未成年(上)
ドストエフスキー/工藤精一郎訳
目 次
第一部
第二部
第一章〜第六章
[#改ページ]
第一部
第一章
わたしは自分を抑《おさ》えきれなくなって、人生の舞台にのりだした当時のこの記録を書くことにした。しかし、こんなことはしないですむことなのである。ただ一つはっきり言えるのは、たとい百歳まで生きのびることがあっても、もうこれきり二度と自伝を書くようなことはあるまいということである。実際、はた目にみっともないほど自分にほれこんでいなければ、恥ずかしくて自分のことなど書けるものではない。ただ一つ自分を許せるとすれば、みんなが書くような理由から、つまり読者から賞讚《しようさん》をえたいために、書くのではないということである。もしわたしが急に、去年からわたしの身辺に起ったことを逐一書き記《しる》そうと思いたったとしたら、それはわたしの内的要求の結果なのである。それほどわたしはそれらのできごとにはげしく胸をゆさぶられたのである。わたしはつとめていっさいのよけいなもの、特に文学的な潤色《じゆんしよく》を避けて、事件だけを記述しようと思う。文学者というものは三十年も書いてきて、結局は、それほどの年月をなんのために書いていたのか、自分でもまったくわからないものだ。わたしは――文学者ではないし、文学者になりたいとも思わない。また自分の魂の内部ともろもろの感情の美しい描写を文学市場へもちだすことを、わたしは無作法な卑しいことだと思うのである。とはいえ、いまいましいことだが、まったく感情の描写や思索(おそらく、俗悪なそれさえも)をぬきにしてしまうわけにもいかないらしい。およそ文学のしごとというものは、たといただひたすら自分だけのために書かれたものであっても、実にろくでもない作用を人にあたえるものなのだ。思索だってきわめて俗悪なものにさえなりかねない、というのは、自分ではいいと思っても、他人の目から見ればなんの価値もないという場合が、大いにありうるからである。しかしこんなことわりはよそう。ともあれ、これが序文である。もう、こうした類《たぐ》いの言い訳はすまい。さて、しごとにかかることにする。もっとも、なにかのしごとに――おそらくは、どんなしごとにでも、とりかかるということほどむずかしいことはないのだが。
わたしはこの記録を去年の九月十九日から書きおこすことにする、いや、そうしたいと望んでいる。それはちょうどわたしが、はじめてめぐり会った日なのである……
しかし、わたしが誰に会ったのか、そう早々と、まだ誰もなにも知らない先から、説明することは、平凡であろうと思う。こんなことを言うことさえ、わたしには平凡に思われる。文学的な修飾を避けると自分に約束しておきながら、わたしは書出しからもうこの修飾におちこんでいる。それに、筋をとおして書くためには、その気ばかりでは足りないらしい。またこれもわたしの意見だが、ロシア語でものを書くのは、どのヨーロッパの言葉で書くよりも、厄介なことらしい。わたしはいま書いたことを読みかえしてみて、書かれたことよりも自分のほうがはるかに利口だと思う。利口な人間が言ったことが、その人間の中にのこっているものよりも、ずっと愚かだなどと、いったいどうしてそういうことになるのか? わたしはこの宿命的な一年のあいだに、自分にも、また人々との言葉のうえの関係にも、その事実をたびたび認めて、大いに苦しんだのである。
わたしは九月十九日から書きおこすことにはするが、やはり、わたしが何者で、それまでどこにいたか、したがって、九月十九日のその朝わたしの頭の中には、たといわずかでも、どのような考えがありえたかということを、二言三言さしはさみたいと思う。そのほうが読者にも、あるいはわたし自身にさえも、わかりやすかろうと思うからである。
わたしは――中学校を終えた男で、もう二十一になろうとしている。わたしの姓はドルゴルーキー、戸籍上の父は――マカール・イワーノヴィチ・ドルゴルーキーといって、もとヴェルシーロフ家の家僕をしていた男である。こういうわけで、わたしはまちがいなく私生子であり、わたしの出生についてはいささかの疑いもないにもかかわらず、法律上はりっぱな嫡子になっているのである。それはこういうわけである。二十二年前、地主のヴェルシーロフが(これがわたしの実の父である)、二十五歳のときに、トゥーラ県にある自分の領地を訪れた。わたしの想像では、その当時は彼はまだこれといって個性のない平凡な男だったにちがいない。おもしろいことだが、幼少のころからあれほどわたしをおどろかせ、わたしの精神形成にあれほど大きな影響をあたえ、あるいは今後も長く消えぬ影をわたしの未来におとしたにちがいないこの人物が、きわめて多くの点において、いまだにわたしには完全な謎《なぞ》となってのこっているのである。だが、それはあとにしよう。こんなふうに語るべきものではない。そうでなくたって、わたしのこの手記はこの人物で充《み》たされるはずなのである。
彼はちょうどそのころ、つまり二十五歳のときに妻を亡《な》くした。彼の妻は上流社会の出ではあるが、あまり裕福ではないファナリオートワという女で、彼に一男一女をのこした。こんなに早く彼をのこして世を去ったこの妻については、わたしが集めた資料はかなり不完全であるし、他の資料の中にまぎれこんでしまっている。それにヴェルシーロフの生活の私的な面は、わたしの観察からもれてしまっていることが多い。というのはわたしに対してはいつも、彼は実に傲慢《ごうまん》で、尊大で、閉鎖的で、ぞんざいだったからである。もっとも、どうかすると、気味わるいほどやさしくしてくれたこともあったが。ところで、話をわかりやすくするために言っておくが、彼は生涯に三つの財産をつぶしたのである、しかもいずれもかなり大きな財産で、全部で四十万か、あるいはそれを越える額である。いまは、もちろん、一文もないが……
彼がそのとき村へやってきたのは、『なんのためか神のみぞ知る』であった。少なくともあとで彼自身がこういう表現をつかってわたしに語ったのである。小さな子供たちは、いつものことで、彼のそばにはいないで、親戚《しんせき》にあずけられていた。彼は子供たちに対しては、嫡子と私生子とを問わず、一生のあいだこの態度をおしとおしたのである。この屋敷には僕婢《ぼくひ》たちがかなり大勢いて、庭師のマカール・イワーノヴィチ・ドルゴルーキーもその一人だった。ここで、もうこれっきりでふれずにすませるために、一言はさんでおくが、わたしほど、一生のあいだ自分の姓を呪《のろ》わしく思った者は、おそらく誰もあるまい。これは、もちろん、愚かしいことではあったが、しかし事実なのである。学校へ入るとか、わたしの年齢で、敬わなければならないような人々に会うとかすると、つまり学校の先生、家庭教師、生徒監、神父――誰にしても同じことだが、わたしの姓を聞いて、ドルゴルーキーだと知ると、どういうわけか必ずこうつけくわえなければならないと思うらしいのである。
「ドルゴルーキー公爵《こうしやく》かね?」
そしてそのたびに、わたしはそうした閑人《ひまじん》にこう説明してやらなければならなかった。
「いいえ、ただのドルゴルーキーです」
このただのがしまいにはわたしを気が狂いそうにした。ここで、一つの珍奇な現象として、ことわっておくが、わたしは一人の例外も思い出せないのである。みながみな判で押したようにこう訊《き》いたのである。中には、一見して、そんなことを訊く必要がぜんぜんないような人々もいた。それに実際の話が、誰にせよ、いったいなんのためにそんなことを訊かなければならないのだろう? ところが、みんな、一人の例外もなく、それを訊いた。そして、わたしがただのドルゴルーキーだと知ると、訊いた男は、これまた決って、なぜそんなことを訊いたのか自分でもわからないような、愚かしい、冷たい目でじろじろわたしを見まわして、ぷいと向うへ行ってしまうのだ。
小学校の仲間の生徒たちの訊き方がもっとも屈辱的だった。小学生は新しく転校してきた生徒にどんな訊き方をするだろう? たといそれがどんな学校でも、学校へ入ったはじめての日にとまどってまごまごしている新入生は、みんなのいい餌食《えじき》である。よってたかって命令し、からかい、下男みたいにとりあつかう。見るからに強そうなふとったがき大将が、いきなり獲物のまえに立ちはだかって、威張りくさったいかつい目つきで、ややしばらくじろりじろりと相手をにらみまわす。新入生はそのまえに黙って突っ立って、臆病者《おくびようもの》でなければ横目で相手をにらみかえしながら、なにか起るだろうと覚悟する。
「きみの名前は?」
「ドルゴルーキー」
「公爵のドルゴルーキーかい?」
「いや、ただのドルゴルーキーです」
「なに、ただの! このバカめ!」
たしかにそのとおりだ。公爵でもないくせに、ドルゴルーキーを名乗るほど愚かしいことはない。この愚かしさをわたしは罪もなくひきずって歩かなければならぬのだ。そのうちに、わたしはもうこんなことが腹だたしくてたまらなくなった。
「きみは公爵かい?」
すると、わたしはいつもこう答えたものだ。
「いや、ぼくは――農奴あがりの下男の息子だ」
その後、わたしがもう怒り心頭に発してからは、きみは公爵かね? という問いに対して、一度きっぱりとこう言いきったことがあった。
「いや、ただのドルゴルーキー、もとの主人ヴェルシーロフ氏の私生子だ」
わたしがこんなことを言う気になったのは、まだ中学校の六年生のときであった、そしてその後まもなく、ばかなことだとはっきり気がついたが、それでもすぐにはやめられなかった。おぼえているが、教師の一人が――しかし、彼一人だけだったが――わたしを『復讐《ふくしゆう》的な自由思想に充ちている』と評した。ぜんたいとして、人々はわたしのこの言動を、なにかわたしを蔑《さげす》むような仔細《しさい》ありげなようすで受取るのだった。とうとう、学生仲間の一人で、ひどい毒舌を弄《ろう》する男が、わたしはこの男とは一年に一度しか口をきいたことがないのだが、深刻な顔をして、そのくせ目をそらしながら、わたしに言った。
「そうした気持は、むろん、きみの人格の高潔を証するものだし、きみに誇るべきものがあることは、疑いのないところだが、しかしぼくがきみの立場だったら、やっぱり私生子であることをそれほど得意になって祝いはしないだろうな……きみはまるでそれが嬉《うれ》しくてたまらんようじゃないか!」
そのときからわたしは、私生子であることを誇るのをやめた。
くりかえして言うが、ロシア語で書くことは実にむずかしい。わたしはいまこうしてまるまる三ぺージもついやして、わたしが生涯どれほど自分の姓をいまいましく思ったかということを書いてきたが、しかし読者はきっと、わたしがいまいましく思うのは、わたしが公爵でなく、ただのドルゴルーキーであるからだ、と読みとったにちがいないのである。もう一度説明し、釈明することは、わたしにとっては屈辱であろう。
さて、マカール・イワーノヴィチのほかにも大勢いたこの屋敷の僕婢たちの中に、一人十八になる娘がいたが、五十になるマカールが突然その娘と結婚したいと言いだしたのである。僕婢たちの結婚は、周知のように、農奴制度の時代には地主の許可を得ておこなわれたし、ときには頭から地主の命令によっておこなわれることもあった。そのころこの屋敷に伯母さんが住んでいた、といって別にわたしの伯母ではなく、ちゃんとした女地主なのである。それが、どういうわけか知らないが、みんなが生涯彼女を伯母さんと呼びならわして、わたしの伯母であるばかりか、ヴェルシーロフ家の人々ぜんたいの伯母のように思われていたが、実際にはほとんど血のつながりはなかったのである。これは――タチヤナ・パーヴロヴナ・プルトコーワという婦人で、そのころはまだ同じ県の同じ郡内に三十五人の農奴を所有していた。彼女はヴェルシーロフの領地(農奴が五百人もいる大きな領地だった)を管理していたというわけではないが、領地がとなりあっているので見てやっていた、そしてその監督ぶりが、わたしの聞いたところでは、学識ある管理人の監督にも負けないほどだったそうである。しかし、彼女の知識がどれほど豊かであろうと、わたしにはまったく関係がない。わたしはただ、お世辞や追従《ついしよう》をいっさいぬきにして、このタチヤナ・パーヴロヴナが――心の床しい、しかも風変りな婦人であるということを、一言つけくわえておきたい。
ところで、この婦人が陰気なマカール・ドルゴルーキー(そのころの彼は陰気くさい男だったそうである)の結婚の希望をしりぞけなかったばかりか、かえって、どういうわけかひどく乗り気になって大いに彼をはげました。ソーフィヤ・アンドレーエヴナ(その十八歳になる召使、つまりわたしの母になるわけだが)は、もう何年かまえから身寄りのない一人ぼっちの娘だった。亡くなった彼女の父は、やはりこの屋敷の家僕で、マカール・ドルゴルーキーになにか恩を受けたことがあるらしく、彼をひどく尊敬していて、六年前に臨終の床で、人の話では息を引取るわずか十五分前のことだから、それに、それでなくても農奴で、権利のない人間なのだし、なんならうわごとでかたづけてしまってもかまわないのだそうだが、枕辺《まくらべ》にマカール・ドルゴルーキーを呼んで、僕婢たち一同と神父が見まもるまえで、娘を指さしながら、『これを育てて、あんたの嫁にしてくれ』と、はっきりと彼に言ったそうである。それはみんなが聞いていた。マカール・ドルゴルーキーはといえば、あとでどんなつもりで結婚したのか、つまりひじょうに満足であったのか、それともただ遺言を果しただけなのか、そのへんのところはわからない。おそらくは、完全な平静をたもっていたことであろう。彼はそういう男で、そのころももう『自分を示す』ことを知っていたのである。彼は本をたくさん読んでいるとか、物識《ものし》りとかいうのでもないし(もっとも、彼は教会の祈祷《きとう》をぜんぶ知っていたし、特に聖者たちの生涯に詳しかったが、たいていは耳から入った知識だった)、また、いわゆる屋敷づとめの理屈屋といった類《たぐ》いでもなかった。彼はただ頑固《がんこ》な性格で、どうかすると思いきったこともするような不敵なところもあった。自信のあるものの言い方をして、決して二枚舌をつかわず、要するに、『人に敬われるような生活』をしていた――あきれたことにこれが彼自身の表現なのである。当時の彼はこういう人間であった。むろん、みんなから尊敬はされていたが、同時に毛ぎらいされていたそうである。彼が屋敷を出てからは、別で、その後は彼の話がでると、必ず、聖者のような人で、多くの苦難を堪《た》えぬいたものだというふうに噂《うわさ》された。それはわたしがよく知っている。
わたしの母についていえば、モスクワへ修業に出したらという家令の執拗《しつよう》な提言をしりぞけて、タチヤナ・パーヴロヴナが十八の年齢まで自分の手もとにおいて、ある種の教育をあたえた、つまり裁縫や、娘らしい行儀作法をしこみ、読み方もすこしばかり教えたのだった。書くほうはわたしの母はぜんぜんだめだった。彼女の目から見ると、このマカール・イワーノヴィチとの結婚はもうとうから決っていたことで、そのときのことすべてを、彼女はこのうえなくすばらしいことだと思っていた。結婚|衣裳《いしよう》をまとって式場へおもむいたときなど、こんな場合にしかできないような、なんともしおらしい態度で、当のタチヤナ・パーヴロヴナまでがそのときの彼女を魚のような女だと言ったほどだった。これはみなそのころの母についてわたしが当のタチヤナ・パーヴロヴナから聞いたことである。ヴェルシーロフが村へ来たのは、この結婚式があってからちょうど半年後のことである。
わたしが言っておきたいのは、どのようなきっかけから彼とわたしの母の関係がはじまったのか、どうしても知ることができなかったし、得心のゆく推測もできなかった、ということだけである。わたしとしては、去年彼がそのいきさつをすっかり語ってくれたが、それを信じるほかはない。彼はごく自然な、『軽妙|洒脱《しやだつ》』な調子で語っていながら、そのくせ顔を赤らめて、ロマンスなどはこれっぽっちもなかったし、ただなんとなくそういうことになったのだ、と強調したのである。わたしは、そうであろうと信じている、それにしてもこのなんとなくというロシアの言葉は――実にすてきである。しかし、わたしはやはり常々、二人のあいだの関係がいったいどういうことから生れえたのか、知りたいとねがっていた。ところがわたし自身、こうした醜悪なことを憎んできたし、これからも死ぬまで憎みつづけるつもりだから、もちろん、こんなことを詮索《せんさく》するのも、わたしとしては決して単なる恥知らずな好奇心だけではないのである。ことわっておくが、わたしの母をわたしは、去年までずっと、ほとんど知らなかったのである。わたしは赤んぼうのころから、ヴェルシーロフの安楽《コンフオート》のために、里子に出されていた。これについては、しかし、あとで述べることにする。だからわたしは、そのころの母がどんな顔をしていたか、どうしても想像することができないのである。もし彼女が決してそれほど美しいとはいえない女であったとしたら、当時のヴェルシーロフのような男がいったい彼女のどこに惹《ひ》きつけられたのか? この問題がわたしにとって重大なのは、そこからこの男のきわめて興味ある側面がうかがわれるからである。ほかならぬこのためにわたしは詮索するのであって、決してげびた興味からではないのだ。この男が自分で、この陰気な閉鎖的な男、必要と見てとると、いったいどこから出てくるのか(まるでポケットからでもとりだすみたいに)、急にやさしい純真さをあらわすこの男――その彼が自分で、あのころはまったく『ばかな若い犬ころ』で、センチメンタルというのでもないが、ただなんとなく、『不幸者《ふしあわせもの》アントン』(訳注 D・V・グリゴローヴィチの小説(一八四七)。当時の進歩的知識人たちに大きな感動をあたえ、農民の苦しい生活に注意を向けさせた)と『ポーリンカ・サックス』(訳注 A・V・ドルジーニンの小説(一八四七)。ジョルジュ・サンドの人道主義的思想に貫かれており、婦人の自由尊重への呼びかけとして受取られた)――これは二つとも、当時のわが国の若い世代に限りない啓蒙《けいもう》的影響をあたえた文学作品であるが――を読んだばかりだったので、とわたしに語ったのである。『不幸者アントン』を読んだせいで、あのとき村へ帰ったのかもしれない、と彼は言い足した――それも極度にまじめな顔で言ったのである。いったいどのような形でこの『ばかな犬ころ』とわたしの母の関係がはじまったのだろう? わたしはここでふと考えたのだが、わたしのこの手記を読んでいる読者が一人でもいたら、きっと腹をかかえて大笑いするにちがいない、そして愚かしい童貞をまもっているくせに、考えもおよばない世界を考察し、決定しようと頭を痛めている滑稽《こつけい》きわまる未成年者と、わたしをとるにちがいない。そう、たしかに、わたしはまだ知らない。とはいえこんなことを告白するのは、決して誇りからではない。なぜなら、二十歳《はたち》にもなったのっぽがまだ未経験だなんて、どれほどばからしいことか、よく知っているからである。ただわたしはその読者にむかって、あなただって知ってはいないのだ、それをいま証明してあげよう、と言うだけである。たしかに、わたしは女というものをまったく知らない、それに知りたいとも思わない、というのは生涯女なんてものには唾《つば》を吐きかけてやるつもりだし、そう自分に約束したからだ。とはいえわたしは、これは確実に知っている、それはつまり、女には、ここぞと思う瞬間にその美貌《びぼう》か、さもなくば自分がちゃんと心得ているなんらかの武器で、男を誘惑するような女もあるし、また半年もしゃぶってみなければ、どういうものをもっているのかわからないような女もある、ということだ。こんな女をよくよく見きわめて、惚《ほ》れこむには、ただ眺《なが》めるだけではだめだし、なにが出てもおそれぬぞという覚悟だけでもだめで、それに加えてさらに、天賦《てんぷ》の才というか、そういうものが必要なのである。わたしはなにも知らないが、これだけは確信している、そしてもしそれがちがうようなら、思いきってすべての女をただの家畜の位置まで引下げてしまって、ただそういう形で自分のそばに飼っておくほかはあるまい。案外、それをほとんどの男たちが望んでいるのかもしれない。
わたしはどこかにあるというそのころの母の肖像画を見てはいないが、しかし何人かの人から聞いて、母が美人でなかったというのは、まちがいのないことだと思っている。一目で彼女に惚れるなどとは、だから、考えられぬことだ。ただの『慰み』のためならヴェルシーロフはほかの女を選べたわけだし、しかも屋敷には、まだ未婚の、アンフィサ・コンスタンチーノヴナ・サポージニコワという草刈りの女がいた。しかも『不幸者アントン』を読んで帰ってきたような男にとって、たとい相手が自分の家の僕婢であろうと、地主の権利をかさにきて、その結婚の神聖さを破壊するということが、自分に対してどれほど恥ずかしいことであったろう。現に、くりかえして言うが、この『不幸者アントン』について彼はつい数カ月まえに、つまりそのころから二十年もしてから、極度にまじめな顔で語ったのである。それがアントンは馬をうばわれただけだが、こちらは妻をうばわれたのだ! ということは、つまりなにか特別の事情が起きたのだ、そしてそのために、マドモアゼル・サポージニコワが負けたのだ(わたしに言わせれば、勝ったことになるのだが)。わたしは去年、彼と話ができそうなときを見はからって(というのは、いつも彼と話ができるとはかぎらないからだ)、一、二度彼をつかまえてこうしたいろんな問題を訊《き》いてみた、そして気づいたのだが、あれほど社交ずれしているし、それにもう二十年もまえのことだというのに、どういうものかひどくしぶい顔をしたのである。だが、わたしは引退《ひきさが》らなかった。そしてあるとき、彼が何度かわたしに対してとったことのある、あの上流社会の紳士らしいいかにも気むずかしげな顔をして、忘れもしないが、なにかうしろめたそうに、ぼそぼそとこんなことを言ったのである。わたしの母はどことなく頼りなげに見えるような女で、愛したくなるというのではないが――それどころか、まるきり反対で――ところが、どういうものか、急にかわいそうでたまらなくなる、いじらしいせいか、しかし、どうしてか?――それは誰にも決してわからないが、とにかくかわいそうに、かわいそうに、と思っているうちに、いつのまにか惹きつけられてしまう……『要するに、おまえ、ときにはこうして離れられなくなってしまうことがあるのだよ』こう彼はわたしに語ったのである。そしてこれが事実であったとすれば、彼が自分であのころの自分を評して言ったばかな若造などというふうには、わたしは彼を考えることができなくなる。これがわたしには必要だったのである。
とはいえ、彼はそのとき、わたしの母が彼を愛するようになったのは『虐《しいた》げられた境遇』のせいだなどと説いた。そのうえさらに、農奴制のせいだなどと言いだした。粋《いき》にみせるためにうそをついたのだ、良心にそむいて、正直な高潔な心にそむいて、うそをついたのだ!
こうしたすべてのことを、むろん、わたしは母を讚美するために言ったように見えるが、しかもまえにも言ったように、そのころの母については、わたしはなにも知っていないのである。そればかりかわたしは、母が子供のころからその中で荒《すさ》みきり、そしてその後生涯のあいだ脱けだすことのできなかった、その環境とみじめな観念のどうにもならぬ壁の厚さを知りぬいているのである。いずれにしても、不幸が起きてしまったのだ。ついでに、訂正しておかねばならぬが、わたしは遠くへ飛躍しすぎてしまって、なによりもまず最初に出さなければならない事実を忘れていた。それはほかでもない、二人の関係がいきなり不幸からはじまったということだ(わたしは、わたしが言おうとしていることをすぐにつかみえないほどに、読者の頭が混乱しているとは思いたくない)。一口に言えば、マドモアゼル・サポージニコワは避けて通られたとはいえ、二人の関係はまちがいなく地主的な手口ではじめられたのである。だがここでわたしは一言さしはさんで、あらかじめことわっておきたいが、わたしの言うことはぜんぜん矛盾してはいない。なぜなら、そのころヴェルシーロフのような男が、わたしの母のような女と、たといはげしい愛にとらわれていたにせよ、なにを、いったいなにを話すことができたろう? わたしは女たらしの連中から聞かされたが、男と女ができあうときは、ものも言わずにいきなりそうなることが多いそうだ。まったく奇怪きわまる吐き気のするような話だ。ともあれヴェルシーロフは、たとい望まなかったにせよ、わたしの母とはそういうはじめ方しかできなかったろう。まさか彼女をつかまえてまず『ポーリンカ・サックス』の講釈からはじめるわけにもいくまい! それに彼女らときたら、ロシア文学の話などまるで馬の耳に念仏だ。それどころか、彼の言葉によると(彼はあるときどうした風の吹きまわしか、べらべらしゃべったのだ)、彼女らは角々《かどかど》にかくれたり、階段のところで待ち受けたりして、誰か通ると、真っ赤な顔をして、マリみたいにとびついたりしたそうで、『暴君の地主』などはその農奴制の権利にもかかわらず、下女の果てにまでびくびくものだったそうである。ところが、地主的な手口ではじめられたとはいえ、出てきた結果は、はじめの思惑《おもわく》とはちがって、こういうことになってしまったのだが、しかし、実のところ、やはりわたしにはなんとも説明がつかないのだ。いっそ闇《やみ》のほうが多いのだ。彼らの愛が進展した度合ひとつにしてが、謎なのだ、というのはヴェルシーロフのような男のまず第一にとる条件は――それは目的を達したら、たちどころに捨てることだ。ところが、そういうことにはならなかった。かわいらしい屋敷づとめの尻軽女をつまみ食いすることは(だが、わたしの母は尻軽女ではなかった)、淫蕩《いんとう》な『若い犬ころ』にとって(彼らはみな淫蕩なのだ、進歩派も、保守派も――一人のこらず淫蕩なのだ)――単に可能であるばかりでなく、特に妻を亡《な》くした若い地主という彼のロマンチックな境遇と、なすこともなく暇と体をもてあましている身分を考えれば、どうしたって避けられないことなのだ。といって生涯愛するということも――それもあんまりだ。彼がわたしの母を愛したかどうか、それはなんとも言えないが、生涯わたしの母をしょいこんだこと――これはたしかである。
わたしは問題をやたらに並べたが、一つだけまだ出していない重大な問題がある。実を言うと、去年あれほど親しく母の身近かにいたのに、しかもみんなが自分に対して罪があるのだと考えているような、粗暴な恩知らずな犬ッころで、母に対してまるで遠慮なんかしなかったのに、それでもやはりこの問題だけはまともに母にぶっつけられなかったのである。それはこういう問題である。どうして彼女が、もう半年も結婚生活をして、そのうえ、結婚の神聖という観念におさえつけられ、無力な蠅《はえ》みたいに、完全におしつぶされて、良人《おつと》のマカール・イワーノヴィチをへたな神よりも尊敬していたような女が、わずか二週間かそこらのあいだに、どうしてこのような罪を犯すまでになりえたのか? だってわたしの母は淫蕩な女ではなかったではないか? それどころか、ここで先走りして言っておくが、母ほどの清らかな心は、そしてそれは生涯変ることがなかったのだが、想像することもむずかしいほどである。ただひとつ説明ができるとすれば、彼女がわれを忘れてやったということだけだ。といっても、近頃の弁護士が殺人犯や強盗の弁護に言うような意味ではなく、あまりにも強烈な印象を受けたために、その素朴な心の抵抗を越えて、宿命的に、悲劇的にそのとりこにされてしまったということである。なんとも言えないが、もしかしたら、母は死ぬほど彼を愛してしまったのではなかろうか……彼の粋《いき》な仕立ての服、パリ風の髪の分け方、彼のフランス語の発音、彼女には一言もわからなかったフランス語そのもの、彼がピアノをひきながらうたったロマンス、こうしたいままで見たことも聞いたこともなかったものに心をうばわれて(そのころの彼はひじょうな美男子だったのである)、そしてもう夢中で、身も心もくたくたになるほど、服もロマンスもふくめて彼のすべてを愛してしまったのかもしれない。農奴制の時代に屋敷づとめの娘たちにはよくこういうことがあったし、それも心の美しい娘ほどそれが多かった、とわたしは聞いたことがある。わたしにはそれがわかるような気がするし、それを単に農奴制と『虐げられた境遇』だけで説明しようとするなどとは、卑劣きわまる男である! さて、こういうわけで、この若い男は、それまでまったく純真であった女を、しかも、かんじんなことは、自分とまったく世界を異にする女を、明らかな破滅にむかうとわかっていながら、惹きつけるだけのもっとも直接的な魅力をもっていたわけである。それが破滅だということ――それは母も、生涯わかっていたらしい。ただ愛につきすすんだときは、破滅ということはちっとも考えなかったようだ。しかしこれは『頼りない』女たちには常にあることで、破滅と知りながらも、ずるずるとひきずられてゆくのである。
あやまちを犯すと、二人はたちまち後悔した。彼が言葉たくみにわたしに語ったところによると、彼はそのためにわざわざマカール・イワーノヴィチを自分の書斎に呼んで、その肩に額をおしあてておいおい泣いたそうである、そして彼女は――わたしの母はそのときどこやらの檻《おり》のような女中部屋に、放心したように倒れていたというのだ……
しかし、もうこんな問題や聞き苦しいことをごたごたと述べるのはよそう。ヴェルシーロフは、マカール・イワーノヴィチからわたしの母を買い受けると、早々《そうそう》に村を去って、それ以来、わたしがまえにちょっと述べておいたように、ほとんどどこへでも彼女を連れて歩いたのである。ただ長く留守にしなければならないようなときは、たいていは伯母さん、つまりタチヤナ・パーヴロヴナ・プルトコーワに母の世話をたのんだ。伯母さんはそういうときになると必ずひょっこり現われるのだった。こうして彼らはモスクワにも住んだし、方々の村や町にも住み、外国にまで暮して、しまいに、ペテルブルグにおちついたのである。これらのことについては後に述べるつもりだが、あるいはその価値もないかもしれない。ただこれだけを言っておこう、つまりマカール・イワーノヴィチのもとを去ってから一年後にわたしがこの世に現われたのである、それからさらに一年してわたしの妹が生れ、その後はもう十年だったか、十一年だったかして、病身の弟が生れたが、この子は数カ月で死んでしまった。この難産とともにわたしの母の美しさはおわった――少なくともわたしはそう聞かされている。母は急に老《ふ》けて、病気がちになったのである。
しかしマカール・イワーノヴィチとの関係は、やはり決して切れなかった。ヴェルシーロフの一家がどこにいようと、一カ所に何年か住みついていても、あるいは転々と移り歩いていても、マカール・イワーノヴィチは必ずこの『家族』に自分のようすを知らせてきた。すこしもったいぶったところはあるが、ごくまじめな、一種奇妙な関係が生れた。地主の生活ではこのような関係には必ずなにか滑稽《こつけい》なものがまじるもので、わたしもそれを知っているが、しかしこの関係にはそうしたものがなかった。手紙が年に二度、それよりも多くも少なくもなく、きちんと二度だけ送られてきて、しかもそれがまったく同じような文面だった。わたしはその手紙を見たことがあるが、私事にわたることはほとんど書かれてなく、その逆で、できるだけ全体のできごとや、もし感情についてこういう表現が許されるなら、ごく全般的な感情についての、ものものしい報告にかぎるようにつとめて、まず自分が達者なことを知らせ、つぎにこちらの一同の健康をうかがい、それから幸福を祈り、うやうやしく敬意を表し、祝福を送る――それだけである。この私事にわたらず、全般的なことだけを書くところに、この社会では調子の上品さと交際の高い知識があるものとされているらしい。『わが最愛の尊敬する妻ソーフィヤ・アンドレーエヴナに心からの跪拝《きはい》を送ります』……『愛するわが子らに永遠に変ることなき親の祝福を送ります』といった調子で、子供の数がふえるにつれて、その名前が一人々々書かれていた。むろん、わたしの名前も書いてあった。ここでちょっとことわっておくが、マカール・イワーノヴィチは実に抜け目のない男で、『心から敬慕するアンドレイ・ペトローヴィチさま』を自分の『恩人』とは決して書かなかった。それでいてどの手紙にも、彼に心からの敬意を表し、慈悲を請い、神の祝福を送ることは、決して忘れなかった。マカール・イワーノヴィチへの返事はわたしの母によってすぐに送られたが、いつもやはり同じような調子で書かれた。ヴェルシーロフは、もちろん、この交信には加わらなかった。マカール・イワーノヴィチはロシアのあらゆる隅々《すみずみ》から手紙を書いてよこした。どこかの町からよこすこともあり、ときにはかなり長く住みついたどこかの修道院からくることもあった。彼はいわゆる巡礼になったのである。決してものを請うたりしたことはなかったが、そのかわり三年に一度ぐらいは必ずひょっこり訪《たず》ねてきて、何日か母のところに滞在した。母はどこに行っても必ずヴェルシーロフの住居とは別に、自分の住居を借りて住むのだった。このことはあとで詳しく述べることになろうが、ここではただ、マカール・イワーノヴィチは決して客間のソファに大きく構えるようなことはなく、どこか仕切りのかげのあたりに目だたぬように小さくなっていた、ということだけを言っておこう。滞在も短く、五日か、せいぜい一週間ぐらいだった。
わたしは言い忘れていたが、彼は『ドルゴルーキー』という自分の姓をおそろしく愛し、そして尊敬していた。むろん、それは――滑稽な愚かしさだ。なによりも愚かしいのは、ドルゴルーキー家という名門の公爵家があるので、この姓が彼の気に入っていたということだ。おかしな考えだ、まるきり逆ではないか!
わたしは全部の家族がいつもいっしょに集まっていたと言ったが、それはもちろん、わたしを除いてのことだ。わたしはまるで捨てられたみたいに、ほとんど生れるとから他人のあいだにおかれた。しかし、といってなにか特別の考えがあってのことではなく、ただなんとなくどういうわけかこういうことになったのだ。わたしを生んだあと、母はまだ若くて美しかった。だから彼はそばにおきたかったわけだが、ピーピー泣く赤んぼうなどは、もちろん、誰にもじゃまで、旅の空ではなおさらのことだ。だからわたしは、二十歳になるまで、二、三度ちらちらと以外は、ほとんど自分の母を見なかったというような妙なことになったのである。それは母の気持からではなく、人々に対するヴェルシーロフの高慢な態度から生じたことなのである。
こんどはぜんぜん別なことを述べよう。
一月まえ、つまり九月十九日に一月まえのことだが、わたしは、モスクワで、彼らすべてから離れて、もはや完全に自分の理想に去る決意をした。わたしは『自分の理想に去る』というこの言葉をここに特に記しておく、なぜならこの表現がわたしのほとんどすべての主要思想――そのためにわたしがこの世に生きている目的そのもの――を意味するものだからである。この『自分の理想』とはなんであるか、これについては後にいやというほど語られることになろう。わたしがモスクワにただ一人ひきこもって長年にわたる冥想《めいそう》生活を送っているあいだに、まだ中学校の六年生のころにそれはわたしの頭の中に創《つく》りあげられて、それ以来というもの、おそらく瞬時もわたしの頭を離れなかったらしい。これはわたしの全生活を呑《の》みこんでしまった。わたしはそれがあらわれるまでも空想の中に暮してきた。ほんの小さな子供のころからあるニュアンスをもつ空想の世界の中に生きてきた。ところがこの主要な、わたしのすべてを呑みつくした理想があらわれるとともに、わたしのもろもろの空想はにわかに固まって、あるひとつの型に鋳造されたのである。つまり愚かしいものから理知的なものになったのである。
中学の生活は空想をさまたげなかったから、わたしの理想をもさまたげなかった。とはいえ、つけくわえておくが、わたしは七年生までずっと優等生をつづけてきたが、最後の一年は成績ががた落ちで卒業した、そしてそれはこの理想の結果生じたことで、わたしがこの理想からひきだした、おそらくはまちがった結論のせいであったろう。こうして、中学が理想をさまたげたのではなく、理想が中学をさまたげ、さらに大学をもさまたげたのであった。中学を卒業するとすぐに、わたしはまだ二十歳にもなっていなかったくせに、すべての人と完全に関係を絶とう、それどころかもし必要とあれば、全世界とさえ縁を切ろうと決心した。そしてわたしは然《しか》るべき人を介して、ペテルブルグの然るべき人へ手紙を送り、わたしにいっさいかまってくれないように、わたしの生活費はこれできっぱりと打切るように、そして、できたらわたしをすっぱりと忘れてくれるように(といっても、むろん、わたしをすこしでもおぼえていてくれたらの話だが)たのみ、そして、最後に――大学には『絶対に』進まないと書いた。わたしはのっぴきならぬジレンマに直面した。大学へ進んで勉強をつづけ、理想の即刻の実行をもう四年先へのばすか。わたしはためらうことなく理想の実行を選んだ。数学的にそれを確信していたからである。わたしの父、ヴェルシーロフは、わたしはこれまでにたった一度、まだ十歳にしかならなかったときに、それもちらッとだけしか見たことがなかったが(しかも、そのちらッと見ただけで、わたしはひどい衝撃を受けたのだが)、そのヴェルシーロフがわたしの手紙に答えて、しかも、それは彼にあてた手紙ではないのだが、自分でわたしに手紙を書き、個人の秘書の勤め口があるからとわたしをペテルブルグへ呼んだのである。このわたしに対して尊大で横柄《おうへい》で、無愛想な傲慢な男、わたしを生むと、他人の中へ捨てて、これまでわたしのことをまるで知らないばかりか、それをまったく後悔もしなかった男(おそらく、わたしという息子がいることさえ、ぼんやりとしか知らなかったにちがいない、というのは、あとでわかったのだが、モスクワのわたしの生活費だって彼が払っていたのではなく、他の人々が負担していたというのだ)、この男が、わたしははっきり言うが、これほど突然にわたしのことを思い出して、自分で書いた手紙をわたしにくれて、ペテルブルグへ呼んだということ――この事実が、わたしの心を誘惑して、わたしの運命を決定したのである。ところで奇妙な話だが、わたしには、彼の手紙の中で(小型の紙一枚にちょっと書いただけのものだが)、大学のことは一言も書いていないし、決意を変えるようにとも言ってないし、わたしが勉強を望まないことを叱《しか》ってもいないのが気に入ったのである。要するに彼は、世間の通例であるようなこうした類いの親の意見らしいものはいっさいもちだしていないのだが、しかしそれがかえって彼にすれば、わたしに対する無関心をいっそう露骨にさらけだしたという意味でうかつなのである。
わたしが行くことに決めたのは、もう一つには、それがいささかもわたしの主な念願のさまたげにはならなかったからである。
『なにが出るか、ひとつ見てやろう』とわたしは考えた、『いずれにしても、おれが彼らと接触するのは一時のことだ、それもごく短いあいだかもしれぬ。おれのこの一歩が、条件つきの小さな一歩ではあるが、それでもおれを本命から後退させると見てとったら、直ちに彼らと手を切り、すべてを捨てて、自分の甲羅《こうら》にとじこもるのだ』。そうだ、甲羅にだ! 『亀のように甲羅の中へひっこむのだ』。この比喩《ひゆ》がひどくわたしの気に入った。『おれは一人でなくなるのだ』。わたしはこの数日追いたてられるようにモスクワ中をぐるぐる歩きまわりながら、考えをひろげつづけた、『これからはもう決して一人ぼっちではないのだ。これまでどれだけの恐ろしい年月を孤独に苦しめられたことか。おれには理想という生涯の伴侶《はんりよ》ができたのだ。たといあちらで彼らがみなおれの気に入って、おれに幸福をあたえてくれ、そして十年も彼らといっしょに暮すようなことになったとしても、おれはこの理想を決して裏切りはしないぞ!』
ほかならぬこの感情が、先まわりしてことわっておくが、まだモスクワにいるあいだに形成され、ペテルブルグへ行ってからも瞬時もわたしを離れなかった(なぜなら、ペテルブルグでわたしは彼らと手を切り、永久に去ろうとする最終期日を頭の中におかなかった日が一日もなかった、とわたしは思うからだ)、わたしの計画と目的のこの二重性――この二重性こそが、わたしが一年のあいだにおかした多くの失策、多くの醜い、低劣とさえ言える、むろん愚かしいことに決っている行為の主な原因の一つになったらしいのである。
もちろん、いままでなかった父親が、わたしに不意に現われたのだ。この考えがモスクワで出発の準備をしているときも、汽車の中でも、わたしを酔わせた。ただ親父というだけなら――別にどうということはないし、やさしくされるのはわたしは好かなかった、だがこの男は、わたしがこの何年ものあいだむさぼるように(空想にこんな表現をつかうことができるなら)夢に描いていたのに、わたしをかえりみようともせずに、完全に無視していたのだ。わたしのあらゆる空想は、ほんのいたいけな幼な子のころから、彼を呼び、彼のまわりをさまよい、結局は彼に帰してしまうのだった。わたしが彼を憎んでいたのか、愛していたのか、わたしは知らない、がしかし彼は、わたしのすべての未来を充たし、人生に対するわたしのすべての期待を充たしていた――そしてこれはひとりでに生れ、年とともに成長していったのである。
わたしにモスクワを去る決意をうながしたものに、もう一つ強力な事情があった。それは一つの誘惑で、そのためにすでに出発の三カ月前に(ということは、まだペテルブルグへ行くことなど夢にも思わなかったころだ)、わたしは胸の高まりと心臓のときめきをおぼえていたのだった! わたしがこの未知の大洋へ惹かれたのは、もう一つには、他人の運命をさえ支配できる者として――しかもどういう人たちの運命だ!――いきなりそこへとびこんでゆけると考えたからだ。しかし、わたしの内部に滾《たぎ》っていたのは寛大な感情であって、暴君的なそれではなかった――このことはわたしの言葉から誤解が出ないように、まえもってことわっておきたい。それにヴェルシーロフはこんなことを考えていたはずだ(もっとも、わたしのことを考える気になってくれたらの話だが)。さあ、小さいのが来るぞ、まだ中学を出たばかりの少年だ、にぎやかな都会を見ておどろくことだろう。ところがわたしは彼の腹の中をすっかり読んでいて、わたしが秘密の鍵《かぎ》をあたえてやらなければ、彼が何年間かその解決に没頭したにちがいないような(いまはわたしはそれをきっぱりと断言できるのだ)、きわめて重大な文書を懐中にしていたのである。しかし、どうやら、謎めいたことを並べたようだ。事実を出さなければ感情は描けない。それに、このことについてはその時が来たらいやになるほど語られるはずだ。そのためにわたしはペンをとったのだ。しかしこんなふうに書いては――うわごとか、あるいは雲をつかむような話だ。
いよいよ、十九日へ最終的に移るまえに、簡単に、いわば瞥見《べつけん》的に、わたしが彼ら、つまりヴェルシーロフと母と妹(この妹を見たのははじめてである)に会ったときのことを述べておこう。彼らはほとんど乞食《こじき》のような、あるいは乞食になり下がる一歩手前のような、実にみじめな状態におかれていた。それをわたしはモスクワにいるときにもう聞いていたが、それでも、まさかこれほどとは思わなかった。わたしはこの男を、この『わたしの未来の父』を、ほとんどなにか眩《まぶ》しいような輝きにつつまれている人として思い描くことに慣れていて、どこへ出ても正面席に坐る人としてしか想像できなかった。ヴェルシーロフは決してわたしの母と同じ家にいっしょに住まないで、いつも母には別な家を借りてやっていた。むろん、こんなことは彼らの卑劣きわまる『世間体』のためなのだ。ところがこのときは、セミョーノフスキー連隊の横町の小さな木造の傍屋《はなれ》に、みんながいっしょに住んでいた。家財道具はのこらずすでに質屋に入っていた、それでわたしは、ヴェルシーロフにかくれて、母にそっとわたしの秘密の六十ルーブリの金を渡したほどだった。なぜ秘密の金かといえば、月々五十ルーブリずつ支給される小遣《こづか》い銭《せん》から、二年かかってためた金だからである。この貯金はわたしの『理想』が生れた第一日からはじめられた、だからヴェルシーロフはこの金のことを夢にも知るはずがなかった。それをわたしは恐れていたのだ。
この金はしかし焼け石に水にすぎなかった。母ははたらいていたし、妹までが縫物をしていた。ヴェルシーロフだけはなにもせずに遊び暮して、わがままを言い、昔からのかなり高くつく習慣の多くをそのままのこしていた。彼は小うるさく、特に食事のときにはおそろしく不平を鳴らした、そしてすべての態度が完全に暴君的であった。しかし母も、妹も、タチヤナ・パーヴロヴナ伯母も、死んだアンドロニコフの遺族たちも(これはその三月ほどまえに死んだある役所の課長で、同時にヴェルシーロフ家の財産問題もあつかっていた人で、遺族は女ばかりが大勢いた)、まるで彼を呪物《じゆぶつ》みたいに思って、びくびくしていた。これはわたしの想像できなかったところである。ことわっておくが、九年前の彼は、いまの彼とはくらべものにならぬほど典雅な紳士だった。わたしの空想の中では彼はなにか眩しいような輝きにつつまれていた、とわたしはまえに言ったが、だからわたしは、それからわずか九年かそこらのあいだに、まさかこうも老いこみ、ぼろかすみたいになってしまうとは、思いもよらなかったのである。わたしはとたんに悲しいような、哀れなような、恥ずかしいような気持になった。彼の姿が到着直後のわたしのもっとも苦しい第一印象の一つであった。しかも、彼はまだぜんぜん老人という年齢ではなかった。彼はまだ四十五歳にしかなっていなかったのである。さらに見ているうちに、わたしは彼の美しさの中に、わたしの思い出の中にそっくりのこっていたものよりも、いっそう胸をふるわせるようななにものかがあることに気がついた。あのころの輝かしさはうすれ、外貌《がいぼう》のりっぱさも、また優雅さも少なくなってはいるが、生活がこの顔にまえよりもはるかに興味あるなにものかを刻みつけたようである。
しかし、貧窮は彼の数々の失敗の中で十分の一か、二十分の一ぐらいにしかあたらなかった、そしてわたしはそれを知りすぎるほど知っていた。貧窮のほかに、ある途方もなく深刻な問題に直面していた――ヴェルシーロフがソコーリスキー公爵家を相手どってもう一年あまりもごたごたをつづけている遺産相続の訴訟問題は、まだ勝つ見こみがのこっていて、もしこれに勝てば近い将来に七万ルーブリか、あるいはそれをすこし上廻るほどの価値のある領地が手に入ることになるのだが、それはしばらくおこう。わたしはまえに、このヴェルシーロフが三つの財産をつぶしたと言ったが、その彼がまたしても遺産で救われようとしているのだ! この訴訟事件は近く裁判で決定されることになっていた。わたしが来たのはそのためである。もっとも、見こみで金を貸す者はいないし、それに借りるところもない。しばらくはしんぼうするほかなかった。
さて、ヴェルシーロフはときどき一日中外へ出ているのに、誰のところも訪《たず》ねようとしなかった。彼が社交界からしめだされてから、もう一年以上になる。この事件は、わたしがペテルブルグに出てきて一カ月というもの、手をつくしてさぐってみたが、もっともかんじんなところは依然として謎《なぞ》のままなのである。ヴェルシーロフに罪があったのか、それともなかったのか――これがわたしにとってもっとも重大なことだった、そしてそのためにわたしは来たのである! すべての人々が彼に背を向けた、そしてその中には彼がそれまで特に巧みに交際をつづけてきたすべての有力者たちがまじっていた。その原因になったのは、一年すこしまえにドイツで起ったらしい、あるきわめて卑劣な、しかも――『社交界』の目には、これがなによりもわるいことなのだが――スキャンダル的な行為についての噂《うわさ》で、おまけにそのとき、ソコーリスキー公爵一門の一人から公衆の面前でみごとな頬打《ほおう》ちを受けて、それに対して決闘をもってこたえなかったというのである。彼の子供たちまで(本妻がのこした息子と娘である)、彼に背を向けて、別居していた。もっとも、息子と娘は、母方のファナリオートフ家と、ヴェルシーロフのかつての親友であったソコーリスキー老公爵の世話を受けて、上流社会に暮していた。しかし、わたしはこの一カ月のあいだ彼をつくづく観察しているうちに、見れば見るほど高慢な男で、社交界がそのわくから彼をしめだしたのではなく、むしろ彼のほうが社交界を追っぱらったのではないか、という気がした――それほど彼は昂然《こうぜん》としていた。だが、はたして彼はこのような昂然たる態度を持す権利をもっていたのか――これがわたしの心を騒がせた疑問であった! なんとしても早急にいっさいの真相を突きとめねばならぬ、なぜならわたしが来たのは――この男を裁《さば》くためだからだ。わたしは自分の力をまだ彼にかくしていた、しかしわたしは彼を認めるか、あるいは彼をすっかり突きはなすか、いずれかをとらねばならなかった。だが、後者をとることは、わたしにはどれほどつらいことか。わたしは苦悩した。やっと、本音を吐こう――この男はわたしには大切な人なのである!
とにかく、わたしはしばらく彼らといっしょに暮して、勤めに通い、どうにか自分を抑《おさ》えて無作法な言動をしないようにしていた。しかしときには抑えきれず、つい乱暴な口をきいてしまうこともあった。こうして一カ月暮したが、わたしは日を追うにつれて、完全な釈明を求めて彼と対決することはどうしてもできないことだ、という確信を深めた。傲慢《ごうまん》な男はわたしのまえに謎として立ちはだかり、完全にわたしの心をふみにじったのである。彼はわたしにやさしくさえしたし、冗談を言ったりもした、しかしわたしはこんな冗談よりは、むしろ口論を望んだのだった。わたしと彼の話はいつもなんとなくあいまいで、どっちともとれるのだが、それはなんのことはない、彼の側からすれば一種奇妙な嘲笑《ちようしよう》にすぎないのだ。彼はモスクワから出てきたわたしをはじめて迎えたときから不まじめな態度をとった。彼がどうしてそんな態度をとったのか、わたしにはどうしても理解できなかった。たしかに、彼はわたしに対して不可解な人物としてとどまろうとする目的は達した。だが、わたしのほうも彼にまじめな態度をとってくれとたのむほど、自分をおとすつもりはなかった。加えて、彼の挙動には一種奇異な、つけこむ隙《すき》のないようなところがあって、わたしにはそれにどう対処していいのかわからなかった。簡単に言えば、わたしを彼はまだくちばしの黄色い青二才あつかいをしたわけで――そうされるだろうとは知ってはいたが、それでもわたしはどうにもがまんがならなかった。そこで、わたしのほうもまじめに話をすることをやめて、先方の折れて出るのを待つことにした。そしてあげくは、わたしはまったく口をきくのをやめてしまった。わたしは一人の人物を待っていた。その人物がペテルブルグに来れば、わたしは完全に真相を知ることができるのだ。それにわたしは最後の望みをかけた。いずれにしても、わたしは完全に縁を切る覚悟を決めて、もういろいろと準備をすすめていた。母はかわいそうだった、だが……『あるいは彼か、あるいはぼくか』――これが、わたしが母と妹に突きつけねばならぬことだ。その宿命の日までわたしはすでに決めていた。だが、それまではわたしは勤務に通っていたのである。
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第二章
この十九日は、わたしがペテルブルグで、『個人』の秘書のポストに勤務してからちょうど一月目で、はじめての俸給をもらう日でもあった。このポストについては彼らはわたしに一言の相談もしないで、わたしがペテルブルグに到着したたしかその日だったと思うが、いきなりわたしをそこへ差向けたのだった。これはひどく人をふみつけにした話で、わたしとしては抗議をするのが当然のような気がした。そのポストはソコーリスキー老公爵の家であった。しかしそのときすぐに抗議することは――とりも直さず彼らとすぐに縁を切ってしまうことで、そんなことはすこしも恐れはしなかったが、しかしわたしのかんじんな目的を阻害することになる、そう思ったからわたしは当分黙ってそのポストを受けることにして、沈黙によって自分の品位をまもったのだった。はじめに明らかにしておくが、このソコーリスキー公爵は富豪で、三等官で、ヴェルシーロフが訴訟問題を起しているモスクワのソコーリスキー公爵家(これはもう数代前からとるにたらぬ貧乏貴族に没落していた)とは、すこしも血のつながりがなかった。両家はただ姓が同じというだけであった。しかしそれでも、老公爵は彼らにひどく関心をもち、一門の一人で、同家の長兄である若い士官を特に愛していた。ヴェルシーロフはつい先頃までこの老公爵家の諸問題に対して大きな影響力をもっていて、その親友、といっても奇妙な親友だった。というのはこの哀れな公爵は、わたしが認めたかぎりでは、わたしが勤めについたころばかりでなく、どうやら交際のはじめからずうッと、ひどく彼を恐れていたらしいからである。しかし、彼らはもうしばらく顔をあわせなかった。ヴェルシーロフが非難された破廉恥《はれんち》な行為は、この公爵家の一人が関係していたのである。ところがタチヤナ・パーヴロヴナがたまたま顔を出して、彼女の口ききでわたしが、自分の書斎に『若い男』を一人望んでいた老人のところにあてがわれたのだった。それでわかったのだが、彼のほうもやはりヴェルシーロフの意にかなうことをなにかしてやりたいと切望していて、いわば仲直りの第一歩をふみだしたわけで、ヴェルシーロフはそれを許したのである。老公爵はある将軍の未亡人になっている自分の娘の留守のあいだにこれを決めたのだが、もしその娘がいたらおそらくこの一歩を老公爵に許しはしなかったろう。そのことはあとで述べるとして、しかし一言だけことわっておくが、ヴェルシーロフに対する関係のこの奇妙さが、彼に有利な驚きをわたしにあたえたのである。侮辱をうけた一家の長がそれでもなおヴェルシーロフに尊敬の気持をいだきつづけているとすれば、それは、つまり、ヴェルシーロフの卑劣な行為についてまきちらされている噂《うわさ》も、ばかばかしいものか、あるいは少なくとも裏のあるあいまいなものにちがいない、とわたしには思われたのである。ひとつにはこうした事情が、わたしに勤めにつくことを反対させなかったのだ。勤めにつくことによって、わたしはこうしたことをすべて究明できるかもしれないと思ったのである。
このタチヤナ・パーヴロヴナは、わたしがペテルブルグで会ったころ、奇妙な役割を果していた。わたしはこの伯母のことはほとんど忘れていて、彼女がこれほど大きな意味をもっているとは、夢にも思っていなかった。彼女にはこれまで三、四度モスクワ生活のあいだに会ったが、どこから、誰の依頼で現われるのか、わたしをどこかに移さなければならないようなときになると――たとえば、トゥシャールの寄宿学校に入るときとか、あるいはその後、二年半ほどして、中学校へ移り、忘れることのできないニコライ・セミョーノヴィチの家に下宿するときとか――ひょっこり現われるのだった。そして、彼女はその日一日わたしにつききって、わたしの下着や服を検査し、わたしをつれてクズネツキー街をはじめあちこちの商店街を歩きまわって、いろいろな必要品を買い、要するに、屑《くず》かごからペンナイフの果てまで、わたしの身のまわりのいっさいをととのえてくれたものである。そしてそのあいだ、口きらずわたしにぶつぶつ文句を言って、叱《しか》ったり、詰《なじ》ったり、験《ため》したりして、知合いやら親戚《しんせき》やらの頭の中でつくりあげた子供たちを例に出して、どれをとってもわたしよりはしっかりしているようなことを言い、そして実際に、つねったり、思いきり小突いたりしたことが、それも幾度かあった。こうしてわたしの身のまわりの世話をして、おちつくところへおちつけると、彼女はどこかへ消えて、それきり何年か音沙汰《おとさた》もなくなってしまうのである。
そしていま、わたしがペテルブルグに到着するとすぐに、彼女はまた現われて、わたしを新しい場所におちつけてくれたわけである。彼女はやせた小さな見ばえのしない女で、鳥のくちばしのようなとがった鼻と、鳥の目のような鋭い目をしていた。ヴェルシーロフには彼女は奴隷のように仕えて、まるで法王にでも対するようにすっかり敬服していたが、それには確とした信念をもっていた。ところで、わたしはまもなくそれを知っておどろいたのだが、どこへ行っても、ほとんどの人々が彼女を尊敬しているのである、そしてなによりも――どこへ行っても、彼女を知らぬ者がないということである。ソコーリスキー老公爵は異常といえるほどの敬意を彼女にはらっていたし、彼の家族たちもそうで、ヴェルシーロフのあの高慢な息子たちにしても例外ではなく、ファナリオートフ家でもそうなのである――ところが当の彼女は縫物や、レースの洗濯《せんたく》などで細々と暮し、店から内職までもらってくるというふうなのである。わたしは彼女と最初の一言から口論になってしまった。彼女は、六年前と同じようなつもりで、頭ごなしにわたしに文句を言おうとしたからである。それ以来毎日のように口論がつづいている。しかし、といって、わたしたちがときどき話を交《か》わすさまたげにはならず、実を言うと、月の終りごろにはわたしは彼女が好きになってきた。彼女の性格の自由奔放さのせいだろうと、思うのだが、しかしわたしは、そのことを彼女に言わなかった。
わたしはすぐに、わたしをこの病身の老人のもとに勤めさせたのは、ただ老人を『慰める』ためだけで、わたしのしごとはそれだけだということをさとった。当然、これはわたしの自尊心を傷つけた、そしてわたしはすぐに既定の手段をとろうとした、ところがまもなくこの風変りな老人がわたしの胸に、憐憫《れんびん》とでもいうのか、まったく思いがけぬ妙な陰影《かげ》をおとしたのである。そして月の終りごろにはわたしは妙にこの老人に愛着を感じるようになって、少なくとも乱暴な挙に出ることだけはやめた。老人とはいえ、彼はまだ六十をこえていなかった。彼には大きな事件があったのである。
一年半ほどまえに、彼には不意に発作が起った。どこかへ出かけた途中、旅先で精神の錯乱を来たしたのである。そのためにスキャンダルのようなことがもちあがり、それがペテルブルグで噂された。こうした場合の当然の策として、彼は直ちに外国へ連れ去られたが、五カ月ばかりするとまたひょっこりもどってきた、そしてすっかり健康にもどっていたが、それでも勤務からは退いた。ヴェルシーロフは真剣に(しかもひどく熱心に)、精神錯乱などはぜんぜんなかった、ただ軽い神経の発作を起しただけだ、と説きまわった。ヴェルシーロフのこの熱しやすさは、わたしもすぐに見てとった。しかし、ことわっておくが、わたし自身もほとんど彼と同意見であった。老人はただどうかすると、年齢にしては、あまりにも軽率に思われるようなことがあっただけで、こんなことは以前の彼にはまったくなかったそうである。人の話では、以前に彼はどこかの顧問をしていて、一度などある事件ですばらしい卓見を吐いたということである。わたしは彼を一月見ていたが、彼に顧問になる特別の能力があろうとは、どうしても考えられない。人々に言わせれば(わたしは気がつかなかったが)、発作後、彼には早く結婚をしたいというなにか妙な傾向が急に強くなって、この一年半ばかりのあいだに彼はもう幾度かそのほうへうごきかけたことがあるらしいというのである。このことは社交界にも知られていたようで、気にしている向きもあったらしい。ところが、このひそかな希望は公爵をとりまくある人々の利害をまっこうからおびやかすものだったので、老人の身辺にはまわりから監視の目が光っていた。彼には家族が少なく、もう二十年もまえに妻を亡《な》くしてそのまま一人暮しをつづけてきたので、娘が一人あるきりだった。これがいま毎日のようにモスクワからの到着が待たれている、まだ若い将軍未亡人で、その気性を彼は明らかに恐れていた。そのかわり、遠い縁者が彼にはわんさといて、その大部分は亡くなった妻のほうのつながりで、ほとんどが乞食《こじき》同然の貧しい暮しをしていた。そのほかに、彼の世話になった養子や養女の類《たぐ》いがたくさんいて、それがみな遺産のおすそわけにあずかろうとねらっていた、だからみな将軍未亡人に肩をもって老人を見張っていたのである。彼には、そのうえ、ごく若いころから、それがおかしい癖なのかどうかはわからないが、貧しい娘を嫁にやりたがるという奇病があった。彼はそれをもう二十五年もつづけていて――あるいは遠い親戚の娘とか、あるいは妻の従兄弟《いとこ》たちの養女とか、あるいは百姓娘とか、玄関番の娘まで嫁《とつ》がせてやった。まず小さな少女のころに自宅にひきとり、家庭教師やフランス婦人などをつけて養育し、さらにりっぱな学校へやって教養を身につけさせたうえで、持参金をつけて嫁にやるのである。だからこういう女たちがいつも彼のまわりにひしめいていた。養女たちは嫁に行けば当然また女の子を生んだ、そしてこの生れた女の子たちがまた養女になろうとねらった、というわけで彼はいたるところで洗礼をほどこしてやらなければならず、またそうした女の子たちがぜんぶ彼の命名日の祝いには集まった、そしてそうしたことが彼には嬉《うれ》しくてたまらないのだった。
わたしは彼のそばに勤めるようになってすぐに気づいたのだが、彼の頭の中には、社交界のすべての連中がどことなく妙な目で彼を見るようになり、以前の健康なときの彼に対する態度とは別な態度をとるようになった、という不快な確信が重苦しくしずんでいた。そしてこれはどうしても気づかないわけにはいかなかった。この印象がもっとも楽しい社交界の集りの中でさえ彼を去らなかったのである。老人は疑《うたぐ》り深くなり、誰の目にもなにかを読みとるようになった。自分はいまだに狂人と見られているという考えが、明らかに彼を苦しめた。わたしをさえ彼はときどき不信の目で見た。そしてもしも誰かが彼にまつわるその噂をひろめているとか、あるいは肯定しているとかということを、彼に知られたら、その男は別に悪意はなくとも、永久に彼の敵になることであろう。ここのところを読者によく記憶しておいてもらいたいのである。言い添えておくが、この事情を見てとったから、わたしは第一日目から、彼にがさつな口をきかないことにしたのである。そして、ときどき彼を陽気にさせたり、気晴らしをさせたりできると、わたしは喜びをさえおぼえた。こんなことを打明けたからといって、わたしの人格に陰影《かげ》をおとすことになるとは、わたしは思わない。
彼の金の大部分は動いていた。彼は、病気をしてからは、ある大きな株式会社の、それもきわめて堅実な会社だが、株主になっていた。そして業務は他の人々に見させていたが、彼もひじょうに関心をもっていて、株主総会には出席し、創立委員に選ばれ、理事会に出て、長い演説をぶったり、やっつけたり、口論したりして、大いに満足していたらしい。彼は演説をぶつのがひどく好きだった、というのは少なくとも一同に自分の頭のよさを認めさせることができたからである。概して彼はごく内輪な私生活においても、自分の会話にことさらに深遠な言葉とか、警句《ボンモー》をはさむのを大いに好んだ。わたしはそれを知りぬいている。彼の家には、一階に事務室のようなものがあって、一人の官吏が事務をとり、経理や書類の整理をしており、同時に家の管理もしていた。この官吏はほかにどこかの役所にも勤めていたが、彼一人の片手間しごとだけで十分に事は足りたのだが、しかし公爵自身の希望によって、その官吏の助手にということで、わたしが加えられたのである。ところがわたしはすぐに書斎のほうへ移され、体裁のためだけでも、なにかしごとか、書類か、本でもと思うのだが、そうしたものもわたしのまえにないことがしばしばだった。
わたしはいま、もうとうに酔いがさめ、多くの点でもうほとんど本流から離れてしまった人間として、これを書いている。しかし、心の中に深く食いこんでしまっているあのときのわたしの憂愁(いまもまざまざと思い出すのだ)を、特に――幾夜も眠られなかったほどの、わたしに自制する力がなく、自分で自分に謎《なぞ》をかけすぎたために起ったことなのだが、あの不安な熱病的な状態にまでわたしを追いこんだ、あのときのあの心の動揺を、どのように描出したらいいだろう。
金を請求するということは――実にいやなもので、たとい俸給でも、ぜんぜんそれに値するようなことをしていないという考えが、どこか良心の隅《すみ》っこにちょっとでもあると、言いだしにくいものである。しかし昨夜母が、ヴェルシーロフにわからぬように(『アンドレイ・ペトローヴィチに心を痛めさせるといけないから』)、妹とのひそひそ話で、神棚《かみだな》の聖像を質屋へもってゆくようなことを言っていた。どういうわけか知らないが、それは母がひじょうに大切にしている聖像だった。わたしは月に五十ルーブリの俸給で勤めていたが、ここへ勤めるときなにも言われなかったので、それをどんなふうにもらうことになるのか、ぜんぜんわからなかった。三日ほどまえ、下で官吏と会ったときに、ここでは誰に俸給を請求したらいいのかと訊《き》いてみた。彼はあきれたみたいに薄笑いをうかべてわたしを見まわした。(この男はわたしを好いていなかったのである)
「ほう、あなたは月給をもらうんですか?」
わたしは返事をしたら、彼がこう追い打ちをかけるであろうと思った。
「それはいったいなにに対してです?」
ところが彼はそっけなく『さあ、わかりませんな』と答えただけで、罫《けい》を引いた帳簿の上にかがみこんでしまった。彼はその帳簿になにかの請求書のようなものからしきりに数字を書きこんでいた。
しかし彼は、わたしがなにかしているのを、知らぬわけがなかった。二週間まえに、わたしはちょうど四日間、彼にまわされたしごとにかかりきったことがあった。それは下書きを浄書するしごとだったが、結局はほとんど新しく書き直したと同じことになった。それは老公爵が会社の理事会に提出するために作成した『意見』の乱雑な書きちらしであった。それをちゃんとしたものにまとめて、文章も練り直す必要があった。わたしはその後まる一日公爵とこの書類の作成にかかりきって、公爵は熱くなってわたしと激論を交わしたが、しかし出来上がりには満足したようであった。ただし、この書類が提出されたかどうかは、わたしは知らない。そのほかこれも彼に依頼されて書いた、やはり事務上の手紙が二、三あるが、そんなことはここで言うまい。
俸給を請求することがいやなのは、もう一つには、避けることのできない事情のために、ここからも去らなければならなくなるだろうと予感して、もう辞職を腹の中で決めていたからである。その朝目をさまして、二階の自分のきたない部屋で着替えをしながら、わたしは胸があやしく高鳴るのを感じた、そしてなにをくだらない、と腹の中で嘲笑《あざわら》ったが、それでも、公爵邸の玄関を入ると、わたしはまた同じ不安におそわれた。今朝ここへあの女が、その到着を待ってわたしが自分を苦しめているいっさいの問題を解明しようとしていたその当人が、ついに来ることになっていたのである。それは公爵の娘で、わたしがすでに何度か語り、ヴェルシーロフにはげしい敵意をいだいていた、例のアフマーコワというまだ若い将軍未亡人である。とうとう、わたしはこの名を出した! 彼女をわたしは、もちろん、まだ一度も見ていないし、自分がどんなふうに彼女と話をするのか、はたして話をするのかどうか、わたしには想像もできなかった。だがわたしには、彼女の到着によってわたしの目からヴェルシーロフをとりまいている黒い霧がとり去られるような気がした(それも、十分の根拠があるらしいのである)。毅然《きぜん》とした態度を保っていることがわたしはできなかった。第一歩からわたしがこんなに臆病《おくびよう》で、気づまりなのが、いまいましくてならなかった。おそろしく興味があった、というよりは、いやだったのは――三つの印象であった。わたしはこの日一日のことをすっかりそらでおぼえている!
