナ・イワーノヴナの住《すま》居《い》を彼におしえてくれた。しかししばらくは、家庭教師のしごとがあったし、どうにか暮しが立っていたので、老婆のところへ足を向けなかった。彼が老婆の住居を思い出したのは一月半《ひとつきはん》ほどまえのことである。彼には質草になりそうなものが二つあった。父のおさがりの古い銀時計と、故郷を発《た》つときに妹が記念にくれた、小さなルビーのようなものが三つちりばめてある小さな金の指輪である。彼は指輪を曲《ま》げることにきめて、老婆の住居を訪ねあてたが、一目見ただけで、まだ老婆のことは何も知らないのに、どうにもならぬ嫌《けん》悪《お》の気持をおぼえた。そして札《・》を二枚借りてのかえりみち、一軒のきたない飲食店に立ち寄った。彼は茶をたのんで、椅子《いす》に腰をおろすと、深いもの思いにしずんだ。ひなが卵をつつきやぶるみたいに、奇妙な考えが彼の頭の中にでてきて、すっかり彼をとりこにしてしまった。
すぐとなりのテーブルに、彼のぜんぜん知らぬ、見おぼえもない一人の大学生と、一人の若い士官が向いあっていた。彼らは玉突きをおわって、茶を飲みはじめたところだった。不意に彼は、大学生が士官に十四等官未亡人の金貸しの老婆アリョーナ・イワーノヴナの話をして、その住居をおしえているのを、耳にした。もうそれだけでもラスコーリニコフは何かしら妙な気がした。彼はいまそこから出てきたばかりなのに、ここでまたその噂話《うわさばなし》を聞かされる。むろん、偶然にはちがいないが、彼があるまったく異常な印象からぬけきれずにいるのを見ぬいて、まるで何者かがおせっかいに耳打ちしてくれているようだ。大学生は不意にアリョーナ・イワーノヴナについていろんなことをこまかく相手におしえはじめた。
「便利な婆《ばあ》さんだよ」と大学生は言った。「いつだって借りられるよ。ユダヤ人みたいに金持で、一度に五千も貸してくれるし、一ルーブリの質でもいやな顔をしない。ぼくたちの仲間はずいぶん世話になってるよ。ただなにしろひどい婆《ばば》ぁで……」
そう言って彼は、老婆が意地わるいうえにむら気で、期限が一日でもすぎたら、たちまち流してしまうし、値段の四分の一しか貸さないで、利息は月に五分か、ひどいときには七分もとるなどという話をはじめた。大学生はすっかり調子づいて、そのほか、老婆にはリザヴェータという妹がいて、自分はひからびたちっぽけな婆ぁのくせに、少なくみても一・六メートルくらいはあるという大女のリザヴェータを、しょっちゅうひっぱたいて、まるで小さな子供のように、すっかり言いなりにしている、などということまでおしえた……
「これもまさに稀有《けう》なる現象だよ!」と大学生は大声で言って、からからと笑った。
二人はリザヴェータの話をはじめた。大学生はいかにも満足そうに、たえずにやにや笑いながら彼女の話をし、士官はおもしろそうに身をのりだして聞いていたが、下着の洗濯《せんたく》にぜひそのリザヴェータを家へよこしてほしい、と学生にたのんだ。ラスコーリニコフは一語も聞きもらすまいと耳をそばだてて、そこで彼女のあらましを知った。リザヴェータは老婆の腹ちがいの妹で、年はもう三十五になっていた。彼女は姉のために夜も昼もはたらき、家では料理女や洗濯女の代りまでして、そのうえ、下うけの針仕事から、床洗いにまでやとわれて、もらった金はすっかり姉にわたしていた。老婆のゆるしがなければ、一つの注文も、一つのしごとも引き受けることができなかった。老婆はもう遺言状をつくっていた。それはリザヴェータも知っていたが、その遺言状によれば老婆の死後彼女の手に入るものは、テーブルや椅子などの家財道具や、その他こまごましたものだけで、金は一文もなく、金はのこらずN郡のある修道院に寄付して、末代までも供《く》養《よう》をしてもらうことになっていた。リザヴェータは官吏の娘ではなく、商人の生れで、まだ一人ものだった。おそろしく不格好で、背丈が高すぎ、長い足はまるでねじったみたいにまがっていて、年中すりへった山羊《やぎ》皮《がわ》の靴《くつ》をはき、浮いた噂はなかった。学生があきれ顔に笑っていたいちばんおもしろいことは、リザヴェータが年中妊娠しているということであった……
「でも、きみの話では、ひどい不器量だっていうじゃないか?」と士官が言った。
「うん、まっくろくて、仮装した兵隊みたいだが、しかし不器量とはいえないな。顔と目が実にやさしいよ。ひじょうにといってもいいくらいだ。その証拠に――みんなに好かれる。しずかで、やさしくて、素直で、従順で、どんなことでもいやとは言わないし、微笑をうかべた顔なんてほんとに素敵だぜ」
「なるほど、きみも好いている一人か?」と士官はにやりと笑った。
「たで食う虫でな。そんなことより、ぼくがきみに言いたいのはこれだよ。つまりぼくがあの呪《のろ》われた老婆を殺害して、あり金を盗んだとしてもだ、ぼくは断じて、これっぽっちの良心の苛責《かしゃく》も感じないな」と学生ははげしい口調でつけ加えた。
士官はまたからからと笑った、が、ラスコーリニコフはぎくッとした。なんという不思議なことだ!
「そこでだ、ぼくはきみに一つのまじめな問題を提起したい」と学生はむきになった。「いまのは、もちろん、冗談だが、いいかね、一方では、愚かな、無意味な、なんの価値もない、意地わるい病気の老婆、誰《だれ》にも役に立たないどころか、かえってみんなの害になり、なんのために生きているのか自分でもわからず、放《ほう》っておいても明日になれば死んでしまうような老婆がいる。わかるかね? わかるかね?」
「うんまあ、わかるよ」士官は興奮した相手をじっと見つめながら、答えた。
「まあ聞きたまえ。その半面には、支えてくれるものがないためにむなしく朽ちてゆく、若い、みずみずしい力がある、しかもそれは何千となく、いたるところにいるのだ! 修道院に寄付されるはずの老婆の金があれば、何百、何千というりっぱなしごとや計画が実施され、改善されるのだ! 何百人、あるいは何千人の人々が世に出ることができ、何十という家庭が貧窮から、崩壊から、破滅から、堕落から、性病院から、救われるのだ、――それがみな老婆の金があればできるのだ。老婆を殺し、その金を奪うがいい、ただしそのあとでその金をつかって全人類と公共の福祉に奉仕する。どうかね、何千という善行によって一つのごみみたいな罪が消されると思うかね? 一つの生命《いのち》を消すことによって――数千の生命が腐敗と堕落から救われる。一つの死と百の生命の交代――こんなことは算術の計算をするまでもなく明らかじゃないか!それに社会全体から見た場合、こんな愚かな意地わるい肺病の老婆の死なんて、いったい何だろう? たかだかしらみ《・・・》か油虫の生命くらいのものだ。いやそれだけの価値もない。あの老婆は有害だからな。あいつは他人の生命をむしばんでいる。この間怒《おこ》ってリザヴェータの指にかみつき、危なくかみきるところだったよ!」
「むろん、そんな老婆は生きている価値がなかろうさ」と士官が意見をのべた。「でもそれが自然というものじゃないか」
「おい、きみ、だって自然は改善したり、方向を変えたりできるじゃないか。それがなかったら偏見の中で溺《おぼ》れ死んでしまうほかないよ。それがなかったら偉人なんて一人も出なかったろうよ。《義務、良心》と世間ではいう、――ぼくは義務や良心に対してなんの文句もつけるつもりはないが、――しかしだ、われわれはそれらをどう解釈しているか? 待ちたまえ、もう一つきみに問題を提起したい。聞いてくれ!」
「いや、待て、ぼくのほうから一つ聞きたい。いいかね!」
「よかろう!」
「いまきみはとうとうと意見をのべたがだ、ぼくが聞きたいのは、きみが自分で《・・・》、老婆を殺すのか、どうかだ?」
「もちろん、ちがうさ! ぼくは正義のために論じたまでで……ぼくに関係したことじゃないよ……」
「ぼくに言わせれば、きみが自分でやる決意がないのなら、正義もへったくれもないよ!どれ、もうワンゲームやろうや!」
ラスコーリニコフは極度の興奮にとらわれていた。むろん、これはすべて、形式とテーマがちがうだけで、もう何度となく聞かされた、ごくありふれた、しごくあたりまえの青年たちの話題や思想であった。しかしどうして時もあろうに、彼自身の頭の中に――それ《・・》とまったく同じ考え《・・・・・・・・・》が生れたばかりのいま、そんな話とそんな考えを聞くはめになったのか? そしてどうして、老婆のところから自分の考えの芽生えをもちかえってきたいま、まるでおあつらえむきに老婆の噂にでっくわしたのか?……その後思い出すごとに、この符合が彼には不思議に思われた。この飲食店で聞いたつまらない会話が、事態のその後の発展につれて、彼にきわめて大きな影響をもった。まるで実際にそこに宿命とでもいうか、指示のようなものがあったかのようだ……
…………………………………………………
センナヤ広場からもどると、彼はソファの上に身を投げて、一時間ほど身じろぎもせずにじっとしていた。そのうちに暗くなった。ろうそくはなかったし、あかりをともそうという考えも頭にうかばなかった。彼はそのとき何かを考えていたのかどうか、あとになってどうしても思い出せなかった。しまいに、彼はまた先ほどの熱病のようなふるえと悪《お》寒《かん》を感じて、ソファの上にこのままねてもいいのだと思いあたると、嬉《うれ》しくなった。間もなく鉛のような重い眠気が、おしつぶすように、彼の上におそいかかった。
彼はいつになく長く、夢も見ないで眠った。ナスターシヤが、翌朝十時に部屋へ入ってきて、はげしく彼をゆすぶった。彼女は茶とパンをはこんできたのだった。茶はまた出がらしで、また彼女の茶わんだった。
「まあ、ほんとによくねること!」と彼女はぷりぷりしながら叫んだ。「いつもねてばかりいて!」
彼はやっと身体《からだ》を起した。頭がずきずきした。彼は立ちあがりかけたが、せまい部屋の中でぐるりと身体の向きを変えると、またソファの上にたおれた。
「またねるのかい!」とナスターシヤが大声をたてた。「どうしたの、病気なの?」
彼は何も答えなかった。
「茶を飲む?」
「あとで」彼はまた目をつぶると、壁のほうへ寝返りをうちながら、苦しそうにつぶやいた。ナスターシヤは突っ立ったまましばらく彼の様子を見ていた。
「ほんとに、病気かもしれないわ」と言うと、彼女はくるりと向うをむいて、出て行った。
彼女は二時にまたスープをはこんで来た。彼はさっきのまま横になっていた。茶は手をふれずにおいてあった。ナスターシヤはばかにされたような気さえして、意地わるくゆすぶりはじめた。
「なんだってねてばかりいるのさ!」彼女は気色わるそうに彼をにらみながら、どなった。彼は身を起して、坐《すわ》ったが、彼女には何も言わずに、じっと床に目をおとしていた。
「病気なの?」とナスターシヤは聞いたが、また返事はなかった。
「すこしは外へ出てみたら」ちょっと間をおいて、彼女は言った。「風にあたったら気分がなおるよ。食事は、する?」
「あとで」と彼は弱々しく言った。「あっちへ行ってくれ!」そして片手を振った。
彼女はそれでもしばらく突っ立って、気の毒そうに彼を見ていたが、やがて出て行った。
二、三分すると、彼は目をあげて、長いこと茶とスープをながめていた。それからパンをとり、匙《さじ》をとって、食べだした。
彼はまずそうに、ほんのすこし食べた。匙を三、四度、機械的に口へはこんだだけだった。頭の痛みがすこしやわらいだ。食べおわると、またソファの上に長くなったが、もう眠ることができなかった。俯《うつ》伏《ぶ》せになって、枕《まくら》に顔を突っこんだまま、身動きもしないでじっとしていた。たえず夢を見た。なんとも奇妙な夢ばかりだった。いちばん多く見たのは、アフリカかエジプトのオアシスのようなところにいる夢だった。キャラバンが休憩《きゅうけい》し、ラクダがおとなしく腹ばいになって休んでいる。まわりにはしゅろがまるく茂っている。みんな食事をしている。彼はすぐそばをさらさらと流れている小川に口をつけて、水ばかり飲んでいる。ひんやりと涼しく、なんともいわれぬ美しい空色のつめたい水が、色とりどりの小石の上や、金色にぴかぴか光るきれいな砂の上を流れている……不意に彼は時計がうつ音をはっきり聞いた。彼はハッとわれにかえって、頭をもたげて、窓を見た。時間をさとると、突然、はっきり正気にもどって、まるで誰かにつきとばされたように、ソファからとびおきた。彼は爪先《つまさき》立《だ》ちでドアのまえへ近づき、そっと細目にあけて、下の階段の気配をうかがった。胸がおそろしいほどどきどきした。しかし階段はひっそりとしずかで、まるでみんな眠っているようだ……昨日からまだ何もしないで、何の準備もしないで、よくもこんなにぐっすり眠りこけていられたものだと、彼は自分でも不思議な気がした……それはそうと、さっきたしかに六時をうったようだ……そう思うと不意に、いつになく熱にうかされたような、うろたえ気味のあせりにとらわれて、眠気やもやもやなどすっとんでしまった。しかし、準備といってもいくらもなかった。彼はすべてを思いあわせ、忘れていることが何もないように、極度に気をはりつめた。しかし胸の動《どう》悸《き》は高まるばかりで、どきんどきんして、息をするのも苦しくなった。先《ま》ず第一に、輪をつくって、外套《がいとう》に縫いつけることだ――それは一分もあればできる。彼は枕の下をさぐって、おしこんである下着の中からすっかりぼろになって汚れたままの古シャツをさがしだした。そのぼろから幅三センチ長さ二十五センチほどの平打ち紐《ひも》をさきとると、それを二つに折りかさねて、着ていた厚い木綿地のようなものでつくった丈夫なだぶだぶの夏外套(彼にはコートと名のつくものはこれが一枚しかなかった)をぬぎ、紐の両はしを左のわきの下の内側へ縫いつけはじめた。縫いつけるとき、両手がふるえたが、それをおしきって、着たとき外からぜんぜんわからないようにしあげた。針と糸はもう大分まえから用意されて、紙に包んで卓のひきだしに入れてあった。輪といえば、これは彼の実に巧妙な思いつきで、斧《おの》をかくすためのものであった。斧を手にさげて通りを歩くわけにもゆかぬ。といって、外套の下へかくしても、やはり片手でおさえていなければならぬし、人に見とがめられるおそれがある。そこでいまのように、輪をつければ、それに斧の刃を通すだけで、斧は途中ずっとしずかに腋《わき》の下の内側にさがっているというわけだ。左手を外套の脇《わき》ポケットへ入れれば、斧がぶらぶらしないように、柄《え》のはしをおさえることもできる。それに外套はまるでほんものの嚢《ふくろ》のように、たっぷりしすぎているほどだから、ポケット越しに何かをおさえているなどと、外から気づかれるはずがなかった。この輪も彼がもう二週間もまえに考えついたものだ。
これがおわると、彼はトルコ風ソファと床板の間の小さな隙《すき》間《ま》へ指をつっこんで、左隅《すみ》のほうをさぐり、もうまえまえから用意して、そこにかくしておいた質草《・・》をひっぱり出した。それは質草とはいっても、ぜんぜんまともな質草ではなく、つるつるにかんなをかけたただの板きれで、大きさと厚さは、せいぜい銀のシガレットケースと思われるくらいだった。この板きれは、彼が散歩のときに、脇屋が何かの仕事場になっているある家の外庭で、偶然に見つけたものである。その後彼はこの板きれに、やはりその日に往来でひろった、何かの破片らしいつるつるのうすい鉄板をはりつけた。この二枚をはりあわせると、鉄板のほうがいくらか小さかったが、糸で十文字にぎりぎりしばりつけた。そのうえでそれを白いきれいな紙に体裁よくきちんと包み、それを容易なことではとけないようにしっかり結んだ。それは老婆がその結び目をときにかかったときに、いっときそれへ注意をそらさせて、その隙をとらえるためだった。鉄板は、もうひとつは重さを加えて、もの《・・》が木であることを、老婆にとっさにさとらせないためでもあった。こうしたものがみな時が来るまでソファの下にかくされていたのである。彼がその質草をとり出すと同時に、不意に庭のほうで誰かの叫ぶ声が聞えた。
「六時はとっくにすぎたぞ!」
「とっくに! さあたいへんだ!」
彼は戸口へかけより、そっと気配をうかがってから、帽子をつかみ、猫《ねこ》のようにそっと足音を殺して、例の十三階段を下りはじめた。台所から斧をぬすみ出すという、もっとも重大なしごとがひとつのこっていた。斧で片をつけなければならぬということは、もうまえまえから決めていた。彼にはそのほか庭師のつかう折りたたみナイフがあったが、ナイフに、それよりも自分の力に、彼は望みがもてなかった。そこで結局は斧にきめたわけだ。ついでに心にとめておきたいのは、この事件で彼がとったすべての最終的決定には、一つの変った性格があったことである。その性格というのは実に奇妙なもので、決定が最終的なものになるにつれて、それが彼の目にはぶざまな理にあわぬものに見えてきたということである。心の中でたえまなく苦しいたたかいをつづけてきたが、彼はこれまでの間ひとときも自分の計画が実行可能であるとは信ずることができなかった。
だから、いずれ、もうすべては最後の一点までしらべつくされて、最後的に決定されたものであり、そこにはもうすこしの疑いものこされていない、というような状態になったとしても、そのときでも彼は、理にあわぬおそろしい不可能なこととして、すべてを断念したことであろう。しかし未解決の点と疑惑はまだまだ無限にのこっていた。さて斧をどこで手に入れるかという問題だが、こんな些《さ》細《さい》なことは彼にすこしの不安も感じさせなかった。これほどたやすいことはなかったからだ。というのは、ナスターシヤは、わけても晩には、ほとんど家にいたためしがなかったからである。近所の家へ行っているか、そこらの店であぶらを売っているかで、戸はいつもあけっ放しだった。それだけが主婦《おかみ》と彼女の言い合いの種だった。というわけで、いよいよというときに、そっと台所へしのびこんで、斧をもち出し、あとで、一時間もしたら(すべてが終ってから)、またしのびこんで、元どおりにもどしておきさえすればよかった。だが、疑惑もあった。一時間後にもどしにかえってきたとき、折あしくナスターシヤがもどっていたらどうしよう。もちろん、素通りして、彼女がまた出て行くのを待たねばならぬ。しかしその間に斧がないことに気づき、さがしはじめて、さわぎたてたら、――そこに嫌《けん》疑《ぎ》が生れる、あるいは少なくとも嫌疑の理由になる。
しかしこんなことはまだ些細なことで、彼は考えをすすめようともしなかったし、そんな暇もなかった。彼が考えていたのは大筋で、自分ですべてに確信《・・・・・・》がもてるようになるまで、枝葉末節はのばしておいた。しかし、確信をもつなどということは、絶対にあり得ないような気がした。少なくとも自分ではそう思っていた。いってみれば、いずれは考えをおわって、みこしをあげ――あっさりとそこへ出かけて行くときがくるなどとは、彼は想像することもできなかった。先日のあの下見(つまり最後的に間取りを検分する意図をひめた訪問)でさえも、ただ下見のための下見であって、決して本気ではなかった。《空想ばかりしていてもはじまらん、ひとつ出かけて、ためしてみよう!》という気持だった、――ところがすぐにがまんができなくなって、ペッと唾《つば》をはき、われとわが身をののしりながら逃げだしたのだった。しかし一方、問題の道徳的解決という意味では、いっさいの分析がもう完成されていたようだ。彼の詭《き》弁論《べんろん》はかみそりのように研《と》ぎすまされて、彼はもう自分で自分の中に意識的な反論を見出《みい》だすことができなかった。ところがいよいよとなると、彼はただわけもなく自分が信じられず、まるで誰かに無理やりそこへひきよせられたように、かたくなに、卑屈に、本道をはずれた脇道のほうに手さぐりで反論を求めるのだった。まったく思いがけなく訪れて、一挙にすべてを決定してしまったあの最後の日は、ほとんど機械的に彼に作用した。まるで誰かが彼の手をつかんで、超自然的な力で、有無を言わさずひっぱったようであった。彼は目をあけることも、さからうこともできなかった。着物のすそが機械の車輪にはさまれたようなもので、彼はぐいぐい巻きこまれていったのである。
最初、――といっても、もうずいぶんまえのことだが、――彼はひとつの問題に興味をもっていた。どうしてほとんどすべての犯罪があんなにたやすくさぐり出されてしまうのか? どうしてほとんどすべての犯罪者の足跡があんなにはっきりあらわれるのか? 彼はすこしずついろいろなおもしろい結論を出していったが、彼の見解によれば、最大の原因は犯罪をかくすことが物質的に不可能であるということよりは、むしろ犯罪者自身にあるというのである。犯罪者自身が、これはほとんどの犯罪者にいえることだが、犯行の瞬間には意志と理性がまひしたような状態になって、それどころか、かえって子供のような異常な無思慮におちいるからだ。しかもそれが理性と細心の注意がもっとも必要な瞬間なのである。彼の確実な結論によれば、この理性のくもりと意志の衰えは病気のように人間をとらえ、しだいに成長して、犯罪遂行のまぎわにその極限に達する、そしてそのままの状態が犯行の瞬間まで、人によっては更にその後しばらく継続する、それから病気がなおるように、その状態もすぎ去る。そこで一つの問題が生れる。病気が犯罪自体を生み出すのか、それとも犯罪自体が、その特殊な性質上、常に病気に類した何ものかを伴うのか?――彼はまだこの問題の解決はできそうもなかった。
このような結論に達しながら、彼は、例のしごとに際して自分にだけはそのような病的な転倒はあり得ない、理性と意志が計画遂行の間中ぜったいに彼を見すてるはずがない、と断定した。なぜなら、そのたった一つの理由は、彼の計画が――《犯罪ではない》からである……彼が最後の決定に達するにいたった過程の詳細は省略しよう。そうでなくてもあまりに先へ走りすぎたようだ……ただつけ加えておきたいのは、このしごとの実際上の、純粋に物質的な困難というものが、彼の頭脳の中ではいつも第二義的な役割しか演じていなかったということである。《なあに計画を練るにあたっては、意志と理性さえしっかりしていればそれでいい。いずれ、問題のあらゆるデテールをつきつめて検討すべきときがきたら、そんな困難なんてすべて征服されてしまうだろうさ……》ところがしごとはいっこうにすすめられなかった。自分の最終決定が、彼にはいまだにほとんど信じられなかったのである。だから最後の時がうたれると、何もかもが思っていたこととはまったくちがって、不意をうたれたというか、ほとんど意外な感じさえした。
ほんのちょっとしたことが、まだ階段を下りきらぬうちに、彼をとまどわせた。いつも開けはなしになっている主婦《おかみ》の台所の戸口までおりてくると、ナスターシヤが留守でも主婦がいはしないか、いないとしたら、斧をとりに入っても、そちらから見とがめられることのないように、主婦の部屋へ通じるドアがしっかりしめられているかどうか、あらかじめ見定めるために、彼はそっと横目でうかがった。ところが、思いがけなくナスターシヤが台所にいたのである。そのときの彼のおどろきはどんなだったろう! しかも彼女はしごとをしていた。かごから洗濯物を出して、せっせと綱にかけている。彼に気づくと、彼女はしごとの手を休めて、彼のほうに向き直り、彼が通りすぎてしまうまで、じっと見まもっていた。彼は目をそらして、何も気づかないようなふりをして通りすぎた。しかし万事休した。斧がない! 彼はおそろしいショックで目のまえが暗くなった。
《それにしてもどこからおれは考えだしたのだ》彼は門の下へおりて行きながら、考えた。《彼女はこの時間にはぜったいに家にいないなんて、どこから考えだしたのだ? なぜ、なぜ、なぜ、おれはぜったいにそうだと決めたのだ?》彼はすっかりうちのめされて、妙にみじめな気持にさえなった。自分の間抜けを笑いとばしてやりたかった……にぶい、残忍な憎《ぞう》悪《お》が胸の中に煮えたぎった。
彼は思いまどいながら門の下に立ちどまった。散歩へ出るようなふりをして、通りへ出て行くのは、いやだったし、部屋へもどるのは――なおさらいやだ。《またとないチャンスを、永久に逃がしてしまった!》――彼はぼんやり門の下に佇《たたず》みながら、つぶやいた。彼の目のまえにはうす暗い庭番小舎《ごや》が、やはり戸が開いたままになっていた。不意に彼はぎくッとした。二歩ばかりしかはなれていない庭番小舎の中で、腰掛けの右下のあたりでピカッと彼の目を射たものがある……彼はあたりを見まわした――誰もいない。彼は爪先立ちで庭番小舎へ近づき、石段を二つほど下へおりて、小声で庭番を呼んだ。《案の定、いないぞ! だが、どこかそこらにいるにちがいない、戸が開けっ放しだからな》彼はすばやく斧へとびついて(それはたしかに斧だった)、腰掛けの下の二本の薪《まき》の間からとり出した。そしてその場で、例の輪へしっかりさしこむと、両手をポケットへつっこんで、庭番小舎を出た。誰にも見られなかった! 《理性じゃない、悪魔の助けだ!》――彼は奇妙な笑いをうかべながら、ふと思った。この偶然は彼を極度に元気づけた。
彼はすこしも怪しまれないようにしずかに、落ち着きはらって《・・・・・・・・》、ゆっくり通りを歩いていった。彼はあまり通行人へ目をやらなかった。それどころか、人の顔はほとんど見ないようにして、こちらもできるだけ人目につかないようにつとめた。すると、帽子のことが思い出された。《しまった! 一昨日《おととい》から金をもっていながら、学帽を買うのを忘れていたとは!》彼は思わず自分をののしった。
何気なくちらと横目を小店へなげると、柱時計がもう七時十分をさしていた。急ぐことも必要だが、同時にまわり道をして、向う側から建物へ近づかなければならなかった……
まえには、たまたま頭の中でこの計画をすっかりたどったりすると、よくいざとなったらすっかり怯《おじ》気《け》づいてしまいそうな気がしたものだ。ところがいまはそれほど恐ろしくなかった。ぜんぜん恐ろしくないといってもいいくらいだ。いまここへきて、彼の心をとらえたのは、かえってつまらないよそごとだった。ただどれも長つづきはしなかったが。ユスポフ公園のそばを通るときなど、高い噴水をつくったら、広場という広場の空気がどんなに爽《さわ》やかになることだろうと、真剣に考えこんだほどだ。そして彼の考えは、しだいに、夏公園を練兵場までひろげ、さらにミハイロフスキー宮庭園にまでつづけたら、市にとっては実に美しい、そして有益なものになるだろう、という確信に移っていった。すると不意に、一つの疑問にひっかかった。どこの大都会でも人間は、やむを得ない事情からばかりではなく、どういうわけかことさらに、公園もなければ噴水もなく、ぬかるみや悪臭やあらゆるきたないものが吹きよせられているような、ごみごみした場所にかたまりたがる傾向があるが、それはいったいなぜだろう?とたんに、センナヤ広場をさまよい歩いたことが思い出されて、彼はハッとわれにかえった。《何をつまらないことを》と彼は考えた。《いや、それより何も考えないことだ!》
《きっとこんなふうに、刑場へひかれて行く者も、途中で目にふれるすべてのものに、考えがねばりついてゆくにちがいない》――こんな考えが彼の頭にひらめいた、が、稲妻のように、チカッとひらめいただけだった。彼は自分ですぐにその考えを消した……いよいよもうすぐだ、そら建物が見える、あそこが門だ。不意にどこかで時計が一つ打った。《おや、もう七時半か? そんなばかな、すすんでいるにちがいない!》
幸運にも、門をまたうまく通りぬけることができた。そのうえ、まるでおあつらえむきに、そのとたんに彼のまえを乾草《ほしくさ》を積んだ大きな馬車が門へすべりこんで、門を通りぬける間彼をすっかりかくしてくれた。そして馬車が門から庭へ出ると同時に、彼はさっと右のほうへすべりこんだ。そのとき、馬車の向う側に、いくつかの声々が叫んだり、言い争ったりしているのが聞えたが、彼は誰にも見られなかったし、誰とも会わなかった。この大きな四角の内庭に面したたくさんの窓が、そのとき開け放しになっていたが、彼は顔を上げなかった――上げる勇気がなかった。老婆の部屋へのぼる階段は、門からちょっと右へいったとっつきにあった。彼はもう階段ののぼり口へ来ていた……
一息ついて、どきどきする心臓のあたりを手でおさえ、すぐさまもう一度手さぐりで斧をたしかめると、彼はたえずあたりに気をくばりながら、そっと階段をのぼりはじめた。しかしこの時間は階段もまったく人《ひと》気《け》がなく、戸は全部しめられていて、誰にも会わなかった。もっとも、二階には一つ空室があって、ドアがすっかり開け放され、中でペンキ屋がはたらいていたが、彼らはラスコーリニコフを見向きもしなかった。彼は立ちどまって、ちょっと思案したが、また歩きだした。《もちろん、誰もいないにこしたことはないが、でも……上にまだ二階ある》
ところで、もう四階だ、ドアが見えた、向いに部屋が一つあるが、空室だ。三階の、老婆の部屋の真下にあたる部屋も、どう見ても空室らしい。小さな釘《くぎ》でドアにうちつけられていた名刺が、なくなっている、――引っ越して行ったのだろう!……彼は息が苦しくなった。一瞬彼の頭に、《このまま帰ろうか?》という考えがちらと浮んだ。しかし彼はその考えに返事をあたえないで、老婆の部屋の気配に耳をすましはじめた。気味わるいほどひっそりとしている。やがてもう一度階段の下のほうへきき耳をたてて、長いこと注意深く様子をうかがった……それから最後にもう一度あたりを見まわしてから、そっとしのびより、服装を直し、もう一度輪にさした斧をたしかめた。《顔が……真《ま》っ蒼《さお》ではないだろうか?》ふと彼は思った。《おかしいほど、びくびくしすぎてはいまいか? あいつはうたぐり深いから……もうすこし待ったほうがよくはないか……動悸がおさまるまで?……》
しかし、動悸はおさまらなかった。どころか、まるでわざとのように、ますますはげしくなるばかりだ……彼はがまんができなくなって、こわごわ手を呼鈴《よびりん》へのばすと、ひっぱった。三十秒ほどしてもう一度、今度はすこし強く鳴らした。
返事がない。むやみに鳴らしてもおかしいし、それにかえってうたがわれる。老婆は、むろん、部屋の中にいたのだが、うたぐり深いうえに、一人きりだ。彼は老婆の癖をいくらか知っていた……そこでもう一度耳をぴったりドアにつけた。彼の感覚がかみそりのようにとぎすまされていたのか(とは先《ま》ず普通には考えられないが)、あるいは実際によく聞えたのか、彼は不意に手がそっと把手《とって》にさわったような音と、衣装がドアにふれたような音を聞いた。何者かがきっとドアの把手のところに立って、こちら側の彼のように、内側から息を殺して、耳をすましているにちがいない、そしてやっぱりドアにぴったり耳をつけているらしい……
彼はかくれているなどと思わせないために、わざと身体をうごかして、すこし大きな声で何やらひとりごとをいった。それから三度目の呼鈴を鳴らしたが、しずかに、落ち着きはらった態度で、すこしのためらいも感じさせなかった。あとでそれを思い出したとき、この瞬間がはっきりと、あざやかに、永遠に彼の記憶に刻みこまれた。それほどのずるさがどこから来たのか、彼は理解できなかった。まして頭が瞬間的にいくらか曇ったようになり、自分の身体をほとんど感じなかったようなときだから、なおさらである……すぐに鍵《かぎ》をはずす音が聞えた。
7
ドアは、あのときのように、細目に開いて、また二つのけわしいうたぐり深そうな目が暗《くら》闇《やみ》から彼にそそがれた。とっさにラスコーリニコフはうろたえて、とんでもないミスをしでかそうとした。
老婆が彼と二人きりなのを恐れるのではないかと危《あや》ぶみ、同時に自分の様子が老婆を安心させるとは思えなかったので、ラスコーリニコフは老婆がまたドアをしめようなんて気を起さないうちにと思って、いきなりドアに手をかけて、ひっぱった。それを見ても、老婆はドアをひきもどそうとはしなかったが、把手《とって》にかけた手をはなそうともしなかったので、彼はすんでに老婆をドアごと階段のほうへひき出すところだった。老婆が戸口に立ちはだかって、彼を通そうとしないのを見て、彼はつかつかとまっすぐに老婆のほうへ歩きだした。老婆はぎょっとしてとび退《すさ》り、何か言おうとしたが、声がでないらしく、いまにもとびだしそうな目で彼を見守った。
「今日は、アリョーナ・イワーノヴナ」と彼はできるだけぞんざいにきりだしたが、声が意にしたがわないで、ふるえて、とぎれた。「ぼくはその……質草をもってきたんですよ……とにかく、あちらへ行きましょうよ、……明るいほうへ……」そう言うと、老婆にかまわずに、彼は入れともいわれないのにいきなり部屋へ通った。老婆はそのあとを小走りに追った。舌がやっとほぐれた。
「あきれた! いったいなんの用だね?……あなたは誰《だれ》だえ? どうしたというんだね?」
「ごめんなさい、アリョーナ・イワーノヴナ……あなたのご存じの……ラスコーリニコフですよ……ほら、質草をもって来たんですよ、この間の約束の……」そう言って、彼は質草を老婆のほうへさしだした。
老婆は質草へ目をやりかけたが、すぐにまた押しかけ客の目へけわしい視線をもどした。老婆は注意深く、意地わるく、うたぐり深そうに見すえていた。一分ほどすぎた。ラスコーリニコフは老婆の目に何かしら冷笑のようなものを見たような気がして、もうすっかり見ぬかれてしまったのではないかと思った。彼はうろたえを感じた。ほとんど恐怖といってよかった。あまりの恐ろしさに、老婆がもう三十秒ほど何も言わずに、こんな目で見つめていたら、彼はここを逃げだしてしまったかもしれない。
「どうしてそんなにじろじろ見るんだね、まるで見おぼえがないみたいに?」と彼は不意にいつもの嫌《いや》味《み》たっぷりな調子でつっかかった。「とる気があるのかね、ないなら――ほかへ行くよ、時間がないんだ」
彼はそんなことを言おうとは思いもよらなかった。突然、ひとりでに口をついて出たのである。
老婆はわれにかえった、そして客のはっきりした態度を見て、急に元気がでたらしい。
「でも、びっくりするじゃないの、こんなにだしぬけに……それは何だね?」と老婆は質草を見ながら、尋ねた。
「銀のシガレットケースですよ。この間言ったでしょう」
老婆は片手をさしだした。
「でもまあ、いったいどうしたんだね、真《ま》っ蒼《さお》な顔をして? 手もふるえてるじゃないの! 悪いことでもしたのかえ?」
「熱がひどくあるんですよ」と彼はとぎれとぎれに答えた。「いやでも青くなりますよ……何も食べていないんですからねえ」と彼は口をうごかすのもやっとのように、つけ加えた。また力が彼を見すてた。しかしその返事はいかにももっともらしく聞えて、老婆は質草を手にとった。
「何だねこれは?」老婆はもう一度けわしい目でラスコーリニコフを見まわすと、掌《てのひら》の上で質草の重味をはかりながら、尋ねた。
「なに……シガレットケースですよ……銀の……見てください」
「おかしいね、銀じゃないみたいだが……またおそろしくゆわえたものだねえ」
結び目をとこうとして、窓明りのほうへ向きながら(むっとするような暑さなのに、窓は全部しめきってあった)、老婆は数秒の間すっかり彼を忘れて、背を向けていた。彼は外套《がいとう》のボタンをはずして、斧《おの》を輪からはずしたが、まだとり出さないで、右手で外套の下におさえていた。手はおそろしいほど力がなかった。一秒ごとに、ますます手の感覚がまひして、重くこわばってゆくのが、自分でもはっきりわかった。斧が手からすべりおちるのではあるまいか、そう思うと……不意に彼ははげしいめまいのようなものを感じた。
「まあ、なんだってこんなにゆわえつけたのさ!」と、老婆はじれったそうに叫ぶと、わずかに彼のほうへ身をうごかした。
もう一刻の猶《ゆう》予《よ》もならなかった。彼は斧をとり出すと、両手で振りかざし、辛《かろ》うじて意識をたもちながら、ほとんど力も入れず機械的に、斧の背を老婆の頭に振り下ろした。そのとき力というものがまるでなかったようだったが、一度斧を振り下ろすと、急に彼の体内に力が生れた。
老婆は、いつものように、帽子をかぶっていなかった。白いもののまじった灰色のうすい髪は、例によってこってり油をつけ、ねずみのしっぽみたいに編んで、うしろにつかね、角櫛《つのぐし》のかけらでおさえていた。角櫛のかけらはうなじのあたりにぴょこんととび出して見えた。老婆は背丈が低かったので、いいぐあいに斧はちょうど頭のてっぺんにあたった。老婆は叫び声をあげたが、それは蚊の鳴くような声だった。そして両手を頭へ上げることは上げたが、すぐに床へくずれた。片手にはまだ《質草》をにぎりしめていた。そこで彼はもう一度、さらに一度、力まかせに斧の背で頭のてっぺんをねらってなぐりつけた。コップをひっくりかえしたように、血がどっと流れでて、身体《からだ》が仰《あお》向《む》けに倒れた。彼は身をひいて、倒れさせたうえで、すぐに老婆の顔をのぞきこんだ。老婆はもう死んでいた。目はいまにもとび出しそうに、大きく見開かれていたが、額と顔はすっかりしわにおおわれ、痙攣《けいれん》のためにみにくくゆがんでいた。
彼は斧を死体のそばにおくと、すぐに流れ出る血で服や手をよごさないように気をつけながら、老婆のポケットをさぐりにかかった、――老婆がこのまえ鍵《かぎ》をとり出したあの右のポケットである。彼は理性が完全にはっきりしていて、くもりやめまいはもうなかったが、手はやっぱりふるえていた。そのときは非常に細心で、注意深く行動し、血を服につけないようにたえず気をくばっていたことが、あとになってはっきり思い返されたほどだ……鍵はすぐに見つかった。あのときのように、みな一束になって、小さな鋼鉄の輪に通してあった。彼はそれをもってすぐに寝室へかけこんだ。それはひどく小さな部屋で、大きな聖像箱が一つおいてあった。向うの壁際《かべぎわ》に大きなさっぱりした寝台があって、絹の端《は》布《ぎれ》をはぎあわせた綿入れ布《ふ》団《とん》がかけてあった。もう一方の壁際にタンスがおいてあった。不思議なことに、鍵をタンスの鍵穴にあわせようとして、そのガチャガチャという音を聞いたとたんに、戦慄《せんりつ》のようなものが彼の身体をはしった。彼は不意にまた、何もかもうっちゃらかして、逃げ出したくなった。しかしそれは一瞬のことにすぎなかった。逃げようにももうおそかった。彼は自分の弱気にあざけりの笑いさえうかべた、とたんに今度は、別な不安が彼の頭を打った。もしかしたら老婆がまだ生きていて、いまに目をさますのではないか、不意にそんな気がした。彼は鍵とタンスをすてて、死体のそばへかけもどり、斧をひっつかみざま、また老婆の頭上にふりかぶったが、しかしふりおろさなかった。死んでいることに、うたがいはなかった。彼はかがみこんで、また近くから丹念に観察した、そして頭《ず》蓋骨《がいこつ》がくだけて、わずかにずれてゆがんでいるのまで、はっきりと見てとった。彼は指でつついてみようと思ったが、手をひっこめた。それまでしなくてももうわかっていた。わずかの間に血はもう水たまりほど流れ出ていた。不意に彼は老婆の首にひもがかかっているのに気がついて、それをひっぱったが、ひもは強くてきれなかった。おまけに血でぬれていた。そこで彼は懐《ふとこ》ろの中からひき出そうとしてみたが、何かにひっかかって出て来《こ》ない。彼はいらいらして、斧を振りあげて、身体ごとひもをたたききってやろうと思ったが、さすがにそれはできなかった、そして手と斧を血だらけにして、二分もかかってやっと、斧で身体を傷つけないで、ひもを切ってひっぱりだした。果して――財布だった。ひもには糸杉《いとすぎ》と銅の二つの十字架がついていた、さらに、そのほかに、エナメル塗りの小さな聖像がついていて、それらのものといっしょにひもの先は、小さな脂《あぶら》じみた鹿皮《しかがわ》の鉄縁の財布の小さな鉄の輪に通っていた。財布はぎっしりつまっていた。ラスコーリニコフは中身をしらべもしないでそれをポケットにつっこみ、十字架を老婆の胸になげすてると、今度は斧をもって、寝室へかけもどった。
彼はひどくあわてて、いきなり鍵束をつかむと、またせかせかとひねくりまわしはじめたが、どういうわけかどれもうまくいかない、どれも鍵穴に合わないのだ。手がそれほどふるえていたというわけではないが、彼はさっきからまちがいをおかしていた。というのは、この鍵はちがう、合いっこないと知りながら、さしこもうさしこもうとしていたのだ。そうこうするうちに不意に、彼は、他《ほか》の小さな鍵にまじってぶらぶらゆれている、ギザギザのついたこの大きな鍵は、きっとタンスの鍵ではなく(これはこのまえのときも頭にうかんだことだが)、長持のようなものの鍵にちがいない、その長持の中にこそいろんなものがかくされているはずだ、と気がついた。彼はタンスをすてて、すぐに寝台の下をのぞきこんだ。年寄りというものはたいてい長持を寝台の下においておくことを、知っていたからだ。思ったとおりだった。りっぱなトランクがでてきた。長さが一メートル近くもあって、蓋《ふた》がまるくもりあがり、赤いモロッコ皮がはられて、鉄鋲《てつびょう》がうってあった。ギザギザの鍵がぴったり合って、蓋があいた。上からかぶせてある白いシーツをめくると、赤い絹裏のついた兎《うさぎ》の毛皮外套があった。その下には絹の衣装、それからショール、さらにその下は底までこまごました衣類ばかりらしかった。彼は先《ま》ず赤い絹裏で血によごれた手をふきにかかった。《赤いきれか、ふん、赤いきれなら血が目立つまい》――彼はこんなことを考えたが、不意にわれにかえった。《おれは何を考えているのだ! 気が狂うのではあるまいか?》――彼はぞうッとしながら考えた。
ところが、そのきれをちょっとひっぱると、とたんに毛皮外套の下から金時計がすべりおちた。彼はとびつくようにして片っぱしからひっかきまわした。果して、きれの間から次々と金の品物がでてきた、――おそらく、みな抵当物で、流れたのもあれば、まだ期限中のものもあろう、――腕輪、鎖、耳飾り、ブローチその他の品々だった。ちゃんとケースに入っているのもあったし、ただ新聞紙に包んだだけのものもあった。もっとも新聞紙といっても二枚重ねにして、きちんとていねいに包み、しっかりひもでくくってあった。すこしもためらわずに、彼は手当りしだいに、ケースや包みをあけて見もしないで、ズボンと外套のポケットにおしこみはじめた。しかしたくさん集めることはできなかった……
不意に、老婆が死んでいる部屋に、人の足音が聞えた。彼は手をとめて、死んだように息を殺した。しかしあたりはしーんとしずかだ、気のせいだったかもしれぬ。突然、今度ははっきりとかすかな悲鳴が聞えた、というよりは誰かがかすかにきれぎれに呻《うめ》いて、息をのんだような気配だ。つづいてまた死にたえたような静寂、一分、あるいは二分もつづいたかもしれぬ。彼はトランクのそばにうずくまって、やっと息をつぎながら、待ちかまえていたが、不意に立ち上がると、斧をつかんで、寝室からおどり出た。
部屋の中ほどに、大きな包みをもったリザヴェータが突っ立って、殺された姉を呆然《ぼうぜん》と見つめていた。白布のように青ざめて、声も出ないらしかった。おどり出たラスコーリニコフを見ると、彼女は木の葉のようにわなわなとふるえだした、そして顔中を痙攣がはしった。彼女は片手をまえへつきだし、口を開きかけたが、やはり声にならなかった、そしておびえた目を彼にじっとあてたまま、後退《あとずさ》りに、そろそろと隅《すみ》のほうへのがれはじめた。それでもまだ、叫ぶには空気が足りないように、声が出なかった。彼は斧を振りあげてとびかかった。彼女の唇《くちびる》は、幼い子供が何かにおびえて、そのおそろしいものに目を見はりながら、いまにも泣き出そうとする瞬間のように、みじめにゆがんだ。そして哀れにもリザヴェータは、いやになるほど素《そ》朴《ぼく》で、いじめぬかれて、すっかりいじけきっていたので、斧が顔のすぐまえに振りあげられているのだから、いまこそそれがもっとも必要でしかも当然の動作なのに、両手をあげて顔を守ろうとさえしなかった。彼女は顔からはずっと遠くに、あいている左手をほんのすこしあげただけで、まるで彼をつきのけようとでもするように、その手をゆっくり彼のほうへのばした。斧の刃はまともに脳天におち、一撃で頭の上部をほとんど耳の上までたちわった。彼女はその場にくずれた。ラスコーリニコフはすっかりとりみだして、彼女の包みをひったくったが、すぐにまたほうり出して、控室のほうへかけだした。
恐怖がますますはげしく彼をとらえた。このまったく予期しなかった第二の凶行のあとは、それが特にひどくなった。彼は一刻も早くここを逃げ出したいと思った。そしてもしもその瞬間に彼がもっと正確に事態を見て、そして判断することのできる状態にあったなら、自分の立場の行き詰り、絶望、醜悪、そして愚劣さのすべてをさとり、そしてここを逃げ出して、家までたどり着くためには、このうえさらにどれほどの困難を克服し、あるいはもしかしたら凶行をさえ犯さなければならぬかを、理解することができさえしたら、彼はおそらくすべてを投げすてて、いますぐ自首してでたにちがいない。それも自分の良心がこわいからではない、ただ自分のしでかしたことに対する恐怖と嫌《けん》悪《お》のためである。わけても嫌悪は刻一刻彼の内部に高まり、そして育っていった。いまはもうどんなことがあっても、彼はトランクのほうへ、いや部屋の中へさえ、引き返すことはできなかった。
ところが放心というか、瞑想《めいそう》とさえいえるような状態が、しだいに彼をとらえはじめた。数分の間彼は自分を忘れたようになっていた。いやそれよりも、肝心なことを忘れて、つまらないことにばかりひっかかっていた。しかし、台所へ目をやって、腰掛けの上に水が半分ほど入ったバケツがおいてあるのを見ると、彼は手と斧を洗うことを思いついた。手は血がついて、べとべとしていた。彼は斧を刃のほうから水へつっこむと、小窓の棚《たな》のかけた小《こ》皿《ざら》から石鹸《せっけん》のかけらをとって、バケツの中へじかに両手をつっこんで洗いはじめた。手を洗いおわると、今度は斧をつかみ出して、鉄の部分を洗い、さらに三分ほどかかって、血のこびりついた木の部分を、石鹸までつかってていねいに洗いおとした。それから、いいぐあいに台所に張りわたした綱に下着がほしてあったので、それですっかりふきとり、次いで窓際へ行って、かなりの時間をかけて、丹念に斧をしらべた。あとはのこっていなかった。木の柄《え》がまだぬれているだけだ。彼は入念に斧を外套の裏の輪へおさめた。それから、うす暗い台所の光で見わけられるかぎり、外套やズボンや長靴《ながぐつ》をしらべた。外からちょっと見たのでは何の異状もないようだ。ただ長靴にすこし血のあとがついていた。彼はぼろをぬらして、それをこすりおとした。しかし彼は、まだよくよく見きわめたわけではないから、見おとしているもので、何か人目につくものがあるかもしれないことを、知っていた。彼は思いまよいながら、部屋の中ほどにつっ立っていた。苦しい、暗い考えが大きくひろがってきた――自分は気が狂いかけているのではないか、いまはものを判断することも、自分をまもることもできまい。そしてだいたい、いまやっていることは、もしかしたら、なんの必要もないことかもしれぬ……《何をしているのだ! 逃げるのだ、逃げることだ!》こう呟《つぶや》くと、彼は控室のほうへかけだした。ところがそこに、彼がこれまでに一度も経験したことのないような恐怖が待ちうけていた。
彼は立ちどまって、目を見はったが、自分の目が信じられなかった。ドア、控室から階段へ出る外のドア、彼がさっき呼鈴《よびりん》を鳴らして入ったあのドアが、鍵がはずれたままになっていて、そのうえ、掌《て》が入るほどあいていたのである。さっきから、あの間中、鍵も、掛金もかけてなかったのだ! ひょっとしたら老婆が、彼が入ったあと、用心のためにしめなかったのかもしれぬ。うかつだった! 現に、あのあとで彼はリザヴェータを見たではないか! どうして、どうして、彼女がどこから入って来たか、察知できなかったのか! まさか壁をつきぬけて入るわけもあるまいに。
彼はドアへとびついて、掛金をおろした。
「いや、ちがう、またヘマをやっている! 出なくちゃならんのだ、出るのだ……」
彼は掛金をはずして、ドアをあけ、階段のほうに耳をすましはじめた。
長いあいだ彼は気配をうかがっていた。どこかはるか下のほうで、おそらく門の下のあたりだろう、二つの甲高《かんだか》い声がわめきちらしたり、言い争ったり、ののしりあったりしていた。《何をしているのだ?……》彼はしんぼう強く待った。とうとう、まるで切りとったように、急にしずかになった。散って行ったらしい。彼がいよいよ出ようとすると、不意に一階下でバタンと階段へ出るドアが乱暴にあいて、誰かが鼻唄《はなうた》をうたいながら、階段を下りて行った。《どうしてこうみんながさつなんだろう?》こんな考えがちらと彼の頭にうかんだ。彼はまたドアをしめて、足音の消えるのを待った。ついに、あたりはしーんとなった、もう誰もいない。彼はもう階段を一歩下りかけた、とたんにまた、誰かの別な足音が聞えてきた。
その足音はひじょうに遠くに聞えた。まだ階段ののぼり口のあたりらしい。ところが、彼はあとになって思い返しても、はっきりと記憶しているのだが、その足音を聞くと、とっさに、どういうわけかそれはきっとここ《・・》へ、この四階の老婆のところへ来るにちがいない、と思いはじめた。なぜか? その足音に何か特別の意味でもあったのか? 足音は重々しく、ゆったりとしていて、よどみがなかった。そらもう彼《、》は一階をすぎた、さらにのぼってくる。足音がしだいに、いよいよはっきりしてきた! のぼってくる男の苦しそうな息ぎれが聞えた。そら、もう三階にかかった……ここへ来る! 不意に彼は、身体中《からだじゅう》がこわばったような気がした。まるで夢の中で、追いつめられ、もうそこまで来て、いまにも殺されそうだが、まるでその場に根が生えたようになって、手も動かせない、そんな気持だった。
そして、ついに、客がもう四階の階段をのぼりはじめたときに、はじめて彼は不意にはげしく身ぶるいして、素早くするりと踊り場から部屋の中へすべりこみ、背後のドアをしめることができた。それから掛金をつかんで、音のしないように、しずかに穴へさしこんだ。本能がそれをさせたのである。それがおわると、彼はそのままドアのかげにぴたりとかくれて、息を殺した。招かれぬ客ももうドアの外に来ていた。彼がさっきドアをはさんで老婆と向いあい、身体中を耳にしていたときとまったく同じように、二人はいまドアをはさんで向いあった。
客は二、三度苦しそうに息をついた。《ふとった大きな男にちがいない》とラスコーリニコフは、斧をにぎりしめながら考えた。実際に、まるで夢を見ているような気持だった。客は呼鈴をつかんで、はげしく鳴らした。
呼鈴のブリキのような音がひびきわたると、不意に彼は、部屋の中で何かがうごいたような気がした。数秒の間彼は本気で耳をすましたほどだ。見知らぬ男はもう一度鳴らして、ちょっと応答を待ったが、不意に、しびれをきらして、ドアの把手を力まかせにひっぱりはじめた。ラスコーリニコフは恐怖にすくみながら、穴の中でおどる掛金に目をすえつけ、いまにもはずれるのではないかと気が気でなかった。たしかに、それは起りそうに見えた。それほどドアははげしくひっぱられた。彼はすんでに手で掛金をおさえようとしたが、そんなことをしたら相手《・・》に感づかれるおそれがある。また頭がくらくらしだしたような気がした。《もうだめだ、倒れる!》こんな考えがちらと浮んだが、そのとき見知らぬ男の声が聞えたので、とたんにハッとわれにかえった。
「チエッ、どうしやがったんだ、寝くされてるのか、それとも誰かに絞め殺されたか? ばちあたりめ!」彼はこもったふといだみ声でどなりたてた。「おい、アリョーナ・イワーノヴナ、鬼婆《おにばば》ぁ! リザヴェータ・イワーノヴナ、すてきなべっぴんさん! あけてくれ! はてな、ばちあたりめ、眠ってやがるのかな?」
そしてまた、腹立ちまぎれに、彼は十度ほどたてつづけに、力まかせに呼鈴をひっぱった。どうやらこの男は、この建物では顔のきく親しい人間らしいことは、明らかだ。
ちょうどそのとき、不意にちょこまかしたせわしい足音が、近くの階段に聞えた。また誰かがのぼってきた。ラスコーリニコフははじめその足音に気づかなかった。
「おかしいな、誰もいないのですか?」のぼってきた男は、まだ呼鈴をひっぱりつづけている最初の訪客に、いきなりよくとおる元気な声で呼びかけた。「こんにちは、コッホさん!」《声から判断すると、ひどく若い男らしい》とラスコーリニコフは考えた。
「しようがないやつらだ、危なく鍵をこわしてしまうところさ」とコッホと呼ばれた男が答えた。「ところで、あなたはどうしてわしをご存じかな?」
「どうしてって! 一昨日《おととい》、《ハムブリヌース》でさ、あなたと球を突いて三ゲームつづけざまに勝たせてもらいましたよ」
「あ、あ、あ……」
「で、留守ですか? おかしいな。しかし、そんなばかなことはありませんよ。あの婆《ばあ》さんどこへも行くはずがないが? ぼくは用があるんですよ」
「わしだって、用があって来たんだよ!」
「はて、どうしたものかな? しかたがない、引き返すか。チエッ! せっかく金を借りようと思ったのにさ!」と若い男はやけくそのように叫んだ。
「まあ、引き返さざるを得ないな、それにしてもどうしてあんなことを言ったんだろう?あの鬼婆ぁめ、自分でわたしに時間を指定したんだよ。わざわざ来たのに。いったいどこをぶらついてやがるのか。わからんねえ? 年中こもりきりで、足が痛いなんてしぶい面《つら》していてからに、とつぜん散歩もないものさ!」
「庭番に聞いてみたら?」
「何を?」
「どこへ行ったのか、そしていつ帰るか?」
「フム……癪《しゃく》だな……聞いてみるか……でもどこへも行くはずがないがな……」そう言って彼はもう一度ドアの把手をひっぱった。「くそ、しかたがない、行こう!」
「待ってください!」と不意に若い男が叫んだ。「ごらんなさい、わかりませんか、ひっぱると、ドアがうごきますよ?」
「それで?」
「つまり、ドアは鍵がかかっているんじゃなく、内から掛金がさしこんであるんですよ!そら、掛金がガチャガチャ鳴ってるでしょう?」
「それで?」
「おやおや、まだわからないのですか? つまり、二人のうちどっちかが部屋の中にいるということですよ。二人とも出かけたとしたら、外から鍵をかけてあるはずで、内から掛金をかけることはできませんよ。ところが、――そら聞えるでしょう、掛金がゆれている音が? で、内から掛金をかけるには、誰かが部屋の中にいなければならない、わかりますね? つまり、中にいるくせに、開けようとしないのですよ!」
「なるほど! たしかにそのとおりだ!」とコッホはびっくりして叫んだ。「中で何をしてやがるんだ!」
そう言うと、彼はいきりたってドアをひっぱりはじめた。
「待ちなさい!」とまた若い男が叫んだ。「ひっぱるのはやめなさい! 何か変ったことがあるんですよ……だって、あなたは呼鈴を鳴らして、ひっぱりましたね――それでも開けないということは、つまり二人とも気絶してぶっ倒れているか、あるいは……」
「何です?」
「とにかく、庭番を呼びに行きましょう。庭番に開けさせるんです」
「そうしよう!」
二人は階段をおりかけた。
「待てよ! あなたはここにいてください、ぼくがひとっ走り庭番を呼んで来ますから」
「どうしてわたしがここに?」
「だって、何が起るかわかりませんよ……」
「それもそうだな……」
「ぼくはね、予審判事になろうと思って勉強中なんですよ! これはきっと、きっと何かありますよ!」若い男は熱をこめて言いすてると、階段をかけおりて行った。
コッホはあとにのこると、もう一度そっと呼鈴を押してみた。カランとひとつ鳴った。それから小首をかしげたり、つくづくながめたりしながら、ドアの把手をうごかしはじめた。彼はドアに掛金だけしかかかっていないことを、もう一度たしかめようとして、把手をひっぱったり、はなしたりしてみた。それから苦しそうに屈《かが》みこんで、鍵穴から内部をのぞいてみたが、内側から鍵がさしこんであったので、何も見えるはずがなかった。
ラスコーリニコフは立ったまま、斧をにぎりしめていた。まるで悪夢にうなされているような状態だった。彼は二人が入って来たらたたかう腹さえきめていた。彼らがドアをたたいたり、話しあったりしていたとき、何度か不意に、ドアのかげから叫んで、ひと思いにきめてしまおうという考えが彼をおそった。ときどき、まだドアが開けられないうちに、彼らとののしりあいをはじめて、からかってやりたくなった。《早くなんとかしなければ!》――という考えが彼の頭にちらとうかんだ。
「だが、あいつがいやがる、畜生……」
時間がすぎた、一分、二分――誰の足音も聞えぬ。コッホはごそごそしだした。
「くそ、いまいましい!……」
彼は不意にこう叫ぶと、待ちきれなくなって、見張りをやめて、せかせかと、長靴《ながぐつ》で階段を鳴らしながら、おりて行った。足音が消えた。
「助かった、さてどうしよう?」
ラスコーリニコフは掛金をぬいて、ドアを細目に開けた。何も聞えぬ。すると不意に、もうぜんぜん何も考えずに、彼は廊下へ出た、そして後ろ手にできるだけしっかりドアをしめると、階段をおりはじめた。
彼がもう階段を三つおりたとき、不意に下のほうではげしい物音が聞えた、――どこへかくれよう! どこもかくれるところがなかった。また部屋へかけもどろうかと思った。
「おい、こら、畜生! 待たんか!」
こう叫びながら、誰かがどの部屋からかとびだして、階段をかけおりて行った。かけおりるというよりは、まるで精いっぱいわめきながら、ころげおちたといったほうが早かった。
「ミチカ! ミチカ! ミチカ! ミチカ!ミチカ! ふざけるな、ま、またんか!」
叫びは金切声でおわった。最後の声はもう庭のほうで聞えた。あたりがしーんとなった。と、今度は数人の声が、声高《こわだか》にせわしく話しあいながら、騒々しく階段をのぼりはじめた。三人か四人の声だった。彼はよく透《とお》る若い男の声を聞きわけた。
《あいつらだ!》
彼はやぶれかぶれになって彼らのほうへ向って歩きだした。なるようになれ! 呼びとめられたら、おわりだ、無事にすれちがったとしても、やはりおわりだ。顔をおぼえられる。いよいよ近づいてきた、もう一つの階段をのこすだけだ、――そのとき、不意に救いが現われた! 彼の数段先の右手のほうに、ドアが開け放しの空室があった。ペンキ屋がしごとをしていたが、さっき、まるで願ってもなくとび出して行った、二階のあの部屋だ。いましがた、あんなに叫びながらかけおりて行ったのは、きっと彼らだ。床は塗ったばかりで、部屋のまん中に小さな桶《おけ》と、ペンキと刷毛《はけ》を入れた欠け皿がおいてあった。とっさに彼は開いた戸口へとびこんで、壁のかげに身をひそめた。間にあった。彼らはもう踊り場まで来ていた。そしてもうひとつ曲ると、空室のまえを通って、声高に話しあいながら四階のほうへのぼって行った。彼はちょっと待って、爪先《つまさき》立《だ》ちで部屋を出ると、走るようにして階段をおりた。
階段には誰もいなかった! 門のところにも誰もいなかった。彼は急いで門の中をくぐりぬけると、通りへ出て左へ折れた。
彼は知りすぎるほど知っていた。いまごろはもう部屋の中にいる彼らの様子が、目に見えるようだった。彼らはさっきまでしまっていたドアが、あいているのを見て、あっと驚いたにちがいない。そしていまごろはもう死体を見て、一分もたたないうちに、気がついて、殺人はいましがた行われたばかりで、犯人はどこかにかくれて、彼らをやりすごし、まんまと逃亡したのだという、完全な推理を組み立てるにちがいない。おそらく、空室にかくれて、彼らが通りすぎるのを待ったことも、気がつくだろう。しかし彼は、最初の曲り角までまだ百歩ほどもあるのに、どうしても目立つほど歩を早める勇気がなかった。
《どこかの門へすべりこんで、知らない建物の階段ででも時間をつぶそうか? いや、だめだ! それともどこかへ斧を捨てようか?馬車にでも乗るか? だめだ! だめだ!》
とうとう、横町まで来た。彼は半分死んだようになって横町へ折れた。これで彼はもうなかば救われたようなものだ。彼にはそれがわかった。ここまで来れば、それほど嫌《けん》疑《ぎ》をかけられずにすむし、おまけにひどい人ごみだ。彼は砂粒のように、その中へまぎれこんだ。しかしこれまでの苦しみにすっかり力をうばわれてしまって、彼は歩くのがやっとだった。汗がしずくのように流れおちて、首筋がすっかり濡《ぬ》れていた。《おい、大分酩酊《めいてい》だな!》運河のほとりへ出たとき、誰かが叫びかけた。
彼はいまはあまりよく自分を意識していなかった。先へ行くほど、それがひどくなった。それでも、運河のほとりへ出たとき、ふと、人通りが少ないので目につきやすいと気がつき、ぎくっとして、横町へもどりかけたことを、彼はポツンと記憶していた。彼はいまにも倒れそうだったが、それでもやはりまわり道をして、反対側から家へもどった。
彼はどうして家の門を通ったか、うつろにしかおぼえていなかった。もう階段のところまで来てしまってから、やっと斧に気がついた。ところで、できるだけ人目につかないように、斧をそっと元へもどすという、ひじょうに重大なしごとがのこっていた。もちろん彼には、いま斧を元の場所へもどそうとしないで、あとででも、どこか他の家の庭へ捨てたほうが、ずっと安全かもしれない、と判断する力はなかった。
ところが、万事都合よくいった。庭番小舎《ごや》の戸はしまっていたが、鍵がかかっていない、とするといちばん考えられることは、庭番が小舎の中にいるということだ。だが、彼はもうものを考える力をすっかり失っていたので、つかつかと庭番小舎のまえへ行って、いきなり戸を開けた。もしも《何用かね?》と庭番に聞かれたら、彼はものも言わずに斧をさし出したかもしれない。ところが庭番はまたいなかった。それで彼は斧を腰掛けの下の元の場所におき、おまけに元のように薪《まき》でかくすことさえできた。それから自分の部屋へかえるまで、彼は誰にも会わなかった。おかみの部屋のドアはしまっていた。部屋へ入ると、彼は出かけるまえのように、ソファに身を投げ出した。眠りはしなかったが、もうろうとしていた。もしもそのとき誰かが部屋へ入って来たら、彼はいきなりはね起きて、どなりつけたにちがいない。いろんな想念のちぎれやかけらが頭の中にうようよしていた。しかし彼はどんなに躍起となっても、その一つもとらえることができなかった、どの一つにも考えをとどめることができなかった……
第二部
1
そのまま彼はずいぶん長い間横になっていた。ときどき、目がさめたような状態になって、もうかなり夜更《よふ》けになっていることに気がついたが、起きようという考えが頭にうかばなかった。とうとう、彼はもう昼のような明るさになっていることに気がついた。彼は先ほどのもうろうとした状態からまださめきらずに、ソファに仰《あお》向《む》けに寝ていた。通りのほうからぞっとするような、気ちがいじみたわめき声が、鋭く彼の耳に聞えた。もっともそれを彼は毎夜二時すぎに、窓の下のほうに聞いていた。それがいま彼の目をさまさせた。《あ! もう居酒屋から酔っぱらいどもがつまみ出される時間か》彼はふと考えた。《二時すぎだな》と不意に、まるで誰《だれ》かにソファからつきとばされたように、とび起きた。《なんと! もう二時すぎか!》彼はソファに腰を下ろした、――とたんにすべてを思い出した! 不意に一瞬にしてすべてを思い出した!
最初の瞬間、彼は気が狂うのではないかと思った。おそろしい寒気が彼をおそった。しかしそれはまだ寝ているうちからはじまって、もうかなりの時間になる熱病のせいでもあった。それがいま突然、歯がガチガチなるほどのおそろしい悪《お》寒《かん》におそわれて、身体中《からだじゅう》がはげしくふるえだした。彼はドアを開けて、耳をすましはじめた。建物の中はすっかり寝しずまっていた。彼は自分の姿を、それから部屋の中を見まわして、おどろいた。彼はどうして昨日部屋へ入ってから、ドアに鍵《かぎ》もかけないで、服を着たまま、帽子さえもぬがずにソファにころがるようなことができたのか、自分でもわからなかった。帽子は枕《まくら》もとの床板の上にころがっていた。《もし誰かがのぞいたら、いったいなんと思ったろう? 酔っていると思ったかな、だが……》彼は窓のそばへかけよった。明るさは十分だった。彼は急いで着ている服をすっかり足の先から頭のてっぺんまでしらべはじめた。痕《あと》はのこっていないか? だが、それでは足りなかった。彼は悪寒にぞくぞくふるえながら、着ているものをすっかりぬいで、もう一度丹念に見まわしはじめた。彼は糸屑《いとくず》からぼろのはてまで、すっかりひっくりかえして見たが、それでも安心ができないで、そうした検査を三度ほどくりかえした。しかし痕は何もないようだ。ただズボンの裾《すそ》がさけて、ほころびが垂れ下がっている個《か》所《しょ》があったが、そのほころびにかたまった血の痕が濃くこびりついていた。彼は折りたたみ式の大きなナイフを出して、そのほころびを切りとった。あとはもう何もなかったような気がする。不意に彼は、老婆のトランクの中から盗み出した財布や品物が、まだポケットに入れっ放しになっていることに気がついた! いままでそれをポケットから出して、かくそうという考えが、頭にうかばなかったのだ! 服をしらべていた今でさえ、それを思い出さなかった! なんとしたことだ? 彼はあわててそれをポケットから机の上にほうり出しはじめた。すっかりほうり出すと、ポケットを裏返しにまでして、もう何もないことをたしかめたうえで、ひとまとめにして部屋の隅《すみ》へもっていった。いちばん隅の下のほうが一カ所、壁紙が破れてはがれかけていた。彼は大急ぎでそれをその壁紙のかげにある穴へおしこみはじめた。《入ったぞ! これで目にふれまい、どれ財布もかくしてやろう!》彼は中腰になって、さっきより大きくなった穴をぼんやりながめながら、ほっとしてこんなことを考えた。とたんに、彼は身体中が凍るような恐怖をおぼえた。《なんということだ》彼は絶望的につぶやいた。《おれはどうかしたのか? こんなことでかくしたといえるか? こんなかくし方ってあるだろうか?》
たしかに、彼は品物のことは計算においてなかった。金だけだろうと思っていたから、あらかじめかくし場所を用意しておかなかったのだ。《それなのにいま、いまおれは何を嬉《うれ》しがっているのだ?》と彼は考えた。《こんなかくし方ってあるだろうか? ほんとうにおれは理性を失っているのだ!》彼はぐったりとソファへ腰を下ろした、するとたちまちたえがたい悪寒がまた彼をおそった。彼は反射的に、そばの椅子《いす》の上にうっちゃってあった、あたたかいことはあたたかいが、もうすっかりぼろぼろになってしまった学生時代の冬外套《ふゆがいとう》をひきよせて、すっぽりとかぶった、すると急にまた眠気と悪夢がおそいかかった。彼はもうろうとなった。
五分もしないうちに、彼はまたガバととびおきて、いきなりまた、気が狂ったように、自分の服のほうへかけよった。《まだ何も始末していないのに、また眠るなんて、よくもそんなことができたものだ! まったくだ、たしかに、腋《わき》の下の輪はまだとってなかった! 忘れていた、こんなことを忘れていたなんて! これこそりっぱな証拠になる!》彼は輪をむしりとって、それをこまかくひきちぎり、枕の下の下着の中へおしこんだ。《ぼろのちぎれなら先《ま》ず絶対に怪しまれることはあるまい、だろうな、だろうさ!》彼は部屋の真ん中につっ立ちながら、こんなことをくりかえした。そしてまだ何か忘れていることがありはしないかと、頭がずきずきするほどの注意をこらして、また床から隅々へ部屋中のものに目をこらしはじめた。すべてが、記憶や簡単な思考力までが、失われかけていると思いこむと、いても立ってもいられないような気持になってきた。《これはどうしたことだ、もうはじまっているのではあるまいか、もう罰が下されかけているのではなかろうか? そうだ、それにちがいない!》そう言えば、ズボンから切りとったほころびのちぎれが、床の上におちているではないか、しかも部屋のどまん中に、真っ先に見つけてくれといわんばかりに! 《いったいおれはどうしたというのだ!》彼はがっかりして、思わず叫んだ。
すると妙なことが気になりだした。もしかしたら服がすっかり血をあびて、たくさんの血痕《けっこん》がついているのに、思考力が弱って、すっかり散漫になっているために、それが見えないで、気がつかないでいるだけではあるまいか……理性がくもっているために……不意に彼は、財布に血がついていたことを思い出した。《あッ、いけない! そうすると、ポケットの中にも血がついているはずだ、だってあのとき、ポケットへおしこんだとき、財布はまだ濡《ぬ》れたままだった!》彼はあわててポケットを裏返しにした、すると――果して――ポケットの裏に血の痕があった! 《してみると、まだすっかり理性を失ってしまったわけではない、自分で気がついたのだから、思考力と記憶があるということだ!》彼はほっと胸中の重苦しい息を吐きだして、嬉しそうに考えた。《熱病のために衰弱しただけだ、いっとき頭がもうろうとしただけだよ》そして彼はズボンの左のポケットの裏をすっかりひきちぎった。そのとき太陽の光線が彼の左の長靴《ながぐつ》にあたった。長靴の爪先《つまさき》の穴からのぞいていた靴下に、痕が見えたような気がした。彼は長靴をぬぎすてた。《たしかに血の痕だ! 靴下の先にすっかり血がしみこんでいた》あのとき血のたまりへうっかり踏みこんだものらしい……《ところで、さてこれらのものをどう処分しよう? この靴下と裾のきれっぱしとポケットの裏を、どこへすてたらいいだろう?》
彼はそれらをひとまとめににぎりしめて、部屋のまん中につっ立っていた。《ペチカへほうりこもうか? だがペチカの中はまっ先にかきまわされるだろう。燃やしてしまうか? だが、何で? マッチもない。いや、それよりどこかへ行って、捨ててこよう。そうだ! 捨てたほうがいい!》彼はまたソファに腰を下ろしながら、自分に言いきかせた。《いますぐ、捨てに行こう、ぐずぐずしてはいられぬ!……》しかし、そう思いながらも、彼の頭はまたもや枕の上へ垂れおちた。またたえがたい悪寒が彼の身体を氷のようにした。また彼は外套をひきよせた。そして何時間か、かなり長いこと、たえず一つの考えにうなされつづけていた――《いますぐ、即刻、どこかへ行って、すっかり捨ててしまうんだ、目につかないように、早く、一刻も早く!》彼は何度かソファからとび起きようとして、もがいたが、もう起き上がることができなかった。ドアをはげしくノックする音で、彼はやっとはっきり目をさました。
「開けなさいな、生きてるのかい、それとも死んでるの? ほんとに、ごろごろ寝てばかりいるんだから!」とナスターシヤが、拳《こぶし》でドアをどんどん叩《たた》きながらどなった。「日がな一日、犬みたいに、寝くさってさ! ほんとに犬だよ! 開けなさいってば。もう十時すぎだよ」
「はてな、留守かもしれんぞ!」と男の声が言った。
《やっ! あれは庭番の声だ……何しに来たのだろう?》
彼はとび起きて、ソファの上に坐《すわ》った。胸が痛くなったほど、心臓がどきどきした。
「だって、誰が鍵をかけたのさ?」とナスターシヤが言い返した。「あきれたよ、鍵なんてかけてさ! 誰もあんたなんか盗みゃしないよ! 開けなさいったら、しようがないねえ、もう寝あきたでしょ!」
《何用だろう! どうして庭番が? ばれたな。頑《がん》張《ば》るか、それとも開けるか? くそ、なるようになれ……》
彼は腰をうかして、身体を前へのばし、鍵をはずした。
部屋はソファから手をのばして鍵をはずせるほどの狭さだった。
果して、庭番とナスターシヤが立っていた。
ナスターシヤはなんとも妙な顔をして彼を見まわした。彼は突っかかるようなふてくされた態度でジロッと庭番をにらんだ。庭番は、緑色の蝋《ろう》で封印をした灰色の二つ折りの紙を、黙ってさしだした。
「通達だよ、役所から」庭番はその紙をわたしながら、言った。
「どこの役所から?……」
「警察から呼び出しだよ、署へ出頭しろって。どこの役所が、聞いてあきれるよ」
「警察へ!……なぜ?……」
「そんなことおれが知るかい。来《こ》いっていうんだから、行ったらいいさ」
庭番はさぐるような目でラスコーリニコフを見て、それからあたりを見まわしたうえで、くるりと背を見せて立ち去りかけた。
「なんだかすっかり病人になってしまったようだね?」とナスターシヤが、彼から目をはなさないで言った。庭番もちょっと振り向いた。
「昨日から熱があったから」と彼女はつけ加えた。
ラスコーリニコフは返事をしないで、封も切らずに手紙をにぎりしめていた。
「だったら、起きないほうがいいよ」ナスターシヤはすっかりかわいそうになって、彼がソファから足をおろしかけるのを見ると、急いで言った。「病気なんだから、行かなくたっていいよ。怒りはしないさ。おや、その手に持ってるのは何だね?」
そう言われて見ると、彼は右手に切りとったズボンの裾、靴下、ポケットの裏のちぎれをにぎりしめていた。そのまま眠っていたのだった。あとになって、そのときのことをいろいろ考えてみると、熱にうかされてうとうとしながら、ますますかたくそれらをにぎりしめ、そのまままた眠ってしまったことが思い出された。
「あきれたねえ、ぼろを集めて、宝ものみたいに抱いて寝ているんだよ……」そう言ってナスターシヤは、例の病的に神経質な声をあげて笑いころげた。彼はとっさにそれを外套の下へおしこむと、食い入るような目で彼女を見すえた。彼はそのとき思考力が極度に弱まっていたが、それでも、逮捕に来たのなら、こんな扱いはしないだろうということは感じていた。《だが……警察から?》
「お茶でも飲んだら? どう、飲んでみる?持ってきてやるよ、残ってるから……」
「いいよ……でかけるから、すぐでかける」彼は立ち上がりながら、呟《つぶや》いた。
「行くのはいいけど、階段からころげおちない?」
「でかけるよ……」
「勝手になさい」
彼女は庭番のあとについて立ち去った。彼はすぐに明るいほうへとんで行って、靴下とぼろきれをしらべた。《しみはあるが、それほど目立たぬ。すっかり汚れて、すれて、もう色がなくなっている。そうと知っている者でなけりゃ――ぜんぜん見分けがつくまい。とすれば、あれだけ離れていたし、ナスターシヤは気がつかなかったろう。よかった!》そこで今度はびくびくしながら封を切って、通達を読みはじめた。長いことかかって読んで、やっと意味がわかった。それは今日の九時半に区の警察署に出頭せよという、なんでもない通達だった。
《それにしても、こんなことがいままでにあったろうか? 警察に呼ばれる理由なんておれにはぜんぜんないがなあ! しかもどうしてよりによって今日あたり?》彼は苦しい疑惑につつまれながら考えた。《ああ、もうさっさとどうともしてくれ!》彼はひざまずいて祈ろうとして、自分でも笑い出してしまった、――祈りがおかしかったのではない、そんな自分がおかしかったのである。彼は急いで服を着はじめた。《だめになるならなればいいさ、どうせ同じことだ! 靴下をはいてやろう!》という考えがふと頭にうかんだ。《もっと埃《ほこり》に汚れてこすられたら、痕がなくなるだろう》ところが、はいたとたんに、ぞうっとして、またすぐけがらわしそうに脱ぎすてた。脱ぎすててはみたものの、考えてみると、他《ほか》にはくものがないので、またそれをひろってはいた――そしてまた笑いだした。《こんなことは無意味だよ、大したことじゃない、形の上だけのことさ》彼はちらっと、意識のはしっこでこんなことを考えたが、そのくせ全身ががたがたふるえていた。《現に、このとおりはいたじゃないか! 結局は、はいてしまったじゃないか!》しかし笑いは、すぐに絶望にかわった。《だめだ、おれにはできない……》――彼はふと思った。足がふるえた。《恐怖のためだ》――彼はそっと呟いた。熱のためにめまいがして、頭がずきずき痛んだ。《これはずるい計画だ! おれを欺《だま》して呼びよせて、不意打ちに責めて泥《どろ》をはかせようというのだ》彼はこんなひとり言をつづけながら、階段へ出た。《いけない、こんなうわごとばかり言っていては……うっかりばかなことを言いだしかねんぞ……》
階段をおりかけて、彼は品物をすっかり壁紙のかげの穴にかくしたままにしてきたことを思い出した。《ひょっとしたら、わざとおれを誘い出して、留守の間に家《や》さがしをする肚《はら》かもしれん》そう思うと、彼は足をとめた。ところが深い絶望と、そんな言い方があるとしたら、破滅のシニスムというようなものが、突然はげしく彼をおそった。そこで彼はなげやりに片手をふると、階段をおりはじめた。
《ただ早くなんとかなってくれ!……》
通りはまた気が狂いそうな暑さだった。この数日一滴の雨も降らないのだ。またしても土埃、煉《れん》瓦《が》、石灰、またしても小店や居酒屋から流れでてくる悪臭、そしてのべつ行《ゆ》き交《か》う酔っぱらい、フィン人の行商人、半分こわれかかった馬車。強い日光にちかちか目をさされて、ラスコーリニコフは目が痛くなり、頭がひどくぐらぐらしだした。――これは明るく晴れわたった日に急に外へ出た熱病患者には、よくある症状である。
昨日の通り《・・・・・》へ折れる曲り角まで来ると、彼は苦しい胸さわぎがして、ちらとそちらへ目をやり、あの建物《・・・・》を見た……が、すぐに視線をそらした。
《聞かれたら、おれは、言ってしまうかもしれぬ》彼は警察署のほうへ近づきながら、ふと思った。
警察署は彼の住《すま》居《い》から二百五、六十メートルのところにあった。まだ、新築の建物の四階に移転したばかりだった。もとの署には、いつだったかもうだいぶまえのことだが、ちょっと立ち寄ったことがあった。門をくぐりながら、右手のほうの階段を見ると、帳簿をもった男が下りてくるのが目についた。《庭番らしいな。すると、署はあっちだな》そう思うと、彼は見当で階段をのぼりはじめた。誰にも何も聞きたくなかった。
《入ったら、ひざまずいて、いっさいを告白しよう……》と、四階の階段にかかると、彼は心に思った。
階段はせまくて、急で、一面に汚れ水がこぼれていた。一階から四階までどの部屋の台所も階段に向いて開けっ放しになっていて、ほとんど一日中こうだった。そのためにむしむしして息がつまりそうだった。帳簿を小《こ》脇《わき》にかかえた庭番や、巡査や、さまざまな男女の外来者などが、階段をのぼり下りしていた。署のドアも大きく両側へ開け放されていた。ラスコーリニコフは控室へ入ると、立ちどまった。そこには百姓風の男たちが立ったまま待っていた。ここもひどいむし暑さだった。おまけに、部屋の塗り直しをしたために、腐ったニスの上に塗ったペンキがまだ生乾《なまかわ》きで、むかむかするような臭《にお》いが鼻をさした。しばらく待ってから、彼はもうひとつ先の部屋へ行ってみることにきめた。どの部屋もせまくて、天井《てんじょう》が低かった。せきたてられるような焦《あせ》りが彼を先へ先へ進ませた。誰も彼に気がつかなかった。二番目の部屋には書記らしい男たちが机に向って書きものをしていた。彼よりいくらかましという程度の身なりで、なんとも妙な風采《ふうさい》の男たちばかりだ。彼はその中の一人のまえへ進んだ。
「何用だね?」
彼は警察からの呼出状を示した。
「きみは学生だね?」と、相手は呼出状をちらと見て、尋ねた。
「そう、元学生です」
書記は彼をじろじろ見たが、別になんの興味もなさそうな顔つきだった。それはどういうのかことさらに髪をぼさぼさにした男で、目には片意地な考えがやきついていた。
《こんな男には何を聞いてもむだだ、何がどうなろうと知っちゃいないって面《つら》だよ》と、ラスコーリニコフは考えた。
「あちらへ行きなさい、事務官のところへ」と言って、その男は指を一本つきだして、いちばん奥の部屋をさした。
彼はその部屋へ入った(かぞえて四番目の部屋だ)。そこもせまくるしい部屋で、人でいっぱいだった、――いままでの部屋よりはいくらかましな服装の連中である。出頭者の中に婦人が二人まじっていた。一人はみすぼらしい喪服を着て、事務官の机のまえに坐って、彼の口述で何か書かされていた。もう一人はまるまるとふとって、赤黒い顔にぶちのある派手な女で、どういうのかおそろしくけばけばしい服を着て、胸に茶わんの受《う》け皿《ざら》ほどもあるブローチをつけ、わきのほうに立って、何かを待っていた。ラスコーリニコフは呼出状を書記官のまえへさしだした。事務官はそれへちらッと目をやって、《しばらく待っていてください》と言うと、また喪服の婦人とのしごとをつづけた。
彼はほっと息をついた。《どうやら、ちがうらしいぞ!》彼はしだいに元気がでてきた。そしてせいいっぱい自分をはげまし、気をしっかりもつようにと自分に言いきかせた。
《ほんのちょっとした失敗、ごく些《さ》細《さい》な不注意で、おれは身を滅ぼしてしまうかもしれんのだ! うん……困ったことに、ここは空気が足りない》と彼はつけ加えた。《息苦しい……頭がますますくらくらする……思考力も……》
彼は自分がおそろしくとりみだしていることを感じた。自分で自分を抑えられないのではないかと恐《こわ》かった。彼は何かにしがみつき、何でもいいからぜんぜんよそごとを考えようとつとめたが、どうしてもだめだった。しかし、事務官が強く彼の興味をひいた。そして彼はしきりに事務官の顔をうかがい、何かを読みとろうとした。それは二十二、三のひどく若い男で、浅黒い顔は表情にとみ、年よりも老《ふ》けて見えた。流行の服を着たしゃれ者で、ポマードをテカテカにつけてきれいに櫛《くし》を入れた髪は、後頭のあたりまでかっきりと分け目をつけ、小さなブラシでみがきあげた白い指にはさまざまな指輪をたくさんはめて、チョッキには何本も金の鎖を下げていた。そこに居あわせた一人の外国人と、彼は二言ばかりフランス語をさえしゃべったが、えらくなめらかな調子だった。
「ルイザ・イワーノヴナ、おかけになったら」と彼は、椅子がすぐよこにあるのに、勝手にかけるわけにもいかぬらしく、さっきから立っていた赤黒い顔のおしゃれな婦人へちらと目をやって、言葉をかけた。
「ありがとうございます《イッヒ・ダンケ》」と婦人は、絹のすれる音をのこしながら、しずかに椅子に腰をおろした。白いレースの飾りのついた明るい空色の衣装が、まるで気球のようにふわッと椅子のまわりにひろがり、ほとんど部屋の半分を占領した。香水の匂《にお》いが流れた。だが婦人は部屋を半分も占領し、香水の匂いをぷんぷんさせていることを、明らかに気がねしているらしく、卑屈ともあつかましいともとれる微笑をうかべてはいたが、いかにも腰のおちつかない様子だった。
喪服の女はやっと終って、立ちあがりかけた。そのとき不意に、かなり乱暴な音をたてて、一歩ごとにことさらに肩で風をきりながら、あふれそうな元気で一人の警部が入ってきて、徽章《きしょう》のついた制帽を卓の上にほうり出すと、どっかとソファにすわった。それを見ると、けばけばしい婦人ははじかれたように立ちあがって、こぼれるような愛嬌笑《あいきょうわら》いをつくって小腰をかがめかけた。ところが警部は素知らぬ顔で見向きもしなかったので、彼女はすっかりいじけて、もう腰をおろすことができなくなってしまった。この男は区警察署の副署長で、にんじん色の八《はち》字《じ》髭《ひげ》をピンと水平にはね、並はずれて卑《いや》しい顔つきをしていたが、しかしその顔もいくらかあつかましいところが目につくほかは、別にこれといってなんの表情もなかった。彼はすこしむっとした様子で、横目でラスコーリニコフをにらんだ。着ているものは一通りのきたなさではない、それに、いくら小さくなろうとしても、身なりに似合わず態度が大きい。ラスコーリニコフはなんの気なしにあまりにも長いあいだまともに副署長の顔を見つめていたので、相手はとうとう怒ってしまった。
「なんだおまえは?」と彼はどなった。こんなぼろをまとっているくせに、彼の鋭い目でにらまれてもケロッとしているのを見て、びっくりしたらしい。
「呼び出されたんです……通達で……」とラスコーリニコフはしどろもどろに答えた。
「それはその男、つまり大学生《・・・》に金の支払いを督促する件ですよ」事務官は書類から目をはなしながら、あわてて言った。「これです!」そう言って彼は帳簿の中のその部分を指で示して、ラスコーリニコフのほうへほうってやった。「読んでみたまえ!」
《金? どんな金だろう?》ラスコーリニコフは考えた、《でも……とにかく、あれでないことはたしかだ!》そう思うと、彼は嬉しさにぞくッとした。彼は急に言いようのないほど楽な気持になった。肩の重荷がすっかりおりた。
「で、何時に出頭せよと書いてあったかね、きみ?」と、どういうわけかますますいきり立ちながら、副署長が叫んだ。「九時と指定されているのに、もう十一時すぎじゃないか!」
「とどけられたのがやっと十五分まえですよ」ラスコーリニコフもだしぬけに、自分でも思いがけなくむかっとして、しかも腹を立てたことにいくらか満足をさえおぼえながら、肩ごしにどなるように答えた。「しかも熱病をおして来たんですよ、それだけでも結構じゃありませんか」
「どならないでもらいたい!」
「ぼくはどなっちゃいませんよ、しごくおだやかにしゃべっています。ぼくにどなっているのはあなたですよ。ぼくは大学生だ、どなりつけることは許しません」
副署長はかんかんに腹を立てて、しばらくは口もきけず、口をぱくぱくさせて泡《あわ》のようなものをはじきとばすばかりだった。彼はいきなり立ちあがった。
「だ、だ、だまりたまえ! きみは役所にいるのですぞ。ぶ……ぶれいな言動はよしたまえ!」
「役所にいるのはあなたも同じだ」とラスコーリニコフは叫びかえした。「しかも、どなるばかりか、煙草《たばこ》をすっている。ぼくたちをばかにしている証拠だ」
こう言ってしまうと、ラスコーリニコフはなんとも言えぬ快感を感じた。
事務官はにやにや笑いながら二人を見ていた。怒りっぽい副署長は明らかにやりこめられたようだ。
「そんなことはきみの知ったことではない!」しばらくして彼は妙にうわずった不自然に高い声で叫んだ。「さあ、しかるべく答弁をしてもらおうか。この男に見せてやりたまえ、アレクサンドル・グリゴーリエヴィチ。きみに対する告訴だよ! 借金を払わんのだな!まったく、たいした度胸だ!」
しかしラスコーリニコフはもう聞いていなかった。彼は一刻も早く謎《なぞ》をとこうとして、ふるえる手でしっかり書類をつかんだ。一度読み、二度読んでみたが、なんのことかわからなかった。
「これはいったいどういうことですか?」と彼は事務官に聞いた。
「つまりあなたは借用証書によって借金の返済を要求されているのですよ、支払い要求ですよ。あなたは手数料その他いっさいの費用をこめた金額を支払うか、さもなければいつ支払えるかということを書面をもって返答しなきゃならんわけです。それと同時に支払うまでは首都を出ることも、自分の持ち物を売ることもかくすことも許されません。しかも債権者はあなたの持ち物を売ることも、法律にしたがってあなたを処置することも自由です」
「でもぼくは……誰にも借金なんかありませんよ!」
「それはもうわれわれの関知したことではありませんな。われわれのところへはこのとおり期限がきれて、法律的に抗告が有効となった百十五ルーブリの借用証書が提出されているわけです。これは九カ月まえにあなたが八等官未亡人ザルニーツィナにわたした証書です。それが手形として七等官チェバーロフに支払われた。そこでわれわれは今日あなたに出頭してもらったというわけです」
「だってそれはぼくの下宿のおかみさんじゃありませんか?」
「おかみさんならどうだというのかね?」
事務官は、《どうだね、ご気分は?》とよってたかって新参者をからかいはじめたときのように、あわれみと同時にいくらかざまァ見ろといいたげにゆったりした微笑をうかべながら、ラスコーリニコフを見つめた。しかしいまのラスコーリニコフには借用証書が、督促が何だろう! そんなものがいまの彼にとっていくらかでも不安の種になり得たろうか、ほんのすこしでも注意を向ける価値があったろうか! 彼は突っ立ったまま、読みもしたし、聞きもしたし、答えもしたし、自分から尋ねまでしたが、機械的にそうしていたにすぎなかった。自衛の勝利、重くおおいかかっていた危険からの解放――これがこの瞬間の彼の全存在をみたしていた。そこには予見もなければ、分析もなく、未来の憶測も見《み》透《とお》しも、疑惑も疑問もなかった。それは完全に衝動的な、純粋に動物的な歓喜の瞬間だった。ところがちょうどそのとき役所の中で、不意に稲妻が走り、雷が落下したようなできごとが起った。無礼な言葉に腹わたが煮えくりかえるような思いで、まだかっかしていた副署長が、明らかに傷つけられた名誉をばんかいしようとしたらしく、彼が入ってきたときからばかの見本のようなうす笑いをうかべながら彼をみつめていた例のかわいそうな《けばけばしい婦人》を、いきなりものすごい剣幕でどなりつけたのである。
「おい、貴様はなんという性こりのない女だ」と彼はだしぬけに割れるような声でどなりつけた(喪服の婦人はもう帰っていた)。「昨夜の店のさわぎはなんだ? あ? またしても恥さらしな、町中《まちじゅう》に聞えるような大さわぎをしくさって、性こりもなくまた飲んだくれてとっくみあいだ。刑務所へでもぶちこまれたいのか? わしはもう何度も言ったじゃないか、十度おまえに注意したはずだ、十一度目にはもう許さんとな! それをおまえはまたやらかしおって、なんという性こりのない女だ!」
ラスコーリニコフは手にもっていた書類さえ思わずとりおとして、あっけにとられて、人まえでこれほど遠慮なくやっつけられた派手な婦人をきょとんとながめていたが、間もなくできごとの意味がわかると、急にそれに興味を感じはじめた。彼はおもしろそうに聞いていた。するとそのうちに、大声をあげて笑いころげたい気持にさえなった……身体中の神経がとめどもなくおどりくるった。
「イリヤ・ペトローヴィチ!」と事務官は見かねて口を出しかけたが、やめて、しばらく待つことにした。副署長がかっとなったら、腕をおさえる以外にとりしずめる方法のないことを、自分の経験で知っていたからである。
けばけばしい婦人はといえば、はじめのうちこそだしぬけの落雷にひどくふるえあがっていたが、おかしなことに、ののしりの口調がはげしくなり、言葉数が多くなるにつれて、彼女の態度はしだいにやさしくなり、雷警部に向けられた微笑はますますいろっぽくなってきた。彼女はその場で足をふみかえふみかえ、のべつ小腰をかがめて、言葉を返す機会がくるのをもどかしそうに待っていた、そしてついにその機会がきた。
「おやまあ、署長さま、わたしどもの店じゃさわぎとか喧《けん》嘩《か》とかそんなことはぜんぜんございませんでしたわよ」と彼女はだしぬけに、はきはきしたロシア語だが、ひどいドイツなまりで、まるで豆をまきちらしたようにまくしたてはじめた。「スキャンダルだなんて、とんでもございません、あの人たちは来たときから酔っていたんですよ。わたしはすっかり申しあげますがね、署長さま、わたしにはなんの落度もございませんよ……うちの店は上品ですからね。署長さま、客あつかいも親切ですし、署長さま、それにわたしはいつだってスキャンダルなんて起らないように気をつかっているんですよ。ところがあの人たちときたら、へべれけになって店へ来て、さらに三本も酒を出させてさ、あげくが一人が両足をもちあげて、足でピアノをひきはじめたんですよ。うちのような上品な店でこんなことをされちゃたまりませんよ。おまけにピアノをひどくこわされて、やることがあまりにもひどすぎるので、わたしは言ってやったんですよ。するとその男はびんをにぎってふりまわしながら、みんなを追い立てるじゃありませんか。そこでわたしは急いで庭番を呼びにやったんですよ。庭番のカルルがくると、その飲んだくれはカルルをつかまえて、いきなり目をなぐりつけたんですよ。ヘンリエッタも目をなぐられたし、わたしは頬《ほ》っぺを五つもなぐられました。うちみたいな上品な店でこんな仕打ちってあんまりじゃありませんか、署長さま、だからわたしはどなりつけたんですよ。すると飲んだくれは運河のほうの窓をあけて、窓によじのぼり、小豚みたいにキーキーわめきちらすんですよ、なんて恥知らずな。ねえ、通りに面した窓で、小豚みたいに、フイ、フイ、フイなんて、口にするのも恥ずかしい言葉をわめきちらすなんて、そんなことができまして? だからカルルはうしろからフロックをつかんで、窓からひきずりおろしたんですよ。そのとき、ほんとですよ、署長さま、フロックの裾がちぎれたんですよ。するとそいつが弁償に十五ルーブリ払えってどなりたてるので、わたしはね、署長さま、フロックの裾の弁償として五ルーブリ払ってやったんですよ。まったくいやな客でしたわ、署長さま、まったく迷惑ったらありませんよ! おまけにこんなことを言うんですよ。貴様を諷《ふう》刺《し》でこっぴどくやっつけてやるぞ、おれはどの新聞も顔だからな、だなんて」
「すると、文士というやつだな?」
「そうなんですよ、署長さま、ほんとになんて品の悪い客なんでしょうねえ、署長さま、うちみたいな上品な店にきて……」
「まあ待て! もういい! わしはおまえにもう何度も言いわたしておいたぞ、いいな、はっきり言ったはずだ……」
「イリヤ・ペトローヴィチ!」とまた事務官が意味ありげに言葉をかけた。中尉はちらりとそちらを振り向いた。事務官はそっとうなずいてみせた。
「……では、ラウィーサ《・・・・・》・イワーノヴナ、いまからあんたに対するわしの最後の注意をあたえる、これがほんとうの最後ですぞ」と副署長は言葉をつづけた。「もしもあんたのその上品な店でだ、今後一度でもスキャンダルが起ったら、わしはそのときこそ、高尚《こうしょう》な言いまわしをすればだな、あんたの責任を求めますぞ。いいですな? するとなんだ、その文士は、作家は、《上品な店》で上衣の裾の代償として五ルーブリを受け取ったのだな?そんなやつらだよ、作家なんてやつは!」そう言って彼は軽蔑《けいべつ》のまなざしをちらとラスコーリニコフに投げた。「一昨日《おととい》も安料理屋でそれと同じような事件があった。飯をくらっておきながら、金を払おうとしない、そして《その代りこの店のことを諷刺小説に書いてやる》というんだ。汽船でも先週似たようなことがあった。人望ある五等官の家族、つまり奥さんと娘が、聞くにたえないような卑《ひ》猥《わい》な言葉でののしられたのだ。先日もある喫茶店から一人つまみ出された。作家とか、文士とか、学生とか、記者とかいうやからは、こんなやつらだよ……ペッ、胸くそがわるい!さて、あんたは帰ってよろしい! そのうちのぞきに行くからな……そのときはへまをしちゃいかんぞ! わかったな?」
ルイザ・イワーノヴナはいそがしい愛《あい》想《そ》笑《わら》いをうかべながらせかせかとあたりへ小腰をかがめはじめた、そしてペコペコしながら入り口まで後退《あとずさ》った、ところが入り口のところで、くもりのないつやつやした顔にみごとな薄亜麻色の頬《ほお》ひげを生やした堂々たる警部に、いきなり尻《しり》をぶっつけた。それは区警察署長のニコージム・フォミッチだった。ルイザ・イワーノヴナはあわてて床につくほど低くお辞儀をすると、ちょこちょこと小走りに事務所からとび出していった。
「また落雷、稲妻、竜巻《たつまき》、旋風《つむじかぜ》か!」とニコージム・フォミッチは愛想よい笑顔をイリヤ・ペトローヴィチに向けた。「また心臓を刺激されて、沸騰《ふっとう》しましたな! 階段のところからもう聞えましたよ」
「いや、なに!」とイリヤ・ペトローヴィチは坊ちゃんらしいぞんざいさで言って(それもなにとはっきり言ったわけではなく、《やァ、あァに!》というふうに聞えた)、何かの書類をもって一歩ごとに足のほうへ肩をつき出す珍しい歩き方で、ほかの机のほうへ歩いて行った。
「これですよ、見てください。この作家先生、じゃない大学生、といっても元がつきますがね、空手形をわたして、金は払わん、部屋はあけんというわけで、のべつ苦情がくる、それで呼び出したら、わしがこの席で煙草をすったというので、文句をつけるんですよ! 自分が卑劣な振舞いをしていながら、どうです、見てくださいよ、まったく素敵な格好をしてるじゃありませんか!」
「貧は罪ならずだよ、きみ、まあしかたがないさ! きみは短気者だ、侮辱をがまんできなかったのはわかるよ。あなたも、きっと、何かがかんにさわって、自分をおさえられなかったのですな」とニコージム・フォミッチは愛想のいい顔をラスコーリニコフのほうに向けながら、言葉をつづけた。「でもそれは無意味ですよ。はっきり言いますが、この男は素姓のいいことは申し分ないのだが、ただひどい短気者でねえ! かっとなると、すぐに火の玉のようになるが――他意はないのですよ! じきにケロリとさめます! あとにのこるのは黄金のような心だけです! 連隊では《火薬中尉》というあだ名をつけられていたんですよ……」
「その連、連隊がまたふるっていたよ!」とイリヤ・ペトローヴィチは、こころよいくすぐりをきかされて、ぐっと得意になったが、それでもまたふくれ面《つら》をしながら、大声で言った。
ラスコーリニコフは突然彼らみんなに何か特別に愉快なことを言ってみたくなった。
「いや、とんでもないですよ、署長さん」と彼は不意にニコージム・フォミッチのほうを向きながら、ひどくなれなれしい調子で言いだした。「ぼくの立場にもなってくださいよ……ぼくに何か無礼な点があったら、あやまろうとさえ思っていたのですよ。ぼくは貧しい病身の学生です。貧乏にうちのめされている男です(彼はほんとうに《うちのめされている》と言ってのけた)。ぼくは元大学生です、というのは、いまは学資がつづかないからです。でもぼくは金を受け取ることになっています……N県に母と妹がいます……送金してくれるはずです。そしたら……払います。下宿のおかみはいいひとですが、ぼくが家庭教師の口をなくして、もう四カ月もためているものですから、すっかり腹を立てて、食事もだしてくれません……しかしその手形というのはなんのことか、ぼくにはぜんぜんわかりません! いまおかみはその借用証書をたてにとってぼくに支払いを要求しているということですが、いったいどうして払ったらいいでしょう、ぼくの身にもなってください!……」
「でもそれはわれわれの関知しないことだ……」とまた事務官が意見をのべかけた……
「まあ、まあ、まったくそのとおりです。でもぼくにも一言いわせてください」とラスコーリニコフは事務官のほうへは見向きもせずに、ニコージム・フォミッチの顔へ目を向けたまま、せきこんで言った。彼は同時になんとかしてイリヤ・ペトローヴィチの注意もひきたいと思ったが、相手はかたくなに書類をしらべるようなふりをして、頭から黙殺してかかっていた。「ぼくの立場からも釈明させてください。ぼくはあの下宿にはもう三年越し住んでいるんですよ。田舎から出てくるとすぐからです。そしてまえに……まえに……まあぼくだって、すっかり言ってしまっていけないことはないでしょう。あそこに住むとすぐ、ぼくはおかみの娘と結婚することを約束したのです。口約束ですから、別にどうっていうことはありませんがね……かなりいい娘でしたよ……まあ、好きにさえなりましたよ。といっても惚《ほ》れこんだわけじゃありませんがね……一口に言えば、若さというやつですよ。こんなことを言いだしたのは、あの頃《ころ》おかみがぼくにたくさんの金を貸してくれて、ぼくはまあのんきな生活をしていたってことを、言いたかったのですよ……ぼくはまったく軽薄でした……」
「そんなのろけ話をせいとは、誰もきみに言ってやしないよ、それに暇もない」とイリヤ・ペトローヴィチはぞんざいに、勝ち誇ったようにさえぎろうとしたが、ラスコーリニコフは勢いこんでそれをおしとどめた。しかし彼は急にしゃべるのがひどく億劫《おっくう》になってしまった。
「でも、お願いです。どうかぼくに、すこしでも、まあ一通りしゃべらせてください……事情がどうであったか、そして……ぼくとしても……こんなことをしゃべるのは、おっしゃるとおり、余計なこととは思いますが、でも、――一年前にその娘はチブスで死にました。しかしぼくはそれまでどおり下宿人としてのこりました。おかみさんはいまの住居に移ると、ぼくに言いました……しかも心からやさしく言ったのです……わたしはあなたをすっかり信用しています……それはそれとして、これまであなたにお貸しした分、百十五ルーブリの借用書を入れてはいただけまいか、とこう言ったのです。まあ聞いてください、それからおかみさんは、ぼくが借用書をわたすとその場で、これからもまたいくらでもお貸ししますわ、わたしとしては決して、決して、あなたが払ってくれるまで、この証書をたてにとるようなことはしませんから、とたしかに言いました。これはおかみさんが言ったそのままの言葉です……それがいまになって、ぼくが家庭教師のくちを失い、食べるに困っているのに、こんな支払い要求を訴えるなんて……いったいぼくはどう言ったらいいのです?」
「そういう感傷的なこまかい事情はだね、きみ、われわれには関係のないことだよ」とイリヤ・ペトローヴィチは尊大にさえぎった。「きみは返答をあたえ、義務の履行を誓えばそれでよろしい。きみが惚れられたとか、どうしたとかそんな涙っぽい話には、われわれはぜんぜん用がない」
「もういい、きみはどうも……酷《ひど》すぎるよ……」ニコージム・フォミッチは卓について、やはり書類に署名をしはじめながら、呟くように言った。なんとなく気がさしたのである。
「書きなさい」と事務官がラスコーリニコフに言った。
「何を書くのです?」ラスコーリニコフはどういうのかことさらに乱暴に聞きかえした。
「わたしが口授します」
ラスコーリニコフには、事務官がいまの打ち明け話をきいてからいっそうぞんざいで、さげすむような態度になったように思われた。――ところが、おかしなことに、――彼自身にとっては、思いがけなく、誰がどんなことを思おうがまったくどうでもよくなった。しかもこの変化はなんと一瞬の間に、あっという間に起ったのである。もしも彼がちょっとでも考える気になったら、もちろん、つい一分まえによくも彼らにあんな話をしたり、おまけに自分の感情を無理におしつけようとしたりなどできたものだと、われながらあきれたにちがいない。それにしても、どうしてあんな気持になったのだろう? いまはそれどころか、この部屋が不意に警察官たちではなく、もっとも親しい友人たちでいっぱいになったとしても、彼らに対して人間的な言葉を一言も見つけることができなかったろう。一瞬のうちにそれほどまでに彼の心は空虚になったのである。苦しい果てしない孤独と疎遠の暗い感情が不意にはっきりと彼の心にあらわれた。彼の心の向きをこれほど不意に変えたのは、イリヤ・ペトローヴィチに対する告白の卑屈さでもなければ、彼に対する警部の勝利感の低劣さでもなかった。とんでもない、いまの彼にとっては自分の卑劣さなど何であろう、名誉心だとか、警部だとか、ドイツ女だとか、徴収だとか、警察だとか、そんなものが何であろう! よしんばいまこの瞬間火刑を宣告されたとしても、彼はぴくりともしなかったろう、それどころかそんな宣告にろくすっぽ耳もかさなかったにちがいない。彼の内部には何かしら彼のまったく知らない、新しい、思いがけぬ、これまで一度もなかったものが生れかけていたのである。彼はそれを理解したわけではなかったが、はっきりと感じていた。感覚のすべての力ではっきりとつかみとっていた、――彼はもう二度とあんな感傷的な告白はもちろんのこと、およそどんなことであろうと、警察署のあんな連中に打ち明けたりはしないであろう。それどころかたとえそれが警察署の警部どもではなく、彼と血を分けあった兄弟や姉妹たちであっても、生涯《しょうがい》のどんな場合にも、彼には打ち明ける理由はまったくないのだ。彼はこの瞬間までこのような奇妙な恐ろしい感覚を一度も経験したことがなかった。そして何よりも苦しかったのは――それが意識や理解ではなく、むしろ感覚だったことである。直感、これまでの人生で経験したあらゆる感覚のうちでもっとも苦しい感覚であった。
事務官はこういうケースにおきまりの返答の形式を口述しはじめた、つまりいま支払うことはできないが、某月某日までに(あるいはいずれそのうちに)支払うことを約束する。当市をはなれない。財産を売却も、贈与もしない等々。
「おや、あなたは書くこともできませんな、ペンが手からこぼれそうですよ」と事務官は好奇心をそそられてじろじろラスコーリニコフを見ながら、注意をあたえた。「身体ぐあいがよくないのですか?」
「え……めまいがして……先をつづけてください!」
「それで結構です。署名してください」
事務官はその書類を受けとると、他のしごとにとりかかった。
ラスコーリニコフはペンを返したが、腰をあげて立ち去ろうとしないで、両肘《りょうひじ》を卓について、両手で頭をかかえこんだ。まるで釘《くぎ》を脳天にうちこまれたような苦痛だった。不意に奇妙な考えがわいた。いますぐ立ち上がって、ニコージム・フォミッチのまえへ行き、昨日の一件を細大もらさず告白しよう。それからいっしょに部屋へ行って、隅の穴の中にかくした盗品を見せよう、というのだ。この衝動はあまりに強烈だったので、彼はそれを実行するためにもうふらふらと立ち上がっていた。
《せめてちょっとの間でも考えてみるべきではないか?》こんな考えがちらと頭をよぎった。《いや、何も考えないで、ひと思いにさばさばしたほうがいい!》
ところが不意に、彼は釘づけにされたように立ちどまった。ニコージム・フォミッチがひどく興奮してイリヤ・ペトローヴィチにまくしたてていたが、その言葉が彼の耳に入ったのだ。
「そんなばかなことがあるか、二人とも放免になるさ。第一、何もかも矛盾してるじゃないか。考えてみたまえ。あれが二人の仕業としたらだ、どうして彼らが庭番を呼んだのだ? 自分を告発するためかい? それともわざとごまかすためか? いや、そこまでずるく立ちまわるとは考えられぬ! そこで、学生ペスチャコフだが、彼は門を入るちょうどそのときに、門のそばで二人の庭番と一人の女に会っている。彼は三人の友だちといっしょに来て、門ぎわで別れたが、まだ友人たちがいるときに、庭番に住居のことをいろいろ尋ねたというのだ。もしもそういうたくらみをもって来たのなら、住居のことなんて尋ねるだろうか? さてコッホだが、あれは老婆を訪ねるまえに、下の銀細工師のところに三十分もいて、ちょうど八時十五分まえにそこを出て老婆の部屋へのぼって行ったというのだ。そこで考えてみたまえ……」
「それならですよ、どうして彼らの言うことにあんな矛盾が生れたのでしょう? 自分たちではっきり言ってるじゃありませんか、たたいてみたが、ドアには掛金がおりていた。それが三分後に、庭番をつれて行ってみると、ドアが開いているなんて、そんなばかな……」
「そこが問題だよ。犯人はきっと中にいて、掛金をおろしていたんだ。だからコッホが庭番を迎えに出かけて行くようなへまをやらなかったら、犯人はきっとつかまっていたはずだ。ところがやつ《・・》はそのわずかの合間に、まんまと階段を下り、どういう方法かで彼らをやりすごしたのだ。コッホは大げさに両手で十字を切って、『もしもわたしがあそこにのこっていたら、犯人はとび出てきて、わたしを斧《おの》でたたき殺したでしょう』だってさ。謝恩祈《き》祷《とう》でもあげたそうな喜びようだぜ、ヘッヘッ!……」
「だが、誰一人犯人を見たものがないじゃありませんか?」
「どこに、見られるものかね? あの家は――ノアの箱舟ですよ」と、話を聞いていた事務官が、自分の席から意見をのべた。
「真相は明白だよ、じつに明白だよ!」とニコージム・フォミッチは熱をこめてくりかえした。
「いや、きわめて不確かですな」とイリヤ・ペトローヴィチははっきりと言いきった。
ラスコーリニコフは帽子を手にして、ドアのほうへ歩きだしたが、戸口まで行きつかなかった……
気がついて、見ると、彼は椅子に坐っていた。右から一人の男に支えられ、左には別な男が黄色い液体をみたした黄色いコップを持って立っており、まえにはニコージム・フォミッチが立って、注意深く彼を見まもっていた。彼は椅子から腰をあげた。
「どうしました、病気かね?」とニコージム・フォミッチはかなりけわしく尋ねた。
「この方は署名するときも、ペンを持っているのがやっとでしたよ」と事務官が、自分の席にもどり、また書類の整理にかかりながら、言った。
「いつから病気だね?」イリヤ・ペトローヴィチも書類を選《え》りわけながら、自分の席からどなりつけるように言った。彼ももちろん、ラスコーリニコフが気を失って倒れたとき、心配そうにのぞきこんだ一人だが、気がつくと同時に、そそくさとはなれたのだった。
「昨日から……」とラスコーリニコフは呟くように答えた。
「昨日は外出したかね?」
「しました」
「病気じゃなかったのか?」
「病気でした」
「何時頃?」
「夕方七時すぎ」
「失礼だが、どちらへ?」
「街へ」
「簡単明瞭《めいりょう》だね」
ラスコーリニコフはぽつりぽつりと吐き出すように答えた。顔は紙のように蒼白《そうはく》で、黒い充血した目をイリヤ・ペトローヴィチの視線からはなさなかった。
「この男は立っているのもやっとなのに、きみは……」とニコージム・フォミッチは軽く注意をうながそうとした。
「かまわん!」イリヤ・ペトローヴィチは妙に角ばった語調で言いきった。ニコージム・フォミッチはまだ何か言おうとしたが、事務官もひどく緊張した目でじっと彼を見つめているのに気づくと、口をつぐんだ。みな急に黙りこんだ。奇妙な空気だった。
「まあ、よかろう!」とイリヤ・ペトローヴィチがけりをつけた。「あなたをひきとめはしないよ」
ラスコーリニコフは部屋を出た。彼は、部屋を出ると同時に活発な争論がはじまったのを、わけてもニコージム・フォミッチのあやしむような声がひときわはっきりしていたのを、聞きわけることができた……通りへ出てから、彼はすっかりわれにかえった。
《捜索、捜索、すぐに捜索がはじまるぞ!》彼は家へ行きつこうと急ぎながら、ひとり言をくりかえした。《強盗ども! おれを疑ってやがる!》先ほどの恐怖がまた足の先から頭のてっぺんまで、彼の全身をとらえた。
2
《だが、もう捜索されていたら? 部屋へ帰ったら、ちょうど彼らが来ていたらどうしよう?》
そうこうするうちに、もう部屋まで来た。無事だ、誰《だれ》もいない。誰ものぞいた形跡がない。ナスターシヤさえ手をふれていなかった。それにしても、なんということだ! どうしてさっきはこれらの品物をすっかりこんな穴の中にのこして行けたのか?
彼は隅《すみ》へかけよって、手を壁紙の下へつっこみ、品物をつかみ出して、ポケットにねじこみはじめた。全部で八品あった。耳飾りか、あるいはそれに似たようなものが入った小箱が二つ、――彼はろくに見もしなかった。それからあまり大きくない山羊《やぎ》皮《がわ》のケースが四つ。鎖が一本はだかのまま新聞紙にくるんであった。それからもう一つ、これも新聞紙に包んであったが、勲章のようだ……
彼はそれらの品物をすっかり外套《がいとう》やあいているズボンの右ポケットなど、方々のポケットへ目立たないように苦心しながらしのばせた。財布も品物といっしょにとりだした。それから部屋を出たが、今度はわざとドアをすっかり開け放しにしておいた。
彼はさっさと、しっかりした足どりで歩いた。全身にひどい衰弱を感じたが、意識はちゃんとしていた。彼は尾行をおそれていた。三十分後、いや十五分後には、監視の指令がでるかもしれぬ。とすると、どんなことがあってもそれまでには証拠をかくしてしまわなければならぬ。まだいくらかでも体力と、ものを考える力がのこっている間に、うまく片づけてしまうことだ……では、どこへ行ったらいいのか?
それはもうかねがね決めていたことだ。《すっかり運河へ捨ててしまう、証拠を水中へほうむってしまえば、事はおわりだ》彼は昨夜のうちに、熱にうかされながらこう決意したのだった。そしてその都度、何度かがばと起きあがって、出かけようとしたことをおぼえていた。《早く、一刻も早く出かけて、すっかり捨ててしまわなければ》しかし捨てることは生やさしいことではないことがわかった。
彼はエカテリーナ運河のほとりを三十分も、いやそれ以上かもしれぬ、さまよい歩いていた、そして何度か運河への下《お》り口《くち》に行きあたり、そのたびに下をのぞきこんだ。しかし計画の実行は思いもよらなかった。あるいは下り口の水ぎわに洗濯《せんたく》場《ば》があって、女たちが下着を洗っていたり、あるいは小舟がつないであったりして、どこも人がいっぱいで、それに岸のどこからでも見とおしで、大の男がわざわざ下りて行って、足をとめ、何か水の中へ捨てたら、怪しいと気づかれるにちがいない。しかもケースが沈まないで、流れたりしたらどうだろう? そうとも、沈むはずがない。そしたらみんなに見られてしまう。そうでなくても、会う人がみな、まるで彼にだけしか用がないみたいに、振り返ってじろじろ見るではないか。《どうしてだろう、それとも気のせいでそんなふうに思われるだけかな》と彼は考えた。
しまいに、彼はふと考えた。こんなことならネワ河のどこかへ行ったほうがいいのではないだろうか? あちらなら人は少ないし、ここほど目につかない、いずれにしてもここよりは都合がいいし、それに何よりも――ここから遠くはなれている。そう思うと彼はぎくッとした。どうして彼はせつない追い立てられるような気持で、こんな危険な場所を、三十分近くもうろうろしていたのだろう、こんなことはまえなら考えられなかったことだ! こんなばかげたことにまるまる三十分もつぶしたのは、要は、それが夢の中で熱にうかされながら決めたことだからだ! 彼は極度に散漫で忘れっぽくなっていた。そしてそれを自分でも知っていた。なんとしても急がなければならなかった!
彼はV通りをネワ河のほうへ歩きだした。ところが途中でふと別な考えがうかんだ。《どうしてネワ河へ行くのか? なぜ水の中へ捨てなければならんのか? それよりもどこか遠いところへ、なんならまた島へでもわたって、さびしい森の中の籔《やぶ》かげでも見つけて、これらをすっかり埋めて、立ち木を目印におぼえておいたらどうだろう?》そして彼はそのとき自分がすべてを明確に正しく判断できる状態ではないことを感じてはいたが、それでもこの考えはまちがっていないような気がした。
しかしその島へも、彼はわたらない運命にあった。別な事態が彼を待ち受けていたのである。V通りから広場へ出たところで、彼は思いがけなく左手のほうに、完全なめくら壁にかこまれた外庭へ通じる入り口を見た。右手は、門のすぐ内側から遠く庭の奥まで、となりの四階建の家の窓のない荒壁がつづいていた。左のほうは、めくら壁と並行して、これも門のすぐ内側から、板塀《いたべい》が奥へ二十歩ほどつづいていて、その先は左へ折れていた。そこは仕切られたさびしい場所で、建築材料のようなものの置場になっていた。その先には、庭の奥に、板塀の間から低いすすけた石造の小舎《こや》の一角が見えたが、どうやら何かの仕事場の一部らしい。きっと箱馬車製造所か、鉄工所か、あるいは何かそうした類《たぐ》いの仕事場があるのだろう。ほとんど門ぎわから、庭一面に、石炭の粉で真っ黒になっていた。《ここだ、ここへそっとすてて、かえろう!》という考えが不意に彼の頭にうかんだ。彼は邸内に人影のないのをたしかめて、するりと門をくぐった。するととたんに、門のそばの板塀の根方に水おとしの土管がうめてあったが(職工や、労働者や、御者などが多く住んでいる建物にはたいていこういう設備があった)、そのすぐ上の板塀にこういう場所にはつきものの落書きがチョークで書いてあるのが目についた。《小便無用》こういうものがあるところを見ると、ここへ立ち寄って、ぐずぐずしていても、すこしも怪しまれる心配がないから、かえって好都合だ。《ここでひと思いに、どこかのゴミの中へでも捨てて、帰ろう》
もう一度あたりを見まわしてから、彼はそろりとポケットへ片手をつっこんだ、そのとたんに外側の壁のすぐきわに大きな粗石《あらいし》がおいてあるのに気がついた。石は目方にして一プード半もあろうか、やっと一アールシンほどの幅しかない塀と土管の間にあって、通りに面した石塀にひっついていた。その塀の向うは歩道から往来になっていて、通行人たちのせかせかした足音が聞えた。このへんはいつも人通りが割合いに多かった。門の外側からは見えはしないが、誰かが入ってくればすぐに見られる、しかもその懸《け》念《ねん》は十分にあった、だから急がなければならなかった。
彼は石の上にかがみこむと、石の上部に両手をかけてしっかりとつかみ、身体中《からだじゅう》の力をふりしぼって、石をひっくりかえした。石の下には小さなくぼみができていた。彼はすぐにポケットの中のものを全部そこへおとしこみはじめた。財布がいちばん上になったが、それでもまだくぼみはいっぱいにはならなかった。それから彼はまた石に手をかけると、ひところがしで元のところへ押したおした。石はほんの心持ち高くなったようだが、いいぐあいに元の場所におさまった。彼は土を足でかきよせて、石のまわりを踏みかためた。跡はぜんぜんわからなくなった。
そこで彼は門を出て、広場のほうへ歩きだした。またしても、さっき署で経験したように、がまんできないほどのはげしい喜びが、一瞬彼をとらえた。《証拠はいん滅した! この石の下をさがそうなんて、まさか誰も思いつくまい! あの石は、おそらく、あの家を建てたときからあそこにあったにちがいない、まあこれからもそれくらいの年月はあのままになっているだろう。よしんば見つかったところで、誰がおれを怪しもう? すべては終った! 証拠がない!》そこで彼はにやりと笑った。そう、彼はあとで思い出したのだが、それはひくひくひきつったような、小きざみな、音もない長い笑いだった。彼は広場を通りすぎる間、のべつ笑いつづけていた。ところが一昨日《おととい》あの少女に出会ったK並木通りに入ると、彼の笑いはさっと消えた。別の考えが彼の頭にしのびこんできたのである。あのとき、少女が立ち去ってから、坐《すわ》りこんで、あれやこれやもの思いにふけったベンチのそばを通るのが、急にむかむかするほどいやなことに思われた、そしてあのとき二十コペイカ銀貨をやったあのひげの巡査にまた会うのも、たまらなくつらい気がした。《あんなやつ、くたばっちまえ!》
彼は放心したように、呪《のろ》いの目をあたりへなげながら、歩いていた。彼のすべての思考がいまはある重大な一点のまわりをまわっていた、――そして彼は自分でも、それがたしかに重大な点であり、そしていま、ほかならぬいま、その重大な一点とまともに直面したことを感じていた、――しかもそれはこの二カ月来はじめてのことでさえあった。
《何もかも、だめになっちまえ!》彼は不意に限りない憎《ぞう》悪《お》の発作にかられて考えた。《ふん、できたことは、できたことだ、あんな婆《ばば》ぁや新生活なんか、勝手にしやがれだ!ああ、これはなんと愚かしいことだ!……おれは今日、どれほど嘘《うそ》をついたり、卑劣なまねをしたことか! さっきはあの犬畜生にもおとるイリヤ・ペトローヴィチにこびたり、へつらったり、なんという恥知らずだ! だが、しかし、それもさわぐほどのことはないさ! あんなやつらはどいつもこいつも、唾《つば》をはきかけてやりゃいいんだ。おれがこびたり、へつらったりしたことだって、そうさ。けたくそ悪い! そんなことじゃない! ぜんぜんそんなことじゃないんだ!……》
彼は不意に、立ちどまった。新しい、まったく思いがけぬ、きわめて単純な一つの疑問が、一時に、彼を惑乱させ、苦しいほどの驚《きょう》愕《がく》につきおとしたのである。
《実際にあれがみなばかげた偶然からではなく、意識的になされたとしたら、実際に一つの定《き》められた確固たる目的があったとしたら、いったいどうしていままでおまえは財布の中をのぞいても見なかったのだ、何を手に入れたか知ろうともしないのだ? なんのためにすべての苦しみを引き受けて、わざわざあんな卑劣な、けがらわしい、恥ずかしい真似《まね》をしたのだ? そうだ、おまえはついいましがたあれを、あの財布を、やはりまだ見ていないほかの品々といっしょに川へ捨てようとしたのではなかったか……それはいったいどういうことだ?》
そうだ、そのとおりだ。すべてそのとおりだ。しかし、彼はそれをまえにも気づいていた、だからそれは彼にとってまるっきり新しい疑問ではない。しかも昨夜川に捨てようと決めたときは、なんのためらいもひっかかりも感じなかった、そうするのが当然で、ほかに方法があり得ないような気がしたのだった……そうだ、彼はそんなことはすっかり承知していたし、すっかり理解していたのだ。しかもそうきめたのは、おそらくは昨日あそこで、トランクの上にかがみこんで、ケースをつかみ出したあの瞬間だったかもしれぬ……たしかにそうだ!……
《これはおれが重い病気にかかっているせいだ》結局彼は暗い気持でそう決めた。《おれは自分で自分をおびやかし、苦しめながら、自分のしていることが、わからないのだ……昨日も、一昨日も、このところずうっと自分を苦しめつづけてきた、――病気が直ったら……自分を苦しめることもなくなるだろう……だが、すっかりは直りきらないとしたら、どうだろう? ああ! こんなことはもうつくづくいやだ!……》彼は足をとめずに歩きつづけた。彼はなんとかして気を晴らそうとあせったが、どうしたらいいのか、何から手をつけたらいいのか、自分でもわからなかった。ある一つの、抑えることのできない感覚が彼をとらえて、刻一刻ますます強くなっていった。それは目に見えるまわりのいっさいのものに対する限りない、ほとんど生理的といえる嫌《けん》悪《お》感《かん》のようなもので、かたくなで、毒々しく、憎悪にみちていた。行き会う人々がことごとくいやだった、――顔も、歩く格好も、動作も、何もかも虫《むし》酸《ず》がはしった。もし誰かが話しかけでもしようものなら、彼はものも言わずに唾をはきかけるか、もしかしたらかみついたかもしれぬ……
彼はワシーリエフスキー島の小ネワ河の河《か》岸《し》通《どお》りへ出ると、橋のたもとで不意に立ちどまった。《おやここか、あれはあいつの住んでいる家だ》と彼は考えた。《おかしいな、どうやらおれは自分からラズミーヒンのところへやって来たらしいぞ! またあのときみたいに、ひともめするか……それにしても、傑作だ、おれはわざわざ来たのか、それともただ歩いているうちに、ここへ来てしまったのか? まあどうでもいいや。おれは言ったはずだ……一昨日……あれ《・・》がすんだら翌日あいつを訪ねようって、かまうものか、訪ねてやれ! 何もいまになったからって、寄れないことはあるまいさ……》
彼は五階のラズミーヒンの部屋へのぼっていった。
相手は家にいた。自分の小さな部屋でそのとき書きものをしていたが、自分でドアを開けてくれた。二人は四カ月ほど会っていなかった。ラズミーヒンはぼろぼろにすりきれたガウンを着て、素足にじかにスリッパをつっかけ、髪はぼうぼうにみだし、ひげもそっていなければ、顔も洗っていなかった。彼の顔におどろきのいろが浮んだ。
「どうしたんだい、きみ?」彼は入ってきた友人を足の先から頭のてっぺんまでじろじろ見まわしながら、叫ぶように言った。それからちょっと間をおいて、口笛を吹いた。「もうそんなにつまっているのかい? おい、きみ、きみの格好にはわれわれ仲間も顔負けだよ」と彼はラスコーリニコフのぼろぼろの服をみながら、つけ加えた。「まあ坐れよ、疲れたろう!」そしてラスコーリニコフが自分の椅子《いす》よりもまだひどい油布張りのトルコ風ソファに、くずれるように坐りこんだとき、ラズミーヒンははじめて友が病気であることに気がついた。
「おい、きみはひどい病気だぜ。きみはそれを知っているのかい?」彼はラスコーリニコフの脈をはかりはじめた。ラスコーリニコフは手をひっこめた。
「いいよ」と彼は言った。「ここへ来たのは……つまり、家庭教師の口がぜんぜんないので……きみに頼もうと思ったんだ……だが、もういいんだよ……」
「わかるかい? きみは熱にうかされているんだよ!」彼をじっと見守っていたラズミーヒンは、そう注意した。
「いや、熱にうかされてなんかいないよ……」ラスコーリニコフはソファから立ち上がった。ラズミーヒンの部屋へのぼってくるときは、彼は相手と顔をつきあわせなければならぬことになるのだとは、考えてもみなかった。そしていまといういま、とっさに、彼は世界中の誰ともぜったいに顔をあわせたくない気分になっていることを、はっきりとさとった。身体中の血がかっと熱くなった。彼はラズミーヒンの閾《しきい》をまたいだというだけで、自分に対する憎悪のためにほとんど息がつまりそうになった。
「さようなら!」と、だしぬけに言って、彼はドアのほうへ歩きだした。
「おいきみ待てよ、待てったら、おかしなやつだ!」
「いいよ!……」とまた同じことを言って、ラスコーリニコフは腕をふりきった。
「じゃきみは何しにここへ来たんだ、あんな別れ方をしたあとでさ! 頭がどうかしたんじゃないのか、おい? こんなことって……侮辱というものだ。ぼくは放さないよ」
「それじゃ、言おう。ぼくがここへ来たのは、きみ以外に、ぼくを助けて……行動を起させてくれる者を、誰も知らないからだよ……だってきみは、誰よりも善良だし、つまり頭がいいし、それに判断力があるからだよ……それがいまになってぼくは、何もいらないことがわかったんだ、聞けよ、ぜんぜん何もだ……誰の助けも同情もだ……ぼくは自分で……一人きりで……もうよそうや! ぼくにかまわんでくれ!」
「おい、ちょっと待てよ、煙突掃除! まるで気ちがいだ! まあぼくの話をきけよ、そのあとはどうしようときみの勝手だ。いいかい、ぼくだって家庭教師の口なんてないさ、そんなものくそくらえだ。ところで古物市場《トルクーチイ》にヘルヴィーモフという本屋がいるんだが、これがそもそも家庭教師の口みたいなものなんだよ。ぼくはいま商家の教師の口を五件ほどもちこまれても、これと見かえることはごめんだな。やっこさん怪しげな出版をやって、自然科学の本なんか出してるんだがね、――それがまた奇妙にあたるんだよ! 題だけはたいしたもんだがね! きみはつねづねぼくを馬鹿《ばか》だと言っていたが、どうだ、きみ、ぼくよりも馬鹿なやつがいるんだぜ! 近頃《ちかごろ》は傾向がどうのとぬかしくさって、何もわからないくせにさ、だがぼくは、もちろん、おだててるよ。ここに二台とちょっと分のドイツ語のテキストがあるけど、――ぼくに言わせれば、愚劣きわまるインチキ論文さ、要するに、女は人間なりや否《いな》や、という考察なんだ。おちはきまってるさ、人間なりともったいぶって証明してるよ。ヘルヴィーモフはこれを婦人問題のシリーズの一つとして出版を予定しているんだ。翻訳はぼくがやる。やっこさんこの二台半を六枚にひきのばして、半ページほどの大げさな見出しをつけ、五十コペイカで売るんだよ。あたるぜ! 翻訳料は一枚六ルーブリ、だから全部で十五ルーブリの約束だが、もう六ルーブリ前借りしちゃったよ。これが終ったら、鯨の話の訳にとりかかる。そのあとはルソーの《告白》の第二部から退屈きわまるおしゃべりをいくつかチェックしておいたが、それを訳すつもりだ。誰かがヘルヴィーモフに、ルソーはラジーシチェフに似ているなんて言ったんだよ。ぼくは、むろん、反対はしないよ、相手が相手だ! ところでおい、《女は人間なりや?》の二台目を訳さないか? 訳すなら、いまテキストを持って行きたまえ、ペンも紙も持っていっていいよ――全部官給品だ――それから三ルーブリ渡すよ。なぜって、ぼくは全部の翻訳に対して前借りしたんだよ。つまり一台分と二台分の内金としてさ、だから三ルーブリはきみの取り分になるわけだ。終ったら――もう三ルーブリ受け取りたまえ。それからもう一つ、ことわっておくけど、ぼくはこれっぽっちも恩を着せるつもりはないからね、その点まちがわないでほしいな。それどころか、きみが来たとたん、ありがたい、早速一役買ってもらおうときめたんだよ。第一、ぼくは文章がまずいし、それにドイツ語がそれほど得手じゃない、だからぼくは勝手に作文をするほうが多くなるんだが、そのほうがかえっていいものができると思って、自分を慰めているんだよ。なあに、よくなるどころか、かえって悪くなるかもしれんが、そんなこと誰もわかりゃしないよ……どう、持っていくかい?」
ラスコーリニコフは黙ってドイツ語のテキストを受け取り、三ルーブリをもらうと、何も言わずに、部屋を出ていった。ラズミーヒンはあっけにとられてそのうしろ姿を見送った。ところが、もう一番街まで来てから、ラスコーリニコフは急に引き返して、またラズミーヒンの部屋へのぼっていった。そしてドイツ語のテキストと三ルーブリを机の上におくと、また一言も口をきかないで、部屋を出ていきかけた。
「おい、熱で頭がどうかしたんじゃないのか!」さすがにかっとなって、ラズミーヒンはどなった。「つまらん道化芝居はよせよ! ぼくまで頭がへんになったじゃないか……じゃ、あんなことがあったのにどうしてここへ来たんだい、おいきみ?」
「いいんだよ……翻訳なんか……」もう階段を下りながら、ラスコーリニコフは呟《つぶや》いた。
「じゃ何がいるんだ?」と上からラズミーヒンが叫んだ。ラスコーリニコフは黙って下りていった。
「おいきみ! 下宿はどこだ?」
返事はなかった。
「か、か、勝手にしろ!……」
だが、ラスコーリニコフはもう通りへ出ていた。ニコラエフスキー橋の上で、彼はまったく不愉快なあるできごとのために、もう一度はっきりわれにかえらなければならなかった。箱馬者の御者が、三、四度大声で注意したのに、彼が危なく馬にひっかけられそうになったので、いきなりぴしゃりと彼の背を鞭《むち》でなぐったのである。なぐられた屈辱に火のようになった彼は、とっさに手すりのほうへとびのき(どういうわけか彼は、歩道ではなく、車道になっている橋の真ん中を歩いていたのだった)、憤《ふん》怒《ぬ》の形相で歯をくいしばり、ぎりぎり歯をかみ鳴らした。あたりにどっと笑い声が起ったことはいうまでもない。
「ざまァ見ろ!」
「常習犯だよ」
「知れたことさ、酔っぱらいの振りをして、わざと馬車にひっかけられ、それをたねにたかるんだよ」
「それが稼業《かぎょう》なんだよ、おまえさん、それを稼業にしてるんだよ……」
ところがそのとき、まだ手すりのそばにつっ立ったまま、背中をさすりながら、怒りからさめきらぬ血走った目で、遠ざかって行く箱馬車をくやしそうににらんでいると、彼はふと、誰かが彼の手に金をおしこむのを感じた。見ると、頭《ず》巾《きん》をかぶって山羊皮の靴《くつ》をはいた初老の商家のおかみと、その娘らしい、帽子をかぶってみどり色のパラソルをもった若い女だった。《とっておきなさいな、おまえさん、キリストさまのめぐみだよ》彼は受け取った。二人は通りすぎて行った。金は二十コペイカ銀貨だった。無理もない、二人は身なりと格好で彼を街頭で物《もの》乞《ご》いをするほんものの乞《こ》食《じき》と思ったのであろう、そして二十コペイカもはずんだのは、彼が鞭でなぐられたのを見て、すっかり同情心をそそられたからにちがいない。
彼は二十コペイカ銀貨を手の中ににぎりしめて、十歩ほど歩くと、ネワ河のほうへ顔を向けた。それは宮殿の見える方角だった。空にはひとちぎれの雲もなく、水は淡いブルーに近かった。こんなことはネワ河には珍しいことである。寺院の円屋根は、橋の上のここ、つまり、小礼拝堂《しょうらいはいどう》へ二十歩ばかりのところからながめるのがもっとも美しいとされているが、いまも眩《まぶ》しいほどに輝いて、澄みきった空気をとおしてどんなこまかい装飾もはっきりと見わけることができた。鞭の痛みがうすれた、そしてラスコーリニコフはなぐられたことを忘れていた。いまの彼をすっかりとらえていたのは、ある不安な、もうひとつはっきりしない想念だった。彼は佇《たたず》んで、長いことじいっと遠くのほうを見つめていた。ここは彼には特になつかしい場所だった。大学へ通っていた頃、いつも、――といっても、たいていは帰校の途中だったが、――いま立っているこの橋の上に立ちどまって、このほんとうに壮大なパノラマにじいっと見入っていると、そのたびにあるおぼろげな不可解な感銘を心におぼえてぞおッとしたものだった。そんなことが百回もあったろうか。この壮大なパノラマからはいつもなんとも言えぬ冷気がただよってくる。彼にとっては、この華やかな光景が唖《おうし》にて耳聾《みみしい》なる霊にみちていたのだった……彼はそのたびにこの陰気な謎《なぞ》めいた感銘を不思議に思ったが、自分を信じられないままに、その解明を将来にのばしてきた……そしていま彼は突然この以前に解き得なかった疑問をはっきりと思い出した。彼はいまそれを思い出したのが、決して偶然でないような気がした。不思議な気がして、内心おどろいたといえば、以前とまったく同じ場所に立ちどまったことだった。以前とまったく同じ問題をいま考えたり、以前……といってもついこの間のことだが、興味をもっていたとまったく同じテーマや光景に、いま興味をもったりすることができると、本気で考えたのだろうか……彼は危なくふきだしそうにさえなったが、それと同時に胸が痛いほどしめつけられた。どこか下のほうの深いところに、足下のはるか遠くに、こうした過去のすべてが、以前の思索も、以前の疑問も、以前のテーマも、以前の感銘も、このパノラマの全景も、そして彼自身も、何もかもいっさいのものが、かすかに見えたような気がした……彼は上へ上へ飛んで行くような気がして、目のまえのすべてが消えてしまった……思わず片手を動かすと、彼は不意に拳《こぶし》の中ににぎりしめていた二十コペイカ銀貨に気がついた。彼は拳をひらいて、じっと銀貨を見つめていたが、いきなりその手を振りあげて、銀貨を水中に投げつけた。そしてくるりと踵《くびす》をかえし、家のほうへ歩きだした。そしてそのときを境に、彼はわれとわが身をいっさいのものから鋏《はさみ》で切りはなしてしまったような気がした。
彼が家へもどったのはもう日暮れ近かった、だから六時間ほどもぶらぶら歩きまわっていたわけだ。どこをどう通って帰ったのか、彼はぜんぜんおぼえていなかった。彼は服をぬぐと、せめぬかれた馬のようにがくがくふるえながら、ソファの上に横になり、外套をひっかぶると、そのまま意識を失ってしまった……
すっかり薄暗くなった頃、彼はおそろしい叫び声ではっと目をさました。はてな、何をさわいでいるのだろう! こんな異常な物音、こんな唸《うな》り声《ごえ》、号泣、歯ぎしり、涙、殴《おう》打《だ》、罵《ば》声《せい》を、彼はまだ一度も聞いたことも見たこともなかった。彼はこんなけだものじみた凶暴や、こんな狂乱の発作を、想像することもできなかった。彼はおそろしさのあまり身を起すと、ソファの上に起き直り、絶えず胸をかきむしられるような思いで、身をすくめていた。ところがつかみあい、号泣、罵声はますますはげしくなるばかりだった。不意に、彼は胆《きも》がつぶれるほどおどろいた。下宿のおかみの声が聞えたのだ。おかみは唸ったり、わめいたり、泣きながら何ごとか訴えたりしていたが、せかせかと早口に、言葉をとばしながらしゃべっているので、何を訴えているのか聞きわけることができなかった、――だが、階段のところでこっぴどくぶたれたから、もうぶたないでくれと哀訴していることは、まちがいなかった。殴っていた男の声は憎《ぞう》悪《お》と憤怒のあまりすっかりうわずってしまって、おそろしいしゃがれ声だけしか聞えなかったが、彼もやはり、聞きわけることはできないが、早口でとぎれとぎれに何ごとかわめきちらしていた。突然、ラスコーリニコフは木の葉のようにふるえだした。その声がわかったのだ。それはイリヤ・ペトローヴィチの声だった。イリヤ・ペトローヴィチがここへ来て、おかみを殴っている! おかみを足《あし》蹴《げ》にし、頭を階段にぶっつけている、――それは明らかだ、物音や、はげしい泣き声や、殴打の音の気配でそれがわかる。これはどうしたことだ、世の中がひっくりかえったのだろうか?どの階からも、どの階段からも、人々が集まってくる音が聞える。声々、叫び、かけのぼってくる音、どたどたという足音、ドアをはげしく開けたてする音、走りよってくる足音。《しかしいったいなぜ、これはどうしたわけだ……どうしてこんなことがあり得るのだ!》彼は頭がすっかり乱れてしまったせいではないかと、真剣に考えながら、こんなことをくりかえしていた。だが、そうではない、彼の耳にはあまりにもはっきりと聞えている!……とすると、そうとすれば、もうじきここへもやってくる、《だって……きっとこれは、あれのせいだ……昨日の一件の……さあ大変だ!》彼はドアに掛金を下ろそうとしたが、手が動かなかった……それに、閉めたところでどうにもならぬ! 恐怖が氷のように彼の心をおしつつみ、苦しめ、全身を硬直させた……ところが、やがて、たしかに十分はつづいたこの騒ぎも、しだいにしずまりはじめた。おかみは唸ったり、溜息《ためいき》をついたりしていたし、イリヤ・ペトローヴィチはまだかさにかかって、罵《ののし》りちらしていた……だが、とうとう、彼もおさまったらしい。声が聞えなくなった。
《帰ったのかな! 助かった!》きっとそうだ、そらおかみもまだ泣きやまないで、しゃくりあげながらもどって行く……そら、おかみの部屋のドアがばたんとしまった……集まった人々も階段からそれぞれの住《すま》居《い》へ散って行くらしい、――溜息や言い争いや話し声が、叫んでいるかと思われるほど高くなったり、ささやくように低くなったりしながら聞えてくる。きっと、たくさんの人々が集まったに相違ない。ほとんど建物中の人々がかけつけてきたのだろう。《それにしても、おかしい、こんなことってあり得るだろうか! いったいどうして、どうしてあいつがここへ来たのだろう!》
ラスコーリニコフは疲れはててソファの上に倒れたが、もう目をつぶることができなかった。彼はいままでに経験したことがないほどのはげしい苦悩と、堪えがたい底知れぬ恐怖感に責められながら、三十分ほど横になっていた。不意にまぶしい明りが室内を照らした。ナスターシヤがろうそくとスープの皿《さら》を持って入ってきた。注意深く彼の様子をうかがって、眠っていないことを見きわめると、彼女はろうそくを机の上に立てて、運んできたパンと塩とスープ皿と匙《さじ》をならべはじめた。
「おそらく昨日から何も食べていないんでしょ。一日中ぶらぶらほっつき歩いてさ、おこりでがたがたふるえてりゃ世話ないよ」
「ナスターシヤ……どうしておかみは殴られたんだい?」
彼女はじっとラスコーリニコフの顔をみつめた。
「誰がおかみさんを殴ったのさ?」
「いましがた……三十分ほどまえ、イリヤ・ペトローヴィチだよ、副署長の、階段のところでさ……どうしてあんなにひどくぶちのめしたのかなあ? それにしても……どうしてここへ来たんだろうな?――」
ナスターシヤは黙って、眉《まゆ》をひそめて、さぐるような目を彼の顔にあてて、そのまま長いこと目をはなそうとしなかった。こうしつこく見つめられると、彼はひどく不愉快になり、恐ろしくさえなった。
「ナスターシヤ、どうしたんだい、そんなに黙りこくってさ?」とうとう彼は、弱々しい声でおずおずと言った。
「それは血だね」やがて彼女は、ひくい声で、ひとり言のように答えた。
「血!……どこに血が?……」彼は顔色を変えて、壁のほうへ身をずらしながら、呟くように言った。ナスターシヤはそのまま黙って彼を見つめていた。
「誰もおかみさんをぶちゃしないよ」と彼女はまたけわしい、突っぱねるような声で言った。彼はやっと息をしながら、彼女に目をみはった。
「ぼくはこの耳で聞いたんだ……眠ってはいなかった……ここにこうして坐っていたんだ」彼はますます不安そうに言った。「ぼくは長いこと耳をすましていた……副署長が来た……階段のところへみんなかけ集まって来た、建物中の人々が……」
「誰も来やしないよ。それはおまえさんの血がさわいでいるんだよ。出どころがなくてさ、古血がかたまりはじめると、いろんなまぼろしが見えだすんだよ……すこし食べてみたらどう、ね?」
彼は返事をしなかった。ナスターシヤは枕《まくら》もとに立ったまま、じっと彼の顔へ目をおとして、立ち去ろうとしなかった。
「水をくれ……ナスターシュシカ」
彼女は下へ行って、二分ほどすると白い瀬戸の柄《え》付《つき》コップに水を入れてもどって来た。しかし彼はその先のことはもう記憶がなかった。ただ冷たい水を一口のんだことと、コップの水が胸にこぼれたことだけをおぼえていた。それきり気を失ってしまった。
3
彼は、しかし、病気の間中ずっと失神状態がつづいていたわけではなかった。それは熱病の状態で、幻覚にうなされたり、なかば意識がもどりかけたこともあった。あとになって彼はいろいろなことを思い出した。こんなこともあった。まわりにたくさんの人々が集まっているような気がする。その人々が彼をつかまえて、どこかへ連れ去ろうとして、彼のことでうるさく何ごとか言いあいをしている。かと思うと、不意にみんな出て行ってしまって、一人だけぽつんと部屋にとりのこされる。人々は彼を恐れて、ほんの時たまドアを細目にあけて、遠くから様子をうかがっては、おどしつけるばかりで、たがいに何ごとかうなずきあいながら、彼を嘲笑《あざわら》ったり、からかったりしている。彼はナスターシヤがときどきそばに来ていたのをおぼえていた。もう一人男がいたのも気づいていた、よく知っている顔のようでもあるが、正確に誰《だれ》なのか――どうしても思い出すことができず、それが悲しくて、泣いてしまったことさえあった。またあるときは、もう一月《ひとつき》も寝ているような気がしたし、そうかと思うと――まだあの日がつづいているような気もした。ところがあ《・》のこと《・・・》は、――あのことはすっかり忘れていた。その代り、忘れてはならないことを、何か忘れているようだということが、絶えず頭にひっかかっていて、――思い出そうとしながら、苦しみ、もだえ、うめき、狂乱の発作にかられたり、おそろしい堪えがたい恐怖におちいったりするのだった。そんなとき、彼はいきなりとび起きて、逃げ出そうとしたが、いつも誰かに力ずくでおさえられ、またしても困憊《こんぱい》と失神状態におちこむのだった。ついに、彼ははっきり意識をとりもどした。
それは朝の十時頃《ごろ》だった。朝のその時間は、晴れた日なら、いつも陽光が長い帯となって右側の壁をすべり、ドアのそばの角に明るくおちていた。彼のベッドのそばに、ナスターシヤと一人の男が立っていた。まったく見知らぬ男で、ひどく興ありげに彼を見おろしている。それは裾長《すそなが》の上衣《うわぎ》をきた若い男で、あごひげを生やし、一見協同組合の事務員風であった。半開きの戸口からおかみの顔がのぞいていた。ラスコーリニコフは身を起した。
「その人は誰、ナスターシヤ?」と彼は若い男のほうを示しながら、尋ねた。
「あら、気がついたじゃない!」と彼女は言った。
「気がついたね」と男が応じた。
彼が気がついたのを知ると、ドアのかげからのぞいていたおかみは、すぐにドアをしめて、姿をかくした。おかみはだいたい内気なほうで、文句や言い訳を聞かされるのがせつなかった。年齢は四十前後で、脂肪ぶとりで、眉《まゆ》も目も黒く、ふとって身をうごかすのも大儀そうな人にありがちのお人よしだった。それに、器量も人に負けないものをもっているのに、内気さだけは度が過ぎていた。
「あなたは……誰ですか?」ラスコーリニコフは事務員風の男のほうを向きながら、重ねて問いかけた。ところがそのとき、またドアが開いて、背丈が高いのでわずかに頭をこごめながら、ラズミーヒンが入ってきた。
「ひでえ船室だな」彼は入るなり大声で言った。「いつも額をぶっつけるよ。これでも部屋とはおどろくよ! ところできみ、目がさめたってね? いまパーシェンカから聞いたよ」
「いま気がついたところなの」とナスターシヤが言った。
「いま気がついたんです」と、事務員風の男は笑いながら、また相槌《あいづち》をうった。
「ところで、あなたはどなたですか?」と、不意に彼のほうを向いて、ラズミーヒンは尋ねた。「ぼくは、ごらんのとおりの男で、ウラズミーヒンという者です。人はラズミーヒンと呼びますが、正しくはウラズミーヒン、学生で、地主のせがれです、この男はぼくの友人です。さて、あなたはどちらのどなたです?」
「わたしは事務所で組合のしごとをしている者ですが、商人のシェロパーエフさんに頼まれて、用事でこちらへ伺ったんです」
「その椅子《いす》におかけください」ラズミーヒンは自分も粗末な机の向う側にあるもう一つの椅子に腰をおろした。「おいきみ、よく気がついてくれたなあ」彼はラスコーリニコフのほうを向いて、言葉をつづけた。「もう今日で四日、ほとんど飲まず食わずだ。嘘《うそ》と思うかもしれんが、茶を匙《さじ》で飲ませたんだぜ。ぼくはここへ二度ゾシーモフを連れてきたよ。おぼえてるかい、ゾシーモフを? 丹念にきみを診察して、すぐに言ったよ、――なんでもない、頭にちょっとショックを受けただけだって。軽い神経の発作だが、食べものがわるいうえに、ビールとピリッとしたものが足りなかったために、こんな病気が起きたんだってさ。だが別に心配はいらん、そのうち自然に直るそうだ。えらいやつだよ、ゾシーモフは! まったく医者が板についてきたぜ。さて、ぼくが邪魔だったらおっしゃってくださいよ」と彼はまた組合の男のほうを振り向いた。「差し支えなかったらどうぞ、用件を聞かせてもらえませんか? ねえ、ロージャ、この人の事務所からはもうこれで二度目だよ。もっともこのまえ来たのはこの人じゃなく、別な人で、その人とぼくは話し合いをしたんだが。このまえ来たあの人はどなたでしたっけ?」
「あれはたしか一昨日《おととい》だったと思います。伺ったのはアレクセイ・セミョーノヴィチです。やはりわたしたちの事務所の者です」
「ところで、あの男のほうがあなたより話がわかりそうだが、どうですかな?」
「そうです。たしかにわたしよりしっかりしています」
「えらい、正直なところが気に入ったよ。では、話をつづけてもらいましょうか」
「実は、アファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシンから、この方のことはもう何度もお聞きになっていると思いますが、あなたのお母さんの依頼によりまして、わたしたちの事務所を通じてあなたに送金がありました」組合の男はまっすぐラスコーリニコフのほうを向いて、用件を話しはじめた。「で、あなたがはっきりものを考えることができるようになりましたら、――三十五ルーブリをあなたにお渡しすることになっています、と申しますのは、セミョーン・セミョーノヴィチがアファナーシイ・イワーノヴィチから、あなたのお母さんの依頼によって、従来どおりの方法による送金通知を受けたからです。失礼ですが、おわかりでしょうか?」
「うん……おぼえている……ワフルーシン……」ラスコーリニコフは考えこみながらつぶやいた。
「聞いたかね、彼は商人のワフルーシンを知っている!」とラズミーヒンは叫んだ。「りっぱに分別があるじゃないか? ところで、いま気がついたんだが、あなたも話がわかる男だよ。本当だよ! 才気のある言葉というものは聞いていても気持のいいものだ」
「それその方ですよ、ワフルーシンさんです。そのアファナーシイ・イワーノヴィチが、あなたのお母さんの依頼によって、あなたのお母さんはまえにも一度あの方に頼んで、同じような方法であなたに送金したことがありましたね、今度もまた頼まれて、四、五日まえにあなたに三十五ルーブリを渡してくれるようにという通知をセミョーン・セミョーノヴィチによこしたわけですよ、ご発展を祈りつつ、と結びましてね」
「それだよ、その《ご発展を祈りつつ》はあなたの最高傑作だ。《あなたのお母さん》というやつも悪くはない。ところで、どうですかなあなたのお考えは、彼はもうすっかり正気だと思いますか、それともまだ少し早いですかな?」
「わたしの考えなんてどうでもいいんですよ。ただ署名さえしていただければ」
「どうにか書けますよ。で、帳簿のようなものをお持ちですか?」
「帳簿は、これです」
「どれ、こちらへ下さい。おい、ロージャ、起きろよ。ぼくが支えていてやるから、ラスコーリニコフと一筆ふるいたまえ。さあペンを持って、だってきみ、いまのぼくたちにとって金は蜜《みつ》よりも大事だからな」
「いらんよ」とペンをおしのけながら、ラスコーリニコフは言った。
「いらん、何が?」
「署名はしないよ」
「チエッ、しようがないな、受け取りを書かんでどうするのさ?」
「いらないんだよ……金なんか……」
「なに、金がいらないって! ええ、それはきみ、嘘だよ、ぼくが証人だ! どうか、心配なさらんでください、なあにこの男はまだちょっと……夢の散歩をたのしんでいるんですよ。もっとも彼は、現《うつつ》のときでもよくこんなことがありますがね……あなたはもののわかるお方です、どうです、二人でこの男を導いてやろうじゃありませんか、つまり手をとって動かしてやるだけです、そしたら彼は署名しますよ。さあやりましょう……」
「でも、わたしはまた出直して来ましょう」
「いえ、それには及びませんよ。何も心配なさることはないじゃありませんか。あなたはもののわかるお方です……おい、ロージャ、お客さんに迷惑かけちゃいかんよ……見たまえ、お待ちになってるじゃないか」そう言うと彼は本気でラスコーリニコフの手に副《そえ》手《で》しようとした。
「よせ、ぼくは自分で……」と言うと、ラスコーリニコフはペンをとって、帳簿に署名した。組合の男は金をおいて、帰って行った。
「しめた! どうだ、きみ、何か食べたくないか?」
「食べたいな」とラスコーリニコフは答えた。
「スープある?」
「昨日のでよかったら」と、ずっとその場に突っ立ったまま成り行きを見ていたナスターシヤが答えた。
「じゃがいも《・・・・・》とひきわり《・・・・》の入ったのか?」
「ええ、じゃがいももひきわりも入ってるわ」
「よし、見ないでもわかるよ。スープを持って来《こ》い、それから茶も」
「持って来るわ」
ラスコーリニコフはすっかりびっくりしてしまって、意味もないぼんやりした恐怖をおぼえながら、成り行きをながめていた。彼は、これからどんなことになるのか、黙って見まもっていることにきめた。《どうやら、これは夢ではないらしいぞ》こんなことを彼は考えていた。《たしかに、事実のようだ……》
二分後にナスターシヤがスープを運んで来た、そしてすぐ茶もきますと告げた。スープには匙が二つ、皿《さら》が二つ、さらに塩入れ、こしょう入れ、子牛の肉につけるからし入れなど、調味料ひとそろいがそえてある。こんなことはもう久しくなかったことだ。テーブルクロースはさっぱりしていた。
「ねえナスターシュシカ、プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナがビールを二本ばかり言いつけてくれりゃ、ありがたいんだがなあ。乾杯するんだよ」
「まあ図々《ずうずう》しい、このちょろさんたら!」と呟《つぶや》いて、ナスターシヤは言われたことを実行するために出て行った。
ラスコーリニコフは不思議なものでも見るように、目に力をこめて凝視をつづけていた。一方ラズミーヒンは、ソファの彼のそばへ席を移すと、彼はひとりで起き直れるのに、熊《くま》みたいにぎこちなく、左手で彼の頭を抱きよせ、右手で匙をつかんでスープをすくい、口を焼かないように二、三度ふうふう吹いたうえで、彼の口のそばへ持っていった。そんなことをするまでもなく、スープは生ぬるかった。ラスコーリニコフはむさぼるように匙のスープを一口に飲んだ、つづいて二匙目も、三匙目もむさぼり飲んだ。ところが、何度か匙を口へ運んでやると、ラズミーヒンは突然匙をおいて、これ以上はゾシーモフに相談したうえでなければ、と言った。
ナスターシヤがビールを二本運んで来た。
「茶は飲む?」
「飲むよ」
「茶を大至急たのむよ、ナスターシヤ、茶なら医者に聞かんでもいいだろうからな。さてと、ビールがきたか!」彼は自分の椅子に席を移すと、スープと牛肉を手もとへひきよせ、三日も食べていないような勢いで、がつがつつめこみはじめた。
「ぼくはね、ロージャ、この頃毎日きみのところでこういう食事にありついているんだよ」と彼は口いっぱいに牛肉をほおばりながら、もぞもぞと呟いた。「これもみなパーシェンカが、ここのおかみさんがね、あてがってくれるんだよ。まったくじつに親切にもてなしてくれるぜ。むろん、ぼくはねだりはしないよ。なにことわりもしないがね。そら、ナスターシヤが茶を持って来た。ほんとにすばしっこい女だよ! ナスチェンカ、ビールを飲むかい?」
「へッ、いいかげんにおしよ!」
「じゃ、お茶は?」
「茶なら、もらうわ」
「注《つ》げよ。まあいいや、おれが注いでやろう。卓のまえに坐《すわ》りたまえ」
彼はすぐに茶の支度をすると、一杯注ぎ、更にもう一つの茶碗《ちゃわん》に注いだ。そして食べかけの料理をそのままにして、またソファに席を移した。彼はさっきのように左手を病人の頭にまわすと、ちょっと抱き起して、またしてもひっきりなしに、特に念入りにふうふう吹きながら、匙で茶を飲ませはじめた。どうやら、ふうふう吹くというこの過程に、回復にもっとも大切でしかも有益な要因が存在するとでも思っているらしい。ラスコーリニコフはよそからのどんな助けを借りなくとも、ひとりで起き直って、ソファの上に坐っていられるだけの十分の力を身内に感じていたし、手だって匙や茶碗くらい持てたし、そればかりか、もしかしたら歩くことだってできるかもしれない、という気持はあったが、それでも逆らわずに黙っていた。ある奇妙な、野獣の本能にも似たずるさから、ある時期がくるまで自分の力をかくし、じっと息をひそめて、病人を装い、必要とあらば、まだ意識がすっかり回復しないような振りをさえして、その間にまわりの様子に耳を傾け、どんなことになっているか嗅《か》ぎ出してやろうという考えが、不意に彼の頭にひらめいたのである。だが、彼はむかむかするような自己嫌《けん》悪《お》をおさえることができなかった。十匙ほど茶をすすると、彼はいきなり頭をふりはなし、じゃけんに匙をおしのけ、また枕《まくら》の上に倒れた。頭の下にあったのは、ほんものの枕だった――ふんわりした羽根枕で、さっぱりしたカバーがかけてある。彼はそれも気がついて、頭の中に入れておいた。
「パーシェンカには今日こそえぞいちご《・・・・・》のジャムを出してもらうんだな。病人の食べものをつくってやらにゃ」ラズミーヒンは自分の席にもどって、またスープとビールに手をのばしながら、言った。
「へえ、あんたにやるえぞいちご《・・・・・》なんか、おかみさんはどこで手に入れるんだね?」とナスターシヤはひろげた五本の指の上に受け皿をのせて、棒砂糖を唇《くちびる》にあてて茶をすすりながら、言った。
「えぞいちごはね、きみ、店で買うのさ。おい、ロージャ、きみのいない間に、じつにおもしろいことがあったんだぜ。きみがまるで、こそ泥《どろ》みたいにさ、下宿もおしえないでぼくのところから逃げ出したとき、ぼくは無性に腹が立って、どうしてもきみの居所をさぐり出し、罰してやろうと決心したんだ。そして早速その日のうちに行動に移った。ぼくは足にまかせて歩きまわり、じつにこまめに聞きまわった! なにしろこの、いまのきみの下宿を忘れていたんでな。もっとも、はじめから知らないんだから、おぼえているはずがないさ。だが、まえの下宿ならおぼえていたよ――それが五つ角《ピヤチ・ウグロフ》のハルラーモフの家とだけなんだ。そこでさがしたね、そのハルラーモフの家ってやつを夢中でさがしまわった、――ところがきみ、あとでわかったんだが、それはハルラーモフの家でなんかないのさ、ブッフの家だったんだよ、――音《おん》てやつはどうもまちがいが多いよ! 頭にきたね。腹立ちまぎれに、とにかく当ってみようというので、翌日警察の住所係へ行ってみた、するとどうだね、二分もたたんうちにきみの居所をさがし出してくれたよ。きみの名前はちゃんと書きとめてあるぜ」
「書きとめてある!」
「もちろんさ。だってコベリョフ将軍とかいう人は、ぼくも見ていたが、どうしてもさがし出せなかったぜ。それはさて、話せば長くなるが、とにかくぼくはここへ顔を出すとすぐに、きみのいろんなことをすっかり聞かされたよ。すっかりだよ、きみ、それこそ一部始終だ。ぼくはもうなんでも知ってるぜ。この女も見ていたがね、ニコージム・フォミッチとも知り合いになったし、イリヤ・ペトローヴィチも紹介されたし、庭番とも顔ができたし、それからザミョートフ、そらここの署の事務官をやっているアレクサンドル・グリゴーリエヴィチ、そして最後に、パーシェンカ、――これこそきみ、まさしくぼくにおくられた花の冠だね。現にこの女も知っているが……」
「へえ、こってり砂糖をきかせてさ」ずるそうに笑いながら、ナスターシヤは呟いた。
「そう、あんたももっと砂糖をきかせたら、ナスターシヤ・ニキーフォロヴナ」
「まあ、このさかり犬ったら!」いきなりこう叫ぶと、ナスターシヤはぷっと吹き出した。
「だってわたしはペトローワよ、ニキーフォロワなんかじゃないわ」彼女は笑いやむと、突然こうつけたした。
「おそれ入りました。以後つつしみます。ところできみ、余談はさておきだな、ぼくは先《ま》ず、この土地のあらゆる偏見というものを一挙に根絶するために、四方八方に電波をはなとうとしたわけだ。ところがパーシェンカには負けたね。ぼくは、きみ、あのひとがこんな……チャーミングな女だとは、ゆめにも思わなかったぜ……きみはどう思う?」
ラスコーリニコフは不安におびえた目を彼から一瞬もはなさなかったが、それでもじっと押し黙っていた。そしてなおもしつこく凝視をつづけていた。
「しかもひじょうにといっていいくらいだ」ラズミーヒンは相手の沈黙にはまるでおかまいなく、まるで声なき返事にうなずくように、言葉をつづけた。「そうだよ、とにかくりっぱだよ、どこから見てもさ」
「まあ、いけすかない!」と、またナスターシヤは叫んだ。どうやらこの会話は彼女にぞくぞくするような幸福感をあたえたらしい。
「まずかったのは、きみ、そもそもの出だしから作戦をあやまったことだ。あの女にはこういうやり方ではいけなかったんだよ。たしかにあれは、いわば、稀《まれ》にみる珍しい性格だよ! まあ、性格のことはあとにしよう……ただきみはどうして、例えばだな、あのおかみに食事をとめさせるようなへまなことをしたんだい? それから、あの手形だが、ありゃいったいなんだい? ほんとに、頭がどうかしたんじゃないのか、手形に署名するなんて! それからまた、例の婚約だが、娘のナターリヤ・エゴーロヴナがまだ生きていた頃の話さ……ぼくはすっかり知ってるんだよ!しかし、これはデリケートな心の琴線の問題で、この方面ではぼくはまるきりにぶいらしいよ。失礼失礼。ところで、にぶい話がでたので聞くけど、どうだね、たしかにプラスコーヴィヤ・パーヴロヴナは最初見たときほど、それほど馬鹿《ばか》じゃないぜ、な?」
「うん……」ラスコーリニコフはそっぽを向いていたが、心の中では話をつづけさせるほうがとくだとわかっていたので、しぶしぶ答えた。
「そうだよな?」返事をもらったのが嬉《うれ》しくてたまらないらしく、ラズミーヒンは大声を出した。「しかしたしかに利口ではない、な? まったく、稀に見る珍しい性格だ! ぼくはね、きみ、いささか面くらっているんだよ、ほんとだぜ……四十はまちがいないだろう。ところが自分じゃ三十六と言ってるがね、それが少しもおかしくないんだよ。ただし、正直のところ、ぼくは彼女についてはむしろ精神的な面から、つまり形而上学的《けいじじょうがくてき》にのみ判断しているんだ。ぼくたちの間にはな、きみ、ある一つの記号が形成されたんだよ、きみの代数みたいなさ! どうにも解けんよ! まあ、こんなことはどうでもいいさ。ただ彼女は、きみがもう学生じゃなく、家庭教師の口も着るものもなくしてしまったし、おまけに娘が死んで、きみをもう身内として面倒を見る理由がなくなったのを知ると、急に心細くなった。しかもきみはきみで、隅《すみ》のほうにねころがったきりで、まえとはすっかり変ってしまった。そこで彼女はきみを部屋から追い出そうと考えたわけだ。そしてかなり長い間彼女はこの考えを胸の中にあたためていた。そのうちに手形が惜しくなってきた。そこへもってきてきみが自分で、母が払ってくれるから、なんて言った……」
「そんなことを言ったのはぼくが卑怯《ひきょう》だからだ……母だってほとんど乞《こ》食《じき》みたいな暮しをしているんだ……ぼくが嘘をついたのは、ここにおいてもらって……食べさせてもらいたかったからだ」とラスコーリニコフは大きな声で、はっきりと言った。
「わかるよ、それはきみあたりまえのことだ。ただ問題は、そこへ七等官で腕っこきのチェバーロフという男がはいりこんできたことだよ。パーシェンカは彼がいなかったら何も企てられなかったろうさ。なにしろあんな内気な女だ。ところが、腕っこきの男なんてやつはだいたい恥知らずと相場がきまってる。そこで先ず最初に考えることはきまってるよ。手形を現金化する見込みがあるかどうか、ということだ。答えは、ある、なぜなら百二十五ルーブリの年金から、自分は食べないでも、ロージェンカには送金するという感心なお母さんがいるし、またお兄さんのためなら身を売って奴《ど》隷《れい》になってもかまわない、というような妹さんがいるからだ。ここを彼はねらったわけだ……どうしたんだい、もぞもぞして? ぼくはね、きみ、いまはもうきみの秘密をすっかりさぐり出してしまったんだよ。きみがまだ身内あつかいされていた頃、パーシェンカに何でも打ち明けていたろう、それがこっちへまわってきたのさ。ぼくがいまこんなことを言うのはきみを愛するからだよ……つまりこういうことなんだよ、正直で涙もろい人間はややもすると打ち明け話をする。すると腕っこきな人間はそれを聞いていて、食いものにする。そのうちにすっかり食いつくしてしまうというわけさ。それはさて、彼女は支払うということにして、その手形をチェバーロフという男に渡した。そこでチェバーロフは正規の手続きをふんで支払い要求をしたわけだ。けろりとしたものさ。こうした事情をすっかり知ったとき、ぼくは、やつの良心を清めてやるために、やつにも電流を通じてやろうと思ったよ。ところがちょうどその頃、ぼくとパーシェンカの間にあるハーモニーが生れたんだ。そこでぼくは彼女にこの事件をいっさいとりさげるように命じた。もっともそれには先ず、きみが支払うという一項をぼくは保証したがね。きみ、ぼくはきみの保証人になったんだぜ。わかるかい? そこでチェバーロフを呼んで、ルーブリ銀貨を十枚ぽんと投げ出し、手形をとりもどした。さあこれだ、謹んできみに差し上げよう、――もう口約束だけで信用するよ、――そら、受け取りたまえ、ぼくが破いて無効にしておいたよ」
ラズミーヒンは卓の上に借用証書をのせた。ラスコーリニコフはそれには目もくれず、ものも言わないで、くるりと壁のほうを向いた。さすがのラズミーヒンもむっとした。
「そうかい」と一分ほどして彼は言った。「おれはまたばかな真似《まね》をしたようだ。軽口をたたいてきみの気をまぎらし、慰めてやろうと思ったんだが、どうやら、腹の虫を怒らせただけらしい」
「ぼくが熱にうかされていたとき、きみに気がつかなかったろうか?」ラスコーリニコフも一分ほど黙っていて、向うを向いたまま、だしぬけにこう聞いた。
「ぼくに、とんでもない、特にザミョートフを連れて来たときなんか、気ちがいみたいに暴れだしたほどだぜ」
「ザミョートフ?……あの事務官かい?……何のために?」ラスコーリニコフは急に振り向いて、きっとラズミーヒンを見すえた。
「どうしたんだいきみ……いきなりそんなおっかない顔をしてさ? きみと知り合いになりたがったんだよ。自分から言いだしたんだ、彼とはずいぶんきみのことを話したからな……彼から聞かなきゃ、ぼくもこんなに詳しくはきみのことがわからなかったろうよ。ほかに誰がおしえてくれる? きみ、あいつはいい男だぜ、実にすばらしい男だ……といっても、むろん、彼なりにだがね。いまではもう親しい友人同士だ、ほとんど毎日のように会っているよ。だってぼくはわざわざあっちへ越したんだぜ。きみはまだ知らなかったね?越したばっかりだ。ラウィーザのところへいっしょに二度ほど行ったよ。ラウィーザをおぼえているだろう、あのラウィーザ・イワーノヴナさ?」
「ぼくは何かうわごとを言ったかい?」
「そりゃ言ったさ! まるで意識がなかったものな」
「どんなことを言った?」
「おやおや! どんなことを言ったって? うわごとなんてのは相場がきまってるよ……さてと、時間をつぶしちゃもったいない、しごとにとりかかるぜ」
彼は椅子から立ち上がって、帽子に手をかけた。
「どんなうわごとを言った?」
「おい、いやにこだわるじゃないか! さては何か秘密があって、それを恐れているんだな? 心配せんでいいよ、伯爵《はくしゃく》夫人のことなんか何も言わなかったぜ。そうそう、どっかのブルドッグがどうしたとか、耳輪だとか、何かの鎖だとか、クレストーフスキー島がどうだとか、どっかの庭番のことやら、ニコージム・フォミッチのことや副署長のイリヤ・ペトローヴィチのことなど、ずいぶんいろいろしゃべったよ。それから、自分の靴下《くつした》のことがなんだかひどく気がかりのようだったな。しつこいったらなかったよ! 泣きそうな声で、靴下をくれ、靴下をくれ、そればかりくりかえしているんだ。ザミョートフが自分で隅々をさがしまわって、きみの靴下を見つけ出し、化粧水でみがきあげ指輪をいくつもはめた手でそのきたない靴下をつまみあげて、きみに渡したんだぜ。そしたらやっとおとなしくなって、そのきたないぼろをまる一昼夜にぎりしめていたよ。なんとしても放さないんだ。きっと、そこらの毛布の下にころがっているだろうよ。そうかと思うと今度はズボンの切れっぱしをくれだ、涙声でさ、あわれっぽいったらないんだ! 切れっぱしとは何のことだろう、これには困っていろいろ聞いてみたが、結局ぜんぜんわからなかったよ……さて、それじゃしごとにかかろう! ここに三十五ルーブリあるが、十ルーブリ持ってくぜ。二時間ほどしたら精算書を持ってくるよ。ついでに、ゾシーモフにも知らせよう。知らせがなくとももうここへ来てなきゃいかんはずだが、だってもう十一時すぎだ。それから、ナスチェンカ、留守中にときどき覗《のぞ》いてみてくれね、飲みものとか、ほかに何かほしいというものがあったら、頼むよ……パーシェンカにはぼくがいま必要なことを言っておこう。ではちょっと行ってくるよ!」
「パーシェンカだって! あきれた。図々《ずうずう》しいったらないわ!」ナスターシヤは彼のうしろ姿に呟いた。それからドアを開けて、きき耳をたてはじめたが、がまんができなくなって、自分も下へかけおりて行った。下で彼が主婦《おかみ》とどんな話をしているのか、気になってじっとしていられなかったらしい。それに様子を見ていると、どうやら彼女はすっかりラズミーヒンに参っているらしかった。
彼女が部屋を出てドアをしめると同時に、病人は毛布をはねのけて、夢中でベッドからとび下りた。彼は、すぐさま一人きりになってしごとにとりかかるために、一刻も早く彼らが出て行くのを、身を焼かれるようないらいらした気持で待っていたのだった。しかし何をしたらいいのだ、どんなことから手をつけたらいいのだ? まるでいまになって不意にそれを忘れてしまったかのようだ。《おお神よ、一つだけおしえてください、彼らはもうあれをすっかり知っているのでしょうか、それともまだ気がついていないのでしょうか? もうすっかり知っているくせに、ぼくの寝ている間、とぼけてからかっているだけではないのか。そのうち不意に入って来て、もうとうからすっかりわかっていたんだが、知らない振りをしていただけさ……なんて言ったら、どうしよう……いま何をしたらいいのだ? ひょいと忘れてしまった。いままでおぼえていたのに、突然忘れてしまった!……》
彼は部屋の中ほどに突っ立って、苦しい疑惑につつまれながらあたりを見まわしていた。彼はドアのそばへ近づいて、そっと開けて、耳をすました。が、そんなことではなかった。不意に、まるで思い出したように、壁紙のかげが穴になっている片隅へかけより、丹念に見まわしてから、片手をつっこんでさぐってみた。だが、そんなことでもない。彼はペチカのまえへ行って、蓋《ふた》を開け、灰の中をかきまわしはじめた。ズボンの裾《すそ》の切れはしとちぎれたポケットのぼろが、あのとき捨てたままにちらばっていた。とすると、誰も見ていないわけだ! そのとき彼はふと、さっきラズミーヒンが言った靴下のことを思い出した。たしかに、ソファの上に毛布の下になってくしゃくしゃになっていたが、あのときからもうすっかりすりきれて、汚れきっていたので、ザミョートフは、もちろん、何も見分けられなかったにちがいない。
《あッ、ザミョートフ!……警察!……だが、どうしておれは警察に呼ばれるんだ? 通達はどこへやったろう? あッ!……おれはどうかしてるぞ。召喚されたのはあのときだった! おれはあのときも靴下を念入りにしらべたっけ、だがいまは……いまはおれは病人だ。それにしてもザミョートフがどうしてここへ来たのだ? どうしてラズミーヒンが彼を連れて来たのだ?……》彼は疲れはてて、またソファに腰をおろしながら呟いた。《いったいこれはどうしたというのだろう? まだ悪夢がつづいているのだろうか、それとも現実だろうか? どうやら、現実らしい……あ、思い出した。逃げることだ! 一刻も早く逃げるのだ、なんとしても、絶対に逃げるのだ! でも……どこへ? ところで、おれの服はどこにあるのだ? 長靴もない! しまわれた! かくされたのだ! わかってる! おや、ここに外套《がいとう》がある――見おとしたな! おや、机の上に金がおいてあるぞ、しめしめ! そら手形もある……この金を持ってここを逃げ出し、別な部屋を見つけるのだ。彼らだってさがし出せまい!……そうだ、住所係ってやつがあったっけ? きっとさがし出される! そうすればラズミーヒンが見つける! それよりは完全に行方をくらましたほうがましだ……どこか遠くへ……アメリカへでも逃げるのだ。ざまァ見ろ! 手形も持って行こう……あちらで役に立つかもしれん。あと何を持って行こうか? 彼らはおれを病人だと思っている! おれが歩けることを知らないのだ、へ、へ、へ!……おれは彼らの目を見て、彼らがすっかり知っていることを読みとったんだ! なんとか階段をぬけられさえすればしめたものだが! 巡査が見張りに立っていたら、どうしよう! これはなんだ、お茶か? おや、ビールも半分ほどのこってるぞ、よく冷えてる!》
彼はびんをつかんだ。まだコップにいっぱいほどのビールがのこっていた。彼は胸の火を消そうとでもするように、うまそうにごくごく飲んだ。ところが、一分もたたないうちに、ビールの酔いがぐっと頭にきて、軽い、いっそ快いような悪《お》寒《かん》が背筋をはしった。彼は横になって、ふとんをかぶった。そうでなくても病的でとりとめのない彼の想念は、ますますみだれていって、間もなく軽い快い眠りが彼をとらえた。彼はうっとりしながら頭で枕のすわりのいい位置をさぐりあてると、いままでのぼろ外套の代りにおいてあったやわらかい綿のふとんにしっかりくるまって、ほっとひとつしずかに溜息《ためいき》をつき、深いかたい眠りに沈んだ。それは体力を回復させる眠りである。
誰か入って来る気配で、彼は目がさめた。目を開けて、見るとラズミーヒンが立っていた。彼はドアを大きく開けて、入り口のところに立ちどまって、入ったらいいかどうか迷っているふうだった。ラスコーリニコフは急いでソファの上に起き直り、何か思い出そうとつとめるように、目に力をこめてじっと相手を見つめた。
「おや、眠っていなかったのかい、ぼくだよ! ナスターシヤ、包みを持って来てくれ!」とラズミーヒンは下へどなった。「いま計算書をわたすよ」
「いま何時?」不安そうな目をしつこく相手にあてながら、ラスコーリニコフは尋ねた。
「うん、よく寝たよ、きみ。外はもううす暗いよ、おっつけ六時になるだろう。六時間とちょっと寝たわけだ……」
「ええッ! おれはいったいどうしたというのだ?……」
「何がどうしたんだい? 眠りは薬だよ! どこへ急ぐんだ? あいびきにでも行こうってのかい? いまはもう全部の時間がぼくたちのものだぜ。ぼくはもう三時間も待っていたんだよ。二度ほど寄って見たが、よく眠っていた。ゾシーモフは二度寄ってみたが、二度とも留守さ! なあに、そのうち来るよ!……きっと、何か用事で家をあけているんだろうさ。だってぼくも今日引っ越したんだからな。もうすっかり引っ越しが終ったよ、伯父といっしょなんだ。いま伯父が来ているんだよ……まあ、そんなことはどうでもいいや、用件にかかろう!……ナスチェンカ、包みをここへくれ。では早速……ところで、きみ、気分はどうだね?」
「健康だ、ぼくは病気じゃないよ……ラズミーヒン、きみはもう長くここにいるのかい」
「三時間待ったって言ったじゃないか」
「そのことじゃない、まえは?」
「まえって?」
「いつからここに来てるんだね?」
「ああ、それならさっきすっかり話して聞かせたじゃないか、忘れたのかい?」
ラスコーリニコフは考えこんだ。さっきのことが夢の中のことのようにちらついた。一つだけどうしても思い出せないで、問いかけるようにラズミーヒンを見た。
「フム!」とラズミーヒンは言った。「忘れたらしいな! さっきはまだ、きみが自分をとりもどしていないような気がしたよ……やっと夢からさめたようだ……たしかに、すっかり顔色がよくなったよ。よく直ってくれたなあ! さあ、用件にかかろう! 今度は思い出せるよ。これを見てくれ、いいね」
彼は包みをときはじめた。どうやら、その包みが気になって落ち着いていられない様子だった。
「これはね、きみ、ぼくがいちばん気になっていたことなんだ、ほんとだよ。何しろ、きみを人間らしくしてやらなきゃ。では始めよう、先ず上からだ。どうだね、この帽子は?」彼は包みの中からかなりりっぱな、とはいってもごくありふれた安ものの学帽をとりだして、言った。「どう、合わせてみないか?」
「あとにするよ、あとで」ラスコーリニコフは不《ふ》機《き》嫌《げん》にはらいのけながら、呟いた。
「いけないよ、きみ、ロージャ、逆らわないでくれ、あとではもうおそい。それにぼくは今夜一晩眠れないじゃないか、何しろはからないで、見当で買ってきたんだからな。ぴたりだよ!」彼は合わせてみて、勝ち誇ったように叫んだ。「注文したみたいだ! 頭の飾りというものは、きみ、服装の中でもっとも大切なもので、一種の自己主張みたいなものだ。ぼくの友人のトルスチャコフなんかは、どこか公式の場所へ出ると、みんなが帽子をかぶっているのに、必ずかぶりものを脱ぐんだよ、そうせずにいられないみたいにさ。みんなに言わせれば、奴隷根性《どれいこんじょう》のせいだというが、実は、鳥の巣みたいな帽子を恥じているだけなのさ。何しろひどいはにかみやだからなあ! さて、ナスチェンカ、ここに二つの帽子がある、このパルメルトン(彼は隅《すみ》のほうからラスコーリニコフのくたくたの丸帽をひろいあげて、どういうわけか、それをパルメルトンと名付けた)と、この気品あふれる絶品だが、どちらがいいと思う? おい、ロージャ、当ててごらん、いくらしたと思う?ナスターシュシカ、きみは?」彼はラスコーリニコフが黙っているのを見て、ナスターシヤに問いかけた。
「まあ二十コペイカくらいでしょうね」とナスターシヤは答えた。
「二十コペイカ、ばかな!」彼はむっとして、どなった、「いまどき二十コペイカじゃおまえだって買えやしないよ、――八十コペイカだよ! それだって中古だからだ。もっとも、これをかぶりつぶしたら、来年は別なのを無料でサービスするって条件つきだがね、ほんとだよ! さて今度は、アメリカ合衆国といこう、ほら、中学校の頃よく言ってたじゃないか。ことわっておくけど、このズボンはちょっとしたものだぜ!」そう言って彼は軽い夏もののウール地でつくったズボンを、ラスコーリニコフのまえにひろげた。「虫くいあともないし、しみ一つない。古物とはいえ、たいしためっけものだぜ。それに同色のチョッキ、これがいまの流行《はやり》だよ。古物っていうけど、実際には、そのほうがかえっていいんだよ。やわらかいし、肌《はだ》ざわりがいいしさ。いいかい、ロージャ、世の中へ出て成功するためにはだな、ぼくに言わせれば、シーズンというものに常に注意をおこたらなければそれで十分だよ。一月にアスパラガスを食べようなどと思わなければ、何十コペイカか財布の中にのこしておけるわけだ。この買物についても同じことだ。いまは夏のシーズンだ、だからぼくは夏物を買ったんだ。だって秋口に向って、シーズンはひとりでにもっと暖かい生地《きじ》を要求するようになる、そうなるとこんなものは捨てざるをえない……ましてこんなものはみな、その頃になればひとりでにだめになってしまうさ、ぜいたくが昂《こう》じるせいもあるだろうが、それよりも品物自体がもたないんだよ。ところで、当ててごらん! いくらだと思う? 二ルーブリ二十五コペイカだ! それから、おぼえておいてもらいたいが、これもさっきと同じ条件つきだよ、つまりはき古したら、来年は別なズボンが無料サービスだ! フェジャーエフの店ではこれが商売の秘《ひ》訣《けつ》だよ。つまり一度金を払ったら、一生心配なしというわけだ。なに、客のほうで二度と行きゃしないから大丈夫さ。さて、今度は靴だ――どうだね? もう言うまでもないだろうが、古物だよ。だが二カ月くらいは絶対にもつよ。正真正銘の舶来ものだ。イギリス大使館の書記が先週古物市へ出したんだよ。六日はいただけだが、よっぽど金につまったらしい。値段は一ルーブリ五十コペイカだ。素敵な掘出し物だろう?」
「でも、合わないんじゃないかしら!」とナスターシヤが言った。
「合わない! じゃ、これはなんだい?」そう言って彼は、乾いた泥《どろ》が一面にこびりついている古いこちこちの穴だらけのラスコーリニコフの靴を片方、ポケットからとり出した。
「ぼくはちゃんと用意して出かけたんだよ、そしてこの化けものみたいな靴から正しい寸法を割り出してもらったのさ。何もかも誠心誠意やったんだ。下着のことはマダムとよく相談した。ほら、先ずこの三枚のシャツだが、地は厚い亜麻だが、襟《えり》は今風だよ……というわけで、帽子が八十コペイカ、その他《ほか》衣類が二ルーブリ二十五コペイカで、計三ルーブリ五コペイカ。それに靴が一ルーブリ五十コペイカ――だってものがものだから、そのくらいはするさ、――計四ルーブリ五十五コペイカ、更に下着類が全部で五ルーブリ、――卸し値にまけさせたんだぜ、――総計で九ルーブリ五十五コペイカだ。おつりが四十五コペイカ、五コペイカ銅貨ばかりだが、納めてくれ。というわけで、ロージャ、きみもいよいよ着るものがすっかり昔どおりになった。あとは外套だけだが、これは、ぼくに言わせれば、まだまだ着られるし、それにかえって一種独特の趣をさえそなえているよ。シャルメルの店へなんか注文したら、それこそことだよ! 靴下やその他のこまごましたものは、自分でそろえてくれ。金はまだ二十五ルーブリのこっているが、パーシェンカの件や、間代のことは心配せんでいいよ。何度も言ったように、信用は絶対さ。それはさて、きみ、早速下着をとりかえるんだな、なんだか病気のやつ、もうシャツの中にだけひそんでいるような気がするぜ……」
「よしてくれ! いやだよ!」衣類購入についてのラズミーヒンの無理に茶化したような報告を、ぶすっとした顔をして聞いていたラスコーリニコフは、手を振ってはらいのけようとした。
「それは、きみ、いかんよ。なんのためにぼくは足を棒にして歩きまわったんだ!」ラズミーヒンはあとへひかなかった。「ナスターシュシカ、恥ずかしがらんで、手伝ってくれよ、そうそう!」そして、ラスコーリニコフがあばれてもかまわず、彼は結局下着をとりかえてやった。ラスコーリニコフは枕の上に倒れて、二分ほど黙りこくっていた。
《まだしばらくは解放されそうもないな!》こんなことを彼は考えていた。
「こんなにたくさんどういう金で買ったんだい?」やがて、壁のほうを向いたまま、彼は尋ねた。
「どういう金? しっかりしろよ! きみ自身の金じゃないか。さっき組合の者が来たろう、ワフルーシンの使いがさ、きみのお母さんが送ってくれたんだよ。もう忘れたのかい?」
「ああ思い出したよ……」ラスコーリニコフは長いくらい沈思ののちに呟いた。ラズミーヒンは眉をひそめて、不安そうな目をときどき彼に投げた。
ドアが開いて、背の高い、がっしりした男が入って来た。ラスコーリニコフはちらと見て、この男もどこかで見おぼえがあるような気がした。
「ゾシーモフ! やっと来たか!」ラズミーヒンは喜んで叫んだ。
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ゾシーモフは大きなふとった男で、むくんでつやのない蒼白《あおじろ》い顔にはいつもきれいに剃《かみ》刀《そり》があててあり、髪は薄亜麻色でくせがなく、眼鏡《めがね》をかけて、ふとい指に大きな金の指輪をはめていた。年格好は二十七、八だった。ゆったりした粋《いき》な軽い外套《がいとう》を着て、明るい夏ズボンをはき、身につけているものがみなゆったりして、粋で、新しいものばかりだった。シャツは申し分のないもので、時計の鎖もどっしりと重味がある。動作はのろのろしていて、ものうげに見えたが、そこには見せかけの大まかさがあった。そしてえらぶった気取りが、つとめてかくしてはいるが、絶えずちらちらうかがわれた。彼を知っている人はみな口をそろえて、気むずかしい人間だと言っていたが、しかし仕事はできる男だという評判だった。
「ぼくは、きみ、二度も寄ったんだぜ……見たまえ、気がついたよ!」とラズミーヒンは大きな声を出した。
「わかっとる、わかっとるよ。さて、どうかね気分は、あ?」ゾシーモフはラスコーリニコフのほうを向いて、じっと顔を見つめながら聞いた。そしてラスコーリニコフの寝ている足もとに腰を下ろすと、すぐに思いきりゆったりと姿勢をくずした。
「うん、すっかりふさぎこんでいるんだよ」とラズミーヒンが言った。「いま下着を変えてやったところだがね、危なく泣き出すところさ」
「無理もないよ。本人がいやだというなら、下着なんてあとでもよかったんだよ……脈は順調だね。頭はまだいくらか痛むかね、え、どう?」
「ぼくは健康だよ、どこも悪くない!」ラスコーリニコフはいきなりソファの上に身を起し、キラッと目を光らせて、いらいらしながら強情そうに言いはったが、すぐにまた枕《まくら》の上に倒れて、壁のほうを向いた。ゾシーモフはじっとその様子を見守っていた。
「至極順調です……別に異常はありませんな」と彼はものうげに言った。「何か食べましたか?」
ラズミーヒンは彼に容態を話して、何をやったらいいかと尋ねた。
「まあ、何をやってもいいでしょう……スープ、茶……きのこや胡瓜《きゅうり》は、むろん、いけませんがね。それに牛肉もやらんほうがいいでしょう。それから……いやよしましょう、別にとやかく言うことはありませんよ!……」彼はラズミーヒンに目配せした。「水薬もいらんし、何もいらんよ。明日また診《み》ましょう……今日でもいいんだが……まあ、いいでしょう……」
「明日の夕方は散歩に連れ出すよ!」とラズミーヒンは一人決めした。「ユスポフ公園に、それから《水晶宮》にも寄ってみよう」
「明日はまだ動かさないほうがいいと思うが、でもまあ……少しくらいなら……とにかく、明日の様子を見てからにしましょう」
「ええ、癪《しゃく》だなあ、今日はちょうどぼくの引っ越し祝いなんだよ。ここからほんの二またぎのところなんだ。こいつも来てくれるといいんだがなあ。ソファに寝てぼくたちの間にいてくれるだけでもいいよ。きみは来てくれるだろう?」と、ラズミーヒンは不意にゾシーモフのほうを向いた。「忘れないでくれよ、いいね、約束したよ」
「まあね、ただちょっとおそくなるけど。ご馳《ち》走《そう》は何だね?」
「別に何もないよ、茶と、ウォトカと、鯡《にしん》だけだ。ピローグは出るよ。ほんの内輪だけの集まりさ」
「で、顔ぶれは?」
「なあに、みんな近所の連中で、ほとんど新しい顔ぶればかりさ、もっとも、――年とった伯父だけは別だが、まあこれだって新顔みたいなものさ。昨日何かの用事でペテルブルグへ出て来たばかりだ。会うのは五年に一度くらいだよ」
「どんな人だね?」
「なに、田舎の郵便局長で一生眠ったような生活をしてきて……恩給をもらって、六十五になって、まあとりたてて話すほどのこともないよ……でも、ぼくは伯父が好きなんだよ。ポルフィーリイ・ペトローヴィチも来るよ。ここの予審判事で……法律家だよ。そうそう、きみも知ってるじゃないか……」
「あいつもきみの親戚《しんせき》かね?」
「ひじょうに遠い、ね。どっかでつながってるらしいよ。どうしたんだいきみ、そんなむずかしい顔をしてさ? そういえば一度きみは彼とやりあったことがあったね。じゃあ、きみは来《こ》ないかもしれんな?」
「あんなやつごみみたいなもんさ……」
「そうこなくちゃ。それからと、顔ぶれは――学生たち、教師、役人が一人、音楽家が一人、士官、ザミョートフ……」
「ぼくには解《げ》せんのだがねえ、きみとかこの男に」ゾシーモフはラスコーリニコフに顎《あご》をしゃくった。「そのザミョートフとやらと、どんな共通点があり得るのかね?」
「やれやれ、理屈っぽい男だなあ! 何かといえばすぐ原則だ!……きみは全身が原則というバネでかためられているんだよ。自分の意志で向きを変えることもできん。ぼくに言わせれば、人間がいい――それが原則だよ、それ以上何も知りたいとは思わんね。ザミョートフは実にすばらしい人間だ」
「それが、甘い汁《しる》を吸ってか」
「なに、甘い汁を吸ってるって、そんなことどうでもいいじゃないか! 甘い汁を吸ってるのが、どうしたというんだ!」どういうわけか不自然に苛《いら》立《だ》ちながら、ラズミーヒンはいきなり叫んだ。「彼が甘い汁を吸っているのを、ぼくがほめたとでもいうのか? ぼくは、彼は彼なりにいいところがあると言っただけだ! 実際、どこから見ても非の打ちどころのないなんて人間は、何人もいやしないよ! 正直のところ、ぼくなんか臓《ぞう》腑《ふ》ぐるみすっかりひっくるめても、焼いた玉ねぎ一個くらいの値打ちしかないだろうな、それもきみもおまけにつけてさ!……」
