未成年(下)
ドストエフスキー/工藤精一郎訳
目 次
第二部
第七章〜第九章
第三部
あとがき
[#改ページ]
第二部
第七章
わたしが目をさましたのは朝の八時だった。わたしはすぐにドアに鍵《かぎ》をかけると、窓辺に坐って、考えはじめた。こうして十時まで坐っていた。女中が二度ドアをノックしたが、わたしは追いかえした。やがて、もう十時をまわってから、またドアがノックされた。わたしがまたどなりつけようとすると、それはリーザだった。いっしょに女中も入ってきて、コーヒーをテーブルの上にのせると、ペーチカのたきつけにかかった。女中を追いかえすわけにはいかなかった、そしてフェクラが薪《まき》を並べて、火をおこしているあいだじゅう、わたしは話をはじめようともせずに、つとめてリーザのほうを見ないようにしながら、狭い室内を大股《おおまた》で歩きまわっていた。女中はなんとも言いようのないのろのろした動作でそれをつづけた。それは自分がいるので主人たちが話ができないでいると気がつくと、すべての女中たちがすることだが、わざとそうやっているのである。リーザは窓際《まどぎわ》の椅子に坐って、わたしを見まもっていた。
「コーヒーが冷《さ》めるわよ」と不意にリーザが言った。
わたしは彼女を見た。すこしの羞《は》じらいもなく、おちつきはらって、唇《くちびる》には微笑さえうかんでいた。
「これが女というものだ!」わたしは思わず肩をすくめた。ようやく、女中はぺーチカを燃やすと、掃除にかかった。わたしはかっとなって女中を追いだすと、やっとドアに鍵を下ろした。
「あら、兄さん、おかしいわ、どうしてまたドアに鍵をかけたの?」とリーザは言った。
わたしは彼女のまえに立った。
「リーザ、ぼくはまったく思いがけなかったよ、おまえにこうまで欺《だま》されようとはな!」とわたしはいきなり叫んだ。こんなふうにきりだそうとは、まったく思いもしなかったし、涙ではなく、ほとんど意地わるいような憎らしさが、不意にわたしの心を刺したのである。これは自分でもまったく思いがけないことであった。リーザはさっと赤くなったが、なにも言わないで、ただわたしの目をまともに見すえていた。
「待ってくれ、リーザ、待ってくれ、おお、ぼくはなんてばかだったんだ! でも、ばかだろうか? すべての暗示が昨日はじめてひとつにかたまりあったのだ、だがそれまでどこからぼくが知り得たろう? おまえがストルベーエワ家のあの……ダーリヤ・オニーシモヴナのところへよく行ってたことからか? だがぼくは、おまえを太陽のように考えていたんだよ、リーザ、ぼくの頭にちらとでもそんな考えが来るはずがあったろうか? おぼえてるかい、ほら、二月ほどまえ、彼の住居でおまえを見かけたことがあったろう、そしてぼくたちは二人で嬉々《きき》として、晴れわたった街路を歩いたっけね……あのとき、もうそういうことがあったのか? あったのか?」
彼女は黙ってうなずいた。
「それじゃおまえは、あのときすでにぼくを欺していたんだね! それはぼくのばかのせいじゃない、リーザ、それは、むしろ、ぼくのエゴイズムが原因なのだ、愚かさじゃない。ぼくの心のエゴイズムと――そして、おそらく、純潔への信頼だ。おお、ぼくはいつも確信していたんだよ、おまえたちのほうがぼくよりはるかに高潔だと――それがこのざまだ! それに、昨日一日だけでは、あれだけ暗示されながらも、ぼくはとても判断しきれなかった……それに、昨日はほかにもぼくの考えをうばっていたことがあったのだ!」
そのときわたしは不意にカテリーナ・ニコラーエヴナのことを思い出した、するとまたしてもなにものかが針のように鋭くわたしの心を突き刺した、そしてわたしは顔が火のようになった。だから当然、わたしはそのとき善良な心にはなりえなかったわけである。
「だから、兄さんはなんの言い訳をしてらっしゃるの? 兄さん、アルカージイ、あんたはなにかしきりに言い訳を急いでるようだけど、いったいなんのことですの?」とリーザはしずかにおだやかに訊《き》いた、が、その声はひどくしっかりして、確信に充ちていた。
「なんのこと? いったいぼくは今からどうしたらいいんだ?――これだって問題じゃないか!『なんのことですの?』もないものだ、ぼくはどう行動していいのか、わからんのだよ! こうした場合、兄弟たちがどうするものなのか、ぼくは知らない……名誉を重んずる人間のとるべき行動を、ぼくはとるつもりだ! ところがぼくは、名誉を重んずる人間がどういう行動をとるべきか、それがわからんのだ!……なぜ? ぼくたちは――貴族じゃない、ところが彼は――公爵で、おのずから生き方がちがうからだ。彼はぼくたち、名誉を重んずる人間の言うことなど、聞こうともしまい。ぼくは――おまえの兄ですらない、ぼくたちは私生子で、名もない家僕の子供たちだ。いったい公爵が家僕の娘と結婚するだろうか? おお、なんという醜悪だ! しかも、それでいながら、おまえは今ぼくのまえに坐って、びっくりしたような顔でぼくを見ているのだ」
「兄さんが苦しんでいるのは、わかりますわ」とリーザはまた顔を赤らめた、「でも兄さんは先走りしすぎて、自分で自分を苦しめてるのよ」
「先走りしすぎるって? じゃ、なんだい、これでもまだおくれ方が足りないとでもいうのか! おまえに、リーザ、おまえにだよ、ぼくがこんなことを言わにゃならんのか?」わたしは、とうとう、すっかり逆上してしまった。「ぼくはどれだけの屈辱をしのんだか、そしてあの公爵が当然のこととしてどれだけぼくを侮蔑《ぶべつ》したか! おお、ぼくには今すべてがわかった、そしてすべての光景がありありと見える。彼は、ぼくがとっくにおまえと彼の関係を知りながら、口をぬぐっているか、あるいはかえって鼻を高くして、『公正』を云々《うんぬん》しているのだと、すっかり思いこんでいたのだ――こんな男と彼はぼくを考えることさえできたんだ! そして妹の代償として、妹の汚辱の代償として、ぼくが彼から金をとる! こう思うと彼はぼくを見るのもけがらわしかったにちがいない、ぼくには彼の気持がよくわかる。毎日、おまえの兄だと思って、がまんしてこの卑劣な男を迎え入れていたのだ、おまけに公正がどうのこうのとご託を並べられて……これじゃいくら彼の心でも、ひからびるだろうさ! そしておまえはそれを黙って見ていたのだ、ぼくにそれを注意してくれなかったのだ! 彼はどこまでぼくを軽蔑していたと思う、ぼくのことをステベリコフごときにべらべらしゃべっていたほどだ、しかも昨日、ぼくとヴェルシーロフをよせつけまいと思っていたと、はっきりぼくに言ったほどだ。しかもあのステベリコフめ! あいつは、『アンナ・アンドレーエヴナは――あなたには姉さんじゃありませんか、リザヴェータ・マカーロヴナが妹さんであるようにね』などとぬかして、そのうえさらに、『わたしの金のほうがいいですよ』などと言いくさった。ところがぼくは、ぼくというやつは、図々しく彼の部屋のソファにでんとかまえて、まるで対等みたいに、彼の知人たちの話に割りこんだりして、ああなんという恥さらしだ! おまえがそういうことをさせていたのだ! てっきり、ダルザンも知ってるにちがいないのだ、少なくとも昨夜の彼の態度から考えると……みんな、みんな知ってるのだ、知らないのはぼくだけだったのだ!」
「誰もなんにも知らないわ、知人の誰にもあのひとは言ってませんし、それに言うはずがありませんもの」とリーザはわたしをさえぎった、「そのステベリコフとかいう男のことだけど、あたしが知ってるのは、その男があのひとを苦しめているということだけですわ、あんな男になにがわかるものですか、ただあて推量で言ってるだけよ……兄さんのことなら、あたし何度もあのひとに言いましたわ、そしてあのひとはすっかりあたしを信じてくれて、兄さんがなにも知らないことはちゃんと承知しておりましたのよ、だからあたしさっぱりわからないの、どうして、どういうことで、昨日そんなことになったのかしら?」
「おお、少なくともぼくは昨日彼ときっぱり清算をつけたよ、だからそれだけでも気が軽いのさ! リーザ、お母さんは知ってるのかい? そう、知らぬわけはないな、昨日、昨日、ぼくにものすごいけんまくで食ってかかったものな!……でも、リーザ! おまえはほんとに自分が正しいと思っているのか、じゃちっともやましいところはないんだね? ぼくは知らんがね、今ふうに考えればそれがどうなのか、そしておまえがどういう考えをもっているのか、つまりぼくや、母や、兄弟や、父をどう思っているのか……ヴェルシーロフは知ってるのかい?」
「お母さんは彼にはなにも言ってないわ。彼も訊かないし、きっと、訊きたくないんでしょう」
「知っている、が、知りたくないのさ。きっと――そうだよ、いかにも彼らしい! まあ、おまえはこのぼくを笑うがいいさ、ピストルがどうのと言いだすこのばかな兄を、しかしお母さんは、お母さんは? リーザ、これが――お母さんに対する叱責《しつせき》だとは、おまえは考えなかったのかい? ぼくは一晩中それを考えて苦しみぬいたんだ。お母さんがまっさきに考えることは、『これは――わたしもまちがったことをしたからだ、母がこんなだから――娘もこうなるのだ!』ということだよ」
「まあ、兄さんは、なんてひどい残酷なことを!」リーザはさっと涙ぐんでこう叫ぶと、立ち上がって、急いでドアのほうへ行きかけた。
「待ってくれ、待ってくれ!」わたしは彼女を抱きとめると、またかけさせ、彼女の手をにぎったまま、自分もそばに坐った。
「あたしここへ来る途中、ずっと思ってたわ、きっとこうなるだろうって、兄さんはきっとあたしに謝《あやま》らせなきゃ承知しないだろうって。いいわよ、あたし謝るわよ。あたしはただあたしなりのプライドがあるから、いままで黙っていたのよ、なにも言わなかったのよ、でも兄さんとお母さんのことが、あたしには自分よりもずっとずっとお気の毒で……」彼女は言葉がとぎれて、不意にわっと泣きだした。
「いいんだよ、リーザ、泣くことはないよ、ぜんぜん泣くことなんかないんだよ。ぼくは――おまえの裁判官じゃない。リーザ、それよりお母さんは? 言ってごらん、お母さんはもうまえから知ってたのかい?」
「あたしそんな気がするわ。でも、あたしがお母さんに打明けたのはこのあいだ、あれがあったときなの」と彼女は目を伏せて、しずかに言った。
「それでなんと言った、お母さんは?」
「だいじになさい、って言ったわ」とリーザはますます声を低くした。
「おお、リーザ、そうだよ、だいじにするんだよ! 早まったことをしちゃいけないよ、神さまが救ってくださる!」
「短気なんかおこさないわ」と彼女はしっかりと言って、またわたしに目を上げた。
「だいじょうぶよ」と彼女は言い添えた、「決してそんなあれじゃないのよ」
「リーザ、ぼくはね、自分がこういうことはなにも知らんことを、つくづく思うばかりだが、そのかわり今、おまえをどれほど愛してるかということだけは、はっきりわかったんだよ。だが、どうしてもわからんのは、リーザ、あとのことはみなはっきりしたのだが、ひとつだけどうしてもわからんのだが、どうしておまえは彼を愛したんだね? どうしておまえはあんな男を愛することができたのか? これが疑問なのだよ!」
「そしてきっと、そのことでも一晩中苦しんだのね?」とリーザはそっと笑った。
「待ってくれ、リーザ、これは――ばかげた質問さ、それでおまえは笑っている、笑ってもいいよ。だがおどろかずにはいられないんだよ。だっておまえと彼は――まるきり正反対の人間じゃないか! 彼は――ぼくは彼を研究したんだが――陰気な、疑《うたぐ》り深い男だ、あるいは、ひじょうに善良なのかもしれない、まあそうとしても、とにかくなにごとにもまずそのわるいところを見るというひどくいやな癖がある(もっとも、これはぼくもまったく同じだが)。彼は家柄というものを重んじている――それはぼくもいいと思う、ただ、どうも観念のうえだけらしいのだ。それに、彼は後悔癖がある、彼は一生涯のあいだ、のべつ自分を呪《のろ》っては悔恨に苦しめられている、そのくせぜったいに改まらない、もっとも、これもやはりぼくと同じらしいが。偏見と虚偽の思想は無数にもっていながら――真の思想はひとつもない! 大きな貢献を求めて、くだらないことで手をよごしている。ごめんよ、リーザ、ぼくは、しかしばかだよ。こんなことを言って、おまえを侮辱している、それは知ってるんだよ、それをわかってるくせに……」
「肖像は正確なようだけど」とリーザはにこっと笑った、「でも、あたしのことがあるものだからあんまり彼に悪意をもちすぎてるわ、だからどれもほんとの正確さが欠けてるのよ。彼ははじめから兄さんには心を許さなかったのよ、だから兄さんは彼のすべてを見ることができなかったんだわ、だがあたしとはもうルガのころから……あのひとはルガのときからあたし一人だけしか見ていないんだわ。そうよ、彼はたしかに疑り深いし、病的なところがあるわ、だからあたしがいなかったら気が狂っていたかもしれないわ。もしあたしから離れるようなことがあったら、気がちがうか、あるいは自殺するでしょう。彼はそれを知ってたらしいわ」とリーザは考えこみながら、ひとりごとのように言い添えた。「そうよ、彼はいつも弱い男なのよ、でも弱い男にかぎってどうかするととっても強いことをしでかすものよ……ピストルだなんてずいぶん妙なことを言ったわね、アルカージイ、そんなものここではぜんぜん要《い》らないわ、あたし自分で知ってるのよ、どんなことになるかは。あたしが彼に夢中になってるんじゃなくて、彼があたしに夢中なのよ。お母さんは泣きながら、『あのひとといっしょになったら、きっと不幸になるから、あきらめなさい』なんて言うけど、あたしはそんなこと信じないわ。あたしが不幸になったって、彼はきっとあたしを愛してくれますもの。あたしがいまだに彼に同意をあたえていないのはそのためじゃないわ、ほかに理由があるのよ。あたしはもう二月も彼に同意をあたえていなかったけど、でも今日、はい、結婚しますって、彼に言ってあげたのよ。アルカーシャ、わかる、彼は昨日(彼女の目はきらきら光った、そしていきなり両手でわたしの首を抱きしめた)――昨日アンナ・アンドレーエヴナのところへ行って、きっぱりと、はっきりと、あなたを愛することができませんと言ったのよ……そうよ、彼ははっきりと意志を表示したのよ、だからこの話はもうきっぱりとかたがついたのよ! 彼はこの話には一度ものらなかったのよ、これをずっと考えていたのはニコライ・イワーノヴィチ老公爵で、老公爵をさかんにうしろから突ついていたのが、あのステベリコフという悪者と、それからもう一人……こういうわけで、あたし今日彼に、イエスと返事したのよ。ねえ、アルカージイ、彼はひどくあんたに会いたがってるわ、だから昨日のことがあっても怒らないでね。彼は今日あまり健康がすぐれないで、一日じゅう家にこもってるわ。彼はほんとにぐあいがよくないのよ、言い逃《のが》れだなんて思わないでね。彼はわざわざあたしにたのんだのよ、行って、こう伝えてくれって、どうしても兄さんに会って、いろいろ話したいことがあるけど、この兄さんの部屋では気まずいだろうからって。じゃ、さようなら! ねえ、アルカージイ、あたし恥ずかしくて言いにくいんだけど、ここへ来る途中、兄さんにきらわれてしまったんじゃないかと、心配で心配で、ずっと十字を切りどおしだったのよ、ところが兄さんは――こんなに善良で、やさしいんですもの! これはあたし一生忘れないわ! あたしお母さんのところへ行くわ。兄さん、ちょっぴりでいいから彼を愛してね、いいこと?」
わたしははげしく彼女を抱きしめて、言った。
「ぼくは、リーザ、おまえは――しっかりした気性の女だと思ってるよ。そりゃそうだ、ぼくも信じるよ、おまえが彼に夢中になったんじゃなくて、彼がおまえに夢中になったんだろうさ、でもやはり……」
「でもやはり『どうしておまえが彼を愛したのか――それが疑問だよ!』でしょう」リーザは急に、以前のように、いたずらっぽくくすっと笑って、こう受けた、そして『それが疑問だよ』の言い方があきれるほどわたしにそっくりだった。しかも、こう言うときにわたしがやるのとまったく同じ動作で、人差指を目のまえに突き立てた。わたしたちは接吻《せつぷん》しあった、が、彼女が出てゆくと、わたしはまた心がうずきはじめた。
ここでただ自分の心おぼえのために書きつけておくが、リーザが帰ってから、瞬間的ではあったが、まったく思いがけない考えがつぎつぎとわたしをおそって、わたしはそれらに大いに満足をさえおぼえたのだった。『おい、ぼくはなにを気をもんでいるのだ』とわたしは思った、『このぼくにとってなんなのだ? 誰にだってあんなふうなことはあるのだ。リーザにそれがあったからって、どうってことはないじゃないか? このぼくが一家の名誉を救わにゃならんというのかい?』こんな恥ずべきことをここに記《しる》すのは、わたしの善悪の理解がまだどれほど固まっていなかったかを示すためである。感情だけがわたしを救ってくれた。わたしは、リーザが不幸なことを、母が不幸なことを、知っていた。彼女らのことを思い出すと、わたしは感情でそれがわかった、だからこそ、リーザの身におこったことはよくないことにちがいない、と感じたのだった。
ここであらかじめことわっておくが、さまざまな事件がこの日からわたしがついに病気でたおれる日まで、あまりにも目まぐるしく展開したために、今回想しながら、どうしてもちこたえることができたのか、どうして運命におしつぶされずにすんだのか、自分でもふしぎなくらいである。それらの事件はわたしの理性はもちろん、感情をさえ無力にしてしまった、だから、仮にわたしが、ついにもちこたえることができなくなって、犯罪をおかしたとしても(しかも犯罪はすんでにおかされるところだったのだ)――陪審員たちは、十中八九、情状を酌量してくれたにちがいない。しかしきびしく順序を追って述べていくことにしよう。もっとも、ことわっておかねばならないが、その当時のわたしの考えにはほとんど順序などはなかったのである。さまざまな事件が突風のようにおそってきて、わたしの考えは頭の中で秋の枯葉のように舞い狂ったのだった。わたしの考えはぜんぶ他人の考えの寄せ集めだったので、自主的な解決を要求された場合、自分の考えをどこからとったらよかったのだ? 指導してくれる者はまったくなかった。
公爵のところへは晩に行くことにした。完全に自由な立場ですべてを話し合いたいと思ったのである。ところが夕方ステベリコフからまた市内便がきた。わずか三行ばかりの手紙で、『きわめて重大な用件があり、どんな用件かはお目にかかって申しあげるから』明朝十一時にどんなことがあっても『ぜひとも』来てもらいたいと書いてあった。明日まではまだ間があることだし、いろいろの事情を思いあわせて、思案の末、わたしは慎重に行動することにした。
もう八時だった。わたしはもう何度か出かけようと思ったが、しかしヴェルシーロフを心待ちにしていた。彼にいろいろ言いたくて、わたしの心は燃えていた。しかしヴェルシーロフはいっこうに現われなかった。母と妹にはここしばらく顔を見せたくなかったし、それにわたしの勘では、ヴェルシーロフは今日は一日中家にいるはずがなかった。わたしはぶらぶら出かけたが、途中で運河ぞいの昨日の居酒屋をのぞいてみようという考えが頭にきた。はたしてヴェルシーロフが昨日と同じ席に坐っていた。
「わしはきみがここへ来るものと思っていたよ」妙な薄笑いをもらし、妙な目でわたしを見て、彼はこう言った。この薄笑いは底に悪意のあるもので、このような笑いをわたしはもう長いこと彼の顔に見なかった。
わたしは彼のテーブルについて、まず公爵とリーザのこと、昨夜ルーレットのあとで公爵の部屋であったことを、すっかりありのままに語った。もちろん、ルーレットで勝ったことも忘れなかった。彼はひどく注意深く聞きおわると、リーザと結婚するという公爵の決意について訊きかえした。
「Pauvre enfant(かわいそうに)、あの娘はそんなことをしてもなにもいいことはあるまい。でも、たぶん、結婚は成立せんだろうな……あの男は言いだしたらきかん男だが……」
「ぼくに友人として言ってください、たしかにあなたはそう思いますか、そんな予感がありますか?」
「アルカージイ、わしになにができるというのだね? これはみな――感情の問題だよ、他人の良心の問題だよ、たといあのかわいそうな娘の立場からにしてもだ。このまえも言ったが、わしは以前にいやになるほど他人の良心に立ち入りすぎたんだよ――これはもっとも不都合な策なのさ! 不幸になったら救いの手をさしのべることは拒まんよ、自分で見きわめがつけば、力のあるかぎりな。だがきみは、アルカージイ、ああしていてすこしもおかしいとは気がつかなかったのかね?」
「あなたはそんなことが、どうして言えるのです」とわたしはかっとなって叫んだ、「ぼくがリーザと公爵の関係を知っている、とちょっぴりでも疑っていたら、それでなおかつぼくが公爵から金を借りるのを見ていたら、――どうしてあなたはそんなぼくといっしょに坐って、話をしたり、手をにぎりあったりなどできたのです――あなたが卑屈な男と見下げたにちがいないぼくとです、だって、賭《か》けてもいいですが、あなたはきっと、ぼくがすべてを知りながら、妹の代償に公爵から金をせびっていたと疑っていたにちがいないのだ!」
「これも――良心の問題だよ」と彼はにやりと笑《え》みをもらした。「それにきみはどうしてわかるかね?」と彼はなにか謎《なぞ》めいた調子をふくめてはっきりと言った、「わかりゃしまいが、わしだって昨日きみがまかりまちがって自分の『理想』を見失いやしないか、そしてわしの好きな燃えやすい誠実な青年の代りに無頼な役だたずに会うようなことになりはしないかと、恐れていたんだよ。危ぶんで、一分のばしにのばしていたのさ。どうしてわしの中に、怠惰とか狡猾《こうかつ》とかではなくて、なにかもっと純なもの、まあ、たとい愚かしくても、もっと美しいものを考えられなかったものか。Que diable!(いまいましいことだ)。わしはしょっちゅうといっていいほど愚かで、しかも下劣になるんだよ。もしきみにそんな傾向があったとしたら、わしがきみになんの役にたてるだろう? そんな場合、説得して矯正《きようせい》するなどということは下の下だ。たとい矯正されたにしても、きみはわしのまえにいっさいの価値を失うだろうからな……」
「だがリーザが哀れじゃないのですか、かわいそうじゃないのですか?」
「かわいそうでたまらないさ、アルカージイ。どうしてそんなことを言うのだね、わしがそんな無情だなどと? それどころか、わしはなんとかして……それはそうと、きみはどうなんだね、きみのしごとのほうは?」
「よしましょう、そんなこと、ぼくには今ぼくのしごとなんかないのです。それより、どうしてあなたは彼の結婚を疑うのです? 彼は昨日アンナ・アンドレーエヴナを訪《たず》ねて、きっぱりと拒否しました……つまり、あのばかな話をです……ニコライ・イワーノヴィチ公爵の頭に生れた例の考えをです……二人を結婚させようという。彼はきっぱりとことわりました」
「そうかな? そりゃいったいいつのことだね? そして誰からそれを聞いたのかね?」と彼は興味ありげに訊いた。わたしは知っていることをすっかり語った。
「ふむ……」彼は考えこみながら、なにごとか思いあわせるようなようすで唸《うな》った、「とすると、それはちょうど一時間ほどまえにあったことになる……ある別な話し合いのな。ふむ……なるほど、そりゃむろん、そうした話し合いが二人のあいだにあったことは考えられる……もっとも、わしの知るかぎりでは、これまではあれからも、あっちからも、一度もなんの話も、意思表示もなかったがな……でも、もちろん、話し合いなど、二言で足りるわけだ。ところで」と彼は不意に奇妙な薄笑いをもらした、「わしは、きみがあっというような実に意外な事実を知らせることになるわけだが、もしきみの公爵が昨日アンナ・アンドレーエヴナに結婚の申込みをしたとしてもだよ(こんなことは、リーザのことを考えると、わしはどうあっても認めたくないのだが、entre nous soit dit(ここだけの話だよ))、アンナ・アンドレーエヴナはおそらく、ぜったいに、即座に拒否したはずだよ。きみは、たしか、アンナ・アンドレーエヴナをひじょうに愛していたし、尊敬し、人柄を高く評価していたはずだったな? それはきみとしてはひじょうにいいことだよ、だから、たぶん彼女のために喜んでくれるだろうが、彼女は、アルカージイ、結婚するはずだよ、そして、あの娘の気性から考えると、きっと行くことになるだろう、でわしは――そりゃ、わしだって、むろん、祝福するよ」
「結婚するって? いったい誰とです?」とわたしはびっくりして叫んだ。
「あててごらん。まあじらすのはよそう。ニコライ・イワーノヴィチ公爵、きみの愛する老人だよ」
わたしは目を皿のようにした。
「おそらく、あの娘は長いあいだこの考えをあたためていたものにちがいない、だから、もちろん、あらゆる面からそれを芸術的に仕上げたものであろう」と彼はものうげに、ぽつりぽつりと言葉をつづけた。「わしが思うのには、それは『セリョージャ公爵』の訪問からちょうど一時間後におこったものらしい。(まったく彼もつまらぬ勇み足をしたものだ!)あの娘は淡々とした気持でニコライ・イワーノヴィチ公爵のところへ行って、結婚を申込んだんだよ」
「あのひとが結婚を申込んだんですって? じゃなくて、老公爵があのひとに申込んだのでしょう?」
「どうして、あの老人がそんなことをするものか! あの娘がだよ、あの娘のほうから申込んだのさ。そこで当然、老人はすっかり感激してしまった。なんでも、老人は今ぽかんと坐りこんだきりで、どうしていままでそれに気がつかなかったかと、自分でもあきれてるそうだよ。体の調子がすこしおかしくさえなったそうだよ……感激のあまりな、ありそうなことだよ」
「ねえ、あなたはそんなにおかしそうに言ってますが……ぼくにはほとんど信じられません。ほんとに、あのひとはどうしてそんな申込みができたのだろう? あのひとはどう言ったのかしら?」
「うそじゃなく、アルカージイ、わしは心から喜んでいるんだよ」と、彼は急におどろくほどまじめな顔になって、答えた、「彼は老人だが、もちろん、結婚はできるさ、法律によっても、慣習によってもな、それであの娘だが――これもまた他人の良心の問題で、これはもうきみに何度も言ったことだよ、アルカージイ。しかも、あの娘には、自分で考え、自分で決定できるだけの、りっぱな資格があるよ。だが、こまかい点と、あの娘がどんな言葉で表現したかということになると、わしとしてはなんとも言えんな。だが、あの娘のことだから、むろん、わしときみがここで考えもおよばんようなことができたかもしれん。しかもなによりもいいことは、ここにいささかのスキャンダルもなかったことだよ、すべてが世間の目から見てtres comme il faut(実に礼儀正しく)はこんだことだよ。あの娘が社交界の地位をえようと望んだことは、むろん、明瞭《めいりよう》すぎるほどだが、たしかにあの娘にはそれだけのものがそなわっている。こうしたことは、アルカージイ――社交界にはよくあることだよ。あの娘は、きっと、それはみごとに、優雅に申込んだにちがいないよ。あれは――おごそかなタイプだよ、アルカージイ、修道女なんて、きみは一度言ったことがあったな。『おちついた娘』、わしはまえまえからこう呼んでいたんだよ。だいたいあの娘は――老公爵の養女みたいなもので、もうたびたび自分に寄せられた老公爵の好意を見ていたのだろうよ。もうだいぶまえだが、あの娘はわしに言ったことがあったよ、『わたしあの方をそれは尊敬し、りっぱなお方だと思っていますわ、それと同時にお気の毒だと思って、心から同情しておりますの』といったようなことをな、だからわしはすこしは覚悟させられていたわけだ。わしにこれがすっかり知らされたのは今朝のことだよ、あの娘の依頼を受けて、代理として、わしの息子、つまりあれの弟のアンドレイ・アンドレーエヴィチが、知らせてくれたわけだ。きみは、たぶん、彼を知らんだろうな。わしも半年にきっかり一度だけ会うことにしてるんだが。あの子が恭々《うやうや》しく姉の決意を伝えてくれたよ」
「じゃそれはもう公表されたんですね? へえ、おどろきましたねえ!」
「いや、まだぜんぜん公表されてはいないよ、ある時期までな……わしはそれ以上のことは知らんのだよ、だいたい、わしはつんぼさじきにおかれているのでな。でも今言ったことはみなたしかなことだよ」
「でもそうなったらカテリーナ・ニコラーエヴナは……あなたはどう思います、こんな酒のさかなはビオリングには気に入らんでしょう?」
「それはわしは知らんな……でも、実のところ、気に入るわけはないな。しかしアルカージイ、アンナ・アンドレーエヴナはそういう意味においても――このうえなくしっかりした女だよ。しかし、アンナ・アンドレーエヴナには、わしもおどろいたよ! 昨日の朝だよ、『あなたはアフマーコワ未亡人を愛してますね?』などとわしに確かめたのは。おぼえてるだろう、わしが昨日びっくりしてきみに話したのを? わしが娘と結婚したら、あれがその父と結婚するわけにもゆくまいじゃないか? これでわかったろう?」
「あっ、ほんとですね!」とわたしは叫んだ。『でも、ほんとにアンナ・アンドレーエヴナは考えたのでしょうか、あなたが……カテリーナ・ニコラーエヴナとの結婚を望むかもしれないなんて?」
「どうもそうらしいな、アルカージイ、ところで……もうきみは出かける時間じゃないのか、お目あてのところへ。わしは、どうも頭がずきずきしてな。ルチアでもかけさせよう。わしは華麗なる退屈というやつが好きでな、しかし、これはもう話したな……同じことのむしかえしはやりきれん……まあ、とにかくここを出ようか。わしはきみが好きだよ、アルカージイ、だがこれで別れよう。わしは頭か歯が痛いときは、むしょうに一人でいたくなるのだよ」
彼の顔になにか苦しそうなしわがあらわれた。いまでもわたしは、彼はそのとき頭が痛かったのだと信じている。頭が痛かっただけなのだと……
「じゃ明日」とわたしは言った。
「明日とはどういうことだね、明日なにかあるのかい?」彼は顔をゆがめて笑った。
「ぼくが行かなかったら、あなたが来てください」
「いや、わしは行かんが、きみがとんでくるだろうさ……」
彼の顔にはなにか露骨な悪意のようなものがあった、が、わたしはそれにさえ気をとめなかった。このような大事件が起っているのだ!
公爵は実際に健康がすぐれないで、一人で家にこもって、濡《ぬ》れタオルを頭にまきつけていた。彼はわたしをもどかしい思いで待っていた。彼は頭だけが痛かったのではなかった、彼のすべてが精神的にうちのめされていたのである。ここでまた先まわりしてことわっておくが、この数日ずっと、ついに破局がくるまで、わたしはどういうものか、ほとんど発狂するほどに激情に憑《つ》かれた人々にばかり出会うことになって、そのために自分でも知らぬまに感染したようになっていたにちがいないのである。わたしは、白状すると、悪意をいだいてここへ来たし、それに昨日彼のまえで泣いたのが、どうにも恥ずかしくてならなかった。そのうえ、彼とリーザにはまんまと欺《だま》されてきたので、いやでも自分の間抜けさかげんを見せられる思いがした。要するに、わたしが彼の部屋に入ったとき、わたしの心の弦は調子が狂っていたのである。しかしこうしたとってつけた不自然なものはすぐにおちてしまった。わたしは彼を正しく見てやらなければならない。憑きものがおちたように彼の疑り深さがくずれおちてしまうと、彼はすっかり素直になって、ほとんど子供っぽいようなやさしさと、信頼と、愛があらわれたのである。彼は涙をうかべながらわたしに接吻すると、すぐに思っていることを話しだした……そう、わたしはたしかに彼には必要な相談相手だった。彼の言葉と思想の流れにはおどろくほどの乱れがあったからである。
彼はリーザと、それもできるだけ早く、結婚するつもりだという意図を、きっぱりとわたしに言明した。
「信じてください、彼女が貴族の生れではないということは、いささかもわたしを迷わせたことはありません」と彼はわたしに言った。「わたしの祖父は、近所の地主が所有していた農奴劇団の歌手だった農奴の娘と結婚したのです。そりゃもちろん、わたしの家族たちはわたしに彼らなりの希望はかけています、でも今度は譲歩しなけりゃならんでしょうし、別に醜い争いはないと思います。わたしはたち切りたいのです、今のすべてのものと完全に絶縁したいのです! すべてを別なものにするのです、いっさいを新しくはじめるのです! どこがよくてあなたの妹さんがわたしを愛してくれたのか、わたしにはわかりません、だがもう今は、たしかに、あのひとがいなければわたしはこの世に生きていかれないでしょう。心の底からあなたに誓って言いますが、わたしは今ルガでのわたしたちの出会いを宿命と見ているのです。あのひとは『底知れぬわたしの堕落』のためにわたしを愛してくれたのだ、とわたしは思っています。だが、この意味がわかりますか、アルカージイ・マカーロヴィチ?」
「もちろんですとも!」とわたしは確信に充ちた声で言った。
わたしは書卓のまえの肘掛椅子《ひじかけいす》に腰を下ろし、彼は室内を歩きまわっていた。
「わたしはあのめぐりあいのもようを、ありのままにすっかりあなたにお話しなければなりません。きっかけはわたしが心の秘密をあのひとに打明けたことなのです。これはあのひとにだけしか打明けていませんから、あのひとだけしか知らないことです。いまだに誰も知りません。そのころわたしは絶望にしずんだ心をいだいてルガに行き、ストルベーエワ夫人の別荘にいました。なぜそこへ行ったのか自分でもわかりませんが、おそらく、完全な孤独を求めていたのでしょう。わたしはそのころ――連隊の勤務をやめたばかりでした。その連隊には外国でアンドレイ・ペトローヴィチとの例の出会いがあって、あちらからもどってから勤務したのでした。その当時わたしは金まわりがよくて、派手《はで》に金をつかい、華麗な生活をしていました。わたしはなるべく仲間の士官連中の気にさわるようなことはしないようにしていましたが、それでも彼らはわたしをきらいました。実を言うと、わたしは誰にも好かれたことがなかったのです。連隊にステパーノフ某という一人の少尉がいました。正直のところ、まるで中身のない、つまらない男で、しかも妙にひがみっぽいようなところもあって、一言にしていえば、なんの取柄《とりえ》もない男です。ただし、正直者であることは言うまでもありません。彼はわたしに慣れて、わたしも彼には気を許し、ほとんど毎日のように家に訪ねてきて、一日中|隅《すみ》のほうに黙念と、しかしどっしりと構えて坐りこんでるというふうで、しかしすこしもわたしのじゃまはしません。あるときわたしは彼にある滑稽《こつけい》なエピソードを話して聞かせましたが、調子にのりすぎていろんなくだらん話を織りまぜているうちに、連隊長の娘がわたしにおだやかでなく、連隊長はわたしにお目あてがあるから、わたしの望むことは、もちろんすっかりかなえてくれるはずだなどと言ってしまったのです……要するに、こまかい話ははぶきますが、ここからあとで実にややこしい、忌まわしい中傷が出たわけなのです。その火元はステパーノフではなくて、わたしの従卒だったのです。やつがすっかり盗み聞いて、頭の中にしまいこんだのですね、というのはその若い令嬢の名誉を傷つける実に滑稽な笑話がひとつ流布されていたからなのです。さて、この中傷が表沙汰《おもてざた》になって、この従卒が士官たちに訊問《じんもん》されるとステパーノフの名を出してしまいました。つまりわたしがステパーノフに話したということを言ったわけです。ステパーノフは聞いたことをどうしても否定できない立場に追いこまれました。しかもこれは名誉に関する問題です。おまけにわたしの話の三分の二はうそだったので、士官たちは激昂《げつこう》するし、連隊長としては放《ほう》っておくわけにはいかず、われわれ一同を集めて、真相を糾明《きゆうめい》することになりました。そこでステパーノフは全士官たちの注視の中で、聞いたか、聞かなかったか? と問われたわけです。すると彼はいっさいをありのままに供述しました。さて、そこでわたしはいったいどうしたでしょう、千年の名門を誇る公爵であるわたしがです? わたしは否定して、ステパーノフを虚偽の陳述をしたと面罵《めんば》したのです、といってももちろんいんぎん無礼に、『彼のうけとり方がまちがっていた』とかなんとか、そうした意味のことを言ったわけですが……また詳細ははぶきますが、要するにわたしの立場の有利な点は、ステパーノフがしょっちゅうわたしの家に来ていたので、わたしが、ある程度真実らしく、彼がある利益をねらってわたしの従卒としめしあわせたというふうに事態をでっち上げることができたことでした。ステパーノフはただ黙ってわたしを見て、肩をすくめただけでした。わたしはそのときの彼の目を永久に忘れることができません。その後彼はすぐに退官願いを出しました、しかし、それからどういうことが起ったと思います? 士官たちが、一人のこらず、急いで彼を訪ねて、退官願いの撤回を説得したのです。二週間後にわたしも連隊を退きました。誰もわたしを追いだしたわけでも、退官を勧告したわけでもありません。わたしは家庭の事情を口実にしたのでした。こうしてこの事件は終りました。はじめのうちはわたしはまったく平気で、かえって士官連中に腹をたてていたくらいでした。そしてルガで、リザヴェータ・マカーロヴナと知り合ったわけですが、それから一月もすると、わたしは自分のピストルをながめて、死を考えるようになったのです。なにもかも暗い目で見るようになったのですよ、アルカージイ・マカーロヴィチ。わたしは連隊長と全士官|宛《あて》に手紙を書いて、わたしの虚偽をすっかり告白し、ステパーノフの名誉を回復してやりたいと思いました。手紙を書きおわると、こう自問しました、『発送して、生きているか、それとも発送して、死ぬか?』わたしはこの問題をおそらく解決できなかったでしょう。ところが偶然が、ほんのちょっとした偶然が、リザヴェータ・マカーロヴナとあわただしい奇妙な話をする機会をわたしにもたせて、それが急にわたしを彼女に近づけたのです。それまでも彼女はストルベーエワの別荘によく来ていましたし、わたしたちは顔を合わせると、軽く会釈しあうだけで、ほとんど話もしなかったのです。わたしは突然いっさいを彼女に打明けました。そしてそのときなのです、彼女がわたしに救いの手をさしのべてくれたのは」
「どんなふうに彼女は問題を解決したのです?」
「わたしは手紙を送りませんでした。彼女が送らないように決めたのです。その理由はこうでした。手紙を送ることは、もちろん、高潔な行為で、十分にすべての汚辱をぬぐい去るでしょうし、しかもそれよりももっともっと大きなものでしょうが、しかしそれに自分が堪えられるでしょうか? 彼女の意見は、誰も堪えられまいということでした、なぜならそうしたら未来が亡びてしまって、もはや新生活への復活は不可能だからだというのです。それに、ステパーノフがひどく苦しんだというのならともかく、そんなことをしなくても将校団によってその正しさが認められたじゃないかというのです。一言にしていえば――逆説です。だが、彼女がわたしをささえてくれて、わたしはすっかりそれに服したのでした」
「それは小ざかしい、女らしい決定だ!」とわたしは叫んだ、「彼女はそのときすでにあなたを愛していたのだ!」
「でもそれがわたしを新生活へ更生させたのですよ。わたしは自分を改造し、生活を変えて、自分に対しても、彼女に対してもりっぱに償いをすることを、自分に誓ったのでした、そして――それがどんな結果に終ったか! あなたといっしょにルーレットに行ったり、カルタ賭博《とばく》をしたりという恥ずかしい結果ですよ。わたしは遺産をまえにして自制心を失ってしまったのです、華やかな生活と、取巻き連と、競走馬にのぼせ上がってしまったのです……わたしはリーザを苦しめました――なんという恥ずかしいことでしょう!」
彼は手で額をぬぐって、室内をひとまわりした。
「わたしもあなたもロシアに共通の運命に見舞われたのですよ、アルカージイ・マカーロヴィチ。あなたもどうしてよいかわからないし、わたしもどうしてよいかわからない! ロシア人というものは慣習によって規定されたおきまりの軌道からちょっとでもはずれると――もうどうしてよいかわからないのです。軌道の中ではすべてが明白です、収入、官等、社会的地位、馬車、訪問、勤務、妻、なにひとつわからないものはありません――ところがちょっとでも変ったことがおきると、もう自分がわからなくなってしまう! まるで風に舞う木の葉のようなものです! どうしてよいかわからない! この二月《ふたつき》わたしは軌道の中にふみとどまろうとつとめてきました、軌道を愛しました、軌道に執着しました。あなたはここへ来てからのわたしの堕落の深さをまだ知らないのです。わたしはリーザを愛しました、心から愛しました、それでいて同時にアフマーコワを思っていたのです!」
「まさか?」とわたしは胸をえぐられた思いで叫んだ。「そういえば公爵、あなたは昨日ヴェルシーロフのことで、カテリーナ・ニコラーエヴナに対してなにか卑劣な行為をあなたにそそのかしたとか言いましたね?」
「わたしは、あるいは大げさに考えて、あなたの場合のように、彼に対してもわるく疑ったのかもしれません。あれは忘れてください。どうです、ルガ以来ずっと今日まで、わたしが人生の高い理想をいだいていなかったのではないか、そんなふうにあなたには見えましたか? 誓って言いますが、それはわたしをいっときも見捨てたことがなかったのです、そして常にわたしのまえにあって、わたしの心の中でその美しさをいささかも失わなかったのです。わたしはリザヴェータ・マカーロヴナにあたえた更生の誓いを忘れませんでした。アンドレイ・ペトローヴィチは、昨日ここで貴族階級を論じながら、なんら耳新しいことを言ってくれませんでした、そうですね。わたしの理想は固く心の中に根をはっています。数十ヘクタールの土地(ただの数十ヘクタールです、だって遺産からわたしの手にのこるのはもうほとんどなにもないのですから)、それから社交界や俗世的な出世との完全な絶縁、田舎《いなか》のささやかな屋敷、家族、そして自分は農耕かなにかそうしたものに従事する。これがわたしの理想です。そうです、わたしの一門でこれは――別に珍しいことではありません。父の兄弟も、祖父も自分で耕作をしたのです。われわれは――まあ千年そこそこの公爵家で、ローガン家のような名門ではありますが、しかし乞食《こじき》同然の貧乏貴族です。そしてそれをわたしは子供たちにもおしえるつもりです。『よくおぼえておくんだよ。おまえは――貴族で、おまえの体の中にはロシアの公爵家の神聖な血が流れているんだよ、しかしおまえのお父さんが自分で土地を耕したことを決して恥じてはいけないよ。おまえのお父さんは農耕を公爵らしくやったのだからな』とね。わたしはこのわずかばかりの土地のほかは、子供たちに財産はのこさないだろうが、そのかわり最高の教育を受けさせます、これは自分の義務とするつもりです。おお、そこはリーザが助けてくれるでしょう。リーザ、子供たち、労働、おお、わたしとリーザはこうしたことをどれほど空想したことでしょう、ここで、この部屋で、二人でどれほど語り合ったことでしょう、しかもどうです? わたしは同時にアフマーコワを思っていたのです、すこしも愛していないあの女をです、そして社交界を沸かせる豪華な結婚の可能性を考えていたのです! そして昨日ナシチョールキンがもたらした、あのビオリングとの噂《うわさ》を聞いてはじめて、わたしはアンナ・アンドレーエヴナを訪問する決意をしたのです」
「でも、あなたはことわりに行ったんじゃないのですか? それは誠実な行為だとぼくは思いますがね?」
「あなたはそう思いますか?」彼はわたしのまえに立ちどまった、「いや、あなたはまだわたしの本性を知らないのです! いや……むりもない、ここにはわたしが自分でもわからないなにものかがあるのですから。わたしを突きうごかしているのは、どうも、本性だけではないようです。わたしは、アルカージイ・マカーロヴィチ、あなたが心底から好きです、それにこの二月《ふたつき》あなたには申し訳ないことをしたと深く心で詫びています。だからわたしは、リーザの兄さんとしてのあなたにすべてを知ってもらいたいのです。わたしがアンナ・アンドレーエヴナのところへ行ったのは、結婚を申込むためだったのです、ことわりに行ったのではないのです」
「そんなことがあっていいのですか? でもリーザの話では……」
「わたしはリーザを欺《だま》したのです」
「それじゃ、あなたが正式の申込みをして、アンナ・アンドレーエヴナがそれを拒否したのですね? そうですね? それにちがいありませんね? こまかいところがぼくにはひじょうに重大なのですよ、公爵」
「いや、わたしは申込みはぜんぜんしませんでした、しかしそれもただそれを言いだす暇がなかったからです。むこうから先手をうたれてしまったのですよ、――むろん、ずばりとそう言ったわけではありませんが、すぐにそれとわかる明らかな表現で、この話がもうこれでおしまいなことを、『デリケートに』わたしにさとらせたわけです」
「というと、やはり申込みをしなかったということで、あなたの自尊心は傷つけられなかったわけですね!」
「あなたは本気でそんなふうに考えることができるのですか! じゃ、自分の良心の裁きはどうなるのです? リーザは、わたしが欺いた……ということは、捨てようとしたということですが、そのリーザはどうなるのです? 自分と、祖先たちの霊に誓った――更生して、これまでのいっさいの卑劣な行為の償いをするという誓約は、どうなるのです? お願いです、このことは妹さんに言わないでください。おそらく、彼女はこのことだけはわたしを許すことができないでしょう! わたしは昨日から病にたおれました。そんなことよりも、今はもうすべてが終ったようです、そしてソコーリスキー公爵家の最後の一人が監獄へ送られることでしょう。かわいそうなリーザ! わたしは、アルカージイ・マカーロヴィチ、今日一日待ちきれぬ思いであなたを待っていたのです、リーザの兄としてのあなたに、彼女もまだ知らないことを打明けておこうと思って。わたしは――刑事犯なのです、××鉄道の偽造株券の謀議に参加していたのです」
「またなんてことを! 監獄へですって?」わたしは思わず立ち上がって、おびえた目で彼を見はった。彼の顔は深い、暗い、出口のない悲愁にとざされていた。
「掛けてください」と彼は言って、自分もわたしのまえの肘掛椅子に腰を下ろした。「ともあれ、まず事情を話しましょう。一年とすこしまえになりますが、リーディヤとカテリーナ・ニコラーエヴナといっしょにいたあのエムスの夏のことです、それからパリ、わたしが二月ほどパリへ行ったときのことです。パリで、当然、わたしは金が足りなくなりました。そのころちょうどステベリコフに出会ったわけです。もっとも、この男はまえから知っていたのですが、彼はわたしに金を出しました、そしてもっと出すことを約束して、そのかわりわたしにも力をかしてくれとたのんだわけです。彼は画家、図工、製版工、石版印刷工その他、化学処理のできる技術家を必要としていたのでした――ある目的のためにです。その目的については、彼は最初からかなりあからさまに言ってのけました。しかもどうでしょう? 彼はわたしの気性をのみこんでいたのですよ、――わたしがあっさり笑いとばすにちがいないことをね。彼のねらいというのは、わたしが小学校のころから知っていて、今は亡命しているロシア人、といってもロシアの生れではないが、ハンブルグのどこかに住んでいた男なのです。その男はロシアですでに一度ある偽造紙幣事件に関係したことがあるのですが、その男にステベリコフがねらいをつけたわけなのです。ところが紹介状がなければどうにもならんというので、それをわたしにたのんだわけです。わたしは簡単に二行ばかり書いて渡して、それっきり忘れていました。その後二度ばかり会って、わたしはそのころたしか三千ルーブリほど受取ったはずです。しかしこのことはそれこそきれいに忘れていました。ここでわたしはしょっちゅう彼から金を借りましたが、必ず手形か担保を入れましたし、彼はまるで奴隷みたいにぺこぺこしていたのですが、それが昨日になって突然、わたしが――刑事犯だと、はじめて彼に知らされたのです」
「いつです、昨日の?」
「ほら、昨日の朝、ナシチョールキンが来るまえに、わたしと彼が書斎でどなりあいをやったでしょう、あのときですよ。彼ははじめて、しかも実に露骨に、アンナ・アンドレーエヴナのことをわたしに言いだしたのです。わたしがなぐろうとして手を振り上げると、彼はいきなり立ち上がって、わたしが彼と同じ穴のむじなで、彼の共犯者で、彼同様の詐欺師であることを忘れないでもらいたい、――とまあ、要するに、言葉はこのとおりではないが、こういう意味のことを言ったのです」
「ばかげたことですよ、そんなの妄想《もうそう》じゃありませんか?」
「いや、それが――妄想じゃないのです。彼は今日来て、もっと詳しく説明したのですが、偽造株券はもうとうに出まわっていて、これからもまだ出されることになっているが、もうどことかで発覚しはじめたらしいというのです。わたしは、もちろん、局外者ですが、しかし『あのときあの紹介状を書いてくれたのはあなたですからな』と、こうステベリコフはすごむのですよ」
「でも、あなたはそれがなんのためか知らなかったのでしょう、それとも?」
「知っていたのです」と低く答えて、公爵は目を伏せた。「といって、知っていたような、知らなかったようなものですが、あまり滑稽なので、そのときは笑いとばしてしまったのです。そのときはそんなことはなにも考えませんでした、まして偽造株券なんてものはわたしにまるで必要がなかったし、そんなものを造る気はありませんでしたから。だが、しかし、そのとき彼がわたした三千ルーブリですが、これはその後彼は貸し勘定の中にくり入れようともしなかったし、わたしもそのままにしておいたのです。しかし、あなたもおどろいたでしょう、わたしが株券偽造の仲間だったとは? わたしは知らなかったではすまされないのですよ、子供じゃありませんからね。知っていたが、おもしろくて、卑劣な犯罪者どもに手をかしたのですよ……金がほしさに! ということは、わたしも株券偽造の犯人だということです!」
「いや、それは誇張ですよ。あなたがまちがいをおかしたことは事実でしょうが、そこまで言うのは誇張というものです!」
「ここで鍵《かぎ》をにぎっているのは、ジベーリスキーという男なのです。まだ若いが、裁判のことに詳しく、代言人の助手みたいなことをやってる男です。この株券偽造には彼も一枚かんでいて、その後例のハンブルグの男の使いと称してわたしを訪ねてきたのですが、もちろんたいした用事などあるわけがなく、わたしも彼がなんのために来たのかわからなかったほどで、株券のことなどおくびにもださなかったのだが……しかし、彼の手にわたしの手紙が二通のこされたのです、両方とも二行ほどの短いものですが、これはもちろん証拠になります。それを今日わたしはつくづくと思い知ったのです。ステベリコフの話だと、このジベーリスキーが仲間のがんで、なんでもあちらで誰かの金を盗んだとかで、公金らしいということですが、しかももっと大口をねらって、亡命をたくらんでいるというのです。そこで亡命の援助金として、少なくとも八千ルーブリは彼にやらなくちゃならんというのです。遺産のわたしの分け前でステベリコフの分はかたづけられるのですが、ステベリコフは、ジベーリスキーのほうもなんとかしてやってくれという……要するに、わたしの遺産の分け前をそっくり渡して、そのうえさらに一万ルーブリ――これが彼らの最後通告なのです。そうすればわたしの二通の手紙を返すというのですよ。彼らは――共謀してるんです。それは見えすいています」
「ばかな話ですよ! だって彼らがあなたを密告したら、自分たちもつかまるじゃありませんか! ぜったいに密告なんてしませんよ」
「わかります。だが彼らは決して密告するなどと脅迫しているのじゃありません、ただこう言ってるだけなのです、『わたしらはもちろん密告などしませんよ、だが、事が露見したら、そのときは……』とこれだけなのですが、わたしはそれだけで十分だと思うのです! どんなことになろうと、たといその手紙が今わたしのポケットの中にあろうと、そんなことはどうでもいいのです、ただこの詐欺師どもと手を切ることができないで、いつまでも、いつまでも、つきまとわれなければならない、これがわたしにはたまらないのです! ロシアを欺し、子供たちを欺し、リーザを欺し、自分の良心を欺さなければならないなんて……」
「リーザは知ってるんですか?」
「いや、ぜんぜん知りません。知ったら、とても堪えられないでしょう、普通の体じゃありませんから。わたしは今軍服を着ていますが、自分の連隊の兵隊たちに会うたびに、いつもこの軍服を着ていられる身ではないのだと、胸のつぶれる思いなのです」
「ねえ」とわたしは不意に叫んだ、「ごたごた言ってることはありませんよ。あなたには救われる道はひとつしかありません。ニコライ・イワーノヴィチ公爵のところへ行くのです、そしてなにも言わないで、一万ルーブリ貸してくれとたのむのです、それからその二人の悪党を呼んで、きっぱりと手を切り、あなたの手紙を買いもどすのですよ……それですべてはおしまいです! きれいさっぱりとなって、農耕の生活へふみだしてください! 妄想など捨てて、生活を信頼するのですよ!」
「わたしはそれを考えました」と彼は力強く言った。「今日一日考えて、ついに決意したのです。ただあなたを待っていたのです。これから出かけます。実は、これまでわたしはニコライ・イワーノヴィチ公爵から金を借りたことは一度もなかったのです。彼はわたしたちの家族にはよくしてくれましたし、いろいろと……親身になってもくれました、しかしわたしは、個人としては、金を借りたことはありませんでした。でも今度はわたしも決意しました……わかりますか、わがソコーリスキー家のほうが、ニコライ・イワーノヴィチ公爵家よりも古い家柄なのですよ。あちらは――若い家系で、しかも傍系で、それにかなりあいまいなところもあって……両家の先祖は敵視しあっていました。ピョートル大帝の改革の当初、わたしの高祖父は、やはりピョートルといいましたが、分離派宗徒の群れに投じて、コストロマ地方の森林の中を放浪していました。このピョートル公爵が二度目の妻に選んだのが平民の女で……そこからこの別なソコーリスキー家が出てきたわけです、しかしわたしは……いったいなにを言ってるんだろう?」
彼はひどく疲れていて、どうも話がみだれがちだった。
「気をしずめることですよ」とわたしは帽子をつかんで立ち上がった、「眠ること、これが――いちばんですよ。ニコライ・イワーノヴィチ公爵は決してことわらないでしょう、特に今はご機嫌《きげん》ですからね。あちらの話を知ってるでしょう? 知らない、ほんとですか? 傑作な話を聞いたんですが、老公爵が結婚するというのですよ。これは秘密ですが、もちろん、あなたにかくすことはありません」
そこでわたしは、もう帽子を手にして立ったまま、いっさいを彼に話した。彼はなにも知らなかった。彼は急いでこまかい点を、特に時間と、場所と、信頼度をわたしに確かめた。わたしは、むろん、話のようすから推すと、それが昨日の彼のアンナ・アンドレーエヴナ訪問の直後におこったらしいということを、かくさずに言った。この知らせが彼にあたえた異常なまでの苦痛を、わたしは言いあらわすことができない。彼の顔はまるでねじれたようにゆがんで、ひきつった薄笑いがはげしく唇をひんまげた。そのうちに顔面が蒼白《そうはく》になって、目を伏せて、じっと考えこんでしまった。わたしはそこで、昨日のアンナ・アンドレーエヴナの拒絶によって彼の自尊心が実は深い傷を受けていたのであることを、はっきりと見てとった。おそらく、病的な気分にある彼の脳裏には、この瞬間、昨日の彼女のまえにおける自分の間のぬけた低劣な姿が、まざまざとうかんだのであろう。これでわかったのだが、彼女から拒絶されようなどとは、彼は夢にも思っていなかったのである。そして、あげくが、リーザに対して、それも無意味に、このような卑劣な行為をしてしまったという悔恨! 興味あるのは、こうした上流社会の伊達男《だておとこ》たちは互いに相手を何者と思い、どういう根拠にもとづいて尊敬しあうことができるのかということである。この公爵にしても、アンナ・アンドレーエヴナが彼とリーザ、つまり実際には自分の妹との関係を、すでに知っていると予想することができたはずだし、よしんばまだ知らないにしても、いずれ知られることはわかりきったことである。それなのに彼は、彼女が承諾するものと信じきっていたのである。
「それであなたは、本気でそんなことが思えたのですか」彼は不意に昂然《こうぜん》とさげすむような目をわたしになげつけた、「わたしが、このわたしが、そういうことを聞いたあとでなおかつ、ニコライ・イワーノヴィチ公爵のところへおめおめ金を借りに行けるなどと! 今わたしを拒絶したばかりの女の婿《むこ》となる男のところへ、――なんたるさもしいことです、これ以上の奴隷根性がありますか! 足がくさっても行きません、もうすべてが破滅しました、そしてもしこの老人の援助がわたしの最後の希望であったのなら、そんな希望も破滅させるがいいのです!」
わたしは心の中でひそかに彼の考えに同意した、しかし現実にはやはりもっと広い目を向ける必要があった。あんな老いぼれの公爵がはたして婿と言えるような男だろうか? わたしの頭の中にはいくつかの考えが燃えたぎりはじめた。もっとも、わたしはそれでなくても、明日はぜひ老公爵を訪ねようと、さっきから心に決めていたのだった。今はわたしはこの哀れな公爵の心の苦痛をすこしでもやわらげて、とにかく寝かしつけようと思った。『さあぐっすり眠りなさい、そうしたら頭もすっきりして、いい考えがうかびますよ!』彼は熱をこめてわたしの手をにぎった。しかしもう接吻しようとはしなかった。わたしは明日の晩に寄ることを約束して、『話しましょう、大いに話しましょうよ、話すことがあまりにもたまりすぎましたからね』と言った。このわたしの言葉に彼はすてばち気味の妙な薄笑いを返した。
[#改ページ]
第八章
その夜は一晩じゅうわたしはルーレットや、カルタや、金貨や、金勘定の夢を見た。わたしは賭博台《とばくだい》にむかって、何番かにかけ、なにかをねらっているみたいに、たえずなにやら頭の中で計算していた。実を言うと、今日は一日じゅう、異常な印象の連続であったにもかかわらず、わたしはたえずゼルシチコフのルーレット場での勝利を思い出していたのである。わたしはその考えはおしつぶしたが、心にきぎみこまれた印象はおしつぶすことができないで、思い出すたびに体がふるえた。この勝利がわたしの心を咬《か》んだ。いったいわたしは生れながらの賭博者なのだろうか? 少なくとも――賭博者の素質をもっていることはたしかだ。これを書いている今でさえ、わたしはときどき筆をおいてぼんやり賭博のことを考えていることがある! ときには何時間も、頭の中で賭けの方法を考え、それがどのように展開し、わたしが何番にはって、それがどのくらいになるかなどと空想しながら、ぼんやり坐りこんでいる。そうだ、わたしの内部にはさまざまな『素質』がたくさんひしめいていて、そのために心が落着きをえられないのである。
わたしは十時にステベリコフのところへ出かけるつもりだった。わたしは歩いてゆくつもりでいたので、マトヴェイが来るとすぐに帰した。しばらくコーヒーを飲みながら、できるだけ考えをまとめてみることにした。なぜかわたしは満足していた。ちらと自分の心の中をのぞいてみて、なによりも、『今日はニコライ・イワーノヴィチ公爵を訪《たず》ねてみよう!』という考えに満足を感じていることがわかった。ところがこの日こそわたしの人生における宿命的な日で、まったく思いがけないできごとで幕があいたのである。
ちょうど十時にドアがいきなり突きとばされたようにあいて、タチヤナ・パーヴロヴナがとびこんできた。わたしはなにがきてもおどろかない覚悟はあったが、彼女の来訪だけはまったく予期しなかったので、びっくりしてとびあがった。彼女の顔ははげしい怒りに燃えて、動作は半狂乱だった。なにしに来たのか? と訊いても、彼女自身おそらくなにも言えなかったろう。あらかじめことわっておくが、彼女は今しがた彼女を震憾《しんかん》させたあるおどろくべき知らせを受けたばかりで、すっかり気が動顛《どうてん》していたのである。しかし、その知らせはわたしにも深刻なショックをあたえた。とはいえ、彼女はわたしの部屋に三十秒ほどしか、まあそれは極端としても、せいぜい一分とはいなかったのである。彼女はいきなりわたしにくってかかった。
「おまえはどこまで根性がくさってるんだ!」と彼女はいまにもつかみかからんばかりにわたしにつめよった。「ほんとに、畜生だよ、おまえは! なんてことをしでかしてくれたのさ? まだわからないんだね? 平気でコーヒーなど飲みくさって! ええ、このおしゃべり、こまねずみ、えっ、若いつばめがあきれるよ……おまえみたいなやつは鞭《むち》でひっぱたいてやりゃいいんだよ、ぐうの音《ね》もでないほど、ぶちのめしてやりゃいいのさ!」
「タチヤナ・パーヴロヴナ、なにごとがおこったんです? どうしたんです? お母さんになにか?……」
「自分で知るがいいよ!」と恐ろしい声で叫ぶと、彼女はさっと部屋から走り出た。わたしはたださっととびこんできてさっと出ていった彼女の姿を見ただけだった。わたしは、むろん、追いかけようとしたが、ある考えにひきとめられた。それは考えというのではなく、一種の不吉な予感であった。わたしは『若いつばめ』というのが彼女の罵言《ばげん》の中の要点であったことに思いあたった。といって、わたしはそれがなにをさしているのかさっぱり見当がつかなかったが、とにかく早くステベリコフの用件をかたづけて、ニコライ・イワーノヴィチ公爵のところへ行こうと思って、急いで外へ出た。『老公爵のところに――すべての鍵《かぎ》がある!』わたしは本能的にこう思った。
どこからどうして聞いたのか、おどろくほかはないが、ステベリコフはもうアンナ・アンドレーエヴナの件をすっかり、しかも詳細に知っていた。彼の話やジェスチュアははぶくが、彼は有頂天になっていた、『彼女のあざやかな手際《てぎわ》』に熱狂していた。
「これこそ――才女というものだよ! いや、まさに――水際だった手腕ですなあ!」と彼は叫んだ。「いやア、とてもわたしらのできる芸当じゃありませんよ。わたしらがこうしてぼんやりしてるまに、あちらじゃほんものの泉の水が飲みたくなって――あっさり飲んでしまったってわけですよ。あの方は……あの方は――古代の彫刻ですよ! 古代のミネルヴァの女神像が、現代の衣裳《いしよう》をつけているだけですよ!」
わたしは彼に用件に移るようにたのんだ。用件というのは要するに、わたしが予測していたように、公爵を説いて、ニコライ・イワーノヴィチ公爵に最後の援助を請いに行くようにしむけてくれということであった。
「さもないと彼は、それこそとんだことになりかねないし、もうわたしの意志ではどうにもならんのですよ。そうでしょう、ちがいますかな?」
彼はわたしの目をのぞきこんだ、が、わたしが昨日のこと以外になにか知っているとは、さすがに予想していなかったらしい。それに予想できるはずもなかった。それも当然である、わたしは『株券』のことを知っているような素ぶりも見せなかったのである。わたしたちの話し合いはかんたんにすんだ、そして彼はすぐにわたしに金を貸す話をしだした。
「ええ、かなり都合しますよ、かなりの大金をね、だから公爵に行くようになんとかすすめてくださいな。事は至急を要するんですよ、ぼやぼやしておれんのですわ。尻に火がついてるからこそ、あなたにも大いにはずまにゃならんのですよ!」
昨日のように、やりあって、喧嘩《けんか》わかれはしたくなかったので、わたしは万一を考えて、『努力してみます』と言いすてて、部屋を出ようとした。ところが不意に、彼がわたしを言いようのない驚愕《きようがく》につきおとしたのである。わたしがもうドアのほうへ歩きかけてから、彼は、だしぬけに、やさしくわたしの胴に腕をまわして、わたしに……まったく不可解なことを言いだした。
読者を疲れさせないために、こまかい点や話の筋道ははぶくことにしよう。要するに、わたしがよく出入りして知ってるだろうから、デルガチョフを紹介してほしい、ということなのである。
わたしはとっさに息をのんで、つまらん素ぶりで自分を裏切るようなことはすまいと全神経を緊張させた。それでも、すぐに、まったく知らないも同然で、行ったことがあるにしても、偶然に一度行っただけだと答えた。
「でも、一度出入りを許されたのなら、もう二度目も行けるでしょうがな、そうでしょう、ちがいますかな?」
わたしは率直に、しかしかなり冷淡に、それがなんのために必要なのか? と訊《き》いた。それにしても、わたしはいまだに理解できないのだが、見たところ決してばかではなく、ワーシンの言葉だと『実際家』であるはずの人間が、どうしてこれほどまで幼稚な考えをもつことができたのだろう? 彼はいささかのためらいもなく、わたしにこう説明したのである。
「デルガチョフの家には、わたしのにらんだところでは、きっとなにか禁制品があるにちがいない、厳重に禁じられているなにかがね、だから、そいつをつきとめれば、わたしはある程度の利益を得られるだろうってわけですよ」
彼はこう言うと、にやにや笑いながら、左目をパチッとわたしにつぶってみせた。
わたしははっきりした返事はいっさいしなかったが、それでも思案するようなふりをして、考えてみようと約束して、急いでそこを出た。事態は複雑になってきた。わたしはワーシンのところへ馬車をとばした。彼はちょうど家にいた。
「おや、あなたもですか!」と、わたしを見ると、彼は妙なことを言った。
彼のその言葉の意味はそのままにして、わたしはいきなり用件をきりだした。彼はすこしも冷静さは失わなかったが、しかし明らかに動揺していた。彼はすっかり詳細に訊きかえした。
「どうやら、あなたは勘ちがいしてるんじゃありませんか?」
「いや、ぜったいにそんなことはありません。意味はまったく明瞭《めいりよう》です」
「いずれにしても、あなたには深く感謝します」と彼は心から言った。「うん、実際に、それが事実だとしたら、あなたがある額の金の誘惑には抗しきれない、と彼は考えていたわけですね」
「それに彼はぼくの行状を知りすぎていますからね。賭博場《とばくじよう》には出入りする、金づかいは荒い、ひどいものですよ、ワーシン」
「噂《うわさ》は聞いてましたよ」
「ぼくがなによりもわからないのは、彼は、あなたもあそこに出入りしてることを知ってるはずだと思うのですが」とわたしは思いきって言った。
「彼はよく知ってますよ」とワーシンは至極あっさりと言った、「わたしがあの連中となんのかかわりもないことをね。それにあの青年たちはべらべらしゃべるだけで――それ以上の何者でもありませんよ。それは、しかし、あなた自身がよくご存じのはずだが」
わたしは彼がなにかわたしを信用していないふしがあるような気がした。
「いずれにしても、あなたの親切には深く感謝します」
「ぼくは聞いたのですが、なんでもステベリコフ氏の事業にちょっとしたまずいことがあったとか」とわたしはもうひとつ突っこんでみた、「少なくともぼくの聞いたところではある株券がどうとか……」
「どんな株券のことです?」
わたしはわざと『株券』をもちだしたのだが、それはもちろん、昨日の公爵の秘密を彼に話すためではない。わたしはただちらとほのめかして、彼の顔や目から、彼が株券についてなにか知ってるかどうかを、読みとろうと思っただけである。わたしはその目的を達した。彼の顔をかすめたかすかな一瞬のうごきから、彼はきっとなにか知っているにちがいない、とわたしは察したのである。わたしは『どんな株券』と訊いた彼の問いには答えないで、黙っていた。だが彼は、これも興味あることだが、それっきりこの話を打切ってしまった。
「リザヴェータ・マカーロヴナはお元気ですか?」と彼はなつかしそうにきいた。
「元気です。妹はいつもあなたをほめていましたよ……」
満足の色が彼の目に光った。彼がリーザに思いを寄せていることを、わたしはもうまえから見ぬいていた。
「このあいだここヘセルゲイ・ペトローヴィチ公爵が見えましたよ」と彼は不意に言った。
「いつです?」とわたしは思わず大きな声をだした。
「ちょうど四日まえです」
「昨日じゃありませんか?」
「いや、昨日は来ませんけど」
彼はけげんそうにわたしを見た。
「いずれこの訪問のことは、あなたに詳しくお話することになると思いますが、いまはただこれだけはあなたの耳に入れておいたほうがよいと思うので」とワーシンは謎《なぞ》めいたことを言った、「実はそのときの彼が精神も……それに頭脳までも、なにか正常な状態でないようにわたしには思えたのですよ。もっとも、わたしはもうひとつの訪問も受けたのですよ」と彼は不意ににやりと笑った、「今しがた、あなたの来るちょっとまえです。これもやはり、訪問者があまり正常な状態ではなかったと言わざるをえませんがね」
「公爵が今日も来たのですか?」
「いや、公爵じゃありません。わたしはもう公爵の話はしてませんよ。今さっきここに見えたのはアンドレイ・ペトローヴィチ・ヴェルシーロフですよ……あなたはなにも知りませんか? そんなことがこれまでありませんでしたか?」
「おそらく、あったでしょうね、でもいったいあなたと彼のあいだになにがあったのです?」とわたしは急いで訊いた。
「むろん、わたしはこれも秘密をまもらなきゃならんでしょうね……なにか妙ですね、あなたとの話は、お互いに秘密が多すぎて」彼はまたにやりと笑った。「アンドレイ・ペトローヴィチは、しかし、秘密にしてくれとは言いませんでした。それにあなたは――彼の息子さんですし、彼に対するあなたの愛情はわたしもよく知ってますから、この場合はむしろ、あなたの耳に入れておくほうがいいかもしれませんね。実は、こんなことを訊きに来たんですよ、『もし万一、近日中に、わたしが決闘をしなければならないようなことになったら、あなたは介添人《かいぞえにん》の役を引受けてくださいますか?』と言うのですよ。わたしは、もちろん、きっぱりとことわりました」
わたしは言いようのないおどろきをおぼえた。このニュースはなによりも不安をかきたてた。なにかが出来《しゆつたい》したのだ、なにかが起ったのだ、わたしのまだ知らないなにかが、きっとあったのだ! わたしは不意に、ヴェルシーロフが昨夜言った『わしは行かんが、きみがとんでくるだろうさ』という言葉を、ちらと思い出した。わたしはニコライ・イワーノヴィチ公爵のところに謎を解く鍵があることを、ますます強く予感して、一刻も早くかけつけようと思った。ワーシンは、別れしなに、もう一度わたしに礼を言った。
老公爵は毛布で足をつつんで、暖炉《カミン》のまえに坐っていた。彼は、わたしの来訪におどろいたみたいに、なにかけげんそうな目でわたしを迎えた。ところが実際は、ほとんど毎日のように、わたしを呼びに使いをよこしていたのである。しかし、彼はやさしくあいさつの言葉はかけた、だがわたしの最初の問いには、なにかすこし不機嫌《ふきげん》そうに、おそろしく散漫な答え方をした。ときどきなにか考えをまとめようとするらしく、じっとわたしの顔を見つめた。どうやら明らかにわたしにかかわりがあるにちがいないなにかを、忘れていて、それをしきりに思い出そうとしているらしかった。わたしは、もうすっかり話を聞いて、ひじょうに喜んでいると、率直に言った。とたんに愛想のよい善良な微笑が彼の唇《くちびる》に咲いて、彼は生き生きとした顔になった。彼の用心深さと猜疑心《さいぎしん》がたちまち消え失《う》せて、彼はそんなことは忘れてしまったかに見えた。実際に、彼はそんなことは忘れてしまったのである。
「わしの大好きなアルカージイ、わしにはわかっていたんだよ、きみがまっさきに来てくれることはな、そしてどうだね、わしは昨日すでに一人でこう考えたんだよ、『誰が喜んでくれるだろうな? うん、アルカージイはきっと喜んでくれる』とな。まあ、あとは誰も喜ばんだろうが、そんなことはどうでもよい。世間のやつらは――口がわるいものだが、そんなことは気にするほどのこともない……Cher enfant(ねえきみ)、これは実に崇高な、そして実にりっぱなことなんだよ……あの娘のことはきみもよく知ってるはずだが、あの娘もきみのことは心からほめてるよ。あれは、あれは――端正な、魅惑的な顔だよ、英国の版画の豪華本などにある顔だよ。あれは――英国の版画にもめったに見られないような、実に魅力にとんだ顔だよ……三年ほどまえにわしはそうした版画のコレクションを集めたことがあったが……わしはいつも、いつもこの意図をもっていたんだよ、いつもな。だからどうしてこれをいままで考えなかったのか、われながらふしぎでならんのさ」
「あなたは、ぼくのおぼえてるかぎりでは、アンナ・アンドレーエヴナをひじょうに愛して、特別に目をかけておられましたね」
「ねえきみ、わしは誰にも不幸をねがったことはない。親しい人たちと、縁者たちと、愛する人たちと心を許しあって暮す――これが天国だよ。誰でも――詩人たちも……早い話が、有史以前からこんなことはわかりきったことなんだよ。きみ、わしたちは夏のはじめはソーデンですごして、それからバド・ガシュテインへ行くんだよ。それはそうと、きみはずいぶん長いこと来なかったね、アルカージイ、ええ、どうしてたんだね? わしは待っていたんだよ。そうじゃないか、ねえ、あれからもうずいぶんになるよ。どれだけの日々がすぎたことやら。あいにくと、わしはおちつけなくてな。一人になると、じきに不安になるんだよ。だからわしは一人きりでいるわけにいかんのだよ、そうだろう? これは――自明の理だよ。わしはあの娘の最初の一言を聞いただけで、すぐにそれがわかったんだよ。おお、きみ、あの娘はたった二言言っただけなんだよ、ところがそれが……それがすばらしい詩のような言葉だったよ……ところで、きみはあの娘には――弟にあたるじゃないか、まあ弟みたいなものじゃないか、そうだろう? アルカージイ、わしがこれほどきみを愛したのもなにかがあったわけだ! 誓って言うが、わしはいつもこれを予感していたんだよ。わしはあの娘の手に接吻《せつぷん》して、泣きだしてしまったよ」
彼はまた泣こうとするのか、ハンカチをとりだした。彼は強く胸をゆさぶられていて、わたしが彼を知ってからおぼえているかぎりの、もっともばかげた『気分』におちいっていたようだ。いつもは、そしてたいていはそうだが、彼はもっとずっとはれやかで、そして元気だった。
「わしは誰でもみんな許してやりたいと思うよ、アルカージイ」と彼はまわらぬ舌でつづけた。「わしはみんなを許してやりたい気持なんだよ、そしてもうだいぶまえから誰にも腹をたてたことがないんだよ。芸術、la poesie dans la vie(人生における詩)、不幸な人々に対する援助、そしてあの娘、神聖な美しさ。Quelle charmante personne, a? Les chants de Salomon ...... non, ce n'est pas Salomon, c'est David qui mettait une jeune belle dans son lit pour se chauffer dans sa vieillesse. Enfin, David, Salomon,(なんという魅惑的な女だろう、あ? ソロモンの歌だよ……いや、これはソロモンではない。これはダヴィデだよ、自分の老いをあたためるために、自分の臥床に若い美女をはべらせたダヴィデだよ。しかし、ダヴィデ、ソロモン)、これがみなわしの頭の中で渦巻いているんだよ――ごちゃごちゃともつれあってな。すべてのものが、ねえきみ、偉大でもあり、その半面|滑稽《こつけい》でもありうるのだよ。Cette jeune belle de la vieillesse de David ―― c'est tout un poeme,(老ダヴィデのこの若い美女は――これこそ一編の詩だよ)、ところがポール・ド・コックに書かせたら scene de bassinoire(淫猥な情景)になって、わしらを失笑させたかもしれん。ポール・ド・コックは才はあるが、韻律も、趣味もない……カテリーナ・ニコラーエヴナは笑いおる……わしは言ってやったんだよ、互いにじゃまをしないようにしようってな。わしらはそれぞれロマンスのつぼみをもったのだから、花を咲かせようじゃないか。それが――空想であっても、その空想をうばわれないようにしようじゃないか、とな」
「でも、どうしてそれが空想なんです、公爵?」
「空想? 空想とはなんだね? まあ、空想でもいいさ、ただその空想をいだいたまま死なしてもらいたいのさ」
「ええ、公爵、どうして死ぬんです? 生きることです、今はただ生きることだけですよ!」
「だが、わしはいったいなにを言ってるのだろう? こんなことばかりくりかえしているんだよ。人生がどうしてこんなに短いのか、わしにはどうしてもわからない。そりゃむろん、退屈させないためにちがいない。人生もやはり造物主の芸術作品だからな。プーシキンの詩のような、非のうちどころのない完全な形の作品だよ。短いということは芸術の第一条件だ。でも、退屈しない者には、もっと長い生命をあたえてやってもよさそうなものだ」
「ねえ、公爵、それはもう公表されたのですか?」
「いや! きみ、まだだよ。わしたちはみんなでそう申しあわせたんだよ。これはまだ内輪のことだよ、ほんとの身内だけのな。とりあえずカテリーナ・ニコラーエヴナにだけはすっかり打明けたんだよ、あれには申し訳ないと思ってるのでな。おお、カテリーナ・ニコラーエヴナ――あれは天使だよ、天使のような女だよ!」
「そうです、そのとおりですよ!」
「そうかね? きみもそう思うかね? きみはあれの敵だと、わしは思っていたがな。あっ、そう、思い出したが、あれはもうきみをよせつけないようにわしにたのんでいたっけ。ところがどうだろう、きみが入ってくると、とたんにわしはそれを忘れてしまったんだよ」
「なんですって?」とわたしはとびあがった、「どうしてです? いつのことです?」
(予感はわたしを欺かなかった。そうだ、わたしはあのタチヤナ・パーヴロヴナの家での一件以来こうした予感をもっていたのだ!)
「昨日だよ、きみ、昨日のことだよ、それでわしはへんに思ったんだな、どうしてきみがここへ現われたのか。門番にとおすなと言いつけてあるはずだから。どんなふうにしてきみは入ってきたんだね?」
「どんなふうもありません、ただ入ってきたんです」
「そうだろうな。もしきみがなにか策を弄《ろう》して入ろうとしたのなら、おそらくつかまったにちがいない、ところがすっすっとなんでもなく入ってきたから、門番どもはあっけにとられてとおしたんだろう。無心は、きみ、真に最大の狡知《こうち》だよ」
「ぼくはさっぱりわかりませんが、すると、あなたもぼくをよせつけないことに決めたのですか?」
「そうじゃない、きみ、わしはただ局外に立つと言っただけだよ……ということは、つまりそれを認めたということになるわけだ。わかってくれな、きみ、わしはきみが好きでたまらないのだよ。ところがカテリーナ・ニコラーエヴナがそれこそ本気で、あんまりうるさく言うものだから……あっ、そら来たよ!」
そのとき不意にドアのところにカテリーナ・ニコラーエヴナが現われた。彼女は外出の衣裳をつけて、以前にもよくあったように、出かけるまえの接吻をしに父の部屋に寄ったのであった。わたしを見ると、彼女ははっとしたように立ちどまり、すっかりうろたえて、さっと背を向けると、急いで出ていった。
「Voila(そらごらん)」公爵はひどいショックを受け、すっかり興奮して叫んだ。
「これは誤解です!」とわたしは叫んだ、「こんなことはほんの一分もあれば……ぼくは……ぼくはすぐもどります、公爵!」
そして、わたしはカテリーナ・ニコラーエヴナを追ってかけだした。
それから起ったことは、あまりにも目まぐるしく展開したので、わたしは事情を考慮することができなかったばかりか、とるべき態度に対するいささかの心構えをさえととのえる暇もなかった。もしわたしに心構えをする余裕がすこしでもあったら、わたしは、もちろん、別な態度をとっていたにちがいない! だがわたしは、小さな子供みたいにすっかりうろたえてしまった。わたしが彼女の部屋のほうへ走ってゆくと、途中で侍僕が、カテリーナ・ニコラーエヴナはもう玄関へ出て馬車に乗っているはずだと言った。わたしはあわてて正面の階段へとんでいった。カテリーナ・ニコラーエヴナはもう毛皮|外套《がいとう》を着て階段を下りてゆくところだった。彼女とならんで、というよりは彼女の手をひくようにして、長身のスマートな士官が下りていった。軍服を着て、剣をつけていたが、外套は着ていなかった。侍僕が外套をもってあとにつづいた。それが男爵であった。大佐で、年齢は三十五、六で、粋《いき》な士官のタイプで、やせぎすで、顔はすこし長すぎるほどで、赤っぽい口ひげをたて、睫毛《まつげ》まで赤っぽかった。顔はお世辞にも美しいとは言えないが、目鼻だちのけわしい、傲慢《ごうまん》な面構《つらがま》えをしていた。わたしはそのときの印象のままに、おおざっぱに書いているのである。それまでにわたしは一度も彼を見たことがなかった。わたしは帽子もかぶらず、外套も着ないで、走っていった。カテリーナ・ニコラーエヴナが先にわたしに気づいて、急いで彼になにやらささやいた。彼はこちらを振向きかけたが、すぐに侍僕と門番にあごをしゃくった。侍僕は表扉のすぐてまえでわたしのほうへむかってきかけたが、わたしはそれを突きのけて、玄関へとびだした。ビオリングはカテリーナ・ニコラーエヴナの手をとって馬車に乗せていた。
「カテリーナ・ニコラーエヴナ! カテリーナ・ニコラーエヴナ!」とわたしは意味もなく叫んだ。(ばかみたいに! 阿呆《あほう》みたいに! おお、わたしはすっかりおぼえている、わたしは帽子をかぶっていなかったのだ!)
ビオリングはまた荒々しく侍僕のほうを振向くと、大声でなにかどなった。一言か二言であったが、わたしは聞きとることができなかった。わたしは誰かにいきなり肘《ひじ》をつかまれたのを感じた。そのとき馬車が走りだした。わたしはまたわめいて、馬車のあとからかけだした。カテリーナ・ニコラーエヴナは馬車の窓からのぞいて、ひどく不安そうに見えた。わたしはそれをはっきりと見た。しかしわたしが夢中でとびだしたとき、まったく思いがけなく、いきなりビオリングに突きあたって、かなりひどくその足を踏んづけたらしい。彼は低くうっとうめくと、歯がみをして、いきなりわたしの肩をつかみ、憤然としてわたしを突きとばした。わたしは三歩ほどふっとんだ。その瞬間に彼に外套が渡された。彼はそれを肩にはおりざま、橇《そり》に乗りこみ、そして橇の上からわたしを指さして、侍僕や門番たちにまたなにごとか大声で叫んだ。すると彼らはわたしをつかんで、おさえつけた、そして一人がわたしに外套を投げてよこし、もう一人が帽子を突きだした――そして彼らがなにか言ったが、もうわたしはおぼえていない。彼らはなにやら言っていたが、わたしは突っ立ったまま聞いていた。なにもわからなかった。わたしは不意に彼らを突きとばしてかけだした。
なにがなにやらわからずに、道行く人々に突きあたりながら、わたしは辻馬車《つじばしや》をひろうことさえ気づかずに、やっとタチヤナ・パーヴロヴナの家まで走りついた。ビオリングがあのひとの目のまえでわたしを突きとばした! たしかに、わたしが彼の足を踏んづけた、だから彼は、まるで足のまめを踏まれたみたいに、夢中で本能的にわたしを突きとばしたのだ。(もしかしたら、実際に彼の足のまめを踏んだのかもしれない!)しかし、あのひとはわたしが侍僕たちにおさえつけられるのを見ていた。そしてこれがみなあのひとの目のまえでおこったのだ、あのひとの見ているところで! タチヤナ・パーヴロヴナの家にかけこんだとき、しばらくはわたしはものも言えなかった。下顎《したあご》が熱病にかかったみたいにがくがくふるえた。そうだ、わたしは熱病にかかっていたのだ、そればかりか泣きじゃくっていた……さもあろう、わたしはあれほどひどい侮辱を受けたのである!
「あ! どうしたんだね? たたきだされたのかい? あたりまえだよ、ろくでもないことばかりするからさ!」とタチヤナ・パーヴロヴナは言った。わたしは黙ってソファに腰を下ろして、彼女を見た。
「まあ、どうしたっていうの?」彼女はじろじろわたしを見まわした。「さあ、水をお飲み、水を、さあ! 言ってごらん、またなにかわるいことをしたんだね?」
わたしは、追いはらわれたこと、そして玄関先でビオリングに突きとばされたことを、ぼそぼそと語った。
「なにかすこしは道理がわかるようになったかい、ええ? さあこれを読んでごらん、目の保養になるからさ」
彼女はこう言って、テーブルの上から一通の手紙をとって、わたしにさしだすと、効果を待ちうけるようにわたしのまえに突っ立った。わたしはすぐにヴェルシーロフの筆跡に気づいた。わずか数行の短いもので、カテリーナ・ニコラーエヴナにあてた手紙だった。わたしはぎくりとした、そしてとっさに理解力が完全にわたしにもどった。この恐ろしい、醜悪な、ばかげた、ごろつき的な手紙の内容を一言半句のちがいなく、そのままここに述べることにする。
『カテリーナ・ニコラーエヴナ殿
あなたが先天的に、さらに後天的に、いかに淫蕩《いんとう》な婦人であるとは申せ、わたしはやはり、あなたが自分の情欲を抑《おさ》えて、少なくとも子供に毒牙《どくが》をのばすようなことはあるまいと思っておりました。ところがあなたはそれをすら恥じませんでした。あなたがご懸念《けねん》の手紙はおそらく蝋燭《ろうそく》の火にては焼却されなかったであろうことを、そしてそれはぜったいにクラフトの手中にはなかったことを、したがってあなたの誘惑がむだであったことを、あなたにお知らせします。かような次第につき、無意味に青年を堕落させることはつつしんでください。彼の心をもてあそぶのはやめてください、彼はまだ未成年者で、知的にも肉体的にも未成熟の子供に等しいのです、そのような者をもてあそんであなたになんの利益になるのです? わたしはあの子の身を案じているので、甲斐《かい》ないと知りながらも、あなたにこの手紙を書かざるをえないのです。なお念のために、この手紙のコピーをビオリング男爵にも送りましたことをお知らせしておきます。
[#地付き]   A・ヴェルシーロフ』
わたしは読んでいるうちに蒼白《そうはく》になったが、つぎの瞬間には、かっと真っ赤になった。そして唇が憤怒《ふんぬ》のあまりわなわなとふるえだした。
「これはぼくのことだ! 一昨日ぼくが彼に打明けたことをこんなふうに書いたのだ!」とわたしは狂憤にとらわれて叫んだ。
「そら見なさい、あんたでしょう!」と言って、タチヤナ・パーヴロヴナはわたしの手から手紙をひったくった。
「でも……それはちがう、ぼくが言ったのはぜんぜんそんなことじゃないんだ! ああ、あのひとは今ぼくのことをどう思ってるだろう? でも、これは狂気の沙汰《さた》じゃないか? 彼は気ちがいなのか……昨日会ったときは……この手紙はいつ送られたんです?」
「昨日の昼発送されて、晩にとどいたんだよ。そして今朝あのひとがわたしに渡したのさ」
「でもぼくは昨日彼に会ったんですよ、彼は気ちがいだ! ヴェルシーロフがこんな手紙を書けるわけがない、これは気ちがいが書いたんだ! 誰が女のひとにこんなふうに書けるでしょう?」
「それがああいう気ちがいはね、嫉妬《しつと》と憎悪《ぞうお》で目も耳もばかになり、血が毒素にかわってしまうと、かっとなってこういうものを書くのさ……彼がどんな人間か、あんたはまだ知らなかったんだよ! これで今に世間からすっかりしめだされて、雨空に身を寄せるところもなくなるのがおちさ! 自分でギロチンの下に首をさしこむんだよ! そうだよ、頭をのせてるのが重くなったら、夜半にニコラエフスカヤ鉄道へ行って、線路の上に首をのせてさ、頭をふっとばしてもらえばいいのさ! あんたはなんだってあんな男にしゃべる気になったんだろう? なににそそのかされてあの男をからかってやろうなんて気をおこしたのさ? 自慢しようと思ったのかい?」
「しかしなんという憎悪だろう! なんという恐ろしい憎悪だ!」わたしは自分の頭をぽんと叩《たた》いた、「なにがこれほどに、なにが? 女に! あのひとは彼になにをしたのだ? こんな手紙を書かせるなんて、二人のあいだにはいったいどんな関係があったのだ?」
「憎しみさ!」とはげしい愚弄《ぐろう》の調子で、タチヤナ・パーヴロヴナはわたしの口調をまねた。
血がまたわたしの顔にさっと逆流した。わたしは不意になにかまったく新しいことがわかったような気がした。わたしは目にありたけの力をこめてなにものかを読みとろうと彼女を凝視した。
「もう帰っておくれ!」彼女は急いで顔をそむけると、わたしを突きのけるように手を振って、叫んだ。「あんたたち一家とかかりあうのはもうごめんだよ! もうたくさん! みんな地の割れ目へでもおっこちてしまえばいいんだよ!……ただあんたのお母さんだけはかわいそうだけど……」
わたしは、もちろん、ヴェルシーロフのところへ走った。しかし、なんという狡猾《こうかつ》さだ! なんという卑怯《ひきよう》さだ!