おそらく娘が今日帰るらしいということを、公爵はまだなにも知らないで、彼女がモスクワから来るのはまあ一週間後ぐらいだろうと思っていた。わたしは昨夜まったく偶然にそれを知ったのである。将軍未亡人から手紙をもらったタチヤナ・パーヴロヴナが、わたしのいるところで母にそれをもらしたのである。二人はひそひそと、遠まわしな言葉で話していたが、わたしはそれを察知した。むろん、盗み聞きしたわけではない。ただ、この女が来るという知らせを受けて、とたんに母がおそろしくどぎまぎしたのを見て、わたしは耳をすまさないわけにいかなかったのである。ヴェルシーロフは家にいなかった。
老公爵にわたしはそれを告げる気になれなかった。この一カ月のあいだに、彼が娘の到着をひどく恐れているのを、いやというほど見させられたからだ。彼は、三日ほどまえも、おずおずと遠まわしにではあったが、彼女の帰宅についてはわたしのことも心配している、つまりわたしのことでつまらないごたごたが起きるかもしれない、ともらしたほどである。しかし、つけくわえておかねばならぬが、家庭内にあっては彼はやはり自主性と家長としての権利を保っていて、特に金銭の管理の面では誰の制約も受けなかったのである。わたしははじめ彼を見て、まるで女のようなやつだと決めてしまったが、だんだん見ているうちに、女のようなやつにはちがいないが、それでもやはり、ほんとうの男らしさでないまでも、どこか強情なしんがすこしはのこっている、と認め直さなければならなかった。どうかすると、一見へなへなで、すぐに折れそうな彼の性格が、ほとんどどうにもできぬほどの頑強《がんきよう》さを示すことがあった。そのことはあとでヴェルシーロフが詳しくわたしに説明してくれたが、いまここでは興味あることとして、つぎの事実を語っておくにとどめよう。つまり、わたしと老公爵はほとんどといっていいほど将軍未亡人の話をしたことがなかった、というのは互いに口に出すのを避けたようなぐあいなのである。特にわたしのほうが避けた、ところが彼は彼でヴェルシーロフの名を出すのを避けていた、そこでわたしは、わたしがさぐりたくてうずうずしている、あの微妙な問題をどう遠まわしにもちだしたところで、彼は答えてはくれまい、とはっきりとさとったのだった。
この一カ月のあいだにわたしたちがなにを話していたのだと言われるなら、わたしはこう答えておこう。実際には、世の中のいっさいのことというわけだが、なにかしら風変りな話題ばかりだった、と。わたしと話をするときに彼が見せた素朴すぎるほどの素朴さが、わたしは好きでたまらなかった。わたしはときどきなんともふしぎな気持でこの老人をつくづくながめて、こんなことを自分に訊いてみることがあった、『いったいまえにどんなところに勤めていたのだろう? まったく、ぼくらの中学校へ、それも四年級ぐらいに入れたら――きっとちょうどいい仲間になったろう』。わたしは彼の顔にもまた幾度かおどろかされた。それは見たところはごくまじめな(しかも端正といえるほどの)、実におもしろみのない顔だ。濃く渦を巻いた白髪、陰影《かげ》のない澄んだ目、それにぜんたいにやせぎすで、長身である。ところがその顔が、まれに見るようなまじめな表情から不意にあきれるほどのふざけた表情に急変するという、はじめて見た者にはどうしても信じられないような、一種の不快な、ほとんど無作法といえるような癖をもっているのだ。わたしがそのことをヴェルシーロフに語ると、彼はほほうというような顔で聞いた。どうやら、わたしがそのような観察ができるとは、彼は予期していなかったらしい。しかし彼は、公爵にそういう癖があらわれたのは病後のことで、それもごく最近になってからだ、と軽くいなした。
わたしたちが主として話し合ったのは、二つの抽象的な問題――神とその存在、つまり神が存在するか否かという問題と、それから女性の問題であった。公爵はひじょうに宗教心があつく、感じやすい心をもっていた。書斎には大きな聖像|龕《がん》が吊《つる》されていて燈明がともされていた。ところが不意に心に陰影《かげ》がさすと――彼はにわかに神の存在を疑いはじめて、明らかにわたしの返答を挑発《ちようはつ》しながら、おどろくようなことを言いだすのだった。だいたいにおいて、わたしはこういう問題にはかなり冷淡なほうだったが、それでもわたしたちは二人ともすっかり夢中になって、しかもいつも真剣に論じ合ったものである。総じて、こうして話し合ったすべてのことを、いまでさえ、わたしは楽しい気持で思い出すのである。しかしなによりも彼が好んだのは女性についての談議だった、そしてわたしがこうしたテーマの話がきらいなところから、好ましい話し相手になることができなかったので、彼はときどき嘆くことさえあった。
わたしがその朝彼の書斎へ入ると、彼はすぐに女性の話をはじめた。彼はひどくうきうきした気分になっていた。昨日わたしが帰るときは、どういうわけかひどく沈みきっていたのだが。しかしわたしは今日こそは――あの連中が来るまでには、どうしても俸給の問題をかたづけてしまわなければならなかった。今日はきっとわたしたちが裂かれる、とわたしは考えていた(胸騒ぎは意味のないことではなかったのである)――そうなったら、おそらく、わたしは金のことを言いだせなくなるだろう。ところが、金のことはなかなか言いだせないので、わたしは、わけもなく、自分の愚かさに腹がたって、いまでもおぼえているが、腹だちまぎれに、えいくそめと思って、彼の実にふざけた問いに答えて、わたしの女性観を、かっと熱くなって、一気にまくしたててしまった。ところがそのために、油に火を注いだようなことになって、彼はいよいよ夢中になってわたしの首にすがりついてしまったのである。
「……ぼくが女がきらいなのは、女というものは無作法だからです、気づまりだからです、自主性がないからです、みだらな衣裳《いしよう》をつけているからです!」わたしは長たらしい女性非難を、こんな言葉でとりとめもなく結んだ。
「きみ、ひどく手きびしいじゃないか!」と彼はすっかり陽気になって、叫んだ、そしてそれがますますわたしの心を苛《いら》だたせた。
わたしは些細《ささい》なことだけは気がうごいて譲歩するが、主なところはぜったいに譲らない。こまかいこと、いってみれば社交界のつまらないしきたりなどでは、わたしはどうにでも人の言いなりになるのだが、そのくせわたしはいつも自分のこの無性格を呪《のろ》っているのである。鼻もちならぬ気のよさというか、そういうところがあってわたしは、ときによるとその人あたりのよさにうかうかのせられてしまって、つまらない社交界の伊達男《だておとこ》にさえ相槌《あいづち》を打ったり、なによりも許しがたいのは、中身のからっぽなばか者と議論をはじめたりするのだ。それというのもみなこらえ性がないのと、隅《すみ》っこで一人で育ったためである。自分が呪わしくなって、明日はもうこんなことはするものかと誓うのだが、明日になるとまた同じことのくりかえしなのである。わたしがときどき十六歳ぐらいにしか見られないことがあるのは、このためなのである、だが、こらえ性をつける代りに、どんなに|人間ぎらい《ミザントロープ》と思われてもかまわないから、わたしはもっともっと隅っこへ引きこもってしまいたいと思う。『ぼくは無器用な人間で結構、とにかく――永久にさようならだ!』わたしはまじめに、きっぱりとこう言うのである。しかし、こんなことを言うのは、決して公爵が起因でもないし、あのときの二人の会話のせいでもない。
「ぼくは決してあなたを喜ばせようと思って言ってるんじゃありません」とわたしはほとんど叫ぶように公爵に言った。「ぼくはただ自分の信念を述べてるだけです」
「だが、女が無作法で、みだらな服装をしてるというのはいったいどういうことだね? それは珍しい意見だが」
「無作法ですよ。劇場へ行ってごらんなさい。散歩に行ってごらんなさい。男はみな右側を歩くということを知っています、出会うにしても、別れるにしても、彼も右側ですし、ぼくも右側です。ところが女ときたら、つまり貴婦人ですが――ぼくは貴婦人のことを言ってるのです――いきなりまともにこちらへ突っかかってきます、こっちの姿など眼中にないのです、こっちが必ずよけて、道をゆずらなければならぬものと、頭から決めてかかっているのです。そりゃぼくは、女は弱き者ですから、ゆずるつもりではいます、しかしどうしてそこに権利があるのです、どうして女は、ぼくがそうしなければならぬものと、信じこんでいるのです――それが癪《しやく》にさわるんです! ぼくは会うたびに腹の中でくそッと思ってきました。ところがそのくせ、自分たちは卑しめられているなどと叫んで、平等を要求するのです。こっちをふみつけにし、口の中へ砂をおしこんでおきながら、なにが平等です!」
「砂を!」
「そうですとも。なぜって、みだらな服装をしているからです。それに気がつかないのはみだらな男だけです。裁判所では、猥褻《わいせつ》な事件を審理するときは、扉《とびら》をしめます、ところが人々がもっともっと多い街頭で、どうして許されているのです? 女たちはそこの豊かさを見せるために、あからさまに腰にしっぽをくっつけています。あからさまにです! ぼくはそれに気がつかないわけにいきませんし、どの青年にしたってそうです。小学生だって、色気のつきだした男の子なら、目がいきます。実に卑猥《ひわい》です。まあ、狒狒爺《ひひじじい》なら目の保養で、舌をつきだしてあとを追っかけてゆくのもいいでしょう、が、守ってやらなければならない純真な若者たちもいるのです。まったく、唾《つば》でも吐きかけるほかはありません。しゃなりしゃなり遊歩道を流してゆく、一メートルもある引き裾《すそ》をひきずって、埃《ほこり》をかきたてて。うしろから行く者は、走って追いこすか、わきのほうへよけなければ、鼻やら口やらに二キロもの砂をおしこまれてしまう。おまけに、それは絹です、ただ流行のために、三キロも石の上をひきずって着破ってしまうんです、ところが亭主は元老院に勤めて年に五百ルーブリぐらいの俸給しかもらえない。だから賄賂《わいろ》ってことになるのです! ぼくはいつも唾を吐いてきたんですよ、わざと聞えよがしにペッと唾を吐いて、罵《ののし》りちらしてきたんです」
わたしはこの会話を、当時の風潮をまねて、幾分ユーモラスに書いてはいるが、しかしこの考えはいまも変ってはいない。
「それで、なんともなかったかね?」と公爵は好奇心を示した。
「ぼくは唾を吐いて、すぐそばを離れるんです。もちろん、相手は気がつきますが、そんな素ぶりも見せません、それこそ振向きもしないで、悠々《ゆうゆう》と歩いてゆきます。だが一度だけ、本気で罵倒《ばとう》したことがありました、どこの婦人か知りませんが、二人で、二人ともしっぽをひきずっていました、遊歩道でのことです――もちろん、きたない言葉でではなく、ただはっきりと、しっぽは無作法だ、と注意してやっただけです」
「そう言ったのかね?」
「もちろんです。第一、社会の約束をふみつけにしてるし、第二に、埃をたてます。遊歩道はみんなのものです。ぼくも通るし、誰も通るし、彼も通る、フョードルも、イワンも、みんな同じことです。まあこんなことをぼくは言ってやったわけです。それにだいたい、うしろから見て、女の歩き方をぼくは好きません。これも言ってやりましたが、でもこれはほのめかしただけです」
「きみ、きみ、そんなことをしたら大問題になったかもしれんぞ。だって、彼女たちはきみを治安判事のところへ突きだすことだってできたはずだからな」
「どうにもできませんよ。訴えたくても訴えようがありません、だって一人の男がそばを通りかかって、ひとりごとを言っただけですからね。誰だって自分の信念を空中に吐き出す権利をもっています。ぼくは彼女たちのほうを見ないで、抽象的に言ったまでです。彼女たちのほうがぼくにからんできたんです。罵りだしました、ぼくよりも、はるかにえげつない言葉をつかって、青二才だの、干ぼしにしたらいいだの、ニヒリストだの、警察に突きだすだの、弱い女たちだけだと思って、突っかかってきたが、もし殿方がいっしょにいたら、しっぽを巻いて逃げたろうだのと。ぼくは、そうぼくにからむのはやめなさい、と冷やかに言いすてて、道路の向う側へ移りましたが、去りしなに、『ぼくがあなた方のいう殿方を恐れていないことを、そして挑戦を受ける用意のあることを証明するために、二十歩ほどの間隔をおいてあなた方の家までついてゆきましょう、そして家の前に立って、殿方とやらの出てくるのを待ちましょう』と言ってやりました。そしてそのとおりにしたのです」
「まさか?」
「もちろん、ばかげたことです、でもぼくはかっかしていたのです。彼女たちは、じりじり照りつける中を、三キロの余もぼくをひきずりまわして、大学のそばまで来ると、木造の平屋建ての家に入りました――正直に言いますが、実に上品な家でした――窓から家の中を見ると、たくさんの花や、二羽のカナリヤや、三匹のスピッツや、額《がく》にはめられた銅版画などが見えました。ぼくは家のまえの道の真ん中に三十分ほど立っていました。彼女たちは三度ほどそっとのぞいて、しまいにカーテンをぜんぶ下ろしてしまいました。やがて耳門《くぐり》から官吏風の中年の男が出てきました。見ると、寝ていたのを無理に起されたようなようすで、部屋着ともいえないが、なにかこうひどく大ざっぱな服装でした。彼は耳門のところに立ちはだかると、両手を背に組んで、ぼくをながめはじめました、ぼくも――そちらを見やりました。彼はやがて目をそらすと、またすぐに目をもどして、不意ににやにやとぼくに笑いかけたのです。ぼくはくるりと背を向けて、立ち去りました」
「きみ、そりゃシルレルにでもありそうな光景じゃないか。わしはいつもおどろいておるのだが、きみは紅顔の美青年で、元気ではちきれそうな顔をしておりながら――どうして、いわば、そう女性というものをきらうのかね? きみの年齢で、女にある感銘をあたえられないなどということが、ありえないのだがねえ! わしなぞは、mon cher(きみ)、十一のときにすでに、夏、公園の女神の彫像をしげしげと見すぎるといって、家庭教師に注意されたものだよ」
「あなたは、ぼくがここのジョセフィンとかいう女のもとへ通って、逐一報告に来るのを、えらくお望みなのでしょう。無意味ですよ、ぼくだってまだ十三のとき女の裸を見たんです、一糸もまとわぬ素ッ裸を。それ以来吐き気を感じるようになってしまったのです」
「ほんとうかね? だって、cher enfant(かわいい坊や)、美しいみずみずしい女はりんごの匂《にお》いがするよ、吐き気なんてとんでもない!」
「ぼくはもとトゥシャールの寄宿学校にいましたが、中学に行くまえです、そのころラムベルトという友だちが一人いました。彼はいつもぼくをいじめて、三つも年上だったせいですが、それでぼくは彼に奴隷みたいに仕えて、長靴までぬがせてやったものでした。彼が堅信礼(訳注 一定の年齢に達した男女が教会で聖餐を受ける儀式)を受けに行ったとき、リゴというカトリックの僧院長が来て最初の聖餐《せいさん》を授けたのですが、二人は涙を流して互いに首を抱き合い、そしてリゴ僧院長がいろいろと姿勢を変えて、もの狂おしく彼を胸に抱きしめはじめたのです。ぼくも泣きました、そしてひどく嫉妬《しつと》を感じたものでした。そのうちに父が死んで、彼は寄宿学校を退いたのですが、ぼくはそれっきり二年というもの会わないで、二年後にひょっこり街で会いました。彼はぼくのところを訪《たず》ねると約束しました。そのころはぼくはもう中学に行っていて、ニコライ・セミョーノヴィチの家に下宿していました。彼は朝やって来ると、五百ルーブリの札束を見せて、ぼくにいっしょに来いというのです。彼は二年まえもさんざんぼくをいじめてはいましたが、いつもぼくを必要としていたのです。長靴をぬがせてもらうためばかりではありません。彼はなんでもぼくに打明けていたのです。彼が言うのには、この金は合い鍵《かぎ》をこしらえて母の手文庫から盗みだしたのだ、だって父がのこした金は法律によって全部おれのもので、母はよこさないなんてことはできないはずだ、ところで昨日、僧院長のリゴがおれに説教をたれに来やがって――部屋に入ると、おれのまえに突っ立って、泣き声をたてたり、恐ろしそうな顔をしたり、両手を天にさしのべたりしだしたので、おれはナイフを引抜いて、どてッ腹に風穴をあけてやるぞ、と言ってやった、などとひどく荒っぽい言葉で言ったのです。ぼくたちはクズネツキー街へ出かけました。途々《みちみち》彼はぼくに、おれのおふくろはリゴ坊主とひっついてやがるのさ、おれは現場を見たんだよ、なにもかも唾を吐きかけてやらア、聖像だのなんだのとぬかしやがって――みなこけの皮さ、などと言うのです。彼はさらにいろんなことを言いましたが、ぼくは恐ろしくなりました。クズネツキー街で彼は二連発の銃と、獲物袋と、実弾と、乗馬|鞭《むち》と、それから菓子を五十グラムほど買いました。ぼくたちは郊外へ鉄砲撃ちに出かけました、そして途中で籠《かご》を下げた鳥屋に出会って、彼はカナリヤを一羽買いました。林の中へ入ると、彼はカナリヤを放しました、カナリヤは籠に入っていたので遠くへ飛ぶことができません、だからそれを狙《ねら》って撃とうというのです。撃ったが、あたりません。彼は生れてはじめて鉄砲を撃ったのです、鉄砲はまえまえから、まだトゥシャールの寄宿学校にいたころから、買いたいと口癖のように言っていたもので、ぼくたちのあこがれの的だったのです。彼はそれこそ嬉《うれ》しくてたまらないようすでした。髪はおそろしいほど真っ黒で、白い顔がまるで面でもかぶったみたいに赤くなり、長い段鼻がフランス人みたいで、歯が白く、目が真っ黒に光ってるのです。彼はカナリヤを糸で小枝につなぎ、五センチほどの距離から二発ぶっ放したからたまりません、カナリヤは無数の羽毛になってふっ飛んでしまいました。それからぼくたちはホテルへ寄って、部屋をとり、料理を食べたり、シャンパンを飲んだりしはじめました。女が一人来ました……おぼえていますが、ぼくはその女のけばけばしい服装にびっくりしてしまいました、緑色の絹の衣裳でした。そこでぼくはあれをすっかり見たのです……あなたに話したあれをです……それがおわると、ぼくたちはまた飲みはじめて、彼は女をからかったり、なぶったりしだしました。女は裸で坐っていました。彼が衣裳をはぎとってしまったのです、そして女がやりかえして、服を着るからかえしてくれと言いだすと、彼はいきなり力まかせに女の裸の肩を鞭でひっぱたきました。ぼくは立ち上がって、彼の髪をつかんで引っぱると、それが実にタイミングがよくいって、彼はみごとに床にひっくりかえりました。彼はフォークをつかむと、ぼくの太腿《ふともも》に突き立てました。そのとき悲鳴で人々がかけこんできたので、ぼくは逃げだすことができたのです。そのとき以来ぼくは女の裸を思い出すと吐き気がするようになったのです。ほんとにしないかもしれませんが、美しい女でした」
わたしの話が進むにつれて、公爵の顔のいたずらっぽい表情がひどく悲しげな表情に変っていった。
「Mon pauvre enfant!(かわいそうに!)、わしはいつも思っていたよ、きみはきっと子供のころにずいぶん不幸な目に会ったのだろうとな」
「どうか、心配なさらないでください」
「だが、きみは孤独だった、きみが自分で言ったとおりだ。そしてそのラムベルトとやらにしてもだ。それをきみは実にみごとにスケッチしてくれたが、そのカナリヤ、胸にとりすがって泣いたという堅信礼、そして、それから一年かそこらしかしないのに、その僧院長と母の情事を目撃する……おお、mon cher(きみ)、今日《こんにち》のこの子供の問題というものはただもう恐ろしいというほかはないよ。あの幼い子供たちが、かわいい金髪を波うたせて、無邪気に、嬉々《きき》としてとびまわり、明るい笑顔で、明るい目でこちらを見る――まるで天使か、すてきな小鳥のようだ、ところがその後……何年もたたぬうちに、あのまま育たないほうがよかったというようなことになるのだ!」
「公爵、あなたはなんて涙もろい人でしょう! まるであなたご自身にお子さんがあるみたいに。あなたにはお子さんがいないし、これからだってできっこないじゃありませんか」
「Tiens(そのことだが)」とたんに公爵の顔が一変した、「ちょうどアレクサンドラ・ペトローヴナがな――一昨日のことだが、ヘッヘッ! アレクサンドラ・ペトローヴナ・シニーツカヤだよ――たしか三週間ほどまえにきみもここで会ったはずだが――どうだね、その彼女が一昨日だしぬけにわしにむかって、つまりこっちがふざけて、いまわしが結婚しても、まず子供のできる心配はないだろうな、と言ったんだがね――するといきなりわしにむかって、しかもさも憎らしそうな顔をして、『とんでもございません、あなたならおできになりますよ、あなたみたいな人には、きっとできるんですから、しかも一年もたたないうちにもうできますから、見ててごらんなさい』と、こう言ったんだよ。へッへッ! そしてみんなどういうものか、わしが急に結婚しようとしている、と思いこんだんだな。しかしまあ、意地わるい言い方だが、どうだね――気がまわるじゃないか」
「気がまわって、腹がたちますね」
「でも、cher enfant(きみ)、そうなにもかも腹をたててばかりいちゃいかんよ。わしは人々の中で機転というやつをもっとも尊重するな、なにしろ目に見えて消え失《う》せつつあるからな、ところでアレクサンドラ・ペトローヴナの言ったことだが――ありゃほんとうかな?」
「な、なんと言われました?」とわたしはむきになった、「なにもかも腹をたててばかりは……たしかにそのとおりです! すべてのことをいちいち気にするにはあたらない――これこそ実にすばらしい法則です! まさにこれがぼくには必要なのです。ぼくはこれを書きとめておきます。公爵、あなたはときどき実にいいことをおっしゃいます」
公爵はとたんに、さっとはれやかな顔になった。
「N'est-ce pas? Cher enfant,(そうだろう? きみ)、ほんとうの機知というものは、いよいよ先細りだよ。Eh, mais ...... C'est moi, qui connait les femmes!(ところで……わしは女というものを知っとるんだよ)いいかな、きみ、女どもの生活というものは、たといどんなきれいごとを並べてもだ、要は――誰に服従したらよいかということの永久の探求にすぎんのだよ……いってみれば、服従の渇望というやつだな。おぼえておきたまえ、きみ――一人の例外もなしにだよ」
「まったくそのとおりです、まさに至言です!」とわたしは狂喜して叫んだ。ほかのときならわたしたちはたちまちこのテーマについて、まず一時間は、哲学的思索にふけるところだが、不意にわたしはなにかに噛まれたような気がして、さっと赤くなった。わたしが彼の警句をほめたのは、金をもらう下心があって彼の機嫌《きげん》をとっているのではないか、そしていま金のことをきりだしたら、彼はきっとそうとるにちがいない、こうわたしには思われたのである。わたしはふくむところがあって、ここにそのことを言っておきたい。
「公爵、まことに恐れ入りますが、あなたからもらえるはずのぼくの今月分の俸給五十ルーブリをいまいただきたいのですが」とわたしはみっともないほどいらいらして、一気に言ってのけた。
おぼえているが(この朝のことはどんな些細《ささい》なことまですっかりおぼえているからだ)、わたしたちのあいだにはそのとき、その現実的な正しさという意味において、実に醜悪きわまるシーンがもちあがったのである。公爵ははじめわたしの言った意味がわからないで、しばらくぽかんとわたしを見ていた。わたしがどんな金のことを言っているのか、彼にはわからなかったのである。わたしが俸給をもらうなどと、彼が考えもしなかったのは当然である――だって、なにに対する俸給なのだ? もっとも、公爵はしばらくすると事情を察したらしく、うっかり忘れていたなどと言い訳をはじめて、あわてて五十ルーブリをとりだしたが、そわそわして、顔が真っ赤になった。事の真相を見てとると、わたしは立ち上がって、いまは金を受取るわけにはいかない、俸給のことは、おそらく、まちがったか、あるいは、わたしにことわらせないためにうそをついて、わたしに告げられたにちがいない、勤めらしい勤めをしていないのだから、俸給をもらう理由のないことが、これではっきりわかった、ときっぱり言明した。公爵はびっくりして、きみは実によく勤めてくれたし、これからももっともっと勤めてもらいたいと思っているし、五十ルーブリでは少なすぎるから、もっとふやしてやらなければと思っている、だってそれ以上のことをしてもらっているのだし、自分でタチヤナ・パーヴロヴナと約束しておきながら、うっかり忘れていたとはまったくもって許しがたいことだ、などとくどくどと言い訳をはじめた。わたしはかっと熱くなって、二人のしっぽを下げた婦人を大学のそばまで追っていったなどという愚にもつかぬ話をして俸給をもらうのは屈辱だ、わたしはあなたのおとぎ役としてではなく、しごとをするために雇われたのだから、しごとがないのなら、やめるのが当然だ等々と、きっぱりと宣言した。こうしたわたしの言葉を聞いたあとの、公爵のおどろきようといったら、人間がこれほどおどろけるものとは、わたしは想像もできなかった。結局は、わたしが反抗をやめ、彼がわたしの手に五十ルーブリをおしこむことで、けりがついたことは、言うまでもない。いまでもわたしは、それを受取ったことを、顔を赤らめずに思い出すことはできない! 世の中のことはいつも卑屈なことでけりがつくものである、そしてなによりもわるいのは、彼があのとき、わたしが文句なしにそれだけの勤めをしたということを、わたしにほとんど証明したような形になったし、わたしはわたしで愚かしくもそう信じ、しかもなんとしても受取らぬわけにいかなかったことである。
「Cher, cher enfant!(ねえ、親愛なきみ!)」と公爵はわたしに接吻《せつぷん》し、抱きしめながら、叫んだ(実を言うと、わたしもどういうわけかいまにも泣きだしそうになって、あわててやっとこらえたのだった、そしていまでも、これを書いていると、顔が赤らむほどだ)、「きみは、いまではわしの身内のような気がするよ。きみはこの一月《ひとつき》でわしの心の一部みたいになったのだよ! 『社交界』にはいわゆる『社交』があるだけで、そのほかはなにもない。カテリーナ・ニコラーエヴナ(彼の娘である)はすばらしい女で、わしは自慢にしとるが、あれはしばしば、きみ、まったくしょっちゅうといっていいほどだよ、わしを侮辱するんだ……それにあの娘たちや(elles sont charmantes(実にチャーミングだが))、その母親たちは、命名日の祝いには来るが――あれらはただ刺繍《ししゆう》のカンバスをもってくるだけで、自分からはなんの話もできないんだよ。わしのところにはクッションが六十もできそうなほどあれらのつくった刺繍があるが、どれもこれも犬と鹿の模様ばかりだ。わしはあの女たちは大好きだが、しかしきみはまるで身内みたいなのだよ――それも息子じゃなく、弟みたいだ、そしてきみが反抗するときが、なんとも言えず好きなんだよ。きみは文学を解する、きみは本を読んでいる、きみは感激ということを知っている……」
「ぼくはなにも読んでいませんし、文学なんてぜんぜんわかりませんよ。ぼくはでたらめに読んだだけですが、この二年間はぜんぜん読んでません、これからも読まないつもりです」
「どうして読まないのだね?」
「ぼくには別な目的があるからです」
「Cher(きみ)……人生の終りになってわしみたいに、je sais tout, mais je ne sais rien de bon.(わしはなんでも知ってるが、いいことはなにも知らんのだよ)なんて自分に言いきかせるのは、悲しいことだよ。わしはなんのためにこの世に生きてきたのか、まったくわからんのだよ! だが……わしはきみにはほんとにありがたいと思ってる……だからわしはできることなら……」
彼はどうしたことか不意に言葉を切り、ぐったりして、考えこんでしまった。なにかショックを受けると(しかも、どういうわけか、しょっちゅうちょっとしたことでショックを受けるのだが)、彼はいつもちょっとの間、思考力の健全さを失って、自分をあつかいかねるようになるのだった。しかし、すぐにもとにもどるので、別に体にさわるようなことはなかった。わたしたちは一分ほどそのまま坐っていた。彼の下唇《したくちびる》は、ひどく分厚い唇だが、だらりと垂れていた……なによりもわたしをおどろかせたのは、彼が不意に自分の娘のことを、それもあまりにもあけすけに、言いだしたことである。むろん、わたしは神経のみだれのせいにした。
「Cher enfant(きみ)、わしがきみをきみなどと呼びすてにするのを、きみは怒ってはいないだろうね、そうだね?」不意に公爵はこんなことを言った。
「ちっとも。正直に言いますと、はじめ、しばらくは、いささか侮辱を感じて、あなたにもきみと言ってやろうかと思いましたが、すぐにばかなことだと気づいたのです。だって、あなたがわたしをきみと呼ぶのは、わたしをさげすむためじゃないと思ったからです」
彼はもう聞いていなかった、そして自分の訊《き》いたことも忘れていた。
「して、お父さんはどうしてるかね?」と彼は不意にもの思いにしずんだ目をわたしに上げた。
わたしは思わずぎくりとした。第一に、彼がヴェルシーロフをわたしの父と呼んだからだ――こんなことはこれまで一度もなかったことだ。第二に、これもこれまでになかったことだが、彼がヴェルシーロフのことを言いだしたからである。
「金もなくひっこもって、ふさぎこんでいますよ」わたしは短く答えたが、好奇心で顔がほてった。
「そう、金といえば。今日彼らの一件が地方裁判所で判決が下るはずだが、わしはセルゲイ公爵(訳注 モスクワのソコーリスキー)を待ってるんだよ、そのことでここへ来ることになっているんだ。裁判所からまっすぐここへ来ると言っていた。彼らにすれば運命の決するたいへんな日だ。なにしろ六万か七万の遺産だからなあ。むろん、わしは常々アンドレイ・ペトローヴィチ(つまりヴェルシーロフのことである)にも運の向くことをねがっていたし、まあ彼が勝つだろう、公爵たちのほうはまずどうにもならんな。これが法律というものだよ!」
「今日裁判所で?」とわたしはびっくりして叫んだ。
ヴェルシーロフがそれをすらわたしに知らせることを無視したという考えが、はげしくわたしの胸をうった。『してみると、母にも、誰にも言わなかったにちがいない』とわたしはすぐに思った、『なんという人間なのだ!』
「では、ソコーリスキー公爵がペテルブルグに来てるのですか?」と、不意に別な考えがわたしをおどろかした。
「昨日からな。わざわざ今日に間に合うようにと、ベルリンからまっすぐとんで来たんだよ」
これもわたしにとってはきわめて重大なニュースである。
『彼も今日ここへ来る、彼に頬打《ほおう》ちをくらわせたその本人が!』
「まあ、そんなことはどうでもいい」不意に公爵の顔の表情がすっかり変った、「あいかわらず神の宣伝をしおってからに、そして……おそらく、また娘たちを、まだ羽の生《は》えそろわぬ娘たちを追いまわしとるんだろう? ヘッヘッ! いまも実に傑作な逸話が生れかけているんだよ……ヘッヘッ!」
「誰が宣伝するのです? 誰が娘たちを追いまわすのです?」
「アンドレイ・ペトローヴィチ(ヴェルシーロフ)だよ! 信じられんかもしれんが、彼はあのころわしらみんなに、うるさくつきまとって、なにを食べましょうか? なにを考えましょうか?――とまあ、ほとんどそうした意味のことを訊《たず》ねたものだ。おどかしたり、おはらいをしたりして、『宗教心があるなら、あんたはどうして修道院に行かないのだ?』なんてかみついて、ほとんど頭ごなしにきめつけたものだよ。Mais quelle idee!(しかしなんという考え方だろう!)正しいにしても、あまりにもきびしすぎるじゃないか? 特にわしを、誰よりもこのわしを、最後の審判をもちだしておびやかすのが好きでな」
「もう一カ月いっしょに暮してますけど、ぜんぜん気がつかなかったですね」わたしはじれったい思いで聞き入りながら、こう答えた。彼がいっこうにもとにもどらないで、こんなふうにとりとめのないことをぼそぼそ言っているのが、わたしにはいまいましくてならなかった。
「それは、きみ、いまはそんなことを言わないだけのことで、ほんとに、あのころはそうだったんだよ。頭がよくきれる男で、教養も深いことは、言うまでもないが、しかしあれが正しい頭脳といえるだろうか? これはみな三年の外国生活の後に、彼の身に起ったことなんだよ。そして、正直のところ、わしはひどいショックを受けたものだよ……みんながショックを受けた……Cher enfant, j'aime le bon Dieu……(そりゃきみ、わしは神を愛するよ……)わしは神を信じている、できるかぎりの力で信じているさ、だが――あのときは完全にわれを忘れたな。そりゃ仮にだよ、わしのとった態度が軽率だったにしてもだ、でもあれはわしが故意にやったことなんだよ、腹だちまぎれにさ――それにわしの反論の本質は、開闢《かいびやく》以来かわることない、実に厳粛きわまるものだった。わしはこう言ってやったのさ、もし至高の存在というものがあり、それがなにか被造物のうえにみなぎる精気とか、液体とかの形ではなく(それならなおのことわかりにくい)、人間の形で存在するとしたら――それはいったいどこに住んでいるのだ? とな。きみ、c'etait bete(これはばかげたことさ)、そりゃいうまでもない、しかし、そうはいっても反論はすべてここに帰着するんだよ。Un domicile(住んでいる所)――これが重大な問題だよ。彼は烈火のごとく怒ったねえ。彼はあちらでカトリックに宗旨替えをしたんだよ」
「その思想のことはぼくも聞きました。おそらく、でたらめでしょう」
「世のあらゆる聖なるものにかけてきみに断言するよ。彼をよく観察してみたまえ……しかも、きみも言ってるじゃないか、彼が変ったと。まあ、あの当時は、わしらはずいぶん悩まされたものだよ! 信じられぬかもしれんが、彼はまるで聖者みたいにぐっとかまえて、奇蹟《きせき》によって彼の遺体がよみがえったのだなどと言うんだよ。そして、わしらに行動の報告を要求したものさ、ほんとうだよ、きみ! よみがえれる遺体! En voila une autre!(考えたものさ!)まあ、修道僧とか苦行者ならまだしも――ちゃんとフロックなんぞ着こんで、それ相応のりっぱなものを身につけた人間がだよ……だしぬけによみがえれる遺体ときたものだ、恐れ入ったねえ! 社交界の人間にしては奇妙な望みだし、正直に言って、趣味がよくないよ。わしはなにも言わないがね、むろん、それはみな神聖なことで、どんなことだってありうることだし……おまけに、それはみな de l'inconnu(未知の世界)のことだからな、とはいえ社交界の人間としてはまあ不謹慎なことと言っていいだろうな。もしまかりまちがってわしの身にそんなことが起るか、あるいは人にすすめられたとしても、わしはことわるだろうな。だって、きみ、どうだね、わしが今日クラブで食事をしていて、突然――よみがえれる遺体となる! まったく笑いものになるだけさ! こういうことはあのとき彼に言ったんだがね……彼は苦行の鉄鎖をつけていたんだよ」
わたしは憤怒のあまり真っ赤になった。
「あなたは自分でその鉄鎖を見たのですか?」
「自分では見なかったが、でも……」
「では、あなたにはっきりと言いますが、それは全部――うそです、忌むべき奸計《かんけい》の捏造《ねつぞう》です、敵どもの中傷です、といっても一人の敵、最大の、もっとも非人間的な一人の敵のやったことです、というのは彼には敵は一人しかいないからです、そしてそれは――あなたの娘です!」
今度は公爵が激昂《げつこう》した。
「Mon cher(きみ)、わしはきっぱりきみにことわっておくが、今後わしのまえでこの忌まわしい事件と並べてわしの娘の名を出すことはぜったいにやめてもらいたい」
わたしは立ち上がった。公爵はわれを忘れた。下顎《したあご》がわなわなとふるえた。
「Cette histoire infame!(あのけがらわしい事件!)……わしは信じなかった、ぜったいに信じたくなかった、だが……信じろ、信じろ、と言われて……わしは……」
そのとき不意に侍僕が入ってきて、来客を告げた。わたしはまた自分の椅子に腰を下ろした。
二人の婦人が入ってきた。二人ともまだ独身の娘で、一人は――公爵の亡《な》くなった夫人の従兄《いとこ》の養女か、あるいは養女でないまでもなにかそうした類いで、やはり公爵の扶養を受けた娘で、すでに公爵から持参金の分け前をもらっており、そのうえ(これは今後のことがあるのでことわっておくが)自分でもかなりの金をもっていた。もう一人は――アンナ・アンドレーエヴナ・ヴェルシーロワといって、ヴェルシーロフの娘で、わたしより三つ年上で、兄といっしょにファナリオートフ家に暮していて、わたしはこれまでにたった一度、それも街で、ちらと見かけただけだった。もっともその兄とも、一度ちらとしか会ったことがないが、彼とはすでにそのときモスクワで衝突をやらかしていた(おそらく、この衝突についてはあとでふれることと思うが、それもその余地があったらのことで、実際には語るに足らぬことなのである)。このアンナ・アンドレーエヴナは幼いころから公爵の特別のお気に入りだった(ヴェルシーロフと公爵の交際はずいぶん遠い昔からのことなのである)。わたしは今しがたのできごとにすっかり心がみだされていたので、二人の娘が入ってきたのを見ても立ち上がりもしなかった。かえって公爵のほうが先に立ち上がって彼女たちを迎えたのである。そのためにわたしは、いまさら立ち上がるのが恥ずかしくなって、そのまま坐っていた。ありていは、三分ほどまえに公爵にあれほどどなられたので、すっかり面くらってしまって、去ったものかどうかと、決しかねていたのである。ところが老人は、いつものように、もうすっかり忘れてしまって、娘たちを見てすっかりにこにこ顔になっていた。彼はたちまち顔の表情を変えて、なにか意味ありげにわたしに目配せしながら、彼女たちが入ってくるまえに、早くもこうわたしにささやいたほどだった。
「オリムピアーダをごらん、ようくごらん、ようくな……あとで話してあげるから……」
わたしは彼女をかなり注意して見つめたが、別に変ったところは認められなかった。それほど背丈《せたけ》は高いほうではなく、まるまるとふとって、ひどく頬の赤い娘だった。顔は、しかし、見た目にかなり快く、唯物主義者の気に入りそうな類いだった。人のよさがあらわれているらしいが、しかし陰影《かげ》があった。際《きわ》だった理知のひらめきは見られなかったが、それも高い意味のというだけのことで、人並みのずるさはその目にあらわれていた。年齢は十九を出ていまい。要するに、目をみはるものはなにもない。わたしたちの中学校で、クッションと綽名《あだな》していたあの類いだ。(わたしがこの娘をこんなに詳しく描写したのは、ひとえに、あとになってこれが必要になるからという、ただそれだけの理由からである)
そう言えば、これまで書いてきたことすべてが、ちょっと見るといかにも要《い》りもしないことをごたごたと書き並べてきたようだが――それがみな今後につながって、そこで必要になるのである。みなそれぞれの位置に来れば鳴りだす性質をもっているもので、避けて通るわけにはいかなかったのである。だが、もし退屈ならば、読まずにとばしていただきたい。
ヴェルシーロフの娘はそれとはまったくちがっていた。背丈が高く、むしろほっそりしたほうで、顔は面長で、気になるほど蒼白《あおじろ》いが、髪は漆黒《しつこく》で、豊かで、目は黒く、大きく、深いまなざしで、唇は真っ赤で、小さくて、みずみずしい口をしていた。その歩きぶりがわたしに嫌悪感《けんおかん》をあたえなかったはじめての女である。とはいえ、細くて、すこしぎすぎすしていた。顔の表情はいちがいに善良そうだとはいえないが、人を威圧するようなところがあった。年齢は二十二である。顔の線はどの一つをとってもまるでヴェルシーロフと似たところはなかったが、それでいて、どういう奇蹟が然《しか》らしめるのか、顔の表情には異常なまでに似通ったところがあった。彼女が美人といえるかどうか、わたしは知らない。それは各人の好みである。二人ともひどくつつましやかな服装をしていた、だからそれはここに紹介するまでもない。
わたしは、とっさにヴェルシーロワから目つきか動作で侮辱をあたえられるものと覚悟して、その心構えをした。彼女の兄はモスクワで、生れてはじめて出会ったその瞬間に、わたしを侮辱したのである。彼女はわたしの顔を知るわけがなかった、しかし、わたしが公爵のもとに勤めていることは、もちろん、聞いていた。公爵が考えたり、したりすることは、ことごとく、彼の親戚や『分け前を期待』しているこれら一群の人々のあいだに、すぐに興味をかきたて、たいへんな事件となった――まして彼が突然わたしを偏愛しだしたのだから、その騒ぎは推して知るべしであった。わたしは、公爵がアンナ・アンドレーエヴナのことに特に関心をもって、その婿《むこ》をさがしていたことを、よく知っていた。ところが、ヴェルシーロワの婿をさがすことは、かなり厄介なことで、カンバスに刺繍をしているような娘たちのようなわけにはいかなかった。
さて、わたしの期待に反して、ヴェルシーロワは、公爵の手をにぎって、二言三言にこやかに社交上のあいさつを交わすと、異常な好奇心をうかべてわたしを見た。そして、わたしも彼女を見ているのを見ると、不意ににっこり笑って、わたしに会釈したのである。もっとも、彼女は部屋に入ってきたばかりで、新来の客として会釈したのだが、それにしても微笑にはこぼれるばかりの善意があふれていて、そこには明らかに心の用意があった。そして、忘れもしないが、わたしは常になく快い感じをおぼえたのだった。
「こちらは……こちらは――わしの愛する若き友アルカージイ・アンドレーヴィチ・ドル……」彼女がわたしに会釈したが、わたしがあいかわらず坐ったままなのを見て、公爵はどもりがちにこう言いかけて――不意に口ごもった。もしかしたら、わたしを彼女と引合せることに、とまどったのかもしれない(ともあれ、実際には、弟と姉なのである)。クッションもわたしに会釈をした。ところがわたしは、なんという愚かしさか、不意にかっとなって、椅子を蹴って立ち上がった。わざとらしい、まるで無意味な誇りの発作である。なにもかもけちな自尊心のなせる業《わざ》なのである。
「失礼ですが、公爵、ぼくは――アルカージイ・アンドレーヴィチではありません、アルカージイ・マカーロヴィチです」とわたしは鋭く切りこむように言った、そして婦人たちに会釈をかえさなければならぬことなどは、すっかり忘れていた。ああ、悪魔よどこかへもち去ってくれ、この無礼きわまる一分間を!
「Mais……tiens!(あっ……そうか)」と公爵は指で自分の額をポンとはじいて、大きな声を出した。
「あなたどこの学校をお出になりまして?」まっすぐにわたしのほうへ歩みよってきたクッションの愚かしい、間のぬけた質問が、わたしの頭の上に聞えた。
「モスクワです、中学校です」
「あら! あたし聞いたことがありましたわ。いかがでした、あちらの教え方は?」
「ひじょうにいいです」
わたしは突っ立ったまま、まるで上官に報告する兵卒みたいに答えた。
この娘の質問は、むろん、気がきいたものではなかったが、それでも、彼女はこうしてわたしの愚かな行為をぼかし、公爵の気まずさをやわらげようとしたのだった。公爵のほうはもうにやにや笑いながら、ヴェルシーロワがなにやらおもしろそうなことを耳もとにささやくのを聞いていた――どうやら、わたしのことではなさそうだった。しかし、いったいなぜ、わたしのまったく知らないこの娘が、わたしの愚かな行為と、それにともなう不快な空気をもみ消そうとしたのか? これもわからないが、さればといって、彼女は意味もなくただわたしに対してこういう態度をとったとも思われなかった。そこにはある意志がはたらいていたのである。彼女はあまりにも興味ありげにわたしを見すぎた、あたかもわたしにもできるだけよく見てもらいたいと望むかのようであった。これはわたしがあとになってから思いあわせたのである、そして――まちがってはいなかった。
「なに、今日だって?」公爵は椅子からがばと身を起すと、いきなりこう叫んだ。
「あら、おじさまご存じなかったの?」とヴェルシーロワはびっくりした。「Olympe(オリンプ)! カテリーナ・ニコラーエヴナが今日来るのを、公爵はご存じなかったんですって。あたしたちあの方を訪ねてきましたのよ、朝の汽車ですもの、もうとっくにこちらにお着きになっていると思って。ところが今しがた玄関にお着きになったところでしたの、すぐ行くから、あたしたちにおじさまのところへ行ってるようにっておっしゃって……あら、お見えになったわ!」
横のドアが開いた、そして――あの女が現われた。
わたしは公爵の書斎にかかっているみごとな肖像画でもう彼女の顔を知っていた。この一カ月のあいだわたしはその肖像画を綿密に研究してきたのである。彼女が現われてからわたしは書斎に三分ほどいたが、そのあいだに一瞬も彼女の顔から目をはなさなかった。しかし、もしわたしが肖像画を知らないで、この三分ののちに『彼女はどんなか?』と訊《き》かれたら、わたしはなんとも答えられなかったろう。わたしの頭はすっかりもやにつつまれてしまったのである。
わたしがこの三分間でおぼえていることといったら、目のさめるような美しい婦人に公爵が接吻をあたえ、右手で十字を切ってやったことと、その婦人がいきなり――入ってくるとすぐに――きっとわたしを見たことだけである。わたしは、公爵が明らかにわたしをさして、ちらと妙な笑いをうかべながら、新しい秘書がどうとかつぶやいて、わたしの姓を口に出したのを、はっきりと聞きとった。彼女はちょっと顔をゆがめて、汚らわしそうにちらとわたしに目をくれると、いかにも小ばかにしたようにふふんと笑った、それでわたしは思わず一歩公爵のほうへ踏み出し、体中をがくがくふるわせながら、歯ががちがち鳴っていたらしく、一言も語尾まではっきり言いきらずに、こうつぶやいた。
「あれからぼくは……いましごとがありますので……これで帰ります」
そして、くるりと向き直ると、わたしは部屋を出た。誰も、公爵さえも、わたしに一言も言葉をかけなかった。みなただ目をみはっていただけだった。公爵があとでわたしに語ったところによると、わたしの顔があまりにも蒼白《そうはく》だったので、『ただもうぎょっとしてしまった』ということである。
なに、仔細《しさい》はない!
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第三章
たしかに仔細《しさい》はなかった。もっと高い考えがいっさいの些細《ささい》なものを呑《の》みつくしてしまった、そして一つの強力な感情がすべてのものに代ってわたしを満足させたのである。わたしはおどりだしたいような気持で外へ出た。通りへ出ると、歌が口から出そうになった。おあつらえむきに、すばらしい朝だった。太陽、通行人、騒音、活動、喜び、群衆。どうしたというのだ、いったいあの女はわたしを侮辱しなかったのか? あの女でなかったら、あのような視線とあのような高慢な冷笑を、このわたしが、直ちに抗議を、よしんばそれが愚劣きわまるものであろうと――そんなことはどうでもいいのだ――たたきつけることなく、がまんしたであろうか? 忘れてならぬのは、彼女が来たのは、まだ一度も見たことのないわたしを、早いところ追いおとすためなのだ。彼女から見ればわたしは『ヴェルシーロフの廻し者』なのだ、そして彼女はあのときも、かなりの年月がすぎた今でも、ヴェルシーロフが彼女のすべての運命をにぎっている、そしてその気になれば、直ちに彼女を破滅させる手段、一通の文書という手段をもっている、と確信しているのだ。少なくとも彼女はその疑念をいだいていた。これは生命を賭《と》した決闘であった。だから――わたしは侮辱されなかったのだ! 侮辱はあった、だがわたしはそれを感じなかった! どこに! わたしはむしろ喜んだほどだ。わたしは彼女を憎むためにやって来て、かえって愛しはじめているのを感じたほどだ。『くもが捕えようと狙《ねら》いをつけた蠅《はえ》を憎むことができるものかどうか、ぼくは知らない。かわいい蠅! 誰でもその生贄《いけにえ》は愛するものらしい。少なくとも愛することはできる。だからぼくもこうしてぼくの敵を愛するのだ。たとえば、彼女があれほど美しいのが、ぼくは嬉《うれ》しくてたまらない。奥さん、あなたがあれほど高慢で尊大なのが、ぼくは嬉しくてたまらないのだ。もしもあなたがもっと謙虚だったら、ぼくはこれほどの満足を感じなかったろう。あなたはぼくに唾《つば》を吐きかけた、だがぼくは勝利に酔っている。もし仮にあなたが実際にほんものの唾をぼくの顔に吐きかけたとしても、うそじゃなく、ぼくはおそらく怒らなかったろう、なぜならあなたは――ぼくの生贄だからだ。ぼくのだ、彼のではない。この考えはなんと魅惑的なことか! そうだ、力のひそかな自覚は露骨な虚勢よりも堪《た》えられぬほど快いものだ。もしぼくが百万長者だったら、ぼくはおそらくすりきれた古い服を着てそこらを歩きまわり、物乞《ものご》いをしかねない実にあわれな人間に見られ、突きとばされたり、さげすまれたりすることに、言い知れぬ快感を味わったことだろう。ぼくには自覚だけで十分なのだ』
あのときのわたしの考えと喜びを、わたしが感じたことのあらましを、わたしはこのような表現で伝えたいと思う。ただひとつつけくわえておきたいのは、ここにこうして書かれてみると、なにか軽薄な調子があるが、実際にはわたしはもっと深く、そしてもっとしおらしかったということである。もしかしたら、わたしはいまでも、わたしの言葉や行動にあらわれるよりも、本心はもっとしおらしいのかもしれない。そうありたいものである!
もしかしたら、こんなものを書きだしたことが、大きな失策かもしれない。言葉にあらわれるものよりも、心の中にのこっているもののほうがはるかに多いのである。あなた方の考えというものは、たといそれがつまらないものでも、あなた方の内部にあるあいだは――常に深いが、言葉に出ると――いくぶん滑稽《こつけい》な、真味のうすいものとなる。忌まわしい人間にかぎってまるでその反対なことがある、とヴェルシーロフがわたしに言った。彼らはうそばかりついているから、どうってことはないのだ。だがわたしは真実のみを書こうとつとめている。これはおそろしくむずかしいことだ!
この十九日にわたしはもう一つの『一歩』をふみだした。
こちらへ来てからはじめてわたしのポケットに金が入った、というのは二年かかって貯《た》めた六十ルーブリは母に渡してしまったからで、このことはまえに述べたとおりである。ところでもう数日前にわたしは、俸給をもらった日に、かねてから空想していたある『試み』を実行することを、心に決めていた。わたしは昨日のうちに新聞から一つのアドレスを切り抜いておいた――それは『セント・ペテルブルグ調停裁判所執達吏某』その他の名で、『今九月十九日正午十二時よりカザン区某街某番地某々邸においてレブレヒト夫人所有の動産を競売に付す』という公告で、『品目、価格および現品は競売当日に閲覧に供する』云々《うんぬん》ということが報じてあった。
もう一時をすこしまわっていた。わたしは徒歩でその場所へ急いだ。これでもう辻馬車《つじばしや》に乗らなくなってから三年目だ――こう自分に誓ったのだ(さもなければ六十ルーブリも貯められるわけがない)。わたしはまだ一度も競売の場に行ったことがなかった、わたしはまだそれを自分に許さなかったのである。そして今のわたしの『一歩』はほんの試験的なものにすぎないとはいえ、しかしわたしはこの一歩に走ることを、中学校を出て、みんなと絶縁し、自分の甲羅《こうら》にこもり、完全に自由になったときに、はじめて自分に許そうと決めていたのだった。もっとも、わたしはまだ決して『甲羅』にもぐってはいなかったし、自由にはほど遠かった。だからこそ、この一歩をただ試験という形ですることに決めたので――ただ見るだけで、ほとんど頭の中にちょっと描いてみるだけのようなもので、今後はもう長く、おそらく、真剣に取組みはじめるそのときまで足を向けることはあるまい。ほかの人から見ればこんなものは小さなばかばかしい競売にすぎないであろうが、わたしにしてみれば――コロンブスがアメリカ発見に乗っていった船を造るときの、最初に置かれた一本の丸太なのである。これがわたしの気持であった。
その場所に着くと、わたしは公告に表示された邸宅の奥深い庭を通って、レブレヒト夫人の住居に入った。住居は玄関の間と小さな天井の低い四つの部屋から成っていた。玄関の間のつぎのとっつきの部屋にたくさんの人が集まっていた。三十人ほどもいたろうか。彼らの半数は競《せ》っている人々で、あとの半数は、見たところ、あるいは野次馬か、あるいは好き者か、あるいはレブレヒト夫人の意を受けた者たちだった。商人たちもいたし、金製品に目のないユダヤ人たちもいた。また身なりのりっぱな人も何人かまじっていた。この紳士方の何人かの顔はわたしの記憶に強く焼きついたほどだった。右手の開け放された扉口《とぐち》には、ちょうどドアの間にテーブルが一つ置かれていて、そちらの部屋へ入られないようになっていて、そこに競売の品々が置いてあった。左手にもう一つ部屋があったが、ドアは閉ざされていたが、しょっちゅう細目にあけられて、そこから誰かの目がこちらをのぞいているのが見られた――きっと、レブレヒト夫人のたくさんいる家族の誰かで、当然、ひどく恥ずかしい思いをしていたにちがいない。ドアの間のテーブルの向うには、胸に徽章《きしよう》をつけた執達吏がこちらを向いて坐っていて、競売の進行をつとめていた。わたしが着いたときはもう半ばすぎていた。わたしは入るとすぐに――テーブルのそばへ割りこんだ。青銅の燭台《しよくだい》が競《せ》りにかけられていた。わたしはながめはじめた。
わたしはながめながら、すぐにこう思った。いったいなにをわたしはここで買えるだろうか? 青銅の燭台をいったいどこに置くつもりなのだ? それに目的は達しられるだろうか? 事はこんなふうにおこなわれるものなのか? そしてわたしの目算は成功するだろうか? わたしの目算は幼稚なものではなかったか? わたしはこんなことを考えながら、待っていた。それはちょうど賭《と》博台《ばくだい》のまえに立って、まだカルタは投げてはいないが、投げようとしかけて、『投げたきゃ投げるがいいし、去りたきゃ去るがいい――どうともおれの心一つだ』といったあの気持に似ていた。まだ胸はどきどきしないが、なんとなくすこしじーんとして、わずかにふるえる――ちょっと快い感じである。しかしこのためらいがたちまちきみを苛《いら》だてはじめる、そしてきみは目がくらんだみたいになって、つと手をのばし、カルタをつかむ、が、機械的で、ほとんど意志にさからって、誰かがきみの手をつかんでひっぱったような感じである。ここにいたって、きみは腹を決め、カルタを投げる――これはもうまるでちがう、ぐっと力強い感じである。わたしは競売のことを書いているのではない、自分の感じを書いているだけである。他の者なら競売で胸がときめくかもしれない!
興奮している者もあった、黙って待っている者もあった、買って後悔している者もあった。一人まちがえて、よく聞きもしないで、銀と思って白銅の牛乳入れを、せいぜい二ルーブリぐらいなのを五ルーブリも出して買ってしまった男がいたが、わたしはすこしも気の毒とは思わなかった。かえってひどく楽しい気持にさえなってきた。執達吏はつぎつぎと変化をつけて品物を出した。燭台のつぎには耳輪が現われ、耳輪のつぎは刺繍《ししゆう》のあるモロッコ皮のクッション、そのつぎは貴重品用の手箱というぐあいで――どうやら目先を変えるためか、あるいは買手の要求を読んでのことらしかった。わたしは十分とがまんしていられなかった。クッションに手を出しかけ、つぎには貴重品用の手箱に気がうごきかけたが、いざとなると不発におわった。そんなものを手に入れても始末にこまると思われたのである。そのうちに、執達吏が一冊のアルバムをとり上げた。
『家庭用アルバム、赤いモロッコ皮の表紙、すこし古いが、水彩画と木炭画のスケッチがあります、彫り模様のある象牙《ぞうげ》のケースつきで、銀の閉じ金がついています――価格は二ルーブリ!』
わたしは身をのりだした。外見は優美だが、象牙の彫り模様に一カ所傷があった。わたしがまえに出てながめただけで、みんな黙っていた。競争相手がなかった。わたしは閉じ金をはずして、ケースからアルバムを出して、吟味することもできたわけだが、わたしはこの権利を行使せずに、ただふるえる手を振って、『どっちにしたって、同じことじゃないか』と考えた。
「二ルーブリ五コペイカ」とわたしは言った。どうやら、また歯がかちかち鳴ったらしかった。
アルバムはわたしの手におちた。わたしはすぐに金をとりだして、支払うと、アルバムをとって、部屋の隅《すみ》へ行った。そこでケースから出して、がたがたふるえながら、急いで調べはじめた。ケースはともかくとして、これは世にもお粗末な代物《しろもの》だった――小型の便箋《びんせん》ほどの大きさのアルバムで、薄っぺらで、天地の金箔《きんぱく》もはげていて――まさに昔女学校を出たばかりの娘が所持したようなアルバムだった。木炭画と水彩画で山上の寺院とか、キューピッドとか、池に浮ぶ白鳥などが描いてあって、つぎのような詩があった。
われは遠き旅路につきぬ、
モスクワと永遠に別れ、
親しき友と永遠に別れて、
クリミヤへの駅馬に乗りぬ。
(よくもそっくり記憶にのこっていたものだ!)『失敗した』と、わたしは思った。もし誰にも要《い》らないものといえば、まさにこれだ。『なにいいさ』とわたしは思った、『最初のカルタは負けるものと決っているじゃないか。むしろいい前兆だ』
わたしはすっかり楽しくなった。
「あっ、おくれたか、あなたがお持ちですね? あなたが落されたのですね?」不意にわたしのそばでこういう声がした。青い外套《がいとう》を着た、服装のりっぱな、押出しのいい紳士だった。彼はひとあしおくれたのである。
「おくれてしまった。ほんとに残念なことをしました! いくらで買いました?」
「二ルーブリ五コペイカです」
「まったく残念です! すみませんが、譲っていただけないでしょうか?」
「外へ出ましょう」と、わたしは胸をどきどきさせながら、彼にささやいた。
わたしたちは階段へ出た。
「十ルーブリでお譲りしましょう」と、背筋に冷たいものを感じながら、わたしは言った。
「十ルーブリ! とんでもない、なにを言うんです!」
「どうぞご随意に」
彼は目をまるくしてわたしを見まもった。わたしはいい身なりをしていたし、ユダヤ人や仲買人にはぜんぜん見えなかった。
「わたしの身にもなってください、それにこれは――古い粗末なアルバムじゃありませんか、こんなものが誰に必要なのです? ケースだって正直言ってなんの値打ちもないし、こんなもの誰に売るわけにもいかないでしょう?」
「あなたが買おうとしてるじゃありませんか」
「そりゃわたしは特別の事情があるからですよ、昨日はじめて知ったんです、こんなものをほしがるのはわたし一人ですよ! まったく、からかわないでください!」
「ぼくは実を言うと二十五ルーブリと言いたかったのですよ、でもそれではいくらあなたでも手をひく危険があると見たから、確実性のあるところでわずか十ルーブリと出したのです。一コペイカもひくことはできません」
わたしはくるりと向き直って、行きかけた。
「じゃ、四ルーブリにしたまえ」彼はもう庭へ出たわたしを追いかけてきた、「しかたがない、五ルーブリ出そう」
わたしは黙って、歩きつづけた。
「もうたのまん、とりたまえ!」彼は十ルーブリを突き出した。わたしはアルバムを渡した。
「しかし認めたまえ、これは不正行為ですぞ! 二ルーブリのものを十ルーブリとは――あ?」
「どうして不正です? 市場ですよ!」
「これがどんな市場だね?」(彼はかっとなった)
「需要があれば、市場がある道理ですよ。あなたに需要がなかったら――四十コペイカでも売れなかったでしょう」
わたしはまさかふきだすわけにもいかず、まじめくさった顔をしていたが、腹の中では哄笑《こうしよう》していた――嬉しくてたまらないというのでもない、自分でもなんのための笑いかわからないが、すこし息がはずんだ。
「まあ、お聞きなさい」わたしはどうにも自分を抑《おさ》えきれなくなって、しかし彼に親しみを感じ、ひどく好きになりながら、こう言いだした、「あのジェームス・ロスチャイルド(訳注 一七九二―一八六八。パリの大銀行家)ですね、このあいだ十七億フランの財産をのこして死んだ、パリの、ですね(彼はうなずいた)、彼はまだ若いころ、ベリー公暗殺の陰謀を偶然に人よりも何時間か早く知ったのですね、そこでいち早くそれをしかるべき筋に知らせたわけです、そしてただそれだけのことで、一瞬にして、数百万の金をせしめたというのです――これが世の中というものですよ!」
「じゃきみもロスチャイルドのまねをするのかね?」と彼はばか者を叱りとばすように、憤然としてわたしをどなった。
わたしは急いで家を出た。第一歩で――七ルーブリ九十五コペイカをもうけたのだ! この一歩は無意味なものであった、子供のあそびであった、それは認める、が、それはやはりわたしの思想に合致した、そしてわたしにきわめて深い興奮をあたえずにはおかなかった……しかし、その感情をくだくだと描写しても意味がない。十ルーブリはチョッキのポケットにおさまっていた。わたしは二本の指をさしこんでそれにさわった――そしてそのまま指をぬかずに歩いた。わたしは通りを百歩ばかり行くと、それをとりだしてみた、そしてしばらくながめたうえで、接吻《せつぷん》しようとした。そばの家の玄関前に不意に音高く一台の馬車がとまった。玄関番が扉を開けた。すると家の中から馬車に乗るために一人の婦人が出てきた。絹とビロードの衣裳《いしよう》に装いをこらして、一メートル半ほどの引き裾《すそ》をひいた、華やかな、若い、美しい、上品な婦人だった。不意にしゃれた小さなハンドバッグがその手からすべって、ぱたりと石畳におちた。彼女はそのまま車中の人となった。従者が拾おうとして身をかがめたが、わたしはそれより早く走りよると、さっと拾い上げて、帽子を軽くもちあげて会釈しながら、それを彼女に渡した(帽子はシルクハットで、わたしは青年紳士らしいきちんとした服装をしていた)。婦人はつつましく、それでもきわめて快い微笑をうかべながら、『メルシイ、ムッシュー』と言った。馬車が音高く動きだした。わたしは十ルーブリ紙幣に接吻した。
わたしはこの日エフィム・ズヴェレフに会うことになっていた。これは中学時代の友人の一人で、中学をやめて、ペテルブルグのある高等専門学校に入っていた。彼自身のことについては特に書くほどの値打ちもないし、別に彼とはさして親交もなかった。だがわたしは彼をさがしあてた。それは彼が(これも語るまでもないいろいろな事情があって)クラフトの落着き先をすぐに知ることができるからだ。このクラフトというのはわたしにとってきわめて必要な男で、もうじきヴィルノ(訳注 リトアニアの首都)から帰ってくることになっていた。ズヴェレフが一昨日わたしに知らせてくれたところでは、今日か明日彼のところへ来るはずだというのである。ペテルブルグ区まで行かなければならなかったが、わたしはすこしも疲れを感じなかった。
ズヴェレフに(彼も十九歳だった)わたしは、彼が一時身を寄せていた彼の伯母の家の庭で出会った。彼は昼食を終えたばかりで、竹馬に乗って庭で腹ごなしをしていた。彼はすぐに、クラフトはもう昨日こちらに着いて、やはりペテルブルグ区の、もといた部屋におちついたが、彼もなにかぜひ伝えたいことがあるとかで、緊急にわたしに会いたがっている、とわたしに言った。
「どこかへまた行くらしい」とエフィムはつけくわえた。
現時点でクラフトに会うことが、わたしにとってはひじょうに重大なことだったので、わたしはすぐに彼の住居に連れていってくれるようにエフィムにたのんだ。それはここからはほんの目と鼻の先の、どこかの横町にあるということだった。ところがズヴェレフの言うのには、つい一時間ほどまえに彼に会ったが、彼はデルガチョフのところへ行った、というのである。
「だから、そのデルガチョフのところへ行こうや。なんだ、またか、煮えきらない男だな、おじけづいたのか?」
たしかに、クラフトはデルガチョフのところに腰をすえているかもしれなかった、とすればいったいどこでわたしは彼を待ったらいいのだ? わたしはデルガチョフのところへ行くのを恐れはしなかったが、そしてエフィムがもう三度もわたしをひっぱってゆこうとうながしたが、どうしても行く気になれなかった。しかも『おじけづいたのか?』という言葉を、彼はそのたびごとに実にいやみな薄笑いをうかべて言ったのである。わたしをためらわせたのはおじけではない、あらかじめことわっておくが、わたしが恐れたとすれば、それはぜんぜん別なものだったのである。だが、このときは行くことに決めた。そこもほんの目と鼻の先だった。わたしは途中でエフィムに、いまでもやはりアメリカへ逃避する計画をもっているのかと訊《たず》ねた。
「たぶんね、もうちょっとようすを見るさ」と彼は軽く笑いながら答えた。
わたしは彼をあまり好かなかった、むしろまったく好かないといったほうがよかった。彼は髪が真っ白で、まるい顔もぬけるように白く、まるで子供みたいに、見苦しいほど白くて、そのくせ背丈はわたしより高いが、それでもせいぜい十七歳ぐらいにしか見られなかった。彼とは話すことがなにもなかった。
「あそこじゃいったいなにをやってんだろう? いつも有象無象がたくさん集まってるが?」とわたしはわざとこう訊《き》いてみた。
「おい、きみはなにをそう恐れてるんだい?」と彼はまたにやりと笑った。
「いいかげんにしたまえ」とわたしはむっとした。
「決して有象無象なんかじゃないさ。知合いが集まるだけだよ、ぜんぶ仲間だ、安心したまえ」
「仲間であろうとなかろうと、ぼくにどうだというんだ! それにぼくがあの連中の仲間だというのかい? なぜ彼らがぼくを信じることができるんだい?」
「ぼくがきみを連れてきた、それだけで十分さ。それにきみのことは聞いてるよ。クラフトだってきみのことを言明できるさ」
「きみ、ワーシンが来てるだろうか?」
「わからんな」
「もしいたら、入ったらすぐにぼくを突ついて、ワーシンをおしえてくれ。入ったらすぐだよ、いいね?」
ワーシンのことはもういろいろと聞いて、わたしはかねがね興味をもっていた。
デルガチョフはある女商人の木造の邸宅の庭にある小さな離れに住んでいたが、しかし離れはぜんぶ占領していた。きれいな部屋が三部屋あった。四つの窓にはぜんぶカーテンが下ろされていた。彼は技師で、ペテルブルグに勤めをもっていた。わたしがちらと聞いたところでは、なんでもある県に有利な特別の職場が見つかったので、近々そちらへ移ろうとしているということだった。
わたしたちが狭い玄関の間へ入ったとたんに、いろいろな声々がわっと耳に入った。どうやらはげしく論じ合ってるらしく、誰かがラテン語でこう叫びたてた。
『Quae medicamenta non sanat――ferrum sanat, quae ferrum non sanat――ignis sanat!(薬が直さなければ――鉄が直す、鉄が直さなければ――火が直す!)』
わたしはたしかにいくらか不安を感じていた。いうまでもなく、わたしは、それがどんな集りであるにせよ、およそ人の集りというものに慣れていなかった。わたしは中学のころ学友たちときみぼくの親しい口はきいたが、ほとんど親しい友はもたず、自分で小さな片隅をつくって、その中で暮していた。しかしわたしを不安にしたのはそれではなかった。わたしは、いかなる場合も、議論には加わらず、必要最小限なことしか言わず、誰にもわたしという人間についていかなる結論も下されぬようにすること、と自分に誓っていたのである。要は――議論しないこと、これがわたしのモットーであった。
室内には、それもあまり大きくない部屋であったが、七人ばかり、女を加えると十人ほどの人が集まっていた。デルガチョフは二十五歳で、妻がいた。妻には妹が一人と、親戚《しんせき》の娘が一人いて、それがみなデルガチョフの家に住んでいた。室内にはどうにか家具がそろっていたが、しかしこれだけあれば十分で、しかもかなり小ぎれいでさえあった。壁には石版の肖像画がかかっていたが、ひどい安物で、片隅には聖像が安置されていて、金の飾りはなかったが、燈明がともっていた。デルガチョフはわたしのまえに歩みよって、握手をすると、椅子をさした。
「坐ってください、みんな仲間ですから遠慮は要りません」
「どうぞ」と、ひどく質素な服装をした、かなり愛くるしい若い女が、そのあとからすぐにこう言いそえると、軽くわたしに会釈をして、すぐに出ていった。これは彼の妻で、どうやらいままで議論に加わっていたが、赤んぼうにミルクを飲ませに出ていったらしい。だが、部屋にはまだ婦人が二人のこっていた――一人はひどく小柄な、二十歳前後の娘で、黒いあっさりした服を着て、やはり十人並みの顔をしていたが、もう一人は三十歳ぐらいの、やせた、目のきつい女だった。二人は坐って、熱心に聞いていたが、話には加わらなかった。
男たちはといえば、みな立っていて、坐っていたのは、わたしのほかは、クラフトとワーシンだけだった。エフィムがすぐに彼らにわたしを紹介した、というのはわたしはクラフトにも今会うのがはじめてだったからである。わたしは立ち上がって、彼らのまえに行ってあいさつをした。クラフトの顔を、わたしは永久に忘れることができない。特に美しいところはないが、なにかしらあまりに柔和すぎるような、繊細なところがあって、それでいてそなわった気品が顔ぜんたいにみなぎりわたっていた。二十六歳で、やせぎみで、背丈《せたけ》は高いほうで、髪はブロンドで、顔は謹厳だが、柔和で、体ぜんたいにどことなくものしずかな雰囲気がただよっていた。だが、それでも――わたしの、むしろひどく平凡なほうらしい顔を、これほど魅力的に思われた彼の顔ととりかえたら、といわれても、わたしはうんとは言わないであろう。彼の顔には、わたしが自分の顔にあってほしくないような、なにものかがあった。精神的な意味においてあまりにも平静すぎるようなあるもの、あるひそやかな、自分でも知りえぬ誇りのようなあるものである。しかし、そのときここに述べたとおりにはっきりと判断を下すことは、おそらく、できなかったろう。いまにして、つまりあの事件があった後に、思えば、あのときわたしはこう判断を下したように思えるまでである。
「あなたに来ていただいて、ひじょうに嬉しいです」とクラフトは言った。「ぼくはあなたに関係のある手紙を一通もっているのです。ここにしばらくいて、ぼくのところへ行きましょう」
デルガチョフは中背で、肩幅が広く、頑丈《がんじよう》な浅黒い男で、濃いあごひげを生《は》やしていた。目には怜悧《れいり》なひらめきがあり、ぜんたいにひかえめで、たえずなにかを警戒しているようなところがあった。彼は主に沈黙していたが、しかし明らかに一同の議論を支配していた。ひじょうに聡明《そうめい》な男と聞いていたが、ワーシンの顔はそれほどわたしをおどろかさなかった。髪はブロンドで、明るい灰色の大きな目をして、顔はすこしも陰影《かげ》がなかったが、しかし同時になにかしら度はずれに不屈な気色が見えて、あまり人とうちとけぬ性質と思われたが、目はまったく怜悧そのもので、デルガチョフの目よりも聡明で、深みがあり――室内の誰よりも聡明そうに見えた。しかし、あるいは、わたしは今すべてを誇張して言っているかもしれない。ほかにはわたしは二人の青年の顔を思い出すだけである。一人は長身の浅黒い男で、黒い頬《ほお》ひげを生やし、三十歳前後で、よくしゃべり、どこかの教師かなにからしかった。もう一人は、わたしと同年ぐらいの青年で、ロシア風の半外套を着て――顔にしわのある寡黙《かもく》な男で、人の話をじっと聞いているというふうだった。あとで彼は百姓の出であることがわかった。
「いや、それはそんなふうに提起すべきではない」明らかに先ほどの問題のつづきらしく、黒い頬ひげの教師が、誰よりも熱くなって、言いだした、「数学的証明については、ぼくはなにも言わんが、しかしこれは数学的証明がなくてもぼくが信じたいとする思想だ……」
「待ちたまえ、チホミーロフ君」と大きな声でデルガチョフがさえぎった、「今来た人たちはなんのことかわからんじゃないか。これは、ですね」と不意に彼はわたしだけにむかって言った(これは正直に言うが、もし彼が新人のわたしを験《ため》そうとするか、あるいはわたしになにか語らせようという意図をもっていたとすれば、これは彼としては実に巧みな方法であった。わたしはすぐにそれを感じて、心構えをした)、「つまり、このクラフト君がですね、同君の気性も、確固たる信念もぼくたちはもう十分に知っているのですが、同君が実にありふれた事実から、これまた実にありふれた結論をひきだして、ぼくたち一同を唖然《あぜん》とさせたのですよ。つまり同君の結論によると、ロシア民族は二流の民族だというのですよ……」
「三流だ」と誰かが叫んだ。
「……二流の民族であり、その使命はより高尚な民族のために単に材料となることであって、人類の運命において自分の自主的な役割というものをもっていない。この、あるいは正しいかもしれぬ自分の推論をさらにすすめて、クラフト君は、あらゆるロシア人の今後のあらゆる活動はこの思想によって麻痺《まひ》させられてしまう、いわばみんなの手がだらりと垂れてしまうにちがいない、という結論に達したわけです、そして……」
「失礼ですが、デルガチョフ君、これはそんなふうに提起すべきではない」とまたいらいらしてチホミーロフが口を容《い》れた(デルガチョフはすぐにゆずった)。「とにかく、クラフト君は真剣な研究をおこなって、生理学のうえに立って結論を出し、それを数学的に正しいと認めて、おそらく二年ほどの期間をその思想につぶしたにちがいないのだ(ぼくならその思想をいささかの躊躇《ちゆうちよ》もなく先験的《ア・プリオリ》と解するのだが)、この事実を考慮して、つまりクラフト君の不安と真剣さを考慮してだ、この問題は異常現象《フエノメン》として提起されなけりゃならん。そう見るとここにクラフト君が理解できない一つの問題が出てくる、そしてそれをこそ、つまりクラフト君が理解できないことをこそ、ここで研究すべきなのだ、なぜならそれは異常現象《フエノメン》だからだ。つまりこの異常現象《フエノメン》が、ただ一つの例として大学病院の研究室に属するものなのか、あるいは他のものにもノーマルにくりかえされうる性質のものなのか、それを解決せにゃならん。これは一般論としても興味がある。ロシアについてのクラフト君の説には、ぼくも賛成だし、むしろ喜んでいると言ってもいい。だってもしもこの思想がみんなに会得されたとしたら、みんなの手を解きはなち、愛国的偏見から解放してくれるだろうし……」
「ぼくは愛国心から言ったのじゃないよ」とクラフトはなにか無理に抑えたような声で言った。こうした討論が彼には不快だったらしい。
「愛国心かどうか、それは問題にしなくていいよ」と黙りこくっていたワーシンが、ぼそりと言った。
「しかしどうしてクラフト君の結論が、人類一般の問題への志向を弱めうるというのだ?」と教師が叫んだ(彼一人が叫んでいた、あとの者はみなしずかに話していた)。「ロシアが二流と判決されてもいいじゃないか、われわれはなにもロシアだけのためにはたらかにゃならんわけじゃない。それにだ、もうロシアを信じることをやめたとしたら、クラフト君が愛国者になれるわけがないじゃないか!」
「おまけにドイツ人だ」とまた誰かの声が聞えた。
「ぼくは――ロシア人だよ」とクラフトは言った。
「それは――この問題に直接の関係はないよ」とデルガチョフがその声の男に注意した。
「きみはその考えの狭さから出るべきだ」チホミーロフはなにも耳に入らなかった。「もしロシアが――より高尚な民族のための材料にすぎんのなら、なぜそのような材料になってわるいのだ? それは――むしろかなりりっぱな役割というべきじゃないか。任務の範囲をひろげることを考えたら、この思想におちつくべきではないのか。人類は更生の前夜におり、しかもそれはもうはじまっているのだ。目のまえにある任務が見えないのは盲者だけだ。もしロシアが信じられなくなったら、ロシアを捨てたまえ、そして未来の――未来のまだ未知の人々、種族の別なく、全人類から成る人々のためにはたらくのだ。それでなくとも、ロシアはいずれは死滅するだろう。どんなに天賦《てんぷ》の才に恵まれた民族でも、千五百年か、多くても二千年ぐらいしか生きないのだ。二千年が二百年でも、別に大差ないではないか? ローマ人たちは、生きた形では千五百年も生きつづけなかった、そしてこれも材料に転じた。彼らはもうとうにいない、しかし彼らは一つの思想をのこした、そしてその思想は一つのエレメントとしてその後の人類の運命の中へ入ったのだ。いやしくも人間が、なにもすることがないなどと、どうして言えるのだ? ぼくはいつにせよなにもすることがなかったなどという状態を、想像できない。人類のために行動せよ、そしてほかのことはなにも考えなくていいのだ。注意してよく見れば、一生が足りないほど、することはたくさんあるのだ」
「自然と真理の法則にしたがって生きなければいけませんわ」とドアのかげからデルガチョフ夫人が言った。ドアはほんの薄目にあけられていて、彼女が立ったまま胸をはだけて赤んぼうに乳首をふくませながら、熱心に耳をすましているのが見えた。
クラフトはかすかに苦笑しながら聞いていたが、やがて、いくらか疲れたような顔で、とはいえ真剣そのものの態度で、言った。
「ぼくにはわからないのだが、きみの理性と心情を完全に支配しているある考えの影響下にありながら、いったいどうしてさらにその考え以外のなにものかによって生きることができるのか?」
「しかし、きみの結論がまちがっている、きみの考えがまちがっている、ロシアが――二流の使命を運命づけられているというだけの理由で、きみは一般の有益な活動から自分を除外するいささかの権利ももたない、ということが論理的に、数学的に、きみに証明されたとしたら、もしきみに、狭い限界の代りにきみのまえに無限が開かれていることが示され、狭い愛国思想の代りに……」
「またか!」とクラフトはしずかに片手を振った、「きみに言ったじゃないか、これは愛国心の問題じゃないと」
「ここには、明らかに、誤解があるよ」と不意にワーシンが割って入った。「クラフト君のはちっとも論理的な結論じゃなくて、いわば感情化した結論だという点に、まちがいがあるんだよ。みんなの天性というものは一様ではない。多くの人間に言えることだが、論理的結論がときとして強烈な感情に転化し、完全にその感情の虜《とりこ》となって、駆逐することも、改めることもひじょうにむずかしいことがある。このような人間を正常にもどすには、その感情そのものを変えねばならんが、それには同程度に強烈な別な感情を代りに注入する以外に手はない。これは常にむずかしいことであり、たいていは不可能なことだ」
「それはまちがいだ!」と教師は叫んだ、「論理的な結論はすでにそれ自体が偏見を崩壊させる。理性的な信念はそれと同じ感情を生む。思想は感情から出て、今度はそれが、人間の中に定着しつつ、新しい感情を形作るのだ!」
「人間はひじょうにまちまちだよ。感情を簡単に変える者もあるし、なかなか変えられない者もある」とワーシンは議論をつづけたくないようなようすで、答えた。しかしわたしは彼の思想に感激した。
「それはたしかにあなたの言ったとおりです!」と不意にわたしは彼にむかって言った。わたしは氷を破って、突然しゃべりだしたのである。「たしかにある感情をなくそうと思ったら、それに代る別な感情を注入しなければなりません。モスクワで、四年前になりますが、ある将軍が……といっても、ぼくはその将軍を知ってるわけではありませんが、しかし……あるいは、その将軍が、そもそも、おのずから尊敬の気持を起させるような人でなかったら……事実そのものもばからしいことですんだかもしれませんが……とにかく、この将軍が子供を亡《な》くしたわけです、つまり彼には娘が二人しかなかったのですが、その二人が相ついで猩紅熱《しようこうねつ》で死んだのです……するとどうでしょう、彼は急にすっかり打ちのめされたようになってしまって、すっかり悲嘆にくれ、ふさぎこんでばかりいるので、外へ出ても、見るにしのびないようなありさまでした――そして結局、それから半年ほどしかたたないうちに、彼も死んでしまったのです。将軍がそのために死んだということ、これは事実です! とすると、なにによって彼を生へひきもどすことができたか? その答えは一つ、同程度に強烈な感情によってです! 墓から二人の娘を掘り起して、彼にかえしてやること――これがすべてです、といってそれは不可能なことですから、なにかこれと同等のことです。彼は死んでしまいました。しかしそのまえに彼にみごとな結論を示してやれたのではないでしょうか、つまり死は思いがけなくおとなうもので、生あるものは必ず死ぬものだとか、病院の日記から統計を見せて、一年にどれだけの子供が猩紅熱で死ぬかおしえるとか……それに彼は退役で、暇をもてあましていたのでした……」
わたしは息ぎれがして、あたりを見まわしながら、言葉をとめた。
「そりゃぜんぜんちがうよ」と誰かが言った。
「きみがあげた事実は、今問題にしていることと性質はちがうが、しかし似たところはあって、説明の役には立つよ」とワーシンがわたしのほうを向いて言った。
ここでわたしは、『思想・感情』に関するワーシンの論証になぜ感激したか、告白しなければならないが、同時にわたしがはげしい羞恥《しゆうち》を感じたことも告白しなければならない。そうだ、エフィムが想像した理由からではないまでも、わたしはデルガチョフの家へ行くことをためらった。わたしがためらったのは、もうひとつにはモスクワにいたころ彼らを恐れていたからでもあった。彼らは(つまり彼らであろうと、その類《たぐ》いの他の連中であろうと――それは同じことであるが)――理論家たちで、『わたしの理想』を粉砕するかもしれない。わたしはまさかわたしの理想を彼らにもらしたり、うっかり口をすべらせたりすることはあるまい、とかたく自分を信じてはいたが、しかし彼らが(つまりまたしても彼らか、あるいはその類《たぐ》いだが)なにかわたしに言って、そのために、こちらからそれを彼らに言わなくても、自分で自分の理想に失望するかもしれない、というおそれがあった。『わたしの理想』には、わたし自身によって解決されていないいくつかの問題があったが、しかしわたしは、わたし以外の誰かにそれを解決してもらおうとは思わなかった。最近の二年間は、わたしは本を読むことさえやめた。なにか『理想』に不利な個所に行きあたり、そのために自分が動揺させられはしないかとおそれたのである。ところが今不意に、ワーシンが一挙にこの課題を解決して、最高の意味でわたしを安心させてくれたのである。実際に、なにをわたしはおそれていたのか? そしていかなる理論があったにせよ、彼らはわたしになにをなすことができたろうか? もしかしたら、ワーシンが『思想・感情』について語ったことのなんたるかを、あそこで理解したのは、わたしだけかもしれない! 美しい思想を論破するだけではだめだ、同程度に力強い美しいものを代りにあたえねばならぬ。さもないとわたしは、ぜったいにわたしの感情と別れることを望まないから、彼らがなにを言おうと、たとい強引にでも、わたしの心の中で論破されたものをさらに論破することになる。だって、彼らがいったいなにを代りにあたえることができたろう? だからこそ、わたしはもっと勇気をもってよかったのだし、もっと男らしくならなければならなかったのだ。ワーシンの言葉で感激しながら、わたしは羞恥を感じた。自分が未熟な子供のように思われたのである。
ここにもうひとつ恥ずかしさがでてきた。わたしに氷を破って、語りださせたのは、自分の理知を誇りたいという卑しむべき感情ではなかったが、しかし『首にとびつきたい』という願望はあった。この首にとびつきたいという願望、みんなにりっぱな男と認められて、抱きしめるなりなんなり(一口に言えば、下劣きわまることをだ)してもらいたいという願望は、わたしは自分のあらゆる羞恥の中でもっとも忌まわしいものと認めているし、それをひじょうに早くから、まだ何年間も自分の片隅にこもって人を避けていた時分から、もっともそれを後悔しているわけではないが、自分の中に気づいていた。わたしは人々の中に出たらなるべく暗い顔をしていなければならぬと思っていた。なにか恥ずべきことをした後でも、やはり『理想』はわたしの胸の中にそっとしまわれている、わたしは彼らにそれをもらさなかった、という考えだけがわたしを慰めてくれたものである。わたしはときどき、もしも誰かにわたしの理想を打明けたら、とたんにわたしにはもうなにも残らなくなり、したがってみんなと同じになってしまうし、もしかしたら、それっきり理想を放棄してしまうことになるかもしれない、と想像して胸のつぶれる思いがした。だからわたしは、それをしっかりと守って、胸の中にしまいこみ、つまらぬ口をきくことをおそれたのである。ところが今、デルガチョフの家で、ほとんどはじめての衝突から自制を失ってしまったのである。なにももらさなかったのは、もちろんだが、しかし許しがたいおしゃべりをして、恥をさらしてしまった。思い出すのも忌まわしいことだ! だめだ、わたしは人々と生活することはできないのだ。わたしはいまもそう思っている。これは四十年先ぐらいまで同じことだ。わたしの理想は――片隅なのである。
ワーシンがわたしの説を認めたとたんに、わたしは急にたまらなくしゃべりたくなった。
「ぼくは、誰でも自分の感情をもつ権利があると思うんです……もし信念から生れたものなら……誰にも文句を言われることなしにです」とわたしはワーシンにむかって言った。わたしは勢いこんでこう言ってのけたが、まるでわたしではなく、口の中で他人の舌が動いたような感じだった。
「ほう、そういうものかねえ?」とすぐに誰かの声が受けて、皮肉っぽく茶々を入れた。それはさっきデルガチョフをさえぎり、クラフトをドイツ人ときめつけたあの声だった。わたしはそれをまったくとるに足らぬものとして、まるでそれを言ったのが教師であるかのように、そちらへ向き直った。
「誰をも批判しない、これがぼくの信念です」わたしはもう坂道をころげおちかけていることを知って、わなわなとふるえていた。
「どうしてそう秘密にするんだね?」とまたとるに足らぬ声がひびいた。
「誰にでも自分の理想というものがあります」わたしは執拗《しつよう》に教師をにらみつづけた。教師のほうは、逆に、沈黙して、にやにや笑いながらわたしをながめていた。
「きみにもか?」ととるに足らぬ声が叫んだ。
「話せば長くなるが……ぼくの理想の一部を言えば、他人に干渉されたくないということです。ぼくに二ルーブリの金があるあいだは、ぼくは一人で生活して、誰にも支配されたくないし(ご心配にはおよびません、ぼくは抵抗することを知ってますから)、なにもしたくない――いまクラフト氏にその使命遂行を呼びかけられたあの未来の偉大な人類のためであろうと、ぼくはなにもしたくない。個人の自由、つまりぼく自身の自由、これが第一義で、その先のことは知りたくもありません」
わたしがかっとなったことが、失敗であった。
「というと、飽食《ほうしよく》した牝牛《めうし》のおだやかな生活を宣伝されるのですな?」
「それもいいでしょう。牝牛に侮辱を感じる者はありませんからね。ぼくは誰にもなんの借りもありません、ぼくは盗まれたり、なぐられたり、殺されたりしないですむように、租税の形で社会に金を払います、そしてそれ以上誰もなにもぼくに要求する権利はありません。ぼくも、あるいは、個人としては他の思想もいだいていて、人類に奉仕しようと望むかもしれませんし、実際に、するでしょう、しかもうるさく宣伝している連中よりも、十倍も奉仕するかもしれません、しかしただぼくはそれを誰にも、命令的に要求されたくないだけです、クラフト氏に対してとられたように、強制されたくないのです。いやなら指一本上げずにすむような、ぼくの完全な自由を望むのです。人類への愛のために、せかせかと走りまわって、みんなの首に抱きすがって、感激の涙にむせぶなんて――そんなものは単なる流行《モード》にすぎません。それに、なぜぼくがどうしても自分の隣人とか、あなた方の言う未来の人類とかを、愛さなければならないのでしょう。そんなものをぼくは決して見ることがないでしょうし、また彼らがぼくを知ることもないでしょう、そして彼らだって、地球が凍った石に転化し、無数の同じような凍った石とともに空気のない宇宙空間に散らばるとき、跡形もなく、記憶にのこることもなく(ここでは時間はまったく無意味です)くさってしまうのです、つまりこれ以上無意味なことは想像もできませんよ! これがあなた方の教えです! どうです、なぜぼくが是が非でも高潔な人格者にならなければならないのでしょう、いわんや生は一瞬の間にすぎぬにおいてをやです」
「へえーえ!」と例の声が叫んだ。
わたしは、わたしをつなぎとめていたいっさいの綱をたち切って、苛《いら》だちながら、毒々しくこれを吐きだしたのである。わたしは、穴へ転落してゆくことを知っていたが、反論をおそれるように、急いでまくしたてた。わたしは、まるで篩《ふるい》をとおしてばらまくようで、前後の脈絡がなく、十の思想をとばして十一番目に移るようなぐあいであることを感じすぎるほど感じていたが、彼らを説き伏せ、屈伏させたいとあせった。これはわたしにとってはなににもまして重大なことだった! そのために三年のあいだ準備してきたのである! ところが妙なことに、彼らは急に黙りこんでしまって、まったく一言も発せずに、ただひっそりと聞いているばかりだった。わたしは依然として教師にむかってしゃべりつづけた。
「たしかにそうです。あるひじょうに頭のよい男が言ったことですが、『なぜぜったいに高潔であらねばならぬか?』という問題に対する答えほどむずかしいものはないというのです。ところで、世の卑劣漢には三種あります。ナイーヴな卑劣漢、つまり自分の卑劣さを最高の高潔であると信じこんでいる連中、恥じる卑劣漢、つまり自分の卑劣さを恥ずかしいと思っているが、しかしそれはともかくどうしてもそれを貫こうとする意志をもっている連中、そして最後に頭からの卑劣漢、つまり卑劣漢の純血種というわけです。さて、ぼくにラムベルトという友人がいましたが、その男がまだ十六歳のころ、ぼくにこんなことを言ったのです。金持になったら、最大の楽しみは、貧乏人の子供たちが飢えで死にかけているとき、パンと肉を犬にたらふく食わせることだ、そして貧乏人の子供たちが焚《た》くものがなくて困っていたら、薪屋《まきや》の薪をすっかり買い占めて、野っ原に積み上げて、どんどん燃やし、貧乏人には一本もやらぬことだ。これが彼の根性です! どうでしょう、この男に『なぜおれはぜったいに高潔にならなくちゃならんのだい?』と問われたら、この卑劣漢の純血種にぼくはなんと答えたらいいのです? 特にいまは、あなた方がこんなに改造してしまった現代は、です。なにしろ現代ほどわるい時代は――史上はじめてですよ。われわれの社会はなにもかもわからないことだらけです。あなた方は神を否定している、功業を否定している、いったいどんな、つんぼで、めくらで、にぶい、どんな惰性が、ほかに有利なことがあるのに、ぼくにそのような行動を強制することができるというのです? あなた方は言います、『人類に対する理性的態度もやはりきみの利益』だと。だが、もしぼくがその理性的というものいっさいを非理性的と認め、いっさいの軍隊的な集団行動を否定したら、どうなのです? ぼくは一度しかこの世に生をうけないのですから、そんな集団の中に住むことはごめんですし、未来などどうでもいいのです! 自分の利益は自分で知りたいですね、そのほうが楽しいですよ。もしそのために、あなた方の法典によれば――愛もないし、今後の生活もないし、自分の功績が賞揚されることもないとしたら、千年後にあなた方の言う人類がどうなるかなどということが、ぼくにいったいなんの関係があるのです? ごめんですね、もしそうだとしたら、ぼくはそれこそ思いきった乱暴な生き方で、自分のためだけに生きるでしょうね、人が破滅しようと知るもんですか!」
「卓抜な願望ですな!」
「しかし、ぼくはいつもあなた方とともにいる覚悟はありますよ」
「ますます結構だ!」(これはみな例の声である)
他の人々は依然として沈黙して、ただわたしをじろじろ見ていた。だが、しだいに部屋のあちらこちらからくすくす笑いが起りだした。それはまだ低い笑いではあったが、わたしの目にまともにあびせかける冷笑であった。ワーシンとクラフトだけが笑わなかった。黒い頬ひげの男も薄笑いをもらして、じっとわたしの顔に目を注いで、聞いていた。
「みなさん」わたしは全身ががくがくふるえた、「ぼくはあなた方にぼくの理想はぜったいに打明けません、それどころか、逆に、あなた方の見地に立ってお訊ねしましょう――ぼくの見地からの質問だとは思わないでいただきたい、なにしろぼくのほうが、おそらくは、あなた方をぜんぶひっくるめたよりも、千倍も人類を愛してるでしょうから! いいですね――今度こそはもうぜったいに答えてもらいますよ、冷笑したからには、答える義務があるはずだ――訊きますが、あなた方のあとに従わせるために、あなた方はなにでぼくを誘うつもりです? あなた方の方法のほうがよいことを、なにによってぼくに証明します? ぼくはかねがねあなた方に会いたいと望んでいたのです! あなた方の望んでいるのは、共同の宿舎、共同の部屋、stricte necessaire(絶対必需品)、無神論、そして子供をはなした共同の妻――これがあなた方のフィナーレでしょう、ぼくは知ってるんですよ。そしてこうしたすべてのために、平均的利益のこの小部分のために、一きれのパンと一本の薪のために、その代償として、あなた方はぼくの全人格をとろうというのです! 失礼ですが、あなた方のその共同宿舎でぼくの妻がうばわれて、その相手の頭を叩《たた》き割らずにすむように、あなた方はぼくの人間性をとりしずめてくれるのですか? そうなればぼくもすこしは利口になる、とあなた方は言うかもしれない。だが、妻はですよ、すこしでも自分というものを尊重していたら、このような理性的な良人《おつと》のことをなんと言うでしょう? まったくこれは不自然ですよ。恥を知りなさい!」
「ほう、あなたは女のほうは――専門ですかな?」とるに足らぬ声が意地わるくこうひやかした。
一瞬わたしの頭に、とびかかって、拳骨《げんこつ》でなぐりたおしてやろうという考えがひらめいた。それは背丈の低い、赤ッ茶けた髪の、そばかすのある……なに、こんなやつの顔つきなんかどうだってかまうものか!