「それは少なすぎる。ぼくならきみに玉ねぎ二つ出すね……」
「ぼくはきみには一つしか出せんな! さあもっとしゃれを言いたまえ! ザミョートフはまだ子供だよ、すこし鍛えてやるんだ。だってあの男は味方にしておく必要があるからな、突っ放しちゃ損だ。人間は突っ放しちゃ、――矯正《きょうせい》はできんよ、まして子供はな。子供をあつかうには特に慎重さが必要だ。おいきみ、進歩的石頭、何もわかるまい! きみは人間を尊敬しないで、自分を侮辱している……ところで、なんなら話してもいいが、ぼくと彼の間には、どうやら、一つの共通の問題が生れたらしいんだよ」
「聞きたいね」
「うん、例の塗装師の問題さ、つまりペンキ屋だな……もうじき出してやるよ! もっとも、いまではもう嫌《けん》疑《ぎ》はこれっぽっちもないんだ。事件がすっかり明白になったのさ! ぼくらがちょっと後押しをしてやればいいんだよ」
「ペンキ屋ってどこの?」
「えッ、まだきみに話さなかったかい? いや、話したと思ったがなあ? そうだ、ちょっと話しかけて……ほら、あの金貸しの老婆が殺された事件だよ、官吏の後家婆《ばあ》さんさ……なに、あの事件にペンキ屋がまきぞえをくったんだよ……」
「ああ、その殺人事件のことならきみに聞くまえに聞いていたし、興味をもったくらいだよ……ちょっとね……あることが気になって……新聞でも読んだよ! それで……」
「リザヴェータも殺されたのよ!」と、ラスコーリニコフのほうを向いて、ナスターシヤがだしぬけに言った。彼女はさっきから部屋を出て行かずに、ドアのそばにへばりついて、話を聞いていたのだった。
「リザヴェータ?」ラスコーリニコフは聞きとれぬほどの声で呟《つぶや》いた。
「リザヴェータよ、古着屋の、知らないの?階下《した》へよく来たじゃないの。ほら、あんたのシャツをつくろってもらったこともあったじゃないか」
ラスコーリニコフはくるりと壁のほうを向いた、そしてよごれて黄色くなった壁紙の白い花模様の中から、土色の細い線みたいなものがたくさんついている不細工な白い花を一つえらんで、その花に花弁が何枚あるか、花弁にどんなぎざぎざがついているか、線がいくつあるか、観察をはじめた。彼はまるで切断されたように手足の感覚がなくなったのを感じたが、身を動かしてみようともせずに、強情に花をながめていた。
「それで、そのペンキ屋がどうしたというんだい?」とゾシーモフが、どうしたわけか特に不《ふ》機《き》嫌《げん》の様子でナスターシヤのおしゃべりをさえぎった。ナスターシヤはほっと溜息《ためいき》をついて、黙りこんだ。
「容疑者としてあげられたんだよ!」とラズミーヒンは熱した口調でつづけた。
「何か、証拠でもあるの?」
「証拠なんてあるものか! しかしだ、あげられたのは、つまり証拠があったからだ。ところがその証拠というやつがまちがいなんだ。それを証明してやらにゃならんわけさ! 最初に警察はあの、ええなんといったっけな……そうそうコッホとペストリャコフだ、あの二人を容疑者としてあげたが、あれとまったく同じことさ。チエッ! なんとへまばかりしてやがんだ、他人《ひと》ごとながらいやになるよ! そのペストリャコフだが、おそらく、今日うちへ来るはずだよ……ところで、ロージャ、この事件はもう知っているだろう、まだ病気になるまえのできごとだ。そうそうきみが警察で、この話をしているのを聞いて失神した、ちょうどあのまえの晩だよ……」
ゾシーモフは好奇の目をラスコーリニコフに向けたが、ラスコーリニコフはぴくりとも動かなかった。
「ねえきみ、ラズミーヒン! 感心するよ、まったくきみは世話好きな男だなあ」とゾシーモフは嫌《いや》味《み》を言った。
「そんなことはどうでもいい、とにかく救い出すのだ!」と、ラズミーヒンは拳《こぶし》で卓をたたいて、叫んだ。「この問題でいちばん癪にさわるのはなんだと思う? やつらがまちがいをしていることじゃない。まちがいは許せるよ。まちがいなんてかわいらしいものさ、だって、いずれは真実へみちびいてくれる。ぼくが癪にさわるのは、まちがいをしながら、しかもその自分のまちがいにぺこぺこしていることなのだ。ぼくはポルフィーリイを尊敬している、しかし……まあいってみればだな、いったい何が彼らをそもそものはじめから迷わせてしまったのか? ドアがしまっていた、ところが庭番を連れて来ると――開いていた。そこで、殺したのはコッホとペストリャコフだという! これが彼らの論理なんだよ」
「まあ、そう興奮するなよ。彼らはただ拘留されただけじゃないか。それも仕方がないさ……ついでだが、ぼくはそのコッホに会ったよ。それで知ったんだが、彼はあの婆さんから質流れ品の買占めをやっていたそうじゃないか、え?」
「うん、まあ一種のペテン師さ! 手形の買占めもやってるよ。ずるい男だよ。まあ、あんなやつはどうでもいいさ! ぼくがいったい何に憤慨してるか、わかるかい? 彼らの古くさい、月並みきわまる、動脈硬化の慣例にしがみついている態度だよ……いま、この事件ひとつを例にとっても、大きな新しい道を開くことができるのだ。心理的な資料をたどるだけでも、正しい証跡にいたるにはどうすべきかを示すことができるのだ。《われわれのほうには事実がある》なんて言ってるが、事実がすべてじゃない。少なくとも事件解決の半分は、事実をあつかう能力のいかんにあるんだよ」
「じゃきみには、事実をあつかう能力があるというわけか?」
「だって、事件解決に力をかせるかもしれんという気がするのに、手さぐりでそれを感じていながらだな、黙っているわけにもいかんじゃないか、ぼくは……おい!……きみは事件を詳細に知ってるのかい?」
「だから、そのペンキ屋の話を待ってるんだよ」
「あ、そうか! よし、ではその経過を話そう。事件後ちょうど三日目の朝だ、警察ではまだコッホとペストリャコフをしつこくあやしていた、――二人とも足どりをはっきりさせたし、二人でないことはもうわかりすぎるほどわかっているのにさ、――すると突然、まったく思いがけぬ事実がでてきたのだ。ドゥシキンとかいう百姓で、ちょうどあの建物の向いに居酒屋を開いている男が、警察に出頭し、金のイヤリングの入ったみごとなケースを届けて、それにまつわる長ものがたりを述べたてたわけだ。《一昨日《おととい》の晩方、たしか八時をすこしまわった時分だったと思いますが》――この日と、時間! わかるかね、きみ?――《わたしどもの店にペンキ職人のミコライがかけこんで来まして、これまでにも昼間は来たことがありましたがね、金の耳輪と宝石類の入ったこの箱をわたしに差し出して、これを抵当《かた》に二ルーブリ貸してくれというんですよ。どこで手に入れた? と聞きますと、道ばたで拾ったという。わたしはもうこれ以上くどくどとは聞きませんでした》これはそのドゥシキンとやらの言葉だよ。《そして、一枚だしてやりました》つまり一ルーブリってわけだ。《わたしがことわったら、ほかの誰《だれ》かのところへ持って行くだろうし、どっちみち――飲んじまうんだ、それならうちで品物をあずかったほうがいい、そう考えましてな。どうせ長いこと置いとくんだろうから、大事に保管することだ、そのうち何か告示でもあったり、噂《うわさ》でも立ったら、早速届け出ようと、こう思いましたもので》なあに、嘘《うそ》にきまってるさ。とぼけてるんだよ。ぼくはそのドゥシキンてやつを知っているが、金貸しで、贓品《ぞうひん》故買は常習だし、その三十ルーブリもする品物だって、届け出る《・・・・》ためにあずかったなんてとんでもない話だ。まんまとミコライからだましとったのさ。怯《おじ》気《け》づいただけだよ。まあ、そんなことはどうでもいいや、話をつづけよう。またドゥシキンの言い草だよ。《わたしはこのミコライ・デメンチェフって百姓を、ちっちゃな時分から知っているんですよ。わたしと同じ県同じ郡、つまりリャザン県のザライスク郡の生れでしてな。ミコライは飲んだくれってほどじゃないけど、ちょくちょくやらかすほうで、あの建物の中でやはり同じ村のミトレイといっしょにペンキ塗りのしごとをしていたことは、わたしも知っていました。札を渡すと、すぐにそれをくずして、つづけざまに二杯あおり、つりをもらって、出て行きましたが、そのときはミトレイの姿は見ませんでした。で、そのあくる日になってアリョーナ・イワーノヴナと妹さんのリザヴェータ・イワーノヴナが斧《おの》で殺されたってことも聞きまして、あたしはあの二人も知っておりましたし、すぐに耳輪をあやしいとにらんだわけです、――あの婆さんが抵当《かた》をとって金を貸していたのを、わたしは知ってましたんでな。そこでわたしは婆さんたちの住んでいた家へ出かけて、それとなく探りだしにかかり、先《ま》ず、ミコライが来ているかどうか、聞いてみました。するとミトレイの言うのには、ミコライは夜あそびして、明け方酔ってかえって来たが、十分ほど家にいて、また出て行った、それっきり顔を見せないので、一人で仕上げをやっているとのことでした。ところでやつらの仕事場は殺された婆さんの住居とは階段つづきで、二階にあるのです。こうした話をすっかり聞いて、わたしはそのときは誰にも何もしゃべりませんでした》とドゥシキンは言うんだよ。《だが、事件についてできるだけのことはすっかり探り出して、やっぱりはじめににらんだとおり、あやしいとにらんで家にもどったわけです。ところが今朝方、八時頃《ごろ》》つまりこれは三日目のことだ、わかるかい? 《見ると、ミコライが店に入ってくるじゃありませんか。素《しら》面《ふ》ではないが、といってそれほど酔っているふうでもない、話はわかりそうだ。ベンチにかけて、黙りこくっている。ちょうどそのとき店の中には、やつのほかに客が一人と、もう一人馴染《なじ》みの客が別なベンチに寝ていたのと、あとはうちの小僧が二人いただけでした。「ミトレイに会ったかい?」と尋ねますと、「いや、会わねえ」という。「ここへも来なかったな?」と聞くと、「一昨日来たきりだ」とこうですよ。「夜はどこで寝ていたんだい?」「ペスキの荷舟の上さ」「じゃ、耳輪はどこで手に入れたんだ」と聞くと、「道ばたで見つけたのよ」と、なんとなくぐあいわるそうに、目をそらして言うのです。「じゃ、ちょうどあの晩、あの時間に、あの階段の上で、これこれのできごとがあったのを聞いたかい?」と言うと、「いや、聞かねえな」とは言ったものの、わたしの話を聞いているうちに、目をむきだし、急に真《ま》っ蒼《さお》になりました。なおも話しながら、見ていると、やつは帽子をつかんで、立ちかけました。そこでやつをひきとめておこうと思って、「待てや、ミコライ、一杯飲まんか?」と言いながら、ドアをおさえるように小僧に目配せして、帳場から出て行くと、やつはいきなり往来へとび出し、横町へ走りこんでしまいました、――ほんとにあっという間のことでした。これでわたしの疑惑がはっきりしました。たしかにやつの仕業です……》」
「きまってるさ!……」とゾシーモフは言った。
「待てよ! 終りまで聞け! そこで全力をあげてミコライ捜索にとりかかったことは、もちろんだ。ドゥシキンは拘留されて、家宅捜索をされた。ミトレイも同じだ。荷舟の人足たちも洗われた。――一昨日になってやっと逮捕されたんだが、それが思いがけずN門のそばの旅籠《はたご》屋《や》でつかまったんだ。彼はそこへ行って、銀の十字架を首からはずして、これでウォトカを一杯くれと頼んだそうだ。飲ませてやった。それから何分かして、婆さんが牛《うし》小舎《ごや》へ行って、何気なく隙《すき》間《ま》からとなりの納屋《なや》をのぞくと、彼が紐《ひも》を梁《はり》にゆわえつけ、輪をつくって、木株にのり、首を輪に通そうとしている。婆さんは腰をぬかして、声を限りに叫びたてた。人々が駆けつけた。《おまえはなんてことをするんだ!》すると《おれをこれこれの署へしょっぴいてってくれ、すっかり白状する!》というわけだ。そこでおそるおそる彼をこれこれの署、つまりここへ連行した。それからは姓名は、職業は、住所は、年齢は――《二十二歳》等々、型どおりの調べがあって、いよいよ尋問だ。《おまえはミトレイとしごとをしていたとき、これこれの時間に、階段のところに誰も見なかったか?》すると返答は、《そりゃ、誰か通った、かもしれませんが、別に注意をしていませんでしたので》《では、何か物音は聞かなかったか、騒々しい音か、何か?》《別に何も聞きませんでしたが》《それでは聞くが、ミコライ、ちょうどその日その時間に、これこれの寡婦《かふ》とその妹が殺害され、金品を盗まれたのを、おまえは知らなかったか?》《めっそうもない、ぜんぜん。アファナーシイ・パーヴルイチから、三日目に居酒屋ではじめて聞きましたようなわけで》《では、耳輪はどこで手に入れた?》《道ばたでひろいました》《どうして翌日ミトレイとしごとへ行かなかった?》《へえ、その夜あそびがすぎましたもので》《どこであそんだ?》《へえ、これこれしかじかの場所です》《どうしてドゥシキンの店から逃げたんだ?》《あのときはもうすっかり動転してしまいまして》《何が恐《こわ》かったのだ?》《その、裁判にかけられるのがです》《自分は何も悪いことはしないと知っていたら、何も恐がることはないではないか?……》というわけだ。ゾシーモフ、きみは信じるかどうか知らんが、この問題が提起されたのだ、しかも文字どおりいま言ったような言葉でだ。ぼくにまちがいなく伝えられたことは、たしかだよ! どうだね? え、どう思うかね?」
「さあ、でも、証拠はあるかね」
「いや、ぼくがいま言っているのは証拠のことじゃない、問題そのものだよ、彼らがこの問題の実体をどう理解しているかということだよ! でも、そんなことはどうでもいい!――さて、奴《やっこ》さんは責めて、責めぬかれて、とうとう音《ね》をあげてしまった。《実は道ばたでひろったんじゃありません、ミトレイといっしょにしごとしていた建物の中で見つけました》《どんなふうにして見つけたのだ?》《へえ、実はこうしたわけで。わたしはそのミトレイといっしょに一日中、晩の八時までペンキ塗りをやっていまして、そろそろ帰ろうと思って支度をはじめました、するとミトレイのやつ刷毛《はけ》をつかんで、いきなりおらの顔にペンキを塗ったくりゃがった、あいつおらの顔にペンキを塗ったくって、やにわに逃げだしゃがった、でおらはやつを追っかけました。追っかけながら、大声でどなったんです。階段をかけ下りて庭へ出ようとすると――いきなり庭番と旦《だん》那《な》方《がた》につきあたりました。旦那方が何人いたかは、おぼえていねえけど。それで庭番のやつおらをどなりつけ、べつな庭番もどなり、庭番のかかあまで出てきて、おらたちにさんざん悪態こきやがった。おまけにちょうど女連れの旦那が一人門を入ってきましたが、この旦那までおらたちをどなりつけました。それもおらとミチカが道いっぱいにころがってとっくみあいをしてたからです。おらはミチカの髪をひっつかんで、ひき倒し、拳骨《げんこつ》でぶんなぐりはじめました。するとミチカのやつも、下からおらの髪をひっつかんで、なぐり返しました。おらたちはなにも相手がにくくてなぐったわけじゃなく、つまりその仲がいいもんだから、ふざけてじゃれあっていたんです。そのうちミチカのやつおらの手を振りきって、往来のほうへかけだしました、――追っかけたが、追いつけないので、一人で建物へとってかえしました、――だってちらかしっぱなしだったんで。おらは後始末をしながら、いまにミトレイのやつもどってくるだろうと思って、待っていました。すると入り口のドアのそばで、つまり仕切りのかげの隅《すみ》っこで、小っちゃな箱を踏んづけたんです。見ると、紙に包んだものが落ちている。紙をとってみると、小っちゃな留め金がついているんで、それをはずして開けてみた――すると小箱の中に耳飾りが……》」
「ドアのかげに? ドアのかげにあったって? ドアのかげにかい?」だしぬけにこう叫ぶと、ラスコーリニコフはにごったおびえた目でラズミーヒンを見つめながら、片手をついてゆっくりソファの上に身を起した。
「そう……だがどうしたんだ? どうしたんだきみ? どうしてきみはそれを?」ラズミーヒンも立ちあがった。
「なんでもないんだよ!……」とほとんど聞きとれぬほどにつぶやくと、ラスコーリニコフはまた枕の上に頭をおとして、壁のほうを向いてしまった。二人はしばらく黙っていた。
「うとうとしかけて、ねぼけたんだろうさ」やがてラズミーヒンは問いかけるような目をゾシーモフにあてながら、言った。ゾシーモフは否定するように軽く頭を横にふった。
「まあ、つづけてくれたまえ」とゾシーモフは言った。「それから?」
「それから? うん、やっこさん耳輪を見たとたんに、建物のことも、ミチカのことも忘れてしまって、帽子をつかむなり、ドゥシキンの店へかけこんだ。それから先はさっき言ったように、一ルーブリでひきとってもらって、道ばたでひろったなんて嘘をつき、その足で飲みに出かけたってわけだ。ところで事件については、さっき言ったようなことをくりかえすだけだ。《ぜんぜん、まるきり知りませんでした、三日目になってはじめて聞いたようなわけで》《じゃ、どうしていままでかくれていたんだ?》《こわかったんです》《なぜ首をつろうとした?》《いろいろ考えまして》《何を考えたんだ?》《へえ、裁判にかけられたらどうしようと》きみ、まあこういうわけだ。ところで、彼らはこの尋問からどういう結論をひきだしたと思う?」
「まあ考えることはないね、罪跡があるじゃないか、それがどんなものにしろ、とにかくあることはある。事実だよ。そのペンキ屋を釈放するわけにはいくまいさ?」
「だってきみ、彼らはもう彼を真犯人と断定してしまったぜ! いまじゃ彼らはもうこれっぽっちも疑っていないんだ……」
「それでいいじゃないか。きみは興奮しすぎてるよ。じゃ、耳飾りは? いいかい、その日その時刻にだよ、老婆のトランクの中にあった耳飾りがミコライの手に入ったとすれば、それはどういう方法かで入ったにちがいないのだ、どうだね、これには異論があるまい?こうした事件にはよくあることなんだよ」
「どうして手に入った! どうして手に入ったって?」とラズミーヒンは叫んだ。「いったいきみは、医者のくせに、何よりも先《ま》ず人間を研究するのが義務で、しかも誰よりも人間の本性を研究する機会をもちながら、それでなおかつきみは、これだけ資料をならべられても、ミコライがどんな性質の人間かわからないのか? いったいきみは、尋問に際して彼が述べたてたことがことごとく、神聖な真実であることが、一目で見ぬけないのか?彼が述べた経過でそれが彼の手に入ったことは、ぜったいにまちがいない。小箱を踏んづけて、それをひろい上げたんだ!」
「神聖な真実か! ところが、はじめは嘘をついたと、自分で白状しているじゃないか?」
「まあぼくのいうことを聞きたまえ。ようく聞いてくれたまえよ。いいかね、庭番も、コッホも、ペストリャコフも、もう一人の庭番も、はじめの庭番の女房《にょうぼう》も、そのときその女房といっしょに庭番小舎《ごや》にいた町家のおかみも、ちょうどそのとき馬車を下りて、ある婦人の腕をとって門を入ってきた七等官のクリュコフも、――みんな、つまり八人か十人の証人がだね、ミコライがミトレイを地べたにおさえつけ、馬のりになってぶんなぐっていた、下になったほうも相手の髪をつかんで、なぐり返していたと、口をそろえて証言しているんだ。彼らは道幅いっぱいにころがり、通行の邪魔をしているので、四方八方からどなられたが、彼らは、《まるで小さな子供たちみたいに》――これは証人たちが言った言葉そのままだよ――上になり下になり、キャッキャわめき、つかみあい、実に滑稽《こっけい》な顔をして互いに負けじと声をはりあげてわあわあ笑っていたが、そのうちに一人がもう一人を追っかけて、子供みたいに通りへかけだして行った。聞いたかい? さて、これが大切なところだ、しっかり頭に入れてくれたまえよ。上の死体はまだあったかかった、いいかい、発見されたとき、まだあったかかったんだ!もし彼らが殺してだ、あるいはミコライ一人だけがやったとしてもいい、そしてトランクから強奪したか、あるいはこの強盗事件を何かの形で手伝ったとしたらだ、きみにたった一つだけ質問したいのだが、あのような精神状態、つまり門のすぐまえでキャッキャわめいたり、わあわあ笑ったり、子供みたいにとっくみあったりという状態がだ、果して斧とか、血とか、凶悪なずるさとか、ぬかりのなさとか、盗みとか、そういったものと同居し得るものだろうか? ついいましがた人を殺して、せいぜい五分か十分しかすぎていない、――なぜって、まだ死体にぬくみがのこっていたからだ、――それが突然死体もうっちゃらかし、部屋もあけっ放しのままで、たったいま人々がそこへのぼっていったことを知りながらだ、獲《え》物《もの》まですてて、まるで小さな子供たちのように、道路にころがって、キャアキャアふざけちらして、みんなの関心をひきつける、しかもそれは十人の証人の口をそろえての証言なのだ!」
「たしかに、おかしい! むろん、あり得ないことだが、しかし……」
「いや、きみ、しかし《・・・》じゃないよ、たとえその日その時刻にミコライの手にあった耳飾りが、たしかに彼に不利な重大な物的証拠となっているとしても、――しかしそれは彼の陳述によってはっきり釈明されているから、従ってまだ未確認物証というわけだが、――とにかく無罪を立証する諸事実も考慮に入れてしかるべきだと思うんだ。ましてやそれらが動かし得ない事実だから、なおさらだよ。きみはどう思う、わが国の法律学の性質上、そのような事実を、――つまり心理的不可能性というか、精神の状態にのみ基礎をおいているような事実を、拒否し得ない事実、しかもそれがどんなものであろうと、いっさいの告訴理由および物的証拠をくつがえしてしまうような事実、として認めるだろうか、いや認めることができるだろうか? いや、認めまい、ぜったいに認めまい、なぜなら小箱が見つかったし、当人は自殺しようとしたからだ。《身におぼえがなければ、そんなことをするはずがない!》これが重大問題なんだよ、ぼくを興奮させているのはこれなんだよ! わかってくれ!」
「うん、きみが興奮してるのは、わかるよ。待てよ、聞き忘れたが、耳飾りの入った小箱が老婆のトランクからでたものにまちがいないことが、どうして証明されたんだい?」
「それは証明されたんだよ」とラズミーヒンは気がすすまぬらしく、しぶい顔をして答えた。「コッホがその品物をおぼえていて、あずけ主をおしえたんだ、そしてその男が自分の品物にまちがいないと証言したんだよ」
「まずいね。じゃもう一つ。コッホとペストリャコフが階段をのぼって行ったとき、誰かミコライを見たものがなかったか、そしてそれが何かで証明されないかね?」
「それなんだが、誰も見たものがないのさ」とラズミーヒンは腹立たしげに答えた。「まずいったらないよ。コッホとペストリャコフまでがのぼって行くとき、彼らに気づかなかったというんだ。もっともあの二人の証言なんて、いまじゃたいした意味はもたんだろうがね。《部屋のドアがあいているのは見ました、おそらく中でしごとをしていたんでしょうが、通るときに、べつに注意もしなかったので、そのときそこに職人がいたかどうか、はっきりおぼえていません》というんだ」
「なるほど。そうすると、反証は、なぐりあって大声で笑っていたということだけだな。よし、それを有力な証拠と仮定しよう、ところでだ……じゃ聞くが、そういうきみ自身、すべての事実をどういうふうに説明する? 彼がたしかに陳述どおりに耳飾りを見つけたとしても、きみはそれを何で証明する?」
「何で証明する? 何を証明するんだい、明らかな事実だよ! 少なくとも、事件解決のためにたどるべき道は、明白だね。しかも証明ずみだよ、つまり、小箱がそれを証明したんだよ。真犯人がその耳飾りをおとして行ったんだ。コッホとペストリャコフがドアをノックしたとき、犯人は室内にいたんだよ、掛金を下ろしてひそんでいたんだ。コッホがうかつにも下へおりて行った。そこで犯人はとびだして、これも下へかけ下りたわけだ、だってほかに逃げ道はなかったのだ。階段のところで犯人はコッホ、ペストリャコフ、庭番の三人からかくれるために、ちょうどミトレイとミコライがかけ出て行って空《から》になっていた部屋に身をひそめた、そしてドアのかげにかくれて、庭番たちをやりすごし、足音が聞えなくなるのを待って、そっと下へおりて行った。それがちょうどミトレイとミコライが通りへとび出した直後で、人々はみなそれぞれ散って行って、門のあたりには誰もいなかった。ひょっとしたら、犯人を見かけた者があったかもしれないが、おそらく誰も気にとめなかったろう。人の出入りなんて珍しくないからな。で小箱だが、彼はドアのかげにかくれていたとき、ポケットからおとしたが、おとしたことに気づかなかった。それどころではなかったのだ。彼がたしかにそこにかくれていたことを、小箱がはっきり証明している。ここが問題なのさ!」
「うまい! いや、きみ、考えたねえ。それじゃ話がうますぎるよ!」
「どうしてさ、え、どうしてだい?」
「だって筋があまりにもみごとに合いすぎるじゃないか……ぴたりだよ……まるで芝居の筋書きみたいだ」
「えィ、きみは!」とラズミーヒンは叫びかけたが、その瞬間にドアが開いて、そこに居合せた誰も知らぬ一人の男が入ってきた。
5
それはもう年ぱいの、いかにも小うるさそうなもったい振った紳士で、すきのない気むずかしそうな顔をしていた。彼はまず戸口のところに立ちどまって、《これはまた妙なところへまよいこんだものだ?》と目で尋ねるように、とげとげしい露骨なおどろきを示しながらあたりを見まわした。彼は信じられぬらしい様子で、いかにもわざとらしく、意外というよりはいっそ屈辱にたえぬというような色をさえうかべて、狭くて天井《てんじょう》が低いラスコーリニコフの《船室》をじろじろ見まわしていた。彼はやがてそのおどろきの目を、ほとんど裸に近い格好で、鳥の巣のような頭をして、顔も洗わずに、みすぼらしい汚ないソファに横になったまま、じっと彼を見つめているラスコーリニコフのうえに移した。それから、またゆっくり頭をまわして、服をだらしなくはだけ、無精ひげを生やし、もじゃもじゃ髪のラズミーヒンの姿をしげしげと見まもりはじめた。ラズミーヒンはラズミーヒンで、腰を上げようともせずに、不敵なうさんくさそうな視線をまともに相手の顔にそそいでいた。緊張した沈黙が一分ほどつづいて、やがて、当然予期されたように、場面に小さな変化が生れた。おそらく、いくつかの資料によって、といってもそれは実に明確な資料だが、この《船室》では誇張してきびしい態度を気取ってみたところで、まったくなんの効果もないということをさとったのであろう、紳士はいくぶん態度をやわらげて、きびしさをすっかりなくしてしまったわけではないが、いんぎんにゾシーモフのほうを向いて、一語一語はっきりくぎりながら尋ねた。
「大学生、いや元大学生の、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフは、こちらでしょうか?」
ゾシーモフはゆっくり身体《からだ》をうごかした。そしておそらく、返事をしようと思ったらしいが、そのときラズミーヒンが、自分が聞かれたのでもないのに、よこあいからいきなり先をこした。
「彼なら、そら、そのソファに寝てますよ!で、どんなご用?」
この《で、どんなご用?》というなれなれしい言葉が、気取った紳士の足をすくった。彼は危なくラズミーヒンのほうに向き直りかけたが、どうやらからくも自分をおさえて、いそいでまたゾシーモフのほうを向いた。
「これがラスコーリニコフですよ!」ゾシーモフは病人のほうを顎《あご》でしゃくって、口の中でもぞもぞ呟《つぶや》くように言うと、とたんに大《おお》欠《あく》伸《び》をした。それもどういうのかけたはずれに大きく口を開けて、必要以上に長くその状態を保っていた。それからゆっくりチョッキのポケットに手をつっこみ、ばかでかいふくれた両蓋《りょうぶた》の金時計をとり出すと、蓋をあけて、時間を見た。そしてまたのろのろと、いかにもものうげに、それをポケットにしまった。
当のラスコーリニコフはその間ずっと仰《あお》向《む》けに寝たまま、黙って、執拗《しつよう》に、といっても何を考えているわけでもなかったが、紳士を見つめていた。いまは壁紙の珍しい花からはなれてこちらを向いている彼の顔は、気味わるいほど蒼《あお》ざめて、まるで苦しい手術を終ったばかりか、あるいは拷問《ごうもん》から解放されたばかりのように、異常な苦悩があらわれていた。しかし入って来た紳士はしだいに彼の注意をよびおこしはじめた、そしてそれがしだいに強まり、やがて疑惑にかわり、ついで不信になり、恐怖のようなものにさえなった。ゾシーモフが彼をさして、《これがラスコーリニコフですよ》と言ったとき、彼は不意に、とびおきるように、すばやく身を起して、ソファの上に坐《すわ》り、まるでいどみかかるような、しかしとぎれとぎれの弱々しい声で、言った。
「そうです! ぼくがラスコーリニコフです! ぼくになんのご用です?」
客はじっと彼を見つめたまま、説きふせるような調子で言った。
「ピョートル・ペトローヴィチ・ルージンです。わたしの名前があなたには、たしか、ぜんぜん耳新しいものではないはずですが」
しかしラスコーリニコフは、まるでちがうことを予期していたので、ぼんやりけげんそうに彼を見まもるばかりで、ピョートル・ペトローヴィチの名前を聞いたのはほんとうにいまがはじめてのように、何も答えなかった。
「はて? それじゃあなたはいままでなんの知らせも受けておられないのですか?」ピョートル・ペトローヴィチはわずかに不快さを顔に出しながら、尋ねた。
それに答えるかわりに、ラスコーリニコフはゆっくり枕《まくら》の上に身体を倒し、両手を頭の下に支《か》って、天井をながめはじめた。憂《うれ》いの影がルージンの顔をくもらせた。ゾシーモフとラズミーヒンはますます好奇心をそそられて、なめるような目で彼を見まわしはじめた。とうとう、彼もばつがわるくなったらしい。
「わたしはそう思ったものですから、かぞえてみて」彼は口ごもった。「何しろ十日以上もまえにだした手紙なので、もうほとんど二週間にもなるでしょうか……」
「まあまあ、どうしてさっきから入り口に突っ立っているんです?」と不意にラズミーヒンが話の腰をおった。「何かお話がおありなら、坐ったらどうです。あなたとナスターシヤがそこに突っ立ってちゃ、せまッ苦しくてかないませんよ。ナスターシュシカ、わきへよけて、通してあげなさい! さあこっちへいらして、この椅子《いす》におかけください! さあさあ割り込んでください!」
彼は自分の椅子を卓のそばからずらして、卓と自分の膝《ひざ》の間に心もち場所をあけ、いくらか窮屈な思いで、客がその隙《すき》間《ま》に《割り込んでくる》のを待ち受けた。それが実にタイミングがよかったので、どうしてもことわることができずに、客はそそくさと、つまずいたりしながら、せまい隙間を通りぬけて入りこんだ。椅子までたどりつくと、彼はそれに腰を下ろして、うたぐり深そうにちらとラズミーヒンを見やった。
「まあ、そわそわしないでください」とラズミーヒンはつっけんどんに言った。「ロージャはもう五日間病気で寝たきりなんですよ。三日間はうわごとばかり言ってましてねえ。今日やっと気がついたんですが、食欲もでて、おいしそうに食べましたよ。こちらに坐っているのは医師で、いま診察をおわったばかりです。ぼくはロージャの友人で、やはり元は大学生でした、いまはこうして彼の看病をしてるわけです。まあこういうわけですからぼくたちにはおかまいなく、どうか遠慮なく用件をつづけてください」
「ありがとうございます。でも、ここで話をしたのでは病人の邪魔にならないでしょうか?」とピョートル・ペトローヴィチはゾシーモフのほうを見た。
「い、いや」ゾシーモフは口ごもった。「かえって気がまぎれるかもしれませんよ」そしてまた欠伸をした。
「なあに、彼はもうずっと正気なんですよ、朝から!」とラズミーヒンはつづけた。そのなれなれしさにはすこしも影のない素直さが見えたので、ピョートル・ペトローヴィチはちょっと考えて、すこし元気がでてきた。あるいはひとつには、このぼろ服の図々《ずうずう》しい男が早手まわしに学生と名乗ったせいかもしれない。
「あなたのお母さんは……」とルージンが用件をきりだした。
「うん!」とラズミーヒンが大声をだした。ルージンはいぶかるように彼を見た。
「いや、なんでもないんです。どうぞ……」
ルージンは肩をすくめた。
「……あなたのお母さんは、まだわたしがあちらでお邪魔していた時分に、あなたにあてた手紙を書きはじめておられました。わたしがこちらへ来てからも、わざと四、五日おくらせて、今日までお伺いしなかったのは、あなたが事情をすっかりお知りになるのを待ったうえで、と思ったからです。もう大丈夫と思ってお伺いしたのですが、いま聞きますと、おどろいたことに……」
「知ってるよ、知ってますよ!」不意にラスコーリニコフは、もうこれ以上はがまんがならんという憤《ふん》怒《ぬ》の色を顔にみなぎらせて、言った。「あなたですか? 花婿《はなむこ》は? そう、知ってますよ!……もう何も聞きたくありません!」
ピョートル・ペトローヴィチは思いきった侮辱にかっとなったが、黙っていた。そしてこれがどういう意味なのか、急いで考えをまとめようとあせった。一分ほど沈黙がつづいた。
一方ラスコーリニコフは、返事をするときわずかに彼のほうに身をねじ向けたが、そのまま急にまた、何か特別に珍しいものでも見るように、しげしげと彼の観察にとりかかった。どうやらさっきはまだ彼をすっかり観察するひまがなかったか、あるいは何か見おとしていた新しいものを発見してびっくりしたとでもいいたげな様子で、そのためにわざわざ枕からすこし身体をもたげさえした。たしかに、ピョートル・ペトローヴィチの風采《ふうさい》にはどことなく一風変ったところがあった。それはいまぶしつけに彼にあたえられた《花婿》という呼び名を釈明するような何ものかだった。第一に、ピョートル・ペトローヴィチが首都の数日間をあたふたとかけまわって、花嫁がくるまでにあわてて身なりをととのえ、おめかしをしたらしい様子が、見えすいていた、というよりはあまりにも目立ちすぎた。とはいえ、それはまったく邪気のないことで、べつにとがめるにはあたらない。男前がぐんとあがったという自意識、いやもしかしたらうぬぼれすぎの自意識でさえも、このような場合なら許されてよかろう、だってピョートル・ペトローヴィチは花婿とよばれる身なのである。着ている服はほんとの仕立ておろしで、新しすぎて、なんのためか目的が露骨に出すぎているきらいを除いては、申し分なかった。しゃれたぴかぴかのまるい帽子までが、その目的を実証していた。ピョートル・ペトローヴィチはその帽子に対しては何かこう宝ものでも扱うような態度で、そっと両手で保《も》っていた。ふじ色のほんもののジュウィン製のすてきな手袋までが、それをはめないで、これ見よがしに手にもっていたということだけを見ても、やはり同じ目的を証明していた。ピョートル・ペトローヴィチの服装は、青年らしい明るい色あいがかっていた。薄茶色の上質の夏の背広、明るい色の軽いズボン、それと対《つい》のチョッキ、買いたての薄地のシャツ、バラ色のしま模様の極上麻地のうすいネクタイ、しかも何よりもいいことは、それがみなピョートル・ペトローヴィチによく似合っていたことである。彼の顔は、まったくつややかで、美しいとさえいえるほどで、おしゃれをしなくても四十五よりは若く見えた。黒っぽい頬《ほお》ひげが、カツレツを二枚ならべたように、顔の両側をさわやかにふちどり、てかてかにそりあげた顎のあたりでひときわ濃くなって、みごとな美しさだった。頭髪も、ほんのわずかだが白いものがまじり、理髪師の手できれいに櫛《くし》を入れられ、おまけにカールさえしてあったが、それでいてすこしもおかしくもなければ、でれでれしたところもなかった。たいていはカールをすると、顔がどうしても結婚式にのぞむドイツ人みたいになって、どことなく間のびがして見えるものである。もしもこのかなり美しいりっぱな容貌《ようぼう》の中に、たしかに不快なむかむかするような何かがあるとすれば、それはほかの理由によるものであった。ルージン氏の不躾《ぶしつけ》な観察をおわると、ラスコーリニコフは毒々しくにやりと笑って、また枕の上に身を倒し、さっきのように天井をながめはじめた。
しかしルージン氏はぐっとこらえた。どうやらある時期がくるまでは、どんなへんな態度をとられても見ないふりをしようと腹をきめたらしい。
「あなたがこんなに苦しんでおられるのを見て、お気の毒で、なんと申しあげてよいやら」彼はやっと沈黙をやぶって、改めて口を開いた。「ご病気と知っていたら、もっと早く伺うのでした、が、なにしろ、多忙なもので!……それにわたしの弁護士としてのしごとの面で元老院に、のっぴきならぬ重大な用件がありましたものですから。あなたもお察しのいろいろなとりこみにつきましては、申しあげるまでもないことです。あなたのご家族、つまりお母さまと妹さんを、今日明日にもとお待ちしているようなわけでして……」
ラスコーリニコフはわずかに身をうごかして、何か言おうとした。顔にいくらか動揺の色が見えた。ピョートル・ペトローヴィチは言葉をきって、相手の言いだすのを待ったが、いっこうに出そうもないので、またつづけた。
「……待ち遠しい思いです。あの方たちのために当座の落ち着き場所を見つけておきました」
「どこです?」とラスコーリニコフが弱々しく言った。
「ここからすぐ近くで、バカレーエフのビルです……」
「ああ、あのヴォズネセンスキー通りの」とラズミーヒンがよこあいから口をだした。「二つの階がアパートだ。ユーシンて商人が経営してる。何度か行ったことがあるよ」
「そう、アパートです……」
「ひどいところだ、はきだめだよ。汚なくて、臭くて、それにいかがわしいところで、しょっちゅう騒ぎが起るんだ。どんなやつらが住んでるかわかりゃしないよ!……ぼくが行ったのも、あるスキャンダル事件でなんだ。もっとも、安いには安いがね」
「それはむろん、わたし自身もこの土地には新しいので、調べが十分に行きとどかない点はありましたが」とピョートル・ペトローヴィチはばつ悪そうに言い返した。「でも、借りました二部屋はさっぱりして実にきれいですし、それにほんのちょっとの間ですから……わたしはほんとうの、といっちゃなんですが、つまりわたしたちの将来の住《すま》居《い》ですね、これはちゃんと見つけておきました」と彼はラスコーリニコフのほうを向いて言った。「いまその飾り付けをしておりますが、当分はわたしも借間住まいで窮屈な思いをしているんですよ。ここからはほんの目と鼻の先で、リッペヴェフゼル夫人の家ですが、アンドレイ・セミョーヌイチ・レベジャートニコフというわたしの若い友人の住居に同居しています。わたしにバカレーエフのビルをおしえてくれたのもその男なのです……」
「レベジャートニコフ?」ラスコーリニコフは何か思い出そうとするように、ゆっくり呟いた。
「そう、アンドレイ・セミョーヌイチ・レベジャートニコフです、役所に勤めている、ご存じですか?」
「うん……いや……」とラスコーリニコフは答えた。
「失礼しました、あなたの問い返された様子で、そんなふうに思われたものですから。わたしはまえにその男の後見人をやっていたことがあるのです……ほんとにいい青年です……勉強家で……わたしは若い人たちに会うのが好きなのです。新しいことが、わかりますからねえ」ピョートル・ペトローヴィチはある期待をもって、一同の顔を見まわした。
「それはどういう点です?」とラズミーヒンが尋ねた。
「もっとも重要な点です、いわば、問題の本質というような」そう聞かれたことがよほど嬉《うれ》しかったらしく、ピョートル・ペトローヴィチはすぐに答えた。「わたしはね、もう十年もペテルブルグに来ていないのですよ。あらゆるわが国の新しい傾向、改革、思想、そういったものはすべて地方のわれわれのところにも波及してきました、しかしもっとはっきりと見て、全貌をつかむためには、どうしてもペテルブルグに出て来《こ》なければだめです、そうです、でわたしは、若い世代を観察しながら、あらゆることをもっともっと多く見て、そして知るべきだ、という考えなのです。実のところ、わたしは嬉しかったのです……」
「何がです?」
「あなた方の問題は広大です。わたしがまちがっているかもしれませんが、より多くの明白な見解、より多くの、批判といいますか、そういうものがあることがわかったような気がするのです。より多くの功利性……」
「それはたしかだ」とゾシーモフが歯の間からおしだすように言った。
「嘘《うそ》だよ、功利性なんてありゃしないさ」とラズミーヒンがからんだ。「功利性というものは獲得がむずかしいし、意味もなく空から降ってくるものでもない。ところでわれわれはほとんど二百年というもの、あらゆる問題に対して盲目にされている……思想は、あるいは、ふらふらさまよっているかもしれません」彼はピョートル・ペトローヴィチのほうを向いた。「幼稚だけど、善へのねがいもあります。詐欺師《さぎし》どもがむやみにふえてきたけれど、誠実という美徳もないことはありません、しかし功利性というやつはやっぱりありません! 功利性がねえ、長靴《ながぐつ》をはいてどたどたしてますよ」
「わたしはそうは思いませんね」といかにも嬉しそうな様子で、ピョートル・ペトローヴィチは反対した。「そりゃむろん、熱中もあれば、まちがいもあるでしょうが、大きな目で見てやることも必要です。熱中ということは、問題に対する熱意と、問題をとりまいている外部事情のゆがみを証明するものです。もしまだ少ししかなされていないとすれば、それはきっと時間が足りなかったからです。方法については言いますまい。なんでしたら、わたし個人の見解を申しあげますが、もうある程度のことはなされていると思います。つまり新しい有益な思想が普及されています。従来の空想的なロマンチックな作品にかわって、新しい有益な作品が普及されています。文学はいっそう成熟したニュアンスをおびるようになりました。多くの有害な偏見が除去され、笑いものにされました……要するに、わたしたちは自分を過去から永遠に切りはなしてしまったのです、そしてこれが、すでに一つの大きなしごとだと、わたしは思います……」
「暗記したな! 自薦してやがる」と突然ラスコーリニコフが呟いた。
「なんとおっしゃいました?」ピョートル・ペトローヴィチははっきり聞きとれないで、こう聞き返したが、返事がなかった。
「たしかにそのとおりです」とゾシーモフが急いで口をいれた。
「そうじゃないでしょうか?」と得意そうにゾシーモフをちらと見やって、ピョートル・ペトローヴィチはつづけた。「あなたも同意見ですな」と彼は、ラズミーヒンのほうへ顔を向けながら、言葉をつづけたが、その顔にはもうあからさまではないが、勝ち誇ったような優越感が見られた。彼は危なく、《若いお方》とつけ加えるところだった。「大いなる進展、あるいは今風にいいますと、プログレスというものがあります、よしんばそれが科学や経済学の真理のためであるにせよです……」
「一般論ですよ!」
「いいえ、一般論じゃありません! 例えばですよ、わたしが今日まで《隣人を愛せよ》と言われて、そのとおりに広く隣人を愛してきたとしたら、どんなことになったでしょう?」とピョートル・ペトローヴィチはつづけたが、すこし急《せ》きこみすぎたきらいがないでもなかった。「つまりこういうことです。わたしが上衣《うわぎ》を半分にさいて、隣人にわけてやる、そして二人とも半分裸の状態になってしまう。ロシアの諺《ことわざ》にあるじゃありませんか、《二兎《にと》を追う者は一兎をも得ず》と。科学はおしえてくれます。まず自分一人を愛せよ、なぜなら世の中のすべてはその基礎を個人の利害においているからである、と。自分一人を愛すれば、自分の問題もしかるべく処理することができるし、上衣もさかずにすむでしょう。経済学の真理は更に次のようにつけ加えています、社会に安定した個人の事業と、いわゆる完全な上衣が多ければ多いほど、ますます社会の基盤は強固になり、従って公共事業もますます多く設立されることになる、とね。つまり、わたしはもっぱら自分一人だけのために儲《もう》けながら、そうすること自体によってみんなにも利益をあたえていることになり、そして結局は隣人が半分にさけたものよりはいくらかましな上衣をもらうことになるのです。それももう個人の恵みではなく、全般的な繁栄の結果なのです。簡単な思想ですが、不幸なことに、あまりにも長い間わたしたちを訪れませんでした。有頂天になりやすい傾向と空想癖に蔽《おお》われていたためです。しかしすこし知恵があれば、わかると思うんですがねえ……」
「わるいけど、ぼくも知恵のあるほうじゃないですよ」とラズミーヒンが乱暴にさえぎった。「だからやめましょうや。ぼくが話をはじめたのはある目的があったからだよ。なにもいまさら、こんなひとりよがりのおしゃべりや、ぺらぺらときりのない一般論、そんなものはこの三年間いやになるほど聞かされてきたよ。実際、ぼくはもちろん言いっこないが、誰《だれ》かが言っているのを聞いても、顔が赤くなるくらいだ。あなたは、むろん、急いで自分の知識のほどをひけらかそうとしたんだろうが、それはまあ大目に見てしかるべきことで、ぼくもとがめ立てはしない。ただぼくがいま知りたかったのは、あなたが何者かということだけですよ、だってこの頃《ごろ》は公共事業にいろんな事業家どもがごそごそはいりこんで、関係したものをことごとく自分の利益のために歪《ゆが》めたので、何もかもすっかりだめにされてしまったんでね。まあいい、よしましょうや!」
「失礼ですが」とルージンはぐっと胸をそらし、極度の威厳を見せながら切りだした。「あなたがそんな無礼なものの言い方をなさるとすれば、わたしとしても……」
「いや、とんでもない……ぼくにそんなことできっこないですよ!……まあいい、もうやめにしましょう!」とラズミーヒンはつっけんどんに答えて、さっきの話をつづけるために、くるりとゾシーモフのほうに向き直った。
ピョートル・ペトローヴィチは無下《むげ》にその釈明をしりぞけるほど、ばかではなかった。それに、彼は二分後には辞去するつもりだった。
「さて、今日のこのお近づきが」と彼はラスコーリニコフのほうを向いて言った。「ご病気がなおりましたら、あなたもご存じのような事情もありますので、ますます親密になることを望みます……ではくれぐれもお大事に……」
ラスコーリニコフはそちらを見向きもしなかった。ピョートル・ペトローヴィチは席を立ちかけた。
「殺したのはきっと質入れにきた男だよ!」とゾシーモフはきっぱりと言った。
「ぜったいにその男だよ!」とラズミーヒンはうなずいた。「ポルフィーリイは自分の腹のうちをもらしはしないが、やはり質をあずけた連中を尋問してるよ……」
「質をあずけた連中を尋問してる?」とラスコーリニコフが叫ぶように言った。
「そうだよ、どうしたんだい?」
「なんでもないよ」
「その連中がどうしてわかったんだろう?」とゾシーモフが尋ねた。
「コッホがおしえたのもあるし、品物の包み紙に名前が書いてあったのもあるし、また話を聞いて自分から出頭したのもいるよ……」
「これはきみ、よほど手なれた腕っこきの悪党にちがいないよ! 大胆きわまるよ! 実に思いきった手口だ!」
「そう思うだろう、それがまちがいなんだ!」とラズミーヒンがおしかぶせるように言った。「その考えがみんなを迷わせているんだよ。ぼくに言わせると、――腕も経験もない、おそらくあれがはじめての男だよ! 十分な計算と腕っこきの悪党を想像すると、つじつまのあわないところがでてくる。不慣れな男を仮定すると、たったひとつの偶然が彼を苦境から救い出した、ということですじが立つ。きみ、偶然てやつは何をしでかすかわかりゃしないよ! おそらく彼は、障害がでてくることも見こしてなかったと思うんだ! おまけに、そのやり口はどうだ?――たかだか十ルーブリか二十ルーブリ程度の品物を盗んで、ポケットにおしこみ、婆《ばあ》さんのトランクを開けてぼろをひっかきまわしているだけだ、――タンスの上の抽《ひき》出《だ》しには、手箱の中に、証券類は別にして、現金だけでも千五百ルーブリもあったんだぜ! 盗むなんておこがましい、殺すのがせいぜいだったのさ! はじめてだよ、きみ、はじめてやったんだよ、だからあたふたしてしまったのさ! 逃げたのだって計算ずくじゃないよ、偶然に救われたんだよ!」
「それは、どうやら、この間の官吏未亡人殺しのことらしいですな」と、もう帽子と手袋を手にして立っていたピョートル・ペトローヴィチが、ゾシーモフのほうを向きながら、口をはさんだ。彼は去るまえにもうすこし気のきいた意見をのべておきたかったのである。彼は、明らかに、有利な印象をのこしたいというあせりがあって、良識が見栄《みえ》におしのけられてしまったらしい。
「そうです。あなたお聞きになりましたか?」
「そりゃもう、となりですもの……」
「詳しくご存じですか?」
「と言われると困りますが、わたしはこの事件で別な事情、つまり、普遍的な問題に興味をもっているのです。まあ、下層階級の犯罪が、最近五年間に、増加したことや、いたるところに強盗や放火が頻発《ひんぱつ》していることは、さておいてです、わたしが不思議でならないのは、犯罪は上層階級においてもまったく同じように、いってみれば、平行して増加しているということです。噂《うわさ》では、なんでも元大学生が某街道《かいどう》で郵便馬車を襲ったということですし、また社会的地位からいっても指導的立場にある人々が、贋札《にせさつ》をつくったとか。またモスクワでは、最近発行の割増金付公債を贋造《がんぞう》していた一味があげられ、――その首謀者の中には世界史の講師が一人まじっていたとか。そうかと思えば、在外公館の書記官が一人殺害され、原因は金銭上のこととされているが、何かほかに理由があるらしいとか……で、いまもしこの金貸しの老婆が、社会のむしろ上層部に属する何者かによって殺害されたとしたら、だって貴金属を質入れする百姓なんていませんからねえ、このある見方によればわが社会の文化的階級の頽廃《たいはい》ともいうべき現象を、いったい何によって説明したらいいのでしょう?」
「経済上の変動がはげしいからですよ……」とゾシーモフが応《こた》えた。
「何で説明するって?」とラズミーヒンがからんだ。「それこそ骨のずいまでしみこんでいる現実ばなれということで、説明されるでしょうな」
「といいますと、それはどういうことです?」
「つまり、モスクワであなたのいうその講師とやらが、なぜ贋債券をつくったかという尋問に答えて言ったことですよ。《みんないろいろな方法で金を儲けている。だからわたしも手っとり早く金持になろうと思ったのだ》正確な言葉はおぼえていないが、他人の金で、手っとり早く、労せずに、という意味だ! みんな住居食事つきの生活をしたり、他人のいいなりになったり、他人が噛《か》んでくれたものを食べたりすることに、慣れきってしまったのです。そこへ、突然偉大なる時代が訪れたものだから、みんなその正体をあらわしてしまったのさ……」
「でも、それなら、道徳というものは? それに規律といいますか……」
「いったいあなたは何を心配しているんです?」と、不意にラスコーリニコフが口をいれた。「あなたの理論どおりになってるじゃありませんか!」
「わたしの理論どおりにといいますと?」
「あなたがさっき説教していたことを、最後までおしつめていくと、人を殺してもかまわんということになりますよ……」
「とんでもない!」とルージンは叫んだ。
「いや、それはちがう!」とゾシーモフが応じた。
ラスコーリニコフは横たわったまま蒼白《そうはく》な顔をして、上唇《うわくちびる》をヒクヒクふるわせ、苦しそうに息をしていた。
「何事にも程度ということがあります」とルージンは見下すような態度でつづけた。「経済学説はまだ殺人への招待ではありません。そしていま仮に……」
「じゃ、ほんとうでしょうか、あなたが」と、不意にまたラスコーリニコフは憎《ぞう》悪《お》にふるえる声でさえぎった。その声には自虐というか、屈辱をむしろ喜ぶようなひびきがこもっていた。「あなたはあなたの許嫁《いいなずけ》に向って……結婚の承諾を受けたそのときに、……何よりも嬉しいのは……あれが貧しいことだ……というのは、貧乏人の娘を嫁にもらうと、あとでおさえがきくし……それに恩を売りつけてしめあげられるから、ずっととくだ、と言ったそうですね、ほんとうですか?……」
「とんでもない!」とルージンは真っ赤になって、うろたえながら、怒りにふるえる声で叫んだ。「あなた……それはひどい曲解です! 失礼ですが、わたしも言わせてもらいます。あなたのところまでとどいた噂、いやむしろ、あなたのところへ送りとどけられた噂といったほうがいいでしょう、それはつゆほどの健全な根拠もありません。わたしは……いったい誰が……一口にいえば……この毒矢は……要するに、あなたのお母さまが……あの方はそうでなくてもわたしには、それはまありっぱなすぐれたところはたくさんお持ちですが、それはそれとして、ものの考え方にいくぶんのぼせやすいロマンチックなニュアンスがあるように見うけられたんですが……でもやはりわたしには、あのお母さまがこれほど空想で歪められた形で、あのことを解釈したり、想像したりなさったとは、まったく意外でした……そして、そのあげく……はては……」
「いいですか?」ラスコーリニコフは枕の上に身を起して、ギラギラ光る射ぬくような目でじいッと彼をにらみつけながら、叫んだ。「きみ?」
「何です?」ルージンは言葉をきって、腹立たしげに、挑《いど》むような態度で相手の出方を待った。数秒沈黙がつづいた。
「いいかね、もしあなたがもう一度……一言でも……ぼくの母のことを口にしたら……ぼくはあなたを階段からつきおとす!」
「どうしたんだ、きみ?」とラズミーヒンが叫んだ。
「なるほど、そうですか!」ルージンは蒼白になって、唇をかみしめた。「それじゃ、わたしも、言いましょう」と彼は言葉をくぎりながら言いはじめた。一生けんめいに自分を抑えてはいたが、やはり息は苦しそうだった。
「わたしは先ほど、ここへ一歩入ったときから、もうあなたの敵意はわかっていました、が、もっとよく知ろうと思って、わざとここにのこったのです。病人ですし、親戚《しんせき》ですから、たいていのことなら許せますが、いまはもう……あなたを……ぜったいに……」
「ぼくは病人じゃない!」とラスコーリニコフは叫んだ。
「それならなおさらです……」
「出て行ってくれ!」
いわれるまでもなくルージンはもう自分から、言葉なかばで、またテーブルと椅子の間を通りながら、入り口のほうへ歩いていた。ラズミーヒンは今度は立ちあがって、彼を通した。ルージンは誰にも目もくれず、病人をそっとしておくようにさっきから目で合図をしているゾシーモフに、会釈《えしゃく》をかえしもしないで、用心深く帽子を肩のへんまでもちあげ、戸口を通るときわずかに前かがみになって、出て行った。かがめた背までが、おそろしい屈辱を背負わされて帰るのだと、語っているようであった。
「おい、あんなことをしていいのかい?」ラズミーヒンは頭を振りながら、当惑顔で言った。
「ほっといてくれ、おれにかまわんでくれ!」ラスコーリニコフは気ちがいのようにわめきたてた。「いつになったらおれを解放してくれるんだ。もうたくさんだろう、おれを苦しめるのは! おれはきみたちなんか恐《こわ》くないぞ! もう誰も恐くない、誰も! 帰ってくれ! おれは一人になりたいんだ! 一人に、一人に!」
「行こう」とゾシーモフはラズミーヒンを目顔でうながした。
「とんでもない、彼をこのままにしておけるかい」
「行こう!」とゾシーモフは頑《がん》固《こ》に言いはって、出て行った。ラズミーヒンはちょっと思案したが、すぐにあとを追ってかけ出して行った。
「彼の言うことをきかなかったら、病状がいっそう悪化するかもしれん」もう階段を下りかけてから、ゾシーモフは言った。「苛々《いらいら》させちゃよくないよ……」
「どうしたんだろう?」
「何かちょっとした好ましいショックがありさえすれば、すっかりよくなるんだがなあ!ついさっきまではあんなに元気だったんだ……きっと、何か心にひっかかってるものがあるんだよ! じっと動かず、重くのしかかっている何かが……それがぼくは心配でならんのだよ。きっと何かあるよ!」
「うん、あの紳士じゃないのか、ピョートル・ペトローヴィチとかいう! 話の様子では、彼がロージャの妹と結婚するらしいし、ロージャは病気になるまえに、それを手紙で知らされたようだ……」
「それにしても、悪いときに来てくれたものだ。もしかしたら、すっかりだめにされてしまったかもしれん。ところで気がつかなかったかい、彼はどんなことにも平気で、黙りこくっているが、一つだけ、聞くとひどく興奮することがある。それは例の殺人事件だ……」
「うん、それだよ!」とラズミーヒンは相槌《あいづち》をうった。「むろんぼくも気がついていた!ひどく関心をもっているし、それにびくびくしている。それは発病の日に署長室で聞いて、ひどいショックを受けたせいだよ。失神したほどだ」
「それを今夜くわしくおしえてくれないか、ぼくもあとできみに話しておきたいことがある。あの病人にぼくはひどく興味をもっているんだ! 三十分もしたら様子を見に寄ってみよう……まあ、肺炎の心配はあるまいがね……」
「きみにはほんとにすまんな! じゃぼくはしばらくパーシェンカのところで時間をつぶして、ナスターシヤに容態を見させることにしよう……」
ラスコーリニコフは一人になると、いらいらしながら、暗いさびしい目でナスターシヤを見た。ナスターシヤは去りしぶって、ぐずぐずしていた。
「お茶ほしくない?」と彼女は聞いた。
「あとで! 寝たいんだよ! かまわんでくれ……」
彼ははげしく身ぶるいしながらくるりと壁のほうを向いてしまった。ナスターシヤは出て行った。
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ところが、彼女が出て行くと同時に、彼は起き上がって、ドアに鍵《かぎ》をかけ、さっきラズミーヒンが持ってきて、また包み直しておいた洋服の包みをといて、着かえはじめた。不思議なことに、突然すっかり落ち着きをとりもどしたように見えた。さっきのように、ばかげたうわ言を口走りもしないし、最近ずっとおびやかされつづけてきたあのおそろしい恐怖もなかった。それはある奇妙な突然の平静の最初の訪れだった。彼の動作は正確で、はっきりしていて、そこにはしっかりした意図が見られた。《今日こそ、今日こそは!……》と彼は自分に言いきかせた。彼はしかし、まだ衰弱がひどいことを、自分でも感じていた。だが、平静と、さらにゆるがぬ意図にまで達した、おどろくほど強い心の緊張が、彼に力と自信をあたえた。とはいえ彼には、往来で倒れるのではないか、という不安がないでもなかった。すっかり新しい服に着かえると、彼はテーブルの上の金を見て、ちょっと思案し、それをポケットに入れた。二十五ルーブリあった。ラズミーヒンが衣類を買うのにつかった十ルーブリのおつりの五コペイカ銅貨も、すっかりポケットにおさめた。それからそっと鍵をはずすと、部屋を出て、階段を下り、大きく開け放された台所をのぞいた。ナスターシヤがこちらへ背を向けて、前屈《まえかが》みになり、サモワールの火をふうふう吹いておこしていた。彼女はぜんぜん気付かなかった。無理もない、彼が出て行くなんて、誰《だれ》が予想できたろう? 一分後に彼はもう通りに立っていた。
八時近くで、太陽は沈みかけていた。むし暑さはまだそのままのこっていたが、彼はこの都会に汚《よご》された臭いほこりっぽい空気を、むさぼるように吸いこんだ。彼はかるいめまいをおぼえた。不意にその充血した目と、肉のおちた血の気のない黄色っぽい顔に、なんとも異様な荒々しいエネルギーがギラギラ燃えはじめた。どこへ行くのか、彼は知らなかった、それに考えてもみなかった。彼が知っていたのは、《こんなこと《・・・・・》はすっかり、今日こそ、いますぐ、ひと思いに片づけてしまうんだ、でなければ家へはもどれない、こんな《・・・》生活はもういやだ《・・・・・・・・》》ということだけだった。どんなふうに片づけるか? 何によって片づけるか? それについては彼はきまった考えをもっていなかったし、また考えたくもなかった。彼は想念を追いはらった。想念に責めさいなまれたからだ。彼はただいっさいの事情が、どんなふうにでもいいから、変ってしまわなければならない、と感じていたし、知っていた。《どう変ろうといいんだ、とにかく変りさえすれば》彼はすてばちの動かぬ自信と決意をもって、こうくりかえした。
古い習慣で、散歩のいつもの道を通って、彼はまっすぐセンナヤ広場のほうへ歩いて行った。センナヤ広場まで行かない、ある小さな雑貨屋の店先の舗道で、髪の黒い若い流し芸人が、手風琴で何やらひどく感傷的《センチメンタル》なロマンスをひいていた。彼はまえの歩道に立っている少女の伴奏をしているのだった。少女は十四、五で、貴族令嬢のように大きくふくらんだスカートをはき、短いコートで肩をおおい、手袋をはめ、真っ赤な羽根のついた麦わらの帽子をかぶっていたが、いずれも古びて、すりきれていた。少女は流し芸人特有のしゃがれた、しかしかなり快いはりのある声で、店内から二コペイカ銅貨を投げられるのを待ちながら、ロマンスをうたっていた。ラスコーリニコフは足をとめ、二、三人の聞き手とならんで、しばらく聞いていたが、やがて五コペイカ銅貨をとりだして、少女の手ににぎらせた。少女は突然、もっとも調子の高いさわりの部分で、まるでたちきったようにピタリと唄《うた》をやめて、手風琴ひきの男にぶっきらぼうに叫んだ。《もういいよ!》そして二人は次の店のほうへのろのろ歩いて行った。
「あなたは流し芸人の歌が好きですか?」とラスコーリニコフは、並んで手風琴ひきのそばに立っていた、もういいかげんの年齢《とし》のいかにも閑人《ひまじん》らしい男に、だしぬけに声をかけた。男は呆気《あっけ》にとられてそちらを見ると、ぎょっとした。「ぼくは好きですよ」とラスコーリニコフはつづけたが、その顔はぜんぜん流し芸人の歌の話をしている人とは思われなかった。
「ぼくはね、寒い、暗い、しめっぽい秋の晩、手風琴の音にあわせてうたっているのを聞くのが、好きなんですよ。それもぜったいに、通行人がみな蒼《あお》い病人みたいな顔をした、しめっぽい晩でなければいけません。さもなきゃ、もっといいのは、しめっぽい雪が降っている晩です、風もなく、まっすぐに、わかりますか? そして雪ごしにガス灯がぼんやり光っている……」
「わかりませんな……失礼……」男はその問いかけにも、ラスコーリニコフの異様な顔にもびっくりして、こう呟《つぶや》くと、道路の向う側へ移って行った。
ラスコーリニコフはまっすぐに歩いて行って、センナヤ広場の角へ出た。そこはあのときリザヴェータと話をしていた商人夫婦が店をだしていた場所だが、今日は二人の姿は見えなかった。ラスコーリニコフはその場所に気付くと、足をとめて、あたりを見まわし、粉屋の店先で欠伸《あくび》をしていた赤いシャツの若者に聞いた。
「この角であきないをしている商人がいるだろう、夫婦連れの、知らない?」
「みんながあきないをしてるんでねえ」と若者は小ばかにしたようにラスコーリニコフをじろじろ見ながら、答えた。
「その男はなんていうの?」
「親にもらったとおりの名前さ」
「きみはザライスクの生れじゃない? 何県だね?」
若者はあらためてラスコーリニコフを見た。
「わしらんとこはね、旦《だん》那《な》、県じゃなくて、郡ですよ。兄貴はあっちこっち歩いたが、おれは家にばかりいたんで、さっぱりわからんですわ……もうこのくらいで勘弁してくださいな、旦那」
「あの二階は、めし屋かね?」
「飲み屋だよ、玉突きもあるよ。お姫さまたちもいるしね……大はやりでさあ!」
ラスコーリニコフは広場を横切って行った。向うの角に、たくさんの人々が群がっていた。百姓ばかりだった。彼は人々の顔をのぞきこみながら、いちばんの人ごみの中へ割りこんで行った。どういうわけか、彼は誰にでも話しかけたい気持になった。しかし百姓たちは彼には見向きもしないで、何人かずつかたまりあいながら、自分たちだけで何ごとかがやがやしゃべりあっていた。彼は立ちどまって、ちょっと考えていたが、すぐに右へ折れて、歩道をV通りのほうへ歩きだした。広場をすぎると、彼は横町へ入った……
彼はまえにも広場とサドワヤ通りを鉤《かぎ》の手に結んでいるこの短い横町を、ときどき通ったことがあった。近頃《ちかごろ》などは、気がくさくさすると、《もっとくさくさしてやれ》と思って、わざとこの界隈《かいわい》をうろつきまわったものだった。いまは彼は何も考えないで、この横町へ入った。そこには一軒の大きな建物があって、ぜんたいが居酒屋やその他いろいろな飲食店になっていた。それらの店からは、頭に何もかぶらないで普段着のままという、《近所あるき》のような服装の女たちが、たえずとびだしてきた。そうした女たちが歩道のそちこち、といってもたいていは地下室への下り口のあたりにかたまって、ぺちゃくちゃしゃべっていた。その下は、階段を二段も下りると、さまざまなおもしろい娯楽場になっていた。そうした地下室のひとつから、ちょうどそのときテーブルを叩《たた》く音やわあわあ騒ぐ声が通り中にあふれ、ギターが鳴り、歌声が聞えて、たいへんなにぎやかさだった。その入り口に女たちはわんさとたかり、階段に腰かけたり、歩道にしゃがんだり、あるいは立ったりして、がやがや話しあっていた。そのそばの舗道では、酔っぱらった兵隊が一人、くわえ煙草《たばこ》で、大声でわめきちらしながらふらふらしていた。どうやらどの店かへ入ろうとして、その場所を忘れてしまったらしい。一人のぼろを着た男がもう一人のぼろを着た男とののしりあっていた。またそのそばでは泥酔《でいすい》した男が通りの真ん中に死んだようになってひっくり返っていた。ラスコーリニコフは女たちがたくさん群がっているそばに足をとめた。女たちはしゃがれ声でしゃべっていた。みんな更《さら》紗《さ》の服を着て、山羊《やぎ》皮《がわ》の靴《くつ》をはき、頭には何もかぶっていなかった。四十すぎの女もいたが、十七、八の若い女もいて、ほとんどが目の下に青あざをつけていた。
彼はどういうわけか下のほうから聞えてくる歌声や、がたがた鳴る音や騒ぎに心をひかれた……そちらからは、爆笑や金切り声の合間に、活発な調子のほそい裏声やギターの音にあわせて、誰かが踵《かかと》で拍子をとりながらやけっぱちに踊っているらしい物音が、聞えていた。ラスコーリニコフは歩道に突っ立ったまま入り口のほうへ身をのりだし、おもしろそうに下をのぞきこみながら、暗いしずんだ顔をして、じいッと耳をすましていた。
あんたはあたいのかわいいお方
わけもないのにぶっちゃいや!
誰かのほそい歌声が流れてきた。ラスコーリニコフは無性にその歌が聞きたくなった。それを聞かないと、すべてがだめになってしまうような気がした。
《入ってみようか?》と彼は考えた。《みんな笑ってる! 酔ってるんだな。かまうもんか、ひとつめちゃくちゃに飲んでやろうか?》
「ねえ、お寄りにならない、やさしいお兄さん?」と女たちの一人がかなりよく透《とお》る、まだそれほどかれていない声で言った。その女は若くて、それにいやらしくなかった。たくさん群がっていた女たちの一人だった。
「おや、美人じゃないか!」と、彼は身を起し、女を見て、言った。
女はニコッと笑った。お世辞がひどく嬉《うれ》しかったらしい。
「あんただってとってもいい男前よ」と女は言った。
「まあ痩《や》せっぽちだこと!」もう一人の女ががらがら声で言った、「今日病院から出てきたの?」
「ちょっと見は、将軍令嬢みたいだがよ、どいつもこいつもししッ鼻じゃねえか!」そばへよって来た一杯機《き》嫌《げん》の百姓が、不意によこあいからひやかした。百姓は外套《がいとう》の胸をはだけて、ずるそうにえへらえへら笑っていた。
「へえ、大分にぎやかだな!」
「せっかく来たんなら、寄ってきなよ!」
「ひとつ寄るか! こってりたのむぜ!」
こういうと、彼はころがるように下へおりて行った。
ラスコーリニコフは歩きだした。
「ちょいと、お兄さん!」と女はうしろから呼びかけた。
「なんだい?」
女はちょっと口ごもった。
「あたし、ねえ、やさしいお兄さん、あんたとならいつだって喜んでお相手するわ、でも今日はなんだかわるいような気がしてだめなの。ねえ、おねがいだから六コペイカくださらない、あたし飲みたいのよ!」
ラスコーリニコフは手にふれただけつかみ出した。五コペイカ銅貨が三枚あった。
「まあ、なんて気前のいいお兄さんだこと!」
「きみはなんていうの?」
「ドゥクリーダって尋ねてちょうだいな」
「いけないわ、なんてことを」不意に女たちの一人が、ドゥクリーダに頭を振りながら言った。「ほんとにあきれた、なんてねだり方をするのかしら! わたしだったら恥ずかしくて消えてしまいたいくらいだわ……」
ラスコーリニコフは好奇心をそそられてその女へ目を向けた。それは三十前後のそばかすだらけの女で、顔中に青あざをこしらえ、上唇《うわくちびる》がはれあがっていた。その女はいやに落ち着いて、まじめな顔をして、さかんに詰《なじ》っていた。
《何だったかなあ》ラスコーリニコフは歩きながら、ふと考えた。《何かで読んだことがあった。ある死刑囚が、死の一時間まえに、どこか高い絶壁の上で、しかも二本の足をおくのがやっとのようなせまい場所で、生きなければならないとしたらどうだろう、と語ったか考えたかしたという話だ、――まわりは深淵《しんえん》、大洋、永遠の闇《やみ》、永遠の孤独、そして永遠の嵐《あらし》、――そしてその猫《ねこ》の額ほどの土地に立ったまま、生涯《しょうがい》を送る、いや千年も万年も、永遠に立ちつづけていなければならないとしたら、――それでもいま死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ! 生きていられさえすれば、生きたい、生きていたい!どんな生き方でもいい、――生きてさえいられたら!……なんという真実だろう! これこそ、たしかに真実の叫びだ! 人間なんて卑劣なものさ! その男をそのために卑劣漢よばわりするやつだって、やっぱり卑劣漢なのだ》彼は一分ほどしてこうつけ加えた。
彼は別な通りへ出た。《おや! 〈水晶宮〉だ! さっきラズミーヒンが〈水晶宮〉のことを話してたっけ。ところで、はてな、おれは何をするつもりだったかな? そうだ、新聞を読むことだ!……ゾシーモフがたしか新聞で読んだとか言ったようだった……》
「新聞ある?」彼はかなり広い、しかも小ぎれいな飲食店に入りながら、こう尋ねた。部屋はいくつかあったが、客は少なかった。二、三人がお茶を飲んでいるほかは、奥のほうの部屋で四、五人の客がシャンパンを飲んでいるだけだった。ラスコーリニコフは、奥のほうの客の中にザミョートフがいたような気がした。しかし、遠いのではっきりはわからなかった。《なに、かまうものか!》と彼は考えた。
「ウォトカをお持ちしましょうか?」と給仕が尋ねた。
「お茶をくれ。それから新聞をもってきてくれんか、古いのでいいよ、ここ五日分ほど、その代りウォトカ代をチップにやるよ」
「かしこまりました。これが今日の新聞です。ウォトカはいりませんか?」
古い新聞と茶が運ばれてきた。ラスコーリニコフは腰を据《す》えて、さがしはじめた。
《イーズレル――イーズレル――アツテーク――アツテーク――イーズレル――バルトーラ――マッシーモ――アツテーク――イーズレル……チエッ、しようがないな! あ、雑報があったぞ。なに、女が階段からおちた――商人が酒に酔って死んだ――ペスキの火事――ペテルブルグ区の火事――もう一件ペテルブルグ区の火事――おや、ペテルブルグ区に火事がもう一件か――イーズレル――イーズレル――イーズレル――イーズレル――マッシーモ……あ、これだ……》
彼は、ついに、さがし出そうとやっきとなっていたものを、さがしあてて、すぐに読みだした。活字が目の中でおどった。それでも彼は《報道》をすっかり読みおわると、すぐに翌日の新聞をひらいて血走った目でその後の記事をさがしはじめた。はげしいもどかしさのために、ページをくる手ががくがくふるえた。不意に誰かがそばへ来て、テーブルをはさんで向い合いに腰をかけた。ちらと目をあげると――ザミョートフだった。例によって宝石の指輪をいくつもはめ、金鎖をたらし、ポマードをこってりつけた黒いちぢれ髪にきれいに分け目をつけて、しゃれたチョッキ、いくらかいかれたフロック、すこしよごれたシャツという服装の、いつもと変らぬザミョートフだった。彼は機嫌がよかった、どう見てもひどく上機嫌な様子で、人がよさそうににこにこ笑っていた。浅黒い顔がシャンパンの酔いでいくらか赤くなっていた。
「おや! あなたはここにいたのですか?」と彼は信じられないような面持ちで、いかにも親しそうに言った。「あなたがずっとうなされつづけているって、昨日ラズミーヒンに聞いたばかりですよ。おかしいですねえ! だって、ぼくも見舞いに伺ったんですよ……」
ラスコーリニコフは彼がくるのは承知していた。彼は新聞をわきへおいて、ザミョートフのほうに向き直った。その口もとにはうす笑いがうかんでいた、そしてそのうす笑いにはいままでにない神経質そうな苛《いら》立《だ》ちが見られた。
「あなたが来てくれたことは、知っています」と彼は答えた。「あとで聞きました。靴下をさがしてくれたそうですね……ところで、ラズミーヒンはあなたに夢中ですよ、いっしょにラウィーザ・イワーノヴナのところへ行ったそうですね、ほらあのときあの女をなんとかしてやろうとやきもきして、あなたはしきりに火薬中尉に目配せしましたっけね、ところがやつはぜんぜん気付かない、おぼえてますか? 気付かないはずがないのですがねえ――あんな明白なことが……ねえ?」
「まったく乱暴な男ですよ!」
「火薬がですか?」
「いや、あなたの友人のラズミーヒンですよ……」
「ところで結構な身分ですね、ザミョートフさん。いろんなおもしろい場所へ自由に出入りできるなんて! あれは誰です、いまあなたにシャンパンを振舞ったのは?」
「あれはぼくたちがみんなで……飲んだんですよ……振舞ったなんて」
「お礼酒ですか! まあなんでも利用するんですな!」ラスコーリニコフはニヤッと笑った。「いいんだよ、きみ、気にすることはないさ!」彼はザミョートフの肩をポンとたたいて、こうつけ加えた。「ぼくは別にいやがらせを言ってるわけじゃないよ、例のペンキ屋がミチカを殴っての言い草じゃないが、《つまりその仲がよすぎるもんで、ふざけて》というやつだよ。ほら、例の老婆殺しの事件でさ」
「あなたはどうしてあの事件を?」
「うん、もしかしたら、あなたよりもよけいに知ってるかもしれんよ」
「なんだかすこし変ですね……まだ大分わるいんじゃないですか。外出はまだ無理だ……」
「ぼくが変に見えますか?」
「うん。それは、新聞を読んでいるんですね?」
「新聞です」
「火事の記事がたくさん出てますね」
「いや、火事の記事を読んでるんじゃありませんよ」そういうと彼は、謎《なぞ》をかけるような目でザミョートフを見やった。愚《ぐ》弄《ろう》するようなうす笑いがまた唇をゆがめた。「いや、火事の記事じゃありません」と、ザミョートフに目配せをしながら、彼はつづけた。「さあ白状しなさい、ええ、ぼくが何を読んでいたか、知りたくてたまらんのだろう?」
「ちっとも。ただ聞いただけですよ。聞いてわるいですか? どうしてあなたはさっきから……」
「まあ聞きなさい、あなたは教養のある、文学のわかる人間だ、そうでしょう?」
「ぼくは中学を六年やったきりですよ」といくらか重味をみせて、ザミョートフは答えた。
「六年! 大したもんじゃないか! 髪をきれいに分けて、宝石指輪をたくさんはめて――金持だよ! へッ、愛すべきわが少年よか!」そういうと、ラスコーリニコフはヒステリックな笑いをザミョートフの顔にまともにあびせかけた。ザミョートフは後退《あとずさ》った、そして怒るよりも、呆気にとられてしまった。
「へッ、まったく変ってるよ!」ザミョートフはひどくまじめな顔でくりかえした。「どうやら、まだうなされているようですね」
「うなされてる? そんなことはないよ!……じゃぼくは変に見えるんだね? ふん、じゃぼくに興味があるだろう、えッ? あるだろう?」
「あるね」
「つまり、ぼくが何を読んでいたか、どんなことをしゃべったか? それに、新聞だってこんなにたくさん持ってこさせた! 怪しいだろう、え?」
「まあ、どうぞ」
「聞きたくてうずうずだろう?」
「何がうずうずなんです?」
「何がうずうずかは、あとで話すとして、先《ま》ず説明しよう……いや、《白状する》といったほうがいいかもしれん……待てよ、それもしっくりこない、《供述しますから、記録してください》――これだよ! それじゃ、何を読み、何に興味をもち……何をさがし……何を調べていたか、供述しよう……」ラスコーリニコフは目をそばめて、ちょっと間をおいた。「調べていたのは――ここへ寄ったのもそのためなのだが、――官吏の未亡人殺しの事件ですよ」彼はついに、額をつきあわせるほどに顔をザミョートフの顔に近づけて、ほとんど囁《ささや》くように言った。ザミョートフは身じろぎもせず、顔を相手の顔からはなそうともしないで、じいッとまともにラスコーリニコフの顔を見守っていた。あとでザミョートフにもっとも不思議に思われたのは、ちょうどまる一分間二人の間に沈黙がつづき、そしてちょうどまる一分間こうしてにらみ合っていたことである。
「それを読んだのが、どうしたっていうんです?」不意にザミョートフはなんのことやらよくわからず、苛々して叫んだ。「ぼくになんの関係があるんです! それがどうしたっていうんです?」
「そらあの老婆ですよ」とラスコーリニコフはザミョートフの叫び声にぴくりともせず、やはりほとんど囁くようなおし殺した声でつづけた。「ほら、署でその話がでたとき、ぼくが卒倒したでしょう、あの老婆ですよ。どうです、こういえばおわかりでしょう?」
「いったいなんのことです? 何が……《おわかりでしょう》です?」とザミョートフはうろたえ気味に言った。
石のように動かぬ真剣なラスコーリニコフの顔が一瞬くずれた、そして不意に、もう自分で自分を抑えつける力をぜんぜん失ってしまったように、またさっきのヒステリックな哄笑《こうしょう》を爆発させた。そしてその刹《せつ》那《な》、斧《おの》を手にしてドアのかげにかくれていた数日前のあのときのことが、まざまざと彼の記憶によみがえった。ドアの掛金がかたかたおどっていた、ドアの外では彼らが口ぎたなくののしりながら、ドアを押したりひいたりしていた、あのとき突然彼は、とび出して、彼らをどなりつけ、罵《ば》倒《とう》し、ペロリと舌を出して、からかい、笑って、笑って、笑いとばしてやりたい気持になったのだった!
「あなたは、気ちがいか、さもなければ……」ザミョートフはそう言いかけて――はっと口をつぐんだ。不意に頭の中にひらめいたある考えに、ぎょッとしたらしい。
「さもなければ? 《さもなければ》何です? え、何です? さあ、言ってください!」
「何でもないですよ!」とザミョートフは腹立たしげに答えた。「ばからしい!」
二人は黙りこんだ。突然の発作的な哄笑の爆発がすぎると、ラスコーリニコフは急に憂《ゆう》欝《うつ》そうな暗い顔になった。彼はテーブルに肘《ひじ》をついて、頭を掌《てのひら》におとした。ザミョートフのことなどすっかり忘れてしまったふうだった。かなり長い沈黙がつづいた。
「どうしてお茶を飲まないんです? 冷めてしまいますよ」とザミョートフが言った。
「え? 何です? お茶?……ああ……」ラスコーリニコフはコップの茶を一口飲んで、パンきれを口の中へ入れた、そしてザミョートフを見ると、不意にすっかり思い出したらしく、急に顔のかげがとれたように見えた。そして顔にはじめていたずらッぽい表情があらわれた。彼は何度も茶のコップを口へ運んだ。
「近頃はああいうろくでもない詐欺《さぎ》事件がふえてきましたねえ」とザミョートフが言った。「ついこの間も《モスクワ報知》に、モスクワで贋札《にせさつ》つくりの一味が逮捕されたって記事がのってましたよ。大組織だったんですねえ。紙幣を贋造《がんぞう》してたんですよ」
「ああ、それはもう大分まえのことですよ!ぼくは一カ月もまえに読みました」とラスコーリニコフは別におどろきもしないで答えた。「じゃあなたは、あれを詐欺だというんですか?」と彼は皮肉な笑いをうかべながらつけ加えた。
「詐欺でなくて何です?」
「あれがですか? 子供のあそびですよ。青二才です、詐欺なんてものじゃありませんよ! あんなしごとのために五十人も集まって! ばかばかしい! 三人でも多いくらいですよ、それだってお互いに相手を自分自身以上に信じられなきゃだめです! だって、一人が酒に酔ってうっかりしゃべったら、それでおしまいですからねえ! 青二才ですよ!危なっかしい連中をやとって札を銀行でくずさせるなんて。どうです、こんなしごとを、はじめて会った男にまかせられますか? まあ仮に、そんな青二才どもをつかっても、うまくいって、一人が百万ずつ替えたとしましょう、だがそのあとがどうなります? その後一生です? それこそ一生の間、一人一人が互いに相手の首をしめあっているようなものじゃありませんか! 自分で首をくくったほうがましですよ! だが、やつらは両替ができなかった。銀行で両替がはじまり、五千ルーブリを受けとると、手がふるえた。四千までは数えたが、最後の千は数えもせずに受け取ると、いきなりポケットにねじこんで、そわそわと駆け去って行った。もちろん、怪しいということになった。というわけで一人のばか者のために、万事おじゃんになってしまった。どうだね、こんなばかなことってあるかね?」
「手がふるえたこと?」とザミョートフが反射的に言った。「いや、それは考えられるよ。うん、あり得るよ、ぼくは絶対に確信するね。自分を抑えきれなくなることだってあるさ」
「そのくらいのことで?」
「じゃ、あなたは抑えきれますか? いや、ぼくならおそらくだめですね! 百ルーブリの礼金でそんな恐ろしいことをするなんて!贋札をもって――しかも、そのほうの目利きがそろっている銀行へのりこむなんて、――とても。ぼくだったらどぎまぎしますね。あなたは平気ですか?」
ラスコーリニコフは急にまた《舌をペロリ》と出したくてたまらなくなった。悪《お》寒《かん》が何度か背筋を走った。
「ぼくならそうはしないでしょうね」とラスコーリニコフは遠まわしにきり出した。「こういうぐあいにやりますよ。先《ま》ず最初の千ルーブリを丹念に数えます、表からと裏から四度ほど、一枚一枚入念に調べながらね。それがおわったら次の千ルーブリにかかる、数えはじめて、中ほどまで来たら、五十ルーブリ札を一枚ひきぬいて、光にすかして見る、裏返しにしてもう一度光にすかす――贋札ではあるまいな、というような様子でね。そしてこんなことを言う、《心配ですよ、なにしろついこの間親戚《しんせき》の女が両替してもらったら、二十五ルーブリ札を一枚やられたんでねえ》そして作り話を一席やらかす。そして三つ目の千ルーブリ札束を数えはじめたところで――待てよ、ちょっと失礼、二つ目の千ルーブリ束で七百ルーブリのところを数えちがえたような気がする、どうもあやふやだ、なんて言って、三千ルーブリ目の束をわきにおいて、また二つ目を数えだす、――こんなふうにして五つ全部を数える。全部数えおわったところで、五つ目と二つ目あたりの束から一枚ずつぬきだして、もう一度光にすかして見て、もう一度疑わしそうな顔をして、《すみませんが、これ換えていただけませんか》――こんなふうにして銀行員をへとへとに疲れさせて、もうなんでもいいから早く帰ってくれという気持にさせてしまう! やっとすっかり終ったところで、出口のほうへ歩いて行って、ドアを開けかけて――うんそうそう、ちょっと失礼、ともう一度もどって来て、また何かを聞き、説明してもらう、――まあぼくならこんなぐあいにやるでしょうね!」
「へえ、あなたはずいぶん恐ろしいことを言いますねえ!」とザミョートフは笑いながら言った。「そんなことは話だけですよ。現実に直面したら、きっと、つまずきます。そういう場合になると、ぼくに言わせれば、ぼくたちだけでなく、札つきの無法者でさえ自分を当てにできなくなるものです。まわりくどいことはやめましょう――早い話が、この町内にあった老婆殺しです。なにしろ白昼あらゆる危険をおかしてあれだけのことをやってのけ、たった一つの奇跡を利用して逃走したというのですから、これはもうたいした野郎ですが、――それでもやっぱり手がふるえたんですよ。盗むところまでいかなかった、神経がもたなかったんですね。見ればわかりますよ……」
ラスコーリニコフはむっとしたような顔になった。
「わかる! そんなら捕えたらいいだろう、行きたまえ、さあ!」と彼は声を荒くして、意地わるくザミョートフをせきたてた。
「なあに、捕えますよ」
「誰が? あなたが? あなたが捕えるって? せいぜいやってみることですな! まあ、あなた方の最大のねらいは、金づかいが荒いとかどうだとか、そんなとこだ。いままで金のなかった男が、急に金をつかいだす、――きっとあいつにちがいない? そんなことだからあなた方は、つまらん子供にでもてもなく欺《だま》されるんだよ!」
「ところが、やつらはみなそれをやるんですよ」とザミョートフは答えた。「うまいこと殺して、危ない橋をわたるが、そのあとですぐに居酒屋にはまりこむ。金づかいがもとで捕まる。誰もがあなたみたいに利口とはかぎりませんからねえ。あなたなら、むろん、居酒屋へなんかはいかないでしょうがね?」
ラスコーリニコフは眉《まゆ》をひそめて、じっとザミョートフを見すえた。
「どうやら、食指をうごかしてきたようですな。ぼくならその場合どういう行動をとるか、知りたいのでしょう」と彼は不興げに尋ねた。
「知りたいですね」ザミョートフはきっぱりと真顔で答えた。そのしゃべり方や見る目になんとなく真剣すぎるほどの力がこもってきた。
「ひじょうに?」
「ひじょうに」
「よし。ぼくならこうしますね」とラスコーリニコフは、また急に顔をザミョートフの顔に近づけ、またじっと相手の目を見すえて、またさっきのように声を殺して囁きはじめた。今度はさすがにザミョートフもぎくっとした。
「ぼくならこうしますね、金と品物をとって、そこを出たら、すぐにその足で、どこへも寄らずに、どこかさびしい場所、塀《へい》があるばかりで、ほとんど人影のない、――野菜畑か何か、そうした場所へ行きます。あらかじめそこへ行って、その庭の中に重さ一ポンドか一ポンド半くらいの手頃な石を見つけておくんです。どっか隅《すみ》のほうの塀際《へいぎわ》あたりに、家を建てたのこりの石が一つくらい、きっとありますよ。その石を持ち上げると――下はおそらくくぼんでいる、――そのくぼみに盗んできた品物と金をすっかり入れる。入れたら、また石を元どおりにして、足で踏みかためて、すばやくそこを立ち去る。こうして一年か二年、あるいは三年くらいそのままにしておくのです、――さあどうです、さがしてごらんなさい! まず迷宮入りでしょうな!」
「あなたは気ちがいだ」なぜかザミョートフも声をひそめてこう言うと、どうしてか不意にラスコーリニコフから身をひいた。
ラスコーリニコフの目がギラギラ光りだした。顔色が気味わるいほど蒼くなって、上唇がびくッとうごいて、ひくひく痙攣《けいれん》しはじめた。彼は額をつきあわせるほどにザミョートフの上にかがみこんで、声を出さずに、唇をこまかくふるわせはじめた。そのまま三十秒ほどつづいた。彼は自分のしていることを、知っていたが、自分を抑えることができなかった。恐ろしい一言が、あのときのドアの掛金のように、はげしく彼の唇の上におどった。いまにもとび出しそうだ、いまそれを放したら、いまそれを口にしたら、それでおしまいだ!
「老婆とリザヴェータを殺したのが、ぼくだとしたら、どうだろう?」彼は不意にこう口走って、――はっと気がついた。
ザミョートフは呆気にとられて彼を見たが、とたんに真《ま》っ蒼《さお》になった。無理な笑いで顔がゆがんだ。
「そんなことありっこないじゃないか?」と彼はやっと聞きとれるほどの声で呟いた。
ラスコーリニコフは敵意ある目でじろりと彼をにらんだ。
「白状しなさい、あなたは信じたでしょう?そうでしょう? そうですね?」
「とんでもない! まえにはともかく、いまはもうぜんぜん信じない!」とザミョートフはあわてて言った。
「ひっかかったね、ついに! 小鳥クンわなにかかるの図か。《まえにはともかく、いまはぜんぜん信じない》か、してみると、まえには信じていたわけですな?」
「そんなこと、ぜんぜんちがうったら!」ザミョートフは明らかに狼狽《ろうばい》しながら、叫んだ。「そうか、あなたがぼくをおどかしたのは、ぼくにこう言わせるためだったのですね?」
「じゃ、信じないんですね? ところで、あのときぼくが署を出てから、あなた方はどんなことを話しました? 失神から気がついたとき、火薬中尉がぼくを尋問したが、あれはなぜでしょうかね? おい」と彼は立ちあがりながら、帽子をつかんで、給仕を呼んだ。
「いくら?」
「都合三十コペイカいただきます」と給仕はかけよりながら、答えた。
「じゃこれ、二十コペイカはきみにチップだよ。どうです、この金!」そう言って彼は札をにぎったふるえる手をザミョートフのまえへつき出した。「赤札、青札、二十五ルーブリありますよ。どこから手に入ったんでしょうな? そしてこの新しい服も? だって、ぼくが一文なしだったことは、あなたもご存じでしょう! 下宿のおかみは、たしか、もう調べられたようですな……まあ、よしましょう! おしゃべりはあきましたよ! じゃまた……お元気で!……」
彼は一種異様なヒステリックな激情をおぼえて全身をがくがくふるわせながら、ドアのほうへ出て行った。その感情の中には堪えられぬほどの快感もいくぶんまじっていたが、――しかしその様子は暗く、おそろしいほど疲れきっていた。顔は何かの発作のあとのように、ゆがんでいた。疲れが急にましてきた。気力はちょっとした刺激、ちょっとした心を苛《いら》立《だ》てる触感で、かりたてられ、不意に高まったが、触感のうすらぐにつれて、やはり急激に弱まっていった。
一方ザミョートフは一人になると、そのままそこに坐《すわ》って、長い間もの思いに沈んでいた。ラスコーリニコフが思いがけなく例の事件に関する彼の考えをすっかりひっくりかえして、彼の意見を最終的に組み立ててくれたのである。
《イリヤ・ペトローヴィチは――木偶《でく》だ!》こう彼は結論をくだした。
ラスコーリニコフは入り口のドアを開けたとたんに、階段を下りてくるラズミーヒンとばったり顔をあわせた。二人とも、一歩まえまでは互いに相手に気づいていなかったので、危なく頭がぶつかりそうになった。二人はしばらくの間、互いに相手をじろじろ見まわしていた。ラズミーヒンはすっかりびっくりしてしまって、唖《あ》然《ぜん》としていたが、不意に憤《ふん》怒《ぬ》が、心底からの憤怒が、その目にめらめらと燃えだした。
「きみはこんなところにいたのか!」と彼は割れるような声でどなった。「病床から脱《ぬ》け出して! おれはソファの下までさがしたぞ! 屋根裏にまで行ってみたんだ! きみのためにナスターシヤを張り倒すところだった……そんな騒ぎをさせておいて、よくもこんなところに! ロージャ! これはどういうわけだ? すっかり聞こうじゃないか! つつまず言いたまえ! 聞いてるのか?」
「つまり、ぼくはもうきみたちには死ぬほどあきあきしたから、一人になりたい、ということだよ」とラスコーリニコフはしずかに答えた。
「一人に? まだ歩くこともできず、真っ蒼な顔をして、肩でぜいぜい息してるくせに、何をぬかすか! ばか!……《水晶宮》で何をしてたんだ? さあ言いたまえ!」
「放せ!」そう言って、ラスコーリニコフはわきをすりぬけようとした。これがラズミーヒンをすっかり逆上させた。彼はいきなり相手の肩をつかんだ。
「放せだと? 《放せ》とは、よくも言えた義理だな? おれがこれからきみをどうするか、知ってるかい? ひっつかまえて、ふん縛り、小《こ》脇《わき》に抱えて家まで運んでさ、鍵をかけてとじこめてやるよ!」
「ねえ、ラズミーヒン」としずかに、いかにも落ち着きはらった様子で、ラスコーリニコフは言いだした。「ぼくがきみの世話を望んでいないことが、きみはほんとにわからないのか? そんなものくそくらえ……と思っている者を、親切に世話するなんて、物好きがすぎはしないかね? もっと言えば、その男にはその親切が堪えきれないほどの重荷なんだよ。それに病気になりたてのぼくを、きみは何のためにさがし出したんだね? ぼくは死んだほうがどんなに嬉しかったかしれやしない! どう、これだけ言ったらいくらきみだってわかったろうね、きみはぼくを苦しめている、ぼくはもう……きみの顔を見るのもいやだってことが! 物好きもすぎれば、ほんとに人を苦しめるものだよ! はっきり言うが、こうしたいろんなことがぼくの回復をさまたげているんだ、ほんとだよ、絶えずぼくを苛々させてさ。さっきゾシーモフだって、ぼくを苛々させないようにって、立ち去ったじゃないか。たのむから、きみもぼくにかまわんでくれ! それに、もひとつつっこんで言うが、きみにはぼくを力ずくでおさえるどんな権利があるんだね? ぼくがいま完全に正常な頭脳でものを言っていることが、まさかわからんことはないだろう? ねえきみ、教えてくれ、ぼくにつきまとって、世話をやくことを、きみにやめてもらうためには、いったいどんなふうに、何をどうきみに哀願したらいいんだ? ぼくは恩知らずでもいい、人間の屑《くず》でもいい、ただ、たのむから、ぼくから離れてくれ! 離れてくれ! 離れてくれ!」
彼ははじめは、これから注ぎ出してくれようと覚悟をきめた毒のいろいろを考えて、意地わるい喜びにひたりながら、しずかに話していたが、しまいには、さっきルージンのときみたいに、われを忘れて、息をきらしながら言葉を投げつけた。
ラズミーヒンは突っ立ったまま、ちょっと考えて、相手の腕をはなした。
「どこへなりと行きたまえ!」彼は考えこんだ様子で、しずかに言った。「待ちたまえ!」ラスコーリニコフが歩き出そうとすると、突然彼は叫んだ。「きみに言っておくことがある。はっきり断言するが、きみたちはどいつもこいつも、一人のこらず、――おしゃべりでほら吹きだ! 何かちょっとした悩みがあると、まるで雌鶏《めんどり》が卵でも抱くみたいに、後生大事にそれを持ちまわる! そんなときでさえ他の作家たちの作品から思想を盗む。きみたちには自主独立の生活の匂《にお》いもありゃしない! きみたちの身体《からだ》は蝋《ろう》でできていて、血の代りに乳のかすがよどんでいるのさ! きみたちの誰も、ぼくは信じない! どんな場合でも、きみたちがまず考えることは――人間らしさをなくすようにということなのだ! おい、待ちたまえ!」ラスコーリニコフがまた逃げ出そうとして動き出したのを見て、彼は憤然として叫んだ。「おわりまで聞きたまえ! きみも知ってると思うが、今日はぼくの引っ越し祝いで友人たちが集まるんだ。いま頃はもう来てるかもしれん、でも伯父がいてくれるから、来客たちの接待はたのんであるが、――わざわざかけつけてくれたんだ。そこでだ、もしきみがばかでないなら、下司《げす》なばかでないなら、石頭の大ばかでないなら、外人の猿《さる》まねでないならばだ……ねえ、ロージャ、はっきり言うけど、きみは青くさい秀才だ、決してばかじゃないよ!――そこでだ、もしばかでないならだ、むだに靴底をへらすよりは、今夜ぼくの家へ来て、いっしょにすごすことだ、そのほうがずっといいよ。もう外へ出てしまったんだから、しようがない!きみには特別やわらかい安楽《あんらく》椅子《いす》をかりてやるよ、おかみの部屋にあるんだ……茶を飲んで、みんなで話をして……それがいやなら、――寝椅子に横になっていたらいい、――とにかくぼくらといっしょにいることだ……ゾシーモフも来るよ。どう、来てくれるかい?」
「行かないよ」
「う・そ・をつけ!」ラズミーヒンはじりじりしながらどなった。「それがどうしてわかる? きみは自分に責任がもてない男だよ!それにきみはこういうことが何もわかっちゃいないのだ……ぼくは千度もちょうどいまみたいに人々と喧《けん》嘩《か》わかれをしてさ、また仲直りをしてきたんだよ……恥ずかしくなって――相手のところへもどって行く! じゃおぼえていてくれ、いいね、ポチンコフのアパート、三階だよ……」
「なるほど、ラズミーヒンくん、あなたはそんなふうにして親切の押し売りという自己満足のために、誰かに自分をなぐらせることを許すんですかねえ」
「誰を? ぼくを! そんなこと考えただけでも、そいつの鼻ッ柱へしおってやるよ! ポチンコフのアパート、四十七号、バーブシキンて官吏の住《すま》居《い》だよ……」
「行かんよ、ラズミーヒン!」
ラスコーリニコフはくるりと背を向けて、はなれて行った。
「賭《か》けをしてもいい、きっと来るさ!」とラズミーヒンはそのうしろ姿に叫んだ。「来《こ》なかったらきみ……もう知らんぞ! 待ちたまえ、おい! ザミョートフはいたか?」
「いたよ」
「会ったか?」
「会った」
「で、話したかい?」
「話したよ」
「何を? まあいい、行きたまえ、どうせ言いっこないんだ。ポチンコフ、四十七、バーブシキンだよ、いいな!」
ラスコーリニコフはサドワヤ通りまで来ると、角をまがった。ラズミーヒンは考えこみながらそのうしろ姿を見送っていた。やがて、しかたがないというふうに片手を振って、建物の中へ入って行ったが、階段の中ほどで足をとめた。
《畜生!》と彼はほとんど声に出してひとりごとをつづけた。《言ってることはたしかだ、まるで……おれもばかだな! まあ気ちがいだってたしかなことを言うこともあるだろうさ? だがゾシーモフも、いくらか彼を危《あや》ぶんでいるようだった!》彼は指でポンと額をつついた。《そうだ、もし……いま彼を一人で放してやったら、どうなるだろう? ひょっとしたら、身投げを……ええ、しまった!こうしてはおれぬ!》そう言うなり彼は踵《くびす》を返して、ラスコーリニコフを追って駆け出して行った、が、もうどこにも見当らなかった。彼はペッと唾《つば》をはいて、早くザミョートフから詳しい話を聞こうと、急ぎ足で《水晶宮》へ引き返した。
ラスコーリニコフはまっすぐにN橋まで行き、その中ほどに立ちどまって、手すりに両《りょう》肘《ひじ》をついてもたれかかり、遠くのほうをながめはじめた。ラズミーヒンと別れたときは、もうすっかり弱りきっていて、ここまでたどりつくのがやっとだった。彼はどこでもいいから道端に腰をおろすか、あるいは横になるかしたかった。彼は水の上にかがみこんで、夕焼けの最後のバラ色の余影や、濃くなってゆく宵闇《よいやみ》の中に黒く見えている家並みや、一瞬最後の陽光にうたれて、まるで炎のようにキラッと光った、左岸のどこか遠くの屋根裏部屋の小窓や、運河の黒ずんだ水面などを、ぼんやりながめていたが、暗い水面にだけはじっとひとみをこらしているようであった。そのうちに、彼の目の中に赤い環《わ》のようなものがぐるぐるまわりはじめた。家並みがゆれうごき、通行人、河岸《かし》通《どお》り、馬車――まわりじゅうのすべてのものがくるくるまわり、おどりだした。不意に彼はぎょっとした。ある奇怪な醜悪な光景によって、彼はまた失神から救われたのである。彼は誰かが自分の右側に並んで立ったような気がした。ちらと目をやると――一人の女だった。プラトークをかぶった背丈の高い女で、黄色っぽい面長の顔は頬《ほお》がこけ、くぼんだ目が赤くにごっていた。女はじっと彼の顔を見たが、その目は何も見えず、誰も見分けがつかないらしかった。不意に女は右手を手すりにかけると、右足を上げていきなり手すりをまたぎ、つづいて左足も上げて、運河へ身をおどらせた。にごった水が割れて、一瞬にして犠牲者をのみこんだが、一分ほどすると女は浮き上がり、背を上にして頭と足を水につけ、みだれたスカートをまるで枕《まくら》のように水面にふくらませたまま、ゆっくり流れて行った。
「身投げだ! 女が身投げしたぞ!」と数十人の声々が叫び立てた。人々がかけ集まって来て、両岸は見物人で埋まった。橋の上にも、ラスコーリニコフのまわりにおしあいへしあいの人垣《ひとがき》ができて、彼はうしろのほうへ押しやられた。
「あれえ、近所のアフロシーニュシカじゃないか!」どこか近くで甲高《かんだか》い女の涙声が聞えた。「みなさん、助けてください! おねがいだから、助けてあげてください!」
「ボートを出せ! ボート!」という叫び声が群衆の中におこった。
しかしもうボートの必要はなかった。一人の巡査が運河へ下りる石段をかけおり、外套《がいとう》をかなぐりすて、長靴をぬぐと、ザンブと運河へとびこんだのである。救助作業はそんなに手間どらなかった。身投げ女は石段の下から二歩ばかりのところを流れていたので、彼は右手で女の着ているものをつかみ、左手で同僚がさしのべた竿《さお》をつかまえることができた。女はすぐにひき上げられた。女は間もなく気がつき、身を起して、ぺたッと坐ると、ぼんやり両手でぬれた服をひっぱりながら、くしゃみをしたり、ふんふん鼻を鳴らしたりしはじめた。女は黙りこくっていた。
「飲みすぎたんですよ、みなさん、こんなになるまで飲むからですよ」とさっきの女の声が、今度はもうアフロシーニュシカのすぐそばでわめき立てた。「この間も首をくくろうとして、縄《なわ》から下ろされたんですよ。いまもわたし買いものにでかけるとき、娘ッ子に目をはなさないようにって言ってきたんだけど、――こんなことになっちゃって! 町内のひとで、近所に住んでるんですよ、端から二番目の家です、ほらあの……」
群衆はちりはじめた。巡査はまだ身投げ女の面倒をみていた。誰かが警察の悪口をどなった……ラスコーリニコフは冷たい傍観者の異様な気持でそのできごとをながめていた。彼はむかむかしてきた。《だめだ、醜悪だ……水は……いかん》彼はひとりごとを言った。《どうもなりゃしない》と彼はつけ加えた。《何も待つことはないさ。警察がどうとか言ったようだったな……だが、どうしてザミョートフは警察にいかないのか? 九時には出勤のはずだが……》彼は手すりに背を向けて、あたりを見まわした。
《ふん、それがどうしたというんだ! まあいいさ!》彼はきっぱりこう言いすてると、橋をはなれて、警察署のある方角に向って歩きだした。心はうつろで荒涼としていた。何も考えたくなかった。暗いさびしささえ消えてしまって、《いっさいのけりをつけてしまう》覚悟で、家を出たときのあの意気込みはあとかたもなかった。石のような無感動がそのあとをおそった。
《なあに、これも出口だ!》彼は河岸通りをしずかに、ものうげに歩きながら、こう考えた。《やっぱりけりをつけよう、思ったことはやらにゃ……しかし、これが出口だろうか? どうでもいいじゃないか! 二本の足がやっとの空間か、――へッ! それにしても、どんな結末になるだろう! 結末がくるだろうか? 彼らに言おうか、言うまいか? チエッ……ばかな! たしかに、おれは疲れたよ。どこでもいい、早く横になるか坐るかしたい! 何よりも恥ずかしいのは、考えることが愚劣きわまるということだ。まったく、唾《つば》をはきかけてやりたい。どうしてこうばかなことばかり、頭に浮ぶのだ……》
警察署へ行くには、かまわずまっすぐに行って、二つ目の角を左へまがらなければならなかった。そうすれば目と鼻の先だった。ところが、最初の角までくると、彼は立ちどまって、ちょっと考え、横町へ折れた、そして通りを二つ横切って迂《う》回《かい》するように走っている路地をたどりはじめた、――これは別になんの目的もなかったかもしれないし、あるいはまた一分でも先へのばして、時をかせぎたい気持があったのかもしれぬ。彼は地面へ目をおとしながら歩いていた。不意に彼は誰かに何か耳もとに囁かれたような気がした。はっと顔をあげて、見ると、彼はあの《・・》家の門のすぐまえに立っていた。あの《・・》夜以来、彼は一度もここへ来なかったし、そばも通ったこともなかった。
抵抗しえぬ言いようのない欲求にひっぱられて、彼は門の中へ入って行った。彼は門を通りぬけると、右手のとっつきの入り口から入って、見おぼえのある階段を四階へのぼりはじめた。せまい急な階段はひどく暗かった。彼は踊り場へ出るたびに立ちどまって、好奇心にかられながらあたりを見まわした。一階の踊り場の窓はわくがすっかりとりはずされていた。《あのときはこんなふうにはなっていなかった》彼はふとこんなことを考えた。そら、あれがミコライとミトレイがしごとをしていた、二階のあの部屋だ。《しまっている。ドアも塗り直されている。つまり、借り手待ちというわけだな》もう三階まできた……そして四階……《ここだ!》彼は自分の目を疑った。部屋のドアが大きく開け放されて、中に人が何人かいるらしく、話し声が聞えていた。彼はこんなことはまったく予期しなかった。しばらくためらった後、彼は最後の数段をのぼって、部屋へ入った。
内部も模様替えされて、職人が入っていた。これも彼には意外だったらしい。どういうわけか彼は、すっかりあのとき立ち去ったときのままで、そのうえ、もしかしたら死体もあのときのままに床の上にころがっているかもしれない、と考えていたのだった。それがいまは、壁が裸で、家具はひとつもない。なんとも奇妙だ! 彼は窓際へ行って、窓のしきいに腰をおろした。
職人は二人だけだった。二人とも若い男で、一人はすこし年上だが、もう一人はずっと若かった。彼らはまえのぼろぼろに破れた黄色っぽい壁紙をはがして、白地に藤色《ふじいろ》の花模様のついた新しい壁紙をはっていた。それがどういうわけかラスコーリニコフにはひどく気に入らなかった。彼は、こう何から何まで変えられてしまうのをあわれむように、敵意のこもった目でその新しい壁紙をにらんでいた。
職人たちはすこしゆっくりしすぎたと見えて、急いで紙を巻いて、帰り支度をしていた。ラスコーリニコフが入ってきても、彼らはほとんど見向きもしなかった。二人は何ごとか話しあっていた。ラスコーリニコフは腕ぐみをして、耳をすましはじめた。
「その女がよ、朝っぱらにおれんとこへ来やがったんだよ」と年上のほうが若いほうに言った。「とてつもなく早くさ、すっかりおめかししてよ。《おい、いやになれなれしいじゃないか、なんだっておれにそうべたつくんだい?》と言ってやったら、言い草がいいじゃないか。《ねえ、チート・ワシーリエヴィチ、今日からあたし、あんたの思いのままになりたいのよ》だってさ。とまあ、こういうわけよ! そのめかしッ振りったら、まったく、ジャーナルだよ、ジャーナルそっくりなのさ!」
「なんだいそれぁ、兄貴、そのジャーナルってさ?」と若いほうが聞いた。彼はどうやら《兄貴》にいろいろと仕込まれているらしい。
「ジャーナルか、それはな、おめえ、きれいな色のついた絵のことよ。土曜日ごとに、郵便でさ、外国からここの仕立屋に送られてくるんだ。つまりだな、誰がどんな服を着たらいいか、男のおしゃれはどうするか、女のおしゃれはどうするかってなことが、書いてあるのさ。まあ、スケッチみたいなもんだ。男のほうはたいていすその長い外套を着ているが、女のほうときたら、おめえ、その豪勢な衣装ったら、おめえの全財産をはたいても、とても買えるしろものじゃねえよ!」
「まったくこのピーテルにゃないってものがねえんだなあ!」と若いほうが嬉しそうに目を輝かせて叫んだ。「親父《おやじ》とおふくろのほかは、なんでもあるよ!」
「うん、そいつのほかは、おめえ、なんでもあるよ」と年上のほうが教えさとすように言った。
ラスコーリニコフは立ち上がって、まえにトランクや、寝台や、タンスのおいてあった次の間へ入って行った。家具がないので、部屋はおそろしく小さく見えた。壁紙はもとのままだった。隅のほうの壁紙に、聖像箱をおいてあった跡がはっきりのこっていた。彼はひとわたり見まわして、また窓のところへもどった。年上の職人が横目でじろじろ見ていた。
「おまえさん何用だね?」彼はラスコーリニコフのほうを向くと、いきなりこう尋ねた。
ラスコーリニコフは返事の代りに立ち上がると、入り口へ出て行って、呼鈴《よびりん》のひもをつかんで、ひっぱった。あの同じ呼鈴、あのときと同じブリキのような音! 彼は二度、三度とひっぱってみた。耳をすましていると、あのときの記憶がよみがえってきた。あのときの胸をえぐられるようなおそろしい、みだれにみだれた感覚が、ますますあざやかに生き生きと彼の記憶によみがえってきた。彼はひもをひくたびにぎくッと身体をふるわせた。そしてしだいに心が浮き浮きしてきた。
「何用だね? あんたは誰だ?」と職人は彼のほうへ出て行きながら、叫んだ。ラスコーリニコフはまた戸口へ入ってきた。
「部屋を借りたいと思ってね」と彼は言った。「見ているんだよ」
「夜なかに部屋を借りる物好きがあるかよ。それに、そんならそれでちゃんと庭番といっしょに来るんだな」
「床は洗っちまったね。ペンキは塗るの?」とラスコーリニコフはつづけた。「血のあとはもうない?」
「血ってなんだい?」
「そら、老婆と妹がここで殺されたろう。一面血の海だったんだよ」
「おまえさんはいったい誰だね?」と職人は不安になって叫んだ。
「ぼくかい?」
「そうだよ」
「きみは知りたいのかい?……いっしょに署へ行こう、あちらで話してやるよ」
職人たちは怪しむような目でじろじろ彼を見た。
「そろそろ引き上げようや、えらい手間どっちゃった。行こう、アリョーシカ。戸締り忘れるなよ」と年上のほうが言った。
「じゃ、行こうか!」とラスコーリニコフはひとごとのように言うと、先に立ってゆっくり階段をおりて行った。「おい、庭番!」彼は門のところまで来ると、大声で呼んだ。
数人の人々が通りに面した門の出口のあたりに突っ立って、ぼんやり通行人をながめていた。庭番が二人と、女と、ガウンを着た町人と、さらに二、三人の人々だった。ラスコーリニコフはつかつかとそちらへ歩いて行った。
「何用ですかな?」と門番の一人が応じた。
「署へ行ってきたかい?」
「いましがた行ってきたところですが。何かご用で?」
「署にみんないたかい?」
「いましたよ」
「副署長も?」
「ちょっといましたが。して何用ですね?」
ラスコーリニコフは返事をしないで、考えこんだまま、彼らといっしょに突っ立っていた。
「部屋を見に来たんだとさ」と年上の職人がそばへよって来て、言った。
「どこの部屋を?」
「おれたちがしごとしている部屋だよ。《どうして血を洗っちまったんだ? ここで人殺しがあったが、おれは借りようと思って来たんだ》とこうだよ。そして呼鈴を鳴らしだして、ひもがちぎれやしないかとひやひやだったよ。こんどは署へ行こう、あっちですっかり話すなんて言いだしてさ。うるさいったらねえのさ」
庭番は怪しむような目で、眉《まゆ》をしかめながらじろじろラスコーリニコフを見まわした。
「いったいあんたは誰だね?」庭番はますますむずかしい顔になって、どなりつけるように言った。
「ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ、元大学生です。このすこし先の横町にあるシールのアパートの十四号に住んでいます。庭番にきいてもらえば……わかる」ラスコーリニコフは相手のほうへ顔も向けず、暗くなってゆく通りにじっと目をすえたまま、なんとなくものうげな様子で憂欝そうに言った。
「が、なんだってあの部屋へ来たんだね?」
「見に来たのさ」
「何を見に?」
「いっそふんづかまえて、警察へしょっぴいてったらどうだ?」不意に町人がよこから口をだして、あわてて口をおさえた。
ラスコーリニコフは肩越しに冷やかな視線を投げて、じっとその町人を見つめていたが、やはりしずかにものうげな様子で言った。
「行きましょう!」
「そうだ、連れて行こう!」町人は元気づいて、ひったくるように言った。「どうしてあ《・》のこと《・・・》を言い出したんだ、何かかくしているんだよ、な?」
「酔ってるかどうか、わかりゃしねえよ」と職人が呟いた。
「いったい何がどうしたというんだ?」と、そろそろ本気で腹を立てだした庭番が、またどなりたてた。「なんだってそうからみつくんだ?」
「警察へ行くのがこわくなったのかい?」ラスコーリニコフはあざけるようなうす笑いをうかべながら言った。
「何がこわいんだ? うるさい野郎だな、いいかげんにしねえか!」
「たかり!」と女がどなった。
「よせ、相手にするだけむだだ」ともう一人の庭番が叫んだ。百姓外套を前はだけに着て、腰に鍵束をつるした大男である。「失《う》せろ!……たしかにたかり野郎よ……失せやがれ!」
そう言うと、彼はラスコーリニコフの肩をつかんで、通りへ突きとばした。ラスコーリニコフはひっくりかえりそうになったが、どうにか踏みこたえて、身体をたて直すと、黙ってしばらく見物人たちをにらんでいたが、やがて歩きだした。
「おかしな野郎だ」と職人が言った。
「この頃はおかしなのが多くなったよ」と女が言った。
「やはり警察へ連れて行きゃよかったんだ」と町人がつけ加えた。
「かかわりあいにならねえことだ」と大男の庭番が言った。「ああいう手合いはしまつがわるい! 自分でああ言ってるんだから、勝手にさせときゃいいんだよ、うっかりかかりあってみろ、それこそぬきさしならなくなってしまう……わかってるよ!」
《さて、行こうか、行くまいか》ラスコーリニコフは十字路のまん中に立ちどまって、誰かから最後の一言を待つようにあたりを見まわしながら、考えた。しかしどこからも何も聞えてこなかった。あたりは荒涼としてもの音ひとつなく、彼が踏んできた石畳のように死んでいた。彼には、彼だけにとっては死んでいた……不意に、遠くに、二百歩ほど先の通りの外れの濃くなってゆく闇の中に、彼は人々が群がる気配、話し声、叫びを聞きつけた……人ごみの中に馬車のようなものが見えた……通りの中ほどに小さなあかりがひとつちらちらしはじめた。《何だろう?》ラスコーリニコフは右へ折れて、人ごみのほうへ歩きだした。自分はどんなことにもからみつこうとしているようだ、そう思って、彼は冷たく笑った。というのは、もう警察行きをしっかりと決意していたので、もうじきすべてが終ると信じていたからであろう。
7
通りのまん中に、二頭のはやりたつ灰色の馬をつけた粋《いき》な高級軽馬車がとまっていた。乗客の姿はなかった。御者は御者台から下りて、馬車のそばに突っ立ち、馬は何人かの人々に轡《くつわ》をおさえられていた。そのまわりに黒山のような人だかりがして、いちばんまえに何人か巡査の姿が見えた。その巡査の一人が角灯を手にして、かがみこみながら、車輪のすぐそばの石畳の上にころがっている何ものかを照らしていた。群衆は口々に何かしゃべったり、叫んだり、溜息《ためいき》をついたりしていた。御者はまだ自分の目が信じられないような様子で、思いだしたようにくりかえした。
「なんて災難だ! やれやれ、えらい目にあったよ」
ラスコーリニコフはできるだけ人垣《ひとがき》の中にわりこんで、とうとう、この騒ぎと好奇心の的になっているものを見ることができた。地上にたったいま馬に踏みつぶされたばかりの男が、意識を失って倒れていた。どうやら、ひどく粗末ではあるが、《文官らしい》服装で、血まみれになっていた。顔からも、頭からも血が流れていた。顔は傷だらけで、皮がはげ、ひんまがっていた。相当ひどく踏まれたことは、明らかだった。
「旦《だん》那《な》がた!」と御者は泣き声で訴えた。「まったく不意だったんですよ! わしが馬をとばしてきたとか、どならなかったとかならともかく、ゆっくり並歩《なみあし》で来たんですからねえ。人間の目なんてまちがいやすいし、わしにしてもそうですが、なにしろみんなが見ていたんだから。酔っぱらいがあかりなんて持ってないことは――わかりきったはなしだ!……見るとこの飲んだくれが、ひょろひょろと、いまにもぶっ倒れそうな格好で、通りを横切ろうとしている、――そこでわしはどなったんですよ、一度、二度、三度、そして急いで馬をとめたんだが、ところがこの男はまっすぐ馬のまえへ出てきて、勝手にぶっ倒れたんですよ! わざとやったのか、あるいは正体ないほど飲んだくれていたのか……馬は若いから、おびえやすい、――いきなりひっぱったが、この男がギャッとわめいたものだから――なおのことびっくりしてしまって……とうとうこんなことになっちゃったんですよ」
「たしかにそのとおりだ!」と群衆の中に御者の申し立てを証言する声が聞えた。
「どなった、まちがいない、三度どなった」ともうひとつの声が言った。
「たしかに三度だ、みんな聞いた!」とさらに別な声が叫んだ。
しかし、御者はそれほどしょげても、おびえてもいなかった。どうやらこの馬車は富裕な名士のもので、どこかで待っている主人を迎えに行く途中だったらしい。巡査たちも、いまはもうなんとか早く行かせたいものだと、苛々《いらいら》しはじめていた。ひかれた男を警察署か病院へ運ばなければならなかったが、誰《だれ》も被害者の名を知っている者がいない。
その間にラスコーリニコフは人垣をおしわけて、いっそう近くからのぞきこんだ。そのとき不意に角灯の光が怪我《けが》人《にん》の顔を明るく照らしだした。ラスコーリニコフはその顔に見おぼえがあった。
「ぼくはこのひとを知ってる、知ってる!」と彼は人をかきわけていちばんまえへ出ながら、叫んだ。「このひとは官吏です、退職の、九等官で、マルメラードフという名です! すぐこの近くの、コーゼルのアパートに住んでいます……早く医者を呼んでください! ぼくが払います、金はあります!」
彼はポケットから金をつかみだして、巡査に見せた。彼はおどろくほど興奮していた。
巡査たちは怪我人の身元がわかったのでほっとした。ラスコーリニコフは自分の姓名も名のり、住所を告げると、まるで自分の父のことのように、一刻も早く意識不明のマルメラードフをその住《すま》居《い》に運ぶように、夢中になって巡査にたのみはじめた。
「すぐそこです、四軒目です」と彼はやきもきしながら言った。「コーゼルのアパートですよ、ドイツ人の、金持の……このひとは、きっと、酔って家へもどる途中だったんです。ぼくはこのひとを知ってます……酒のみなんです……家には奥さんと、子供たちと娘が一人います。病院に連れてくまえに、とりあえず家へ、アパートにはきっと医者がいるでしょうから! ぼくが払います、払います!……なんといっても家族の看護がいちばんです、すぐに手当てをするでしょう、さもないと病院に行くまでに死んじまいます……」
そのうえ彼はうまくそっといくらかの金を巡査の手ににぎらせた。しかも事件ははっきりしていて、きまりきったことだし、いずれにしても、そのほうが手当てが早くできる。手をかす者が何人かでてきて、怪我人は抱きあげられ、運ばれて行った。コーゼルのアパートはそこから三十歩ほどだった。ラスコーリニコフはうしろにまわって怪我人の頭を注意深くささえ、道をおしえながら歩いて行った。
「こっちです、こっち! 階段は頭を上にしてのぼらなきゃ、さあまわってください……そうそう! お礼はしますよ、酒《さか》代《て》はだします」と彼は呟《つぶや》くように言った。
カテリーナ・イワーノヴナは、ちょっとでも暇があれば、両手を胸にしっかり組み、ぶつぶつひとりごとを言ったり、咳《せき》をしたりしながら、小さな部屋の中を窓辺から暖炉へ、暖炉から窓辺へと、歩きまわるのが癖になっていた。この頃《ごろ》はしだいに十歳《とお》になる上の娘のポーレチカを相手に話をすることが多くなった。ポーレチカはまだわからないことがたくさんあったけれど、その代り母に何が必要なのかは、わかりすぎるほどわかっていた、だからいつも大きな利口そうな目で母の姿を追いながら、一生けんめいに何でもわかっているような振りをしようと努めるのだった。そのときポーレチカは、一日中身体《からだ》ぐあいのよくなかった小さな弟を寝かせつけようと思って、服をぬがせているところだった。弟は、夜洗ってもらうシャツをぬいで別なのを着せてもらう間、椅子《いす》に腰かけてものも言わず、気むずかしい顔をして、背をしょきっ《・・・・》とのばしてじっとしたまま、踵《かかと》をしっかりつけて爪《つま》先《さき》をひらいた小さな足を前方へつき出していた。彼は利口な子が寝るまえに着替えをさせられるとき、いつもそうしなければならないように、小にくらしいほどきちんと腰かけ、身動きもしないで、小さな唇《くちびる》をとがらし、目を皿《さら》のようにして、母と姉の話を聞いていた。その下の妹は、もう色も形もわからないようなぼろを着て、衝立《ついたて》のそばに立って、自分の番を待っていた。階段へ通じるドアは、ほかの部屋部屋から波のように流れこんで、絶えず哀れな肺病女に長いこと咳きこませて死ぬ思いをさせる煙草《たばこ》のけむりを、せめていくらかでも逃がすために、開けはなされていた。カテリーナ・イワーノヴナはこの一週間でめっきり痩《や》せ、頬《ほお》の赤い斑点《ぶち》がまえよりもいっそう赤くなったようだ。
「おまえはほんとにしないだろうし、想像もできないだろうけどねえ、ポーレンカ」と彼女は部屋の中を歩きまわりながら言った。「おじいさまの家に暮していた頃は、それはそれは楽しく、華やかだったんだよ、それをあの飲んだくれが、わたしをすっかりだめにしてしまい、それにおまえたちまでだめにしてしまうなんて! おじいさまは五等文官だから、軍人なら連隊長というところ、もうすぐ、それこそもう一息で県知事になるところだったんだよ。だからみんなおじいさまのところへ来ては、《イワン・ミハイルイチ、わしらはもうあんたを、わしらの県知事と思っとりますわい》なんて言ったものだよ。わたしが……ごほん! わたしが……ごほん、ごほん、ごほん……ああ、ほんとにくさくさしてしまう!」彼女は痰《たん》を吐きだしながら、胸をおさえて叫んだ。「わたしが……そうそう、最後の舞踏会のときだったよ……貴族会長さんのお宅で……ベズゼメリナヤ公爵《こうしゃく》夫人がわたしを見かけると、――このお方はのちにわたしがおまえのお父さんと結婚したとき、祝福してくださったんだよ、ポーリャ、――すぐに《このひとは、卒業式のときにヴェールをもって踊ったあのかわいいお嬢さんじゃないかしら》ってお尋ねになったんだよ……(そのほころび縫わなきゃだめよ。すぐに針をもってきて、教えたとおりにかがりなさい、明日になったら……ごほん! 明日……ごほん、ごほん、ごほん!……もっとひどく……さけっちまうよ!)」と彼女は苦しそうに身体をよじりながら大きな声を出した。「侍従武官のシチェゴリスキー公爵は当時まだペテルブルグからおもどりになったばかりでねえ……わたしとマズルカをお踊りになって、明日結婚申し込みにうかがいますなんておっしゃったんだよ。でもわたしはていねいにおことわり申し上げて、わたしの心はもう他《ほか》の方のものですから、と言ったんだよ。その他の方というのがおまえのお父さまだったのだよ、ポーリャ。おじいさまがひどく怒ってねえ……お湯はわいたかい? じゃ、シャツをお出し、靴下《くつした》は?……リーダ」と彼女は下の娘のほうを向いた。
「しかたがない、今夜はシャツを着ないでおやすみね、なんとか寝られるわね……それから靴下を出しておおき……いっしょに洗うから……どこをうろついてるんだろうね、ぼろぼろの飲んだくれは! シャツを着つぶして、雑巾《ぞうきん》みたいなぼろにしてしまって……みんないっしょに洗ってしまいたいよ、二晩もつづけて苦労するなんていやだからねえ! おや! ごほん、ごほん、ごほん! また! 何ごとですの?」と彼女は、入り口の群衆と、部屋へ何か運びこもうとしている人々を見て、叫んだ。「それは何なの? 何をもちこむの? ああ!」
「どこへおきましょうかな?」血まみれで意識不明のマルメラードフを部屋の中へ運びこむと、巡査はあたりを見まわしながら、こう尋ねた。
「ソファへ! かまわずソファへ下ろしてください、頭をこっちにして、そうそう」とラスコーリニコフが指図した。
「通りでひかれたんだ! 飲んだくれて!」と入り口で誰かが大声で言った。
カテリーナ・イワーノヴナは蒼白《そうはく》になって突っ立ったまま、苦しそうに肩で息していた。子供たちはおびえきってしまった。小さなリードチカはわッと叫ぶと、ポーレンカにとびついて、しっかりしがみつき、がたがたふるえだした。
マルメラードフをねかせると、ラスコーリニコフはカテリーナ・イワーノヴナのまえへかけよった。
「どうか、心配なさらないでください、びっくりしないでください!」と彼は早口に言った。「通りを横切ろうとして、馬車にはねられたんです、心配はいりません、すぐ気がつきます、ぼくがここへ連れて来《こ》させたんです……ぼく一度ここへお邪魔したことがあるもんですから、おぼえてますか……いまに気がつきますよ、払いはぼくがします!」
「とうとうやったわね!」と絶望的に叫ぶと、カテリーナ・イワーノヴナは夫のそばへかけよった。
ラスコーリニコフはじきに、この女はすぐ失神するような女ではないことを知った。すぐに不幸な怪我人の頭の下に枕《まくら》があてがわれた――これはまだ誰も気がつかなかったことだ。カテリーナ・イワーノヴナは怪我人の着ているものをぬがせて、傷をあらためはじめた、そして自分のことは忘れてしまって、ふるえる唇をかみしめ、胸の中からほとばしり出そうになる叫びをおさえながら、あれこれといそがしく気をくばり、とりみだした様子はなかった。
ラスコーリニコフはその間にそこにいあわせた誰とも知らぬ男をたのみおとして、医者に走ってもらった。医者は一軒おいてとなりに住んでいるということだった。
「医者を呼びにやりました」と彼はカテリーナ・イワーノヴナに、何度もくりかえした。「心配なさらないでください、ぼくが払います。水はありませんか?……それからナプキンでも、タオルでも、何でもいいから早くください、傷の様子がまだわからないのです……怪我しただけです、死んではおりません、ほんとうです……医者がどう言いますか!」
カテリーナ・イワーノヴナは窓際《まどぎわ》へとんでいった。そこの隅《すみ》にはひしゃげた椅子の上に、夜子供たちや夫の下着を洗うために用意した湯が瀬戸引きのたらいに入れておいてあった。この真夜中の洗濯《せんたく》は、カテリーナ・イワーノヴナが自分で、少なくて週に二回、時にはもっと多くやっていたのだった。というのは着替えはもうぜんぜんなく、家族一人が一枚というどん底まできてしまっていたが、カテリーナ・イワーノヴナは汚なくしておくのが堪えられない性質で、家の中で汚れものを見ているよりは、たとえ毎夜みんなが寝ている間に、力にあまる労働で自分を苦しめても、朝までに張りわたした綱にかけて濡《ぬ》れた洗濯ものをかわかし、きれいな下着をきせたほうがましだと、自分に言いきかせていたからである。彼女はラスコーリニコフに言われたので湯を運ぼうとして、たらいをもちあげたが、そのままふらふらと倒れかかった。だが、ラスコーリニコフはもうタオルを見つけて、水にひたし、マルメラードフの血で汚れた顔をふきはじめていた。カテリーナ・イワーノヴナは苦しそうにやっと息をしながら、しっかり胸をおさえて、その場に立ちつくしていた。彼女自身が助けが必要であった。ラスコーリニコフは、怪我人をここへ運べと主張したことが、まちがいであったかもしれないと、気がつきはじめた。巡査も困ったような顔をして突っ立っていた。
「ポーリャ」とカテリーナ・イワーノヴナが叫んだ。「ソーニャを呼びに行っておいで、大急ぎで。家にいなかったら、かまわないから、誰かにたのむんだよ、お父さんが馬車にひかれたから、帰ったら……すぐくるようにって。早く、ポーリャ! そら、このプラトークをかぶってお行き!」
「息のかぎり走るんだよ!」と不意に弟が椅子の上から叫んだ、そしてそれだけ言うと、またもとのしょきっとした坐《すわ》り方《かた》にもどって、目を皿のようにして、踵をつけて爪先を開いた小さな足をつきだしたまま、黙りこんでしまった。
そのうちに部屋の中はリンゴをおとす隙《すき》間《ま》もないほど、人でいっぱいになった。巡査たちはかえっていったが、一人だけあとにのこって、階段からおしかけてくる群衆をまた階段へ追っ払うのにやっきとなっていた。その代り奥のほうの部屋部屋からは、リッペヴェフゼル夫人の間借人たちがほとんど全部こぼれ出てきて、はじめのうちはドアのあたりにひしめきあっていたが、そのうちにどやどやと部屋の中へなだれこみはじめた。カテリーナ・イワーノヴナはかっとなった。
「せめて死ぬときくらい、しずかにしてやったらどうなの!」と彼女は群衆にどなった。「見世物じゃないわよ! 煙草なんかくわえて! ごほん、ごほん、ごほん! いっそ、帽子もかぶってきたらどうなの! ……おや、ほんとに帽子をかぶったのがいるわね、一人……出てけ! 死んだ者に礼儀くらいまもりなさい」
咳が彼女ののどをつまらせたが、おどしはききめがあった。どうやら、カテリーナ・イワーノヴナがすこし恐《こわ》くさえなったらしく、間借人たちはひそかに奇妙な満足感を味わいながら、つぎつぎと戸口のほうへ後退《さが》って行った。それは近親者の突然の不幸に際して、もっとも近しい人々でさえかならずおぼえる感情で、どんなに身につまされて心の底から同情したところで、やっぱり誰一人まぬかれることのできないものなのである。
そのときドアの外で、病院へやったほうがいいとか、ここでただあたふたしていてもしようがないとかいう声々が聞えた。
「ここで死んじゃいけないの!」と叫ぶと、カテリーナ・イワーノヴナは思うさま怒りをぶちまけてやろうと思って、ドアを開けにすっとんでいった、とたんに、戸口のところでリッペヴェフゼル夫人につきあたった。夫人はたったいま不幸を聞きつけて、騒ぎをしずめにかけつけたのだった。これがまたひどいがみがみで、ぶちこわしばかりしているドイツ女なのである。
「あッ、びっくりした!」彼女はパチッと両手をうちあわせた。「ご主人が酔って馬車にひかれたんだってねえ。すぐ病院へつれて行きなさい! わたしは管理人です!」
「アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ! 失礼ですが、よく考えてからものを言ってください」とカテリーナ・イワーノヴナは見下すような態度で口を開いた(彼女はおかみに対しては、《その身分を思い知らせる》ために、いつも見下すような口のきき方をしたが、こんなときでさえこの満足感をすてることができなかったのである)。「アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ……」
「わたしをアマリヤ・リュドヴィーゴヴナと呼ぶことはぜったいにおことわりしますと、あなたには一度はっきりと言いわたしたはずです。わたしはアマリ・イワンです!」
「あなたはアマリ・イワンじゃありません、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナです。それにわたしは、いまドアのかげで笑っているレベジャートニコフのような、(ドアのかげでは、たしかに、笑い声と、《さあ、からみあったぞ!》と叫ぶ声が聞えた)あなたの卑劣な取巻きとはちがいますから、いついかなるときでも、あなたをアマリヤ・リュドヴィーゴヴナと呼びますわよ、もっともわたしには、どうしてこの名前があなたのお気に召さないのか、さっぱりわかりませんがね。見たらおわかりでしょう、セミョーン・ザハールイチがどんなことになったのか、いま死にかけているのですよ。どうかいますぐこのドアをしめて、誰も入れさせないでください。せめてしずかに死なせてやってください! さもないと、いいですか、明日あなたの仕打ちが県知事閣下のお耳に入りますよ。公爵はわたしをまだ娘のころからご存じですし、セミョーン・ザハールイチのことはよくおぼえていてくださいまして、何度もお目をかけてくださったんですよ。セミョーン・ザハールイチにはお友だちやお世話くださる方々がたくさんおりましたことは、みなさんご存じです、ただ主人は自分の不幸な弱味を知っておりましたので、高潔な自尊心から、すすんで身をひいたのです。でもいま(彼女はラスコーリニコフを指さした)この親切な若いお方がわたしたちを助けてくださいます。この方は財産も、りっぱなご親類もおありになって、セミョーン・ザハールイチがまだ小さい時分から存じあげていたお方です。ですから、はっきり申しますが、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ……」
これがみなおそろしい早口でしゃべられ、しかもしゃべりすすむにつれて、ますます早くなったが、咳が一挙にカテリーナ・イワーノヴナの雄弁をたちきってしまった。そのとき死にかけていた怪我人が気がついて、うめき声を立てた。彼女はとっさにそちらへかけよった。怪我人は目を開いたが、まだ何も見わけられず、何もわからないらしく、枕もとに立っているラスコーリニコフの顔をしげしげと見まもりはじめた。彼はときおり苦しそうに、深い息をついた。唇の両端に血がにじみ出し、額に汗がういてきた。ラスコーリニコフが見わけられないで、彼は不安そうに目をあたりへ動かしはじめた。カテリーナ・イワーノヴナは悲しそうな、しかしきびしい目でじっと彼を見つめていた、そしてその目から涙が流れおちていた。
「まあ! 胸がすっかりつぶされて! ひどい血!」と彼女は絶望的に呟いた。「上衣《うわぎ》をすっかりとってあげなくちゃ! セミョーン・ザハールイチ、動けたら、ちょっとそっちを向いて」と彼女は叫ぶように言った。
マルメラードフは妻に気がついた。
「坊さまを!」と彼はかすれた声で呟いた。
カテリーナ・イワーノヴナは窓辺へ行くと、額を窓枠《まどわく》におしつけて、やけ気味に叫んだ。
「ああ、いやな世の中だ!」
「坊さまを!」しばらくすると、病人がまた呟いた。
「迎えにやりましたよォ!」とカテリーナ・イワーノヴナは病人にどなった。病人はどなられておとなしくなり、おどおどした悲しそうな目で、彼女の姿をさがしはじめた。彼女はまたそばへもどって、枕もとに立った。彼はすこし落ち着いたが、それも長くはつづかなかった。すぐに彼の目は、隅っこで発作をおこしたようにがくがくふるえながら、おびえきった子供の目をじっと彼にあてている、小さなリードチカの上にとまった。リードチカは彼の大好きな娘だった。
「あ……あ……」彼は不安そうにそちらを目でおしえた。何か言いたいらしかった。
「何ですの?」とカテリーナ・イワーノヴナが大声で聞いた。
「はだし! はだしだよ!」と彼はにごったうつろな目で少女の小さなむきだしの足をしめしながら、口の中で呟いた。
「おだまりッ!」とカテリーナ・イワーノヴナは足を踏みならして叫んだ。「どうしてはだしか、知ってるでしょ!」
「よかった、医者だ!」とラスコーリニコフはこおどりして叫んだ。
けげんそうな顔であたりを見まわしながら、医者が入ってきた。きちんとした小さな老人で、ドイツ人の医者だった。彼は怪我人のそばへよると、脈をみ、注意深く頭にさわってみてから、カテリーナ・イワーノヴナに手伝わせてすっかり血のにじんだシャツのボタンを外して、病人の胸をはだけた。胸は一面かたちがわからないほどぐさぐさにつぶれ、右側の肋骨《ろっこつ》が何本か折れていた。左側のちょうど心臓のあたりに、無気味な大きな赤黒いあざがあった。はげしく蹄《ひづめ》に蹴《け》られたあとである。医者は眉《まゆ》をひそめた。巡査は、怪我人が車輪にまきこまれて、ふりまわされながら、舗道の上を三十歩ほどひきずられたと、医者に語った。
「これで意識をとりもどしたのが、不思議なくらいですよ」と医者はそっとラスコーリニコフにささやいた。
「で、どうでしょう?」とラスコーリニコフは聞いた。
「もうすぐだめでしょう」
「もうぜんぜん見込みがないでしょうか?」
「絶望です! もう息をしてるというだけです……それに頭がひどくやられています……ふむ、あるいは、放血したらよいかもしれん……が……まあむだでしょう。もうもっても五分か十分です」
「じゃ、放血したらいいじゃありませんか!」
「あるいはね……しかし、おことわりしますが、ぜったいにむだですよ」
そのときさらに足音が聞えて、入り口の人垣がわれ、予備の聖体をもった司祭があらわれた。小さな白髪《しらが》の老人だった。つづいて通りからいっしょの巡査が一人入ってきた。医者はすぐに司祭に場所をゆずって、意味ありげな視線を交わした。ラスコーリニコフは、あとしばらくでいいからここにいてくれと、おがむようにして医者をひきとめた。医者は肩をすくめて、その場にのこった。
みんなうしろへさがった。懺《ざん》悔《げ》はすぐにおわった。いま死のうとする者に何がわかったろう、その口からはとぎれとぎれに、不明瞭《ふめいりょう》な音が出ただけであった。カテリーナ・イワーノヴナはリードチカの手をとり、椅子から男の子を抱きあげると、隅の暖炉のまえへ行って、ひざまずき、子供たちを自分のまえにひざまずかせた。女の子はただふるえているばかりだが、男の子はむきだしの膝《ひざ》こぞうをついて、拍子をとりながら小さな手をさしあげ、大きな十字を切り、おじぎをしておでこをコツンコツン床にぶっつける動作をくりかえしていた。どうやらそれがすっかり気に入ったらしかった。カテリーナ・イワーノヴナは唇をかみしめて、涙をこらえていた。彼女もときどき男の子のシャツを直してやりながら、祈っていた、そしてひざまずいて祈りをあげながら、手をのばしてタンスから三角のショールをとり出し、あまりにむきだしすぎる女の子の肩にそっとかけてやった。そのうちにまた奥のほうの部屋のドアがいくつか、物好きな連中にあけられはじめた。入り口のほうには各階から集まってきた人々が、あとからあとからつめかけて、ひしめきあって中をのぞきこんでいたが、それでもしきいを踏みこえて入ってくる者はなかった。たった一本の燃えのこりのろうそくがそれらの情景を照らしていた。
ちょうどそのとき入り口から、姉を迎えに行ったポーレチカが人垣をぬってかけこんできた。ポーレチカは部屋へ入ると、急いで走ってきたために息をきらしながら、プラトークをとって、目で母をさがし、そばへいって、《くるよ! 道で会ったの!》と告げた。母は彼女を自分のそばにひざまずかせた。人垣の中から、しずかにおずおずと、一人の娘がすりぬけてきた、そして貧とぼろと死と絶望がこもっているこの部屋の中に、彼女が突然あらわれたことは、なにか異様な感じがした。彼女も着ているものは粗末だった。服装は安ものだが、妙にけばけばしく、その特殊な世界にひとりでに作りあげられた趣味と慣例を反映して、そのいやしい目的がどぎつくむきだしにでていた。ソーニャは控室へ入るとしきい際《ぎわ》に立ちどまって、なかへ入ろうともせず、何も意識しないらしく、ぼんやりながめていた。彼女は自分がいかにもこのような場にふさわしくない、何人もの古着屋の手をへた、滑稽《こっけい》な長いしっぽのついたけばけばしい絹の衣装を着ていることも、とほうもなくふくらんだスカートをはいて、入り口をすっかりふさいでいることも、派手な靴をはいていることも、夜は必要もないパラソルを持っていることも、燃えるような赤い羽根のついた奇妙なまるい麦わらの帽子をかぶっていることも、すっかり忘れてしまっていた。この男の子のように横っちょにかぶった帽子の下から、ポカンと口をあけ、恐怖のあまり目がすわってしまった、痩せて蒼白《あおじろ》いおびえきった小さな顔がのぞいていた。ソーニャは十七、八で、痩せて小さかったが、かなりきれいなブロンドの娘で、青い目はとくにすばらしかった。彼女は寝台と司祭をじっと見つめていた。彼女も走ってきたために息をきらしていた。そのうちにやっと、群衆のひそひそ話しあう声や、いくつかの言葉が、彼女の耳にとどいたらしい。彼女は目をふせて、一歩しきいをまたいで、室内へ入ったが、またすぐそのままドアのところに立ちどまった。
懺悔と聖餐式《せいさんしき》がおわった。カテリーナ・イワーノヴナはまた夫の寝台のそばへ近よった。司祭はあとへさがって、帰りかけながら、カテリーナ・イワーノヴナにはなむけと慰めの言葉を二言三言囁《ささや》いた。
「これたちをどうしたらいいの?」と彼女はいきなりヒステリックに司祭の言葉をさえぎって、小さな子供たちを指さした。
「神は慈悲深い。主のお助けにすがりなさい」と司祭は言いかけた。
「ええッ! 慈悲深くたって、わたしたちにゃとどきませんよ!」
「そんなことを言ってはいけません、罪ですよ、奥さん」司祭は頭をふりながら、たしなめた。
「じゃ、これは罪じゃないの?」カテリーナ・イワーノヴナは息をひきとろうとする夫を指さしながら、叫んだ。
「おそらく、心ならずもこのできごとの原因になった人々が、あなたへの償いを承諾なさるでしょう、せめて収入の道を失った償いだけでもな……」
「あなたはわたしの言う意味がわからないのよ!」カテリーナ・イワーノヴナは手をふって、じりじりしながら叫んだ。「それに、償いなんて何のためですの? だって、このひとは飲んだくれて、自分から馬車の下へはいこんだんじゃありませんか! それに、収入って何ですの? このひとが持ってきてくれたのは、収入じゃありません、苦しみだけでした。飲んだくれで、すっかり飲んでしまったんですもの。家の中のものをすっかり持ちだして、居酒屋へはこび、この子たちとわたしの生涯《しょうがい》を居酒屋へつぎこんでしまったんですよ! 死んでくれて、ありがたいわ! ものいりが減りますもの!」
「死ぬまえには許してあげなければなりません、そんなことを言うのは罪ですぞ、奥さん、そんな気持をもつことは大きな罪ですぞ!」
カテリーナ・イワーノヴナはせかせかと小まめに病人の世話をしていた。水を飲ませたり、顔の汗や血をふいてやったり、枕のぐあいを直してやったりしながら、その合間に思いだしたように司祭と話をしていたのだった。それがいま突然、まるで気が狂ったようになって、司祭にくってかかった。
「ええ、お坊さま! 言うだけなら何とでも言えますよ! 許してあげなさいって! 今日だってひかれなかったら、飲んだくれてかえってきたでしょうよ。シャツだってぼろぼろに着古したのが一枚しかないんです。このひとはぶっ倒れてそのまま寝てしまうでしょうが、わたしは明け方まで水へ手をつっこんで洗濯しなきゃならないのです。このひとや子供たちのぼろを洗い、窓の外に乾《ほ》し、夜明けをまつようにしてつぎをあて、――これがわたしの夜ですよ!……これほどにしてるわたしに、許せだなんて、何をそらぞらしい!それだって許してきました!」
深いおそろしい咳が彼女の言葉をたちきった。彼女はハンカチの中に痰をはき、片手で痛いほど胸をおさえながら、それを司祭のほうへつきだした。ハンカチは血にそまっていた……
司祭は頭を垂れて、何も言わなかった。
マルメラードフは臨終の苦しみに入っていた。彼は、またかぶさるようにして上からのぞきこんだカテリーナ・イワーノヴナの顔から、目をはなさなかった。彼はしきりに何か言いたそうにして、やっと舌をうごかしながら、わからぬ言葉で何やら言いだしかけたが、カテリーナ・イワーノヴナは、彼が許しを請《こ》おうとしていることを察して、すぐに命令するように大声で言った。
「黙ってらっしゃい! いいのよ!……わかりますよ、あなたの言いたいことは!……」
病人は口をつぐんだ、がそのとき、彼のさまよう視線がドアへおちて、彼はソーニャを見た……
そのときまで彼はソーニャに気づかなかった。彼女は片隅にかくれるように立っていたのだった。
「あれは誰? あれは誰?」不意に彼はかすれた声であえぎながら呟くと、急にそわそわしだして、恐ろしそうに目で娘が立っているドアのあたりを示しながら、しきりに身を起そうともがいた。
「ねてなさい! じっとしてなさい!」とカテリーナ・イワーノヴナは叫ぼうとした。
ところが彼は、人間のものとは思われぬほどの力をふりしぼって身体をもたげ、片肘《かたひじ》をついた。彼はしばらく、自分の娘がわからないように、うごかぬ目でぼんやり見つめていた。さもあろう、こんな服装の娘を、彼は一度も見たことがなかったのである。と不意に、彼はそれが自分の娘であることがわかった。さげすまれ、ふみにじられ、おめかしして、そんな自分を恥じながら、死の床の父と永別の番がくるのをつつましく待っている娘。はかり知れぬ苦悩が彼の顔にあらわれた。
「ソーニャ! 娘! 許してくれ!」と叫んで、彼は娘のほうへ手をさしのべようとした、が、支えを失って、ソファから前のめりにどさッと床へおちた。急いで抱きおこし、ソファへねかせたが、もう虫の息だった。ソーニャはあッとかすかに叫んで、かけより、父を抱きしめると、そのまま意識がうすれてしまった。彼はソーニャの腕の中で息をひきとった。
「やっと思いどおりになったのね!」とカテリーナ・イワーノヴナは夫の死体を見て、叫ぶように言った。「さあ、これからどうしよう! 葬式をどうしてだしたらいいのかしら! それよりこの子たち、この子たちを明日からどうして食べさせよう?」
ラスコーリニコフはカテリーナ・イワーノヴナのそばへ歩みよった。
「カテリーナ・イワーノヴナ」と彼は言った。「先週あなたの亡《な》くなられたご主人が、身の上話や家庭のことなどをすっかりぼくに聞かせてくれました……ご安心なさい、あなたのことはそれはもう心底から尊敬しながら語っておりました。その夜から、つまりご主人はああした気の毒な弱点はありますが、それでもどんなにあなた方の身を案じ、特にカテリーナ・イワーノヴナ、どんなにあなたを尊敬し、そして愛しているか、ということを知ったそのときから、ぼくとご主人は親しい友だちになったのです……ですから、失礼ですがぼくに……何かお役に立たせてもらいたいのです……亡くなった親しい友への義務を果す意味において。いまここに……たしか二十ルーブリあるはずです、これがいくぶんでもあなたのお役にたちましたら、ぼくは……それで……要するに、では……また寄ります……きっと寄ります……もしかしたら、明日また寄るかもしれません……じゃ、さようなら!」
そう言うと彼はそそくさと部屋をとび出し、人ごみをかきわけながら階段のほうへ急いだ。ところが人ごみの中で、思いがけなく、ニコージム・フォミッチとばったり顔をあわせた。彼は不幸を聞いて、自分でなんとか処理しようと出向いてきたのだった。警察署の一幕以来顔をあわせていなかったが、ニコージム・フォミッチはひと目で彼がわかった。
「あ、あなたでしたか?」と彼はラスコーリニコフに言った。
「死にました」とラスコーリニコフは答えた。「医者は来ましたし、司祭は来ましたし、万事しきたりどおりにすみました。ひどく気の毒な女です、あまり気をつかわせないでやってください、それでなくても肺病で気が立っているんですから。できたら、元気づけてやってください……だって、あなたは慈善家でしょう、知ってますよ……」と彼はじっと相手の目を見つめながら、うす笑いをうかべてつけ加えた。
「おや、しかし、大分血がつきましたな」とニコージム・フォミッチは廊下の角灯のあかりで、ラスコーリニコフのチョッキに生々しい血のあとがいくつかついているのに気がついて、注意した。
「ええ、つきました……血まみれですよ!」ラスコーリニコフは一種異様な表情でこういうと、にやりと笑って、会釈《えしゃく》をして、階段を下りて行った。
彼はぞくぞくするような興奮につつまれながら、ゆっくりした足どりでしずかに下りて行った。そして彼は自分ではそれを意識しなかったが、不意におしよせてきたあふれるばかりに力強い生命の触感、ある未知のはてしなく大きな触感にみたされていた。その感じは、死刑を宣告された者が、不意に、まったく思いがけなく特赦を申しわたされたときの感じに似ている、といえるかもしれぬ。階段の中ほどで、帰りを急ぐ司祭が彼に追いついた。彼は黙って会釈を交わして、司祭を先へやった。しかしもうあと数段というところで、彼は不意に背後にあわただしい足音を聞いた。誰かが追いかけてきた。ポーレチカだった。少女はうしろから走りながら、彼を呼んだ。
「ねえ! 待って!」
彼は振り返った。少女は最後の階段をかけ下りてきて、つきあたりそうになって、彼の一段上にぴたッととまった。庭のほうから淡い光がさしていた。ラスコーリニコフは痩せているが、かわいらしい少女の小さな顔に目をこらした。少女はにこにこ彼に笑いかけて、子供っぽい明るい目で彼を見つめた。少女は何かたのまれてかけてきたらしく、自分でもそのたのまれごとが嬉《うれ》しくてたまらない様子だった。
「ねえ、おじさんの名前なんていうの?……それからもひとつ、おうちはどこ?」少女はせかせかと息をきらしながら聞いた。
彼は少女の肩に両手をかけて、胸のあたたまるような思いで少女を見つめた。少女を見つめているとなんともいわれぬいい気持だった。――それがなぜかは、自分でもわからなかった。
「誰に言われてきたの?」
「ソーニャ姉さんに言われたのよ」と少女はますます嬉しそうに笑いながら、答えた。
「おじさんもそう思ってたよ、きっとソーニャ姉さんだろうって」
「ママも言ったのよ。ソーニャ姉さんがあたしをよこそうとしたら、ママがそばへきて、《ポーレチカ、早くかけてお行き!》って言ったわ」
「きみはソーニャ姉さんが好きかい?」
「誰よりも好きよ!」とポーレチカはびっくりするほどきっぱりと言った。そして微笑が急にまじめくさくなった。
「じゃおじさんは好きになってくれる?」
返辞の代りに、彼は近づけられる少女の小さい顔と、接吻《せっぷん》するためにあどけなくつきだされたぽっちゃりした唇を見た。不意に少女のマッチのように細い手が、彼をかたくかたく抱きしめ、頭を彼の肩にうずめた、そして少女はますます強く顔をおしつけながら、しくしく泣きだした。
「パパがかわいそう!」少女は一分ほどすると、泣きぬれた小さな顔をあげて、両手で涙をぬぐいながら言った。「この頃はほんとに不幸なことばかりつづいたのよ」少女はだしぬけにことさら気むずかしい顔をして言いたした。それは子供が急に《大人》のような口をきこうとするとき、つくろおうとつとめる顔だった。
「お父さんはきみをかわいがってくれた?」
「お父さんはリードチカを誰よりもいちばんかわいがったわ」少女はもうすっかり大人のような口のきき方で、ひどくまじめな顔で、にこりともしないでつづけた。「だって、あの子は小さいし、それに弱かったからよ、あの子にはしょっちゅうおみやげを買ってきてくれたわ。あたしたちには本を読むことをおしえてくれたの。あたしには文法と聖書」と少女は誇らしげにつけたした。「お母さまは何も言わなかったけど、でも内心ではそれを喜んでいることを、あたしたちは知ってたわ、お父さんも知ってたのよ。お母さんはあたしにフランス語をおしえたがってるの、だってあたしもう教育を受ける年齢《とし》なんですもの」
「お祈りはできる?」
「あら、どうして、できるわよ! もうまえからよ。あたしはもう大人みたいに、ひとりで口の中でお祈りするけど、コーリャとリードチカはお母さんといっしょに声をだして祈るのよ。はじめ《聖母マリヤ》をとなえて、それから《神よ、ソーニャ姉さんをゆるし、祝福をたれたまえ》というお祈り、それからもうひとつ、《神よ、われらのいまの父をゆるし、祝福をたれたまえ》だってあたしたちのもとのお父さんはもうずっとまえに亡くなったんだもの、いまのは二度目のお父さん、でももとのお父さんのお祈りもするわ」
「ポーレチカ、ぼくの名はロジオンというんだよ。いつかぼくのことも祈っておくれね。《しもべロジオンをも》って、それだけでいいから」
「あたしこれから一生のあいだあなたのことをお祈りするわ」と少女は熱をこめて言った、そして不意にまたニコッと笑うと、とびついて、もう一度かたく彼を抱きしめた。
ラスコーリニコフは少女に名前と住所をおしえて、明日かならず寄ることを約束した。少女は彼にすっかり夢中になってもどって行った。彼が通りへ出たときは、十時をまわっていた。五分後に彼は橋の上にたたずんでいた。さっき女が身を投げた、ちょうどあの場所である。
《もうたくさんだ!》彼はきっぱりとおごそかに言った。《幻影、仮想の恐怖、妄想《もうそう》よ、さらばだ!……生命がある! おれはいま生きていなかったろうか? おれの生命はあの老婆とともに死にはしなかったのだ! 老婆の霊に冥福《めいふく》あれ――それで十分だ。お婆《ばあ》さん、どうせお迎えが来る頃だったのさ! さあ、理性と光明の世界にたてこもるぞ……さらに意志と、力の……これからどうなるか! しのぎをけずってみようじゃないか!》彼はある見えない力にむかって挑戦《ちょうせん》するように、ふてぶてしく言った。《おれはもう二本の足がやっとの空間に生きる決意をしたのだ!》
《……おれはいまひどく弱っている、が……病気はすっかりなおったようだ。なおるだろうとは、さっき家を出たときから、わかっていたんだ。ところで、ポチンコフのアパートは、ここから二歩だ。なに二歩が百歩でも、ぜったいにラズミーヒンのところへ行くぞ……賭《か》けに勝たせてやれ!……得意がるだろうが……なあに、いいさ!……力だ、力が必要だ、力がなければ何もできん。ところでその力を得るには力が必要なのだが、それがあいつらにはわからんのだ》彼は傲然《ごうぜん》と自信ありげに言うと、やっと足をひきずりながら、橋をはなれて行った。傲慢と自信が彼の内部に秒一秒成長してきた、そして一分後にはもう先ほどの人間とはがらりと変ってしまった。それにしても、いったいどんな変ったことが起ったのか、何が彼を一変させたのか? 彼は自分でもわからなかった。一本のわらにすがっていた彼に、突然、《生きることができる、まだ生命がある、おれの生命は老婆とともに死にはしなかったのだ》という考えがひらめいたのである。あるいは、彼は結論を急ぎすぎたかもしれないが、それを彼は考えなかった。
《だがさっき、しもべロジオンのために祈ってくれと頼んだじゃないか》不意に彼は思いだした。《なあにそれは……まさかの場合さ!》と彼は言いつくろって、自分でも自分の子供っぽい無邪気さがおかしくなり、にやにや笑いだした。彼はなんともいえないさわやかな気持だった。
彼はすぐにラズミーヒンの住居をさがしあてた。ポチンコフのアパートではもうみんな新しい入居者を知っていて、庭番がすぐに道順をおしえてくれた。もう階段の中途から大勢の集まりの騒ぎと活発な話し声を聞きわけることができた。階段に向いたドアが大きく開け放されていて、叫び声や口論が聞えた。ラズミーヒンの部屋はかなり大きく、集まりは十五人ほどだった。ラスコーリニコフは入り口の控室に立ちどまった。そこの仕切りの向うでは、主婦《おかみ》のところの女中が二人、主婦の台所からもってきた二つの大きなサモワールや、酒びんや、ピローグとザクースカを盛った大小の皿《さら》のまわりで、いそがしそうに働いていた。ラスコーリニコフはラズミーヒンに取り次がせた。ラズミーヒンは大喜びでとび出してきた。一目で彼がいつになく飲みすぎていることがわかった。彼はぜったいといっていいほど酔うまで飲めない男だが、今日はどことなくいつもとちがっていた。
「ねえきみ」とラスコーリニコフは急いで言った。「ぼくが来たのは、ただ、きみが賭けに勝ったことと、たしかに誰も自分の身にどんなことが起るかわからないものだということを、きみに言いたかったからだよ。なかへ入るのはかんべんしてくれ、衰弱がひどくて、いまにも倒れそうなんだ。だから、今日はこれでかえる! 明日来てくれんか……」
「じゃ、ぼくが家まで送ってくよ! きみが自分で衰弱してるなんていうようじゃ、よほど……」
「だって客がいるじゃないか? あのちぢれッ毛は誰だい、ほらいまこっちをのぞいた?」
「あれか? あんなやつ知るもんか! きっと、伯父の知り合いだろう、あるいは、勝手にまぎれこんだのかもしれんな……客は伯父にまかせるさ。実にいい人間だぜ。今日きみに紹介できないのが残念だよ。それに、あんなやつらかまうもんか! やつらはいまぼくなんかどうだっていいんだよ、それにぼくもすこし頭を冷やさなきゃ、きみ、ほんとにいいところへ来てくれたぜ。もう二分もしたら、ぼくは喧《けん》嘩《か》をおっぱじめていたところだ、ほんとだよ! 突然ばかなことをいい出しゃがって……人間なんて、放《ほう》っておけば、どこまで嘘《うそ》つきになれるものか、きみには想像もできんよ! しかし、想像できんというのもおかしいな? われわれだってときには嘘をつくじゃないか? まあ、勝手につかせておくさ、その代りあとでつかなくなるだろうからな……ちょっとかけててくれ、ゾシーモフを呼んでくる」
ゾシーモフはいまにもしゃぶりつきそうな勢いでラスコーリニコフにとびついた。その顔にはある特別の好奇心が見えたが、すぐに晴れやかな顔になった。
「すぐにやすみなさい」彼はできるだけ念入りに患者を見まわしたうえで、きっぱりと言
った。「で、ねるまえに一服飲めばいいんだが。飲むかね? ついさっき調合したんですよ……散薬を一服」
「二服でもいいですよ」とラスコーリニコフは答えた。
散薬はすぐその場で服用された。
「きみが送って行くって、そりゃ何よりだ」とゾシーモフはラズミーヒンに言った。「明日どうなるかは、様子を見るとして、今日のところはひじょうにいい、と言ってもいいでしょう。先ほどとはたいへんなちがいです。学問は一生のことというが……」
「いま出がけに、ゾシーモフがぼくに何を耳うちしたか、知ってるかい」通りへ出るとすぐ、ラズミーヒンがだしぬけに言った。「ぼくは、きみ、何もかもきみに打ち明けて言うよ、だってあいつらばかだからさ。ゾシーモフがね、途中ずっときみに話しかけて、きみにしゃべらせ、あとでその様子をおしえてくれって言ったんだよ、というのは、やつは……きみが……気ちがいか、あるいはそれに近い……と考えているからさ。きみ、考えてみろよ! 第一に、きみのほうがやつより三倍も利口だ、第二に、きみが気ちがいでないなら、やつがそんなたわけたことを考えたって、別に痛くもかゆくもないし、第三に、あの肉のかたまりめ、専門が――外科のくせに、この頃精神科に熱中しやがってさ、きみに対する見たてが、今日のきみとザミョートフの会話ですっかりひっくり返されてしまったってわけだよ」
「ザミョートフはすっかりきみに話したのか?」
「うん、すっかりだ。ほんとによかったよ。これでぼくはかくされていた底がすっかりわかったし、ザミョートフもわかったんだ……まあ、要するにだね、ロージャ……問題は……ぼくはいまちょっと酔ってるけど……気はぜんぜんたしかだよ……問題はだ、その考えが……わかるだろう? 実際にやつらの頭にこびりついていたということだよ……わかるかい? つまり、やつらは誰一人それを口に出して言う勇気がなかったのさ、だってあまりにもとっぴだし、それにあのペンキ職人がつかまってからは、それがすっかりくずれて、永遠に消えてしまったからさ。それにしても、どうしてやつらはああばかなんだろう? ぼくはザミョートフをちょっと殴ったことがあるんだ、――これはここだけの話だぜ、きみ、知ってるなんて、おくびにも出さないでくれよ。ぼくは気がついたんだが、やつはあれでなかなかデリケートだからな。ラウィーザのところでやったんだよ、――でも今日という今日は、すっかりはっきりしたよ。もとはといえば、あのイリヤ・ペトローヴィチだ! あいつがあのとききみが署で卒倒したのをまんまと利用したんだ、だがあとになって自分でも恥ずかしくなったらしいがね。ぼくは知ってるんだよ……」
ラスコーリニコフはむさぼるように聞いていた。ラズミーヒンは一杯《いっぱい》機《き》嫌《げん》でしゃべりまくった。
「あのとき倒れたのは、息苦しいところへペンキの臭《にお》いがしたからだよ」とラスコーリニコフは言った。
「もういいよ、弁解は! それに、ペンキだけじゃないよ、肺炎のきざしが一月《ひとつき》もまえから内攻していたんだよ。ゾシーモフが証人だ! ところで、あの坊やが今日どれほどたたきのめされたか、きみには想像もつくまい!《ぼくなんか、あの人の小指ほどの値打ちもない!》なんてしょげてたぜ。つまりきみのさ。あいつは、きみ、ときどきひどく素直になることがあるんだよ。しかしいい教訓だった。今日《水晶宮》できみがあいつにたれた教訓、あれはまったく申し分なしだぜ! まずおどかして、ふるえあがらせる! あのばかげた無意味な想像をあらためてほとんど確信するところまで、あいつをひっぱっていってさ、そのあとで、突然、――舌を出して、《おい、どうだ、まいったかい!》完璧《かんぺき》だよ! あいつすっかりたたきのめされて、げんなりしてるぜ! きみは名人だよ、まったく、あいつらはこういう目に会わせてやりゃいいんだよ。まったく、ぼくも見たかったよ、惜しいことをした! やっこさんいまひどくきみに会いたがってるぜ。ポルフィーリイもきみと知り合いになりたがってるよ……」
「ああ……あんなやつ……ところで、どうしてぼくを気ちがいにしたんだ?」
「気ちがいにしたわけじゃないさ。ぼくは、どうやら、しゃべりすぎたようだな……つまり、さっき彼がおどろいたのは、きみがあの件にばかり関心をもっているからなのだが、いまは、その理由がわかったよ。事情がすっかりわかったし……それにあのときあの事件がきみの神経を苛々させて、病気とむすびついてしまったことがわかってみるとね……きみ、ぼくはすこし酔ってるようだな。あいつはわからん男だよ、何か考えてることがあるらしいんだ……きみに言っておくけど、あいつは精神病に熱中してるんだよ。相手にするなよ……」
三十秒ほど二人は黙っていた。
「ねえ、ラズミーヒン」とラスコーリニコフは言いだした。「ぼくはきみに率直に言うつもりだが、ぼくはついさっきまで死人のそばにいたんだ、ある官吏が死んだんだ……ぼくは持っていた金をすっかりくれてきた……それだけじゃない、一人の人間がぼくに接吻してくれた、しかもその人間は、たとえぼくが誰かを殺したとしても、やはり……要するに、ぼくはそこでもう一人の人間を見た……火のように真っ赤な羽根をつけた……ふん、こんなことはみんな嘘っぱちさ。ひどく疲れた、支えてくれ……もうじき階段だな……」
「どうしたんだ? きみどうしたんだい?」とラズミーヒンはあわてて尋ねた。
「ちょっとめまいがするんだよ。でもそのせいじゃない、憂欝《ゆううつ》なんだよ、無性に気がめいるんだよ! 女みたいに……まったく! おや、あれは? 見たまえ! あれを見たまえ!」
「何をさ?」
「あれが見えないのか? ほら、ぼくの部屋にあかりが見えるじゃないか? 隙間から……」
彼らはもう主婦の部屋の入り口がある最後の階段ののぼり口まで来ていたが、たしかに上のラスコーリニコフの屋根裏部屋にあかりがついているのが見えた。
「へんだな! たぶんナスターシヤだよ」とラズミーヒンが言った。
「あれはこんな時間には一度も部屋へ来たことがないよ、それにもうとっくに寝ているはずだ、しかし……どうってことないさ! じゃさよなら!」
「きみ何を言うんだ? せっかく送ってきたんじゃないか、部屋まで行こうよ!」
「それはわかるが、でもぼくはここで握手して、わかれたいんだ。さあ、手をくれ、さようなら!」
「どうしたんだ、ロージャ?」
「なんでもないよ。じゃいっしょに行こう。きみが証人になるさ……」
彼らは階段をのぼりはじめた。ラズミーヒンの脳裏に、ひょっとしたらゾシーモフが正しいかもしれんぞ、という考えがちらとひらめいた。《しまった! しゃべりすぎてやつの頭をかきみだしてしまったわい!》と彼はひそかに呟いた。彼らがドアのそばまで来ると、不意に部屋の中で話し声が聞えた。
「おや、誰だそこにいるのは?」とラズミーヒンがどなった。
ラスコーリニコフはいきなりドアに手をかけて、さっとあけた、するとそのまま、戸口に釘《くぎ》付《づ》けになってしまった。
母と妹がソファに腰をかけて、もう一時間半も彼のかえりを待っていたのである。もう出発して、途中にあるから、今日にも着くかもしれないという知らせを、さっきも聞かされたばかりなのに、いったいなぜ彼は二人をまったく予期せず、ほとんど考えもしなかったのか? この一時間半のあいだ母娘《おやこ》は先をあらそうようにして、いまもまだかえらずにいるナスターシヤに根ほり葉ほり尋ねて、もう何もかもすっかり聞いてしまっていた。彼が病人なのに、《今日逃げ出した》と聞かされ、話の模様では、きっと熱で頭がおかされているにちがいないと知ったとき、母娘はおどろきのあまり気が遠くなってしまった。《ああ、いったいどうしたことかしら!》母娘は泣いた、そしてかえりを待つ一時間半のあいだ、身をけずられるような苦しい思いをしていたのである。
われを忘れた歓喜の叫びがラスコーリニコフをむかえた。二人は彼にとびついた。しかし彼は呆然《ぼうぜん》と突っ立っていた。堪えがたい突然の意識が雷のように彼を打ったのである。彼は手もだらりと垂れたままで、二人を抱擁することができなかった。母と妹は彼をしっかり抱きしめ、接吻し、笑い、泣いた……彼は一歩まえへふみ出すと、ぐらッとよろめいて、のめるように床へ倒れ、そのまま気を失ってしまった。
狼狽《ろうばい》、悲鳴、泣き声……戸口に立っていたラズミーヒンは、部屋へとびこむと、病人をたくましい腕に抱きあげ、すぐにソファの上にねかせた。
「大丈夫です、大丈夫です!」と彼は母と妹に叫ぶように言った。「ちょっと気を失っただけです、なんでもありません! たったいま医者が、もうすっかりよくなった、ぜんぜん心配はないって、言ったばかりです! 水をください! そらごらんなさい、もう意識がもどりかけてますよ、そら、気がついた!……」
そして彼はドゥーネチカの手をつかむと、いまにもねじきりそうな勢いでひきよせ、《そら、もう気がついた》のを見せようとかがみこませた。母も妹も感激と感謝にうるむ目で、神でも拝するように、ラズミーヒンを見まもった。二人はもうナスターシヤから、ロージャが病気の間中この《気さくな若い人》がどれほど尽してくれたかを、聞かされていた。これはその夜、ドゥーニャと二人きりの話のときに、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ・ラスコーリニコワが自分で彼につけた呼び名である。
第三部
1
ラスコーリニコフは身を起して、ソファの上に坐《すわ》った。
彼はけだるそうにラズミーヒンに手をふって、母と妹に対するとりとめのない熱心ななぐさめをやめさせると、二人の手をとって、ものも言わず二分ほど母と妹をかわるがわる見つめていた。母は彼の目を見てぎょッとした。その目には苦悩にちかいはげしい感情が見えたが、それと同時にじっとすわってうごかぬ、むしろ狂人の目をさえ思わせるような何ものかがあった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは泣きだしてしまった。
アヴドーチヤ・ロマーノヴナは顔が真《ま》っ蒼《さお》だった。手は兄の手の中でふるえていた。
「宿へかえってください……彼といっしょに」彼はラズミーヒンをさしながら、とぎれとぎれの声で言った。「明日会いましょう、明日はもう大丈夫です……いつ着いたの、もう大分まえ?」
「夕方ですよ、ロージャ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは答えた。「汽車がひどくおくれてねえ。でも、ロージャ、わたしは今日はどんなことがあってもおまえのそばをはなれないよ! ここに泊めてもらいます……」
「ぼくを苦しめないでください!」彼はじりじりしながら片手をふって、言った。
「ぼくもここにのこります!」とラズミーヒンが叫ぶように言った。「いっときもそばをはなれない。客なんか知るもんか、暴れさせておくさ! まあ伯父がうまくやってくれるだろう」
「ほんとに、あなたにはなんとお礼を申しあげてよいやら!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはまたラズミーヒンの手をにぎりながら、こう言いかけると、ラスコーリニコフがまたそれをさえぎった。
「だめだよ、だめだったら」と彼はじりじりしながらくりかえした。「ぼくを苦しめないでくれ! もうたくさんだ、かえってください……ぼくは堪えられない……」
「行きましょうよ、お母さん、ちょっとだけでも部屋を出ましょうよ」とドゥーニャはおろおろしてささやいた。「わたしたち兄さんを苦しめてるのよ、見たらわかるわ」
「あんまりだよ、三年もわかれていたのに、ゆっくり顔も見られないなんて!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは泣きだした。
「待ってください!」とラスコーリニコフは呼びとめた。「みんな勝手なことばかり言うから、頭が混乱してしまったよ……ルージンに会いましたか?」
「いいえ、まだだよ、ロージャ、でもあの方はもうわたしたちが着いたことを知ってなさるよ。さっき聞いたんだけど、ロージャ、ピョートル・ペトローヴィチはほんとにご親切に、今日おまえを訪ねてくだすったんだってねえ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはいくらかおどおどしながらつけ加えた。
「そう……ご親切にね……ドゥーニャ、ぼくはさっきルージンに、階段から突きおとすぞってどなって、ここから追い出したんだよ……」
「ロージャ、おまえはなんてことを! おまえは、きっと……言うのがいやなんだね」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはびっくりしてしまって、こう言いかけたが、ドゥーニャを見ると、口をつぐんだ。
アヴドーチヤ・ロマーノヴナはじいッと兄を凝視して、その先の言葉を待っていた。二人はもう口論のことについては、ナスターシヤから彼女なりに判断したことをできるだけ詳しく聞かされていたので、疑惑に苦しめられながら、身のほそる思いで説明を待っていたのだった。
「ドゥーニャ」とラスコーリニコフは苦しそうにやっと言った。「ぼくはこの結婚を望まない、だからおまえは、明日ルージンに会ったら、まっさきにことわるんだ。あんなやつの匂《にお》いもかぎたくない」
「まあ、なんてことを!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
「兄さん、すこしは考えてものを言うものよ!」アヴドーチヤ・ロマーノヴナはむっとしてこう言いかけたが、すぐに自分をおさえた。「兄さんは、きっと、まだほんとじゃないのね、疲れているんだわ」と彼女はやさしく言った。
「熱にうかされているというのか? ちがうよ……おまえはぼくのためにルージンに嫁ごうとしている。だがぼくはそういう犠牲は受けないよ。だから、明日までに、手紙を書きなさい……ことわりの……そして朝ぼくに見せなさい、それでおしまいだよ!」
「そんなことできないわ!」とドゥーニャはかっとなって叫んだ。「なんの権利があって……」
「ドゥーネチカ、おまえも気短かだねえ、およし、明日にしなさい……見たらわかりそうなものに……」と母はおびえきって、ドゥーニャにすがりついた。「さあ、出ましょうね、そのほうがいいよ!」
「うわごとですよ!」と酔いのでたラズミーヒンが叫んだ。「でなきゃ、こんなことが言えるもんですか! 明日になればケロッとおちますよ……今日はほんとにその人を追い出したんです。彼の言うとおりです。まあ、先さまもおこりましたね……ここで演説をぶって、知識のほどをひけらかしたが、結局はすごすごと退散しましたよ、しっぽを巻いて……」
「じゃ、それはほんとうですの?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは思わず大声をだした。
「明日またね、兄さん」とドゥーニャはあわれむように言った。「行きましょう、お母さん……じゃ、さようなら、ロージャ!」
「聞いてくれ、ドゥーネチカ」と彼は最後の力をあつめて、うしろ姿に声をかけた。「ぼくはうわごとを言ってるんじゃないんだよ。この結婚は――卑劣だ。ぼくは卑劣な男でもかまわない、だがおまえはいかん……どちらか一人を……ぼくはたとえ卑劣な男でも、そんな妹を今後妹とは思わぬ。ぼくか、ルージンかだ! 行きなさい……」
「きみ、気でもちがったか! めちゃいうな!」とラズミーヒンはどなりつけた。
しかし、ラスコーリニコフはもう答えなかった、あるいは、もう答える力がなかったのかもしれぬ。彼はソファの上に横になると、ぐったりと壁のほうを向いた。アヴドーチヤ・ロマーノヴナは好奇の目をラズミーヒンに向けた。黒い目がキラリと光った。ラズミーヒンはその視線をあびて、思わずぎくッとした。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは呆《ぼう》然《ぜん》と突っ立っていた。
「わたしはどうしてもここをはなれられません!」と彼女はもうほとんどあきらめきった様子で力なくラズミーヒンにささやいた。「ここにのこります、どこかに場所を見つけて……どうか、ドゥーニャを連れてってください」
「そんなことをしたら、すっかりだめになってしまいますよ!」とラズミーヒンはじりじりしながら、やはり声を殺して言った。「階段まででも出ましょう。ナスターシヤ、あかり! ほんとのことを言いますが」もう階段のところへでてから、彼は低声《こごえ》で言った。「さっきぼくと医者が、あぶなく殴られるところだったんですよ! わかりますか! 医者がですよ! で医者は、苛々《いらいら》させないために、譲歩して、かえりました。ぼくはもしもの用心に下にのこったんですが、彼はいつの間にか服を着て、まんまと脱《ぬ》け出してしまったんですよ。いまだって、神経を苛々させたら、夜なかにこっそり脱け出して、何をしでかすかわかりませんよ……」
「まあ、あなたはなんてことを!」
「それにアヴドーチヤ・ロマーノヴナだってあの部屋に一人じゃいられませんよ! 実際、ひどいアパートだ! まったくけちな野郎だよ、ピョートル・ペトローヴィチってやつは。あなた方にあんな部屋しかさがしてやれんとは……こりゃいかん、実は、ぼくすこし酔ってるもので……つい悪口を言っちゃって。気にしないでください……」
「でも、わたしはここの主婦《おかみ》さんのところへ行きますよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは言いはった。「なんとか今夜一晩わたしとドゥーニャを、どんな隅《すみ》っこでもいいから泊めてくださるよう、おねがいしてみます。このままあの子を放《ほう》っておくなんて、そんなことできるもんですか!」
こんな話をしながら、彼らは主婦の部屋のすぐまえの踊り場まできていた。ナスターシヤは一段下から彼らの足もとを照らしていた。ラズミーヒンはいつになく気がたかぶっていた。つい三十分ほどまえ、ラスコーリニコフを送ってきたときは、自分でも認めたように、すこし舌がまわりすぎたが、それでもその夜飲んだおそろしいほどの酒の量から見れば、気はたしかで、酔いはほとんど見えなかった。ところがいまの彼は、まるで雲の上をあるいているような気持だった、そして同時に、飲んだ酒があらためて、二倍の力になって、一時にどっと頭におそいかかったようだった。彼は二人の婦人にはさまれて、それぞれの手をにぎり、びっくりするほど露骨にいろんな理由をあげながら、二人に納得させようとつとめていた。そしておそらく、確信を深めさせようとするつもりらしく、一言ごとに、まるで万力にでもかけるように、ぎゅッと痛いほど強く二人の手をにぎりしめ、そのうえすこしも気がねする様子なく、なめるような目でアヴドーチヤ・ロマーノヴナの顔をじろじろ見まわした。二人はあまりの痛さに、ときどき手を彼の骨ばった大きな手からひきぬこうとしたが、彼はそんなことに気がつかなかったばかりか、そのたびにますます強く二人をひきよせるのだった。二人がもしいま彼に、わたしたちのために階段からまっさかさまに飛びおりなさい、と命じたら、彼はすぐさま、考えも疑いもせずに、それを実行したにちがいない。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、愛するロージャを気づかう気持でいっぱいで、この青年のやることがちょっと奇抜すぎるし、それにあまりに痛く手をにぎりしめることを感じてはいたが、それと同時にこの青年を神さまのように思っていたので、彼のこうした奇抜な行いに目をつぶりたい気持だった。しかし、母のそうした気持はわかっていたが、そしてあまりものに動じないほうだったが、それでもアヴドーチヤ・ロマーノヴナは兄の親友のあやしくぎらぎら燃える目を見ると、おどろきというよりは、むしろ恐怖を感じた、そしてこの風変りな男についてのナスターシヤの話によって吹き込まれたどこまでも信頼する気持がなかったら、この拷問《ごうもん》にたえられずに、母の手をひいて逃げだしたにちがいない。彼女はまた、いまはもうこの男から逃げられまい、ということもわかっていた。しかし、十分ほどすると、彼女はかなり落ち着いた気持になることができた。ラズミーヒンはどんな気分のときでも、いちどきにすっかりしゃべってしまわないとおさまらないという癖があった、それで誰《だれ》でもはじめはびっくりするが、すぐに彼がどんな人間かわかってしまうのである。
「主婦《おかみ》のところなんて、だめですよ、とんでもない!」と彼は叫ぶように言って、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナを説きふせにかかった。「たとえあなたがお母さんでも、あそこにのこったら、彼は気ちがいのようになってしまいますよ、そうなったが最後、どんなことになるかわかりゃしない! ねえ、こうしたらどうでしょう、とりあえずナスターシヤを彼のそばにつけておいて、ぼくはあなたたちを宿までおくりましょう。だって、あなたたちだけで夜の街を歩くのは危険です、ペテルブルグってとこはそういうことにかけては……まあ、こんなことはどうでもいい!……送りとどけたら、すぐにここへかけもどり、きっかり十五分後に、これはぜったいまちがいありません、容態はどうか? 眠っているかどうか? そのほかすべての報告をもってあなたたちの部屋へ行きます。それから、いいですか! その足でぼくは家へかけもどり、――ちょうど客がたくさん来ていて、飲んでるんですよ、――ゾシーモフを連れて行きます。ロージャを診《み》てくれている医者ですよ。ちょうどいま家に来ているんです、なあに酔ってません。この男は酔いません、ぜったいに酔わない男です! 彼をロージャのところへひっぱって行き、それからすぐにまたあなたたちの部屋へもどります。つまりですね、一時間のあいだにあなたたちはロージャについて二つの報告を受けるわけです、――しかも一つは医者のです、わかりますか、医者からのじきじきの報告ですよ、ぼくなんかのとはわけがちがいます! で、もしよくないようでしたら、ぼくが自分であなたたちをここへ連れてきます、約束します、大丈夫でしたら、そのままおやすみになってください。ぼくは一晩中、ここの控室で夜あかしします。彼には聞えないようにしますよ。それからゾシーモフには、いつでもかけつけられるように、主婦《おかみ》の部屋でねてもらいます。ねえ、いまのロージャにとって、あなたと医者とどちらがいいでしょう? 医者のほうがどれほど役に立つか、そうでしょう。じゃ、さあ行きましょう! 主婦のところへはよしたほうがいいですよ。ぼくはかまわんけど、あなたたちはいけません。部屋へ通しませんよ、だって……なにしろばかな女ですからねえ。ぼくとアヴドーチヤ・ロマーノヴナを見たら、妬《や》きますよ、ほんとです。あなたを見たって妬くでしょう……でも、アヴドーチヤ・ロマーノヴナならもうまちがいありません。まったく、途方もない女ですよ! そういうぼくだって、ばかですが……そんなことどうだっていいや! さあ行きましょう! ぼくを信じてくれますか? どうです、信じてくれますか?」
「行きましょうよ、お母さん」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナは言った。「この方はきっと約束したとおりに、してくださるわ。一度兄さんを助けてくだすったんですもの、お医者さまがここに泊ってくださるのがほんとうなら、これにこしたことはないじゃありませんか?」
「やっぱりあなたは……あなたは……ぼくをわかってくださる、それはあなたが――天使だからだ!」とラズミーヒンは感きわまって叫んだ。「行きましょう! ナスターシヤ!すぐに上へとんで行って、そばに坐っていてくれ、あかりを忘れないで。ぼくは十五分後にもどってくる……」
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはすっかり信じはしなかったが、それ以上さからいもしなかった。ラズミーヒンは二人の腕をとって、階段を下りはじめた。やっぱり、彼の様子を見ると、彼女は不安になった。《気さくだし、いい人だけど、でもこんな風で約束したことが行えるのかしら? 酔っててなんだかたよりないみたいだけど……》
「ああ、そうか、あなたはぼくがこんなだから、心配してるんですね!」と彼はそれを察して、彼女の思案の腰をおった、そして独特のびっくりするような大股《おおまた》で歩道をあるきだしたので、二人の婦人はついて行くのがやっとだったが、彼はそんなことに気がつかなかった。「ばからしい! というのは……ぼくが阿《あ》呆《ほう》みたいに、酔ってることですが、でもちがうんです、ぼくが酔ってるのは酒のせいじゃないんです。つまり、あなた方を見たとたんに、頭にぐらッときたんです……でも、ぼくのことなんか笑いとばしてください! 気にしないでください。こんなことでたらめですよ。ぼくはあなた方に値しません……それこそ月とスッポンです!……あなた方を送りとどけたら、すぐにこの堀《ほり》ばたで、桶《おけ》に二杯ほど頭から水をかぶります、そしたらもうすかッとします……ただ、ぼくがどれほどあなた方二人を愛しているか、それだけ知っていただけたら!……笑わないでください、おこらないでください!……誰をおこってもいいから、ぼくだけはおこらないでください!ぼくは彼の親友です、だからあなた方の親友でもあるわけです。ぼくはそうありたいのです……ぼくはそれを予感していました……去年、ふとそんな気がしたことがあったんです……でも、まったく突然でした、あなた方はそれこそ天から降ったように、ひょっこりあらわれたんですもの。ぼくは、おそらく、一晩中ねないでしょう……ゾシーモフがさっき、彼が気が狂いはしないかと、心配していました……だから彼を苛々させてはいけないんです……」
「まあ、何をおっしゃいます!」と母は叫んだ。
「ほんとうに医者がそんなことを言いましたの?」アヴドーチヤ・ロマーノヴナはぎょッとして、尋ねた。
「言いました、でもそれはちがいます、ぜんぜんちがうんです。彼は薬を飲ませたんです、散薬を一服、ぼくは見ていました、そこへあなた方が来たんです……まずかった!……明日来てくれりゃよかった! でもぼくたちがでてきたから、まあいいようなものですが。一時間後にゾシーモフが直接あなた方にすべてを報告します。あいつはそんなに酔ってません! ぼくもそのころはもうすかッとしてます……それにしても、どうしてぼくはあんなに飲んだんだろう? うん、口論にまきこまれたからだ。まったくいまいましいやつらです! 口論はしないって誓ったはずだったのに!……あんまりばかばかしいことを言うからです! すんでになぐり合いをするところでしたよ! 伯父をのこしてきました。議長役です……ね、どうでしょう、あいつらは完全な無性格を要求して、そこに人間の本質を見出《みい》だそうとしてるんですよ! なんとかして自分自身でなくなろう、自分自身にもっとも似ていないものになろう、というんです! これがやつらにいわせれば、最高の進歩だというんです。それも自分なりの嘘《うそ》ならまだしも、それが……」
「ね、もし」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはこわごわ声をかけたが、それがかえって火に油をそそぐ結果になった。
「ああ、そうですか?」とラズミーヒンはいっそう声をはりあげて叫んだ。「あなたは、ぼくがこんなことを言うのは、やつらが嘘をつくからだと、そう思ったんですね? 阿呆らしい! ぼくは嘘をつかれるのが、好きですよ! 嘘をつくということはすべての生物に対する唯一《ゆいいつ》の人間の特権です。嘘は――真実につながります! 嘘をつくからこそ、ぼくは人間なのです。十四回か、あるいは百十四回くらいの嘘をへないで、到達された真理はひとつもありません。しかもそれは一種の名誉なのです。ところで、ぼくらはその嘘すら、自分の知恵でつけない! 自分の知恵でぼくに嘘をつくやつがあったら、ぼくはそいつに接吻《せっぷん》します。自分の知恵で嘘をつく――このほうが他人の知恵オンリーの真実よりも、ぜんぜんましですよ。前者の場合そいつは人間ですが、後者の場合ただの鳥にすぎません! 真理は逃げませんが、生命は打ち殺すことができます。そんな例はいくつもあります。さて、いまのわれわれはどうでしょう? われわれはすべて、一人の例外もなく、科学、発達、思索、発明、理念、欲望、リベラリズム、分別、経験その他すべての、すべての、すべての、すべての、すべての分野において、まだ予備校の一年生です! 他人の知恵でがまんするのが安直で、すっかりそれに慣れきってしまった! ちがいますか? ぼくの言うのがまちがってますか?」とラズミーヒンは二人の婦人の手をしめつけ、ゆすぶりながら叫んだ。「ちがいますか?」
「急にそんなことをおっしゃられたって、わたしわかりませんわ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはおろおろしながら呟《つぶや》いた。
「そうですわ、そうです……でもあなたの言うことがすっかりそのとおりとは思われませんけど」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナは真顔で言いそえた、そしてすぐにあッと悲鳴をあげた。そのとき彼の手にものすごい力が入り、あまりの痛さに思わず叫んでしまったのである。