ヴェルシーロフは一人きりではなかった。話をすこしもどして説明すると、ヴェルシーロフは昨日あのような手紙をカテリーナ・ニコラーエヴナに出し、そして実際に(理由は神のみぞ知るだが)そのコピーをビオリング男爵あてに発送すると、彼は、当然、今日の昼の間に、自分の行為のある種の『結果』を期待しなければならなかった、そこで彼は自分なりにある手段をとった。つまり、まだ朝のうちから母とリーザを上の『墓穴』へ移し(リーザは、あとで知ったのだが、まだ朝のうちにもどってくると、体ぐあいがわるくて、寝床に臥《ふ》していたのである)、そして下の部屋、特にいわゆる『客間』をきれいにかたづけ、ちりひとつおちていないように念入りに掃除した。すると、果せるかな、午後二時にR男爵と名乗る男が彼を訪ねてきた。大佐で、四十前後のドイツ系の男で、長身で、やせぎすで、見るからに精悍《せいかん》そうで、ビオリング同様に赤っぽい髪であるが、ただすこし頭がうすかった。これはロシアの軍人社会にわんさといて大いにはばをきかせているR男爵一族の一人であった。この一族は爵位に対する病的なまでの矜持《きようじ》をもっているが、財産というものがまったくなく、俸給だけで暮しているから、軍務一途の歴戦の勇士ぞろいであった。わたしは二人の話し合いのはじめのようすは知らないが、わたしが入っていったとき、二人はひどく意気ごんでいた。それは当然である。ヴェルシーロフはテーブルのまえのソファに腰を下ろし、男爵はその横の肘掛椅子《ひじかけいす》に腰を下ろしていた。ヴェルシーロフは蒼白《あおじろ》い顔をしていたが、おさえて、一語々々おしだすようなしゃべり方をしていた。いっぽう男爵は声がうわずって、明らかに突発的な行動に出そうなようすに見えたが、ようやく自分を抑えているふうだった、そしていささかおどろきの色は見えたが、きびしく、傲然と、軽侮をさえこめてヴェルシーロフをにらんでいた。わたしを見ると、彼は眉《まゆ》をしかめたが、ヴェルシーロフはむしろ喜んだようであった。
「やあ、いらっしゃい、アルカージイ。男爵、これがあの手紙の中にあったひじょうに若い青年ですよ、きっと、わたしたちの話し合いのじゃまにならないばかりか、かえって必要にさえなるでしょう(男爵は軽蔑《けいべつ》の目でじろりとわたしを見た)。アルカージイ」とヴェルシーロフはわたしを見て言いだした、「きみが来てくれて、かえってよかったよ。だからそこの隅のほうに坐って、男爵と話がすむまで待ってておくれ。ご心配なく、男爵、これはただ隅に坐ってるだけですから」
わたしはもう腹を決めていたから、どうでもよかったし、それに、この場の雰囲気がわたしの胸に強く来たので、わたしは隅のほうに腰を下ろした。わたしはできるだけ隅のほうに体を小さくして、目ばたきも、身じろぎもしないで、話し合いがすむまでじっと坐りとおしていた……
「もう一度くりかえして申しあげますが、男爵」と一語々々強くくぎりながら、ヴェルシーロフは言った、「わたしがこの不埒《ふらち》な病的な手紙を書いたカテリーナ・ニコラーエヴナ・アフマーコワを、わたしは、このうえなく高雅な婦人であるばかりか、完成の極致とまで考えているのですよ」
「前言のそのような否定は、わたしがすでに申しあげたように、むしろその再確認のように思われますな」と男爵は半分口の中で言った。「あなたの言葉はまったく無礼きわまります」
「しかし、言葉どおりにとっていただけば、それがいちばん正しいのですよ。わたしは、ご存じかどうか、神経的な発作や……その他いろんな障害に悩まされています、それで治療もうけているのですが、そうしたわけで、たまたま病的な状態におちいったりすると……」
「それはぜったいに釈明にはなりえません。なんどもくりかえしますが、あなたは強情に誤解をあらためようとしません、あるいはわざとそうしておられるのかもしれませんがね。わたしは話し合いの当初にすでに警告しましたが、この婦人に関する問題、つまり本来、アフマーコワ将軍夫人にあてられるものであるべきあなたの手紙に関する問題ですな、これは今のわたしたちの話し合いにおいては、完全に除外されねばなりません。それをあなたはたえずそこへもどられる。ビオリング男爵がわたしに依頼されたのは、特に、彼個人に関することだけを、つまりこの『コピー』をあのように無礼に送りつけられた事情と、『これに対してはいかなる方法にても責任をとる用意がある』というあなたの追記とについて、明確な釈明を求めてほしいということです」
「でも、その最後の点は説明するまでもなく明らかだと思いますが」
「わかります、それはお聞きしました。あなたは謝罪なさろうともしないで、ただ『いかなる方法にても責任をとる用意がある』と主張しておられる。だがそれはあまりにも安直にすぎるというものです。したがってわたしとしては、あなたがそうまで執拗《しつよう》に説明を曲げようとするのであれば、こちらもいささかの遠慮もなくずばりと言わせてもらう権利があるものと認めます。すなわち、わたしは、ビオリング男爵がいかなる方法によるも……平等の立場では……あなたと交渉をもつことはできない、という結論に達したことをあなたにきっぱりと言明します」
「そのような決定は、もちろん、あなたの友人ビオリング男爵にとっては、もっとも有利な決定のひとつでしょうな、そして、正直に言いますが、それにわたしはいささかもおどろきませんよ。わたしはそれを予期していましたのでな」
ここでちょっとことわっておくが、最初の一言から、最初に一目見たときから、ヴェルシーロフがむしろ破局を求めて、この短気そうな男爵を挑発し、愚弄して、その忍耐をもうぎりぎりのところまで追いつめているらしいことを、わたしは見てとっていた。男爵はいまいましそうに肩をすくめた。
「あなたが奇知に富む方らしいとは聞いていましたが、しかし奇知というものは理知ではありませんからな」
「実に名言ですよ、大佐」
「あなたにほめてもらおうとは思いません」と男爵は声を大きくした、「わたしはくだらぬおしゃべりをしに来たのではありません! こちらの言うことをよく聞いてもらいたい。ビオリング男爵はあなたの手紙を受取ると、ひじょうな疑惑にとらわれました。その手紙が明らかに精神の異常を立証しているからです。そして、もちろん、あなたを……おとなしくさせる手段は、すぐにも見つけられたはずなのですが、しかしある特別の考慮から、あなたに対して寛大な処置をとることにして、とにかくあなたの身上を調査したわけです。すると、あなたは上流社会に属していて、かつては近衛《このえ》連隊に勤務していたことはあるが、社交界から追放されて、世間ではきわめていかがわしい人物と評されていることがわかりました。しかし、それにもかかわらず、わたしは直接それを見とどけるために、ここへ来たわけですが、現にあなたは、かててくわえて、ここにいたってなお言葉を弄し、ある種の神経系の持病のあることを自分で証言しました。もう十分です! ビオリング男爵の立場と名誉はこのような事件にまきこまれて低められることはできません……要するに、わたしは交渉の全権を委任された者としてあなたに言明しますが、今後二度とこのような行為がくりかえされたら、ただちにあなたをとりしずめる、早急にして確実な手段がとられるでしょう。これをはっきりとあなたに予告しておきます。わたしたちは森の中にではなく、秩序ある国家に生活しているものであることをご承知おきねがいたい!」
「あなたはそう確信しておられるのかな、わが善良なるR男爵?」
「よしたまえ」不意に男爵は立ち上がった、「あなたはよくよくわたしを怒らせて、わたしがさほど『善良なるR男爵』でないことを証明させたいとみえますな」
「ああ、もう一度注意しておきますが」とヴェルシーロフも立ち上がった、「すぐ上にわたしの家内と娘がおりますのでな……あまり大きな声をたてぬように願いたいですな。そんなにどなるとあれたちに聞えますので」
「あなたの奥さん……そんなものはどうでもよろしい……わたしがここに坐って、あなたと話をしてるのは、ひとえにこの醜悪な事情を究明するためです」と男爵はあいかわらず腹だたしげに、すこしも声をおとさずにつづけた。「もうたくさんです!」と彼は狂暴に叫んだ、「あなたは上流紳士たちの仲間から追放されただけじゃない、あなたは――偏執狂だ、まさしく錯乱した偏執狂だ、たしかに噂に聞いたとおりだ! あなたは寛大な処置を受ける資格がない。わたしはここでしかと言明する、今日ただちにあなたに対するしかるべき手段をとる、あなたはある場所に召喚されて、そこで正気にもどされ……このペテルブルグから追放されることになる!」
彼は大股《おおまた》に急いで部屋から出ていった。ヴェルシーロフは見送ろうともしなかった。彼は突っ立ったまま、ぼんやりわたしを見ていたが、わたしに気づかないかのようであった。不意に彼はにやりと笑うと、頭をぶるると振った、そして帽子をつかむと、やはり出てゆこうとした。わたしは彼の腕をつかんだ。
「あ、そうか、きみもここにいたのか? きみは……聞いてたのかい?」と彼はわたしのまえに立ちどまった。
「どうしてあなたはあんなことができたんです? どうしてあれほどこじらせて、ああまで怒らせなければならなかったんです!……しかもあんなふうに老獪《ろうかい》に!」
彼はじっとわたしを見つめていた。薄笑いがしだいにその顔にひろがって、ついに大きな笑いに移っていった。
「まったく、ぼくは恥をかかされたんですよ……あの女《ひと》のまえで! あの女《ひと》の目のまえで! ぼくは笑いものにされたんだ、あの男が……ぼくを突きとばしたんだ!」
「ほんとうか? ああ、かわいそうに、それは気の毒なことをした……じゃきみはあそこで……笑いものにされたのか?」
「あなたは笑ってる、ぼくを笑ってる! あなたはおもしろがってるのだ!」
彼は急いでわたしの手をはずすと、帽子をかぶった、そして笑いながら、もう誰はばかるところなくせいいっぱい笑いながら、部屋を出ていった。わたしは彼を追うべきであったろうか、だがなんのために? わたしはすべてをさとった――すべてを一瞬にして失ってしまったのである! 不意にわたしは母を見た。母は上から下りてきて、おずおずとあたりを見まわした。
「出ていったの?」
わたしは母を抱いた。母もわたしを固く、固く抱きしめて、そのままはげしくわたしに体をあずけた。
「お母さん、ぼくの大好きなお母さん、もうこんなところにいられないでしょう? すぐに出てゆきましょう、ぼくが面倒をみます、ぼくが囚人のようにはたらきます、お母さんとリーザのために……あんな人たちは捨てて、みんな捨てて、出てゆきましょう。ぼくたちだけになりましょう。お母さん、おぼえてますか、あなたがトゥシャールのところへぼくを訪ねてきてくれたときのことを、あのときぼくはお母さんと思おうとしませんでしたね?」
「おぼえてるとも、アルカージイ、わたしはずっとおまえに申し訳ないことをしたと思いつづけてきたんだよ。おまえを生んでおきながら、おまえを知らなかったんだもの」
「彼がわるいのですよ、お母さん、これはみんな彼の罪なのです。彼はぼくたちを一度だって愛してくれたことがないのです」
「いいえ、愛してくれましたよ」
「行きましょう、お母さん」
「わたしがあのひとを離れてどこへ行くの、そんなことをしたらあのひとしあわせになれると思って?」
「リーザはどこにいます?」
「休んでますよ。もどってくると――ぐあいがわるいと言って。心配ですわ。どうしてみんなあのひとにあんなに腹をたててるの? これからあのひとをどうしようというの? あのひとはどこへ出かけたの? あの軍人さんはなにをあんなにどなってたの?」
「どうもされやしませんよ、お母さん、彼はこれまでだって一度もどうということはなかったんです、大丈夫ですよ、誰もどうにもできません、彼はそういう人間なのですよ! そらタチヤナ・パーヴロヴナが見えたようですよ、ぼくが信じられないなら、あの女《ひと》に訊いてごらんなさい。ほら来ました。(タチヤナ・パーヴロヴナが不意に部屋に入ってきた)。さようなら、お母さん。ぼくはまたすぐ来ます、来たら、また同じことを訊くつもりです……」
わたしはとびだした。わたしはタチヤナ・パーヴロヴナだけでなく、誰にも会いたくなかった。母を見ているのもつらかった。わたしは一人になりたかった、一人っきりに。
しかしわたしはいくらも行かないうちに、この無縁な、無関心な人々に、無意味に突きあたりながら、歩いていることのむなしさを感じた。といって、いったいどこへ行くところがあろう? 誰にわたしが必要なのだ、そして――なにが今のわたしに必要なのだ? わたしはまったくなにも考えずに、無意識にセルゲイ・ペトローヴィチ公爵の家へ流れついた。彼は家にいなかった。わたしはピョートル(彼の使用人である)に、書斎で待たせてもらうからと言った(これはこれまでも何度もあったことである)。彼の書斎は天井の高い、広々とした部屋で、たくさんの家具が備えてあった。わたしはいちばん薄暗い隅へ行くと、ソファにくずれるように腰を下ろし、テーブルに肘をついて、頭を抱えこんだ。そうだ、『なにが今のわたしに必要なのだ?』これが問題だ。もしわたしがそのときこの問題を公式化することができたとしたら、ほとんど解答らしい解答をあたえることができなかったであろう。
しかしわたしは筋道をたてて考えることも、質問を設定することもできなかった。すでに述べたように、この数日の最後近くには、わたしは『連続するできごとによって圧《お》しつぶされて』いたのである。わたしは今坐っていた、そして頭の中は混沌《こんとん》として渦巻いていた。『そうだ、ぼくは彼の内部をたえず観察していたのに、なにひとつ見ぬくことができなかった』という考えがときどきわたしの頭をちらとかすめた。『彼は今ぼくを見てにやりと笑ったが、あれはぼくを笑ったのではない。あれはビオリングを笑ったのだ。ぼくではない。一昨日の食事のとき彼はもうすっかり知っていたのだ、だから憂鬱《ゆううつ》な顔をしていたのだ。彼は居酒屋でのぼくの愚かしい懺悔《ざんげ》をたくみにとらえて、いっさいの真実をゆがめてしまったのだ。さもあろう、彼には真実など要《い》りはしないのだ! 彼はあの女《ひと》に書いた手紙を一言半句も信じてやしない。彼に必要だったのはただ侮辱することだけだ、意味もなく侮辱することだけなのだ、自分でもなんのためかわからずに、なにか口実をとらえて、しかもその口実をぼくがあたえたのだ……まさに狂犬のしわざだ! 彼は今ビオリングを殺そうとでもしているのか? なんのために? なんのためかは、彼の心が知っている! ところがぼくは、彼の心の中になにがあるかまったく知らないのだ……だめだ、どうあってもわからない。いったい彼はそれほどまでもはげしく彼女を愛してるのだろうか? それともそれほどはげしく彼女を憎んでいるのか? ぼくにはわからない、だが彼は自分ではわかっているのか? さっきぼくは、彼のことは「誰もどうにもできない」と母に言ったが、あれでなにをぼくは言おうとしたのか? ぼくは彼を失ってしまったのか、それともまだ失っていないのか?』
『彼女は、ぼくが突きとばされたのを見ていた……彼女も笑っていたろうか、それとも笑わなかったか? ぼくなら笑ったろう! スパイめ、なぐられた、いい気味だ、スパイめ!……
あれはどういうつもりなのだ(不意にわたしの頭にひらめいた)、あの手紙が焼きすてられないで、ちゃんと現存しているなどと、彼があの醜悪な手紙に書きこんだのは、いったいどういうことなのだ?……
彼はビオリングを殺しはすまい、それどころか今ごろはたぶん居酒屋に坐りこんで、ルチアでも聞いてるだろう! だが、もしかすると、ルチアのあとで、ビオリングを殺しに行くかもしれない。ビオリングはぼくを突きとばした、ほとんどなぐったようなものだ。ほんとになぐったのか? ビオリングはヴェルシーロフとさえ決闘することをいさぎよしとしない、ましてぼくなどを相手にするだろうか? いや、明日彼を通りに待ち伏せて、ピストルで射殺せねばならぬようなことになりかねんぞ……』
この考えがほとんど機械的にわたしの頭の中を通りすぎたが、わたしはその考えにすこしもひっかからなかった。
ときおりわたしは憧《あこが》れに似たまぼろしを見た。いまにもさっとドアがあいて、カテリーナ・ニコラーエヴナが入ってくる、そしてわたしに手をさしのべる、わたしたちは楽しく笑い合う……おお、学生さん、わたしのかわいい! この幻影がわたしを訪れたのは、つまりわたしの心がそれをあこがれたのは、もう室内がすっかり暗くなってからだった。
『でも、あれが遠い昔のことだったろうか、ぼくが彼女のまえに立って、別れのあいさつを述べる、すると彼女がぼくに手をさしのべて、にっこり笑う、あれが遠い昔のことなのか? このわずか何日かのあいだにこんな恐ろしい距《へだ》たりができてしまうなんて、どうしても考えられない! なにも考えずに彼女のところへ行って、すぐに、今からすぐに、率直に、正直に、話し合ってみようか! ああ、どうしてこう突然に、まったく新しい世界がはじまったのだろう! そうだ、新しい世界だ、まったく、まったく新しい……だがリーザは、公爵は、あれはまだ古い世界のままだ……そしてぼくは今こうして公爵の部屋にいるではないか。そして母は――彼がこんなふうで、母はどうしていっしょに暮してこられたのだろう? ぼくができるはずなのに、生活をみてやれるはずなのに、それでも母は? これからいったいどうなっていくのだろう?』
すると、旋風に巻かれたように、リーザや、アンナ・アンドレーエヴナや、ステベリコフや、公爵や、アフェルドフや、あらゆる人々の姿がわたしの病める頭脳の中にちらとうかんで、跡形もなく消えた。そして渦巻く考えがますます形を失って、とらえがたくなっていった。だからわたしはなにかに考えを向けて、それにしがみつくことができたときは、嬉《うれ》しくてたまらなかった。
『ぼくには理想がある!』とわたしは急に思いついた、『はたしてそうか? 空念仏《からねんぶつ》を唱えていたのではなかったか? ぼくの理想――それは闇《やみ》と孤独だ、しかしここまできてしまって、またもとの闇の中へはいもどってゆくことができるだろうか? ああ、どうしよう、ぼくは手紙を焼きすてなかったではないか! ぼくはうっかり一昨日それを焼くことを忘れていたのだ。もどって、蝋燭《ろうそく》で焼こう、どうしても蝋燭で焼くのだ。しかし今考えていたのは、こんなことだろうか……』
もうとうに暗くなっていた。ピョートルが蝋燭をもってきた。彼はわたしのすぐまえに突っ立って、食事は、と訊いた。わたしは黙って片手を振った。それでも一時間ほどすると彼は茶をもってきた、そしてわたしは大きな茶碗からむさぼるようにがつがつと飲んだ。それからわたしは、何時か? と訊いた。もう八時半になっていた、そしてもう五時間もこうして坐っていたことに、わたしは別におどろきもしなかった。
「わたしはもう三度ほどのぞいてみたのですけど」とピョートルは言った、「おやすみのようでしたので」
わたしは彼が入ってきたことを、おぼえてもいなかった。どういうわけか、眠っていたと言われて、不意にどきりとして、わたしは急いで立ち上がると、『眠らない』ために室内を歩きまわりはじめた。そのうちに、頭がひどく痛みだした。きっかり十時に公爵がもどってきた、そしてわたしは、自分が彼を待っていたことにおどろいた。わたしは彼のことをすっかり、きれいに忘れていたのである。
「あなたはここにいたんですか、わたしはあなたを呼びに、あなたのところに寄ったんですよ」と彼は言った。彼の顔は暗く、きびしく、微笑の陰影《かげ》もなかった。目にはある決意がやきついていた。
「わたしは一日じゅう狂いまわって、打てるだけの手は打ってみました」と彼は思いつめたようにつづけた、「どれもだめでした、前途は恐怖です……(彼はやはりニコライ・イワーノヴィチ公爵のところへは行かなかったのである)……わたしはジベーリスキーにも会いましたが、ひどい男です。まず金を持ってくるんですな、そしたら会いましょう、頭からこうです。で、もし金ができないようなら、そのときは……でもわたしは今日はもうこれは考えないことにしました。今日はなんとしても金をつかむことだけです、明日はまた明日で考えりゃいいのです。一昨日のあなたの金はまだそのまま手をつけずにあります。あれは三千ルーブリに三ルーブリ欠けているだけでした。あなたの借りた分を清算すると、三百四十ルーブリのおつりをあなたに返すことになります。これと、あともう七百ばかりとってください、千になるように。わたしは残りの二千をとります。そしてゼルシチコフのところへのりこんで、両端の位置に陣どって、一万をとれるかどうかやってみましょう――あるいは、どうにかなるかもしれません、負けたら――それまでです……とはいえ、これがのこされたたったひとつの手段なのです」
彼は追いつめられた者の目でわたしを見た。
「そうです、そうですとも!」とわたしは不意に生きかえったように叫んだ、「のりこみましょう! ぼくはあなたを待ってたんです……」
ここで一言しておくが、わたしはこの数時間のあいだ、ただの一瞬もルーレットのことを考えたことがなかったのである。
「だが卑劣じゃなかろうか? 陋劣《ろうれつ》な行為じゃなかろうか?」と公爵は不意に言った。
「ぼくたちがルーレットに賭《か》けることがですか! でもこれがすべてじゃないですか!」とわたしは叫んだ、「金がすべてですよ! 神聖なのはぼくとあなただけです。ビオリングは自分を売ったのです。アンナ・アンドレーエヴナも自分を売ったじゃないですか。ヴェルシーロフは――あなた聞きましたか、ヴェルシーロフが偏執狂だというのを? 偏執狂ですよ! 偏執狂なのですよ!」
「どこかわるいんじゃない、アルカージイ・マカーロヴィチ? 目がすこしへんですが」
「なんです、ぼくをおいてゆくつもりですか? だめです、ぼくはもうあなたから離れませんよ。一晩中賭博の夢をみたのは虫の知らせだったのだ。行きましょう、行きましょう!」わたしは不意にすべての謎の鍵を見出《みいだ》したように、叫んだ。
「では、行きましょう、あなたは熱病にかかってるようだけど、あちらで……」
彼は終りまで言わなかった。苦渋に充ちた恐ろしい顔だった。わたしたちはもう部屋を出ようとしていた。
「ねえ」ドアのところで立ちどまると、彼は不意に言った、「もうひとつこの不幸からの出口があるのですよ、賭博のほかに!」
「どんな?」
「公爵の道ですよ!」
「なんですそれは! どういう道です?」
「いずれわかるでしょう。ただしわたしにはもうその資格がないのですよ。もう手おくれなのです。行きましょう、でも今のわたしの言葉を忘れないでください。下男の解決法をやってみましょう……わたしはちゃんと心得ているのですよ、今、自覚して、完全に自分の意志で、賭博場へ行くことを、そして、下男のような行動をすることを!」
わたしは、そこにわたしのすべての救いが、すべての解決が集中されてでもいるように、賭博場へ急いだ、しかし、すでに述べたように、公爵が来るまではわたしはそれをぜんぜん考えなかったのである。しかも今賭博に行くのは、自分のためではなく、公爵のために勝負をするためなのである。なにがわたしを、しかも抗しがたい力でひきずりこんだのか、わたしには理解できない。おお、このときほど、これらの人々が、これらの顔々が、これらの賭博場の係員たちが、これらの賭博場特有の叫び声が、おしなべてゼルシチコフの賭博場の下劣な雰囲気ぜんたいが、これほど忌まわしく、これほど憂鬱に、これほど粗暴にそして悲しく思われたことはなかった! 賭博台にむかっていたこの数時間のあいだにときどきわたしの心をとらえた憂鬱と悲愁を、わたしは忘れることができない。では、なんのためにわたしは去らなかったのか? なんのために、まるで自分が犠牲と献身の運命をになったように、最後まで堪えぬいたのか? ひとつだけ言っておこう。そのときのわたしが健全な理性の状態にあったとは、ほとんど言いえないということである。ところがその晩のわたしの勝負ぶりは、かつてなかったほどに沈着で理詰めであった。わたしは黙々として、精神を集中し、注意深く、そしてびっくりするほど読みが深かった。わたしはよく自制して、計算がこまかかったが、それでいてここぞというときは思いきって賭けた。わたしはまたしてもゼロの位置についていた。つまりまたしてもゼルシチコフと、いつもその右側に近く陣どるアフェルドフとの間にはさまれる格好になったわけである。わたしはこの場所はいやだったが、どうしてもゼロにはりたかったし、ゼロのそばの他の場所はぜんぶふさがっていた。わたしたちはもう一時間とすこし勝負をつづけていた。そのうちに、わたしがちらと目をやると、公爵が立ち上がって、蒼白な顔をしてこちらへ歩いてくるところだった。彼はわたしの真向いに立ちどまった。彼はすっかり負けてしまって、黙ってわたしの勝負をながめはじめた。しかし、ただぼんやりうつろな目を向けているだけで、もう勝負のことも考えていないふうであった。
ちょうどこのとき、わたしはやっと勝ち運がつきだして、ゼルシチコフが金をかぞえてわたしのまえにおいた。不意にアフェルドフが、黙って、わたしの目のまえで、実にあつかましく、わたしのまえの百ルーブリ紙幣を一枚つまむと、それを自分のまえの紙幣のかたまりの中へ入れた。わたしはあっと叫んで、彼の手をつかんだ。とたんに自分でも思いがけないことがわたしにおこった。わたしはまるでつなぎとめられていた鎖をひきちぎったようになった。まるで今日一日のいっさいの恐怖と屈辱がこの一瞬に、この百ルーブリ紙幣の盗難に集中されたかのようであった。わたしの内部にたまりにたまって、抑えつけられていたものが、爆発するために、ひたすらこの瞬間を待っていたかと思われた。
「これは――泥棒です。今ぼくの百ルーブリ紙幣を盗んだのです!」とわたしはあたりを見まわしながら、叫んだ。
言いようのない混乱がもちあがった。このような事件はここではまったく珍しいことだった。ゼルシチコフの賭博場ではみんなが上品に振舞って、それがここの自慢になっていたのである。しかしわたしはすっかり自制心を失っていた。騒ぎと叫び声の中に、不意にゼルシチコフの声が聞えた。
「しかし、おかしい、金がない、たしかにここにあったのだが! 四百ルーブリだ!」
たちまち別な事件がもちあがった。ゼルシチコフの鼻の先で、胴元の場銭が四百ルーブリも盗まれたのである。ゼルシチコフは『ついいままでここにあったのだが』と、その場所を指さした、そしてその場所が、わたしのすぐそばで、わたしの金が置いてあった場所ととなりあっていた、ということはアフェルドフの場所よりもわたしの場所にずっと近かったわけである。
「泥棒はここにいます! 彼がまた盗んだのです、こいつを調べてください!」とわたしはアフェルドフを指さしながら、叫んだ。
「こんな騒ぎがおきるのは、要するに」と叫び声を圧して誰かの重みのある、譴責《けんせき》するような声がひびいた。「得体の知れぬ者が入りこむからだ。紹介者もない人間を入れるからだ! 誰が彼を連れてきたのだ? 彼はどこの何者だ?」
「ドルゴルーキーとかいう男だ」
「ドルゴルーキー公爵かね?」
「ソコーリスキー公爵が連れてきたんだ」と誰かが叫んだ。
「聞きましたか、公爵」とわたしは激昂《げつこう》して賭博台の向うの公爵に叫びかけた、「ぼくのほうがたった今ここで盗まれたばかりなのに、そのぼくが泥棒と勘ちがいされているのです! 彼らに言ってください、ぼくを彼らに保証してください!」
ところがここで、この日一日のできごとの中でもっとも恐ろしいことが起ったのである……それはこれまでのわたしの生涯でもっとも恐ろしいことでさえあった。公爵が拒否したのである。彼が肩をすくめたのを、わたしは見た、そして四方からあびせられた問いに答えてきっぱりとこう言ったのを、わたしは聞いた。
「わたしは誰の責任ももちません。どうかわたしをかかりあいにしないでほしい」
一方アフェルドフは人々の中央に立ちはだかって、大声で調べてくれとわめいていた。彼は自分でぜんぶのポケットを裏返しにして見せた。しかし彼の要求に対して人々は、『いや、あんたじゃない、泥棒はわかってる!』と口々に叫んだ。呼ばれてとんできた二人の用心棒がうしろからわたしの両手をむんずとつかんだ。
「身体検査などさせんぞ、許さん!」とわたしは身をもがきながら叫んだ。
しかしわたしは隣の部屋へひきずってゆかれた、そして、そこで、衆人環視の中で、全身をくまなく検査された。わたしは叫びながら、あばれた。
「どこかへ捨てたにちがいない、床をさがしてみるんだな」と誰かが言った。
「いまさら床のどこをさがすんだ!」
「台の下だ、きっとうまいこと投げこんだにちがいない!」
「そりゃ、跡をのこすようなへまはやらんさ……」
わたしはひきずり出された、が、やっと扉口《とぐち》のところで、立ちどまって、もう夢中で気ちがいのように、部屋中にひびきわたるような大声で叫びたてた。
「ルーレットは警察に禁止されているんだぞ。今からすぐ貴様らぜんぶを密告してやるぞ!」
わたしは階段をひきずり下ろされて、外套を着せられた、そして……わたしのまえに外の扉があけられた。
[#改ページ]
第九章
この一日は破局で終った、が、まだ夜がのこっていた、そしてこの夜で記憶にのこっていることをつぎに述べることにする。
わたしが往来にいる自分に気がついたのは、十二時をすこしすぎたころだったような気がする。晴れわたった、しずかな、凍《い》てついた夜だった。わたしはほとんど走るようにして、ひどく急いでいた、しかし――決して家へむかっていたのではなかった。『なんのために家へ? それに今となっては家などありえようか? 家とは住むところだ、明日目をさますのは、その日も生きるためだ、――だが、はたしてそんなことが今可能なのか? 生活は終ってしまったのだ、生きることは今はもう不可能なのだ』。こうしてわたしは、自分がどこへ行くのかまったくわからずに、通りをさまよっていた、そしてどこかへ行きつこうという気持があったのかどうか、自分でもわからない。ひどく暑くて、たえず浣熊《あらいぐま》の毛皮|外套《がいとう》のまえをはだけた。『今はもうどんな行動にも、なんの目的もありえない』、そのときのわたしにはこう思われた。そしてふしぎなことに、まわりのいっさいが、呼吸している空気までが、他の遊星のもののようで、突然自分が月世界におちたような気がしてならなかった。まわりのすべてが――町も、通行人も、自分が今走っている歩道も――すべてがもはやわたしのものではなかった。『あれが――宮殿広場だ、ほらあれが――イサーク寺院だ、しかし今はもうぼくにはなんのかかわりもないのだ』とわたしは思った。なにもかもどうしたわけか別世界へ遠のいて、不意にわたしのものでなくなってしまった。『ぼくにはお母さんと、リーザがいる――でも、どうってことはない、リーザや母が今のぼくになんなのだ? すべてが終ってしまった、すべてが一度に終ってしまったのだ、ただひとつ、ぼくが――泥棒だという永久に消えぬ汚名をのこして』
『ぼくが――泥棒でないことを、なにによって証明したらいいのだ? 今となってはたしてそれができるだろうか? いっそアメリカへ逃げようか? だが、それがなんの証明になろう? ぼくが盗んだことを、ヴェルシーロフがまっさきに信じるだろう! 理想は? なにが理想だ? そんなものいまさらなんになろう? 五十年後、百年後に、ぼくが世に出たら、きっと誰かがぼくを指さして、ほらあいつが――泥棒だよ、と言うであろう、あいつはルーレットの金を盗んで、自分の理想とやらにふみだしたのさ……』
わたしの気持の中に憎悪《ぞうお》があったろうか? 知らないが、おそらくあったろう。奇妙なことだが、わたしには常に、おそらくほんの小さな子供の時分から、卑屈なところがあって、なにかわるいことをされ、しかもそれが中途はんぱなものでなくて、ぐうの音も出ないほどに思いきり侮辱されると、そこで必ず受動的にその侮辱に服したいというやみがたい願望がわたしの内部に生れて、相手の気持の先まわりをして、『おや、あなたはぼくを辱《はずか》しめましたね、じゃぼくがもっともっと自分を辱しめてごらんに入れましょう、さあどうです、たっぷり楽しんでください!』というような気持になるのである。たとえば、トゥシャールがわたしをなぐって、わたしが元老院議員の子供ではなく、下男であることをわたしに思い知らせようとしたとき、わたしはすぐに自分からすすんで下男の役にうちこんだのだった。わたしは彼が外套を着るのを手つだってやったばかりでなく、ブラシをもってちりひとつついてないようにこすってやることをはじめた。もうぜんぜんたのまれもしないし、命令もされないのに、ときにはブラシをもってちょこまかと彼のあとを追いながら、給仕も顔負けするような熱心さで、フロックの目に見えないような小さな埃《ほこり》までしつこくこすりとるので、彼のほうが閉口して、『もういいよ、いいよ、アルカージイ、もうたくさんだよ』とわたしをとめたこともあった。また、よく彼が外出からもどって、上着をぬぐと、わたしはそれをきれいにはらって、ていねいにたたみ、格子縞《こうしじま》の絹のスカーフをその上にかけてやったものだった。生徒たちがそんなことをするわたしを嘲笑《あざわら》って、軽蔑《けいべつ》していたことを、わたしは知っていた。そんなことは知りすぎるほど知っていたが、それがわたしにはかえって快いのだった。『ぼくを下男にしたいのなら、さあ、すすんでなってやるぞ、人間の屑《くず》になれ――そらどうだ、りっぱな屑じゃないか』。こうした類《たぐ》いの消極的な憎悪と潜在的な怨念《おんねん》を、わたしは長年にわたってもちつづけることができたのである。そして、どうだろう? ゼルシチコフの賭博場で、わたしは完全に激昂《げつこう》して、ホール中にひびきわたるような声で、『ルーレットは警察に禁止されているんだ、貴様らぜんぶを密告してやるぞ!』とわめいたのである。まちがいなく、ここにはなにかこれに似たような卑屈さがあった。わたしは辱しめられ、体中をさぐられ、泥棒とののしられ、人間的に葬られた――『よし、じゃ正体を見せてやる、貴様たちの思ったとおりさ、おれは――泥棒どころか、そのうえ――密告者なのさ』。あのときはまったく分析してみるどころではなかったが、今思い出してみて、わたしはあのときの心理のうごきをこう説明するのである。あのときはなにも考えずに叫んだのだし、一秒まえまで自分がなにを叫ぶか知らなかった。ひとりでに叫び声が口をついて出たのである、――心の中にすでにこの卑劣な根性が潜在していたのであろう。
わたしが通りを走っていたとき、たしかにもう幻覚がおこりはじめていた、しかし意識的に行動していたことを、わたしははっきりとおぼえている。しかし、考えのあとさきの完全な連関がそのときのわたしにはもう不可能であったことは、きっぱりと断言できる。わたしはそれらの瞬間々々でさえ、『あることは考えられるが、他のことは考えられない』とひそかに感じていたほどである。同様にいくつかのわたしの決意も、意識ははっきりしていたが、そのときはすでにごく簡単なロジックももつことができなかった。そればかりか、わたしははっきりとおぼえているが、わたしはそのときのある瞬間にはある決意の不合理を完全に意識しながら、しかも同時に完全な意識をもってただちにそれを実行に移すことができたのである。たしかに、その夜は犯罪が突発しかけていた、そしてただ偶然におこなわれなかったにすぎない。
すると不意にわたしの頭にタチヤナ・パーヴロヴナがヴェルシーロフをののしった言葉がちらとうかんだ。『ニコラエフスカヤ鉄道へ行って、線路の上に首をのせてさ、頭をふっとばしてもらえばいいのさ!』この考えが一瞬わたしの五感をとらえたが、わたしはすぐに心からえぐりとる思いでそれをはらいおとした。『線路の上で頭をはねられて、死んだら、明日になったら人々は、やつは盗みがばれたから、恥じて、こんな死にざまをしたのだと言うだろう――いやだ、ぜったいにいやだ!』そしてその瞬間、ごく短いあいだではあったが、わたしは狂おしい憎悪に突き上げられたのである。わたしはそれをはっきりとおぼえている。『なんだというのだ?』わたしの脳裏をこんな考えがかすめた、『釈明がもうぜったいにできないし、新生活をはじめることもできないのなら、いっそ負け犬になってやるか、うじ虫になり、下男になり、密告者になる、もうほんものの密告者になってやるのだ、そしてひそかに準備して、そのうちに――不意にすべてを空中に吹っとばし、すべてを、罪のあるやつもないやつも、すべてのやつらをたたきつぶしてやるのだ、そしてそのときはじめてやつらは、これが――あのときみんなで泥棒呼ばわりをしたあの男だ、と知るだろう……それを見とどけたうえで、しずかに自分の生命を絶つのだ』
わたしはどこをどう通ったのかおぼえていないが、近衛《このえ》騎兵連隊並木道の近くのある横町へ迷いこんだ。この横町はほとんど百歩ほどにわたって、両側に高い石塀《いしべい》がつづいていた――どこかの裏庭の塀である。左側の塀の内側にわたしは大きな薪《まき》の山を見た。長い薪の山がまるで薪屋の裏庭かと思われるほど、塀の上から二メートルも突き出ていた。わたしは不意に立ちどまって、考えはじめた。わたしのポケットには小さな銀のマッチ箱に入った蝋《ろう》マッチがあった。くりかえして言うが、わたしはそのときなにを考えて、なにをしようと思ったのか、はっきりと意識していたし、いまでもそれを思い出すのだが、でもなんのためにそれをしようとしたのかは――わからない、ぜんぜんわからないのである。おぼえているのは、急にどうしてもそれをしてみたくなったということだけである。
『塀によじのぼるのはわけはない』こうわたしは判断した。ちょうどそこから二歩ばかりのところに、もう何カ月もしめきりになっているらしい門があった。『下のでっぱりに足をかければ』とわたしは考えをすすめた、『門の上に手がとどくから、わけなく塀にのぼれる。誰もいないし、しんとしてるから、誰にも見とがめられる気づかいはない! のぼったら、塀の上に腰かけて、薪に火をつけてやろう。薪の山はほとんど塀にくっついてるから、下へおりるまでもなく手がとどくというものだ。寒くて空気が乾燥してるからいっそう燃えがいいだろう、手ごろな白樺《しらかば》の薪を一本とればいいのだ……なあに、薪を一本ひっぱり出すまでもないさ。塀の上に腰かけたまま、白樺の皮をむしりとって、マッチで火をつけ、それを薪のあいだにさしこめば――それで火事だ。おれはとび下りて、逃げる。なあに、走るにもおよぶまい、しばらく誰も気づかんだろうからな……』。こうすっかり段どりを考えると――わたしは不意に決行することに決めた。わたしは極度の満足と快感をおぼえて、門のまえに立った。わたしはよじのぼったりすることはうまかった。中学のころから体操は得意な課目だった、ところがわたしはオーバーシューズをはいていたので、思ったほど簡単ではなかった。それでもわたしはどうにか右手を上のほうのごくわずかなでっぱりにかけることができて、ぐいとのび上がって、塀の上にかけるために左手を思いきりのばそうとした、ところがそのとたんに右手がすべって、仰向けにころがりおちた。後頭部を地面に強打したらしく、わたしは一、二分意識を失ってたおれていたらしい。はっと気がつくと、急に堪えがたい寒さを感じて、わたしは無意識に外套の襟《えり》をかきあわせた。そして、まだなにをしているのか自分でもよくわからずに、門の隅《すみ》のところへはってゆき、門と塀のでっぱりのあいだのくぼんだところに、体をちぢめてうずくまった。意識が混濁して、どうやらすぐに睡魔にひきこまれたらしい。不意にすぐ耳もとに濃い重い鐘の音が鳴りだして、うっとりとそれに聞きほれたことを、わたしは今夢の中のできごとのように思い出すのである。
鐘は二秒か三秒おきに強くはっきりと鳴りわたったが、しかし警鐘ではなく、なにか快い、なだらかな音だった。わたしは不意に、それが――聞きおぼえのある音だと気がついた。トゥシャールの家の筋向いにある美しいニコラ寺院の鐘の音なのである。モスクワの古い寺院で、わたしの記憶では、たしかアレクセイ・ミハイロヴィチ帝の時代に建てられたとかで、美しい模様のあるたくさんの尖塔《せんとう》のある建物である。そして今は復活祭がすぎたばかりで、トゥシャールの家の庭園のひょろひょろした白樺の木にはもう緑の若葉がきらきら風にそよいでいる。明るい夕陽《ゆうひ》がわたしたちの教室に斜めにさしこんでいる。左手のわたしの小部屋には、ここへはもう去年からトゥシャールが『伯爵や元老院議員の子弟たち』からきりはなしてわたしをおしこめたのだが、この粗末な小部屋に一人の女客が坐っている。そう、みなし子のわたしのところへ、突然一人の女客が訪《たず》ねてきたのである、――わたしがトゥシャールの家にあずけられてからはじめてのことであった。わたしはその女客が入ってくるとすぐに、それが誰であるかを知った。それは母であった。母が村の教会でわたしに聖餐《せいさん》を受けさせ、そして一羽の鳩が円天井の下をとんだあのときから、わたしは一度も会ったことがなかったが、それでもすぐに母とわかった。わたしたちは二人で坐っていた、そしてわたしは妙にひねくれた目でちらちら母を見ていた。あとで、もう何年もすぎてからわたしは知ったのだが、母はそのころヴェルシーロフが一人で急に外国へ去ったために、自分の意志で、留守の世話を委《ゆだ》ねられた人々の目をほとんど盗むようにして、自分のとぼしい費用でモスクワへ来たのだが、それはただただわたしに会いたいためであった。彼女が入ってくると、ちょっとトゥシャールと話しただけで、母だということをわたしに一言も言わなかったのも、わたしにはふしぎでならなかった。彼女はわたしのそばに坐っていたが、ほとんどものを言わないので、わたしはふしぎな気さえしたこともおぼえている。彼女は包みをひとつもっていたが、それを開くと、みかんが六つと、糖蜜《とうみつ》菓子がいくつかと、普通のフランスパンが二つでてきた。わたしはフランスパンがぐっときて、怒った顔で、ここは『餌《えさ》』がひじょうによくて、毎日茶のときにフランス白パンをまるごとひとつずつ出されるから、と答えた。
「いいじゃないの、坊や、わたしはよくわからないから、もしかしたら学校では食べものが足りないかもしれない、とそう思ったんだよ。怒らないでおくれな、アルカーシャ」
「アントニーナ・ワシーリエヴナ(トゥシャールの妻である)も気をわるくなさるよ。生徒たちもぼくを笑うにちがいない……」
「じゃ、いらないのかい、そんなことを言わないで、食べておくれだろうね?」
「いいから、おいてってください……」
しかし、わたしはおみやげに手もふれなかった。みかんと糖蜜菓子はわたしのまえのテーブルの上にのっていたが、わたしは目を伏せて、しかしぐっと胸をはって坐っていた。わたしは彼女の訪問を生徒たちに対してさえ恥ずかしい思いをしていることを、ことさらに彼女に見せつけようとしていたらしいのである。せめてちょっとでもそういう態度を示して、『あんたはぼくに恥をかかせておきながら、自分でそれに気づきもしないのだ』ということをさとらせたかったのである。おお、わたしはそのころはもうブラシをもってトゥシャールのうしろにくっついてせっせと埃《ほこり》をはらっていたのだ! 彼女が帰るとすぐに、生徒たちから、もしかしたらトゥシャールからも、どれほど笑いものにされねばならぬか、それを思うと、わたしの心の中には彼女の訪問を喜ぶ気持はそれこそみじんもなかった。わたしは横目でちらちら彼女の黒っぽい古びた衣裳《いしよう》や、かなり荒れた、まるで百姓のような手や、ひどく粗末な靴や、ひどくやつれた顔を見やった。額にはもうしわが深くきざまれていた。それでも、彼女が帰って、もう夜になってから、アントニーナ・ワシーリエヴナはわたしをつかまえて、『きっと、あなたのママはもとはひじょうにきれいな方だったでしょうね』と言った。
こうしてわたしたちが坐っていると、不意にアガーフィヤがコーヒーを盆にのせて入ってきた。食後の休憩時間であった、そしてトゥシャールのところではこの時間には客間でコーヒーを飲むことになっていた。ところが母は礼を述べただけで、コーヒーには手をつけなかった。わたしはあとで知ったのだが、母はそのころ心臓をわるくしていて、コーヒーをぜんぜんやめていたのである。ところが、母の訪問と、わたしに面会を許したということを、トゥシャール夫妻は内心では自分たちの側からすればきわめて寛大な譲歩と考えていて、だから母にコーヒーを出したことは、言ってみれば、人道主義の偉大な功績で、彼らの文化人としての感情とヨーロッパ人としての観念にきわめて大なる光栄をもたらすような行為だったのである。ところが母はあてつけのようにそれをことわった。
トゥシャールはわたしを呼んで、ノートや教科書をすっかり母に見せるように言った。『きみがここでどれほどよく勉強したか、お母さんに見せてあげなさい』。するとアントニーナ・ワシーリエヴナが、口をすぼめて、腹だたしげに、あざけるように言った。
「あなたのママは、うちのコーヒーがお気に召さないようね」
わたしはノートをまとめて手にもつと、教室に集まって、わたしと母をのぞき見していた『伯爵や元老院議員の子弟たち』のそばを通って、待っている母のそばへ行った。わたしはそのとき、トゥシャールの命令をそっくりそのままに実行することに愉《たの》しみをさえ感じたのである。わたしはつぎつぎとノートを開いて、説明にとりかかった。『これが――フランス語の文法の学習です、これが――ディクテーションです、こちらが助動詞avoirとetreの変化です、これが地理で、ヨーロッパやその他世界中の主要都市が書いてあります』等々。わたしは三十分か、あるいはそれ以上も、行儀よく目を伏せて、なだらかな小さな声で説明をつづけた。わたしは母が学問のことはなにもわからないし、おそらく字も書けないことを、知っていたが、それだからこそこんな役目が気に入ったのである。しかしわたしは、母を苦しめることができなかった、――母は言葉をはさみもしないで、きわめて注意深く、しかも感じ入ったようなおももちで、じっと聞いていた、それでしまいにはわたしのほうがあきてしまって、説明をやめた。しかし、母の目は悲しげで、なにか疲れきったような陰影《かげ》がその顔にあった。
母はやがて立ち上がって帰り支度《じたく》をはじめた。そこへ不意にトゥシャールが入ってきて、ばかみたいに気どって、『ご子息の勉学にご満足ですか?』と訊いた。母はなにやらちぐはぐなことを言って、礼を述べはじめた。アントニーナ・ワシーリエヴナも入ってきた。母は夫妻にむかって、『どうかこのみなし子をお見捨てにならないでくださいまし、これは今みなし子も同然でございますので、どうか哀れみをかけてやってくださいまし……』とたのみはじめた――そして母は目に涙をうかべて夫妻に、交互にていねいにおじぎをした。それは身分のいやしい者が偉い人になにかお願いするときの、あの深く腰をかがめたていねいなおじぎであった。トゥシャール夫妻もこうまでされるとは思いもよらなかった。アントニーナ・ワシーリエヴナはどうやら気持をやわらげたふうで、もちろん、すぐにコーヒーについての自分の結論を変更した。トゥシャールは大いに気どって、『わたしは子供たちの差別はしません、ここにいるのはみな――わたしの子供ですし、わたしは――生徒たちの父です、そしてこの子は元老院議員や伯爵の子息たちとほとんど同等のとりあつかいを受けているのですから、これは大いに徳としてもらわねばなりません』等々と、人道的に答えた。母はただおじぎをするばかりだったが、しかしとまどっておろおろしていた、そしてしおどきを見て、わたしのほうを向くと、涙の光る目でじっとわたしを見て、『さようなら、坊や!』と言った。
そして母はわたしに接吻《せつぷん》した。つまりわたしが母に接吻を許したのである。母はもっともっとわたしに接吻し、抱きしめていたかったらしいが、人目を恥じたのか、それともなにかほかのことでせつなくなったのか、あるいはわたしが恥ずかしがっているのを察したのか、ともあれ、母はもう一度トゥシャール夫妻におじぎをすると、急いで部屋を出ていった。わたしはじっと立っていた。
「Mais suivez donc votre mere.(お母さまをお送りしなさい)」とアントニーナ・ワシーリエヴナが言った、「il n'a pas de coeur, cet enfant!(なんて冷たい子なのかしら!)」
トゥシャールはそれに応《こた》えてただ肩をすくめただけだが、それは、もちろん、『わしがこいつを給仕あつかいするのも、無理もなかろう』という意味であった。
わたしは素直に母のうしろにしたがった。わたしたちは玄関に出た。生徒たちがみな窓から見ているのを、わたしは知っていた。母は寺院のほうを向いて、三度うやうやしく十字を切った。母の唇《くちびる》がひくひくふるえだした。濃い重々しい鐘の音が規則正しい律動で鐘楼からひびきわたった。母はわたしのほうを向いた、すると――もうこらえきれずに、わたしの頭をなでながら、泣きだした。
「お母さん、もういいですよ……恥ずかしいよ……みんな窓から見てるじゃないか……」
母ははっと顔を上げると、急にそわそわしだした。
「おお、主よ……天なる神よ……天使たちよ、聖母マリアよ、聖ニコラよ……この子を守らせたまえ……主よ、天なる神よ!」と母はしきりとわたしに十字を切り、早くわたしの体中を十字で清めようとしながら、早口にくりかえした。「わたしのかわいい坊や、わたしのだいじな坊や! あっ、そう、坊や……」
母は急いでポケットに手をさしこむと、空色の格子縞のハンカチをとりだした。ハンカチははしがかたく結ばれていて母はその結び目をとこうとしたが……なかなかとけなかった……
「まあ、いいわ、このハンカチごとあげましょう、きれいだから、使うといいわ、ここにたぶん二十コペイカ銀貨が四枚入ってるはずだよ。もっと要《い》るだろうけど、ごめんね、坊や、これだけしかないものだから……許してね、坊や」
わたしはハンカチを受取った、そして『トゥシャールとアントニーナ・ワシーリエヴナからひじょうによくしてもらっているから、なにも不自由はしていない』と言おうと思ったが、それは抑えて、黙ってハンカチをにぎりしめた。
母はもう一度十字を切り、もう一度なにやらお祈りをつぶやくと、不意に――まったく思いがけなく、わたしにもおじぎをしたのである。上でトゥシャール夫妻にしたと同じように、深々と、ゆっくりと、長いおじぎを――わたしはこれを永久に忘れることができない! わたしはがくがくふるえた、そして自分でもどうしてかわからなかった。このおじぎで母はなにを言おうとしたのか? 『わたしに対する自分の罪を認めたのか?』――それからかなりすぎてからわたしの頭にふとこんな考えがうかんだことがあったが――わたしにはわからない。しかしそのときは、わたしは恥ずかしさにさっと真っ赤になってしまった。『みんな上から見てる、ラムベルトにまたなぐられるかもしれない』
母は、ついに帰っていった。みかんと糖蜜菓子はわたしがもどってくるまでに、元老院議員と伯爵の子弟たちがきれいにたいらげてしまったし、二十コペイカ銀貨四枚はたちまちラムベルトにとりあげられた。それで彼らは菓子店からピロシキとチョコレートを買ってきて、わたしには食べさせてもくれなかった。
それから半年がたった。もう風の吹くじめじめした十月になっていた。わたしは母のことはすっかり忘れていた。おお、そのころは憎悪が、世のすべてを呪《のろ》う陰《いん》にこもった憎悪が、すでにわたしの心にしみこんで、わたしの心をすっかり浸しきっていた。わたしはやはりブラシでトゥシャールの服の埃をはらってはいたものの、しかしすでに心のありたけで彼を憎悪していた、そしてそれが日ましにますますつのっていった。そしてそのころのあるもの悲しい夕暮れどきに、わたしはなんのためか自分の箱の中の整理をはじめて、不意に、隅っこに、母の空色の麻のハンカチを見つけた。それはあのときわたしが押しこんだそのままになっていた。わたしはそれをとりだして、いくらか興味をさえおぼえながら見まわした。はしには結び目のあとがまだそのままにのこっていて、銀貨のまるいあとまではっきりとついていた。わたしは、しかし、ハンカチを元の場所にもどして、箱をかたづけた。それはお祭りの前夜のことで、終夜祷《しゆうやとう》を呼びかける鐘の音が鳴りわたっていた。生徒たちは昼食後にもうそれぞれの家へ帰っていたが、その日にかぎって、どうして迎えが来なかったのか知らないが、ラムベルトがのこっていた。彼は依然としてわたしをなぐることはやめなかったが、そのころはもういろんなことをわたしに打明けるようになって、わたしをなくてはならぬ話し相手としていた。わたしたちは夜おそくまで、まだどっちも見たことのないレパジエ式の拳銃《けんじゆう》のことや、チェルケス人の山刀のことや、どんなふうに彼らが斬《き》り殺《ころ》すかということや、強盗団の首領になったらどんなに痛快だろうなどということを話し合って、結局しまいにラムベルトは大好きな猥談《わいだん》に話をもっていくのだった。そしてわたしは自分でもあきれるのだが、そうしたいやらしい話を聞くのが大好きなのであった。でもこのときは急に堪えられなくなって、わたしは頭が痛むからと彼に言った。十時にわたしたちは寝床に入った。わたしは頭からすっぽりと毛布をかぶって、枕の下から空色のハンカチをとりだした。わたしはどういうわけか一時間ほどまえにまた箱からハンカチをだして、寝床がのべられるとすぐに、そっと枕の下にしのばせておいたのだった。わたしはすぐにそのハンカチを顔におしあてて、いきなり接吻しはじめた。『お母さん、お母さん』とわたしは思い出しながら、口の中でつぶやいた、すると胸が万力でしめつけられるように、ぎりぎり痛んだ。目をつぶると、唇をふるわせている母の顔が見えた。それは母が寺院にむかって十字を切り、それからわたしに十字を切ってくれた母の顔だった。ところがそのときわたしは、『恥ずかしいよ、みんなが見てるじゃないか』と言ったのである。『お母さん、お母さん、たった一度だけぼくのところへ来てくれましたね……お母さん、遠くから訪ねてきてくれたお母さん、あなたは今どこにいるのです? おぼえているでしょうか、あなたが訪ねてくれたあのかわいそうな子供を……今ちょっとだけでいいからぼくに顔を見せてください、せめて夢の中にでも現われてください、一言ぼくにあなたを愛していると言わせてください、あなたを抱きしめて、青い目に接吻するだけでいいのです、そしてもう決してあなたを恥じていない、とあなたに言いたいのです。あのときだってあなたを愛していたんです、胸がいっぱいだったんです、それなのにただ給仕みたいに坐っていたなんて。お母さん、あのときだってぼくがどれほどあなたを愛していたことか、あなたにはわかってもらえない! お母さん、今どこにいるのです、ぼくの声が聞えますか? お母さん、お母さん、あの鳩をおぼえてますか、村の寺院で?……』
「ええ、うるさい……なにをぼそぼそ言ってやがるんだ!」とラムベルトが自分の寝台の上でぶつぶつ言った、「畜生、ひっぱたくぞ! 眠れやしねえ……」
彼は、しまいに、寝台からとび下りると、こちらへかけよって、わたしの毛布をひっぱがそうとした、しかしわたしは頭からかぶった毛布にますます強くしがみついた。
「めそめそしやがって、なにを泣いてやがんだ、この阿呆《あほう》、ばかもの! これでもくらえ!」と彼はわたしをなぐった。拳骨《げんこつ》で背や、脇腹を思いきりぶちのめした、これでもか、これでもかと……とたんに、わたしははっと目をあけた……
もうすっかり明るくなって、針のような霜が雪の面や、塀の壁にきらきら光っていた……わたしは外套の中で凍えきって、死んだようになって、うずくまっていた。そして誰かがわたしのまえに立ちはだかって、大声でののしりちらし、右足の靴先で思いきりわたしの脇腹を蹴《け》とばしながら、わたしを起そうとしていた。わたしはわずかに体を起して、見上げた。豪華な熊の毛皮の外套を着て、黒貂《くろてん》の毛皮の帽子をかぶった男で、目が黒く、しゃれた頬《ほお》ひげも真っ黒で、わし鼻で、歯が真っ白で、さくら色に上気した顔は、まるで仮面のようだった……男はわたしの顔をのぞきこむように近々と顔をよせた、そして一息ごとに白く凍った息が口から吐きだされた。
「凍えたか、この酔っぱらいのばかものめ! 犬みたいに凍え死んじまうぞ、起きろ! 起きろ!」
「ラムベルト!」とわたしは叫んだ。
「おまえは誰だ?」
「ドルゴルーキーだよ!」
「どこのドルゴルーキーだ?」
「ただのドルゴルーキーさ!……トゥシャールの……ほら、いつだったか居酒屋できみがフォークをわき腹に突きさしたじゃないか!……」
「あ、あ、あア!」と彼は妙に長ったらしく、思い出したように笑いながら、奇声をあげた。(それにしても、この男はわたしを忘れていたのだろうか!)「なるほど! じゃおまえはあいつか!」
彼はわたしを助け起して、立たせた。わたしは立っているのも、足を動かすのも、やっとだった。彼はわたしをささえながら歩きだした。彼は思い出して考えをまとめようとするらしく、しきりにわたしの目をのぞきこみながら、真剣にわたしの言葉に耳を傾けていた。わたしもこわばった口で一生けんめいに、たえず、ひっきりなしになにやらしゃべった。そしてわたしはしゃべっていることが、そして相手がラムベルトであることが、無性に嬉しかった。なぜか彼がわたしには『救い』のように見えたからか、あるいはまったくちがう世界から来た男と思ったから、とっさに彼にすがりついたのか、わたしにはわからないが、――そのときのわたしには考える力がなかった、――とにかくわたしはなにも考えずに彼の胸にとびこんだ。わたしがそのときなにを言ったのか、ぜんぜんおぼえていないが、いずれにしてもいくらかでも筋がとおっていたとは思われないし、はっきり言葉になっていたかさえ怪しい。しかし彼は熱心に聞いていた。彼は最初に目についた辻馬車《つじばしや》をとめた、そして数分後にはわたしはもう彼のあたたかい部屋の中に坐っていた。
人間は誰でも、自分の身におこったできごとで、それが夢であろうと、めぐりあいであろうと、占いであろうと、予感かあるいはそれに類したなにかであろうと、なにかまぼろしのような、異常な、とにかく普通ではないほとんど奇蹟《きせき》のようなものと見るような、あるいは見たいと思うようなできごとの思い出を、ひとつかふたつはもっているものである。わたしはいまでもラムベルトとのこの出会いを、なにか予言的なものとさえ見たいと思う気持がある……少なくともこの出会いの事情とその後のもろもろのできごとから判断すると、そう思わざるをえないのである。とはいえ、この出会いは、少なくとも一方的に、きわめて自然におこった。彼はある夜のしごとから(どんなしごとかは――いずれ説明することになるが)ほろ酔い機嫌でもどってきて、横町の門のところにちょっと立ちどまったときに、わたしを見つけただけのことである。彼はペテルブルグに来てまだ数日にしかなっていなかった。
わたしが意識をとりもどした部屋は、あまり広くない、安ものの家具が申し訳程度に置かれた、ペテルブルグの中流どころのごくありふれた貸間だった。しかし、ラムベルト自身は贅沢《ぜいたく》な、実にすっきりした服装をしていた。床にはまだ半分ほどしか整理していないトランクが二つ投げ出されていた。隅に衝立《ついたて》があって、寝台をかくしていた。
「Alphonsine!(アルフォンシーヌ!)」とラムベルトが叫んだ。
「Presente!(ここよ!)」と衝立のかげからパリふうのアクセントのぎすぎすした女の声が答えた、そして二分もたたないうちに、寝台から起きぬけらしく、だらしなくガウンをひっかけたマドモアゼル・アルフォンシーヌが出てきた。のっぽで、やせっぽちで、髪が黒く、胴も顔も長く、目がきょときょととおちつきなく、頬がぺこりとこけて、――まるで古ぞうきんみたいな、なんとも奇妙な女だった!
「早くしてくれ!(ロシア語にしてしまうが、彼はフランス語で話したのである)、あちらにはもうサモワールの支度ができてるはずだ。急いでお湯と、赤ぶどう酒と、砂糖と、それからコップをもってきてくれ、大急ぎだ、凍えてるんだ。こいつは――ぼくの友人で……一晩中雪の上で寝てやがったのさ」
「Malheureux!(かわいそうに!)」と彼女は舞台の上のしぐさよろしく両手をぱちりと打ちあわせて、叫んだ。
「さあさあ!」とラムベルトは犬ころを追うみたいに女に声をかけて、指でおどしつけた。女はすぐに芝居もどきのジェスチュアをやめて、言われたことを実行しにかけだして行った。
彼はわたしを見まわして、脈をしらべたり、額やこめかみのあたりを軽く叩いてみたりした。
「ふしぎだよ」と彼はつぶやいた、「どうして凍死しなかったろう……まあ、頭からすっぽり外套にくるまってたから、毛皮の穴にもぐっていたみたいなことになったんだな……」
熱い茶がはこばれてきた。わたしはがつがつとそれを飲んだ、するとたちまちあたたかさが全身にしみわたってわたしを蘇生《そせい》させた。わたしはまたつぶやきはじめた。わたしは隅のソファの上になかば横たわって、のべつしゃべっていた、――はあはあ息を切らしながらしゃべっていた、――しかしいったいなにをどんなふうに語ったのかは、やはりほとんどおぼえていない。ところどころは、しかもかなりの時間にわたって、まったく記憶がない。くりかえして言うが、そのときのわたしの話から彼がなにをつかんだか――わたしは知らないが、しかしわたしとの出会いがまんざらでもないという結論をひきだせる程度には、わたしの話がわかったらしい……彼がどのような目論見《もくろみ》をもちえたかは、いずれその時がきたら説明するつもりである。
わたしはひどく元気が出たばかりか、ときどきは陽気な気分にさえなった。ブラインドが上げられると、さっと室内に日光がさしこんだのも、誰かが焚《た》きつけて、暖炉がぱちぱちと燃えだしたのも、おぼえている。でも誰がどんなふうに焚きつけたのかは――すこしもおぼえがない。マドモアゼル・アルフォンシーヌが黒い小さな狆《ちん》をコケティッシュに胸に抱きしめていたのも、わたしの記憶にのこっている。この狆がどういうものかひどくわたしの心をうばって、わたしは二度ほど話をやめて、そちらへ身をのりだしかけたが、ラムベルトが追いはらうように手を振ると、アルフォンシーヌは狆を抱いたままあわてて衝立のかげへ逃げこんでしまった。
彼はほとんど口を利《き》かないで、わたしのまえに坐って、わたしにおおいかぶさるように身をのりだして、じっと聞いていた。ときどきにやりと息の長いほくそ笑みをもらし、歯を見せて、目をほそめて、なにかしきりに思いはかって推察しようとするらしいようすを見せた。わたしの記憶にあざやかにのこっているのは、ただひとつ、例の『文書』のことを彼に語ったときのことである。わたしはどうしてもわかりやすく筋道をたてて話をつなぎあわせることができなかった、そして彼の顔にも、どうしてもわたしの言う意味がつかめないらしいもどかしさが、露骨に出ていた、しかし彼はなんとしてもこれだけは聞きだしたいと思ったらしく、質問でわたしの話をさえぎる危険をさえおかしたのである。なぜ危険かと言えば、さえぎられたら、わたしの話の流れがとまって、とたんになにを話していたのか忘れてしまうおそれがあるからである。どのくらいの時間わたしたちはこうして坐って、話していたのか――わたしは知らないし、思いあわせてはかることすらできない。彼は不意に立ち上がると、アルフォンシーヌを呼んだ。
「彼は安静が必要だ。ひょっとしたら、医者を呼ばにゃならんかもしれん。なんでも彼の言うとおりにしてやってくれ、つまり……vous comprenez, ma fille? Vous avez l'argent,(わかるだろうな、おまえ? 金はあるかい)、ない? じゃこれ!」彼は十ルーブリ紙幣を一枚女に渡した。そして、なにやらひそひそと女にささやきはじめた。「Vous comprenez! Vous comprenez!(わかったな!わかったな!)」と彼はぐいと眉《まゆ》をしかめて、指でおどしつけながら、女に念をおした。わたしは、女が彼のまえでおそろしくおびえているのを見た。
「ぼくはじきもどってくるが、きみはとにかく眠ることだな」と彼はわたしに笑って、帽子をつかんだ。
「Mais vous n'avez pas dormi du tout, Maurice!(でもあなたこそちっとも眠らなかったじゃないの、モーリス!)」とアルフォンシーヌがせつなそうに叫んだ。
「Taisez vous, je dormirai apres.(うるさいな、あとで寝てやるよ)」と言い捨てて、彼は出ていった。
「Sauvee!(助かったわ!)」と彼の後ろ姿をわたしに指さして、女はほっとしたようにささやいた。
「Monsieur, monsieur!(もし、あなた、聞いて!)」彼女は部屋の中央にポーズをとって立つと、すぐに朗読調に言いだした、「jamais homme ne fut si cruel, si Bismark, que cet etre, qui regarde une femme comme une salete de hasard. Une femme, qu'est-ce que ca dans notre epoque? ≪Tuela!≫Voila le dernier mot de l'Academie francaise! ......(いまだかつてこれほど残酷な男はありません、女をたまゆらのけがらわしきものと見なしたビスマルクでも、これほどではありません。今日において女とはそもなにものなのでしょう? 女など殺してしまえ!――これがフランス・アカデミーの最後の言葉なのです!……)」
わたしは彼女に目をみはった。わたしの目は焦点がずれて、アルフォンシーヌが二人いるように見えた……不意にわたしは、彼女が泣いているのに気がついた。はっとして、前後を思いあわせてみると、彼女はもうずいぶんまえからわたしに話しかけているらしかった、してみると、そのあいだわたしは眠っていたか、あるいは気を失っていたのである。
「...... Helas! de quoi m'aurait servi de le decouvrir plutot.(おお! この発見がどれほどの利益をわたしにもたらすはずであったか)」と彼女は慨嘆した、「et n'aurais-je pas autant gagne a tenir ma honte cachee toute ma vie? Peut-etre, n'est-il pas honnete a une demoiselle de s'expliquer si librement devant monsieur, mais, enfin, je vous avoue, que s'il m'etait permis de vouloir quelque chose, oh, ce serait de lui plonger au coeur mon couteau, mais en detournant les yeux, de peur que son regard execrable ne fit trembler mon bras et ne glacat mon courage! Il a assassine ce pope russe, monsieur, il lui arracha sa barbe rousse pour la vendre a un artiste en cheveux au pont des Marachaux, tout pres de la Maison de monsieur Andrieux ―― hautes nouveautes, articles de Paris, linge, chemises, vous savez, n'estce pas? ...... Oh, monsieur, quand l'amitie rassemble a table epouse, enfants, soeurs, amis, quand une vive allegresse enflamme mon coeur, je vous le demande, monsieur: est-il bonheur preferable a celui dont tout jouit? Mais il rit, monsieur, ce monstre execrable et inconcevable et si ce n'etait pas par l'entremise de monsieur Andrieux, jamais, oh, jamais je ne serais ...... Mais quoi, monsieur, qu'avez vous, monsieur?(その発見がもっとまえにできたら、そしてこんな恥を一生かくしていることができたら、どれほどよかったことか? あるいは、娘がこんなあからさまに、殿方とお話するのはいけないことかもしれませんわね、あなた、でも正直に言いますと、わたしになにか望みをもつことが許されるとしたら、わたしの願いはたったひとつ、彼の心臓にナイフを突き立てることだけよ、ただし顔をそむけて、だって彼の侮蔑のまなざしでわたしの手がふるえ、勇気がくじけてしまってはたいへんですもの。彼はあのロシアの神父を殺したのよ、あなた、そして赤いあごひげをむしりとって、マルシャル橋のたもとのかつら屋、ほらあのアンドリュウの店の隣の、あそこへ売ったのよ――アンドリュウの店、あなた、むろんご存じですわね、あのモードの店、パリのアクセサリーや、ブラウスや、シュミーズなどの……おお、夫婦や、子供たちや、姉妹たちや、親しい知人たちがにぎやかに食卓を囲んで、生き生きした喜びがわたしの心を充たすとき、ねえ、あなた、そうしたときにみんなの心に息づいている幸福、これよりも大きな幸福ってあるかしら? ところが彼はせせら笑うのよ、あなた、あの忌まわしい不可解な化けものめは、えへらえへら笑うのよ。もしこれがアンドリュウさんの世話でなかったら、わたし決して、決してこんな……あら、どうなさったの、あなた?)」
彼女はわたしのまえにかけよった。わたしは悪寒がしたようだったが、ひょっとしたら、気を失ったのかもしれない。この半狂人の女がどれほど重苦しい、痛ましい印象をわたしにあたえたか、わたしは言いあらわすことができない。もしかしたら、わたしの気をまぎらせるように言いつけられたものと、思いこんでいたのかもしれないが、とにかく彼女はいっときもわたしのそばを離れようとしなかった。彼女はむかし舞台に立ったことがあるのだろうか。彼女はおそろしく朗読口調で、身ぶり手ぶりをまじえて、ひっきりなしにしゃべりまくった。わたしはもうかなりまえから黙りこくっていた。彼女の話からわたしがわかったことは、彼女がどういうことかで『la Maison de monsieur Andrieux ―― hautes nouveautes, articles de Paris, etc.(パリのアクセサリーなど最新流行の品を売るアンドリュウの店)』と密接な関係をもち、もしかしたら、もとはアンドリュウの店にいたのかもしれないが、どういうことかでこの『おそろしい不可解な化けもの』のためにアンドリュウ氏から永久に切り離されてしまって、ここから悲劇が生れたのだ、ということだけであった……彼女ははげしくむせび泣いていたが、わたしにはただ芝居をしているだけで、実際にはちっとも泣いていないように思われた。わたしはときどきふっと、彼女が急に骸骨《がいこつ》のようにばらばらにくずれてしまうのではないかという気がした。彼女はなんとなく圧《お》しつぶされたような、割れたふるえ声で言葉を発音した。たとえば、preferable という言葉を、彼女は prefe-a-able というふうに発音し、a のところでまるで羊が鳴くような音をひいた。一度気がつくと、部屋の中央でピルエット(訳注 爪先旋回)をしている彼女の姿が、わたしの目にうつった。しかし彼女は踊っていたのではなく、このピルエットも話にでてきたのでまねをしただけで、あとは顔の表情で表現しただけだった。不意に彼女は部屋の隅においてある古ぼけた小さな、調子の狂ったピアノのまえにかけよると、蓋をあけて、下手くそにキイを叩きながら歌いだした……わたしは十分ぐらいか、意識がすっかり混濁した、どうやら眠っていたらしい、ところが狆《ちん》のほえ声で、わたしははっと意識がもどった。一瞬、ほんのちらとではあったが、意識がはっきりともどって、わたしの姿をまざまざと照らしだした。わたしはぎょっとしてとび起きた。
『ラムベルト、ぼくはラムベルトの部屋にいるのだ!』という考えがわたしの頭をうった、そして、わたしは帽子をつかむと、外套のおいてあるところへかけよった。
「Ou allez-vous, monsieur?(あっ、どこへ、あなた?)」と目ざといアルフォンシーヌが叫んだ。
「ぼくは出たいんだ、ここを出たいんだ! 行かしてくれ、とめないで……」
「Oui, monsieur!(あっ、そうですの!)」とアルフォンシーヌは全身でうなずくと、自分でとんでいって廊下へ出るドアをあけた。「Mais ce n'est pas loin, monsieur, c'est pas loin du tout, ca ne vaut pas la peine de mettre votre chouba, c'est ici pres monsieur!(でもそれはすぐよ、あなた、すぐ近くよ、外套なんか着なくたって、すぐそこよ!)」と彼女は廊下中に聞えるような声で叫んだ。部屋から走り出ると、わたしは右へまがった。
「Par ici, monsieur, c'est par ici!(こっちよ、あなた、こっちよ!)」と彼女はせいいっぱいの声で叫びながら、長い骨ばった指でわたしの外套をつかんで、別な手で廊下の左のほうを示した。それはわたしのまったく行きたくないほうであった。わたしは振りちぎって、出口の階段のほうへかけだした。
「Il s'en va, il s'en va!(逃げないで、逃げないで!)」とアルフォンシーヌは割れた声でわめきながら、わたしのあとを追った、「mais il me tuera, monsieur, il me tuera!(あたしあの男に殺される、逃がしたら殺されてしまう!)」
しかしわたしはもう階段のところまで来た、そして彼女が階段の下まで追ってきたが、わたしはやっと出口の扉をあけて、外へとびだすことができた。そして出会いがしらの辻馬車にとびのり、母の番地を言った……
しかし意識は、一瞬光って、たちまち消えうすれていった。わたしはそれでも母のところまではこばれて、連れこまれたのは、かすかにおぼえているが、それっきり完全な意識不明の状態におちてしまった。あくる日、あとで聞かされたのだが(それに自分でも、かすかには、おぼえているのだが)、わたしの意識はごく短いあいだもどった。わたしはヴェルシーロフの部屋のソファに横になっている自分に気がついた。まわりにヴェルシーロフと、母と、リーザの顔を見たことをおぼえている。ヴェルシーロフがなにやらゼルシチコフと公爵のことを話して、一通の手紙を見せて、しきりにわたしを安心させようとしたことを、わたしはよくおぼえている。みんながあとで語ったところによると、わたしはおびえきってしきりにラムベルトはどうしたと訊いて、たえず狆のほえ声が聞えると口走っていたそうである。しかし意識のあわい光はまもなく消えてしまった。そしてその二日目の日暮れ近くには、わたしはもう完全な熱病にかかっていた。あとで知ったことだが、順序としてここでその後のできごとについて語っておきたい。
あの夜わたしがゼルシチコフの賭博場《とばくじよう》をとびだしてから、場内がいくぶんおちついて、ゲームが再開されようとしたとき、ゼルシチコフが不意に声を張りあげて、実に遺憾な誤解があったことを声明した。紛失したと思われた四百ルーブリが他の紙幣の山の中にまぎれていたことがわかり、胴元の計算が完全に合ったというのである。すると、まだその場にのこっていた公爵が、ゼルシチコフにつめよって、わたしの潔白を公表することを断固として要求し、さらに、書面の形でわたしに謝罪せよとせまった。ゼルシチコフは、自分の立場として、その要求が当然であることを認めて、公爵の面前で、明日わたし宛《あて》に釈明と謝罪の手紙をとどけることを約束した。公爵は彼にヴェルシーロフのアドレスをおしえた、そして実際にヴェルシーロフは翌日ゼルシチコフ自身の手からわたし宛の手紙と、わたしがルーレット台の上に置き忘れた千三百余ルーブリの金を受取った。こうして、ゼルシチコフの賭博場の事件はけりがついた。わたしが意識をとりもどしたとき、この嬉《うれ》しい知らせは大いにわたしの回復を助けた。
公爵は、賭博場からもどると、その夜二通の手紙を書いた。一通はわたしにあてたもので、もう一通は、ステパーノフ少尉と例の事件のあったもとの連隊にあてたものであった。この二通の手紙を彼は翌朝発送した。それから彼は陸軍大臣宛の報告書をしたため、その報告書をもって、朝早く連隊長のもとに出頭し、『自分は――鉄道の株券偽造に関係した刑事犯であります、法の裁きに服したいと思います』と言明した、そして同時に報告書も提出した。その報告書にはすべての事情が整然としたためてあった。彼は逮捕された。
つぎにかかげるのが、彼がその夜わたし宛に書いた手紙の全文である。
『敬愛するアルカージイ・マカーロヴィチ
わたしは下男の解決法をこころみ、そのこと自体によって、いささかなりとわたしの心を慰める権利を失ってしまいました。わたしだって、最後には正しい偉業を決行することができるのだと考えることができなくなってしまったからです。わたしは祖国と家名に対して罪をおかしました、そしてその罪に対し、一族の最後の者である自分が、自分に罰を下します。どうしてわたしが自己保存の卑怯な考えにしがみつき、たとい短いあいだでも金でそれを買いとろうなどとたわけた夢を見ることができたのか、われながら理解に苦しみます。そんなことをしたところで、自分の良心に対して、永久に罪をになわねばならないでしょうし、またあの連中は、よしんばあの不名誉な手紙をわたしに返したとしても、ぜったいに死ぬまでわたしにつきまとうことでしょう! そして残された道は、一生彼らから逃《のが》れることができずに、彼らに結びつけられたまま暮さなければならないということです、――これがわたしを待ち受けている運命なのです! わたしはこのような運命を受|容《い》れることはできません、そしてついにわたしの内部に、これからとろうとする行動をとるに足るだけの勇気を見出《みいだ》したのです。勇気というよりは、むしろ絶望というべきかもしれません。
わたしはもとの連隊の士官たちにも手紙を書いて、ステパーノフの潔白を証明しました。この行為には贖罪《しよくざい》的献身というものはいささかもありませんし、またあるはずもありません。これは――明日死ぬ者の死をまえにした遺言にすぎないのです。こう見てもらいたいのです。
賭博場でわたしがあなたから顔をそむけたことを、お許しください。あれは――あのときわたしはあなたを信じていなかったためなのです。今は、わたしはもう死人ですから、このような告白までできるのです……あの世からと聞きすててください。
リーザがかわいそうです! 彼女はわたしのこの決意をなにも知らないのです。どうかわたしを呪《のろ》わないで、よく事情を考えてくれるように、言ってあげてください。わたしは弁解する勇気がありませんし、いくらかでも彼女に説明してやりたいと思っても、その言葉すら見出せないのです。それから、アルカージイ・マカーロヴィチ、昨日の朝、彼女が最後にわたしに会いに来たとき、わたしは彼女にうそをついたことをわびて、結婚を申込む意志をもってアンナ・アンドレーエヴナを訪ねたことを告白しました。わたしは、すでに心に決めていた最後の決意をまえにして、彼女の愛を見たときに、このうそを良心にのこすことがどうしてもできなくなり、彼女に告白したのです。彼女は許してくれました、すっかり許してくれました、しかしわたしには彼女が信じられなかったのです。これは――許しではありません。わたしが彼女の立場だったら、おそらく許すことができなかったでしょう。
わたしを忘れないでください。
[#地付き]不幸な最後の公爵
[#地付き]ソコーリスキー』
………………………………
わたしはちょうど九日のあいだ、意識不明のまま横たわっていた。
[#改ページ]
第三部
第一章
今度は――まったく別な話である。
わたしはいつも『別な話、別な話』と宣言しながら、それでいて自分のことばかり書きつづけている。そのくせわたしはすでに何度となく、自分のことなどぜんぜん書きたくはないのだと公言してきた。事実、この手記を書きはじめるにあたっては、ぜったいに自分のことは書くまいと思ったのである。わたしなど読者にとってすこしも必要でないことは、自分でもわかりすぎるほどわかっている。わたしは自分のことではなく、他の人々のことを書いているつもりだし、書きたいと思っているのだが、たえず自分が出てくるとすれば、それは――嘆かわしい失敗にすぎない。というのは、どれほどわたしが望んでも、どうしてもそれを避けることができないからである。なによりもいまいましいのは、これほど熱をこめて自分の身辺のできごとを書いていると、わたしはそのこと自体によって、今のわたしがあのころのわたしと同じ人間だと思わせる起因を、読者にあたえていることである。読者は、しかし、わたしがすでに何度となく、『おお、過去の生活を変えて、まったく新しく出直すことができたら!』と慨嘆したのをおぼえているであろう。もしわたしが今すっかり変って、まったく別な人間になっていなかったら、こんなことは言えなかったろう。それは自明の理である。誰にもあれ、わたしがしょっちゅうこの手記のせっかくもりあがったやまばにさえ、はさむことを強《し》いられるこうした詫《わ》びやことわりに、わたしがどれほどうんざりしているか、ちょっとでもわかっていただけたらと思うのである!
さて本題に移ろう。
九日にわたる昏睡《こんすい》状態ののちに、わたしは復活した人間として目ざめたが、しかし人間はすこしも変っていなかった。わたしの復活は、しかし、広い意味ではもちろん愚かしいもので、今であったら、ちがっていたかもしれない。理想、つまり感情は、またしても(もうまえに何度となく言ったように)彼らからすっかり去ってしまおうということにあった。しかも今度は、これまでのように、何度となくこの課題を自分に課しながら、どうしても実行できなかったというようなことではなく、もうぜったいに去ろうと決意したのである。わたしはみんなに侮辱はされたが、――しかし誰にも復讐《ふくしゆう》しようという気はなかった、そしてこの点だけは誓って断言することができる。わたしは憎しみも呪《のろ》いもなく去ろうと思っていた。わたしはもう彼らの誰にも、世界中の誰にも依存しない、ほんものの自分の力をもちたかった。わたしはすでに世の中のすべての人々と和解しようという気持になりかかっていたのである! わたしはそのときのわたしのこの夢想をひとつの思想としてではなく、しりぞけることのできないそのときの感情として書きこんでおくのである。わたしはまだ病床にあるあいだは、それに思想としての形をあたえたくなかった。病人として、弱りはてて、彼らがわたしのためにあけてくれたヴェルシーロフの部屋に横たわりながら、わたしはどれほどみじめな無力の状態にあるかを、苦痛をもって自覚していた。寝台の上にころがっているのは、人間ではなく、一本の藁《わら》みたいなものだった、それもただ肉体の病気のせいばかりではないのだ、――これがわたしにはどれほどの屈辱であったか! そう思うと、わたしの実体の奥底から、ありたけの力で反抗精神がわきあがってきた、そしてわたしはかぎりなく拡大された自負と挑戦の感情にしめつけられてあえいだ。わたしは回復期のはじめの数日、つまり藁みたいに寝台の上にころがっていた数日ほど、猛烈な反抗精神に充たされた時期を、生涯を通じてさえ記憶にないほどである。
しかししばらくはわたしは沈黙をまもって、なにも考えまいとさえ決めていた! わたしはたえず彼らの顔を観察して、わたしに必要なことをすべて読みとろうとつとめていた。明らかに、彼らもわたしにしつこく訊《き》いたり、特に関心を示したりしないように心がけていたらしく、わたしとはまるでよそごとしか話さなかった。これがわたしにはありがたかったが、同時に悲しくもあった。この矛盾は説明するまでもあるまい。わたしは母よりもリーザを見ることが少なかった、といって彼女は毎日、それも二回ずつもわたしの病室に顔を見せたのだった。彼女たちの話の断片とぜんたいのようすから、リーザには心配ごとがおそろしくたくさん重なりあって、自分のしごとのためにむしろ家にいないことが多いらしい、とわたしは推定した。『自分のしごと』があるというこの考えの中にすでに、わたしにとっては屈辱的ななにものかがふくまれていたらしい。しかし、そうしたことはすべて書くに値しない病的な、純粋に生理的な感じにすぎなかった。タチヤナ・パーヴロヴナもほとんど毎日のように見舞いに来た、そしてわたしにやさしくするというのではぜんぜんなかったが、少なくともまえのようにののしりはしなかった。これがわたしにはどうにもいまいましくて、わたしはいきなりこう言ってやった、『あなたは、タチヤナ・パーヴロヴナ、悪口を言ってないと、まったくおもしろみのないひとですね』。すると彼女は、『そう、じゃもう来ませんよ』と吐きすてるように言って、立ち去った。一人だけでも追いはらったことが、わたしには嬉《うれ》しかった。
わたしは誰よりも母を苦しめて、母にあたりちらした。わたしにはおそろしい食欲が出て、食事を運んでくるのがおそいと文句ばかり言った(しかし食事がおくれたことは一度もなかったのである)。母はどうしてわたしの機嫌をとったらいいのかわからなかった。あるとき母はスープを運んできて、いつものように、スプーンでわたしに飲ませはじめたことがあったが、わたしはそのあいだじゅう文句ばかりならべていた。そのうちに不意に、文句を言っている自分が腹だたしくなった。『ぼくがほんとに愛してるのは、母一人だけかもしれないのに、その母をこんなに苦しめたりして』。しかしわたしのむしゃくしゃはおさまらなかった、そしてわたしはかんしゃくをおこして不意に泣きだしてしまった、ところが母は、かわいそうに、わたしが嬉しくて泣きだしたものと思って、わたしの上にかがみこんで、接吻《せつぷん》をしはじめた、わたしは心をひきしめて、どうにかがまんしたが、その瞬間は心から母を憎んだ。しかし母をわたしはいつも愛していた、そのときも愛していたし、決して憎んだりはしなかった、ところがよくあることだが、愛していればいるほどいじめてやりたくなるもので、そのときもそうだったのである。
わたしが回復期の何日かのあいだほんとに憎んだのは医師一人だけであった。この医師はまだ若い、態度のふとい男で、ものの言い方がそっけなく、しかも無礼だった。たしかに科学者というものは、昨日不意にある特殊の現象を発見したばかりだ(実は昨日などなにも特別なことはおこりもしなかったくせに)という顔つきをしたがるもので、『中流』や『凡俗』にかぎっていつもそうなのである。わたしはずいぶんがまんしてきたが、とうとう、ある日不意に爆発して、家人たちがぜんぶそろってるまえで、彼はただ無意味に訪《たず》ねてくるだけで、わたしは彼の助けなどぜんぜんかりなくても直れる、彼はレアリストを気どっているが、その実まるで偏見のかたまりで、薬がまだ一度もいかなる病人をも直したことがないことを理解していない、と言明した。さらに追討ちをかけて、どう見ても、彼はひどく無教養で、『近ごろむやみに威張りちらしているわが国の技術家や専門家どものやからとなんら選ぶところがない』と言ってのけた。医師は憤然とした(もうこの一事で彼がそうした類《たぐ》いの凡俗であることを証明したのだが)、しかしやはり往診に来ることはやめなかった。わたしは、ついに、医師が来ることをやめないならば、もう十倍もひどいことを面罵《めんば》してやる、とヴェルシーロフに言った。ヴェルシーロフは、このまえ言ったことの二倍不愉快なことを言えといってもむずかしかろうに、十倍などはとんでもない、と笑い流しただけだった。彼がこのことに気づいてくれたことが、わたしは嬉しかった。
しかし、妙な人間だ! わたしはヴェルシーロフのことを言っているのである。彼が、彼一人がすべての原因だった――それがどうだろう、わたしがそのとき怨《うら》みをいだかなかったのは彼だけなのである。わたしに対する彼の態度だけがわたしの心を買ったのではなかった。わたしたちはそのときお互いに話し合わなければならないことがあまりにありすぎて……だからこそなにも言わないのがいちばんいいのだ、とお互いに感じていた、とわたしは思うのである。人生のこのような場合に聡明《そうめい》な人間に出会うのは、なんとも言えぬ快いものである! わたしはすでに第二部の終りで、先まわりして、逮捕された公爵がわたしにあてた手紙のこと、ゼルシチコフのこと、わたしの潔白に対する彼の釈明のことなどを、彼がきわめて簡潔に明瞭《めいりよう》にわたしに伝えたことを述べた。わたしは沈黙を守ることに決めていたので、きわめてそっけなく、ごく簡単に二、三のことだけを彼に訊いた。彼はそれに明確に答えたが、いっさいよけいなことは言わず、なによりもいいことは、よけいな感情はいっさいまじえなかった。よけいな感情を示されることをわたしはそのときおそれていたのである。
わたしはラムベルトのことは沈黙していた。しかし読者は、もちろん、わたしの頭から彼のことがはなれなかったことは察していたはずである。わたしは熱にうかされていたときに何度かラムベルトのことを口走った。ところが熱がとれて、彼らを観察しているうちに、まもなく、ラムベルトのことは秘密のままにのこされていて、ヴェルシーロフのほかは誰もなにも知らないことを見てとった。そこでわたしはほっとして、不安な心をおさめたのだが、おどろいたことに、それがわたしの思いちがいであったことが、あとでわかったのである。彼はもうわたしの病気中に何度か訪ねてきていたが、ヴェルシーロフがそれをわたしに黙っていたので、わたしはもうラムベルトにとって忘れ去られてしまったものと、勝手に思いこんでいたのだった。それにもかかわらずわたしはしばしば彼のことを考えていた。それどころではない。嫌悪《けんお》もおぼえず、むしろ興味をもって考えたばかりか、わたしの内部に芽生《めば》えた新しい感情とプランに相応するような、なにか新しい解決の道がそこにあるような予感がして、むしろ彼に心をうつしていたのである。要するに、わたしはいよいよ考察をはじめるときが来たら、まずラムベルトの問題からはじめることに決めた。ここでひとつふしぎなことは、わたしは彼がどこに住んでいるのか、どの通りのどんな家であのときああいうことがあったのか、きれいに忘れていたことである。部屋も、アルフォンシーヌも、狆《ちん》も、廊下も――すっかりおぼえていた。いまでも見取図を書けるくらいだ。ところがどこであれがあったのか、つまりなに通りのどんな建物なのか――それは完全に忘れていた。しかもなによりもふしぎなのは、そのことに考えがいったのは、完全に意識がもどってから三日目か四日目で、ラムベルトのことが気になりだしてからもうずいぶんすぎてからなのである。
結局、わたしが復活後にまず感じたのはこうしたことであった。といって、わたしがあげたのはごく表面にあらわれたことだけで、大きな底流はまだつかめなかったと言うのがあたっていよう。実際には、しかし主な流れがそのときはすでにわたしの心の中でアウトラインができあがっていたのかもしれない。たしかにわたしがいらいらして、あたりちらしていたのは、スープがおそいからばかりではなかったのである。おお、わたしはおぼえているが、そのころ、すこしでも長く一人きりでおかれたりすると、どれほど憂愁にとらわれ、ふさぎの虫に胸をかまれたことであったろう。母たちは、まるでわざとのように、いっしょにいるとわたしにつらい思いをさせ、世話をするとかえってわたしをいらいらさせることに、まもなく気づいて、できるだけ長くわたしを一人にしておくようにした。よけいな気のまわしすぎというものである。
意識を回復して四日目の午後二時をまわったころであった。わたしは寝台の上に横になっていて、そばには誰もいなかった。明るく晴れた日で、三時がすぎて日がかたむきかけると、赤い夕陽《ゆうひ》が部屋の壁の隅《すみ》に斜めにさしこんで、そこが明るい点となって燃えたつのを、わたしは知っていた。わたしはこの数日の経験でそれを知っていた、そしてその現象が一時間後に必ずおこるということが、いやそれよりもそれをわたしが確実に予知していたということが、わたしをいても立ってもいられぬほどに苛《いら》だたせた。わたしははげしく全身をふるわせて寝がえりをうった、と不意に、深いしずけさの中に、『主よ、イエス・キリストよ、われらが神よ、われらを哀れみたまえ』という声がはっきりと聞えた。なかばささやくような声で、そのあとに胸いっぱいの深い溜息《ためいき》がつづき、それからまた完全な静寂にもどった。わたしは急いで頭をもたげた。
わたしはもうまえにも、というのは昨夜だが、というよりももう一昨日から、この階下の三つの部屋になにかあったことに気づきはじめていた。ここから客間をへだてた、まえに母とリーザがつかっていた小さな部屋に、今は誰か他の人間が住んでいるらしかった。わたしはもう何度か昼も夜もなにやら物音を聞きつけたが、それはいつもごく短いあいだのことで、じきにまたしーんとしずまりかえって、それが何時間かつづくので、わたしは別に気にもとめなかった。昨夜は、ヴェルシーロフがいるのだな、とわたしは思った。まして、それからじきに彼はわたしの部屋に入ってきたのである。そうはいうものの、わたしはみんなの話のはしばしから、ヴェルシーロフはわたしの病気のあいだどこか他の借家へ移って、そちらに寝泊りしていることを察知していた。母とリーザが上のかつてのわたしの『墓穴』へ移っていることは(おそらくわたしを安静にしておくためであろう)、わたしはもうだいぶまえから知っていて、『あんなところに二人でどうして寝られるのだろう?』とひそかに心配したほどだった。それが今思いがけなく、彼女たちのもとの部屋に誰かほかの人間が住んでいて、しかもそれが――ぜんぜんヴェルシーロフではないのである。わたしは予想もしてなかったほど身軽に(これまで自分はまるで力がないものと思っていたのである)、寝台から両足を下ろすと、スリッパを突っかけた、そしてそばにあった灰色の子羊の毛皮のガウンをはおって(これはヴェルシーロフがわたしに下げたものである)、そろそろと客間を横切って、もとの母の寝室のほうへ近づいていった。わたしがそこに見たものは、完全にわたしの度胆《どぎも》をぬいた。わたしはあまりの意外さに、茫然《ぼうぜん》と入口に立ちつくしてしまった。
そこには髪が真っ白で、ふさふさと銀のように白いあごひげを生やした一人の老人が坐っていたのである。もうだいぶまえからそこにそうして坐っているらしいようすであった。彼は寝台に腰を下ろしているのではなく、母の低い椅子に腰かけて、背を寝台にもたせかけているだけだった。もっとも、彼はまっすぐに背筋をのばして坐っているので、よりかかりなどはぜんぜん要《い》らなかった。しかし、明らかに病人らしかった。彼はシャツの上に毛皮|外套《がいとう》をかぶって、膝《ひざ》を母の毛布でつつんでいた。足にはあたたかい室内ばきをはいていた。背丈《せたけ》は、どうやら大きいらしく、肩幅がひろく、病身で、いくぶん蒼白《あおじろ》く、やせてはいたが、ひどく元気そうで、顔は面長で、髪はさほど長くはないが豊かで、年齢はもう七十をすぎているらしく見えた。かたわらの手のとどくほどの小卓の上に、三、四冊の本と銀縁のめがねがおいてあった。わたしは彼に会おうとはつゆほども思っていなかったが、それでもとっさに彼が誰であるかを推察した。ただこの数日ほとんどわたしと隣りあいに住んでいながら、どうしてこんなにひっそりとしていて、いままでわたしがその気配もききとれなかったのか、わたしにはやはりふしぎでならなかった。
彼はわたしを見ても、身じろぎもしないで、無言でじっとわたしを見つめた。わたしも同じように彼を見つめていたが、ただちがいは、わたしの目にははかり知れぬおどろきがあったのに、彼の目にはつゆほどのおどろきもなかったことである。それどころか、この五秒か十秒の無言の凝視で、わたしをすっかり見ぬいてしまったらしく、彼は不意ににこっと笑った、しかもしずかに音もなくその笑いがつづいた、もっとも笑いはすぐに消えたが、明るい楽しそうなそのあとが、その顔に、特にその目にのこった。びっくりするほど青い、きらきら光るような大きな目だったが、老いのためにむくんだ瞼《まぶた》が垂れて、無数の小じわに囲まれていた。この彼の笑いはなによりもわたしの胸をうった。
人が笑うと、たいていは見ていていやになるものである。笑い顔にはもっとも多くなにかげびたもの、笑っている本人の品位をおとすようなものがむきだしにされる。といって本人は、たいていは自分の笑いが他人にどんな感じをあたえているかは、いっこうに知らないのである。これは、一般に誰でもそうだが、眠っているときにどんな顔をしているか知らないのと同じことである。人によっては眠っているときも利口そうな顔をしている者もいるが、中には、利口な者でさえ、眠るとおそろしく間のぬけた、したがって滑稽《こつけい》な顔になる者もいる。どうしてそういうことになるのか、わたしは知らない。わたしが言いたいのは、笑っている者も、眠っている者と同じで、たいていは自分がどんな顔をしているのかまるで知らないということだけである。きわめて多くの人々がまったく笑い方を知らない。しかし、これは知る知らないの問題ではない。これは――天からのさずかりもので、作ってできるものではない。ただし、自分を作りなおし、よりよきほうへ向上させ、自分の性格のよくない本能を殺せば、ある程度は作ることができよう。そうすれば、その人間の笑いは、おそらく、よりよきものに変るはずである。ある者は笑いによってすっかり自分を裏切り、とたんに馬脚をあらわしてしまう。文句なしに聡明な笑いでさえときには嫌悪《けんお》をもよおさせることがある。笑いはなによりも誠意を要求する、だが人々に誠意などはたしてあろうか? 笑いは悪意のないことを要求する、ところが人々が笑うのはほとんどが悪意からである。誠意に充ちた、そして悪意のない笑い――それは陽気である、ところが今日の人々のどこに陽気があるのか、そして人々は陽気になることを知っているのか? (現代の陽気|云々《うんぬん》は――ヴェルシーロフの意見で、わたしはそれをおぼえていた)。人間の陽気、これは――人間を暴露するもっとも具体的な特徴である。人によってはその性格がどうしてもつかめなかったのが、なにかのはずみで腹の底から笑ったら、その全性格がいっぺんにわかってしまったということもある。もっとも高い、そしてもっとも幸福な発達をとげた人のみが、隔意なく、つまり人にいやな思いをさせずに、温良に楽しむことができるのである。わたしは彼の知的発達のことを言っているのではない、彼の性格のことを、人格のすべてのことを言っているのである。結局、ある人間を観察し、その心の中を知ろうと思ったら、どんなふうに沈黙しているか、あるいはどんなふうにしゃべるか、あるいはどんなふうに泣くか、あるいはどんなふうに高邁《こうまい》な理想に胸をおどらせているか、などということにではなく、笑っているときのその人間に目を向けるのがいちばんである。よい笑い方をすれば――つまりよい人間である。その際にあらゆる陰影を見てとらなければならない。たとえば、その人間がどれほどはしゃいで、あけすけになっていても、ぜったいにその笑いに愚かしいところが見えてはならないのである。笑いの中にほんのわずかでも愚かしいところが見えたら、たといいつもりっぱな思想ばかりをまきちらしていても、その頭脳がたいしたものでないと見てまずまちがいはない。もしその笑いに愚かしさがないまでも、笑ったときに、その人間自体が急になぜか、たといわずかでも、どことなく滑稽に見えだしたら、その人間にはほんとうの品位というものがない、とはいえないまでも、欠けるところがある、と思ってさしつかえない。あるいは、最後に、もしその笑いが隔意のないものであっても、やはりなぜか下品に見えるならば、それはその人間の品性が下品なのであり、それまで諸君がその人間に認めていた上品な高尚なものはすべて――あるいは故意の付焼刃か、あるいは無意識に借用したものであって、その人間はいずれは必ずわるいほうへ転進し、『得なしごと』に熱中するようになり、高邁な理想を、若気の迷いとして惜しげもなく捨ててしまうのである。
この笑いについての長ったらしい持論を、ものがたりの流れを犠牲にしてまでここに述べたてたのは、それなりの考えがあってのことである。わたしはこれをわたしの人生体験からわりだしたもっとも重要な結論の一つと認めているのである。そして特にこれを、もう結婚の相手を選んで心の準備はしているが、それでもなおためらいと不信の目で相手を観察しながら、最終的に決めかねているお嬢さん方に知ってもらいたいのである。といってどうか、結婚のことなどまだなにもわからないくせに、いっぱしの教訓を垂れるとはおこがましいと、この哀れな未成年を笑わないでいただきたい。でもわたしは、笑いが心のもっとも確実な試験紙だということだけはわかっているのである。赤んぼうを見たまえ、赤んぼうたちだけが完全に美しく笑うことができる――だからなんとも言えずかわいいのである。わたしは泣いている子はいやだが、楽しそうににこにこ笑っている子は――これこそ天国からの光であり、人間が、ついには、子供のように清純で素朴《そぼく》になる日の訪れることを告げる、未来からの啓示である。そして今、なにか子供のように清らかな、そして信じられぬほどに魅惑的なものが、この老人の束《つか》の間《ま》の笑いの中にひらめいたのである。わたしはすぐに彼のそばへ歩みよった。
「坐りなさい、さあここへおかけ、足がまだふらふらしてるだろう」と彼は自分のそばの場所を示すと、やはりきらきら光るような目でわたしの顔を見まもりながら、やさしくわたしを招いた。わたしは彼のそばに坐ると、言った。「ぼくはあなたを知ってますよ、あなたは――マカール・イワーノヴィチでしょう」
「そうだよ。ほんとに、起きられてよかった。おまえは――若いのだ、若さとは美しいものだよ。年寄りは墓に近いが、若い者は生きることだよ」
「あなたはどこかわるいのですか?」
「わるいんだよ、おまえ、特に足がな。ここの入口まではどうにかたどりついたが、ここに坐りこんだら、すっかりむくみがきてしまってな。これはまえの週の木曜日からなのだよ、急に寒さがきたもので。これまでは軟膏《なんこう》を塗っていたのだが、ほらこれだよ、一昨年リフテン医師《せんせい》が、ほらモスクワのエドムンド・カルルイチな、あの先生が処方をこさえてくれて、この軟膏にはずいぶん助けられたよ、ほんとによくきいたものだ。ところが今度はもうきかなくなってしまった。おまけに胸までぎしぎし痛んでな。そこへ昨日からは背中まで、まるで犬に噛《か》まれるみたいでな……夜も眠れんのだよ」
「どうして、あなたの声がちっとも聞えなかったのかしら?」とわたしはさえぎった。
彼はなにか思いめぐらせるように、じっとわたしを見た。
「おまえはお母さんだけは起すんでないよ」と不意になにか思い出したように、彼はつけくわえた。「お母さんは昨夜一晩中ここで世話をやいてくれたんだよ、それでまるで蠅《はえ》みたいに、こそりとも音をたてなかった。今は、どうやら眠ってるようだ。おお、つらいものだよ、年寄りになって病気をすると」彼は溜息をついた、「魂のつかまりどころがないみたいにやせても、結構保っていて、やっぱり光を見るのが喜びなのだよ。一生をまたはじめからやり直せと言われても、おそらく、魂はしりごみせんだろうな。もっとも、これは罪な考えかもしれんがな」
「どうして罪なのです?」
「夢想だからだよ、こんな考えはな、年寄りはあとくされなく去らにゃいかんのだよ。おまけに、不平を言ったり、不服に思ったりして死を迎えたら、それこそ大きな罪というものだよ。だが、心の楽しみから生活を愛したのなら、きっと、年寄りにでも、神はお許しくださるだろうさ。人間がすべてのことにわたって、これは罪だ、あれは罪じゃないと、なにもかも知るのはむずかしいことだ。そこには人間の知恵のおよばない秘密があるのだよ。年寄りはどんなときにでも満足して、自分の知恵が咲き匂《にお》ってるあいだに、感謝しながら美しく死んでいかにゃならんのだよ。毎日々々を満足しきって、最後の息を吐きながら、喜んで、麦の穂がおちるように、自分の秘密を補って、去ってゆくのだよ」
「あなたはしきりに『秘密』と言いますけど、『自分の秘密を補って』というのはどういうことです?」と訊《き》いて、わたしはちらとドアのほうを振向いた。わたしたちが二人きりで、あたりにはゆるがぬ静寂がたちこめていたことが、わたしは嬉しかった。日暮れまえの夕陽が明るく窓を照らしていた。彼はいくぶん気どって、言葉の言いまちがいをしたが、ひじょうに真剣で、ほんとうにわたしが来たことを喜んでいるらしく、強い興奮にとらわれているようであった。しかしわたしは彼が確実に熱病の、それもかなり強い発作におそわれていることに気づいた。わたしも病んで、ここへ入ったときから、やはり熱に浮かされていた。
「秘密とはなにかというのかね? すべてが秘密だよ、おまえ、すべてに神の秘密が宿っているのだよ。一本々々の木にも、一本々々の雑草にも、この秘密がかくされているのだよ。小鳥がうたうのも、数知れぬ星が夜空にちかちか光っているのも――みんな同じように秘密なのだよ。だが、いちばん大きな秘密は――人間の魂をあの世で待ち受けているものにあるのだよ。これがいちばん大きな秘密なのだよ、おまえ!」
「あなたの言う意味が、ぼくにはわかりません……これは、決して、あなたをからかうつもりではありません、それに、うそじゃなく、ぼくは神を信じています。でもそうした秘密はすっかりもう遠い昔に人知によって解明されています、そして未知のものがあるとしても、おそらく確実に、しかもごく近い将来に、完全に解明されることでしょう。植物学者は、木がどのように生長するか完全に知っていますし、生理学者や解剖学者は、なぜ鳥がうたうかをさえ知っています、あるいはもうじき知るはずです、さらに星ですが、これはもうすっかり数がわかっているばかりか、そのいっさいの運行まで一分の狂いもなく計算されています。千年後の、何日の何時何分に、これこれの彗星《すいせい》があらわれると予言できるほどです……しかもこのごろはもっとも遠い星の構造まで明らかにされました。顕微鏡を見てごらんなさい――これは百万倍もの倍率をもつレンズなのです、――それで水の一滴をのぞくと、そこに完全な新しい世界があることがわかるでしょう、微生物の完全な生活のいとなみです。もちろんこれも秘密だったのですが、こうして発見されたのです」
「わしもそれは聞いたよ、おまえ、何度となく人々に聞かされたよ。そのとおりだ、実に偉大なりっぱなことだよ。すべてが神の意志によって人間にあたえられたのだよ。『生きよ、そして知れよ』とおっしゃって、神が人間に生命の息吹《いぶ》きを吹きこまれたのは、意味のないことではないのだよ」
「まあ、それは――一般に言われてることですね。でもあなたは――科学の敵じゃないでしょう、教権主義者じゃないでしょう? こう言っても、あなたがわかってくださるかどうか……」
「そりゃ、おまえ、わしは若いころから科学はすこしは読んだし、自分ではわからないまでも、別にくやしいとも思わんさ。わしがだめなら、誰かほかの者がわかってくれるからな。それでいいのかもしれんさ、いわゆる餅《もち》は餅屋でな。だって、誰でも学問をすれば得をするというものでもないからな。ところがみんな身のほどを知るということがないから、誰も彼もが世の中をあっと言わせたがる、まずわしなども、もしなにか身についた技術でもあったら、まっさきかもしれんて。ところがこのとおり無芸で、なにも知らなくては、どうにも名のあげようがないわい。ところがおまえは若いし、頭がきれる。そういう運命がおまえにはさずかったのだよ。勉強することだな。知識をひろめるがいい、神を信じぬ者やふとどきなことを言うやからに出会っても、ちゃんと太刀打《たちう》ちできるようにな、そしてそんなやからに気ちがいじみた言葉をなげつけられても、まだ若い思想をくもらせられたりしないようにならなきゃいかんよ。そのレンズとやらはわしもこのあいだ見たよ」
彼は息をついで、ほっと溜息をついた。わたしが来たことで彼がこのうえなく満足したことは、確実であった。うちとけたいとねがう気持は病的なほどであった。そのうえ、彼がときどき異常なまでの愛をこめてわたしを見たことは、ぜったいにわたしの欲目ではなかった。彼はやさしくわたしの手の上に掌《てのひら》を重ねたり、わたしの肩をなでたりした……しかしときどき、かくさずに言っておくが、まるでわたしのことを忘れてしまったようで、一人きりでいるように、熱をこめて話をつづけてはいたが、なにかしら空中のどこかにむかって話しかけているように思えることがあった。
「ところで」と彼はつづけた、「ゲンナージイの荒野に一人のまれに見る知恵者が住んでいてな。名門の生れで、中佐の位と、莫大《ばくだい》な財産をもっているのだが、世間に暮しているときも、結婚で縛られるのがいやで、口うるささのない、しずかなかくれ家を好んで、自分の感情を世間のわずらわしさから解きはなして、この荒野に庵《いおり》を結んでからもう十年になるのだよ。修道院の掟《おきて》はりっぱに守っているが、頭をまるめることは望まない。本のたくさんあることといったら、わしはまだあれほどの本をもってる人は見たことがないほどだ。なんでもぜんぶで八千ルーブリの本だそうだよ。ピョートル・ワレリヤーヌイチというお方だ。このひとは訪ねるたびにいろいろなことをわしに教えてくれてな、わしはお話を聞くのをそれは楽しみにしていたものだ。わしはあるときこんなことを訊いてみた、『旦那《だんな》さま、あなたはそれほどのりっぱな頭をおもちになって、もう十年も修道院の掟を守り、すっかり自分の意志を殺した生活をいとなんでおられますが、それならどうしてちゃんと出家なされて、もっともっとりっぱな完成をお目ざしにならないのです?』すると彼はわしにこう言ったのだよ、『じいさん、おまえさんはわしの知恵のことをそんなふうに言うけど、もしかしたら、知恵のほうがわしの心にめまいをおこさせてしまって、わしにかかわりなく勝手にかたまってしまったのかもしれないよ。またわしの掟を守った生活がどうとか言うが、わしはもうとうに自分に対する節度というものをなくしてしまっているのかもしれん。それに、意志を殺してるなどというけど、そんなふうに見えるかね? わしは今すぐでも財産をなげだすことができるし、官位も返すことができるし、勲章もすっかりこの机の上にさしだすことができる、ところが煙草だけは、この十年というものやめようやめようと思いながら、どうしても手放すことができんのだよ。こんなざまでわしがどんな修道僧なのだね、自分の意志を殺したなどと威張れるかね?』そのときわしは、このおごらぬ気持にびっくりしたものだよ。さてそれから、去年の夏のことだが、ペトローフカで、わしはまたその庵に立ちよったのだが、主のおみちびきというものだろうな、――そこで彼の僧房にその顕微鏡とかいうものを見たのだよ、えらい高い金をはらって外国からとりよせたのだそうだ。『お待ちなさい、じいさん、びっくりするものを見せてあげよう、あんたがまだ一度も見たことのないものをな。ごらん、これが一滴の水だよ、涙みたいに清らかな水だが、まあごらん、中になにがあるか、これでわかるだろうさ、科学者どもがいまに神の秘密をすっかりあばきだしてしまって、わしとおまえさんにひとつの秘密ものこしてくれなくなることがな』――こう言ったんだよ。わしはよくおぼえている。ところがわしはこの顕微鏡とかいうやつを、それより三十五年もまえに、アレクサンドル・ウラジーミロヴィチ・マルガーソフのところで見たことがあるのさ。この方はわしらの領主で、アンドレイ・ペトローヴィチの母方の伯父にあたる人で、その領地は死後アンドレイ・ペトローヴィチの手に移ったわけだが。この旦那は堂々とした、りっぱな将軍で、たくさんの猟犬をもっておられて、わしは長年のあいだ勢子《せこ》をつとめていたものだ。そのころ旦那はやはり外国からもちかえったこの顕微鏡とかいうやつをすえて、男も女も、家中の僕婢《ぼくひ》をすっかり呼びあつめて、一人ずつにのみやら、しらみやら、さらに針の先だの、髪の毛だの、水滴だのを見せてくれたものさ。いや、おもしろいったらなかったよ。みんなそばへよるのがびくびくで、おまけに旦那がこわいとくるし――なにせ怒りっぽい人だったからな。ある者は見方がわからないで、目をつぶってしまって、なにも見えやしないし、またおっかながって、悲鳴をあげるのもいるし、百姓|頭《がしら》のサヴィン・マカーロフなぞは両手で目をふさいで、『どんな目にあわされたって――行くこっちゃねえ!』などとわめくしまつだ。いやはや、たいへんな騒ぎで、笑うほかないようなことがわんさともちあがったよ。ピョートル・ワレリヤーヌイチにはわしは、しかし、もう三十五年もまえにこれと同じ奇蹟《きせき》を見たことは打明けなかったよ、だってせっかく大満悦でわしに見せようというのだものな、そこでわしは、わざとおどろいたふりをして、びくびくふるえてみせたものさ。彼はしばらく間をおいてから、『さあ、どうだね、じいさん、どう思うかね?』とわしに訊いたものだ。わしはうやうやしくおじぎをしてから、こう言ったよ、『主、光あれと宣《のたま》いければ、すなわち光ありぬ』。すると彼はだしぬけにわしにこう訊いたよ、『では、闇《やみ》はないのかね?』それがなんとも妙な言い方で、にこりとも笑わんのだよ。わしはびっくりして彼を見たが、彼は怒ったみたいな顔をして、ぷいと黙ってしまったんだよ」
「なにもおどろくことはありませんよ、そのピョートル・ワレリヤーヌイチとやらは修道院で聖餐《せいさん》を食べたり、礼拝したりしてるけど、神は信じていないのですよ、そしてあなたはちょうどそうしたときに行きあわせたわけです――それだけのことですよ」とわたしは言った、「それに、人間もかなりおかしいです。おそらくそれまで十回ぐらいは顕微鏡をのぞいたはずですよ、それがどうして十一回目に突然頭がおかしくなったのでしょう?……感受性が妙に過敏ですね……修道院で研《と》ぎすましたのでしょうよ」
「心の美しい、知恵のすぐれた人だったよ」と老人はさとすように言った、「そして神を信じぬ人ではなかった。知恵がいっぱいありすぎて、心がおちつかないのだよ。こういう人々はこのごろ旦那衆や学者たちのあいだからたくさん出てきた。それからもうひとつ言っておくがな、人間は自分で自分を罰するものだよ。だからおまえもそういう人たちはそっとしておいてあげて、腹をたてたりしないで、寝るまえに神に祈ってあげることだよ。だってそういう人たちも神を求めているのだからな。ところで、おまえは寝るまえにお祈りをするかな?」
「いいえ、それはうわべだけの形式だと思っています。でも、ぼくは正直のところ、そのピョートル・ワレリヤーヌイチという人が気に入りましたよ。少なくともひからびた乾草《ほしぐさ》じゃない、ちゃんと血の通った人間ですよ、それにある人間にいくらか似たところがあります。わたしたちの身近かにいる、わたしたち二人とも知っているある人間にね」
老人は、わたしの言葉のはじめのほうにだけ注意を向けた。
「ばかなことだよ、お祈りをしないのは。お祈りはいいものだよ、心がさわやかになる、眠るまえにも、朝起きたときも、夜中にふっと目がさめたときも。これはおまえによく言っておくよ。夏の、七月のことだったが、わしらはボゴロードスキー修道院のお祭りにまにあうように急いでいた。近づくにつれて、しだいに人々が加わって、しまいにはあらまし二百人ほどにふくれあがった。みんなアニキイとグリゴーリイ両聖者のありがたいご遺体を拝もうと思って急いでいるのだよ。わしらはみんな野宿をした。わしは朝早く目をさました、みんなまだ眠っていたし、お日さまもまだ森のかげから顔を出さなかった。わしは礼拝して、あたりを見まわすと、思わず溜息をついた。どこを見てもなんという神々《こうごう》しい美しさだろう! ひっそりとしずかで、空気がふんわりと軽やかで。草が生えている――生えるがいい、神の草よ、小鳥がうたっている――うたうがいい、神の小鳥よ、母の腕に抱かれて子供がピーッと泣いた――おお、神の恵みあれ、小さな人間よ、幸福に育つがいい、みどり子よ! そしてわしはそのときはじめて、生れてからはじめて、こうした恵みをすっかり自分の中にしっかりとおさめたような気がした……わしはまた横になって、なんとも言えないさわやかな気持で眠ったものだった。世の中はいいものだよ、おまえ! わしは、病気がすこしよくなったら、春のお祭りにまた出かけようと思っているのだよ。秘密というけど、いっそそのほうがいいのだよ。ふしぎで、恐ろしい気がする、するとそのおそれというのが心の喜びにつながるのだよ、『主よ、すべては汝《なんじ》のうちにあり、われも汝のうちに入らん、主よ、われを受けたまえ!』不平を言ってはいけないよ、秘密であれば、それだけよけいに美しいのだよ」と彼は感動につつまれてつけくわえた。
「秘密であれば、それだけよけいに美しいのだよ……ぼくはこの言葉を忘れないようにしましょう。あなたはひどいまちがった言い方をしますが、でもぼくはわかります……ぼくはおどろいているのです、あなたは言葉にあらわすことができるよりも、はるかに多くのことを知っているし、理解しています。ただあなたは熱にうかされているのですよ……」彼の熱っぽく光る目と蒼《あお》ざめた顔を見て、うっかりわたしは口をすべらせた。しかし彼はそれが耳に入らなかったらしい。
「知ってるかな、おまえは」と彼は今の話をつづけるように、また言いだした、「この世の人間の記憶には限度というものがあることを? 記憶の限度は人間に百年までと定められているのだよ。死んでから百年は、まだ子供やら、生前に顔を見たことのある孫たちやらが、おぼえているが、その先は彼の思い出がつづくとしても、ただ口先と頭の中だけのことだよ。だって彼の生前の顔を見た者は誰もいなくなってしまうのだからな。そして墓に雑草がしげり、墓石はこけにおおわれて、みんなに忘れられてしまう、子孫たちにまで忘れられてしまう、やがて名前まで忘れられて、ごくわずかな人びとの記憶にしかのこらなくなる――なにそれでいいのだよ! 忘れてしまうがいい、かわいい子供たち、だがわしは、墓の下からでもおまえたちを愛してあげるよ。かわいい子供たち、わしは土の下からおまえたちのにぎやかな声を聞くよ、命日にお墓におまいりに来てくれるおまえたちの足音を聞くよ。今のうちにせいぜいお日さまの光をあびて、生の喜びを味わいなさい、わしはおまえたちのことを神に祈ってあげるよ、おまえたちの夢の中に来てあげるよ……死後も同じように愛してあげるよ!」
要は、わたし自身も、彼のように、熱にうかされていたためであった。わたしは立ち去るか、あるいは彼をおちつかせるか、せめて彼を寝台の上に寝かせるくらいしてやるべきなのに、――というのは、彼はもう熱のために意識がもうろうとしていたからである、――わたしはいきなり彼の手をつかむと、彼の上にかがみこんで、手をはげしくにぎりしめながら、たかぶったささやき声で、心に涙をにじませながら、こう言ったのである。
「ぼくは嬉しい。ぼくはもうまえまえからあなたを待っていたのかもしれません。ぼくはここの人たちを誰も愛しません、彼らには善美がないのです……ぼくは彼らのあとにはついてゆきません、ぼくはどこへ行くのか、自分でもわからないのです、ぼくはあなたといっしょに行きます……」
だが、幸いなことに、不意に母が入ってきた。さもなければ、どういうことになったろうか。母は起きぬけらしい不安そうな顔で、手にガラスの薬びんとさじをもっていた。わたしたちを見ると、母は思わず叫んだ。
「あっ、やっぱり! キニーネをやるのがおくれたものだから、すっかり熱を出してしまって! わるかったわ、うっかり寝すごしてしまって、マカール・イワーノヴィチ!」
わたしは立ち上がって、部屋を出た。母はそれでも彼に薬を飲ませて、寝台の上に寝かせた。わたしも自分の寝台の上に横になったが、ひどく胸がさわいでいた。わたしは大きな好奇心に突つかれてしきりに寝がえりをうちながら、ありたけの力をあつめてこのめぐりあいのことを考えつづけた。わたしがそのときこのめぐりあいからなにを期待していたのか――知らない。もちろん、わたしはとりとめもない考察にふけっていただけで、脳裏には思想ではなく、思想の断片がちらちらしていたにすぎなかった。壁のほうに顔を向けて寝ていると、不意に隅っこに明るく光る点が見えた。さっきはあれほど呪《のろ》わしい気持で待っていたあの夕陽のつくる明るい点である。ところがそのときは、わたしの魂ぜんたいがとたんに喜びにふるえたことをおぼえている。新しい光がわたしの心にさしこんだような気がしたのだった。この甘い一瞬をわたしは記憶にとどめて、いつまでも忘れたくない。これこそ新しい希望と新しい力の一瞬であった……わたしはそのころ回復期にあったから、してみると、このような衝動はわたしの神経の状態の避けえない余震であったのかもしれない。しかしこのときの明るい希望をわたしはいまでも信じている――これをわたしは忘れないために、今ここに書きつけておきたいのである。もちろん、わたしはそのときでも、マカール・イワーノヴィチと巡礼に出る気がないことは、確実に知っていたし、わたしをとらえたこの新しい渇望がなになのか、自分でもわからなかったが、しかしわたしはたとい熱に浮かされていたとはいえ、すでにひとつの言葉をはっきりと言ってしまったのである。『彼らには善美がない!』と。『もちろん、わたしは善美を求めている、だが彼らにはそれがない、だからぼくは彼らから離れるのだ』。わたしはそのとき混乱した頭でこんなことを考えていたのである。
うしろでなにかさらさらという音が聞えて、わたしは振向いた。母が立って、わたしの上に身をかがめて、おどおどした目でわたしの顔をのぞいていた。わたしはいきなり母の手をとった。
「いったいどうしてお母さん、あなたは、だいじなお客さんのことをちっともおしえてくれなかったの?」とわたしは不意に訊いた。こんなふうに言うとは、自分でもまったく思いがけなかった。不安の色が母の顔からぬぐわれたように消えた、そしてさっと喜びがさしたように見えたが、それでも母はそれにはなんとも答えないで、ただこう言っただけであった。
「リーザのことも忘れないでね、リーザを。おまえはリーザを忘れてしまったのねえ」
母は、顔を赤らめて、急いでこう言うと、そそくさと出てゆこうとした。というのは母は感情に彩色するのが大きらいだからで、この点はわたしにそっくりである。つまり内気で純真なのである。それに、マカール・イワーノヴィチの話をわたしとしたくなかったろうことは、ことわるまでもない。わたしと目を見|交《か》わして、一言言葉を交わすことができただけで、母にはもう十分であった。しかしわたしは、およそ感情の彩色というものを憎んでいたからこそ、むりに母の手をつかんでひきとめた。わたしはやさしく母の目を見つめて、しずかにやさしく笑った、そして別な手のてのひらで母のやさしい顔を、そげた頬《ほお》をなでた。母はかがみこんで、その額をわたしの額におしつけた。
「じゃ、元気をだしてね」と母は十字を切ると、さっと顔を輝かせながら、急いで言った、「よくなるんだよ。おまえはもうだいじょうぶだよ。あのひとは病気なんだよ、ひどく重いんだよ……寿命は神のおぼしめしだけど……おや、わたしはなにを言ってるんだろ、そんなことはありえないことだわ!……」
母は立ち去った。母は一生涯のあいだ、広い心で永久に母を許してくれた法律上の良人《おつと》で、巡礼者であるマカール・イワーノヴィチに、おそれと、不安と、敬虔《けいけん》な気持をいだきながら、心から尊敬をささげていたのである。
[#改ページ]
第二章
しかしわたしはリーザを『忘れ』はしなかった、これは母のまちがいであった。敏感な母は、兄と妹のあいだが冷たくなったように見たのだが、実は愛がなくなったのではなく、むしろ嫉妬《しつと》のせいなのである。今後の話の都合のために、簡単に説明しておこう。
哀れなリーザに、公爵の逮捕直後から、なにかふてぶてしいような傲慢《ごうまん》さがあらわれた。人をそばへ寄せつけぬような、なんとも鼻持ちならぬ尊大さなのである。しかし家の者はみな彼女の本心を知っていたし、どんなに苦しんでいるかを理解していた、そしてわたしがはじめ彼女のそのような態度に気分をそこねて、いやな顔をしていたとすれば、それはただただ病気で十倍もはげしくなったつまらない苛《いら》だちのせいなのである、――わたしはそのころのことを今こう考えている。リーザを愛することはわたしは決してやめなかったし、むしろそれまでよりもいっそう強く愛していたほどだった、しかし、ただこちらから彼女に近づこうとは思わなかった、そして彼女のほうからもぜったいに近づいてこないことも、わたしは承知していた。
つまり、公爵が逮捕されて、事件がすっかり明らかにされると同時に、リーザはまず第一になすべきこととして、われわれおよび誰であろうとすべての者に対して、彼女に同情するとか慰めるとか、公爵を弁明するとか、そんなことができるという考えは許さないというような態度をとった。それどころか、――誰にも決して思いを打明けたり、いっしょに考えたりということを避けて、――彼女はいつも心の中で自分の不幸な恋人の行為を最高のヒロイズムとして誇りに思っているふうであった。彼女はわたしたち一同にたえずこう言っているかに見えた(くりかえして言うが、もちろん言葉には決して出さなかったが)。
『だって、あなた方の誰がああいう行為ができて、あなた方の誰が名誉と義務の要求のために自分をなげだすことができて、あなた方の誰にあのような感じやすい清らかな良心があって? あのひとのしたことをとやかく言いますけど、心の中によくない行為をもってない人なんて誰かいますかしら? ただみんなそれをかくしてるだけじゃないの、ところがあのひとは自分に対して恥ずかしい人間としてとどまるよりは、むしろ自分を亡《ほろ》ぼすことを望んだんだわ』
彼女のひとつひとつの動作が、明らかに、こう語っていた。そうなってみないことにはなんとも言えないが、わたしも彼女の立場ならおそらくこのような態度をとったにちがいない。また、こういう考えが彼女の心にあったかどうかも、なんとも言えない。つまりこれはわたしの想像である。そうでないような気もする。理性の明らかな他の半面では、彼女は自分の『ヒーロー』のくだらなさをすっかり見ぬいていたはずである。この不幸な、ある意味で度量が大きいとさえ言える人間が、同時にこのうえなくくだらない人間であったことは、今は誰しもが認めるところだからである。わたしたち一同に対する彼女のいどみかかるような高慢さそのものが、そしてわたしたちが彼を別な目で見ているのではないかという彼女の不断の猜疑《さいぎ》が――彼女の心の秘められた場所にはその不幸な恋人についての別な判断も組みたてられていたのではなかろうか、とある程度推測させた。しかし、急いでつけくわえておくが、わたしの見たところでは彼女の態度は少なくとも半分は正しかった。というのは、最終的な結論に対するためらいは、わたしたちの誰によりも彼女にこそ許されて当然だからである。わたし自身まったくいつわりのないところ、もうすっかり過去のこととなってしまった今でさえ、われわれ一同にこのような難問をのこしたこの不幸な男を最終的にどのように評価すべきか、まったく途方にくれるのである。
ともあれ、家の中は彼女のためにほとんど小さな地獄の観を呈しはじめた。あれほどみんなを愛していたリーザが、言いようのない苦しみをなめなければならなかった。彼女の気性として、彼女は黙って苦しむことを選んだ。彼女の気性はわたしのそれに似ていた、つまり我《が》が強く、プライドが高いのである。だからわたしはいつも、そのころも今も、彼女が公爵を愛したのは自分の我の強さのためだ、つまり裏をかえせば、公爵が根性がなくて、最初から完全に彼女に屈服したためだ、と思っている。これはいっさいの予備的な打算なしに、なんとなくひとりでに心の中でそういう形をとっていくものらしい。しかし弱者に対する強者のこのような愛は、ときによると同格の者たちの愛よりもはるかに強く、そして苦しいものである。なぜなら、弱い愛人に対する責任をおのずからわが身に引受けることになるからである。わたしは少なくともそう考える。
家の者たちは、事件の当初から、ごくやさしい心づかいで彼女をとりまいた。特に母は気をつかった。ところが彼女は心をかたくなにしたまま、同情に応《こた》えようとはしないで、いっさいの助力をしりぞけるふうであった。母とはそれでもはじめのうちは話をしたが、日ごとに口数が少なくなり、言葉もとぎれとぎれになり、そのうえとげとげしくさえなっていった。ヴェルシーロフとははじめのうちは相談したりしていたが、その後まもなく相談相手にワーシンを選んだ。これをあとで知って、わたしは唖然《あぜん》としたのだが……彼女は毎日ワーシンを訪《たず》ねた、また裁判所にも、公爵の上官のところへも行き、弁護士や検事のところへも行った。しまいには一日中家にいないことも多くなった。毎日、二度ほどずつ、監獄の貴族収容所に公爵を訪ねたことは、ことわるまでもない、ところがこの面会は、わたしは後に確信することになるのだが、リーザにとっては言いようのない苦しいことであったろう。もちろん、愛人同士のことが第三者にすっかり察知できるものではない。しかしわたしにわかったのは、公爵がたえず彼女にひどい侮辱を加えたということである。それも、どういうことで? あきれたことに、やむことのない嫉妬によってなのである。しかし、このことはあとで述べるとして、今はここにひとつだけ疑問をつけくわえておく。決めがたいことだが、二人のうちどちらがどちらをよけいに苦しめたか? わたしたちに対して自分のヒーローを誇っていたリーザが、彼に面とむかってはまるでちがった態度をとったらしいのである。わたしはある資料によって、それにちがいないと断ずるのだが、しかし、これについてもあとで述べることにする。
さて、リーザに対するわたしの感情と態度はと言えば、表面にあらわれたものはみな、双方からの嫉妬を装ったいつわりにすぎなかった、そして実はかつてないほどに強く互いに愛しあっていたのである。もうひとつつけくわえておくが、マカール・イワーノヴィチにも、彼がこの家に現われるとすぐに、リーザは、最初のおどろきと好奇心がすぎると、どういうわけかほとんどさげすみの目でながめて、尊大な態度をさえ示すようになった。彼女はわざと完全に彼を無視しているふうであった。
わたしは前章に説明したように、『沈黙』をまもることを自分に約束したから、むろんセオリーとしては、つまり希望としては、この約束を守ろうと考えていた。だから、たとえばヴェルシーロフとは、むしろ動物学とか、ローマ帝国とかの話をもちだして、彼女のこととか、彼女に送った彼のあの手紙の中のあの重大な一行、つまり『手紙は焼却されずに、現存しているから、いずれ現われるでしょう』というくだりについては、ぜったいに口にしないはずであった。この一行については、わたしは熱病からさめて、理性をとりもどすとすぐに、ひそかに考えはじめていた。ところがどうであろう! 実践への第一歩から、というよりはまだ第一歩をふみださぬうちに、わたしはこのような約束の中に自分をしばっておくことが、どれほどむずかしく、そして不可能なことであるかを、思い知らされることになった。マカール・イワーノヴィチとはじめて会ったつぎの日、わたしはある思いがけない事情によって恐ろしい興奮に突きおとされたのである。
わたしを興奮に突きおとしたのは、死んだオーリャの母ダーリヤ・オニーシモヴナの思いがけぬ来訪である。彼女がわたしの病気中に二度ほど訪ねてきて、わたしの病状をひどく心配していたことは、わたしはもう母から聞いていた。母のいつも評する言葉によると、この『善良な女』が、わざわざわたしの見舞いに来たのか、それともこれまでの習慣でなんとなく母のところへ寄っただけなのかそれはわたしは訊《き》かなかった。母はわたしの病室へ来てスープを飲ませてくれるとき(わたしがまだひとりで食べられなかったころ)、わたしの気をまぎらせるために、いつも家の中のことをいろいろと話してくれた。ところがわたしはいつもかたくなにそうした話にはほとんど興味がないようなふりをしていた、だからダーリヤ・オニーシモヴナのことも詳しく訊きかえそうとはしないで、むしろ黙りこくっていたのである。
それは十一時ごろであった。わたしが寝台から起き上がって、テーブルのまえの肘掛椅子《ひじかけいす》へ移ろうとしたところへ、彼女が入ってきた。わたしはわざと寝台の上にのこった。母は上でなにやら手がはなせないことがあって、彼女が来ても下へおりてこなかった。それでわたしは思いがけなく彼女と二人きりで対坐することになった。彼女はにこにこ笑いながら、なにも言わないで、壁際《かべぎわ》の椅子に腰を下ろした。わたしは黙りっこを予感した。それにだいたい彼女の来訪がわたしになんともやりきれない感じをあたえた。わたしは会釈もしないで、じっと彼女の目を見つめた。ところが彼女もまっすぐにわたしの目を見つめているのである。
「今はあの家で、公爵がいなくなって、お一人でさびしいでしょう?」と、しびれを切らして、わたしは不意に訊《たず》ねた。
「いいえ、わたしは今一人きりじゃありませんもの。わたしは今アンナ・アンドレーエヴナにたのまれまして赤ちゃんをあずかっているのでございますよ」
「誰の赤ちゃんです?」
「アンドレイ・ペトローヴィチのですよ」と彼女はドアのほうをちらと見て、内緒ごとのようにそっと言った。
「だってそれはタチヤナ・パーヴロヴナが……」
「タチヤナ・パーヴロヴナも、アンナ・アンドレーエヴナも、お二人ともでございます、それにリザヴェータ・マカーロヴナも、あなたのお母さまも……みんなでございますよ。みんなで世話をしております。タチヤナ・パーヴロヴナとアンナ・アンドレーエヴナは今は大の仲よしでございまして」
初耳である。彼女は話しだすと、ひどく生き生きとなった。わたしはむかむかしながら彼女をにらみつけた。
「あなたはこのまえぼくを訪ねてきたときから見ると、えらく元気になりましたね」
「ああ、そうでしたわね」
「すこしふとったようですね?」
彼女は、けげんそうにわたしを見た。
「わたしはあの方がすっかり好きになってしまいまして、すっかり」
「誰がです?」
「アンナ・アンドレーエヴナでございますよ。ほんとに、お上品なお嬢さまで、ほんとにお考えがしっかりしてらして……」
「そうですか。それであのひとは、今どうしています?」
「ほんとにおちついたお嬢さまで、ほんとに」
「あのひとはいつもおちついてましたよ」
「ほんと、いつもでございますよ」
「もしあなたがつまらぬ噂《うわさ》を流しに来たのなら」とわたしは不意にかんしゃくをおこして声を荒げた、「ことわっておきますが、ぼくはなににも干渉しません、ぼくは捨てる決意をしたんです……すべてを、みんなを、なにがどうなってもかまやしない――どうせ去るんです!……」
わたしは口をつぐんだ。はっと気がついたからである。こんな女に自分の新しい目的を打明けかけたりしたことが、急に恥ずかしくなった。彼女はわたしの言葉を聞いても別におどろくでもあわてるでもなかったが、また黙りっこがきた。不意に彼女は立ち上がると、ドアのところへ行って、隣の部屋をのぞいた。そちらには誰もいないで、わたしたち二人だけなのを確かめると、彼女は安心したようにもどってきて、もとの場所に坐った。
「あなたも抜け目ないですね!」とわたしは不意ににやりと笑った。
「あなたはあの部屋を、あの役人から借りている、あれをあのままにしておくつもりですか?」
彼女はすこしわたしのほうへ体をのばすと、声をおとして、だしぬけにこう訊いた。まるでこれがここへ来た最大の用件ででもあるようなふうだった。
「部屋? わかりませんね。もしかしたら、引きはらうかもしれませんが……まだわかりませんよ」
「あの家主さんがひどくあなたを待ってるんですよ。あの役人もひどくじりじりしてますし、それに奥さんも。アンドレイ・ペトローヴィチは、あなたがきっともどるからなんて、家主夫婦にうけあっておりましたけど」
「でも、どうしてあなたがそんなことを?」
「アンナ・アンドレーエヴナもひどく知りたがっておりましたけど、あなたがのこるって知って、たいへん喜んでおいででした」
「でも、あのひとがどうしてそんなことがわかるんです、ぼくがあの部屋にかならずのこるなんて?」
『それがあのひとになんの関係があるのです?』とわたしはつけくわえようと思った――しかし誇りのために訊くのを抑えた。
「それにラムベルトさんもやはり同じことを家主夫婦にうけあっておりました」
「なんだって?」
「ラムベルトさんでございますよ。あのひとは、あなたがかならずのこるって、アンドレイ・ペトローヴィチにぜったいにうけあっておりましたし、それからアンナ・アンドレーエヴナにもやはりうけあっておられました」
わたしは胸の中がひっくりかえったような気がした。なんというふしぎなことだ! ではラムベルトはもうヴェルシーロフを知っているのか、ラムベルトはヴェルシーロフにくいこんだのか、――ラムベルトとアンナ・アンドレーエヴナ、――とすると彼は彼女にまで浸透したのか? 熱がかっとわたしの全身にきたが、それでもわたしは黙っていた。誇りの恐ろしい満ち潮がわたしの心にどっと流れこんだ。誇りか、あるいはなにか別なものか、わたしにはわからない。しかしわたしはその瞬間、自分にこう言い聞かせたような気がする、『一言でも説明を求めれば、またこの世界にはまりこむことになり、ぜったいに彼らとの絆《きずな》をたち切れなくなろう』。憎悪《ぞうお》がわたしの心の中に燃え上がった。わたしはありたけの力を振りしぼって沈黙をまもりぬこうと決意し、じっと体をかたくして横になっていた。彼女も一分ほど黙りこんでいた。
「ニコライ・イワーノヴィチ公爵はどうしました?」わたしは理性を失ったように、不意にこう訊ねた。ありていを言えば、わたしは話のテーマをたち切るために、思いきってこちらから訊いたのだが、それがまたしても、うっかり、もっとも重大な質問を出してしまって、自分からまるで狂人のように、たった今あれほどの決意で逃《のが》れようと決めたばかりの世界へ、またもどるようなことになってしまったのである。
「老公爵はツァールスコエ・セローのほうへお移りになっています。すこしおかげんをわるくなさいまして、ペテルブルグではこのごろまた熱病がはやりかけていますので、みなさんがツァールスコエ・セローの別荘のほうへお移りになるようにすすめまして、あちらのほうが空気がいいものですから」
わたしは黙っていた。
「アンナ・アンドレーエヴナと将軍夫人が二日おきにお見舞いにいらっしゃいます、お二人でごいっしょに」
アンナ・アンドレーエヴナと将軍夫人(つまり彼女だ)が――親しくなったか! いっしょに行くと! わたしは黙っていた。
「お二人はすっかり仲よしにおなりになりまして、アンナ・アンドレーエヴナはカテリーナ・ニコラーエヴナのことをそれはそれはおほめになりまして……」
わたしはやはり黙っていた。
「カテリーナ・ニコラーエヴナはまた社交界へうって出られまして、毎日がお祭りのような騒ぎで、それはもう輝くばかりの美しさでございます。なんでも、宮中のおえら方がぜんぶご執心だとか……ビオリングさまとのほうはすっかり切れてしまって、ご結婚はなさらないとか、もっぱらの噂《うわさ》でございますよ……どうやらあのときかららしいとか」
つまりヴェルシーロフの手紙からだ。わたしは全身ががくがくふるえたが、それでも一言も口を出さなかった。
「アンナ・アンドレーエヴナはセルゲイ・ペトローヴィチ公爵のことをそれはもう気の毒にお思いになりまして、カテリーナ・ニコラーエヴナもそうでございます、そして公爵は無罪になるだろうと、みなさまがおっしゃっておられます、でもあのステベリコフという男は罪になるだろうと……」
わたしは憎悪に燃える目で彼女をにらんだ。彼女は立ち上がると、急にわたしの上にかがみこんだ。
「アンナ・アンドレーエヴナがわざわざわたしにお言いつけになったのでございますよ、あなたの容態をうかがってくるようにって」と彼女はひそひそ声で言った、「そして外出できるようになったらすぐにおいでくださるよう、くれぐれもあなたにお願いしてくれって。ではさようなら。おだいじにね、さっそくもどってお知らせしましょう……」
彼女は出ていった。わたしは寝台の上に起きなおった。冷たい汗が顔ににじみ出た、しかしわたしが感じていたのは恐怖ではなかった。たとえば、ラムベルトとその策動についての、わたしには不可解な漠然《ばくぜん》とした情報も、わたしが病気中と回復しかけのころにあの夜の彼との出会いを思い出したときの、あの本能的とも言える恐怖から考えると、わたしを恐怖で充たしたとは言えなかった。それどころか、ダーリヤ・オニーシモヴナが立ち去るとすぐ、寝台の上で漠とした思いにとらわれた最初の瞬間に、わたしの思考はラムベルトにとどまりもしなかった、そして……わたしをなによりもとらえたのは、彼女についての情報、彼女がビオリングと切れたということ、社交界への復帰、お祭りのような日々、成功、『輝き』等々の知らせであった。『輝くばかりの美しさでございます』というダーリヤ・オニーシモヴナの言葉がわたしの耳によみがえった。するとわたしは不意に、ダーリヤ・オニーシモヴナからあのようなおどろくべき話を聞かされても心をひきしめて、沈黙をまもり、もっと聞きたい気持を抑えることができたとはいえ、自分の力をもってしてはこの循環から脱出することができないことを感じた。この世界の生活のはかり知れぬ渇望が、彼らの生活がわたしの心のすべてをつかんだ、そして……さらにもうひとつのある甘美な渇望が……わたしはそれを幸福なまでに、苦痛なまでに感じていた。わたしの考えはなにかどうどうめぐりをしているようだったが、わたしはまわるにまかせていた。『吟味することもないさ!』わたしはこう感じていた。『それにしても母までが、ラムベルトが来ていたことをぼくに黙っていたとは』とわたしはとりとめもなく考えた、『きっとヴェルシーロフが命じたのだ……よし、死んでも、ラムベルトのことはヴェルシーロフに訊くものか!』――『ヴェルシーロフ』またちらとわたしの頭にうかんだ、『ヴェルシーロフとラムベルト、おお、まるで事件の泉みたいなものだ! ヴェルシーロフのあざやかな手際《てぎわ》はどうだろう! あの手紙でドイツ人のビオリングをちぢみあがらせたじゃないか。彼女をこっぴどく中傷したのだ。la calomnie……il en reste toujours quelque chose(中傷といえば……これは必ずなにかをあとへのこすものだ)、それで廷臣のドイツ人がスキャンダルにおびえたか――ハッハ……彼女にはいい教訓だ!』――『ラムベルト……もうラムベルトが彼女にくいこんでいるのではあるまいか? そりゃ決ってるさ! あの女が彼と結びつかないわけがあるものか?』
ここで急に、わたしはこうした無意味なことを考えるのをふりすてて、絶望的に頭を枕《まくら》にうずめた。『そうだ、そんなことがあってたまるか!』わたしは不意に決然とこう叫ぶと、寝台からとび下りて、スリッパを突っかけ、ガウンをはおった、そして、まるでそこにあらゆる誘惑からの避難所、救い、わたしがつかまるべき錨《いかり》があるかのように、まっすぐにマカール・イワーノヴィチの病室のほうへ歩いていった。
実際に、わたしはそのとき心のありたけの力でそれを感じたのかもしれない。そうでなかったら、どうしてあれほど決然と衝動的にとび起きて、あのようなぬきさしならぬ気持で、マカール・イワーノヴィチの病室へとびこんでいったのか?