「ご心配なく、ぼくはまだ女の経験は一度もありません」はじめてそちらへ顔を向けながら、わたしは切りすてるように言った。
「これは貴重な報告ですな、しかしご婦人もおられることだから、もっと品のよい言いまわしが用いられて然《しか》るべきでしたでしょうな?」
しかし、一同は急にがやがやしだした。みんな帽子をつかんで、出てゆきかけた――もちろん、わたしのせいではなく、帰る時間が来たからである。しかし、わたしに対するこの黙殺の態度はわたしを屈辱でたたきのめした。わたしも急いで立ち上がった。
「失礼ですが、お名前をお聞かせいただけませんか、ずっとわたしを見つめておられたようですので?」と、不意に卑劣きわまる薄笑いをうかべながら、教師がわたしのまえに立った。
「ドルゴルーキーです」
「ドルゴルーキー公爵ですか?」
「いや、ただのドルゴルーキー、元農奴マカール・ドルゴルーキーの息子で、元主人ヴェルシーロフ氏の私生子です。みなさん、ご心配なく、ぼくは、みなさんにすぐにとびついてもらって、仔牛《こうし》みたいに感激の叫びをあげてもらうために、こんなことを言ったのでは決してありません!」
高らかな、無遠慮きわまる哄笑《こうしよう》がどっと爆発した、そのために隣室でせっかく寝入ったばかりの赤んぼうが目をさまして、ピーッと泣きだしたほどである。わたしは狂憤のあまり体をふるわせた。彼らはみなわたしには見向きもしないで、デルガチョフと握手を交《か》わして、出ていった。
「行きましょう」とクラフトがわたしを突ついた。
わたしはデルガチョフのまえに歩みよると、ありたけの力をこめて彼の手をにぎりしめ、これもありたけの力をこめてそれを二、三度ゆすった。
「クドリュモフ(これは赤ッ茶けた髪の男である)があなたに嫌味《いやみ》ばかり言って、申し訳ないことをしました」とデルガチョフはわたしに言った。
わたしはクラフトにつづいて外へ出た。わたしはなにも恥じていなかった。
もちろん、いまのわたしとあのころのわたしのあいだには――限りない相違がある。
『なにも恥じていない』態度のまま、わたしは早くも階段のところで、二流の人物を相手にせずというふうにクラフトのそばをはなれると、ワーシンに追いついた、そしてまるでなにごともなかったようなごく自然な態度で、こう訊ねた。
「あなたは、たしか、ぼくの父をご存じのはずでしたね、つまり、ヴェルシーロフのことですが?」
「ぼくは、実を言うと、知合いとは言えませんが」とワーシンはすぐに答えた(その態度には、今恥をかいたばかりの者と話すときにデリケートな連中が普通に示すような、あの無礼なわざとらしいいんぎんさがすこしもなかった)、「しかし、すこしは知ってます。会って、話を聞いたことがありますから」
「話を聞いたことがあるのなら、もちろん、知ってるはずですよ、だって、そりゃあなたのことですもの! して、彼をどう思います? ごめんなさい、いきなりこんな質問をして、でもぼくにはそれが必要なのです。ほかならぬあなたがどう思ったか、あなたの意見こそぼくには必要なのです」
「あなたはぼくを買いかぶりすぎてるようだ。ぼくの見るところでは、あの人物は自分に厖大《ぼうだい》な要求を課することのできる人です、そしておそらく、それを実行する力もあるでしょう――だが、誰にもそれを明かさない人です」
「そうです、たしかにそうです、あれは――ひじょうに傲慢《ごうまん》な人間です! だが、心の純粋な人間でしょうか? いかがです、あなたは彼がカトリックに改宗したことをどう思います? いや、これはうっかりしました、あなたは、たぶん、知らんでしょうが……」
もしわたしがこれほど興奮していなかったら、もちろん、噂《うわさ》に聞いていただけで一度も話し合ったことのない人間に、このような質問を、しかもこんなにめくら撃ちに、射かけなかったろう。ところがおどろいたことに、ワーシンはわたしの狂気に気づいていないふうであった!
「ぼくはそのこともちょっと耳にしたことがありますが、どの程度まで信がおけるものかわかりませんな」と依然として冷静に淡々と彼は答えた。
「ぜんぜんです! そんな噂はでたらめです! 彼が神を信じることができるなんて、まさかあなたは思わないでしょうね?」
「あの人は――今あなたが言われたように、ひじょうに傲慢な人間です、ところがひじょうに傲慢な人間は、えてして神を信じるものなのです、わけてもいくぶん人々を侮蔑《ぶべつ》している者には、特にその傾向があります。強い人間にかぎって、どうやら、そのまえに跪拝《きはい》すべき誰かを、あるいはなにかを見つけたいとする――一種の自然の要求があるようです。強い人間はときとすると自分の力に堪《た》えるのがひどく苦しいことがあるものですよ」
「なるほど、それは大いにそうかもしれません!」とわたしはまた叫ぶように言った。「ただぼくが知りたいとねがうのは……」
「その理由は明白です。彼らは人間のまえに頭を下げたくないから、神を選ぶのですよ――むろん、自分の気持がそんなふうにうごいていることは、自分では知らんのですがね。神のまえに跪拝することはそれほど恥じゃありませんからねえ。彼らの中からきわめて熱心な信者がでるものです――もっと正確に言うと、信じたいと熱望する者というべきでしょう。ところがこの熱望を、彼らは信仰そのものととるのです。だからこうした連中には、最後に失望する者が特に多いというわけです。ヴェルシーロフ氏については、性格にきわめて直情的なところのある人だと、ぼくは思いますね。それに全体的に彼の人間にぼくは大いに興味を感じました」
「ワーシンさん!」とわたしは叫んだ、「あなたはぼくを歓喜させます! ぼくはあなたの頭脳にはおどろかないが、これほど純粋で、しかもぼくなどよりはるか上に立つ人間であるあなたが、そういうあなたが、まるでなにごともなかったように、こうしてぼくと並んで歩き、これほど虚心に、いんぎんにぼくと話し合うことができる、というそのことに、ぼくは驚嘆するのです!」
ワーシンは微笑した。
「あなたはぼくをほめすぎますよ、あれは別にどうってことはありません、あなたが抽象的な話を好みすぎたというだけのことです。きっと、これまであまりに長く黙っていすぎたのでしょう」
「ぼくは三年間黙りとおしたのです、三年間しゃべる準備をしてきたのです……ぼくはあなたに、むろん、ばかと思わせることはできなかった、なにしろあなたは頭がすごく切れるから、たといぼく以上のばかな振舞いは考えられないにしてもです……しかし卑劣漢に見られてしまった!」
「卑劣漢?」
「そうです、まちがいありません! どうです、ぼくがヴェルシーロフの私生子だなどと公言して……おまけに農奴の息子だなどと自慢したことで、あなたは心中ひそかにぼくを軽蔑《けいべつ》してませんか?」
「あなたは自分を苦しめすぎますね。ばかなことを言ったと思うのなら、二度と言わないようにさえすればいいのです。あなたにはまだ前途に五十年もあるのですから」
「おお、ぼくは承知してます、ぼくは人々に対して大いに寡黙《かもく》であるべきだったのです。あらゆる醜行の中でもっとも卑劣なもの、それは――人の首にぶら下がることです、それはぼくが今彼らに言ったばかりです、それなのに早くもこうしてあなたにぶら下がっている! でも、ちがいはあるはずです、あるでしょう? もしあなたがこのちがいをわかってくれたら、わかってくれることができたら、ぼくはこの瞬間を祝福します!」
ワーシンはまた微笑した。
「よろしかったら、ぼくの家へ来ませんか」と彼は言った。「ぼくは今しごとがあって、忙しいが、しかしあなたなら喜んで迎えますよ」
「ぼくはさっき、あなたの顔を見て、度はずれに不屈なところがあって、あまり人とうちとけぬ性質の人だ、と判断したのですよ」
「それは大いにそうかもしれませんね。ぼくはあなたの妹のリザヴェータ・マカーロヴナを知っています。去年、ルガで……クラフト君が立ちどまりましたね、あなたを待ってるんでしょう。彼はここから折れますから」
わたしはかたくワーシンの手をにぎると、クラフトのほうへかけよった。わたしがワーシンと話していたあいだ、彼はずうッと前方を歩いていたのである。わたしたちは黙って彼の住居まで来た。わたしはまだ彼と話したくなかったし、話すこともできなかった。クラフトの性格でもっとも強い特徴の一つはデリカシーであった。
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第四章
クラフトは以前にどこかに勤めていたが、そのかたわら亡くなったアンドロニコフの手伝いをして(彼から報酬を受けて)個人のいろいろな問題もとりあつかっていた。そしていつも自分の勤務よりもそのほうに力を入れていたのだった。わたしにとって重大なのは、クラフトがアンドロニコフと特別に近い関係にあったから、わたしがこれほど関心をもっている事件について多くを知っているにちがいないということであった。しかもわたしは、中学時代にあれほど何年も寄宿していたニコライ・セミョーノヴィチの妻マーリヤ・イワーノヴナから――彼女はアンドロニコフには姪《めい》にあたり、彼にかわいがられて、彼の家で育てられたのである――クラフトがわたしに渡すなにかを『託されている』と知らされていたのである。わたしはもうまる一月彼を待っていたのだった。
彼は二間だけの小さな住居に、完全に独立して暮していたが、今は、帰ったばかりで、まだ女中もいなかった。トランクは開けられてはいたが、まだかたづけられないで、いろんなものがそちこちの椅子の上に散らばり、ソファのまえのテーブルの上には、手提《てさ》げ鞄《かばん》や、旅行用の手箱や、ピストルなどがごたごたとのっていた。部屋へ入ると、クラフトはすっかりもの思いに沈んでしまって、わたしのいることなど忘れてしまったように見えた。あるいは、途々《みちみち》わたしが話しかけなかったことも、彼は気づかなかったのかもしれない。彼はすぐになにかさがしはじめた、が、ちらと鏡を見ると、そのまえに立ちどまって、一分ほどじっと自分の顔を観察した。わたしはこの変った癖に気がついたが(そしてあとであまりにもまざまざと思い出したのである)、しかしわたしはなんだか悲しい気持になって、ひどく当惑した。わたしは気持を統一することができなかった。そして一瞬ではあったが、急にこのまま帰って、すべての問題を永久に放棄してしまおうかと思った。それに、これらの問題が本質的にいったいなにものなのだ? 自分で勝手にしょいこんだ心労にすぎないのではないのか? 目のまえに大きな課題をもちながら、単なる感傷癖から、もしかしたらなんの価値もない些末事《さまつじ》に、自分のエネルギーを浪費しているのではないかと思われて、わたしは絶望的な気持になった。しかも、デルガチョフの家で起ったことを考えると、真剣な問題に対するわたしの無能が、はっきりと露呈されたのである。
「クラフトさん、あなたは彼らのところへこれからもまた行くのですか?」と唐突にわたしは訊《たず》ねた。彼はわたしの言った意味がよくわからないように、ゆっくりこちらを向いた。わたしは椅子にかけていた。
「彼らを許してやりなさい!」とクラフトは不意に言った。
わたしは、もちろん、それを冗談ととった。ところが、じっと彼に目をあてると、わたしはその顔にまことに異様な、むしろおどろくほどの純真さを見てとって、どうして彼がこれほど真剣に彼らを『許す』ことをわたしにたのんだのかと、わたしのほうがかえっておどろいたほどだった。彼は椅子をおいて、わたしのそばに坐った。
「ぼくは自分でも知ってます、おそらく、ぼくはおよそ自惚《うぬぼ》れと名のつくもののはきだめみたいなもので、それ以上の何者でもないでしょう」とわたしは言いだした、「でもぼくは、許しは請いません」
「それに、請うべき人がいないでしょう」と彼はしずかに、真剣に言った。彼はいつもものしずかに、それにおそろしくゆっくりとしゃべった。
「ぼくは自分に対して罪があるのはかまいません……自分に対して罪があるのが好きなんです……クラフトさん、あなたのまえで大きなことを言ったりして、許してください。お訊《き》きしたいのですが、ほんとにあなたもあの仲間に入ってるんですか? ぼくはこれが訊きたかったんです」
「彼らは他の人々に比べてばかでもありませんし、利口でもありません。彼らは――みなと同じに、狂気なのです」
「みんなが――狂気だというのですか?」とわたしは思わぬ好奇心に突つかれて彼のほうを向いた。
「今日、人々の中でいくらかましな者はみな――狂気ですよ。いまのさばっているのは中どころの無能な連中ばかりです……しかし、こんなことはどうでもよいことです」
こう言いながら、彼はなんとなく空間を見つめていた、そして話しはじめて、ぷつりと切った。特にわたしの胸に強くきたのは、その声の中にこもっているけだるい憂鬱《ゆううつ》だった。
「じゃ、ワーシンも彼らの仲間ですか? ワーシンには――理知があります、ワーシンには――道徳的理念があります!」とわたしは叫んだ。
「道徳的理念は現代はまったくありません。忽然《こつぜん》とすっかり消え失せてしまったのです、しかも、おどろくことは、いままでもそのようなものは決してなかった、というふうに見えることです」
「いままでもなかったですって?」
「こんな話はよしましょう」と彼はいかにも疲れたように言った。
彼の愁《うれ》いの濃い真剣な顔がわたしの胸をうった。自分のエゴイズムを恥じながらも、わたしは彼の愁いの中へ入っていった。
「現代は」二分ほどの沈黙の後、やはりどこか空間を見やりながら、彼のほうから言いだした、「現代は――中庸と無感覚の時代です、無学への熱望、怠惰、無能力、そしてすべて出来合いへの要求の時代です。誰も考究する者はいません。生活から思想を学びとろうとする者などはめったにおりません」
彼はまたぷつりと切って、しばらく沈黙にしずんでいた。わたしは黙っていた。
「今はロシアの森をなくし、土壌を疲労させ、荒地に化して、カルムイク族(訳注 中央アジアの遊牧蒙古民族の一)の棲家《すみか》にしようとしています。もし誰か希望をもった人間が現われて、木でも植えようものなら――みんなよってたかって、『その木が育つまで生きてるつもりかい?』と笑いものにします。その反面では、善を希求する人々が、千年後に来る幸福を説いているのです。かすがいとなる理念は完全に消滅してしまいました。みんなまるで宿屋にでも泊っていて、明日はロシアから出てゆこうとしているような状態です。みんなふところ次第の腰かけ生活を送っているだけなのです……」
「失礼ですが、クラフトさん、『千年後に来る幸福を心労している』とあなたは言いましたね。だが、あなたの絶望……ロシアの運命についての……ほんとはそれも――同じ種類の心労じゃないのですか?」
「これは……これは――今日《こんにち》あるかぎりのもっとも緊要な問題なのです!」と彼はじりじりしながら言うと、急いで立ち上がった。
「あっ、そうだ! ぼくは忘れていた!」と彼は不意に、ふしぎそうにまじまじとわたしの顔を見まもりながら、まるでちがう声で言った、「用事があってわざわざ来てもらいながら、それをさておいて……。ほんとに、失礼しました」
彼は突然なにかの夢からさめたようなふうで、すっかりうろたえてしまった。そして、テーブルの上にのっていた書類|鞄《かばん》から、一通の手紙をとりだすと、それをわたしにさしだした。
「これがあなたに渡すよう託されたものです。これは――ある重要な意味をもつ文書です」と彼は注意深く、ひどく事務的な調子で言いだした。わたしはその後ずいぶんたってからも、そのときのことを思い出すと、他人の問題に(それも彼にとってあのように重大なときに!)あれほど真剣な注意をはらい、あのように沈着に正確に語ることのできる、彼のこの特異な能力に、はげしく胸をうたれるのである。
「これは――ストルベーエフ氏の手紙ですが、実は彼の死後その遺言がもとで、ヴェルシーロフ氏とソコーリスキー公爵のあいだに訴訟事件がもちあがったわけです。この事件はいま法廷で審議されていますが、まずヴェルシーロフ氏の勝訴になるでしょう。法律が彼の味方です。しかし、二年まえに書かれたこの私的な手紙の中に、遺言者自身がほんとうの自分の意志、というよりは、むしろ希望を述べていますが、それはヴェルシーロフ氏よりも、むしろ公爵のほうに有利な証言です。少なくともソコーリスキー公爵たちが遺言に反論する論拠としている諸点は、この手紙によって強力な支持を受けることになるでしょう。ヴェルシーロフ氏の敵たちは、完全な法的意義はもたないものであるとはいえ、この文書に多額の金を惜しまないはずです。ヴェルシーロフ家の問題を担当していたアレクセイ・ニカノローヴィチ(アンドロニコフ)は、この手紙を自分の手もとにしまっておいたのですが、死のすこしまえに、この手紙を『大切に保管』するようにと言ってぼくに託したのです――おそらく、死期の近いのを予感して、この文書のことが気になったのでしょう。今はこの事件におけるアレクセイ・ニカノローヴィチの意図を云々《うんぬん》するつもりはありませんが、正直のところ、彼の死後ぼくはかなりな迷惑を感じました。特に訴訟問題の判決の近いことを考えて、この文書をどう処置したらよいものかと、大いに迷ったわけです。ところが、マーリヤ・イワーノヴナ、この婦人にはアレクセイ・ニカノローヴィチが生前いろいろなことを打明けていたらしいのですが、彼女がぼくを苦境から救い出してくれたのです。彼女が三週間まえにぼくに手紙をよこして、これをあなたに渡すように、そうすることがアンドロニコフの意志に添うはずだから(これは彼女の表現ですが)、ときっぱりと言ってきたわけです。というわけで、今これをあなたにお渡しするわけです。これをようやくお渡しすることができて、ぼくはほんとうにほっとしました」
「それはそうと」このような思いがけぬニュースに面くらって、わたしは言った、「ぼくは今この手紙をどうしたらいいのでしょう? ぼくはどういう行動をとったらいいのです?」
「それはもうあなたの自由ですよ」
「それがだめなんです、ぼくは完全に縛られているんです、おわかりでしょう! ヴェルシーロフは喉《のど》から手の出る思いでその遺産を待っているんです……そして、おわかりでしょうが、その助けがないと彼は破滅です――そこへ突然こんな手紙が現われるなんて!」
「これはここに、この部屋の中にあるだけですよ」
「ほんとにそうでしょうか?」わたしは注意深く彼を見つめた。
「もしあなたが今自分でもどうしたらよいかわからないくらいなら、ぼくがなにをあなたに助言できるでしょう?」
「しかし、ソコーリスキー公爵に渡すことも、ぼくにはできない。それではヴェルシーロフのいっさいの希望を殺すことになるし、そのうえ、彼に対して裏切者になってしまう……といって、ヴェルシーロフに渡せば、罪のない人々を貧窮のどん底に突きおとすことになり、しかもヴェルシーロフをやはり、あるいは遺産を拒否するか、あるいは泥棒になるか、という出口のない状態に立たせることになる」
「あなたは事の意義をあまりに誇張しすぎますよ」
「一つだけ言ってください。この文書は決定的な、最後的な性質をもっているのですか?」
「いいえ、もってません。ぼくは法律のことはあまりよくわかりませんが、敵側の弁護士は、もちろん、この文書をどのように利用するかは知ってるでしょうし、あらゆる利点をひきだすでしょう。でもアレクセイ・ニカノローヴィチは、この手紙は、法廷へ出されても、大きな法律的意味はもつわけがないから、この事件はやはりヴェルシーロフ側の勝訴になるはずだと、はっきりと認めていました。むしろこの文書が提起しているのは、いわば、良心の問題なのです……」
「なるほど、でもそれがなによりも重大なところじゃありませんか」とわたしはさえぎった、「それだからこそヴェルシーロフが出口のない状態に立たされることになるわけです」
「彼は、しかし、この文書を湮滅《いんめつ》してしまうことができますよ、そしたら逆に、いっさいの危険から自分を解放することができるわけです」
「あなたは彼をそのような人間と考える特別な根拠をおもちですか、クラフトさん? そこがぼくの知りたいところなのです。ぼくがあなたを訊《たず》ねたのはそのためなのです!」
「彼の立場にたたされたら誰でもそうするんじゃないですか、ぼくはそう思いますね」
「じゃ、あなたもそうするでしょうか?」
「ぼくは遺産をもらわないから、自分がどうするかはわかりませんね」
「まあ、いいでしょう」手紙をポケットに入れると、わたしは言った。「この件は今はこれで終りにしましょう。クラフトさん、聞いてください。マーリヤ・イワーノヴナが、正直に言うと、ぼくにいろんなことを打明けてくれたんですが、そのひとがぼくに言ったんですよ。エムスで、一年半まえに、ヴェルシーロフとアフマーコフ家の人々のあいだに起った事件の真相を語ることができるのは、あなただけだ、あなた一人だけだって。ぼくはあなたを待っていたんです、ついにぼくの身辺をすっかり照らしだしてくれる太陽を待つみたいに。あなたはぼくの立場を知らないのです、クラフトさん。お願いです、ぼくに真相をおしえてください。ぼくはどうしても知りたいのです、彼がどんな人間なのか、特に今は――今は他のどんなときよりもそれが必要なのです!」
「おかしいですね、どうしてマーリヤ・イワーノヴナが自分でそれをあなたに語らなかったのでしょう。あのひとなら死んだアンドロニコフからなにもかも聞くことができたはずだし、それに、むろん聞いていたでしょうし、おそらく、ぼくよりも知ってるはずなのです」
「アンドロニコフ自身がこの事件にもつれこんでしまったと、たしかそうマーリヤ・イワーノヴナは語ってましたが。この事件は、どうやら、誰も解くことができないようです。足をふみ入れたら、それこそ悪魔に足を折られてしまうでしょう! でも、あなたはそのときエムスにいたはずです……」
「ぼくは全部を見たわけではありません、でも知っていることは、喜んで語りましょう、ただあなたを満足させることができますかどうか?」
彼の話をそのままここへうつすことはやめて、簡潔に要点だけを記《しる》すことにする。
一年半まえにヴェルシーロフは、ソコーリスキー老公爵を通してアフマーコフ家(当時この一家はドイツのエムスに滞在していた)の親しい友人となり、まず第一に当主のアフマーコフ将軍に強い感銘をあたえた。この将軍はまだ老人とはいえなかったが、結婚三年で妻カテリーナ・ニコラーエヴナの巨額な持参金をカルタですっかりすってしまい、そのうえ放肆《ほうし》な生活のために早くも中気にあてられていた。彼はその発作がおさまると、外国で療養につとめたが、エムスに滞在していたのは、先妻とのあいだに生れた娘のためであった。これは十六、七歳になる病弱な娘で、胸をわずらっていたが、噂《うわさ》では、おどろくほどの美貌《びぼう》で、すこし現実ばなれのしたところがあるといわれていた。彼女には持参金がなかったので、例によって、老公爵の保護があてにされていた。噂によると、カテリーナ・ニコラーエヴナは善良な義母だったようである。ところが、娘はどういうわけかヴェルシーロフに強く惹《ひ》かれた。彼はそのころ、クラフトの表現によると、『なにか熱情的なもの』を鼓吹し、新生活のようなものを説き、『高い意味の宗教的な心境にあった』――これはクラフトに伝えられたアンドロニコフの奇妙な、あるいは嘲笑《ちようしよう》的といえるかもしれぬ表現である。ところがおかしなことに、まもなくみんなが彼をきらうようになった。将軍などは彼を恐れたほどである。ヴェルシーロフがいち早く病身の将軍の頭に、カテリーナ・ニコラーエヴナ夫人がソコーリスキー若公爵(そのころ彼はエムスを離れてパリへ行っていた)におだやかでないという考えを植えつけたのだ、という噂を、クラフトはまったく否定しなかった。それを彼は直接的にではなく、『彼はいつもの手で』――中傷やら、ほのめかしやら、あらゆるひねりをきかせて遠まわしにじわじわと吹きこんだのだそうで、『そういうことにかけては彼は天才ですから』とクラフトは言った。総体的に言うと、クラフトはヴェルシーロフを、実際になにか高遠な、ではないまでもせめて独創的な思想に貫かれた人間というよりは、むしろ詐欺師で、生れながらの策士というふうに考えていたし、またそう考えたがっていたようである。わたしだって、クラフトに聞くまでもなく、ヴェルシーロフがはじめはカテリーナ・ニコラーエヴナに強烈な感銘をあたえて、その後しだいに決裂に傾いていったことは知っていた。このドラマの真因はどこにあったのか、それをわたしはクラフトからも知ることはできなかった。しかし二人が親しくなった後に二人のあいだに互いに憎み合う気持が生れたことは、誰もが肯定しているのである。それにつづいて、一つの奇妙な事態が発生した。カテリーナ・ニコラーエヴナの病身の義理の娘が、どうやら、ヴェルシーロフに恋をしたらしいのである。あるいは彼の内部のなにものかに強く心をうたれたのか、あるいは彼の言葉によって胸に火をつけられたのか、そのへんのところはわたしにはぜんぜんわからない。だが、誰にも明らかなのは、ヴェルシーロフがある時期ほとんど毎日のようにこの娘のそばについていたことである。そしてついに、ある日突然娘が、ヴェルシーロフと結婚したいと父に言いだしたのである。これが実際にあったことであることは――クラフトも、アンドロニコフも、マーリヤ・イワーノヴナも、みなはっきりと認めているし、一度なぞタチヤナ・パーヴロヴナがわたしのいるところでうっかりそれを言ってしまったこともあった。また、ヴェルシーロフもその娘との結婚を望んだばかりか、頑強《がんきよう》にそれを主張したことも、老人と少女という、この異種な二人の同意が双方の合意であったことも、やはりみんな認めている。ところで、娘からこう言われて、父親はびっくりしてしまった。彼は、かつては熱愛した妻カテリーナ・ニコラーエヴナをきらうにつれて、娘を愛するようになり、特に発作があって後は、ほとんど溺愛《できあい》していた。ところが、このような結婚の可能性にもっともはげしく反対したのは、カテリーナ・ニコラーエヴナ自身だった。きわめて多くのなにか秘密めいた、極度に不快な家庭内の衝突や、口論や、悲嘆など、一口に言えば、あらゆる忌まわしいことが起った。父親は、しまいには、ヴェルシーロフに『盲目にされて』――これはクラフトの表現だが――すっかり恋のとりこになっている娘の強情に負けて、折れはじめた。ところがカテリーナ・ニコラーエヴナは依然として異常なまでの憎悪《ぞうお》を燃やして反抗をつづけた。そしてこのへんから、その後誰にも理解できなくなった、あのひどいもつれがはじまるのである。ところで、これからもろもろの事実をふまえたクラフトの率直な推測を紹介するが、しかしやはり推測でしかない。
ヴェルシーロフはどうやら例の手をつかって、それとなく、しかも呪縛《じゆばく》にかけるように、若い娘にまんまとこんなことを吹きこんだかのようである。つまり、カテリーナ・ニコラーエヴナがこの結婚に同意しないのは、彼女自身が彼に惚《ほ》れこんでいるからで、もうまえまえから彼を嫉妬《しつと》で苦しめ、彼のあとを追いまわし、あらゆる策を用い、しかももう彼に恋を告白しているから、今は彼がほかの女を愛したというので、彼を焼き殺そうとまでしている、とまあ要するに、こんな類《たぐ》いのことらしい。しかも、もっとも卑劣きわまるのは、彼は『不貞な』妻の良人《おつと》である父親にまで、若公爵は単なる慰みにすぎなかったのだなどと説明しながら、このことを『ほのめかした』らしいのである。家庭内が地獄と化したことは、言うまでもない。また一説によると、カテリーナ・ニコラーエヴナはその義理の娘をおそろしく熱愛していたために、病身の良人の気持などはともかく、義理の娘の耳に悪質な中傷が入ると、すっかり絶望にしずんでしまったというのである。
しかもなんと、これとならんでもう一つのヴァリエーションもあるのである。しかも、悲しいことに、それをクラフトもほぼ完全に信じているし、わたし自身もそれを信じたのである(これはわたしはすでに聞かされていた)。これは確言してる人も多いのだが(アンドロニコフは、噂では、カテリーナ・ニコラーエヴナの口から直接聞かされたのだそうだが)、まえの説とは逆で、ヴェルシーロフが、まだその以前に、ということはつまり若い娘の胸に恋が芽生《めば》えるまえに、カテリーナ・ニコラーエヴナに愛を訴えた、ところが彼女はもともと彼とは友だちの間柄で、一時は彼に熱中したこともあったが、いつも彼の言葉を信用しないで、たてついてばかりいたので、このヴェルシーロフの愛の告白を頭からばかにしきって、毒々しく彼を嘲笑した。そして、近々彼女の良人の二度目の発作が予想されるからと直接《じか》談判で妻になってくれと申込んだということを理由に、彼を正式に自分の身辺から遠ざけてしまった。そういうことがあったから、カテリーナ・ニコラーエヴナが、その後彼がいかにもあてつけがましく彼女の義理の娘の手を求めているのを知ったとき、ヴェルシーロフに異常なまでの憎悪をおぼえたのは当然だというのである。マーリヤ・イワーノヴナは、モスクワでこうしたことをわたしに語りながら、そのいずれのヴァリエーションも、つまりすべてをひっくるめて、信じていた。彼女に言わせると、こうしたことはすべて同時に起りうることだ、これはいわば la haine dans l'amour(愛の中の憎しみ)みたいなもので、双方からの辱《はずか》しめられた愛の誇りというか、なにやらそうした類いのもので、要するに、一種の微妙な恋愛事件のもつれであって、おまけに、卑劣な根性が見えすいて、健全な頭脳をもっているまじめな人間にはかえりみるに値しないことだ、というのである。しかしそういうマーリヤ・イワーノヴナも、美しい性質はもっているが、子供のころから小説の虫で、昼も夜も本に読みふけっていた。結果的に、ヴェルシーロフの明らかな卑劣、虚偽と策謀、なにか黒い、忌まわしいものが表面に出てきた、ましてこれが実際に悲劇的な結果に終ったからなおさらである。哀れにも恋の炎に焼かれた娘がマッチの燐《りん》を飲んで自殺をはかったというのである。しかしわたしにはいまでも、この噂が真実なのかどうか、わからない。少なくともこれはもみ消そうとしてあらゆる努力がなされた。娘は二週間病床にあっただけで、死んだ。マッチの件は、こうして、謎《なぞ》のままのこされた。しかしクラフトはそれもかたく信じていた。その後まもなく娘の父親も死んだ。噂では、悲嘆に沈んだあまり、それが二度目の発作を呼んだというのだが、しかし三カ月をすぎて後であった。ところで、娘の埋葬がすんだ後、ソコーリスキー若公爵が、パリからエムスへもどってきて、公園で公衆のまえでヴェルシーロフに頬打《ほおう》ちをくわせた、ところがそれに対してヴェルシーロフは決闘の申込みをもって応《こた》えなかったどころか、翌日まるでなにごともなかったように遊歩場《プロムナード》に姿を現わした。ここにいたって人々はみな彼に背を向けた。ペテルブルグでも同じことであった。ヴェルシーロフはその後もいくらかは交際をつづけていたが、しかしそれはまったく別な社会の人々であった。上流社会の彼の知人たちは一人のこらず彼を非難したが、しかし、事件の詳細は誰も知らなかったのである。彼らの知っていたことといえば、若い娘の悲恋の死と、頬打ちくらいのものであった。かなり詳細な事情に通じていたのはほんの二、三人だけで、中でもいちばんよく知っていたのは死んだアンドロニコフで、彼はもうまえまえからアフマーコフ家と事務上の関係をもち、特にある事件でカテリーナ・ニコラーエヴナと親しく接触していたからであった。ところが彼はそうしたすべての秘密を家族にさえもらさず、ただその一部をクラフトとマーリヤ・イワーノヴナに打明けたのだが、それも必要に迫られてのことであった。
「要は、いまここに一つの文書があって」とクラフトは結んだ、「それをアフマーコワ夫人が極度に恐れているということです」
そして、その件についても、彼はつぎのように語った。
カテリーナ・ニコラーエヴナは、父の老公爵が外国の療養生活で狂気の発作がそろそろ回復にむかいかけたころ、うかつにもアンドロニコフに極秘で(カテリーナ・ニコラーエヴナはすっかり彼を信頼しきっていたのである)きわめて恥辱的な手紙を書き送ったことがあった。そのころ回復しかけていた公爵に、なんでも実際に、金を空中にばらまきかねないような浪費癖があらわれたらしい。外国で彼はまるで要《い》りもしない高価な品々や、絵や、壺《つぼ》などを買いあさったり、得体の知れない連中や、土地のもろもろの施設にまで、巨額の寄付をしたり、あるロシア人の道楽者から、荒廃して、しかも面倒な訴訟問題まで起きている土地を、見もしないで、莫大《ばくだい》な金で危なく買いかけたりしたあげく、実際に結婚のことを考えだしたらしいのである。そこで、そうしたいろいろなことを考慮したあげく、病気のあいだ父につききっていたカテリーナ・ニコラーエヴナが、法律家であり、『古くからの親しい友人』であるアンドロニコフに、『法律によって、公爵に禁治産者か、あるいは無能力者の宣告をすることができるか、その場合、スキャンダルにならぬように、誰にも非難されぬように、父の感情を害《そこ》ねないようにするには、どういう方法をとったらもっとも好都合か、等々』の質問を書き送ったのである。アンドロニコフはすぐに彼女を諫《いさ》めて、思いとどまらせたということで、その後、公爵がすっかり健康を回復したので、もはやこの計画にもどるわけにはいかなくなった。だが、その手紙はアンドロニコフの手もとにのこった。ところがその後彼が死ぬと、とたんにカテリーナ・ニコラーエヴナはその手紙のことを思い出した。もしそれが故人の書類の中から見つかって、老公爵の手に入りでもしようものなら、それこそ老公爵は永久に彼女をしりぞけ、遺産の相続権をうばい去り、生きているあいだは一コペイカの金も彼女にあたえないにちがいない。実の娘が彼の頭脳を信用しないで、そのうえ彼に狂人の宣告を下そうとまでしたなどという考えは、この羊を野獣に変えてしまうであろう。彼女は、未亡人になると、賭博《とばく》好きの良人のおかげで、財産をきれいになくされまったくの裸の状態でとりのこされて、父だけが頼みの綱であった。彼女は最初のときと同じくらいの莫大な持参金を父からもらえるものと、すっかり当てにしていたのである!
クラフトはこの手紙の運命はほとんど知らなかったが、それでもアンドロニコフは『必要な書類はぜったいに破棄するようなことはしなかった』し、そのうえ、広い知識もあった代りに、『広い良心』の人でもあった、と言った。(わたしはそのとき、あれほどアンドロニコフを愛し、そして尊敬していたクラフトが、このような極度に主観的な見解をもっていることに、おどろきの目をみはったほどであった)。しかしクラフトはやはり、ヴェルシーロフがアンドロニコフの未亡人や娘たちと親しかったことから、この恥辱的な手紙がヴェルシーロフの手に渡っているらしい、という確信をもっていた。ともあれ、未亡人と娘たちが彼の死後にのこされたすべての書類を、すぐに、しかもそうしなければならぬものとして、ヴェルシーロフに渡したことは、すでに知られていた。またクラフトの言うところでは、カテリーナ・ニコラーエヴナもその手紙がヴェルシーロフににぎられていることを知っていて、ヴェルシーロフがその手紙をすぐに老公爵のところへ持ってゆくのではないかと、それをおそれている、そして外国からもどると、彼女はペテルブルグですぐにその手紙の行方《ゆくえ》をさがしはじめて、アンドロニコフの家を訪ねたし、いまも依然としてさがしつづけている、というのはやはり彼女には、手紙は、もしかしたら、ヴェルシーロフの手には渡っていないのではないか、という一抹《いちまつ》の希望がのこっていたからで、そして結局、彼女がモスクワへ行ったのもただそのためで、マーリヤ・イワーノヴナに手もとに保存されている手紙類をしらべてくれるように、拝まんばかりにしてたのんだというのである。マーリヤ・イワーノヴナという女がいることと、死んだアンドロニコフと親しくしていたということを、彼女が知ったのはごく最近のことで、ペテルブルグへもどってからのことであった。
「それでどうでしょう、マーリヤ・イワーノヴナのところで見つけたと思いますか?」とわたしはふくむところがあって、訊ねた。
「マーリヤ・イワーノヴナがあなたにすらなにも打明けなかったとすれば、おそらく、彼女の手もとにはないのでしょう」
「とすると、あなたの考えでは、それがヴェルシーロフの手にあるというのですね?」
「それがもっとも確率が高いでしょうね。しかし、わかりませんよ、すべてが推測ですから」と彼はいかにも疲れたようすでつぶやくように言った。
わたしはしつこく訊くのをやめた、それに訊いてどうなるというのだ? わたしのもっとも知りたかった点は、このごたごたしたつまらないもつれはそのままにのこったにせよ、明らかにされたのである。わたしがおそれていたすべてのものが――確認されたのである。
「すべてが夢のようだ、うわごとのようだ」わたしは深い憂愁の底でこうつぶやくと、帽子をつかんだ。
「あなたにはこの人がひじょうに大切なのですね?」とクラフトはありありと深い同情を見せて言った。わたしはその瞬間彼の顔にそれを読みとったのである。
「ぼくはまあこんなことだろうと思ってたんです」とわたしは言った、「あなたに会ってもやはりすっかりはわからないだろうとね。のこる希望はアフマーコワ夫人だけです。彼女にはぼくも希望をかけていました。彼女のところへ行くつもりですが、あるいは、行かないかもしれません」
クラフトはちょっと不審そうな目でわたしを見た。
「さようなら、クラフトさん! あなたを望んでいない人々のところへ、なぜもぐりこもうとするんです? すべてをたち切ったほうがいいのじゃありませんか――え?」
「で、これからどこへ?」彼は足もとへ目をおとしながら、妙にけわしく、こう言った。
「自分のところへですよ、自分の巣へ! いっさいをたち切って、自分の殻《から》へひっこもるのです!」
「アメリカへ?」
「アメリカ! 自分へですよ、自分一人だけの殻へ! ここに『ぼくの理想』のすべてがあるんですよ、クラフトさん!」とわたしは酔ったように叫んだ。
彼はなにか興味ありげにわたしを見た。
「じゃ、あなたにはその場所があるのですか、その『自分の巣』とやらが?」
「ありますとも。では、クラフトさん、ありがとう、面倒をかけてすみませんでした! ぼくがあなたで、そういうロシアを頭の中にもっていたら、誰も彼もみな悪魔のところへ追いやってしまいますね。失《う》せろ、勝手に悪だくみをして、いがみ合うがいいさ――おれの知ったことか、ってね!」
「もうすこしいてくれませんか」もうわたしを入口のところまで送りだしてから、彼は不意にこう言った。
わたしはいささかおどろいたが、もどって、また坐った。わたしたちはにやりとへんな薄笑いを交わしあった。それをすっかり今目のまえに見るようにわたしはおぼえている。特に鮮明に記憶にあるのは、彼を見てなにか異様なおどろきが胸にきたことである。
「ぼくはあなたの、クラフトさん、そのつつしみ深いところが、気に入りましたよ」とわたしは唐突に言った。
「そう?」
「自分がそうしたいと思っても、なかなかにそれができないからですよ……しかし、どうでしょう、人々に辱しめられるほうが、いいんじゃありませんか、少なくとも、人々を愛する不幸からは解放されますからねえ」
「あなたは一日のどんな時刻がいちばん好きですか?」彼は明らかにわたしの言葉を聞いていないらしく、こう訊ねた。
「時刻? わかりませんね。日暮れは好きません」
「そう?」彼はなにか特に興味ありげにこう言ったが、すぐにまた考えこんでしまった。
「あなたはまたどこかへ行くんですか?」
「ええ……行きます」
「まもなく?」
「まもなく」
「いったい、ヴィルノまで行くのに、ピストルが要るんですか?」とわたしはまったくなんのふくみもなく訊いた。それに考えなどまるでなかった! ピストルがちらと目についたし、話題に困っていたので、ひょいとこう訊いただけである。
彼は振向いて、じっとピストルを見た。
「いや、あれは習慣でおいとくだけです」
「もしぼくがピストルをもってたら、どこかへかくして鍵《かぎ》をかけておくでしょうね。ねえ、まったく、誘惑的じゃありませんか! ぼくは、おそらく、流行性自殺病なんてものは信じないでしょうが、しかしこいつが目先にちらつくと――たしかに、ふらふらと誘いこまれるような瞬間がありますね」
「そんな話はしないでください」と言うと、彼は不意に立ち上がった。
「自分のことじゃありませんよ」とわたしも立ち上がりながら、つけくわえた、「ぼくがそんなものをつかうものですか、三度生命をあたえられても――まだ足りないくらいです」
「長く生きなさい」うっかり口からすべらせたような、彼の言葉だった。
彼はとりとめのない笑いをもらした、そして奇妙なことに、まるで自分のほうからわたしを送りだそうとするように、もちろん、自分ではなにをしているか気づかないで、つかつかと玄関のほうへ歩きだした。
「成功を祈ります、クラフトさん」と、もう表階段へ出てから、わたしは言った。
「それはなんとも言えません」と彼はしっかりした声で答えた。
「また会いましょう!」
「それもなんとも言えませんね」
わたしはわたしを見つめた彼の最後の目を忘れることができない。
要するに、これが、何年間もわたしが胸をときめかせて待ちつづけたその人なのだ! そしてわたしは、なにをクラフトから待ち望んでいたのか、これがどんな新しい情報というのか?
クラフトの家から出ると、わたしははげしい空腹を感じた。もう夕暮れになっていたが、わたしは昼食をとっていなかった。そこでわたしはペテルブルグ区の大通りのとある小料理店に入った。二十コペイカか、せいぜい二十五コペイカまででとめるつもりで――それ以上は当時のわたしとしてはぜったいに許せないぜいたくだった。わたしはスープをとった、そしておぼえているが、スープを飲みおわると、窓際《まどぎわ》に坐り直して外をながめはじめた。店の中は大勢の客ががやがやしていて、バターの焼ける匂《にお》いや、安もののテーブルかけや煙草の匂いがこもっていた。胸がむかむかするような空気だった。わたしの頭の上で、うたわぬうぐいすが陰気に、暗い思いにしずんだように、かごの底をくちばしでコツコツつついていた。隣の撞球室《どうきゆうしつ》ではわあわあという人声がしていた、しかしわたしはじっと坐ったまま、深いもの思いにしずんでいた。夕景色が(さっきわたしが日暮れを好まないと言ったとき、なぜクラフトがおどろいたのか?)まるでこの場にふさわしくない、これまで知らなかった思いがけない感じをわたしの胸によびおこした。わたしの目のまえにたえずものしずかな母のまなざし、もうほぼ一カ月のあいだ悲しいほどおどおどとわたしをうかがった母のやさしい目が、ちらちらうかんだ。このごろはわたしは家でひどく粗暴になって、母にはことさらにあたりちらした。わたしはヴェルシーロフに乱暴な口をきいてやりたいと思うのだが、わたしの卑屈な習慣で、それができないままに、母を苦しめてきたのだった。すっかりおびえきらせたことさえあった。よく母はアンドレイ・ペトローヴィチが入ってくると、わたしがなにか乱暴なことをしないかとおそれて、祈るような目でじっとわたしを見つめたものである……まったく奇妙なことだが、わたしは今、この小料理店で、はじめて、ヴェルシーロフがわたしをきみと呼びすてにするのに、母が――あなたというていねいな言葉をつかうという事実を、じっくりと考えてみたのである。わたしはまえにもこれにはおどろいたことがあって、母の卑屈でかたづけていたのだが、今はどういうものかこれが特に頭にひっかかって、あれやこれや考えているうちに――たえず奇妙な考えが、つぎつぎと、頭の中へ流れこんできた。わたしはすっかり暗くなるまで、じっとそこに坐っていた。妹のことも考えてみた……
わたしにとっては宿命の一瞬が来たのである。どちらにするにせよ、とにかく決定しなければならなかった! いったいわたしには決定する力がないのか? たち切るということに、どんなむずかしいことがあるというのだ? まして、むこうがわたしを望まないとしたらだ? 母と妹は? だがこの二人を、わたしはどんなことがあろうと捨てはしない――事態がどんな方向をとろうとだ。
わたしの人生にこの人間が現われたということは、といってもまだ幼いころ、ほんのちらとではあったが、それがわたしの自覚を始動させる宿命的な衝撃となったこと、それはたしかである。あのとき彼がわたしのまえに現われなかったら――わたしの頭脳は、わたしの考え方は、わたしの運命は、きっと別なものになっていたにちがいない、たとい天からあたえられたわたしの性格は、どうにも避けられないものであってもである。
ところが実は、この人間は――単にわたしの空想、子供のころからの夢にすぎなかったのである。これはわたしが自分で彼をそんなふうに頭の中でつくりあげていたので、実際にはわたしの空想よりははるかに下等な、まるで別の人間だったのである。わたしは心の澄んだ人間のところへ来たのであって、こんな人間のところへ来たのではない。それにしても、どうしてわたしは、まだ小さかったころちらと彼を見て、そのわずかのあいだに、永久に彼に心酔してしまったのか? これは『永久に』消え去らねばならぬ。わたしはいつか、余白があったら、このわたしたちの最初の出会いを書こうと思う。しかしこれはごくつまらない寸話で、おそらくなにも出てこまい。しかしわたしはりっぱなピラミッドをつくりあげたのだった。わたしがこのピラミッドを築きはじめたのは、まだ小さな夜具の中で眠りにおちながら、泣いたり、憧《あこが》れたり――なにを? それは自分でもわからないが――できた幼な子のころであった。わたしが見捨てられたことをか? みんなにいじめられることをか? だが、いじめられたのは短いあいだで、トゥシャールの寄宿学校で、二年間だけだった。あのとき彼がわたしをそこへおしこめて、それきり永久に去ったのだった。その後は誰もわたしをいじめなかった、それどころか反対で、わたしのほうが傲然《ごうぜん》と学友たちをにらみまわしていたのだ。そうとも、わが身をなげいてくよくよしている孤児根性というやつが、わたしにはがまんがならんのだ! なにがいやだといって、孤児だとか、私生子だとか、要するに世の中から見捨てられた、だいたいにおいてごみ屑《くず》みたいな連中が、わたしはこんなやつらには一片の哀れみももっていないのだが、こうした連中が突然はなばなしく公衆の面前に立ち現われて、非痛な、しかし説教じみた調子で、『見てください、こんなわたしたちに誰がしたのです!』などとやりだす、こんな役割ほど嫌味《いやみ》なものはない。わたしはこんな孤児どもをぶった斬《ぎ》ってやりたい! この根性のくさったお上《かみ》の穀《ごく》つぶしどもの誰一人として、泣いたりほえたりして、世間の同情に訴えるよりは、黙っているほうが十倍も床しいのだ、ということがわからないのである。こうしていられるだけで、おまえたち、愛の落し子には十分なのだ。これがわたしの考え方である!
しかし滑稽《こつけい》なのは、わたしが子供のころ『夜具の中で』空想したということではなくて、彼のために、またしてもこの頭の中でつくり上げた人間のために、わたしの主要な目的をほとんど忘れて、ここへやって来たことである。わたしは彼を助けて中傷を排し、敵どもを粉砕するために来たのである。クラフトが語ったその手紙、その女がアンドロニコフへ送り、そしていまあれほど恐れているその手紙、彼女の運命を破滅させ、彼女を乞食の境涯《きようがい》に突きおとすかもしれず、そして彼女はヴェルシーロフの手にあるものと考えているその手紙――その手紙はヴェルシーロフににぎられているのではない、わたしがもっていたのだ、わたしのこのわきのポケットの中に縫いこまれていたのだ! わたしが自分で縫いこんだので、世界中の誰もまだそれを知らないのである。この手紙を大切に『保管』していた小説好きのマーリヤ・イワーノヴナが、これを他の誰にでもなく、わたしに渡すことを必要と考えたのだが、それはひとえに彼女の見方であり、彼女の意志であって、それを説明することはわたしの義務ではない。もしかしたら、いつか事のついでに語ることがあるかもしれない。それはさて、このようにまったく思いがけなく武器をあたえられたので、わたしはペテルブルグにのりこみたいという誘惑に抗することができなかったのである。もちろん、わたしは表面に出たり、熱したりしないで、また彼の感謝も抱擁《ほうよう》も期待せずに、かげからひそかに彼を援護することを考えていた。そしてぜったいに、ぜったいになにかで彼を非難する光栄をもとうなどとは思わなかった! だが、わたしが彼に心酔してしまって、彼からファンタスチックな理想像をつくり上げたということに、彼の罪があるのか? それにわたしは、あるいは、ぜんぜん彼を愛してなどいなかったかもしれないのだ! 彼の風変りな頭脳、興味ある性格、なにか波瀾《はらん》ありげな彼の策謀と冒険、それに彼のそばにわたしの母がいるということ――こうしたすべてが、もはやわたしを抑えとめることができそうにもなかった。わたしの空想の中の偶像が破壊されて、もうこれ以上彼を愛することができまいと思う、それだけでもう十分であった。とすると、いったいなにがわたしを引止めたのか、なににわたしは縛りつけられたのか?――これが問題だ。結局は、ばかなのはわたしだけで、他の誰でもないということだ。
だが、他の人々に正直を求めるのだから、自分も正直になろう。わたしは告白しなければならぬが、ポケットの中に縫いこめられた手紙がわたしの胸に呼びおこしたのは、ヴェルシーロフを助けにとんでゆきたいというはげしい熱情だけではなかった。いまはもうそれはわたしにとってあまりにも鮮明だが、そのときもわたしはそれを思うと顔が赤くなった。わたしの目には女の姿が、上流社会の高慢な貴婦人の顔がちらちらうかんだ。わたしはまもなくこの女と対決することになるのだ。彼女はわたしにその運命をにぎられているとは、つゆ知らずに、わたしを侮蔑し、どぶねずみでも笑うようにわたしを嘲笑《あざわら》うことであろう。この考えはまだモスクワにいるころからわたしを酔わせたが、こちらへむかう汽車の中では特にわたしを有頂天にした。これはもうまえに書いたとおりである。そうだ、わたしはこの女を憎んでいたが、しかし同時にわたしの生贄《いけにえ》として、愛しはじめていた、そしてこれはみな真実であり、また事実であった。しかしこれはもはやあまりに子供じみていて、わたしのような者でさえ、まったく思いがけないことだった。わたしが今書いているのは、あのときのわたしの感じ、つまり小料理店のうぐいすの下に坐って、今夜こそあの人たちとどうしても別れようと決意したあのときに、わたしの頭に来たことである。先ほどあの女と会ったときの情景に思いいたると、羞恥でわたしの顔は真っ赤になった。屈辱的な出会いだ! 恥ずべき、愚劣きわまる印象、そして――なによりもわるいのは――実際的な問題に対するわたしの無能をすっかりさらけだしてしまったことだ! それが証明したことはといえば、そのときわたしはこう思ったのだが、自分では今しがた、自分には『自分の巣』がある、自分のしごとがある、三度生命をあたえられても、まだ足りないくらいだなどと、クラフトに大見得を切ったくせに、実はもっとも愚かしい誘惑に対してすら抗する力がないのだということであった。わたしは傲然とそれをクラフトに言ってのけたのだ。わたしが自分の理想をなげうって、ヴェルシーロフの事件に頭をつっこんだということ――それはまだしも許せないこともない、しかし、わたしがまるでおびえた兎《うさぎ》みたいに、あっちへふらふらこっちへうろうろとびまわって、いちいちくだらんことにひっかかっているというにいたっては、もはやこれは、わたしの愚かさのせいでしかない。いったいなんのためにデルガチョフの家へなどふらふら引っぱられていって、あげくは、自分が賢明に筋道をたてて話をする力などぜんぜんないのだし、黙っていることがなによりも得なことを、よくよく承知しているくせに、あんなばかをさらして逃げだすようなまねをしたのだ? おまけにワーシンとかいう男が、『あなたはまだこの先五十年もの人生があるのだから、なにも自分を苦しめることはない』などと、わたしにさとしてくれた。彼の反論はみごとだ、それは認める、そしてそれは彼の申し分のない頭脳をりっぱに証明している。それがもっとも単純明快だという点が、すでにすばらしいのだが、単純明快なものは常に、もっとも賢明なものとか、もっとも愚劣なものとかが、すべて試みつくされた後、いちばん最後にしか到達されないものである。しかしわたしはこの反論を、ワーシンに聞くまえに、自分でも知っていた。この思想をわたしは三年とちょっとまえに感じとった。それだけではない、ここにある程度『わたしの理想』もふくまれているのである。わたしがそのとき小料理店で考えたのはこうしたことであった。
歩き疲れと、考え疲れで、夜ももう七時をまわったころ、ようやくセミョーノフスキー連隊のそばまでたどり着いたときは、わたしは実にいやな気持だった。もうあたりはすっかり暗くなって、空模様ががらりと変っていた。空気は乾《かわ》いていたが、毒々しい、鋭い、例の忌まわしいペテルブルグの風が起って、わたしの背に吹きつけ、あたりいちめんに埃《ほこり》や砂をまき上げた。労働や勤めからせかせかとわが家へ急ぐ大衆の、無数の陰気な顔々! どの顔にも自分の暗い心配ごとが刻まれていて、これだけの群衆の中に、おそらく、みんなを結びあわせるような共通の考えは、一つもありそうにない! みんなばらばらだ、とクラフトが言ったが、そのとおりだ。わたしは一人の小さな男の子を見かけた。こんな時刻にどうして一人で通りにいるのだろうと、ふしぎに思うほどの、小さな子供だ。どうやら、道に迷ったらしい。一人の女が立ちどまって、ちょっと子供になにか訊《き》いたが、さっぱりわからないらしく、両手をひろげると、子供一人を暗がりにのこしたまま、向うへ行ってしまった。わたしがそばへ寄りかけると、子供はどうしたことか急にわたしにおびえて、逃げだした。家のまえまで来ると、わたしはワーシンの家へはぜったいに行くまいと腹に決めた。わたしは階段をのぼりながら、ヴェルシーロフがいないで、母たちだけならいいのだが、と祈りたいような気持になった。ヴェルシーロフがもどってくるまでに、母かかわいい妹に、なにかやさしい言葉をかけてやりたかった。妹にはほぼ一月のあいだ、わたしは言葉らしい言葉を一つもかけてやったことがなかったのである。はたして、ねがったとおり、彼は家にいなかった……
さてここで、『手記』の舞台にこの『新しい人物』(つまりわたしはヴェルシーロフのことを言っているのである)を登場させるにあたって、簡単に彼の履歴を紹介しておこう。といって、これは別になんの意味もないのである。わたしがここにそれを述べるのは、読者の理解を助けるためと、もうひとつはこの話の今後の展開の中でどこにこれをはさんだらいいのやら、ちょっと見通しがつかないからである。
彼は大学に学んだが、しかし卒業すると近衛《このえ》の騎兵連隊に入った。ファナリオートワと結婚すると、軍職を去って、外国にあそび、帰国後はモスクワにおちついて、社交界の生活を楽しんだ。妻の死後村へもどって、そこでわたしの母とのエピソードがあった。その後長く南のほうのどこかに住んでいた。クリミヤ戦争のときにふたたび軍務についたが、クリミヤへは行かず、一度も実戦には参加しなかった。戦争が終ると、軍務を退いて、外国へ行き、わたしの母も連れていったが、しかし母をケーニヒスベルクに置き去りにしてしまった。哀れな母はときどきさも恐ろしそうに、頭を振りながら、そのときまるまる半年のあいだというもの、それこそ一人ぼっちで、小さな女の子を抱《かか》えて、言葉もわからず、まるで森の中に住むみたいで、おまけにしまいには懐中までとぼしくなって、どれほど心細い思いをしたかという話を語って聞かせた。そのときタチヤナ・パーヴロヴナが母を迎えに来て、ロシアへ連れもどし、ニージェゴロドスキー県のどこやらへおちつかせた。やがてヴェルシーロフは土地調停裁判所の調停員になって、みごとな腕を発揮したということだが、まもなくそれをやめて、ペテルブルグでさまざまな民事訴訟事件の代理人のようなことをはじめた。アンドロニコフは常に彼の才能を高く買って、彼をひじょうに尊敬していたが、ただその気性がよく理解できないと言っていた。やがてヴェルシーロフはそれもやめてしまって、また外国へ去ったが、今度は長く、数年はもどらなかった。その後、ソコーリスキー老公爵との特に親密な交際がはじまった。この間に彼の経済事情は急激に二転三転して、まるで貧窮のどん底にしずむかと思うと、また不意に金が入って豪勢になるというふうであった。
ところで、今、わたしの手記がここまできたところで、わたしは『わたしの理想』も語っておきたいと思う。それを文字であらわすのは、それが生れて以来はじめてのことである。わたしが、いわば、それを読者のまえに開陳しようとするのは、一つには今後の話の展開をわかりやすくするためでもある。それに読者ばかりでなく、著者であるわたし自身も、なにがわたしをみちびき、そしてそれらに遭遇《そうぐう》させたのかを明らかにしないことには、わたしの歩みを説明することがむずかしくなりかけている。この『沈黙の姿勢』によってわたしは、自分の力不足のために、まえにあざけったあの小説家たちの『技巧』にまたしても落ちこんだのである。わたしのあらゆる恥ずべきできごとをふくむこのペテルブルグのロマンの入口のドアをあけるにあたって、わたしはこの序文が必要なものであると思う。しかし『技巧』がこれまでわたしに沈黙を誘ったのではない、それは問題の本質、つまり問題のむずかしさなのである。すでにここまで書きすすめてきた今でさえ、わたしはこの『思想』を語ることのどうにもならぬむずかしさを感じている。そのうえ、わたしは、ことわるまでもなく、それをそのころの形で、つまり今ではなく、その当時それがわたしの頭の中で組み立てられ、思索されたそのままの形で述べなければならぬわけで、これがまた新しいむずかしさなのである。ものによっては語ることがほとんど不可能である。たしかに、もっとも簡単で、もっとも明白な思想――こういうものこそ理解がむずかしいのである。もしコロンブスがアメリカを発見する以前に、その考えを他の人々に語ったとしたら、きっと、ずいぶん長いあいだ理解されなかったにちがいない。そして実際に理解されなかったのである。こんなことを言ったからといって、わたしは決して自分をコロンブスと同列におこうなどと思っているのではない、そしてもしそんなふうにとる者があれば、ただその当人が恥ずかしい思いをするだけであろう。
[#改ページ]
第五章
わたしの理想、それは――ロスチャイルドになることである。わたしは読者諸君におちついて、まじめに聞いてもらいたいのである。
くりかえして言うが、わたしの理想、それは――ロスチャイルドになることである。ロスチャイルドのような富豪になることである。ただの金持になるのではなく、ロスチャイルドのようになることなのである。なんのために、なぜ、そしてどのような目的を追求しているのか――これについては後で述べよう。はじめにこれだけを言っておきたい、それはわたしの目的の達成は数学的に保証されているということである。
事はひじょうに簡単である。すべての秘密は二言に尽きる。つまり忍耐と持続である。
「聞いてるよ」と人々はわたしに言うであろう、「別に新しいことじゃない。ドイツではどの父親《フアーテル》たちもそれを息子たちに口癖のように言っている、ところがきみの言うロスチャイルドは(つまりパリの故ジェームス・ロスチャイルドのことで、わたしが言っているのは彼のことである)たった一人しかいないが、父親《フアーテル》たちは何百万人といるじゃないか」
わたしはこう答えるであろう。
「あなた方は聞いていると言うが、しかしその実なにも聞いていやしないのだ。もっとも、一つだけあなた方も正しい。それは、この問題は『ひじょうに簡単だ』とわたしは言ったが、もっともむずかしい、とつけくわえるのを忘れたことだ。およそ世界中のあらゆる宗教と道徳は、『善を愛し、悪を避けよ』という一点に集約される。これより簡単なことがありうるだろうか? ところで、なにか善いことをしてごらんなさい、そしてあなた方の悪いことのせめて一つでも避けてごらんなさい、ためしにやってごらんなさい――さあ? この問題もこれと同じことさ」
だからあなた方の無数の父親たちが、それこそ何世紀ものあいだ、すべての秘密をふくむこのおどろくべき二つの言葉をくりかえしているが、ロスチャイルドは一人しかいないということになるのだ。つまり、ひびきは同じだが、内容はちがうということで、父親たちがくりかえしているのはまったく別な思想なのである。
忍耐と持続について、彼らも聞いていることはまちがいない。だが、わたしの目的を達成するために必要なのは、父親たちの忍耐ではないし、父親たちの持続ではないのである。
すでに父親《フアーテル》であるという一事だけで――わたしはドイツ人だけを言っているのではない、家族があり、みんなと同じように暮し、みんなと同じように生活費をつかい、みんなと同じように義務のある者すべてを言っているのだが――もうその者はロスチャイルドにはなれず、ただ平均的な人間になるだけである。ロスチャイルドになったら、あるいはただそうなろうと望んだだけで、もちろん世の父親式にではなく、真剣にだが――それだけでもう社会の枠《わく》からはみだしてしまうことが、わたしには明瞭《めいりよう》すぎるほどにわかっているのである。
数年前にわたしは新聞で、ヴォルガ航行中のある船の中で、ぼろを下げて喜捨を請うて歩いていた、その界隈《かいわい》では誰知らぬ者がない一人の乞食《こじき》が死んだという記事を読んだことがある。死体をしらべてみると、そのきたない肌着《はだぎ》にほぼ三千ルーブリ近い紙幣が縫いこめられていたというのである。数日前にわたしはまた、名門の出で、居酒屋をまわって袖乞《そでご》いをしていた一人の乞食の記事を読んだ。これも捕えてしらべると、五千ルーブリほどの大金をもっていたそうである。ここからずばりと二つの結論が出る。一つは、貯蓄における忍耐は、たといわずかばかりのはした金でも、ついには大きな結果を生みだすということである(時間はここではなんの意味ももたない)、もう一つは――どんなに策のない貯蓄法でも、それが持続さえすれば、数学的に成功が保証されるということである。
ところが、人間がりっぱで、頭もいいし、節約もしているが、どんなにじたばたしても五千はおろか三千も貯《た》まらない、ところが貯めたい気持だけは人並みはずれて強いという人々もいる、しかもこういう人々はかなり多いはずである。どうしてこうなのか? 答えは明白だ。その理由は、彼らの一人として、そうなりたいという欲望はあるが、それでも、たとえば、ほかにどうしても貯める方法がなければ、乞食になるのも辞さない、というほどまでに強く望まないからである。乞食になっても、はじめにもらったわずかな金を自分のあるいは家族の余分な一きれのパンにもつかわない、というほどまでに強い忍耐がないからである。しかし、この貯蓄方法では、つまり乞食になって貯めようと思えば、何千という大金にするためには、食べるものはパンと塩だけでがまんしなければならない。少なくともわたしはそう思っている。上記の二人の乞食も、おそらく、それをやったにちがいない、つまりパンだけしか食べないで、夜はほとんど青天井の下に寝たにちがいない。ことわるまでもなく、ロスチャイルドになろうという意志は彼らにはなかった。これは雑物をのぞき去った形のアルパゴンかプリューシキン(訳注 モリエールの守銭奴ゴーゴリの死せる魂の登場人物)の類《たぐ》いで、それ以上の何者でもない。だが、それとまったくちがう形ではっきりと貯蓄を志し、ロスチャイルドたらんとする目的がある場合は――この二人の乞食以上の強い悲願と意志の力が要求されるのである。父親たちにはこのような力はない。世の中にはいろいろさまざまな力がある。意志と欲望の力は特に多彩である。水を沸騰させる熱度もあれば、鉄を灼熱《しやくねつ》させる熱度もあるのだ。
ここに見られるのは、修道院の生活であり、苦行僧の功績である。ここにあるのは熱情であって、理想ではない。なんのために? なぜ? これは道徳的なことなのか、粗衣をまとい、一生黒パンをかじって、このような大金をひきずって歩くのが奇形的ではないのか? こうした問題は後にゆずるとして、今はただ目的達成の可能性について語りたいのである。
わたしがこの『わたしの理想』を思いついたとき(ところで、これは灼熱の中に成り立つものだが)――わたしは、自分に修道院と苦行僧の生活に堪《た》えうる力があるかどうか、ためしてみることにした。その目的でわたしは最初の一カ月をパンと水だけで暮した。黒パンを一日一キログラム以内とした。これを実行するために、わたしは聡明なニコライ・セミョーノヴィチと、わたしのしあわせをねがうマーリヤ・イワーノヴナを欺《だま》さなければならなかった。わたしは食事を自分の部屋でとりたいと言い張って、マーリヤ・イワーノヴナを悲しませ、敏感なニコライ・セミョーノヴィチにいくぶん怪しまれた。部屋でわたしはそれを惜しげもなく処分した。スープは窓からいらくさの茂みにあけるか、あるいはもう一カ所別なところへ捨てた。牛肉は――窓から犬に投げてやるか、さもなければ紙につつんでポケットに入れ、あとで外へ出て捨てた。すべてこういったぐあいであった。食事に出されるパンは一キログラムよりずっと少なかったので、そっと自分で買い足した。わたしはすこし胃をこわしたらしいだけで、その一カ月はもちこたえた。しかし、つぎの月からパンにスープを加え、朝と晩に茶を一杯ずつ飲むことにした――そして、はっきり断言するが、こうして一年間を、肉体的には完全な健康と満足のうちに、しかも精神的には――熱中と、そしてたえまないひそかな歓喜のうちにすごしたのである。わたしは食物を惜しまなかったばかりか、大きな喜びにひたっていた。一年が終って、自分はどのような節食にも堪えることができると確信したところで、わたしはまたみんなと同じように食べることにして、食事もみんなといっしょの食堂へ移した。この試みにあきたらないで、わたしはもう一つの試みもしてみた。そのころわたしは、ニコライ・セミョーノヴィチに支払う下宿代のほかに、毎月五ルーブリずつの小遣《こづか》いをあたえられていた。わたしはこれを半分しかつかわないことに決めたのである。これはひじょうに苦しい試練ではあったが、二年とすこししてペテルブルグへ来たとき、わたしの懐中には、ほかにもらった金とは別に、七十ルーブリの金があったが、これはこうして貯めたものなのである。この二つの体験の結果はわたしにとって大きなものであった。わたしはりっぱに目的を達するだけの意志の力が自分にあることを、確実に知ったのである、そしてここに、くりかえして言うが、『わたしの理想』のすべてがあるのである。その先のことは――ぜんぶつまらないことである。
しかし、つまらないことも等閑《なおざり》にはできない。
わたしは二つの体験を書いたが、ペテルブルグで、すでに述べたように、わたしは第三の実験をした――つまり競売に行って、一度の投資で、七ルーブリ九十五コペイカの利益を得た。もちろん、これは本格的な試験ではなく、単なる遊びというか、気晴らしでしかなかった。未来からの一瞬を盗みだして、わたしが将来どのように歩み、そして行動するかを、ちょっと見てみたかったまでである。総じて、本格的に事業にのりだすのは、そもそものはじめから、まだモスクワにいたころに、わたしが完全に自由になるまで延期することに、すでに決められていた。なにはおいても、まず中学校だけは終えねばなるまい、とわたしは心に決めていた。(大学は、すでに述べたように、わたしは犠牲にした)。わたしがはげしい怒りを胸に秘めてペテルブルグへ行ったことは、言うまでもない。中学を終えて、はじめて自由になれたとたんに、思いがけなく、今度はヴェルシーロフの問題のために事業の開始をいつまで待たねばならぬかわからぬことになってしまったのだ! しかし、怒りが胸にあったとはいえ、わたしはやはり目的のことはいささかも心配することなく出発したのであった。
たしかに、わたしは実務は知らなかった。しかしわたしは三年間考えぬいたから、いささかの疑念もなかった。わたしは千度も、わたしが第一歩をふみだすときのようすを想像した。わたしはまるで天から降ったように、忽然《こつぜん》とわが国の二つの首都のどちらかに現われる(わたしはまず事業の手はじめに二つの首都を選んだが、どちらかといえばペテルブルグに、考えるところがあって、優先をあたえていた)、というわけで、わたしは天から降ってくるが、完全な自由の身で、誰の束縛も受けず、体も健康そのもので、最初の流動資金として百ルーブリを懐中に秘めている。百ルーブリの金がなければ行動は起せない、というのは成功の第一期でさえがあまりにも長期間延期されてしまったからである。百ルーブリのほかに、わたしには、すでに知られているように、勇気と、忍耐と、持続と、完全な孤独と、そして秘密がある。孤独――これがもっともかんじんである。わたしはごく最近までどんな折衝も、人との交際もおそろしく好まなかった。総じて、『理想』への第一歩は必ず一人でやると決めていた、これは――sine qua(絶対条件)である。人々がいるとわたしは重苦しくなる、そうなると心の平静が失われるだろうし、それは目的を阻害することになろう。しかもだいたいにおいて、いままでのところでは、どのように人々に対処しようかと、頭の中であれこれ空想している分には――いつもひどく賢明に思われるのだが、それが実際となると――いつも決ってひどく愚かしいことになってしまうのである。わたしは自分に対する怒りをこめて、心底からこれを告白するのである。わたしはこれまでいつも気が急《せ》いて、つまらぬことを口走って自分で馬脚をあらわしてきた、だからこそ人々との交際を切りつめることを決意したのである。しかもその利得は――独立と、心の平静と、目的の明澄である。
ペテルブルグのおそるべき物価高にもかかわらず、わたしは食費に十五コペイカ以上つかわないことを、きっぱりと心に決めた、そしてこれがまもられることを、わたしは確信していた。この食事の問題を、わたしは長い時間をかけて綿密に考えた。そして、たとえば、ときどき二日つづけてパンと塩だけにする、そして節約した金を三日目にまとめてつかうということにした。一日十五コペイカでいつも同じぎりぎりの節食をするよりも、このほうがずっと健康にいいように、わたしには思われたのである。それから、生活のために片隅《かたすみ》が必要であった。夜寝るのと、天候のわるすぎる日に避けるだけの、文字どおりの片隅である。わたしは街頭で生活することにした、そしてやむをえない場合は木賃宿《きちんやど》に泊る、しかもそこは寝床があるほかに、一きれのパンと一杯の茶が出る。片隅か木賃宿で金を盗まれないようにかくすことくらいは、わたしには造作もないことだ! 見当もつけさせやしない、ぜったいに保証する!
『おれが盗まれるって? お笑いだ、こっちが盗みやしねえかとびくびくしてるんだぜ』わたしは一度こういう傑作な言葉を街で、ある大道野師から聞いたことがあった、もちろん、わたしがこの男から自分に適用するのは、用心深さと狡知《こうち》だけで、盗みをする意志はない。それどころか、まだモスクワで、『理想』が生れたその日からと思うが、質屋にも、高利貸しにもなるまいと決意したのである。そんなものはユダヤ人と、ロシア人の中でも頭も気骨もないやつらにまかしておけばよい。担保だの利息だのということは――凡俗のするしごとだ。
着るものについては、わたしは普段着と外出用《よそゆき》と二着もつことに決めた。わたしは一度こしらえたら、ひじょうに長持ちさせる自信があった。わたしは二年半のあいだ意識的に服の着方を研究して、長持ちさせる秘訣《ひけつ》をさえ発見したのである。服をいつも新しいままに保ち、いたまないようにするためには、一日に五度か六度ずつ、できるだけ多くブラシを当てることである。確信をもって言うが、ラシャはブラシをおそれない、埃《ほこり》やゴミをおそれるのである。埃――それは顕微鏡で見ると、ごつごつした石だが、ブラシはどんなに固くとも、やはり毛に変りはない。わたしはまた靴のはき方も修得した。秘訣は、よく見て足を踏み出し、靴底ぜんたいを同時に地面につけるようにして、できるだけつまずいたり、足首をねじったりしないようにすることである。これは二週間も注意すれば修得できて、あとは無意識にそういう歩き方をするようになる。この方法によると靴は平均三分の一の寿命がのびる。これは二年間の経験である。
それからいよいよ活動そのものがはじまったわけである。
わたしは百ルーブリもっている。わたしはこの考えから出発した。ペテルブルグには競売や投売りがしょっちゅうあるし、古物市場にはたくさんの小店がごたごた並んでいる、そして一方には需要者が無数にいる、だから品物をなにがしかで買って、それをいくらか高くさばくことができないわけがない。アルバムでわたしは、二ルーブリ五コペイカの資金をつかって、七ルーブリ九十五コペイカの利益を得た。この大きな利益がリスクなしに得られたのである。目を見て、買い手が逃げないことを読みとったからである。もちろん、これが単なる偶然にすぎないことは、わたしもよく承知している、だが、実のところこのような偶然をわたしは求めているのだ、だからこそ街頭に生活することを決意したのである。なに、このような偶然がめったにないものであっても、それはかまわない。いずれにしても、わたしの基本的モットーは――いかなるリスクもおかさないこと、そして第二は――一日にたといわずかでも最低生活費を上まわる利益をあげて、一日も貯蓄を中断させることのないようにすることである。
そんなことはみな夢さ、きみは街頭というものを知らんのだよ、第一歩から欺《だま》されてしまうよ、と人々は言うであろう。しかしわたしには意志と気骨がある。街の哲学だってやはり科学の一つだ、忍耐と、注意と、能力のまえに屈しないわけがない。中学でわたしは七学年までは優等生で、特に数学が得意だった。しかし体験と街の哲学は、必ず失敗を予言しなければならぬほど、それほど高い神聖なものと見なければならぬものなのか? それはいつも、一度としていかなる体験ももったためしがなく、いかなる生活にも足をふみださず、上げ膳《ぜん》据え膳でおざなりの生活をしている連中が唱える念仏にすぎない。『あいつが失敗したんだから、こいつもきっと失敗するさ』というのだ。いや、わたしは挫折《ざせつ》するものか。わたしには気骨がある。心眼を光らせてすべてを学びとってやる。そうとも、たえまない忍耐と、たえまない鋭い観察と、たえまない熟慮と計算と、そしてたえまない行動と奔走をもってして、しかも、毎日二十コペイカずつの金を貯《た》める方法を会得できないなんて、そんなことが考えられるだろうか? 主要モットーとして、わたしはぜったいに最大の利益に賭《か》けず、常に冷静を保つことにした。いずれ、先に行って、千か二千の貯《たくわ》えができたら、ひとりでにブローカーや街頭の闇市《やみいち》の仲買いなどの域を脱することは、言うまでもない。わたしは、もちろん、相場や、株や、銀行のからくりなどの面には、まだあまりにも暗すぎる。しかし、そのかわり、こうした相場や銀行のからくりのすべてを、わたしの活躍のときまでにはすっかり研究して、他の誰よりもよく知りつくすことは、わたしには自分の五本の指を見るほどに明らかなのだ、そしてそんな科学は、事実に追いつかれているということだけをみても、まったく簡単なことにちがいないのだ。こんなことにそれほどの頭脳が必要だというのか? まさかソロモンの叡知《えいち》でもあるまい! 根性さえあれば、熟練、手腕、知識というようなものは、ひとりでについてくる。ただ『望み』を中断しないことだ。
大切なことは、リスクをおかさないことだが、それは根性があってはじめてできることだ。ついこのあいだ、わたしがもうこちらへ来てからだが、ペテルブルグで鉄道株の募集があった。うまく応募した連中は、大儲《おおもう》けをした。しばらくのあいだ株価はのぼりつづけた。ここで買いそこねた者か、あるいは欲の皮の突ッ張ったやつが、わたしが株をもっているのをみて、これこれパーセントのプレミアムをつけて譲ってくれと、わたしに申込んだとする。わたしはためらわない、必ず即座に手放す。もうすこし待てば十倍も儲かるのに、と人々はもちろんわたしを笑うだろう。そのとおりだ、しかしわたしのプレミアムは、もうポケットの中におさまっているから、確実だが、あなた方のはまだ空中に浮動しているのだ。そんなことでは大儲けはできない、とあなた方は言うだろう。失礼だが、そこにあなた方の誤算があるのだ、わがココレフだの、ポリャコフだの、グボニンだのという連中(訳注 いずれも鉄道建設で財を成した事業家)の誤算があるのだ。真理を知りたまえ。儲けにおける、そして、大切なことは、貯蓄におけるたえまない持続とあくなき追求、これが、たとい百パーセント確実にしても一時的な儲けよりも、はるかに強力なのである!