「そうですね? そうだと言ってくれましたね? そうですか、それでこそあなたは……あなたは……」彼は感きわまって叫んだ。「あなたは善良、純潔、知性そして……完成の泉です! お手をください、どうぞ……あなたのお手を、ぼくはいま、ここで、ひざまずいて、あなた方のお手に接吻したいのです!」
そして彼は歩道のまん中にひざまずいた。さいわいにあたりに誰もいなかった。
「およしなさい、おねがいです、何をなさるんです?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはすっかりうろたえてしまって、叫びたてた。
「お立ちください、お立ちください!」ドゥーニャもあわてて、笑いながら言った。
「お手をくださらないうちは、ぜったいに!そうです、ありがとう、さあ立ちました、まいりましょう! ぼくは不幸な阿呆です、ぼくはあなた方に値しません、それに酔っていて、恥ずかしいと思います……ぼくには、あなた方を愛する資格はありません、が、あなた方のまえにひざまずくこと――それは完全な畜生でないかぎり、誰でもの義務です! ぼくもひざまずきました……そらもうあなた方の宿です、この宿だけでも、さっきロジオンがピョートル・ペトローヴィチを追い出したのは、当然なんです! よくもこんな宿にあなた方を入れられたものだ! もの笑いですよ! ええ、あなたは誰です? 花嫁じゃありませんか! あなたは花嫁でしょう、そうでしょう? だからぼくは言いますが、これを見てもあなたの花婿は、卑劣な男です!」
「ねえ、ラズミーヒンさん、あなたは約束をお忘れに……」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが言いかけた。
「そう、そう、おっしゃるとおりです、ぼくは夢中になってしまって、恥ずかしいと思います!」とラズミーヒンはあわてて言った。「でも……でも……あなた方は、ぼくがこんなことを言ったからって、怒っちゃいけません! ぼくは心底から言ってるんで、別にその……ふん! それだったら卑劣だが、要するに、別にその、なにもぼくがあなたを……ふん!……まあ、しようがない、よしましょう、理由は言いません、言う勇気がないのです!……でもぼくたち全部が、さっき彼が入ってくるとすぐ、この男はわれわれの仲間じゃない、とさとったんです。それは、彼が床屋でカールしてきたからでも、あわてて自分の知識をひけらかしたからでもありません、彼が人をだます相場師だからです。けちでおべっかつかいだからです。そんなことはすぐわかります。あなたは彼が利口だと思いますか? とんでもない、ばかですよ、阿呆ですよ! あんなやつがあなたに似合いますか?まったく、お笑いですよ! ねえ、いいですか」彼はもう階段をのぼりかけていたが、不意に立ちどまった。「ぼくの部屋にいる連中はみんな酒飲みですが、そのかわり人間が誠実です、そして嘘もつきますが、これはまあぼくも嘘をつくからで、嘘をつみかさねていって、結局は、真理に到達します。なぜなら、ぼくたちはけがれのない道に立っているからです。ところがピョートル・ペトローヴィチのは……けがれのない道じゃありません……ぼくはいまあいつらをひどくののしりましたが、しかしほんとうは尊敬してるんです。ザミョートフのようなやつでさえ、尊敬はしませんが、そのかわり愛しています。人間が誠実で、しごとのできる男だからです……でも、もうよしましょう、すっかりしゃべってしまったし、それにおゆるしをいただいたんだ。ゆるしていただけますね? そうですね? さあ、行きましょう。ぼくはこの廊下を知ってます、来たことがありますから。すぐそこの、三つ目の部屋で、スキャンダルがあったんですよ……で、部屋はどこです? 何号?八号? じゃ、夜は鍵《かぎ》をかけて、誰も入れてはいけませんよ。十五分後に報告をもってもどります、それからもう三十分したらゾシーモフときます、きっと! さようなら、かけあしです!」
「こまったわねえ、ドゥーネチカ、どんなことになるのかしら?」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは不安そうに、おそるおそる娘のほうを見ながら、言った。
「だいじょうぶよ、お母さん」とドゥーニャは帽子と外套《がいとう》をぬぎながら、答えた。「神さまがわたしたちにあの方をおつかわしになったんだわ、そりゃまあ酒の席からいきなり出てきたらしいけど。あの方は頼りにしていいと思うわよ、お母さん。それにいままでだって、もうずいぶん兄さんのために尽してくださったんだもの……」
「でも、ドゥーネチカ、あのひとが来てくれるかどうか、そんなことわかりゃしないよ!ああ、わたしは、ロージャをのこしてくるなんて、どうしてそんな気になれたのかしら?……それにしても、こんなふうにあの子に会うなんて、ゆめにも思わなかった! あの不《ふ》機《き》嫌《げん》そうな顔ったら、どうでしょう、まるでわたしたちに会うのがいやみたいに……」
彼女の目に涙がにじんだ。
「いいえ、それはちがうわ、お母さん。お母さんはよく見ていないのよ、泣いてばかりいたから。兄さんは重い病気のために神経がすっかりみだれているのよ、――なにもかもそのせいなのよ」
「ああ、その病気だがねえ! 何かよくないことが起りそうな気がするんだよ! おまえにあんなひどいことを言ったりして、ねえドゥーニャ!」と母は娘の考えを読みとろうと、こわごわ目の色をうかがいながら言った、そしてドゥーニャがロージャを弁護しているのは、もうゆるしているからだと思って、いくらかほっとした気持になっていた。「明日はきっと思い直しますよ」彼女は娘の気持を底までさぐってみたいと思って、こうつけ加えた。
「わたしはちがうわ、兄さんは明日もきっと同じことを言うと思うわ……あのことではね」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナはそっけなく言った、そしてそれがもうよしましょうというほのめかしであることは、わかりきっていた。その先にはプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが言いだすのをひどく恐れていた問題があったからである。ドゥーニャは母のそばへいって、接吻をした。母は何も言わずにかたく娘を抱きしめた。それからそこへ腰をおろして、ラズミーヒンの帰りを不安な思いで待ちながら、娘の姿をおずおずと目で追いはじめた。ドゥーニャも同じ思いで、両手を胸に組み、思案にくれながら部屋の中を往《ゆ》き来《き》しはじめた。こんなふうに考えこみながら隅から隅へあるきまわるのは、アヴドーチヤ・ロマーノヴナのいつもの癖だった、そして母はそんなときはいつも、娘のもの思いをさまたげるのが、なんとなく恐《こわ》いような気がした。
ラズミーヒンが酔ったいきおいで突然アヴドーチヤ・ロマーノヴナに情熱をもやしたのは、たしかに滑稽《こっけい》だった。しかし、アヴドーチヤ・ロマーノヴナを見たら、特にいま、両手を胸に組み、さびしくもの思いにしずみながら、部屋のなかをあるきまわっている姿を見たら、たいていの人々は、その常識をはずれた狂態はともかくとして、ラズミーヒンをゆるしてやったにちがいない。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはどきっとするほど美しかった――すらりと背丈が高く、みごとに均斉《きんせい》がとれて、気性の強さが見え、自信にあふれている、――それがちょっとした身のこなしにもあらわれていたが、ものごしのしなやかさと優雅さをすこしもそこなわなかった。顔立ちは兄に似ていたが、美人と呼ぶにふさわしかった。髪はくらい亜麻色だが、兄よりはいくらか明るく、目はまっくろに近く、うるみをおび、誇りにみちていたが、それでいてときどき、瞬間的に、びっくりするほどの善良さをあらわすことがあった。色は蒼白《あおじろ》かったが、病的な蒼さではなく、顔はみずみずしい健康にかがやいていた。口はどちらかといえば小さいほうで、ぬれたように赤い下唇《したくちびる》が心もち受け口気味で、顎《あご》もちょっとでているのが、この美しい顔でたったひとつ気になる点だが、それがかえって個性を、わけても負けん気らしさを顔にあたえていた。顔の表情はいつも晴れやかというよりはむしろきびしく、もの思いにしずみがちであったが、そのせいかその顔には微笑がじつによく似合った。明るい、若い、くったくのない笑いが、じつによく映った! かっとのぼせやすく、率直で、単純で、正直で、勇士のようにたくましいラズミーヒンが、酒が入っていたうえに、こういうものは一度も見たことがなかったのだから、一目でぼうっとなったのも無理はない。しかも偶然といおうか、はじめて見たのが、兄と対面して愛情とよろこびをみなぎらせたもっとも美しい瞬間のドゥーニャだったのである。彼はそれから、兄の不《ふ》遜《そん》な恩知らずな残酷な命令を聞いて、彼女の小さな下唇が怒りにふるえたのを見た、――彼がどうやら自分をおさえることができたのは、そこまでだった。
とはいえ、彼がさきほど階段のところで酔いにまかせて、ラスコーリニコフに部屋を貸している風変りな主婦《おかみ》プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナが、アヴドーチヤ・ロマーノヴナばかりか、おそらくプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナにまでやきもちをやくだろうと、口から出まかせをいったが、あれはほんとうだった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはもう四十三だったが、それでも顔にはまだむかしの美しさのおもかげがのこっていたし、それに年齢よりははるかに若く見えた。明朗な心と、清新な感覚と、素直な清らかな情熱を老年まで保っている婦人は、たいていは若く見えるものだ。ついでに言うが、これらすべてのものを保つことが、おばあさんになってからも自分の美しさを失わないたった一つの方法である。髪にはもう白いものがまじり、うすくなりかけていたし、目じりにはもうかなりまえからちりめんのような小じわがあらわれ、気苦労とかなしみのために頬《ほお》はおちて、かさかさになってはいたが、それでもその顔は美しかった。それはドゥーネチカの顔のポートレートだった、ただちがいがあるといえば二十年たっていることと、彼女は受け口でなかったので、下唇の表情だけである。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは涙もろいが、それもいやらしいほどではなく、気が弱く従順だが、それにも程度があった。彼女はたいていのことには意地を折ることができたし、たいていは、ときには自分の信念に矛盾するようなことでさえ、素直に同意することができた。ところが彼女にはまことと、いましめと、ぎりぎりの信念の最後の一線があって、どんな事情も彼女にその一線をこえさせることはできなかった。
ラズミーヒンが去ってからかっきり二十分後に、低いが性急にドアをたたく音が二つ聞えた。彼がもどってきたのである。
「入りません、急ぎますから!」ドアが開くと、彼は大急ぎで言った。「死んだようにねてますよ、ぐっすり、しずかに。このまま十時間ほどねさせておきたいですよ。ナスターシヤがついてます。ぼくがくるまではなれないように言ってあります。これからゾシーモフをひっぱっていきます。彼の報告を聞いたうえで、ぐっすり休んでください。ほんとに、へとへとに疲れたでしょうね、わかりますよ」
そういうと、彼は廊下を去って行った。
「なんて気さくで……親切な若いひとでしょうねえ!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは嬉《うれ》しさのあまり感きわまって、嘆声をあげた。
「ほんとにいいひとらしいわね!」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナはまた部屋のなかをあるきはじめながら、いくぶん熱っぽく答えた。
やや一時間ほどすると、廊下に足音が聞えて、またドアをノックする音が聞えた。二人の婦人は、今度はもうラズミーヒンの約束をすっかり信じて、待っていた。果して、彼はゾシーモフをひっぱってきた。ゾシーモフはすぐに酒宴をやめてラスコーリニコフを診察に行くことは同意したが、二人の婦人を訪ねるのはなんだか気がしぶった。酔っているラズミーヒンの言うことが信用できず、ひどくあやふやな気持だった。ところが、彼の自尊心はたちまちなごめられたばかりか、くすぐられさえした。彼はほんとうに自分がまるで神の使者のように待たれていたことを見てとったのである。彼はちょうど十分そこにいる間に、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナを完全に説きふせ、すっかり安心させることができた。彼は異常なほどの思いやりをこめて語ったが、その態度はひかえ目で、無理につくったような真剣さが見え、まるで重大な対診の席にのぞんだ二十七歳のインターンのようであった。そしてよけいなことは一言も言わず、二人の婦人ともっと親しい個人的関係に入りたいような素振りはつゆほども見せなかった。部屋へ入りかけに、アヴドーチヤ・ロマーノヴナのまぶしいほどの美《び》貌《ぼう》に気づくと、彼はとっさに、つとめてそちらを見ないようにきめて、訪問のあいだじゅう、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナのほうばかり向いて話をしていた。そうすることが彼に極度の内心の満足をあたえた。彼は病人についての所見として、現在はきわめて満足すべき状態にある、とかたい言葉をつかった。彼の観察によると、患者の病気は、最近数カ月間の物質的な窮状のほかに、さらに若干の精神的な原因がある、《いわば、たくさんの複雑な精神的および物質的影響の結果なのです、例えば不安、危懼《きぐ》、心労、ある種の観念……等といったものですね》アヴドーチヤ・ロマーノヴナが特に注意深く聞き入りはじめたのを、ちらと見てとると、ゾシーモフはこのテーマをすこしひろげてみることにした。《なんだか発狂の疑いがすこしあるとか》という、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの不安そうな、おどおどした質問に対して、彼は落ち着いた率直な笑いをうかべながら、自分の言葉がすこし大げさすぎました、と答えた。そしてさらに、病人に、何か偏執狂を思わせるような、あるこりかたまった想念が認められたことは事実です、――それで彼ゾシーモフはいま特に力を入れて、このひじょうに興味ある医学部門を研究しているのだが、――しかし忘れてならないのは、病人が今日までほとんど幻覚の世界をさまよいつづけてきたことです、と言い、それから……むろん、肉親の方々が見えられたことは、病人を元気づけ、気を晴らして、なおりを早めることになるでしょう、――《それも新しい特に強烈なショックをさけることができれば、ですがね》と彼は意味ありげにつけ加えた。それから立ちあがると、しっかりした態度でにこやかに会《え》釈《しゃく》し、祝福や、熱い感謝の言葉や、祈るようなまなざしをあびせられ、こちらから求めもしないのに、アヴドーチヤ・ロマーノヴナのかわいい手をさしのべられ、彼はこの訪問と、それよりも自分自身にすっかり満足して、部屋をでた。
「話は明日にしましょう。今日はこれで休んでください、きっと休むんですよ!」とゾシーモフといっしょに辞去しながら、ラズミーヒンは念をおした。「明日、できるだけ早く、知らせをもってうかがいます」
「しかしあのアヴドーチヤ・ロマーノヴナは、なんてチャーミングな娘だろう!」通りへ出ると、ゾシーモフはいまにもよだれをたらさんばかりに言った。
「チャーミングだ? おい、チャーミングと言ったな!」と叫ぶと、ラズミーヒンはいきなりゾシーモフにとびかかって、のどをしめつけた。「もしも貴様がそのうち手でもだしてみろ……いいな? わかったな?」彼は襟《えり》をつかんでゆすぶり、壁へおしつけて、叫んだ。
「わかったな?」
「おい放せよ、飲んだくれ!」とゾシーモフはもがいた、そして相手が手をはなすと、しばらくじっとその顔を見つめていたが、突然腹をかかえて笑いだした。ラズミーヒンは両手を力なくたれ、くらい深刻なもの思いにしずんで、そのまえに突ったっていた。
「たしかに、おれは阿呆さ」と彼は雨雲のようにくらい顔で、ポツリと言った。「だが……きみもだぜ」
「そんなことはないさ、きみ、きみもはおかしいぜ。ぼくはばかな夢は見ないよ」
二人は黙ってあるきだした、そして、ラスコーリニコフのアパートのまえまできたときはじめて、ラズミーヒンがひどく不安そうな様子で、沈黙をやぶった。
「おいきみ」と彼はゾシーモフに言った。「きみはいい男だが、しかしきみは、ずいぶんいやなところもあるぜ。しかも、もひとつ女好きときている。ぼくは知ってるんだ。さらにそのうえどぶねずみの仲間だ。きみは気のちっちゃな腰ぬけで、甘ったれで、でくでくふとってきて、節制なんてまるでできない男だ、――こういうのをぼくはどぶねずみというんだよ、道がまっすぐきたならしいどぶにつづいているからさ。きみがこうまで自分をなまくらにしてしまったんで、実をいうと、このざまでどうしてりっぱな、しかも献身的な医者になれるかと、ぼくは大いに案じるよ。羽根ぶとんにねて(医者がだぜ!)、毎晩患者のために起きる! 三年もしたらきみはもう患者のために起きなくなるだろうさ……なにを、ばかな、そんなことはどうでもいいんだ、要はだな、きみは今夜主婦《おかみ》の部屋にねてくれ(やっとくどきおとしたんだぜ!)、ぼくは台所にねる。あの女とねんごろになるいいチャンスだ! きみが考えているような女じゃないぜ! そんなところは、これっぽっちもないよ……」
「おい、ぼくは何も考えてやしないよ」
「あれは、きみ、恥ずかしがりで、無口で、内気で、おそろしく身持ちがかたく、そのくせ――なやましく溜息《ためいき》なんかついてさ、蝋《ろう》みたいにとけちゃうんだよ、でれでれっとさ!きみ、たのむよ、このとおりだ、なんとかぼくをあの女から解放してくれ! とにかく変った女だよ! お礼はする、恩にきるよ!」
ゾシーモフはさっきよりいっそう声をはりあげて笑いだした。
「おいおい、だいぶ頭にきたようだな! どうしてぼくがあの女を?」
「うけあうよ、たいして面倒はないよ、なんでもいいからつまらん話をしてやりゃいいんだ。そばに坐って、しゃべってるだけでいいんだよ。それにきみは医者じゃないか、まあどこかわるいとこを見つけてやるんだな。ぜったいに、後悔するようなことはないよ。あの部屋にはピアノがある。きみも知ってるように、ぼくはちょっとばかりたたくんだ。ぼくはひとつロシアの唄《うた》を知っててね、《熱き涙にぬれて……》という現代ものだがね。あの女は現代ものが好きなんだよ、――結局、その唄がもとになったわけさ。きみのピアノは名人芸じゃないか、ルビンシュタインばりのさ……うけあうよ、けっして後悔はしないぜ!」
「おい、きみは女に何か約束でもしたんじゃないのか、ええ? 一札入れたんだな? きっと、結婚の約束でもしたんだろう……」
「とんでもない、よしてくれ、そんなものは何もないよ! それにあれはぜんぜんそんな女じゃない。チェバーロフともあったんだ……」
「ええ、そんならすてちゃえよ!」
「それがそうもいかんのだよ!」
「いったいどうしていかんのだ?」
「それがさ、なんとなくそうはいかんのだよ、ただなんとなくね! あそこには、きみ、人の心をひきよせるものがあるぜ」
「じゃ、どうしてきみは彼女を誘惑したんだ?」
「なにぼくはぜんぜん誘惑なんかしないよ、かえってぼくのほうが、誘惑されたのかもしれん、もともとばかだからな。あの女はそばに誰かが坐って、溜息をついてさえいれば、きみだろうがぼくだろうが、そんなことはどうでもいいのさ。そこは、きみ……なんといったらいいのかな、その、――そう、きみは数学が得意だったな、いまでもやってるだろう、知ってるよ……まあ、積分学でもおしえてやるんだな、ほんとだよ、冗談じゃない、ぼくはまじめに言ってるんだ、あの女にはなんだっていいんだよ。じいっときみを見つめて、溜息をついて、そうやって一年でも坐っている女なんだよ。ぼくもいつか、二日間ぶっとおしでプロシャの上院の話をしてやったことがあったよ、何を話したらいいのかわからなくてさ、――あの女はただ溜息をついて、熱っぽい顔をしていただけさ! 恋の話だけは禁物だぜ、――恥ずかしがって、目をまわしてしまう、――まあ、そばをはなれられませんて素振りをちょいちょい見せるんだな、――それでたくさんだよ。居心地のいいことはぜったいだぜ、まるで家にいるみたいさ、――まあ読んだり、坐ったり、ねそべったり、書いたりしてるんだな……接吻したってかまわないぜ、ただし慎重にな……」
「でも、なんのためにぼくがあの女と?」
「ええ、どうもうまく説明ができん! ねえ、きみたち二人はまったくのお似合いだと思うんだ! ぼくはまえにもきみのことを考えたんだが……きみもいずれはそういうことになるんだよ! それなら、早かろうがおそかろうが――同じことじゃないか? あそこには、きみ、その……ずばり羽根ぶとん主義ってやつが根をはってるぜ、――うん! しかも羽根ぶとんだけじゃない! あそこには人をひきよせるものがたくさんあるよ、いわば世の終りだよ、錨《いかり》だよ、しずかな波止場だよ、地球のへそだよ、おとぎばなしの世界だよ、プリン、あぶらっこい大きなピローグ、夜のサモワール、しずかな溜息、あたたかい女ものの胴着、ポカポカの温床、そういったもののエッセンスだよ、――まあ、そこに入ればきみはまるで死んだような状態にありながら、同時にりっぱに生きている、いわば両方のいいところを同時に味わえるというわけだ! さて、きみ、ちょっとエンジンがかかりすぎちゃったよ、もうそろそろ寝るとしようや!ぼくはね、夜なかにときどき起きだして、やつの様子を見ることにする。まあおそらく心配はないと思うがね。きみはべつに気にせんでいいよ、なんだったら、一回ぐらいのぞいてやるさ。でもちょっとでも、まあうわごととか、熱とか、へんなところが見えたら、すぐにぼくを起してくれ。まあ、ないとは思うが……」
2
ラズミーヒンは翌朝七時すぎに不安な重苦しい気分で目をさました。いろいろな新しい思いがけない疑惑がその朝不意に彼をおそった。いつかこんな気分で目をさますことがあろうとは、彼はこれまでに考えたこともなかった。彼は昨日のことを細大もらさず思いかえしてみて、自分の身に何か異常なできごとが起り、そしていままでぜんぜん知らなかった、従来のものとは似ても似つかぬある感銘を受けたことをさとった。それと同時に彼は自分の頭の中に燃えあがった空想が、とうてい実現されぬものであることを、はっきり自覚していた、――あまりのばからしさに、彼は恥ずかしくさえなって、あわてて、《忌《いま》わしい昨日》がのこしてくれたほかのもっと現実的な心配ごとや疑惑へ、頭をきりかえた。
思い出してもぞっとするのは、彼が昨日《卑劣でいやらしい》行為をしたということだった。というのは、酔っていたというだけではなく、一人の娘のまえで、その娘の弱味につけこんで、おろかなそそっかしい嫉《しっ》妬《と》心《しん》から、娘の許婚者《いいなずけ》を、二人の間の関係や約束を知らないばかりか、その男の人柄《ひとがら》をさえろくに知りもしないで、口ぎたなくののしったことである。それに彼には、その男をそれほどあわてて、しかも軽率に非難するどんな権利があったろう? そして誰《だれ》が彼を裁判官に招いたのだ! いったいアヴドーチヤ・ロマーノヴナのような娘が、金のために適《ふさ》わしくない男に身を委《ゆだ》ねるなんて、果してそんなことができるものだろうか? してみると、あの男にはいいところがあるわけだ。ではあんな宿を選んだのは? でも、実際のところ、あれがどんな宿かということが、どうしてあの男に知り得たろう? それに住《すま》居《い》を準備中だというではないか……チエッ、なんという卑劣なことをしたものだ! 酔っていたことが、何の言いわけになる? ますます彼を下劣にする、おろかな言いのがれにすぎぬ! 酒は――ほんとうのことを言わせるというが、ほんとうのことがすっかり口にでてしまったのだ、《つまり、彼の嫉妬深い雑な心のきたならしい泥《どろ》がすっかり吐き出されてしまったのだ!》それに、こんな空想がいくらかでも彼ラズミーヒンに許されるものだろうか? あのような娘とくらべた場合、彼は何者だろう、――飲んだくれの乱暴者のくせに、昨日あんなにいばりくさって? 《いったいこれほどあつかましい滑稽《こっけい》な対照があり得るだろうか?》こう思うと、ラズミーヒンは真っ赤になった、すると不意に、まるでわざとのように、その瞬間、昨日階段のところで、アヴドーチヤ・ロマーノヴナといっしょのところを見たら主婦《おかみ》が嫉妬するだろうと言ったことが、まざまざと思い出された……これはもう堪えられなかった。彼はいきなり拳骨《げんこつ》をふりあげて力まかせに台所のペチカをなぐりつけて、自分の手を傷つけ、煉《れん》瓦《が》を一枚たたきわった。
《むろん》一分ほどすると、彼は自分を卑下するやりきれない気持になりながら、自分に言いきかせるように言った。《むろん、もういまとなってはこれらの卑劣な行為は塗りつぶすことも、消すこともできない……だから、それはもう考えてもしようのないことだ、それよりは黙って二人のまえへ出て……自分の義務を果すことだ……やはり何も言わずに、そして……そして許しも請わず、何も言わずに……そしてもう、むろん、何もかもだめになってしまったんだ!》
そう言いながらも、彼は服を着ながら、いつもより念入りに服のぐあいをしらべた。彼には着がえの服などなかったが、かりにあったにしても、おそらくそれは着なかったろう、――《これでいいんだ、意地にも着るものか》しかしそうはいっても、世をすねたようなきたならしい格好でいるわけにもいかない。彼には他人にいやな思いをさせる権利はないし、まして相手が彼を必要として、来てくれるようにたのんでいる場合はなおのことだ。彼は服に念入りにブラシをかけた。シャツだけはいつもまあまあだった。この点だけは彼は特にきれい好きだった。
彼はその朝ていねいに顔をあらった。――ナスターシヤのところに石けんがあったので、――髪や首筋をあらい、特に手には念を入れた。ごわごわのひげを剃《そ》ろうか剃るまいか、という問題になると(プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナのところには、ザルニーツィン氏が亡《な》くなってからまだそのまま保存されている、すばらしい剃刀《かみそり》があった)、この問題はむきになって断固としてはねつけた。《このままでいい! 剃ったのは下心が……なんて思われたらどうする……そうとも、きっとそう思うにちがいない! 死んでも剃るものか!》
《そして……そして要は、おれがこんな雑なけがらわしい男で、態度が野卑だということだ。それに……仮におれが、せめて、いくらかでも礼儀をわきまえた人間だと、自分で承知しているにしてもだ……そんなことが、なんの自慢になろう? 誰だって礼儀をわきまえた人間であるはずだし、おまけにもっと清潔で、それに……なんといってもおれにはいろいろとつまらんことがありすぎた(おれはおぼえている)、……まあ破《は》廉《れん》恥《ち》とはいえないまでも、しかしやはり!……それになんということを考えていたのだ! フン……これを全部アヴドーチヤ・ロマーノヴナと並べてみたらどうだろう! まったく、いやになる! かまうもんか! なに、わざときたない、あぶらでとろとろの、やぼったい男になってやろう、勝手にしろだ! もっともっときたなくなってやるぞ!……》
こんなモノローグをしているところへ、プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナの客間で一夜をすごしたゾシーモフが入ってきた。
彼は家へ帰ろうとして、出がけに、急いで病人の様子をのぞきにきたのである。ラズミーヒンは、病人はぐっすりねていると伝えた。ゾシーモフは病人が目をさますまで起さないようにと言って、十時頃《ごろ》寄ることを約束した。
「それも彼がここにいるならだぜ」と彼はつけたした。「まったくしようがないな! 自分の病人が思うようにならんなんて、勝手にしろと言いたくなるよ! きみどう思う、や《・》つ《・》があちらへ行くかい、それともあちら《・・・》がここへくる?」
「あちらがくるだろうな」と質問の目的をさとって、ラズミーヒンは答えた。「そして、むろん、内輪の話をはじめるだろうさ。ぼくは席をはずすよ。きみは、医者として、ぼくよりも権利があることはたしかだよ」
「ぼくだって神父じゃないさ。来て、すぐかえるよ。ほかにも用事がたくさんあるからな」
「ひとつ心配なことがあるんだよ」とラズミーヒンはしぶい顔をしてさえぎった。「昨日ぼくは、酔ったまぎれに、途々《みちみち》やつにいろんなばかなことをしゃべってしまったんだよ……いろんなことをさ……つい、やつが……発狂しやしないかと、きみがおそれているってことまで……」
「きみはそれを昨日婦人たちにもしゃべったろう」
「たしかに、ばかだったよ! 殴られたってしかたがない! ところで正直のところ、きみにはそう思う何かたしかな根拠があったのかい?」
「よせよ、冗談だって言ってるじゃないか。たしかな根拠にはおそれ入ったね。きみこそぼくをここへ連れてきたとき、偏執狂らしいと、いろいろ説明してたじゃないか……それに、昨日ぼくらは火をかきたてるようなことをしてしまった。きみが悪いんだよ、あんな話をするから……ペンキ職人のことさ。彼が自分でそれを考えて、気がへんになりかけているらしいところへ、あんな話をするやつがあるものか。あのとき署内で起ったことと、なんとかいうばかどもがそれを怪しいとにらんで……彼を侮辱したことを、ぼくが詳しく知ってたらよかったんだ! そしたら……うん……昨日あんな話はさせなかったはずだ。だいたい偏執狂ってやつは、一滴の水を大洋ほどに考えたり、ありもしないことをまざまざと見たりするんだよ……ぼくのおぼえているかぎりでは、昨日ザミョートフのあの話をきいて、問題の半分はわかったね。そうだよ! ぼくはこんな例を知っている、四十くらいのヒポコンデリー患者が、毎日食卓で八歳の少年に笑われるのががまんができなくて、その子供を斬《き》り殺《ころ》してしまったんだ! 彼の場合は、ぼろぼろの服、鉄面皮な警察署長、起りかけていた病気、そしてそんな嫌《けん》疑《ぎ》! しかも狂的なヒポコンデリー患者で、人一倍虚栄心がつよいときている! おそらく、ここに、病気のいっさいの根源があるんだよ!まったく、いまいましい!……しかし、あのザミョートフってやつはほんとにうぶな坊やだよ。ただ、フム……昨日あれをすっかりしゃべったのはまずかった。口が軽すぎるよ!」
「でも、いったい誰にしゃべったんだ? ぼくときみにじゃないか?」
「ポルフィーリイもいたよ」
「それがどうしたというんだい、ポルフィーリイに聞かれてわるいのか?」
「ところで、きみはあのひとたちに、つまりお母さんと妹さんにだ、かなりの影響力をもってるらしいね? 今日はもっと気をつけて彼と口をきくことだな……」
「わかってるよ!」とラズミーヒンはしぶしぶ答えた。
「それにしてもなぜ彼はあのルージンとやらにあんな態度をとるんだろう? 金はあるし、妹さんもいやではなさそうだし……それにあの母娘《おやこ》は一文なしじゃないのかい? え?」
「どうしてきみは、つまらんことをせんさくするんだ?」とラズミーヒンはじりじりしながら叫んだ。「金があるかないか、なぜおれが知ってるんだ? 自分で聞いてみろよ、わかるかもしれんぜ……」
「チエッ、どうしてそうきみはときどきばかになるんだろうな! 昨日の酔いがまだのこってるんじゃないのか……じゃ、帰るよ。きみのプラスコーヴィヤ・パーヴロヴナに宿のお礼を言っといてくれ。ドアをしめきってさ、ドアごしのぼくのボンジュールに返事もしなかったぜ。そのくせ七時には起きだして、台所から廊下を通ってサモワールを運ばせていたよ……ぼくなんかには顔を見せるのもけがらわしいってわけさ……」
ちょうど九時にラズミーヒンはバカレーエフのアパートを訪ねた。二人の婦人はもうかなりまえから待ちきれぬ思いで彼を待っていた。二人は七時、いやもっとまえに起きていたのだった。彼は闇《やみ》夜《よ》のようなくらい顔で部屋に入ると、ぎこちなくお辞儀をしたが、すぐにそれにむかっ腹を立てた――むろん、自分にである。彼は一人決めをしていたのだった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはいきなり彼のまえへかけよると、両手をとって、いまにもその手に接吻《せっぷん》せんばかりにした。彼はこわごわちらとアヴドーチヤ・ロマーノヴナへ目をやった。ところがその強気な顔にそのとき感謝と親愛の表情と、まったく思いがけないあふれるばかりの尊敬の気持があらわれていたので(あざけりのまなざしと、ついでてしまったつつみきれぬ軽蔑《けいべつ》の代りに!)、彼は実のところ、ののしられたほうがむしろ気が楽だったろうと思われて、かえってすっかりどぎまぎしてしまった。しかしいいぐあいに、用意していた話題があったので、彼は急いでそれをきりだした。
《まだ眠っている》が、《経過はひじょうにいい》と聞くと、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは《どうしても、あらかじめ話しあっておかなければならないことがあるから》、そのほうがかえって都合がよかった、と言った。それから茶の話になって、いっしょに飲むことを誘われた。彼女たちもまだ飲まないで、ラズミーヒンを待っていたのだった。アヴドーチヤ・ロマーノヴナが呼鈴《よびりん》を鳴らすと、ぼろ服のむさくるしい男があらわれた、そして茶が注文され、しばらくしてやっと茶道具が運ばれてきたが、それがなんともきたならしいうえに、うすみっともなくて、婦人たちは思わず顔をあからめてしまったほどである。ラズミーヒンはこっぴどくアパートを罵《ば》倒《とう》しようとしたが、ルージンのことを思いだして、あわてて口をおさえ、すっかりしどろもどろになった。だから、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナがやがてとめどなく質問の雨を降らせはじめたときは、わたりに舟とよろこんだ。
問われるままに、たえず言葉をはさまれたり、聞きかえされたりしながら、彼は四十五分もしゃべりつづけて、ロジオン・ロマーノヴィチの最近数年の生活から知っているかぎりの、主だった必要な事実をすっかり伝えて、彼の病気の詳細な説明で話をむすんだ。しかし彼は伏せておいたほうがいいことは、たくさんとばし、特に警察署の一幕とそれに付随したできごとは黙っていた。二人は彼の話をむさぼるように聞いていた。そして彼がもうすっかり語りおえて、もうこのくらいで聞き手も満足してくれたろうと思ったとき、二人にしてみれば、話はまだこれからのような思いがしたのだった。
「ねえ、話してちょうだい。あなたどうお考えになりまして……あ、ごめんなさい、まだお名前もおききしませんで?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは気ぜわしく言った。
「ドミートリイ・プロコーフィチです」
「それでですね、ドミートリイ・プロコーフィチ、わたしどうしても知りたいのですけど……だいたい……あの子はいまものをどんなふうに見ているのでしょう、と申しましても、わたしのいう意味がおわかりかしら、どう申しあげたらよいのやら、そうね、それよりはっきりこうおききしたほうが、あの子は何が好きで何がきらいなんでしょう? いつもあんなに苛々《いらいら》してるんでしょうか? あの子はどんな希望をもっているのでしょう、それに、いわば空想《ゆめ》みたいなものがあるとしたら、それはどんなものかしら? いまあの子の心を特にうごかしているのは何でしょう? 一口に申しますと、わたしが知りたいのは……」
「まあ、お母さんたら、そんなに一時におききしてもどうして答えられまして!」とドゥーニャは注意した。
「ああ、なさけない、あんなあの子に会おうとは、わたしはぜんぜん、ゆめにも思いませんでしたわ、ドミートリイ・プロコーフィチ」
「それはもう当然のことですよ」とドミートリイ・プロコーフィチは答えた。「ぼくには母はおりませんが、でも、伯父が毎年訪ねてきまして、そのたびにといっていいほどぼくを見ちがえるんですよ。顔を見てもわからないんです。利口な人なんですがねえ。だから、三年もわかれていれば、それはずいぶんかわりますよ。それになんといったらいいでしょうか? ロジオンとはこの一年半ほどのつきあいですが、彼はぶっすらして、陰気で、横《おう》柄《へい》で、傲慢《ごうまん》な男です、それに近頃は(もしかしたら、ずっとまえからかもしれませんが)疑《うたぐ》り深くなって、ふさぎこむようになりました。おっとりして、人はいいんですがねえ。感情を外にだすのがきらいで、気持を言葉にだすよりは、いっそ非情でおしとおすというようなところもあり、また、ときにはぜんぜんふさぎの虫ではなく、ただ冷やかで、石みたいに無感動になることもあるといったふうで、まったく、二つの正反対の性格が交互にまじりあっているようです。どうかするとひどく無口になってしまうことがあります! 忙しくてしようがないのに、みんな邪魔ばかりしている、という様子をしながら、そのくせ自分はねそべって、何もしない。皮肉やではないが、それもウイットがたりないせいではなく、そんなくだらんことにつぶす時間がない、といった態度です。人の話はしまいまで聞かない。何に限らずみんなが興味をもつことには、決して興味をもたない。おそろしく高く自分を評価しているが、それも一応の理由はあるようです。さあ、この程度でいいでしょうか?……ぼくは思うんですが、あなた方がいらしたことは彼にとってはきっと救いになりますよ」
「ああ、そうあってほしいですよ!」ラズミーヒンのロージャ評にげんなりしてしまったプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、思わずこう叫んだ。
ラズミーヒンはやっと、かなり思いきった視線をアヴドーチヤ・ロマーノヴナに向けた。彼は話のあいだときどき彼女に目をやったが、ちらとはしらせるだけで、すぐにそらしていた。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはテーブルについて、熱心に聞いているかと思うと、また立ちあがって、例のくせで、腕をくみ、唇《くちびる》をかたくむすんで、室内を隅《すみ》から隅へ歩きまわりはじめる、そしてときおり足もとめずに、考えこんだままポツリと質問をする、というふうだった。彼女にも人の話をしまいまで聞かないくせがあった。彼女はうすっぺらな生《き》地《じ》でつくった黒っぽい服を着て、首に白いすきとおるスカーフを巻いていた。ラズミーヒンはいろんな点から、二人の婦人の身のまわりが極端に貧しいことを、すぐに見てとった。もしアヴドーチヤ・ロマーノヴナが女王のような身なりをしていたら、おそらく彼はぜんぜん彼女を恐れなかったろう。それがいま、彼女の身なりがいかにも粗末で、彼はそれをすっかり見てしまったせいか、急に彼の心に恐怖がわいて、自分の言葉の一つ一つ、動作の一つ一つが不安になってきた。これは人間にとって気づまりなことはもちろんであり、しかもそれでなくても自分が信頼できない場合、なおのことである。
「あなたは兄の性格についていろいろとたくさんおもしろいことを言ってくれました、しかも……公平に。ありがたいことです。わたしはあなたが兄を尊敬していると思っておりましたのよ」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナは微笑をうかべながら言った。「兄の身のまわりに女のひとがいなければならないというのも、ほんとうかもしれませんわね」と彼女は思案顔につけたした。
「ぼくはそんなことは言わなかったが、しかしあるいは、それもあなたのおっしゃるとおりかもしれません。ただ……」
「何ですの?」
「彼は誰も愛しませんからねえ。おそらく、永久に愛するなんてことはないでしょう」とラズミーヒンはずばりと言った。
「といいますと、愛する能力がないということでしょうか?」
「ねえ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、あなたはどきッとするほど兄さんにそっくりですね、何から何まで!」と彼は自分でも思いがけなく、うっかり口をすべらしてしまったが、すぐにいま彼女の兄について言ったことを思い出して、えびのように真っ赤になり、すっかりうろたえてしまった。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはその様子を見て、思わずふきだした。
「ロージャのことは、あなた方二人ともまちがっているかもしれませんよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは二人の調子にいくらかまきこまれて、皮肉っぽく口をはさんだ。
「わたしはいまのことを言うんじゃないがね、ドゥーネチカ。ピョートル・ペトローヴィチがこの手紙に書いていること……それとわたしとおまえが想像していたこと、――それはまちがっているかもしれないけど、でも、ドミートリイ・プロコーフィチ、あれがどんなに空想ばかりしている子で、それになんといいますか、その、気まぐれな子だったか、あなたにはとても想像もつきませんよ。あの子の性分《しょうぶん》は、あの子がまだ十五の少年の頃でさえ、わたしはよくつかめなかったのですよ。きっと、あの子はいまでも、誰一人思いもよらないようなことを、突然しでかすでしょうよ。あの子にはそういうところがあるんです……そうそう、古いことでなくとも、一年半ばかりまえ、ご存じかしら、あの、なんという名前でしたかしら、――ほら、家主のザルニーツィナさんの娘ですよ、その娘と突然結婚するなんて言いだしまして、わたしはもうすっかりびっくりしてしまって、心配で心配で、いまにも死にそうな目にあわされたんですよ」
「あのことについて、何か詳しいことを知ってらして?」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナが尋ねた。
「あなたはきっと」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは熱心につづけた。「あのときあの子を思いとどまらせたのは、わたしの涙、わたしの哀願、わたしの病気、おそらく死んでしまうかもしれないほどのわたしの悲しみ、わたしたちの貧しさだと、お思いでしょう?ちがいます、あの子はどんな障害でも平気で踏みこえて行ったはずです。でも、あの子は、ほんとにあの子は、わたしたちを愛していないのでしょうか?」
「彼はあのことについては一度も何もぼくに語りませんでした」とラズミーヒンは用心深く答えた。「だがぼくは母親のザルニーツィナさんの口から、すこしばかり聞いていることがあります。もっともこのザルニーツィナさんにしても、もともと口数の多いほうではありませんが、でもぼくが聞いたのは、なんだか、すこし妙な気がしたんですが……」
「まあどういうことですの、あなたがお聞きになったのは?」と二人の婦人が同時に尋ねた。
「といって、べつにそう特別変ったことではありませんが。ぼくが聞いたのは、この結婚はもうすっかりきまっていて、ただ花嫁が死んだためにおじゃんになったんだが、この結婚には母親のザルニーツィナさんもひどく反対だったということだけですよ……それに、噂《うわさ》では、花嫁はあまりきれいでなかったとか、つまり、むしろみにくいほうだったとか……それに病身で、そのうえ……偏屈で……しかしいいところもすこしはあったようです。きっとあったにちがいありません、でなきゃまったく理解できませんよ……持参金もぜんぜんなかったそうですし、もっとも彼はそんなものを当てにする男ではありませんが……だいたいこういう問題は、はたからはなかなかわからないものですよ」
「そのひとはきっとりっぱな娘さんだったろうと、わたしは思いますわ」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナは言葉少なに言った。
「申しわけないけど、わたしもあのときその娘さんが死んだと聞いてほっとしたんですよ。あの子が娘さんをか、娘さんがあの子をか、どちらがどちらをだめにしてしまうかは、わからないにしてもねえ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは言葉をむすんだ。それから用心深く、遠慮しいしい、明らかにそれがいやでたまらないらしいドゥーニャの顔をたえずぬすみ見ながら、またロージャとルージンの間の昨日のできごとを根ほり葉ほりききだしはじめた。その事件が何よりも彼女を不安がらせ、ふるえがくるほどおびえさせていることは、明らかだった。ラズミーヒンはまたあらためてはじめからすっかりものがたったが、今度は自分の意見もつけくわえた。彼はラスコーリニコフが計画的にピョートル・ペトローヴィチを侮辱したことを、真っ向から非難して、もう病気を理由に彼を弁護するようなことはほとんどしなかった。
「彼は病気になるまえからこのことを考えていたんですよ」と彼はつけ加えた。
「わたしもそう思いますよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはしょんぼりとうちしおれて言った。しかしラズミーヒンが今度はひどく注意深く、尊敬さえしているような様子でピョートル・ペトローヴィチのことを話したのには、びっくりしてしまった。これにはアヴドーチヤ・ロマーノヴナもおどろいた。
「じゃあなたは、ピョートル・ペトローヴィチをいったいどうお考えですの?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはがまんができなくなって、もどかしそうに尋ねた。
「お嬢さんの未来の良人《おっと》たる人について、ぼくに異論のあろうはずがありませんよ」とラズミーヒンはきっぱりと、力をこめて答えた。「しかも単に俗っぽいお世辞でこんなことを言っているのではありません、つまり……つまり……その何です、アヴドーチヤ・ロマーノヴナが自分からすすんで、このひとを選ばれたという、その一つの理由だけでも。ぼくが昨日あんなに悪口を言ったのは、ぼくが見苦しく酔っぱらっていましたし、それに……ぼうッとなっていたからです。そうです、ぼうッとなっていました。頭がばかになっていました。気がへんになっていました。すっかり……今日になってみると、恥ずかしくてなりません!……」
彼は赤くなって、口をつぐんだ。アヴドーチヤ・ロマーノヴナは胸がかっと熱くなったが、沈黙をやぶらなかった。彼女はルージンの話になったときから一言も口をきかなかった。
一方、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、娘の同意が得られずに、思いまどっている様子だった。とうとう、娘の顔色をちらちらうかがいながら、ためらいがちに、いまひどく気にかかっていることがひとつある、と言いだした。
「ねえ、ドミートリイ・プロコーフィチ……」と彼女はきりだした。「わたしはね、ドゥーネチカ、このドミートリイ・プロコーフィチとはすっかり打ち明けて話しあいますよ、いいわね?」
「もちろんですとも、お母さん」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナははげますように言った。
「実はこうなんですよ」と彼女は、自分の苦しみを伝えることを許されて、まるで肩の重荷がおりたように、急いで言った。「今朝早々と、ピョートル・ペトローヴィチから手紙をもらいました。着いたことを昨日知らせてやったその返事なのです。実は、約束によりますと、昨日あのひとはわたしたちを駅に出迎えてくださることになっていたのです。それが駅には、この宿の所番地を書いた紙をもたせて、わたしたちを案内するようにと、見知らぬ使いの者をよこして、自分は今朝ここを訪ねるからという言《こと》伝《づ》てでした。ところが今朝も見えないで、その代りにこの手紙がきたわけです……まあわたしの下手な説明よりも、とにかくこの手紙を読んでみてください。ひとつ、とっても気になることがあるんです……それがどんなことかはすぐにおわかりになるでしょう。そして……あなたの忌《き》憚《たん》のない意見を聞かせてくださいな、ドミートリイ・プロコーフィチ! あなたは誰よりもロージャの気性をご存じですし、誰よりもよく相談にのってくださるはずですもの。おことわりしておきますが、ドゥーネチカははじめから、もうすっかり決めてしまっているのですが、わたしは、わたしはどうしてよいか、まだわかりません。それで……さっきからあなたをお待ちしていたのですよ」
ラズミーヒンは昨日の日付の手紙を開いて、次のような文面を読んだ。
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、今日は思いがけぬ支障のために、あなた方を駅に出迎えることができず、代りによく気のきく男を出迎えにさしむけました。どうかご了承ください。さて明朝ものっぴきならぬ元老院の用件があり、それにあなたとご子息、アヴドーチヤ・ロマーノヴナとご令兄の親子兄妹水入らずの対面を邪魔しないほうがいいと思いますので、お訪ねしないことにします。従いましてあなた方を宿にお訪ねして、ごあいさつ申しあげるのは、明日の午後八時にしたいと思います。つきましては私の切なる心からの願いをひとつ、あえてつけ加えさせていただきますが、私たちの面会の席にはぜったいにロジオン・ロマーノヴィチには来ていただきたくありません。といいますのは、昨日同君の病床を見舞いました際、私は同君のためにいまだかつてないほどの無礼きわまる取り扱いをうけたからです。それに、ある事柄につきましてぜひともあなたと膝《ひざ》をまじえて詳しく話しあい、あなたご自身の説明を聞きたいからです。なおあらかじめおことわりしておきますが、私の希望に反して、ロジオン・ロマーノヴィチが来ておられるような場合は、私はただちに退出せざるを得ないでしょうし、それはあなた方の自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》というものですから、もう私は関知しません。こんなことを申しあげるのは、私が見舞った際はひどい重病のように思われたロジオン・ロマーノヴィチが、二時間後には突然全快したという事情を見ましても、外出のついでにあなた方の宿に立ち寄るのではないか、と懸《け》念《ねん》されるからです。それは私がこの目でたしかめたところです。昨日馬車にひかれて死んだある酔漢の家で、醜業を職としているその家の娘に、同君が葬儀費用の名目で二十五ルーブリをわたしたのを見て、それはあなたがどんなに苦心しておつくりになった金かを知っている私は、すっかりおどろいてしまった次第です。最後に、アヴドーチヤ・ロマーノヴナに心からの敬意を表するとともに、あなたに深く信服していることを重ねて申しあげます。
あなたの忠実な下《げ》僕《ぼく》
P・ルージン
「いったいどうしたらいいものでしょう、ドミートリイ・プロコーフィチ?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはいまにも泣きそうになりながら言った。「どうしてわたしが、ロージャに来るななんて言えましょう? あの子は昨日ピョートル・ペトローヴィチをことわってしまえって、あんなにきつく言うし、こちらはこちらで、あの子を来《こ》させるなだなんて! でも、こんなことがわかったら、あの子は意地でも来ますよ、そしたら……どうなるでしょう?」
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナがきめたとおりに、なさったらいいでしょう」と落ち着きはらって、すぐにラズミーヒンは答えた。
「それが、びっくりするじゃありませんか!この娘ときたら……とんでもないことを言いだして、そのわけもおしえないんですよ! この娘はね、ロージャにもわざと今日の八時にここへ来させて、ぜひ二人を会わせるようにしたほうがいいなんて、いや、いいとかわるいとかじゃなくて、どういうわけだか知らないけど、どうしてもそうしなければならないなんて、言うんですよ……でもわたしはね、どうしてもこの手紙をあの子に見せる気になれないから、あなたにお頼みして、何かうまい方法であの子を来させないようにできないものかと……だってあの子はあんなに怒りっぽいでしょう……それから、わたしにはさっぱりわけがわからないんだけど、酔っぱらいとか、その娘とか、その娘にあの子がなけなしの金をやったとか……だってあの金は……」
「やっとの思いで手に入れたお金ですものね、お母さん」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナが言いそえた。
「彼は昨日は常態じゃなかったんですよ」とラズミーヒンは考えこみながら言った。「昨日彼が居酒屋でしでかしたことを、あなたが聞いたらびっくりしてしまいますよ。頭はいい男なんだが……うん! 誰かが死んだとか、その娘がどうしたとか、昨日いっしょにかえる途中、たしかに言ってましたよ。でもぼくはなんのことやらさっぱりわからなかった……しかも、昨日はぼく自身が……」
「それよりも、お母さん、兄さんのところへ行きましょうよ。そしたらきっと、どうしたらよいかすぐにわかると思うわ。それにもう時間よ、――まあ! もう十時すぎたわ!」彼女は細いヴェニス鎖で頸《くび》から下げていた七《しっ》宝細工《ぽうざいく》のみごとな金時計をちらと見て、思わず叫んだ。それはほかの装身具とはひどくそぐわなかった。《花婿のプレゼントだな》ラズミーヒンはふと思った。
「あッ、ほんと!……もう行かなくちゃ、ドゥーネチカ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは急にそわそわしだした。「昨日のことで怒って、いつまでも行かないなんて思われたら。それこそ、どうしましょう」
こんなことを言いながら、彼女はせかせかと外套《がいとう》をはおり、帽子をかぶった。ドゥーネチカも身支度をととのえた。彼女の手袋は古いばかりか、破れてさえいるのに、ラズミーヒンは気づいた。しかしこの明らかな服装の貧しさがかえって二人の婦人に一種独特の気品をあたえていた。それは貧しい服装に恥じらいを感じない人々にいつも見られる気品である。ラズミーヒンは恭敬の目でドゥーネチカをながめて、彼女を案内して行くことに誇りを感じた。《あの女王だって》と彼はひそかに考えた。《獄舎の中で自分の靴下《くつした》のほころびをつくろったという、あの女王だって、そのときのほうが、はなやかな儀式やおでかけのときよりも、ほんとうの女王らしく見えたはずだ》
「ああ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。「息子と、かわいい、かわいいロージャと会うのが怖いなんて、そんなことゆめにも思ったことがなかった。それがいまは、なんだか怖くて!……わたしは怖いんですよ、ドミートリイ・プロコーフィチ!」彼女はこわごわ彼を見て、こうつけ加えた。
「怖がることないわよ、お母さん」とドゥーニャは母に接吻《せっぷん》しながら言った。「それより兄さんを信じなさいよ。わたしは信じてるわ」
「おや、何をいうの! わたしだって信じてるんだよ。でも一晩中ねむられなかったんだよ!」と哀れな母は叫んだ。
彼らは通りへでた。
「ねえ、ドゥーネチカ、明け方近くになってとろとろとしたと思ったら、思いがけなく亡《な》くなったマルファ・ペトローヴナの夢を見たんだよ……まっ白いきものをきて……わたしのそばへ来ると、手をとって、頭を振るんだよ、きびしい顔をして、まるでわたしを詰《なじ》るみたいに……きっと何かわるい前じらせだわ! ああ、どうしよう、ドミートリイ・プロコーフィチ、あなたはまだ知らないでしょうけど、マルファ・ペトローヴナは亡くなったんですよ!」
「いいえ、知りませんね。そのマルファ・ペトローヴナって誰です?」
「突然でしてねえ! それがあなた……」
「あとになさいよ、お母さん」とドゥーニャがさえぎった。「だってこの方はまだマルファ・ペトローヴナが誰か知らないじゃありませんか」
「おや、知らないんですか? わたしはまた、あなたはもう何もかもご存じだと思ったものですから。ごめんなさいね、ドミートリイ・プロコーフィチ、わたしはこの二、三日ほんとに頭がどうかしてるんですよ。ほんとに、わたしはあなたをわたしたちの救いの神みたいに思っているものですから、それであなたはもう何もかもご存じだと、頭から思いこんでいたんですよ。身内の者みたいな気がしましてねえ……こんなことを言って、怒らないでくださいね。おや、まあ、どうなさいましたその右の手は! けがですの?」
「え、ちょっと」とラズミーヒンは幸福につつまれてぼんやり呟《つぶや》いた。
「わたしはときどきうれしくなりすぎて、つい口がすべってしまうものですから、いつもドゥーニャに注意されるんですよ……でも、まあ、あの子はなんて汚ない部屋に住んでるんでしょう! それにしても、もう目がさめたかしら? で、あの主婦《おかみ》さんはあんなものを部屋と思っているのかしら? ねえ、あの子は気持を外へだすのがきらいだって、たしかそうおっしゃいましたわね、それでわたし、わるいくせをだして……あの子にいやな思いをさせはしないかと……おしえていただけません、ドミートリイ・プロコーフィチ? あの子をどんなふうにあつかったらいいんでしょう? わたしはどうしてよいのやらさっぱりわからず、おろおろしてるんですよ」
「彼が眉《まゆ》をひそめるのを見たら、あんまりいろんなことを聞かないでください。特に病気のことはあまり聞かないほうがいいです。いやがりますから」
「ああ、ドミートリイ・プロコーフィチ、母であることはなんて辛《つら》いことでしょう! おや、あの階段ですわね……おそろしい階段!」
「お母さん、まあ、顔色までなくして、心配しなくてもいいわよ」とドゥーニャは母をやさしくいたわりながら言った。「兄さんはお母さんに会うんだもの、喜ばなくちゃいけないはずなのに、お母さんにこんな苦しい思いをさせて」彼女は目をうるませて、こうつけ加えた。
「ちょっとここで待っててください、起きたかどうか見てきますから」
婦人たちは、かけのぼって行ったラズミーヒンのあとから、そろそろ階段をのぼって行った、そして四階の主婦の部屋のドアのまえまで来ると、ドアが細目にあいていて、いそがしくうごく二つの黒い目がうす暗い中からこちらをうかがっているのに気づいた。こちらの目とあうと、とたんにドアがバタンとしめられた。そしてその音の大きさに、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはびっくりして、思わず悲鳴が口まで出かかった。
3
「元気ですよ、元気ですよ!」と入ってくる一同をむかえて、ゾシーモフが明るく叫んだ。彼はもう十分もまえからここへ来ていて、昨日と同じソファの端に腰をおろしていたのである。ラスコーリニコフは反対側の隅《すみ》に腰をおろしていた。もうすっかり服装をととのえて、おまけにていねいに顔を洗い、髪までとかしていた。こんなことはもう何カ月もないことだった。部屋はいちどにいっぱいになった。それでもナスターシヤは客たちのあとからするりともぐりこんで、話にきき耳をたてはじめた。
たしかに、ラスコーリニコフはもうほとんど普段とかわらなかった、特に昨日とくらべるともうすっかりよくなっていた。ただひどく顔色がわるく、ぼんやりしていて、気むずかしげで、怪我《けが》人《にん》か、あるいは何かはげしい肉体的苦痛をこらえている人のように見えた。眉《まゆ》根《ね》はぎゅっとよせられ、唇《くちびる》はかたく結ばれて、目は充血してギラギラ光っていた。彼はほとんどしゃべらなかった。しゃべるにしてもしぶしぶで、無理にやっと口をひらくか、あるいは義務だからしかたがないという様子で、ときおり動作になんとなく落ち着かない不安の色がうかがわれた。
これで腕にほうたいを巻いているか、あるいは指にコハク織りのサックでもはめていたら、指が化《か》膿《のう》してはげしく痛むか、あるいは腕に怪我をしたか、いずれにしてもそうしたたぐいの病人に見えたにちがいない。
しかし、この蒼白《あおじろ》い陰気な顔も、母と妹が入ってきたとき、一瞬さっと光がさしたように見えたが、それも顔の表情に、それまでの重苦しい放心のかわりに、かえってますます濃くなったような苦悩のかげを加えただけだった。光はじきにうすれたが、苦悩はそのままのこった。そしてかけだし医師の若い情熱のすべてをかたむけて、自分の患者を観察し研究していたゾシーモフは、肉親が来たことで彼の表情に喜びのかわりに、もはやさけられぬ一、二時間の拷問《ごうもん》をたえようという重苦しいかくされた決意を見てとって、ぞっとした。彼はそれから、つづいて起った会話の一言一言が、患者のどことも知れぬ傷口にふれて、それを痛く刺激するらしい様子を見た。しかしそれと同時に、患者が今日は自分をおさえて、ちょっとした言葉でまるで気ちがいのようにいきり立った昨日の偏執狂とはうって変り、自分の感情をかくすことができるのを見て、いささかおどろきもした。
「ええ、もうすっかり元気になったのが、自分でもわかるよ」とやさしく母と妹に接吻《せっぷん》しながら、ラスコーリニコフは言った。そのためにプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはいっぺんに晴れやかな顔になった。「これはもう昨日流《・・・》に言ってるんじゃないぜ」と彼はラズミーヒンのほうを向いて、親しげに手をにぎりながら、つけ加えた。
「ぼくも今日は彼を見てびっくりしたほどですよ」とゾシーモフはみんなが来たことにひどく喜んだ様子で言いだした。十分も坐《すわ》っていて、そろそろ話の種がつきかけていたところだったからである。「このままゆけば、三、四日もしたら、すっかり元どおりになりますよ。つまり一カ月まえの調子にですよ、いや二カ月かな……それとも、あるいは三カ月まえか? たしかに、この病気はかなりまえからはじまって、徐々に進行してきたものですよ……そうでしょう? さあ白状したまえ、おそらく、きみ自身にも責任があったんじゃないですか?」彼はいまでもまだ患者の神経を刺激することをおそれているらしく、用心深い微笑をうかべながらこうつけ加えた。
「大いにそうかもしれんな」とラスコーリニコフは冷やかに答えた。
「ぼくはだから言うんだよ」とゾシーモフは力を得て、言葉をつづけた。「きみが完全に健康を回復するには、これからは、要は、きみ自身の心がけひとつだと。いまは、やっときみと話ができるようになったから、きみによく言っておきたいんだが、きみの病気の発生に作用した最初の原因、いわば根だな、それを除去しなければいけないよ。そうすれば治るよ。さもないと、もっとわるくさえなるかもしれんよ。その最初の原因てやつは、ぼくにはわからんが、きみにはわかってるはずだ。きみは聡明《そうめい》な人間だから、むろん、自分を観察してきたことと思う。ぼくの見るところでは、きみの神経のみだれがはじまったのは、きみが大学を退校したときとある程度符合しているような気がする。きみは何もせずにはおれぬ男だ、だから労働としっかり定めた目的、これが大いにきみには助けになると思うんだよ」
「うん、そうだ、まったくお説のとおりだよ……早く大学にもどることにしよう、そうすればすべてがうまくいくだろうよ……すらすらとね……」
ゾシーモフがこういう聡明な忠告をはじめたのは、ひとつには婦人たちに対する効果をねらってのことだった、だから話をおわって、相手の顔を見て、その顔に露骨な嘲笑《ちょうしょう》がうかんでいるのに気づいたときは、いささかまごついた。しかし、それも一瞬のことだった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナがすぐにゾシーモフに礼を言いはじめた。特に昨夜おそく宿を訪ねてくれたことに対して、ていねいに礼をのべた。
「なんですって、彼は夜更《よふ》けに訪ねたんですか?」とぎくっとしたらしい様子で、ラスコーリニコフは尋ねた。「じゃ、母さんたちも寝なかったんですね、旅のあとだというのに?」
「まあ、ロージャ、なあにそれもね、ほんの二時までだったんだよ。わたしもドゥーニャも家にいたって、二時まえになんてねたことがないんだよ」
「ぼくだって、なんとお礼を言ってよいかわからないよ」とラスコーリニコフは急に眉をしかめ、うなだれて言った。「金の問題をはなれて、――ごめんね、こんなことを言って(彼はゾシーモフのほうを向いた)、――ぼくはどうしてあなたにこれほどまでに気をつかってもらえるのか、まったくわからないんですよ。要するにわからない……だから……わからないから、それがぼくにはかえって苦しいんです。ぼくははっきり言います」
「まあ、そう気にしないでください」とゾシーモフは無理に笑った。「あなたがぼくの最初の患者だからですよ。だいたい開業したてのわれわれ医師仲間は、自分の最初の患者をまるで自分の子供みたいに愛するものなんですよ、中にはすっかり惚《ほ》れこんでしまうやつもいますよ。それにぼくはあまり患者にめぐまれませんので」
「彼のことはもういうまでもないですよ」とラスコーリニコフはラズミーヒンを指さしながら、つけ加えた。「彼も、屈辱と面倒以外、ぼくから何も受けていないんだ」
「おい、いいかげんにしろよ! 今日はまたえらく感傷的になってるじゃないか、え?」
彼にもしもっと深く見る目があったら、そこには感傷的な気分などみじんもなく、かえってその正反対の何ものかがあったことを見ぬいたはずである。だが、アヴドーチヤ・ロマーノヴナはそれに気づいた。彼女はじっと不安そうに兄の様子を見まもっていた。
「お母さん、あなたのことでは、ぼくは何をいう勇気もありません」と彼は朝から何度も口の中でくりかえした宿題を暗誦《あんしょう》するように、言葉をつづけた。「今日になってはじめてぼくは、お母さんが昨日ぼくのかえりを待つ間、どんなにかお苦しみになったにちがいないということが、すこしわかりかけてきたのです」そう言うと彼は、不意に、何も言わず、にこにこ笑いながら、妹へ手をさしのべた。そしてその微笑には、こんどこそ作りものでないほんとうの感情のひらめきがあった。ドゥーニャはすぐにその手をとって、喜びと感謝の気持でいっぱいになりながら、熱くにぎりしめた。これが昨日の不和からはじめて彼が妹に対した態度だった。この兄と妹の決定的な無言の和解を見て、母の顔は喜びと幸福にかがやいた。
「まったく、これだからぼくはこいつが好きなんだよ!」なんでも大げさに言うくせのあるラズミーヒンは、椅子《いす》の上ではげしく身体《からだ》をひねって、小声で言った。「やつにはこういう芸当があるんだよ!……」
《ほんとにこの子のやることったら、どうしてこううまくゆくんだろう》と母は胸の中で考えた。《ほんとに美しい清らかな心をもった子だわ、昨日からの妹との心のわだかまりをあんなに素直に、しかもやさしい思いやりで解いてしまったんだもの――こんなときに、手をさしのべて、やさしく見つめただけで……それにしてもなんてきれいな目でしょう、顔ぜんたいの美しいことったら!……ドゥーネチカより美しいくらいだわ……しかし、まあまあ、なんという服を着ているんだろう、おそろしいみたいだわ! アファナーシイ・イワーノヴィチの店の小僧のワーシャだって、もっとましな服を着てるわ!……ああどんなに、いますぐこの子にとびついて、抱きしめて、そして……泣いてみたいかしれやしないのに、――こわい、こわくてそれができない……なんだかこの子が、ああ!……こんなにやさしく言葉をかけてくれるのに、やっぱりこわい! いったい、何がこわいのかしら?……》
「ああ、ロージャ、おまえは嘘《うそ》だと思うかもしれないけど」と彼女はあわてて息子の言葉に答えながら、急いで言った。「わたしとドゥーニャは昨日は……ほんとに不幸だったんだよ! いまはもう、何もかもすぎ去って、わたしたちはみんなまたしあわせになったから、こんな話もできるんだけどね。まあ考えてもごらんよ、おまえを早く抱きしめたいと思って、それこそ汽車からまっすぐここへかけつけてみれば、あの女のひとが、――あ、そこにいるじゃないの! こんにちは、ナスターシヤ!……このひとがいきなりわたしたちに言うじゃないの、おまえが熱病にかかってねていたが、ついいましがた医者の目をかすめて、夢遊病者みたいに街へ逃げ出し、みんなさがしにかけ出していったなんて。おまえにはほんとにできないだろうけど、わたしたちがどれほど心配したか! わたしはすぐにポタンチコフ中尉さんの悲惨な死を思い出したんだよ。ほら、わたしたちの知り合いで、おまえのお父さんの親しいお友だちで、――おぼえている、ロージャ、――あのひとも熱病にかかって、やっぱり逃げ出して、庭で井戸におちて、あくる日になってやっとひきあげられたんだよ。わたしたちは、むろんのこと、もっともっと大げさに考えてねえ。もうすんでのことにピョートル・ペトローヴィチを訪ねようとしたんだよ、せめてあのひとの助けでも借りようと思ってねえ……だってわたしたちは二人きりだったんだもの、頼るひとが誰《だれ》もなかったんだもの」と彼女は哀れっぽい声で訴えるように言ったが、不意にはっと口をつぐんだ。《みんながもう元どおりにすっかり幸福になった》が、それでもやはりピョートル・ペトローヴィチのことを口にするのは、まだかなり危険なことを思い出したからである。
「そうでしょうとも……そりゃ、たしかに、腹がたったでしょう……」とそれに答えて、ラスコーリニコフは呟《つぶや》いたが、それがあまりに散漫な、まるで気のぬけたような態度だったので、ドゥーネチカはびっくりして、目を見はった。
「はてな、あと何を言おうとしたんだっけ」と彼は無理に思い出そうとつとめながら、言った。「そうそう。お母さん、それからドゥーネチカ、おまえも、ぼくのほうから行きたくないから、あんた方の来るのを待っていたなんて、そんなふうに思わないでくださいね」
「まあ、何を言うんだね、ロージャ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナも、びっくりして叫んだ。
《まあ兄さんたら、義務で、わたしたちに返事しているのかしら?》とドゥーネチカは考えた。《仲直りをするのも、許しをこうのも、まるでおつとめをしているか、宿題の暗誦でもしてるみたいだわ》
「起きるとすぐに、行こうと思ったのですが、服でぐずぐずしてしまったものですから。昨日この……ナスターシヤに……血を洗ってくれるように言うのを忘れてしまって……いまやっと服を着おわったところなのです」
「血ですって! なんの血なの?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはうろたえた。
「いやなに……なんでもないんです。実は昨日すこしもうろうとして、ふらふら歩いていたら、馬車にひかれた男にぶつかったんです……官吏ですが……それで血が……」
「もうろうとして? でもきみはすっかりおぼえてるじゃないか」とラズミーヒンが口を入れた。
「それはたしかだ」と何か特に注意深く、ラスコーリニコフはそれに答えた。「ほんの些《さ》細《さい》なことまで、すっかりおぼえている、ところが、どうしてあんなことをしたか、どうしてそこへ行ったか、どうしてあんなことを言ったのか? ということになると、自分でもよくわからないんだ」
「それはもう自明の現象ですよ」とゾシーモフが口を入れた。「あることの実行はときとして手なれたもので、巧妙すぎるほどだが、行為の支配、つまり行為の基礎がみだれていて、さまざまな病的な印象に左右される。まあ夢のような状態ですな」
《ふん、やつはおれをほとんど気ちがいあつかいにしているが、そのほうがかえって好都合かもしれんぞ》とラスコーリニコフは考えた。
「でもそれは、健康な人だって、やはりあるかもしれませんわ」と不安そうにゾシーモフを見ながら、ドゥーネチカが言った。
「お説のとおりかもしれません」とゾシーモフは答えた。「その意味では、たしかにわたしたちはみな、しかもひじょうにしばしば、ほとんど狂人のようなものです。ただわずかのちがいは、《病人》のほうがわれわれよりもいくぶん錯乱の度がひどいということだけです、だからここに境界線をひかなければならないわけです。調和のとれた人間なんて、ほとんどいないというのは、たしかです。何万人に、いやもしかしたら何十万人に一人、いるかいないかですが、それだってやはり完全というわけにはいかんでしょう……」
好きなテーマで調子づいたゾシーモフがうっかり口をすべらした《狂人》という言葉に、一同は眉をひそめた。ラスコーリニコフはそんなことは気にもとめないふうで、蒼白い唇に奇妙なうす笑いをうかべたまま、じっと黙想にしずんでいた。彼は何かを考えつづけていた。
「で、その馬車にひかれた男がどうしたんだい? ぼくが話をそらしてしまったが!」とラズミーヒンがあわてて大声で言った。
「なに?」とラスコーリニコフは目がさめたように問い返した。「ああ……なに、その男を家へ運びこむのを手伝ったとき、血がついたのさ……そのことですが、お母さん、ぼくは昨日実に申しわけないことをしてしまったんです。たしかに頭がどうかしていました。ぼくは昨日、お母さんが送ってくだすったお金をすっかり、やってしまったんです……その男の妻に……葬式の費用にって。夫に死なれて、肺病で、あんまりかわいそうなんです……子供が三人、食べるものもなく……家の中はからっぽで……もう一人娘がいますが……きっと、あんな様子を見たら、お母さんだってお金をやったでしょう……でもぼくには、あんなことをする権利はぜんぜんなかったんです、だって、はっきり言いますが、あのお金はお母さんがどんな苦しい思いをしておつくりになった金か、ぼくはちゃんと知ってるんですもの。人を助けるには、まずその権利を作らなきゃいけないんです、さもないとフランスの諺《ことわざ》にいう Crevez, chiens, si vous n'腎es pas contents!(腹がへったら犬でも殺せ)てことになりますよ」彼はにやりと笑った。「そうだろう、ドゥーニャ?」
「いいえ、ちがいますわ」とドゥーニャはきっぱりと答えた。
「え! じゃおまえも……そうなのか!……」と彼はほとんど憎《ぞう》悪《お》にちかい目で彼女をにらみ、あざけりのうす笑いをうかべながら、呟いた。「おれはそれを考慮に入れるべきだったのさ……まあ、りっぱだよ、おまえはそのほうがよかろうさ……だが、いずれはある一線に行きつく、それを踏みこえなければ……不幸になるだろうし、踏みこえれば……もっと不幸になるかもしれん……でもまあ、こんなことはくだらんよ!」彼は自分が心にもなく熱中したことに腹をたてて、苛々《いらいら》しながらつけ加えた。「ぼくはただ、お母さん、あなたに、許してください、と言いたかったのです」と彼はポキポキした口調で、ぶっきらぼうに言葉を結んだ。
「いいのよ、ロージャ、わたしはね、おまえのすることは何でも、みなりっぱなことだと信じているんだよ!」と母はすっかり喜んで言った。
「信じないほうがいいですよ」と彼はうす笑いに口をゆがめて、答えた。沈黙がきた。こうした会話ぜんたいにも、沈黙にも、和解にも、許しにも、不自然な何ものかがあった、そして誰もがそれを感じていた。
《たしかにみんなおれを恐れているようだな》母と妹を上目づかいでちらちら見ながら、ラスコーリニコフは自分で自分のことを考えていた。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはたしかに、沈黙が長びくにつれて、ますますおじけづいてきた。
《はなれていたときは、あんなに二人を愛していたはずだったのに》という考えがちらと彼の頭をかすめた。
「ねえ、ロージャ、マルファ・ペトローヴナが亡《な》くなったんだよ!」と不意にプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが言った。
「マルファ・ペトローヴナって、どこの?」
「まあ、おどろいた、ほら、マルファ・ペトローヴナだよ、スヴィドリガイロフの奥さんの! わたしがもうあんなに何度も手紙でおまえに知らせたじゃないの」
「あああ、そうか、おぼえてますよ……あのひとが死んだって? ええ、ほんと?」彼は目がさめたように、不意にぎくっとした。「ほんとに死んだんですか? いったいどうして?」
「それがね、ほんとに急だったんだよ!」と彼が関心をしめしたのに元気づいて、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは急いで言った。
「わたしがおまえに手紙を送った、ちょうどあの時分、それもちょうどあの同じ日のことだったんだよ! それもねえ、あのおそろしい主人が、その原因だったらしいんだよ。なんでも、ひどくぶったそうだからねえ!」
「へえ、あの夫婦はそんなだったの?」と彼は妹のほうを向きながら、聞いた。
「いいえ、むしろその反対よ。あのひとは奥さんにはいつもひどくがまん強く、やさしすぎるほどでしたわ。たいていの場合、奥さんの気性に対して寛大すぎるほどで、七年間もしんぼうしてきたものだから……何かのはずみに不意にかんにん袋の緒がきれたのね」
「なるほど、七年間もがまんしてきたとすると、べつにそれほど恐ろしい男じゃないじゃないか? ドゥーネチカ、おまえはその男をかばってるようだね?」
「いえ、いいえ、おそろしいひとですわ! あれよりおそろしいものなんて、わたし想像もできないわ」とドゥーニャは身ぶるいしないばかりに答えると、眉をひそめて、考えこんでしまった。
「それが起ったのは朝のうちだったんだよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、急《せ》きこんで、つづけた。「そのあとですぐに奥さんは馬の支度をいいつけたそうだよ、食事がすんだら、すぐに町へ出かけるために。そんなときはいつも町へ出かけるのがくせだったからねえ。なんでも、食事はとてもおいしそうにあがったそうだよ……」
「そんなになぐられて?」
「……なに、いつものことだから……慣れていたんだよ、そして食事がすむと、出かけるのがおくれないように、すぐに浴室へ行ったんですって……あのひとはどういうものか水浴療法というものをやっていてねえ、家の中に冷たい泉があって、毎日きまった時間に水浴をしていたんだよ。ところがその日は、水に入ったとたんに、倒れてしまった!」
「そりゃきまってますよ!」とゾシーモフが言った。
「へえ、そんなにひどくなぐったのか?」
「そんなことどうでもいいじゃありませんの」とドゥーニャが応じた。
「フン! しかしお母さん、あんたももの好きだなあ、こんなつまらんことを言い出すなんて」と不意にラスコーリニコフはむしゃくしゃしながら、言った。うっかり口をすべらせてしまったらしい。
「まあ、何を言うんだね、おまえ、わたしは何を言いだしたらよいのやら、わからなかったんだよ」といううらみがプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの口から思わずとびだした。
「だがどうしたんです、みんな腫《は》れものにさわるみたいだね、ぼくが恐《こわ》いのですか?」と彼はねじけたうす笑いをうかべながら言った。
「そのとおりよ」とまっすぐにきびしい目で兄をみつめながら、ドゥーニャは言った。「お母さんは、階段をのぼるとき、おそろしさのあまり十字をきったほどなのよ」
彼の顔は痙攣《けいれん》したように歪《ゆが》んだ。
「まあ、なんてことを言うの、ドゥーニャ!どうか、怒らないでおくれね、ロージャ……どうしておまえは、ドゥーニャ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはおろおろしながら言いだした。「それはね、ほんと、ここへ来る途中汽車の中でずうっと、空想ばかりしてきたんだよ、おまえと会うときの様子やら、お互いにいろんなことをすっかり話し合う様子など……そしてうれしくてうれしくて、外の景色もまるで目に入らなかったんだよ!それなのにわたしったら! わたしはいまでもうれしいんだよ……おまえはほんとにいらないことを、ドゥーニャ! わたしはおまえを見ているだけで、しあわせなんだよ、ロージャ……」
「もういいよ、お母さん」と彼は母の顔を見もしないで、その手だけにぎりながら、ばつわるそうに言った。「話はゆっくりしましょうよ!」
そう言うと、彼は急にどぎまぎして、真《ま》っ蒼《さお》になった。またしてもさっきの恐ろしい触感が死のような冷たさで彼の心を通りぬけたのだ。またしても彼はおそろしいほどはっきりとさとったのだ、いま彼がおそろしい嘘を言ったことを、そしてもういまとなってはゆっくり話をする機会などは永久に来《こ》ないばかりか、もうこれ以上どんなことも、誰ともぜったいに語り合う《・・・・》ことができないことを。この苦しい想念の衝撃があまりに強烈だったので、彼は、一瞬、ほとんど意識を失いかけて、ふらふらと立ちあがると、誰にも目を向けずに、部屋を出て行こうとした。
「どうしたんだ、きみ?」とラズミーヒンが彼の手をつかんで、叫んだ。
彼はまた腰をおろして、黙ってあたりを見まわしはじめた。みなけげんそうに彼を見まもった。
「どうしてみんなそうぼんやりふさぎこんでいるんです!」と彼は不意に、自分でも思いがけなく、叫んだ。「何かしゃべりなさいよ! まったく、なにをぼんやり坐ってるんです! さあ、しゃべってください! 話をしましょうや……せっかく集まって、黙りこくっているなんて……さあ、何か!」
「やれやれ、ほっとした! わたしはまた、昨日のようなことがはじまるんじゃないかと思いましたよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが十字をきって、言った。
「どうしたの、ロージャ?」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナが不審そうに尋ねた。
「なあに、なんでもないよ、ちょっとしたことを思い出しただけさ」彼はそう答えると、不意に笑いだした。
「まあ、ちょっとしたことなら、結構だが!ぼくはまたぶりかえしたかと、はっとしましたよ……」とゾシーモフはソファから腰をあげながら、呟くように言った。「しかし、ぼくはもう失礼する時間です。もう一度寄るかもしれません……じゃまたそのとき……」
彼は会釈《えしゃく》をして、出て行った。
「なんてごりっぱな方でしょう!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが言った。
「うん、りっぱな男だよ、すぐれた、教養ある、聡明な……」とラスコーリニコフはだしぬけに、思いがけぬ早口で、これまでになく珍しく張りのある声で、しゃべりだした。「病気になるまえ、どこで会ったか、もうおぼえていないが……どこかで会ったんでしょう……それから、これもいい男ですよ!」と彼はラズミーヒンに顎《あご》をしゃくった。「こいつが気に入ったかい、ドゥーニャ?」と彼は不意に彼女に聞くと、どういうわけか、大声で笑いだした。
「とっても」とドゥーニャは答えた。
「フッ、きみはまったく……いやなことを言うやつだ!」ラズミーヒンはすっかりうろたえて、真っ赤になってこう言うと、椅子から立ちあがった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは軽く微笑《ほほえ》んだが、ラスコーリニコフは声をはりあげて笑いころげた。
「おい、どこへ行く?」
「ぼくも……用があるんだ」
「用なんかあるはずないよ、のこりたまえ!ゾシーモフがかえったから、きみはのこらにゃいかん。そわそわするなよ……ところで、何時かな? 十二時になった? ずいぶんかわいらしい時計だね、ドゥーニャ! どうしたんだい、みんな黙りこんじまって? ぼくだけじゃないか、しゃべってるのは!……」
「これはマルファ・ペトローヴナのプレゼントですわ」とドゥーニャが答えた。
「とっても高価なものなんだよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが口をそろえた。
「ほほう! それにしても大きいね、女持ちでないみたいだ」
「わたしこういうの好きよ」とドゥーニャは言った。
《そうか、花婿のプレゼントじゃなかったのか》とラズミーヒンは考えて、どういうわけかうれしくなった。
「ぼくはまた、ルージンのプレゼントかと思ったよ」とラスコーリニコフは言った。
「いいえ、あのひとはまだ何ひとつドゥーネチカに贈りものなんかしませんよ」
「へえ! おぼえてる、お母さん、ぼく一度すっかり好きになっちゃって、結婚しようとしたこと」とだしぬけに彼は母を見つめながら言った。母は思いがけぬ話題の転換と、それを言いだしたときの彼の口調にあっけにとられて、ぽかんとしてしまった。
「ああ、そう、そうだっけねえ!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはドゥーニャとラズミーヒンに目配せした。
「フム! そう! ところで、どう話したらいいかなあ? だって、もうあまりよくおぼえていないんだよ。病気がちの弱い娘だった」と彼はまた急に沈みがちになって、目を伏せたまま言葉をつづけた。「まったく病身で、乞《こ》食《じき》にものをやるのが好きで、いつも修道院をあこがれていたっけ、そして一度それをぼくに話してくれたとき、泣きだしてしまって。そう、そう……おぼえています……よくおぼえています。ひどくみにくい娘でした……顔は。ほんとに、どうしてあの頃《ころ》ぼくはあの娘にひかれたのか、自分でもわからない、きっと、いつも病身だったからでしょう……もしあの娘がさらにびっこ《・・・》かせむし《・・・》だったら、ぼくはおそらく、もっともっと強く愛したでしょう……(彼はさびしく微笑した)そうです……まあ春の夢みたいなものでした……」
「いいえ、それは春の夢ばかりじゃありませんわ」とドゥーネチカは生き生きと顔をかがやかせて言った。
彼はじいっと目に力をこめて妹を見つめたが、その言葉が聞きわけられなかったか、あるいは聞きとれても言葉の意味がわからなかったらしい。それから、深いもの思いに沈んだまま、立ちあがり、母のそばへ行って、接吻をすると、またもとへもどって、腰をおろした。
「おまえはいまでもその娘《こ》を愛しているんだよ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは感動して言った。
「その娘《こ》を? いまでも? ああ……あの娘のことですか! いいえ。そんなことはみないまではもうあの世のことのようです……もうずっと昔のことです。それにまわりのすべてのことまで、なんだかこの世のことではないみたいで……」
彼は注意深くみなの顔を見た。
「ここにいるあなた方だって……まるで千里も遠くから見ているような気がするんです……チエッ、なんだってこんな話をしてるんだ? なんのためにうるさく聞くんだ?」彼は腹立たしげにこうつけたすと、それきり黙りこんで、爪《つめ》をかみながら、またもの思いに沈んだ。
「これはまた思いきって汚ない部屋だねえ、ロージャ、まるで墓穴みたいだよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは重苦しい沈黙を破って、だしぬけに言った。「おまえがこんな気欝症《きうつしょう》にかかったのも半分はきっとこの部屋のせいだよ」
「部屋?……」と彼はぼんやり答えた。「うん、部屋もかなり影響してますね……ぼくはそれも考えました……しかし、あなたは知らんでしょうが、お母さん、あなたはいまおそろしいことを言ったんですよ」と彼は不意に、異様なうす笑いをうかべて、つけ加えた。
もうちょっとしたら、この集まりも、三年の別離の後のこの親子のめぐりあいも、およそ語りあうことなどぜったいにできないような空気の中でつづけられている、この肉親なればこその会話の調子も、――ついに、彼にはどうしても堪えられぬものになったであろう。ところが、どうなるにしろ、ぜったいに今日中に解決しなければならぬ、ひとつののっぴきならぬ問題があった。それは彼がさっき目をさましたときから、そう決めていたのだった。いま彼はまるで出口が見つかったように、喜んでその問題《・・》にとびついた。
「ところで、ドゥーニャ」と彼は改まって、そっけなくきりだした。「ぼくは、むろん、昨日のことはおまえに申しわけないと思っている。だがぼくとしては、どうしてもここでもう一度、根本的な考えは変えないことを、おまえにはっきりと言っておきたい。ぼくか、ルージンかだ。ぼくは卑劣な人間でもかまわんが、おまえはいかん。どちらか一人だ。もしおまえがルージンに嫁ぐなら、ぼくは即座におまえを妹と思うことをやめる」
「ロージャ、ロージャ! それじゃまるきり昨日と同じことじゃないの」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは涙声で叫んだ。「いったいどうしておまえはそういつもいつも、自分を卑劣な人間だなんて言うの、わたしはそんなことがまんできない! 昨日だってそうです……」
「兄さん」と、ドゥーニャはきっとして、やはりそっけなく答えた。「この問題では、兄さんのほうにまちがいがあります。わたしは昨夜一晩考えて、そのまちがいを見つけました。結局、兄さんは、わたしが誰かに対して、誰かのために、自分を犠牲にするように考えているらしいけど、それがまちがいなのです。ぜんぜんそんなことはありません。わたしはただ自分のために結婚するのです、自分が苦しいからです。そしてそれが、身内のためにいい結果になったら、うれしいのはあたりまえです、でもわたしの決心で、それが主な動機ではありません……」
《嘘だ!》と彼は憎さげに爪をかみながら、腹の中で思った。《傲慢《ごうまん》なやつだ! 恩を施したいんだと、はっきり言うのがいやなのだ! ああ、下司《げす》な根性だ! やつらの愛なんて、にくしみみたいなものだ……ああ、おれは……こいつら全部が憎くてならん!》
「やっぱり、わたしはピョートル・ペトローヴィチに嫁ぎます」とドゥーネチカはつづけた。「だって、二つの不幸があれば、軽いほうをえらびますもの。わたしは、あのひとがわたしに期待していることはどんなことでも、心をこめて行うつもりですわ、だから、あのひとを欺《あざむ》くことにはなりません……兄さん、どうしていまお笑いになったの?」
彼女もかっとなった、そして目に憤《ふん》怒《ぬ》の火花がもえた。
「どんなことでも行うって?」と彼は毒々しく笑いながら言った。
「ある限度までよ。ピョートル・ペトローヴィチの求婚の仕方と形式を見て、あのひとが何を望んでいるか、わたしはすぐにわかったわ。あのひとは、むろん、自分を高く評価しすぎているかもしれないわ、でもその代り、きっとわたしの人格もかなり認めてくれると思うのよ……また笑って、どうしてなの?」
「じゃどうしておまえはまた赤くなったんだい? おまえは嘘をついてるんだよ。わざと嘘をついているんだ、女の強情さで、おれのまえで我を通したいという、ただそれだけの理由で……おまえにルージンが尊敬できるはずがないよ。おれは彼に会って、話したんだ。つまり、おまえは金のために身を売ろうというのだ、つまり、どう見たっていやしい行為をしているんだよ。でも、おまえがまだせめて赤くなれるのを見て、おれはうれしいよ!」
「ちがうわ、嘘じゃない!……」とドゥーネチカはすっかり冷静さを失って、叫んだ。「あのひとがわたしの人格を認めて、尊敬してくれる、という確信がなかったら、わたしは結婚しないわ。あのひとを尊敬できるということが、確実に信じられなかったら、わたしは結婚しないわ。さいわいに、わたしはそれを確認できます、今日にもよ。このような結婚は、兄さんの言うような、いやしい行為じゃないわ! そして、もし兄さんが正しくて、わたしがほんとうにいやしい行為を決意したとしたら、――わたしにそんなことを言うなんて、兄さんもずいぶんひどいじゃありません? どうして兄さんは、おそらく自分にもないような勇気を、わたしに要求するの? それは横暴だわ、暴力だわ! もしわたしが誰かを亡《ほろ》ぼすとしたら、それは自分一人をだけよ……わたしはまだ誰も破滅させたことがないわ!……どうしてそんな目でわたしを見るの? どうしたの、真っ蒼になって?ロージャ、どうしたの? ロージャ、兄さん!」
「まあ! 気絶させちゃって!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
「いえ、いえ……なんでもありませんよ……つまらんことです!……ちょっとめまいがしただけです。気絶なんてとんでもない……よくよく気絶の好きな人たちだ!……ウン! そう……何を言おうとしたんだっけ? そうそう、どうしておまえは、彼を尊敬することができ、そして彼が……人格を認めてくれることを、今日にも確認できるんだい、たしかそう言ったね? おまえは、今日、と言ったようだったね? それともぼくの聞きちがいかな?」
「お母さん、ピョートル・ペトローヴィチの手紙を兄さんに見せてあげて」とドゥーネチカは言った。
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはふるえる手で手紙をわたした。彼は大きな好奇心をもってそれを受けとった。が、それをひろげるまえに、彼は不意にどうしたのか、びっくりしたようにドゥーネチカを見た。
「おかしい」彼は突然新しい考えにゆさぶられたように、ゆっくり呟いた。「いったいなんのためにおれはこんなにやきもきしてるんだ? この騒ぎはなんのためだ? うん、誰でも好きなやつと結婚すればいいじゃないか!」
彼は自分に言いきかせるようだったが、かなりはっきり声にだして言って、しばらくの間、当惑したように妹の顔を見つめていた。
彼は、とうとう、まだ異様なおどろきの表情をのこしたまま、手紙をひらいた。そしてゆっくり入念に読みはじめて、二度読み直した。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはひどく不安気だった。ほかのみんなも何か特別なことが起りそうな気がしていた。
「おどろいたねえ」と彼はしばらく考えてから、母に手紙をわたしながら、特に誰にともなく言った。「だって彼は弁護士で、忙しくやっているんだろう、話だってまあまあだ……くせはあるけど、ところが書かせるとまるででたらめじゃないか」
一座はちょっとざわめいた。これはまったく予期しなかったことだからである。
「でも彼らはみなこういう書き方をするよ」とラズミーヒンはどぎまぎしながら言った。
「じゃ、きみは読んだのか?」
「うん」
「わたしたちが見せたんだよ、ロージャ、わたしたちは……さっき相談したんだよ」とおろおろしたプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが口をだした。
「これは裁判所独特の文体だよ」とラズミーヒンがさえぎった。「裁判所の書類はいまでもこんなふうな書き方だよ」
「裁判所の? うん、たしかに裁判所で書きそうな手紙だ、事務的で……まあそれほど文法的にでたらめだともいえないが、しかしひじょうに文学的ともいいかねる。まあ事務的だな!」
「ピョートル・ペトローヴィチは満足に教育を受けていないことを、かくしてはおりません、自分で自分の道をきりひらいたことを、かえって誇りにしているくらいですわ」と兄の新しい調子にいくらかむっとして、アヴドーチヤ・ロマーノヴナは言った。
「まあいいさ、誇りにしているなら、それだけのものがあるのだろう、――ぼくは何も言うまい。ドゥーニャ、おまえは、ぼくがこの手紙を読んでこんなつまらないけちをつけただけなので、侮辱を感じたらしいね、そして、怒らせておいておまえをやっつけるために、ぼくがわざとこんなつまらないことを言いだしたんだと、思っているだろう。とんでもない、文章の中に一個所、この場合ぜったいに読みすごせない意見が、ぼくの頭にピンときたのだ。というのは《自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》》という表現だ。ひじょうに意味ありげに、しかもはっきりと書かれている。しかもそればかりか、ぼくが来たら即座に退出する、という脅迫がある。この退出するという脅迫は――いうことを聞かなければ、おまえたち二人をすてるぞ、という脅迫と同じじゃないか、しかもわざわざペテルブルグまで呼び出しておきながらだ。ドゥーニャ、おまえどう思う、例えば彼か(彼はラズミーヒンを指さした)、ゾシーモフか、あるいはわれわれの誰かがこんなことを書いたら、それこそ腹を立てるだろう、それがルージンなら、こんなことを書かれても、腹を立てられないのか?」
「ううん」とドゥーネチカは元気づきながら、答えた。「この手紙の表現はあまりにナイーヴで、あのひとは、きっと、ただ書くのが上手じゃないだけなんだってことが、よくわかったわ……兄さんの考察は実にみごとよ。思いがけぬほどよ……」
「それが裁判所式の表現だろうさ、裁判所式に書けばこれ以外の書きようがないんだろう、それでおそらく文章が、実際に思っているよりも荒っぽくなるんだろうよ。それはいいとして、おまえをすこし失望させることになりそうだが、この手紙にはもうひとつひっかかる表現がある。ぼくに対する、それもかなりえげつない中傷だ。ぼくは昨日途方にくれている肺病の寡婦《やもめ》にお金をやったが、《葬儀費用の名目で》ではなく、実際に葬儀の費用にやったんだ、また娘――《醜業を職としている》と彼が書いているその娘にではなく、寡婦の手に直接わたしたんだ。その娘だってぼくは昨日はじめて会ったんだよ。こうした文面を見ると、ぼくをけなして、おまえたちと口論させようという、あまりにも性急すぎる意図がすぐにわかるよ。これもまた裁判所式の書き方さ、つまりあまりにも露骨すぎる目的暴露と、実にナイーヴな性急さだよ。彼は人間は利口だろう、だが利口に行動するためには――利口だけでは足りないんだよ。この手紙がよく彼の人間をあらわしている。そしてぼくには……彼が大いにおまえの人格を認めているとは、思われない。ただおまえの参考にと思ってこんなことを言うんだが、それも心からおまえの幸福をねがっていればこそだよ……」
ドゥーネチカは答えなかった。彼女の決意はもうさっきすでになされていて、夜のくるのを待っていただけだった。
「それじゃいったい、おまえはどう決めるつもりだね、ロージャ?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、彼の突然の耳なれぬ事《・》務的《・・》な口調に、先ほどよりもますます不安になって尋ねた。
「何のことです、《決める》って?」
「だってほら、ピョートル・ペトローヴィチが書いてるじゃないの、夜おまえがわたしたちのところにいないようにって、来たら……すぐかえってしまうって。それでおまえどうするつもり……来るかい?」
「それはもう、いうまでもなく、ぼくが決めることじゃありませんよ。まず、お母さん、あなたです、ピョートル・ペトローヴィチのこのような要求があなたに侮辱を感じさせなければですよ。次に――ドゥーニャです、これもやはり侮辱と思わなければですがね。ぼくはあなた方のいいようにします」と彼はそっけなくつけ加えた。
「ドゥーネチカはもう決めているんだよ、わたしはそれにすっかり同意なんだよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは急いで口を入れた。
「わたしはね、兄さん、その対面の席にぜひいてもらうように、兄さんに頼むことに決めたのよ」とドゥーニャは言った。「来てくれる?」
「行くよ」
「あなたにも八時に来てくださるようお願いしますわ」と彼女はラズミーヒンに言った。「お母さん、わたしこの方もおよびしますわ」
「いいですとも、ドゥーネチカ。そう、おまえたちがしっかりきめたのなら」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは言いそえた。「そのとおりにするがいいよ。わたしだってそのほうが気楽だよ。見せかけを言ったり、嘘をついたりするのはきらいだよ。それよりすっかりほんとのことをぶちまけちゃったほうが、どのくらいいいかしれやしない……こうなったら、ピョートル・ペトローヴィチが怒ろうが怒るまいが、かまやしないよ!」
4
そのときドアがしずかに開《あ》いて、おずおずとあたりを見まわしながら、一人の娘が部屋へ入ってきた。一同はおどろきと好奇の目でそちらを見た。ラスコーリニコフははじめそれが誰《だれ》かわからなかった。それはソーフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワだった。昨日彼ははじめて彼女を見たのだが、あんなときだったし、あんな環境だったし、それにあんな衣装を着ていたので、彼の記憶にやきつけられたのはぜんぜん別な顔だった。いまそこに立っているのはつましい、むしろみすぼらしいほどの服装の娘で、まだひじょうに若くて、ほとんど少女といっていいくらいで、物腰もひかえ目で品があり、明るいが、すこしおびえたような顔をしていた。着ているのはなんの飾りもないごく質素なふだん着で、頭には古い流行おくれの帽子をかぶっていた。昨日と同じといえば、パラソルをもっていることだけだった。思いがけなく部屋いっぱいの人たちを見て、彼女は当惑したというよりは、すっかりおろおろしてしまって、小さな子供のようにおじけづき、引き返しそうな素振りさえ見せた。
「ああ……あなたでしたか?……」とラスコーリニコフはすっかりびっくりしてしまって、こう言うと、とたんに自分もそわそわしだした。
彼はすぐに、母と妹がもうルージンの手紙によって《醜業を職とする》ある娘のことをいくらか知っていることを、思いうかべた。たったいま彼がルージンの中傷を非難し、その娘を見たのは昨日がはじめてだと言ったばかりなのに、突然その娘が部屋へ入ってきたのである。彼はまた、《醜業を職とする》という言い方に対してなんとも抗議していなかったことを思いだした。こうしたことがぼんやりちらと彼の頭をかすめた。しかし、よく注意して見ると、彼は不意に、この辱《はずか》しめられた存在があまりにも苛《か》酷《こく》なまでにしいたげられていることに気づいて、急にかわいそうになった。そして娘がおびえて逃げだしそうな素振りを見せたとき、――彼は自分の内部で何かがひっくりかえったような気がした。
「あなたがいらっしゃるとはまったく思いがけませんでした」と彼は目で彼女をひきとめながら、急いで言った。「どうぞおかけください。きっと、カテリーナ・イワーノヴナの使いでいらしたのでしょう。どうぞ、こちら、じゃなく、そこへおかけください……」
ラズミーヒンはラスコーリニコフの三つしかない椅子《いす》の一つにかけて、ドアのすぐそばにいたが、ソーニャが入って来ると同時に、彼女を通すために立ちあがっていた。はじめラスコーリニコフはゾシーモフがかけていたソファの端に彼女を通そうとしたが、そのソファはベッド代りにもしているので、あまりにも内輪《・・》すぎる場所だと気がついて、あわててラズミーヒンがかけていた椅子をしめした。
「きみはこっちへかけてくれたまえ」と彼はラズミーヒンに言って、ゾシーモフのあとへかけさせた。
ソーニャはおびえきって、いまにもふるえだしそうな様子で腰をおろすと、おずおずと二人の婦人に目をやった。どうしてこのような婦人たちといっしょに坐《すわ》るなどということができたのか、彼女は自分でもわからないらしかった。それに思いあたると、彼女はすっかりおびえてしまって、急にまた立ちあがり、おろおろしながらラスコーリニコフに言った。
「わたし……わたし……ちょっとお伺いしただけですの、おさわがせしまして、申しわけありません」と彼女はしどろもどろに言いだした。「わたし、カテリーナ・イワーノヴナの使いで、ほかに誰もいなかったものですから……カテリーナ・イワーノヴナがあなたさまに明日のお葬式にぜひおいでねがいたいとのことでございました。朝の……礼拝式《らいはいしき》に……ミトロファニイ教会でございますから、それから家で……一口召し上がっていただけたら……光栄に存じますと……おねがいするよう言われてまいりました」
ソーニャは口ごもって、黙りこんだ。
「ぜひお伺いするようにします……ぜひ」とラスコーリニコフも立ちあがって、やはり口ごもりながら答えたが、しまいまで言いきらなかった……「どうぞ、おかけください」と彼は不意に言った。「あなたと話したいことがあるんです。どうぞ、――お急ぎでしょうかしら、――すみませんが、二分だけぼくにください……」
そう言って彼はソーニャのほうへ椅子をおしやった。ソーニャはまた腰を下ろした、そしてまたおずおずと、困ったように、ちらと二人の婦人を見て、すぐに目を伏せた。
ラスコーリニコフの蒼白《あおじろ》い顔がさっと赤くなった。身体中《からだじゅう》が急にひきつったようになり、目がぎらぎらともえだした。
「お母さん」と彼はしっかりと、おしかぶせるように言った。「この方がソーフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワです、昨日ぼくの目のまえで馬車にひかれた気の毒なマルメラードフ氏の娘さんです。事故のことはもうあなた方に話しましたね……」
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはソーニャをじっと見て、わずかに目をそばめた。彼女はロージャの執拗《しつよう》ないどみかかるような視線に射られて、すっかりどぎまぎしていたが、それでも相手を見くだすこの満足をすてることは、どうしてもできなかった。ドゥーネチカは真剣に、注意深く哀れな娘の顔に視線をあてて、不審そうに彼女を観察していた。ソーニャは、自分が紹介されたのを聞いて、またちょっと目をあげたが、まえよりもいっそうどぎまぎしてしまった。
「あなたにお聞きしたかったのですが」とラスコーリニコフは急いで彼女に言った。「今日はお宅はどんな様子でした。もうすっかり片づきましたか? わずらわしいことはありませんでしたか?……例えば、警察がくるとか」
「いいえ、もうすっかりすみました……だって死因は、明らかすぎるほどですし。うるさいことはありませんでした。ただ住んでいる人たちがさわぎ立てて」
「なぜです?」
「死体をいつまでもおいとくって……なにしろこの暑さでしょ、においが……それで今日、晩の礼拝式の頃《ころ》までに、墓地へ運んで、明日《あす》まで、小礼拝堂に安置しておくことにしましたの。カテリーナ・イワーノヴナははじめいやがりましたが、いまでは自分でも、おいとけないことが、わかったものですから……」
「じゃ今日ですか?」
「母は明日の教会のお葬式においでくださるようにと申しております、それから家においでいただいて、形ばかりの法事をしたいからと」
「法事をするんですか?」
「ええ、ほんの形ばかりですけど。母は、昨日あなたさまにお助けいただいて、くれぐれもお礼を申しあげるようにとのことでした……あなたさまのお助けがなかったら、それこそお葬式も出せなかったでしょう」
そう言うと、彼女の唇《くちびる》と下顎《したあご》が急にふるえだした、が、彼女はいそいで目をおとして、じっとおしこらえた。
話のあいだラスコーリニコフはじっと彼女を観察していた。それは痩《や》せた、ほんとに痩せた蒼白い小さな顔で、輪郭がかなり不正確で、小さな鼻も顎もとがっていて、ぜんたいにとがった感じだった。美人とはとても言えなかったが、その代り青い目が明るく澄んでいて、それが生き生きとかがやくと、顔の表情がびっくりするほど素直で無邪気になり、思わず見とれてしまうほどだった。その顔ばかりでなく、姿ぜんたいに、そのほかもうひとつの特徴があった。それは十八歳というのに、としよりもはるかに若く、まだ少女のように見えることだった。まったく子供子供していて、それがどうかすると彼女の動作の中にあらわれて、むしろ滑稽《こっけい》なくらいだった。
「でもカテリーナ・イワーノヴナはあんなわずかばかりの金でいろいろまかなったうえに、ごちそうまで用意するなんて、そんなことができるんですか?……」ラスコーリニコフは無理に話をきらすまいとしながら、尋ねた。
「寝棺は質素なものにしますし……それに何もかもつましくしますものですから、そんなにかからないのです……わたしさっきカテリーナ・イワーノヴナとすっかり計算しましたら、法事をするお金がのこります……カテリーナ・イワーノヴナはどうしてもそうしたいと申しております。いけないとは言えませんもの……母にはそれが慰めなのです……あなたもご存じと思いますが、母はああいう気性ですから……」
「わかりますよ、わかりますよ……そりゃそうでしょう……どうしてあなたはそんなにぼくの部屋を見まわすんです? 母も言うんですよ、墓穴に似てるなんて」
「あなたは昨日わたしたちにすっかりくださいましたのね!」それには答えないで、ソーネチカは不意にしっかりした早口でこう囁《ささや》くと、すぐにまた深々とうなだれた。唇と顎がまたふるえだした。彼女はもう先ほどからラスコーリニコフの貧しい暮しぶりに強くうたれていたが、いまこの言葉が突然ひとりでに出てしまったのである。沈黙がつづいた。ドゥーネチカの目がなぜか晴れやかになり、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはやさしい笑みをさえうかべてソーニャを見つめた。
「ロージャ」と彼女は腰をあげながら言った。「わたしたちは、むろん、いっしょに食事をするでしょうね。ドゥーネチカ、まいりましょう……ロージャ、おまえはちょっと散歩をしてから、横になってすこし休んだほうがいいよ、それから、なるべく早目においでね……なんだかおまえを疲れさせたようで、心配だから……」
「はい、はい、行きますとも」と彼は立ちあがりながら、あわてて答えた……「でも、ぼく用事が……」
「じゃいったいきみたちは別々に食事をするというのかい?」とおどろいてラスコーリニコフを見ながら、ラズミーヒンが叫んだ。「きみは何を言うんだ?」
「うん、うん、行くよ、むろん行くさ、きまってるじゃないか……で、きみちょっとのこってくれ。母さん、もうこいつがいなくてもいいでしょうね? それとも、ぼくがこいつを掠奪《りゃくだつ》することになるかな?」
「おやまあ、いいんだよ、とんでもないよ!それじゃ、ドミートリイ・プロコーフィチ、食事に来てくれますわね、おねがいしますよ?」
「どうぞ、いらしてくださいね」とドゥーニャも頼んだ。
ラズミーヒンはすっかり晴れやかな顔になって、おじぎをした。ちょっとの間、一同はどうしたわけか妙に気づまりになった。
「さようなら、ロージャ、いや、またあとで、だったわね。わたし《さようなら》って言葉きらいなんだよ。さようなら、ナスターシヤ……あら、また《さようなら》を言っちゃったよ!……」
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはソーネチカにも会釈《えしゃく》しようと思ったが、なんとなくしそびれて、急いで部屋を出て行った。
しかしアヴドーチヤ・ロマーノヴナは自分の番を待っていたように、母のあとについてソーニャのそばを通るとき、腰を深くかがめてていねいに会釈をした。ソーネチカはどぎまぎして、そそくさとおびえたように会釈をかえしたが、アヴドーチヤ・ロマーノヴナにしめされたいんぎんな態度がかえって気づまりで心苦しく感じられたらしく、彼女の顔には苦痛といえるような表情さえあらわれた。
「ドゥーニャ、さようなら!」とラスコーリニコフはもう控室へ出てから叫んだ。「おい手をくれよ!」
「あら、もう握手したじゃないの、忘れたの?」とドゥーニャはやさしく、きまりわるげに彼のほうを向きながら、答えた。
「いいじゃないか、もう一度くれよ!」
そして彼はかたく妹の指をにぎりしめた。ドゥーネチカはにこっと彼に笑顔を見せると、不意に顔を赤らめて、いそいで手をふりほどき、母のあとからでて行った。彼女もどういうわけか身体中に幸福がみなぎっていた。
「さあ、これでよしと、素敵ですねえ!」と彼は部屋へもどると、晴ればれした顔でソーニャを見つめて、言った。「主よ、死者には安らぎを、生者にはさらに生をあたえたまえ! そうじゃありませんか! そうじゃありませんか! そうですね?」
ソーニャはおどろきの色さえうかべて、急に晴れやかになった彼の顔を見つめた。彼はしばらくの間黙って、しげしげと彼女の顔を見まもっていた。亡《な》くなった彼女の父が語った彼女についての話が、そのとき不意に彼の記憶によみがえったのである……
「やれやれ、ドゥーネチカ!」と通りへ出るとすぐに、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは言った。「でてきて、ほんとによかったような気がするよ。なんだか気が楽になったみたいで。まったくねえ、わたしは昨日汽車の中で、こんなことまで喜ぼうとは、ゆめにも思わなかったよ!」
「何度も言うようですけど、お母さん、兄さんはまだひどくわるいのよ。お母さんにはそれがわからないの? もしかしたら、わたしたちのことで苦しんで、身体《からだ》をこわしたのかもしれないわ。あたたかい気持で見てあげて、たいていのことは許してあげることだわ」
「だっておまえ、あたたかい気持で見てあげなかったじゃないの!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはすぐにかっとなって、真剣にやりかえした。「ねえ、ドゥーニャ、わたしはおまえたち二人を見ていたんだけど、ほんとにそっくりだよ、顔だけじゃなく、気持まで。二人ともふさぎの虫で、気むずかしくて、怒りっぽくて、自尊心がつよくて、そのくせ心がおおらかで……あの子がエゴイストだなんて、そんなはずがないじゃないの、ねえドゥーネチカ? そうだろう?……でも、今夜どんなことになるかと思うと、ほんとに胸のつぶれる思いだよ!」
「心配しなくてもいいわよ、お母さん、なるようにしかならないんだから」
「ドゥーネチカ! だっておまえ、わたしたちがどんな立場におかれているか、考えてごらんよ! ピョートル・ペトローヴィチにことわられたら、どうなると思うの?」と哀れなプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは思わずうっかり口をすべらしてしまった。
「それだったら、あのひとの人間はゼロよ!」とドゥーネチカはきっぱりと、さげすむように答えた。
「わたしたちはいまでてきて、ほんとによかったよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、あわてて話をもどした。「あの子はどこかへ急ぎの用事があるらしかったからねえ。すこし歩いて、冷たい風にあたればいいんだよ……あの部屋はまるで蒸《む》し風呂《ぶろ》みたいだよ……だけどここは、どこへ行ったらおいしい空気が吸えるんだろう? 通りだって、まるで引き窓のない部屋の中みたいだよ。やれやれ、なんて町だろう!……おや、そっちへおより、おしつぶされるよ、何か運んでくる!おや、ピアノだよ、まあまあ……あっちこっちへぶっつけて……あの娘のこともわたしは心配でならないんだよ……」
「どの娘、お母さん?」
「ほらあの、ソーフィヤ・セミョーノヴナとかいう、いましがた見えた……」
「何が心配なの?」
「わたしは予感がするんだよ、ドゥーニャ。まあ、おまえはどう思うかしらないけど、あの娘が入ってくるとすぐに、わたしはぴんときたんだよ、ここにこそ本当の原因があるって……」
「そんなものぜんぜんありゃしないわ!」とドゥーニャはむっとして大きな声をだした。「ほんとに、お母さんのその予感とやらもこまりものだわ! 兄さんは昨日会ったばかりで、いまも、入ってきたとき、気がつかなかったじゃないの」
「まあ、いまにわかるよ!……あの娘を見たときわたしは胸さわぎがしたんだよ、まあ見てなさい、いまにわかるから! わたしはすっかりびっくりしてしまったんだよ、わたしを見つめるあの娘の目の、真剣なことったら、わたしは椅子《いす》にじっと坐《すわ》っていられないほどだったよ、ほら、ロージャが紹介をはじめたときさ? わたしはへんな気がしたよ、だってピョートル・ペトローヴィチがあんなことを書いてきたろう、その娘をロージャがわたしに紹介するんだものねえ、それにおまえにまで! つまり、あの子にはだいじなひとなんだよ!」
「あのひとは何を書くかわかりゃしないわ!わたしたちのことだってずいぶんなことをしゃべったり、書いたりしたじゃないの、忘れたの? わたしは信じているわ、あの娘さんは……心の美しいひとで、あんなことはみんな――でたらめだわ!」
「そうならいいがねえ!」
「ピョートル・ペトローヴィチなんて、しようのないかげ口やよ」とドゥーネチカは不意にたたきつけるように言った。
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはあわてて口をつぐんだ。話がとぎれた。
「ちょっと、きみに頼みがあるんだが……」とラスコーリニコフはラズミーヒンを窓際《まどぎわ》へつれて行きながら、言った。
「じゃわたし、あなたにいらしていただけるって、カテリーナ・イワーノヴナにつたえますわ……」とソーニャは帰ろうとして、小腰をかがめながら、急いで言った。
「ちょっと待って、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、ぼくたちには何も秘密なんてありませんから、そこにいていただいてかまいません……もう二言ばかり話したいことがありますから……ほかでもないが」と彼は言いおわらないうちに、まるで話をたちきってしまったように、突然ラズミーヒンに言った。「きみはあの男を知ってるだろう……ほら、なんといったかな!……うん、ポルフィーリイ・ペトローヴィチよ?」
「知ってるさ! 親類だよ。それで?」と彼は急に好奇心がわいて、うながした。
「で、彼はいまあの問題を……そら、例の殺人事件さ……昨日きみが言ったろう……あれを担当してるって?」
「そうだよ……それで?」ラズミーヒンは急に目をみはった。
「彼は質入れをしていた連中をしらべたそうだが、ぼくもあずけてあるんだよ。なに、つまらんものだが、それでもぼくがここへ出てくるとき妹が記念にくれた指輪と、父の銀時計なんだ。せいぜい五、六ルーブリの品だが、ぼくにはだいじなものだよ、かたみだからな。で、ぼくはどうしたらいいんだ? 品物はなくしたくない、特に時計は。ぼくはさっき、ドゥーネチカの時計の話がでたとき、母がぼくのを見たいなんて言いだしゃしないかと、ひやひやしたよ。父の死後そっくりのこっているのは、これだけなんだ。これがなくなったら、母は病気になってしまうよ! 女だからな! そこで、いったいどうしたらいいんだい! 署にとどけ出にゃならんことは、知ってるよ。だが、ポルフィーリイに直接言ったほうがいいんじゃないか、え? きみはどう思う? なんとか早くかたをつけたいんだよ。きっと、食事まえに母が聞くぜ!」
「署なんかぜったいだめさ、どうしてもポルフィーリイに頼むんだ!」とラズミーヒンはどういうわけかいつになく興奮して叫んだ。「いや、実に愉快だ! ぐずぐずしてることはない、すぐ行こう、すぐそこだよ、きっといるよ!」
「そうだな……行ってみようか……」
「きみと知り合いになれたら、彼はもうそれこそ、とびあがって喜ぶぞ! ぼくは彼にきみのことをずいぶんいろいろ話したんだよ、機会あるごとにさ……昨日も話したよ。さあ行こう!……じゃきみはあの老婆を知ってたのか? そうかい!……これでまんまとすっかりひっくりかえったぞ!……あッそうそう……ソーフィヤ・イワーノヴナ……」
「ソーフィヤ・セミョーノヴナだよ」とラスコーリニコフは訂正した。「ソーフィヤ・セミョーノヴナ、これはぼくの友人、ラズミーヒン君です、いい男です……」
「もしあなた方がこれからお出かけになるんでしたら……」とソーニャはラズミーヒンのほうをぜんぜん見ないで、そのためにいっそうどぎまぎして、言いかけた。
「じゃ、いっしょに出ましょう!」とラスコーリニコフはきめた。「ぼくは今日にもお宅へよります、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、失礼ですが、どちらにお住まいかだけ、おしえてくださいませんか?」
彼はとりみだしたというのではないが、気がせいたらしく、彼女の視線をさけるようにした。ソーニャは自分のアドレスをわたすと、とたんに顔を赤らめた。三人はそろって部屋をでた。
「おい、鍵《かぎ》はかけないのかい?」とラズミーヒンは二人のあとから階段を下りながら、尋ねた。
「かけたことなんかないよ!……とはいっても、この二年ずっと鍵を買おうと思いつづけているんだがね」と彼は何気なくつけ加えた。
「鍵をかけるものが何もない人間なんて、幸《しあ》福《わせ》ですね?」と彼は笑いながら、ソーニャに言った。
通りへ出る門のところで立ちどまった。
「あなたは右ですね、ソーフィヤ・セミョーノヴナ? して、あなたはどうしてぼくの住《すま》居《い》がわかりました?」と彼は何かぜんぜん別なことを言いたいらしく、彼女に尋ねた。彼はさっきから彼女のおだやかな明るい目をのぞきこみたくてたまらなかったが、どういうものかそれがうまくできなかった……
「だって、あなたが昨日ポーレチカにおしえてくれたでしょう」
「ポーリャ? ああそうでしたっけ……ポーレチカねえ! あの……ちっちゃな……あれはあなたの妹さんですね? じゃぼくはあの子にアドレスをおしえたのかな?」
「まあ、お忘れになったの?」
「いいえ……思いだしました……」
「わたしはあなたのこともうまえに亡《な》くなった父から聞いておりました……ただそのころはまだお名前を存じませんでした、父も知らなかったのです……それで今日まいりましたのは……昨日お名前がわかったものですから……ラスコーリニコフさんのお住居はどちらでしょうかって、聞きまして……でも、あなたも間借りなすっておいでとは、思いませんでした……では失礼いたします……わたしカテリーナ・イワーノヴナのところへまいりますから……」
彼女はやっと別れることができたのが、うれしくてならなかった。彼女は早く二人の目からかくれるために、目を伏せて、急ぎあしに歩いた。なんとか早く二十歩ほど先の曲り角まで行きついて、右へ折れ、ようやく一人になって、そこで急いで歩きながら、誰《だれ》にも何にも目を向けずに、いま言われたひとつひとつの言葉、ひとつひとつの事情を、考えたり、思いだしたり、思いあわせてみたりしたかった。これまでに一度も、彼女はこのようなものを感じたことがなかった。大きな新しい世界がいつのまにかぼんやりと彼女の心へ入ってきたのである。彼女はふと、ラスコーリニコフが彼女の住居を訪ねると言ったことを思いだした。《朝のうちに来るかもしれない。もうじき来るのじゃないかしら!》
「今日だけはいらしてくださらないように、どうか今日でないように!」彼女は誰かに哀願するように、おびえた子供のように、胸の凍る思いで呟《つぶや》いた。「ああ! わたしんとこへ……あの部屋へ……見られてしまう……おお、どうしよう!」
それでむろん、彼女はそのとき、しつこく彼女の様子をうかがいながらあとをつけてくる一人の見知らぬ男がいることに、気づくはずがなかった。その男は彼女が門を出たときからつけてきたのである。ラズミーヒンとラスコーリニコフと彼女の三人が、歩道に立ちどまって別れしなの言葉をかわしていたちょうどそのとき、通りかかったこの男は、《ラスコーリニコフさんのお住居はどちらでしょうかって、聞きまして》というソーニャの言葉をふと小耳にはさんで、ぎくッとした様子だった。彼はすばやいが注意深い目で、三人を、特にソーニャと向きあっていたラスコーリニコフを観察した。それから建物を見て、それを頭に入れた。それは一瞬の間の、歩きながらのことだった。それからその男はそんな素振りも見せないようにつとめながら、行きすぎると、歩度をゆるめて、近づくのを待っているふうだった。彼はソーニャを待っていた。彼は三人が別れて、ソーニャがこちらのほうへもどるらしいのを見てとったのだった。
《さて、どこへもどって行くかな? どこかで見た顔だが》彼はソーニャの顔を思いだそうとしながら、考えた……《つきとめてやろう?》
曲り角まで来ると、彼は通りの向う側へうつって、振り向くと、同じ通りを何も気づかずにこちらへやってくるソーニャの姿が見えた。曲り角まで来ると、いいぐあいに彼女も同じ通りへ折れた。彼は反対側の歩道から彼女を観察しながら、あとをつけはじめた。五十歩ほど行くと、またソーニャのほうの側へうつって、距離をつめ、五歩ばかりの間隔をたもって、あとをついて行った。
それは五十がらみの男で、背丈は中背《ちゅうぜい》よりやや高く、でっぷりふとって、広い肩がいかっているために、いくぶん猫《ねこ》背《ぜ》に見えた。しゃれた服をゆったり着こなしていて、堂々たる紳士という風采《ふうさい》である。手にはみごとなステッキをにぎっていて、歩道を一歩あるくごとにコトコト鳴らし、その手は真新しい手袋につつまれていた。頬骨《ほおぼね》のはった大きな顔はかなり感じがよく、顔色はつやつやして、ペテルブルグの人間らしくなかった。頭髪はまだひじょうに濃く、きれいな薄亜麻色で、ほんのわずか白いものがまじっていた。スコップのようにはば広く垂れた濃い顎鬚《あごひげ》は、頭髪よりもひときわ明るかった。空色のひとみは冷たく、鋭く、そして深く、唇《くちびる》は真っ赤だった。どうみてもこれはすこしも老いを感じさせない男で、年齢よりもはるかに若く見えた。
ソーニャが運河ぞいの通りにでたとき、歩道には彼ら二人きりになった。彼は彼女を観察しながら、彼女がぼんやりもの思いにしずんでいるのに気がついた。ソーニャは自分の住居のある建物まで来ると、門の中へ折れた。彼はそのあとにつづきながら、いくらかおどろいた様子だった。庭へ入ると、彼女は右へ折れて、いちばんすみの入り口のほうへ歩いて行った。そこが彼女の部屋へ通じる階段ののぼり口だった。《おや!》と見知らぬ紳士は呟いて、彼女のあとから階段をのぼりはじめた。そこではじめてソーニャはその男に気がついた。彼女は三階までくると、廊下へ出て、ドアにチョークで《カペルナウモフ洋裁店》と書いてある九号室の呼鈴《よびりん》を鳴らした。《おや!》と見知らぬ男は、不思議な符合におどろきながら、もう一度くりかえすと、となりの八号室の呼鈴を鳴らした。二つのドアは六歩ほどしかはなれていなかった。
「あなたはカペルナウモフのところにお住まいかね!」と彼はソーニャを見て、笑いながら言った。「わたしは昨日ここでチョッキを直してもらいましたよ。わたしはとなりのマダム・レスリッヒ、ゲルトルーダ・カルローヴナのところに間借りしてるんですよ。いや、おどろきましたなあ!」
ソーニャは注意深くその男を見つめた。
「となり同士ですな」と彼はどういうものか特別たのしそうにつづけた。「わたしはペテルブルグへ来てまだ三日目ですよ。じゃ、また」
ソーニャは返事しなかった。ドアが開いて、彼女は自分の部屋へはしりこんだ。なぜか恥ずかしかったし、それにすっかりおじけていたようだ……
ラズミーヒンはポルフィーリイを訪れる途《みち》々《みち》、いつになく興奮していた。
「きみ、実にすてきだよ」と彼は何度かくりかえした。「ぼくはうれしいよ! うれしいんだよ!」
《いったい何がうれしいんだ?》とラスコーリニコフは腹の中で考えた。
「きみもあの婆《ばあ》さんのところへ質草をもってってたなんて、ぼくはまったく知らなかったよ。それで……それで……もうまえまえからか? つまりきみが婆さんのところへ行ったのはもう大分まえかい?」
《まったく、なんて無邪気な馬鹿《ばか》だ!》
「いつって?」ラスコーリニコフは思いだそうとして、ちょっと足をとめた。「そう、たしかあの事件の三日ほどまえだったよ。でも、ぼくはいま請《う》け出《だ》しに行くんじゃないぜ」と彼はなぜかあわてて、品物のことがいかにも気がかりらしく、言った。「だってぼくはまたもとのもくあみ、一ルーブリ銀貨一枚しかないんだよ……昨日のいまいましい夢遊病のおかげでさ!……」
夢遊病という言葉を彼は特に意味ありげに言った。
「うん、そうだ、そうだ、そうだ」とラズミーヒンはあわてて、何がそうなのかわからずに相槌《あいづち》を打った。「なるほど、それでわかったよきみがあのとき……ショックを受けたわけが……知ってるかい、きみはうわごとにまで指輪とか鎖とか、しきりに言ってたんだぜ!……うん、そうだったのか、なるほどねえ……それでわかったよ、やっとすっかりわかったよ」
《そうか! やっぱりやつらの頭にはあれがひっかかっていたんだな! 現にこの男なんかおれのためならはりつけもいとわないくせに、それでもやはり、おれが指輪のうわごとを言ったわけが、わかった《・・・・》と、こんなに喜んでるじゃないか! してみるとたしかに、やつらはみなそう思いこんでいたんだ!……》
「だが、いまいるだろうか?」と彼は声にだして言った。
「いるよ、きっといるよ」とラズミーヒンはあわてて答えた。「きみ、会えばわかるけど、いい男だぜ! すこしごついが、といって人間はねれているんだぜ、ごついというのは別な意味でだよ。利口な男だよ、頭のいいことは無類だが、ただものの考え方に独特のくせがある……疑《うたぐ》り深いんだな、懐疑論者で、毒舌家で……人を欺《だま》すのが好きで、いや欺すというんじゃない、からかうのが好きなんだよ……なあに、古くさい実証的方法さ……だがしごとはよくできるよ、たいした腕だ……去年ある事件を、やはり証拠が何もない殺しだがね、みごとに解決したよ! とにかく、ひどく、ひどく、きみに会いたがってるよ!」
「でも、ひどく会いたがってるというのは、どうしてだろうね?」
「といって、別にその……実は、最近、きみがあんな病気をしたろう、それでぼくはしぜんきみのことをいろいろと話題にしたわけだ……それで、彼も聞いたわけさ……そして、きみが法科の学生で、いろんな事情で卒業ができないでいることを知ると、《実に気の毒なことだ!》なんて言ってたぜ。そこでぼくはこう思うんだよ……つまりこうしたことがみないっしょになったからさ、あれだけってことはないよ。昨日ザミョートフが……ねえ、ロージャ、ぼくは昨日きみを家へ送って行く途中、酔いにまかせて何やらくだらんことをごちゃごちゃしゃべったろう……それでぼくは、きみがそれを大げさに考えてやしないかと……」
「それってなんだい? ぼくが気ちがいと思われてるってことか? なに、それが本当かもしれんさ」
彼は無理に笑った。
「そうだよ……そうだよ……チエッ、何言ってんだ、そんなことじゃないよ!……つまり、ぼくがしゃべったことは、あのとき言ったほかのこともひっくるめてだ、ぜんぶでたらめだよ、酔ってたんだ」
「何を言いわけしてるんだ! そんなことはもう聞きあきたよ!」とラスコーリニコフは大げさにいらいらして叫んだ。しかし、それはいくぶんは見せかけもあった。
「知ってるよ、知ってるよ、わかってるよ。信じてくれよ、よくわかってるんだよ。口にするのさえ恥ずかしい……」
「恥ずかしいなら、言うなよ!」
二人は黙りこんだ。ラズミーヒンは有頂天などという状態をこえていた。そしてラスコーリニコフは苦々しい気持でそれを感じていた。ラズミーヒンがいまポルフィーリイについて言ったことも、彼を不安にした。
《こいつにも哀れっぽいことを言わにゃならんな》と彼は蒼《あお》ざめて、胸をどきどきさせながら考えた。《しかも、なるたけ自然に。いちばん自然なのは何も言わないことだ。つとめて何も言うまい! いや待てよ、つとめて《・・・・》ということはまた不自然になる……まあいいや、どういうことになるか……成り行きを見るとしよう……いまにわかることだ……ところで、おれが行くということは、いいことか、わるいことか? とんで火に入る夏の虫ってやつかな。胸がどきどきする、これがどうもおもしろくない!……》
「あの灰色の建物だよ」とラズミーヒンが言った。
《もっとも重大なのは、おれが昨日あの婆《ばば》ぁの部屋へ行って……血のことを聞いたのを、ポルフィーリイが知ってるかどうかということだ。まっさきにこれを知ることだ。部屋へ入ったら、とっさに、顔色でこれを読むのだ。さもないと……どんなことがあっても、これはさぐるぞ!》
「おい、きみ」ととつぜん彼はずるそうなうす笑いをうかべながら、ラズミーヒンを見た。「きみは今日は朝から何かこうむやみに興奮してるようだな? そうじゃないか?」
「興奮て何さ? おれは別にちっとも興奮なんかしてないぜ」ラズミーヒンはぎくっとした。
「嘘《うそ》いうなよ、きみ、まったく、すぐにわかったぜ。さっき椅子《いす》に坐《すわ》っていたときだって、はしっこにちょこんとかけて、きみのあんな格好見たことないぜ、それにたえずがくがくふるえてさ。わけもなくいきなり立ちあがったり。いま怒っていたかと思うと、急にどういうわけかとろけそうな顔になったり。おまけに赤くなったりしてさ。特に食事によばれたときなんぞ、びっくりするほど真っ赤になったぜ」
「そんなことあるもんか、嘘だよ!……それはなんの話だい?」
「まったく、まるで小学生みたいにそわそわしてたぜ! へえ、おい、また赤くなったじゃないか!」
「しかし、きみはなんていやなやつだ!」
「おい、何をむきになってんだい? ロメオ! よし、今日これをどっかですっぱぬいてやろう、は、は、は! そうだ、母を笑わしてやろう……それから誰《だれ》かも……」
「おい、おい、おいったら、これはまじめなことなんだぜ、これはきみ……そんなことをしたらどうなると思う、いいかげんにしろよ!」ラズミーヒンは背筋がぞくぞくして、すっかりしどろもどろになってしまった。「きみはあのひとたちに何を話すんだ? ぼくは、きみ……チエッ、この豚ちくしょう!」
「まさに春のバラか! またよくきみに似合うぜ、きみに見せてやりたいよ、寸づまりのロメオってとこだ! 今日はまたやけにこすりたてたじゃないか、爪《つめ》はみがいたかい、え? きみがねえ、おどろいたよ! それに、へえ、ポマードを塗ってるじゃないか! どれ、頭をまげてみろよ!」
「豚ちくしょう!!!」
ラスコーリニコフはあまりにも笑ったので、おさえがきかなくなったと見えて、そのまま笑いながらポルフィーリイの住《すま》居《い》へ入った。それがラスコーリニコフのねらいだった。二人が笑いながら玄関を入り、控室でもまだ笑っているのを、中にいる者に聞かせたかったのである。
「ここで一言でも言ってみろ、頭を……たたきわるぞ!」とラズミーヒンはラスコーリニコフの肩をつかんで、怒りにふるえながら、声をおし殺してすごんだ。
5
すごまれたほうはもう部屋へ入りかけていた。彼はなんとかしてふきだすまいと、精いっぱいこらえている様子で、部屋へ入った。そのあとから、それとはまるで逆にいまにもかみつきそうな顔つきのラズミーヒンが、しゃくやくのように真っ赤になって、ひょろ長い身体《からだ》をぎくしゃくさせて、きまりわるそうに入ってきた。その顔つきも格好も実際にふきだしたくなるほどで、ラスコーリニコフの笑いも無理はないと思われた。ラスコーリニコフはまだ紹介されなかったが、部屋の中ほどに突っ立って、いぶかしそうな目でこちらを見ている主人に、会釈《えしゃく》をして、手をさしのべ握手をすると、まだふきだしたくなるのをやっとこらえているという顔で、せめて二言三言、自己紹介をするために口を開こうとした。ところが、やっとまじめな顔になって、何やら言いだしかけたとたんに――不意に、偶然らしく、ちらとまたラズミーヒンへ目をやった、すると、今度こそはもうがまんができなかった。おさえつけられていた笑いが、それまでのがまんが強かっただけに、もうどうにもならぬ勢いで爆発した。この《腹の底からの》笑いにかっとなったラズミーヒンの異常な激怒は、その場の雰《ふん》囲《い》気《き》にまったくいつわりのない愉快さと、何よりも自然らしさをそえた。ラズミーヒンは、まるでおあつらえむきに、さらにことの運びを助けたのだった。
「チエッ、こいつめ!」とわめいて、片手をふりまわすと、その手がまたからの茶わんがのっている小さな円テーブルに当ったからたまらない。テーブルごとすっかりけしとんで、ものすごい音をたてた。
「いったいどうして椅子《いす》をこわすんです、みなさん、国庫の損失になるじゃありませんか!」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはおもしろがって、ゴーゴリの《検察官》の中の台詞《せりふ》を叫んだ。
その場の情景はこんなぐあいであった。ラスコーリニコフは主人と握手していることを忘れて、不躾《ぶしつけ》に笑いすぎたが、程度を知って、なるべく早くしかも自然にその場をつくろう機会をねらっていた。ラズミーヒンはテーブルを倒し、茶わんをこわしたので、すっかりうろたえてしまって、うらめしそうに茶わんのかけらをにらんで、ペッと唾《つば》をはくと、くるりと窓のほうを向いて、みなに背を向けて突っ立ったまま、おそろしいしかめ面《つら》で窓の外をにらんでいたが、何も見てはいなかった。ポルフィーリイ・ペトローヴィチは笑っていたが、笑いたい気持とはべつに、いかにもわけをききたそうな様子だった。隅《すみ》の椅子にはザミョートフが坐《すわ》っていたが、客が入ってくると同時に腰をあげ、そのまま口をゆるめて笑《え》顔《がお》をつくりながら待っていたが、しかし不審そうな、信じられないというような顔でその場の成り行きをながめていた。特にラスコーリニコフを見る目には狼狽《ろうばい》のような色さえあった。思いがけぬザミョートフがそこにいたことは、ラスコーリニコフに不快なおどろきをあたえた。
《これも考えに入れにゃいかんぞ!》と彼は考えた。
「どうぞ、お許しください」と無理にどぎまぎして、彼は言った。「ラスコーリニコフです……」
「どういたしまして、ひじょうに愉快です、それにあなた方がこんなふうに入ってらしたことは、実に愉快です……どうでしょう、あれはあいさつもしたくないのかな?」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはラズミーヒンに顎《あご》をしゃくった。
「ほんとに、どうしてあんなにぼくを怒ってるのか、わからないんですよ。ぼくはここへ来る途中、彼にロメオに似ていると言っただけなんです、そして……それを証明してやったんですが、ただそれだけだったと思うんですがねえ」
「豚ちくしょう!」とラズミーヒンは、振り向きもせずに、うめいた。
「つまり、一言でこれほど怒るところを見ると、ひじょうに深刻な理由があったわけですな」とポルフィーリイは大声で笑った。
「なに、こいつ! 予審判事ぶりやがって!……チエッ、どいつもこいつも勝手にしやがれ!」とラズミーヒンはたたきつけるように言うと、急に自分も笑いだし、晴れやかな顔になって、何ごともなかったようにポルフィーリイ・ペトローヴィチのそばへ歩みよった。
「これでおしまい! みんな阿《あ》呆《ほう》だよ。用件にうつろう。この友人、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフが、第一にきみのことをいろいろ聞いて、知り合いになることを望んだ、第二に、きみにちょっとした用件がある。おや! ザミョートフじゃないか! どうしてここにいるんだい? きみたちは知り合いかい? へえ、いつから?」
《これはまたどういうことだ!》とラスコーリニコフは不安そうに考えた。
ザミョートフはちょっとまごついたらしいが、うろたえるほどでもなかった。
「昨日きみのとこで知り合ったんだよ」と彼はいやになれなれしく言った。
「つまり、うまいこと酒代を出さずにすんだってわけか。おい、ポルフィーリイ、先週こいつはなんとかきみを紹介してくれって、うるさくぼくに頼みこんでいたんだぜ。ところがきみたちは、ぼくをそっちのけにして、まんまと嗅《か》ぎあったってわけだ……ところで、煙草《たばこ》はどこだい?」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはさっぱりしたシャツの上にガウンというくつろいだ姿で、はき古したスリッパをつっかけていた。年齢は三十五、六で、背丈は中背《ちゅうぜい》よりやや低く、でっぷりふとったうえに腹までつきだしており、きれいに剃《そ》った顔には口髭《くちひげ》も頬髯《ほおひげ》もなく、大きなまるい頭には髪が短く刈りあげられて、そのせいかうなじのあたりが特にまるくもりあがっていた。いくらかしし鼻気味で、ふっくりとまるい顔はどす黒く、不健康な色をしていたが、かなり元気そうで、人を小ばかにしたようなところもあった。まるで誰《だれ》かに目配せでもしているように、たえずぱちぱちしている白っぽい睫毛《まつげ》のかげから、妙にうるんだ光をはなっている目の表情が邪魔しなかったら、お人よしにさえ見えたかもしれぬ。この目の光が、女性的なところさえある身体ぜんたいとなんとなくそぐわない感じで、ちょっと見たときに受ける感じよりも、はるかにきびしいものをその姿にあたえていた。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチは、客がちょっとした《用件》があると聞くと、すぐにソファにかけるようにすすめて、自分も他のはしに坐って、じっと客の顔に目をすえて、もどかしそうに相手のきりだすのを待った。その態度は真剣そのもので、きびしすぎるほどの緊張が感じられ、はじめから相手の気持をかたくして、どぎまぎさせてしまうようなものだった。殊に初対面で、しかもきりだそうとする用件が自分でもこれほどの異常なまでにものものしい注意を向けられるには程遠いものだと思っている場合は、なおさらである。しかしラスコーリニコフは簡単だが要領のいい言葉で、明確に用件を説明した、そしてわれながら満足なほど落ち着いていて、かなりよくポルフィーリイを観察することすらできた。ポルフィーリイ・ペトローヴィチもその間中一度も相手から目をはなさなかった。ラズミーヒンはテーブルをはさんで、二人のほうを向いて坐り、たえず二人を交互に見くらべながら、熱心にじりじりしながら用件の説明を聞いていたが、その態度はすこし度をこえていた。
《ばかめ!》とラスコーリニコフは腹の中でののしった。
「あなたは警察に届けを出すべきでしょうな」とポルフィーリイはいかにもそっけない事務的な態度で言った。「これこれの事件、つまりこの殺人事件を知って、ですな、あなたとしては、これこれの品はあなたのものであるから、それを買いもどしたい希望を、事件担当の予審判事に申し出た云々《うんぬん》というようなことですな……あるいはまた……だがこれは警察で適当に書いてくれますよ」
「それなんですよ、ぼくは、いまのところ」ラスコーリニコフはできるだけ困惑したように見せかけようとつとめた。「ぜんぜん金がないものですから……こんなこまかいものも請《う》け出《だ》せないしまつで……それで、いまはただ、その品がぼくのであることを、届けるだけにして、金のくめんがついたら……」
「それはどちらでもかまいません」と財政状態の説明を冷やかに受け流しながら、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは答えた。「もっとも、なんでしたら、わたしに直接書類を出していただいても結構です。これこれの事件を知り、これこれが自分の品であることを申告するとともに、つきましては……というような意味のですね……」
「それは普通の紙でいいんですか?」とラスコーリニコフはまた問題の金銭的な面を気にしながら、あわててさえぎった。
「なに、どんな紙でも結構ですよ!」そう言うとポルフィーリイ・ペトローヴィチは、どういうつもりかいかにも愚《ぐ》弄《ろう》するように彼を見つめて、片目をほそめ、目配せしたようだった。しかし、それはラスコーリニコフにそう思われただけかもしれぬ、なぜなら、それはほんの一瞬のことだったからだ。しかし少なくともそう感じさせるものは何かあった。ラスコーリニコフは、何のためかは知らないが彼が目配せしたことを、はっきりと断言することができたはずである。
《知ってるな!》という考えが稲妻のように彼の頭にひらめいた。
「こんなつまらんことでわずらわして、申しわけありません」とややあわて気味に、彼はつづけた。「品物はせいぜい五ルーブリくらいのものですが、ぼくにそれをくれた人々のかたみですので、ぼくには特にだいじな品なのです。実をいいますと、それを知ったとき、ぼくはすっかりおどろいてしまって……」
「それでだよ、ぼくが昨日ゾシーモフに、ポルフィーリイが質入れした連中を喚問してるって話をしたとき、きみはぎくっとしたものな!」といかにも意味ありげに、ラズミーヒンは口を入れた。
これはもうがまんがならなかった。ラスコーリニコフは腹にすえかねて、怒りにもえた黒い目でじろりと彼をにらんだ。
「おい、きみはぼくをからかうつもりらしいな?」と彼はたくみにいまいましそうな態度をつくりながら、ラズミーヒンにつっかかった。「きみの目には、ぼくがこんなつまらん品に執着しすぎると映ったかもしれん、そうでないとは言わん、がしかしだ、そのためにぼくをエゴイストとも欲張りとも見なすことは許さん。ぼくの目から見れば、この二つの無価値な品が決してくだらんものではないのだ。さっきもきみに言ったが、この銀時計は、三文の値打ちもないが、父の死後のこされたたった一つの品なんだ。ぼくは笑われてもかまわんが、母がでてきた」彼は不意にポルフィーリイのほうを向いた。「そしてもし母が」彼はことさらに声をふるわせようと苦心しながら、また急いでラズミーヒンのほうへ向き直った。「この時計のなくなったことを知ったら、それこそ、どれほど落胆するか! 女だもの!」
「おい、ぜんぜんちがうよ! 決してそんな意味で言ったんじゃないよ! まるきり逆だよ!」とラズミーヒンはくやしそうに叫んだ。
《これでよかったかな? 自然らしく見えたろうか? すこしオーバーじゃなかったかな?》ラスコーリニコフは内心ひやひやした。《なんだって、女だもの《・・・・》、なんてつまらんことを言ったんだろう?》
「お母さんがでて来《こ》られたのですか?」ポルフィーリイ・ペトローヴィチはなんのためかこう聞いた。
「そうです」
「それはいつです?」
「昨日の夕方です」
ポルフィーリイは考えをまとめるように、しばらく黙っていた。
「あなたの品物はぜったいになくなるはずはなかったのです」と彼はしずかに、冷やかにつづけた。「だって、わたしはもう大分まえからあなたのおいでを待っていたのですよ」
そして彼は、何ごともなかったように、遠慮なくじゅうたんに煙草の灰をおとしているラズミーヒンのまえへ、まめまめしく灰皿《はいざら》をおしやった。ラスコーリニコフはぎくっとした、がポルフィーリイはまだラズミーヒンの煙草が気になるらしく、彼のほうは見もしなかったようだ。
「なんだって? 待っていた! じゃきみは、彼があそこ《・・・》にあずけたのを、知ってたのか?」とラズミーヒンが叫んだ。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはまっすぐにラスコーリニコフの顔を見た。
「あなたの二つの品、指輪と時計は、一枚の紙につつんで彼女《・・》の部屋においてありました、そしてそのつつみ紙に鉛筆であなたの名前がはっきりと記《しる》してありました、彼女がそれをあなたからあずかった月と日もいっしょに……」
「ほう、あなたはよくそれをおぼえていましたねえ!……」ラスコーリニコフはことさらに相手の目をまともに見ようとつとめながら、ぎこちないうす笑いをもらしかけたが、こらえきれなくなって、急につけ加えた。「ぼくがいまこんなことを言ったのは、つまり、質をあずけていた連中はおそらくひじょうに多かったはずだ……だからその名前を全部おぼえるのは容易なことじゃない……ところがあなたは、それをすっかり実にあざやかに記憶している、それで……それで……」
《愚劣だ! 弱い! おれはなんだってこんなことをつけ加えたんだ?》
「ところが、いまはもうほとんどすべてのあずけ主がわかっているのです、出頭しなかったのはあなただけですよ」とポルフィーリイはそれかあらぬかかすかな愚弄のいろをうかべて、答えた。
「身体ぐあいがすっかりほんとじゃなかったものですから」
「それも聞いています。何かにひどく神経をみだされたってことも、聞きました。いまもどうやら顔色がよくないようですな?」
「顔色なんてぜんぜんわるくないですよ……とんでもない、完全に健康です!」とラスコーリニコフは突然口調を変えて、意地わるく乱暴にさえぎった。敵意が胸にもえたぎって、彼はそれをおさえつけることができなかった。
《かっとなると、口をすべらせるものだ!》という考えがまた彼の頭にひらめいた。《なんだってこいつらおれを苦しめるのだ!……》
「すっかりほんとじゃなかったって!」とラズミーヒンが言《こと》葉《ば》尻《じり》をとらえた。「でたらめ言うなよ! 昨日までほとんど意識不明でうわごとをばかり言っていたくせに……おい、どうだろう、ポルフィーリイ、自分がやっと立てるようになると、ぼくとゾシーモフが昨日ちょっとうしろを向いたすきに、服を着て、こっそりぬけだし、夜なか近くまでどっかでわるさしてきたんだぜ。しかもそれが、はっきり言うけど、完全な朦朧《もうろう》状態でだぜ、きみ、こんなことが考えられるかい! まったくおどろくべき例だよ!」
「完全な朦朧状態で《・・・・・・・・》、果してそんなことがありうるだろうか? どうだね!」ポルフィーリイはどことなく女性的なしぐさで頭を振った。
「ええい、ばからしい! 信じちゃいけませんよ! もっとも、こんなことを言うまでもなく、あなたは信じちゃいないでしょうがね!」あまりのいまいましさに、ラスコーリニコフは思わず叫んでしまった。しかしポルフィーリイ・ペトローヴィチはこの奇妙な言葉がよく聞きとれなかったようだ。
「じゃ、朦朧状態でなかったら、どうして出て行くなんてことができたんだ?」とラズミーヒンが急にいきり立った。「どうして出て行った? なんのために?……しかもこっそり、ありゃなぜだ? あのとききみに健全な理性があったのかい? いまは、もう危険がすっかり去ったから、きみにはっきり言うんだよ!」
「昨日はこいつらがうるさくて顔を見るのもいやだったんですよ」ラスコーリニコフは不意にいどみかかるようなあつかましいうす笑いをうかべながら、ポルフィーリイのほうに向き直った。「それでぼくはこいつらに見つからない部屋をさがそうと思って、逃げだしたんですよ、だからかなりの大金を持ってでたわけです。そこにいるザミョートフさんがその金は見たはずです。ところでどうです、ザミョートフさん、昨日のぼくは正気でしたか、それとも朦朧状態でしたか、この議論を解決してくれませんか?」
彼はそのとき、やにわにザミョートフをしめ殺したいような気がした。その目つきと黙りこくった態度が極度に気にくわなかったのである。
「ぼくの見たところでは、あなたの話しぶりはまったく理性的でしたよ、むしろ巧妙すぎるほどでした。ひどく苛々《いらいら》した様子でしたが」とザミョートフはそっけなく意見をのべた。
「今日ニコージム・フォミッチから聞いたのですが」とポルフィーリイ・ペトローヴィチが口を入れた。「昨夜かなりおそく、馬車にひかれたある官吏の住《すま》居《い》で、あなたに会ったそうですね……」
「それですよ、その官吏のことにしたって!」とラズミーヒンが急いで言った。「おい、きみはその官吏の家で頭がどうかしたんじゃないのか? ありたけの金を葬式代に未亡人にやってしまうなんて! ええ、助けたかったらさ――十五ルーブリか二十ルーブリやってさ、せめてルーブリ銀貨三枚くらいはとっておいたらいいじゃないか、それをみすみす二十五ルーブリ全部やってしまうなんて!」
「ところが、ぼくがどこかに金のかくし場所を見つけて、きみがそれを知らないだけかもしれんぜ? そこでぼくは昨日にわかに気が大きくなった……そこのザミョートフさんが知ってるよ、ぼくが宝ものを見つけたのをさ!……すみませんね」と彼は唇《くちびる》をひくひくふるわせながらポルフィーリイのほうを向いた。「こんなつまらんやりとりで三十分もおさわがせして。もううんざりなさったでしょう、え?」
「どういたしまして、それどころか、まったくその逆ですよ! ぼくがあなたにどれほどの関心をもっているか、あなたにおしえてやりたいくらいです! 見ていても、聞いていても、実におもしろい……それに、実をいいますと、あなたがとうとうここにおいでくだすったのが、ぼくはうれしくてたまらないのですよ……」
「いいから、せめてお茶くらい出せよ! のどがからからだ!」とラズミーヒンがどなった。
「いい考えだ! みんないっしょにやろうじゃありませんか。ところでどうです……お茶のまえに、もちょっと実になるものをやっては?」
「さっさと行けよ!」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチは茶をいいつけに出て行った。
いろいろな考えが、ラスコーリニコフの頭の中で、旋風のように渦《うず》巻《ま》いた。彼はおそろしいほど神経が苛立っていた。
《考えにゃいかんのは、やつがかくし立てもしないし、遠慮しようともしないことだ! おれをぜんぜん知らんとすれば、何が理由で、ニコージム・フォミッチとおれの話をしたのだろう? つまり、犬の群れのように、おれのあとをつけまわしていることを、もうかくそうとも思わないのだ! まるでおおっぴらにおれの顔に唾をはきかけてやがるのだ!》彼は憤《ふん》怒《ぬ》のあまりぶるぶるふるえた。《くそ、なぐるなら堂々となぐれ、猫《ねこ》がねずみをなぶるような仕打ちは、やめてくれ。無礼じゃないか、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、おれはまだ、そうまでされたら、おそらく黙っちゃいないぞ!……立ちあがって、いきなりきさまらの面《つら》に真相をぶちまけてやる、そしたら、おれがきさまらをどれほど軽蔑《けいべつ》してるか、わかるだろう!……》彼は苦しそうにやっと息をついだ。《だが、これがおれの気のせいだけだとしたら、どうだろう? これがただの幻影で、すべてがおれのひとり合《が》点《てん》で、慣れないためにむしゃくしゃして、自分の卑劣な役割にたえられなくなっているのだとしたら、どうだろう? もしかしたら、これはみなふくみのないものかもしれぬ? やつらの言葉はみなありふれたあたりまえの言葉だが、そのうらには何かある……これはみないつどこでも聞ける言葉だが、何かがある。なぜやつはいきなり「彼女の部屋に」と言ったのか? なぜザミョートフが、おれの話しぶりが巧妙《・・》だったなんて、つけたしたのか? なぜやつらはあんな調子でものを言うのか?そうだ……調子だ……ラズミーヒンはいっしょに坐っていながら、どうして何も感じないんだろう? あの無邪気なでく《・・》はいつだって何も感じやしないんだ! またぞくぞくしてきた!……さっきポルフィーリイがおれに目配せしたようだったが、気のせいかな? たしかに、くだらん。何のために目配せするんだ? おれの神経を苛々させようとでもいうのか、それともおれをからかっているのか?あるいはすべてが幻影か、あるいは知ってい《・・・・》る《・》かだ!……ザミョートフまでふてぶてしい……ザミョートフはふてぶてしい男だろうか? あいつは一晩で考えを変えた。おれが思ったとおりだ! あいつはここがはじめてだというのに、まるで自分の家みたいにしている。ポルフィーリイもやつを客あつかいしないで、背を向けている。嗅ぎあいやがったな! きっとおれのことで《・・・》嗅ぎあったのだ! きっとおれたちが来るまで、おれのことを話していたにちがいない!……部屋のことを知ってるだろうか? こうなったらもう早いほうがいい!……おれが昨日部屋を借りるために逃げだしたと言ったとき、やつは聞き流して、何も言わなかったが……しかし部屋のことをもちだしたのはうまかった。あとで役に立つ!……朦朧状態で、か!……は、は、は! やつは昨夜のことはすっかり知っている! そのくせ母が来たことは知らなかった!……あの婆《ばば》ぁが日付まで鉛筆で書いたなんて!……嘘《うそ》いうな、その手にはのらんぞ! だって、これはまだ事実じゃないぜ、幻影にすぎんのさ! もういい、早く事実を出せよ!部屋の一件だって事実じゃない、熱のしたことだ。やつらに言うことは、知ってるよ……やつら部屋の一件を知ってるのだろうか? それをつかむまでは、帰らんぞ! なんのためにここへ来たんだ? ところでおれはいまじりじりしている、これはどうやら事実らしいぞ! チエッ、おれはなんて怒りっぽいんだ! だが、それもいいかもしれん、いかにも病気らしく見えて……やつはおれをさぐっている。しっぽを出させようというんだ。なんのためにおれは来たんだ?》
こうしたことがみな、稲妻のように、彼の頭をかすめたのだった。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはすぐにもどってきた。どうしたわけか彼は急にほがらかになった。
「ぼくはね、きみ、昨夜きみのとこで飲んでからどうも頭が……いや、身体中のねじがなんだかゆるんだみたいだぜ」と彼はがらりと調子を変えて、笑いながらラズミーヒンに話しかけた。
「どうだった、おもしろかったか? ぼくはいよいよこれからというとき中座しちゃったんでな! 誰が勝ったかね!」
「そりゃむろん、誰ってことないさ。永遠の問題にふみこんだんで、みな思うさま勝手な熱をふいたよ」
「ねえ、ロージャ、昨日どんな問題にふみこんだと思う。犯罪はあるか、ないか、という問題なんだよ。話がはずみすぎて、途方もないことになっちゃったのさ!」
「べつにおどろくことはないじゃないか? 普通の社会問題だよ」とラスコーリニコフは何気なく答えた。
「問題はそんなはっきりした形はとらなかったよ」とポルフィーリイは注意した。
「そんなはっきりした形はとらない、それはそうだ」ラズミーヒンは例によってあわてて、かっと熱くなりながら、すぐに同意した。
「ねえ、ロジオン、いまからぼくの言うことを聞いて、きみの意見を聞かせてくれ。ぼくは聞きたいんだ。ぼくは昨日みんなとわたりあって四苦八苦しながら、きみの来るのを待っていたんだ。ぼくはみんなに言ったんだよ、きみはきっと来るって……議論はまず社会主義者たちの見解からはじまったんだ。彼らの主張は簡単だ、犯罪は社会機構のアブノーマルに対する抗議だ――それ以上の何ものでもない、そしてそれ以外のいかなる理由も認めない、というのだ。いかなる理由も!……」
「それがまちがいだよ!」とポルフィーリイ・ペトローヴィチは叫んだ。彼は、目に見えて、活気づいて、ラズミーヒンを見ながらたえずにやにや笑っていた。それがますますラズミーヒンに火をつけた。
「なんにも認めないんだ!」ラズミーヒンはかっとなってさえぎった。「嘘じゃない!……きみに彼らの本を見せてもいいよ。彼らに言わせれば、いっさいが《環境にむしばまれた》ためなのだ、――それ以外は何も認めない! 彼らの大好きな文句だよ! この論でいくと当然、社会がノーマルに組織されたら、たちまちいっさいの犯罪もなくなる、ということになる。抗議の理由がなくなるし、すべての人々が一瞬にして正しい人間になってしまうからだ。自然というものが勘定に入れられていない、自然がおしのけられている、自然が無視されているんだ! 彼らに言わせれば、人類が歴史の生きた《・・・》道を頂上までのぼりつめて、最後に、ひとりでにノーマルな社会に転化するのではなくて、その反対に、社会システムがある数学的頭脳からわりだされて、たちまち全人類を組織し、あらゆる生きた過程をまたず、いっさいの歴史の生きた道をふまずに、あっという間に公正で無垢《むく》な社会になるというのだ! だから彼らは本能的に歴史というものがきらいなのさ。《歴史の内容は醜悪と愚劣のみだ》なんてうそぶいてさ――なんでも愚劣の一語でかたづけている! だから生活の生きた《・・・》プロセスもきらいなんだよ。生きた魂《・・・・》なんていらないんだ! 生きた魂は生活を要求する、生きた魂はメカニズムに従わない、生きた魂は懐疑的だ、生きた魂は反動的だ! ところが彼らの人間は、死人くさいにおいもするが、ゴムでつくれる、――その代り生命《いのち》がない、意志がない、奴《ど》隷《れい》だ、反逆しない! そして結局は、フーリエの言う共同宿舎の煉《れん》瓦《が》積《つ》みや、廊下や部屋の間取りをきめるのに、こきつかわれるってわけだ! 共同宿舎はどうにかできた、ところが共同宿舎のための自然というものはまだできあがっていない、生活はほしいが、生活のプロセスがまだ完成していない、墓に入るにはまだ早い、というわけだ! 論理だけでは自然を走りぬけるわけにはいかんよ! 論理は三つの場合しか予想しないが、それは無数にあるのだ! その無数の場合をいっさいカットして、すべてを安楽《カムフォート》に関する一つの問題にしぼってしまうのだ! もっとも安易な問題の解決だよ! こんないいことはなかろうさ、何も考えなくてもいいんだ! 魅力は――考えなくてもいいということだよ! いっさいの人生の秘密が全紙二枚のパンフレットにおさまるんだ!」
「そら鎖がきれた、太鼓が鳴りだしたぞ! 両手をおさえつけにゃどうにもならんて」ポルフィーリイはにやにや笑った。「察してくださいよ」と彼はラスコーリニコフのほうを向いた。「昨夜もまったくこのとおりだったんですよ。一部屋で、六つの声が入りみだれて、しかも酒が入っていたんですからねえ、――想像できるでしょう? いや、きみ、それはちがうよ、《環境》というものは犯罪に大きな意味をもっている。これはいくらでも証明してやるよ」
「ぼくだっていくらでも知ってるさ。それじゃ聞くがね、四十男が十歳の少女を凌辱《りょうじょく》する、――これも環境のなせるわざかい?」
「ちがうというのかい、それも厳密な意味では、おそらく環境のせいだろうな」とポルフィーリイはびっくりするほどもったいぶって認めた。「少女に対する犯罪はひじょうに多くの場合、むしろ《環境》で説明されるものだよ」
ラズミーヒンは興奮してわれを忘れかけた。
「なに、なんならいますぐ論証《・・》してやるぞ」と彼は叫びたてた。「きみの睫毛の白いのは、イワン大帝が高さ十五メートルだからだ、ただそれだけのためだってわけを、明白確実に、進歩的に、なんなら自由主義的なあやをつけて、論証してやろうか? してやるぞ! さあ、賭《か》けるか!」
「よかろう! さあ、彼の論証を聞こうじゃありませんか!」
「まったく、いいかげんにしっぽを出さんか、たぬきめ!」とラズミーヒンはわめいて、いきなり立ちあがり、片手をふりまわした。「きみなんか相手にしてもはじまらんよ! これはみな、わざとやってるんだよ、きみはまだこいつを知るまいがね、ロジオン! 昨日だってやつらの肩をもったのは、ただみんなを愚弄するためさ。そして昨日こいつがいったい何を言ったと思う、まったくおどろきだよ! ところがみんなやんやの喝采《かっさい》なんだ!……こいつはまあ二週間くらいはそのつもりでいるんだよ。去年だってどんな風の吹きまわしか、とつぜん修道院に入るなんて言いだしてさ、そのつもりでいたのはまあ二カ月だったよ! この間も結婚する、式の用意はもう全部できたなんて、まじめな顔で言いやがるんだ。服まで新調した。ぼくらもそろそろお祝いを考えだした。ところが花嫁なんていやしない、なんにもなかったのさ。みんなゆめなんだよ!」
「またでたらめを言う! 服をつくったのはそのまえだよ。新しい服ができたんで、みんなをからかってやろうと思ったのさ」
「ほんとにあなたはそんなたぬきですか?」とラスコーリニコフは何気なく尋ねた。
「じゃあなたは、そうじゃない、と思っていましたか? よし、それじゃあなたにもいっぱいくわしてやろう、は、は、は! これは冗談だが、本当のことをすっかり言ってしまいましょう。犯罪とか、環境とか、少女とか、こうした問題に関連して、いまふっとあなたのある論文を思い出したんですよ、――といっても、あれはいつもぼくの頭の中にはあったんですがね。《犯罪について》でしたかな……題は忘れて、思い出せませんが。二月《ふたつき》まえに《月刊言論》で拝見しました」
「ぼくの論文? 《月刊言論》で?」とラスコーリニコフはおどろいて聞きかえした。「たしか半年まえ、大学をやめるとき、ある本について論文を書いて、《週刊言論》にもって行ったおぼえはありますが、《月刊言論》は知らないですねえ」
「ところが《月刊》にのったんですよ」
「そういえばたしか《週刊》が廃刊になったので、あのときは活字にならなかった……」
「そのとおりです。ところが、《週刊》が廃刊になって、《月刊》に合併されたので、それであなたの論文も、二月まえに、《月刊》に掲載されたってわけでしょう。じゃ、あなたはご存じなかったのですか?」
ラスコーリニコフはほんとうに何も知らなかった。
「おやおや、じゃあなたは原稿料を請求してかまいませんよ! しかし、変った人ですねえ! あなたに直接関係のあるこんなことまで知らないほど、孤独生活に徹しきるなんて。まるで嘘みたいですよ」
「ブラヴォー、ロージャ! ぼくも知らなかったぜ!」とラズミーヒンが叫んだ。「今日さっそく図書館へかけつけて、その号を借りよう! 二月まえだって? 日付は? まあいい、さがすよ! こういう男だよ! 言いもしないんだ!」
「だが、ぼくの論文だとどうしてわかりました? サインはイニシアルだけのはずですが」
「それが偶然なんですよ、それも二、三日まえ、編集者から聞いたんです、知り合いの……おもしろくて熟読しましたよ」
「たしか、犯罪遂行の全過程における犯罪者の心理状態を考察したものだと思いましたが」
「そのとおりです、そして犯罪遂行の行為はかならず病気を伴うものだ、と主張しています。きわめて、きわめて独創的です、が……ぼくが特に興味をもったのは、論文のその部分ではありません、論文の最後に何気なく書かれているある思想です、それも、残念なことに、ぼんやり、暗示してあるだけですが……思いだしましたか、要するに、この世の中にはいっさいの無法行為や犯罪を行うことができる……いやできるというのじゃなく、完全な権利をもっているある種の人々が存在し、法律もその人々のために書かれたものではない、とかいうような暗示でしたが」
ラスコーリニコフは自分の思想の無理にたくらまれた歪曲《わいきょく》に苦笑いをもらした。
「なに? なんだって? 犯罪に対する権利? じゃ、《環境にむしばまれた》ためじゃないじゃないか?」とラズミーヒンはいささか呆気《あっけ》にとられたような顔つきで、聞きかえした。
「いや、いや、そうとも言えないさ」とポルフィーリイは答えた。「問題は、彼の論文によるとすべての人間はまあ《凡人》と《非凡人》に分けられる、ということにしぼられているんだ。凡人は、つまり平凡な人間であるから、服従の生活をしなければならんし、法律をふみこえる権利がない。ところが非凡人は、もともと非凡な人間であるから、あらゆる犯罪を行い、かってに法律をふみこえる権利をもっている。たしかこういう思想でしたね、ぼくの読みちがいでなければ?」
「なんだいそれぁ? そんなこと、あり得ないじゃないか!」とラズミーヒンはけげんそうに呟《つぶや》いた。
ラスコーリニコフはまた失笑した。彼は相手が何をたくらみ、どこへ誘導しようとしているのか、すぐにさとった。彼は自分の論文をおぼえていたのである。彼は挑戦《ちょうせん》を受ける決意をした。
「ぼくの書いた意味は、それとはすこしちがいますね」と彼は構えないで、ひかえ目に語りはじめた。「しかし、実をいうと、あなたはほとんど正確にあれを述べてくれました、お望みなら、完全に正確にといってもいいほどです……(完全に正確だと同意することが、彼には痛快らしかった)ちがうところといえば、あなたが言われるように、非凡な人々はかならず常にあらゆる無法行為をしなければならないし、する義務があるなどとは、ぼくは決して主張していないということだけです。そんな論文でしたら、おそらく検閲は通らなかったろうと思います。ぼくはただ、《非凡》な人間はある障害を……それも自分の思想の実行が(ときには、それがおそらく、全人類の救いとなることもありましょう)それを要求する場合だけ、ふみこえる権利がある……といっても公式の権利というわけではなく、つまりそれを自分の良心に許す権利がある、と簡単に暗示しただけです。あなたはぼくの論文があいまいだと言われますが、ぼくにできるだけの説明はいつでもしてあげます。あなたもそれをお望みのようだと推察しますが、おそらくぼくのまちがいではないでしょう。では説明しましょう。ぼくはこう思うんです、もしケプラーやニュートンの発見が、いろんな事情がつみかさなったために、その発見をさまたげたり、あるいは障害としてそのまえに立ちふさがったりした一人、あるいは十人、あるいは百人、あるいはそれ以上の人々の生命を犠牲にする以外、人類のまえに明らかにされるいかなる方法もなかったとしたら、ニュートンはその権利……自分の発見を全人類に知らせるために、その十人ないし百人を排除する……権利をもっていたろうし、そうするのが義務でさえあったでしょう。だからといって、ニュートンが誰であろうと手当りしだいに殺したり、毎日市場でかっぱらいをしたりする権利をもっていた、ということにはなりません。さらにぼくはあの論文で、論旨をこんなふうに発展させたことをおぼえています……つまり、例えば、法律の制定者や人類の組織者であっても、つまり古代の偉人からリキュルゴス、ソロン、マホメット、ナポレオン等々にいたるまで、新しい法律を定めて、そのこと自体によって、社会が神聖なものとあがめ、父祖代々伝えられてきた古い法律を破棄し、しかも血が彼らのしごとを助けることができると見れば(往々にして古い法律のためにまったく罪のない血が、勇敢に流されたものですが)、むろん流血をも辞さなかった、という一事をもってしても、一人のこらず犯罪者だった。これらの人類の恩人や組織者の大部分が特におそるべき虐殺者《ぎゃくさつしゃ》だったということは、むしろおどろくべきことです。要するに、ぼくの結論は、偉人はもとより、ほんのわずかでも人並みを出ている人々はみな、つまりほんのちょっぴりでも何か新しいことを言う能力のある者はみな、そうした生れつきによって、程度の差はあるにせよ、ぜったいに犯罪者たることをまぬがれないのだ、ということです。そうでなければ人並みを出ることはむずかしいでしょうし、人並みの中にとどまることは、むろん、賛成できない、これもまた彼らのもって生れた天分のせいですが、ぼくに言わせれば、賛成しないのが義務にすらなっているのです。要するに、ここまでのところは、おわかりでしょうが、特に目新しい思想はひとつもありません。これはもう何度となく書かれ、そして読まれてきたことです。人々を凡人と非凡人に分けるといったことについては、それがいささか暴論であるというあなたの意見はみとめますが、しかしぼくはべつに正確な数字を主張しているわけではありません。ぼくはただ自分の根本思想を信じているだけです。それはつまり、人間は自然の法則によって二つの層に大別《・・》されるということです。つまり低い層(凡人)と、これは自分と同じような子供を生むことだけをしごとにしているいわば材料であり、それから本来の人間、つまり自分の環境の中で新しい言葉《・・・・・》を発言する天分か才能をもっている人々です。それを更に細分すれば、むろんきりがありませんが、二つの層の特徴はかなりはっきりしています。第一の層、つまり生殖材料は、一般的に言うと、保守的で、行儀がよく、言われるままに生活し、服従するのが好きな人々です。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務なのです、だってそれが彼らの使命ですし、服従することがすこしも恥ずかしいことじゃないのです。第二の層は、みな法律をおかしています、その能力から判断して、破壊者か、もしくはその傾向をもつ人々です。これらの人々の犯罪は、むろん、相対的であり、千差万別です。彼らの大多数は、実にさまざまな形において、よりよきもののために現在あるものの破壊を要求しています。そして自分の思想のために、たとえ血を見、死《し》骸《がい》をふみこえても進まねばならぬとなると、ぼくに言わせれば、ひそかに、良心の声にしたがって、血をふみこえる許可を自分にあたえるでしょう、――もっとも、思想とその規模によるでしょうが、――ここを注意してもらいたいのです。ぼくはただこの意味であの論文の中で犯罪の権利ということを言ったわけです。(この議論が法律問題からはじまったことを、忘れないでください)しかし、それほど心配することはありません。いつの時代も民衆は、彼らにこのような権利があるとは、ほとんど認めません、そして彼らを処罰したり、絞首刑《こうしゅけい》にしたりします(もっとも程度の差はありますが)、そしてそれによって、まったく公正に、自分の保守的な使命を果しているわけです。もっとも時代がかわればその同じ民衆が、処罰された彼らを支配者の地位にまつりあげて、ぺこぺこするわけですがね(これにも程度の差はありますが)。第一の層は常に――現在の支配者であり、第二の層は――未来の支配者です。第一の層は世界を維持し、それを数的に大きくします。第二の層は世界を動かし、それを目的にみちびきます。そして両者ともにまったく同じ生存権をもっています。要するに、ぼくに言わせれば、すべての人が平等な権利をもっているのです、そして vive la guerre 師ernelle.(永遠の戦争万歳です)――むろん、新しいエルサレムが生れるまでですがね!」
「じゃあなたはやっぱり新しいエルサレムを信じておいでですか?」
「信じています」とラスコーリニコフはきっぱりと答えた。そのときも、いまの長い話のあいだもずうっと、彼はじゅうたんの上の一点をえらんで、じいっとそこに目をおとしたままだった。
「ほう、じゃ神を信じているんですか? ごめんなさい、こんなことをお聞きして」
「信じています」ポルフィーリイに目を上げて、ラスコーリニコフはこうくりかえした。
「じゃ、ラザロの復活も?」
「し、信じます。どうしてこんなことを聞くんです?」
「そのまま信じますか?」
「そのままに」
「そうでしたか……ちょっと意外でした。ごめんなさい。さて、――先ほどの問題にもどりましょう、――彼らはいつも処刑されるとは限らないじゃありませんか。中には反対に……」
「生きて栄華をきわめますか? そうです、ある者は生きているあいだに目的を達します、その場合は……」
「自分で自分を罰しますか?」
「必要なら、しかもそれが大部分じゃないですか。総じて、あなたの指摘はするどいですな」
「ありがとう。ところでひとつお聞きしたいのですが、その非凡人と凡人をいったい何で見分けるんです? 生れたときから何かしるしでもついているんですか? ぼくの言う意味は、もっと正確さが必要じゃないかということですよ、例えば外見上の特徴というようなものがですね。お許しください、ぼくは穏健な実務家なものですから、当然こういうことが心配になるのですが、例えば特別の服を着るとか、あるいは何かレッテルみたいなものをはるとかしたらどういうものでしょう?……だって、紛糾が起って、ある層のある者が自分は他の層に属しているんだなんて思いこんで、あなたのすばらしい表現によるとですな、《いっさいの障害を排除》しだしたりしたら、それこそ……」
「いや、それがまた実に多いんですよ! あなたのこの指摘は先ほどよりもまた一段と冴《さ》えています……」
「ありがとう……」
「いいえ。ところで考えてもらいたいのは、まちがいが起り得るのは、第一の層、つまり《凡人》(これはあまり適切な名称ではないかもしれませんが)の側からだけだということです。服従に対する傾向は生れつきもっていますが、それでも自然のいたずらによって、これは牛にさえ見られますがね、彼らのかなり多くが自分を進歩的な人間、つまり《破壊者》と思いこんで、《新しい言葉》をはきたがるんですよ、しかもそれがまったく真剣なんです。そのくせ実際は、たいていの場合新《・》しい人々《・・・・》を認めないばかりか、かえって時代おくれの卑屈な思想の持ち主として軽蔑《けいべつ》します。でも、ぼくに言わせれば、たいした危険はありっこないから、あなたも別に心配はいりませんよ、ほんとです。だって彼らは、ぜったいに遠くへは行きませんもの。のぼせたら、自分の位置を思い知らせるために、ときどき鞭《むち》でなぐってやるのは、むろん結構ですが、それ以上はいけません。しかも刑吏もいらないくらいです。彼らは自分で自分を鞭打つでしょう、なにしろきわめて品行方正ですからね。互いになぐりあう者もいるでしょうし、自分の手で自分をなぐる者もいるでしょう……公《おおやけ》にさまざまな形で改悛《かいしゅん》のしるしを自分に加えるわけです、――美しい教訓となるわけです、要するに、あなたは何も心配することはないというわけです……そういう法則があるんですよ」
「まあ、少なくともその方面ではあなたの説明でいくらか安心しました。ところがもうひとつ心配があるんですよ。どうでしょう、他人を斬《き》り殺《ころ》す権利をもっている人々、つまり《非凡人》ですね、そういう人々はたくさんいるでしょうか? ぼくは、むろん、ぺこぺこする用意はありますが、でもそんな人間にそうやたらあちこちにいられたら、いい気持はしませんよ、ねえ?」
「ああ、それも心配はいりませんよ」とラスコーリニコフは同じ調子でつづけた。「だいたい新しい思想をもった人間はもちろん、何か新しいこと《・・・・・》を発言する能力をほんのちょっぴりでももっている人間でさえ、ごくまれにしか生れませんよ、不思議なほど少ないんです。ただ一つわかっていることは、この二つの層およびその更にこまかい分類に属するすべての人々の生れる順序というものが、ある自然の法則によってきわめて正確に定められているものらしい、ということです。その法則は、もちろん、まだ発見されていませんが、しかしそれが存在すること、そしていずれは発見されるにちがいないことを、ぼくは信じています。おびただしい数の人々、つまり材料はですね、ある努力をへて、今日もなお神秘的なあるプロセスを通って、さまざまな種族のある配合という手段によって、ついに、たとえ千人に一人でも、いくらかでも自主的な人間を、全力をふりしぼってこの世に生み出すという、ただそれだけのために生きているのです。もっと広い自主性をもつ人間は、一万人に一人くらいかもしれません(これはわかりやすくするために、大まかな数字ですが)、さらに広大な自主性をもつものは、十万人に一人でしょう。天才的な人々は百万人に一人でしょうし、偉大な天才、人類の完全な組織者などは、何世代にもわたる何十億という人々の中からやっと一人でるかでないかでしょう。要するに、こうしたプロセスが行われる蒸溜器《じょうりゅうき》の中を、ぼくはのぞいたわけじゃありませんが、ある一定の法則はかならずあるはずです。ここには偶然はあり得ません」
「なんだいきみたちは、ふざけてるのか?」ついにたまりかねて、ラズミーヒンはどなった。「だましっこをしてるのかい? せっかく会って、からかいあってるなんて! ロージャ、きみはまじめなのか?」
ラスコーリニコフは黙って蒼白《あおじろ》い、うれいにしずんだような顔を彼に上げたが、なんとも答えなかった。そして、このしずかな悲しそうな顔と対照して、ポルフィーリイの露骨でしつこく、じりじりした無作法《・・・》なとげのある態度が、ラズミーヒンには奇妙なものに感じられた。
「まあ、きみ、ほんとうにそれがまじめなら……むろんきみの言うとおり、これは別に新しい思想じゃない。ぼくらがもう何度となく読んだり聞いたりしたものの類似にすぎんよ。だが、この中で実際に独創的《・・・》なもの、――しかも実際にきみだけのものは、――おそろしいことだが、それはなんといっても良心の声《・・・・》にしたがって血を許していることだ、しかも、失礼だが、そこには狂信的な態度さえ感じられる……つまり、ここにきみの論文の根本思想があるわけだ。この良心の声《・・・・》にしたがって血を許すということは、それは……それは、ぼくの考えでは、流血の公式許可、法律による許可よりもおそろしいと思うよ……」
「まったくそのとおりだ、なおおそろしい」とポルフィーリイが応じた。
「いや、きみはきっと何かに魅せられたんだよ! そこにまちがいがあるんだ。ぼくは読んでみる……きみは夢中で書いたんだ! きみがそんなことを考えるはずがない……読んでみるよ」
「論文にこんなことはぜんぜんないよ、暗示があるだけさ」とラスコーリニコフは言った。
「そうです、そうです」ポルフィーリイはじっと坐っていられない様子だった。「あなたが犯罪をどんなふうに見ておられるか、もうおおむねわかりました。ところで……こんなにしつこくして、ほんとに申しわけありませんが(もうさんざんいやな思いをさせて、自分でも恥ずかしいと思います!)――実は、二つの層がこんがらかった場合については先ほどの説明ですっかり安心いたしましたが、実際上のいろんなケースを考えると、どうも不安でたまらなくなるんですよ! 例えば、ある男なり青年なりが、自分はリキュルゴスかマホメットだなんて思いこんで……むろん、未来のですがね、――いきなりあらゆる障害を排除するなんていいだしたら、どうでしょう……いまから遠征におもむくが、遠征には資金が必要だ、というわけで……遠征の資金の獲得をはじめる……どうでしょう?」
ザミョートフが不意に隅っこでプッとふきだした。ラスコーリニコフはそちらに目をやろうともしなかった。
「ぼくも同意せざるを得ません」と彼はしずかに答えた。「そのようなケースは実際にあるはずです。愚か者や虚栄心の強い者は特にそのわなにはまりやすい。特に青年が危険です」
「そうでしょう。して、それをどうします?」
「まあ、そのままにしておくんですね」とラスコーリニコフはにやりと笑った。「それはぼくの罪じゃありませんよ。現在も未来も、いつだってそうですよ。彼はいま(彼はラズミーヒンへ顎をしゃくった)、ぼくが血を許すと言いました。それがどうしたというんです? 社会は流《る》刑《けい》や、監獄や、予審判事や、苦役などで十分すぎるほど保証されているじゃありませんか、――いったい何を心配するんです? せいぜい強盗でもさがしなさいよ!……」
「じゃ、さがしだしたら?」
「当然の罰が待ってるでしょう」
「あなたはひどく論理的ですな。なるほど、だがその男の良心は?」
「それがあなたに何の関係があります?」
「別に、ただその、人道の面から」
「良心がある者は、あやまちを自覚したら、苦悩するでしょう。これがその男にくだされる罰ですよ、――苦役以外のですね」
「じゃ、実際に天才的な人々は」とむずかしい顔をして、ラズミーヒンが尋ねた。「つまり人を殺す権利をあたえられている連中だな、彼らは他人の血を流しても、ぜんぜん苦しんではならないというのかい?」
「ならない《・・・・》、どうしてそんな言葉をつかうんだ? そこには許可もなければ禁止もないよ。犠牲をあわれに思ったら、苦悩したらいい……苦悩と苦痛は広い自覚と深い心にはつきものだよ。真に偉大な人々は、この世の中に大きな悲しみを感じとるはずだと思うよ」と彼は急にもの思いにしずんで、口調まで会話らしくなく、こうつけ加えた。
彼は目を上げると、ぼんやり一同を見まわし、にこッと笑って、帽子を手にとった。彼はさっきここに入ってきたときにくらべると、あまりにも落ち着きすぎていた、そして自分でもそれを感じていた。一同は立ちあがった。
「じゃ、ののしられても、叱《しか》られても、しかたがありませんが、ぼくはどうにもがまんができないのです」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはまた言いだした。「もう一つだけ質問させてください(ほんとうにご迷惑だとは思いますが!)、一つだけつまらない考えを述べさせてもらいたいのです、心おぼえしておくため、ただそれだけのことですが……」
「結構です、聞かせてください」ラスコーリニコフは蒼白い顔を緊張させて、待ち受けるように彼らのまえに立っていた。
「実は……どう言ったらよくわかっていただけるか、まったく自信がないのですが……この考えがまたあまりにもふざけたもので……心理的なことなのですが……つまりこういうことなんです。あなたがあの論文をお書きになったとき、――まさかそんなはずはないと思いますがね、へ、へ! あなたは自分も、――つまりあなたの言う意味でですね、――ほんのちょっぴりでも、《非凡人》で、新し《・・》い言葉《・・・》をしゃべる人間だとは、お考えにならなかったでしょうか……どうでしょうな、そこのところは?」
「大いにあり得ることです」とラスコーリニコフは軽蔑するように答えた。
ラズミーヒンは身をのりだした。