ところがマカール・イワーノヴィチの病室には、まったく思いがけなく、他の人々がいた――母と医師である。わたしはどういうわけか、昨日のように老人が一人でいるものと頭から思いこんでいたので、あっけにとられてばかみたいに入口のところに立ちどまってしまった。しかも、顔をしかめる暇もなく、すぐにヴェルシーロフも入ってきた、そのうしろから思いがけなくリーザまで……つまり全員がどういうわけかマカール・イワーノヴィチのところに集まったわけである。しかも『ちょうどもっとも望ましくないとき』に!
「ご気分はいかがかと思いまして」と、わたしはまっすぐマカール・イワーノヴィチのそばへ歩みよりながら、言った。
「ありがとう、おまえを待っていたんだよ、きっと来てくれると思っていたよ! 昨夜おまえのことを考えていたのでな」
彼はやさしくわたしの目を見つめた、そしてわたしには、彼がおそらく誰よりもわたしを愛していることがわかった、しかしわたしはとっさに、彼の顔はにこにこはしているが、病気が一晩のうちにその成果を刻みつけたことを、見てとらざるをえなかった。医師は今しがた念入りな診察をしたばかりだった。わたしはあとで知ったのだが、この医師は(わたしが口論をしたあの若い医師で、マカール・イワーノヴィチがここへ来るとすぐにその診療にあたっていた)ひじょうに注意深く患者に対して、そして、――わたしは医学用語でなんと言うのかは知らないが、――いろいろな病気がひどく複雑にからみあっているという診断を下していた。マカール・イワーノヴィチは、わたしは一目でそれを見てとったのだが、もうこの医師とはすっかり仲よしになっていた。これがそのときのわたしには気に入らなかった。しかし、そういうわたしも、もちろん、そのときはさぞ小にくらしい男に見えたにちがいない。
「ところで、アレクサンドル・セミョーノヴィチ、今日はどんな容態ですかな、あなたのご病人は?」とヴェルシーロフが訊いた。
もしわたしがあれほど胸をゆすぶられていなかったら、わたしはまずなによりも、この老人に対するヴェルシーロフの態度の観察に最大の関心を示したにちがいない。それはもう昨日から考えていたことなのである。今わたしをもっともおどろかしたのは、ヴェルシーロフの顔にあらわれている極度に柔和な快い表情であった。そこにはなにか心の底からにじみでたいつわらぬものがあった。わたしはもうまえにどこかに述べておいたように思うが、ヴェルシーロフはほんのすこしでも素直な気持になると、とたんに顔がびっくりするほど美しくなるのである。
「ええ、わたしたちは言いあいばかりしてるのですよ」と医師が答えた。
「マカール・イワーノヴィチとですか? 信じられませんな。このひととは言いあいにならんですよ」
「ところが言うことをきいてくれないのですよ。夜は眠らないし……」
「まあまあ、およしなさいよ、アレクサンドル・セミョーノヴィチ、もうおこごとはたくさんだよ」とマカール・イワーノヴィチは笑いだした。「ところで、アンドレイ・ペトローヴィチ、わが家のお嬢さんはどうなりましたかな? このひとなんぞ朝から溜息《ためいき》ばかりついていて、そわそわしてるが」と彼は母を指さしながら、つけくわえた。
「ああ、アンドレイ・ペトローヴィチ」と母はほんとにひどく不安そうに叫んだ、「早く聞かせてくださいな、じらさないで。かわいそうに、あのひとどう決りました?」
「家のお嬢さんは有罪になったよ!」
「まあ!」と母は叫んだ。
「でもシベリア送りじゃないから、心配せんでいいよ。十五ルーブリの罰金ですんだよ。とんだ茶番さ!」
彼は腰を下ろした。医師も坐った。これは彼らがタチヤナ・パーヴロヴナのことを話していたのだが、わたしはまだこの事件をなにも知らなかった。わたしはマカール・イワーノヴィチの左側に坐っていた。リーザはわたしの右まえにこちらを向いて坐った。彼女にはなにやらさしせまった心配ごとがあって、それを母に相談に来たらしかった。不安そうな、いらいらしたような顔をしていた。そのときふとわたしたちの目が合った、とたんにわたしは、『ぼくたち兄妹は二人とも汚辱にまみれている。こちらから彼女に近づいていってやらなくちゃいけない』と腹の中で思った。わたしの心は急にやわらいだ。そのうちにヴェルシーロフが朝のできごとについて語りだした。
できごとというのは、その朝簡易裁判所でタチヤナ・パーヴロヴナと女中とのあいだであらそわれた訴訟事件なのである。事件というのは実にくだらないことだった。もうまえにも述べたが、意地のわるいフィンランド女は、腹をたてると、ときには何週間もものも言わず、女主人がなにを言っても口をきかないことがあった。またタチヤナ・パーヴロヴナには女中に対する弱味があって、どんなことをされてもがまんをして、どうしても思いきってやめさせてしまうことができないことも、まえに述べておいた。こうした老嬢や女主人の気まぐれなどは、わたしに言わせれば、もっとも軽蔑《けいべつ》すべきことで、いささかの注意にも値しないのだが、それをおしてこのばかげた事件をここに記《しる》そうと思うのは、ほかでもない、このフィンランド女がこのわたしのものがたりの先行きにおいて、ある大きな宿命的な役割を演じることになるからである。さて、タチヤナ・パーヴロヴナは、とうとう、もう何日もなにを訊いても返事もしないフィンランド女の強情さに、さすがにがまんの緒を切って、いきなりピシャリとひっぱたいた。こんなことはこれまでになかったことである。フィンランド女はそれでも一言も音をあげなかった、ところがその日のうちに裏口階段のどこか下のほうの部屋に住んでいる退役海軍少尉のオセトロフという男に相談をもちかけた。これはいろいろな事件の世話をひきうけて、生存のたたかいのために、裁判所にもちこむことをしごとにしている男だった。結局、タチヤナ・パーヴロヴナは簡易裁判所に呼び出され、ヴェルシーロフがどういうわけか証人として事件の審理に証言を求められることになった。
ヴェルシーロフはこの裁判の顛末《てんまつ》を珍しく浮かれた調子でふざけながら話した。そのために母までが声をあげて笑ったほどだった。彼はタチヤナ・パーヴロヴナと、海軍少尉と、フィンランド女の顔までまねてみせた。女中はのっけから賠償金をもらいたいと述べたてた、『だって奥さんが監獄に入れられたら、あたしは誰に食事の支度《したく》をしてやったらいいでしょう?』というのである。裁判所の訊問《じんもん》に対してタチヤナ・パーヴロヴナは、釈明しようともせずに、実に尊大な態度で答えて、『ぶちましたとも、これからももっとぶってやりますよ』という言葉で結んだ。そのために法廷侮辱罪でその場で三ルーブリの罰金を申しわたされた。やせてひょろ長いまだ若造の海軍少尉が、自分の依頼人を弁護するために長たらしい演説をぶちはじめたが、途中でしどろもどろになって、満廷の失笑を買った。審理は簡単に終って、タチヤナ・パーヴロヴナは侮辱されたマーリヤに十五ルーブリの賠償金を払うことを判決された。タチヤナ・パーヴロヴナはぐずぐずしないで、その場でさっそく財布をとりだして、金を渡そうとした。すると、いきなりそこへ海軍少尉がわりこんで、金をもらおうと手を突きだしたので、タチヤナ・パーヴロヴナはほとんどひっぱたくようにしてその手をはらいのけて、きっとマーリヤを見た。『結構でございますよ、奥さま、ご心配なさらないで。お給料に加えていただければ。この人にはわたしが払いますから』――『ごらんよ、マーリヤ、なんてひょろ長いのをやとったんだね!』とタチヤナ・パーヴロヴナは、やっとマーリヤが口をきいてくれたのですっかり喜んで、海軍少尉を指さした。『そう言えばほんとに、ずいぶんのっぽですわね、奥さま』とマーリヤはずるそうに答えた、『カツレツは豌豆《えんどう》をそえるのでございましたね、さっきはここへ急いだので、おしまいのほうを聞きもらしましたけど?』――『あら、そうじゃない、キャベツだよ、マーリヤ、そうそう、いいこと、昨日みたいに焼きすぎないでちょうだいよ』――『ええ、今日はもう特に腕によりをかけますよ、奥さま。ではどうぞお手をいただかして』――そこで女中は和解のしるしに女主人の手に接吻《せつぷん》した。一口に言えば、満廷をどっと笑わせたのである。
「まあ、あきれた女中ですこと!」と母はアンドレイ・ペトローヴィチの知らせにも話しぶりにもすっかり満足して、頭を振った、しかしそっと、心配そうにリーザを見やった。
「若い時分から風変りなお嬢さんだったよ」とマカール・イワーノヴィチはにやりと笑った。
「胆汁《たんじゆう》と無為のせいですな」と医師が応じた。
「おや、わたしが風変りなの? わたしが胆汁と無為なの?」とだしぬけにタチヤナ・パーヴロヴナが入ってきた。見るからに上機嫌《じようきげん》なようすだった、「アレクサンドル・セミョーノヴィチ、あんたはそんなばかなことは言えないはずよ。あんたはまだ十歳《とお》ぐらいの子供のころから、わたしがどんな無為な女だったか知ってるんだから。胆汁だなんて、自分がもう一年も治療していて、まだ直すことができないくせに、恥ずかしいと思いなさい。さあ、もうおよしなさいな、わたしをさかなにするのは。ありがとう、アンドレイ・ペトローヴィチ、裁判に来ていただいて。どうお、容態は、マカールじいさん、あんただけを見舞いに来たのよ、これはべつ」(彼女はわたしを指さしたが、すぐに親しみをこめてわたしの肩をぽんと叩いた。わたしはまだこれほど機嫌のいい彼女を見たことがなかった)
「それで、いかがですの?」彼女は急に医師のほうを向くと、心配そうに眉《まゆ》をひそめて、こう結んだ。
「それがさっぱり寝台に寝たがらないで、こうして坐りこんで、自分を苦しめてばかりいるのですよ」
「なに、こうしてちょっと、みんなと坐っているだけだよ」と子供が許しをこうような顔をして、マカール・イワーノヴィチはぼそぼそと言った。
「ええ、わたしたちはこうしてるのが好きなんですよ、とっても。こうして集まって、みんなでいっしょにおしゃべりするのが、大好きなんですよ。わかりますわ、マカールじいさんの気持は」とタチヤナ・パーヴロヴナは言った。
「それにちょろすけでな、うふっ」と老人は医師を見ながら、また首をすくめた、「さっぱり言うことをきかん。まあお待ちな、おしまいまでしゃべらせてくだされ。床につくということはだな、ご存じかもしらんが、わしらの仲間では、つまりこういうことなのだよ、『床についたら、もう起きられんかもしれん』――こういう考えが、つまり、わしの背骨にこびりついているのだよ」
「それはありますね、そうだろうと思っていましたよ、民衆の偏見というやつです。『寝ついたら最後、下手したら、もう起きられないかもしれない』――こういうことを民衆のあいだではおそれて、病院で寝ているよりも、歩いて病気を追っぱらったほうがましだなどと考えることがよくあるものです。ところでマカール・イワーノヴィチ、あなたは要するにふさぎの虫にとりつかれているのですよ。望郷といいますか、自由と街道が恋しいのですね。これがあなたの病気なんです。ひとつどころに長く暮すことを忘れてしまったのですよ。だってあなたは――言うところの巡礼でしょう? たしかに、放浪ということがわがロシアの民衆のあいだではほとんどいわば熱病みたいなものになっています。この傾向をわたしはしばしば民衆に認めました。わがロシアの民衆は――一般に放浪性があるのですよ」
「じゃ、マカールじいさんが――放浪者だとおっしゃいますの?」とタチヤナ・パーヴロヴナが聞きとがめた。
「いや、そういう意味で言ったのじゃありませんよ。わたしは一般的な意味でこの言葉を用いたのですよ。まあ、そこには宗教的な放浪者、まあ信心家ですね、そういう人もありますが、やはり放浪者にかわりはありません。尊敬すべき、りっぱな意味でですが、やはり放浪者ですよ……わたしは医学的な見地から……」
「はっきり言いますが」とわたしは不意に医師のほうを向いた、「放浪者は――むしろぼくやあなたですよ、ここにいるみんなですよ、この老人をのぞいてですね。この老人にはぼくもあなたもむしろ学ばねばなりません。この老人は生き方にしっかりした信念をもっていますが、ぼくたち、ここにいる者は誰も、それがまったくないからですよ……しかし、まああなたにはこういうことはわかりっこないでしょうが」
わたしは、明らかに、いどみかかるような語調で言ってのけた、しかしわたしはそういう気持でここへ来たのである。わたしは、実のところ、なんのためにここに坐りつづけていたのか、自分でもわからないし、気持の平衡を失っていたらしい。
「おまえ妙なことをお言いだね?」とタチヤナ・パーヴロヴナが怪しむような目でちらとわたしを見た、「じゃ、このマカール・イワーノヴィチをどう見たの?」と彼女はわたしに老人を指さした。
「神よ、この子に祝福あれ、泣かせるよ」と老人はまじめくさった顔で言った。この『泣かせる』という言葉でみんながどっと笑った。わたしはやっと笑いをこらえた。誰よりも笑ったのは医師だった。もっともいけなかったのは、一同のあらかじめの申しあわせをそのときわたしが知らなかったことである。ヴェルシーロフと医師とタチヤナ・パーヴロヴナの三人は、もう三日ほどまえに、マカール・イワーノヴィチの病状を案ずる母のわるい予感と危ぶみから、母の気をできるだけまぎらすことを申しあわせていたのだった。老人の病状はそのときわたしが考えていたよりもはるかに重く、もう絶望に近かったのである。そのためにみんなは冗談を言って、なるべく笑うようにつとめていた。ただ医師だけが頭がにぶいために、やむをえないことだが、冗談がうまく言えなかった。そのためにああいう結果になったのである。もしわたしも彼らの申しあわせを知っていたら、あんな結果になるようなことはしなかったはずである。リーザもなにも知らなかった。
わたしは坐って、ぼんやり聞いていた。一同はにぎやかに談笑していたが、わたしの頭の中にはダーリヤ・オニーシモヴナがまいていった情報がこびりついていて、どうしてもそれから逃れることができなかった。彼女が坐ってじっとこちらを見ている姿が、そっと立っていって隣の部屋をのぞく姿が、たえずわたしの目の中にちらちらした。そのうちに、不意に一同がどっと笑いたてた。どういうことからかまるで記憶にないが、タチヤナ・パーヴロヴナがだしぬけに医師を無神論者ときめつけたのである。
「そうよ、あんた方医者ってのは、みんな――無神論者なんですよ!……」
「マカール・イワーノヴィチ?」と、辱《はずか》しめられて裁きを求めるような、実に下手くそな芝居をしながら、医師は叫んだ、「わたしが無神論者でしょうか?」
「あんたが無神論者? ちがいますな、あんたは――無神論者じゃない」と老人はじっと彼に目をあてて、まじめに答えた、「そうじゃないよ、ありがたいことにな!」と彼は頭を振った、「あんたは――陽気な人間だよ」
「では、人間が陽気なら、それでもう無神論者ではないのですな?」と医師は皮肉を言った。
「これは一種の――思想ですな」とヴェルシーロフがすこしも笑わずに言った。
「これは――力強い思想ですよ!」わたしはこの考え方にはげしく胸をうたれて、思わずこう叫んだ。医師は怪しむようにあたりを見まわした。
「そういう学者たちを、つまり教授といわれる人たちをですな」(どうやら、それまでなにか教授たちの話をしていたらしかった)とマカール・イワーノヴィチはわずかに伏目になって、話しだした、「わたしははじめこわがっていたものだよ。そういう人たちのまえに出ることもできなかった、なにしろ無神論者ほどこわいものはなかったのでな。だって、わしの体の中に魂はひとつきりないから、それをこわしたら、もう別なのを見つけるってわけにいかない。だが、そのうちに勇気を出して、こう考えたよ、『なあに、あの人たちだって神じゃねえ、わしらと同じように、やはりこせこせした人間なのだ』とな。それにひどく物好きな気持もあってな、『無神論てどんなものか、ひとつさぐってやろう』というわけだよ。だがその後、この物好き心も消えてしまったがな」
彼はちょっと口をつぐんだ、しかし話をつづけるつもりと見えて、あいかわらずしずかなおちついた微笑をうかべていた。嘲笑《ちようしよう》されるなどとはゆめにも疑わないで、誰のこともすぐに信用する単純な心もある。このような人は必ず深みがない、なぜならはじめて会った人にすぐに心の中のもっとも貴重なものをさらけだそうとするからである。ところがマカール・イワーノヴィチにはなにか別なものがあるように、わたしには思われた、そしてこのなにか別なものが彼をうごかして語らせているらしい。決して無邪気な単純さばかりではない。伝道家の顔がちらちら見えているような気がした。彼によって医師に、もしかしたらヴェルシーロフにも向けられているある種の、狡猾《こうかつ》とも言えそうな薄笑いをとらえて、わたしは嬉《うれ》しくなった。話題は、どうやら、この一週間来の彼らの論争の継続らしかった。ところがこの論争の中に、不幸にして、またしても昨日わたしを震撼《しんかん》させたあの宿命的な言葉がでてきた、そしてそれがわたしをいまでも遺憾に思っているあの行為に走らせたのである。
「無神論者というものを」と老人は真剣につづけた、「わしは、きっと、いまでもおそれているのでしょうな、ただありがたいことに、アレクサンドル・セミョーノヴィチ、無神論者というものにわしはまだ一度も出会ったことがないのだよ、わしが出会ったのはせかせかと空《から》まわりしてる人間ばかりで――これももっとうまく言わにゃならんのでしょうがな。そりゃいろんな人々だよ、一口には言えんほどだが。えらい人もいれば、くだらん人もいるし、ばかもいれば、学者もいる、どん底の階級から出た者もいる、それがみんなせかせかと空まわりばかりしているのだよ。それというのも、本といううまいものを腹いっぱい食べて、年がら年じゅうああでもない、こうでもないと講釈ばかりしているが、そのくせ疑ってばかりいて、なにひとつ解決できないからだよ。中には店をひろげすぎてしまって、どれが自分なのかわからなくなってしまったのもいるし、また石よりもかたいみたいなことを言って、そのくせ心の中では甘い夢を見ているようなのもいる。そうかと思うと心にうるおいというものがまるでなく、考えも上っつらだけで、人を嘲笑してさえいればいい者もいる。またある者は本の中から花だけを選びだすが、それも自分の気に入った花だけで、というのも本人がせかせかしていて、ひとつの定見というものがないからだ。というわけで、また同じことを言うようだが、退屈なことが多すぎるよ。貧しい人間はないないづくしで、パンもなけりゃ、子供たちをまもってやるてだてもなく、やせ藁《わら》の上に寝てるようなしまつだが、それでも心は陽気で、軽い。罪つくりもすれば、乱暴もするが、それでも心は軽い。ところがえらい人はたらふく飲み食いして、金貨の山にとりまかれているが、それでも心の中には退屈があるばかりだ。またある者は学問という学問をすっかりおさめてしまったが――それでもやはり退屈なだけだ。わしは思うのだが、学問をおさめるほど、ますます退屈になるものらしい。ま、考えてみなさい、世界が生れてからこのかた、いろいろな人がいろいろと教えてきたが、世界がいちばん美しい、楽しい、そして喜びがいっぱいの住居になるような、なにかいいことを教えてくれたかね? もひとつ言うとだな、善美というものをもっておらん、もちたいという気持もないのだよ。みんな破滅してしまった、そしてどれもこれも自分の破滅を自慢してるしまつだ。ただひとつしかない真理のほうを向こうともしない。だが、神のない生活は――苦しみでしかないのだよ。そして結局は、心を照らしてくれるはずの光を、自分でもそれがわからないで、かえって呪《のろ》ったりするようなことになる。それに、どう言ってみたところが、人間というものはなにかを拝まずにはいられないものだ。そういうものをもたなければ、どんな人間だってもちこたえられるものではないのだよ。だから神をしりぞければ、偶像を拝むことになる――木の偶像か、金の偶像か、あるいは頭の中でこしらえあげた偶像をな。そういう者はみな偶像崇拝者というもので、無神論者ではない。まあおしなべてこう呼ばにゃならんのだよ。それなら、無神論者というものがないのかというと、そうでもない。ほんとうの無神論者といえる連中もいる。ただそれがもっともっと恐ろしいのだよ、というのはそういう連中はしょっちゅう神の名を口にするからだよ。わしは何度か聞いたことはあるが、まだそういうのに出会ったことはない。そういうのがいるのだよ、うん、きっといるはずだと、わしも思うな」
「いますよ、マカール・イワーノヴィチ」と不意にヴェルシーロフが相槌《あいづち》をうった、「そういうのがいるし、またきっといるはずですよ」
「ぜったいにいますよ、そしてきっといるはずですよ!」わたしはこらえきれなくなって、思わず熱っぽく口走った。どうしてかわからないが、ヴェルシーロフの口調にひきこまれたのと、『きっといるはずだ』という言葉にふくまれたある思想に魅せられたものらしい。この話はわたしにとってはまったく思いがけぬものであった。ところがこの瞬間に、これもまったく思いがけぬあることが起ったのである。
珍しくきれいに晴れわたった日であった。マカール・イワーノヴィチの病室のブラインドは医師の言いつけによって普通は一日じゅう上げられなかった。しかし窓をおおっていたのはブラインドでなく、カーテンだったので、窓の上の縁からはやはりすこし明りがもれていた。それは、それまで窓にかけてあったブラインドでは日光がぜんぜんささないといって、老人がいやがったからであった。そして、ちょうど話がそこまできたとき、不意に日光がマカール・イワーノヴィチの顔にまともにさしこんだ。彼は話に夢中になってはじめのうちは気にしなかったが、それでも無意識に何度か頭をわきへそらした。明るい光線が彼の病みおとろえた目を強く刺激したからである。彼のそばに立っていた母は、もう何度か気がかりそうに窓を見やった。なにかで窓をすっかりおおってしまえばそれですむことなのだが、話のじゃまをしないために、母はマカール・イワーノヴィチが坐っていた椅子をすこし右のほうへよせようと思った。三寸か、せいぜい四寸もよせればいいのである。母はもう何度か身をかがめて、椅子に手をかけたが、動かすことができなかった。椅子は、マカール・イワーノヴィチが坐ったままでは、動かなかった。マカール・イワーノヴィチは母が気をもんでいるのを感じていたが、話に夢中になっていたので、まったく無意識に何度か腰を上げかけたが、足がいうことをきかなかった。それでも母は、なおもうんうんりきんで動かそうとした、そしてそれが、とうとう、リーザをすっかり怒らせてしまった。わたしは彼女がいらいらした目を何度かきらきら光らせたのに気づいていたが、ただはじめはそれがなにのせいかわからなかった、まして話に気をうばわれていたのだからなおのことである。そこへ不意にほとんどマカール・イワーノヴィチをどなりつけるような彼女の鋭い声がひびいた。
「ちょっと腰をお上げなさいよ、おわかりにならないの、お母さんがあんなに苦労してるのが!」
老人は急いで彼女を見た、そしてとっさに事情を見てとると、あわてて立ち上がろうとしたが、体がいうことをきかなかった。二寸ほど腰が浮いただけで、またどさりと椅子の上におちた。
「だめなんだよ」と彼は悲しげに答えて、まるで許しをこうようにリーザを見た。
「本一冊分もお話はできるくせに、ちょっと体を動かす力もないの?」
「リーザ!」とタチヤナ・パーヴロヴナが叫んだ。マカール・イワーノヴィチはまた力をふりしぼった。
「そこに杖《つえ》があるじゃないの、それでお立ちになったら!」とリーザはさらに追討ちをかけた。
「あ、そうだったね」と老人は言って、急いで杖をつかんだ。
「それより手をかしてやらにゃいかんよ!」とヴェルシーロフが立ち上がった。医師も、タチヤナ・パーヴロヴナも急いでかけよろうとした、が、それより早くマカール・イワーノヴィチはけんめいに杖にすがって、やっと立ち上がった、そして勝ち誇ったようにその場に立つと、嬉しそうにあたりを見まわした。
「そら立ったぞ!」と彼はにこにこ笑いながら、さも得意げに言った。「ありがとうよ、リーザ、よくおしえてくれた。わしは足がもう役にたたんものと……」
ところが、それもほんのわずかのあいだだった。彼がまだ言いおわらぬうちに、全身の重みをかけてもたれかかっていた杖の先が、どうしたことか不意にじゅうたんの上をすべった、そして足はほとんど体をささえる力がなかったので、彼はそのままどさりと床にたおれた。それは見るも恐ろしいほどであったことを、わたしはおぼえている。一同はあっと叫んで、助け起そうとかけよった。しかし、幸いなことに、どこもけがはなかった。彼は、どさりと音はたてたが、両膝《りようひざ》を床にぶっつけただけで、とっさに右手をまえについて、体をささえることができた。彼は抱き起されて、寝台の上に寝かされた。顔色は真《ま》っ蒼《さお》だったが、おどろきからではなく、ショックからであった(医師は、他のさまざまな病気よりも、心臓の衰弱をもっとも懸念《けねん》していたのである)。母はおどろきのあまりすっかりとりみだしていた。と不意に、マカール・イワーノヴィチが、まだ蒼い顔のまま体をがくがくふるわせながら、まだショックからさめきらぬようすで、リーザのほうへ顔を向けると、やさしい、ささやくような声で言った。
「だめだよ、リーザ、やはりもう足が立たんのだなあ!」
わたしのそのときの気持はとても言いあらわせない。要するに、哀れな老人の言葉にはいささかのうらみも詰《なじ》りもなかった。それどころか、明らかに、彼ははじめからリーザの言葉にすこしのとげも認めず、リーザにどなられたのを当然のことと受けとっていたのである、つまり自分がわるいのだから『お灸《きゆう》をすえられ』てあたりまえだと認めていたのである。こうしたすべてのことがリーザにも恐ろしい衝撃をあたえた。老人がたおれたとき、みんなと同じく、彼女もさっと立ち上がった、そして蒼白になって立ちつくしていた。もちろん、自分が原因なのだから、どれほどか苦しんでいたろう。だからこのような言葉を聞くと、彼女は、とたんに、羞恥《しゆうち》と悔恨でさっと真っ赤になった。
「もうおひらきにしましょう!」とタチヤナ・パーヴロヴナが突然、命令口調で言った、「これというのもお話をしすぎたからよ! もう解散の時間よ。お医者さまが自分でおしゃべりを指揮するなんて、責任問題だわよ!」
「そのとおりですよ」と病人の世話をしていたアレクサンドル・セミョーノヴィチが受けた、「失策でした、タチヤナ・パーヴロヴナ、病人には安静が必要ですよ!」
しかしタチヤナ・パーヴロヴナは聞いていなかった。彼女は三十秒ほど黙ってじっとリーザを見まもっていた。
「ここへいらっしゃい、リーザ、このいい年をしたばかなわたしに、接吻しておくれ、いやならいいけど」と彼女はだしぬけに言った。
するとリーザは彼女に接吻した。なんのためか知らないが、そうすることが必要だったのである。それでわたしもタチヤナ・パーヴロヴナにとびついて接吻したい思いだった。たしかにリーザを叱責《しつせき》でおしつぶさないで、彼女の内部にきっと芽生《めば》えたにちがいない新しい美しい感情を、喜びと祝福でむかえてやることが必要だった。ところが、そう思いながらも、わたしは不意に立ち上がると、言葉をはっきり区切りながら、こんなことを言いだしたのである。
「マカール・イワーノヴィチ、あなたはまた『善美』という言葉をつかいましたね、ぼくは昨日からずっとこの言葉に苦しんできたのですよ……そればかりかこれまでの生涯ずっと苦しんできたのです、ただこれまではそれがなんであるか知らなかっただけです。この言葉の符合をぼくは宿命的な、ほとんど奇蹟《きせき》的なものと考えます……これをぼくはあなたのいるまえで公言します……」
ところが、わたしはすぐにさえぎられた。くりかえして言うが、わたしは母とマカール・イワーノヴィチに関する彼らの申しあわせを知らなかった。以前のこともあり、彼らはもちろんわたしがこの種のどんな聞き苦しいことも言いだしかねないことを知っていたのである。
「しずめなさい、あれをしずめなさい!」とタチヤナ・パーヴロヴナはまるで気ちがいのようにわめきたてた。母があたふたしだした。マカール・イワーノヴィチも、みんなのおどろきようを見て、おちつきをなくした。
「アルカージイ、やめなさい!」とヴェルシーロフがきびしく叫んだ。
「ぼくにとっては」とわたしはさらに声を張りあげた、「ぼくにとっては、この赤ちゃん(わたしはマカールを指さした)のそばにあなた方を見るのが――醜悪なのです。ここでたった一人神聖なのは――母です、ところがその母も……」
「病人がびっくりしてるじゃありませんか!」と医師がむきになって言った。
「わかってますよ、どうせぼくは――みんなの敵なのです」とわたしは言葉にならぬことをわめいた(なにかこうした類《たぐ》いのことを言ったらしい)、そしてもう一度ぐるりと一同を見まわすと、いどみかかるようにヴェルシーロフをにらんだ。
「アルカージイ」と彼はまた叫んだ、「ちょうどこれと同じようなことが一度ここであったな。たのむから、今はこらえてくれ!」
どれほど強い感情をこめて彼がこれを言ったか、わたしは言いあらわす言葉を知らない。異常なまでに深い、真情のあふれた悲しみが、その顔にあらわれた。なによりもおどろいたのは、彼が申し訳なさそうな目をしていたことである。まるでわたしが裁判官で、彼が罪人のようであった。それがわたしを完全にくじいた。
「そうです!」とわたしは負けまいとして叫びかえした、「これと同じような場面がありました、ぼくがヴェルシーロフを心の中からえぐりとって、葬ったときです……だがその後墓の下からよみがえったのでした、だが今は……もう夜明けは来ないでしょう! でも……でもここにいるあなた方は、ぼくにどんな力があるか今にわかるでしょう! あなた方があっとおどろくようなことを、ぼくは今にしでかしてみせる!」
こう言い捨てると、わたしは自分の部屋へかけこんだ。ヴェルシーロフがわたしのあとを追った……
わたしは病気が再発した。はげしい熱病の発作がつづいて、夜になると幻覚におそわれた。しかし幻覚ばかりではなかった。数知れぬ夢をみた、そしてそのめちゃくちゃな夢の連鎖の中からひとつの夢、というよりは夢の断片が、あざやかにわたしの記憶の中にのこった。いっさいの説明をはぶいてそれをありのままにここに述べることにする。これはひとつの予言であって、どうしても黙過することができないのである。
ふと気がつくと、わたしはある偉大な崇高な意図を胸に秘めて、天井の高い広い部屋の中に立っていた。だが、タチヤナ・パーヴロヴナの部屋ではない。わたしはこの部屋をはっきりとおぼえている。これは先まわりしてここに述べておく。さて、わたしは一人きりだが、しかしたえず、不安と苦痛をおぼえながら、決して一人ではなく、人々がわたしを待っていることを、わたしからなにかを待ちうけていることを感じている。ドアのかげのどこかに人々がかくれて、わたしがなにかするのをじっと待っているのだ。なんとも堪えられぬ感じだ。『ああ、一人きりだったら!』するとそこへ、不意に彼女が入ってくる。彼女はびくびくしている、ひどくおびえきっている、おずおずとわたしの目の色をうかがう。わたしの手には文書がにぎられている。彼女は笑顔をつくって、わたしをとりこにしようとしながら、わたしに身をすりよせる。わたしは哀れに思うが、同時に嫌悪《けんお》を感じはじめる。不意に彼女は両手で顔をかくす。わたしははげしい侮蔑《ぶべつ》を顔にあらわして『文書』を卓の上に投げつける。『そんなことをしないでください、さあこれをあげます、ぼくはあなたからほしいものはなにもありません! ぼくは自分に加えられたすべての凌辱《りようじよく》に対して軽蔑をもって復讐《ふくしゆう》するのです!』わたしははかり知れぬ誇りの高まりに喉《のど》をつまらせながら、部屋を出る。すると戸口の暗がりの中で、ラムベルトがいきなりわたしの腕をつかまえる。
「ばか、ばかなやつだ!」と彼はわたしの腕をゆすりながら、力をこめてささやく、「彼女はワシーリエフスキー島に寄宿女学校を開かなくちゃならんのだぜ」(これはつまり生活のためで、老公爵がわたしから文書のことを聞いたら、彼女の遺産相続権をうばって、家から追放してしまうからである。わたしは夢にみたとおりにラムベルトの言葉をここに記しておく)
「アルカージイ・マカーロヴィチは『善美』をさがしてるのよ」というアンナ・アンドレーエヴナの声が、どこかすぐそばの階段のあたりから聞える。しかし賞讃《しようさん》ではなく、堪えがたい愚弄《ぐろう》がその言葉の中にあった。
わたしはラムベルトと部屋へ引返す。ところが、ラムベルトを見ると、彼女はいきなり高らかに笑いだす。わたしがとっさに感じたのは――恐ろしい驚愕《きようがく》である。そのために思わず立ちすくんで、近よれなかったほどだ。わたしは彼女に目を見はったが、自分の目が信じられない。まるで不意に顔から仮面をむしりとったようだ。顔の線はまえと変りはないが、どの小さな線もはかり知れぬふてぶてしさによってゆがめられているかに見える。
「お代をもらわなくちゃア、奥さん、買いもどしのお代をね!」とラムベルトは叫んだ、そして二人はいっそうけたたましく笑った。
『おお、この恥知らずな女が――一目見ただけでぼくの心に聖なる炎を燃え上がらせた、あの同じ女なのだろうか?』わたしは胸のつぶれる思いがした。
「見たまえ、これが上流社会の高慢な貴婦人てやつさ、金のためならどんなことでもするんだ!」とラムベルトが叫んだ。
しかし恥知らずな彼女はこんなことを言われても別にうろたえるでもない。彼女はわたしがあっけにとられているのをおもしろがって、けたたましく笑っている。おお、彼女は買いもどすつもりなのだ、わたしはそれを見た……するとわたしはどうしたというのか? わたしはもう哀れさも、嫌悪も感じなかった。わたしはいままでにないほど、がくがくふるえた……新しい感情がわたしをとらえた。これまでまったく知らなかった、なんとも言いようのない、世界中をひっくるめたほどの強烈な感情だ……おお、わたしはもうぜったいにこのままでは帰れない! おお、これがすこしも恥ずかしくないのが、わたしをぞくっとさせた! わたしはいきなり彼女の両手をつかんだ、手の感触がせつなくわたしの胸をふるわせた、そしてわたしは彼女のあつかましい、真っ赤な、笑いにひくひくふるえる、そしてわたしを呼びまねく唇《くちびる》に、わたしの唇を近づけた。
おお、この下劣な思い出をはらいのけてしまいたい! 呪《のろ》われた夢! 誓って言うが、この忌まわしい夢まではわたしの頭にこのような恥ずべき想念に似たものすらなかったのである! こうした類いの無意識の夢想すらなかったのである(『文書』をポケットの中に縫いこんでいたから、ときどきそれを上から叩いて妙な薄笑いをもらしたことはあったが)。いったいどこからこんな想念がいきなりすっかりできあがった形であらわれたのか? それは、わたしの内部にくもの魂がひそんでいたからなのだ! それはつまり、すべてがもうとうにわたしの淫蕩《いんとう》な心の中に生れて、わたしの欲望の中にひそんでいたのだが、正気のあいだはまだ心がそれを恥じ、理性がなにかそうしたものをまだ意識的にあらわすことができずにいただけなのだ。ところが夢の中で魂そのものが、心の中にひそんでいたものをすっかりさらけだし、こまかいところまで、実に正確に、しかも――予言の形で見せてくれたのである。そして、はたしてこれが、わたしが今朝マカール・イワーノヴィチのところから自分の部屋へかけもどるときに、今にしでかしてみせると言ったあのことなのだろうか? でもよそう、時が来るまではいっさい伏せておこう! わたしがみたこの夢は、わたしの人生におこったさまざまな奇妙なできごとの中で、もっとも奇妙なもののひとつである。
[#改ページ]
第三章
三日後の朝わたしは病床から起き上がった、そして両足を床につけたとき、不意にもうこれで寝こまないぞと感じた。わたしは全身で回復の近いことを感じた。こうしたこまかいことは、あるいは、書きこむ必要はないかもしれない、しかしそのときの数日というのは、特に変ったことはなにもなかったが、すべてのことがなにかおだやかな喜ばしいものとしてわたしの記憶にのこったのである。しかもこんなことは――わたしの思い出の中で珍しいことであった。わたしの精神状態についてはしばらく公式化しないことにしよう。読者がそれを知ったとしても、もちろん信じないであろうからである。それよりもあとで事実から明らかにされるほうがよい。さしあたってひとつだけ言っておこう。読者にくもの魂をおぼえておいてもらいたいということである。しかもそれが、『善美』のために彼らから、そして世間から逃避しようと望んでいたわたしの心の中にひそんでいるのである! 善美を求める渇望はぎりぎりのはげしいものだった、そしてむろん、それはもはや疑う余地はなかったが、しかしそれがどのようにして他のもろもろの、まったくわれながらあきれるほかはないような渇望と同居することができたのか――これはわたしにとっても謎《なぞ》である。たしかに、どうして人間が(それも、ロシア人は特にそうらしいが)自分の魂の中に至高の理想と限りなく醜悪な卑劣さとを、しかもまったく誠実に、同居させることができるのか、わたしには常に謎であったし、もう幾度となくあきれさせられたことである。これはロシア人のもつ度量の広さで、大をなさしめるものなのか、それともただの卑劣さにすぎないのか――これが問題である!
しかし本題にもどろう。いずれにしても、小康状態がおとずれた。わたしはとにかく、できるだけ早く行動をおこすために、なにはおいても早く回復することだと思った、だから素直に医師(その何者たるを問わず)の言いつけを守って療養生活に専念することを決意し、暴風のような計画は、強い良識をもって(これは度量の広さのたまものである)、ここを出てゆく日まで、つまり全快の日までのばした。どのようにしてこのもろもろのおだやかな印象や小康の悦《よろこ》びが、近づく暴風のような行動を予感してのうずくような甘美なおののく心のときめきと融合することができたのか、――わたしは知らないが、これもまた『度量の広さ』におしつけておこう。しかしこのあいだまでの不安はもうわたしにはなかった。わたしはもうこのあいだまでのように未来に胸を騒がせたりすることなく、自分の財力を信頼しきっている金持のように、いっさいを時期が来るまでのばしたのである。わたしを待ち受けている運命に対して挑戦するようなうつぼつとした気持がますますしげくわたしを訪れるようになった、そしてこれはひとつには、もう実際に全快がせまり、急速に生命力がもどってきたためであろう。そしてこのいよいよ全快の近づいた最後の数日を、わたしは今あふれるような喜びをおぼえながら思い出すのである。
おお、彼らはわたしにすべてを許してくれた、つまりあのわたしの乱暴な言動を許してくれたのである、しかもその彼らとは――わたしが醜悪と面罵《めんば》したその本人たちなのである! わたしは人々の中のこれを愛する、これをわたしは心の理知と呼ぶ。少なくともこれはたちまちわたしの心を惹《ひ》きつけた、といってある限度までであることは言うまでもない。たとえば、ヴェルシーロフとは、わたしはごく親しい人として話すことをつづけていたが、しかしこれもある一線をひいていた。すこしでも感情がにじみすぎると(これがまた実ににじみやすいものなのだが)、わたしたちはなにかちらと恥ずかしいところを見せたように、すぐに自分を抑《おさ》えるのだった。勝者が敗者に、その上に立ったというそのことのために、気がねしなければならないようなときがあるものだ。勝者は明らかに――わたしであった。だからわたしはなんとなく気がねしていたのである。
その朝、つまり病気の再発後わたしがはじめて病床からはなれた朝、彼はわたしの病室に立ちよった、そしてそこでわたしははじめて、母とマカール・イワーノヴィチに関するそのときのみんなの申しあわせを聞いたのである。彼はさらに、たとい老人がいくぶん快方にむかうことがあっても、医師はまったく保証できないとしているとも言った。わたしはこれからもっと注意して行動するという約束を、心から彼にあたえた。ヴェルシーロフがこうした話をわたしにしたとき、わたしははじめて、思いがけないことであったが、彼自身も心の底から異常なまでにこの老人の身を案じていること、つまりわたしが彼のような人間から考えられるよりもはるかに真剣に心配して、母のせいばかりではなく、なぜか彼自身にもひじょうに大切な人間としてこの老人を見ていることを、見てとった。これはすぐにわたしの心をとらえた、ほとんどわたしをびっくりさせた、そして正直に告白するが、ヴェルシーロフがいなかったら、わたしは、わたしの心の中にもっとも強い風変りな思い出のひとつをのこしたこの老人の、多くの点を見おとしてしまって、十分に評価することができなかったにちがいないのである。
ヴェルシーロフはマカール・イワーノヴィチに対するわたしの態度に危懼《きく》を感じていたらしい、つまりわたしの理性にも、節度にも信をおいていなかったのである。だから後に、わたしがときには考え方も世界観もまったくちがう人間にどのような態度をとるべきかということを、ちゃんと心得ているのを見たとき、一口に言えば、わたしが必要な場合には譲歩する心の広さをもっていることを知ったとき、彼は大いに満足をおぼえたのであった。もうひとつ告白するが(これは自分を低めることにはなるまいが)、わたしはこの農奴出の老人に、ある種の感情や考え方についてわたしにはまったく新しいあるもの、わたしがそれまでにそうしたものに対していだいていた観念よりも、はるかに明白で、しかも心に慰めをあたえる、わたしには未知のあるものを見出《みいだ》したのである。とはいえ、ときにはこの老人がなんともやりきれないおちつきをもってかたくなに信じこんでいるある種の思いきった偏見のために、つい腹がたってわれを忘れてしまうこともあった。こらえたくもこらえようがないほどなのである。しかし、それはもちろん、ただに彼の無教養のせいであって、彼の心はかなり美しく組みたてられていたし、わたしはまだこうした類《たぐ》いのこれよりも美しい心に出会ったことがなかったほどである。
なによりもまずわたしの心を惹きつけたのは、すでにまえにも述べたように、彼の異常なまでの純真な心と、すこしの自惚《うぬぼ》れもないことであった。心がほとんど汚れというものを知らないのではないかと思われた。心の『陽気さ』があった、だから『善美』もあった。彼は『陽気さ』という言葉をひどく好んで、ひんぱんにつかった。もっとも、ときには病的な歓喜というか、感動の病的にすぎるようなあらわれも見られたが、――ひとつには、実際に、熱病がずっと彼を去らなかったせいであろう。しかしそれは善美のさまたげにはならなかった。彼には矛盾もあった。ときにはまったく皮肉を解さない、おどろくほどの素朴《そぼく》さとならんで(これにはわたしもしょっちゅういらいらさせられたのだが)、ひどく抜け目のない敏感なところもあった。特に議論になったりするとそれが出るのだった。ところがこの議論というやつを彼は好んだ、といってしょっちゅうやるわけではなく、しかもそれが一風変っていた。明らかに、彼はロシアの各地をずいぶん遍歴して、いろんなことを聞いていた、しかし、くりかえして言うが、彼はなによりも感動を、つまり彼を感動に誘いこむようなことを聞くのが好きで、自分でもそうした感動的なことを話すのを好んだ。いったいに彼はひどく話好きだった。彼自身の遍歴の話や、大昔の『苦行者』の生活にまつわるさまざまな伝説などを、彼はたくさんわたしに聞かせてくれた。わたしはこういう方面のことは知らないが、おそらく彼はその話の大部分は民間に口伝えに伝わっているこうした伝説の中から自分なりにつくりあげて、都合よくゆがめてしまったものであろう。だから中には聞くに堪えないような話もあった。ところがこれらの明らかに作り話やうそとわかる話にまじって、必ずなにかびっくりするほど生き生きと民衆の感情のこもった、思わず感動を誘うようなものがきらきらと光をはなつのだった……こうした話の中でわたしがおぼえてるのは、たとえば、『エジプトのマリヤの生涯』という長いものがたりがあった。この生涯ばかりでなく、だいたいこうした話については、わたしはそれまでまったく知らなかった。率直に言うが、これはほとんど涙なしには聞かれないような話であった。それも感動のせいというのではなく、なにかふしぎな喜悦のせいなのである。聖女が放浪したという、ライオンの群れが咆哮《ほうこう》する焦熱の砂漠《さばく》のような、なにか異常な熱いものが感じられた。しかし、わたしはこの話を語ろうとは思わないし、またその資格もない。
彼がもっているものの中で、この感動のほかにわたしが気に入ったのは、今なお論争の的となっている現実のいくつかの問題に対する、ときには実に独創的と言える彼の見方であった。たとえば、彼は近ごろあったある除隊兵の話をしたことがあった。彼はこのできごとのほとんど目撃者といってよかった。一人の兵士が軍隊勤務を終えて故郷の村の百姓たちのところへもどってきたが、彼はまた百姓たちといっしょの生活にもどるのがいやだったし、また百姓たちもそんな彼を好まなかった。彼はぐれて、飲んだくれるようになり、果てはどこかで強盗をはたらいた。確実な証拠はなかったが、それでも逮捕されて、裁判にまわされることになった。裁判で弁護士が彼の無罪を主張し、もうほとんどそれが通りそうになった――証拠がないのだから、どうにもしようがない、ところがそのときそれまでじっと聞いていたその男が、突然立ち上がって、『いや、ちょっくら待ってくだせえまし』と弁護士をとめると、ごく些細《ささい》なことまでもらさずにすっかり供述した。彼は泣きながら、後悔しながら、いっさいを自白したのである。陪審員たちは別室へ退いて相談したが、やがてまた席へもどると思いがけなく、『いや、無罪である』と宣告した。傍聴人たちはみなあっとおどろいて、大喜びになった、ところがその兵士はなんのことやらわけがわからずに、まるで棒杙《ぼうぐい》になってしまったみたいに、ぽかんとその場に突っ立っていた。裁判長が放免に先だって訓誡《くんかい》をあたえたが、なにを言われたのか彼にはちっともわからなかった。兵士はまた自由の身になったが、どうしてもほんとのような気がしない。彼は気がふさいで、すっかり考えこんでしまって、なにも喉《のど》をとおらず、誰とも話をしないでふさぎこんでいたが、五日目になるととうとう首を吊《つ》ってしまった。『心に罪をもっては暮せないものだよ!』とマカール・イワーノヴィチは結んだ。
これは、もちろん、つまらない話で、こんなものはいまどきどの新聞にもわんさとのっているが、わたしが気に入ったのは語られたその調子なのである、それになによりもまったく新しい意味をもったいくつかの言葉なのである。たとえば、兵士が村へもどって、百姓たちに好かれなかったことを話すときに、マカール・イワーノヴィチはこういう表現を用いた、『兵士がどんなものかは誰でも知っている。兵士ってのは――きずものの百姓だよ』。それからもうすこしで勝ちそうになった弁護士を評して、彼はこんなことを言った、『弁護士なんてのもわかりきってるさ、弁護士ってのは――買われた良心だよ』。この二つの表現を彼は、別に苦心してひねりだしたわけではなく、自分でも気がつかないで、何気なく言ってのけたのだが、しかしこの二つの表現には――この二つの対象への完全に独自な見方があって、もちろん、民衆ぜんたいのではないまでも、やはりマカール・イワーノヴィチの借物でない独自の見方であった! さまざまな事象に対するこうした民衆の明察は、ときにはその独創性において心底から感嘆させられることがある。
「ところで、マカール・イワーノヴィチ、あなたは自殺の罪をどう思います?」とわたしはその話にからんで彼に訊《き》いた。
「自殺は人間のいちばん大きな罪だよ」と老人はほっと溜息《ためいき》をついて答えた、「でも、それを裁くことができるのは――ひとり主あるのみだよ、だって、いっさいの限度やら、節度やら、なにもかも見とおしていられるのは主のほかにはいないのだからな。わしらはこのような罪人《つみびと》のことをたえず祈ってやらねばならんのだよ。このような罪のことを耳にしたら、そのたびに、寝るまえに、その罪人のために熱心に祈ってやることだ。その罪人のことを心の中で神にむかって泣いてやるだけでもいい。おまえがその罪人をぜんぜん知らなくたっていいんだよ、――そのほうがかえっておまえの祈りが神にとどきやすいのだよ」
「でも、その罪人がもう裁きを受けてしまったとしたら、ぼくの祈りがなにかの助けになるでしょうか?」
「どうしておまえにそんなことがわかるかね? 多くの者が、おお、ほんとに多くの者が神を信じないで、ばかなことを言って無知な人々を迷わせている。おまえはそんな者たちの言うことを聞いちゃいかんよ、だって当の本人たちがどこへ迷いこんでゆくのかわかっちゃいないのだからな。まだ生きている人間からの、裁かれた罪人への祈りは、きっととどくものだよ。でなかったら、誰も祈ってくれる者のない罪人の魂はどうなるのだ? だから、寝るまえに、お祈りをするときに、最後にこうつけたすことだよ、『主よ、誰も祈ってくれる者のない罪人たちの魂に哀れみを垂れたまえ』とな。こうした祈りは必ずとどいて、聞きとどけてもらえるものだ。まだ生きている罪人たちのためにも同じように祈ってやるがよい、『主よ、まだ悔い改めぬすべての罪人たちの運命を哀れみ、救いを垂れたまえ』――これもよい祈りだよ」
わたしはこう約束することによって彼に極度の満足をあたえることを感じながら、お祈りをすることを彼に約束した。するとはたして、喜びが彼の顔に輝きはじめた。しかし急いでつけくわえておくが、このような場合に彼は決して一段上からわたしを見下ろすような態度はとらなかった、つまり老人が青臭い未成年者をあつかうような態度はとらなかった。それどころか、わたしの話を聞くことを見せかけでなく好んで、いろんなテーマでわたしが話すのを感じ入ったように聞き入ることさえあった。相手は『若人《わこうど》』だが(彼はこのひびき高い言葉を用いた。『若人』でなく、『青年』と言えばいいことは、彼は百も承知だったのである)、しかし彼よりもはるかに高い教育を受けているのだと、彼は考えていたのである。彼は荒野の隠遁《いんとん》生活の話をするのがひどく好きで、『荒野』を『巡礼』よりもはるかに上においていた。わたしはそうした隠者たちのエゴイズムを主張して、はげしく彼に反論し、そのような人々は世界を見捨て、自分だけが救われたいというエゴイスチックな思想のために、人類にもたらすことができるかもしれぬ利益を放棄するものだと言った。彼ははじめはその意味がわからなかったらしい。結局、わからずじまいではなかったかとも、わたしには思われる。とにかく彼は真剣になって荒野を弁護した。
「はじめのうちは(つまり荒野に居を定めたころは)、そりゃむろん、自分がかわいそうだと思うだろうが、そのうちにしだいに、一日々々と喜びが大きくなって、やがて神の姿が見えるようになるのだよ」
そこでわたしは、学者とか、医者とか、総じてこの世における人類の友と言われるべき人々の有益な活動の状況を彼のまえにくりひろげて、彼を感激させた。わたし自身も感激して熱心に語った。彼は「そうだよ、おまえ、そのとおりだよ、おまえはほんとにいいことを言うよ、そうだよ、それが正しい考えだよ」とたえず相槌《あいづち》をうった。しかしわたしが話を終ると、彼にはやはり賛成しかねるところがのこった。彼はほうっと深い溜息をついて言った。
「それはなるほどそのとおりだが、でもそんなふうにちゃんと自分を抑えて、溺《おぼ》れずにいられる者は、そんなにたくさんはいないのじゃないかな? 金は神ではないが、でもやはり半神みたいなものだ――大きな誘惑だよ。そこへもってきて女というのもあるし、自意識と嫉妬《しつと》というのもある。そこで大きな目的というものを忘れて、目先のつまらんことにかかりあうようになる。ところが荒野ではどうだろう? 荒野ではなにものにもわずらわされることなく自分を鍛えぬいて、どんな偉大な功業にでもそなえることができるのだよ。アルカージイ! それに世間にはなにがあるというのだね?」と彼はさも腹だたしげに叫んだ。「夢想ばかりじゃないか? まあ砂粒を岩の上にまいてみるんだな、その黄色い砂粒が岩の上に芽を出したら、世間の夢想も実るだろうさ、――わしらのあいだではこんなふうに言われてるんだよ。キリストさまがおっしゃっておられるのは、そんなことじゃない。『行きて、汝《なんじ》の富をわかちあたえよ、そして万人の僕《しもべ》となれ』こうおっしゃっておられる。それでこそいままでよりも百万倍も豊かになるのだよ。だって人間というものは、食物や、高価な衣裳《いしよう》や、誇りや、羨望《せんぼう》で幸福になるのではない、限りなくひろがる愛によって幸福になるからだよ。そうなれば十万や百万ぽっちのすこしばかりの財産ではなく、世界中を自分のものとすることになるのだ! 今はあくことを知らずに集めて、ばかみたいにやたらにまきちらしているが、そうなればみなし子も、乞食《こじき》もなくなってしまう、だってぜんぶが自分のもので、ぜんぶが自分の親類だからだよ、ひとつあまさず、ぜんぶを買いとってしまったからだよ! 今は、どんな金持も身分の高い者も自分の命数というものにすっかり無関心になってしまって、どんな楽しみを考えだしたらよいのやら、もう自分でもわからんというようなことが珍しいことではないが、そうなると自分の日々と時間がまるで千倍にもふえたようになる、それというのも一分でもむだにするのが惜しくなり、一分一秒を心の悦びと感じるからだよ。本からばかりでなく、万象から知恵をくみとって、いつも神と顔を向きあわせているようになる。大地が太陽よりも輝きをはなって、悲しみも、溜息もなく、ただ限りなく尊い楽園だけがあるようになるのだよ……」
こうした感動的な突飛な言葉をヴェルシーロフもひどく好んだらしい。そのときは彼もちょうどそこにいあわせた。
「マカール・イワーノヴィチ!」とわたしはすっかり興奮してしまって、いきなり彼をさえぎった(わたしはその晩のことをよくおぼえている)、「じゃあなたは共産主義ですね、そういうことを説くなら、それは完全な共産主義ですよ!」
そして、彼は共産主義の教義についてはまったくなにも知らなかったし、それにこの言葉を耳にするのもはじめてだったので、わたしはすぐにこの学説について知ってることを説明しはじめた。正直のところ、わたしの知識も貧弱なもので、しかもあいまいで、いまでもあまりそれを語る資格がないほどだが、しかしそのときは盲目蛇《めくらへび》におじずで、知っているだけのことを、大いに情熱をこめてとくとくと弁じたてた。わたしはいまでもあのとき老人にあたえた極度に深大な感銘を思い出すと、満足の微笑を禁じえないのである。それは感銘というよりは、ほとんど震撼《しんかん》というに近かった。彼はその際に歴史的な詳細におそろしく関心をもった。『どこで? どんなふうに? 誰がつくったのか? 誰が言ったのか?』というようなことである。ついでに、わたしの観察を述べておくが、これは――いったいに民衆の特性である。一般に民衆というものは、もしなにかにひどく関心をもつと、その概念だけでは満足しないで、必ず具体的に詳しく知りたがるものである。ところがわたしは詳しいことになるとあいまいな知識しかなかったし、ヴェルシーロフがいたのでいくぶん恥ずかしさもあって、そのためにますます熱くなった。結局、マカール・イワーノヴィチはしまいにはすっかり感激してしまって、一言ごとに『なるほど、なるほど!』をくりかえしているだけだったが、もうどうやら理解ができず、思考の筋を失ってしまったようすだった。わたしはいまいましくなってきた、ところがヴェルシーロフが不意に話をたち切って、立ち上がると、もうそろそろ寝る時間だと言った。わたしたちはそのときみな集まって話しこんでいて、時間はもうかなりおそくなっていた。しばらくしてヴェルシーロフがわたしの部屋をのぞいたとき、わたしはすぐに彼をつかまえて、マカール・イワーノヴィチをどんなふうに見ているか、どんな人間だと思うか、と訊《き》いてみた。ヴェルシーロフは愉快そうに笑った(しかし決して共産主義の説明のわたしのまちがいを笑ったのではない――それどころか、それには一言もふれなかった)。ここでまたくりかえして言うが、彼はマカール・イワーノヴィチにすっかり惹きつけられていたらしく、老人の話を聞いているときの彼の顔に実に魅惑的な微笑がうかぶのを、わたしはときどき目にしていた。といって、微笑は決して批判をさまたげなかった。
「マカール・イワーノヴィチはまず第一に――百姓じゃない、屋敷づきの下僕だよ」と彼はおそろしく乗り気なようすで話をはじめた、「僕婢《ぼくひ》の子として生れて、もと屋敷の下男をしていた農奴だ。下男や召使というものはむかしは自分の主人たちの私生活や、精神生活や、知的生活にひどく興味をもっていたものだ。思いあたるだろう、マカール・イワーノヴィチがいまでももっとも関心をもっているのは、地主たちや上流社会の生活の中のさまざまなできごとなのだよ。きみはまだ知らんかもしれんが、彼が最近のロシアのある種の事件に関心をもっているのは、おどろくほどだよ。知ってるかね、彼は実にたいした政治家なのさ! どんなごちそうを振舞われるよりも、誰がどこで戦っているかだの、戦争ははじまるだろうかだのという話を聞かせてもらったほうが、彼はずっと嬉《うれ》しいんだよ。以前はわたしもそういう話をして彼を大いに感激させたものだ。彼は学問をひじょうに尊敬していて、わけても天文学が大好きだ。そのくせなにやら独断的な固定観念をつくりあげていて、それはもうてこでもうごかないのだよ。信念をもっている、それはしっかりしたものだし、かなり明確だし……それにほんものだ。まったくの無学なのに、あの男にこのような知識があろうとはまったく想像もつかないような、意外なことを知っていて、こっちが唖然《あぜん》とさせられる。熱狂的に荒野を礼讃《らいさん》するが、その荒野にも、修道院にもぜったいに行こうとしない、というのはあくまでも『放浪者』だからだよ、アレクサンドル・セミョーノヴィチがいみじくも名づけたようにな。ついでに言っておくが、おまえがアレクサンドル・セミョーノヴィチに反感をもつのは、あれはいわれのないことだよ。それからもうひとつ言えば、マカール・イワーノヴィチは芸術家だな、たくさん自分の言葉をもっている、もっとも受売りもあるがな。ロジカルなことを言いだすといささかちぐはぐになり、ときどきひどく抽象的になる。発作的に涙っぽくなることがよくあるが、あれは完全に民衆的な感傷性というか、いやそれよりも、わがロシアの民衆がその宗教的感情に広くもちこんでいる、民衆に共通な感動の発作といったほうがよいかもしれん。純真で、憎しみということを知らぬ心をもっているのだが、しかしこの話はよそう。これはわしときみがとり上げるテーマではなさそうだ……」
マカール・イワーノヴィチの性格描写を終えるために、彼の話からなにかひとつを紹介しよう。当然、彼の私生活からの話である。これらの話の特徴はふしぎというか、それよりも、これらの話には共通の特徴というものがまったくなかったと言うほうがあたっていよう。なにか教訓らしいものとか、共通の傾向とかいうものは、いっさい抽出することができなかった。ただそれらしいものがあるとすれば、どれも多かれ少なかれ感動的であったということだけである。しかし、感動的でないものもあったし、まったく滑稽《こつけい》なものさえあったし、また身持ちのわるい修道僧を愚弄《ぐろう》したような話まであって、まるで自分の観念のぶちこわしをしているようなこともあった、――わたしはその点を彼に注意したが、彼はわたしの言いたい意味がのみこめなかった。ときにはなにが彼をこれほど話したがらせるのか、はかりかねて、その多弁にむしろあきれてしまって、ひとつには年寄りでおまけに病気だからであろうと思ったこともあった。
「彼は――以前と変ったよ」とヴェルシーロフがあるときわたしにささやいた、「彼は以前は決してあんなふうじゃなかった。まもなく死ぬかもしれん、わたしらが考えているよりも、ずっと早く、だからその心構えをしておくことだ」
わたしは言い忘れていたが、わたしたちの家では毎日のようにささやかな『夕ベ』のような集りがもたれた。マカール・イワーノヴィチにつきっきりの母のほかに、ヴェルシーロフも毎晩彼の部屋を訪れた。わたしも毎晩そちらへ行った、もっともわたしにはほかに行きどころがなかったのである。このごろはたいていリーザも来た、しかし彼女は誰よりもおそく入ってきて、ほとんどなにも言わないで坐っているだけだった。タチヤナ・パーヴロヴナもよく来たし、たまにではあるが、医師も加わった。医師とは、別にこれといったきっかけもなく急にそういうことになったのだが、わたしは親しくなった。といってひどく親しくなったわけではないが、とにかく以前のようにいきなり突っかかってゆくようなことはなくなった。彼の率直そうなところがわたしの気に入った。これはわたしが、近ごろになってようやく、彼の中に見てとったのである。それから彼がわたしの家庭に惹《ひ》かれているらしいところも、わるい気はしなかった、それでわたしは、ついに、彼の医師面《いしづら》をした見識張ったところを許す気になって、そのうえ、どうしてもきれいなシャツが着られないのなら、せめて手ぐらいは洗って、爪垢《つめあか》をとっておくことを注意してやった。これは決しておしゃれとか、優美なマナーとかのためではなく、清潔ということは当然医師という職業のひとつの条件であることを、わたしは率直に彼に説明し、その理由をあげてやった。そのうちに、女中のルケーリヤも台所から出てきて、ドアのかげに立ってマカール・イワーノヴィチの話に聞き入るようになった。ヴェルシーロフは一度ドアのかげに立っている彼女に、中に入っていっしょに坐るようにすすめたことがあった。わたしはそれを嬉しく思った。ところがそれ以来、彼女はドアの外に来ないようになってしまった。妙な女だ!
では話のひとつを紹介することにしよう。別に選びだしたわけではなく、ただこれがいちばんよくわたしの記憶にのこっていたからという理由にすぎない。これは――ある商人のものがたりで、おそらく、見る目さえあれば、わが国のいたるところの町や村に無数に見られるできごとであろうと思う。いやな方はこのものがたりの部分をとばしていただいて結構である、ましてわたしは彼の言葉で語るのであるから。
さて、アフィミエフという町に、今から語るが、こんなふしぎなことがあったんだよ。スコトボイニコフ(訳注 屠畜人)というあだ名の商人で、名はマクシム・イワーノヴィチというんだが、その地方にならぶ者のないほどの大金持だった。更紗《さらさ》を織る工場を建てて、何百人という職工をつかって、たいそうな鼻息だった。まあ言ってみれば、町中のいっさいがその男の指図《さしず》でうごいていたみたいなもので、町長はじめおえら方はぜんぶその男の言いなりだし、管長もその熱心な信心に感謝していた。なにしろ修道院には莫大《ばくだい》な寄進をしていたからな。だが、よくない虫がおこったりすると、自分の魂のことをひどく思い悩んで、来世のことを気にしてえらくくよくよしたものだ。男やもめで、子供もなかった。噂《うわさ》では、なんでももらったその年に嫁さんをいじめ殺してしまったとかいうことだ。若い時分から手を振りまわすのが好きだったらしい。これはもう大分まえのことで、その後は二度と結婚なんてもので身を縛られるのをいやがった。酒にも弱いほうで、さかりどきみたいに虫がおきると、べろんべろんに酔っぱらって、裸で町中をわめきちらしながら走りまわる。町はちっぽけなたいした町ではないが、やはりいい恥さらしだ。ところがそのさかりどきが過ぎると、怒りっぽくなって、しかもその男の判断することは、なんでも当を得ているし、命令することは、なんでもごもっともということになる。傭人《やといにん》どもの給料などは自分勝手に決めてしまって、算盤《そろばん》を持つと眼鏡をかけて、こんなことを訊く。
「フォーマ、おまえはいくらになる?」
「クリスマスからいただいておりましねえだで、マクシム・イワーノヴィチの旦那《だんな》、おらのもらい分は三十九ルーブリになりますで、へえ」
「なに、そんなになるってか! そりゃおまえには多すぎる。おまえの体をそっくり売ってもそれほどの値はつかんわい。そんな大金をもつ柄かい。十ルーブリを頭からぽんとはじいてだ、そら二十九ルーブリを持ってゆくがよい」
するとその男は黙ってしまう。その男ばかりでなく誰も言葉を返すことができない、みんな黙って言いなりになってしまうわけだ。
「わしはちゃんと知ってるんだよ」とマクシム・イワーノヴィチは言ったものだ、「あいつらにいくら金をやったらいいかぐらいはな。ここのやつらはこんなぐあいにしめあげておくほかはないのだよ。ぐうたらなやつらばかりで、わしがいなかったら、一人のこらず餓死してしまうのがおちさ。さらに言えば、ここのやつらは――どれもこれも泥棒野郎ばかりで、目についたものは、かたっぱしからかっさらってゆきやがる。根性というものがまるっきしねえ。もうひとつ言えば、どいつもこいつも――飲んだくれで、給料を払ってやれば、そっくり居酒屋にもちこんで、とことんまで飲んじまって、素っ裸でおっぽりだされる始末だ。そのうえさらに――まるきり意気地《いくじ》のねえやつらで、居酒屋のまえの土台石に腰かけて、『おふくろ、なんだってこんな情けねえ飲んだくれを生んでくれたんだ? おらみてえな、こんな情けねえ飲んだくれは、生んだらすぐにひねってくれりゃよかったんだ!』なんて泣きごとをぬかしやがる。こんなやつらが――人間と言えるかね? これは――けだものだよ。人間じゃねえ。まずとっくりと教えこんで、それから金を渡してやるほかはねえ。いつ渡したらいいか、わしはちゃんと知ってるんだよ」
こんなふうにマクシム・イワーノヴィチはアフィミエフ町の住人たちのことを語った。かなり悪《あ》しざまに言いはしたが、しかしやはり真実を言いあてていた。人々はたしかに上っ調子で、こらえ性というものがなかった。
この同じ町にもう一人の商人が住んでいたが、これは死んでしまった。若い男で、思慮が浅く、しごとに失敗して、財産をすっかりなくしてしまった。いよいよ最後の一年などは、まるで砂の上にほうりだされた魚みたいにみじめにもがいて、結局命数が尽きたわけだ。マクシム・イワーノヴィチとはずっといがみ合いをつづけて、借金でがんじがらめにされてしまった。いまわのきわまでマクシム・イワーノヴィチを呪《のろ》いつづけた。そして、まだ若い後家と、それに五人の子供があとにのこされた。ところで、亭主に死なれた若い後家は、巣のない母燕《ははつばめ》も同じことで、たいへんな苦労をなめなければならなかった。五人の小さな子供を抱《かか》えて、食わせるものもない始末だが、そこへもってきて、のこされたたったひとつの財産の木造の家屋を、マクシム・イワーノヴィチが借金の抵当《かた》にとりあげようとしたのだ。そこで若後家は教会の入口にその五人の子供を一列に並ばせた。いちばん上が男の子で八つ、あとはみな女の子で、四つを頭《かしら》の年子で、いちばん小さいのはまだ母親の胸に抱かれて、おっぱいをしゃぶってるというありさまだ。朝の勤行《ごんぎよう》が終って、マクシム・イワーノヴィチが出てくると、子供たちがみんな一列にならんで、彼のまえにひざまずいて――母親がよく教えこんでおいたのだな、みんなそろって小さなてのひらを胸のまえに合わせて、母親はそのうしろに乳呑《ちの》み子《ご》を抱いたままひざまずいて、みんなが見ているまえでマクシム・イワーノヴィチにむかって地べたに額をすりつけておじぎをした。
「旦那さま、マクシム・イワーノヴィチさま、どうかこのみなし子たちを哀れと思って、最後のささやかなものを取りあげないでくださいまし、どうかこの子供たちを生れた巣から追いたてないでくださいまし!」
するとその場にいあわせた人々はみな涙ぐんだ――若後家は自分の哀れな身の上をよくよくみんなに見せつけたわけだ。まあ、『人々のまえだからいいところを見せようと思って、許してくれて、子供たちから家を取りあげるのをかんべんしてくれるにちがいない』とこう考えたわけだが、どっこいそうはいかなかった。マクシム・イワーノヴィチはちょっと足をとめて、こう言った。
「おまえは若後家だから、きっと亭主がほしいのだろう。子供たちの身を思って泣いてるのじゃあるまい。亡《な》くなったおまえの亭主は、死ぬまぎわまでわしを呪いつづけたのだよ」
そう言いすてると、マクシム・イワーノヴィチはさっさと立ち去ってしまった、そして家は返してやらなかった。『なんであいつらのばかをまねにゃならんのだ? (というのは、つまり情けをかけてやれるかという意味だが)。ひとつ甘い顔をしてやると、もっともっとねだるようになる。どこまで面倒をみてやっても不満で、つまらん噂をたてられるくらいがおちだ』というわけだ。たしかに、噂がたった。十年ほどまえ、後家がまだ娘だったころ、マクシム・イワーノヴィチがすっかりのぼせてしまって(なんでもひどく美しい娘だったそうだ)、莫大な金をつぎこみ、それが神殿を破壊するにも等しい罪だということを、すっかり忘れていたというのだ。ところがそれが空弾《そらだま》に終ってしまった。町中はおろか、県中にまで、えらい恥さらしをしてしまったが、どうにも自分の抑えがきかなかったというのだ。
母親は幼い子供たちとわあわあ泣きわめいたが、委細かまわず家から追いだしてしまった。そこには遺恨というだけじゃなく、人間というものはときとして、なににそそのかされて我《が》をおしとおすのか自分でもわからぬことがあるものだ。まあ、後家ははじめのうちは人の情けにすがって生きていたが、そのうちにあちこちのやとわれしごとに出るようになった。だが、こんな田舎町《いなかまち》で、工場のほかに、どんなはたらき口があるかね。まあ床を洗うとか、野菜に水をやるとか、風呂をたきつけるとかくらいなものだが、それも乳呑み子を抱えてでは、つい泣きたくもなろうというものだ。あとの四人の子供たちはぼろシャツ一枚で往来をかけまわっている。教会の入口にひざまずいたころは、それでもまだまがりなりにも靴ははいていたし、まあ粗末なものでもどうやら外套《がいとう》らしいものは着ていた。そこはなんといっても商人の子供だ。ところが今ではもう裸足《はだし》で裸虫みたいに走りまわっている。そりゃむりもない、子供の着るものなんぞたちまちぼろになってしまう。だが、子供なんてものは平気なものだ。おてんとうさまが照りさえすれば、きゃっきゃっはしゃいで、破滅なんぞは感じはしないし、小鳥みたいにほがらかで、声は鈴を鳴らすみたいなものだ。後家は悲観して、『冬がきたら、この子たちをどうしたらいいだろう。せめてそれまでに神さまが召してくださればいいが!』などと考えていた。ところが冬まで待つこともなかった。たまたま子供たちの咳《せき》の病気がこの地方にはやったのだ。つぎからつぎとうつってゆく、あの百日咳というやつだ。まずはじめに乳呑み子が死んだ、それからほかの子供たちにうつって、女の子が四人とも、その秋のうちに、つぎつぎと召された。もっとも、一人は往来で馬車にひかれて死んだのだがな。それでどうしたと思うかね? 母親は野辺《のべ》送りをすますと、わあわあ声をあげて泣いた。死ねばいいと思ったりはしたものの、いざ神に召されてみると、かわいそうになった。それが母親の情というものだよ!
たった一人いちばん上の男の子だけがのこったわけだ。母親はもうかけがえのない男の子なので心配でたまらず、はらはらばかりしていた。ひよわな子で、柔弱で、女の子みたいなかわいい顔をしていた。母親はその子の名づけ親で、工場の監督をしている男のところへその子をあずけて、自分はある役人の家に乳母《うば》にやとわれた。あるとき子供が庭先で走りまわって遊んでいると、そこへだしぬけに二頭だての馬車に乗ったマクシム・イワーノヴィチがもどってきた。まずいことに酒が入っていた。子供はちょろちょろしていたので、あやまって階段から足を踏みはずして、馬車から下りた彼の上にころがりおちて、両手をひろげていきなり腹につかまってしまった。マクシム・イワーノヴィチはいきなり子供の髪をひっつかむと、『どこのがきだ? 笞《むち》をもってこい! 今すぐ、わしの目のまえで、こいつをぶちのめせ!』とどなった。子供はおびえきって真《ま》っ蒼《さお》になった。折檻《せつかん》がはじまった。子供は泣きわめいた。『これでもピイピイわめくのか? 声が出なくなるまで、ぶちのめせ!』どのくらいなぐったか、泣きわめかなくなったと思ったら、子供は死んだようになってしまった。みんなぎょっとしてなぐる手をとめた。子供は息をしていない。気絶してしまったのだ。あとからの話では、そんなになぐってはいないが、ひどくおびえやすい子で、びっくりして気を失ってしまったというのだ。マクシム・イワーノヴィチもさすがにぎょっとして、『どこの子だ?』と訊いた。これこれだと聞かされると、『なんてことだ! 母親のところへ連れてゆけ。どうしてこんなところで遊ばせておいたのだ?』それから二日ばかり黙っていたが、やがてまた、『あの子供はどうした?』と訊いた。子供はかわいそうなことになっていた。病気になって、母親のようやく雨露をしのぐような小屋の片隅《かたすみ》に寝ていた。母親はそのためにせっかくの勤め口をやめなければならなかった。子供は肺炎をおこしたのだった。
「なんとしたことだ!」とマクシム・イワーノヴィチは言った、「あれっぽっちのことで! こっぴどくなぐったというのならともかく、ほんのちょっぴりおどかしただけなのに。ほかのやつらはあんなもんじゃなく、もっともっとこっぴどくぶんなぐってきたが、こんなばかなことは一度もなかった」。そこで、母親が苦情を言いに来るものと覚悟して、たかをくくって、わざと知らぬふりをしていたが、母親にすればとんでもない話で、とてもどなりこんでゆくような勇気はなかった。そこで彼のほうから十五ルーブリもたせて使いの者をやり、さらに医者をさしむけてやったわけだが、それもなにも恐れたというわけではなく、ただなんとなくそんな気持になったまでのことだ。そのうちに虫のおきる時期が来て、三週間ばかりというもの酒浸《さけびた》りになった。
冬がすぎて、キリストの復活の日がやってきた。そのお祭りの当日に、マクシム・イワーノヴィチはまた、『ときに、あの子供はどうしたかな?』と訊いた。冬中黙りこくっていて、一言も口に出さなかったのだ。『元気になって、母親のところにいるが、母親は毎日はたらきに出ておりますで』という返事だった。それを聞くとマクシム・イワーノヴィチはさっそくその日のうちに後家のところへ出かけていって、家の中へは入らないで、後家を門口へ呼び出して、馬車から下りもしないでこう言ったものだ。
「実はな、後家さん、わしはおまえさんの息子のほんとうの恩人になって、できるかぎりの面倒を見てやりたいのだよ。今からでもさっそくわしの家にひきとる。そしてちょっとでも見どころがあれば、相当の財産をあれの名義になおしてやろう。まあ、ぜんぜんわしの気に染まなんでも、わしの死後、全財産があれに行くように、実子同然に、ちゃんとあとつぎとして認めてやろう、ただしひとつだけ条件がある、それは大祭日以外は、おまえさんに家に出入りしてもらわないことだ。それでよかったら、明日の朝子供を連れてくるがよい。あの子だっていつまでも小骨遊び(訳注 骨(または木杭)を交互に地面に投げて打ちこみ、相手のに打ち当てて倒したほうを勝ちとする子供の遊び)ばかりもしていられまい」
そう言うと、マクシム・イワーノヴィチはあっけにとられて口もきけずにいる母親をのこして、立ち去っていった。人々はその話を聞くと、『この子が大きくなったら、こんなすばらしい幸運をだめにしたと言って、おまえさんをうらむようになるだろう』と母親に言った。母親はその夜一晩中子供の寝顔に涙を流して、あくる朝連れていった。子供はすっかりおびえきっていた。
マクシム・イワーノヴィチはその子にお坊ちゃまみたいな服装をさせて、家庭教師をやとって、さっそく本をもって机のまえに坐らせたが、それからというものはいっときも目をはなさずに、いつも自分のそばにおいておくようになった。子供がちょっとでも欠伸《あくび》なぞしようものなら、たちまちどなりつける。『本をはなしちゃいかん! 勉強しなさい。わしはおまえをりっぱな人間に仕立ててあげたいのだよ』というわけだ。ところが子供はもともとひよわだったが、あの笞でなぐられたときからというもの、じきに咳が出るようになった。『この家の暮し方がよくないのだろうか?』とマクシム・イワーノヴィチは首をかしげた、『母親のところにいたときは裸足で走りまわって、木の皮みたいなパンをかじっていたのに、ここへ来てからどうしてこんなにやせるのだろう?』すると教師の言うのには、『子供というものは、勉強ばかりしていないで、すこし遊ぶことも必要なのです。この子には運動させなきゃいけませんよ』。そしてじゅんじゅんとそのわけを説いてきかせたものだ。マクシム・イワーノヴィチはしばらく考えたうえで、『なるほどあんたの言うとおりだ』と折れた。この教師はピョートル・ステパーノヴィチといって、もう亡くなってしまったが、えらい変り者だった。酒には目がなく、しかもやたらに深酒ばかりするものだから、どこの勤め口もすっかり棒に振ってしまって、町の人々のお情けにすがってどうにか生きていたようなありさまだったが、それでもものを知ってることはたいへんなもので、学問には深く通じていた。よく自分でこんなことを言ってたものだ、『わしはこんなところにくすぶってるような人間じゃない。大学の教授になるべきはずの人間なのだが、こんなところで泥沼にはまりこんでしまって、着ている服にまできらわれてしまったわい』
そこでマクシム・イワーノヴィチは椅子にふんぞりかえって、『おい、遊べ!』と子供に言うのだが、子供は彼のまえに出るとろくろく息もつけない始末だ。そのうちに声を聞いただけでひきつけをおこしたみたいになって、がたがたふるえだすようになってしまった。そこでマクシム・イワーノヴィチはいよいよわからなくなった。『この子はいったいどういう子なのだろう。せっかくわしが泥沼の中からひろいあげてやって、上等の純毛の服を着せてやったり、やわらかい半長靴をはかせてやったり、刺繍《ぬいとり》のあるシャツを着せてやったりして、まるで将軍のお坊ちゃんみたいな格好をさせているのに、どうしてこのわしになつかんのだろう? どうして狼《おおかみ》の子みたいに黙りこんで目ばかり光らせているのだろう?』そして世間の人々はもうとうにマクシム・イワーノヴィチにはおどろかなくなっていたが、ここでまたあらためてびっくりさせられた。マクシム・イワーノヴィチはものに憑《つ》かれたみたいになってしまったのだ。『自分の命をちぢめてでも、この子の根性をたたき直してやらにゃならん。この子の親父は、死の床で、もう聖水で唇《くちびる》をしめされてからまで、わしを呪った。この子はその親父の性根を受けついだのだ』。そして笞こそ一度も手にしなかったが(あのとき以来こわくなったのだ)、子供をすっかりおびえさせてしまった。そうなのだよ。笞をつかわないでおびえさせてしまったのだな。
そのうちに、こんなできごとが起った。あるとき彼が部屋から出てゆくと、待ちかまえていたみたいに子供は本からはなれて、椅子の上にとび上がった。というのは、出てゆくまえに、子供の手にとどかんようにゴムマリを洋服ダンスの上に投げていったからだ。子供はゴムマリをとろうとしてタンスの上にのせてあった陶器のランプに袖《そで》をひっかけたから、たまらない、ランプは床にころげおちて、粉々にくだけ、すごい音が家中にひびきわたった。ところでそのランプというのが、サクソニヤ製の高価なものだった。そのとたんにマクシム・イワーノヴィチがひとつおいたつぎの部屋からそれを聞きつけて、ものすごい声でどなりつけた。子供は胆玉《きもつたま》がつぶれてしまって無我夢中で逃げだした。テラスへとびだし、庭を突っきり、裏門からいきなり河岸通りへとびだした。そこは広い散歩道になっていて、大きな柳の並木があって、ぶらぶら歩きに格好なところだ。子供は水際《みずぎわ》へかけ下りて、見ていた人々の話だと、船着場のすぐそばまで来ると、ぱちっと両手を打ちあわせた、そして水を見てぎょっとしたのか――そのまま立ちすくんでしまったということだ。そこは河幅の広いところで、流れが早く、はしけが行き来して、向う岸には小店がならんで、広場があり、その向うには寺院の金色の屋根がきらきら輝いている。ちょうどそのときフェルジング大佐の奥さんが娘を連れて通りかかった。渡船場へ行くところだった。そのころ歩兵連隊が駐屯《ちゆうとん》していたのだ。その娘も八つばかりの少女で、白い服を着てちょこちょこ歩いていたが、男の子を見ると、にこにこ笑いかけた。手には小さなかごを下げていたが、その中には一匹の小さなはりねずみが入っていた。
「ごらん、ママ、あの男の子あたいのはりねずみを見てるわよ」と少女が言った。
「いいえ」と大佐の奥さんは言った、「あの子はなにかにおびえてるんだよ。あなたはなにをそんなにこわがってるの、坊や?」(これはみなあとで奥さんが語ったことなのだ)
「ほんとに、なんてかわいらしい坊やでしょう、きれいなお服を着て。坊やはどこのお子さん?」
男の子はまだはりねずみを見たことがなかったので、そばへよって、珍しそうに見ているうちに、すっかり忘れてしまった――そこは子供だ!
「これ、なあに?」と男の子は訊いた。
「これは、はりねずみよ。今、村のお百姓さんから買って来たの。森で見つけたんですって」
「へんなの、これがはりねずみっていうの?」と、男の子はもう笑っている、そして指先でちょっとつつくと、はりねずみはブラシみたいに毛を逆立《さかだ》てた。少女はにこにこしながら男の子に言った。
「あたしこれを家へ連れてって、芸をおしえようと思うの」
「ああ、ぼくもこのはりねずみほしいなあ!」
そこは子供で、もうほしい一心で、少女にはりねずみをくれないかとたのみかけたとたんに、いきなり上のほうからマクシム・イワーノヴィチのどなる声が聞えた。
「あっ! こんなとこにいたのか! その子をおさえてくれ!」
彼もすっかり逆上してしまって、帽子もかぶらずに子供を追って家からとびだしてきたのだった。子供は、はっと自分のしでかしたことを思い出すと、いきなり河っぷちへかけだして、小さな両のこぶしを胸にあてて、天を仰いだ(見ていたのだよ、みんなが見ていたのだよ)、――そしてざんぶと河へとびこんだ! さあ、大騒ぎになって、渡船場からとびこみ、救い上げようとしたが、なにしろ流れが早い、たちまち押し流されてしまって、やっと引上げたときは、もう水を飲んで、――死んでいた。もともと胸の弱い子だったから、水に負けたのだが、そうでなくたって消えやすい命だ! それにしても、こんな小さな子供が自分で自分の命を絶ったなんてことは、この地方ではまだ誰の記憶にもないことだった! なんという恐ろしい罪をおかしたのだ! こんな小さな魂があの世で神にどんな申しひらきができよう!