フランス革命のすこしまえにパリにロウ某(訳注 一六七一―一七二九。ジョン・ロウ。英国人の詐欺師的銀行家)なるイギリス人の銀行家が現われて、原則的にはまさに天才的と言える一つの計画を考案した(これは後には破れて悲惨な結果になったのだが)。パリ中が沸きたって、ロウの発行した株券は喧嘩《けんか》騒ぎまでして買いあさられた。株の申込みのおこなわれた銀行に、まるで嚢《ふくろ》からぶちまけるように、パリ中の金がなだれこんだ。しまいには、人の流れが建物の中に入りきれなくなって、通りにあふれた。あらゆる身分、階級、年齢の人々、ブルジョア、貴族、その子弟、伯爵夫人、侯爵夫人、淫売婦《いんばいふ》――すべてが狂犬にかまれた半狂乱の狂暴な群衆と化した。官位も、門閥の偏見も、矜持《きようじ》も、名誉や名声さえも――なにもかもがいっしょくたに泥の中にふみにじられた。数枚の株券を手に入れるために、すべてが(女たちまでが)犠牲にされた。申込みは、しまいに、街頭へ移されたが、どこで書こうにも書く台もなかった。そこで一人のせむし男に、株の申込みを書く机代りに、背中のこぶをしばらく貸してくれという提案がなされた。せむし男は同意した――しかも想像を絶するほどの高い貸料で! しばらくすると(またたく間というに近い)銀行が破産して、すべてがだめになり、計画は一場の夢と化し、株券はただの紙きれになってしまった。この騒ぎでいったい誰が儲けたか? せむし男だけだ、それというのも、株券ではなく、現金をにぎったからである。つまり、わたしはこのせむし男なのである! わたしには食べるものをつめて、わずかのはした金から七十二ルーブリを貯めるだけの力があった。だから、みんなをとらえた熱病の渦中にあって、自分を抑制し、大きな空株《からかぶ》よりも確実な現金を選ぶだけの力があるはずだ。わたしがこせこせするのはこまかいことにだけで、大きなこととなると――腹が坐る。小さな忍耐に対しては根性の足りなかったことがしばしばあって、『理想』が生れて後にしてもそういうことはままあったが、しかし大きな忍耐に対しては――常に気力は十分にみなぎるはずだ。今朝にしても、勤めに出かけるまえに、母が冷《さ》めたコーヒーを出したとき、わたしは腹をたてて、母に乱暴な口をきいたりしたが、しかしわたしは、こうと思えば、一カ月のあいだパンと水だけですごすことをやってのけた男なのである。
一言で言えば、儲けないのが、儲ける方法をおぼえないのが――不自然であろうということである。また、たえまない順調な蓄積と、たえまない観察と頭脳の明澄と、自制と、節約と、たえず増強するエネルギーとがあったら、くりかえして言うが、富豪にならないのが不自然である。狂信的な性格と根強い忍耐によらずして、なにによって乞食があれほどの金を貯めたろう? いったいわたしが乞食におとるというのか? 『最後には、なにも達成できなくてもいい、わたしの計算がまちがっていて、自爆し、破滅するようなことになってもかまわぬ、やはり――わたしは行くのだ。行くことを望むから、行くのだ』これはわたしがまだモスクワにいたころに言っていた言葉である。
人は言うであろう、そこにはいかなる『理想』もない、ぜんぜん新しいものなぞないじゃないか、と。だが、それに対してわたしはこう言っておきたい、そしてこれが最後であるが、ここには思想が無数にふくまれているし、新しいものが数限りなくあるのだ、と。
おお、わたしは、すべての反論がいかに陳腐なものであるか、そしてこのように『理想』を述べたてているわたし自身が、いかに俗臭ふんぷんとしているかが感じられて、やりきれない思いなのだ。でも、わたしがいったいなにを言ったのだ? 百分の一も言ってやしないじゃないか。しかもそれがこせこせした、ざらついた、上《うわ》っ面《つら》をなでただけの、しかもわたしの年齢にしてもなんとなく青臭いものになってしまったことが、わたしには感じられるのである。
ここで『なんのために』と『どういう理由で』、さらに『道徳的かどうか』等々の問いに対して答えるときが来たようだ、その返答をわたしがまえに約束したからである。
いっぺんに読者を失望させてしまうことを思うと、わたしは憂鬱《ゆううつ》である。憂鬱であると同時に、愉快でもある。はっきりことわっておくが、わたしの『理想』の目的の中には『復讐《ふくしゆう》』の気持はまったくない、バイロン的なもの――呪《のろ》いも、孤児の嘆きも、私生子の涙も、そうしたものは、いっさい、なにもないのである。一口に言えば、ロマンチックな婦人が、たまたまわたしのこの手記を手にとったとしたら、すぐに失望してしまうにちがいない。わたしの『理想』の目的のすべては――孤独になることである。
「でも、孤独ならなにもロスチャイルドになるなどと気張らなくたってなれるじゃないか。どうしてここにロスチャイルドなどもちだしたのだ?」
「それは、孤独のほかに、もうひとつ威力もわたしには必要だからさ」
ここでひとつことわっておきたい。おそらく読者はわたしの告白の正直さに恐れをなして、どうして作者は赤面もせずにこんなことが言えるのだ? などと素朴な自問をなさるにちがいないからである。それにわたしは、刊行の目的でこれを書いているのではない、と答えたい。これが読者をもつことになるのは、おそらく十年ぐらいして、すべてがもはや明瞭にあらわれてしまって、十分に検討され、証明されてしまってからのことで、そのころはもう赤面する必要もなかろうというものである。だから、わたしはしばしばこの手記の中で読者に呼びかけるが、あれは単なる方便にすぎないのである。わたしの読者は――虚構の存在である。
いや、ちがう、わたしの『理想』の起源となったのは、トゥシャールの寄宿舎であれほどわたしを苦しめた暗い出生でもないし、幼年のころの悲しい年月でもない、復讐心でもないし、抗議の権利でもない。いっさいの誤解の原因は――ひとえにわたしの性格である。十二歳のころから、ということは、正しい自覚というものが生れたとほとんど同時に、ということになろうが、わたしは人々をきらいはじめた。きらったといえば言いすぎになるかもしれないが、とにかく妙に人々が重苦しく感じられるようになったのである。ときどき、気持が澄んでいるときなど、身近かな人々にさえどうしても思っていることをすっかり言えないことが、自分でも悲しくてたまらなくなることがあった。それも、言えないのではなく、言いたくないのである、そしてなぜともなく自分を抑《おさ》えてしまうのである。わたしは疑り深く、陰気で、人とうちとけない性分なのである。さらにまた、わたしはもういつからか、ほとんど子供の時分から気づいている一つのわるい癖があって、じきに他人を責めるし、また責めたくなるのである。そして非難したあとから、すぐにもう別な考え、『わるいのは彼らではなくて、おれのほうではなかったのか?』というわたしにとっては実に苦しい考えがつづくのである。そしてどれほどしばしばわたしは意味もなく自分を責めたことか! こうした問題の解決を避けるために、わたしは自然と孤独を求めるようになった。加えて、わたしは人々の交際の中になにものも見出すことができなかった、いかに見出そうと努力してもである。わたしだって努力はしたのである。少なくともわたしの同年者たち、学友たちは、一人のこらず思想的にわたし以下であった。わたしはただ一つの例外も記憶にない。
そう、わたしは陰気な男である。わたしはいつも自分の殻《から》にとじこもっている。わたしはしょっちゅう社会から脱け出したいと思っている。わたしは、おそらく、人々に善をなすことになろうが、しかし彼らに善をなさねばならぬこれっぽっちの理由も見出せない場合が多いのである。おまけに人々は、それほど気をつかってやらねばならぬほど、決して美しいものではない。どうして彼らのほうから率直に、胸を開いて、助けを求めに近づいてこないのに、どうしてこっちから先に、彼らのそばへ這《は》いよってゆかなければならないのだ? わたしが自分に問いたいのはこのことである。わたしは恩を知る男で、これはもう数知れぬばかげた行為で証明してきた。わたしは胸を開かれるとすぐに胸を開いて応《こた》えて、たちまちその相手を好きになるような男なのである。そのとおりにわたしはしてきた。ところが彼らはどれもこれもじきにわたしを欺《だま》して、嘲笑《あざわら》いながらわたしから逃げてしまった。そのもっとも露骨なのが、子供のころわたしをしたたか痛めつけたラムベルトだった。しかしこれは――露骨な卑劣漢で、強盗にすぎない。しかも彼があけっぴろげなのは、単にその愚かさのせいなのだ。これがわたしがペテルブルグに来た当時にいだいていた考えである。
あのときデルガチョフの家を出て(あんなところへなぜ出かけていったのか、自分でもわからないのだが)、わたしはワーシンのそばへ寄ると、すっかり嬉《うれ》しくなって、彼をほめちぎった。それがどうだろう? もうその晩には、わたしはもう彼をさっぱり愛していないことに気づいたのである。なぜか? ほかでもない、彼をほめちぎって、そのこと自体によってわたしは彼のまえに自分を卑下したからである。ところが、その逆と考えるのが至当なようだ。自分を傷つけてまで他人をほめあげるような、それほど公正で寛大な人間、そのような人間は人格的に見て誰よりも高くへ到達しているはずだからだ。ところがどうだろう――わたしはそれがわかっていたが、やはりワーシンがあまり好きでなくなった、むしろきらいになったといったほうがいいくらいである。わたしはわざとすでに読者の知っている人物を例にとるのである。クラフトのことでさえ、彼のほうから先にわたしを玄関へ送りだしたということのために、わたしは苦々しい気持で思い出したし、その気持がつぎの日、クラフトのあのときの心境がもうすっかり明らかになって、怒る理由がすこしもなかったことがわかるまで、そのままつづいたのである。中学校へ入ったばかりのころから、学友の誰かが勉強とか、気がきいた返答とか、体力とかで、すこしでもわたしを抜くと、わたしはすぐにその生徒と遊んだり話したりすることをやめた。その生徒を憎むとか、しくじりをねがうとかいうのではない。ただ背を向けてしまう。それがわたしの性分なのである。
そうだ、わたしは生涯ずっと威力を渇望しつづけた。威力と孤独をである。もしわたしの頭蓋骨《ずがいこつ》の中にあるものをのぞいたら、誰でもきっとわたしの顔を見てふきだしてしまうにちがいないような、まだそんな年頃から、わたしはすでにそれを夢見ていたのである。だからこそわたしはこれほど秘密を愛したのである。そうだ、わたしは力のありったけで空想していた。そのためにわたしには話などをしている暇がなかった。ここから、人々はわたしを人間ぎらいと評したし、わたしがぼんやり夢見がちなところから、わたしに対するさらに忌まわしい評を下したのだが、わたしのばら色の頬《ほお》はまるで反対のことを証明していたのである。
もう寝床に入って、夜具にくるまりながら、一人で、誰にもあたりをうろうろされず、誰の声も聞えない、完全な孤独の中で、生活を別なふうに作り直しはじめるときが、わたしはいちばん幸福だった。まったく狂気じみた空想が『理想』の発見までずっとわたしにつきまとった、そしてその発見と同時にあらゆる空想が、愚かしいものからとたんに理知的なものに変り、ロマンの空想的形式から現実の理性的形式へ移ったのだった。
すべてが一つの目的に合流した。それらは、しかし、何千何万とかぞえきれぬほどあったとはいえ、それまででもどうにもならぬほど愚かしいものではなかった。中には気に入っていたものもあった……しかし、ここに紹介することもあるまい。
威力! こんな『小僧』が威力をねらっていると知ったら、おそらく誰もがふきだしてしまうにちがいない。わたしはそう信じている。ところが、これを聞いたらおどろくよりも唖然《あぜん》としてしまうだろう。わたしははじめて空想をはじめたころから、つまりまだほんの子供のころからということだが、常に、人生のどのような局面においても、最高の地位に立つ人間として以外は自分を想像することができなかったのである。妙な告白をつけくわえるが、それは今もなおつづいているらしいのである。ついでに指摘しておくが、だからわたしはぜったいに許しを請わないのである。
金――これがどんなくだらない者をも最高の地位にみちびく唯一の道であるということ、ここにわたしの『理想』があるのであり、ここにその力があるのである。わたしは、おそらく、くだらない者ではなかろう、しかし、たとえば、鏡を見て承知しているのだが、外貌《がいぼう》がわたしに損をさせている、というのはわたしの顔が平凡な顔だからである。しかし、もしわたしがロスチャイルドのような富豪だったら――誰がわたしの顔にけちをつけよう、口笛ひとつで、その美しさのすべてをさらけだしてわたしのまえにとんでこない婦人があろうか? 何千という婦人たちがいちどきにかけよってくるにちがいないのである。彼女ら自身が、まったく心底から、しまいにはわたしを美男子と思うようになることを、わたしはむしろ信じている。わたしは、おそらく、賢明な男であろう。しかし、わたしがどんなに頭がよくても、必ず社会にはわたしよりもうひとつ頭のいい人間が現われるにちがいない――そうしたらわたしは破滅である。ところが、もしわたしがロスチャイルドだったら――はたしてそのわたしよりもうひとつ頭のいい人間が、わたしのまえでそこばくの意味をもつだろうか? まず、わたしのまえでは口もきかせられまい! わたしは、どうやら、機知に富んでいるほうらしい。だが、わたしのそばにタレイラン(訳注 一七五四―一八三八。十九世紀初頭のフランスの大外交家)かピロン(訳注 一六八九―一七七三。フランスの詩人。機知に富んだ毒舌家として有名)がいたら――わたしはかすんでしまう、しかしわたしがもしロスチャイルドだったら――ピロンにしても、あるいはおそらくタレイランにしても、どれだけの光芒《こうぼう》を放てよう? 金は、むろん、専制的な威力であるが、同時に最高の平等でもあるのだ、そしてそこに金の最大の力があるのである。金はいっさいの不平等をなくする。これはまだモスクワにいたころにわたしが結論したことである。
あなた方はこの思想の中に、きっと、単なる不遜《ふそん》、暴力、才能に対する無能の勝利だけを見てとるにちがいない。この思想が不敵なことは(だから甘美でもあるのだが)、わたしも認めている。だがかまうものか、そう思われていいのだ。あなた方は思うだろう、わたしがそのころ力を渇望したのは、ぜったいに人々を圧《お》しつぶし、復讐するためだと? 凡俗は必ずそういうことをするという、そこに問題があるのだ。それのみか、凡俗を傲然と見下している幾千の才子や賢者たちでも、不意にロスチャイルドの巨万の富にのしかかられたら、たちまち自制心を失って、もっとも低級な凡俗にもおとるような行動に走り、誰よりもはげしく人々をふみにじることは、まずまちがいないのである。わたしの理想はそんなものではない。わたしは金を恐れない。金はわたしを圧しつぶしはしないし、人々をふみにじることをわたしに強制もしない。
わたしには金は必要ではない、というよりは、わたしに必要なのは金ではない、と言ったほうがよかろう。威力でさえもない。わたしに必要なのは、威力によって得られるもの、そして威力がなければぜったいに得られないもの、それだけなのである。それは一人だけのしずかな力の意識である! これこそが、世界中が得ようと思ってあれほどじたばたしている自由の、もっとも充実した定義なのである! 自由! わたしは、ついに、この偉大な言葉を出した……そうだ、一人だけの力の意識――なんと魅力的で、美しいではないか。わたしには力がある、そしてわたしはしずかだ。雷がジュピターの手ににぎられている、そしてどうだ、彼はしずかではないか。彼が鳴りだすのが、そうしばしば聞かれるだろうか? ばか者には、彼が眠っているように思われる。ところが彼の位置にそこらのヘッポコ文士か村のばか女でもおいてみるがいい――ゴロゴロ、ゴロゴロ、それこそとめどもなく鳴りだすことだろう!
わたしに威力がありさえすれば、それをぜんぜん必要としなくなるだろう、わたしはこう判断した。きっと、自分から、自分の意志で、どこへ行ってもいちばんの末席を占めるにちがいない。もしわたしがロスチャイルドだったら、わたしは古洋服を着て、洋傘《ようがさ》をもって歩くことだろう。往来で人に突きあたられても、辻馬車《つじばしや》にはねられないために、ぬかるみの中をあちこちするようなことになっても、そんなことがわたしにどうだというのだ。これがわたしなのだ、ロスチャイルドそのものなのだという意識が、そのような瞬間でもわたしを楽しくさせるにちがいない。おそらくわたしには、誰も見たことがないような豪華な午餐《ごさん》が、世界一のコックによって用意されるにちがいないが、わたしはそれを知ってるだけで十分なのだ。わたしはパンのかけらとハム一きれですまし、そういうわたしの意識で満腹することだろう。わたしはいまでもそう思っている。
わたしは貴族社会に這《は》いこむようなことはしないが、むこうからわたしの足もとへ這いよってくるだろう。わたしは女の尻を追いまわすようなことはしないが、女のほうから水の低きに流れるごとく、わたしのそばへ寄ってきて、女が捧《ささ》げうるかぎりのものを、わたしに捧げることだろう。『凡俗』は金にしたいよるが、聡明な人々は、風変りな、誇り高い、閉鎖的な、そしてすべてに冷淡な人間に対する好奇心にひきよせられる。わたしはそのいずれにもやさしくして、おそらく、彼らに金をやるであろうが、こちらは彼らからはなにももらわない。好奇心は情熱を生むもので、もしかしたらわたしは彼らに情熱も吹きこむことになるかもしれない。わたしは断言するが、彼らはわずかのおみやげ以外になにも得《う》るところなく去るのである。そしてわたしが彼らにとっていよいよもって好奇心をそそる存在となるだけである。
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……われは足れり
その意識《おもい》あらば。 (訳注 プーシキン吝嗇の騎士のモノローグより)
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この情景に(しかも、正確な情景である)わたしがまだ十七歳のときにすでに魅せられていたとは、ふしぎなことである。
圧《お》しつぶしたり、苦しめたりすることは、わたしは誰に対してもしようとは思わないし、またこれからもしないつもりだ。だがわたしは、わたしの敵であるこれこれの人物を亡《ほろ》ぼしてやろうと思えば、誰もそれをじゃましないばかりか、みないそいそと手を貸してくれることを知っている。ここでもそれで十分なのである。誰に復讐《ふくしゆう》することも、わたしはしまい。わたしはいつもおどろいているのだが、ジェームス・ロスチャイルドが男爵を受けることにどうして同意できたのか! そんなものがなくても世界中の誰よりも上に立っていながら、どうして、なんのために?
『なあに、かまうものか、駅で替え馬を待っているあいだ、この傲慢《ごうまん》な将軍に勝手におれを侮辱させておくさ。もしおれが何者か、知ったら、とたんにこの将軍めはかけだしていって自分で馬をつけ、恭々《うやうや》しくおれをおれの質素な旅行馬車に乗せてくれるにちがいないのだ! 新聞に書いてあったが、ある外国の伯爵だか男爵だかが、ウィーンの鉄道駅で、衆人環視の中で、ある土地の銀行家のまえにひざまずいてオーバーシューズをはかせてやり、またそいつがあきれた凡俗で、本気でそれをさせていたというのだ。おお、この恐ろしいような美人が(たしかに恐ろしいような美人だ、こういう美人がいるものである!)――この華《はな》やかな名門貴族の令嬢が、汽船の上かどこかで偶然におれに出会って、おれを尻目にかけ、鼻をツンと上げて、本か新聞を手にもったこんな貧相な汚らわしい男が、なにをまちがえて一等にまぎれこみ、あたしの横になんか坐ったのかしら? とさげすみのあきれ顔をする。まあいいさ、させておけ。ところが、その横に坐っているのが何者か、彼女がちらとでも耳にしたら! そりゃわからずにはいない――そしたらとたんに自分のほうから、おれのもっと近くへ席を移して、素直に、おどおどと、やさしく、おれの視線を求め、おれの微笑にさっと顔を輝かすにちがいないのだ……』
わたしはわたしの思想をもっとはっきりと表現しようと思って、故意にこれらの未来の一コマをさしはさんだのだが、情景に生気がなく、あるいは凡俗に堕したかもしれない。現実のみがすべてを実証してくれるのである。
人は言うであろう、そんな生活は愚劣だ、なぜホテルに住まないのか、客を招く豪壮な邸宅を構えないのか、会合を開き、社会に勢力をもち、結婚しないのか? しかし、そうしたらロスチャイルドは何者になるだろう? みんなと同じような人間になってしまう。『理想』の魅力のすべてが、その道徳的な力のすべてが消え失《う》せてしまう。わたしはまだ子供のころからプーシキンの『吝嗇《りんしよく》の騎士』のモノローグを暗唱していた。これこそ、思想的にみて、プーシキンの創造した最高のものだ! このわたしの思想はいまも変らないのである。
『でもあなたの理想はあまりにも低級だ』と人々はさげすみをもって言うであろう、『金、富! 社会の福祉とか、人道的貢献とかは、どうなるのだ?』
しかし、わたしが富をなににどうつかうか、それは誰もうかがい知らぬことだ! 多くのユダヤ人どもの有害なよごれた手から、世界を鋭く熟視している頭脳|明晰《めいせき》で意志堅固な苦行僧の手に、何百万という金が流れることが、なにがゆえに背徳で、なにがゆえに低級なことなのか? おしなべて、未来についてのこれらの空想、これらの推測――こうしたものはすべていまの段階ではまだ小説のようなもので、あるいは、書いても無意味かもしれぬ。むしろ頭蓋骨の内にのこしておくべきであったろう。だが、おそらく、これらの数行は誰も読むまい。これもわたしの知るところだ。だがもし誰か読んだとしたら、その者は、わたしがおそらくロスチャイルドの巨富に堪えられまい、と信じただろうか? 巨富がわたしを圧しつぶすからではなく、まったく別な、正反対の意味でである。わたしは空想の中ですでに幾度か、意識は十分すぎるほど充《み》たされるが、威力があまりにもわずかしかあらわれないという、未来の瞬間をとらえている。そのような場合――さびしさと、いわれのないふさぎのためではなく、ただひたすら無限に大きいものを望むために――わたしは自分の巨万の富をすっかり人々にくれてやるつもりだ。わたしの全財産の分配を社会にまかせ、わたしは――わたしはまた凡俗の中へまぎれこんでしまうのだ! ひょっとしたら、汽船で死んだあの乞食のようにさえなるかもしれない。相違といえば、わたしのシャツにはなにも縫いこまれていないということだけだ。ただ、わたしの手には数百万の金がにぎられていたが、それを弊履《へいり》のごとく泥濘《でいねい》の中へ投げ捨ててしまったのだという意識だけが、荒野の中でわたしの心を養ってくれるであろう。わたしはいまでもその考えは変らないつもりである。そうだ、わたしの『理想』――それはいついかなるときでも、たとい乞食となって船上で死んでも、人々を避けてかくれることのできる城なのである。これがわたしの詩なのである! そしてご承知おきねがいたいが、このわたしに背徳的な意志のありたけが必要なのは――ただに、わたしがそれを拒否することができるということを、自分自身に証明せんがためなのである。
ぜったいに人々は、そんなことは夢ものがたりで、もし数百万もの金がわたしの手に入ったら、わたしがそれを手放して、サラトフの乞食になるはずがない、と反論するであろう。あるいは、手放さぬかもしれぬ。わたしはわたしの思想の極致を書いたまでである。しかし、これはもうまじめにつけくわえておくが、もしわたしが富の蓄積において、ロスチャイルドのような数字にまで達したら、実際に最後はそれを社会になげだすことで終るかもしれない。(しかし、ロスチャイルドの数字に達しないうちは、その実行は困難であろう)。そして、半分をなげだすようなことはしない、なぜならそれは凡俗な結果になるだけのことだからだ。単にそれまでの二倍貧しくなるだけで、ただそれだけのことだ。だからこそ全部、一コペイカもあまさず全部でなければならぬのだ、そうすれば、乞食になっても、一挙にロスチャイルドの二倍豊かになるはずだ! たといこれが理解されなくても、それはわたしの罪ではない。だから、説明はしない。
『行者のたわごとだ、凡俗と無力の小唄だ!』と人々はきめつけるであろう、『無能と凡庸の勝利だ』。そうだ、ある程度は無能と凡庸の勝利であることを、わたしも認める、だが、はたして、無力の、と言えるだろうか。わたしは、その無能な凡庸の男が世の人々をまえにして、にやにや笑いながらこう語りかける場面を想像するのが、たまらなく好きだった。
『あなた方はガリレオです、コペルニクスです、シャルル大帝です、ナポレオンです、プーシキンです、シェイクスピアです、元帥です、侍従長です。ところがこのわたしは――無能な私生子にすぎません、それでもわたしのほうがあなた方より上なのです、だってあなた方はこれに屈服したじゃありませんか』
白状すると、わたしはこの空想をぎりぎりまでおしすすめて、しまいには教育をまで抹消《まつしよう》したほどだった。わたしには、もしこの男が字も読めないような人間なら、もっとすばらしかろうと思われたのである。この誇張された空想がそのころでさえすでに中学七学年のわたしの成績に影響をもったのだった。わたしはほかならぬこの空想のために勉強することをやめた。教育がないほうが理想に美を加えるような気がした。今はわたしはこの点に対する信念を変えている。教養はさまたげにならないと思っているのである。
みなさん、いったい思想の独立が、たといごく小さなものでも、それほどあなた方には重荷なのだろうか? よしんばまちがったものにせよ、美の理想をもつ者は、幸福である! しかし自分のそれを、わたしは信じている。わたしはただそれにふさわしく述べることができず、下手《へた》くそに、稚拙《ちせつ》に書きつらねたにすぎない。十年後には、むろん、もっと美しく書けるはずである。これを大切に記憶の中にしまっておこう。
わたしは『理想』の記述を終った。もしその叙述が俗悪で、薄っぺらだとしたら――それはわたしの罪であって、『理想』の罪ではない。簡単な思想ほど理解されにくいことは、すでにことわっておいたが、ここにさらに、述べにくい、ということもつけくわえておこう。そのうえさらに、この述べにくい『理想』をそのころの形のままに書いたのだから、なおのことである。思想にはその逆の法則もあるわけで、平凡な軽い思想ほど――あきれるほど早く、しかも必ず群衆によって、必ず街中の人々によって理解されるのである。そればかりか、偉大な天才的なものと考えられる、だがそれも――その出現の日だけである。安物は長持ちしない。早く理解されるということは――そのものの月並みさの証明でしかない。ビスマルクの思想は瞬時にして天才的なものとまつり上げられ、ビスマルク本人も――天才と崇《あが》められた。だが実はこの早さが曲者《くせもの》なのである。わたしは十年後のビスマルクを楽しみにしている、そしてそのときこそ彼の思想からなにがのこるか、また当の宰相自身からも、ひょっとして、なにかのこるものがあるかどうか、じっくり見物させてもらおう。この極度に無関係な、問題とはまるでかけはなれた私見をここにさしはさんだのは、もちろん、比較のためではない。これもまた記憶にのこしておくためである。(またあまりにものみこみのにぶい読者のための説明でもある)
さて今度は、ここで『理想』の説明をきっぱりと打切り、これがもう二度とものがたりの進行をさまたげることのないようにするために、二つの逸話を語ることにする。
それは夏、ペテルブルグへ発《た》つ二月まえの七月のことであった。わたしはもうすっかり自由の身になっていた。ある日マーリヤ・イワーノヴナが郊外のトロイツキー町に住むある老嬢のところへ使いにいってくれるようにわたしにたのんだ。ここに詳しく述べるまでもない、実につまらない用事だった。用事がすむとその日すぐに帰途についたが、帰りの汽車の中でわたしはなんともきたならしい一人の若い男を見かけた。身なりはわるくないのだが、着方がだらしなく、にきび面で、頭も髪も泥をかぶったみたいな褐色《かつしよく》をしていた。変った男で、大きな駅でも中間駅でも汽車がとまると必ず下りて、ウオトカを飲むのである。汽車がモスクワに近づくころには彼のまわりに陽気な仲間ができあがった。もっとも、実にやくざな連中ばかりの集りである。中でもこれもすこし酔っている一人の商人が、のべつまくなしに飲みまくってすこしも酔わぬとは大した豪傑だと、この若者に感嘆していた。もう一人ひどいばか面を下げて、やたらにしゃべる若い男も、すっかりいい気になっていた。これはドイツ風の服を着た、実にいやな臭気をはなつ男で、――あとで聞いたのだが、どこかの下男だそうである。この男は酒飲みの若者とすっかり仲よしになって、汽車がとまるたびに、『さあ飲みに行こうぜ』と若者をけしかけて、二人で肩を組んで出ていった。若者はほとんど一言もしゃべらなかったが、まわりの人々はますますふえるばかりだった。彼はただまわりの話を聞いているだけで、たえず唾《つば》だらけの口もとをゆがめてヒヒヒと薄笑いをもらし、ときどき、それも決ってだしぬけに、『チュル、リュル、リュ!』というような妙な音を発しながら、なにかこうひどく漫画的なしぐさで指を一本自分の鼻にあてがうのだった。これが商人や下男をはじめまわりの中の者の気分を浮かれさせた、そして彼らは思いきり大きな声で、だらしなくげらげらと笑った。ときどきなにを人々が笑ってるのか、はかりかねることがあった。わたしもそばへ行ってみた――するとどういうわけかわからないが、この若者がわたしにも気に入ったような気がした。あるいは、一般に通用している天下り式の社会道徳をまっこうから堂々とふみにじっているところに、心をひかれたのかもしれない。つまるところ、わたしは彼のばかが見ぬけなかったのである。で、わたしはそのとき彼と親しくなって、汽車を下りるときに、その晩八時すぎにトヴェルスコイ並木道で会おうという約束を彼からとった。彼がもと大学にいたことがわかった。わたしは並木道へ行った、そしてこんないたずらを彼におしえられた。わたしたちはならんで並木道を流して歩いた、そしてやや時間がおそくなってから、ちゃんとした家庭の者らしい女が一人で歩いているのを見つけた。あたりに人影がないのを見てとると、わたしたちはすぐにその女のそばへ近づいた。女に一言も言葉をかけずに、わたしたちは女を間にはさむようにして、両側に位置をとった、そして女などまるで眼中にないような、きわめて平静な態度で、実にけしからぬ卑猥《ひわい》な会話を交《か》わしはじめた。わたしたちはその対象を、まるでそれがあたりまえみたいに、ごく平然と、そのものずばりの名称で呼びながら、下劣きわまる蕩児《とうじ》の下劣きわまる想像もおよばないような、さまざまな醜悪な忌まわしいことをこまごまと解説しながら、微に入り細にわたって話し合った。(わたしは、もちろん、そうしたいっさいの知識をまだ学校のころに、それも中学へ行くまえに得たのだが、しかし言葉のうえだけで、実際には知らなかった)。女はすっかりびっくりしてしまって、逃げだそうと急ぎ足になったが、わたしたちもそれにあわせて足をはやめて、依然として話をつづけた。犠牲者は、もちろん、どうすることもできなかった。悲鳴をあげるわけにもいかない。目撃者がないのだし、それに人に訴えるのもなにかはばかられる。このいたずらが八日ほどつづいた。どうしてこんなことがわたしの気に入ったのか、わからない。それに気に入ったというのではなかった。ただなんとなくやっていたのだ。最初はそれが独創的で、日常生活の陳腐な既成道徳からはみでているような気がした。加えて、わたしは女というものにがまんがならなかった。わたしはあるとき、ジャン・ジャック・ルソーがその『告白』の中で述べているが、すでに子供のころに物陰にかくれて、そこから常にかくされている肉体の一部を突き出し、女が通りかかるのを待ち受けるのが好きだったそうだ、という話を学生にしたことがあった。学生は例の『チュル・リュル・リュ』でそれに答えた。わたしは彼がおそろしく無教養で、まったくなににも関心をもっていないことを知った。わたしはなにか秘められた思想があるものと彼に期待したのだが、そんなものは影もなかった。独創性の代りにわたしが見出したものはどうにもやりきれぬ単調にすぎなかった。わたしはしだいに彼がいやになった。そしてついに、このいたずらはまったく思いがけぬ結末で終った。
わたしたちはある晩、もうすっかり暗くなってから、並木道をびくびくしながら急ぎ足に通ってゆく一人の娘にねらいをつけた。ようやく十六になったかならないかというような、ひじょうに若い娘で、ひどくさっぱりした質素な身なりで、あるいは自分の細腕で一家の暮しをささえ、今仕事場から未亡人の貧しい老母と幼い弟妹たちが待つわが家へ急ぐ途中かともみえた。とはいえ、感傷になどふけっているときではない。娘はしばらくのあいだ、うつむいて、頭をすっぽりショールでつつみ、恐ろしさに身をふるわせながら、話を聞き聞き、小走りに急いでいたが、不意にぴたりと立ちどまった、そしていきなりショールをとり、その、おぼえているかぎりでは、ひどく美しいが、やつれの見える顔をこちらへ向けると、目をきらッと光らせて、わたしたちに叫んだ。
「まあ、なんていやらしい人でしょう!」
そして、ここで泣きだすかと思いきや、まったく意外なことが起ったのである。彼女はその細い小さな手をさっと振上げると、これ以上のあざやかな手際《てぎわ》は、まずないと思われるほどに、みごとな頬打《ほおう》ちを学生にくらわせた。ピシャリと実にさえた音だった! 彼は口ぎたなくわめきちらして、とびかかろうとしたが、わたしが抑《おさ》えた。その隙《すき》に娘は逃げ去った。あとにのこると、わたしたちはすぐさま言い合いになった。わたしはこの数日のあいだに腹の中で煮えくりかえっていた彼に対する怒りをすっかりぶちまけた。わたしは彼を、無能で凡俗なみじめな男でしかない、思想などというものはその片鱗《へんりん》だも認められない、と面罵《めんば》した。彼はわたしをののしった……(わたしは一度彼にわたしが私生子であることをおしえたことがあったのだ)、そして唾を吐き合って別れたが、その後わたしは一度も彼に会っていない。わたしはその晩は火のようになって激怒したが、つぎの日はいくらかさめ、三日目にはもうすっかり忘れてしまった。そしてどうだろう、その後ときどきこの娘がわたしの思い出に現われるようになったのである。もっともなにかのはずみに、ほんのチラッとではあったが。ところが、ペテルブルグへ来て、二週間もしたころ、わたしは不意にこのシーンをまざまざと思い出した、――思い出すと、急になんとも言えぬ恥ずかしい気持になって、文字どおりの羞恥《しゆうち》の涙がわたしの頬をつたった。わたしはその夜、一晩中苦悩しつづけた。そしてその苦しみは今でもすこしのこっている。わたしは最初、どうしてあのころあれほど自分をおとし、あんな恥ずかしい行為ができたのか、それよりも、どうしてあの事件を忘れて、恥じもせず、後悔もせずにおられたのか、どうしても理解ができなかった。今にしてはじめてわたしは、どこに原因があったのかをさとった。『理想』が原因だったのである。
つづめて、いきなり結論を言おう。なにか頭の中に常時うごかぬ強いものをもっていて、それにすっかり熱中していると、そのためにさながら世を避けて荒野へかくれたようなぐあいになり、まわりに起るいっさいのことが主想にはじきかえされてすべりぬけてしまうものである。印象でさえもゆがめられたものになる。しかも、そのうえ、もっともいけないことは、常に言い訳ができることである。どれほどわたしがこれまで母を苦しめ、どれほど妹を侮辱的にないがしろにしても、「なに、おれには『理想』があるのだ、それ以外はみな些細《ささい》なことさ」――こう自分に言い聞かせればすむらしい。わたし自身も人から侮辱を受けたことがあった、しかもこっぴどく――わたしは屈辱に身をふるわせてもどったが、その後で唐突に自分にこう言い聞かせたものである。「ええ、おれはくだらない男さ、だがなんといってもおれには『理想』があるんだ、やつらはそれを知らんのさ」と。『理想』は屈辱や愚劣の慰めになった。だが、わたしのあらゆる醜悪もまた理想をかくれみのにしていたようだ。理想は、いわば、すべてをやわらげてくれたが、同時にすべてをわたしの目からおおいかくしてしまった。しかし事物のこのようなあいまいな理解が、他はさておき、『理想』そのものをさえ害するおそれがあることは、言うまでもない。
さて、もう一つの逸話を語ろう。
去年の四月一日は、マーリヤ・イワーノヴナの命名日の祝いだった。夕刻に数人の客が来た。ひじょうに少ない数だった。不意に下女のアグラフェーナが息を切らしてかけこんできて、台所のまえの軒先に捨て子がピーピー泣いていて、どうしたものかわからない、と言った。一同はこの知らせにびっくりして、ぞろぞろと出ていってみると、かごがおいてあって――生後三、四カ月の女の赤んぼうがピーピー泣いていた。わたしはかごを持ち上げて、台所へ運び入れたが、すぐに小さくたたまれた手紙が目についた。手紙には、『慈悲深いみなさま、洗礼を受けたこの女の子アリーナにあたたかい援助の手をさしのべてください。わたしたちはこの女の子とともにあなたさま方のご恩に対して、永遠に神の御座に感謝の涙を捧《ささ》げるでありましょう。心からあなたさまの命名日のお祝いを申しあげます。見知らぬ者より』とあった。そのとき、あれほどわたしが尊敬していたニコライ・セミョーノヴィチが、ひじょうにわたしを失望させた。彼はひどくまじめくさった顔をして、この女の子をすぐに孤児院にやるようにと言ったのである。わたしはすっかり悲しくなってしまった。彼らはひどくつましい生活はしていたが、子供がいなかった。そしてニコライ・セミョーノヴィチはいつもそれを喜んでいたのだった。わたしはこわごわ手を赤んぼうの肩の下へさし入れて、かごの中に起してみた。かごの中から、乳呑《ちの》み子《ご》を長いこと洗ってやらないとよくある、あの妙にすっぱいような臭《にお》いがつんと鼻をうった。ニコライ・セミョーノヴィチと二言三言やり合うと、わたしはいきなりこの子の養育費は自分が引受けると宣言した。ニコライ・セミヨーノヴィチはいつものものやわらかさにも似ず、すこしきつい口調でわたしをたしなめはじめた、しかし孤児院にやるという意志はすこしも変らなかった。
それでも、わたしの思いどおりになった。別棟《べつむね》だが、同じ敷地内にひどく貧しい指物師《さしものし》が住んでいた。もう中年すぎの、ひどく飲んだくれな男だが、女房のほうはまだ若い、ぴちぴちした女で、ついこのあいだ乳呑み子を亡《な》くしたばかりだった。それも結婚して八年目にやっとできた一人ッ子で、やはり女の子で、偶然にしてもあまりにできすぎているが、名前まで同じアリーノチカといった。幸いにも、とわたしは言うが、ちょうどわたしたちが台所でやり合っているところへ、その女房が、噂《うわさ》を聞きつけて、赤んぼうを見にかけつけてきたのである、そして、その赤んぼうがアリーノチカという名前だと知ると――彼女はぐっときて涙ぐんでしまった。彼女は乳がまだとまっていなかったので、胸をはだけて、赤んぼうに乳首《ちくび》をふくませた。わたしは彼女にすがるようにして、赤んぼうを引取ってやってくれ、養育費は毎月払うから、とたのみはじめた。彼女は、良人が許すかどうか、と危ぶんだが、とにかく一晩だけ面倒をみることになった。翌朝亭主が来て、月八ルーブリみてくれと言った。わたしはその場で一月分の前金を渡した。亭主はその晩のうちにきれいに飲んでしまった。ニコライ・セミョーノヴィチは、あいかわらず妙な薄笑いをうかべながら、月八ルーブリの金がわたしによって遅滞なく支払われるということを、指物師に保証してくれることを同意した。わたしはニコライ・セミョーノヴィチを安心させるために、所持していた六十ルーブリをあずけようとした、が、彼はそれを受取らなかった。とはいえ、彼はわたしが金をもっていることを知っていたから、わたしを信用したのである。彼のこのこまかい心づかいによってわたしたちの気まずさはぬぐい去られた。マーリヤ・イワーノヴナはなにも言わなかったが、どうしてわたしがこんな世話をするのかと、ふしぎなようすだった。彼ら夫妻はわたしをからかうような素ぶりはすこしも見せずに、それどころか、当然のこととして実に真剣にこの問題に対してくれたが、そのこまかい心づかいをわたしは特にありがたいものととった。わたしは毎日、三度ずつダーリヤ・ロジヴォノーヴナ(指物師の女房である)のところへ寄ったが、一週間後には、亭主にこっそり、もう三ルーブリ彼女ににぎらせてやった。さらに三ルーブリついやして、わたしは小さな毛布とおむつをこしらえてやった。ところが十日ほどすると急にアリーノチカが病気になった。わたしはすぐに医者に連れていった。医者はなにやら処方を書いてくれた、そしてわたしたちはその忌まわしい薬で赤んぼうを苦しめながら、一晩中その枕《まくら》もとにつききった。ところが翌日になると、医者はもう手おくれだと言った、そしてわたしの哀願に対して――というよりは、むしろ詰問に近いらしかったが――やわらかくはぐらすように、『わたしは神じゃありませんので』と答えた。赤んぼうの小さな舌も、唇《くちびる》も、口中が小さな白い発疹《はつしん》のようなものでおおわれた、そして日暮れ近くに、まるでもうわかっているみたいな、その大きな黒い目をじっとわたしに注ぎながら、死んだ。どうしてそのときこの小さな死顔を写真にとっておこうという考えがわたしの頭にこなかったのか、わたしにはわからない。まあ、信じてもらえるかどうか、わたしはその晩泣いたというようなものではなく、それこそ咆《ほ》えるような声でもだえ泣いたのである。こんなことはそれまでわたしは一度も自分に許したことがなかった。マーリヤ・イワーノヴナは見かねてわたしを慰めてくれた、――そしてそのときもマーリヤ・イワーノヴナも、ニコライ・セミョーノヴィチも、わたしを笑うような色はぜんぜん見せなかった。指物師が小さな寝棺をつくった。マーリヤ・イワーノヴナはそれをレースで飾って、小さな美しい枕を入れてやった。わたしは花を買って、小さな亡骸《なきがら》を花で埋めてやった。こうしてわたしの哀れな野草は墓地へ運ばれていった。信じられないかもしれぬが、わたしはいまだにそれを忘れることができないのである。
しかし、しばらくするとこのほとんど突発的といえるできごとが、わたしを深く考えこませた。もちろん、アリーノチカはそう高くついたわけではなかった。寝棺、葬式、医者、花、ダーリヤ・ロジヴォノーヴナへの手当、全部をあわせて三十ルーブリである。この金は、ペテルブルグへ発つまえに、旅費としてヴェルシーロフから送られた四十ルーブリの中からと、出発前にこまごましたものを売ったのとで埋合せをつけたので、わたしの全『資本』は手つかずにのこった。『しかし』とわたしは思った、『こんなふうに脇道《わきみち》へばかりそれていたら、遠くへは行けそうもないぞ』。学生との一件では、『理想』はものを見る目を迷わし、現実から遊離させるおそれがあるという結論が出た。アリーノチカのできごとからは、まったくその逆の結果が出た。すなわち、いかなる『理想』も(少なくともわたしに関しては)、不意にある胸をしめつけるような事実のまえに立ちどまり、何年間もの努力によって『理想』のために貯えたすべてのものを、一思いになげだすことをさまたげるほどに、心を迷わす力はない、ということである。この二つの結論は、しかし、いずれも正しいのである。
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第六章
わたしのねがいはすっかりは実らなかった――わたしが入っていったときそこにいたのは母と妹だけではなかったのである。ヴェルシーロフはいなかったが、しかし母のそばにタチヤナ・パーヴロヴナが坐っていた――伯母とはいえ、やはり他人である。寛大な気持の半分が急にわたしから消えてしまった。このような場合のわたしの気分の変りやすさには、おどろくほどである。砂粒か髪の毛一筋で、もうよい気分が追いちらされ、わるいものに代えられてしまう。ところがわるい印象となると、残念なことに、そう易々《やすやす》とは消えてくれない。別に執念深いというほうでもないのだが。わたしが入ってゆくと、母がとっさに、あわてて、どうやらひどくはずんでいたらしいタチヤナ・パーヴロヴナとの話を、ピタリと打切ったのが、わたしの目にチラときた。妹はわたしのほんの一分ほどまえにしごとからもどったばかりで、まだ自分の小部屋から出てきていなかった。
この住居は部屋が三間あった。みんながいつも集まっている部屋は、真ん中の、いわゆる客間で、かなり広く、相当りっぱでもあった。そこにはふかふかとやわらかいが、しかしすっかりすれてしまった赤いソファや(ヴェルシーロフはカバーをかけるのが大きらいだった)、ちょっとしたじゅうたんや、いくつかのテーブルや、不要な小卓などがあった。その右隣がヴェルシーロフの居室で、窓が一つしかない、狭い細長い部屋で、貧弱な書卓が一つおいてあり、その上に何冊かの読みもしない本や忘れられた書類がちらばっていた。そのまえにこれもおとらず貧弱なやわらかい肘掛《ひじかけ》椅子が一脚あったが、バネがこわれて角が突き出ているために、よくヴェルシーロフが悲鳴をあげて、口ぎたなくののしった。この書斎に、やわらかいが、これもすっかり毛のすり切れたソファがあって、そこに彼の寝床がのべられた。彼はこの書斎をきらって、そこではなにもしないらしく、たいていは客間にぼんやり坐りこんでいた。客間の左隣も、同じような細長い部屋で、母と妹の寝室になっていた。客間へは廊下から入るようになっていて、その廊下の突当りが台所で、そこに料理女のルケーリヤが住んでいた、そして彼女が焼きものかいためものでもすると、油の焦げる匂《にお》いが容赦なく家中にむんむんとたちこめた。この台所の匂いのために、ときどきヴェルシーロフが大声を張りあげて自分の人生と運命を呪《のろ》うことがあったが、これだけはわたしも彼にまったく共鳴していた。わたしもこの匂いはきらいだ。もっともそれはわたしのいるところまでは滲透《しんとう》してこなかった。わたしは屋根裏部屋に住んでいて、そこへはおそろしく急なぎしぎし鳴る梯子段《はしごだん》がかかっていた。そのわたしの部屋には一見の価値ある珍しいものがそろっていた――半円形の窓、おそろしく低い天井、油布張りのソファ、この上にルケーリヤがシーツをしいて、枕をおいてくれた。さてその他の家具らしいものといえば――板を削っただけのごく粗末な机と、穴だらけの籐《とう》椅子、この二つだけだった。
しかし、やはり家の中にはいくつかのかつての贅沢《ぜいたく》の名残《なご》りがのこっていた。たとえば、客間にはかなりみごとな陶器のランプがあったし、壁にはドレスデンのマドンナの大きなすばらしい銅版画がかかっていたし、そのちょうど反対側の壁には、フローレンス大寺院の青銅の門を写した、びっくりするほど大型の高価な写真がかかっていた。またその客間の一隅に家門に伝わる古い聖像を安置した大きな龕《がん》が下がっていて、その一つ(使徒群像)には金を被《かぶ》せた大きな銀の飾りがかけてあった。これが質に入れようと相談していたあの飾りである。また別な聖像(聖母像)には――真珠をちりばめたビロードの飾りがかけてあった。これらの聖像のまえには懸燈《けんとう》があって、祭日ごとに火がともされた。ヴェルシーロフは聖像に対して、その宗教的な意味という点では、きわめて冷淡で、ときには燈明のあかりにきらきら光る金の飾りの眩《まぶ》しさに目をしかめて、明らかに腹の虫を抑《おさ》えながら、これは自分の目によくないなどと、ぼそぼそと不平を鳴らすこともあったが、それでも母が火をともすのをさまたげたりはしなかった。
わたしはたいていどこか隅《すみ》のほうを見やりながら、むすッとしかめ面《つら》をして客間へ入った、そしてどうかすると客間へ入ってもあいさつもしないこともあった。いつもは今よりすこし早目にもどって、屋根裏部屋へ食事を運んでもらった。今日は客間へ入りながら、わたしはいきなり、『ただいま、お母さん』と言った。いままでに一度もなかったことである。それでも、やはりなんとなく恥ずかしくて、思いきって母を見ることができないで、わたしは部屋の向う隅に腰を下ろした。わたしはひどく疲れていた、が、そんなことは頭になかった。
「この無作法者はここへ来てもやっぱりこんな不躾《ぶしつけ》な入り方をするんだねえ、昔とちっとも変りやしない」とタチヤナ・パーヴロヴナはかみつきそうな声でわたしに言った。彼女はまえからよくわたしには口ぎたなく小言をいって、これがわたしと彼女のあいだでは普通のことになっていた。
「お帰り……」わたしがあいさつなどしたので、一瞬どぎまぎしたようすで、母はあわててこう返した。
「食事はもうさっきから用意ができてるんですよ」と母はとまどい気味につけくわえた。「スープが冷《さ》めてなきゃいいけど、カツレツはいまこしらえるように言いますから……」
母はそそくさと立ち上がって、台所のほうへ行きかけた、そして、母がわたしにつくすためにすっかりあたふたしてるのを見て、わたしはこの一月のあいだにおそらくはじめて、急に羞恥《しゆうち》をおぼえた。これまでは自分のほうからそれを要求していたのである。
「ありがとう、お母さん、ぼくもう食事をすませてきたんです。おじゃまでなかったら、しばらくここで休ませてください」
「まあ……なにをそんな……かまいませんとも、坐ってらっしゃい……」
「ご安心ください、お母さん、ぼくはアンドレイ・ペトローヴィチに無礼なことはもう言いませんから」とわたしは一息に言ってのけた……
「おや、まあ、この子はなんて寛大だこと!」とタチヤナ・パーヴロヴナが叫んだ。「ねえ、ソーニャ、おどろくじゃないの、あんたはまだこの子にあなたなんてていねいな言葉をつかってるの? いったいこの子はどんなえらい人なのかしら、こんな敬意をはらわせるなんて、しかも自分の生みのお母さんに! しっかりなさいよ、どうでしょうこのひとは、すっかりおろおろしてしまって、みっともないたらありゃしない!」
「お母さん、ぼくをおまえと呼びすてにしてくれたら、ぼくもどれほど嬉《うれ》しいでしょう」
「まあ……じゃいいわ、じゃそうしましょう」と母は急いで言った、「わたしは……わたしだっていつもそう……いいわ、今日から忘れずにそうすることにしましょう」
母は真っ赤になった。母の顔はどうかするとひどく魅力的に見えることがあった……母の顔は素直ではあったが、決して平凡ではなく、血の気がうすく、いくぶん蒼《あお》ざめていた。頬《ほお》はひどくやせていて、むしろこけているといったほうがいいくらいで、額にはもうかなりしわがよりかけていたが、目のふちの小じわはまだなかった。かなり大きな、明るい目は、いつもしずかなおだやかな光をたたえていて、それがはじめて会った日からわたしを強く母へ惹《ひ》きつけたのである。母の顔にいじけたような暗い陰がすこしもないのも、わたしは好きだった。むしろ、顔の表情は陽気なほうであったが、それがしょっちゅう不安でくもらされた。母はしょっちゅう、ときにはまるで意味もなく、不安にとらわれて、ときにはまるでなんでもないことにおびえて、とび上がったり、誰かの新しい話にこわごわ耳をかたむけたりして、なにもかも元どおりによいのをたしかめるまでは、心配が去らないというふうであった。母の場合、『なにもかも元どおりだ』というのが、つまりなにもかもよいという意味であった。ただ変りさえしなければ、たとい幸福なことであろうと、新しいことなんかなにも起ってくれなければ!……子供のころになにかにひどくおびえたことがあって、こうなったのかもしれない。目のほかに、わたしは母のいくぶん面長《おもなが》な卵形の顔のかたちも好きだった、そして頬骨がもうほんの心もち狭かったら、若いころだけでなく、今でさえ、美人と言われることができただろうと思われる。今は母はまだ三十九にしかなっていないのに、その暗い亜麻色の髪には白いものがひどく目だっていた。
タチヤナ・パーヴロヴナはほんとに怒った目で母をにらんだ。
「こんなちびッこに! そんなにびくびくふるえて! 滑稽《こつけい》だわよ、ソーフィヤ、まったく腹がたつ、ほんとよ!」
「まあ、タチヤナ・パーヴロヴナ、どうしてまた急にこれをそんなふうにおっしゃいますの! きっと冗談をおっしゃってるのね、でしょう、ね?」タチヤナ・パーヴロヴナの顔になにやら微笑のようなものを認めて、母はこうつけくわえた。タチヤナ・パーヴロヴナの罵言《ばげん》はどうかするとほんとに本気とはとられないようなことがあった、だが彼女が笑《え》みを見せたのは(ほんとに笑ったのならの話だが)、もちろん、母にだけである。というのは、彼女は母の善良さを心底から愛していたし、そのとき母がわたしの素直さをどれほど嬉しく思っていたかを、見てとったにちがいないからである。
「ぼくも、むろん、そうとらざるをえませんね、タチヤナ・パーヴロヴナ、だってぼくは今、部屋へ入るとき『ただいま、お母さん』と言ったんですよ、こんなことはいままでにないことですよ、それなのにあなたがそんなにがみがみ言うんですもの」わたしはついにこう彼女に注意する必要を認めた。
「まあどうでしょう」と彼女はすぐにかっといきりたった、「この子はそれをたいへんな手柄とでも思ってるのかしら? よくもよくも一生にたった一度礼を示してくださいましてって、あんたのまえにひざまずけとでも言うのかい? それにそんなことがていねいなあいさつと言えるかしら? どうしてあんたは部屋へ入るとき、隅《すみ》っこのほうばかりにらむの? あんたがお母さんにあたりちらして、意地わるばかり言ってるのを、わたしが知らんとでも思ってるの! わたしにもいらっしゃいぐらい言ってもいいんだよ、わたしはあんたにおむつまであててやったんだし、あんたには教母ですからねえ」
むろん、わたしは黙殺した。そのときちょうど妹が入ってきたので、わたしはすぐにそちらへ話しかけた。
「リーザ、今日ワーシンに会ったよ、そしたらおまえのことを訊《き》いてた。おまえ知ってるのかい?」
「ええ、ルガで、去年」妹はわたしのそばに坐って、やさしくわたしを見つめながら、きわめて素直にこう答えた。
なぜか、わたしは、ワーシンのことを言ったら、リーザがきっと顔を赤らめるものと決めていたのだった。リーザはブロンドだった、明るいブロンドで、髪は母にも、父にもまったく似なかった。だが、目と、卵形の顔は母にそっくりだった。鼻筋はまっすぐにとおって、小さいけれど、正しい格好をしていた。ところで、もうひとつの特徴は――顔に小さなそばかすがあることだが、これは母にはぜんぜんなかった。ヴェルシーロフから受けているところはひじょうに少なく、胴のほっそりしているところと、背丈《せたけ》の低くないところと、歩きぶりにどことなく魅力があるところくらいのものであった。わたしとはまるで似たところがなく、それこそ相反する両極とも言うべきであった。
「あたしあのお方とは三月ほどおつきあいしましたわ」とリーザは言いそえた。
「あのお方って、それはワーシンのことかい、リーザ? あの人と言いなさい、あのお方なんて言う必要はないよ。ごめんよ、リーザ、言葉づかいを直したりして、でもぼくは、おまえの教育がまるで無視されているらしいのが、つらいんだよ」
「まあ、お母さんのまえであんたがそんなことを言うとは、なんてことです」と、すぐにタチヤナ・パーヴロヴナはきっとなった、「それにいいかげんなことをお言いでない、誰も無視などするものですか」
「ぼくはお母さんのことはなにも言ってやしません」とわたしは鋭くきりこんだ、「わかっていただきたいのですが、お母さん、ぼくはリーザのことを第二のあなたと見ているのです。あなたはリーザを心の美しさといい、気性といい、実にすばらしい娘に育てあげられました、おそらく若いころのお母さんがそうであったにちがいないような、そしてずっと、今も、これからもいつまでもそうであるにちがいないような……ぼくはただ表面《うわべ》の光沢《つや》のことを言っただけなのです、あの社交界のさまざまな愚かしいが、しかし必要なことを。ぼくはただヴェルシーロフに腹がたつだけなんです、リーザがワーシンのことをあの人と言わず、あのお方などと言うのを聞いても、おそらく素知らぬ顔をしてるにちがいないヴェルシーロフの態度が……彼はそこまで高慢で、ぼくたちに冷淡なのです。それがぼくを激怒させるのです!」
「自分が小熊《こぐま》のくせに、人に作法の講釈があきれるよ。いいかい、今後お母さんのまえで『ヴェルシーロフ』なんて呼びすてにすることは許しませんよ、わたしのまえでもだよ――言ったら承知しないから!」とタチヤナ・パーヴロヴナはにらみつけた。
「お母さん、ぼくは今日俸給をいただきました、五十ルーブリです、さ、おとりください、どうぞ!」
わたしは母のそばへ行って、金を渡した。母はとたんにおろおろしだした。
「さあ、どうしたものかしら、困ったわ!」母は金にさわるのを恐れるように、こんなことをつぶやいた。わたしには母の気持が解《げ》しかねた。
「なにをおっしゃるんです、お母さん、あなた方二人がぼくをこの家の人間で、息子であり兄であるとお考えなら、なにも……」
「ああ、おまえにわるいことをしたよ、アルカージイ、おまえにちょっと言っておけばよかったのだけど、でもおまえにあまり心配をかけてもと思って……」
母はこれをおずおずと、おもねるような微笑をうかべながら言った。わたしはまたはかりかねて、こうさえぎった。
「ついでにうかがいますが、お母さん、今日裁判所でアンドレイ・ペトローヴィチとソコーリスキー公爵の訴訟問題の判決があったことを、ご存じですか?」
「ああ、知ってますよ!」と母は叫んで、恐ろしそうに胸のまえに合掌した(これが母の癖である)。
「今日?」とタチヤナ・パーヴロヴナはぎくりと体をふるわせた、「そんなはずがないわ、そんならあの人言うはずだもの。あんたになにか言ってました?」と彼女は母のほうを向いた。
「ええ、いいえ、今日とは、言ってませんでしたけど。でも、この一週間というもの、そのことばかり気になりまして。もう負けてもかまわないから、ただ肩の荷が下りてくれて、また元どおりになればよいと、ほんとに祈りたい気持でしたわ」
「じゃ、あなたにも言ってないのですね、お母さん!」とわたしは叫んだ。「なんという人間でしょう! これが今ぼくが言った、彼の冷淡と高慢の証拠じゃないのですか?」
「判決はどうでした、どう決まりました? ええ、いったい誰があんたにそんなことを言ったの?」とタチヤナ・パーヴロヴナはつめよった、「さあ、言いなさいな!」
「そら、本人のお帰りですよ! たぶん、自分で話すでしょう」と、廊下に彼の足音を聞きつけて、わたしは言った、そして急いでリーザのそばに腰を下ろした。
「兄さん、おねがい、お母さんをかわいそうだと思って、アンドレイ・ペトローヴィチにがまんしてね……」と妹はわたしにささやいた。
「いいよ、そうするとも、ぼくはそのつもりでもどってきたんだよ」
わたしは妹の手をにぎりしめた。
リーザはひどく怪しむような目でわたしを見た、そしてそのとおりだった。
彼はひどく満足そうなようすで入ってきた。その自分の気分をかくす必要を認めないくらい、しごく満悦のようすだった。それにだいたいこのごろは、彼はすこしの遠慮もなく、自分のわるいところばかりでなく、誰もが見せたがらないような、滑稽な面まで、わたしたちのまえにさらけだすことに慣れていた。そのくせ、わたしたちがどんな微細なこともすっかり見てとることを、ちゃんと心得ていたのである。彼はこの一年、タチヤナ・パーヴロヴナの言葉によると、服装もさっぱりかまわなくなって、いつもきちんとはしているが、古いもので、洗練された趣味が見られないそうである。たしかにそのとおりで、黙っていると下着を二日つづけて着るようなことがあって、母を嘆かせた。それは彼らの社会では一つの犠牲と考えられ、貞淑な婦人たちはそれをたいへんな忍耐としていた。彼は帽子はいつもやわらかい、つばの広い、黒いソフトをかぶっていた。戸口で帽子をとると――彼の濃い、しかしひどく白いものの目だつ一束《ひとつかね》の髪が頭の上にハラリとゆれた。わたしは彼が帽子をぬいだときの髪を見るのが好きだった。
「やあ、今晩は、みなさんおそろいですな。彼まで加わってますな? もう玄関で彼の声が聞えましたよ、わしをやっつけてたらしいな?」
彼の上機嫌《じようきげん》の特徴の一つは――わたしを揶揄《やゆ》するしゃれをとばしはじめることである。わたしは、もちろん、返事をしなかった。ルケーリヤがなにやら買物包みを山ほど運んできて、テーブルの上にのせた。
「勝ちましたぞ、タチヤナ・パーヴロヴナ、裁判はわたしの勝ちでしたよ、まず公爵側は控訴にはふみきらんでしょう。遺産はわしのものだ! さっそく千ルーブリ借りてきたよ。ソーフィヤ、しごとはやめなさい、目をいたわることだ。リーザ、今日も勤めかい?」
「そうよ、パパ」とにこにこしながらリーザは答えた。彼女は彼を父と呼んでいた。わたしはぜったいにそれはしたくなかった。
「疲れたろう?」
「疲れましたわ」
「勤めをよしなさい、明日は行かんでいい。もうすっかりやめてしまうんだな」
「パパ、そんなことをしたらあたしわるいわ」
「いいからやめておくれ……女がはたらくのが、わしは大きらいなんだよ、タチヤナ・パーヴロヴナ」
「どうしてしごとがなしでいられまして? それなのに、女ははたらくななんて!……」
「わかってるよ、わかってるよ、それはみなりっぱな、そして正しいことですよ、もう早手まわしに同意しておきますわ。しかし――わしは、主として、手しごとのことですよ。どうやら、わしのこれは、病的な、というよりは誤った子供のころの印象の一つらしいですな。わしの五つか六つの時分のおぼろげな思い出の中で、これをいちばん多く――むろん、いやな気持で――思い出すのだが、まるいテーブルのまわりに聡明《そうめい》な婦人方が集まって、きびしい、むずかしい顔をして、鋏《はさみ》やら、生地やら、型紙やら、モードの絵などをまえにして、会議を開いている。みんなものものしい顔でゆっくりかぶりを振ったり、うなずいたりしながら、審議に余念ないようすで、寸法を計ったり、計算したりして、裁断にかかる支度《したく》をしている。わしをあれほどかわいがってくれるやさしい顔々がみな――突然とりつくしまもないきびしいものに変って、こっちがちょっとでもおいたをしようものなら、たちまち連れ出されてしまう。いつもはわしの言いなりになる乳母《うば》までが、わしの手をおさえつけて、わしが泣こうとあばれようとおかまいなしに、すっかりそちらへ目をうばわれて、まるで極楽鳥の歌声でも聞くみたいに耳をそば立てている。というわけで、聡明な顔々をつつんでしまうこのきびしさと、裁断前のものものしさ――これがどういうものか今でも思い出されて、そのたびに胸が苦しくなるんですよ。タチヤナ・パーヴロヴナ、あなたは裁断がえらく好きでしたなあ! まあどんなに貴族的だとかなんとか言われても、わしはやはりぜんぜんはたらかない女のほうが好きですな。自分のことととらんでくれよ、ソーフィヤ……おまえにはなにも言えんさ! 女というものはそれでなくともたいへんな力だ。そんなことは、しかし、おまえもわかってるだろうがね、ソーニャ。あなたの意見はどうかな、アルカージイ・マカーロヴィチ、きっと反対なさるでしょうな?」
「いいえ、ちっとも」とわたしは答えた。「特に、女は――たいへんな力だ、という表現はいいですね、もっとも、どうしてあなたがそれをしごとと結びつけたのか、そこのところがぼくにはわかりませんが。でも、金がなければ、いやでもはたらかにゃならんことは――あなたもご存じでしょう」
「でももう結構だよ」と彼は母のほうへ顔を向けた。母は顔をさっと輝かせた(彼がわたしに言葉を向けたとき、母はぎくりとしたのだった)、「まあここしばらくだけでも、わしに手しごとをしているところを見せないようにしておくれ、わしのためにたのむよ。アルカージイ、きみは現代の青年として、いくぶん社会主義にかぶれているだろうから、まあ、信じられまいが、もっとも無為を好むのは、常に労働している民衆の中の連中なんだよ」
「休息、でしょうね、無為じゃありませんよ」
「いや、それが無為なのさ、ぜんぜんなにもしないということ、それが理想なんだよ! わしはある一生はたらきづめの男を知っていた。もっともその男は民衆の出ではなかったがな。かなり教養の深い男で、自分の人生体験を普遍化することができたのだが、その男が生涯、ほとんど毎日といっていいくらい、苦悩と感動をもって空想していたものは、完全な無為だというのだ。いわば理想を絶対にまで――無限の独立にまで、空想と漫然たる観察の永遠の自由にまで帰納したというわけだ。この状態がずっと、労働で完全にガタがくるまでつづいた。修理がきかなくなって、病院で死んだ。わしはときどき真剣にこう結論しようと思ったな、つまり労働の楽しさなどということを考えだしたのは、なにもしない、もちろん篤志家などといわれている、のらくら連中だとな。これは前世紀末の『ジュネーヴ思想』(訳注 フランスの啓蒙思想家ルソーの社会契約論)の一つだがね。タチヤナ・パーヴロヴナ、一昨日わたしがこういう広告を新聞から切り抜いておいたのだが、ほらこれだがね(彼はチョッキのポケットから小さな紙きれをとりだした)、これは古典語や数学に通じていて、どんなところへでも出向き、屋根裏にでもどこにでも住む覚悟の、無数にいる『大学生』の一人らしいが、ほらこんなことを書いているんですよ、『当方女教師、すべての学校の受験準備を指導し(いいですか、すべての学校ですよ)、算数を教えます』――たった一行だが、傑作じゃありませんか! 受験準備を指導するというなら、むろん、算数もふくまれるわけで、なぜわざわざ算数とことわるのです? そうじゃないのだよ、彼女の場合この算数に特別の意味があるのですよ。これは――これはもはや純然たる飢餓《きが》です、これはもはや貧困の最低線なのですよ。この文のまずさがかえって胸にきますねえ、女教師になる勉強なんて、明らかにしたことがないのですよ、それでなにを教えられます、それが、身投げでもする思いで、最後の一ルーブリを新聞社へもってゆき、すべての学校の受験準備を指導するだの、そのうえさらに、算数を教えるだのと、広告をたのんだのですよ。Per tutto mundo e in altri siti.(世界中、いたるところですなあ)」
「ああ、かわいそうに、アンドレイ・ペトローヴィチ、なんとか助けてあげたいわねえ! その女どこに住んでるのかしら?」とタチヤナ・パーヴロヴナが声をうるわせた。
「よしなさい、きりがない!」彼はその紙きれをポケットへしまった。「この包みはぜんぶおみやげだよ。リーザ、おまえにも、タチヤナ・パーヴロヴナ、あなたにも。ソーフィヤとわたしは、甘いものが好きでないので。きみもどうだね、アルカージイ。わしが自分でエリセーエフとバルラへ行って買ってきたんだよ。ルケーリヤの言いぐさじゃないけど、あまりにも長いあいだ『ひもじい思い』をしたからなあ(原注 わたしたちの誰もひもじい思いをしたことは一度もなかった)。そら、ぶどうもあるし、ボンボンもあるし、フランス産の上等の梨《なし》もあるし、オランダいちごのパイもある。極上の果実酒まで買ってきたよ。胡桃《くるみ》もだ。変な話だが、わたしは子供の時分からずっといまだに胡桃が好きなんですよ、タチヤナ・パーヴロヴナ、それも、ごく普通のやつがね。リーザはわたしに似て、やはり栗鼠《りす》みたいに、胡桃をかりかりやるのが好きなんですよ。でも、なにが楽しいといって、いちばんは、タチヤナ・パーヴロヴナ、ときどき不意と、子供のころを思い出してるうちに、森の中にいる自分を想像するときですよ、茂みの中へ入って、自分で胡桃をもいでいる……もうすっかり秋で、明るく晴れわたり、ときには冷やりと肌寒《はだざむ》いほどで、茂みにひそみ、森の中へ迷いこむ、落葉の匂いがツーンとくる……どうやらあなたの目に同感の色があらわれたようですね、アルカージイ・マカーロヴィチ?」
「ぼくの幼年時代もはじめの数年は村ですごしたのです」
「ほうそうかね、きみはたしかモスクワに暮してたはずだが……わたしの記憶ちがいでなければ」
「この子は、あなたがいらっしたときは、モスクワのアンドロニコフ家にいましたけど、そのまえは亡《な》くなったあなたの伯母のワルワーラ・ステパーノヴナの手もとにおかれて、村で育てられたのですよ」とタチヤナ・パーヴロヴナがすぐに説明した。
「ソーフィヤ、ここに金がある、しまっておきなさい。四、五日うちにまた五千借りる約束をしたよ」
「すると、公爵のほうはもうぜんぜん望みがないのでしょうか?」とタチヤナ・パーヴロヴナが訊《き》いた。
「ぜんぜんなしですね、タチヤナ・パーヴロヴナ」
「わたしはいつもあなたと、アンドレイ・ペトローヴィチ、あなたの家族の方々に心をよせていましたし、この家の親しい友だちでしたわ。でも、そりゃ公爵たちはわたしには縁もゆかりもない人たちですけど、それでも、なにかかわいそうな気がしましてねえ。怒らないでくださいな、アンドレイ・ペトローヴィチ」
「わたしは分けてやるつもりはないよ、タチヤナ・パーヴロヴナ」
「そりゃそうでしょうとも。あなたはわたしの考えをご存じじゃありませんか、アンドレイ・ペトローヴィチ、あなたが最初に半分に分けることを提案なさったら、公爵たちはきっと訴訟を取下げたでしょうけど、今となっては、むろん、もうあとの祭りですわ。でも、わたしにはなんとも言えませんわ……でも、ただ故人が遺言書の中であの人たちにふれずにすませるわけがない、と思うものですから」
「ふれずにすませるなんてものじゃないさ、おそらく全部を彼らにのこして、わたしだけをのけ者にしたはずなのさ、もし処理のし方というものを心得ていて、ちゃんと遺言状というものの書き方を知っていたらですね。でも今となっては法律がわたしの味方で――こういう結果に終ったわけです。分配などということは、わたしはできないし、いやですね、タチヤナ・パーヴロヴナ、これで事件は終ったのですよ」
彼はそれを憤激をさえこめて言った。こんなことは彼にはめったにないことだった。タチヤナ・パーヴロヴナは口をつぐんだ。母はなにか悲しげに目を伏せた。母がタチヤナ・パーヴロヴナと同じ考えであることを、ヴェルシーロフは知っていた。
『ここにエムスの頬打《ほおう》ちの真因があるのだ!』とわたしはひそかに考えた。クラフトからもらって、今わたしのポケットの中に秘められている文書は、もし彼の手に落ちていたら、悲しい運命をたどったことであろう。わたしは不意に、それがみなまだわたしの決意ひとつにかかっていることを感じた。この考えが、もちろん他のもろもろの考えとからまりあって、わたしの心を苛《いら》だたせた。
「アルカージイ、きみにはもっといい服装をしてほしいと思うのだが。そりゃ、今でもきちんとはしてるよ。でも、将来のことを考えて、なんなら、フランス人の仕立屋を一人紹介してやってもいいよ、実に良心的で、しかも趣味のいい男だよ」
「お願いしておきますけど、そういうことはぼくにいっさいすすめないでください」という言葉が不意にわたしの口をついて出た。
「それはどういうことだね?」
「ぼくは、もちろん、それを屈辱とは思いません、だがぼくはあなたと決してそのように見解は一致していません、いいえ、むしろ対立していると言えるでしょう、なぜならぼくは近日中に、いや明日から、公爵の家へ通うのをやめるからです、あそこにはなんのしごともありません……」
「だが、きみがあそこへ行って、彼のそばにいるということ、――それが勤めじゃないか!」
「そういう考えが屈辱なのです」
「わからんな。それなら、きみがそれほど金銭に潔癖なら、彼から金をもらわんで、ただ行ってやりゃいいじゃないか。ひどくがっかりするぞ、もうすっかりきみが気に入ってるんだから、ほんとうだよ……しかし、まあ好きなようにするがいいさ……」
彼は、露骨に、不快な顔をした。
「あなたは金をもらうなと言われますが、あなたのおかげで、ぼくは今日卑劣なことをしてしまいました。あなたがなにもおしえてくれなかったので、ぼくは今日公爵に一月分の俸給を請求したのです」
「じゃきみは一人でさっさと処理したわけだ。わしは、実を言うと、きみからは言いだせまいと思っていたよ。しかし、いまどきの若い者は達者なものだ! このごろは初々《ういうい》しい青年なんてものはいなくなりましたねえ、タチヤナ・パーヴロヴナ」
彼はひどく憤然とした。わたしも腹の中が煮えくりかえった。
「ぼくはあなたとのあいだを清算しなければならなかったのです……それはあなたがぼくに強《し》いたのです、――今はどうしたらよいのかわかりません」
「それじゃ、ソーフィヤ、すぐにアルカージイの六十ルーブリを返してやりなさい。きみ、わしがこんなにせっかちに清算することを、怒《おこ》らないでくれたまえ。わしはきみの顔を見て、ははあこれはなにか事業をたくらんでいて、それで金が要《い》るんだな……流動資本か……なにかそうしたものに……こう読んだのだよ」
「ぼくの顔になにがあらわれているか、ぼくは知りません、だがぼくは、まさかお母さんが、あれほどたのんだのに、この金のことをあなたにしゃべってしまおうとは、夢にも思いませんでした」わたしはギラリと目を光らせて、母をにらんだ。わたしがどれほどの屈辱を受けたか、とても言葉にはあらわせない。
「アルカーシャ、許しておくれ、お願いだから、わたしはどうしてもできなかったんだよ、言わずにおるなんて……」
「アルカージイ、お母さんがきみの秘密をわたしに打明けたことを、責めちゃいかんよ」と彼はわたしのほうに向き直った、「それに悪気があってのことじゃない――お母さんはただ息子の気持を自慢したかっただけなのだ。だが、そんなことはなくともわしは、きみが資本家であることを見ぬいただろうな。きみのすべての秘密がその正直な顔に書いてあるよ。彼には『自分の理想』があるんですよ、タチヤナ・パーヴロヴナ、これはいつかあなたに話したはずですな」
「ぼくの正直な顔はよしにしましょう」とわたしはまたひったくるように言った、「あなたがよく物の裏まで透視なさることは、ぼくも知っています、もっともときには鼻の先しか見えないこともありますがね、――いずれにしても、あなたの洞察力《どうさつりよく》にはおどろきました。そのとおりです、ぼくには『自分の理想』があります。あなたがこの表現をつかわれたのは、むろん偶然でしょうが、しかしぼくは恐れず告白します、ぼくには『自分の理想』があります。恐れないし、恥じもしません」
「大切なのは、恥じないことだよ」
「でも、やはりあなたには絶対に明かしません」
「つまり打明ける価値を認めずというわけかな。いいよ、アルカージイ、わしは聞かんでもきみの理想の本質はちゃんとわかってる。いずれにしても、それは――
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『われ荒野へ去らん……』 (訳注 当時の人気歌手ズボーワの歌の一節)
[#ここで字下げ終わり]
タチヤナ・パーヴロヴナ! わたしの考えでは――彼の望みは……ロスチャイルドか何かそうしたものになって、自分の偉大さの中にひきこもることですよ。むろん、わたしやあなた方に寛大な気持で年金を割当ててくれることでしょう、――いや、わたしははずされるかもしれんな、――しかし、いずれにしても、わたしたちはこの青年をちらと見ただけでしたな。うちのこの青年は新月みたいなもので、――ちらと出たと思ったら、もうかくれてしまう」
わたしは腹の中でぎくりとした。これがみな偶然だったことは、言うまでもない。彼はロスチャイルドの名前は出したが、なにもわかってはいないし、言ってることも的をはずれていた。それにしても、彼らと絶縁して遠ざかるというわたしの気持を、どうしてこれほど正確に言いあてることができたのか? 彼はすべてを予見して、先まわりしてそのシニズムで事実の悲劇性を汚しておこうとしたのである。彼がひどく憤激していたこと、それは疑う余地がなかった。
「お母さん! ぼくの短気を許してください、ましてアンドレイ・ペトローヴィチの目からは、それでなくったってかくれることなんかできませんもの」わたしはせめて一瞬でもすべてを冗談にまぎらしてしまおうとして、つくり笑いをうかべた。
「それそれ、アルカージイ、その笑ったというのが、なによりいいことだよ。その笑いというやつで、人々がどれほど得をするか、想像もできないくらいだよ、外貌《がいぼう》という点でさえもな。わしは大まじめで言ってるんだよ。この男は、タチヤナ・パーヴロヴナ、いつも頭の中になにやらひどく重大なことがあって、自分でもそれになんとなく気恥ずかしい思いをしてる、まあそんな顔をしてるでしょう」
「ぼくは真剣に、もうすこし口をつつしんでくれることをあなたにたのみたいですね、アンドレイ・ペトローヴィチ」
「きみの言うとおりだよ、アルカージイ。でもすっかり言ってしまうことが必要なのだよ、二度とこうした問題にふれる必要がないようにな。きみはわしらの家で直ちに反乱を起すつもりで、ペテルブルグへやって来た、――これがきみの上京の目的の中でさしあたりわしらにわかったことだ。なにかでわしらを仰天させる目的でやって来たということ、――そのことについては、別にここで言うまでもない。ついで、きみはこの一カ月というものこの家で、わしらにむかって鼻を鳴らしとおした、――しかしきみは、どう見ても、利口な人間だし、きみほどの素質があれば、そんな不平は、それ以外に自分がつまらない人間に生れたことを世の人々に復讐《ふくしゆう》する手段ももちあわせぬ連中に、まかせてしまえるはずだ。また、きみの正直な顔と血色のいい頬が、きみがまったく純粋な気持で誰の目でもまともに見ることができることを、端的に証明しているのに、きみはいつも自分を閉ざしている。彼は――ヒポコンデリー患者なのですよ、タチヤナ・パーヴロヴナ。わからんですなあ、どうしてこのごろの青年はそろいもそろってみなヒポコンデリー患者なんでしょうな?」
「ぼくがどこで育ったのかさえ、知らなかったあなたですもの、――そんなあなたに、人間がなぜヒポコンデリー患者になるかなんて、どうしてわかるはずがあります?」
「なるほどここに謎《なぞ》の答えがあったのか。きみがどこで育ったかわしが忘れていたので、きみは屈辱を感じたんだな!」
「ぜんぜんちがいます、そんなばかげた考えをぼくがもちますか。お母さん、アンドレイ・ペトローヴィチは今ぼくが笑ったことをほめてくれました。どうです、笑おうじゃありませんか――ぼんやり坐っててもはじまりません! お望みなら、ぼくの逸話を披露しましょうか? 幸い、アンドレイ・ぺトローヴィチはぼくの過去をなにも知らないようですから」
わたしはかっと熱くなった。わたしは、これからはもう二度とこのようにいっしょに顔をあわせることがないことを、そして一度この家を出たら、もうしきいをまたぐことがないことを、知っていた、――だから今宵《こよい》かぎりだと思うと、すっかり言ってしまわずにはいられなかった。彼自身がこうした幕切れにわたしを挑発したのである。
「そりゃ、たしかに、おもしろかろう、ただし実際に滑稽ならばの話だがな」と、彼は射抜くような視線をわたしに注ぎながら、言った、「アルカージイ、きみは、そのきみの育ったところで、すこし雑になったようだな、でも、まだやはりかなり礼儀の心得はあるようだ。彼は今日とても愛らしいじゃありませんか、タチヤナ・パーヴロヴナ、おや、あなたもご親切に、とうとうこの包みを解いてくださいましたな」
しかしタチヤナ・パーヴロヴナは眉《まゆ》をひそめていた。彼女は彼の言葉に振向きもしないで、包みを解くと、皿に菓子やら果物やらをとりわけはじめた。母もすっかり途方にくれてじっと坐っていたが、しかしわたしたちのあいだになにかよくないことが起りそうなことは、もちろん見ていたし、予感していた。妹はまたわたしの肘《ひじ》を突ついた。
「ぼくがあなた方みなさんにありのままに語りたいと思うのは」とわたしはいかにも打解けた口調できりだした、「ある父親がはじめてその愛《いと》し子《ご》と会ったときの話です、それがほかならぬ『そのきみの育ったところ』で起ったわけです……」
「きみ、それは……退屈じゃないかね? きみも知ってるだろうが、tous les genres(どのジャンルも)……」(訳注 退屈でなければ、どのジャンルもよい。ヴォルテールの喜劇遊蕩児の序文から当時の流行語となる)
「顔をしかめなくても大丈夫ですよ、アンドレイ・ペトローヴィチ、あなたの考えてることとは、ぜんぜんちがいますから。ぼくはみんなを笑わせようと思ってるんです」
「そりゃあ神もお聞きなさるだろうからな、アルカージイ。きみがわしたちみんなを愛していることは、わしも知ってるんだよ……きみがせっかくのわしたちの夜のひとときをぶちこわしにするわけがないこともな」彼はなんとなくわざとらしく、ぞんざいにこうつぶやいた。
「あなたはむろんぼくの顔から、ぼくがあなたを愛していることを読みとったのでしょうね?」
「そう、ある程度はな」
「でしょうね、実はぼくもタチヤナ・パーヴロヴナの顔を見て、彼女がぼくにすっかりまいっているのを、もうさっきから読んでいたんですよ。そんな猛獣みたいな目でにらまないでください、タチヤナ・パーヴロヴナ、笑うことがいちばんですよ! 笑うにまさる福なしですよ!」
彼女はいきなりわたしのほうを振向くと、三十秒ほど射抜くような目でわたしをにらみつけた。
「おふざけでないよ!」彼女は指でわたしをおどしつけた。しかしそのようすがあまりに真剣だったので、それはもはやわたしのばかげた冗談に向けられたものとは、ぜんぜん見えず、なにかほかのもの、つまり『本気で言いだすつもりじゃないかしら?』に対する警戒ととれた。
「アンドレイ・ペトローヴィチ、ではあなたは、この世ではじめてぼくという子供に会ったときのようすを、ほんとにおぼえていないのですか?」
「ほんとに、すっかり忘れてしまったよ、アルカージイ、心からすまんと思ってる。わしがうすうすおぼえてるのは、それがなにかひどく遠い昔のことで、どこだったかで……」
「お母さん、あなたはおぼえていませんか、その村へいらっしたことを、ぼくはたしかそこで六つか七つまで育ったらしいのですが、それよりもお母さんはその村にほんとにいらっしたことがあったのでしょうか、それとも、ぼくはあの村ではじめてあなたにお目にかかったような気がするのですが、あれはぼくの夢だったのかしら? ぼくはそれをまえまえからお母さんに訊《たず》ねようと思ったが、のばしてきたのです。今その時がきました」
「なにを言うの、アルカーシェンカ、行きましたとも! そう、わたしはあの村のワルワーラ・ステパーノヴナの屋敷を三度も訪《たず》ねましたよ。最初に行ったのは、まだおまえが生後一年にしかならなかったとき、二度目は――おまえはもう四つになっていましたし、そのつぎ行ったときは――もう六つでしたよ」
「そうでしたか、ぼくはこの一月《ひとつき》あなたにそれを訊《き》こう訊こうと思っていたのでした」
母は回想が急激に充《み》ちてきたためにさっと真っ赤になって、なつかしそうにわたしに訊ねた。
「じゃほんとに、アルカーシェンカ、おまえはもうあのころからわたしをおぼえていてくれたのかい?」
「なにもぼくはおぼえていないし、知りもしないけど、ただあなたの顔からなにかが一生忘れられぬものとしてぼくの心にのこったのです、それから、あなたがぼくの母だという意識ものこりました。ぼくは今あの村を夢のようにしかおぼえていません、自分の乳母をさえ忘れてしまいました。あのワルワーラ・ステパーノヴナはほんのかすかにおぼえてますが、それも歯が痛いといって年中頬を結わえていたからです。さらに家のまわりに大きな木があったこともおぼえています、たしか菩《ぼ》提樹《だいじゆ》だったと思いますが、それからときどき強い日光がまぶしく窓にさしたこと、花がたくさん咲いてる小さな庭、小径《こみち》、それからお母さん、あなたをほんの一瞬ですがはっきりおぼえています、いつだったか村の教会に聖餐《せいさん》式に連れられていって、あなたがぼくを抱き上げて聖餐を受けさせ、聖杯に接吻《せつぷん》させてくれたときです。あれは夏でした、一羽の鳩《はと》が円《まる》天井の下を窓から窓へとびました……」
「おお! ほんとにそのとおりでしたわ」母は両手を打ちあわせた。「その鳩もはっきりおぼえてます。おまえは聖杯に接吻しかけて急にびくりとして、『鳩だ、鳩だ!』って大きな声で言ったっけ」
「あなたの顔が、いや顔のなにかが、表情といいますか、ぼくの記憶に強く刻みつけられたので、五年ほどしてから、モスクワで、あのときあなたがぼくの母だと誰もおしえてくれませんでしたが、ぼくはあなたがお母さんだとすぐにわかったのです。ところで、ぼくがアンドレイ・ペトローヴィチにはじめて会ったのは、ぼくがアンドロニコフ家から連れ去られるときでした。それまで五年ほどぼくは同家にしずかに楽しく平凡に暮していました。ぼくはあの官舎をこまかいところまですっかりおぼえています、それから奥さんやお嬢さん方も、みなさん今こちらに住んでおられてかなり老《ふ》けられたようですが、それから家中のことも、当のアンドロニコフ氏のことも、すっかりおぼえています。アンドロニコフ氏はよく自分で鶏だの、魚だの、仔豚《こぶた》だの、いろんな食料を自分で町から買いこんできたものでした、そして食卓では、いつもつんとすましこんでいる奥さんに代って、自分でぼくたち一同にスープを注《つ》いでくれるのですが、ぼくたちはみんなでその格好を笑ったものでした、しかも本人がまっさきに笑ってしまうのです。お嬢さんたちがぼくにフランス語を教えてくれましたが、ぼくはクルイロフの寓話《ぐうわ》がいちばん好きで、たくさんそらでおぼえて、毎日アンドロニコフ氏の狭苦しい書斎におしかけては、しごとをしていようがいまいがおかまいなしに、一日に一つずつそらで読みあげたものでした。そして、この寓話で、あなたとも知り合ったのですよ、アンドレイ・ペトローヴィチ……どうやら、すこしずつ思い出してきたようですね」
「すこし思い出したよ、アルカージイ、たしかあのときなにかわしに語ってくれたんだったね……寓話だったか、いや、『知恵の悲しみ』(訳注 A・S・グリボエードフ(一七九五―一八二九)の喜劇。機知に富む台詞の一部は諺にまでなった)の一部だったかな? それにしても、きみの記憶のよさにはおどろいたな!」
「記憶! そりゃそうですよ! ぼくはこれだけを一生思いつづけてきたんですもの」
「いいとも、いいとも、アルカージイ、きみのおかげでわしまで記憶がよみがえってきたよ」
彼は微笑さえ見せた、それにつづいてすぐに母も妹も笑いだした。安心がもどった。しかしタチヤナ・パーヴロヴナだけは、テーブルの上にごちそうをひろげおわると、隅のほうに腰を下ろして、依然として疑いの目をじっとわたしにあてていた。
「それはこんなふうにはじまったのです」とわたしはつづけた。「ある美しい朝、突然、ぼくの幼年のころからの友であるタチヤナ・パーヴロヴナがぼくを迎えに来ました、彼女はいつも、まるで芝居の中の人物みたいに、思いがけぬときにひょいとぼくの人生に現われるのですが、そしてぼくを馬車に乗せて、ある邸宅の豪奢《ごうしや》な部屋へ連れてゆきました。あなたはそのころ、アンドレイ・ペトローヴィチ、ファナリオートフ家の留守宅に住んでいたのですね。その邸宅はファナリオートワ夫人がいつかあなたから買いとったもので、同夫人はそのころ外国へ行ってたというわけです。ぼくはいつも短い上着を着ていましたが、そこでいきなりふかふかした下着に着替えさせられ、すばらしい青いフロックコートを着せられました。タチヤナ・パーヴロヴナはその日は一日ぼくの世話をやいて、いろんなものをたくさん買ってくれました。ぼくは家中のからっぽの部屋々々を歩きまわって、鏡という鏡の前に立ちどまって自分に見とれたものです。こんなふうにしてぼくは翌朝の十時ごろ、家の中を歩きまわっているうちに、ひょいと、まったく思いがけなく、あなたの書斎に入ったわけです。ぼくはもう前の日に、連れてこられたばかりのとき、ちらッとですが、階段のところであなたを見かけていました。あなたは馬車でどこかへ出かけるために、階段を下りてくるところでした。モスクワヘはあなたはそのとき一人きりで、久しぶりに短い時間だけもどってきたので、いたるところでひっぱりだこで、家にはほとんど暮さないありさまでした。ぼくとタチヤナ・パーヴロヴナに出会うと、あなたは、ああ! と言葉をひっぱったきりで、立ちどまろうとすらしませんでした」
「なるほど、彼は特別の愛情をこめて描写しますな」とヴェルシーロフはタチヤナ・パーヴロヴナのほうを見返りながら、言った。彼女は顔をそむけて、返事をしなかった。
「ぼくはあのときの溌剌《はつらつ》とした美しいあなたの姿を今目のまえに見るようです。この十年ばかりのあいだにあなたはよくもこれほど老《ふ》けこみ、みっともなくなったものだと、おどろくほどです。こんなにはっきり申しあげて、お許しください。もっとも、あのときもあなたはすでに三十七歳になっていましたが、それでもぼくは思わず見とれたほどでした。なんというみごとな髪だったでしょう、ほとんど真っ黒といっていいほどで、深いつやがあり、一筋の白いものも見られませんでした。口ひげや頬ひげは宝石細工のようなみごとな仕上げで、――という以外に表現の言葉を知らないほどです。顔はまぶしたような白さで、今のような、そんな病的な蒼白《あおじろ》さではありません、そう、今のあなたの娘アンナ・アンドレーエヴナの顔の色にそっくりと言っておきましょう。彼女にはついさっきお会いしたんです。それから燃えるような黒い目と、目にまぶしいような光る歯、特に笑ったときの歯はみごとでした。そうです、あなたは大きく笑ったのです、あのとき、ぼくが入っていったとき、ぼくを見まわして。ぼくはそのころものを見分ける目がありませんでしたから、あなたの笑いですっかり心がうきうきしてしまいました。あなたはその朝ダークブルーのビロードの背広を着て、アランソン・レースのついた豪華なシャツの襟《えり》に、ソルフェリノ色のマフラーを巻きつけて、ノートを片手にもって鏡の前に立ち、チャツキー(訳注 喜劇知恵の悲しみの主人公)の最後のモノローグの稽古《けいこ》をしていました、特に最後の
馬車をまわせ、馬車を!