「とすれば、あなたもそれを決意なさるかもしれませんな、――例えば、生活上の何かの失敗や窮乏のためとか、あるいは全人類を益するためとかで、――障害とやらをふみこえることをですよ?……まあ、いわば殺して盗むというようなことを?」
そういうと彼は不意にまた、先ほどとまったく同じように、左目で目配せして、音もなく笑いだした。
「ふみこえたとしても、むろん、あなたには言わんでしょうな」とラスコーリニコフは挑戦的な傲慢《ごうまん》なせせら笑いをうかべながら答えた。
「そうじゃありませんよ、ぼくはただちょっときいてみただけですよ。実をいえば、あなたの論文をよく理解したかったものですから、ただ文学的な面だけで……」
《フン、なんて見えすいた図々《ずうずう》しい手口だ!》とラスコーリニコフは気色わるそうに考えた。
「おことわりしておきますが」と彼はそっけなく答えた、「ぼくは自分をマホメットともナポレオンとも思っていませんし……そうしたたぐいの人々の誰でもありません、ですから、そうした本人でないぼくとしては、どんな行動をとるだろうかということについて、あなたを喜ばせるような説明をすることはできません」
「よしてくださいよ、いまのロシアに自分をナポレオンと思わないようなやつがいますかね?」とポルフィーリイは急におそろしくなれなれしい調子で言った。その声の抑揚にさえ、いままでになかった特に明瞭《めいりょう》なあるひびきがあった。
「そこらの未来のナポレオンじゃないのかい、先週例のアリョーナ・イワーノヴナを斧《おの》でなぐり殺したのもさ?」ととつぜん隅のほうでザミョートフが言った。
ラスコーリニコフは無言のまま、うごかぬ目でじっとポルフィーリイを見すえていた。ラズミーヒンは暗い不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔になった。彼はもう先ほどからある考えが頭からはなれないようになっていた。彼は腹立たしげにあたりを見まわした。重苦しい沈黙の一分がすぎた。ラスコーリニコフはくるりと向き直って出て行こうとした。
「もうおかえりですか!」とポルフィーリイは気味わるいほど愛想よく片手をさしのべながら、なでるような声で言った。「お知り合いになれて、ほんとに、こんな嬉《うれ》しいことはありません。ご依頼の件については決してご心配なく。ぼくが言ったあんな調子で書いてください。そう、ぼくの事務所まで届けていただければいちばんいいのですが……なんとか二、三日中に……よかったら明日にでも。ぼくは十一時頃《ごろ》はかならずいます。すっかり手続きをしましょう……ちょっと話もしたいし……あなたなら、最近あそこ《・・・》を訪れた一人ですから、何か手がかりになるようなことをおしえていただけるのではないかと……」と彼はいかにも人のよさそうな様子でつけ加えた。
「あなたはぼくを正式に尋問するつもりですか、すっかり準備をととのえて?」とラスコーリニコフは鋭く尋ねた。
「なんのために? いまのところその必要はまったくありませんな。あなたは誤解しているようだ。ぼくは機会はにがしませんよ、で……質入れをしていた人々はもう全部会って、話を聞きました……証言をとった人もいます……だからあなたにも、最後の一人として……あッ、そうそう、ちょうどいい!」と彼は不意に何かよほど嬉しいことを思いだしたらしく、にこにこしながら叫んだ。「いいとき思いだしたよ、おれもどうかしてるな!……」彼はラズミーヒンのほうを向いた。「ほらあのミコライのことだよ、あのときはきみにさんざんつるしあげをくわされたが……なに、ぼくだってわかってるんだよ、わからんはずがないよ」彼はラスコーリニコフのほうに向き直った。「あの若者が白だくらいはね。だがどうにもしようがなく、ミチカを痛めるようなことになったわけだが……それなんですよ、あなたにお聞きしたかったのは。あのとき階段を通りながら……失礼ですが、あなたがあそこへいらしたのは、たしか七時すぎでしたね?」
「七時すぎです」とラスコーリニコフは答えたが、こんなことは言わなくてもよかったのだと思って、すぐにいやな気がした。
「それで、七時すぎに階段を通りながら、せめてあなただけでも、二階のドアの開《あ》けはなされた部屋に――おぼえていますね? 二人の職人を、その中の一人だけでも、見ませんでしたか? その部屋でペンキを塗っていたんですよ、気がつきませんでしたか? これが彼らにとってきわめて重大な証言になるのですよ!……」
「ペンキ職人? いいえ、見ませんでしたけど……」とラスコーリニコフは記憶をたぐるようなふりをしながら、ゆっくり答えたが、それと同時に全身の神経をはりつめ、息苦しさに胸の凍る思いで、いったいどこにわながあるのか早く見ぬかなければならぬ、何か見おとしてはいないかと、気が気ではなかった。「いいえ、見なかったですね、それにそんな開いた部屋も、なかったような気がしますが……そうそう、四階で(彼はもうわなを完全に見やぶって、勝ちほこった気持になっていた)、官吏の家族が引っ越しをしていたのを、おぼえていますが……アリョーナ・イワーノヴナの向いの部屋です……おぼえています……はっきりおぼえています……兵士たちがソファのようなものをはこび出して、ぼくは壁におしつけられましたよ……だがペンキ職人は――いや、ペンキ職人がいたような記憶は、ありませんねえ……それに開いた部屋も、どこにもなかったようですが。そう、たしかになかったですね……」
「おい、きみは何を言ってんだ!」とラズミーヒンはわれに返って、何か思いあたったらしく、だしぬけに叫んだ。「ペンキ屋がしごとをしていたのは事件のあった当日じゃないか。彼が行ったのはその三日まえだ! きみは何を聞いてるんだ?」
「いや! ごっちゃになってしまいました!」ポルフィーリイはぽんと額をたたいた。「いまいましい、この事件で頭がすっかりへんになってしまった!」彼は恐縮したようにラスコーリニコフを見た。「七時すぎにあの部屋で、誰か彼らを見たものがないか、これが実に重大なかぎになりますので、それが頭にあってついいまも、あなたに聞いたらわかりはしないかなんて錯覚をおこしてしまったんですよ……すっかりごっちゃになってしまいました!」
「もっと気をつけてくれなきゃこまるよ!」とラズミーヒンは不機嫌に言った。
そのときはもう控室に来ていた。ポルフィーリイ・ペトローヴィチはびっくりするほど愛想よく二人を玄関先まで送り出した。二人は暗い不機嫌な顔で通りへ出て、しばらくはものも言わなかった。ラスコーリニコフは深く息をついた……
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「……信じない! 信じられないよ!」すっかり頭が混乱してしまったラズミーヒンは、なんとかしてラスコーリニコフの推論をくつがえそうとやきもきしながら、こうくりかえした。彼らはもうバカレーエフのアパートの近くまで来ていた。そこにはもう先ほどからプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナとドゥーニャが二人の来るのを待っていた。ラズミーヒンははじめてあのこと《・・・・》をはっきり話しあったので、それだけでもうどぎまぎし、すっかり興奮してしまって、話に夢中になってたえず立ちどまった。
「信じなくてもいいさ!」とラスコーリニコフは冷たい、気のなさそうなうす笑いをうかべながら、答えた。「きみは例によって、何も気がつかなかったらしいが、ぼくは一言半句ものがさずその重さをはかっていたんだよ」
「きみは疑《うたぐ》り深いんだよ、だからそんなことをするのさ……うん……そういえばたしかに、ポルフィーリイの調子はかなりへんだった、とくにあの卑劣なザミョートフのやつときたら!……きみの言うとおりだ、あいつには何かふくみがあった、――しかしなぜだ? なぜだろう?」
「一晩で考えを変えたのさ」
「いやちがうよ、ぜったいにちがう! もしやつらがこのばかげた考えをもっているなら、なんとかしてそれをかくそうとするはずだよ。ここ一番というときまで、切り札はふせておくもんだぜ……ところがさっきのやつらの態度は――図々《ずうずう》しく、うかつだよ!」
「もしやつらが物証、つまりぜったいに動かせぬ物証をつかんでいるか、あるいはいくらかでも根拠のある嫌《けん》疑《ぎ》をもっていたら、たしかにこのゲームはかくそうとしたろうさ。もっと大きく勝つためにね(しかも、もうとっくに家宅捜索をしているはずだ!)。ところがやつらには事実がない、ひとつも、――すべてが幻影だ、どっちともとれるものばかりだ、ふわふわした観念だけだ――だからやつらは無礼な態度で相手の頭をかきみだそうとやっきなんだよ。あるいは、きめ手となる事実がないので、自分でもむしゃくしゃして、やつあたりしたのかもしれん。あるいはまた、何かふくみがあって……彼は頭がきれそうだ……もしかしたら、知っている振りをして、ぼくをおどかそうとしたのかもしれん……そこはきみ、彼なりの心理作戦でさ……しかし、こんなことは考えるのも気色がわるいよ。よそうや!」
「まったく無礼だよ、失礼だ! きみの気持はわかるよ! しかし……いまはもうはっきり言ってしまったから(とうとう、はっきり言ってしまって、ほんとによかった、ぼくは嬉《うれ》しいよ!)――ぼくはきみに率直にうちあけるが、やつらがこの考えをもっていることは、ぼくはもう大分まえから気がついていたんだ。あの事件以来ずうっと、むろん、かすかな疑惑が、それこそかすかにうごめく程度だがね、しかしかすかにうごめく程度にせよ、いったいなぜなのだ? どうしてやつらがそんな思いきった考えがもてるのか? いったいどこに、どこにその根がひそんでいるのだ? それを聞いたときぼくは憤然としたね、きみに見せてやりたかったよ! ばかな。貧乏と憂欝症《ゆううつしょう》にうちのめされた哀れな大学生が、妄想《もうそう》までおこすような大病にたおれる前日、しかも、おそらく、病気はもうはじまっていたろう(ここだよ!)この疑り深く、自尊心が強く、自分の真価を知り、六カ月も自分の穴ぐらにとじこもって誰《だれ》にも会わなかった男がだ、ぼろシャツを着て、底のぬけた長靴《ながぐつ》をはいて、――つまらない警官どものまえに立って、やつらになぶりものにされながらじっとこらえている。そこへ思いがけぬ負債をつきつけられる、七等官チェバーロフに対する期限きれの手形だという、くさったようなペンキの臭《にお》い、三十七、八度の暑さ、むんむんする空気、人ごみ、かてて加えてまえの晩訪ねた人が殺されたという話、それがみな――空《す》き腹《ばら》にぐんときたわけだ! 失神しないほうがおかしいよ! ところがここなんだよ、ここに嫌疑の根拠をおいているんだ! ばかばかしい! これは実にしゃくだよ、それはわかる、が、ぼくがきみだったら、ロージャ、やつらを面とむかって笑いとばしてやる、それよりもやつらのばか面《づら》に痰《たん》をはきかけてやるよ、こってりとね、そしてどいつもこいつも二十ばかりビンタをくらわしてやるさ。こいつが利口だよ、いつもみたいにせいぜい思い知らせてやることだ、それでおしまいさ!気にするなよ! 元気をだせ! 恥ずかしいぞ!」
《しかし、こいつうまいことを言ったぞ》とラスコーリニコフは考えた。
「気にするな? だって明日また尋問だよ!」と彼は憂欝そうに言った。「ぼくがあんなやつらを相手に釈明しなきゃならんのかい? 昨日居酒屋でザミョートフみたいな小僧ッ子と口をきいたことだって、ぼくはしゃくなんだよ……」
「ちくしょう! おれはポルフィーリイのとこへ行くよ! そして、親戚として《・・・・・》、やつをぎゅうぎゅうとっちめ、すっかりどろをはかせてやる。ザミョートフのやつは……」
《やっと、気がついたな!》とラスコーリニコフは思った。
「待て!」と不意にラスコーリニコフの肩をつかんで、ラズミーヒンは叫んだ。「待て!きみ、それは嘘《うそ》だ! ぼくはいろいろ考えてみたが、きみが言ったのは嘘だよ! それがどんなわななんだ? 職人のことを聞いたのはわなだと、きみは言ったな? 考えてみろよ、ほんとにきみがあれ《・・》をやったとしたら、部屋にペンキを塗っていた……職人がいたのも見た、なんて、口をすべらすはずがないじゃないか。どころか、実際には見たって、見なかったというだろうさ! 誰が自分に不利な自白をするものかね?」
「もしぼくがあのしごと《・・・・・》をやったとしたら、きっと職人も部屋も見たと言うだろうね」とラスコーリニコフは気のりのしない様子で、露骨にいやな顔をしながら、返事をつづけた。
「じゃ、なぜ自分に不利なことを言うのかね?」
「なぜって、尋問のときのっけから何もかも知らん振りをするのは、ばかな百姓か、世間知らずの若僧だけだよ。わずかでも教養と経験のある人間なら、かならず、できるだけ、どうにも動かせぬ外部的な事実はすべて白状しようとするものだ。ただしそれらの事実に別な原因をさがしだし、独特の思いがけぬ特徴を巧みにはめこんで、すっかり別な意味をあたえ、別な光をあてて見せるってわけだ。ポルフィーリイは、ぼくがきっとそのてでほんとうらしく見せるために、見たなんて言って、そして説明に何かうまいことをはめこむにちがいないと、それをあてにしていたはずだよ……」
「そこで彼はすぐに、二日まえには職人はあそこにいなかったはずだ、だからきみが行ったのは凶行の日の七時すぎにちがいないと、こうきめつけるってわけか。つまらんことでひっかけようとしたわけだ!」
「そうだよ、それを彼はあてにしたんだよ。ぼくがろくすっぽ考えもせずに、もっともらしい返事をしようとあわてて、二日まえに職人がいるはずがないのを忘れはしないかとね」
「でも、そんなこと忘れるはずがないじゃないか?」
「ところがそうじゃないんだ! こういうなんでもないことに、頭のまわる連中はいちばんひっかかりやすいんだよ。頭のいい人間ほど、自分がつまらないことでひっかかるとは、思わないわけだ。だからもっともずるがしこいやつをひっかけるには、もっともつまらないことがいいんだよ。ポルフィーリイはきみが考えるほどばかじゃないよ、どうしてどうして……」
「それなら卑劣漢だ!」
ラスコーリニコフは思わず笑いだしてしまった。だがそれと同時に、ついさっきまでは、明らかに目的があってやむを得ずに、いやいやながら話をつづけてきたのに、いま最後の説明をしたときの自分の生き生きとした乗り気な態度が、彼は自分でも不思議な気がした。
《おれもものによっては、調子づくこともあるんだな!》と彼は腹の中で思った。
しかしそれとほとんど同時に、思いがけぬ不安な考えにおびやかされたように、彼は急にそわそわしだした。不安はますます大きくなった。彼らはもうバカレーエフのアパートの入り口まできていた。
「先に行っててくれ」と不意にラスコーリニコフは言った。「すぐもどるよ」
「どこへ行くんだ? もうここまで来てしまったじゃないか!」
「いや、ちょっと行って来《こ》なきゃ、どうしても。用があるんだ……三十分でもどるよ……そう伝えてくれ」
「勝手にしろ、ぼくはついてくよ!」
「何を言うんだ、きみまでぼくを苦しめたいのか?」と彼は叫んだ。そしてそのあまりにも苦しそうな苛《いら》立《だ》ちと必死の思いをこめた目を見ると、ラズミーヒンの手は力なく垂れてしまった。しばらく彼は入り口の階段にたたずんで、自分の住《すま》居《い》のある横町のほうへ足早に去って行くラスコーリニコフのうしろ姿を、暗い顔で見送っていた。やがて、歯をくいしばり、拳《こぶし》をにぎりしめて、今日こそポルフィーリイをレモンのようにしぼりあげてやることを胸に誓うと、二人がこんなにながく来ないのでもう心配でそわそわしているプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナを慰めてやるために、階段をのぼっていった。
ラスコーリニコフが自分の家まで来たとき、――こめかみは汗でぬれ、息づかいも苦しそうだった。彼は急いで階段をのぼると、鍵《かぎ》をかけてない自分の部屋に入り、すぐに内側から掛金をおろした。それから、ぎくっとして、気でもちがったように、あのとき盗品をかくした片隅《かたすみ》の壁紙の穴のところへかけよると、いきなりその穴へ手をつっこんで、ややしばらく入念にすみずみまでさぐりまわし、壁紙のしわや折れ目までしらべた。何もないことをたしかめると、彼は立ちあがって、ほうッと深く息をついた。さっきバカレーエフのアパートのまえまで来たとき、彼はふと気になったのである。何かの品物、小さな鎖かカフスボタンのようなものか、あるいはそれらが包んであった紙、老婆の手でおぼえ書きがしてある紙のきれはしでも、あのときどうかしてこぼれおち、どこかの隙《すき》間《ま》にまぎれこんでいて、忘れたころに不意に思いがけぬ動かぬ証拠となって彼のまえに突きつけられはしまいか。
彼はもの思いにとらわれたようにぼんやりつっ立っていた、そして異様な、卑屈な、気のぬけたようなうす笑いが唇《くちびる》の上をさまよっていた。やがて、彼は帽子をつかんで、しずかに部屋をでた。頭の中はいろんな考えがもつれあっていた。考えこんだまま彼は門の下へ入っていった。
「おや、ほらあのひとですよ!」と甲高《かんだか》い声が叫んだ。彼は顔をあげた。
庭番が小舎《こや》の戸口に立って、まっすぐこちらを指さして、誰かあまり背丈の高くない男におしえていた。その男は見たところ町人風で、チョッキの上にガウンのようなものを着ていて、遠くから見るとまるで女のようだった。垢《あか》でぴかぴかの帽子をかぶった頭はがくんとまえに垂れていた。頭だけでなく身体《からだ》ぜんたいがせむしみたいにまえにまがっていた。かさかさのしわだらけの顔は五十すぎに見えた。にごった小さな目は陰気で、けわしく、何か文句ありげだった。
「何だね?」とラスコーリニコフは庭番のほうへ近づいて、尋ねた。
町人は額ごしに横目を彼にあてて、じいっと注意深く、ゆっくり見まわした。それからゆっくり身体の向きを変えて、一言もものを言わずに、門から通りへ出て行った。
「どうしたというんだ?」とラスコーリニコフは叫んだ。
「ええ、あの男があなたの名前を言って、ここにこういう学生が住んでるか、誰のところに下宿してるか、って聞いたんですよ。そこへちょうどあなたが下りて来たので、わたしはおしえたんですよ、そしたらあの男は行ってしまった。ばかばかしい」
庭番もけげんな顔をしていたが、それほど気にもならないらしく、もう一度ちょっと小首をかしげると、くるりと向うをむいて、自分の小舎へもどって行った。
ラスコーリニコフは町人のあとを追ってかけだした、するとじきに通りの向う側に、べつに足を早めるでもなく、地面に目をおとして、何か考えごとでもしているように、のそりのそり歩いている男の姿を見つけた。彼はすぐに追いついたが、しばらくそのままうしろからついて行った。とうとう、彼とならんで、よこから顔をのぞいた。男はすぐに彼に気がついて、すばやい視線をかえしたが、またすぐに目を地面へおとした、そして二人はそのまま、肩をならべて、一言も口をきかずに、一分ほど歩いた。
「あなたはぼくのことを尋ねたそうですね……庭番に?」とラスコーリニコフはたまりかねて、言葉をかけた、が、どうしたわけかひどくひくい声だった。
町人は返事もしないし、見向きもしなかった。またしばらく沈黙がつづいた。
「あなたは何者です……訪ねてきて……黙りこくって……いったいどうしたというんです?」ラスコーリニコフの声はとぎれがちで、言葉がどういうものか口から出しぶった。
町人は今度は目をあげて、無気味な暗い目つきでラスコーリニコフをじろりと見た。
「人殺し!」と彼は不意に、ひくいがはっきりした声で言った……
ラスコーリニコフは男とならんで歩いていた。足の力が急にぬけて、背筋が冷たくなり、心臓が一瞬凍りついたようになった。それから急に、手《た》綱《づな》をふりちぎったように、はげしくうちだした。そのままならんで、また黙りこくったまま、百歩ほど歩いた。
町人は彼を振り向きもしなかった。
「あなたは何を言うんです……なんてことを……誰が人殺しです?」ラスコーリニコフはほとんど聞きとれぬほどに呟《つぶや》いた。
「おまえ《・・・》が人殺しだ」と男はいっそうはっきりと言葉をくぎりながら、暗示をあたえるように言った。その声には憎々しい勝利のうす笑いがにじんでいるようであった。そしてまたラスコーリニコフの蒼白《あおじろ》い顔と生気の失《う》せた目をじろりと見た。二人はそのとき十字路に来ていた。町人は通りを左へ折れて、振り向きもせずに去って行った。ラスコーリニコフはその場に立ちつくして、いつまでもそのうしろ姿を見送っていた。男は五十歩ほど行くと、くるりと振り向いて、まだその場に身動きもせずに立ちつくしているラスコーリニコフのほうを見た。はっきり見わけることはできなかったが、ラスコーリニコフは、男がまたあの冷たい憎《ぞう》悪《お》にみちた勝利のうす笑いをうかべて、にやりと笑ったような気がした。
力のぬけたおぼつかない足どりで、膝《ひざ》をがくがくふるわせながら、全身凍《こご》えきったようになって、ラスコーリニコフは家へもどると、穴ぐらのような自分の部屋へのぼった。彼は帽子をぬいで、テーブルの上におくと、そのままそこに十分ほどじっと立っていた。それからぐったりとソファの上にくずれ、苦しそうに、弱々しくうめいて、長くなった。目はとじられた。そのまま三十分ほど横になっていた。
彼は何も考えなかった。ただ、とりとめもない想念とその断片や、心のどこかにある古い記憶のようなものが、順序もつながりもなく流れすぎるだけだった。まだ子供のころ見た人人の顔とか、どこかで一度会ったきりで、思い出したこともなかった人々の顔、V教会の鐘楼、ある飲食店の撞球台《どうきゅうだい》、玉をついているある士官、どこかの地下の煙草《たばこ》屋《や》の中にむんむんとたちこめている葉巻のにおい、居酒屋、一面に汚水がこぼれて、卵のからがちらかっているまっ暗い階段、どこからともなく日曜の教会の鐘が聞えてくる……こうしたものが浮んでは消え、旋風《つむじかぜ》のようにぐるぐるまわった。中にはこころよいものさえあって、それにすがりつこうとするのだが、すぐに消えてしまう。さっきからずうっと身体の中のほうで、何かにおしつけられるような感じがあったが、苦になるほどでもなかった。ときには、かえっていい気持だった。軽い悪《お》寒《かん》が去らなかった、しかしこれもむしろこころよい感じだった。
彼はラズミーヒンのせかせかした足音と声を聞くと、目をつぶって、眠っている振りをした。ラズミーヒンはドアをあけて、そのままためらうようにしばらく戸口に立っていた。それからしずかに部屋の中へ入り、そっとソファへ近づいた。ナスターシヤの囁《ささや》く声が聞えた。
「起さないで。ねかしておきなさいな。そしたら少しは食べられるようになるよ」
「それもそうだな」とラズミーヒンは答えた。
二人はそっと部屋を出て、ドアをしめた。さらに三十分ほどすぎた。ラスコーリニコフは目をあけて、両手を頭の下にあてて、また仰《あお》向《む》けになった……
《あれは何者だ? 地中からひょっこり湧《わ》いたようなあの男は、いったい何者だろう? あの男はどこにいて、何を見たのだ? あいつはすっかり見ていたんだ、それはまちがいない。それにしてもあのときどこにかくれていたんだろう、そしてどこから見ていたんだろう? なぜいまごろになってひょっこりでてきたのだ? だが、どうして見ることができたのだろう、――そんなことができるだろうか?……フム……》ラスコーリニコフは寒気がして、がくがくふるえながら考えつづけた。《また、ミコライがドアのかげで見つけたというケースだが、これだってとても考えられぬことだ! 証拠? どんな小さなものでも見おとしたら、――証拠はたちまちピラミッドほどになってしまうのだ! 蠅《はえ》が一匹とんでいたっけ、あの蠅が見ていた! そんなばかなことがあるだろうか?》
すると彼は急に衰弱を感じて、身体中の力がぬけてしまったような気がして、自分がいまいましくなった。
《おれはそれを知るべきだったのだ》と彼は苦々しいうす笑いをもらしながら考えた。《どうしておれは、自分を知り、自分を予感《・・》していたくせに、斧《おの》で頭をたたきわるなんて大それたことができたのだ。おれはまえもって知るべきだった……何をいう! おれはまえもってそれを知っていたじゃないか!……》彼は自棄《やけ》になってうめくように呟いた。
ときどき彼はある考えのまえにじっと立ちどまった。
《いや、ああいう人間はできがちがうんだ。いっさいを許される支配者《・・・》というやつは、ツーロンを焼きはらったり、パリで大虐殺《だいぎゃくさつ》をしたり、エジプトに大軍を置き忘れ《・・・・》たり、モスクワ遠征で五十万の人々を浪費《・・》したり、ヴィルナでしゃれをとばしてごまかしたり、やることがちがうんだ。それで、死ねば、銅像をたてられる、――つまり、すべて《・・・》が許されているのだ。いやいや、ああいう人間の身体は、きっと、肉じゃなくて、ブロンズでできているのだ!》
思いがけぬふざけた考えがうかんで、彼は危なくふきだしそうになった。
《ナポレオン、ピラミッド、ワーテルロー――かたやベッドの下に赤いトランクをしまいこんだ小役人の後家、しなびたきたない金貸し婆《ばば》ぁ、――いかにポルフィーリイ・ペトローヴィチでも、このとりあわせは料理しきれまい!……どこにやつらに、これが料理できてたまるかい!……美学がじゃまをするよ、〈ナポレオンが婆ぁ《・・》のベッドの下にはいりこむだろうか!〉なんてさ。ええッ、くだらない!……》
ときどき彼は熱にうかされているような気がした。彼はぞくぞくするような陶酔へおちていった。
《婆ぁなんてナンセンスさ!》と彼は燃えるような頭で、突発的に考えた。《老婆か、あれはまちがいだったかもしれないが、あんな婆ぁなんか問題じゃない! 老婆はどうせ病気だったんだ……おれはすこしも早くふみこえたかった……おれは人間を殺したんじゃない、主義を殺したんだ! 主義だけは殺した、がしかし、かんじんのふみこえることはできないで、こちら側にのこった……おれができたのは、殺すことだけだ。しかも、結局は、それさえできなかったわけだ……主義はどうなるのだ? どうしてさっきラズミーヒンのばかは社会主義者をののしったのだろう? 勤労を愛し、商売のうまい連中で、〈全体の幸福〉のためにはたらいているじゃないか……いやいや、おれには生活は一度あたえられるが、それきりでもう二度と来ないのだ。おれは〈全体の幸福〉が実現されるまで待ちたくない。おれだって生活がしたい、それができないなら、生きないほうがましだ。なんだというのだ? おれはただ〈全体の幸福〉のくるのを待ちながら、一ルーブリぽっちの金をポケットの中ににぎりしめて、飢えた母親のそばを素通りしたくなかっただけだ。〈全体の幸福を築くために煉《れん》瓦《が》を一つはこぶ、それで心の安らぎを感じてる〉というのか。はッは! なんだってきみたちはおれをぬかしたんだ? おれだって一度しか生きられない、おれだってそれぁ……ええ、おれは気取ったしらみだよ、それだけのことさ》彼はとつぜん気がふれたように、けたけた笑って、こうつけ加えた。《そうだよ、おれはたしかにしらみだ》彼は自虐的な喜びを感じながらこの考えにしがみつき、それをいじくりまわし、もてあそび、なぐさみながら、ひとりごとをつづけた。《理由はかんたんだよ、第一に、現にいまおれは自分がしらみだということについてあれこれ考えているじゃないか。第二に、この計画は自分の欲望や煩悩《ぼんのう》のためではない、りっぱな美しい目的のためだなどと称して、ありがたい神を証人にひっぱりだし、まるまる一月《ひとつき》もいやな思いをさせたことだ、――はッは! 第三に、実行にあたっては、重さと量と数を考えて、できるかぎりの公平をまもろうときめて、すべてのしらみの中からもっとも無益なやつをえらびだし、そいつを殺して、多くも少なくもなく、おれが第一歩をふみだすためにかっきり必要なだけをとろうときめたことだ。(のこりは、つまり、遺言状どおりに、修道院行きってわけだ――はッは!)……だから、だからおれはどこまでもしらみなんだ》と彼は歯ぎしりしながら、つけ加えた。《だっておれはもしかしたら、殺されたしらみよりも、もっともっといやなけがらわしいやつかもしれんのだ、しかも殺してしまったあとで《・・・》それを自分に言うだろうとは、まえから予感《・・》していたんだ! まったくこんな恐ろしさに比べ得るものが、果してほかにあるだろうか! おお、俗悪だ! ああ、卑劣だ!……おお、馬上にまたがり、剣を振りかざして、アラーの神の命令だ、〈おののく〉者どもわれに従え、と叫ぶ〈予言者〉の心境が、おれにはよくわかる! 大通りにばかでかい大砲をならべて、罪があろうがなかろうが無差別に射《う》ち殺して、なんの釈明の必要があるとうそぶいた〈予言者〉が、正しかったのだ、それでいいのだ! われに服従せよ、おののく者ども、そして――何も望む《・・》な《・》、それは――おまえらの知ったことではない!……おお、ぜったいに、ぜったいに婆ぁをゆるすものか!》
彼の髪は汗にぬれ、ふるえる唇はかさかさにかわき、動かぬ視線がひたと天井《てんじょう》に向けられていた。
《母、妹、おれはどんなに愛していたか! それがいまどうして憎いのだろう? たしかに、おれはあの二人を嫌《けん》悪《お》している、肉体的に嫌悪している、そばにいられると堪えられない……さっきおれは母のそばへよって、接《せっ》吻《ぷん》した、おぼえている……母を抱きしめながら、あれを知られたらなんて考えると、おれは……いっそ言ってしまおうか? おれの気持ひとつだ……フム! あのひと《・・・・》はおれと同じような気性のはずだからな》彼はおそってきた幻覚とたたかってでもいるように、やっと考えをまとめながら、こうつけ加えた。《おお、おれはいまあの婆ぁが死ぬほど憎い! もしあいつが生きかえったら、きっともう一度殺してやるにちがいない! リザヴェータはかわいそうなことをした! なんだってあんなところへもどって来たのだ!……しかし、不思議だ、どうしておれは彼女のことをほとんど考えないのだろう、まるで殺さなかったみたいに?……リザヴェータ! ソーニャ! かわいそうな女たち、やさしい目をした、やさしい女たち……かれんな女たち!……あのひとたちはどうして泣かないのだろう? どうして苦しまないのだろう?……すべてをあたえて……やさしくしずかに見ている……ソーニャ、ソーニャ! 従順なソーニャ!……》
彼は意識を失った。彼は自分がどうして通りに立っているのか、ぜんぜんおぼえがないのが不思議な気がした。もう夕暮れもかなりおそかった。たそがれが濃くなり、満月がしだいに明るさをましていた。しかしどうしたわけか空気がいつになく息苦しかった。人々の群れが通りを歩いていた。職人たちやしごとをもっている人々は家路をいそいでいたし、そうでない人々はぶらぶらそぞろ歩きを楽しんでいた。石灰や、ほこりや、よどんだ水のにおいがした。ラスコーリニコフは思いあぐねたような暗い顔で歩いていた。彼は何かをするつもりで家を出たことは、ひじょうによくおぼえていた。その何かをしなければならない、急がなければならないとあせるのだが、それが何だったか――どうしても思い出せない。彼は不意に立ちどまった。通りの向う側の歩道に、一人の男が立って手招きしているのに気づいたのだ。彼は通りを横切って男のほうへ歩いて行った、すると男はくるりと向うをむいて、何ごともなかったように歩きだした。うなだれて、振り返りもしないし、呼んだような素振りも見せない。《ばからしい、あいつはほんとに呼んだのかな?》とラスコーリニコフは考えたが、それでもあとを追いはじめた。十歩も行かないうちに、彼はふとその男に気がついて――ぎょッとした。あのガウン、そしてあの猫《ねこ》背《ぜ》、それはさっきの町人だった。ラスコーリニコフは遠くはなれてついて行った。胸がどきどきした。横町へ折れた、――やはり振り向こうとしない。《おれがつけているのを、知ってるのだろうか?》とラスコーリニコフは考えた。町人はある大きな建物の門へ入った。ラスコーリニコフは急いで門のところまで行って、見た。男が振り返りはしないか、呼びはしないか? すると果して、門を通りぬけて、内庭へ出たところで、男は急に振り向いて、また彼を招くようなしぐさをした。ラスコーリニコフは一気に門を走りぬけたが、内庭にはもう町人の姿はなかった。とすると、男はすぐとっつきの階段をのぼったにちがいない。ラスコーリニコフは急いであとを追った。果して、二つ上の階段にまだ誰かの規則正しいゆっくりした足音が聞えていた。おかしい。階段は見おぼえがあるようだ! そら、あの一階の窓。ガラスごしに月の光がもの悲しく神秘的にさしこんでいる。もう二階だ。あッ! これはあの部屋だ、職人たちがペンキを塗っていた……彼はどうしてとっさに気がつかなかったのか? 前方を行く人の足音が消えた。《ははあ、立ちどまったか、あるいはどこかにかくれたな》そら、もう三階まで来た。先へ行こうか? それにしても上はなんというしずかさだ、恐ろしいほどだ……それでも、彼は歩きだした。彼は自分の足音におびえて、びくびくした。やれやれ、なんという暗さだ! 男は、きっと、そのへんの隅に息をひそめているにちがいない。あッ! 階段に向いたドアがあけっぱなしだ。彼はちょっと考えて、中へ入った。控室は真っ暗で、すっかり運びだされたみたいに、がらんとして、人《ひと》気《け》がない。彼はそっと、爪先《つまさき》立《だ》ちで客間へ入った。月の光が部屋中に冷たくさしこんでいた。すっかりもとのままだ。椅子《いす》、鏡、黄色いソファ、額の絵。大きな、まるい、銅のように赤い月がじっと窓をのぞきこんでいた。《こうしずかなのは月のせいだな》ふとラスコーリニコフは思った。《月は、きっと、いま謎《なぞ》をかけているんだ》彼はじっと立って、待っていた、長いこと待っていた、そして月がしずかになるほど、胸の動《どう》悸《き》がはげしくなり、痛いほどになった。あたりはしーんとしずまりかえるばかりだ。不意に一瞬、カサッと軸木をさいたような乾いた音がして、すぐにまた凍りついたようなしずけさにもどった。目をさました蠅が一匹いきなりとんで鏡にぶつかり、うらめしそうにジージー鳴きだした。ちょうどその瞬間、彼は隅のほうの小さなタンスと窓の間の壁のところに、かかっているらしく見える女ものの外套《がいとう》に気がついた。《どうしてあんなところに外套が?》と彼は思った。《まえにはなかったはずだが……》彼はそっと近づいてみると、外套のかげに誰かかくれているらしいのに、気がついた。彼はそろそろと手をのばし、外套をのけて、見た。するとそこに椅子があって、そのはしっこに老婆が一人ちょこんと坐《すわ》っていた。すっかり身体をまえにかがめ、頭を垂れているので、どうしても顔を見わけることができなかったが、それはたしかにあの老婆だった。彼はつっ立ったまま老婆を見下ろしていた。《こわがってるな!》と彼は考えて、そっと輪から斧をぬきとり、老婆の脳天へうち下ろした。一度、二度。ところが不思議なことに、老婆はまるで木の人形のように、なぐられても身動きもしなかった。彼はぞっとして、かがみこんで、老婆の顔をのぞこうとした。すると老婆もますます顔をうつむけた。彼はそこで床に頭をすりつけるようにして、下から老婆の顔をのぞいた。のぞいたとたんに、はっと息が凍った。老婆は坐ったまま、笑っていたのだ、――彼に聞えないように、やっと声をおさえながら、しずかに音もなく笑っていた。そのとき不意に、寝室のドアがわずかに開《あ》いて、そちらでも笑いながらこそこそ囁きあっている気配が、聞えたような気がした。彼は憤《ふん》怒《ぬ》のあまり気ちがいのようになって、力まかせに老婆の頭をなぐりはじめた、ところが斧を振り下ろすごとに、寝室の笑い声と囁きがますます高くなり、老婆もいよいよ身をもみしだいて笑うばかりだ。彼は逃げ出そうとした。控室はもう人でいっぱいだった。階段に向いたドアはみな開けはなされ、踊り場も、階段も、下のほうも――すっかり人の山、鈴なりの頭だ、それがみなこちらを見つめている、――みな息を殺して、ものを言わずに、じっと待っている!……彼は心臓がしめつけられ、足がうごかない、根が生えてしまった……彼は大声でわめこうとした、とたんに――目がさめた。
彼は苦しそうに息をついだ、――ところが不思議だ、夢がまだつづいているような気がした。部屋のドアがあいていて、戸口にまったく見知らぬ男が立って、じっと彼を見つめていたのである。
ラスコーリニコフはまだすっかりあけきっていない目をあわててまたつぶった。彼は仰向けにねたまま、身じろぎもしなかった。《これも夢のつづきではなかろうか》と思って、彼は気づかれないように、またかすかにうす目をあけてちらと見た。見知らぬ男はやはり同じ場所に立ったまま、じっと彼を見つめていた。不意に男はそっとしきいをまたぐと、音のしないようにドアをしめて、テーブルのそばまで来た、そしてそこでまた一分ほどじっと立っていた、――そのあいだ一度も彼から目をはなさなかった。それからしずかに、音もなく、ソファのそばの椅子に腰をおろした。帽子をわきの床へおき、両手でステッキにもたれて、そこへ顎《あご》をのせた。その様子では、男はいつまでも待つつもりらしかった。ひくひくふるえる睫毛《まつげ》ごしにうかがい得たかぎりでは、男はもうかなりの年齢《とし》で、がっしりした身体つきで、ほとんど真っ白といっていいほどの明るい色のあごひげをふさふさと生やしていた……
十分ほどすぎた。まだ明るかったが、もう日が暮れかけていた。部屋の中はひっそりとしずまりかえっていた。階段のほうからさえもの音ひとつ聞えてこなかった。大きな蠅が一匹、とびまわってはガラスにつきあたり、ジージー鳴きながらもがいているだけだった。とうとう、こうしているのが堪えきれなくなった。ラスコーリニコフはいきなり身を起して、ソファの上に坐った。
「さあ、言ってください、何用です?」
「あなたがねむっているんじゃなく、寝た振りをしているだけだということは、さっきからわかっていましたよ」と見知らぬ男はゆったりと笑って、妙な返事をした。「アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフです、よろしく」
第四部
1
《はて、これも夢のつづきだろうか?》ラスコーリニコフはまたふとそんな気がした。用心深く、怪しむような目で、彼はこの不意の客をじろじろ見まわした。
「スヴィドリガイロフ? 何をばかばかしい! そんなはずがあるものか!」と彼は、とうとう、信じられぬ様子で声にだして言った。
客はこのはげしい言葉にすこしもおどろいた様子はなかった。
「二つの理由があってあなたをお訪ねしました。一つは、個人的にあなたとお近づきになりたいと思いましてな。もうまえまえから実に興味ある、しかもあなたに有利なお噂《うわさ》をいろいろとうかがっておりましたので。も一つは、あなたの妹さんのアヴドーチヤ・ロマーノヴナの身に直接関係のある一つの計画をもっているのですが、そのことでわたしにお力添えくださることを、おそらくおことわりになることはあるまい、とこう空だのみしましてな。わたし一人だけで、お口ききがなかったら、妹さんはおそらくわたしを庭へも通してくださらんだろう。それもある誤解がもとなんですがね。だが、あなたのお力添えがあれば、その反対に……とこう読んだわけですよ……」
「わるい読みですね」とラスコーリニコフはさえぎった。
「うかがいますが、あの方たちは昨日お着きになったばかりですね?」
ラスコーリニコフは答えなかった。
「昨日でしょう、知ってますよ。わたしもまだ着いて三日目なんですよ。ところで、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしはあの件についてあなたに申しあげておきたいことがあるんですよ。弁解は余計なことだと思いますが、まあひとつ、わたしの言い分も聞いてくださいな。あの場合、あの問題を通してですね、正直にいって、いったいわたしにそれほどの罪があるのだろうか、つまり偏見をぬきにして、正当に判断してですな?」
ラスコーリニコフはやはり無言で相手の顔をじっと見つめていた。
「自分の家でかよわい娘を追いまわし、《いまわしい申し出によってその娘を辱《はずか》しめた》ということ、――それですかな(どうもこっちが先まわりしますな!)、でも、わたしだって人間ですよ、et nihil humanum《エット・ニヒル・フマヌム》……要するに、わたしだって心をうばわれることもあるし、愛することもできます(これはむろん、命令されてそうなるものじゃありませんがね)、そこをひとつ考えてもらいたいのですよ、そしたらすべてがごく自然に説明がつきます。そこで問題は、わたしが人非人か、それとも犠牲者か? ということにしぼられるわけです。それなら、どうして犠牲者なのか? だってわたしは、相手にアメリカかスイスへいっしょに逃げようとすすめたとき、おそらく、ほんとうに心底から尊敬の気持をもっていただろうし、さらに二人の幸福を築くことを考えていたにちがいないんですよ!……理性なんてものは情熱の奴《ど》隷《れい》ですからな。わたしのほうがかえって被害者かもしれませんよ、失礼ですがね!……」
「そんなことはどうでもいいことですよ」とラスコーリニコフははきすてるように言った。「ただ無性《むしょう》にあなたがいやなんです。あなたが正しかろうが、正しくなかろうが、とにかくあなたとは近づきになりたくないのです。顔も見たくありません、帰ってください!……」
スヴィドリガイロフはとつぜん大声で笑いだした。
「しかしあなたも……なかなかのしろものですな!」と彼は大口をあいて笑いながら、言葉をつづけた。「うまくごまかしてやろうと思ったのだが、どうしてどうして、あなたはするりとかわして本筋に立っておられる!」
「そんなことを言いながら、あなたはまだごまかそうとしている」
「それがどうしました? それがどうしました?」とスヴィドリガイロフは腹の底から笑いながら、くりかえした。「これがいわゆるbonne guerreというやつじゃありませんか、もっとも罪のないかけひきですよ!……でもやはり、あなたはわたしの出鼻をくじいてしまった。とにかく、もう一度はっきりと言いますが、庭先の一件さえなかったら、ちっともいやな思いをせずにすんだんですよ。マルファ・ペトローヴナが……」
「そのマルファ・ペトローヴナだって、あなたが殺したそうじゃありませんか?」とラスコーリニコフは乱暴にさえぎった。
「じゃあなたはそれもお聞きでしたか? もっとも、聞かないはずがないでしょうがね……さて、このご質問については、まったく、あなたになんと答えたものか、困りましたな。とは言っても、この件については、わたしの良心にはいささかもやましいところはありませんがね。だから、わたしがそのそういったことを危《あや》ぶんでいたなどとは、思わないでいただきたい。あれは当然起るべくして、まさしくそのとおりに起ったというだけのことでしてな。検死の結果、ぶどう酒をほぼ一びんたいらげ、腹いっぱい食べた直後に水浴したために起った脳溢血《のういっけつ》、と証明されましたよ。ほかの理由は発見したくも、ないものはどうにもなりませんからな……でも、わたしも一時は考えました、特にここへ来る途中の汽車の中で、じっと坐《すわ》りながら考えましたよ。わたしはこの……不幸を助長しなかったろうか、精神的な面で苛苛《いらいら》させるとか、あるいは何かそうしたことで、不幸を早めはしなかったろうか? しかし、そうしたこともぜったいなかったはずだ、という結論に達したんですよ」
ラスコーリニコフは笑いだした。
「好きですねえ、そんなことを気にするなんて!」
「あなたは何をお笑いです? いいですか、わたしが鞭《むち》でなぐったのはあとにも先にもたった二度です、痕《あと》ものこらなかったほどです……わたしを恥知らずなんて思わないでもらいたいですな。そりゃわたしだって、それがいまわしいことで、どうだこうだぐらいは、よく知ってますよ。だがそれと同時に、マルファ・ペトローヴナがそうしたわたしの、いわば狂憤をですな、おそらく喜んでいたらしいことも、ちゃんと知ってるんですよ。あなたの妹さんについての一件は、もうすっかり使い古されてしまって、マルファ・ペトローヴナはしかたなしに三日も家にこもっていましたよ。町へもってゆくざんそ《・・・》の種もないし、例の手紙の披《ひ》露《ろう》もさすがにあきたと見えましてな(手紙の朗読についてはお聞きになりましたでしょう?)。そこへとつぜん、この二つの鞭がまるで天の恵みみたいにおちたわけです! あれは早速、馬車の支度をいいつけました!……いまさらいうまでもありませんが、女には外《そと》見《み》はどんなに怒っているようでも、辱しめられたことが内心はうれしくてたまらないという、そんな場合があるものですよ。それは誰《だれ》にでもあります。人間はだいたい辱しめられることを、ひどく好きがる傾向さえありましてな、あなたはそれにお気づきになったことがありますか? ところが女にはそれが特に強いんですな。それだけを望んでいる、といってもいいほどです」
一時ラスコーリニコフは席をけって出て行き、この会見を打ち切りにしてしまおうかと思いかけた。が、ある好奇心と、加えて打算のようなものが、一瞬彼をひきとめた。
「あなたは喧《けん》嘩《か》が好きですか?」と彼は何気なく聞いた。
「いいえ、それほど」とスヴィドリガイロフは落ち着いて答えた。「マルファ・ペトローヴナとはほとんど喧嘩したことがないくらいですよ。わたしたちはほんとに睦《むつま》じく暮しておりましたし、あれはいつもわたしに満足していましたからな。わたしが鞭をつかいましたのは、わたしたちの七年間の生活で、たった二度です(もう一度ありますが、しかしそれは別な意味もありますので、かぞえないことにして)。一度は――結婚後二月《ふたつき》ほどのときでした。村に来てすぐの頃《ころ》です、それとこの間です。あなたは、わたしがひどい人非人で、反動派で、農奴制支持者だと、思っておられたでしょうな? ヘッヘ……ついでだが、おぼえていますかな、ロジオン・ロマーヌイチ、もう何年になりますか、まだ言論が自由だった頃、名前は忘れたが、ある貴族が汽車の中で、一人のドイツ女を鞭でなぐったというので、新聞やら雑誌やらでさんざんたたかれたことがありましたねえ、おぼえてますか? あの頃さらに、ちょうどあれと同じ年だったと思いますが、《雑誌「世紀」の醜悪な行為》が起りましたな(そら、《エジプトの夜》(プーシキン)の公開朗読ですよ。おぼえてるでしょう? 黒き瞳《ひとみ》! おお、いずこに去れるや、わが青春のかがやける日々よ!)。それはさて、わたしの意見はこうです。ドイツ女を鞭でなぐった旦《だん》那《な》には、あんまり同情しませんな、だってどう見てもそれは……同情に値しませんよ! とはいうものの、この際どうしても言っておきたいのは、どんな進歩的な人々でも、おそらく、完全に自制できるとはいいきれないような、そうした生意気な《ドイツ女》がままいるものだ、ということですよ。この観点からこの事件を見た者は、当時一人もいませんでした、しかしこの観点こそ、ほんとうの人間味のある立場ですよ、そうですとも!」
こう言うと、スヴィドリガイロフは不意にまた大声で笑った。この男が何かかたい決意をもった腹のすわった人間であることを、ラスコーリニコフははっきりと見てとった。
「あなたは、きっと、もう何日か誰とも話していませんね?」と彼は聞いた。
「まあそうです。それがどうかしましたか、どうやら、わたしがよくしゃべるんでおどろいたらしいですな?」
「いいえ、ぼくがおどろいたのは、あなたがあまりに人間ができすぎているからです」
「あなたの質問の無礼さに、腹を立てなかったからかな? そうでしょう? でも……いったい何を怒るんです? 聞かれたから、答えたまでですよ」と彼はびっくりするほど素《そ》朴《ぼく》な表情でつけ加えた。「わたしはもともと何ごとにもおよそ興味というものを持たない人間でしてな、嘘《うそ》じゃありません」と彼は何か考えこんだ様子でつづけた。「特にこの頃は、まったく何もしていません……もっともあなたに、嘘いえ、おれにとり入ろうとしてるじゃないか、と思われてもしかたがありませんがね。あなたの妹さんに用があるなんて、自分で言ったほどですからな。だが、正直のところ、退屈しきってるんですよ。わけても、この三日ほどはですな。だからあなたに会ったことさえ、嬉《うれ》しかったほどで……怒らないでください、ロジオン・ロマーヌイチ、でもあなただって、どういうわけかおそろしくへんな様子に見えますよ。なんとおっしゃろうと、あなたには何かがあります。それもいま、といってもいまこの瞬間というのじゃなく、まあこの頃という意味ですがね……おや、どうしました、やめます、そんないやな顔をしないでください! わたしはあなたが思ってるほどの、熊《くま》じゃありませんよ」
ラスコーリニコフは暗い目で相手を見た。
「それどころか、おそらく、ぜんぜん熊じゃないでしょう」と彼は言った。「ぼくにはむしろ、あなたは上流社会の出か、あるいは少なくとも折りがあればりっぱな人間にもなれるひとだと思われます」
「なにしろわたしは、誰の意見にもべつに興味をもちませんのでな」とスヴィドリガイロフはそっけなく、高慢と思える態度をさえちょっぴり見せて、答えた。「だからって、俗物になってわるいことはないでしょう。それにこの服装はわが国の気候には実に好都合ですし、それに……それに、まあ、生れつきこういうのが好きなんですよ」彼はまたにやりと笑って、こうつけ加えた。
「でも、あなたはここに知人が多いって、聞いてますよ。いわゆる《まあつて《・・》のある》ほうじゃありませんか。こんなとき、何か目的がないとしたら、いったいどうしてぼくのとこへなんか来たんです?」
「わたしに知人があると言われましたが、たしかにそのとおりです」とスヴィドリガイロフは肝心なところにはふれないで、急いで言った。「もう会いましたよ。なにしろ一昨日《おととい》からぶらぶらしてるんでね。わたしも気がついたし、先方だって気がついてるはずですよ。そりゃむろん、わたしも身なりは悪くないし、貧しいほうじゃありません。農奴制改革だってわたしたちをよけて通りましたもんな。森としょっちゅう氾濫《はんらん》する草地がやられたくらいで、収入はかわりませんよ。でも……そういうところへは行きませんよ。まえからもうあきあきしてましたからねえ。三日歩きまわって、誰にも言葉をかけませんよ……それにこの町をごらんなさいよ! まったく、わがロシアにどうしてこんなものができたんでしょうねえ! 役人と学生どもの町ですよ! まったく、八年ほどまえ、ぶらぶら遊びまわっていたころは、ずいぶんいろんなことを見おとしていたものですよ……いまはただひとつ解剖学だけがたよりです、ほんとです!」
「解剖学といいますと?」
「だが、いろんなクラブとか、デュッソーのレストランとか、あなた方のたまり場とか、あるいはまあ、その進歩とかいうものも、――なあに、こんなものはわたしらがいなくてもなくなりはしないでしょうがね」と彼はまた質問を無視して、つづけた。「それにいくらなんでも、カルタのペテン師にもねえ?」
「じゃあなたは、カルタのペテン師をやったことがあるんですか?」
「もちろん、ありますとも! 八年まえには、わたしたちの仲間がありましてねえ、最高にりっぱな仲間でしたよ、よく暇をつぶしたものです。いずれも態度の堂々たる連中ばかりでしてねえ、詩人もいれば、資本家もいましたよ。もっとも、だいたいわがロシアの社会では、もっとも態度のりっぱなのは、よくか《・》も《・》にされる連中なんですよ、――あなたはそれに気がつきましたか? わたしがこんななのはその後ずっと田舎にこもっていたからですよ。ところでその頃わたしも監獄にぶちこまれかけたことがあるんですよ、借金をためましてな。相手はネージンのギリシャ人でしたよ。そこへひょっこりマルファ・ペトローヴナが現われましてね、三万ルーブリにまけさせて、わたしを身請けしてくれたってわけですよ(借金は全部で、七万ルーブリもあったんですよ)。わたしたちは正式に結婚しました、そして妻はわたしを宝ものみたいにして、すぐに自分の村へ連れかえりました。妻はわたしより五つ年上だったんですよ。ひどくわたしを愛しましてな、七年間というものわたしは村から出ませんでした。いいですか、妻は死ぬまで三万ルーブリのわたしの借用書を、他人の名義にして、がっちりにぎっていたんですよ、だからわたしがちょっとでも反逆しようとすれば、――すぐにわなにおとしこむしくみです! また実際にしたでしょうよ。まったく女の胸には、さまざまな要素がごっちゃに住みついていますからなあ」
「じゃ、もし証書がなかったら、あなたは逃げましたか?」
「なんとも言えませんな。そんな証書はちっとも気になりませんでしたよ。わたしはべつにどこへ行きたいという気持もなかったし、外国へは、わたしが退屈してるのを見て、マルファ・ペトローヴナのほうから二度ほど誘ってくれましたよ! でもつまりませんよ!外国へはまえにも何度か行きましたが、いつも胸がむかむかしましてねえ。むかむかというと何ですが、その、夜明けとか、ナポリ湾とか、海とか、そういうものをながめていると、なんだか悲しくなってくるんですよ! 実際に何につけ悲しい気持になるということは、いちばんいやなことですよ! いやいや、なんといっても自分の国がいちばんですよ!自分の国にいれば少なくとも何かにつけ他人を悪者にして、自分はいい子になれますからなあ。それがいまなら北極探検にでも行きたいくらいですよ、何しろ j'ai le vin mauvais(酔うとみっともなくなるんでねえ)、だから飲むのはいやなんですが、酒をとったらあとに何ものこらんのですよ。もうやってみたんです。ところで、話によると、ベルグが日曜にユスポフ公園で大きな気球をとばすんで、いくらとか払えば誰でも乗せてくれるそうですが、ほんとですか?」
「じゃなんです、あなたは乗りたいんですか?」
「わたしが? いや……ただちょっと……」とほんとうに考えこんだ様子で、スヴィドリガイロフは呟《つぶや》いた。
《この男はなにを言っているのだ、まじめなのだろうか?》とラスコーリニコフは考えた。
「いや、証書はちっとも気になりませんでした」とスヴィドリガイロフは考えこんだ様子で言った。「村から出なかったのは、自分が出たくなかったからですよ。それにもう一年になりますが、マルファ・ペトローヴナはわたしの命名日にその証書をかえしてくれて、おまけにそれにかなりの金までそえてくれましてな。あれは金持でしたからねえ。《そらね、わたしこんなにあなたを信用してるんですよ、アルカージイ・イワーノヴィチ》――ほんとにこう言ったんですよ。あれがこう言ったなんて、あなたには信じられんでしょうな? ところが、わたしは村で相当の旦那になって、あたりに知られるようになったんですよ。本もとりよせました。マルファ・ペトローヴナははじめは喜んですすめてくれましたが、そのうちにわたしが勉強するのを恐《こわ》がるようになりましてねえ」
「あなたはマルファ・ペトローヴナをひどくなつかしがっているようですね?」
「わたしですか? あるいはね。大いにそうかもしれません。ついでですが、あなたは亡霊を信じますか?」
「亡霊といいますと?」
「あたりまえの亡霊ですよ、ごく普通の!」
「じゃ、あなたは信じるんですか?」
「え、まあね、でも信じないといってもいいんですよ、pour vous plaire(おいやでしたら)……といって、そうともいいきれないのですが……」
「じゃ、現われるんですか?」
スヴィドリガイロフは何か妙な目で彼を見た。
「マルファ・ペトローヴナが訪ねてくるんですよ」と彼は口をゆがめて異様なうす笑いをもらしながら、言った。
「訪ねてくるって、どういうことです?」
「ええ、もう三度きましたよ。最初に見たのは葬式の当日、そう埋葬がおわって一時間ほどしたときでした。二度目は一昨日、旅の途中で、マーラヤ・ヴィシェーラ駅で明け方。三度目は、二時間ほどまえ、わたしが泊っている宿の部屋でです。わたしが一人きりでいたとき」
「夢じゃないんですか?」
「いや。三度とも現《うつつ》です。来て、一分ほど話して、戸口から出て行く。そう、いつも戸口から出て行くんですよ。足音さえ聞えるほどです」
「なぜだかぼくはそんな気がしていたんですよ、あなたにはきっと何かそうしたことがあるにちがいないって!」と不意にラスコーリニコフは言った、そして同時に自分が言ったことに、びっくりした。彼はひどく興奮していた。
「へーえ? あなたはそう思いましたか?」とスヴィドリガイロフはびっくりして聞き返した。「ほんとですか? だからわたしがさっき言ったでしょう、わたしたちには何か共通したところがあるって、ねえ?」
「あなたはそんなこと一度も言いませんでしたよ」とラスコーリニコフはむっとして、つっかかるように答えた。
「言わなかった?」
「そうですよ!」
「言ったような気がしたが。さっき、わたしがこの部屋に入って、あなたが目をつぶって横になっているが、実は寝た振りをしているのを見たとき、――《これこそあの男だ!》ととっさに自分に言い聞かせたんですよ」
「なんですそれは、あの男とはなんのことです?」とラスコーリニコフは叫んだ。
「なんのこと? それがまったく、なんのことか自分でもわからないんですよ……」と率直に、自分でもまごついた様子で、スヴィドリガイロフは口ごもった。
一分ほど沈黙がつづいた。二人は目をいっぱいに見はってにらみ合っていた。
「何をばかばかしい!」とラスコーリニコフは腹立たしげに叫んだ。「それで、奥さんは現われて、何を言うんです?」
「妻ですか? それがあなた、くだらないことばかりなんですよ、そしてわれながらあきれたものですが、それがしゃくにさわりましてねえ。最初のときには(葬式のお勤め、冥《めい》福《ふく》を祈る祈《き》祷《とう》、さらにまた短いお祈り、それから会食とつづきまして、わたしはひどく疲れましてね、――やっと書斎に一人きりになれて、葉巻を吸いつけ、ぼんやり考えこんでいたときですよ)、すっと戸口から入ってきて、《ねえ、アルカージイ・イワーノヴィチ、あなた今日は忙しさにとりまぎれて、食堂の時計を巻くのをお忘れになりましたわね》と言うんですよ。この時計は、実際、七年間わたしが自分で週に一度ずつ巻いておりましてねえ、忘れたりすると、いつも妻に注意されたものでした。その翌日わたしはもうこちらへ発《た》ってきたわけですが、明け方駅の食堂へ入って、――何しろ一晩中まんじりともしないで、身体《からだ》はくたくたに疲れておりましたし、目がしぶくてはっきりしないものですからね、――コーヒーをたのみました。ふと見ると――どこからどう現われたのか、すぐよこにマルファ・ペトローヴナがトランプを手にして坐っておりましてね、《ねえ、アルカージイ・イワーノヴィチ、あなたの道中を占ってあげましょうか?》と言うんです。妻は占いが得意だったんですよ。まったく、どうして占わせなかったろうと、残念でなりません! ぎょっとして、逃げ出したんですよ、もっとも、ちょうど発車のベルもなりましたが。また今日は店《てん》屋《や》ものの昼食がひどいやつで、胃が重苦しくてしようがないから、ぼんやり坐って、煙草《たばこ》をふかしていると、不意にまたマルファ・ペトローヴナが入ってきたんですよ。すっかりおめかしをして、長いしっぽのついた新しいみどり色の絹の衣装を着て、《こんにちは、アルカージイ・イワーノヴィチ! この服どうお、あなたの好みにあいまして?アニーシカじゃとてもこんなふうには縫えなくてよ》(アニーシカというのはね、わたしたちの村のお針《はり》ッ娘《こ》で、農奴の出ですが、モスクワで勉強したとってもいい娘なんですよ)。そう言いながら、わたしのまえでまわって見せるんですよ。わたしは衣装を見まわしてから、じっと注意深く妻の顔を見ました。《ねえ、マルファ・ペトローヴナ、おまえももの好きだねえ、こんなつまらんことでわたしのところへ来て、わたしをわずらわせるなんて》と言ってやりました。すると、《あら、そんな、じゃ、もうちょっとでもお邪魔しちゃいけませんの!》そこでわたしはからかってやりました。《わたしはね、マルファ・ペトローヴナ、結婚しようと思うんだよ》するとあれは《それはあなたの気持しだいでしょうけどね、アルカージイ・イワーノヴィチ、でも妻の葬式もろくにすませないうちに、もう新しい妻をもらいに出かけるなんて、あんまり聞えがよくありませんよ。それに申し分のないひとを選んだのならともかく、そうでなかったら、わたしは知ってますけど、あの娘も、あなたも、世間のもの笑いになるだけですよ》そう言うと、プイと出て行ってしまいました。しっぽのさらさらという音が聞えるようでしたよ。まったく、ばかな話じゃありませんか、ねえ?」
「まあ、おそらく、それもあなたの作り話でしょうね!」とラスコーリニコフは応じた。
「わたしはめったに嘘は言いません」とスヴィドリガイロフは相手の言葉の無礼さにはぜんぜん気づかない様子で、考えこみながら言った。
「じゃまえには、それまでは、一度も亡霊を見たことがありませんでしたか?」
「い……いや、見ました、たった一度だけ、六年まえです。うちにフィリカという下男がいました。それが死んで、野辺送りをすませた直後、わたしがうっかりして、《フィリカ、パイプをもってこい》とどなったんですよ。すると入って来て、パイプのおいてある飾《かざ》り棚《だな》のほうへまっすぐ歩いて行くじゃありませんか。わたしは坐ったまま、考えました。《これはやつが仕返しに来たんだな》というのは、死ぬちょっとまえに、わたしはやつと猛烈な口喧嘩をしたんですよ。そこでわたしはどなりつけました。《よくもそんな肘《ひじ》のぬけたぼろを着ておれの部屋へ来《こ》れたな、――出てけ、役立たず!》すると、くるりと向き直って、すたすたと出て行き、それっきり現われませんでした。マルファ・ペトローヴナには黙っていましたがね、やつの供《く》養《よう》をしてやろうと思いましたが、てれくさくなってやめましたよ」
「医者にみてもらうんですね」
「それは、言われるまでもなく知ってますよ、正常じゃないくらいはね。でも、正直のところ、どこが悪いのかわからないのですよ。でも、まあ、あなたよりは五倍も健康だと思いますね。わたしがあなたに聞いたのは、亡霊が現われるのを信じるかどうか、ということじゃありませんよ。亡霊が存在することを信じるか、ということです」
「いや、ぜったいに信じませんね!」とラスコーリニコフは敵意をさえ見せて叫んだ。
「でも、世間ではどうですかな?」とスヴィドリガイロフはややうなだれて、よこのほうを見ながら、ひとりごとのように呟いた。「世間の人は言います、《おまえは病気だ、だからおまえの目に見えるものは、実在しないまぼろしにすぎないのさ》これじゃ厳密な論理がないじゃありませんか。亡霊が病人にだけ現われるということは、わたしも認めます。しかしこれは、亡霊が現われ得るのは病人にだけだ、ということを証明するだけで、亡霊そのものが存在しないということの証明にはなりません」
「もちろん、存在しませんよ!」とラスコーリニコフはじりじりしながら言いはった。
「存在しない? あなたはそう思いますか?」スヴィドリガイロフはゆっくり彼に目を上げて、つづけた。
「じゃ、こういう考えに立ったらどうでしょう(まあひとつ、知恵を貸してくださいな)。《亡霊は――いわば他の世界の小さな断片、他の世界の要素である。健康な人には、むろん、それが見える理由がない。なぜなら健康な人は完全な地上の人間である。従って、充実のために、さらに秩序のために、この地上の生活だけをしなければならない。ところが、ちょっとでも病気になると、つまりオルガニズムの中でノーマルな地上の秩序がちょっとでも破壊されると、ただちに他の世界の可能性があらわれはじめる、そして病気が重くなるにつれて、他の世界との接触が大きくなり、このようにして、人間が完全に死ぬと、そのまますぐに他の世界へ移る》わたしはこのことをもうまえまえから考えていましてな。もし来世の生活を信じていれば、この考察も信じられるわけです」
「ぼくは来世の生活なんて信じませんね」とラスコーリニコフは言った。
スヴィドリガイロフは坐ったままじっと考えこんでいた。
「来世には蜘蛛《くも》かそんなものしかいないとしたら、どうだろう」と彼はとつぜん言った。
《この男は気ちがいだ》とラスコーリニコフは思った。
「われわれはつねに永遠というものを、理解できない観念、何か途方もなく大きなもの、として考えています。それならなぜどうしても大きなものでなければならないのか? そこでいきなり、そうしたものの代りに、ちっぽけな一つの部屋を考えてみたらどうでしょう。田舎の風呂場《ふろば》みたいなすすだらけの小さな部屋で、どこを見ても蜘蛛ばかり、これが永遠だとしたら。わたしはね、ときどきそんなようなものが目先にちらつくんですよ」
「それじゃほんとに、ほんとにあなたの頭には、それよりは救いになる、もうすこし正当なものは、ぜんぜん浮ばないのですか?」とラスコーリニコフは痛ましい思いで叫んだ。
「もっと正当な? だが、どうしてわかります、これこそ正当なものかもしれませんよ。それに、わたしはなんとしても強引にそうしたいのですよ!」とスヴィドリガイロフはあいまいに笑いながら、答えた。
この乱暴な答えを聞くと、ラスコーリニコフは不意にぞうッとした。スヴィドリガイロフは顔を上げて、じっと彼を見ると、いきなりけたたましく笑った。
「いやはや、どうでしょう」と彼は大声で言った。「三十分ほどまえにはまだ会ったこともなく、敵《かたき》同士と思っていたし、それにわたしたちの間にはまだ解決のつかない問題があるんですよ。それなのにその肝心の問題をそっちのけにして、ばかみたいな文学談義にふけるとはねえ! だから、言ったでしょう。わたしたちは同じ畑の苺《いちご》だって、どうです?」
「恐れいりますが」とラスコーリニコフは苛々しながら言った。「早く用件をおっしゃっていただけませんか、どうしてぼくごとき者をお訪ねくださったのか、それを聞かせてくださいませんか……それに……それに……ぼくは急いでいるんです、時間がありません、出かけなきゃなりませんので……」
「ごもっともです、ごもっともです。あなたの妹さんの、アヴドーチヤ・ロマーノヴナは、ルージン氏と、ピョートル・ペトローヴィチですね、結婚なさるのですか?」
「なんとか妹についてのいっさいの問題をさけて、あれの名前を出さないようには願えないものでしょうか。あなたが実際にスヴィドリガイロフなら、どうしてぼくのまえで妹の名前を口にしたりできるのか、ぼくは理解に苦しむほどです」
「だってわたしはあの方のことでお話があってここへ伺ったのですよ、名前を出さないわけにはいかないじゃありませんか!」
「いいでしょう。どうぞ、ただしなるたけ簡単に願います」
「わたしの妻方の親戚《しんせき》にあたるあのルージン氏については、あなたはもうきっとご自分の意見を組み立てられたことと思います。もし三十分でもお会いになるか、あるいはどんな噂にせよ、まちがいのない確かな話をお聞きになるかされたらですね。あれはアヴドーチヤ・ロマーノヴナにふさわしい男じゃありません。わたしの考えでは、この問題ではアヴドーチヤ・ロマーノヴナはまったく寛大な気持で、打算をぬきにして、その家族のために、自分を犠牲にしていられると思います。あなたについて聞いたかぎりから、わたしの勝手な推測ですが、あなたとしては、この縁談が利害をそこなわれずに破談になれば、これにこしたことはないと思っておられるはずです。いま、親しくあなたを知って、わたしはむしろそれを確信しました」
「あなたとしては、それはあまりに素朴すぎますね。失礼ですが、図々《ずうずう》しすぎる、と言おうとしたんですよ」とラスコーリニコフは言った。
「つまりあなたは、わたしが自分の利益のために奔走していると言いたいのですね。その心配はご無用です、ロジオン・ロマーヌイチ、もしわたしが自分の利益のために奔走しているのなら、こうずばりと言いだしはしませんよ。わたしだってそれほどばかじゃありませんからな。このことについてひとつ心理上の不思議な変化を打ち明けましょう。さっきわたしは、アヴドーチヤ・ロマーノヴナに対する自分の愛を弁解して、自分のほうが犠牲者だと言いましたね。ところがはっきり言いますが、わたしはいまぜんぜん愛というものを感じていないのですよ、ぜんぜん、自分でも不思議なほどです、だって実際に何かを感じたことがあったんですからねえ……」
「無為と淫蕩《いんとう》のためにね」とラスコーリニコフはさえぎった。
「たしかに、わたしは無為で淫蕩な男です。しかし、そんなわたしでもまあ心をうごかさざるを得なかったのは、妹さんがあまりにもすぐれたところをお持ちだからですよ。でもそんなことはみなくだらんことです。いまは自分でもそれがわかります」
「まえからおわかりでしたか?」
「すこしまえから気づきはじめていましたが、はっきりと確かめたのは一昨日、ペテルブルグに着くと同時といっていいでしょう。しかし、モスクワにいた頃はまだ、ルージン氏とはりあって、なんとしてもアヴドーチヤ・ロマーノヴナの愛をかちとろうと思っていたんですよ」
「途中で口出ししてすみませんが、お願いですから、なんとか話をはしょって、すぐに来訪の目的に移ってもらうわけにはいきませんか。ぼく急いでおりますので、出かける用事があって……」
「結構ですとも。こちらへまいりまして、今度ある……航海に出ようと思いたちましたので、そのまえにいろいろしておかなければならないことを処理したいと思ったわけです。子供たちは伯母のもとにあずけました。子供たちにはそれぞれ財産がありますし、わたしなんかいないほうがいいくらいのものです。ろくな父親でもありませんしな! わたしが持ってきたのは、一年まえマルファ・ペトローヴナにもらったものだけです。わたしにはそれで十分ですよ。すみません、すぐ用件に移りますから。旅に出るまえに、これは多分実現するだろうと思いますが、わたしはルージン氏とも話をつけたいのです。あの男がどうにもがまんができないというのじゃありませんが、しかしあの男のことで、わたしとマルファ・ペトローヴナのあの争いがもち上がったんですよ。妻がこの縁談の口ききをしていることがわかったものでね。わたしはいまあなたのお世話で、できたらあなたにもいてもらって、アヴドーチヤ・ロマーノヴナに会って、何よりもまず、ルージン氏からはこれっぽっちの利益も期待できないばかりか、かえって損失をこうむることは確実だということを、直接ご説明したいのです。それから、先日の不快なごたごたの失礼をわびたうえで、妹さんに一万ルーブリを差し上げる許しをこい、それによってルージン氏との破談による損害を軽くしてあげられたらと願っているわけです。この破談には、その可能な条件さえあらわれたら、妹さんだって決して反対ではないはずです」
「あなたはまさしく、まさしく気ちがいです!」とラスコーリニコフは怒るというよりは、いっそあきれて、思わず叫んだ。「よくもそんなことが言えたものだ!」
「あなたにそうどなられることは、ちゃんと承知していました。でも、第一に、わたしは金持じゃありませんが、この一万ルーブリは遊んでいる金です。つまりわたしにはまったく、まったく不要のものです。アヴドーチヤ・ロマーノヴナが受け取ってくれなかったら、わたしは、おそらく、もっともっとばかなつかい方をするでしょう。これがひとつです。第二に、わたしの良心にはこれっぽっちもやましいところはありません。わたしはいっさいの打算をぬきにして提供するのです。信じなさろうがなさるまいが、いずれはあなたにも、アヴドーチヤ・ロマーノヴナにもわかっていただけるでしょう。要するに、わたしは尊敬するあなたの妹さんに実際にかなりのご迷惑をおかけしたし、いやな思いをさせたためなのです。つまり、心底から後悔していますので、心をこめて望んでいるわけです、――何も罪のつぐないとか、不快の代償とかじゃなく、ただ妹さんのために何か利益になることをしてあげたいだけです。底を言えば、悪いことをするばかりが能じゃないことを、事実によって証明したいだけですよ。もしわたしの申し出にたとえ百万分の一でも打算があったら、わたしは一万ルーブリ程度を申し出はしませんよ。つい五週間まえにはもっと多額の金を提供すると申しあげたんですからねえ。そのうえ、わたしは、たぶん、もうじきある娘さんと結婚することになるはずですよ。ですからこの一事によってもアヴドーチヤ・ロマーノヴナにある野心があるなんて疑いは消えてしまうはずです。結論として申しあげますが、ルージン氏と結婚することによって、アヴドーチヤ・ロマーノヴナはこれと同額の金をお受けになるわけです。ただし筋のちがう金ですがね――まあ、怒っちゃいけませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ、落ち着いて冷静に判断してください」
そういうスヴィドリガイロフ自身がきわめて冷静で落ち着きはらっていた。
「おやめください」とラスコーリニコフは言った。「とにかく、これは許しがたい不《ふ》遜《そん》な言葉です」
「とんでもない。そんなことをおっしゃったら世の中で人間が人間に対して行い得るのは悪だけだということになります。それどころか、つまらない世間の体裁のために、これっぽっちの善を行う権利ももてないことになりますよ。ばかげたことです。じゃ例えばですね、わたしが死んで、遺言によって妹さんにそれだけの金をのこしたとしたら、それでも妹さんは受け取ることを拒むでしょうか?」
「大いに考えられますね」
「まあそんなことはありますまい。しかし、いやならいやで、別にかまいませんがね。だが、一万ぽっちでも――いざという場合には、ありがたいものですよ。まあとにかく、いま言ったことをアヴドーチヤ・ロマーノヴナにお伝えください」
「おことわりします」
「とおっしゃられると、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしがやむを得ずなんとか会う機会をもとめる、したがって、おさわがせするということになりますね」
「じゃぼくが伝えれば、あなたは直接会う機会をもとめないわけですね?」
「それは、正直のところ、なんとも言えませんね。一度だけどうしてもお目にかかりたいと思うんですが」
「期待しないほうがいいでしょう」
「残念です。しかし、あなたはわたしという人間を知らないようですな。いまに、おそらく、もっとうちとけるようになるでしょうよ」
「ほう、もっとうちとけるようになる、とお思いですか?」
「思っちゃいけませんか?」スヴィドリガイロフはにやりと笑って、こう言うと、立ち上がって、帽子を手にもった。「わたしはあなたをわずらわすことをそれほど望んでいたというわけでもありませんし、ここへ来るときだって、それほど当てにしていたわけじゃありませんよ、もっとも、今朝ほどお見かけしたときは、あなたの顔にぎくっとしましたがね……」
「今朝ほどといいますと、いったいどこでぼくを見かけたんです?」とラスコーリニコフは不安そうに聞いた。
「偶然ですよ……それからは、あなたにはわたしに似た何かがある、どうもそんな気がしましてねえ……まあご心配なく、わたしは退屈な男じゃありませんよ。インチキカルタの仲間たちとも結構仲よくやりましたし、遠い親戚で高官のスヴィルベイ公爵《こうしゃく》にもあきられなかったし、プリルコーワヤ夫人のアルバムにラファエルのマドンナを讃《たた》える詩を書きこむ小才もありましたし、マルファ・ペトローヴナみたいな女とも七年間こもりきりの生活をしてきましたし、昔センナヤ広場のヴャゼムスキー公爵の邸宅に泊ったこともありますし、おまけに、もしかしたら、ベルグといっしょに気球にも乗りかねない男ですよ」
「まあ、わかりました。ところでうかがいますが、旅行には間もなくお発ちですか?」
「旅行といいますと?」
「ほら、その《航海》とやらですよ……自分でおっしゃったじゃありませんか」
「航海? ああ、そうですか!……たしかに、航海のことを話しましたね……でも、あれは広い意味があるんですよ……お知らせしましょうかな、あなたのお聞きになっていることの意味を?」と彼は言いたして、とつぜん大きな声で短く笑った。「わたしは、ひょっとしたら、航海の代りに結婚するかもしれませんよ。花嫁を世話してくれるひとがいるんですよ」
「ここでですか?」
「そうです」
「そんなひまがありましたか?」
「それはともかく、アヴドーチヤ・ロマーノヴナとなんとしても一度お会いしたいですな。まじめなお願いですよ。じゃ、また……あッ、そうそう! だいじなことを忘れてましたよ! ロジオン・ロマーヌイチ、マルファ・ペトローヴナの遺言書に三千ルーブリおくるように書いてあったと、妹さんに伝えてください。これはぜったいに本当ですよ。マルファ・ペトローヴナは死ぬ一週間まえに、わたしの見ているまえで、それを作成したんですから。二、三週間したらアヴドーチヤ・ロマーノヴナはその金を受け取ることになるはずです」
「それは本当ですか?」
「本当ですよ。伝えてください。じゃ、よろしく。宿はここのすぐ近くです」
出しなに、スヴィドリガイロフは戸口でラズミーヒンと出会った。
2
もう八時になろうとしていた。二人はルージンの先をこそうと、バカレーエフのアパートへ急いだ。
「おい、あれはいったい誰《だれ》だね?」と通りへ出るとすぐ、ラズミーヒンは聞いた。
「スヴィドリガイロフだよ。家庭教師として住みこんでいた妹に、恥をかかせた例の地主だよ。あいつがしつこくくどいたために、妹はあいつの女房のマルファ・ペトローヴナに追い出されて、あいつの家を出たんだよ。そのマルファ・ペトローヴナがあとでドゥーニャにあやまったんだが、このあいだぽっくり亡《な》くなったのさ。いまその話をしてたんだよ。どういうわけか知らんが、おれはあの男がひどく恐《こわ》いんだ。やつは女房の葬式をすますとすぐに出てきた。ひどく変った男で何ごとか決意しているらしい……何か知っているふうだ……やつからドゥーニャを守ってやらにゃ……これをぼくはきみに言いたかったんだよ、わかるかい?」
「守ってやる? じゃ何だ、そいつはアヴドーチヤ・ロマーノヴナに危険を加えるかもしれんのか? よし、ありがとう、ロージャ、ぼくによくそれを言ってくれた……いいとも、守ってやろうよ!……そいつはどこに住んでるんだ?」
「知らんな」
「どうして聞かなかったんだ? くそ、惜しいことをしたな! まあいいさ、さぐり出すよ!」
「きみはやつを見たかい?」としばらくしてラスコーリニコフが聞いた。
「うん、見たよ。しっかり目に入れたよ」
「正確に見たのか? はっきり見たのか?」とラスコーリニコフはしつこく聞いた。
「うん、はっきりおぼえてるよ。千人の中からだって見わけられるよ。ぼくは顔のおぼえがいいんだ」
またしばらく沈黙がつづいた。
「フム……それなんだ……」とラスコーリニコフは呟《つぶや》いた。「でもねえ……ぼくはふとそんな気がしたんだ……しょっちゅうそんな気がするんだが……これはひょっとしたら幻覚かもしれないな」
「おい、何のことだ? きみの言うことがどうもよくわからんよ」
「そら、きみらはいつも言うじゃないか」とラスコーリニコフは口をゆがめてうす笑いをもらしながら、つづけた。「ぼくを気ちがいだって。もしかしたら、ぼくはほんとに気ちがいで、まぼろしを見ただけかもしれん、いまふっとそんな気がしたんだよ!」
「おい、きみは何を言ってんだ?」
「だって、誰がわかる! ぼくはほんとに気ちがいかもしれんよ。そしてこの数日のあいだにあったことは、みんな、ただそんなふうに思われただけかもしれない……」
「おい、ロージャ! また神経をみだされたな!……いったいあの男は何を言ったんだ、何しにきたんだ?」
ラスコーリニコフは答えなかった。ラズミーヒンは一分ほど考えていた。
「まあ、ぼくの報告を聞いてくれ」と彼は語りだした。「ぼくはきみの部屋へ寄ったが、きみは眠っていた。それで食事をして、ポルフィーリイのところへ出かけた。ザミョートフがまだいた。ぼくは早速あの話をきりだそうと思ったが、さっぱり埒《らち》があかん。どうも思うように言えないんだ。やつらは何のことやらまるでわからんという顔つきをしていたが、べつにあわてる様子もなくけろりとしている。そこでぼくはポルフィーリイを窓のそばへ連れてって、話しだしたが、どういうのかまた尻《しり》きれとんぼになってしまうんだ。やつはそっぽを向いてるし、こっちもそっぽを向いてるというぐあいだ。とうとう業《ごう》を煮やして、拳骨《げんこつ》をやつの鼻先へつきだし、親類として、頭をたたきわるぞと言ってやった。やつはじろりとおれを見ただけで、ものも言わん。おれはペッと唾《つば》をはいて、とびだしたよ。それでおしまいさ。ばかばかしいったらないよ。ザミョートフのやつとは口もきかなかった。ただね、ぼくはぶちこわしをやってしまったと、くさったが、階段を下りしなに、一つの考えがうかんだんだよ、まさにひらめきってやつさ。なんだってぼくらは気をもんでいるんだ? きみに危険なことが何かあるというのなら、そりゃむろん、じっとしてはおれんさ。ところが何もないじゃないか! きみはあの事件になんのかかわりもないんだから、あんなやつら屁《へ》でもない。あとで嘲《あざ》笑《わら》ってやるさ。おれだったらこれ幸いとやつらを振りまわしてやるよ。あとでいい恥かくぜ!ざまあみろ。あとではぶんなぐってもいいが、いまは笑っていようよ!」
「むろん、そうさ!」とラスコーリニコフは答えた。
《だが明日になったら、きみはなんと言うだろう?》と彼は腹の中で考えた。不思議なことに、《わかったら、ラズミーヒンはどう思うだろう?》という考えが、いままで一度も彼の頭にうかばなかった。そう思うと、ラスコーリニコフはじっと相手の顔を見つめた。ポルフィーリイを訪ねたといういまのラズミーヒンの報告には、彼はほんのちょっとしか関心をもたなかった。あのとき以来ひくと見ればよせ、事情の変化があまりにもめまぐるしかったためだ!……
廊下で二人はルージンに出会った。彼はちょうど八時に来て、部屋をさがしていたのである。三人いっしょに入ったが、どちらからも見向きもしなければ、会釈《えしゃく》もしなかった。若い二人はかまわず先へ通ったが、ピョートル・ペトローヴィチは礼儀として、間をおいて、わざわざゆっくり控室で外套《がいとう》をぬいだ。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはすぐにしきいのところに出て彼を迎えた。ドゥーニャは兄と挨拶《あいさつ》をしていた。
ピョートル・ペトローヴィチは部屋へ通ると、ひどくもったいぶった様子だが、かなり愛想よく婦人たちと挨拶を交わした。しかし、いくらかどぎまぎして、まだ気持がしずまらない様子だった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナもうろたえ気味で、あわてて一同をサモワールがたぎっている円テーブルのまわりにかけさせた。ドゥーニャとルージンはテーブルの両端に向いあいに席をしめた。ラズミーヒンとラスコーリニコフはプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナと向きあうことになったが、――ラズミーヒンはルージンに近く、ラスコーリニコフは妹のそばに坐《すわ》った。
短い沈黙が訪れた。ピョートル・ペトローヴィチはゆっくり香水の匂《にお》う麻のハンカチをとりだして、はなをかんだ。その態度はおだやかではあるが、しかしいささか人格を傷つけられ、その釈明を求めることをかたく決意している様子がうかがわれた。彼はもう控室にいるときに、このまま外套をぬがずに立ち去り、それによって二人の婦人をきびしく、十分に胸にこたえるようにこらしめて、ひと思いにすべてを思い知らせてやろうかとも思ってみた。しかしさすがにそれはできなかった。しかもこの男はものごとをわからぬままにしておくことが嫌《きら》いで、この際、はっきりさせなければならなかった。これほど露骨に彼の指《さし》図《ず》が破られるとすれば、何かあるにちがいない、とすれば、まずそれを知るのが得策だ。こらしめるのはいつでもできるし、しかも彼の意のままなのである。
「道中はべつにお変りもなかったことと思いますが?」と彼は型どおりにプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナに尋ねた。
「おかげさまで、ピョートル・ペトローヴィチ」
「それは何よりでした。アヴドーチヤ・ロマーノヴナもお疲れになりませんでしたか?」
「わたしは若いし、丈夫ですから、疲れませんけど、母はかなりこたえたようでした」とドゥーネチカは答えた。
「こまりますよ、わが国の道路はなにしろ長いですからなあ。いわゆる《母なるロシア》は広大ですよ……わたしはなんとか時間をくりあわせてと思ったのですが、昨日はどうしてもお出迎えすることができませんで失礼しました。しかし、べつにこれといった面倒もなくすんだことと思いますが?」
「まあ、とんでもない、ピョートル・ペトローヴィチ、わたしたちすっかりおろおろしてしまったんですよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはいかにも意味ありげな口調で、急いで言った。「そしてもし神さまがこのドミートリイ・プロコーフィチを、昨日わたしたちにおつかわしくださらなかったら、それこそわたしたちはどうなっていたことやら。こちらがそのドミートリイ・プロコーフィチ・ラズミーヒンですわ」と彼女は言いそえて、彼をルージンに紹介した。
「ああ、もうお目にかかりました……昨日」とルージンは気色わるそうに横目でじろりとラズミーヒンを見て、呟いた。そして顔をしかめて、黙りこんだ。だいたいピョートル・ペトローヴィチは、見たところ人まえではひどく愛想がよく、また愛想のいいのをことさらに売りものにしているくせに、ちょっとおもしろくないことがあると、たちまち策を失ってしまって、座をにぎやかにする気さくな紳士というよりは、まるで粉袋みたいな存在になりかわってしまう、そういう種類の人間に属していた。みんなはまた黙ってしまった。ラスコーリニコフはかたくなに黙りこくっていた。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはいよいよというときまで沈黙を破りたくなかった。ラズミーヒンは何も話すことがなかった。そこでプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナがまたしてもおろおろしだした。
「マルファ・ペトローヴナが亡くなりましたのよ、お聞きになりまして」と彼女はとっておきの話の種をもちだした。
「もちろん、聞きました。真っ先に知らされましたよ、それどころか今日こちらへ伺ったのもひとつは、アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフが、妻の埋葬をすませるとすぐに急いでペテルブルグに向ったことを、あなた方にお知らせしたかったからですよ。これはわたしが受けた確実な情報ですから、まずまちがいはありますまい」
「ペテルブルグへ? ここへ?」とドゥーネチカは不安そうに聞きかえし、母と顔を見あわせた。
「そのとおりです、そして出発を急いだことと、だいたいのいままでの事情を思いあわせますと、何か目的があることはたしかです」
「ああ! ほんとにあの男はここでまで、ドゥーネチカを困らせるつもりかしら?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
「わたしは、あなたも、アヴドーチヤ・ロマーノヴナも、何も特別に心配なさることはないと思いますね。もっともあなた方のほうから、あの男とすこしでも関係を持とうとなされば別ですが。わたしとしても、気をつけていまあの男の止宿先をさがしておるわけです……」
「ああ、ピョートル・ペトローヴィチ、まさかとお笑いでしょうが、いまあなたはわたしを死ぬほどおびえさせたんですよ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはつづけた。「わたしがあの男を見ましたのは二度きりですが、おそろしい、おそろしい男だと思いました! マルファ・ペトローヴナが亡くなったのも、きっとあの男のせいですよ、そうですとも!」
「そうとばかりも言いきれません。わたしは正確な情報をもっています。あの男がいわば侮辱という精神的影響をあたえることによって、事態の進行を早めたかもしれないということについては、別に異をたてません。が、あの男の行状と大ざっぱな精神的特徴に関しましては、たしかにあなたのおっしゃるとおりだと思います。いま彼が裕福かどうか、マルファ・ペトローヴナが何をどれだけ彼にのこしたかということは、わかりませんが、これについてはもうじきわたしに通知があるはずです。しかしもうこのペテルブルグに来ていることですし、たとえわずかでも金はもっているでしょうから、すぐに昔と同じことをやりはじめることはたしかです。彼は放蕩《ほうとう》のかぎりを尽し、悪事に身をもちくずした連中の中でももっともたちの悪い男です。わたしは十分な根拠があって申しあげるのですが、マルファ・ペトローヴナは不幸にもあの男を熱愛して、八年まえに借金の肩代りをしてあの男を救ってやりましたが、それだけじゃないのです。もうひとつ別なことでもあの男に尽しているのです。と申しますのは、もうまちがいなくシベリア送りになるような、残忍で、しかもいわば怪奇な殺人という付録までついたある刑事事件が、ひとえにマルファ・ペトローヴナの尽力と犠牲のおかげで、ほんの初期のうちにもみ消されてしまったのです。まあ、あれはこういう男なんですよ、ご参考までに申しあげますが」
「まあ、おそろしい!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。ラスコーリニコフはじっと耳をかたむけていた。
「その正確な情報をもっているとおっしゃいましたが、それはほんとうですの?」とドゥーニャは相手の胸にじかに問いかけるように、きびしい調子で尋ねた。
「わたしは、亡くなったマルファ・ペトローヴナからこっそり聞かされていたことを、言っただけです。法律的に見ると、この事件が実にあいまいなものであることは、たしかです。ここにレスリッヒとかいう女が住んでいました。いまでもおそらくいると思いますが、外国人で、小金を貸したり、そのほかにもいろんなことをやっていた女です。そのレスリッヒという女とスヴィドリガイロフ氏は、まえまえからあるきわめて親密な、しかも不可思議な関係にあったわけです。その女のところに遠い親戚《しんせき》で、たしか姪《めい》だと思いましたが、唖《おし》でつんぼの十五歳くらいの、いやまだ十四だったかもしれません、一人の少女が住んでいたんですが、その少女をレスリッヒがひどくにくみまして、ごく些《さ》細《さい》なことでも叱《しか》りつけ、そのうえ残酷にうちすえたりまでしたそうです。ある日その少女が屋根裏で首つり死体となって発見されました。自殺ということに判定されて、型どおりの手続きがすんで、この事件は一応のかたがついたわけです。ところがあとになって、少女が……スヴィドリガイロフにむごたらしい凌辱《りょうじょく》を受けていた、と密告する者があらわれたのです。もっとも、密告したのがやはりドイツ女で、誰も信用しない札つきのあばずれでしたから、どうもあやしいものでしたがね。で、結局は、マルファ・ペトローヴナの尽力と金のおかげで、実際には密告はなかったということにして、ただの噂《うわさ》にしてしまったわけです。しかし、そうはいっても、この噂はなかなか深い意味がありました。アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、むろんあなたは、六年ほどまえ、まだ農奴制の時代のことですが、あの男の屋敷でフィリップという下男が責め殺された事件を、お聞きになりましたでしょうな」
「わたしが聞いたのは、まるでちがいますわ、そのフィリップとかいう下男が自分で首をくくったとか」
「たしかにそのとおりです、しかしその男を自殺させたのは、いや自殺に追いやったといったほうがいいでしょう、それはスヴィドリガイロフ氏のたえまない虐待《ぎゃくたい》と処罰のシステムなのです」
「そんなことは知りませんわ」とドゥーニャはそっけなく答えた。「わたしが聞いたのはなんだかとても奇妙な話だけですの。なんでもそのフィリップという下男はヒポコンデリーじみたところがあって、独学の哲学者とでもいうのですか、人々の噂では《本の毒にあたった》んだそうですわ。そして自殺したのもスヴィドリガイロフさんになぐられたためよりは、嘲笑《わら》われたためだとか。それにわたしがいました頃《ころ》は、あの方はとても召使いたちに当りがよくて、召使いたちにも好かれていたほどですわ。もっともフィリップが死んだことでは、たしかにみんなあの方を責めていましたけれど」
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、どうやらあなたは、急にあの男の弁護にまわられたようですな」とルージンは口もとをゆがめてどっちともとれるうす笑いをうかべながら、言った。「たしかに、彼は女をまよわすつぼ《・・》を心得た男ですよ。そのみじめな例があんな奇怪な死に方をしたマルファ・ペトローヴナです。わたしはただ、もう確実に目のまえにせまっている新しい彼の企てを考えて、わたしなりの忠告を申しあげて、あなたとあなたのお母さんのお役に立ちたいと思ったまでです。わたし個人の考えとしては、あの男はまた借金をつくって留置場にぶちこまれることはまちがいないと、確信しています。マルファ・ペトローヴナは子供たちのことを考えていましたから、あの男にいくらかでも財産を譲渡するつもりは毛頭もっておりませんでしたし、よしんば何かのこしたにしても、どうせさしあたって必要なものだけで、まああまり値打ちのない、ほんの一時しのぎのものでしょうから、あの男の生活態度では一年ともたないでしょうな」
「ピョートル・ペトローヴィチ、お願いですから」とドゥーニャは言った。「スヴィドリガイロフ氏の話はやめてください。聞いていると気がふさぐばかりです」
「彼はさっきぼくのところへ来ましたよ」とラスコーリニコフははじめて沈黙をやぶって、だしぬけに言った。
四方からおどろきの叫びが起り、みんなの顔がラスコーリニコフを見た。ピョートル・ペトローヴィチさえどきっとした。
「一時間半ほどまえ、ぼくが眠っていると、入ってきて、ぼくを起して、自己紹介をしましたよ」とラスコーリニコフはつづけた。「いやになれなれしく、ほがらかで、あなたとはきっとうまがあいますよなんて、いかにも自信ありげでしたよ。特に、おまえとはひどく会いたがってね、ドゥーニャ、ぼくに仲立ちしてくれと頼むんだ。おまえにひとつ提案があるそうだ。その内容は、ぼくにおしえてくれたよ。それから、確実な知らせとしてぼくに語ったんだが、マルファ・ペトローヴナがね、ドゥーニャ、死ぬ一週間まえに遺言状を作成して、おまえに三千ルーブリのこしてくれたそうで、その金はもうじきおまえの手にわたるそうだよ」
「まあ、よかったわねえ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは思わず歓声をあげて、十字を切った。「あのひとのためにお祈りをしなさい、ドゥーニャ、お祈りをしなさい!」
「それはたしかに本当です」とルージンはうっかり口をすべらせてしまった。
「それから、ねえ、それからどうしたの?」とドゥーネチカはせきたてた。
「それから、自分はあまり金持じゃない、財産はすっかりいま伯母のところにあずけてある子供たちのものになるだろう、なんて言ってたよ。また、どこかぼくの家の近所に宿をとってるそうだが、どこだったか? 知らないな、聞きもしなかった……」
「で、いったいどんなことなの、どんなことをドゥーネチカに提案したいというの?」とおびえきったプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが尋ねた。「あの男はおまえに言ったんだろう?」
「ええ、言いました」
「それで、どんなことなの?」
「あとで言います」ラスコーリニコフは口をつぐんで、自分の茶へ手をのばした。
ピョートル・ペトローヴィチは時計をだして、ちらと見た。
「用事ででかけなければなりませんので。そうすればお邪魔にもならないでしょうし」と彼はいくぶん皮肉な調子でつけ加えると、席を立ちかけた。
「お待ちください、ピョートル・ペトローヴィチ」とドゥーニャは言った。「今夜はゆっくりなさるおつもりでおいでくだすったのでしょう。それにお手紙でも、何か母と話しあって得心したいことがおありなさるとか」
「たしかにそのとおりです、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ」ピョートル・ペトローヴィチはまた椅子《いす》に腰をもどしたが、帽子はやはり手にもったままで、意味ありげに言った。「わたしはたしかにあなたとも、尊敬するあなたのお母さんとも、じっくり話しあいたいと思っていました。しかもひじょうに大切なことをです。しかしあなたのお兄さんもわたしのいるところでは、スヴィドリガイロフ氏のある提案を話すことがおできにならないように、わたしも……他人のいるところでは……あるきわめて重要ないくつかの問題について……話しあうことを望まないし、またできません。しかもわたしの主要な、もっとも切なる願いが実行されませんでした……」
ルージンはにがにがしい顔をつくって、思い入れよろしく口をつぐんだ。
「兄がわたしたちの話しあいに同席しないように、というあなたのお願いは、わたしが主張したために実行されなかったのです、ほかに理由はありませんわ」とドゥーニャは言った。「あなたのお手紙に、兄に侮辱されたと書いてありました。こういうことはぜひともよく話しあって、あなた方お二人に仲直りをしてもらいたい、と思いますの。そしてもしロージャがほんとうにあなたを侮辱したのならば、兄はあなたに許しを請《こ》うべき《・・》ですし、きっと請うはず《・・》ですわ」
ピョートル・ペトローヴィチはとたんにぐっと大きく構えた。
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、どんなに善意に解釈しても、忘れることのできない侮辱というものがあります。何ごとにも踏みこえることが危険な一線があります、それを踏みこえたら、もうもどることができないのですよ」
「わたしは何もそんなことを言ってはおりませんわ、ピョートル・ペトローヴィチ」とドゥーニャはすこしじりじりしながらさえぎった。「わたしようく考えていただきたいの、わたしたちの未来はひとえに、こんなことがすっかりはっきりして、うまくおさまるかどうか、ということにかかっているのじゃありません? わたしははじめに、はっきりおことわりしますけど、それ以外には考えられませんわ。だからもし、あなたがすこしでもわたしを大切に思ってくださるなら、おいやかもしれませんが、こんなことは今日でおしまいにしていただきたいの。重ねて申しますけど、兄が悪いのなら、兄に謝罪してもらいますわ」
「おどろきましたよ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、あなたが問題をそんなふうに設定なさるとは」ルージンはしだいに神経がたかぶってきた。「わたしはあなたの人格を重んじ、いわば尊敬しておりますよ。だからといって、あなたのご家族の誰かを嫌いだということとは、すこしも矛盾しないと思いますがねえ。あなたのお手をいただく幸福は望んでおりますが、だからといって、同意の得られぬ義務をひきうけることはできませんな……」
「まあ、そんな短気はおっしゃらないで、ね、ピョートル・ペトローヴィチ」とドゥーニャはやさしい気持をこめてさえぎった。「わたしがいつも考えていたような、そしてそうあってほしいと思っているような、あのものわかりのいい、気品のある人になっていただきたいの。わたしはあなたに神聖な約束をあたえました。わたしはあなたの許嫁《いいなずけ》ですわ。だからこの話はわたしにおまかせになっていただきたいの、信じていただきたいの、わたしはできるかぎり公平に判断いたしますわ。わたしが裁判官の役をひきうけるなんて、あなたにも意外でしょうけど、兄にだってずいぶん思いがけないことですわ。あなたのお手紙を拝見してから、今日のこの席にどうしても来てくれるようにと兄にたのんだとき、わたしは自分の考えを一言も兄におしえませんでしたわ。おわかりになってくださいね、もしあなた方が仲直りをしてくださらなかったら、わたしはあなた方のうちのどちらかを選ばなければなりませんのよ。あなたか、兄か。兄も、あなたも、問題をそういうふうにしてしまったんですもの。わたしは選択をあやまりたくありませんし、あやまることは許されませんわ。あなたにつけば兄と縁をきらねばなりませんし、兄につけばあなたと別れなければなりません。わたしがいま確実に知りたいし、そして知ることができるのは、わたしにとってこのひとは兄だろうかということ、それからあなたについては、あなたにとってわたしが大切な人間だろうか、あなたがわたしの人格を重んじてくださるだろうか、つまりあなたがわたしにとって良人《おっと》たるべき人だろうか? ということですわ」
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ」とルージンはむずかしい顔になって、言った。「あなたのお言葉はわたしにとってあまりにも意味深長ですな。もっと言えば、わたしがあなたに対する関係において占めさせていただいている立場を考えるとき、それはむしろ侮辱ですね。わたしと……傲慢《ごうまん》無礼な青年を一枚の板の上におきならべるという、この奇怪きわまる侮辱については、いまさら何も言うことはありませんが、あなたはいまのお言葉によって、わたしにあたえた約束を破棄する可能を認められたわけですな。あなたは《わたしか、兄か?》と言われる、つまりその言葉によって、わたしがあなたにとってたいした意味のない存在であることを、わたしにさとらせようとしていなさるわけだ……わたしたちの間に存在する関係と……義務を考えるとき、わたしはそのようなことは許すことができません」
「何をおっしゃいます!」とドゥーニャはきっとなった。「わたしはあなたとの関係を、これまでの生活でわたしに大切だったもの、これまでのわたしの生活のすべて《・・・》だったものと、並べておきましたのよ。それなのにいきなり、あなたにあまり《・・・》重きをおかないなんて、お怒りになったりして!」
ラスコーリニコフは黙って、針をふくんだうす笑いをもらした。ラズミーヒンの全身にふるえがはしった。しかし、ピョートル・ペトローヴィチはこの抗議をうけつけなかった。それどころか、彼は一言一言がひっかかり、ますます神経をかきたてられて、いよいよ話に身《・》が入ってきたようだ。
「将来の生活の伴侶《はんりょ》たる良人に対する愛は、兄に対する愛にまさらなければなりません」と彼はいましめさとすように言った。「とにかく、わたしは同列におかれることはごめんです……さっきわたしは、あなたの兄さんのおられるところでは、来訪の用件をぜんぜん話したくないし、話すことはできない、と言い張りましたが、それはともかくとして、わたしはいま尊敬するあなたのお母さんに、一つのきわめて重要な、しかもわたしにとって屈辱的な問題のしかるべき釈明をおねがいするつもりです。あなたの息子さんは」と彼はプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナのほうを向いた。「昨日、ラススードキン氏のおられるまえで(いや……ちがいましたかな? どうも失礼しました、お名前を忘れたりして、――と彼は愛想よくラズミーヒンに一礼した)、わたしの考えをゆがめてわたしに侮辱を加えたのです。それはあの当時コーヒーの席でくつろいだ話のついでにあなたに申しあげたことですが、つまり、もう生活の苦労を知っている貧しい娘と結婚したほうが、何不自由なく育った娘と結婚するよりは、道徳という点から見てもいいことだし、従って夫婦生活をいとなむうえにおいてもずっと有利だと思う、と申しあげたあのことなのです。あなたの息子さんはわざと言葉の意味をあきれるほどに誇張して、わたしが何か陰険な下心でももっているように非難しましたが、わたしが思うのには、あなたのお書きになった手紙にその原因があるような気がするのですが。そこでプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、もしあなたがこの疑念をくつがえして、わたしをすっかり安心させてくだされば、わたしとしてはこんな嬉《うれ》しいことはありません。おおしえいただけないでしょうか。ロジオン・ロマーヌイチへのお手紙の中で、あなたはどういう用語をおつかいになってわたしの言葉をお伝えになりましたか?」
「おぼえておりませんよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはうろたえた。「自分で納得したとおりに、伝えましたよ。ロージャがあなたにどう言ったか、知りませんが……すこしは誇張したかもわかりませんね」
「あなたの暗示がなかったら誇張はできないはずですね」
「ピョートル・ペトローヴィチ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはきっと居ずまいを正した。「わたしとドゥーニャがあなたの言葉をひどくわるいほうにとらなかった証拠は、わたしたちがここに《・・・》来ていることです」
「そうよ、お母さん!」とドゥーニャははげますように言った。
「つまり、これもわたしがわるいということですな!」とルージンはむっとした。
「そうよ、ピョートル・ペトローヴィチ、あなたは何もかもロジオンがわるいようにおっしゃいますけど、あなただって昨日の手紙に、ロジオンのことでまちがったことをお書きになったじゃありませんか」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、元気づいて、つけ加えた。
「何かまちがいを書きましたか、さあおぼえがありませんな」
「あなたはこう書いていますよ」とルージンのほうを見向きもしないで、ラスコーリニコフがたたきつけるように言った。「ぼくが昨日お金を轢《れき》死《し》した官吏の未亡人にではなく、その娘にやった、とね。ところが実際は、ぼくは未亡人にやったのですよ。何しろその娘というのは昨日まで一度も会ったことがないんだから。あなたがあんなことを書いたのは、ぼくと家族を喧《けん》嘩《か》させるためです。だから、けがらわしい表現で、知りもしない娘の行状をわざわざつけ加えたりしたんだ。あんなものはみな中傷です、実に卑劣です」
「失礼ですが、あなた」と憎《ぞう》悪《お》に身をふるわせながら、ルージンはやり返した。「わたしがあの手紙にあなたの人柄《ひとがら》や行為についてまで書いたのは、わたしがあなたをどう見たか、どんな印象をうけたかを、ぜひ知らせてほしいというあなたの妹さんとお母さんのご依頼を果したまでです。わたしの手紙であなたが指摘された点については、一行でもまちがいがあったら見つけてもらいましょう、つまり、あなたが金を浪費しなかったか、たしかに気の毒な家庭にはちがいないが、あの家庭にけがれた人間はいなかったか、ということですがね?」
「ぼくにいわせれば、あなたなんか、もっている価値を全部あわせても、あなたが石を投げつけたあの不幸な娘の小指の先にも値しませんね」
「なるほど、ではあなたはあの娘を、あなたのお母さんや妹さんの仲間に入れるつもりがあるというわけですな?」
「お望みなら言いましょう、それはもう《・・》しましたよ。今日母や妹と同席させました」
「ロージャ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
ドゥーネチカは顔を赤らめた。ラズミーヒンは眉《まゆ》根《ね》をよせた。ルージンは毒々しく傲慢ににやりと笑った。
「おわかりになりましたでしょうな、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ」と彼は言った。「これじゃ意見があうわけがありませんよ! これでこの問題ははっきりかたがついたものとして、もう二度とむしかえしたくありませんな。じゃわたしは、家族のつどいのこれからの楽しみと秘密の話を邪魔しないために、このへんで引きさがることにしましょう」彼は腰をあげて、帽子を手にもった。「ところで、去るにあたって、一言申しあげておきますが、今後このような集まりと、示談とでもいいますか、そういうものはごめんこうむりたいものですな。それから、尊敬するプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、あなたには特にお願いしたいですな、こんなことのぜったいにないように。ましてあの手紙は、ほかの誰にでもなく、あなたにあてたものですからな」
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはいささかむっとした。
「おやまあ、あなたはもうすっかりわたしたちを召使いあつかいだわね、ピョートル・ペトローヴィチ。ドゥーニャはどうしてあなたの希望が果されなかったか、その理由をあなたに説明したんですよ。この娘はりっぱな意向をもっていました。それにあなたがわたしによこした手紙の書きぶりは、まるで命令です。いったいわたしたちは、あなたのどんな希望でも命令と思わなければなりませんの?わたしならその反対に、いまのあなたこそわたしたちに特にやさしい心づかいで、思いやりをかけてくださるのが本当だと言いたいですよ。だってわたしたちは何もかもすてて、あなたをたよりにして、こちらへ来たんですもの。だからそれでなくてももうあなたの支配下に入っているみたいなものですよ」
「いちがいにそうとも言えませんな、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、特にいまはね、なにしろマルファ・ペトローヴナに三千ルーブリのこされたことを知らされたことでもありますし、それもタイミングが実によかったらしいですな、わたしに対する話しぶりががらりと変ったところを見ますとね」と彼は毒々しくつけ加えた。
「そういう言葉を聞かされますと、あなたがわたしたちの無力を期待していたということが、たしかに考えられますわね」とドゥーニャは苛々《いらいら》しながら言った。
「しかしいまは少なくともそれを当てにはできませんな。それにわたしはアルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフの秘密の申し出の伝達を邪魔したくありませんよ。あなたのお兄さんがその全権を委任されているようですし、どうやらそれはあなたにとって重要な、しかも実に楽しいらしい意味をもっているようですからね」
「まあ、なんてことを!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
ラズミーヒンは椅子にじっと坐っていられなかった。
「おい妹、おまえはこれほどまで言われて恥ずかしくないのか?」とラスコーリニコフは尋ねた。
「恥ずかしいわ、ロージャ」とドゥーニャは言った。「ピョートル・ペトローヴィチ、おかえりください!」彼女は怒りに蒼《あお》ざめて、ルージンをきっと見た。
ピョートル・ペトローヴィチはこのような結末はぜんぜん予期しなかったらしい。彼は自分と、自分の権力と、自分の犠牲者たちの無力をあまりにも当てにしすぎていたのである。いまもまだ信じられなかった。顔がさっと蒼ざめ、唇《くちびる》がひくひくふるえだした。
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、もしわたしがいま、このような門出の言葉をうけてこのドアを出ていったら、いいですか、わたしはもう二度ともどりませんぞ。よくよく考えることですな! わたしの言葉はかたいですぞ」
「なんという無礼な!」と叫ぶと、ドゥーニャはさっと席を立った。「わたしだって、あなたになんかもどってきてもらいたくありません!」
「なんですと? なあるほどそうですか!」ルージンは最後の一瞬までこのような幕切れはゆめにも思っていなかっただけに、完全に度を失って、思わず叫んだ。「なるほど、そういうわけですか! でもご存じでしょうな、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、わたしは抗議することもできるんですよ」
「あなたはどんな権利があって娘にそんな口がきけますの!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナがかっとなって割りこんだ。「どんな抗議ができますか? え、それはどんな権利ですの? 無礼な、あなたのような男に、うちのドゥーニャをやれますか? 出て行ってもらいます、二度と来《こ》ないでください! こんなまちがった道にふみこんだのは、わたしたちが悪かったのです、誰よりもわたしが……」
「しかし、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ」ルージンは憤然とした。「あなたは約束でわたしをしばっておきながら、いまになってそれを破棄するなんて……しかも、結局……結局は、そのためにわたしは、いわば、金をつかわされたんだ……」
この最後の苦情がピョートル・ペトローヴィチの性格にあまりにもぴったりしていたので、怒りとそれをおさえる努力のために真《ま》っ蒼《さお》になっていたラスコーリニコフは、不意にこらえきれなくなって、――大声で笑いだした。だが、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは逆上してしまった。
「金をつかわされたって? それはいったいどんな金なの? まさかわたしたちのトランクのことじゃないでしょうね? あれは車掌さんがただにしてくれたはずですよ。わたしたちがあなたをしばったって、なんてことを言うんです! 頭はたしかですの、ピョートル・ペトローヴィチ、あなたがわたしたちの手足をしばったんじゃありませんか、わたしたちがあなたをしばったなんてとんでもない!」
「もういいわよ、お母さん、どうか、おやめになって!」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナは母にたのんだ。「ピョートル・ペトローヴィチ、どうぞお帰りください!」
「帰りましょう、だがそのまえに一言だけ言わせてもらいます!」と彼はもうほとんど自分をおさえる力を失って、かみつくように言った。「あなたのお母さんはすっかり忘れていなさるようだが、わたしがあなたをもらう決意をしたのは、あなたの名誉を傷つけるあの噂《うわさ》が町中にたてられたそのあとですよ。あなたのために世評を無視して、あなたの名誉を回復してやったのだから、もちろん、わたしは至極当然の権利として、報酬を期待していいはずだし、あなたの感謝を要求することだってできるはずですがねえ……いまやっと目があきましたよ! 世間の声を無視したことは、まったく軽率な行為だったかもしれないということが、よくわかりましたよ……」
「こいつ、頭がどうかしているのか!」とラズミーヒンは椅子をけって、いまにもなぐり倒そうと身がまえながら、叫んだ。
「あなたは品性下劣な悪い人です!」とドゥーニャは言った。
「何も言うな! うごくな!」とラスコーリニコフはラズミーヒンをおさえながら叫んだ。そして、いまにも額をつきあわせるほどに、ルージンのまえへつめよった。
「出て行ってください!」と彼は声を殺してゆっくり言った。「これ以上一言も口をきかないでもらいたい、さもないと……」
ピョートル・ペトローヴィチは数秒のあいだ憎悪にゆがんだ蒼白《そうはく》な顔で彼をにらんでいた。それからくるりと背を向けて、出て行った。もちろん、いまこの男がラスコーリニコフにいだいたほどのうらみと憎悪で心を煮えたぎらせて、誰かと別れた経験をもつ者は、めったにいまい。彼に、彼一人に、ルージンはすべての罪をきせた。おどろいたことに、もう階段を下りながら、彼はまだ、これですっかりだめになってしまったわけではあるまい、女たちだけなら、まだまだ《十分に》もとへもどせると考えていたのである。
3
最大の誤算は、彼は最後の瞬間までこのような幕切れをぜんぜん予期しなかったことである。彼は二人の貧しい頼りのない女が彼の支配下からぬけだすことができるなどとは、そういうことがあり得《う》るということすら予想しないで、最後までいばりかえっていたのだった。その確信を大いに助長したのは虚栄心と、自《うぬ》惚《ぼ》れとよぶのがもっともいいほどにこうじた自己過信だった。ピョートル・ペトローヴィチは、貧から身を起しただけに、病的なまでに自惚れのくせがつき、自分の頭脳と才能を高く評価していて、ときには、一人きりのときなど、自分の顔を鏡にうつして見惚《みと》れていることさえあった。しかし彼がこの世の中でもっとも愛し、そして大切にしていたものは、苦労をし、あらゆる手段をつかってたくわえた財産だった。それが彼に自分よりも上のすべての人々と肩を並べさせてくれたのである。
さっき苦々しい気持で、悪い噂《うわさ》を無視して娶《めと》る決意をしたのだと、ドゥーニャに言ったとき、ピョートル・ペトローヴィチは本気でそう思っていたし、このような《憎むべき忘恩》に対して深いいきどおりをさえ感じたのだった。しかしあの当時でも、彼はドゥーニャをかばってはいたが、同時に、当のマルファ・ペトローヴナがみんなのまえで、くつがえしたことではあるし、ドゥーニャを熱心に弁護した町中の人々が、もうとっくに忘れてしまったことであるから、そのかげ口がばかばかしいものであることは、完全に確信していたのである。それに彼は自分でも、そんなことはすっかりあの当時でも知っていたということを、いまさら否定もできないはずである。それにもかかわらず、彼はやはりドゥーニャを自分の位置まで上げるという自分の決意を高く評価し、それを自分の功績と考えていた。いまそれをドゥーニャに言ったとき、彼は胸の中でひそかに甘やかしてきた考えを述べたのだった。彼はその考えをもう何度となくとろけるような目でながめてきたし、どうして他《ほか》の人々がこの彼の功績を喜びの目でながめることができないのか、のみこめなかった。ラスコーリニコフを訪ねたときも、彼は恩人が自分の善行の果実を味わい、このうえなく甘いお世辞を聞くような気持で入って行ったのだった。だからいま、階段を下りながら、彼が極度に侮辱され、好意を無視されたと考えたのは無理もなかった。
ドゥーニャは彼にとってどこまでも必要な女性だった。彼女を思いきることは考えられなかった。もうまえまえから、もう何年もまえから、彼はとろけるような思いで結婚を夢に描き、せっせと金をためて、その日のくるのを待っていたのだった。彼は心の奥深くで、品行がよくて貧しい(ぜったいに貧しくなくてはいけなかった)、ひじょうに若く、ひじょうに美しい、上品で教養のある、ひどくおびえやすい娘、そして世の中の苦労という苦労をなめつくして、彼にぜったいの恩を感じ、生涯《しょうがい》彼を救いの神と考えて、感謝し、服従し、彼を、彼一人だけをおそれるような娘、そういう娘をわくわくしながら思い描いていたのだった。彼はしごとのひまに一人でしずかに憩《いこ》いながら、頭の中で、この魅惑的な浮わついたテーマについて、どれほどのシーン、どれほどの甘いエピソードを創《つく》りあげたことだろう! そしてこの何年もの空想《ゆめ》がもうほとんど実ろうとしていた。彼はアヴドーチヤ・ロマーノヴナの美しさと教養にうたれた。彼女の頼りない境遇が彼を有頂天にした。そこには彼が空想していたよりも、以上のものさえあった。気位の高い、個性の強い、心の美しい、教育も知識も彼よりも上の(彼はそれを感じていた)娘があらわれたのだ、そしてこれほどの娘が生涯奴《ど》隷《れい》のように彼の恩に感謝し、喜んで彼のいけにえとなる、そして彼はぜったいの支配者として君臨するのだ!……おあつらえむきに、そのすこしまえから、機を見ながら長いことあれやこれや考えた末に、彼はついに、思いきって職場を変えて、もっと広い活動の場に踏み出し、そして同時にもうまえまえからしびれる思いで夢に見ていた上流社会にも移って行こうと、決意していた……要するに、彼はペテルブルグに乗りだしてみようと決意したのだった。彼は女をつかえば《実に、実に》多くのものを勝ち得られることを知っていた。チャーミングな、心の美しい、しかも教養の高い女の魅力は、おどろくほど彼の前途を飾り、彼の周囲をにぎわし、彼の栄誉を創りあげるはずだった……それがいま、すっかりだめになってしまった! このいましがたの思いがけぬみにくい決裂は、落雷のように彼を打った。それは一種の不作法な悪ふざけだった。愚にもつかぬことだった! 彼はちょっと力んでみただけだ。十分に意見をのべるひまもなかった。ただちょっとふざけて、いい気になっただけなのに、こんな重大な結果になってしまった!それに、実のところ彼はもう自分なりにドゥーニャを愛していて、空想の中でもう彼女を思うままにしていたのだった。――それが不意に!……こんなことってあるものか! 明日こそ、明日こそこれをすっかりたて直し、手当てを加え、修正しなければ、そして要は――あの鼻もちならぬ青二才を抹殺《まっさつ》して、病根をたつことだ。彼は不快な気持で、これも気になるらしく、ラズミーヒンのことを思い出していた……しかし、そのほうの不安はすぐに消えた、《もちろん、あいつも並べて成《せい》敗《ばい》だ!》しかし彼が実際に本気でおそれていたのは、――ほかでもないスヴィドリガイロフだった……要するに、いろいろな苦労が彼のまえに立ちふさがっていた…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
「いいえ、わたしが、わたしがいちばんわるいのよ!」とドゥーネチカは母を抱いて接吻《せっぷん》しながら、言った。「わたしがあの男のお金にまよったのよ、でも誓って言いますけど、兄さん、わたしあのひとがあんななさけない人間だとは、思いもよらなかったわ。もしもっとまえに見ぬいていたら、わたし何にも目をくれなかったはずよ! わたしを責めないでね、兄さん!」
「神さまのおかげだよ! 神さまのおかげだよ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは呟《つぶや》いたが、まだ何かぼんやりしていて、起ったことの意味がよくのみこめていないふうだった。
みな喜んでいた。五分後には笑い声さえ聞かれた。ドゥーネチカだけはときどき蒼《あお》ざめて、いましがたのできごとを思い出しながら、眉《まゆ》根《ね》をよせた。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナには、自分も喜ばしい気持になるだろうなどとは、想像もできなかった。つい今朝ほどはまだ、ルージンときれることを恐ろしい不幸のように思っていたのだった。それにひきかえ、ラズミーヒンは有頂天になっていた。彼はまだその喜びを露骨に出す勇気はなかったが、まるでおこりにつかれたようにがたがたふるえていた。心にのしかかっていた五ポンドの分銅がとれたような気持だった。いまこそ彼には一生を彼女たちにささげて、彼女たちに仕える権利があるのだ……それにこれからはいろいろなことがあるにちがいない! しかし、彼はうれしさよりこわさが先に立って、走りすぎる考えを追いはらい、自分の想像をおそれた。ラスコーリニコフだけはやはり同じ場所に坐《すわ》ったまま憂欝《ゆううつ》そうな顔をして、放心したようなふうにさえ見えた。彼はルージンを遠ざけることを誰《だれ》よりも主張しながら、いまのできごとに誰よりも関心をもっていないようだった。ドゥーニャは、彼がまだ自分にひどく腹を立てているのではあるまいかと思った。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはびくびくしながら彼の顔色をうかがっていた。
「スヴィドリガイロフさんはいったいどんなことを言ったの?」とドゥーニャは兄のそばへ行った。
「あッ、そう、それを聞くんだったわね!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
ラスコーリニコフは顔をあげた。
「彼はどうしてもおまえに一万ルーブリやりたいというんだよ、そしてぼくをオブザーバーにしてぜひ一度おまえに会いたいそうだ」
「会うって! そんなことさせるもんですか!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。「この娘にお金を申し出るなんて、よくもそんな図々《ずうずう》しいことが!」
つづいてラスコーリニコフはスヴィドリガイロフとの話をかなりそっけなく伝えた、しかし脇道《わきみち》にそれたくなかったし、どうしても必要なこと以外はどんなことも話すのが嫌《いや》だったので、マルファ・ペトローヴナの亡霊のところはぬいた。
「それで兄さんは何と答えたの?」とドゥーニャは尋ねた。
「はじめは、おまえにぜったいに伝えないって言ってやったよ。そしたら彼は、どんなことをしてでも、自分で会う機会を見つけ出すと言うんだ。彼は断言していたよ、おまえに対する情熱はたわけた一時の迷いで、いまではもう何も感じていないって……彼はおまえをルージンにやりたくないんだよ……ぜんたいとして話の調子がおかしかったよ」
「ね、兄さん自身はあの男をどう思いました? どんなふうに見えました?」
「正直のところ、さっぱりわからんのだよ。一万ルーブリをやると言うかと思うと、あまり金がないなんて言ってみたり。どこかへ旅行に出かけるつもりだなんて言っておいて、十分もすると、自分の言ったことを忘れているんだ。そうかと思うととつぜん、結婚しようと思う、ある娘を世話されているんだ、なんて言いだしたり……彼に何か目的があることは、たしかだ。しかもどうみても――よくない目的だ。しかしおまえに対して何かよくないたくらみを持っているとすれば、まさかあんなばかな出方をしようとは思われないし、おかしいよ……ぼくは、むろん、おまえのために、そんな金はきっぱりことわったよ。どことなくひどく奇妙な感じだった。それに……狂人と思われるようなふしさえあった。しかしぼくだってまちがいはある。一種の錯覚にすぎないかもしれん。どうも、マルファ・ペトローヴナの死がかなりこたえたらしい……」
「主よ、あの方の霊に安らぎをあたえたまえ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは言った。「いつまでも、いつまでもあの方のためにお祈りをしましょう! だってドゥーニャ、その三千ルーブリがなかったら、わたしたちはいまどんな気持だったろうねえ! ほんとに、まるで天からの下さりものみたいだよ! まあお聞きよ、ロージャ、わたしたちは今朝たった三ルーブリしか手もとにのこってなかったんだよ。そしてドゥーネチカと早く時計をどこかにあずけて、向うから気がつくまでは、あの男に金のことは言い出さないようにしようって、話しあっていたところだったんだよ」
ドゥーニャはどうやらスヴィドリガイロフの申し出があまりにも大きなショックだったらしい。彼女は立ったまま考えこんでいた。
「あの男は何か恐ろしいことをたくらんでいるんだわ!」と彼女はいまにもふるえあがりそうに、ほとんど囁《ささや》くような声でひとりごとを言った。
ラスコーリニコフはこの極度の恐怖を見てとった。
「ぼくはもう何度か彼に会うことになりそうだよ」と彼はドゥーニャに言った。
「監視しようじゃないか! ぼくはやつをつけまわすよ!」とラズミーヒンは力強く言った。「目をはなすものか! ロージャがぼくに許したんだ。彼は自分でさっきぼくに《妹を守ってくれ》と言ったんですよ。あなたもそれを許してくださいますか、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ?」
ドゥーニャはにっこり笑って、彼に手をさしだしたが、顔の不安は消えなかった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはときどきおずおずと娘の顔に目をやった。しかし、三千ルーブリは明らかに彼女をほっとさせたらしかった。
十五分後にはみんなひどくにぎやかに話しあっていた。ラスコーリニコフでさえ話はしなかったが、しばらくは熱心に聞いていた。熱弁をふるっているのはラズミーヒンだった。
「いったいどうして、どうして帰る必要があるんです!」と彼はうれしさのあまり酔ったようになってしゃべりつづけた。「それに田舎で何をしようというのです? 要するに、ここにみんないっしょに暮すことですよ、そのほうがおたがいに役に立てて、いいんです、どれほどいいかわかりませんよ、――ぼくの言うことがわかりますね! そして、ときどきでいいですから……ぼくも仲間に入れてください。ぼくはもうすてきなプランを考えているんです。ほんとですとも。お聞きください、いまからそれを、――そのプランをすっかり説明しましょう? それは今朝、まだ何も起らないうちにですよ、ぼくの頭にひらめいたんです……そのプランというのはこうなんです。ぼくに伯父が一人います(いずれご紹介しますが、実によくできたいいお爺《じい》ちゃんですよ)。その伯父に千ルーブリの貯金があるんですが、恩給暮しで、要《い》らないんです。もう二年ごし伯父は、六パーセントの利息をはらってくれればいいから、その千ルーブリを借りてくれって、うるさくぼくに言うんですよ。ぼくはわかってますが、要するに伯父はぼくを援助したいんですよ。去年は要らなかったけど、今年は伯父の出てくるのを待って、借りる決心をしました。そこであなたにも三千ルーブリのうちから千ルーブリだけ出資してもらいたいのです。それだけあれば先《ま》ずスタートは大丈夫です。こうして共同経営をやるわけですが、それじゃ何をやろうというのか?」
そこでラズミーヒンは自分のプランの説明に移り、ほとんどの本屋や出版業者が本のことをさっぱり知らないから、一般に出版は割りがあわないと言われているが、しかしいいものを出せばおおむね採算がとれるし、利益がでる、ときにはかなりもうかることがあるということを、口をすっぱくして述べたてた。もう二年手伝ってきたし、ヨーロッパの三カ国語にかなり通じていたので、出版をやることはラズミーヒンの空想《ゆめ》だった。六日ほどまえに、彼はラスコーリニコフにドイツ語は《さっぱりだ》と言ったが、あれは翻訳料の半分と手付けの三ルーブリをとらせるために嘘《うそ》をついたので、ラスコーリニコフもそれが嘘であることは知っていた。
「もっとも肝要な手段の一つである自分たちの資本ができたのに、どうして、いったいどうしてせっかくのこの機会を逃がす必要があるのです?」とラズミーヒンは熱くなった。「そりゃむろん、苦労は多いでしょうが、いっしょに苦しもうじゃありませんか、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、あなたと、ぼくとロジオンと……いまひじょうに当っている出版物もあるんですよ! このしごとのいちばんだいじな基礎は、何を訳したらいいかということをよく知ることです。翻訳と、発行と、勉強を、みんなでいっしょにやろうじゃありませんか。さしあたってぼくが役に立てます。経験がありますから。もう二年近く出版社をわたり歩きましたから、楽屋裏はすっかり知ってます。みんないいかげんなものですよ、ほんとです! まったく、ごちそうを目のまえに見ながら、食わないってて《・》はありませんよ! それにぼくは、翻訳出版の案を提供するだけで一冊につき百ルーブリはもらえるという作品を二、三点知ってるんですよ。そっと胸にしまってあるんです。そのうちの一点などは五百ルーブリ出すからおしえてくれといわれても、ことわりますね。あなたはどう思います? 誰かにこんな話をしたら、あんなばかがなんて、相手にされないかもしれませんね! でも、特に印刷所とか、紙とか、販売とか、そうしたしごとの奔走については、ぼくにまかしてください! 裏の裏まで知ってますから! はじめはささやかにやって、そのうちに大きくしましょう。少なくとも食うだけは大丈夫ですよ。どうまちがっても出した金ぐらいはもどります」
ドゥーニャの目がかがやいた。
「あなたのおっしゃることが、わたしすっかり気に入りましたわ、ドミートリイ・プロコーフィチ」と彼女は言った。
「わたしは、むろん、そういうことは何もわかりませんけど」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは応じた。「でも、きっといいことでしょうね、もっとも先のことは神さまだけしかご存じありませんけど。新しいことだと何か不安な気がしてねえ。しばらくでも、わたしたちがこちらにとどまらなくちゃいけないのは、そりゃむろんでしょうけど……」
彼女はロージャを見た。
「どう思います、兄さん?」とドゥーニャは言った。
「彼の考えはひじょうにいい、と思うな」と彼は答えた。「会社のことは、もちろん、いまから考えるのは早いが、五、六冊はたしかに必ず当るやつを出せるよ。ぼく自身も確実に当る作品を一つ知っている。で、彼は実務の能力があるかということだが、この点についてはまちがいはない。彼はしごとを理解している……しかし、きみたちはこれからよく相談するがいい……」
「ウラー!」とラズミーヒンはおどりあがった。「そこでさっそくだが、このアパートにひとつ住居《すまい》があるんですよ、同じ持ち主の。それはひとつだけ離れていて、これらの部屋とはつづいていません。しかも家具つきで、家賃も手《て》頃《ごろ》で、小さな部屋が三間あります。先ずそれを借りなさい。時計は明日曲げて、金にしてあげましょう。それで万事オーケーです。要は、三人がいっしょに暮せるということですよ、ロージャとあなたと……おい、いったいどこへ行くんだ、ロージャ?」
「おや、ロージャ、もう帰るの?」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはぎょっとした様子をさえみせた。
「こんないい機会に!」とラズミーヒンは叫んだ。
ドゥーニャは信じられぬようなおどろきの目で兄を見つめた。彼の手は帽子をにぎっていた。彼は出て行こうとしていた。
「なんだい、みんなまるでぼくを葬《ほうむ》るか、あるいは二度と会えないみたいに」と彼はなんとなく落ち着かない様子で妙なことを言った。
彼はにやりと笑ったようだったが、それがどうやら笑いにならなかったらしい。
「もっとも、これが最後かもしれんがね」と彼は何気なく言いそえた。
彼は心の中でふとそう思いかけたのだが、どういうわけかひとりでに口に出てしまったのだった。
「まあ、何を言うの!」と母は叫んだ。
「どこへ行くの、ロージャ?」となんとなく妙な胸さわぎがして、ドゥーニャは尋ねた。
「うん、ちょっと、どうしても行かにゃならん用事があるんだよ」と、彼は何か言おうとしかけて、思いまどったように、あいまいに答えた。しかしその蒼白い顔にはかたい決意のようなものがあった。
「ぼくが言おうと思ったのは……ここへ来る途中……母さん、あなたと……ドゥーニャ、おまえに、言おうと考えてきたのは、ぼくたちはしばらく別れて暮したほうがいいということなんです。ぼくはいま気分がすぐれないんです。気持が落ち着かないんです……ぼくはあとで来ます。自分から来ます。いずれ……来《こ》られるようになったら。あなた方のことは忘れません、愛しています……ぼくをそっとしておいてください! ぼくを一人きりにしてください! ぼくはこう決心していたんです。もうまえからです……かたく決意したんです……ぼくの身にどんなことが起ろうと、たとえだめになってしまおうと、ぼくは一人でいたいんです。ぼくをすっかり忘れてください。そのほうがいいんです……ぼくのことはさがさないでください。用のあるときは、自分で来るか……あなた方を呼びます。あるいは、すっかりもとどおりになるかもしれない……だがいまは、ぼくを愛しているなら、かまわないでください……でないとぼくはあなた方を憎みます、ぼくにはそれがわかるんです……さようなら!」
「ああ、どうしよう!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
母も妹もあまりのことに呆然《ぼうぜん》としてしまった。ラズミーヒンにしても同様だった。
「ロージャ、ロージャ! 仲直りしておくれ、昔どおりにしようよ!」と哀れな母は悲痛な声で哀願した。
彼はゆっくりドアのほうへ向き直って、ゆっくり部屋から出て行こうとした。ドゥーニャが追いすがった。
「兄さん! お母さんになんてことをなさるの!」と彼女は怒りにもえる目で兄をにらみながら、声を殺して言った。
彼は苦しそうに妹を見た。
「なんでもないよ、来るよ、ときどき来るよ!」彼は何を言おうとしているのか、自分でもよく意識していないように、低声《こごえ》でこう呟くと、部屋を出て行った。
「情知らず、意地わるのエゴイスト!」とドゥーニャは叫んだ。
「彼は頭がどうかしてるんですよ。人でなしじゃない! 気ちがいです! それがわかりませんか? わからなければ、あなたが情知らずです!……」とラズミーヒンはかたく彼女の手をにぎりしめ、耳もとに熱く囁いた。
「すぐもどります!」と彼は呆然としているプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナに叫んで、部屋をとびだした。
ラスコーリニコフは廊下の外れで彼を待っていた。
「きみがとびだしてくるのは、知っていたんだよ」と彼は言った。「母と妹のところへもどって、いっしょにいてやってくれ……明日も……いつまでも。ぼくは……来る、かもしれん……できたら。じゃ、これで!」
そう言うと、握手ももとめないで、彼ははなれて行った。
「でも、どこへ行くんだ? 何を言うんだ?いったいどうしたというんだ? こんなことをしていいのか!……」ラズミーヒンはすっかりうろたえて口走った。
ラスコーリニコフはもう一度立ちどまった。
「これが最後だ。ぜったいに何も聞くな。きみに答える何もない……ぼくのところへ来るな。ぼくのほうからここへ来るかもしれん……ぼくを見捨てろ、だがあの二人は……見捨《・・》てないでくれ《・・・・・・》。ぼくの言うことがわかるかい?」
廊下は暗かった。彼らはランプのそばに立っていた。一分ほど黙って顔を見あっていた。ラズミーヒンは生涯この瞬間を忘れなかった。ぎらぎら燃えたひたむきなラスコーリニコフの視線が、刻一刻鋭さをまし、彼の心と意識につきささってくるようだった。不意にラズミーヒンはぎくっとした。何か異様なものが彼らのあいだを通りぬけたようだ……ある考えが、暗示のように、すべりぬけた。おそろしい、醜悪なあるもの、そして二人はとっさにそれをさとった……ラズミーヒンは死人のように真《ま》っ蒼《さお》になった。
「やっとわかったか?……」不意にラスコーリニコフは病的に顔をひきゆがめて言った。
「もどって、二人のところへ行ってくれ」と彼はだしぬけに言いそえると、くるりと振り向いて、すたすたと出て行った……
その晩プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの部屋で起ったことを、いまここに書きたてることはよそう。とにかくラズミーヒンはもどると、二人をなぐさめ、ロージャは病気だから休息が必要だと、口をすっぱくして説明し、ロージャはきっと来る、毎日来る、神経がひどくみだれているから、刺激してはいけないなどと、くどくどと言いきかせ、きっと目をはなさず注意していて、いいりっぱな医者を見つけて、立ち会い診察をさせる等々と誓った……要するに、その晩からラズミーヒンは二人の婦人の息子とも兄ともなったのである。
4
ラスコーリニコフはその足でソーニャが住んでいる運河ぞいのアパートに向った。アパートは三階建てで、古いみどり色の建物だった。彼は庭番を見つけて、仕立屋のカペルナウモフの住居《すまい》を聞くと、大ざっぱな見当をおしえてくれた。彼は内庭の隅《すみ》にせまく、暗い階段へ通じる入口を見つけて、どうにか二階までのぼると、庭に面して建物を巻いている廊下にでた。カペルナウモフの住居の入口はどこだろうと、なんだか狐《きつね》につままれたような気持で、真っ暗い中をしばらくうろうろしていると、不意に、三歩ばかりのところで、誰《だれ》かのドアが開《あ》いた。彼は思わずそのドアをつかんだ。
「どなた、そこにいるの?」とびっくりしたような女の声が聞いた。
「ぼくですよ……あなたのところへ来たんです」と答えて、ラスコーリニコフはおそろしくせまい控えの間へ入った。そこには、つぶれた椅子《いす》の上のゆがんだ銅の燭台《しょくだい》に、ろうそくがともっていた。
「あなたでしたの! まあ!」とソーニャは声を殺して叫ぶと、その場に釘《くぎ》づけになった。
「あなたの部屋へはどう行くんです? こちらですか?」
ラスコーリニコフは、彼女を見ないようにして、急いで部屋へ通った。
一分ほどするとソーニャもろうそくを持って入って来て、それを置くと、彼の思いがけぬ訪問にびっくりしてしまったらしく、言いようのない興奮につつまれて、どうしていいかわからない様子で彼のまえに立った。不意に蒼白《あおじろ》い顔に赤味がさし、目には涙さえあふれでた……彼女はいやな気もした、恥ずかしくもあった、しかし同時にうれしい気持もあった……ラスコーリニコフは急いで顔をそむけると、机のまえの椅子に坐《すわ》った。彼はちらと素早い目で室内の様子を見てとった。
それはだだッ広いが、おそろしく天井《てんじょう》の低い部屋で、カペルナウモフが貸しているたった一つの部屋だった。左手の壁に住居に通じるドアがしまっていた。反対側の右手の壁に、もうひとつドアがあったが、それはいつもしめきってあった。そちらはもう隣の住居で、部屋番号も別だった。ソーニャの部屋はなんとなく物置きみたいで、まるでひっつぶしたような四角形で、それがいかにも部屋をみにくくしていた。運河に面した壁は、窓が三つあって、部屋を斜めにたち切っていた、そのためにひとつの角がおそろしくとがって深くえぐれこみ、あわいあかりでは奥のほうがよく見えないほどだった。その反対側の角は逆にぶざまなほど鈍かった。このだだッ広い部屋に家具らしいものはほとんどなかった。右隅にベッドがひとつおいてあり、そのそばに、ドアに近く椅子が一脚あった。ベッドのある壁際《かべぎわ》の隣の住居に通じるドアのそばに、青っぽいクロースをかけた粗末な薄板のテーブルがあって、そのそばに二脚の籐《とう》椅《い》子《す》がおいてあった。それから、反対側の壁際のとがった角のそばに、小さな安物のタンスがひとつ、がらんとした中に忘れられたようにおいてあった。これが室内にある全部だった。すれた黄色っぽいぼろぼろの壁紙が四隅は黒くなっていた。きっと冬はじめじめして、石炭のガスがこもるにちがいなかった。貧しさが一目でわかった。ベッドのそばにさえカーテンがなかった。
ソーニャはこんなにじろじろと無遠慮に室内を見まわしている客を、黙って見まもっていたが、しまいに、自分の運命を決する裁判官のまえに立たされているような気がして、おそろしさのあまりぶるぶるふるえだした。
「おそく伺って……十一時になりましたか?」と彼はやはり彼女へ目をあげようとはしないで、尋ねた。
「はい」とソーニャは呟《つぶや》くように言った。
「あ、そう、なりましたわ!」と彼女は不意に、まるでその一言にすべての解決の道があるように、急いで言いたした。「いましがた家主の時計が打ったばかりですわ……わたしはっきり聞きました……そうですわ」
「これはぼくの最後の訪問です」とラスコーリニコフは今日はじめてここを訪ねたばかりなのに、暗い声で言った。「おそらく、もう二度と会うことはないでしょう……」
「あなたは……どこか遠いところへ?」
「わかりません……すべては明日……」
「それじゃ、明日カテリーナ・イワーノヴナのところへはいらしていただけないのですか?」ソーニャの声がふるえた。
「わかりません。すべては明日の朝です……そのことではありません、ぼくは一言あなたに言いのこしたいことがあってきたのです……」
彼はもの思いにしずんだ目を彼女にあげた、そしてはじめて、自分が坐っているのに、彼女はまだまえに立っているのに気がついた。
「どうして立っているんです? おかけなさい」と彼は急に、しずかなやさしい声にかわって、言った。
彼女は腰をおろした。彼はやさしく、まるであわれむように、しばらく彼女を見つめていた。
「ひどく痩《や》せてますねえ! この手はどうでしょう! まるで透きとおるようだ。指は、死んだ人の指みたいだ」
彼はソーニャの手をとった。ソーニャは弱々しく笑った。
「わたしはいつもこんなでしたわ」と彼女は言った。
「家にいたころも?」
「ええ」
「まあ、そりゃ、そうだろうさ!」と彼はとぎれとぎれに言った、そして顔の表情と声の調子がまた急にかわった。彼はもう一度あたりを見まわした。
「これはあなたがカペルナウモフから借りているんですか?」
「はい……」
「家主は、このドアの向うですか?」
「はい……あちらにもこれと同じような部屋があります」
「みんな一部屋に住んでいるんですか?」
「そうですわ」
「ぼくならこの部屋に住んだら、夜が怖いでしょうね」と彼は暗い声で言った。
「みんなとてもいい人たちですし、とてもやさしくしてくれますわ」と、ソーニャはまだ自分をとりもどせないで、考えをうまくまとめられない様子で、答えた。「家具も、何もかも……すっかり家主さんのですの。二人ともとてもいい人ですし、子供たちもしょっちゅうあそびに来ますわ……」
「それはどもりの子供たちでしょう?」
「そうですわ……主人はどもりで、それにびっこです。おかみさんも……どもりというほどでもないのですが、なんだかしまいまではっきりものが言えないみたいで。おかみさんはいい方ですわ、とっても。主人はもと屋敷奉公の農奴でしたの。子供は七人います……いちばん上の男の子一人だけがどもりで、あとは弱いだけで……べつにどもりじゃありませんわ……あなたはどこからそんなことをお聞きになりまして?」と彼女はいくらかおどろいた様子でつけ加えた。
「あのころあなたのお父さんがすっかり話してくれたんですよ。あなたのこともすっかり話してくれました……あなたが六時に出て行って、八時すぎにもどってきたことも、カテリーナ・イワーノヴナがあなたのベッドのそばにひざまずいたことも」
ソーニャは赤くなった。
「わたしあのひとを今日見たような気がしましたの」と彼女はあやふやな調子で言った。
「誰を?」
「父ですの。わたしが通りを歩いていると、すぐまえの、角のところで、九時すぎでしたわ、まえを歩いて行くの、父そっくりのひとが。わたしもうカテリーナ・イワーノヴナのところへ知らせに寄ろうかと思いましたわ……」
「あなたは散歩していたんですか?」
「そうです」ソーニャはまた赤くなって、目を伏せると、とぎれとぎれに囁《ささや》くように言った。
「カテリーナ・イワーノヴナはあなたをぶちそうになったことがよくあったそうですね、家にいたころ?」
「まあ、そんなこと、あなたはなんてことを、どうしてあなたはそんなことを、ちがいますわ!」なぜかおどろきの色をさえうかべて、ソーニャは彼を見つめた。
「じゃあなたはあの女《ひと》を愛しているんですか?」
「あの女《ひと》を? ええ、そんなこと、きまってるじゃありませんか!」ソーニャは不意に、苦しそうに両手で胸をおさえ、哀訴するように言葉を長くひいた。「ああ! あの女《ひと》がどんなひとか……ちょっとでも知ってくだすったら、ほんとにまるで赤ちゃんみたいですのよ……それに頭がすっかりみだれてしまって……悲しみのあまり。むかしはほんとに利口なひとでしたわ……ほんとに気持がおおらかで……心のやさしいひとでしたわ! あなたは何も、何もご存じないのよ……ああ!」
ソーニャは絶望にとらわれたように、不安と苦悩に両手をもみしだきながら、こう言った。蒼白い頬《ほお》にまた赤味がさし、目に苦悩の色がうかんだ。彼女は胸の数知れぬ痛みにふれられて、何かを言葉にあらわし、はっきり言って、弁護したくてたまらない様子であることは、すぐにわかった。もしこんな表現ができるなら、飽くことを知らぬ《・・・・・・・・》同情とでもいうものが、不意に彼女の顔中にみなぎった。
「ぶったなんて! でも、どうしてあなたはそんなことを! ひどいわ、ぶったなんて!たとえぶったとしても、それがどうしたというの! ね、それがどうしたというの? あなたは何も、何も知らないのよ……あれはそれは不幸なひとなのよ、ああ、なんて不幸なひとかしら! それに病気で……あのひとは正しさを求めているのよ……心の清らかなひとなのよ。どんなことにも正しさというものがあるはずだと、すっかり信じこんでいるから、だから要求するんだわ……どんなに苦しくとも、正しくないことはしないわ。世の人々がみんな正しいなんて、そんなことがあり得ないってことが、あのひとにはわからないのよ、だから苛々《いらいら》するんだわ……まるで赤ちゃん、赤ちゃんそっくりなのよ! あのひとは正しいひとよ、正しいひとですわ!」
「だが、あなたはどうなるんです?」
ソーニャはけげんそうに彼を見た。
「あのひとたちがみなあなたにのこされたじゃありませんか。もっとも、これまでだってあなたにおんぶしていたんでしょうがね、亡《な》くなったお父さんがあなたに酒代をねだってたくらいですから。ところで、これからはどういうことになるんです?」
「わかりませんわ」とソーニャは悲しそうに言った。
「あのひとたちはあそこにとどまりますか?」
「わかりませんわ、でもあの部屋は間代がたまっていますもの。おかみさんが今日ことわりたいと言ったら、カテリーナ・イワーノヴナは、こんなところに一秒だっていたくないなんて言ったそうですけど」
「いったいどうしてあのひとはそんな強がりを言うんでしょう? あなたを当てにしてるんですか?」
「まあ、ちがいますわ、そんな言い方をしないでください!……わたしたちはいっしょに、力を合わせて暮していますのよ」ソーニャは不意にまた興奮して、苛々した様子をさえ見せはじめた。それはまるでカナリヤか何か小鳥が怒ったとそっくりだった。「だって、あのひとはいったいどうしたらいいのです? ねえ、どうしたらいいの、どうしたらいいの?」と彼女は興奮して、はげしく問いつめた。「それにあのひとは今日どんなに、どんなに泣いたことでしょう! 頭がすっかりみだれているんですわ、あなたはお気づきになりませんでした? 普通じゃないのよ、明日は何もかもきちんとしなくちゃ、料理もそろえて、それから……なんて子供みたいにそわそわしてるかと思えば、急に手をもみしだいて、血を吐いて、泣きながら、とつぜんやけくそみたいに壁に頭をうちつけはじめたり。しばらくするとまた気がしずまって。あのひとはあなただけがたよりなのよ。これからはあなたが助けてくださるなんて言って、それからまたこんなことも言うのよ、どこかでお金をすこし借りて、わたしも連れて故郷の町へかえり、そこで上流階級のお嬢さんたちの寄宿学校をひらき、わたしを舎監にする、そしてあたしたちのまったく新しいすばらしい生活がはじまるんだなんて。そしてわたしを抱きしめ、接吻《せっぷん》し、なぐさめてくれるの。そう信じているのよ! 空想をすっかり信じこんでいるの! でも、そうじゃないと言えて? 今日は一日中洗ったり、ふいたり、つくろったり、あの弱い力でたらいを部屋の中へもちこんだりして、息をきらして、いきなり寝床に倒れてしまったわ。でもまだ朝のうちわたしもいっしょに出かけて、ポーレチカとレーナに靴《くつ》を買ってやろうと思いましたの、だってあの子たちの靴はもうすっかりぼろぼろでしょう、ところが計算してみたらお金が足りないの、ひどく足りないのよ。だってあのひとったらそれはそれはかわいらしい靴を選ぶんですもの、あのひとは好みがいいからなの、あなたはご存じないでしょうけど……そして店先で、番頭たちのいるまえで、お金が足りないって、いきなり泣きだしてしまって……ほんとに、かわいそうで見ていられませんでしたわ」
「まあ、そうでしょうね、あなたたちの……暮しぶりを見れば」とラスコーリニコフは苦々しいうす笑いをうかべて、言った。
「じゃ、あなたはかわいそうだと思いませんの? かわいそうじゃありませんの?」とソーニャはまた叫ぶように言った。「だってあなたは、あなたは、まだ何も知らないのに、最後のお金をくれてやったじゃありませんか。ああ、もしあなたがすっかり知ってくだすったら! わたしはほんとに、何度あのひとを泣かせたことでしょう! そう、つい先週も! ああ、いやなわたし! 父が死ぬ一週間まえに。わたしひどいことをしたのよ! それに何度、いったい何度わたしはあんなことをしたかしら! ああ、いまだってそうよ、思い出すと一日中苦しかったわ!」
ソーニャはそう言いながらも、思い出の苦しさに、両手をもみしだきさえした。
「あなたがひどい女だというのかね?」
「そうよ、わたしよ、わたしよ! あのとき家へかえったら」と彼女は泣きながら、語りつづけた。「父がわたしに言ったの、《ソーニャ、これを読んでくれんか、わしはなんだか頭が痛むんだよ、ね、読んでくれ……ほらこの本だよ》って。なんでしたか、アンドレイ・セミョーヌイチから借りた本でしたわ。レベジャートニコフさんといって、同じアパートに住んでいる人で、いつも父におもしろい本を貸してくれましたの。それをわたしったら、《だめよ、すぐ出かけるんだから》なんてことわったのよ。わたし読みたくなかったの。家へよったのは、カテリーナ・イワーノヴナに襟《えり》を見せたいためだったんだもの。古着屋のリザヴェータが襟と袖当《そであて》を安くもってきてくれたの。とっても素敵で、新品そっくりで、きれいな模様までついてるの。カテリーナ・イワーノヴナはすっかり気に入ってしまって、それをつけて、鏡をのぞきこんでいましたわ、そしてもうますます気に入って、《ねえ、ソーニャ、これをちょうだいな、おねがいよ》なんて言ったわ。おねがいよ《・・・・・》なんて頼むのは、よっぽどほしかったんだわ。だって、そんなものを着てどうするつもりかしら? ただ、昔の幸福だった時代を思い出すだけだわ! 鏡の自分をながめて、うっとりしているだけなの、だってもう何年も、衣装なんて一枚もないし、装身具だってひとつもないんだもの! それにあのひとは一度だって、何ひとつ、誰にもくれなんて言ったことがないのよ。気位が高くて、いっそ自分が最後のものをくれてやるようなひとなの、それがこんなことを頼むなんて――よくよくのことだったんだわ! ところがわたしもくれるのが惜しくなって、《カテリーナ・イワーノヴナ、こんなものをもらってどうするのよ?》そうよ、《どうするのよ?》なんて言ってしまったの。こんなことはあのひとに言っちゃいけなかったんだわ! あのひとはじっとわたしを見つめましたわ。わたしにことわられたのが、どれほどつらく悲しいことだったか、ほんとにかわいそうで見ていられないくらいでしたわ……それも襟が惜しいのじゃなく、わたしにことわられたのがくやしいの。それはすぐにわかりましたわ。ああ、いまこうしたことがすっかりひっくりかえせたら、こうしたまえの言葉をすっかり言い直せたら、としみじみ思いますわ……ああ、わたしったら……何を言ってるのかしら!……こんなこと、あなたにはどうでもいいことですものね!」
「あの古着屋のリザヴェータをあなたは知っていたんですか?」
「ええ……じゃあなたも知ってましたの?」とソーニャはいくらかおどろいた様子で聞きかえした。
「カテリーナ・イワーノヴナは肺をやられています、かなりひどく。もう長いことはないでしょう」とラスコーリニコフはしばらくして、問われたことには答えないで、言った。
「まあ、ちがいます、ちがいます、ちがいますわ!」
そう言ってソーニャは、ちがうことを哀願するように、無意識に彼の両手にすがりついた。
「でも、死んだほうがいいじゃありませんか」
「いいえ、よくありません、よくありません、ちっともよくありませんわ!」と彼女はおびえきって、無意識にくりかえした。
「じゃ、子供たちは? そうなったら、あなたが引き取らなかったら、いったいどこへやるつもりです?」
「ああ、そんなことわかりませんわ!」とソーニャはほとんど絶望的に叫んで、頭をかかえた。この考えはもう何度となく彼女の頭にうかんだもので、彼がいままた改めてそれをつつきだしたにすぎないことは、明らかだった。
「ところで、もしあなたが、まだカテリーナ・イワーノヴナが生きているあいだに、病気になって、病院に収容されたとしたら、いったいどうなるでしょう?」と彼は残酷に問いつめた。
「ああ、何を言うんです、なんてことを言うんです! そんなことってあるものですか!」
そう言ったが、ソーニャの顔はおそろしい恐怖にゆがんだ。
「どうしてあり得ないのです?」とラスコーリニコフはこわばったうす笑いをうかべながら、つづけた。「あなたには保険がかかっているわけじゃないでしょう? だから、そうなったら、あのひとたちはどうなるでしょう? 一家そろって街へめぐみを乞《こ》いにでかける、カテリーナ・イワーノヴナはごほんごほん咳《せき》をしながら、袖を乞い、どこかで今日みたいに壁に頭をうちつける、子供たちは泣く……そのうち道ばたに倒れて、交番にはこばれ、病院に送られて、死ぬ、子供たちはあとにのこされて……」
「おお、やめて!……神さまがそんなことを許しませんわ!」という叫びが、とうとう、しめつけられたソーニャの胸からほとばしった。彼女は祈るような目で彼を見ながら、彼にすべての運命がかかっているように、組みあわせた手に無言の哀願をこめて、じっと聞いていたのだった。
ラスコーリニコフは立ちあがって、部屋の中を歩きまわりはじめた。一分ばかりすぎた。ソーニャは両手と頭を力なく垂れ、寒々とした気持で、しょんぼり立っていた。
「お金を貯《たくわ》えることはできませんか? 万一の場合にそなえて?」ととつぜん彼女のまえに立ちどまって、彼は尋ねた。
「だめですわ」とソーニャは蚊の鳴くような声で言った。
「むろん、だめでしょうね! でも、やってみたことはありますか?」と彼はほとんどあざけるようにつけ加えた。
「やってみましたわ」
「そして挫折《ざせつ》したというわけか! まあ、それがあたりまえでしょうな! 聞くまでもないですよ!」
そしてまた彼は部屋の中を歩きまわりはじめた。また一分ほどすぎた。
「毎日収入があるわけじゃないんでしょう?」
ソーニャはまえよりもいっそうどぎまぎして、またさっと赤くなった。
「ええ」と彼女は身を切られるような思いで、やっと囁くように言った。
「ポーレチカも、きっと、同じような運命になるでしょう」と彼はだしぬけに言った。
「ちがいます! ちがいます! そんなことあってたまるもんですか、ちがいますとも!」とソーニャは、まるでナイフでぐさりとえぐられたように、悲鳴に近い声で、必死に叫んだ。「神さまが、神さまが、そんなおそろしいことを許しません!……」
「ほかの人には許してますよ」
「いいえ、ちがいます! あの娘《こ》は神さまが守ってくださいます、神さまが!……」と彼女はわれを忘れて、くりかえした。
「だが、神なんてぜんぜん存在しないかもしれないよ」かえってひとの不幸を喜ぶような意地わるさで、ラスコーリニコフはこう答えると、にやりと笑って、彼女を見た。
ソーニャの顔はさっと変り、ひくひくと痙《けい》攣《れん》がはしった。彼女は言葉につくせぬ叱責《しっせき》をこめてじっと彼を見つめた、そして何か言おうとしたが、言葉にならず、不意に両手で顔をおおって、なんとも言えぬ悲痛な声でわっと泣き伏した。
「あなたは、カテリーナ・イワーノヴナの頭がみだれている、といったが、あなた自身も頭がみだれていますよ」と彼はしばらくの沈黙ののちに言った。
五分ほどすぎた。彼はやはり無言のまま、彼女のほうを見ようともせずに、部屋の中を行き来していた。とうとう、彼女のまえへ近よった。目がぎらぎら光っていた。彼は両手で彼女の肩をつかんで、泣きぬれた顔をじいっと見た。彼の目は乾いて、充血して、鋭く光り、唇《くちびる》がはげしくふるえた……不意に彼は、いきなり身を屈《かが》めると、床にひれ伏して、彼女の足に接吻した。ソーニャはぎょっとして、あわてて後退《あとずさ》った。彼が気がふれたかと思ったのだ。たしかに、彼は完全な気ちがいに見えた。
「何をなさいます、何をなさるんです? わたしなんかのまえに!」と彼女は蒼白《そうはく》になって、呟いた、そして急に心臓が痛いほどぎゅっとしめつけられた。
彼はすぐに立ちあがった。
「ぼくはきみに頭を下げたんじゃない、人類のすべての苦悩に頭を下げたんだ」彼は妙に荒っぽくこう言うと、ついと窓のほうへ行った。
「ねえきみ」と彼はしばらくするとソーニャのほうを向いて、つけ加えた。「ぼくはさっきある無礼者に言ってやったよ、やつなんかきみの小指にも値しないって……それからまた、今日はもったいなくも妹を、きみと並んでかけさせてやったって」
「まあ、あなたはそんなことをそのひとたちにおっしゃいましたの! しかも妹さんのまえで?」とソーニャはびっくりして叫んだ。「わたしと並んでかけさせたって! もったいないって! なんてことを、わたしは……恥ずべき女ですわ、ひじょうに、ひじょうに罪深い女ですわ! ああ、あなたはなんてことを言ってくれたんでしょう!」
「ぼくがきみのことでそう言ったのは、恥とか罪のためではない、きみの深い大きな苦悩のためだ。きみはひじょうに罪深い女だというが、たしかにそのとおりだ」彼は自分の言葉に酔ったようにこうつけ加えた。「きみが罪深い女だという最大の理由は、いわれもな《・・・・・》く《・》自分を殺し、自分を売りわたしたことだ。これが恐ろしいことでなかったらどうかしてるよ! きみは自分でこれほど憎んでいる泥《どろ》沼《ぬま》の中に生きながら、同時に自分でも、そんなことをしても誰の助けにもならないし、誰をどこからも救いだしはしないことを知っている。ちょっと目を開ければわからないはずがない。これが恐ろしいことでなくて何だろう! さあ、ぼくは、きみに聞きたいんだ」と彼は激昂《げっこう》のあまりほとんどわれを忘れかけて叫んだ。「きみの内部には、こんなけがらわしさやいやらしさが、まるで正反対の数々の神聖な感情と、いったいどうしていっしょに宿っていられるのだ? いきなりまっさかさまに河へとびこんで、ひと思いにきりをつけてしまうほうが、どれほど正しいか、千倍も正しいよ、よっぽど利口だよ、そう思わないか!」
「じゃ、あのひとたちはどうなります?」とソーニャは苦悩にみちた目でじっと彼を見つめて、しかし彼の言葉にはすこしのおどろいた様子もなく、弱々しい声で尋ねた。
彼はその目の中にすべてを読みとった。つまり、実際に彼女自身にすでにこの考えがあったのだ。おそらく、何度となく真剣に、どうしたらひと思いにかたがつけられるかと、絶望にしずみながら思いめぐらしたにちがいない。そしてそれがあまりにも真剣なために、いま彼の言葉を聞いてもすこしもおどろかないほどになっていたのであろう。彼女は彼の言葉の残酷さにさえ気づかなかった(彼の非難の意味も、彼女の汚辱を見る彼の特別な視線の意味も、むろん、彼女は気づかなかった。そしてそれが彼にははっきりわかった)。しかし彼は、このいやしい汚辱の境遇を恥じる思いが、もうまえまえから、どれほどのおそろしい苦痛となって彼女をさいなみつづけてきたかを、はっきりとさとった。いったい何が、彼は考えた、いったい何が、ひと思いに死のうとする彼女の決意を、これまでおさえてくることができたのだろう? そしていまはじめて彼は、父を失った哀れな小さな子供たちと、肺を病み、頭を壁にうちつけたりする、みじめな半狂人のカテリーナ・イワーノヴナが、彼女にとってどれほどの意味をもっているかを、はっきりとさとったのである。
しかしそれと同時に、あんな気性《きしょう》をもち、多少とも教育を受けているソーニャが、ぜったいにこのままでいられるわけがないことも、彼にはわかっていた。河に身を投じることができなかったとすれば、いったいどうしてこんなに長いあいだ気ちがいにもならずに、こんな境遇にとどまっていることができたのか? これはやはり彼にとって疑問だった。もちろん彼は、ソーニャの境遇が、たったひとつの例外というにははるかに遠いのはくやしいが、とにかく社会の偶然な現象であることは知っていた。しかしこの偶然そのものが、このある程度の教育とそれまでの生活のすべてが、このいまわしい道へ一歩ふみだしたところで、たちまち彼女を死へ追いやることができたはずではなかったか。彼女を支えていたのは、いったい何だろう? まさか淫蕩《いんとう》ではあるまい。この汚辱は、明らかに、機械的に彼女にふれただけだ。ほんものの淫蕩はまだ一しずくも彼女の心にしみこんでいない。彼にはそれがわかった。現に彼女は彼のまえに立っているではないか……
《彼女には三つの道がある》と彼は考えた。《運河に身を投げるか、精神病院に入るか、あるいは……あるいは、ついに、理性をにぶらせ、心を石にする淫蕩な生活におちこむかだ》最後の想定は彼にとってもっともいまわしかった。しかし、彼はもともと懐疑的だし、若いし、理論的だった。だから残酷でもあったわけで、最後の出口、つまり淫蕩な生活がもっとも確率が高いことを、信じないわけにはいかなかった。
《だが、いったいこれが本当だろうか》と彼は腹の中で叫んだ。《まだ魂の清らかさを保っているこの女が、そうと知りながら、ついには、あのけがらわしい悪臭にみちた穴の中へひきこまれて行くのだろうか? この転落がもうはじまっているのではなかろうか、だからこそ罪がそれほどいまわしいものに感じられず、それで今日まで堪えて来《こ》られたのではなかろうか? いや、いや、そんなはずはない!》と彼は、さっきのソーニャのように、叫んだ。《今日まで彼女を河にとびこませなかったのは、罪の意識だ、あの人たちだ《・・・・・・》、……じゃ、今日まで気が狂わずにいられたのは……だが、気が狂わなかったと、誰が言った? 果していまノーマルな理性をもっているだろうか? 彼女のような、あんなものの言い方ができるものだろうか? ノーマルな理性をもっていたら、彼女のようなあんな考え方ができるだろうか? 破滅の上に坐って、もうひきこまれかけている悪臭にみちた穴の真上に坐って、その危険を知らされても、あきらめたように手を振り、耳をふさぐなんて、そんなことが果してできるだろうか? 彼女はどうしたというのだ、奇跡でも待っているのか? きっとそうだ。果してこうしたことがみな発狂の徴候でないと言えようか?》
彼はこの考えにしつこくこだわっていた。むしろこの出口が、ほかのどんな出口よりも彼には気に入った。彼はますます目に力をこめてソーニャを凝視しはじめた。
「それじゃ、ソーニャ、きみは真剣に神にお祈りをする?」と彼は聞いた。
ソーニャは黙っていた。彼はそばに立って、返事を待った。
「神さまがなかったら、わたしはどうなっていたでしょう?」彼女は不意にきらっと光った目をちらと彼に投げて、早口に力強くこう囁くと、彼の手をはげしくにぎりしめた。
《やっぱり、そうだった!》と彼は思った。
「だが、それで神はきみに何をしてくれた?」と彼は更に問いつめた。
ソーニャは返事につまったように、長いこと黙っていた。彼女のかよわい胸ははげしい動揺のためにぶるぶるふるえていた。
「言わないで! 何も聞かないで! あなたにはそんな資格がありません!」と、怒りにもえる目できびしく彼を見すえながら、彼女はとつぜん叫んだ。
《そうだろうとも! そうだろうとも!》と彼は腹の中でしつこくくりかえした。
「何でもすっかりしてくださいますわ!」と彼女はまた目を伏せて、早口に囁いた。
《これが出口なんだ! これが出口の告白なんだ!》彼はむさぼるような好奇の目で彼女を見まわしながら、こう結論をくだした。
新しい、奇妙な、痛々しいような気持で、彼はこの蒼白い、痩せた、ととのわないとがった顔や、あのようなはげしい火花をちらし、きびしい力強い感情をむきだしてぎらぎら光ることもあるやさしい空色の目や、まだ怒りといきどおりにふるえている小さな身体《からだ》を見つめていた。そしてこうしたことすべてがいよいよ不思議な、ほとんどあり得ないことに思われてくるのだった。
《ばかな女だ! 狂信者だ!》と彼は腹の中でくりかえした。
タンスの上に本が一冊のっていた。彼はそのそばを行き来するごとに、それに目をやっていたが、今度は手にとって見た。それはロシア語訳の新約聖書だった。古いよごれた皮表紙の本だった。
「これはどこで?」と彼は部屋の向う隅から彼女に声をかけた。彼女はやはりもとのまま、机から三歩ばかりのところに立っていた。
「持ってきてくれましたの」彼女は気がすすまぬらしく、そちらを見もせずに答えた。
「誰が?」
「リザヴェータですわ、わたしが頼んだので」
《リザヴェータ! 不思議だ!》と彼は考えた。ソーニャのまわりのすべてのものが、どうしたわけか、しだいにますます不思議な奇妙なものに思われてきた。彼は聖書をろうそくのそばへ持って行って、ページをめくりはじめた。
「ラザロのところはどのへんかね!」と彼は不意に聞いた。
ソーニャはかたくなに床へ目をおとしたまま、黙りこくっていた。彼女は机にすこし横向きかげんに立っていた。
「ラザロの復活はどこかね? さがしてくれ、ソーニャ」
ソーニャは横目でちらと彼を見た。
「そんなところじゃないわ……第四の福音書よ……」と彼女はその場を動こうともせずに、けわしく小声で言った。
「さがして、読んでくれ」と言って、彼は椅子に腰を下ろし、机に肘をついて、片手で頭を支え、暗い目を横のほうの一点にすえて、聞く姿勢をとった。
《三週間もしたら第七天国へ、どうぞだ! おれも、おそらく、行くだろうよ、それより悪いことがなければな!》と彼は腹の中で呟いた。
ソーニャはラスコーリニコフの奇妙なねがいを不審な思いで聞いて、ためらいながら机のそばへ近よった。それでも、聖書は手にとった。
「ほんとにあなたは読んだことがありませんの?」彼女は机の向うから上目でちらと彼を見て、こう尋ねた。彼女の声はますますけわしくなった。
「ずっとまえに……学校にいた頃《ころ》。読んでくれ!」
「教会で聞いたこともないの?」
「ぼくは……行ったことがないよ。きみはときどき行くの?」
「う、ううん」とソーニャは囁いた。
ラスコーリニコフは苦笑した。
「わかるよ……それじゃ、明日お父さんの葬式にも行かないわけだな?」
「行きますわ。先週も行って……供《く》養《よう》をしましたわ」
「誰の?」
「リザヴェータの。あのひとは斧《おの》で殺されたのよ」
彼の神経はしだいにますます苛立ってきた。頭がくらくらしはじめた。
「きみはリザヴェータと仲がよかったのかい?」
「ええ……あのひとはまちがったことのきらいなひとでしたわ……ここへは……たまにしか……だって来れなかったんですもの。わたしたちはいっしょに読んだり……お話したりしたわ。あのひとは神さまにお会いになるでしょう」
この聖書の文句のような言葉が彼の耳には異様に感じられた。そしてまた、彼女とリザヴェータの奇妙なつきあい、そして二人とも――ばかな狂信者だという、新しい事実を知った。
《こんなことをしていると、こっちまでばかな狂信者になりかねないぞ! 伝染病みたいだ!》と彼は考えた。「読んでくれ!」と彼はとつぜんじれったそうに、しつこく叫んだ。
ソーニャはまだためらっていた。胸がどきどきした。どういうわけか、彼に読んでやる勇気がなかった。彼はほとんど苦痛の表情で《不幸な狂女》を見つめていた。
「どうしてあなたに? だってあなたは信じていないじゃありませんか?……」と彼女はしずかに、なぜかあえぎながら、囁いた。
「読んでくれ! ぼくは読んでもらいたいんだ!」と彼は言いはった。「リザヴェータには読んでやったんだろう」
ソーニャは聖書をひらいて、そのページをさがした。手がふるえて、声がもたなかった。彼女は二度読みかけたが、二度ともはじめの一節を読み終えることができなかった。
《さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、ベタニヤの人であった……》と、彼女はとうとうやっとの思いで読みだしたが、急に、第三節のところで声がうわずり、張りすぎた弦のようにプツンときれてしまった。息がきれて、胸がしめつけられたのだ。
ソーニャがなぜ彼に読んでやることをためらうのか、ラスコーリニコフにはうすうすわかっていた、そしてそれがはっきりわかってくるにつれて、彼はますます苛立ち、乱暴に読ませようとした。いま彼女には自分のすべ《・・・・・》て《・》をさらけ出すことがどれほど辛《つら》かったか、彼はわかりすぎるほどわかっていた。こうした感情が実際に彼女のほんとうの、しかもおそらく、もうまえまえからの秘密《・・》となっていたらしいことを、彼はさとった。もしかしたらまだ少女の頃から、不幸な父の家で、悲しみのあまり気のふれた義母や飢えた子供たちにかこまれ、みにくいわめき声や叱責ばかり聞かされていた頃から、彼女の胸の中にあったのかもしれぬ。しかし同時に彼はいま、しかも確実に、彼女は読みかけて、何ものかをひどくおそれ、心を痛めてはいるが、その半面、どんなに心が痛もうが、どんな不安におびやかされようが、なんとしても読みたい、しかも彼に《・・》読んでやりたい、彼に聞かせたい、しかもどうしてもいま《・・》――《あとでどんなことになろうと!》……というせつないまでの気持があることを、はっきりとさとった。彼はそれを彼女の目の中に読んだ、彼女の狂喜ともいえる興奮からさとった……彼女は自分をはげまし、朗読のはじめに彼女の声をとぎらせたのどのふるえをおさえて、ヨハネによる福音書の第十一章の朗読をつづけた。こうして彼女は十九節まで読んだ。
《大ぜいのユダヤ人が、その兄弟のことで、マルタとマリヤとを慰めようとしてきていた。マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた。マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえてくださることを、わたしはいまでも存じています」》
そこで彼女はまた朗読をとめた。ふるえて、また声がとぎれそうな気がして、恥ずかしくなったのである……
《イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり《・・・・・・・・・・・・》、命である《・・・・》。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」マルタはイエスに言った》
(そして、苦しそうに息をつぎながら、ソーニャはまるで自分がみんなのまえで懺悔《ざんげ》しているように、一語一語はっきりと力をこめて読んだ)
《「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子《みこ》であることを信じております」》
彼女はそこで読むのをとめて、急いで彼《・》に目を上げようとしたが、そのまえに自分をおさえて、先を読みはじめた。ラスコーリニコフはじっと坐って、机に肘をつき、わきのほうへ目をやったまま、身動きもせずに聞いていた。三十二節まで読んだ。
《マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」イエスは、彼女が泣き、また、彼女といっしょにきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、「彼をどこに置いたのか」彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらんください」イエスは涙を流された。するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」》
ラスコーリニコフは彼女のほうを向いて、感動の目で彼女を見た。そうか、やはりそうだったのだ! 彼女はもうほんとうのおこりにかかったようにがくがくふるえていた。彼はそれを待っていたのだった。彼女はいまだ例のない偉大な奇跡の話に近づいた、そして偉大な勝利の感情が彼女をとらえた。彼女の声は金属音のように冴《さ》えわたった。勝利と喜びがその声にこもり、その声を強いものにした。目の前が暗くなって、行がかさなりあったが、彼女はそらでおぼえていた。《あの盲人の目をあけたこの人でも……》という最後の節で、彼女はちょっと声をおとして、信じない盲目のユダヤ人たちの疑惑と、非難と、誹《ひ》謗《ぼう》を、はげしい熱をこめてつたえた。彼らはもうじき、一分後には、雷にうたれたようにひれ伏し、号泣し、信じるようになるのだ……
《彼《・》も、彼《・》も――信じない盲者だ、――彼ももうすぐこの先を聞いたら、信じるようになる、そうだ、それにきまっている! もうじき、もうじきだ》こう思うと、彼女は喜びがもどかしくてがくがくふるえた。
《イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴《どうけつ》であって、そこに石がはめてあった。イエスは言われた、「石をとりのけなさい」死んだラザロの姉妹マルタが言った。「主よ、もう臭くなっております。四日《・・》もたっていますから」》
彼女は四日《・・》という言葉に力をこめて読んだ。
《イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」人々は石をとりのけた。すると、イエスは目を天に向けて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞きくださったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれてくださることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを信じさせるためであります」こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると死人は《・・・・・・》》
(彼女は自分がその目で見たように、感激に身をふるわし、ぞくぞくしながら、勝ちほこったように声をはりあげて読んだ)
《手足を布でまかれ、顔を顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」
マリヤのところにきて《・・・・・・・・・・》、イエスのなさった《・・・・・・・・》ことを見た多くのユダヤ人たちは《・・・・・・・・・・・・・・・》、イエスを《・・・・》信じた《・・・》》
彼女はその先は読まなかった、読むことができなかった。彼女は聖書をとじて、急いで立ちあがった。
「ラザロの復活はこれでおわりです」ととぎれとぎれにそっけなく囁くと、彼女は顔をそむけて、彼を見るのが恥ずかしいように、目をあげる勇気もなく、じっと身をかたくした。熱病のようなふるえはまだつづいていた。ひんまがった燭台の燃えのこりのろうそくはもうさっきから消えそうになっていて、不思議な因縁《いんねん》でこの貧しい部屋におちあい、永遠の書を読んでいる殺人者と娼婦《しょうふ》を、ぼんやり照らしだしていた。五分ほどすぎた。あるいはもっと経《た》ったかもしれぬ。
「ぼくは用事があって来たんですよ」ラスコーリニコフはとつぜん顔をしかめて、大きな声でこう言うと、立ちあがって、ソーニャのほうへ近よった。ソーニャは黙って彼に目をあげた。彼の目はひどくけわしく、何か異様な決意が顔にあらわれていた。
「ぼくは今日肉親をすてました」と彼は言った、「母と妹です。ぼくはもう彼らのところへ行きません。いっさいの縁をたちきってしまったのです」
「なぜですの?」とソーニャはあっけにとられてぼんやり尋ねた。先ほどの彼の母と妹との対面は、彼女自身はっきりはわからなかったが、彼女の胸に異常な感銘をのこしたのだった。縁をきったという知らせを、彼女は恐怖に近い気持で聞いた。
「いまのぼくにのこされたのはきみ一人だけだ」と彼はつけ加えた。「いっしょに行こう……そのためにぼくはここへきたのだ。ぼくらは二人とも呪《のろ》われた人間だ、いっしょに行こうよ!」
彼の目はぎらぎら光った。《半狂人みたいだ!》と、今度はソーニャがふと思った。
「どこへ行くの?」彼女はぎょっとしてこう聞くと、思わず後退った。
「それがどうしてぼくにわかる? ぼくが知ってるのは、道が同じだということだけだよ、それだけは確実に知っている、――それだけさ。目的も同じなんだ!」
ソーニャは彼を見つめていたが、何のことやらさっぱりわからなかった。彼がおそろしく、限りなく不幸だということだけが、わかった。
「きみがあの人たちに話しても、誰も何もわかるまい」と彼はつづけた。「だが、ぼくはわかった。きみはぼくに必要な人間なんだ。だからぼくはここへ来たんだ」
「わからないわ……」とソーニャは囁くように言った。
「そのうちにわかるよ。きみがしたのだって、同じことじゃないか? きみだって踏みこえた……踏みこえることができたんだ。きみは自分に手を下した、自分の《・・・》……生命を亡《ほろ》ぼした(これは同じことだ!)。きみは魂と理性で生きて行かれたはずだ、それをセンナヤ広場で果ててしまうのさ……だがきみにはそれを堪える力がない、だから一人きり《・・・・》になったら、発狂してしまうだろう。ぼくだって同じなんだ。きみはもうすでに気ちがいじみている。だから、ぼくたちはいっしょに行かなければならないんだよ、同じ道を! さあ、行こうじゃないか!」
「どうしてなの? どうしてあなたはそんなことを言うの!」ソーニャは彼の言葉にあやしく胸を騒がせながら、呟くように言った。
「どうして? このままではいられないからさ、――それが理由だよ! もういいかげん、真剣に率直に考えなきゃいかんよ。いつまでも子供みたいに泣いたり、神さまが許さないなんてわめいたりしていたって、はじまらんさ。ええ、ほんとに明日きみが病院に収容されたら、どうなる? あの女は頭がどうかしてるし、肺病だ、じきに死ぬだろうが、子供たちは? ポーレチカが身を亡ぼさないと言えるかね? いったいきみは、母親に袖《そで》乞《ご》いに出されて、そこらここらにうろうろしている子供たちを、見たことがないのかい? ぼくはよく知ってるよ、そういう母親たちがどこにどんな状態で住んでいるか。そういう境遇では子供たちが子供でいることはできないんだよ。わずか七歳で春を売るのも、泥棒《どろぼう》をするのもいるよ。だが、子供たちは――キリストの姿じゃないか。《天国はこのような者の国である》と教えてるじゃないか。彼は子供たちを敬い愛せよと命じた。子供たちは未来の人類なんだよ……」
「それじゃいったい、どうしろというの?」とソーニャはヒステリックに泣き、手をもみしだきながら、叫んだ。
「どうしろ? 砕くべきものは、ひと思いに砕いてしまう、それだけのことだよ。そして苦悩をわが身にになうんだ! なに? わからない? いずれわかるよ……自由と力、特に大切なのは力だ! すべてのおののける者どもとすべての蟻塚《ありづか》の上に立つのだ!……これが目的だ! おぼえておきたまえ! これがきみにおくるぼくの門出の言葉だよ! もしかしたら、きみと話すのもこれが最後かもしれん。もし明日ぼくが来なかったら、いっさいのことがひとりでにきみの耳に入るだろう、そしたらいまのこの言葉を思い出してくれ。いずれ、何年か後に、生活をかさねるにつれて、この言葉の意味がわかるようになるだろう。もし明日来たら、誰がリザヴェータを殺したか、おしえるよ。さようなら!」
ソーニャはおどろきのあまり呆然《ぼうぜん》となった。
「じゃ、あなたは知ってるの、誰が殺したか?」と彼女はおそろしさにそそけだって、けわしい目で彼を見つめながら、尋ねた。
「知ってるから言うんだよ……きみにだけ、きみ一人だけに! ぼくはきみを選んだ。ぼくはきみに許しを請いに来るのじゃない、ただ言いに来るだけだ。ぼくはそれを言う相手として、もうまえまえからきみを選んでいたのだ。きみのお父さんからきみのことを聞いたころから、まだリザヴェータが生きていたころから、ぼくはもうそれを考えていたんだよ。さようなら。握手はいらんよ。じゃ明日《あした》!」
彼は出て行った。彼女は気ちがいだと思って彼に目をみはっていた。しかし彼女自身も気ちがいじみていて、自分でもそれを感じていた。頭がくらくらした。
《ああ! リザヴェータを殺した人を、どうしてあの人が知っているんだろう? あの言葉はどういう意味かしら? おそろしいことだわ!》しかし、そう思いながらも、あの考《・・・》え《・》は彼女の頭にうかばなかった。けっして!ゆめにも!……《おお、あのひとはきっとひどく不幸なひとなんだわ!……お母さんと妹さんを捨てたなんて。どうしてかしら? 何があったのかしら? そしてあのひとは何をしようとしているのかしら? どうしてあんなことを言ったのかしら? あのひとはわたしの足に接吻して、言った……(そう、はっきりと言ったわ)、わたしがいなければもう生きていかれないって……ああ、どうしよう!》
ソーニャは一晩中熱にうかされ、うなされつづけた。彼女はときどきはね起きて、泣いたり、手をもみしだいたりするかと思うと、また熱病のような眠りにおち、ポーレチカや、カテリーナ・イワーノヴナや、リザヴェータや、福音書の朗読や、彼の夢を見る……彼の蒼白い顔、熱っぽい目……彼が彼女の足に接吻して、泣いている……おお、神さま!