そのことばかりを、それ以来、考えこむようになってな、マクシム・イワーノヴィチは、これがあの人かと目をあやしむほどに、がらりと人間が変ってしまった。見るも気の毒なほどのしょげこみようで、酒にまぎらそうとして、さんざん飲みまくったり、ふっつりとやめてみたりしてみたが、――ちっとも気がはれない。工場へ出るのもやめてしまって、誰の言葉にも耳をかさない。なにを言っても――黙りこくっているか、うるさそうに片手を振るばかりだ。こんな状態が二月ばかりつづくと、今度はひとりごとを言うようになった。ぶらぶら歩きまわりながら、ぶつぶつなにやらひとりごとを言っているのだ。そのうちに町の近くのワシコワ村という小さな村に火事がおきて、家が九軒ばかり焼けた。マクシム・イワーノヴィチは馬車に乗ってようすを見に出かけた。焼け出された村人たちが彼をとりかこんで、おいおい泣いて救いを求めた。彼は助けてやると約束して、指示をあたえたが、しばらくすると管理人を呼んで、せっかくあたえた指示をひっこめてしまった。
「なにもやることは要《い》らん」と言っただけで、そのわけはなにも言わなかった。「神がわしを鬼か蛇みたいに、人まえにさらしものにしたのだ、それならそれでいいさ。風みたいに、わしの名誉は吹きちらされてしまったのだ」
管長がじきじきに彼を訪《たず》ねてきた。きびしい老人で、修道院の中に仮の避難所をひらかれたお方だ。
「おまえどうしたのじゃ?」と管長は、それはきびしい声で言われた。
「実は、これを読みましたので」とマクシム・イワーノヴィチは聖書をひらいて、ある個所を指さした。
『然《さ》れど我を信ずるこの小さき者の一人を躓《つまず》かする者は、むしろ大《おおい》なる碾臼《ひきうす》を頸《くび》に懸《か》けられ、海の深処《ふかみ》に沈められんかた益《えき》なり』(原注 マタイ伝、第十八章六節)
「そうじゃ」と管長は言われた、「このお言葉があのできごとにそのままあてはまるわけではないが、しかしやはりかかわりはある。おのれの分というものを忘れた人間は、不幸じゃ――その人間は破滅する。おまえは慢心しすぎたのじゃよ」
マクシム・イワーノヴィチはまるで棒でも呑んだみたいに、しょきっと坐っていた。管長はじっとにらんでおられた。
「いいか、ようく聞いて、おぼえておくがよい。『望みを失いし者の言葉は風に散らされる』と言われている。さらにまた、こうも言われている、つまり天使といえど完全ではない、完全無欠なのはわれらが唯一の神であらせられる主イエス・キリストのみじゃ、そして天使たちもこの主お一人に仕えるのじゃ。それにおまえじゃとて、あの子供の死を望んだわけではない、ただ思慮がなかっただけじゃ。ただひとつわしにはふしぎでならんことがある。おまえはこれまでずいぶん乱暴な言葉を吐いたし、ずいぶん多くの人々を路頭に迷わせたり、堕落させたり、破滅させたりした、――これはみな殺したも同然じゃないか? それにじゃ、つい先ごろもあの子の妹たち、四人の幼い女の子たちが、ほとんどおまえの目のまえでつぎつぎと死んでいったじゃないか? どうしておまえはあの子だけにそれほど苦しむのじゃ? まえの子供たちのことは、どうやら、哀れむどころか、考えることも忘れたと見えるな? いったいなぜあの子をそれほどこわがるのだ、なんぞ特に罪なことでもしたのか?」
「夢に出てきますので」とマクシム・イワーノヴィチは言った。
「それがどうしたのじゃ?」
だが、マクシム・イワーノヴィチはもうそれ以上はなにも打明けようとしないで、黙りこんでしまった。管長はふしぎに思ったが、そのままもどっていった。もうこれ以上どうにもしようがない。
マクシム・イワーノヴィチはそれからすぐに教師のピョートル・ステパーノヴィチを呼びにやった。あれ以来会っていなかったのだ。
「おぼえとるかね?」と訊いた。
「おぼえてるさ」とそちらは答えた。
「おまえは油絵具で絵を描いて居酒屋にもちこんだり、主教の肖像画を描いたりしたそうだな。どうだ、わしに絵をひとつ描いてくれんか?」
「よろしいとも。わしは多芸多才です、できんことはありませんわい」
「では、いちばん大きな、壁いっぱいの絵を描いてくれ、まず河を描くのだ、それから岸へ下りる石段も、渡船場も、それからあのときいた人々をぜんぶそのままに描きこむのだ。大佐の奥さんと少女も、それからはりねずみもだ。それから向う岸も描いてくれ、すっかり見えるとおりにな、――寺院も、広場も、小店も、辻馬車《つじばしや》も、――すっかりあのときそのままに描くのだ。それから渡船場の水際に、あの立っていた場所に、あの子を描いてくれ、必ず二つのこぶしをこんなふうに、胸に、乳首《ちくび》に、おしあてているところだぞ。これを忘れちゃいかんぞ。それからあの子のまえのほうに、寺院の上の空を広くあけて、明るい天上の光に照らされたたくさんの天使たちが、あの子を迎えに飛んでくるところを描くのだ。どうだ、わしの思うような絵が描けるか?」
「わしにできんことはありませんよ」
「わしはおまえみたいな田舎絵師じゃなく、モスクワから当代一流の画家を招くことだってできるんだぞ、ロンドンからだってな。でもおまえはあの子の顔を知ってるからな。もしさっぱり似とらんようなものができたら、五十ルーブリしかやれんが、そっくりにできたら、二百ルーブリやろう。おぼえてるな、目は青っぽい色だぞ……それからとにかくいちばんでかい絵だぞ、いいな」
用意ができた。ピョートル・ステパーノヴィチは描きだしたが、しばらくすると急にやって来た。
「だめです、あんなふうにはとても描けません」
「どうしてだ?」
「この自殺って罪は、あらゆる罪の中で最大の罪だからです。だのに、こんな罪をおかしたものをどうして天使が迎えてくれるかね?」
「でもあれは――いたいけな幼な子じゃないか。あれには罪はないよ」
「いや、幼な子じゃない、もうものがわかります。あのときはもう八つになっていた。やはりそれなりに申しひらきをせにゃなりますまい」
それを聞いて、マクシム・イワーノヴィチはますますおじけづいてしまった。
「そこで、こんなふうに考えてみたのだが」とピョートル・ステパーノヴィチは言った、「空をひらいて天使たちを描くことはしないで、そのかわりに空から、子供へさすように、一|条《すじ》の光線を降らせる。明るい光明のような一本の光……それだけでもやはり同じような意味がでるでしょうな」
そこで一本の光をささせることにした。わしもあとで、もうかなりたってから、この絵を見せてもらったが、明るい光が空からさし、河が青々と、壁いっぱいに流れて、かわいらしい男の子が、小ちゃな両のこぶしを胸におしあてて、それから小さな女の子も、はりねずみも――なにもかも申し分なく描かれてあった。ただマクシム・イワーノヴィチはそのとき誰にもその絵を見せないで、書斎にしまって、鍵《かぎ》をかけてしまった。町中の者が見せてくれとおしかけたほどだが、ぜんぶ門前ばらいをくわせた。たいへんな評判になった。ところで、ピョートル・ステパーノヴィチはとつぜん頭がおかしくなって、『おれはもう今はできんものはないんだ、おれはもともとサンクト・ペテルブルグの宮廷に仕えるような人間なのだぞ』などとわめきだした。ひじょうにいい人間だったが、なにしろ威張り癖もえらく強い男だった。そして気の毒な運命になった。二百ルーブリをもらうと、すぐに飲みだして、自慢たらしくみんなに金を見せびらかした。そしてその夜いっしょに飲んでいた男に殺されて、金をすっかりうばわれてしまった。朝になってはじめてそのことがわかったのだ。
さて、このできごとはまことに意外な結末に終ったので、いまでも人々の頭に強くのこっている。マクシム・イワーノヴィチがだしぬけに例の後家を訪《たず》ねたのだ。後家は町はずれに貧しい物売り女のくずれかけたような家の一間を借りて暮していた。今度はマクシム・イワーノヴィチは家の中に入って、後家のまえに立つと、頭が床につくほどていねいにおじぎをしたものだ。後家はあれ以来どっと病の床についてしまって、動くのもやっとというありさまだった。
「なあ、おまえさん、この罰あたりなわしといっしょになってくれんか。もう一度生活のやり直しをしようじゃないか」とマクシム・イワーノヴィチは涙声で言った。
後家はあっけにとられてぼんやり相手に目をやっていた。
「もう一人男の子がほしいのだよ。もしも生れたら、それはつまりあの子がわしたち二人を許してくれたということだ。おまえさんのことも、わしのこともな。あの子がわしにこう命じたのだよ」
後家は、この男が気がへんになっているらしい、と見てとったが、それでもやはりがまんができなくなった。
「ばかなことを言うものじゃありません」と後家は答えた、「それは気の弱さというものです。この気の弱さのためにわたしは四人の子供を亡《な》くしたのですよ。わたしはあなたを見るのもいやです、そんな未来|永劫《えいごう》消えることのない苦悩をわが身にしょいこむなんてまっぴらです」
マクシム・イワーノヴィチは引退《ひきさが》ったが、しかしあきらめなかった。このような思いがけない話のために町中が大騒ぎになった。マクシム・イワーノヴィチは仲人をさしむけた。田舎のほうで、ささやかな商売をしていた伯母を二人呼びよせた。伯母といっても実の伯母ではないが、やはり遠い縁者にはちがいなかった。二人の女は、なんとか後家の心をなびかせようと、後家の部屋に坐りこんで、口説《くど》きにかかった。町の人やら、商家のおかみさんやら、おだいこくやら、役人の奥さんなどにまで仲に立ってもらって、それこそ町ぐるみで後家を攻めたてた、ところが後家はかえってうるさがって、『死んだ子供たちが生きかえったとでもいうのならまだしも、今となってはなんのためにそんなことを? それに、死んだ子供たちに対してどうしてそんな罪なことができるでしょう?』とはねつけた。管長までもせがまれて、後家の耳に口をよせ、そっとささやいた、『おまえはあの男を新しい人間に更生させることができるのじゃよ』。後家は恐ろしさにふるえあがった。町の人たちは後家の強情にあきれかえって、『わからん女だ、あんなしあわせをみすみす逃《のが》すなんて!』と口々に噂しあった。しかし結局は、マクシム・イワーノヴィチはこんな殺し文句で後家を往生させた。『なんといってもあの子は自殺の罪をおかしたのだし、それに幼な子じゃなくて、ある程度はもののわきまえがつく少年だ。年齢《とし》からいっても天国の門をすんなり入れるというものじゃない、やはりそれなりの申しひらきはせにゃならんわけだ。もしもおまえさんがわしといっしょになってくれるなら、ひとえにあの子の魂の永遠のやすらぎのために新しい寺院を建てることを、神かけて約束しようじゃないか』。後家もさすがにこの言葉には負けて、承諾した。こうして二人は式をあげたわけだ。
そして、町の人たちが二度びっくりさせられるようなことが起った。二人はいっしょになったその日から、それこそ心底からしっくりととけあって、夫婦の掟《おきて》をひたすら守って、まるで二つの肉体に一つの魂が宿ったかとあやしまれるほどのむつまじい暮しぶりなのだ。その冬に女の腹に子が宿った、それからというものは二人は手をたずさえて、方々の寺院におまいりをはじめて、ひたすらに主の怒りをおそれたものだ。三つの修道院を訪ねて、神のお告げを聞いた。マクシム・イワーノヴィチは約束した寺院を建立《こんりゆう》し、さらに町に病院と養老院を建てた。寡婦《かふ》たちやみなし子たちにかなりの金を恵んでやった。さらに辱しめた人々をつぎつぎと思い出して、償いをしたいと言いだし、むやみやたらに金をばらまきだしたので、『もう、そのくらいでいいから』と、かみさんと管長が見かねてとめる始末だった。マクシム・イワーノヴィチは素直に言うことをきいた。『わしはあのときフォーマの勘定をごまかしたのだよ』。そこで、フォーマにごまかした分があたえられた。フォーマは嬉しくて泣きだしてしまった、『おら、おらこんなことしていただかなくとも……もうすっかり満足しておりましたで、もう死ぬまで神さまにお祈りいたしますだ』というわけで、これは町中の人々の心にしみこんでいった。いい行いは人間をいつまでも生かすっていうけど、たしかにそのとおりだ。町の人々はいい人間ばかりだった。
工場はかみさんが自分で管理するようになったが、そのやり方がうまいので、いまでも町の人々が思い出すほどだ。マクシム・イワーノヴィチの酒の虫はおさまらなかったが、その時期が来るとかみさんが厳重に監視して、その後治療も受けさせた。言うことに重みがついてきて、声まで変った。むやみに情け深くなって、家畜にまで哀れみをかけるようになった。百姓が馬の頭にこっぴどく鞭《むち》をくらわせているのを、窓から見たりすると、すぐに人をやって、二倍の値段で馬を買いとらせた。おまけにひどく涙もろくなって、誰に話を聞かされても、すぐに涙ぐんだ。いよいよ臨月が近づくと、神も二人のお祈りを聞きとどけられたと見えて、玉のような男の子を授けてくだされた。そしてマクシム・イワーノヴィチは、あれ以来はじめて、はれやかな顔になった。たくさんの喜捨《きしや》をわかちあたえ、たくさんの借金を棒引きにしてやって、洗礼式には町中の人々を招いた。こうして町中の人を招いたが、その翌日の夜更けに、彼はふらりと出ていった。かみさんはそのなんとなくただならぬようすを見て、赤んぼうを抱いていって見せながら、『あの子がわたしたちを許してくれたんだよ、わたしたちの涙と祈りをわかってくれたんだよ』と言った。ことわっておかなきゃならんが、このことは、二人ともこの一年というもの一言も口に出さないで、お互いの胸の中にしまっていたのだった。するとマクシム・イワーノヴィチは暗い目でじっとかみさんを見た、『でもな、あの子はこの一年のあいだ来なかったのが、昨夜また夢の中に現われたのだよ』。かみさんはあとで思い出して、『この奇妙な言葉を聞いたとき、はじめてぞおっと恐怖がわたしの心にしみこみました』と語ったものだ。
あの子が夢に現われたのは、やはりただごとではなかったのだ。マクシム・イワーノヴィチがその話をすると、ほとんど同時と言っていいほどに、赤んぼうに妙なことが起った。急に熱を出したのだ。そして八日間というもの死線をさまよった。たえず祈祷《きとう》が上げられ、何人も医者がよばれ、モスクワから当代一流の医者が鉄道で招かれた。医者は着くといきなり怒りだした。『わしはわが国でいちばんの医者だ、モスクワ中がわしを待っているのだ』。そしてなにやら水薬の処方を書くと、八百ルーブリふんだくって、さっさと引きあげてしまった。赤んぼうはその日の夕方に死んだ。
さて、それからどうなったか? マクシム・イワーノヴィチは全財産を愛するかみさんにゆずり、いっさいの資本やら証書類やらをすっかりかみさんの名義に書きかえて、正式の譲渡の手続きをすっかりととのえてから、かみさんのまえに現われて、頭を床にこすりつけるほどにおじぎをすると、こう言ったものだ、『わしのかけがえのない大事なかみさんや、わしを行かせておくれ、まだまにあうあいだに、わしの魂を救っておくれ。もうこの先魂の救いをえられないようだったら、もうわしはもどってこない。わしは気性のけわしい頑固者《がんこもの》で、ずいぶん人々を苦しめもしたが、しかしこの先つらいつらい巡礼の生活をつづけたら、主も見殺しにはなさるまい、だってこれだけのものを捨ててゆくのは、それこそ生易《なまやさ》しい苦しみではないからな』。かみさんは目を泣きはらして彼に思いとどまらせようとした、『あなたはわたしにはこの世でたった一人の人ですわ、これからは誰を頼りに生きたらいいのです? わたしはこの一年のあいだにあなたを心から慕うようになったのです』。そして町中の人々がまる一月もマクシム・イワーノヴィチを思いとどまらせようとかきくどいたり、泣きおどしにかかったり、しまいには力ずくでもおさえようとした。ところが頑として聞かないで、ある夜こっそり脱け出したきり、もう二度ともどらなかった。聞くところによると、いまでも難儀な巡礼の苦行生活をつづけていて、年に一度ずつ、いとしいかみさんのもとを訪ねてゆくそうだ……
[#改ページ]
第四章
いよいよこのわたしの手記をしめくくる最後の破局に筆をつけることにしよう。しかし話の筋をつけるために、すこし先まわりして、ある事情を説明しておかなければならない。これはわたしが行動をおこしたころは、まったく知らずにいて、あとになってからそれがわかり、その事情を完全に解明できたのは、あともあと、いっさいが終ってしまってからなのである。しかしこれを明らかにしておかないと、すべてが謎《なぞ》めいたものになってしまって、はっきりと書きようがない。というわけで、いわゆる芸術性を犠牲にして、単純明快な説明をしておこうと思う、というのはわたしが書いたようにではなく、つまりわたしの感情をまじえないで、新聞の entrefilet(小記事)のような書き方をしておこうと思うのである。
ありていを言えば、わたしの少年時代の友ラムベルトが大いに、というよりはまさしく、近ごろは恐喝《きようかつ》と称されて、法例にその規定と罰則を定められているような犯罪行為のために組んでいる小悪党どもの一味にかぞえられるべき人間だ、ということにつきる。ラムベルトが加わっていた一味は、さきにモスクワで結成されたもので、すでにそちらでかなりあくどいことをやっていた(後にその一部は暴露された)。わたしがあとで聞いたところでは、モスクワの彼らの一味は、ある時期、すでに初老に近い男で、ものすごく老練な切れ者が指揮をとっていたということである。彼らはそのしごとに応じて一味全員であたることもあり、小グループに分れて担当することもあった。実に陋劣《ろうれつ》きわまる無法な悪業と並行して(これらはすでに新聞にも報じられていた)、――一味はそのボスの指導のもとにかなり複雑で、しかも巧妙な犯行もおこなっていた。わたしは後にそのいくつかの手口について知ったが、ここに詳しく述べるつもりはない。ただ彼らの手口の基本的な特徴だけを紹介しておこう。まず誰かの、ときには人格者として聞え、社会的地位の高い人物のなにかの秘密を嗅《か》ぎつける、それからその人物を訪《たず》ねて、手紙とか文書とかを暴露すると恐喝し(そんなものをなにもにぎっていない場合もあるのだが)、口止め料を要求する。ときには不道徳でもないし、まったくなんの罪もない文書の場合もあるが、いざそれを暴露されるとなると、しっかりしたりっぱな人物でさえもなんとなく怯気《おじけ》づいてしまうのである。彼らのねらいは主として家庭の秘密であった。一味のボスの手口がどれほど巧妙であるかを示す一例として、いっさいのこまかい点をはぶき、ほんの三行ほどで、ある事件のアウトラインを紹介しておこう。
ある名望家の家庭に実際に不道徳で犯罪的なある事件がおこった。というのは、世間から尊敬されているある有名人の夫人が、ある富裕な青年士官によろめいて道ならぬ恋におちたのである。一味はそれを嗅ぎつけると、こういう手をうった。つまり、良人《おつと》に知らせるぞと、いきなり青年士官を脅迫したのである。彼らはなんの証拠もにぎっていなかった。青年士官はそれはよく知っていたし、彼らも別に証拠のないことをかくしもしなかった。しかしこの場合、その手口の巧妙さと計算のずるさは、知らされた良人は、証拠などなにもなくても、うごかぬ物的証拠を突きつけられた場合とまったく同じ衝撃を受け、同じ行動をとるものと見ぬいていた点にあった。彼らはこの人物の気性とその家庭状況についての情報に賭《か》けたのである。要は、一味に名門の青年が一人加わっていて、その青年がまんまと情報をさぐりだしたということであった。彼らは愛人からかなりの金額をしぼりとった、しかも生贄《いけにえ》自身が秘密を渇望していたのだから、彼らにはすこしの危険もなかったことは言うまでもない。
ラムベルトは、モスクワのこの一味に関係はしていたが、しかし完全にその一味の一員になっていたわけではなかった。彼はこのしごとが性に合うと見てとると、さっそく独立して、小手しらべにまず小さなしごとからぼつぼつとはじめた。あらかじめ言っておくが、彼はこのしごとにはそれほど向いてはいなかった。彼はたしかに頭もわるくはなく、読みも深いほうではあったが、かっとなりやすく、加えて正直というか、むしろ素朴といったほうがいいほどに、人間も、社会も知らなかったからである。その証拠に、彼はモスクワのボスの偉さがぜんぜん理解できないで、このようなしごとを計画したり指導したりすることぐらいいともたやすいことだと考えていたらしい。そのうえ、彼はほとんどの人間が自分と同じような卑劣漢だと思っていた。たとえて言えば、これこれの人間はこれこれしかじかの理由によって恐れている、あるいは恐れなければならぬはずだ、と思いこむと、彼はもはや実際にその人間が恐れているものと信じて疑わなかった。ここのところをわたしにはうまく言えないが、いずれ事実によってもっと明確に説明するはずである、それはそれとして、わたしに言わせれば、彼の精神の発育はかなりがさつなもので、ある種の美しい高尚な感情などは、信じないというのではなく、どうやら、その観念すらもっていなかったらしいのである。
彼がペテルブルグへやって来たのは、かねてからペテルブルグをモスクワよりも広い活動舞台として考えていたのと、もうひとつにはモスクワでなにやらへまをやらかして、彼を消そうとねらうある男に追いまわされていたからである。ペテルブルグへ来ると、彼はすぐに昔のある仲間と連絡をとったが、縄張《なわば》りもけちで、みみっちいしごとばかりだった。その後彼は顔はしだいに広くなったが、いっこうにうまいしごとにありつけなかった。『この土地にゃろくなやつがいねえ、がきどもばかりさ』と彼はあとでわたしに語った。ところが、ある朝、未明に、彼は思いがけなく塀《へい》の下で凍死しかけていたわたしを発見して、彼に言わせれば、『すてきなもうけしごと』の手がかりにぶつかったというわけである。
その手がかりというのは、あのとき彼の部屋で凍えがしだいにとけていくときに、わたしが口走ったうわごとにあった。おお、わたしはあのとき熱に浮かされたようになっていたのだ! しかしわたしのうわごとの中からやはりはっきりと出たのは、あの宿命の日にわたしが受けたすべての屈辱の中でもっとも深くわたしの心の中に刻みつけられていたのは、ビオリングと彼女から受けた屈辱だということであった。さもなければ、わたしはラムベルトの部屋でそのことばかりを口走っていないで、たとえば、ゼルシチコフのこともしゃべったはずだからである。ところが、あとでラムベルト自身の口から聞いたのだが、わたしが憑《つ》かれたみたいにくどくどとしゃべったのは前者だけだったというのである。加えて、わたしは言い知れぬ喜びに酔ったようになっていて、あの恐ろしい朝、ラムベルトとアルフォンシーヌをわたしを救出してくれた解放者かなんぞのように感激の目で見ていたのだった。あとで、もう回復期に入ってから、まだ病床に横たわりながら、ラムベルトがわたしのうわごとからどんなことを知りえたろうか、どの程度までわたしが無意識に口走ったろうかと、記憶をたぐりながら思い合せてみたときも、まさか彼があのときこれほど多くのことを知りえたろうとは、わたしはつゆ疑ってもみなかった! おお、もちろん、良心が苦しめられていたところを見ると、わたしはすでにそのころも、よけいなことをべらべらとしゃべったにちがいないという危ぶみはあった、しかし、くりかえして言うが、これほどまでとは、まったく想像もできなかった! また、あのとき彼の部屋で言葉を明瞭《めいりよう》に発音する力がなかったはずだし、そのことがはっきり記憶にのこっていたことを考えて、それにせめてもの希望をかけていたが、しかし実際には、あとで考えて希望をかけたよりも、はるかに明瞭に語っていたことがわかったのである。ところがなによりもまずいのは、そうしたことがすべてわたしに明らかになったのは、ずっと後になってからのことで、これがわたしの命とりとなったのである。
わたしのうわごとや、口から出まかせのおしゃべりや、つぶやきや、慨嘆などから、彼が知ったのは、第一に、ほとんどすべての人々の正確な姓と、いくつかのアドレスであった。第二に、これらの人々(老公爵、彼女、ビオリング、アンナ・アンドレーエヴナ、それにヴェルシーロフまで)の身辺についてかなり詳しい概念をつくりあげた。第三に、わたしが屈辱を受けて復讐《ふくしゆう》しようとしていることを知った。そして第四に、これがもっとも重要なのだが、ある秘密の文書がどこかにかくされていて、もしその文書、つまり手紙を半狂人の老公爵に見せ、老公爵がそれを読んで、自分の娘が自分を狂人と考えて、どうして幽閉《ゆうへい》したらよいかをすでに『法律家に相談』したと知ったら、――あるいは完全に発狂するか、あるいは娘を家から追放して、その遺産相続権を剥奪《はくだつ》するか、あるいは自分ではすでに結婚の意志を表明しているが、まだ周囲から許されていない、マドモアゼル・ヴェルシーロワとの結婚にふみきるかするにちがいない、ということを知ったのである。要するに、ラムベルトはひじょうに多くのことをつかんだのである。きわめて多くの点が謎のままのこったことは、疑う余地がないが、それでもやはり恐喝の名人は正しい手がかりをつかんだと言えよう。わたしがアルフォンシーヌの手もとから逃げだすと、彼は直ちにわたしの住居をさぐりあてた(そんなことはわけもない。警察の居住者名簿を調べたのである)。つづいてすぐに調査の手をのばして、わたしがうわごとみたいに口走った人々がすべて実在することをつきとめた。そこで彼はちゅうちょなく第一歩をふみだした。
最大の鍵《かぎ》は、文書が存在し、それを所持しているのが――わたしであり、しかもその文書がきわめて大きな価値を有しているという点にあった。それをラムベルトは疑わなかった。ここである事情の詳述を割愛しておく、というのはいずれその時が来たときに語ったほうがよいと思うからである。ここではただその事情がなによりも、文書の実在と、特にその価値に対するラムベルトの確信を固めさせたのだとだけ言っておこう(この宿命的な事情を、あらかじめことわっておくが、わたしはそのときはもちろんのこと、いよいよこの事件が最後まで煮つめられて、不意にすべてが崩《くず》れおちて、その全貌《ぜんぼう》をさらけだすまで、まったく想像もできなかったのである)。さて、この最大の鍵を確信したラムベルトは、まずこのしごとへの第一歩として、アンナ・アンドレーエヴナを訪ねた。
ところで、わたしにはいまだに疑問なのだが、どうしてラムベルトのような男が、アンナ・アンドレーエヴナのような近づきがたい、気位の高い女に、うまくもぐりこんで、吸いつくことができたのか? たしかに、彼はいろいろと調べはしたろう、しかしそれがなんになるのだ? たしかに、彼はりっぱな服装はしているし、パリ風のフランス語を話し、フランスの姓をもっている、しかしはたしてアンナ・アンドレーエヴナが一目で彼を悪党と見ぬけなかったのか? あるいはもうひとつ突っこんで考えてみて、悪党がそのときの彼女に必要だったのか? でも、そんなことがありうるだろうか?
わたしは二人の会見のもようを詳しく知ることはどうしてもできなかったが、その後幾度となくその場面を想像してみた。いちばん考えられるのは、彼がはじめから彼女のまえで愛する親友の身を案ずる竹馬《ちくば》の友としての役割を演じたであろうということである。しかし、もちろん、この最初の会見ですでに、わたしが『文書』をもっていることもひじょうに明瞭にほのめかし、それが――秘密で、彼ラムベルトだけがその秘密をにぎっていること、わたしがこの文書でアフマーコワ将軍夫人に復讐しようとしていること等々を、それとなくにおわせたにちがいない。最大の効果は、彼がこの手紙の意味と価値を、できるだけ正確に、彼女に説明できたことであった。アンナ・アンドレーエヴナと言えば、彼女こそまさに、どんなことにもせよこうした類《たぐ》いの情報にとびつかずにはいられない立場におかれていた。だからこそ、極度に緊張して彼の話に耳を傾けずにはいられなかったし、そして……『生存のたたかいのために』――この餌《えさ》にくいつかざるをえなかったのであろう。ちょうどそのころ彼女の婚約者の老公爵は彼女からひきはなされて、監視つきでツァールスコエ・セローの別荘におしこめられていたし、それに彼女自身も監視されていた。そこへ不意にこのような願ってもない話が降ってわいたのである。これはもはや口さがない女どもの耳うちでもなければ、泣きおとしの苦情でもなく、うそや中傷でもない、れっきとした手紙、文書である、つまり彼の娘と、彼を彼女からひきはなそうとしている連中との奸計《かんけい》の物的証拠である。とすると、彼、老公爵は、たとい脱走してでも、彼女、アンナ・アンドレーエヴナのもとへ逃《のが》れてきて、ひそかに結婚式をあげ、せめて二十四時間だけは見つからずにいなければならない。さもないと禁治産者を宣告されて精神病院にぶちこまれてしまう。
だが、こうも考えられる。ラムベルトはこの令嬢にすこしの策も弄《ろう》せずに、のっけからいきなりこうきりだす。『マドモアゼル、あるいは老嬢《ハイミス》で終るか、あるいは大金持の公爵夫人になるか、ここが決心のしどころですな。ここに一通の手紙があります。わたしがこれをあの青年からだましとって、あなたにお渡ししましょう……三万ルーブリの手形とひきかえに』。わたしはこれが真相であったという気もする。というのは、彼は誰でも自分のような卑劣漢だと思いこんでいるからである。くりかえして言うが、彼には卑劣漢の正直さというか、卑劣漢の無邪気さというか、そんなところがあった……それはともかくとして、たしかに、アンナ・アンドレーエヴナは、こんな露骨なきりだし方をされても、いささかもうろたえずに、りっぱに自分を抑えて、独特のやくざな話し方をする恐喝者の言葉をおちつきはらって聞いていたらしい――これもみな『心の広さ』のせいである。それは、もちろん、はじめは顔をすこし赤らめたろうが、すぐに心をひきしめて、すっかり聞きおえた。それにしても、あの近づきがたい、誇りの高い、ほんとうにしっかりした娘が、しかもあれだけの知性をもちながら、ラムベルトごときと手を結んだことを思うと、たしかに……知性というものが信じがたくなる! ロシアの知性というものは、実に茫漠《ぼうばく》としていて、果てしなくひろがりたがる傾向がある。まして女の知性だし、しかもこのような事情の下におかれては、やむをえまい!
さてこのへんで要約しよう。病気が回復してわたしがはじめて外出するころ、ラムベルトはつぎの二点にしごとをしぼっていた(これは今はもうわたしが確認していることである)。第一は、アンナ・アンドレーエヴナから手紙の代償に最低三万ルーブリの額面の手形をとりあげ、そのうえで彼女を助けて老公爵をおどしつけ、こっそりおびきだして、否応《いやおう》なしに結婚させてしまう――まあ一口に言えば、こういうことである。これはもうすっかり手筈《てはず》がととのえられていた。あとはただわたしの援助、つまり文書が待たれていただけである。
第二の案は、アンナ・アンドレーエヴナを裏切って、彼女を見捨てて、手紙をアフマーコワ将軍夫人に売りつける。これはもちろんそのほうが有利ならばである。これにはビオリングも計算に入れられていた。だが、ラムベルトはまだ将軍夫人のところへはのりこまないで、ただその動静をさぐっていただけであった。これもわたしが待たれていた。
おお、彼はこれほどわたしを必要としていたのである。といってわたしという人間をではない、文書をである! わたしに対しても彼は二つの案をつくっていた。第一案は、やむをえない場合は、わたしをしごとに巻きこんで、片棒をかつがせる、しかしその場合はあらかじめ精神的にも肉体的にもわたしを完全に掌握する。しかし第二案のほうが彼にははるかに望ましかった。それは、わたしを子供みたいに欺《だま》して文書を盗みとるか、さもなければ有無を言わさず力ずくで強奪するというのであった。この案が彼の頭の中で虎の子のように愛撫《あいぶ》されていた。くりかえして言うが、この第二案の成功を彼にほとんど疑わせなかったような、ある事情があったのだが、しかしそれはわたしがすでに言ったように、その時がきたら説明することにする。とにかく、彼ははげしい焦燥に焼かれながらわたしの回復を待っていた。どちらに決め、どううごくか、いっさいがわたしの出方にかかっていたのである。
しかし、ここで公平に認めてやらねばならぬが、彼はその短慮にも似ず、時がくるまで平静に自分を抑えていた。彼は病気のあいだわたしを訪ねてこなかった、――一度来て、ヴェルシーロフと会っただけであった。彼はわたしの胸を騒がせたり、おびやかしたりしないで、わたしが全快して外出できる日まで、わたしに対しては完全に無関心の態度を持していた。わたしが文書を誰かに渡すとか、告げるとか、破棄するとかしはしないか、ということについては、彼はいささかも不安を感じていなかった。彼のところで口走ったわたしのうわごとから、わたし自身がこの秘密をどれほど大切にしているか、誰かに知られはしないかとどれほど恐れているかを、彼は見ぬいていたのである。しかも、わたしが回復して外へ出られるようになったらその日に、他の誰のところでもなく、まっさきに彼を訪ねることを、彼はいささかも疑わなかった。ダーリヤ・オニーシモヴナがわたしを訪ねてきたのも、ひとつには彼の指図によるもので、好奇心と恐怖をそそられて、わたしがもうがまんできないところまできていることも、彼は知っていた……しかもそのうえ、彼はあらゆる手をうって、わたしの外出の日までさぐりだしていたのである。だから、どうもがいたところで、わたしは彼から逃《のが》れることはできなかったのである。
しかし、ラムベルトがわたしを待っていたにしても、あるいはそれよりももっともっとわたしを待っていたのは、アンナ・アンドレーエヴナであったかもしれない。端的に言えば、ラムベルトが彼女を裏切る心用意をしていたのは、ある意味では正しかったかもしれない。しかもその理由は彼女のほうにあったのである。二人は疑いもなく協定しあっていたのだが(どういう形でかは知らないが、協定しあっていたことはまちがいない)、――それにもかかわらずアンナ・アンドレーエヴナは最後の瞬間まで彼にすっかりは心を許していなかった。腹の底をすっかり打明けてしまうことはしなかったのである。彼女は自分のほうからすべてに同意し、どんな約束にも応じることをほのめかした、――しかしそれは、ほのめかしたというにすぎなかった。彼の計画をごくこまかい点まで綿密に聞きとりながら、ただ沈黙によって是認したにすぎなかったらしい。わたしはこう結論するたしかな資料をもっている、しかもその原因は、彼女も――わたしを待っていたからである。彼女はラムベルトのようなやくざ者よりも、わたしと組みたかったのだ――これはわたしにとって疑うことのできない事実である! これはわたしには理解できる、しかし彼女の誤算は、それをついにラムベルトにも気取られたということにあった。もし彼女が、彼をのけものにして、わたしから文書をとりあげて、わたしと協定を結んだら、彼はそれこそ元も子もなくなってしまう。おまけにそのころは彼はすでに『しごと』の固さを確信していた。もし他の者だったら弱気を出して、まだ疑っていたかもしれないが、ラムベルトは若いし、図太いし、金を儲《もう》けたい一心だし、それに人間というものをあまり知らないで、誰でもたたけば埃《ほこり》が出るものと決めてかかっていた。こういう男は疑《うたぐ》るということを知らないし、そこへもってきてすでにアンナ・アンドレーエヴナから基本的な了解をとりつけていたのだからなおさらである。
最後に一言、もっとも重要なことを述べておこう。その日までにヴェルシーロフがなにか知っていたか、そしてたとい遠い末端においてでも、ラムベルトのしごとに関係をもっていたか? いや、断じてそのようなことはない、そのころはまだなかったはずだ、もっとも、あるいは、宿命的な言葉はすでになげられていたかもしれないが……しかしよそう、もうたくさんだ、わたしはあまりにも先走りしすぎたようだ。
ところで、わたしはどうなのだ? わたしはなにか知っていたろうか、そして外出の日までになにを知っていたか? この entrefilet(小記事)を書きだすときに、わたしは、外出の日までなにも知らなかった、すべてがわかったのはずっとあとで、すべてが終ってからである、とことわっておいた。これはほんとうだが、しかしまったくそのとおりか? いや、そうではない。わたしがすでになにかを知っていたことは確実だ、しかもあまりにも多くを知りすぎていたといえるかもしれない、しかしどのように? 読者は夢のところを思い出していただきたい! あのような夢がありえたとすれば、あのような夢がわたしの心からとびだしてあのような形をとりえたとすれば、それはつまり、今明らかにしたことと、実際には『すべてが終って』しまってからはじめてわかったことの中から、わたしはおそろしく多くのことを――知りはしなかったが、予感していたということである。頭では知らなかったが、心が予感であやしくさわぎ、悪霊がすでにわたしの夢を領していたのである。
そしてわたしは、それがどんな人間か知りつくし、こまかい点まで予感していながら、なおもラムベルトのところへとんでいったのである! なぜわたしは行ったのか? 妙なことだが、わたしは今、これをこうして書いていると、なぜわたしが彼のところへかけつけたのか、あのときすでに詳細に知っていたような気がする、しかし実際には、くどいようだが、あのときはまだなにも知らなかったのである。おそらく、読者はここのところを理解してくれるにちがいない。さてこれから――ひとつひとつ事実を追って述べていくことにしよう。
事の起りは、わたしが外出する日の二日まえの夕方、リーザがただならぬようすでもどってきたことであった。リーザはおそろしく腹をたてていた。そして実際に、彼女はある堪えがたい侮辱を受けたのであった。
リーザがワーシンを相談相手にしていたことについては、まえに述べておいた。彼女がワーシンのところへ行きだしたのは、わたしたちに相談をする必要がないことを、わたしたちに見せつけるためばかりでもなく、実際にワーシンを尊敬していたからであった。二人の交際はすでにルガ時代からで、ワーシンがリーザに気があるらしいことは、わたしはいつも気がついていた。リーザは思いがけぬ不幸におそわれたので、常々しっかりした、おちついた、しかも高尚な知性の人と考えていたワーシンに助言を求める気になったのは至極当然である。それに、女というものは、その男が気に入ったとなると、その男の知性を評価する目があまり適確であるとは言えないし、理屈に合わないようなことを言われても、それが自分の望みに合致していたりすると、喜んでそれを正しい推論と受取ってしまうのである。リーザがワーシンを好んだのは、彼が自分の立場に同情してくれていたし、またはじめのうち彼女の目には、彼が公爵にも同情をよせているらしく見えたからであった。しかも、自分に対する彼の感情をうすうす気づいていたから、リーザとしては彼の恋敵《こいがたき》によせるこの同情を尊いものに感じないわけにはいかなかった。
ところが公爵は、ときどきワーシンのところへ相談に行くことを彼女自身の口から聞いたとき、はじめからこの知らせをひじょうな不安をもって受取った。彼はリーザの変心を疑いはじめたのである。リーザはこれに侮辱を感じて、もう故意にあてつけにワーシンとの交際をつづけた。公爵は嫌味《いやみ》を言わなくなったが、そのかわり陰気に黙りこんでいるようになった。リーザが自分からその後(それもずいぶん後になってから)わたしに告白したところによると、あのころまもなくワーシンがきらいになったそうである。彼はひどくおちつきはらっていたが、はじめはあれほど気に入ったこの決して波だつことのない平静そのものが、そのうちになんともやりきれないものに思われてきたというのである。いかにも世事に詳しそうに見えたし、実際にちょっと見はよさそうに思える助言をいくつか彼女にあたえたが、それがいずれも、まるでわざと仕組んだように、実行不可能なものばかりであった。ときにはまるで数段上から見下ろすような態度で判断をくだし、彼女に対していささかも恥ずかしがるような気色がなく、――日を追うにつれて、ますます不遜《ふそん》になるので、――彼女はそれを彼女の立場に対する無意識の侮蔑《ぶべつ》がしだいに彼の心の中に増大するせいであろうと思った。あるとき彼女は、彼がいつもわたしに親切にしてくれて、わたしなどくらべものにならぬほどの高い知性をもっているのに、対等の者としてわたしと話し合ってくれてと(つまりわたしの言葉を彼に伝えてくれたのである)、彼にお礼を言った。すると彼はこう答えたそうである。
「それはそういうわけではありませんし、そういう理由からでもありません。それは要するに、ぼくは彼に他の人々とのいかなる相違も見ていないからなのです。ぼくは彼を利口な人々よりばかだとも思いませんし、善良な人々よりわるいとも思いません。ぼくはすべての人々に平等です、というのはぼくの目にはすべての人々が同じように映るからです」
「まあ、じゃちっとも相違が見えませんの?」
「そりゃ、もちろん、誰でもどこかちがうところはありますよ、でもぼくの目から見ると相違が存在しません、なぜなら、そういう相違がぼくには無関係だからです。ぼくにはすべてが同じようですし、すべてが平等です、だからぼくは誰にでも同じように親切なのですよ」
「それで退屈じゃございません?」
「いいえ、ぼくはいつも自分に満足していますよ」
「では、あなたはなにもお望みになりませんの?」
「どうして望みをもたずにいられます? でもそれほど大は望みませんね。ぼくはほとんどなにも要《い》りませんし、一ルーブリも余分には要りません。金ぴかの服を着ようと、今のこの服でいようと――同じことですよ、金ぴかの服がワーシンの価値を高めはしませんからね。ぼくは衣食に誘惑されません。ぼくの今の位置にまさるような、位置や名誉がありうるでしょうか?」
彼は一字一句ちがわずこのとおりに言ったのだと、リーザはわたしに誓った。とはいえ、これをこのまま判断すべきではない。こういう言葉が発しられたときの事情というものを知らなければならない。
リーザはしだいに、彼が公爵に寛容な態度をとっているのは、彼にとってはすべてが同じようで、『相違が存在しない』という理由からだけで、決して彼女に対する同情からではない、と思うようになっていった。しかもそのうちに、彼はどういうものか目に見えてその冷静さを失って、公爵に対して非難めいたことを言うばかりか、侮蔑的な皮肉をあびせるようになった。これはリーザを憤慨させたが、ワーシンはいっこうにやめようとしなかった。要するに、彼はいつも実にやわらかな言いまわしを用いて、語気するどく非難するようなことはしないで、ただ論理的に彼女の愛人の人間的な愚劣さを立証するだけだが、その論理のすすめ方の中に皮肉がふくめられていた。ついに、ほとんど真っ向から、彼女の愛の『盲目性』と、この愛の頑迷《がんめい》な暴虐性をあますところなく彼女のまえに論証した。『あなたは自分の感情の中で迷っています。迷誤は、ひとたび自覚されたら、必ず訂正されなければなりません』
これはちょうどその日のことであった。リーザは憤然として席を立って、出てゆこうとした。ところがこの理性的な男が、いったいなにをしたか、そしてどのような結末に終ったか? おどろくなかれ、実に上品な態度で、しかも思い入れよろしく、リーザに結婚を申込んだのである。リーザはちゅうちょなく彼の顔に『ばか』という言葉をたたきつけて、床を蹴って部屋を出た。
その不幸な男が彼女に『ふさわしくない』から、その男を裏切ることをすすめること、そして、要は、その不幸な男の子を宿した女に結婚を申込むこと――これがこうした連中の考えることなのだ! わたしはこれを空論と称し、はかり知れぬ自尊心から生れた、生活に対する完全な無知と名づける。かてて加えて、ひとつには彼女の妊娠をすでに知っていたという理由からだけでも、彼がその自分の申し出に誇りをさえ感じていたことを、リーザは明瞭すぎるほどに見ぬいたのである。リーザはくやし涙をうかべながら公爵のところへ急いだ。ところがその公爵が――今度はワーシンをしのぐほどの醜体をさらしたのである。リーザの話を聞いたら、もう嫉妬《しつと》する理由はなにもないようなものだが、それがやにわに気が狂ったようになった。しかし、嫉妬深い連中はみなこんなものである! 彼は嫉妬に狂って恐ろしい言葉を彼女にあびせ、侮辱のかぎりをつくしたので、彼女は今すぐ彼といっさいの関係を絶とうと決意したほどだった。
彼女は、それでも、まだ自分を抑えながら家までもどってきた、しかしどうにも抑えきれなくなって母に打明けた。そして、その夜母と娘はまたもとのようにすっかり心を許しあったのである。二人のあいだの氷がくだけた。そして二人は、むろん、例によって、抱きあったまま心ゆくまで泣いた。リーザは、ひどく沈んではいたが、どうやら気がおちついたらしく見えた。彼女はマカール・イワーノヴィチの部屋の集りに出て、一言も口はきかなかったが、それでもおしまいまで坐っていた。彼女はマカール・イワーノヴィチの言葉を真剣に聞いていた。例の椅子のできごと以来、彼女は依然として黙しがちではあったが、マカール・イワーノヴィチにひどくやさしくなり、妙におずおずと敬意をはらうようになった。
ところがその夜は、マカール・イワーノヴィチがどうしたわけか不意にびっくりするほど話の向きを変えた。ここでちょっとことわっておくが、ヴェルシーロフと医師がその朝ひどく深刻な顔で老人の容態について話し合っていたのである。それからもうひとつ、わたしたちの家ではここ数日、ちょうど五日後にせまった母の誕生日のお祝いの準備にかかりきっていて、しばしばそれが話に出ていた。マカール・イワーノヴィチはこの誕生日の話がきっかけで、どうしたわけか急に昔の思い出にふけりだして、母がまだ『よちよち歩き』の小さな子供だったころの話をはじめた。
「わしにくっついてはなれなかったものだよ」と老人は思い出を語りだした、「よく、あんよを教えてやったものだが、隅《すみ》っこに、三歩ほどはなして立たせて、おいでおいでと呼ぶんだよ、するとよちよち歩きながら、すこしもこわがらないで、にこにこ笑って、わしのまえまで来ると、とびついて、首っ玉に抱きついたものだ。それから、おまえさんにはずいぶんおとぎ話を聞かせてやったものだよ、ソーフィヤ・アンドレーエヴナ。ほんと、おまえさんはわしのおとぎ話を聞くのが大好きでなあ。二時間ぐらいずつもわしの膝《ひざ》の上にのって――話を聞いていたものだ。『よくまあマカールになついたものだ!』なんてみんなびっくりしていたっけ。またよく森へ連れていってな、えぞいちごの茂みを見つけて、そこへ坐らせておいて、わしは木を切って笛をこさえてやったものだ。たっぷり遊んで、帰りはもうわしの腕に抱かれてすやすや眠っている。そう、一度|狼《おおかみ》におびえて、わしにとびついて、がたがたふるえていたことがあったっけ、狼などいはしなかったのだが」
「それはわたしおぼえておりますわ」と母が言った。
「ほう、おぼえとるかね?」
「たくさんおぼえておりますわ。物心つくとすぐから、あなたの愛と親切をしみじみ感じてまいりましたわ」母はしんみりした声でこう言うと、不意にさっと顔を赤らめた。
マカール・イワーノヴィチはやや間をおいて、言った。
「ごめんよ、みなさん、いよいよわしの首途《かどで》だよ。どうやらわしの生涯の最後の日が来たようだ。老年になってからみなさんのおかげで悲しい思いをせずにすんだ。ありがとうよ、みなさん」
「およしなさい、マカール・イワーノヴィチ、なんて気の弱いことを」と、いくぶんうろたえ気味に、ヴェルシーロフが叫んだ、「医者がさっきわたしに言ったばかりですよ、あなたがずっとよくなったって……」
母はぎょっとして体中を耳にしていた。
「まあ、なにがわかるかな、あのアレクサンドル・セミョーノヴィチに」とマカール・イワーノヴィチはうすく笑った、「あれはやさしい人だが、それだけの者さ。もういいんだよ、かくさんでも、それともわしが死をこわがってるとでもお考えかな? 今日、朝のお祈りのあとで、わしは心に感じたのだよ、もうここからは出られまいとな。そういう声を聞いたのだよ。まあ、しかたがないさ、ありがたい神の御意《みこころ》だ。ただおまえさんたちみんなをもっともっと心ゆくまで眺《なが》めたいと思うだけだよ。受難者のヨブも、新しい子供たちを眺めて、心を慰めたが、しかしまえの子供たちを忘れたろうか、忘れることができたろうか――そんなことはできんことだよ! ただ年とともに悲しみが喜びとまじりあって、明るい溜息《ためいき》にかわってゆくような気がするだけだ。世の中はこんなものだ。どんな魂も苦しい目にあいもすれば、慰められもする。わしはな、おまえさん方に、一言だけ言いのこすことに決めたのだよ、ごく短い一言をな」と彼はしずかな美しい微笑をうかべながら言った。この微笑をわたしは永遠に忘れることができない。そして、彼は不意にわたしのほうを向いた、「アルカージイ、おまえは寺院に心を捧《ささ》げなさい、そして時がきたら――寺院のために死ぬがよい。おやおや、びくびくせんでいいよ、今すぐというわけじゃない」と老人はにやにや笑った。「今は、そんなことは考えもせんだろうが、そのうちに、思いあたるときが来よう。もうひとつだけ言っておくが、なにかよいことをしようと思ったら、神のためにすることだ、人によく見られようと思ってしてはいけない。自分の目的というものをしっかりともって、弱気をおこしてなげだしたりしてはいかん、突っ走ったり、うろちょろしたりしないで、一歩ずつすすむことだ。まあ、おまえが心がけにゃいかんのは、これくらいだな。それからお祈りだけは毎日欠かさずにあげるようくせをつけなさい。わしがこんなことを言っておくのは、そのうちおまえが思い出してくれることもあるだろうと思ってな。それから、アンドレイ・ペトローヴィチ、あんたにもなにか言っておこうと思ったが、でもまあわしが言わんでも、神があんたの心をお認めになるだろう。それにもうずいぶん長いことわしとあんたは口に出すのをやめてきたが、そう、これがわしの心に矢をぶちこんで以来な、でも今、この世を去るにあたって、ちょっと思い出してもらいたいのだが……あのとき約束したことをな……」
最後の言葉は、目を伏せて、ほとんどささやくように言った。
「マカール・イワーノヴィチ!」とヴェルシーロフはうろたえて、席を立った。
「まあ、まあ、おちつきなさい、大丈夫ですよ、わしはただちょっと思い出してもらおうと思っただけだから……実のところ、神に対して罪をおわにゃならんのは誰よりもこのわしだ。なぜなら、たとい主人になにを言われても、わしはやはりこれの弱さを許してはいけなかったからだよ。だから、ソーフィヤ、おまえは自分の心をあんまり苦しめるようなことをしてはいけないよ、おまえのあやまちはすっかり――わしのあやまちなんだからな、それにおまえには、あのときはまだ分別なんてものはほとんどなかったろうし、おそらく、あんたも、これといい取合せで、なにもわかっていなかったかもしれませんな」と彼はなにか苦しげに唇をふるわせながら、うすく笑った。「だから、ソーフィヤ、わしはあのとき笞《むち》でおまえの性根をたたきなおしてやることもできたはずだし、それにそうしなきゃならなかったんだよ、ところがおまえが泣きながらわしのまえに突っ伏して、なにもかもつつみかくさず打明けて……わしの足に接吻《せつぷん》などしたものだから、わしはおまえがかわいそうになってしまったのだよ。ソーフィヤ、わしはおまえを責めるためにこんなことを言ってるんじゃないよ、ただアンドレイ・ペトローヴィチに忘れてもらいたくないからだ……あんたは、まさか、貴族の身分にかけての約束だからお忘れではあるまいが、婚礼の冠の下になにもかもおおいかくされてしまうわけだ……子供たちのまえで言うのですぞ、あんた……」
老人は極度に興奮して、肯定の言葉を待ちうけるように、じっとヴェルシーロフを見つめた。くりかえして言うが、これはまったく思いがけないことだったので、わたしは茫然《ぼうぜん》として坐っていた。ヴェルシーロフも老人におとらぬほど興奮していた。彼は黙って母のそばへよると、母をかたく抱きしめた。つづいて母は、これも黙って、マカール・イワーノヴィチのそばへ行くと、その足に額をすりつけておじぎをした。
一口に言えば、実に感動的な場面であった。室内にはわたしたち家族だけで、タチヤナ・パーヴロヴナもいなかった。リーザは椅子の上にきっと姿勢を正して、黙って聞いていたが、不意に立ち上がると、しっかりした声でマカール・イワーノヴィチに言った。
「わたしのことも祝福してください、マカール・イワーノヴィチ、大きな苦しみに堪えられるように。明日わたしの運命が決るのです……ですから、どうか今日わたしのために祈ってください」
そして、そのまま部屋を出ていった。マカール・イワーノヴィチが母の口からもうリーザのことを聞いていたことは、わたしも知っていた。しかしわたしはこの晩はじめてヴェルシーロフと母がいっしょにいるのを見た。これまでわたしがヴェルシーロフのそばに見ていたのは、彼の女奴隷にすぎなかったのである。わたしは彼という人間についてまだ知らないことや、気がついていないことが、おそろしくたくさんあった。そのくせ早呑込《はやのみこ》みで彼を非難していたのである。そのためにわたしは恥ずかしい思いで部屋へもどった。もっとも、ことわっておかねばならないが、ちょうどそのころが彼に関するわたしのあらゆる疑惑がもっとも濃くなった時期にあたるのである。このころほど彼がふしぎな謎めいた人間にわたしの目に映ったことは、かつてなかった。しかもここに、わたしがこのものがたりを書く鍵《かぎ》があるのだが、いずれ時を追ってすっかり明らかにされることになろう。
『しかし』わたしはそのときもう寝床に入ってから、ふとこう思った、『これでわかったが、彼は母が寡婦になったら結婚するという貴族の約束をマカール・イワーノヴィチにあたえていたらしい。まえにマカール・イワーノヴィチの話をぼくにしてくれたときは、このことは言わなかった』
あくる日リーザは終日家にいなかった、そして夜かなりおそくなってからもどってくると、まっすぐにマカール・イワーノヴィチの部屋へ行った。わたしはじゃまをしないために、そちらへ行くまいと思っていたが、まもなく母もヴェルシーロフももうそちらにいることに気がついて、入っていった。リーザは老人のそばに坐って、その肩に顔を埋めて泣いていた。老人は、悲しそうな顔をして、黙って彼女の頭をなでていた。
ヴェルシーロフがわたしに説明してくれたところによると(それはもうあとでわたしの部屋へもどってからのことだが)、公爵はあくまでも自説をまげないで、未決中でも事情が許したらすぐにリーザと結婚することを決意した。リーザはもうどうしたって拒否することはできなかったが、それでもなかなか決心がつきかねていた。それにマカール・イワーノヴィチも結婚するように『命令』した。もちろん、これはすべて時がたてばひとりでに解決がつくことで、リーザもきっと、命令されたりためらったりするまでもなく、すすんで結婚にふみきったに相違ないのだが、そのときはちょうど愛していた男にひどい侮辱を受けた直後であり、自分の目にもこの愛によって卑しめられた自分のみじめな姿がまざまざと映っていたときなので、なんとしても決心がつきかねていたのだった。しかし、屈辱のほかに、わたしにはまったく疑ってみることすらできなかったある新しい事情もからんでいたのである。
「聞いたかね、あのペテルブルグ区の青年たちが、全員昨日逮捕されたのを?」とヴェルシーロフが不意につけくわえた。
「なんですって? デルガチョフですか?」とわたしは叫んだ。
「そうだよ。ワーシンも逮捕された」
特にワーシンと聞くと、わたしは唖然《あぜん》としてしまった。
「でもあの男がなにかに連座していたのだろうか? かわいそうに、あの連中はどうなるだろう? それも、わざとねらったみたいに、ちょうどリーザがワーシンをあんなに非難したときに!……どうでしょう、連中はどういうことになると思います? こりゃきっとステベリコフですよ! まちがいありません、ステベリコフの仕業《しわざ》です!」
「よそう」ヴェルシーロフは妙な目でわたしの顔をじっと見て、こう言った(それはちょうど頭のにぶい、察しのわるい人間を見るときの、あの目であった)。「あの連中になにがあったのか、誰が知ろう? そしてこれからどういうことになるのか、誰が知りえよう? わしはそんなことを言ってるのじゃない、それより、きみは明日外出したがってるそうだな。セルゲイ・ペトローヴィチ公爵を訪ねるんだろうな?」
「まっさきに行きます。正直のところ、実につらいことですが……で、なんです、なにかお言づてでも?」
「いや、なにもない。わしも会うよ。リーザがかわいそうでな。それにマカール・イワーノヴィチにしたってどんな助言があたえられよう? あの老人自身が人間の心理も、世の中のことも、なにもわかりゃしないのだ。それからもうひとつ、わしのアルカージイ(彼はもう長いことわたしを『わしのアルカージイ』と呼ばなかった)、やはり……若い連中で……その一人はおまえの昔の友だちで、ラムベルトというんだが……わしの見るところでは、あの連中も――ろくでもないやつららしいな……わしはただ、おまえに一言注意しておきたいと思ってな……でも、むろん、これはみなおまえの問題で、わしに口出しする権利がないことは、わかってるが……」
「アンドレイ・ペトローヴィチ」わたしはなにも考えずに、ほとんど霊感にうたれたように、彼の手をつかんだ。これはよくわたしをおそうことで、そのときは室内はほとんど真っ暗であった。「アンドレイ・ペトローヴィチ、ぼくは黙っていたのです、――あなたはそれを見ていたはずです、ぼくがいままでずっと黙っていたのは、なんのためかわかりますか? あなたの秘密にふれたくないためです。ぼくは決してそれを知るまいときっぱり決意しました。ぼくは――臆病者《おくびようもの》です、ぼくは、あなたの秘密がぼくの心からあなたを永久にえぐりとってしまうのが、こわいのです、ぼくはそれがいやなのです。そうとしたら、あなたもぼくの秘密を知らなくていいわけじゃありませんか? ぼくがどこへ行こうと、あなたにはどうでもよい、というふうにしましょうよ! そうじゃありませんか?」
「そのとおりだ、だがそれ以上なにも言わんでくれ、たのむから!」と言って、彼はわたしの部屋から出ていった。
こうして、わたしたちは思いがけずちらと腹を見せあった。しかし彼は明日の新しい人生への第一歩をまえにしたわたしの興奮にちょっぴり刺激を加えただけのことで、そのためにわたしはその夜は朝までたえず目ばかりさましていた。しかしわたしはいい気持だった。
あくる日わたしは家を出た。もう朝の十時になっていたが、それでもわたしは誰にも言葉をかけないで、できるだけそっと脱けだすようにつとめた、言ってみれば、しのび出たのである。なんのためにそんなふうにしたのか――自分でもわからないが、仮に母に見とがめられて、言葉をかけられたとしても、わたしはおそらくろくな返事をしなかったにちがいない。わたしは通りへ出て、街の冷たい空気を吸いこんだとき、強烈な感触に思わず身ぶるいした――ほとんど動物的な、本能的と名づけたいような感触であった。なんのためにわたしは歩いているのか、どこへ歩いているのか? これはまったく漠然としていたが、同時に本能的でもあった。そしてわたしには恐怖もあったし、喜びもあった――すべてが混然としていた。
『さて、おれは今日恥さらしなことをしでかすかな、どうかな?』わたしは武者ぶるいをしながらふとこう思った。とはいえ、一度ふみだされた今日の一歩がもはや生涯とりかえしのつかぬ決定的なものになることは、わたしにはわかりすぎるほどわかっていた。しかし、こんな謎めいた言い方はやめよう。
わたしはまっすぐに公爵の収容されている監獄へ行った。わたしはもう三日まえに監獄長にあてたタチヤナ・パーヴロヴナの紹介状をもらっていたので、丁重なあつかいを受けた。監獄長がいい人間かどうか、わたしは知らないし、またそんなことはどうでもよいことだが、とにかく彼はわたしに公爵との面会を許し、そのためにわざわざ自分の部屋を明け渡してくれた。あまり変りばえのしない部屋で――中級程度の官舎のごく普通の部屋であったが、――これもくだくだと描写するまでもあるまい。とまれ、こうしてわたしと公爵は二人きりになることができた。
公爵は軍服まがいの部屋着姿でわたしのまえに現われた。しかしシャツは真っ白くきれいで、しゃれた襟飾《えりかざ》りを結び、顔はきれいにみがきあげて、髪にはきっかりと櫛目《くしめ》がとおっていたが、おそろしいほどやせて、黄色っぽい顔色をしていた。この黄色っぽいにごりをわたしは彼の目にも認めた。要するに、そのあまりの変りように、わたしは信じられぬおももちで思わず立ちどまったほどだった。
「ひどく変りましたね!」とわたしは思わず大きな声を出した。
「そんなことはなんでもないさ! どうぞ、おかけください」彼はいささか気どった動作でわたしに肘掛椅子《ひじかけいす》を示すと、自分もそれに向きあう位置に腰を下ろした。「さっそく用談に移りましょう。実はね、わが親愛なアレクセイ・マカーロヴィチ……」
「アルカージイです」とわたしは訂正した。
「えっ? ああそうでしたね、でもまあ、どっちでもいいでしょう。あっ、そうか!」と彼は急に気がついたように言った、「どうも失礼しました、いやあ、では用談に移りましょう……」
要するに、彼はなにかに移ろうとしてひどく気がせいていた。彼は頭から足の先までなにやら重大な考えに浸されていて、それに形をあたえて、わたしに伝えようと焦慮していた。彼は熱心にもどかしそうに身ぶり手ぶりをまじえて説明しながら、ぺらぺらと早口にしゃべりだしたが、はじめのうちわたしは、彼がなにを言っているのかかいもくわからなかった。
「要するに(彼はこれまでにこの『要するに』という言葉を十ぺんも使っていた)、要するにですね」と彼は結んだ、「わたしが、アルカージイ・マカーロヴィチ、あなたにご足労ねがったのは、昨日リーザを通じてあれほど執拗《しつよう》にあなたを呼んだのはですね、たといこれが火事みたいなものであっても、決心の内容そのものが異常な決定的なものにちがいないので、そこでわたしたちが……」
「失礼ですが、公爵」とわたしはさえぎった、「あなたは昨日ぼくを呼んだのですか? リーザはちっともそんなことを言いませんでしたが……」
「なんですって?」と彼はいきなり叫ぶと、まるで狐《きつね》につままれたような顔をして、ほとんど恐怖をさえあらわして、そのまま化石したようになった。
「リーザはそのようなことはなにもぼくに言いませんでしたよ。もっとも、昨夜はすっかりとりみだしてもどってきたので、ぼくに口もきけなかったほどですが」
公爵はいきなり立ち上がった。
「それはほんとですか、アルカージイ・マカーロヴィチ? それならこれは……これは……」
「でも、いったいそれがどうしたというんです? なにをそんなに心配してるんです? リーザがただ忘れたかなにか……」
彼は腰を下ろした、が、なんとなく気がぬけたようになってしまった。どうやら、リーザがわたしになにも伝えなかったということが、強いショックだったらしい。しかし彼はまたじきに忙しく手を動かしながら、さかんにしゃべりだしたが、またしてもなにを言っているのかほとんど意味がつかめなかった。
「待ってください!」と彼は不意に言うと、口をつぐんで、指を一本突き立てた、「待ってください、これは……これは……もしわたしの目にくるいがないとすれば……これが――曲者《くせもの》ですよ!……」と彼は偏執狂のぶきみな薄笑いをうかべて言った、「つまり、この意味は……」
「そんなものはなんの意味もありませんよ!」とわたしはさえぎった。「ただぼくにわからないのは、なぜこんなつまらないことがあなたをそれほど苦しめるのかということですよ……そうか、公爵、あのときからじゃないのですか、ほらあの晩ですよ――おぼえていますか……」
「あの晩、それはなんのことです?」と、わたしにさえぎられたことに露骨にいやな顔をしながら、彼はむら気そうに叫んだ。
「ゼルシチコフのところですよ、わたしたちが最後に会った、ほら、あなたの手紙をもらうまえですよ、おぼえてますか? あなたはあのときもおそろしく興奮していましたが、あのときと今とでは――たいへんなちがいで、あなたを見てると恐ろしくなるほどですよ……それとも、もうおぼえていませんか?」
「ああ、そうでしたな」と彼は急に思い出したように、社交界の人間らしい声で言った、「そうそう! あの晩……聞きましたよ……して、お体はいかがです、アルカージイ・マカーロヴィチ、あんなことがあって、もうすっかりおよろしいのですか?……ま、それはともかく、要件に移りましょう。わたしは、実を言いますと、特に三つの目的を追求しているのですよ。わたしのまえには三つの課題があります、それでわたしは……」
彼はまた自分の『主要な』問題について早口にしゃべりだした。わたしは、ついに、この目のまえにいる男が、放血をしないまでも、今すぐに少なくとも酢《す》を浸した手ぬぐいを頭にのせるくらいはしてやらねばならぬ狂人であることをさとった。彼のとりとめのない話は、もちろん、裁判の経過と予測される結果のまわりをどうどうめぐりしていた。連隊長が自分で訪ねてきて、なにやら長々と忠告をあたえたが、そんなことには耳もかさなかったとか、ついさっきどこかへ報告書を送ったとか、検事がどう言ったとか、おそらく権利を剥奪《はくだつ》されて、ロシア北部のどこかへ追放になるだろうとか、タシケントあたりへ移住させられて、刑期を勤めあげさせられるかもしれないとか、アルハンゲリスクか、ホルモゴールイあたりの片田舎で、自分の息子(リーザから生れるはずの子供のことである)にこれこれを教えこみ、これこれを伝えるのだとか、そういったとりとめもない話であった。
「わたしがあなたの意見を求めたのは、アルカージイ・マカーロヴィチ、ほかでもありません、あなたの気持をひじょうに尊重しているからですよ……ああ、あなたが知ってくれたら、あなたが知ってくれたら、アルカージイ・マカーロヴィチ、わたしにとってリーザがなにを意味するか、今、この獄中に、こうしていたあいだに、わたしにとってリーザがなにを意味したか!」と、両手で頭を抱《かか》えながら、彼は不意に声をうわずらせた。
「セルゲイ・ペトローヴィチ、いったいあなたはリーザをだめにしてしまうつもりなのですか、あれを道連れにしようというのですか? ホルモゴールイなどというところへ!」という叫びが思わずわたしの口をついて出た。
この偏執狂と生涯を共にしなければならぬリーザの運命が――不意にありありと、まるではじめて見るように、わたしの意識の目に映った。彼はわたしをじろりと見ると、また立ち上がって、一歩踏み出したが、くるりと向き直って、また腰を下ろした。そのあいだずっと両手で頭をおさえたままであった。
「わたしはたえずくもの夢ばかり見るんですよ!」と彼は唐突に言った。
「あなたはおそろしく気がたかぶっています。ぼくは、公爵、あなたがお休みになって、すぐに医者をよばれたらいいと思いますね」
「いいえ、それはあとにしましょう。わたしが、特にあなたに来ていただいたのは、結婚のことを話しておきたかったからです。式は、実は、ここの教会であげるつもりで、そのことはもう話しました。このことはもう承諾をえてありますし、みな喜んでくれているほどです……リーザの気持ですが、彼女も……」
「公爵、リーザを哀れんでください、お願いです」とわたしは叫んだ、「せめてここしばらくだけでもあれを苦しめないでください、嫉妬《しつと》であれをいじめないでください!」
「なんですと!」と彼はほとんどとびだしそうな目をわたしに見はりながら、叫んだ。その顔を異様な、だらだらとしまりのない、けげんそうな薄笑いがゆがめた。明らかに、『嫉妬』という言葉がなぜか恐ろしい衝撃を彼の心にあたえたらしい。
「お許しください、公爵、つい心にもなく。実は、公爵、このごろぼくはある老人を知ったのですが、ぼくの名義上の父親です……ほんと、もしあなたも彼に会ったら、もっと心の安らぎをえられるでしょうに……リーザもひじょうに尊敬しています」
「あっ、そう、リーザが……そうそう、あれは――あなたのお父さんですか? それとも……pardon, mon cher(ごめんなさい、あなた)、なにかそんなような……思い出しました……リーザがおしえてくれましたっけ……おじいさんがどうとか……そうです、まちがいありません。わたしもある老人を知ってます……Mais passons(だが、よしましょう)、そんなことより、問題の要点を明らかにするためには、まず……」
わたしは帰ろうとして、立ち上がった。わたしは彼を見ているのが堪えられなくなったのである。
「それはどういうことです?」わたしが帰りかけたのを見て、彼はきびしく重々しく言った。
「ぼくはあなたを見ているのが苦痛なのです」とわたしは言った。
「アルカージイ・マカーロヴィチ、一言、もう一言だけです!」彼は急にがらりと態度を変えてわたしの肩に手をかけると、わたしを椅子におしもどした。「あなたはあの連中のことを聞きましたか、わかりますか?」と彼はわたしの上からのしかかるように顔をのぞきこんだ。
「ああ、デルガチョフのことですか、あれはきっとステベリコフの仕業《しわざ》ですよ!」とわたしは自分を抑えきれないで、思わず叫んだ。
「そう、ステベリコフと……あなたは知らんのですか?」
彼はぷつりと言葉を切った、そしてまたさっきのとびだしそうな目をひたとわたしにすえた。するとまたしても、さっきの異様な、だらだらとしまりのない、ひくひくふるえる、けげんそうな薄笑いが、しだいに顔じゅうにひろがりはじめた。顔がしだいに蒼《あお》ざめていった。わたしはなにかにいきなり心をどやされたような気がした。わたしは昨日ワーシンの逮捕を伝えたときのヴェルシーロフのあの目を思い出した。
「あっ、まさか?」とわたしはぎょっとして叫んだ。
「だから、アルカージイ・マカーロヴィチ、わたしはあなたに来てもらったのですよ、事情を説明するために……わたしは……」と彼は早口にささやきだした。
「あれはあなたですね、ワーシンを密告したのは!」とわたしは叫んだ。
「いや、ちがいます。おわかりでしょう、あそこに原稿があったのを。ワーシンがいよいよという日にあれをリーザに託して……保管をたのんだのです。リーザはわたしに読んでみてくれといってここにおいてゆきました、ところがそのあとで、つまり翌日ですね、二人のあいだに口論がおこったのです……」
「あなたはその原稿を当局に渡したのですね!」
「アルカージイ・マカーロヴィチ、アルカージイ・マカーロヴィチ!」
「それで、あなたは」わたしはいきなり立ち上がると、一言々々はっきりと区切りながら、たたきつけるように言った、「あなたは、他になんの動機もなく、他になんの目的もなく、ただ不幸なワーシン――あなたの恋敵を消すために、ただただ嫉妬のために、あなたはリーザに託された原稿を渡したのだ……誰に渡したのです? 誰に? 検事にですか?」
しかし彼は答える暇がなかった。それになにか答えらしいものを言えるわけもなかった。あいかわらずあの病的な薄笑いをうかべ、動かぬ目をわたしにすえたまま、木偶《でく》のように突っ立っていたのだ。そこへ不意にドアがあいて、リーザが入ってきた。わたしたちがいっしょにいるのを見ると、リーザはほとんど気を失いかけた。
「ここにいたの? ここに来てたのね?」リーザは急に顔をゆがめると、わたしの手をつかんで、こう叫んだ、「じゃ……知ってるのね?」
しかしリーザはもうわたしの顔から、わたしが『知ってる』ことを読みとっていた。わたしはこらえきれなくなって、思わずリーザを抱きしめた、強く、強く! そしてわたしは、この瞬間にはじめて、どのような出口のない、果てしのない、そして夜明けのない永遠の悲哀が、この……進んで苦難を求めようとする女の運命の上に垂れこめているかを、まざまざと見たのである!
「でも、この人が今話ができる状態かしら?」と、彼女は不意にわたしの腕を振りきった。「この人といっしょにいることができて? どうして兄さんはここにいるの? この人を見てください、見てください! この人を、この人を非難できて?」
彼女がこう叫びながら、この不幸な男を指さしたとき、その顔には限りない苦悩と同情があった。彼は椅子にかけて、両手で顔をおおっていた。たしかにリーザの言うとおりであった。それは熱病に頭をおかされた、責任感などはみじんもない生ける屍《しかばね》のような人間であった。そして、おそらく、三日ほどまえからこのような状態がつづいていたのであろう。その朝彼は病院に移され、夕方にはもう脳炎をおこしたのである。
リーザをのこして、公爵のところを出ると、わたしは、午後一時ごろ、まえのわたしの下宿に立ちよった。言い忘れたが、その日はしめっぽく、どんよりと曇って、生あたたかい風が吹いて、雪どけがはじまりかけていて、象でさえ神経の変調をきたすような日であった。主人はわたしを見ると大喜びで、せかせかとこまめに動きまわった。こういうことがわたしは、特にこのようなときは、大きらいなのである。わたしはそっけなくあしらって、まっすぐに自分の部屋へ行った。ところが主人はわたしのあとについてきて、さすがにうるさく訊《き》くことはしなかったが、好奇の色がその目に露骨にあふれていて、しかも好奇心をいだく当然の権利があると言わんばかりに、じろじろわたしを見つめた。わたしは自分の利益のためにいんぎんな態度をとらなければならなかった。そしてなにやかやと聞きだすことが必要なことを痛感していたくせに(そして必ず聞きだせるものと承知していたのだが)、やはりこちらから問いかけるのが業腹《ごうはら》だった。わたしは彼の妻の容態を訊《たず》ねて、いっしょにそちらの部屋へ行った。彼の妻はていねいにわたしを迎えはしたが、きわめて事務的な態度で、あまりものを言わなかった。これがわたしの心をいくぶん和《なご》めてくれた。約言すれば、わたしはそこで実にふしぎなことを聞きだしたのである。
さて、もちろん、ラムベルトは来た、しかも彼はその後もう二度来て、もしかしたら借りるかもしれないと言って、『どの部屋も丹念に』見まわした。ダーリヤ・オニーシモヴナも何度か来たが、これはなにしに来たのかさっぱりわからない。『やはりひどく関心をおもちのようでした』と主人はつけくわえた。しかしわたしは主人の心を慰めてやらなかった、つまり彼女がなにに関心をもったのか、訊ねようとしなかったのである。総じて、わたしのほうからしつこく訊かないで、彼がしゃべるだけで、わたしはトランクの中をひっかきまわしてなにかさがすようなふりをしていた(しかしそんなところにはなにも残っていなかったのである)。しかしなによりも腹がたったのは、彼も秘密をもてあそぼうという気をおこして、わたしが聞きだしたい気持を抑えているのを見てとると、自分も断片的に、ほとんど謎をかけるような言い方をしなければならぬと考えたことである。
「お嬢さんも見えられました」と彼は妙な目でわたしを見ながら、つけくわえた。
「お嬢さん、どこの?」
「アンナ・アンドレーエヴナですよ。二度見えました。家内と仲よしになりましてな。いや実にかわいらしいお方ですなあ、ほんとに気持のよい。ああいうお方との交際は、まったくあまりある光栄というものですよ、アルカージイ・マカーロヴィチ……」こう言うと、彼はぐいとわたしのほうへ一歩のりだして見せまでした。わたしになにかさとらせたくて、うずうずしているようすだった。
「ほう、二度もですか?」とわたしはびっくりした。
「二度目は、お兄さまとごいっしょでした」
『ラムベルトだな』という考えが反射的に頭にうかんだ。
「ちがいますよ、ラムベルトさんじゃありません」まるでその目を光らせてわたしの心の中へとびこんだように、彼はすぐにわたしの考えを見ぬいた、「ほんとのお兄さまですよ、若いヴェルシーロフさんです。侍従補でしたな、たしか?」
わたしはひどく狼狽《ろうばい》した。彼は気味わるいほどの愛想笑いをうかべながら、じっとわたしを見つめた。
「あっ、それからもう一人見えましたよ、あなたを訪ねて――マドモアゼルですよ、フランス人で、そうアルフォンシーヌ・ド・ヴェルデンといいましたか。ええ、実に歌がお上手で、詩の朗読も実にみごとでしたよ! そう、ニコライ・イワーノヴィチ公爵のところへうかがう途中だとか言ってましたが、ツァールスコエへね、犬を売りに行くとか、掌《てのひら》にのっかるような、珍しい、黒い犬だとか……」
わたしは頭痛がするから一人にしておいてくれと彼にたのんだ。彼はまだ言葉なかばなのに、とっさにわたしの要求にしたがった、そしていささかも気をわるくしないばかりか、ほとんど満足そうに、『わかりますよ、わかりますよ』とでも言いたげに、意味ありげに片手を握った、そしてそれを口に出しては言わなかったが、そのかわり爪先立《つまさきだ》ちで部屋から出てゆくことで、それと同じ満足をおぼえた。世の中にはなんとも嫌味なやつがいるものである。
わたしは一人つくねんと坐って、一時間半ばかりあれこれ思いめぐらしていた。といって、思いめぐらしていたというのでもない、ただもの思いに沈んでいたのである。わたしはうろたえはしたが、しかしすこしもおどろきはしなかった。わたしはむしろもっとなにかを、もっと大きなふしぎを期待していた。
『もしかしたら、彼らはもう今ごろはなにか途方もないことをしでかしているかもしれない』とわたしはふと思った。わたしはまだ病床にいたころから、彼らの車はもうエンジンがかかって、全速力で突っ走っていることを、かたく信じこんでいた。『彼らにはわたしが足りないだけなのだ、そうなのだ』わたしはまたもどかしい、しかし快い自己満足のようなものをおぼえながら、こう思った。彼らが必死の思いでわたしを待っていること、そしてわたしの部屋でなにかをたくらんでいること――これは火を見るよりも明らかであった。『さては、老公爵の結婚ではあるまいか? 老公爵は勢子《せこ》の輪のなかにはまりこんでいるのだ。ただおれがそんなことをさせるかどうか、ええ、諸君、これが見ものさ!』わたしはまた不遜な満足をおぼえながらこう結論した。
『一歩足を踏みこんだら、たちまちまた木端《こつぱ》のように渦巻の中に巻きこまれてしまうだろう。わたしは今、まだ、自由なのか、それとももう自由を失ってしまったのか? わたしはまだ、今夜母の家へもどって、この病床にあった日々のように、おれは自分の自分なのだと、自分に言明することができるだろうか?』
これが、そのとき隅の寝台の上に坐って、膝に肘杖《ひじつえ》をついて、掌で頬《ほお》をはさみつけて考えこんでいた一時間半のあいだの、わたしのもろもろの疑問の、というよりは心のときめきのエッセンスであった。しかしわたしは知っていたのだ、そのときもすでに知っていたのだ、こうしたもろもろの疑問が――まったくのナンセンスであることを、そしてわたしを誘いこむのが彼女だけであることを、――彼女だ、彼女一人だけなのだ! わたしはついにこれをずばりと言った、そしてペンをとって紙に書きつけた、というのは、今、あれから一年たって、この手記を書いているときでさえ、あのときのわたしの感情をどういう名で呼んだらいいのか、まだわからないからである!
おお、わたしはリーザが哀れでならなかった、そしてわたしの心にはすこしの雑物もまじらぬ純粋な苦痛があった! リーザに涙するこの苦痛の感情だけでも、ほんの一時的にせよ、わたしの内部にひそむ残虐な本能(またこの言葉をもちだすが)をやわらげるか、あるいは消し去ることができたはずである。ところがわたしは底知れぬ好奇心と、ある恐怖と、それからある感情にひきずられていった。この感情がどういうものかは、知らない、しかしそれがよくないものであることは、知っているし、そのときもすでに知っていた。もしかしたら、わたしは彼女の足もとにひれ伏したいと渇望していたのかもしれない、あるいは逆に、彼女を苦しみの底へ突きおとし、『できるだけ早く』なにかを彼女に思い知らそうと焦慮していたのかもしれない。リーザに対するどのような苦痛も、どのような同情も、もはやわたしをひきとめることができなかった。はたして、わたしはそのとき立ち上がって、家へ……マカール・イワーノヴィチのところへもどることができたろうか?
『なに、ちょっと行って、彼らの口からいっさいの事実を聞きだすだけだ、そのうえでふしぎなことや奇怪なことにはいっさいふれないで、彼らのまえから永久に姿を消してしまうまでだ、まさか、それくらいのことができないわけがあるまい?』
三時を聞いてはっとして、ほとんどおくれそうなのに気がつくと、わたしは急いで外へとびだし、辻馬車《つじばしや》をつかまえて、アンナ・アンドレーエヴナの家へ急いだ。
[#改ページ]
第五章
アンナ・アンドレーエヴナは、わたしの来訪を告げられると、とたんに刺繍《ししゆう》を放りだして、そそくさとわたしを迎えにとっつきの部屋へ出てきた――こんなことはかつてないことであった。彼女は両手をわたしのほうへさしのべたが、すぐに顔を赤らめた。そして、黙ってわたしを自分の部屋へとおすと、また刺繍をひろげたテーブルのまえに腰を下ろして、わたしをそばの椅子にかけさせた。だが、もう刺繍をとり上げようとはしないで、なにも言わずに、やはりはげしい関心をうかべた熱っぽい目でしげしげとわたしの顔を見まもりつづけた。
「あなたはダーリヤ・オニーシモヴナを見舞いによこしてくださいましたね」わたしは彼女のあまりに熱っぽすぎる関心に、わるい気はしなかったが、いささか気づまりをおぼえて、いきなりこうきりだした。
彼女はそれに答えないで、不意にしゃべりだした。
「わたしすっかり聞きましたわ、わたしすっかり知ってますのよ。あの恐ろしい夜のこと……おお、あなたはどれほどお苦しみになったことでしょう! ほんとですの、ほんとですの、あなたが気を失って、きびしい寒さの中にたおれているところを見つけだされたって?」
「それをあなたに……ラムベルトが……」とわたしは赤くなりながら口ごもった。
「わたしはあの人からそのときすぐに聞かされましたわ。でもわたし、あなたを待ってましたのよ。おお、あの人はびっくりしてわたしのところへとんできましたのよ! あなたのお家で……あなたが病気で寝ていたあちらのお家では、あの人を病室へとおそうとしなかったんですって……それでここへ来たんですけど、なんだか妙なぐあいでしたわ……わたし、ほんと、そんなばかなことって、信じられない思いでしたけど、でもあの人はその夜のことをすっかりわたしに話してくださいましたのよ。あの人の言うのには、あなたが、まだ意識がはっきりもどらないうちに、もうわたしのことを……あなたがわたしに信服しきっていることを、口走ったとか。わたし胸がつまって泣いてしまいましたのよ、アルカージイ・マカーロヴィチ、わたし、どうしてあなたからこれほど熱烈な信服をよせられたのか、自分でもわからないくらいでしたわ、しかもあなたがおかれたそのような恐ろしい状態の中で、まっさきにわたしを思い出してくださるなんて! ねえ、ラムベルトさんて――あなたの小さいころのお友だちですの?」
「そうです、でもあのときは……正直に言いますと、注意力を失っていましたから、もしかしたら、あの男に要《い》らないことをべらべらしゃべったかもしれません」
「おお、あの忌まわしい、恐ろしい陰謀のことなら、あの人に聞くまでもなく、わたし気がついたと思うわ! わたしいつも、いつも予感してましたのよ、あの人たちがあなたをそこまで追いこむだろうって。ねえ、ほんとですの、ビオリングがあなたに手を振上げたって?」
彼女は、まるでわたしがビオリングと彼女のためだけで塀《へい》の下にたおれていたような言い方をした。しかしたしかにそのとおりだ、わたしはそんな気がした、それでもやはりわたしはかっと血がのぼった。
「もし彼がぼくに手を振上げたのなら、そのまま無事に帰れたわけがありませんし、ぼくが復讐《ふくしゆう》もせずにこうしてあなたのまえに坐っているはずがありません」とわたしは熱っぽく答えた。特にわたしにぴんときたのは、彼女がなんのためかわたしをいらいらさせて、誰かにけしかけようとしているらしいことであった(もちろん、誰に対してかは――わかりきっている)。それでもやはりわたしはそのそそのかしにのってしまった。
「あなたは、ぼくがここまで追いこまれるのを予見していた、と言われますが、カテリーナ・ニコラーエヴナのほうにすれば、もちろん、単に疑惑をもっただけなのです……もっとも、彼女があまりにも性急にぼくに対する好意をこの疑惑に変えたことは、たしかですが……」
「それなのですよ、だってあまりにも早すぎますもの!」とアンナ・アンドレーエヴナは同情に堪えないというようなようすさえ見せて、相槌《あいづち》をうった。「おお、今あそこでどんな陰謀がおこなわれているか、あなたがお知りになったら! もちろん、アルカージイ・マカーロヴィチ、今のわたしの立場がどんな微妙なものかは、あなたにはとてもおわかりにならないわ」と彼女は頬《ほお》を染め、目を伏せて、言った。「あのときから、わたしたちが最後にお会いしたあの朝から、わたし思いきって一歩ふみだしましたのよ。それはあなたのようなまだ毒に染まらない知性と、あなたのような愛を知る、そこなわれない、みずみずしい心をもっている人でなければ、正しく純粋には理解できないようなことなの。信じてね、わたしの親しいアルカージイ、わたしはあなたのよせてくだすっている信服をひじょうに尊いものに感じて、永遠の感謝でお報いしなければと思っておりますのよ。世間では、むろん、わたしに石を振上げる者もいるでしょうし、もう振上げた者もいますわ。でも、あの人たちのくさった目から見れば、たといそれが当然だとさえしても、いったい誰が、あの人たちの誰が、だからといって、わたしを非難することができるでしょう? わたしは小さい子供のころから父に捨てられました。わたしたち、ヴェルシーロフ家は――古くからのロシアの名門です、そのわたしたちが――まるで根無し草みたいにされて、他人のお情けにすがって生きているありさまです。小さいときから父親代りになってくださって、こんなに長いあいだその愛情を身にしみて感じてきたお方に、わたしが頼ろうとしたのが自然ではなかったのかしら? あの方に対するわたしの気持は、神さまだけがごらんになり、裁《さば》いてくださいます。わたしがとった行動で、世間の人たちの裁きをわたしは許しません! しかも、そのうえ、実に狡猾《こうかつ》な、隠微をきわめた陰謀がたくらまれ、信頼しきっている、心のひろやかな父を、実の娘が破滅させようと仕組んでいるなんて、いったいそんなことが黙って見ていられるでしょうか? いいえ、わたしの名誉なんかどうなろうと、必ずあの方を救います! わたしはただの乳母《うば》としてでもあの方のおそばに暮す覚悟です、あの方の番人にでも、付添婦にでもなるつもりです、なんとしても、冷酷な醜悪な世間の打算になど、ぜったいに勝たせてなるものですか!」
彼女は異常な熱意をみなぎらせて語った。おそらく、半分ほどは装ったものではあったろうが、それでもやはり心の底からの叫びと聞えた。というのは、彼女がこの問題に全身をうちこんでいるのが、はっきりと見てとれたからである。おお、わたしは、彼女がうそをついていることを(たとい心の声であろうと、なぜなら心からでもうそをつくことができるからだ)、そして彼女が今よくない女であることを、感じていた。しかし女というものはふしぎなものである。この上品な態度、この洗練された容姿、この《りん》とした上流婦人の気品と誇り高い清らかさ――こうしたものが完全にわたしの出鼻をくじいてしまった、そしてわたしはなんでも彼女の言うことに同意しはじめた、といってもここにいるあいだだけのことだが。少なくとも――彼女の言葉に反対をする気にはなれなかった。おお、男というものは精神的に完全な女の奴隷である、しかも心が寛大であればなおさら然《しか》りである! このような女は寛大な男にどんなことでも信じこませることができる。
『この女とラムベルト――あきれた取りあわせだ!』とわたしは狐につままれたような思いで彼女を見つめた。しかし、ありていを言えば、わたしはいまでもなお彼女の真意がわからないのである。たしかに、彼女の気持を見通すことができたのは神だけであろう。人間というものは、だいたいが実に複雑な機械みたいなもので、ときによってはなにがどうなっているのかわけのわからないものだが、そこへもってきて、それが――女なら、もうどうにもならない。
「アンナ・アンドレーエヴナ、いったいあなたはぼくに何を期待しているのです?」とわたしは、しかし、かなり思いきった態度で言った。
「なんとおっしゃいます? それはどういう意味ですの、アルカージイ・マカーロヴィチ?」
「つまりぼくは漠然と……それにいくつかのことを思いあわせて……」とわたしはしどろもどろに説明した、「あなたがぼくのところに見舞いの者をおよこしになったのは、なにかをぼくに期待しておられるように、ぼくには受取られたものですから。それで、いったいどういうことなのでしょう?」
彼女はそれには答えないで、また急に早口に、熱をこめてしゃべりだした。
「でもわたしはできませんわ、わたしには誇りがありすぎますもの、ラムベルトさんのような見知らぬ方と、心を打明けあって協定を結ぶなんて、そんな! わたしが待っていたのはあなたですのよ、ラムベルトさんじゃありませんわ。わたしの立場は――ぎりぎりのところまできていますのよ、それは恐ろしいものなのよ、アルカージイ・マカーロヴィチ! わたしはあの女の奸策《かんさく》にとりかこまれて、その中をなんとか泳ぎまわらなければなりませんのよ、――こんなことわたしには堪えられないことですわ。わたしは自分までが策を弄《ろう》さなければならないようなあさましい状態におちてしまって、救済者としてあなたが現われてくださるのを待っておりましたのよ。わたしがせめて一人でも味方をさがしたいと思って、必死の思いで自分のまわりを見まわしているからといって、そんなわたしを責めることができて? だからわたし、あなたが来てくださったのを喜ばずにはいられなかったのよ。だって、そんな恐ろしい夜、ほとんど凍死しかけながら、わたしのことを思い出して、わたしの名を呼びつづけるなんて、そんなことができる人は、わたしの心の友に決ってますもの。あれからずっとわたしそう思いつづけていましたのよ、だからあなたに望みをかけていたのですわ」
彼女はもどかしげな問いかけの目でわたしをじっと見つめた。するとわたしはまたしても気おくれがして、彼女の迷いをとき、ラムベルトが彼女を欺《だま》したことを、それほど特に彼女に信服しきっているとはあのとき彼に決して言わなかったことを、そして『彼女の名だけを』思い出したのではなかったことを、率直に彼女に言うことができなかった。こうして、わたしは沈黙によってラムベルトのうそを肯定した形になった。おお、わたしは確信しているが、彼女は自分でも、ラムベルトが彼女を訪問して交際を結ぶ格好な口実にするために、誇張して、しかも体裁のいい作り話をしたくらいのことは、見ぬいていたはずであるし、そしてわたしの言葉とわたしの信服の真実であることを信じていても、わたしの目を見たら、もちろん、わたしが、言ってみれば微妙な心づかいと、それにごまかしを知らぬ若さのために、そうでないとは言えないくらいのことは、見てとっていたはずである。しかし、わたしのこの推察が正しいかどうか――わたしにはわからない。あるいは、わたしの心があまりにも汚れすぎていたのかもしれない。
「兄がわたしの味方をしてくれますのよ」わたしが答えしぶっているのを見てとると、彼女は不意に熱をこめてこう言った。
「そのお兄さんといっしょにぼくの下宿をお訪《たず》ねになったそうですね」とわたしはどぎまぎしながらつぶやいた。
「ええ、だってお気の毒なニコライ・イワーノヴィチ公爵には今こうした陰謀から、というよりは自分の娘からと言ったほうがいいかもしれませんが、ほとんどどこへも逃げ場所がないのですもの、あなたのところより、あなたなら味方ですもの。たしかに公爵にはあなたを少なくとも味方とお考えになる権利がございますものね!……ですから、あなたがもし公爵のためになにかしてあげる気がありましたら、どうかあの部屋にかくまってあげてくださいね――できたらでいいんですけど、もしあなたに寛大な心と勇気がおありでしたら……そして、最後に、もしあなたがほんとうになにかすることがおできになるのでしたら。おお、それはわたしのためじゃないのよ、わたしのためじゃないわ、お気の毒な老人のためよ、たった一人心からあなたを愛した、あなたを自分の息子のように心にかけて、いまでもあなたを恋しがっている老人のためですわ! わたし自分になどなにも望んでいませんわ、たといあなたからだって。生みの父親でさえわたしに対してほんとに狡猾《こうかつ》なよこしまな奸計をたくらんだくらいですもの!」
「しかし、アンドレイ・ペトローヴィチが……」とわたしは言いかけた。
「アンドレイ・ペトローヴィチは」と彼女は苦々しく笑いながら、わたしの言葉をさえぎった、「アンドレイ・ペトローヴィチはあのときわたしの率直な質問に答えて、きっぱりと、カテリーナ・ニコラーエヴナにこれっぽっちの野心ももったことは決してなかった、と言いきりましたわ。わたしはそれを信じたからこそ、今度の決意をしましたのよ。ところがどうでしょう、あの人が平静でいたのは、ビオリングさんとかの噂《うわさ》を聞くまででしたわ」
「それはちがいます!」とわたしは叫んだ、「ぼくもあの女《ひと》に対する彼の愛を信じたことがありました、でもそれはちがいます……そういうことがあったにしても、でも今は、彼は完全に平静なはずです……あの男が退けられましたもの」
「あの男って?」
「ビオリングですよ」
「誰があなたにそんなことを言いました? もしかしたら、あの男がはじめて咲かせた花だったかもしれませんわ」と彼女は毒々しく笑った。彼女はわたしにまであざけりの目を向けたかと思われたほどだった。
「ダーリヤ・オニーシモヴナが言ったんですよ」とわたしはうろたえて言った。わたしは狼狽《ろうばい》をかくすことができなかったし、彼女がそれに気づかないわけがなかった。
「ダーリヤ・オニーシモヴナは――ひじょうに心のやさしい女ですわ、それに、むろん、もうわたしもあの女に、わたしを愛してはいけないとは言えないわ、でもあの女は自分に関係のないことは、立場からいっても、まったく知る方法がありませんわ」
わたしの心はうずきだした。そして、わたしの怒りをたきつけようという彼女の計算どおり、たしかに怒りがわたしの中に燃えたぎった、しかしそれはあの婦人へのそれではなく、さしあたって当のアンナ・アンドレーエヴナに対する怒りのみであった。わたしは立ち上がった。
「ぼくは正直な人間として、あなたにまえもっておことわりしておかなければなりませんが、アンナ・アンドレーエヴナ、あなたの期待は……ぼくに関しては……まったくむなしいものとなるかもしれません……」
「わたしはあなたがわたしの味方をしてくださるものと期待しますわ」と彼女は目に力をこめてわたしを見つめた。「すべての人々に見放されたわたしの……そう言ってほしいのなら、あなたの姉の……アルカージイ・マカーロヴィチ!」
もう一瞬したら、彼女は泣きだしたにちがいない。
「まあ、期待しないほうがよろしいでしょうね、だって、『おそらく』なにごとも起らないでしょうから」わたしは言いようのないせつない思いに胸をふさがれてつぶやいた。
「それはどうとったらいいのかしら?」彼女はどうしたのか急にひどく不安そうな態度になって、こう言った。
「こういうことですよ、ぼくはあなた方すべての人々のまえから姿を消します、それで――おしまいです!」とわたしは不意に狂おしいほどの憤りに突き上げられて叫んだ、「そして、文書は――破り捨てます。さようなら、永久に!」
わたしは彼女に会釈をして、黙って部屋を出た。そのくせほとんど彼女の顔に目を上げる勇気がなかった。しかし、まだ階段を下りきらぬうちに、ダーリヤ・オニーシモヴナが半切れの便箋《びんせん》を二つに折ったのを手にして追ってきた。ダーリヤ・オニーシモヴナがどこから現われたのか、そしてわたしがアンナ・アンドレーエヴナと話していたあいだどこにいたのか――見当もつかなかった。彼女は一言も口をきかないで、ただ紙きれを渡すと、かけもどっていった。紙きれをひらくと、きれいな字で明確にラムベルトのアドレスがしたためてあった。明らかに、もう何日かまえから用意されていたものであった。わたしは不意に、ダーリヤ・オニーシモヴナがわたしの病室を訪れたとき、ラムベルトの住居がわからないと何気なくもらしたことを思い出した。しかしあのときは、『知らないし、知りたくもない』という意味で言っただけであった。でも、わたしは今はすでにラムベルトのアドレスを知っていた。リーザにたのんで、住所係で調べてもらったのである。アンナ・アンドレーエヴナの病的な態度がわたしにはもはやあまりにも決定的で、むしろ冷笑的なものにさえ思われた。わたしが協力をことわったにもかかわらず、わたしの言葉など頭から信じていないらしく、わたしを直接ラムベルトのところへさしむけようというのである、彼女が文書のことをすっかり知っていることは、もはや疑う余地がなかった。それもラムベルトからでなくて、誰であろう、だからこそわたしを彼のところへ打合せにさしむけたのだ。
「まったく彼らは一人のこらずおれを意志も根性もない子供だと思っているのだ、おれにならどんなことも思いのままだとたかをくくっているのだ!」
わたしはこう思うと、腹が煮えくりかえった。
それでも、わたしはやはりラムベルトのところへ出向いた。そのときの好奇心を、わたしにどうして抑えることができたろう? ラムベルトは、意外なことに、ひどく遠いところに住んでいることがわかった。夏公園のそばのコソイ横町のアパートなのである、しかも部屋まであのときから変っていなかった。あのときわたしが逃げだしたときは、まるで道も距離も気がつかなかった、それで四日ほどまえにリーザから彼のアドレスを受取ったときは、びっくりしたし、彼がそんなところに住んでいたとは、ほとんど信じられないほどであった。
わたしは階段をのぼりながら、三階の彼の部屋の戸口に二人の若い男が立っているのを見て、わたしよりひとあし先に来た客で、ドアがあけられるのを待っているのだと思った。わたしがのぼってゆくのを、彼らは二人ともドアを背にしてこちらを向いたまま、うさんくさそうにじろじろながめていた。
『ここには他《ほか》にも部屋がある、彼らは、きっと、誰か別な部屋を訪ねてきたのだろう』わたしはこう思って、眉《まゆ》をしかめながら近づいていった。わたしはラムベルトのところで他の来客と顔をあわせるのはいやだった。わたしは彼らを見ないようにしながら、呼鈴に手をのばした。
「|待ちたまえ《アタンデ》!」と一人が叫んだ。
「どうか、鳴らすのをちょっと待ってください」ともう一人の若い男が、よくとおるやわらかい声で、いくらか言葉をひっぱりながら言った。「ぼくたちはじきすみますから、そしたらいっしょに鳴らしましょう、いいですね?」
わたしは手をひっこめた。二人ともまだひじょうに若く、二十歳《はたち》かせいぜい二十二歳ぐらいであった。彼らはドアのところでなにやら奇妙なことをしていた、そこでわたしはなかばあきれながらそのしていることの意味をつきとめようとした。|待ちたまえ《アタンデ》と叫んだほうの男は、まず二メートルはあろうというおそろしいのっぽで、ひょろひょろとやせてはいるが、そのくせ骨太で肉がしまっていて、体のわりに頭がばかに小さく、いくらかあばたがあるが、かなりかしこそうな、しかも好感のもてる顔には、なにかちぐはぐな、むしろ滑稽《こつけい》に見えるほどの憂鬱《ゆううつ》そうな表情がうかんでいた。その目はどういうつもりかやたらと力をこめて凝視し、しかもまるで不必要な過度の決意をこめていた。服装はひどく粗末で、はげちょろけの小さな浣熊《あらいぐま》の小さな襟《えり》のついた綿入れの古外套《ふるがいとう》は、あきらかに他人のお古らしく、つんつるてんで、まるで百姓のはくようなみっともない長靴をはき、おそろしく型のくずれた、あめ色にさめたシルクハットを頭にのせていた。ぜんたいにだらしなさが目についた。手袋をはめていない手は、きたなくよごれて、長い爪には――真っ黒に垢《あか》がたまっていた。もう一人のほうは、まるで反対で、軽やかな貂《てん》の毛皮外套といい、優美な帽子といい、細い指をぴったりとつつんだ明色のさわやかな手袋といい、すべてが粋《いき》であった。身長はわたしくらいだが、その若さにあふれたみずみずしい顔には極度に愛らしい表情があった。
ひょろ長いほうがネクタイをはずした。それはすっかりよれよれになり、垢でとろとろで、リボンというよりは、もうほとんどひもといったほうがよいような代物《しろもの》だった。するとぜんたいに美しいほうの青年が、ポケットからついさっき買ったばかりらしい新しい黒いネクタイをとりだして、それをひょろ長い青年の首に結んでやった。そちらは素直に、おそろしく真剣な顔をして、外套を肩からずらして、そのひどく長い首をせいいっぱいのばした。
「いや、だめだよ、シャツがこんなにきたなくちゃ」と結んでやってるほうが言った、「効《き》き目《め》がないばかりか、かえってきたなく見えるよ。だからぼくが言ったじゃないか、襟《えり》をとりかえろって。ぼくはできんよ……あなたはできませんか?」と彼は不意にわたしを振向いた。
「なにをです?」とわたしは訊いた。
「ほら、これですよ、こいつにネクタイを結んでやることですよ。なんとか、うまいぐあいに結んで、ワイシャツのきたなさをかくしてやらなくちゃ、せっかくのネクタイがなんにもならんでしょうが。ぼくは今理髪店のフィリップのところで、わざわざ一ルーブリをはたいて、こいつにネクタイを買ってやったんですよ」
「そりゃきみ――あの一ルーブリかい?」とひょろ長いほうがぼやいた。
「そうさ、あれだよ。おかげでぼくはすっからかんだ。やはりだめですか? とするとアルフォンシーヌにたのむほかはないな」
「ラムベルトのところへかね?」とひょろ長いほうが不意にけわしくわたしに訊いた。
「ラムベルトのところへです」とわたしもそれに負けないきっとした声で、ひょろ長い青年の目を見すえながら、答えた。
「|Dolgorowky《ドルゴローウキー》?」と彼は同じ調子で、同じ声で訊いた。
「いや、コローウキンではありません」とわたしは訊きちがえて、やはりきっとした声で答えた。
「|Dolgorowky?!《ドルゴローウキー》」とひょろ長い青年はまるで威嚇《いかく》するようにわたしにつめよって、ほとんど叫ぶようにくりかえした。
もう一人のほうがけたたましく笑った。
「こいつは Dolgorowky と言ってるんですよ、コローウキンではありません」と彼はわたしに説明した。「ほら、フランス人は『Journal des Debats』(訳注評論誌)でよくロシアの苗字をなまってるでしょう……」
「|Independance《アンデパンダンス》(訳注独立誌)でだよ」とひょろ長いほうが鼻を鳴らした。
「……なに、Independance だって同じことさ。ドルゴルーキーは、たとえば、Dolgorowkyというぐあいに書いている――ぼくも見たよ。ワ――フ公爵はきまって |comteWallonieff《コントワロニエフ》 というぐあいだ」
「|Doboyny《ドボイニー》!」とひょろ長いほうが叫んだ。
「そう、それからDoboynyとかいうのもありますよ。ぼくも読んで、二人で大笑いしたのだが、|Madame《マダム》 |Doboyny《ドボイニー》 というロシア婦人が、外国で……しかし、こんな例をあげだしたらきりがないじゃないか!」と彼は不意にひょろ長いほうに言った。
「失礼ですが、あなたは――ドルゴルーキーさんですね?」
「そう、ぼくは――ドルゴルーキーです、だがあなた方はどうしてぼくの名を知ってるんです?」
ひょろ長い青年が不意に美しい青年になにやら耳うちした。美しい青年は眉をひそめて、よせというジェスチュアをした。だが、ひょろ長い青年はそれにはかまわず、急にわたしに言った。
「Monsieur le prince, vous n'avez pas de rouble d'argent pour nous, pas deux, mais un seul, voulez-vous?(公爵、銀貨で一ルーブリほど、ぼくたち二人にお貸しねがえませんか、いかがなものでしょう?)」
「おい、きみはなんてさもしい男だ」と美しい青年が叫んだ。
「Nous vous rendons,(返すからさ)」とひょろ長い青年はフランス語を乱暴に不器用に発音しながら、結んだ。
「この男は――犬儒派《シニツク》なんですよ」と美しい青年はわたしににやりと笑ってみせた、「この男がフランス語をうまく話せないと、あなたは思うでしょう? ところがこいつはパリジャンみたいに話せるんですよ、ただロシア人どものまねをしてるだけなんですよ、社交界でむやみにフランス語をつかいたがるくせに、その実ろくにしゃべれないロシア人どものね……」
「Dans les wagons,(列車の中で)」とひょろ長い青年が説明した。
「まあそうだ、列車の中でもだ。ええっ、やりきれない男だな、きみも! なにもそこまで説明せんでもいいじゃないか。よくない趣味だぜ、ばかのまねは……」
わたしは一ルーブリをつまみだして、ひょろ長いほうへさしだした。
「Nous vous rendons,(返すからね)」と言って金をしまうと、彼はくるりとドアのほうを向いて、その大きなきたない靴の先でドアを蹴《け》りだした、しかもまったく無表情な生まじめな顔つきで、いらいらしてるような色はみじんもないのである。
「あっ、またラムベルトを怒らせるのか!」と美しい青年がはらはらしながら注意した。「それよりあなたが呼鈴を鳴らしたほうがいいですよ!」
わたしは呼鈴を鳴らした、が、ひょろ長い青年はやはり靴先で蹴りつづけた。
「Ah, sacre……(あっ、畜生……)」と、いきなりラムベルトの声がドアのかげで聞えた、そしてさっとドアがあいた。
「Dites donc, voulez-vous que je vous casse la tete, mon ami!(おい、貴様、おれに頭をたたき割ってもらいたいのか!)」と彼はひょろ長い青年をどなりつけた。
「Mon ami, voila Dolgorowky, l'autre mon ami(そうどなりなさんな、ドルゴルーキーさんのご入来ですぜ)」とひょろ長い青年は怒りで真っ赤になったラムベルトの顔をじっと見すえながら、もったいぶってにこりともせずに言った。ラムベルトは、わたしを見ると、たちまちさっと表情を一変した。
「あっ、きみか、アルカージイ! とうとう来てくれたな! そうか、じゃよくなったんだな、直ったんだな、やっと?」
彼はわたしの両手をつかんで、かたくにぎりしめた。一口に言えば、彼は見せかけでなく心から歓喜したのである。そのためにわたしはとたんになんとも言えない嬉《うれ》しさにつつまれて、彼が好きになったほどであった。
「きみのとこへまっさきにとんできたよ」
「|Alphonsine《アルフオンシーヌ》!」とラムベルトが叫んだ。
女はすぐに衝立《ついたて》のかげからとびだしてきた。
「Le voila(そら彼だよ!)」
「C'est lui!(まあほんとね!)」とアルフォンシーヌはパチッと両手をうちあわせて叫ぶと、すぐに両手をひろげて、わたしを抱きしめようとしたが、ラムベルトがわたしをかばった。
「こらこら、シッ!」と彼はまるで犬ころを追っぱらうみたいに、彼女にどなりつけた。「ねえ、アルカージイ、今日は仲間の若い連中四、五人と韃靼《タタール》人のところで飯を食う約束をしてるんだよ。もうきみを放さないぜ、いっしょに行こうじゃないか。飯を食おうや、ぼくはこいつらをすぐに追っぱらうから――それからたっぷり話をしよう。さあ、入りたまえ、入りたまえ! すぐ出かける、一分ほど待ってくれたまえ……」
わたしは中へ入ると、部屋の中央に立ちどまって、あたりを見まわしながら、あのときのことを思い出そうとした。ラムベルトは衝立のかげで急いで着替えをはじめた。ひょろ長い青年とその友だちは、ラムベルトの言葉にもかかわらず、やはりわたしたちにつづいて部屋に入った。わたしたちはみな立ったままだった。
「Mademoiselle Alphonsine, voulez-vous me baiser?(マドモアゼル・アルフォンシーヌ、ぼくに接吻してくださいませんか?)」とひょろ長い青年が鼻を鳴らした。
「Mademoiselle Alphonsine(マドモアゼル・アルフォンシーヌ)」と美しい青年が彼女にネクタイを指さしながら、そちらへ近よろうとした、すると彼女はかみつきそうな剣幕で二人をどなりつけた。
「Ah, le petit vilain!(あっ、汚らわしい!)」と彼女は美しい青年に叫んだ、「ne m'approchez pas, ne mesalissez pas, et vous, le grand dadais, je vous flanque a la porte tous les deux, savez-vous cela!(そばへ来ないでちょうだい、わたしをよごしてしまうじゃないの、あなたもよ、のっぽのばか。でないと二人とも廊下へ追いだしてしまうよ!)」
美しい青年は、彼女が実際に彼にさわって汚れるのを恐れるかのように、いかにも汚らわしそうに身をひいたにもかかわらず(これがわたしにはさっぱりわけがわからなかった、というのは彼はとろりとした美男子だったし、それにシューバをぬぐと、実にりゅうとした服装をしていたからである)、のっぽの友だちにネクタイを結んでくれるように、そのまえにラムベルトの新しい襟《えり》を一本彼に貸してくれるようにと、しつこく彼女にたのみはじめた。彼女はこのあつかましい申し出に憤然として、二人に平手打ちをくわせようと手を振上げたとたんに、ラムベルトが、それを聞きつけて、衝立のかげから、ぐずぐずしないで言われたとおりにしてやれ、と彼女にどなった、そして『おとなしくひっこむようなやつらじゃないからな』とつけくわえた。するとアルフォンシーヌはすぐに襟を一本とりだして、のっぽにネクタイを結んでやりはじめたが、もうその態度には汚らわしそうなようすはみじんもなかった。のっぽはちょうどドアの外のときと同じように、結んでもらってるあいだ、そのひょろ長い首をせいいっぱいのばしていた。
「Mademoiselle Alphonsine, avez-vous vendu votre bologne?(マドモアゼル・アルフォンシーヌ、あのボロンを売ったんですか?)」と彼は訊いた。
「Qu'est que ca, ma bologne?(なんですの、あのボロンて?)」
美しい青年が、『ボロン』というのは狆のことであると説明した。
「Tiens, quel est ce baragouin?(まあ、どこからそんなひどい訛りを?)」
「Je parle comme une dame russe sur les eaux minerales,(ぼくはある鉱泉場でロシア婦人が言った言葉をまねたんですよ)」と、le grand dadais(のっぽのばか)はあいかわらず首をのばしたまま言った。
「Qu'est que ca qu'une dame russe sur les eaux minerales et ...... ou est donc votre jolie montre, que Lambert vous a donne?(なんのこと、鉱泉場のロシア婦人て……おや、どこへやったの、ラムベルトがあなたにやった時計は?)」と彼女は不意に美しい青年のほうを向いた。
「なに、また時計をなくしたのか?」と衝立のかげからむっとしたラムベルトの声がとんできた。
「食っちゃったよ!」とのっぽのばかが鼻を鳴らした。
「八ルーブリで売ったんですよ。だってあれは――銀ですぜ、金はかぶせただけさ、あんたはほんものの金時計だなんて言ってたけどさ。あんなものはいまどき店にたくさん出てますわ――十六ルーブリかそこらでね」と美しい青年はしぶしぶ言いわけをしながら、ラムベルトに答えた。
「そういうことはもうやめにしてもらいたいな!」とラムベルトはいよいよ腹にすえかねたようすでつづけた。「ぼくはな、きみ、きみに服を買ってやったり、りっぱな装身具をもたせたりするのは、のっぽの友だちに貢《みつ》がせるためじゃないぜ……それになおネクタイを買ったとか言ったな、どんなのを買ったんだ?」
「なに――たった一ルーブリのやつですよ。あんたのしめられるようなものとはちがいますよ。こいつはネクタイが一本もなかったんですよ、それに帽子も買ってやらなくちゃならないんです」
「ばかな!」とラムベルトはもう本気で怒ってしまった、「こいつにはもう帽子の分だって十分にやってある、ところがこいつめは、金の顔を見ればじきに牡蠣《かき》とシャンパンだ。いつもぷんぷんにおわせやがって、きたねえったらねえ、どこへも連れてゆけやしねえ。こんな野郎をどうして食事の席へ連れてゆけるんだ?」
「辻馬車《つじばしや》で行くさ」とのっぽは鼻を鳴らした。「Nous avons un rouble d'argent que nous avons prete chez notre nouvel ami.(おれは一ルーブリ銀貨を一枚もってるぜ、この新しい友だちから借りたのさ)」
「こいつらになにもやらんでくれ、アルカージイ!」とラムベルトがまた叫んだ。
「失礼ですが、ラムベルト、ぼくは今すぐあなたに十ルーブリを要求します」と美しい青年がにわかに色めきたった。怒りに顔が赤く染って、そのためにほとんど倍も美しい顔になった。「今ドルゴルーキーに言ったような暴言は、ぜったいに許しません。ぼくが十ルーブリを要求するのは、この場でドルゴルーキーに一ルーブリを返し、その残りでアンドレーエフにさっそく帽子を買ってやるためです――そのくらいのことはあなたもおわかりでしょう!」
ラムベルトが衝立のかげから出てきた。
「さあここに黄色い札が三枚ある、三ルーブリだ、あとは火曜日までびた一文やれん。きいたふうなことをぬかすな……さもないと……」
のっぽのばかはいきなり彼の手から金をひったくった。
「|Dolgorowky《ドルゴローウキー》、そら一ルーブリ返すぜ、nous vous rendons avec beaucoup de grace.(ありがとう、大いに恩にきるぜ)、ペーチャ、行こう!」と彼は連れの青年に叫んだ、そしていきなり、二枚の札を頭上にさし上げると、ひらひらさせて、じっとラムベルトをにらみつけながら、ありたけの声でたたきつけた。
「Ohe, Lambert! Ou est Lambert, as-tu vu Lambert?(おい、ラムベルト! どこにいるのかラムベルト、ラムベルトを知らないか?)」
「うるさい、へらず口をたたくな!」とラムベルトが憤怒《ふんぬ》に身をふるわせて叫んだ。
わたしは、これにはわたしのまったく知らないなにかまえからのひっかかりがあるのだな、と見てとって、唖然《あぜん》として見まもっていた。しかしのっぽはラムベルトの怒りをすこしも恐れなかった。それどころか、まえよりもさらに声を張りあげて、Ohe, Lambert!(おい、ラムベルト)云々《うんぬん》をわめきたてた。二人はわめきちらしながら、階段のほうへ出ていった。ラムベルトはそのあとを追おうとしたが、思い直して、もどってきた。
「くそめ、あいつらもうじきくびだ! かせぎよりも、高くつく……行こうや、アルカージイ! おかげでおくれてしまった。あちらである男がおれを待ってるんだ……これも必要な人間さ……やはりろくでもねえ畜生さ……どいつもこいつも――畜生ばかりだ! ごろつきめ、野良犬めが!」と彼はまた声を荒げて、ほとんど歯がみせんばかりに憤激した。ところが、不意につきものが下りたようにわれに返った。
「きみやっと来てくれたな、ぼくは嬉《うれ》しいよ。アルフォンシーヌ、部屋を一歩も出ちゃいかんぞ! さあ、行こう」
玄関まえに競走馬をつけた彼の馬車が待っていた。わたしたちは乗りこんだ。しかし彼は馬車の中でもずっとあの若い二人に対するはげしい怒りからさめきれず、どうしても平静にもどることができなかった。あんなことがこれほど深刻で、しかもあの二人の青年がラムベルトに対して無礼きわまる態度をとり、むしろラムベルトのほうがびくびくしているらしいのを見て、わたしは内心おどろきを感じていた。わたしの心にくいこんでいる子供のころからの印象によって、わたしは、誰でもきっとラムベルトを恐れているにちがいない、といつも考えていた。だから、わたしは完全に自分だけの自分という独立心はもっていたが、それでもやはり、そのときは自分でもラムベルトをいささか恐れていたにちがいないのである。
「まったくだよ、きみ、あいつらは――みな手のつけられぬごろつきどもさ」とラムベルトは憤懣《ふんまん》がおさまらぬようすで言った。「まったく、あののっぽのろくでなしめ、三日まえに、ある上品な集りで、ぼくにひどい恥をかかせやがった。いきなりぼくのまえに突っ立って、でっかい声で、『Ohe, Lambert!(おい、ラムベルト!)』なんてぬかしやがって、上品な集りでだぜ! みんなにやにや笑ってるのさ、ぼくに金をせびってることを、みんな知ってるんだよ――いい恥さらしだよ。しかたがないからやったさ。まったく、あいつらときたら――犬畜生だよ! 考えられるかい、あいつは士官候補生だったんだぜ、隊を追放されたんだが、あれでなかなか教養があるんだ。りっぱな家庭でちゃんとした教育を受けたんだよ、信じられんだろう! あいつは自分の思想というものをもってるんだ、だからやる気になれば……ええっ、畜生め! それに力の強いことといったら、ヘルクレスそこのけでさ。使いようでは役にたつと思うんだが、どうもさっぱりだめだ。それにどうだね、あいつは手を洗うということをしないんだよ。ぼくがせっかくあいつをある古い名門の婦人に紹介してさ、前非を悔いて、良心の呵責《かしやく》に堪えかねて自殺しようとまで思いつめている男ですとふれこんでおいたのに、あいつときたら、婦人のところへ来ると、いきなり椅子にふんぞりかえって、口笛を吹きだしやがった。それからあののっぺりしたほうの小僧、あいつは将軍の息子なんだぜ。家じゃ世間体を恥じて寄せつけないのさ。ある裁判事件にまきこまれているのをぼくが受け出してやったんだ、救ってやったんだよ、それがああいう恩返しをしやがるのさ。まったくここには人間らしいやつはいやしねえ! あいつらはくびだ、もうじきくびにしてやる!」
「彼らはぼくの名を知っていたよ。きみがおしえたのか?」
「ばかなことをしたよ。どうか、食事の席ではおとなしく坐って、がまんしていてくれたまえ……もう一人それこそひどいごろつきが現われる。こいつは――もう恐ろしい悪党で、並たいていのこすっからさじゃない。だいたいここのやつらは極道者ばかりで、まっとうな人間なんぞ一人もいやしねえ! まあ、そいつをすましたら――それからゆっくり……きみはどんなものが食べたい? まあ、なんでもいいさ、あそこは料理がうまいぜ。ぼくが払うから、きみは心配せんでいいよ。きみは服装がちゃんとしているから、助かるよ。金はぼくが都合してやるよ。いつでも来たまえ。遠慮はいらんさ、きみ、あいつらをぼくが養ってるんだぜ、毎日おいしいピローグをあてがっているんだよ。やつが売った時計だって――これでもう二度目だ。あの美しい小僧、トリシャートフというんだが、きみも見たろうが、アルフォンシーヌのやつ見るのもいやがって、そばへ寄せつけないようにしてるんだが、あの小僧めレストランで、士官たちの見ているまえで、『鴫《しぎ》が食いたい』なんて生意気なことをぬかしくさって。しゃくだけど鴫を食わせてやったさ! いまにたっぷりしっぺ返しをくわせてやる」
「おぼえてるかい、ラムベルト、ぼくたちモスクワで料理屋に行って、きみがフォークでぼくの脇腹《わきばら》を突き刺したことがあったな? あのとききみは五百ルーブリももっていたんだぜ!」
「うん、おぼえてるよ! ええ、畜生、おぼえてるさ! ぼくはきみが好きだよ……きみそれは信じろよ。誰もきみを好かんが、ぼくは好きだ。ぼく一人だけだよ、これは忘れんでもらいたいな……あばた面《づら》の男が、ぼくらの席に来るが――こいつは実にこすっからい悪党だ。話しかけられても、知らぬふりをしていてくれ、いいな、もしなんだかんだうるさく訊《き》きだしやがったら、とんちんかんな返事をして、あとは黙ってることだ……」
少なくとも彼は自分が興奮していたために途々《みちみち》わたしになにも訊きだそうとしなかった。彼がこれほどわたしを信じきっていて、わたしの猜疑心《さいぎしん》を疑ってみようとさえしないのが、わたしには侮辱にさえ感じられたほどだった。彼は愚かしくも、以前のようにわたしを言いなりにできるとたかをくくっているにちがいない、とわたしは思った。『それに加えて、この男はおそろしく無教養だ』わたしはこう思いながら、レストランに入って行った。
モルスカヤ街のこのレストランには、わたしは以前に、忌まわしい堕落と遊蕩《ゆうとう》の生活を送っていたころ、何度か来たことがあった。だからこれらの部屋と、わたしの顔をじろじろ見て、馴染客《なじみきやく》と見わけて愛想笑いをうかべるボーイたちの印象、それから、わたしが不意にその中に身をおいて、どうやらもうぬきさしならなくなってしまったらしい、このラムベルトの怪しげな一味の印象、そしてなによりも――わたしが自分から進んである醜悪なたくらみにとびこみ、確実によくない結果に終るにちがいない、という暗い予感、――こうしたもろもろの感じに不意にわたしは胸をえぐられたような気がした。一瞬、わたしはほとんど踵《きびす》をかえしかけた。しかしその一瞬がすぎた、そしてわたしはとどまった。
なぜかラムベルトがあれほど恐れていたその『あばた面』の男は、もうわれわれの来るのを待っていた。それは実務のほかは頭にないといったそっけない顔をした男で、わたしがほとんど子供のころからもっとも忌みきらっていたタイプの一人であった。年齢《とし》のころは四十五、六で、中背で、髪に白いものがまじり、顔はいやらしいほどつるつるに剃《そ》って、きちんと刈りこんだ小さな灰白色の頬《ほお》ひげが、おそろしく平べったい意地わるそうな顔の両側に二本のソーセージみたいにはりついていた。もちろん、この男はおもしろみがなく、ものものしく、口数が少なく、おまけにこうしたタイプの人間の常で、どういうわけか傲慢《ごうまん》であった。彼はひどく注意深くわたしを見まわしたが、なんとも言わなかった。ラムベルトの礼儀知らずにはあきれたものだが、わたしたちを一つのテーブルに坐らせながら、別に紹介しようともしなかったので、相手はわたしをラムベルトの子分の一人ととったにちがいないのである。例の若い連中にも(わたしたちとほとんど同時にレストランに入ってきたのだが)、彼は食事のあいだじゅう一言も口をきかなかった、しかし、二人をよく知っているらしいことは、ようすでわかった。彼はなにごとかをラムベルトとだけ話していたが、それもほとんどひそひそ声で、しかもしゃべっているのはほとんどラムベルトのほうで、あばた面の男はぽつりぽつりと、怒ったみたいな、きめつけるような文句をなげかえすだけであった。彼は傲然とかまえて、意地わるく、鼻の先であしらうような態度をとっていたが、ラムベルトのほうはまるで逆で、ひどく興奮したようすで、明らかに相手をなんとか言いくるめて、なにかのたくらみに誘いこもうとやっきとなっていた。一度わたしが赤ぶどう酒のびんに手をのばしたとき、あばた面の男がいきなりシェリー酒のびんをつかんで、わたしのまえに突きだした。彼はそれまで一言もわたしに口をきかなかったのである。
「これをやってみたまえ」と、わたしのまえにびんを突きだしながら、彼は言った。
そのときわたしは不意にさとった。この男はわたしのことはもうすっかり知っているにちがいない――わたしの来歴も、わたしの名も、そしておそらくラムベルトがわたしに期待をかけているその計画も。それがわたしの頭にピーンときた。この男はわたしをラムベルトの子分と見ている、という考えが、またしてもわたしを激怒させた。ところがラムベルトの顔には、あばた面がわたしに言葉をかけたとたんに、愚かしいかぎりの、強烈な不安があらわれたのである。男はそれを見て、にやりと笑った。
『ラムベルトのやつめ、まったくみんなのいいようにされてやがる』こう思って、わたしはその瞬間に心のありったけで彼を憎悪《ぞうお》した。
こうして、わたしたちは食事のあいだずっと一つのテーブルを囲んではいたが、はっきりと二つのグループにわかれていた。あばた面とラムベルトが窓際《まどぎわ》に向いあいに坐り、わたしは垢《あか》だらけのアンドレーエフと並び、それと向いあって――トリシャートフが坐っていた。ラムベルトは早くきりあげようとして、たえずボーイをせきたてた。シャンパンが出されると、彼はいきなりわたしのほうに酒杯を突きだした。
「きみの健康を祝して、乾杯しよう!」と彼はあばた面との話を打切って、言った。
「ぼくにも乾杯させてくれますね?」と美しいトリシャートフはテーブルごしに自分の酒杯をさしのべた。シャンパンが出るまで彼はどういうわけかすっかり考えこんで、黙りこくっていたのだった。のっぽはもう一言も口をきかないで、むすっとして、食べてばかりいた。
「喜んで」とわたしはトリシャートフに答えた。わたしたちは杯を合わせて、乾杯した。
「ぼくはあなたの健康を祝して飲むのはよしましょう」とのっぽが不意にわたしのほうを振向いた、「なにもあなたの死をねがうというのではないが、今日はもうあなたにこれ以上飲ませたくないのだよ」と彼は暗い顔で重々しく言った。
「あなたはその三杯でもうたくさんだ。あなたは、どうやら、ぼくのきたない拳《こぶし》をじろじろ見てるようですな?」と彼は自分の拳をテーブルの上に突きだしながら、つづけた。「ぼくはこいつを洗わない、そしてこのきたないままでこいつをラムベルトにやとわせているのさ、ラムベルトがむずむずしたような場合に他人の頭を叩《たた》き割るためにな」そして、こう言うと、いきなりどしんと力まかせにテーブルを叩いたので、皿やグラスがすっかり音をたててとびちった。この部屋では、わたしたちのほかに、四組の客たちが食事をしていた。ここは一流のレストランで、客はみな士官たちや、りっぱな紳士たちばかりだった。客たちは一瞬話をやめて、わたしたちのテーブルを見た。それに、わたしたちは、もう先ほどからある好奇の目で見られていたらしい。ラムベルトは真っ赤になった。
「ちょっ、またはじめたな! ニコライ・セミョーノヴィチ、態度をつつしむようにと、きみにたのんだはずだ」と彼は怒りにふるえる声を押し殺してアンドレーエフに言った。のっぽはのろのろとゆっくりした目でラムベルトをにらんだ。
「ぼくは新しい友ドルゴルーキーに今日ここであんまり飲ませたくないのさ」
ラムベルトはますます真っ赤になった。あばた面は黙って聞いていたが、いかにも満足そうににやにやしていた。彼にはアンドレーエフの突発的な乱暴がなぜか気に入ったらしい。ただわたしだけが、どうして酒を飲んではいけないのか、その理由がわからなかった。
「これはただ金をせびりたいだけなのさ! まあいいさ、もう七ルーブリやろう、食事のあとでな――だから食事だけはすまさせてもらいたいな、恥をかかせるなよ」とラムベルトは下|唇《くちびる》を噛《か》んでのっぽをにらんだ。
「そう来なくちゃあ!」とのっぽは得意そうに鼻を鳴らした。
これはもう完全にあばた面を喜ばせた、そして彼はざまあ見ろとばかりにヒヒヒと笑った。
「おい、あんまり図にのるなよ……」とトリシャートフは彼をおさえようとして、不安そうに、ほとんど苦しみの表情をさえうかべて言った。
アンドレーエフは口をつぐんだ、しかしそれも長いことではなかった。彼のねらいはそんなことではなかったのである。わたしたちのところからテーブルを一つおいて、距離にして五歩ばかりのところで、二人の紳士がにぎやかに話をしながら食事をしていた。二人ともいかにも気位の高そうな顔をした中年の男だった。一人は背丈が高く、まるまるとふとっていて、もう一人は――これもまるまるとふとってはいたが、背丈は低かった。彼らはポーランド語で最近のパリのできごとについて話し合っていた。のっぽはもう先ほどからそちらを興味ありげにちらちら見やって、きき耳をたてていた。小さいほうのポーランド人が、どうやら、彼の目には滑稽《こつけい》に映ったらしい、そして彼はたちまちその男に猛烈な反感をおぼえた。これは短気なかんしゃくもちの人間にはよくあることで、いつもなんの理由もなくいきなり虫が騒ぎだすのである。そのとき小さいほうのポーランド人がフランスの国会議員マジエー・ドモンジョーの名をあげたが、ポーランド風に、つまり語尾のひとつまえにアクセントをつけて発音したので、マジエー・ドモンジョーではなく、マージエ・ドモーンジョというぐあいになった。それをのっぽは待っていたのである。彼はそちらへ向き直ると、もったいらしくぐっと胸を張り、いきなり、一語々々くぎりながら大声で、まるで詰問《きつもん》するように言った。
「マージエ・ドモーンジョ?」
ポーランド人たちはさっと顔色を変えて彼のほうを振向いた。
「なんですか?」と大きいふとったほうがロシア語で荒々しく叫んだ。のっぽは一呼吸おいて相手の気をそらした。
「マージエ・ドモーンジョ?」と彼はまただしぬけにホール中にひびきわたるような声でくりかえした。それきりなんの説明も加えようとしない。それはちょうど先ほどドアのまえでばかみたいにわたしにつめよりながら、『|Dolgorowky《ドルゴローウキー》』をくりかえしたあの態度とそっくりだった。
ポーランド人たちは椅子を蹴って立ち上がった。ラムベルトはあわてて立ち上がって、アンドレーエフのほうへかけよろうとしたが、それどころではないと見て、急いでポーランド人たちのまえへとんでいって、平あやまりにあやまりはじめた。
「あれは――道化ですよ、きみ、あれは――道化ですよ!」と小さいポーランド人が憤怒のあまり人参《にんじん》みたいに真っ赤になって、軽蔑《けいべつ》しきったようにくりかえした。「いまに、ここへ来られなくなります!」
他の客たちもざわめきだし、非難の声があがったが、それよりも笑い声のほうが多かった。
「出たまえ……さあ……いっしょに来たまえ!」とラムベルトは狼狽《ろうばい》しきって、なんとかアンドレーエフを部屋から連れだそうとやきもきしながら、しどろもどろにつぶやいた。
のっぽは、さぐるような目でラムベルトを見ると、これでもう金を出すだろうと読んだらしく、素直に彼のあとから出ていった。おそらく、彼はもうこれまでに何度かこうした破廉恥な手段でラムベルトから金をせびりとったものであろう。トリシャートフも彼らのあとを追おうとしかけたが、わたしを見ると、思いとどまった。
「ああ、いやなことだ!」と彼はそのほっそりした指で顔をおおいながら、つぶやいた。
「まったく醜体ですな」とあばた面が今度は本気で腹をたてたらしいようすで言った。
そのうちにラムベルトが白けきった顔をしてもどってくると、勢いこんで身ぶり手ぶりをまじえながら、なにごとかあばた面にささやきはじめた。あばた面はそれにかまわず早くコーヒーを出すようにボーイに命じた。彼は気むずかしげに聞いていたが、もう早くここを逃げだしたいようすがその態度に見えていた。それにしても、この騒ぎは単なる児戯にすぎなかった。トリシャートフはコーヒー茶碗をもってこちらへ移ってきて、わたしのわきに腰を下ろした。
「ぼくは彼が大好きなんですよ」と彼はいかにも親しげにわたしに話しかけた。それはいつもこの問題をわたしと話し合ってきたような態度であった。
「あなたにはわからんでしょうが、アンドレーエフは実に不幸な男なのです。彼は妹の持参金をすっかり飲んでしまい、そのうえ勤めに出たその年に家の財産をすっかり飲みつぶしてしまって、そのことで今ひどく苦しんでいるんですよ。ぼくは知ってるんです。彼が顔や手を洗わないのは――あれは自暴自棄になってるからなんです。それにおそろしく妙な考え方をする男で、卑劣漢だって、正義漢だって――同じようなものさ、別にちがいなどありゃしない、なんてだしぬけに言いだすんですよ。かと思うと、よいことも、わるいことも、なにもすることはないさとか、よいことをしてもいいし、わるいことをしてもいい――どっちにしたって同じことさ、それよりもいちばんいいのは、寝っころがって、一月《ひとつき》は着たきりすずめで、飲んで、食って、眠る――そのほかはなんにもしないことさ。しかもまさかと思うでしょうけど、彼はまさにそのとおりなんですよ。それに、ぼくはこんな気さえするんですが、彼が今あんな乱暴をしたのは、ラムベルトとすっぱり手を切りたいからだ、とね。昨日そんなことを言ってたんですよ。それにどうでしょう、彼はときどき夜更けとか、一人きりで長いこといたりすると、泣きだすんですよ、しかもその泣き方が、すこし変っていて、誰もまねのできないような泣き方なんです。いきなりわあっと、恐ろしい声をたてて、そのために聞いてると、ますますかわいそうになって……おまけに、あんなでかい、たくましい男が、いきなり――身をもじって号泣するんですからねえ。ほんとにかわいそうな男ですよ、そうじゃありませんか? ぼくは彼を救ってやりたいと思うのですが、なにしろ自分が――こんな忌まわしい、くずれた男ですので、そうでしょう! ドルゴルーキー、もしぼくが訪ねてったら、あなたは会ってくれますか?」
「ああ、いらっしゃい、ぼくはあなたがむしろ好きですよ」
「ぼくのどこが? でも、ありがとう。では、もう一度乾杯しましょう。いや、ぼくはいったいなにを言うのだ? あなたはもう飲まないほうがいい。彼の言ったとおりですよ、あなたはもうこれ以上飲んじゃいけない」と彼はだしぬけに意味ありげにわたしに目配《めくば》せした、「でもぼくはやはり飲もう。ぼくはもうどうってことはないさ、まったくぼくって男は、ほんと、ぜんぜん自制心がないんですよ。たとえば、もう今後はレストランで食事をしてはいかんと言われたとします、それでもぼくは食事をしたい一心で、どんなことでもしかねない男なのです。おお、ぼくらは正直な人間になりたいとどれほど望んでいるでしょう、ほんとです、ところがただ先へ先へとのばしているだけなのです。
年は流れ去る――そはすべて黄金の年!