という叫びに苦心していたようでした」
「やあ、これはおどろいた」とヴェルシーロフが叫んだ、「まったくそのとおりだよ! わたしはあのとき、モスクワの滞在は短かったが、アレクサンドラ・ペトローヴナ・ヴィトフトーワ夫人邸の家庭劇で、病気のジレイコの代役として、チャツキーの役を引受けたのだよ」
「おや、忘れてらしたの?」とタチヤナ・パーヴロヴナがにやにや笑った。
「これがわたしに思い出させてくれた! いやあ、あのときのモスクワの数日が、もしかすると、わたしの生涯の最良の時だったかもしれない! わたしたちはみなまだあのころは若かった……そして希望に胸をふくらませていた……わたしはあのときモスクワで思いがけなくいろいろなことに……まあいい、アルカージイ、つづけてくれ、きみは今日はほんとうにいいことをしてくれた、こんなに詳細に思い出させてくれて……」
「ぼくは立ちどまって、あなたに目をみはっていましたが、急にこう叫んだのでした、『ああ、なんてすてきなんだろう、ほんもののチャツキーだ!』するとあなたはぼくを振向いて、『ほう、おまえはもうチャツキーを知ってるのかい?』と訊くと――ソファに腰を下ろして、ひどく上機嫌でコーヒーを飲みはじめました、――ほんとに首にとびついて接吻してあげたいほどでした。そこでぼくは、アンドロニコフ家ではみんなが本が好きで、お嬢さんたちは詩をたくさん暗記しているし、『知恵の悲しみ』の中の場面はときどき自分たちで演じていることや、先週は毎晩みんなで『猟人日記』を朗読したことや、ぼくはクルイロフの寓話《ぐうわ》がいちばん好きで、そらでおぼえていることなどを、あなたに教えました。するとあなたが、なにか暗唱してごらんと言ったので、ぼくは『わがまま娘』を暗唱したのでした――
ある娘がお婿《むこ》さんをほしくなりました」
「そうだ、そのとおりだった、これでわしもすっかり思い出したぞ!」とまたヴェルシーロフが叫んだ、「だが、アルカージイ、わしもはっきり思い出したが、きみはあのとき実に愛らしい子供だった、むしろちょろちょろと如才のないほうだった。誓って言うが、きみもこの十年でかなりいかれたほうだな」
ここでみんな、タチヤナ・パーヴロヴナまでが、わっと笑いだした。明らかに、アンドレイ・ペトローヴィチは冗談をとばすことによって、彼が老けたといったぼくのとげのある指摘に対して、同じ貨幣で『返済』したのである。みんなほがらかな気分になった。たしかにみごとなしっぺがえしだった。
「ぼくの暗唱がすすむほどに、あなたはにこにこ笑っていましたが、まだ半分までゆかないうちに、あなたはぼくを制して、呼鈴を鳴らし、入ってきた召使にタチヤナ・パーヴロヴナを呼ぶように言いました。タチヤナ・パーヴロヴナはすぐさま、これが昨日ぼくが見た彼女と同じ人かと、見ちがえるほどに、顔中を笑いにしてとんできました。そこでぼくはまた『わがまま娘』をはじめからやり直して、みごとに暗唱を終えたのでした。タチヤナ・パーヴロヴナさえにっこり笑ってくれたほどだし、あなたは、アンドレイ・ペトローヴィチ、あなたなどは、ブラヴォ! と叫んで、目を輝かしてこう評したのでした。この子が『蜻蛉《とんぼ》と蟻《あり》』でも暗唱したのなら、このくらいの年齢のものわかりのいい子が、上手に暗唱するというくらいで、まだそれほどおどろくこともないが、この寓話を――
ある娘がお婿さんをほしくなりました
そこまではまだ罪がなかったのです
お聞きになりましたか、どうです、この『そこまではまだ罪がなかったのです』というあたりの調子は、まったくおどろくじゃありませんか! 要するに、あなたはたいへんな喜びようでした。それからあなたは急にタチヤナ・パーヴロヴナになにごとかフランス語で言いました、するとタチヤナ・パーヴロヴナはたちまち眉《まゆ》をひそめて、あなたに反対をはじめたのです、それもひどくはげしい調子でした。でも、あなたがいったん言いだしたら、逆らうことなどとてもできないことですので、タチヤナ・パーヴロヴナは急いでぼくを自分の部屋に連れ去りました。そこでぼくはまた顔や手を洗われ、下着を替えられ、ポマードをつけられたうえに、さらに髪をカールまでされました。それが終ると日暮れ近くに今度はタチヤナ・パーヴロヴナが、ぼくがおどろいて目をまるくしたほど、けばけばしく着飾って、ぼくを馬車に乗せて連れてゆきました。ぼくは生れてはじめて劇場の中へ入りました。ヴィトフトーワ夫人邸の素人《しろうと》芝居でした。照明、シャンデリヤ、貴婦人たち、軍人たち、将軍たち、令嬢たち、緞帳《どんちよう》、幾列にも並んだ椅子の列――どれもこれもぼくが生れてはじめて見るものばかりでした。タチヤナ・パーヴロヴナはうしろのほうのごく目だたない席を選んで、その隣にぼくをかけさせました。もちろん、ぼくくらいの子供たちもいましたが、ぼくはもうなににも目をくれずに、胸のしびれる思いで幕が上がるのを待っていました。アンドレイ・ペトローヴィチ、あなたが舞台に現われたとき、ぼくは胸がじーんとなって、感激のあまり涙ぐみました――なぜ、どうして、自分でもわかりません。なにゆえの感激の涙か?――これがこの九年間思い出すたびにふしぎでならなかったことなのです! ぼくは胸のしびれる思いで喜劇の進行を見まもっていました。ぼくのわかったことといったら、言うまでもなく、彼女が彼を裏切ったことと、彼の足の指にも値しない愚かな連中が彼を嘲笑《あざわら》っていることくらいのものでした。彼が舞踏会でモノローグを語ったとき、ぼくは、彼がさげすまれ、辱《はずか》しめられて、まわりの愚かな連中を叱責《しつせき》しているが、しかし彼のほうが――偉大な、偉大な人間なのだということが、わかりました。むろん、アンドロニコフ家での勉強が理解を助けたことは言うまでもありませんが、しかし――あなたの演技でした、アンドレイ・ペトローヴィチ! ぼくははじめて舞台を見たのです! 玄関でチャツキーが、『馬車をまわせ、馬車を!』と叫んだとき(しかし、あなたの叫び方はすばらしいものでした)、ぼくは椅子からとび上がって、場内を埋めた拍手の嵐《あらし》にあわせて、夢中で手を叩き、あらんかぎりの声でブラヴォを叫びました! ちょうどこの瞬間、『バンドのちょっと下』のあたりをうしろから、まるでピンで突き刺されたみたいに、タチヤナ・パーヴロヴナに猛烈につねられたが、振向きもしなかったことを、ぼくはまざまざとおぼえています! もちろん、『知恵の悲しみ』が終るとすぐに、タチヤナ・パーヴロヴナはぼくを家へ連れ帰りました。『まさかおまえがダンスにのこるわけにもいかないからね。おまえを連れてきたおかげでわたしまで踊ることができやしない』とあなたは、タチヤナ・パーヴロヴナ、帰りの馬車の中でぼくに文句の言いどおしでしたね。その夜は一晩中ぼくは夢ばかりみていました。そして翌朝、十時には、もうあなたの書斎のまえに立っていましたが、ドアはピタリと閉ざされていました。あなたの書斎には客が何人か来ていて、なにやらしごとの話をしているようすでした、それから急に出かけて夜おそくまでもどらなかったので――その日はついにあなたに会うことができませんでした! そのときぼくはあなたになにを言いたかったのか――今は忘れてしまいました、もちろん、そのときだって知らなかったのですが、とにかくできるだけ早くあなたの顔を見たくて、胸を焦がしていたのでした。ところがその翌朝八時にはもう、あなたはセルプーホフへ出かけてしまったのです。あなたはそのころ債権者たちと決済をつけるために、トゥーラ県の領地を売ったばかりで、まだかなりの大金が手もとにのこっていました、だからあなたは、債権者たちを恐れてそれまで顔も出せなかったモスクワへやって来たわけです。ところが、このセルプーホフの乱暴者だけが、これも債権者の一人ですが、これがどうしても借金を半分にまけることを承知しなかったのです。タチヤナ・パーヴロヴナはぼくがなにを訊いても返事もしてくれませんでした。『おまえの知らないことです、さあ、明後日は寄宿舎へ行くのですよ、支度をしなさい、ノートを集めて、本をきちんとそろえて、自分でトランクにしまうことをおぼえるんですよ。あんたはお坊ちゃまで育てられる身分じゃないのですからね、わかったね』。それからああでもない、こうでもないと、あの三日ばかりというもの、タチヤナ・パーヴロヴナ、あなたはずいぶんぼくの尻をひっぱたいてくれましたねえ! そして結局は、アンドレイ・ペトローヴィチ、あなたに心酔していた罪のない子供が、トゥシャールの寄宿舎へ連れ去られたというわけです。そしてこれが、つまりあなたとの対面がですね、もっともばかばかしい偶然かもしれないにしても、でも、まさかと思うでしょうが、それから半年後、ぼくは、トゥシャールの家から脱走して、あなたのところへ逃げてゆこうとしたのですよ!」
「きみは実に話がうまい、おかげでわしもあの当時のことをまざまざと思い出したよ」とヴェルシーロフは一語々々区切るように言った、「しかしきみの話の中で特にわしをおどろかしたのは、いくつかの妙なことを実に詳細に知っていることだよ、たとえば、わしの借金のことなど。こういうことをこまごまと語るのはある意味で失礼なことと言えるが、それはそれとして、わしにはわからんのだが、きみはいったいどこからそういうこまかい情報を手に入れたのかね?」
「こまかい情報を? どうして手に入れた? そう、くりかえして言いますが、ぼくはこの九年間、あなたに関する詳細を知ることだけを、しごとにしてきたのです」
「妙な告白だし、また妙なことに時間をつぶしてきたものだ!」
彼は肘掛椅子に身をもたせかけたまま、体を横へねじって、軽くあくびさえもらした、――故意にか、それとも偶然にか、わたしは知らない。
「どうです、ぼくがトゥシャールの家から脱出してあなたのもとへ逃げようとした話をつづけましょうか?」
「やめさせなさい、アンドレイ・ペトローヴィチ、この子を黙らせて、ここから追い出しなさい」とタチヤナ・パーヴロヴナがたまりかねたように口走った。
「いけないよ、タチヤナ・パーヴロヴナ」とヴェルシーロフは言いふくめるように彼女に答えた、「アルカージイは明らかになにか意図をもっているのです、だから、どうしてもそれを果させてやらなけりゃなりません。なに勝手にしゃべらせておきなさい! 話してしまえば、肩の荷が下りるでしょう、彼にとっては、肩の荷を下ろすということが、なによりも大切なのです。さあ、はじめなさい、アルカージイ、きみの新しいものがたりを。まあわしは、新しいものがたりとだけ言っておこう。心配せんでいい、わしはその結末を知っているのだよ」
「ぼくが逃げた、つまりあなたのもとへ逃げようとした話は、ごく簡単です。タチヤナ・パーヴロヴナ、おぼえていますか、ぼくが寄宿舎へ入れられてから二週間ほどして、トゥシャールがあなたに一通の手紙を送ったのを。――おぼえていない? ぼくにはあとでその手紙をマーリヤ・イワーノヴナが見せてくれましたが、それも亡《な》くなったアンドロニコフがのこした書類の中から見つかったのでした。トゥシャールは急に金のとりようが少なかったことに気がついて、『威厳』をこめてその手紙で、彼の私塾には公爵や元老院議員の子供たちがあずけられているので、ぼくのような素姓の子供をあずかることは塾の品位をおとすものである、だからその分の割増金をいただきたい、ということをあなたに言ってやったわけです」
「まあ、あんたはなんてことを……」
「いや、ご心配なく」とわたしはさえぎった、「ぼくはトゥシャールについてちょっと語るだけですから。タチヤナ・パーヴロヴナ、あなたはそれから二週間後に、郡部のほうから返事を出して、それをきっぱりことわりましたね。そのとき、彼が赤鬼のような顔をして教室に入ってきたのを、ぼくはおぼえています。彼はひどく小さいところへもってきて、ひどく横幅の広い、四十五、六のフランス人で、たしかにパリ生れにはちがいないが、むろん靴屋かなんかのせがれです。もういつともわからぬほどの昔から、モスクワの官立学校に正教員として勤めて、フランス語を教え、官位までもらっていて、それをえらく鼻にかけているような――要するに無教養きわまる男でした。ところで、ぼくたち、あずけられていた生徒はぜんぶで六人で、その中の一人はたしかにモスクワの元老院議員の甥《おい》とかにあたるということでした。ぼくたちはみな完全に家族的にあつかわれて、主として彼の夫人の監視下におかれました。これはロシアの小役人の娘で、ひどくとりすました女でした。ぼくははじめの二週間というものは、仲間の子供たちのまえでやたらと気どって、青いフロックコートをひけらかし、ぼくのパパはアンドレイ・ペトローヴィチだぞと自慢したものです、そして、じゃどうしてヴェルシーロフでなくて、ドルゴルーキーなんだ、と訊かれても、ちっともどぎまぎしませんでした、だって、どうしてなのか、自分でもわからなかったからです」
「アンドレイ・ペトローヴィチ!」とタチヤナ・パーヴロヴナがほとんど威嚇《いかく》するような声で叫んだ。それとは逆に、母は、目をはなさずに、じっとわたしを見まもっていた、そして明らかに、わたしにつづけてもらいたいようすだった。
「そのトゥシャールは……たしかに今でもおぼえてるが、ひどく小さい、ちょこまかした男だった」とヴェルシーロフは歯のあいだからおし出すように言った、「でもあのときわしは彼をちゃんとした筋から紹介されたので……」
「そのトゥシャールが手紙をにぎりしめて入ってくると、樫《かし》の大きなテーブルを囲んでぼくたち六人がなにやら棒暗記をしていたところへ、つかつかと近づきざま、いきなりぼくの肩をわしづかみにして、椅子から立たせると、ぼくのノートをすっかりまとめるように命じたのです。
『貴様の場所はここじゃない、あそこだ』
こうどなって、彼は控室の左手の狭い部屋を指さしました。そこは粗末な裸机と、籐椅子《とういす》と、油布張りのソファがあるだけの――ちょうど今のぼくの屋根裏部屋とそっくりの部屋でした。ぼくはびっくりしてしまって、すっかりおびえきって、そちらへ移りました。ぼくはそんな乱暴なあつかいを受けたことはまだ一度もなかったのです。三十分ばかりして、トゥシャールが教室から出てゆくと、ぼくは仲間の子供たちと目を見かわして、笑い合いました。むろん、子供たちはぼくをあざけり笑ったのですが、ぼくはそれには思いいたらないで、ぼくたちは楽しいから笑っているのだと思っていたのでした。そんなことをしているところへ、いきなりトゥシャールがとびこんできて、ぼくの髪をつかんで、ひきずり出したのです。
『貴様は良家の坊ちゃまたちといっしょにいてはならん、貴様はいやしい生れで、下男と同じなのだ!』
そうどなると彼は、ぼくのふっくりした赤いほっぺたを力まかせになぐりつけたのです。なぐったのがよほど気持よかったものとみえて、彼はもう一つ、さらにもう一つと、ぼくをなぐりました。ぼくはわっと泣きだしました、口もきけないほどびっくりしてしまったのです。まるまる一時間というものぼくは両手で顔をかくして、泣いて、泣いて、泣きつづけました。なぜこんなことをされたのか、ぼくはどうしてもわかりませんでした。トゥシャールのような、悪人でもない、外国人が、しかもロシアの農奴の解放をあれほど喜んでいたような男が、どうしてぼくのようななにもわからない小さな子供をなぐることができたのか、ぼくにはわからないのです。しかし、ぼくはそのときはびっくりしただけで、侮辱は感じませんでした。ぼくはまだ屈辱ということを知らなかったのです。ぼくはただなにかいたずらをしたから叱《しか》られただけで、すっかり行儀をよくしたら、許されて、そうしたらまたみんなが急ににこにこになって、庭で遊んだりして、楽しく暮せるようになるだろうくらいにしか、子供心には考えられなかったのです」
「アルカージイ、もしわしがそんなことと知ったら……」とヴェルシーロフはすこし疲れたらしくあいまいな微笑をうかべながら言葉|尻《じり》をひっぱった、「しかし、ひどいやつだな、そのトゥシャールという男も! だがね、わしはまだ希望を失いはしないよ、きみはそのうちにきっと元気を出して、やがてわしたちのそうした罪を許してくれ、わしたちはまた楽しく暮せるようになるだろうよ」
彼は大きなあくびをした。
「いや、ぼくはあなた方を責めてはいません、ぜんぜんちがいます、そして、信じてください、トゥシャールを非難してるわけでもないのです!」わたしはいささか狼狽《ろうばい》して、叫ぶように言った、「そう、それから二月ほど、彼はぼくをなぐりつづけました。ぼくは、忘れもしませんが、なんとかなぐられまいとして、その一心で、彼の手にすがりついて、その手に夢中で接吻しながら、わあわあ泣いたものでした。子供たちはぼくを嘲笑《あざわら》ったり、ばかにしたりしました、というのはトゥシャールがぼくを下男なみにこきつかうようになって、服を着るときに、あれをもってこい、これをもってこいなどとぼくに言いつけたからです。ここでぼくの下男の血が本能的にぼくを助けたのです。ぼくは気に入られようとせいいっぱいつとめ、すこしも屈辱を感じませんでした、というのは、まだそういうことはなにもわかっていなかったからなのですが、今考えても、どうしてそのころ自分がみんなと対等でないことがのみこめないほど愚かだったのかと、ふしぎな気がするほどです。もっとも、少年たちはそのころからもういろいろなことをぼくに説明してくれましたし、学校もわるくはありませんでした。トゥシャールもしまいには、顔をなぐるよりは、膝《ひざ》でうしろからどやすほうを好むようになり、半年もするとときにはなでてくれるようにさえなりました。だが喜ぶのは早いです、月に一度は確実になぐりました。ぼくが忘れていい気にならないように、思い知らせるためです。ほかの少年たちともまもなくいっしょに坐ることも許されましたし、いっしょに遊ぶことも許されましたが、しかし二年半のあいだ、トゥシャールは一度としてぼくと他の少年たちの社会的地位の相違を忘れたことがなく、牛馬のようにではないまでも、やはりたえずぼくを使用人なみにつかいつづけました。これはおそらく、ぼくにぼくの身分を忘れさせないためだったのでしょう。
ぼくが逃げたのは、つまり逃亡の計画をたてたのは、この最初の二月《ふたつき》から五カ月ほどたってからです。だいたいぼくはぐずで思いきりがわるいほうです。そのころぼくは寝床に入って、毛布にくるまると、すぐにあなたのことを空想しはじめるのでした。アンドレイ・ペトローヴィチ、あなたのことだけなのです。どうしてそういうことになったのか、ぼくにはまったくわかりません。あなたはぼくの夢にさえ現われました。要は、ぼくがたえず胸がしびれる思いで空想していたのは、あなたが不意に入ってくる、ぼくはあなたにとびつく、するとあなたがぼくをこの家から連れだして、自分のあの書斎へ連れ去ってくれる、そしてまたいっしょに劇場へ行く、とまあこういったようなことでした。大切なことは、もうあなたと別れないことだ――これがいちばん大切なことなのだ! ところが朝になって目がさめると、とたんにまた少年たちの嘲笑《ちようしよう》と侮蔑《ぶべつ》がはじまるのでした。一人などはものも言わずいきなり一つぶんなぐって、ぼくに長靴をもってこさせたものです。この野郎は、ことさらにぼくにぼくの素姓をわからせようとして、みんなが聞いてわあわあ喜ぶのをいいことに、思いきってきたない名称を並べたててぼくをののしるのでした。そのうちにトゥシャールが出てきて、一時おさまるのですが、ぼくの心にはようやく堪《た》えられぬなにものかが生れはじめたのでした。ここでは決して許されることはないということを、ぼくはぼんやり感じたのです、――おお、ぼくは子供心にすこしずつわかりだしたのです、いったいなにが許されないのか、そしてどこにぼくのまちがいがあったのか! そしてついにぼくは逃げる決意をしました。ぼくはこのことを二カ月のあいだ真剣に考えぬいて、ついに決行することに決めたのです。それは九月のことでした。ぼくは子供たちが土曜日にそれぞれ家族のもとへ帰ってゆくのを待ちました、そしてそのあいだにこっそり用心しいしいごく必要なものだけを包みにしました。ポケットには二ルーブリありました。ぼくは暗くなるのを待つことにしました。
『そしたら階段を下りて、外へ出よう、あとはどんどん歩いてゆくのだ』とぼくは考えました。どこへ? ぼくは、アンドロニコフ家がもうペテルブルグへ引越してしまったことをよく知っていましたから、アルバート街のファナリオートフ家をさがすことに決めました。『夜はどこかを歩きまわるか、あるいはどこかに坐りこんでいて、朝になったら邸内で誰かを見つけて、アンドレイ・ペトローヴィチがどこにいるか、もしモスクワにいなかったら、どこの都会か、あるいはどこの国にいるかを訊くんだ。きっとおしえてくれるだろう。そしたら出かけて、また別なところで、誰かをつかまえて、これこれの町へ行くにはどの関門を出たらいいか、訊くんだ。そして関門を出たら、どこまでも、どこまでも歩いてゆこう。一途《いちず》に歩きつづけて、夜はどこかの木の下にねむり、食べるのはパンだけにしよう、パンだけなら二ルーブリあるからずいぶん長くもつだろう!』
ところが、土曜日にはどうしても逃げだすすきがなく、明日の日曜日まで待たなければならなくなりました、そして、おあつらえむきに、日曜日にはトゥシャールが夫人と馬車でどこかへ出かけて、家の中にはぼくとアガーフィヤだけがのこったのです。ぼくはすっかりふさぎこんでじりじりしながら夜を待っていました。おぼえていますが、広間の窓べに坐って、木造の小さな家々が立ち並ぶ埃《ほこり》っぽい往来と、たまに通る人影をしょんぼり眺《なが》めていたのです。トゥシャールの家は町はずれにありましたので、窓から関門が見えました。あの門ではないかしら?――こんなことがちらと頭をかすめました。太陽がまるい真っ赤な夕日となって傾き、空がいかにも寒そうな色になって、ちょうど今日みたいに、鋭い風が砂埃をまき上げました。とうとうすっかり暗くなりました。ぼくは聖像のまえに立って、祈りはじめました。ただ早く、早く、ぼくはむやみに気がせいて、包みをもつと、足音をしのばせてぎしぎし鳴る階段をそっと下りはじめました。台所のアガーフィヤに気づかれはしないかと、胸の凍る思いでした。扉《とびら》には鍵《かぎ》が下りていました。ぼくは鍵をはずして、そっと扉をあけました、すると――いきなり目のまえに暗い暗い夜が、底なしの恐ろしい未知の深淵《しんえん》のように真っ黒くひろがり、風がいきなりぼくの頭から帽子を吹きとばしてしまったのです。ぼくは出ようとしました、すると向う側の歩道で酔っぱらいのどなりちらすものすごいしゃがれ声が聞えました。ぼくはしばらく立ちすくんで、闇《やみ》をすかして見ていましたが、そのままそっと引返して、そっと階段をのぼり、そっと服をぬいで、包みをとき、寝床に突っ伏しました。涙もからっぽ、頭の中もからっぽでした、そしてその瞬間から、ぼくは考えるようになったのです、アンドレイ・ペトローヴィチ! その瞬間に、ぼくは下男であるばかりか、そのうえに腰抜けだ、と意識して、そこからぼくのほんとうの正しい成長がはじまったのです!」
「ああ、この瞬間から、今こそわたしはおまえという人間がはっきりわかりましたよ!」と、いきなりタチヤナ・パーヴロヴナが立ち上がった、そしてそれがあまりに不意だったので、わたしは完全に虚をつかれた、「そうですとも、おまえはそのとき下男だったばかりか、今でも下男です、おまえの心は下男根性です! そうですとも、おまえを靴屋の弟子にやるくらい、アンドレイ・ペトローヴィチは簡単にできたはずですよ! 手職をしこまれなかっただけでも、おまえはありがたいと思わなきゃいけないんだよ! これ以上おまえのためによくしてくれなんて、誰がこの人にたのめますか! おまえの父さんのマカール・イワーノヴィチなんかは、おまえたち自分の子供たちを、下層階級から引上げないでくれって、たのむなんてもんじゃない、ほとんど強談判《こわだんぱん》だったんだよ。ほんとに罰当《ばちあた》りな、この人がおまえを大学までやってやろうとしたことも、この人のおかげでいろいろと資格を身につけたことも、ありがたいとも思いやしない。子供たちにいじめられたから、人類に復讐《ふくしゆう》を誓ったって……あきれたやくざ者だよ!」
正直のところ、わたしはこの不意打ちに度胆《どぎも》をぬかれた。わたしは立ち上がって、言うべき言葉も知らずに、しばらくきょとんと目をみはっていた。
「いや、たしかに、タチヤナ・パーヴロヴナはぼくに新しいことを言ってくれましたよ」と、ややあって、わたしはきっとヴェルシーロフのほうへ向き直った、「たしかにぼくは、ヴェルシーロフに靴屋の弟子にやられなかったことだけで、どうしても満足ができないほどに、根性が卑しいのですね。『資格』さえぼくを感激させなかった、どころか、ヴェルシーロフのすべてをくれ……ぼくに父をくれ……なんという要求をしたものだ、――これがさもしい下男根性でなくてなんだろう? お母さん、あなたが一人でトゥシャールの家にぼくを訪ねてきてくださったとき、ぼくのとった態度のことで、ぼくはこの八年のあいだ良心に苦しめられつづけてきたのですが、今はそのことを語る時間がありません。タチヤナ・パーヴロヴナがしゃべらせてくれませんので。じゃおやすみ、お母さん、あなたにはおそらくもう一度お目にかかるでしょう。タチヤナ・パーヴロヴナ! ところで、ぼくがまたまた卑しい下男根性をさらけだして、現在生きている妻がありながらさらに人妻と結婚してもかまわないなどということまで、ぜったいに許せないなどと言いだしたら、どうしますかね? ところがこれが、エムスでアンドレイ・ペトローヴィチの身にあぶなく起りかけたのですよ! お母さん、明日は他の女と結婚するような良人《おつと》のもとにとどまるのがいやになったら、永久に誠実な息子であることを誓っているあなたの息子がいることを、思い出してください、そして思い出したら、ぼくといっしょにここを出てゆきましょう、ただし条件は一つ、『彼か、ぼくか』です――いいですね? 今すぐに返事をくださいなどとは言いません。このような問題に即座に答えられるものでないことは、ぼくも知ってます……」
しかしわたしはおしまいまで言いおわることができなかった。だいいちに、わたし自身が熱くなりすぎて、とりみだしたからである。母はすっかり蒼白《そうはく》になって、声が途切れてしまったらしく、一言も発することができなかった。タチヤナ・パーヴロヴナはなにやら金切声でやたらにわめきちらしながら、拳《こぶし》で二度ほどわたしの肩をぶったが、わたしは聞き分けることもできなかった。わたしの言葉が『卑しい心の中であたためられ、ひねくりまわされたつくりごと』と彼女が叫んだのだけが、わたしの耳にのこった。ヴェルシーロフは身じろぎもせずに坐ったまま、おそろしく真剣な顔をして、にこりともしなかった。わたしは自分の屋根裏部屋へ引きあげた。客間を出るわたしを見送った最後の目は、妹のなじるような目だった。彼女はきびしい顔をしてわたしの後ろ姿に頭を振っていた。
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第七章
わたしはすべてをはっきりと思い出し、印象をよみがえらせるために、自分を容赦せずに、こうしたすべての場面を克明に描くのである。屋根裏の自分の部屋へ上がったとき、わたしは恥じなければならぬのか、それとも自分の義務を果した人間として勝利を誇っていいのか、わたしはまったくわからなかった。もしわたしがもうほんのすこし世を見る目があったら、このような場合にちょっとでも疑惑があれば、それは必ずわるいほうに解釈しなければならぬということに思いいたったはずである。しかしわたしの頭をみだしたのはそれとは別な事情であった。それは階下《した》でいい恥をさらしたことを明白に意識し、それを気にしていたにもかかわらず、なにが嬉《うれ》しいのかわからないが、わたしはむやみに嬉しかったということである。タチヤナ・パーヴロヴナがあれほど悪意をこめてわたしを罵倒《ばとう》したことさえ――わたしにはただおかしく、滑稽《こつけい》なだけで、すこしも腹がたたなかった。おそらくそれは、なにはともあれ鎖をたち切って、生れてはじめて自由になった自分を感じていたからにちがいない。
わたしは同時に、自分の立場を損じてしまったことも感じていた。これで遺産に関するあの手紙をどうするかということが、ますます闇《やみ》につつまれてしまったのである。もうこうなったらどうしたって、わたしがヴェルシーロフに復讐《ふくしゆう》を企てているととられるにちがいない。しかしわたしはまだ階下でさかんにやり合っていたときに、すでに、遺産に関する手紙の問題は第三者の決定に委《ゆだ》ねることに決めていた。わたしはそれをまず、裁判官に提出するように、ワーシンに提出して決定を仰ぐつもりだ、そしてワーシンにうまく会えなかったら、もう一人の人物だが、その人物が誰であるかはわたしはすでに腹の中で決めていた。そのうちに、ただこのために一度だけ、ワーシンを訪《たず》ねよう、とわたしは腹の中で考えた。そして――そのまま長いこと、何カ月か姿をくらましてしまう、ワーシンの目には特にふれないようにする、ただ母と妹にだけ、あるいは、ごくまれに会うことになるかもしれない。こうしたすべての考えが混沌《こんとん》としていた。わたしは、なにかやってのけたが、どこか的をはずれていたような気がしていた、でも――それでいいのだと思っていた。くりかえして言うが、わたしはそれでもなにか嬉しくてたまらなかったのである。
わたしは明日ひどく忙しくなることを見越して、いつもより早く寝ることにした。部屋を見つけて、引越しをするほかに、わたしはいろいろとやっておこうと決めていたことのいくつかを果すことにした。ところがその夜はひきつづいてまた思いがけぬできごとに見舞われることになった。ヴェルシーロフが極度にわたしをおどろかせるようなことをしたのである。わたしの屋根裏部屋を彼はこれまでただの一度ものぞいて見たこともなかった、それが思いがけなく、わたしがもどってからまだ一時間もしないうちに、不意に階段に彼の足音を聞いたのである。彼はわたしを呼んで、階段を照らしてくれと言った。わたしは蝋燭《ろうそく》をもちだして、片手を下へさしのべた。彼はそれにつかまった。わたしは彼をひっぱり上げた。
「メルシー、アルカージイ、わしは一度もここへ這《は》い上がったことがないんだよ、この家を借りたときでさえのぞいて見なかったくらいだ。こんなものだとは思っていたが、しかしこれほどひどいとは知らなかったよ」彼は屋根裏部屋の中央に突っ立って、珍しそうにあたりを見まわした。「しかしこりゃ墓穴だよ、完全な墓穴だな!」
実際に、墓の内部にいくぶん似ていた、そしてわたしは、彼が一言で正確に表現したのにおどろいていたほどだった。それは狭くて細長い部屋で、せいぜいわたしの肩くらいの高さから、壁と屋根の角がはじまっていて、屋根裏のいちばん高いところでもわたしの手がとどくくらいだった。ヴェルシーロフははじめのうちは、頭が天井にぶつかりはしないかとびくびくして、無意識に背をかがめていたが、別にぶつかりもしなかったので、やっとかなり安心したようすで、すでにわたしの寝床がのべてあったソファの上にどっかと腰を下ろした。わたしはと言えば、腰を下ろすのも忘れて、深いおどろきにつつまれて茫然《ぼうぜん》と彼を見つめていた。
「母さんがきみの金を受取ったものかどうかわからんと言うのでな。きみがさっき渡した一月分の俸給のことだよ。こんな墓穴では金をもらうどころか、かえって、こっちからいくらかきみに払わにゃならんくらいだ! わしは一度ものぞいたことがなかったんだよ……こんなところに住めるとは、想像もできん」
「ぼくは慣れてますよ。だがこうしてここにあなたを迎えるなんて、階下《した》であんなことがあったあとだけに、まったく意外というほかはありません」
「うん、そう、きみは階下《した》でずいぶん暴言を吐いたからな、だが……わしも特別の目的があってここへ来たんだよ、それを今から説明しようと思うのだが、といって、しかし、わしがここへ来たのになにも異常なことはない。階下《した》であったことだって――やはりごくあたりまえのことで、ちっともふしぎはないさ。ただわしは一つだけきみに訊《き》きたいと思うのだよ。階下《した》できみが長々と語った話だが、あれほど得意げにわしらを覚悟させて、あれほど前置きを並べてだな、まさかあれが、きみが暴露、いや伝えようとたくらんでいたことのすべてじゃなかろうな? あれ以上のものは、なにももっていなかったのかね?」
「すべてです。いや、すべてとしておきましょう」
「少なすぎるな、アルカージイ、実を言うと、わしは、きみの前置きや、わしらに笑いを呼びかけたりしたきみの態度から判断して、一口に言うと、きみがあれほど語りたがっていたところから見て、――わしはもっと大きなものを期待していたんだよ」
「でも、あなたにはどうでもいいことじゃないのですか?」
「いやわしは、ただ、程度ということを考えてな。あれほど騒ぎたてて、節度をぶちこわすこともなかったはずだ。まる一カ月黙りとおして、ためにためて、ふたをあけてみたら――なにもない!」
「ぼくはもっともっと語りたかったのですが、あんなことまで言って、恥ずかしいと思ってるんです。すべてを言葉で言い尽せるものではありませんし、決して言わないほうがいいこともあります。ぼくはさっき十分に言ったはずですが、まさかあなたがわからなかったとは……」
「ほう! じゃきみもときどき、考えがうまく言葉にならない苦しみを味わっているんだな! これは高尚な苦しみだよ、きみ、しかも選ばれた者にのみあたえられるものだ。愚か者は常に自分の言ったことに満足し、しかも常に必要以上にしゃべる。選ばれた者は貯《たくわ》えを愛するものだ」
「たとえば、階下《した》のぼくですね。ぼくも必要以上にしゃべりました。ぼくは『ヴェルシーロフのすべて』を要求しました。これも必要をはるかに越えるものです。ぼくにはヴェルシーロフはまったく不必要なのです」
「アルカージイ、きみは、どうやら、階下《した》で失敗した分をとりかえそうとしてるらしいな。きみは、明らかに、悔悟した、ところがわしらのあいだでは悔悟するということはとりもなおさず誰かを改めて攻撃するという意味だ、そこできみは今度こそわしを射損じたくないというわけだ。わしの来ようが早かったものだから、きみはまだ冷《さ》めきっていないで、おまけにきみは批判に対しておおらかさがない。とにかく、まあ坐りなさい。わしはきみにすこしばかり伝えることがあって来たのだ。ありがとう、それでいい。きみが階下《した》で去りしなに母さんに言ったことからしても、わしたちは、いずれにしても、別れたほうがよいことは、あまりにも明らかだ。わしは、きみがこれ以上きみの母さんを悲しませたり、おびえさせたりしないように、それをできるだけ穏便《おんびん》に、醜い騒ぎを起さずにやってもらおうと思って、それをきみに言いに来たのだよ。わしが自分からここへ足をはこんだというだけでさえ、あれをもう元気づけている。わしたちがまた仲直りができて、またいままでどおりの暮しができるだろう、そう信じているらしい。おそらく、わしたちが、今ここで、一度か二度大声で笑ったら、あれたちのびくびくした心は喜びで有頂天になるだろうよ。単純な心と笑ってもかまわない、しかし誠実に素朴に愛する心だ、おりにふれていたわってやってなぜいけなかろう? まあ、これが一つだ。第二は、なぜわしたちがどうあっても、復讐《ふくしゆう》に燃え、歯を噛《か》み鳴らし、呪《のろ》いあって等々という状態で別れなければならんのか? わしたちが互いに首を抱きしめ合う理由のまったくないことは、疑う余地もないことだが、それにしても、いわば、互いに尊敬し合いながらという別れ方をしてもよさそうなものじゃないか、どうだね、ちがうかね?」
「そんなことはみな――ナンセンスですよ。醜い騒ぎを起さないで出てゆくことを約束したら、――それでいいでしょう。それをあなたはお母さんのために心配しているのですか? ぼくにはそうは思われませんね、この場合あなたにはお母さんの気持なんかまったくどうでもいいんですよ、あなたはただそう言ってるだけですよ」
「きみは信じないのかね?」
「あなたはぼくを完全に子供あつかいにしてるんです!」
「アルカージイ、わしはそのことに対してはきみの気のすむまで許しを請う気持でいるんだよ、それからきみがわしのせいにしているいっさいのこと、きみの幼年時代の苦しみやらなにやらそうしたいっさいのことに対してもな、だが、cher enfant(親愛な子よ)、そんなことをしたからとてどうなるのだね? きみは聡明だから、そんな愚かしい立場に身をおこうとは自分でも望むまい。わしは今でさえきみの非難の性質にどうもわからんところがあるのだが、それはしばらくおくとして、ほんとうのところ、きみがわしを非難する最大の理由はどこにあるのかね? ヴェルシーロフとして生れなかったということかね? それとも? おや! せせら笑って、手を振ってるところを見ると、ちがうんだな?」
「ぜったいに、ちがいますね。とんでもない、ヴェルシーロフと呼ばれることにいささかの名誉もぼくは認めませんね」
「名誉のことはおこう。それに、きみの返答はぜったいに民主的でなきゃならんわけだし。だが、そうとすれば、いったいなにに対してわしを非難するのかね?」
「タチヤナ・パーヴロヴナがさっきすっかり言ってくれましたね、ぼくが知る必要がありながら、これまでどうしてもわからなかったことを。つまり、あなたに靴屋の弟子《でし》にやられなかったことだけでも、ぼくはありがたいと思わなければならないってことです。ぼくは今でも、そうおしえられた今でさえ、どうしてぼくが恩知らずなのか、理解できないのです。これはあなたの誇り高い血がそうさせるのではないでしょうか、アンドレイ・ペトローヴィチ?」
「たぶん、ちがうだろうな。しかも、そればかりか、きみも認めるだろうが、階下《した》のきみの非常識な言動は、きみの予定に反して、わしに対する攻撃にならないで、母さん一人を苦しめ、引きむしる結果になってしまった。しかし、母さんを裁く資格は、きみにはないだろうね。それに母さんはきみに対してどんな罪があるというのだね? ついでに、それも聞かしてもらいたいな、アルカージイ。わしが聞いたところでは、きみは寄宿舎でも、中学校でも、これまでずうっと、しかもはじめて会った人間にまで、自分が私生子だなどと公言してるそうだが、いったいなんのために、どんな目的があって、そんなことを吹聴《ふいちよう》してるんだね? なんでも、きみはさも得意げにそれを言いふらしてるそうじゃないか。ところがそんなことはみんなでたらめだよ、忌まわしい中傷なのだよ。きみはちゃんと正式の結婚によって生れた子供だ。ドルゴルーキーだ。頭もよく気性もすぐれたりっぱな人間であるマカール・イワーノヴィチ・ドルゴルーキーの息子なのだ。きみが最高教育を受けたとしたら、それはたしかにきみの元の主人のヴェルシーロフのおかげだが、しかしそれがどういう結果を生んでいるんだね? もっとも大きいのは、それ自体がすでに中傷であるのに、きみは自分が私生子であると宣伝し、それによってきみのお母さんの秘密をあばきたて、妙にはきちがえた誇りから、はじめて会ったどこの馬の骨とも知れぬ男の裁きのまえに自分の母をひきだしてきたことだ。アルカージイ、これは実に卑劣なことだよ、ましてきみのお母さんは個人としてなんの罪もないのだ。このうえなく美しい心の持ち主だ。彼女がヴェルシーロワを名乗らない理由はただ一つ、まだ良人が生きているからだよ」
「もう結構です、ぼくはあなたに完全に同意しますし、十分にあなたの頭脳を信じていますから、そういつまでも際限なくぼくをなぶりものにするようなことは、よもやなさるまいと思います。あなたは節度ということがたいへんお好きなようです、しかし節度はどんなことにでもあるのですよ、ぼくの母に対するあなたの突発的な愛にだって。それよりもこう願いたいですね。せっかくあなたがぼくの部屋へ見えて、十五分か三十分いようという気になられたのですし(それがなんのためなのか、ぼくにはいまだに解《げ》しかねますが、まあ、母の安心のため、としておきましょう)、――しかもそのうえ、これほど熱心にぼくを相手にお話をしてくださるのでしたら、そんなことよりもいっそぼくの父の話を聞かせてくださいませんか、マカール・イワーノヴィチという巡礼のことですよ。ぼくはほかの人からではなく、あなたの口から父のことを聞きたいのです。まえまえからあなたに訊こうと思っていたんですよ。お別れするにあたって、おそらく長い別れとなるでしょうが、ぼくはあなたからぜひお答えを得たいと思う疑問がもう一つあるのです。ほんとにあなたはこの二十年もの長いあいだに、ぼくの母の、しかも今は妹にしても同じですが、偏見を是正して、あなたの啓蒙《けいもう》的影響で母をとりまく環境の原始的な闇を吹き散らすことができなかったのでしょうか? おお、ぼくは母の純真さを言ってるのではありません! 母はそれでなくても常に道徳的にはあなたよりも無限に高かったのです、ごめんなさい、でも……それは無限に高い生ける人形にすぎないのです。生きた人間はヴェルシーロフだけ、あとの彼のまわりの人間や、彼と結びついている人間はことごとく、自分たちの力で、自分たちの膏血《こうけつ》で彼を養う光栄をもたねばならぬとする絶対条件の下で、ただ息をしているだけなのです。母だってかつては生きた人間だったことがあったじゃないですか? あなただって母のなにかを愛したことがあったじゃないですか? 母だってかつては女だったじゃないですか?」
「アルカージイ、そう訊くのなら言うが、あれは一度も生きた女だったことはなかったな」と彼はたちまち、あのころ最初にわたしに見せたあの突き放すような表情に顔をゆがめて、答えた。どうしても忘れることのできない、あれほどわたしを狂気にしたあの顔である。ちょっと見ると、いかにも素直そうだが、よく見ると――そこにあるのはすべてが深い嘲笑だけであるような、そのためにわたしはときどきどうしても彼の顔を読むことができなかったような、あの表情である、「一度もなかったな! ロシアの女は――一度も女であったことはないよ!」
「ポーランドの女は、フランスの女は、女なのですか? それともイタリアの女、情熱的なイタリアの女、これがヴェルシーロフのようなロシア上流社会の文化人の心をとりこにできる女ですか?」
「ほう、スラヴ主義者に会うとは、まったく意外だったな!」ヴェルシーロフは声をたてて笑った。
わたしは彼の語ったことを一言半句ももらすことなくおぼえている。彼は大いに熱をさえこめて、いかにも満足そうに語りだした。彼がここへ来たのはおしゃべりをするためでもなく、母を安心させるためではぜんぜんなく、明らかに他の目的があったことは、わたしにはわかりすぎるほどわかっていた。
「わしはこの二十年間を、きみのお母さんとともに、完全に無言で暮してきた」と彼はその長ものがたりをはじめた(きわめて技巧的に、不自然な態度で)、「そしてわしらのあいだにあったことは、すべて無言のうちにおこなわれた。わしらの二十年のすべての関係の最大の特徴は――無言ということだった。一度も口論すらしなかったように思う。もっとも、わしはしばしばあれのそばを離れて、あれを一人にしておいたことがあった、が、結局はいつももどってきた。Nous revenons toujours(われわれは必ずもどってくる)、これが男というものの特性なのだ。それは男の寛大な心から生れるのだよ。もし結婚というものが女だけの意志に左右されるものなら――最後までまっとうされる結婚なぞひとつもあるまい。忍従、無言、卑下、そして同時に不屈、力、真の力――これがきみのお母さんの性質なのだよ。はっきり言っておくが、彼女はわしがこの世で会ったあらゆる女性の中でもっともりっぱな女だ。彼女に力があるということは――わしが証明する。この力が彼女を育《はぐく》んでいったのを、わしは見ていたのだ。いったんそこにふれると、それをわしは信念とは言わん、正しい信念などというものが彼らにあるわけがない、だから彼らのあいだで信念と考えられていること、つまり彼らによれば神聖なことというわけだが、そこに来るとただもうどんな苦痛をもいとわないのだ。どうだね、きみ自身結論を下せるだろうが、わしに虐待者らしいところがあるかね? だからわしはほとんどなにごとにも沈黙を守ることを選んだのだよ、ただそのほうが楽だというだけの理由ではないのだよ、そして、正直に言うが、後悔はしていない。このようにして、なにごともおのずからゆったりと、人道的《ヒユーマン》にすぎてきたわけで、だからわしは人にほめられようなどとはつゆ思ってはいない。ここでついでに、カッコに入れて言っておくが、わしにはなぜかそんなふうに思われてならんのだが、彼女は決してわしのヒューマニティを信じていなかった、だからいつもびくびくしていた、ところがびくびくしながらも、いかなる文化にも屈服しなかった、というふうにな。彼らはどういうものかそれができるんだな、わしらには理解のとどかぬなにかがあるのだ、そして総じてわしらよりもみごとに自分たちのしごとをやってのける。彼らは自分たちにとってもっとも不自然な境遇の中でも自分なりに生きていくことができる、そしてまるでちがう境遇の中でも完全に本来の自分のままにのこることができるのだよ。わしらにはこういう芸当はできない」
「彼らとは誰のことです? ぼくはあなたの言うことにちょっとわからないところがあるのですが」
「民衆《ナロード》だよ、きみ、わしは民衆のことを言っているのだよ。彼らはこの偉大な不滅の力と歴史的な広さを、精神的にも政治的にも証明したのだよ。だが、わしらのまわりの者に話をもどして、きみのお母さんのことを言うと、彼女はそう黙ってばかりもいなかったな。ときどきなにやら言うのだが、それが、たといきみがそれまで五年もかけてすこしずつ教えこんできたとしても、それがむだな時間つぶしにすぎなかったとすぐに気づくような、そうした言い方なのだよ。そのうえ、まったく思いがけない反論を言いだす。ここでまた、ことわっておくが、わしは彼女をばかだとは決して言わない、それどころか、彼女なりの知恵がある、しかもそれが実におどろくべき知恵なのだ。まあしかし、知恵なんぞは、きみはおそらく信じまいが……」
「どうしてです? ぼくが信じられないのは、あなた自身がいつわりではなく実際に彼女の知恵を信じているという、そのことだけですよ」
「そう? きみはわしをそんなカメレオンと思っているのか? アルカージイ、わしはきみにすこし寛大すぎるようだな……わがまま息子をあつかうみたいに……だがまあいい、今日のところはこのままにしておこう」
「ぼくの父の話をしてくれませんか、できたら、真実を」
「マカール・イワーノヴィチのことかね? マカール・イワーノヴィチ、この男は、きみももう知ってるように、家僕で、まあ言ってみれば、衆にぬきんでたいという気持がかなり強かった……」
「賭《か》けてもいいですが、あなたは今彼のなにかを羨《うらや》んでいますね!」
「とんでもない、きみ、まるで反対だよ。お望みなら言うが、きみがなにかそう山をかけるような気分になっているのが、わしには嬉しくてならんのだよ。本音《ほんね》を吐くが、わしは今こそ後悔の気持でいっぱいなのさ。ほかならぬ今、この瞬間、千度目かもしれんが、二十年前に起ったいっさいのことを、だらしなく悔んでいるのさ。おまけに、神は知るであろうが、あれはほんとに偶然に起ったことなのだ……それをその後、わしとしては力のおよぶかぎり、人道的《ヒユーマン》に処理した。少なくとも、あのときわしはどれほど人道主義の功績を自分に想像したろう。おお、当時わしらはみな善行をしよう、国民の目的に、最後の理想に奉仕しようという熱意に燃えていたのだ。官位だの、世襲の権利だの、農村だの、質屋をさえ非難した、少なくともわしらの仲間たちは……うそじゃないよ。わしらは数は少なかったが、熱心に談じ合った、そしてはっきり言うが、ときにはりっぱな行為をしたこともあった」
「それはあなたが肩に頬《ほお》を埋めて泣いたことですか?」
「アルカージイ、わしはきみになんでも早目に同意しておくよ。しかしついでだから言うが、その肩の話はきみはこのわしから聞いたのだ、とすると今は、わしの率直さと信じやすさを、きみは悪用したことになるわけだ。しかしきみも認めるだろうが、この肩の話は、実際に、ちょっと見たときに感じられるほど、それほどわるいものではなかった、特にあの当時としてはだ。なにしろまだそういうことに足をふみだしたばかりのころだ。わしは、むろん、衒《てら》っていた、が、そのころはまだ自分が衒っていることがわからなかったのだ。たとえばきみにしても、実際の場合に遭遇して衒ったことがないとはいわんだろう?」
「ぼくはさっき階下《した》ですこし涙っぽくなりました、そしてここへ引きあげてから、衒ったとあなたにとられるだろうと思うと、恥ずかしくてたまらなくなったのです。たしかに、ときには心底からそう感じているくせに、それらしく装っていることがあるものです。さっき階下《した》では、誓って言いますが、すべてが自然だったのです」
「たしかにそういうことはある。きみは一言で実にみごとに言いあらわしたよ、『心底からそう感じているくせに、それらしく装っている』。まさにずばりだ。わしの場合もまさしくそのとおりだったのだよ。わしは装ったくせに、ほんとうに心底から泣いた。むろん、マカール・イワーノヴィチがもっと明敏な男なら、あるいはわしの涙をますます嘲弄《ちようろう》するものだととったかもしれない、が、彼の誠意がそのとき彼の洞察力《どうさつりよく》をさまたげたのだ。ただわからんのは、彼がそのときわしをあわれんだかどうかだが、わしはそのときひどく彼の同情を望んだものだった。それは今でもおぼえている」
「お待ちください」とわたしは彼をさえぎった、「あなたは今も、話してるうちに、ニタリと笑いましたね。だいたい、いつも、この一月《ひとつき》、ぼくと話をするとき、あなたは決ってニヤニヤ笑いました。どうしてあなたはぼくと向い合うと、必ずそれをやるのです?」
「きみはそう思うのかね?」と彼はおだやかに答えた、「ずいぶん疑り深い男だなあ、きみも。しかし、仮にわしが笑うとしても、それはきみを笑うのではない、もしくは、少なくとも、きみ一人だけを笑うのではない、だから安心しなさい。だが、今は笑ってはいないよ。さて話をもどすが、あのときは――一口に言って、わしはできるかぎりのことをやった、しかも、自分の損になることをだ。わしら、つまり美しい情熱に燃えた連中は、民衆とは反対に、自分の利益のために行動するすべをまったく知らなかった、それどころか、いつもできるだけ自分に損をあたえていたのだ、そしてそうすることが当時のわしらのあいだでは一種の『最高のわれわれの利益』と考えられていたらしい、もちろんその高い意味でだが。現代の進歩的な連中は、わしらとは比べものにならんほど欲張りだよ。わしはあのころ、まだ過失をおかすまえに、マカール・イワーノヴィチにいっさいをそれこそばかみたいに正直に打明けたのだ。今にして思えば、その多くはまったく打明ける必要がなかったことだし、ましてあれほど正直になど、言わんでもよかったのだ。ヒューマニティはおくとして、そのほうがずっと穏当でさえあったはずだ。だが、踊りの調子がでて、このへんでひとつみごとなステップを見せてやろうという気が起きたとき、自分を抑《おさ》えられるかね? もしかしたら、美しい崇高な魂の要求というのはそうしたものかもしれんな、わしはこれをいまだに解くことができんのだよ。しかし、これはわしらの上《うわ》ッ面《つら》をなでてるような会話には深遠すぎるテーマだ。それはとにかく、正直に言うが、わしは今でもときどき思い出すと恥ずかしさで死ぬ思いなのだよ。わしはそのとき彼に三千ルーブリの金を提供した。彼は終始黙りこくっていて、わしだけがべらべらしゃべったことをおぼえている。恥ずかしい話だが、わしは、彼はわしを恐れている、つまりわしの地主の権限を恐れている、そう思ったのだ、そこで、今でも忘れないが、わしはなんとか彼を元気づけようとして、なにも恐れることはないから、希望をすっかり言うように、わしをどんなに批判してもいいのだ、と彼を説得した。保証としてわしは彼にこういう約束をあたえた。もし彼がわしの提出した条件、つまり三千ルーブリと、農奴解放証(もちろん、彼と妻の二人分だ)と、国内旅行証(これはもちろん彼一人だけ)を受入れてもよいという気持になったら――率直に言うがよい、そしたらわしが即座に解放証をあたえ、妻を彼にわたし、二人に三千ルーブリの金を提供しよう、そして彼らがわしのもとを去ってどこへなと行けというのではなく、わしのほうが彼らから離れて、一人っきりでイタリアへ三年逃避しよう、という約束なのだよ。Mon ami(きみ)、わしはそのときはマドモアゼル・サポージニコワをイタリアへ連れてゆく気などなかったのだよ、うそじゃない、わしはそのときは実に清純な気持だった。するとどうだろう? マカールは、わしが言葉どおりに実行することは、わかりすぎるほどわかっていながら、それでもまだ沈黙を押し通しているんだよ、そしてわしが三度目にとりすがろうとすると、ひょいと体をかわし、片手を振って、プイと出ていってしまったのだ。その無作法な態度には、まったくのところ、そのころのわしでさえおどろいたものだ。わしはそのとき鏡に映った自分の顔をチラと見たんだが、今でもその顔が忘れられないよ。だいたい彼らは、なにもものを言わぬときが――いちばんわるいのだが、そこへあれは暗い性格で、正直に言うと、書斎へ呼んだときも、わしは彼を信用していなかったばかりか、むしろひどく恐れていたほどだ。彼らの世界には、まあ言ってみれば無秩序が人間の皮をかぶったような連中が、それもうようよいるんだよ。そしてなぐられたりするよりそっちのほうがどれほど危険かわかりゃしない。Sic(そうなんだよ)。わしとしてはまったく、虎の尾を踏む思いだったよ! もし彼が、この村のウリヤが、屋敷中に聞えわたるような声で叫びたて、咆《ほ》えたてたら、――わしは、このようなひよわなダヴィデはどうだったろう(訳注 旧約聖書ウリヤはダヴィデ王の勇敢な部下。ダヴィデ王はウリヤの妻を愛し、ウリヤを激戦の地に送り、ウリヤは戦死した)、なにができたろう? だからこそわしは、まず三千ルーブリをもちだしたんだよ、これは本能的だった、だがわしは、幸いなことに、思いちがいをしていた。このマカール・イワーノヴィチという男はそういうのとはまるでちがう人間だった……」
「どうなんです、過失はあったのですか? あなたは今、まだ過失をおかすまえに彼を呼んだ、と言いましたね?」
「そこは、さあ、意味のとりようで……」
「つまり、あったのですね。あなたは今彼を思いちがいしていた、あれはまるでちがう人間だった、と言いましたが、どういうちがう人間なのです?」
「どういうといわれても、それがわしにはいまだに実体がわからんのだよ。しかしどこかちがう、しかも実にちゃんとした人間なのだ。それは彼と話してるうちにわしのほうがいよいよ恥じられてきたことで、わしにはそう感じられたのだが。彼は翌日、よけいなことはいっさい言わずに、旅に出ることに同意した、が、わしの提案した条件をひとつも忘れなかったことは言うまでもない」
「金は受取ったのですか?」
「やぼなことを訊くものじゃない! しかも、きみ、この点ではわしはまったく唖然《あぜん》とさせられたよ! 三千ルーブリという大金はそのとき、むろん、わしの手もとにはなかった、が、わしは七百ルーブリをとりだして、第一回分として彼に渡したのだよ、するとどうしたと思う? 彼は残りの二千三百ルーブリを、借用証として、しかもまちがいの起らぬように、ある商人の名あてにして書いてくれと要求したのだよ。その後、二年ばかりして、この借用証をたてにとって裁判を起し、しかも利息までつけてわしに要求したのだよ、そこでわしはまた唖然とさせられたわけだが、なおおどろいたのは、その彼がうそでもいつわりでもなく寺院|建立《こんりゆう》の寄進集めに出かけたことだよ、そしてそれ以来もう二十年巡礼をつづけているんだよ。なぜ巡礼にそれほどの金が要《い》るのか、わしにはわからん……金というのはもっとも俗世的なものだ……わしは、もちろん、そのときは衷心から、言ってみれば青臭い感激に燃えて、そうした大金の提供を申出たのだが、その後、だいぶ時がたってみれば、当然、思い直すことだってあるわけで……まあこれくらいでわしを容赦してくれてもよさそうなものだ……いや、言ってみれば、わしたち、つまりわしと彼女をだな、そしてせめて待つくらいしてくれてもよさそうなものだ、とまあそう思ったわけだ。ところが待ってくれようともしなかった……」
(ここで必要な注を入れておこう。もし母がヴェルシーロフより長生きするようなことになれば、老後を文字どおりの無一文に放置されることになろう。そのときに、利息でもうとっくに倍になったこのマカール・イワーノヴィチの三千ルーブリが生きるわけで、彼はこれを一ルーブリも手をつけずそっくりそのまま、去年、遺言状によって母にのこしたのである。彼はすでにそのときにヴェルシーロフの人間を見ぬいていたのである)。
「あなたがいつか言ってましたが、マカール・イワーノヴィチは何度か訪ねてきて、そのたびにお母さんのほうの住居に泊ったそうですね?」
「そうだよ、きみ、わしも、実を言うと、はじめのうちはこの訪問がこわくてならなかった。この二十年のあいだに、彼が訪ねてきたのは六度か七度だが、はじめの何度かは、わしがたまたま家にいるようなときなど、わしはかくれたものだよ。最初は、これがどういうことなのか、なぜ彼が訪ねてくるのか、わしにはどうもわからなかった。だがそのうちに、あれこれ思い合せてみると、これが彼からすれば決してそれほどばかげた行為ではないのだということがわかってきた。それから、あるとき、わしはふいと好奇心を起して、彼に会いに出ていってみた、そしてきみ、実に奇妙な印象を受けたのだよ。あれはもう三度目か四度目に彼が来たときだから、わしが土地調停裁判所の調停員になって、そのために、むろん、熱心にロシアの研究に取組んでいたころだった。わしは彼からびっくりするほどたくさんの珍しい話を聞かされた。そのうえ、まったく思いがけなかったものを、わしは彼に見た。柔和な面差《おもざ》し、おだやかな気性、そしてなによりもおどろいたのは、ほとんど快活といえるほどのにこやかさだ。あれ(tu comprends?(わかるだろう?))に対するほのめかしなど毛筋ほども見られない、そして最高度に巧みな話術、しかも実にいいことを言うんだな、つまり家僕たちによくあるぶったようなくそまじめさがぜんぜんないのだ。あいつには、正直に言うが、わしのデモクラチズムをもってしても、まったく閉口だよ。それからわが国の小説や舞台で、『真のロシアの人々』が使用するような、あの固苦しいいかにもロシア語風の表現、あれがぜんぜんないのだよ。しかもこちらが話をもちださなければ、宗教のことなどまったくと言っていいほど口に出さないし、修道院や、そこの生活についての独特の実に愛すべき話だって、こちらが聞きたいと言わなければしゃべろうとしないのだ。だがいちばんは――謙虚さだよ、あのひかえめな謙虚さ、最高の意味の平等のために必要であるばかりか、それがなければ、わしに言わせれば、第一流の人間にはなれないような、あの謙虚さだ。これあってこそ、毛筋ほどの傲慢《ごうまん》さもないということによって、最高の気品というものが身につき、自分のおかれた境涯の中で、たといそれがどのようなものであろうと、運命によってあたえられた自分の境涯の中で、ぜったいに自分を尊敬するような人間ができあがるのだ。自分のおかれた境涯の中で自分を尊敬するというこの能力――これは世の中にはきわめて稀《まれ》なもので、少なくとも真の品位をそなえた人間と同じように、めったにないものだ……これは世の中に生きていけば、きみもいずれわかるだろう。しかしなににもましてわしをあとで驚嘆させたのは、あとでだよ、はじめにではない(ヴェルシーロフはわざわざことわった)――このマカールがきわめて堂々としていて、しかも、うそじゃなく、きわめて美男子だということだ。たしかに、老人ではある、が、
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色浅黒く、長身で姿よく、 (訳注 ネクラーソフの詩ウラスの一節。ウラスは当時のドストエフスキーにとって真理を求める人間の良心のシンボルだった)
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飾らないで、押出しがりっぱなのだ。わしは、わしのかわいそうなソーフィヤがあのときどうしてわしに見かえることができたのかと、ふしぎな気がしたくらいだ。そのころ彼は五十ぐらいだったが、なかなかどうしてりっぱな男で、わしなど彼のまえに出たらみじめなひよッこみたいなものさ。だが、おぼえているが、彼はもうそのころも髪は気の毒なほど真っ白だった、してみると、そういう白髪で彼女と結婚したわけだ……これが影響したのかもしれんな」
このヴェルシーロフには上流社会の人々のもつ実にいやな癖があった。おそろしく賢明な美しいことをすこしばかり言うと(言わざるをえないようなときのことだが)、突然がらりと調子を変えて、たとえばこのマカール・イワーノヴィチの白髪のことや、それが母に影響をあたえたなどというような、ばかばかしいことで話を結ぶのである。これは彼が故意にやったのだが、おそらく自分でもなんのためかわからずに、ただ愚劣きわまる上流社会の習慣でやったまでであろう。彼の言っていることを聞いていると――ひどくまじめに話しているらしく思われるが、実はひそかに顔をしかめるか、あるいは嘲笑《あざわら》っているのである。
なぜかわからないが、そのとき不意に猛烈な怒りがわたしをおそった。総じて、わたしはこのときの自分のいくつかの突飛《とつぴ》な言動を思い出すと、大いに不満を感じるのである。わたしはいきなり立ち上がった。
「たしかあなたは」と、わたしは言った、「ここへ来た主な目的は、わたしたちが和解したと母に思わせるためだ、と言いましたね。母にそう思わせるだけの時間は十分にたちましたから、そろそろぼくを一人にしたほうがあなたにもよろしいのじゃありませんか?」
彼はわずかに頬《ほお》を染めて、立ち上がった。
「アルカージイ、きみはわしに対して実に無礼きわまるね。だが、まあ帰るとしよう。無理にやさしくもできまいからな。がまんして一つだけ訊《き》いておくが、きみはほんとに公爵のところをよしたいのか?」
「なるほど! そうくると思ってましたよ、あなたには特別の目的があるのだ……」
「つまりきみは、わしがここへ来たのはなにか自分の利害にかかわることがあって、きみを公爵のもとにとどまらせるようにするためだ、そう思っているんだな。とすると、アルカージイ、わしがきみをモスクワから呼んだのも、なにか自分の利益を考慮したためだと、そこまできみは疑ってるのじゃないのかね? おどろいたねえ、きみはなんという疑り深い男だろう! わしは、その反対に、万事きみによかれかしと思っているのだよ。だから今も、どうやらわしの財政も立ち直ったようだから、ときには、わしと母さんにきみの援助をさせてもらいたいと願っているくらいだよ」
「ぼくはあなたを好きません、ヴェルシーロフ」
「おやおや『ヴェルシーロフ』にまで下がったか。ついでに言っておくが、この姓をきみにゆずることができなかったのを、わしはひじょうに遺憾に思っているのだよ。というのはほかでもないが、実質的にわしの罪のすべてはここにしかないのだからな、もっとも罪があるとしてだが、そうじゃないかね? しかし、また話はもどるが、わしだって人妻と結婚することはできなかったろうじゃないか、自分で考えてごらん」
「なるほど、それでどうやら人妻でない女と結婚しようとしたらしいですね?」
軽いけいれんが彼の顔を走った。
「それはエムスのことを言ってるんだな。まあ聞きたまえ、アルカージイ、きみは階下《した》で、母さんのまえで、わしを指さしながら、その突拍子もないことを口走ったな。知らんだろうが、それがきみの最大の失敗だったのだよ。亡《な》くなったリーディヤ・アフマーコワの事件は、きみはまったくなにも知ってはいない。きみの母さん自身があの事件にどれだけ関係していたかも、きみはわかっていない。うん、それはあのとき母さんはわしといっしょにあちらにはいなかったがな。もしわしがこの世で心の美しい婦人に出会ったとしたら、それはきみの母さんをおいてないのだよ。だが、よそう、これはまだ当分のあいだ秘密にしておこう、しかしきみは――きみは途方もないことを聞きかじりで言ってるんだよ」
「公爵が今日言ってましたよ、あなたはまだ青っぽい少女をあさるのが好きだって」
「公爵がそんなことを言ったのか?」
「まあ、お聞きなさい、なんでしたら、あなたが今なんのためにここへ来たのか、正確に言いあてましょうか? ぼくはさっきからずっとここに坐ったまま、この訪問の秘密はどこにあるのかと自問していたのですが、やっと今それがわかったようです」
彼はもう出てゆきかけていたが、立ちどまって、では聞こうかという顔をこちらへ向けた。
「さっきぼくは、タチヤナ・パーヴロヴナにあてたトゥシャールの手紙が、アンドロニコフの書類にまじって、彼の死後、モスクワのマーリヤ・イワーノヴナのところで見つかったと、ちらと言いましたね。ぼくはそのときあなたの顔にちらとなにかけいれんのようなものが走ったのを見ました、そして、今またそれと同じようなけいれんが、ちらとあなたの顔をかすめたのを見て、やっと思いあたったのです。さっき、階下《した》で、とっさにあなたの頭に来たのは、アンドロニコフの手紙の一つがマーリヤ・イワーノヴナのところで見つかったとしたら、どうして他の手紙もないわけがあろう? とすると、アンドロニコフの死後に重要な手紙も残されたはずだ、という考えでしょう? ちがいますか?」
「それでわしが、ここへ来て、きみになにかしゃべらせようとしたというのかね?」
「それはあなたが知ってるでしょう」
彼の顔が蒼白《そうはく》になった。
「それはきみが自分で推量したのじゃあるまい。これにはある女の暗示がある。だからきみの言葉に、きみの粗雑な推量に、これほどの憎悪《ぞうお》がこもっているのだ!」
「ある女の? ところが、ぼくはその女に今日たまたま会いましたよ! あなたは、おそらく、その女をスパイさせるために、ぼくを公爵のところにのこしたいのでしょうね?」
「どうやら、きみはその新しい自分の道を極端に遠走りしてしまったらしいな。してみると、それが『きみの理想』じゃないのかい? まあ、そっちをつづけるがいいさ、アルカージイ、きみは探偵のしごとに確かな能力があるようだ。才能があるのなら、それをのばさにゃならん」
彼は息をつぐためにちょっと言葉を切った。
「気をつけることですね、ヴェルシーロフ、ぼくを敵にまわさないように!」
「アルカージイ、こういう場合は自分の最後の考えは誰も口に出さないで、胸の中にしまっておくものだ。ところで、足もとに明りをくれんかね、すまんが。きみがわしの敵としても、まさかわしが首の骨を折るのをねがうほどの、いわば不倶戴天《ふぐたいてん》の敵ということもなかろう。Tiens, mon ami(だがね、きみ)、考えてもごらん」と彼は階段を下りながらつづけた、「まったく、この一カ月わしはきみを気のいい男と思っていたんだからなあ。きみはものすごく生きることを望んでいる、生きることを渇望している、三度生命をあたえられても、まだ足りないと思われるほどだ。そうきみの顔に書いてあったよ。まあ、そういうのはたいてい気のいい男だ。ところが、たいへんな思いちがいだったよ!」
わたしが一人とりのこされたとき、どれほど憂愁に胸をしめつけられたか、とても言葉には尽せない。さながら自分の生身の一部をえぐりとったかのようであった! なんのためにわたしは突然このような憤怒《ふんぬ》におそわれたのか、そしてなんのためにあれほど彼を辱《はずか》しめたのか――あれほど執拗《しつよう》に、故意に――わたしは今でもそれに答えられそうもない、ましてそのときはなおのことであった。それにしても、彼は顔を蒼白にした! あれはなんであったか、あの蒼白は、あるいは、憎悪でも、屈辱でもなく、もっとも真実で純粋な感情ともっとも深い悲愁のあらわれではなかったか。彼がひじょうにわたしを愛した瞬間が、ときにあったような気が、わたしはいつもしていた。なぜ、なぜ今わたしはそれを信じていけないのか、ましてすでにこれほど多くのことが、今はもうすっかり明らかにされたではないか?
しかし、わたしは急に憤怒におそわれて、実際に彼を追いかえしたのである。それは、おそらく、彼がここへ来たのは、マーリヤ・イワーノヴナの手もとにもっとアンドロニコフの手紙が残されていなかったかを、わたしから聞きだすためだという推量が、不意にわたしの頭にきたからであろう。彼はそれらの手紙をさがさなければならなかったし、事実さがしていることは――わたしは知っていた。しかし、ひょっとしたらそのとき、実にその瞬間に、わたしが恐ろしい過失をおかしたかもしれないと、誰が知ろう! そして、ひょっとしたらわたしが、その過失そのものによって、彼の頭にマーリヤ・イワーノヴナの手もとにそれらの手紙があるかもしれぬという考えを植えつけることになったかもしれないと、誰が知ろう?
そして、最後に、もう一つふしぎなことがあった。彼がまたしてもわたしの考え(三度生命をという)を一言半句のまちがいなくくりかえしたことである。これはわたしがさっきクラフトに言ったことで、なによりもふしぎなのは、彼がそっくりわたしの言葉をつかったことである。言葉の符合はまた偶然ということもあろうが、しかしそれにしても彼がどうしてわたしの心の底を知っているのか。なんという炯眼《けいがん》、なんという洞察力であろう! しかし、もしこれほど一つのことを見ぬいているなら、なぜ他のことがぜんぜん見ぬけないのか? それとも彼はもったいをつけてひきのばしていたのではなく、実際にわたしの要求を察知することができなかったのか? わたしはヴェルシーロフの貴族の称号も要《い》らないし、自分の生れについて彼を許すことができないのでもない、わたしが生れてからこれまで片時も忘れずに望んだのはヴェルシーロフそのものなのだ、彼の人間そのものなのだ、父親なのだ、そしてこの考えがわたしの血の中にしみこんでいるのだ。はたしてあれほど神経のこまかい人間がこれほど鈍く雑になれるものか? だが、そうでないとしたら、いったいどうして彼はわたしを狂憤させるのか? どうして知らぬふりを装うのか?