右側のドア、ソーニャの部屋とゲルトルーダ・カルローヴナ・レスリッヒの住居を区切っているドアのかげは、レスリッヒ夫人の住居に属している細長い部屋になっていて、もういつからか空《あ》いたままで、貸間札が門の壁や、運河に面した窓ガラスに貼《は》られていた。ソーニャはもうまえからその部屋には人がいないものと思いこんでいた。ところが、さっきからずうっと、その空き室のドアのそばにスヴィドリガイロフが立っていて、息を殺して、盗み聞きをしていたのである。ラスコーリニコフが立ち去ると、彼はその場に立ったままちょっと思案していたが、やがて爪先《つまさき》立《だ》ちでその空き室につづいている自分の部屋にもどり、椅子をひとつもって、またそっともとの場所に引っ返し、ソーニャの部屋につづくドアのそばに音のしないようにおいた。話が彼には興味深く意味ありげに思われて、すっかり気に入ってしまった。――そこで彼は椅子をはこび、これからは、さしあたっては明日にも、また一時間も立たされる不愉快さをさけて、ぐあいよく聞けるような場所をつくり、あらゆる点において十分な満足を得ようとしたのである。
5
翌朝、ちょうど十一時に、ラスコーリニコフは警察署の捜査課に出頭して、ポルフィーリイ・ペトローヴィチに取り次ぎをたのんだが、あまり待たされたので、むしろ意外な気さえした。少なくとも十分はすぎたが、まだ彼は呼ばれなかった。彼の考えでは、待ちかまえていたようにいきなり連れこまれるはずだった。ところが、控室に突っ立っている彼のそばを、人々が忙しそうに行ったり来たりしているが、どうやら彼になど、何の用もなさそうだった。事務室らしい次の部屋には、何人かの書記が机に向って書きものをしていたが、ラスコーリニコフがどこの何者なのかなど、まるで知りもしないふうだった。彼は不安な疑いの目であたりを見まわしながら、そのへんのどこかに、彼を逃がさないように見張りを命じられたひそかな監視の目がかくされてはいないかと、さぐった。しかし、そのようなものはどこにもなかった。彼が見たものは、事務員たちのせかせかと気ぜわしそうな顔と、さらに何人かの人々の顔で、誰《だれ》も彼になど見向きもしなかった。いまならどこへ行こうと、彼を見とがめるものはなさそうだ。もしも地下からわいてでたまぼろしのようなあの昨日の謎《なぞ》の男が、実際にすべてを目撃していて、すべてを知っているとしたら、――果していま彼ラスコーリニコフをこんなところにぼんやり突っ立たせて、のんびり待たせておくようなことをするだろうか、という疑問が彼の頭の中でますます強くかたまってきた。それに、彼が自発的にでてくるのを、十一時までも手をこまねいて待っているだろうか? そこで考えられるのは、あるいはあの男がぜんぜん密告しなかったか、あるいは……あるいは実はあの男も何も知らないで、自分がその目で何も見たわけではなかったか、(それはそうだ、どこからどうして見ることができたのだ?)いずれかだ。とすると、昨日彼ラスコーリニコフの身辺に起ったことはみな、またしても、彼のたかぶった病的な想像によって誇張された幻覚だったのか。この推測は、まだ昨日不安と絶望の絶頂にあったころから、もう彼の内部にかたまりはじめていた。いまこうしたことすべてを思いかえして、新しいたたかいに対する腹をきめると、彼は不意に、自分がふるえているのを感じた、――そしてあの胸《むな》くそのわるいポルフィーリイ・ペトローヴィチに対する恐怖でふるえているのだと思うと、彼は憤《ふん》怒《ぬ》で胸が煮えたぎった。彼にとって何よりおそろしいのは、あの男ともう一度会うということだった。彼はポルフィーリイ・ペトローヴィチをこれ以上憎めないほど憎んでいた、そして憎《ぞう》悪《お》のあまりうっかり自分を暴露してしまいはせぬかと、それを恐れたのだった。憤怒があまりにもはげしかったので、とっさにふるえがとまった。彼は冷たい傲慢《ごうまん》な態度でのぞむ腹をきめて、できるだけものを言わず、相手をよく見て言葉のうらをさぐることにしよう、せめて今度だけはどうあっても、病的に苛《いら》立《だ》つわるい癖をおさえつけよう、と自分に誓った。ちょうどそのとき彼はポルフィーリイ・ペトローヴィチの部屋に呼ばれた。
行ってみると、事務室にはポルフィーリイ・ペトローヴィチが一人きりだった。彼の事務室は広くもせまくもなく、部屋の中には、大きな応接テーブル、そのまえに油布張りのソファ、事務卓、片隅《かたすみ》に戸《と》棚《だな》、それに椅子《いす》が数脚あるだけで――それがみな黄色いつや出しの木でつくった備えつけの用度品だった。うしろの壁、というよりは仕切りの隅にドアがあって、しまっていた。してみると、その向うには、まだいくつか部屋がつづいているにちがいなかった。ラスコーリニコフが入ると、ポルフィーリイ・ペトローヴィチはすぐにそのドアをしめて、二人きりになった。彼はいかにも愉快そうに愛想よく客を迎えた、そしてラスコーリニコフがどうやら相手がうろたえているらしいと気がついたのは、しばらくしてからだった。彼は不意をつかれて面くらったか、あるいは一人でこっそり何かしているところを見つかったというふうな様子だった。
「ああ、これはこれは! あなたでしたか……わざわざこんなところへ……」とポルフィーリイは両手をさしのべて、言った。「さあ、おかけください、どうぞどうぞ! おや、あなたはおいやですかな、こんな親しげに……下《した》手《て》にでられるのが、――tout court(なるほど)そうでしたか? なれなれしすぎるなんて、どうか、気をわるくしないでください……さあ、どうぞ、こっちのソファのほうへ」
ラスコーリニコフは坐《すわ》ったが、その間も彼から目をはなさなかった。
《わざわざこんなところへ》とか、なれなれしさをあやまるとか、tout court(なるほど)なんてフランス語をつかうとか、その他《ほか》かぞえたらいろいろあるが、――こうしたことはみな特異な徴候だった。《それにしてもやつは、わざわざ両手をさしだしたくせに、うまいぐあいにひっこめて、ぜんぜんにぎらせなかったじゃないか》という疑惑がちらと彼の頭をかすめた。二人は互いに相手をさぐりあったが、視線があうとすぐに、二人とも稲妻のような早さで目をそらした。
「ぼくは書類をもってきたんです……時計の……これです。これでいいですか、それとももう一度書き直しましょうか?」
「何です? 書類ですか? ああ、どれ……ご心配なく、これで結構です」ポルフィーリイ・ペトローヴィチは、まるでどこかへ急いでいるみたいに、あわててこう言った。そしてそう言ってしまってから、書類を手にとって、目で読んだ。「たしかに、まちがいありません。何もつけ加えることはありません」彼は同じ早口でこう言いきると、それをテーブルの上においた。それから、しばらくして、彼はもうほかの話をしながら、またその書類をとりあげて、自分の事務卓へおき直した。
「あなたは、たしか、昨日ぼくに言いましたね、ぼくとあの……殺された老婆の関係について……正式に……尋ねたいとか……」とラスコーリニコフは改めて言いだした。
《チエッ、なんだっておれはたしか《・・・》、なんて言葉をはさんだのだ?》という考えが彼の頭をかすめた。《だが、このたしか《・・・》をはさんだのを、なぜおれはこんなに気にするのだ?》というもうひとつの考えが、すぐにそのあとから稲妻のようにひらめいた。
そして不意に彼は、自分の猜《さい》疑《ぎ》心《しん》が、ポルフィーリイにちょっと会って、一言二言ことばをかわし、一、二度視線をまじえただけで、一瞬のうちに早くもおそるべき大きさに成長してしまったことを感じた……これはおそろしく危険だ。神経が苛立ち、興奮がつよまるばかりだ。《まずい!……まずい……また口をすべらせるぞ》
「ああ、そうでしたね! でもご心配なく!急ぐことはありません、時間は十分にあります」とポルフィーリイはテーブルのそばを行き来しながら、呟《つぶや》くように言った。彼はなんとなくぶらぶら歩いているというふうで、そそくさと窓のほうへ行くかと思うと、事務卓のほうへ行ったり、また窓のほうへもどってみたり、ラスコーリニコフの疑《うたぐ》るような目をさけているかと思えば、急に立ちどまって、まともに執拗《しつよう》に彼の目をのぞきこむのだった。しかもそうしている彼のころころ《・・・・》ふとった小さなまるい身体《からだ》が、まるでマリがあちらこちらへころがっては、すぐにはね返ってくるようで、なんとも奇妙な感じだった。
「大丈夫ですよ、あわてることはありませんよ!……して、煙草《たばこ》はすいます? おもちですか? さあどうぞ、巻き煙草ですが……」彼は客に巻き煙草をすすめながら、話をつづけた。「実は、あなたをここへお通ししましたが、すぐその仕切りのかげが、ぼくの住居《すまい》なんですよ……官舎ですがね、でもいまは当分の間、自宅から通いです。ちょっとした修理をしていたんでね。もうほとんどできあがりました……官舎ってやつは、ご存じでしょうが、いいものですよ、――そうじゃありません? え、どう思います?」
「そう、いいものですね」と、ラスコーリニコフは嘲笑《あざわら》うような目で相手を見ながら答えた。
「いいものです、いいものですよ……」ポルフィーリイ・ペトローヴィチは急に何かぜんぜん別なことを考えだしたように、こうくりかえした。「そうです! いいものです!」しばらくすると、不意にひたとラスコーリニコフを凝視しながら、二歩ほどのところに立ちどまって、ほとんど叫ぶように言った。官舎はいいものだというこの再三のくりかえしは、その俗っぽさからみて、いま彼がラスコーリニコフに向けた真剣な、思いつめた、謎のようなまなざしとは、あまりにも矛盾していた。
しかしこれはラスコーリニコフの憎悪をますますあおりたてた。そして彼は相手を愚弄《ぐろう》するかなりうかつな挑戦《ちょうせん》を、もうどうしてもこらえることができなかった。
「ところで、何ですか」彼はほとんど不敵といえる目で相手をにらみながら、しかも自分の不敵さによろこびを感じているような態度で、こう尋ねた。「およそ検事と名のつくものには、はじめは遠い些《さ》細《さい》なことか、重要でも、まるで無関係なことからはじめて、いわば、容疑者を元気づけ、というよりは油断させ、注意をそらしておいて、不意に、まったく思いがけぬところで、何かぜったいのきめ手となる危険な質問をいきなりあびせかけて、相手の度《ど》胆《ぎも》をぬくという、捜査の規則というか方法というか、そういうものがあるそうですね、そうですか? そのことは、あらゆる法規や判例にいまでもちゃんと述べてあるそうじゃありませんか?」
「それはまあ、そうですが……どうしたんです、あなたはどうやら、わたしが官舎の話をしたのを、その……え?」
そう言うと、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは目をそばめて、ぱちッと目配せした。何か愉快そうなずるい表情がちらと彼の顔をはしり、額のしわがのび、目が細くなって、間のびのした顔になったかと思うと、とつぜんけたたましく笑いだした。彼は全身をふるわせながら大きくゆすぶり、まっすぐにラスコーリニコフの目を見つめたまま、笑いつづけた。ラスコーリニコフもいくらか無理に、作り笑いをしようとした。ところがポルフィーリイが、ラスコーリニコフも笑っているのを見て、いよいよおさえがきかなくなり、顔を真っ赤にして腹をかかえて笑いだしたとき、ついにラスコーリニコフの嫌《けん》悪《お》はいっさいの警戒心を踏みこえてしまった。彼は笑いをやめ、むずかしい顔をして、相手が何かふくむところありげに絶えまない笑いをつづけているあいだ中、その顔から目をはなさずに憎悪をこめてにらみつづけていた。しかし、うかつさは明らかに双方にあった。つまり、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは面とむかって相手を嘲笑《ちょうしょう》し、相手がその嘲笑を憎悪の気持でうけとめているのを見ながら、それにほとんど気まずさを感じていない様子だった。これはラスコーリニコフにはひじょうな意味のあることだった。彼はさとった。きっと、さっきもポルフィーリイ・ペトローヴィチは気づまりなどぜんぜん感じはしなかったのだ、かえって、彼ラスコーリニコフのほうがわなにおちたのかもしれぬ。とすると、ここには明らかに彼の知らない何かがある、何かの目的がある。もしかしたら、もうすっかり手《て》筈《はず》ができていて、もうすぐそれが正体をあらわし、頭上におそいかかってくるのではなかろうか……
彼はただちに用件にとりかかるつもりで、立ちあがると、帽子をつかんだ。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィチ」と彼は決然とした態度で言ったが、その声にはかなりはげしい苛立ちがあった。「あなたは昨日ある尋問のためにぼくが来ることを、希望しておられましたね(彼は尋問という言葉に特に力を入れた)。それで、ぼくは来たわけです。さあ何なりと、聞いてください。なかったら帰らせていただきます。ゆっくりしていられません、用があるんです……ぼくは、あなたも……ご存じの……あの馬車にひかれて死んだ官吏の葬式に行かなければならないのです……」と彼はつけ加えたが、すぐにそんなよけいなことを言った自分に腹がたって、ますます神経を苛立ててしまった。「こんなことはもううんざりです、おわかりですか、もう何日になります……ひとつにはこのために病気にもなったんです……くどいことは言いません」病気のことなど言ったのは、ますますまずかったと感じて、彼はほとんど叫ぶように言った。「要するに、尋問するか、いますぐ帰すか、どっちかにしてください……尋問なさるなら、形式《かた》どおりにねがいます!それ以外はごめんです。だから今日のところはこれで失礼します、いまあなたとこうしていてもしようがないですよ」
「とんでもない! どうしてそんなことを!いったいあなたに何を尋問するんです」とっさに笑うのをやめて、調子も態度もがらりと変えて、ポルフィーリイ・ペトローヴィチはあわててのどをつまらせながら言った。「まあ、どうぞ、ご心配なく」彼はまたせかせかとあちらこちらへ歩きだしたかと思うと、とつぜんしつこくラスコーリニコフに椅子をすすめたりしながら、ちょこまかしだした。「時間はありますよ、時間はたっぷりあります。そんなことはみならち《・・》もないことですよ! わたしは、それどころか、あなたにやっと来てもらえたことが、うれしくてたまらないんですよ……わたしはあなたをお客として迎えています。ロジオン・ロマーヌイチ、不《ぶ》躾《しつけ》に笑ったことは、どうかかんべんしてください。ロジオン・ロマーヌイチ? たしかこうでしたね、あなたの父称は?……わたしは神経質なものですから、あなたのピリッとわさびのきいた言葉にはすっかり笑わされてしまいましたよ。どうかすると、ほんと、ゴムまりみたいにはじきかえって、三十分も笑いつづけることがあるんですよ……笑いによわいんですな、脳溢血《のういっけつ》の体質のくせにね、まあ、おかけくださいな、どうしたんです?……さあ、どうぞ、さもないと、気にしますよ、ほんとに怒ったんですか……」
ラスコーリニコフはまだ怒ったしかめ面《つら》をしたまま、黙って相手の言葉を聞きながら、じっと様子をうかがっていた。それでも、彼は坐った。しかし帽子は手からはなさなかった。
「ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、ちょっと自分のことを言わしてもらいますが、まあ性格の説明としてですね」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはせかせかと室内を歩きまわり、また客と目の合うのをさけるようにしながら、つづけた。「わたしは、ご存じのように、ひとり者で、社交界も知らないし、名もない人間です、しかももうできあがった人間、かたまった人間です、もうぬけがらになりかけています。で……それでですね……ね、ロジオン・ロマーヌイチ、お気づきと思いますが、われわれの周囲では、つまりわがロシアではですね、特にわがペテルブルグの社会では、もし二人の頭のいい人間が、それほど深い知り合いではないが、いわば、互いに尊敬しあっている、つまりいまのわたしとあなたみたいなですね、いっしょになると、まず三十分くらいはどうしても話のテーマを見つけることができないで、――互いにこちこちになって、坐ったまま気まずい思いをしている。誰にだって話のテーマはあるんですよ、例えば、婦人方とか……上流社会の人々なんかは、いつだって必ず話のテーマをもってます、C'est de rigueur(それがきまりみたいになってるんですよ)。ところが、わたしたちみたいな中流階級の人間は、みな恥ずかしがりやで、話下手で……つまりひっこみ思案なんですね。それはどこからくると思います? 社会的な関心がないとでもいうのでしょうか、それとも正直すぎて、互いに相手を欺《だま》すのがいやなんでしょうか、わたしにはわかりません。え? あなたはどう思います? まあ、帽子をおきなさいよ、まるでいますぐ帰りそうな格好をなさって、見ていても気が気じゃありませんよ……わたしがこんなに喜んでるのに……」
ラスコーリニコフは帽子はおいたが、あいかわらず黙りこくって、むずかしい顔をしたまま真剣にポルフィーリイの中身のない要領を得ないおしゃべりに耳をかたむけていた。《こいつ何を言っているのだ、本気で、こんなあほらしいおしゃべりでおれの注意をそらそうとでも思っているのか?》
「コーヒーは、こんな場所ですから、だせませんが、五分くらいいっしょにいてくれてもかまわんでしょう、気晴らしになりますよ」とポルフィーリイは休みなくしゃべりつづけた。「まったく、およそこうした職務というやつは……ところで、わたしがこうしてのべつ歩きまわっていることに、どうか気を悪くなさらんでください。すみません、あなたを怒らせるのがわたしはいちばん恐《こわ》いんですよ、わたしにはただ運動が必要なだけで、別に他意はありません。坐ってばかりいますと、こうして五分ほど歩くのがうれしくてねえ……それに痔《じ》がわるいんで……なんとか体操でなおそうと思いましてね。噂《うわさ》にきくと、五等官や四等官、さらに三等官なんておえら方でさえ、好んで縄《なわ》とびをやっているそうですよ。まったく、科学ですからな、現代は……ところで、ここの職務や、尋問や、その形式ということですがね、……そら、あなたはいま尋問のことをおっしゃったでしょう……これは実際、ロジオン・ロマーヌイチ、この尋問というやつはときによると、尋問されるほうよりも尋問するほうを迷わせることがあるものですよ……このことはいまあなたが、ずばりと皮肉に言ってのけましたが、まったくそのとおりです(ラスコーリニコフはそんなことはぜんぜん言わなかった)。迷ってしまいます! 実際、迷ってしまいますよ! それにいつも同じことばかり、のべつ同じことのくりかえし、まるで太鼓をたたいているようなものですよ! この頃《ごろ》は改革が行われているでしょう。われわれもせめて名称だけでも変えてもらいたいと思いますよ。へ! へ! へ! ところでわれわれ司法官の方法ですが、――あなたの鋭い表現をかりればですな、――これはまったくあなたのご意見に賛成です。まあどんな被告でも、もっともにぶい百姓だって、例えば、はじめは無関係な質問をやつぎ早にあびせておいて(あなたのみごとな表現をかりればですな)、そのうちにとつぜん脳天にがんとくらわせるくらいのことは、ちゃんと承知してますよ。がんと、斧《おの》の背でね、へ! へ! へ! 脳天にですよ、あなたのみごとな比喩《ひゆ》によればね! へ! へ! あなたは本気でそんなことを考えたんですか、つまりわたしが住居の話であなたを……へ!へ! 皮肉な人ですよ、あなたも。まあ、そんなことはしませんよ! あ、そうそう、ついでにひとつ、どうも、しゃべったり考えたりしていると、よくまあ次々と言葉や考えがでてくるものですねえ、――あなたはさっき形式のことも言われましたな、ほら、尋問のですよ……形式とはいったい何でしょう! 形式なんて、たいていの場合、くだらんものですよ。ときには、友だちとして話しあうだけのほうが、ずっと有利なこともあります。形式は決して逃げて行きません、その点はどうかご心配なく。それに、うかがいますが、本当のところ形式とは何でしょう? 形式で予審判事の動きはしばられませんよ。予審判事のしごとは、いわば、自由な芸術ですからな、一種のね、いや似て非なるものかな!……へ! へ! へ!……」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはちょっと息をついだ。彼は疲れも知らずに、とめどなくしゃべった。意味もなくばかげたことを言っているかと思うと、不意に何か謎めいた言葉をもらし、すぐにまたばかげた話にまぎれこんでしまうというぐあいだった。彼はもうほとんど走るように部屋の中を歩きまわっていた。ふとった小さな足をますます早くちょこまかうごかし、うつむいたまま、右手を背にあて、左手をたえず振りまわしたり、さまざまなジェスチュアをしたりして、歩きまわった。そのジェスチュアがまたそのつど彼の言っていることとあきれるほどそぐわなかった。ラスコーリニコフは不意に、彼が部屋の中を走りまわりながら、二度ほどドアのそばにちょっと足をとめて、何かに耳をすますような様子をしたことに気づいた……《やつめ、何かを待っているのかな?》
「あれはたしかに、まったくあなたの言うとおりですよ」とポルフィーリイはまた、楽しそうに、異常なほど無邪気な目でラスコーリニコフを見ながら(そのためにこちらはぎょっとして、とっさに心を構えた)、急いで言った。「法律上の形式というやつを、あなたは実にしんらつに嘲笑されたが、まったくそのとおりですよ、へ、へ! どうもこの(もちろん、全部じゃありませんがね)われわれの深遠な心理的方法というやつは、まったく滑稽《こっけい》ですよ、それに、おそらく無益でしょうな、形式にあまりこだわれば。おや……また形式にもどってしまった。さて、わたしが担当を命じられたある事件の犯人として、誰でもいいですが、まあ仮に誰かを認めた、というよりは、むしろ疑いをかけたとします……たしかあなたは、法律をやっておられたはずでしたね、ロジオン・ロマーヌイチ?」
「ええ、勉強はしました……」
「じゃちょうどいい、あなたの将来の参考として、判例といったものをひとつ、――といって、図々《ずうずう》しいやつだ、おれに教える気か、なんて思われちゃこまりますよ。現に、あなたはあんなりっぱな犯罪論を発表しておられるんですからねえ! とんでもない、わたしはただ、事実として、判例を申しあげるだけですよ。――さて、わたしが誰かを容疑者と認めるとします。そこでひとつうかがいますが、たとえわたしが証拠をにぎっていたとしてもですよ、時機のこないうちに当人をさわがせる必要があるでしょうか? そりゃ、相手によっては早く逮捕しなきゃならん場合もありますが、そうでない性質の容疑者もいますよ、ほんとです。そんなやつはしばらく街を泳がせておいても、別にどうってことはありませんからな、へ、へ! いやいや、どうやら、よくおわかりにならんようですな、じゃもっとはっきり申しあげましょう。例えばですよ、もしわたしがやつをあまり早く拘留すればですね、それによってやつに精神的な、いわば、支えをあたえることになるかもしれませんからねえ、へ、へ! おや、あなたは笑ってますね?(ラスコーリニコフは笑うなど思いもよらなかった。彼は坐ったまま、口をかたく結んで、充血した目をポルフィーリイ・ペトローヴィチの目からはなさずに、じっとにらみつけていた)。ところが、そうなんですよ、相手によっては特にね、人はさまざまですからねえ、何ごとも要は経験ですよ。あなたはさっき証拠と言われましたな。そのとおりです、仮にそれが証拠としてもですね、証拠なんてものは、あなた、たいていはあいまいなものですよ。予審判事なんて弱いものです。告白しますが、そりゃ審理は、いわば、数学的にはっきりさせたいですよ。二たす二は――四になるような、そういう証拠を手に入れたいと思いますよ! ずばり異論の余地ない証拠をね! で、やつを時機を待たずに拘留すればですね、――たとえわたしがそれがやつ《・・》であることを確信していてもですよ、――おそらくわたしは、さらにやつの罪証をあばく手段を自分で自分からうばうことになるでしょう。なぜ? つまり、それによってわたしはやつに、いわば、ある一定の立場をあたえることになり、いわば心理的に安定させてしまうからです。そこでやつはわたしから逃れて、自分の殻《から》の中にとじこもってしまいます。ついに、自分が被拘束者だとさとるわけです。また噂に聞いたのですが、セワストーポリでは、アリマの戦争の直後、敵がいまにも正面攻撃をかけてきて、一挙にセワストーポリ要塞《ようさい》をおとすのではないかと、識者たちはびくびくしていたそうです。ところが、敵は正攻法の包囲作戦をえらび、前線に平行壕《ごう》を構築しているのを見て、彼らは大いに喜び、ほっとしたということです。正攻法の包囲作戦をやっていたのでは、少なく見ても二カ月は大丈夫というわけです! おや、また笑ってますね? また信じないんですね? そりゃむろん、あなたも正しいですよ。正しいですよ、正しいですとも! これはみな特殊の場合です、たしかにそのとおりですよ!いまあげた例はたしかに特殊の場合です! でも、ロジオン・ロマーヌイチ、この際つぎの事実に注視すべきではないでしょうか。つまり一般的な場合というものは、つまりあらゆる法律上の形式や規則が適用され、それらのものの考察の対象となり、判例として記録されるような、そうした場合のことですがね、ぜんぜん存在しませんね。というのはあらゆる事件は、まあどんな犯罪にしてもそうですが、それが現実に発生すると、たちまち完全に特殊な場合にかわってしまうからですよ。しかもときには特殊も特殊、まるで前例のないようなものにね。またこの種の例で、ときにはふきだしたくなるようなことが起ることもありますよ。まあ仮に、わたしがある男を勝手に泳がせておくとしましょう。拘束もしないし、邪魔もしません。が、その男にそれこそ四六時中、わたしがいっさいの秘密を知っていて、夜も昼もたえず尾行し、監視の目を光らせていると、知らせるか、あるいは少なくとも疑惑をもたせるようにしむけるわけです。つまり意識的にたえずわたしに狙《ねら》われているという疑惑と恐怖の下においておくわけです、すると頭がくらくらになって、ほんとですよ、向うからひっかかってきたり、それこそ二たす二は四みたいな何かをやらかして、はっきりした物証をのこしてくれたりするものです。――おもしろいですよ。これは頭の雑な百姓にさえあるんですから、ましてわれわれの仲間、つまり現代感覚をもつ頭脳明晰《めいせき》な人間、しかもある方向に発達している人間には、なおさらのことですよ! だから、その人間がどの方向に発達しているかってことを見ぬくのが、実に重大な意味をもつわけです。それから神経ですよ、神経という曲者《くせもの》、あなたはこいつをすっかり忘れていたようですね! まったくこいつは現代病ってやつで、やせこけて、苛々してますよ!……それも胆《たん》汁《じゅう》のせいですが、これがまた彼らにはどれほどあるやらわかりゃしない! まったくこいつは、まあ何ですな、ときによると一種の鉱脈みたいなものですよ! だからわたしは、その男が縄もつけられないで勝手にぶらぶら街を歩きまわっていても、ちっとも心配はありませんよ! なに、しばらく遊ばせておきゃいいんですよ。そうでなくともわたしは、そいつがわたしの獲《え》物《もの》もので、どこへも逃げて行かないことを、ちゃんと知ってるんですよ! それにどこへ逃げますかな、へ、へ!外国へでも逃げますか? 外国へ逃げるのはポーランド人ですよ、やつ《・・》じゃありませんな。ましてわたしが監視してるし、手をうってあるんでね。じゃ、祖国の奥深くへでも逃げこみますか? ところがそこには百姓どもが住んでますよ、土の虫みたいなほんもののロシアの百姓がね。まあ教養ある現代人なら、わがロシアの百姓みたいな異国人といっしょに生活するくらいなら、いっそ監獄をえらぶでしょうな、へ、へ! でもこんなことはみなつまらんことですよ、外面的なことです。逃げるとは、どういうことでしょう! それは形の上のことです。実体はちがいます。逃げる先がないということだけで、逃げないんじゃありませんよ。その男は心理的に《・・・・》わたしから逃げないんですよ、へ、へ! どうです、おもしろい表現でしょう! その男は、たとえ逃げる先があっても、自然の法則によってわたしから逃げないんですよ。ろうそくの火によってくる蛾《が》を見たことがありますか? まあ、あれですよ、蛾がろうそくの火のまわりをまわるみたいに、たえずわたしのまわりをぐるぐるまわっているんですよ。そのうちに自由が喜びでなくなる、考えこみはじめる、頭が混乱してくる、蜘蛛《くも》の巣にひっかかったみたいに、自分で自分をしばりあげ、自分を見つめるのが恐くなる!……そのうえ、二たす二は四みたいな何らかの物証を、自分からすすんでわたしに用意してくれるんですよ、――ただ幕間《まくあい》をちょっとだけ長くしてやりさえすればね……たえず、それこそ休みなく、わたしのまわりに円を描きながら、しだいに輪をせばめてきて、ついに――往生というわけです! いきなりわたしの口にとびこんでくる、そこでわたしは呑《の》みこむ、これは実に愉快なものですよ、へ、へ、へ! 信じられませんかね?」
ラスコーリニコフは答えなかった。彼はやはり張りつめた目でじっとポルフィーリイの顔をにらみつけたまま、蒼白《そうはく》な顔をして身じろぎもせずに坐っていた。
《みごとな講義だ!》と彼は寒気をおぼえながら、考えた。《これはもはや昨日のように、猫《ねこ》がねずみをなぶっているどころじゃない。それにやつは意味もなく自分の力をおれにひけらかして……ひそかに暗示しているとは思われぬ。それには頭がよすぎる。これにはほかの目的があるのだ、ではどんな? おい、くだらんぞ、きみ、おれをおどかして、ひっかけようとしても、そうはいかん! きみには証拠がないし、昨日の男だってこの世にいやしないんだ! きみはおれの頭を混乱させようとしているだけさ。まずおれを苛々させておいて、そこでとつぜんしっぽをおさえようというのだ。嘘《うそ》ばかりついてさ、そうはいかんよ、しくじるにきまってるね! しかしなぜ、いったいなぜこれほどまでおれに暗示するのだろう?……おれの病的な神経に望みをかけているのか!……だめだよ、きみ、むだだよ、すこしぐらいの用意をしたところで、そうはいかんよ……どれひとつ、どんな用意をしたのか、見てやろう》
そこでラスコーリニコフはどうでるかわからぬおそろしい破局にそなえながら、全力をふりしぼって心をひきしめた。ときどき彼はいきなりポルフィーリイにとびかかって、ひと思いにしめ殺してやりたい衝動にかられた。彼はここへ来たときから、もうこの憎悪をおそれていたのだった。彼は唇《くちびる》がかさかさに乾いて、心臓がはげしく高鳴り、泡《あわ》が唇に焼けつくのを感じた。それでも彼は沈黙を通して、時がくるまで一言も口をきかぬ決意をした。彼は自分の置かれた立場としてこれが最良の策であることをさとった。なぜなら、うっかりへまなことを言う心配がないばかりか、かえって、沈黙によって敵を苛立たせて、向うが口をすべらせてくれるかもしれないからだ。少なくとも彼はそれを当てにしていた。
「いや、あなたは信じないようだ、わかりますよ。わたしが悪気のない冗談ばかりならべていると思っていなさるらしい」ポルフィーリイはますます陽気になり、満足そうにたえずヒヒヒと笑いながら、ひとりでうなずいて、また室内を歩きまわりはじめた。「そりゃむろん、そう思うのが当然ですよ。なにしろわたしは見てくれがこんなふうに神にさずかったのでねえ、他人に滑稽な感じしか起させないんですよ。道化ですな。でも、ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、何度も言うようですが、老人は大目に見てやるものですよ。あなたはお若い、いわば第一の青春だ、だからすべての若い人たちの例にもれず、人間の叡《えい》知《ち》というものを何よりも高く評価しておられるはずだ。だから鋭い皮肉や抽象的な論拠に誘惑される。それは、例えばオーストリヤの三国同盟会議とまったく同じですね。もっともこれはわたしのとぼしい軍事知識による判断ですがね。紙の上では彼らはナポレオンを粉砕し、捕虜にしましたよ。そして作戦室では実に鋭い奇策を弄《ろう》して、敵を苦境においこみました。ところが実際はどうでしょう、マック将軍は全軍をひきいてもろくも降伏してるじゃありませんか、へ、へ、へ! わかりますよ、わかりますよ、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしがこんな文官のくせに、戦争の歴史からばかり例をひくんで、あなたは嘲笑っていますね。でもしようがないんですよ、困ったもので、どういうものか軍事問題が好きなんですよ、こうした戦闘報告を読むのがたまらなく好きなんです……わたしはまったく道の選択をあやまりましたよ。軍人になっていたらと思いますよ、まったく。まさかナポレオンまではいかんでしょうが、少佐くらいにはなったかもしれませんな、へ、へ、へ! 冗談はさておいて、ロジオン・ロマーヌイチ、ここらでその、何ですか、つまり特殊な場合《・・・・・》というものについて、くわしいありていをお話しましょう。現実と自然というものは、ですね、きわめて重要なものです、それはときによると底の底まで見通した計画をもいっぺんにくずしてしまうことがあります! まあまあ、年寄りの言うことを聞きなさいよ、まじめな話ですよ、ロジオン・ロマーヌイチ(こう言うと、やっと三十五になったばかりのポルフィーリイ・ペトローヴィチが実際に急に年寄りじみて、声まで変り、どういうものか身体ぜんたいが前屈《まえかが》みにちぢこまって見えた)、おまけにわたしはあけっぴろげな男でねえ……わたしはあけっぴろげな男でしょう、ちがいますか? どう思います? わたしはまるきりあけっぴろげだと思うのですがねえ。こんないいことをただであなたに教えて、お礼も要求しないのですからな、へ、へ! まあ、というわけで、先をつづけましょう。鋭い頭脳というものは、すばらしいものだと思います。それは、いわば、自然の装飾、生活の慰めです。そしてそれはまったくみごとな手品を見せてくれることがあります。そこらのみじめな予審判事にはとてもそのトリックは見破られそうにありません。まして自分でつくりあげた幻想に酔っていてはですね、もっともこれはよくあることです。なにしろ予審判事だって人間ですからねえ! そこで自然というやつがあわれな予審判事を救い出してくれるんです、こいつが始末がわるいんですよ! ところがここまでは、自分の鋭い頭脳に酔って、《いっさいの障害を踏みこえようとしている》(あなたの実に奇知に富んだ巧みな表現を借りればですな)青年も考えません。そこでその青年が、嘘をつくとしましょう。つまりある男のことですがね、特殊な場合《・・・・・》の例ですよ、むろん名前は秘しますよ。実に巧みな方法で、みごとに嘘をつきます。そしてもう勝利を手にし、自分の鋭い頭脳の成果を楽しむことができそうに思われます。ところがその寸前、ばったり、というわけです! しかももっとも気になる、もっとも恥ずべき場所で、失神してしまうのです。それは病気のせいとしましょう。まあ室内が息苦しいこともあるでしょう。それにしてもです! やはりあるヒントはあたえたことになります!類《たぐい》なくみごとに嘘はついたが、自然の本性というものを計算に入れる能力がなかったのです。まあこれが、奸《かん》知《ち》の限界ですね! またあるときは、自分の頭脳の気まぐれに酔って、自分を疑っている男をからかいだし、わざと、芝居をしているみたいに、蒼白になってみせる、ところがその蒼白になり方があまりにも《・・・・・》自然すぎて《・・・・・》、あまりにもほんものらしく、これもまたあるヒントをあたえる! 一度は欺しても、こちらだってそうそう馬鹿《ばか》じゃないから、一晩かかってじっくり考える。まったく、一歩一歩がこういうことの連続です! それに世話はありませんよ、勝手に先まわりしては、呼ばれもしないところへ顔を出してみたり、かえって黙っていなければならないようなことを、ぺらぺらしゃべりだしたり、いろんな謎みたいなことを言ったりしてくれるんでね、へ、へ! そのうちに自分からやってきて、どうしていつまでもおれを逮捕しないんだ、なんて聞くようになりますよ。へ、へ、へ! しかもこれはもっとも頭脳の鋭い人間にあり得ることなんですよ、心理学者とか、文学者とか! 自然は鏡ですよ、鏡ですよ、もっともよく澄んだね! それに自分を映して、つくづく見惚《みと》れるんですな、それでいいんですよ! おや、どうしました、真《ま》っ蒼《さお》ですね、ロジオン・ロマーヌイチ、空気がにごりましたか、窓でもあけましょうかね?」
「いや、ご心配なく、どうぞ」と叫ぶように言うと、ラスコーリニコフはとつぜんけたたましく笑いだした。「どうぞ、ご心配なく!」
ポルフィーリイは彼のまえに立ちどまると、ちょっと間をおいて、自分も不意に、彼につづいて、大声で笑いだした。ラスコーリニコフは急にそのまったく発作的な哄笑《こうしょう》をぴたっととめると、ソファから立ちあがった。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィチ!」彼は足がふるえて立っているのがやっとだったが、大きな声ではっきりと言った。「ぼくはやっとはっきりわかりましたよ、あなたがあの老婆とその妹リザヴェータ殺害の件で、ぼくをはっきり黒とにらんでいることが。ぼくとしては、はっきり言いますが、そういうことはもうとうにうんざりしています。もし正当にぼくを追及する権利があると認めるなら、追及しなさい。逮捕するなら、逮捕しなさい。しかし面と向って嘲笑したり、苦しめたりすることは、許しません」
不意に彼の唇はふるえだし、目ははげしい憤《いきどお》りに燃えたって、それまでおさえていた声が甲高《かんだか》くうわずった。
「許しません!」不意にこう叫ぶと、彼はいきなり拳《こぶし》で力まかせにテーブルをたたいた。「聞いてるんですか、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ? 許しませんぞ!」
「いやどうも、おどろきましたね、どうしたんです、また急に!」と、すっかり度胆をぬかれたらしく、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは叫んだ。「ねえ! ロジオン・ロマーヌイチ! まあまあ! 落ち着いて! いったいどうしたんです?」
「許さん!」ともう一度ラスコーリニコフは叫ぼうとした。
「まあまあ、もうちょっと静かに! 人が聞きつけて、とんで来ますぞ! そしたら何と言います。すこしは考えなさい!」ポルフィーリイ・ペトローヴィチは自分の顔をラスコーリニコフの顔にふれあうほどに近よせて、びくびくしながら囁《ささや》いた。
「許さん、許さん!」とラスコーリニコフも急に声をひそめて、機械的にくりかえした。
ポルフィーリイはくるりと振りむいて、窓をあけに走って行った。
「空気を入れましょう、新鮮な空気を! そう、水をすこし飲むといいですよ、軽い発作ですからね!」
そう言って彼は、水を言いつけに戸口にかけ出そうとしたが、いいぐあいに、すぐそこの隅に水を入れたフラスコがおいてあった。
「さあ、お飲みなさい」と彼はフラスコをもって彼のほうへかけよりながら、囁くように言った。「きっと楽になりますよ……」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチのおどろきとこまかい思いやりがいかにも自然だったので、ラスコーリニコフは思わず口をつぐみ、はげしい好奇の目で相手を見まもりはじめた。しかし、水は飲もうとしなかった。
「ロジオン・ロマーヌイチ! さあそんなことをしていると、自分を気ちがいにしてしまいますよ、ほんとですよ、さあ! ね! お飲みなさい! お飲みなさいよ、ちょっぴりでもいいから!」
彼はこうして水のコップを無理にラスコーリニコフの手ににぎらせた。ラスコーリニコフは無意識にそれを口もとへもっていきかけたが、はっと気がついて、けがらわしそうにそれをテーブルの上においた。
「ねえ、うちでも発作を起しましたね! こんなことをしてると、また病気をぶりかえしますよ」とポルフィーリイ・ペトローヴィチは親身の思いやりを示しながら、くどくどと言いだしたが、まだショックからぬけきらない様子だった。「やれやれ! どうしてこうあなたは自分の身を粗末にするんでしょう?そうそう、昨日ドミートリイ・プロコーフィチがうちへ来ましてね、――ええ、そうですとも、わたしがとげのあるいやな性分なことは、自分でも認めますよ。ところで、彼らがあれからどんな結論をだしたと思います!……まったく、おどろきましたよ! 昨日、あなたが帰ったあと、またやって来ましてね、いっしょにめしを食いながら、いやしゃべるしゃべる、わたしはあきれてぽかんとしてましたよ。こいつ、どうかしたんじゃないか……と思いましてね。あいつはあなたの使いで来たんですか? どうしました、おかけください、まあちょっとだけ、どうぞ!」
「いや、ぼくはやりません! でも彼があなたのところへ行ったことも、なぜ行ったかも、ぼくは知ってましたよ」とラスコーリニコフはたたきつけるように答えた。
「知っていたんですか?」
「知ってましたよ。で、それがどうかしましたか?」
「いやなに、わたしもね、ロジオン・ロマーヌイチ、そんなんじゃないもっと大きなあなたの行為を知ってますよ。何でも知っているんですよ! あなたが部屋を借り《・・・・・》に出かけたこともね。もう日が暮れて大分たった頃でしたね、呼鈴《よびりん》を鳴らしてみたり、血のことを聞いたりして、職人や庭番をびっくりさせましたね、そうでしょう。そのときのあなたの心理状態も、わかるんですよ……でもやはり、こんなことをしていると、あなたは自分を気ちがいにするだけです、ほんとですよ! 頭がくらくらしてきます! はじめは運命から、次いで警察の連中からあたえられた侮辱のために、あなたの胸の中には憤りが、名を惜しむ憤りがはげしくたぎって、そのためにあなたはそこらじゅうを狂いまわって、いわば、早くみんなに口を割らせて、ひと思いにかたをつけてしまおうとします。だってこんなばかばかしいことや、疑いの目で見られることは、もううんざりだからです。どうです? 心理をうまく読みあてたでしょう?……ただあなたはこうして、わたしの家で、自分ばかりでなく、ラズミーヒンの頭までおかしくしたんですよ。ご存じのように、あの男はこうしたことに堪えるにはあまりにも善人《ぜんにん》すぎるんですよ。あなたには病気があり、あの男にはほとけ心があります。ところでこの病気ってやつがあの男にうるさくねばりつくんです……わたしは、あなたの気持が落ち着いたら、ゆっくり話すつもりですが……まあ、おかけなさいな、ええ、わるいことは言いません!どうぞ、ちょっとお休みなさい、まるで顔色がありませんよ。ま、ちょっとおかけなさい」
ラスコーリニコフは腰をおろした。ふるえは去った。そして身体中が熱っぽくほてってきた。彼は深いおどろきにつつまれて、びくびくしながら親身に世話をやくポルフィーリイ・ペトローヴィチの言葉に、じっと耳をすましていた。しかし彼は、信じたいと思う不思議な誘惑を心のどこかに感じていたが、その言葉を一言も信じはしなかった。貸間云々《うんぬん》というポルフィーリイの思いがけぬ言葉は完全に彼の胆をつぶした。《どうしてあれを、さては、あそこへ行ったことを知ってるんだな?》という考えが不意にうかんだ。《それにしても、わざわざ自分から言い出すとは!》
「そうそう、わたしたちのあつかった判例の中に、ちょうど同じような事件がありましたよ、やはり心理的な、じめじめした事件ですがね」とポルフィーリイは早口につづけた。「これもある男が自分を殺人犯にしてしまったのですがね、そのやり方が念が入ってるんですよ。幻覚で見たことをすっかりならべたて、事実を述べ、殺人の状況を詳しく説明して、みんなを煙《けむ》にまき、一人のこらず迷わされてしまったんですよ、ところがどうでしょう? その男は、まったく偶然に、殺人の原因の一部になっていたんです。ほんの一部にすぎないのですが、犯人たちに殺人の動機をあたえたことを知ると、その男はすっかりふさぎこんで、頭がおかしくなり、幻覚になやまされるようになり、完全に神経が犯されてしまって、自分で自分が殺人犯だと思いこんでしまったというわけです! 結局、最高裁判所が事件を解明して、あわれな男は無実を証明され、保護されることになりました。まったく、最高裁さまさまですよ! 実際、ありがたいものです! あなたも、こんなことをしていたらどうなります? もう神経を苛々させる傾向があらわれているんですから、毎夜呼鈴を鳴らしに出かけたり、血のことを聞くようになったりして、熱病にとりつかれるくらいがおちですよ! この心理現象はわたしが実地に研究したんだから、まちがいありません。このまま放《ほう》っておくと、ややもすると窓や鐘楼からとびおりるようなことになるんですよ、ひきよせられるような気持になりましてね。呼鈴のことだって同じです……病気ですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、病気ですよ! あなたは自分の病気を軽く見すぎますよ。経験ある医者に相談してみることですね。あなたの友人のあのふとったの、あんなのじゃだめですよ!……あなたは幻覚にとらわれています! あなたのしていることはみな幻覚のせいなんですよ!……」
急に、ラスコーリニコフのまわりのものがみな、ぐるぐるまわりだした。
《果して、果して、この男はいまも嘘をついているのだろうか?》という考えがちらと彼の頭をかすめた。《そんなことはあり得ない、あり得ない!》彼はあわててその考えをおしのけようとした。彼は、その考えが自分をどれほどの狂おしい憤怒につきおとすかもしれぬ、そうなったら発狂しかねない、と予感したのである。
「あれは幻覚じゃなかった、正気だった!」彼はポルフィーリイの腹を読もうと判断力のすべてを集中しながら、叫んだ。「正気だった、正気でやったんだ! 聞いてるんですか?」
「ええ、聞いてますとも、わかりますよ! あなたは昨日も、幻覚じゃないと言ってましたね、幻覚ではないことを、特にしつこく強調しました! あなたの言いそうなことは、すっかりわかりますよ! ほんとですよ!……でもね、いいですか、ロジオン・ロマーヌイチ、まあこれだけでも聞いてください。いいですか、あなたが実際に、ほんとうにですよ、この呪《のろ》わしい事件の犯人か、あるいは何らかの関係があるとしたら、あれは幻覚にとらわれてやったのじゃない、完全に正気でやったことだなんて、自分でわざわざ強調するでしょうか? それもことさらに、うるさいほどしつこく強調する、――そんなことがあり得るでしょうか、まさか、とても考えられませんね! ぜんぜんその反対じゃないでしょうか、わたしはそう思いますね。もしあなたに何かうしろめたい気持があったとしたら、それこそ、あれはぜったいに幻覚にとらわれてやったことだ、と強調するのが当然でしょうね! そうでしょう? そうじゃありませんか?」
この問いには何かずるいものが感じられた。ラスコーリニコフはかがみこんだポルフィーリイからソファの背にくっつくほど身をのけぞらせて、黙ってじっと、疑いの目で相手を見まもっていた。
「あるいはまた、ラズミーヒン君のことにしても、つまり彼が昨日自分で勝手にあんなことを言いに来たのか、それともあなたにたのまれて来たのか、ということですね。これだって、あなたは勝手に来たんだと言いはって、たのんだことはかくすのが当然ですよ! ところがあなたはそれをかくそうとしない! かえって、たのんだのだと、強調している!」
ラスコーリニコフはぜんぜんそんなことを強調したおぼえはなかった。冷たいものが彼の背筋をはしった。
「あなたの言ってることは全部でたらめだ」彼は唇をゆがめて病的なうす笑いをもらしながら、ゆっくり弱々しく言った。「あなたはまた、ぼくの筋書きはすっかり見通しだ、ぼくの返答は聞かんでもわかっているということを、ぼくに見せたいのだ」彼は言葉を吟味しなければならぬことをもう忘れていることを、自分でも感じながら、こう言っていた。「ぼくの頭を混乱させようとしている……でなければ、ただぼくを愚弄しているのだ……」
彼はこう言いながら、執拗に相手をにらみつづけているうちに、不意にまた限りない憎悪が目にもえたった。
「あなたの言うのはみな嘘だ!」と彼は叫んだ。「犯人をごまかすのにもっともいいて《・》は、かくさんでもいいことはできるだけかくさぬことだ、くらいのことは、あなた自身十分に承知しているはずです。ぼくはあなたを信じません!」
「なんて移り気な人だ!」ポルフィーリイはひひひと笑った。「とても、あなたには合わせられませんな。あなたには何かこう偏執狂じみたところがありますよ。なるほど、わたしを信じないというんですね? ところがわたしに言わせれば、もう信じてますよ、四分の一程度ね。いいでしょう、すっかり信じるようにしてあげましょう。それというのも、ほんとうにあなたが好きですし、心からあなたの幸福をねがっているからなんですよ」
ラスコーリニコフの唇はひくひくふるえだした。
「そうです、ねがっているんですよ、だからはっきり言いますが」と彼は親しげに、ラスコーリニコフの肘《ひじ》のすこし上のあたりを軽くおさえて、つづけた。「はっきり言いますが、病気に気をつけてください。それにいまあなたのところへは、家族の人たちが来てるんですよ、少しは考えてあげなさいよ。やさしくして、安心させてあげなくちゃいけないのに、おびえさせてばかりいるんじゃ……」
「そんなことがあなたになんの関係があるんです? どうしてあなたはそれを知ってるんです? どうしてそんなに気になるんです?なるほど、あなたはぼくをつけまわしているんですね、それをぼくに見せたいんでしょう?」
「何を言うんです! これはみなあなたじゃありませんか、あなたがわたしにおしえたんじゃありませんか! 興奮して、こちらから聞きもしないのに、わたしや他の連中にしゃべったことを、あなたは気がついていないんですね。ラズミーヒン君からも昨日いろんなおもしろいことを聞きました。いやいや、いまあなたに中断された話のつづきですが、あなたは猜疑心のために、せっかく鋭い頭脳をもっていながら、ものを見る健康な目まで失ってしまわれたのですよ。そら、例えば、また同じテーマにもどって、呼鈴のことにしてもそうです。こんな貴重な資料を、こんな事実を(まったくりっぱな事実ですよ!)、わたしはそっくりそのままあなたに打ち明けたじゃありませんか、予審判事のわたしがですよ! それなのに、あなたはそれを何とも思っていない! わたしがあなたを少しでも疑っていたら、わたしはこんな態度をとったでしょうか! わたしは、反対に、まずあなたの疑惑をなくするために、この事実をもう知っているなんておくびにも出さなかったはずです。そして、あなたの注意をぜんぜん反対のほうへそらしておいて、不意に斧の背で脳天をなぐりつけ(あなたの表現を借りればですね)、矢つぎ早に《いったいあなたは夜の十時すぎ、もうほとんど十一時になろうという頃、殺された老婆の部屋へ何しに行きましたか? どうして呼鈴を鳴らしました? なぜ血のことを聞きました? 何のために庭番たちを面くらわせ、警察署の副署長のところへ行けなどとそそのかしました?》と問いつめて、狼狽《ろうばい》させたはずです。もしわたしがちょっぴりでもあなたに疑いをもっていたら、わたしはこういう態度をとったはずですよ。当然、形式にしたがって、あなたの調書をとり、家宅捜索をし、そのうえ、おそらく逮捕もしたでしょう……そうしなかったということは、つまり、あなたに嫌《けん》疑《ぎ》をかけていないということですよ! ところがあなたは健康な目を失っているので、くりかえして言いますが、何も見えないのです!」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチにもはっきりわかったほど、ラスコーリニコフは全身をびくっとふるわせた。
「あなたの言ってるのはみな嘘だ!」と彼は叫んだ。「あなたが何をねらっているのかは、知らんが、言ってるのはみな嘘だ……さっきあなたが言ったのはそういう意味じゃなかった、ぼくはまちがうはずはない……あなたは嘘を言ってる!」
「わたしが嘘を言ってる!」とポルフィーリイは言葉をうけた。むかっとしたらしいが、いかにも楽しそうな皮肉っぽい顔はくずさず、ラスコーリニコフにどう思われようと、少しも気にしていないらしく見えた。「わたしが嘘を言ってる?……じゃ、わたしがさっきどんな態度をとったというのです(わたしは、予審判事ですよ)、そのわたしがあなたに弁護の方法をすっかり暗示して、おしえてやったじゃありませんか、《病気、幻覚、憂鬱症《ゆううつしょう》に加えて、警察の連中によるはげしい侮辱》といったぐあいに、心理的な根拠まですっかり説明してやったじゃありませんか? え?へ、へ、へ! もっとも、この、――ついでだから言っておきますが、――心理的な弁護方法、言いのがれ、ごまかしというやつははなはだ根拠が薄弱で、どっちともとれるものなんですよ。《病気、幻覚、うわごと、見えたような気がした、おぼえていない》まあそれはそのとおりでしょう。ところがです、病気にかかり、熱にうかされると、どうしてほかのものじゃなく、こんな幻覚ばかり見えるんでしょう? ほかのものも見えてもよさそうじゃありませんか? そうでしょう? へ、へ、へ、へ!」
ラスコーリニコフは傲然とさげすむように相手を見た。
「要するにです」ラスコーリニコフは立ちあがりながら、ちょっとポルフィーリイをおしのけて、声を荒げてかたくなに言った。「要するに、ぼくが知りたいのは、あなたがぼくを完全に嫌疑外と認めるか、否か《・・》、ですよ。それを言っていただきたい、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、明確にきっぱりと言っていただきたい、さあ、さあ!」
「まったく手の焼ける人だ! 実際、あなたにはかないませんな」とポルフィーリイはまったく楽しそうな、ずるそうな、すこしもあわてていない様子で叫んだ。「まったく、なんのためにあなたは知りたがるんです、なんのためにそんなにいろんなことを知りたがるんです。まだ別にあなたをわずらわしてはいないじゃありませんか! まったく、あなたはだだッ子みたいですよ。手を出して、火をくれ、くれと、だだをこねてるようなものだ! それに、どうしてそんなに心配なんです? どうしてわざわざおしかけて、うるさくせがむんです。何か理由があるんですか? え? へ、へ、へ!」
「くりかえして言うが」とラスコーリニコフは激怒して叫んだ。「もうこれ以上がまんがならん……」
「何をです? わからないということを、ですか?」とポルフィーリイはさえぎった。
「からかうのはよしてくれ! ぼくはいやだ!……いやだと言ってるんだ!……がまんがならんし、いやだ!……聞いてるのか! 聞いてるのか!」彼はまた拳でテーブルをなぐりつけて、叫んだ。
「まあ、しずかになさい、しずかに! 聞えるじゃありませんか! わたしはまじめに注意するんですよ、自分をだいじにしなさい。いいかげんな気持で言ってるんじゃありませんよ!」とポルフィーリイはささやくように言ったが、今度は彼の顔に先ほどの女のように気のやさしいおびえた表情はもうなかった。それどころか、彼は眉《まゆ》をしかめ、一挙にすべての秘密とあいまいさをあばいてしまおうとでもするかのように、きびしく、ずばりと命《・》令《・》口調で言いきった。しかしそれも一瞬のことにすぎなかった。とまどいかけたラスコーリニコフは、不意にほんものの狂憤におちいった。しかし不思議なことに、もっとも強烈な激怒の発作にかられていたにもかかわらず、彼はまたしずかに話せという命令に従ったのである。
「ぼくはおとなしく苦しめられはしませんぞ」と彼は不意にさっきと同じおさえた口調でささやいたが、一瞬苦痛と憎悪のいりまじった気持で、命令に服従せざるを得ない自分を意識した、そしてそう思うとますますはげしい狂憤にかられてきた。「ぼくを逮捕しなさい、家宅捜索をしなさい、しかし形式にしたがってやってもらいたい、ぼくをなぶりものにすることは許しません! 笑うな……」
「まあ、形式のことはご心配なく」とポルフィーリイは先ほどのずるいうす笑いをうかべて、まるでラスコーリニコフをなぐさみものにして楽しんでいるように、言った。「わたしはね、今日はあなたを家へ招くようなつもりで招待したんですよ。ごらんのとおり、親しい友人としてね!」
「あなたの友情なんて望みませんね、まっぴらですよ! 聞いてるんですか? さあこのとおり、帽子をもって、出て行きますよ。さあどうです、逮捕するつもりなら、なんと言います?」
彼は帽子をもって、戸口のほうへ歩きだした。
「ところで、思いがけぬ贈りものは見たくありませんかな?」ポルフィーリイはまた彼の肘のすこし上のあたりをつかまえて、戸口のそばでひきとめながら、ひひひと笑った。彼は、目に見えて、ますます楽しそうにいたずらっぽくなった、そしてそれがラスコーリニコフに完全にわれを忘れさせた。
「思いがけぬ贈りもの? 何ですそれは?」と彼は急に立ちどまって、ぎょっとしてポルフィーリイを見返しながら、尋ねた。
「思いがけぬ贈りものですよ、そら、そこのドアのかげに坐ってますよ、へ、へ、へ!(彼は官舎へつづく仕切りのしまっているドアを指さした)。逃げないように、鍵《かぎ》までかけておいたんですよ」
「それは何です? どこに? どれ?……」ラスコーリニコフはドアのそばへ行って、あけようとしたが、鍵がかかっていた。
「しまってますよ、これが鍵です!」
そう言うとほんとに、彼はポケットから鍵をだして、ラスコーリニコフに見せた。
「嘘ばかりつきゃがって!」ラスコーリニコフはもうがまんができずに、わめきたてた。「嘘だ、罰あたりの道化め!」こう叫ぶと、彼はドアのほうへ後退《あとずさ》りはしていたが、すこしも臆《おく》した様子は見せていないポルフィーリイに、いきなりおどりかかった。
「おれは何もかも、すっかりわかってるんだ!」と彼はポルフィーリイにつめよった。「きさまは嘘をついて、おれをじらし、おれにしっぽを出させるつもりなのだ……」
「でも、もうこれ以上しっぽも出せないでしょうよ、え、ロジオン・ロマーヌイチ。すっかり血迷いましたね。どなるのはやめなさい、人を呼びますよ!」
「嘘だ、何もでるもんか! 人を呼べよ! きさまはおれが病気なのを知りながら、おれをからかって、激昂《げっこう》させ、しっぽを出させるつもりなのだ、それがきさまのねらいだ! それより、実際の証拠を出せよ! おれはすっかりわかってるんだ! 証拠なんかあるものか、きさまにあるのはくだらない、なんの価値もない推量だけさ、ザミョートフから受け売りのな!……きさまはおれの性質を知っていて、おれをじらして逆上させ、そのうえでとつぜん司祭や陪審員をもち出して、おれに泡《あわ》をふかせようとしたのさ……そいつらを待ってるのかい? あ? 何を待ってるんだね? どこにいるんだ? さっさと出せよ!」
「おやおや、とつぜん陪審員とはおどろきましたねえ! 何をねぼけているんです! これじゃあなたの言う形式もへったくれもありませんよ。あなたはことの順序をまるで知っちゃいない……形式は逃げて行きません。いまにわかりますよ!……」とポルフィーリイは戸口のほうへ耳をすましながら、呟いた。
実際に、そのときドアの向う側で人の騒ぐような気配が聞えた。
「あ、来たな!」とラスコーリニコフは叫んだ。「きさまは呼びにやったな!……やつらを待っていたのか! 時をかせいで……さあ、陪審員でも、証人でも、なんでもいい、全部ここへならべろ……さあ! おれも覚悟はできてるぞ! びくともせんぞ!……」
ところが、そのとき妙なことが起った。それは普通の成り行きでは、まったく考えられないことで、ラスコーリニコフも、ポルフィーリイ・ペトローヴィチも、もちろん、このような結末は予期することもできなかった。
6
あとになって、そのときのことを回想すると、ラスコーリニコフは次のような形で場面が展開したように思われるのだった。
ドアの向うの騒ぎが急に大きくなって、ドアがすこし開いた。
「どうしたんだ?」とポルフィーリイ・ペトローヴィチは腹立たしげに叫んだ。「注意しておいたじゃないか……」
一瞬、返事はなかったが、ドアのかげには何人かの人々がいて、誰《だれ》かを突きのけようとしているらしいことは、明らかだった。
「おい、どうしたんだ?」とポルフィーリイ・ペトローヴィチは不安になってくりかえした。
「未決のニコライを連れてまいりました」と誰かの声が聞えた。
「いかん! 向うへ連れてけ! 待たしておけ!……なんだってこんなとこへ出て来たんだ! なんたるぶざまだ!」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはドアのほうへかけよりながら、叫んだ。
二秒ほどほんものの争いがつづいた。ほんとにあっという間のことだった。不意に誰かが誰かを力まかせに突きのけたようなもの音がして、つづいていきなり真《ま》っ蒼《さお》な顔をした男がポルフィーリイ・ペトローヴィチの事務室に入ってきた。
その男の様子は一見して実に異様だった。彼はまっすぐにまえのほうを見ていたが、誰の姿も目に入らないらしかった。その目にはかたい決意が光っていたが、それと同時に、まるで処刑の場にひき出されたように、死人のような蒼白《あおじろ》さが顔をおおっていた。まったく血の気の失《う》せた唇《くちびる》がわずかにひくひくふるえていた。
それはまだひどく若い男で、身なりは庶民風で、中背《ちゅうぜい》でやせぎす、頭は真ん中をまるくのこして剃《そ》りこみ、顔の輪郭は線が弱く妙にやつれた感じだった。不意に、彼に突きとばされた男が、後を追って真っ先に部屋へとびこんで来て、彼の肩をつかもうとした。それは看守だった。しかしニコライは腕をぐいとひいて、またそれをふりきった。
戸口にやじ馬が何人かむらがった。部屋に入りこもうとする者もいた。以上のことはほんの一瞬の間に起ったのである。
「向うへ行け、まだ早い! 呼ぶまで、しばらく待っとれ!……どうして呼びもせんのにこいつを連れて来たんだ?」ポルフィーリイ・ペトローヴィチはかんかんになって、いささかまごつき気味に、半分口の中でぶつくさ言った。ところがニコライは不意にひざまずいた。
「なんだおまえは?」とポルフィーリイはびっくりして叫んだ。
「わるかった! おれの罪だ! おれが殺《や》ったんだ!」不意にニコライはすこし息は苦しそうだが、かなり大きな声でこう言った。
みなあっけにとられてぼんやりしてしまったらしく、十秒ほど沈黙がつづいた。看守さえはっとして後へさがり、もうニコライのそばへ寄ろうとはしないで、無意識にドアに背をつけ、じっと立ちすくんだ。
「なんだと?」ポルフィーリイ・ペトローヴィチは一瞬の自失からさめて、思わず叫んだ。
「おれが! 殺ったんだ……」ニコライはちょっと息をついで、こうくりかえした。
「なに……おまえが……どうしたと……誰をおまえは殺したんだ?」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチは、明らかに、狼狽《ろうばい》した。
ニコライはまたちょっと息をついだ。
「アリョーナ・イワーノヴナと、妹のリザヴェータ・イワーノヴナです。おれが……殺りました……斧《おの》で。魔がさしたんです……」彼は不意にこうつけ加えると、また黙りこんだ。彼はずっとひざまずいたままだった。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはじっと思いをひそめるように、しばらく突っ立っていたが、急にまたせかせかと歩きだし、頼みもしない証人たちに両手を振りあげた。彼らはさっと逃げちり、ドアがしめられた。それから彼は、隅《すみ》のほうに突っ立って茫然《ぼうぜん》とニコライに目を見はっているラスコーリニコフに、ちらと目をやると、そちらへ行きかけたが、不意に立ちどまって、じっと彼を見つめ、すぐにその目をニコライに移し、それからまたラスコーリニコフを見つめ、またその目をニコライに移したと思うと、急に、まるで何かに憑《つ》かれたように、いきなりニコライのまえへかけよった。
「どうしてきさまは魔がさしたなんて、先走ったまねをするんだ?」と彼はほとんど憎《ぞう》悪《お》をこめてニコライをどなりつけた。「魔がさしたか、ささんか、そんなことはまだ聞いとらん……さあ言え、きさまが殺したのか?」
「おれが殺りました……白状します……」とニコライは言った。
「ほう! で、何で殺った?」
「斧です。予備の道具です」
「ちょッ、あわてるな! 一人でか?」
ニコライは質問の意味がわからなかった。
「一人で殺ったのか?」
「一人です。ミーチカは罪がありません、あいつのぜんぜん知らないことです」
「あわてるなと言っとるじゃないか、ミーチカのことなど聞いとりゃせん! しようのないやつだ!……」
「じゃ、どうしてだ、おい、どんなふうにしてそのとき階段をかけ下りた? 庭番たちはおまえら二人を見たといってるじゃないか?」
「あれはごまかすために……あのとき……ミーチカと走ったんです」あらかじめ用意した返事を、急いで言おうとするように、ニコライは答えた。
「ふん、やっぱりそうだ!」とポルフィーリイは憎さげに叫んだ。「つくりごとを言ってやがる!」と彼はひとりごとのようにつぶやいた。そして不意にまだラスコーリニコフがいることに気がついた。
彼はニコライにすっかり気をとられて、ちょっとの間ラスコーリニコフのことを忘れていたらしかった。彼はいま不意にそれに気がついて、狼狽の色さえ見せた……
「いや、ロジオン・ロマーヌイチ! 失礼しました」と彼はラスコーリニコフのほうへかけよった。「ほんとに申し訳ありません。どうぞ……こんなところにいていただいても何ですから……わたしは自分でも……どうです、まったく思いがけない贈りものでしょう!……どうぞどうぞ!……」
そう言いながら、彼はラスコーリニコフの手をとって、戸口のほうを示した。
「どうやら、あなたもこれは予期しなかったらしいですな?」とラスコーリニコフはもちろんまだ何もはっきりはわからなかったが、それでももうすっかり元気をとりもどして、言った。
「まあ、あなたも予期しなかったでしょう。おや、手がひどくふるえてますね! へ、へ?」
「なに、あなたもふるえてますよ、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ」
「わたしもふるえてますよ。あまり意外だったんでね!……」
彼らはもう戸口のところに立っていた。ポルフィーリイはラスコーリニコフが出て行くのを、じりじりしながら待っていた。
「ところで思いがけぬ贈りものってやつは、結局見せていただけないわけですな?」と不意にラスコーリニコフは言った。
「そう言う当人が、まだ歯の根があわんじゃありませんか、へ、へ! あなたも皮肉な人だ! じゃ、いずれまた」
「ぼくはこのままさようなら《・・・・・》だと思いますね!」
「それは神のみぞ知るです、神のみぞ知るですよ!」とポルフィーリイは妙にゆがんだうす笑いをもらしながら、呟《つぶや》いた。
事務室を通りながら、ラスコーリニコフはたくさんの目がじっと自分にそそがれているのに気づいた。彼は控室の群衆の中に、あの《・・》家の庭番二人を見分けることができた。それはあの夜、彼を警察へつき出せとそそのかしたあの二人だった。彼らは突っ立ったまま、何かを待っていた。彼は入り口の階段へ出るとすぐに、不意に背後にポルフィーリイ・ペトローヴィチの声を聞いた。振り返ると、息をきらして追いかけてくる彼の姿が見えた。
「一言だけ言っておきたかったんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ。ほかのことは神のみぞ知るとしてですね、やはり正式にちょっと尋ねることになると思いますので……もう一度会うことになりますね、そのことですよ」
そう言って、ポルフィーリイはにこにこ笑いながら彼のまえに立ちどまった。
「そうですよ」と彼はもう一度言いたした。
彼はもっと何か言いたいのだが、なぜか言い出せない、そんな様子だった。
「ところで、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、先ほどの失礼はお許しください……ちょっと興奮したもので」ラスコーリニコフはもうすっかり元気になり、きざなことを言ってみたい欲望をおさえかねて、こうきりだした。
「いや、なんでもありませんよ……」ポルフィーリイはむしろ嬉《うれ》しそうにすぐに後をうけた。「わたしだってそうですよ……まったくいやな性分《しょうぶん》です、ざんきの至りです! じゃまたお会いしましょう。神の思召《おぼしめ》しがあれば、ぜひぜひお会いしましょうよ!……」
「そして徹底的に認識しあいますかな?」とラスコーリニコフが受けた。
「そう、徹底的に認識しあいましょう」とポルフィーリイ・ペトローヴィチは相槌《あいづち》を打つと、目をそばめて、びっくりするほど真剣な目で相手を見つめた。
「これから命名日のお祝いですか?」
「葬式ですよ」
「あ、そう、葬式でしたね! お身体《からだ》をだいじにしてくださいよ、お身体を……」
「さあ、ぼくのほうからはあなたになんと言いましょうかな!」と言いながら、ラスコーリニコフは階段を下りかけて、不意にまたポルフィーリイのほうを振り返った。「そう、今後ますますの成功を祈るとでも言っておきましょう。しかしなんですね、あなたのしごとはまったく喜劇ですねえ!」
「どうして喜劇でしょう?」ポルフィーリイ・ペトローヴィチも踵《くびす》を返しかけたが、すぐに耳をとがらせた。
「だってそうじゃありませんか、あの哀れなニコライをあなたは、あなた一流のやり方で、つまり心理的にですな、さんざんいじめつけ責めぬいたにちがいありませんよ。自白するまではね。夜も昼も、《おまえが殺したんだ、おまえが殺したんだ……》と、いろいろ証拠らしいものをならべたててね。ところが、いまになって自白されてみると、今度は《嘘《うそ》だ、おまえは犯人じゃない! 犯人のはずがない! おまえはつくりごとを言っているのだ!》とまたぎゅうぎゅういわせはじめる。これで、喜劇でないと言えますか?」
「へ、へ、へ! じゃわたしがいまニコライに、《つくりごとを言っている》と言ったことに、気がついたんですね?」
「気がついておかしいですか?」
「へ、へ! 頭が鋭いですからな、炯眼《けいがん》というやつですな。なんでも気がつく! ほんとの軽妙な知恵ってやつですよ! そしてもっとも滑稽《こっけい》な弦をちょいとつまむ……へ、へ!作家の中ではゴーゴリだそうですな、この天分が最高に恵まれていたのは?」
「そう、ゴーゴリです」
「そうです、ゴーゴリですよ……じゃ、いずれまた」
「じゃまた……」
ラスコーリニコフはまっすぐ家へもどった。彼はすっかり頭がもつれ、混乱していたので、家へかえると、すぐにソファの上に身を投げて、息を休め、すこしでも考えをまとめようとつとめながら、そのまま十五分ほどじっとしていた。ニコライのことは考える気になれなかった。彼は敗北を感じていた。ニコライの自白の中には、説明のできないおどろくべき何ものか、いまの彼にはどうしても理解できない何ものかがあった。しかしニコライの自白はまちがいのない事実だった。この事実の結果は彼にはすぐにわかった。嘘がばれないはずがない、そうなればまた彼の追及がはじまるにちがいない。しかし少なくともそれまでは彼は自由だし、どうしても何か保身の策をしなければならぬ。どうせ危険はさけられぬからだ。
しかし、それはどの程度だろう? 事態ははっきりしだした。先ほどのポルフィーリイとの一幕を、ざっと《・・・》、荒筋だけ思いかえしてみただけで、彼はおそろしさのあまり改めてぞっとしないではいられなかった。もちろん、彼はまだポルフィーリイの目的の全貌《ぜんぼう》は知らなかったし、先ほどの彼の計算をすっかり見きわめることはできなかった。しかし作戦の一部は明らかにされた。そしてポルフィーリイの作戦におけるこの《詰め》が彼にとってどれほどおそろしいものであったかは、もちろん、誰よりも彼がいちばんよく理解できた。もうちょっとで、彼はもう完全に、実際に、本音をはいていたかもしれぬ《・・・・・》。彼の性格の病的な弱点を知っていて、しかも一目で彼の人間を見ぬき、確実にとらえて、ポルフィーリイはあまり意気ごみすぎたきらいはあるが、しかしほぼ正確に行動した。ラスコーリニコフは先ほど自分の身をかなり危うくしたことは、たしかだが、それでもまだ証拠をにぎられるまでにはいかなかった。いずれもまだ相対的なものにすぎない。しかし、果してそうだろうか、まだわかっていないことがあるのではなかろうか? 何か見おとしてはいないか? 今日のポルフィーリイはいったいどのような結果に導いていこうとしたのだろう?実際に彼には何か準備があったのか? とすれば、それは何か? ほんとに彼は何かを待っていたのだろうか、それともただそう思われただけか? ニコライによって思いがけぬ幕切れが来《こ》なかったら、今日はいったいどんな別れ方をしていたろう?
ポルフィーリイは手のうちをほとんどすべて見せてしまった。もちろん、冒険ではあったろうが、しかし見せた、そして実際にもっと何かにぎっていたら、それも見せてくれたにちがいない(ラスコーリニコフはそんな気がしてならなかった)。あの《思いがけぬ贈りもの》とは何だろう? ただからかっただけだろうか? それとも何か意味があったのか? あのほのめかしのかげには、何か証拠のようなもの、有力なきめ手のようなものがかくされていたのではあるまいか? 昨日の男か? あいつはどこへ消えてしまったのだろう? 今日はどこにいたろう? たしかに、ポルフィーリイが何か有力な手がかりをにぎっているとすれば、それはきっと、昨日のあの男が一枚かんでいるにちがいない……
彼はうなだれ、膝《ひざ》に肘《ひじ》をつき、両手で顔をおおったまま、じっとソファに坐《すわ》っていた。神経質そうな小刻みなふるえがまだ彼の全身につづいていた。とうとう、彼は立ちあがると、帽子をつかみ、ちょっと考えてから、戸口のほうへ歩きだした。
彼はどういうわけか、少なくとも今日だけはまず危険がないと考えてよさそうだ、という予感がした。不意に彼は心の中にほとんど喜びといえるような感情をおぼえた。彼は早くカテリーナ・イワーノヴナのところへ行きたくなった。葬式には、むろん、もうおくれたが、法事には間に合うだろう。そしてそこで、もうじき、ソーニャに会える。
彼は立ちどまって、ちょっと考えた。病的な作り笑いが彼の唇をゆがめた。
「今日だ! 今日だ!」と彼はひそかにくりかえした。「そうだ、今日こそ! ぜったいに……」
彼がドアを開けようとすると、不意にドアがひとりでに開きはじめた。彼はぎょっとして、後退《あとずさ》った。ドアはゆっくり音もなく開いて、不意に一人の男の姿があらわれた――地《・》の底《・・》から湧《わ》きでたような昨日のあの男である。
男はしきいの上に立ちどまって、黙ってラスコーリニコフを見つめると、一歩部屋へ入った。男は格好も着ているものも、まったく昨日と同じだったが、顔と目にははげしい変化があらわれていた。彼はなんとなくしょんぼりした様子で、しばらく佇《たたず》んでいたが、やがてほうッと深い溜息《ためいき》をついた。その様子は、掌《てのひら》を頬《ほお》にあて、頭をよこにかしげさえしたら、それこそ女にまちがうほどだった。
「何用です?」とラスコーリニコフは蒼白《そうはく》になって尋ねた。
男はしばらく黙っていたが、とつぜん頭が床につくほど深く腰をかがめて、ラスコーリニコフにお辞儀をした。少なくとも右手の指は床にふれた。
「どうしたんです?」とラスコーリニコフは叫んだ。
「わるいことをしました」と男はしずかに言った。
「何が?」
「わるい考えをおこしまして」
二人はじっと顔を見合せていた。
「腹が立ったんです。あなたがあそこへ来たとき、おそらく酔っていたんでしょうが、庭番たちに警察へ行けとそそのかしたり、血のことを聞いたりしました。わたしはあなたを酔っぱらいでかたづけて、黙っているのが、しゃくになったんです。無性《むしょう》に腹が立って、夜もねむれませんでした。そこで、住所をおぼえていたので、昨日ここへ訪ねてきて、聞いたわけです……」
「誰が訪ねて来たんです?」ラスコーリニコフはとっさに記憶をたぐりはじめながら、こう聞きかえした。
「わたしですよ、あなたに無礼なことをしました」
「じゃあなたは、あの家に?」
「そうです、あの家に住んでいます。あのときはちょうど門のそばにいっしょにいたものですから、もうお忘れですか? 昔から、あそこにしごと場をもっておりまして。毛皮の職人で、家で注文のしごとをしています……なんとしてもむかっ腹が立ってならなかったんですよ……」
すると不意にラスコーリニコフの脳裏に、一昨日《おととい》の門のところの場面がまざまざとよみがえった。庭番のほかに、さらに何人かの人々、女も何人かいたことを、彼は思いだした。かまわないから交番へつき出せ、とどなったひとつの声を、彼は思いだした。彼は言った者の顔を思いだせなかったし、いま会っても気がつかないだろうが、あのときその男のほうを向いて、何か言ったことまで、彼はおぼえていた……
なるほど、それで、昨日のあの恐怖はすっかり解決されたわけだ。いま考えてもいちばんぞっとするのは、こんなつまらない《・・・・・》ことのために、彼が実際に破滅に瀕《ひん》したことだ、危うく自分を亡《ほろ》ぼそうとしたことだ。つまり、貸間をさがしに行ったことと、血のことを聞いたこと以外、この男は何も語ることができないわけだ。とすると、ポルフィーリイにも何もない、このうわごと《・・・・》以外、なんの物証もない、どちらともとれる《・・・・・・・・》あの心理《・・》を読む以外、なんの有力な手がかりもないわけだ。してみると、このうえなんの事実もあらわれないとすれば(しかも、そんなものはもうこれ以上あらわれるはずがない、はずがない、はずがない!)、あらわれないとすれば……おれをいったいどうすることができるというのだ?たとえ逮捕したにしても、何をきめ手としておれの罪証を決定的に示すことができよう?しかも、こう見てくると、ポルフィーリイは今日はじめて、ついいましがた部屋の件を知ったばかりなのだ、それまでは知らなかったのだ。
「それをあなたは今日ポルフィーリイに話したのですね……ぼくが行ったことを?」彼は不意にこう思いあたって、どきどきしながら叫んだ。
「ポルフィーリイって、どこの?」
「予審判事ですよ」
「話しました。庭番は行かなかったが、わたしは行ったんです……」
「今日ですか?」
「あなたが来るちょっとまえでした。そして、すっかり聞いてました、あなたが責めたてられるのを、すっかり聞いていたんです」
「どこで? 何を? いつ?」
「ええ、あそこの仕切りのかげですよ、ずうっと坐《すわ》っていたんです」
「なに? じゃ思いがけぬ贈りものというのはあなただったのか? へえ、どうしてそんなことが? おどろいたねえ!」
「わたしはね」と町人は話しだした。「すすめても庭番たちが、もうおそいし、それにすぐとどけなかったのを叱《しか》られるかもしれないなんて言って、行きたがらないし、いまいましくなって、夜はねむれないしで、調べだしたわけです。そして昨日かなりわかったんで、今日出頭しました。はじめ行ったときは――あのひとはいませんでした。一時間ほどして行ってみたが――会ってくれませんでした。三度目に――やっと通されたんです。わたしはあったとおりのことを、すっかりそのまま申しあげました。するとあのひとは部屋の中をひょこひょこ歩きだして、拳骨《げんこつ》で自分の胸を叩《たた》きながら、どなるんです、《おい、ごろつきども、きさまらはおれをなんて目にあわせるんだ? そんなことを知っていたら、おれはやつをすぐさま引っ立てるんだった!》それからとび出して、誰かを呼び、隅のほうでこそこそ話しだしました。それからまたわたしんとこへ来て、いろいろ聞いたり、どなりつけたりしました。そしてこっぴどく叱られました。わたしはすっかり申しあげて、昨日のわたしの言葉にあなたが何も答えられなかったことや、あなたがわたしに気がつかなかったことなどを、話しました。するとあのひとはまたせかせかと歩きだして、のべつ自分の胸を叩いたり、どなったりしだしましたが、あなたが来たことを取り次がれると、――すぐに、仕切りのかげに入って、しばらく坐っとれ、何を聞いても、じっとしてるんだぞ、と言って、自分で椅子《いす》を運んでくれて、鍵《かぎ》をしめてしまいました。ひょっとしたら、また尋問するかもしれんからと言って。ところがニコライが連れて来《こ》られると、あなたが帰ったあと、わたしはすぐに引き出されました、そして、また呼び出して、聞くかもしれんて言われたんです……」
「で、ニコライはきみのいるところで尋問をされたかい?」
「あなたが帰されると、わたしもすぐ出されて、それから尋問がはじまったんです」
町人は言葉をきると、不意にまた指を床にふれて、深々とお辞儀をした。
「よこしまな気持をもって、中傷したりして、ほんとに申しわけありませんでした」
「神が許してくれるさ」とラスコーリニコフは答えた。
それを聞くと同時に、町人は、今度はもう床にふれるほどではなく、腰をかがめただけでぺこっとお辞儀をすると、ゆっくり踵をかえして、部屋を出て行った。
《すべてがどっちともとれる、これで何もかもあいまいになったぞ!》ラスコーリニコフはこうくりかえすと、いつになく元気よく部屋を出て行った。
《さあ、またたたかうぞ》と彼は階段を下りながら、意地わるいうす笑いをうかべて言った。憎《ぞう》悪《お》は彼自身に対するものだった。彼は嫌《けん》悪《お》と恥辱を感じながら、自分の《小心》を思いだしていた。
第五部
1
ドゥーネチカとプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナを相手に、ピョートル・ペトローヴィチにすれば宿命的な話し合いをした翌朝は、ピョートル・ペトローヴィチにも酔いをさますような作用をもたらした。彼は、実に不愉快なことだが、昨日はまだまるで夢みたいな気がして、そうなってしまったとはいうものの、やはりとてもありそうもないと思われていたことを、しだいにもうできてしまった取り返しのつかない事実と認めざるを得なくなった。咬《か》みつかれた自尊心の黒い蛇《へび》が一晩中彼の心をしゃぶりつづけたのである。ベッドから出ると、ピョートル・ペトローヴィチはすぐに鏡を見た。一晩で顔が黄色くむくみはしなかったかと、恐れたのだ。しかしその恐れは、いまのところなかった。そして、近頃《ちかごろ》いくらか肉づきのよくなった白い品のいい自分の顔を見ると、ピョートル・ペトローヴィチは、どこかよそで、おそらくもっともっと清純な花嫁をさがしだせると、すっかり自信をもって、ちょっとの間かえって心の安らぎをおぼえさえした。しかしすぐにわれに返って、はげしくペッと脇《わき》のほうへ唾《つば》をはいた、そしてその動作は同居している若い友人のアンドレイ・セミョーノヴィチ・レベジャートニコフの顔に声には出さないが皮肉なうす笑いを招いた。ピョートル・ペトローヴィチはこのうす笑いに気づいて、すぐに腹の中でそれをこの若い友人に対する貸し勘定に加えた。彼はこの数日でこうした貸しがもうかなりの額にのぼっていた。そして急に、昨日の結果について昨日うっかりアンドレイ・セミョーノヴィチに語ってしまったが、あれはまずかったと気がついて、彼はますますむしゃくしゃしてきた。これは彼が逆上して心が留守になり、腹立ちまぎれにおかした昨日の第二のまちがいだった……それからというものは、午前中いっぱい、まるでわざとのように、次から次と不愉快なことばかり起った。元老院でまで、彼が奔走していたしごとの失敗の知らせが待っていた。わけても彼をむしゃくしゃさせたのは、間近い結婚を予想して借り、自費で造作までした住居《すまい》の家主だった。この家主は小金を貯《た》めこんだドイツ人の職人で、つい先日交わしたばかりの契約を破棄することに、がんとして頭をたてにふらず、ピョートル・ペトローヴィチが手を加えてほとんど新築のようにした住居を返すというのに、契約書に書きこんである違約金の全額を要求したのである。家具屋にしてもまったく同じことで、購入はしたがまだ配達もされていない家具の手付金を一ルーブリも返そうとはしなかった。
《家具のためにわざわざ結婚することもできまい!》とピョートル・ペトローヴィチは腹の中で歯がみをしてくやしがった、しかし同時にわらにもすがりたいせつない希望がちらとひらめいた。《しかし、果して実際にあの話は取り返しのつかないほどにこわれて、だめになってしまったのだろうか? もう一度押してみるわけにはいかないだろうか?》ドゥーネチカのことを考えると、彼の心はまたしてもあまい針でちくりとさされた。彼は苦しい思いでこのうずきに堪えた、そしていまもし祈りだけでラスコーリニコフを殺すことができるとしたら、ピョートル・ペトローヴィチは、もちろん、即座にその祈りを唱えたにちがいない。
《まちがいはこれだけじゃない、あの二人に金をぜんぜんやらなかったことも、いけなかったのだ》彼は憂欝《ゆううつ》な気持でレベジャートニコフのねぐらへもどりながら、こう考えた。《チエッ、なんだっておれはこんなけちなユダヤ人根性になってしまったんだ? 先を見る目さえまるでなかった! あの二人をしばらく困らせておいて、おれを神さまみたいにありがたがるようにしむけてやろうと思っていたら、まんまと逃げられてしまった!……畜生!……まったく、あの頃からちょくちょく、まあ、結納《ゆいのう》として千五百ルーブリとか、さらに贈りものとしてさまざまな小箱類や、化粧品、宝石、布地などの品々をクノップの店や英国屋からとどけさせていたら、この話はもっときれいにいったはずだし……もっとしっかりまとまっていたに違いないんだ! いま頃になってこんなにあっさりとはことわられなかったはずだ! ああした人間だから、ことわるとなれば、きっと贈りものも金も返さなければと思うにちがいない。で、いざ返すとなればつらいし、それに惜しい気もするだろう! おまけに良心も黙っちゃいまい、これまであんなに気前よく、しかも申し分なく親切にしてくれた人を、とつぜん追い出すなんて、そんなことができるだろうか?……うん! 失敗した!》
そして、もう一度歯がみをすると、ピョートル・ペトローヴィチはいきなり自分をばかとどなりつけた、――もちろん、腹の中でである。
こうした結論に達すると、彼は出かけたときより二倍も呪《のろ》わしいむしゃくしゃした気持になって帰宅した。カテリーナ・イワーノヴナの部屋の法事の支度がいくらか彼の好奇心をそそった。彼はもう昨日のうちからこの法事の噂《うわさ》をちらほら耳にしていたし、自分も招待されたようなおぼえもあった。だが、自分のことが忙しくて、ほかのことはみな聞き流していたのだった。カテリーナ・イワーノヴナが墓地へ行っていない留守に、食卓の支度を世話していたリッペヴェフゼル夫人のところへとんで行って、聞いてみると、法事は盛大に行われるはずで、ほとんどアパート中の人が招待されているとのことだった。その中には故人を知らない人までまじっており、レベジャートニコフさえ、カテリーナ・イワーノヴナとひどい喧《けん》嘩《か》をしたのに、ちゃんと招待されているし、それに最後に、彼ピョートル・ペトローヴィチ自身は、ただ招かれているというだけでなく、アパート中のもっともりっぱな客として、是が非でもと大きな期待をもって待たれていることを知らされた。当のアマリヤ・イワーノヴナも、これまで何度となくいがみあいをやって来たのに、やはり丁重な招待を受けたので、いまこうして指図をしたり世話をやいたりしているのが、うれしくてたまらない様子だった。おまけに彼女は喪服にはちがいないが、新しい絹の衣装をつけて、すっかりめかしこみ、それを得意そうに見せびらかしていた。こうしたすべての事実と情報はピョートル・ペトローヴィチにある考えをあたえた。そして彼はその考えにとらわれた様子で、自分の部屋へ、つまりアンドレイ・セミョーノヴィチ・レベジャートニコフの部屋へもどった。それというのも、招待された人たちの中にラスコーリニコフも交じっていることを、彼は知ったからである。
レベジャートニコフはどうした風の吹きまわしか今日は朝からずっと家にこもっていた。この男とピョートル・ペトローヴィチの間には、ある奇妙な、しかも見ようによっては自然な関係ができあがっていた。ピョートル・ペトローヴィチはここへ移って来たほとんどその日から、極度に彼を軽蔑《けいべつ》し嫌《けん》悪《お》していたが、そのくせいくらか彼を恐れているふうだった。彼がペテルブルグに上京してこの男の部屋に同居したのは、しみったれた節約のためばかりではなかった。もっともこれが主な理由ではあったが、そこには別な理由もあった。彼はまだ田舎にいた時分に、自分がかつて世話をしていたレベジャートニコフが、もっとも前衛的な青年進歩主義者の一人で、おまけにある種の興味ある途方もないサークルで指導的な役割を演じているという噂を聞いていた。これはピョートル・ペトローヴィチをびっくりさせた。何でも知っていて、何でも軽蔑し、何でもあばきたてる、こうした恐《こわ》いもの知らずのサークルが、もうまえまえからピョートル・ペトローヴィチには何かしら特別に恐ろしいものに思われていた。しかもそれがまったく漠然《ばくぜん》とした恐怖だった。むろん、彼としては、まだ田舎にいた頃のことだから、こうしたもの《・・・・・・》については輪郭さえもはっきりとはつかむことができなかった。彼もすべての人々と同じく、特にペテルブルグには進歩主義者とか、ニヒリストとか、暴露主義者とか、何とか、そうした類《たぐ》いの連中がいることは噂に聞いていたが、多くの人々の例にもれず、そうした名称の観念や意味をばかばかしいまでに誇張して、ゆがめてしまっていた。もうここ数年来、何よりも彼が恐れていたのは、暴露《・・》ということだった。そしてこれが彼のこびりついた被害妄想的《もうそうてき》な不安のもっとも大きな原因で、活動の場をペテルブルグに移すことを空想するとき、特にこの不安におびやかされるのだった。この点において彼は、よく小さな子供にあるように、いわゆる弱虫《・・》だった。数年前に田舎で、まだやっと地盤がかたまりかけた頃、彼はそれまでしっかりしがみついていて、しかも彼の面倒を見てくれていた県のかなりの有力者が、こっぴどく暴露されて失脚した例を二つも見ていた。ひとつの場合は暴露された者にとってひどくぶざまな結果に終ったし、もうひとつの場合は危なく収拾のつかないような面倒なことになりかけた。だからピョートル・ペトローヴィチは、ペテルブルグに着くとすぐに、とりあえずそうした方面の様子をさぐることに決め、そして必要とあれば、万一の場合にそなえて先まわりして、《若い世代》の機《き》嫌《げん》をとっておこうと決意したのである。この点において彼はレベジャートニコフを頼りにしていた。そして例えばラスコーリニコフを訪問したときも、彼はもう受け売りのきまり文句をどうにかつかいこなせるまでになっていたのだった。
もちろん、彼はすぐにレベジャートニコフが実にくだらない、頭のまわりのにぶい人間であることを見ぬいた。しかしそれだからといって、ピョートル・ペトローヴィチはすこしも考えを変えなかったし、勇気づけられもしなかった。よしんばすべての進歩主義者たちがこんな馬《ば》鹿《か》者《もの》ばかりだということをはっきり知ったとしても、やはり彼の不安はおさまらなかったにちがいない。もともとこうした教義や、思想や、体系には(レベジャートニコフはこれらを武器にして彼におそいかかったのだが)彼は何の用もなかった。彼には独自の目的があった。それは次のようなことをできるだけ早く、いますぐにもさぐり出すことであった。そこでは《・・・・》何がどんなふうになっているのか? その連中《・・・・》は力があるのか、ないのか? 特に彼が恐れなければならないものがあるかどうか? もし彼が何かしごとをはじめたとしたら、暴露されるだろうか、されないだろうか? 暴露されるとしたら、どういう点だろうか、そしてこの頃は特にどういう点が暴露の対象にねらわれているか?さらに、彼らが実際に力をもっているとすれば、なんとか彼らにとり入って、うまく欺《だま》すことはできないものだろうか? そうする必要があるだろうか、ないだろうか? また例えば、彼らの力を逆用して、何か出世の足がかりになるようなものをつくることはできないだろうか? 要するに、彼のまえには無数の問題が立ちふさがっていたのである。
このレベジャートニコフという男はやせこけた、小さな、腺病質《せんびょうしつ》な男で、どこかに勤めており、髪は気味わるいほど白っぽく、カツレツみたいに頬《ほお》ひげを生やして、それをひどく自慢にしていた。そのうえ、年中といっていいほど目をわずらっていた。気はかなりやさしいが、言葉は自信たっぷりで、ときには横柄《おうへい》きわまることさえあった、――これが、貧弱な風采《ふうさい》と対照して、いつも滑稽《こっけい》な感じをあたえるのだった。しかし、アマリヤ・イワーノヴナのアパートでは、彼はかなりありがたい客の一人にかぞえられていた。つまり酒は酔うほど飲まなかったし、家賃はきちんきちんと払っていたからだ。こうしたいろいろのいいところはあったが、彼はたしかにあまり利口なほうではなかった。彼が進歩主義や《若い世代》に結びついたのは――一時の感激からだった。要するに彼は、最新流行の思想というときまっていきなりとびつき、すぐにそれを俗悪なものにしてしまい、ときには大まじめで奉仕しているすべてをたちまち滑稽なものにしてしまうような、数も無数ならば毛色も雑多な、俗物やへなへなの薄のろや何をやらせても中途はんぱな石頭どもの群れの一人だった。
しかし、レベジャートニコフはどんなにお人よしではあっても、やはりかつての後見人であったピョートル・ペトローヴィチといっしょにいるのが、そろそろ鼻につきかけていた。これはどちらからともなくひとりでに、しかも同時に、そうなったのである。レベジャートニコフはずいぶんのろいほうだったが、それでもやはり、ピョートル・ペトローヴィチが彼をうまいことあしらって、ひそかに軽蔑していることや、《決して共に歩む人間でない》ことが、すこしずつわかりかけてきたのである。彼がフーリエの体系やダーウィンの理論の説明をこころみると、ピョートル・ペトローヴィチは、特に近頃は、なんとなく小馬鹿にしたような態度で聞くようになったし、最近では――口ぎたなくののしるようにさえなった。要するに彼は、本能的に、レベジャートニコフが何者であるかを見ぬきはじめたのである。レベジャートニコフはありふれた薄のろであるばかりか、おそらくは、嘘《うそ》つきで、自分の小さなサークルでも指導的な立場にある連中とはぜんぜんつながりがなく、また聞き《・・・・》ですこしばかり聞きかじっているだけだ。そればかりか、宣伝《・・》という自分の任務さえ、よくのみこんでいないらしい。だから言うことがなんとなくあやふやになりがちだし、こんなことではとても暴露家になんてなれるものか! ついでに、ちょっとことわっておくが、ピョートル・ペトローヴィチはこの十日ばかりの間に、レベジャートニコフから実に奇妙な賛辞をおくられ、それを喜んで受けていたのだった(特にはじめのうちは)。というのは、例えば、メシチャンスカヤ街のどこかに近い将来に新しい《コンミューン》が建設されるが、あなたは進んでそれに援助してくれるはずだとか、結婚最初の一カ月に、ドゥーネチカが愛人をつくっても、あなたはそれを邪魔しないだろうとか、あなたはこれから生れる自分の子供に洗礼を受けさせないだろうとか、そうした類いのことをレベジャートニコフに言われても、彼はべつに反対もしないで、黙っていたのだった。ピョートル・ペトローヴィチはだいたい自分のいいところをかぞえ立てられれば、決して反対はしない性質で、こんなほめられ方をしてさえ、黙って許していた、――どんなことにしろほめられる、ということが、彼にはたまらなく嬉《うれ》しかったのである。
ピョートル・ペトローヴィチは今朝ある理由のために五分利の証券を現金に替えてきて、卓に向って紙幣や債券の束をかぞえ直していた。およそ金には縁のないレベジャートニコフは、部屋の中を歩きまわりながら、それらの札束を平気で、むしろさげすみの目で見ているような振りをしていた。レベジャートニコフが実際にこのような大金をまえにして平気でいられるとは、ピョートル・ペトローヴィチはぜったいに信じなかった。一方レベジャートニコフも、腹の中では、苦々しい思いで考えていた。ピョートル・ペトローヴィチは本気でおれのことをそんなふうに思うことのできる男かもしれない、しかもそればかりか札束をひろげて若いこのおれの気持をくすぐり、からかい、おれに自分の貧しさと、二人の間にはこれほどの距《へだ》たりがあるのだということを、思い知らせる機会を喜んでいるのかもしれない。
レベジャートニコフは新しい特殊な《コンミューン》施設という大好きなテーマについて論じはじめたが、今日はピョートル・ペトローヴィチがいままでになく苛々《いらいら》した様子で、さっぱり気が入っていないのに気がついた。そろばん玉のぱちぱちという音の合間に、ピョートル・ペトローヴィチの口からとびだす簡単な反論や意見には、もっとも露骨な、しかも故意の無礼な嘲笑《ちょうしょう》がみちていた。しかし《人道的》なレベジャートニコフは、ピョートル・ペトローヴィチのそうした心の状態を、昨日のドゥーネチカとの破談のせいにして、早くこちらに話を移したい思いでいっぱいになっていた。この問題について彼は、尊敬する先輩の心をしずめ、将来の発展に《確実に》利益をもたらすことができるような、進歩的なしかも教訓的な意見をいくつかもっていたのだった。
「あの……後家さんのところじゃ、どんな法事があるのかね?」とピョートル・ペトローヴィチはレベジャートニコフの話がもっとも油ののりきったところを乱暴にさえぎりながら、だしぬけに尋ねた。
「とぼけないでくださいよ。昨日もこの問題についてあなたと話しあい、およそこうした儀式というものについて大いに論を発展させたじゃありませんか……それにあの女はあなたのことも招待してますよ、それはぼくも聞いてますが。あなたは自分であの女と昨日話してたくせに……」
「あの馬鹿な乞食女《こじきおんな》が、もう一人の馬鹿……ラスコーリニコフとかいう男からもらった金を、すっかり法事につぎこんでしまうとは、まったくおどろいたよ。いまだって通りがかりに、のぞいて見てびっくりしたね、酒やら何やら、大した支度だよ!……何人か招《よ》ばれているそうだが――まったく何を考えているんだ!」とピョートル・ペトローヴィチは何か魂胆があるらしく、いろんなことを問いかけて、相手をこの話に誘いこみながら、つづけた。「なんですって? わたしも招かれているって、たしかにそう言いましたね?」不意に顔を上げると、彼はこうつけ加えた。「それはいつのことです? おぼえていませんね。もっとも、わたしは行きませんけど。行って何をするんです? 昨日は通りすがりにちょっと、あなたは貧しい官吏未亡人だから、一時の扶助金として一年分の俸給《ほうきゅう》をもらえるかもしれない、という話をしただけだよ。それでわたしを招待したのかな? へ、へ!」
「ぼくも行かないつもりですよ」とレベジャートニコフは言った。
「そうだろうとも! その手で殴ったんだからな。気がさすのはわかるよ、へ、へ、へ!」
「誰《だれ》が殴ったんです? 誰を?」レベジャートニコフは不意にうろたえて、顔さえ赤くした。
「おや、あなただよ、カテリーナ・イワーノヴナをね、一月《ひとつき》ほどまえ、ちがいますか! わたしは聞きましたよ、昨日……これがきみらのいう信念というやつだよ!……まあ、婦人問題ではへまをやりましたな。へ、へ、へ!」
こういうとピョートル・ペトローヴィチは、胸がすっとしたらしく、またそろばん玉をぱちぱちはじきはじめた。
「それはみなでたらめですよ、中傷です!」とレベジャートニコフはいきり立った。彼はこの話をもちだされるのをいつもおそれていたのだった。「それはぜんぜんそうじゃなかったんです! 別だったんです……あなたの聞きちがいです、かげ口ですよ! あのときぼくはただ自分の身を守っただけです。あの女のほうからぼくにとびかかって、爪《つめ》でひっかいたんですよ……頬ひげをすっかりひきむしられたんです……どんな人間にも、自己防衛は許されると思いますね。それにぼくは、何者であろうとぼくに暴力を加えることを許しません……これがぼくの主義です。だって、あれはもう専制主義というものですよ。ぼくはどうしたらよかったんです。ただ黙ってあの女のまえに立っていろというんですか? ぼくはただちょっとおし退《の》けただけです」
「へ、へ、へ!」とルージンは意地わるい嘲《あざ》笑《わら》いをつづけた。
「あなたは自分がむかっ腹を立てて、苛々してるものだから、やつ当りをしてるんだ……あんなことはでたらめですよ、婦人問題にはぜんぜんなんの関係もありません! あなたは誤解しています。ぼくは、もし女がすべての面で、体力においてさえ(これはもう確認されています)、男と同等であるという説が認められるとすれば、従って、あの場合だって平等でなければならんはずだと思ったんです。もちろん、あとになってこんな問題は本当はあり得ない、という判断を下しましたが。だって喧嘩なんてあってはならないし、喧嘩の条件なんて未来社会では考えられませんよ……それに喧嘩に平等をもとめるなんて、どだいおかしいですよ。ぼくはそれほど馬鹿じゃありません……もっとも、喧嘩はあるにはあります……つまり将来はなくなるでしょうが、いまはまだあります……チエッ! 何を言ってるんだ! あなたと話してるとすぐに脇道へそれてしまう! ぼくが法事に行かないのは、そうした不愉快なことがあったからじゃない。ただ主義として、法事といういまわしい偏見に参加したくない、それだけです! でも、行っても別にかまいませんよ、ただ笑ってやるだけのためにね……だが、神父が来《こ》ないのが残念ですよ。来たら、是が非でも行ってやるんだが」
「というと、他人の家へご馳《ち》走《そう》になりに行って、ご馳走にも、招んだ人々にも、平等に唾をはきかける。そういうことですね?」
「唾なんてはきかけませんね、決して。抗議するんですよ。ぼくには有益な目的があるんです。つまり発達と宣伝を間接的に援助するということです。およそ人間は発達させ、そして宣伝する義務があります。そしておそらく、それが強いほどいいわけです。ぼくは思想を、つまり種をまくことができます……その種から事実が生れるでしょう。ぼくはただ彼らを怒らせるんじゃありません! たしかにはじめは怒るでしょうが、いずれはぼくが利益をもたらしたことに気づくはずです。現にぼくたちの仲間でも、いまコンミューンにいるテレビヨーワが家をとび出して……ある男のもとへ走り、父と母にあてて、偏見の中に住みたくないから自由結婚に入るという手紙を書いたとき、親に対してそれではあまりに乱暴すぎる、もうすこしあたたかい目で見てやり、もっとやわらかく書いてもいいだろう、なんて非難がでたことがありました。ぼくに言わせれば、そんなことはくだらんことですよ、やわらかく書く必要なんかあるもんですか、とんでもない、反対です、そこでこそ抗議しなきゃいかんのです。ワレンツなんか七年間良人《おっと》と暮し、二人の子供がいるのに、敢然とそれをすてて、良人にこういう絶縁状をたたきつけたんです、《あなたといっしょでは幸福になれないことを、わたしは自覚しました。あなたがコンミューンという方法によってつくられた別な社会組織のあることをわたしにかくして、わたしを欺してきたことは、ぜったいに許せません。わたしはこの間あるすぐれたお方にそれをすっかり教えられたのです。わたしはそのお方のふところにとびこみ、いっしょにコンミューンの生活に入ります。あなたを欺《あざむ》くのは良心に恥ずかしいことだと思いますので、はっきりと申しあげます。あなたはお好きなようにお暮しください。わたしをもとへもどそうなどと思わないでください、もうおそすぎます。ではおしあわせを祈ります》まあこんなふうに書くわけですね、こうした種類の手紙は!」
「そのテレビヨーワというのは、きみがいつか三度目の自由結婚をしたとか言っていた、その女じゃないのかね?」
「正確に言えば、まだ二度目ですね! もっとも、四度目でも、十五度目でも、そんなことはどうでもいいことですよ! ぼくがもし両親に死なれたことを残念に思ったときがあったとしたら、それはむろんいまですよ。両親がまだ生きていたら、それこそ抗議をして嘆かせてやったんだがと、何度か空想したほどです。わざとそうしたでしょう……《親の手もとをはなれた娘》は切ったパンきれみたいだなんて言われるが、それがなんです、笑わせますよ! ぼくなら思い知らせてやる!びっくりさせてやる! まったく、誰もいないのが、残念だ!」
「びっくりさせる相手がですか! へ、へ!まあ、好きなようにしたらいいでしょう」とピョートル・ペトローヴィチはさえぎった。「ところでひとつ聞きたいんだが、あの死んだ男の娘を知ってるでしょう、あの見るからひよわそうな! あの女のことで噂されてることは、ありゃ本当かね、え?」
「それがどうしたんです? ぼくに言わせれば、つまりぼく個人の信念によればですね、それは女のもっともノーマルな状態ですよ。どうしてそうでないと言えます? じゃ、distinguons(はっきりさせましょう)。現在の社会ではそれは、もちろん、完全にノーマル、とは言えません、だって強制された状態ですから。しかし将来は完全にノーマルになります、自由になるからです。いままでもあの娘にはその権利があったんです。彼女は苦しみ悩みました、それが彼女の資金、いわば自由につかっても誰にも文句の言われぬ資本だったわけです。もちろん、未来の社会では資金は要《い》らなくなるでしょう。そしてあの娘の役割は別な意味があたえられ、整然と合理的に説明されることになるでしょう。ソーフィヤ・セミョーノヴナ個人について言えばですね、現在はぼくは彼女の行為を、社会機構に対する力強い具身化された抗議と見て、そのために彼女を深く尊敬しています。彼女を見るのが、喜びなほどです!」
「おや、わたしが聞いたんでは、あの娘をこのアパートから追い出したのはきみだそうだが!」
レベジャートニコフは憤然とした。
「それもまた中傷だ!」と彼はわめきたてた。「とんでもない、ぜんぜんそうじゃなかったんだ! そんなことってあるものか! それはみなあのカテリーナ・イワーノヴナがあのとき、何もわからないものだから、いいかげんなことを言ったんだ! ぼくはぜんぜんソーフィヤ・セミョーノヴナに言いよったりなどしなかった! 完全に私心をすてて、彼女の心に反抗心を呼びさまし、精神の成長をねがっただけのことだ……ぼくには反抗心だけが必要だったんだ、それにソーフィヤ・セミョーノヴナとしても、人に言われなくたって、もうこのアパートにはいられなくなっていたんだ!」
「コンミューンにでも呼んだのかね?」
「あなたはさっきからせせら笑っていますが、まったく見当ちがいですよ。失礼ながら注意しておきます。あなたは何もわかっていない! コンミューンにはそういう役割はありませんよ。コンミューンというものは、そういう役割をなくするために作られるのです。コンミューンではその役割は現在のその本質をすっかり変えてしまいます。そしてここで愚劣と思われているものが、あちらでは知性あるものとなりますし、ここで、現在の環境で、不自然なものが、あちらではまったく自然なものとなるのです。いっさいは人間がどんな事情とどんな環境の中におかれているかによるのです。すべては環境に支配されます、人間自体は無に等しいのです。さて、ソーフィヤ・セミョーノヴナとは、ぼくはいまでも親しくしています。これで彼女が決してぼくを敵とも侮辱を加えた男とも思っていないことがわかるでしょう。そうです! ぼくはいま彼女をコンミューンに誘っています。でもそれはまったく、まったく別な基礎の上につくられたものです! 何がおかしいんです! われわれはいままでよりもずっと広い基礎の上に、独自のコンミューンを組織しようとしているんです。われわれは信念をさらに前進させました。われわれはいままでよりも多く否定します! もしドブロリューボフが墓からよみがえったら、ぼくは彼と議論するでしょう。ベリンスキーなんかあっさり論破しますよ! で、当分はぼくはソーフィヤ・セミョーノヴナの啓蒙《けいもう》をつづけます。美しい、まったく美しい性質をもったひとです!」
「ほう、するとその美しい性質とやらにつけこむわけですな、え? へ、へ!」
「ちがいます、ちがいます! とんでもない! 反対です!」
「おや、今度は反対ですか! へ、へ、へ!よくも言えたね!」
「どうしてそんなふうにとるんです? え?ぼくがあなたにかくさなきゃいけないような理由が、何かあるんですか! とんでもない、ぼく自身さえわからないんですが、ぼくといっしょにいると彼女は何かしら不自然に妙におどおどして、かわいそうなくらい恥ずかしがるんですよ!」
「そりゃむろん、きみが啓蒙してるからさ……へ、へ! そんなはじらいなんてくだらんものだと、証明してやるわけですな?……」
「ぜんぜんちがいます! まるで見当ちがいですよ! まったく、あなたはなんて乱暴に、なんて愚劣に――いや、失礼――啓蒙という言葉を解釈してるんだ! あなたはなんにもわかっちゃいない! おどろいたねえ、あなたはまだまるで……基礎ができちゃいない!われわれは女性の自由を求めているんですよ。ところがあなたの頭の中にはひとつのことしかないんだ……純潔と女性の羞恥《しゅうち》というのは、それ自体が無益でしかも偏見だと思うから、この問題をとりあげるのは避けますが、ぼくは、ぼくに対する彼女の純潔を十分に、全面的に認めています。というのは、そこに彼女の意志のすべて、権利のすべてがあるからです。もちろん、彼女がぼくに《あなたといっしょになりたい》と言ってくれたとしたら、ぼくはひじょうに幸運な男だと思うでしょう。あのひとが好きでたまらないからです。だがいまは、少なくともいまは、ぼくほど親切に丁寧に彼女をあつかった者は、一人だってありゃしませんよ、ぼくほど彼女の人格を尊敬している者はね……ぼくは希望をもって待っているんです――それだけですよ!」
「それなら何か贈りものをしたほうがいいよ。どうです、そんなことは考えもしなかったでしょう」
「いまも言ったけど、あなたはなんにもわかっちゃいない! そりゃむろん、彼女の立場はあんなですけど、そこには別な問題があるんです! まったく別な問題が! あなたはただ彼女を軽蔑している。あなたは事実を見て、それが軽蔑に値すると誤解して、人間の本質を人道的な観点から見ようとはしない。あのひとがどんなすばらしい性質をもっているか、あなたはまだ知らないんです! ひとつだけひじょうに残念なのは、この頃どうしたわけかすっかり読書をやめてしまって、本を借りに来ないことです。まえにはよく借りに来たんですがねえ。また惜しいのは、あんなりっぱな反抗の力と決意を持ちながら――それはもうすでに一度りっぱに見せてくれたんですよ――彼女にはまだ何か独立心といいますか、自主性というものが足りないんですよ、否定の精神が足りないんですよ、だから世間の偏見と……愚劣さからすっかり脱《ぬ》けきれないんです。とはいえ、ほかのいろんな問題は実によく理解しています。例えば、手の接吻《せっぷん》の問題、つまり男が女の手に接吻するということは、不平等の観念で女を侮辱することだということなどは、よくわかっています。この問題はぼくたちのサークルで討議されたんですが、ぼくはすぐに彼女におしえました。フランスの労働組合の話も注意深く聞いていました。ぼくはいま未来社会では他人の部屋へ自由に出入りできるという問題を、彼女に説明しているんです」
「そりゃまた何だね?」
「コンミューンのメンバーは、相手が男であろうと女であろうと、いつでも他のメンバーの部屋へ入る権利があるか、という問題がこのあいだ討議されたんですよ……もちろんある、と決議されました……」
「じゃ、そのときちょうどその男なり女なりが必要な要求をみたしている最中だったら、どうするかね、へ、へ!」
レベジャートニコフはすっかり腹を立ててしまった。
「あんたはいつもそんなことばかり言ってる。その呪わしい《要求》がどうしたというんです!」と彼はむかむかしながら叫んだ。「チエッ、ぼくは体系を説明するに先立って、うっかりこの呪わしい要求について口をすべらしてしまったのが、失敗だった。まったく腹が立つ! 畜生! これはあんたのような人々にはつまずくもとだ。何よりもいけないのは――よく知りもしないで、嘲笑《あざわら》うことだ。これがまったく困りものなんだ! そのくせ自分が正しいと思ってるんだ! そしてそれを自慢にしているんだ! チエッ! だからぼくは何度か言ったんだ、こうした問題を新人に説明するのはいちばん最後にすべきだ、もう理論体系をすっかりものにして、十分に啓蒙され方向をはっきりつかんでからでなくちゃいかんと。どうです、ええ、汚水溜《だ》めにだって、こんな恥ずべきけがらわしいものがあると思いますか? ぼくは真っ先に、進んでどんな汚水溜めでも清掃するつもりです!これは別に自己犠牲でもなんでもありません! これは単なる労働です。社会に有益な高《こう》尚《しょう》な活動です。それは他のいっさいの活動に匹敵しますし、例えばラファエルとかプーシキンの活動よりもはるかに高い価値をもつものです。なぜならこのほうがより有益だからです!」
「しかもより高尚でしょう、より高尚ですよね、へ、へ、へ!」
「より高尚とはなんでしょう? 人間の活動を定義した場合こういう表現がぼくには理解できません。《より高尚》、《より寛大》――こうした言葉はみなナンセンスです、不合理です、ぼくが否定している古い偏見的な言葉ですよ。どんなことでも、人類に有益《・・》であれば、それがつまり高尚でもあるわけです!ぼくが理解しているのは、有益《・・》という一語だけです! 笑いたきゃ、勝手に笑いなさい、だがこれは真理ですよ!」
ピョートル・ペトローヴィチは腹をかかえて笑った。彼はもう勘定をおわって、金をしまっていた。しかし、その一部はどういうつもりかまだ卓の上にのこしておいた。この《汚水溜めの問題》は、実にくだらないことだが、しかしもう何度かピョートル・ペトローヴィチと若い友人の間のいがみあいのもとになっていた。こうしたばかげたことになるのも、レベジャートニコフが本気で腹を立てるからだった。ルージンはいつもそれを憂《う》さ晴《ば》らしにしていたが、今日は特にレベジャートニコフを怒らせてみたかった。
「あんたは昨日の失敗でむかむかしてるもんだから、そんなにうるさくからんでくるんですよ」レベジャートニコフはとうとうどなってしまった。だいたい彼はありあまる《独立心》と《反抗心》をもっているはずなのに、どういうものかピョートル・ペトローヴィチには思いきって反対する勇気がなく、長年の習慣になっている丁寧な態度をいまだにもちつづけていたのだった。
「それよりもきみに聞きたいんだが」とピョートル・ペトローヴィチは怒ったような口調で横柄《おうへい》にさえぎった。「どうだろう、きみにできるかね……といってしまえばそれまでだが、ほんとうにいま言った若い娘とそれほど親しいのかね、それならいますぐその娘をこの部屋へ呼んでもらいたいのだが? どうやら、もうみんな墓地からもどったようだし……騒々しい足音がのぼってくるのが聞えたよ……ちょっと会っておきたいんだよ、あの娘にね」
「え、あなたが、どうして?」とレベジャートニコフはびっくりして尋ねた。
「いやなに、ちょっと用があるんだよ。今日明日にもわたしはここを出るだろう、だからそのまえにちょっと言っておきたいことがあるんだよ……だが、話のとき、きみもいっしょにいてくれたまえ、そのほうがかえっていいんだよ。だって、痛くもない腹をさぐられちゃかなわんからな」
「ぼくは別にどうとも思いませんよ……ただ聞いてみただけですよ。でも用があるんでしたら、呼んでくるくらいわけありませんよ。ちょっと行ってきます。しかしご心配なく、邪魔なんかしませんから」
果して、五分もするとレベジャートニコフはソーネチカを連れてもどってきた。ソーニャはすっかりおびえきった様子で、例によって、びくびくしながら入ってきた。彼女はこういう場合はいつもおどおどして、新しい人に会ったり新しく知り合いになったりすることをひどく恐れた。子供の頃からそうだったが、この頃は特にそれがひどくなっていた……ピョートル・ペトローヴィチは《やさしく丁寧に》彼女を迎えたが、しかしその態度にはどことなく浮わついたなれなれしさがあった。しかしこれは、ピョートル・ペトローヴィチの考えでは、彼のような名誉も地位もある男が、こんな若い、しかもある意味では興《・》味のある《・・・・》女に対しては、別に品のわるいことではなかった。彼は急いでソーニャを《元気》づけると、卓をはさんで向いあいに坐《すわ》るようにすすめた。ソーニャは腰を下ろすと、あたりを見まわして――レベジャートニコフから、卓の上においてある金に目をうつし、それから不意にまたピョートル・ペトローヴィチを見た。そしてそれからはもうまるで吸いよせられたように、彼の顔から目をはなさなかった。レベジャートニコフはドアのほうへ行きかけた。ピョートル・ペトローヴィチは立ち上がると、動作でソーニャに坐っているように示しておいて、ドアのところでレベジャートニコフをひきとめた。
「あのラスコーリニコフはいたかね? 来ていた?」と彼は声をひそめて尋ねた。
「ラスコーリニコフ? いたよ。それがどうしたんです? うん、いた……ちょうど来たところだった、見ましたよ……何か用ですか?」
「じゃなおのこと、きみにはぜひここにいてもらいたい、わたしをこの……娘さんと、二人きりにしないでほしい。話はなんでもないことだが、どんなことを勘ぐられるかわかりゃしない。ラスコーリニコフにあちら《・・・》でつまらんことを言われるのが、いやなんだよ……わかるだろう、わたしの言う意味が?」
「あ、わかった、わかりましたよ!」不意にレベジャートニコフは察した。「そう、あなたには理由がある……そりゃ、むろん、ぼく個人の確信するところでは、あなたの懸《け》念《ねん》はずいぶん先走りしすぎているようですが……とにかく、あなたには理由があります。失礼ですが、のこりましょう。窓のあたりにいます、邪魔にならないようにします……あなたに理由があることは、ぼくも認めます……」
ピョートル・ペトローヴィチはソファへもどると、ソーニャの向いに腰を下ろして、注意深い目でしばらく彼女を見まもっていたが、急にひどく重々しい、いくらかきびしくさえ見える態度になった。《あんたのほうも妙な気は起さんでもらいたいな、娘さん》とでも言いたげに見えた。ソーニャはすっかりどぎまぎしてしまった。
「まず最初に、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、どうかあなたのお母さんに謝っていただきたい……たしか、そうでしたな? カテリーナ・イワーノヴナはあなたにはお母さん代りでしたね?」とピョートル・ペトローヴィチはいかにも重みをつけて、とはいえ、かなりやさしい調子できりだした。彼が何かひどく親切な意向をもっていることは、明らかだった。
「そのとおりです、はい。母代りです」とソーニャはあわてて、おどおどしながら答えた。
「そこで、実はお母さんに謝ってもらいたいのですが、思いがけぬ事情ができましたために、ほんとうに残念ですが、あなたのお母さんにせっかくお招きをいただいておきながら、どうしてもお宅のお茶の集まり……いや法事に出席できないのですよ」
「はい。申します、早速」そう言いながら、ソーネチカはそそくさと立ちあがった。
「まだ《・・》あるんですよ」ピョートル・ペトローヴィチは彼女が素《そ》朴《ぼく》で礼儀を知らないのに思わず失笑しながら、彼女をひきとめた。「ねえ、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、わたしがこんな自分だけのつまらない理由のために、わざわざあなたのようなお方をわずらわして、ここへ来ていただいたなんてお考えでしたら、それはわたしという人間をちっともご存じないということですよ。むろん、目的は別にあります」
ソーニャはあわてて腰を下ろした。卓の上においたままになっている灰色や虹色《にじいろ》の紙幣が、また彼女の目さきにちらついたが、彼女は急いで顔をそらして、ピョートル・ペトローヴィチに目をあげた。不意に彼女には、特に彼女《・・》には、他人の金に目をやったことが恐ろしく不作法なことに思われたのだった。彼女はピョートル・ペトローヴィチが左の手にもっていた金細工のオペラグラスと、同じくその手の中指にはめている、琥《こ》珀《はく》をちりばめた大きなどっしりした、びっくりするほどきれいな指輪に、目をやりかけた――が不意に、それからも目をそらした、そしてもうどこへ目をやっていいかわからなくなり、結局、またまっすぐにピョートル・ペトローヴィチの目を見つめた。ちょっと間をおいて、まえよりもいっそう重みを加えて、彼は言葉をつづけた。
「昨日たまたま通りすがりに、気の毒なカテリーナ・イワーノヴナと二言三言言葉をかわしたのですが、それだけでもう十分にあの方が不自然な状態におかれていることがわかりました、そういう表現があるとすればですな……」
「はい……不自然な状態ですわ」と、ソーニャはあわてて相槌《あいづち》を打った。
「あるいはもっと簡単にわかりやすく言えば、――病人だということですね」
「はい、簡単にわかりやすく……そうです、病人ですわ」
「そうですね。そこで、人道的な気持と、さらに、同情とでもいいますか、そういう気持から、わたしとしては、あのひとの不幸な運命がさけられないのが目に見えるので、何かお役に立つことをしてあげたいと思っているわけです。どうやら、あの実に気の毒な家族はいまあなた一人を頼りにしているようですねえ」
「おそれ入りますが」と不意にソーニャは立ちあがった。「あなたは昨日年金がもらえるかもしれないって、母におっしゃったそうですわね? それで母は昨日もう早速わたしに、あなたが年金の世話をしてくださることになったなんて申しておりましたわ。それは本当なのでしょうか?」
「いや、決して。むしろある意味では理屈に合いませんよ。わたしはただ現職官吏が死んだ場合、その未亡人に一時的な扶助金が下がることがあると言っただけですよ、――それも誰かの口添えがあればの話ですがね、――ところがあなたの亡《な》くなったお父さんは年限を勤めあげなかったばかりか、最近はぜんぜん勤めてもいなかったらしい。従って、要するに、望みはあるかもしれないにしても、まったくかげろうみたいなものですよ。だから実際には、この場合、扶助金に対するなんらの権利もないということですね。むしろその逆ですよ……それなのに、あのひとはもう年金なんて考えているのかねえ、へ、へ、へ!ぬけ目のない奥さんだよ!」
「そうですわ、年金のことを……それというのも、あのひとは信じやすく、お人よしだからですわ、人がいいからなんでも信じるのよ、そして……そして……そして……頭があんなふうに……そうですわ……失礼いたしました」こう言うと、ソーニャはまた立ち去りかけた。
「お待ちなさい、話はまだ終っていませんよ」
「そうですわね、まだ終っていませんわね」とソーニャは呟《つぶや》いた。
「だからおかけなさい」
ソーニャはすっかりどぎまぎして、また腰を下ろした。これで三度目だった。
「かわいそうな子供たちをかかえたあのひとのこんな気の毒な状態を見て、わたしは――いまも言ったように――できる範囲で、何かのお役に立ちたいと思ったわけです。まあ、いわゆるできる範囲でですね、それ以上のことはできませんが。例えば、あのひとのために寄付をつのるとか、あるいは、いわば、宝くじのようなものをやるとか……あるいは何かそうしたものを考えるとか、――まあこういうことはこうした場合近親者とか、他人でも、人助けの好きな人々によって、いつも考えられることですがね。まあこのことをわたしはあなたに言いたかったんですよ。これならできると思いましてな」
「はい、ありがとうございます……神さまがあなたのそのお気持を……」ソーニャはじっとピョートル・ペトローヴィチを見まもりながら、呟いた。
「できますよ、だが……それはあとで……いや、今日にでも早速はじめられますよ。今夜会って、話しあって、いわば基礎づくりをしましょう。じゃ七時頃おいでください。レベジャートニコフ君、きみも来てくれるだろうね……ところで……ひとつ、まえもってようく申しあげておかなければならないことがあるんですよ。そのために、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、わざわざあなたをわずらわして、ここへ来ていただいたんです。というのはほかでもありませんが、わたしの意見としては――お金をカテリーナ・イワーノヴナに直接わたしてはいけないし、それに危ないと思うんですよ。その証拠が――今日のこの法事です。いわば、明日のパンの一かけらもないし、それに……はくものも何もない、という状態なのに、今日はジャマイカのラムや、マデラ酒、さらにコーヒーまで買いこむんですからな。通りすがりに見ましたよ。明日になればまたすっかりあなたにおんぶして、最後の一きれのパンまでうばいとる。こんなばかなことってありますか。だから寄付にしても、わたし個人の考えでは、つまり、金のことは、気の毒な未亡人には知らせないで、あなただけが知っているようにしたいと思うのですよ。どうでしょう、わたしの言うことがまちがってるでしょうか?」
「わかりませんわ。母があんなことをしたのは今日だけですの……一生に一度ですわ……なんとしてもりっぱな供《く》養《よう》をして、故人の冥《めい》福《ふく》を祈りたい気持でいっぱいだったんですわ……母はひじょうに利口なひとです。でも、どうぞ思いどおりになさってください。わたしはほんとに、ほんとに、なんと申しあげてよろしいやら……あの人たちもみなあなたを……神さまがあなたを……父をなくしたあの子供たちも……」
ソーニャはしまいまで言わずに、泣きだしてしまった。
「そうですか。じゃ、その点をふくんでおいてください。さて、あなたのお母さんのために、とりあえずこれをどうぞお納めください、わたしからの志です。くれぐれもお願いしますが、ぜったいにわたしの名前を出さないでいただきたい。さあどうぞ……わたし自身、いろいろとりこみがありますので、これ以上は出せませんが……」
こう言ってピョートル・ペトローヴィチは、十ルーブリの紙幣を丁寧にのばして、ソーニャにさしだした。ソーニャはそれを受け取ると、ぱっと顔を赤らめ、そそくさと立ちあがった、そして口の中で何かぼそぼそ呟きながら、急いで別れの挨拶《あいさつ》をはじめた。ピョートル・ペトローヴィチは得意そうに彼女を戸口まで送り出した。彼女はすっかり頭をかきみだされ、へとへとになって、やっと走るように部屋を出ると、はげしい困惑にとらわれながらカテリーナ・イワーノヴナの部屋へもどって行った。
この一幕の間中、レベジャートニコフは話をとぎらせまいとして、窓辺に佇《たたず》んだり、室内を行き来したりしていた。そしてソーニャが立ち去ると、彼はいきなりピョートル・ペトローヴィチのまえに歩みよって、もったいぶった様子で握手をもとめた。
「ぼくはすっかり聞きました、すっかり見ま《・・》した《・・》」と彼は最後の言葉に特に力をこめて言った。「これが高尚ということです、つまりぼくの言いたかった人道的ということです!あなたは感謝をさけようとなされた、ぼくは見ていました! そして、実を言うと、ぼくは主義として、個人的な慈善というものには同感できません、なぜならそれは抜本的に悪を根絶しないばかりか、かえってそれを育《はぐく》むようなことにさえなるからです。とはいえやはり、あなたの行為を見て満足を感じたことを、白状せざるを得ません――そうです、そうです、ぼくは気に入りました」
「なに、こんなことはみなつまらんことですよ!」ピョートル・ペトローヴィチはいくらか感動した様子で、ずるそうにちらとレベジャートニコフのほうを見ながら、呟いた。
「いや、つまらんことではありません! あなたのように、昨日のできごとで屈辱を感じ、胸が煮えかえっていながら、同時に他人の不幸に同情することのできるような人間――そういう人間はです……たとえその行為は社会的なあやまりをおかしていても――やはり……尊敬に値する人です! ぼくはあなたがこういう行為をなさろうとは思いもよりませんでしたよ、ピョートル・ペトローヴィチ、ましてあなたの考え方を思えばね! ほんとに、あなたの考え方がどれほどあなたを邪魔していることでしょう! 例えばですよ、昨日の失敗があなたをどれほど動揺させていることでしょう」と、人のいいレベジャートニコフはまた改めてピョートル・ペトローヴィチに強い同情を感じて、嘆いた。「いったいどうして、なんのためにその結婚がどうしても必要なのです、その正式《・・》な結婚がですよ、え、ピョートル・ペトローヴィチ? いったいなんのために結婚に合法性《・・・》がぜひとも必要なのです? さあ、なんなら、ぼくを殴ってください。でもぼくは嬉しいんです、そんな結婚がうまくいかなかったのが嬉しいんです。あなたは自由です、あなたはまだ人類のために完全に亡《ほろ》び去りはしなかった、それがぼくには嬉しいんです……これが、ぼくの言いたかったことなんですよ!」
「なに、きみの言う自由結婚とやらをして、妻に不貞をはたらかせたり、他人の子供を背負いこんだりしたくない、そのためにわたしには正式結婚が必要なのですよ」とルージンは黙っているわけにもいかないので、言った。彼は何かにすっかり心をうばわれて、考えこんでいる様子だった。
「子供? 子供をもちだしましたね?」戦闘ラッパを聞いた軍馬のように、レベジャートニコフはぎくッとした。「子供は――社会的な問題です、もっとも重要な問題です、それにはぼくも同感です、だが子供の問題は別なふうに解決されなければなりません。子供は家庭を暗示するものとして、完全に否定する人々もいます。子供のことはあとで話すとして、先《ま》ず不貞の問題をとりあげましょう! 実を言えば、これはぼくの弱いところです。このけがらわしい、驃騎兵的《ひょうきへいてき》な、プーシキン的な表現は未来の辞書には考えることもできません。そもそも不貞とはなんでしょう? おお、なんという迷いでしょう! どんな不貞? なんのための不貞? ばかばかしい!とんでもないことです、自由結婚にはそんなものはなくなりますよ! 不貞――それはおよそ合法的結婚というやつの当然の結果にすぎません、いわばその修正です、反抗ですよ、だからその意味では不貞はすこしも恥ずべきことではありません……ですからもしもぼくが――ばからしいことを見こして――正式な結婚をすることがあるとしたら、ぼくはむしろあなたの言う呪わしい不貞というやつを歓迎するでしょう。そしてぼくは妻に言うことでしょう、《ねえ、ぼくはいままではきみを愛していただけだが、いまからはきみを尊敬するよ、だってきみはりっぱに反抗する勇気を見せてくれたからだよ!》あなたは笑ってますね? それはあなたが偏見から脱する力がないからですよ! なあに、合法的結婚で裏切られた場合、何が不愉快かくらいは、ぼくだって知ってますよ。だがそれは夫も妻もどちらも辱《はずか》しめられている卑劣な事実の卑劣な結果にすぎないのです。自由結婚の場合のように、不貞がガラス張りになれば、もうそんなものは存在しなくなります、そんなものは考えられないし、不貞という名称さえなくなってしまいます。それどころか、あなたの奥さんはあなたを、妻の幸福に逆らうことのできない人、妻が新しい良人をつくったからといって別に復讐《ふくしゅう》しようなどと思わないほど、精神的に成長している人と考えて、あなたを尊敬していることだけを証明しようとするでしょう。まったく、ぼくはときどき空想するんですよ、ぼくが嫁にやられたらなあって。チエッ! もしぼくが結婚して(自由結婚だろうと、正式結婚だろうと、かまいませんが)妻がいつまでもぼやぼやしてるようだったら、おそらくこっちから妻に愛人を見つけてやるでしょうね。ぼくはこう言ってやりますよ、《ねえ、ぼくはきみを愛してるよ、だがそのうえさらに、きみに尊敬してもらいたいのだ――わかるね!》どうです、ぼくの言うことがまちがっていますか?……」
ピョートル・ペトローヴィチは聞きながら、ひひひと笑っていたが、それほど熱中しているふうではなかった。それどころか、ほとんど聞いていなかった。彼はたしかに何かほかのことを考えていた、そしてレベジャートニコフでさえ、しまいには、それに気がついた。ピョートル・ペトローヴィチは興奮した様子をさえ見せながら、もみ手をして、考えこんでいた。レベジャートニコフはあとになって思いあわせてみて、そのことに思いあたったのである……
2
どうしてカテリーナ・イワーノヴナのみだれた頭にこのばかげた法事の考えが生れたのか、その理由を正確に示すことは難かしいであろう。実際に、マルメラードフの葬儀の費用としてラスコーリニコフからもらった二十数ルーブリのうち、ほとんど十ルーブリ近くがそれに費やされたのである。あるいは、カテリーナ・イワーノヴナは、アパートの全住人に、特にアマリヤ・イワーノヴナに、彼が《彼ら一同に決して劣らないどころか、人間ははるかにすぐれていたかもしれない》、だから彼らの誰《だれ》一人として彼を《鼻の先で笑う》資格はないのだということを思い知らせるために、《十分に》供《く》養《よう》をしてやることを、故人に対する義務と考えたのかもしれない。あるいはまた、貧乏人の意地《・・・・・・》という特殊な心理が、何よりも強く作用したのかもしれない。こうした心理のために多くの貧乏人は、今日の慣習では誰もが祝わなければならないことになっている年に何度かの社会的な行事の際に、《他人に負けない》ために、他人に《とやかく言われない》ためにという、ただそれだけのために、せいいっぱいの無理をし、虎《とら》の子《こ》のようにしていた最後の一コペイカまではたいてしまうのである。また、カテリーナ・イワーノヴナが、世間のすべての人々に見はなされたような気がしていた矢先だから、この際に、《くずみたいないまいましい住人たち》全部に、彼女は《世の中のしきたりと客のあつかい方を心得ている》ばかりでなく、だいたいがこのような境遇で生活するように育てられたのではなくて、《上品な、貴族的といってもいいほどの大佐の家庭》で育てられ、自分で床を拭《ふ》いたり夜中に子供たちのぼろを洗うなどということは、ぜんぜん教えられもしなかったということを、見せつけてやろうという気になったことも、いかにもありそうなことである。こうした高慢と虚栄の発作はときどき貧しいいじけた人々を訪れるもので、ときによるとそれがそうした人々にとっては、もどかしいこらえきれぬ要求に変ることがある。しかしカテリーナ・イワーノヴナはそれだけではなく、決していじけた人間でもなかった。彼女は境遇によって完全に殺されることはあり得ても、彼女を精神的にい《・》じけさせる《・・・・・》こと、つまりおどしつけて、彼女の意志を屈服させることは、できなかった。そのうえ、彼女は頭がみだれているとソーネチカは言ったが、たしかにその理由はあった。もっとも、まだ完全にそうだとは言いきれなかったが、たしかに最近は、特にこの一年間というものは、彼女の哀れな頭はあまりにもひどい苦しみに責めぬかれてきたので、少しぐらいどうかなるのは無理もなかった。医者の言うように、肺病のはげしい亢進《こうしん》も、思考能力の錯乱を増進させるものである。
酒類《・・》もいろいろな種類がたくさんあったわけではなかった。マデラ酒にしてもそうで、これは誇張だが、しかし酒はあった。ウォトカもあったし、ラムも、リスボンのワインもあったが、いずれもひどい安物だった。しかし量だけは十分にあった。食べものは、法事料理のほかに、プリンも含めて三《み》皿《さら》か四皿ついていたが、いずれもアマリヤ・イワーノヴナの台所から運ばれたもので、そのうえに、食後の茶とポンスにそなえてサモワールが二つも用意されていた。仕込みにはカテリーナ・イワーノヴナが自分であたり、なんのためにリッペヴェフゼル夫人のところに間借りをしているのか誰も知らぬ貧相なポーランド人に手伝ってもらって、いそがしく立ちまわった。この男は早速走り使いにとカテリーナ・イワーノヴナのところへ差し向けられて、昨日一日中走りまわり、今日も朝からせかせかと、舌をだしてかけまわっていた。舌をだしているのが人目につくように、わざわざ苦心しているようなところも見えた。彼はどんなつまらないことでもすぐにカテリーナ・イワーノヴナのところへ指《さし》図《ず》を受けにかけつけるし、マーケットにまで彼女をさがしに来て、ひっきりなしに《少尉夫人》などと呼びかけるので、彼女ははじめのうちこそ、《この親切で気のいい》人がいなかったら、ほんとにどうしていいかわからなかったわ、などと言っていたが、しまいにはうんざりしてしまった。
カテリーナ・イワーノヴナの性格には、はじめて会った人を誰彼かまわず、さっさと美しい鮮やかな色彩で飾り立て、聞いているほうが恥ずかしくなるほど、ほめあげる癖があった。彼女はその男をほめるために、ぜんぜんありもしないいろいろなことを考えだし、自分も本気で純真にそれが実際にあったことだと信じこんでいるが、そのうちに不意に、一時に失望して、つい二、三時間前までは文字どおり崇拝していた人間を、どなりちらし、唾《つば》をはきかけて、追い出してしまうのである。彼女はもともとはよく笑う、明るい、おだやかな性質だったが、絶えまない不幸と失敗のために、みんなが和《なご》やかに楽しく暮し、それ以外の生活などできない《・・・・》ようにと、狂おしいまでにねがうばかりか、要求するようになり、そのためにほんの軽い生活のみだれや、ごくわずかな失敗でも、すぐに彼女をほとんど狂乱の状態につきおとすようになった。だから彼女は明るい夢と希望につつまれてうっとりとしているかと思うと、たちまち運命を呪《のろ》い、手にあたるものを片っぱしから引き裂き、投げちらし、頭を壁にうちつけたりする。アマリヤ・イワーノヴナもとつぜんどうしたわけかカテリーナ・イワーノヴナから異常なまでの信頼と尊敬をよせられたが、それというのもひとえに、この法事をやることになったとき、アマリヤ・イワーノヴナが親切にいっさいの世話を引き受けることを申し出たからかもしれない。彼女は食卓の飾りつけから、ナプキンや皿などを手配し、自分の台所で料理をつくることまで引き受けたのだった。カテリーナ・イワーノヴナは彼女にあとをすっかりまかせて、自分は墓地に出かけた。たしかに、何もかもみごとに準備された。食卓はかなりさっぱりしたクロースでおおわれ、皿、フォーク、ナイフ、グラス、コップ、茶わん、これはみな、むろん、よせ集めもので、アパートの住人たちから借り集めたから、形も大きさもまちまちだったが、とにかく時間までにはちゃんとセットされた。だからアマリヤ・イワーノヴナは、役目をみごとに果したことを満足に思いながら、新しい喪章をつけた室内帽をかぶり、黒い衣装をつけ、すっかりめかしこんで、いささか得意そうな様子をさえ見せて帰ってきた人々を迎えた。この得意さは、当然ではあったが、どうしてかカテリーナ・イワーノヴナには気に入らなかった。《ほんとに、アマリヤ・イワーノヴナがいなかったら、食卓の飾りつけはできなかったろう、とでも言いたげな様子だよ!》新しいリボンをつけた室内帽も彼女の気に入らなかった。《もしかすると、このばかなドイツ女は、自分はアパートの持ち主だけど、お慈悲で気の毒な間借り人を助けてやることにしたのさなんて、威張っているのではあるまいか? お慈悲で! どういたしまして! カテリーナ・イワーノヴナのお父さんは大佐で、もうじき県知事になるところだったんですよ。一度なんか四十人ものお客をしたくらいで、素《す》姓《じょう》の知れないアマリヤ・イワーノヴナ、じゃない、リュドヴィーゴヴナなんて、勝手口へも入れてもらえやしないよ……》しかし、カテリーナ・イワーノヴナは、今日こそかならずアマリヤ・イワーノヴナの出鼻をくじいて、身のほどを思い知らせてやろう、さもないとどこまでいい気になるかしれやしない、と心にきめたが、潮時がくるまでは自分の感情を口に出さずに、ただそっけなくあしらっておくことにした。もう一つの不愉快なできごともカテリーナ・イワーノヴナの苛《いら》立《だ》ちを亢進させる一部の原因になった。というのは、葬式にはアパートの人々を呼んでおいたのに、参列したのは例によってすれすれに墓地にかけつけたポーランド人がたった一人で、あとは誰も来《こ》なかったことである。そのくせ法事には、つまりご馳《ち》走《そう》の出るほうには、ごくつまらない貧乏な連中、大部分は人並みの格好もしていない、いわば人間のくずばかりがどやどやと押しかけてきたのだった。住人の中でもやや年もとり、地位もいくらかましな連中は、まるで申し合せたように、一人も来なかった。例えば、アパート中でもっともりっぱな人物と言えるピョートル・ペトローヴィチ・ルージンも来なかった。しかももう昨夜のうちにカテリーナ・イワーノヴナは誰彼かまわずに、といってもアマリヤ・イワーノヴナと、ポーレチカと、ソーニャと、ポーランド人だが、これは実に由緒《ゆいしょ》正しい、心の大らかな人物で、おどろくほど顔がひろく、財産もあり、先夫の友人だったし、父の家に出入りを許されていた関係もあり、今度相当額の年金をもらえるように手をつくしてくれることを約束してくれたなどと、吹聴《ふいちょう》していたのだった。ここでことわっておくが、カテリーナ・イワーノヴナが誰かの縁故関係や財産を自慢したとしても、それはなんらの利害も、個人的な打算もなく、まったく私心をはなれてのことで、いわば心がみちてくるままに、ただ無性《むしょう》に相手をほめあげて、ますますその価値を高めてやるという、一《いち》途《ず》の喜びからなのである。ルージンにつづいて、《その例にならった》らしく、《あのいまいましい卑怯《ひきょう》者《もの》のレベジャートニコフ》も姿を見せなかった。《あいつめいったい自分をなんと思ってるのだろう? あいつこそお情けだけで呼んでやったのに、それというのもピョートル・ペトローヴィチと同居していて、知り合いだというし、呼ばれなかったら気まずかろうと思ってさ》。それから《売れのこりの娘》と二人暮しのつんと気取った婦人も現われなかった。この母娘《おやこ》はアマリヤ・イワーノヴナのアパートに来てからまだ二週間ほどにしかならないが、マルメラードフの部屋で、特に故人が酔って帰ってきたときなど、持ち上がる騒ぎや叫び声に対して、もう何度か苦情を申し立てていた。このことは、むろん、アマリヤ・イワーノヴナの口からカテリーナ・イワーノヴナの耳に入っていた。というのは、二人がののしりあいをやったとき、アマリヤ・イワーノヴナが親子もろとも追い出してやるとおどしながら、《おまえたちなんか足もとにも及ばない上品なお客さん方》の迷惑になっている、とありたけの声をはりあげてどなったことがあったからである。カテリーナ・イワーノヴナは今日わざと、自分など《足もとにも及ばないらしい》この婦人と娘を招待することにした。ましていままで、偶然に出会ったりすると、つんと顔をそむけたりされたのだから、なおのこと――今日こそ、こっちのほうが《考えも感情も上品だから、うらみを忘れて、招待してあげるのだ》ということを思い知らせ、カテリーナ・イワーノヴナはこんな境遇の暮しに慣れていないことを、はっきり見せつけてやろうというわけである。このことも、亡《な》くなった父が県知事だったことといっしょに、食事の席でかならず彼女たちに説明してやることにきめていた、そしてついでに、出会っても顔をそむける必要はすこしもないし、そんなことは愚の骨頂だということを、それとなく注意してやるつもりだった。ふとっちょの中佐(実際は退役二等大尉なのだが)も来なかったが、これは酔っぱらって昨日の朝から《足腰が立たず》にいることがわかった。
要するに、現われたのは、ポーランド人と、あぶらでとろとろのフロックを着た、いやな臭《にお》いのする、にきびをいっぱい出したみっともない無口の事務員、それに耳の遠い、目もほとんど見えない老人、この老人は昔どこかの郵便局に勤めていたそうだが、もういつからか、どういうわけか、誰かの世話でこのアパートにおいてもらっていた。さらに飲んだくれの退役中尉がやって来たが、これも実は軍隊の糧食部に勤めている役人で、無礼きわまる高笑いをする男だったが、なんと《あきれたことに》チョッキも着ていない! またある男などは、カテリーナ・イワーノヴナに挨拶《あいさつ》もしないで、いきなり食卓のまえに坐《すわ》りこんでしまった。最後に現われた一人の男にいたっては、服がないので寝巻きのままやって来たが、これはあまりひどすぎるので、アマリヤ・イワーノヴナとポーランド人が二人がかりでやっと外へ連れ出した。しかも、ポーランド人は仲間らしい二人の同国人を連れてきたが、それは一度もこのアパートに住んだことがなく、これまで誰も見かけたことのない顔だった。こうした不愉快なことが重なってカテリーナ・イワーノヴナの神経を極度に苛立たせた。《こんなことなら、いったい誰のためにわざわざこんな支度をしたのかわかりゃしない!》子供たちさえ、客の席をすこしでもふやそうと思って、そうでなくても部屋いっぱいに並べられた食卓にはつかせずに、うしろ隅《すみ》のトランクに布をかけて食卓代りにしたのだった。しかも、小さな二人はベンチにかけさせ、ポーレチカは姉さんだから、弟たちの面倒を見て、行儀よく食べさせたり、《上品な子供たちらしく》鼻をふいてやったりしなければならなかった。
要するに、カテリーナ・イワーノヴナは否《いや》応《おう》なしに倍も気取って、しかも見下すような態度で、客たちを迎えなければならなかった。二、三の者は、特にきびしくじろじろ見まわしたうえで、横柄《おうへい》に席へ通した。どういうわけか、集まりがわるいのはアマリヤ・イワーノヴナの責任のような気がして、彼女は急に主婦《おかみ》に対して思いきりぞんざいな態度をとりだした。すると主婦はすぐにそれに気付いて、すっかり気分をこわしてしまった。こんなはじまりがいい終りを約束するはずがなかった。やっと、一同は席についた。
ラスコーリニコフが入ってきたのは、みなが墓地からもどったのとほとんど同時だった。カテリーナ・イワーノヴナは彼が来てくれたことをひどく喜んだ。というのは第一に、彼は集まった全部の客の中でたった一人の《教養のある客》で、《二年後にここの大学の教授になるために準備中なことは、周知のことだった》し、第二に、彼がすぐに丁重な言葉で、ぜひと思っていたが、どうしても葬式に参列できなかったことを、彼女に詫《わ》びたからである。彼女はとびつくようにして彼を迎えると、自分の左隣の席に坐らせた(右隣にはアマリヤ・イワーノヴナが坐っていた)、そして、料理が正しく配られ、みなにもれなく行きわたったかどうか、絶えず忙《せわ》しく気をくばり、この二日ほど特にしつこくなったような苦しい咳《せき》にのべつ息をつまらせ、声をとぎらせはしたが、それでもひっきりなしにラスコーリニコフのほうを向いて、半ばささやくような声でせかせかと胸につもったうっぷんや、法事の失敗に対する正当な憤慨をぶちまけていた。そして憤慨はときどき、集まった客たち、特に主婦《おかみ》に対するいかにも愉快そうな、どうにもこらえきれぬ嘲笑《ちょうしょう》に代った。
「何もかもあのほととぎすがわるいんですよ。誰のことか、おわかりでしょう。あの女ですよ、あの女ですよ!」そう言いながら、彼女は主婦のほうへ顎《あご》をしゃくって見せた。「ごらんなさいな、あんなに目をむいて。わたしたちに噂《うわさ》されているのは、感づいてるけど、なんのことやらわからないで、目をぱちくりさせてるんだよ。ふん、ふくろうめ! は、は、は!……ごほ、ごほ、ごほ! それにあんな帽子をかぶって、いったいなんのつもりなんだろうねえ! ごほん、ごほん、ごほん! お気づきになりまして、あの女はね、いつもみんなの面倒を見ているんだから、いまこうしてこの席にいるのは、わたしに恥をかかせないためなのだと、みんなに思わせたいんですよ。わたしはあの女がちゃんとした人だと思ったから、すこしはましな人々を、それも故人を知っている人々を招《よ》んでくださるように頼んだのですよ。ところがどうでしょう、ごらんなさいな、この顔ぶれを! 道化みたいな連中ばかり! きたならしいったらありゃしない! そら、どうでしょう、あの男の不潔な顔、まるで鼻汁《はなじる》の化け物に足を二本くっつけたみたい! それからあのポーランド人ども……は、は、は! ごほ、ごほ、ごほ! 誰も、誰もここで一度も見かけたことがないんですよ、わたしだってまるで知りゃしない。そんな連中がいったいどうしてここへ来たんでしょうかねえ? かしこまって並んで坐ってるじゃありませんか。さあ、あなた!」彼女は不意に彼らの一人に呼びかけた。「プリンを召し上がりまして? もっとおとりなさいな! ビールをどうぞ、ビールを! ウォトカはいかが? ごらんなさい、ほら、とび上がって、ぺこぺこお辞儀をしてるじゃありませんか、ね、どうでしょう、かわいそうに、きっとお腹《なか》をぺこぺこにすかしているんですわ! まあいいわ、すこし食べさしてやりましょう。そのほうがうるさくなくていいわ、ただ……ただ、わたしは主婦《かみ》さんの銀の匙《さじ》のことが心配ですの!……アマリヤ・イワーノヴナ!」彼女は不意に主婦のほうを振り向いて、ほとんど部屋中に聞えるように言った。「あなたの匙が盗まれるようなことがあっても、わたしは責任をもちませんよ、おことわりしておきますけど! は、は、は!」彼女はけたたましく笑うと、またラスコーリニコフのほうを向いて、自分の悪ふざけが嬉《うれ》しくてたまらないように、主婦へ顎《あご》をしゃくってみせた。