で、彼は、ぼくはひどく恐れているのですが――きっと首を吊るでしょう。誰にもなんにも言わないで、そっと。彼はそういう男です。近ごろはみんな首を吊ります。われわれみたいな人間が多いのかもしれませんね? ぼくは、たとえば、余分な金がなければ生きていけない。ぼくにとっては、必要最小限よりも、余分にあることがどれほど重大か。ところで、音楽は好きですか? ぼくはひどく好きです。あなたの家を訪ねたら、なにか弾《ひ》きましょう。ぼくはピアノが得意なんです、ずいぶん長いこと習いました。真剣に練習したんですよ。もしぼくがオペラをつくるとしたら、きっと、『ファウスト』から主題をとるでしょうね。ぼくはこのテーマが大好きです。ぼくはいつも寺院の中の場面を創造するのです、なに、頭の中で考えているだけですがね。ゴシック式の寺院、寺院の内部、合唱隊、讃美歌《さんびか》、グレートヒェンが入って来る、すると――中世紀風の合唱、十五世紀という時代が聞きとれるような合唱ですね。グレートヒェンは悲しみに沈む、はじめはしずかな、しかし恐ろしい、いたましい叙唱《レチタテイーヴオ》、しかし合唱は暗く、いかめしく、非情にとどろきわたる。
Dies irae, dies illa!(この日、憤怒の日!)
そのとき不意に――悪魔の声、悪魔の歌が聞える。姿は見えない、ただ歌だけが流れる、讃美歌《さんびか》とならんで、讃美歌といっしょに、ほとんどいっしょに融《と》け合って、しかしまったくちがうのです――なんとかここのところをうまく考えなけりゃなりません。とぎれることのない、長い長い歌です、これは――テノールです、ぜったいにテノールです。しずかに、やわらかな出だし、『おぼえているか、グレートヒェン、おまえがまだ無邪気で、あどけない子供だったころ、母に連れられてこの寺院に来て、手ずれのした祈祷書《きとうしよ》を開き、舌たらずの口でお祈りをしたことを?』しかし歌はしだいに強くなり、熱っぽく、はげしくなる。調子はますます高まる。そこには涙がにじんでいる、たえることのない、救いのない苦悶《くもん》がある、そして、絶望がある。『赦《ゆる》しはない、グレートヒェン、ここにはおまえへの赦しはないのだ!』グレートヒェンは祈ろうとするが、彼女の胸からほとばしり出るのはきれぎれの叫び声ばかり――ほら、涙のために胸にはげしいふるえが来たときに出るでしょう、あれですよ――一方、悪魔の歌はなおもやむことなく、ますます深く、槍先《やりさき》のように、心に突きささり、そしてますます高くなる――そして不意にほとんど絶叫のような『すべては終った、呪《のろ》いあれ!』という言葉でぷつりととぎれる。グレートヒェンはばったりと膝《ひざ》をついて、両手でかたく胸を抱きしめる――ここではじめて彼女の祈り、なにかひじょうに短い、半叙唱風の、しかもひどく素朴な、すこしも飾りのない、なにか極度に中世紀風の、四行詩、そう四行だけです――ストラデーラ(訳注 十七世紀後半のイタリアの作曲家)に何曲かあるでしょう、こういうのが――そして歌いおわると同時に失神する! 騒ぎが起る。彼女は抱き上げられて、運び去られる――そのとき不意に轟然《ごうぜん》と合唱がおこる。これは――声の落雷というにふさわしいような、霊感に充ちた、勝利をたたえるような、圧倒的な合唱です、わがロシアのドリ・ノ・シ・マ・チン・ミといったようなもので――みんなを腹の底から震撼《しんかん》させるわけです、そして合唱は歓喜に充ちあふれた高らかな『|Hossanna《ホサナ》』(訳注 神を讃美する嘆声)の喚声に移ってゆくわけです。さながら全宇宙の喚声のようにです、そしてその中を彼女は運ばれてゆきます、そして幕が下りるというわけです! いや、もしできるなら、そりゃ、ぼくもなにかつくりたいですよ! だが、今はだめなんです、今はただ空想しているだけです。ぼくはいつも空想してるんです、のべつにです、ぼくの全生活が一つの空想に化してしまったんです。ぼくは夜でも空想してるんです。ああ、ドルゴルーキー、あなたはディケンズの『骨董店《こつとうてん》』を読んだことがありますか?」
「読みましたが、それがどうしたんです?」
「では、おぼえてますか……ちょっと失礼、ぼくはもう一杯飲みます……終りのほうのある場面ですが、二人が――つまりあの気ちがいの老人と、その孫の、十三歳の美しい少女が、ファンタスチックな逃亡と流浪の果てに、やっと、どこかイギリスの片《かた》田舎《いなか》の、ゴシック式の中世紀風の寺院のそばに、かくれ家を見出《みいだ》して、そして少女がそこでしごとをあたえられる、客に寺院の中を案内するしごとです……そしてある夕暮れに、その少女が夕陽《ゆうひ》をいっぱいにあびながら、寺院の入口に立って、しずかな瞑想《めいそう》的な観照にしずみながら、じっと落日を見まもっている、そしてその小さな心は、まるでなにかの謎《なぞ》をまえにしたみたいに、おどろきに充たされている、というのは、それも、これも、謎みたいに思われたからです――つまり太陽は、神の思想として、そして寺院は、人間の思想として……そうじゃありませんか? おお、ぼくはこれをうまく言いあらわせませんが、でも神はそうした幼い心に生れる最初の思想を愛するんですよ……そして少女のそばの石段の上に、その気ちがいの老人が立って、動かぬ目でじっと孫娘を見つめている……ねえ、そこには別になにもありません、ディケンズのこの絵は、ただそれだけのものです、ところがこれが永遠に忘れられないのです、そしてこれが全ヨーロッパに残ったのです――なぜでしょう? 美しいからです! 汚れがないからです! そうでしょうか? そこになにがあるか、ぼくは知りませんが、ただほのぼのとした気持になります。ぼくは中学校で小説ばかり読んでいました。ぼくにはね、田舎に一人の姉がいるんです、一つちがいの……おお、いまではもうすっかり売られてしまって、田舎にはなにもありません! ぼくはよく姉といっしょにテラスで、菩提樹《ぼだいじゆ》の老木の下陰に腰かけて、この小説を読んだものです、そしてやはり夕陽が沈みかけると、ぼくたちは読むのをやめて、互いに言い合ったものです。ぼくたちも負けないようなよい人間になろう、心の美しい人間になろうと。ぼくはそのころ大学に入る勉強をしていました、そして……ああ、ドルゴルーキー、ねえ、誰にでも思い出というものがあるものですねえ!……」
そして急に、彼はその美しい頭をわたしの肩におしあてると――泣きだした。わたしは彼がかわいそうでたまらなくなった。たしかに、彼は酒を飲みすぎたが、しかしこれほど心を開いて親密にわたしに話をした、しかもこれほどの感情をこめて……その瞬間、不意に、通りから叫び声と、強く窓ガラスを叩《たた》く音がした(ここは窓が大きな一枚ガラスになっていて、一階なので、外から指で叩くことができた)。それは外へ追いだされたアンドレーエフであった。
「Ohe, Lambert! Ou est Lambert? As-tu vu Lambert?(おい、ラムベルト! どこにいるのか、ラムベルト? ラムベルトを知らないか?)」と通りから彼の乱暴な叫び声が聞えた。
「あっ、あいつこんなところにいたのか! じゃ帰らなかったんだな?」とトリシャートフは、いきなり立ち上がりざま叫んだ。
「勘定!」とラムベルトは歯がみをしながらボーイに言った。
彼は金をかぞえるとき、憤怒のあまり手がぶるぶるふるえた。あばた面は自分の分を払わせようとしなかった。
「どうしてだね? わたしがあなたを招待したんじゃないか、あなたは招待を受けたんじゃなかったのかね?」
「いや、ごめんこうむります」とあばた面は自分の財布を出すと、自分の分を計算して、別に払った。
「あんたはぼくを侮辱するのか、セミョーン・シドールイチ!」
「これがわしの主義でしてな」とセミョーン・シドールイチは吐き捨てるように言うと、帽子をつかんで、誰にも別れの言葉もかけずに、さっさと部屋を出ていった。
ラムベルトはボーイに金を投げつけると、とりみだしてわたしのことまで忘れてしまって、急いで彼のあとを追ってかけだした。わたしはトリシャートフといちばんあとから出ていった。アンドレーエフは玄関のところに道路標みたいに突っ立って、トリシャートフを待っていた。
「ろくでなしめ!」とラムベルトが怒りを爆発させた。
「なにを!」とアンドレーエフは彼にとびかかって、腕を一振りしたと思うと、彼の頭から山高帽をふっとばした。帽子は歩道をころがっていった。ラムベルトはぶざまにもあわててそれを追いかけて拾い上げた。
「Vingt cinq roubles!(二十五ルーブリだぜ!)」とアンドレーエフはさっきラムベルトからまきあげたばかりの紙幣をトリシャートフに見せた。
「もういいじゃないか」とトリシャートフが彼にむかって叫んだ。「なんだってきみは暴《あば》れてばかりいるんだ……それにどうして二十五ルーブリもまきあげたんだ? もらい分は七ルーブリだけじゃないか」
「どうしてまきあげた? あいつは美女たちを呼んで別々に食事をしようと約束しておきながら、女の代りにあばた面を呼びやがってよ、おまけに、おれは食事なかばで寒い外へおっぽりだされて凍えさせられたんだ、これは十八ルーブリの罰金ものよ。それに七ルーブリのもらい分を足せば――ちょうど二十五ルーブリになるって勘定よ」
「二人とも消え失《う》せろ!」とラムベルトがわめきたてた、「貴様ら二人ともくびだ、畜生、ぎゅうという目にあわせてやるぞ……」
「ラムベルト、こっちが貴様をくびにしてやるわ、目にあうのはそっちだぜ!」とアンドレーエフは叫んだ。「Adieu, mon prince,(さようなら、公爵)、もうこれ以上飲みなさんな! ペーチャ、行こう! Ohe, Lambert! Ou est Lambert? As―tu vu Lambert?(おい、ラムベルト! どこにいるのか、ラムベルト? ラムベルトを知らないか?)」と彼は捨てぜりふをのこして、大股《おおまた》で遠ざかっていった。
「じゃあなたを訪ねますよ、いいですね?」トリシャートフは急いでこうささやくと、友のあとを追ってかけだしていった。
わたしとラムベルトがあとにのこされた。
「では……行こう!」と彼は肩で息をしながら、すこしぽかんとしたようすで言った。
「ぼくが、どこへ? きみとはどこへ行くのもごめんだな!」とわたしはあわてて挑《いど》みかかるように言った。
「なに、行かない?」彼は急にわれにかえって、ぎくりとした。「だってぼくは二人きりになるのを、じりじりしながら待ってたんだぜ!」
「いったいどこへ行こうというんだい?」
正直のところ、わたしも三杯のシャンパンと二杯のシェリー酒で頭がすこしずきずきしていた。
「ここだよ、ほらここだ、わかるだろう?」
「ほう、新鮮な牡蠣《かき》と書いてあるな。だが、いやな臭《にお》いがするじゃないか……」
「そりゃきみ食事のあとのせいだよ。ここは――ミリューチンの店だぜ。牡蠣はやめよう、そのかわりシャンパンを飲もうや……」
「ごめんだよ! きみはぼくを酔わせようというんだな」
「そりゃ、あいつらの言いぐささ。あいつらはきみをからかったんだぜ。きみはあんなろくでなしどもの言葉を真《ま》に受けるのかい!」
「いや、トリシャートフは――ろくでなしではないよ。ぼくは自分でも用心することは知ってるさ――それだけのことだよ!」
「なに、きみには根性があるのかい?」
「あるね、むしろきみよりもな。きみはどんな男にでも言いなりにされてるような男だ。きみはぼくらに恥をかかせた、ポーランド人などに給仕みたいにぺこぺこあやまって、なんたるざまだ。どうやら、居酒屋でなぐられつけてるらしいな?」
「だってぼくらは話があるじゃないか、ばかなこと言うなよ!」と彼はじりじりしながらさげすむように言った。それはほとんど『きみもやつらと同じか?』とでも言いたげなようすだった。「なんだ、きみはこわがってるのかい? きみはぼくの親友じゃないのか?」
「ぼくは――きみの親友なんかじゃないね、きみは――詐欺師だよ。行こう、これはぼくがきみを恐れていないことを見せてやるためだ。へっ、なんていやな臭いだ、チーズくさいったらないや! 胸がむかむかする!」
[#改ページ]
第六章
ここでもう一度強調しておきたいが、わたしは頭がすこしずきずきしていたのである。もしそうでなかったら、わたしはこんなことを言わなかったし、こんな行動をとらなかったはずである。この店の奥の部屋では、実際に牡蠣《かき》料理を食べさせた。わたしたちはしみだらけの不潔な卓布をかけられたテーブルを囲んだ。ラムベルトはシャンパンを注文した。冷たい黄金色の液体を注《つ》がれた酒杯がわたしのまえにおかれて、誘惑的にわたしの目を刺激した。しかしわたしはいまいましかった。
「ねえ、ラムベルト、ぼくが、特に、しゃくでならんのは、きみがいまでもトゥシャール時代のようにぼくを意のままにできると思ってることだよ、きみ自身が、今ここでみんなの奴隷みたいになってるくせにさ」
「ばかなことを言うな! さ、飲もうじゃないか!」
「まったく、ぼくをさえ欺《だま》しきらんじゃないか、あんまり露骨すぎるぜ、ぼくを盛りつぶそうって腹がさ」
「いいかげんにしろ、きみは酔ってるんだ。もうすこし飲めば、陽気になるよ。杯をとれよ、杯をさ!」
「杯をとってどうしろというのだ? ぼくは帰るよ、それでちょんだ」
そしてわたしはほんとに立ち上がりかけた。彼は激怒した。
「トリシャートフがなにかおれのことを吹きこんだのだな。おれは見ていたぜ――きみたちはなにやらひそひそ話しこんでいた。きみはまんまとたぶらかされたんだ。アルフォンシーヌはやつをいやがって、そばへ寄せつけようともしないんだ……いやらしい男だよ。あいつがどんな男か、きみにおしえてやろう」
「それはもうきみ今言ったじゃないか。きみの頭には――アルフォンシーヌしかないのさ。きみの目はおそろしく狭いよ」
「狭い?」彼は意味がつかめなかった、「やつらはあばた面《づら》にのりかえたのよ。それだけのことさ! だからおれはやつらをくびにしたんだ。節操のないやつらよ。あのあばためひどい悪党だ、やつらをすっかりだめにしてしまいやがった。りっぱな態度をとれと、おれが口をすっぱくして言っていたんだが」
わたしは坐った、そしてなにも考えずに反射的に酒杯をとると、ぐいと一口飲んだ。
「ぼくは教養の面では、きみなんかよりはるかに上だよ」とわたしは言った。
しかし彼は、わたしが坐ったのが嬉《うれ》しくてたまらないようすで、すぐにまたわたしの酒杯に注ぎ足した。
「だが、きみは彼らをこわがってるじゃないか?」とわたしは彼をからかいつづけた(そしてもうそのときはおそらくわたしのほうが彼よりもずっといやらしい人間だったにちがいない)。「アンドレーエフに帽子をはねとばされて、なおかつ二十五ルーブリもやったりしてさ」
「やったさ、だが返礼はたっぷりさせるぜ。やつらは反乱を起してるが、今にたたきつぶしてやるさ……」
「あばた面もさっぱりきみの言うことを聞かんらしいな。してみると、今はきみの味方はぼく一人になっちまったというわけか。きみのすべての希望がぼく一人にかかったというわけかい――あ?」
「そうだよ、アルカーシャ、それは――そのとおりだ。きみ一人がぼくの親友だ。きみうまいことを言ってくれたよ!」と彼はわたしの肩をぽんと叩いた。
こういう粗野な人間はまったくあつかいようがない。頭はまるで子供みたいなもので、嘲弄《ちようろう》をほめられたものと思いこんでしまうのだ。
「きみが良友なら、ぼくを悪事から救いださせられるはずだよ、アルカージイ!」と彼はやさしい目でわたしを見つめながら、言葉をつづけた。
「どうしてきみを救いだせるんだい?」
「どうしてって――それはきみが知ってるはずだ。ぼくがついてなければきみは子供みたいなもので、きっとばかなまねをするだろうが、ぼくはきみに三万ルーブリのしごとをさせてやるよ、そして儲《もう》けを山分けしようじゃないか。どういうしごとかは――きみが承知してるはずだ。まあ、きみが何者か、考えてみたまえ。きみにはなにもない――名もないし、家門もない、それがいっぺんに大金がころがりこむんだ。ところで、金をにぎれば、出世の道はおのずから開けるというものさ!」
わたしはこうずばりともちかけられてただ唖然《あぜん》としてしまった。彼は策を弄《ろう》してじわじわと攻めてくるにちがいない、とわたしはかたく思いこんでいた、ところがあまりにも端的に、まるで子供みたいに正直にきりだしたのである。わたしは広い気持で彼の話を聞くことに決めた……それに抑えきれぬ好奇心もあった。
「ねえ、ラムベルト、きみにはそれがわかるまいが、ぼくはきみの話を聞くことにするよ、ぼくは広いからな」とわたしはきっぱりと言明して、またがぶりと酒をあおった。ラムベルトはすぐに注ぎ足した。
「そうだろうな、アルカージイ。もしビオリングごとき男が、ぼくの崇拝する婦人のまえで、ぼくを罵《ののし》ったりなぐったりするような無礼なまねをしやがったら、ぼくはなにをしでかすか自分でもわからんだろうな! ところがきみはじっとがまんしたというんだからなあ。ぼくはきみを軽蔑《けいべつ》するよ。きみは――腰ぬけだよ!」
「ビオリングがぼくをなぐっただと、失礼なことを言うじゃないか!」とわたしは赤くなって、声を荒げた、「むしろぼくのほうが彼をなぐったんだ。彼がぼくをなぐったんじゃないよ」
「いや、あれは彼がきみをなぐったのさ、きみが彼をじゃないよ」
「いいかげんなことを言うな、しかもぼくは彼の足を踏んづけたんだ!」
「だが彼はきみを突きとばして、召使どもにつまみだせと命じたじゃないか……ところがその婦人は馬車の窓からそのきみのぶざまを眺《なが》めて、笑っていたというんだ。彼女は知ってるんだよ、きみが父《てて》なし子《ご》で、侮辱したってかまやしないってことをな」
「ぼくは知らんな、ラムベルト、どうしてこんな子供の喧嘩《けんか》みたいなことを言ってるんだ、恥ずかしいじゃないか。ぼくを怒らせようとけしかけてるんだな、まるで十六かそこらの少年を突つくみたいに、乱暴に、露骨に。きみはアンナ・アンドレーエヴナとしめしあわせたな!」とわたしは憎悪《ぞうお》にふるえながら吐きだすと、反射的にがぶりと酒を飲みほした。
「アンナ・アンドレーエヴナは――ひでえすれっからしだぜ! あの女はきみも、ぼくも、世間中をたぶらかしているのさ! ぼくがきみを待っていたのは、きみにそちらをうまくまるめてもらおうと思ったのさ」
「そちらとは?」
「マダム・アフマーコワだよ。ぼくはすっかり知ってるんだぜ。きみは自分でぼくに言ったじゃないか、あの女は、きみがもってる手紙を恐れているってさ……」
「どんな手紙だ……でたらめ言うな……きみは彼女に会ったのか?」とわたしはうろたえて口走った。
「会ったさ。いい女だな。Tres belle(すてきな美人だ)、きみも目がこえてるよ」
「きみが会ったのは知ってるさ。ただきみはすくんでなにも言えなかったはずだ。彼女のことはぼくのまえで口にしてもらいたくないな」
「きみはまだ子供だよ、あの女はきみを笑いものにしてるんだぜ――それがわからんのかい! モスクワに一人いたぜ、ちょうどああした美徳のかたまりみたいな婦人がさ。フッ、その高慢たらねえのさ! ところが、すっかりばらすぞっておどしをかけたら、がたがたふるえだしやがって、すぐにおちやがったぜ。そこでおれはすっかりいただきってわけよ、金も、あれも――わかるだろう、なんだか? 今は彼女また社交界で女王然としてさ――へっ、きみ、すごくお高くとまりやがって、豪勢な馬車を乗りまわしてやがるが、あの屋根裏部屋でどんなざまをさらしやがったか、きみに見せてやりたかったぜ! きみはまだ人生てものを知らんのだよ。あの連中はそれこそどんな屋根裏部屋でもかまやしないのさ……」
「ぼくもそう思ってたよ」とわたしはじりじりしながらつぶやいた。
「あいつらは骨の髄まで堕落してるのさ。きみは知るまいが、あいつらはそれこそどんなまねだってしかねないんだぜ! アルフォンシーヌがある名家に住みついてたことがあるが、あいつでさえあきれたと言ってたぜ」
「ぼくはそれも考えてみたよ」とわたしはまたうなずいた。
「ところがきみはなぐられながら、それでもまだかわいそうだなどと……」
「ラムベルト、きみは――恥知らずだ、きみは――根性がくさってる!」わたしは不意にあることを思い出し、ぎくりとして、思わずこう叫んだ。「ぼくはすっかり夢にみたんだ、きみが立っていた、そしてアンナ・アンドレーエヴナが……おお、きみは――罰《ばち》あたりだ! きみは、ぼくがそんな卑劣漢だと、かりそめにも思っていたのか? たしかにぼくが夢にみたのは、きみがそれを言うだろうと、知っていたからなのだ。それから、もうひとつ言っておくが、それは、きみは今事もなげにあっさり言ってるが、決してそんな単純なものでない!」
「おや、怒ったな! そう来なくちゃあ!」とラムベルトはにやにや笑いながら、勝ち誇ったように言った。「なるほど、アルカージイ、これですっかりわかったぜ、ぼくがどういう手をうてばいいかがな。そのためにきみを待っていたのさ。つまりだな、きみはあの女を愛している、そしてビオリングに復讐《ふくしゆう》しようとしている――これがぼくの知りたかったことさ。ぼくはきみを待っているあいだ、ずっとそれを疑っていたんだ。Ceci pose cela change la question.(こうと決まれば、おのずから問題も変ってくる)。しかもそのほうが好都合だ。なぜって彼女のほうもきみを愛してるからさ。じゃきみは結婚するんだな、ぐずぐずしてることはないさ、そのほうがいいよ。うん、きみはそうするのがいちばんだよ、だってきみは決め手をにぎってるんだ。そこでだがな、アルカージイ、一人親友がいることを忘れんでくれよ、きみが自由に乗りまわせる親友がさ。この親友がきみを助けて、結婚させてやるぜ。地の底からでもなんでも手に入れてやるからさ、アルカージイ! まあ、うまくいったあかつきには、その労をねぎらって旧友に三万ルーブリご苦労代をやるんだな、うん? ぼくは一肌《ひとはだ》ぬぐぜ、ぜったいだ! ぼくはこうした荒療治はすみのすみまで心得てる。きみは持参金がそっくり入って、出世を保証された大金持になるってわけだ!」
わたしは――頭に酔いがのぼっていたが、唖然としてラムベルトを見つめた。彼はまじめだった、といっていちがいにまじめと言いきってしまうこともおかしいが、少なくとも、わたしははっきりと見てとったのだが、わたしを結婚させる可能性を、彼は自分でもすっかり信じきっていて、その考えに有頂天にさえなっていた。むろん、彼がわたしを子供あつかいにして、うまくおどらせようとしていることも、わたしは見ぬいていた(おそらく――そのときは見ぬいたにちがいないのである)。しかし彼女と結婚するという考えにわたしは心底からゆさぶられてしまったので、わたしはどうしてこの男はこんな空想を信じることができるのだろうと、唖然としてラムベルトに目を見はっていたが、しかし同時にわたしは自分でも、盲進的にその考えを信じこもうとしていた。とはいえ、もちろん、そんなことがぜったいに実現するわけがないという意識を、わたしは一瞬も見失いはしなかった。妙なことだが、こうした矛盾が頭の中で同時に並行したのであった。
「だってそんなことができるかい?」とわたしは舌をこわばらせた。
「どうしてできないんだ? あの女に『証書』を見せてやりゃいいのさ――そしたらへなへなとなって、きみの言いなりになるさ、金を失いたくないからな」
わたしはラムベルトをその卑劣な考えにとどまらせないことを決意した。というのは、彼は天真らんまんにその考えをわたしのまえにひろげて見せて、わたしが憤慨するかもしれないなどということは、てんから疑ってもいないからである。そのくせわたしは、力ずくだけでは結婚したくないなどと、あいまいなことを言ってしまった。
「ぼくは力ずくでなんかぜったいにいやだよ。きみはどこまで根性がくさってるんだ、ぼくをそんな男だと思うのかい?」
「おかしな男だな! 彼女のほうから来るんだぜ。それは――きみじゃないよ、彼女のほうがぎょっとして、きみと結婚しようと言いだすのさ。しかも先方もきみを愛してるんだからな」とラムベルトは言い添えた。
「でたらめ言うな。ぼくをからかうのもいいかげんにしろ。あのひとがぼくを愛してるなんて、きみがどうしてわかるんだ?」
「まちがいない。ぼくはわかってるんだ。アンナ・アンドレーエヴナもそう思ってる。これはきみまじめな話だぜ、ぼくはほんとのことを言ってるんだぜ、アンナ・アンドレーエヴナもそう思ってるってのはさ。それからもうひとつ、きみがぼくのところへ来たら、話してやることがある、それを聞いたら、きみも納得がいくだろうさ、あの女がきみを愛してるってことが。アルフォンシーヌがツァールスコエ・セローへ行ったんだが、あいつもあちらでそれを確かめてきたよ……」
「いったいなにを確かめてきたんだ?」
「まあぼくのところへ行こう。あいつが自分で語って聞かせるさ、きみはごきげんになるぜ。だって、きみのどこが誰に劣るというんだ? 美男子だし、教育はあるし……」
「そう、ぼくは教育はあるさ」とわたしはやっと息をととのえながら、ささやいた。わたしの心ははげしくおどっていた、そして、もちろん、酒のせいばかりではなかった。
「きみは美男子だよ。きみは服装も美しい」
「そう、ぼくはいい服を着てるよ」
「それにきみは心がやさしい……」
「そう、ぼくは気がいいよ」
「あの女が承諾しないわけがないじゃないか? ところでビオリングはやはり金がなけりゃ結婚しまい、ところがきみは彼女から金をうばうことができる――それが彼女には恐ろしい。きみが結婚すれば、それでビオリングに復讐することになる。きみがあの朝、凍えからさめかけたとき、自分でぼくに言ったじゃないか、彼女がきみに惚《ほ》れてるってさ」
「まさか、ぼくがそんなことを言ったのか? たしか、そんなふうには言わなかったはずだよ」
「いや、そう言ったよ」
「あれはぼくが熱に浮かされていたんだ。きっと、あのとき文書のことも言ったんだな?」
「そうだよ、そんな手紙をもってると言ったよ。そこでぼくは考えたのさ、そういう決め手をにぎっていながら、こいつはどうしてぼやぼやしてるのだろう? ってさ」
「あんなものはみな――空想さ。ぼくはこんな話を真に受けるほど、ばかじゃないぜ」とわたしはぼそぼそと言った。「第一、年齢がちがいすぎるじゃないか、第二に、ぼくにはそれこそ家柄がないよ」
「なに、きっと結婚するさ。大金を棒に振るというのに、しないわけがないよ、――そこはぼくがうまくやるよ。しかも、そのうえに、きみを愛してるんだ。きみも知ってるだろうが、あの老公爵はまるできみに目がないんだぜ。ああいう後ろだてがあれば、きみはどんな手蔓《てづる》でもつけられるというものだ。家柄がないなんていうが、いまどきはそんなものはぜんぜん要《い》りゃしないよ。いったんきみが金をにぎったら――もう油の上をすべるみたいなもんで、十年後には全ロシアがふるえあがるような大富豪になれるんだぜ、そのときどんな家柄がきみに必要だというんだ? オーストリアあたりの男爵の位でも買えばいいさ。ところで結婚したら、がっちりおさえつけることだ。うまく馴《な》らさなきゃならん。女ってものは、惚《ほ》れたとなると、ぎゅっとしめつけられたがるものだ。女ってものは男の気骨《きこつ》に惚れるんだよ。だからきみは手紙で彼女をおどしつけたら、すぐにきみの気骨を見せつけてやることだ。『まあ、この方はこんなに若いのに、もうこんなに気骨があるわ』と言わせるんだよ」
わたしは茫然《ぼうぜん》として坐っていた。他の誰ともわたしはこんなばかな話はぜったいにしなかったろう。だがこのときはなにか甘美な渇《かわ》きがわたしをひきずって会話を打切らせなかった。加うるにラムベルトがあまりにも愚かで卑劣であったために、彼を恥ずかしいと思う気持もおきなかった。
「とんでもない、ラムベルト」とわたしは不意に言った、「きみがどう思おうと、これはあまりにもばかげてるよ。ぼくがこうしてきみと話してるのは、ぼくたちは――友だちだし、別に遠慮することもないからだ。しかし他の人間とならぼくはぜったいにここまで恥を忘れることはないだろう。それに、だいいち、あのひとがぼくを愛してるなんて、なぜきみはそうきっぱりと断言できるんだね? なるほど、きみは今金の力についてはうまいことを言った。だがね、ラムベルト、きみは上流社会というものを知らんのだよ。彼らのあいだではなにごとも家長制的な、いわば氏族的な関係のうえにたっているんだよ、だから今は、つまりまだぼくの能力も、ぼくが人生でどれほどの勝利者になれるかも知らないあいだは――あのひとはやはりぼくを恥じるだろうさ。しかしぼくは、ラムベルト、別にきみにかくそうとは思わないが、ここにはたしかに希望をかけられるポイントはひとつあるよ。ひょっとしたら、あのひとは感謝の気持からぼくと結婚しようとするかもしれない、というのはぼくがあのひとをある男の憎悪から救ってやることになるのでね。あのひとはその男を恐れているんだよ」
「ああ、それはきみの親父《おやじ》さんのことだな? なんだい、きみの親父さんはあの女にぞっこんまいってるのかい?」と不意にラムベルトは異常な好奇心をもやして身をのりだした。
「とんでもない!」とわたしは叫んだ。「ラムベルト、きみは恐ろしいが、同時になんてばかな男なんだ! ええ、もし父があのひとを愛していたら、どうしてぼくが結婚しようなんて気持をもてるんだ? なんといったって――父と子じゃないか、そんな恥知らずなことができるか。父は母を愛してるよ、母を。ぼくは見たんだよ、父が母を心から抱きしめたのを。ぼくもまえには父がカテリーナ・ニコラーエヴナを愛していると思ったことがあった、だが今ははっきりと知ったんだよ、父はかつては愛したことがあったかもしれんが、今はもうかなりまえから憎んでいるってことをさ……そして復讐しようとしてるんだ、そしてあのひとはそれを恐れているのさ、だって、きみは知るまいが、ラムベルト、復讐をはじめたら、あんな恐ろしい人はないんだぜ。ほとんど狂人のようになるんだ。憎悪を燃やしたら、どんなことだってしでかす。それは高尚な原理から生れた古い型の敵意だよ。現代は――およそ一般的原理など見向きもしない。現代は一般的原理なんてものはない、あるのはただ個々の場合だけだ。まあ、ラムベルト、きみはなにもわからんだろうさ。石ころみたいにばかだからな。きみに今こんな原理の話なんかしたって、馬の耳に念仏ってやつだ。きみはまったく無教養だ。おぼえてるかい、きみはぼくをなぐったものだったな? 今のぼくはきみより強いんだぜ――それがわかるかい?」
「アルカージイ、ぼくのところへ行こうや! ゆっくりくつろいで、もう一本飲もうじゃないか。アルフォンシーヌがギターをひいて歌をうたうぜ」
「いや、行かんよ。おい、ラムベルト、ぼくには『理想』があるんだぜ。もしうまくいかんで、結婚に失敗したら、ぼくは理想に逃避する。だがきみには理想がない」
「まあいいさ、ゆっくり聞かせてもらうよ。行こうじゃないか」
「行かんよ!」とわたしは立ち上がった、「行きたくないから、行かんのだ。行きたきゃこっちから行くさ、しかしきみは――卑劣な男だ。三万はやろう――とるがいいさ、しかしぼくはきみより潔白だし、高尚だぞ……きみがなにかにつけてぼくを欺《だま》そうとかかってるのを、ぼくがわからんと思ってるのか。ところであのひとのことは、考えることも許さん。あのひとは誰よりも高尚な存在だ、それにきみの計画は――あまりにも低劣で、きみにはまったくあきれて二の句がつげんよ、ラムベルト。ぼくが結婚を望む――これは別問題だ、しかしぼくは金は要《い》らない、ぼくは金を軽蔑する。たといあのひとがひざまずいてぼくに金をさしだしても、ぼくは受取らない……だが結婚、結婚、それは――別問題だ。それから、ぎゅっとしめつけろ、これはきみにしてはうまいことを言った。愛する、情熱をかたむけて愛する、男のもっている、そして女には決してありえない寛容さのありたけをそそいで愛する、しかし同時に暴君でもある――まさにそのとおりだ。なぜなら、わかるかい、ラムベルト、女というものは暴君を愛するからだよ。ラムベルト、きみは女というものはよく見ぬいている。だがその他のことではあきれるほどばかだ。それに、おい、ラムベルト、きみは見かけほどの悪党じゃない、きみは――単純な男だよ。ぼくはきみが好きだ。ええ、ラムベルト、どうしてきみはこんなゆすりたかりをやってるんだ? さもなければ、ぼくたちは仲よく愉快に暮せるだろうに! わかるかい、トリシャートフは――愛すべき男だよ」
このあとのほうのとりとめのない言葉は、わたしがもう通りへ出てからつぶやいたものである。ああ、わたしがこうしたことをすっかりこまごまと書いているのは、あれほどの感激をもってよりよき人間への更生を誓い、善美を求めることを約束したにもかかわらず、そのときいかに易々とこのような醜い泥沼におちこむことができたかを、読者に知ってもらいたいためなのである! そして誓って言うが、今のわたしがもはやぜんぜんそのときのわたしではなく、もはや実生活によってしっかりした気性をつくりあげていることを、完全に確信していなかったならば、わたしはぜったいにこのようなことを赤裸々に読者に告白しなかったはずである。
わたしたちは店を出た。ラムベルトは片手を軽くわたしの肩にまわして、わたしをおさえていた。ふとわたしは彼を見やった、そして鋭い、さぐるような、おそろしく注意深い、極度に真剣な彼の目の表情に気がついた。それはあの朝、凍えきったわたしを、やはりこうして片手を肩にまわして、辻馬車《つじばしや》のほうへわたしを連れてゆきながら、耳をそばだて目を光らせて、わたしのとりとめもないつぶやきに聞き入っていたときの、あの目とまったく同じ表情であった。酔いかけてはいるが、まだすっかり酔いきってはいない人間には、不意に頭が完全に冴《さ》えわたる瞬間があるものである。
「ぜったいにきみのところへは行かんぜ!」とわたしは嘲《あざけ》るように彼を尻目《しりめ》にかけて、片手で彼をおしのけながら、しっかりした声できっぱりと言った。
「まあ、いいじゃないか、アルフォンシーヌに茶を入れさせよう、むずかるのはよせよ」
わたしが逃げるわけはないと、彼は頭から信じきっていた。彼はわたしの肩を抱いて、猫がねずみをなぶるみたいに、楽しみながらおさえつけていた。もちろん、わたしという人間が彼にはどうしても必要だったのである、しかもその夜、こんなふうに酔わせたわたしが! なぜか――それはいずれすっかり明らかにされよう。
「行かん!」とわたしはくりかえした。「おい、馭者《ぎよしや》!」
ちょうどそこへ一台の辻馬橇《つじばそり》が通りかかった。わたしはそれにとび乗った。
「どこへ行く? どうしたんだ!」とラムベルトはひどく狼狽《ろうばい》して、わたしの外套《がいとう》をつかみながら叫んだ。
「ついてくるな!」とわたしは叫んだ、「追ってくることは許さん」
その瞬間馬橇が走りだして、外套をつかんでいたラムベルトの手が振切られた。
「どうせ来るさ!」と彼はわたしの後ろ姿に憎さげにあびせた。
「来たくなったらな――ぼくの勝手だ!」とわたしは橇の上から彼を振向いた。
彼は追ってこなかった。もちろん、近くに他の馬橇がいあわせなかったためである。こうしてわたしは彼の目から姿をくらますことができた。わたしはセンナヤ広場まで来ると、馬橇を捨てた。すこし歩いてみたくてたまらなくなったのである。疲労も、深い酔いも、わたしは感じなかった。ただ快い生気が全身にみなぎり、力が充ちあふれてきて、どんな障害にも立ち向ってゆこうとする異常なまでの勇気がわいてきて、無数の痛快な考えが頭の中で渦巻いていた。
心臓が力強く重々しく鼓動していた――わたしはその一つ一つの音を聞いた。そしてなにもかもがわたしには愛らしく、そして軽やかに感じられた。センナヤ広場の哨舎《しようしや》のまえを通るとき、わたしは歩哨のそばへ行って接吻《せつぷん》してやりたい猛烈な衝動にかられた。雪どけもようで、広場は黒っぽくよごれ、しめっぽい臭《にお》いがしていたが、その広場までがわたしにはひどく好ましいものに思われた。
『これからオブウホフスキー大通りへ出て』とわたしは考えた、『それから左へ折れて、セミョーノフスキー連隊へ出よう、大回りをしてやろう、すてきだ、なにもかもすてきだ。毛皮外套は胸をはだけてずりおちそうになってるが――どうしたんだ、誰もはぎとりゃしないじゃないか、いったい追剥《おいはぎ》はどこにいるんだ? なんでも、センナヤ広場に追剥が出るという噂《うわさ》だが、さあ、来るがいい、なんなら、毛皮外套をくれてやるぜ。毛皮外套なんかなんのためだ? 毛皮外套は――私有財産だ。La propriete, c'est le vol.(私有財産すなわち窃盗なりだ)。しかし、なにをくだらんことを、それにしてもなんていい気持だ。雪どけってものはいいものだ。なぜ厳寒《マローズ》なんてあるのだ? そんなものぜんぜん不必要じゃないか。くだらんおだをあげるのもいいものだ。そう、たしかさっき、ラムベルトに原理がどうとかと言ったな? うん、一般的原理なんてない、あるものは個々の場合だけだなんて、おれは言ったっけ。あんなことはでたらめさ、大でたらめのこけの皮だ! わざとあんなことを言って、ちょっと気どってみただけさ。すこし気恥ずかしいが、しかし――どうってことはないさ、償いをするさ。恥じるな、くよくよするな、アルカージイ・マカーロヴィチ。アルカージイ・マカーロヴィチ、わたしはあなたが気に入りましたよ。むしろ大いに気に入りましたな、わたしの若いお友だち。ただあなたが――ちょっぴり悪党なのが、残念ですがね……それに……それに……あっそうそう……あっ!』
わたしは不意に立ちどまった、そしてわたしの心臓はまた甘くうずきだした。
『ああ! やつはなんてことを言ったんだ? あのひとが――おれを愛している、とあいつは言った。おお、あいつは――かたりだ、いいかげんな口からでまかせを並べやがって、おれを釣って、あいつの家に誘いこみ盛りつぶそうって腹に決ってるさ。だが、ひょっとしたら、ちがうかもしれん。あいつは言った、アンナ・アンドレーエヴナもそう思ってるって……そうか! うん、こいつはダーリヤ・オニーシモヴナが一枚かんで、あいつに情報を流してるかもしれんぞ。あの女ならどこへでももぐりこむからな。それにしても、おれはどうしてやつのところへ行かなかったのだ? すっかりさぐりだせたろうに! フム! やつには計画がある、そしてそれをおれは最後の一点まで予感していたのだ。夢だよ。ずいぶん広く網をはりわたしたらしいがね、ラムベルトさん、どこかが狂ってるよ、まあそうはいかんだろうね。だが、ひょっとしたら、そうならんともかぎらん! あるいは、そうなるかもしれん! それにしても、あいつはほんとにおれを結婚させることができるのだろうか? いや、できないとは言いきれんぞ、もしかしたらできるかもしれん。あいつはナイーヴで、信じこんでいる。あいつは、事務家というのはえてしてそうだが、ばかで図々《ずうずう》しい。ばかさと図々しさが、いっしょになれば――大きな力になる。おい、正直に言いたまえ、アルカージイ・マカーロヴィチ、あなたはひどくラムベルトを恐れていましたね! それにあの男には誠実な人々なんてなんの用があるのだ? あいつはそれこそ真顔で、ここには誠実な人間なんて一人もいない、なんてうそぶきやがって! そういうきみこそ――何者なのだ? ええ、おれはいったいなにを言ってるんだ! 悪党どもに誠実な人々が必要でないというのか? 悪事にこそ、他のいかなる場合よりも、誠実な人々が必要なのだ。ハッハ! それをおまえはいままで知らなかっただけなのさ、アルカージイ・マカーロヴィチ、あんまり無邪気すぎてな。ああ! あの男がほんとにおれを結婚させるようなことになったら、どうしたらいいのだ!』
わたしはまた立ちどまった。わたしはここであるばかげたことを告白しなければならない(これはもうとうに過ぎ去ってしまったことだからだ)。実を言うと、わたしはもうずっとまえから結婚したいと思っていた――といって切望したということでもなく、そんなことはぜったいに実現するはずがなかったし、これからも決してそういうことがないことは、誓って断言できるのだが、わたしはすでに何度か、もうずっとまえから、結婚したらどんなにすてきだろうと空想していた――何度かといったが、実はしょっちゅう、特に夜寝床に入ってからは必ずといっていいほど考えたものだった。わたしのこの空想は十六歳のころからはじまった。中学校時代にラヴロフスキーという学友がいた。実に愛らしい、おとなしい、美少年だったが、どこといって際《きわ》だったところのないごく平凡な学生だった。わたしは彼とほとんど話をしたこともなかったが、あるとき偶然に二人きりになったことがあった。彼はじっともの思いにしずんでいたが、いきなりこんなことを言った。
『ああ、ドルゴルーキー、きみはどう思う、ぼくは今結婚できたらなあと思うんだ。ほんとに、今でなかったら、結婚するときなんぞあるものか。今がいちばんいいときなんだ、ところが、どうしてもだめさ!』
彼は心底からそう思うふうに、しみじみと言った。わたしも急にすっかりその気になってしまった。というのは、わたし自身がすでにおぼろげに甘い夢をみていたからである。その後わたしたちは何日かつづけざまにおちあって、まるで秘密を打明けあうみたいに、そのことを話し合った、しかしそのことだけしか話さなかった。それからしばらくすると、どうしてそういうことになったのか知らないが、わたしたちは仲がわるくなって、話し合うことをやめてしまった。そのときから、わたしは空想するようになったのである。こんなことは、もちろん、ここに思い出すほどのことでもないが、わたしはただこうした結婚の空想がもうずっとまえからときどきあったことを、言いたかっただけである……
『ここには一つだけ重大な障害がある』わたしは歩きつづけながら、空想にふけっていた。『おお、もちろん、年齢の差なんかどうってことはない、だが、これだけは問題だ。あのひとは――おしもおされもしない貴婦人だが、おれは――ただのドルゴルーキーだ! なんともいまいましいことだ! フム! ヴェルシーロフが、母と結婚するにあたって、おれを嫡子とする認可を政府から受けることができないものか……いわば父の功績に対する褒賞《ほうしよう》として……彼は勤務していたことがあるじゃないか、とすると、功績もあったわけだ。農地調停員だったんだ……ええ、畜生、なんというあさましいことを考えるんだ!』
わたしは不意にこう叫ぶと、思わず立ちどまった。これで三度目だが、今度はいきなりその場にたたきのめされたようになった。嫡子に認めてもらうことによる姓の変更というような、あさましい考えをもつことができたという意識からくるはげしい屈辱感、少年時代のすべてに対するこの裏切り――こうしたいっさいがほとんど一瞬にしてこれまでのうきうきした気分をふみにじってしまった、そしてわたしのすべての喜びは煙のように消え失《う》せてしまった。
『いや、これは誰にも言うまい』とわたしは恥ずかしさに真っ赤になって考えた、『おれがこんなにまでおちたのは、おれが……恋に目がくらんで、ばかになったからだ。そうだ、もしラムベルトに正しいところがあるとすれば、現代はこうした愚かしい身分などというものはまったく用をなさない、今日もっともかんじんなものは――人間自体で、そのつぎが金だ、と言ったことだ。つまり――金ではなくて、それをもつ人間の力なのだ。その資本をもっておれは理想に邁進《まいしん》しよう、そうすれば十年後に全ロシアが震撼《しんかん》する、それがおれの復讐なのだ。あの女に遠慮することなんかありゃしない。これもラムベルトの言うとおりだ。おびえきって、たあいなくおれの言うままになるさ。四の五の言わず、あっさり承知して、おれのあとについてくるだろう』
『きみは知らんだろう、ええ、どんな屋根裏部屋でそういうことがあったか、きみは知るまい!』さっきのラムベルトの言葉がふと頭にうかんだ。
『これもそうだ』とわたしはうなずいた、『なにもかもラムベルトの言うとおりだ、やつのほうがおれよりも、ヴェルシーロフよりも、そこらのすべての理想主義者どもよりも、千倍も正しいのだ! やつは――現実主義者だ。あの女がおれに気骨があるのを見て、「まあ、このひとには気骨があるわ!」と言うだろう、と言いやがった。ラムベルトは――さもしいやつだ、あいつはおれから三万ルーブリふんだくりさえすりゃ、それでいいのだ、しかしやっぱり、あいつはおれのたった一人の親友だ。他の友情なんかないさ、あるものか、そんなものはみな非実際的な連中が考えだしたものにすぎんのさ。で、おれは別にあの女を辱《はずか》しめるわけでもないさ。あの女にとって屈辱だというのか? ちっとも。女なんてみなそんなものだ! 卑しい気持のない女なんてあるものか! だからこそ女のうえには男の支配が必要なのだ。女なんてものは服従するようにつくられているのだ。女は――悪徳と誘惑で、男は――高潔と寛容だ。これは永遠の真理なのだ。おれが文書を利用しようとしていることだが――こんなことはなんでもありゃしない。これは高潔のさまたげにもならないし、寛容のさまたげにもならない。純粋な形のシルレルなんてありゃしない――あんなものは頭の中で考えだされたものだ。目的がりっぱなら、すこしくらいの汚れがあったって、かまいやしないのだ! あとですっかり洗いおとして、消してしまうさ。今はそんなものは――度量の広さでかたづけられてしまうさ、それが――生活なのだ、それが――生活の真実というものなのだ――現代はそれがこんなふうに呼ばれているのさ!』
おお、また重ねてお願いするが、そのときの酔余のたわごとをくだくだしくここに書き記《しる》すことを許していただきたい。もちろん、これはそのときの考えのエッセンスにすぎないが、しかしどうやら、このとおりの言葉でしゃべったらしいのである。わたしがそれをそのままここに引用しなければならなかったのは、自分を裁《さば》くためにこの手記を書きだしたからである。しかも、これをでなくて、いったいなにを裁けというのだ? いったい人生にこれ以上に厳粛なことがありえようか? 酒は決して言い訳にならない。In vino veritas(酒の中に真実あり)というではないか。
こんなことを考えながら、すっかり空想にとらわれていたので、わたしはいつのまにか家まで、つまり母の住居《すまい》まで来ていたのに、気がつかなかった。それどころか、家の中へ入ったのにも気づかないほどだった。しかし、小さな控室に入るやいなや、わたしはすぐになにか異常なことがもちあがっていることをさとった。向うの部屋でなにやら大声で話したり、叫んだりしていたし、母の泣いている声が聞えた。ドアのところでわたしは危うくルケーリヤに突きとばされそうになった。彼女はマカール・イワーノヴィチの部屋からとびだしてきて、台所へふっとんでいった。わたしは毛皮外套をぬぎ捨てると、マカール・イワーノヴィチの部屋へ入った。そこにみんなが集まっていたからである。
そこにヴェルシーロフと母が立っていた。母は彼にぐったりともたれかかり、彼は母をかたく胸に抱きしめていた。マカール・イワーノヴィチはいつものように自分の小さな椅子に坐っていたが、しかしすっかり衰弱しきっているようで、リーザは彼が倒れないようにその肩を強くささえてやっていた。それでもいまにも倒れそうに、たえず体が傾きかけるらしかった。わたしは急いでそばへかけよろうとして、ぎくりとした。老人はもう死んでいたのだ。
彼はたった今、わたしがもどる一、二分まえに死んだばかりだった。十分ほどまえには彼の容態はまだいつもとかわらなかった。そのときはそばにいたのはリーザ一人だった。リーザはそばに坐って、自分の悲しみを彼に打明けていた。そして彼は、昨日のように、リーザの頭をなでてやっていた。不意に彼ががくがくふるえだして(これはリーザが語ったことである)、立ち上がろうとした、そしてなにか言おうとしたが、そのまま黙って左側へ倒れた。『心臓破裂だ!』とヴェルシーロフは言っていた。リーザが大声で叫んだ、そして家中の者がかけつけた――それがわたしがもどる直前のことであった。
「アルカージイ!」とヴェルシーロフがわたしに叫んだ、「大急ぎでタチヤナ・パーヴロヴナを迎えに行ってくれ。きっと家にいるはずだ。すぐに行ってくれ。辻馬車をひろって。大急ぎで、いいな!」
彼の目がきらきら光っていた――それをわたしははっきりおぼえている。彼の顔にわたしは純粋な悲しみと涙のようなものを見なかった――泣いていたのは母とリーザと、それからルケーリヤだけだった。それどころか、これもわたしはまざまざとおぼえているのだが、彼の顔にはなにか異常な興奮というか、ほとんど歓喜と言えるような表情がうかんでいた。わたしはタチヤナ・パーヴロヴナを呼びにかけだした。
道は、まえの記述でわかっているように、それほど遠くはなかった。わたしは辻馬車はひろわないで、走りづめに走った。わたしの頭の中は混沌《こんとん》として、やはりほとんど歓喜といえるようなものさえあった。なにかが根本からくつがえされたことを、わたしは感じていた。酔いはすっかりさめてしまっていたし、タチヤナ・パーヴロヴナの家の呼鈴を鳴らしたとき、よくない考えも完全にわたしの頭の中から消えていた。
女中がドアをあけて、『お留守ですよ!』と言うと、すぐにしめようとした。
「なに留守だって?」わたしはむりやり控室へとびこんだ、「そんなわけがない! マカール・イワーノヴィチが亡《な》くなったんだ!」
「なんですってェ!」と不意に閉ざされた客間のドアのかげからタチヤナ・パーヴロヴナの叫び声が聞えた。
「死んだんです! マカール・イワーノヴィチが死んだんです! アンドレイ・ペトローヴィチがあなたにすぐ来てくださいって!」
「うそでしょう!……」
掛金ががちゃりと鳴ったが、ドアはほんの細目にしかあけられなかった。
「どうしたというの、言ってごらん!」
「ぼくもよくわからないんです、家へもどると、もう死んでいたんです。心臓破裂だって、アンドレイ・ペトローヴィチは言ってます」
「すぐ行きます、今すぐ。さ、急いでもどって、わたしがすぐ行くからって言ってください。さあ、早く、早く! なにをぼんやり突っ立ってるの?」
しかしわたしは、ドアの隙間《すきま》からはっきりと見てしまった。誰かの姿がタチヤナ・パーヴロヴナの寝室のカーテンのかげから不意に現われて、部屋の奥のほうに、タチヤナ・パーヴロヴナのかげにかくれるように立った。わたしは反射的に、本能的にドアの把手《とつて》をつかんだ、そしてもうしめさせなかった。
「アルカージイ・マカーロヴィチ! ほんとうですの、あのひとが死んだって?」と忘れることのできない、低い、なだらかな、金属的な声がひびいた。その声でわたしの心は一時にふるえだした。その問いにはなにか彼女の心をつらぬき、波だたせたものがこもっていた。
「そんなら」とタチヤナ・パーヴロヴナはいきなりドアをはなした、「そういうことなら――好きなようにするがいいわ、自分から出てきたんだから!」
タチヤナ・パーヴロヴナは走りながらプラトークで頭をつつみ、毛皮外套をはおると、さっと部屋をとびだし、階段をかけ下りていった。わたしたちだけがあとにのこった。わたしは毛皮外套をぬぎ捨てると、ずいと一歩入って、後ろ手にドアをしめた。彼女は、あのあいびきのときのように、明るい目を輝かせて、あのときのように、両手をわたしのほうへさしのべながら、立っていた。わたしはまるで足をすくわれたように、ばたりと彼女の足もとに倒れた。
わたしは泣きだしそうになった。どうしてかは知らない。どのようにして彼女がわたしをそばにかけさせたか、わたしはおぼえていない、このうえなく貴《とうと》い思い出として、わたしの記憶にのこっているのは、わたしたちが並んで坐って、手をとりあって、熱心に話し合っていたということだけである。彼女は老人とその死のもようをいろいろと訊《き》いた、そしてわたしは老人のことをいろいろと彼女に語った――だから考えられるのは、わたしがマカール・イワーノヴィチの死を悲しんで泣いたかもしれないということである。とすれば、これほど愚かしいことはなかろう。というのは、彼女がわたしにそんなまるで子供じみた涙もろさがあろうなどとはぜったいに想像できないはずなことを、わたしは知りぬいていたからである。ついに、わたしははっと気がついて、急に恥ずかしくなった。今にして思えば、わたしがあのとき泣いたのはただただ感激のためで、おそらく彼女もそれは察していたにちがいないのである。だからこの思い出については、わたしはすこしも心を痛めていないのである。
彼女がしきりにマカール・イワーノヴィチのことばかり訊いているのが、わたしは急にひどく妙な気がしだした。
「でも、あなたはいったいあの老人をご存じなのですか?」とわたしはふしぎな気がして訊いた。
「もうまえまえから。わたしは一度もお会いしたことはありませんけど、でもわたしの人生にあのひともひとつの役割を演じましたのよ。かつてあの老人のことをわたしにいろいろとおしえてくれたものですわ、わたしの恐れているそのひとが。知ってますわね――そのひとがどなたか」
「ぼくは今はじめてわかりました、そのひとが、あなたがまえにぼくに打明けてくれたよりも、ずっとずっとあなたの心に近かったのだということが」とわたしは、それでなにを言おうとしたのか、自分でもわからずに、しかしまるでとがめだてでもするように、すっかり顔の表情をかたくして、言った。
「あなたは今、そのひとがあなたのお母さんに接吻したって言いましたわね? あなたのお母さんを抱擁《ほうよう》したのね? あなたはそれを自分で見たのね?」と、彼女はわたしの言葉に耳をかさないで、質問をつづけた。
「ええ、見ました。しかし、それはこのうえなく誠実で、寛容な態度でした!」と、彼女の嬉しそうな顔を見て、わたしは急いで肯定した。
「やっとねえ!」と彼女は十字を切った。「これであのひとは解放されたんですわ。あの心のやさしい老人がずっとあのひとの生涯を縛っていたんですもの。老人の死とともに、あのひとの胸の中にはまた義務感がよみがえるでしょう……それに品位が、まえに一度よみがえったように。おお、あのひとの、なによりも美質は――寛大なお心ですわ、きっとあなたのお母さんのお心をやわらげてやるでしょう、だってこの世のなにものよりもあの女《ひと》を愛していらっしゃるんですものねえ、そして自分も、心を休めるでしょう、ようやく、そうねえ、もうその時期ですもの」
「彼はあなたにはひじょうに大切なひとなんですね?」
「そう、ひじょうに大切なひとですわ、でも、あのひと自身が望んでおられるような、そしてあなたがお訊きになったような、そういう意味でではありませんわ」
「それで、今となってはあなたが恐れるのは彼のことですか、それとも自分のこと?」とわたしは不意打ちに訊いた。
「さあね、それは――むずかしい問題ね、そんな話やめにしましょうよ」
「ええ、やめにしましょう。ただぼくはそういうことはまだなにも知らないんですよ、きっと、いろんなことがたくさんあるんでしょうね。でも、あなたのおっしゃるとおりです、これからはすべてが新しくなればいいのです、そして、よみがえった人があるとしたら、その第一はぼくでしょう。ぼくはあなたに対して卑劣な考えをもっていたんですよ、カテリーナ・ニコラーエヴナ、そして、おそらく、まだ一時間足らずまえだったら、実際にあなたに対して卑劣なことをしたかもわかりません、だがどうでしょう、ぼくは今こうしてあなたのそばに坐っていますが、いささかも良心の呵責《かしやく》を感じていません。今はすべてが消えてしまって、すべてが新しくなったからです、そして一時間まえにあなたに対してふとどきなことをたくらんだ男を、ぼくは知らないし、知りたくもありません!」
「目をさましなさいな」と彼女はほほ笑《え》んだ、「あなたはすこし熱に浮かされているようね」
「それに、あなたのそばで自分を裁くなんてことができるでしょうか?」とわたしはつづけた、「誠実であろうと、卑劣であろうと――あなたは同じこと、太陽のように、手のとどかないところに輝いています……ねえ、おっしゃってください、あんなことがあった後で、どうしてあなたはこうしてぼくに会ってくださるなんてことができたんです? ああ、一時間まえに、たった一時間まえにどんなことがあったか、あなたがお知りになったら? どんな夢を実現しようとしたか?」
「わたし、きっと、すっかり知ってるはずよ」と彼女はしずかに微笑した、「あなたはついさっきどんなことかでわたしに復讐しようとしたのね、わたしを破滅させようと誓ったんでしょう、それでいて、おそらく、あなたのまえでわたしのことをちょっとでもわるく言う者があったら、直ちに殺してやるか、あるいはなぐってやろうと思ったのね」
おお、彼女はにこにこ笑って、しかも冗談にまぎらしたのだ。しかしこれはひとえに彼女が神のようなやさしい心をもっていたからこそできたことなのだ。というのは、そのとき彼女の心は、あとでいろいろ思いあわせてみると、自分自身の思いあまるような大きな心配ごとと、おしつぶされそうな強いはげしい心痛に充たされていて、わたしと話をしたり、わたしの愚にもつかぬいらいらした問いに答えたりなどしていられる状態ではなかったのである。彼女は答えてやらないといつまでもうるさいから、とりとめもない子供の質問に答えてやるみたいに、辛《かろ》うじてわたしをあやしていたにちがいないのである。わたしはふとそれに気がついて、恥ずかしくなったが、しかしもうひっこみがつかなかった。
「いや、ちがいます」とわたしは自分を抑えきれずに叫んだ、「いや、ぼくはあなたをわるく言った者を殺すどころか、逆に、その男を支持したのです」
「まあ、おねがいですから、言わないで、およしになって、なにもおっしゃらないでください」と彼女は急いで片手を突きだして、わたしを制止しようとし、顔に苦しげな表情をさえうかべた。しかしわたしはもういきなり立ち上がって、彼女のまえに突っ立ち、いっさいを告白しようとした。そして、もしここですべてをぶちまけてしまっていたら、その後に起ったような事件は、おそらく起らなかったであろう。というのは、おそらくわたしはいっさいを告白して、その場で文書を彼女に返していたにちがいないからである。ところが、彼女は急に笑いだした。
「およしなさい、いいわよ、詳しいことはなにもおっしゃらなくて! あなたの犯そうとした罪はわたしすっかり知っておりますのよ。賭《か》けをしてもいいわ、あなたはわたしとの結婚かなにかそうしたことを望んで、ついさっきそれをあなたの仲間の誰かと相談したばかりでしょう、昔の学校友だちとかと……そら、どうお、わたしみごとに当てたようね!」と叫んで、彼女は真剣な目でわたしの顔をのぞきこんだ。
「どうして……どうしてあなたがそれを?」わたしはいきなり出鼻をくじかれて、ばかみたいに、しどろもどろに口ごもった。
「あらまだあるのよ! でももういいわ、よしましょう! わたし許してあげるわ、ただそんな話はもうやめましょうね」と彼女はまた片手を振った、しかしそこにはもう明らかな苛《いら》だちが見られた、「わたし自身が――夢多い女なのよ。あなたはご存じないでしょうけど、わたし自分を抑えきれなくなると、空想の中でどんなところまで行ってしまうかわからなくなってよ! もうたくさん、あなたはわたしを迷わせてばかりいるんですもの。タチヤナ・パーヴロヴナがいなくて、ほんとによかったわ。わたしとってもあなたに会いたかったの、でもあのひとがいたら、今みたいなこんな話はできないでしょう。あのときのこと、わたしあなたにわるいことをしたような気がするのよ。そうね? そうでしょう?」
「あなたがわるいことをした? でもあのときはぼくが彼のためにあなたを裏切ったんです、だから――あなたにどう思われようとしかたがなかったんです! ぼくはあれからずっと、今日まで、たえずそのことばかり考えて、胸を痛めていたんです」(これは決してうそではなかった)
「そんなに自分を苦しめなくてもよかったのに。どうしてあんなことになったのか、わたしはあのときわかりすぎるほどわかっていたのよ。あなたはただ嬉しくて言わずにいられなかったんでしょう、わたしを好きになってしまったことと、わたしが……ねえ、わたしがあなたの言うことを聞いたことを、そうでしょう。だって、あなたはまだ二十歳《はたち》ですもの。それにあなたはあのひとを世界中のなにものよりも愛していらっしゃるんですものね、あのひとに心の友を、理想を求めていらっしゃるんでしょう? わたしそれはよくわかったのよ、でももうおそかったわ。おお、それに、わたしもあのときまちがっていたのよ。すぐにあなたを呼んで、安心させてあげなければならなかったのに、なんだか無性に腹がたって、あなたを家に出入りさせないようにたのんだりして。だから玄関先のあんなことや、それからあの夜のできごとのようなことがおこったんだわ。そしてね、ほんとうのことを言うと、わたしもあれからずっと、あなたみたいに、あなたにこっそり会うことを夢みていたのよ、ただどうしてその機会をつくったらいいのか、知らなかっただけよ。そしてわたしがもっとも恐れていたのはなんだとお思いになる? あなたがわたしに対するあのひとのそしりを真《ま》に受けはしないかということなのよ」
「ぜったいに!」とわたしは叫んだ。
「わたしはこれまであなたとお会いした思い出を貴重なものと思っていますわ。わたしにはあなたの若さが貴いのよ、それから、きっと、あなたのその誠実さも……だってわたしは――それは生まじめな性格ですのよ。わたしは――現代の婦人たちの中でいちばん固苦しい、しんきくさい性分ですわよ、覚悟しなさい……ハハハ! またお話ししましょうね、でも今日はわたしすこうしどうかしてるのよ、気がたって……どうやら、ヒステリー気味みたい。でもこれでやっと、やっと、あのひともわたしにのんびり息をつかせてくれるでしょうもの!」
この慨嘆はうっかり口からもれ出たものであった。わたしはすぐにそれをさとって、それをとりあげようとした。が、体じゅうががくがくふるえだして、言葉にならなかった。
「あのひとは知ってるんだわ、わたしが許したことを!」と彼女はまた不意に、まるでひとりごとのように叫んだ。
「いったいあなたは、彼のあの手紙を許すことができたんですか? そして、あなたが許したことを、彼はどうして知ることができたんです?」とわたしはもうがまんができなくなって、思わず叫んだ。
「あのひとがどうして知ったって? おお、あのひとは知ってるのよ」と彼女はわたしへの答えをつづけた。しかし、もうわたしのことなどは忘れて、まるで自分の内部の声に話しかけているようなようすであった。「あのひとはやっと目がさめたんだわ。それに、わたしの心の中をすっかり見通していらっしゃるんですもの、わたしが許したことを、どうして知らないわけがありましょう? あのひとは知ってるのよ、わたしがいくらかあのひとに似てるってことを」
「あなたが?」
「ええそうよ、それがあのひとにはわかってるんだわ。おお、わたしは――情熱的な女じゃないわ、わたしはおだやかな女なのよ。でもわたしも、あのひともそうですけど、みんながしあわせになればよいと思うの……だってあのひとがわけもなくわたしを愛したはずがないもの」
「じゃどうして彼は言ったんでしょう、あなたが悪徳のかたまりだなんて?」
「それはただそう言っただけよ。あのひとには心の底に別な秘密があるのよ。だってそうじゃありません、あの手紙をあのひとはおそろしく滑稽《こつけい》に書いたでしょう?」
「滑稽に?!」(わたしは体じゅうを耳にして彼女の言葉を聞いていた。そしてどうやら、彼女がほんとうにヒステリー気味のようで、そして……言っているのも、まるでわたしを相手にではないような気がしたが、それでもわたしはどうしても訊かないではいられなかったのである)
「おお、そうよ、滑稽よ、だからわたし、もし……もしこわさがなかったら、それこそふきだしてしまうところでしたわ。でもわたし、決してそんな弱虫じゃないのよ、誤解しないでね。でもあの手紙のために、わたしはあの夜は眠れませんでしたわ、だってなにかいたましい血で書いたみたいな手紙なんですもの……あのような手紙を書いてしまったら、もうあとになにがのこるかしら? わたしは生活を愛しますわ、自分の生活はそれはそれは大切にしますわ、わたしこのことではひどく臆病《おくびよう》なのよ……ねえ、おねがい!」と彼女は不意に叫ぶように言った、「あのひとのところへ行ってちょうだい! あのひとは今一人ぼっちよ、ずっとあそこにいられるようなひとじゃないわ、きっと一人でどこかをさまよってるわ、早くあのひとをさがしてあげて、大急ぎでよ、あのひとのところへかけつけて、あなたが――あのひとを愛する息子であるってことを、あのひとに見せてあげて、あなたが――やさしい善良な子供であることを、証明してあげて、わたしの学生さんであることを、わたしの愛……おお、あなたしあわせになってね! わたしは誰も愛さないわ、そのほうがいいのよ、でもみなさんの幸福をねがうわ、みなさんの、そして誰よりもあのひとの、ええ、これをあのひとに知らせてあげて……今すぐにも、そしたらわたし、どんなに嬉しいかしら……」
彼女は立ち上がると、さっとカーテンのかげへかけこんだ。その瞬間彼女の顔に涙が光った(笑いのあとの、ヒステリックな涙であろうか)。わたしは一人とりのこされた。胸が高ぶり、茫然としてなすすべを知らなかった。わたしは彼女に想像もできなかったこのような興奮を、なにに理由を求めたらいいのか、まったくわからなかった。わたしはなにか胸をぎゅっとしめつけられたような気がした。
わたしは五分待った、やがて――十分になった。水底のような静寂に、わたしは不意に恐ろしくなった、そこでわたしは思いきってドアをあけて、呼んでみた。わたしの呼び声にマーリヤが現われて、しごくおちつきはらった声で、奥さんはもうとっくに支度《したく》をされて、裏口から帰られました、とわたしに知らせた。
[#改ページ]
第七章
みごとな肩すかしをくった。わたしは毛皮外套をひっつかむと、歩きながら袖《そで》をとおして、『彼女は父のところへ行けと命じた、しかしどこをさがしたらいいのだ?』と考えながら、外へとびだした。
しかし、なににもまして、一つの疑問がわたしをはげしくとらえていた。『なぜ彼女は、今こそその時がおとずれて、彼が彼女に安らかな憩《いこ》いをあたえてくれるだろう、などと考えたのか? もちろん――彼が母と結婚するからだろうが、しかし彼女はそれをどう思っているのか? 彼が母と結婚することを喜んでいるのか、それとも、そこに彼女の不幸があるのか? だからこそヒステリー気味になったのか? なぜおれはこの疑問を解けないのか?』
わたしがそのときひらめいたこの第二の考えを一字一句をそのままにここに書きとめておくのは、忘れてはいけないからである。これが――重要な点なのである。その晩はわたしにとって宿命的な夜となった。こういうことがあって、宿命というようなものを信じるようになるのかもしれないが、わたしが母の住居《すまい》の方角にむかってまだ百歩も来ないと思われるころ、思いがけなくさがしている当人と出くわしたのである。彼はわたしの肩に手をかけて、ひきとめた。
「おや――おまえじゃないか!」と彼は嬉《うれ》しそうに叫んだ、と同時にひどくおどろいたふうでもあった。「どうだろう、わしはおまえのところへ行ったんだよ」と彼は早口にしゃべりだした、「おまえをさがして、訪《たず》ねてみたんだよ――今こそおまえが全宇宙でたった一人のわしに必要な人間なんだよ! あの家主めがいいかげんなことを言ってわしをひきとめたが、おまえがいなかったので、わしはとびだしてきたのだよ、もどったらすぐわしのところへ来るようにと、おまえに言伝《ことづ》てをたのむのも忘れて――そしたらどうだろう? わしはそれでもこうして歩きながらも、おまえをなによりも必要としている今このときに、運命がおまえをわしのところへよこしてくれぬわけがない、とかたく信じていたんだよ、そしたらこうしてばったり出会ったじゃないか! さ、わしのところへ行こう。おまえはまだ来たことがなかったな……」
要するに、わたしたちは双方とも互いにさがしあっていたのである。わたしたちの双方に、それぞれある似たようなことがおこっていたのである。わたしたちは大急ぎで歩きだした。
途中で彼はごく簡単に、母とタチヤナ・パーヴロヴナにあとをたのんできたことなどを話した。彼はわたしの手をにぎりしめて、せかせかと先にたった。彼の住居はそこからあまり遠くないところにあって、わたしたちはじきに着いた。わたしは実際に彼の住居を見るのははじめてだった。それは三部屋の小さな住居で、例の『乳呑《ちの》み子《ご》』のために彼が借りていたのだった(というよりは、正しくは、タチヤナ・パーヴロヴナが借りていたのである)。この住居はまえからいつもタチヤナ・パーヴロヴナに差配されていて、乳母《うば》と幼な子が住んでいた(今はダーリヤ・オニーシモヴナも住んでいた)。しかし常々ヴェルシーロフの部屋もちゃんと用意されていた。それは――とっつきのかなり広い部屋で、かなりりっぱなやわらかい椅子やソファが置かれていて、読んだり書いたりのしごとをする書斎のようでもあった。実際に、書卓の上や、本箱の中や、重ね棚《だな》の上にたくさんの書物がならんでいた(母の住居のほうには本らしいものはほとんどといっていいほど置いてなかった)。なにやら一面に書きちらした紙やら、手紙の束などもあった――要するに、なにもかもが、もうまえまえから人が住みついていることをものがたっていた。そしてまえにも(ごくまれにではあったが)ヴェルシーロフがどうかするとこの住居のほうへ来て、何週間もいついてしまったことがあったのを、わたしは知っていた。まずまっさきにわたしの目をひいたのは、書卓の上にかかっている、みごとな彫りのある高価な額縁におさめられた母の肖像であった。写真で、もちろん外国でとられたものであろうが、その判が珍しいほど大きなものであるところから考えて、きっとおそろしく高価なものにちがいなかった。わたしはこのような肖像があることは知らなかったし、これまでに聞いたこともなかった、そして、なによりもわたしをおどろかしたのは――その写真の母が異常なまでに似ていることであった、いわば精神的な相似とでもいうのか――要するに、それは画家の手になるほんものの肖像画のようで、機械がうつしたものとは思われなかった。わたしは、部屋へ一歩入ったとたんに、思わずそのまえに立ちどまった。
「そうだろう? そうだろう?」とヴェルシーロフが不意にわたしの耳もとでくりかえした。
つまり、『似てるじゃないか、そうだろう?』という意味である。わたしは彼を振向いた、そしてその顔の表情にびっくりした。彼はいくぶん蒼《あお》い顔をしていたが、しかし熱っぽい、張りのある目は、幸福そうに、力強くきらきら光っていた。彼のこのような表情を、わたしはまだ一度も見たことがなかった。
「あなたがこれほど母を愛してるとは、ぼくは知らなかった!」わたしは言い知れぬ感激につつまれて、思わずこう叫んだ。
彼は幸福そうに微笑した。しかしその微笑にはなにか殉教者めいたものがあった、いやそれよりも、人道主義的な、崇高なものというべきか……わたしにはうまく言いあらわせない。しかし高度の知識人というものは、どうやら、得意満面の幸福を絵に描いたような顔はできないものらしい。わたしの言葉には返事をしないで、彼は肖像を両手でささえて環からはずすと、顔のまえに近づけて、軽く接吻《せつぷん》した、それからまたそっと壁にかけた。
「わかるかな」と彼は言った、「写真というものはごくまれにしか似ないものだ、しかしそれは無理もないさ、だってオリジナルそのものが、つまりわれわれの一人々々がだな、ごくまれにしか自分に似ないのだからな。ごくまれに人間の顔は自分の主要な特徴、つまり自分のもっとも特徴的な思想を表現する瞬間があるものだ。画家というものは顔を研究して、その顔の主要な思想というものを把握《はあく》する、だから、描いているときに、それがまったく顔にあらわれていなくたって、ちゃんと描けるのだよ。ところが写真というものは人間をそのときそのときのあるがままにとらえる、だからナポレオンが、ある写真では、薄のろみたいにうつったり、ビスマルクが――柔和な顔になったりということがありうるのだよ。だがここでは、この肖像写真では、太陽が、まるでおあつらえむきに、ソーニャをその主要な思想があらわれた瞬間においてとらえている。つまり羞《は》じらいと、おだやかな愛と、いくぶん人見知りする、おびえがちな純な心だな。それにあのときはあれはほんとに幸福そうだったよ。うん、とうとう、はっきりと確信したときだものな、わしがなんとしてもあれの肖像をもちたいと渇望していたことをな! この写真はそんなに昔のものではないが、それでもおまえのお母さんは今よりずっと若々しくて、美しかった。しかしそのころでももうこのように頬《ほお》がおちて、額にほらこんな小じわがよって、こんなおびえやすいおどおどした目をしている。このおびえやすさが年とともにますますはげしくなってくるようだ。どうだな、アルカージイ? わしはいまではほかの顔をしたおまえのお母さんを想像することもできないほどだが、しかしかつてはみずみずしくて、実に美しかったときもあったんだよ! ロシアの女というのは早く老《ふ》ける、その美しさはつかのまのまぼろしみたいなものだ、そしてそれは、たしかに、人種的な特徴のせいばかりとはいえない、ひとつには、惜しみなく愛をあたえることができるからだよ。ロシアの女は愛したとなると、なにもかもいちどきにあたえてしまう――瞬間も、運命も、現在も、未来も。出し惜しみということを知らないし、貯《たくわ》えるということを考えない、そして美しさがたちまちのうちに愛する者の中へ流れ去ってしまうのだ。このくぼんだ頬――これもわしの中へ、わしのつかのまの慰みの中へ流れこんでしまった美なのだよ。おまえは嬉しいだろう、わしがおまえのお母さんを愛していたことが、いや、ひょっとしたら、わしが愛していたなんて、信じてさえいなかったんじゃないか? そうだよ、アルカージイ、わしはおまえのお母さんをひじょうに愛していたんだよ、それは、苦しめる以外に、なにもしてやれなかったが……そらここにもう一枚の肖像がある――これも見てごらん」
彼は卓の上からその肖像をとって、わたしに渡した。それも写真で、ずっと型が小さく、うすい卵形の木のわくにはまっていた――胸を病むらしいやせた娘の顔だが、それでもおそろしいほどの美貌《びぼう》であった。もの思わしげな、それでいてふしぎなほどに表情のない顔である。幾世代にもわたってだいじに育《はぐく》まれてきたタイプの端正な顔だちだが、なにか病的な印象をのこすような、いってみれば、どうもがいてもどうにもならぬために、身をけずられるほどに苦しい、ある重い想念に、不意にうちのめされたというような顔であった。
「これは……これが――そのお嬢さんですか、あなたが結婚しようとしたが、肺病で死んだとかいう……あのひとの継娘《ままこ》とかいう?」とわたしはいくぶんおどおどしながら言った。
「そう、結婚しようとしたが、肺病で死んだ、あのひとの継娘だよ。わしはわかっていたよ、おまえが知っていることはな……そうした世間の中傷を。もっとも、そうした中傷のほかには――おまえは知りたくてもなにも知りようがなかったはずだが。どれ、その肖像をおきなさい、アルカージイ、これはかわいそうな気ちがい娘だよ、それだけのことさ」
「完全な気ちがいですか?」
「でなければ、白痴《はくち》だ。しかし、わしに言わせれば、まあ気ちがいだろうな。この娘にはセルゲイ・ペトローヴィチ公爵とのあいだに生れた子供がいた(これは狂気の結果だよ、愛の結晶なんてものじゃない。これは――セルゲイ・ペトローヴィチ公爵の卑劣きわまる行為のひとつだ)。その子供は今ここにいる、そちらの部屋だ。わしはもうまえまえからおまえに見せようと思っていたんだよ。セルゲイ・ペトローヴィチ公爵にはここへ来て子供に会うことを許さなかった。これはまだ外国にいるころにわしが彼と取決めたことだ。わしは子供をひきとったんだよ、おまえのお母さんの許しをえてな。さらにそのときおまえのお母さんの許しをえて結婚しようとした……その……不幸な娘と……」
「いったいそんな許しが考えられるでしょうか?」とわたしはかっと血がのぼって口走った。
「ところが、そうじゃない! おまえのお母さんは許してくれたんだよ。相手が女なら嫉妬《しつと》もしようが、あれは女ではなかった」
「女ではなかった、それは母以外の誰にとってもね! だがぼくは、母が嫉妬しなかったなんて、ぜったいに信じません!」とわたしは叫んだ。
「おまえの言うとおりだ。わしがそれに気づいたのは、もうすべてが終ってしまってからなんだよ。つまりおまえのお母さんが許しをあたえてしまってからだ。しかし、この話はよそう。リーディヤが死んだために、それはそういうことにならなかったんだし、まあ、生きていたとしても、おそらく成立はしなかったろう。ところでおまえのお母さんを、わしはいまでもこの子のところへは来させないんだよ。こんなことは――エピソードにすぎんさ。ところでアルカージイ、わしはまえまえからおまえにここへ来てもらいたかったんだよ。おまえとここで会うことを、どれほど空想していたことか。わかるかい、どれほどか?――もう二年もだよ」
彼は熱い心をむきだしにぶっつけて、真実をこめてしみじみとわたしを見つめた。わたしは彼の手をにぎりしめた。
「じゃどうしてためらっていたんです、どうして早く呼んでくれなかったんです? ああ、どんなことがあったか、あなたが知ったら……もっと早くぼくを呼んでくれたら、こんなことはなかったはずなのに!……」
そのときサモワールが運ばれてきた。そしてダーリヤ・オニーシモヴナが思いがけなく眠っている子供を抱いて入ってきた。
「そらごらん」とヴェルシーロフは言った、「わしはこの子が好きなんだよ、だから今連れてくるように言ったんだよ、おまえにも見せようと思ってな。さあ、もういいから連れてゆきなさい、ダーリヤ・オニーシモヴナ。さ、サモワールのまえに坐ろうじゃないか。こうしてると、わしはいつもおまえといっしょに暮して、毎晩こうしていっしょにサモワールを囲んでいたような気がするんだよ。どれ、わしにおまえの顔を見させてくれ、そうそうそこに坐ってくれ、わしからよく見えるようにな。わしはおまえの顔が大好きなんだよ! おまえがモスクワから来るのを待っていたころ、どれほどわしはおまえの顔を想像したろう! なぜもっと早く呼んでくれなかった、とおまえは訊いたな? まあ待ちなさい、それは、きっと、もうじきわかるから」
「でも、あの老人が死んだというだけで、あなたの舌がこれほどほぐれたんでしょうか? なんだか変な気がしますね……」
しかし、こんなことは言ったが、わたしの目は愛情をこめて彼に向けられていた。わたしたちは、高い充実した意味で、二人の親しい友として語り合っていた。彼はなにかをわたしに説明し、語り、そして釈明するために、わたしをここに連れてきたのだが、しかし、言葉で言うまえに、もうすべてが解明されていた。わたしは今どんなことを聞かされても――結果はもうわかっていた、そしてわたしたちはもうそれを知って幸福感にひたっていたから、こうして喜びにぬれた目をじっと見交わしていたのである。
「あの老人の死というわけでもないさ」と彼は答えた、「死だけではないよ。もうひとつある、それがちょうど一点に合致したんだよ……ああ、神よ、この瞬間とわしらの生活に末永く祝福あれ! 愛するアルカージイ、まあ語ろうじゃないか。わしはどうも気が散って、そっちこっちへひっかかりすぎていけない、ひとつのことを話そうと思うのだが、じきにこまかい脇道《わきみち》にそれてしまう。心がいっぱいになってると、いつもこうなんだよ……とにかく語ろうじゃないか。やっとその時がきたんだよ、しかしわしはまえまえからおまえが好きでたまらなかったんだよ、アルカージイ……」
彼は肘掛椅子《ひじかけいす》の背にそりかえって、あらためてわたしを見まわした。
「ふしぎだなあ! ほんとにふしぎですよ、こんなことを聞くなんて!」とわたしは感激にひたりながら、くりかえした。
すると、おぼえているが、彼の顔に不意にいつもの影がちらと走った――哀愁と嘲笑《ちようしよう》をないまぜたような、わたしにはもうあまりにも見馴《みな》れた彼の癖である。彼はぐっと顔をひきしめると、いくらか緊張したようなおももちで口を開いた。
「つまりだね、アルカージイ、もしわしがもっとまえにおまえを呼んだとしても、おまえになにを言うことができたろう? この問いの中にわしの答えのすべてがあるんだよ」
「つまりあなたが言いたいのは、あなたは今は――母の良人《おつと》で、ぼくの父だが、以前には……社会的地位についてぼくになんと言ってよいかわからなかった、というんですね? そうでしょう?」
「そればかりではないんだよ、アルカージイ、おまえになんと言っていいかわからなかったのは。そのほかたくさんのことについて、だんまりを決めこまなきゃならなかったろうよ。そこにはまるで奇術みたいで、滑稽な卑しいことさえたくさんあるんだよ。まったく、大道芸人の底のわれた奇術みたいなものだ。それに、いったいどうしてわしらが互いに理解しあえるわけがあったろう、だって、おまえ、わし自身が自分というものがわかったのが――やっと、今日のことなんだよ。午後の五時、ちょうどマカール・イワーノヴィチが死ぬ二時間まえのことなんだよ。おまえは不愉快そうな疑惑の目でわしを見ているようだな? 心配せんでいいよ、わしがありのままに説明してやるから。だが、今わしが言ったことは、決してうそじゃないんだよ。これまでの全生涯を放浪と疑惑の中にすごしてきて、突然――某月某日の午後五時に、それがすっかり解決する! むしろ屈辱だ、そうじゃないかね? もうすこし以前のわしなら、それこそ腹がたったにちがいないさ」
わたしは実際にいたましい疑惑の思いで聞いていた。以前のヴェルシーロフの癖が強く前面に出てきた。これは、もうあのような言葉を聞かされたあとだけに、その夜はなんとしてもわたしが見たくないものであった。わたしは不意に叫んだ。
「さては! あなたはなにか受取りましたね、あのひとから……五時に、今日?」
彼はじっとわたしを見つめた。明らかに、わたしの叫びにぎくりとしたようすだった。ひょっとしたら、わたしの『あのひとから』という言葉におどろいたのかもしれない。
「おまえはなんでもわかるな」と彼はしずかに苦笑しながら、言った、「だから、もちろん、わたしは、必要なことは、かくしはしない、そのためにおまえをここへ連れてきたんだからな。だがそれはしばらくおこう。ねえ、アルカージイ、わしはもうまえから知っていたんだが、わがロシアには、父親の醜いおこないや環境の冷たさによって辱しめを受けて、もう小さい子供のころから家庭というものにひがみをもっている子供たちが多い。わしはまだ小学校に行っている時分に、もうそういう子供たちを見ていたが、そのころは、それは彼らがあんまり早くから羨《うらや》ましがるからだと思っていた。ところが、その後、わし自身もそうした子供たちの一人になって、おや……ごめんよ、アルカージイ、わしはどうも気が散っていかん。わしはただ、このごろずっといつもここでおまえのことを案じてばかりいたのだ、と言おうと思ったんだよ。わしはいつも、おまえはそうした子供たちの一人だが、しかし自分の才能を自覚して、孤独に徹しきろうとしているような人間なのだ、と想像していたんだよ。わしも、おまえのように、決して友だちを愛したことがなかった。自分の力と空想だけに頼ることを余儀なくされて、正しく美しくありたいとする、あまりにも早く目ざめすぎた、はげしい、ほとんど復讐的と言えるほどの――そう、たしかに復讐的なだ――渇望に身を焼いている、そうした少年たちは不幸だよ。でも、もういいじゃないか、アルカージイ、わしはまた脇道へそれてしまった……わしはまだおまえを愛しはじめるまえから、もうおまえという人間と、おまえの孤独な、人間ぎらいな空想を想像していたんだよ……でも、もうよそう。わしは、実のところ、なんの話をはじめたのやら、忘れてしまったよ。とはいえ、やっぱりこれは言っておかにゃいかんことだ。これが以前なら、わしはいったいなにをおまえに言うことができたろう? ところが今はわしは、わしに向けられたおまえの目を見ると、わしの息子がわしを見ていることがわかるんだよ。だが、昨日でさえまだわしは、いつか、今日のように、こうしてわしの息子と向い合って話をする日が来ようとは、信じることができなかったんだよ」
彼はたしかにひどく散漫になったが、それと同時になにかに強く感動しているらしいようすが見えた。
「ぼくは今は夢も空想も要《い》りません、ぼくにはあなただけで十分です! ぼくはあなたのあとについてゆきます!」とわたしは心のすべてを彼に委《ゆだ》ねながら、言った。
「わしのあとに? だがわしの放浪はちょうど終ったところだよ、ちょうど今日な。ちょっとおそかったよ、アルカージイ。今日が――最後の場のフィナーレで、もう幕が下りかかっている。この最後の場はかなり長びいた。はじまったのはもうずいぶんまえになる――つまりわしが最後に外国へ逃避したときだ。わしはそのときなにもかも捨てた。おどろくだろう、アルカージイ、わしはそのときおまえのお母さんと別れて、それを自分ではっきりおまえのお母さんに宣告したんだよ。これをおまえは知っておかなくちゃいけない。わしはそのとき、これきり外国へ亡命する、もう二度と会うことはあるまい、ときっぱりと言明したんだ。なによりもわるいのは、そのときわしが彼女に金をのこすことさえ忘れたことだ。わしはヨーロッパにとどまって、二度と祖国へもどらないつもりで、去ったんだよ、アルカージイ。わしは亡命するつもりだった」
「ゲルツェンのところへですか? 国外からの宣伝に参加するつもりだったんですか? あなたは、きっと、一生なにかの陰謀に加わっていたんでしょう?」とわたしはこらえきれなくなって、叫んだ。
「いや、アルカージイ、わしはどんな陰謀にも参加したことはない。おや、おまえ、目までぎらぎらさせてるじゃないか。わしはおまえの叫ぶ声が好きなんだよ、アルカージイ。そうじゃない、わしはたださびしさから逃《のが》れようとしただけだ、不意におそわれたさびしさから。これはロシアの貴族の憂愁《トスカ》だよ――そのとおりだ、これよりうまくは言えんな。貴族の憂愁《トスカ》――それだけのことさ」
「農奴制度……人民の解放、ですね?」とわたしは息をはずませながら、つぶやきかけた。
「農奴制度? おまえは、わしが農奴制度を惜しんだと思うのかね? わしが人民の解放に堪えられなかった? おお、とんでもない、アルカージイ、われわれこそ解放の主張者だったんだよ。わしが亡命したのは別になんのうらみも怒りもあったからではない。わしはその直前まで土地調停員だった、そしてそのしごとに全力をつくした。私心を去って奔走したものだ、そして外国へ去ったのだが、それはわしの自由主義に対して報いられるところがほとんどなかったという理由からでもない。われわれはみんなあのころはなんの報酬も受けなかった、といってこれも、わしのような連中のことだがな。わしは悔恨というよりは、むしろ誇りをもって去ったのだよ、そして、信じてもらいたいが、いよいよわしもささやかな靴屋にでもなって生涯を終る時代がきた、などというみじめったらしい考えは毛頭もたなかったよ。Je suis gentilhomme avant tout et je mourrai gentilhomme!(わしはなによりもまず貴族だ、貴族として死のう!)とはいえ、やはりさびしかったな。わしのような人間がロシアには、まあ千人はいたろうな。たしかに、まあそれ以上はいなかったかもしれんが、しかし、思想を死滅させないためには、それくらいいれば十分じゃないか。われわれは――思想の保持者なんだよ、アルカージイ! おかしいかな、わしはこんなくだらんおしゃべりをおまえがすっかり理解してくれるだろうと、妙な希望をもって話してるんだが。わしがおまえを呼んだのは、わしのわがままからだ。わしはもうまえまえから空想していたんだよ、わしがなにかをおまえに語るさまを……おまえに、他の誰でもなくおまえにだ! ところが……そのくせ……」
「いいえ、話してください」とわたしは叫んだ、「あなたの顔にはまだ誠心があらわれています……それでどうでした、ヨーロッパはそのときあなたを復活させてくれましたか? それから、あなたのいう貴族の憂愁《トスカ》とはなんのことですか? ごめんなさい、お父さん、ぼくはまだわからないんです」
「ヨーロッパがわしを復活させたかって? でもそのときは、こっちがヨーロッパを葬りに行ったんだよ!」
「葬りに?」とわたしはびっくりしておうむ返しに言った。
彼はにやりと笑った。
「アルカージイ、今わしの心はふにゃふにゃにやわらいでしまった、だからわしは自分の心に腹がたっているんだよ。わしはあのときのヨーロッパの最初の印象をぜったいに忘れることができない。わしはまえにもヨーロッパに暮したことはあったが、そのときは特別の時代で、わしはあちらの土を踏んで、あれほどの喜びのない憂愁と……同時に深い愛情を感じたことは、かつてなかったほどだ。そのときのわしの最初の印象のひとつを、おまえに聞かせよう。これはわしのそのときのひとつの夢だ、現実の夢だよ。それは――まだドイツでのことだった。ドレスデンを出てまもないころ、わしはうっかりして乗換えの駅を乗りすごして、汽車は別な線に入ってしまった。わしはすぐに下ろされた。午後の二時すぎで、明るく晴れわたった日だった。そこは小さなドイツの田舎町《いなかまち》だった。わしはホテルをおしえられた。つぎの汽車は夜の十一時に通るので、それまで待たなければならなかった。別にどこへ急ぐという旅でもなし、わしはかえってこの思いがけぬできごとに喜びをさえ感じた。わしはぶらぶらと足の向くままに歩きまわった。おしえられたホテルはきたない小さな宿だったが、みどりの木立ちにつつまれ、ドイツのホテルはみなそうだが、まわりが花壇で囲まれていた。わしは狭苦しい部屋をあてがわれたが、昨夜は一晩中汽車にゆられとおしたので、食事をすますと、午後の四時だというのにぐっすり寝こんでしまった。 そこでまったく意外な夢を見たんだよ。なにしろそれまでに一度も見たことのないような夢なんだ。ドレスデンの美術館に、クロード・ローランの絵がある、カタログによると――『アシスとガラテヤ』というんだが、わしはいつもそれを『黄金時代』と呼んでいた。なぜそう呼んでいたのか、それは自分でもわからんのだがね。わしはもうまえにも見ていたが、そのときも、三日ほどまえに、通りがかりにちらと眺《なが》めてきた。その絵がわしの夢に現われたんだが、それが絵としてではなく、実際にあったこととしてなんだよ。とはいうものの、いったいその夢がなんだったのか、わしにはよくわからんのだ。ちょうど絵にあると同じように――ギリシアのエーゲ海の一角で、しかも時代も三千年もまえのことらしいのだよ。青いおだやかな波、大小の島々や奇岩、花咲きみだれる岸辺、まぼろしのような遠景、招きよせるような沈みゆく夕陽《ゆうひ》――とても言葉では伝えられないようなすばらしい美しさだ。ここにヨーロッパの人間たちは自分の揺籃《ゆりかご》の記憶を見出《みいだ》したんだな、そしてそう思うと、わしの心も遠い祖先への愛で充たされたような気がした。そこは人類の地上の楽園だった。神々が天より舞い下りて、人々と結ばれた……おお、そこには美しい人々ばかり住んでいた! 人々は幸福に清らかに、目ざめ、そして眠った。草原や茂みは彼らのうたごえや、明るい喚声で充たされた。ありあまる豊かな力が愛と素朴な喜びについやされた。太陽はその美しい子たちを愛《め》でながら、熱と光をいっぱいにそそぎかけた……これは人類のすばらしい夢だ、高遠な憧《あこが》れだ! 黄金時代――これはかつてあったあらゆる憧憬《どうけい》の中のもっとも非現実的な夢想だ、だがその実現のために人々はその生涯と力のすべてを捧《ささ》げ、そのために予言者たちが生命を失い、またそれがなければあらゆる民族が生きることを望まず、死ぬことさえできないのだ! こうしたすべてのことを、わしはこの夢の中でまざまざと感じたのだよ、実感として体験したのだよ。奇岩と海、沈みゆく夕陽の斜光――そうしたすべてを、わしは夢からさめて、目をあけてからも、わしはまだ目のまえに見ているような気がした、文字どおり涙にぬれたわしの目に、まだ映っているような気がした。おぼえているが、わしは幸福に充たされていた。わしにはまだ未知の幸福の感触が、痛いまでに、わしの心にしみとおった。それは全人類の愛だった。外はもうすっかり夕暮れになっていた。わしの小さな部屋の窓から、そこに並べてある草花のみどりの葉をとおして、一筋の斜光が流れこんできて、わしの体を光でぬらした。そしてこれが、アルカージイ、これが――わしが夢にみたヨーロッパ人たちの最初の日のこの沈みゆく太陽が、わしが目ざめるとすぐに、わしにとって、現実には、ヨーロッパ人たちの最後の日の沈みゆく太陽に変ってしまったのだよ! そのころはヨーロッパの空に葬送の鐘の音が特にはげしくひびきわたっていた。わしは戦争のことだけを言っているのでもないし、テュイルリー宮殿のことを言っているのでもない。わしはそれでなくても知っていたよ、すべてが過ぎ去ってしまうことをな、ヨーロッパの古い世界のすべての栄光が――おそかれ、早かれ、消え失《う》せてしまうことをな。でもわしは、ロシアのヨーロッパ人として、それを許すことができなかったのだよ。そう、彼らはそのころテュイルリー宮殿を焼きはらったばかりだった……ああ、心配しなくてもいいよ、わしは知ってるんだよ、それが『論理的』に正しかったことをな、さらに現在のイデーが絶対であることも、わかりすぎるほどわかってるんだよ、だが、ロシアの最高の啓蒙《けいもう》思想の保持者として、わしはそれを許すことができなかったのだ。だって、最高のロシア思想はあらゆるイデーの総和じゃないか。そしてそのころ世界中の誰がこのような思想を理解しえたろう。わしは一人でさまよい歩いた。わし個人のことを言っているのではない――わしはロシア思想のことを言ってるんだよ。罵《ののし》りあいと屁理屈《へりくつ》のこきあいがあるばかりだった。フランス人は単にフランス人にすぎなかったし、ドイツ人は単にドイツ人にすぎなかった、そしてそれが彼らの歴史にかつてなかったほど緊迫しきっていたのだ、つまりその時代ほどフランス人がフランスを信じ、ドイツ人がドイツを信じたことは、かつてなかったのだよ! そのころはヨーロッパ中に一人のヨーロッパ人もいなかったのだ! わし一人だけが、放火犯人どものあいだにあって、テュイルリーは――まちがいだと、面とむかって言うことができたのだ。わし一人だけが、保守派の復讐者《ふくしゆうしや》たちのあいだにあって、テュイルリーは――犯罪ではあるが、やはり論理的には正しいのだ、と言うことができたのだ。それはな、アルカージイ、わし一人だけが、ロシア人として、そのころヨーロッパにあったただ一人のヨーロッパ人だったからなのだよ。わしは自分のことを言ってるのではない――ロシア思想ぜんたいのことを言ってるんだよ。わしはさまよい歩いた、アルカージイ、さまよい歩いたよ、そして黙してさまよい歩くほかはないと、覚悟を決めたのだ。でもやはりわしは悲しかった。わしはな、アルカージイ、自分の貴族たることを尊重せずにはいられないのだよ。おや、おまえは笑ってるようだな?」
「いいえ、笑ってません」とわたしは感動にぬれた声で言った、「決して笑いなどしません。あなたは黄金時代の夢でぼくの心をゆさぶりました、そして信じてください、ぼくはあなたがわかりはじめてきたような気がするのです。でも、なによりもぼくが嬉しいのは、あなたがそれほど自分を尊重していることです。ぼくは急いでこれをあなたに言いたいのです。あなたがそういう人だとはぼくは夢にも思いませんでした!」
「わしはさっき言ったろう、アルカージイ、おまえの喚声が大好きだって」と彼はまたわたしのナイーヴな喚声に微笑した、そして立ち上がると、自分でもそれに気づかないようすで、室内を行き来しはじめた。わたしも腰をうかした。彼はまた独特の奇妙な言葉で話をつづけた、しかしその言葉には深い思想がしみとおっていた。
「そうだよ、アルカージイ、くりかえして言うが、わしは自分の貴族たることを尊重せずにはいられないのだよ。わが国には何世紀もかかってまだどこにも見られないようなある高い文化的タイプが創《つく》りあげられたのだ。それは世界のどこにもないタイプで――いわば万人の苦悩を背おう世界苦のタイプだ。これは――ロシア人のタイプだが、ロシア民族の高い文化層の中から生れたものだから、つまり、わしもそれに属する光栄をもつわけだ。このタイプに属する人々がロシアの未来を内に保持しているわけだ。われわれの数は、せいぜい千人ぐらいのものかもしれぬ――あるいは、もっと多いかもしれんし、あるいは、少ないかもしれん――いずれにしても全ロシアがここしばらくは、ただこの千人を育てあげるためにのみ生きているのだ。あるいは人々は――少ないと言って、それぽっちの人間を創るために何百年の歳月と何百万の人々をついやしたのか、と憤慨するかもしれん。しかしわしに言わせれば、少なくはない」
わたしは緊張して聞いていた。確信が、全生涯の方向が表面に出た。この『千人』があざやかに彼を浮き彫りにしてみせた。わたしに対する彼のこのような開放的な態度が、ある外的な刺激によって生み出されたことを、わたしは感じていた。彼がこのような熱烈な持論をわたしに語ったのは、わたしを愛しているからだろうが、しかしなぜ彼が突然語りだしたのか、そしてなぜこのようにほかならぬわたしに語ることを望んだのか、その理由はやはりわたしには謎《なぞ》としてのこった。
「わしは亡命した」と彼はつづけた、「そしてわしは過去になんの心のこりもなかった。わしの力のおよぶことはすべて、ロシアにいたあいだに、わしはロシアに捧げつくした。国を出てからも、わしはやはりロシアにつくすことをつづけた、しかしただイデーをひろげただけのことだ。しかし、こうしてロシアにつくすことによって、そのころフランス人が単にフランス人であり、ドイツ人が単にドイツ人であったように、わしが単にロシア人であったときよりも、はるかに多く祖国につくしたのだ。ヨーロッパにはまだしばらくはこうしたタイプは生れまい。ヨーロッパはフランス人、イギリス人、ドイツ人の高潔なタイプは創《つく》りだしたが、その未来の人間についてはまだほとんどなにもわかっていない。それに、ここしばらくは知りたくもないらしい。それも無理はない。彼らには自由がないのだからな。わしらは自由だが。そのころヨーロッパでわし一人だけが、ロシアの憂愁《トスカ》を胸にいだいて、自由な人間だったのだよ。
考えてごらん、アルカージイ、おかしなことじゃないか。フランス人が自分の祖国フランスにばかりか、広く全人類にまで仕えることができるのは、純粋にフランス人になりきるという条件の下においてのみなのだよ。同じことが――イギリス人にも、ドイツ人にも言える。ロシア人だけが、われわれの時代にすら、つまり総計がなされるはるか以前にということだが、すでに、もっともヨーロッパ人になりきるときにのみ、もっともロシア人になりきるという能力を取得したのだよ。これこそが、わがロシア人が他のすべての民族と異なるもっとも本質的な国民的特徴で、この点についてはわれわれは――世界のどこにもないものをもっているのだ。わしはフランスにいれば――フランス人だ、ドイツ人とともにあれば――ドイツ人だ、古代ギリシア人のところへかえれば――古代ギリシア人になる、そしてそのこと自体によってもっともロシア人になりきっているのだよ、というわけでわしは――真のロシア人で、もっともロシアのためにつくしているわけだ。ロシアの根本思想を誇示しているわけだからな。わしは――この思想のパイオニアだ。わしはそのころ亡命したが、はたしてロシアを捨てたろうか? いや、わしはロシアに仕えつづけたのだ、たといわしがヨーロッパでなにもしなかったとしても、ただ放浪に行ったにしてもだ(そう、ただ放浪に行くだけのことは、わしも承知していたさ)、しかしわしがその思想と意識をもっていったということだけでもう十分だ。わしはわしのロシアの憂愁《トスカ》をヨーロッパへもちこんだのだ。おお、あのときわしをあれほど恐怖させたのは、当時の流血ばかりでもないし、テュイルリーでさえなかった、そのあとに来るはずのすべてのことなのだ。彼らはまだ長くたたかうことを運命づけられていたのだよ、なぜなら、彼らは――まだあまりにもドイツ人だったし、あまりにもフランス人だった、そしてその役柄における自分たちのしごとをまだ終っていなかったからだ。だがそれまでに破壊されてしまうのが、わしには惜しいのだよ。ロシア人にとってはヨーロッパは、ロシアと同じくらいに貴重なのだ。そのひとつひとつの石が愛《いと》しいし、貴いのだ。ヨーロッパは、ロシアとまったく同じに、わしらの祖国だった。おお、それ以上だよ! わしはヨーロッパを愛する以上には、ロシアを愛することができない。だがわしは、ヴェニスや、ローマや、パリが、彼らの科学と芸術の宝、彼らの全歴史が――わしにはロシアよりも愛《いと》しいからといって、わしは決して自分を責めたことはなかった。おお、ロシア人にとってはこれらの古い他人の石が、これらの古い神の世界の奇蹟《きせき》が、これらの古い奇蹟の跡が、どれほど貴重なことか! これがわれわれには、彼ら自身にとってよりも、もっともっと貴重でさえあるのだ! 彼らには今別な感情と別な思想がある、そして彼らは古い石を尊重することをやめてしまった……保守主義者たちはひたすら生きるたたかいにきゅうきゅうとし、放火犯人どもはただ権利のために鵜《う》の目|鷹《たか》の目になってるしまつだ。ひとりロシアのみが自分のためにではなく、思想のために生きているのだ。おまえも認めるだろうね、アルカージイ、この輝かしい事実を! ロシアは、もうほとんど百年というもの、まったく自分のためにではなく、ただヨーロッパのためにのみ生きてきたのだ! だが、彼らは? おお、彼らには、神の王国を達成するまえに、恐ろしい苦悩が運命づけられているのだよ」