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第八章
翌朝わたしはつとめて早く起きた。いつも家で起きだすのは八時ごろだった、といってもそれはわたしと、母と、妹だけで、ヴェルシーロフは九時半ごろまで寝床の中でぐずぐずしていた。きっかり八時半に母がわたしのところへコーヒーをもってきてくれることになっていた。だが今日は、コーヒーを待たないで、わたしはちょうど八時をうつと同時に家をぬけだした。わたしはもう昨日のうちに今日一日の行動プランをつくっていた。直ちに実行に移ろうとするはげしい決意に燃えていたが、しかしこのプランには、もっとも重要な点でまだしっかり固まっていないところがきわめて多いことを、わたしはすでに感じていた。そのためにわたしはほとんど一晩中うつらうつらと熱にうかされたような状態がつづいて、夢ばかりみて、ほとんど眠られなかったのである。それにもかかわらず、いつもよりすっきりと、爽《さわ》やかな気分で寝床をはなれた。母とは特に会いたくなかった。わたしは母とあのテーマ以外の話はできそうもなかったし、なにか新しい思いがけぬ印象のために計画遂行の気勢をそがれはしないかとおそれたのである。
寒い朝で、しめっぽい乳色の霧がいちめんに垂《た》れこめていた。どういうわけか、あわただしいペテルブルグの早朝が、その醜悪きわまる外観にもかかわらず、いつもわたしには好ましいものに思われた、そしてそれぞれのしごとに急ぐ、エゴイスチックな、いつも気むずかしそうな顔をした人々全体が、朝の八時には、わたしの目にはなにか特別に魅力あるものに見えた。わたしは道を急ぎながら、こっちが誰かになにかものを訊《たず》ねたり、あるいは誰かになにか訊ねられたりするのが、特に好きだった。問いかけと返答はいつも短く、明瞭《めいりよう》で、わかりやすく、歩いたまま交《か》わされて、しかもいつも親切で、一日のうちでもっとも積極的である。ペテルブルグ人は日中か日暮れ近くになると、しだいに不機嫌《ふきげん》になって、ちょっとしたことで罵倒《ばとう》したり、嘲笑《ちようしよう》したりしがちになる。早朝、まだしごとまえの、もっとも頭のすっきりした、気持のまじめなときは、ぜんぜん別である。わたしはそれに気づいていた。
わたしはまたペテルブルグ区へ向った。十一時すぎにはぜひフォンタンカ運河のほとりのワーシンのところへもどらなければならないので(彼は十二時ごろにもっとも家にいる可能性があった)、わたしはどこかでコーヒーを飲みたい強い欲望があったが、それを抑えてひたすら急いだ。それにエフィム・ズヴェレフをどうしても家を出るまえにつかまえる必要があった。わたしはまた彼を訪《たず》ねたのである、そしてもうほんの一歩でおくれるところだった。彼はコーヒーをおわって、出かけようとしていた。
「なんだね、そうしげしげと?」と、彼は立ち上がりもしないで、いきなりこういう言葉で迎えた。
「今説明するよ」
いったいに朝というものは、ペテルブルグの朝もその例外ではないが、人の心に覚醒《かくせい》作用をあたえるものである。燃えるような夜の妄想《もうそう》が、朝の光と冷気の訪れとともに、すっかり蒸発してしまうことがある。わたし自身もときどき朝になって、つい今しがたすぎたばかりの夜の夢想や、ときには行動を思い出して、恥ずかしくなり、自分を叱《しか》りつけることがあった。それはさて、ついでだからここでちょっとことわっておくが、わたしは、地球上でもっとも散文的に見えるかもしれぬこのペテルブルグの朝を――ほとんど世界でもっともファンタスチックなものと考えているのである。これはわたしの個人的な見解、というよりはむしろ印象であるが、わたしはこれを固持する。このようなじめじめした、しめっぽい、霧深いペテルブルグの朝にこそ、プーシキンの『スペードの女王』のゲルマン某の奇怪な夢想が(これは稀《まれ》に見る偉大な創造で、完全にペテルブルグ人の一典型――ペテルブルグ時代の一つのタイプである)、ますます強化されるにちがいない、とわたしは思うのである。わたしは幾度となく、この霧の中で、奇妙な、しかも執拗《しつよう》な夢想にとりつかれた。
『どうだろう、この霧が散って上空へ消えてゆくとき、それとともにこのじめじめした、つるつるすべる都会全体も、霧につつまれたまま上空へ運び去られ、煙のように消えてしまって、あとにはフィンランド湾の沼沢地がのこり、その真ん中に、申し訳に、疲れきって火のような息をはいている馬にまたがった青銅の騎士だけが、ポツンとのこるのではなかろうか?』
どうしても、わたしは自分の感じをうまく言いあらわせない、というのはそれがみな夢想であり、結局は詩であり、したがって、たわごとだからである。それにもかかわらず、わたしは一つのこれはもうまったく無意味な疑問に、しばしばとりつかれてきたし、今もとりつかれるのである。『ああしてみんなあくせくと走りまわっているが、もしかしたら、こんなものはみな誰かの夢で、ここにはほんものの生きた人間なんか一人もいないし、現実の行為などひとつもないのではなかろうか? そしてそうした夢をみていた誰かが、ひょいと目をさましたら――すべてがとたんに消え失《う》せてしまうのではなかろうか?』しかしわたしはわき道へそれすぎた。
先まわりして言っておくが、誰の生活にも、あまりにも奇矯にすぎて、ちょっと見るとまちがいなく狂気ととられるような企図や空想があるものである。そうした空想の一つをもってわたしはこの朝ズヴェレフを訪ねたのである。ズヴェレフを訪ねたのは、そのときは他に相談できるような相手が、ペテルブルグに誰もいなかったからである。ところがこのエフィム・ズヴェレフというのは、もしわたしが相談相手を選べるとしたら、こういう問題をもちかけるのはいちばん後《あと》まわしにしたいと思うような、まさにそのような男だった。わたしは彼と向い合いに腰を下ろしたとき、われながら、悪夢と熱病の化身が中庸と散文の化身に対坐したような気がした。しかし、わたしの側には理想と正しい感情があったが、彼の側には――そんなことはかつておこなわれたことがないという、実際的結論があるだけであった。簡単に言うと、わたしはくだくだ言わずに端的に、事はひじょうに名誉にかかわることであるから、わたしが介添人の代りとして使者にたってもらうことのできる者はペテルブルグに彼を除いて一人もいないこと、彼は古い友人であるから、わたしの依頼をことわる権利がないこと、わたしは一年とすこしまえにエムスでわたしの父ヴェルシーロフに頬打《ほおう》ちの侮辱をくわえたことに対して、近衛中尉ソコーリスキー公爵に決闘を申込むつもりであること、を彼に説明した。ここでちょっとことわっておくが、エフィムはわたしの家の事情や、わたしとヴェルシーロフの関係や、ヴェルシーロフの過去のことでわたしが知っているようなことは、すっかり、しかもおそろしく詳細に知っていたのである。これはわたしがおりにふれて彼におしえたからだが、しかし、いくつかの秘密が除かれていたことは、言うまでもない。彼は坐ったまま、例によって、かごの中の雀《すずめ》みたいに浮かない顔をして、白っぽい髪をぼさぼさに乱したまま、口をとがらせて、むすっとまじめくさって聞いていた。あざけるような薄笑いがこびりついたように唇《くちびる》からはなれなかった。この薄笑いは、それがまったく思うところあってのものではなく、無意識なものだけに、よけいにわたしにはいまいましかった。どうやら、彼は今この瞬間、頭脳も性格もわたしより自分のほうが数段上だと、実際に、しかもまじめに思っているらしかった。彼はそのうえさらにデルガチョフのところの昨日の一件でわたしを軽侮しているのではないか、ともわたしには疑われた。そうにちがいなかった。なぜならエフィムは――群衆だ、エフィムは――巷《ちまた》の野次馬だ、やつらは常に調子のいいほうにのみしっぽを振るからである。
「だが、ヴェルシーロフはそれを知らんのかね?」と彼は訊いた。
「むろん、知らんさ」
「じゃきみは、彼の問題に介入するいったいどんな権利があると言うんだね? これが第一。で、第二は、それによってきみはなにを証明しようというのかね?」
わたしは反論は覚悟していたから、すぐにそれは決して彼が考えるような愚かなことではないことを説明した。第一に、われわれの階級にも名誉を解する人間がまだいることが、不遜《ふそん》な公爵に対して証明されるであろうし、第二に、ヴェルシーロフが自らを恥じて、ひとつの教訓をうるにちがいない。第三に、これが主眼だが、仮にヴェルシーロフが正しくて、なにか自分の信念というものがあって、公爵に決闘を申込むことをせず、頬打ちの侮辱を忍ぶことに決めたのであったとしても、少なくも彼は、彼の屈辱をこれほどまでに強く感じて、それを自分の屈辱ととり、彼のためなら生命もなげだそうとする人間のいることを知るであろう……彼と永遠に別れようとしていながらも、なお……
「待ちたまえ、そう大きな声をたてんでくれ、伯母がきらいなんだよ。だが、きみ、そのソコーリスキー公爵とヴェルシーロフのあいだに遺産相続の訴訟が起ってるんじゃないのか? とすれば、これはまさに訴訟に勝つまったく新しい、しかもオリジナルな方法だよ――決闘で相手を殺してしまえばそれでけりだ」
わたしは en toutes lettres(歯に衣着せずずばりと)、彼が単に愚かで不遜にすぎないこと、そしてそのあざけるような薄笑いがますますひろがっていくのは、彼の自惚《うぬぼ》れと凡俗性を証明しているにすぎないこと、訴訟のことなどは、それもはじめから、まるでわたしの念頭にはなかったことで、そんなことは彼のような小ざかしくまわる頭にしかこないものだ、ということが彼にはわからないことなどを、彼に説明してやった。つづいてわたしは、訴訟はすでにヴェルシーロフの勝ちにおわったこと、それに訴訟は一人のソコーリスキー公爵が相手ではなく、ソコーリスキー公爵家とのあいだにおこなわれていたのであるから、たとい公爵一人が死んでも、まだ相手がのこっていること、しかし、ぜったいに、決闘の期日は控訴期間がすぎるまで(もっとも公爵家は控訴はしないだろうが、それでも礼儀として)のばさなければならないことなどを述べた。控訴期間がすぎたら、すぐに決闘ということになる。わたしが今この問題でここへ来たのは、決闘は今すぐということではないが、打診しておく必要があったからである。というのは、わたしには介添人はいないし、誰も知人がいないから、もし彼、エフィムが拒絶するようなら、少なくともそのときまでに見つけなければならないからである。そのために、わたしは来たのだと言った。
「じゃ、そのとき話に来りゃいいじゃないか、なにも十キロもわざわざ無駄足しなくたってさ」
彼は立ち上がって、帽子を手にとった。
「じゃ、そのとき行ってくれるのか?」
「いや、行かんね、もちろん」
「なぜだね?」
「そりゃきみ、ぼくが今ここでそのとき行こうなんて承知したら、それこそその控訴期間のあいだじゅう毎日きみにおしかけられるだろうからさ。それを考えただけでもうんざりだ。しかし最大の理由は、そんなことはみなくだらんたわごとだからさ、それだけのことだよ。きみのために自分の出世を棒に振りたくないからな! そりゃ公爵はぼくに訊《き》くだろうさ、『きみは誰にたのまれて来たのだ?』――『ドルゴルーキーです』――『して、ドルゴルーキーがヴェルシーロフとどういう関係なのだ?』そこでぼくがきみの生れを公爵に説明せにゃならんのかい、え? まあ、彼は腹をかかえて大笑いするだろうな!」
「そしたら横っ面《つら》はりこくってやれよ!」
「なに、これはただの話さ」
「こわいのか? きみはそんないい体をして、中学校でいちばん強かったじゃないか」
「こわいさ、こわくないわけがないよ。それに公爵は受けんだろうな、だって決闘は対等の相手同士でするものだぜ」
「ぼくも知的成熟ではジェントルマンだ、公民の権利はもっている、対等だよ……逆だ、対等でないのは彼のほうさ」
「いや、きみは子供だよ」
「どうして子供なのだ?」
「子供だから子供さ。ぼくもきみもまだ子供だが、彼は大人だよ」
「きみはばかだよ! ぼくはもう去年から、法律によると、結婚できるんだぜ」
「そりゃ結婚はできるだろうさ、だがやっぱりまだ……ちんこい。きみはまだ育つよ!」
わたしは、もちろん、彼がわたしをばかにしようとしたことがわかった。たしかに、こんな愚かしい挿話《そうわ》はぜんぜん語らないでもよかったし、彼が黙って死んでしまえば、それにこしたことはなかったのである。おまけに、彼はそのくだらなさといえ、役にたたないことといえ、実にいやな男だった。ところがその彼が後にかなり重大な結果をもたらすことになったのである。
しかし、もっともっと自分を罰するために、これをおしまいまで語ろう。エフィムがわたしをばかにしている、と見てとると、わたしはかっとなって右手で、というよりは右の拳《こぶし》で彼の肩を突いた。すると彼はわたしの両肩をつかんで、いきなりわたしの体を庭のほうへねじ向けた、そして――彼が中学校でたしかに誰よりも腕力が強かったことを、みごとにわたしに実証したのである。
読者は、もちろん、わたしがエフィムの家を出たとき、おそろしく気分を乱していただろうと思うだろうが、しかし、それはまちがいである。結果はたまたま小学生か中学生の喧嘩《けんか》みたいなことにおわったが、しかし問題の重要さはすこしもそこなわれていないことを、わたしははっきりと見きわめていた。わたしはペテルブルグ区の昨日の料理店をわざと避けて、ワシーリエフスキー島へ来てからようやくコーヒーを飲んだ。あの料理店とうぐいすがわたしには倍も憎らしいものになったからだ。妙な性分で、わたしはまるで生きた人間を憎むように、場所と物を憎悪《ぞうお》する癖があるのだ。そのかわりわたしにはペテルブルグにいくつか幸福な場所があった、というのは、いつかそこを訪れてどういうわけか幸福を感じた場所のことだが、――そして、好きなくせに、わたしはそれらの場所を大切にとっておいて、わざとできるだけ長くそこへ行かないようにしていた。その後、完全に一人ぼっちになって、気がめいってどうにもならぬときに、はじめてそこへ行って憂愁をかみしめ、思い出にふけるためである。わたしはコーヒーを飲みながらまったくエフィムの言うとおりだったと思い、彼の健全な考え方を認めた。たしかに、彼はわたしよりも常識的ではあったが、しかし現実的であるとはたして言えるか。自分の鼻の先までしか見えない現実主義は、もっとも愚かしい夢想よりも危険である、なぜなら盲目に等しいからだ。しかし、エフィムの正しいことを認めながらも(彼はそのころ、わたしが通りを歩きながら彼のことをののしっているだろう、と考えていたにちがいないのだ)――わたしは自分の信念から一歩も退《ひ》かなかったし、いまだにそれを堅持しているのである。わたしはこれまで、桶《おけ》の冷水を一杯あびせられただけで、自分の行為ばかりか理想からさえもとびのいて、かえって自分から、わずか一時間まえまでは神聖なものと考えていたことに、嘲笑をあびせはじめるような連中を見てきた。しかも、彼らにはそんなことは朝飯まえなのだ! たといエフィムが、問題の本質においてさえ、わたしよりも正しくて、わたしがばかの最《さい》たるもので、いい気になっていただけだというなら、それでもかまわない、しかしやはり問題のもっとも深い奥底には、そこにたつかぎりわたしも正しかったような一点があって、わたしもそこでは決してまちがっていないのだが、要は、それが彼らにはぜったいに理解できないものなのである。
フォンタンカ運河のセミョーノフスキー橋のそばにあるワーシンの住居に、わたしはほぼ十二時に着いたが、彼は家にいなかった。彼はワシーリエフスキー島に勤務先があって、きちっと決った時間に、しかもたいていは十二時近くには家にもどっていた。そのうえ、なにかの祭日にあたっていたので、わたしは彼がきっと家にいるものと予想していたのだった。彼がいなかったので、わたしははじめて訪ねてきたのだが、やむなく待つことにした。
わたしの考察では、遺産に関するこの手紙の問題は良心の問題で、だからわたしが、ワーシンを裁判官に選ぶということは、そのこと自体によってわたしがどれほど深く彼を尊敬しているかを彼に示すことになり、それはもちろん彼の自尊心を満足させるにちがいない、とこう見たのである。ことわるまでもなく、わたしは真剣にこの手紙に心を悩ませて、実際に第三者の裁定にまかせる必要を痛感していた。とはいえ、それでもういっさいのはたからの助けがなくても苦境から脱することができるだろうとは、やはり思われなかった。だから、いちばんよいのは、自分でもそれを承知していたのだが、要するに、この手紙をヴェルシーロフ自身に直接渡して、あとは彼がそれをどうしようと、彼の自由にまかせればよいのである。これも一つの解決である。自分で自分をこうした種類の問題を決する裁判長の立場におくことは、完全にまちがっていたとさえいえるのである。手紙を直接に、しかもなにも言わずに手渡すことによってこの問題から自分を遠ざければ、わたしはすでにそれでヴェルシーロフに勝ち、自分を彼の上におくことになるのである。なぜなら、自分に関するかぎり、遺産相続のいっさいの利益を拒否して(わたしはヴェルシーロフの息子として、もちろん、今でなくてもいずれは、それらの金の一部を受けることになるからだ)、わたしは永久にヴェルシーロフの今後の行動を道徳的に一段上から監視する権利を確保することになるからである。わたしが公爵を破滅させたとしてわたしを非難することも、また誰もできないであろう、というのはこの手紙には決定的な法律上の意味がないからである。わたしは誰もいないワーシンの部屋に坐って、こうしたことを熟考して、完全に自分に説き明かした、すると不意にこんな考えが頭にきた――わたしは自分の行動に対する助言をあれほど渇望しながら、ここへ来たはずなのに、実は目的はただ一つ、そのことによって自分がどれほど高潔で私心のない人間であるかを彼に見せつけ、同時にそれによって昨日彼のまえで自分を下げたことへの復讐《ふくしゆう》を彼にしてやりたいということではないのか。
こうしたことを自認すると、わたしは猛烈に自分が腹だたしくなった。それでもわたしは去らないで、とどまっていた、そして怒りが五分ごとにますますつのっていくのを、はっきりと自覚していた。
まず第一に、ワーシンの部屋がおそろしく気に入らなくなった。『部屋を見れば、その人の性格がわかる』というが、たしかにそう言えそうだ。ワーシンは借家人から家具つきの部屋を間借りしていたが、貸してるほうはきっと貧乏で、彼のほかにも下宿人をおいて、それで暮しをたてているらしかった。こうした狭苦しい、ほんの申し訳にわずかばかりの家具をおいて、なんとか住み心地よく見せかけようと苦心した部屋を、わたしは見なれている。そうした部屋には、古物市場から買ってきた、危なくて動かせないようなソファと、手洗い台と、衝立《ついた》てで仕切られた鉄の寝台がつきものである。ワーシンは、明らかに、もっとも確実な上等の下宿人らしかった。こうした上等の下宿人がどんなところにも必ず一人はいるもので、主婦に特に大切にされるものだ。特にていねいに掃《は》いたり拭《ふ》いたり、ソファの上の壁に安物の石版画をかけたり、テーブルの下に薄っぺらなみすぼらしいじゅうたんをしいたりしてある。このかび臭いような清潔や、特に主婦からちやほや大切にされるのを好むような人間は――どだい少々あやしいのだ。ワーシンというのもいい下宿人と呼ばれていい気になっているような男らしい、とわたしは見てとった。どういうわけか知らないが、本が山積みしてある二つの机が、しだいにわたしの心を苛《いら》だたせはじめた。本、紙、インク壺《つぼ》――なにもかもが実にいやらしいほどきちんと整理されていたが、これはドイツ人の主婦とその女中の人生観と一致する秩序の典型なのである。本はかなりたくさんあったが、それも雑誌や新聞の類《たぐ》いではなく、りっぱな書籍なのである。彼は明らかにそれらの本を読んでいる形跡があった。おそらく、彼はきわめてものものしい態度できちんと端坐して読んだり、書いたりするにちがいない。どういうわけか、わたしは本は乱雑にちらばっているほうが好きである。どうしたところで読書が聖務であるわけがないではないか。おそらく、このワーシンという男は客にはきわめていんぎんで、しかも、その動作のひとつひとつが客にこう語っていることであろう、『ぼくはこうしてきみともう一時間半も話してるが、きみが帰ったら、すぐにしごとにとりかかるんですよ』。おそらく、彼とはきわめて興味ある話もできようし、新しいことも聞くことができよう、しかし――『ぼくは今きみとこうして話をして、大いにきみをおもしろがらせているが、きみが帰ったら、それこそもっとも興味ある問題に没頭するのさ』……それでも、わたしはやはり去らないで、坐っていた。彼の助言をまったく必要としないということは、わたしはもう最終的に確認していた。
わたしはもう一時間以上も坐っていた。わたしは窓際《まどぎわ》に二つおかれた籐椅子《とういす》のひとつに坐っていた。時間がすぎていくことも、わたしを苛だたせた。夕方までにさらに部屋さがしをしなければならなかった。わたしは退屈しのぎにどれか一冊本を読んでみようかと思ったが、しかし手を出さなかった。気をまぎらわそうと考えただけで、倍も不愉快になったのである。気味わるいほどのしずけさが一時間以上もつづいたと思われるころ、不意に、どこかすぐそばで、ソファでふさいであるドアのかげのあたりで、ひそひそささやく声が聞えた。わたしは無意識に耳をやった。だんだん大きくなるささやき声がしだいに聞きわけられるようになってきた。話しているのは二つの声で、明らかに女の声だ、それはわかったが、言葉はぜんぜん聞きとれなかった。それでも、わたしは、退屈しのぎに耳に力をこめはじめた。真剣な調子で熱心にしゃべっていることと、裁断なんぞの話でないことは、明らかだった。なにごとか同意し合ったり、言いあらそったりして、どうやら一つの声が納得させようとしてたのみ、もう一つの声がそれを聞かないでさからっているらしかった。きっと、他の下宿人であろう。じきにわたしはあきたし、耳もなれてしまったので、わたしはあいかわらず聞いてはいたが、惰性でそうしているだけで、どうかすると聞いているということをさえすっかり忘れていた。すると不意になにか異常なことが起った。まるで誰かがいきなり椅子からとび下りるか、あるいはどこかからとび起きて、足を踏み鳴らしたような音がしたと思うと、すぐに唸《うな》り声《ごえ》がつづき、急に悲鳴が起った。それは悲鳴などというなまぬるいものではなく、もう他人の耳などすこしも気にしない、憎悪に燃えた動物的な絶叫であった。わたしはドアのまえへかけよって、いきなりあけた。同時に廊下の突きあたりのドアもあいて、それは主婦の部屋とあとで聞いたのだが、そこから好奇心に燃えた二つの顔がのぞいた。悲鳴は、しかし、すぐにしずまった、そしていきなりわたしの隣のドアがさっとあくと、一人の若い――ようにわたしには見えたのだが――女が急いでとびだし、階段をかけ下りて行った。もう一人の、初老の女が、彼女をおさえようとしたが、できないで、ただ彼女の後ろ姿にうめくような声をふりしぼっただけだった。
「オーリャ、オーリャ、どこへ? ああ!」
だが、わたしたちのドアが二つあいているのを見ると、女はあわてて自分のドアをしめて、細い隙間《すきま》をのこし、逃げ去ったオーリャの足音がすっかり消えてしまうまで、そこからじっと階段の気配に聞き耳をたてていた。わたしは自分の窓際へもどった。すっかりしずけさがもどった。つまらないちょっとしたできごとだ、もしかしたら滑稽《こつけい》なナンセンスかもしれない、そう思ってわたしは考えるのをやめた。
それから約十五分ほどして、廊下に、ワーシンの部屋のすぐまえで、男の無遠慮な大声が聞えた。誰かがドアの把手《とつて》をつかんで、ドアをすこしあけた。その隙間からわたしの目は廊下に立っている見知らぬ長身の男の姿をとらえることができたし、むろん先方もわたしを見たわけで、しかもわたしをすっかり観察してしまったらしいのに、まだ部屋へ入ろうとはしないで、把手に手をかけたまま、廊下ごしに主婦と大声で話していた。主婦は細い、いかにも楽しそうな声で彼と言葉を交わしていた、そしてその声から、主婦はこの男をよく知っていて、しっかりした陽気な客として尊敬しているようすが聞きとれた。陽気な紳士は大声でしゃれをとばしていたが、それは要するに、ワーシンが不在だ、いつ来てもいたためしがない、まあこうした運命《さだめ》になっているのだろうから、いつかみたいにまた待たせてもらおう、というようなことだけだが、それが主婦にとっては、どうやら最高の機知に思われたらしい。とうとう、客はドアをいっぱいにあけて入ってきた。
それは明らかに高級洋服店でつくったらしい、いわゆる『貴族風』のりゅうとした服装の男だった、ところが、そうありたいという露骨な希望は見えすくのだが、その男のもつ要素でもっとも少ないのが貴族らしさなのである。彼は無作法というのでもないが、自然に身についた不遜《ふそん》さがあった。しかしこれは鏡のまえでつくりあげた不遜さにくらべれば、まだいくらか愛嬌《あいきよう》があった。わずかに白いものをまじえた暗い亜麻色の髪や、黒い眉《まゆ》や、濃いあごひげや、大きな目は、彼の個性を強めるどころか、かえって普遍性をあたえて、みんなに似せてしまっているようだった。こういう男はよく笑いもするし、すぐに笑いたがるが、どういうわけかいっしょにいてもちっとも楽しくない。笑顔《えがお》からすぐにもったいぶった顔に移り、もったいぶった顔からたちまちいたずらっぽい顔に移って、目くばせしたりするが、それがなにか散漫で、理由がない……しかし、なにも先まわりして描写することはない。この男をわたしは後にはるかに詳しくしかも身近かに知ることになったのだが、そのために今もつい、あのドアをあけて入ってきたときよりもずっと知っている人間として書いてしまうのである。とはいえ今でも彼についてなにか正確な定義づけのようなことを言おうとしても、それはむずかしい。なぜなら、こうした人間のもっとも大きな特徴といえば――要するに、その中途はんぱなことと、とりとめのないことと、あいまいなことだからである。
彼がまだ腰を下ろさないうちに、これは、きっと、ワーシンの義父のステベリコフとかいう男にちがいないという考えが、不意にわたしの頭にひらめいた。その男のことはすでにすこしばかり聞いていたが、ほんのちらっとで、どんな話だったか、まるでおぼえてないが、ただなにかよくない噂《うわさ》だったことだけはおぼえていた。わたしが聞いているところでは、ワーシンは孤児として長いこと彼の保護を受けていたが、もうかなりまえに彼の手からはなれて、人生に対する目的も利害も対立するので、二人は完全に別々に暮しているということだった。わたしはさらに、このステベリコフという男はかなりの資本をもっていて、投機にも手を出してるし、要するに軽い男だ、ということも思い出した。要するに、わたしは彼のことをもっと詳しく知っていたらしいのだが、忘れたのである。
彼は会釈もしないで、じろじろわたしを見まわした、そしてシルクハットをソファのまえの机の上に置くと、横柄《おうへい》に足で机をおしやり、わたしには腰を下ろすことがはばかられたソファヘ、坐るなどというのではなく、いきなりどさりと尻餅《しりもち》をついた。そのためにソファがぎしぎし鳴ったほどである。そして彼は足をぶらぶらさせ、エナメル塗りの長靴の右の靴先を高々ともち上げて、しげしげと見とれはじめた。もちろん、すぐに顔をこっちへねじ向けて、その大きなあまり動かぬ目でまたわたしをじろじろ見まわした。
「また留守ですな!」と彼はちょっとわたしに頭をしゃくった。
わたしは黙っていた。
「きちんとしない男だ! へそ曲りなやつでしてな。ペテルブルグ区からですか?」
「と言いますと、あなたもペテルブルグ区から来たのですか?」とわたしは訊きかえした。
「いや、わたしがあなたに訊いているんですよ」
「ぼくですか……ぼくはペテルブルグ区から来たんですが、ただどうしてあなたがそれを知ったのか?」
「どうして? フン」彼は目くばせしてみせたが、その理由は明かさなかった。
「と言っても、ぼくはペテルブルグ区に住んでるわけじゃありません、たださっきペテルブルグ区へ行ったので、そちらからここへ来たというだけです」
彼はあいかわらず黙ってなにか意味ありげな薄笑いをうかべていた、そしてこの薄笑いがひどくわたしの気に入らなかった。この目くばせはなにかばかげていた。
「デルガチョフ氏のところですか?」とややあって彼は言った。
「なにがデルガチョフのところに?」とわたしは目をみはった。
彼は得意げにわたしを見つめた。
「ぼくはそんな男知りませんね」
「フム」
「どうともお好きなようにとったらいいでしょう」とわたしは答えた。
わたしは彼にむしゃくしゃしてきた。
「フム、そうですか。ちがいますか、じゃまあお聞きなさい。あなたがある店でなにかを買うとしましょう、隣の店で別な客が別なものを買います、なんだと思います? 金ですよ、高利貸しと称される商人から買うのですよ……だって、金も品物なら、高利貸しも商人ですからな……あなた聞いてますか?」
「まあね、聞いてますよ」
「そこへ三人目の客が通りかかって、一方の店を指さしながら、『こちらは堅実だ』と言い、別な店を指さして、『こちらは堅実じゃない』と言います。この客の言葉をわたしはどう判断したらいいでしょうな?」
「ぼくが知るわけありませんよ」
「知らんですか、そうですか。じゃもう一つ例をあげましょう、人間の生活がいい例です。わたしがネフスキー通りを歩いていると、向う側の歩道を歩いている一人の紳士を見つけて、その紳士の性格を定めたくなる。そこでわたしたちはそれぞれの側を平行して進み、海岸通りへ折れる曲り角まで来る、するとあのイギリス屋のまえのところで、第三の通行人がたった今馬車にひかれたところに行きあう。さあ、いいですか、ここへ第四の紳士が通りかかって、ひかれた男をもふくめてわれわれ三人の性格を、実際と理論の面から定めようとする……あなた聞いてますか?」
「失礼ですが、むずかしすぎますね」
「そうですか、わたしもそう思いました。テーマを変えましょう。わたしはドイツの保養地にいるとしましょう。鉱泉です、何度も行きましたが、どこの――それはまあいいでしょう。保養地を歩いていると、イギリス人たちを見かけます。イギリス人てやつは、あなたも知ってるでしょうが、えらくつきあいにくい国民です。さて、二月して、療養期間を終えて、わたしたち一同は山岳地方へやって来て、みんなでパーティを組んで、ピッケルという先のとがった杖《つえ》をもって、山登りをすることになります。どの山か、それはまあいいでしょう。分岐点《ぶんきてん》で、つまり麓《ふもと》の基地といいますか、ほら、修道僧たちがシャルトルーズ酒をこしらえているところですな、これはおぼえておきなさいよ、わたしは、一人ぽつんと立って黙ってこちらを見つめている同国人を見かけます。わたしはこの男の性格について断定を下したくなります。そこでですよ、どうでしょう、保養地で話しかけることができなかったからといって、ただそれだけの理由で、わたしが同行の英国人たちに意見を求めていけないものでしょうか?」
「ぼくにどうしてわかるんです。失礼ですが、ぼくにはとてもあなたの話についていけませんよ」
「むずかしいですか?」
「そう、あなたの話を聞いてると、しんが疲れます」
「フム」
彼は目くばせすると、片手で妙な動作をした。どうやら、ひどく勝ちほこったようなとくとくとした気持をあらわす動作らしい。ついでさももったいらしく悠々《ゆうゆう》と、今しがたそのへんで買ってきたばかりらしい新聞をポケットからとりだすと、それをひろげて、最後の面に目をとおしはじめた。これでやっとわたしを放免してくれたらしい。五分ほど彼はわたしに目をくれなかった。
「ブレスト・グラエフスキーはまいらなかったですな、ええ? 強気で押しまくりますな! このへんでぼしゃった例は多いですがなあ」
彼は感じ入ったおももちでわたしを見た。
「ぼくはまだ株のことはよくわかりません」とわたしは答えた。
「否定しますか?」
「なにをです?」
「金ですよ」
「ぼくは金は否定しません、でも……でも、はじめに理想があって、それから金だと思います」
「ですが、まあお聞きなさい……ここに、いわば自分の資本をもつ人間がいるとする……」
「はじめに最高の理想、それから金です。最高の理想がなくて金があれば社会は崩壊します」
どうしてわたしが急に熱くなりだしたのか、わたしにはわからない。彼はあっけにとられたように、いくらかにぶい目でまじまじとわたしを見つめていたが、不意に顔じゅうがくずれて、いかにも楽しそうな、ずるそうな笑いがひろがった。
「ヴェルシーロフは、どうです? まんまとせしめたじゃありませんか、うまいことやりましたな! 昨日判決があったんでしょう、ええ?」
わたしはとっさに、彼がもう最初からわたしが何者かを知っていたことに気づいた。思いがけないことであった。ひょっとしたら、もっともっと多くのことを知っているかもしれない。ただわからないのは、なぜわたしが急に赤くなって、ばか面《づら》をしてぽかんと彼の顔に目をみはったのか、ということである。彼はすっかり勝ちほこって、まるで巧妙きわまるトリックでまんまとわたしの化けの皮をひんむいてやったと言わんばかりに、さも痛快そうにわたしをながめた。
「だめですよ」と彼は両方の眉をつり上げた、「まあ、ヴェルシーロフ氏のことならわたしに訊くんですな! わたしは今あなたに人間の性格の強さという話をしましたな? 一年半ほどまえ、あの赤んぼうをつかって、彼はみごとな大しごとをやりとげることができたはずだったが、――うん、惜しいところでへまをやって、結局だめでしたな」
「赤んぼうってどこのです?」
「乳呑《ちの》み子《ご》ですよ、いま里子に出しているでしょうが、あんなことをしたってなんにもならんのに……だって……」
「乳呑み子ですって? いったいなんのことです?」
「もちろん、彼の赤んぼうですよ、彼の子供ですよ、マドモアゼル・リーディヤ・アフマーコワに生ませた……『うるわしの乙女《おとめ》われを愛せり……』(訳注 プーシキンの詩黒いショールの一節)とね。黄燐《おうりん》のマッチですか――ええ?」
「ばかばかしい、たわごともいいかげんにしなさい! 彼にアフマーコワの子供なんてあるもんですか!」
「おやおや! じゃこのわたしはどこにいたんですかな? わたしは医者ですよ、産婦人科のな。わたしの姓はステベリコフ、聞いたことがありませんか? もっとも、あのころはもうとうに臨床はやめていましたがな、でも実地の処置に経験にもとづく助言をあたえることはできましたよ」
「あなたが産婦人科の医者……アフマーコワの分娩《ぶんべん》をあつかったのですか?」
「いいや、わたしは別にあつかったわけじゃありませんよ。あそこの郊外に、大勢の家族をかかえたグランツという医者がいましてな、診察料はたった半ターレル、あそこでは医者の相場はそんなものでしたよ、おまけに彼などはもぐりで誰にも相手にされなかった、というわけで彼がわたしの代りにやったのですよ……闇《やみ》から闇へほうむるために、わたしがわざと彼をすすめたんですよ、あなた聞いてますか? わたしはヴェルシーロフの件で、アンドレイ・ペトローヴィチのですな、ごく内密の問題で、面とむかって、一つだけ実際的な助言をあたえたのだが、しかしヴェルシーロフは二|兎《と》を追ってしまったのですな」
わたしはあまりの驚きに茫然《ぼうぜん》として聞いていた。
「二兎を追う者――一兎をも得ず、と民間の、というよりは民衆の諺《ことわざ》に言いますな。わたしならこう言うところですな、例外もたえずくりかえされると通例となる、とね。別な兎を、つまりロシア語に訳せば、別な婦人を追ったら――元も子もなくなる、ということですよ。いったんつかんだら、そいつを放すなってことですよ。てきぱきと事をはこばにゃならんところで、彼はぐずつく癖がある。ヴェルシーロフ――ありゃ『女の予言者』だよ、こうソコーリスキー若公爵があのときわたしのまえでうまいことを言いましたよ。いいや、あなたはわたしの家へ来なさい! もしヴェルシーロフのことをもっともっと知りたかったら、わたしの家へ来ることですな」
彼は、どうやら、おどろきのあまりポカンと口をあけているわたしの顔を楽しんでいるようすだった。わたしはこれまで乳呑み子のことは一度もちらとも聞いたことがなかった。ところがちょうどそのとき不意に隣室のドアがバタンと鳴って、誰かがあわただしく入ってきたようすだった。
「ヴェルシーロフはセミョーノフスキー連隊のそばの、モジャイスカヤ街リトヴィーノワ・アパートの十七号に住んでるわよ、わたし自分で警察の住所係へ行って調べてきたのよ!」と興奮した女の大きな声が言った。一言々々がわたしたちにはっきり聞えた。ステベリコフは眉をつり上げて、人さし指を頭の上に立てた。
「わたしらがここで噂してたら、もうあちらでも……これですよ、たえずくりかえされる例外というのは! Quand on parle d'une corde……(噂をすればなんとやら……)」
彼はすばやく体を起して、ソファの上に膝《ひざ》をつき、中腰になって、ソファのすぐうしろのドアに耳をよせた。
わたしは完全に度胆《どぎも》をぬかれてしまった。これはさっきあんなに興奮してとびだしていったあの若い女が、もどってきて叫びたてたにちがいない、とわたしは想像した。それにしてもこんなところに、どうしてヴェルシーロフの名が? 不意にまたさっきのかん高い声がひびいた。なにかをもらえないか、あるいはとりあげられて、激怒した人間の気ちがいじみたわめき声である。さっきのそれとのちがいは、今度の叫びとわめきのほうが長くつづいたということだけであった。はげしく争う音と、なにやらやたらに早口にまくしたてる声が聞えた。『いやよ、いやよ、ちょうだい、すぐ出してちょうだい!』というような言葉だったが、はっきりどうだったか、ぜんぜん思い出せない。つづいて、さっきと同じく、どちらかがいきなりドアへかけよって、さっとあけた。二人の女が廊下へとびだしたが、さっきみたいに、どっちかがとめようとしているらしかった。
ステベリコフは、もうさっきからソファからとび下りて、いかにも楽しそうに聞き耳をたてていたが、いきなりドアのまえへかけよると、そのまま廊下へとびだし、いささかのためらいもなく二人の婦人のほうへ近づいていった。むろん、わたしも扉口《とぐち》へかけよった。しかし、彼が廊下へとびだしたことがバケツの冷水をあびせたことになった。二人の婦人は急いで部屋へ入ると、ピシャリとドアをしめた。ステベリコフはそのあとを追おうとしたが、すぐに立ちどまって、指を一本突き立て、にやにや笑いながらなにやら思いめぐらすようすだった。そしてその笑いにわたしはなにかひどくいやらしい暗い不吉なものを見てとった。また自分の部屋の扉口に出ていた主婦の姿を見ると、彼は爪先《つまさき》立ちでちょこちょことそちらへかけよっていった。主婦と二分ばかりこそこそと話し合って、もちろんかなりの情報をしこむと、彼はさきほどとはうって変ってぐっともったいをつけて、決意をみなぎらせて部屋へもどってきた、そして机の上のシルクハットをとると、ちらと鏡をのぞいて髪をかき上げ、自信たっぷりの尊大な顔をつくり、わたしには目もくれずに、隣の部屋のほうへ出ていった。彼はちょっとドアのまえに立ちどまると、鍵穴《かぎあな》に耳をあてがって内部の気配をうかがいながら、得意げに廊下のはずれの主婦に片目をつぶった。主婦は、『まあ、わるい子ね、なんていたずらなんでしょう!』とでも言いたげに、指で彼をおどすまねをして、頭を振った。やがて彼は意を決して、しかし実にいんぎんな態度で、小腰をさえちょっとかがめながら、指でコツコツとドアを叩いた。
「どなた?」という声が内部から聞えた。
「重大な用件があってうかがった者です、ぜひお目にかかりたいのですが」とステベリコフは大声で、もったいをつけて言った。
内部ではちょっとためらったようすだが、それでも結局ドアはあいた。はじめはほんの細目に、四分の一ほどだったが、ステベリコフはすぐにしっかとドアの把手をつかんで、もうしめさせようとはしなかった。話がはじまった。ステベリコフはたえず内部へ押し入ろうとねらいながら、大声で話しだした。わたしは言葉はよく思い出せないが、しきりにヴェルシーロフの名を出して、知ってることは、すっかりおしえますとか、『いやいや、わたしにお聞きなさい』『だめですよ、わたしの家へおいでなさい』といった類いのことをまくしたてた。彼はすぐに内部へ通された。
わたしはソファへもどって、盗み聞きをはじめたが、全部を聞きとることはできなかった。ただヴェルシーロフの名がしょっちゅう出るのだけはわかった。わたしは声の調子から、ステベリコフがもう話の主導権をにぎったのを察した。彼はもはや下からとり入るような声ではなく、さっきわたしを面くらわせたように、上からおしつけるようなくだけた調子でしゃべっていた。『あなた聞いてますか?』『いいですね、ここですよ』などという言葉がときどき出た。しかし、彼は女にはけたはずれに愛想がいいほうらしく、すでに二度ほど彼の高笑いが聞えた。ところが、それがどうやらぜんぜん的はずれだったらしい。というのは、彼の声とならんで、ときにはそれに押しかぶせるように、楽しそうなところなどみじんもない二人の女の声、特にさっきわめきたてた若い女の声が聞えたからである。彼女はいらいらした声で、せかせかとまくしたて、どうやらなにごとかあばきたてて、訴えながら、公正な裁きを求めているようすだった。しかしステベリコフもたじろぐどころか、ますます話をもりあげて、高笑いもしだいにひんぱんになっていった。こうした連中は他人の話を聞くということができないのである。
わたしは盗み聞きをしている自分が恥ずかしくなって、まもなくソファをはなれて、もとの窓際の籐椅子へもどった。ワーシンはこの男を虫けらほどにも思っていまい、しかしわたしがそれと同じ意見を述べたら、彼はたちどころに顔をひきしめて彼を弁護し、噛《か》んでふくめるように、彼は『実際家で、現代の事業家の一つのタイプで、われわれの一般的な抽象的な見地から批判すべきではない』と説くにちがいない、とわたしは信じた。その瞬間は、しかし、わたしはおぼえているが、どういうものかすっかり弱気になって、はらはらしながら、もう確実になにか起るのを待ち受けていたのだった。
十分ほどすると、彼の爆発的な哄笑《こうしよう》が最高潮に達した瞬間に、突然、誰かが、ちょうどさっきのように、椅子からとび上がって足を踏み鳴らした。つづいて二人の女の叫び声がさくれつし、ステベリコフもとび上がった気配で、もういままでとはうって変った声でなにやら言いだしたが、どうやら失言を取消して、おしまいまで聞いてくれとたのんでいるらしいようすだった……しかし彼のたのみは聞き入れられなかった。『出てゆけ! このごろつき、恥知らず!』という怒り狂った叫び声がさくれつした。一口に言えば、明らかに彼は追い出されかかっていた。わたしがドアをあけたと同時に、彼は隣の部屋から廊下へとびだした。それこそ文字どおりに、手で、つかみ出されたらしい。彼はわたしを見ると、とたんにわたしを指さしながら、叫びたてた。
「これがヴェルシーロフの息子だ! わたしを信じないなら、ほら、これが彼の息子だ、彼の正真正銘の息子だ! どうぞ!」
彼は得意げにわたしの手をつかんだ。
「これが彼の息子ですよ、彼の実子ですよ!」と彼はわたしを二人の婦人のまえへ連れてゆきながら、くりかえした、しかしそれだけで、それ以上の説明はなにもつけくわえなかった。
若い女は廊下に突っ立ち、初老のほうは――それから一歩ほどさがって扉口の中に立っていた。わたしがおぼえているのは、この哀れな娘はなかなか美人で、二十歳前後だが、やせて、どことなく病的で、髪が赤っぽく、顔がいくらか妹に似ているようだということだけだった。この顔だちがちらとわたしの目に映って、記憶の中にそっくりのこった。ただリーザは、今わたしのまえに立っているこの娘みたいに、狂憤したことは一度もなかったし、もちろん、そんなふうになれる性質ではなかった。彼女の唇は血の気がなく、明るい灰色の目はぎらぎら光って、全身が怒りにがくがくふるえていた。そういうわたしもこの図々《ずうずう》しい男のおかげで、愚劣きわまる立場におかれて、まったく言うべき言葉を知らずに、いいさらしものにされたことも、わたしはおぼえている。
「息子ならどうだというの! あなたの仲間なら、ごろつきに決ってる。あなたがヴェルシーロフの息子なら」彼女は急にわたしのほうを向いた、「わたしがこう言ってたとあなたのお父さんに伝えてください、あんたはごろつきです、軽蔑《けいべつ》すべき恥知らずです、わたしはあんたの金なんか要《い》りませんッて……さあ、これです、こんなもの、こんな腐った金は今すぐあの人に返してください!」
彼女は急いで何枚かの紙幣をポケットからつかみだした、すると初老のほうが(彼女の母とあとでわかったのだが)その手をおさえた。
「オーリャ、お待ち、ちがうかもしれないじゃないか、もしかしたら、この方はあのひとの息子さんじゃないかもしれないよ」
オーリャは急いでそちらを振向くと、ちょっと考えて、軽蔑したような目でわたしをにらみ、くるりと身をひるがえして部屋へもどったが、ドアをしめるまえに、しきいの上に突っ立ったまま、もう一度狂おしくステベリコフにむかって叫んだ。
「出てゆけ!」
そして、彼を追いたてるように足までトンと踏み鳴らした。つづいてバタンとドアがしまって、鍵を下ろす音が聞えた。ステベリコフは、まだわたしの肩をつかんだまま、指を一本突き立てて、けげんそうな薄笑いで大きく口をゆがめながら、もの問いたげな目をじっとわたしに注いだ。
「ぼくはあなたの行為を滑稽な軽蔑すべきことだと思います」とわたしはむっとしてつけつけと言った。
しかし、彼はわたしから目ははなさなかったが、わたしの言葉など聞いてはいなかった。
「これはさぐる必要があるようだ!」と彼は考えこみながらつぶやいた。
「でも、しかし、なぜあなたはぼくに巻添えをくわせたんです? あれは何者です? あの女はなんです? あなたはぼくの肩をつかんで、こんなとこへひっぱってきて、――これはどういうことです?」
「ふん、あほな! 処女を失った娘ってなとこさ……『しばしばくりかえされる例外』というやつですよ、――あなた聞いてますか?」
そう言って、彼は指でわたしの胸を突つこうとした。
「ええ、よしなさい!」とわたしは彼の指をはらいのけた。
ところが彼は不意に、まったく思いがけなく、音もなくしずかに笑いだした、そして長いこと、楽しそうに笑っていた。ややあって、シルクハットをかぶると、がらりと一変した暗い顔で、眉根をよせて、言った。
「うん、おかみの耳に入れておかにゃならん……あいつらをここから追い出すことだ――そうだ、それもできるだけ早く、さもないとあいつらいまに……まあ見ててごらん! このわたしの言葉を忘れないことですな、いまにわかるから! ふん、くそめ!」彼はまた急に陽気になった、「あなたはグリーシャ(訳注 ワーシンの名)を待ちますかな?」
「いや、待ちません」とわたしはきっぱりと答えた。
「まあ、どっちでも……」
それきりなんとも言わずに、彼はくるりと背を見せると、部屋を出て、明らかに解説と新情報を待ちかねていたらしい主婦にさえ目もくれないで、階段を下りていった。わたしも帽子をつかむと、わたし、ドルゴルーキーが来たことをワーシンに伝えてくれるように主婦にたのんで、階段をかけ下りた。
わたしはむなしく時間をつぶしただけだった。わたしは外へ出ると、すぐに貸間さがしにかかった。しかしわたしは気が散っていて、何時間か街をうろついて、せいぜい五軒か六軒のアパートに立ち寄っただけだった。貸間札に気づかずに通りすぎたアパートが二十軒はあったにちがいない。それになによりも腹がたつのは、部屋を借りるということがこれほどむずかしいことだとは、想像もしていなかったことである。ワーシン程度の部屋や、それよりもっとわるい部屋でも、どこにでもあるにはあったが、間代がすごく高い、というのはつまりわたしの計算にあわないのである。わたしはただ寝起きするだけのごく粗末な部屋を、正直に要求したのだが、それなら『貧民窟《ひんみんくつ》』へでも行くんですな、と軽蔑の言葉を返された。それにどこへ行っても、一目見ただけでわたしにはとても同じ屋根の下に暮せそうもないような、奇妙な住人がうようよしていた。金をやるからどこかへ移ってくれと言いたいほどの連中である。上着も着ないで、チョッキだけで、あごひげをもじゃもじゃに生《は》やして、わるくなれなれしく、好奇心ばかりむやみに強いような連中である。ある狭苦しい部屋になどそういう連中が十人もカルタ卓を囲んで、ビールを飲んでいたが、家主はその隣の部屋をわたしにすすめた。またあるところではわたしのほうが、主婦がいろいろと訊くのにまるでとんちんかんな返事をしたので、むこうがあきれてうさん臭そうな目をしたし、またあるアパートでははずみで言い合いにまでなってしまった。しかし、こんなくだらんことをいちいち書いていたらきりがない。ただ、くたくたに疲れて、なにか食べにある安食堂に入ったときは、もうほとんど暗くなりかけていたとだけ言っておこう。
わたしの腹はもうはっきりと決っていた。ここから家へもどって、すぐに誰にも気づかれぬように遺産に関する手紙をヴェルシーロフに手渡し(一言の説明も加えずに)、上へ行って荷物をトランクと包みにまとめて、宿屋へでもいいから夜おそくに移る。これがわたしの決意だった。オブウホフスキー大通りのはずれの、凱旋門《がいせんもん》のそばに、三十コペイカで個室に入れる宿屋があるのを、わたしは知っていた。ヴェルシーロフと同じ屋根の下に寝ずにすむなら、一晩ぐらいその程度のぜいたくはやむをえないと、わたしは腹を決めた。
ところが、もう工芸専門学校のまえを通りすぎようとしたとき、なぜかわたしはふっとタチヤナ・パーヴロヴナの家に寄ってみようという気になった。彼女の住居は工芸専門学校のすぐまえにあった。実を言えば、寄る口実はやはり遺産に関する例の手紙にあったが、しかし急にどうしても寄ってみたいという気持になったのには、もちろん、他の理由もあったはずだ。しかしその理由を、わたしは、いまだにはっきりとつかめないのである。たしかに頭の中は、『乳呑み子』だの、『通例となる例外』だのでかなりもつれていたことは事実である。わたしは語りたかったのか、あるいは得意になりたかったのか、あるいは口喧嘩《くちげんか》をしたかったのか、あるいは泣きたかったのか――自分でもわからずに、ふらふらとタチヤナ・パーヴロヴナの住居へ階段をのぼっていった。わたしはこれまでたった一度しかここへ来たことがなかった。その一度も、モスクワから来てまもないころ、母になにか届け物をたのまれて来たのだが、それを渡すと、坐りもしないで、すぐにもどったし、彼女も別に引きとめもしなかったことをおぼえている。
わたしはベルを鳴らした、するとすぐに女中が出てきて、ものも言わずにわたしを室内へ通した。ここでこまごましたことをくどくどと述べるのは、今後の推移にあれほどまでも大きな影響をもつことになったあのような狂気じみたできごとが、どのような経過をたどって起りえたのかということをわかってもらうためである。まず手はじめに、女中のことを述べよう。これは意地わるい、しし鼻のフィンランド女で、女主人のタチヤナ・パーヴロヴナを憎んでいたらしいが、タチヤナ・パーヴロヴナのほうは、かえって、なにか妙な愛着をもっていてどうしても手放すことができない。ちょうど老嬢が老いた鼻水たれの狆《ちん》やいつも眠ってばかりいる猫をかわいがるようなものである。このフィンランド女はかんしゃくを起して毒づいたり、あるいはなにかで言い合いをすると、一週間も口をきかないで、女主人に思い知らせたりした。どうやら、わたしはこうしたもの言わぬ日にぶつかったらしい。『奥さんはおりますか?』というわたしの問いにさえ――こう訊いたことは、わたしははっきりとおぼえている、――彼女はなんとも答えないで、ぷいと台所へ行ってしまったからである。わたしはそれで、当然、伯母は家にいるものと思いこんで、部屋へ通ったが、誰もいないので、タチヤナ・パーヴロヴナがいまに寝室から出てくるだろう、と考えて、待つことにした。さもなければ、女中がわたしを通すはずがなかろうではないか? わたしは坐らないで、二、三分待った。もうほとんど暗くなっていた、そしてタチヤナ・パーヴロヴナの暗い部屋が、そこらじゅうにおびただしく吊《つる》してある更紗《さらさ》のカーテンのために、いよいよ無愛想に見えた。事件が発生した現場の状況を理解してもらうために、この忌まわしい住居について二言ばかり述べておこう。タチヤナ・パーヴロヴナは、その気性が強情で、威張りたがるところへもってきて、昔の地主生活への執着がのこっているので、家具つきの貸間に住みつくことができないで、独立家屋に女主人として暮したいばっかりに、この住居のひな型みたいなものを借りたのである。この二つの部屋は、小ぢんまりとまるでカナリヤの籠《かご》みたいにくっつき合って、三階にあり、窓が庭に向いていた。入口を入ると、いきなりせいぜい一メートルほどの幅の狭い廊下で、左手が今言ったカナリヤの籠が二つ、廊下をまっすぐ行くと、突きあたりが小さな台所の入口である。三立方メートルが人間一人の十二時間に必要な空気の量で、まあその程度の空気ならこの住居にあったろうが、それ以上はありそうにも思われない。天井はみっともないほど低かった、しかしなによりも愚かしいのは窓とドアと家具で――どこもかしこも、すっかり更紗でおおわれるか、かけられるかしていた。美しいフランスの更紗で、きれいに縁飾りがしてあったが、しかしそのために室内がいっそう薄暗い感じになって、まるで旅行馬車の内部のようだった。わたしが待っていた部屋の中は、ごたごたと家具が置き並べられてあったとはいえ、まだ体を動かす余地はあった。しかも、ついでだが、家具類は相当なもので、セットになったのやら、青銅の飾りのついたのやら、いろんな小卓があったし、細工のいい長持類もあったし、優雅な、しかも豪華な化粧台《けしようだい》もあった。ところが、次の間、つまりそちらから彼女が出てくるものと思ってわたしが待っていた寝室だが、これは厚いカーテンで間を仕切られていて、あとでわかったのだが、文字どおり寝台一つでいっぱいになっていた。こうこまごまと述べてきたことは、わたしがおかした愚かな行為を解するうえに必要なのである。
こうして、わたしはすこしも怪しまずに待っていると、不意にベルが鳴った。わたしは女中がのそのそと廊下を通っていって、さっきのわたしのときとまったく同じに、黙って客を通したのを聞いていた。それは二人の婦人だった、そして二人とも大声で話し合っていた、しかし、声から一人がタチヤナ・パーヴロヴナで、もう一人が――今、しかもこのようなところで会おうとは、まったく予期していなかった、まさにその女であることを知ったとき、わたしの驚愕《きようがく》はどれほどであったろう! まちがうはずはなかった。わたしはこのかん高い、力強い、金属的な声を昨日聞いたばかりなのだ、もっとも三分ほどだけだったが、それはわたしの心にのこった。そうだ、これはまさしく『昨日の女』だった。わたしはどうしたらよかったのだ? わたしはこの質問を読者になげかけているのでは決してない、わたしはただあのときのあの瞬間をもう一度想像しているだけなのだが、今でさえどうしてあんなことになったのかまったく説明ができないのである。わたしはとっさにカーテンのかげへとびこんで、タチヤナ・パーヴロヴナの寝室に入っていた。要するに、わたしがカーテンのかげへとびこんで、身をかくすとほとんど同時に、婦人たちが入ってきたのである。なぜわたしが進み出て彼女らを迎えないで、逆にかくれたのか――わたしにはわからない。とっさに、完全に無意識に、そういうことになったのである。
寝室へとびこんで、寝台につきあたると、わたしはとっさに寝室から台所へぬけるドアがあるのを見た、つまり災厄からの出口があるわけで、このまま逃げだしてしまうことができる、ところが――ああ、なんということだ!――ドアは鍵が下りていて、鍵穴に鍵がさしこんでなかった。わたしはがっかりして寝台に腰を下ろした。これで、いやでも盗み聞きしなければならないことが、はっきりわかった、しかも会話のはじめの数語から、最初の調子から、それが秘密の微妙な話であることが、ぴーんときた。おお、もちろん、名誉を知る高潔な人間なら、今からでもすぐに出ていって、大きな声で、『ぼくがここにいるんです、ちょっと待ってください!』と言って、そして――自分の滑稽な立場をもかえりみずに、さっさと出てゆくはずだ。ところがわたしは腰も上げなかったし、出てもゆかなかった。その勇気がなかった、卑怯《ひきよう》にも臆《おく》したのである。
「わたしの大好きなカテリーナ・ニコラーエヴナ、あなたがそんなことをおっしゃったらわたしすっかり悲しくなってしまいますわ」とタチヤナ・パーヴロヴナが哀願するように言った、「そんなことはもうさっぱりとお忘れになってしまいなさいましな、あなたらしくありませんわよ。どこだって、あなたのいらっしゃるところは、あんなに喜びがいっぱいでしたのに、それが急に……。でもまさかわたしのことは、やはり信じていてくださいますわね、だってわたしがどれほどあなたのためを思ってるか、ご存じですものね。ほんとですとも、アンドレイ・ペトローヴィチのためを思う心にも負けないくらいですわ。そりゃわたしあの方にもいつも変らず信服しきっていることはかくしませんけど……。だから、わたしを信じなさいましよ、わたし神かけて申しますけど、その手紙はあの方の手もとにはありませんのよ、それに、もしかしたら、ぜんぜん誰のところにもないんじゃないかしら。それにあの方はそんなずるい卑怯なことのできない人ですわ。疑うなんてあなたがよくないわ。あなた方二人が勝手にそんな敵意を創作したんだわ……」
「手紙はありますわ、そして彼はどんなこともしかねない男ですわ。それにどうでしょう、昨日父のところへ行ったら、まっさきに出会ったのが――彼が父につけた、その ce petit espion(豆スパイ)じゃありませんか」
「ええ、ce petit espion ですって。とんでもございません、だいいち、ぜんぜんスパイなんかじゃありませんわ。だってあれはわたしがやったことですのよ、わたしがあの子を公爵のところに勤めさせるようにすすめたのよ、そうでもしてやらないとあの子はモスクワで気が狂うか、餓死するかしてしまったでしょうよ、――そんなふうにむこうから言ってきたものですから。それはとにかく、あの田舎者《いなかもの》はまるきりのばかですのよ、どこにスパイなんかに?」
「そうね、あまり利口じゃなさそうね、でも、だからって卑怯者にならないとはかぎりませんわ。わたしは昨日ただ無性に腹がたっただけなのよ、だからよかったけど、そうでもなかったらそれこそ笑いころげてしまうところでしたわ。だって青くなって、ちょこちょこかけよってきて、足をすってペコリとおじぎして、フランス語でなにやら言いだすんですもの。モスクワでマーリヤ・イワーノヴナがあの子のことを、天才だなんて、たいへんなほめようでしたけど。あの不幸な手紙がそのままのこっていて、どこかもっとも危険なところにあることはまちがいないわ――それはわたし、マーリヤ・イワーノヴナの顔から、はっきりと読みとったのよ」
「おやまあ、あなたったら! あの女のところにはなにもなかったって、あなたご自分でおっしゃったじゃありませんの!」
「それがちゃんとあるのよ、あの女はうそをついているだけなのよ、それに、こんなこと言っちゃなんですけど、あの女の芝居上手ったらないのよ! モスクワへ行くまではわたしまだ、手紙なんかなにものこっていないという希望がありましたけど、でも、あちらで、あの女《ひと》に会ってみて……」
「まあ、あなた、どうしてそんな、あの女《ひと》はとっても善良な思慮の深いひとだって評判じゃありませんか、故人もたくさんの姪《めい》たちの中であの女《ひと》をいちばん信頼していましたし。もっとも、わたしはよく知りませんのよ、でもあなた――あの女《ひと》をとりこにしてしまえばよかったのに、その魅力ですもの! あんな女《ひと》を征服するくらいわけないじゃありませんの、わたしなんかこんな婆さんでも――こんなに熱を上げてしまって、今すぐでも接吻《せつぷん》したいくらいですもの……ほんとに、あの女《ひと》をとりこにするなんて、赤んぼうの手をひねるようなものじゃありませんの!」
「とりこにしようとしたのよ、タチヤナ・パーヴロヴナ、そりゃやってみたわよ、あの女《ひと》は有頂天にさえなったわ、ところがどうして、なかなかのしたたかものだわ……ほんと、気性のしっかりしてるったら、特に、モスクワ気質《かたぎ》ですもの……そしてどうでしょう、こちらにいるクラフトとかいう男に会っては、とすすめてくれたのよ、アンドロニコフのしごとを手つだっていたから、ひょっとしたら、なにか知ってるかもしれないって。そのクラフトという男のことはわたしもすこしは聞いていましたし、ちらと会ったこともあるような気がするのよ。でも、あの女《ひと》がこのクラフトのことをわたしに言ったとき、とっさにわたしはピンときたのよ、この女《ひと》は知らないどころか、すっかり知っていて、おとぼけを言ってるんだわって」
「でも、どうして、それがどうしてですの? それなら、その男に訊ねてみたらいいじゃありませんの! そのクラフトってドイツ人は、口の軽い男じゃありませんわ、わたしおぼえてますけど、ほんと誠実な男よ――ほんとよ、彼にいろいろ訊《き》いてみることですわ! ただ、いまペテルブルグにいないんじゃないかしら……」
「それが、昨日もどってきていたのよ、わたし今しがた訪ねたのよ……だからわたしこんなに狼狽《ろうばい》してあなたのところへとんできたのよ、ほら、手足がこんなにふるえてるでしょう、わたしどうしてもあなたにお願いしようと思って、わたしの天使、タチヤナ・パーヴロヴナ、だってあなたはなんでも知ってるんですもの、あの人の書類の中からさがしだしてもらえないかしら、きっとあの男からのこされたにちがいないのよ、このままにしておいたら、今度は誰の手に渡るでしょう? もしかしたら、また誰かの危険な手におちるかもしれないわ? だからわたしあなたの知恵を借りようと思ってとんできたのよ」
「でも、それどんな手紙のことですの?」とタチヤナ・パーヴロヴナはけげんそうに言った、「それに今あなたおっしゃったじゃありませんの、ご自分でクラフトを訪ねたって!」
「訪ねたわ、訪ねたわ、つい今しがた。ところが拳銃《けんじゆう》で自殺してたのよ! 昨夜ですって」
わたしは寝台からとび下りた。スパイだのばかだのと言われても、わたしはじっと坐っていることができた。そして話が佳境に入るにつれて、わたしはますます出てゆきにくくなった。そんなことは思いもよらぬことだ! わたしはタチヤナ・パーヴロヴナが客を送りだすまで(幸いになにかの用事でむこうが寝室へ入ってこなければ)、息を殺してじっと坐っていようと心に決めた、そしてアフマーコワが帰ったら、それからはタチヤナ・パーヴロヴナと喧嘩になったってかまうものか!……ところが今、クラフトのことを耳にしたとたんに、不意にわたしはとび起きたのである。わたしは全身ががくがくふるえた。もうなにも考えずに、前後のわきまえもなく、わたしはふらふらと歩きだした、そして重いカーテンを上げると、二人のまえに立った。まだかなり明るかったので、蒼白《そうはく》な顔をしてがくがくふるえているわたしがすぐに見分けられた……二人はあッと叫んだ。そうとも、どうして叫ばずにいられよう?
「クラフトが?」とわたしはアフマーコワを見ながらつぶやいた、「拳銃自殺をした? 昨日? 日暮れどきに?」
「おまえどこにいたの? どこから?」とタチヤナ・パーヴロヴナはきんきん声でわめくと、文字どおりわたしの肩に爪をたてた、「おまえさぐってたんだね? 盗み聞きしてたんだね?」
「わたし今あなたに言ったばかりでしょう?」と、カテリーナ・ニコラーエヴナは彼女にわたしを指さしながら、ソファから立ち上がった。
わたしはわれを忘れた。
「うそだ、でたらめだ!」とわたしは狂おしく彼女をさえぎった、「あなたは今ぼくをスパイと言いましたね、ああ、たまらない! あなた方のような人々のいる世の中には、スパイするどころか、生きているのさえいやだ! 心の正しい人間は自殺します。クラフトが拳銃で自分の生命を絶ったのは――思想のためです、ヘキュバのためです(訳注 シェイクスピアのハムレットの第二幕第二場のプライアム王の暗殺と妃ヘキュバの悲しみの後のハムレットの独白をさす)……もっとも、ヘキュバのことなんかあなた方にわかるわけがない!……ところがあなた方ときたら陰謀の中に住み、虚偽、欺瞞《ぎまん》、奸計《かんけい》のまわりをうろうろして……もうたくさんです!」
「頬をなぐってやりなさい! 思いきりなぐってやりなさい!」とタチヤナ・パーヴロヴナは叫んだ、しかしカテリーナ・ニコラーエヴナが目をそらさず、きっとわたしをにらみつけているだけで(わたしはどんな微細な表情の動きまですっかりおぼえている)、その場を動こうとしないので、タチヤナ・パーヴロヴナは、もう一瞬したら、おそらく自分がそれを実行していたろう。その気配を察したので、わたしは自分の顔をまもろうとして、思わず手を上げた。するとその動作を、彼女はわたしがなぐろうとしているととった。
「さあ、うちなさい、うちなさいよ! 生れつきの下司《げす》だってことを証明したらいいわ! おまえは女より強いんでしょ、遠慮することないじゃないの!」
「誹謗《ひぼう》はやめてください、たくさんです!」とわたしは叫んだ。「ぼくは一度も女に手を上げたことはありません! 恥知らずはあなたです、タチヤナ・パーヴロヴナ、あなたはいつもぼくを軽蔑してきました。おお、さげすみながら人とつきあわねばならぬとは! あなたは笑ってますね、カテリーナ・ニコラーエヴナ、たぶん、ぼくの容姿がおかしいのでしょう。そうでしょうとも、あなたの副官たちのような容姿を、神はぼくにあたえてくれませんでしたのでね。しかしぼくは、あなたのまえにみじめに萎縮《いしゆく》したとは感じてませんよ、逆に、ぐっと心の高揚を感じます……まあ、どんな言い方をしようと、どうでもいいことです、ぼくはすこしもやましくないのですから! ぼくは偶然にこういうはめになったのですよ、タチヤナ・パーヴロヴナ。わるいのはあなたのフィンランド女だけです、いやそれよりも、あの女に対するあなたの偏愛と言ったほうがいいでしょう。なぜあの女はぼくが訊いても返事もしないで、いきなりここへ通したのです? それから、あなたも認めるでしょうが、女の寝室からとびだすことがぼくにはなんとも不体裁なことに思われて、ぼくはむしろあなた方の悪口を黙ってこらえて、じっとしてようと決めたのです……あなたはまた笑っていますね、カテリーナ・ニコラーエヴナ?」
「出てゆけ、出てゆけ、さっさと出てゆきなさい!」タチヤナ・パーヴロヴナはほとんどわたしを突き出すようにして叫びたてた。「この子の言うことなんかうそっぱちですから、すこしも気になさらないでくださいな、カテリーナ・ニコラーエヴナ、わたし今言ったでしょう、あちらからこの子を気ちがいだって言ってきたって!」
「気ちがいだって? あちらから? それは誰です、どこからです? そんなことはどうでもいい、もうたくさんです。カテリーナ・ニコラーエヴナ! この世の聖なるすべてのものにかけて誓います、この話とぼくが聞いたすべてのことは、ここだけのことにします……あなたの秘密を知ったことが、ぼくのどこに罪があるのです? ましてぼくはあなたのお父さまのところの勤めは明日でやめるのですから、あなたがおさがしになっていらっしゃる手紙の件は、もうご安心なさって結構です!」
「それはなんのことですの?……どの手紙のことをあなたは言ってますの?」カテリーナ・ニコラーエヴナはうろたえた、そしてさっと蒼《あお》ざめさえした、あるいは、そうわたしに思えただけかもしれない。わたしはもうあまりに多く言いすぎたことをさとった。
わたしは急いで部屋を出た。二人は無言のままわたしを目で追った、そしてその目には極度の驚愕があった。要するに、わたしが謎《なぞ》をかけたのだ……
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第九章
わたしは家路を急いだ、そして――ふしぎなことに――わたしはひじょうに自分に満足していた。もちろん、あんなふうに女と話をするものではない、ましてあのような婦人たちと、――より正しく言えば、あのような婦人とは、というのはタチヤナ・パーヴロヴナは、わたしの眼中にないからだ。たしかに、あのような身分の婦人に面とむかって、『あなたの陰謀など唾棄《だき》すべきだ』などとはぜったいに言うべきではないかもしれない、ところがわたしはそれを言ってのけた、そしてまさにそのことが満足なのである。他のことはとにかく、あの語気によってわたしの立場を滑稽《こつけい》なものにしていたいっさいの要素をぬぐい去った、と少なくともわたしは確信していた。しかしその考えをつきつめていく時間がわたしにはなかった。わたしの頭の中にはクラフトがわだかまっていた。彼がわたしをそれほど極度に苦しめぬいたというのではなかったが、それでもやはりわたしは心底までゆさぶられた。ともあれ、足を折ったとか、名誉を失ったとか、愛する者に死なれたとか、そうした他人の不幸を見ていささか満足をおぼえるような普通の人間的感情、このありふれた卑劣な優越感があとかたもなく消えて、別な、きわめて純粋な感情、つまりクラフトの死を悼《いた》む悲しみ、同情と言えるかどうかは知らないが、なにか強い善良な感情が、わたしの胸に生れたのである。そしてこのことにもわたしは満足であった。ある重大な知らせに心底から完全にゆさぶられて、それが、ほんとうを言えば、他のもろもろの感情をおしつぶし、いっさいの無関係な、特に些細《ささい》な考えを追いはらってしまうのが当然と思われるようなときに、かえってたくさんの無関係な考えが頭の中にちらちらうかぶのは、なんともふしぎなことである。それどころか、些細な考えほど逆に這《は》いこんでくるのだ。これもおぼえているが、かなり感傷的な神経のおののきがしだいにわたしの全身にみなぎりわたって、それがしばらくつづき、家へもどってヴェルシーロフと話し合っているあいだも消えなかったのである。
この話合いは奇妙な異常な状況の中でおこなわれた。わたしたちが庭の中の独立した離れに住んでいたことは、まえに述べたが、この家屋が十三号にあたっていた。まだ門に入らないうちに、かんばしったじれったそうなきんきん声で、『十三号はどちらですの?』と誰かに訊いている女の声が、わたしの耳についた。それは一人の婦人が、門のすぐわきで、小店の戸をあけて訊いたのだった。だが、なんの返事ももらえなかったか、あるいはかえって追いはらわれたかしたと見えて、彼女はかっとなって、癇《かん》をたかぶらせて小さな入口階段を下りてきた。
「いったいここの門番はどこにいるの?」と彼女は足を踏み鳴らして叫んだ。わたしはもうさっきからその声に気づいていた。
「ぼくはその十三号へ行くのですが」とわたしは彼女のそばへ歩みよった、「誰にご用です?」
「わたしはもう一時間も門番をさがしてますのよ、みんなに訊いてみましたし、どの階段ものぼってみましたわ」
「それは庭にあるんですよ。あなたはぼくがわかりませんか?」
彼女はわたしに気がついた。
「ヴェルシーロフに会いたいのでしょう。彼に用があるのですね、ぼくもですよ」とわたしはつづけた、「ぼくは彼と永久に別れるために来たんですよ。さあ行きましょう」
「あなたはあの人の息子さんでしょう?」
「そんなことはなんの意味もありません。仮に息子だとしても、ぼくはドルゴルーキー、私生子ですよ。あの男には私生子は無数にいますよ。良心と名誉の要求があれば、実の息子だって家を出るでしょうよ。それは聖書にもありますよ。かててくわえて、彼には遺産が入ったんです、ぼくはそんな分け前をもらうのはまっぴらです、自分の手ではたらきたいですね。必要とあれば、心の高潔な者は生命をさえ犠牲にします。クラフトは拳銃で自分の生命を絶ちました、クラフトが、思想のために、いいですか、若い男ですよ、希望をよせられていた……こちらです、こちらですよ! ぼくらは離れに住んでいるんです。聖書にもありますね、子供が父親のもとを去って、自分で巣をつくる……思想がひきよせるなら……思想があるなら! 大切なのは思想ですよ、思想の中にすべてがあります……」
わたしは自分の住居につくまで、のべつこんなことを彼女にしゃべっていた。読者はおそらく、わたしがあまり自分を惜しまないで、必要とあれば、みごとにやっつけることに気づかれたであろう。わたしは真実を語ることを習得したいのである。ヴェルシーロフは家にいた。わたしは外套《がいとう》もぬがないで入っていった。彼女もである。彼女はおそろしくみすぼらしい服装をしていた。黒っぽい粗末な衣裳《いしよう》の上になにやらぼろきれがぶら下がっていたが、これはコートかマントのつもりらしかった。頭には古いはげちょろけのセーラー帽がのっていたが、これがひどく彼女を醜くしていた。わたしたちが客間へ入っていったとき、母はいつもの自分の場所に坐ってしごとをしていた。妹はようすを見に自分の部屋から出ようとして、そのままドアのところに立ちどまってしまった。ヴェルシーロフは例によってなにもせずにぼんやりしていたが、わたしたちを迎えて立ち上がった。彼はけわしい詰問の目をわたしに向けた。
「ぼくはなんの関係もありません」とわたしは急いでことわって、わきへ退いた、「ぼくは門のところでこのひとに会っただけです。このひとはあなたを訪《たず》ねていたのですが、誰もおしえてやらなかったんです。ぼくは別にぼくだけの用があるのですが、それはこちらが終ってからゆっくりお話ししましょう……」
ヴェルシーロフはそれでも依然として興味ありげにわたしの顔を見まもっていた。
「失礼ですが」と娘はかんばしった声で言った。ヴェルシーロフはそちらを向いた。「あたしいろいろと考えてみました、どうしてあなたが昨日あたしに金をくれようという気になったのか……あたしは……くだくだ言ってもしようがありません……これがあなたのお金です!」さっきのように、ほとんどわめくようにこう言うと、彼女はいきなり一束の札をテーブルの上に投げつけた、「警察の住所係であなたの住所をさがさなければならなかったのです、それでなければもっと早く持ってこれたのです。お聞きください!」彼女はいきなり母を振向いた。母は顔を蒼白《そうはく》にした。「あたしはあなたを侮辱したくはありません。あなたは正直そうなお方ですし、おそらく、そちらはあなたの娘さんでしょう。あなたがこの男の奥さんかどうかは、知りませんけど、あたしはっきり申しあげておきますが、この男は家庭教師や女教師がなけなしの金をはたいて新聞に出した広告を切りぬいて、そうした不幸な女たちをさがし歩き、金を餌《えさ》にして恥ずべき堕落を強《し》い、不幸におとしいれているのです。どうして昨日こんな金を受取ることができたのか、あたしには自分がわかりません! この男がいかにもりっぱな人のように見えたものですから!……近よらないで、なにも言わんでください! あなたはごろつきです、悪党です! もし仮にりっぱな意図をもっていたにしても、あたしはあなたの情けは受けません。よしなさい! 一言も許しません! おお、今こそあなたの女たちのまえであなたの化けの皮をひんむいてやることができて、あたし胸がすっとしたわ! あなたみたいな男は、呪《のろ》い殺されるがいい!」
彼女は急いで出てゆきかけたが、扉口《とぐち》のところで振向いて、こう叫んだ。
「あなたは遺産にありついたそうだわね!」
そのまますっと影のように消えてしまった。改めて言っておくが、彼女は正気を失っていた。ヴェルシーロフは深い衝撃を受けた。彼は深く考えこんだふうで、なにごとか思案しながらじっと立ちつくしていたが、やがて、不意にわたしを振向いた。
「きみはあの女をぜんぜん知らんのかね?」
「さっき偶然にワーシンのアパートの廊下で見かけたのですが、ひどく逆上して、あなたのことをわめきちらしていました。話には加わらなかったし、なにも知りません、そして今門のところで会ったんです。あれが、『算術を教えます』という昨日の女教師なんですね?」
「そう、その女だよ。一生に一度いいことをしたのに……ところで、きみの用事は?」
「この手紙です」とわたしは答えた。「説明は要《い》らないと思います。これはクラフトからぼくへ来たので、クラフトは死んだアンドロニコフから託されたのです。読めばわかるでしょう。一言つけくわえておきますが、いまはこの世で、ぼく以外、もう誰もこの手紙のことを知ってる者はいません。クラフトは、昨日この手紙をぼくに渡して、ぼくが去ると同時に、拳銃自殺をとげましたので……」
わたしが息をきらして、せかせかとしゃべってるあいだ、彼は手紙を受取った左手を宙に浮かしたまま、注意深くわたしの言うのを聞いていた。わたしはクラフトの自殺を知らせたとき、その効果を見ようとして、目に特に注意をこめて彼の顔を凝視した。ところがどうだろう?――この知らせが毛筋ほどの感銘も彼にあたえなかったのである。彼は眉さえも動かさなかった。それどころか、わたしが言葉を切ったのを見ると、彼は、決してはなしたことのない、黒いリボンのついた、例の柄付《えつき》眼鏡をとりだして、手紙を蝋燭《ろうそく》のそばへもっていき、ちらと署名へ目をやってから、鋭い眼光でやおら行を追いはじめたのである。この傲慢《ごうまん》な非情さにわたしがどれほどの屈辱をおぼえたか、わたしには言いあらわせない。彼はクラフトをよく知っているはずであった。くわえて、なんといってもこのような異常な知らせではないか? だから、わたしとしては、当然、それが効果を生むことを期待したわけである。三十秒ほど待って、手紙が長いものであることを見てとると、わたしはくるりと背を向けて、客間を出た。トランクはもうとうに準備ができていて、いくつかの物を包みにすればよかった。わたしは母のことを考えた、そういえばさっきは母のそばへ行ってやらなかった。十分ほどして、もうすっかり支度《したく》ができて、馬車を呼びに出てゆこうとしていると、妹がわたしの屋根裏部屋へ入ってきた。
「これお母さんが兄さんに六十ルーブリお返しするようにって、それからアンドレイ・ペトローヴィチにこの金のこと言ってしまったことを、もう一度くれぐれも兄さんに詫《わ》びを言ってくれって。それからこれもう二十ルーブリ。兄さんは昨日食費として五十ルーブリ渡したけど、お母さんは三十ルーブリ以上はどうしたってもらえないって。だって五十ルーブリはかかっていないから、この二十ルーブリはおつりだそうよ」
「それはありがとう、お母さんの言うことがほんとうならだよ。じゃ、元気でな、リーザ、これでぼくは出るよ!」
「いまごろどこへ?」
「とりあえず宿屋へ行くよ、どうしてもこの家に寝るのがいやなんだよ。お母さんに伝えてくれ、ぼくはお母さんを愛してるって」
「お母さんは知ってるわ。兄さんがアンドレイ・ペトローヴィチを愛してることだって、お母さんは知ってるのよ。あんな不幸な女を連れてきたりして、兄さんは恥ずかしいと思わないの!」
「誓って言うけど、あれはぼくじゃないよ。ぼくは門のところで会っただけなんだ」
「いいえ、兄さんが連れてきたんだわ」
「うそじゃない……」
「よく考えて、自分に訊《き》いてみるといいわ、そしたら兄さんが原因だってことがわかるから」
「ぼくはただ、ヴェルシーロフが恥をかかされたのが、無性に嬉しかっただけさ。おどろくだろう、彼にはリーディヤ・アフマーコワに生ませた乳呑《ちの》み子《ご》がいるんだよ……しかし、こんなことをおまえに言うとは……」
「彼に? 乳呑み子? でもそれは彼の子供じゃないわ! そんな誹謗《ひぼう》をどこから聞いたの?」
「なあに、おまえなんかのわからぬことさ」
「あたしがどうしてわからないの? だってあたしはその赤ちゃんをルガでおもりしたのよ。兄さん、聞いて。あたしまえまえから見ていたんだけど、兄さんはそういうことをなんにも知らないんだわ、それなのにアンドレイ・ペトローヴィチを、そしてお母さんまでも、侮辱したりして」
「もし彼が正しければ、ぼくがまちがっていたことになる、それだけのことさ。だがおまえを、ぼくは誰にもおとらず愛しているんだよ。どうしたんだい、そんなに赤くなったりして? そら、ますます赤くなったじゃないか! まあ、いいさ、だがぼくはやはりあの公爵の野郎に決闘を申込むつもりだよ、エムスでヴェルシーロフにくわえた頬打《ほおう》ちの返報にな。もしヴェルシーロフがアフマーコワと潔白なら、なおのことだ」
「兄さん、しっかりして、なにを言ってるんです!」
「幸い裁判|沙汰《ざた》は決着がついた……おやおや、今度は蒼《あお》くなったな」
「でも公爵は兄さんと決闘なんかしないわ」とリーザは恐怖のかげから蒼ざめた笑いを見せた。
「そしたら公衆の面前で恥をかかせてやるさ。おい、どうしたんだ、リーザ?」
彼女はすっかり血の気を失って、立っていることができないで、ふらふらとソファの上にくずれた。
「リーザ!」と階下から母の呼ぶ声が聞えた。
彼女ははっとして、立ち上がった。彼女はやさしくわたしに笑いかけた。
「兄さん、そんなばかな考えはすてなさいな、でなかったら、もっとたくさんのことがわかるまで待つことね。兄さんはあまりにも知らなすぎるもの」
「ぼくはおぼえておくよ、リーザ、ぼくが決闘の話をしたとき、おまえが真《ま》っ蒼《さお》になったことをな!」
「そうよ、そうよ、それを思い出してね!」彼女はお別れにもう一度にこッと笑ってみせて、下へ下りていった。
わたしは辻馬車を呼んで、馭者《ぎよしや》に手つだわせて部屋から荷物を運び出した。家の者は誰もわたしに逆《さか》らわなかったし、引止めもしなかった。わたしはヴェルシーロフに会いたくないので、母に別れを言いに寄らなかった。もう馬車に乗りこんでから、不意にある考えがひらめいた。
「フォンタンカのセミョーノフスキー橋のところへやってくれ」とわたしは急に馭者にどなった、そしてまたワーシンのところへ向けた。
ワーシンはもうクラフトの自殺を知っているのではないか、ひょっとしたらわたしの百倍も詳しく知っているかもしれない、という考えがふとわたしの頭にきた。はたしてそのとおりだった。ワーシンはすぐに、そうしなければならないみたいに、すべてを詳細にわたしに知らせてくれたが、しかし、それほど興奮しているようすもなかった。わたしは彼が疲れているのだろうと思った、そして事実そうだった。彼は今朝クラフトのところへ行ったのである。クラフトは昨日もうすっかり日が暮れてから拳銃で(わたしが見たあの拳銃である)自殺したことが、その日記から明らかになった。日記の最後の記録は死の直前になされた、そしてほとんど暗闇《くらやみ》の中で、かろうじて文字を見分けながら書いている、と記されていた。死後火事が起ることをおそれて、蝋燭をともさないと書き、さらに『ともせば、発射の寸前にまたぼくの生命を消すように消さねばならぬ、それはいやだ』とほとんど最後の行に奇妙なことをつけくわえていた。この死の直前の日記を彼は一昨日ペテルブルグへもどったその日に、まだデルガチョフを訪《たず》ねるまえに、すでに計画していた。彼はわたしが帰ったあと、十五分ごとに書きこみをしていた。最後の三つか四つの覚え書は五分おきに書きこまれていた。ワーシンがかなり長い時間その日記を目のまえにしていながら(彼はそれを読ませられたのである)、写しをとらなかったことに、わたしはおどろきよりも怒りを感じた、ましてせいぜいノート十六ページぐらいのもので、感想はみな短いものばかりだったというのである。『せめて最後の一ぺージだけでも!』するとワーシンは苦笑しながら、それは知っているけど、しかし感想はおよそ系統というものがなく、頭にうかぶものをただ書きつらねただけのものだから、とわたしに言った。わたしはそれがこういう場合は貴重なものなのだと説得しようとしたが、やめて、なにか思い出してくれとしつこくたのみはじめた、すると彼はいくつか思い出してくれた。たとえば、自殺の一時間まえに『悪寒《おかん》がした』こと、『体をあたためるために、ウオトカを一杯飲もうと思ったが、そのために出血がひどくなるのではないかと考えて、飲むのをやめた』こと。すべてがこうした調子なのだ、――こうワーシンは結論した。
「それをあなたはつまらないことだと言うのですね!」とわたしは叫んだ。
「いつぼくがそんなことを言いましたか? ぼくはただ写しをとらなかっただけですよ。しかし、つまらないことでないにしても、日記は事実かなり平凡なもので、いや、それよりも自然なものと言うべきですが、つまりあのような場合に当然書かれなければならないようなものでした……」
「しかし最後の思想じゃありませんか、最後の!」
「最後の思想というものは往々にしてきわめてつまらないものです。あるやはり自殺者がやはり同じような日記の中で、このような重大な瞬間にせめて一つでも『最高の思想』が訪れてくれてもよさそうだが、反対に、頭にうかぶのは些細な空虚な思想ばかりだ、と嘆いていましたよ」
「では、悪寒がするということ、それも空虚な思想ですか?」
「と言うと、あなたは、実は、悪寒とか出血とかいうことを問題にしてるんですね? だが、事実が語っていますけど、自殺であるなしにかかわらず、自分のさしせまった死について考える力のある者のひじょうに多くが、必ずといっていいほど死体を醜い状態にさらしたくないと考える傾向があるものです。その意味でクラフトも多量の出血をおそれたわけです」
「そんな事実があるかどうか……そしてほんとうにそうなのかどうか、ぼくは知りませんが」とわたしは口ごもりながら言った、「しかしぼくは、あなたがこれを自然なこととしてあっさりかたづけているのにおどろくのですよ、だってクラフトがわれわれといっしょに語ったり、興奮したりしていたのは、つい昨日のことじゃありませんか! いったいあなたは彼をかわいそうとは思わないのですか?」
「おお、そりゃもちろんかわいそうだと思うさ、でもそれはぜんぜん別問題です。まあ、いずれにしてもクラフト自身が自分の死を論理的結論として表現したのですよ。昨日デルガチョフのところで彼を論じたことがすべて正しかったということになります。彼の死後かなり衒学《げんがく》的な結論を書きつらねた一冊のノートがのこされたのですが、それによるとロシア人が二流の民族だということを、骨相学、頭蓋《ずがい》学、さらには数学の立場から論じて、結局、ロシア人として生きる価値はまったくないとしている。そうですね、ここで際《きわ》だった特徴をあげるとすれば、論理的結論なんてものは好きなようにつくりだせますが、その結論にもとづいて拳銃で自分の生命を絶つということです。こんなことは、言うまでもなく、めったにないことですよ」
「少なくともその気概には敬意を表さねばなりませんね」
「たぶんね、しかもそれだけにとは言えないかもしれませんよ」とワーシンはあいまいに言った、しかし言外に愚かさか理性の弱さということを匂《にお》わせたことは明らかであった。そうしたことがわたしを刺激した。
「あなた自身が昨日感情論をぶったじゃありませんか、ワーシン」
「今でも否定しませんよ。しかし決行された事実を見ると、そこには重大な誤謬《ごびゆう》があることがわかるので、事物を冷静に見る目ならおのずから、なんと言いますか、憐憫《れんびん》の情そのものをもしめだしてしまうのですよ」
「実を言うと、ぼくはさっきあなたの目を見て、あなたがクラフトを非難することは読んでいたんですよ、それで、非難を聞きたくないから、あなたの意見を求めないことに決めたんです。ところがあなたのほうからそれを言いだしてしまったし、ぼくはいやでもそれに同意しないわけにはいきません。しかし、ぼくはあなたに不満です! ぼくはクラフトがかわいそうです」
「どうやら、ぼくらは深入りしすぎたようですね……」
「うん、そうですね」とわたしはさえぎった、「しかし少なくとも、こうした場合は、いつも、生きのこった者が故人を批判する立場になって、腹の中でひそかに、『あんないい男を殺してしまって、まったくかわいそうなことをした、ほんとうに惜しい男だった、でもおれたちは生きのこったんだ、なにもそう気に病むことはないさ』と言えるのが、せめてもの慰めですよ」
「そりゃもちろんですよ、そういう見方をすれば……あッ、きみは、冗談を言ったんですね! なかなかやるじゃないですか。ぼくはこの時間に茶を飲むことにしてるので、今から支度させますが、あなたもつきあってくれるでしょうね」
そう言いながら彼は、わたしのトランクと包みを見まわして出ていった。
わたしは実際にクラフトの仕返しになにか意地のわるいことを言ってやりたかったので、あんなことを言ったのだが、まんまと図にあたった。それにしても、彼がはじめ『おれたちのような生きのこった者』というわたしの考えをまじめに受取りかけたというのは、興味あることだ。だがどっちにしても、やはり彼のほうがすべての点で、しかも感情においてさえ、わたしより正しいのである。わたしはいささかの不服もなくそれを認めたが、しかし彼がきらいなことをはっきりと感じた。
茶がはこばれてきたとき、わたしは彼に、今夜一晩だけ泊めてもらえまいか、もし都合がわるいなら、遠慮なく言ってもらいたい、そうしたら宿屋へ行くつもりだから、と言った。つづいて簡単にその理由を述べ、ヴェルシーロフとついに決裂したことを、率直に、ごくあっさりと出したが、よけいなことは言わないようにつとめた。ワーシンは注意深く、しかしすこしの動揺の色もなく聞きおわった。だいたい、彼は問われたことにしか答えなかった。といって別に話がきらいなのではなく、嬉《うれ》しそうに、しかもかなりていねいに答えるのである。手紙のことは、さっきは助言を求めに来たほどなのに、わたしはなにも言わなかった。そしてさっき訪ねてきたのはただ立ち寄ってみただけだと説明した。この手紙はわたし以外の誰も知ることはないだろうと、ヴェルシーロフに言いきったので、わたしはもはやそれを誰にも打明ける権利が自分にないものと決めていた。わたしはどういうものか、ある事柄についてワーシンに語るのが、たまらなくいやになった。それはある事柄だけであって、ほかのことではない。というのは、さっき廊下と隣室でもちあがって、ヴェルシーロフの住居で決着した事件を話して、彼の興味をそそったからである。彼は極度に注意深く、特にステベリコフについては熱心に聞きおわった。ステベリコフがデルガチョフのことをしつこいほどに訊きだそうとしたというところなどは、二度も訊きかえして、考えこんでしまったほどだったが、それでも、しまい近くになるとにやりと笑った。その瞬間わたしは、ワーシンはどんなときにもぜったいにへこたれない男だと思った。ところで、この最初の考えは、今でもおぼえているが、彼にとっては願ってもない形でわたしの頭にきたのであった。
「概して、ぼくはステベリコフ氏の話から多くをひきだすことはできませんでしたね」とわたしはステベリコフの話を結んだ、「なんか話にまとまりがないし……なんだか軽薄なところがあるようで……」
「彼はたしかに言葉の才能にめぐまれていません、だがちょっと見ただけで、きわめて適切な評を下すこともあるんですよ。それにだいたい――思想を伝えるというよりも、実務の人、投機的事業に勘をきかせるというほうの人ですから、そういった点から見てやらんといけません……」
まさにわたしがさっき想像したとおりである。
「しかし、隣ではえらい大騒ぎをやらかして、どうなることかと思いましたよ」
ワーシンは隣室の女たちについて、三週間ほどまえにどこか地方から越してきたこと、部屋がひどく狭く、どう見てもひじょうに貧窮しているらしいこと、いつもひきこもってなにかを待ちうけているらしいことなどを語った。彼は若いほうの女が家庭教師の新聞広告を出したことは知らなかったが、ヴェルシーロフが訪ねてきたことは聞いていた。それは彼の留守のあいだのことで、主婦に聞いたというのである。隣室の女たちは誰ともつきあわないで、主婦をさえさけるようにしていた。この数日は彼も、隣室にはたしかになにかよくないことがあるらしいとは、うすうす気づいていたが、今日のようなそんな騒ぎはなかった。隣室の女たちのこうした噂《うわさ》をくどくどと書くのは、あとで起った事件のためである。こんな話をしているあいだ、当の隣室はひっそりとしずまりかえっていた。ステベリコフが隣室の女たちのことを主婦の耳に入れておかねばならぬと言って、『いまに見てなさい、いまに見てなさい!』と二度くりかえしたということを、ワーシンは特に強い関心をもって聞いた。
「そう、そりゃいまにわかりますよ」とワーシンはつけくわえた、「それが無意味に彼の頭にきたのでないことが。そういうことにかけては彼は実に鋭い目をもってるんです」
「じゃ、あなたは、彼女たちを追い出すように主婦にすすめるべきだというのですか?」
「いや、ぼくは追い出せなんてことを言ってるんじゃない、なにか事件が起きなければいいがと……しかしまあ、およそそうした事件というものは、どっちにしたっていずれは決着がつくものですよ……こんな話よしましょうや」
ヴェルシーロフが隣室を訪ねた問題については、彼は結論を出すことをきっぱりと拒否した。
「どんなことだってありうることですよ、人間がふところにありあまる金を感じたらね……しかし、おそらくただほどこしをしただけじゃないですか。それは――彼の育ちからも考えられるし、もしかしたら、そういう癖をもってるのかもしれないし」
わたしはステベリコフがさっき乳呑み子についてしゃべったことを話した。
「ステベリコフはこの件では完全にまちがっています」とワーシンは特に厳粛な顔をして、特に力をこめて言った。(そしてこれをわたしははっきりとおぼえている)
「ステベリコフは」と彼はつづけた、「ややもするとその経験からわり出した思考力を過信しすぎて、自分のロジックにあわせて結論を急ぎすぎることがあるんです。もっともこのロジックがたいていは実に透徹しているんですが。ところで、登場人物によっては、事件がたしかに実際以上にファンタスチックな意外な色彩をおびることがあるものです。この場合もそうだったわけで、事件の一部を知って、赤んぼうがヴェルシーロフの子供であると、彼は結論したわけです。ところが、赤んぼうはヴェルシーロフの子供ではないのです」
わたしはしつこく彼を責めたてた、そして次のようなおどろくべき事実を知ったのである。幼な子はセルゲイ・ソコーリスキー公爵の子供であった。リーディヤ・アフマーコワは、病気がそうさせるのか、あるいは単に空想的な性格のためか、どうかすると気ちがいじみた行動をすることがあった。彼女はまだヴェルシーロフを知るまえに公爵に熱をあげた、そして公爵は『あっさり彼女の愛を受入れた』。これはワーシンの表現である。関係がつづいたのはそれこそ束《つか》の間《ま》のことで、二人は、もう知られているように、いがみ合いをやらかして、リーディヤが公爵を追っぱらったわけだが、『そちらはこれ幸いと逃げだしたらしい』というのである。
「彼女はひどく変った娘だったらしく」とワーシンはつけくわえた、「ときには理性が常態でなかったということも、大いにありうることですね。ところで、公爵はパリへ去るときに、自分の犠牲者の体が普通でなかったことは、まったく知らなかったし、最後まで、つまりもどってくるまで、知らなかったんです。ヴェルシーロフは、若い娘の友だちになると、結婚を申込んだわけですが、それはほかでもない、この事実を考慮したからこそです(両親はほとんど最後までこれには気づかなかったらしいですね)。恋のとりことなっていた娘はすっかり感激してしまって、ヴェルシーロフの申し出に『彼の自己犠牲ばかりを見たわけではなかった』が、しかしそれをありがたいことに思ったことも事実ですね。もっとも、言うまでもなく、そういうことにかけては彼はうまいですからね」とワーシンはつけくわえた。「子供は(女の子でしたが)一カ月か、あるいは六週間とかいいましたが、早産だったそうで、ドイツのどこかに里子に出されたのですが、その後ヴェルシーロフがひきとって、今はロシアのどこかで育てられてるはずです。ペテルブルグかもしれませんね」
「じゃ、黄燐《おうりん》マッチはどうなんです?」
「それはぼくはなにも知りませんね」とワーシンはきっぱりと言った。「リーディヤ・アフマーコワは産後二週間ほどして死んだのですが、そこにどんなことがあったのか――ぼくは知りません。公爵はパリからもどってはじめて、子供のことを知ったのですが、はじめは自分の子だとは信じられなかったらしい……だいたい、この事件はいまだに厳重な秘密にされているんですよ」
「しかしその公爵はなんてやつだ!」とわたしは憤然として叫んだ。「病気の娘になんてことをしやがったんだ!」
「そのときはまだそれほどの病気ではありませんでしたよ……しかも彼女のほうから彼を追いはらったんです……もっとも、彼も失寵《しつちよう》をいいことに逃げを急ぎすぎたそしりはまぬがれませんがね」
「あなたはあんな卑劣漢を弁護するのですか?」
「いや、ただぼくは彼を卑劣漢と呼ぶことはしませんね。ここにはいきなり卑劣とかたづけてしまわれない要素が、たくさんあります。だいたい、これはかなり通俗的な事件ですよ」
「ところで、ワーシン、あなたは彼をよく知ってたんですね? ぼくはどうしてもあなたの意見を重視したいのですよ、ぼくに密接な関係のあるある事情を考えるために」
しかしワーシンはどういうものかごくひかえめな返事しかしなかった。公爵を彼は知っていた、が、どういう事情の下で知り合ったのかは――明らかにふくむところがあってにごした。さらに彼は、性格的に公爵はいくらか大目に見てやらなければならないところがある、と語った。『彼はひたむきな誠意は十分にあり、感受性も強いが、自分の欲望を制御するに足るだけの理性にも、意志にも欠けている』というのである。要するに――教養のない男で、多くの思想や現象を理解することは力にあまるが、そのくせそういうものにとびつきたがる。たとえば、人をつかまえて次のようなことを執拗《しつよう》に説得しようとする。『ぼくは公爵で、リューリック(訳注 ロシアの創始者)の後裔《こうえい》だ、しかし自分ではたらいてパンを得なければならず、しかもほかにできるしごとがないとしたら、靴屋の弟子《でし》になることがなぜいけないのだ? 看板に、何某公爵靴店と書いたら――それこそ品があっていいじゃないか』などと言い張る。
「一度言いだしたら、必ずやる――これが問題なんですよ」とワーシンはつけくわえた、「ところがそこには確信というものがぜんぜんなく、軽薄きわまる感傷だけなのです。だから、次には必ず後悔の念におそわれる、すると今度はまるで反対の極端へつっ走ろうとする。ここに彼の全生涯があるのですよ。現代は多くの人がこうしてジレンマにおちこんでいますがね」とワーシンは結んだ、「現代に生れたばっかりにね」
わたしは思わず考えこんだ。
「彼がまえに連隊を追われたというのは、ほんとうですか?」とわたしは訊《き》いた。
「追われたかどうかは知りませんが、おもしろくないことがあって出たことは事実です。彼が去年の秋、退官してから、二月か三月ルガにいたことは知ってますね?」
「ぼくは……ぼくは知ってますよ、あなたもそのときルガにいましたね」
「そう、ぼくもしばらくいました。公爵はリザヴェータ・マカーロヴナとも親しくしてましたよ」
「そうですか? 知りませんでした。実を言うと、ぼくは妹とほとんど話したことがないんです……でも、いったい母が彼の出入りを許したんでしょうか?」とわたしは思わず大きな声を出した。
「いや、そんなことはありません。彼はよその家庭を通して知合いになったので、直接出入りはしてませんでした」
「そうだ、妹がその赤んぼうのことを話していたようだったが? 赤んぼうもルガにいたんですか?」
「しばらくね」
「じゃ、今はどこにいるんです?」
「きっとペテルブルグだと思いますね」
「ぜったいにぼくは信じない」とわたしは極度の興奮にかられて叫んだ、「母がそのリーディヤとの事件にすこしでも関係してたなんて、そんなことがあってたまるものか!」
「この事件では、まあそうしたいろんな裏面工作はともかくとして、そんなことをぼくは追及しようとは思いませんがね、それ以外にはヴェルシーロフの役割はもともととりたてて非難さるべき点はなにもなかったのですよ」とワーシンはおおらかな微笑をうかべながら言った。彼はわたしと話しているのがわずらわしくなったらしいが、ただそれを顔に出さないだけであった。
「ぼくは信じない、ぜったいに信じない」とわたしはまた叫んだ、「女が自分の良人《おつと》を他の女にゆずることができるなんて? そんなばかなことがあるものか!……ぼくは誓って言うが、母はこの事件には関係していない!」
「しかし、反対はしなかったようですね?」
「ぼくが母の立場だったら、ただ自分の誇りだけのためにも反対はしないでしょうね!」
「ぼくの立場からは、こうした問題の判断はきっぱりことわるほかはありません」とワーシンは結んだ。
実際に、ワーシンは、あれほどすぐれた頭脳をもちながら、女のことはとんとわからなかったらしい。そのために思想と現象の一連の輪がわからないままにのこったのである。わたしは沈黙した。ワーシンは臨時にある株式会社に勤めていて、家にしごとを持ちかえっていることをわたしは知っていた。わたしがしつこく問いつめると、彼はいまも計算のしごとがあることを白状した、それでわたしは遠慮なくやってくれるように熱心にたのんだ。それが彼には嬉しかったらしい。しかし、しごとにとりかかるまえに、ソファにわたしの寝床をしきのべてくれた。最初はわたしに寝台をゆずったが、わたしが同意しなかったので、それもどうやら嬉しかったらしい。主婦のところから枕《まくら》と毛布を借りてきた。ワーシンはきわめていんぎんで親切だったが、わたしのためにいろいろと気を配ってくれるのを見ているのが、わたしにはなにか心苦しかった。わたしは一度、三週間ほどまえに、ペテルブルグ区のエフィムのところに泊ったことがあったが、そのときのほうが気が楽だった。おぼえているが、あのときもソファにエフィムが寝床をしいてくれたが、どういうわけだか、友だちが泊りに来るのを伯母に知られたら、それこそ大目玉をくらうぞとびくびくもので、そっと支度してくれたのだった。シーツの代りにシャツをしき、枕の代りに外套をまるめて、わたしたちは大笑いをした。エフィムは、寝床をのべおわると、思い入れよろしくソファをポンと叩いて、フランス語でこう言ったものだ。
「Vous dormirez comme un petit roi(おやすみあそばせ、王子さま)」
そしてこの愚かしい陽気さと、牛に鞍《くら》をおいたみたいなおよそ似合わない彼のフランス語のおかげで、わたしはこの道化者の部屋に快く熟睡することができたのだった。ところでワーシンはと言えば、彼がやっとこちらに背を向けてしごとをはじめたときに、わたしははじめてほっと蘇生《そせい》の思いがした。わたしはソファの上に寝ころんで、彼の背へ目をやりながら、長いこといろいろなことを考えていた。
たしかに考えることがたくさんあった。わたしの心の中はすべてが混沌《こんとん》としていて、ひとつもまとまりがなかった。いくつかひじょうに鮮明にうかび出る感じはあったが、しかしあまりにも多すぎるために、どの一つもわたしの心をすっかりひきつけることはできなかった。すべてがなにか漫然とつながりも順序もなくちらちらするだけで、わたしもまた、おぼえているが、どれにもとどまりたくもなかったし、また順序をつけようという気もなかった。クラフトをめぐる考えさえもいつのまにか背面へしりぞいてしまった。なによりもわたしの胸を騒がせたのは、自分の今の立場で、今はもう『絶ち切って』しまった、トランクはここにある、もう家にいるのではない、まったく新しい一歩をふみだしたのだ、という考えであった。あたかもいままではあらゆるわたしの企画や準備があそびごとで、今ようやく『急に、しかも注目すべきは、突然に、いっさいが実際にはじまった』かのようであった。この考えはわたしを元気づけた、そしてわたしの心がさまざまな考えで混沌としていたとはいえ、わたしの気持を明るくした。しかし……ほかの感じもあった、そしてその一つがむりやり群れの中からおどり出て、わたしの心を一人じめにしようとした、そしてふしぎなことに、その感じもわたしをはげまして、なにやらおそろしく陽気なことへ突きやろうとするらしかった。とはいえ、これは恐怖からはじまったのである。わたしはもうあの直後から、ずっと、かっと逆上してうかつにもあの手紙のことをアフマーコワにしゃべりすぎてしまったことが、気になっていた。『たしかに、おれはしゃべりすぎた』とわたしは考えた、『ひょっとしたら、彼女らはなにかを察したかもしれない……まずいことをした! もちろん、疑いだしたら、おれをそっとしてはおくまい、だが……かまうものか! おそらく、見つけられまいさ――かくれてしまうのだ! だが、本気でおれの追跡をはじめたら、どうしよう……』。すると、さっきわたしがカテリーナ・ニコラーエヴナのまえに立ちはだかって、彼女の傲慢な、しかし驚愕《きようがく》に充《み》たされた目がじっとわたしに注がれたときの光景が、まざまざとわたしの顔前にうかんできて、わたしの心をしだいに大きくなる満足で充たしはじめた。わたしは彼女を驚愕の中にのこしたまま、部屋を出ながら、ふとこんなことを思い出したのだった。『目は、しかし、真っ黒ではないな……睫毛《まつげ》が真っ黒いので、目もあんなふうに黒く見えるのだ……』
すると不意に、今でもおぼえているが、思い出すのがたまらなくいやになった……そして彼女らにも、自分にも、無性に腹がたって、胸がむかむかした。わたしはなにかで自分を叱《しか》りつけて、ほかのことを考えようとつとめた、すると『隣室の娘との件で、なぜおれはヴェルシーロフにすこしの怒りも感じないのか?』という考えが不意にわたしの頭にきた。わたしの見方では、彼が演じたのは色魔の役割であって、ちょっとつまみ食いをするためにここを訪れたことは、信じて疑わなかったが、そのこと自体はわたしを憤激させなかった。彼をそういう人間として以外には想像できないとさえ、わたしには思われた、そしてわたしは彼が恥をかかされたのを、実際に小気味よいと思ってはいたが、しかし彼を責めてはいなかった。わたしにとって重大なのはそんなことではなかった。わたしが重視したのは、わたしが隣室の娘と入っていったとき、彼があれほどの憎悪の目でわたしをにらんだという事実なのである。彼はこれまでにあのような目でわたしをにらんだことは一度もなかった。『ついに彼は真剣にぼくを見たぞ!』と思うと、わたしは胸がじーんとなった。おお、もしわたしが彼を愛していなかったら、彼の憎悪をこれほど喜びはしなかったろう!