「わからないのよ、まだ通じないのよ! ぽかんと口をあけて、きょとんとしてさ。ふくろうだよ、ほんもののふくろうだよ、新しいリボンをつけたこのはずく《・・・・・》だよ、は、は、は!」
たちまち笑いがまた絶え入るような咳《せき》にかわり、五分ほどつづいた。ハンカチには血の痕《あと》がすこしのこり、額に大つぶの汗がにじみでた。彼女は黙ってその血をラスコーリニコフに見せた。そしてすこし息がらくになると、すぐにまたあきれるほど元気になり、頬《ほお》に赤い斑点《はんてん》をにじませながら、声をひそめて彼に話しかけはじめた。
「ねえ、どうでしょう、わたしはあの女に、あの奥さんと娘を招んでくれるようにって、まあね、いちばんの難役を頼んだんですよ、誰のことかわかるでしょう? それこそもっともデリケートな態度をとり、上手に話をすすめてくださらなくちゃねえ。ところがすっかりぶちこわしをしちゃって、あのおのぼりさんの馬《ば》鹿《か》女《おんな》め、あの鼻もちならぬ礼儀知らずめ、あのごみみたいな田舎女め、少佐の未亡人とかいうふれこみだけど、恩給をもらう運動に出てきて、あっちのお役所こっちのお役所とお百度をふんでいるくせに、五十五にもなって眉《まゆ》を描《か》いてみたり、紅よ白粉《おしろい》よとべたべたぬりたくってさ(知らない者はありませんよ)……ほんとにいけすかない女ですよ。来ないことにきめたのだけでも分別が足りないのに、ことわりも言ってよこさないんですからねえ。こんな場合そのくらいのことは子供でも知っている常識ですよねえ! それにしても、ピョートル・ペトローヴィチがどうして来なかったのかしら、わかりませんわ?ソーニャはいったいどこにいるのかしら? どこへ行ったのかしら? あ、来ましたわ、やっと! どうしたの、ソーニャ、どこへ行ってたの? おかしいわよ、ソーニャ、お父さまのお葬式にだって、時間におくれたりして。ロジオン・ロマーヌイチ、この娘をとなりへ坐らせてあげてくださいな。さあ、そこがおまえの席ですよ、ソーネチカ……好きなものをおとり、煮《に》凝《こご》りはどう、おいしいわよ。プリンはいますぐ出るからね。子供たちにはやったかしら? ポーレチカ、そちらにみんないってる? ごほ、ごほ、ごほ! そう、よかったわね。おとなしくしてるんですよ、レーニャ、おや、コーリャ、あんよをばたばたしちゃいけません。坊ちゃんらしく行儀よく坐っているんですよ。え、なんです、ソーネチカ?」
ソーニャは早速大急ぎで、みんなに聞えるようにつとめて大きな声を出しながら、自分がピョートル・ペトローヴィチに代って創作し、それに美しい修飾をほどこし、せいいっぱい優雅な丁寧な表現をつかって、ピョートル・ペトローヴィチのお詫びの言葉を彼女につたえた。彼女はさらにピョートル・ペトローヴィチが、二人だけで話したいこと《・・》があるし、今後とるべき方法などについて相談したいから、身体《からだ》があき次第すぐにお伺いすると忘れずにつたえてほしい、と言ったことをつけ加えた。
ソーニャは、これがカテリーナ・イワーノヴナの心をやわらげ、落ち着かせて、嬉しがらせるばかりでなく、何よりも――自尊心を満足させることを知っていた。彼女はラスコーリニコフのとなりに坐ると、そそくさと会《え》釈《しゃく》をして、ちらと好奇の目を投げた。しかし、そのあとは彼のほうを見るのも、口をきくのも妙にさけるようにしていた。彼女はカテリーナ・イワーノヴナの機《き》嫌《げん》をそこねないために、絶えずそちらへ目をやっていたが、なんとなくぼんやりしているふうだった。彼女も、カテリーナ・イワーノヴナも衣装がないために、喪服を着ていなかった。ソーニャは煉《れん》瓦《が》色《いろ》のやや黒っぽい服を着ていたが、カテリーナ・イワーノヴナは一枚しかない地味な縞《しま》模《も》様《よう》の更《さら》紗《さ》の服だった。ピョートル・ペトローヴィチについての知らせは、油の上をすべるように流れた。もったいぶった様子でソーニャの知らせを聞きおわると、カテリーナ・イワーノヴナはそのままのもったいぶった様子をくずさずに、ピョートル・ペトローヴィチのご機《き》嫌《げん》はいかがでしたか、と尋ねた。それから、すぐに、ほとんどみなに聞えるほどの声で、ピョートル・ペトローヴィチほどの尊敬されているりっぱな人が、たとえ彼女の一家にすっかり信服しており、彼女の父と昔親しくしていたとはいいながら、こんな《妙ちきりんな集まり》に顔を出したら、それこそ変なものでしょう、とラスコーリニコフにさ《・》さやいた《・・・・》。
「それだからこそ、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたがこんな有様でもいやな顔をなさらずに、わたしのお招きをお受けくださいましたことに、わたしは心から感謝してるんでございますよ」と彼女はみなに聞かせるようにつけ加えた。「しかも、きっと、亡くなった気の毒な良人《おっと》と特別に親しくしていてくださったればこそ、約束を守ってくださったのだと思いますわ」
それから彼女はもう一度得意そうに、もったいぶった様子で一同を見まわしてから、急にとってつけたような親切さでテーブル越しにつんぼの老人に大声で尋ねた。《焼き肉をもっと召し上がりません、この方にリスボンのワインを差し上げたら?》老人は返事をしなかった。両どなりからおもしろ半分に小突かれたが、老人はしばらく何を聞かれたのかわからなかった。彼はぽかんと口をあけたまま、あたりを見まわすばかりだった。それが一同の浮かれた気分をいっそうあおりたてた。
「まあなんて阿《あ》呆《ほう》でしょう! ごらんなさい、ごらんなさいな! まったく、なんのためにこんな人を連れて来たのかしら? ピョートル・ペトローヴィチのことは、わたしはいつも信用していたんですよ」とカテリーナ・イワーノヴナはラスコーリニコフに向ってしゃべりつづけた。「そりゃ、むろん、まるでちがいますよ……」と彼女はいきなり声をはりあげ、おそろしくきびしい顔をしてアマリヤ・イワーノヴナに言った。そのためにそちらは思わずびくっとしたほどだった。「あんなお高くとまったおべんちゃらとはね、まるでちがいますよ。あんな母娘なんかお父さんの家の料理女にだってなれるもんですか、亡くなった良人なら、きっと恥をかかせないために雇ってあげるでしょうけど、それだって底ぬけのお人よしだからよ」
「そうですよ、酒が好きでしたな。いける口で、よく飲みましたよ!」不意に糧食部の退職官吏が十二杯目のウォトカを飲みほしながら、叫んだ。
「亡くなった良人はたしかにそうした弱点がありました、それはどなたもご存じのことですわ」とカテリーナ・イワーノヴナはいきなり相手にからみついた。「でもあの人は心のやさしい上品な方で、家族の者を愛し、尊敬してくれましたわ。ひとつ悪いところといえば、あまりに善良すぎるために、どんなやくざな男でもすぐに信用してしまって、どこの馬の骨かわからない、あの人の足の裏にも値しないような連中とでも、いっしょに酒を飲んだことですわ! どうでしょう、ロジオン・ロマーヌイチ、あの人のポケットからにわとりの形のボンボンがでてきたことがあったんですよ。死ぬほど酔っても、子供のことは忘れないんですねえ」
「に、わ、とり? あなたは、にわとりと言われましたな?」と糧食部の男が叫んだ。
カテリーナ・イワーノヴナはそれに返事もしなかった。彼女は何やら考えこんで、ほっと溜息《ためいき》をついた。
「あなたも、きっと、みんなと同じように、わたしがあの人にきびしすぎたとお考えでしょうね」と彼女はラスコーリニコフのほうを向きながら、言葉をつづけた。「ところが、そうじゃないんですよ! あの人はわたしを尊敬していました、それは、それは、尊敬していました! 心のやさしい人でした! だからときには、かわいそうでたまらなくなることがありました! よく、隅《すみ》のほうに坐って、じっとわたしを見つめているんです、わたしはかわいそうでたまらなくなって、やさしい言葉をかけてやろうと思いますが、すぐに心の中で《やさしくしたら、この人はまた酔いつぶれるだろう》と考えたものです。きびしくすることでいくらかでも抑えることができたのでした」
「そうですとも、前髪をひきむしったことがありましたなあ、うん、一度や二度じゃなかった」と糧食部の男はまた大声でわめき立てて、もう一杯ウォトカを流しこんだ。
「前髪をひきむしるどころか、箒《ほうき》でも使ったほうが、そこらの馬鹿どもをあつかうには、ずっとくすりになりますよ。もっともこれは亡くなった良人のことじゃありませんがね!」とカテリーナ・イワーノヴナはやり返した。
彼女の頬の赤い斑点はいよいよ赤味をまし、胸がはげしく波をうちはじめた。もう一分もしたら、騒ぎがもち上がりそうだった。多くの者はひひひと笑っていた。おもしろくてたまらないようだ。人々は糧食部の男をつついたり、何か耳打ちしたりしはじめた。どうやら、二人をかみあわせたいらしい。
「じゃ、お尋ねしますがね、それはどういう意味です」と糧食部の男はひらき直った。「つまり誰を……皮肉りあそばしたんですかな……あなたはいま……まあ、いいや! つまらん! 後家なんだ! やもめだ! かんべんしてやろう……パスだ!」
そう言って、彼はまたウォトカをぐいとあおった。
ラスコーリニコフは坐ったまま、黙って、むかむかしながらこのやりとりを聞いていた。彼はカテリーナ・イワーノヴナがひっきりなしに皿にとりわけてくれる料理に、礼儀として一応手をつけていたが、それもただ彼女に気を悪くさせないためだった。彼はさぐるような目をじっとソーニャに注いでいた。ソーニャはしだいに不安がつのり、胸さわぎがひどくなってきた。彼女も法事が無事にすまないことを予感して、カテリーナ・イワーノヴナのはげしくなってくる苛《いら》立《だ》ちをびくびくしながら見守っていた。それに彼女は、地方から来た二人の婦人がカテリーナ・イワーノヴナの招待をあれほど無礼に黙殺した主な理由が、彼女ソーニャにあることを知っていた。母親のほうが招待されたことに屈辱をさえ感じて、《どうしてあんな女《・・・・》とうちの娘を同席させることができましょう?》とやり返したということを、ソーニャはアマリヤ・イワーノヴナの口から直接に聞かされたのだった。ソーニャはこのことがもう何かのはずみでカテリーナ・イワーノヴナの耳に入っているという予感があった。しかもソーニャに加えられた屈辱は、カテリーナ・イワーノヴナにしてみれば、自分や子供たちや父親に加えられた屈辱よりも大きな意味をもっていた。それは、ずばりと言えば、致命的な屈辱だった。だからもうこうなっては、《あのおべんちゃら女どもに身のほどをはっきりと思い知らせないうちは》カテリーナ・イワーノヴナの気がおさまらないことを、ソーニャは知っていた。わざとこの機会をねらったように、誰かが黒パンでつくった二つのハートを矢でつらぬいたものを皿にはりつけて、食卓の向う端からソーニャにまわしてよこした。カテリーナ・イワーノヴナはかっとなって、すぐに大声をはりあげて、こんなものをよこしたやつは《飲んだくれの阿呆》にきまってると、食卓越しにきめつけた。アマリヤ・イワーノヴナは、何かよくないことが起りそうな予感もあったし、同時にカテリーナ・イワーノヴナの思い上がった態度にすっかり腹を立てていたので、このへんで一座の不快な気分を別なほうへそらし、ついでに自分の株を上げようと思って、とつぜん、藪《やぶ》から棒に、知り合いの《薬屋のカルル》という男が夜更《よふ》けに辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》に乗って行くと、《御者が殺そうとしましたので、カルルは殺さないでくれと、たいへん、たいへんたのみました。そして泣きました、そして手を合わせました、そしてびっくりして、おそろしくて心臓を突きさされました》という話をはじめた。カテリーナ・イワーノヴナはにやりと笑いはしたが、即座にアマリヤ・イワーノヴナにはロシア語の笑い話は無理だと注意した。アマリヤ・イワーノヴナはますます憤慨して、《父はベルリンでたいへん、たいへん有名な人で、いつも手でポケットをさわって歩きました》とやり返した。笑い好きなカテリーナ・イワーノヴナはがまんしきれずに、腹をかかえて笑いころげた。そこでアマリヤ・イワーノヴナは最後の忍耐を危うく失いかけたが、やっとおさえた。
「ねえ、ほんとにこのはずく《・・・・・》でしょう!」とすぐにカテリーナ・イワーノヴナはいかにもおかしそうに、ラスコーリニコフに囁《ささや》いた。「手をポケットに入れて歩いた、と言おうとしたんですよ。それがどうでしょう、他人のポケットをねらって歩いたことになっちゃって、ごほ、ごほ! ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、お気づきになって、ペテルブルグにいるすべての外国人、といっても、主にどこからか流れてきたドイツ人ですが、そろいもそろって、必ずといっていいくらい、わたしたちよりばかですわねえ! そうじゃありませんか、《薬屋のカルルがおそろしくて心臓を突きさされた》とか、その男が(あきれた意気地なしですよ!)御者を縛りあげるどころか、《手を合わせて、泣いて、たいへん頼みました》なんて、そんなばかな話ができるものでしょうか。ほんとに、どうかしてますよ! そのくせ、それがひどく気がきいた話みたいに考えて、自分がばかだなんて夢にも思わないんですからねえ! わたしはあの酔っぱらいの糧食部の男のほうがよっぽど利口だと思いますよ。少なくともこのろくでなしは、酒ですっかり頭をやられてしまったことが、見てわかりますものね、ところがこの人たちときたらきちんとして、まじめくさって……おや、どうでしょう、目をむいてるわよ! 怒ってるんですよ! 怒ってるんですよ! は、は、は! ごほ、ごほ、ごほ!」
カテリーナ・イワーノヴナはすっかり楽しくなって、すぐにいろいろな詳しい話に身を入れだしたが、だしぬけに、年金が手に入ったらそれを資本にしてどうしても故郷のT市に良家の娘たちのための寄宿学校を設立するつもりだと、語りだした。このことはまだカテリーナ・イワーノヴナ自身の口からはラスコーリニコフに話してなかったので、彼女はたちまちもっとも魅惑的な詳しい夢ものがたりにすっかり心をうばわれてしまった。どこからどう現われたのか、不意に彼女の手には例の《賞状》がにぎられていた。それは亡くなったマルメラードフが居酒屋で、妻カテリーナ・イワーノヴナが女学校の卒業パーティで、《県知事をはじめりっぱな人々》のまえでヴェールの踊りをおどったことを話しながら、ラスコーリニコフに自慢したあれである。この賞状は、どうやら、カテリーナ・イワーノヴナの寄宿学校設立の資格を証明するものとして、ひけらかされたらしいが、それを用意していた最大の理由は、《例のお高くとまったおべんちゃら母娘》が法事に来た場合、その二人を徹底的にやっつけて、カテリーナ・イワーノヴナはもっとも上品な《貴族的といえるほどの家庭に生れた、大佐の娘で、近《ちか》頃《ごろ》やたらにふえたそこらのふわふわした女などよりは、ぐっと品がいい》ことを、はっきりと証明してやることだった。賞状はたちまち酔った客たちの手から手へわたりだしたが、カテリーナ・イワーノヴナは別にそれをとりもどそうともしなかった、というのはその賞状にはほんとうに、彼女が帯勲七等官の娘であることがりっぱに記《しる》されてあったからである。とすると、大佐の娘というのも、どうやらほんとうらしかった。カテリーナ・イワーノヴナはすっかり血が頭にのぼってしまって、T市における未来の美しいしずかな生活の模様をこまごまと語りだした。彼女が寄宿学校に先生として招く中等教師のことや、マンゴというりっぱなフランス人の老教師のこと、この老人は女学校でカテリーナ・イワーノヴナがフランス語を教わった人で、いまもT市に余生を送っており、彼女が声をかければきっと手頃な給料で来てくれるはずだというのである。とうとう、話がソーニャのことになった。《この娘もわたしといっしょにT市へ行って、わたしのしごとを全面的に手伝ってくれることになりますわ》すると不意に食卓の端のほうで誰かがぷっと吹きだした。カテリーナ・イワーノヴナはすぐさま食卓の端で起った嘲笑《ちょうしょう》など無視する振りをしようとしたが、しかしすぐにわざと声をはりあげて、ソーフィヤ・セミョーノヴナには彼女の助手をつとめるりっぱな才能があることや、《彼女の気立てのやさしさ、しんぼう強さ、わが身をいとわぬ美しい心、素姓《すじょう》のよさ、教養の高さ》などを、自分の言葉に酔ったように語りだした、そしてソーニャの頬をやさしくなでると、中腰になって、熱い接吻《せっぷん》を二度もあたえた。ソーニャはさっと顔を赤らめた。カテリーナ・イワーノヴナは急にわっと泣きだした、そしてすぐに、自分のことを、《神経の弱いおろかな女で、すっかり疲れてしまいましたから、もうそろそろおひらきにしましょう》と率直に認めて、《食べるものも終ったようだから、お茶を出すように》と言った。するとそのとき、それまで話にぜんぜん加わらず、何を言ってもろくに聞いてももらえなかったので、もうすっかり頭にきていたアマリヤ・イワーノヴナが、とつぜん思いきって最後の抵抗をこころみた。彼女はくさくさした気持をかくして、未来の寄宿学校では娘たちの肌《はだ》着《ぎ》をきれいにするということに特に注意して、《ぜひしっかりした婦人を一人おいて、肌着をよく検査させる》ようにすること、それから《若い娘たちが夜こっそり小説などを読まないように注意する》ことが必要だと、きわめて適切で意味深長な意見をカテリーナ・イワーノヴナに述べた。実際に疲れはてて、頭の調子がみだれ、法事にすっかり嫌《いや》気《け》がさしていたカテリーナ・イワーノヴナは、たちまちアマリヤ・イワーノヴナに《反撃》して、あんたは《ばかなことばかり言って》、何もわかっちゃいない、娘たちの肌着の心配は衣類がかりのしごとで、上品な寄宿学校の女校長のやることではない、小説云々《うんぬん》にいたっては、ただただ不作法というほかはない、よけいなことは言わないでほしい、とつけつけと言ってのけた。アマリヤ・イワーノヴナはかっとなって、すっかりへそを曲げてしまい、わたしは《よかれと願って》言っただけだ、これまでだって《たくさんたいへんよかれと願って》きた、あなたは《家賃だってもういつからか一ゲルトも入れていないじゃないか》とやり返した。カテリーナ・イワーノヴナはすぐに、《よかれと願った》なんて嘘《うそ》だ、現に昨日まだ故人の遺体が卓の上に安置してあるところで、家賃のことで嫌味を言ったじゃないかと、相手を《やりこめ》た。それに対してアマリヤ・イワーノヴナは、《あの婦人たちを招待したが、あの婦人たちが来なかったのは、あの婦人たちが上品な方たちで、上品でない婦人のところへ来ることができないからだ》と、実に筋の通ったしっぺ返しをくわせた。するとカテリーナ・イワーノヴナはすぐさま、あなたなんか人間がいやしいから、ほんとうの上品というものがどういうものか判断がつかないのだ、と《強調》した。アマリヤ・イワーノヴナはたまりかねて、《父はベルリンでたいへん、たいへん有名な人で、いつも両手でポケットをさわって歩き、いつもこんなふうに、プフ、プフ、とやっていた》と言った、そしてもっとはっきり父のえらさを示すために、椅子《いす》から立ちあがって、両手をポケットに突っこみ、頬をふくらまして、口でプフ、プフに似たなんとも奇妙な音をだしはじめた。一同はわあわあ笑いながら、つかみ合いを予想して、さかんにアマリヤ・イワーノヴナをけしかけた。こうまでされては、カテリーナ・イワーノヴナはもうがまんができず、いきなり大声をはりあげて、アマリヤ・イワーノヴナには、おそらく、はじめから父親なんてなかったにちがいない、アマリヤ・イワーノヴナなんてもともとペテルブルグをうろついていた飲んだくれのフィンランド女で、もとはきっとどこかの台所に住みついていたか、あるいはもっと悪い稼業《かぎょう》をしていたにちがいない、とそれこそ《刻みつけるように》言ってのけた。アマリヤ・イワーノヴナはえびのように真っ赤になり、金切り声をはりあげて、それはカテリーナ・イワーノヴナのことだ、《父親がいなかったのはそっちだろう。わたしにはベルリンにれっきとした父がいて、こんな長いフロックを着て、いつもプフ、プフ、プフをやっていた!》と叫んだ。カテリーナ・イワーノヴナはぐっと相手を見下しながら、わたしの生れは誰もが知っているところで、この賞状にちゃんと活字体で父が大佐だったことが記されている、と言明したうえで、アマリヤ・イワーノヴナの父は(父と名のつく人があったとしたらだが)ペテルブルグのフィンランド人で、牛乳売りでもしていたにちがいない、でも父親なんてぜんぜんなかったと見るほうが、正しいようだ、その証拠に、アマリヤ・イワーノヴナの父称がイワーノヴナか、リュドヴィーゴヴナか、いまだにはっきりしないじゃないか、ときめつけた。するとアマリヤ・イワーノヴナは、かんかんに怒ってしまって、拳骨《げんこつ》で食卓をたたきながら、わたしはアマリ・イワンで、リュドヴィーゴヴナではない、父は《ヨハンといって、市長だった》、カテリーナ・イワーノヴナの父は《ぜんぜん一度だって市長をしたことなんかない》とわめきたてた。するとカテリーナ・イワーノヴナは椅子から立ちあがり、きっとなって、うわべだけは落ち着きはらった声で(蒼白《そうはく》な顔をして、胸を大きく波打たせてはいたが)、もう一度でも《あんたのやくざな父親とわたしのお父さまをいっしょに並べるようなことをしたら、あんたの帽子をむしりとって、足で踏みにじってやる》と言明した。それを聞くと、アマリヤ・イワーノヴナはあらん限りの声をはりあげて、わたしはこのアパートの持ち主だ、《いますぐとっとと出てってくれ》と叫びながら、部屋の中をかけまわりはじめた。そしてどういうつもりかいきなり食卓から匙《さじ》をかき集めにかかった。ものすごい騒ぎと叫びが起った。子供たちが泣きだした。ソーニャはあわててカテリーナ・イワーノヴナを抑えようとしたが、アマリヤ・イワーノヴナが不意に黄色い鑑札がどうとかわめいたので、カテリーナ・イワーノヴナはソーニャをつきのけて、即座に帽子云々のおどしを実行に移すために、アマリヤ・イワーノヴナにむかって突進した。その瞬間ドアが開《あ》いて、入り口にとつぜんピョートル・ペトローヴィチ・ルージンが現われた。彼は突っ立ったまま、注意深い目で一同を見まわした。カテリーナ・イワーノヴナは彼の胸へとびついた。
3
「ピョートル・ペトローヴィチ!」と彼女は叫びたてた。「わたしを守ってちょうだい、あなただけでも! この馬《ば》鹿《か》女《おんな》におしえてあげて、不幸中のゆかしい婦人にこんな扱いをしてはいけない、裁判にかけられるって……わたしは総督さまにじきじき訴えます……あの女は責任をとらされます……父の知遇を思い出して、このみなし子たちを守ってあげてくださいまし」
「まあ、奥さん……まあ、まあ、失礼ですが」ピョートル・ペトローヴィチは手を振ってはらいのけた。「あなたのお父さまのことは、あなたもご存じのように、わたしはいっこうに存じあげませんが……申しわけありませんな、奥さん! (誰《だれ》かが大声で笑いだした)ところであなたとアマリヤ・イワーノヴナのひっきりなしのいがみ合いには、わたしはまきこまれるのはごめんです……わたしは自分の用事で来たんですよ……いますぐ、あなたの義理の娘さんと話しあいたいことがありましてな、ソーフィヤ……イワーノヴナ……とかおっしゃいましたな? ちょっと通していただきます」
そう言うとピョートル・ペトローヴィチは、身を横向きにちぢめてカテリーナ・イワーノヴナのわきを通りぬけ、ソーニャのいる向う隅《すみ》のほうへ歩きだした。
カテリーナ・イワーノヴナはまるで雷にうたれたように、その場にそのままの姿勢で立ちつくしていた。彼女はどうしてピョートル・ペトローヴィチが父の知遇を否定できたのか、どうしても納得できなかった。彼女は自分で勝手にこの知遇を考え出したくせに、もうすっかりそれを信じこんでいたのだった。ピョートル・ペトローヴィチの事務的な、そっけない、しかもなんとなく軽蔑《けいべつ》するような威《い》嚇《かく》をさえふくんだ口調も、彼女をおどろかした。それにみんなも、彼が現われると同時に、どういうものかしだいにしずかになりはじめた。この《敏腕なまじめな》男がこの部屋の空気にあまりにも調和しなかったこともあるが、それに加えて、彼が何か重大な用事があって来たらしい、何かよくよくの理由がなければこんなところへ来るわけがない、とすると、いまに何か起る、何ごとか持ち上がるにちがいないということが、察しられたからである。ラスコーリニコフはソーニャのそばに立っていたが、わきへよけて彼を通した。ピョートル・ペトローヴィチは彼になどぜんぜん目もくれなかった。一分ほどするとレベジャートニコフも戸口に姿を見せた。彼は部屋には入らなかったが、やはり特別の好奇心、というよりはむしろおどろきに近い表情で、立ちどまり、きき耳を立てていたが、どうやら何か腑《ふ》におちない様子だった。
「おたのしみのところを邪魔することになるかもしれませんが、問題はかなり重大ですので、お許しいただきたい」とピョートル・ペトローヴィチは特に誰にということもなく、漠然《ばくぜん》と言った。「みなさんがいてくれたほうがかえって都合がいいのです。アマリヤ・イワーノヴナ、お願いですが、このアパートの主婦《おかみ》として、これからわたしがソーフィヤ・イワーノヴナと話すことをようく聞いていてもらいたい。ソーフィヤ・イワーノヴナ」と彼は、すっかりびっくりしてしまって、もう早くもおびえきっているソーニャのほうに、まっすぐに向き直りながら言葉をつづけた。「わたしの友人アンドレイ・セミョーノヴィチ・レベジャートニコフの部屋のわたしのテーブルの上から、あなたが訪ねて来《こ》られた直後、わたしの所有に属する百ルーブリ紙幣が一枚紛失しました。事情はともかく、それがいまどこにあるか、あなたが知っていて、わたしにおしえてくだすったら、あなたにちゃんと約束しますし、ここにいるみなさんに証人になってもらいますが、この事件はそれできっぱりと打ち切りにします。だが、そうでない場合は、実に重大な手段に訴えざるを得ませんが、そのときは……自分のせいだから、もう泣きごとを言ってもはじまりませんよ!」
部屋の中は水をうったようにしずまりかえった。泣いていた子供たちまで泣きやんだ。ソーニャは死人のような蒼白《そうはく》な顔をして突っ立ったまま、ルージンを見つめていたが、何も答えることができなかった。彼女はまだ言われたことの意味がわからないらしかった。何秒かすぎた。
「さあ、どうなんです!」とルージンはひたと彼女を見すえながら、うながした。
「わたし知りません……何も知りません……」ソーニャは、やっと、弱々しい声で言った。
「そう? 知らないんですか?」と聞きかえすと、ルージンはまた何秒か黙っていた。「よく考えてごらんなさい、マドモアゼル」と彼はきびしいが、それでもまださとすような調子で言いはじめた。「よくよく考えてみることです、もうすこし思案する時間をあたえてあげます。いいですか、わたしはよほど確信がなかったら、世事にはかなり通じているつもりですから、もちろん、これほどはっきりとあなたを非難するような危ないまねはしませんよ。だってこのように真っ向から公然と非難した場合、それが無実だったら、たとえちょっとした思いちがいだったにしろ、いずれにしてもその責めはまぬがれませんからな。そのくらいのことは知っています。今朝わたしは、ある必要があって、五分利債券を何枚でしたか、額面にして三千ルーブリ両替えしました。計算書は財布にしまってあります。家へもどると、わたしは――これはアンドレイ・セミョーノヴィチが証人ですが――金の勘定をはじめて、二千三百ルーブリまでかぞえたところで、それだけを財布にしまい、財布はフロックの脇《わき》ポケットに入れました。テーブルの上には紙幣で約五百ルーブリのこっていたが、その中の三枚は百ルーブリ紙幣でした。ちょうどそこへあなたが入って来たわけです(わたしが呼んだので)、――そしてそれからずうっとひどく落ち着かない様子で、話の途中に三度も立ち上がって、話がまだおわってもいないのに、どういうわけか急いで出て行こうとしましたね。これはみなアンドレイ・セミョーノヴィチが証言できます。マドモアゼル、おそらく、あなた自身も、わたしがあなたのお母さんカテリーナ・イワーノヴナの身よりたよりのない状態についてあなたと善後策を考えるという(わたしには法事に出席するひまがなかったので)、ただそれだけのためにアンドレイ・セミョーノヴィチをわずらわしてあなたを呼んだことを、否定はなさらないでしょうね。それからお母さんのために寄付か、宝くじか、何かそうしたことを計画したらいいのではないか、と話したことも。あなたはわたしにお礼を言って、涙ぐみさえしましたね(わたしがいま何もかもありのままに語るのは、ひとつには、あなたに思い出してもらいたいためと、もうひとつは、わたしの記憶からどんな些《さ》細《さい》なことも失われていないことを、あなたに見せるためです)。それからわたしはテーブルの上から十ルーブリ紙幣を一枚とって、あなたのお母さんのために、とりあえずの助けに、わたしからとして、それをあなたに渡しました。これはみなアンドレイ・セミョーノヴィチが見ていたことです。それからわたしはあなたを戸口まで送りだしました、――そのときも、あなたは、やはりそわそわしていました、――それから、アンドレイ・セミョーノヴィチと二人になって、十分ほど話しあってから、アンドレイ・セミョーノヴィチは出て行き、わたしはまえから考えていたことですが、テーブルの上に置き放しになっていた金をかぞえて、それだけを別にしておくつもりで、テーブルのところへもどりました。するとおどろいたことに、百ルーブリ紙幣が一枚なくなっているのです。まあ、よく考えてみてください、アンドレイ・セミョーノヴィチを疑うことは、わたしとしてはどうしてもできません。そんなことは考えるだけでも恥ずかしいくらいです。かぞえ違いということも、考えられません、だって、あなたが見える一分まえに、全部かぞえおわって、総額にまちがいのないことをたしかめておいたのです。あなただって認めると思いますが、あなたのそわそわと落ち着かない態度や、急いで出て行こうとしたことや、それからある時間両手をテーブルの上にのせていたことなどを思いだし、最後に、あなたの社会的立場とそれに関連する習慣というものを思いあわせた場合、わたしは、いわば、ぞっとして否定したいとさえ思いましたが、どうしてもある――もちろん残酷ですが、しかし公正な疑惑を抱《いだ》かざるを得なかったのです! ただしとして繰り返しておきますが、わたしは明白に《・・・》確信していますが、しかし、いまこうしてあなたを非難していることには、やはりわたしにとっていくぶんの危険があることは、自分でも承知しています。しかし、このとおり、わたしはあいまいにしておかずに、思いきって、あなたに言います。それはひとえに、いいですか、ひとえにあなたの憎むべき忘恩行為のせいなのです! なんということをしてくれました?わたしはあなたの気の毒なお母さんのためを思ってあなたを呼び、わたしとしてはせいいっぱいの十ルーブリの金をさしあげました。ところがあなたはすぐに、その場で、このような行為をもってそれに報いたのです! まったく、実によくないことです! 放《ほう》っておくわけにはいきません。よく考えてください。さらに、あなたの真実の友として頼みます(だって、いまのあなたにとって、友よりもいいものはあり得ません)。目をさましてください! 強情をはると、ほんとに怒りますぞ! さあ、どうです?」
「わたしあなたのものなんか何もとりませんわ」とソーニャは恐怖におののきながら呟《つぶや》くように言った。「あなたはわたしに十ルーブリくださいました、さあ、このとおりお返しします」
ソーニャはポケットからハンカチをとりだし、結び目をさがして、解くと、十ルーブリ紙幣をつかみだして、それをルージンのまえへさしだした。
「じゃのこりの百ルーブリのほうは、知らないというんですね?」彼は紙幣を受け取ろうとはしないで、とがめるようにしつこく言った。
ソーニャはあたりを見まわした。おそろしい、きびしい、嘲《あざけ》りと嫌《けん》悪《お》をうかべた顔々が彼女をにらんでいた。彼女はラスコーリニコフの顔をちらと見た……彼は壁際《かべぎわ》に立ったまま、腕ぐみをして、燃えるような目で彼女を凝視していた。
「ああ、ひどい!」というせつない叫びがソーニャの口からもれた。
「アマリヤ・イワーノヴナ、どうやら警察に知らせるほかはないようです。で、まことにすみませんが、庭番を呼んでいただけないでしょうか」とルージンはしずかに、むしろやさしいくらいに言った。
「ほんとにまあ《ゴット・デル・バルムヘルツィゲ》! この娘が盗みをすることは、わたしも知っていたんですよ!」アマリヤ・イワーノヴナはぱちッと両手を打ち合せた。
「あなたも知っていたって?」とルージンはすかさず聞き返した。「というと、そういう結論をくだす根拠になるようなことが、まえにもあったというわけですね。じゃ、アマリヤ・イワーノヴナ、いまのその言葉をお忘れにならないように願いますよ、もっとも、これだけ証人がいますがね」
四方から急にがやがやと話し声が起った。みんなざわざわしはじめた。
「な、ん、ですと!」不意にわれに返って、カテリーナ・イワーノヴナはこう叫ぶと、まるで鎖をひきちぎったように、猛然とルージンにつめよった。「なんですと! あなたはこの娘が盗んだというの? このソーニャが? ええ、この、人でなし!」
それから彼女はソーニャのほうへかけよると、やせ細った腕で力のかぎり抱きしめた。
「ソーニャ! どうしておまえはこんな男から十ルーブリなんかもらったの! ばかだねえ! さ、ここへお出し! さあ、その十ルーブリをお出しったら――そら!」
カテリーナ・イワノーヴナはソーニャの手から紙幣をひったくると、両手でそれをまるめて、ルージンの顔にいきなりそれを投げつけた。紙つぶては目にあたって、床にころげおちた。アマリヤ・イワーノヴナはあわててそれを拾いあげた。ピョートル・ペトローヴィチはかっとなった。
「この気ちがい女をおさえろ!」と彼は叫びたてた。
戸口にはそのときレベジャートニコフと並んでさらにいくつかの顔が現われた。その中には地方から来た母娘《おやこ》もまじっていた。
「なんだと! 気ちがい女だ? わたしが気ちがいだって? ばかめ!」とカテリーナ・イワーノヴナはわめきたてた。「おまえこそばかだよ、嘘《うそ》つき、下司《げす》野郎! ソーニャが、ソーニャがこんなやつの金をとったって! ソーニャが泥棒だって! へっ、ソーニャのほうがおまえにくれてやるよ、ばかめ!」そう言うと、カテリーナ・イワーノヴナはヒステリックに笑いたてた。「みなさん、見てちょうだいよ、このばかを!」彼女はそこら中をかけまわって、みんなにルージンの顔を指さした。「どうです! そう、おまえもだよ!」彼女は主婦《おかみ》に目をとめた。「ええ、このソーセージ売りめ、おまえまでいい気になって、よくもこの娘が《盗んだ》なんて言ったね、卑屈なドイツっぽ、スカートをはいた鶏の足め! ああ、おまえたちは! そろいもそろって、畜生! ええ、この娘は部屋から一歩も出ていないんだよ、おまえんとこからもどると、すぐにロジオン・ロマーヌイチのわきに坐《すわ》って、どこへも行きゃしなかったよ!……この娘をしらべてみたらどうなの! どこへも行かないんだから、盗んだものならあるはずじゃないの! しらべなさいな、え、しらべなさいよ! ただし、見つからなかったら、わるいけど、責任はとってもらいますよ! 皇帝、皇帝のところへ、お情け深いツァーリさまのところへかけつけて、足もとにひれ伏しますよ、早速、今日にも! わたしは――あわれなやもめです! 通してくれますよ! 通さないと、思うの? とんでもない、行ってみせるよ! 行ってみせるとも!きっと、この娘がおとなしいと思って、こんな芝居を考えたんだろう? その代り、わたしはきかないよ! ぎゅうぎゅういわしてやる! しらべなさいな! え、さあ、さっさとしらべたらどうなの」
カテリーナ・イワーノヴナは気ちがいのようになって、ルージンを小突きながら、ソーニャのほうへひっぱって行った。
「わたしは覚悟してますよ、責任は負いますよ……だが、気をしずめなさいよ、奥さん、落ち着きなさい! あなたがきかないことは、もう十分にわかりましたよ!……それはさて……それですが……いったいどうしたものでしょうな?」とルージンは呟いた。「警察が立ち会いでなくちゃ、――もっとも、いまでも証人は十分すぎるほどだが……わたしはいいですよ……でもとにかく男には難かしいですよ……性の関係がありましてな……せめてアマリヤ・イワーノヴナでも手をかしてくれたら……しかし、それもまずいと思うし……まあ、どうしたものでしょう?」
「誰でもかまいません! しらべたい人は、しらべるがいい!」とカテリーナ・イワーノヴナは叫んだ。「ソーニャ、こいつらにポケットをひっくり返して見せておやり! そう、そう! ごらんよ、阿《あ》呆《ほう》、ほら空《から》っぽでしょ、ここにハンカチが入っていたんだよ、空っぽだよ、ほら! 今度はこっちのポケット、いいかね、ほら! ごらん! ごらん!」
そう言いながらカテリーナ・イワノーヴナは、裏返しにするというよりは、二つのポケットを次々と外へひっぱり出した。ところが二つ目の右のポケットから、思いがけなく小さな紙きれが一つとびだして、放物線を描いてルージンの足もとにおちた。ピョートル・ペトローヴィチは腰を屈《かが》めて、床から二本指でその紙きれをつまみ、みんなに見えるように高く上げて、それをひろげた。それは八つにたたんだ百ルーブリ紙幣だった。ピョートル・ペトローヴィチは手をぐるりとまわして、みんなに紙幣を見せた。
「盗《ぬす》っ人《と》! 部屋を出て行け! 巡査《ポリス》、巡査《ポリス》!」とアマリヤ・イワーノヴナはわめきたてた。「こんなやつらはシベリア送りだよ! 出て行け!」
四方から叫び声がとんだ。ラスコーリニコフは押し黙ったまま、じいっとソーニャの顔を見つめていたが、ときおりちらと素早い視線をルージンに移した。ソーニャは意識を失ったように、ぼんやりその場に立っていた。おどろいた様子さえほとんどなかった。不意に朱がさっと顔中にさしたかと思うと、彼女はわっと叫んで、両手で顔をおおった。
「ちがう、わたしじゃない! わたしはとりません! わたしは知りません!」と彼女は胸をひきむしるような涙声で叫ぶと、カテリーナ・イワーノヴナにすがりついた。
カテリーナ・イワーノヴナは彼女を抱きよせ、まるで自分の胸で彼女をみんなから守ろうとでもするように、ひしと抱きしめた。
「ソーニャ! ソーニャ! わたしは信じないよ! わかるね、わたしは信じないからね!」カテリーナ・イワーノヴナは(どう見ても明白な事実があるのに)こう叫びながら、抱きしめた腕の中で幼な子のように彼女をゆすり、何度となく接吻《せっぷん》し、彼女の手をさぐっては、はげしく唇《くちびる》を押し当てて貪《むさぼ》るように吸うのだった。「おまえがとったなんて! ほんとになんてばかなやつらだろう! あんまりだ! あんた方はばかです、ばかです!」と彼女はみんなを見まわしながら、叫んだ。「そうですとも、あんた方はまだ知らないんです、この娘がどんな美しい心をもってるか、この娘がどんな娘か、知らないんです! この娘がひとのものをとるなんて、この娘が!この娘はなけなしの服をぬいで売り、自分ははだしで歩いても、あんた方が困っていれば、みんなやってしまう、そういう娘なのです!この娘は黄色い鑑札も受けました、それはわたしの子供たちが飢えのために死にかけたからです、わたしたちのために自分の身を売ったのです!……ああ、亡《な》くなったあなた、あなた! あの世に行かれたあなた、あなた!わかりますか? 見えますか? これがあなたの法事ですよ! あんまりだ! この娘を守ってあげてくださいよ、あんた方はなんだってぼんやり突っ立ってるんです! ロジオン・ロマーヌイチ! あなたまで、どうして味方をしてくれないんです? あなたも、信じてるんですか? あんた方はみんな、みんな、どいつもこいつも、この娘の小指ほどの値打ちもありゃしない! 神さま! あなたにおすがりするほかありません、どうかこの娘を守ってあげてください!」
身よりのない哀れな肺病のカテリーナ・イワーノヴナの涙ながらの訴えは、人々に強い感銘をあたえたようだった。この苦痛にゆがみ、業病《ごうびょう》にけずられたかさかさの顔、血のこびりついた干からびた唇、かすれた悲痛な声、子供が泣きじゃくるようなすすり泣き、子供のように信じやすい、しかも必死にすがりつくような、守ってくれと祈る哀願、それはあまりにも痛々しく、あまりにも苦悩がにじみでていたので、すべての人々にあわれみを覚えさせたかに見えた。少なくともピョートル・ペトローヴィチはすぐにかわいそうになってしまった。
「奥さん! 奥さん!」と彼は心に呼びかけるような声で叫んだ。「これはあなたには関係のないことですよ! 誰もあなたがたくらんだとか、しめしあわせたなんて、非難する者はありませんよ。ましてあなたは自分でポケットを裏返して、犯行を暴露したじゃありませんか。それはさて、貧しさがソーフィヤ・セミョーノヴナにこんなことをさせたとすればですね、わたしは決して同情しないというのではありません、しかしいったいどうして、マドモアゼル、あなたは正直に言おうとしなかったのです? 恥辱が恐《こわ》かったのですか? はじめに言いそびれたからですか? おそらく、どうしていいかわからなくなってしまったんでしょうね? わかります。よくわかりますよ……だがしかし、どうしてこんなことをしてくれたんでしょうねえ! みなさん!」と彼はその場にいあわせたすべての人々に向って言った。「みなさん! わたしは同情を禁じ得ませんし、いわば、痛ましい気持が十分に察しられますので、いまでさえ、わたしが受けた個人的な侮辱には目をつぶってですね、許してあげてもいいと思っています。それに、マドモアゼル、いまの恥辱があなたには将来に対する教訓になるでしょうからな」と彼はソーニャのほうへ向き直った。「これでこの事件は闇《やみ》に葬《ほうむ》りましょう、まあ騒ぎたててもしようがない、これで打ち切ります。もうたくさんですよ!」
ピョートル・ペトローヴィチは横目でちらとラスコーリニコフを見た。二人の視線がかちあった。ラスコーリニコフの燃えるような凝視は相手を焼きつくさんばかりだった。一方カテリーナ・イワーノヴナはもう何も耳に入らない様子だった。彼女はソーニャを抱きしめて、ただもう夢中で接吻をくりかえしていた。子供たちも四方から小さな手でソーニャに抱きすがっていた。ポーレチカは――どういうことなのかまだよくわからないらしく――顔中を涙だらけにしておいおい泣きじゃくりながら、泣きはらしたかわいい顔をソーニャの肩に埋《うず》めていた。
「なんという卑劣なことだ!」誰かの声が不意に戸口で叫んだ。
ピョートル・ペトローヴィチはあわてて振り向いた。
「なんという卑劣さだ!」と、鋭く彼の目をにらみすえながら、レベジャートニコフはくりかえした。
ピョートル・ペトローヴィチはぎくっとしたようにさえ見えた。それはみんなが気がついた(あとになってからそれを思い出したのである)。レベジャートニコフは一歩部屋へ入った。
「あなたはよくもぼくを証人にするなどと言えましたね?」と彼はピョートル・ペトローヴィチのほうへ歩みよりながら、言った。
「それはどういうことですか、アンドレイ・セミョーノヴィチ? きみはなんのことを言ってるんですか?」とルージンは口ごもった。
「あなたが……中傷する男だ、ということです、これがぼくの言葉の意味です!」とレベジャートニコフは強い近視の目で鋭く彼を見すえながら、はげしく言いはなった。彼は怒りに身をふるわせていた。ラスコーリニコフは一言ものがさずにとらえて、その重みをはかろうとするように、じっと彼の顔に目をくい入らせていた。またしーんとしずまりかえった。ピョートル・ペトローヴィチはほとんど度を失ったかにさえ見えた。特に最初の瞬間がひどかった。
「もしきみがわたしにそんな……」と彼はしどろもどろに言いはじめた。「いったい、どうしたのだ、きみ? 正気か?」
「ぼくは正気ですよ、だがあなたはひどい……悪党だ! ああ、なんて卑劣なんだ! ぼくは全部聞いていた。すっかりのみこむために、わざといままで黙っていたんだ。だって、率直に言うけど、いまでさえどうも論理的にすかっとしないんだ……いったいなんの目的であなたがこんなことをしたのか――理解できない」
「わたしが何をしたというんだね! つまらん推理でものを言うのはよしてもらいたいな! それとも、きみは酔っているんじゃないのか?」
「酔ってるのは、あなたという卑劣な男かもしれませんね、ぼくじゃありませんよ! ぼくはウォトカだって一滴も口にしませんよ、ぼくの信念に合いませんのでね。いいですか、みなさん、この男は、この男は自分で、自分の手でこの百ルーブリ紙幣をソーフィヤ・セミョーノヴナにやったのです、――ぼくは見ていました、ぼくが証人です、ぼくは宣誓します! この男、この男です!」と、その場にいあわせた者一人一人に向って、レベジャートニコフはくりかえした。
「おい、きみは頭がどうかしたのか、この青二才めが?」とルージンはわめきたてた。「この娘はいまきみの目のまえで――たったいま、自分で、みんなのまえで、十ルーブリ以外、何ひとつわたしから受け取らなかったと、はっきり証言したじゃないか。そのあとで、いったいどんな方法でわたしがこの娘に渡せたというのだ?」
「ぼくは見ていた、見ていたんだ!」とレベジャートニコフはくりかえし叫んだ。「これはぼくの信念に反するが、しかしぼくはいますぐ裁判所へ出頭して、どんな宣誓でもするつもりだ。だって、あなたがそっと彼女のポケットに押しこむのを、ぼくは見ていたからだ。ただぼくはばかだから、そのときはあなたがこっそり恵んでやったのだと思ったんだ! 戸口で、別れしなに、あなたは彼女を送り出し、片手で彼女の手をにぎりながら、別な左の手で、彼女のポケットにそっと紙幣をしのばせたんだ。ぼくは見ていた! 見ていたんだ!」
ルージンは蒼《あお》くなった。
「何をでたらめ言ってるんだ!」と彼はふてぶてしく叫んだ。「きみは窓際《まどぎわ》に立っていて、どうしてそれが紙幣とわかったんだ! 目の迷いだよ……近視がひどいからな。幻覚だよ!」
「いや、目の迷いじゃない! たしかにぼくは遠くにはなれていた、しかしぼくは見たんだ、すっかり見たんだ。そりゃたしかに窓のところから、たたんだ紙幣を見わけるのは難かしい――しかしぼくは、ある事情で、それがまちがいなく百ルーブリ紙幣であることを、ちゃんと知っていたんだ。というのは、あなたがソーフィヤ・イワーノヴナに十ルーブリ紙幣を渡そうとしたとき――ぼくはちゃんと見ていたんだ――そのときあなたはテーブルの上から百ルーブリ紙幣もとった。(そのときぼくはたまたま近くにいたので、それが見えたんだ、そしてすぐにぼくの頭にある一つの考えがうかんだ、だからぼくは、あなたの手に紙幣がにぎられていることを忘れなかったのさ)あなたはそれを小さくたたんで、それからずうっとにぎりしめていた。その後、ぼくはまた忘れかけたが、あなたが立ちあがりかけたとき、それを右手から左手へもちかえて、危なくおとしそうになった。そこでぼくはまた思い出した、というのは、またさっきの考え、つまり、あなたがぼくにかくれてこっそり彼女に恵みをほどこそうとしているのだという考えがうかんだからだ。わかるでしょう、それからぼくが特に注視しだしたのが――そして、あなたが首尾よく彼女のポケットにしのびこませたのを、見とどけたんだ。ぼくは見た、見たんだ、ぼくは誓って言う!」
レベジャートニコフはいまにも息がつまりそうにあえいでいた。四方からいろんな叫び声が起った。おどろきを現わす叫びがいちばん多かった。しかし威《い》嚇《かく》の調子のこもった叫びもあった。みんなピョートル・ペトローヴィチをとりまいた。カテリーナ・イワーノヴナはレベジャートニコフのまえへかけよった。
「アンドレイ・セミョーノヴィチ! わたしはあなたを誤解していました! この娘を守ってください! あなた一人がこの娘の味方です! 身よりのないかわいそうな娘です、神さまがあなたをつかわしてくだすったのです! アンドレイ・セミョーノヴィチ、あなたは、なんていい方でしょう!」
そしてカテリーナ・イワーノヴナは、自分で何をしているのかほとんどわからない様子で、いきなり彼のまえにひざまずいた。
「たわごとだ!」とルージンはかんかんにいきり立って、わめきたてた。「たわごとばかりぬかしくさって。《忘れた、思い出した、忘れた》――何を言ってるのだ! つまり、わたしがわざとこっそりこの娘のポケットにしのばせたというのか? なんのために? どんな目的で? わたしがこの娘になんの関係があるのだ……」
「なんのために? それがぼくにもわからないんです。だがぼくがありのままの事実を語ったということ、それは確かです! あなたは実にけがらわしい、罪深い男だ。ぼくは決してまちがっていません、その証拠に、あのときすぐに、つまりぼくがあなたに感謝して、あなたの手をにぎりしめたあのときにですね、このことについて一つの疑問が頭にうかんだのを、はっきりおぼえているんです。いったいなんのためにあなたが彼女のポケットにそっとしのばせたのか? つまり、どうしてそっとでなければいけないのか? ぼくが反対の信念をもち、社会悪の根をすこしもつみとることのできない個人的慈善を否定することを知っているから、ぼくにかくそうとした、ただそれだけのことだろうか? そう考えてきて、ぼくは、あなたはこんな大金をやるのがほんとにぼくに恥ずかしいのだろう、と解釈したわけです。さらに、ひょっとしたら、思いがけぬ贈りものをして、家へかえってからポケットに百ルーブリも入っているのを見て、びっくりさせてやろうと思ったのかもしれない、とも考えてみました(ぼくも知ってますが、慈善家の中にはこんなふうに自分の善行を粉飾するのがひどく好きな連中がいるものです)。さらに、あなたは彼女を試そうとした、つまり彼女がそれを見つけて、お礼を言いに来るかどうか見ようとしたのかもしれない、とも考えました。あるいはまた、お礼を言われるのを避けたいのかもしれない、その、いわゆる右手にも知らしむべからず、というわけでね……要するに、まあいろいろ考えてみましたよ……ほんとに、あのときは次々といろんな考えが浮んでくるので、あとでゆっくりそれらを検討してみることにしたんですが、それでもやはり、この秘密を知っていることをあなたに打ち明けるのは、慎みがなさすぎると思いました。しかしそう思ううらから、すぐに、ソーフィヤ・セミョーノヴナが、気がつくまえに、運わるく金を紛失しないとも限らない、という不安がわいたのです。それでぼくはここへ来て、彼女を呼び出し、ポケットに百ルーブリ紙幣を入れられたことをおしえてやることにきめました。そのまえにちょっとコブイリャトニコーワ夫人の部屋に立ち寄って、《実証的方法論概説》をわたし、特にピデリットの論文(ワグネルのものですが)を読むようにすすめて、それからここへ来たわけですが、来てみるとこの騒ぎです! いいですか、あなたが彼女のポケットに百ルーブリ紙幣を入れたのを、ぼくが実際に見ていなかったら、ですよ、ぼくはこうしたすべての推論や考察をもつことができたでしょうか、できたでしょうか?」
アンドレイ・セミョーノヴィチは長い考察を述べおわり、いかにも明快な論理的結論で言葉を結ぶと、がっくり疲れて、顔には大つぶの汗さえふきだした。かわいそうに、彼はロシア語でさえ満足に説明ができなかったのである(もっとも、他《ほか》の言葉は何も知らないが)。それで彼はこの弁護士としての功績を果した後は、一時にすっかり消耗してしまって、急にげっそり痩《や》せたようにさえ見えた。それにもかかわらず、彼の言葉は深い感銘をあたえた。彼ははげしい憤《いきどお》りにもえながら、ぜったいにゆるがぬ確信をもって語ったので、すべての人人が彼の言葉を信じたらしい。ピョートル・ペトローヴィチは形勢の非を感じた。
「きみの頭に愚にもつかぬ疑問がうかんだとて、それがわたしになんの関係があるのだ」と彼は叫んだ。「そんなものは証拠にならん! 大方夢でも見たんだろう、ばかばかしい! きみにはっきり言うが、きみは嘘《うそ》をついてるんだよ! わたしに何か悪意をいだいているので、いいかげんなことを言って、わたしを悪者にしようとしているのだ。きっとわたしがきみの自由主義的な、無神論的な社会思想に共鳴しないので、腹いせをしているのだ、それにちがいない!」
しかしこのこじつけはピョートル・ペトローヴィチに利をあたえなかった。反対に、四方から不平の声が起った。
「ええ、きさまはそんな言いぬけをしようとするのか!」とレベジャートニコフは叫んだ。「ふざけるな! 警察を呼んでくれ、ぼくは宣誓する! 一つだけぼくにはわからない。なんのためにこいつが危険をおかしてまで、こんな下劣な行為をしたのか! なんてあわれな、卑劣な男だろう!」
「なんのためにこの男がこんな行為をあえてしたか、ぼくが説明できる。で、なんなら、ぼくも宣誓してもいい!」ラスコーリニコフは、ついに、しっかりした声でこう言うと、まえへ進みでた。
彼は、見たところ、態度がしっかりして、落ち着いていた。みんなは彼を一目見ただけで、彼が実際に真相を知っていて、いよいよ大詰めに近づいたことを、なんとなく感じた。
「いまぼくはすべてがはっきりとわかりました」とまっすぐにレベジャートニコフの顔を見ながら、ラスコーリニコフはつづけた。「この騒ぎの最初から、ここには何か卑劣な悪だくみがあると、ぼくはにらんでいました。ぼくが疑いをもったのは、ぼくだけしか知らぬある特殊な事情のためなのですが、いまそれをみなさんに説明しましょう。そこにこの騒ぎのすべての鍵《かぎ》があるのです! アンドレイ・セミョーノヴィチ、きみが、いまの貴重な証言によってぼくにすべてを底の底まで明らかにしてくれたのです。みなさん、みなさん、どうか聞いてください。この男は(彼はルージンを指さした)先日ある娘に結婚を申し込みました。その娘は、実は、ぼくの妹アヴドーチヤ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワなのです。ところで、この男はペテルブルグに来て、一昨日《おととい》ぼくとはじめて会ったときに、ぼくと口論し、ぼくはこの男を自分の部屋から追っ払いました。それには証人が二人います。この男はひどく憤慨して……一昨日ぼくはまだこの男がこのアパートに、しかもアンドレイ・セミョーノヴィチ、きみの部屋に厄介《やっかい》になっていようとは、知らなかったのです。だから、ぼくたちが口論をしたその同じ日、つまり一昨日ですが、ぼくが死んだマルメラードフ氏の友人として、奥さんのカテリーナ・イワーノヴナになにがしかの金を葬儀の費用に渡したのを、この男が目撃していたのも知らなかったわけです。この男は早速ぼくの母に手紙を書いて、ぼくが持っている金をのこらずカテリーナ・イワーノヴナにではなく、ソーフィヤ・セミョーノヴナにやった、と知らせてやりました。しかもその際……ソーフィヤ・セミョーノヴナの……人間について、下劣きわまる言葉を用いたのです。つまりぼくとソーフィヤ・セミョーノヴナの間に何か特殊な関係があるらしくほのめかしたのです。それはみな、おわかりのことと思いますが、母と妹が送ってくれた血のでるような金を、ぼくが下品な目的で浪費していると、母と妹に思いこませて、ぼくたちの間を裂こうという腹なのです。昨夜、母と妹のまえで、この男もいるところで、ぼくは金は葬儀の費用としてカテリーナ・イワーノヴナに渡したのであって、ソーフィヤ・セミョーノヴナに渡したのではないこと、一昨日はまだ、ソーフィヤ・セミョーノヴナを知らなかったばかりか、顔さえ見たことがなかったことを証明して、真相を明らかにしました。ついでに、こんなピョートル・ペトローヴィチ・ルージンなんてやつは、いくらいばってみたところで、さんざん悪《あ》しざまに言っているソーフィヤ・セミョーノヴナの、小指一本にも値しない、と言ってやりました。そしたら、ソーフィヤ・セミョーノヴナをきみの妹と同席させられるか? と聞くので、そんなことはもう今日させたよ、と答えてやりました。母と妹が、この男の策にのってぼくと喧《けん》嘩《か》しようとしないので、この男はかんかんに怒って、次々と許すべからざる無礼な言葉をあびせはじめました。そしてついに決定的な決裂が起って、この男は家から追っ払われたわけです。これはみな昨夜のことです。ここで特に注意して考えてもらいたいのは、いまこの男が、ソーフィヤ・セミョーノヴナが盗《ぬす》っ人《と》であるということを証明できたとすれば、第一に、ぼくの母と妹に、自分の疑いがほぼ正しかったことを証明できるし、ぼくが妹をソーフィヤ・セミョーノヴナと同列においたことに憤激したことが正当化されるし、ぼくを攻撃したことは、結局、ぼくの妹、つまり自分の許《いい》嫁《なずけ》の名誉を守ったのだということになるのです。要するに、これがうまくゆけば、彼はまたぼくと家族を喧嘩させることができたでしょうし、そうなればむろん、また母と妹にとり入ることができるという希望があったわけです。また、ぼく個人に復讐《ふくしゅう》を企てたことも、いまさら言うまでもありません、というのは、この男には、ソーフィヤ・セミョーノヴナの名誉と幸福がぼくにとってひじょうに大切なものである、と考える根拠があるからです。これがこの男の計算のすべてです! こうぼくはこの事件を解釈します! これがすべての理由です、ほかの理由はあり得ません!」
このように、あるいはおおむねこのように、ラスコーリニコフは自分の説明を終った。人人はときどき叫び声で彼の言葉をたちきったが、しかしひじょうに熱心に聞いていた。そして、ときどき中断させられたにもかかわらず、彼は鋭い語調で、落ち着いて、正確に、明瞭《めいりょう》に、力をこめて語った。彼の鋭い声と、確信にみちた口調と、きびしい顔は、すべての人々に異常な感銘をあたえた。
「そうです、そうです、そのとおりですよ!」とレベジャートニコフは感激して言った。「そうにちがいありません、だって彼は、ソーフィヤ・セミョーノヴナがぼくの部屋に入って来るとすぐに、《あなたが来ていたか?カテリーナ・イワーノヴナの客の中にあなたを見かけなかったか?》とぼくに聞いたんですから。そのためにわざわざぼくを窓際に呼んで、こっそり聞いたんです。つまり、彼はぜひともあなたにここにいてもらいたかったわけです! そのとおりです、まったくあなたの言うとおりです!」
ルージンは黙って、軽蔑《けいべつ》するようなうす笑いをうかべていた。しかし、顔は真《ま》っ蒼《さお》だった。どうやら、どうして窮地を脱しようかと、思案している様子だった。なにもかも投げすてて、逃げられるものなら、喜んでそうしたにちがいないが、いまとなってはもうそれもできなかった。それは彼にあびせられた論告が正しく、彼が実際にソーフィヤ・セミョーノヴナに無実の罪をきせたことを、率直に認めることを意味した。それにとりまいていた連中も、それでなくてさえ酒が入っていたから、もうすっかりいきり立っていた。糧食部の男は、よくのみこめもしないくせに、誰よりもわめきたてて、ルージンにとってはまったく迷惑なある種の制裁を提案していた。しかし酔っていない人々もいた。アパート中の部屋から集まって来た人々だった。ポーランド人は三人ともおそろしく憤慨して、たえず《悪党め《パネ・ライダク》!》と叫びたて、おまけにポーランド語でおどし文句らしいのをわめきちらしていた。ソーニャは真剣な顔で聞いていたが、やはり意識がまだはっきりしないようで、よくはわからないらしかった。彼女はただラスコーリニコフだけが彼女を救ってくれるような気がして、ラスコーリニコフから目を放さなかった。カテリーナ・イワーノヴナは苦しそうに息がかすれていた。へとへとに疲れている様子だった。口をぽかんとあけて、何が何やらさっぱりわからずに、いちばんばか面《づら》をして突っ立っていたのはアマリヤ・イワーノヴナだった。彼女はピョートル・ペトローヴィチがまずいことになったことだけがわかった。ラスコーリニコフはまた何か言いかけたが、もうおしまいまで言うことができなかった。みんな口々にわめきたて、ののしったり、すごんだりしながら、ルージンのまわりをとりかこんだのである。しかしルージンはたじろがなかった。ソーニャに罪をかぶせる企てが完全に失敗したことを見てとると、彼はすっかり開き直った。
「ごめん、ごめん、さあ押さないで、通してくれたまえ!」と彼は群衆の間を通りぬけながら、言った。「まあまあ、そう騒がないでもらいたいな。ことわっておくが、あんた方が何をしてもむだだよ、どうにもなりゃしない、わたしは腰抜けじゃない。反対にあなた方こそ、暴力で刑事事件を隠蔽《いんぺい》した責めを問われますぞ。この女の犯行はりっぱに暴露されているのだ。わたしはあくまで追及する。裁判官はあんた方ほど盲《めくら》じゃないし、それに……酔ってもいない、こんな二人の札つきの無神論者、煽動者《せんどうしゃ》、自由思想とやらにかぶれているやつらの言うことなんか、信用しませんな。こいつらは個人的なうらみでわたしを非難しているんだよ、ばかなものだから、自分でそれをちゃんと認めているじゃありませんか……さあさあ、ごめんなさい!」
「ぼくの部屋にあなたの匂《にお》いものこらないように、いますぐ出て行ってもらいたい。ぼくとあなたの関係はこれでおしまいです! 考えてみれば、ずいぶんむだな骨折りをしたものです、こんな男に……二週間も……いろいろ教えてやったりして……」
「なあに、アンドレイ・セミョーノヴィチ、わたしはさっききみに言ったはずですよ、出て行くって。そのときはまだきみはわたしを引きとめましたがね。そこで一言だけつけ加えておきましょう、きみはばかだ! という一言をね。頭と近視がなおるように祈りますよ。さあ、通してください、みなさん!」
彼は人々の間をすりぬけた。しかし糧食部の男は、ののしっただけでそうやすやすと逃がしたくはなかったので、食卓の上のコップをつかむと、いきなりピョートル・ペトローヴィチに投げつけた。ところがコップはアマリヤ・イワーノヴナに命中した。彼女はぎゃッと悲鳴をあげ、一方投げたほうは、力あまってどさッと食卓の下に倒れた。ピョートル・ペトローヴィチはやっと部屋へ逃げかえった、そして三十分後にアパートの中にもう彼の姿はなかった。もともと気の弱いソーニャは、もうまえまえから、自分が誰よりも傷つけられやすいこと、誰でもほとんど罰をうける心配なしに彼女を辱《はずか》しめることができることを知っていた。それでも、いまのいままでは、気をつけて、おとなしくして、誰にでも素直に従っていれば――なんとか災厄を避けられるような気がしていたのだった。だから彼女の落胆はあまりにも大きかった。彼女は、むろん、じっと押しこらえて、ほとんど不平を言わずに、どんなことでもがまんできた、――このような屈辱にさえ堪えることができた。しかし最初の瞬間は苦痛がひどすぎた。自分が勝ったし、自分の正しさが証明されはしたが、――最初の驚愕《きょうがく》と茫然《ぼうぜん》自失の状態がすぎて、いろいろと思いあわせ、ことの意味をはっきりとさとったとき、――孤独と屈辱の思いが苦しく心をしめつけたのである。ヒステリーの発作が起った。とうとう、彼女は堪えきれなくなって、部屋をとび出すと、家へかけもどった。それはルージンが去った直後のことだった。アマリヤ・イワーノヴナも、コップが当ってどっと爆笑が起ると、振舞い酒に酔ったばか騒ぎが堪えられなくなった。彼女は気ちがいのようにわめき立てながら、この女一人のせいだと考えて、カテリーナ・イワーノヴナにとびかかった。
「出てゆけ! いますぐ! さっさと出てけ!」
そう叫びざま、彼女は手当りしだいにカテリーナ・イワーノヴナのものをひっつかんで、床に投げ出しはじめた。そうでなくともたたきのめされて、ほとんど気を失ったようになって、やっと肩で息をしていた真っ蒼なカテリーナ・イワーノヴナは、ベッドからとび起きて(彼女は疲れはててベッドの上に倒れていたのだ)、アマリヤ・イワーノヴナにつかみかかった。しかし力がちがいすぎて喧嘩にならなかった。アマリヤ・イワーノヴナは羽《は》根枕《ねまくら》でも投げだすように、簡単に突きとばした。
「なんてことだ! いけしゃあしゃあとひとにありもしない罪をかぶせておきながら、それでも足りないで――畜生め、わたしにまで! なんてことをするの! 良人《おっと》の葬式の日に、ひとのご馳《ち》走《そう》を食うだけ食ったあげく、みなし子をかかえたわたしを往来へ追い出すなんて! どこへ行けというのさ!」哀れな女は涙で息をつまらせながら、わめきたてた。「神さま!」不意に彼女はきらッと目を光らせて、叫んだ。「世の中に正義というものがないのでしょうか! わたしたち身よりのない者でなくて、いったい誰をあなたはお守りくださるのです? 世の中には裁きも真実もあります、ありますとも、わたしはきっとさがしてみせます! いますぐに、見てるがいい、恥知らずめ! ポーレチカ、子供たちをおもりしてなさい、すぐもどるから。外へ追い出されても、わたしを待っているんだよ!見てみようじゃないの、この世に真実があるものかどうか?」
そして、死んだマルメラードフが身の上話の中でふれた例の緑色の薄い毛織り《ドラ・デ・ダム》のショールをかぶると、カテリーナ・イワーノヴナはまだ部屋の中にむらがっていただらしない酒に酔った人々の群れをかきわけて、どこかで、いますぐ、どんなことがあっても正義を見つけ出そうという漠然《ばくぜん》とした目的をもって、泣きわめきながら往来へかけ出して行った。ポーレチカはおびえきって、子供たちといっしょに片隅の長持の上にちぢこまり、二人の小さな弟妹をしっかり抱きしめて、がたがたふるえながら、母の帰りを待ちはじめた。アマリヤ・イワーノヴナは部屋中をかけまわり、金切り声をはりあげて当りちらしながら、手にふれるものを片っ端から床へほうり投げて、荒れ狂っていた。人々はてんでに勝手なことをわめきちらしていた、――いまのできごとについて、自分なりに解釈して、うなずき合っている者もいたし、むきになって議論をし、ののしり合っている者もいた。そうかと思うと、一杯機《き》嫌《げん》で歌をうたい出す者もあった……《さて、そろそろ引き上げようか!》とラスコーリニコフは考えた。《さあ、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、今度はきみがなんと言うかな!》
そう思いながら、彼はソーニャの住居《すまい》へ足を向けた。
4
ラスコーリニコフは自分が心の中にあれほどの恐怖と苦悩をもちながら、ルージンに対してソーニャの精力的で勇敢な弁護士となった。朝のうちあれほど苦しみぬいたあとだったので、彼は堪えられないものになっていた気分を転換できる機会を、かえって喜んだらしかった。ソーニャを守ろうとする彼の意気込みには、かなり個人的な真剣な気持がふくまれていたことは、いまさら言うまでもない。そればかりではない、たえず彼の頭の中にあって、ときおり恐ろしい不安を彼にあたえていたのは、目のまえに迫ったソーニャとの会見だった。彼は誰《だれ》がリザヴェータを殺したかを、彼女におしえるはず《・・》になっていた、そしてそのときの恐ろしい苦しみを予感して、両手を突っぱってそれを押しのけるようにしていたのだった。だから、カテリーナ・イワーノヴナの部屋から出しなに、《さあ、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、今度はきみがなんと言うかな?》と、心の中で叫んだときは、明らかに、まだいましがたの勇敢な挑戦《ちょうせん》、そしてルージンに対する勝利のために、外見のはなやかさからくる一種の興奮状態にあったのである。ところが、不思議なことが起った。カペルナウモフの家まで来ると、彼は急に全身の力がぬけたような気がして、恐ろしくなったのである。《誰がリザヴェータを殺したかなんて、言う必要があるのだろうか?》という奇妙な疑問を抱いて、彼は思案顔にドアのまえに立ちどまった。この疑問が奇妙なのは、それと同時に、彼は不意に、言わずにはいられないばかりか、その機会を、たとえしばらくでも、先へのばすことはできない、と感じたからである。どうしてできないのか、彼はまだわからなかった。彼はただそう感じ《・・》た《・》だけだった、そしてこの必要に対する自分の無力の苦しい意識がほとんど彼をおしつぶしそうになった。もうこれ以上考えたり、苦しんだりしないために、彼は急いでドアを開けて、戸口からソーニャを見た。彼女は椅子《いす》にかけて、小さな卓に両肘《りょうひじ》つき、手で顔をおおっていたが、ラスコーリニコフを見ると、待っていたようにそそくさと立ち上がって、彼を迎えた。
「あなたがいなかったら、わたしはどうなっていたことでしょう!」彼女は部屋の中ほどで彼に出会いながら、急いで言った。これだけはできるだけ早く言ってしまいたかったらしい。それだけ言うと、あとは彼の言葉を待った。
ラスコーリニコフは卓のそばへ行き、いま彼女が立ち上がったばかりの椅子に腰を下ろした。彼女は昨日とまったく同じく、彼の二歩ほどまえに佇《たたず》んだ。
「どうしたの、ソーニャ?」と彼は言った、そして不意に自分の声がふるえているのを感じた。「たしかにすべては《社会的立場とそれに関連した習慣》に基づいていたというわけだ。さっきこの意味がわかったかね?」
苦悩が彼女の顔にあらわれた。
「昨日のようなことは言わないで、それだけはおねがい!」と彼女は彼の言葉をさえぎるように言った。「どうか、もうあんなことは言わないで。それでなくても、もうこんなに苦しいんですもの……」
彼女は、こんなことを言って彼が気を悪くしたらと、はッとして、あわてて笑顔をつくった。
「わたし何も考えないで、あそこをとび出して来てしまったのですけど、いまどうなっていますかしら? すぐにも行ってみようと思いましたが、あなたが……来そうな気がして……」
彼はアマリヤ・イワーノヴナが部屋を追い立てていること、カテリーナ・イワーノヴナが《真実をさがしに》どこかへとび出して行ったことなどを語った。
「ああ、どうしよう!」とソーニャは叫んだ、「さあ早く、行きましょう……」
そう言って、彼女は自分のコートをつかんだ。
「年中同じことばかり!」とラスコーリニコフは苛々《いらいら》しながら叫んだ。「あなたの頭にはあの人たちのことしかないのですね! しばらくここにいてください」
「でも……カテリーナ・イワーノヴナは?」
「カテリーナ・イワーノヴナはあなたを見逃すはずがありませんよ、家をとび出した以上、ここへ来るにきまってますよ」と彼はいまいましそうにつけ加えた。「そのときここにいなかったら、なおさらわるいじゃありませんか……」
ソーニャはどうしていいかわからずに、胸を痛めながら椅子に腰を下ろした。ラスコーリニコフは黙って目を床へおとしたまま、何やら考えこんでいる様子だった。
「まあ、さっきはルージンがその気にならなかったからよかったが」と彼はソーニャのほうを見ないで、言った。「もし彼がその気になるか、あるいははずみでそれが彼の計算に入るかしていたら、彼はあなたを監獄にぶちこんでいたろうね、ぼくとレベジャートニコフがいあわせなかったら! そうじゃない?」
「そうですわ」と彼女は弱々しい声で言った、「そうですわ!」彼女はぼんやり不安そうにくりかえした。
「たしかに、ぼくは行かないかもしれなかった! レベジャートニコフにしても、来合せたのが、まったくの偶然だ」
ソーニャは黙っていた。
「で、監獄に入れられたら、どうなるだろう? 昨日ぼくが言ったことを、おぼえてますか?」
彼女はやはり答えなかった。ラスコーリニコフはしばらく待った。
「ぼくはまた、あなたが《ああ、そんなこと言わないで、やめて!》と叫ぶだろうと思いましたよ」ラスコーリニコフは笑いだしたが、なんとなくこわばった笑いだった。「どうしました、また黙りんぼですか?」と、一分ほどして、彼は聞いた。「何か話をすることがあるはずですがね! レベジャートニコフの言う一つの《問題》ですね、あれをいまあなたがどう解決するか、ぼくはぜひ知りたいんですよ(彼は頭が混乱しはじめたようだ)。いや、ほんとですよ、ぼくはまじめなんです。考えてごらん、ソーニャ、あなたがもしまえもってルージンのたくらみをすっかり知っていたとしたら、そのたくらみのためにカテリーナ・イワーノヴナも、子供たちも、それにあなたも加えて(あなたは決して自分のことを考えないから、加えて《・・・》とわざわざことわりますが)、完全に破滅させられることを、知っていた(つまり確実にですよ)としたら、どうだろう。ポーレチカもですよ……あの娘もやはり同じ道をたどることになるでしょうからね。さあ、いいですか、こうしたすべてのことがいま突然あなたの決定に委《ゆだ》ねられたとしたら、つまり彼と彼女らといずれがこの世に生きるべきか、つまりルージンが生きて、いまわしい行為をすべきか、あるいはカテリーナ・イワーノヴナが死ぬべきか? を決めるとしたら、あなたはどちらを死なせます?それをぼくは聞きたいんです」
ソーニャは不安そうに彼を見た。このあいまいな、遠まわしにそっと何かに近づいてくるような言葉の中に、彼女は何か特別なふくみがあるような気がした。
「あなたが何かそんなことを聞くことは、わたしもう予感してましたわ」と彼女はさぐるような目で彼を見まもりながら、言った。
「そうですか。まあいいでしょう。ところで、どちらに決めたいと思います?」
「できないことを、どうしてあなたは聞きますの?」とソーニャはうらめしそうに言った。
「と言いますと、ルージンが生きて、いまわしいことをするほうがいいというわけですね! あなたはそれも決める勇気がないんですか?」
「だってわたし神さまの御意《みこころ》を知ることはできませんもの……いったいどうしてあなたは、聞いてはいけないことを聞きますの? どうしてそんなつまらない質問をなさいますの?それがわたしの決定しだいだなんて、それはどうしてですの? 誰がわたしを裁判官にしましたの、誰は生きろ、誰は死ねなんて?」
「神の御意《みこころ》なんてものがまぎれこんできたんでは、もうどうにもなりませんな」とラスコーリニコフは憂鬱《ゆううつ》そうに呟《つぶや》いた。
「ひと思いにはっきり言ってください、あなたは何をお望みなの!」とソーニャは苦しそうに叫んだ。「あなたはまた何かに誘導しようとしてるんだわ……あなたは、ただわたしを苦しめに、いらしたの!」
彼女はこらえきれなくなって、不意にさめざめと泣きだした。暗い憂《うれ》いにしずんだ目で、彼はそれを見つめていた。五分ほどすぎた。
「たしかに、きみの言うとおりだよ、ソーニャ」やがて彼はしずかに言った。急に態度が変って、不自然なふてぶてしさも、負け犬が遠くから吠《ほ》えたてるような調子も、消えてしまった。声まで急に弱々しくなった。「ぼくは昨日自分できみに、許しを請《こ》いに来るんじゃない、とことわっておきながら、もうはじめから許しを請うているようなものだ……ルージンのことも、御意《みこころ》のことも、ぼくは自分のために言ったんだよ……これはぼくが許しを請うたんだよ、ソーニャ……」
彼は笑おうとした、しかしそのいじけた微笑には何か力ない、言いたりないものが見えた。彼はうなだれて、顔を両手でおおった。
すると不意に、奇妙な、思いがけぬ、ソーニャに対するはげしい嫌《けん》悪《お》感《かん》が、彼の心をよぎった。彼は自分でもこの感情にはっとして、おどろいたように、不意に顔を上げて、じっと彼女を凝視した。すると彼の目は、自分に注がれている不安そうな、痛々しいまでに心をくだいている彼女の視線に出会った。そこには愛があった。彼の嫌悪はまぼろしのように消えてしまった。あれはそうではなかった。彼は感情を思いちがいしたのだった。あれはただ、あの《・・》瞬間が来たことを意味したにすぎなかったのだ。
彼はまた両手で顔をおおって、うなだれた。彼は不意にさっと蒼《あお》ざめた。そして椅子から立ちあがると、ソーニャを見つめて、何も言わずに、機械的に彼女のベッドに坐《すわ》りかえた。
この瞬間は、彼の感覚の中では、老婆の背後に立って、輪から斧《おの》をはずし、もう《一瞬の猶《ゆう》予《よ》ならぬ》と感じたあの瞬間に、おそろしいほど似ていた。
「どうなさったの?」とソーニャはすっかり恐《こわ》くなって、尋ねた。
彼は何も言うことができなかった。彼はこんなふうに宣言《・・》することになろうとは、ぜんぜん、夢にも思っていなかったので、いま自分がどうなったのか、自分でもわからなかった。彼女はそっと近よって、彼のそばに坐り、彼から目をはなさないで、じっと待っていた。胸がどきどきして、じーんとしびれた。彼女はもう堪えられなくなった。彼は死人のように真《ま》っ蒼《さお》な顔を彼女のほうへ向けた。唇《くちびる》が何か言おうとして、力なくゆがんだ。恐怖がソーニャの心を通りすぎた。
「どうなさったの?」と、彼女はわずかに身をひきながら、くりかえした。
「なんでもないよ、ソーニャ。恐がらなくていいんだよ……つまらんことだ! 嘘《うそ》じゃない、よく考えれば、――つまらんことさ」と彼は夢遊病者のように呟いた。「どうしてぼくは、きみだけを苦しめに来たんだろう?」彼女を見つめながら、不意に彼はこうつけ加えた。「ほんとに。どうしてだろう? ぼくはたえず自分に問いかけているんだよ、ソーニャ……」
彼は十五分まえにはこう自分に問いかけたかもしれないが、いまはすっかり力がぬけてしまって、全身にたえまないふるえを感じながら、ほとんど無意識にしゃべっていた。
「まあ、ずいぶん苦しんでいらっしゃるのねえ!」彼女は彼をしげしげと見まもりながら、痛ましそうに言った。
「みんなつまらんことだよ!……ところで、ソーニャ、(彼はどういうわけか不意に、妙にいじけたように力なく、二秒ほどにやりと笑った)おぼえてるかい、昨日きみに言おうとしたことを?」
ソーニャは不安そうに待った。
「ぼくは昨日別れしなに言ったろう、もしかしたら、もうこれっきり会えないかもしれん、で、もしも今日来るようなことがあったら、きみに……誰がリザヴェータを殺したか、おしえてやるって」
彼女は急に身体中《からだじゅう》ががくがくふるえだした。
「だから、それを言いに来たんだよ」
「じゃ、昨日言ったのはほんとでしたのね……」と彼女はやっとささやくように言った。「いったいどうして、あなたはそれを知ってるの?」彼女ははっと気がついたように、急いで尋ねた。
「知ってるんだよ」
彼女は一分ほど黙っていた。
「見つけた、の、そのひと《・・・・》を?」と彼女はおそるおそる尋ねた。
「いや、見つけたのではない」
「じゃ、どうしてあなたはそれ《・・》を知ってるの?」と彼女はまた聞きとれないほどの低声《こごえ》で尋ねた、それもまた一分ほどの沈黙の後だった。
彼は彼女を振り向いて、射抜くような目でじいっとその顔を見つめた。
「あててごらん」と彼は先ほどのゆがんだ力ないうす笑いをうかべながら、言った。
痙攣《けいれん》が彼女の全身を走りぬけたかに見えた。
「まあ、あなたったら……わたしを……どうしてそんなに……おどかすの?」彼女は幼な子のように、無心に笑いながら、言った。
「つまり、ぼくはその男《・》の親しい友人だということになるわけだ……知っているとすればね」ラスコーリニコフはもう目をそらすことができないように、執拗《しつよう》に彼女の顔に目をすえたまま、話をつづけた。「その男はリザヴェータを……殺す気はなかった……老婆が一人きりのときをねらって……行った……ところがそこへリザヴェータがもどって来た……男はそこで……彼女も殺したんだ」
さらにおそろしい一分がすぎた。二人はじっと目を見あったままだった。
「これでもわからないかね?」と彼は不意に、鐘楼からとび下りるような気持で、尋ねた。
「い、いいえ」とほとんど聞きとれぬほどにソーニャはささやいた。
「ようく見てごらん」
そう言ったとたんに、また先ほどのあの感覚が、不意に彼の心を凍らせた。彼はソーニャを見た、そして不意にその顔にリザヴェータの顔を見たような気がした。彼はあのときのリザヴェータの顔の表情をまざまざと思い出した。彼が斧を構えてにじりよったとき、彼女は片手をまえにつき出して、壁のほうへ後退《あとずさ》りながら、まるで子供のような恐怖を顔にうかべて、彼におびえた目を見はったのだった。それはちょうど小さな子供が急に何かにおびえたとき、じっと不安そうにおびえさせたものに目を見はりながら、いまにも泣き出しそうになって、小さな手をつき出して相手を近づけまいとしながら後退る、あの様子にそっくりだった。ほとんどそれと同じ状態がいまのソーニャにも起った。やはりさからう力もなく、やはり恐怖の表情をうかべて、彼女はしばらく彼を見つめていたが、不意に、左手をまえにつき出して、指をわずかに相手の胸にふれながら、ゆっくりベッドから立ちあがり、すこしずつ身をそらし、相手にすえつけた目はしだいにすわってきた。彼女の恐怖が不意にラスコーリニコフにもつたわった。まったく同じような恐怖が彼の顔にもあらわれ、同じようにソーニャの顔に目をすえはじめた。その顔には同じような子供っぽい《・・・・・》微笑さえうかんでいた。
「わかったかね?」と、彼はとうとう囁《ささや》くように言った。
「ああ!」という悲痛な叫びが彼女の胸からほとばしった。
彼女はへたへたとベッドに倒れ、枕《まくら》に顔を埋《うず》めた。が、つぎの瞬間、がばと身を起すと、急いで彼のそばへにじりより、彼の両手をつかんで、細いしなやかな指でかたくかたくにぎりしめながら、またじっと瞳《ひとみ》をこらして、彼の顔を見つめはじめた。この最後の必死のまなざしで、彼女はせめて何か希望らしいものをつかみとろうとしたのだった。しかし希望はなかった。もう疑う余地はぜんぜんなかった。すべてはそのとおり《・・・・・》だった。彼女はあとになって、このときのことを思い出したとき、どうしてあのときとっさに《・・・・》、もう何の疑いもないと見ぬいたのか、不思議な気さえしたほどである。たしかに、何かしらそうした結果を予感していたとは、彼女には言えなかったはずだ! ところが、彼がそれを言ったとき、とっさに、彼女は実際にそれ《・・》を予感していたような気がしたのだった。
「もういいよ、ソーニャ、たくさんだよ! ぼくを苦しめないでくれ!」と彼は苦しそうにたのんだ。
彼はこんなふうに彼女に打ち明けようとは、まったく考えていなかったが、こういう結果《・・・・・・》になってしまった。
彼女は自分が何をしているのかわからないらしく、いきなりベッドからとび下りると、両手をもみしだきながら、部屋の中ほどまで歩いて行った。が、すぐにそそくさともどって来て、また彼のそばに、ほとんど肩をふれあわせるばかりに坐った。不意に彼女は、何かに刺しつらぬかれたように、びくッとふるえて、あッと叫ぶと、自分でもなんのためかわからずに、いきなり彼のまえにひざまずいた。
「どうしてあなたは、どうしてあなたはそんな自分をだめにするようなことをしたの!」と絶望的に言うと、彼女は立ちあがって、いきなり彼の首にすがりつき、両手でかたくかたく抱きしめた。
ラスコーリニコフは思わずうしろへよろけて、さびしく笑いながら彼女を見た。
「きみも妙な女だねえ、ソーニャ。ぼくがあ《・》のこと《・・・》を言ったら、急に抱きついて、接吻《せっぷん》するなんて。きみは自分で何をしているかわからないんだよ」
「いいえ、いまはあなたより不幸な人は世界中にいませんわ!」彼女は彼の言葉には耳もかさずに、気が狂ったように叫んだ、そして急に、ヒステリックに泣きだした。
もういつからか忘れていた感情が、波のようにおしよせて、たちまち彼の心をやわらげた。彼はそれにさからわなかった。涙が二粒彼の目からこぼれでて、睫毛《まつげ》にたれ下がった。
「じゃ、ぼくを見すてないでくれるね、ソーニャ?」と彼はすがるような気持で彼女を見まもりながら、言った。
「ええ、ええ、いつまでも、どこまでも!」とソーニャは叫んだ。「あなたについて行くわ、どこへでも! ああ、神さま!……わたしはどこまで不幸なのでしょう!……どうして、どうしてもっと早くあなたを知らなかったのかしら! どうしてあなたはもっと早く来てくださらなかったの! ああ、悲しい!」
「だから、来たじゃないか」
「いま頃《ごろ》! ああ、いまさらどうしよう!……いっしょに、いっしょに!」彼女はわれを忘れたようにこうくりかえすと、また彼を抱きしめた。「流《る》刑《けい》地《ち》へだってあなたといっしょに行くわ!」
彼は不意にぎくっとした。先ほどのにくにくしげな、ほとんど傲慢《ごうまん》といえるようなうす笑いが、彼の唇にあらわれた。
「ぼくはね、ソーニャ、まだ流刑地へ行く気はないらしいよ」と彼は言った。
ソーニャは急いで彼を見た。
不幸な男に対する最初のはげしい苦しい同情がすぎると、またしても殺人という恐ろしい考えが彼女をおびやかした。彼の一変した語調に、彼女は不意に殺人者の声を聞いた。彼女ははッとして彼を見た。なぜ、どんなふうに、なんのためにそんなことが行われたのか、彼女にはまだ何もわからなかった。いまそうした疑問が一時に彼女の意識に燃え上がった。すると、またしても彼女には信じられなくなった。《この人が、この人が人殺しだなんて! そんなことが考えられるだろうか?》
「まあ、どうしたのかしら! こんなところにぼんやり突っ立って!」と彼女はまだわれにかえれないらしく、不思議そうにつぶやいた、「どうしてあなたは、あなたは、そんな《・・・》……ことを……する気になれたの?……いったいどうしたというの!」
「そりゃまあ、盗むためさ。よそうよ、ソーニャ!」と彼はなんとなくだるそうに、苛々したような様子をさえ見せて、言った。
ソーニャは呆気《あっけ》にとられたようにぼんやり立っていたが、とつぜん叫んだ。
「あんたは飢えていたんだわ! あんたは……お母さんを助けるために? そうだわね?」
「ちがう、ソーニャ、ちがうよ」と彼は顔をそむけ、うなだれて、呟いた。「ぼくはそんなに飢えていなかった……ぼくはたしかに母を助けようと思った、だが……それだって、完全にそうとばかりも言えないんだ……ぼくを苦しめないでくれ、ソーニャ!」
ソーニャはあきれたように両手を打ちあわせた。
「でも、まさか、まさか、そんなことがほんとだなんて! おどろいた、そんなほんとってあるかしら! 誰がそんなことを信じられて?……いったいどうして、どうして、最後のものまで人にくれてやるようなあなたが、盗むために人が殺せて! あッ!」と彼女はとつぜん叫んだ。「カテリーナ・イワーノヴナにやったあのお金……あのお金は……おお、まさかあのお金が……」
「ちがう、ソーニャ」と彼は急いでさえぎった。「あのお金はちがうよ、安心したまえ!あのお金は母が送ってくれたんだよ、ある商人を通じて、ぼくは病気でねているときに受け取ったんだ、くれてやったあの日だよ……ラズミーヒンが見ていた……彼がぼくの代りに受け取ったんだから……あのお金はぼくのだよ、ぼくのものだよ、まちがいなくぼくのものだよ」
ソーニャは怪しむようにそれを聞きながら、しきりに何やら考えをまとめようと苦しんでいた。
「で、その《・・》金だが……しかも、あの中に金があったかどうかさえ、ぼくは知らないのだが」と彼は考えこむように、しずかにつけ加えた。「ぼくはあのとき婆《ばあ》さんの首から財布をはずした、鹿皮《しかがわ》の……ぎっしりつまった財布だった……うん、ぼくは中を見もしなかった。きっと、見るひまがなかったのだろう……それから、品物は、カフスボタンや鎖みたいなものばかりだったが――品物も財布も全部いっしょに、V通りのある家の庭の石の下に埋めたんだ、つぎの朝……いまでもそこにあるはずだよ……」
ソーニャは熱心に聞いていた。
「だって、それじゃどうして……盗むためだなんて言ったくせに、何もとらなかったじゃないの?」と、わらにもすがる思いで、彼女は急いで尋ねた。
「それはわからんよ……その金をとるか、とらんか――まだ決めていないんだよ」と彼はまた考えこむように、呟いた、そして不意に気がついて、あわてて短く笑った。「チエッ、ぼくはなんてばかなことを言ったんだろう、ねえ?」
ソーニャはちらと考えた。《この人は気がへんなのではないかしら?》しかし、彼女はすぐにそれを打ち消した。いや、何か別なものがある。なんのことやら、ソーニャはぜんぜんわからなかった!
「ねえ、ソーニャ」と不意に彼はあるひらめきを受けたらしく、急いで言った。「わかるかい、もしぼくが飢えていたために、ただそれだけの理由で殺したとしたら」彼は一語一語に力をこめ、謎《なぞ》めいた、しかし真剣な目で彼女を見つめながら、言葉をつづけた。「ぼくはいま……幸福《・・》だったろう! これをわかってくれ!」
「だが、きみにはどうにもならん、どうにもならんよ」とすぐに彼は絶望にうちのめされたように叫んだ。「おれがいま、わるいことをしたと告白したところが、それがきみに何なのだ? おれに対するこの愚かしい勝利が、きみに何なのだ? ああ、ソーニャ、おれはこんなことのために、きみのところへ来たのだろうか!」
ソーニャはまた何か言おうとしたが、やはり黙っていた。
「ぼくが昨日きみにいっしょに行ってくれと頼んだのは、きみだけがぼくに残されたたったひとつのものだからだよ」
「どこへ行くんですの?」とソーニャはこわごわ尋ねた。
「盗みも、殺しもしないよ、それは心配せんでもいいよ」彼は皮肉なうす笑いをもらした。「ぼくたちは別々な人間だ……ねえ、ソーニャ、ぼくはいまになってはじめて、いまやっとわかったんだよ、昨日きみをどこへ《・・・》連れて行こうとしたのか? 昨日、きみを誘ったときは、まだ自分でもどこへ行くのかわからなかった。きみに見すてられたくない、ただその一心できみを誘い、ただその一心でここへ来たんだ。ぼくを見すてないね、ソーニャ?」
ソーニャはラスコーリニコフの手を強くにぎりしめた。
「でも、なんのためにおれは、なんのためにこの女に言ったんだ、なんのためにこの女に打ち明けたんだ!」一分ほどすると、限りない苦悩にぬれた目で彼女を見まもりながら、彼は絶望的に叫んだ。「いまきみは、ぼくの説明を待っているんだね、ソーニャ、じっと坐って、待っているんだね、ぼくにはそれがわかるよ、だが、ぼくは何を言ったらいいんだ? 説明したって、きみには何もわかるまい、ただ苦しむだけだ、苦しみぬくだけだ……ぼくのために! ほら、きみは泣いてるね、まだぼくを抱きしめてくれる。――ねえ、きみはどうしてぼくを抱きしめてくれるんだ?ぼくが一人で堪えきれないで、《きみに苦しんでくれ、そうすればぼくも楽になる!》なんて虫のいいことを考えて、苦しみをわかつために来たからか。え、きみはそんな卑劣な男を愛せるのか?」
「だって、あなただって苦しんでるじゃありませんか?」とソーニャは叫んだ。
またあの感情が波のようにおしよせて、また彼の心を一瞬やわらげた。
「ソーニャ、ぼくはずるい心があるんだよ。それを頭においてごらん、いろんなことがそれでわかるから。ぼくがここへ来たのも、ずるいからだよ。こうなっても、来《こ》ない人々だっているよ。だがぼくは憶病《おくびょう》で……卑怯《ひきょう》な男なんだ! でも……そんなことはどうでもいい! そんなことじゃないんだ……ここまでくれば、話さなくちゃならんのだが、うまく言い出せない……」
彼は言葉をきって、考えこんだ。
「ええッ、ぼくたちは別々な人間なんだ!」と彼はまた叫んだ。「どうしたっていっしょにはなれやしない。それなのにどうして、どうしておれは来たんだ! これはぜったい許せない!」
「いいえ、いいえ、来てくだすったのは、いいことですわ!」とソーニャは叫んだ。「わたしが知ってたほうが、いいのよ! ずっといいのよ!」
彼は苦しそうにソーニャを見た。
「だが、ほんとに、それがどうだというのだ!」と、考えつかれたように、彼は言った。「どうせこうなるはずだったんだ! じゃ言おう、ぼくはナポレオンになろうと思った、だから殺したんだ……さあ、これでわかったかい?」
「う、うん」とソーニャは無邪気に、びくびくしながら囁いた。「でもいいの……話して、話して! わかるわ、わたしなりに《・・・・・・》考えるから!」と彼女は一心に頼んだ。
「わかるって? そう、まあいいよ、どの程度にわかるか!」
彼は黙りこんで、ややしばらく考えをまとめていた。
「実は、あるときぼくはこう考えてみた。かりにナポレオンがぼくの立場にあって、しかも栄達の一歩を踏み出すために、ツーロンも、エジプトも、モンブラン越えもなく、そうした輝かしい不滅の偉業の代りに、そこらにごろごろしているようなばかげた婆さん一人しかいない、十四等官の後家婆さん、しかもその婆さんの長持から金を盗み出すために(身を立てるためだよ、わかるかい?)、どうしても殺さなければならない、しかも他《ほか》に道はない、としたらだ、彼はその決心をするだろうか? これは偉業とはあまりにも程遠いし、しかも……罪悪だ、という理由で、二の足を踏みはしないだろうか? で、きみに言うが、ぼくはこの《問題》にずいぶん長いあいだ苦しみぬいたんだ。だから、ふとしたはずみに、彼はそんなことにためらいなど感じないどころか、それが偉業であるとかないとか、そんなことは考えもすまい……何をためらうのか、ぜんぜんわかりもしないだろう、とさとったとき、ぼくはたまらなく恥ずかしくなった。もし彼に他の道がなかったら、つまらんことはいっさい考えずに、あっという間もあたえないで、いきなり絞め殺してしまったにちがいない!……ところがぼくは……考えぬいた末……絞め殺した……権威者の例にならって……結果はまったく同じことになったが! きみは笑ってるね? おかしいだろうさ、でもソーニャ、ここで何よりもおかしいのは、きっと、結果は同じことになったということだよ……」
ソーニャはおかしいどころではなかった。
「それより、はっきりおっしゃってください……例えばなんてぬきにして」と彼女はますますびくびくして、やっと聞えるくらいに頼んだ。
彼はソーニャのほうを向いて、暗い目でその顔を見つめ、その両手をとった。
「またしても、きみの言うとおりだよ、ソーニャ。こんなことは、たしかにばかげたことだ。まあ、口先だけのあそびだよ! ところで、きみも知ってるだろうが、ぼくの母は財産らしいものはほとんど何もない。妹は偶然に教育を受けたので、家庭教師をするようなことになった。二人のすべての希望はぼく一人にかかっていた。ぼくは大学に学んだが、学資がつづかなくなって、やむなく一時学校をはなれた。あのままつづけられさえすれば、十年か十二年後には(事情がよくなってくれればだが)ぼくはとにかく俸給《ほうきゅう》千ルーブリくらいの教師か官吏になる望みはもてたはずだ……(彼は暗誦《あんしょう》しているようにすらすらと言った)、しかしそれまでには母は気苦労やら悲しみやらで老いさらばえてしまうだろうし、やはり母を安心させることはできそうもない。じゃ妹は……いや、妹はもっとひどいことになるかもしれない!……とすると、何を好きこのんでぼくは、一生すべてのものに顔をそむけて、すべてのもののそばを素通りし、母を忘れ、妹の屈辱をおとなしく忍ばなければならんのだ? 何のために? 母と妹を葬《ほうむ》って、新しいもの――妻をめとり、子供をもうけ、やがてはそれも一文の金も、一きれのパンもない状態でこの世に置き去りにするためか? そこで……そこで、ぼくは決意したんだよ、あの婆さんの金を手に入れて、ここ何年間かのぼくの生活に当てよう、そうすれば母を苦しめずに、安心して大学に学べるし、大学を出てからも第一歩を踏み出す資金になる――これを広く、ラジカルにやってのけ、完全に新しい形の立身の基礎をきずき、新しい、独立自尊の道に立とう……まあ……まあ、こういうわけさ……そりゃ、ぼくは老婆を殺した――それは悪いことにちがいない――でも、もうよそうよ!」
彼はなんとなくものうげな様子で、話のおわりまでたどりつくと、がっくりとうなだれた。
「おお、それはちがいますわ、ちがいます」とソーニャは涙のにじんだ声で身もだえしながら叫んだ。「そんなことってあるもんですか……いいえ、それはちがいます、ちがいます!」
「ちがうって、きみがそう思うだけさ!……だがぼくは、真剣に話したんだよ、真実を!」
「まあ、そんな真実ってあるもんですか! おお、神さま!」
「ぼくはしらみをつぶしただけなんだよ、ソーニャ、なんの益もない、いやらしい、害毒を流すしらみを」
「まあ、人間をしらみだなんて!」
「そりゃぼくだって、しらみじゃないくらい知ってるさ」と彼は異様な目つきで彼女を見ながら、答えた。「ところで、いまのは嘘《うそ》だよ、ソーニャ」と彼はつけ加えた。「ぼくはもういつからか嘘ばかりついているんだよ……いま言ったのは全部嘘だよ、きみの言うとおりだ。ぜんぜん、ぜんぜん、ぜんぜん別な理由があるんだよ!……もう長いこと、誰とも話をしなかったので、ソーニャ……ぼくはいま頭が割れそうに痛いんだ」
彼の目は熱にうかされたようにぎらぎら燃えていた。頭はもう熱で犯されかけていた。落ち着かないうす笑いが唇の上をさまよっていた。たかぶった気持のかげからもうおそろしい無気力が顔を出しかけていた。ソーニャには彼が苦しんでいるのがわかった。彼女も頭がくらくらしかけていた。彼があんなことを言ったのが、不思議な気がした。何かわかったような気がしたが、でも……《どうしてそんなことが! とても考えられない! ああ、神さま!》彼女は絶望のあまり両手をもみしだいた。
「いや、ソーニャ、あれはそうじゃないんだよ!」と彼は、自分でも思いがけぬ考えの変化におどろいて、また心がたかぶってきたように、急に顔を上げて、またしゃべりだした。
「そうじゃないんだよ! それよりも……こう考えてごらん。(そうだ! たしかにそのほうがいい!)つまり、ぼくという男は自《うぬ》惚《ぼ》れが強く、ねたみ深く、根性がねじけて、卑怯で、執念深く、そのうえ……さらに、発狂のおそれがある、まあそう考えるんだね。(もうこうなったらかまうものか、ひと思いにすっかりぶちまけてやれ! 発狂のことはまえにも噂《うわさ》になっていた、おれは気付いていたんだ!)さっき、学資がつづかなかったって、きみに言ったね。ところが、やってゆけたかもしれないんだよ。大学に納める金は、母が送ってくれたろうし、はくものや、着るものや、パン代くらいは、ぼくが自分で稼《かせ》げたろうからね。ほんとだよ! 家庭教師に行けば、一回で五十コペイカになったんだ。ラズミーヒンだってやっている! それをぼくは、意地になって、やろうとしなかったんだ。たしかに意地になって《・・・・・・》いた。(これはうまい表現だ!)そしてぼくは、まるで蜘蛛《くも》みたいに、自分の巣にかくれてしまった。きみはぼくの穴ぐらへ来たから、見ただろう……ねえ、ソーニャ、きみもわかるだろうけど、低い天《てん》井《じょう》とせまい部屋は魂と頭脳を圧迫するものだよ! ああ、ぼくはどんなにあの穴ぐらを憎んだことか! でもやっぱり、出る気にはなれなかった。わざと出ようとしなかったんだ! 何日も何日も外へ出なかった、働きたくなかった、食う気さえ起きなかった、ただ寝てばかりいた。ナスターシヤが持って来てくれれば――食うし、持って来てくれなければ――そのまま一日中ねている。わざと意地をはって頼みもしなかった! 夜はあかりがないから、暗闇《くらやみ》の中に寝ている、ろうそくを買う金を稼ごうともしない。勉強をしなければならないのに、本は売りとばしてしまった。机の上は原稿にもノートにも、いまじゃ埃《ほこり》が一センチほどもつもっている。ぼくはむしろねころがって、考えているほうが好きだった。だから考えてばかりいた……そしてのべつ夢ばかり見ていた、さまざまな、おかしな夢だ。どんなって、言ってもしようがないよ! ところが、その頃《ころ》からようやくぼくの頭にちらつきだしたんだ、その……いや、そうじゃない! ぼくはまたでたらめを言いだした! 実はね、その頃ぼくはたえず自分に尋ねていたんだ、どうしてぼくはこんなにばかなんだろう、もし他の人々がばかで、そのばかなことがはっきりわかっていたら、どうして自分だけでももっと利口になろうとしないのだ?そのうちにぼくはね、ソーニャ、みんなが利口になるのを待っていたら、いつのことになるかわからない、ということがわかったんだ……それから更にぼくはさとった、ぜったいにそんなことにはなりっこない、人間は変るものじゃないし、誰も人間を作り変えることはできない、そんなことに労力を費やすのはむだなことだ、とね。そう、それはそうだよ! これが彼らの法則なんだ……法則なんだよ、ソーニャ! そうなんだよ!……それでぼくはわかったんだ、頭脳と精神の強固な者が、彼らの上に立つ支配者となる! 多くのことを実行する勇気のある者が、彼らの間では正しい人間なのだ。より多くのものを蔑《べっ》視《し》することのできる者が、彼らの立法者であり、誰よりも実行力のある者が、誰よりも正しいのだ! これまでもそうだったし、これからもそうなのだ! それが見えないのは盲者だけだ!」
ラスコーリニコフはそう言いながら、ソーニャの顔を見てはいたが、彼女にわかるかどうかということは、もう気にしなかった。はげしい興奮がすっかり彼をとらえてしまった。彼は暗いよろこびというようなものにひたっていた。(実際に、あまりにも長いあいだ彼は誰とも話をしなかった!)ソーニャは、この暗い信条が彼の信念になり、法則になっていることをさとった。
「そこでぼくはさとったんだよ、ソーニャ」と彼は有頂天になってつづけた。「権力というものは、身を屈《かが》めてそれをとる勇気のある者にのみあたえられる、とね。そのために必要なことはただ一つ、勇敢に実行するということだけだ! そのときぼくの頭に一つの考えが浮んだ、生れてはじめてだ、しかもそれはぼくのまえには誰一人一度も考えなかったものだ! 誰一人! 不意にぼくは、太陽のようにはっきりと思い浮べた、どうしていままでただの一人も、こうしたあらゆる不合理の横を通りすぎながら、ちょいとしっぽをつまんでどこかへ投げすてるという簡単なことを、実行する勇気がなかったのだろう! いまだってそうだ、一人もいやしない! ぼくは……ぼくは敢然《・・》とそれを実行しようと思った、そして殺した……ぼくは敢行しようと思っただけだよ、ソーニャ、これが理由のすべてだよ!」
「ああ、やめて、やめて!」と両手を打ちあわせて、ソーニャは叫んだ。「あなたは神さまのおそばをはなれたのです、神さまがあなたを突きはなして、悪魔に渡したのです!……」
「これはね、ソーニャ、ぼくが暗闇の中にねそべっていたとき、たえず頭に浮んだことなんだよ、してみるとこれは、悪魔がぼくを迷わせていたのかな? え?」
「やめて! ふざけるのはよして。あなたは神を冒涜《ぼうとく》する人です、あなたは何も、何もわかっちゃいないのです! おお、神さま! この人は何も、何もわからないのです!」
「お黙り、ソーニャ、ぼくはぜんぜんふざけてなんかいないよ、ぼくだって、悪魔にまどわされたくらいは知ってるよ。お黙り、ソーニャ、お黙り!」と彼は憂欝《ゆううつ》そうにしつこくくりかえした。「ぼくはすっかり知ってるんだよ。そんなことはもう暗闇の中に寝ていたとき、何度となく考えて、自分に囁きかけたことなんだ……それはみな、ごく些《さ》細《さい》なことまで、ぼくの中の二つの声がもうさんざん議論したことなんだよ、だからすっかり知ってるんだよ、すっかり! そのときにもうこんなおしゃべりはあきあきしてしまったんだ、もううんざりしてしまったんだよ! ぼくはすっかり忘れようと思った、そして新しくスタートしたかった。おしゃべりをやめたかった! ソーニャ、きみはぼくがばかみたいに、向う見ずにやったと思うのかい? とんでもない、ぼくはちゃんと考えてやったんだよ。そしてそれがぼくを破滅させてしまったのだ! また、ぼくが、権力をもつ資格が自分にあるだろうか、と何度となく自問したということは、つまりぼくには権力をもつ資格がないことだ、ということくらいぼくが知らなかった、とでも思うのかい? また、人間がしらみか? なんて疑問をもつのは――つまり、ぼくにとっては《・・・・・・・》、人間はしらみではないということで、そんなことは頭に浮ばず、つべこべ言わずに一直線に進む者にとってのみ、人間がしらみなのだということくらい、ぼくが知らなかったと思うのかい? ナポレオンならやっただろうか? なんてあんなに何日も頭を痛めたということは、つまり、ぼくがナポレオンじゃないということを、はっきりと感じていたからなんだよ……こうしたおしゃべりのすべての苦しみ、いっさいの苦しみに、ぼくは堪えてきたんだよ、ソーニャ、もうそうした苦しみはすっかり肩からはらいのけたくなったんだよ! ぼくはね、ソーニャ、詭《き》弁《べん》を弄《ろう》さないで殺そうと思った、自分のために、自分一人だけのために殺そうと思ったんだ! このことでは自分にさえ嘘《うそ》をつきたくなかった! 母を助けるために、ぼくは殺したのじゃない――ばかな! 手段と権力をにぎって、人類の恩人になるために、ぼくは殺したのではない。ばかばかしい! ぼくはただ殺したんだ。自分のために殺したんだ、自分一人だけのために。この先誰かの恩人になろうと、あるいは蜘蛛になって、巣にかかった獲物《えもの》をとらえ、その生血を吸うようになろうと、あのときは、ぼくにはどうでもよかったはずだ!……それに、ソーニャ、ぼくが殺したとき、ぼくにいちばん必要だったのは、金ではなかった。金よりも、他のものだった……それがいまのぼくにははっきりわかるんだ……ソーニャ、わかってくれ、ぼくは同じ道を歩んだとしても、おそらくもう二度と殺人はくりかえさないだろう。ぼくは他のことを知らなければならなかったのだ。他のことがぼくの手をつついたのだ。ぼくはあのとき知るべきだった、もっと早く知るべきだった、ぼくがみんなのようにしらみか、それとも人間か? ぼくは踏みこえることができるか、できないか! 身を屈めて、権力をにぎる勇気があるか、ないか? ぼくはふるえおののく虫けらか、それとも権利《・・》があるか……」
「殺す? 殺す権利があるというの?」
ソーニャは両手を打ちあわせた。
「ええッ、ソーニャ」と彼は苛々しながら叫んだ、そして何か言いかえそうとしかけたが、さげすむように口をつぐんだ。「話のじゃまをしないでくれよ、ソーニャ! ぼくはきみに一つだけ証明したかったんだ。つまり、悪魔のやつあのときぼくをそそのかしておいて、もうすんでしまってから、おまえはみんなと同じようなしらみだから、あそこへ行く資格はなかったのだ、とぼくに説明しやがったということさ! 悪魔のやつぼくを嘲笑《あざわら》いやがった、だからぼくはいまここへ来たんだ! お客にさ! もしぼくがしらみでなかったら、ここへ来ただろうか? いいね、あのとき婆さんのところへ行ったのは、ただ試す《・・》ために行っただけなんだ……それをわかってくれ!」
「そして殺したんでしょう! 殺したんでしょう!」
「で、どんなふうに殺したと思う? あんな殺し方ってあるものだろうか? あのときぼくがでかけて行ったように、あんなふうに殺しに行く者があるだろうか? どんなふうにぼくが出かけて行ったか、いつかきみに話してあげよう……果してぼくは婆さんを殺したんだろうか? ぼくは婆さんじゃなく、自分を殺したんだよ! あそこで一挙に、自分を殺してしまったんだ、永久に!……あの婆さんは悪魔が殺したんだ、ぼくじゃない……もうたくさんだ、たくさんだ、ソーニャ、よそうよ! ぼくをほっといてくれ!」彼は急にはげしいさびしさにおそわれて、叫んだ。「ほっといてくれ!」
彼は膝《ひざ》に両肘をついて、掌《てのひら》ではげしく頭をしめつけた。
「ああ、苦しいのねえ!」という痛々しそうな涙声がソーニャの口からもれた。
「さあ、言っておくれ、これからぼくはどうしたらいいんだ!」彼はとつぜん頭を上げて、絶望のあまりみにくくゆがんだ顔でソーニャを見ながら、尋ねた。
「どうすればいいって!」と叫ぶと、彼女はいきなり立ち上がった。いままで涙がいっぱいたまっていた目が、急にきらきら光りだした、「お立ちなさい! (彼女は彼の肩に手をかけた。彼は呆気《あっけ》にとられたように彼女に目を見はりながら、腰を上げた)。いますぐ外へ行って、十字路に立ち、ひざまずいて、あなたがけがした大地に接吻《せっぷん》しなさい、それから世界中の人々に対して、四方に向っておじぎをして、大声で《わたしが殺しました!》というのです。そしたら神さまがまたあなたに生命《いのち》を授けてくださるでしょう。行きますか? 行きますか?」彼女は発作でも起したように、全身をわなわなふるわせて、彼の両手をとってかたくかたくしめつけ、火のような目でじっと彼を見つめながら、尋ねた。
彼はびっくりした。ソーニャの思いがけぬ興奮にすっかり呑《の》まれてしまった。
「というと、それは流《る》刑《けい》のことかい、ソーニャ? 自首しろとでもいうのかい?」と彼は暗い声で聞いた。
「苦しみを受けて、自分の罪をつぐなう、それが必要なのです」
「いやだ! ぼくは行かないよ、ソーニャ」
「じゃ、どうして、どうして生きて行くつもりですの? 何を目あてに生きて行くつもりですの?」とソーニャは叫んだ。「そんなことがいまからできると思って? お母さんにどう話すつもり? (ああ、あの人たちは、あの人たちは、これからどうなるでしょう!)まあ、わたしは何を言ってるのかしら! あなたはもうお母さんとお妹さんをお捨てになったんだわ。そうよ、もう捨ててしまったのよ、捨てたのよ。ああ、どうしたらいいのかしら!」と彼女は叫んだ。「だって、この人はそんなことはすっかり承知なんですもの!でもどうして、どうして、一人だけで生きて行かれよう! あなたはこれからどうなるのでしょう!」
「子供みたいなことは言わんでくれ、ソーニャ」と彼はしずかに言った。「ぼくは彼らに対して何の罪があるのだ? なぜ行かにゃならんのだ? 彼らに何を言うのだ? そんなことは妄想《もうそう》にすぎんよ……彼らだって何百万という人々を死滅させて、しかもそれをりっぱな行為と考えているじゃないか。あんなやつらはずるがしこい卑怯者《ひきょうもの》だよ、ソーニャ!……行くものか。それになんと言うのだ、殺しましたが、金をとる勇気はなく、石の下にかくしましたとでも言うのかい?」と彼は刺すような皮肉なうす笑いを浮べながらつけ加えた。
「それこそやつらがぼくを嘲笑って、言うだろうさ。金をとらなかったとは、あきれたばかだ! 阿《あ》呆《ほう》な腰ぬけだと! やつらはなんにも、なんにもわからないんだよ、ソーニャ、わかるだけの力がないのさ。なんのために行かにゃならんのだ? ぼくは行かんよ。子供みたいなことは言わんでくれ、ソーニャ……」
「苦しむのよ、苦しむのよ」彼女は必死の祈りをこめて、彼のほうに両手をさしのべながら、こうくりかえした。
「ぼくは、また《・・》自分のことを悪《あ》しざまに言ったようだな」と彼は考えこんだような様子で、暗い声で言った。「ぼくはまだ《・・》人間かもしれん、しらみじゃない、自己非難を急ぎすぎたようだ……もう少し《・・・・》たたかってみよう」
傲慢《ごうまん》なうす笑いが彼の唇におしだされた。
「こんな苦しみを背負って生きて行くなんて、しかも一生、死ぬまで!」
「慣れるさ……」と彼は憂欝そうに考えこみながら、言った。「ねえ」と一分ほどして、彼は言った。「もう泣くのはおよしよ、そろそろ用件にかからなきゃ。ぼくがここへ来たのは、ぼくがいま手配中で、逮捕されかかっていることを、きみに知らせておこうと思って……」
「まあ!」とソーニャはびっくりして、思わず叫んだ。
「おや、どうしたんだい、そんな声を立てて! ぼくが流刑地へ行くのを、自分で望んでいながら、今度はびっくりするなんて? ただし、ぼくはやつらには降伏しないよ。まだまだたたかうよ、やつらにはどうしようもないんだ。決め手がないんだよ。昨日はひじょうに危なかった、もうだめかと思った。ところが今日になると事情が変った。やつらの証拠はどれもこれもあいまいなものばかりだ。ということはつまり、やつらの起訴理由をこっちの有利なように逆用することができるということだよ、わかるかい? もちろんするよ、だってもうおぼえちゃったんだよ……しかしおそらく未決にはぶちこまれるだろう。もしある偶然がなかったら、今日ぶちこまれたかもしれんのだ、それも確実にだ。しかし今日これからだってまだ《・・》わからない……でもなんでもないんだよ、ソーニャ、ちょっと入るだけで、釈放されるさ……だってやつらには決め手になる証拠が一つもないんだ。これからだって出て来はしないさ、断言するよ。ところが、やつらの持っているものだけでは、人間ひとりを投獄するわけにはゆかない。だが、もうよそうよ……ぼくはただきみに知ってもらいたかっただけなんだ……妹や母には、なんとかして、本気にしたりびっくりしたりしないようにするよ……それに、妹はいま、どうやら安定したようだし……そうなれば、母だって……まあ、こういうわけだよ。でも、用心しておくれよ。ぼくが未決に入れられるようなことになったら、面会に来てくれるかい?」
「ええ、行きますとも! 行きますとも!」
嵐《あらし》の後さびしい岸辺に打ち上げられたように、二人は肩をならべて、しょんぼりとさびしく坐っていた。彼はソーニャをじっと見つめていた、そして彼女がどんなに強く自分を愛していてくれるかを、しみじみと感じていた。すると不思議なことに、自分がこんなに愛されていることが、急に苦しい重荷になってきた。たしかに、それは不思議なおそろしい感覚だった! ソーニャのところへ来るとき、彼は彼女に自分のすべての希望と救いがあるような気がしていた。彼は自分の苦しみのほんの一部でもとりのぞいてもらおうと考えていた。ところがいま、彼女の心のすべてを向けられてみると、彼は不意にまえよりも比べものにならないほど不幸になったことを感じたし、はっきりと意識したのである。
「ソーニャ」と彼は言った。「ぼくが監獄に入ったら、会いに来てくれないほうがいいと思うよ」
ソーニャは答えなかった、泣いていた。何分かすぎた。
「あなた十字架を持ってます?」と彼女は急に思い出したように、だしぬけに尋ねた。
彼ははじめ問いの意味がわからなかった。
「ないのね、持ってないのね? じゃ、これをあげる、糸杉《いとすぎ》の木でつくったものよ。わたしもう一つあるから、銅の、リザヴェータからもらったの。わたしリザヴェータと十字架をとりかえっこしたのよ、あのひとはわたしに自分の十字架をくれ、わたしは小さなお守りの聖像をあげたの。わたしはこれからリザヴェータの十字架を肌《はだ》につけるわ、だからこれはあなたにあげる。さあどうぞ……わたしのじゃないの! わたしのなのよ!」と彼女は泣きそうに頼んだ。「ね、いっしょに苦しみを受けましょうね、いっしょに十字架をせおいましょうね!……」
「じゃ、おくれ!」とラスコーリニコフは言った。彼はソーニャを悲しませたくなかった。だが、彼は十字架を受け取ろうとしてのばした手をすぐに引っこめた。
「いまはよそう、ソーニャ。あとのほうがいいよ」と、彼女を安心させるために、彼はつけ加えた。
「そうね、そうね、そのほうがいいわね」と彼女はうっとりとして答えた。「苦しみを受けに行くとき、これを肌身につけるのよ。そのときはわたしのところへ来てね、わたしがかけてあげるから、そしていっしょにお祈りをして、行きましょう」
そのとき誰かがドアを三度ノックした。
「ソーフィヤ・セミョーノヴナ、入ってもいいですか?」と誰かのひどく聞きおぼえのある丁寧な声が聞えた。
ソーニャはぎょっとして戸口へとんで行った。レベジャートニコフの白っぽい顔が部屋の中をのぞいた。
5
レベジャートニコフはそわそわと落ち着かない様子だった。
「あなたに話したいことがあったものですから、ソーフィヤ・セミョーノヴナ。失礼しました……あなたがここにいられるだろうとは、思っていましたが」と彼は不意にラスコーリニコフのほうを向いて言った。「といって別に……へんな意味ではなく……ただそんな気がしたものですから……実はお宅でカテリーナ・イワーノヴナが発狂したのです」彼はラスコーリニコフをそのままにして、不意にソーニャにずばりと言った。
ソーニャはあッと叫んだ。
「はっきりそうだというのじゃありませんが、少なくとも、そう思われるのです! それに……ぼくらでは、どうしてよいかわからないものですから、それで知らせに来たわけです! あのひとはついいましがたもどって来たんですが、――どっかで追っぱらわれたようです、殴られたらしい様子も見えます……どう見てもそうらしいです……あのひとは長官のセミョーン・ザハールイチのところへかけこんだのですが、留守でした。長官はあるこれも将軍のところへ午《ご》餐《さん》に招《よ》ばれていたんです……ところがどうでしょう、彼女はすぐにそっちへ行ったんですよ……その別な将軍の家へです、そして、なんと、うるさくわめき立てて、長官を呼び出したんですよ、それもまだ食事の最中だったらしいですよ。どんなことになったか、想像がつくでしょう。もちろん、追っぱらわれました。彼女は自分が長官をどなりまくって、何かぶっつけたようなことを言ってますがね。それは大いにありそうなことですよ……でも、よくつかまらなかったですね、――ふしぎなくらいです! いま彼女はみんなにしゃべりまくっています、アマリヤ・イワーノヴナにも、ただわめいたり、あばれたりしてるんで、言ってることがよくわからないんですよ……あッ、そうそう、こんなことを叫んでましたよ、みんなに見すてられたから、子供たちを連れて、街へ出て、アコーデオンをひき、子供たちに歌ったり踊ったりさせ、自分も歌ったり踊ったりして、金を集めるんだ、そして毎日将軍の家の窓の下に立ってやるんだなんて……《官吏を父に持つ上品な子供たちが物《もの》乞《ご》いをして歩くさまを、見せてやるんだ》なんて。そして子供たちを殴りつける、子供たちは泣き出す。レーニャには《小さな村》の歌をおしえ、男の子たちには踊りをおしえる。ポーリナ・ミハイロヴナにも歌をおしえる、そして服を片っぱしから引き裂いて、芸人のかぶる帽子みたいなものをこしらえてみたり、楽器代りにたたくんだといって、金だらいを持ち出そうとしたり……何をいってもきかないんです……まったく、なんということでしょう? とてもこのままにしてはおけませんよ!」
レベジャートニコフはまだつづけようとしたが、ほとんど息を殺して聞いていたソーニャは、不意にコートと帽子をつかむと、走りながら袖《そで》を通して、部屋をとび出して行った。ラスコーリニコフはすぐにそのあとを追った。レベジャートニコフもラスコーリニコフにつづいた。
「たしかに発狂ですよ!」と彼は通りへ出ると、ラスコーリニコフに言った。「ぼくはただソーフィヤ・セミョーノヴナをびっくりさせまいと思って、《らしい》と言ったんですが、もう疑う余地はありません。肺病患者は、結核菌が脳にのぼることがあるそうですね。ぼくは残念ながら、医学のことははっきりわかりませんが。でも、なんとか説き伏せようとしてみたんですが、ぜんぜん耳に入らないらしいんです」
「あなたは結核菌のことを彼女に言ったんですか?」
「いや、そればかりでもありませんが。しかし何もわからなかったらしいですよ。でも、ぼくが言いたいのはですね、実際に何も泣く理由はないということを、論理的に納得させれば、人間は泣くことをやめるものだということですよ。それは明らかです。あなたはどう思います、泣くことをやめないと思いますか?」
「そう割り切れば、生きるのが楽でしょうね」とラスコーリニコフは答えた。
「いや、どうも。そりゃむろん、カテリーナ・イワーノヴナにはかなり理解がむずかしいでしょう、でもあなたならご存じと思いますが、パリではもう論理的説得のみによる精神病治療の可能性についての真剣な実験が行われているんですよ! ある教授が、この間死んだ有名な学者ですが、このような治療法が可能であると考えたわけです。その教授の考え方の基礎になっているのは、狂人の頭脳の組織には特別の障害があるのではない。精神錯乱とは、いわば論理的錯誤、判断の誤謬《ごびゅう》、ものに対する正しくない見方だということなのです。彼は一つずつ病人の言をくつがえしていって、おどろくじゃありませんか、ついにいい結果を得たというのです! しかしこの実験の際に、彼はシャワー療法を用いたので、この治療法の結果には、むろん、いくばくの疑問がのこされているわけですが……少なくともそう思われます……」
ラスコーリニコフはもう先ほどから聞いてはいなかった。彼は自分の家のまえまで来ると、レベジャートニコフに軽く会釈《えしゃく》をして、門の中へ折れた。レベジャートニコフははッと気がついて、あたりを見まわすと、あわてて走り去って行った。
ラスコーリニコフは自分の小さな部屋に入ると、その中ほどで足をとめた。《なんのためにここへもどって来たのだろう?》彼は黄色っぽいぼろぼろの壁紙、つもった埃《ほこり》、寝台代りのソファを見まわした……庭のほうからものを叩《たた》くような、鋭いたえまない音が聞えていた。どこかで釘《くぎ》でも打ち込んでいるらしい……彼は窓辺へ行って、爪先《つまさき》立《だ》ちにのびあがり、神経を極度にとぎすましたような様子で、長いこと庭の中を見まわしていた。しかし庭は人《ひと》気《け》がなく、釘を打っている男の姿は見えなかった。左手の脇《わき》屋《や》にいくつか開け放された窓が見えて、窓台にやせたゼラニウムの鉢《はち》がおいてあった。窓の外には洗濯《せんたく》ものが乾《ほ》してあった……こうした光景は彼はもうそらでおぼえていた。彼は窓のそばをはなれて、ソファに腰を下ろした。
これまで、彼がこれほど痛切に身の孤独を感じたことは、まだ一度もなかった!
そうだ、彼は、自分がほんとうにソーニャを憎んでいるのかもしれない、それも彼女をますます不幸にしたいまになって、ますますそうなのかもしれない、と改めて感じたのである。《なぜ彼女に泣いてもらいに行ったのか? なぜ彼女の生命をこれほどむしばまなければならないのか? おお、なんという卑《ひ》怯《きょう》なことだ!》
「おれは一人きりになろう!」と彼は不意にきっぱりと言った。「彼女は監獄に面会になど来はすまい!」
五分ほどすると彼は顔を上げて、にやりと異様なうす笑いをもらした。それはたしかに不思議な考えだった。《ひょっとしたら、ほんとうに監獄のほうがましかもしれん》――ふと彼はこう思ったのである。
ごちゃごちゃと群がり寄せてくるとりとめのない想念にひたったまま、どのくらい坐《すわ》っていたか、彼はわからなかった。不意にドアが開いて、アヴドーチヤ・ロマーノヴナが入ってきた。彼女はさっき彼がソーニャにしたように、先《ま》ず戸口に立ちどまって、じっと彼を見た。それから中へ入って来て、彼の向い合いの、昨日自分がかけた椅子《いす》に腰を下ろした。彼は黙って、気がぬけたようにぼんやり彼女を見た。
「怒らないでね、兄さん、ちょっと寄っただけなの」とドゥーニャは言った。彼女の顔の表情はうれいにしずんではいたが、きびしくはなかった。目は明るく、しずかだった。妹は愛情をもってここへ来たことを、彼は見てとった。
「兄さん、わたしはいまはもうすっかりわかりました、すっかり《・・・・》。ドミートリイ・プロコーフィチが何もかも詳しく話してくださいましたの。兄さんはばからしい、いまわしい嫌《けん》疑《ぎ》を受けて、苦しんでいるんですってねえ……ドミートリイ・プロコーフィチがわたしに言いましたわ、なんにも危ないことなんかない、兄さんはただそれをひどく恐ろしく考えているだけだって。わたしはそうは思いません、そうしたことが兄さんをどれほど怒らせ、そしてそのはげしい怒りが兄さんの胸に永久に消えないあとをのこすかもしれないことが、わたしにはよくわかる《・・・・・》んですもの。それがわたしには恐《こわ》いんです。兄さんがわたしたちを捨てたことについては、わたしは兄さんを非難しませんし、またそんなことできもしませんわ。だから許してね、さっきはあんなひどいことを言ったりして。わたしは自分でも感じますわ、こんな大きな悲しみがあったら、わたしだって誰《だれ》の顔も見たくなくなるでしょう。お母さんにはこのこと《・・・・》は何も言いませんけど、いつも兄さんの噂《うわさ》はしますわ、そしてもうすぐ帰ってくると言ってたって、言っておきますわ。お母さんのことは心配なさらないでね、わたし《・・・》がなぐさめますから。でも、兄さんもお母さんを苦しめないでね。――せめて一度くらい顔を見せてくださいね。お母さんがいるってことを、思い出してね。いまわたしが寄ったのは、兄さんに一言いっておきたかったからなの。(ドゥーニャは腰を上げかけた)。もしわたしが必要なようなことがあったら、わたしが役に立つようなことが……わたしの生命《いのち》でも、なんでも……わたしに声をかけてね、すぐにとんで来ますから。じゃ、さようなら!」
彼女はくるりと振り向いて、ドアのほうへ歩きだした。
「ドゥーニャ!」と呼びとめると、ラスコーリニコフは立ちあがって、彼女のそばへ歩みよった。「あのラズミーヒンて男、ドミートリイ・プロコーフィチって男は、実にいいやつだよ」
ドゥーニャはわずかに赤くなった。
「それで!」とちょっと待って、彼女は尋ねた。
「あいつはしごとのできる、はたらくことの好きな、心の美しい、強く愛することのできる男だよ……じゃ、さようなら、ドゥーニャ」
ドゥーニャはぱっと真っ赤になったが、すぐに不安におそわれた。
「まあ、どうしてそんなことを、兄さん、まさかもうこれっきり会えないんじゃないでしょうね、どうしてそんな……遺言みたいなことを言うの?」
「まあいいさ……さようなら……」
彼はくるりと背を向けて、窓のほうへ歩きだした。彼女はそのまましばらく不安そうに彼を見ていたが、やがて落ち着かない様子で出て行った。
いや、彼は妹に冷淡だったのではない。ほんの最後の別れ際《ぎわ》だが、かたく抱きしめて、別れ《・・》を告げ、言ってしまおう《・・・・・・・》かとさえ思った一瞬があった、どうしてもそうしてやりたいと思ったが、いざとなると、彼は手をさし出すことさえためらわれた。
《あとになって、おれに抱きしめられたことを思い出して、ぞっとして、おれに接吻《せっぷん》を盗まれたなんて、言うかもしれない!》
《ところで、あれ《・・》は堪えられるだろうか?》彼はしばらくすると胸の中でつぶやいた。《いや、堪えられまい。ああいう《・・・・》人間には堪えられまい! ああいう《・・・・》人間は堪えられないようにできているんだ……》
彼はソーニャのことを考えたのだった。
窓からひんやりした空気が流れてきた。庭の日はもうかなりうすれていた。彼は不意に帽子をつかむと、外へ出た。
彼は、もちろん、自分の病状を考えることができなかったし、また考えようともしなかった。しかしこのたえまない不安と心の恐怖があとをのこさないわけがなかった。そして彼がまだほんものの熱病に倒れずにいるのは、おそらく、この心のたえまない不安がまだ彼の足と意識を支えていたためであろうが、どことなく無理が見え、いまはもう時間の問題だった。
彼はあてもなくさまよった。太陽はしずみかけていた。近頃《ちかごろ》の彼はある言い知れぬさびしさをおぼえるようになっていた。そのさびしさには刺すような、焼きたてるような、特別の鋭さはなかったが、しっかりこびりついて永遠にはなれないような気がして、この冷たい、死を誘うようなさびしさの救いのない状態が何年もつづき、《足二本がやっとの空間》に永遠に立たねばならぬことが、予感されるのだった。日暮れどきになるといつもこの救いのないさびしさが、ひときわ強く彼を苦しめはじめるのだった。
「まったく、日没に作用されるような、実にばかばかしい、純粋に肉体的な衰弱に痛めつけられているんだ。ばかなことをしないように、よっぽどしっかりしなくちゃあ! ソーニャどころか、ドゥーニャにまで告白しかねないぞ!」と彼は吐きすてるように呟《つぶや》いた。
誰かに呼ばれた。振り向くと、レベジャートニコフがかけよってきた。
「よかった、いまあなたのところへ行ったんですよ、あなたをさがしていたんです。おどろきました、あのひとはほんとにあのプランを実行したんですよ、子供たちを連れ出しちゃったんです! ぼくはソーフィヤ・セミョーノヴナとやっとさがしあてたんです。自分はフライパンを叩いて、子供たちに踊らせているんです。子供たちは泣いてます。十字路や店のまえに立って。やじ馬がぞろぞろたかってます。さあ、行きましょう」
「で、ソーニャは?……」と、レベジャートニコフのあとからかけ出しながら、ラスコーリニコフは心配そうに尋ねた。
「ただもうおろおろしてるだけですよ。いや、頭にきてるのはソーフィヤ・セミョーノヴナじゃなく、カテリーナ・イワーノヴナですが、しかし、ソーフィヤ・セミョーノヴナもかなりとりみだしています。カテリーナ・イワーノヴナときたら、もう完全ですよ。完全に発狂しましたね。警察に連れて行かれるでしょうね。そしたら、どんなことになるか、想像できるでしょう……いまはN橋のそばにいます、ソーフィヤ・セミョーノヴナの家のすぐそば。すぐそこです」
橋からあまり遠くない堀端《ほりばた》に、ソーニャの住んでいる家から二軒も行かないところに、たくさんの群衆が群がっていた。特に子供たちが多かった。もう橋のあたりから、カテリーナ・イワーノヴナの引き裂くようなかすれた声が聞えた。たしかにそれは、路上の群衆を喜ばせるような異様な光景だった。くたびれた服を着て、薄い毛織り《ドラ・デ・ダム》のショールをかけ、やぶれた麦わら帽子がみにくく頭のよこのほうにずりおちているカテリーナ・イワーノヴナは、どう見てもほんものの狂女だった。彼女は疲れはてて、息をきらしていた。弱りきった肺病やみの顔は、いつもよりも苦しそうに見えた。(それに外の太陽の下では、肺病患者は家の中でよりもいっそう痛々しく、みにくく見えるものだ)。彼女のたかぶった気持はいっこうにしずまらないどころか、ますます苛《いら》立《だ》ちがはげしくなってきた。彼女は子供たちのまえにかけよって、どなりつけ、さとすように言い聞かせ、見物人たちのまえでどんなふうに踊り、何をうたうかをおしえ、なんのためにそんなことをしなければならないかを、くどくどとさとしはじめたが、子供たちの聞きわけのわるさにかっとなって、なぐりつける……と思うと、急にやめて、見物人たちのほうへかけよる。ちょっとでも身なりのいい人を見ると、すぐにとんで行って、《素姓《すじょう》のいい、貴族といえるほどの家庭》に育った子供たちが、どうしてこんなみじめな境遇にまでおちたかを、くどくどと説明する。群衆の中に笑い声か、あるいはひやかすような言葉でも聞きつけようものなら、すぐにそちらへとんで行って、口ぎたなくののしり合いをはじめる。見物人の中にはほんとうに笑っている者もあったし、首をかしげている者もいた。おびえきった子供たちを連れた狂女を見るのは、誰にでもおもしろいことだった。レベジャートニコフの言ったフライパンはなかった。少なくともラスコーリニコフは見なかった。だが、フライパンを叩く代りに、カテリーナ・イワーノヴナはポーレチカにうたわせて、レーニャとコーリャに踊らせるときは、筋ばった手をたたいて拍子をとった。おまけに、自分もいっしょにうたいだすが、そのたびに第二節までくると苦しい咳《せき》のためにとぎれてしまい、それでまたまたやけを起して、咳を呪《のろ》い、泣き出すのだった。何よりも彼女を逆上させたのはコーリャとレーニャの泣き声とおびえきった様子だった。子供たちに流し芸人風の服装をさせようとしたことは、事実だった。男の子にはトルコ人らしく見せるために、頭にあやしげな紅白のターバンを巻きつけていた。レーニャは衣装がなかったので、亡夫の赤い毛糸の帽子(というよりは、ナイトキャップといったほうがいいかもしれない)をかぶせて、それに白いだちょうの羽の切れはしをさしてやった。このだちょうの羽はカテリーナ・イワーノヴナの祖母のもので、珍しい形見としていままで長持の中にしまっておいたものである。ポーレチカはいつもの粗末な服のままだった。ポーレチカはおろおろしながら母を見まもり、どうしてよいかわからずに、母のそばにくっついたまま、子供ごころに母があたりまえでないことに気がついて、涙をかくし、不安そうにあたりを見まわしていた。通りと群衆に少女はすっかりおびえてしまった。ソーニャはカテリーナ・イワーノヴナのうしろからはなれないようにして、早く家へもどりましょうと泣きながら頼んでいた。だが、カテリーナ・イワーノヴナは頑《がん》としてきかなかった。
「およし、ソーニャ、およしったら!」と彼女は息をきらし、咳きこみながら、早口に叫んだ。「自分で何を言ってるか、わかりもしないで、まるで子供みたいに! おまえに言ったでしょ、あの飲んだくれのドイツ女のところへはもうもどらないって。いいんだよ、見せてやるんだ、ペテルブルグ中に見せてやるんだ、一生まじめに陰ひなたなく勤めて、殉職といえるような死に方をしたりっぱな父親の子供たちが、もの乞いして歩いている姿をさ。(カテリーナ・イワーノヴナはもうこの幻想をつくりあげて、それをすっかり信じこんでいた)。あの役立たずの将軍めに見せてやる、ええ、見せてやるよ。だって、ばかだねえ、おまえは、ソーニャ。これから何を食って生きてゆくんだい、え? もうずいぶんおまえをいじめて来たんだもの、これ以上は苦しめたくないよ! あッ、ロジオン・ロマーヌイチ、よかった!」ラスコーリニコフを見つけると、彼女はこう叫んで、かけよった。「どうか、このばかな娘に、これがいちばん利口な生き方だってことを、ようく聞かせてあげてくださいな! 流しのオルガン弾《ひ》きでさえ稼《かせ》ぎがあるんですもの、わたしたちだったらじきに別扱いしてもらえますよ、あわれにも乞《こ》食《じき》にまでなり下がったりっぱな家庭のみなし子ってことは、すぐにわかりますものねえ。そしたらあの将軍め、きっと失脚しますよ、見てらっしゃい! 毎日あいつの窓の下へ行ってやるんだよ、そして皇帝さまがお通りになったら、わたしはひざまずいて、子供たちをまえにならばせて、《お守りください、父よ!》っておすがりします。皇帝さまはみなし子たちの父ですもの、情け深いお方ですもの、きっと守ってくださいますわ、そしてあの将軍めを……レーニャ! tenez-vous droite!(姿勢を正しなさい)コーリャ、さあもう一度踊るのよ! なんだってめそめそ泣いてるの? まためそめそする! え、何が、何がこわいの、ばかな子だねえ! やれやれ! この子たちにかかっちゃ、どうしようもありませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ! ほんとに聞きわけのない子供たちだよ! つくづくいやになる!……」
そして彼女は、もうほとんど泣き声になって(それはたえず口早にしゃべり立てるのをさまたげなかった)、彼にめそめそ泣いている子供たちを指さした。ラスコーリニコフは家にもどるように説得しようとして、彼女の自尊心に訴えようと思いながら、良家の娘たちの寄宿学校の校長になるひとだから、流しの芸人みたいに通りを歩くのは世間体がよくない、などと言ってみた。
「寄宿学校、は、は、は! 夢ですよ、山のかなたの!」と、笑うとすぐにはげしく咳きこみながら、カテリーナ・イワーノヴナは叫んだ。「いいえ、ロジオン・ロマーヌイチ、夢はすぎましたよ! みんなに見すてられました!……あの将軍めも……わたしはね、ロジオン・ロマーヌイチ、あいつにインクびんを投げつけてやったんだよ、――あそこの受付の机の上に、ちょうどあったんでね、そばに紙がおいてあって、たくさん署名してあったよ、だからわたしも名前を書きなぐって、インクびんをぶっつけて、逃げかえってきたんだよ。おお、ほんとにいやなやつら。ペッ、唾《つば》をはきかけてやりたいよ。もうこうなったら、この子供たちはわたしが食べさせますよ、誰にも頭なんて下げるものか! この娘にもずいぶん苦しい思いをさせましたからねえ!(彼女はソーニャを指さした)。ポーレチカ、いくらになったかね、どれ見せてごらん? おや? みんなでたった二コペイカかい? へえ、さもしいやつらだねえ! 犬みたいに舌をだして、ついてくるばかりで、何もくれやしない! おや、そこの間抜け、何がおかしいんだい? (彼女は群衆の中の一人を指さした)。これもみな、このコーリャがぐずだからだよ、手が焼けるったらありゃしない! どうしたの、ポーレチカ? フランス語で言いなさい、parlez-moi fran溝is!(フランス語で話しなさい)わたしが教えてやったじゃないか、すこしは知ってるはずだよ!……でなきゃ、おまえたちが上品な家庭に生れて、教育も受け、そこらの流しの芸人とはぜんぜんちがうってことが、わからないじゃないの。わたしたちは往来で《ペトルーシカ》みたいな道化芝居を見せるんじゃないんだよ、品のいいロマンスをうたうんですよ……あ、そうそう! 何をうたいましょうね? あなたが邪魔ばかりするものだから、わたしが……ここに立ちどまったのはね、ロジオン・ロマーヌイチ、何をうたうか選ぶためですのよ……それも、コーリャも踊れるものでなくちゃ……なにしろ、おわかりでしょうけど、練習もしないでぶっつけにやってるんですからねえ。みんなみっちり稽《けい》古《こ》するように、よく話しあわなきゃあね、それからネフスキー通りへ出かけましょうよ、あちらに行けば上流社会の人々もずっと多いし、すぐにわたしたちを見わけてくれますよ。レーニャは《小さな村》を知ってたわね……でもいまは《小さな村》はみんなが知っていて、誰でもうたってるから! わたしたちは何かもっとずっと上品なものをうたわなくちゃ……どう、何か思いついたかい、ポーリャ、せめておまえだけでもお母さんを助けておくれよ! わたしにはね、記憶力というものがなくなってしまったんだよ、たくさんいろんな歌をおぼえていたんだがねえ! まさか、《驃騎兵《ひょうきへい》は剣にもたれつつ》なんて歌をうたうわけにもいくまいし!あ、そうそう、フランス語で《Cinq sous《サン・スウ》》をうたいましょう! そら、おまえたちに教えたでしょ、おぼえてるわね。いいことに、これはフランス語の歌でしょ、だからおまえたちが貴族の子供たちだってことが、すぐにわかるし、そのほうがどれだけ涙を誘うかしれやしない……《Malborough s'en va-t-en guerre》(マルボローは戦争へ行きました)でもいいよ、これはほんとの童謡で、貴族の家庭ではどこでも子《こ》守《もり》唄《うた》にうたうんだから」
Malborough s'en va-t-en guerre, Ne sait quand reviendra ……
マルボローは戦争へ行きました
いつになったらもどるやら……
と彼女はうたいだした……
「いや、やっぱり《Cinq sous》のほうがいいわ! さあ、コーリャ、お手々を腰にあてて、ぐずぐずしないで、レーニャ、おまえもまわるのよ、向うまわりね、わたしとポーレチカはうたいながら、手拍子をとりましょうね!
Cinq sous,Cinq sous,
Pour monter notre m始age ……
サン・スウ、サン・スウ、
これが暮しにゃだいじなお金……
ごほ、ごほ、ごほ! (彼女は苦しそうに咳きこんだ)。服を直しなさい、ポーレチカ、肩が下がったよ」と彼女は咳のあいまに、ぜいぜい息をきらしながら注意した。「これからはお行儀よくきちんとするように、よくよく気をつけなきゃあね、貴族の子だってことをみんなに見てもらわなきゃいけないんだから。あのときわたしが言ったでしょ、ジャンパースカートは長めにして、しかも二幅にしなきゃいけないって。ところが、ソーニャ、おまえが《もっと短く、もちょっと短かめに》なんて言うもんだから、ほらごらんな、まるでみっともないったらありゃしない……おや、またおまえたちは泣いてるのかい! どうしたっていうの、ばかだねえ! さあ、コーリャ、さっさとはじめなさい、さあ、さあ、ぐずぐずしないで、――ええ、まったく、なんてじれったい子なんだろう!……
Cinq sous,Cinq sous……
おや、また兵隊が来たよ! え、わたしになんの用があるの?」
ほんとに、人垣《ひとがき》をわけて一人の巡査が近づいてきた。ところがそのとき官吏の略服の上に外套《がいとう》をまとい、首に勲章を下げた五十前後のりっぱな紳士が(この勲章がカテリーナ・イワーノヴナにはひどく嬉《うれ》しかったし、巡査の態度にも作用した)つかつかとよって来て、黙ってカテリーナ・イワーノヴナの手にみどり色の三ルーブリ紙幣をあたえた。その顔には深い同情があらわれていた。カテリーナ・イワーノヴナはそれを受け取ると、ていねいに、しかも作法どおりに、紳士に頭を下げた。
「ご親切に、ありがとうございます」と彼女はもったいぶって言いだした。「わたしたちをこんなふうにしたわけと申しますのは……お金をおさめなさい、ポーレチカ。ごらん、不幸に泣くあわれな貴婦人をすぐに助けてくださろうとなさる、心の美しいおおらかなお方はやっぱりいるんですねえ。ご親切に、この素姓のゆかしいみなし子たちをわかってくださったんですね、この子たちは貴族社会に親戚《しんせき》をもっていると言ってもいいほどなんですよ……ところがあの将軍めときたら、どっかり坐りこんで、山鳥を食べていて……わたしが邪魔したというんで、足をふみ鳴らして怒ったんですよ……わたしはこう言ったんですよ、《閣下、亡《な》くなったセミョーン・ザハールイチをよくご存じでいらっしゃいますから、どうかあわれなみなし子たちを守ってあげてくださいませ。それに主人の亡くなったその日に、人間の屑《くず》の屑みたいなやつに、主人の血をうけた娘がそれはそれはひどいことを言われたんでございます……》おや、またあの兵隊が! 助けてください!」と彼女は官吏に叫んだ。「どうしてわたしにうるさくつきまとうの? もうメシチャンスカヤ街で追われて、ここへ逃げてきたというのに……ええ、わたしになんの用があるっていうのさ、ばか!」
「街頭でこういうことは禁止されているんですよ。みっともないことはしないでください」
「おまえこそみっともないくせに! オルガン弾きだってやってるじゃないの、おまえなんか出る幕じゃないよ!」
「街頭のオルガン弾きは許可が要《い》ります。あなたは勝手にこんなことをして人騒がせをしています。どこにお住まいです?」
「なに、許可だって」とカテリーナ・イワーノヴナはわめきたてた。「わたしは今日良人《おっと》の葬式をすませたばかりだよ、どこに許可なんかもらうひまがあるのさ!」
「奥さん、奥さん、どうか落ち着いてください」と官吏がなだめはじめた。「さあ、参りましょう、わたしが送ります……ここは人だかりがして、世間体ということもありますよ……それにお身体《からだ》がよくないようだし……」
「ご親切はありがたいけど、あなたは何も知らないんですよ!」とカテリーナ・イワーノヴナは叫んだ。「これからネフスキー通りへ行こうというのに、――ソーニャ、ソーニャ! いったいどこへ行ったのかしら? おや、この娘も泣いてるよ! そろいもそろって、いったいどうしたというの?……コーリャ、レーニャ。どこへ行くの?」彼女は不意にぎょっとして叫んだ。「ほんとに、ばかな子だこと! コーリャ、レーニャ、あの子たちはいったいどこへ行くのかしら!……」
それはこうして起った。コーリャとレーニャは街頭の人だかりと狂った母のとっぴな振舞いにすっかりおびえきっていたところへ、兵隊が彼らをつかまえて、どこかへ連れ去ろうとしているのを見たものだから、いきなり、まるでしめしあわせたように、手をつないで逃げ出したのである。あわれなカテリーナ・イワーノヴナはわあわあ泣きながら、そのあとを追ってかけ出した。泣きながら、ぜいぜい息をきらして走って行くその姿は、あわれで、みにくく、見るにしのびなかった。ソーニャとポーレチカもそのあとを追った。
「つれもどして、つれもどしておくれ、ソーニャ! なんてばかな、恩知らずな子供たちだろう!……ポーリャ! つかまえておくれ……おまえたちのことを思えばこそ、わたしは……」
彼女はむきになって走っていたのをつまずいたから、どうと倒れた。
「まあ、血が、けがをしたんだわ! ああ、どうしよう!」と彼女の上にかがみこみながら、ソーニャは叫んだ。
みなかけよって来て、まわりをとり巻いた。ラスコーリニコフとレベジャートニコフは真っ先にかけつけた。官吏も早かった。そのあとから巡査が《やれやれ!》とぼやいて、片手を振り、厄介《やっかい》なことになるのを予感しながら走ってきた。
「さあ退《ど》いた! 退いた!」と彼はびっしりとまわりをとり巻いている群衆を追いちらした。
「死ぬぞ!」と誰かが叫んだ。
「気が狂ったんだ!」ともう一人が言った。
「ああ、かわいそうに!」と一人の女が十字を切りながら、言った。「あの子供たちはつかまったかしら? おや、連れられてくる、上の娘《こ》がつかまえたんだわ……しようのない、いたずらッ子だねえ!」
だが、カテリーナ・イワーノヴナをよく見ると、決してソーニャが考えたように、石でけがをしたのではなかった。舗道を赤くそめた血は、彼女の胸から吐き出されたのだった。
「これはわたしは知ってますよ、見たことがあります」と官吏は口をもぐもぐさせながらラスコーリニコフとレベジャートニコフに言った。「これは肺病ですよ。こんなふうに血を吐いて、息がつまるんです。親戚の女に一人ありましたよ、ついこの間、たまたまそこにいあわせたんですがね、やはりコップに一杯半ほど……いきなり……ところで、どうしたもんですかな、もうだめだと思いますが?」
「うちへ、うちへ、わたしのうちへ」とソーニャは哀願するように言った。「すぐそこです!……ほら、その建物です、ここから二軒目の……わたしの部屋へ、早く、早く!……」彼女はみんなの袖にすがるようにして頼んだ。「医者を呼びにやってください……ああ、どうしよう!」
官吏の尽力でことはうまく運んだ。巡査までカテリーナ・イワーノヴナを運ぶ手伝いをした。彼女はほとんど死んだような状態でソーニャの部屋に運びこまれ、ベッドの上にねかされた。喀血《かっけつ》はまだつづいていたが、どうやら意識がもどりはじめたらしい。部屋にはソーニャのほかに、ラスコーリニコフとレベジャートニコフ、それに官吏と、いましがた群衆を追いちらした巡査とが、いちどきに入ってきた。群衆の中には戸口までついて来たものもかなりいた。ポーレチカは、がたがたふるえながら泣きじゃくっているコーリャとレーニャの手をひいて、入ってきた。カペルナウモフの家のものも集まってきた。びっこでめっかちで、ごわごわの髪や頬《ほお》ひげがぴんと突ったった奇妙な風采《ふうさい》の亭主《ていしゅ》、一度びっくりした顔がもうぜったいに直らないようなその女房《にょうぼう》、いつもおどかされてばかりいるので感じなくなってしまったような顔をして、ぽかんと口をあけている何人かの子供たち。こうした連中のあいだに不意にスヴィドリガイロフもあらわれた。ラスコーリニコフは群衆の中に彼を見かけたおぼえもないし、どこからでてきたのかわからずに、おどろきの目を見はった。
医者と司祭の話がでた。官吏は、もういまとなっては医者を呼んでもむだだろうと、ひそひそ声でラスコーリニコフにささやいたが、それでも呼びにやる指《さし》図《ず》をした。カペルナウモフが自分で走って行った。
そうこうしている間に、カテリーナ・イワーノヴナは呼吸がしずまって、喀血が一時とまった。彼女は病みつかれてはいるが鋭い刺すような目で、真《ま》っ蒼《さお》な顔をしてふるえながら、ハンカチで額の汗をふいてやっているソーニャを見やった。そして、しばらくすると、起してくれと頼んだ。彼女は両側から支えられながら、ベッドの上に身を起した。
「子供たちは?」と彼女は弱々しい声で尋ねた。「連れてきてくれたかい、ポーリャ? ほんとに、ばかな子供たちだねえ!……どうしてかけ出したりなんかしたのかしら……ねえ!」
血はまだ彼女のかさかさの唇《くちびる》を赤くぬらしていた。彼女はゆっくりあたりを見まわした。
「おまえはこんなふうに暮していたんだねえ、ソーニャ! 一度も来て見なかったけど……こんなことになって、連れて来《こ》られるなんてねえ……」
彼女はすまなそうにソーニャを見た。
「おまえを苦しめたねえ、ソーニャ……ポーリャ、レーニャ、コーリャ、ここへおいで……さあ、ソーニャ、この子たちを引き取っておくれ、ね……しっかり渡したよ……わたしはもうたくさん!……舞踏会はおわった! ああ!……わたしをねかしておくれ、せめて死ぬときだけでもしずかに……」
彼女の頭はまた枕《まくら》の上に下ろされた。
「え? お坊さん?……いらないよ……どこにそんな余分なお金があるの?……わたしには罪なんかないもの!……神さまはそれでなくたって許してくださるはずだわ……わたしがどんなに苦しんだか、神さまがご存じだもの!……許してくださらなきゃ、それでいいじゃないの、いらないよ!……」
不安な幻覚がますます強く彼女をとらえていった。彼女はときどきぎくっとして、あたりを見まわし、ちょっとの間みんなの顔がわかったが、すぐにまた意識がうすれて幻覚にかわってしまうのだった。何かがのどのあたりで鳴っているように、かすれて、苦しそうな息だった。
「あの人に言ってやったんだよ、《閣下!……》」一言ごとに息をきらしながら、彼女は叫びたてた。「アマリヤ・リュドヴィーゴヴナめ……ああ! レーニャ、コーリャ! お手々を腰にあてて、早く、ぐずぐずしないで、グリッセ・グリッセ、パ・ド・バスク! あんよをトン……上品な子になるんだよ。
Du hast Diamanten und Perlen……
ダイヤモンドと真珠があるのに……
それからなんだっけ? そうだよ、これをうたうんだね……
Du hast die sch嗜sten Augen,
M嚇chen,was willst du mehr?
そんな美しい瞳《ひとみ》があるのに、
娘さん、そのうえ何がお望みなの?