実を言うと、わたしは聞きながらすっかりとまどいを感じていた。彼の言葉の調子までがわたしを狼狽《ろうばい》させた。もっとも、その思想にもおどろかざるをえなかったが。わたしは苦しいまでに虚偽をおそれていた。不意にわたしは切りつけるような声で言った。
「あなたは今『神の王国』と言いましたね。ぼくは聞きましたよ、あなたはあちらで神を説いたそうですね、鉄鎖をつけていたそうですね?」
「鉄鎖の話はよそう」と彼はにやりと笑った。「それはぜんぜん別なことだ。わしはそのころはまだなにも説いたりはしなかった、しかし彼らの神を慕って悩んではいた、それは――ほんとうだよ。彼らはそのころ無神論を唱えた……ほんの一にぎりの連中だが、しかしそれは同じことだ。それは単に出だしの助走にすぎんが、しかしやはり最初の真剣な一歩だった――それが重大なのだよ。ここにもまた彼らの論理がある、しかし論理には常にふさぎの虫というやつがつきものだ。わしは別な文化の中に育った人間だ、だからわしの心はそれを許せなかったのだよ。それは忘恩というものだ、彼らがイデーと縁を切ったその忘恩、彼らがなげつけた口笛や土くれ、これがわしにはがまんがならなかったのだよ。泥靴で踏みにじるような過程がわしをおびえさせた。もっとも、現実というものは常に、理想への輝かしい突進においてさえ、泥靴でよごされるものだ。もちろんわしも、そのくらいのことは知らないわけがなかったが、しかし、なんといってもわしは別なタイプの人間だった。わしは選択が自由だが、彼らはそういうわけにはいかん――それでわしは泣いたんだよ、彼らのために泣いたのだ、古いイデーを惜しんで泣いたのだ、そしてそれはおそらく、言葉のあやをぬきにして、ほんとうの涙だったろうよ」
「あなたはそれほど強く神を信じていたんですか?」とわたしは信じられぬ思いで訊いた。
「アルカージイ、それは――訊かんでもいい質問のようだな。仮に、わしがそれほど信じていなかったとしても、やはりわしはイデーを惜しんで泣かないわけにはいかなかったろうな。わしはときどき、神がなくて人間がどんなふうに生きていくのだろう、いつかそんなことの可能な時代が来るのだろうか、と考えてみないわけにはいかなかった。わしの心はそのたびに不可能だという結論をくだしたよ。しかし、ある時期がくれば可能かもしれない……わしだって、そういう時期がくるであろうことは、疑いもしない。しかしその裏からわしはいつも別な光景を想像していたんだよ……」
「どんな光景です?」
もっとも、彼はもうすでに自分は幸福だと言いきっていた。もちろん、彼の言葉には多くの感激があった。そのとき彼が語ったことの多くを、わたしはこのように解している。わたしはこの人物を尊敬しているから、そのとき語り合ったことをのこらず今ここに再現するのは、やはりはばかるが、しかしそのとき彼の口から聞きだすことができたいくつかの奇妙な事実は、ここに述べておきたいと思う。特に、これまでずっと常にわたしを悩ましつづけてきたのは例の『鉄鎖』だった、そこでわたしはそれを明らかにしたいと思って、しつこく彼にくい下がった。そしてそのとき彼が口にしたファンタスチックな、極度に奇妙ないくつかの思想が、永遠にわたしの心の中にのこった。
「わしはこう思ったんだよ、アルカージイ」と彼は考えこむようにしずかな微笑をうかべながら言いだした、「もう戦いは終り、闘争はおさまった。呪詛《じゆそ》と、土くれと、口笛のあとから、気味わるいほどの静寂がおそってきた。そして人々は望みどおりに、一人ぼっちになった。以前の偉大な思想は彼らを見捨てた。それまで彼らを養い、そしてあたためてきた偉大な力の泉が、クロード・ローランの絵のあの荘厳な招く夕陽のように、去ろうとしている、しかもそれがもはや人類の最後の日のようであった。すると人々が不意に、完全に一人ぼっちにとりのこされたことをさとって、急に深い孤独感におそわれたのだ。なあ、アルカージイよ、わしは人間が恩を忘れて、ばかになってしまうなどとは、どうしても考えることができなかった。孤独になった人々はすぐにまえよりもいっそう緊密に、いっそう愛情をこめて、互いに体をよせあうにちがいない。今はもう彼らだけがお互いにとってすべてなのだとさとって、手を結びあうにちがいない。不滅の偉大な理想が消えてしまったのだから、なにかそれに代るものを見つけなければならない。そこで不滅なるものに注がれていたそれまでのありあまる愛が、自然に、世界に、人々に、すべての草木に向けられることになるだろう。彼らは大地と生活を際限なく愛するようになろう、そしてそのうちにしだいに、もう以前の愛とはちがう特別の愛によって、限りある自分の生命のはかなさを自覚してゆくにちがいない。彼らは以前には想像もしなかったような現象や神秘を、自然の中に認めたり、発見したりするようになるだろう、というのは愛する者が愛の対象を見るまったく新しい目で自然を見るからだよ。彼らは目がさめた思いで、生命の日が短く、しかもそれが彼らにのこされたすべてであることを自覚して、急いで互いに接吻しあい、急いで愛しあうようになるだろう。彼らは互いに互いのためにはたらきあい、そして各人が万人に自分のすべてをあたえて、それを幸福と思うようになるだろう。一人々々の子供が、地上のすべての人々が――自分の父であり母であると知り、そして感じるようになるだろう。『たとい明日がわたしの最後の日でもかまわない』と各人が沈みゆく太陽を眺めながら考えるにちがいない、『同じことだ、わたしが死んでも、彼らがのこる。そして彼らのあとには彼らの子供たちがのこるんだ』。そして彼らがのこるのだという考えが、たえず互いに愛しあい、案じあっているうちに、あの世でのめぐりあいという思想にかわっていくはずだ。おお、彼らはその心の中の大きな悲しみを消すために、急いで愛しあうことだろう。彼らは自分のためには誇り高く、そして大胆になるだろうが、お互いのためにはひどく臆病《おくびよう》になるだろう。各人がそれぞれ他人の生活と幸福のためにひどく気をつかうようになり、そしてお互いに相手に対してやさしくなって、今のように、互いに相手を子供みたいに愛撫《あいぶ》しあうことを恥じなくなるだろう。会えば、互いに理解ある深い目で見つめあい、その目には愛と愁《うれ》いがこもっている……」
「アルカージイ」と彼は不意ににこにこ笑いながら、話をたち切った、「これはみな――幻想だよ、しかももっともありそうもない夢だよ。でもわしはたえずといっていいほどこれを想像したものだ、というのはわしはこれまでの生涯を、この夢がなしには、これを考えないでは、生きてこられなかったからだよ。わしは自分の信仰のことを言っているのではない、わしの信仰などは浅いものだし、わしは――理神論者だ、われわれの千人と同じように、哲学的理神論者だよ、わしはそう思っている、ところが……ところがおかしなことに、わしの幻想は必ず、ハイネのそれのように、『バルチック海のキリスト』で終るんだよ。わしはどうしてもキリストを避けることができない、最後に、孤独になった人々のあいだに、キリストを想像しないではおられないのだよ。キリストが彼らのまえに現われ、両手をさしのべて、『どうしておまえたちは神を忘れることができたのだ?』と言うのだよ。するとすべての目からおおいがとれたようになって、はっと迷いからさめて、最後の新しい復活の偉大な感激の讃歌《さんか》が高らかにひびきわたる……
これはこのくらいでよそう、アルカージイ、ところでわしの『鉄鎖』だが――あんなものはばかげた話さ。心配するほどのことではない。それからもうひとつ言っておくが、おまえは知っているかどうか、わしは人まえでしゃべるのが苦手で、言葉にえらく潔癖なたちなんだよ。今こんなにしゃべってるが、これは……さまざまな感情が胸にあふれたのと、それに相手が――おまえだからだ、他の誰にも決してこんなにしゃべりはしない。おまえを安心させるために、一言つけくわえておくよ」
しかしわたしは感動にうたれていた。わたしが恐れていた虚偽はなかった、そしてわたしが嬉しくてたまらなかったのは、彼がたしかに神を思慕して苦悩し、実際に、疑いもなく、多くの人々を愛したことが、はっきりとわかったことであった――そして、これがわたしにはなによりも貴いものであった。わたしは夢みるような心地でそれを彼に言った。
「でも、やはり」とわたしは急につけくわえた、「ぼくは思うのですが、あなたの苦悩はそれは大きいものでしたでしょうが、あなたはそのとききっとこのうえなく幸福だったでしょうね?」
彼は楽しそうに大きく笑った。
「おまえは今日は特に冴《さ》えたことを言うね」と彼は言った。「そのとおりだ、わしは幸福だった、それにこのような憂愁《トスカ》をもっていながら、不幸であるわけがないじゃないか? われわれ千人の中で、ロシア人でヨーロッパを放浪していた者ほどの自由で幸福な者はないよ。これは、ほんとに、まじめに言ってるんだよ、ここにはたくさんの重要な思想がふくまれているんだよ。うん、わしは他のいかなる幸福も憂愁《トスカ》に見かえようとは思わない。この意味でわしは常に幸福だったよ、アルカージイ、全生涯を通じてな。そしてその幸福のために、あのときわしは生れてはじめておまえのお母さんを愛したんだよ」
「生れてはじめてですって?」
「そのとおりだよ――はじめてだ。憂愁につつまれて放浪しているうちに、わしは急にかつてなかったほど彼女が愛《いと》しくなった、そこですぐに彼女を迎えにやったんだよ」
「おお、その話をしてください、お母さんのことを聞かせてください!」
「うん、わしがおまえを呼んだのはそのためなんだよ、わかるかい」と彼は楽しそうに笑った、「わしはもう心配してたのさ、おまえがゲルツェンとかその他なにやらの陰謀のために、お母さんに対するわしの罪を許してくれたんじゃないかとな……」
[#改ページ]
第八章
わたしたちはその夜はおそくまで話し合っていたのだから、その話をすっかりここに記述することはとてもできないが、彼の生活の中でひとつの謎《なぞ》となっていた点で、ついにわたしに明らかになったことだけを述べておこう。
まず最初に言っておきたいのは、しかもこれはわたしにとっていささかの疑いもないのだが、彼が母を愛していたということである。彼が母を捨て、母と離別して外国へ去ったのは、もちろん、すっかりふさぎの虫にとりつかれたか、あるいはなにかそれに類似した理由があったからで、しかもこれは世の中の誰にもあることで、いつの場合も容易に説明のできることではない。外国で、といってかなりの時間がたってから、彼は急にまた母を遠くから、つまり想像の中で、愛《いと》しくてたまらなくなって、母のところへ迎えの人をやった。あるいは人は、『むら気を起したのさ』と言うかもしれない、しかしわたしはそうは思わない。わたしの考えでは、明らかにのらくら者の気まぐれもあろうが、そしてそれをわたしもある程度は認めるが、しかしやはりそこには人間の生活において厳粛と言いうるものがすべてふくまれていたと思うのである。しかし誓って言うが、わたしは彼のヨーロッパ的憂愁を疑惑の外におくし、鉄道建設というような現代の実社会的活動と同列どころか、それよりもはるか上におきたい。人類に対する彼の愛を、わたしはいっさいのまやかしのない、もっとも真実な深い感情であると認める。また母に対する彼の愛は、いくぶんファンタスチックなところがあるかもしれないが、しかしまったくいつわりのないものであろうと思っている。外国にあって、『憂愁と幸福』の中で、もうひとつつけくわえるならば、きびしい修道僧的な孤独な生活の中で(このことはわたしが後日タチヤナ・パーヴロヴナから聞いたのである)、彼は急に母を思い出した――ほかでもない、母の『こけた頬《ほお》』を思い出したのである、そしてすぐに母に迎えの人をやった。
「ところがアルカージイ」とそのうちに不意に彼が言った、「わしは翻然とさとったんだよ、わしが思想に奉仕していることが、道徳的・理性的存在としてのわしを、わしが生きつづけていくうえにおいてせめて一人でも人間を実際に幸福にしなければならぬ義務から、ぜんぜん解放してくれるものではないということをな」
「いったいそんな机上の理論がすべての原因だったのですか?」とわたしは不審な思いで訊《たず》ねた。
「これは――机上の理論ではないよ。だがしかし――そうも言えるかもしれん。ここには、しかし、すべてがいっしょくたになっているんだな。しかしわしはおまえのお母さんを実際に、真剣に愛したんだよ、机上の理論などではない。そのように愛さなかったら――わざわざ呼びよせたりはしなかったはずだ。もしそれが頭の中で考えだしたものなら、手っとり早くそこらのドイツ人の男か女を幸福にしてやったことだろうさ。しかし必ずなにかによって生きているあいだにせめて一人でも、といって実際に、つまり真実にだな、幸福にしてやること、わしはこれをあらゆる知識人たちの戒律としたいと思うな。ちょうどそれと同じことで、わしはすべての百姓たちにロシアを緑化するために生涯に一本ずつでも木を植えることを、掟《おきて》か義務として定めてやりたいと思うのだよ。しかし、一生に一本ではあまりに少ないから、一年に一本ずつと命じてもいいくらいだ。高度の知識人というものは、高い思想を追求しているうちに、ややもすると現実からすっかり遊離してしまって、滑稽《こつけい》で、気まぐれで、冷淡になってしまうことがある。しかも遠慮なく言うと――ばかになってしまう、それも実際生活においてばかりでなく、しまいには自分の理論においてさえばかになってしまうんだよ。こういうわけだから、実際面にふれて、一人でも現実の人間を幸福にしてやらねばならぬとする義務は、実際にはすべてのあやまちを矯正し、その恩恵をあたえる当人の頭をも新鮮にすることになるのだよ。理論として、これはひどく滑稽だ、が、これが実践の中に入り、習慣に転化すると、これはすこしも愚かしくなくなる。わしはこれを自分の体験で知った。そしてわしは新しい戒律についてのこの思想を発展させはじめると――はじめは、むろん、冗談にだったが――わしは忽然《こつぜん》と、わしの内部にひそんでいたおまえのお母さんへの愛のすべての過程がわかりだしたのだよ。そのときまでわしは、彼女を愛していることがまったくわからなかった。それまで彼女といっしょに暮しながら、彼女が美しかったあいだは、単に彼女に慰めを求めただけで、その後は勝手気ままなことをしてきた。わしはドイツではじめて、彼女を愛していることがわかったんだよ。それは彼女のこけた頬を見たときからはじまったのだ。わしは心に痛みをおぼえずにはそれを思い出すことができなかった、またときには、それを目にしただけで、心に文字どおりの苦痛を、ほんとの肉体的な苦痛をおぼえたものだ。アルカージイ、苦しい思い出が、現実の苦痛をよびおこすことがあるものだよ。それはほとんどの人々がもっているが、ただ忘れているだけだ。しかしときによると、あとで不意にそれを、そのごく一部だけでも思い出すと、もうそれがこびりついてはなれなくなってしまうことがあるものだ。わしはソーニャとの生活の無数のデテールを思い出しはじめた。しまいにはさまざまなことがひとりでに思い出の中に出てきて、群れをなしてわしの心の中に這《は》いこみ、ソーニャを待っているあいだ、わしはほとんどせつなさに堪えかねるまでになった。なによりもわしを苦しめたのは、彼女がいつもわしのまえに卑屈になっていたことと、それからいつもすべての点において――まあ、考えてごらん――肉体的にさえもだよ、わしよりもはるかに劣っていると考えていたことの思い出だった。わしがときどき彼女の手や指に目をやったりすると、彼女は恥じて真っ赤になったものだ。たしかに彼女の手や指はまったく貴族的ではなかった。それも指だけではない、わしがその美しさを愛していたのに、彼女は自分の体のすべてを恥ずかしがったものだ。彼女はいつもわしのまえに出ると奇妙なまでに恥ずかしがった、しかもよくないのは、その羞《は》じらいのかげからいつも妙なおびえのようなものが透けて見えることだった。一口に言えば、ソーニャはわしに対して自分をなにか無価値なもの、あるいはほとんどみだらなものとまで考えていたらしいのだよ。たしかに、はじめのうちは、わしもどうかすると、ソーニャはまだわしを自分の主人と考えて、びくびくしてるのではないか、と思ったことがあった、しかしぜんぜんそんなことはなかったのだ、そうは言いながら、誓って言うが、彼女は誰よりもわしの欠点を理解することができたし、わしはこれまでの生涯においてあれほどのこまやかで察しのいい女心というものに出会ったことがない。おお、彼女がまだみずみずしい美しさにあふれていたころ、わしが無理におめかしさせたりすると、どれほど情けない顔をしたことか! そこには自尊心もあったろうし、それとは別になにか辱《はずか》しめられたような感じがしたのだろう。彼女はどうしたって貴婦人にはなれないことを、そして合わない衣裳《いしよう》をつけたら滑稽に見えるだけなことを、ちゃんと承知していたのだよ。彼女は、女として、せっかく衣裳をつけて滑稽に見られたくなかったのだよ、そして女は誰でも自分に合った衣裳を着なければならないということを理解していたのだよ。この簡単なことを幾千、幾万の女たちがどうしても理解できないで――ただ流行を追いたがるものだ。わしの冷笑的な目を彼女は恐れた――そうなのだよ! しかしわしが思い出してたまらないさびしさを感じたのは、いっしょにいたあいだしょっちゅう見せつけられた、あの深いおどろきを宿した目だった。その目には自分の運命と待ち受けている未来とに対する完全な理解が語られていた、そのためにその目に出会うとこっちまでが苦しくなったものだ。もっとも、実のところ、当時は彼女と話し合うようなことはしないで、ただそれを見下すようにして鼻の先で笑っていただけだったが。それに、おまえは知るまいが、彼女ももとは、今みたいにあんなにおどおどして人ぎらいではなかったんだよ。いまでもどうかすると、いきなりはしゃぎだして、二十歳《はたち》の娘みたいに美しくなることはあるが、むかし、若いころは、話好きで、しょっちゅう笑ったりしゃべったりしたものだよ、もちろん、仲間の娘たちや、居候《いそうろう》たちとだがな。そしてそんなふうに談笑しているところへ不意にわしが入っていったりすると、びくっとして、すぐに真っ赤になって、おどおどとわしを見つめたものだったよ! あるとき、わしがもう外国へ去るすこしまえ、そうたしか彼女と別れる前夜だったが、わしが彼女の部屋へ入ってゆくと、たった一人で、卓のまえに坐って、いつもの手しごともしないで、卓に肘《ひじ》をついて、しょんぼりと考えこんでいた。なにもしないで坐ってるなどということは、ほとんどないことだった。そのころはもう大分まえからわしは良人《おつと》らしい愛撫《あいぶ》を示さなくなっていた。わしは足をしのばせて、すこしも気づかれずにそっとうしろから近づくと、いきなり抱きしめて、接吻《せつぷん》した……彼女はいきなりとび上がった、そして彼女の顔にさっと輝いたあの歓喜を、あの幸福を、わしは決して忘れることができんのだよ。ところがだ、その顔が不意に真っ赤になったかと思うと、目がきらりと光った。わかるかい、そのきらりと光った目にわしがなにを読みとったか? 『あなたはわたしに施しをしてくださったのね――そうでしょ!』という怒りなのだ。彼女はわしにびっくりさせられたと言って、ヒステリックに泣きだした。わしはそのときもすっかり考えこんでしまったよ。総じて、こうした思い出というものは――実に苦しいものだよ、アルカージイ。こうしたものは、ときとして大詩人の作品の中に見出《みいだ》せるいたましい情景のようなものだ。その後死ぬまでいたましい思いとなって記憶の中にのこる――たとえば、シェイクスピアのオセロの最初のモノローグ、タチヤナの足下に突っ伏したエヴゲーニイ・オネーギン、あるいはヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』の、寒い夜、泉のそばでの逃亡囚人と少女との出会い。こうしたものは一度心を刺しつらぬくと、終生傷となってのこるものだよ。おお、わしはどれほどの思いでソーニャを待ったことか、そしてどれほど早く彼女を抱きしめたいと思ったことか! わしは待ちきれぬ思いにがくがくふるえながら新しい生活設計を空想した。わしは漸次、体系的に努力を重ねて、彼女の心の中に巣くっているわしに対する慢性的な恐怖をうちやぶり、彼女の人間的価値と、わしよりもむしろ高いすべての資質を自覚させていこうと空想した。おお、わしはそのときも知りすぎるほど知っていたんだよ、わしはいつも別れると、とたんにおまえのお母さんを愛しはじめて、また会うと急に冷たくなってしまうことを。でも、そういうことにはならなかった、あのときはそうではなかった」
わたしはびっくりした。『ではあのひとか?』という疑問がちらとうかんだ。
「ではどうしたんです、そのときどんなふうに母を迎えたのです?」とわたしは慎重に訊《き》いた。
「そのとき? いや、そのときはぜんぜんおまえのお母さんと会わなかった。彼女がやっとケーニヒスベルクまで来たとき、そこにそのままとどまったのだよ。わしはそのときラインにいたんだが、そちらまで出向いてゆかないで、彼女にそこで待つように言いつけたのだ。わしらが会ったのはずっとあとで、そう、ずいぶんたってから、わしが結婚の許しを請いに行ったときだ……」
ここからは問題の要点だけを、つまりわたしが理解しえたことだけを伝えることにしよう。それに彼の話がしどろもどろになりはじめたからである。話がここのところまで来ると、とたんに彼の言うことがいままでの十倍もあやふやになって、さっぱり筋道がたたなくなってしまったのである。
彼は母を待っていて、もうどうにも待ちきれぬ思いにかられていたころに、思いがけなくカテリーナ・ニコラーエヴナに出会った。彼らは当時ラインの鉱泉場で療養生活を送っていた。カテリーナ・ニコラーエヴナの良人はそのころはすでにほとんど死にかけていて、少なくとも医師に死を宣告されていた。はじめて会ったときから彼女はヴェルシーロフの胸に異常な衝撃をあたえて、彼はまるで見えない糸で呪縛《じゆばく》されたようになった。それは宿命の出会いであった。今、思い出して、これを記述しながら、おどろいているのだが、彼がそのときその話の中に一言でも『愛』とか、『恋した』とかいう言葉を用いたことは、わたしの記憶にはない。わたしがおぼえているのは『宿命』という言葉である。
そしてそれは、たしかに、宿命というほかはなかった。彼はそれを望まなかった、『愛したくなかった』のだ。この意味をはっきり伝えることができるかどうか、わたしにはわからない。とにかく、こういうことが彼の身におこりえたという事実に、彼の心がはげしい憤りに燃えたのであった。彼の内部に自由に息づいていたものはいっさい、この出会いによって一挙に死滅してしまった、そして彼は自分にまったくなんのかかわりももたない女に永遠にしばりつけられてしまった。彼はこの情熱の奴隷となることを望まなかった。今は率直に言うが、カテリーナ・ニコラーエヴナは上流社会の婦人には珍しいタイプで――社交界には、おそらく、見られないようなタイプである。これは――おどろくほど単純で、正直な婦人のタイプなのである。わたしは聞いているのだが、ということは確実に知っているということなのだが、そのために彼女は社交界に現われると強烈な印象をあたえたのであった(もっとも彼女は何度か社交界から完全に遠ざかりもしたが)。ヴェルシーロフは、もちろん、その当時はじめて彼女に会ったころは、彼女がこういう気性の女だとは思わないで、その正反対の女、つまり奸知《かんち》にたけた老獪《ろうかい》な女だと信じこんだ。ここで、先まわりして、彼女自身のヴェルシーロフ評を紹介しておこう。彼女は、彼がそれ以外に彼女を考えることができなかったことを認めて、その理由を『理想主義者というものは、現実におでこをぶっつけると、決って、なによりもまず、醜悪なものばかり予想したがる傾向がある』からだとしている。この評が理想主義者一般にあてはまるかどうかは、わたしは知らないが、彼については実に言いえて妙であった。ここについでに、わたし自身の評も書き添えておこう。これはそのとき彼の話を聞いているうちに、わたしの頭にひらめいたものである。わたしは、彼が母を愛したその愛し方は、普通に女を愛する理屈ぬきの単純な愛によってというよりも、むしろいわば人道的な人類愛的な愛によるものだと思う、だから別な女性に出会って、この単純な愛で愛するようになると、たちまち先の愛が――おそらく不慣れのために――いやになったのであろう。しかし、もしかしたら、この考えは――正しくないかもしれない。わたしは彼には、もちろん、これは言わなかった。だいいち、ぶしつけだし、それにはっきり言うが、彼はほとんどいたわりの目で見てやらなければならないような状態にあった。彼はひどく興奮していて、ときどき話の途中でふっつり黙りこんで、そのまま何分か怒ったような顔をして室内を歩きまわるというふうだった。
彼女はそのときすぐに彼の秘密を見ぬいた。おお、もしかしたら、それを知ってわざと彼に媚《こ》びをていしたのかもしれない。たといどんなに怜悧《れいり》な女でも、こういう場合になると卑劣なことをするものである、そしてこれが女たちのどうすることもできない本能なのである。彼らの場合は実に凄惨《せいさん》な決裂に終って、彼は彼女を殺そうとしたらしい。彼は彼女をおびやかして、ほんとうに殺しかねなかったらしいが、『そうした思いのすべてが急にはげしい憎悪《ぞうお》に変った』。つづいてある奇妙な時期が訪れた。彼は不意にある奇怪な考えにとらわれたのである。それはある規律でわが身を痛めつけることであった。
「これは苦行僧たちがおこなっている方法なのだ。漸次的に系統的な実行によって自分の意志を克服していく方法で、まず滑稽なようなごくつまらないことからはじめて、ついには完全に自分の意志を克服して、自由の境地に達する」。苦行僧たちのあいだではこれは――厳粛な修業とされている、なぜなら千年にわたる経験によって科学にまで高められているからだ、と彼はつけくわえた。しかしなによりもふしぎなのは、彼がこの『規律』で身を苦しめるという考えにうちこんだのは、もう決してカテリーナ・ニコラーエヴナの愛の誘惑から逃《のが》れるためではなく、もう彼女を愛していないばかりか、むしろ限りなく憎悪していることを、完全に確信してからなのである。彼は彼女に対する自分の憎悪をすっかり信じきっていたので、急に公爵によって欺《だま》された彼女の継娘《ままこ》を愛して、結婚しようと考えたほどであった。彼は自分のこの新しい愛を自分に信じこませて、哀れな白痴娘をすっかり恋のとりこにしてしまった、そしてこの恋によって、死ぬまえの数カ月この白痴娘に完全な幸福を味わわせてやったのである。なぜ彼は、この娘の代りに、そのとき彼をケーニヒスベルクで待っていた母を思い出さなかったのか――これはわたしにとって明らかにされぬままにのこった……それどころか、母のことを彼は突然すっかり忘れてしまったのである、そして生活費さえも送らず、そのために困りはてた母をタチヤナ・パーヴロヴナが救いだすしまつだった。そのくせ、いきなり、母のところへ出向いていって、『あんな花嫁は――女でない』ということを口実に、その娘との結婚の許しを母に請うたのである。おお、もしかしたら、これが――『書物の中に生きている人間』の肖像なのかもしれない。これは後にカテリーナ・ニコラーエヴナが彼を評した表現である。それにしても、いったいどうしてこの『紙の人間たち』は(もしほんとうに、彼らが――紙の人間たちならばだが)、これほど真剣に苦しみ、そしてこれほどの悲劇にまで達することができるのか? しかし、その夜は、わたしはすこし別なふうに考えていた、そしてあるひとつの考えに胸をゆさぶられた。
「あなたの場合、教養も精神もすべてが生涯にわたる苦悩と闘いによってかちえられたものです――ところが彼女の場合はそのすべての完全さが無償であたえられたものです。これは不公平です……だから女は癪《しやく》にさわるんです」わたしは決して彼におもねるつもりではなく、熱と、怒りをさえこめて言った。
「完全さ? 彼女の完全さだって? いや、彼女には完全さなどひとつもないよ!」と彼は不意に、わたしの言葉にほとんどおどろいたように言った。「あれは――ごく平凡な女だよ、つまらない女といってもいいくらいだ……だが彼女はすべての完全さをそなえる義務があるんだよ!」
「どうして義務があるんです?」
「なぜって、あれだけの力をもっているんだ、すべての完全さをもつ義務があるさ!」と彼は憎さげに叫んだ。
「あなたがいまでもそれほど苦しめられているのが、なによりも悲しいですね!」とわたしは思いがけなく夢中で口走ってしまった。
「いまでも? 苦しめられている?」彼はわたしのまえに立ちどまると、なにかけげんそうな顔で、またわたしの言葉をくりかえした。
と、不意に、しずかな、長い、もの思いにとらわれたような微笑が、彼の顔を照らした、そしてまるで考えをまとめようとするかのように、顔のまえに指を一本立てた。やがて、もうすっかりわれに返ると、テーブルの上から開封された一通の手紙をとって、それをぽんとわたしのまえに投げてよこした。
「さあ、読んでごらん! おまえはなんとしてもすっかり知らなきゃすまんのだ……それにしても、どういうつもりか、おまえはこの古いくだらぬことをずいぶんわしに掘り返させたな!……わしは忌まわしくなって、自分を呪《のろ》っただけだ!」
わたしはそのときのおどろきを表現する言葉を知らない。それは彼女から彼にあてられた手紙で、今日の午後五時ごろにとどけられたものであった。わたしは興奮のあまりがくがくふるえながら、それを読みおわった。それは短いものであったが、あまりにも率直に心のままに書いてあるので、わたしは、読みながら、目のまえに彼女自身を見ながら、彼女の言葉を聞いている思いがした。彼女はこのうえなく正直に(だからほとんど感動的に)自分の恐怖を彼に告白して、その後で『そっとしておいてくれる』ようにすこしも飾らずに彼に懇願していた。最後に、これで思いきってビオリングと結婚する決心がついたと結んでいた。これまで彼女は一度も彼に手紙を書いたことがなかったのである。
わたしがそのとき彼の説明から知りえたのは、つぎのようなことであった。
彼は先ほど手紙を読みおわると、とたんに自分の内部にまったく思いがけない現象がおこったことを感じた。この宿命的な二年間に、今日はじめて、彼は彼女に対してすこしの憎悪も、すこしの衝撃も感じなかった。つい先日ビオリングの噂《うわさ》を聞いただけで『狂気』しかけたのがまるでうそのようだ。『それどころか、わしは彼女に心からの祝福を送ったよ』と彼はわたしに深い感慨をこめて語った。わたしはこの言葉を感激をもって聞いた。つまり、彼の内部にあった情熱も、苦悩も、すべてが一挙に、ひとりでに、まるで夢のように消えてしまった、まるで二年間にわたった憑《つ》きものがおちたように、忽然《こつぜん》と消えてしまったのである。自分がまだ信じられぬままに、彼は母のところへとんでいった――するとどうだろう。彼が部屋へ入ったまさにそのときに、昨日母を彼に託した老人が死んで、母が自由の身になったのである。この二つの符合が彼の心に衝撃をあたえた。それからすぐに彼はわたしをさがしにとびだした――そしてこんなに早く彼がわたしを思い出してくれたことを、わたしは永久に忘れることができない。
それにこの夜の終りも忘れることができない。ヴェルシーロフが急にまたがらりと一変した。わたしたちは夜おそくまで坐っていた。こうしたすべての『知らせ』がわたしにどのような作用をしたかについては――のちほど、そのときがきたら語ることにして、今は――彼についての結びの言葉をすこし語るにとどめておこう。今になって考えると、そのときわたしの心をなによりも快くくすぐったのは、まるでわたしのまえにへりくだったような彼の態度であった。こんな小僧っ子のようなわたしに対して、彼はあれほどの心底からの誠意を示してくれたのである!
「これは悪夢だった、だが悪夢にも祝福あれだ!」と彼は叫ぶように言った。「もしこの惑溺《わくでき》がなかったならば、わしは自分の心の中に、これほど完全にそして永遠にただ一人のわしの女王であり、そしてわしの受難者である――おまえのお母さんを、永久に見つけだすことができなかったかもしれんのだ」
この彼が思わず口走った感動の言葉を、わたしは後におこったことを考えて特にここに記しておくのである。しかしそのときは彼はわたしの心をとらえて、完全に征服してしまった。
おぼえているが、わたしたちはしまいにおそろしく陽気になった。彼はシャンパンを出すように言いつけた、そしてわたしたちは母と『未来』を祝して乾杯した。おお、彼はどれほど生命力に充ちあふれていて、どれほど生きることを望んでいたことか! しかしわたしたちが急にあきれるほど陽気になったのは酒のせいではなかった。わたしたちは二杯ずつしか飲んでいなかったのである。なんのせいか、わたしは知らないが、しまいにはとめどもなく笑いあっていた。わたしたちはまるで関係のないよそごとを話しはじめた。彼は罪のない一口話を語りだし、わたしも語った。そして笑い話も世間話もちっとも毒がなく、おかしくもなかったが、それでもわたしたちは楽しかった。彼はいつまでもわたしを帰そうとしなかった。『いいじゃないか、もうすこしいたまえ!』と彼は何度もくりかえした、そしてわたしも尻が長くなった。いよいよ帰るときになると、彼はわざわざ外まで送りに出た。すばらしい夜で、すこし凍っていた。
「それで、あなたは彼女にもう返事を送ったのですか?」わたしは十字路のところで最後の握手をしながら、自分でもまったく思いがけなく不意にこう訊いた。
「いや、まだだが、どっちでも同じことさ。それより明日来たまえ、なるたけ早く……そうそれからもうひとつ、ラムベルトときっぱり交際をやめるんだな、そして『証書』は破ってしまいなさい、早く。じゃおやすみ!」
こう言うと、彼は急に立ち去った。わたしはあとにとりのこされて、その場に突っ立ったまま、茫然《ぼうぜん》としていた。あまりのことに、彼を追うことも忘れていた。『証書』という言葉が特にわたしに衝撃をあたえた。『証書』というような表現を、ラムベルトでなくて、誰から知りえよう? わたしはすっかり混乱してしまった頭を抱《かか》えて家へもどった。それにしても、あのような『二年にわたる憑きもの』が、夢のように、酔いのように、まぼろしのように、一時にすっと消えてしまうなんて、そんなことがありうるものだろうか?――不意にこうした考えがちらとわたしの頭をよぎった。
[#改ページ]
第九章
しかしわたしは朝はさわやかな、なごやいだ気持で目をさました。そして、昨夜彼の『告白』を聞いているときに、ときどき軽薄で思いあがったような態度があったことが思い出されて、思わず赤面して、自分を叱《しか》ったほどだった。たといそれがところどころ混乱していて、いくつかの告白がいくぶん酔いのくりごとめいて、辻褄《つじつま》のあわないところがあったとしても、それはやむをえないではないか。彼はなにも演説原稿を用意して、昨日わたしを呼んだのではないのである。彼はあのような場合に、わたしを唯一の親友としてわざわざ呼んで、わたしに心からの敬意を表してくれただけなのである、そしてわたしはこの彼の親切を決して忘れることができない。むしろ、彼の告白は『感動的』であった――こういう表現をつかうことでわたしはどれほど笑われようと、問うところではない。そしてたとい告白のところどころに冷笑的なところや、あるいは滑稽《こつけい》にさえ聞えるようなところがあったとしても、わたしはレアリズムを理解し、許容できないほど、頭も心も狭くはない――とはいえ、しかし理想を汚すほど愚かでもない。要は、わたしが、ついに、この人間を究《きわ》めたということである、そしてすべてがあまりにもあっけなかったことが、わたしにはいくぶん残念であったし、いまいましいような気さえした。わたしは心の中でいつもこの人間を高い雲の上においてきたし、どうしても彼の運命をなにか神秘のヴェールでつつまずにはいられなかった。だから当然、わたしはいままで秘密の小箱がもっと手のこんだ開き方をすることを望んでいたのである。
しかし、彼と彼女の出会いと、彼の二年にわたる苦悩には、複雑なものが多くあった。『彼は人生の宿命を望まなかった。彼が必要としたのは自由であって、宿命への隷属《れいぞく》ではなかった。宿命への隷属によって、彼はケーニヒスベルクで待っていた母を侮辱することを強《し》いられたのだ』……それに加えて、この人間をわたしは、いつの場合も、伝道者と考えていた。彼は心の中に黄金時代を奉持して、無神論の未来を見ぬいていた。ところが彼女との出会いがすべてを折り曲げて、歪《ゆが》めてしまった! おお、わたしは彼女を裏切りはしなかったが、やはり彼の側に立った。たとえば、母なら、とわたしは考えつづけた、彼の運命をいささかもさまたげはしなかったろう、たとい母と彼の結婚でさえも。それはわたしにもわかっていた。それは――あの女との出会いとは、まったくちがう。もっとも、母にしたってやはり彼に安らぎはあたえなかったろうが、それはかえってそのほうがいいのかもしれない。ああいう人間は普通の尺度でははかれないのだし、生活はいつもそんなふうに波だっているのがいいのだ。そしてそれは――決して醜体ではない。それどころか逆に、生活がおだやかにおちついてしまったり、あるいは普通の人々と似たようなものになってしまったら、それこそむしろ醜体というものであろう。貴族に対する彼の讃美《さんび》と、『Je mourrai gentilhomme(貴族として死ぬ)』という彼の言葉は――すこしもわたしを当惑させなかった。その gentilhomme の意味がなんであったかを、わたしは理解した。それはすべてを捧《ささ》げて、世界人の思想と『イデーの総和』というロシアの根本思想の奉持者となるタイプであった。そしてこうしたことが、つまり『イデーの総和』ということが、たといナンセンスであったとしても(そんなことは、もちろん、考えられないことだからである)、それでも彼がその生涯を愚かな黄金の偶像にではなく、ひとつの理想に捧げたということが、すでにりっぱなのである。おお! わたしの『理想』を考えだしたとき、わたしは、わたし自身は――はたして黄金の偶像に跪拝《きはい》しなかったか、そのときわたしは金を必要としなかったか? 誓って言うが、わたしが必要としたのは理想だけであった! ぜったいに、わたしは自分のために一つの椅子も、一つのソファもビロードでつつまなかったろうし、たとい一千万の富をもっても、今のように、牛肉ひときれを入れたスープ一皿で満足したはずである!
わたしは服を着ると、もうがまんしきれなくなって彼のところへ行くことにした。つけくわえておくが、昨日彼が思いがけなく『証書』という言葉をつかったことについても、わたしは昨日よりははるかに平静な気持になっていた。第一に、わたしは彼とよく話し合うつもりでいたし、第二に、たといラムベルトが彼にまでくいこんで、なにやら話し合いをしていたとしても、いったいそれがどうだというのだ? そんなことよりも、わたしの大きな喜びはあるひとつの異常なまでの感じにあった。それは、彼がもう『あの女を愛していない』という考えであった。これをわたしは痛いまでに信じこんでいた、そしてまるで誰かがわたしの心から恐ろしい石を突きのけてくれたような感じがしていた。そのときひとつの臆測《おくそく》がちらと頭をかすめたのをさえおぼえている。それは、ビオリングの噂《うわさ》を聞いたときの彼のあの最後の狂気の発作の醜体と、あのような侮辱の手紙をたたきつけた無謀、ほかならぬこの極限が、彼の感情の激変の予告となり、間近い健全な思想への復帰の前兆となりえたのではないか、ということであった。あれはきっと病気の発作のようなものにちがいないのだ、とわたしは考えた、だから彼は当然反対の極点にもどってこなければならなかったわけで――謂《い》ってみれば医学上のエピソードで、それ以外のなにものでもありゃしない! この考えがわたしを喜ばせた。
『なに、あの女は自分の運命を好きなようにするがいいさ、勝手にビオリングと結婚するがいい、だが彼だけは、ぼくの親父《おやじ》、ぼくの親友の彼にだけは、もう彼女を愛させてはならんのだ』とわたしは心の中で叫んだ。しかし、ここにわたし自身の感情のある秘密があった、がそれをわたしはここに、このわたしの手記の中に、なぞろうとは思わない。
もうたくさんだ。もうこれから先は、つづいておこったいっさいの恐怖と事実の展開をいっさいの考察をぬきにして伝えることにする。
十時に、わたしが出かけようとすると、――もちろん、彼のところへである――ダーリヤ・オニーシモヴナが入ってきた。わたしはさっと顔を輝かせて、『ヴェルシーロフのところから?』と訊《き》いた。ところが、いまいましいことに、彼のところからではなく、アンナ・アンドレーエヴナのところから来たので、しかも『夜が明けるとすぐに家を出てしまいましたので』と言うのである。
「家って、どこの?」
「決ってますよ、あの家ですよ、昨日の。あの昨日の住居は、赤ちゃんのおいてある、あれは今はわたしが借主で、タチヤナ・パーヴロヴナが払ってくださっているのですよ……」
「ま、そんなことはどうでもいいよ!」とわたしはむかむかしながらさえぎった。「でも、あのひとは家にいるんだろうね? 今から行くんだが?」
すると、おどろいたことに、彼が彼女よりも早く家を出たことを、わたしは聞かされたのである。つまり、彼女が――『夜が明けるとすぐに』出たのであるから、彼はそれよりももっと早く出たことになる。
「じゃ、もうもどってるだろう?」
「いいえ、きっとまだおもどりじゃないでしょう、それに、もうぜんぜんおもどりにならないかもしれませんよ」と彼女はまえにわたしの病床を訪《たず》ねてきたときのように、やはりあの鋭い、盗むような目で、やはり目をはなさずにじっとわたしを見つめたまま、言った。わたしが、なによりも腹がたったのは、ここにまたしても彼らのばかげた秘密めいたことが出てきたことと、この連中は、明らかに、秘密や詭計《きけい》なしにはすまされないのだというやりきれなさであった。
「なぜあなたは、きっともどらないだろうなどと言うんです? それはどういう意味です? 彼は母のところへ出かけた――それだけのことですよ!」
「さあ、わかりませんね」
「じゃ、あなたはなにしに来たんです?」
彼女の説明では、今アンナ・アンドレーエヴナに言いつけられてわたしを迎えに来たので、今すぐ来てもらいたい、さもないと『とりかえしのつかないことになってしまう』と言われたから、というのである。この再度の謎めいた言葉が、もうすっかりわたしにわれを忘れさせてしまった。
「なにがとりかえしがつかんのです? ぼくはいやです、行きません! ぼくはもう人の言いなりになるのはごめんだ! ラムベルトなんか糞《くそ》くらえだ! そうアンナ・アンドレーエヴナに言いなさい、もしラムベルトをぼくのところへよこしたら、有無を言わさず突きかえしてやる――そう彼女に伝えなさい!」
ダーリヤ・オニーシモヴナはすっかりびっくりしてしまった。
「いいえ、そうじゃないんですよ」彼女は両手を胸におしあてて、まるで祈るように、わたしのほうへ一歩つめよった、「どうかそんな早合点《はやがてん》はなさらないでください。これはたいへんなことなんです、あなたご自身にとってもひじょうに重大なことですし、あの人たちにとっても、アンドレイ・ペトローヴィチにも、あなたのお母さまにも、みなさんに……どうか今すぐアンナ・アンドレーエヴナのところへ行ってあげてください、だってあのひとたちはもうこれ以上どうしても待てないんですから……神かけて、うそじゃございません……決めるのはそれからにしてくださいな」
わたしはおどろきと憎悪《ぞうお》の目で彼女をにらんだ。
「ばかばかしい、なにもおこるものか、ぼくは行かんよ!」とわたしは強情に意地わるく叫んだ、「今は――もうすっかり新しくなったんだ! まああんたにはそんなことわかるまいがね! さようなら、ダーリヤ・オニーシモヴナ、ぼくは考えがあって行かんのだよ、わざとあんたにもうるさく訊かんのさ。あんたはただぼくをじらそうとしてるだけだ。あんた方の謎みたいなことに頭をつっこむのはまっぴらだ」
ところが、彼女はいっこうに出てゆこうとしないで、かたくなに突っ立ってるので、それではとわたしは毛皮|外套《がいとう》と帽子をつかんで、彼女を部屋の中にのこして、とびだした。わたしの部屋の中には手紙や書類などはいっさいなかったし、これまでもわたしは出しなに鍵《かぎ》をかけたことなどは一度もなかった。ところがまだ表の扉《とびら》まで行かないうちに、家主のピョートル・イッポリトヴィチが略服のまま帽子もかぶらないで、わたしを追って階段をかけ下りてきた。
「アルカージイ・マカーロヴィチ! アルカージイ・マカーロヴィチ!」
「なんですか、また?」
「お出かけですね、なにも伝言はないのですか?」
「なにもありませんね」
彼はなにか気がかりなことがあるらしいようすで、さぐるような目でわたしを見つめた。
「たとえば、部屋のことなど?」
「部屋のこと、それはなんのことです? ぼくが期限に家賃をとどけなかったとでもいうのですか?」
「いや、ちがいます、わたしは金のことを言ってるんじゃありませんよ」彼はあいかわらず穴のあくほどわたしの顔を見つめたまま、にやりと間ののびた薄笑いをうかべた。
「いったいあなたたちは、みなどうしたというんです?」と、わたしはとうとう怒りを爆発させて、どなった、「このうえなんの用があるんです?」
彼はまるでわたしからなにかを待ちうけるように、なおしばらく突っ立っていた。
「じゃ、まあ、あとで承りましょう……どうやら今はそれどころではないらしいですな」と彼はさらに長ったらしく薄笑いをひきながら、ぼそぼそと言った、「どうぞお出かけください、わたしも勤めに行くところなので」
彼は自分の部屋のほうへ階段をかけのぼっていった。もちろん、こうした一連のことにはなにか考えこませるものがあった。わたしがこれらのくだらない無意味なことをわざとどんなこまかい点ももらさずに書いているのは、それぞれのこまかい点がやがて最終的な花束の中に入って、それぞれその位置を見出《みいだ》すようになるからである。それはいずれ読者もなるほどとうなずくにちがいない。またそのときこの二人が実際にわたしの頭を混乱させたこと、これも事実である。わたしがあれほど激昂《げつこう》し、神経をかきみだされたのは、ほかでもない、彼らの言葉の中にもうすっかりうんざりしてしまった陰謀と謎のけはいを聞きとり、過去を思い出させられたからである。しかし先をつづけることにしよう。
ヴェルシーロフは家にいなかった、そしてたしかに彼は夜の明けきらぬうちに家を出ていることがわかった。『むろん――母のところだ』とわたしは強情に自説を固執した。乳母《うば》には、これはかなり頭のにぶい女だが、わたしはうるさく訊《たず》ねなかったし、彼女のほかに、家には誰もいなかった。わたしは母の家へ急いだ、そして実を言うと、ひどい不安にかられていたので、途中で辻馬車《つじばしや》をひろったほどであった。母のところには彼は昨日から来ていなかった。母といっしょにいたのはタチヤナ・パーヴロヴナとリーザだけであった。リーザは、わたしが入ってゆくと、すぐにどこかへ出てゆこうとした。
彼女たちは上のわたしの『墓穴』に集まっていた。下の客間には、卓の上にマカール・イワーノヴィチの遺体が安置されていて、その枕もとでどこかの老人が抑揚のない声で聖書の詩篇《しへん》を読んでいた。わたしはもう事件に直接関係のないことはなにも書かないつもりだが、これだけは言っておきたい。もうできあがって、部屋の中においてあった寝棺は、決して粗末なものではなく、黒い色ではあったが、ちゃんとビロードが張られていたし、遺体にかけた被《おお》いも高価なもので――すべてが老人にも、その信念にもふさわしくない豪華なものであった。しかしこれが母とタチヤナ・パーヴロヴナの頑強《がんきよう》な願いだったのである。
もちろん、わたしは彼女たちがにこにこしているとは思わなかったが、しかし不安と心労に充ちた、なんとも言えぬ重苦しい愁《うれ》いを彼女たちの目に読みとって、わたしははっと胸をつかれた、そしてとっさに、『これは老人の死だけが原因ではないな』と思った。これらのことを、くりかえして言うが、わたしはまざまざと記憶している。
それでも、わたしはやさしく母を抱きしめて、すぐに彼のことを訊ねた。母の目にちらと不安そうな好奇心が光った。わたしはすぐに、わたしたちが昨夜おそくまでいっしょにいたこと、そして昨夜別れしなに今日できるだけ早く来るようにと、自分のほうからわたしを誘っておきながら、今朝まだ暗いうちにどこかへ出かけて、今家にいないことなどを説明した。母はなんとも答えなかったが、タチヤナ・パーヴロヴナは、隙《すき》を見て、指でわたしをおどしつけた。
「さようなら、兄さん」とリーザが不意にたち切るように言うと、さっと部屋を出ていった。わたしは、むろん、すぐに後を追ったが、彼女は表扉のところでやっと立ちどまった。
「あたしそう思ってたのよ、兄さんが察して下りてくるって」と彼女は早口に低声で言った。
「リーザ、なにかあったのかい?」
「あたしもよくわからないけど、なにかいろんなことがあったらしいわ。おそらく、『果てしない事件』の幕切れでしょうね。彼は来ないけど、母たちは彼のことできっとなにか情報をつかんだのよ。兄さんには言わないでしょうけど、心配しないでね、そしてなにも訊いちゃだめよ、わかるでしょ。お母さんはうちのめされたみたいになってるわ。あたしもなにも訊かなかったの。じゃ、さようなら」
彼女は扉をあけた。
「リーザ、そういうおまえこそなにかあったんじゃないのか?」
わたしはあとを追って玄関へ出た。彼女のすっかりうちしおれた絶望的なようすが、するどくわたしの胸をえぐった。彼女は呪《のろ》わしげにというのではないが、なにか冷酷とさえ言えるような目でわたしを見ると、苦々しく笑って、あきらめたように手を振った。
「いっそ死んでくれたら――ありがたいんだけど!」彼女は階段の中途からこんな言葉をわたしになげつけて、出ていった。
これは彼女がセルゲイ・ペトローヴィチ公爵のことを言ったのだが、当の公爵はそのころ熱病におかされて、意識不明のまま横たわっていた。
『果てしない事件と言ったな! どんな果てしない事件なのだ?』とわたしは挑《いど》みかかるように心の中で叫んだ、すると急になんとしても母たちに、昨夜の彼の告白からえたわたしの印象の一部でも、さらに告白そのものも語ってやりたくなった。『母たちは今彼のことでなにか暗い考えにとらわれている――だからこそすっかりおしえてやるがいいのだ!』という考えがわたしの頭をよぎった。
わたしはおぼえているが、珍しく、実に巧みに話に入ることができた。たちまち母たちの顔におそろしい好奇心があらわれた。このときはタチヤナ・パーヴロヴナもくいいるような目をわたしに向けた。しかし母のほうはすこしひかえめだった。母はひどく真剣ではあったが、軽やかな、美しい、とはいえすっかりあきらめきったような微笑が、その顔にちらとうかんで、その微笑がそのままわたしの話のあいだじゅうほとんど消えなかった。わたしは、それが彼女たちにはほとんど理解できないことを知ってはいたが、それでももちろん、巧みに話して聞かせた。そしておどろいたことに、タチヤナ・パーヴロヴナは、わたしがなにか話しだすといつも癖みたいに突っかかるのだが、今日は言いがかりもつけなければ、しつこく念を押すようなこともせず、誘いをかけてひっかけるようなこともしなかった、彼女はただときどき下唇《したくちびる》を噛《か》んだり、言葉の裏を読もうとするように目を細めてじっと見つめるだけであった。ときどき、わたしには彼女たちがすっかり理解しているのではないかとさえ思われたが、それはほとんどありえないことであった。わたしは、たとえば彼の信念についても語ったが、しかし主に彼の昨日の感激、母に対する感動、母に対する彼の愛について、母の肖像に彼が接吻《せつぷん》したことなどについて語った……それを聞くと、二人はすばやく無言のまま目を見交わし、やはりなにも言わなかったが、母はさっと顔を赤らめた。ついで……ついでわたしは、もちろん、母のまえとはいえ、もっとも重要な点、つまり彼女との出会いと、そしてなによりも、彼に送った彼女の昨日の手紙と、さらにその手紙を読んだあとの彼の精神的『復活』とを語らないではいられなかった。しかもこれがもっとも重要な点だったのである。しかし、彼の昨日のこうしたすべての感情は、わたしがあれほど母を喜ばせようと思ったのだが、やはり彼女たちには理解できないままにおわってしまったが、これはやむをえないことで、もちろんわたしの罪ではない。わたしとしては、語りうるかぎりのことをせいいっぱいわかりやすく語ったつもりなのである。わたしはまったく割り切れない気持で語りおえた。二人はやはり黙りこくっていた。わたしはひどく気づまりになった。
「きっと、今ごろはもどってるでしょう、もしかしたらぼくの部屋で待ってるかもしれません」とわたしは言って、立ち上がった。
「ああ行きなさい、行ってあげなさい!」とタチヤナ・パーヴロヴナはきっぱりした声で言った。
「下へ寄ってくれた?」と母は別れしなにわたしにささやいた。
「寄りました。拝んで、お祈りをしました。なんというおだやかな美しい死顔でしょう、お母さん! ありがとう、お母さん、ほんとにりっぱな柩《ひつぎ》です。ぼくははじめふしぎなような気がしましたが、すぐに自分もきっとああした柩をこしらえただろうと思いました」
「教会へ明日来てくれるわね?」と母は言った、すると唇がひくひくふるえだした。
「なにを言うんです、お母さん?」とわたしはびっくりした、「ぼくは今日も追悼に来ますよ、もう一度来ます、そして……それに明日は――あなたの誕生日じゃありませんか、お母さん、来ないでどうします! もう三日だけ生かしておきたかった!」
わたしはおどろきに胸をしめつけられる思いで部屋を出た。いったいどうしてこんなことを訊かねばならんのだろう――教会の告別式にぼくが来るかどうかなんて? それにしても、わたしにこんなことを訊くくらいだから――彼のことはいったいどう思ってるのだろう?
タチヤナ・パーヴロヴナがあとを追ってくることを、わたしは知っていた、だからわざと表扉のところでちょっと立ちどまった。彼女は、わたしのそばまで来ると、わたしを階段のほうへ押し出すようにして、自分もわたしのあとから出ると、後ろ手に扉をしめた。
「タチヤナ・パーヴロヴナ、あなた方は、どうやら、今日も明日もアンドレイ・ペトローヴィチが来ないものと決めているらしいですね? おどろきましたよ……」
「いいからお黙り。おまえがおどろこうと、天地がひっくりかえりゃしないよ。それより、昨日のばか話をしたとき、おまえはまだなにか言ってないことがあるでしょう?」
わたしはなにもかくしだてすることはないと思って、むしろヴェルシーロフにいまいましさをおぼえながら、昨日のカテリーナ・ニコラーエヴナの手紙とその効果、つまり新しい生活への彼の復活についてのこらずぶちまけた。おどろいたことに、手紙の事実は彼女をすこしもおどろかさなかった。そしてわたしは彼女がもうそれを知っていたことを察した。
「おまえはうそをついてるね?」
「いいえ、うそじゃありません」
「あきれるじゃないか」彼女はなにか思案するらしく、毒々しくにやりと笑った、「復活したって! そんなことのできる人かえ! それでほんとうかね、肖像に接吻したって?」
「ほんとですよ、タチヤナ・パーヴロヴナ」
「感情をこめて接吻したって、見せかけじゃなかったのかい?」
「見せかけ? あの人が見せかけなんかする人でしょうか? 恥ずかしくないのですか、タチヤナ・パーヴロヴナ。なんという醜い心でしょう、女のあさはかな心というものです」
わたしはかっとなってこういう暴言をはいてしまったが、彼女はそれを聞いていなかったらしい。彼女は階段のひどい寒さにも気づかずに、またなにごとか思案しているふうであった。わたしは毛皮外套を着ていたが、彼女は服のままであった。
「あんたにひとつたのみたいことがあるんだけど、あんたがあんまりばかなんで、困っちまうよ」と彼女は侮蔑《ぶべつ》をこめて、いまいましそうに言った。「いいかい、アンナ・アンドレーエヴナのところへ行って、あそこで今どんなことになってるか、見てきてもらいたいんだよ……いややめましょう、行かんでいいよ、ばかはばかだけのことしかできやしない! さあ、どこへでも行くがいいよ、なにを棒杙《ぼうぐい》みたいに突っ立ってるんだね?」
「ああ、アンナ・アンドレーエヴナのところへなぞ行くものか! さっき自分でもぼくのところへ使いをよこしましたよ、アンナ・アンドレーエヴナは」
「自分で? ダーリヤ・オニーシモヴナを?」と彼女はいきなりわたしを振向いた。彼女はもうもどりかけて扉まであけていたが、またそれをしめた。
「ぜったいにアンナ・アンドレーエヴナの家へは行きませんよ!」とわたしは意地わるい喜びをおぼえながらくりかえした。「ぼくは今ばかと言われたから、行かないんですよ。ところがぼくは今日ほど頭が冴《さ》えてることは、いままでにないくらいですよ。あなた方のたくらみなんか全部見とおしですよ、でもやはりアンナ・アンドレーエヴナのところへは行きません!」
「そんなことだろうと思ってたよ!」と彼女は叫んだ。だが、これもぜんぜんわたしの言葉に言ったのではなく、やはりなにやらしきりに思案をつづけていた。「いまにすっかりからみつかれて、身動きのとれないことになってしまうから!」
「アンナ・アンドレーエヴナがですか?」
「ばかだねえ、あんたも!」
「じゃ誰のことを言ってるんです? まさかカテリーナ・ニコラーエヴナのことじゃないでしょうね? 身動きのとれないってどんな罠《わな》です?」わたしはぎょっとした。あるおぼろげな、しかし恐ろしい考えが、わたしの心をよぎった。タチヤナ・パーヴロヴナは射抜くような目でわたしを凝視した。
「おまえはなにかあるんだね?」と彼女は不意に言った。「おまえはどういうことであの人たちの問題にまきこまれているんだい? おまえのことでもわたしの耳に入ってることがあるんだよ――まあ、気をつけるがいいよ!」
「ねえ、タチヤナ・パーヴロヴナ、ぼくあなたにある恐ろしい秘密を打明けます、でも今はだめです、時間がありません、明日二人きりのときに、ですから今ほんとのことをおしえてください、その恐ろしい罠ってなんなのです……だってぼくはこんなに……」
「なにさ、勝手にふるえるがいいよ!」と彼女は叫んだ。「このうえ明日どんな秘密を打明けようってのさ? 笑わせるんじゃないよ! じゃおまえはほんとになにも知らないんだね?」彼女は疑わしげな目をきっとわたしの顔にすえた。「あのとき自分であのひとに誓ったはずだったね、クラフトの手紙を焼いたって?」
「タチヤナ・パーヴロヴナ、重ねて言いますが、ぼくを苦しめないでください」と、今度はわたしのほうが彼女の問いに答えないで、自分の言いたいことをつづけた。わたしはすっかり平静を欠いていたのである。「ねえ、タチヤナ・パーヴロヴナ、あなたはぼくにかくしごとをしてるために、なにか恐ろしいことが起るかもしれんのですよ……だって彼は昨日はすっかり、完全に更生したんです!」
「ええ、さっさと失《う》せるがいい、阿呆《あほ》! 自分が、ふぬけみたいに、惚れっちまって――親父と息子が同じ女に夢中になってりゃ世話ないさ! フッ、みっともないったらありゃしない!」
彼女は腹だたしげにパタンと扉をしめて、姿を消した。この最後の言葉の厚顔無恥なシニズムに――女だけがもつこのシニズムに、わたしは血が頭に逆流し、あまりの侮辱に全身をふるわせながらとびだした。しかし、約束したことだから、自分の漠然《ばくぜん》とした感じを書きつらねることはやめよう。もうすべて解決されようとしている事実だけを書きつづけることにしよう。もちろん、わたしが途中でまた彼の住居に寄ってみたことは言うまでもない、そして彼が一度ももどっていないことを、乳母の口から聞かされた。
「もうぜんぜんもどらないのかね?」
「さあ、わたしにはわかりませんね」
事実を追おう、事実だけを!……しかし読者には理解できるだろうか? おぼえているが、わたし自身がそのときこれらの事実そのものにすっかり圧倒されていて、なにひとつはっきりとつかめなかった、そしてその日の終りごろには頭がすっかり混乱してしまっていた。だからすこしばかり先まわりして述べさせてもらうほかはない!
わたしの苦しい疑問はつぎの点に集中していた。もし彼が昨日復活して、彼女への愛を捨てたとしたら、それが事実なら彼は今日どこへ行ってなければならぬはずか? その答えは、まず第一に――わたしのところだ、昨日あれほど意気投合したのだ。そのつぎは母のところだ、だって彼は昨日母の肖像に接吻したではないか、ところが、この二つのもっとも自然な行先には現われないで、『夜が明けきらぬうちに』家を出て、どこかへ姿をくらましてしまった、しかもダーリヤ・オニーシモヴナはなぜか、『もうもどらないでしょう』と妙なことを口走った。そればかりではない、リーザは『果てしない事件』の幕切れがどうとか言ったし、母が彼についてなにかの情報を知らされているらしいことを匂《にお》わせたが、これは最新の情報にちがいない。それに、母たちはカテリーナ・ニコラーエヴナの手紙のこともたしかに知っている(これはわたしも気づいた)、そしてわたしの話を注意深く聞いてはいたが、それでもやはり彼の『新しい生活への復活』を信じていない。母はうちのめされたみたいになっていたし、タチヤナ・パーヴロヴナは『復活』という言葉に毒のある皮肉を言った。しかしこうしたことがみな――事実とすれば、一夜のうちにまた彼の考えが変ったことになる、また危機が訪れたことになる、しかもそれが――昨日のあの歓喜と、感動と、感激のあとでだ! とすると、あの『復活』がシャボン玉みたいに砕けてしまったのか、そして彼は今ごろまたしても、あのビオリングの噂を聞いた直後のように、狂気してどこかをさまよい歩いているのであろうか! だとしたら、母はどうなるのだ、わたしはどうなるのだ、わたしたちはみなどうなるのだ、そして……そして――最後に、あのひとはどうなるのだ? わたしをアンナ・アンドレーエヴナのところへやろうとして、タチヤナ・パーヴロヴナが恐ろしい罠とか言ったが、あれはなんのことだろう? なるほど、してみるとあそこにこの罠があるんだな――アンナ・アンドレーエヴナのところに! だが、なぜアンナ・アンドレーエヴナのところにあるのか? もちろん、アンナ・アンドレーエヴナの家へとんでゆこう。行くものかなんて、あれは癪《しやく》にさわったから、わざと言っただけだ。今からすぐ行こう。それにしてもタチヤナ・パーヴロヴナが手紙のことを言ったが、あれはどういうことだ? 彼も昨日言ったばかりではないか、『証書を焼き捨てなさい』と?
これがわたしの考えであった。これがやはり恐ろしい罠となってわたしを苦しめたのであった。しかし、なによりもまず、彼をさがしだすことであった。彼とならわたしはすべてをたちどころに解決することができたろう――わたしはそう感じていた。わたしと彼なら二言三言交わしただけで互いに理解しあえるはずだ! 彼の両手をつかんで、かたくにぎりしめる、するとわたしの心の中から熱情あふれる言葉がわき出る――わたしはこうした空想にすっかりとらわれていた。おお、わたしは彼の狂気を目ざめさせてやろう!……だが彼はどこにいるのだ? いったいどこにいるのだ? ところが運のわるいことに、わたしの頭が熱しきっていたこんな瞬間に、ひょっこりラムベルトに出会ったのである! わたしの住居まであと数歩というところで、思いがけなくラムベルトに出くわした。わたしを見かけると、彼は嬉しそうに叫んで、わたしの手をつかんだ。
「もう三度もきみを訪ねたんだぜ……Enfin!(やっと会えた!)さあ、飯を食いに行こうじゃないか!」
「待てよ! ぼくの部屋へ行ったのか? アンドレイ・ペトローヴィチはいなかったかい?」
「いや、誰もいない。あんな連中はもういいじゃないか! きみは、ばかだよ、昨日怒ったりしてさ。きみは酔ってたんだよ、ところできみに重大な話があるんだ。ぼくは今日めっぽうすてきなニュースを聞いたぜ、昨日おれたちが話し合ったことでさ……」
「ラムベルト」とわたしはさえぎった。息ぎれがしていたし、急いでしゃべったので、しぜんいくらか棒読みみたいな調子になった、「ぼくが今こうして立ちどまったのは、ほかでもない、きみとの交際をきっぱりと絶つためだ。ぼくはすでに昨日きみに言ったはずだが、きみはまだわかっていないらしい。ラムベルト、きみは――幼稚だし、フランス人なみのばか者だ。きみはいつまでも、自分はトゥシャール時代のように強く、そしてぼくがトゥシャール時代のようにばかだと、思っているらしい……だがぼくはもう、トゥシャール時代のようなあんなばかではない……ぼくは昨日酔っていた、だがあれは酒のせいではない、そうでなくとも気がたかぶっていたからだ。そしてきみのたわごとに調子を合わせていたのは、きみのたくらみをさぐりだそうと思ったからだ。ぼくはきみを欺《だま》したんだよ、ところがきみは本気にして、すっかり調子にのって、べらべらまくしたてた。ばかなやつだ、彼女と結婚するだと、こんなことは――それこそナンセンスだ、受験クラスの中学生だってふきだすだろうさ。ぼくが信じたなんて、思うほうがどうかしてる! ところがきみはそう思いこんだ! それは、きみが上流社会への出入りを許されないで、上流社会の慣習というものをまるで知らんからさ。上流社会というところはな、ものごとがそう簡単にはゆかないんだよ、そうですか、じゃ結婚しましょう、そんな猫の子をもらうようなことは、許されんのだよ……きみが今なにをしようとしてるのか、はっきり言ってやろうか。ぼくを誘いこんで、酔いつぶし、証書をだましとり、そしてカテリーナ・ニコラーエヴナに対する恐喝《きようかつ》事件に一役買わせようというのさ! そのためにいいかげんなことを言ってるんだ! そんな誘いになどのるものか、それから言っておくがな、明日か、おそくても明後日には、手紙はまちがいなく彼女自身の手に渡る。だってこの文書は彼女のものだし、彼女によって書かれたものだ、ぼくが直接彼女に返すよ、どこでか知りたけりゃ、言ってやろう、彼女の知合いのタチヤナ・パーヴロヴナを通じて、タチヤナ・パーヴロヴナの住居で、タチヤナ・パーヴロヴナの立会いで――ちゃんと返すよ、一文の代償もとらずにな……さあこれでぼくのそばから――永久に去りたまえ、さもないと……さもないと、ラムベルト、ぼくは紳士的にばかりはしていないぞ……」
こう言いおわったとき、わたしは全身がこまかくふるえていた。もっとも重大なことで、しかもなにごとにおいてもすべてをだめにしてしまうもっとも忌まわしい癖は、それは……ほかでもない、夢中になって要《い》らぬことを口走ることである。悪魔に魅入られたというか、わたしは彼のまえですっかり逆上してしまって、いい気になってたんかをきっているうちに、ますます調子づいて、突然かっと頭が熱くなり、タチヤナ・パーヴロヴナを通じて、タチヤナ・パーヴロヴナの住居で文書を返すなどと、まったく要らぬことを口走ってしまったのである! だがそのときは無性に彼をあっと言わせてやりたいと思っただけだった! わたしはいきなりずばりと手紙のことを言いだして、彼のおどろいたばか面《づら》を見たとき、突然もっと詳しいことを言って彼をさらにうちのめしてやりたくなったのである。ところがこの女のようなあさはかな自慢話が、あとで恐ろしい悲劇を招く原因になったのである。というのは、タチヤナ・パーヴロヴナとその住居|云々《うんぬん》と口をすべらせたことが、悪党で、こまかいことには手なれている彼の頭に、たちまちしっかりと突きささったからだ。彼は高度の重要な問題にはまるで無力で、さっぱり頭がまわらないが、こうしたこまかいことにはさすがによくきく小悪党の勘をもっていた。わたしがタチヤナ・パーヴロヴナのことを口にしなかったならば――おそらく大きな不幸は起らなかったろう。しかし、わたしの言葉を聞くと、彼は最初の瞬間はおそろしく狼狽《ろうばい》した。
「ねえきみ」と彼はしどろもどろに言った。「アルフォンシーヌが……アルフォンシーヌの歌を聞こうじゃないか……アルフォンシーヌは彼女のところへ行ったんだぜ。ぼくは手紙をもってるよ。まあ手紙と言っていいだろうな、アフマーコワ夫人の、そこにきみのことが書いてあるんだぜ、あばた面が手に入れてくれたんだ、おぼえてるだろう、ほら、あのあばた面だよ――それをきみに見せたいのさ、おもしろいぜ、さ、行こうじゃないか!」
「うそをつけ、じゃその手紙を見せたまえ!」
「家にあるんだよ、アルフォンシーヌのところに、さあ行こうや!」
もちろん、わたしに逃げられはしないかとびくびくしながら、彼がいいかげんなことを口から出まかせに言っていたことは言うまでもない。しかしわたしは彼を通りのまん中に置き去りにして、いきなりかけだした、そして彼が追ってこようとしたので、立ちどまって、拳《こぶし》を振上げておどしつけた。しかし彼はもう立ちどまってなにやら考えこみ、わたしを追おうとしなかった。このとき早くも彼の頭には新しいプランがひらめいたにちがいない。だがわたしにとっては意外なできごととめぐりあいが、まだまだ終ってはいなかった……今にしてこの不幸な一日のことを回想してみると、わたしは、これらすべての意外なできごとや偶然がまるで申しあわせをして、魔法の壺《つぼ》みたいなものの中から一時にわたしの頭上に降りおちてきたような気がしてならない。
わたしが下宿の扉をあけて、廊下へ入ったとたんに、一人の青年に出会った。長身で、顔は蒼白《あおじろ》く面長で、とりすました『優雅』な顔だちで、豪奢《ごうしや》な毛皮外套を着た青年であった。彼は鼻眼鏡をかけていたが、わたしを見るとすぐにそれをとった(どうやら、敬意を表したものらしい)、そしていんぎんに片手でシルクハットを持ち上げた、といって、別に立ちどまろうとはせずに、優雅に微笑しながら、『ああ、|今晩は《ボンソワール》』とわたしに言葉をかけると――そのまま階段のほうへ出ていった。わたしはこれまでにモスクワで一度ちらと見ただけであったが、わたしたちはとっさに互いに相手を見てとった。それはアンナ・アンドレーエヴナの兄で、侍従補をしている男で、若いヴェルシーロフ、つまりヴェルシーロフの息子で、言ってみれば、まあわたしの兄みたいなものである。主婦が彼を送って出てきた(主人はまだ勤めからもどっていなかった)。彼が出てゆくと、わたしはすぐに主婦に訊いた。
「あの男はなにをしていたんです? ぼくの部屋にいたんですか?」
「いいえあなたの部屋には入りませんよ。あのひとはわたしを訪ねていらしたんですよ……」と主婦は早口にそっけなく言うと、さっさともどってゆきかけた。
「そんな言い方ってありますか!」とわたしは声を荒げた、「失礼ですがお答えください、彼はなにしに来たのです?」
「まあ、おどろいた! じゃあなたに、人が来たらなにしに来たか、いちいち報告しろとおっしゃるんですか。わたしたちだって自分の分別というものをもってもいいはずだと思いますがね。あの若い方は金を借りたいと思ったらしく、わたしにアドレスを訊きに来たんですよ。わたしがこのまえそう約束したらしいので……」
「このまえっていつのことです?」
「まあ、おどろいた! あの方がお見えになったのは、なにも今日がはじめてじゃありませんよ!」
主婦は立ち去った。なによりもわたしは、わたしに対する口調の変化をさとった。彼らはわたしに乱暴な口をききはじめた。ここにもまた――なにか秘密があることは、明らかだった。秘密が一歩ごとに、時々刻々につもってきた。はじめて若いヴェルシーロフが妹のアンナ・アンドレーエヴナと訪ねてきたのは、わたしが病気で寝ていたときだった。そのことはわたしははっきりおぼえていた、それから昨日アンナ・アンドレーエヴナがわたしになげつけた、もしかしたら、老公爵がわたしの下宿に一時おちつくことになるかもしれない、という恐ろしい言葉も……だがそれはあまりにもばかげていたし、奇怪というほかはなく、わたしにはほとんどまじめにとりあうことができなかったのだが。わたしはぽんと額を叩くと、腰を下ろして一息入れることもしないで、いきなりアンナ・アンドレーエヴナの家へかけだした。彼女は家にいなかった。門番の返事では、『ツァールスコエ・セローのほうへお出かけになりました。明日の今時分でなければおもどりにならないと思います』とのことだった。
『彼女が――ツァールスコエ・セローへ行ったとすれば、老公爵のところに決ってる、そして兄がわたしの下宿の下見をする! いや、そんなばかな!』とわたしは腹の中で歯ぎしりした、『だがもしここに実際になにか恐ろしい罠がかくされているとしたら、おれは不幸な婦人をまもってやるぞ!』
アンナ・アンドレーエヴナのところからわたしは下宿へはもどらなかった。というのは、わたしの充血した頭に、アンドレイ・ペトローヴィチが暗い思いにとらわれるとよく行くと言っていたあの運河ぞいの居酒屋のことが、ちらとひらめいたからである。この推測に狂喜して、わたしはとっさにそちらへかけだした。もう三時をまわって、薄暗くなりかけていた。居酒屋で彼が来たことを知らされた。『しばらくいて、お帰りになりましたが、またお見えになるかもしれません』というのである。わたしは急になにがなんでも待つことに決めて、食事をとることにした。少なくとも会える希望があらわれたわけである。
わたしは食事をおえると、できるだけ長くねばる権利を取得するために、よけいな料理まで注文して、四時間は頑張《がんば》っていたように思う。その間のわたしの憂鬱《ゆううつ》とはげしい焦燥は述べまい。まるで腹の中がすっかりひっくりかえされたみたいで、全身ががくがくふるえていた。例の調子の狂ったオルガン、そして騒々しい客たち――おお、この憂悶《ゆうもん》はわたしの心の中に刻みつけられて、おそらく、終生消えることはあるまい! 嵐《あらし》におそわれたあとの秋の枯葉の群れさながらに、わたしの頭の中を舞い狂った無数の考えについても、述べることはやめよう。しかしたしかに、それに似たなにものかがあった、そして正直に言うが、わたしはときどき理性がうすれかけるのを感じていた。
しかしわたしを痛いまでに苦しめていたもの(といっても、それはもちろん、最大の苦痛とは別に、横あいからわたしを苦しめていたのだが)――それはしつこくまつわりついてはなれぬ、毒をふくんだひとつの思い出であった。うるさい秋の蠅《はえ》みたいにしつこく、別にそれを考えるわけでもないのに、しつこくまつわりついてじゃまをし、そのうちにいきなりひどく痛く刺すのである。これは今はもう思い出にすぎないひとつのできごとで、これをまだわたしは誰にも語ったことがない。ところがそこが問題なので、いずれにしてもどこかで語らなければならないのである。
わたしがまだモスクワにいたころ、いよいよペテルブルグへ行くことが決ると、わたしはニコライ・セミョーノヴィチから、旅費が送られてくるのを待つようにと知らされた。誰から金が送られてくるのか――わたしは別に訊こうとしなかった。ヴェルシーロフからだと、わたしは知っていたが、そのころは日夜、遠大な計画を心に秘めて、胸をおどらせながら、ヴェルシーロフとの対面のようすをあれこれと空想していたので、マーリヤ・イワーノヴナとさえ、ヴェルシーロフの名を口に出して話をすることをやめていたほどだった。他は推して知るべしである。ことわっておくが、そのときわたしは旅費くらいないわけではなかった。しかしやはりわたしは送金を待つことに決めた。ところで、わたしは旅費は郵送されてくるものと思いこんでいた。
ところが、ある日ニコライ・セミョーノヴィチが家へもどってくると、いきなりわたしにむかって(いつもの癖で、いっさいよけいな言葉ははぶいて、簡潔に)、明朝十一時にミャスニツカヤ街のV公爵邸へ行き、そこにアンドレイ・ペトローヴィチの息子ヴェルシーロフ侍従補がペテルブルグから来て、V公爵と学習院《リツエー》時代の学友の関係で泊っているから、彼から託されてきた旅費を受取るように、と言った。これはごくあたりまえのことと考えてよいはずであった。アンドレイ・ペトローヴィチが郵送するかわりに自分の息子に託すことは別になんのふしぎもない。ところがこの知らせがどういうものか不自然にわたしの胸をしめつけ、わたしの心をおびやかした。ヴェルシーロフがわたしを自分の息子、つまりわたしの兄と会わせたいと望んだことは明らかであった。わたしが空想していた人間の意図と気持が、このようにわたしにはうかがわれた。ところがここにわたしにしては思いあまるような大きな問題がもちあがったのである。このまったく予期せぬ対面で、いったいどのような態度をとったらいいのか、そしてどのような態度をとらなければならないのか? なにかしくじりをして物笑いになりはしないか?
翌日、きっかり十一時に、わたしはV公爵の家の玄関に立った。独身者らしい住居《すまい》ではあったが、予想してきたように、豪華な家具調度類が飾られていて、制服を着た従僕がひかえていた。わたしは控室に足をとめた。奥の部屋から声高《こわだか》な話し声と笑い声が聞えてきた。公爵のところには、侍従補のほかに、別な訪問客たちも来ていた。わたしは従僕に来意をつたえるように言いつけた。そして、どうやらそれがいささか傲慢《ごうまん》な態度だったらしい。少なくとも彼は奥へ去りぎわに、けげんそうな顔でわたしを見た。そしてそれがわたしにはいささか無礼にさえ思われた。おどろいたことに、来意を告げるだけにしてはあまりにも時間がかかりすぎた。もう五分にもなるのに、まだもどってこないし、そのあいだもたえず奥からは笑い声と声高な話し声が聞えていた。
わたしは、もちろん、立ったまま待っていた。『同じ貴族』であるわたしが、従僕のひかえているような控室に腰を下ろすことは、礼にもとるし、不可能であることを重々承知していたからである。またわたしとしては、招かれもしないのに、こちらから奥の客間のほうへ入ってゆくことは、自尊心が許さなかった。考えすぎの自尊心だと、人は言うかもしれないが、わたしとしてはそれが当然であった。さらにおどろいたことに、控室にひかえていた従僕が(二人いたが)図々《ずうずう》しくもわたしをさておいて椅子に腰を下ろしたのである。わたしはそれに気づかないふりをして、そっぽを向いた、が、いきなりまたそちらへ向き直ると、つかつかと一人の従僕のまえに歩みよって、『直ちに』もう一度来意を告げにゆくように命じた。わたしのきびしい目と極度の興奮に素知らぬ顔で、その従僕は立ち上がりもせずに、のろのろとわたしの顔を見た。するともう一人がそれに代って答えた。
「もう取次いでありますよ、ご心配にはおよびません!」
わたしはもう一分だけ待つことに決めた、あるいはできたら一分も待たないで、それで現われなければ――ぜったいに立ち去ろうと決心した。はっきり言っておくが、わたしは一分《いちぶ》の隙《すき》もないりっぱな服装をしていたのである。服と外套はとにかく新品だったし、シャツも一度も着たことのない新しいものだった。今日の対面のためにマーリヤ・イワーノヴナがわざわざ気をつかってくれたのである。ところでこの従僕たちのことは、もうずっと後に、ペテルブルグへ行ってから、確実な情報をえたのだが、彼らはヴェルシーロフについてきた従僕からもう昨夜のうちに、『明日来るのは腹ちがいの弟で、まだ学生さ』と聞かされていたのである。これは今はもうはっきりしている。
一分がすぎた。決心しながら、決行できないときの気持というものは、実に奇妙なものである。『去ろうか去るまいか、去ろうか去るまいか?』とわたしはまるで悪寒《おかん》でもするようにぞくぞくしながらくりかえした。不意に取次ぎに行った従僕がもどってきた。その指のあいだに赤い紙幣が四枚ひらひらしていた。四十ルーブリである。
「さあ、お受取りください、四十ルーブリです!」
わたしはかっとなった。これほどの侮辱があろうか! わたしは昨夜一晩中ヴェルシーロフが仕組んでくれた兄弟の対面の光景を思い描いていたのだった。わたしは孤独な生活の中で練りあげ、そしてどんなところへ出しても恥ずかしくない処世の信条を失墜させないためには、どのような態度をとらねばならぬかと、終夜熱い頭で考えつづけたのだった。わたしは上品であろう、誇り高くあろう、同時に愁《うれ》いをおびた態度をとることを忘れまい、V公爵との同席においてさえこの態度をくずすまい、そしてりっぱに上流社会に入ることを許してもらうようにしようと夢みていたのだった――おお、わたしは自分を容赦せずはっきり言う、なに、笑われたってかまうものか。いずれにしたってこれは正確に詳細に書かねばならぬことなのだ! それが今いきなり――従僕をとおして四十ルーブリを、控室で、しかも十分も待たされたあげく、そのうえ盆にのせるとか、封筒に入れるかではなく、むきだしのまま従僕の手で突きつけられようとは!
わたしがものすごい剣幕でどなりつけたので、従僕はびくっとして、一歩うしろへたじろいだ。わたしは直ちにもちかえって、『主人が自分で持ってくる』ように言えと命じた――要するに、わたしの要求は、もちろん、唐突なものであったし、従僕にはなんのことやらのみこめなかったにちがいない。しかしわたしにいきなりどなられたので、彼はあたふたと出ていった。加えて、広間では、わたしのどなり声が聞えたらしく、話し声と笑い声が急にぴたりとやんだ。
それとほとんど同時に、わたしは重々しいゆったりした足音を聞いた、そして美しい尊大な青年のすらりとした長身が控室の入口に現われた(そのときの彼のほうが、今日会った彼よりも顔色が蒼白く、そしてやせていたように、わたしはおぼえている)――しかも入口の一メートルほど向うに立ちどまったのである。彼は豪奢な赤い絹のガウンを着て、スリッパをつっかけ、鼻眼鏡をかけていた。一言もものを言わずに、彼は鼻眼鏡をわたしのほうに向けると、じろじろとわたしを観察しはじめた。わたしは、野獣のようにたけりたって、ずいと一歩踏みだすと、ぐっと彼をにらみすえながら、挑《いど》みかかるように立ちはだかった。しかし彼がわたしを観察していたのはほんのわずかの間のことで、十秒もなかった。不意にほとんどそれと気づかないような薄笑いがその唇にうかんだ、しかしそれはきわめて毒のある薄笑いであった。ほとんど気づかないほどだからこそ、よけいに毒がはげしいのである。彼は黙ってくるりと向き直ると、やはり悠々《ゆうゆう》と、来たときと同じようにしずかななめらかな足どりで、奥のほうへ去っていった。おお、この思いあがったやつらはまだ子供のころから、家庭内ですでに母親たちに人を侮蔑《ぶべつ》するすべをおしえこまれているのである! ことわるまでもなく、わたしは茫然《ぼうぜん》としてしまった……おお、なぜわたしはそのときなすすべを忘れたのか!
ほとんど入れちがいに、また従僕が同じ紙幣をひらひらさせて出てきた。
「どうぞお受取りください、これは――ペテルブルグからあなたへお渡しするようにとあずかってきたものです、だが今あなたをお通しすることはできないそうです、『いずれそのうち、暇なときに』とのことですから」
わたしは、この最後の言葉は従僕が勝手につけくわえたものであることを感じた。しかしわたしはまだはっきりと自分をとりもどすことができなかった。それでわたしはうっかり金を受取って、ドアのほうへ行きかけた。たしかにうっかりしていたために受取ってしまったのである、さもなければこんな金を受取るわけがなかったのである。ところが従僕は、これはもうむろんわたしを辱《はずか》しめようとして、思いきった下司《げす》な振舞いにおよんだ。いきなり力まかせにドアを開き、把手《とつて》をにぎったまま、もったいぶって、わざと言葉に力を入れながら、通りすぎようとするわたしに言った。
「どうぞ!」
「下司め!」とどなりざま、わたしはいきなり手を振上げた、が、さすがになぐりはしなかった、「おまえの主人も下司だ! 今すぐこれをやつに伝えるがいい!」とわたしは言い加えて、さっと階段へ出ていった。
「無礼なことは言わねえものだ! わしが今すぐこれを主人に報告したら、あなたは立ちどころに書状をそえて警察へつき出されますぞ。手を振上げるなんて、あなたのできることでねえ……」
わたしは階段を下りていった。階段は表階段で、すっかりむきだしなので、上から赤いじゅうたんの上を下りてゆくわたしの姿がすっかり見とおしであった。従僕どもは三人とも廊下へ出て、手すりの上に顔を並べてわたしを見下ろしていた。わたしは、もちろん、沈黙をまもる腹を決めていた。従僕どもとののしりあうようなぶざまなことは自分に許せなかった。わたしは足を早めもせず、むろん、ゆるめもせずに、平然とぜんぶの階段を下りきった。
おお、もし屁理屈《へりくつ》をこくのが好きな連中がいて、そんなことは――くだらんことさ、乳臭い若者にありがちな自意識過剰さ、と言うならば(そんな理屈を言うこと自体が恥辱なのだ!)それもよかろう――勝手に言うがいい、しかしわたしにとってはこれは深い傷であった。そしてこの傷はいまだに癒着《ゆちやく》していないのである。わたしがこの手記を書いている今のこの瞬間でさえも、もういっさいが終り、復讐《ふくしゆう》がなされてしまった今でさえも、まだうずいているのである。おお、誓って言うが、わたしは執念深い人間でもなければ、特に復讐心が強いわけでもない。たしかに、わたしは常に、病的なまでに、屈辱をうけると復讐をねがってきた。しかし誓って言うが――それは単に寛大な態度による復讐にすぎないのである。わたしは寛大によって敵に報いようとねがうだけなのである。ただし敵にそれを感じさせなければならない、それをさとらせなければならない――それでわたしの復讐は終るのである! ついでにつけくわえておくが、わたしは復讐心は強くないが、しかし、寛大な心をもっているとはいえ、やはり執念深い男である。こういうことが他の人々にあるだろうか?
そのときは、おお、そのときはわたしは寛大な気持をもって家へ帰った。もしかしたら、滑稽な気持といえるかもしれない、しかしそれならそれでかまわない。滑稽で、しかも寛大であるほうが、滑稽でなくて、しかも卑劣で、凡俗で、平凡であるよりも、ずっといいではないか! この『兄』との対面のことをわたしは誰にも打明けなかった。マーリヤ・イワーノヴナにも、ペテルブルグへ来てからリーザにさえも。この対面はやはり横面《よこつら》をなぐられたと同じ屈辱であった。そして今不意にこの男と、わたしがもっとも予期しないときに出会ったのである。彼はわたしに微笑をなげて、帽子をとり、まるで親しげに『|今晩は《ボンソワール》』と言葉をかけた。もちろん、小首をかしげさせるものはあった……しかし古傷がうずきだしたのである!
四時間以上もわたしは居酒屋にねばっていたが、わたしは不意に、まるで発作にでもおそわれたように、外へとびだした――ことわるまでもなく、またヴェルシーロフのところへかけつけた、しかし、もちろん彼はいなかった。彼は朝出たきりぜんぜんもどっていなかった。乳母はさびしがって、急にダーリヤ・オニーシモヴナを呼んできてくれとわたしにたのんだ。おお、わたしはそれどころではなかった! わたしは母の家にかけつけた、そして中へ入らないで、ルケーリヤを扉口《とぐち》に呼びだした。彼女の話では、ヴェルシーロフは来なかったし、リーザも家にいないとのことであった。ルケーリヤもなにかわたしに訊きたそうで、もしかしたら、やはりなにかわたしにたのみたいことがあるのかもしれなかったが、しかしわたしはそんなことにかかりあってはいられなかった! のこされた希望はただひとつ、彼がわたしの部屋に来ているかもしれないということだったが、それはもはやわたしはあてにしていなかった。
わたしがほとんど理性を失っていたことは、もう述べておいた。そしてわたしは今自分の部屋に、意外にもアルフォンシーヌと家主の姿を見たのである。もっとも、二人は部屋から出てくるところで、ピョートル・イッポリトヴィチは蝋燭《ろうそく》を手にもっていた。
「これは――なんのまねです!」とわたしはほとんど夢中で主人をどなりつけた、「どうしてこんな悪党をぼくの部屋へ入れたんです?」
「Tiens!(なんですって!)」とアルフォンシーヌは叫んだ。「et les amis?(あたしたちお友だちじゃありませんか?)」
「出てゆけ!」とわたしは叫んだ。
「Mais c'est un ours!(まるでほんものの熊だわ!)」彼女はおびえたようなふりをして、廊下へとびだすと、さっと主婦のかげにかくれた。
ピョートル・イッポリトヴィチは、まだ蝋燭を手にもったまま、けわしい顔つきでわたしにつめよった。
「失礼ですが、アルカージイ・マカーロヴィチ、あなたは頭がどうかしてるようですね。わたしたちはあなたを尊敬しておりますが、マドモアゼル・アルフォンシーヌを悪党呼ばわりするのは言葉がすぎますぞ、とんでもないことです、この方はあなたをではなく、わたしの家内を訪ねてこられたのです。家内とはもうしばらくまえからじっこんにしていただいておりますのでな」
「じゃなぜ、この女をぼくの部屋へ入れたんです?」とわたしは急におそろしく痛みだした頭を手でおさえて、同じことをくりかえした。
「ほんの偶然ですよ。わたしが小窓をしめようと思って入ったんですよ、空気を入れかえようと思ってさっきあけておきましたのでね。ところがわたしはアルフォンシーヌ・カルローヴナと話をしている途中で立ったものですから、この方も話をしながらついいっしょに来てしまった、ただそれだけのことですよ」
「うそです、アルフォンシーヌは――スパイです、ラムベルトも――スパイです、もしかしたら、あなたも――スパイかもしれん! アルフォンシーヌはなにか盗むためにぼくの部屋に入ったのだ」
「おやおや、まあ好きなようにほざくがいいでしょう。今日はこう言い、明日はああ言う、まあ忙しいことですな。わたしの部屋をしばらくお貸ししたのですよ、その間わたしと家内は納戸《なんど》にしている小部屋へ移るわけです。だからアルフォンシーヌ・カルローヴナは今は――まあこの家の間借人みたいなものですよ、あなたと同じようにね」
「ラムベルトに部屋を貸したんですか?」とわたしはびっくりして叫んだ。
「いいえ、ラムベルトにではありませんよ」と彼は例の長ったらしい薄笑いをうかべた、しかしそこにはもう今朝ほどの危ぶみとはうって変って固い自信が見られた、「どうやら誰に貸したのか先刻ご承知のくせに、お体裁のために、わざと知らぬふりをしておいでのようですな、それでぷりぷりなさってるか。じゃ、おやすみ!」
「もういいから、かまわんで、ぼくをそっとしておいてください!」とわたしは今にも泣きだしそうな顔で、両手を振った。そのために彼は急にびっくりしてわたしの顔を見た。それでも、彼はなにも言わずに出ていった。わたしはドアの鍵を下ろすと、寝台の上に突っ伏して枕《まくら》に顔を埋めた。このようにして、この手記にのこされた最後の宿命的な三日間の最初の恐ろしい一日が過ぎたのである。
[#改ページ]
第十章
しかしわたしはまたしても、事件の経過に先んじて、せめていくつかの事情なりと、まえもって読者に説明しておくことが必要であると思うのである。というのは、この事件の論理的な流れにはあまりにも多くの偶然が混入しているので、それらをあらかじめ明らかにしないことには、とうてい理解ができないからである。
事件の核心は要するに、タチヤナ・パーヴロヴナが口をすべらせたあの『恐ろしい罠《わな》』にあった。そしてこの罠というのは、アンナ・アンドレーエヴナがその追いつめられた立場でこそようやく考えられるような、思いきった大胆な手段に、ついに、ふみきったことにあった。真に――おどろくべき気性である!
老公爵はそのころ、病状を口実に、いち早くツァールスコエ・セローの別荘に幽閉されてしまったので、彼とアンナ・アンドレーエヴナの結婚の噂《うわさ》は社交界にひろまるにいたらないで、一時、いわばほんのちょろ火のうちに消されたかっこうになったが、しかし、どんなことでも思いのままに押しつけられそうな病弱な老公爵が、この結婚の考えを捨てて、彼に直接申込みをしたアンナ・アンドレーエヴナを裏切ることだけは、頑《がん》として承知しそうもなかった。この点では、彼は騎士道精神をもっていた。だからおそかれ早かれ、彼が敢然と立ち上がって、いかなる制止も振りきって自分の意志の実現に突きすすむ危険が十分に考えられた。これは実に、性格の弱い者にこそ、おこりやすいことなのである。というのは、彼らには宿命的な最後の一線があるからで、そこまで追いつめてはいけないのである。そのうえ、彼はアンナ・アンドレーエヴナを限りなく尊敬していたし、その立場の微妙さを知りつくしていた、また彼女にとって都合のわるい中傷や嘲笑《ちようしよう》が社交界にばらまかれるおそれがあることも十分に承知していた。ただ、ここしばらく、カテリーナ・ニコラーエヴナが彼のまえでアンナ・アンドレーエヴナをわるく言うような言葉は、ぜったいに一言も、それこそほのめかすようなこともしないように気をつけていたし、彼女との結婚の意志に反対するような素ぶりも見せないようにしていたので、彼はおとなしくしていただけのことであった。彼女はわるく言うどころか、父の許嫁《いいなずけ》に対してこのうえない喜びと好意を示していた。
こういうわけで、アンナ・アンドレーエヴナは極度に気づまりな立場におかれて、老公爵がやはり大きな敬意をはらっていたカテリーナ・ニコラーエヴナを、ちょっとでもわるく言うことは、――いつもそうだったが、特に今は、彼女があれほどおだやかに、へりくだって父の結婚を許したのだから、――それこそ老公爵のやさしい気持を侮辱することになり、自分に対する老公爵の不信と、あるいは怒りをさえ招くことになるかもしれないことを、女らしい鋭敏な感覚で見てとっていた。というわけで、しばらくはもっぱらこの面でたたかいがおこなわれていた。二人の敵はさながら互いにその微妙な心理と忍耐を競いあっていたかの観があって、老公爵はしまいにはもうどちらの女性に感嘆したらいいのかわからなくなってしまい、弱いがやさしい心をもった人々の例にもれず、結局は自分で苦しんで、すべては自分一人がわるいからだと思いこむようになった。話によると、あまりふさぎこんで体をこわしてしまい、神経がほんとに錯乱して、言い聞かされてきたように、ツァールスコエ・セローの別荘で健康を回復するどころか、かえって寝ついてしまいそうになってしまったというのである。
ここで、これはずっと後になってから聞いたことであるが、ついでに挿入《そうにゆう》しておきたい。なんでもビオリングが直接カテリーナ・ニコラーエヴナに、なんとかうまく欺《だま》して老公爵を外国へ連れだし、同時に社交界にはそれとなく老公爵が完全に発狂したというような噂をまいておいて、外国で医師の正式の診断書をとりつけることをはかってはどうか、と提案したというのである。しかしそれはカテリーナ・ニコラーエヴナがぜったいに望まなかった。ともあれ、これはあとになってから人々が認めあったことである。彼女は憤然としてこの提案をしりぞけたらしい。こうしたことは――ひどく遠い噂にすぎないが、しかしわたしはさもありなんと信じている。
こうして、事態がついに、いわば最後のどんづまりまで来たとき、アンナ・アンドレーエヴナは思いがけずラムベルトの口から、カテリーナ・ニコラーエヴナがすでに父老公爵を狂人と宣告する方法についてある弁護士に相談を求めた手紙があることを知った。復讐心《ふくしゆうしん》と誇りに充ちた彼女の理性は極度の興奮にとらわれた。彼女はわたしとのこれまでの話を思い返し、いろいろと些細《ささい》なことを思いあわせてみると、どうしてもこの情報の真実性を疑うことができなくなった。そしてはじめてこのしっかりした、屈することを知らぬ女の心の中に、敵を粉砕する計画が決定的なものとして熟したのである。その計画とは、不意打ちに、予備的なことや非難めいたことはいっさい言わずに、すべてをいっきょに老公爵にぶちまける、そして彼をびっくりさせ、ちぢみ上がらせる、そして精神病院行きが避けられぬことをはっきりと知らせる、そしてもし彼が強情をはって、こちらに怒りを爆発させ、どうしても信じようとしないようなときは――娘の手紙を見せてやる、『そらごらんなさい、すでに一度あなたを狂人と宣告しようとしたことがあったのですよ。だから今度だって、結婚をじゃまするために、そのくらいのことはしかねませんわ』と説明する、そこでびっくりしてしまって死んだようになっている老公爵をペテルブルグへ連れだして――まっすぐにわたしの下宿へ連れこむ、というのであった。
これは恐ろしい冒険であったが、彼女は自分の力を信じきっていた。ここで、ちょっと話の筋からそれ、ひどく先へとんで、一言ことわっておくが、彼女はこの打撃の効果を読みちがえてはいなかった。それどころか、その効果は彼女の予期をはるかに超《こ》えていたのである。この手紙についての知らせは、おそらく彼女自身が予期したよりも、そしてわたしたちみんなが予期していたよりも、数倍も強烈な衝撃を老公爵にあたえたらしいのである。わたしはそのときまでまったく知らなかったが、老公爵はもうまえからそうした手紙があるらしい噂を耳にしていた。ところが、気の弱い臆病《おくびよう》な人間にありがちのことだが、老公爵もそんな噂を信じようとしないで、気を休めるために極力そんなことは考えないようにしていた。それどころか、軽はずみに人の口にのせられる自分の品性の下劣さを責めていたほどであった。これもつけくわえておくが、手紙が焼き捨てられずにあったという事実はカテリーナ・ニコラーエヴナにも、わたしがそのころ考えていたよりも、はるかに強烈な衝撃をあたえたのである……一口に言えば、この手紙は、それをふところにしのばせていた当のわたしが想像していたよりも、はるかに重大なものだったのである。しかしわたしはどうやらあまりにも先へ走りすぎたようだ。
それにしても、いったいどうしてわたしの下宿へ? と読者は不審に思われるにちがいない。なぜ老公爵をわたしたちのみすぼらしい部屋へ連れこんで、そのみじめなありさまを見せつけてびっくりさせなければならんのだ? もし彼の邸宅へ連れてゆくわけにいかなかったら(そこでは計画をいっきょにひっくりかえされるおそれがあったので)、ラムベルトがすすめたように、なぜ特に『豪華』な住居をさがさなかったのか? だがここにこそ、アンナ・アンドレーエヴナの捨身の計画の賭《か》けのすべてがあったのである。
この計画の焦点は、老公爵が到着したらすぐ手紙を見せることにあった。ところがわたしがどうしても手紙を渡さなかった。しかし時を失することはもうできなかったので、アンナ・アンドレーエヴナは自分の力を頼みにして、手紙がないままに行動を起そうと決意した、ただし老公爵をいきなりわたしにぶっつけようとしたのである――なんのために? ほかでもない、それによってわたしをも網にかけるためである。諺《ことわざ》にいう一石二鳥をねらったわけである。彼は不意打ちによってわたしを震撼《しんかん》させ、意にしたがわせようと考えたのである。彼女は、わたしが自分の部屋に老公爵を見出《みいだ》し、そのおどろいた姿を目のまえにし、彼らみんなの願いを耳にしたら、いくらわたしでも我《が》を折って、手紙を差出すだろう、とねらいをつけたのである! 告白するが――このねらいは心理的で、実に巧妙をきわめたものであり、しかも――彼女はすんでに成功をかちえようとした……一方老公爵はといえば、アンナ・アンドレーエヴナはそのときわたしのところへ連れてゆくからと正直に彼に言うことによって、たとい言葉のうえだけでも、彼を信用させ、そして彼の心をうごかしたのだった。これはみなわたしがあとで知ったことである。その手紙をわたしがもっていると聞いただけで、彼の臆病な心の中にわだかまっていた事実の信憑《しんぴよう》性に対する最後の疑惑が消えてしまった――それほど老公爵はわたしを愛し、そして尊敬していてくれたのである!