ようやく、わたしはうとうとしだして、やがてすっかり眠りにおちた。ワーシンが、しごとを終えて、きちんとかたづけて、わたしのほうを注意深く見てから、服をぬぎ、蝋燭を消したのを、半分夢のようにおぼえているだけである。夜の十二時をまわっていた。
ちょうど二時間ほどたったころ、わたしは寝呆《ねぼ》け顔でなかば気が狂ったみたいにがばとはね起きて、ソファの上に坐った。隣室へ通じるドアのかげからものすごい叫び声や泣き声が聞えてきたのだ。わたしたちの部屋のドアはいっぱいに開いていて、もう蝋燭で照らされた廊下を、人々がなにやら叫びながら右往左往していた。わたしはワーシンを呼ぼうとしたが、彼はもう寝台にいないだろうと察した。どこにマッチがあるかわからないので、わたしは手さぐりで服をさがし、暗闇の中で急いで着はじめた。隣室へは、主婦も、他の間借人たちもつめかけているにちがいなかった。ところが、泣き叫んでいるのは一つの声だけだった。それはあの初老の女の声で、わたしがあまりにも鮮明におぼえているあの昨日の若い女の声は――まったく聞えなかった。これが、最初の考えとして、まっさきにわたしの頭にきたことを、おぼえている。わたしがまだ服を着おわらないうちに、ワーシンがあわただしく入ってきた、そしてとっさに、慣れた手でマッチをさがして、蝋燭に火をつけた。彼はシャツの上にガウンをひっかけただけの格好で、スリッパをつっかけていたが、急いで着替えをはじめた。
「どうしたんです?」とわたしは彼に叫んだ。
「実にいやな厄介なことがもちあがったよ!」と彼はほとんど腹だたしげに言った、「あなたが話してたあの若い娘が、部屋で首を吊《つ》ったんだよ」
わたしは思わずあッと叫んだ。どれほどわたしの心がうずいたか、言葉につくせない! わたしたちは廊下へ走り出た。告白するが、わたしは隣の部屋へ入ってゆく勇気がなかった、だからもう紐《ひも》から下ろされてから、やっと不幸な女を見たのだが、それも、すこし離れたところから、シーツをかけられた姿を見ただけで、シーツの下から小さな靴のかかとが二つ突き出していた。どういうわけか顔はのぞいて見なかった。母親はおそろしくとりみだしていた。そのそばに主婦がいたが、これはさっぱりおどろいたふうがなかった。間借人たちがのこらず集まっていた。人数はごくわずかだった。いつもはひどく口やかましく文句ばかり鳴らしているくせに、今はうそみたいに鳴りをひそめてしまった中年者の船員と、トヴェーリ県から来たとかいう、かなり品のいい役人風の老人夫婦だけであった。のこりの夜のばたばたした騒ぎと、その後の検死の模様などを、こまごまと書くことはやめよう。わたしは明け方まで文字どおり小刻みにふるえどおしで、なにもしはしないのに、まるでそれを義務みたいに考えて、横にならずに起きていた。それに、誰も彼もきわめて生き生きとした顔つきをして、なにか嬉しいことがあるようにさえ見えた。ワーシンなどはどこかへ馬車で出かけたほどである。主婦はかなりしっかりしていて、わたしが考えていたよりもはるかにりっぱな女だった。わたしは、母親をこうして娘の死体のそばに一人きりでおいておくことはいけないから、せめて朝まででもそちらの部屋へ移してやってはどうか、と主婦を説得した(これはわれながらいいことをしたと思っている)。主婦はすぐに同意した、そして母親ははじめは娘を一人きりにしておくのはいやだと言って、はげしく泣いて抵抗したが、結局はやはり主婦の部屋へ移った。主婦はすぐにサモワールの支度《したく》を言いつけた。そこで間借人たちもそれぞれ自分の部屋へひきとったが、わたしはやはりどうしても横になる気になれないので、そのままいつまでも主婦の部屋に坐っていた。主婦はかえって一人でも多く、しかもなにかと相談にのれる者がいてくれるのを喜んでいた。サモワールがひじょうに役だった。総じてサモワールというものは、あらゆる破局や不幸が起った場合、特にそれが不意におそいかかった、想像をこえた恐ろしいものであるほど、どうしても欠くことのできないロシア独特のありがたい道具である。母親は、もちろんうるさく、ほとんど無理じいにすすめられたうえであるが、茶を二杯も飲んだ。しかし、わたしは心から言うのだが、この不幸な母親に見たほどの、きびしい一途《いちず》な悲しみをわたしはかつて一度も見たことがなかった。はじめに幾度かおそった慟哭《どうこく》とヒステリーの発作がすぎると、彼女はむしろすすんで語りだした、そしてわたしはその話をむさぼるように聞いた。不幸な人々の中には、特に女には、このような場合できるだけ多くしゃべらせたほうがかえって楽になる者もある。また、いわば悲しみにすっかりすりへらされてしまったような人々もある。そういう人々は長い生涯をあまりにも多くの大きな悲しみと、常にたえることのない小さな悲しみに堪《た》えて、堪えて、堪えぬいてきたために、どんなことにも、どんな思いがけない破局にも、もうおどろかなくなり、しかもおどろくことは、最愛の者の柩《ひつぎ》をまえにしてさえ、これほど高価な犠牲をはらって身につけた卑屈な応対法の一細目をさえ忘れないようになるのである。だが、わたしはそれを非難するのではない。そこにあるのは俗悪なエゴイズムでもなければ、粗暴な無教養でもない。それらの心の中には、あるいは、うわべは女神のようなヒロインなどよりも、ずっと多くの黄金を秘めているかもしれないのである。それが長いあいだの屈従の習慣と、自衛の本能と、長年にわたる迫害とおびえによって、結局はおおいかくされてしまうのである。哀れな自殺した娘はこの点では母親に似なかった。もっとも、顔だちはよく似ていたような気がする。死んだ娘はたしかに美人と言えたが、母親もまだそう年寄りというほどではなく、せいぜい五十前後で、やはりブロンドの髪をしていたが、目と頬はおちくぼみ、大きな不ぞろいな歯は黄色くにごっていた。そう言えばぜんたいがなにか黄色っぽい感じで、顔や手の肌《はだ》も羊皮紙を連想させた。黒っぽい衣裳《いしよう》も古びてすっかり黄色っぽく変色していたし、右手の人さし指の爪には、どういうわけか、黄色い蝋《ろう》がたんねんにきちんとはりつけられていた。
哀れな母親の話はところどころ前後のつながりのないところがあった。わたしは自分がおぼえていることを、自分が理解したままに述べてみようと思う。
彼女たちはモスクワから来たのだった。彼女はもう長いこと後家をとおしてきた、それでも『七等官の家内』で、良人はりっぱに勤めていたが、死後はほとんどなにものこしてくれなかった、『わずかに二百ルーブリの年金がもらえることになっただけですが、それぽっちの金がなんになりましょう?』それでもオーリャを育てて、女学校へも入れた……『ところがほんとによくできる娘で、よく勉強して、卒業のときには銀メダルまでもらいまして……』(ここでややしばらくさめざめと泣いたことは、ことわるまでもない)。亡《な》くなった良人がこのペテルブルグのある商人にほぼ四千ルーブリ近い金を貸して、それがそのままこげつきになっていた。ところがその商人が急にまたしごとにあたって大金持になった。『わたしの手もとに証文がありましたものですから、相談いたしましたところ、請求しなさい、きっともらえるから、とみなさんが言ってくれましたので……』
「そこでお話をすすめてみますと、商人もだんだん承知してくれそうになりましたし、自分で出かけていったほうがいいなどと、みなさんがすすめてくださるものですから、オーリャと支度をして、もう一月まえになりますか、こちらへ着いたのでございます。ふところがとぼしいものですから、この部屋をお借りしたわけですが、と申しますのはいろいろ見た中でいちばん小さい部屋ですし、それにみなさんがいい方らしいので、これがわたしたちにはなによりでございまして。なにしろ世慣れない女二人ですから、だまされてばかりおりますので。そこでまあ、こちらさまへ一月分の家賃をお払いしまして、あちらこちらと歩きまわりましたが、ペテルブルグというところは恐ろしいところでございまして、商人はまるでわたしたちを相手にしてくれないで、『知りませんな、おまえさんなんぞ見たことも聞いたこともない』なんて言うじゃありませんか。そりゃ証文はずさんなものです、そんなことくらい自分でも承知してますよ。すると、これこれの有名な弁護士のところへ行ってごらんなさい、とすすめてくれる人がありまして、その先生はプロフェッサーで、ただの弁護士じゃなく、法律家だから、きっとどうしたらいいかおしえてくださるだろう、などと申しまして。そこでなけなしの十五ルーブリをもって訪ねますと、その弁護士が出てきて、わたしの説明を三分も聞かないで、『なるほど、そう、わかりました、商人は出そうと思えば――出すでしょう、出すまいと思えば――出さんでしょうな。訴訟など起したら――かえってあんたのほうが持出しになりかねませんよ、まず示談にするのがいちばんいいでしょうな』なんて言いまして、そのうえさらに聖書の文句をひいて、『道ある間に和せよ、然《しか》らずば最後の一カドランを失うに至るべし』なんてわたしをからかって、にやにや笑いながら、わたしを送りだしたんですよ。なけなしの十五ルーブリをなくしてしまいました! オーリャのところへもどって、しょんぼり顔をつきあわせて坐ると、わたしは泣きだしてしまいました。オーリャは泣かないで、えらいきつい顔をして、ぷりぷり怒っているのでございます。あの娘はいつも、死ぬまでずっと、あんなふうでございました。小さな子供のときでさえ、決して弱音をはいたり、泣いたりしたことがなく、じっと坐ったまま、恐ろしい目で見ているので、こっちが気味がわるくなってしまうほどでした。まさかとお思いになるでしょうが、わたしはあの娘を恐れていたのでございますよ、ほんとに気味がわるくて、もうずうっとまえからでございますが。ときどき泣きたいと思いましても、あの娘のまえだとなんだか気おされてしまって、それもできないのでございます。
これを最後と思って、わたしは商人のところへ行きまして、思いっきり泣いてやりました、ところが商人は、『もういいから、泣くのはおよしなさい』と言うだけで、聞いてくれようともしないのでございます。そうこうしてますうちに、あなたにありのままを白状しなければなりませんが、長く滞在するつもりじゃなかったものですから、もうだいぶまえから金をすっかり切らしてしまいまして、すこしずつ着るものをもちだしては、質に入れて、それで暮しているようなしまつでございました。わたしのものをすっかり入れてしまいましたので、あの娘は自分の最後の下着までわたしにさしだしたのでございます、わたしはもうこらえきれなくなっておいおい泣きました。あの娘はトンと床を踏み鳴らすと、いきなり立ち上がって、自分で商人のところへかけだしてゆきました。商人は男やもめで、あの娘としばらく話をすると、『明後日五時においでなさい、なんとか考えておきましょう』と言ったそうです。あの娘はもどってくると、にこにこしながら、『なんとか考えてくれるそうよ』と申しますので、わたしもほっとしましたが、なにかいやな胸さわぎがしたのでございます。これはなにかあるな、と思いましたが、こわくてあの娘にいろいろと訊いてみることもできません。その明後日にあたる日、あの娘は商人のところから真っ蒼な顔をして、がたがたふるえながらもどってくると、いきなり寝台に突っぷしてしまったのでございます――わたしはいっさいをさとりましたので、なにも訊きませんでした。どうでしょう、あなた、あの悪党め、あの娘に十五ルーブリ出して、『もし完全な処女だったら、もう四十ルーブリ足してやろう』こんなことを面とむかって、恥ずかしげもなく言ったんだそうですよ。あの娘が怒ってつかみかかると、悪党め、あの娘を突きとばして、隣の部屋に逃げこみ鍵《かぎ》までかけてしまったというのです。ところがわたしたちは、恥をしのんで正直に打明けますが、ほとんど食べるものもないしまつでございました。わたしたちは兎《うさぎ》の毛皮の裏のついたカーディガンを売りまして、あの娘はその金をもって新聞社へ行って、全課目と算術を教えますという広告を出してもらいました。『せめて三十コペイカずつぐらいは払っていただけるでしょう』なんて申しまして。おお、しまいにはわたし、あの娘が恐ろしくさえなりました。わたしには口もきかないで、何時間も窓際《まどぎわ》に坐ったきりで、むかいの家の屋根をじっと見つめて、だしぬけに、『下着の洗濯でもかまわない、土方でもいい!』なんて叫んで――そんなことばかり一言二言叫ぶかと思うと、足で床を踏み鳴らして。それにこの土地には知合いは一人もおりませんので、誰に相談のしようもありません。わたしたちはいったいどうなるのだろう? 一人でくよくよ考えましたが、あの娘とはやっぱりこわくて話のしようもありません。一度こんなことがございました、あの娘が昼寝をしていましたが、ふっと目をさますと、大きな目をひらいて、じっとわたしを見ました。わたしはトランクの上に腰かけて、やはりじっとあの娘を見ていました。あの娘は黙って立ち上がると、わたしのそばへ来て、わたしをかたくかたく抱きしめました、そのとたんにわたしたち二人はこらえきれなくなって、わっと泣きだしてしまいました、そしてそのまま坐って、抱き合ったまま、いつまでもいつまでも泣いていたのでございます。あの娘とこんなふうにして泣いたのは長い生涯ではじめてのことでございました。こんなふうにして抱き合って坐っておりましたところへ、お宅の女中さんのナスターシャが入ってきて、『どこかの奥さんがお会いしたいと訪ねてお見えです』と言うじゃありませんか。これはつい四日まえのことでございます。奥さんが入っていらっしゃいました、見るとたいそうごりっぱな身なりをしてらっしゃいまして、いくぶんドイツなまりのあるロシア語で、こうおたずねになりました、『新聞に家庭教師の広告をお出しになったのは、こちらでございますの?』わたしたちはすっかり喜んで、さっそく椅子をおすすめしました、すると奥さんがやさしく笑って申されるには、『わたしどもじゃございませんけど、わたしの姪《めい》のところが子供たちが小さいものですから。さしつかえなかったら、家へいらしていただけません、あちらでご相談いたしましょう』。そして住所をおしえてくれました、ヴォズネセンスキー橋の近くで、これこれ番地の何号と。そして立ち去りました。オーリャはその日さっそく出かけてゆきました、するとどうでしょう――二時間もすると真っ蒼な顔をしてもどってきて、いきなりヒステリーの発作をおこして、わめきちらすじゃありませんか。あとであの娘の言いますのには、こうなのでございます。『これこれ号の家はどちらでしょうか?』とあの娘が門番に訊くと、門番はあの娘をじろじろ見て、『あんた、あの家になんの用があるんだね?』と言ったそうです。その言い方のへんな調子から、もうそのときに気がついていいはずなのですが、なにしろあの娘はひどく気位が高くて、気が短いほうですので、そんな無礼な訊き方をされたらがまんができなかったのですね。『そっちへ行きな』こう門番は言って、指で階段をさすと、ぷいとむこうを向いて、番小屋へもどってしまったそうです。それから、あなた、どうなったと思います? あの娘が入っていって、ごめんくださいと言うと、とたんにあっちこっちから女たちがとびだしてきて、『あーら、いらっしゃい、さ、どうぞこちらへ!』なんて言って、みんな女ばかりで、厚化粧をして、いやらしい格好をして、げらげら笑いながら、とびまわったり、ピアノをひいたり、あの娘をひっぱったりするんですって。『わたし逃げようとしましたけど、もうはなしませんのよ』なんてあの娘は言ってましたよ。あの娘はすっかり怯気《おじけ》づいてしまって、膝《ひざ》ががくがくしてしまったそうですが、みんなははなしてくれないで、やさしいことを言って、なんとかまるめこもうとかかって、英国の黒ビールの栓《せん》をぬいて、飲ませようとするんですって。あの娘はとび上がって、ぶるぶるふるえながら声をかぎりに、『帰して、帰してください』と叫びながら、扉口《とぐち》へかけよったが、みんな扉をおさえてあけてくれません。あの娘はわっと泣きだしてしまいました。するとそこへさっき家へ来た女がとんできて、うちのオーリャの頬を二つひっぱたいて、扉口から突き出し、『とっととお帰り、なにさ、おまえみたいなぶすはこんな上品な家に住む資格はないんだよ!』とどなったそうです。すると別な女がもう階段をかけ下りようとするあの娘の後ろ姿に、『なにさ、食うに困って、自分でたのみに来たくせに、おまえみたいなおかめ面《づら》見たくもない!』とどなったというじゃありませんか。その夜は一晩じゅう熱病にかかったみたいに、うなされつづけておりましたが、朝になると、目がぎらぎら光って、歩きまわりながら、『訴えてやる、あの女を裁判所に訴えてやる!』なんて口走って。わたしは黙っていました。だって、裁判所にもちこんで、いったいどうなるというのです? あの娘はぐるぐる歩きまわっていました、手をもみしだいて、涙をぼろぼろこぼして、でも口はきっと引結んで。そしてそのときからあの娘の顔に暗いけわしい表情がでて、それが死ぬまで消えなかったのでございます。三日目になるとすこし楽になったようで、気がしずまったらしく、黙りこんでいました。その日の夕方の四時ごろでしたか、ヴェルシーロフさんがお見えになったのでございます。
ここで正直に申しあげますが、あんなに人が信じられなくなっていたオーリャが、あのときどうしてほとんど最初の一言からあの方のおっしゃることを聞く気になったのか、いまだにわたしにはわからないのでございます。いずれにしましてもあのときなによりもわたしたち二人の心をひきつけたのは、あの方がそれは真剣な、いっそいかめしいほどの態度で、しずかな声で、考え深げに、それはそれはていねいに――いえ、ていねいどころか、敬意をさえこめて語ったからでございました。しかもなにかものほしげなところはみじんも見えません。心のきれいなお方だということは、すぐにわかりました。『あなたの広告文を新聞で拝見しましたが、お嬢さん、あの書き方はちょっとおかしいところがありまして、かえってご損をなさるかもしれませんね』と申されまして、算術がどうのこうのと説明をなさいましたが、正直のところ、わたしにはなんのことやらわかりませんでしたが、オーリャは、見ると、赤くなって、なんだかすっかり生きかえったみたいで、熱心に聞くし、自分でもすすんで話をしますし(そうです、きっと聡明《そうめい》なお方にちがいありません)、お礼さえ申しておりました。あの娘にいろんなことをそれはこまかに訊きまして、どうやらモスクワにもしばらく住んでいたらしく、しかも女学校の校長先生ともお知合いだとわかりました。そしてこんなことを申されたのです、『家庭教師の口は、わたしがきっと見つけてさしあげましょう、わたしはここに知人が大勢おりますし、有力者もたくさん個人的に親しくしておりますから。それでもし固定した教師の口をお望みなら、それも考えてあげてもかまいません……ところでさしあたって、失礼ですが、ひとつ率直な質問をさせてください、今わたしになにかあなたのお役にたつことができませんでしょうか? なにかあなたのお役にたつことをさせていただけますと、わたしがあなたにではなく、その逆に、あなたがわたしに、そのことによって満足を感じさせてくれることになるのです。それをあなたの借りにしたいならそれもかまいません、しごとが見つかりましたら、ごく短期間にわたしに返してくれればいいわけです。もしわたしのほうが、これは本気で言っているのですよ、いつか困窮におちいるようなことがあったら、そして逆に、あなたのほうが余裕のある生活に恵まれるようになったら――そのときはわたしが直接応分の援助を願いにあなたを訪ねるか、あるいは妻か娘をうかがわせることにしましょう』……でも、あの方の言葉をそっくりそのまま思い出すことは、わたしにはとてもできません、だってオーリャが感謝で胸がいっぱいになって唇《くちびる》をふるわせているのを見ましたら、わたしとたんに泣けてしまったんですもの。あの娘はこんなふうに答えました、『もしお受けするとしたら、わたしの父とお呼びしてさしつかえないような、心のきれいな人情のあつい人を信頼するからですわ』……あの娘はほんとに上手に言いましたわ、『心のきれいな人情のあつい人』だなんて、短く、しかも感謝をこめて。あの方はすぐに立ち上がると、『きっと、きっと、あなたに教師の口をさがしてあげます、今日からさっそくさがしにかかりましょう、だってあなたはそのりっぱな資格をお持ちですから』とおっしゃいました……わたし言い忘れてましたけど、あの方はいらっしゃるとすぐに、あの娘に見せられて、女学校の卒業証書をしらべておいででしたし、いろんなことをあの娘に訊《たず》ねて試験をしていたのでございます……あとでオーリャがこんなことをわたしに言いました、『お母さん、あの方はいろんな課目をわたしに試験なさいましたのよ、ほんとになんという頭のいい方かしら、こんな時代にあのような深い教養の方とお話できるなんて!』……そして、それはそれは嬉しそうな顔をしていました。六十ルーブリの金がテーブルの上にのせてありました。『お母さん、しまってください。しごとが見つかったら、第一の義務としてあの方にできるだけ早くお返しして、わたしたちが正直な人間であることを証明しましょうね、わたしたちの心のやさしいことは、もう見ていただきましたもの』なんて言ったきり、黙りこんでいるので、見ると、深い溜息《ためいき》をついてるじゃありませんか。そして、だしぬけにわたしにむかって、『ねえ、お母さん、もしわたしたちが礼儀知らずだったら、プライドのために、きっとお金を受取らなかったでしょうね、だから今受取ったということは、りっぱな初老の男としてあの方をすっかり信頼しているということで、わたしたちの心のやさしさをあの方に証明しただけですわね、そうじゃないかしら?』なんて言うんですよ。わたしははじめのうちその意味がよくわからなかったものですから、『どうして、オーリャ、身分のりっぱなお金持のお方から恵みを受けちゃいけないのだね、おまけにそのお方が心の美しいお人なら?』と言いますと、あの娘はむずかしい顔をして、『いいえ、お母さん、それはちがいますわ、必要なのは恵みではなくて、あの方の人道的な心なのよ、それが尊いものなのよ。だから、お金はぜんぜん受取らないほうが、かえってわたしたちにはよかったのかもしれないわね、お母さん、だってしごとを見つけてくださるっておっしゃったんだから、それだけでもう十分なのよ……たといどんなに困っていても』なんて言うじゃありませんか。だからわたしは、『それは、オーリャ、わたしたちの困りようはひどいものですよ、ことわることなんてできるものですか』と言って、思わずにやりと笑ってしまいましたよ。そりゃ、わたし内心ほっとしましたからねえ、ところがオーリャは一時間ばかりすると、いきなり、『お母さん、あの金に手をつけるのは待ってくださいね』とこうなんですよ、まるでぴしゃりときめつけるみたいに。『どうしたというのさ?』とわたしが言うと、『どうでもいいから』とはねつけて、それっきり黙りこんでしまいました。その晩はずっと黙りこくっていました、ただ夜の一時をまわったころ、わたしがふっと目をさますと、オーリャがベッドの上でしきりに寝返りをうってるようすで、『ねえ、お母さん、寝てないの?』と声をかけるから、『ええ、寝てないよ』と返事すると、『ねえ、お母さん、あの人はわたしを辱《はずか》しめようとしてるんじゃないかしら?』なんて言うのですよ。『なにを言うんだね、おまえ? なんてことを?』とたしなめると、『きっと、そうだわ。あれは卑劣な男だわ、お母さん、あの男の金にはぜったいに手をつけないでね』だなんて。わたしはくどくどとあの娘に言いきかせて、そのままベッドの上で泣きだしてしまいました――ところがあの娘ときたら壁のほうを向いてしまったきり、『しずかにしてよ、わたし眠りたいんだから!』なんて、にくらしいことを言って、朝になって、見ると、まるで見ちがえるほどとげとげしい顔になって、ふらふら歩きまわってるじゃありませんか。信じていただけるかどうかわかりませんが、わたしは神の裁《さば》きのまえできっぱり申しあげるつもりですが、あの娘はそのときもう気がふれていたのでございます! あの卑しい家で侮辱されたそのときから、あの娘の心は……そして頭も、にごってしまったのでございます。わたしはその朝あの娘を見て、はっと思いました。背筋が冷たくなりました。そして、一言もさからうまいと思ったのでございます。『お母さん、あの男は住所をのこしてゆかなかったわね』と言うものですから、『なにを言うんだね、オーリャ、自分で昨日お聞きして、自分でほめて、自分でありがた涙をこぼしそうになったじゃないの』と、たったこれだけ言いましたのに、あの娘はいきなり足を踏み鳴らして、ヒーッとわめくと、『なんて卑屈な根性なの、農奴制時代の古い教育を受けたからよ!』だなんて……そしてもうわけのわからないことをさんざんわめきちらして、帽子をつかむと、いきなりかけだしてゆくじゃありませんか、わたしはうしろから大声で呼びもどそうとしました。どうしたんだろう、どこへ行ったのかしら? ところがあの娘は警察の住所係へ行って、ヴェルシーロフさんの住所をしらべてきたのでした、そしてもどるなり、『今日、これから金をもってって、あの男の顔に叩《たた》きつけてやるわ。あの男はわたしを凌辱《りようじよく》しようとしたんだわ、サフローノフ(これはあの商人のことでございます)と同じよ。ただサフローノフは粗暴な百姓らしくわたしを辱しめたけど、あの男は老獪《ろうかい》な偽善者としてわたしをもてあそぼうとしてるだけよ』なんてわめきちらしました。するとそこへわるいことに、あの昨日のお方がノックして、『聞いてると、ヴェルシーロフのことをお話のようだが、あの男のことならよく知ってますから』と入ってきたわけでございます。あの娘はヴェルシーロフという名を聞くと、いきなりあの方にとびついて、もうすっかり夢中になって、しゃべるしゃべる、わたしはあっけにとられてしまいました。もともと口数の少ない娘で、誰ともあんなふうにしゃべったことがなかったのに、それもまったく見知らぬ人に! 頬が燃えて、目がぎらぎら光って……そこへあの方が調子をあわせて、『まったくおっしゃるとおりですよ、お嬢さん。ヴェルシーロフってやつは、よく新聞などに書きたてられる将軍連とまったく同類の人間です。彼らは軍服の胸にありったけの勲章を飾って、新聞広告をしらべて家庭教師希望の娘たちをかたっぱしから訪ねて歩き、お好みの娘をあさるってわけですよ。お好みに合わなけりゃ、ちょっと坐って、すこしばかりお話をして、いろんなことをどっさりこと約束して、立ち去る――それで結構慰めになるのですよ』なんて言うものですから、オーリャまでひきこまれてけたけた笑ってましたが、なんだか毒のある笑いでした。そのうちに、見ていると、その男はオーリャの手をとって、自分の胸におしあてながら、『お嬢さん、わたしもかなりの資産というものを持っておりましてな、いつだって美しい娘さんに援助の申し出ができるんですが、そのまえに白魚のような美しい手にちょっと接吻《せつぷん》するのが好きでしてな』なんて言って、あきれたことに、あの娘の手に接吻しようとするじゃありませんか。あの娘はさっと立ち上がりました、このときばかりはわたしもすぐに立ち上がって、二人であの男を追い出してやりました。そしてその日の夕方、オーリャはわたしから金をひったくって、とびだしてゆきましたが、もどってくるとこう言ったものです、『お母さん、恥知らずな男にしかえしをしてやりましたわ!』――『ああ、オーリャ、オーリャ、わたしたちはみすみす幸福を逃がしたかもしれないんだよ、心の美しい、情け深い方をおまえは侮辱したかもしれないんだよ』と言うなり、あまりの腹だたしさに、こらえきれなくなって、泣きだしてしまいました。するとあの娘はわたしにわめきちらすじゃありませんか、『いやよ、いやよ! たといどんな正直な人間にしたって、お情けを受けるのなんていやよ! 人に同情されるなんて、まっぴらよ!』わたしは横になりました、なにも考えられないで、頭の中はからっぽでした。そのときわたしは鏡のかかってたあとの壁の釘《くぎ》を何度ながめたか知りませんが、――わたしには思いもよりませんでした、まったく思いもよりませんでした、昨日も、そのまえも、そんなことを考えませんでしたし、ぜんぜん、オーリャがあんなことをするとは、察しられなかったのでございます。わたしはいつものようにぐっすり眠りました、いびきをかいて、血が頭にのぼると、わたしいびきをかくのでございますよ、またときには心臓に血が寄せすぎて、眠ったまま大声をたてることがあるのですよ、それでオーリャがわたしを突つき起して、『ほんとにお母さんたら、ぐっすり眠ってて、まるで死んだみたいに、なにかあっても、起せやしない』だなんて。『おやおや、オーリャ、ほんとによく眠っていたよ』なんて笑ったものでしたよ。そんなふうにわたし、きっと、昨夜もいびきをかきだしたにちがいないのです、それをあの娘は待っていて、もうなんの気づかいもなく起きだしたものでございましょう。あの長いトランクの革紐《かわひも》は、この一月というものずっと目につくところにじゃまになっておりまして、昨日の朝も、『いつまでも散らかしておかないで、かたづけなくちゃいけないな』なんて考えたばかりでした。椅子はあとで足で蹴《け》たおしたものにちがいありません、しかも音のしないように、スカートが横にしいてありました。そしてわたしは、ずいぶんたってから、一時間かそれ以上もすぎてから、目をさましたらしいのでございます。『オーリャ! オーリャ!』不意になにか胸さわぎがして、わたしは呼んでみました。あるいはあの娘のベッドのほうから寝息が聞えなかったせいか、あるいは闇をすかしてベッドがからっぽらしい気がしたのか――とっさにわたしは起き上がって、手でさぐりました。ベッドの上には誰もいないし、枕が冷たくなっているではありませんか。わたしは胸がさわさわっと冷たくなって、感覚がなくなったみたいに立ちすくみ、頭がぼうっとしてしまいました。『どこかへ出ていったのだな』と思って、寝台のそばから一歩踏み出しかけて、ふと見ると、隅《すみ》っこのドアのそばに、あの娘が立っているようなのです。わたしは突っ立ったまま、黙って、あの娘を見つめました。あの娘も闇の中からわたしを見ているようで、身じろぎもしません……『ただどうして椅子の上になんか立ってるのかしら?』わたしはこう思って、『オーリャ、オーリャ、わかるかい?』と小声で、おそるおそるささやきました。そのとたんにわたしの頭の中がさっと稲妻に照らされたような気がしました、そして一歩踏み出すと、両手をまえにのばして、まっすぐにあの娘のほうへ行き、抱きしめると、わたしの手の中でたよりなくふらふらゆれるじゃありませんか、はっとしてゆさぶると、ぐらぐらゆれるのです、わたしはいっさいをさとりました、そう思うまいとしましたが……叫ぼうとしましたが、声が出ません……ああ、と思うと、床へばったりたおれてしまいました、そしてはじめて叫び声が出たのでございます……」
「ワーシン」朝もう五時すぎになって、わたしは言った。
「あのステベリコフがいなかったら、こんなことにならなかったかもしれんな」
「わからないさ、おそらくこれは起ったろうね。そんなふうに考えちゃいかんよ、あんなことがなくたって、もうこうなるところまで来ていたのだ……たしかに、ステベリコフはときどき……」
彼はあとをにごして、ひどく不快げに顔をしかめた。六時すぎに彼はまた出かけた。彼は忙しそうに世話をやいていた。わたしはとうとう一人きりになった。もう夜が明けかけていた。頭がすこしふらふらした。ヴェルシーロフの顔がちらちらうかんだ。あの婦人の話が彼にまったく別な光をあてたのである。わたしは考えやすいように、ワーシンの寝台の上にひっくりかえった。もう服を着て靴をはいていたので、ほんのちょっと横になるだけで、眠るつもりはぜんぜんなかった――それがたちまち眠りに吸いこまれてしまった、どんなふうにして眠ったのか、ぜんぜんおぼえがないほどである。わたしはほとんど四時間も眠っていた。誰もわたしを起さなかった。
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第十章
わたしは十時半ごろに目をさました、そしてしばらくは自分の目が信じられなかった。わたしが昨夜寝たソファに、わたしの母が坐っていたのである、そして母とならんで――自殺した娘の不幸な母親が坐っていた。二人は手をとり合って、おそらくわたしの眠りをさまたげないためらしく、ひそひそ声で話し合いながら、涙で顔をよごしていた。わたしは寝台から下りると、いきなり母に抱きついて接吻《せつぷん》した。母はさっと顔を輝かせて、わたしに接吻し、右手で三度十字を切ってくれた。わたしたちがまだ一言も交《か》わさないうちに、ドアが開いて、ヴェルシーロフとワーシンが入ってきた。母はすぐに立ち上がって、隣室の女を連れて出ていった。ワーシンはわたしに手をのばしたが、ヴェルシーロフはなにも言わないで、椅子に腰を下ろした。彼と母はもう大分まえからここに来ていたらしかった。彼の顔は心に屈するものがあるように暗くくもっていた。
「なによりも残念なのは」と、とぎれていた話をつづけるらしく、彼は一語々々考えるようにワーシンに言った、「昨夜のうちにすべてを解決しておかなかったことです、そうしたら――このような恐ろしいことにならずにすんだかもしれない! それに時間もあった。まだ八時になっていなかったのだ。あの娘が昨日わたしどもからとびだしたとき、わたしはすぐにあとを追ってここへ来て、よく言いきかせて誤解を解こうと思ったのだが、そこへこの予期しなかったのっぴきならぬ用事ができたものだから、もっとも、これは今日まで……いや一週間でも、のばしてのばせないことはなかったのだが、――このいまいましい用事がじゃまをして、すべてをだめにしてしまったのだよ。わるいときにはこういうことが重なるものだ!」
「いや、説得はできなかったかもしれませんね。あなたのことがなくても、もうあまりにも熱しきっていたようですから」とワーシンは軽くいなすように言った。
「いや、できたでしょう、きっとできたはずです。それに代りにソーフィヤ・アンドレーエヴナをやろうかとも思ったのですよ。ちらっと、ただちらっと頭にうかんだだけでしたが。ソーフィヤ・アンドレーエヴナ一人でもあの娘によく言いきかせただろうし、あのかわいそうな娘も死なずにすんだろう。いや、もう今後ぜったいに他人《ひと》ごとに立ち入るのはやめましょう……『善意』のつもりで……それも一生にたった一度やったことなのに! わたしはね、これでもまだ時代にはおくれていないと思って、現代の青年たちを理解しているつもりでいたのですよ。だが、老いというものは青年の成熟よりもすこしずつ早くすすむものですなあ。横道にそれついでですが、実際いまの世の中には、昨日までそうだったので、つい習慣で、まだ自分を若い世代だと思っていて、実はもう予備役に入ってしまったのに気づかずにいる者が、実に大勢いますよ」
「それは誤解ですね、あまりにも明らかな誤解ですよ」とワーシンは慎重に言った。「母親の話によりますと、娼家《しようか》でひどい侮辱を受けてからそのショックで彼女は理性を失っていたようですし、そこへさらに、商人から受けた最初の侮辱という事情を思い合せますと……こうしたことは以前にもやはりありえたことですし、ぼくに言わせれば、すこしも特別に現代の青年男女を特徴づけているものではないと思いますね」
「すこし性急すぎますな、現代の若者は。くわえて、これは言うまでもないことだが、現実に対する理解が足りない、もっともこれはいかなる時代の若者でも同じことだが、しかし現代の若者はどことなくちがうところがある……ところで、ステベリコフ氏だが、どんなつまらんことをしゃべったのかね?」
「ステベリコフ氏がすべての原因なのです」とわたしはいきなり横あいから口を入れた、「あの人がいなかったら、なにも起らなかったでしょう。あの人が火に油を注いだのです」
ヴェルシーロフは耳をかたむけたが、わたしのほうへはちらとも目を向けなかった。ワーシンはしぶい顔をした。
「それからもうひとつ、ばかばかしい自分の癖もわたしは責めているのです」とヴェルシーロフはゆっくりした口調で、あいかわらず言葉をひっぱりながら、つづけた、「わたしは、実にいやな癖があって、あのときあの娘に話をしながらすこし陽気になって、軽薄な笑顔なんか見せたらしいんだな、――要するに、峻厳《しゆんげん》、冷淡、陰鬱《いんうつ》に欠くるところがあったわけだ。この三つの要素も、現代の若者たちのあいだではきわめて重視されているらしいですな……要するに、わたしをさまよえるセラドン(訳注 フランスの作家デュルフェの牧歌小説アストレの主人公。好色漢の代名詞となる)と思わせる起因をあの娘にあたえたということです」
「ぜんぜんちがいます」とわたしはまた鋭くきりこんだ、「母親は、あなたが真剣さと、きびしさと、ですよ、それから誠意とで、深い感銘をあたえたと、特に強調していました。これは母親の言葉ですよ。自殺した娘さんも、あなたが立ち去ってから、これと同じような言葉であなたをほめていたそうです」
「そうかい?」とヴェルシーロフはようやくわたしにちらと目をくれて、口の中でつぶやいた。「この遺書をしまっておきなさい、この事件に必要なものだ」と言って、彼は小さな紙きれをワーシンのほうへさしだした。ワーシンはそれを受取ったが、わたしが好奇の目を光らせているのを見ると、それをわたしに見せた。それは不ぞろいな二行ばかりの遺書で、鉛筆で、おそらく暗闇《くらやみ》の中で書きなぐられたものらしかった。
『愛するお母さま、わたしが人生のデビューを自分の手で絶ちましたことをお許しください。あなたを悲しみにおとしたオーリャ』
「これは今朝になってから見つかったんだよ」とワーシンが説明した。
「なんて奇妙な遺書だろう!」とわたしはびっくりして叫んだ。
「どこが奇妙なんだい?」とワーシンは訊《たず》ねた。
「だってこのようなときにユーモラスな表現で書けるものだろうか?」
ワーシンは不審そうにわたしを見た。
「だって妙なユーモアじゃありませんか」とわたしはつづけた、「これは中学生仲間の隠語ですよ……それにしても、このような場合に、不幸な母への、――だって母はあの娘をとても愛していたんですよ、――このような手紙の中に、『わたしの人生のデビューを絶った』なんてことを、いったい書けるものだろうか!」
「どうして書いちゃいかんのだね?」ワーシンはまだわからなかった。
「ここにはすこしもユーモアなどないよ」としまいにヴェルシーロフが意見を述べた、「表現は、たしかに、ふさわしくないし、まったくこうした手紙の調子ではない、そして事実きみの言うように、中学生かあるいは若い連中の隠語や、新聞の諷刺欄《ふうしらん》にでもつかわれそうだ、しかし亡くなった娘さんは、この表現をつかいながら、きっとそれが調子にあわないことに気がつかなかったのだろうし、おそらく、それをこの恐ろしい手紙の中に完全に純粋なそして真剣な気持で書いたにちがいないのだよ」
「そんなことはありえないですよ、彼女は女学校を銀メダルで卒業したんですよ」
「銀メダルなんかなんの意味もなさんよ。いまどきはそんなふうで学校を終ってしまうのが大勢いるからな」
「また青年攻撃ですか」とワーシンは苦笑した。
「すこしも」とヴェルシーロフは帽子をつかんで、立ち上がりながら、ワーシンに答えた、「現代の青年が文学的素養にいささか欠けているとしても、疑いもなく、それとは……別な資質をもっています」と彼は珍しく真剣な顔でつけくわえた。「しかも『大勢』ということは――『全部』ということではない。たとえばあなたを、わたしは文学的素養の不足で責めはしませんよ、あなただってまだ青年でしょう」
「そのワーシンが『デビュー』にすこしの疑問ももたないのですよ!」わたしはがまんができなくなって、こう指摘した。
ヴェルシーロフは黙ってワーシンに手をさしだした。ワーシンもいっしょに出てゆくために帽子をつかんだ、そしてわたしに『じゃ、また』と声をかけた。ヴェルシーロフはわたしに目もくれずに出ていった。わたしもぐずぐずしてはいられなかった。なにがなんでも部屋をさがしにかけまわらなければならなかった――今は他のいつよりもそれが必要なのだ! 母はもう主婦のところにいなかった。母は隣室の女を連れて、立ち去ったのである。わたしはなにかじっとしていられないような気持で外へ出た……なにか新しい大きな感情がわたしの心に生れたのである。おまけにそれを、まるでわざとのようにすべての事情が盛りたてた。わたしはいつになく早くうまいチャンスにぶつかって、希望にぴったりの部屋を見つけたのである。だが、この部屋のことはあとで語るとして、とにかく重要な問題をかたづけることにしよう。
一時をわずかにまわったころ、わたしはトランクをとりにワーシンのところへもどってきた。彼はたまたま部屋へもどっていた。わたしを見ると、彼は心底から嬉《うれ》しそうな顔をして叫んだ。
「やあよかった、あなたに会えて、ぼくは今出るところでした! ぼくはおそらくあなたがとびつきそうなある事実を、あなたに知らせようと思っていたんですよ」
「嬉しいですね、聞かないうちからとびつきましょう!」とわたしは叫んだ。
「おや! ずいぶん元気そうじゃないですか。ところで、クラフトが保管していて、昨日ヴェルシーロフ氏の手に渡ったとかいう手紙のことだが、なんでも彼が勝訴になった遺産に関係したものだそうだが、この手紙のことであなたはなにか聞いてませんか? その手紙の中で遺言者は昨日の判決とは反対の意味の自分の意志を明らかにしてるとか。ずいぶんまえに書かれたものらしいとか。要するに、ぼくは詳しいことはわからんのですが、あなた、なにか知りませんか?」
「知らないどころか。クラフトが一昨日ぼくをあの連中のところから……わざわざ自分の家へ連れていったのは、その手紙をぼくに渡すためなんですよ、で、ぼくが昨日ヴェルシーロフに渡したというわけですよ」
「そうでしょう? ぼくもそう思ってました。そこでですね、ヴェルシーロフがさっきここで言った用事、――ほら、昨日彼があの娘を説得に来るのをさまたげたというそれですよ、――その用事はその手紙から生れたとは思いませんか。ヴェルシーロフは昨夜まっすぐにソコーリスキー公爵の弁護士のところへ出向いて、その手紙を渡して、せっかく勝った遺産を全部拒絶したんですよ。いまごろはその拒絶がもう法的手続きをふんで確認されたはずです。ヴェルシーロフは贈与するのではなく、その手続きによって公爵の完全な権利を認めるわけです」
わたしは唖然《あぜん》とした、しかしわたしは大きな感動につつまれていた。実のところ、ヴェルシーロフが手紙を湮滅《いんめつ》してしまうものと、わたしは完全に信じこんでいたのである。そればかりか、わたしは、そんなことをするのは卑劣だとクラフトにも言ったし、自分でも飲食店で何度もそれをくりかえし、『おれは心の正しい人のところへ来たのであって、あんな男のところへ来たのではないのだ』と自分に言い聞かせもしたが、――しかしやはり腹の中では、つまりもっともいつわらぬ心の底では、この手紙を完全に抹殺《まつさつ》してしまわないことにはどうにも動きがとれない、と考えていたのだった。つまり、わたしはそれを至極当然のことと考えていたのである。もしあとでわたしがそのことでヴェルシーロフを責めたとしても、それは故意に、うわべだけのことで、つまり彼に対する自分の優位を保つためである。しかし、今ヴェルシーロフの勇気あるりっぱな行為を聞いて、わたしは心底からの深い感動につつまれてしまった、そして悔恨と羞恥《しゆうち》にさいなまれながら自分のシニズムと、善行に対する蔑視《べつし》とを責めながら、一瞬にしてヴェルシーロフを自分よりも限りなく高いところへまつり上げて、ほとんどワーシンを抱きしめないばかりにした。
「なんという人間だ! なんという人間だろう! 誰がこんなことができよう?」とわたしは夢中になって叫んだ。
「そのとおりです、たいていの者はこういうことはできないでしょう……それに、きわめて無欲な行為であることは、論ずるまでもありませんが……」
「しかし?……おしまいまで言ってください、ワーシン、あなたには『しかし』があるのでしょう?」
「そう、もちろん、『しかし』があります。ヴェルシーロフの行為は、ぼくに言わせると、すこし早計に失しましたし、それにいささか誠心に欠けるところがありますね」ワーシンはにやりと笑った。
「誠心に欠ける?」
「そうです。そこにはある種の『権威』のようなものがあります。というのは、いつだって、自分を傷つけないで、あれと同じことができたはずだからです。どんなに慎重な目で見ても、たとい半分でないまでも、やはり遺産のある程度は今でもぜったいにヴェルシーロフの手に行くはずです、まして手紙は決定的な意味をもってるわけではないし、裁判では彼がもう勝ってるのですから、まあ疑問の余地はありません。公爵側の弁護士もこのような意見でした。ぼくは今しがた会ってきたばかりなんですよ。だから、こんなふうにしなくたって、その行為は今のそれに劣らない美しいものとしてのこったでしょう、ただむら気な高慢のためにこういうことになったのです。要は、ヴェルシーロフ氏がすこしとりのぼせて――急ぎすぎたということですよ。自分でもさっき言ってたじゃありませんか、一週間ぐらいのばせないことはなかったのだと……」
「わかるかなあ、ワーシン? ぼくはあなたの意見に同意しないわけにはいかんが、でもね……ぼくはこのほうが好きなんだよ! ぼくはこのほうがいいと思うんですよ!」
「しかし、それは趣味の問題だよ。あなたのほうからぼくに言わせたんじゃありませんか、でなきゃぼくは黙っていたんですよ」
「よしんばそこに『権威』があるにしても、それならそれでなおいいじゃありませんか」とわたしはつづけた、「権威は権威にかわりはありませんが、それはそれでひじょうに貴重なものです。この『権威』はつまりその『理想』ですよ、いまの人の心にはそれがないことが多いですが、それがいいと言えるでしょうか。ちょっとぐらいいびつなところがあっても、それはあったほうがいいですね! きっと、ワーシン、あなた自身もそう思ってるんでしょう、どうです、ええ、ぼくの大好きなワーシン! 要するに、ぼくはつまらんことをべらべらしゃべったけど、それは自分でもそう思ってますが、しかしあなたはわかってくれるでしょうね。それでこそあなたですよ、ワーシン。だから、どっちにしろ、ぼくはあなたを抱きしめて接吻しますよ、ワーシン!」
「喜びのですか?」
「大きな喜びのですよ! だってあの人間が『死せしがよみがえり、失《う》せたるがあらわれぬ』じゃありませんか! ワーシン、ぼくはつまらん青二才で、あなたには及びもつきません。ぼくがこんなことを自白するのは、ときには一変して、より高い、より深い人間になることがあるからですよ。ぼくは一昨日あなたを面とむかって賞讚《しようさん》しました(あれはただぼくが見下げられ、おしつぶされたからなのですが)、そのためにぼくは二日間というものあなたを憎悪《ぞうお》したんです! あの夜、もうぜったいにあなたを訪ねまい、とぼくは心に誓いました、そして昨日の朝ここへ来たのはただ憎い一心だったのです、わかりますか、にくしみのためですよ。ぼくは一人でこの椅子に坐って、あなたの部屋を、あなた自身を、あなたの本一冊々々を、あなたの主婦をやっつけました、なんとかあなたをこき下ろして、嘲笑《あざわら》ってやろうとしたんですよ……」
「そういうことは言わないことですね……」
「昨夜あなたの言った一つのセンテンスから、あなたは女を理解していないと結論して、ぼくは嬉しかったんですよ、この点であなたをとらえることができたと思ってね。さっきも、『デビュー』であなたをとらえて、またぞくぞくするほど嬉しかった、そしてそれはみな、あのときあなたをほめちぎった腹いせなのですよ……」
「そんなことも言う必要のないことです!」とワーシンはついに声を荒げた(彼はずっとわたしにいささかの驚きも見せずに、笑顔《えがお》をつづけていたのである)、「そんなことは誰でも第一に経験することですよ、しない人もあるでしょうがね。ただ誰も言わないだけです、それに言う必要もないことです。だって、どっちにしたって、そんなことは過ぎてしまうことだし、別にどうなるというものでもありませんからね」
「ほんとに誰でもそうなんですか? 人間てそんなものなんですか? あなたはそんなことを言いながら、平気でいられるのですか? いったい、そんな考えで生きていかれるものでしょうか!」
「じゃ、あなたの考えでは――
[#ここから2字下げ]
低き真理の闇よりわれは尊ぶ
われらを高める偽りを    (訳注 プーシキンの詩英雄より)
[#ここで字下げ終わり]
というわけですね?」
「でもそれが正しいじゃありませんか」とわたしは叫んだ、「この二行の詩には神聖な真理があります!」
「さあどうでしょうかね。この二行の詩が正しいかどうかの論議はやめにしましょう。真理というものは、いつの場合にしても、真ん中へんに存するもののようですね。だからある場合の神聖な真理が、他の場合は――虚偽になるということがあるのですよ。ぼくがただ一つ確実に知っていることは、これからも長くこの思想が人々のあいだのもっとも重要な論点の一つとしてのこるだろうということです。ともあれ、どうやら、あなたは今踊りだしたいらしいですな。遠慮はいりません、踊りなさい。体操は体にいいですよ、ところがぼくは今朝はおり悪しくしごとがわんさとありましてね……おや、あなたとすっかり話しこんでおくれちゃいましたよ!」
「出ます、出ます、すぐ支度《したく》します! 最後に一言だけ」わたしはもうトランクをもって、あわてて叫んだ、「今ぼくがまたあなたの『首っ玉にとびついた』のは、理由はただ一つ、ぼくがここへ来たとき、あなたがまだ出かけずにいて、あれほど心底から嬉しそうにこの事実をぼくに伝えて、ぼくを『狂喜』させてくれたからですよ。しかもそれがさっきの『デビュー』のあとときています。この心底からの満足によって、あなたはまた一挙にぼくの『若い心』をあなたの側へねじむけましたよ。では、さようなら、さようなら、できるだけ長くここへうかがわないようにします、そのほうがあなたにはどれほど気が楽かわからないし、あなたの目にもそう書いてありますよ、それにぼくたち双方にもそのほうが得でしょうから……」
こんなふうにべらべらまくしたて、嬉しまぎれのおしゃべりでほとんど息をはずませながら、わたしはトランクを引きずって新しい住居のほうへ歩きだした。ヴェルシーロフがさっき確実にわたしに腹をたてていて、わたしを見ようとも、口をきこうともしなかったのが、わたしには、なによりも嬉しくてならなかった。トランクを部屋へ運びこむと、わたしはその足で老公爵のところへとんでいった。実を言うと、この二日間わたしは彼を見ないのでなんとなくさびしい思いさえしていた。それにヴェルシーロフのことももう老公爵の耳に入っているにちがいない。
老公爵がわたしをひどく喜んでくれることを、わたしはよく承知していた、だからヴェルシーロフのことがなくたって、わたしは今日は訪ねたはずである。昨日からついさっきまでわたしは、ひょっとしたらカテリーナ・ニコラーエヴナに会うのではないかという不安だけにおびやかされていた。だが今はもうなにもこわいものがなかった。
老公爵は喜んで両手をひろげてわたしを迎えた。
「ヴェルシーロフはどうです! お聞きになりましたか?」わたしはいきなり本論からきりだした。
「Cher enfant(親愛な子よ)、わしの愛する青年よ、あれは実に高尚なことだ、実に尊いことだ、――なにしろ、キリヤン(これは階下の事務室の官吏である)にさえ口もきけないほどの強烈な感動をあたえたほどだよ! これは彼にすれば思慮のないことだが、しかし栄光だよ、偉大な功績だよ! この模範は高く評価されねばならん!」
「ほんとうですね? ほんとうですね? この点でぼくと公爵はいつも一致していました」
「アルカージイ、わしはきみとはいつも一致していたよ。きみはどこに行ってたのだね? わしはぜひともきみのところを訪ねてみようと思ったのだが、どこにいるのやら、わからんでな……というのはやはりわしはヴェルシーロフのところへ行くわけにはいかんのだよ……もっとも今は、ああいうことがあったから……ところで、きみ、わかるかな、これで、つまりこういう気性でだな、彼は女どもを征服したんだよ、わしはそう思うな、これはまちがいないよ……」
「ついでですが、忘れないうちに、わざわざあなたにお訊《き》きしようと思ってとっておいたんですが、実は昨日つまらない道化者が、ぼくにむかってヴェルシーロフのこき下ろしをやって、彼のことを『女の予言者』だなんて言ったんですよ。これはどういうことなのでしょう、言葉の意味ですが? ぼくはあなたにお訊きしようと思ってとっておいたんです……」
「女の予言者! Mais …… c'est charmant!(ほう……そりゃ傑作だ!)ハッハッ! そりゃまさに彼にぴたりだよ、といってまるでそうも言えんな――チョッ! だがそりゃ実に適切に言いあてとるよ……といってまるで言いあててもおらん、だが……」
「なに、かまいませんよ、かまいませんよ、そう気をおつかいにならないで、ただのしゃれと見てください!」
「しゃれにしてもみごとだ、え、きみ、それに実に深い意味がある……まったく正しい思想だよ! つまり、わかるかな……要するに、わしがひとつちっぽけな秘密をおしえてやろう。きみはあのときあのオリムピアーダを見ただろう? どうだねきみ、あの娘がすこしばかりアンドレイ・ペトローヴィチのために心の病にかかってな、それがこうじて、どうもなにやらがつかえているらしいのだよ……」
「つかえてる! それじゃ、すきっとしないでしょうな?」
わたしはむかっとして指で侮辱の形を示しながら、叫んだ。
「Mon cher(きみ)、大きな声を出さんでくれ、そういうものなのだよ、そしてきみも、きみの見地からすれば、それが正しいのだろうよ。ついでに訊くがな、きみ、このまえカテリーナ・ニコラーエヴナのまえでありゃいったいどうしたのだね? ふらふらして……わしはきみがたおれるのかと思って、あわてておさえてあげようとしかかったほどだよ」
「その話はあとにしましょう。なに、簡単に言えば、ただうろたえただけですよ、あるひとつの理由で……」
「きみは今も赤くなったよ」
「おや、あなたは今でもまだそんなにくまれ口をきかなきゃならないのですか。あなたはご存じじゃないですか、彼女がヴェルシーロフと敵《かたき》同士なことは……そこにすべての原因があるんですよ、だからぼくも胸がかっとなったんです。でも、よしましょうこんな話、あとにしましょう?」
「よそう、よそう、わしもこんな話はよしたほうが嬉しいのだよ……つまり、わしはあれにひじょうにすまんことをしとるんだよ、きみおぼえとるだろう、あのとききみのまえであれのことをぶつくさぼやいたりしたことを……あれはきみ、忘れてくれたまえ。それにあれもきみを見る目を変えるだろう、わしにはそれがよくわかるんだよ……おや、セリョージャ公爵だ!」
若い美しい士官が入ってきた。わたしはむさぼるように彼を見つめた。これまでまだ一度も会ったことがなかったのである。といって、わたしが彼を美しいと言うのは、世間一般に彼をそう評しているからだが、しかしこの若い美しい顔にはどことなく人の心を突きはなすようなところがあった。わたしは最初の一瞬に、はじめて彼になげたわたしの目がとらえて、その後永久にわたしの心にのこった印象として、それを指摘するのである。彼はやせ気味で、ほどよい背格好で、栗色の髪をしていて、顔色はつややかだが、いくぶん黄色みをおび、決意に充《み》ちた目つきをしていた。黒みがかった美しい目は、気分がすっかりなごんでいるときでさえ、いくぶんけわしかった。しかしこの決意に充ちた目が人々を突きはなすのは、どういうわけか見る者になんとはなしに、その決意がごく安直に得られたもののような感じをあたえるためであった。だが、どうもうまく言いあらわせない……もちろん、その顔はきびしい表情から一瞬にしておどろくほどやさしい、おだやかな、柔和な表情に変ることができた、しかもおどろくことは、その変り方の露骨な正直さである。この正直なところが人の心を惹《ひ》きつけた。もうひとつ特徴を指摘すれば、やさしさと正直さがあるのに、その顔が決して明るく晴れないことである。心底から呵々《かか》大笑しているときでさえ、見ている者にはやはり、この男の心にはほんとうの、明るい、軽い陽気さというものが決して宿ったことがないのではないかというふうに感じられるのである……。しかし、こんなふうに顔を描写するのはひじょうにむずかしいことで、わたしにはとてもその力がない。
老公爵はすぐに立ち上がって、その愚かしい習慣にしたがって、わたしたちを引合せた。
「こちらはわしの若い友人、アルカージイ・アンドレーヴィチ(またアンドレーヴィチだ!)・ドルゴルーキー」
若い公爵はすぐに顔にことさらにいんぎんな表情をうかべてわたしのほうに向き直った、しかしどうやらわたしの名をぜんぜん知らないらしかった。
「この人は……アンドレイ・ペトローヴィチの親戚《しんせき》ですよ」といまいましい老公爵がぼそぼそと要《い》らぬことをつぶやいた。(ときとしてこうした老人どもは、その習慣もひっくるめて、なんともやりきれないものである!)若い公爵はすぐに察した。
「ああ! かねがね聞いておりました……」と彼は早口に言った、「ぼくは去年ルガであなたのお妹さんのリザヴェータ・マカーロヴナとお近づきになる大きな喜びをもちましたが……お妹さんもあなたのことを話しておいででした……」
わたしはいささかおどろいた。彼の顔には純粋な喜びの表情が輝いたのである。
「失礼ですが、公爵」とわたしは両手をひっこめながら、こわばった声で言った、「ぼくは衷心からあなたに申しあげなければならぬことがあるのです、――幸い敬愛する老公爵がこの場にいてくださることを、ぼくは喜びとします、――実はぼくはあなたに会うことを望んでいたのです、つい昨日のことですが、ぜんぜん別な目的だったのです。あなたがどんなにびっくりなさろうと、ぼくはそれを率直に言います。簡単に言いますと、ぼくは、一年半まえに、あなたによってエムスでヴェルシーロフに加えられた侮辱に対して、あなたに決闘を申込もうと思っていたのです。そしてあなたは、もちろん、ぼくがまだ中学を卒業したばかりの未成年者であることを理由に、ぼくの挑戦に応じられないかもしれません、しかしそれでもぼくは決闘を申込むつもりでした、あなたがそれをどうとろうと、どんな行動をなさろうと、それは問うところではないと思っていました……そして、正直に言いますが、今でもその目的に変りはありません」
老公爵があとで語ったところによると、わたしはきわめて気品のある態度でこれを言ってのけたそうである。
心からの悲しみの色が若い公爵の顔にあらわれた。
「あなたは今ぼくに終りまでしゃべらせてくれませんでしたね」と彼は言いふくめるような調子で言った。「もしぼくが今心の底からのいつわりのない言葉であなたに対しているとすれば、その理由はアンドレイ・ペトローヴィチに対するぼくの現在の真実な感情にあるのです。今ここですべての事情をつつみなくあなたにお知らせすることができないのは残念ですが、ぼくはもうかなりまえからエムスにおける自分の不幸な行為を深い悔恨をもって見ていることを、名誉にかけてあなたに言明します。ペテルブルグへもどるにあたって、ぼくはアンドレイ・ペトローヴィチにどのような満足でもあたえる決意をしたのです、つまり率直に、文字どおりに、彼が指示するとおりの形で許しを請う決意をしたのです。崇高な力強い感銘がぼくの考えを変えさせた原因でした。ぼくたちが訴訟であらそっていたことは、ぼくの決意にいささかの影もおとしませんでした。昨日の彼の行為は、言ってみれば、ぼくの魂を震撼《しんかん》させました、そして今でさえ、信じられないかもしれませんが、まだ自分をとりもどしていないかのようです。実は、ぼくはあなたにお知らせしなければならないのですが――ぼくが公爵を訪ねましたのは、ある異常な事態を公爵に知らせるためなのです。ほかでもありません、三時間まえに、というのは彼が弁護士とあの証書を作成し終えたちょうどその時刻にあたりますが、アンドレイ・ペトローヴィチの代理人がぼくの家に現われて、彼からの挑戦状をぼくに手渡したのです……エムスの事件にもとづく決闘申込みの正式の書面です……」
「彼があなたに決闘を?」とわたしは叫んだ、そして目がかっと燃え、血が顔にのぼったのを感じた。
「そうです、申込みました。ぼくはその場で挑戦を受けました、が、対決するまえに、ぼくの行為に対するぼくの見解と、この恐ろしい誤解に対するぼくの悔恨とをつつみなく述べた手紙を、彼に送ろうと決意したのです……というのは、これはぼくの誤解にすぎなかったからです――不幸な、宿命的な誤解だったのです! おことわりしますが、連隊におけるぼくの立場は、それによって危険にさらされることになるでしょう。決闘のまえにそのような手紙を送れば、ぼくは必然的に輿論《よろん》のまえに立たされることになるからです……おわかりですか? しかしそれをもかえりみず、ぼくは書く決意をしたのです、ただ送るきっかけを失っただけです、というのは申込みの一時間後にまた彼からの手紙を受取ったからです。その手紙の中で彼は、ぼくの心をさわがせたことの許しを請い、申込みのことは忘れてもらいたいと述べ、さらにこの『小心とエゴイズムの瞬間的な爆発』――これは彼自身の言葉です――を後悔している、とつけくわえておりました。こうして、彼はすでにぼくの手紙の出鼻を完全にくじいてしまったのです。ぼくはまだ手紙を送っていませんが、そのことで公爵にすこし相談したいと思ってここへうかがったわけです……信じていただきたいのですが、ぼく自身が、おそらく、誰よりもはげしく良心の呵責《かしやく》に苦しみぬいたと思うのです……この説明で十分でしょうか、アルカージイ・マカーロヴィチ、少なくとも今のところは? ぼくの誠意をすっかり信じてくださいますか?」
わたしは完全に征服された。わたしは夢にも期待しなかった疑う余地のまったくない誠心を見たのである。たしかにこのようなことは、わたしはまったく予期しなかった。わたしはなにやらうわの空で返事をして、いきなり彼に両手をさしのべた。彼は嬉しそうにわたしの両手をにぎりしめてゆすった。それから老公爵を寝室へ連れていって、そちらで二人きりで五分ほど話し合った。
「もしぼくに特別の満足をあたえてくれることがおいやでなかったら」と、寝室から出てくると、彼は大きな声で明るくわたしに言った、「今からいっしょに行きませんか、ぼくがこれからアンドレイ・ペトローヴィチへ送る手紙をお見せしましょう、それからぼくに来た彼の手紙も」
わたしは願ってもないことと同意した。老公爵はわたしを送りだしかけて、妙にそわそわしだして、これもちょっとわたしを寝室へ呼んだ。
「Mon ami(わが友よ)、わしは嬉しいよ、ほんとに嬉しいよ……これはあとで二人でゆっくり話し合おう。ついでだが、そこの鞄の中に手紙が二通入ってる。一通はきみに持っていって説明してもらわにゃならん、もう一通は銀行へやるやつだが――そこでも……」
そう言って彼は二つの急を要するような、しかもひどく厄介らしい用事をわたしに託した。わたしは実際に出かけていって、渡したり、署名をしたり、そのほか必要なことをしなければならないことになった。
「へえ、あなたもずるい人だ!」とわたしは手紙を受取りながら、やけっぱちに叫んだ、「きっと、こんなものは――くだらんもので、急ぎの用事でなんかありゃしないのだ、ただぼくが勤めていて、理由もない金をもらっているのでないことをぼくに思わせたいために、あなたがわざと考えだしたんだ、そうでしょう?」
「Mon enfant(わが子よ)、はっきり言っておくが、それはきみの思いちがいだよ。この二つはほんとうに至急の用事だ……Cher enfant!(かわいい子よ)」と彼は急に感情を抑えきれなくなって叫んだ、「きみは実に愛らしい青年だ! (彼は両手をわたしの頭の上にのせた)きみときみの運命を祝福する……いつも今日みたいに、清らかな心でいようじゃないか……できるだけ善良で美しくあろうじゃないか……すべての美しいものを……さまざまなその形のままに、愛そうじゃないか……さて、enfin …… enfin, rendons grace…… et je te benis!(さあ……さあ神に感謝をささげようじゃないか……わしがきみを祝福してやろう!)」
彼は言葉がとぎれて、わたしの頭の上でくすんくすん鼻を鳴らしだした。白状するが、わたしももうほとんど泣いていた。涙を見せないまでも、心の中でわっと叫んでこの風変りな老人を抱きしめた。わたしたちはかたくかたく接吻し合った。
セリョージャ公爵(つまりセルゲイ・ペトローヴィチ公爵のことで、以後こう呼ぶことにする)はしゃれた軽馬車でわたしを自分の住居へ案内した、そしてまずその部屋の豪華さにわたしは驚きの目をみはった。といって、豪華というほどでもないかもしれんが、部屋はもっとも『上流の人々』のそれを思わせて、天井が高く、広く、そして明るかった(わたしが見たのは二部屋だけで、あとはドアがしまっていた)、そして家具が――これもまたヴェルサイユ風というのか、ルネッサンス風というのか、わたしなどにはとうていわからないが、やわらかな、心地よさそうな、ゆったりした椅子類がたくさん置いてあった。そのほかじゅうたんでも、彫刻類でも、置物でも相当なものばかりである。これで世間では、乞食《こじき》同然で、まったくなにもないなどと言われているのである。しかし、わたしがちらと耳にしたところでは、この公爵はいたるところで、ここででも、モスクワででも、もとの連隊ででも、パリででも、ちょっときっかけがあれば、すぐ騒ぎを起したし、それに賭博《とばく》が好きで、かなりの借金を背負っているということだった。わたしはしわくちゃのフロックを着て、おまけに昨夜は着たまま寝たので、綿くずがひっついていたし、シャツはもう四日も着たきりだった。それでも、フロックはまだそれほどみっともなくもなかったが、しかし公爵のまえに出ると、服をつくったらよかろうとすすめたヴェルシーロフの言葉が思い出された。
「実は、ある娘の自殺事件で昨日は服を着たまま寝たものですから」とわたしはうろたえ気味に言った、そして彼がすぐに興味を示したので、わたしは簡単にその話をした。しかし彼は、どうやら、手紙のほうに気がいっているようすだった。そして、わたしがなによりもふしぎに思ったのは、さっきわたしがいきなり面とむかって、決闘を申込むつもりだったと言ったとき、彼は薄笑いももらさなかったばかりか、それらしい毛筋ほどの素ぶりもまったく見せなかったことである。たといわたしに彼に冷笑する隙《すき》をあたえないだけの気魄《きはく》があったとしても、やはりこれは彼のような種類の人間にしてはふしぎなことであった。
わたしたちは部屋の中央の大きな書卓をはさんで向い合いに坐った。彼はヴェルシーロフにあてたもうきれいに清書された手紙をわたしへさしだした。この手紙は彼がさっき老公爵のところでわたしに言ったこととそっくりで、しかも熱情をこめて書かれていた。この彼の明白な直情と、あらゆる善なるものに突き進もうとする覚悟を、わたしは、正直のところ、最終的にどう受けとってよいかまだ知らなかったが、しかしもう彼に屈服しはじめていた。実際に、どうしてわたしに信ぜずにいられたろう? 彼がどんな人間であったにしろ、世間でどんな噂《うわさ》をされていたにしろ、やはりよい性情はもちえたはずである。わたしはヴェルシーロフの最後の手紙も読んだ。七行にわたって認《したた》められた決闘の申込みの撤回であった。たしかに彼は自分の『小心』と『エゴイズム』について書いてはいたが、この手紙ぜんたいには一種の傲慢《ごうまん》さが流れているように思われた……というよりは、むしろこの行為ぜんたいに一種の侮蔑《ぶべつ》があらわれていたといったほうがいいかもしれない。わたしは、しかし、それは口に出さなかった。
「あなたは、しかし、この撤回をどう思います?」とわたしは訊いた、「まさか彼が臆《おく》したとは思いませんでしょうね?」
「もちろん、思いませんね」公爵はにやりと笑った、しかしそれはなにかひどく真剣な微笑だった、そしてぜんたいに彼はしだいに不安の影を濃くしていった、「あの人が男らしい人だということは、ぼくは知りすぎるほど知っています。ここには、もちろん、特別の考え方があるでしょう……あの人独自の思想傾向といいますか……」
「それはたしかです」とわたしは熱くなってさえぎった。「ワーシンという男が、あの手紙と遺産拒否に対する彼の態度には『権威』が秘められていると語っていました……ぼくの考えでは、こうした行為は見栄《みえ》のためにできるものではなく、なにかもっと根本的な、内部的な要求に呼応しているのだと思います」
「ぼくはワーシン氏をよく知っています」と公爵は言った。
「あ、そうですね、あなたはルガで彼にお会いになったはずでしたね」
わたしたちは不意にじっと目と目を見|交《か》わした、そして、思い出すと、わたしはどうやら顔をちょっと赤らめたらしい。少なくとも、彼は話を中断した。わたしは、しかし、なにかしゃべりたくてたまらなかった。昨日ある人に会ったことを思い出すと、わたしはそのことでなにか彼に訊いてみたい誘惑にかられたが、ただどう切りだしてよいかわからなかった。それにいったいにわたしはどうしたことかひどく気がそぞろになっていた。彼のおどろくばかりのおくゆかしさ、いんぎんさ、態度の自然さにも、わたしはすっかり圧倒されていた。要するにこれは、ほとんど揺籃《ゆりかご》の時代から身についている貴族の光沢なのである。彼の手紙の中にわたしはひどい文法上の誤りを二つ発見した。だいたいこういう人と対面するとわたしはぜったいにへりくだることをしないで、ことさらにそっけなくするのだが、これはときによっては、あるいはばかげたことかもしれない。しかし今の場合はそれをさらに、綿くずのついたしわくちゃな服を着ているという考えが突きあげた、それでわたしはいくぶん調子をおとして、わざとなれなれしい態度をとった……そのうちにわたしは、公爵がときどきじっと鋭い目をわたしに注ぐのに気づいた。
「いかがです、公爵」わたしは不意にこういう疑問をぶっつけた、「ぼくみたいな、まだこんな『青二才』があなたに、それも他人《ひと》の侮辱されたことで、決闘をいどもうとしたなんて、内心|滑稽《こつけい》だと思いませんでしたか?」
「父の受けた侮辱を自分の侮辱と感じることは大いにありうることです。ぼくは滑稽とは思いませんね」
「ところがぼくには、これがひどく滑稽なものにうつるような気がするのですよ……他人の目には……というのは、むろん、ぼくの目にではありませんが。ましてぼくはドルゴルーキーであって、ヴェルシーロフではありませんから。だからもしあなたがぼくにほんとうのところを言っていないか、あるいは上流社会の礼儀としてやわらかい言い方をしてるのだとしたら、つまり、他のすべてのことにおいてもぼくを欺いているということですか?」