そうだよ、きまってるじゃないの! was willst du mehr(そのうえ何がお望みなの)――言うわねえ、ばか!……あッ、そうそう、こんなのもあったっけ。
暑い昼下がり、ダゲスタンの谷間にて……
ああ、わたしはほんとに好きだった……涙がでるほど好きだったのよ、このロマンスが……ポーレチカ!……おまえのお父さまはね……まだ許婚者《いいなずけ》のころによくうたってくれたんだよ……ああ、あのころは!……これだよ、これをうたわなくちゃ! さあ、どうだったかしら、どうだったかしら……いやねえ、忘れてしまって……ねえ、思い出しておくれ、どうだったかしら?」
彼女はひどく興奮して、身を起そうともがいた。とうとう、恐怖がしだいにつのってくるような様子で、おそろしいかすれた引き裂くような声で、一言ごとに息をきらしながら、わめくようにうたいだした。
暑い昼下がり!……ダゲスタンの!……
谷間にて!……胸を射ぬかれ!……
「閣下!」不意に彼女ははらはらと涙をこぼしながら、胸をかきむしるような声で叫んだ。「みなし子たちを守ってあげてください! 亡くなったセミョーン・ザハールイチをご存じじゃありませんか!……貴族といってもいいほどの!……あッ!」彼女はびくッとふるえて、不意に正気にかえり、おそろしそうに一同の顔を見まわしていたが、すぐにソーニャに気がついた。「ソーニャ、ソーニャ!」彼女はソーニャがここにいるのにびっくりしたように、やさしくいたわるように呼んだ。「ソーニャ、ありがとうよ、おまえもここにいてくれたのかい?」
彼女はまた助け起された。
「もうたくさんだ!……死にどきだよ!……さようなら、かわいそうなソーニャ!……すっかり苦労をかけたねえ!……わたしはもう疲れはてたよ!」と彼女は絶望的に呪わしげに叫ぶと、どさッと枕の上に仰《あお》向《む》けに倒れた。
彼女はまた意識を失ったが、今度の意識不明はそう長くつづかなかった。血の気のない黄ばんだ痩《や》せほそった顔は仰向けにそり、口は開いて、脚がひくひくふるえながらはげしく突っぱった。彼女は深い深い息を吐きだして、そのまま息たえた。
ソーニャは死体の上に突っ伏し、両手で抱きしめ、痩せおとろえた胸に頭をおしつけて、そのまま気を失ってしまった。ポーレチカは母の足もとにひざまずいて、しゃくり上げながら、足に唇をおしつけていた。コーリャとレーニャは、何ごとが起ったのかまだわからなかったが、何かひどくおそろしいことが起りそうな気がして、両手でしっかり肩を抱き合い、顔を見あわせていたが、とつぜん、いっしょに口をあけて、わッと泣き出した。二人はまだ衣装をつけたままだった。一人はターバンを巻き、一人はだちょうの羽をつけた毛糸の丸帽をかぶっていた。
それにしても、いつの間にどこからあらわれたのか、カテリーナ・イワーノヴナの枕もとに例の《賞状》がおいてあった。それは頭のすぐそばにころがっていた。ラスコーリニコフはそれを見た。
彼は窓のほうへはなれた。レベジャートニコフがかけよった。
「死んだ!」とレベジャートニコフは言った。
「ロジオン・ロマーヌイチ、二言ほどあなたの耳に入れておきたいことがあるのですが」とスヴィドリガイロフがそばへよって来た。レベジャートニコフはすぐに場所をゆずって、そっとはなれて行った。スヴィドリガイロフはおどろいているラスコーリニコフを更に隅《すみ》のほうへ連れて行った。
「面倒なことはいっさい、つまり葬式その他ですが、わたしが引き受けましょう。なに、金さえあればいいわけでしょう、あなたにも言いましたように、わたしには余分な金があるんですよ。それからこの二人のひよっことポーレチカですが、まあどこか小ぎれいな孤児院を見つけて入れてやりましょう、そして成年になるまで一人に千五百ルーブリずつつけてやりましょう、そうすればソーフィヤ・セミョーノヴナが心配しなくともすむでしょうからな。それから彼女も泥沼《どろぬま》から引き上げてやりましょう、だっていい娘ですものねえ、そうでしょう? ですから、アヴドーチヤ・ロマーノヴナには、彼女にやるはずの一万ルーブリはこういうふうに使ったと、あなたから伝えてもらいたいのですが」
「いったいなんのためにあなたは、そんなに荒っぽく金を投げ出すんです?」とラスコーリニコフは尋ねた。
「へえ! あなたも疑《うたぐ》り深い人だねえ!」とスヴィドリガイロフはにやりと笑った。「この金はわたしには余分なものだって、あなたに言ったじゃありませんか。ええ、それともただ、人道的見地から、許さんとおっしゃるんですかな? でもあの女は(彼は死体のある隅のほうをちょいと指さした)《しらみ》じゃなかったはずですよ、どっかの金貸しの婆《ばあ》さんみたいにね。ええ、どうです、ええ、《実際のところ、ルージンみたいな男を生かして、卑劣な行為をさせるか、それともあの女を死なせるか?》どうです、わたしが助けなかったら、《ポーレチカも、同じ道をたどることになる……》はずですよ」
彼は何か目配せ《・・・》するような、にやにやしたずるそうな顔で、ラスコーリニコフから目をはなさずに、これを言ってのけた。ラスコーリニコフはソーニャに言った自分の言葉を聞かされて、さっと蒼《あお》ざめ、背筋が冷たくなった。彼はびくっと一歩うしろへよろけて、あやしく光る目でスヴィドリガイロフをにらんだ。
「ど、どうして……あなたは知ってるんです?」彼はやっと息をつぎながら、囁《ささや》くように言った。
「だってわたしは、ここに、壁一つへだてて、レスリッヒ夫人のところに間借りしてるんですよ。ここはカペルナウモフ、そちらはレスリッヒ夫人、わたしの古い親しい友人ですよ。となりです」
「あなたが?」
「そうですよ」とスヴィドリガイロフは身をゆすって笑いながら、言いつづけた。「正直に言いますがね、親愛なロジオン・ロマーヌイチ、わたしは自分でもあきれるほどあなたに興味をもったんですよ。たしかあなたに言いましたね、わたしたちは親密になるだろうって、そう予言したはずですね。――どうです、ちゃんと親密になったじゃありませんか。いまにわかりますよ、わたしがどんなにできた人間かってことがね。わたしとなら、まだ結構生きていけますよ……」
第六部
1
ラスコーリニコフにとって奇妙な時期が訪れた。不意に目の前に霧が下りてきて、彼を出口のない重苦しい孤独の中にとじこめてしまったようであった。あとになって、もうかなりの時がたってから、彼はこの時期を思い返してみて、その頃《ころ》は意識がときどきうすれたようになり、途中にいくつかの切れ目はあったが、その状態がずっと最後の破局までつづいていたことがわかった。当時多くの点で、例えばいくつかのできごとの日と時間とかで、思いちがいをしていたことが、彼にははっきりとわかった。少なくとも、あとになって思い出し、その思い出したものを自分にはっきり説明しようとつとめてみて、他人から聞かされたことをもとにしながら、自分のことをいろいろと知ったのである。例えば、彼はあるできごとを別なできごとと混同していたし、その別なできごとを、実在しない想像の中だけのできごとの結果だと考えていた。ときどき彼は病的な苦しい不安におそわれ、その不安がどうにもならぬ恐怖にまで変貌《へんぼう》することがあった。しかし彼は、それまでの恐怖とは一変して、完全な無感動にとらわれた数分、数時間、いやもしかしたら数日間といってもいいかもしれないが、そうした時期があったこともおぼえていた。それは死を目前にした人に見られることのあるあの病的な冷静な心境に似ていた。だいたいこの最後の数日間というものは、彼は自分でも自分のおかれている状態をはっきりと完全に理解することを避けようとつとめていたようだ。ただちに解明を迫られていたいくつかの重大な事実が、特に彼の上に重苦しくのしかかっていた。そうした心労から逃《のが》れて自由になれたら、彼はどんなに嬉《うれ》しかったろう。もっとも、それを忘れることは、彼の立場では完全な避けられぬ破滅を招くおそれはあったが。
特に彼をおびやかしたのはスヴィドリガイロフであった。スヴィドリガイロフのことしか頭になかった、とさえ言えるかもしれぬ。ソーニャの部屋で、カテリーナ・イワーノヴナが死んだとき、彼にとってはあまりに恐ろしい、しかもあれほどはっきりと言われたスヴィドリガイロフの言葉を聞いて以来、いつもの彼の思考の流れが乱れてしまったかのようだ。しかし、この新しい事実によって極度の不安に突きおとされたにもかかわらず、ラスコーリニコフはどういうものかその解明を急ごうとしなかった。ときどき、どこか遠いさびしい町はずれのみすぼらしい安食堂で、一人ぼんやり考えこんでいる自分に、はっと気づき、どうしてこんなところへ来たのかさっぱり思い出せないようなとき、彼の頭には不意にスヴィドリガイロフのことが浮ぶのだった。そしてそんなとき、できるだけ早くあの男と話し合って、できることなら、すっかり決着をつけてしまわなければならないと、不安におびえながらも、はっきりと自覚するのだった。一度、町はずれの関門の外へ迷い出たときなど、彼はここがスヴィドリガイロフと会う場所に指定されたところで、いま相手が来るのを待っているのだ、と想像したほどだった。またあるときは、どこかの茂みの中で夜明けまえにふと目をさまし、地面の上にじかにねていた自分に気づき、どうしてこんなところへ迷いこんだのかさっぱりわからないこともあった。しかも、カテリーナ・イワーノヴナが死んでからのこの二、三日で、彼はもう二度ほどスヴィドリガイロフに会っていた。それはいつもソーニャの部屋で、彼はなんということなく漠然《ばくぜん》と立ち寄り、ほんの一、二分しかいなかった。彼らはちょっと言葉を交わすだけで、決して重大な点にはふれようとしなかった。とき《・・》が来るまで黙っていようという暗黙の了解が、いつとなく二人の間にできあがっているようなふうだった。カテリーナ・イワーノヴナの遺体はまだ寝棺におさめたままになっていた。スヴィドリガイロフは埋葬の手配をして、いそがしく奔走していた。ソーニャもひじょうにいそがしかった。最後に会ったとき、スヴィドリガイロフは、カテリーナ・イワーノヴナの遺児たちはどうにかかたをつけた、しかもうまいぐあいにいったと、ラスコーリニコフに説明した。少しばかり手づるがあるので、当ってみたところ、都合よく三人ともすぐに相当の孤児院に入れるように世話してやろうという人々が見つかったし、金のある孤児のほうが貧しい孤児よりもはるかに有利だから、子供たちにつけてやった金も大いにものをいった、ということだった。彼はソーニャのことも何やらほのめかすように言って、なんとか二、三日中にラスコーリニコフを訪ねることを約束し、《よく相談したいと思いましてな、どうしてもお耳に入れておきたい大切な用がありますので……》と言った。この会話は階段のそばの入り口のところで交わされた。スヴィドリガイロフはじっとラスコーリニコフの目を見つめていたが、ちょっと間をおいてから、急に声をひそめて尋ねた。
「どうなさいました、ロジオン・ロマーヌイチ、まるで魂がぬけたみたいじゃありませんか? まったく! 聞いたり見たりはしているが、まるでおわかりにならん様子だ。元気を出しなさい。ええ、すこし話をしようじゃありませんか、ただ残念ながら、自他ともに多忙すぎましてね……ええ、ロジオン・ロマーヌイチ」と彼はとつぜんつけ加えた。「人間には空気が必要ですよ、空気が、空気が……何よりもね!」
彼は、階段をのぼってきた司祭と補祭を通すために、不意にわきへよった。彼らは追善の祈《き》祷《とう》をあげに来たのだった。スヴィドリガイロフの指《さし》図《ず》で祈祷は日に二度ずつきちんと行われていた。スヴィドリガイロフは何かの用事ででかけて行った。ラスコーリニコフはちょっと思案していたが、司祭のあとからソーニャの部屋へ入った。
彼は戸口に立ちどまった。しめやかに、おごそかに、もの悲しげに、供《く》養《よう》の祈祷がはじまった。死というものを意識し、死の存在を感じると、彼は小さな子供のころから何か重苦しい神秘的な恐怖をおぼえたものだった。それに、彼はもう長いこと祈祷を聞いていなかった。しかもいまの場合は、何か普通とちがう、あまりにも恐ろしい、不安なものがあった。彼は子供たちのほうを見た。子供たちはいっしょに寝棺のそばにひざまずき、ポーレチカは泣いていた。そのうしろに、ひっそりと、泣くのをさえ気がねするように、ソーニャが祈っていた。《そういえばこの数日、彼女は決しておれを見ようとしないし、一言もおれに言葉をかけてくれなかった》――こんな考えがふとラスコーリニコフの頭に浮んだ。陽光が明るく部屋を照らしていた。香のけむりがまわりながらゆるやかにのぼっていた。司祭が《主よ、安らぎをあたえたまえ》と唱えていた。ラスコーリニコフは祈祷の間中立ちつくしていた。司祭は祝福をあたえて、別れの挨拶《あいさつ》を交わしながら、なんとなく妙な顔をしてあたりを見まわした。祈祷がおわると、ラスコーリニコフはソーニャのそばへ行った。ソーニャは不意に彼の両手をにぎると、彼の肩に顔を埋《うず》めた。この短い動作がかえってラスコーリニコフを迷わせた。不思議な気さえした。どうしてだろう? 彼に対してすこしの嫌《けん》悪《お》も、すこしの憎しみも抱《いだ》いていないのだろうか、彼女の手にはすこしのふるえも感じられない! これはもう限りない自己卑下というものだった。少なくとも彼はそう解釈した。ソーニャは何も言わなかった。ラスコーリニコフは彼女の手をぐっとにぎりしめると、そのまま出て行った。彼はたまらなく苦しかった。いまこのままどこかへ行ってしまって、たとい一生でも、完全な一人きりになれるものなら、彼はどれほど幸福だったろう。というのは、彼はこの頃は、いつもほとんど一人だったが、どうしても、一人きりだと感ずることができなかったのである。ときどき彼は郊外へ行ったり、広い街道へ出たり、一度などはどこかの森へ入りこんだことさえあったが、あたりがさびしくなればなるほど、誰《だれ》かが近くにいるような不安がますます強く感じられるのだった。その不安は恐ろしいというのではなかったが、妙に腹立たしい気持になって、さっさと町へもどり、人ごみの中へまぎれこみ、安食堂か居酒屋に入ったり、盛り場やセンナヤ広場をうろついたりするのだった。こちらのほうが気が楽で、かえって孤独のような気さえした。ある居酒屋で、日暮れまえに、歌をうたっていた。彼は小一時間もじっと坐《すわ》って、歌を聞いていた。そしてひじょうに楽しかったことをおぼえている。しかしおわりごろになると、彼は急にまた不安になりだした。不意に良心の苛責《かしゃく》に苦しめられはじめたらしい。《ぼんやり坐って、歌なんて聞いているが、そんなことをしていていいのか!》――彼はふとこう思ったようだ。しかし、彼はすぐに、それだけが彼を不安にしているのではない、とさとった。早急《さっきゅう》に解決しなければならない何かがあったが、そのことの意味を考えることも、言葉であらわすこともできなかった。すべてが糸玉のようなものに巻きこまれてしまうのだった。《いやいや、こんなことをしているよりは、なんでもかまわん、たたかったほうがましだ! いっそまたポルフィーリイとやり合うか……それともスヴィドリガイロフと……早くまた誰かが挑戦《ちょうせん》してくればいい、攻撃をかけてくればいい……そうだ! そうだ!》――彼はこう思った。彼は居酒屋を出ると、ほとんど駆け出さないばかりに歩きだした。ドゥーニャと母のことを思うと、彼はどういうわけかたまらない恐怖におそわれた。その夜、明け方近く、彼はクレストーフスキー島の茂みの中で、熱病にかかったようにがくがくふるえながら、目をさました。家へもどったのは、もう白々と夜が明けかけたころだった。何時間か眠ると熱病はおさまったが、目をさましたのはおそく、午後の二時頃だった。
彼はその日がカテリーナ・イワーノヴナの葬式のある日だったことを思い出し、参列しなかったことを喜んだ。ナスターシヤが食べものを運んで来た。彼はほとんどむさぼるようにして、ひどくうまそうに食べ、そして飲んだ。頭がすっきりして、気持もこの三日ほどのうちでいちばん落ち着いていた。彼は先ほど極度の恐怖におそわれたことを、ちらと思い出し、自分でもあきれたほどだ。ドアが開いて、ラズミーヒンが入って来た。
「あ! 食べてるな、うん、病気じゃないらしい!」と言うと、ラズミーヒンは椅子《いす》を引きよせて、テーブルをはさんでラスコーリニコフと向い合いに坐った。
彼はひどくいらいらしている様子で、それをかくそうともしなかった。彼はいかにもいまいましそうな話しぶりだったが、別にせきこみもしないし、声を張り上げるでもなかった。どうやら何か特別の、異常とさえいえるような意図を胸に秘めているらしかった。
「おい聞けよ」と彼はぴしりと言った。「ぼくはもうきみなんかどうなろうとかまわん、今度という今度は、きみのやることがまったく理解できないことが、はっきりとわかったからだ。ぼくが問《と》い訊《ただ》しに来たなどとは、思わないでもらいたい。誰が、胸《むな》くそわるい!こっちからごめんだよ! きみのほうからいま、秘密をすっかり打ち明けるといっても、ぼくは聞きもしないで、ペッと唾《つば》をはいて、出て行くだろうね。ぼくが来たのは、まず第一に、きみが狂人だというのはほんとうかどうか、この目ではっきりとたしかめるためだ。きみについては、知ってると思うが、狂人か、あるいはその傾向がひじょうに強いらしい、と信じこんでいる向きがある(まあ、そこらの連中だが)。はっきり言うが、ぼく自身もその意見の支持に大きく傾いている。というのは第一に、きみの愚劣な、しかもある意味ではみにくい行動(どうしても説明のつかぬ行動)、第二にお母さんと妹さんに対する先日のきみの態度から判断してだ。あの人たちに対してあんな態度がとれるのは、狂人でなければ、ごろつきか、根性《こんじょう》のくさったやつだけだ。だから、きみは狂人ということになる……」
「母たちに会ったのは、もう大分まえ?」
「今日だよ。きみはあれ以来会っていないんだな? どこをうろうろしてるんだ、え、ぼくは三度も寄ったんだぜ。お母さんが昨日から病気がひどくなって、きみのところへ行きたいと言いだし、アヴドーチヤ・ロマーノヴナがとめたが、どうしてもきかないんだ。《あの子が病気だったら、頭がみだれていたら、母のわたしでなくて、誰が世話をしてやるの?》と言うんだよ。お母さんを一人放《ほう》り出すわけにもいかんので、三人でいっしょにここへ来たんだ。戸口につくまでずっとお母さんをなだめながらさ。入ってみると、きみがいない。ほら、ここにお母さんは坐ってさ、十分ほどじっと待っていた。ぼくたちは黙ってそのそばに立っていた。やがて立ち上がって、こう言うじゃないか、《外へ出て行ったとすれば、病気じゃないのだろう、わたしのことなんか忘れてしまったんだよ。母親が戸口に立って、施しものでも受けるみたいに、やさしい言葉をねだるなんて、みっともないし、恥ずかしい話だよ》、そして家へ帰って、寝ついてしまったんだ。いまは熱がかなり高くて、《自分の女《・・・・》に会う時間はあるんだねえ》なんて嘆いているんだぜ。自分の女《・・・・》というのは、ソーフィヤ・セミョーノヴナのことだよ、きみの許嫁《いいなずけ》か、愛人か、ぼくは知らんがね。そこでぼくは、早速ソーフィヤ・セミョーノヴナのところへ出かけたんだ、何もかもはっきりさせようと思ってさ、――行って見ると、寝棺がおいてあって、子供たちが泣いてるじゃないか。ソーフィヤ・セミョーノヴナは子供たちの喪服の寸法をはかっている。きみはいない。ぼくは一わたり見てから、失礼をわびて、もどり、そのとおりアヴドーチヤ・ロマーノヴナに報告した。つまり、そんなことはばからしい憶測で、自分の女《・・・・》なんていやしない、とすれば、どうしても狂気としか考えられないじゃないか。ところがどうだ、きみはいまけろりとして、子牛の煮たのをむしゃむしゃやっている、まるで三日も食べなかったみたいにさ。そりゃまあ、狂人だって食うだろうさ、しかしだ、たとえきみはぼくと一言も口をきかないとしてもだ、やはりきみは……狂人じゃないよ! それはぼくは誓って言う。ぜったいに狂人じゃない。だから、きみたちのことはもう知らんよ、何か秘密があるんだ、ぼくに言えないかくしごとがあるんだろうからな。ぼくはきみたちの秘密に頭を悩まそうとは思わんよ。なに、きみを罵《ば》倒《とう》しに寄っただけさ」と、彼は立ち上がりながら、言葉をむすんだ。「そうでもせんと気がおさまらんのでな。ぼくはいまから何をしたらいいかくらいは、ちゃんと知ってるさ!」
「いったい何をしようというんだい?」
「ぼくが何をしようと、きみになんの関係があるんだ?」
「酒をすごさないようにしろよ!」
「どうして……どうしてそんなことがわかった?」
「そりゃ、わかるさ!」
ラズミーヒンはちょっとの間黙っていた。
「きみはいつもひじょうに思慮の深い男だった、そして決して、一度も頭がへんになったことなどなかった」と彼は不意に熱をこめて言った。「そのとおりだ、ぼくは痛飲するよ! もう会うまい!」
そう言って、彼は出て行きかけた。
「ぼくはきみのことを、一昨日《おととい》だったと思うが、妹に話したよ、ラズミーヒン」
「ぼくのことを? だって……いったいどこで一昨日妹さんに会えたんだ?」と、不意にラズミーヒンは足をとめ、いくらか蒼《あお》ざめさえした。胸の中で心臓がしだいに緊張の度を加えて鼓動をはじめたのが、察しられた。
「ここへ来たんだよ、一人で、ここへ坐って、ぼくと話し合ったんだ」
「妹さんが!」
「そうだよ、妹が」
「きみはいったい何を話したんだ……つまり、そのぼくのことだが?」
「きみはひじょうに善良で、正直で、しごとの好きな男だと、あれに言ったよ。きみがあれを愛していることは、言わなかった。そんなことは言わなくとも、あれが知っている」
「あの人が知っているって?」
「きまってるじゃないか! ぼくがどこへ行こうと、どんなことになろうと、――きみはいつまでもあの二人の守り神であってくれ。ぼくは、いわば、あの二人をきみに渡すよ、ラズミーヒン。こんなことを言うのは、きみがどんなに妹を愛しているか、よく知ってるし、きみの心の清らかさを信じているからだよ。妹がきみを愛するにちがいないことも、知ってるよ。もしかしたら、もう愛してるかもしれない。だから、どっちがいいと思うか、自分で決めるんだな――飲んだくれる必要があるかどうか」
「ロージカ……きみは……おい……ええッ、くそ? で、きみはどこへ行こうというんだい? でも、それはいっさい秘密だというのなら、まあいいさ! だがぼくは……秘密をさぐり出すよ……きっと何かばかばかしいことだ、おそろしくつまらないことなんだ、きみの一人芝居だよ、きっとそうだよ。しかしきみは、実にすばらしい男だ! 実にすばらしい男だ!……」
「ぼくはいま言いそえようと思って、きみに邪魔されたんだが、きみはさっきそんな秘密なんか知りたくもないと言ったね。あれは実に賢明だよ。時期が来るまで放《ほ》っておいてくれ、心配しないでくれ。すべては時が来ればわかるよ、必要な時が来ればね。昨日ある男がぼくに言ったよ、人間には空気が必要だ、空気が、空気が、ってね! ぼくはいまその男のところへ行って、この言葉の裏の意味をさぐってみるつもりだ」
ラズミーヒンは突っ立ったまま興奮した様子で、じっと考えこんでいた。何やらしきりに思いめぐらしていた。
《こいつは政治的な秘密結社の同志だな! きっとそうだ! そしてやつは何か大事を決行しようとしているのだ、――それにちがいない! それ以外は考えられぬ、そして……ドゥーニャもそれを知っているのだ……》ふっと彼はこう思いついた。
「じゃ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナはよくここへ来るんだね」と彼は言葉に節をつけるようにして言った。「ところで、きみはその男と会おうとしている、空気がもっと必要だ、空気が、とか言った男と……してみると、あの手紙も……やはり、その筋からきたものだな」と、彼はひとり言のように断定した。
「手紙とは?」
「あのひとは一通の手紙を受け取ったんだ、今日、それを見るとはっとした様子だった。ひどく。とにかく普通のおどろきようじゃなかった。ぼくがきみのことを口に出したら、黙っててくれと頼むんだ。そして……そして、もう間もなく別れることになるかもしれないなんて言って、何やらぼくに熱心にお礼を言って、それから自分の部屋へ入って、鍵《かぎ》を下ろしてとじこもってしまったんだ」
「あれが手紙を受け取ったって?」とラスコーリニコフは考えこんだ様子で聞きかえした。
「そう、手紙をね。きみは知らなかったのかい? フム」
二人はしばらく黙っていた。
「じゃこれで、ロジオン。ぼくはね、きみ……たしかに一時飲んだくれたことがあったよ……でもまあ、別れよう、うん、一時ね……まあいい、さようなら! ぼくももう行かなくちゃ。酒は飲まんよ。もう飲まんでもいい……こいつめ!」
彼は急いだ、が、もう廊下へ出て、うしろ手にドアをしめてしまってから、急にまた開けて、どこか横のほうを見ながら、言った。
「ついでだが! あの殺人事件をおぼえてるかい、ほら、ポルフィーリイのあつかってる、老婆殺しさ? 言っておくけど、犯人が見つかったよ。自白して、証拠をすっかり申し立てたんだ。そいつは例の職人の一人だったんだよ、ペンキ屋さ、ほら、おぼえているかい、ぼくがあのときしきりに弁護してたろう? おどろくじゃないか、あの庭番とさ、二人の証人がのぼって行ったとき、階段のところで喧《けん》嘩《か》をしたり、きゃッきゃ笑ったりしてたのは、目をごまかすためだったというんだよ。あんな犬ころにしては、頭も腹もありすぎるじゃないか! 信じられないけど、自分で逐一説明し、すっかり自白したんだからしょうがない! まんまと一杯くったよ! なに、ぼくに言わせりゃ、こいつは要するに嘘《うそ》とごまかしの天才、法の目をかすめる天才なんだよ!――だから、別におどろくことはないわけだ! そういうやつだっているだろうさ!で、そいつが堪えられなくなって、自白したというんだが、それだけによけいぼくはやつの言葉を信じるね。そのほうがずっと真実性があるよ……それにしてもぼくは、ぼくは、まんまとひっかけられたわけさ! あんなやつのために真剣に頭を悩ましたりしてさ!」
「頼むからおしえてくれ、きみはどこからそれを知った、そしてどうしてそんなに関心をもってるんだ?」とラスコーリニコフは明らかに動揺の色をうかべながら聞いた。
「おい、よせよ! どうして関心をもってるって! とぼけるなよ!……ポルフィーリイから聞いたさ、ほかの連中にも聞いたがね。しかし、ほとんどは彼からだ」
「ポルフィーリイから?」
「ポルフィーリイからさ」
「それで何を……何をあの男が?」と、ラスコーリニコフはぎょっとして尋ねた。
「彼はそれをみごとに説明してくれたよ。彼一流の心理的方法でね」
「彼が説明したって? 自分から進んできみに説明したのか?」
「そうだよ、自分から。じゃ、これで! あとでまたすこし話すが、いまは用があるんだ。まえには……一時、ぼくもちょっと……思ったことがあった……まあそんなことはいいや。あとで!……もう酒なんか飲まんでもいいさ。飲まなくたって、きみにはしたたか酔わされたよ。たしかにぼくは酔ってるよ、ロージカ! いまは酒も飲まんのにふらふらだ、じゃ、失敬。また来るよ、じきに」
彼は出て行った。
《あいつは、あいつは政治的秘密結社に属している、これは確かだ、まちがいない!》ゆっくり階段を下りながら、ラズミーヒンは腹の中できっぱりと断定した。《そして、妹まで引きこんだ。これはアヴドーチヤ・ロマーノヴナの気性《きしょう》を考えると、大いにあり得ることだ、大いに。二人は何度か会っていた……そういえば、彼女もほのめかしたことがあった。彼女のいろんな言葉……ちょっとした言葉のはし……ほのめかすような態度から考えて、たしかにそうにちがいない! そうでないとしたら、この訳のわからんもつれをどう説明したらいいんだ? フム! だのにおれは、考えるにことかいて……おお、おれはなんてことを考えかけていたのだ。そうだ、あれは気の迷いだった、あいつにすまないことをした! あのときあいつがうす暗いランプの下にいたので、おれの頭までぼうッとうす暗くなってしまったんだ。チエッ! おれはなんというけがらわしい、乱暴な、卑劣な考えをもったのだ! ミコライ、よく自白してくれた……これでまえのこともほとんど説明がつく! あのときのあいつの病気も、いろんな奇妙な行動も、それにそのまえの、大学にいたころのあいつさえ、わかるような気がする。いつも実に暗い、気むずかしい男だったが……でもさっきのあの手紙は、いったい何を意味するのだろう? あれもやはりこれに関係したものかもしれん。誰から来たものか? あやしいぞ……フム。いや、おれはすっかりさぐり出すぞ》
彼はドゥーニャのことをいろいろと思い出しながら、あれこれ思い合せていると、胸がじーんとしてきた。彼ははじかれたようにとび上がると、いきなり駆け出した。
ラスコーリニコフは、ラズミーヒンが出て行くとすぐに、立ち上がって、くるりと窓のほうを向き、自分の部屋の狭さを忘れたように、あちらの隅《すみ》からこちらの隅と歩き出したが……すぐにまたソファに腰を下ろした。彼はまた身体中《からだじゅう》に、新しい力がみなぎったような気がした。また闘いだ、――出口が見つかったのだ! 《そうだ、これは出口が見つかったということだ! このままではたまらない、なにしろしっかり栓《せん》をして、息もつまりそうな中にとじこもっていたので、胸が苦しくて、気が遠くなりかけていたんだ。ポルフィーリイのところでのミコライとの一件以来、おれは出口のない狭い穴の中で息がつまりそうになっていた。ミコライがすんだと思うと、その同じ日にソーニャとの一幕だ。筋書きも結末も、まえに考えていたものとは、まったく別なものにしてしまった……つまり、瞬間的に、急激に、疲れが出たんだ! 一時に!しかもあのときおれは、こんなひどい苦しみを心に抱いて一人で生きては行けない、というソーニャの言葉に、同意したんだ、自分から同意したんだ、心からそう思ったんだ! ところで、スヴィドリガイロフは? あの男は謎《なぞ》だ……あいつはおれを不安にする、それは事実だ、しかしその不安はあれとは違うようだ。スヴィドリガイロフとも、おそらく、これから闘わねばならんだろう。ひょっとしたら、スヴィドリガイロフも完全な出口かもしれん。だが、ポルフィーリイは問題が別だ》
《そこでポルフィーリイだが、自分から進んでラズミーヒンに説明した、心理的《・・・》に説明した! また例のいまいましい心理的方法をもち出しはじめたな! あのポルフィーリイが? あのとき、ミコライがでてくるまでに、おれとあいつの間にあのような対決があったのだから、ミコライが犯人だなどと、あいつがちらッとでも信じたとは、とても考えられない。あの対決には、一つのこと《・・・・・》以外には、正しい解釈を見《み》出《いだ》だすことはできない! (この数日の間に何度か、ラスコーリニコフの頭に、このポルフィーリイとの対決の場面がこまかい断片となってちらちら浮んだ。しかし彼には、それを完全な形で思い出すことはできなかったようだ)。あのとき二人の間では、ミコライなどではもうポルフィーリイの確信の底にあるものをぐらつかせることのできないような、そうした言葉が語られ、そうした動作やしぐさが演じられ、意味深い視線が交わされ、いくつかの言葉は意味ありげな声で語られ、もうぎりぎりのところまで来てしまっていたのだ。(ミコライがでてきたときだって、ポルフィーリイは最初の一言、一つのしぐさからもうそらで知っていたのだ)。
《しかし、なんということだ! ラズミーヒンまでが疑いだしたとは! 廊下のランプの下の場面、あれがひっかかりになったわけだ。そこで彼はポルフィーリイのところへとんで行った……だが、いったいなんのためにあいつはラズミーヒンを欺《だま》そうとしたのか? どういう目的があって、ラズミーヒンの目をミコライにそらさせるのか? きっと、何か考えだしたのだ。これには裏がある、だが、どんな? もっとも、あの朝からかなりの時が過ぎた――あまりに、あまりに経《た》ちすぎたほどだ。ところがあれっきり、ポルフィーリイの噂《うわさ》はぴしゃッと聞かなかった。これはどうしたことだ。むろん、よくない……》
ラスコーリニコフは帽子をつかむと、考えこんだ様子で、部屋を出た。ずっとこの何日かを通じて、今日はじめて、彼は少なくとも自分の意識が健康であることを感じていた。
《スヴィドリガイロフとの決着をつけるんだ》と彼は考えた。《何が何でも、できるだけ早く。あいつも、おれが行くのを待ってるにちがいない》
そう思うと、とたんに、彼の疲れた心からはげしい憎《ぞう》悪《お》がこみ上げてきて、スヴィドリガイロフとポルフィーリイの二人のうちどちらかを、殺してやりたいような気持になった。少なくとも彼は、いまでなければいずれ、これを決行できそうな気がした。
《どうなることか、いずれはわかるさ》と彼はひそかに呟《つぶや》いた。
しかし、彼が入り口のドアを開けたとたんに、思いがけなく、当のポルフィーリイとばったり出会った。向うはこちらへ入って来るところだった。ラスコーリニコフは一瞬唖《あ》然《ぜん》とした。しかし不思議なことに、彼はポルフィーリイをそれほどびっくりもしなかったし、ほとんど恐れもしなかった。彼はぎくっとしただけで、とっさに、素早く心構えをした。
《これで結末がつくかもしれん! しかし、どうして泥棒猫《どろぼうねこ》みたいに、こっそり忍びよって来たのだろう、ぜんぜん気がつかなかった! まさか立ち聞きしていたわけでもあるまい?》
「意外でしたろうな、ロジオン・ロマーヌイチ」と、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは笑いながら大声で言った。
「まえまえから一度寄ろうと思っていたものだから、ちょっと通りかかって、五分くらいお邪魔してもよかろう、とこう思いましてね。どこかへお出かけですか? どうぞどうぞ。ただその、よろしかったら、煙草《たばこ》を一本だけ吸わせてくださいな」
「さあおかけなさい、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、どうぞどうぞ」とラスコーリニコフは客に椅子《いす》をすすめたが、それがいかにも満足そうな親しげな態度で、もし自分を外からながめることができたら、きっと、われながらおどろいたにちがいない。勇気の最後ののこりかすを掻《か》き出《だ》したのである! 人はよく強盗に会ったときなど、死の恐怖の三十分をこんなふうに堪えるものだ、そしていよいよ短刀を喉《のど》に突きつけられても、もう恐ろしさなど通りこしてしまうのである。彼はポルフィーリイのまっすぐまえに腰を下ろして、まばたき《・・・・》もしないで、じっと相手を見すえていた。ポルフィーリイは目をそばめて、煙草を吸いはじめた。
《さあ、言え、言え》ラスコーリニコフの心臓から、こういう言葉が、たえずとび出そうとしているようだった。《さあ、どうした、どうしたんだ、どうして言わないのだ?》
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「まったくこの煙草《たばこ》というやつはこまったものですよ!」とうとうポルフィーリイ・ペトローヴィチは、煙草を吸いおわると、ほうッと一つ息を吐いて、こう言いだした。「毒ですよ、まちがいのない毒とわかっていながら、やめることができない! 咳《せき》がでる、喉《のど》がむずむずしだした、さあ喘息《ぜんそく》だ。わたしはね、臆病《おくびょう》なものですから、早速B先生のところへ診《み》てもらいに行きましたよ、――先生はどんな病人でも最低《ミニマム》三十分は診てくださるんでね。こつこつ打診したり、聴診器をあてたりしてましたがね、――とにかく、煙草がよろしくない、肺臓が膨張している、というんです。でも、どうしてやめられます? 代りに何をやれというんです? 何しろ酒をやらんのでね、こいつがそもそもいけないんですよ、へ、へ、へ、飲めないってことは、不幸ですよ!まったく、あっち立てればこっちが立たず、ロジオン・ロマーヌイチ、すべては相対的なものですよ!」
《いったい何を言ってるんだ、また例のおきまりのて《・》をつかいやがるのかな!》と彼はむかむかしながら考えた。不意に、この間の対決の場面がすっかり彼の記憶によみがえった、そしてあのときの感情が波のように彼の心におしよせてきた。
「実はね、一昨日《おととい》の夕方一度ここへ寄ったんですよ。ご存じないようですな?」と、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは部屋の中を見まわしながら、つづけた。「この部屋へ入りました。やはり、今日みたいに、まえを通ったものですから、――ひとつ、訪問してやろうと思いましてな。寄ってみると、ドアが開いたままになっている。ひとわたり見まわして、しばらく待ってみて、女中にも来たことを言わないで、――帰りました。いつも鍵《かぎ》はしめないんですか?」
ラスコーリニコフの顔はますます暗くなった。ポルフィーリイは相手の胸の中を見ぬいたらしい。
「釈明に来たんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、釈明にね! どうしてもあなたに釈明せにゃならんと思いましてな」彼はにやッと笑いながらこう言うと、軽く掌《てのひら》でラスコーリニコフの膝頭《ひざがしら》をたたきさえした。
しかし、それと同時に、彼の顔は急にまじめな心配そうな顔つきに変り、しかもラスコーリニコフのおどろいたことに、憂《うれ》いにつつまれたようにさえ見えた。彼はまだポルフィーリイのこんな顔を見たこともなかったし、考えたこともなかった。
「このまえはわたしたちの間に妙な場面が展開しましたな、ロジオン・ロマーヌイチ。たしか、はじめてお会いしたときも、やはり妙な場面があったような気がしますが、でもあのときは……まあ、いまになってみれば、どっちもどっちですね! まあね、わたしはあなたにひじょうにすまないことをしたかもしれません。わたしはそれを感じていますよ。まったくひどい別れ方をしたものですよ、ねえ、あなたは神経がさわいで、膝頭がふるえていたし、わたしも神経がさわいで、膝頭がふるえていました。しかもあのときは、どうしたものかわたしたちの間が妙にこじれてしまって、紳士的とは言えませんでしたよ、ねえ。とはいえ、わたしたちはやはり紳士にちがいありませんよ。つまり、いかなる場合においても、まず紳士です。これは心得ておくべきです。おぼえておいででしょうな、あのときどこまで行ったか……まったくもう、ぶざまといっていいほどでしたよ」
《なんだってこんなことを言うんだろう? おれを誰《だれ》と思ってるんだ?》と、ラスコーリニコフは頭をちょっと上げて、ポルフィーリイの顔に目を見はりながら、唖《あ》然《ぜん》として自問した。
「そこでわたしは考えたんですよ、もうお互いにつつみかくしなく行動したほうがいいだろう、とね」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはわずかに顔をそむけ、目を伏せて、もうこれ以上あつかましい凝視で自分の以前の犠牲者を当惑させたくないらしく、これまでの自分のやり方や詭《き》計《けい》を恥じるような様子で、言葉をつづけた。「そうですとも、あんな疑惑やあんな場面がそう長くつづくものじゃありませんよ。あのときはミコライがけり《・・》をつけてくれたからいいようなものの、でなかったら、わたしたちの間がどこまで行ったか、想像もつきませんよ。あのいまいましい町人めは、あのとき、あの部屋の仕切りのかげに坐《すわ》っていたんですよ、――どうです、こんなことが考えられますか? そんなことは、もちろん、あなたはもうご存じだ。もっとも、やつがあのあとであなたのところへ行ったことは、わたしも知ってますがね。しかし、あなたがあのとき予想したようなこと、それはなかったんですよ。つまりわたしは誰も呼びにやらなかったし、あのときはまだなんの指《さし》図《ず》もしていなかった。どうして指図しなかった、とお聞きですか? なんと説明したらいいのか。まあ、ああしたことでわたし自身がいささか面食らっていたらしい、とでも言っておきましょうか。庭番たちを呼びにやったのがやっとでしたよ。(庭番たちは来しなに見かけたでしょう)。あのときある考えがちらとわたしの頭をかすめたんです。一つの考えが、素早く、稲妻のようにね。ご存じでしょうが、あのときわたしはもうそれを確信していたんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ。よし、ひとつは一時逃《のが》すようなことがあっても、その代りもうひとつは尻《し》っぽをおさえてやる、――おれがねらいをつけた肝心なほうだけは、ぜったいに逃さんぞ、とこう思いましたよ。ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはもともとひじょうに怒《おこ》りっぽい。あなたの性格や心情の他のあらゆる主な特徴――これはもうある程度わかったつもりで、自《うぬ》惚《ぼ》れているんだがね――に比べると、すこしひどすぎるようにさえ思える。そりゃむろん、あのときでさえわたしは、人間がちょっと立ち上がったと思うと、いきなりべらべら秘密をすっかりしゃべってしまうなんてことが、そうざらにあるものではないくらいは、判断できましたよ。そういうことはあるにしても、人間が忍耐の限界をこえたというような特別の場合で、どっちにしても珍しいことです。それはわたしも判断できました。そこで考えましたよ、ほんのちょっとした証拠でもいいからつかまえたいものだ! どんなに些《さ》細《さい》なものでもいい、たった一つでいい、だがその代りしっかり手でつかまえられるもの、心理だけじゃなく、物的証拠でさえあれば、とね。というのは、もしある人間が罪を犯しているならば、いずれにしても、その人間から何かしら動かぬ証拠が、かならず現われるものだと考えたからですよ。まったく意表外な結果をあてにしてもかまいません。あのときはわたしはあなたの性格に望みをかけたんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、何よりも性格にね! あのときはもうすっかりあなたに望みをかけていましたよ」
「でもあなたは……いったいどうして今度はそんなことばかり言うんです」とラスコーリニコフは、とうとう、質問の意味をよく考えもせずに呟《つぶや》いた。
《この男はなんのことを言ってるのだろう》と彼は腹の中でまよった。《まさか本気でおれを無実と考えているとは思われないが?》
「どうしてこんなことを言うって? 釈明に来たからですよ、つまり、それを神聖な義務と考えましてね。あなたに何もかもすっかり打ち明けて、あのときの、いわば心の迷いのいきさつをですね、ありのままに説明したいのですよ。あなたにはずいぶん苦しい思いをさせましたからねえ、ロジオン・ロマーヌイチ。わたしだって悪人じゃありませんよ。痛めつけられてはいるが、誇りが高く、人に従うをいさぎよしとしない、しかも癇《かん》のつよい、特にこの癇のつよい人間にとって、こんな屈辱を心にになって行くことがどんなに苦しいかくらいは、わたしだってわかりますよ。わたしは何はともあれ、あなたをもっとも高潔な人間、寛容の芽ばえをさえもっている人間と考えています、といって、あなたの世界観や人生観に全面的に同意するというわけではありませんがね。まずこうことわっておくのは、つつみかくしなく率直に言うのが義務だと思うからです。とにかく、嘘《うそ》だけは言いたくありませんからな。あなたを知ると、妙にあなたに惹《ひ》かれるものを感じたんです。わたしがこんなことを言うと、あなたはきっとお笑いでしょうな? その権利が、あなたにはおありですよ。最初の一瞥《いちべつ》からあなたがわたしを好いていないことは、知ってますよ。だって、ほんとうのところ、好きになる理由がひとつもないですものな。まあ、どうお考えになろうと、かまいませんが、いまのわたしとしては、なんとしてもできてしまった印象をぬぐい去り、わたしだって人の心をもち、善悪をわきまえた人間だってことを、証明したい気持でいっぱいなんですよ。ほんとうです」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはぐっと構えてしばらく言葉を休めた。ラスコーリニコフは新しい驚愕《きょうがく》に似た感情がよせてくるのを感じた。ポルフィーリイが彼を犯人と見ていないという考えが、不意に彼をおびやかしはじめた。
「あのときどうして急にあんなふうになったか、一々順序を追って話す必要は、まあないでしょう」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはつづけた。「そんなことは、むしろ余計なことだと思いますね。それに、とてもできそうにもありませんし。だって、どうしたらあんなことが詳しく説明できるんです? まず噂《うわさ》が流れました。それがどんな噂で、誰から、いつ出たか……そしてどんな経路で事件があなたにまで及んだか、――なんてことも、余計なことだと思います。わたし個人の場合は、ある偶然からはじまったのです。それはまったく文字どおりの偶然で、まあ大いに起り得るかもしれませんし、めったに起り得ないかもしれません。どんな偶然かって? フム、まあこれも話すほどのこともない、と思いますね。そうしたすべてのことが、噂も偶然もですね、そのときわたしの頭の中で一つの考えに融《と》け合ったわけです。率直に白状しますが、だってどうせ白状するからには、すっかり白状しなきゃね、――あのときあなたに攻撃をかけたのは、わたしが真っ先だったんですよ。まあ、老婆の質草のおぼえ書きとか、その他いろいろありましたが、――あんなものはみなナンセンスですよ。あんなものは何百となく数え立てられます。あのときこれも偶然ですが、警察署での一幕を詳細に知ることができました。それもちらと小耳にはさんだなんていうんじゃなく、あるしっかりした人の口から聞いたのですが、その人は自分でも気付かずに、あの一幕をびっくりするほど詳しくおぼえていたんですよ。そうしたことがみな一つまた一つと、次々と重なっていったわけですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! ねえ、どうです、どうしたってある考えに傾かざるを得ないじゃありませんか? 兎《うさぎ》を百匹あつめても、決して馬にはなりません、嫌《けん》疑《ぎ》を百あつめたところで、証拠にはならんものです。たしかイギリスの諺《ことわざ》にこんなのがありましたがね、でもそれは単なる分別というものですよ。頭がかっとなって、熱中しているときは、とてもそんなのんびりしたことは言っておられません、判事だって人間ですからな。そこでわたしはあなたの論文を思い出したんですよ、あの雑誌にのった、ほら、はじめてあなたが訪ねて来《こ》られたときかなり突っこんで話しあいましたね、あれですよ。あのときわたしはからかうようなことを言いましたが、あれはあなたを誘いこんで口を割らせるためだったのです。くりかえして言いますが、あなたはひどく苛々《いらいら》して、病的でしたね、ロジオン・ロマーヌイチ。あなたが大胆で、自尊心が強く、冗談がきらいで、しかも……感じていた、もう多くのことを感知していた、そういうことはすっかりわたしはもうまえまえから知っていました。そうしたさまざまな感じがわたしにもおぼえがあるので、あなたの論文もなつかしい気持で読みました。ああした思想は、眠られぬ夜など、胸がはげしく高鳴り、圧《お》しひしがれた熱狂に焼き立てられながら、熱くなった頭の中から生れるものです。で、青年のこの圧しひしがれた尊大な熱狂というやつは危険です! わたしはあのときはからかいましたが、いまははっきり言いましょう、ああした若々しい熱のこもった最初の試作というものが、わたしは大好きなんです。なんと言いますか、その、恋人みたいに好きなんですよ。けむり、霧、霧の中からひびいてくる弦の音色とでも言いましょうか。あなたの論文は不合理で空想的ですが、そこにはなんとも言えないひたむきな誠意がひらめいています。毅《き》然《ぜん》たる青年の誇りがあります。必死の勇気があります。あれは暗い論文です、だがそれもいいでしょう。わたしはあなたの論文を読むと、それを別にしておきました。そして……しまうとすぐに、ふとこう思ったものです、《さて、この男はこのままではすまんぞ!》とね。さあ、どうでしょう、え、こうした前置きがあったあとで、その後に来るものに熱中せずにすむでしょうか? おや、とんでもない! まさか、わたしがいま何か言ってるというんですか? 何か肯定してますか? わたしはそのときちょっと気になっただけですよ。何かあるのかな? と考えたわけです。何もない、つまりまったく何もない、おそらく、ぜったいに何もありゃすまい。それにそんなふうに夢中になることは、予審判事のわたしとしては、まったく不体裁なはなしですよ。なにしろわたしはミコライという容疑者をにぎっていて、もうちゃんとした物証があがっているんですから、――あなたがなんと言おうと、事実は事実です! ここでも例の心理的方法を使っています。調べないわけにはいきません、なにしろやつの死活の問題ですからねえ。なんのためにいまこんなことをあなたに説明していると思います? つまり、あなたに頭でも心でもよくわかってもらって、あのときのわたしの意地わるい行動を許してもらうためですよ。意地わるい行動じゃないんですがね、ほんとですよ、へ、へ! どうです、あなたは、あのときわたしが家宅捜索に来なかった、と思いますか? 来ましたよ、来ましたとも、へ、へ、あなたがこのベッドに病気でねていたときにね、ちゃんと来ましたよ。正式じゃなく、名乗りもしませんでしたがね、ちゃんと来たんですよ。あなたの部屋はちりひとつまで調べられたんですよ、しかも真新しい足跡を辿《たど》ってね。しかし――umsonst(むだ骨でしたよ)! そこで考えましたね、いまにこの男はやって来る、きっと自分のほうからやって来る、しかもじきに。犯人なら、きっとやって来る、とね。他《ほか》の者なら来ないが、この男は来る。それから、おぼえてるでしょう、ラズミーヒン君がいろんなことをあなたに言いだしましたね? あれはあなたを動揺させるために、わざと仕組んだんですよ。彼の口からあなたに言わせるために、わざと噂を流したんです。都合のいいことに、ラズミーヒン君はかっとなると黙っていられないた《・》ち《・》でね。ザミョートフ君がまずあなたの憤《ふん》怒《ぬ》とあけっぴろげな大胆さに目をぱちくりさせたわけです。だって、居酒屋でだしぬけに《おれが殺したんだ!》なんて言い出すとは、びっくりするのが当りまえです。あまりに大胆すぎる、あまりに不敵すぎる、そこでわたしは考えましたね、もしこの男が犯人とすれば、おそるべき相手だ! そのときはそう思ったんです。それから待ちました! ありたけの力をはりつめてあなたの来るのを待ちました……ザミョートフはあなたにまんまとしてやられたんです……だって、困ったことに、このいまいましい心理ってやつはどっちともとれるんですよ! でまあ、わたしは待ったわけです。するとどうでしょう、天の助けか――あなたが来たじゃありませんか! わたしは胸がどきッとしましたよ。ええ! さて、あのときあなたはなぜ来なければならなかったのか? そしてあの笑い声、あなたが入って来たときのあの笑い声です、おぼえてるでしょう、あれでわたしはとっさにガラス越しに見るように、すべてをさとったのです、でも、あれほど張りつめた気持であなたを待っていなかったら、あなたのあの笑い声の中に何も気付かなかったでしょう。その気でいるとこういうことになるものです。それにあのときはラズミーヒン君もいました、――あ!石、石ですよ、おぼえてますか、その下に盗品をかくしたという石を? え、どこかそこらの野菜畑の中にその石が見えるような気がしましたよ、――あなたは野菜畑って言いましたね、ザミョートフに、それからわたしのところでも、もう一度言いましたね? それからあなたのあの論文の分析をはじめて、あなたが意見をのべはじめたとき、――あなたの一言一言が二重に聞えましたよ、まるで別な意味が裏にかくされているような気がしてね! というわけで、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしは最後の柱まで来てしまったのさ、そして額をぶっつけて、はじめて気がついたというわけです。そこで自分に言い聞かせましたね、おれは何をしているのだ! その気になれば、これはみなごく些細な点まで反対の意味の説明がつくじゃないか、しかもそのほうがずっと自然だ。苦しみましたね! 《いやいや、なんとか毛筋ほどの証拠でもにぎれたらなあ!……》とも考えましたよ。だから、あの呼鈴《よびりん》の件を聞いたときは、思わずはッとして、びくッとふるえたほどでした。《しめた、これこそ証拠だ! これだ!》と思いましたね。そしてもう考察している余裕なんてありませんでしたね。ただただ望みました。その瞬間のあなたを自分の目《・・・・》で見るためなら、それだけのために、わたしは千ルーブリくらい喜んで投げ出しましたね、むろん自分の金ですよ。そのときあなたは、あの町人に《人殺し》と面《めん》罵《ば》されてから、百歩ほど並んで歩き、その百歩ほどの間に、その町人に一言も詰問《きつもん》できなかった、というんですからねえ!……まあ、背筋がぞくッとしたことでしょうな? その呼鈴の音、病気で、なかば熱に浮かされながら? こう考えてくると、ロジオン・ロマーヌイチ、あのときわたしがからかったくらいのことで、別におどろくにはあたらなかったじゃありませんか? そしてなぜあなたはああいうときにわざわざ自分から来たんです? まるで何者かにひっぱられたみたいに、そうじゃありませんか、まったく。で、あのときミコライがわたしたちを分けてくれなかったら、それこそ……あのときのミコライをおぼえていますか? よくおぼえているでしょうな? たしかに、あれは雷鳴でしたよ! まったく、黒雲の中からとつぜん鳴りわたって、稲妻がひらめきました! さて、わたしがやつをどう迎えたでしょう? ご存じのように、稲妻なんてこれっぽっちも信じませんでしたね! どこに! あれから、あなたが帰ってのち、やつはいろんなポイントに対して実に手ぎわよく答弁をはじめたので、わたしもおどろきましたがね、しかしぜんぜん相手にしませんでしたよ! いわゆる鉄の意志ってやつでね。よせよ、この寸足らずめ! こんなミコライに何ができるか」
「ラズミーヒンがいましがたぼくに言いましたよ、いまではあなたもミコライを犯人と認めて、それをラズミーヒンに断言したとか……」
ラスコーリニコフは息がつまって、しまいまで言えなかった。彼は相手の腹の底まで読みとって、自分で自分を突っ放したように、言い知れぬ興奮につつまれて聞いていた。彼は信じるのが恐《こわ》かった。だから信じなかった。まだどっちともとれる言葉の中に、彼はどちらにしろもっと正確な、もっとはっきりした意味をつかもうとして、はげしく苦《く》悶《もん》していた。
「ラズミーヒン君ですか!」と、ずっと黙りこくっていたラスコーリニコフの質問に喜んだように、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは叫んだ。「へ! へ! へ! まあ、ラズミーヒン君にはさっさと脇《わき》のほうへ退いてもらわにゃね。差し向いがよろしい、他人は遠慮してくれってわけさ。ラズミーヒン君は人種がちがいますよ、それに第三者ですし、真《ま》っ蒼《さお》な顔をしてわたしのところへかけこんで来ましてね……まあ、どうでもいいですよ、あの男をここへもち出す必要はありませんな! しかしミコライについては、これがどんなテーマか、どんな形で、つまりどんなふうに、わたしが彼を解釈しているか、知っていたほうが都合がいいんじゃないですか? まず第一に、彼はまだ未成年の小僧ですよ、そして臆病者《おくびょうもの》というのじゃありませんが、まあ芸術家とでもいうのでしょうか、何かそうしたところがありますね。ほんとですよ。あの男をそんなふうに言ったからって、笑っちゃいけませんよ。初心《うぶ》で、何にでも染まりやすい。真心はありますが、気まぐれです。唄《うた》もうたうし、踊りもおどります、話もひどくうまいそうで、話をはじめるとまわりが人垣《ひとがき》になります。学校へも通ってるし、指を見せられても倒れるほど笑いころげるし、わからなくなるまで酔っぱらいます。それも酒が道楽で飲むのじゃなく、ときどき飲まされると、やらかすんで、まあ若い者の無茶ですな。彼はあのときちゃんと盗んでおきながら、自分でそれがわからないんです。《地面におちてたものをひろったのが、なんで盗みだ?》というわけです。ところで、ご存じですか、彼は分離派信徒《ラスコーリニック》なのですよ、といってはっきり分離派ともいえませんで、ただある宗派に属しているというだけのことですがね。彼の一族にはベグーン派の者がいましてね、彼もつい最近まで二年間ほど村である長老のもとにあずけられ、信徒の生活をしていたんですよ。こうしたことをわたしはミコライとザライスク出の同郷人たちの口から聞き出したんです。まったく、おどろきましたよ! ただもう荒野に庵《いおり》をむすんで隠遁《いんとん》することを考えてるんですからねえ。狂信的なところがあって、毎夜神に祈り、古い《真理》の書に読みふけっています。ペテルブルグが彼に強烈な刺激をあたえたんですな、特に女性が、それに酒もです。染まりやすい男だから、長老も何もかも忘れてしまった。なんでも、ある画家が彼を好きになって、ちょいちょい訪ねて来るようになった、そこであの事件が起った! さあ、すっかり怯《おじ》気《け》づいてしまって、――首を吊《つ》ろうとした! 逃げ出そうとした! わが国の裁判について民間に流布《るふ》されている通念というものは、まったくどうしようもありませんよ! 《裁かれる》という言葉だけで、もうふるえ上がってしまう者もいるんですからな。誰《だれ》の罪でしょう! まあいまに新しい裁判が何かの答えを出してくれますよ。ぜひ、そうあってほしいものです! さて、監獄に入ってみて、ありがたい長老を思い出したと見えて、聖書もまた出て来たわけです。ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、彼らのある者にとっては、《苦難を受ける》ということがどういう意味をもっているか、知ってますか? それは誰のためというのではなく、ただ一《いち》途《ず》に《苦難を受けなければならぬ》というのです。その苦しみがお上《かみ》からのものであれば、――なおのことです。現代の例ですが、あるおとなしい囚人がまる一年獄中につながれていました。その囚人は毎夜ペチカの上に坐って聖書ばかり読んでいましたが、とにかく普通の読み方じゃなく、夢中になって読みふけっていたんですが、それがどうでしょう、とつぜん、なんの理由もなく、煉《れん》瓦《が》をひとつつかむと、別に何もひどいことをしない看守長に、いきなり投げつけたものです。まあ、投げつけたといっても、けがなどしないように、わざと一メートルほど脇のほうをねらったのです! さあ、武器をもって上司をおそった囚人がどんなことになるかは、わかりきったことです。そして《苦難を受けた》というわけです。ですから、わたしはいま、ミコライが《苦難を受ける》か、あるいは何かそうしたことを望んでいるのではないか、という気がするんですよ。これはわたしは確実に知っています、実際の証拠さえあります。わたしが知っているということを、彼が気付かないだけです。どうでしょう、このような民衆の中から夢想的な連中の出ることを、あなたは認めませんか? どうして、あとを絶ちませんよ。いまになってまた長老の力がはたらきかけてきたわけです、特に首をくくりそこねてからは、しみじみと思い出したんですね。まあ、いまにわたしのところへ来て、すっかり告白してくれるでしょうよ。どうです、堪えられると思いますか? まあ待ちなさい、もうすこしがんばるでしょう! でもわたしは、いまかいまかと待ってるんですよ、彼が自供をくつがえしに来るのをね。わたしはこのミコライってやつが好きになりましてね、綿密に観察しているんですよ。あなたはどう見ましたかな! へ! へ! いくつかのポイントに対しては実に周到な答弁をしましたよ、どうやら必要な知識をあたえられたものと見えて、巧みに用意していました。ところが他のポイントになると、まるでへまばかり言って、なんにもわかっちゃいない、しかもわかっていないことが、自分でも気がつかない。いや、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコライじゃありませんよ! これは病的な頭脳が生みだした暗い事件です、現代の事件です、人心がにごり、血が《清める》などという言葉が引用され、生活の信条は安逸にあると説かれているような現代の生みだしたできごとです。この事件には書物の上の空想があります、理論に刺激された苛立つ心があります。そこには第一歩を踏み出そうとする決意が見えます、しかしそれは一風変った決意です、――山から転落するか、鐘楼からとび下りるようなつもりで決意したが、犯罪に赴くときは足が地についていなかったようです。入ったあとドアをしめるのを忘れたが、とにかく殺した、二人も殺した、理論に従って。殺したが、金をとる勇気がなかった、しかもやっと盗んだものは、石の下に埋めた。ドアのかげにかくれて、外からドアを叩《たた》かれたり、呼鈴を鳴らされたりしたとき、苦痛に堪えたが、それだけでは足りなかった、――そして、もう空き家になった部屋へ、なかば熱に浮かされながら、呼鈴の音を思い出しにやって来る、そして背筋の冷たさをもう一度経験したい気持になったわけだ……まあ、それは病気のせいだとしよう、だがそれだけではない。殺人を犯していながら、自分を潔白な人間だと考えて、人々を軽蔑《けいべつ》し、蒼白《あおじろ》い天《てん》使《し》面《づら》をして歩きまわっている、――いやいや、とてもミコライなんかのできることじゃありませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコライじゃない!」
この最後の言葉は、それまでがいかにも否定するような調子だっただけに、あまりにも意外だった。ラスコーリニコフはぐさりとえぐられたように、身体中《からだじゅう》がふるえだした。
「じゃ……誰が……殺したんです?」彼は堪えきれず、あえぎながら、ふるえる声で尋ねた。ポルフィーリイ・ペトローヴィチはこの質問がまったく思いがけなかったらしく、びっくりしてしまって、思わずぐらッと椅子《いす》の背に倒れかかった。
「誰が殺したって?……」と、自分の耳が信じられないように、彼は聞き返した。「そりゃあなた《・・・》が殺したんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! あなたが殺したんですよ……」彼はほとんど囁《ささや》くように、確信にみちた声でこうつけ加えた。
ラスコーリニコフはソファからとび上がって、二、三秒突っ立っていたが、一言も言わずにまた腰を下ろした。小刻みな痙攣《けいれん》が不意に彼の顔をはしった。
「唇《くちびる》がまた、あのときみたいに、ひくひくふるえてますね」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはかえってあわれむような口調で呟いた。「ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはわたしの言葉をまちがって解釈したらしいですな」彼はちょっと間をおいてから、こうつけ加えた。「それでそんなにびっくりしたんです。わたしがここへ来たのは、もうすっかり言ってしまって、事件をはっきりさせるためですよ」
「あれはぼくが殺したんじゃない」とラスコーリニコフは、悪いことをしているところをおさえられて、びっくりした子供のように囁いた。
「いや、あれはあなたですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたですよ、他の誰でもありません」とポルフィーリイはきびしく、確信をもって囁いた。
二人とも口をつぐんだ、そして沈黙はおかしいほど長く、十分ほどつづいた。ラスコーリニコフは卓に肘《ひじ》をついて、黙って指で髪をかきむしっていた。ポルフィーリイ・ペトローヴィチはきちんと腰を下ろして、待っていた。不意にラスコーリニコフが憎《ぞう》悪《お》の目でじろりとポルフィーリイを見た。
「また例のて《、》をだしましたね、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ! いつもいつも同じて《・》ばかりつかって。よくもまああきないものですね、まったく!」
「え、よしなさいよ、いまのわたしにて《・》なんてなんの必要があります! ここに証人でもいるというなら、別でしょうがね。わたしたちは二人だけで声をひそめて話してるんじゃありませんか。おわかりでしょうが、兎《うさぎ》でも追うように、あなたを追いつめて、捕えるために、わたしはここへ来たんじゃありませんよ。自白なさろうとなさるまいと、――いまのわたしにはどうでもいいことです。あなたに聞くまでもなく、自分ではそう確信しているんですから」
「それなら、どうしてここへ来たんです?」とラスコーリニコフはじりじりしながら尋ねた。「このまえも聞いたことですが、ぼくを犯人と認めているなら、どうしてぼくを投獄しないのです?」
「さあ、その問題ですよ! 順を追ってお答えしましょう。第一に、あわててあなたを逮捕することはわたしにとって不利です」
「不利ですって! 確信しているなら、あなたは当然……」
「いや、そうもいかん、わたしの確信がなんになります? だってこんなことは、いまのところ、わたしの空想にすぎないんですよ。それにどうしてあなたをあそこへ入れて安静《・・》をあたえる必要があります? それはあなたがよく知ってますよ、自分で頼むくらいだから。例えばですよ、あの町人をあなたに対決させて、証言をとろうとしたところで、あなたはこう言うでしょうよ、《きみは酔ってるんじゃないのか? きみといっしょにいるところを誰が見た? ぼくはきみを酔っぱらいと思っただけさ、それに事実きみは酔っていた》――その場合、それに対してわたしはあなたになんと言います、ましてあなたの言葉のほうがあの男よりは正当らしく聞えますからねえ。なぜって、あの男の証言は心理面だけですが――それにあの顔つきです、かえって不利な印象をあたえますよ――あなたのほうがまさに急所を突いてるからですよ。なにしろあいつの大酒飲みは、あまりにも有名です。それにわたし自身、もう何度も率直にあなたに白状したように、この心理面の証言というやつは二つの尻《し》っぽをもっているもので、二本目のほうがずっと大きく、しかもはるかにほんとうらしく見えるものです。おまけにいまのところ、わたしにはあなたに対抗する手段がひとつもないんですよ。とはいえ、やはりあなたを逮捕することになるでしょうな、それであらかじめすっかりあなたにことわっておくために、こうしてわざわざ出かけて来たわけですよ(まったくほめられたやり口じゃありませんがね)。しかも、こんなことをしたらわたしの不利だなんて、言わんでいいことを正直に言うんですからねえ(これもほめられたことじゃありませんな)。さて、第二ですが、わたしがここへ来たのは……」
「それで、第二は?」(ラスコーリニコフはまだ肩で息をしていた)
「つまり、さっきも説明しましたように、あなたに釈明することを自分の義務と考えたからです。あなたに悪人と思われたくないんですよ、まして、信じようが信じまいが、とにかくあなたには心から好意をもっているんですから、なおさらですよ。それで、第三になるわけですが、自首しなさいと、腹をわって率直にすすめるために、来たわけです。このほうがあなたにどれだけ有利かわかりませんし、それにわたしにもずっと有利です、――肩の重荷がおりますからねえ。さあ、どうです、わたしの態度は率直でしょう?」
ラスコーリニコフは一分ほど考えていた。
「ねえ、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、心理だけではと自分で言っていながら、結局は数学に入ってしまいましたね。だが、あなた自身がいままちがっているとしたら、どうします?」
「いや、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしはまちがっておりません。毛筋ほどの証拠はもっています。これはあのとき見つけたんですよ、天の恵みです!」
「それは何です?」
「それは言えませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ。もういずれにしてもこれ以上延ばす権利は、わたしにはありません。逮捕します。よく考えてください。いまとなっては《・・・・・・・》もうわたしにはどっちでも同じことです、だから、わたしがこうしているのは、あなたを思えばこそです。ほんとです、楽になりますよ、ロジオン・ロマーヌイチ!」
ラスコーリニコフは毒々しいうす笑いをもらした。
「たしかに、これはもう笑って片づけられるものじゃありませんね、恥知らずというものですよ。まあ、ぼくが犯人だとしてもですよ(そんなことはぼくは決して言いませんがね)、ぼくをそこへ入れて安静《・・》をあたえてやるなんて、わざわざ言ってくれているあなたのところへ、なぜぼくが自首して出なきゃいけないのです?」
「おやおや、ロジオン・ロマーヌイチ、そう言葉をそのまま信じちゃいけませんよ。もしかしたら、それほど安静《・・》をあたえられないかもしれませんしねえ! これはただの理論ですよ、それもわたしのね、わたしがあなたに対してどんなオーソリティがあります? わたしはね、もしかしたら、いまでさえあなたに何かかくしているかもしれませんよ。わたしだって、こういきなり何もかもあなたにしゃべってしまうわけはありませんしね、へ!へ! 次に、どんな利益があるか? ということですがね。自首することによってどんな減刑の恩典があるかくらいは、ご存じでしょうが? だから、いつ、どんなときに出頭したらいいのか? これだけはよく考えるんですな! いまは、他の男が罪をかぶって、事件をもつれさせてしまったときじゃありませんか? でもわたしはね、誓って言いますが、《あちら》では、あなたの自首がまったく意外だったように、うまく仕組んでやりますよ。この心理劇は完全に抹殺《まっさつ》してしまいましょう。あなたに対するあらゆる嫌《けん》疑《ぎ》もなかったことにしましょう。そうすればあなたの犯罪は一種の迷夢みたいなものになります、だって、正直に言って、あれは迷夢ですよ。わたしは正直な男ですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、約束したことは守ります」
ラスコーリニコフは悲しそうに黙りこんで、頭を垂れた。彼は長いこと考えていたが、やがて、またうす笑いをもらした、しかしそれはもう短い悲しそうな笑いだった。
「なに、いりませんよ!」と、彼はもうぜんぜんポルフィーリイにかくそうとしないように、言った。「必要ありません! ぼくにはそんな減刑なんかまっぴらです!」
「それです、わたしはそれを恐れたんですよ!」と、熱くなって、思わず口をすべらしたように、ポルフィーリイは叫んだ。「せっかくの減刑をことわるのではないかと、わたしはそれを恐れたんです」
ラスコーリニコフはあわれみを誘うようなさびしく沈んだ目で彼を見た。
「ええ、命を粗末にしちゃいけません!」とポルフィーリイはつづけた。「まだまだ先は長いですよ。減刑の必要がないなんて、何を言うんです! 気短かな人ですねえ、あなたも?」
「先に何があるんです?」
「生活ですよ! あなたはどういう予言者です、どれだけ見通しです? 求めるんです、そして見《み》出《いだ》すのです。神もあなたにそれを期待していたのかもしれません。それにあれだって永久というわけじゃなし、つまり鎖ですがね……」
「減刑がある……」ラスコーリニコフはにやりと笑った。
「どうしました、ブルジョア的恥辱が恐かったんですか、え? そりゃ、おそらく、恐かったでしょうよ、自分ではそれに気付かなくてもね、――若いからですよ! でも、自首を恐れたり、恥ずかしがったりするのは、どう見てもあなたの柄《がら》じゃなさそうですがねえ!」
「ええッ、けたくそわるい!」と、口をきくのもいやだという様子で、ラスコーリニコフは気色わるそうに侮辱をこめて言った。
彼はどこかへ出て行こうとでもするように、また立ち上がりかけたが、ありありと絶望の色をうかべて、また腰を下ろした。
「その態度が、けたくそわるいというものですよ! あなたは自分を信じられなくなってしまったから、わたしが下手な嬉《うれ》しがらせを言ったみたいに、考えるんです。あなたはこれまでどれだけ生活して来ました? どれだけものごとを理解しています? 一つの理論を考え出したが、それが崩れ去り、ごく月並な結果になったので、恥ずかしくなった! 卑劣な結果に終ったこと、それは確かだが、でもやはりあなたは望みのない卑怯者《ひきょうもの》ではない。決してそんな卑怯者じゃない! 少なくともいつまでもぐずぐず逆らっていないで、ひと思いに最後の柱まで突進した。わたしがあなたをどう見てると思います? わたしはあなたがこういう人間だと思っているのです、信仰か神が見出されさえすれば、たとい腸《はらわた》をえぐりとられようと、毅《き》然《ぜん》として立ち、笑って迫害者どもを見ているような人間です。だから、見出すことです、そして生きていきなさい。あなたは、まず第一に、もうとっくに空気を変える必要があったのです。なあに、苦しみもいいことです。苦しみなさい。ミコライも、苦しみを望むのは、正しいことかもしれません。信じられないのは、わかります、だが、小ざかしく利口ぶってはいけません。ごちゃごちゃ考えないで、いきなり生活に身を委《ゆだ》ねることです。心配はいりません、――まっすぐ岸へはこばれ、ちゃんと立たせられます。どんな岸ですって? それがどうしてわたしにわかります? わたしは、あなたにまだまだ多くの生活があることを、信じているだけです。あなたがいまわたしの言葉をそらおぼえのお説教と思っていることも、わかります。でも、いつかは思い出し、役に立つこともあるでしょう。そう思えばこそ、こうしてしゃべっているのです。あなたは老婆を殺しただけだから、まだよかった。もし別な理論でも考え出していたら、下手すると、まだまだ千万倍も醜悪なことをしでかしていたかもしれません! これでも、神に感謝しなきゃいけないのかもしれませんよ。どうしてわかります、ひょっとしたら、神はそのためにあなたを守ってくださるのかもしれん。大きな心をもって、できるだけ恐れないようにすることです。偉大な実行を目前にして怯《おじ》気《け》づいたのですか? いやいや、ここまで来て尻《しり》込《ご》みしては恥ですよ。あのような一歩を踏み出したからには、勇気を出しなさい。そこにあるのはもう正義ですよ。さあ、正義の要求することを、実行するのです。あなたが信じていないのは、わかっています。が、大丈夫です、生活が導いてくれます。いまに自分でも好きになりますよ。いまのあなたには空気だけが必要なのです、空気です、空気ですよ!」
ラスコーリニコフはぎくっとした。
「いったい、あなたは何者です」と彼は叫んだ、「あなたはどういう予言者です? 高いところから、えらそうに落ち着きはらって、利口ぶった予言をするじゃありませんか?」
「わたしが何者かって? もう終ってしまった人間、それだけのことですよ。おそらく、感じもするし、同情もするでしょう、いくらか知識もあるでしょう、だが、もう完全に終ってしまった人間です。だがあなたは――別です。あなたには神が生活を用意してくれました(もっとも、あなたの場合も、けむりのように流れ去ってしまって、もう何も来ないかもしれない。それは誰もわかりませんがね)。あなたが別な種類の人間の中へ移って行ったところで、それが何でしょう? あなたのような心をもっている人間が、安逸を惜しむわけもないでしょう? おそらく、かなり長い間誰にも会わないことになるでしょうが、そんなことが何です? 問題は時間にあるのではなく、あなた自身の中にあるのです。太陽になりなさい、そしたらみんながあなたを仰ぎ見るでしょう。太陽はまず第一に太陽であらねばなりません。あなたはまた笑いましたね、何がおかしいんです、わたしがこんなシラー調になったからですか? 賭《か》けをしてもいいですよ、あなたはきっと、わたしがいまお世辞をつかっているとお思いでしょう、へ! へ! へ! あなたは、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしの言葉なんか、まあね、信じなくていいんですよ、これからだって、決して信じることはありませんよ、――これがわたしの習癖なんだから、まあいいでしょう。一言だけつけ加えておきますが、わたしがどれほど程度の低い人間で、同時にどれほど正直な人間か、あなたは判断できるはずですよ!」
「あなたはぼくをいつ逮捕するつもりです?」
「そうね、あと一日二日はまだ散歩させてあげましょう。まあ、よく考えるんですな、神に祈りなさい。そのほうが有利ですよ、嘘《うそ》は言いません、ずっと有利ですよ」
「だが、ぼくが逃げたらどうします?」何か異様なうす笑いをうかべながら、ラスコーリニコフは言った。
「いや、逃げませんよ。百姓なら逃げるでしょう、流行の分離派信徒なら逃げるでしょう、――他人の思想の下《げ》僕《ぼく》ですからな。ドゥイルカ海軍少尉じゃないが、指の先をちょっと見せただけで、もう死ぬまでどんなことでも信じさせることができるような連中ですよ。だがあなたはもうあなたの理論を信じないはずです、――そのあなたがいったいなんのために逃げるんです? それに、逃げて何を求めようというのです? 逃亡生活はいやな苦しいものです、しかもあなたに何よりも必要なものは生活です、はっきり定《き》まった境遇です、適《ふさ》わしい空気です。どうです、逃げた先にあなたの空気があるでしょうか? 逃げても、自分でもどって来ますよ。われわれを離れて《・・・・・・・・》は《・》、あなたはどうすることもできない人です《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、あなたを牢獄《ろうごく》につなげば、――まあ一月《ひとつき》か、二月《ふたつき》、三《み》月《つき》もすれば、とつぜんわたしの言葉を思い出して、進んで自白するようになります、それも、おそらく、自分でも思いがけなく突発的にです。一時間まえまで、自白しようとは自分でもわからないでしょう。わたしは確信さえもっています、あなたはきっと《苦しみを受けようという気になる》にちがいありません。いまはわたしの言葉を信じませんが、やがてそれに注意をとめるようになります。なぜなら、ロジオン・ロマーヌイチ、苦悩というものは偉大なものだからです。わたしがでくでく肥《ふと》ってるからって、皮肉な目で見ないでください、それとこれは別ですよ、ちゃんと知ってるんですよ。そんなことを笑っちゃいけませんよ。苦悩には思想があります。ミコライは正しいのです。いいえ、あなたは逃げませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ」
ラスコーリニコフは立ち上がって、帽子をつかんだ。ポルフィーリイ・ペトローヴィチも立ち上がった。
「散歩にお出かけですか? いい夕暮れになるでしょう、雷雨が来なきゃいいが。もっとも、来たほうがいいかもしれん、すがすがしくなる……」
彼も帽子を手にとった。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、一人合《が》点《てん》はしないでくださいよ」とラスコーリニコフはきびしいしつこさで言った。「ぼくが今日あなたに告白したなどと。あなたが奇妙な人間だから、おもしろくて聞いていただけですよ。ぼくは何も告白はしなかった……これをおぼえていてください」
「いや、それはもうわかってますよ、おぼえておきましょう、――おや、ふるえているじゃありませんか。心配はいりませんよ、あなたの心のままですから。すこし散歩してらっしゃい、ただあまり散歩がすぎると毒ですがね。さて、万一ということがありますので、もう一つだけお願いがあるのですが」と彼は声をおとして、つけ加えた。「これはごくデリケートな言いにくいことですが、しかし大切なので。もし、万一ですよ(もっとも、こんなことは、わたしは信じていませんし、あなたがそんなことができるとは、ぜんぜん思っていませんが)、もし何かのはずみで――その、万が一ですね――この四十時間から五十時間のあいだに、ひょっと別な、つまりファンタスチックな方法で結末をつけようなどという考えが浮ぶようなことがあったら、――つまり、自分に手を下そう、なんてですね(こんなばからしいことを考えて、まあ、お許しください)、そのときは――ほんの簡単でいいですから、要領のいい手記をのこしていただきたいのですが。そう、二行、二行だけで結構です、そして石のこともお忘れなく。そのほうがずっとりっぱですから。じゃ、さようなら……いい思案としあわせな首途《かどで》を祈ります!」
ポルフィーリイは妙に背をかがめて、ラスコーリニコフの目をさけるようにしながら、出て行った。ラスコーリニコフは窓辺に近よって、追い立てられるような苛立たしい思いで、胸の中で時間をはかりながら客が通りへ出て遠ざかって行くのを待った。それから自分も急いで部屋を出て行った。
3
彼はスヴィドリガイロフのところへ急いでいた。この男から何を期待できるのか――彼は自分でもわからなかった。しかしこの男には彼を支配する何ものかがひそんでいた。彼は一度それを意識してからは、もう平静でいることができなかった、そしていまそれを解決するときが来たのである。
途々《みちみち》一つの疑問が特に彼を苦しめた。スヴィドリガイロフはポルフィーリイを訪ねたろうか?
彼が判断し得たかぎりでは、しかも誓ってもいいとさえ思ったのは――いや、行っていない、ということだった。彼は何度も何度も考えてみた、さっきのポルフィーリイの態度をすっかり思い返して、いろいろと思い合せてみた。いや、行っていない、たしかに行っていない!
だが、まだ行っていないとすれば、彼はこれからポルフィーリイのところへ行くだろうか、行かないだろうか?
いまのところ、彼は行かないだろうという気がしていた。なぜか? その理由も、彼は説明ができなかったろう、しかし仮にできたにしても、いまの彼はそれにわざわざ頭を痛めるようなことはしなかったにちがいない。そうしたすべてのことに苦しめられてはいたが、同時に彼はなんとなくそんなことにかまっていられない気持だった。奇妙な話で、おそらく誰《だれ》も信じないかもしれないが、彼はどういうものかいま目のまえに迫った自分の運命に、気のない散漫な注意しかはらわなかった。彼を苦しめていたのは、それとは別な、はるかに重大な、どえらいもの――彼自身のことで、他《ほか》の誰のことでもないが、何か別なもの、何か重大なものだった。それに、彼の理性が今朝は最近の数日に比べてよくはたらいていたとはいえ、彼は限りない精神の疲労を感じていた。
それに、ああいうことが起ってしまったいまとなって、こんな新しいわずかばかりの障害を克服するために、苦労する必要があったろうか? 例えば、スヴィドリガイロフにポルフィーリイを訪ねさせないために、わざわざ策を弄《ろう》する必要があったろうか? たかがスヴィドリガイロフくらいのために、調べたり、探り出したりして、時間をつぶす必要があったろうか?
いやいや、そんなことには、彼はもうあきあきしてしまっていた!
とはいえ、彼はやはりスヴィドリガイロフのもとへ急いだ。あの男から何か新しい《・・・》指示か、出口かを期待していたのではないか? 一本の藁《わら》にでもすがれるものだ! 運命か、本能のようなものが、二人をひきよせるのか? もしかしたら、それはただの疲労だったかもしれぬ、絶望だったかもしれぬ。あるいは、必要なのはスヴィドリガイロフではなく、他の誰かだったが、スヴィドリガイロフがたまたまそこにいただけかもしれぬ。ではソーニャか? だが、どうしていまソーニャのところへ行かなければならないのだ? また涙を請《こ》いにか? それに、彼にはソーニャが恐《こわ》かった。ソーニャ自身が彼にはゆるがぬ判決であり、変えることのできない決定であった。そこには――彼女の道か、彼の道しかなかった。特にいまは、彼はソーニャに会える状態ではなかった。いや、それよりもスヴィドリガイロフに当ってみたほうがましではないか? あの男は何者だろう? たしかにあの男はどういう理由かで彼にはもうまえまえから必要な人間だったらしいことを、彼はひそかに認めないわけにはいかなかった。
だが、それにしても、彼らの間にはどんな通じあうものがあり得るのだ? 悪行でさえ彼らのは同質とは言い得ない。この男はそのうえひどい嫌《きら》われ者で、極端に身持ちがわるいし、ずるく嘘《うそ》つきなことはたしかで、したたかの悪人かもしれない。とかくの噂《うわさ》のある男だ。もっとも、彼はカテリーナ・イワーノヴナの子供たちの世話はしてやった。しかし、それがなんのためで、どういう下心があるのか、誰が知ろう? この男にはいつもなんらかの意図と計画があった。
この数日の間ラスコーリニコフの頭にはたえずもう一つの考えがちらついて、彼をおそろしく不安にしていた。そして彼はその考えを追い払おうと空《むな》しい努力をつづけていた。それほどその考えは彼にとって重苦しいものだった! 彼はときどき、スヴィドリガイロフはたえず彼のまわりをうろついていたし、いまでもうろついている、スヴィドリガイロフは彼の秘密を嗅《か》ぎつけた、スヴィドリガイロフはドゥーニャに対して何かたくらんでいる、ということを考えた。で、いまもたくらんでいるとしたら? たくらんでいる《・・・・・・・》と思って、まずまちがいはない。そこで、もしいま、彼の秘密をにぎり、それによって彼を支配する力を手中におさめ、それをドゥーニャに対する武器に使用しようなどという考えを起されたら?
この考えはときどき、夢の中でさえ、彼を苦しめた、しかしそれがはっきり意識の上にあらわれたのは、スヴィドリガイロフのところへ行こうとしている、この今がはじめてだった。これを考えただけで、彼は暗い狂おしいまでの怒りにひきこまれた。第一に、そうなればもうすべてが変ってしまう、彼自身の立場さえ変ってくる。とすれば、いますぐドゥーネチカに秘密を打ち明けねばならぬ。もしかしたら、ドゥーネチカに不用意な一歩を踏み出させないために、自首するようなことになるかもしれない。手紙と言ったな? 今朝ドゥーニャがある手紙を受け取った! あれに手紙を出すような者がペテルブルグにいるだろうか? (まさかルージンが?)もっとも、ラズミーヒンが守っていてはくれるが、あの男は何も知らない。ラズミーヒンにも打ち明けるべきだろうか? ラスコーリニコフはこう思うと、嫌《いや》な気がした。
いずれにしても、できるだけ早くスヴィドリガイロフに会わねばならぬ、彼は腹の中でこう結論を下した。ありがたいことに、彼との対決ではこまごましたことは必要ではなかった。それよりも問題の本質だ。だが、もし、スヴィドリガイロフが卑劣なことしかできない男で、ドゥーニャに対して何かたくらんでいるとしたら、――そのときは……
ラスコーリニコフはこの頃《ごろ》ずっと、特にこの一月《ひとつき》というものは、疲労しきっていたので、もうこのような問題はたった一つの方法以外では解決ができなくなっていた――《そのときは、やつを殺してやる》――彼は冷たい絶望をおぼえながらこう思った。重苦しい気持が彼の心を圧《お》しつぶした。彼は通りの真ん中に立ちどまって、あたりを見まわした。どの通りを歩いて来たのだろう、ここはどこだろう? 彼はN通りに立っていた。そこはいま通って来たセンナヤ広場から三、四十歩のところだった。左手の建物の二階は全部居酒屋になっていた。窓はすっかり開け放されていた。窓にちらちら動く人影から判断すると、居酒屋は満員らしかった。広間には歌声が流れ、クラリネットやヴァイオリンが鳴り、トルコ太鼓の音が聞えていた。女の甲高《かんだか》い声も聞えた。彼は、なぜN通りへなど来たのだろうと、自分でも不思議な気がして、引き返そうとしたとたんに、居酒屋の端のほうの窓際《まどぎわ》に、窓によりかかるようにしてパイプをくわえながら、茶を飲んでいるスヴィドリガイロフを見た。彼ははっとして、思わず鳥肌《とりはだ》立《だ》つような恐怖をおぼえた。スヴィドリガイロフが黙ってじいッとこちらをうかがっていたのである。そしてすぐにまた、ラスコーリニコフはもう一度はっとした。スヴィドリガイロフは気付かれないうちにそっと逃げようとしたらしく、そろそろと席を立つような気配を見せたのだ。ラスコーリニコフはとっさに、こちらも気がつかないような振りをして、ぼんやり脇《わき》のほうを見ながら、目の隅《すみ》でじっと相手の観察をつづけた。胸があやしく騒いだ。そうだったのか。スヴィドリガイロフは明らかに見られたくないのだ。彼はパイプを口からはなして、いまにも姿をかくそうとした、が、腰を上げて、椅子《いす》を動かしたところで、不意に、ラスコーリニコフがじっとこちらを観察していることに気付いたらしい。彼らの間には、ラスコーリニコフが部屋でうとうとしていたときの最初の対面に似たような妙な場面がもち上がった。ずるそうなうす笑いがスヴィドリガイロフの顔にあらわれて、それがしだいに広がりはじめた。どちらも、互いに相手に気付いて、観察しあっていたことを、承知していた。とうとう、スヴィドリガイロフは大声を立てて笑いだした。
「さあ、さあ! よろしかったら、入ってらっしゃい。逃げませんよ!」と彼は窓から叫んだ。
ラスコーリニコフは居酒屋へ上がって行った。
彼はひどく小さい奥の部屋にいた。窓が一つしかなく、仕切りの向うは大広間で、そちらには小さなテーブルが二十ほど置いてあり、歌うたいたちがやけっぱちにどなり立てる合唱を聞きながら、商人や、役人や、その他あらゆる種類の人々が茶を飲んでいた。どこからか球《たま》を撞《つ》く音が聞えていた。スヴィドリガイロフのまえのテーブルには、栓《せん》をぬいたシャンパンのびんが一本と、半分ほど飲みさしのコップがのっていた。部屋の中には彼のほかに、小さな手風琴をもった少年と、しまのスカートの裾《すそ》をからげて、リボンのついたチロル帽をかぶった、十七、八の頬《ほお》の赤い健康そうな歌うたいの娘がいた。娘は他の部屋の合唱に負けないで、手風琴の伴奏で、かなりかすれたコントラルトで、召使いの歌のようなものをうたっていた……
「もういい!」と、ラスコーリニコフが入って来ると、スヴィドリガイロフは娘に歌をやめさせた。
娘はすぐに歌をやめて、恭《うやうや》しく施しを待つ姿勢をとった。彼女はリズミカルな召使いの歌もなんとなくとりすました恭しい顔つきでうたっていたのだった。
「おい、フィリップ、コップを持って来《こ》い!」とスヴィドリガイロフがどなった。
「ぼくは飲みませんよ」とラスコーリニコフは言った。
「お好きなように、これはあなたのためじゃありませんよ。一杯いけ、カーチャ! 今日はもうこれでいい、帰れ!」
彼は娘のコップにシャンパンをなみなみと注《つ》いでやると、黄色い一ルーブリ紙幣を一枚とりだした。カーチャは女のぶどう酒の飲み方で、つまりコップを唇《くちびる》からはなさずに、二十口ばかりで休まずに飲みほすと、黄色い紙幣を受け取り、いかにももったいぶってさし出したスヴィドリガイロフの手に接吻《せっぷん》して、部屋を出て行った。そのあとに手風琴をもった少年がつづいた。二人は通りから呼びこまれたのだった。スヴィドリガイロフはペテルブルグに来てまだ一週間にもならないのに、もう彼のまわりには家長制度のようなものができていた。居酒屋の給仕フィリップももうすっかり《馴染《なじ》み》で、彼にぺこぺこしていた。広間へつづくドアも鍵《かぎ》がかけられるようになった。スヴィドリガイロフはこの部屋に旦《だん》那《な》然《ぜん》とおさまり、何日も居つづけにしていたらしい。居酒屋は不潔できたならしく、二流とまでもいかなかった。
「ぼくはあなたを訪ねる途中だったんですよ、会いたいと思って」とラスコーリニコフは言いだした。「だが、いったいどうしてセンナヤからN通りへ曲ったんだろう! この通りへは一度も来たことがないんですよ。いつもセンナヤから右へ折れるんです。それにあなたのところへ行くにはこんなところは通らないし。ふっと曲ったら、あなたがいた! 実に不思議だ!」
「どうして率直に言わないんです、これは奇跡だ! と」
「これは単なる偶然かもしれないからですよ」
「まったく、この人たちってどうしてこういう性分《しょうぶん》なのかねえ!」スヴィドリガイロフは声を立てて笑った。「心の中では奇跡を信じていても、口に出しては言わない! 自分でちゃんと、単なる奇跡《かもしれない》って言ってるじゃありませんか。自分の個人的な意見ということになると、この国の連中はそろいもそろってどれほど臆病《おくびょう》か、あなたには想像もつきませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ! あなたのことじゃないですよ。あなたは独自の意見を持っているし、それを持つことを恐れなかった。だからわたしは興味を持ったんですよ」
「それだけですか?」
「だって、それだけでも十分じゃありませんか」
スヴィドリガイロフは興奮しているらしかった、が、それもほんのわずかだった。酒もコップに半分しか飲んでいなかった。
「たしか、あなたがぼくのところへ来たのは、ぼくがあなたの言うその独自の意見とやらを持つ能力のあることを、知るまえだったと思いますが」とラスコーリニコフは意見をはさんだ。
「いや、あれは別ですよ。誰にでも自分の行動というものがありますからな。ところで、奇跡ついでですが、あなたはこの二、三日眠ってばかりいたらしいですな。この居酒屋はわたしがあなたにおしえたんですよ、だからあなたがまっすぐここへ来たことは、奇跡でもなんでもなかったんです。ここへ来る道すじも、この店のある場所も、丹念に説明しましたし、何時に来ればここにわたしがいるかまで、ちゃんとおしえたんですよ。おぼえてますか?」
「忘れてました」と、ラスコーリニコフはびっくりして答えた。
「そうでしょうな。わたしは二度あなたに言ったんですよ。アドレスがあなたの頭の中に機械的にきざみこまれたんです。あなたはこちらへ機械的に曲った、とはいえ、自分でも知らずに、ちゃんとおしえられたとおりの道をたどって来たわけです。あのときあなたにしゃべりながら、まさかわかってもらえるとは思わなかった。どうもあなたはあまりにも尻《し》っぽを出しすぎますよ、ロジオン・ロマーヌイチ。それからもう一つ、ペテルベルグには歩きながらひとり言を言う人間が、実に多いですな、ほんとですよ。これは半気ちがいどもの町ですよ。もしわが国に科学というものがあったら、医者も、法律学者も、哲学者も、それぞれの専門分野で、ペテルブルグを材料にして実に貴重な研究ができたでしょうなあ。人間の魂に対する陰欝《いんうつ》な、きびしい、そして不思議な影響というものが、ペテルブルグほど見られるところは、まず、めったにないでしょうな。気候の影響だけでもたいへんなものですよ! しかも、ここは全ロシアの行政の中心だから、この町の性格は当然国中に反映するわけです。でもいまは、そんなことじゃなく、わたしが言いたいのは、もう何度かそれとなくあなたを観察してきたということです。あなたは家を出るときは、――まだ頭をまっすぐに保っています。が、二十歩ほど行くと、もううなだれて、両手を背に組んでいる。目はあいているが、前方も、両側も、もう何も目に入らない。そのうちに、唇をもぞもぞ動かして、ひとり言を言いはじめる、そしてときどき片手を振りまわして、演説口調でやらかす。しまいに道の真ん中に立ちどまって、長いこと突っ立っている。これはまったく感心しませんな。わたし以外の誰かに見とがめられるおそれがあるし、そうなるとひどく不利ですよ。わたしには、実際の話が、どうでもいいことですがね、別にあなたを治《なお》してやれるわけじゃないから。でも、もちろん、わたしの言うことがおわかりでしょうな」
「でもあなたは、ぼくが尾行されてることを知っているでしょう?」と、ためすような目で相手を凝視しながら、ラスコーリニコフは尋ねた。
「いや、ぜんぜん知りませんよ」とおどろいたようにスヴィドリガイロフは答えた。
「へえ、じゃぼくにかまわんでくださいよ」と、ラスコーリニコフは眉《まゆ》をしかめて、呟《つぶや》くように言った。
「いいですよ、かまわんことにしましょう」
「それより、こっちがお聞きしたいのですが、あなたはよくここへ飲みに来られるし、ぼくにここへ訪ねて来るように、わざわざ二度も言ったのなら、ですよ、いまぼくが通りから窓を見たとき、なぜあなたはかくれて、逃げようとしたんです? ぼくははっきり見ましたよ」
「へ! へ! じゃなぜあなたは、この間わたしがあなたの部屋に入りかけたら、ソファの上にねたまま目をつぶって、ぜんぜん眠ってもいないのに、眠ったふりをしたのかね?わたしははっきり見ましたよ」
「ぼくには理由があった……かもしれませんよ……あなたはそれを知ってるはずだ」
「わたしにだって、わたしなりの理由があったかもしれませんよ、あなたがわからないだけで……」
ラスコーリニコフは右肘《みぎひじ》をテーブルにつき、右手の指で顎《あご》を支えながら、じっとスヴィドリガイロフを見すえた。彼はこれまでもいつもおどろかされてきた相手の顔を、つくづくながめた。それは仮面を思わせるような、なんとも奇妙な顔だった。真っ白なところへ赤味がさし、唇は真っ赤で、明るい亜麻色のあごひげが生え、まだかなり豊かな髪も白っぽい亜麻色だった。目は妙に青すぎて、視線は妙に重苦しく、動かなすぎた。この美しい、年齢《とし》のわりにつるッとしすぎた顔には、人におそろしくいやな感じをあたえる何かがあった。着ている服はしゃれた軽い夏もので、特にシャツはしゃれていた。指には宝石をちりばめた大きな指輪が光っていた。
「ぼくはこのうえ、あなたまで相手にして、面倒な思いをしなきゃならんのですかねえ」ラスコーリニコフは発作的な焦燥にかられて、いきなり胸の内をぶちまけた。「たとえあなたが、敵にまわったら、もっとも危険な人物かもしれない、としてもですね、ぼくはもうこれ以上自分を苦しめたくはない。あなたが、おそらく、考えているらしいほど、ぼくが自分を大事にしていない証拠を、いま見せてあげましょう。ことわっておきますが、ぼくがここへ来たのは、もしあなたがいまだに妹に対してもとのままの野心をもち、そのために最近発見したものの何かを種に脅迫しようと考えているなら、ぼくはあなたに獄に投じられるまえに、あなたを殺す、とはっきりあなたに宣言するためです。ぼくの言葉はたしかですよ。ぼくが約束を守れる人間であることは、あなたも知っているとおりです。次に、ぼくに何か言いたいことがあるなら――というのは、この間からあなたがぼくに何か言いたそうにしているのが、わかるからですよ――早く言ってください。時間が惜しいし、それに、おそらく、もうしばらくしたら手おくれになってしまいますよ」
「でも、どこへそんなに急いでいるんです?」と、好奇の目で相手を見まわしながら、スヴィドリガイロフは尋ねた。
「誰にでも自分の行動というものがありますよ」とラスコーリニコフは暗い声で、じりじりしながら言った。
「あなたはいま自分から率直を呼びかけておきながら、第一の質問に対してもう返答を拒否している」とスヴィドリガイロフは笑いながら注意をうながした。「あなたはいつも、わたしが何か目的をもっていると思っている、だからわたしが怪しく見えるのですよ。なに、あなたのような立場におかれれば、無理もないでしょうがね。なるほど、わたしはなんとかあなたと親密になりたいと思ってますよ、だからといって、苦労してまであなたの誤解をとく気にはなれませんなあ。骨折り損というものですよ、それにあなたと何か特別のことを話しあうなんて、そんなつもりは毛頭ありませんしな」
「じゃなぜあのときあんなにぼくが必要だったのです? しきりにぼくのまわりをうろうろしたじゃありませんか?」
「なに、ただ観察のための興味ある対象としてですよ。幻想的といいますか、あんな奇妙な立場をもつあなたがすっかり気に入りましてな、――そのためですよ! 加えて、あなたは、わたしがひどく関心をもった女性のお兄さんで、もう一つ言えば、その女性からかつてあなたの噂をさかんに聞かされましてね、あなたが彼女に大きな影響力をもっている、とこう断定したからですよ。まだ足りませんかな? へ、へ、へ! もっとも、実を言うと、あなたの質問がわたしにはあまりにも複雑で、返答に窮しているんですよ。現に、言ってみればですよ、いまこうしてわたしのところへ来たのも、用件もあるでしょうが、それより何か新しいことを探り出すためでしょう? そうじゃありませんか? 図星でしょう?」とスヴィドリガイロフはずるそうなうす笑いをうかべながら念をおした。「それがどうでしょう、実はわたしもこちらへ来る途中、汽車の中で、あなたも何か新しいこと《・・・・・》を言ってくれるだろうから、そしたらその中の何かを借用できるかも知れない、とこう期待したわけですよ! まったくわたしたちは物持ちですなあ!」
「何を借用するんです?」
「さあ、なんと言ったらいいですかな? そんなことがわたしにわかりますか? このとおり、こんな居酒屋にのべつしけこんでいるんですからな。でもこれがわたしには楽しみなんですよ、いや、楽しみといっちゃなんですが、とにかく、どこかに腰を落ち着けるとこがなきゃあね。まあ、あの哀れなカーチャでも――ごらんになったでしょう?……まあ、わたしがですね、口のおごったクラブの食通ででもあるなら、なんですが、ほら、こんなものが口に合うんですからねえ! (彼は部屋の隅の小さなテーブルを指さした。その上にはブリキの皿《さら》にひどいビフテキとじゃがいもの食いのこしがのっていた)。ところで、食事はすませましたか? わたしは軽くやりましたので、もうたくさんなのですが。酒だって、さっぱりやらないんですよ。シャンパンのほかはぜんぜん、そのシャンパンだって一晩に一本がせいぜいですが、それでもう頭が痛いというざまですよ。これは元気づけに持って来させたんですよ、これからあるところへ出かけようと思いましてね、だからごらんのとおり、いつになくにこにこしてるわけですよ。さっき小学生みたいにかくれたのは、出がけに邪魔されては、と思ったからですが、どうやら(彼は時計を出して見た)いま四時半だから、一時間くらいはお相手できそうです。まったく、何かしごとがあるといいんですがねえ、地主だとか、一家の主人だとか、槍《そう》騎《き》兵《へい》、写真家、雑誌記者、なんでもいいですよ……それがぜんぜん、なんの専門もない! ときには退屈になることだってありますよ。ほんとに、あなたが何か耳新しいことを聞かせてくれるものと、思っていたんですよ」
「いったいあなたは何者なんです、なんのためにペテルブルグへ来たんです?」
「わたしが何者かって? ご存じでしょう、貴族で、騎兵連隊に二年勤めまして、それからこんなふうにペテルブルグでのらくらしていて、マルファ・ペトローヴナと結婚して、田舎で暮しました。これがわたしの履歴ですよ!」
「あなたは賭博者《ばくちうち》でしょう?」
「いいえ、ちがいますね。いかさま師ですよ――賭博者じゃありませんな」
「じゃ、あなたはいかさま師だったんですか?」
「そのとおり、いかさま師でしたよ」
「じゃなんですか、殴られたことがあるでしょう?」
「ありましたよ。それで?」
「そう、じゃ決闘を申し込むこともできたわけだ……とにかく、生活に活気がでますよ」
「反対はしませんよ、なにしろ哲学が苦手なんでね。白状しますと、ここへ来たのは、どっちかといえば、むしろ女のためなんですよ」
「マルファ・ペトローヴナの葬式もそこそこにですか?」
「まあね」と、スヴィドリガイロフは相手を呑《の》んだようにずばりと言って、にやっと笑った。「それがどうしました? わたしが女のことをこんなふうに言うのを、あなたは何か悪い意味にとっているらしいですな?」
「つまり、ぼくが淫蕩《いんとう》を悪と見るかどうか、ということですか?」
「淫蕩を! へえ、いきなり飛躍しましたね! とにかく、順序としてまず女一般についてお答えしましょう。どういうんですか、妙におしゃべりがしたいんですよ。さて、なんのためにわたしは自分を抑制しなきゃならんのでしょう? わたしが女好きとしたらですよ、いったいどうして女をすてなきゃならんのでしょう? 少なくともしごとですからね、これも」
「じゃ、あなたはここで淫蕩だけを期待してるんですね!」
「それがどうしたというんです。そりゃ淫蕩も期待してますよ! あんた方には淫蕩がよほど興味の的らしいですな。わたしはまわりくどいことは嫌いです。この淫蕩というものには少なくとも、むしろ自然に基礎をおいた、空想に毒されない、いつも変らない何ものかがありますよ。血の中でいつも燃えている炭火みたいなもので、これがたえず焼き立てる、そしていつまでも、年をとっても、消すのはなかなかの骨らしいですな。どうです、これも一種のしごとじゃありませんかな?」
「何をそんなに嬉《うれ》しがるんです? これは病気ですよ、しかも危険な」
「おや、また飛躍しましたね? これが病気だってことは、わたしも認めますよ、度を越えればなんでもそうですからな、――ところがこいつときたら、どうしても度を越えることになるんでねえ、――だがこいつは、第一に、人によってちがうんですよ。それから第二に、たとえ卑劣な男でも、何ごとにも度というもの、つまり計算ですな、これを守らにゃいかんのはもちろんですよ、といって、いったいどうしたらいいんです? こいつがなかったら、ピストル自殺でもするほかはないじゃありませんか。礼儀正しい人間は退屈する義務がある、賛成ですな、ところが、やっぱり……」
「で、あなたはピストル自殺ができるでしょうか?」
「またはじめた!」とスヴィドリガイロフは嫌な顔をして、話をそらした。「頼むから、そういうことは言わないでください」と彼は急いでつけ加えた。その口調はがらりと変って、いままでの言葉のはしばしにうかがわれたえらぶった様子はすっかり消えていた。顔つきまで変ったかに見えた。「白状しますが、わたしには実にけしからん弱味がありましてな。でもこればかりはどうしようもない。実は、死が恐くて、死の話をされるのが嫌なんですよ。わたしは多少迷信に弱いところがあるんですな!」
「ああ! マルファ・ペトローヴナの亡霊ですか! どうです、まだ出ますか?」
「またそんな、よしてください。ペテルブルグではまだ出ません。あんなもの糞《くそ》くらえだ!」と彼は妙に苛々《いらいら》した様子で叫んだ。「いや、それよりあの話を……でも、まあ……フム! ええ、時間がなくて、あまりお相手できないのが、残念ですな! お話しておきたいことがあるんですが」
「何です、女とでも会うんですか?」
「そう、女です、まったく思いがけないことで……いや、そんなことはどうでもいい」
「じゃ、そうしたことのいまわしさがもうあなたには作用しないのですか? もう踏みとどまる力を失ったのですか?」
「あなたは力にも自信をお持ちですな? へ、へ、へ! おどろきましたよ、ロジオン・ロマーヌイチ、こんなこととは、あらかじめ承知はしていましたがね! あなたは淫蕩と美学についてわたしに講釈をなさる! あなたは――シラーですよ。あなたは――理想主義者ですよ! そりゃむろん、そういうことはそうあって当然ですし、そうなかったら、かえっておかしいでしょう、が、でも、やはり現実となるとどうも妙な気がしますねえ……ああ、時間がないのが、ほんとに残念ですよ、あなたはまったくおもしろい人だ! ついでですが、あなたはシラーが好きですか? わたしはひどく好きなんですよ」
「へえ、あなたはよくもまあ臆面もなく、えらそうな口をききますね!」とラスコーリニコフはいささか気色わるそうに言った。
「これはひどい、決して、そんなことはありませんよ!」とスヴィドリガイロフは笑いながら答えた。「しかし、口論はしませんよ、えらそうな口で結構。でも罪がなきゃ、えらそうな口をきいても、別にかまわないじゃありませんか。なにしろ、七年もマルファ・ペトローヴナの田舎にひっこもっていて、いまあなたのような聡明《そうめい》な方に出会ったものだから――、聡明で、しかも最高に興味ある、ね、――しゃべるのが無性にうれしいんですよ。おまけに、酒をコップ半分ほど飲んで、もうちょっぴり頭にきてるんですよ。それより、わたしをひどく元気づけたある事情があるんですが、それは……言わんことにしましょう。あなたはどこへ行きます?」と不意に、スヴィドリガイロフはびっくりして尋ねた。
ラスコーリニコフは席を立ちかけた。彼は胸が重苦しく、息がつまりそうになって、ここへ来たのが妙に気詰りになった。彼は、スヴィドリガイロフがこの世でもっとも愚かなつまらない悪党であると、確信したのである。
「まあ、まあ! おかけください、もうしばらくいいじゃありませんか」とスヴィドリガイロフは頼むようにしてひきとめた。「まあ、お茶でもいかがです、勝手に注文してください。さあ、おかけになって、つまらんおしゃべりはよしますよ、ぐち話はね。何か別なことを話しましょう。そう、なんでしたら、ある女が、あなたの言葉を借りれば、わたしを《救ってくれた》話をしましょうか? これはあなたの第一の質問に対する返答にもなるはずです。だってその女というのが――あなたの妹さんですから。話しましょうか? まあ、時間をつぶしましょうや」
「話してください、でも、まさか……」
「おお、その心配はいりませんよ! なにしろアヴドーチヤ・ロマーノヴナは、わたしのようなこんないやらしい愚かな男にさえ、深い尊敬の気持しか抱《いだ》かせないようなお方ですからな」
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「多分、ご存じと思いますが(そうそう、これは自分であなたに話したっけ)」とスヴィドリガイロフは話しはじめた。「わたしはここで莫大《ばくだい》な借金をこさえて、ぜんぜん払うあてもなく、監獄にぶちこまれたことがあります。いまここでそのいきさつをくだくだと言う必要もありませんが、そのときマルファ・ペトローヴナが借金の肩代りをしてくれたわけです。まったく、女というものはどうかするとすっかり目がくらんで、途方もないばかなことに血道を上げるものです。あれは正直で、頭も決して悪くない女でした(もっとも、教育はぜんぜんありませんでしたが)。まあ、どうでしょう、この極度に嫉《しっ》妬《と》深《ぶか》い誠実な女が、さんざん逆上してみたり、詰《なじ》ってみたりした挙《あげ》句《く》にですよ、見栄《みえ》をすててわたしとある種の契約を結ぶ決心をしたのですよ、そしてそれをわたしたちの結婚生活の間中ちゃんと実行しました。というのも、あれはわたしよりかなり年上でしたし、おまけに、口臭がひどかったというひけめがあったせいですがね。わたしは心の中に多分にみにくい欲望を持っていたし、わたしなりの潔癖さがあったので、あれに完全に操《みさお》を立てとおすことはできないと、はっきり宣言しました。そう言われると、あれは気ちがいみたいに怒りましたが、しかしこのわたしの乱暴な率直さが、ある意味ではあれの気に入ったようでした。《まえもってこうことわるところを見ると、嘘《うそ》を言うのが嫌《いや》なんだわ》というわけです、――まあ、嫉妬深い女にはこれが一番ですよ。長いこと泣いたりほえたりした挙句、わたしたちの間にはこんな口約ができ上がりました。第一に、わたしは決してマルファ・ペトローヴナを捨てず、永久に彼女の良人《おっと》であること、第二は、彼女の許可なしにどこへも遠出しないこと、第三、決してきまった愛人は持たないこと、第四、その代りマルファ・ペトローヴナはわたしがときどき小間使いにいたずらするのは大目に見るが、その場合は必ずあれの内諾を得ること、第五、どんなことがあっても同階級の女を愛してはならないこと、第六、そういうことはあっては困るが、何か大きな深刻な情熱にとらわれたような場合は、必ずマルファ・ペトローヴナに打ち明けること、というのでした。もっとも、この最後の項目については、マルファ・ペトローヴナはいつも安心しきっていたようですがね。あれは利口な女でしたから、わたしを、深刻に愛するなどということのできない浮《うわ》気《き》な放蕩者《ほうとうもの》としか、思われなかったのでしょう。しかし利口な女と嫉妬深い女というものは――二人のちがう女で、ここに災厄《さいやく》の種があるんですよ。しかし、ある種の人々を公平に判断するためには、つまらぬ先入観や、普通わたしたちをとりまいている人々や事物に対する日常の習慣的な見方というものを、まず捨てることが必要です。他《ほか》の誰《だれ》よりも、あなたの判断に、わたしは期待する権利があります。というのは、あなたはもうマルファ・ペトローヴナについて滑稽《こっけい》なことやばからしいことを、いろいろと聞いているにちがいないからです。たしかに、あれには実に滑稽な癖がいくつかありました。しかし、かくさずに言いますが、わたしがもとであれに何度となく悲しい思いをさせたことを、わたしは心から悔んでいるんです。まあ、よしましょう、やさしい妻に対するやさしい良人のげにもふさわしい oraison fun獣re(弔辞)は、このくらいでたくさんです。喧《けん》嘩《か》をしたようなときは、わたしはたいてい沈黙を守って、いきり立たないようにつとめました、そしてこの紳士的な態度がいつもほぼ目的を達しました。それがあれに影響して、むしろそれを好いてくれたようでした。ときには、わたしを自慢にしたことさえありましたよ。しかし、あなたの妹さんには、やはり堪えられなかったんですね。それにしてもどうして、あんな美しい方を家庭教師に迎えるなんて、思いきったことをしたのだろう! わたしの考えでは、マルファ・ペトローヴナははげしい感じやすい女だから、自分がいきなりあなたの妹さんに惚《ほ》れこんでしまったんだろうと思いますね、――文字どおり惚れこんだんですよ。うん、あの妹さんではねえ! わたしは、一目見て、これはまずいことになる、とはっきりさとりましたよ。そして、嘘だと思うかもしれませんが、――あの方を見ない決心をしたんですよ。ところがどうでしょう、あなたには信じられないかもしれませんが、アヴドーチヤ・ロマーノヴナのほうから第一歩を踏み出したのです。これもまさかと思うでしょうが、マルファ・ペトローヴナは妹さんにすっかり夢中になってしまって、わたしがひとつも妹さんの噂《うわさ》をしない、あれがいくら妹さんのことをほめても返事をしないと言って、わたしを怒り出す始末です。あれの気持が、わたしにはさっぱりわかりません! マルファ・ペトローヴナは、もうむろん、わたしのことはすっかりアヴドーチヤ・ロマーノヴナに話していました。あれには、わたしたちの家庭の秘密をそれこそ誰にでも打ち明けて、たえずわたしのことをこぼすという、あわれな癖がありましてな。どうしてこの新しい美しい友を見逃すはずがありましょう? どうやら、二人の間には、わたし以外の話題はなかったようです、で、わたしのせいにされている、あらゆる暗い人聞きをはばかるような話が、アヴドーチヤ・ロマーノヴナの耳に入ったことは、もう疑いがありません……賭《か》けをしてもいいですよ、あなたもきっとこうした類《たぐ》いの話を何かお聞きになったでしょう?」
「聞きました。あなたがある女の子を死に追いやるようなことまでしたとかって、ルージンが非難していましたよ。ほんとうですか?」
「どうか、そういう下司《げす》なことは言わんでほしいですな」とスヴィドリガイロフは嫌な顔をして、不満そうに言った。「そうした阿呆《あほ》くさい話をどうしても聞きたいとおっしゃるなら、いずれ改めてお話しましょう、だがいまは……」
「また、村のあなたの下男の噂も聞きましたよ、これもあなたが何かの原因になっていたとか」
「どうか、もうやめてください!」とスヴィドリガイロフはまた露骨に苛々《いらいら》しながらさえぎった。
「それは死んでからあなたのパイプに煙草《たばこ》をつめに来たとかいう、その下男じゃありませんか……いつか自分でぼくにおしえた?」とラスコーリニコフはますます苛立ってきた。
スヴィドリガイロフは注意深くじっとラスコーリニコフを見た、すると相手の目の中に、毒々しいうす笑いが、稲妻のように、ちらと浮んだような気がした。しかしスヴィドリガイロフは自分を抑えて、至極ていねいに答えた。
「そう、その下男ですよ。どうやら、あなたもこうしたことにひどく興味をお持ちらしいですな、いいでしょう、そういう機会があり次第、あらゆる点にわたってあなたの好奇心を満足させてさしあげましょう。いやになりますよ! どうも、ほんとうにわたしは、誰やらの目には小説的な人間に見えるらしいですな。どうです、こうなると死んだマルファ・ペトローヴナにはどれほど感謝していいやらわかりませんな、なにしろあなたの妹さんにわたしのことをこれほど神秘的な興味ある人間として吹き込んでくれたんですからねえ。人の胸の中は判断できませんが、とにかくこれはわたしにとって有利でした。アヴドーチヤ・ロマーノヴナは本能的にわたしを嫌《きら》っていましたし、わたしはわたしでいつも暗いいやな顔をしていましたが――それでもやはり、ついには、妹さんはわたしをあわれに思うようになりました。亡《ほろ》んでいく人間に対するあわれみです。娘の心にあわれみ《・・・・》の気持が生れると、それが娘にとってもっとも危険なことは言うまでもありません。そうなるときっと《救って》やりたい、目をさまさせたい、もう一度立ち上がらせたい、もっと高尚《こうしょう》な目的に向かわせたい、新しい生活と活動に更生させたい、という気持になります、――まあ、こうした空想にふけるものですよ。わたしはとっさに、小鳥さん自分から網にとびこんでくるな、と見てとったから、こっちもその心構えをしたわけです。おや、ロジオン・ロマーヌイチ、顔をしかめたようですね? 大丈夫ですよ、ご存じのように、大したこともなくすんだわけですから。(チエッ、やけに酒がすすむぞ!)実はね、わたしはいつも、はじめから、運命があなたの妹さんを二世紀か三世紀頃《ごろ》のどこかの領主か、王侯か、あるいは小アジアあたりの総督の娘に生れさせてくれなかったのを、残念に思っていたんですよ。あの方は、疑いもなく、どんな苦難にも堪え得た女性たちの一人になれたでしょうし、真っ赤に焼けたコテを胸に押しつけられても、にっこり笑っていられたにちがいありません。あの方は自分から進んでそうした苦難におもむかれたはずです、そして四世紀頃に生きていたら、エジプトの砂《さ》漠《ばく》へ世を逃《のが》れて、木の根と陶酔と幻を食べて三十年、そこで暮したにちがいありません。あの方は早く誰かのためにどんな苦しみかを受けたいと、それだけを渇望《かつぼう》しているのです、その苦しみをあたえなかったら、窓から飛び下りるかもしれません。わたしはラズミーヒン君とやらについて少し聞きました。思慮深い青年だそうですね(名は体《たい》をあらわす、ですか、きっと神学生でしょう)、まあ妹さんを守らせたらいいでしょう。要するに、わたしは妹さんの気持が理解できたようだし、それを光栄と心得ています。だがあの頃は、つまりお知り合いになった当初ですがね、ご承知でしょうが、どうも軽はずみといいますか、考えが浅くなりがちで、観察をまちがったり、ありもしないものが見えたりするものです。チエッ、どうしてあの方はあんなに美しいんだ? わたしの罪じゃない! 要するに、あれはもうどうにも抑えのきかぬ欲情の爆発からはじまったんです。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはおそろしいほど、聞いたことも見たこともないほど、清純な娘さんです。(いいですか、わたしはあなたの妹さんについてこのことをありのままの事実としてあなたに伝えるのですが、ほんとにあれほどの広い知識を持ちながらねえ、おかしいほどですよ、そしてこれがあのひとの妨げになるでしょうな)。その頃たまたま家にパラーシャという娘がいたんですよ。他の村から連れて来《こ》られたばかりの小間使いで、わたしははじめて見たわけですが、黒い瞳《ひとみ》のとっても可愛《かわい》らしい娘なんですが、頭のほうは嘘みたいに弱いんですよ。泣いて、邸中《やしきじゅう》に聞えるような悲鳴を上げたものだから、いい恥をかかされましたよ。ある日、昼飯の後でしたが、わたしが庭の並木道に一人でいるところを見つけて、アヴドーチヤ・ロマーノヴナが目をうるませながら、かわいそうなパラーシャにかまわないでくれと、わたしに要求《・・》したんです。二人きりで言葉を交わしたのは、これがおそらく最初だったでしょう。わたしは、もちろん、あの方の希望をかなえてやることを光栄と考えて、つとめて恐れ入ったような、穴があったら入りたいような素振りを見せましたよ。まあ、要するに、うまく芝居をしたわけですな。それから交渉がはじまりました。ひそかな話し合い、いましめ、さとし、嘆願、哀願、涙さえ流して、――信じられますか、涙さえ流したんですよ! まったくねえ、娘さんによっては、伝道に対する情熱がこうまではげしくなるものですよ! わたしは、もちろん、すべてを運命のせいにして、光明を渇望するようなふりをしました。そしてついに、婦人の心を屈服させる偉大な、しかもぜったいに外れのない手段を発動させました。この手段はぜったいに誰をも欺《あざむ》いたことがなく、一人の例外もなく、全女性に決定的な作用をするものです。この手段とは、誰でも知っている――例のお世辞というやつですよ。この世の中には正直ほど難かしいものはないし、お世辞ほどやさしいものはありません。もしも正直の中に百分の一でも嘘らしい音符がまじっていたら、たちまち不協和音が生れて、そのあとに来るのは――スキャンダルです。またその反対にお世辞はたとい最後の一音符まで嘘でかたまっていても、耳にこころよく、聞いていて悪い気持がしないものです。たといごつごつした満足でも、やはり満足にちがいはありませんよ。そしてどんな無茶なお世辞でも、必ず少なくとも半分はほんとうらしく思えるものです。しかもこれがどんな文化人でも、社会のどんな階層でもそうなんですよ。お世辞にかかっては尼さんだって誘惑されますよ。だから、普通の人々ならもう言うまでもありません。思い出すと、笑わずにはいられないんですが、あるとき、良人以外の男は男と思わず、子供たちの養育と慈善行為に身を捧《ささ》げている貴婦人を誘惑したことがありましたよ。実に愉快でしたね。しかもなんのことはない、ころりですからねえ! 貴婦人はたしかに慈善家でしたよ、少なくとも自分で思っている程度にはね。わたしの戦術は簡単です、たえず婦人の貞節に粉砕されて、ただただそのまえにひれ伏していただけなんです。わたしは恥ずかしげもなくお世辞を並べました。そしてたまに握手を恵まれたりすると、ちらとまなざしをあたえられただけでも、すぐに、これは力ずくで婦人から奪ったのだ、婦人はさからった、あんなにさからったのだから、わたしがこんないけない男でなければ、きっと何も受けられなかったにちがいない、婦人は心が清らかなために、こちらのずるい計略が見破られないで、自分でも知らずに、心にもなくこんなことをしてしまったのだ、てなぐあいに自分を責めるわけです。結局、わたしは目的を達しました。ところがわが愛すべき貴婦人は、自分は貞節ですこしもけがれていない、あらゆる義務はちゃんと行なっている、ただまったく思いがけなく身をあたえてしまっただけだと、固く信じこんでいたわけです。だからわたしが最後に、わたしのいつわらぬ確信によれば、婦人もわたしと同じように快楽を求めていたのですね、と言ってやったときの、婦人の怒りようったらなかったですね。かわいそうなマルファ・ペトローヴナもお世辞にはおそろしく弱い女でした、だからわたしがその気にさえなれば、あれの生きている間にあれの全財産をわたしの名義に書きかえさせるくらい、わけなくできたんですよ。(しかし、まあずいぶん飲んで、よくしゃべりますなあ)。ところで、こんなことをいって、怒られると困りますが、この効果がアヴドーチヤ・ロマーノヴナにもあらわれはじめたんです。ところがわたしがばかで、気が急《せ》いたために、すっかりぶちこわしてしまったんですよ。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはそれまでも何度か、(一度などは特に)わたしの目の表情をひどく嫌いました。こんなことが信じられますか? 要するに、わたしの目にはある種の炎がますますはげしく、不用意に燃え立ってきたわけで、これが妹さんを怯《おび》えさせるようになり、しまいには、それが嫌《けん》悪《お》にかわってしまったわけです。こまごまと言う必要はありませんが、とにかくわたしたちは別れました。そこでわたしはまたばかなことをしたんですよ。あのひとのおしえやらさとしやらを思いきり乱暴に愚《ぐ》弄《ろう》したわけです。パラーシャがまた登場しました。しかも彼女一人だけじゃありません、――要するに、またソドムがはじまったわけです。まったく、一度でいいからあなたに見せてあげたいくらいですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、ときどき妹さんの目がどんなに美しくきらきら光るか! わたしはいますこし酔ってますよ、もうコップ一杯の酒を乾《ほ》しましたからな、でもそんなことはなんでもありません、わたしはほんとのことを言ってるんです。その目をわたしは夢に見たんですよ、嘘じゃありませんよ。衣《きぬ》ずれの音を聞くと、もうがまんができませんでした。ほんとに、わたしは倒れるのではないかと思いました。わたしがこんなに狂うほど好きになれるとは、まさか思いもよりませんでした。要するに、なんとか和解したかったのですが、それはもうできない相談でした。そこで、どうでしょう、わたしが何をしたと思います?かっとなると人間はどこまでばかになれるものでしょう! かっとなったときは、決して何もしてはいけませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ。アヴドーチヤ・ロマーノヴナがほんとうは貧しい娘で(あッ、ごめんなさい、わたしは何も……でも、どうせ同じことじゃありませんか、ねえ、言おうとする意味が同じなんですから?)要するに、自分で働いて暮しているし、それに母とあなたの生活までみている(あッ、いけない、また嫌な顔をなさいましたね……)ことを計算に入れて、わたしは有金《ありがね》を提供する決意をしたわけです(その頃でも、三万ルーブリくらいはなんとかすることができたので)、ただしこのペテルブルグへでもいいから、いっしょに逃げてくれるという条件で。そこでわたしは永遠の愛、幸福等々を誓ったことは、言うまでもありません。信じられないでしょうが、わたしはもうすっかり愛に目がくらんでいたのです。マルファ・ペトローヴナを斬《き》り殺すか、毒殺するかして、わたしと結婚して、と言ってくれたら、わたしは即座にそれを実行したでしょう! だが、すべてはあなたももうご存じのように、破局におわりました。そしてマルファ・ペトローヴナがあの卑劣きわまる小役人のルージンを持ち出して、結婚話をまとめかけたのを知ったとき、わたしの狂憤がどれほどであったかは、あなたにもわかってもらえると思います、――こんな結婚なら、わたしが提案したことと、本質的には同じことじゃありませんか、そうじゃありませんか? そうじゃありませんか? そうでしょう? どうやら、ひどく熱心に聞いてくれるようになりましたね……おもしろい青年だ……」
スヴィドリガイロフはじれったそうに拳骨《げんこつ》でどしんとテーブルを叩《たた》いた。顔が真っ赤になった。いつの間にかちびりちびり飲みほしてしまった一杯か一杯半のシャンパンが、悪くきいてきたのを、ラスコーリニコフははっきり見てとった、――そしてこの機会を利用することに決めた。彼にはスヴィドリガイロフがなんとしても臭く思えてならなかった。
「なるほど、それを聞いてぼくは確信を深めましたね、あなたがこちらへ来たのは、妹のことが頭にあったからでしょう」と彼はもっとスヴィドリガイロフを苛々させてやろうという気持をかくさずに、ずばりと言ってのけた。
「えい、もうよしましょうよ」と、急に気がついたように、スヴィドリガイロフはあわてて言った。「もうあなたに話したじゃありませんか……それに、妹さんはわたしにがまんができないらしいし」
「そう、それはたしかですね、ほんとにがまんができないらしい、でもいまはそんなことは問題じゃありませんよ」
「じゃあなたもそう思いますか、がまんができないって? (スヴィドリガイロフは目をそばめて、あざけるようににやりと笑った)。あなたのおっしゃるように、たしかに妹さんはわたしを愛していません、しかしですよ、夫婦の間、あるいは恋人同士の間にあったことは、決して保証なさらんほうがいいでしょうな。そこには必ず、当人たちだけしか知らない、世界中の誰にも知られずにのこされている、秘密の片隅《かたすみ》があるものです。アヴドーチヤ・ロマーノヴナがわたしを嫌悪の目で見ていたと、あなたは保証できますか?」
「あなたの話の中にでてきたいくつかの言葉、ちょっとした口のはしから、ぼくは、あなたがいまでもドゥーニャに対してあなたらしい目《もく》論《ろ》見《み》と、せっぱつまった計画を持っていることを認めますね。もちろん卑劣な計画にきまってます」
「なんですと! わたしがそんな言葉をもらしましたか?」と、不意にスヴィドリガイロフは、彼の計画の上につけられた形容詞には少しの注意もはらわずに、まるで子供みたいにびっくりした。
「そう、いまでももらしてますよ。でも、例えば何を、そんなに恐れているんです? どうしていま急におどろいたのです?」
「わたしが恐れている、おどろいた? あなたを恐れている? むしろあなたがわたしを恐れにゃならんでしょうな、cher ami (親愛なる友よ)おや、なんてばかなことを……どうも、酔いましたよ、自分でもわかります。また口をすべらすところでしたよ。酒はやめた! おおい、水だ!」
彼はびんをつかんで、乱暴に窓の外へほうり投げた。フィリップが水を持ってきた。
「いまのはみなばかなたわごとですよ」とスヴィドリガイロフはタオルを濡《ぬ》らして、それを頭にのせながら、言った。「わたしは一言であなたをしゅんとさせて、あなたの疑惑をすっかりはらすことができますよ。例えばですね、わたしが結婚することを、ご存じですか?」
「それはもうまえにも言いましたよ」
「言いましたか? 忘れてました。でも、あのときはまだはっきりそうとは言わなかったはずです。だってまだ相手がいなかったし、ただそう思っていただけですもの。ところが、いまはもうちゃんと相手がいますし、話もきまったんです。いまもしのっぴきならぬ用件さえなければ、早速、無理にもお連れするんですが――あなたのご意見をうかがいたいと思いましてね。あッ、いけない! あと十分しかない。そら、時計をごらんなさい。でも、これは話しましょう、わたしの結婚ですがね、傑作なんですよ、一風変ってましてね、――おや、どこへ? また帰るつもりですか?」
「いや、もうこうなったら帰りません」
「帰らない、ぜったいに? さあどうですかな! あなたをお連れしますよ、それはほんとです、相手の娘を見せます、でもいまじゃありません、いまはもうじきあなたもお出かけでしょう。あなたは右、わたしは左です。あのレスリッヒ夫人をご存じですか? ほら、わたしがいま間借りしているあのレスリッヒ夫人ですよ、え? わかりますか? いやいや、あなたは何を考えてるんです、ほら、少女が、冬のさ中に、川へ身を投げたとかいう噂のある、あの夫人ですよ、――え、わかります? わかりますか? そう、その夫人が今度のことはすっかり世話してくれたんですよ。おまえさんもこれじゃ淋《さび》しいだろう、まあ気晴らしをなさいな、ってね。わたしはたしかに暗い、淋しい人間ですよ。どうです、にぎやかな男に見えますか? いや、陰気な人間ですよ。別に悪いことはしませんが、隅っこにもそっと坐《すわ》っています。どうかすると三日も口をきかないことがあるんです。あのレスリッヒという女はしたたかな悪党ですよ。はっきり言いますが、こんなことを考えているんです。つまりわたしが飽きて、妻を捨てたらですね、妻をひきとって、よそへまわす、つまりわれわれの階級か、その少し上の誰かを見つけて押しつけようというわけです。あの女の言うのには、父親は老衰しきった退職官吏で、安楽《あんらく》椅子《いす》に坐ったきり、もう三年も足を動かしたことがないそうだし、母親は、なかなかもののわかった婦人で、いいお母さんだそうですよ。息子が一人どっかの県に勤めているが、仕送りはしてくれない。娘は嫁に行ったきり、訪ねて来《こ》ない。それでいて、自分の子供だけで足りないで、小さな甥《おい》を二人もひきとっている。末娘は女学校を中途でやめさせて、家へ連れもどした。この末娘が一カ月すると満十六になる、つまり一月《ひとつき》すれば嫁にやれるというわけで、それをわたしの嫁にというんですよ。わたしたちは先方へ行ってみました。いや、実に滑稽でしたよ。わたしはこう自分を紹介しました、――地主で、妻に死なれ、由緒《ゆいしょ》ある家柄《いえがら》で、これこれの親《しん》戚《せき》があり、財産がある、とね。わたしが五十歳で、先方が十六だからって、それがどうしたというんです? 誰がそんなことを気にします? どうです、ぐらッとなるじゃありませんか、え? うまい話でしょうが、は! は! 親父《おやじ》さんとおふくろさんを相手に、わたしが熱を入れて話しこんだところは、実際あなたに見せたかったですよ! そのときのわたしは、まあただでは見せられませんな。娘が出てきて、ちょいと腰を屈《かが》めて会釈《えしゃく》をしましたが、あなた、どうでしょう、まだ裾《すそ》の短い服を着て、まだかたい蕾《つぼみ》ですよ。頬《ほお》をそめて、朝やけみたいに、ぽっと顔を赤らめるじゃありませんか(むろん、もう聞かされていたわけですよ)。女の顔について、あなたはどんなご意見をお持ちか知りませんが、わたしに言わせれば、この十六歳という年ごろ、まだ子供っぽい目、おどおどした物腰、はじらいの涙、――これは美以上だと思いますな。しかもそれに加うるにですよ、その娘は絵に描いたように美しいんですよ。アストラカンのようにこまかく巻いて幾重にも垂れている明るい髪、ふっくらとやわらかい真っ赤な小さな唇《くちびる》、かわいらしい足、――素敵ですなあ!……こうして知り合いになると、わたしは家庭の都合で急ぐからと言ったんですよ、するとその翌日には、つまり一昨日《おととい》ですな、もう婚約がきまって、祝福されたんですよ。それからは、わたしが行くと、すぐに彼女を膝《ひざ》の上に抱きあげて、はなそうとしない……だから、彼女は朝やけのようにぽっと頬をそめる、わたしはのべつ接吻《せっぷん》をくりかえす。お母さんは、むろん、この方はおまえの良人となる人なんだよ、だからさからったりしちゃいけませんよ、とおしえこむ、要するに、天国ですよ! まあ、いまのこの婚約の状態のほうが、ほんとの話、良人になってからよりもいいかもしれませんて。ここにはいわゆる la nature et la v屍it ! (自然さと誠実さ)というものがありますよ! は! は! わたしは彼女と二度ほど話しましたが、――どうしてなかなか利口な娘ですよ。ときどきそっとわたしを見るんですが、――まさに燃える瞳ってやつですよ。ねえ、顔はラファエロのマドンナに似ているんですよ。シスチナのマドンナは幻想的な顔、痴愚を装う悲しめる予言者みたいな顔をしてるでしょう、それに気がつきませんでしたか? まあ、そんな顔なんですよ。祝福を受けると、そのあくる日早速千五百ルーブリの支度金を持って行きました。金剛石の装飾品を一つ、真珠を一つ、それに銀の化粧箱――こんな大きさで、中にいろんなものが入っていて、これにはさすがのマドンナの顔も、嬉《うれ》しさに真っ赤になりましたよ。昨日わたしは彼女を膝の上にのせたんですが、きっと、あまりにも無遠慮すぎたんでしょうな、――真っ赤になって、涙をぽとぽとこぼしましたよ、そしてとりみだすまいとして抑えているんだが、身体《からだ》がかっかとほてっているんですよ。そのうち、みんなが席をはずして、しばらくの間二人きりになったんですが、いきなりわたしの首にとびついて(彼女がこんなことをしたのは、はじめてなんですよ)、小さな手でわたしを抱きしめ、接吻をしながら、素直で貞淑ないい妻になります、きっとあなたを幸福にします、生涯《しょうがい》を、生活のすべてをあなたに捧げ、何もかもすっかり犠牲にします、そしてあなたからはただ一つ尊敬《・・》だけをよせていただけばそれで十分です、なんて誓うんです、そしてもうこれ以上《何も、何もいりません、どんな贈りものもなさらないでください》なんて言うじゃありませんか。どうです、こんな十六歳の天使のような娘と二人きりでいるとき、処女のはじらいに頬をそめ、目を感激の涙にうるませながら、こんな告白を聞かされてごらんなさいよ、――これが誘惑でなくて何でしょう。ぐらッとなるじゃありませんか! 男冥利《おとこみょうり》に尽きるじゃありませんか、え? まあ、安くはないでしょう? え……どうです……まあ、わたしの許《いい》嫁《なずけ》のところへお連れしますよ……ただし、いまはまずいですがね!」
「つまり、その年齢と成長のおそるべき差があなたの情欲をそそるわけですね! しかし、あなたはほんとにそんな結婚をするつもりですか?」
「どうして? しますよ。誰だって自分のことは自分で考えますよ、そして誰よりも自分をうまく欺《だま》せる者が、誰よりも楽しく暮せるってわけですよ。は! は! どうしてあなたはそう善行とやらに驀進《ばくしん》するんです? 大目に見てくださいよ、わたしは罪深い人間なんだから。へ! へ! へ!」
「でもあなたは、カテリーナ・イワーノヴナの子供たちを世話したじゃありませんか。しかし……しかし、あなたにはそれなりの理由があったんだ――なるほど、そうだったのか」
「子供はだいたい好きですよ、ひどく好きなんですよ」とスヴィドリガイロフは声を立てて笑いだした。「このことでは、実におもしろいエピソードが一つあるんですよ、それがいまだにつづいてるんですがね、なんならお話しましょうか。到着したその日に、わたしは早速方々の魔《ま》窟《くつ》をうろつきました。なにしろ、七年ご無沙汰《ぶさた》したわけですからな。あなたも多分お気づきでしょうが、むかし仲間の友人や知人たちとは、そうあわてて会おうという気にはならんのですよ。まあ、できるだけ長く、会わずにすまそうと思いましてね。実は、マルファ・ペトローヴナの村で、このさまざまな秘密の場所の思い出が、死ぬほどわたしを苦しめたんですよ。なにしろこの場所は、馴染《なじ》みになれば、いろんな穴が見つかるんでねえ。こたえられませんよ! 誰も彼も酔っぱらっている。教育ある青年たちが退屈のあまり実りそうもない夢や妄想《もうそう》に情熱をもやして、片輪な理論におぼれていく。どこからともなくユダヤ人どもが集まって来て、金をさらってしまう。あとの連中は女と酒におぼれている。というわけで、到着するとすぐに、この町はわたしの顔になつかしい匂《にお》いを吹きかけてくれたんですよ。わたしはある舞踏会と称するものへ迷いこみました、――恐ろしく不潔な店です(なにしろわたしは魔窟はきたないほど好きでしてな)。もちろん、カンカン踊りをやってましたよ、とてもほかでは見られないし、われわれの時代にはなかったやつです。うん、ここにも進歩があるわけだ。ふと見ると、かわいらしい衣装をつけた十三ばかりの少女が、達者な男と向きあって、踊っている。壁際《かべぎわ》の椅子に母親がちょこんと坐っている。それが、どんなカンカンか、あなたにはとても想像もつかんでしょうな!少女はどぎまぎして、顔を赤らめていましたが、しまいに恥ずかしがって、泣き出してしまいました。男は少女を抱き上げて、くるくるまわしながら、そのまえでいろいろな格好をして見せるんです、まわりがどっと笑い立てます、――こんなとき、たとえそれがカンカンファンのような連中でも、わあわあ笑ったり騒いだりしている人々を見るのが、わたしは好きなんですよ。《うまい。そこだ! 子供はおことわりだ!》なんてどなっています。わたしはまっぴらですね、しかし目にかど立てることもありませんよ、論理的にせよ、非論理的にせよ、みんな楽しんでるわけですからな! わたしはすぐに一計を案じて、母親のそばに坐りこみ、わたしもよそから来た者だが、という話から、ここにいるのはどいつもこいつも教養のない連中ばかりで、真の才能というものの見分けがつかないから、相応の尊敬をはらうこともできないのだ、などと言って、金があることを匂《にお》わし、馬車で送ることを申し出たわけです。家まで送って、知り合いになりました。(田舎から出て来たばかりで、小さな部屋に間借りしてるんです)。わたしと知り合いになれたことを、母親も娘も光栄と以外には考えられません、というようなことを言いました。聞いてみると、まったくの無一文で、どこかの役所に何かの運動をするために出て来たとのことで、わたしは骨を折ってあげることと、金銭の援助をすることを申し出ました。母娘《おやこ》はほんとうにダンスを教えてくれるのかと思って、あんなこととは知らずに舞踏会へ行ったそうです。そこで娘さんのフランス語とダンスの教育を援助しましょうと申し出ると、母娘は光栄の至りですと、喜んで受けてくれましたよ。いまでも、交際しています……何なら、お連れしましょうか、――ただし、いまはだめですよ」
「やめてください、そんな卑劣な、下等な話は聞きたくありません、あなたはなんというだらけきった、下司な、好色な人間なんだろう!」
「シラーですな、わが愛すべきシラー、まさにシラーですよ! O va-t-elle la vertu senicher?(美徳の巣くわぬところいずこにかある?)実はね、わざとこんな話をするんですよ、あなたの叫び声が聞きたくてね。いい気持ですよ!」
「そりゃそうでしょうよ。こんなときの自分が、ぼく自身にも滑稽でないと思いますか?」とラスコーリニコフは意地悪くつぶやいた。
スヴィドリガイロフは大口をあいて笑った。やがて彼は、フィリップを呼んで、勘定をすますと、席を立ちかけた。
「やれやれ、酔いましたな、assez caus! (おしゃべりはもうたくさんだ!)」と彼は言った、「いや、実に愉快でした!」
「そりゃ、愉快でないはずがないでしょうよ」とラスコーリニコフも腰を上げながら、とげとげしく言った。「歴戦の色事師がですよ、何か怪しげな下心を持って、こんな情事の話をすることが、楽しくないはずがありませんよ、おまけにこんな事情の下に、ぼくのような男にするんですからな……燃えるわけですよ」
「ほう、もしそうなら」とスヴィドリガイロフはいくらかおどろいた様子で、ラスコーリニコフをじろじろ見まわしながら、答えた。「もしそうなら、あなたもかなりの冷笑家《シニック》だ。少なくとも素質は大いにある。多くのものを認識できる、多く……それに実行もできる。でも、まあよしましょう。あまり話ができなかったのが、実に残念ですな、でもあなたはわたしから逃げられませんよ……まあ、しばらく待つんですな……」
スヴィドリガイロフは居酒屋から出て行った。ラスコーリニコフはそのあとにつづいた。スヴィドリガイロフは、しかし、それほど酔ってはいなかった。一時ちょっと頭にきただけで、酔いはしだいにさめていった。彼は何かひどく気になることがあるらしかった、何かきわめて重大なことらしく、気難かしい顔をしていた。何かの期待が彼の胸を騒がせ、不安にしているらしかった。ラスコーリニコフに対しても、おわり頃どういうわけか急に態度が変って、彼は急速に乱暴なさげすむような態度になった。ラスコーリニコフもそれに気付いて、やはり不安になった。彼にはスヴィドリガイロフがいよいよ疑わしく思われてきて、あとをつけてみることに決めた。
歩道に出た。
「あなたは右、わたしは左ですよ、それとも、反対かな、いずれにしても―― adieu,mon plaisir. (さらば、わが喜びよ)ではまたお会いしましょう!」
そして彼は右へ折れてセンナヤ広場のほうへ歩きだした。
5
ラスコーリニコフは彼のあとについて行った。
「どうしたんです!」と、振り向きながら、スヴィドリガイロフは叫んだ。「わたしは言ったはずですよ……」
「どうもしませんよ、ぼくはもうあなたからはなれないということですよ」
「なんですと?」
二人とも立ちどまって、互いに相手の腹をさぐるように、一分ほどじっと目と目を見交わした。
「あなたがいま酔い半分でまくし立てた話から」とラスコーリニコフは鋭くはねのけるように言った。「あなたがぼくの妹に対する卑劣きわまる計画を捨てていないどころか、かえってまえよりも強くそれに没頭していることを、ぼくははっきりと《・・・・・》見てとったのです。ぼくは今朝妹がある手紙を受け取ったことを知ってます。さっきあなたはなんとなく腰が落ち着かない様子だった……よしんば、あなたが途中どこかで妻を掘り出すことができたとしても、そんなことはなんの意味もありません。ぼくはこの目でたしかめたいんです……」
ラスコーリニコフは、自分がいま何を望んでいるのか、自分の目で何をたしかめようというのか、自分でもほとんどわからなかった。
「そうかね! お望みなら、すぐに警察を呼びますよ?」
「呼びなさい!」
彼らはまた向きあったまま一分ほど立っていた。とうとう、スヴィドリガイロフの顔が変った。ラスコーリニコフがおどしにのらないことを見てとると、彼は急ににこやかな、いかにも親しそうな顔つきになった。
「まったくおかしな人だ! わたしはね、わざとあなたの事件を話に出さなかったんですよ。そりゃむろん、好奇心でうずうずしてましたがね。なにしろファンタスチックな事件ですからな。次までのばしておこうと思ったんですよ、でも、たしかに、あなたは死んだ人間まで怒らせることのできる人だ……じゃ、行きましょう、ただことわっておくけど、わたしはこれからちょっと家へ寄って、金をとり、それから部屋の鍵《かぎ》をしめて、馬車を雇って、島のほうへ行くんですよ、夜おそくまで。だから、ついて来《こ》ようたって無理ですよ!」
「ぼくもさしあたり家へ行きましょう、といってあなたの家じゃありませんよ、ソーフィヤ・セミョーノヴナのところです、葬式に行かなかった詫《わ》びを言いに」
「お好きなように、でもソーフィヤ・セミョーノヴナは家にいませんよ。あのひとは子供たちをある婦人のもとへ連れて行きましたよ。ある名門の老婦人ですがね、わたしの昔からの知り合いで、いくつかの孤児院の管理をしている婦人ですよ。わたしはカテリーナ・イワーノヴナの三人の遺児の養育料として金をわたし、そのうえさらに孤児院に金を寄付して、この老婦人を籠絡《ろうらく》したんですよ。最後に、ソーフィヤ・セミョーノヴナの話を、何もかも包みかくさず話しましてね。おどろくほどの効果でしたよ。それでソーフィヤ・セミョーノヴナに今日、婦人が別荘から出て来てしばらく滞在しているNホテルに、直接訪ねて来るように、ということになったわけですよ」
「かまいません、とにかく寄ってみます」
「勝手になさい、ただわたしはあなたたちとはちがいますからね、どうってことありませんよ! そら、もう家ですよ。どうです、わたしはこう思っているんですがね、つまり、あなたがわたしを疑いの目で見るのは、わたしがあまりにデリケートで、いまだにいろんな質問であなたをわずらわさないからだとね……この意味がわかりますか? あなたにはこれが異常なことに思われたんです。賭《か》けをしてもいいですよ、そうでしょう! だから、これからはよくよく気をつけることですな!」
「そして戸口で盗み聞きなさるんですな!」
「おや、そのことを言ってるんですか!」とスヴィドリガイロフは笑いだした。「そうでしょうとも、あんなことがあったあとで、あなたが黙ってこれを見逃すようだったら、こっちがかえっておどろいたでしょうよ。は!は! そりゃわたしも、うすうすはわかりましたよ、だってあのときあなたが……あそこで……ソーフィヤ・セミョーノヴナをからかって、ぺらぺらしゃべってましたからねえ、でも、あれはいったいどういうことでしょう? わたしはすっかり時代におくれてしまったらしく、もうさっぱり理解ができないんですよ。どうか、説明していただけませんか!最新の思想で啓蒙《けいもう》してくださいな」
「何もあなたは聞きとれやしなかったんだ、あなたは嘘《うそ》を言ってるんだ!」
「いや、わたしはそのことを言ってるんじゃありませんよ、そのことじゃありませんよ(もっとも、少しは聞えましたがね)、いや、わたしが言うのは、あなたがしょっちゅう溜《ため》息《いき》ばかりついてることですよ! あなたの中のシラーはのべつおろおろしている。だから今頃《いまごろ》になって、ドアのかげで盗み聞きするな、なんて言うんだ。そんなことなら、出るところへ出て、これこれこういうわけでこんな事件を起しました、理論にちょっとしたまちがいができたためです、と自白するんだね。もしも、ドアの外で盗み聞きをしてはいかん、しかし自分の満足のためなら、婆《ばあ》さんなんて手当りしだいのえもの《・・・》で叩《たた》っ殺してもいいんだ、という信念があるなら、早くアメリカへでも逃げなさい! さっさと逃げることだ!まだ大丈夫かもしれん。わたしは本気で言ってるんだよ。金がないのかね? それならわたしが旅費をあげよう」
「そんなことはぜんぜん考えちゃいない」とラスコーリニコフは気色わるそうにさえぎった。
「わかりますよ(しかし、無理なさらんがいい。いやなら、あまりしゃべらんことだ)。わかりますよ、あなたがいまどんな問題に悩んでいるか。道徳の問題、かな? 市民と人間の問題でしょう? でも、そんなものはわきへ押しやりなさい。いまのあなたにそんなものが何になります? へ、へ! まだやはり市民であり、人間だからかな? それなら、こんなに出しゃばることはなかったわけだ。関係もないことに手を出すことはありませんからな。まあ、ピストル自殺をするんですな。それとも、おいやかな?」
「あなたはわざとぼくを怒らせようとしてるんでしょう、ただぼくを追っ払うために……」
「あなたもおかしな人だ。そらもう来ましたよ、どうぞ階段をのぼってください。あれがソーフィヤ・セミョーノヴナの部屋の入り口ですよ、ごらんなさい、誰《だれ》もいませんから!嘘だと思いますか? カペルナウモフに聞いてごらん、外出のときはいつも鍵をあずけるんですから。おや、ちょうどいい、マダム・ド・カペルナウモフですよ、え? なんですって? (この女は耳がすこし遠いんですよ)。出て行った? どこへ? ほらね、聞いたでしょう? 留守ですよ、多分、夜おそくまでもどらんでしょうな。じゃ、わたしの部屋に行きましょうか。わたしの部屋にも来たかったんでしょう? さあ、来ました。マダム・レスリッヒは留守です。年中せかせか歩きまわってるんですよ、でも気はいいんです、ほんとですよ……もしかしたら、あなたの役に立つかもしれませんよ、あなたがもう少し冷静になればですがね。さてと、いいですか、わたしはデスクから五分利の債券を一枚とります。(ほら、まだこんなにありますよ!)これは今日両替屋で現金にかえるんですよ。ごらんになりましたね? これ以上時間をつぶしてはいられません。そこでデスクの鍵をかけ、部屋の戸をしめて、さあ、また階段に出ました。さあ、よろしかったら、馬車を雇いましょう。わたしは島へ行くんですよ。どうです、馬車にゆられてみては? わたしはこの馬車でエラーギン島へ行くんですよ、え? ことわるって? 根負けしましたか? すこしどうです、別にかまいませんよ。雨がおちて来そうですが、平気ですよ、幌《ほろ》を下ろしますから……」
スヴィドリガイロフはもう馬車に乗っていた。ラスコーリニコフは、自分の疑惑が少なくともいまだけはまちがっていた、と判断した。一言も答えずに、彼はくるりと向き直って、いま来た道をセンナヤ広場のほうへもどりはじめた。途中一度でも振り返ったら、彼は、スヴィドリガイロフが百歩も行かないうちに、御者に金を払って、馬車を下りたのを見ることができたはずだ。しかし彼はもう何も見ることができなかった、そしてもう角を曲ってしまった。深い嫌《けん》悪《お》が彼をスヴィドリガイロフから引き放してしまったのである。《あんながさつな悪党から、あんな好色で卑劣な道楽者から、しばらくでも何かを期待する気になれたとは、なんということだ!》と、彼は思わず叫んだ。ラスコーリニコフがこの判断をあまりにも軽率に急ぎすぎたことは、たしかだ。スヴィドリガイロフの様子には、秘密とは言えないまでも、少なくともどことなく変ったところがあったはずである。そうしたいろいろなことの中で、妹に関してだけは、ラスコーリニコフはやはり、スヴィドリガイロフが手をひくまいという確信をすてなかった。しかしそうしたいろいろのことをああでもないこうでもないと考えるのが、どうにも辛《つら》くて、堪えられなくなった!
彼はいつもの癖で、一人きりになると、二十歩ほど歩くと深い瞑想《めいそう》にしずんだ。橋まで来ると、手すりにもたれて、水面に目をおとした。いつの間に来たのか、彼の背後にアヴドーチヤ・ロマーノヴナが立っていた。
彼は橋のたもとで彼女に会ったのだが、見向きもしないで、通りすぎたのだった。ドゥーネチカはまだ一度も街でこんな兄を見かけたことがなかったので、すっかり驚いてしまった。彼女は立ちどまったが、声をかけていいのかどうか、わからなかった。不意に彼女はセンナヤ広場のほうから急ぎ足に近づいてくるスヴィドリガイロフの姿に気付いた。
しかし彼は、そっと注意深く近づいてくる様子だった。彼は橋へのぼらないで、ラスコーリニコフに見つからないようにひどく苦心しながら、横の歩道に立ちどまった。彼はドゥーニャにはもうさっきから気付いていて、しきりに合図をしはじめた。彼女にはその合図が、兄には声をかけないでそっとしておき、こちらへいらっしゃい、という意味らしく思われた。
ドゥーニャはそのとおりにした。彼女はそっと兄のうしろを通って、スヴィドリガイロフのほうへ近づいて行った。
「さあ、早く行きましょう」とスヴィドリガイロフは彼女に囁《ささや》いた。「わたしたちが会ったことを、ロジオン・ロマーヌイチに知られたくないのですよ。おことわりしておきますが、わたしたちはすぐそこの居酒屋にさっきまでいっしょにいたんですよ。わたしをさがしに来て、偶然に出会ったわけです。逃げるのに苦労しましたよ。彼はどういうわけかわたしがあなたにやった手紙のことを知っていて、何かわたしを疑っているんです。むろん、あなたが言ったんじゃないでしょうね? だが、あなたでないとすると、いったい誰でしょう?」
「さあ、わたしたちもう角を曲りましたわ」とドゥーニャがさえぎった。「もう兄からは見えませんわ。おことわりしますけど、これから先には参りません。ここでお話しください。みな通りで立ってできる話ですもの」
「第一に、これはぜったいに通りでできる話ではありません。第二に、あなたはソーフィヤ・セミョーノヴナの話も聞くべきです。第三に、わたしはあなたに少しばかり証拠をお見せするつもりです……そうそう、それから最後に、もしあなたがわたしの部屋に来ることを承諾なさらなければ、わたしはいっさいの説明を拒否して、ただちに失礼します。その際は、あなたの最愛の兄さんの実に興味ある秘密が、完全にわたしの手の中ににぎられていることを、どうぞお忘れなく」
ドゥーニャは思案顔に立ちどまって、刺すような目でスヴィドリガイロフをにらんでいた。
「何が恐《こわ》いんです!」とスヴィドリガイロフはしずかに言った。「都会は村とちがいますよ。村でだって、むしろ被害者はわたしのほうでしたよ、だがここでは……」
「ソーフィヤ・セミョーノヴナには話してありますの?」
「いいえ、一言も言いませんでしたよ、それにいま家にいるかどうかさえ、はっきりはわかりません。でも、多分いると思いますがね。今日はお母さんの葬式でしたから、こんな日にお客に行くはずもないでしょう。ある時期が来るまでは、このことは誰にも言いたくないんです、あなたに知らせたのさえ、いくらか後悔してるんですよ。この際、ちょっとした不注意でも、密告したと同じことになりますからな。わたしはすぐそこの、ほら、あの家に住んでいるんですよ。もう来ました。あれがわたしたちの家の庭番ですよ。わたしをよく知っています、そらお辞儀したでしょう。あの男は、わたしが女のひとといっしょに来たのを見たわけです、むろん、もうあなたの顔をおぼえましたよ。あなたがひどく恐がって、わたしを疑っているとすれば、これがあなたにとって有利な条件になるわけですよ。ごめんなさい、こんな品のないことを言ったりして。わたしはここに間借りしてるんです。ソーフィヤ・セミョーノヴナは壁一つへだてたとなりに住んでます、やはり間借りです。この階は借家人でいっぱいですよ。子供みたいに、何を恐れることがあります? それとも、わたしという人間はそれほど恐ろしい男ですかな?」
スヴィドリガイロフは顔をゆがめて、さも鷹揚《おうよう》そうに笑った。だが彼はもう笑っているどころではなかった。心臓がどきどきして、息が胸につまりそうだった。彼はますますはげしくなってくる興奮をかくすために、わざと大きな声でしゃべった。しかしドゥーニャはこの異常な興奮に気付かなかった。あなたは子供みたいに恐れている、わたしがそんなに恐い男か、と言われて、彼女はかっとなってしまったのである。
「あなたが……恥知らずな人だということは知ってますけど、すこしも恐れてはいませんわ。どうぞお先に」と彼女は言った。落ち着いているように見えたが、顔はひどく蒼《あお》かった。
スヴィドリガイロフはソーニャの部屋のまえに立ちどまった。
「ちょっとおうかがいしますが、いらっしゃるでしょうか? いらっしゃらない。まずかったですね! でも、じきにもどるはずですよ。出たとすれば、きっとある婦人のところでしょうから、みなし子になった弟妹たちのことで。母が死んだんですよ。わたしはここにもひっかかって、ちょっと世話をしたんですよ。もしソーフィヤ・セミョーノヴナが十分してもどらなかったら、あなたさえよければ、今日のうちにお宅へ伺わせましょう。さて、これがわたしの住まいです。この二部屋です。ドアの向うは主婦《おかみ》のレスリッヒ夫人の部屋です。ちょっとこちらを見てください、わたしの大事な証拠をお見せしましょう。わたしの寝室から、そらそのドアは、貸しに出ている二つのがらんとした空室に通じています。これがその空室です……これをちょっと注意して見てもらいたいんですが……」
スヴィドリガイロフは家具つきのかなり広い部屋を二間借りていた。ドゥーネチカは疑惑の目であたりを見まわしたが、部屋の装飾にも、間取りにも、別に変ったところは見えなかった。もっとも、ちょっと気になったといえば、スヴィドリガイロフの部屋の両隣がほとんど空室みたいになっていたことだった。彼の部屋の入り口は直接廊下からはつづいていないで、ほとんど空室のような主婦の部屋を二つ通らなければならなかった。スヴィドリガイロフは寝室から、鍵のかかっているドアを開けて、やはりがらんとした、貸しに出されている部屋をドゥーニャに見せた。ドゥーネチカは、なんのためにその部屋を見せられるのかわからずに、しきいの上に立ちどまった、するとスヴィドリガイロフは急いで説明した。
「さあ、こちらの、この二つ目の大きな部屋をごらんください。このドアに注意してください、鍵がかかってるでしょう。ドアのそばに椅子《いす》が一つおいてあります、この二つの部屋で椅子はこれ一つだけです。これはわたしが自分の部屋から持ってきたんですよ、聞きやすいようにね。このドアのすぐかげにソーフィヤ・セミョーノヴナのテーブルがあって、彼女がそのテーブルに坐《すわ》って、ロジオン・ロマーヌイチとお話をしたんです。で、わたしはここで、この椅子に腰かけて、盗み聞きをしたわけですよ、二晩つづけて、二度とも二時間くらいずつ、――ですから、むろん、うすうすは知ることができたというわけです、おわかりですね?」
「あなたが盗み聞きをしたのですか?」
「そうです、しましたよ。じゃ、わたしの部屋へ行きましょう、ここでは坐ることもできませんから」
彼はアヴドーチヤ・ロマーノヴナを客間につかっている一つ目の部屋へ案内して、椅子をすすめた。自分はテーブルの向う端に座をしめた。そこは彼女から少なくとも二メートルくらいは離れていたが、おそらく彼の目の中に、かつてドゥーニャをあれほど怯《おび》えさせたあの同じ炎が、もうめらめらと燃えていたにちがいない。彼女はぎくっとして、もう一度疑惑の目をあたりへ向けた。それは彼女の意にそむいた態度だった。なぜなら、明らかに、彼女は不信を相手に見せたくなかったからだ。だが、スヴィドリガイロフの部屋の一軒家のような状態が、とうとう彼女を不安にした。彼女は、せめて主婦《おかみ》だけでも家にいるのかと聞きたかったが、口に出さなかった……自分のプライドのために。それに、自分の身の不安よりも、比較にならぬほど大きなもう一つの苦しみが、彼女の心の中にあった。彼女は胸がはりさけそうな思いだった。
「この手紙はお返しします」と、手紙をテーブルの上において、彼女は口を開いた。「あなたがお書きになっているようなことが、あっていいものでしょうか? あなたはある犯罪のことを、兄が犯したらしくほのめかしています。あんなにはっきりほのめかしているのですから、いまさら言いわけはできないでしょう。実は、あなたのお手紙をもらうまえにも、このばかばかしい話を聞きましたが、わたしはそんなことは一言も信じておりません。実にいまわしい、滑稽《こっけい》な嫌《けん》疑《ぎ》ですわ。わたしはどうして、どんなところからそんな嫌疑が生れたのか、そのいきさつを知っております。あなたに証拠なんてあろうはずがありません。あなたは証拠を見せると約束なさいました、さあ見せてください! でも、おことわりしておきますけど、わたしはあなたの言うことなど信じませんよ! 信じませんとも……」
ドゥーネチカはこれを早口で、急《せ》きこみながら言い終わると、とたんに顔がさっと赤くなった。
「もし信じていないなら危ない思いをして一人でここへいらっしゃるなんて、おかしいじゃありませんか? なんのためにいらしたんです? ただ好奇心からですか?」
「わたしを苦しめないで、さあ話してください、話してください!」
「あなたが勇気のある娘さんだということは、申すまでもありませんな。正直のところ、わたしは、あなたがラズミーヒン君に送って来てもらうものだと、思っていましたよ。ところが、あなたのそばにも、まわりにも、いなかった。わたしは注意して見たんですよ。相当思いきっている、つまり、ロジオン・ロマーヌイチをそっとしておきたかったわけだ。しかし、あなたはどこまで神々《こうごう》しいお方だ……あなたのお兄さんについては、わたしが何を言うことがあるでしょう? いまご自分でごらんになりましたね。どんなでした?」
「それだけが、あなたの理由じゃありませんでしょう?」
「いや、それじゃありません、彼自身の言葉ですよ。となりのソーフィヤ・セミョーノヴナのもとへ、二晩つづけて訪ねて来ました。二人がどこに坐ったかは、いまおしえましたね。彼はすっかり彼女に懺《ざん》悔《げ》したのです。彼は人殺しです。彼は官吏の後家で、自分も品物をあずけていた金貸しの婆さんを、殺したのです。そのうえ、犯行の途中で偶然にもどって来た、婆さんの妹で、古着屋をやっていたリザヴェータという女をも、殺しました。二人とも、用意して行った斧《おの》で、殴り殺したのです。盗むために、殺したのです、そして盗みました。金と品物をすこし……彼は自分でその模様をすっかり丹念にソーフィヤ・セミョーノヴナに話したのです、だから彼女だけがその秘密を知ってるわけです、しかし彼女は言葉でも行為でも殺人には参加していません、それどころか、いまのあなたのように、おそろしさにちぢみ上がったのです。でも、ご安心なさい、彼女は彼を裏切るようなことはしません」
「そんなことあり得ないわ!」とドゥーネチカは死人のように蒼ざめたた唇《くちびる》で呟《つぶや》いた。彼女は苦しそうにあえいでいた。「あり得ないわ、だって、これっぽっちの理由も、なんの動機も、ありませんもの……そんなこと嘘だわ! 嘘だわ!」
「ものを盗んだ、これが理由のすべてですよ。彼は金と品物をとった。もっとも、彼自身の告白によると、金も、品物も、つかわないで、どこかの石の下に埋めて、いまもそのままになっているそうだが。でもそれは、彼がつかう勇気がなかったからだ」
「兄さんに強盗ができるなんて、そんなことあるもんですか? そんなこと考えることもできない人ですわ!」と叫んで、ドゥーニャはいきなり立ち上がった。「あなただって知ってるじゃありませんか、ごらんになったでしょう? あの兄さんに泥棒《どろぼう》なんかできて?」
彼女はスヴィドリガイロフにすがりつくようにして言った。もう恐ろしいことなど、すっかり忘れていた。
「ここには、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、幾千、幾百万という要素がからみあってるんですよ。泥棒は盗みをしますが、その代りもう内心では、自分が卑劣な男だということを知っています。現にわたしは、ある名門の男が郵便馬車を襲った事件を聞いたことがあります。この男がほんとうに、そんな大それたことをしようと考えたなんて、誰が思いましょう! もしはたから聞かされたとしたら、わたしだって、いまのあなたのように、もちろん信じなかったでしょう。でもわたしは、それを自分の耳でたしかめたのです。彼はソーフィヤ・セミョーノヴナに理由もすっかり説明しました。彼女もはじめは自分の耳を信じませんでしたが、とうとう、目でたしかめたのです、自分の目で。だって彼は自分ではっきり話したんですよ」
「いったいどんな……理由って!」
「話せば長くなりますがね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ。そこには、さあなんと言ったらいいかな、一つの理論のようなものがあるんですよ。例えば、大きな目的が善を目ざしていれば、一つくらいの悪業は許される、というような理屈ですよ、一つの悪と百の善行です! りっぱな才能と自尊心のある青年にとって、例えば、三千ルーブリかそこらの金があれば、将来の生活の見通しがすっかり別なものになり、輝かしい出世街道を歩めるのに、その三千ルーブリがどうにもならないとわかったら、それこそ、どれほどくやしいかわかりませんよ。そこへ更に、飢え、せまい部屋、ぼろぼろの服、自分の社会的地位、同時に妹や母の状態のみじめさの明瞭《めいりょう》な自覚、などからくる苛《いら》立《だ》ちを加えてごらんなさい。何よりも大きいのは虚栄心です、自負心と虚栄心です、しかし、それがいい方向をもつものかもしれませんしね、わかりませんよ……わたしは彼を責めてるんじゃありませんよ、そんなふうにとられると、困りますよ。わたしの領分じゃないんですから。そこにはもう一つ独特の理論があったんですよ、――まあありきたりの理論ですがね、――それによると、人間は、いいですか、材料と特殊な人々に分けられるというんですよ。つまり、特殊な人々とは、高い地位にあるから、法律の適用を受けないばかりか、かえって、他の人々、つまり材料、ごみですな、そういう連中のために法律をつくってやる人々だ、というのです。なに、ありふれた理論ですよ。Une th姉rie comme une autre. (変りばえのしない理論ですよ)ナポレオンにすっかり傾倒していたようです。つまり特に彼を惹《ひ》きつけたのは、多くの天才たちはちっぽけな悪には見向きもしないで、平気で踏みこえて行ったという事実ですよ。彼は、自分を天才だと思った、らしい、――少なくともある期間は、そう信じていた。彼は、理論を書くことはできたが、ためらわずに踏みこえることは、できない、つまり天才ではない、という考えのためにひどく苦しんだ。いまでも苦しんでいる。まあ、これは自負心の強い青年にしてみれば、堪えられない屈辱ですよ、特に現代は……」
「じゃ、良心の苛責《かしゃく》は? すると、あなたは兄に道徳心がぜんぜんないとおっしゃるんですか? いったい兄がそんな人でしょうか?」
「いや、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、現代は何もかもすっかり濁ってしまいましたよ、と言って、しかし、これまでだって、特に秩序が正しかったことは一度もありませんがね。ロシア人は大体茫漠《ぼうばく》としてるんですよ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、彼らの土地みたいに、茫漠としてるんです、そして幻想的なもの、漠然としたものに惹かれる傾向が、きわめて強いんです。おぼえてますか、ほら、毎晩のように、夕食後庭のテラスに腰かけて、二人でこれと同じようなことを、これと同じようなテーマで、ずいぶん話し合ったじゃありませんか。もしかしたら、ちょうどあんなことを話し合っていた頃、彼はここでねそべって、自分の理論を考えていたのかもしれませんね。わが国の教養階級には特に神聖な伝統というものが、たしかにありませんね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ。誰かが本を読んでどうにかでっち上げるか……あるいは年代記から何かひっぱり出すくらいのものですよ。しかしそんなのはたいていは学者で、ご存じのように、それぞれ気のきかない連中だから、社交界の人間にしてみれば、かえって失礼にさえ思えるというわけです。ところで、わたしの考えは大体ご存じでしょうけど、わたしは決して人を責めません。わたし自身が白い手の高等遊民で、それから出ようとしないのですから。そう、このことはもう何度も話し合いましたね。幸いにも、わたしの意見に興味をもっていただいたことさえ、ありましたっけ……ひどく顔色がわるいですね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ!」
「わたし兄さんのその理論を知ってますわ。雑誌で読みましたわ、すべてが許されるという人々についての兄さんの論文を……ラズミーヒンさんが貸してくれたんです……」
「ラズミーヒン君が? あなたの兄さんの論文を? 雑誌で? そんな論文があるんですか? 知らなかった。そりゃ、きっと、おもしろいでしょうね! おや、どこへいらっしゃいます、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ?」
「ソーフィヤ・セミョーノヴナにお会いしたいんです」とドゥーネチカは弱々しい声で言った。「どこから行けますの、あのひとの部屋へは? もしかしたら、もどってるかもしれませんわ。どうしてもいまお会いしたいんです。そしてあのひとに……」
アヴドーチヤ・ロマーノヴナはしまいまで言うことができなかった。息が文字どおり切れたのである。
「ソーフィヤ・セミョーノヴナは夜おそくまでもどらんでしょう。わたしはそう思いますね。じきにもどるはずだったのですが、そうでないとすれば、ずっとおそくなるはずです……」
「あッ、じゃあんたは嘘を言ったのね! わかったわ……あんたは嘘を言ったんだ……あんたの言うことなんかみんな嘘だ!……あんたなんか信じないわ! 信じないわ! 信じないわ!」とドゥーネチカはすっかりとりみだして、ほんとに気が狂ったように叫び立てた。
彼女はほとんど失神したようになって、あわててスヴィドリガイロフが押しやった椅子の上に、倒れた。
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、どうなさいました、しっかりなさい! さあ、水です。一口お飲みなさい……」
彼はドゥーネチカに水をふりかけた。ドゥーネチカははっとして、われに返った。
「利《き》きすぎたようだ!」とスヴィドリガイロフは眉《まゆ》をひそめて、ひとり言を言った。「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、ご安心なさい!彼には友人たちがいますよ。わたしたちが救いますよ、助けますよ。なんでしたら、わたしが外国へ連れて行きましょうか? わたしは金があります。三日のうちに切符を手に入れましょう。人殺しをしたといっても、これからたくさんいいことをすれば、罪は償われますよ。心配はいりません。まだ偉大な人間になることだってできます。おや、どうなさいました? ご気分はいかがです?」
「悪い人です! まだなぶり足りないんですか。わたしを帰してください……」
「どこへ行くんです? え、どこへ?」
「兄のところへ行きます。兄はどこにいます? ご存じでしょう? どうしてこのドアは鍵がかかってますの? わたしたちこのドアからこの部屋へ入ったのに、いまは鍵がかかってる。いったい、いつの間に鍵をかけましたの?」
「わたしたちがここで話したことが、家中に聞えても困りますからな。わたしはぜんぜんからかってなどいませんよ。もったいぶった話があきあきしただけですよ。ねえ、あなたはそんなに興奮してどこへ行こうというのです? 兄さんを裏切りたいとでもいうのですか? あなたは彼を気ちがいみたいに怒らせてしまって、彼は自分で自分を売りわたすようなことになるでしょう。いいですか、彼にはもう尾行がついているんですよ、見張られているんですよ。そんなことをしたら、彼を逮捕してくれというようなものです。まあお待ちなさい。わたしはいま彼に会って、お話をしたばかりです。まだ救うことはできます。お待ちなさい、おかけなさい、いっしょに考えようじゃありませんか。あなたをここへ呼んだのは、二人だけで話し合って、よくよく考えてみようと思ったからですよ。さあ、おかけなさい、ね!」
「どんな方法であなたは兄を救うことができますの? ほんとに救うことができますの?」
ドゥーニャは腰を下ろした。スヴィドリガイロフはそのそばに坐った。
「それはみな、あなたの覚悟次第です。あなたさえ、あなたさえその気に」と彼は目をぎらぎらさせて、興奮のあまり言葉を最後まで言いきらずに、どもりながら、ほとんど囁くように言った。
ドゥーニャはぎょッとして身をひいた。彼も身体中《からだじゅう》をわなわなとふるわせていた。
「あなたが……一言いってくだされば、彼は救われるのです!……わたしが……わたしが救います。わたしには金と手づるがあります。わたしはすぐに彼を発《た》たせます、わたしもパスポートをもらいます、二枚。一枚は彼、もう一枚はわたしです。わたしには友人があります。そういうことに詳しい連中です……いかがです? よろしかったら、あなたのパスポートももらいましょう……あなたのお母さんのも……ラズミーヒンなんてあなたに何になります? わたしはあなたをこんなに愛しているんです……限りなく愛しているんです。どうか服の裾《すそ》に接吻《せっぷん》させてください。お願いです! お願いです! 衣《きぬ》ずれの音を聞くと、たまらないのです。これをしろ、と一言いってください、すぐに実行します! わたしは何でもします。出来ないことだってします。あなたの信じるものを、わたしも信じます。わたしは何でも、何でもします! そんな目で、そんな目で、見ないでください! おわかりですか、あなたはわたしの生命《いのち》を刻んでいるのです……」
彼は狂気じみたことさえ口走りはじめた。不意に頭をがんと叩きのめされたように、とつぜん態度がおかしくなった。ドゥーニャは夢中で立ち上がって、ドアのほうへかけ出した。
「開けてください! 開けてください!」と彼女はドアを両手でたたきながら、大声で救いを求めた。「開けてくださいったら! 誰もいませんの?」
スヴィドリガイロフは立ち上がって、われに返った。まだひくひくふるえている唇に、毒毒しいなぶるようなうす笑いがゆっくりひろがりはじめた。
「そっちには、誰も、いませんよ」と彼はしずかに、一語一語間をおきながら言った。「主婦《おかみ》は外出しましたよ、叫んでもむだですな。いたずらに自分を興奮させるだけですよ」
「鍵はどこです? すぐ開けてください、いますぐ、卑怯《ひきょう》よ!」
「鍵が紛失して、見つからないんですよ」
「あ? じゃ力ずくでわたしを!」と叫ぶと、ドゥーニャは死人のように蒼ざめて、さっと部屋の隅《すみ》へとびのき、急いで手にふれた小さなテーブルのかげにかくれた。彼女は声を立てなかった。食い入るような目で相手をにらみつけながら、その一挙一動に鋭く注意していた。スヴィドリガイロフもその場を動こうとしないで、反対側の隅に立ったまま彼女とにらみあっていた。彼は自分を抑えているふうでさえあった、少なくとも表面はそう見えた。しかし顔はやはり蒼かった。なぶるようなうす笑いがまだ消えなかった。
「あなたはいま《力ずくで》と言いましたね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ。もし力ずくであなたを奪うつもりなら、その手《て》筈《はず》がもうできていることは、あなたもおわかりでしょう。ソーフィヤ・セミョーノヴナは不在だし、カペルナウモフの住《すま》居《い》まではひじょうに遠く、間に五つも鍵のかかった部屋がある。最後に、わたしはどう見てもあなたの二倍は強そうだし、加えて、わたしは何も恐れることがない。だって、あなたはあとで訴えることもできんでしょうからな。まさか、いざとなったら、兄さんを裏切る気にはなれんでしょう? それに、誰もあなたを信じませんよ。え、だって何か訳がなくて、娘さんが一人で男一人の部屋を訪れるはずがないじゃありませんか?だから、たとえ兄さんを犠牲にしても、この場合なんの証明にもなりません。暴行ってやつは判定がひどく難かしいんですよ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ」
「卑怯だわ!」とドゥーニャは怒りに蒼ざめて、かすれた声で呟いた。
「なんとでもご自由に、でもことわっておきますが、わたしはまだ仮定として言っただけですよ。わたしの個人的な信念を言いますと、まったくあなたのおっしゃるとおり、暴力は――卑劣な行為です。わたしが申し上げたのは、ただ、たとえあなたが……たとえあなたが、わたしの提案どおりに、ご自分の意志で兄さんを救おうとなさった場合でも、あなたの良心に何もしこりがのこらないようにと、ただそのためです。あなたはただ周囲の事情に、もしどうしてもそうおっしゃりたいなら、力といってもかまいませんがね、屈服したというだけのことです。そこのところをよく考えてください、あなたの兄さんとお母さんの運命はあなたの手の中にあるんですよ。わたしはあなたの奴《ど》隷《れい》になりましょう……死ぬまで……わたしはここで待ちましょう……」
スヴィドリガイロフはドゥーニャから八歩ほどのところにあるソファに腰を下ろした。ドゥーニャには、彼が不屈の決意をしていることが、もう疑う余地がなかった。それに、ドゥーニャは彼がどういう男か知っていた……
不意に彼女はポケットから拳銃《けんじゅう》をとりだし、撃鉄を上げて、拳銃をもった手をテーブルの上にのせた。スヴィドリガイロフはとび上がった。
「ははあ! そうでしたか!」と、彼はぎょッとしたが、毒々しいうす笑いをうかべたまま、叫んだ。「なるほど、これで筋のはこびがすっかり変りますな! あなたは自分のほうからわたしにしごとをひどくしやすくしてくれますよ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ!でも、どこでその拳銃を手に入れました? ラズミーヒン君ですかな? おや! これはわたしの拳銃だ! なつかしい昔《むかし》 馴染《なじ》みですよ!……そういえばあの頃ずいぶんさがしたものですよ!……なるほど、あの頃田舎で光栄にもあなたにお教えした射撃のレッスンが、むだではなかったわけだ」
「あなたの拳銃じゃないわ、あなたに殺されたマルファ・ペトローヴナのです、人でなし! あのひとの家にはあんたのものなんか何一つなかったわ。あんたのような人は何をするかわからない、と心配になったから、これをかくしておいたのよ。一歩でも動いてごらんなさい、ほんとに、殺してやる!」
ドゥーニャは夢中だった。彼女は拳銃を構えた。
「ところで、兄さんはどうします? 好奇心からお聞きしますがね」とスヴィドリガイロフはその場に突っ立ったまま、尋ねた。
「密告したきゃ、するがいい! 動くな! 一歩も! 射《う》ちますよ! あんたは奥さんを毒殺した、わたしは知ってる、あんたこそ人殺しだ!」
「じゃあなたは、そう思いこんでいるんですか、わたしがマルファ・ペトローヴナを毒殺したなどと?」
「あんただわ! 自分でわたしにほのめかしたじゃないの、毒薬の話なんかして……それを買いに出かけたことも、わたし知ってるのよ……すっかり用意ができていた……あれはぜったいにあんただわ……人でなし!」
「仮にそれが真実だとしても、それはきみのためじゃないか……どうしたってきみが原因なんだよ」
「嘘よ! あんたなんか憎んでいたわ、いつも、いつも……」
「へえ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ! どうやら、忘れたらしいですな、説教に熱がこもりすぎて、うっとりと、妙な気持になったことを……わたしはあなたの目を見てわかりましたよ。ほら、おぼえてますか、あの宵《よい》、月が出て、それに鶯《うぐいす》が鳴いていたっけ?」
「嘘よ! (狂おしい憤《ふん》怒《ぬ》がドゥーニャの目に光りはじめた)。嘘だわ、嘘つき!」
「嘘? まあ、嘘かもしれん。嘘にしておきましょう。女にこういうことを言っちゃいかんのだ。(彼はうす笑いをもらした)。きみが射つのは、知ってるよ。きみは小さな可愛《かわい》らしい野獣だよ。さあ、射ちたまえ!」
ドゥーニャは拳銃を上げた、そして死人のように真《ま》っ蒼《さお》な顔をして、血の気のない下唇をひくひくふるわせ、火のようにぎらぎら燃える大きな黒い目で相手をにらみながら、狙いを定めて、相手がちょっとでも動くのを待っていた。彼はこれほど美しい彼女を見たことがなかった。彼女が拳銃を上げた瞬間、彼女の目にきらッと燃えた火に、彼は焼かれたような気がして、胸がきゅうッと痛くなった。彼は一歩出た、とたんに拳銃が火をふいた。弾丸《たま》は彼の髪をかすめて、うしろの壁にあたった。彼は立ちどまって、しずかににやりと笑った。
「蜂《はち》に刺されたよ! まっすぐに頭をねらいましたな……おや、これは? 血だ!」
彼は細いひとすじの流れとなって右のこめかみに垂れている血をふこうとして、ハンカチをとり出した。弾丸はわずかに頭の皮膚をかすったらしい。ドゥーニャは拳銃をだらりと下げて、恐怖というよりは、不思議そうな、呆気《あっけ》にとられたような表情で、ぼんやりスヴィドリガイロフを見つめていた。彼女は自分でも、何をしたのか、どうなったのか、わかっていない様子だった!
「どうなさいました、射ち損じですよ! もう一度射ちなさい、待ってますよ」とスヴィドリガイロフはまだうす笑いをうかべたまま言った、しかし妙に暗い笑いだった。「これじゃ、あなたが撃鉄を上げるまえに、とびかかってつかまえられますよ!」
ドゥーニャはぎくっとして、急いで撃鉄を上げると、また拳銃を上げた。
「わたしをとめて!」と彼女は絶望的に言った。「きっと、また射ちます……わたしは……殺してしまう!……」
「そうでしょうとも……三歩です、殺さなきゃどうかしてますよ。でも、殺せないなら……それなら……」
彼の目がぎらぎら光った、そして更に二歩すすんだ。
ドゥーネチカは引き金をひいた。不発だった!