さらに言っておくが、アンナ・アンドレーエヴナ自身も、手紙がまだわたしの手もとにあって、わたしがまだそれを誰にも渡していないことを、すこしも疑っていなかった。要するに、彼女はわたしの気性を曲解していて、たかをくくってわたしの純情と、朴直《ぼくちよく》と、さらに感傷性にまで望みをかけていたのである。またその反面、仮にわたしが手紙を、たとえばカテリーナ・ニコラーエヴナに渡す決意をするようなことがあるとしても、それはなにかある特殊な事情がおこった場合だけだ、と考えて、そうしたなにか特殊な事情がおこらないうちに、奇襲によって事を成就してしまおうと急いだのである。
ところで、最後に、こうしたすべてを彼女にうけあっていたのはラムベルトであった。まえにも言ったように、ラムベルトの立場はそのころ恐ろしい危機に直面していた。裏切者の彼はなんとしてもわたしをアンナ・アンドレーエヴナから遠ざけて、二人だけで手紙をアフマーコワ夫人に売りつけようと望んでいた。彼はどういうわけかそのほうが有利だと考えていたのである。ところがわたしが最後までどうしても手紙を渡そうとしなかったので、彼は儲《もう》けをすっかりふいにしてしまうへまをやらないために、やむをえない場合はアンナ・アンドレーエヴナにでも協力しようと腹を決めていた。だから彼はぎりぎりの瞬間まで、せいいっぱい彼女の機嫌《きげん》をとりむすんで、これはわたしが聞いたのだが、もし必要とあれば、神父の世話までしようと提案していた……しかしアンナ・アンドレーエヴナはさげすみの冷笑をうかべながら、そのようなことは言わないでほしいとたのんだ。彼女はラムベルトを恐ろしい田舎者《いなかもの》と見て、すっかり毛ぎらいしていた。それでもやはり彼女は用心のために彼の労をしりぞけるようなことはしなかった。というのは、彼のしごとは主として敵の情報をさぐることにあったからである。ついでだから言っておくが、彼らがわたしの家主のピョートル・イッポリトヴィチを買収していたのかどうか、家主がそのころ彼らからいくらかでも報酬をもらったのか、あるいはただ陰謀がおもしろくて彼らの一味に加わったのか、そのへんのところはわたしはいまでも確証がないのである。しかし彼も、彼の妻も、要するにわたしをさぐるスパイであったこと――これはわたしにもはっきりわかっている。
これで読者もおわかりと思うが、わたしは、うすうすは知らされていたとはいえ、でもやはり明日か明後日このみすぼらしい下宿の一室に老公爵を見ることになろうとは、どうしても考えられなかったのである。それにわたしはまさかアンナ・アンドレーエヴナがこんな思いきった乱暴なことをしでかすとは、とても想像できなかった! 口先ではどんなことでも言えるし、ほのめかしもできよう、だが腹を決めて、実際に決行しようとは――普通ではできることではない、これは、はっきり断言するが、おどろくべき気性というほかはない!
先をつづけよう。
翌朝、わたしはおそく目をさました、しかしいつになくぐっすり眠って、夢もみなかった。これは自分でもふしぎなくらいである。だから、目をさますと、まるで昨日のことなどぜんぜんなかったみたいに、またしてもいつになく爽快《そうかい》な気分を感じた。わたしは母のところへは寄らないで、まっすぐに墓地の教会へ行き、葬式が終ってから、母の住居へ帰って、もうこの日は終日母のそばを離れないようにしよう、と決めた。わたしはいずれにしても今日は母のところで彼に会える、おそかれ早かれ――必ず会える、とかたく信じていた。
アルフォンシーヌも、主人も、もうとっくに家にはいなかった。主婦にはわたしはなにも訊《き》きたくなかったし、それにだいたい彼らとはいっさいの交渉を絶ち、できるだけ早くこの下宿をひきはらおうと決めていた。だから、コーヒーがはこばれてくるとすぐに、わたしはまたドアに鍵《かぎ》を下ろした。ところが不意にドアがノックされた。おどろいたことに、トリシャートフが立っていた。
わたしはすぐにドアをあけた、そして喜んで、中に入るようにすすめたが、彼は入ろうとしなかった。
「ぼくはここでほんの一言だけ、あなたにお知らせすればいいのです……でも、やはり入りましょう、ここだとひそひそ話しかできません。でも腰は下ろしません。ごらんのとおりのみすぼらしい外套《がいとう》ですから。ラムベルトに毛皮外套をとりあげられて――この始末です」
たしかに彼は貧弱な、古い、おまけに丈《たけ》にあわぬ長い外套を着ていた。彼はなにか暗い憂鬱《ゆううつ》な顔をして、両手をポケットにつっこんだまま、帽子をとろうともしないで、わたしのまえに突っ立っていた。
「このままでいいです、坐りません。実は、ドルゴルーキー、ぼくは詳しいことはなにも知らんが、ラムベルトはあなたになにかの裏切りをしようとたくらんでいます、近々です、ぜったいにやります――これは確実です、だから用心してください。あばた面がぼくにもらしたんです――おぼえてるでしょう、あのあばた面を? でも、どういうことなのか、なにも言わなかったので、ぼくもこれだけしか言うことができません。ぼくはただそれをあなたに注意しようと思って来ただけです――では失礼します」
「まあ、坐りたまえ、いいじゃないか、トリシャートフ! ぼくも急いでるが、でもほんとに嬉《うれ》しいよ、きみが来てくれて……」とわたしは大きな声で言った。
「いや、結構です、坐りません。でも、あなたが喜んでくれたことは、忘れません。まったく、ドルゴルーキー、ぼくは他人を欺すなんてへいちゃらですよ、ぼくはちゃんと承知で、自分の自由意志で、どんな汚らわしいことでも、あなたのまえで口にするのも恥ずかしいような卑劣きわまることでも、やろうって男ですよ。これからあばた面のところに集まるんです……じゃ、これで。ぼくはあなたの部屋に坐れるような男じゃありません」
「よしたまえ、トリシャートフ、なにをばかなことを……」
「いや、いけません、ドルゴルーキー、ぼくは不逞《ふてい》のやからですよ、いまに大騒ぎをやらかします。もうじきもっともっとすばらしい毛皮外套をこさえてもらえるし、競走馬をとばすようになりますよ。でも、やはりあなたの部屋に坐らなかったことは、記憶として胸の中にしまっておきましょう、だって自分で自分にそう判決したからですよ、あなたのまえに出ると虫けらみたいなものだからですよ。これはぼくがあぶく銭で恥知らずな大騒ぎをやらかすようになったとき、やはり快い思い出となって胸にのこるでしょう。失礼、じゃ、これで。握手もしません。アルフォンシーヌづれでさえぼくの手にさわらんのです。それから、どうか送らないでください、またぼくを訪《たず》ねないでください。いいですね、これが約束ですよ」
奇妙な青年はくるりと背を見せると、出ていった。わたしは今は暇がなかったが、この事件が落着したら、できるだけ早い機会に彼をさがしだそうと決めた。
それから、思い出せることはいくらでもあるが、この朝のことも丹念《たんねん》に描写することはやめよう。ヴェルシーロフは教会の葬式には来なかった、それに母たちの顔つきから判断すると、出棺のまえにもう教会で彼を待たずに式をすすめることに決めてしまっていたらしい。母はうやうやしく祈っていた、そして祈りに心のすべてを捧《ささ》げきっているように見えた。棺のそばにはタチヤナ・パーヴロヴナとリーザの二人しかいなかった。だが、よそう、書くのはよそう。埋葬が終ると一同は家へもどって、食卓を囲んだ、そしてここでもみんなの顔から、わたしは食事にも彼が来るまいとあきらめきっていることを読んだ。一同が食卓から離れたとき、わたしは母のそばへ行って、かたく母を抱きしめて、誕生日のお祝いを言った。ついで、リーザもわたしにならった。
「わかる、兄さん」とリーザがそっとわたしにささやいた、「お母さんたちは彼を待っているのよ」
「わかるよ、リーザ、わかるよ」
「彼はきっと来るわ」
とすると、母たちは確実な情報をにぎってるらしい、とわたしは思ったが、しかしなにも訊かなかった。わたしの感情のうごきを描写することはしないが、しかしこうした謎《なぞ》のすべてが、いかにわたしの胸が爽快な活力に充ちていたとはいえ、不意に重石《おもし》となってわたしの心にのしかかってきたことは事実である。わたしたち一同は客間で母をはさんで円卓を囲んでいた。おお、そのとき母のそばにいて、母を眺めていることが、わたしにはどれほど嬉しかったことか! 母が急にわたしに福音書の中のどこか一節を読んでくれとたのんだ。わたしはルカ伝の一章を読んだ。母は泣かなかったし、それほど悲しそうにも見えなかったが、わたしには母の顔がこれほどに精神的に深みのある顔に思われたことはかつてなかった。そのしずかなまなざしには思想がきらきら光っていた、そしてわたしには、母がそわそわしながらなにものかを待っているとは、どうしても認められなかった。話がつきなかった。いろいろと故人の思い出が語られ、タチヤナ・パーヴロヴナも故人についてわたしがまったく知らなかったようないろいろと珍しい話をした。総じて、もしここに書きとめたならば、興味あることがたくさん見出されたはずである。
それにタチヤナ・パーヴロヴナはいつもとはまるで別人のようにさえ思われた。ひどくものしずかで、やさしく、それになによりも、母の気をまぎらすために多くしゃべりはしたが、しかしひどくおちつきはらっていた。だが、ひとつだけ鮮明にわたしの記憶に焼きついたことがあった。母はソファにかけていたが、その左手にわざわざ持ちだされた円い小さな卓の上に、どうかするつもりだったらしく古い聖像がひとつのせられていた。この聖像は金襴《きんらん》の飾りはなく、二体の聖者の頭に小さな花冠がのっているだけであった。この聖像はマカール・イワーノヴィチのものであった――わたしはそれを知っていたし、また故人が決してそれを手もとからはなさないで、それを霊験あらたかな聖像と信じていたことも知っていた。タチヤナ・パーヴロヴナはちらちらと何度かそれを見やった。
「ねえ、ソーフィヤ」と彼女は急に話題を変えて、言った、「どうして聖像をこんなとこに置いとくの? あちらの卓の上に飾って、壁にもたせかけて、お燈明《とうみよう》をともしたら?」
「いいえ、このままにしておいたほうがいいんですよ」と母は言った。
「それもそうだわね。あんまり仰々しすぎるのもなんだから……」
わたしはそのときはなにもわからなかったが、それはこういうことであった。つまりこの聖像はマカール・イワーノヴィチが死ぬまえに遺言でアンドレイ・ペトローヴィチにゆずることに決めていたもので、それで母は今これを彼に渡そうとわざわざ出しておいたのである。
もう夕方の五時近くになっていた。わたしたちの話はまだつづいていた、と不意に、母の顔にぴくっとふるえのようなものが走ったのに、わたしは気づいた。母は急にきっとなって、耳をすましはじめたが、タチヤナ・パーヴロヴナはそのときちょうど話をしていたので、なにも気づかなかった。わたしはすぐにドアのほうを振向いた、するとほんの二、三秒の間をおいて、戸口にアンドレイ・ペトローヴィチの姿が現われた。彼は玄関からではなく、裏口から入って、台所と廊下を通ってきた、そして母一人だけがその足音を聞きつけたのであった。ここで、つづいて起った狂気じみた情景を、一挙一動、一言半句ももらさずに順を追って書くことにする。それはそんなに長いことではない。
まずだいいちに、彼の顔にわたしは、少なくとも最初の一瞥《いちべつ》では、いささかの変化も認めなかった。服装はいつものとおりで、つまりほとんど粋《いき》といっていいほどの格好をしていた。手には小さいが高価なみずみずしい花束をもっていた。彼は母のそばへ寄ると、にこにこ笑いながらそれを母に捧げた。母はおずおずとうろたえ気味に彼を見やったが、しかし花束を受けた、すると不意にかすかな赤みが蒼白《あおじろ》い顔にほんのりと生気をあたえ、目に喜びがきらっと光った。
「わしはそう思っていたんだよ、よく受けてくれたね、ソーニャ」と彼は言った。
彼が入ってきたとき、わたしたちはみな立ち上がったので、彼は、卓のそばへ寄ると、母の左手にあったリーザの肘掛椅子《ひじかけいす》をちょっとずらして、それを他人《ひと》の席とも気がつかないで、腰を下ろした。こうして、彼は聖像ののっていた小卓のすぐわきに位置することになった。
「お元気かな、みなさん。ソーニャ、今日はおまえの誕生日だから、わしはぜひこの花束をおまえに贈りたいと思ったんだよ、それで葬式にも出なかったのさ、花束をもって葬式もおかしいからな。それにおまえもわしが葬式に出るとは思っていなかったろうし、それはわしも知っていた。老人も、まあ、この花束を怒るまいよ、だって自分でわしたちに喜びを遺言してくれたくらいだものな、そうだろう? わしは、老人がこの部屋の中のどこかにいるような気がするんだよ」
母はけげんそうに彼の顔を見た。タチヤナ・パーヴロヴナはぎくりとしたようであった。
「この部屋の中に誰がいるんですって?」と彼女は訊きかえした。
「故人だよ。でもこんな話はよそう。あんたも知ってるように、こうした奇蹟をすこしも信じない者ほど、もっとも迷信にかたむきやすいものだ……まあ、そんなことより花束の話でもしよう。どうしてここまで持ってこれたのか――自分でもふしぎでならんのだよ。わしは途中で三度ほどこれを雪の上に投げすてて、踏みにじってしまおうと思った」
母はぎくりとした。
「どうにもがまんがならぬほどだった。わしを哀れんでくれ、ソーニャ、わしのかわいそうな頭を。なぜそうしてやりたかったか、これがあんまり美しすぎるからだ。この世のどんなものでも、花より美しいものがあろうか? わしが花束を持って歩いている、ところがまわりは雪と厳寒《マローズ》だ。わがロシアの厳寒《マローズ》と花――なんという極端な矛盾だ! わしは、しかし、それを考えたのではない。ただ美しいから、踏みにじってやりたかったのだ。ソーニャ、わしはたとい今また姿を消すようなことがあっても、必ずすぐにもどってくるよ、だって、きっとこわくなるからだよ――そうじゃないか、おまえでなくていったい誰がわしを恐怖から救ってくれるのだ、ソーニャ、おまえでなくて、いったいどこにわしの守護天使がいるのだ? おや、この聖像はなんだね? ああ、故人のか、思い出したよ。これはあの老人の父祖代々のものだ、うん、故人はこれを一生涯|肌身《はだみ》はなさずもっていたんだよ。知ってるよ、おぼえてるよ、老人はわしにこれをゆずると遺言したんだ。よくおぼえてるよ……たしか分離派のものだった……どれ見せてごらん」
彼は聖像を手にとると、蝋燭《ろうそく》の明りのそばへもっていって、じっと眺《なが》めた、しかし、わずか数秒そうしていただけで、今度はもう自分のまえの卓の上においた。わたしはびっくりした、が、こうした奇妙な言葉をまったくだしぬけに聞かされたので、わたしはあっけにとられてしまって、まだなんのことやらすこしも意味を考えることができなかった。わたしがおぼえているのは、異様な恐怖に心を刺しつらぬかれたことだけである。母のおびえは疑惑と憐憫《れんびん》にかわった。彼はまえにもときどきこんなふうに奇妙なことを言いだしたことがあったらしい、リーザはなぜか急に蒼白《そうはく》になって、そっと頭を彼のほうへしゃくってわたしに合図をした。しかし誰よりもおびえたのはタチヤナ・パーヴロヴナであった。
「まあ、どうしたというの、アンドレイ・ペトローヴィチ?」と彼女は用心深く言った。
「実のところ、タチヤナ・パーヴロヴナ、自分でもわからないのだよ、どうしたのか。でも、大丈夫だよ、あなたが――タチヤナ・パーヴロヴナで、あなたは――親切な人だということは、まだわかってるから。わしは、でも、ほんのちょっとここへ寄っただけなんだよ、ソーニャになにか嬉しいことを言ってやりたくて、そしてその言葉をさがしているんだが、心が言葉でいっぱいになってるのに、どうしてもうまく口に出ないんだよ。そしてなにか妙な言葉ばかり出てしまって、なんだか、わしは二つに分裂してゆくような気がしてならんのだよ」彼はおそろしく真剣な顔をしてわたしたちを見まわした。それは心の底をすっかりさらけだしたいとねがう顔であった。「たしかに、心は二つに分裂してゆく、そしてそれがこわくてたまらないのだ。まるでわしのそばにわしの分身が立っているみたいなのだ。自分は賢明で、ものの道理がわかっているのだが、そばにいる分身がどうしてもなにか愚にもつかぬことや、ときにはひどく陽気なことをしたがる、すると不意に、これは自分がこの陽気なことをしたがっているのだということに気がつく、だがなぜそんなことをしたいのかさっぱりわからない、つまりなんというか、いやいやながら望むわけだ、必死になってさからいながら望むのだよ。わしはある医師を知っていたが、彼は父親の葬式に、教会で、だしぬけに口笛を吹きだしたのだよ。たしかに、わしが今日葬式に行くことを恐れたのは、きっとだしぬけに口笛を吹きだすか、あるいは大声で笑いだすにちがいないという考えが、どういうわけか急に頭にきたからだよ。あの不幸な医師みたいにな、しかも彼はあまりいい死にざまはしなかった……それにしても、まったく、どうしてかわからんが、今日はどうもこの医師のことが思い出されてならんのだよ。頭にこびりついて、はなれんのだよ。そら、ソーニャ、わしはまたこの聖像をとり上げたろう(彼は聖像を手にとって、くるくるまわした)、そしてどういうものか、今、すぐに、これを暖炉に、そらそこの角に叩きつけたくてならんのだよ。そしたらきっと真っ二つに割れると思うな――ちょうど真っ二つにだ」
なによりも恐ろしいのは、彼がすこしの気どりも、てらいもなく、これを言ってのけたことである。彼はごくあっさりと言ったが、それだけになお鬼気せまるものがあった。そして、彼は実際になにものかをひどく恐れているらしく見えた。わたしは不意に彼の手が小きざみにふるえているのに気がついた。
「アンドレイ・ペトローヴィチ!」と母は両手をぱちりと打ちあわせて、叫んだ。
「およしなさい、聖像を置きなさい、アンドレイ・ペトローヴィチ、およしなさい!」とタチヤナ・パーヴロヴナはいきなり立ち上がった、「服をぬいで、横におなりなさい。アルカージイ、医者を呼んでおいで!」
「だが……どうしたんだね、そんなにあたふたして?」彼はじろりとわたしたちを見まわして、しずかに言った。それから急に両肘《りようひじ》を卓について、頭を抱《かか》えこんだ。
「みんなをおどかしたようだな、だが、たのむから、どうか、すこしわしの気をしずめてくれ、また坐って、もうすこしおちついてくれ――ほんの一分でもいい! ソーニャ、わしは決してこんなことを言いに来たのではない。わしはあることを知らせに来たんだが、それはぜんぜん別なことだ。さようなら、ソーニャ、わしはまた放浪に出かけるんだよ、これまでにも何度かおまえのそばから離れていったようにな……なに、むろん、またいつかおまえのもとにもどってくるよ――これはおまえの避けられぬ宿命だ。いっさいが終ってしまったら、おまえのところ以外に、わしにどこに帰るところがあろう? 信じてくれ、ソーニャ、わしは今天使としてのおまえのところへ来たのだよ、決して敵だと思って来たのではない。おまえがわしにとってどんな敵だというのだ、敵であるわけがないじゃないか! この聖像を割るために来たのだなどと思わないでくれ、だが、わかるかい、ソーニャ、それでもわしは割りたいのだよ……」
そう言いおわらぬうちに、タチヤナ・パーヴロヴナは『聖像を置きなさい!』と叫びざま――彼の手から聖像をうばいとって、しっかりとにぎりしめた。ところが彼は、最後の言葉を言いおわると同時に、いきなり立ち上がって、さっとタチヤナ・パーヴロヴナの手から聖像をひったくった、そしていきなりそれを振りかぶると、タイル張りの暖炉の角に力まかせに叩きつけた。聖像はまさに真っ二つに割れた……彼は不意にわたしたちを振向いた、とその蒼白い顔がさっと真っ赤になった、というよりはほとんどどす黒くなった、そして顔中の筋肉がこまかくふるえだした。
「これをそういう意味にとらんでくれ、ソーニャ、わしはマカールの遺志を破ったのじゃない、ただ割ってみたかっただけなのだ……やはりおまえのもとにもどってくるよ、おまえは最後の天使だ! だがしかし、比喩《ひゆ》ととってくれてもかまわない、どうせこれはこうならなければならなかったのだ!……」
そう言い捨てると、彼はいきなりさっと部屋を出ていった、そしてまた台所をぬけていった(そこに毛皮外套と帽子が置いてあったのだ)。母がどうしたか、詳しく書くことはよそう。おびえきって生きた空もなく、母は両手を頭の上でにぎりあわせたまま、茫然《ぼうぜん》と立っていた、と不意に、はっとして彼の後ろ姿に叫んだ。
「アンドレイ・ペトローヴィチ、もどって、せめて別れのあいさつを、あなた!」
「来ますよ、ソーフィヤ、もどってきますよ! 心配しなくていいわよ!」とはげしいけだものじみた憎悪《ぞうお》の発作にがくがくふるえながら、タチヤナ・パーヴロヴナは叫んだ。「聞いたでしょ、自分でもどってくるって約束したじゃないの! まあ、あのわがまま者に、もう一度最後の気まぐれをさせてやるんだね。今に年をとったら――それこそ、ほんとに、よぼよぼじいさんをいったい誰が面倒みてやるかね、お人よしばあやのあなたでなくってさ? 自分でもはっきりそう言ってるじゃないの、恥ずかしげもなく……」
わたしたちはといえば、リーザは気を失ってたおれていた。わたしは彼を追おうとしかけたが、母のそばへかけよった。そして、母をしっかり抱きしめた。ルケーリヤはリーザのためにコップに水をもってかけこんできた。しかし母はすぐにわれにかえった。母はソファにくずれるように腰を下ろすと、両手で顔をおおって、泣きだした。
「だけど、だけど……だめよ、あのひとを追いかけて!」タチヤナ・パーヴロヴナははっと気がついたように、いきなり声をふりしぼって叫んだ。「早く……早く……追いかけるのよ、あのひとから一歩も離れちゃだめ、さ、行きなさい!」彼女は力まかせにわたしを母からひきはなした。「ええ、じっれたい、そんならわたしが行くわよ!」
「アルカージイ、さ、早くあのひとを追いかけておくれ!」と不意に母も叫んだ。
わたしは夢中でやはり台所をぬけ、庭を突っきって通りへとびだした、しかし彼の姿はもうどこにも見えなかった。遠い歩道に通行人たちの姿が闇《やみ》の中に黒く見すかされた。わたしはそちらへかけだし、一人々々顔をのぞきこむようにしながら、追いぬいていった。こうしてわたしは十字路まで来た。
『気ちがいなら怒るわけがない』という考えが不意にわたしの頭にひらめいた、『ところがタチヤナはものすごい剣幕で彼に憤怒《ふんぬ》をたたきつけた、とすると、彼は――ぜんぜん狂人でないということだ……』
おお、わたしの考えがさっきから突きあたっていたのは、あれが比喩だったということだ、彼はあの聖像を叩き割ったと同じように、ぜひともなにかをたち切りたかったのだ、そしてそれをわたしたちに、母に、みんなに見せたかったのだ。とはいえ『分身』も彼のそばにいたことはたしかだ。それはまったく疑う余地がなかった……
彼の姿は、しかし、どこにも見えなかった、といって彼の住居に行ってみるのも無意味だった。彼がこのままおとなしく家へもどったとは、とても考えられなかった。不意にある考えがわたしのまえにひらめいた、そしてわたしはまっしぐらにアンナ・アンドレーエヴナの家へかけだした。
アンナ・アンドレーエヴナはもうもどっていて、わたしはすぐに通された。わたしはできるだけ自分を抑《おさ》えながら、入っていった。そして、わたしは腰を下ろそうともしないで、いきなり今起ったできごと、つまり『分身』のことを彼女に語った。彼女も立ったままわたしの話を聞いていたが、そのときの彼女のむさぼるような、そのくせ冷やかにとりすました、思いあがった好奇の表情を、わたしはぜったいに忘れないし、許すことができない。
「彼はどこにいるのです? あなたは、きっと、ご存じのはずです!」とわたしは執拗《しつよう》につめよった。「昨日ぼくはタチヤナ・パーヴロヴナにあなたのところへ行けと言われたんです……」
「わたしも昨日あなたを呼びましたわ。昨日あのひとはツァールスコエ・セローへ行きました、それからわたしのところへも寄りましたわ。今ごろは(彼女は時計を見た)、もう七時ですわね……とすると、たぶんお家にいらっしゃるでしょう」
「あなたはなにもかも知ってるんですね――じゃ言ってください、おしえてください!」とわたしは叫んだ。
「いろいろ知ってますけど、すっかりというわけじゃありませんわ。もちろん、なにもあなたにかくさねばならぬわけはありませんが……」彼女は笑いながら、なにごとか思いめぐらすかのように、妙な目でじっとわたしを見つめた。「昨日の朝あのひとは、カテリーナ・ニコラーエヴナの手紙への返事として、カテリーナ・ニコラーエヴナに正式に結婚の申込みをしました」
「それは――うそだ!」とわたしは目を皿のようにした。
「手紙はわたしが取次ぎましたのよ。封をされないままの手紙を、わたしがカテリーナ・ニコラーエヴナのところへ持ってゆきましたのよ。今度はあのひとは『騎士』らしく振舞って、わたしになにもかくしませんでしたわ」
「アンナ・アンドレーエヴナ、ぼくはなにがなにやらわけがわからない!」
「むろん、わかろうとしても無理だわ、まあこれは――賭博師《とばくし》のようなものね、賭博台の上に最後の一枚の金貨を投げつけて、ポケットの中でもうピストルをにぎりしめている――これがあのひとの申込みの意味ですわ。十中の九までは、先方はあのひとの申込みをお受けにならないでしょう、ところがのこりの一に、あのひとは賭けたんだわ。正直のところ、わたしは、こんなおもしろい勝負はないと思うのよ、といって……しかし、狂乱ということも考えられるわね、あなたが今とってもうまく言いましたけど、その『分身』とやらが……」
「あなたは笑ってますね? ぼくがそんなことが信じられると思うんですか、手紙をあなたが取次いだなんて? だってあなたは――あの女の父の許嫁《いいなずけ》じゃありませんか? ぼくをからかわないでください、アンナ・アンドレーエヴナ!」
「あのひとは自分の幸福のためにわたしの運命を犠牲にしてくれるようにわたしにたのみました、といって、ほんとうにそうたのんだわけじゃありませんけど、これはみなほとんど無言のうちにとりかわされたのよ、わたしはただあのひとの目からすべてを読みとっただけですわ。でも、もうそれだけで十分ですわ。それ以上なにを言うことがあって? だってあのひとは、ケーニヒスベルグのあなたのお母さんのところへ、マダム・アフマーコワの義理の娘との結婚の許しを請いに行ったことだってあるじゃないの? 昨日あのひとがわたしを自分の内密の使者に選んだことだって、考えてみればそれとそっくりのケースですわ」
彼女はいくぶん蒼ざめていた。そしてその平静な見せかけはせいいっぱいの自嘲《じちよう》にすぎなかった。おお、わたしはこのとき、すこしずつ事の意味がわかってくるにつれて、多くの点で彼女を許していた。一分ほどわたしは考えていた。彼女は黙って待っていた。
「でもねえ」とわたしは不意ににやりと笑った。「あなたが手紙を取次いでやったのは、あなたにはなんの危険もないからでしょう、だって結婚なんて成立するわけがないんですから。ところが彼はどうなるんです? それから、彼女は? むろん、彼女は申込みをことわるでしょう、そしたら……そしたらどんなことがおきるでしょう? 彼はいまどこにいるんです、アンナ・アンドレーエヴナ?」とわたしは叫んだ、「今は一分が重大です、一分が不幸を呼ぶかもしれません!」
「あのひとは自分の家におりますよ、今言ったじゃありませんか。わたしが取次いだ昨日のカテリーナ・ニコラーエヴナへの手紙で、あのひとは、ぜひとも、今日、きっかり七時に、自分の住居でお会いしたいとたのんでいましたわ。カテリーナ・ニコラーエヴナはそれを承知したのよ」
「カテリーナ・ニコラーエヴナが彼の住居に? どうしてそんなことが?」
「どうして? あの住居はダーリヤ・オニーシモヴナが借りてるのよ。二人がダーリヤ・オニーシモヴナの客としてあそこで会ったってなんのふしぎもないわ……」
「でも彼女は彼を恐れてますよ……もしかしたら殺されるかもしれないもの!」
アンナ・アンドレーエヴナはうすく笑っただけであった。
「カテリーナ・ニコラーエヴナは、たしかに恐れていますわ、それはわたしも気がついています、でもいつも、もうまえまえから、アンドレイ・ペトローヴィチの深い徳性と高い知性にある種の恭敬とおどろきのような気持をいだいていました。今度カテリーナ・ニコラーエヴナはこれを最後にきっぱりと関係をたつために、彼の人格に賭けたのよ。あの手紙には、それは厳粛な、騎士的な言葉が書いてありましたもの、ちっとも恐れることなんぞないような……要するに、わたしは手紙の表現はおぼえてませんけど、でもあの女《ひと》は信頼したのね……いわば、これが最後ですし……まあ、けだかい英雄的な感情に応《こた》えようと思ったのかもしれないわね。きっとこれはどちらからしても、騎士の対決のようなことになるはずだわ」
「でも分身は、分身は!」とわたしは叫んだ。「だって彼は狂人になったんですよ!」
「昨日会いに行くと約束したとき、カテリーナ・ニコラーエヴナはおそらくそのようなことがあるかもしれないと予想しなかったでしょうね」
わたしは不意に身をひるがえすと、さっとかけだした……もちろん、彼のところへ、彼ら二人のところへ! ところが、広間からもう一度部屋へとってかえした。
「そうか、あなたはそれを望んだらしいな、彼に彼女を殺させりゃ、それはめでたしってわけか!」とアンナ・アンドレーエヴナにたたきつけて、わたしはそのままそこを走りでた。
わたしはまるで瘧《おこり》にかかったようにがくがくふるえていたが、それでも台所をぬけてそっと中へ入ると、声をひそめてダーリヤ・オニーシモヴナを呼んでくれるようにたのんだ。ところが取次ぐまでもなくダーリヤ・オニーシモヴナがすぐに出てきて、ものも言わずひどく疑り深い目をひたとわたしの顔にすえた。
「お留守です、おりませんよ」
だがわたしはいきなりずばりと、早口のささやき声で、アンナ・アンドレーエヴナにきいてすっかり知っている、それに今アンナ・アンドレーエヴナのところから来たのだ、と言った。
「ダーリヤ・オニーシモヴナ、二人はどこにいるのです?」
「客間ですわ、ほら、一昨日あなたたちが、お酒をお飲みになった……」
「ダーリヤ・オニーシモヴナ、ぼくをそこへ通してくれ!」
「なにをおっしゃるんです、どうしてそんなことが?」
「そこじゃない、隣の部屋だ。ダーリヤ・オニーシモヴナ、おそらく、アンナ・アンドレーエヴナもそれを望んでいるはずだ。それでなかったら、二人がここにいることを、ぼくに知らせるわけがない。二人に気《け》どられるようなことはしない……あの女《ひと》がそれを望んでるんだよ……」
「だがお望みでなかったら?」ダーリヤ・オニーシモヴナはわたしにひたとすえた目をそらさなかった。
「ダーリヤ・オニーシモヴナ、ぼくはあなたのオーリャをおぼえてますよ……ぼくを通してください……」
不意に彼女の唇《くちびる》と顎《あご》がひくひくふるえだした。
「この人ったら、これはオーリャのためですよ……あんたのやさしい気持のためですよ……いいですね、アンナ・アンドレーエヴナを見捨てないでくださいね! 見捨てないわね、え? 見捨てないわね?」
「見捨てるものですか!」
「じゃ、ちゃんと約束してください、あんたを隣の部屋に入れてあげても、あのお二人のところへとびだしたり、大きな声をたてたりしないわね?」
「名誉にかけて誓いますよ、ダーリヤ・オニーシモヴナ!」
彼女はわたしの袖《そで》をつかんで、二人のいる部屋の隣の暗い小さな部屋に案内すると、やわらかいじゅうたんの上をそっと仕切りのほうへ連れてゆき、垂れているカーテンのすぐそばにわたしを立たせて、カーテンの隅《すみ》をちょっとずらして、わたしに二人を見せた。
わたしはそこにのこり、彼女は去った。もちろん、わたしはのこった。わたしは盗み聞きすることを、他人の秘密を盗み聞きすることを、重々承知していたが、それでもわたしはのこった。むろんのこるべきではない――だが、分身がいるではないか? すでにわたしの目のまえで聖像を叩き割ったではないか?
わたしと彼が昨夜彼の『復活』を祝して乾杯したあのテーブルをはさんで、二人は対坐していた。わたしは完全に二人の顔を見ることができた。彼女はシンプルな黒い衣裳《いしよう》を着ていた、そしてまぶしいほど美しく、見たところ、おちつきはらっていて、いつもとすこしも変らなかった。彼がなにかしゃべっていて、彼女はひどく注意深く、警戒の色をうかべてそれを聞いていた。だが、そこにはいくぶんか怯気《おじけ》も見えたかもしれない。彼はおそろしく興奮していた。わたしは話の途中で来たので、しばらくはなんのことやらわからなかった。おぼえているのは、彼女が不意にこう問いかけたところからである。
「じゃ、わたしが原因でしたの?」
「いや、それはわたしが原因だったのです」と彼は答えた、「あなたは罪のない罪びとにすぎなかったのですよ。ご存じですか、罪のない罪びとというものがあることを? これは――もっとも許しがたい罪で、必ずといっていいほど罰を受けるものです」と彼は奇妙な笑いをうかべて、つけくわえた。「だがわたしは、あなたをすっかり忘れてしまったと考えて、自分の愚かな情熱に苦笑を禁じえなかったときもありました……それはあなたもご存じのとおりです。しかし、それだからといって、あなたが結婚なさろうとする人間に、わたしがなぜ遠慮しなけりゃならんのです? わたしは昨日あなたに結婚を申込みました、このぶしつけをお許しください、これは――ばかげたことです、だがしかしそれに代る方法がまったくないのです……このばかばかしいこと以外に、いったいなにがわたしにできたでしょう? わたしにはわかりません……」
彼はこう言うとなげやりにうつろな声で笑って、不意に相手に目を上げた。それまで彼は相手を見ないようにして話していたのである。もしわたしが彼女の立場にいたら、この笑いにぎょっとしたにちがいない。わたしはそれを感じた。彼は不意に椅子から立ち上がった。
「だが、どうしてあなたはここへ来る気になれたのです?」彼はもっともかんじんなことを思い出したように、不意にこう訊《たず》ねた。「わたしの招きも、あの手紙ぜんたいも――実にばかげています……お待ちなさい、わたしはまだ想像する力はありますよ、どのような心理の経過をたどってあなたがここへ来ることを承諾なさったかくらいはね、だが――なぜあなたが来たのか?――これが問題です。まさかただ恐怖心からだけで来たのではないでしょう?」
「わたしはあなたにお会いするために来たのですわ」と彼女はすこし気おくれぎみに用心深く彼を見まもりながら、言った。二人は三十秒ほど黙っていた。ヴェルシーロフはまた椅子に腰を下ろした、そしておだやかだが、感動のこもった、ほとんどふるえをおびた声で言いだした。
「わたしはもうずいぶん長くあなたにお会いしてませんね、カテリーナ・ニコラーエヴナ、あまり久しいので、いつかこうしてあなたのそばに坐って、あなたの顔に見入り、あなたの声を聞いたことがあったなどとは、もうほとんど考えられないほどですよ……わたしたちは二年会いませんでした、二年話をしませんでした。あなたと話をすることがあろうなどとは、わたしはもう考えたこともありませんでしたよ。まあ、いいでしょう、過ぎたことは――過ぎたことです、そして今あることは――明日は消えてしまうのです、煙みたいに、――それもいいでしょう! わたしは認めますよ、だってこれもまたほかにどうしようもありませんからねえ、だが今日はうやむやで帰らないでください」と彼はほとんど哀願するように、不意につけくわえた、「もうここへ来るという、施しをしてくださったのですから、うやむやに素手で帰しては申し訳ありません。わたしのひとつの問いに答えてください!」
「どんな問いかしら?」
「わたしたちはもうこれで二度と会うことはないのですから、こんな問いくらいあなたになんでしょう? どうか最後に一度だけわたしにほんとうのことを言ってください、聡明《そうめい》な人々ならぜったいにこんなことは問わないでしょうが。あなたはいつかほんのちょっとのあいだでもわたしを愛してくれたことがありましたか、それともわたしの……思いちがいだったろうか?」
彼女はさっと顔を赤らめた。
「愛しておりました」と彼女は言った。
わたしはそう思っていた、彼女がそう言ってくれるものと――おお、なんという誠実な、素直な、正直な心であろう!
「それで、今は?」と彼はたたみかけた。
「今は愛しておりません」
「笑っていますね?」
「いいえ、わたしが今思わず口もとをほころばせてしまいましたのは、今にあなたが、『それで、今は?』とお訊きになるものと、心待ちにしていたからですの。だから思わず微笑《ほほえ》んでしまいましたの……だって、そう思っていたことがあたると、人はいつもにやにやするでしょう……」
わたしは異様な気さえした。わたしはまだ一度も、ほとんど臆病とさえいえるほどのこんな用心深い、こんなどぎまぎした彼女を見たことがなかったからである。彼はなめまわすような目で彼女を見つめていた。
「あなたがわたしを愛しておられないことは、知っています……でも――ぜんぜん愛していないのですか?」
「でしょうね、ぜんぜん愛していないと思いますわ。わたしはあなたを愛しておりません」と彼女はもう笑顔《えがお》も見せず、顔を赤らめもしないできっぱりとつけくわえた。
「そう、わたしはあなたを愛しましたわ、でも短いあいだでした。わたしはあのとき、もうすぐにあなたがきらいになってしまいました……」
「知ってますよ、知ってます、あなたはあの愛の中に、あなたに必要なものでないものを見てとったのです、でも……それではなにがあなたに必要なのでしょう? それをもう一度おしえてください……」
「あら、わたしいつかそれをあなたにおしえたことがあったかしら? なにがわたしに必要なのですって? そうね、わたしは――ごく平凡な女ですわ。わたしは――しずかな女です、だからわたしは……陽気な人が好きなんですわ」
「陽気な人?」
「ごらんなさい、わたしはあなたとうまく話もできないでしょう。わたし思うのですけど、あなたがもうすこし弱くわたしを愛してくれることができたら、わたしはきっとあなたを好きになっていたでしょうね」彼女はまた臆病そうに微笑した。
彼女のこの言葉にはすこしのいつわりもない赤裸な心が輝いていた、そしてはたして彼女は、これが二人の関係のいっさいを説明し、そして解決するもっとも決定的な解答であることを、理解できなかったのだろうか。おお、彼こそそれがいちばん理解できるはずであった! ところが彼はじっと彼女を見つめたまま、異様な薄笑いをうかべていた。
「ビオリングは――陽気な男ですか?」と彼は問いをつづけた。
「彼はすこしもあなたの気をわずらわさないはずですわ」と彼女はいくらかあわて気味に答えた。「わたしが彼と結婚しようと思うのは、ただ彼だとわたしがいちばん心のおちつきを得られそうに思うからなの。わたしの心はすっかりわたしのもとにのこりますもの」
「あなたはまた社交界が好きになった、とかいう噂ですね?」
「好きになったわけじゃありませんわ。どこでもそうですけど、わたしたちの社交界にもやはり秩序のみだれのあることは、わたし知っておりますわ。でも表から見た形はまだ美しいわ、だから、ただそばを通るだけの生活をするのなら、どこかよそよりは、そちらのほうがいいと思うだけですわ」
「わたしも『無秩序』という言葉はよく聞くようになりました。あなたはあのときもびっくりなさいましたね、わたしの無秩序、鉄鎖、思想、ばかな振舞いに?」
「いいえ、あれはこれとはちがいましたわ……」
「じゃなんです? おねがいですから、正直に言ってくださいませんか」
「じゃ、正直に申しますわ、だってわたしはあなたをこのうえなく聡明な方だと思っておりますから……わたしいつもあなたになにか滑稽《こつけい》なところがあるような気がしてなりませんでしたの」
彼女はこう言うと、不意に、とんでもない粗相をしてしまったことに気づいたように、かっと真っ赤になった。
「なるほど、そう言っていただいたので、わたしは大いにあなたを許せるというものですな」と彼は妙なことを言った。
「わたしはまだおしまいまで言ってませんわ」と彼女はますます顔を赤らめながら、急いで言った、「これはわたしが滑稽だからですわ……だってあなたと話をすると、ばかみたいなことばかり言いだすんですもの」
「いや、あなたは滑稽じゃない、あなたは――ただ放肆《ほうし》な社交界の婦人なだけですよ!」彼は気味わるいほど蒼白になった。「わたしもさっき、なぜあなたが来たのかと訊いたとき、おしまいまで言いませんでした。お望みなら、言いましょうか? ここに一通の手紙がある、証書といいますかな、あなたはそれをひじょうに恐れている、というのはあなたのお父さまが、この手紙を手にしたら、あなたを呪《のろ》って、法的に遺産相続権を抹消《まつしよう》するおそれがあるからだ。あなたはその手紙を恐れている、だから――その手紙をとりもどすために来たのだ」彼は全身をふるわせ、ほとんど歯をがちがち鳴らさんばかりにして、こう言いきった。彼女は愁《うれ》いに充《み》ちたいたましげな表情をうかべてその言葉を聞いていた。
「あなたがわたしにいろいろといやなことを言うにちがいないとは、わたし覚悟していましたわ」と彼女は彼の言葉をはらいのけるようなしぐさをしながら、言った、「でもわたしがここへ来たのは、わたしにつきまとわないでくれとあなたにたのむことよりも、むしろあなたにお目にかかりたかったからですの。わたしはもうまえまえからあなたにお会いしたいと強く望んでさえいました、わたしのほうから……でも今お会いしたのは、あのころのままのあなたでした」彼女はなにかきっぱりと決意するところがあり、しかもあるふしぎな思いがけぬ感情に魅せられたかのように、不意にこうつけくわえた。
「じゃあなたは、別なわたしを期待していたのですか? それは――あなたの放肆をなじったわたしの手紙のあとですね? おっしゃってください、あなたはここへ来るときなんの恐怖も感じなかったのですか?」
「わたしはまえにあなたを愛してたから、来たのですわ。でも、ねえ、おねがいですから、今ここにいっしょにいるあいだは、どうか、なにも恐ろしいことを言わないでくださいね、わたしのよくない考えや感情のことを、わたしに思い出させないでくださいね。もしなにかほかの話を聞かせてくださったら、わたしほんとに嬉しいと思うわ。脅迫めいたことは――あとにしてね、今は別なことを話しましょうよ……わたし、うそじゃなく、ちょっとあなたにお会いして、あなたの声をお聞きしたくて来ましたのよ。もしそれがおできにならなければ、いきなりわたしを殺してください、でも脅迫だけはなさらないで、わたしのまえで自分を責めさいなむようなことだけはなさらないで」と彼女は、彼が殺すかもしれないと本気で予想したのか、なにかを待ち受けるように異様に光る目で彼をじっと見つめながら、言葉を結んだ。
彼はまた椅子から立ち上がって、そして熱っぽく光る目で彼女を見すえながら、しっかりした口調で言った。
「あなたはすこしの侮辱も受けずにここからお帰りになれるはずです」
「あっ、そうでしたわね、あなたのお約束でしたものね!」と彼女はにっこり笑った。
「いや、手紙の中で約束したからばかりではありません、今夜一晩中あなたのことを考えたいと思うし、またどうせ考えるはずだからです……」
「自分をお苦しめになるの?」
「わたしは一人きりのとき、いつもあなたのことを考えています。あなたと対話しているだけが、わたしのしごとなのです。わたしが場末のきたない居酒屋へ逃《のが》れると、まるでそのコントラストのように、すぐにあなたがわたしのまえに現われるのです。ところがそのあなたが必ずわたしを嘲笑《あざわら》うのです、今もそうですが……」彼はまるで放心しているようにこう言った。
「決して、決してわたしはあなたを嘲笑ったことなどありませんわ!」と彼女は涙のにじんだ声で叫ぶように言った、そしてその顔には深い憐憫《れんびん》の情があらわれたように見えた。「どうせここへ来たんですもの、あなたにぜったいに屈辱をおぼえさせたりしてはいけないと、わたしそればかり気をつかっていましたのよ」と彼女は不意につけくわえた。「わたしここへ来たのは、ほとんどあなたを愛していることを、あなたに言いたかったからですのよ……あら、ごめんなさい、わたし、なんだか、言い方をまちがえたみたいだわ」と彼女はあわてて言い添えた。
彼はにやりと笑った。
「なぜあなたは装うことができないのだろう? なぜあなたは――そう正直なのだろう、なぜあなたは――みんなとちがうのだろう……ええ、追っぱらおうとしている人間にむかって、『ほとんどあなたを愛している』なんてことが、どうして言えるのです?」
「わたしうまく言いあらわせなかっただけですわ」と彼女はあわてて言った、「これはわたしが言い方がまずかったのよ、それというのも、あなたのまえだといつも恥ずかしさが先にたって、うまく言えなくなってしまうんですもの、これはあなたにはじめてお会いしたときからですわ。でも、『ほとんどあなたを愛している』という言葉をつかって、わたし自分の気持をうまくあらわせなかったにしても、でもほんとの気持は、たしかに、ほとんどそのとおりなんですもの――だからわたしそう言いましたのよ、もっともわたしがあなたにいだいている愛は……まあ、普遍的な愛というのかしら、みんなを愛する愛、そしていつ告白しても恥ずかしくない愛、そういう愛ですけど……」
彼は黙って、熱っぽい目をじっと彼女にすえたまま、耳をかたむけていた。
「むろん、あなたはわたしに侮辱を感じるでしょう」と彼はまるで放心したようにつづけた。「これはたしかに、情念と呼ばれるべきものにちがいありません……わたしにわかってるのは、あなたのまえで死ぬということだけです。あなたがいなくても同じことです。あなたがいてもいなくても、同じことです、あなたがどこにいようと、あなたは常にわたしのまえにいるのですから。また、わたしはあなたを愛するよりも、むしろはるかに強く憎むかもしれぬことを、知っています……しかし、わたしはもう長いことなにも考えていません――どうせ同じことだからです。わたしが残念なのはただひとつ、あなたのような女……を愛したことです……」
彼の声はとぎれた。彼はあえぐように、苦しく息をしながら言葉をつづけた。
「どうなさいました? おかしいですか、わたしがこんなことを言うのが?」と彼は生気のない薄笑いをもらした。「わたしはそれだけがあなたの心をとらえることができるというなら、どこか言われた場所で苦行僧のように三十年でも一本足で立っていたことでしょうね……どうやら、わたしを哀れんでいるようですな、あなたの顔に書いてありますよ、『できることなら、あなたを愛してあげたいのだけど、それができないのよ』ってね……図星でしょう? いいんですよ、わたしには誇りも面子《メンツ》もないんだから。わたしは、乞食《こじき》みたいに、あなたからあらゆる施しを受けるつもりですよ――いいですか、あらゆるですよ……乞食にどんな誇りがあるというんです?」
彼女は立ち上がって、彼のそばへ歩みよった。
「アンドレイ・ペトローヴィチ!」と彼女は片手を彼の肩にふれて、言うに言われぬ表情を顔にうかべて、言った、「そのような言葉は聞くに堪えませんわ! わたしは生涯、このうえなく貴い人として、高潔な心をもった人として、愛と尊敬を捧げることができるなにものにもすぐれた神聖な人として、あなたの思い出を大切にすることでしょう。アンドレイ・ペトローヴィチ、わたしの言葉をわかってくださいね。だってわたし、その気持があるからこそここへ来たのじゃありませんか、やさしい、昔も今も変りなくやさしいお方! わたし、はじめてお会いしたとき、あなたがわたしの知性にはげしい衝撃をあたえてくだすったことを、終生忘れませんわ! 親しい友だちとしてお別れしましょう、そして生涯わたしのもっとも厳粛な、そしてもっとも愛《いと》しい思い出となって、わたしの心の中に生きつづけてくださいね!」
「別れましょう、そしたらあなたを愛してあげます、ですか。愛してあげます――ただし別れましょう、とおっしゃるんですか。ねえ」と彼はすっかり蒼白になって言った、「どうかもうひとつ施しをあたえてください。わたしを愛してくれなくてもかまいません、わたしのそばに暮してくれなくてもかまいません、もうこれっきり会えなくてもかまいません。わたしをお呼びくだすったら――わたしはあなたの奴隷になります、見るのも聞くのもいやだとおっしゃるなら――即座に消えてなくなります、ただ……ただ誰の妻にもならないでください!」
この言葉を聞いたとき、わたしは胸のつぶれる思いがした。この素朴《そぼく》な屈辱的な哀願が、あまりにもむきだしで、考えられぬものであっただけに、なおのことみじめに、そしてはげしく胸を刺した。そうだ、たしかに、彼は施しを請うた! だがしかし、彼女が承知してくれるなどと、彼は考えることができたのだろうか? にもかかわらず、彼はためしてみるまでに自分をおとした。哀願をこころみてみたのである! このぎりぎりまでおちた心のみじめな姿は見るに堪えなかった。彼女の顔中の線が不意に苦痛にゆがんだかに見えた。しかし彼女が口を開くまえに、彼ははっとわれに返った。
「わたしはあなたを亡ぼしてやる!」と彼はいきなり異様な、ゆがんだ、自分のものとも思われぬ声で言った。
ところが彼女も異様な、やはり自分のものとも思われぬ、まったく思いがけない声で答えたのである。
「もしわたしがあなたに施しをあたえたら」と彼女は不意にしっかりと言った、「あなたはあとで今の脅迫よりももっとひどいお返しを、わたしにするでしょう。今こうして乞食みたいにわたしのまえに立ったことを、決して忘れるような人じゃありませんもの……わたしはあなたの脅迫を聞くわけにはまいりません!」と彼女は挑《いど》みかかるような目できっと彼を見すえて、憤然として言ってのけた。
「あなたの脅迫、つまり――このような乞食の、ですか! わたしは冗談を言ったのですよ」と彼は苦笑しながら、しずかに言った。「わたしはあなたになにもしません、ご安心なさい、さあお帰りなさい……それからあの文書はなんとかおとどけするように努力しましょう――いいからお行きなさい、お帰りなさい! わたしがあなたにばかげた手紙を書き、あなたはそのばかげた手紙に応《こた》えて、わざわざ来てくれました――これでわたしたちは貸し借りなしです。こちらからどうぞ」と彼はドアを示した。(彼女はわたしがカーテンのかげにかくれていたその小部屋を通って出てゆこうとしたのだった)
「もしできることなら、わたしをお許しくださいね」彼女は戸口に立ちどまった。
「そうねえ、わたしたちがもしいつか親友として会って、はれやかに笑いながら今日のこの場面を思い出したとしたら、どうでしょう?」と彼はだしぬけに言った。しかし顔は、発作におそわれた人のように、はげしくふるえていた。
「おお、そうありたいわ!」と彼女は胸に腕を組みあわせて、嬉しそうに叫んだ、しかし彼の顔に目をやると、彼の言おうとしたことを読みとったらしく、はっとして顔をこわばらせた。
「お行きなさい。わたしたちは二人ともずいぶん利口な人間なんだが、しかしあなたも……まったく、わたしによく似た人間ですねえ! わたしが気ちがいじみた手紙を書けば、あなたはそれに応えて、『わたしをほとんど愛している』なんて言いに、わざわざ出かけてくる。まったく、わたしもあなたも――同じ気ちがいじみた人間ですよ! いつまでもこのままの気ちがいじみたあなたでいてください、変らないでください、そしていつかまた親友として会いましょう――これをわたしはあなたに予言します、誓います!」
「そのときこそ、わたしはきっとあなたを愛しますわ、だって今もその予感がするんですもの!」彼女の中の女がこらえきれなくなって、戸口のところからこの最後の言葉を彼になげた。
彼女は出ていった。わたしは急いでそっと台所へもどると、わたしを待ち受けていたダーリヤ・オニーシモヴナにほとんど目もくれずに、裏階段を下り、庭をぬけて通りへ出た。しかしわたしは、玄関に待たせておいた辻馬車《つじばしや》に乗りこんだ彼女の姿を、ちらと見ることができただけであった。わたしは通りをかけだした。
[#改ページ]
第十一章
わたしはラムベルトのところへかけつけた。おお、わたしはその夕方からあくる日の朝にかけての自分の行動に、どれほど論理的に筋をとおして、ほんのわずかでも正常な頭脳のはたらいたあとを見出《みいだ》そうとねがっても、もうすっかり冷静に考察のできる今になってさえも、なんとしても当然そうあるべき明確な線でつなぎあわせることができないのである。そこには一つの感情があった、というよりは、たくさんの感情の混沌《こんとん》があったと言うべきかもしれない、そしてその混沌の中でわたしは当然の結果として自分を見失ってしまったのである。たしかに、そこにはわたしをおしつぶし、わたしを思うさまにおどらせた、一つのもっとも強力な感情はあった、しかし……それを告白すべきだろうか? ましてわたしはそれに確信がないのだから、なおのことためらわれるのだ……
わたしがラムベルトのところへかけこんだときは、もちろん、気が転倒していた。彼もアルフォンシーヌもさすがに唖然《あぜん》としたほどであった。わたしは常々気がついていたことだが、フランス人というものはどんな落ちぶれはてた飲んだくれでも、その家庭生活ではある種のブルジョア的な秩序というか、一度しみついた生活のある種のきわめて散文的な、虚礼的な形式を、極度に重んじるものである。もっとも、ラムベルトはたちまち、なにかあったなと見てとったから、おどり上がらんばかりに喜んだ。とうとう、わたしという鴨《かも》が罠《わな》にかかりに来た、これでわたしをわがものにできる、と思ったのである。しかも彼はこの数日、昼も夜も、このことばかり考えていたのだ! おお、彼にはわたしという人間がどれほどほしかったことか! それが今、もうそろそろ希望を失いかけていた矢先に、わたしのほうからいきなりとびこんできたのだ、しかもこれほど逆上して――これこそ彼がもっとも必要としていた状態なのである。
「ラムベルト、酒だ!」とわたしは叫びたてた、「飲ませてくれ、暴れたいんだ。アルフォンシーヌ、ギターはどこだ?」
これからの場面は描写すまい――よけいなことだ。わたしたちは飲んだ、そしてわたしはすっかり彼にしゃべった、なにもかもすっかりである。彼はむさぼるように聞いていた。わたしはいきなり、こっちから先に、彼に陰謀を提案した、いよいよ火をつけようというのだ。その第一弾は、手紙でカテリーナ・ニコラーエヴナを呼びよせることであった……
「そりゃいいな」とラムベルトはわたしの一語々々をとらえながら、相槌《あいづち》を打った。
第二は、念のために、手紙に彼女の『証書』のコピーを同封して、うそでないことを、彼女に納得させる。
「そりゃ当然だ、そうすべきだ!」とラムベルトはたえずアルフォンシーヌと目くばせをしながら、うなずいた。
第三は、彼女を呼びだす役目はラムベルトが引受ける。モスクワから来た何者とも知れぬ男からというふうにして手紙を送る。わたしはヴェルシーロフを連れてくる……
「ヴェルシーロフもよかろう」とラムベルトはうなずいた。
「よかろうじゃないよ、そうしなきゃならんのだ!」とわたしは叫んだ、「それが必要なのだ! これはみな彼のためにやることなのだ!」とわたしはコップでぐいぐいあおりながら、説明した(わたしたちは三人で飲んでいたが、どうやらわたしが一人でシャンパンを一本あけてしまって、彼らはただ飲むようなふりをしていたらしい)。「ぼくとヴェルシーロフは隣の部屋にかくれている(ラムベルト、隣の部屋を借りにゃいかんぞ!)――そして、彼女がすべてに同意したら――金による買取りと、それからもうひとつの提供にだぜ、どうせあいつらはみな卑劣なんだからな、――そしたらいきなり、ぼくとヴェルシーロフがとびだして、彼女がどれほどの節操のない女かを、その場であばいてやる。そしたらヴェルシーロフも、彼女がどれほど汚らわしい女かを見せつけられて、いっきょに夢がさめるだろう、そこで彼女を足蹴《あしげ》にして追いかえす。ところで、ビオリングも連れてきたらいいな、やつにも彼女の正体を見せてやるのだ!」とわたしは激昂《げつこう》してもう夢中でつけくわえた。
「いや、ビオリングは必要ないさ」とラムベルトが言いかけた。
「必要だ、必要なんだよ」とわたしはまたわめきたてた、「ラムベルト、きみはばかだから、なにもわからんのだ! そうすれば、上流社会にスキャンダルが飛び火する――それによってぼくらは上流社会にも、彼女にも、復讐《ふくしゆう》することになるんだ、そして彼女に罰を受けさせるのさ! ラムベルト、彼女はきみに手形を渡す……ぼくは金は要《い》らん――ぼくは金になど唾《つば》をひっかける、だからきみはぼくが唾をひっかけた金をひろい上げて、だいじにポケットにしまうがいいさ。そのかわりぼくは彼女を破滅させてやるのだ!」
「そうだ、そうだ」とラムベルトはたえず相槌を打った、「そりゃきみ――そのとおりだよ……」
彼はしきりにアルフォンシーヌと目くばせを交《か》わしていた。
「ラムベルト! 彼女はえらくヴェルシーロフを崇拝してるぜ。ぼくは今日それをはっきり見たんだよ」とわたしは舌をもつれさせた。
「そりゃ大手柄だぜ、きみがすっかり盗み見したとはな。きみが――それほどのスパイで、そこまで頭がまわるとは、ぼくは夢にも思わなかったぜ!」彼はわたしの機嫌《きげん》をとろうと思って、こんなことを言った。
「ばかを言え、このフランス人め、ぼくは――スパイじゃないぞ、だが頭はいいさ! きみなぞにわかるまい、ラムベルト、彼女は彼を愛してるんだぞ!」とわたしはせいいっぱい自分の知ってることをひけらかそうとやっきとなって、しゃべりつづけた。「でも彼女は彼とは結婚しない、それはビオリングは――近衛士官だが、ヴェルシーロフは――心の寛大な人間で、人類の友にすぎんからだ。これは彼らの考えからすれば、コミカルな人間、それ以外の何者でもないのさ! おお、彼女はその情熱を知りぬいているのだ、だからそれを慰みにして、媚《こ》びをふりまいたり、誘惑したりするが、しかし結婚しようとはしない! それが――女なのさ、それが――蛇《へび》ってものさ! 女なんてみな――蛇さ、蛇なんてみな――女なのさ! ヴェルシーロフの迷いをさましてやるのだ、目かくしをとってやらにゃならんのだ。どんな女か正体を見せてやったら、迷いもさめようというものだ。ぼくがヴェルシーロフをここへ連れてくるからな、ラムベルト!」
「そうとも、そうしてやることだよ」ラムベルトはひっきりなしにわたしのコップに注《つ》ぎたしながら、しきりにわたしをあおった。
要するに、彼はわたしに反対して怒らせたりしないように、そしてなるべくたくさんわたしに飲ませるように、びくびくしてそれにばかり気をつかっていた。それがいかにも不細工で、しかも見えすいていたので、そのときのわたしでも気づかずにいられなかったほどである。しかしそれでも、わたしはもう自分から立ち去ることはどうしてもできなかった。わたしはひっきりなしに飲んで、しゃべりまくった。わたしはなんとしても腹の中にあるものを洗いざらいにぶちまけてしまいたかった。ラムベルトが二本目のびんの栓《せん》をぬいて、アルフォンシーヌがギターを抱えてなにやらスペインの曲をひきだしたとき、わたしはもうたまらずわっと泣きだしそうになった。
「ラムベルト、きみもすっかりわかったろうな!」とわたしは胸をつまらせながら叫んだ。「あの人はどうしても救ってやらなきゃならんのだ、だって彼は……魔法の世界にはまりこんでいるのだよ。もし彼女が彼と結婚したら、それこそ一晩で、あくる朝は、彼にたたき出されてしまうにちがいない……それはありうることだよ。だってああした無理やりな、乱暴な愛というものは、発作のような、恐ろしい罠のような、病気のようなはたらきをもつもので、充《み》たされるより早く――もうたちまちヴェールがおちてしまって、まるで反対の感情があらわれるのだ。憎しみと嫌悪《けんお》、ふみにじり、抹殺《まつさつ》してしまいたいというはげしい欲望が生れるのだよ。きみ、アヴィサガ(訳注 旧約聖書老ダヴィデの愛妾)のものがたりを知ってるかい、ラムベルト、あれを読んだことがあるかい?」
「いや、おぼえてないな。小説かい?」とラムベルトは口ごもった。
「まったく、きみはなにも知らんのだなあ、ラムベルト! きみはおそろしく無教養だよ、おどろくよ……でもいいさ。どうせ同じことだ。おお、彼は母を愛している。母の肖像に接吻《せつぷん》したんだ。彼は翌朝はあの女を追っぱらって、母のところへもどってくるさ。だが、そのときではもうおそい、だから今救ってやらなくちゃならんのだ……」
しまいにわたしはおいおい泣きだしてしまった。それでもわたしはなおもしゃべりつづけて、めちゃくちゃに飲んだ。その晩の特に注目すべきことはといえば、ラムベルトが『証書』のことを一度も口に出さなかったことである。つまり、どこにあるか? と訊《き》きもしなかったし、見せてくれとも、テーブルの上に出してくれとも、そういうことは一言も言わなかった。実行に移ることを申しあわせながら、それを訊かないのがむしろ不自然ではないか? もうひとつ妙なことは、わたしたちは、ただこれを実行しなきゃいかん、ぜひ『これ』をやってのけようなどと、ただしゃべっていたばかりで、どこで、どのように、いつ実行するのかということについては――これも一言も話し合わなかったことである! 彼はただわたしに相槌を打って、アルフォンシーヌと目くばせをしていただけで――それ以外はなにもしなかった! もちろん、わたしはそのときはなにも考察することができなかったが、それでもそのことは頭にのこった。
結局、わたしは服もぬがずに、彼の部屋のソファの上に眠ってしまった。わたしはそのままぐっすり眠りこけて、翌朝おそく目をさました。おぼえているが、目がさめてからもそのまましばらくソファの上に横になって、まだ眠っているようなふりをしながら、もやもやした頭で、昨夜のことを思いあわせながら、しきりになにか思い出そうとつとめていた。しかし部屋の中にもうラムベルトの姿は見えなかった。彼はもう出かけていた。もう九時をまわっていた。火を入れられたペーチカがぱちぱち音をたてて燃えていた。あの凍《こご》えた夜ののち、はじめてラムベルトの部屋で目をさましたあのときと、なにからなにまでそっくりだった。だが、衝立《ついたて》のかげにはアルフォンシーヌがわたしを見張っていた。わたしはすぐにそれに気がついた。彼女が二度ほど顔を出して、じっとこっちをうかがったからである。わたしはそのたびに目をつぶって、眠っているようなふりをした。わたしがこんなまねをしたのは、わたしが打ちのめされたような心境になっていて、自分が今おかれている立場をはっきりとつかむことが必要だったからである。わたしは昨夜ラムベルトにおこなった告白や、彼との申しあわせの愚劣さや忌まわしさを、そしてなによりもここへかけつけたことの過《あやま》ちを、背筋の寒くなるような思いでひしひしと感じていた。しかし幸いなことに、文書はまだぶじにわたしの手もとにのこっていた、やはり脇ポケットの中に縫いこまれたままになっていた。わたしは手でさわってみた――ある! とすると、すぐにとび起きて、逃げだしさえすればいいわけだ、あとでラムベルトに恥じる必要などすこしもなかった。ラムベルトはそんな価値のない男だ。
しかしわたしは自分で自分に恥じていた! わたし自身が自分に対する裁判官であった、そして――おお、わたしの心の中はどんなであったか! しかしこの煉獄《れんごく》の苦しみにも似たたまらぬ気持とこの醜い汚辱の意識をめんめんと書きつらねることはよそう。とはいえ、やはりわたしは告白せざるをえない。どうやらその時が来たらしいからである。このわたしの手記の中にこれははっきりと述べられなければならないのである。というわけで、わたしはここであえて断言するが、わたしが彼女を凌辱《りようじよく》して、彼女がラムベルトから手紙を買収する現場の目撃者になろうと望んだのは(おお、なんという卑劣な行為であろう!)――狂気のヴェルシーロフを救って、彼を母のもとへ帰らせるためではなく、実は……わたし自身が彼女に恋いこがれていたためらしいのである。わたし自身が恋のとりことなり、嫉妬《しつと》していたらしいのである! 誰に嫉妬したのか? ビオリングにか、それともヴェルシーロフにか? わたしが片隅《かたすみ》にいじけて立っているとき、彼女が舞踏会で視線を向けたり、話を交わしたりするすべての人々にか?……おお、なんという醜悪なことか!
要するに、わたしは誰に嫉妬したのか、自分でもわからないのである。わたしはただ昨夜、彼女がわたしから永久に去ったことを、彼女がわたしを突きのけて、わたしのいつわりと愚かさを愚弄《ぐろう》するにちがいないことを、明瞭《めいりよう》に感じ、そして確信したのである! 彼女は――誠実で正直な女だが、わたしは――わたしは文書をかくしもったスパイなのだ!
これらのことは、わたしがそのときからずっと心の中に秘しかくしていたのだが、今はすべてを告白すべき時が来たので――わたしは総決算をしようと思うのである。しかしまたしても最後の言い訳がましいことを言うが、わたしは半分は、いや七十五パーセントぐらいまでも、自分を不当に責めていたのかもしれない! その夜わたしは彼女を、はじめは狂ったように逆上して、ついで酒に酔ってみだれた頭で、憎悪《ぞうお》した。しかしすでに述べたように、それは感情と感覚の混沌で、その中にまきこまれてわたし自身がなにも見分けがつかなかった。といって、やはり、すっかり言っておく必要はあった、というのはたとい一部にせよ、これらの感情は真実にはちがいなかったからである。
わたしは抑えがたい嫌悪感と、いっさいの罪を償おうという矢もたてもたまらぬ気持にせきたてられて、いきなりソファからとび起きた。ところが、わたしがとび起きると同時に、アルフォンシーヌがとびだしてきた。わたしは毛皮|外套《がいとう》と帽子をつかむと、わたしが昨夜口走ったのは酔いのたわごとで、あの婦人をさんざんに悪《あ》しざまに言ったが、あれはわざと冗談を言っただけだ、さらにもう今後二度とわたしを訪《たず》ねようなどという気をおこさぬようにということを、ラムベルトに伝えろと彼女に言いつけた……これらのことをわたしは、せかせかと、フランス語で、ほとんど意味もとれぬほどに、やっとのことで言ってのけた、そして、もちろん、わかるはずがなかったが、おどろいたことに、アルフォンシーヌはすっかり納得したのである。しかもなによりもおどろいたのは、彼女がなぜか嬉《うれ》しそうな顔をさえしたことであった。
「Oui, oui(そうですとも、そうですとも)」と彼女はわたしの言葉に相槌を打った、「C'est une honte! Une dame ...... Oh, vous etes genereux, vous! Soyez tranquille, je ferai voir raison a Lambert ......(そりゃいけないことですわ! ご婦人を……おお、あなたはなんて寛大なお気持かしら! ご安心なさい、わたしラムベルトによく言いきかせますから……)」
だからわたしはそのときでさえ、彼女の気持の、したがっておそらくはラムベルトの気持にも生じたにちがいない、このような意外な変化を見て、疑惑をもたなければならなかったはずである。わたしは、しかし、黙ってそこを出た。わたしの心はみだれていて、冷静にものごとを判断する力を失っていた。おお、あとになってわたしは事情をはっきりと見きわめたが、そのときはもうおそかった! おお、それはなんという恐るべき奸計《かんけい》であったろう! わたしはここで事件の進展を一時とめて、あらかじめそれをすっかり説明しておきたいと思う、さもなければ読者にはこれからの事態が理解できないにちがいないからである。
要は、わたしがラムベルトとはじめて会ったとき、つまり彼の部屋で凍えきった体をあたためていたとき、すでに、ばかみたいに、文書がポケットに縫いこめられてあることを口走ってしまっていたのである。そのときわたしが片隅のソファの上でとろとろとしばらく眠ったすきに、ラムベルトはすぐにわたしのポケットをさぐって、たしかに封書のようなものが縫いつけられてあることを確認した。彼はその後も何度か封書がまだそこにあることを確かめた。たとえば、韃靼《タタール》人といっしょに食事をしたときも、おぼえているが、彼はわざと何度かわたしの胴に腕をまわして抱きしめている。そのうちに、この封書がどれほど重要なものかをさとると、彼はまったく意外なある計画をつくり上げた。わたしはうかつにも彼にしてそのような計画をもちえようとは予想もしなかったのである。わたしは愚かにも、彼がこれほどしつこくわたしを自分の住居に誘うのは、ただわたしをなんとか仲間にひき入れて、いっしょに行動するためだとばかり考えていた。ところが、豈《あに》はからんや! 彼がわたしを誘ったのは、まったく別な目的のためだったのである! 彼がわたしを呼んだのは、わたしを酒で盛りつぶして、わたしが死んだように眠ってしまったすきに、ポケットを切り裂いて、文書を盗むためだったのである。そしてまさにそのとおりに、その夜彼とアルフォンシーヌは行動した。彼らは手紙を、彼女の手紙を、わたしがモスクワからもってきた文書を盗みとると、それとまったく同じ大きさのただの便箋《びんせん》をポケットの切り裂いたところに入れて、また元どおりに縫いつけておいた、そのためにわたしはまったく気がつかなかったのである。アルフォンシーヌが縫いあわせたのである。それでわたしは、ほとんど事件の大詰まで、あと一日半というもの――わたしが秘密をにぎっているのだ、カテリーナ・ニコラーエヴナの運命はやはりわたしの掌中にあるのだ、と依然として思いつづけていたのである!
最後に言っておくが、この文書の盗難がいっさいの、これからおこるいっさいの不幸の原因になったのである!
わたしの手記の最後の一昼夜がきた、そしてわたしは――ついに最後の関頭《かんとう》に立つことになった。
たしか十時半ごろであったと思うが、わたしは胸をたかぶらせて、おぼえているかぎりでは、なにか妙に気が散ってはいたが、しかし断固とした決意を心に秘めて、ようやく下宿にたどりついた。わたしは急がなかった。どう行動したらよいか、すでに腹を決めていたからである。ところが、下宿の建物の廊下に入ったとたんに、わたしは不意に、新しい災厄が突発して、事態が異常な複雑な様相をおびてきたことをさとった。ツァールスコエ・セローから連れてこられたばかりの老公爵が、下宿の一室におちついていて、そのそばにアンナ・アンドレーエヴナがつきそっていたのである!
彼女らは老公爵をわたしの部屋にではなく、わたしの部屋の隣の主人夫婦の二間におちつけていた。なんでも、もう昨夜のうちにこの二つの部屋の模様替えと装飾がおこなわれたということであった。もっともごく簡単にではあったが。主人夫婦はもうまえにも述べたことのある移り気なあばた面《づら》の下宿人が借りていた納戸《なんど》のような小部屋に移っていた。そしてあばた面の下宿人は、その間どこかへ追いやられていた――どこへやられたのか、そんなことはわたしは知らぬ。
わたしが部屋へ入ると、待ちかまえていたように主人が入ってきた。彼は昨日みたいに高飛車ではなかったが、あまりの異常な事態に面くらったらしく、ひどく興奮していた。わたしはなにも言わないで、隅のほうへ行くと、両手で頭を抱えこんで、そのまま一分ほどじっと立っていた。彼ははじめわたしが『ご機嫌うかがいに出る』ものと思ったらしいが、その気配もないのでとうとうしびれをきらして、あきれ顔に言った。
「なにか気まずいことでもあるのですか?」と彼は奥歯にもののはさまったような言い方をした。「わたしはあなたにおうかがいしようと思って、こうして待っていたのですが」と、わたしが返事をしないのを見て、彼は言葉をついだ、「このドアをあけることにいたしましょうか、公爵のお部屋と直接行き来できますように……いちいち廊下を通るのもなんでしょうから?」彼は主人夫婦の部屋、つまり今は老公爵の部屋に通じる、いつもは閉ざされたままになっているわきのドアを指さした。
「それよりも、ピョートル・イッポリトヴィチ」とわたしはきびしい顔を彼に振向けた、「はなはだ恐縮ですが、向うへ行って、アンナ・アンドレーエヴナに相談があるからすぐにこちらへ来ていただきたいと伝えていただけませんか。あの人たちはいつごろここへ見えられました?」
「さあ、もうかれこれ一時間ぐらいになりましょうか」
「じゃお願いします」
彼は出ていった、そして奇妙な返答をもちかえった。アンナ・アンドレーエヴナとニコライ・イワーノヴィチ公爵がもどかしい思いでわたしの来るのを待っているというのである。つまり、アンナ・アンドレーエヴナはこちらへ来ることを望まなかったわけである。わたしは昨夜一晩でしわになったフロックコートにブラシをあてて、乱れをなおし、顔を洗い、髪に櫛《くし》を入れたが、気をしずめなければならぬことがわかっていたから、わざとゆっくり服装をととのえた、そして老公爵の部屋へ出向いた。
老公爵は円テーブルをまえにしてソファに腰を下ろしていた。アンナ・アンドレーエヴナは別な隅に、卓布をかけられた別なテーブルのまえに坐って、老公爵に茶の支度《したく》をしていた。そのテーブルの上にはいままでになくぴかぴかに磨《みが》かれた家主のサモワールがしゅんしゅんたぎっていた。わたしはさっきのままのいかめしい顔つきで入っていった。老公爵はとっさにそれを見てとると、ぎくりとして、その顔にうかんでいた微笑がまたたく間にはげしい怯《おび》えにかわった。だがわたしはじきにがまんができなくなって、笑いだしてしまい、老公爵に両手をさしのべた。哀れな老公爵はすぐにわたしの抱擁《ほうよう》の中にとびこんできた。
疑いもなく、わたしは一目で相手の変化を見てとった。第一に、まだかなり元気があって、たといわずかながらもやはり分別と根性を失ってはいなかった老公爵が、彼女らによって、わたしがしばらく見ないでいた間に、まるで生気のない人形というか、おびえやすい、疑り深い、完全な幼な子にされてしまっていたことを、わたしははっきりと知った。つけくわえておくが、老公爵はどうしてここへ連れてこられたのかを完全に知りぬいていた、そしてすべてがわたしが先まわりをして説明しておいたとおりの経過をたどっておこなわれたのである。彼はいきなり娘の裏切りと精神病院云々の知らせで度胆《どぎも》をぬかれ、うちくだかれ、たたきのめされた。そして彼は恐怖のあまりどうしてよいやらほとんどわからないままに、連れ去られるにまかせた。わたしが――秘密をにぎっていて、最終的解決の鍵《かぎ》はわたしにある、と老公爵はおしえられた。ここでまた先走りして言っておくが、ほかならぬこの最終的解決とその鍵ということを、老公爵はこの世のなにものよりも恐れていたのである。わたしがある決意を顔にみなぎらせ、文書を手にひらひらさせて部屋へ入ってくるものと、彼は覚悟していた、それでわたしがすぐににこにこ笑いだして、まるで別なことをしゃべりだそうとしたのを見て、彼はすっかり喜んでしまった。わたしたちが抱擁しあったとき、彼は泣きだしたほどである。白状するが、わたしもちょっぴり泣いた。しかし、わたしは急に老公爵がひどく哀れになった……アルフォンシーヌから贈られた小さな狆《ちん》が鈴の音のような細い吠《ほ》え声《ごえ》をまきちらして、ソファの上からわたしにとびついてきた。老公爵はこの小さな狆を手に入れたときから片時も手放さず、寝るときさえも抱いて寝るほどだった。
「Oh, je disais qu'il a du coeur!(そら、わしがいつも言ってたろう、この子は心の広い青年だって!)」と老公爵はアンナ・アンドレーエヴナにわたしを指さしながら、嬉しそうに叫んだ。
「しかし、すっかりお丈夫そうになられましたね、公爵、ほんとに美しい、みずみずしい、健康そうなごようすですよ!」とわたしは言った。とんでもない! 実はまるで反対であった。それこそ生気のない人形にすぎなかったが、わたしはただ彼を元気づけるために、こう言ったのである。
「N'est-ce pas, n'est-ce pas?(そうかな、そうかな?)」と彼は嬉しそうにくりかえした。「うん、わしは自分でもびっくりしてるほどなんだよ、すっかり快《よ》くなってな」
「まあ、お茶を召し上がりなさい、ぼくにもごちそうしていただけたら、ぼくもおつきあいしますよ」
「そりゃすてきだ! 『飲み、そして楽しまん……』だったかな、なんかそんな詩があったな。アンナ・アンドレーエヴナ、アルカージイに茶を注《つ》いであげなさい、il prend toujours par les sentiments ......(この子にはいつもほろりとさせられるよ……)さあ、わしたちに茶を注いでおくれ」
アンナ・アンドレーエヴナは茶をわたしたちのまえにさしだした、そして急にわたしのほうに向き直ると、きわめて厳粛な口調で言いだした。
「アルカージイ・マカーロヴィチ、わたしたち二人、わたしとわたしの恩人ニコライ・イワーノヴィチ公爵は、あなたのところへ越してまいりました。わたしはあなたを、あなた一人だけを頼ってまいりました、そしてあなたにかくまってもらえるようにお願いするつもりです。忘れないでください、この高潔な神のようなお人柄でありながら、辱しめを受けた公爵のほとんどすべての運命が、あなたの手中ににぎられているのです……わたしたちはあなたの誠実な心の裁決を待っているのです!」
しかし彼女はしまいまで言うことができなかった。公爵がおびえきって、恐怖のあまりふるえだしたからである。
「Apres, apres n'est-ce pas? Chere amie!(あとになさい、あとにね、それでいいだろう? おまえ!)」と彼は両手で彼女を制しながら、くりかえした。
彼女のこのだしぬけの言動がわたしにもどれほど不快な感じをあたえたか、わたしは表現の言葉を知らない。わたしはなんとも返事をしないで、ただ冷やかなもったいぶった会釈をかえすことだけで自分の心を慰めた。それからわたしはテーブルのまえに座をしめると、わざとまるで無関係なばかげた話をはじめて、笑ったり、しゃれをとばしたりしはじめた……老公爵は明らかにわたしの好意に感謝して、ひどくはしゃぎだした。しかしその陽気さは、有頂天といってもよいほどのものではあったが、どことなく不安定なところが見えすいて、たちまち完全な意気|銷沈《しようちん》に変ってしまう可能性があった。それは一目見ただけで明らかであった。
「Cher enfant(ねえきみ)、きみは病気だったとか聞いたが……ああ、pardon!(失敬!)、きみは、なんでも、降神術に凝《こ》っていたとかいうことだったな?」
「そんなことありませんよ」とわたしは苦笑した。
「ちがうかね? はてな、誰だったかな、わしに降神術の話をしてくれたのは?」
「あれはここの主人のピョートル・イッポリトヴィチがさっきあなたにその話をしたのですよ」とアンナ・アンドレーエヴナが説明した。「あの人は――とってもおもしろい人で、たくさん笑い話を知っておりますわ、なんでしたら、ここへお呼びしましょうか?」
「Oui, oui, il est charmant ......(そう、そう、とてもおもしろい男で……)笑い話を知っておる、でも呼ぶのはあとにしよう。あの男を呼んで、いろいろおもしろい話をさせるのは賛成だな、mais apres.(ただ、もうすこししてからにしようよ)。どうだね、さっきもテーブルの用意をしながら、こんなことを言うんだよ、ご心配なさいますな、テーブルは逃げませんよ、わたしどもは――降神術者じゃありませんからな、などと。降神術者のテーブルはほんとに飛んでゆくのかね?」
「よくは知りませんが、話にきくと、四本の脚《あし》がすっと浮き上がるそうですね」
「Mais c'est terrible ce que tu dis.(でも、そりゃ恐ろしいことじゃないか)」と老公爵はぎょっとしてわたしを見た。
「いや、ご心配にはおよびませんよ、こんなことは――いいかげんな作り話ですよ」
「わしもそう言っとるんだよ。ナスターシャ・ステパーノヴナ・サロメーエワが……きみはあの女を知っとるだろう……ああ、そうか、きみは知らなかったな……どうだね、あの女も降神術を信じてるんだよ、まあ考えてごらん、chere enfant(おまえ)」と彼はアンナ・アンドレーエヴナのほうに顔を向けた、「わしはあの女に言ってやったんだが、お役所にも机がたくさんあって、机ごとに八組ほどずつの手がのっかって、のべつ書類を書いているが――それじゃどうしてお役所の机は踊りださないんだね? ってさ。ところがどうだろう、そのうちいきなり踊りだすでしょうときたよ! 大蔵省か文部省で机どもの暴動がおっぱじまる――困ったことだよ!」
「あいかわらずですね、あなたのしゃれのおもしろさは、公爵」とわたしは心底から笑おうとつとめながら、叫んだ。
「N'est-ce pas? Je ne parle pas trop, mais je dis bien.(そうだろう? わしはすこししかものを言わんが、気がきいたことを言うだろう)」
「わたしピョートル・イッポリトヴィチを連れてまいりますわ」とアンナ・アンドレーエヴナは立ち上がった。
その顔には満足の色が輝きわたった。わたしがこんなに老公爵にやさしいのを見て、彼女は喜んだのであった。ところが彼女が出てゆくやいなや、不意に老公爵の顔が一変した。彼はそそくさとドアへ目をやり、あたりを見まわすと、ソファの上からわたしのほうへ身をのりだして、おびえきった声でわたしにささやいた。
「cher ami!(ねえきみ!)、おお、もし今ここにあれら二人をいっしょに見ることができたら! おお、Cher enfant!(わしの愛する子よ!)」
「公爵、ご安心なさい……」
「うん、そうだな、でも……わしたちが仲直りさせてやろうよ、n'est-ce pas?(そうじゃないか?)これは二人のりっぱな女のつまらんちっぽけな喧嘩《けんか》にすぎんよ、n'est-ce pas?(そうじゃないか?)わしはきみ一人が頼りなんだよ……わしたちでここですっかりまるく納めようじゃないか、それにしても妙な家だねえ」と彼は気味わるそうにあたりを見まわした、「おまけに、あの主人……よくない顔つきだねえ……きみ、ありゃ腹の黒い男じゃないのかね?」
「主人が? いや、そんなことはありません! なにもできるような男じゃありませんよ!」
「C'est ca.(そりゃそうだろうな)。ならいいんだが。Il semble qu'il est bete, ce gentilhomme.(どうやら頭はよくないらしいな、あの男は)。ねえきみ、お願いだから、わしがここでなにもかもこわがってるなんて、アンナ・アンドレーエヴナに言わんでくれね。わしはここへ来るとすぐになにもかもほめたんだよ、主人までほめたんだよ。きみ、フォン・ゾンの事件(訳注 一八六九年末モスクワの魔窟で官吏フォン・ゾンが殺害され、箱詰めにして貨車で送られた事件。この事件についてはカラマーゾフの兄弟の中にも述べられている)を知っとるかね――おぼえとるかね?」
「それがどうしたのです?」
「Rien, rien du tout ...... Mais je suis libre ici, n'est-ce pas?(いや、なんでもないよ……でもわしはここでは自由だよ、そうだろう?)きみどう思うかね、ここで別にわしの身になにもおこらんだろうな……あんなふうなことが?」
「ぜったいに、わたしがうけあいますよ、公爵……とんでもない!」
「Mon ami! Mon enfant!(わが友よ!わが子よ!)」と老公爵はいきなり両手を胸のまえに組みあわせながら、もうすこしも恐怖をかくそうとしないで、叫んだ、「もしきみがほんとになにかもってるとしても……まあ文書かなにか……あるにしても……早い話が――わしになにか言うことがあるにしても、言わんでくれ。お願いだから、なにも言わんでくれ。ぜんぜん言わんほうがいいんだよ……できるだけ長く言わんでくれ……」
老公爵はわたしにすがりつかんばかりにした。涙がだらだらと頬《ほお》をつたった。どれほどわたしの胸がしめつけられたか、わたしは言いあらわすすべを知らない。哀れな老人は、わるいジプシーどもに生家からさらわれて、見知らぬ人々の中へ連れ去られた、みじめな、かよわい、おびえきった幼な子を思わせた。しかし、わたしたちは抱きあうことができなかった。ドアがあいて、アンナ・アンドレーエヴナが入ってきたからである。そのあとにつづいたのは主人ではなく、彼女の兄の侍従補であった。この思わぬ出現にわたしは唖然《あぜん》として、思わず立ち上がると、ドアのほうへ行きかけた。
「アルカージイ・マカーロヴィチ、ご紹介させていただきます」とアンナ・アンドレーエヴナが大きな声で言った、それでわたしはいやでも立ちどまらざるをえなかった。
「ぼくはあなたのお兄さんはもうあまりにもよく知っています」とわたしはあまりにもよくという言葉に特に力を入れて、一語々々はじきだすように言った。
「ああ、あれはひどい誤解でした! ぼくはほんとに申し訳ないことをしました、親愛なアンド……アンドレイ・マカーロヴィチ」と青年は口の中でもぞもぞ言いながら、ひどくなれなれしい態度でわたしのまえに歩みより、わたしの手をにぎりしめた。わたしはさすがにその手をひきぬくことはためらわれた、「あれはみなステパンのせいなのです。あのときやつがばかなことを言うものですから、ぼくはあなたを誤解してしまって――これはモスクワのことなのですよ」と彼は妹に説明した、「あれからぼくはなんとかしてあなたをさがしだして、弁明しようと思って一生けんめいにつくしたのですが、病気になってしまいまして、ほんとです、妹に訊いてください ...... Cher prince, nous devons etre amis meme par deroit de naissance ...... (親愛な公爵、ぼくたちは生れからいっても親友同士にならなければなりません……)」
そしてこの不遜《ふそん》な青年は図々しくも片手をわたしの肩にまわした。これはもう、なれなれしいなどというものではなかった。わたしは身をひいた、が、当惑して、なにも言わずに立ち去るにしかずと思った。わたしは自分の部屋にもどると、寝台の上に腰かけて、はげしい胸さわぎをおぼえながら、思案にくれた。陰謀がわたしの息をつまらせた、だがわたしはいきなり真っ向からアンナ・アンドレーエヴナの足をすくって、唖然とさせることもできなかった。わたしは不意に、彼女もわたしにとっては大切な人で、しかもその立場がいま恐ろしい危険にさらされていることを感じた。
わたしが予期していたように、公爵と兄をのこして、彼女のほうからわたしの部屋へ入ってきた。青年侍従補はまだできたての生々しい社交界の噂話を公爵にはじめて、たちまち感じやすい老人の心をほぐし、夢中にさせてしまったのだった。わたしは無言のまま、目で問いながら、寝台から腰を上げた。
「わたしあなたにすっかり言いましたわ、アルカージイ・マカーロヴィチ」と彼女は真っ向からきりだした、「わたしたちの運命はあなたの手ににぎられているのです」
「でも、ぼくはあなたにことわったはずです、ぼくにはできないと……もっとも神聖な義務が、あなたがあてにしていることを実行することを、ぼくにさまたげるのです……」
「そうですの? それが――あなたのお答えですの? なに、わたしは亡《ほろ》びてもかまいません、でも老公爵はどうなります? あなたはどう見ているか知りませんが、老公爵は日暮れまでには気が狂ってしまうでしょうよ!」
「いいえ、娘が父を狂人と宣告することについて弁護士に相談を求めた手紙を、ぼくが見せたとしたら、それこそ老公爵は発狂してしまうでしょうよ」とわたしは熱くなって叫んだ。「これこそ彼には堪《た》えられません。ご存じですか、老公爵はその手紙を信じていないのですよ、それはもうさっきぼくに言いましたよ!」
わたしは彼がわたしに言ったなどとうそをついた。しかしこれが実によく効《き》いた。
「そう言ったんですか? わたしもそうだろうと思ってましたわ! それなら、わたしはもう破滅ですわ。道理で、さっきまで泣いてばかりいて、家へ帰してくれってきかなかったのよ」
「おしえていただけませんか、あなたの計画は、だいたい、どうしようというんです?」とわたしは間をおかずたたみこんだ。
彼女は、いわば誇りを傷つけられたために、さっと顔を赤らめたが、それでもぐっとこらえて気をとり直した。
「あの手紙を手に入れればわたしたちのとった手段は社交界から正しいものと認められますわ。わたしはすぐにその手紙を、老公爵の幼年のころからのお友だちのV公爵と、ボリス・ミハイロヴィチ・ペリシチェフのところに送るつもりでした。このお二人は――社交界に大きな力をもつ、たいへんりっぱなお方で、わたしは知ってますけど、この二年ほどというもの、無慈悲で強欲なアフマーコワ夫人のあまりにも身勝手ななさり方に、えらく憤慨しておられましたのよ。お二人は、もちろん、わたしの依頼によって、老公爵とアフマーコワ夫人の和解をはかられるでしょうし、わたしもそれを主張しますわ。でもそのかわり事情がすっかり変ってしまいます。そのうえ、そうなったらわたしの親戚《しんせき》のファナリオートフ家の人々も、きっと、わたしの権利を支持する側にまわってくれるはずですわ。でも、わたしにとってなによりも大切なのは老公爵の幸福ですわ。あの方も、最後には、誰がほんとうにあの方に貞節であったかが、わかって、感謝してくださるでしょう! 心底から、わたし、あなたの影響をいちばんあてにしておりますのよ、アルカージイ・マカーロヴィチ。だってあなたは老公爵をあんなに愛しているんですもの……そうですわ、わたしとあなた以外に、いったい誰があの方を愛していて? あの方がこの数日口になさることといったら、あなたのことばかりでしたのよ。あなたに会いたくてそれはさびしがっていらしたのよ。あなたを――『若きわが親友』とおっしゃって……当然、生涯わたしはあなたに限りない感謝を捧《ささ》げるつもりですわ……」
これは彼女がすでにわたしに褒美《ほうび》を約束したのだ――金、かもしれない。
わたしは鋭く彼女をさえぎった。
「あなたがなんとおっしゃっても、ぼくはできません」とわたしはうごかぬ決意をこめてきっぱりと言いきった、「ぼくにできるのは、同様の誠意をもってあなたに応《こた》え、ぼくの最後の決意をあなたに説明することだけです。ぼくは、ごく近い将来に、この宿命的な手紙をカテリーナ・ニコラーエヴナの手に渡します、ただし条件をつけます、それはいま起っているこれらすべての事件をスキャンダルにしないことと、あの女《ひと》がそのまえにあなた方の幸福をじゃましないと誓うことです。これがぼくのなしうるすべてです」
「そんなこと考えられないわ!」と彼女は顔を真っ赤にして言った。カテリーナ・ニコラーエヴナに慈悲をかけられるなどということは、考えただけでも彼女には堪えられない屈辱であった。
「ぼくは決意を変えません、アンナ・アンドレーエヴナ」
「たぶん、変えることになるでしょうね」
「ラムベルトに頼るんですね!」
「アルカージイ・マカーロヴィチ、あなたは知らないのよ、あなたの強情がどれほどの不幸を生み出そうとしているかを」と彼女はきびしくとげとげしく言った。
「不幸は生れるでしょう――それはたしかです……ぼくは頭がぐらぐらします。もうあなたといるのはたくさんです。ぼくは決意しました――それでおしまいです。ただ、これだけはお願いしておきますが――あなたのお兄さんをぼくのまえに連れてこないでください」
「でも兄は償いをしようとしてますのよ……」
「なんの償いも要《い》りません! 必要としません、望みません、いやです!」とわたしは両手で頭を抱えこんで、叫んだ。(おお、わたしはそのとき彼女に対してあまりにも思いあがっていたかもしれない!)「ところで、老公爵は今夜どこにお泊りになるのです? まさかここじゃないでしょうね?」
「あの方はここにお泊りになります、あなたのところに、あなたとごいっしょに」
「夕方までにぼくは他の宿へ行きます!」
そして、この冷酷な言葉をなげつけると、わたしは帽子をつかんで、毛皮外套を着はじめた。アンナ・アンドレーエヴナは無言のまま怒りに燃えた目でわたしをにらんでいた。わたしは哀れになった――おお、わたしはこの傲慢《ごうまん》な娘に哀れみをおぼえたのだ! しかしわたしは彼女にあたたかい一言ものこさずに、部屋を走り出た。
なるべく切りつめて語ろう。わたしの決意は変ることなく実行に移された、そしてわたしはまっすぐにタチヤナ・パーヴロヴナの家に向った。惜しむべし! もしわたしがそのとき彼女に出会っていたら、大きな不幸が起らずにすんだかもしれないのである。ところが、まるで故意に仕組まれたように、その日はいつになく失敗がわたしにつきまとっていた。わたしは、むろん、母のところにも立ち寄った。ひとつには、かわいそうな母を見舞うためと、もうひとつには、そこでタチヤナ・パーヴロヴナに会えるかもしれないと思ったからだった。ところが、そこにもタチヤナ・パーヴロヴナはいなかった。彼女はつい今しがたどこかへ出ていったばかりとのことで、母は病の床にふし、そのそばにリーザ一人だけがつきそっていた。リーザは、母を起すといけないから、部屋に入らないでくれとわたしにたのんだ。
「一晩じゅう眠れないで、苦しみどおしで、いいぐあいに、今しがたとろとろと寝ついたところなのよ」
わたしはリーザを抱きしめた、そして簡単に、宿命的な重大な決意をして、これからそれを実行するつもりだとだけ言った。リーザはごくあたりまえの言葉を聞くように、別におどろきもせずに聞きおわった。おお、彼女らはそのころわたしののべつの『最後の決意』と、それにつづく臆病《おくびよう》な変心にすっかりなれっこになっていたのである。だが今度は――今度こそは事情が変っていた!
わたしは、それでも、運河ぞいの居酒屋に立ち寄って、そこですこし時間つぶしをした。今度こそ確実にタチヤナ・パーヴロヴナに会おうと思ったからである。しかし、どうしてわたしが急にどうしてもこの女に会わねばならなくなったのか、ここで説明しておく必要があろう。つまり、わたしはすぐに彼女をカテリーナ・ニコラーエヴナのところへやって、彼女の家に来てもらい、そこでタチヤナ・パーヴロヴナの立会いのもとに、すべてを明確に説明したうえで、あの文書を返したかったのである……一口に言えば、わたしはただ当然の義務を果したかった、きっぱりと自分の潔白を証明したかったというだけのことである。この一事を解決したら、わたしは必ず、もうなにがなんでも、その場でアンナ・アンドレーエヴナのために数言弁明し、そしてできることなら、カテリーナ・ニコラーエヴナとタチヤナ・パーヴロヴナ(これは証人として)をわたしの下宿へ、つまり老公爵のまえに連れてゆき、その場で敵対する二人の婦人を和解させ、老公爵を蘇生《そせい》させ、そして……そして……要するに、少なくともそこで、その小さな集りで、今日こそ、みんなを幸福にしてやろう、そうすると残るのはヴェルシーロフと母だけだ、とこんなふうに決意したのであった。わたしはその成功を信じて疑わなかった。カテリーナ・ニコラーエヴナは、わたしがなんらの代償も求めずに手紙を返してやったその恩義を感じて、このくらいのわたしの依頼をことわるわけがない。ああ、なんたる愚かしさか! わたしはまだ文書がポケットの中にあると思いこんでいたのである。おお、わたしは自分でそれを知らずに、なんというばかげた物笑いな立場におかれていたことか!