「装填《そうてん》がよくなかったんですね。なんでもありませんよ! もう一つ雷管があるでしょう。やり直しなさい、待ってあげますよ」
彼はドゥーニャの二歩ほどまえに立って、奇怪な決意を顔にうかべて、熱っぽい欲情に光る重苦しい目でじっと彼女を見つめながら、待っていた。彼は彼女を手放すくらいなら、むしろ死のうとしていることを、ドゥーニャはさとった。《でも……でも、もう今度こそ殺せるだろう、わずか二歩だ!……》
不意に、彼女は拳銃を投げ出した。
「捨てた!」スヴィドリガイロフはびっくりしたように言うと、ほうッと深い息を吐いた。何かが急に彼の心からとれてしまったようなぐあいだった、そしてそれは、おそらく、死の恐怖の重苦しさだけではなかったろう。彼はいまのような瞬間でも、そんなものはほとんど感じていなかったのだ。それは彼が自分でも完全には定義できないような、もっともっとみじめな暗い感情からの解放だった。
彼はドゥーニャのそばへ寄って、しずかに片手を彼女の胴へまわした。彼女はさからわなかったが、身体中を木《こ》の葉《は》のようにわなわなとふるわせて、祈るような目で彼を見ていた。彼は何か言おうとしていたが、唇がゆがんだだけで、言葉にならなかった。
「わたしを帰して!」とドゥーニャは、拝むようにして、言った。
スヴィドリガイロフはぎくっとした。この敬語をぬいた口調には、どことなく、先ほど怒っていたときとはちがうひびきがあった。
「じゃ、愛してくれないんだね?」と彼はしずかに尋ねた。
ドゥーニャは否定するように頭を振った。
「そして……これからも?……どうしても?」と彼は絶望にしずみながら囁いた。
「どうしても!」とドゥーニャは低声《こごえ》で言った。
スヴィドリガイロフの心の中でおそろしい無言のたたかいの一瞬がすぎた。なんとも言えぬ目で彼はドゥーニャを見た。不意に彼は手をぬいて、顔をそむけると、急いで窓のほうへはなれて、窓のまえに立った。
更に一瞬の沈黙がすぎた。
「これが鍵です! (彼は外套《がいとう》の左のポケットから鍵をとり出すと、ドゥーニャのほうを見もしないで、振り向きもしないで、それをうしろのテーブルの上においた)。これで開けて、早く帰ってください!……」
彼はかたくなに窓のほうを向いていた。
ドゥーニャは鍵をとろうとしてテーブルのそばへ寄った。
「早く! 早く!」と、スヴィドリガイロフはやはりその場を動かず、振り向きもしないで、くりかえした。しかしこの《早く》には、明らかに、あるおそろしいひびきがあった。
ドゥーニャはそれをさとって、鍵をつかむと、ドアにかけより、大急ぎで開けて、部屋をとび出した。一分後には、彼女は気ちがいのように、夢中で河岸《かし》へ走り出て、N橋のほうへ走って行った。
スヴィドリガイロフは更に三分ほど窓辺に立っていた。やがて、ゆっくり向き直ると、あたりを見まわし、しずかに掌《てのひら》で顔をぬぐった。異様なうす笑いがその顔をゆがめた。みじめな、悲しい、弱々しい笑い絶望の笑いだった。もう乾いた血が、彼の掌を汚した。彼はむらむらしながらしばらくその血をにらんでいたが、やがてタオルを水にぬらして、こめかみをきれいに拭《ふ》いた。ドゥーニャが投げて、ドアのそばにころがっていた拳銃が、不意に彼の目についた。彼はそれを拾い上げて、点検した。それは古い型の小さな懐中用の三連発拳銃だった。中にはまだ弾《たま》が二発と、雷管が一つ残っていた。一度は射てるわけだ。彼はちょっと考えて、拳銃をポケットに入れると、帽子をつかんで、部屋をでた。
6
その晩は十時頃《ごろ》まで、彼は居酒屋や魔《ま》窟《くつ》を飲み歩いた。どこかでカーチャも見つけ出した。彼女はまたどこかの《いやらしい女泣かせ》が、
カーチャにキッスをはじめた
という別な召使いの唄《うた》をうたった。
スヴィドリガイロフはカーチャにも、手風琴ひきにも、唄うたいたちにも、給仕にも、どこかの二人連れの書記にも、酒を振舞った。彼がこの書記たちに特に親しみを感じたのは、二人とも鼻が曲っていたからだった。一人は鼻柱が右に、もう一人は左に曲っていた。これにはスヴィドリガイロフもおどろいた。彼らは、しまいに、彼をある遊園地へ連れて行った。彼は二人の入園料も払ってやった。この公園にはひょろひょろの三年の樅《もみ》が一本と、小さな茂みが三つあった。そのほか、《ステーション》と称する建物があったが、実際には居酒屋で、茶も飲めるし、それに緑色の小さなテーブルと椅子《いす》がいくつか置いてあった。お粗末な歌手たちの合唱団と、鼻の赤い、ピエロのような、酔ったミュンヘン生れのドイツ人が、柄《がら》になく、どういうわけかひどく浮かない顔をして、客を笑わせていた。二人の書記がその場にいあわせた他《ほか》の書記連中と言い合いをして、殴り合いになりそうになった。スヴィドリガイロフが仲裁役に選ばれた。彼はもう十五分も中に立って双方の言い分を聞こうとしていたが、彼らがあんまりわあわあ騒ぎ立てるので、何一つ聞き分けることができなかった。どうやらこういうことらしかった、つまり彼らの一人が何かを盗んで、しかもすぐに都合よくそこらにいたユダヤ人にまんまと売りつけた、そして売っておきながら、その金を仲間に分けようとしない、というのである。結局、売った品物というのが《ステーション》のスプーン一本だということがわかった。《ステーション》でもそれに気付いて、事はますます面倒になってきた。スヴィドリガイロフはスプーンの代金を払って、席を立ち、公園を出た。十時頃だった。彼は自分ではその間中一滴の酒も飲まなかった。ステーションでは茶を一杯注文しただけだが、それだってむしろおつきあいのためだった。しかし、むしむしする暗い晩だった。十時近くなると四方からすごい黒雲が押し寄せてきて、雷が鳴り、滝のような夕立になった。雨は粒になっておちてくるのではなく、大きな流れとなって地面をなぐりつけた。稲妻はたえまなくひらめき、明るくなるたびに五つまで数えることができた。彼はずぶぬれになって家へもどると、ドアに鍵《かぎ》を下ろして、デスクのひきだしを開け、ありたけの金をとり出し、二、三の書類を破りすてた。それから、金をポケットに押しこみ、着替えをしようとしたが、窓を見て、雷鳴と雨の音に耳をすますと、あきらめたように手を振って、帽子をつかんで部屋を出た。ドアには鍵をかけなかった。彼はまっすぐにソーニャのところへ行った。ソーニャは部屋にいた。
彼女は一人ではなかった。カペルナウモフの小さな子供たちが四人、彼女のまわりをとりまいていた。ソーフィヤ・セミョーノヴナは子供たちに茶を飲ませていた。彼女は黙って、ていねいにスヴィドリガイロフを迎えて、びっくりしたように彼の濡《ぬ》れた服を見まわしたが、別に何も言わなかった。子供たちはすっかりおびえきって、あっという間に逃げちってしまった。
スヴィドリガイロフはテーブルのまえに腰を下ろして、そばに坐《すわ》るようにソーニャに言った。彼女はおずおずと聞く姿勢をとった。
「わたしはね、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、もしかしたら、アメリカへ行くかもしれない」とスヴィドリガイロフは言った。「それで、会うのは、おそらく、これが最後だろうから、少しばかりやりかけたことを片付けておこうと思って伺ったのです。して、今日あの婦人にお会いになりましたか? 婦人があなたにどんなことを言ったかは、承知していますから、おっしゃらなくても結構です(ソーニャはもじもじしかけて、顔を赤らめた)。あの人たちにはああいう癖があるんですよ。あなたの妹さんや弟さんのことですが、まちがいなく収容されますし、わたしから上げる金は、一人一人の分を別々に領収証をとって、ちゃんと確かなところにあずけておきました。しかし、万一ということがありますから、この領収証はあなたにお渡ししておきます。さあ、どうぞ! さて、これはこれですんだわけです。ところで、ここに五分利債券が三枚あります、全部で三千ルーブリです。これはあなたの分としてお納めください、特別にあなたの分としてですよ、そしてこれは二人だけの内密にしておきましょう。この先たとえどんなことをお耳になさっても、決して誰《だれ》にも言っちゃいけませんよ。この金はきっとあなたに必要になります、だって、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、いままでのような、こんな生活は――いまわしいものです。それにもうあなたには、そんな必要は少しもないわけですから」
「わたし、あなたにこんなにまでご恩になりまして、それに子供たちも、亡《な》くなった母も」とソーニャは急いで言った。「いままでろくにお礼も申しませんでしたが、それは……決して……」
「え、もういいですよ、そんなことは」
「でもこのお金は、アルカージイ・イワーノヴィチ、わたし、ほんとにありがたいと思いますけど、でもわたし、いまはほんとにいらないんです。わたし一人ならなんとか食べていけますもの、どうか恩知らずなんて思わないでくださいね。あなたはそんなに情け深いお方ですもの、どうかこのお金は……」
「あなたにあげるんです、あなたにあげるんですよ、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、だから、どうぞ、改まったことは言わないで、それにわたしには時間もありませんので。あなたには入り用になりますよ。ロジオン・ロマーヌイチには道は二つしかないんですよ、額に弾丸《たま》を射《う》ちこむか、ウラジーミルカ行きか。(ソーニャは呆気《あっけ》にとられて彼を見つめていたが、すぐにわなわなとふるえだした)。ご安心なさい、わたしはすっかり知ってるんです、彼自身の口から聞きました。でもわたしはおしゃべりじゃありません、誰にも言いませんよ。あのときあなたは彼に自首をすすめましたが、あれはいいことでした。そのほうが彼にとってどれだけ有利かわかりません。さて、ウラジーミルカへ行くことになって、――彼があちらへ行ったら、あなたはあとを追うでしょうね? そうでしょうね? そうでしょうね? そうなれば、早速金が入り用になるわけですよ。彼のために入り用になるんです、わかりますか? あなたにあげることは、彼にやると同じことです。それにあなたは、アマリヤ・イワーノヴナにも借金を払う約束をなさったじゃありませんか。わたしは聞いていましたよ。どうしてあなたは、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、そんなに軽率にあんな約束や義務をかたっぱしから引き受けてしまうんでしょうねえ? あのドイツ女に借金をのこしたのはカテリーナ・イワーノヴナですよ、あなたではないじゃありませんか、あんなドイツ女なんてほっておけばいいんですよ。そんなことじゃこの世の中は暮していけませんよ。話はもどりますが、もし誰かに、明日か明後日《あさって》あたり、わたしのことを何か聞かれるかもしれませんが(あなたはきっと聞かれますよ)、わたしが今日ここへ来たことは、言わないでください、それから金は決して見せたり、わたしにもらったなんて、誰にも言っちゃいけませんよ。では、これでお別れしましょう。(彼は椅子から立ち上がった)。ロジオン・ロマーヌイチによろしくお伝えください。それから、ついでに言っておきますが、金は入り用になるまでラズミーヒン君にでもあずけておいたらいいでしょう。ご存じですか、ラズミーヒン君を? むろん、ご存じでしょうね。無難な青年ですよ。彼のところへ持って行くんですね、明日でも、いや……そうしたほうがいいとき《・・》が来たら。それまではなるべく身体《からだ》からはなれたところにかくしておきなさい」
ソーニャもぱっと椅子から立ち上がって、おびえたように彼に目を見はっていた。彼女は何か言いたくて、何か聞きたくてたまらなかったが、とっさに言葉がでなかった、それに何から言いだしてよいか、わからなかった。
「どうしてあなたは……どうしてあなたは、こんな雨の中を、お出かけになりますの?」
「なあに、アメリカまで行こうというんですよ、雨なんかおそれていられますか、へ! へ! さようなら、かわいいソーフィヤ・セミョーノヴナ! 生きてください、いつまでも生きてください、あなたは他人《ひと》のためになる人です。それから……ラズミーヒン君に伝えてください。わたしがよろしく言っていたと。こんなふうに伝えてください、アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフがよろしく、って、きっとですよ」
ソーニャをおどろきと、おびえと、あるおぼろげな重苦しい疑惑の中にのこして、彼は出て行った。
この同じ夜、十一時をすぎた頃、彼はもう一つのまったく風変りな思いがけない訪問をしたことが、あとでわかった。雨はまだやまなかった。彼は十一時二十分に、全身ずぶぬれになって、ワシーリエフスキー島のマールイ通り三丁目にある、許嫁《いいなずけ》の両親のささやかな住《すま》居《い》の門をくぐった。力まかせに戸を叩《たた》いたので、はじめは大騒ぎになりかけた。しかしアルカージイ・イワーノヴィチは、ちゃんとしようと思えば、実にものやわらかな態度になれる人だったので、多分どこかですっかり飲みすぎてしまって、もう正体なく酔いつぶれているのだろうという、ものわかりのいい両親の最初の推測は(もっとも、これは実にうがった見方ではあったが)――たちまち消えてしまった。ものわかりのいい心のやさしい母は、衰弱しきった父親を肘掛《ひじかけ》椅子《いす》にかけさせたまま、アルカージイ・イワーノヴィチのまえへ押して来て、例によって、すぐに何かと遠まわしな質問をはじめた。(この女は決していきなり用件をきり出したことがなく、いつもまずにこにこ笑って、もみ手をして、それから、何かどうしてもちゃんとたしかめておきたいことがあれば、例えば、アルカージイ・イワーノヴィチは結婚式はいつが都合がいいか、聞いておきたいと思えば、まずパリや、あちらの宮廷生活のことなどを、いかにも珍しそうに、むしろしつこいほどに、いろいろと聞きはじめる、それからやっと、順を追って、話をワシーリエフスキー島三丁目までもってくる、というぐあいだった)。他のときならこうしたことは、むろん、相手を大いに感心させるだろうが、いまのアルカージイ・イワーノヴィチはいつになく妙に苛《いら》々《いら》していて、許嫁がもう寝てしまったことを、はじめにことわられていたにもかかわらず、どうしても許嫁に会いたい、とわからないことを言いだした。もちろん、許嫁は出てきた。アルカージイ・イワーノヴィチはいきなり彼女に、あるひじょうに重大な用件のためにしばらくペテルブルグを離れなければならない、それでいろいろな債券がまじっているが、ここに一万五千ルーブリ持って来たから、贈りものとして受け取ってもらいたい、このつまらんものは、もうまえから結婚まえに贈ろうと思っていたのだから、と言った。贈りものと、あわただしい出発、それにこんな雨の中を夜更《よふ》けにどうしても来《こ》なければならなかった必要の間の特別な論理的な結びつきは、この説明では少しも明らかにされなかったが、しかし、事は実にすらすらとはこんだ。必要なああとか、おおとかの感嘆の言葉や、いろいろな質問やおどろきさえ、どういうわけか急に不思議なほど程よくひかえ目になり、その代りにもっとも熱烈な感謝が示されて、それがもっとも思慮の深い母親の涙で裏打ちされた。アルカージイ・イワーノヴィチは立ち上がると、にこにこ笑って、許嫁に接吻すると、そのかわいらしい頬《ほお》を軽くたたいて、すぐにもどるから、と約束したが、彼女の目の中に子供っぽい好奇心とならんで、あるひじょうに真剣な無言の問いがあるのに気がつくと、ちょっと考えて、もう一度接吻した、そして、贈りものがすぐに世の母親の中でももっとも思慮深い母親に鍵をかけてしまわれてしまうだろうと思うと、心底から腹が立ってきた。一同を異常な興奮の中にのこして、彼は外へ出た。しかし心のやさしい母親はすぐに、半ばささやくような早口で、いくつかのもっとも重大な疑惑を解決した、つまり、アルカージイ・イワーノヴィチは大きな人物で、りっぱなしごとも手づるもあり、金持だから、――何を考えているかわからない、思い立ったら、出かけるし、思い立ったら、金をくれる、そういう方だから、何もおどろくことはない、というのである。たしかに、ずぶぬれになってきたのは、おかしいが、例えば、イギリス人のほうが、もっと風変りだ、それに大体が格調の高い人間というものは、世間の噂《うわさ》を気にしないし、もったいぶらないものだ。もしかしたら、あの人は誰もおそれないということを見せるために、わざとあんなふうにして歩いているのかもしれない。何よりも、このことは誰にも一言も話さないことだ、だって、この先どんなことが起るかわかりゃしない。とにかく金は早くかくして鍵をかけてしまうことだ。ほんとに、フェドーシャがずっと台所にいてくれたので、何よりだった。特に、あのずるいレスリッヒには、決して、決して、決して何も言わないように、等等である。坐りこんで、二時近くまでひそひそ話しこんでいた。もっとも、許嫁はずっと早く寝に行ったが、おどろいたような、いくらか悲しそうな様子だった。
その頃スヴィドリガイロフは、ペテルブルグ区の側へ向ってN橋を渡っていた。ちょうど零時だった。雨はやんだが、風が騒いでいた。彼はがくがくふるえはじめていた、そしてちょっとの間ある特殊な好奇心をうかべ、危《あや》ぶみの色さえ見せて、小ネワ河の真っ黒い水面をながめた。だがすぐに、河の上に立っているのが、たまらなく寒いような気がした。彼はくるりと向きを変えて、N通りのほうへ歩きだした。彼はどこまでもつづくN通りをもうかなり長く、ほとんど三十分近くも、暗がりで板敷きの歩道を何度か踏み外しながら、歩いていた、そしてたえず好奇の目で通りの右側に何かをさがしていた。この通りの外れに近いどこかで、この間馬車で通ったとき、彼は木造だがかなり大きな宿屋を一軒見たような気がした。そしておぼえているかぎりでは、宿屋の屋号はたしかアドリアノポールとかいったはずだった。彼の見当はまちがっていなかった。その宿屋はこんなさびしい郊外ではひときわ目立つ建物だったので、暗やみの中でも目につかないはずはなかった。それは細長い木造の黒ずんだ建物で、もうこんな時刻なのに、まだ灯《ひ》がついていて、人の動いているらしい気配が見えた。彼は入って行った。そして廊下で出会ったぼろ服の男に、部屋があるかと聞いた。ぼろ服の男は、じろりとスヴィドリガイロフを見て、ぎくっとして、すぐに彼を遠くはなれた、廊下の突きあたりの階段の下になっている、むしむしする狭苦しい角部屋に案内した。満員で、ほかの部屋はなかった。ぼろ服の男はうさん臭そうな目で見ていた。
「茶はあるかね?」とスヴィドリガイロフは尋ねた。
「そりゃできますよ」
「ほかに何がある?」
「子牛の肉、ウォトカ、ザクースカですな」
「じゃ、子牛の肉と茶を持って来てくれ」
「ほかには何もいらんのかね?」とぼろ服の男はなんとなく奥歯にもののはさまったような言い方をした。
「何もいらんよ、いらんよ!」
ぼろ服の男はがっかりして出て行った。
《きっと、おもしろい場所にちがいない》とスヴィドリ・ガイロフは考えた。《どうしてこんな所を知らなかったろう。おれもどうやら、どこかそこらのカフエ・シャンタンからのもどり客で、途中で何かやらかしてきたらしく、見えるらしい。それにしても、ここにはどんな連中が泊ってるんだろう?》
彼はろうそくをつけて、丹念に部屋を見まわした。それはスヴィドリガイロフでも頭がつかえそうな、物置きみたいな小さな部屋で、窓は一つしかなかった。ひどく汚ないベッドと、粗末な塗りのテーブルと、それに椅子一つがほとんど部屋中を占めていた。壁は板壁に壁紙をはったものらしかったが、壁紙はほこりだらけのうえにぼろぼろに破れているので、黄色い地色はまだどうやら見当はついたが、模様はもうぜんぜん見分けがつかなかった。壁と天井《てんじょう》の一部は、屋根裏部屋によくあるように、斜めに切られていて、その上が階段になっていた。スヴィドリガイロフはろうそくをおくと、ベッドに腰を下ろして、もの思いにしずんだ。だが、隣室から聞えてくる、ときどきほとんど叫ぶような声にまで高まる、異様なたえまないひそひそ話が、とうとう、彼の注意をひいた。このひそひそ話は、彼が部屋に入ったときからとぎれずにつづいていた。彼は耳をすました。誰かが誰かをののしったり、いまにも泣きだしそうな声で責めたりしているのだが、一人の声しか聞えなかった。スヴィドリガイロフは立ち上がって、ろうそくの炎を手でさえぎった。するとたちまち暗くなった壁に細い隙《すき》間《ま》がちらと光った。彼はそこへ行って、隙間からのぞきはじめた。こちらよりいくらか広い室内に、二人の客がいた。上着をきていない、髪の毛のやけにちぢれた、火をふきそうな真っ赤な顔をしたほうが、演説をぶちそうな格好で立ちはだかり、身体のバランスをとるために両足を踏んばって、片手で胸をたたきながら、切々たる調子で相手の男を責めていた。相手の男が貧しくて、官位ももっていないのを、彼が泥沼《どろぬま》からひき上げてやったのだから、その気になれば、いつだって追っ払うことができるのだ、神の目は逃《のが》れることができない、というようなことだった。責められているほうは椅子に腰かけて、くしゃみをしたくてたまらないのだが、どうしてもうまく出ない、というような顔をしていた。彼はときおり羊の目のような、どろんとにごった目で相手の顔を見上げたが、どうやら、何を言われているのか、ぜんぜんわかっていないらしかった、それどころか、ほとんど何も聞いてさえいなかったらしい。テーブルの上にはろうそくがいまにも燃えつきようとしていて、ほとんど空《から》のウォトカのびんや、酒杯や、パンや、コップや、胡瓜《きゅうり》や、もうとっくに飲んでしまった茶の容器などがのっていた。その様子を注意深く見まわしてから、スヴィドリガイロフはおもしろくもなさそうに隙間をはなれて、またベッドに腰を下ろした。
ぼろ服の男は、茶と子牛の肉をもってもどって来たが、どうにもがまんができなくなって、もう一度《あと何か注文はないのかね?》と聞いた、そして、またいらないという返事を聞くと、もう知らんぞという顔でもどって行った。スヴィドリガイロフはあたたまるために、とびつくようにして茶を一杯飲んだ、しかしぜんぜん食欲がなくて、肉はひときれも食べられなかった。どうやら、熱がでてきたらしい。彼は外套《がいとう》と上着をぬぐと、毛布にくるまって、ベッドに横になった。彼はいまいましかった。《こんなときでもやはり健康のほうがいいのか》――こう思って、彼は苦笑した。部屋の中は息苦しかった、ろうそくがぼんやり燃えていた、庭で風が騒いでいた、どこか隅《すみ》のほうでねずみががりがりかじる音がしていた、そういえば部屋中がねずみと何か皮の臭《にお》いがするようだった。彼は横たわったまま、熱にうかされていたらしい。さまざまな想念が次々と入れかわった。彼はどんな想念にでもいいから、すがりつきたくてたまらないらしかった。《この窓の外は、きっと、公園になっているにちがいない》と彼は考えた。《木がざわざわしている。暗い嵐《あらし》の夜更け、木のざわめきを聞くとぞっとする、実にいやな感じだ!》すると、さっきペトロフスキー公園のそばを通りしなに、いやな気持でそれを考えたことが思い出された。すぐに、それにたぐられて、彼はN橋と小ネワ河を思い出し、さっき橋の上に立っていたときのように、また寒くなったような気がした。《おれは生れてから一度も、水というものを好いたことがなかった、風景画の水でさえ嫌《きら》いだ》彼はふとこんなことを考えて、不意にまたある奇妙な考えに苦笑した。《まったく、もういまとなってはこんな美とか好き嫌いなどどうでもいいはずなのに、かえって選《え》り好みがひどくなったようだ。野獣は、こんな場合……必ず場所を選ぶというが……さっきペトロフスキー公園へ曲りゃよかったんだ! おそらく、暗くて、寒いような気がしたんだろうさ、へ! へ! 快さみたいなものが、ほしくなったんだ!……それはそうと、どうしておれはろうそくを消さないんだろう?(彼はろうそくを吹き消した)。となりも寝たらしいな》さっきの隙間のあかりが見えないので、彼はこう思った。《そうだよ、マルファ・ぺトローヴナ、いまこそお出ましにもってこいじゃないか、暗いし、場所はうってつけだし、頃合いはよし。こんなときに来ないなんて……》
彼はどういうわけか不意に、さっき、ドゥーネチカに対する計画を実行する一時間まえに、彼女の保護をラズミーヒンにまかせるようにラスコーリニコフにすすめたことを、思い出した。《たしかに、おれは、ラスコーリニコフに読まれたとおり、むしろ自分の傷をひっかくために、あのとき、あんなことを言ったのかもしれん。しかし、あのラスコーリニコフってやつも、悪党だ! あんなに重荷を背負って。乳臭さがとれたら、いまに大した悪党になるかもしれん! だが、いまは生きることに執着しすぎている《・・・・・》! この点ではあいつらは――意気地《いくじ》なしだ! でも、あんなやつはどうでもいい、好きなようにするさ、おれの知ったことか!》
彼はどうしても眠れなかった。しだいにさっきのドゥーネチカの姿が彼のまえにうかんできた、すると不意に、ふるえが彼の全身を走った。《いけない、こんなものはもう捨ててしまわなきゃ》彼ははっとして、こう思った。《何かほかのことを考えるんだ。不思議な気もするし、おかしいとも思うんだが、おれはこれまで誰も憎くてたまらないと思ったことはなかったし、特に復讐《ふくしゅう》してやろうなんて考えたこともなかった、たしかにこれは悪い徴候なんだ、悪い徴候だ! 口論も好かなかったし、かっとしたこともなかった、――これも悪い徴候だ! それにしても、さっきは彼女にずいぶん約束を並べたもんだ、ばからしい! もしかしたら、彼女はおれをどうにか叩き直してくれたかもしれん……》彼はまた黙りこんで、歯をくいしばった。またしてもドゥーネチカの姿が彼のまえにうかんできた。さっき、一発射って、はっとして、拳《けん》銃《じゅう》をだらりと下げて、死んだようになって彼に目を見はっていた、あのときそのままの彼女だった。あのときは、こちらが言ってやらなければ、両手を突き出して防ごうとしなかったのだから、二度つかまえるチャンスがあったはずだ。あの瞬間彼女がかわいそうになって、胸がしめつけられたような気がしたことを、彼は思い出した……《え! くそ! またそんなことを、これはもう忘れるんだ、捨てるんだ!……》
彼はうとうとしかけた。熱のふるえはおさまりかけていた。不意に毛布の下で手と足の上を何かが走りぬけたような気がした。彼はびくっとした。《くそ、いまいましい、ねずみらしいぞ!》と彼は思った。《子牛の肉をテーブルの上にうっちゃっておいたからだ……》彼はどうしても毛布をはねて、起きて寒い思いをする気にはなれなかった、ところがまた不意に何か気持の悪いものが足の上をすりぬけた。彼は毛布をはねのけて、ろうそくをつけた。ぞくぞくするような寒さにふるえながら、彼は屈《かが》みこんでベッドの上をしらべたが、――何もいなかった。彼は毛布をふるった、すると不意にシーツの上にねずみが一匹とびだした。彼はつかまえようとしてとびかかった。ところがねずみはベッドの上から逃げようとしないで、あちらこちらへちょろちょろとジグザグに逃げまわり、彼の指の下をすりぬけて、腕の上を走りぬけ、不意に枕《まくら》の下へもぐりこんだ。彼は枕をはねのけた、と同時に何かが懐《ふとこ》ろの中へとびこんで、ちょろちょろと背中のほうへまわり、シャツの下にはいこんだのを感じた。彼はぞくぞくッとふるえて、目をさました。部屋の中は暗かった。彼はさっき寝たときのように、毛布にくるまってベッドの上に横になっていた。窓の下で風が唸《うな》っていた。《なんていやな気持だ!》と彼はむかむかしながら考えた。
彼は起き上がると、窓に背を向けて、ベッドのはしに坐った。《もうこうなったら眠らぬほうがましだ》と彼は腹をきめた。しかし、窓のあたりから寒いじめじめした空気が流れてきた。彼は坐ったまま毛布をひきよせて、すっぽりかぶった。ろうそくはつけなかった。彼は何も考えなかった、それに考えたくもなかった。しかし幻覚が次々とあらわれ、はじめも終りもない、何のつながりもない想念の断片が、ちらちらと浮んでは消えた。半分夢を見ているような気持だった。寒さか、闇《やみ》か、しめっぽい空気か、窓の下に唸り、木々をゆすっている風か、彼の内部にある執拗《しつよう》な幻想に対する傾きとあこがれを呼びさますものがあった、――しかし彼のまえにはたえず花があらわれるようになった。やがて、素晴らしい風景が彼の空想に描き出された。明るい、あたたかい、あついくらいの日で、ちょうど三《さん》位《み》一体祭《いったいさい》の日だった。村の華麗な英国風の別荘、家のまわりを取り巻いている花壇には花が一面に咲き匂《にお》っている。つたがからみ、バラの花壇をめぐらした玄関。ぜいたくなじゅうたんを敷き、陶器の鉢《はち》に植えた珍しい花を両側に置きならべた階段。窓辺の水盤にいけてある、鮮やかなみどり色のみずみずしい長い茎を傾けさせるほどに、白い優美な花をつけて、強い香りを放っている水仙《すいせん》の花束が、特に彼の目をひいた。彼はそのそばをはなれたくないような思いだったが、階段をのぼって、天井の高い大きな広間に入った。するとそこもまた、窓も、テラスに出るドアのあたりも、テラスにも、一面の花だった。床には刈り取ったばかりのみずみずしい香りの強い草がまいてあった。窓は開け放されて、さわやかな、涼しいそよ風が部屋へ吹き通い、窓の下で小鳥がさえずっていた。ところが、広間の中央には、白繻子《しろじゅす》の掛布でおおわれた卓の上に、一つの柩《ひつぎ》がおいてあった。その柩には白い絹布がかけられて、その絹布には白い縁飾りがこまかく縫いつけられていた。柩のまわりには花冠が一面に飾られ、その中に花に埋まるようにして一人の少女が、白い薄絹の衣装を着て、大理石で刻んだような両手をしっかり胸に組んで、横たわっていた。しかし、少女のとかれた明るいブロンドの髪は、濡《ぬ》れていた、そしてバラの花冠が頭を飾っていた。もうかたく冷えてしまったきびしい横顔も、大理石で刻み上げられたようであったが、蒼白《あおじろ》い唇《くちびる》に凍りついたうすい笑いは、何か子供らしくない、限りない悲しみと深いうらみにみたされていた。スヴィドリガイロフはこの少女を知っていた。この柩のそばには聖像もなければ、ろうそくもともっていないし、祈《き》祷《とう》の声も聞えなかった。この少女は自殺者だった、――川に身を投げて死んだのだった。少女はわずか十四だったが、心はもう傷つききっていた、そしておさない子供の意識をおびえさせ、おののかせた屈辱にさいなまれつくしたその心が、天使のような清らかな魂におぼえのない恥ずかしい罪を着せられ、雪どけのじめじめした寒い闇の中で、誰にも聞かれぬ、はげしい呪《のろ》いにみちた絶望の最後の叫びを、真っ暗い夜に投げつけながら、自分の身を亡《ほろ》ぼしたのだった。その夜も風が唸っていた……
スヴィドリガイロフははっと目がさめて、ベッドから起き上がると、窓のそばへ行った。彼は手さぐりでかんぬきをさがして、窓を開けた。風が怒り狂ったようにせまい部屋に吹きこみ、彼は顔やシャツ一枚の胸に冷たい氷をはりつけられたような気がした、窓の下は、たしかに公園のようなものになっているにちがいなかった、そして、これもおそらく遊園地らしく、昼間は歌手たちが歌をうたったり、小さなテーブルに茶がはこばれたりしていたにちがいない。いまは木々や茂みからしぶきが窓に吹きつけていた、そして墓穴の中のように真っ暗で、何かあるらしい真っ黒い点々がかすかに見分けられるだけだった。スガィドリガイロフは身を屈めて、窓台に両肘をついたまま、もう五分ほど、じっとこの黒い靄《もや》の中をにらみつづけていた。夜更けの闇の中に砲声がひびきわたった、つづいてまた一発聞えた。《あ、警報だ! 水かさが増したんだな》と彼は考えた。《明け方には水がでて、低いところは通りも、地下室も、穴蔵も水びたしになるぞ。さぞねずみどもが流されるこったろう。雨と風の中で人間どもがびしょぬれになって、ののしりちらしながら、がらくたを二階に運び上げるさ……ところで、何時かな?》こう考えたとたんに、どこか近くで、せかせかと、まるであわてふためくように、柱時計が三時を打った。《へえ、一時間もすると明るくなるぞ! ぐずぐずしちゃおれん! すぐにここを出て、まっすぐペトロフスキー公園へ行こう。そしてどこでもいい、大きな茂みを見つけるんだ、雨をいっぱいにふくんだ、ちょっと肩をふれただけで、無数のしずくが頭におちてくるような……》彼は窓をしめて、窓のそばをはなれると、ろうそくをつけて、上着と外套を着て、帽子をかぶり、ろうそくを手にもって廊下へ出た。どこかの小さな部屋のがらくたやろうそくの燃えかすの間で眠っているぼろ服の男をさがし出して、勘定をすまし、宿を出るつもりだった。《うってつけの時刻だ、これ以上の時刻は選ぼうったって無理だ!》
彼はややしばらく細長いせまい廊下を歩きまわったが、誰も見つからないので、じりじりして大きな声でどなろうとした。そのとたんに、暗い隅のほうの古い戸《と》棚《だな》とドアの間に、何か妙なものがごそごそしているのが目についた。どうやら生きもののようだ。屈みこんで、ろうそくの光をあてて見ると、一人の子供だった。五つになるかならないくらいの女の子が、おしめみたいにぐっしょり濡れたぼろぼろの服を着て、ぶるぶるふるえながら、泣いていた。少女はスヴィドリガイロフに別におびえた様子はなかったが、大きな黒い目ににぶいおどろきを浮べて彼を見つめながら、泣きつかれた子供が、もう泣きやんで、おさまってしまったのに、ときどき思い出しては、急にまたしゃくり上げるように、ときどきしゃくり上げていた。少女の顔は蒼白く、やつれていた。寒さですっかり凍《こご》えていた。《だが、どうしてこんなところへ来たんだろう?きっと、ここにかくれていたんだ、そして一晩中眠らなかったにちがいない》彼は少女にいろいろと尋ねはじめた。少女は急に元気がでて、子供言葉で何やらせかせかとしゃべりだした。聞いていると、《母ちゃん》がどうしたとか、《母ちゃんがぶった》とか、《こわち《・》た》茶わんがどうとか、いうことだった。少女はとめどなくしゃべった。その話からどうやら次のようなことが察しられた。この少女は好かれない子で、この宿屋で料理女をしているらしい母親は、年中酒を飲んでいるような女で、この少女をしょっちゅう叱《しか》ったり、ぶったりしていた。少女は母の茶わんをこわしたので、すっかりおびえてしまって、まだ宵《よい》のうちから逃げ出した。そして長い間庭のどこかに、雨にうたれながらかくれていて、やっとここまで逃げこみ、戸棚のかげにかくれて、寒さと、暗さと、今度こそこっぴどく折檻《せっかん》されるにちがいないという恐ろしさから、泣きながらぶるぶるふるえて、一晩中この隅っこにちぢこまっていた。大体こういうことらしかった。彼は少女を抱き上げて自分の部屋へはこび、ベッドにかけさせて、服をぬがせはじめた。素足にはいた穴だらけの靴《くつ》は、一晩中水たまりの中につけておいたみたいに、ぐしょぐしょに濡れていた。服をぬがせると、ベッドの上にねかせて、頭からすっぽり毛布でつつんでやった。少女はすぐに眠ってしまった。世話がすっかり終ると、彼はまた憂欝《ゆううつ》そうに考えこんだ。
《まだこんなことにかかりあう気だ!》と彼は重苦しい自己嫌《けん》悪《お》を感じながら、考えた。《なんてばかばかしい!》彼は今度こそどうしてもぼろ服の男をさがし出し、一刻も早くこの宿を出ようと思って、むしゃくしゃしながらろうそくを取り上げた。《ええ、いまいましい少女だ!》彼はもうドアを開けてから、呪わしそうにこう思ったが、気になって、もう一度少女の様子を見に引き返した。眠っているだろうか、どんなふうに眠っているだろう? 彼はそっと毛布をもちあげた。少女は気持よさそうにぐっすり眠っていた。毛布にあたためられて、もう赤味が蒼白い顔にさしていた。だが、妙なことに、その赤味が普通の子供の赤さにしては、色が鮮やかで濃すぎるような気がした。《これは熱病の赤さだ》とスヴィドリガイロフは考えた。それは――酒に酔ったような赤さだった、まるでコップ一杯の酒を飲まされたようだ。真っ赤な唇は燃えて、あえいでいるようだ、しかし、これはどうしたというのだ? 不意に、少女の長い黒い睫毛《まつげ》がひくひくッとふるえて、すこしもちあがり、その下からずるそうな、きらッと光る、何か子供らしくない目がのぞいて、パチッとウィンクしたような気がした。少女は眠ってはいないで、眠ったふりをしていたらしい。たしかに、そのとおりだった。唇に微笑がみなぎりはじめた。まだ堪《こら》えようとしているらしく、唇のはしがひくひくふるえている。だが、少女はもう堪えるのをすっかりやめてしまった。これはもう笑いだった。明らかな笑いだった。そのまるで子供らしくない顔には、何かずるいそそるようなものがきらきらしていた。それは淫蕩《いんとう》だ、娼婦《しょうふ》の顔だ、フランスの淫売婦のあつかましい顔だった。もう少しもかくそうとしないで、二つの目がぱっちりと開いた。そしてその目は恥じらいを知らぬ燃えるようなまなざしで彼を見まわし、彼を誘い、彼に笑いかけている……その笑いには、その目には、少女の顔にあるそのいやらしさには、何かしら限りなくみにくい、痛ましいものがあった。《どういうのだ! わずか五つくらいの少女が!》スヴィドリガイロフは腹の底からぞうッとして、呟《つぶや》いた。《これは……これはいったいどうしたことだ?》だが、少女はもうその小さな顔をすっかり彼のほうへ向けて、両手をさしのべているではないか……《あ、このけがらわしいやつめ!》と、手を少女の上に振り上げながら、スヴィドリガイロフはぎょッとして叫んだ……そのとたんに、目がさめた。
彼は先ほどと同じベッドの上に、同じように毛布にくるまって横になっていた。ろうそくはともっていないが、窓はもうすっかり明るくなっていた。
《一晩中悪夢にうなされた!》彼は全身に綿のような疲れを感じながら、苦りきった顔で起き上がった。身体中の骨がずきずきした。外は一面に濃い霧で、何も見分けることができない。もう五時になろうとしている。寝すごした! 彼はベッドを下りて、まだしめっぽい上着と外套を着た。彼はポケットの拳銃を手さぐりでとり出し、雷管を直した。それから腰を下ろして、ポケットから手帳をとり出し、そのいちばん目につきやすい表紙裏に大きな字で数行書いた。それを読み返すと、彼はテーブルに肘杖《ひじづえ》をついて、もの思いにしずんだ。拳銃と手帳は肘のすぐそばに無造作においてあった。目をさました蠅《はえ》が、やはりテーブルの上においてあった手をつけない子牛の肉にたかっていた。彼はややしばらくその蠅を見ていたが、とうとう、自由な右手でそのうちの一匹をつかまえにかかった。ややしばらく骨を折ってみたが、どうしてもつかまえることができなかった。とうとう、こんなたわいないことに夢中になっている自分に気がつくと、はっとして、びくっと身体をふるわせ、立ち上がって、しっかりした足どりで部屋を出て行った。一分後に彼は通りに出ていた。
ミルクのような濃い霧が町の上にたれこめていた。スヴィドリガイロフは泥がついてつるつるすべる板敷きの歩道を、小ネワ河のほうへ歩きだした。彼の目先には、一夜のうちに高くもり上がった小ネワ河の流れや、ペトロフスキー島や、濡れた小道、濡れた草、濡れた木木や茂み、そして最後に、あの茂みが、ちらちら浮んだ……ほかのことは何も考えまいとして、彼は腹立たしげに家々をながめはじめた。通りには一人の通行人も、一台の馬車も見えなかった。派手な黄色を塗った木造の家々が、鎧扉《よろいど》を下ろして、ものうげにきたならしく見えた。寒さとしめっぽさが彼の身体中にしみわたって、またぞくぞくと悪《お》寒《かん》がしはじめた。ときどき小店や青物屋の看板が目につくと、彼はひとつひとつていねいに読んだ。もう板敷きの歩道がつきた。彼は大きな石造《いしづくり》の家のまえへ来ていた。泥まみれの凍えきった小犬が、しっぽをまいて彼のまえを横切った。泥酔《でいすい》した男が一人、外套のままうつ伏せに歩道に倒れて、道をさえぎっていた。彼はそれをちらと見て、そのまま通りすぎた。高い望楼が左手のほうにちらと見えた。《あれだ》と彼は思った。《うん、あそこがいい。ペトロフスキーまで行くまでもない! 少なくともその筋の証人がいてくれるわけだ……》彼はこの新しい考えに思わず苦笑しそうになって、S通りへ曲った。すぐに望楼のある大きな家があった。閉った大きな門のまえに、灰色の兵隊外套を着て、アキレスのような鉄帽をかぶったあまり大きくない男が、片方の肩を門にもたれかけるようにして立っていた。彼はねむそうな目で、近づいてくるスヴィドリガイロフに気のない横目をなげた。その顔には、すべてのユダヤ人に例外なくにがく刻みつけられている、永遠に消えることのないねじけた悲しみが見られた。スヴィドリガイロフとアキレスの二人は、しばらくの間、黙って、互いに相手を見まわしていた。アキレスには、ついに、酔ってもいない男が、自分の三歩ばかりまえに突っ立って、ものも言わずしつこくじろじろ見ているのが、無礼に思われてきた。
「あ、ここになんの用があるんだね?」と彼はやはり身体も動かさず、姿勢も変えずに、言った。
「いや、別に、きみ、機《き》嫌《げん》はどうだね!」とスヴィドリガイロフは答えた。
「ここは来るところじゃない」
「わたしはね、きみ、外国へ行くんだよ」
「外国へ?」
「アメリカだよ」
「アメリカ?」
スヴィドリガイロフは拳銃を出して、撃鉄を上げた。アキレスは目をつり上げた。
「あ、何をする、そんなもの、ここじゃいかん!」
「どうしてここじゃいかんのかね?」
「つまり、ここはそんな場所じゃないからだ」
「いや、きみ、そんなことはどうでもいいんだよ。いい場所じゃないか。もしきみが聞かれるようなことがあったら、アメリカへ行くと言ってた、とそう答えなさい」
彼は拳銃を自分の右のこめかみに当てた。
「あ、ここじゃいかん、ここは場所じゃない!」と、アキレスはますます大きく目を見ひらきながら、ふるえ上がった。
スヴィドリガイロフは引鉄《ひきがね》を引いた。
7
その同じ日、といってももう夕暮れの六時すぎだったが、ラスコーリニコフは母と妹の住《すま》居《い》の近くまで来ていた。それはラズミーヒンが世話をしてくれたバカレーエフのアパートにある例の住居だった。階段の入り口は直接通りに面していた。ラスコーリニコフは、入ろうか、入るまいか、と迷っているらしく、まだ足をしぶらせながら、近づいて行った。しかし彼はどんなことがあっても引き返しはしないはずだった。彼は固く決意していたのである。《それにどうせ同じことだ、二人はまだ何も知らないんだし》と彼は考えた。《おれを変人と思うことには、もう慣れているんだから……》彼はひどい服装をしていた。一晩中雨にうたれていたために、すっかり泥《どろ》にまみれて、かぎ裂きやらほころびやらでぼろぼろになっていた。彼の顔は疲労と、悪天候と、肉体的な衰弱と、ほとんど一昼夜もつづいた自分自身とのたたかいのために、醜悪なまでに変っていた。昨夜一夜、彼はどことも知れぬ場所で、一人ですごした。しかし、とにかく、彼は決意したのである。
彼はドアを叩《たた》いた。開けてくれたのは母だった。ドゥーネチカはいなかった。ちょうど女中まで留守だった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは最初うれしいおどろきのあまりぽかんとしてしまったが、すぐ彼の手をとって、部屋の中へ連れて行った。
「やっと、来てくれたねえ!」とうれしさに口ごもりながら、彼女は言いだした。「わたしをおこらないでおくれね、ロージャ、せっかく来てくれたのに、ばかだねえ、泣いたりなんかして。泣いているんじゃないんだよ、笑っているんだよ。おまえは、わたしが泣いていると思うかえ? いいえ、わたしは喜んでいるんだよ。どうしてこんなばかな癖がついたものか、うれしいとすぐに涙がでてきてねえ。これはおまえのお父さんが亡《な》くなったときからなんだよ、何かというとすぐ泣けてくるんだよ。さあ、お坐《すわ》り、疲れたでしょう、そうでしょうとも。まあ、ひどい汚れ方だねえ」
「昨日雨の中にいたんだよ、母さん……」とラスコーリニコフは言い出しかけた。
「いや、いいんだよ、いいんだよ!」と彼をさえぎりながら、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは大きな声で言った。「おまえは、わたしが婆《ばあ》さんのいままでの癖で、いろんなことをうるさく尋ねはじめると思ったんでしょう。心配しなくていいんだよ。わたしはわかってるんだよ、すっかりわかってるんだよ、いまはもうこちら風のものの考え方をおぼえてねえ、たしかに、自分でも思うけど、こちらのほうが利口だよ。わたしはね、どうせおまえの考えていることなんかわかりっこないんだから、聞いたってしようがないと、きっぱりと心に決めたんだよ。おまえの頭には、わたしなんかの知らない事業や計画みたいなものがあるんだろうし、思想とかいうものが生れたりするんだろうからねえ。とてもわたしには、何を考えてるの? なんて、手をひっぱってやることはできやしないよ。わたしはね……おや、まあ! なんだってわたしはこうちょこちょこ話を変えるんだろう、頭がどうかしたみたいに……わたしはね、ロージャ、雑誌にのったあのおまえの論文を、いま三度目の読み返しをしてるんだよ。ドミートリイ・プロコーフィチが貸してくれたんでねえ。読んでみて、ほんとにびっくりしたよ。わたしはなんてばかだったんだろう、あの子はこんなことを考えていたのか、これで謎《なぞ》がとけた! あの子はあの頃《ころ》新しい思想というものを考えて、頭を痛めていたにちがいない、それを知らずに、苦しめたり、困らせたりして、と思ってねえ。読んでもね、そりゃもう、わからないとこだらけなんだよ。でも、それがあたりまえ、どうせわかりっこないんだから」
「どれ、見せて、母さん」
ラスコーリニコフは雑誌を手にとって、ちらと自分の論文を見た。それがいまの彼の状態と心境にどんなに矛盾していても、彼は、はじめて自分の書いたものが活字になったのを見たときに作者が経験する、あの異様な甘苦いような気分を感じた、まして二十三歳の若さだった。それもちょっとの間だった。数行読むと、彼は眉《まゆ》をしかめた。おそろしい憂愁が彼の心をしめつけた。この数カ月の心の中のたたかいがすっかり一時に思い返された。彼はいやな顔をして、いまいましそうに、論文をテーブルの上にほうり出した。
「でもねえ、ロージャ、わたしはどんなにばかでも、おまえが近い将来に、わが国の学界で一番とはいかないまでも、第一級の人々の中にかぞえられるような人になってくれることだけは、わかるような気がするんだよ。ほんと、あの人たちったら、おまえが発狂したなんて、よくもそんなことが言えたもんだよ。は、は、は! おまえは知らんだろうが、――あの人たちはそんなことを考えていたんだよ! まったく、あきれたうじ虫どもだねえ、あんなやつらに、天才ってどんなものか、わかってたまるものかね! それがおまえ、ドゥーネチカまでもう危なく本気にするところだったんだよ、――ほんとに、どういうんだろう! おまえの亡くなったお父さんも雑誌に二度投稿したことがあったっけ、――最初は詩で(ノートがちゃんとしまってあるから、そのうちに見せてあげるよ)、二度目はもうちゃんとした小説だった(わたしは無理にお父さんに頼んで、清書させてもらったっけ)、そして二人で、採用になるように神さまにお祈りしたんだけど、――だめだった! わたしはね、ロージャ、六、七日まえには、おまえの着ているものや、生活ぶりや、食べているものや、履いているものなどを見て、死ぬほどがっかりしたけど、いまはもう、そんな心配をしたわたしがやっぱりばかだったことが、わかったんだよ。だって、おまえがその気になれば、頭と才能でなんでもすぐに手に入るんだものねえ。おまえはきっと、ここ当分はそんなことは考えないで、もっともっと大切なしごとにうちこんでいるんだよ、ねえ……」
「ドゥーニャはいないの、母さん?」
「いないんだよ、ロージャ。このごろはでかけてばかりいて、さっぱりわたしをかまってくれないんだよ。でもありがたいことに、ドミートリイ・プロコーフィチがしょっちゅう寄ってくれて、いつもおまえの話を聞かせてくれるのでねえ。あのひとはおまえを好いて、尊敬している、ほんとにいい方だよ。でも、何もドゥーニャが、わたしをひどく粗末にするようになったなんて、そんなことを言ってるのじゃないんだよ。ぐちなんかこぼさないよ。あれはああいう気性《きしょう》だし、わたしはわたしで性分が別だから。あれには何かかくしごとがあるらしいんだよ、でもわたしは、おまえたちに何もかくしごとなんてありませんよ。そりゃむろん、ドゥーニャが頭がよすぎて、それに、わたしとおまえを愛していてくれることは、わたしはかたく信じてますがね……でも、わたしにはさっぱりわからないんだよ。こんなことをしていていったいどういうことになるんだろうねえ。ロージャ、いまはおまえがこうして寄ってくれて、わたしを喜ばせてくれたけど、あれはどっかでぶらぶらしている。もどって来たら、わたしは言ってやりますよ、おまえの留守に兄さんが来てくれたんだよ、おまえはいったいどこで遊んでいたんだえ? ってね。でもね、ロージャ、あんまりわたしを甘やかさないでいいんだよ、おまえの都合がよかったら――寄っておくれ、わるきゃ――しかたがない、こうして待っているから。わたしだってやっぱり、おまえが愛していてくれることを、知りたいものねえ、わたしはそれで十分なんだよ。こうしておまえの書いたものを読んだり、みんなからおまえの話を聞いたり、そのうちに――おまえが様子を見に寄ってくれる、こんないいことってある? 現にいまだって、わたしを慰めに寄ってくれたじゃないの、そうだろう……」
ここまで言うと、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは急に泣き出した。
「わたしったらまた! こんなばかなんか見ないでおくれ! あ、ほんとにわたしったら、どうしたんだろう、ぼんやり坐りこんでいて」と、あわてて席を立ちながら、彼女は大きな声を出した。「コーヒーがあるのに、おまえにご馳《ち》走《そう》しようともしないで! これが婆さんの身勝手というものだねえ。いますぐいれるからね!」
「母さん、いいんですよ、ぼくはすぐ帰りますから。ぼくはそんなつもりで来たんじゃないんです。どうか、ぼくの言うことを聞いてください」
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはおずおずと彼のそばへ寄った。
「母さん、どんなことが起っても、ぼくのことでどんなことを聞いても、ぼくのことでどんなことをおしえられても、母さんは、いままでのようにぼくを愛してくださいますか?」彼は胸がいっぱいになって、言葉を考えて、その意味のもつ重さをはかる余裕もないらしく、いきなりこう尋ねた。
「ロージャ、ロージャ、どうしたというの?え、どうしてそんなことがわたしに聞けるの! それに、誰《だれ》がおまえのことをとやかくわたしに言うの? いいよ、わたしは誰も信じやしない、誰が来《こ》ようと、すぐに追いかえしてやるから」
「ぼくは、いつも母さんを愛していたことを、母さんにはっきり知ってもらうために来たのです、そしていま、二人きりでよかったと思います、ドゥーネチカがいなかったことが、かえって嬉《うれ》しいんです」と彼はやはり激情のほとばしりをおさえかねるようにつづけた。「ぼくは、たとえ母さんが不幸になるようなことがあっても、やはりあなたの息子はわが身以上にあなたを愛していることを、知っていていただきたいのです、それから母さんがこれまで、ぼくのことを冷酷な人間で、母さんを愛していない、と考えたことがあったとしたら、それはみなまちがいです、このことを母さんにはっきりと言いに来たんです。ぼくは母さんをいつまでも愛しつづけます……これで、もういいでしょう。ぼくは、こうして、ここからはじめなければならない、そう思ったんです……」
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは黙って彼を胸に抱きしめながら、声を殺して泣いていた。
「どうしたというの、ロージャ、わたしにはわからないけど」と、やがて彼女は言った。「わたしはずっと、わたしたちはおまえにうるさがられているのだとばかり思っていたけど、さっきから様子を見ていると、きっと、おまえには何か大きな悲しみがあって、そのために苦しんでいるのだねえ。わたしにはもうまえまえからそれがわかっていたんだよ、ロージャ。こんなことを言い出して、許しておくれね。いつもそれが気になって、夜も眠れないんだよ。昨夜はおまえの妹も一晩中うなされて、おまえのことばかり口走っていましたよ。少しは聞きとれたけど、何のことやらわけがわからなかった。今朝はずっと、まるで刑場にひかれるまえみたいに、そわそわと落ち着かなく、何かありそうな気がして、心待ちしていたんだけど、やはり甲斐《かい》があったねえ! ロージャ、ロージャ、いったいどこへ行くの? どこか、遠いところへでも行くのかえ?」
「ええ」
「わたしもそんな気がしてたんだよ! おまえさえよければ、わたしもいっしょに行っていいんだよ。ドゥーニャも。あれはおまえを愛してますよ、ほんとに心から愛してますよ。それから、よかったら、ソーフィヤ・セミョーノヴナもいっしょに連れて行きましょう。わたしはね、あのひとを喜んで娘代りにしたいとさえ思っているんだよ。わたしたちがいっしょに集まって暮せるように、ドミートリイ・プロコーフィチが骨を折ってくれますよ……おや……おまえはどこへ……もう出かけるの?」
「さようなら、お母さん」
「え! 今日すぐ!」と、このまま永久に息子を失ってしまうかのように、彼女は叫んだ。
「こうしていられないのです、もう出かけなければ。どうしてもすまさなければならない用事があるのです……」
「じゃ、わたしはいっしょに行けないの?」
「いけません、どうか、ひざまずいて、ぼくのために祈ってください。母さんの祈りなら、とどくかもしれません」
「どれ、じゃ十字を切らしておくれ、祝福してあげますよ! そうそう、これでいいよ。おや、わたしたちは何をしているんだろう!」
そうだ、彼は嬉しかった、母と二人きりで、ほかに誰もいないのが、たまらなく嬉しかった。彼はこの恐ろしい何日かの後、心が一時に楽になったような気がした。彼は母のまえに突っ伏して、母の足に接吻《せっぷん》した、そして二人は、抱き合って、泣いた。彼女ももうおどろかなかったし、うるさく尋ねなかった。息子の身に何かおそろしいことが起ろうとしていて、いまそのおそろしい瞬間が近づいたことが、彼女にはもうとっくにわかっていた。
「ロージャ、わたしのかわいい、かけがえのないロージャ」と、声を上げてすすり泣きながら、彼女は言った。「おまえはちっちゃいときも、ちょうどこんなだったよ。こんなふうにわたしのところへ来て、こんなふうに抱きついて、わたしに接吻してくれたっけ。まだお父さんが生きていて、貧しかった頃、おまえがいてくれるということだけで、わたしたちは慰められたものだった。そしてお父さんが亡くなってからは――何度わたしとおまえは、お父さんのお墓のまえで、こんなふうに抱き合って泣いたことか。わたしがもうかなりまえからすっかり涙っぽくなったのは、母親の心が不幸の来るのを見ぬいていたんだねえ。わたしはあの晩、おぼえてるかい、ほら、わたしたちがこちらへ着いたあの晩だよ、はじめておまえに会ったとき、おまえの目を一目見てすべてを察し、胸がどきッとしたんだよ。今日は、ドアを開けて、おまえを一目見たとき、いよいよ運命のときが来たんだな、と思いましたよ。ロージャ、ロージャ、おまえはいますぐ行くんじゃないだろうね?」
「ちがいます」
「また来てくれるね?」
「え……来ます」
「ロージャ、怒らないでおくれね、どうせこまごまと聞くなんて、わたしにはできやしないんだから。できないのは、わかってるけど、一言だけ聞かせておくれね、おまえはどこか遠くへ行くのかえ?」
「ひじょうに遠いところです」
「じゃそちらに何か、勤め口か、いい話でもあるというの?」
「わかりません……ただぼくのために祈ってください……」
ラスコーリニコフはドアのほうへ行きかけた。彼女は息子にすがりついて、必死のまなざしで息子の目を見た。顔は恐怖でゆがんだ。
「もういいですよ、お母さん」とラスコーリニコフは、来る気になったことを深く後悔しながら、言った。
「これっきりじゃないね? ほんとに、まだ、これっきりじゃないんだね? まだ来てくれるね、明日来てくれるね?」
「来ます、来ますよ、さようなら」
彼はついに振りきって出て行った。
さわやかな、あたたかい、晴れた宵《よい》だった。空は朝のうちから晴れわたっていた。ラスコーリニコフは自分の家のほうへ歩いていた。彼は急いでいた。太陽がおちるまでにすっかりかたをつけてしまいたかった。それまでは誰とも会いたくないと思った。階段をのぼりながら、彼は、ナスターシヤがサモワールのそばをはなれて、じっと彼を見つめて、そのままいつまでも見送っているのに気付いた。《はてな、誰か来てるのかな?》彼はふとこう思った。ポルフィーリイの顔をちらと思いうかべて、彼はいやな顔をした。だが、部屋のまえまで来て、ドアを開けて見ると、ドゥーネチカだった。彼女は一人ぽつんと坐って、深いもの思いにしずんでいた。もう大分まえから彼のかえりを待っていたらしい。彼はしきいの上に立ちどまった。彼女ははっとしてソファから腰をうかすと、きっとした様子で彼のまえに立った。じっと彼に注がれたその目には、恐怖といやされぬ深い悲しみがあらわれていた。その目を見ただけで、彼はとっさに、彼女がすべてを知っていることをさとった。
「どう、入ってもいい、それともこのまま出て行く?」と彼はためらいながら尋ねた。
「わたしは一日中ソーフィヤ・セミョーノヴナの部屋にいました。二人で兄さんの来るのを待っていたんです。わたしたちは、兄さんがきっと寄ると思っていました」
ラスコーリニコフは部屋に入ると、ぐったりと椅子《いす》に腰を下ろした。
「なんだかだるいんだよ、ドゥーニャ。疲れすぎているんだね。せめてここちょっとの間だけでも、気をしっかりもっていたいと思うんだが」
彼は疑《うたぐ》るような目をちらと彼女に投げた。
「一晩中いったいどこにいたの?」
「よくおぼえていない。ねえ、ドゥーニャ、ぼくは完全に解決してしまおうと思って、ネワ河のほとりを何度も歩きまわった。それはおぼえている。ぼくはそこで解決してしまいたかった、が……思いきれなかった……」と、また疑るようにドゥーニャを見ながら、彼は低声《こごえ》で言った。
「よかった! わたしたち、わたしとソーフィヤ・セミョーノヴナは、どんなにそれを恐れたでしょう! つまり、兄さんは生命《いのち》というものをまだ信じているんだわ。よかった、よかったわ!」
ラスコーリニコフは苦々しく笑った。
「ぼくは信じちゃいないよ。いま母さんといっしょに、抱き合って、泣いてきたんだ。ぼくは信じはしないが、母さんに、ぼくのために祈ってくれるように頼んだ。どんなふうになっているのかは、誰もわかりゃしない、ドゥーネチカ、こういうことになると、ぼくはぜんぜんわからないんだよ」
「母さんのところへ行ったの? じゃ、兄さんは、母さんに話したの?」と、ドゥーニャはぎょっとして叫んだ。「ほんとに、思いきって、話したの?」
「いや、話さなかった……言葉では。でも、母さんはいろいろとさとっていたよ。夜おまえがうなされているのを、聞いたんだよ。もう大体はわかっていると思うよ。寄ったのは、まずかったかもしれない。まったく、なんのために寄ったかさえ、ぼくにはわからないんだよ。ぼくは下劣な人間だよ、ドゥーニャ」
「下劣な人間、だって苦しみを受けようとしてるじゃありませんか! ほんとに、行くのね?」
「行くよ。いますぐ。ぼくはこの恥辱を逃れるために、川へ身を投げようとしたんだよ、ドゥーニャ、だが橋の上に立って水を見たときに、考えたんだ、いままで自分を強い人間と考えていたのじゃないか、いま恥辱を恐れてどうする」と彼は先まわりをして、言った。「これが誇りというものだろうな、ドゥーニャ?」
「誇りだわ、ロージャ」
彼のどんよりした目に一瞬火花がきらめいたようだった。まだ誇りがあることが、嬉しくなったらしい。
「水を見て怯《おじ》気《け》づいただけさ、なんて思わないだろうね、ドゥーニャ?」と彼はみにくいうす笑いをうかべて、彼女の顔をのぞきこみながら、尋ねた。
「おお、ロージャ、よして!」とドゥーニャは悲しそうに叫んだ。
二分ほど沈黙がつづいた。彼は坐ったままうなだれて、じっと床を見つめていた。ドゥーネチカはテーブルの向う側に立って、痛ましそうに彼を見つめていた。不意に彼は立ち上がった。
「もうおそい、行かなくちゃ。ぼくはいま自分を渡しに行くんだよ。だが、なんのために自分を渡しに行くのか、ぼくにはわからない」
大粒の涙が彼女の頬《ほお》をつたった。
「おまえは泣いてくれるんだね、ドゥーニャ、ぼくの手をにぎってくれる?」
「どうしてそんなことを言うの?」
彼女はかたく彼を抱きしめた。
「だって兄さんは、苦しみを受けに行くことで、もう罪の半分を償ってるじゃありませんか?」と、彼女ははげしく彼を抱きしめ、接吻をくりかえしながら、叫ぶように言った。
「罪? どんな罪だ?」と彼は不意に、発作的な狂憤にかられて叫んだ。「ぼくがあのけがらわしい、害毒を流すしらみを殺したことか。殺したら四十の罪を赦《ゆる》されるような、貧乏人の生血を吸っていた、誰の役にも立たぬあの金貸しの婆《ばば》ぁを殺したことか。これを罪というのか? おれはそんなことは考えちゃいない、それを償おうなんて思っちゃいない。どうしてみんな寄ってたかって、《罪だ、罪だ!》とおれを小突くんだ。いまはじめて、おれは自分の小心の卑劣さがはっきりとわかった、いま、この無用の恥辱を受けに行こうと決意したいま! おれが決意したのは、自分の卑劣と無能のためだ、それに更にそのほうがとくだからだ、あの……ポルフィーリイのやつが……すすめたように!」
「兄さん、兄さん、なんてことを言うんです! だって、あんたは血を流したじゃありませんか!」とドゥーニャは絶望的に叫んだ。
「誰でも流す血だよ」と彼はほとんど狂ったように言った。「世の中にいつでも流れているし、滝みたいに、流れてきた血だよ。シャンパンみたいに流し、そのためにカピトーリーの丘で王冠を授けられ、後に人類の恩人と称されるような血だよ。もっとよく目をあけて見てごらん、わかるよ! ぼくは人々のために善行をしようとしたんだ。一つのこの愚劣の代りに、ぼくは数百、いや数百万の善行をするはずだったんだ。いや、愚劣とさえ言えないよ。ただの手ちがいさ。だって、この思想自体は、たとい失敗した場合でも、いま考えられるような愚劣なものでは、決してなかったんだ……(失敗すれば何でも愚劣に見えるものさ!)この愚劣な行為によって、ぼくはただ自分を独立の立場におきたかった、そして第一歩を踏み出し、手段を獲得する、そうすれば比べようもないほどの、はかり知れぬ利益によって、すべてが償われるはずだ……ところがぼくは、ぼくは、第一歩にも堪えられなかった、なぜなら、ぼくは――卑怯《ひきょう》者《もの》だからだ! これがすべての原因なのだ!それでもやはりぼくは、おまえたちの目で見ようとは思わん。もし成功していたら、ぼくは人に仰ぎ見られただろうが、いまはまんまとわなに落ちたよ!」
「でも、それはちがうわ、ぜんぜんちがうわ! 兄さん、あんたはなんてことを言うの!」
「あ! 形がちがうというんだね! それほど美学的にいい形じゃないというんだね! それが、ぼくにはまったくわからんのだよ。どうして人々を爆弾で吹っとばしたり、正確な包囲で攻め亡《ほろ》ぼしたりするほうが、より尊敬すべき形なんだろう? 美しさを危《あや》ぶむというのは無力の第一の徴候だ! これをいまほどはっきりと意識したことは、これまでに、一度もなかった。だからいままでのいつよりも、いまが、ぼくは自分の罪が理解できんのだ! ぜったいに、一度も、ぼくはいまほど強く、そして確信にみちたことは、ない!……」
彼の蒼白《あおじろ》くやつれた顔に赤味さえさした。しかし、この最後の言葉を叫んだとき、彼は何気なくちらとドゥーニャの目を見た、そしてその目の中に彼の身を思いわずらう限りない苦悩を見てとって、はっとわれにかえった。彼は、何はともあれこの二人のかわいそうな女を不幸にしたことを、感じた。やっぱり彼が原因なのだ……
「ドゥーニャ! ぼくがまちがっていたら、許しておくれ(まちがっていたら、許すことなんてできないだろうけど)、さようなら!議論はよそう! もう時間だ、こうしてはいられない。ついて来ないでくれ、お願いだ、もう一カ所寄るところがあるんだよ……おまえは早くもどってお母さんのそばにいておくれ。頼むからそうしてくれ! これはおまえに対する最後の、もっとも大きなぼくの頼みだよ。ずっと離れないでそばについていてやってくれ。ぼくは母さんを堪えられそうもない不安の中にのこして来たんだ。母さんは死ぬか、さもなきゃ気が狂ってしまうよ。いっしょにいてやってくれ! ラズミーヒンがおまえたちの力になってくれるはずだ。ぼくは彼に頼んだんだ……ぼくのことは泣かないでくれ。ぼくはたとえ殺人犯でも、終生、男らしい誠実な人間になるように努めるよ。もしかしたら、おまえはいつかぼくの名前を聞くようなことがあるかもしれない。ぼくはおまえたちに恥をかかせるようなことはしないよ。見ていてくれ、ぼくはいまに証明するよ……じゃ当分、おわかれだ」彼の最後の言葉と約束を聞くと、ドゥーニャの目にまたいまにもくずれそうな妙な表情があらわれたのに気付いて、彼は急いでこう結んだ。「いったいどうしたんだね、そんなに泣いたりして? 泣かなくていいんだよ、泣かないでくれ、もう会えないというわけじゃないんだから!……あッ、そうそう! ちょっと待ってくれ、忘れていた!……」
彼はテーブルのそばへ行って、一冊の厚い埃《ほこり》をかぶった本を手にとり、それを開くと、ページの間にはさんであった小さな肖像をとり出した。象《ぞう》牙《げ》に水彩絵具で描いた肖像だった。それは彼のかつての許嫁《いいなずけ》で、熱病で死んだ下宿の娘、修道院に行きたがっていたあの風変りな娘の肖像だった。彼はしばらくの間その何か言いたげな弱々しい顔を見つめていたが、やがてその肖像に接吻して、ドゥーニャに渡した。
「ぼくはね、この女といろいろ話し合ったんだよ、あのこと《・・・・》も、この女にだけは話したんだ」と彼は感慨深そうに言った。「彼女の心に、ぼくは、あとでこんなみにくい結果になったことを、いろいろと知らせたんだよ。心配はいらんよ」と彼はドゥーニャのほうを向いた。「彼女は同意しなかったよ、おまえみたいに。彼女がもういてくれなくて、よかったよ。要は、要は、いまからすべてが新しい道をたどるということだ。真っ二つに折れてしまうということなんだ」と、またやるせない気持にもどりながら、彼は不意に叫んだ。「何もかも、すっかり。ぼくにその覚悟ができているだろうか? ぼくは自分でそれを望んでいるだろうか? それは、ぼくの試練のために必要だという! 何のためだ、こんな無意味な試練が何のためなのだ? そんなもの何になるんだ、そんなものはいまよりも、二十年の徒刑が終って、苦痛とばかげた日常におしひしがれ、すっかり老衰しきってしまってから、自覚したほうがいいのではないのか。それなら何のために生きる必要があるのだ? なぜぼくはいまこんな生き方に同意してるのだ? おお、ぼくは今日、夜明けに、ネワ河の上に立っていたとき、ぼくが卑怯者だということが、はっきりわかったんだ!」
二人は、ついに、外へ出た。ドゥーニャは苦しかった、が、彼女は彼を愛していた! 彼女は歩きだしたが、五十歩ほど行くと、振り向いてもう一度彼のほうを見た。彼はまだ見えていた。そして、曲り角まで来ると、彼も振り返った。二人は最後に目と目を見交わした。しかし、彼女がこちらを見ているのを知ると、彼は苛々《いらいら》して、かえって怒ったように、片手を振って行けという合図をすると、いきなり角を曲ってしまった。
《おれは悪いやつだ、自分でもわかってるんだ》彼はすぐにドゥーニャに対して怒ったように手を振ったことを恥じながら、ひそかにこう思った。《しかし、いったいどうしてあの人たちはおれをこんなに愛してくれるんだろう、おれにはそんな価値はないのに! ああ、おれが一人ぼっちで、誰もおれを愛してくれず、おれも決して誰も愛さなかったら、どんなにいいだろう! こんなことがいっさ《・・・・・・・・・》いなかったら《・・・・・・》! だがおもしろいな、果してこの十五年か二十年の間に、おれの心がすっかり馴《な》らされて、何かと言えば自分を強盗でございますと言いながら、人まえで神妙に泣いてみせたりするようになるのだろうか? そうだ、きっとそうなるんだ、たしかにそうだ! そのために、やつらはいまおれを流《る》刑《けい》地《ち》へ送るのだ、それがやつらには必要なのだ……いまみんな通りをぞろぞろ行ったり来たりしているが、こいつらはどれもこれも生来腹の底は卑怯者で強盗なのだ、いや、もっと悪い――白痴だ! もしおれが流刑をまぬがれでもしたら、やつらはみな義憤を感じて気ちがいみたいに騒ぎ立てるだろう! まったく、いやなやつらだ!》
彼は深く考えこんだ。《いったいどういう経過をたどれば、おれがこいつらのまえに文句も言わずに屈服する、心から屈服するなんてことに、なることができるのだ! じゃ何だ、ちがうというのか、なぜ? もちろん、そうなるにきまっている。まさか二十年間のたえまない圧迫が目的を達しないはずがないじゃないか? 雨だれだって石をうがつんだ。それならなぜ、何のために、そんなことをしてまで生きなければならんのだ、すべてがまちがいなくそうなる、本に書いてあるとおりになる、それ以外にはなり得ない、と承知していながら、なぜおれはいま行くのだ!》
彼は昨日の夕方から、おそらくもう百度もこの疑問を自分にあたえていたにちがいない、しかし、それでもやはり彼は歩いて行った。
8
彼がソーニャの部屋へ入って行ったときは、もううす暗くなりかけていた。ソーニャは一日中おそろしい興奮につつまれて彼を待ちつづけていたのだった。彼女はドゥーニャといっしょに待っていた。ドゥーニャは、ソーニャが《それを知っている》というスヴィドリガイロフの言葉を思い出して、まだ朝のうちから訪ねて来た。二人の女の詳しい会話や、涙、それからどれほど親しい仲になったか、というようなことは述べまい。ドゥーニャはこの会見から少なくとも、兄は一人ではない、という一つの安心を得た。誰《だれ》よりもまず、このソーニャのところへ、兄は懺《ざん》悔《げ》に来た。人間が必要になったとき、兄は彼女の中に人間を求めた。彼女なら運命が兄を送るところへ、どこまでも追って行くことだろう。ドゥーニャは別に聞きはしなかったが、そうなるにちがいないことがわかっていた。ドゥーニャはある敬虔《けいけん》な気持をさえ感じてソーニャを見まもった。そして自分によせられたこのような敬虔な気持に、ソーニャははじめおろおろしたほどだった。ソーニャは危なく涙が出そうにさえなった。彼女は、反対に、ドゥーニャに目を上げるのさえもったいないと思っていたのだった。ラスコーリニコフのところではじめて会ったとき、実に思いやりのある態度で丁重に会釈《えしゃく》してくれたドゥーニャの美しい姿が、それ以来いつまでもソーニャの心の中に、これまでの生涯《しょうがい》に見たもっとも美しい神聖なものの一つとして刻みつけられたのだった。
ドゥーネチカは、とうとう、がまんができなくなって、兄の部屋へ行って待とうと思って、ソーニャと別れた。それでもやはり、兄があちらへ先に寄るような気がしてならなかった。一人きりになると、ソーニャはすぐに、ほんとうに彼が自殺してしまうのではあるまいかと考えて、恐ろしさのあまりいても立ってもいられない気持になってきた。それをドゥーニャも恐れていたのだった。二人はほとんど一日中、そんなことはあり得ないといういろんな理由をあげあって、互いに相手の疑心を消しあっていたのだった。だから、いっしょにいた間は、まだよかった。いま、別れてみると、とたんに二人ともこのことばかりが気になりだした。ソーニャは昨日スヴィドリガイロフが言った言葉を思い出した――ラスコーリニコフには二つの道しかない、あるいはウラジーミルカ行きか、あるいは……それに彼女はラスコーリニコフが虚栄心が強く、傲慢《ごうまん》で、自尊心が強く、そして神を信じていないことを知っていた。《いったい、小心と死の恐怖だけで、あの人を生きさせることができるかしら?》彼女はとうとう絶望にしずんで、こんなことを考えてみた。そうこうするうちに、太陽はもうしずみかけていた。彼女はしょんぼりと窓辺に立って、じっと窓の外を見つめていた、――だが窓からは隣家の荒壁が見えるだけだった。とうとう、不幸な彼はもう死んでしまったのだと思いこんで、さびしくあきらめようとしたとき、――彼が部屋へ入って来た。
喜びの叫びが彼女の胸からほとばしった。だが、じっと彼の顔を見たとき、彼女は不意に蒼《あお》ざめた。
「うん、そうだよ!」とラスコーリニコフは、にこにこ笑いながら、言った。「きみの十字架をもらいに来たんだよ、ソーニャ。自分でぼくに十字路に行けと言ったくせに、いよいよそのときが来たら、恐《こわ》くなったのかい?」
ソーニャは茫然《ぼうぜん》と彼を見つめていた。この口調が彼女には異様に思われた。冷たい戦慄《せんりつ》が彼女の全身を走りぬけた。がすぐに、この口調も言葉も――無理につくったものだ、とさとった。彼は話をするのにも、妙に隅《すみ》のほうばかり見て、彼女の顔をまともに見るのをさけるようにしていた。
「ぼくはね、ソーニャ、こうするほうが、とくかも知れない、と考えたんだよ。それにはある事情があったんだが、――でも、話せば長くなるし、話してもしようがないよ。ぼくはね、ただたまらないのは、あのばかなけだものみたいなやつらが、ぼくを取りかこんで、まともにぼくの顔をじろじろのぞきこみ、いろんなばかばかしいことをぼくに聞く、それに一々ぼくが答えなきゃならん、ということだよ。それを考えると、むかむかするんだ。やつらにうしろ指をさされる……くそッ! いいかい、ぼくはポルフィーリイのところへは行かんよ、あいつにはもううんざりだ。それよりも、親愛なる火薬中尉のところへ行く。唖《あ》然《ぜん》とするだろうな、これも一つの演出効果というやつさ。だが、もっと冷静にならなきゃ。最近は苛《いら》立《だ》ちがひどすぎた。信じられるかい、妹が最後に一目見ようとして振り返ったというだけで、ぼくはいま危なく拳骨《げんこつ》でおどしつけようとしたんだよ。豚だよ、なさけないねえ! まったく、おれはどこまで浅ましい気持になったんだ? よそう、で、十字架はどこにあるの?」
彼は自分で何を言っているのかわからない様子だった。彼は同じところに一分とじっとしていられず、一つのことに注意を集中することができなかった。考えが互いにとび越し合って、話は支離滅裂だった。手が小刻みにふるえていた。
ソーニャは黙って箱から糸杉《いとすぎ》と銅の二つの十字架をとり出し、自分も十字を切り、彼にも十字を切ってやって、それから糸杉の十字架を彼の胸にかけてやった。
「これが、つまり、十字架を背負うということのシンボルか、へ! へ! まるでこれまでぼくが苦しみ足りなかったみたいだ! 糸杉の十字架、つまり民衆の十字架か。銅の――それがリザヴェータのか、きみが自分でかけるんだね、――どれ、見せてごらん? じゃあの女はこれをかけていたのか……あのとき? ぼくはこれと同じような二つの十字架を知ってるよ、銀のとちっちゃな聖像だった。あのとき老婆の胸の上に捨ててきたんだ。うん、そう言えば、あれをいま、そうだ、あれをいまつけりゃいいんだ……それはそうと、ばかなことばかりしゃべって、用件を忘れている。どうも気が散っていかん!……実はね、ソーニャ、――ぼくは、きみに知っておいてもらおうと思って、わざわざ寄ったんだよ……なに、それだけさ……それで寄っただけなんだ(フム、しかし、もっと話すことがあったような気がしたが)、だってきみは自分ですすめたじゃないか、自首しろって、だからいまからぼくが監獄に入り、きみの願いがかなえられるってわけだよ。いったいどうしてきみは泣いてるんだ? きみまで? よしてくれ、もういいよ。ああ、こういうことがぼくにはたまらなく辛《つら》いんだ!」
しかし、ふびんに思う気持が彼の中に生れた。ソーニャを見ていると、彼は胸がつまった。《この女が、この女が、何を?》と彼はひそかに考えた。《おれがこの女の何なのだろう? この女はどうして泣いているのだ、どうしておれの世話をするのだ、母かドゥーニャみたいに? おれのいい乳母《うば》になるだろうよ!》
「十字をお切りになって、せめて一度でもいいからお祈りになって」とソーニャはおどおどしたふるえ声で頼んだ。
「ああ、いいとも、何度でもきみのいいだけ祈るよ! 素直な心で祈るよ、ソーニャ、素直な心で……」
彼は、しかし、何か別なことを言いたかった。
彼は何度か十字を切った。ソーニャはショールをとって、頭にかぶった。それはみどり色のうすい毛織物のショールで、いつかマルメラードフが《家中の兼用》と言っていた、そのショールらしい。ラスコーリニコフはちらとそれを考えたが、別に聞きもしなかった。実際に彼は、自分がおそろしくうかつで、見苦しいほどうろたえているのを、自分でも感じはじめていた。彼はそれを恐れていたのだった。ソーニャがいっしょに行こうとしているのに気付いて、彼ははっとした。
「どうしたんだ! どこへ? いけない、家にいなさい! ぼくは一人で行く」と彼は負け犬がかみつくような声で叫ぶと、怒ったような顔をしてドアのほうへ歩きだした。「ごそごそついて来たって、どうもならんよ!」と、彼は外へ出ながらつぶやいた。
ソーニャは部屋のまん中にとりのこされた。彼は別れの言葉もかけなかった。ソーニャのことは、もう忘れていた。ただ毒のある、反逆する疑惑だけが、彼の心の中にたぎっていた。
《だが、これでいいのだろうか、あのすべてのことがこんなことになっていいのだろうか?》彼は階段を下りながら、またしてもこんなことを考えた。《まだ踏みとどまって、もう一度すっかりやり直すわけにはいかないだろうか……そうなれば、行くことはないわけだ?》
しかし、彼はやはり歩いて行った。彼は不意に、こんな問いを自分に発することの無意味を、はっきりと感じた。彼は通りへ出ると、ソーニャに別れの言葉をかけなかったことと、彼女はみどり色のショールをかぶったまま、彼にどなられたために動くこともできずに、部屋のまん中にとりのこされていることを思い出して、一瞬立ちどまった。その瞬間、まるで彼に決定的な打撃をあたえようと待ち構えていたように、不意に一つの考えが、はっきりと彼の頭を照らした。
《いったい何のために、いったいなぜ、おれはいまあの女のところへ行ったのだ? 用があって、とおれはあの女に言った。じゃ、どんな用だ? 用などぜんぜんなかったのだ!いまから行く《・・》と、ことわりにか。それでどうだというのだ? そんな必要があるのか! おれは、あの女を、愛しているとでもいうのか? まさか、そんなばかな? だっていま犬ころみたいに、追っぱらったじゃないか。じゃ、ほんとにあの女から十字架をもらわねばならなかったのか? へえ、おれもずいぶん落ちたものだ! いやちがう、――おれにはあの女の涙が必要だったのだ、あの女のおどろきを見ることが、あの女の心が痛み、苦しむさまを見ることが、必要だったのだ! せめて何かにすがって、時をかせぐことが、人間を見ることが、必要だったのだ! そんなおれが、あんなに自分に望みをかけたり、自分を空想したりできたとは。おれは乞《こ》食《じき》だ、ゴミだ、おれは卑怯者《ひきょうもの》だ、卑怯者だ!》
彼は運河ぞいの道を歩いていた、そしてもうあといくらもなかった。ところが、橋まで来ると、彼はちょっと立ちどまって、急に橋のほうへ曲った。彼は橋を渡ると、センナヤ広場のほうへ歩きだした。
彼はむさぼるように左右を見まわして、目に力をこめて一つ一つのものを凝視したが、何にも注意を集中することができなかった。何もかもすべりぬけて行った。《一週間か、一カ月後に、おれは囚人馬車にのせられてこの橋の上をどこかへ護送されて行くことだろう。そのときおれはこの運河をどんな気持で見るだろう、――これをおぼえておくんだな?》こんな考えがちらと彼の頭にうかんだ。《そら、この看板、そのときおれはどんな気持でこの文字を読むだろう? ほら、〈商会〉と書いてある、よし、このAだ、このAという文字をおぼえておこう、そして一カ月後にこのAという文字を見るんだ。どんな気持で見るだろうなあ? 何か感じたり、考えたりするだろうか?……チエッ、こんなことは、おれがいま……気にしているようなことは、きっと実にくだらないことなんだ! そりゃむろん、こうしたことは、興味あることにはちがいないが……それなりに……(は、は、は! おれは何を考えてるんだ!)おれは子供にかえったのかな、自分で自分に大きなことを言ってりゃ世話ないよ。でも、どうして自分を恥ずかしがるんだ? へえ、ひどい人出だ! おや、このビヤ樽《だる》め――きっと、ドイツ人だな――おれに突きあたったぞ。何者に突きあたったか、まさか知るまい? 子供をつれた女が物乞いをしている。あの女はおれを自分より幸福だと思っているから、おもしろいよ。どれ、お笑い草にひとつ恵んでやろうか。おや、ポケットに五コペイカ銅貨がのこっているぞ、どこから? さあ、さあ……これをあげるよ、お母さん!》
「神さまのお加護がありますように!」と乞食女の涙声が聞えた。
彼はセンナヤ広場へ入った。彼は人ごみの中へ入るのがいやだった、いやでたまらなかった。しかし彼はいちばん群衆のむらがるところへ、わざわざ歩いていった。彼は一人きりになれるなら、どんなものでも投げ出したい気持だった。しかしこれからはもう一分も一人ではいられないことを、彼は自分でも感じていた。人ごみの中で一人の酔っぱらいが騒いでいた。しきりに踊ろうとするのだが、ひょろひょろよろけて、すぐに転んでしまう。群衆がまわりを取り巻いていた。ラスコーリニコフは人垣《ひとがき》をわけてまえへ出ると、しばらく酔っぱらいを見ていたが、不意にけたたましい声で、短くとぎれとぎれに笑った。一分後に彼はもう酔っぱらいのことを忘れていた、そちらを見てはいたが、目に入りもしなかった。彼は、やがて、自分がどこにいるのかさえ忘れて、その場をはなれた。だが、広場の中央まで来たとき、不意に彼はそわそわしだした。一つの感じが一時に彼を支配し、彼の肉体と意識のすべてをとらえてしまったのだ。
彼は不意にソーニャの言葉を思い出したのである。
《十字路へ行って、みんなにお辞儀をして、大地に接吻《せっぷん》しなさい。だってあなたは大地に対しても罪を犯したんですもの、それから世間の人々に向って大声で、〈わたしは人殺しです!〉と言いなさい》彼はこの言葉を思い出すと、わなわなとふるえだした。彼はこの間からずっとつづいてきた、特にこの数時間ははげしかった出口のないさびしさと不安に、すっかりうちひしがれていたので、この新しい、そこなわれない充実した感じが出口になりそうな気がして、夢中でとびこんで行った。それは何かの発作のように不意に彼をおそって、心の中に一つの火花がポチッと燃えたかと思うと、たちまち一面の火となって、すべてをのみつくしてしまった。彼の内部にしこっていたものが一時に柔らいで、どっと涙があふれ出た。彼は立っていたそのままの姿勢で、いきなりばたッと地面に倒れた……
彼は広場の中央にひざまずき、地面に頭をすりつけ、愉悦と幸福感にみちあふれて汚れた地面に接吻した。彼は立ち上がると、もう一度お辞儀をした。
「どうだい、酔っぱらいやがって!」と彼のそばで一人の若者が言った。
どっと笑いが起った。
「なに、こいつはエルサレムへ行くんだとよ、がきどもや祖国に別れの挨拶《あいさつ》だ、そこらじゅうにお辞儀してさ、首都サンクト・ペテルブルグとその石に接吻してるんだよ」と一人のほろ酔いの町人がつけ加えた。
「まだ若い男だぜ!」と三人目の男が口を入れた。
「いいとこの息子だぜ!」と誰かが大きな声を出した。
「いまどきァ見分けがつかねえよ、貴族も平民もわかりゃしねえ」
こうした叫び声や話し声がラスコーリニコフをひきとめた、そして彼の口からとび出しかけていたにちがいない《わたしは人殺しです》という言葉が、そのまま舌の上に凍りついてしまった。彼は、しかし、平静にこれらの叫びを堪えた、そしてあたりを見もせずに、横丁を越えてまっすぐに署のほうへ歩きだした。歩きながら、一つの幻がちらと彼のまえにうかんだ、しかし彼はそれにおどろかなかった。彼はもうそうなるのが当然であることを、予感していた。彼がセンナヤ広場で、左のほうを向いて二度目に頭を地面にすりつけたとき、彼は五十歩ほどはなれたところにソーニャの姿を見た。彼女は広場にある木造のバラックの一つのかげにかくれていた。すると、彼女は彼の痛ましい行進にずうっとついて来たわけだ! ラスコーリニコフはその瞬間、はっきりと、ソーニャがもう永遠に彼のそばを離れないで、たとい地の果てであろうと、運命が彼をみちびくところへ、どこまでもついて来てくれることを感じ、そしてさとった。彼は胸がじーんとした……だが、――彼はもう宿命の場所まで来ていた……
彼はかなり元気よく庭へ入って行った。三階までのぼらなければならなかった。《まだのぼる間がある》と彼は考えた。なんとなく彼は、宿命の瞬間まではまだ遠くて、まだたくさんの時間がのこっており、まだいろんなことを考え直してみることができるような気がした。
らせん状の階段には、またあのときのようにごみや殻《から》などがちらばっていた、また部屋部屋の戸がいっぱいに開け放され、また方々の台所から炭酸ガスや悪臭がもれていた。ラスコーリニコフはあれから一度も来《こ》なかった。足の力がなくなって、膝《ひざ》ががくがくした、それでも彼は歩いて行った。彼は一息入れて、姿勢を正し、人間らしく《・・・・・》入って行くために、ちょっと立ちどまった。《でも、何のために? なぜ?》彼は自分の動作の意味を考えて、不意にこう思った。《どうせこの盃《さかずき》を飲みほさねばならんとしたら、そんなことどうでもいいじゃないか? なるべくみっともないほうが、かえっていいんだ》その瞬間彼の脳裏に火薬中尉イリヤ・ペトローヴィチの姿がちらとうかんだ。《いったいおれは、ほんとにあの男のところへ行くつもりなのか? 他《ほか》の者ではいけないのか? ニコージム・フォミッチは? すぐに引き返して、直接署長の家へ行こうか? そうすれば少なくとも形式張らずにすむわけだ……いやいや、いけない!火薬中尉だ、火薬中尉だ! どうせ飲むなら、ひと思いに飲もう……》
彼は血を凍らせて、わずかに意識を保ちながら、警察署のドアを開けた。今度は署内には人がごく少なく、庭番らしい男が一人と、町人風の男が一人いただけだった。守衛は仕切りのかげから顔も出さなかった。ラスコーリニコフは次の部屋へ入って行った。《ひょっとしたら、まだ言わなくてもいいかもしれない》と、彼はちらと考えた。そこには私服を着た書記らしい男が一人、机のまえで何やら書きものの用意をしていた。隅《すみ》のほうにもう一人の書記が坐《すわ》りこんでいた。ザミョートフはいなかった。ニコージム・フォミッチも、もちろんいなかった。
「誰もいませんか?」とラスコーリニコフは机のそばの書記のほうを向いて、尋ねた。
「どなたにご用です?」
「あ、あ、あ! 声も聞えず、姿も見えないが、ロシア人の匂《にお》いがする……とかいうのがなんとかいう物語にありましたな……忘れたが! ようこそ、いらっしゃい!」と不意に聞きおぼえのある声が叫んだ。
ラスコーリニコフはぎくっとした。彼のまえに火薬中尉が立っていた。とつぜん隣の部屋から出てきたのだ。《これが運命というものだ》とラスコーリニコフは考えた、《どうして彼がここにいたろう?》
「ここへ? 何の用で?」とイリヤ・ペトローヴィチは大声で言った。(彼はどうやらたいへんな上機嫌《じょうきげん》で、おまけにちょっと興奮しているらしかった)。「用件なら、まだちょっと早すぎましたな。わたしはたまたま……でも、わたしで間に合うことなら。実はあなたに……ええと? ええと? 失礼ですが……」
「ラスコーリニコフです?」
「ああ、そう、ラスコーリニコフさんでしたっけ! わたしが忘れたなんて、思いもよらなかったでしょうな! でも、どうか、わたしをそんな人間だと思わないでくださいな……ロジオン・ロ……ロ……ロジオヌイチ、でしたかな?」
「ロジオン・ロマーヌイチです」
「そう、そうでしたっけ! ロジオン・ロマーヌイチ、ロジオン・ロマーヌイチ! これはやっとおぼえたんですよ。何度も調べましてな、苦労しましたよ。実は、白状しますが、あのとき以来えらく気に病みましてな、あなたとあんなことをしてしまって……あとで聞かされて、わかったんですよ、あなたが青年文学者で、しかも学識が豊かで……いわば、その第一歩として……そうですとも! まったく、文学者や学者で最初に独創的な第一歩を踏み出さなかったなんて、およそいませんからな! わたしと家内は――そろって文学愛好家でしてな、家内ときたら気ちがいですわ!……文学と芸術にね! 人間は高尚《こうしょう》でありたいですな、そうすれば才能と、知識と、理性と、天分で、他のものは何でも得られますよ! 帽子――そんなもの、例えてみたら、いったい何でしょう! 帽子なんてプリンみたいなものですよ、ツィンメルマンの店で買えます。ところが帽子の下に守られて、帽子でつつまれているもの、これは買うわけにはいきませんよ!――わたしは、実は、あなたのところへ釈明に行こうとまで思ったんですよ、気になりましてね、もしかしたら、あなたが……それはそうと、まだ聞かずにいましたが、ほんとに何かご用がおありですか? 家族の方が見えられたそうですね?」
「ええ、母と妹です」
「妹さんには幸いにも拝顔の栄に浴しましたよ、――教養のある美しい方ですなあ。白状しますが、あのときあなたに対してあんなに逆上したのが、実に悔まれましたよ。どうしてあんなことになったのか! あなたの卒倒されたことにからんで、あのときわたしはある疑惑をあなたに感じたわけですが、――それは後でもののみごとに解決されましたよ!狂信と熱狂! あなたの憤慨はわかります。で、お家族がいらしたので、どこかへお移りになりますかな?」
「い、いいえ、ぼくはただ、……聞きたいと思って……ザミョートフ君がいると思ったもので……」
「ああ、そう! あなた方は友だちになられたんでしたな、聞きましたよ。でも、ザミョートフはここにいませんよ、――残念でしたな。そうなんです、われわれはアレクサンドル・グリゴーリエヴィチを失いました! 昨日からここに席がありません。転任ですよ……しかも、転任に当って、一同としたたか罵《ののし》り合いまでやりましてな……実に見苦しかったですよ……軽薄な若僧、その域を出ませんな。ものになるかと思いましたがねえ。そうですな、あの連中、輝かしきわが青年諸君たちと、ちょっとつき合ってみるといいですよ! 何か試験を受けるとか言ってましたが、わが国ではちょっとしゃべって、駄《だ》ぼらをふきさえすれば、それで試験は終りですからな。まったく、あなたとか、ほら、あなたの友人の、ラズミーヒン君などは、できがちがいますよ! あなたの専門は学問ですから、失敗に迷わされるようなことはありません! あなたには生活の美しさなんてものは、いわば―― nihil est(無)ですからな、なにしろ禁欲主義者、修道僧、隠者ですもの!……あなたには書物、耳にはさんだペン、学問上の研究――ここにあなたの精神は高く羽ばたいているわけですからな! わたしも少しは……リヴィングストンの手記をお読みになりましたか?」
「いや」
「わたしは読みましたよ。しかし近頃《ちかごろ》は、ニヒリストがふえましたなあ。でも、それもわからんこともありませんな、なにしろ時代が時代です、そうじゃありません? しかし、あなたにこんなことを言って……あなたは、むろん、ニヒリストじゃないでしょうな! 遠慮なくおっしゃってください、率直に!」
「い、いいや……」
「いやいや、どうぞ率直に、遠慮しちゃいけませんよ、自分お一人のつもりで! もっとも、職務《スルージバ》になると別ですがね、それは別問題ですよ……わたしが友情《ドルージバ》と言いたかった、とお思いでしょう、残念ですな、外れましたよ! 友情じゃありません、市民として、人間としての感情、万人に対する博愛人道の感情ですよ。わたしは職務に際しては、公的な人間にもなれます、しかし市民として、人間としての感情を常にもつことを義務と心得、反省しているわけです……あなたはいまザミョートフと言いましたね。ザミョートフはね、いかがわしい場所に出入りして、一杯のシャンパンかドン産のぶどう酒を飲んで、フランス人並みの醜態を演じようという男です、――ザミョートフとはそんな男です! だが、わたしは、いわば忠誠と高潔な感情に燃えていた、わけでしょうな。それに地位も名誉もあり、りっぱな職責もあります! 妻子もいます。市民として、人間としての義務も果しています。ところが、おうかがいしますが、あの男は何者です? 教養あるりっぱな人間としてのあなたに、おうかがいしたいですな。ところで話は別ですが、近頃はあの産《さん》婆《ば》ってやつが実にふえましたなあ」
ラスコーリニコフはけげんそうに眉《まゆ》をもたげた。どうやら食事がすんだばかりらしいイリヤ・ペトローヴィチの言葉は、たいていは空《むな》しい音となって彼のまえにこぼれおちていたのだった。しかし少しは彼もわかった。彼はけげんそうな顔をして相手を見ていた、そしてこれがどういうことに終るのか、見当がつかなかった。
「わたしが言うのは、あの断髪の娘どものことですよ」と話好きなイリヤ・ペトローヴィチはつづけた。「産婆というあだ名はわたしがつけたんだがね、われながら実にうがったあだ名だと思いますよ。へ! へ! 大学へもぐりこんで、解剖学かなんかを習ってるんですよ。どうです、わたしが病気になったら、あんな娘っこを呼べますかね? へ! へ!」
イリヤ・ペトローヴィチは自分のしゃれにすっかり満足して、声をはり上げて笑った。
「そりゃまあ、啓蒙《けいもう》に対する行きすぎの渇望《かつぼう》としてもですよ、啓蒙されたんだから、もういいじゃありませんか。なんで悪用する必要があります? なんで高潔な人々を侮辱する必要があるんです、ろくでなしのザミョートフみたいに? おうかがいしますが、なぜザミョートフはわたしを侮辱したんです? それからもう一つ、自殺が実に多くなりましたな、――まったく、あなたには想像もできんほどですよ。みな最後の金をつかいはたして、この世におさらばというケースですわ。小娘や子供から、年寄りまで、――つい今朝も、こちらへ来て間もないなんとかいう紳士の自殺の報告がありましたよ。ニール・パーヴルイチ、おい、ニール・パーヴルイチ! なんと言ったかな、あの紳士は、先ほど報告のあった、ほら、ペテルブルグ区で拳銃《けんじゅう》自殺をした?」
「スヴィドリガイロフです」と誰かが隣の部屋から、かすれた声で気のないような返事をした。
ラスコーリニコフはぎくっとした。
「スヴィドリガイロフ! スヴィドリガイロフが自殺した!」と彼は叫んだ。
「え! スヴィドリガイロフをご存じですか?」
「ええ……知ってます……最近こちらへ来たばかりです……」
「うん、そう、最近出て来たんです、妻を亡《な》くして、女関係のだらしのない男で、とつぜん拳銃自殺をした。それも考えられないような、見苦しい死にざまだ……手帳に簡単に、完全な正気で死ぬんだから、死因については誰も疑わないでほしい、というようなことが書きのこしてありました。この男は金を持っていたそうですよ。あなたはいったいどうしてご存じなのです?」
「ぼくは……知り合いなんです……妹が家庭教師として住み込んでいたので……」
「え、こりゃどうも……そうですか。じゃ、あの男のことを何か聞かせてもらえますね。どうです、何かあやしいと思った点はありませんか?」
「昨日会いました……彼は……酒を飲んでました……ぜんぜん知りませんでした」
ラスコーリニコフは何かが上から落ちてきて、圧《お》し付けられたような気がした。
「あなたはまた顔色が悪くなったようですね、ここはどうも空気が悪いから……」
「ええ、もう失礼します」とラスコーリニコフはつぶやいた。「すみませんでした、お邪魔して……」
「おや、とんでもない、どうぞごゆっくり!実に愉快でした、喜んでまた……」
イリヤ・ペトローヴィチは手までさしのべた。
「ぼくはただ……ザミョートフ君に……」
「わかってます、わかってます、でも愉快でした」
「ぼくも……ひじょうに嬉《うれ》しく……さようなら……」ラスコーリニコフはにやりと笑った。
彼は部屋を出た。よろよろしていた。頭がくらくらした。彼は、自分が立っているのかどうかさえ、感じがなかった。彼は右手で壁につかまりながら、階段を下りはじめた。帳簿を手にした庭番らしい男が下からのぼって来て、出会いがしらに彼に突き当ったような気がした。どこか下のほうで小犬がけたたましく吠《ほ》え立て、どこかの女がめん棒を投げつけて、大声でしかりつけたのを、聞いたような気もした。彼は階段を下りきって、庭へ出た。すると庭の、出口からあまり遠くないところに、死人のような真《ま》っ蒼《さお》な顔をしたソーニャが、なんともいえないけわしい目でじいっと彼を見つめていた。彼はソーニャの前に立ちどまった。ソーニャの顔には何か痛々しい、苦悩に疲れ果てたような、絶望の表情がうかんだ。彼女はぱちッと両手をうちあわせた。みにくい、放心したようなうす笑いが彼の唇《くちびる》に押しだされた。彼はしばらく立っていたが、にやりと自嘲《じちょう》の笑いをのこすと、くるりと振り向いて、また警察署へのぼって行った。
イリヤ・ペトローヴィチは席について、何かの書類をひっかきまわしていた。そのまえに、いま階段の途中でラスコーリニコフに突き当ったばかりの百姓が立っていた。
「あ、ああ、あなたですか? 何か忘れものでも?……おや、どうなさいました?」
ラスコーリニコフは唇を蒼白《そうはく》にし、動かぬ目をじっとすえて、そろそろと彼のほうへ近づいていった。そして、机のすぐまえまで来ると、片手を机について、何か言おうとしたが、言えなかった。何かとりとめのない音が聞えただけだった。
「気分が悪いんですね、おい椅子《いす》だ! さあ、椅子にかけなさい、おかけなさい! 水を持って来《こ》い!」
ラスコーリニコフはくたくたと椅子にくずれたが、実に不愉快そうなおどろきをうかべているイリヤ・ペトローヴィチの顔から目をはなさなかった。二人は一分ほどにらみあって、相手の言葉を待っていた。水がはこばれて来た。
「あれはぼくが……」とラスコーリニコフが言いかけた。
「水をお飲みなさい」
ラスコーリニコフは片手で水を押しのけて、しずかに、間をおいて、しかし聞きとれる声で言った。
「あれはぼくがあのとき官吏未亡人の老婆と《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》妹のリザヴェータを斧で殺して《・・・・・・・・・・・・》、盗んだのです《・・・・・・》」
イリヤ・ペトローヴィチはあッと口を開けた。四方から人々がかけ集まってきた。
ラスコーリニコフは自供をくりかえした……………………………………………………………………………………………………………
エピローグ
1
シベリア。荒涼とした大河の岸に一つの町がある。ロシアの地方行政の中心地の一つである。この町に要塞《ようさい》があって、要塞の中に監獄がある。この監獄の中に第二級流刑囚《るけいしゅう》のロジオン・ラスコーリニコフが、十カ月まえから収容されていた。犯行の日からほぼ一年半の歳月が流れていた。
彼の事件の裁判は大した障害もなくすぎた。被告は状況をもつれさせたり、自分の利益のために柔らげたり、事実をゆがめたり、こまかい点を忘れたりすることなく、正確に明瞭《めいりょう》に自分の供述を裏付けた。彼は犯行の全過程をごく些《さ》細《さい》な点まで詳しく述べた。殺された老婆がにぎっていた質草(鉄板をはりつけた板きれ)の秘密も明らかにした。老婆から鍵《かぎ》を奪った状況も詳しく語り、どんな鍵がいくつくらいあったか、長持はどんなふうで、中にどんなものが入っていたかまで説明した。リザヴェータを殺した謎《なぞ》も明らかにした。コッホが来て、ドアをたたいたこと、そしてそのあとから学生が来たことも、彼らの間の会話をすっかり再現して、詳しく語った。彼、つまり犯人がそのあとでどんなふうに階段をかけ下り、どこでミコライとミチカの騒ぎを聞いたか、どんなふうに空室にかくれ、どうして家へ帰ったかを述べ、最後にヴォズネセンスキー通りの門の内側にある石の位置を明示した。石の下から品物と財布が出てきた。要するに、事件は明白となったわけである。検事や裁判官たちは、彼が品物や財布をつかいもしないでかくしていたことには、特におどろいたが、それよりも、彼が自分で盗んだ品物をよくおぼえていないばかりか、その数さえまちがっていたのには、すっかりおどろいてしまった。わけても、彼が一度も財布を開けて見ないで、中に金がいくらあるかさえ知らなかったという事実は、信じられないことのように思われた(財布の中には銀単位で三百七十ルーブリの紙幣と、二十コペイカ銀貨が三枚入っていた。長い間石の下になっていたために上のほうの大きい紙幣が何枚かはひどく痛んでいた)。長い間審査の苦心がこの点に向けられた。被告は他のすべての点は進んで正直に認めているのに、なぜこの一つの事実だけ嘘《うそ》をつくのか? ついに、ある人々(特に心理学者)は、実際に彼は財布の中を見なかった、だから中に何があったか知らなかった、そして知らないままに石の下にかくした、という事実は考えられないこともないと認めたが、それならば犯行自体は、ある一時的な精神錯乱、いわば、なんらの目的も利害に対する打算もない、強盗殺人の病的な偏執狂の発作、という状態のもとで行われたとしか考えられないという結論になった。そこへ折りよく、最近つとめてある種の犯人たちに適用しようとする傾向のある最新流行の一時的精神錯乱の理論が持ち出された。加えて、ラスコーリニコフのまえまえからのヒポコンデリー症状が、医師ゾシーモフや、以前の学友たちや、下宿の主婦《おかみ》や女中など、多くの証人たちによって証言された。こうしたすべてのことが、ラスコーリニコフは普通の強盗や殺人などの凶悪犯人とはぜんぜんちがって、そこには何か別種のものがあるという結論を、大いに助長した。この意見を擁護する人々をひどく憤慨させたのは、犯人自身がほとんど自分を弁護しようとしなかったことである。何が彼を殺人に傾かせ、強盗を行わせたのか、という決定的な質問に対して、彼は実に明瞭に、乱暴なほど正確に、いっさいの原因は彼の悲惨な、貧しい、頼りのない境遇であり、少なくとも三千ルーブリの助けをかりて出世の第一歩をかためたいと願い、老婆を殺せばそれが奪えると思ったのである、と答えた。彼が殺害を決意したのは、もともとが軽薄で小心な性格が、生活が苦しくものごとがうまく行かないために苛々《いらいら》したためである、と言った。何が彼を自首する気持にさせたのか、という質問に、彼は正直に、心からの悔恨であると答えた。言うことがみな、ほとんどふてぶてしく聞えるほどだった……
判決は、しかし、行われた犯罪から考えて期待されたよりも、ずっと寛大なものだった。そしてそれは、被告が弁明をしようとしなかったばかりか、かえって自分からできるだけ罪を重くしたいという気持が見えたからかもしれない。事件のすべての不思議な特殊事情が考慮された。犯罪をおかすまでの被告の病的な悲惨な状態は少しも疑う余地がなかった。彼が盗品を利用しなかったという事情は、一部は目ざめた悔恨の作用、一部は犯行時の知能が完全な健康状態ではなかったためとされた。思いがけぬリザヴェータ殺害の事情は、第二の理由を裏付ける例にさえなった。二人も殺していながら、ドアが開いているのを忘れているなんて、普通ではないというのである! 最後に、気落ちした狂信者(ミコライ)が虚偽の自白をしたために事件が異常にもつれてしまい、しかも、真犯人に対する明白な証拠どころか、嫌《けん》疑《ぎ》さえもほとんどなかったのに(ポルフィーリイ・ペトローヴィチは完全に約束を守った)、自首して出たという事実、こうしたすべてのことが被告の運命の緩和を決定的に助けたのである。
加えて、まったく思いがけなく、被告にひじょうに有利な他のいくつかの事情も明らかにされた。元大学生のラズミーヒンがどこからか情報を掘り出してきて、被告ラスコーリニコフは大学在校当時、自分のなけなしの金をはたいて一人の貧しい肺病の学友を助け、ほとんど半年にわたってその生活を見てやったという事実を証言した。その学友が死ぬと、彼はあとにのこされた病身の老父の面倒を見て(亡友は十三の年から働いてこの父を養っていたのだった)、とうとうこの老人を病院に入れてやり、その老人も死んだとき、葬《ほうむ》ってやったというのである。もとの下宿の主婦《おかみ》で、ラスコーリニコフの死んだ許嫁《いいなずけ》の母であるザルニーツィナ未亡人も、まだ五つ角のもとの家に住んでいた頃《ころ》、夜更《よふ》けに火事があったとき、ラスコーリニコフはもう火がまわっていたある部屋から二人の子供を救い出し、そのために自分は火傷《やけど》までした、と証言した。この事実は詳細に調べられ、多くの証人によって十分に立証された。結局、自首して出たことと、罪をやわらげるいくつかの事情を尊重されて、被告は第二級の強制労働の判決を下され、わずか八年の刑期を言い渡されたのだった。
まだ裁判のはじめの頃、ラスコーリニコフの母は病気になった。ドゥーニャとラズミーヒンは裁判が終るまで彼女をペテルブルグから連れ出すことを考えた。ラズミーヒンは裁判の模様をのこらず見守れるし、できるだけひんぱんにアヴドーチヤ・ロマーノヴナに会えるように、ペテルブルグからあまり遠くない鉄道沿線の町を選んだ。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの病気は何か奇妙な神経の病で、完全にとは言えないにしても、少なくとも多少は、精神錯乱のような症状をともなっていた。ドゥーニャが兄と最後に別れてもどったとき、母はもうすっかり病におかされて、燃えるような顔をして、うわごとを口走っていた。その晩彼女は、母に兄のことをうるさく聞かれたらどう返事をしようかと、ラズミーヒンと相談して、ラスコーリニコフはある人の依頼を受けて、ロシアの国境に近い、ある遠いところへ旅立つことになった、そしてそのしごとが、やがて、彼に富と名声を得させることになるはずだ、というものがたりをいっしょに作り上げたほどだった。ところがおどろいたことに、そのときも、その後も、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはそのことは何一つ聞こうとしなかった。それどころか、彼女自身が息子のとつぜんの出発についての一つのものがたりを作り上げていたのだった。彼女は息子が別れに来た様子を、涙ながらに語った。そして彼女しか知らない重大な秘密がたくさんあることや、ロージャには多くの強い敵があるために、一時身をかくさなければならないのだということを、それとなくほのめかした。彼の未来についても、いくつかの好ましくない事情がすんでしまえば、きっと輝かしいものになるにちがいない、と思いこんでいた。そして彼女は、息子はいずれは国家的な人物になるだろう、あの論文と輝かしい文学の才能がりっぱにそれを保証している、としつこくラズミーヒンに説き聞かせるのだった。その論文を彼女はたえず読んでいた。ときには声を出して読むことさえあった。手にもったまま寝てしまうこともあった。だがそれでも、ロージャがいまどこにいるのかということは、ほとんど聞こうとしなかった。露骨にその話を避けるようにしていたから、それだけでも彼女に疑心を起させるには十分だったが、彼女はそれだけは聞こうとしなかった。しまいには彼らのほうが、いくつかの点については絶対に語ろうとしない、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナのこの異様な沈黙が、不安になってきた。たとえば、彼女が以前故郷の町に住んでいた頃は、早く愛するロージャから手紙が来るようにと、その望みと期待だけを生《い》き甲斐《がい》にしていたのに、いまは手紙が来《こ》ないことをこぼしもしないことだった。このことはあまりにも不可解で、ドゥーニャをひどく不安にした。もしかしたら、母は息子の運命に何か恐ろしいことを予感していて、それよりももっと恐ろしいことを知らされはしないかと、聞くのをおそれているのではあるまいか、ドゥーニャはこんなことも考えてみた。いずれにしても、ドゥーニャは母の頭が健康な状態でないことを、はっきりと知ったのである。
しかし、二度ほど母のほうから、返事をすれば、どうしてもいまロージャがどこにいるのかということにふれなければならないように、話をもっていったことがあった。そして返事が当然のこととしてやむなく的を外れたうやむやなものとなってしまったとき、母は急にひどく悲しそうな暗い顔になって、黙りこんでしまい、この状態がかなり長い間つづいた。ドゥーニャは結局、欺《だま》したり、作りごとを言ったりするのは難かしいとさとって、こうした問題についてはぜったいに沈黙を守っていたほうがいい、という最後の結論に達した。しかし母が何か恐ろしいことを疑っていることは、しだいにはっきりして、動かせないものになってきた。わけてもドゥーニャは、あの最後の運命の日の前夜、スヴィドリガイロフとあんなことがあったあとで、彼女がうなされているのを母が聞いた、という兄の言葉を思い出した。母にそのとき何か聞かれたのではあるまいか? ときどき何日か、あるいは一週間も、不《ふ》機《き》嫌《げん》な暗い沈黙と、黙って泣いている日がつづいたと思うと、病人は急にヒステリックにはしゃぎ出し、だしぬけに息子のことや、自分の望みや未来のことなどを、ほとんど口を休めずにしゃべり出すことがあった……空想がときにはひどく奇妙なものになった。二人は慰めたり、相槌《あいづち》をうったりした。母は、二人がただ気休めに相槌をうったり、慰めたりしていることは、はっきり承知していたらしいが、それでもやはりしゃべりつづけるのだった……
犯人が自首してから五カ月後に判決が下された。ラズミーヒンは許されるかぎり、監獄に彼を訪ねた。ソーニャも同じだった。とうとう、別れるときが来た。ドゥーニャはこの別れが永遠のものでないことを、兄に誓った。ラズミーヒンも誓った。ラズミーヒンの若い情熱に燃える頭には、この三、四年の間にできるだけ、せめて将来の生活の基礎だけでも作り、わずかでも金を貯《たくわ》え、そしてどこを見ても土地が豊かで、強盗も、人間も、資本も少ないシベリアへ行こう、という案がしっかりとかたまった。シベリアへ行って、ロージャのいる同じ町に住み、そして……みんなでいっしょに新しい生活をはじめよう。別れるとき、みんな泣いた。ラスコーリニコフはこの二、三日ひどく考えこんでいることが多くなり、母のことを根掘り葉掘り尋ねて、たえず母の身を案じていた。あまり気に病むので、ドゥーニャは不安になったほどだった。母の病気の様子を詳しく聞かされてからは、彼はますます憂欝《ゆううつ》そうになった。監獄にいる間中、彼はソーニャとはどういうわけかあまり話したがらなかった。ソーニャはスヴィドリガイロフがのこしてくれた金で、もうとうに、彼もまじる囚人たちの護送班について出発する準備をおわっていた。このことについては彼女とラスコーリニコフの間に一言も交わされなかった。しかしそうなることは、二人とも知っていた。いよいよ最後の別れのとき、出獄後の二人の幸福な未来を祈る妹とラズミーヒンの熱心な言葉に対して、彼は奇妙な笑いをうかべて、母の病気が間もなく不幸な結果に終るだろうと、予言したのだった。彼とソーニャは、ついに、発《た》って行った。
二月《ふたつき》後《ご》にドゥーネチカはラズミーヒンと結婚した。結婚式はさびしい、ひっそりしたものだった。だが、招かれた人々の中には、ポルフィーリイ・ペトローヴィチとゾシーモフもまじっていた。この頃のラズミーヒンにはかたく決意した人間らしい様子があった。ドゥーニャは彼が自分の意図をすっかり実行することを、盲目的に信じていたし、それに信じないではいられなかった。この男には鉄の意志が見られた。しかも、彼は大学を卒業するために、また講義を聞きに通いはじめた。二人はたえず未来のプランを話し合った。彼らは五年後には確実にシベリアへ移住できると、かたい計算を立てていた。それまでは向うにいるソーニャが頼みだった……
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは娘とラズミーヒンの結婚を喜んで祝福した。しかしその結婚後は、それまでよりもいっそう憂欝そうで、ますます心配そうな様子になった。彼女の気分をすこしでも引き立てようと思って、ラズミーヒンは、わざわざ、学生とその病身の老父の話や、ロージャが自分は火傷をし、そのために身体《からだ》までこわしながら、去年二人の子供を死から救ったという話を、彼女に聞かせた。この二つの話は、そうでなくても頭のみだれているプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナを、泣き出さないばかりに感激させた。彼女はたえずその話ばかりして、往来でまでその話をはじめるようになった(ドゥーニャがいつもそばについていたのに)。乗合馬車の中でも、店先でも、彼女は誰彼《だれかれ》かまわずつかまえては、話を自分の息子や、息子の論文へもっていき、息子が学生を援助したことや、火事で火傷をしたことなどを話しだすのだった。ドゥーネチカは母をどうおさえたらいいのか、途方に暮れるほどだった。このように病的にたかぶった気分も危険にはちがいないが、それよりも恐ろしかったのは、誰かがこの間の裁判事件でラスコーリニコフという名前をおぼえていて、それを言い出しはしないかということだった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは火事の中から救われた二人の子供の母親の居所まで聞き出して、どうしてもそこへ訪ねて行きたいと言い出した。とうとう、彼女の不安は限界にまで達した。彼女はときどき急に泣き出したり、しょっちゅう寝込んだり、熱にうかされたりするようになった。ある朝、彼女はいきなり、自分の計算だとロージャは間もなくもどるはずだ、と言い出した。別れるとき、ロージャが自分で十カ月後に待っていてくださいと言ったのを、はっきりおぼえているというのである。そして家の中をすっかり片付けて、迎える支度をはじめ、彼にきめた部屋(自分の部屋だが)の飾り付けにとりかかって、家具を拭《ふ》いたり、床を洗ったり、新しいカーテンをかけたり、しきりにばたばたしはじめた。ドゥーニャははッとしたが、何も言わないで、かえって兄を迎えるための部屋飾りを手伝ってやった。たえず空想したり、嬉《うれ》しい幻を見て涙を流したりして、落ち着かない一日がすぎると、その夜彼女は病みついて、朝にはもうひどい熱が出て、うわごとを言うようになった。熱病がはじまったのである。三週間後に彼女は死んだ。熱にうかされて口走った言葉から、彼女ははたで考えていたよりもはるかに多く、息子のおそろしい運命を察知していたことがわかった。
ラスコーリニコフは、シベリアに落ち着いた当初からペテルブルグとの通信が行われてはいたが、それでも長い間母の死を知らなかった。通信はソーニャを通じて行われていた。彼女は毎月きちんとペテルブルグのラズミーヒン宛《あて》に手紙を送り、毎月きちんとペテルブルグから返事を受け取っていた。ソーニャの手紙がはじめのうちはドゥーニャとラズミーヒンにはなんとなく素気《そっけ》ないようで、もの足りない気がした。しかしそのうちに二人とも、これよりうまくは書けないことがわかった。なぜならこれらの手紙から、結果としては、やはり彼らの不幸な兄の生活の模様がもっとも完全に正確に受け取られたからであった。ソーニャの手紙はごくありふれた日常のこと、ラスコーリニコフの獄中生活の周囲のごく簡単で明瞭な描写でみたされていた。そこには彼女自身の希望も書いてなければ、未来の予想も、自分の気持も書いてなかった。彼の心境とか、なべて彼の内的生活の解明をこころみる代りに、そこには事実だけが、つまり彼自身の言葉や、彼の健康状態の詳しい知らせや、いついつ会ったときこういうことを望んでいたとか、こういうことを頼んだとか、こういうことを話したとか、そういうことだけが書いてあった。これらの報告はびっくりするほど詳細だった。結局、不幸な兄の姿がひとりでに浮き出してきて、正確に明瞭に描き出された。そこにはまちがいのあろうはずがなかった。なぜならすべてが正確な事実だからである。
しかしドゥーニャとその良人《おっと》はこれらの知らせから、特にはじめのうちは、あまり喜びを汲《く》みとることができなかった。ソーニャはたえず、彼がいつも気むずかしくて、あまりしゃべりたがらず、そして手紙をもらうたびに伝える知らせにも少しの関心も示してくれない、と知らせてきた。また、彼がときどき母のことを聞くので、もうほんとうのことを察しているのだろうと思って、とうとう思いきって、母の死を知らせたところ、おどろいたことに、母の死の知らせさえ彼にはそれほど強くはこたえなかったらしい、外から見ただけでは少なくともそんなふうに思われた、とも書いていた。特に、彼は自分の中に沈みこんで、誰にも殻《から》をとざしているように見えるが、でも自分の新しい生活に対してはひじょうに率直で素直な態度をとっている。彼は自分の状態をはっきり理解していて、近い将来に何かいいことがあろうなどとは少しも期待していないし、軽薄な希望などはぜんぜんもっていない(彼の立場では当然のことだが)。これまでとは似ても似つかぬ新しい環境の中にいても、別に何にもおどろいている様子はない、とのことだった。彼女は彼の健康は心配がないと知らせてきた。彼は労働に通っているが、いやがりもしないし、無理にそれを願うというふうもない。食物にはほとんど無関心だが、ここの食物は、日曜と祭日以外は、あまりにもひどいので、とうとう彼は進んで彼女、つまりソーニャから少しばかりの金を受け取り、自分の監房で毎日茶を飲むことにした。そのほかのことについては、いろいろ気をつかわれるとかえって苛々《いらいら》するばかりだから、いっさい心配しないでほしいと彼女に頼んだ。更にソーニャは、彼の監房はみんなといっしょで、内部は見たことがないが、狭くて、汚なくて、身体によくないらしい、彼は毛布を一枚しいて板床の上に寝ているが、ほかに何も整えようとしない、と知らせてきた。しかし彼がこんなに見苦しく、貧しく暮しているのは、決して何かの偏見から生れたプランや意図によるものではなく、単に自分の運命に対する不注意と外面的な無関心によるもののようだ。ソーニャは正直にこんなことも書いていた。彼は、特にはじめのうちは、彼女が訪ねて行くことに関心を持たなかったばかりか、かえって腹を立てたりして、ろくに口もきかず、乱暴とさえ思われるような態度だったが、しまいにはこの面会が習慣になって、ほとんど要求のようなものにさえなり、彼女が二、三日病気で訪ねられなかったりすると、彼はひじょうにさびしがるようにまでなった。彼女は祭日ごとに監獄の門のそばか、哨舎《しょうしゃ》内で彼と会っていた。哨舎のときは、彼が呼ばれてわずか数分の面会が許された。平日には彼がしごとをしているところへ立ち寄って、作業場や、煉瓦《れんが》工場や、イルトゥイシュ河《か》畔《はん》の小舎《こや》などで会った。自分のことについてソーニャは、町に何軒かの知り合いや、相談にのってくれる親切な人々までできたことや、仕立物などをさせてもらっているが、町にはほとんど洋裁店らしいものがないので、方々の家で重宝がられていることなどを知らせてきた。ただ彼女の骨折りで、ラスコーリニコフも長官の保護を受け、労働が軽減されたというようなことだけは、知らせなかった。とうとう、よくない知らせがきた(ドゥーニャは最近の二、三通の手紙に何かいままでにない動揺と不安がでているのに気付いてはいたが)。彼はみんなを避けるので、獄舎内で囚人たちに嫌《きら》われるようになり、何日も何日も黙りこんでいて、顔色がひどく悪くなった、というのである。とつぜん、最後の手紙に、ソーニャは彼がひどく重い病気にかかり、監獄内の病院に収容されていると書いてよこした……
2
彼はもう長い間病臥《びょうが》していた。しかし彼をくじいたものは、獄中生活の恐ろしさでも、労働でも、食物でも、剃《そ》られた頭でも、ぼろぼろの服でもなかった。おお! こんな苦痛や苛責《かしゃく》が彼に何であったろう! それどころか、彼は労働を喜んだほどだ。労働で肉体を苦しめぬけば、少なくとも何時間かの安らかな眠りを得ることができた。また彼にとって食物が何であったか――油虫のういた実のないシチーが? かつて学生の頃《ころ》はそれすらないことがしばしばだった。彼の着ていたものはあたたかくて、彼の生活方法にあっていた。彼は足枷《あしかせ》などは感じもしなかった。剃られた頭と囚人服が恥ずかしかったのか? だが誰《だれ》に? ソーニャにか? ソーニャは彼を恐れていた、だからそのソーニャに対して彼が恥じる必要があったろうか?
では何だろう? 彼はソーニャにさえ恥ずかしかった。だから彼はさげすむような乱暴な態度で彼女を苦しめたのである。しかし剃られた頭や足枷を、彼は恥じたのではない。彼の自尊心がはげしく傷つけられたのである。彼が病気になったのも、傷つけられた自尊心のせいであった。ああ、自分で自分を罰することができたら、彼はどれほど幸福だったろう! そうしたら彼は恥辱であろうと屈辱であろうと、どんなことにでも堪えられたにちがいない! 彼はきびしく自分を裁いた、しかし彼の冷酷な良心は、誰にでもあるようなありふれた失敗《・・》を除いては、彼の過去に特に恐ろしい罪は何も見《み》出《いだ》さなかった。彼が恥じたのは、つまり、彼、ラスコーリニコフが、ある一つの愚かな運命の判決によって、愚かにも、耳も目もふさぎ、無意味に身を亡《ほろ》ぼしてしまい、そしていくらかでも安らぎを得ようと思えば、この判決の《無意味なばからしさ》のまえにおとなしく屈服しなければならぬ、ということであった。
現在は対象も目的もない不安、そして未来は何の実りももたらさぬ、たえまないむだな犠牲、――これがこの世で彼のまえにあるすべてだった。八年すぎてもまだやっと三十二だから、まだ生活のやり直しができるといったところで、それが何の慰めになろう! 何のために生きるのだ? 何を目標におくのだ? 何に突き進むのだ? 存在するために、生きるのか? だが彼はこれまでも、もう千回も、思想に、希望に、空想にまで、自分の存在を捧《ささ》げようとしたのではなかったか。一つの生命だけではいつも彼には足らなかった。彼はいつももっと多くの生命がほしかった。あるいは、自分の願望の強さだけから判断して、彼はあの頃、自分を他の人々よりも多くのものが許される人間であると考えたのかもしれない。
ああ、せめて運命が彼に悔恨をあたえてくれたら――心をひきちぎり、夢を追い払う、焼けつくような悔恨、その恐ろしい苦痛のために首《くび》吊《つ》り縄《なわ》や深淵《しんえん》が目先にちらつくような悔恨! おお、彼はそれをどれほど喜んだことだろう! 苦痛と涙――これも生活ではないか。しかし、彼は自分の罪に悔恨を感じなかった。
少なくとも彼はまえに自分を監獄にまで追いやった醜悪な愚劣きわまる行為にむしゃくしゃしたように、自分の愚かさに腹を立てることができるはずだった。ところがいま、獄に入れられて、自由になってみると《・・・・・・・・・》、彼は改めてこれまでの自分の行為をすっかり吟味し、考察してみたが、あの宿命の日に思われたほど愚劣で醜悪であるとは、どうしても思えなかった。
《どこが、どこがおれの思想は》と彼は考えた。《創世以来世の中にうようよとひしめき合っている無数の思想や理論よりも、愚劣だったのだ? ぜんぜん束縛されぬ、日常の影響から解放された広い目で、この事件を見さえすれば、もちろん、おれの思想は決してそれほど……おかしなものには見えない。おお、五コペイカ程度の値打ちしかない否定論者や賢者どもよ、なぜきさまらは中途《ちゅうと》半《はん》端《ぱ》なところに立ちどまっているのだ!》
《だが、なぜおれの行為が彼らにはそれほど醜悪に思えるのだろう?》と彼は自分に問いかけるのだった。《それが――悪事だからか? 悪事とはどういう意味だ? おれの良心は平静だ。もちろん、刑法上の犯罪が行われた。もちろん、法律の文字が破られ、血が流された。じゃ法律の文字の破損料としておれの首をとるがいい……それでいいじゃないか! だが、そうすれば、もちろん、権力を継承によらず自分の力で奪い取った多くの人類の恩人たちは、その第一歩において処刑されていなければならぬはずだ。しかしその人々は自分の一歩に堪えた、だから彼らは正しい《・・・・・・》のだ《・・》 。だがおれは堪えられなかった、だから、おれには自分にこの一歩を許す権利がなかったのだ》
この一事、つまり自分の一歩に堪えられずに、自首したという一点に、彼は自分の罪を認めていた。
彼は、どうしてあのとき自殺をしなかったのか? という問題にも苦しめられた。あのとき河の上に立ちながら、なぜ自首を選んだのか? 生きたいという願望の力がそれほど強く、克服がそれほど困難なものなのか? 死を恐れていたスヴィドリガイロフでさえ克服したではないか?
彼は苦しみながらしきりにこの疑問を解こうとしてみたが、もう河の上に立ったあのときに、自分自身と自分の信念の中に深い虚偽を予感していたのかもしれない、ということがわからなかった。彼は、この予感が彼の生活における未来の転換、彼の未来の更生、彼の未来の新しい人生観の前触れであったかもしれない、ということがわからなかった。
彼はむしろそこに本能のにぶく重い束縛だけを認めて、彼にはそれを断ち切る力がなかったし、それを踏み越えることは例によってできなかったのだと考えていた(自分が弱くつまらない人間であるために)。彼は仲間の囚人たちをながめて、びっくりした。彼らもみんなどれほど生活を愛し、そして尊重していたことだろう! たしかに、獄中にいるときのほうが自由な世間にいた頃よりも、もっともっと生活を愛し、大事にし、そしてもっともっと尊重しているように、彼には思われたのだった。彼らのある者、たとえば浮浪者たちなどは、どれほど恐ろしい苦痛や苛責に堪えてきたことだろう! 彼らにとってわずか一条の太陽の光線や、深い森や、どことも知れぬ茂みの中の冷たい泉などが、信じられないほどありがたいものなのだ。浮浪者たちは茂みの泉に二年もまえから目印をつけておいて、その泉に出会うことを、まるで恋人とでも会うように空想し、泉のまわりの緑の草、藪《やぶ》にさえずる小鳥などを夢にまで見るのだ。彼は更にながめているうちに、ますます説明のつかないいくつかの例にぶっつかった。
監獄内の彼の周囲には、彼の気がつかないことがたくさんあったことは、いうまでもないし、それに彼は見ようという気がまるでなかった。彼は目を伏せるようにして、暮していた。見るのが嫌《いや》で、堪えられなかったのである。ところがそのうちに多くのことが彼をおどろかすようになった。そして彼は、しぶしぶ、まえには考えもしなかったようなことに目を向けはじめた。中でももっとも彼をおどろかしたのは、彼と他のすべての囚人たちの間にある、踏みこえることのできない恐ろしい深淵だった。彼と彼らは人種がちがうようだった。彼と彼らは互いに不信の目で、敵意をもってにらみ合っていた。彼はこのような分裂の一般的な原因は知っていたし、理解もしていた。しかし彼はこの原因がこれほど深く根強いものだとは、これまで一度も考えたことがなかった。監獄内にはやはり流刑囚《るけいしゅう》としてポーランド人の政治犯たちもいた。彼らはこうした民衆たちを頭から無学な農奴ときめてかかって、軽蔑《けいべつ》していた。しかしラスコーリニコフはそんなふうに見ることができなかった。彼はこの無学な連中のほうが多くの点でそんなポーランド人たちよりもはるかに聡明《そうめい》であることを、はっきりとさとったのである。そこにはまた、やはりこの民衆を極度に軽蔑しているロシア人もいた――一人の元士官と二人の神学生だった。ラスコーリニコフは彼らのまちがいもはっきりと認めていた。
そういう彼自身が、みんなに好かれず、避けられていた。しまいには憎まれるようになった。なぜだろう? 彼にはそれがわからなかった。彼よりもはるかに重い罪を犯した連中が、彼をさげすみ、嘲笑《あざわら》い、彼の罪を笑うのだった。
「おめえは旦《だん》那《な》だよ!」と彼らは言った。「斧《おの》を持って歩きまわる柄《がら》かよ。旦那のすることじゃねえよ」
大斎《たいさい》期《き》の第二週に、同房の囚人たちといっしょに斎戒する番が彼にまわってきた。彼は囚人たちと教会へ祈りに通った。どういうことからか、彼は自分でもわからなかったが、――あるとき口論が持ち上がった。みんなが一時にものすごい剣幕で彼にくってかかった。
「この不信心者め! きさまは神を信じねえんだな!」と彼らはわめいた。「叩《たた》ッ殺してやる」
彼は神や信仰について一度も彼らと話をしたことがなかったのに、彼らは不信心者として彼を殺そうとした。彼は口をつぐんで、言葉を返そうとしなかった。一人の囚人がすっかり逆上してしまって彼にとびかかろうとした。ラスコーリニコフは黙ってしずかに彼に殴られるのを待っていた。眉《まゆ》がぴくりともせず、顔の筋肉一筋うごかなかった。看守が危うく彼と殺人犯の間にとびこんだが、さもなければ血が流れていたろう。
彼はもう一つの疑問が解決できなかった。なぜ彼らがあれほどソーニャを愛するようになったのか? 彼女が彼らの機《き》嫌《げん》をとったわけではなかった。彼らは彼女をたまにしか見なかったし、それも彼女がほんの一目彼に会いに作業場に来たようなとき、ちらと見るくらいだった。ところがもう誰でも彼女を知っていた。彼女が彼を追って《・・・》来たことも、どこにどんな暮しをしているかというようなことも、知っていた。彼女は彼らに金をやったわけでもないし、特別に何かしてやったわけでもなかった。一度だけ、クリスマスの日に、囚人全部にピローグと白パンの差入れを持ってきてやったことがあった。ところがしだいに彼らとソーニャの間にあるもっと親しい関係が結ばれていった。彼女は彼らのために家族への手紙を書いて、送ってやった。彼らの身内の者たちは、町へ来ると、彼らに言われて、彼らに渡す品物や金までソーニャにあずけていった。彼らの妻や恋人たちがソーニャのことを聞いて、訪ねてきた。そして彼女がラスコーリニコフに会いに作業場に行くか、あるいは作業に行く囚人たちと途中で出会ったりすると――みな帽子をとって会釈《えしゃく》をしながら、《やあ、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、おめえさんはおらたちのおふくろだよ、やさしい、思いやりの深いおふくろだよ!》と言うのだった。烙印《らくいん》を押された粗暴な囚人たちがこの小さな痩《や》せた女にこんなことを言うのである。彼女はにこにこ笑って会釈を返す、そして彼らはみな、彼女に笑ってもらうのが好きだった。彼らは彼女の歩く格好まで好きで、あとを振り返って、彼女が歩いて行く姿をながめては、口々にほめるのだった。彼女があんなに小柄だと言ってはほめ、もう何をほめてよいか、わからない有様だった。彼女のところへ病気を治《なお》してもらいに行く者さえあった。
彼は大斎期の終りから復活祭週いっぱい病院に寝ていた。もうよくなりかけた頃、彼は熱にうかされていた頃に見た夢を思い出した。彼は病気の間にこんな夢を見たのである。全世界が、アジアの奥地からヨーロッパにひろがっていくある恐ろしい、見たことも聞いたこともないような疫病《えきびょう》の犠牲になる運命になった。ごく少数のある選ばれた人々を除いては、全部死ななければならなかった。それは人体にとりつく微生物で、新しい旋毛虫のようなものだった。しかもこれらの微生物は知恵と意志を与えられた魔性《ましょう》だった。これにとりつかれた人々は、たちまち凶暴な狂人になった。しかも感染すると、かつて人々が一度も決して抱《いだ》いたことがないほどの強烈な自信をもって、自分は聡明で、自分の信念は正しいと思いこむようになるのである。自分の判決、自分の理論、自分の道徳上の信念、自分の信仰を、これほど絶対だと信じた人々は、かつてなかった。全村、全都市、全民族が感染して、狂人になった。すべての人々が不安におののき、互いに相手が理解できず、一人一人が自分だけが真理を知っていると考えて、他の人々を見ては苦しみ、自分の胸を殴りつけ、手をもみしだきながら泣いた。誰をどう裁いていいのか、わからなかったし、何を悪とし、何を善とするか、意見が一致しなかった。誰を有罪とし、誰を無罪とするか、わからなかった。人々はつまらないうらみで互いに殺し合った。互いに軍隊を集めたが、軍隊は行軍の途中で、とつぜん内輪もめが起った。列は乱れ、兵士たちは互いに躍りかかって、斬《き》り合《あ》い殴り合いをはじめ、噛《か》みつき、互いに相手の肉を食い合った。町々で警鐘を鳴らし、みんなを招集したが、誰が何のために呼び集めたのか、それが誰にもわからず、みんな不安におののいていた。めいめいが勝手な考えや改良案を持ち出して、意見がまとまらないので、ごくありふれた日常の手工業まで放棄されてしまって、農業だけがのこった。そちこちに人々がかたまり合って、何かで意見を合わせて、分裂しないことを誓い合ったが、――たちまち何かいま申し合せたこととまったくちがうことが持ち上がり、罪のなすり合いをはじめて、つかみ合ったり、斬り合ったりするのだった。火事が起り、饑《き》饉《きん》がはじまった。人も物ものこらず亡《ほろ》びてしまった。疫病は成長し、まますひろがっていった。全世界でこの災厄《さいやく》を逃れることができたのは、わずか数人の人々だった。それは新しい人種と新しい生活を創《つく》り、地上を更新し浄化する使命をおびた純粋な選ばれた人々だったが、誰もどこにもそれらの人々を見たことがなかったし、誰もそれらの人々の声や言葉を聞いた者はなかった。
このばかばかしい夢がこれほど悲しく苦しく彼の思い出の中にあとを引いていて、この熱病の悪夢の印象からいつまでもぬけきれないことが、ラスコーリニコフを苦しめた。もう復活祭後の第二週になっていた。あたたかい、明るい春の日がつづいた。監獄の病院でも窓が開けられた(鉄格《てつごう》子《し》の窓で、その下を見張りが歩いていた)。ソーニャは、彼の病気の間、わずか二度病院に見舞いに行っただけだった。一度ごとに許可をもらわなければならなかったし、それが容易なことではなかった。しかし彼女はよく、殊に日暮れどきなど、病院の庭に来て窓の下に立っていた、ときにはただちょっと庭に来て、遠くから病室の窓を見るだけで立ち去ることもあった。ある日の夕暮れ、もうほとんどよくなったラスコーリニコフは眠りからさめると、何気なく窓辺へ寄った。すると彼は思いがけなく、遠くの病院の門のそばにソーニャの姿を見た。彼女は佇《たたず》んで、何かを待っているふうだった。その瞬間彼は、何かが彼の心を貫いたような気がした。彼はぎくっとして、急いで窓をはなれた。次の日はソーニャは来《こ》なかった。その次の日も同じだった。彼は自分が心配しながら彼女を待っていることに気がついた。とうとう、彼は退院した。監房へもどると、彼は囚人たちからソーニャが病気になって、どこへも出ないで家にねていることを聞かされた。
彼はひじょうに心配して、使いの人に容態をきいてもらった。間もなく彼は、彼女の容態が危険なものでないことを知らされた。今度は、彼が自分のことをこんなにさびしがって心配してくれていることを知ると、ソーニャは鉛筆で書いた手紙を彼に送って、自分の病気は彼のよりもずっと軽く、ただのちょっとした風邪《かぜ》だから、間もなく、もうじき、作業場に会いに行けるでしょう、と知らせた。
また明るいあたたかい日だった。早朝六時頃、彼は河岸《かし》の作業場に出かけた。そこの小《こ》舎《や》には雪《せっ》花《か》石膏《せっこう》を焼くかまどがあって、それを焼くのが彼らの作業だった。いっしょに出かけたのは全部で三人だった。囚人の一人は看守を連れて、要塞《ようさい》に何かの道具をとりに行った。もう一人は薪《まき》を用意して、かまどの中に並べはじめた。ラスコーリニコフは小舎から河岸へ出て、小舎のそばに積んである丸太に腰を下ろし、荒涼とした大河の流れをながめはじめた。高い岸からは周囲の広々とした眺望《ちょうぼう》がひらけていた。遠い向う岸から歌声がかすかに流れてきた。その向うには、あふれるほどに陽光をあびたはてしない曠《こう》野《や》に、見えないほどの黒い点々となって遊牧民の天幕がちらばっていた。そこには自由があった、そしてこちらとはぜんぜんちがう別な人々が住んでいた。そこでは時間そのものが停止して、まるでアブラハムとその畜群の時代がまだ過ぎていないようであった。ラスコーリニコフは腰を下ろしたまま、目をはなさずに、じっとながめていた。彼の想念は幻想へ、そして観照へと移っていった。彼は何も考えなかったが、何ものとも知れぬ憂愁が彼の心を波立て、苦しめるのだった。
不意に彼のそばにソーニャがあらわれた。彼女は足音を殺してそっと近よると、彼のよこに腰を下ろした。まだひじょうに早く、朝の冷たさがまだやわらいでいなかった。彼女は古いみすぼらしい外套《がいとう》を着て、緑色のショールをかぶっていた。顔にはまだ病後のやつれがのこっていて、痩せて、蒼白《あおじろ》く、頬《ほお》がこけていた。彼女は愛想よく嬉《うれ》しそうに、にっこり彼に微笑《ほほえ》みかけたが、いつもの癖で、おずおずと手をさしのべた。
彼女はいつも彼におずおずと手をさしのべた。ときには払いのけられるのではないかとおそれるように、ぜんぜん手を出さないことさえあった。彼はいつもさも嫌《いや》そうにその手をとり、いつも怒ったような顔をして彼女を迎え、どうかすると、会ってもはじめから終りまでかたくなに黙りこんでいることもあった。彼女はすっかり彼におびえて、深い悲しみにしずみながらもどって行ったことも、何度かあった。しかしいまは二人の手は解けなかった。彼はちらと素早く彼女を見ると、何も言わないで、俯《うつむ》いてしまった。彼らは二人きりだった。誰も見ている者はなかった。看守はそのとき向うをむいていた。
どうしてそうなったか、彼は自分でもわからなかったが、不意に何ものかにつかまれて、彼女の足もとへ突きとばされたような気がした。彼は泣きながら、彼女の膝《ひざ》を抱きしめていた。最初の瞬間、彼女はびっくりしてしまって、顔が真《ま》っ蒼《さお》になった。彼女はぱっと立ち上がって、ぶるぶるふるえながら、彼を見つめた。だがすぐに、一瞬にして、彼女はすべてをさとった。彼女の両眼にははかり知れぬ幸福が輝きはじめた。彼が愛していることを、無限に彼女を愛していることを、そして、ついに、そのときが来たことを、彼女はさとった、もう疑う余地はなかった……
二人は何か言おうと思ったが、何も言えなかった。涙が目にいっぱいたまっていた。二人とも蒼ざめて、痩せていた。だがそのやつれた蒼白い顔にはもう新生活への更生、訪れようとする完全な復活の曙光《しょこう》が輝いていた。愛が二人をよみがえらせた。二人の心の中には互いに相手をよみがえらせる生命の限りない泉が秘められていたのだった。
二人はしんぼう強く待つことをきめた。彼らにはまだ七年の歳月がのこされていた。それまでにはどれほどの堪えがたい苦しみと、どれほどの限りない幸福があることだろう!だが、彼はよみがえった。そして彼はそれを、新たに生れ変った彼の全存在で感じていた。では彼女は――彼女は彼の生活をのみ自分の生きる糧《かて》としていたのだった!
その夜、監房の戸がもう閉ざされてから、ラスコーリニコフは板床に横になって、彼女のことを考えていた。その日は、彼の敵だったすべての囚人たちが、もう彼を別な目で見るようになったような気がした。彼は自分から話しかけてもみたし、彼らの返事にも親しさがあった。彼はいまそれを思い出した、しかしそうなるのが当然なのだ、いまこそすべてが変るはずではないのか?
彼は彼女のことを考えていた。彼はたえず彼女を苦しめ、彼女の心をさいなんだことを思い出した、彼女の蒼ざめた、痩せた顔を思い出した、だがいまはこれらの思い出もほとんど彼を苦しめなかった。彼は、自分がこれからどのような限りない愛で彼女のすべての苦しみを償おうとしているか、知っていたのである。
それにこのすべての、過去のすべての《・・・・》、苦しみがなんであろう! いっさいが、彼の罪でさえ、判決と流刑でさえ、いまはこの最初の感激で、外部の不思議なできごとのような気がして、何か他《ひ》人《と》事《ごと》のようにさえ思われるのだった。彼は、しかし、その夜は長くつづけて何かを考え、何かに考えを集中することができなかった。それに彼は意識の上では何も解決できなかったにちがいない。彼はただ感じていただけだった。弁証法の代りに生活が前面へ出てきた。そして当然意識の中にはぜんぜん別な何ものかが形成されるはずであった。
彼の枕《まくら》の下に福音書がおいてあった。彼はそれを無意識に手にとった。この福音書はソーニャのもので、いつか彼女がラザロの復活を読んでくれたあの本だった。この監獄へ来た当時、彼は、彼女が宗教で悩まし、福音書の話をもち出して、彼に本を押しつけるものと思っていた。ところが、おどろいたことに、彼女は一度もそれを口にしないばかりか、福音書をすすめたことさえなかった。病気になる少しまえに彼のほうから頼んで、彼女が黙ってそれを持って来てくれたのである。彼はまだそれを開けて見もしなかった。
彼はいまもそれを開きはしなかったが、一つの考えがちらと頭にうかんだ。《いまは、彼女の信念がおれの信念でないなんて、そんなことがあり得ようか? 少なくとも彼女の感情、彼女の渇望《かつぼう》は……》
彼女もこの日は一日興奮していた。そして夜更《よふ》けにまた風邪をぶりかえしたほどだった。しかし彼女はあまりに幸福すぎて、自分の幸福が恐《こわ》いような気がした。七年、たった《・・・》七年! 自分たちの幸福のはじめ頃、ときどき、二人はこの七年を七日と思いたいような気持になった! 彼は、新しい生活が無償で得られるものではなく、もっともっと高価なもので、それは今後の大きな献身的行為であがなわれなければならぬことに、気がついていないほどだった……
しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。一人の人間がしだいに更生していくものがたり、その人間がしだいに生れ変り、一つの世界から他の世界へしだいに移って行き、これまでまったく知らなかった新しい現実を知るものがたりである。これは新しい作品のテーマになり得るであろうが、――このものがたりはこれで終った。
解説
工藤精一郎
ドストエフスキー 人と作品
ドストエフスキーは、トルストイと並んで一九世紀のロシア・リアリズム文学の最高峰であり、ロシアが世界に誇る大作家である。トルストイが現実の客観的描写を重視したのに対して、ドストエフスキーは文学は人間の研究であるとして、主観的色彩の濃い独自の文学心理的リアリズムを創造し、近代文学にひとつの道を開いた。
彼は一八二一年にモスクワのマリア貧民病院の官舎で医師ミハイルの次男として生まれた。母は商家の出で、気立てのやさしい、信仰心の篤《あつ》い女だったが、父は気むずかしい癇《かん》癪《しゃく》もちで、子供たちには厳しかった。家長制度、厳格な規律、宗教的かつ因襲的な生活は、小貴族というよりは、むしろ商人階級の生活だった。
彼は十歳まではモスクワを離れたことがなく、兄ミハイルと薄暗い玄関脇《わき》の部屋で過した。十歳の時両親がトゥーラ県のダロヴォエに小さな農園を買い、母と子供たちは夏をここで過すことになった。そこが子供たちにとっては閉ざされたモスクワの生活からの解放であり、父の厳しい支配からの解放であった。そしてドストエフスキーにとっては、これが田園生活の最初のものであり、最後のものとなった。近所の子供たちと遊ぶことを禁じられていた彼は、十二歳頃《ごろ》の夏ここでスコットの作品に少年の夢をふくらませた。
一八三四年、兄ミハイルと彼は当時の有名私塾チェルマーク寄宿学校にやられ、一日八時間授業の厳しい生活を三年間送らされた。ここでも彼はほとんど友だちをつくらず、自分の片隅《かたすみ》をつくり、兄と二人だけで過した。そのためにこの兄弟の愛は異常なまでに強まり、一卵性双生児といわれるまでに至った。一八三七年、彼が十五歳の時に母が死んだ。その頃モスクワはプーシキンの血闘と死の噂《うわさ》でもちきりになっていて、兄弟は母の死よりも、プーシキンの死に強い衝撃を受けたほどだった。
翌一八三八年彼はペテルブルグの陸軍工科学校へやられたが、ここでも学校の明るい面の生活を避けて、宿舎の暗い片隅で読書に耽ったり、少数の気の合った友だちと人生問題を論じたりしていた。当時のロシア文学界はロマン主義の熱病にとりつかれていた。彼はモスクワにいた頃からスコットとプーシキンを耽読《たんどく》していたが、ペテルブルグでは父の知人でロマン派詩人のシドロフスキーの影響を受けて、シェークスピア、ホフマン、シラー、バルザックに熱中し、後にはゴーゴリを絶賛し、自分でもプーシキン風の『ボリス・ゴドゥノフ』とシラー風の『マリア・スチュアート』の二つの詩劇を書いた。彼は卒業後陸軍中尉として工兵局に勤めたが、一年足らずで退職し、文学活動に専念することになった。彼の最初の出版はバルザックの『ウジェニー・グランデ』の翻訳である。
彼の文壇へのデヴューは稀《まれ》に見る華々しいものだった。一八四六年の『貧しき人々』によって彼は一夜にして文壇の寵児《ちょうじ》になった。彼はこの書簡体の小説で貧しい老官吏と薄幸の少女の不幸な恋を物語りながら、社会の陽《ひ》のあたらぬ片隅に住む無力な人々の孤独と屈辱を訴え、彼らの人間的自負と社会的卑屈さの心理的相克をえぐり出した。当時の批評界の大御所ベリンスキーは、ゴーゴリの『外套《がいとう》』につらなる写実的ヒューマニズムの傑作として絶賛した。この成功によって彼の前に方々の文学サロンの扉《とびら》が開かれ、ツルゲーネフなどの有名作家と交際することになったが、病的なまでに強い自意識と非社交性と抑制のきかぬロシア的性質が、激励を追従、友情を傾倒ととらせ、文壇が自分の足下にひれ伏したと思い上がらせた。このために彼は「文学の吹出物」という綽名《あだな》をつけられ、かげで嘲笑《ちょうしょう》された。編集者は彼を雑誌につなぎとめておくために前貸しし、借金のために書くという苦しい生活がはじまった。こうした中で彼は『分身』『家主の妻』『白夜』など十数編の作品を発表したが、ベリンスキーはそこに異常心理への病的な関心とリアリズムからの逸脱を見て手きびしく批判した。彼はベリンスキー派を離れて、フーリエの空想社会主義を信奉する革命思想家ペトラシェフスキーのサークルに加わった。一八四八年のフランスの二月革命に怯《おび》えた当局は、一八四九年四月このサークル員たちを一斉《いっせい》検挙した。当局は見せしめのために残酷な死刑執行の芝居を演出した。銃殺の寸前に、皇帝の特赦と称して実際の判決を示したのである。彼はシベリア流刑となり、クリスマスの夜に馬《ば》橇《そり》に乗せられてペテルブルグを発《た》ち、シベリアへ向った。
彼は吹雪の中のウラル越えなど言語に絶する苦しい二カ月の旅ののちにオムスク監獄に着いた。この監獄での四年間については、亡《ほろ》び去った民衆に関する覚書《おぼえがき》と彼がいう体験的小説『死の家の記録』に詳しく述べられている。この獄中で、囚人たちにかこまれて、長い苦しい内省ののちに、空想社会主義者からキリスト者へと、彼の内部で価値の転換が行われたのである。
一八五四年彼は刑期を終えて、中央アジアのセミパラチンスクの守備隊に一兵卒として送られた。読むものは聖書一冊しかなかった監獄生活に比べて、ここの生活は大きな救いだった。彼はここでシベリアの地方都市の生活に取材した『伯父様の夢』と『ステパンチコヴォ村とその住人』を書いた、この時期に彼は人妻マリア・イサーエワに「わが人生航路で出会った神の使者」と称して熱烈に恋し、夫の死後一八五七年二月に結婚した。しかしこの結婚は彼に苦しみをあたえただけだった。
一八五九年彼はやっとペテルブルグに帰ることができた。クリスマスの晩に馬橇で発ってから十年の歳月が流れていた。今はアレクサンドル二世の治世に入り、農奴解放を間近にひかえて、改革の新たな時代が始まろうとしており、国民精神が昂揚《こうよう》していた。彼は処女作以来の人道主義を基調としたメロドラマ風の作品『虐《しいた》げられた人々』、つづいて『死の家の記録』を発表した。これは西欧派からはシベリア監獄の写実的な暴露として、スラヴ派からはロシア民衆に対する信頼のために、高く評価された。彼は兄ミハイルと共に雑誌『時代』を発行し、西欧派とスラヴ派のいずれにも与《くみ》せず、教育ある社会と民衆の結合を説き、いわゆる土壌主義を唱えた。彼は政治犯としての十年の流刑生活で、四十にもならぬのに疲れ果てた老人のような外貌《がいぼう》に変り、頻発《ひんぱつ》する癲癇《てんかん》の発作に悩まされながら、芸術家の至高の義務は政治的・道徳的な指導性であるとする自分の主張に異常なまでの情熱を見せ、急進的な青年読者層に熱狂的に迎えられた。
彼は一八六二年の六月から八月末までかねてからの願望であった外国旅行を実現した。ロンドンでゲルツェンを訪ね、ジュネーヴでストラーホフに会い、イタリー各地をまわったが、あまり感激も興味もおぼえなかった。帰国後まもなく旅行記『夏象冬記』を発表した。一八六三年初めのポーランド蜂《ほう》起《き》に関連して雑誌『時代』は発行停止処分を受けた。これは彼にとって大きな打撃だったが、この頃彼は当時のロシアの典型的な新しい女性ポーリナ(アポリナーリヤ・スースロワ)と熱烈な恋に落ちていて、雑誌復刊に狂奔する兄を残して、彼女を追って欧州へ旅立った。彼はポーリナに翻弄《ほんろう》され、ヴィスバーデンの賭《と》博場《ばくじょう》で一切を失い、心身ともに疲れ果ててペテルブルグにもどってきた。しかし彼はポーリナによって愛と憎《ぞう》悪《お》がいかに微妙に織りなされているかを教えられ、また残虐と苦痛の渇望《かつぼう》が性的衝動の交互的なあらわれであることを悟らされたのだった。
週に二度も発作を起す弱りきった彼を待っていたものは、肺病の妻の死と、連れ子の目にあまる放蕩《ほうとう》と、兄がやっと発行した『世紀』の倒産と、兄の死と、兄の遺族たちの扶養と、莫大《ばくだい》な借金だった。この苦しい状態の中で、彼は理性による社会改造の可能性を否定し、人間の本性は非合理的なものであると訴える、彼の転機を示す重要な作品『地下室の手記』を書き上げ、二つの恋愛事件を起している。流浪と淪落の数奇な運命をたどったマルタ・ブラウンとの恋と、二十歳の文学少女アンナ・クルコフスカヤとの恋であるが、いずれも結婚には至らず、失敗に終っている。
彼はこの苦しいペテルブルグの生活から逃れようとして、ある出版社と身を売るような無謀な契約をして、ようやく三千ルーブリの前借りをすることができた。そして彼は急場の借金を整理してヴィスバーデンに急ぎ、ポーリナと落合った。しかし彼はわずか五日で賭博ですっかりすってしまい、ポーリナには去られ、宿では食事をとめられた。こうした八方ふさがりの中で彼は方々に金を無心して辛うじて急場をしのぎながら、『罪と罰』の執筆に着手した。十月に友人の助けでやっとヴィスバーデンを離れて、ペテルブルグにもどることができた。そして他の作家なら発狂しそうな追いつめられた生活条件の中で『罪と罰』は一八六六年一月から雑誌『ロシア報知』連載が開始され(『戦争と平和』第一回と同時)、十二月に完結した。その間出版社と約束した長編は、破滅のどたん場で速記者アンナ・スニートキナの協力でわずか二十六日間で書き上げることができた。この作品が『賭博者』である。
これが機縁となって、一八六七年二月アンナは彼の二度目の妻となった。そして四月彼は債権者の執拗《しつよう》な追及を逃れ、落着いて創作に没頭するために、妻といっしょに外国へ旅立った。しかしまたすぐに賭博場に入りびたって一切を失っては、妻の足もとにひれ伏して泣くというような生活がつづき、最初の子を死なせるという悲運にも会った。しかし書かなければ国に帰れないし、多勢の扶養家族を養うことができない。彼は創作意欲を奮い立たせて、四年半の外国滞在の間に『白痴』と『永遠の良人《おっと》』を書き上げ、『偉大な罪人の生涯《しょうがい》』のノートをとり、『悪霊《あくりょう》』の最初の数章を書いた。ネチャーエフ事件に着想を得て、革命家とニヒリストを攻撃した『悪霊』ははげしい論争を招いた。
一八七一年七月ドストエフスキー夫妻はペテルブルグに帰った。これから死までの十年間は、ドストエフスキーの波《は》瀾《らん》に富んだ生活も漸《ようや》くおさまり、生涯でもっとも平穏で正常な時期であった。妻の事務的手腕によって、彼は金銭上のわずらわしさから離れ、執筆生活に落着くことができた。一八七二年十二月に『悪霊』が完結した。一八七〇年代には彼の一流作家としての盛名が国の内外にとどろきわたり、一八七五年には彼の作品系列からはいささか外れる長編『未成年』を発表した。一八七六年から月刊個人雑誌『作家の日記』を発表しはじめた。そして一八七九年には彼の思想の総決算ともいうべき重要な作品『カラマーゾフの兄弟』を発表した。
ドストエフスキーの生涯の最後を飾る花道は、一八八〇年六月のプーシキン記念碑除幕式における彼の講演である。彼はロシアの偉大な運命と、人類の世界的結合に果たすロシアの使命に対する信念を述べ、熱狂的な大喝《だいかっ》采《さい》をあびた。ロシアの人々は彼が真の国民的作家であり、比類のない芸術家であることをあらためて認識したのである。彼は一八八一年一月二十八日に死んだ。宿痾《しゅくあ》の肺《はい》気《き》腫《しゅ》の悪化によるものと思われるが、死因は明らかでない。遺《い》骸《がい》はペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー寺院に葬《ほうむ》られた。
『罪と罰』について
これはいろんな要素をもつ作品である。まず推理小説的な要素。これは犯人ラスコーリニコフと予審判事ポルフィーリイの知的対決という形をとる。犯人は読者にはわかっており、それを予審判事が追いつめてゆくという『刑事コロンボ』の原図である。対決は三度あり、緊迫した腹の探り合いの場面がくりひろげられる。次に社会風俗画的な要素。この小説の主人公はペテルブルグであるという社会学者もいるほどで、一八六〇年代の夏のペテルブルグの下町の様子とそこに住む人々の風俗がリアルに描かれ、その面からも貴重な資料となっている。更に愛の小説の要素。これは殺人犯ラスコーリニコフと聖なる娼婦《しょうふ》ソーニャの、愛を奥底に秘めた、信念の対決という形をとる。更に絶望的ニヒリスト、スヴィドリガイロフと、ラスコーリニコフの妹ドゥーニャの愛憎、微妙な心理の葛藤《かっとう》もある。次に当然のことながら思想小説の要素である。こうしていろんな読み方ができるために、読み進むうちに異常な熱気に感染し、ひきこまれて読み終ると、思わず考えこませられてしまう。これはそういう小説である。
構成。はじめに言葉ありきで、これは作品の途中で明らかにされるのだが、まずラスコーリニコフの理論がある。これは人類は凡人と非凡人に大別され、大多数は凡人で現行秩序に服従する義務があるが、選ばれた少数の非凡人は人類の進歩のために新しい秩序をつくる人人で、そのために現行秩序を踏みこえる権利をもつというのである。この理論にしたがってラスコーリニコフは、終極的に人類の福祉に貢献するならば、しらみのような金貸しの老婆を殺すことぐらい罪ではない、自分にはその権利があると妄信《もうしん》する。しかし理論だけでは殺人はできない。彼を殺人に追いつめるいくつかの要因が重なる。彼の病気と孤独、社会の不正の化身のような酔いどれマルメラードフ一家のものがたり、妹の犠牲的結婚を知らせる母の手紙、良心の最後の抵抗といえる少年の日の馬の夢、そしてそれも空《むな》しく帰途はじめて通った横町で偶然に耳にした古着商人と老婆の妹の会話、これが決定的となって彼は何者かの見えない力によって殺人の決行へと追いこまれてゆく。そして偶然の重なり合いによって完全犯罪に近い殺人を犯す。これが第一部である。あとの五部とエピローグは彼の闘いと苦悩のものがたりである。これは先述の知的対決、信念の対決、すこしおくれてスヴィドリガイロフとの対決の三つの線が同時進行の形でものがたりは展開される。
知的対決。予審判事ポルフィーリイは論理的で直感力が鋭く、賢明で狡猾《こうかつ》、慎重で大胆、冷笑的で相手をじらしながら相手の失言を誘い出すというタイプである。彼は辛抱強く偶然的な些《さ》細《さい》なことの中に意味をさぐり、捜査の輪をしぼってゆき、ここぞという瞬間に決定的な打撃を加えようとする。ラスコーリニコフの警察署での失神、部下ザミョートフとの対話、ラスコーリニコフの書いた犯罪論の末尾の凡人・非凡人論、殺人現場の訪問、町人の密告など、心証はあるのだが、肝心の物証がない。ラスコーリニコフを犯人と確信する彼は結局自白をすすめる。この対決は引分けに終るが、ラスコーリニコフ敗北の一つの要因になった。
信念の対決。予審判事ポルフィーリイとの知的対決からラスコーリニコフの思想の輪廓《りんかく》が推察される。それは理論によって正当化された殺人によって金を獲得し、その金によって権力を握る。権力によって新しいエルサレムをつくり、民衆を幸福にしてやる。つまり殺人は権力掌握の手段であり、目的は新しいエルサレム、つまり空想社会主義のファランステールをつくることである。ソーニャの信念とは何か。彼女は国家宗教である正教を信じない。ソーニャが娼婦《しょうふ》になったために追われて移った仕立屋カペルナウモフの家が彼女の信仰の秘密を語ってくれる。この奇妙な姓は、キリストが故郷ナザレを追われて移り住み、「自分の町」と呼んで布教活動をしたガリラヤ湖西岸のカペナウムからとられたと考えられる。ソーニャはカペナウムの人々と同じ信仰、つまり支配者たちの国家宗教に転ずる以前の貧しき者、病める者、不幸な女や子供たちを救ってくれるキリスト教を信じたのである。ソーニャは一度死んだ、自分の意志で自分を殺した、だが「ラザロの復活」を信じることによって、キリストに生命をあたえられた、だからキリストの教え、愛による救いをひろめることが、自分の生きる道であると素《そ》朴《ぼく》に信じた。「ラザロの復活」朗読の場面で、ラスコーリニコフはソーニャの秘密を見ぬいた。愛と自己犠牲によって身近の人間を自分の道へひきこみ、自分のまわりに正義を広める。ソーニャが無意識に目ざしていた理想社会は富も権力もない兄弟愛の世界である。二人は逆方向から同じ目的を目ざしていたのである。彼は唯《ただ》一人《ひとり》の道連れであるソーニャ、自分が救わねばならぬ哀れな人々のシンボルであるソーニャを失うことはできない。彼はソーニャの愛に負けて、自白する。そしてシベリアの流刑地で、囚人たちの間に身をおいて、ついにソーニャの信念に負けるのである。
スヴィドリガイロフは現在を否定し、未来に展望をもたぬ絶望的なニヒリストである。悪徳の化身のようなこの男は、われわれは同じ木から落ちたりんごだ、ただあなたにはシラーの残りかすがくっついてるだけだ、とラスコーリニコフを嘲《あざけ》る。ラスコーリニコフはこの男に自分の思想の反映を見て動揺する。彼を人間にもどすことができるのはドゥーニャの愛だけだが、彼はこの愛に破れ、女心の微妙な揺れに一瞬人間の心をとりもどして、彼女を解放する、そして心はまた真の闇《やみ》にとざされてしまう。それはもはや死である。彼は拳銃《けんじゅう》自殺する。ニヒリズムの行き着く先が暗示される。
この作品は、思想による殺人者の告白、一人称の小説として構想された。出獄後の兄や友人たちへの手紙に「告白」についての知らせが何度も出てくる。生涯《しょうがい》の代表作、文壇復帰を決定させる作品となるはずで、ロシアへ帰って自分の目で社会の状況をたしかめてからじっくり取組みたいと書いている。獄中で構想が芽生えたことはこれらの手紙からもうかがえる。ペトラシェフスキー会員の頃《ころ》、彼は過激な仲間と七人組の秘密結社をつくった。そして農奴解放を語り合った際、宣伝と啓蒙《けいもう》を主張したが、もし暴力による蜂《ほう》起《き》以外に手段がなかったらと問われて、その手段によってもだとはっきり言明している。思想による殺人を決意したのである。これを実現しなかったのは、逮捕という偶然の結果にすぎない。彼は獄中で内省の長い苦しい時間をもち、自分のこれまでの生活と思想を再点検した。こう見てくると、これはどうしても書かなければならなかった作品で、彼の前半生の総括といえよう。
トルストイとドストエフスキーの両巨匠は、一八六〇年代の改革に浮かれさわぐ若い世代に、いかにも両者らしいやり方で警告をあたえた。トルストイは『戦争と平和』でロシアのあるべき理想の姿を教え、ドストエフスキーは『罪と罰』で人間の本性を忘れた理性だけによる改革が人間を破滅させることを説いたのである。
一九八七年四月
年譜
一八二一年(文政四年)十月三十日(新暦十一月十一日)、モスクワのマリヤ貧民施療病院の官舎(現在はドストエフスキー博物館)に、同病院の医師ミハイル・アンドレーヴィチの次男として生れた。母マリヤ・フョードロヴナはモスクワの商家の出。兄ミハイルは一八二〇年生れ。
一八三一年(天保二年)十歳 父がトゥーラ県にダロヴォエ、チェルマシニャ両村からなる領地を購入、夏、作家はここを訪れ、『百姓マレイ』のエピソードを体験。シラーの『群盗』の芝居に感銘。
一八三三年(天保四年)十二歳 一月、兄とともにドラシューソフの塾に通いはじめる。
一八三四年(天保五年)十三歳 秋、文学教育で有名なモスクワのチェルマーク寄宿学校に入学。
一八三七年(天保八年)十六歳 一月、文学的熱中の対象であったプーシキンの死に衝撃を受ける。二月、母死去。五月、兄とともにペテルブルグに移り、コストマーロフ大尉の予備校にはいる。夏、のちの作家グリゴローヴィチを知り、詩人シドロフスキーから感化を受ける。
一八三八年(天保九年)十七歳 一月、工兵士官学校に入学。ホフマン、バルザック、ゲーテ、ユゴーなどを耽読《たんどく》。十月、進級試験に落第。
一八三九年(天保十年)十八歳 六月、父ミハイル持村の農奴に惨殺《ざんさつ》さる。
一八四〇年(天保十一年)十九歳 シラー、ホメーロス、フランス古典悲劇などを読み、劇作を試みる。
一八四一年(天保十二年)二十歳 二月、兄の家で自作の戯曲『マリヤ・スチュアルト』『ボリス・ゴドゥノフ』を朗読。八月、工兵少尉補に任官。
一八四二年(天保十三年)二十一歳 八月、試験に及第、少尉となる。
一八四三年(天保十四年)二十二歳 八月、工兵士官学校を卒業、ペテルブルグ工兵局製図課勤務となる。九月、医師リーゼンカンプと同居、困窮して高利貸より借金。十二月、バルザック『ウージェニー・グランデ』の翻訳にかかる。
一八四四年(弘化元年)二十三歳 二月、少額の一時金で領地の相続権を放棄。六―七月、「レパートリーとパンテオン」誌に『ウージェニー・グランデ』の翻訳発表。九月、退職願を提出。『貧しき人びと』執筆。十月、中尉に昇進して退官、グリゴローヴィチと同居する。
一八四五年(弘化二年)二十四歳 四月、『貧しき人びと』を完成。五月、グリゴローヴィチとネクラーソフ、この原稿を読んで感動、朝の四時に作者を訪ね、「新しいゴーゴリ」の出現を祝福する。ベリンスキーに紹介され、彼からも絶讃《ぜっさん》を受ける。夏、レーヴェルの兄のもとで『分身』起稿。十一月、ツルゲーネフを知り、パナーエフ家のサロンに通う。
一八四六年(弘化三年)二十五歳 一月、『貧しき人びと』を掲載した「ペテルブルグ文集」刊行。春、ペトラシェフスキーとめぐり合い、関心を惹《ひ》かれる。十一月、ネクラーソフの雑誌「現代人」同人と決裂。この年、アポロン・マイコフ、ワレリヤン・マイコフ、「祖国雑記」編集長クラエフスキーらを知る。
二月、『分身』十月、『プロハルチン氏』
一八四七年(弘化四年)二十六歳 一―四月、ベリンスキーと不和になり、ペトラシェフスキーのサークルに通いはじめる。
一月、『九通の手紙にもられた小説』 四―六月、『ペテルブルグ年代記』 十―十一月、『主婦』『貧しき人びと』(十一月、プラツ社刊)
一八四八年(嘉永元年)二十七歳 一月、「現代人」誌でベリンスキー『貧しき人びと』を書評、三月には『一八四七年のロシア文学概観』で『主婦』を酷評。五月、ベリンスキー死す。秋、スペシネフを知り、プレシチェーエフ宅でペトラシェフスキー会と別の集まりをもつ。
一月、『人妻』 二月、『弱い心』『ポルズンコフ』 四月、『苦労人の話』(後に『正直な泥棒』と改題) 九月、『クリスマス・ツリーと結婚式』 十二月、『白夜』『やきもち焼きの夫、異常な事件』
一八四九年(嘉永二年)二十八歳 一月、スペシネフ、ドゥーロフらと近づき、秘密出版所設置計画にも加担。四月、ペトラシェフスキー会でベリンスキーのゴーゴリへの手紙を朗読。四月二十三日、早朝逮捕され、ペトロパヴロフスク要塞《ようさい》に監禁。五月、予審取調べ。九月、ペトラシェフスキー会員公判開始(十一月結審、死刑判決)。十二月二十二日、セミョーノフ練兵場で処刑の直前に特赦、懲役四年、刑期終了後一兵卒として勤務の判決を受ける。二十四日、シベリアへ護送。
一―二月、『ネートチカ・ネズワーノワ』
一八五〇年(嘉永三年)二十九歳 一月九日、トボリスク到着、デカブリストの妻たちから福音書を贈られる。一月二十三日、オムスク監獄に到着、以後一八五四年二月までここで服役。
一八五四年(安政元年)三十三歳 三月、セミパラチンスク守備隊に一兵卒として編入。春、地方官吏イサーエフとその妻マリヤを知り、夫人に恋する。十一月、ヴランゲリ男爵《だんしゃく》、検事として着任、作家と親交を結ぶ。
一八五五年(安政二年)三十四歳 三月、イサーエフ一家、クズネツクへ移転、八月、イサーエフ死去。『死の家の記録』の執筆を始める。
一八五六年(安政三年)三十五歳 三月、トトレーベン宛《あ》てに兵役免除、出版許可の嘆願書。十月、下士官に昇進。
一八五七年(安政四年)三十六歳 二月、クズネツクでマリヤ・イサーエワと結婚、帰途、強度の癲癇《てんかん》の発作を起す。四月、士族の称号回復。
八月、『小英雄』
一八五八年(安政五年)三十七歳 一月、軍務免除、モスクワ居住許可を求めた嘆願書を書く。
一八五九年(安政六年)三十八歳 三月、少尉として退官、トヴェリ居住許可さる。七月、トヴェリに出発(八月半ば到着)。十一月、ペテルブルグ居住を許可され、十二月、首都に帰る。
三月、『伯父さまの夢』 十一―十二月、『ステパンチコヴォ村とその住人』
一八六〇年(万延元年)三十九歳 九月、兄ミハイルと共同編集の雑誌「時代」の発刊広告。九月、『死の家の記録』を「ロシア世界」に連載。
一八六一年(文久元年)四十歳 一月、「時代」誌創刊。オストロフスキー、グリゴーリエフ、ドブロリューボフらと知り合う。
一―七月、『虐《しいた》げられた人々』
一八六二年(文久二年)四十一歳 六月、最初の国外旅行に出発、パリ、ロンドン、ケルン、スイス、イタリアを訪れ、その間ゲルツェン、バクーニンと会う。年末、アポリナリヤ・スースロワと交際。
一月―十二月、『死の家の記録』 十一月、『けがらわしい逸話』
一八六三年(文久三年)四十二歳 年初より「現代人」誌の「時代」誌批判激化。五月、「時代」誌発禁。八月、海外旅行に出発、パリでスースロワと落合い、イタリア旅行。九月、バーデン・バーデンで賭《と》博《ばく》にふけり、ツルゲーネフから借金。十月帰国。
二―三月、『冬に記《しる》す夏の印象』
一八六四年(元治元年)四十三歳 三月、新雑誌「世紀」創刊。四月十五日、妻マリヤ死去。七月十日、兄ミハイル死去。この年、「現代人」誌への反論を「世紀」誌に執筆。
三―四月、『地下室の手記』
一八六五年(慶応元年)四十四歳 三―四月、アンナ・コルヴィン・クルコフスカヤをしばしば訪問、求婚して拒絶される。六月「世紀」廃刊。七月、国外旅行に出発、ヴィスバーデンで賭博にふけり、一文なしの身で『罪と罰』の構想をまとめ、「ロシア報知」編集長カトコフに売りこむ。十月帰国、十一月、『罪と罰』の第一稿を焼却。
二月、『異常な事件、またの名は勧工場の椿《ちん》事《じ》』『ドストエフスキー全集』一、二巻(年末、ステロフスキー刊)
一八六六年(慶応二年)四十五歳 四月、カラコーゾフの皇帝暗殺未遂事件に衝撃を受ける。夏、リュブリノの別荘で姪《めい》ソフィヤ・イワノワと親しくなる。十月、速記者アンナ・スニートキナに『賭博者』を口述筆記。十一月、アンナに結婚申込み。
一―十二月、『罪と罰』
『ドストエフスキー全集』第三巻(年末、ステロフスキー刊)
一八六七年(慶応三年)四十六歳 二月十五日、アンナ・スニートキナとの結婚式。四月、国外旅行(四年余にわたる)に出発。ドレスデンで「シスチナのマドンナ」を見る。六月、バーデンでツルゲーネフと喧《けん》嘩《か》。八月、バーゼルの美術館でホルバインの「イエス・キリストの亡骸《なきがら》」に衝撃を受ける。ジュネーヴでガリバルジ、バクーニンらの「平和・自由連盟」の第一回大会を傍聴。九月、『白痴』起稿。
一八六八年(明治元年)四十七歳 姪《めい》のソフィヤに『白痴』では「真に美しい人間」を書きたいと手紙。二月、長女ソフィヤ誕生(五月死亡)。八月ヴェーヴェ、九月ミラノ、十一月フローレンスに滞在。十二月、アポロン・マイコフへの手紙で『無神論』の構想を語る。
一―十二月、『白痴』
一八六九年(明治二年)四十八歳 八月、ドレスデン到着。九月、次女リュボフィ誕生。十一月二十一日、「国民制裁協会」のネチャーエフ、ペトロフスキー大学の学生イワノフを裏切り者として殺害、作家の異常な関心をそそる。十二月、大長編『偉大なる罪人の生《しょう》涯《がい》』のノートを取る。
一八七〇年(明治三年)四十九歳 三月、マイコフ宛ての手紙で、ニヒリスト批判の『傾向的な作品』(『悪霊《あくりょう》』の原型)と『偉大なる罪人の生涯』の構想を知らせる。八月、姪ソフィヤに『悪霊』の難航、新しい構想による書き直しを知らせる。十月、『悪霊』の最初の部分を「ロシア報知」に送る。カトコフ、マイコフ宛ての手紙で作品のテーマを詳述。
一―二月、『永遠の夫』
『ドストエフスキー全集』第四巻(十月、ステロフスキー刊)
一八七一年(明治四年)五十歳 三―五月、パリ・コミューンに関心を惹かれる。七月、国外滞在中の手稿を焼却。七月一日、ネチャーエフ事件の裁判はじまる。七月帰国。長男フョードル誕生。
一―十一月、『悪霊』
一八七二年(明治五年)五十一歳 冬、国家評議員ポベドノースツェフを知る。五―九月、スターラヤ・ルーサに滞在。十二月、週刊誌「市民」の編集長となる。
十一―十二月、『悪霊』(第三部)
一八七三年(明治六年)五十二歳 一月、「市民」創刊、同誌に『作家の日記』を連載。アレクサンドル皇太子に『悪霊』献呈。二月、『悪霊』についてミハイロフスキーの批評が出、「市民」でドストエフスキーが反論。
一八七四年(明治七年)五十三歳 一月、「市民」編集長辞任。五月よりスターラヤ・ルーサに住む。十月、ネクラーソフの「祖国雑記」に『未成年』掲載を約束。
一八七五年(明治八年)五十四歳 八月、次男アレクセイ誕生。九月、ペテルブルグへ帰る。十一月、『作家の日記』刊行の準備にかかる。十二月、孤児問題に関心をもつ。
一―十二月、『未成年』
一八七六年(明治九年)五十五歳 一月より『作家の日記』を刊行。十一月、アレクサンドル皇太子に『作家の日記』を献呈。
一月、『キリストの樅《もみ》の木に召された少年』(『作家の日記』) 二月、『百姓マレイ(作家の日記』)『百歳の老婆』(『作家の日記』) 十一月、『おとなしい女』(『作家の日記』)
一八七七年(明治十年)五十六歳 七月、ダロヴォエ村訪問。十二月、アカデミー通信会員に選出。ネクラーソフ死去、墓前で演説。
二月、『アンナ・カレーニナ論』(『作家の日記』)四月、『おかしな男の夢』(『作家の日記』)
一八七八年(明治十一年)五十七歳 三月、ザスリッチ裁判を傍聴。五月、次男アレクセイ死亡。六月、哲学者ソロヴィヨフとともにオプチナ修道院を訪れ、『カラマーゾフの兄弟』の構想を語る。この年、長編の執筆を開始。
一八七九年(明治十二年)五十八歳 夏、一家スターラヤ・ルーサに住み、コルヴィン・クルコフスカヤと交際。七―九月、ドイツの鉱泉地エムスで療養。
一―十一月、『カラマーゾフの兄弟』
一八八〇年(明治十三年)五十九歳 二月、スラヴ慈善協会副会長に選ばる。五月、プーシキン記念像除幕式に参加、記念講演を行い、感銘を与える。八月より『作家の日記』復刊。
一―十一月、『カラマーゾフの兄弟』 六月、『プーシキンについて』
一八八一年(明治十四年)六十歳 一月二十六日、咽喉《いんこう》部《ぶ》より出血、意識を失う。二十八日、家族に別れを告げ、午後八時三十八分永眠。二月一日、アレクサンドル・ネフスキー寺院で葬儀。
江川 卓 編