わたしがまたタチヤナ・パーヴロヴナのところを訪ねたときは、もう四時ごろで、あたりはすっかり暗くなっていた。マーリヤは乱暴に『まだもどってませんよ』と答えた。わたしは今はマーリヤの上目づかいの妙な目つきをまざまざと思い出す。だが、もちろん、そのときはまだなにもわたしの頭にぴんとくるはずがなかった。それどころか、不意に別な考えがわたしの頭にひっかかった。タチヤナ・パーヴロヴナのところから階段を下りながら、わたしは腹だたしいやら、いくらか気落ちしたような気持やらで、さっきわたしの手をにぎりしめようとした哀れな老公爵のことを、ふっと思い出した――するとわたしは急に、多分に個人的ないまいましさから彼をおき去りにしてきたことが、胸に痛くきた。わたしは留守のあいだに老公爵の身になにかよくないことがおこったのではないかと考えると、不安で矢もたてもたまらなくなり、せかせかと家路を急いだ。しかし、下宿ではつぎのようなことがあったにすぎなかった。
アンナ・アンドレーエヴナは、さっきわたしの部屋から憤怒《ふんぬ》に身をふるわせながら出ていったが、それでもまだ望みを失いはしなかった。ここで一言しておかなければならないが、彼女はもう朝のうちからラムベルトのところへ使いをやっていた、さらにもう一度使いをやったが、ラムベルトが依然として家にもどっていなかったので、とうとう、自分の兄に彼をさがしに行ってもらった。哀れにも彼女は、わたしの抵抗に出会って、わたしに対するラムベルトの影響力に最後の望みをかけたのである。彼女はじりじりしながらラムベルトを待っていた、そして今日まで彼女のそばを離れようとしないで、うるさくつきまとっていたラムベルトが、急に彼女を捨てて姿を消してしまったのが、ふしぎでならなかった。悲しいかな! ラムベルトが今や文書を手に入れて、すっかり計画を変更したことを、そしてそのために、もちろん、わざと彼女のまえから身をかくしたことを、彼女は知りうべくもなかった。
こういうわけで、心に不安がつのるばかりで、すっかり動揺していたので、アンナ・アンドレーエヴナはほとんど老公爵の気持を慰めてやることができなかった。そのために老公爵の不安は極限にまで達していた。彼は奇妙なおびえきったような質問を発していたが、そのうちに疑惑の目でちらちら彼女をうかがいだして、もう何度かおいおい泣きだした。若いヴェルシーロフはそう長くは坐っていなかった。彼が去ると、アンナ・アンドレーエヴナはやむなくピョートル・イッポリトヴィチを連れてきた。彼女はこの主人に大いに期待をかけたのだが、これが老公爵にはまったく気に入られないで、かえって毛ぎらいされてしまった。だいたいピョートル・イッポリトヴィチに、老公爵はどういうわけかますますつのる不信と疑惑の目を向けていた。ところが主人のほうは、まるでわざとそれを強めるように、またしても降神術とか、気味わるい妖術《ようじゆつ》の話などをはじめた。彼は自分でもその見世物を見たのだが、ともっともらしくことわって、ある旅まわりの妖術師の話をしたが、みんなの見ているまえで人間の首を切断し、血がだらだら流れた、それはみんなが見ていた、それから首をまた元どおりにすげる、とそれがぴたりとくっついた、これもみんなの目のまえでおこなわれた、それが一八五九年のことだというのである。老公爵は恐ろしさのあまり真《ま》っ蒼《さお》になったが、同時にどうしたことかものすごく怒りだして、そのためにアンナ・アンドレーエヴナは急いで語り手を追いかえしたほどであった。
幸いなことに、昨夜のうちに特別に注文しておいた食事がとどけられた。これはラムベルトとアルフォンシーヌを通じて、目下失業中で、貴族の邸宅かクラブに勤め口をさがしていた近所の腕ききのフランス人のコックにつくらせたものであった。シャンパンをつけた食事はひどく老公爵を喜ばせた。彼はしきりに軽口をたたきながら、大いに健啖《けんたん》ぶりを発揮した。食事がすむと、当然、腹の皮が張って、目の皮がたるんだ、そして彼は食後昼寝をする習慣になっていたので、アンナ・アンドレーエヴナは寝台の支度をととのえた。彼はうとうとと眠りかけながら、たえずアンナ・アンドレーエヴナの手に接吻《せつぷん》しては、彼女が――彼の天国だとか、希望だとか、極楽の天女だとか、『黄金の花』だとか讃美《さんび》した――要するに、きわめて東方的な表現を用いだした。そしてやっと眠りにおちた。まさにそこへわたしがもどったのである。
アンナ・アンドレーエヴナは急いでわたしの部屋に入ってくると、わたしに手を合わせて、祈るように言った。
「もうわたしのためではなく、老公爵のために、お願いですからここにいてください、そして目をさましたら、どうか行ってあげてください。あなたがいないと老公爵はだめになってしまいます、神経の発作をおこすかもしれません。夜までもたないのではないかと、心配でなりませんの」
そして彼女は、どうしてもちょっと出かけなければならない用事がある、ひょっとしたら二時間ぐらいかかるかもしれないが、そのあいだ老公爵をわたし一人に委《ゆだ》ねることになるので、どうかついていてあげてほしい、とつけくわえた。わたしは熱をこめて、晩まではここにとどまって、老公爵が目をさましたら、気をまぎらせるようにできるかぎりのことをする、と約束した。
「わたしは自分の義務を果しますわ!」と彼女は力強く結んだ。
彼女は立ち去った。先走りをして、つけくわえておくが、彼女は自分でラムベルトをさがしに出かけたのである。これが彼女の最後の希望であった。さらに、兄やファナリオートフ家の人々をも訪ねた。彼女がどんな気持でもどってこなければならなかったか、想像にあまりあろう。
老公爵は彼女が出ていってからちょうど一時間後に目をさました。わたしは壁ごしに彼のうめき声を聞きつけて、すぐにそちらへとんでいった。彼はガウンをまとったまま寝台の上に坐っていた、が、仄暗《ほのぐら》いランプがひとつともったきりの見知らぬ部屋にたった一人きりでおかれたので、すっかりおびえきってしまって、わたしが入ってゆくと、ぎくっとして、腰をうかして、叫びたてた。わたしは彼のそばへとんでいった、そしてわたしだとわかると、彼は嬉し泣きに泣きながらわたしを抱きしめはじめた。
「いや、きみはどこかへ引越したと聞かされたのでな、びっくりして逃げだしたとか」
「誰があなたにそんなことを言ったんです?」
「誰が言った? なに、ひょっとしたら、わしが自分でそう思いこんだのかもしれんな、いや、誰か言ったのかな。ところで、わしは今妙な夢をみたんだよ。あごひげを生《は》やした老人が、聖像を、うん、真っ二つに割れた聖像をもって入ってくるなり、いきなりこう言うんだよ、『おまえの生命もこのように割られるのじゃ』とな」
「ああ、じゃあなたはもう誰かから聞かされたんですね、ヴェルシーロフが昨日聖像を割ったことを?」
「N'est-ce pas?(そうかね?)そうだよ、聞いた、聞いたよ! ダーリヤ・オニーシモヴナからつい今朝ほど聞いたばかりだよ。あの女がわしのトランクと狆《ちん》をここへ運んできてくれたのでな」
「そう、だからそんな夢をみたんですよ」
「まあ、それはどうでもいい。ところで、その老人がわしに指で話をするんだよ。して、アンナ・アンドレーエヴナはどこかな?」
「もうじきもどりますよ」
「どこから? あれまで行ってしまったのかね?」と老公爵はぞっとしたように叫んだ。
「いいえ、そうじゃありませんよ、もうすぐ来ます、ぼくにあなたのそばについていてくれとたのんで出ていったんです」
「Oui(そうとも)、来るさ。とうとう、あのアンドレイ・ペトローヴィチも気が狂ったか、『ある日突然に!』というわけか。わしは常々あの男に予告していたんだよ、きみはいずれは気が狂うってな。アルカージイ、どこへ行く……」
老公爵は不意にわたしのフロックコートをつかんで、自分のほうへひきよせた。
「さっきここの主人がな」と彼はささやくように言った、「写真をもってきたんだよ、いやらしい女どもの写真なんだよ、さまざまな東洋風の女どもの裸の写真なんだよ、そしていきなり虫めがねをあてがってわしにのぞかせるじゃないか……わしはな、ぐっと気をひきしめて、美しい女たちだとほめたけれど、ちょうどこんなふうに、彼らもあの不幸な男のところにいやらしい女どもを連れてきたんだよ、そうしておいてから盛りつぶそうと思ってな……」
「それはまた、あのフォン・ゾンのことですね、ばからしい、もうおやめなさいよ、公爵! 主人は――ばかですよ、それだけのことです!」
「ただのばかにすぎんかな! C'est mon opinion!(わしもそう思うよ!)ねえ、アルカージイ、できることなら、わしをここから救いだしてくれ!」と不意に老公爵はわたしに手を合わせた。
「公爵、できるかぎりのことはします! ぼくはすべてをあなたに捧げているのです……公爵、もうすこしのごしんぼうです、そしたらぼくが、きっと、すべてを円満に解決します!」
「N'est-ce pas?(ほんとうだね?)二人でいっしょに逃げだそうよ、トランクはわざとのこしておこう、わしらがもどってくると、やつに思わせるんだよ」
「どこへ逃げるんです? じゃアンナ・アンドレーエヴナは?」
「いや、それはいかん、アンナ・アンドレーエヴナもいっしょだよ……おお、アルカージイ、わしの頭の中はひどく混乱してるんだよ……待てよ、そこの、右手の鞄《かばん》の中に、カーチャの写真があるはずだ。わしがさっきそっと入れたんだよ、アンナ・アンドレーエヴナに、特にあのダーリヤ・オニーシモヴナには気づかれんようにな。お願いだから、それを出してくれんか、早く、注意してな、見つかるとたいへんだ……そう、ドアに鍵をかけたほうがいいのじゃないか?」
たしかに、わたしは鞄の中に卵形の縁にはめられたカテリーナ・ニコラーエヴナの写真を見つけた。彼はそれを手にとると、ランプの明りのそばへもっていった、と不意に涙の粒が黄色いかさかさの頬《ほお》をつたった。
「C'est un ange, c'est un ange du ciel!(これは天使だよ、わしの天使だよ!)」と老公爵は涙声で言った。「一生わしはこの娘に対して申し訳ないことばかりしてきた……そして今も! ねえ、きみ、わしはなにも信じない、なにもわしは信じないよ! きみ、正直に言ってくれ、ええ、わしを精神病院に幽閉しようとしてるなんて、そんなことが考えられるかね? Je dis des choses charmantes et tout le monde rit ......(わしが傑作なしゃれをとばすと、みんなが笑う……)そんなわしをいきなり――精神病院に連れこんでしまうなんて?」
「そんなことは決してなかったのです!」とわたしは叫んだ。「それは――誤解です、ぼくはあの女《ひと》の気持を知っています!」
「きみもあれの気持を知ってるかね? そりゃありがたいことだ! わしのアルカージイ、きみはわしを生きかえらせてくれたよ。あの連中はどうしてきみをあんなに悪く言ったのだろう? きみ、カーチャをここへ呼んでくれ、そしてわしのまえで二人に接吻させてやるんだよ、そしたらわしが二人を家へ連れ帰ろう。ここの主人なんぞ追っぱらってしまうんだよ!」
老公爵は立ち上がった、そしてわたしのまえに両手を合わせると、不意にひざまずいた。
「Cher(きみ)」と彼はすでに一種の狂気じみた恐怖にとらわれ、全身を木の葉のようにわなわなとふるわせながら、ささやくように言った、「きみ、すっかり正直に言ってくれ、今からわしはどこへやられるのだね?」
「なにをおっしゃるんです!」とわたしは叫んで、彼を抱き起して、寝台にかけさせた。「じゃあなたは、やっぱり、ぼくをも信じないのですか? ぼくも陰謀に加わっていると、思ってるのですか? ご安心なさい、ぼくがここにいるかぎり誰にもあなたに指一本ふれさせません!」
「C'est ca(そうとも)、そうしておくれ」と彼は両手でわたしの肘をしっかりとつかみ、まだわなわなとふるえながら、舌をもつれさせた。「わしを誰にも渡さないでおくれ! そしてわしには決してうそをつかないでおくれね……それで、いったいわしはここからどこかへ連れてゆかれるのだろうね? ねえ、ここの主人は、イッポリットとか言ったな、あれは……医者じゃないのかね?」
「医者ですって、なんの?」
「これは……これは――精神病院じゃないのかね、ここの、この部屋が?」
ところがその瞬間、不意にドアがあいて、アンナ・アンドレーエヴナが入ってきた。おそらく、彼女はドアの外で盗み聞きをしていて、堪えきれなくなって、思わずいきなりあけてしまったものにちがいない。そのために、ちょっとした物音にもびくびくしていた老公爵は、けたたましい悲鳴をあげて、夢中で枕に顔を埋めた。彼はついに、なにか発作のようなものをおこして、あげくがおいおいと大声を張りあげて泣きだしてしまった。
「これが――あなたの所業の結果ですよ」とわたしは彼女に老公爵の狂態を示しながら、言った。
「いいえ、これは――あなたの強情の結果です!」と彼女はけわしく声をひきつらせた。「最後にもう一度だけ訊《き》きますが、アルカージイ・マカーロヴィチ、あなたは肉親の姉を救うために、この無防備の老公爵に対する恐ろしい陰謀をあばき、『あなたの無思慮な子供っぽい愛の空想』を犠牲にする気にはなれないのですか?」
「ぼくがあなたたちみんなを救います、ただし、ぼくがさっきあなたに言ったやり方でです! ぼくはまたもどってきます、たぶん、一時間後にはカテリーナ・ニコラーエヴナもここへ来るでしょう! ぼくがみんなを仲直りさせます、そしてみんなが幸福になるんです!」とわたしはまるで霊感をうけたようにわれとわが言葉に感激して叫んだ。
「連れてきておくれ、あれをここへ連れてきておくれ」と老公爵は急に夢からさめたように言った。「わしをあれのところへ連れてってくれ! わしはカーチャに会いたい、カーチャに会って、祝福してやりたい!」と彼は両手をのばして、寝台から起き上がろうともがきながら、叫んだ。
「ごらんなさい」とわたしはアンナ・アンドレーエヴナに老公爵を指さした、「お聞きなさい、彼の言うことを。今はもはやどうしたところで、どんな『証書』もあなたの助けにはならんでしょうよ」
「わかりますわ、でも手紙があったらまだ社交界に対してわたしのとった態度の正しさを認めさせることができるはずです、でもこのままでは――わたしは泥まみれです! でもいいわ、わたしの良心は清らかですもの。わたしはみんなに見捨てられました、肉親の弟までが、失敗をおそれて、わたしを見捨てたんですもの……でもわたしは自分の義務を果します、そして乳母として、看護婦として、この不幸なお方のそばにとどまります!」
しかし、ぐずぐずしてはおられなかった。わたしは部屋を走り出た。
「一時間後にもどります、きっとお連れします!」とわたしはドアのところから叫んだ。
[#改ページ]
第十二章
やっとわたしはタチヤナ・パーヴロヴナをつかまえた! わたしは一気にすべてを彼女に語った――文書のことも、今日わたしの下宿であったことも、なにもかも細大もらさず語った。彼女は自分でもこれらのできごとをあまりにも知りすぎていて、二言三言でもう事のあらましをつかんでしまうことができるほどだったが、それでもやはりわたしの告白は十分ほどはかかったように思う。わたし一人がしゃべった、なにもかもつつみかくさずに打明けた、そしてすこしも恥ずかしいとは思わなかった。タチヤナ・パーヴロヴナは黙って、身じろぎもせず、背筋をきっとのばして自分の椅子にかけたまま、唇《くちびる》をきっとひきむすんで、わたしから目をはなさずに、真剣に聞いていた。だが、わたしが話しおわると、いきなり椅子から立ち上がった、そしてその勢いがあまりにもはげしかったので、わたしもつられて思わず立ち上がった。
「ええっ、この犬ころめ! じゃその手紙はほんとにおまえのポケットに縫いこまれてあったんだね、そしてあのばかなマーリヤ・イワーノヴナが縫いこんだのかい! まったく、なんてあきれたばかどもだろう! それでおまえは女心を征服するつもりで、ペテルブルグにのりこんできたというのかい、上流社会を征服して、私生子に生れたことをそこらの誰やらに復讐《ふくしゆう》しようとした、そういう浅ましい考えだったのかい?」
「タチヤナ・パーヴロヴナ」とわたしは叫んだ、「そんな言い方はやめてください! あるいはあなたこそ、そうしてののしることによって、そもそものはじめから、ぼくがここで態度を硬化させた原因だったのかもしれません。そうです、ぼくは――私生子です、そしてもしかしたら、ほんとうに私生子として生れたことに対して復讐しようとしていたのかもしれません、あるいは、実際に、そこらの誰やらに、だってそいつはそれが自分の罪だとはわかりっこないからです。だが、忘れないでほしい、ぼくは悪党どもと手を結ぶことはしりぞけました、ぼくは自分の情熱に打克《うちか》ったのです! ぼくは黙ってあの女《ひと》のまえに手紙をおいて、そのまま立ち去ります、あの女《ひと》からの言葉も待たずに。あなた自身がその証人となるはずです!」
「出しなさい、今すぐ手紙を出しなさい、今すぐこのテーブルの上に手紙をのせなさい! どうせまたいいかげんなうそを言ってるんでしょう?」
「それはぼくのポケットの中に縫いこまれています。マーリヤ・イワーノヴナが自分で縫いつけてくれたのです。そしてこちらへ来て、新しいフロックコートをつくったとき、ぼくが古い服のポケットから切りとって、自分でそれを新しい服のポケットに縫いつけたのです。そらここにあります、さわってごらんなさい、うそは言いません!」
「ここへ出しなさい、さあ出しなさい!」とタチヤナ・パーヴロヴナは声を荒くした。
「だめです、ぜったいに。くりかえして言いますが、あなたの立会いで、あの女《ひと》のまえにおいて、そのまま一言も待たずに、立ち去ります。ただし、ぼくが、ぼく自身が、強制もされず、代償も求めず、自発的にそれをあの女《ひと》に渡すことを、あの女《ひと》にその目で見て、たしかめてもらいたいのです」
「またいいふりをしようというんだね? 惚《ほ》れてるんだね、犬ころめ?」
「好きなだけきたないことを言いなさい。しようがない、ぼくの不徳のいたすところだ、だがぼくは屈辱を感じません。おお、ぼくがあの女《ひと》の目に、あの女《ひと》をつけねらって陰謀をくわだてたくだらない若造と映じるなら、それもしかたがないでしょう。だが、ぼくが自分自身に打克って、あの女の幸福をこの世のなにものよりも高きにおいたことだけは、あの女《ひと》に認めてもらいたいのです! 大丈夫です、タチヤナ・パーヴロヴナ、心配はいりませんよ! ぼくは自分に叫びますよ、元気を出せ、そして希望をもつんだ! と。なあにこれが――人生の活動舞台へのぼくの第一歩なんですよ、だがそのかわりこの第一歩はりっぱに終りました、高く潔《いさぎよ》く終りました! それにぼくがあの女《ひと》を愛してどこがわるいのです」とわたしは感動にうたれて、目を輝かせながら、言葉をつづけた、「ぼくはそれを恥ずかしいとは思いません。母は――天上の天使です、だがあの女《ひと》は――地上の女王なのです! ヴェルシーロフは母のふところへもどるでしょう、しかしぼくはあの女《ひと》のまえに恥じなければならぬなにもありません。だってぼくは聞いたのですよ、あの女《ひと》とヴェルシーロフの話合いを、ぼくはカーテンのかげに立っていたんです……おお、ぼくら三人は――『同じような狂気の人間』ですよ! ええ、あなたは知ってますか、『同じような狂気の人間』というこの言葉が、誰の言葉か? これは彼の言葉ですよ! アンドレイ・ペトローヴィチの言葉ですよ! そうですね、もしかしたらここには、同じような狂気の人間が、ぼくたち三人だけじゃないかもしれませんね? そうだ、賭《か》けてもいいですよ、あなたもそうですね、あなたはこの狂気の――四人目の人間ですよ! なんなら、言いましょうか、賭けてもいいですよ、あなた自身が生涯アンドレイ・ペトローヴィチを愛しつづけてきたんですよ、おそらく、今もそうでしょう……」
重ねて言うが、わたしは感動とふしぎな幸福感にひたりきっていたのである、しかしわたしはしまいまで言うことができなかった。タチヤナ・パーヴロヴナがいきなり不自然なほどすばやくわたしの髪をつかむと、二度ほど力まかせに下へ引っぱったからである……それから急にわたしの頭から手をはなすと、隅《すみ》のほうへ走っていって、向うむきにたたずんだまま、ハンカチを顔におしあてた。
「ばか! もう二度とそんなことは言わないでおくれ!」と彼女は泣きながら言った。
それがまったく不意のことだったので、わたしは、当然、あっけにとられてしまった。わたしはぽかんと突っ立ったまま、まだどうしてよいのやらわからずに、茫然《ぼうぜん》と彼女を見つめていた。
「ほんとに、ばかな子だねえ! さあここへ来て、このばかなわたしに接吻《せつぷん》しておくれ!」と彼女は不意に涙顔に笑いをうかべながら、言った、「いいね、わたしに二度とそんなことを言うものじゃありませんよ……わたしはおまえを愛してるんだよ、生涯おまえを愛してきたんだよ……ばかなおまえをさ」
わたしはタチヤナ・パーヴロヴナに接吻した。ついでに言っておくが、このときからわたしはタチヤナ・パーヴロヴナと親しい友だちになったのである。
「あっ、そうそう! ほんとにわたしのぼんやりったら!」と彼女は不意に大声で言って、自分の額をぽんと叩いた、「おまえはたしか言ったわね、老公爵がおまえの下宿にいるって? それはほんとかね?」
「うそは言いません」
「ああ、なんということを! おお、胸がむかむかする!」彼女は頭をおさえて、室内を忙《せわ》しく歩きまわりはじめた。「あの人たちはそこで年寄りを思いどおりにしようというんだね! ほんとに、ばかはこわいってことを知らないんだから! それで、朝からかい? やってくれたねえ、アンナ・アンドレーエヴナ! あんな尼さんみたいな娘がねえ! ところがあのミリトリーサときたら、まだなにも知らずにいるんだよ!」
「ミリトリーサって、誰のことです?」
「決ってるじゃないの、地上の女王だよ、おまえの理想の女性さ! さあて、これからどうしたものか?」
「タチヤナ・パーヴロヴナ!」とわたしははっと気がついて叫んだ、「ばかな話ばかりしていて、大切なことを忘れていました。ぼくは実はカテリーナ・ニコラーエヴナを迎えにここへ来たんです、みんなあちらでぼくの帰りを待っているんです」
そこでわたしは、カテリーナ・ニコラーエヴナが必ずアンナ・アンドレーエヴナと仲直りをし、しかも結婚に同意することを約束するという条件でのみ、手紙を渡すつもりであることを説明した。
「そりゃいいことだわ」とタチヤナ・パーヴロヴナはさえぎった、「わたしももう百ぺんもそれをあの女《ひと》に言ったんだよ。どうせ老人は結婚までには死んじまうんじゃないか――どっちにしたって結婚なんてできやしないんだよ。もし金を遺言でアンナに残すようなことがあったら、なんて気をもんでるけど、もう気をもむまでもなく、あちらの名義に書き換えられてしまっているんだよ……」
「ほんとにカテリーナ・ニコラーエヴナは金だけが惜しいのですか?」
「いや、手紙がアンナの手に入るのがこわかったのさ、それはわたしも同じだよ。それでわたしたちはあの娘を見張っていたんだよ。そりゃ娘の身にしてみれば老父にショックをあたえたくなかったのさ、もっともあのドイツっぽのビオリングは、金も惜しかったらしいがね」
「それがわかって、あの女《ひと》はよくもビオリングと結婚する気になれますね?」
「でも、ばか女だもの、どうしようもないよ! 言うじゃないか――ばかは死ぬまで直らないって。まあね、あのドイツっぽはあの女《ひと》におちつきとやらをあたえるんだってさ。『どうせ誰かと結婚しなきゃならないのなら、あの人のところへ行くのがいちばん適当なように思うの』なんて言ってるけど、まあ拝見させてもらいますよ、どんなぐあいに適当なのか。あとになってからくやしがったって、もうそれこそあとの祭りさ」
「じゃあなたはどうして黙って見てるんです? だってあなたはあの女《ひと》が好きなんでしょう。たしかあの女《ひと》に面とむかって、好きだって言いましたね?」
「そりゃ好きですよ、あんたたちみんなをいっしょにしたよりも、もっと好きですよ、でもやっぱりあの女《ひと》は――ものの道理のわからないばかな女だよ!」
「いいからすぐにあの女《ひと》を迎えに行ってください、そしてここですべてを解決して、老公爵のところへ連れてゆきましょうよ」
「でもだめだよ、もうおそいよ、ばかだねえ! 下司《げす》の知恵はあとからっていうけど! ああ、どうしたらいいかしら! ああ、胸がむかむかする!」彼女はまたせかせかと歩きまわりはじめた、それでも、今度は膝掛《ひざかけ》毛布を手からはなさなかった。「くやしいねえ、おまえが四時間早く来てくれたらよかったのに、今はもう――七時をまわってるでしょ、あの女《ひと》はもうすこしまえにペリシチェフ家の晩餐《ばんさん》に出かけてしまったし、そのあとでいっしょにオペラに行くことになってるんだよ」
「ええっ、じゃオペラへ迎えに行けないだろうか……いやだめだ、それではおそすぎる! そんなことをしていたら老公爵がどうなるだろう? だって、わるくすると、今夜にでも死ぬかもしれない!」
「いいかね、そちらへ帰らないで、お母さんのところへ行きなさい、そしてそこに泊って、明日の朝早く……」
「いや、どんなことが起ろうと、ぜったいに老公爵を放っておくことはできません」
「そう、ついていてあげなさい。おまえよくそれを言ってくれた。じゃわたしは、ね……やっぱり一走りあの女《ひと》のところへ行って、置手紙をしてきますよ……わたしたちの暗号で書いてくるから、(あの女《ひと》はわかってくれるよ!)例の手紙はここにあるから、明朝十時にわたしのところに来るようにって――きっかり十時に! 大丈夫、来ますよ、わたしの言うことは聞くんだから。そしたらなにもかもいっぺんに納めてしまいましょう。おまえは急いで帰って、せいいっぱい老人の機嫌《きげん》をとって、なんとか寝かしつけなさい、なんとしても朝までもたせるんだよ! アンナのこともおびえさせちゃいけないよ。わたしはあの娘も好きなんだから。おまえはあの娘を誤解してるようだけど、そりゃしかたがないよ、おまえにはわからない事情がここにはあるんだから。あの娘は恵まれない娘なんだよ、小さなときから運命に虐《しいた》げられてきたんだよ。ほんとに、わたしはおまえたちみんなにのしかかられて、えらい目に会ったよ! いいかい、忘れないで、わたしからと言ってあの娘に伝えておくれ、この問題はわたしがちゃんと引受けたから、決してわるいようにはしないから、心配しないようにって、あの娘の誇りに傷がつくようなことは決してしないからって……実はこの何日かというもの、あの娘とはひどい喧嘩《けんか》をしてしまってさ、さんざんののしりあったんだよ! じゃ、行きなさい……いや、ちょっと待って、もう一度ポケットを見せなさい……ほんとうだね、まちがいないね? えっ、たしかにあるね?! いっそその手紙をここに置いてゆきなさい、一晩だけじゃないの、もってたってしようがないじゃないか? おいてゆきなさい、食べてしまいやしないよ。だって、夜のうちになくしてしまうかもしれないし……まさか気が変ることはないだろうね?」
「ぜったいに!」とわたしは叫んだ、「さあ、さわってごらん、ほらあるでしょう、だがぜったいにあなたの手もとに置いてはいきません!」
「うん、なにやら紙みたいなものがあるようね」と彼女は指でさぐった。「ええ、まあいいわ、行きなさい、じゃわたしはあの女のところへ行きましょう、そうね、劇場にも寄ってみようかしら、おまえいいことを言ってくれたよ! さあ行きなさいったら、急いで!」
「タチヤナ・パーヴロヴナ、まあ待ってください、母はどうしたんです?」
「生きてますよ」
「じゃアンドレイ・ペトローヴィチは?」
彼女は片手をふった。
「目がさめるでしょうよ!」
わたしが予期したようにうまくはいかなかったが、それでも希望につつまれて元気にかけだした。ところが悲しいかな、運命は別な決定を下した、そしてわたしを待ちうけていたのは意外な結末だったのである――真に世の中には宿命というものがあるらしい!
わたしはまだ階段の中途から、家の中の異常な騒ぎを聞きつけた。入口のドアはあけっ放しになっていた。廊下に制服を着た見知らぬ従僕が立っていた。ピョートル・イッポリトヴィチ夫婦が、二人ともなにかにおびえきったようすで、やはり廊下に立ちすくんで、なにかを待っていた。老公爵の部屋のドアもあいていて、そちらから雷のような声が聞えてきた。わたしはとっさにそれが――ビオリングの声だとわかった。わたしがそれから二歩もあるかないうちに、いきなり目を泣きはらしてがたがたふるえている老公爵が、ビオリングとその連れの男――ヴェルシーロフのところへかけあいに来たあのR男爵だ――に廊下に連れだされてくるのを見た。老公爵は声をあげておいおい泣きながら、ビオリングに抱きついて、接吻していた。老公爵のあとからやはり廊下に出てこようとしたアンナ・アンドレーエヴナに、ビオリングがなにやらどなりつけた。彼は彼女をおどしつけて、どうやら足を踏み鳴らしたらしい――要するに、『上流階級』を装っていても、粗暴なドイツ兵の地金が出たのである。その後わかったことだが、どういうわけかそのとき彼の頭には、アンナ・アンドレーエヴナはすでになにか刑法上の罪をさえ犯していて、今はもはや法廷でその裁《さば》きを受けることをまぬがれることはできないのだ、というばかげた考えがこびりついていたのである。事情を知らないために、彼はそれを大げさに考えた。これは多くの人々にありがちのことである。そのために彼はどんな乱暴をしてもかまわないのだと一人|合点《がてん》をした。要は、彼には事の真相を見ぬく冷静さがなかったということで、あとでわかったのだが、彼はこのできごとを匿名の手紙で知らされたのであった(このことについては後述するつもりである)、そして彼はそれを読んだときの激怒をそのままにここへかけつけたのであった。こういう激怒にかられるとこのドイツ人という民族は、かなり聡明《そうめい》な人間でも、往々にして靴屋の職人なみのなぐりあいの喧嘩《けんか》をしかねないのである。アンナ・アンドレーエヴナはきわめて気品に充《み》ちた堂々たる態度でこの猛襲を受けとめたということだが、惜しいことにわたしはその場にいあわせなかった。わたしが見たのは、老公爵を廊下へ連れだすと、ビオリングがすぐさまそれをR男爵にまかせて、いきなりアンナ・アンドレーエヴナと対決したときからである。彼はなにか彼女に言われたのに答えたらしく、居丈高《いたけだか》にどなりつけた。
「あなたは――陰謀家だ! あなたはこの老公爵の金がほしいのだ! これであなたは社交界の地位を失った、そして法の裁きを受けるがよい!……」
「あなたこそこの不幸な病人をこづきまわして、狂人にしてしまったではありませんか……あなたがわたしをどなりつけるのは、わたしが――女で、まもってくれる方が誰もいないからです……」
「あっ、そうか! あなたは――この老人の許嫁《いいなずけ》でしたな、許嫁か!」とビオリングは毒々しく乱暴に笑いとばした。
「男爵、男爵……Chere enfant, je vous aime.(わが子よ、わしはあんたを愛しているんだよ)」と老公爵はアンナ・アンドレーエヴナのほうへ手をさしのべながら、涙声で言った。
「お行きなさい、公爵、お行きなさい、あなたに対する陰謀がくわだてられていたのですぞ、あなたの生命をさえ危うくするような陰謀がですぞ!」とビオリングが叫んだ。
「Oui, oui, je comprends, j'ai compris au commencement ......(そうだよ、そうだよ、わかるよ、わしはすぐにわかったんだよ……)」
「公爵」とアンナ・アンドレーエヴナは声を高くした、「あなたはわたしを侮辱なさるのですか、わたしが侮辱されるのを黙って見ているのですか!」
「退《さが》れ!」とビオリングがいきなり彼女をどなりつけた。
これにはもう、わたしはがまんできなかった。
「卑怯者《ひきようもの》!」とわたしは彼に憤怒をたたきつけた、「アンナ・アンドレーエヴナ、ぼくが――あなたの味方です!」
それから起ったことは、わたしは詳細に書くつもりもないし、また書くこともできない。恐ろしい、実に見苦しい場面が現出したのである。わたしは突然理性を失ったかのようになった。わたしはかけよって、いきなり彼をなぐりつけたような気がする、少なくともはげしく突きとばしたことはおぼえている。彼もわたしの頭を力まかせになぐった、そのためにわたしは床に昏倒《こんとう》した。われにかえると、わたしは彼らを追って階段をかけ下りた。鼻血がだらだらと流れていたことをおぼえている。玄関に馬車が待っていた、そして、公爵を乗せているあいだに、わたしは馬車のそばまでかけつけた、そして従僕に突きとばされながらも、またビオリングにとびかかった。そのときどこからどう現われたのか、巡査が目のまえに立ちはだかった。ビオリングはわたしのえりがみをつかんで、すぐに交番へ連行するようにいかめしい声で巡査に命じた。わたしは、それならいっしょに調書をつくるために、彼も同行すべきだ、自分の家の玄関先から拘引される理由はない、などと叫びたてた。しかしここは家の中ではなく、往来であったし、わたしが叫び、ののしり、酔っぱらいみたいにあばれたのに加えて、ビオリングはちゃんと軍服を着ていたので、巡査はわたしの腕をつかんだ。そのためにわたしはもう完全に逆上してしまって、あらんかぎりの力をふりしぼって抵抗し、巡査にまでなぐりかかったらしい。そのうちに、不意に巡査がもう一人現われて、二人がかりでわたしを引立てていった。かすかにおぼえているが、わたしは煙草のけむりがもうもうとたちこめて、立っている者や坐っている者、待っている者や書きものをしている者など、雑多な人々がごちゃごちゃしている部屋に連れこまれたような気がする。わたしはここでもわめきつづけて、調書をとることを要求した。しかし事件はもう調書をとることだけではすまないで、警察に対する反抗と暴行でかなりめんどうなことになっていた。それにわたしのようすが見られたざまではなかった。誰かが不意に恐ろしい声でわたしをどなりつけた。巡査はわたしの暴行を報告し、しきりに大佐がどうのこうのと説明していた……
「姓は?」と誰かがどなった。
「ドルゴルーキー」とわたしはどなりかえした。
「ドルゴルーキー公爵かね?」
わたしは逆上して、なにやら実にえげつないののしり言葉をたたきつけた、すると……それから暗いせまい酔漢留置室にひきずってゆかれたのを、かすかにおぼえている。おお、わたしは決して抗議しているのではない。みなさんはつい先日新聞紙上で、逮捕拘留され、縛られたままで、やはり酔漢留置室に一晩ほうりこまれていたある男の抗議文を読まれたことであろう。しかもその男は無実だったらしい。ところが、わたしには罪があったのである。わたしは先客が二人ほど正体もなく眠りこけている寝棚《ねだな》の隅にごろりと横になった。わたしは頭が割れるように痛かった、こめかみがずきんずきん鳴り、心臓がはげしく動悸《どうき》していた。おそらく、わたしは意識を失っていたにちがいない、そして悪夢にうなされていたらしい。夜更けにふっと目がさめて、寝棚の上に身を起したことをおぼえているだけである。わたしは不意にいっさいを思い出した、そしてその意味を理解した。わたしは膝《ひざ》に肘杖《ひじづえ》をつき、両手で頭を抱えこんで、深い瞑想《めいそう》にしずんでいった。
おお! わたしはそのときの自分のもろもろの感情をここに書きつらねようとは思わない、それにその暇もない、だがひとつだけ言っておきたい。それは、おそらくわたしは、この留置室の寝棚の上で深夜の瞑想のひとときにもつことができたほどの、大きな喜びの瞬間を心の中に味わったことは、これまでの生涯に一度もなかったろうということである。これはあるいは読者には奇妙なこと、一種のきざっぽさ、意表をつきたいとする悪趣味ととられるかもしれない、しかしたしかにそのとおりだったのである。それはおそらく誰もがめぐりあうにちがいないが、しかし一生にせいぜい一、二度しか訪れないような、そうした瞬間のひとつであった。このような瞬間に人間は自分の運命を決定し、世界観を確立し、きっぱりと自分に対して、『ここに真理があるのだ、そしてそれに到達するためには、この道を進まなければならんのだ』と言明するのである。そう、たしかにこの一瞬は、わたしの魂の光明であった。傲慢《ごうまん》なビオリングに辱《はずか》しめを受け、そして明日はあの上流社会の貴婦人に辱しめられることは当然予期していたから、わたしは彼らに二度と立ち上がれぬほどの復讐をしてやってさしつかえないくらいのことは、百も承知していたが、しかしわたしは復讐をすまいと決意した。わたしは、あらゆる誘惑をしりぞけて、あの文書を暴露して、全社交界に公表する(これはすでにもう何度となくわたしの頭をおそった考えであった)ことは、ぜったいにすまいと決意したのである。わたしはくりかえし自分に言い聞かせた、明日は彼女のまえにこの手紙をさしだすのだ、そして必要とあらば、感謝の代りに彼女の嘲笑《ちようしよう》をさえも堪えしのぼう、それでもやはりなにも一言も言わずに、永遠に彼女のまえから姿を消そう……しかし、なにもこんなことをくだくだしく書きつらねる必要はない。明日ここでわたしの身におこるであろうこと、つまり署長のまえに呼びだされて、取調べを受けて、それからどうなるかというようなことについては――わたしはほとんど考えることさえ忘れていた。わたしは愛に充たされた胸に十字を切ると、寝棚の上に横になって、子供のような安らかな眠りについた。
翌朝目がさめたのはかなりおそく、あたりはもうすっかり明るくなっていた。室内にはもうわたし一人だけだった。わたしは腰かけて、黙念と待ちはじめた。ずいぶん長く、ほぼ一時間ほどもそうしていたろうか。もう九時をまわったかと思われるころ、不意にわたしは呼びだされた。もっと深く細部に立ち入って描写することもできなくはないが、しかしその価値はない。今となってはそうしたことはみな枝葉にすぎないからである。わたしに必要なのは主な流れを語りおえることだけである。ただこれだけは言っておこう。わたしがすっかり面くらったことに、思いがけずひどくいんぎんな取扱いを受けたのである。わたしはなにやら訊《き》かれて、なにやら答えた、そしてそのまますぐに釈放されたのである。わたしは黙って部屋を出た、そしてわたしを見送る彼らの視線に、このような立場におとされてさえ自分の品位を失わずにいることができた人間に対するある種のおどろきをさえ読みとって、わたしはひそかな満足を感じた。わたしははっきりとそれを認めなかったら、こんなことをここに書くわけがない。出口のところにタチヤナ・パーヴロヴナが待っていた。わたしがそのときなぜこれほどあっさりと釈放されたのか、そのわけをごく簡単に説明しておこう。
早朝、まだ八時ごろだったらしい、タチヤナ・パーヴロヴナはわたしの下宿へ、つまりピョートル・イッポリトヴィチのところへとんでいった。まだそこに老公爵がいるものと思ったのである。ところがそこで彼女は思いがけなく昨夜の恐ろしいできごとを、わけてもわたしが逮捕されたことを知らされた。彼女はびっくりしてすぐにその足でカテリーナ・ニコラーエヴナのところへとってかえした(彼女はもう昨夜のうちに、劇場からもどると、連れもどされた父公爵と会っていたのである)、そして彼女を起してびっくりさせておいて、直ちにわたしを釈放させることを要求した。彼女はカテリーナ・ニコラーエヴナの手紙をもってすぐにビオリングのところへとんでゆき、すぐさま『誤解によって逮捕された』わたしを即刻釈放してほしいというビオリング自身の『然《しか》るべき筋』にあてた親書をとりつけた。彼女はこの親書をもって署に出頭した、そして彼女の願いが容《い》れられたのであった。
さて、事件の主な流れの記述をつづけよう。
タチヤナ・パーヴロヴナはわたしの手をつかむと、辻馬車《つじばしや》に乗せて、自分の家に連れてゆき、すぐにサモワールを言いつけて、わたしを台所へ入れて自分で手や顔のよごれを洗いおとしてくれた、彼女は台所で、十一時半にカテリーナ・ニコラーエヴナがわたしに会うためにここへ来ることを、大きな声でわたしに言った。ついさっき二人で約束したばかりだというのである。それをマーリヤが小耳にはさんだのである。それから数分後にマーリヤはサモワールを運んできたが、それから二分ほどして、タチヤナ・パーヴロヴナがふとなにかの用を思い出して呼んだとき、彼女の返事はなかった。なにしに出たのか外へ出たことがわかった。読者はこれをしっかりと頭に入れておいてもらいたい。それはたしか十時十五分まえのことだったように思う。タチヤナ・パーヴロヴナは彼女がことわりもなしにどこかへ消えたことに腹をたてたが、そこらの小店へちょっと出たのだろうくらいにしか思わないで、そんなことはすぐに忘れてしまった。それにわたしたちはそんなことを気にしているどころではなかった。わたしたちは話すことがあったからだが、とにかく口きらずしゃべっていた、そのためにわたしなどは、マーリヤの消えたことにはほとんど注意をはらわなかった。読者はこの点も頭に入れておいてほしい。
当然のことだが、わたしは熱に浮かされたようになっていた。わたしは夢中になって自分の気持を述べたてていた、しかし本心は――わたしたちはカテリーナ・ニコラーエヴナを待ち望んでいたのである、そして、一時間後に、ついに、それもわたしの人生のこのような決定的瞬間に、あの女《ひと》と会うのだという考えは、わたしに不安と戦慄《せんりつ》を感じさせた。ついに、わたしが二杯目の茶を飲みおわったとき、タチヤナ・パーヴロヴナはたまりかねて不意に立ち上がると、テーブルの上の鋏《はさみ》をとり上げて、言った。
「さあポケットを出しなさい、手紙をとりださなくちゃ――あの女《ひと》のまえでじょきじょきやるわけにもいかないよ!」
「そりゃそうだ!」とわたしは言って、上着のボタンをはずした。
「なんだねこの乱暴な縫い方は? 誰が縫ったの?」
「ぼくが、自分でですよ、タチヤナ・パーヴロヴナ」
「そうだろうね、この下手くそなこと。さあ、これだね……」
手紙がとりだされた。古い封筒はそのままだったが、その中から出てきたのはただの白紙だった。
「こりゃ――なんだね?……」とタチヤナ・パーヴロヴナはその紙きれを、と見こう見しながら叫んだ。「おや、おまえどうしたんだい?」
わたしはもう言葉もなく、真っ蒼になって突っ立っていた……そして不意にくたくたと椅子の上にくずれた。たしかに、わたしは気を失いかけた。
「なんのまねだね、これは!」とタチヤナ・パーヴロヴナは声を荒げた。「あの手紙はいったいどこにあるの?」
「ラムベルトだ!」わたしははっと気がつくと、われとわが頭をごつんと叩いて、とび上がった。
わたしはせかせかと、あえぎながら、ラムベルトのところで過した一夜も、そのときのわたしたちの陰謀も、なにもかもすっかり彼女に説明した。もっとも、この陰謀のことは昨日すでに彼女に打明けていたのだった。
「盗まれた! 盗まれた!」とわたしは髪をひきむしり、じだんだ踏みながら、叫びたてた。
「たいへんだ!」事情をのみこむと、タチヤナ・パーヴロヴナは不意に言った。「今何時?」
十一時近くになっていた。
「ええっ、マーリヤがいない!……マーリヤ、マーリヤ!」
「なんですか、奥さま?」と台所から思いがけなくマーリヤの声が答えた。
「おまえいたのかい? さあ、これからどうしよう! とにかくわたしはあの女《ひと》のところへとんでゆくよ……ほんとに、おまえったら、なんてのろまなんだろう!」
「ぼくは――ラムベルトのところへ行く!」とわたしはあえぎながら叫んだ、「出方によっては、絞め殺してやる!」
「奥さま!」と不意に台所からマーリヤのきんきん声が聞えた、「どこかの妙な女がどうしてもお目にかかりたいって来てますが……」
しかし、彼女がまだ言いおわらないうちに、『妙な女』がほとんど泣きわめきながら、いきなり台所からかけこんできた。それはアルフォンシーヌだった。それからの場面を詳細に描写することはやめよう。この一幕は――いつわりの狂言であったが、しかしアルフォンシーヌの演技が実にみごとであったことは、指摘しておく必要があろう。彼女は涙ながらに前非を悔い、狂気じみたジェスチュアをまじえながら、はじけるような声でしゃべりたてた(もちろん、フランス語でである)。それによるとあのときポケットを切り裂いて手紙を盗んだのは彼女で、それは今ラムベルトの手にあり、ラムベルトは『あの強盗』cet homme noir(あの腹黒い男)と組んで、Madame la generale(将軍夫人)を呼びだし、射殺しようとたくらんでいる、それがもうすぐ、一時間後のことだ……彼女はそれを彼らの話から知って、急に空恐ろしくなった、というのは、彼らがたしかにピストルをもっているのを見たからで、そこで今ここへかけつけて、わたしたちにそれを知らせて、すぐに行って、将軍夫人にそれを告げて、助けてもらいたいと思って……なにしろcet homme noir(あの腹黒い男)ときたら……
要するに、これらすべてはきわめてありそうなことであった、そしてアルフォンシーヌの説明のあちこちに見られるばからしさまでが、かえってその真実性を強めていた。
「その腹黒い男って誰のこと?」とタチヤナ・パーヴロヴナが叫んだ。
「Tiens, j'ai oublie son nom ...... Un homme affreux ...... Tiens, Versiloff.(ええと、なんて名前だったかしら、忘れたけど……恐ろしい男よ……あ、そう、ヴェルシーロフといったわ)」
「ヴェルシーロフ、そんなばかな!」とわたしは叫んだ。
「いや、そうじゃない、ひょっとしたら!」とタチヤナ・パーヴロヴナは声をひきつらせた。「さあ、聞かしてちょうだい、おまえさん、そんなにとび上がったり、手を振りまわしたりしないで。あの連中はなにをしようとしてるの? 話しなさい、筋道たてて。射殺しようとしてるなんて、そんなばかなことをわたしが信じると思って?」
アルフォンシーヌはこんなふうに説明した(原註 重ねてことわっておくが、すべてがうそだったのである)。ヴェルシーロフはドアの外にひそんでいる。ラムベルトは、彼女が入ってくると、cette lettre(あの手紙)を見せる、そのときヴェルシーロフがとびこんできて、二人で彼女を……Oh, ils feront leur vengeance!(おお、彼らは復讐するのよ!)……彼女、つまりアルフォンシーヌは、自分も加担していたので、後難がこわい、だが cette dame la generale(将軍夫人)はきっと来る、『もうすぐに、すぐに』というのは彼らが手紙のコピーを送ったからで、夫人はたしかに彼らの手に手紙があることを知って、すぐに彼らのところへ出向いてくるにちがいない。夫人に手紙を書いたのはラムベルトで、ヴェルシーロフのことは夫人は知らない。というのはラムベルトはモスクワから来た男、モスクワのある婦人、une dame de Moscou(原註 マーリヤ・イワーノヴナのことである!)のところから来た男と名乗ってやったからだ。
「ああ、胸がむかむかする! ああ、気色がわるい!」とタチヤナ・パーヴロヴナは叫んだ。
「Sauvez-la, sauvez-la!(夫人を助けてあげてください、助けてあげて!)」とアルフォンシーヌが叫んだ。
もちろん、この狂気じみた報告にはちょっと見ただけでもなにかちぐはぐなところがあった、しかしそんなことを詮議《せんぎ》している暇がなかった。というのは現実にぜんたいがおそろしく真実性に充ちていたからである。もうひとつ予想されたのは、それもぜったいに確実と思われたのは、カテリーナ・ニコラーエヴナが、ラムベルトの呼びだしを受けたら、事情をはっきりさせるために、まずわたしたちの待っているこのタチヤナ・パーヴロヴナの家に立ち寄るはずだ、ということであった。しかしそうはいっても、万に一つそうでない場合もありうるわけで、まっすぐに彼らのところへ行ってしまうようなことがあったら、それこそ――彼女は破滅である! また、彼女がたった一度の呼びだしを受けただけで見知らぬラムベルトのところへいきなりとんでゆくとも、いちがいには信じられないことではあったが、しかしこれもまたなぜかありうることのようにも思われた。たとえば、コピーを見て、実際に彼らの手もとにその手紙があることを確信したら、なんとも言えないことで、そうしたら――やはり破滅である! なによりもまずいのは、わたしたちには、もはや考えている余裕がまるでなかったことであった。
「だがヴェルシーロフはあの女《ひと》を殺すかもしれない! もし彼がラムベルトと組むほどに身をおとしたのなら、きっとあの女《ひと》を殺すにちがいない! 彼には分身がいる!」とわたしは叫んだ。
「そうだ、その『分身』だよ!」とタチヤナ・パーヴロヴナは両手をもみしぼった。「さあ、こうしてはいられない」と彼女は不意にきっとなった、「帽子と毛皮|外套《がいとう》をもちなさい――いっしょに行くのです。おまえさん、すぐにその人たちのところへ案内しておくれ。なに、遠いって! マーリヤ、マーリヤ、もしカテリーナ・ニコラーエヴナが来たら、わたしがすぐもどるから、待ってるようにって言うんだよ、待てないなんて言ったら、ドアに鍵《かぎ》をかけて、力ずくでも出しちゃいけないよ。わたしの言いつけだからって、そう言いなさい! ちゃんとやったら、マーリヤ、褒美《ほうび》に百ルーブリあげるからね」
わたしたちは階段にとびだした。たしかに、これよりよい方法は考えつけなかった、なぜなら、いずれにしても、最大の不幸の因《もと》はラムベルトの部屋にあったわけで、実際にカテリーナ・ニコラーエヴナがはじめにタチヤナ・パーヴロヴナの家に来たとしても、マーリヤがそこにおさえておいてくれることになっていたからである。ところが、タチヤナ・パーヴロヴナは、もう辻馬車をとめてしまってから、不意に決心を変えた。
「おまえはこの女《ひと》といっしょに行っておくれ!」と彼女はわたしとアルフォンシーヌをのこして、こう命じた、「いざというときには、そこで死ぬんだよ、わかったね? わたしもすぐあとから行くから、でもそのまえにあの女《ひと》のところへとばしてみる、もしかしたらまだいるかもしれない。おまえがどう思おうと、わたしにはどうも腑《ふ》におちないところがあるんだよ!」
そう言い捨てると、彼女はカテリーナ・ニコラーエヴナの家へ馬車をとばした。わたしはアルフォンシーヌとラムベルトのところへ急いだ。わたしは馭者《ぎよしや》をせきたてて、途々《みちみち》アルフォンシーヌをいろいろと問いつめたが、アルフォンシーヌはああとか、おおとか叫んで逃げるばかりで、しまいには泣きだしてしまった。しかしもはや風前のともしびというときに、神がわたしたち一同を救ってくれたのである。まだ道のりの四分の一も行かないうちに、不意にわたしは背後からわたしを呼ぶ叫び声を聞いた。わたしは振向いた――すると馬車で追って来るトリシャートフが見えた。
「どこへ行くんです?」と彼はびっくりしたように叫んだ、「しかも、アルフォンシーヌなんかと!」
「トリシャートフ!」とわたしは彼に叫んだ、「きみの言ったとおりだ――たいへんなことになった! 悪党のラムベルトのところへ行くんだ! いっしょに行こう、一人でも多いほうがいい!」
「引返しなさい、すぐに引返すんです!」とトリシャートフは叫んだ。「ラムベルトの謀略です、アルフォンシーヌはあなたを欺《だま》してるんです。ぼくはあばた面《づら》に行けと言われたんだが、やつは家にいませんよ。ぼくはたった今ヴェルシーロフとラムベルトを見かけたんです。タチヤナ・パーヴロヴナのところへ行きました……彼らは今あそこにいるはずです……」
わたしは馬車をとめさせて、トリシャートフの馬車にとび移った。どうしてわたしがこれほどとっさに決心することができたのか、わたしはいまでもわからないが、とにかくわたしはとっさにそれを信じて、とっさに決意したのだった。アルフォンシーヌは血相を変えて叫びたてたが、わたしたちは彼女をうっちゃらかしにした、そして彼女が馬首をかえしてわたしたちを追ったか、あるいはそのまま家へ走り去ったか、わたしは知らないが、もうそれっきり彼女の姿は見なかった。
馬車の中でトリシャートフは、はあはあ息をはずませながら、やっと次のようないきさつをわたしに語った。なにやら陰謀をたくらんで、ラムベルトはあばた面と手を組んだ、ところがあばた面がいよいよというときにラムベルトを裏切って、つい今しがたトリシャートフにタチヤナ・パーヴロヴナのところへ行って、ラムベルトとアルフォンシーヌの言うことを信じないように注意しろと命じたというのである。トリシャートフは、これ以上のことはなにも知らない、というのはあばた面はこれだけしか彼に言わなかったし、それにあばた面にしてもどこかへ急いでいて、まるで尻に火がついているようなあわただしさだったので、詳しいことを言っている暇がなかったからだ、とつけくわえた。
「ぼくはあなたが馬車で行くのを見かけたので」とトリシャートフはつづけた、「急いであなたを追ったんですよ」
もちろん、このあばた面も、トリシャートフをまっすぐにタチヤナ・パーヴロヴナのところへやったところを見ると、すべてを知っていたことは明らかであった。しかしこれはもはや新しい謎《なぞ》であった。
しかし、混乱を避けるために、わたしは、破局の記述にうつるまえに、もうこれが最後の先走りをこころみて、ありのままの真相を説明しておこう。
あのとき手紙を盗みとると、ラムベルトはすぐにヴェルシーロフと手を組んだのである。どうしてヴェルシーロフがラムベルトごときと結びつくことができたのか――これについてはしばらく語るのをひかえよう。それは――あとで述べる。要は――そこに『分身』がいたということである! さて、ヴェルシーロフと組んだその次にラムベルトが直面したのは、できるだけ巧妙にカテリーナ・ニコラーエヴナを誘いだすという問題であった。彼女は呼びだしに応じまい、とヴェルシーロフはずばりと言ってのけた。だがラムベルトには、わたしが一昨日の夕方、通りでばったり彼に出会って、いいふりをして、タチヤナ・パーヴロヴナの家でタチヤナ・パーヴロヴナの立会いのもとに彼女に手紙を返す、などと大見得をきった、すでにあのときから、ある考えがひらめいて――彼は、たちまち、タチヤナ・パーヴロヴナの家にスパイ網のようなものをはりめぐらしてしまった、というのはほかでもない――マーリヤを買収したのである。彼はマーリヤに二十ルーブリにぎらせた、そしてさらに、一日後に、文書を首尾よく盗みとると、またマーリヤを訪ねて、そこでもう最終的な手筈《てはず》を決めて、うまく情報をとったら礼金として二百ルーブリやると約束したのだった。
だからマーリヤは、さっき十一時半にカテリーナ・ニコラーエヴナがタチヤナ・パーヴロヴナの家に来ることを、そしてそこにわたしもいることを小耳にはさむと、すぐに家をとびだして、馬車をひろってそのことを知らせにラムベルトのところへ走ったのだった。ほかならぬそのことを彼女はラムベルトに知らせることになっていたので――そこに彼女の手柄もあったわけである。ちょうどそのときラムベルトの部屋にヴェルシーロフもいた。ヴェルシーロフはとっさにあの恐るべき計画を考えだした。なんでも、狂人というものは時として恐ろしい狡知《こうち》を発揮するものだそうである。
その計画とは、わたしたち二人、つまりタチヤナ・パーヴロヴナとわたしを、なんとしても、カテリーナ・ニコラーエヴナが来るまえに、せめて十五分ぐらいでも外へおびきだしておく、ということであった。おびきだす手を打ったら――通りで待っていて、わたしとタチヤナ・パーヴロヴナが出ていったら、すぐに家へとびこむ、マーリヤがドアをあけてくれる、そして家の中でカテリーナ・ニコラーエヴナを待ち伏せるという手筈である。アルフォンシーヌはその間どこでどうしてもかまわないから、なんとしてもわたしたちを引きとめておかなければならない。カテリーナ・ニコラーエヴナは、約束どおり、きっと十一時半に来るにちがいない、とすると――わたしたちがもどることができるよりも、ずっと以前ということになる(してみると、カテリーナ・ニコラーエヴナはラムベルトから呼びだしの手紙などはぜんぜん受取っていなかったわけで、アルフォンシーヌにまんまと欺《だま》されたことになる。しかもこれはヴェルシーロフが詳細にわたって考えだした筋書で、アルフォンシーヌはただおびえきった裏切者の役を演じたにすぎないのである)。もちろん、冒険にはちがいないが、しかし彼らの判断は正しかった。『うまくいけば――めっけもの、うまくいかなかったところで――失われるものはなにもない、というのは例の文書は依然として彼らの手にのこるからだ』。ところがそれが図にあたった、しかもあたらないわけがなかった。『ああ、もしそれがみなほんとうだったら!』と考えただけで、わたしたちはもうどうしたってアルフォンシーヌについてとびだしていかないではいられなかったからである。重ねて言うが、考えている暇がなかったのである。
わたしとトリシャートフが台所へとびこむと、マーリヤが真っ蒼な顔をしてがたがたふるえていた。彼女はラムベルトとヴェルシーロフを通すとき、何気なくちらとすべらせた目がラムベルトの手ににぎられているピストルを見て、ちぢみあがってしまったのである。彼女は金はもらったが、しかしピストルをもちこまれるなどとは夢にも思わなかった。彼女は思い迷っていた、それでわたしを見ると、すぐにとびついてきた。
「将軍夫人はいらっしゃったけど、あの人たちはピストルをもってるんだよ!」
「トリシャートフ、この台所にいてくれ」とわたしは待機を命じた、「そしてぼくが叫んだら、すぐ加勢にとんできてくれ」
マーリヤは小廊下へのドアをあけてくれた、そしてわたしはタチヤナ・パーヴロヴナの寝室にしのびこんだ――タチヤナ・パーヴロヴナの寝台ひとつをようやく置けるだけの、そしてわたしが一度思いがけないことからひそんで盗み聞きをするはめになった、あの小さな部屋である。わたしは寝台に腰かけると、すぐにカーテンの都合のよい裂け目を見つけた。
しかし室内はもう騒々しく、どなるようにまくしたてる声が聞えていた。ことわっておくが、カテリーナ・ニコラーエヴナは彼らからちょうど一分おくれてここに着いたのである。わたしが台所にいるうちに、もう騒々しい話し声が聞えた。わめきたてているのはラムベルトだった。彼女はソファにかけていた、そしてそのまえにラムベルトが立ちはだかって、ばかみたいにわめいていた。彼がなぜこれほどぶざまにとりみだしていたのか、わたしは今になってみるとわかる。彼は不意をおそわれはしないかと恐れて、あわてていたのである。では誰を恐れていたのか、それはあとで説明する。手紙は彼の手ににぎられていた。だが、ヴェルシーロフの姿は室内になかった。わたしは危険と見たらすぐにとびだそうと身構えていた。会話の意味だけを伝える。もしかしたら記憶ちがいが随所にあるかもしれないが、そのときのわたしは気も転倒せんばかりになっていて、こまかいところまで正確に記憶するなどはとうていできることではなかったのである。
「この手紙が三万ルーブリと聞いて、あなたはおどろいているようですな! なに、実を言や十万ルーブリは固いところだが、それを三万ルーブリにまけてやろうと言うんですぜ!」とラムベルトはおそろしく興奮して、大声でまくしたてた。
カテリーナ・ニコラーエヴナは目に見えておびえてはいたが、それでもさげすみとおどろきのまじった目でじっと彼をにらんでいた。
「なにか罠《わな》がしくまれているらしいことはわかるけど、わたしにはなんのことやらわかりませんわ」と彼女は言った、「でも、もしその手紙がほんとうにあなたの手にあるのなら……」
「そらこれだよ、目に入らないのかね! これがちがうってのかい? まあ、三万の手形を書くんだな、それよりびた一文まけられねえ!」とラムベルトがさえぎった。
「そんな金もってませんわ」
「だから手形を書けって言うんだよ――さあこれが用紙だ。書いたら、帰って、金を都合するんだな、待ってあげるよ、ただし一週間だ――それ以上は待たれねえ、金を持ってきなさい――そしたら手形も返すし、この手紙も渡してやる」
「あなたのものの言い方はすこしおかしくはありません。なにか勘ちがいしてるようね。もしわたしが出るところへ出て訴えたら、今日にでもそんな手紙は没収されますのよ」
「誰に? ハッハッハ! スキャンダルはどうするんだね、こいつを公爵に見せましょうかね! 没収されるだと? おれがこの手紙を部屋の中にかくしておくとでも思うのですかい。公爵に見せるのだってちゃんと第三者を通じますわ。まあ、そう強情はるもんじゃないよ、奥さん、こんなけちな要求でかんべんしてやろうというんだ、感謝してもらいてえな。これが他の男だったら、金のほかに、もうひとつ代償をねだったはずですぜ……どんな代償か、おわかりでしょうな……こいつは、せっぱつまれば、どんな美しい女でもぜったいにことわらねえっておつとめですぜ……ヘッヘッヘ! Vous etes belle, vous!(あんたは――美しい女だ!)」
カテリーナ・ニコラーエヴナはいきなりさっと立ち上がると、真っ赤になって――彼の顔に唾《つば》を吐きかけた。そして急ぎ足でドアのほうへ歩きかけた。そのときであった、愚かなラムベルトはいきなりピストルを構えた。彼は、視野のせまい愚か者はえてしてそうだが、文書の効果を盲信していたのだった、つまり――要は――相手が何者かを見ぬく目がなかった、だからこそ、もうまえに述べたように、誰でも自分と同じような卑しい根性をもっているのだと決めてかかっていたのである。彼女が、もしかしたら、金の相談に入ることを避けなかったかもしれないのに、彼は最初の一言からその粗暴さで彼女を怒らせてしまったのである。
「動くな!」彼は唾を吐きかけられたので激怒し、ぐいと彼女の肩をつかむと、ピストルを突きつけながら、叫んだ。もちろん、単におどしのためであったことは言うまでもない。
彼女はあっと悲鳴をあげると、ソファの上にたおれた。わたしは部屋へおどりこんだ。ところがその瞬間、廊下へ通じるドアがさっと開いてヴェルシーロフもとびこんできた(彼はドアの外に立って、待ち構えていたのだった)。わたしがあっと叫ぶ暇もなく、彼はとっさにラムベルトの手からピストルをうばいとると、力まかせにピストルでラムベルトの頭をなぐりつけた。ラムベルトはぐらっとよろめくと、気を失ってどうとたおれた。その頭から血がふきだしてじゅうたんを染めた。
彼女は、ヴェルシーロフを見ると、不意に顔が蒼白《そうはく》になった。何秒間か身じろぎもせずに、なんとも言えぬ恐怖の色をうかべて、じっと彼に目を見はっていたが、そのまま気を失ってくたくたとくずれてしまった。彼は彼女のそばへかけよった。その光景がいまでもわたしの目に見えるようである。そのときわたしは彼の真っ赤な、ほとんど紫色のような顔と、血走った目を見て、ぎょっとしたことをおぼえている。彼はそのときわたしを見たが、誰とも見分けがつかなかったらしい。彼は気を失っている彼女を抱き起すと、信じられぬほどの力で、まるで鵞毛《がもう》のように軽々と抱き上げた、そして幼な子でもあやすように、意味もなく室内を歩きまわりはじめた。部屋は狭かった、が彼は隅から隅へふらふらと歩きまわっていた。なんのためにそんなことをしているのか、明らかにわかっていないふうだった。そのとき、ある一瞬に彼は理性を失ってしまっていたのである。彼はじっと彼女の顔に目を注いだきりだった。わたしはおろおろと彼のうしろについて歩いた。なによりも、彼が右手ににぎったまま忘れていて、彼女の頭のすぐそばに不気味な銃口を見せているピストルを、わたしは恐れたのだった。ところが彼はあるいは肘《ひじ》で、あるいは足で、わたしを突きのけた。わたしはトリシャートフを呼ぼうと思ったが、狂人の神経を苛《いら》だたせることを恐れた。とうとうわたしはふと思いついてカーテンをあけると、彼女を寝台の上に寝かせるように彼にたのみはじめた。彼は寝台のそばへ行くと、彼女をその上に横たえた、そしてそのままそこに突っ立って、一分ほどじっとその顔を見下ろしていた、と不意に、かがみこんで、二度その血の気のない唇に接吻した。おお、わたしは、ついに、それはもはや完全に気の狂った人間であることをさとったのだった。不意に彼は、彼女の頭めがけてピストルを振上げた、が、気がついたらしく、ピストルの向きを変えてにぎり直すと、彼女の顔にねらいをつけた。わたしはとっさに、ありたけの力で彼の腕に体当りすると、大声でトリシャートフを呼んだ。わたしたちは二人がかりで彼ともみあったことをおぼえているが、彼は右手をやっともぎはなすと、いきなり自分に向けて発射した。彼は彼女を撃って、それから自殺しようとしたのだった。ところがわたしたちが彼女を撃たせなかったので、それではと銃口をまっすぐに自分の心臓部にあてたのだが、わたしがとっさにその手を上にはらうことができたので、弾丸は彼の肩にそれたのだった。その瞬間きゃっと悲鳴を上げてタチヤナ・パーヴロヴナがかけこんできた。しかし彼はすでに気を失って、じゅうたんの上にラムベルトと並んで横たわっていた。
[#改ページ]
第十三章 エピローグ
今はこの事件からもうほとんど半年すぎた、そしてそのとき以来多くのものが流れ去ってしまい、多くのものがすっかり変ってしまった。わたしにとってはもうとうに新しい生活がはじまっていた……さて、わたしもこのへんで読者を解放してあげなければならない。
わたしにとってなんといっても第一の疑問は、そのときも、それから長くたってからも、どうしてヴェルシーロフがラムベルトごとき者と手を結ぶことができたのか、そしてどのような目的をそのとき彼は頭に描いていたのか? ということであった。徐々にわたしはある解釈に到達した。わたしの考えでは、ヴェルシーロフはそのとき、つまりあの最後の一日とその前夜、なにもこれといってはっきりした目的をもつことができなかったし、それにまったく事態を見きわめることすらしないで、ただただ感情の竜巻《たつまき》のようなものの中に巻きこまれていたと思うのである。しかし、真の発狂とは、わたしはぜんぜん認めない、いわんや彼は――今もまったく狂人ではないのである。だがわたしは『分身』は明らかに認める。そもそも、分身とはなんであろう? 少なくとも、わたしがその後わざわざ目をとおしたある専門家の医学書によると、分身とは――往々にしてかなり重大な結果に至りうるある深刻な精神変調の初期の段階にほかならないのである。しかもヴェルシーロフ自身も母の家で聖像を割ったとき、恐ろしいまでの真剣さでそのときの感情と意志の『分裂』をわたしたちに立証してくれた。しかしまたしてもくりかえして言うが、母の家でのあの場面、あの聖像を割った事件は、疑いもなく真の分身のなせる業《わざ》ではあったろうが、しかしあれ以来いつもわたしの頭には、そこにはある程度ある意地わるい比喩《ひゆ》もまじっていたのではないか、という考えがちらちらしてならないのである。母たちの期待に対するある嫌悪感《けんおかん》というか、母たちの権利と裁きに対する呪詛《じゆそ》というか、そこで彼は、その分身といっしょになって、聖像を割ったのである! 『おまえたちの期待もこのように割られてしまうのだ!』というわけである。要するに、そこには分身もいたろうが、ただの気まぐれもあったのである……しかしこうしたことは――わたしの臆測《おくそく》にすぎない。正確に判断するのは――むずかしいことである。
たしかに、彼はカテリーナ・ニコラーエヴナを崇拝はしていたが、しかしその心の中には常に彼女の徳性に対する心底からの、きわめて深い不信が根ざしていた。おそらくあのときも彼はドアのかげに身をひそめて、彼女がラムベルトのまえに卑屈な姿をさらけだすのを待っていたにちがいないのである。しかし、待っていたとしても、彼はそれを望んでいたであろうか? またしてもくりかえすが、彼はなにも望んでいなかったし、なにも考えてさえいなかったと、わたしはかたく信じている。彼はただそこにいたかっただけである、そのうちにとびだして、彼女になにか言ってやりたかっただけである、あるいは――もしかしたら、辱《はずか》しめたかったのかもしれないし、事によったら、殺してやろうと思っていたのかもしれない……あのときはどんなことでも起りえたはずである。しかしただ、ラムベルトといっしょに来たときは、彼はどういうことがおきるかまったく知らなかったのである。つけくわえておくが、ピストルはラムベルトのもので、彼は自分ではなにも凶器はもってこなかった。彼女の誇り高い品位を見て、しかしそれにもまして、彼女を脅迫するラムベルトの卑怯《ひきよう》な態度にがまんがならなくなって、彼はとびだしたのであって――理性を失ったのはそのあとのことである。あの瞬間に彼は彼女を射殺しようと思ったのか? わたしの考えでは、彼は自分でもわからなかったろうが、しかしわたしたちが彼の手をはらいのけなかったら、おそらく射殺していたにちがいないのである。
彼の傷は命にさわるほどのものではなかったので、治癒《ちゆ》はしたが、しかしかなり長いこと病床に臥《ふ》さなければならなかった――もちろん、母の家にである。わたしがこの手記を書いている今は――戸外は春、五月のなかばで、きれいに晴れわたった日で、家の窓はすっかりあけ放されている。母は彼の枕辺《まくらべ》に坐っている。彼は手をのばして母の頬《ほお》や髪をなでながら、感動にうるんだ目でじっと母の顔を見まもっている。おお、これは――以前のヴェルシーロフの半身にすぎない。このヴェルシーロフはもう母のそばを離れようとしないし、もう永久に去ることはないであろう。彼は忘れることのできないマカール・イワーノヴィチ老人があの商人の話の中で言った『涙の贈物』をさえ受けたのである。しかし、どうやらヴェルシーロフは長生きしそうである。わたしはそんな気がしてならない。彼は今わたしたちに対して、まるで子供みたいに、まったく素直で、純真である、しかし、節度も自制も失ってはいないし、よけいなことも言わない。知性も徳性もすこしもそこなわれずにそのままにのこった、ただ彼の内部にあった理想的なものがことごとく、さらに強く表面に出てきたのである。わたしは率直に言うが、わたしは今かつてなかったほどに強く彼を愛している、そしてもっともっと彼について語る時間も、紙数もないことが、惜しまれてならない。ただ、つい先ごろあったひとつのエピソードを語っておこう(こういう話はたくさんあるのである)。
大斎期《たいさいき》近くには彼はもうすっかり快《よ》くなって、六週目に精進しようと言いだした。三十年か、あるいはそれ以上も、彼は精進をしなかったらしい。母はすっかり喜んで、精進料理の支度《したく》にとりかかった。精進料理とはいっても、かなりぜいたくな凝った料理である。彼が月曜日と火曜日に一人で『そは花婿《はなむこ》の訪れるなり』を口ずさんで、その節にも文句にも感激しているのを、わたしは隣の部屋から聞いていた。この二日のあいだに彼は何度か宗教についてすばらしい話をした。ところが水曜日になると不意に精進が中止されてしまった。なにかが突然彼の気にさわったのである。彼が笑いながら語ったところによると、ある『おかしいコントラスト』だというのである。神父の外貌《がいぼう》やその場の雰囲気《ふんいき》になにか気に入らないものがあったらしく、家へもどってくると、しずかに笑いながら、いきなりぼそりと『わしはひどく神を愛しているんだが、どうも――こういうことには向かんのだよ』とだけ言った。その日の昼食にはもうローストビーフが出された。しかしわたしは知っているが、母はいまでもそうだがよく彼のそばに腰を下ろして、しずかな声で、しずかな微笑をうかべながら、どうかするとまるで抽象的なことを話しだしたものである。このごろ母はどうしたことか急に彼に対して大胆になったが、どうしてそういうことになったのか――わたしにはわからない。母は彼のそばに坐って、主にささやくように話しかける。彼はにこにこ笑って、母の髪をなでたり、手に接吻《せつぷん》したりしながら聞いている、そしてその顔にはこのうえなく充ちたりた幸福の光が輝いている。彼には、ときによるとほとんどヒステリーに近いような発作が起ることがある。すると彼は母の写真をとりだして、――あの夜彼が接吻したあの写真である、――涙を流しながらそれにじっと見入り、接吻し、あれこれと回想し、わたしたちみんなを呼んで思い出を語り聞かせるが、しかしそういうときはあまり口数が多くない……
カテリーナ・ニコラーエヴナのことはまるですっかり忘れてしまったようで、彼はその名前を一度も口に出さなかった。母との正式の結婚のことについても家ではまだ一度も言いだされなかった。夏に彼を外国へ転地させようという話が出たが、タチヤナ・パーヴロヴナがむきになって反対したし、それに彼もそれを望まなかった。夏を彼はペテルブルグ郊外のある村の別荘ですごすことになった。ついでに言っておくが、わたしたち一同はここ当分タチヤナ・パーヴロヴナの厄介になって暮しているのである。ひとつつけくわえておくが、わたしはこの手記の中で、しばしばこの人物に対して無礼な不遜《ふそん》な態度をとったことが、悔まれてならないのである。しかしわたしは、描写されたそれぞれのときにおける自分はこうであったという姿を、それこそありのままに想像しながら書いたまでである。この手記を書きおえて、今エピローグを書きながら、わたしは不意に、ほかならぬこの回想と記述のプロセスによって、自分自身を再教育していたことを感じた。だからわたしは、書いたものの多くを、時にある章やページの調子を否定しているが、それでも一字の抹殺《まつさつ》も訂正もしないのである。
カテリーナ・ニコラーエヴナのことについて彼は一言も口にしない、とわたしは言ったが、あるいは、彼女を慕う彼の病気がすっかり直ってしまったのではないか、とさえわたしは思っている。ときどきカテリーナ・ニコラーエヴナの噂《うわさ》をするのは、わたしと、それからタチヤナ・パーヴロヴナくらいなもので、それもこっそりとである。今カテリーナ・ニコラーエヴナは外国にいる。わたしは出発まえに彼女に会ったし、それまでも何度か訪《たず》ねた。外国にいる彼女からわたしはもう手紙を二度もらって、それに返事も送っている。しかしわたしたちの手紙の内容について、および出発まえの別れにあたってわたしたちが語り合ったことについては、わたしは沈黙をまもらなければならない。それはもはや別なものがたり、まったく新しいものがたりで、おそらくそのすべてがまだ未来に属するであろうからである。わたしはタチヤナ・パーヴロヴナにすらある事柄については語っていない。だがもうよそう。ただ、これだけをつけくわえておこう。カテリーナ・ニコラーエヴナは結婚していない、そしてペレシチェフ家の人々といっしょに旅行をしている。父公爵が亡《な》くなって、彼女は今――大金持の未亡人である。今は彼女はパリに滞在している。彼女とビオリングの決裂は急速に、しかも当然のように、ということはつまりきわめて自然にきた。ついでに、そのことにふれておこう。
あの恐ろしい事件のあった日の朝、あばた面《づら》が――くらがえしたトリシャートフとその友をかかえこんだあの男である――いち早くさし迫った奸計《かんけい》についてビオリングに知らせた。それにはつぎのような事情があった。ラムベルトはやはり彼を仲間にひき入れようと思って、例の文書を手に入れると、さっそく彼に計画の全貌《ぜんぼう》を事こまかにおしえて、ついに決行の最終的な決め手、つまりヴェルシーロフがタチヤナ・パーヴロヴナを欺く方法を考えだしたことまで、彼に打明けた。しかしいよいよ決行の直前になるとあばた面は、彼らよりも分別があるし、この計画の中に刑事犯罪のおそれを見てとって、ラムベルトを裏切るほうが得だと考えた。要は、彼はビオリングの謝礼のほうが、頭がなまくらなくせにのぼせやすいラムベルトと情欲のためにほとんど狂人のようになっているヴェルシーロフの空想的な計画よりも、はるかに確実だと思ったのである。これはみな、わたしがあとでトリシャートフから聞いたのである。ついでだが、わたしはラムベルトとあばた面の関係を知らないし、なぜラムベルトがどうしても彼を仲間にひき入れなければならなかったのかも、理解できない。しかし、わたしにとってそれよりもはるかに興味ある疑問は、なぜラムベルトがヴェルシーロフを必要としたか? ということである。すでに文書をにぎっていたのだから、彼の助けなどなくても完全に事を遂行することができたはずではないか。今はその答えがわたしにはわかっている。ヴェルシーロフが彼に必要だったのは、まず、事情を知っているという理由からだが、それよりも、騒がれたり、あるいは事件になったりした場合に、責任をすっかり彼にかぶせてしまうためだったのである。しかもヴェルシーロフは金をぜんぜんほしがらなかったので、ラムベルトにすれば彼の助力はまさにもっけのさいわいというものであった。しかしビオリングはそのとき現場にまにあわなかった。彼がかけつけたときは事件後すでに一時間たっていて、タチヤナ・パーヴロヴナの住居のようすはもうすっかり変っていた。実は、ヴェルシーロフが血まみれになってじゅうたんの上に倒れてから五分ほどすると、わたしたちがみな死んだものとばかり思っていたラムベルトが、ぴくりと体を動かして、ふらふらと立ち上がった。彼はびっくりしたようにあたりを見まわすと、はっと気がついたらしく、台所へ出ていった。そして一言もものを言わずに、外套《がいとう》を着ると、そのまま永久に姿を消してしまった。『証書』はテーブルの上に置き捨てにされたままだった。なんでも、彼はろくにわずらいもせず、ただちょっと寝ていただけだそうである。ピストルの一撃は彼を気絶させ、血を流させただけで、それ以上の深刻な事態を招かなかったのである。その間に、トリシャートフは医者を呼びにかけ去った。ところがまだ医者が来ないうちにヴェルシーロフも意識をとりもどした。しかもヴェルシーロフが意識をとりもどすまえに、タチヤナ・パーヴロヴナがカテリーナ・ニコラーエヴナをわれに返らせて、早いところ家へ連れ去ってしまった。というわけで、ビオリングがかけつけたとき、タチヤナ・パーヴロヴナの住居にいたのは、わたしと、医者と、傷ついたヴェルシーロフと、母だけであった。母はまだ病身だったが、夢中でかけつけたのである。母を迎えに行ってくれたのもトリシャートフであった。ビオリングはうさんくさそうな目でじろりとわたしたちを見たが、カテリーナ・ニコラーエヴナがもう帰ったと知ると、わたしたちに一言も言葉をかけずに、すぐそちらへ向った。
彼は狼狽《ろうばい》していた。今はもう噂がひろまり、スキャンダルがほとんど避けられないことを、彼は明らかに見ていた。しかし、大きなスキャンダルにはならなかった。ただ噂がちょっと流れただけであった。ピストルの発射があったことはかくしおおせなかった――それは当然のことである。しかし事件の本筋というか、その真相は、ほとんど知られないままにおわった。裁判所の審理の結果は、V某なる男が、もう五十歳に近い妻帯者でありながら、恋に目がくらみ、激情のとりことなって、ある名流婦人に愛を告白したが、婦人がその愛にぜんぜん応じようとしなかったために、狂乱の発作を起してわれとわが身に拳銃《けんじゆう》を発射したものである、とだけ発表された。それ以外のことはなにも明るみに出なかった、そしてこういう形で事件はあいまいな噂となり、新聞にも、実名はのらないで、姓の頭文字だけで漠然《ばくぜん》と報じられただけであった。わたしの知っているかぎりでは、たとえばラムベルトの名などはまったく出なかった。それにもかかわらずビオリングは、真相を知っただけに、おそれをなしてしまった。そこへ、まるで故意に追討ちをかけるように、その破局のわずか二日まえに、カテリーナ・ニコラーエヴナと、彼女を恋慕するヴェルシーロフが、密室で二人きりで会ったことが、偶然に彼の耳に入った。それが彼を激怒させた、そして彼は、かなりうかつにも、こうしたことがあってみれば、あのような奇怪なできごとが彼女の身に起るのも、なにもふしぎなことではない、とカテリーナ・ニコラーエヴナにむかって暴言を吐いてしまった。カテリーナ・ニコラーエヴナはその場で即座に、怒りもせず、といってためらいもせずに、彼との結婚を拒否した。この男との結婚を賢明なものとしていた彼女の偏見ともいえる考えは、これで煙のように消えてしまった。事によったら、彼女はもうかなりまえから彼の人間を見ぬいていたのかもしれないし、あるいはまた、あのような衝撃を経験して、急に彼女のある面のものの見方や考え方が変ったのかもしれない。しかし、ここでもわたしはまた沈黙をまもることにする。ただ、ラムベルトがモスクワへ高飛びして、なんでもそちらでなにかの事件でつかまったらしい、ということだけを言い添えておこう。トリシャートフは、わたしはもうあのとき以来見ていない。どんなに見つけだそうとつとめても、いまだになんの消息もつかめないのである。彼はその親友、のっぽの死後、忽然《こつぜん》と姿を消してしまった。のっぽはピストルで自殺したのである。
わたしはニコライ・イワーノヴィチ老公爵の死にちょっとふれておいた。この心のやさしい善良な老人はあの事件後まもなく亡《な》くなった、といっても、しかし、まる一カ月後のことで――夜更けに、寝床の中で、卒中で死んだのである。わたしは、彼がわたしの下宿に連れて来られたあの日から、もう彼に会わずじまいになった。聞くところによると、彼はこの一月のあいだいままでになく頭が冴《さ》えて、しかも厳格にさえなったとかいうことで、もうびくびくしたり、泣いたりすることがなくなり、死ぬまでずっとアンナ・アンドレーエヴナのことは一言も口にしなかったそうである。彼の愛情のすべてが娘に向けられた。カテリーナ・ニコラーエヴナがあるとき、死の一週間ほどまえのこと、気晴らしにわたしを呼んだらとすすめたら、彼は眉《まゆ》をしかめてかえって不機嫌《ふきげん》になったそうである。この事実はいっさいの説明をはぶいてそのままここに記《しる》しておく。彼の領地はりっぱに管理されていたし、そのうえ、莫大《ばくだい》な財産がのこされていたことがわかった。この財産の三分の一までは、老公爵の遺言によって、かぞえきれないほどいる彼の洗礼娘たちに分配されることになった。ところが誰もがひどく不審に思ったのは、この遺言書の中にアンナ・アンドレーエヴナのことがまったくふれられていないことであった。彼女の名だけがもれていたのである。ところが、信ずべき事実としてわたしはつぎのようなことを知らされた。死の数日まえに老公爵は娘と、親友であるペリシチェフとV公爵を枕辺に呼んで、自分の死が近いことと思われるので言っておくがとことわって、この財産の中から六万ルーブリを必ずアンナ・アンドレーエヴナに分けてやるようにと、カテリーナ・ニコラーエヴナに命じたというのである。彼は溜息《ためいき》ひとつもらすでなく、一言の説明も加えずに、自分の意志を正確に、明瞭《めいりよう》に、簡潔に述べたそうである。
老公爵の死後、遺産の処理の問題がもうすっかり明らかになってから、カテリーナ・ニコラーエヴナは代理人を通じて、この六万ルーブリをいつでも好きなときに受取ってさしつかえないということをアンナ・アンドレーエヴナに知らせた。ところがアンナ・アンドレーエヴナはよけいなことはいっさい言わずに、そっけなくこの申し出をことわった。これがたしかに老公爵の意志であったことを、口がすっぱくなるほど説かれたが、しかし彼女は頑《がん》として金を受取ろうとしなかった。金はいまでも彼女に引取られるのを待ちながら、そのまま眠っている、そしてカテリーナ・ニコラーエヴナもいまだに、彼女が決意を変えることを待ち望んでいるのである。しかしその日は来ないであろうし、わたしはそれを確信している、というのはわたしは今――アンナ・アンドレーエヴナのもっとも近い親友の一人だからである。彼女の拒否はかなりの騒ぎをまきおこして、さかんに取沙汰《とりざた》された。彼女の伯母のファナリオートワ夫人は、はじめは彼女と老公爵のスキャンダルに大いに憤慨したが、彼女が金を拒否してからは、にわかに意見を変えて、彼女を尊敬していると盛大に公言した。そのかわり彼女の兄はそのために完全に彼女と喧嘩わかれをしてしまった。ところで、わたしはよくアンナ・アンドレーエヴナを訪ねはするが、しかしひじょうに親密になったとは言わない。わたしたちは老公爵のことは決して口に出さない。彼女はひじょうに喜んでわたしを迎えるが、わたしとは妙に抽象的な話をするだけである。なにかのときに、彼女はどうしても修道院に入るつもりだと、きっぱりとわたしに言明した。これはつい先日のことである。しかしわたしはそれを信じない、そしてただ悲しみをあらわした言葉にすぎないと思っている。
しかし悲しい、ほんとうの悲しい言葉は、わたしは特に妹のリーザについて言わなければならない。これこそ――ほんとうの不幸というもので、リーザの悲痛な運命にくらべたら、わたしの数々の失敗などなんであろう! その不幸は、セルゲイ・ペトローヴィチ公爵が健康を回復しないままに、判決を待たずに、病院で死んだことからはじまった。それはニコライ・イワーノヴィチ老公爵が死ぬまえのことであった。リーザは生れてくる子を腹に宿したまま、ただ一人とりのこされた。リーザは泣きもしなかったし、見たところおちついているようにさえ見えて、おとなしい、柔和な女になった。以前のかっと燃えやすい心は彼女の内部のどこかに葬られてしまったかのようであった。リーザはおとなしく母の手助けをして、病床のアンドレイ・ペトローヴィチの世話をしていたが、おそろしく無口になって、誰にも目を向けようとしないし、なにも見ようともしなかった。彼女にはもうなにがどうでもよいことで、ただしずかに傍《そば》を通りすぎてゆくというふうであった。ヴェルシーロフが快方に向うと、彼女はよく眠るようになった。わたしが本をもっていってやっても、彼女は読もうとしなかった。おそろしくやつれが見えだした。わたしはときどき慰めるつもりで彼女のそばへ行ったが、どういうものか胸がつまってどうしても慰めの言葉を口に出すことができなかった。彼女を見ると、なんとなくそばへ行きづらくなって、それに言いだそうと思っても、そうした類《たぐ》いの言葉がもともとわたしにはないのである。こんな状態がある恐ろしいできごとがおこるまでつづいた。彼女が家の階段からころげ落ちたのである。高いところからではなく、せいぜい三段かそこらだったが、彼女は流産した、そしてほとんど冬中病みついてしまった。今はもう床ばなれをしたが、しかし、もうもとの健康な体にはもどらなかった。彼女はあいかわらずわたしたちには黙しがちで、物思いに沈んでいたが、母とはすこしずつ話をするようになった。この数日は晴天つづきで、明るい春の太陽が空高く輝いているので、わたしにはたえず、去年の秋リーザと二人で、希望にあふれ、互いに愛しあいながら、嬉々《きき》として街を歩いたあの晴れた朝のことが思い出された。ああ、あれ以来どういうことになってしまったのか? わたしには新しい生活がきたのだから、わたしはまだいい、だがリーザは? 彼女の未来は――謎《なぞ》のヴェールにおおわれている、だが今は、わたしは苦痛を感ずることなしに彼女を見ることができない。
三週間ほどまえわたしは、それでも、ワーシンのニュースで彼女の気持を引きたてることができた。彼が、ついに、釈放されて、すっかり自由の身になったのである。なんでも、この思慮深い男は実に正確な興味ある陳述をしたので、彼の運命をにぎっていた人々の彼に対する見方をすっかり変えてしまったというのである。おまけに嫌疑《けんぎ》をかけられた彼の原稿が単なるフランス語からの翻訳で、いずれある雑誌のために論文を書くつもりで、彼が単に自分のために集めたいわば参考資料にすぎないことがわかった。彼はその後ある県へ出かけていった、だがその義父のステベリコフはいまだに獄中で日を送っている。聞くところによると、その罪状は調べがすすむにつれてますますひろがっていき、いよいよ複雑になるばかりだそうである。リーザは奇妙な薄笑いをうかべながらワーシンの話を聞いていたが、あの人はきっとそうなると思っていたわ、と意見まで述べた。それでも彼女はいかにもほっとしたらしいようすだった――もちろん、死んだセルゲイ・ペトローヴィチ公爵の卑劣な干渉がワーシンを破滅させなかったことに安堵《あんど》したのである。デルガチョフやその他の人々については、ここに伝えるだけの情報をわたしはなにももたない。
これでわたしの手記は終った。あるいは読者の中には、わたしの『理想』がいったいどこへ行ってしまったのか、わたしが謎めいた声明をしているが、今わたしのまえに開けかかったその新しい生活とは、そもそもどんなものか、知りたいと思う方があるかもしれない。ところがこの新しい生活こそ、わたしのまえに開けたこの新しい道こそ、ほかならぬわたしの『理想』なのである。以前のとまったく同じ理想なのだが、もうすっかり形が変っているので、もう見分けがつかないほどである。しかしわたしのこの『手記』にそれが入ることはもはやできない、なぜならそれは――もはや完全に別なものだからである。古い生活はすっかり過去のものとなってしまったが、新しい生活はようやくはじまりかけたばかりである。だが、必要なことはつけくわえておこう。誠実な愛するわたしの友であるタチヤナ・パーヴロヴナは、できるだけ早くどうしても大学へ入らなければいけないと、ほとんど毎日のようにうるさくわたしにすすめている。『卒業したら、そのとき考えたらいいじゃないの、今はとにかく学業を終えることですよ』というわけである。正直のところ、わたしは彼女のすすめについて思案しているが、どう決めてよいか、まったくわからないのである。それはとにかく、わたしは一度、今は母とリーザを養うためにはたらかなければならないのだから、大学へ行く資格などないのだと、彼女のすすめをしりぞけたことがあった。ところが彼女は、その金は自分が出そう、卒業までの学資くらいは十分にまにあうから、とうけあうのである。わたしは、とうとう、ある人に相談することに決めた。わたしは自分の周囲を見わたして、慎重に考慮してこの人物を選んだ。それは――ニコライ・セミョーノヴィチ、つまりモスクワでわたしの親代りをしてくれた人で、マーリヤ・イワーノヴナの良人《おつと》である。わたしはそれほど誰かの助言を必要としたわけではない。ただこの完全に第三者で、しかもいささか冷やかなエゴイストだが、明らかに頭の切れる人間の意見を、どうしても聞いてみたかったまでである。わたしはこの手記を全部彼に送った、そしてまだ誰にも、しかもタチヤナ・パーヴロヴナにも見せていないのだから、秘密にしてほしいとたのんでやった。送った手記は二週間後にかなり長文の手紙を付されて返送されてきた。この手紙の中から、一般的な見方と、ひとつの解釈と思われるようなところを、いくつか抜き書きしてみたい。つぎにあげるのがその抜き書きである。
「……忘れえぬアルカージイ・マカーロヴィチ、あなたはこの厖大《ぼうだい》な『手記』を書きあげられて、今ほど有益に余暇を利用されたことは、かつてなかったことであろうと思います。あなたは人生舞台への波瀾《はらん》と冒険に充ちた第一歩について、いわゆる意識的報告書を自分にあたえたわけであります。この記述によってあなたは実際に、あなた自身の表現を借りれば、多くの点で『自分を再教育』することができたものと、わたしは確信します。もとより批評的な意見は、いっさいさしひかえるつもりですが、でもやはりどのページを読んでも考えさせられるものがあります……たとえば、あなたがあれほど長くしかも執拗《しつよう》に『文書』をかくしもっておられたという事情ですが――これはきわめて特徴的な点であります……しかしこれは――わたしの幾百という感想のひとつをあえて述べたにすぎません。またわたしは、あなたがわたしに、しかも明らかにわたしにだけ、あなた自身の言われる『あなたの理想の秘密』を打明けてくださったことについても、あなたの気持をひじょうに貴《とうと》いものに思っております。しかし、なかんずくこの理想についてわたしの意見を聞かせてほしいというあなたの依頼に対しては、わたしはきっぱりとおことわりしなければなりません。第一に、手紙にはとても書ききれませんし、第二に、自分でもお答えするだけの用意がなく、この問題はわたし自身がまだまだ煮つめなければならないからです。わたしに言えることは、現代の青年たちはたいてい自分で考えだした思想ではなく、すでにある出来あいの思想にとびついて、そのストックが実に少なく、しかもしばしば危険でさえあるのに反して、あなたの『理想』はきわめて独創的であるということです。たとえば、あなたの『理想』は、一時的にもあれ、疑いもなくあなたのほど独創的でないデルガチョフ氏とその一党の思想から、あなたを守ってくれました。それから最後に、わたしは尊敬するタチヤナ・パーヴロヴナの意見には心から同意いたします。あの方とは面識がありましたが、今日までそのごりっぱなお人柄を正当に認識する機会にめぐまれずにおりました。あなたの大学入学をすすめる夫人の考えは、あなたにとってこのうえなく有益であります。学問と生活は疑いもなく、この三、四年のあいだに、あなたの思想と志向の視界をもっともっと広く開いてくれるでしょうし、それに卒業後またあなたの『理想』に向われるにしても、なにも決してその妨げになるものではありません。
さて今度はわたしに、これはもうあなたの依頼とは別に、これほど赤裸々なあなたの手記を読んでいるうちにわたしの頭と心にうかんだ考えと印象のいくつかを、率直に述べることをお許しください。そうです、あなたのような孤独な少年時代を送った者のことはたしかに注意深い目で見まもってやらなければならないとするアンドレイ・ペトローヴィチのご意見には、わたしも同意します。たしかにあなたのような身の上の青年たちは少なくありません、そして彼らの才能が常にわるいほうへ――あるいはモルチャーリン(訳注 グリボエードフの喜劇知恵の悲しみの中の人物。阿諛追従を旨とする軽薄な小才子の典型)的な阿諛追従《あゆついしよう》へ、あるいは秩序破壊のひそかな願望へ――のびていくおそれのあることは事実であります。しかしこの秩序破壊の願望は――それももっとも多くの場合――秩序と『善美』(あなたの言葉を借ります)への渇望から生れるらしいのです。若さは、それが――若さであるだけですでに清らかなものです。あるいは、こうしたあまりにも早すぎる狂気の爆発の中に、ほかならぬこの秩序への渇望とこの真理の探求が秘められているのではないでしょうか、としたら、現代のある若者たちが、どうしてそんなものを信じることができたのか理解に苦しむような、愚劣きわまる滑稽《こつけい》なものの中に、この真理とこの秩序を見出《みいだ》すからといって、いったい誰を責めることができるでしょう! ついでに言い添えておきますが、以前には、といってもそう遠いことではなく、せいぜい一世代まえのことですが、こうしたおもしろい青年たちをさして哀れむ必要もありませんでした。というのはその時代には彼らはたいていは、結局、そのうちに目がさめて巧みに文化的な上流階級に合流し、その中にすっかりとけこんでしまったからです。そして、たとえば、道へ踏みだしたばかりのころに、自分が無秩序で行きあたりばったりなことや、家庭環境というようなものに品位が欠けていることや、美しい完成された形式や伝統がないことなどを、自覚することができたとしたら、そのほうがかえってしあわせなくらいでした。というのはそのほうがむしろ自分で意識的にそれを身につけようと努力し、そしてそうすることによってそれが大切なものであることを学ぶことができたからです。ところが今はもはやいくらか事情がちがっております――というのはほかでもありません、合流しようにもその親もとになる主流がほとんどないというありさまだからです。
比較によって、あるいはいわゆる比喩《ひゆ》法によって説明しましょう。もしわたしがロシアの小説家で、しかも才能にめぐまれているとしたら、わたしは必ずロシアの伝統ある貴族階級の中からわたしの主人公たちを選んだことでしょう。というのはロシアの文化人のこのタイプにのみ、読者に美的感動をあたえるために小説に欠くことのできない、美しい秩序と美しい印象のせめてもの姿を見ることができるからです。こんなことを言って、わたしは決して冗談を言っているのではありません、といってわたし自身は――決して貴族ではありませんが、もっともこれは、あなたもご存じのとおりです。すでにプーシキンも『ロシア家庭の伝説』の中に自分の未来の小説の主題を定めています(訳注エヴゲーニイ・オネーギンの第三章の十三、四節をさす)、そして、たしかに、わがロシアの今日までの美しいものがすべてそこにふくまれているのです。少なくとも、わがロシアのいささかなりと磨《みが》きあげられたものは、すべてそこにあるのです。わたしがこんなことを言うのは、この美の正しさと真実を頭から無条件に認めているということでは、決してありません。しかしそこには、たとえば、名誉と義務の形式のようにすでに完成されているものもあります。そしてそれは貴族階級をのぞいて、ロシアのどこでも完成はおろか、はじめられてさえいないのです。わたしは冷静な人間として、そして冷静を求めている人間として、意見を述べているのです。
さて、この名誉がりっぱなものか、そしてこの義務が正しいものか――これは第二の問題です。しかしわたしにとってなにがより重要かといえば、それは形式の完成と、いかなるものにあれ秩序なのです。その秩序も、天下り式に命令されたものではなく、自分の体験から生みだされたものでなければなりません。おお、われわれロシア人にとってなによりも大切なのは、たといどんなものにもせよ、そう、自分の、まぎれもない秩序なのです! ここに希望と、いわば休息が、帰結されるのです。なんでもかまわない、とにかく、建てられたものが必要なのです。年がら年じゅうぶちこわしたり、そこらじゅうに木端《こつぱ》がとびちったり、塵《ちり》や芥《あくた》などはもうたくさんです、もう二百年もたちますが、そんなものからなにも生れはしません。
これをスラヴ主義と非難しないでください。これは――わたしがただ、胸が苦しくて、|人間ぎらい《ミザントロープ》からこんなことを言っただけなのです! 現在は、つい先ごろから、わが国では上述したこととまるで正反対の現象が生じています。もはや塵が上層の人々に付着するのではなく、その反対に、無数の塵やら芥やらが、いそいそと、美しいタイプからはなれて、破壊やねたみに明け暮れている連中にくっついてひとかたまりになっていくのです。かつての文化的な家庭の父親や祖父たちが、息子たちがまだ信じようとしているらしいものを、すでに嘲笑《あざわら》っている例が、決して一、二にとどまりません。そればかりか、彼らがいきなりどこからか大量にもちだしてきた破廉恥行為に対する思わぬ権利にすっかり嬉《うれ》しくなってしまって、その貪婪《どんらん》な喜びを息子たちにすらかくそうとしないありさまです。親愛なアルカージイ・マカーロヴィチ、わたしは真の進歩主義者たちのことを言っているのではありません、最近無数にあらわれたあのごみども、つまり『Grattez le russe et vous verrez le tartare.(ロシア人を一皮むけば韃靼人だ)』と言われているような連中のことを言っているのです。実のところ、真の自由主義者たち、真の、そして心の広い人類の友というものは、わがロシアには決してわれわれが何気なく考えるほど多くはないものです。
でもこうしたことは――哲学です。例にとった小説家のほうへもどりましょう。わが国の小説家の立場はこのような場合まったく限定されたものになってしまうでしょう。彼は歴史小説以外の形の小説を書くことができません、なぜなら美しいタイプが現在はもはや存在しないからです。仮にその名残《なご》りがわずかにのこっていたとしても、今日の支配的な観念からすれば、とても美をもちこたえることはできないでしょう。おお、歴史小説の形でこそ、今日もなおきわめて目に快い、そして心に喜びをあたえる詳細《デテール》を限りなく描出することが可能なのです! 読者が歴史画を現在もなおありうるものと思いこむほどに、魅了することさえできるのです。偉大なる才能によって描かれたこのような作品は、ロシアの文学にというよりは、むしろロシアの歴史に属するものと言えるでしょう。これは、芸術的に完成された、ロシアの幻影の絵なのですが、それが――幻影であることに気づかないあいだは、現実の絵と言えるわけです。ロシアの歴史に関連して、三代にわたる中流の知識階級の上の部に属するロシアの家庭を描いた絵巻に描かれた主人公たちの孫は――こうした父祖たちの子孫は、現代の一典型として描かれる場合は、いくらか|人間ぎらい《ミザントロープ》な、孤独な、そしてぜったいに憂鬱《ゆううつ》な人間として表現されざるをえないでしょう。また、読者が一目で敗残者だなと認め、もうこの男には活動の舞台がのこされていないと確信するような、一種の変屈者としてあらわれなければならないかもしれません(訳注 歴史小説とはトルストイの戦争と平和をさし、その子孫云々はアンナ・カレーニナをさす)。さらに先へ行けば――この人間ぎらいな孫も消え失せてしまい、新しい人々、まだ未知の新しい人々と、そして新しい幻影があらわれることになるでしょう。しかしそれはいったいどのような人々でしょうか? もし美しい人々でなかったら、将来のロシアの小説は生れることが不可能になってしまうでしょう。でも、おお! そのとき不可能になるのは小説だけでしょうか?
あまり遠くへ走ってしまうよりも、あなたの手記にもどりましょう。たとえば、ヴェルシーロフ氏の二つの家庭に目を向けてください(これから思いきった腹蔵のない意見を申しあげることを許していただきたい)。まず、アンドレイ・ペトローヴィチその人については、わたしはあまり多言を弄《ろう》しません。だが、しかし、彼は――やはり父祖たちの一人です。これは――古い名門の貴族で、同時にパリ・コンミューンの一人です。彼は真の詩人で、ロシアを愛していますが、そのかわりロシアを完全に否定もしています。彼はいっさいの宗教を信じませんが、ある漠然としたもの、明瞭に名づけることはできないが、熱烈に信じているもののためならば、命を捨てることも辞しません。この点ではロシア歴史のペテルブルグ時代における多くのヨーロッパ文明普及者の例にもれません。でも、彼自身のことはこのくらいにして、さて、彼の家族のことですが、彼の息子のことはなにも言いますまい、それにこの男はその光栄に値しません。人を見る目のある者ならば、わが国ではこのようなろくでもない男が、おまけに他人まで巻添えをくわせて、どこまで転落してゆくかは、すでに先刻見とおしのはずです。ところで彼の娘、アンナ・アンドレーエヴナですが――どうしてどうして、なかなか気性のしっかりした娘というべきでしょう。まさにあの世を騒がす大罪を犯した尼僧ミトロファニヤのスケールに匹敵する人物です――といっても、なにも刑法上の罪を予告するという意味ではありません。そのようにとられたら、それはわたしの比喩のまちがいというべきでしょう。さて、アルカージイ・マカーロヴィチ、ここで、わたしはあなたに言ってもらいたいのです、この家庭は――偶然の現象である、と。そうしたらわたしの心はどれほど救われることか。ところが、その反対で、すでに多くのこのような、まぎれもない名門のロシアの家庭が、抗しきれぬ流れに押されてぞくぞくと偶然の家庭に転化し、ともどもに全般的な無秩序と混沌《こんとん》の中に巻きこまれていく、という結論のほうがむしろ正しいのではないでしょうか。こうした偶然の家庭の典型を、あなたはその手記の中にある程度示しています。そうです、アルカージイ・マカーロヴィチ、あなたは――偶然の家庭の一員なのです、そしてあなたとはまったく異なる幼年時代と少年時代をもった、つい最近までのわが国の名門貴族のタイプとは真っ向から対立しているのです。
正直のところ、わたしは偶然の家庭から出た主人公を描く小説家になりたいとは思いません!
それは感謝されないしごとで、しかも美しい形式がありません。しかもそれらのタイプは、いずれにしても――まだ流動していて、したがって芸術的に完成されたものではありえません。重大な誤謬《ごびゆう》もありえますし、誇張や見落しも考えられます。いずれにしても、推量でおぎなわなければならぬことがあまりにも多すぎます。といって、歴史小説のみを書くことを望まず、現実に対する思慕にとらわれている作家は、いったいどうしたらいいのでしょう? 推察して、そして……誤るほかはないのです。
しかし、あなたが書かれたような、こうした『手記』は、おそらく、将来の芸術作品のために、無秩序ではあったが、すでに過ぎ去ってしまった時代を描く将来の絵のために、資料として役だつことができるでしょう。おお、この呪《のろ》われた日々が過ぎ去って、つぎの時代がきたら、そのときこそ未来の芸術家が、過ぎ去った無秩序と混沌を描くために、美しい形式を見つけだそうとするでしょう。そのときこそ、あなたが書かれたようなこうした『手記』が必要となり、資料を提供するのです――それがいかに混沌として、偶然的であろうと、真実であればよいのです……少なくとも、いくらかでも正しい様相がそこなわれずにのこっていれば、そこから、当時の混乱時代のある未成年の心の中にどのようなものがひそみえたかを、推察することができるでしょう――この発掘は決して価値のないことではありません、なぜなら未成年たちによって時代が建設されていくからです……」
[#改ページ]
あとがき
一八六七年『罪と罰』を完成すると、ドストエフスキーは第二の夫人アンナと結婚して、ヨーロッパへ旅立った。はじめは三、四カ月の予定が四年にわたる異国放浪になったが、ドストエフスキーにとっては実りの多い時期であった。この間に彼は『白痴』を書き、トルストイの『戦争と平和』に刺激されて、『無神論者』と『偉大な罪人の生涯』の構想を組み立て、さらに『悪霊《あくりよう》』の執筆に着手している。一八七一年七月、彼はパリ・コンミューンの荒れ狂うヨーロッパをあとにして、「西欧ではキリストは失われてしまっている、だから西欧は破滅するにちがいない……」と深い悲しみを抱《いだ》いて帰国した。そして彼が見たのは、トルストイの言う「何もかもひっくりかえってしまった」ロシアであった。当時のロシアは、農奴制度の廃止とともに、社会を支《ささ》えていた古い制度と道徳が急激に崩《くず》れ去り、資本主義の発達につれて、全般的な貧困化が急速に進み、新しい指導理念がないままに、国じゅうが混沌《こんとん》と無秩序の中に突き落されていた。この「化学的に分解しつつある」ロシアを最終的崩壊から救うものは何か? ドストエフスキーはこれを『未成年』にさぐろうとした。
『未成年』は一八七五年一月からネクラーソフが編集している革新系雑誌『祖国雑記』に連載された。ドストエフスキーは思想的にネクラーソフとは敵対関係にあり、作品は保守系の『ロシア報知』にしか発表されていなかったので、これは当時の文壇に大きなセンセーションをまきおこした。ドストエフスキーは「小説を書くためには、何よりもまず作者が実際に心で経験した強烈な印象の貯《たくわ》えが必要である」としているが、『未成年』の場合はパリ・コンミューン、崩壊するロシア社会、ネクラーソフとの友情の復活、ミハイロフスキーの『悪霊』評などが考えられる。進歩派の権威ある批評家ミハイロフスキーの批評は『祖国雑記』に載ったもので、当時ドストエフスキーは『市民』の編集に参加して、革新派攻撃の先頭に立っていたことを忘れてはならない。彼は『悪霊』と、その解説ともいうべき論文『古い人々』で、社会主義を信奉する急進的インテリゲンチアに、ロシア古来の「民衆の真理」、幾世代にもわたってキリスト教の基礎の上に築きあげられた「善と悪についての民衆の観念」を対置させ、ロシアの地盤から切り離されたインテリゲンチアに福音書《ふくいんしよ》の悪霊たちの運命を予言したのであるが、ミハイロフスキーは公平な態度で、ドストエフスキーの思想の豊かさをバルザックに比し、現代の最大の作家の一人であると礼讃《らいさん》し、社会主義はけっして無神論の公式ではないと説き、「民衆の真理」は実に多彩で、ときには明らかに矛盾しあうようなきわめて多様な「善と悪についての観念」を同時に含んでいることを指摘し、これらのさまざまな真理からどれをとるべきか、この「善と悪についての観念」が真の民族精神を表現するもので、これに相反する他の観念はそうではない、と確実に決定する規準はどこにあるのか、これがもっとも重大な基本的問題だと論断した。「あなたは……現代のもっとも興味ある特徴的な面をとらえた。もしあなたが〈神〉という言葉をもてあそばずに、あなたが泥を塗りつけた社会主義にもっと目を注いだなら、社会主義がロシア民衆の真理の少なくとも若干の要素と合致することを認めたにちがいないのである」と述べ、さらに結語の形で、つぎのようにドストエフスキーに呼びかけた。「あなたが愚かな狂気じみた市民どもと民衆の真理に取組んでいる間に、その肝心な民衆の真理そのものに、分別ある、狂憤しない、平和なおだやかな市民たちが、隼《はやぶさ》のように飛集して、猛禽《もうきん》の残忍さでそれをずたずたに引裂いてしまうでしょう。……ごらんなさい! ロシア、あなたの描く狂気に憑《つ》かれた病めるロシアは、鉄道網にとりまかれ、いたるところに工場や銀行をもっているのです。それなのにあなたの小説には、こうした世界がまったく影をおとしていない! あなたは自分の注意をひとにぎりの狂人や役立たずどもに集中している。あなたの小説には国の富の悪霊がいない。もっとも広くちらばっている、そして誰よりも善悪の境を知らぬ悪霊がいない。……彼らのほうがあなたの好みの主人公たちよりもずっと狡猾《こうかつ》であろう。あなたがとらえたのはそういう悪霊ではなかった。……実際に悔悟しない罪人《つみびと》どもを描きなさい、自分だけの……富のための富の狂信者どもを描きなさい……」このミハイロフスキーの社会主義と無神論の見解と、結語に示された助言は、ドストエフスキーにとって発見であり、現実に目を向けさせることになった。
ネクラーソフは偉大な詩人であると同時に、強欲な利己的な人間として、その人格が同時代人たちの目に複雑なものとして映っていた。それは彼の心の奥にひそむ富への渇望のせいで、ドストエフスキーははじめてネクラーソフと知り合ったころ、すでにそれを見ぬいていたが、そのことで強烈に彼の心に焼きついているひとつの思い出があった。「これはその時すぐにわたしに感じられたのだが、人生のそもそものはじめにおいて傷つけられた心で、この傷は終生|癒《い》えることがなかった。……彼はそのとき自分の幼年時代のことを、醜悪な生活のことを、苦しめぬかれた母のことを、涙ながらにわたしに語った」とドストエフスキーは回想している。富の力によって人々との間に垣《かき》をつくり、暗い陰気な孤独の中にとじこもること――これがあたたかい休み場所もない暗い悲しい幼少年時代によって傷つけられ、毒された、臆病《おくびよう》な、しかし誇り高い若い魂が、人生にあたえた解答だった。しかしこれは人間不信ではない。あまりにも早く若い魂に影をおとした懐疑心である。ドストエフスキーはアルカージイを通じてネクラーソフの心の奥にひそむものを同時代人たちに語りかけようとしたのである。
一八四〇年代末から五〇年代のはじめにかけて、ゲルツェンは西欧ブルジョア・デモクラシーに深く絶望し、ペシミズムと懐疑主義に陥り、人類の未来に果すロシア民族の歴史的使命を認めたことがあった。ロシア人には心理の無垢《むく》と魂の広い包容力があり、西欧のすべての思想を総括するという思想である。ドストエフスキーはパリ・コンミューンで同じ幻滅を経験し、ヴェルシーロフにこの思想をもたせた。しかし彼はこの偉大な思想を信奉するだけで、この思想の真の体現者は巡礼マカール老人である。このロシア民衆の真理の象徴が出現して、七カ月にわたるドストエフスキーの主題と形象の熱病的な探究は、ようやく終着駅に達するのである。「小説の全要素。文化人、ペシミスト、無為、懐疑家、高度の知識人――ヴェルシーロフ。昔の聖なるロシア――マカール老人と妻。新しいロシアの聖なるよきもの――伯母たち。堕落貴族――若い公爵。若い世代、未成年――善悪に対する本能をもつだけで、何も知らない。ワーシン――出口のない理想家。ラムベルト――肉、膿《うみ》、恐怖」とドストエフスキーは記《しる》している。
「これは自分のために書かれた偉大な罪人《つみびと》の告白。未成年がどのように世の中に出たかについての叙事詩になるはずで、彼の探究、希望、失望、悲嘆、更生、思想のものがたりだ」とされているように、この小説は未成年アルカージイの手記の形をとっている。ヴェルシーロフは地主で、妻の死後、屋敷の家僕マカール・ドルゴルーキーからその妻ソーフィヤをゆずり受け、その間にアルカージイが生れる。当時ロシアでは離婚が許されなかったので、アルカージイはドルゴルーキーの姓で里子に出される。中学校を卒業するまでに母に二度、父に一度しか会わないが、その思い出を語るところは実に美しい場面である。彼は自尊心が強く、出生に対する屈辱感からロスチャイルドの理想を抱《いだ》くようになる。中学卒業後、彼は謎《なぞ》に包まれた父の過去をさぐり、父を裁《さば》く決意を秘めてペテルブルグに行く。彼は富豪の老公爵の秘書となり、老公爵一家がエムス滞在中に起った奇怪な事件、老公爵の娘アフマーコワ将軍夫人、その義理の娘、父、セルゲイ公爵をめぐる恋愛事件、その義理の娘に対する父の求婚、彼女の出産と自殺などの事実をおぼろげに知り、父に絶望すると同時に母のために激しい怒りを感じる。しかし彼の心を見ぬく父の烱眼《けいがん》に驚嘆し、しだいにその思想の深さにふれて、父に惹《ひ》かれてゆく。そして彼が手に入れた遺産相続に関する父に不利な故人の希望を記した手紙を見て、父がせっかく裁判で勝った権利を敢然と放棄してからは、彼はすっかり父に心服してしまう。
アルカージイはこの手記を九月十九日から始めるとことわっているが、これは彼がはじめてアフマーコワに出会った日である。彼は父の敵として彼女を憎悪《ぞうお》しているが、彼女の美貌《びぼう》に打たれてはげしく愛するようになる。彼は彼女の運命を左右する重要な手紙を所持していて、それを武器に彼女を征服しようという野心を抱く。彼はこの日を境にして、理想を一時わきへ押しやり、老公爵の財産を狙《ねら》う上流社会の醜悪な陰謀にまきこまれ、飲酒や賭博《とばく》や社会悪の泥沼の中へのめりこんでゆく。父も彼も分裂する自我に苦悩する。彼の誇り高い魂は、つぎつぎと彼のまえに明らかになる腐敗した醜い人間関係に深く傷つけられ、ついに病床に臥《ふ》す身となる。そして巡礼のマカール老人に会い、その美しい心に深く打たれて、更生の道を見いだす。ヴェルシーロフはマカール老人の死に臨んで、ソーフィヤを正式の妻とすることを誓うが、アフマーコワに対する宿命的な情熱はまだ消えていない。彼は狂気の発作に駆られ、アフマーコワを射殺し、自分も死のうとするが、アルカージイに妨げられて自分だけ傷つく。そして「聖なるロシア」の象徴であるソーフィヤのもとへかえり、ようやく真の平穏にたどりつく。
ヴェルシーロフは高度の知識人で、ロシア民族の未来についての高い思想をもっているが、しかし最後まで無為の人としてとどまる。デルガチョフ派の革命家で、冷静な理知の人ワーシンは、出口のない理想家、つまり生きた生活から切り離されている。ただ一人巡礼マカール老人にのみ救いの道がある。ヴェルシーロフと百姓女の間に生れ、一面では上流社会の背徳性をもち、他面では素朴な民衆の無垢《むく》な魂をもつ未成年アルカージイが、泥にまみれながらも、苦しい探究の末に、マカール老人に「善美」の泉を発見する。ドストエフスキーがこの作品で取組んだのは混沌と無秩序のロシア社会であり、それを「偶然の家庭」という言葉に集約したのである。そしてこの混沌の中を生きぬく未成年、貴族と百姓の混血のアルカージイたちが、ロシアの美しい未来をつくるであろうと望んだのである。
この小説の内容は混沌とした現実そのものであり、手法も従来の方法と異なる新しい方法がとられている。主人公は形成されつつある未来の人間として、常にその形成過程において明らかになってくる。しかし中心イデーは、つまり中心的な人物たちは、未成年の目や耳を通じて部分的に明らかにされていくだけで、最後まで謎のまま放置される。これがこの小説の基礎におかれている異常な複雑な構成原理である。つまり、主人公の心理を論理的な時間と因果の関係において、整然と完全に解明してゆくという、『罪と罰』でみごとに結実させた手法は放棄されて、中心イデーを読者の目からかくしたまま、解明を未来にもちこされたばらばらな緊迫した場面が、ダイナミックに、熱病的に、幻想的に連続する。ここから物語の異常な高潮が生れる。ドストエフスキーは、彼の言う生活の生きた流れを描出するために、従来の文学の法則を破った新しい手法を発見しなければならなかったのである。未成年が綴《つづ》った異常時代の自分の魂の遍歴というところに、この小説の新しさがあると言えよう。
[#地付き]工藤精一郎
この作品は昭和四十三年七月〈新潮世界文学〉第十四巻『ドストエフスキーX』として新潮社より刊行され、昭和四十四年五月新潮文庫版上巻、同年六月同下巻が刊行された。