「いいえ、滑稽とは思いません」と彼はおそろしく真剣にくりかえした、「あなたは自分の体内に父の血を感じないではいられないでしょう?……たしかに、あなたはまだ若い、だから……よくわからんが……成年に達しない者は決闘を許されない、となると、そういう未成年者からの申込みも受けてはならないということですね……法律では……だが、それはともかく、ここに一つだけ重大な反論があるようですね。もしあなたがその人のために決闘を申込もうとするその侮辱された本人に無断で決闘を申込んだとしたら、そのことによってあなたはその人に対して一種の侮辱を加えることになりはしませんか、どうでしょう?」
わたしたちの会話は不意になにごとか知らせに入ってきた家僕によってたち切られた。彼を見ると、公爵は、それを待っていたらしく、話をおわらずに立ち上がって、急いでそちらへ歩みよった。そのために家僕はもう低声《こごえ》で公爵に報告し、わたしは、むろん、聞きとることができなかった。
「申し訳ありませんが」と公爵はわたしのほうを向いて言った、「一分ほどでもどりますから」
そして出ていった。わたしは一人になった。室内を歩きまわりながら、考えた。ふしぎなことに、わたしは彼が好きになった、と同時にひどくきらいでもあった。なにかしら、わたしは自分でもはっきりこうと言えないが、わたしを突きはなそうとするなにものかがあった。『彼がほんのちらっともぼくを笑わないとすれば、疑いもなく、彼はおそろしく心のまっすぐな男にちがいない、がしかし、もしぼくを笑ったとしたら、あるいは……ぼくには彼がもっと頭のきれる男に見えたかもしれない……』奇妙なことにわたしはふとこんなことを思った。わたしは書卓のまえへ行って、もう一度ヴェルシーロフへあてた手紙を読んだ。わたしはそれに心をうばわれて、時間をさえ忘れていたが、はっとわれに返ると、急に、公爵の一分がもう確実に十五分にはなっていることに気がついた。これがわたしをすこし不安にした。わたしはもう一度室内を行き来して、とうとう帽子を手にもった、そして、おぼえているが、もう帰るつもりで、誰かに会ったら、公爵にそう伝えてもらうし、公爵がもどってきたら、用事があるのでこれ以上待つことはできないとことわって、すぐに別れのあいさつをしようと思っていた。わたしはこうすることがもっとも適当なような気がした、というのは、これほどわたしを待たせておくとは、いくら公爵でも無礼ではないかという考えが、ちょっぴりわたしの胸を噛《か》んだからである。
この部屋へ入る二つのドアは同じ壁の左右両端についていて、どちらもしまっていた。わたしたちがどちらのドアから入ってきたのか忘れて、というよりは考えごとでぼんやりしていたので、なにげなくひとつのドアをあけると、不意に、わたしは細長い部屋に、ソファに坐っている――妹のリーザを見た。彼女のほかには誰もいないところを見ると、彼女は明らかに誰かを待っていたらしい。ところが、わたしがおどろいている暇もなく、不意に誰かと声高に話しながら書斎のほうへもどってくる公爵の声が聞えた。わたしは急いでドアをしめた。別なドアから入ってきた公爵はなにも気づかなかった。彼がしきりにわびて、アンナ・フョードロヴナとかいう女のことをなにやら言ったのを、わたしはおぼえている……しかしわたしはすっかりうろたえて、気がどうてんしていたので、なにを言われてるのかほとんどわからないで、家に用事があるからとしどろもどろにつぶやいただけで、引止めるのをふりきって、急いで辞去した。礼儀正しい公爵は、もちろん、奇異の目でわたしの態度を見たにちがいない。公爵はわたしを玄関先まで送りだして、たえずなにやら話しかけたが、わたしは返事もしなかったし、彼に目をやりもしなかった。
街へ出ると、わたしは左へ折れて、足の向くままに歩きだした。頭の中はもつれきってなにも考えがまとまらなかった。わたしはのろのろ歩いていた、そしてもうかなり、五百歩ほども来たかと思われるころ、不意に誰かに軽く肩を叩《たた》かれたような気がした。振向くと、リーザの顔があった。彼女はわたしに追いついて、そっとパラソルで叩いたのだった。なにやらひどく楽しそうな、しかしずるさもちょっぴりまじったような表情が、そのきらきら輝く目の中にあった。
「ああ、ほんとによかったわ、兄さんがこっち側を歩いていて、そうでなかったらあたしこんなふうに今日は兄さんに会えなかったわ!」彼女は急いで来たのですこし息を切らしていた。
「ふうふう言ってるじゃないか」
「ひどくかけたからよ、兄さんに追いつこうと思って」
「リーザ、ぼくが今見かけたのはたしかおまえだったろう?」
「どこで?」
「公爵のところだよ……ソコーリスキー公爵の……」
「いいえ、あたしじゃないわ、ちがうわ、兄さんがあたしに会うわけないわ……」
わたしは黙った、そして並んで十歩ほど歩いた。不意にリーザがけたたましく笑いだした。
「あたしよ、あたしよ、あたしに決ってるじゃないの! ねえ、兄さんが自分であたしを見たんじゃないの、兄さんはあたしの目を見たわね、あたしも兄さんの目を見たのよ、それなのに、あれはたしかおまえだったろうなんて、どうして訊くの? ほんと、へんな人! ねえ、兄さんがあそこであたしの目を見たとき、あたしいまにもふきだすところだったのよ、だって兄さんの目つきったらそれは滑稽だったんですもの」
彼女はころころと笑いころげた。わたしは心のもやもやが一時に消えたような気がした。
「でも、いったいどうしておまえはあそこにいたんだい?」
「アンナ・フョードロヴナのところへ行ったのよ」
「アンナ・フョードロヴナって?」
「ストルベーエワ夫人よ。あたしたちルガにいたとき、あたしは一日中おじゃましてたし、お母さんも行きましたし、夫人も家へ来たりしてましたのよ。夫人はよその家へはほとんど行かなかったわ。アンドレイ・ペトローヴィチには遠い親戚《しんせき》にあたるのよ、そしてソコーリスキー公爵たちにも親戚なの。公爵にはなんでもお祖母《ばあ》さんにあたるそうよ」
「それで公爵のところにいるのかい?」
「いいえ、公爵がストルベーエワ夫人のところに住んでるのよ」
「じゃあの家は?」
「夫人の家よ。あの家を買ってからもう一年になるわ。公爵はこちらへ来るとすぐ、あの夫人のところに厄介になったのよ。それに夫人もペテルブルグへ来てまだ四日にしかならないけど」
「まあ……ねえ、リーザ、家のことなんかどうだっていいじゃないか、その夫人だってさ……」
「いいえ、とてもりっぱな女《ひと》よ……」
「まあいいさ、なにか本でも読ませておくんだな。ぼくたちだってりっぱさ! ごらん、なんてすてきな日だろう、どう、すばらしいだろう! しかし、おまえは今日ほんとに美しいよ、リーザ。だが、おまえも相当のいたずらっ子だな」
「アルカージイ、どうでしょう、あの娘さん、昨日の」
「ほんと、かわいそうに、リーザ、まったく、かわいそうなことをしたよ!」
「ああ、かわいそうよ! なんという運命でしょう! ねえ、わるいみたいだわ、あたしたちこんなに楽しく歩いてるの、あのひとの魂はいまごろどこの闇《やみ》をとんでるかしら、きっとどこかの底なしの闇の中を、罪を背負って、うらみをいだいて、さまよっているんだわ……アルカージイ、ねえ、誰があのひとに自殺の罪をおかさせたのかしら? ああ、ほんとに恐ろしいことだわ! 兄さん、その闇のことを考えたことがあって? ああ、あたし死がたまらなくこわいわ、そんなことほんとに恐ろしい罪よ! あたし暗いところが大きらい、だって太陽がこんなにすてきなんですもの! お母さんは、こわがるのはいけないことだって言うけど……アルカージイ、あんたお母さんをよく知ってる?」
「まだすこししか、リーザ、ちょっぴりしか知らないんだよ」
「ああ、なんてすばらしい人でしょう。兄さんはきっと、きっと知ってあげなくちゃだめよ! 特によく理解してあげなくちゃ……」
「だって、今の今までおまえのことだって知らなかったんだぜ、それがもうすっかりわかったんだ。一分間ですっかりわかってしまったのさ。リーザ、おまえは、たとい死はこわがっても、きっと誇りの高い、気の強い、勇気のある女にちがいない。ぼくよりもりっぱだよ、ずっとりっぱだよ! ぼくはおまえがたまらなく好きだよ、リーザ。ああ、リーザ! 死は来るべきときを、知ってるさ、だがそれまでは生きることだ、生きることだよ、リーザ! あの不幸な娘には同情しようよ、しかしやはり生を祝福しようじゃないか、そうだね? そうだろう? ぼくには『理想』があるんだよ、リーザ。リーザ、おまえは知ってるだろうね、ヴェルシーロフが遺産を拒否したことを?」
「知らないでどうするの! あたしもうお母さんと接吻して喜び合ったのよ」
「おまえはぼくの心を知らないんだよ、リーザ、ぼくにとってあの人がどんな意味をもっていたか、おまえは知らないんだよ……」
「あら、どうして知らないというの、すっかり知ってるわよ」
「すっかり知ってる? ほう、そりゃおまえだものな! おまえは利口だよ、ワーシンよりよっぽど利口だ。おまえとお母さんは――人の心を見通す、人道的な目をもっている、つまり理解する目だよ、ただの目じゃない、だがぼくはうそばかりついている……ぼくはわるいところだらけの男だよ、リーザ」
「兄さんはしっかりおさえてやらなきゃいけないのよ、それでいいのよ」
「おさえてくれ、リーザ。今日はおまえを見てるとなんとも言えない楽しい気持だ。自分がすばらしくきれいだってこと、おまえは知ってるかい? ぼくはこれまで一度もおまえの目を見たことがなかった……今日はじめて見たんだよ……どこでもらってきたんだい、その目を、リーザ? どこで買ったんだい? なにを代りにはらったのさ? リーザ、ぼくには親友というものがなかった、そしてそんな交際なんてナンセンスだと思っていた。だがおまえとならナンセンスじゃない……どうだい、友だちになろうじゃないか? わかるかなあ、ぼくの言いたいことが?……」
「よくわかるわ」
「いいかい、約束や契約ぬきだぜ、――ただぶっつけに友だちになろうや!」
「そうよ、ただよ、ぶっつけによ、でも一つだけ約束があるわ。もしいつかあたしたちがお互いに責め合ったりしても、なにか不満なことがあったり、自分がわるい、よくない人になったりしても、またたといこんなことをすっかり忘れてしまうようなことがあっても、――決してこの日この時を忘れないということよ! こう自分に約束しましょうよ。あたしたちがこうして手をとり合って歩いて、こんなに笑い合って、こんなに楽しかった今日のこの日を、いつも思い出すことを誓いましょうよ……ね? いいでしょ?」
「いいとも、リーザ、いいとも、誓うとも。だがリーザ、ぼくははじめておまえの言葉を聞くような気がするよ……リーザ、おまえはたくさん本を読んでるの?」
「いままで一度も訊いてくれなかったわ! 昨日はじめて、あたしが言葉を言いまちがえたとき、注意を向けてくれたきりよ、そうでしょ、ものしりさん」
「じゃ、どうしておまえのほうから話しかけてくれなかったんだね、ぼくがそんな愚か者だったらさ?」
「だってあたしずっと待ってたのよ、兄さんが利口になってくれるのを。あたしはじめからあなたを見ぬいていたのよ、アルカージイ・マカーロヴィチ、そして見ぬくとすぐに、こう思い出したの、『この人はきっと来る、おしまいにはきっともどってくるはずだ』って、――そして、その第一歩をふみだすという名誉を、あなたにのこしておいてあげたほうがいいと決めたのよ。そしたら、『だめよ、さあ今度はあたしについてらっしゃい!』って、そう言うつもりだったのよ」
「へえ、おどろいたコケットさんだ! じゃ訊くが、リーザ、ずばりと白状しなさい、おまえはこの一月《ひとつき》ぼくを腹の中で笑っていたんだろう、ちがうかい?」
「あら、だって兄さんたら滑稽なんだもの、ひどく滑稽なのよ、アルカージイ! わかるかしら、あたし、もしかしたら、兄さんがそんな変り者だから、この一月誰よりも兄さんが好きだったのかもしれないわ。でも、多くの点でよくない変り者でもあったわ、――そこは、兄さん、自慢にならなくてよ。それから、誰が笑ってたか、知ってる? お母さんよ、あたしとよくひそひそ話し合ったものよ、『なんて変り者でしょう、ほんとにおもしろい変り者だわ!』なんて。ところが兄さんたら、それを知らないで、ほらあいつらびくびくしてるぞ、なんて考えていたんでしょう」
「リーザ、おまえはヴェルシーロフをどう思う?」
「あたしずいぶんたくさん、あの人のことを考えてるわ。でも、ねえ、今日彼の話はよしましょうよ。今日は彼のことはなしよ。そうでしょう?」
「まったくそのとおりだ! どうして、おまえはひどく頭がいいぞ、リーザ! ぜったいにぼくより利口だよ。まあ、もうちょっと待ちなさい、リーザ、こうしたごたごたが終ったら、そのときこそきっと、おまえにいろいろと話してやれるだろうから……」
「どうしたの、顔をしかめたりして?」
「いや、顔なんかしかめやしないさ、リーザ、ぼくはただ……リーザ、ぼくの顔をまっすぐに見てごらん。ぼくは妙な癖があってね、心の底のくすぐったいところを指でさわられるのがいやなんだよ……それより、こう言ったほうがいいかもしれんな、みんなの目にさらしものにするために、ちょいちょいと感情を外へ放流させるなんて、恥ずかしいことじゃないか、そうだろう? だからぼくはときどき顔をしかめて黙りこむほうが好きなんだよ。おまえは利口だから、わかってくれるはずだ」
「もちろんよ、だってあたしもそうなんだもの。あたし兄さんがすっかりわかったわ。兄さん知ってるかしら、お母さんもそうなのよ!」
「ああ、リーザ! なんとかすこしでも長くこの世に生きることにしようよ! え? なんと言った?」
「いいえ、あたしなにも言わないけど」
「おまえ見てるかい?」
「ええ、あんたも見てるわ。あたし兄さんを見て、見て、見惚《みと》れてるのよ」
わたしはほとんど家のまえまで妹を連れていって、アドレスを書いて渡した。別れぎわに、わたしは生れてはじめて妹に接吻した……
それはなにもかもよかったはずなのに、一つだけよくないことがあった。ある重苦しい考えが昨夜からわたしの内部にうごめいていて、頭からはなれなかった。それは、わたしが昨日、家の門のところであの不幸な娘に出会ったとき、自分も家を出る、こんな巣からとびだし、わるいやつらからはなれて、自分の巣をつくるつもりだ、ヴェルシーロフには私生子がわんさといるさ、などとあの娘に言ったことである。息子が父のことをこんなふうに言えば、それはヴェルシーロフに対する彼女の疑惑をたかめ、彼に侮辱されたのだと確信させたことは当然である。わたしはステベリコフを非難したが、それよりももっと火に油を注いだ主犯は、わたしではなかったか。この考えは恐ろしかった、今でも恐ろしい……しかしあのときは、あの朝は、わたしはもうこの考えに苦しみはじめてはいたが、それでもこんなことはつまらないことだと軽くいなしていた。『なあに、ぼくがなにも言わなくたって、もう熱しきって煮えたぎっていたのだ』わたしはときどきこうくりかえした、『なに、なんでもないさ、いまにすぎてしまうだろう! そしたらぼくはもとどおり元気になれるさ! なにかで埋合せをしよう……なにかいいことをして……ぼくの前途にはまだ五十年も人生があるのだ!』
だが、この考えはやはりうずいていた。
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第二部
第一章
ここで二カ月ほど先へとぶことになるが、その間《かん》のことは書き進めてゆくうちにおのずと明らかになるはずであるから、心配しないでいただきたい。十一月十五日という日をここにはっきりと記《しる》しておこう――多くの理由によってわたしにとってはぜったいに忘れることのできない日だからである。その第一は、二月まえのわたしを見た者は、誰もこの日のわたしを見あやまったにちがいないからである。といって、まあ顔くらいは気づいたかもしれないが、なにがどうなったのかぜんぜんわからなかったろう。わたしは粋《いき》な服装をしていた――これが第一である。かつてヴェルシーロフがわたしに紹介しようとした、あの『良心的で、趣味のいいフランス人』は、とうにわたしの服を一揃《ひとそろ》えこしらえたばかりか、もうわたしに不合格のレッテルをはられてしまっていた。今わたしの服を縫っているのは、もっと腕のいい超一流のテーラーで、わたしはあちこちの高級洋服店につけさえきくようになっていた。わたしはある有名レストランにもつけをもっていたが、ここはまだ用心して、そんなことは――品のないことで、名前を傷つけるだけだということは承知していたが、それでも金ができたら、すぐに払うことにしていた。ネフスキー通りのフランス人の理髪師はわたしと懇意で、わたしの髪を整えながら、よくいろんな世間話をしてくれる。実を言うと、わたしは彼を相手にフランス語の実習をしているのである。わたしはフランス語を、それもかなりよく知っているが、それでも上流の社交界ではまだなんとなく話すのが気がひける。それにわたしの発音は、どうやら、パリ風からは遠いらしいのである。わたしはマトヴェイという高級|辻馬車《つじばしや》の馭者《ぎよしや》を子分にもっていて、声をかけると、すぐにとんでくる。彼の馬は明るい栗毛《くりげ》の雄である(わたしは毛《あしげ》は好かない)。しかし、まずいこともある。十一月の十五日は、もう本格的な冬が来て三日にもなっていたが、わたしのシューバは古いあらいぐまの毛皮で、ヴェルシーロフのおさがりで、売っても――二十五ルーブリにしかならない。新しいのをつくらなければならないのだが、ポケットはからっぽだし、しかも毎日、夜の資金は捻出《ねんしゆつ》しなければならない、これだけはなんとしても必要なのだ、――さもないとわたしは『不幸なだめな男』になってしまう。これが――当時のわたしのモットーだった。おお、なんたる堕落! どうしたというのか、いったいどこから突然この数千ルーブリの金だの、競走馬だの、フランス人理髪師だのという、愚かしいものが現われたのか? どうして急にすべてを忘れて、こんなに変ってしまったのか? なんたる恥辱だ! 読者よ、わたしは今からわたしの羞恥《しゆうち》と汚辱の歴史を語ろうと思う。わたしの全生涯においてこれらの思い出ほどわたしにとって恥ずかしいものはないのである!
わたしは裁判官のような言い方をするが、自分に罪があることを知っているのである。わたしが当時まきこまれていた旋風の中で、指導者も助言者もなく、わたしはたった一人ではあったが、しかし、誓って言うが、そのころでももう自分の堕落を自覚していた、だから許されがたいのだ。とはいえこの二カ月のあいだわたしはほとんど幸福と言えた、――なぜほとんどなのだ? わたしはあまりにも幸福すぎた! しかも束《つか》の間《ま》ちらと来る(その束の間がひんぱんに訪れたのだが)汚辱の意識が、そのためにわたしの心はゆさぶられたのだが、その意識さえ――信じてもらえるかどうか?――いっそうわたしを酔わせたほどだった。『なあに、堕落するだけするさ。だがのめりこんでしまわないで、脱け出るのだ! おれには導き星があるのだ!』わたしは深淵《しんえん》の上にかかった、手すりもない、薄い板きれの狭い橋をわたっていた、そしてそんなふうにしてわたってゆくのが、わたしには痛快だった。だが『理想』は? 『理想』は――あとだ、理想は待っててくれる。今やってることは――『ちょっと脇道《わきみち》へそれただけなのだ』。『ちょっとばかり自分を楽しませることがなぜいけないのだ?』ここが『わたしの理想』のわるいところなのだ、もう一度くりかえして言うが、どんな寄り道もすっかり許すという、ここがよくないのである。もしそれがあれほど堅固な徹底したものでなかったら、わたしは、おそらく寄り道をおそれたにちがいないのだ。
わたしは当分はまだ例の小部屋を借りたままにしていた、というのは、借りてはいたが、住んではいなかった。そこにはトランクや、袋や、その他のがらくたがおいてあった。わたしの本宅はセルゲイ・ソコーリスキー公爵の住居にあった。わたしはそちらに坐りこみ、そちらに寝て、一週間もいつづけることがあった……どうしてそのようなことになったのか、それは今から語るが、そのまえにちょっとわたしの小部屋について述べることにする。これはわたしにはすでに貴重なものとなっていた。ここは、あの口論の後にヴェルシーロフのほうから、はじめてわたしを訪《たず》ねてきたところで、それからは何度となくこの部屋を訪れたのである。くりかえして言うが、それは恐ろしい恥辱のときであったが、同時に大きな幸福のときでもあった……それにあのころはなにもかもがうまくいって、そこらじゅうに笑いがこぼれていた! 『あの以前の陰気臭く黙りこくっている反抗がなんのためなのだ』わたしは嬉《うれ》しくて有頂天になっていたときなどよくこう考えたものだ、『あの昔の病的なひがみ根性の発作や、孤独な憂鬱《ゆううつ》な幼年時代や、夜具の下での愚かしい空想や、誓いや、節約や、それに理想さえも、いったいなんのためなのだ? おれはこうしたすべてを想像したり、考えだしたりしてきたが、世の中へ出てみたらまるでちがうじゃないか。おれはこのとおり喜びにあふれているし、気分も軽快だ。おれにはヴェルシーロフという父がいるし、セリョージャ公爵という友がいる、そのうえさらに……』。だが、このさらに、は――語るのをよそう。ああ、すべてが愛と、寛容と、名誉のためになされたはずなのに、ふたをあけてみたら、醜悪と、高慢と、破廉恥であったとは。
もうよそう。
彼はあのときの決裂から三日目にはじめてわたしを訪《たず》ねてきた。わたしが留守だったので、彼は部屋に待っていた。わたしは小さなみすぼらしい自分の部屋のドアをあけたとき、この三日というものはたえず彼の来るのを待っていたのだが、それでも胸がどきッとして、目がくらんだようになって、思わず扉口《とぐち》に立ちどまったほどだった。幸いにも、彼は家主と向い合って坐っていた。家主は、待っているあいだ客に退屈させないために、気をきかせてすぐに自分から名乗り出て、なにやら熱心に話しはじめたのだった。これはもう四十近い九等官で、ひどいあばた面《づら》で、ひどく貧しく、胸を病む妻と病弱な幼な子をかかえていた。実に人好きのする温良な気性で、しかもかなりこまかく気のつく男だった。わたしは彼がいてくれたのを喜んだ、そして実際に彼に救われたといってもよかった。だって、わたしはいったいなにをヴェルシーロフに言ったらいいのだ? わたしは、この三日のあいだ、ヴェルシーロフのほうからわたしを訪ねてくるものと思っていたし、真剣にそう信じこんでいた。わたしはそれを強く望んでもいた。というのは、なにがどうあろうとわたしのほうから先にはぜったいに行くまいと決めていたからだ、そしてそれはなにも片意地を張っているのではなく、彼に対する愛のためなのだ、一種の愛のねたみというか――わたしにはどうもうまく言えない。それにだいたい、読者は美しい適切な表現などというものをわたしに期待しないであろう。さて、わたしはこの三日のあいだ彼を待ちつづけて、彼がどんなふうに入ってくるだろうと、そればかりをほとんどたえまなく想像していたのだが、それでもやはり、ああいうことがあったあとだけにわたしたちがまずなにから話しだすか、ということになると、どれほど想像してみても、どうしてもはっきりした予想がつかめなかった。
「やあ、お帰り」と彼は腰を下ろしたまま、親しげにわたしに片手をさしのべた。「まあ、ここへかけなさい。ピョートル・イッポリトヴィチがパヴロフスキー連隊のそばにある……いやその付近のどことかにあるという岩の、実におもしろい話をしているところだよ……」
「ええ、ぼくはその岩を知ってますよ」とわたしは彼らのそばの椅子に腰を下ろしながら、急いで答えた。彼らはテーブルをはさんで坐っていた。部屋はちょうど二間四方しかなかった。わたしは重い息をついだ。
満足の色がヴェルシーロフの目にちらとうかんだ。どうやら彼は、わたしがとりみだすのではないかと、危ぶんでいたらしい。これで彼は安心したわけである。
「いっそはじめからやり直してくれませんか、ピョートル・イッポリトヴィチ」彼らはもう親しく名前と父称で呼び合っていた。
「つまりこれはまだ先帝陛下の御代《みよ》にあった話なのですが」まるではじめから話の効果を危ぶむみたいに、ピョートル・イッポリトヴィチは少々不安げな顔を神経質そうにわたしに向けた、「あなたはあの岩をご存じですね、――往来に、なんのために、どうしてあるのか、ただじゃまにばかりなっているばかな岩の話ですよ、ご存じでしょう? 皇帝が何度も馬車で通られたが、そのたびにこの岩が目についた。そしてとうとう癇癪《かんしやく》をおこされた。それもそのはずで、まるで山みたいな大きな岩が、にょきッと通りのまんなかに突き出ているのですから、通りをぶちこわしにしているわけです。『あの岩をなくせい!』鶴《つる》の一声ですよ。岩をなくしろ、と言ったわけですが、――おわかりですか――この『なくせい』というのがどういうことか? 先帝のご気性はご存じですね? さて、この岩をどうしたらいいのか? みんな途方にくれてしまいました。そこで国会が開かれ、結局は、名前はおぼえていませんが、当時の大臣の一人に、そのしごとがまかせられたわけです。そこでその大臣がいろいろと意見を聞きますと、どう見積っても費用は一万五千ルーブリは下るまい、しかも銀貨で、というわけです(先帝の時代には紙幣じゃなく銀貨だけが通用しておりましたからな)。『一万五千ルーブリだと、なんたるばかげたことだ!』。最初は英国人たちがレールをしいて、それに岩をのせて、蒸気機関車でひっぱろうと考えました。しかしそんなことをしたら、いったいどれほどかかります? それに当時は鉄道はまだなくて、わずかにツァールスコエ・セロー(訳注 王村。離宮や学習院があった。ロシアで最初の鉄道。ペテルブルグ―王村―パヴロフスクを結ぶ線が開かれたのは一八三八年である)を走っていたくらいなものでした……」
「それなら、割ってしまえばよかったのに」とわたしは不機嫌《ふきげん》な顔をしはじめた。わたしはヴェルシーロフをまえにしてひどく腹だたしく、そして恥ずかしくなった。ところが彼はいかにもおもしろそうに聞いていた。わたしは、彼もわたしと二人きりになるのが面映《おもは》ゆいので、主人がいてくれるのを喜んでいたのだ、とわかった。わたしはそれを見てとった。そして、忘れもしないが、彼のその態度にわたしは感動をさえおぼえたのだった。
「その割るということなのですよ、それを思いついたわけです、それがモンフェラン(訳注 本名リカール。アレクサンドル一世のお気に入りの建築家)ですよ、彼はちょうどそのころイサーク寺院を建立《こんりゆう》中だったんですね。まず割って、それから運べばいい、と言ったわけです。でも、その作業がどのくらいかかるでしょう?」
「いくらもかかりはしませんよ、ただ割って、それから運べばいいんでしょう?」
「いいえ、どういたしまして、まず機械をすえなくちゃいけない、蒸気機関のね、それからどこへ運んだらいいのです? しかもあんな山みたいなやつを? どう少なく見ても一万ルーブリはかかるだろう、まあ一万から一万二千ぐらいのところ、というのがみんなの意見でした」
「失礼ですが、ピョートル・イッポリトヴィチ、そんなのばかげた作り話ですよ、実際はそんなことじゃなくて……」
ところがこのとき、ヴェルシーロフが気づかれぬようにそっとわたしに目くばせした、そしてこの目くばせにわたしは主人に対するなんとも言えぬこまかい思いやりを見た。それは主人を哀れむ心の苦痛ともとれた。わたしはそれがすっかり気に入って、つい声をたてて笑いだした。
「さて、そこへ、そこへですね」なにも気づかないで、こうした話し手の常でなにかの質問で話の腰を折られはしまいかと、ひどくびくびくしていた主人は、わたしの笑いですっかり元気づいた、「一人の町人が通りかかりました。まだ若い男で、それがあなた、ロシア人で、くさび形のあごひげを生《は》やして、裾《すそ》の長い百姓外套《カフタン》を着て、しかもちょっぴり酒の気があって……しかし、いや、酒の気はないんですよ。この町人はただ突っ立って、彼らが話し合っているのを、つまり英国人たちとモンフェランがですね、聞いてたわけです、するとこのしごとをまかされた、その大臣が、馬車でそこへやって来て、話を聞いて、かんかんになりました。そう決めながら、それがやれないのは、どうしたわけだ、というわけですね。大臣が腹だちまぎれにふと見ると、すこしはなれたところにその町人が突っ立って、えへらえへら作り笑いをしているじゃありませんか、といって作り笑いでなんかないのですよ、わたしはそう思いますね、ところがまるで……」
「嘲笑《ちようしよう》みたいにですね」とヴェルシーロフは慎重にあいづちをうった。
「嘲笑ととるのですよ、といっていくぶんは嘲笑ですがね、ほら、あの善良なロシア人の笑いですよ、ご存じでしょう。ところが大臣は、もちろん、むしゃくしゃしていたときですから、さっそく、『こら、ひげ、そこでなにをぐずぐずしとるか? 貴様は何者だ?』とどなったわけですよ。すると、『へえ、ここで岩を見てますんで、閣下』。ええ、たしかに閣下だったらしいですね、ひょっとしたらスヴォーロフ公爵ではなかったでしょうか、あのイタリア貴族の称号をおくられた将軍の孫かなにか……しかし、いや、スヴォーロフじゃありませんな、誰だったか忘れたのは、まったく残念ですが、でも、いいですか、閣下ではあっても、まじりけのない根っからのロシア人でした、どう見てもロシア人のタイプで、愛国者で、りっぱなロシアの魂をもった人でしたよ。すぐに、ははあと気がついて、『するとなんじゃ、貴様は、岩をとりのけるというのか。なにをにやにや笑っとる?』とやったものです。すると町人はえたりと、『なに英国人どもを笑ってるんですよ、閣下、あんまりめちゃくちゃな値をふっかけるんでね、ロシアの財布はでっかいうえに中身がぎっしりつまってるが、やつらの家にゃ食うものもねえからですよ。百ルーブリばかしやってくださいな、閣下、そしたら明日の晩方までにゃ岩をきれいにかたづけてごらんにいれますて』。どうです、考えられますかな、こんなむちゃな提案を。英国人たちは、もちろん食うものがほしそうな顔をしてるし、モンフェランはにやにや笑っています。ただこの閣下、つまりはロシアの魂だけがですね、『この男に百ルーブリとらすがよい。まちがいなく、かたづけるのだな?』――『明日の晩方までにやっつけますよ、閣下』――『して、どんなふうにやるのだ?』――『それだけは、かんべんしてつかあさい、わっしの秘密ですので』とやったものです、それも、あのめっぽうすてきなまじりっけのないロシア語でですよ。大臣はすっかり気に入って、『この男に必要なものはなんでもあたえてやれ!』そう言いおいて、大臣は帰られた。さて、この男はどうしたと思います!」
主人はちょっと言葉を切って、うっとりした目でわたしたちを見まわした。
「さあ、わかりませんな」とヴェルシーロフは微笑した。わたしはひどくむずかしい顔をしていた。
「つまり、こうしたのですよ」と主人はまるで自分がそれをやってのけたような手柄顔で話をつづけた、「彼は鋤《すき》をもった百姓どもを雇いあつめて、そこらにいるごく普通のロシアの百姓をですよ、その岩のそばに、すぐわきに、穴を掘りはじめたのですよ。一晩中かかって、ちょうど岩の高さほどの、ばかでかい穴を掘りあげました、岩の高さより五センチばかり深くですね、さて掘りあげると、今度は岩の下の土をすこしずつ、用心しながら掘るように指図《さしず》しました。ま、当然のことですが、下を掘られたら、岩は坐りがわるくなる道理で、ぐらつきだしました、そのぐらついたところで、彼らは反対側からみんなで岩に手をあてて、ロシア式のウラーのかけ声もろとも押したてたものです。岩は穴へどすーん! そこで鋤で土をかぶせ、たこでつきかため、砂利をしくと――平らになって、岩はあとかたもなく消えてしまいました!」
「なるほどねえ!」とヴェルシーロフは感心した。
「そこで見物人がわんさとつめかけました。それこそたいへんな人の波です。英国人どもは、もうとっくに察して、かんかんになっています。モンフェランは馬車でかけつけると、これは百姓式だ、あんまり簡単すぎる、ときめつけました。そこなんです、この簡単すぎるというところに秘密があったわけですが、それがわからなかったとは、まったくばかな連中だというわけですよ! わたしはこう言いたいんですよ。大臣はすっかり喜んで、その男を抱きしめて、接吻《せつぷん》しました、『ときに、おまえはどこから来たんだな?』――『へえ、ヤロスラヴ県からでさ、閣下、本職は仕立屋なんですが、夏分は暇なんで、こうして都会に果物を売りに来ますんで、へえ』。当然、それが上聞《じようぶん》に達して、その男に勲章が下賜《かし》されました。彼はこうしてしばらくは勲章を首に下げて歩いていましたが、そのうちに飲んじまったということです。そこは、ね、ロシア人ですよ、がまんができやしませんよ! そんなふうだから、わたしらは今でも外国人に食いものにされてるんですよ、そうですよ、それなんですよ!」
「そりゃ、むろん、ロシア人の知恵は……」とヴェルシーロフは言いかけた。
ところがそのとき、主人は運よく病気の妻に呼ばれた。彼はあわててかけだしていったが、さもないとわたしの堪忍《かんにん》袋の緒は切れていたろう。ヴェルシーロフはにやにやしていた。
「アルカージイ、彼はきみが来るまで一時間ばかりわしを楽しませてくれたんだよ。この岩の話……これなどはこうした種類の話の中でももっとも愛国的な幼稚なものだよ、でもどうして彼の話の腰が折れよう? きみも見ただろう、あの満足しきって溶《とろ》けそうになってる彼のようすを。しかも、そればかりか、この岩は、わしの聞きちがいでなければ、今もやはりそびえているらしいし、ぜんぜん穴になどへ埋められはしなかったんだよ……」
「ええっ、そうですか!」とわたしは叫んだ、「それがほんとなんですか。どうして彼はあんなでたらめを!……」
「どうしたんだね? おい、すっかり腹をたてているようだね、いいじゃないか。でも、あの男は実際に話を混同しちゃっているんだよ。わしもまだ子供の時分にあれに似た岩の話を聞いたことがあったが、ただ、むろん、あれとはちがっていたし、あの岩の話でもなかった。『上聞に達した』はいいじゃないか。うん、あのときあの男の心は、自分が『上聞に達した』ようなつもりになっていたんだよ。こうしたみじめな下積み社会にはああした話は欠くことができないんだよ。彼らのあいだにこうした話が多いのは、主として――彼らの節度喪失のせいなのさ。なにも学んでいないし、ほとんどなにも知らない、まあ、カルタと子供をつくることのほかはね、そこでなにか自分たち以外の人間の、詩的な話をしてみたくなる……彼はなんだろう、何者だね、あのピョートル・イッポリトヴィチという男は?」
「貧乏のどん底にあえぎ、そのうえに不幸に見舞われている男ですよ」
「そら、見なさい、もしかしたら、カルタさえもやれんかもしれん! もう一度言うけど、あのばかな話をしながら、彼は隣人に対する自分の愛を満足させているのだよ。彼はわたしたちをも幸福にしてやりたいと願っていたのだよ。愛国心も満足させられるわけだ。たとえば、彼らのあいだにはこんな話もあるよ、ザヴィヤーロフとかいうロシアの商人に、その製品にレッテルを貼《は》らせたくないばかりに、英国人が百万ルーブリ出したとか……」
「あっ、その話ならぼく聞きましたよ」
「ま、聞かないものがあるまいよ、ところが話すほうは、きみがたぶんもう聞いてるだろうということは、百も承知なのだが、それでもやはり、きみが聞いていないものと、故意に自分に思いこませながら、語るんだよ。スウェーデン王の幽霊の話――これはもう彼らのあいだではすたれてしまったらしいが、わしの若いころには、息を殺して、いわくありげなひそひそ声でさかんにささやかれたものだ、まるで今世紀のはじめに誰やらが元老院で議員たちのまえにひざまずいたとかいう話と同じようにな。バシュツキー司令官についてもずいぶんいろいろと話がつくられたものだよ、記念碑をひっぱってきたとかどうとかと。彼らは宮廷生活の逸話がおそろしく好きなんだよ。たとえば先帝時代の陸軍大臣チェルヌイシェフの話で、七十の老人の彼が三十ぐらいにしか見えないように顔をこしらえて伺候したら、陛下がびっくりして腰をぬかしそうになったとか……」
「それも聞きましたよ」
「誰でも聞いてるさ! こうした話はすべて――実に幼稚きわまる話だ、ところがだよ、こうした種類の幼稚な話というものは、われわれが考えるよりも、はるかに深くそして遠く普及するものなのだよ。隣人を幸福にするためにほらを吹きたいと思う願望は、もっともりっぱなわれわれの社会にも見られる、というのはわれわれすべてが心の節度喪失という病気にかかっているからだよ。ただわれわれのは話の種類がちがうだけだ。われわれのあいだではよるとさわるとアメリカの話ばかりだが、その熱たるやたいへんなものだ、政治家たちまで浮かされている! わし自身も、正直のところ、この節度喪失のタイプに属していて、そのために生涯苦しんでるわけだ……」
「チェルヌイシェフ大臣の話は、ぼくはもう何度かしましたよ」
「もう自分でも話したのかね?」
「ここには、ぼくのほかにもう一人、間借人がいるんですが、役人で、やはりあばた面《づら》で、もういい年寄りのくせに、これがおそろしく散文的な人間で、ピョートル・イッポリトヴィチが話をはじめると、すぐに横槍《よこやり》を入れてやりこめるんですよ。そのために、あげくは家主のほうが、話を聞いてもらいたいばっかりに、彼に奴隷《どれい》みたいに仕えて、しきりと機嫌をとりむすんでるしまつなんですよ」
「それはもはや――節度喪失の別なタイプで、むしろ前者よりもさらに重症かもしれんな。前者は――感激そのものだ! 『いいから、まあほらを吹かせてくれよ――見てたまえ、実に痛快なんだから』というわけだが、後者は――憂鬱症と散文以外のなにものでもない、『うそなんかつかせるものか、どこで、いつ、何年にあったのだ?』――一口に言えば、心のない人間だよ。アルカージイ、常にちょっぴり人にほらを吹かせてやりなさい――それは罪のないことだ。たくさん吹かせてやったってかまいやしない。第一に、それはきみの心のこまやかさを示すことになるし、第二に、そのためにきみもほらが吹けるということになる――一挙両得というやつだよ。Que diable!(ぼろい話だ)隣人は愛すべきだよ。さて、わしはそろそろ時間だ。実に気持のよい部屋じゃないか」と彼は椅子から立ち上がりながら、つけくわえた。「立ち寄ったら、きみがたいへん元気だったと、ソーフィヤ・アンドレーエヴナときみの妹に話してやろう。さようなら、アルカージイ」
なんということだ、これだけってことがあるかしら? わたしが望んでいたのはぜんぜんこんなものではないのだ。こんなふうにするほかしようがないことは、重々わかっていたが、それでもわたしはこんなものではなく、もっと重大なことを期待していたのだ。わたしは蝋燭《ろうそく》をもって階段を先に立った。主人がかけよってきた、しかしわたしは、ヴェルシーロフに気づかれぬように、力まかせに主人の腕をつかんで、じゃけんに突きとばした。彼はびっくりしてわたしを見たが、すぐにこそこそと姿を消した。
「この階段は……」とヴェルシーロフは、なにか言わないと間がもてないらしく、それにわたしがなにか言いだしはしないかと恐れるらしく、言葉をひっぱりながら、あいまいに言った、「こういう階段は――もう忘れてしまったが、きみの部屋はたしか三階だったな、しかし、もうこれでわかるから……心配せんでいいよ、アルカージイ、風邪《かぜ》をひくといかん」
しかしわたしはもどらなかった。わたしたちはもう二階の階段を下りていた。
「ぼくはこの三日のあいだずっとあなたを待っていたんです」と不意に、ひとりでにわたしの口をついて出た。わたしは息をはずませた。
「ありがとう、アルカージイ」
「あなたがきっと来てくれることを、ぼくは知っていました」
「わしはわしで、わしがきっと来るときみが知っていることを、知っていたんだよ。ありがとう、アルカージイ」
彼は口をつぐんだ。わたしたちはもう出口の扉《とびら》のそばまで来ていた。それでもまだわたしは彼のうしろから歩いていった。彼は扉をあけた、とたんに吹きこんできた風がわたしの蝋燭を消した。とっさにわたしは、いきなり彼の手をつかんだ。真の闇《やみ》だった。彼はびくりとしたが、黙っていた。わたしは彼の手に顔をおしつけて、不意にむさぼるように接吻しはじめた、幾度も、幾度も。
「わしのかわいいアルカージイ、どうしておまえはそれほどわしを愛してくれるのだね?」と彼は言ったが、それはもうまったく別な声だった。その声はふるえていた、そしてその声には、まるで彼ではないような、なにかまったく新しいひびきがこもっていた。
わたしはなにか答えたかったが、声にならないで、夢中で階段をかけのぼった。彼はその場に立ったままじっと待っていた、そしてわたしは三階の自分の部屋のまえに着いたときに、はじめて下の表扉がぎいとあいてバタンとしまった音を聞いた。どういうつもりかまたかけよってきた主人のそばをすりぬけて、わたしは自分の部屋へとびこむと、ドアのかけがねを下ろした、そして蝋燭もつけないで、寝台に突っ伏し、枕に顔をおしあてて――泣いた、思いきり泣いた。トゥシャールのとき以来はじめて泣いた! 慟哭《どうこく》がはげしい力でわたしの内部から噴出した、そしてわたしは言いようもなく幸福だった……だがなにをくだくだと書くことがあろう!
わたしは今これを書きこんで、すこしも恥ずかしいとは思わない。こうしたことは、ばかばかしいと言ってしまえばそれまでだが、ともあれ美しい感動にちがいないからである。
だが彼はその返報をわたしからいやというほど受けることになった! わたしは恐ろしい暴君になったのである。当然のことだが、このシーンについてはその後わたしたちのあいだに匂《にお》わされることもなかった。それどころか、それから三日目にわたしたちはなにごともなかったように平気で顔をあわせた――そればかりか、この二度目の夜はわたしはむしろ乱暴なほどだったし、彼もなんとなくそっけなかった。これもまたわたしの部屋だった。わたしは母に会いたいという強い気持があるくせに、なぜかまだこちらから彼の家へ出向いてはゆかなかった。
わたしたちはそのころ、つまりこの二カ月のあいだ、もっとも抽象的な問題ばかりを話し合っていた。今もそれがふしぎでならないのだが、わたしたちが論じ合ったのは、抽象的な問題だけで、――もちろん、人類一般の問題や、もっとも緊要な問題をとりあげたことは言うまでもないが、現実にはすこしもふれなかったのである。ところが現実には多くの、ひじょうに多くの、決定し、解明しなければならぬ問題が、しかも焦眉《しようび》の問題があったのだが、それについてはわたしたちは沈黙をまもっていた。わたしは母やリーザのことさえ口に出さなかったし……それに、かんじんな自分自身のことも、つまり自分のこれまでの生活のことは、一言も口にしなかった。恥ずかしさのためか、あるいは青年の愚かな虚栄のためか――わたしにはわからない。おそらく、愚かな虚栄のためであろう、なぜなら恥ずかしさならともあれ踏みこえることができたはずだからだ。さて、わたしは彼にひどい暴君ぶりを発揮して、たびたび厚顔無恥な態度までとった、そしてそれが自分では決してそんなことをしたいとは思わないのである。どういうものかひとりでにそうなってしまうので、わたしはどうしても自分を抑《おさ》えることができなかった。彼の話しぶりはといえば、あいかわらずかすかな嘲笑をふくんでいたが、もっともそういうことにかかわりなく、常にこのうえなく柔和だった。もうひとつわたしを感動させたのは、彼がむしろ自分のほうから好んでわたしを訪ねてきたことで、そのためにわたしは、結局、母に会いにゆくことがひどくまれになり、せいぜい一週間に一度ぐらいで、わたしがすっかり生活の渦の中に巻きこまれてしまったこのごろでは、それが特に間遠になった。彼はいつも日が暮れてから訪ねてきて、わたしの部屋に腰をおちつけて、話しこんだ。彼はまた主人とも好んでおしゃべりをした。彼のような人間があんな男を相手にしていると思うと、わたしは腹がたってならなかった。いったい彼にはわたしのほかに訪ねる先がないのだろうか? こんな疑問も何度かわたしの頭にきた。しかしわたしは、彼が多数の知人たちをもっていることをよく知っていた。彼は近頃この一年自分から絶っていた社交界の交友関係をたくさん復活させてもいた。だが、彼はそうした交友関係にあまり魅力を感じないらしく、多くはただ形のうえで復活させただけで、むしろわたしを訪ねるほうを好んでいた。彼は夜分にわたしの部屋へ訪ねてくると、そのたびにおどおどしたようなようすでドアをあけながら、まず妙に不安そうな目で、『おじゃまじゃないかな? 遠慮なく言っておくれ――わしは帰るから』とでも言いたげにわたしの目をのぞきこむのだが、これはわたしをひじょうに感動させた。ときにはほんとにそう言うこともあった。たとえば一度こんなことがあった。ごく最近のことだが、わたしがすでに洋服屋からとどいたばかりの仕立ておろしの服を着て、『セリョージャ公爵』のところへ出かけようとしているところへ(それからいっしょにあるところへくりこむわけだが、そのあるところについては後《あと》で述べる)、彼が訪ねてきた。彼は部屋に入ると、すぐに椅子に腰を下ろした。わたしが出かけようとしていることに気づかなかったらしい。彼はときどき奇妙な放心状態におちいることがあった。しかもまるでわざとのように、主人のことを話しだした。わたしはかっとなった。
「えい、主人がなんです、あんな男なんぞくそくらえだ!」
「おや、アルカージイ」と彼はそそくさと立ち上がった、「きみは外出するところらしいな、わしはじゃましてしまったようだ……わるかったな、許してくれ」
そして彼はすまなそうに急いで出てゆこうとした。このような人間から、自らたのむところが多く、他人の意にしたがわぬ、このような上流社会の紳士から、このような従順な態度を示されたことが、一挙にわたしの心の中に彼に対する愛と信頼のすべてをよみがえらせた。しかし彼がこれほどわたしを愛していてくれたのなら、そのとき汚辱へ転落してゆくわたしをなぜとめてくれなかったのか? そのとき彼が一言言ってくれたら――わたしは自制できたかもしれないのである。そうは言っても、やはりできなかったかもしれない。しかし彼はこのわたしのおしゃれや、うぬぼれや、マトヴェイを見ていたではないか(わたしは一度彼をわたしの橇《そり》で送ろうとさえしたのだが、彼は乗らなかった、しかもそういうことが何度かあった)、わたしが金をまきちらすようにつかうのを、彼は見ていたではないか――それなのに、なに一言、訊《き》こうともしなかった。これをわたしは今でもふしぎに思うのである。しかしわたしは、むろん、そのころはすこしも彼に遠慮しないで、すべてをさらけだしていたが、もちろん、一言も言い訳がましいことは言わなかった。彼が訊かなかったから、わたしも言わなかったまでである。
しかし、二、三度わたしたちは現実の問題にもわずかにふれたことがあった。わたしは一度、彼が遺産を拒絶してまもないころ、これからどうして暮してゆくつもりかということを、彼に訊いてみた。
「まあ、なんとかやっていくさ」と彼はきわめて平然と言ってのけた。
このごろわたしは知ったのだが、タチヤナ・パーヴロヴナの五千ルーブリかそこらの涙ほどの財産さえ、その半分はこの二年のあいだにヴェルシーロフに注ぎこまれたのである。
またあるときわたしたちは、なにかのはずみで母のことを話しだしたことがあった。
「アルカージイ」と彼は急にしんみりとした調子で言った、「わしはいっしょになった当初よくソーフィヤ・アンドレーエヴナに言ったものだよ、もっとも当初ばかりでなく、中ごろも言ったし、このごろも言ってるんだがね。なあおまえ、わしはおまえをずいぶん苦しめてきたなあ、でもおまえが生きてわしのまえにいるあいだは、かわいそうだとは思わないが、もしおまえが死にでもしたら、きっと自分を死ぬほど責めるだろうよ、とな」
しかし、この夜の彼はいつになく胸をひらいてくれたようにおぼえている。
「せめてわしが気の小さな弱虫で、この意識に苦しめられてくよくよ悩むようだったら、まだ楽だったと思うよ! ところがそうじゃない、わしは限りなく強い人間であることを、自分でも知っているのだよ。そのわしの強さがどこにあると思うかね? それはね、どんなものにでも順応できる真の生活力だよ、これは、わしらの時代のすべての賢明なロシア人の際《きわ》だった特徴でもあるがね。わしはなにものにも破壊されないし、なにものにも駆逐されないし、なにものにもおどろかされない。わしは番犬みたいに生命力が強いのだよ。わしはすこしのひっかかりもなく同時に二つの相反する感情を感じることができる――これはもちろん、わしの意志とは無関係にだが。しかし、そうは言っても、それが恥ずべきことだということくらいは承知してるよ、なにしろあまりにも常識的すぎるからな。わしはほとんど五十の坂をのぼりつめるまで生きてきたが、わしが生きてきたことがよかったのか、わるかったのか、いまだにわからんのだよ。もちろん、わしは生きることを愛するし、それは事実が率直に語っている、だが、わしのような人間が生きることを愛するというのは――卑劣なことだ。近頃なにやら新しい風潮が出てきて、クラフトのような連中はそうした現実との折合いがつかんで、自殺する。だが、クラフトたちがばかなことは、言うまでもない。ところがわしたちは利口だ――となると、平行線はぜったいに変らぬ道理で、問題はやはり未解決のままにのこる。では、はたして地球はわしらのような人間のためにのみあるのか? そうだと答えるのが、もっとも正しいようだ。だがこの考えはあまりにも喜びがなさすぎる。とはいえ……しかし、問題はやはり未解決のままにのこる」
彼は悲しそうに語った、とはいえやはり、それが本心なのかどうかは、わたしにはわからない。彼の内部には常に、どうあってもぜったいに見せようとしない、心のしわのようなものがあった。
わたしはそのころ飢えた者がパンにとびつくように、彼にとびついて、彼につぎつぎと質問をあびせかけた。彼はいつも喜んで正直に答えてくれたが、結局はいつもごく一般的な警句かなんかにもっていってしまうので、実際にはなにもひきだすことができなかった。ところがこうしたすべての問題はわたしをこれまでずっと苦しめつづけてきたもので、正直に言うが、モスクワにいたころからすでにその解決をペテルブルグでヴェルシーロフに会うまでとのばしてきたのだった。わたしはそれを率直に彼に打明けさえした、すると彼はわたしを笑うどころか、忘れもしないが、わたしの手をにぎりしめたのだった。一般の政治問題や社会問題についても、わたしは彼からほとんどなにもひきだすことができなかった。ところがこれらの問題が、わたしの『理想』からしても、もっともわたしの心を不安にしていたのだった。デルガチョフのような連中について、わたしはあるとき『彼らは批判のかぎりじゃないね』という意見を彼からもらったことがあった、ところがその口のうらから彼は、『今の自分の意見になんらの意味もあたえない権利を留保するよ』と妙なことをつけくわえたのである。現代の国家と世界がどのような末路をたどるか、そして社会がどのような原理によって再組織されるかという問題については、彼はおそろしく長いこと沈黙していたが、とうとう、わたしはあるときつぎのような意見を彼からしぼりとることができた。
「そうしたものはみなごく平凡におこなわれていくように、わしは思うね」と彼は言った。「ただなんということもなくあらゆる国家が、ちゃんと予算のバランスがとれ、りっぱな黒字財政なのに、un beau matin(ある日突然に)完全な混乱状態におちいって、どの国もいっせいに、世界恐慌の中から立ち上がるために、支払い停止を宣言しようとする。ところが世界中の保守派がそれに反対する、なぜなら彼らは株主であり、債権者であるから、破産を認めることを望まないのだ。そこで、当然、全般的な酸化というような現象が起る。つまり大勢のユダヤ人どもがやって来て、ユダヤ王国をつくるわけだ。しかし、これまでに株券などというものをもったことのない連中、総じてなにももったことのない、つまり無産者というやつだな、こういう連中は当然のことだが、酸化現象への参加を望まない……そこで戦争が起る、そして七十七回の敗北をあたえて無産者どもが株主たちを撲滅《ぼくめつ》して、その株券をすっかり掠奪《りやくだつ》して、彼らの位置に坐りこむ、むろん株主になるわけだ。なにか新しいことを唱えるかもしれんし、唱えないかもしれん。なによりもたしかなのは、また破産が起るということだ。それから先のことは、アルカージイ、どのような運命があらわれて、この世の顔形を変えることやら、わしにはぜんぜん予測がつかんよ。しかし、黙示録を見てごらん……」
「でも、これはみなそんなに唯物的なものでしょうか? はたして経済的な理由だけで現代の世界がくずれ去るものでしょうか?」
「おお、むろん、わしは全景の中の一部を言っただけだよ。だがこの一部こそ、いわば解けない結び目というやつで全体と結びついているのさ」
「では、どうしたらいいのでしょう?」
「おいおい、そう急いじゃいかんよ。こういうものはそう早くすすむものではない。いったいに、なにもしないのがいちばん利口だよ。なににも参加しなかったと、少なくとも良心のおちつきは得られるからな」
「ほらはじまった、いやになっちゃうな、まじめな話をしてくださいよ。ぼくは、自分がなにをしたらいいのか、どんなふうに生きたらいいのか、それを知りたいんですよ」
「きみがなにをしたらいいかって? 正直にして、決してうそをつかず、隣人の不幸を願わないようにする、つまり十戒を読むことだね。そうしたいいことがちゃんと書いてあるから」
「もうたくさんです、よしてくださいよ、そんなものはもうかびが生えてるし、それに――単なる言葉にすぎないじゃないですか。ぼくに必要なのは真実ですよ」
「じゃ、どうにも暇をもてあましたら、誰かか、あるいはなにかを、愛するようにつとめることだな、ただなにかに熱中するのもよかろう」
「あなたは茶化してばかりいますね! それに、ぼく一人があなたの言うその十戒を守ったところで、どうなるんです?」
「まあ、いろいろと問題や疑惑はあろうが、その十戒を守ってごらん、そしたら偉大な人間になれるよ」
「誰にも知られぬ、ですか?」
「どんな秘密でも、きっと明らかになるものだよ!」
「あなたはどこまで茶化すんです!」
「そうか、それほどに思いつめているのなら、いちばんいいのは早く専門知識を身につけて、建築家なり弁護士なりになることだ、そうしたら、もう現実の重大な問題に忙殺されて、気持もおちつくだろうし、くだらんことは忘れるだろう」
わたしは黙りこんだ。こんな話からなにをひきだすことができたろう? ところが、こんな話を重ねるごとに、わたしはまえよりもいっそう不安になってきた。そのうえ、彼の内部にはいつもなにか秘密がのこされているらしいのを、わたしははっきりと見ぬいた。これがわたしを彼へますます惹《ひ》きつけたのである。
「聞いてください」とあるときわたしは彼の言葉をさえぎった、「ぼくはいつもこうにらんでいたんですが、あなたがそういうことばかり言ってるのは、自分がひそかにそれに苦しみ、そして憎んでいるからで、実際には、あなたはなにか崇高な思想の狂信者で、それをかくしているか、あるいは告白するのを恥ずかしがっているだけなのです」
「ありがとう、アルカージイ」
「どうでしょう、人の役にたつことが、もっとも崇高なことではないでしょうか。おしえてください、ぼくは今なにによってもっとも人の役にたつことができるでしょう? これはあなたの解決する問題でないことは、ぼくは承知しています、だからぼくはあなたの意見を求めているだけなんです。どうか言ってください、あなたがどんなことを言われても、ぼくはそれに服従します、あなたに誓います! ねえ、偉大なる思想はどこにあるのでしょう?」
「さあな、石をパンに変えること――これが偉大なる思想だよ」
「もっとも偉大なる思想ですか? たしかに、あなたは大きな道を示してくれました、どうか言ってください、これがもっとも偉大なる思想ですか?」
「ひじょうに偉大なる思想だよ、アルカージイ、ひじょうに偉大なる、だがもっとも偉大なではない。偉大だが、二流どこだな、ただしある一瞬だけはもっとも偉大となる。人間は腹がふくれると、これを思い出さん、どころか、じきにこう言う、『やれ、これで腹がふくれた、さあなにをしようかな?』とな。問題は永久に未解決のままのこるわけだ」
「あなたは一度『ジュネーヴ思想』のことを話したことがありましたね。ぼくはわからなかったのですが、『ジュネーヴ思想』とはなんのことです?」
「ジュネーヴ思想か――それはキリスト不在の美徳のことだよ、アルカージイ、現代の思想だよ、いや、それよりも現代の全文明の思想と言ったほうがよいかな。一口に言えば、それは――話しだしたらうんざりするし、それよりきみとなにかほかの話でもしてたほうがずっとましなような、長ったらしいものがたりのひとつだよ。もっとも、そのほかの話もしないでぼんやりしてたほうが、もっといいがね」
「あなたはなにも言わないで黙っていたいんですね!」
「アルカージイ、おぼえてるだろう、沈黙は善なり、安全なり、美なりって言うじゃないか」
「美でしょうか?」
「もちろんさ。沈黙は常に美しい、黙っている者は常におしゃべりよりも美しい」
「でも、ぼくとあなたみたいなこんな問答は、まるで沈黙と同じですよ。そんな美なんか悪魔に食われろです、それよりそんな利益なんぞくそくらえです!」
「アルカージイ」と彼は急にいくらか調子を変えて、いつになく妙にねばっこく、感情をさえこめて言った、「アルカージイ、わしはきみの理想に代るようなつまらんブルジョアの美徳をふりかざしてきみを迷わそうとは、決して思わないし、『幸福が士魂にまさる』などときみに説こうとも思わん。反対に、士魂はいかなる幸福よりも崇高なものであり、それをもつことができるということが、すでに幸福なのだ。これで、この問題はわしらのあいだで解決されたわけだ。わしがきみを尊敬しているのは、ほかでもないが、よくもきみが、この腐敗した時代に、自分の心の中にある『自分の理想』を育てることができたと思うからだよ(心配せんでいい、わしはちゃんとおぼえてるよ)。でもやはり程度ということも考えないではいけない。なぜならきみは今はなばなしい生活を望んでいるからだよ。なにかに火をつけ、なにかをたたきこわし、全ロシアの上に立ち、雷雲となって大空を飛びすぎ、万人を恐怖と歓喜の中にのこして、自分はアメリカへ逃避しようなんて、そんなことを考えているのだろう。おそらく、なにかそれに似たものがきみの心の中にあるにちがいないのだよ、だからわしはきみに事前に注意しておく必要があると思うのだよ、それも心底からきみが好きになってしまったからなんだよ、アルカージイ」
わたしはこの言葉からなにをひきだすことができたろう? そこにあるのはわたしについての、わたしの物質生活の運命についての心配だけであった。善良ではあるが、平凡な感情をもった父親の一面があらわれただけなのである。だが、理想のためにわたしに必要なのは、そんなものであったのか? りっぱな父親なら理想のためにはわが子を死地へさえやるはずではないか、ちょうどホラティウスがローマの理想のために三人の息子を決闘場へおくったように?
わたしはしばしば宗教の問題をもちだして彼にしつこくせまったが、この面はいよいよあいまい模糊《もこ》としていた。この宗教の面でわたしはどうしたらいいのか、という問いに――彼はまるで子供にさとすみたいに、『神を信じなきゃいけないよ』と実にばかげきった答えをあたえたのだった。
「じゃ、もしぼくがそんなものをいっさい信じなかったら?」とわたしはあるときいらいらしながら叫んだ。
「それも結構だよ、アルカージイ」
「どうして結構なのです?」
「もっともすばらしい徴候だよ、アルカージイ、もっとも信頼できる徴候とさえ言える。というのはわがロシアの無神論者は、もっともほんものの無神論者で、ほんのわずかでも頭脳があればの話だが、――世界中でもっとも善良な人間で、常に神を甘やかす傾向があるが、それは必ず根が善人だからで、なぜ善人かといえば、自分が――無神論者だ、ということにすっかり満足しきっているからだよ。わが国の無神論者たちは――尊敬すべき、しかも最高度に信頼できる人々で、言ってみれば、祖国の支柱だよ……」
それは、むろん、なにかではあった、しかしわたしが望んでいたのはそれではなかった。あるとき一度だけ彼がもらしたことがある、ところがそれがあまりに奇妙な意見で、彼についてカトリック教とか苦行の鉄鎖とかの噂《うわさ》を聞いていたわたしを、すっかり唖然《あぜん》とさせたのである。
「ねえ、アルカージイ」と彼はあるとき、部屋の中でではなく、どこかの通りで、長話ののちに言った。わたしが彼を送ってゆく途中だった。「人々をそのあるがままの姿で愛するということは、できないことだよ。しかし、しなければならないことだ。だから、自分の気持を殺して、鼻をつまみ、目をつぶって(これが特に必要なのだが)、人々に善行をしてやることだ。人々から悪いことをされても、できるだけ腹をたてずに、『彼も人間なのだ』ということを思い出して、こらえることだよ。もし中程度よりもごくわずかでも聡明《そうめい》な頭脳を天からあたえられていれば、きみは人々にきびしい態度をとるように使命づけられていることは、言うまでもないことだ。だいたい普通の人間というものは生来低俗なもので、恐ろしいから愛するという傾きがある。このような愛に屈してはならない、このような愛を軽蔑《けいべつ》することをやめてはならない。コーランのどこかでアラーが予言者に、『従順ならざる者たち』をねずみくらいに考えて、善をほどこしてやり、さりげなく通りすぎるがよい、と教えている。これはすこし傲慢《ごうまん》だが、しかし正しいことだ。彼らがよいことをしたときでも、軽蔑できるようになることだ、というのはそのようなときこそ彼らはもっとも醜さも出すからだ。いや、アルカージイ、これはわしが自分から推して言ったのだよ! ほんのちょっぴりでもばかでない者は、自分をさげすまずには生きていられないものだよ、正直であろうとなかろうと――それは同じことだ。隣人を愛して、しかも軽蔑しない――これはできないことだよ。わしに言わせれば、人間というものは隣人を愛するということが生理的にできないように創《つく》られているんだよ。ここにはそもそものはじめから言葉になにかのまちがいがあるのだ、だから『人間に対する愛』という言葉は、きみ自身が自分の心の中につくり上げた人類だけに対する愛(言葉をかえて言えば、自分自身をつくり上げたということになるから、自分自身に対する愛ということになるのだが)、したがって決して実際に存在することのない人類に対する愛と解釈すべきだよ」
「決して存在することがないのでしょうか?」
「アルカージイ、それがすこしばかげているらしいのは、わしも認めるが、しかしそれはわしの罪ではないよ。世界の創造にあたってわしは相談を受けなかったから、わしはこれについては自分の意見をもつ権利を留保するよ」
「そんな意見をもつあなたが、いったいどうしてキリスト教徒と呼ばれるのでしょう?」とわたしは叫んだ、「鉄鎖をつけた苦行僧だの、伝道者だのと呼ばれるのでしょう? ぼくにはわからない!」
「おや、誰がわしをそんなふうに言ったのかな?」
わたしは彼に話した。彼はひじょうに注意深く聞きおわった、しかし話はそれで打切ってしまった。
どういうきっかけからこのわたしにとって忘れられぬ会話が生れたのであったか、どうしても思い出せない。しかし彼が苛《いら》だちをさえ見せたことは事実で、こういうことは彼にはほとんど一度もなかったことである。彼は熱情をこめて、例の薄笑いなどみじんも見せないで、まるでわたしが相手ではないように語った。だが、わたしにはやはり彼が信じられなかった。彼が、わたしのような者を相手に、このような問題を真剣に語ることができたろうか?
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第二章
この十一月十五日の朝、わたしは『セリョージャ公爵』のところで彼に出会った。わたしが彼を公爵に近づけたのである、しかしわたしが中に立たなくても二人のあいだにはかなりの接触があった(わたしは外国における例のいきさつその他を言っているのである)。そのうえ、公爵は遺産の少なくとも三分の一を彼に贈ることを約束していた。これはどう見ても二万ルーブリは下らないはずであった。わたしにはそのころ、公爵がまるまる半分でなく、三分の一しかやらないのが、どうもふしぎでならなかったが、しかしわたしは黙っていた。この分配の約束は公爵がそのとき自分から言いだしたのである。ヴェルシーロフは半言もその決定に口を出さなかったし、だいたいそのことはおくびにも出さなかった。公爵のほうからいきなり言いだし、ヴェルシーロフは黙ってそれを認めただけで、その後一度も口に出さなかったし、この約束のことをすこしでもおぼえているような素ぶりも見せなかった。ついでに言っておくが、公爵は最初から彼に、特に彼の言葉に完全に魅せられてしまって、すっかり感激して、何度かわたしにそれを語ったものである。公爵はわたしと二人きりのときよく天を仰いで慨嘆し、ほとんど絶望的に、『ぼくは無教育なために、道をあやまってしまった!』などとなげいた。ああ、わたしたちはそのころはまだどんなに親しかったことだろう!……わたしはヴェルシーロフにもそのころはつとめて公爵のいいところばかりを吹きこみ、自分で見て知ってはいたが、欠点をできるだけ弁護してやった。しかしヴェルシーロフは黙っているか、あるいはただにやにや笑っているだけだった。
「彼に欠点があるとしても、少なくとも、欠点の数だけ長所もあります!」とわたしは一度、ヴェルシーロフと二人きりのとき、声をうわずらせた。
「おやおや、たいへんな嬉《うれ》しがらせだな」と彼はにやにや笑った。
「嬉しがらせ?」わたしは意味がわからなかった。
「同じ数だけ長所があるか! あの男に欠点の数だけ長所があったら、遺体が永久に腐らんだろうよ」
しかし、もちろん、これは意見ではなかった。いったいに、公爵について彼はそのころどういうものか語るのを避けていた。なべて現実の問題についてはそうであったが、公爵については特にそれがはげしかった。わたしはそのころすでに、彼がわたしに無関係にも公爵を訪《たず》ねるのは、二人のあいだになにか特別の事情があるのではないか、と疑っていたが、しかしそれには目をつぶっていた。また、彼が公爵と話すときは、わたしを相手にするときよりもまじめなようで、言ってみれば、ずっと積極的で、薄笑いをもらすことも少ないのだが、これにもわたしは嫉妬《しつと》を感じなかった。それどころか、わたしはそのころ幸福に酔っていたので、それさえも好ましいことに思われたのだった。わたしがそれを許したもうひとつの理由は、公爵がいくらか血のめぐりがにぶく、そのために言葉の正確さということを好み、気のきいた皮肉などはぜんぜん通じないからであった。それが最近は、彼の態度がなんとなく大きくなってきた。ヴェルシーロフに対する彼の気持も変りはじめたようだ。敏感なヴェルシーロフがそれに気づかないわけがなかった。これも先まわりしてことわっておくが、公爵はそれと時を同じくしてわたしに対しても変ったのである。しかもこれがあまりにも露骨で、わたしたちの最初の、ほとんど熱烈といっていいほどの友情は、まるでせみのぬけがらのように、その生命のない形だけがのこされた。それでもやはり、わたしはあいかわらず彼を訪ねていた。さもあろう、あんなことにすっかりのめりこんでいたのだから、わたしとしてはどうしても行かずにはいられなかったのである。おお、わたしはなんというたわけであったことか、それにしても心のばかさひとつが、はたして人間をあれほどの無知と卑屈にまでおとせるものだろうか? わたしは彼から金を借りて、それを当然のことだと考えていたのである。いや、そうではない、わたしはそのときでも、それはすべきことではないとは、承知していたが、ただあまりそれを考えなかっただけである。わたしは喉《のど》から手が出るほど金が必要ではあったが、しかし金のために公爵のところへかよったのではない。わたしは、自分が金のために行くのでないことは知っていた、が同時に、毎日金を借りることになることもわかっていた。わたしは旋風の中に巻きこまれていた、そして、そうしたいっさいのことに加えて、そのころまったく別なことがわたしの心の中にあった、――わたしの心の中では、まったく別な歌がうたわれていたのである!
朝の十一時に、わたしが入っていったとき、ヴェルシーロフはなにやら長談議をおわろうとしていた。公爵は室内を歩きまわりながら聞いていた。ヴェルシーロフは坐っていた。公爵はいくらか興奮気味に見えた。ヴェルシーロフはほとんどいつも彼を興奮させた。公爵は極度に、ナイーヴなまでに、感じやすい心の持ち主で、そのためにたいていの場合わたしは彼を見下すような立場に立たされたものである。だが、くりかえして言うが、この数日彼にはなにか意地わるく歯をむいたようなところがあらわれた。わたしを見ると彼は足をとめた、そしてぴりりと顔がひきつったように見えた、今朝の公爵のこの不機嫌《ふきげん》の理由が、わたしは腹の中ではわかっていたが、しかしこれほど顔に出ようとは、予期しなかった。彼にさまざまな心配ごとが重なっていたことは、わたしも知っていたが、しかしいまいましいことに、わたしにわかっていたのはせいぜいその十分の一ぐらいでしかなく――そのほかはそのころのわたしには厚い秘密の壁にさえぎられていた。だからこそ、わたしが慰めたり、忠告をあたえたりなど、出すぎたまねをして、『こんなつまらないことで』おちつきを失う彼の弱さを見下して笑っていたのが、いまいましく、そして愚かしかったのである。彼はなにも言わなかったが、そんなとき心の中でわたしのことをどれほどうとましく思ったことだろう。わたしはあまりにも偽善的な立場にいたために、それを疑ってみることさえしなかったのである。おお、神のまえで証言するが、わたしはもっとも重大なことに気づかずにいたのだった!
彼は、それでも、いんぎんにわたしに手をさしだした。ヴェルシーロフは話をつづけたまま、わたしにうなずいてみせた。わたしはソファにだらしなく体をしずめた。それにしてもそのころのわたしの調子は、わたしの態度は、なんという軽薄なものであったか! わたしはそのうえきざな口をきいて、彼の知人たちをまるで自分の仲間みたいにからかったりしたのである……おお、今これをすっかりやり直すことができるものなら、わたしはまるでちがう態度をとることだろう!
忘れないうちに、一言だけ言っておこう。公爵はそのころやはり同じ家に住んでいたが、もうそれをすっかり占領していた。持ち主のストルベーエワ夫人が一月ほど滞在しただけで、またどこかへ去ってしまったからである。
彼らは貴族階級というものについて話していた。ここでちょっとことわっておくが、公爵は進歩主義者らしいようすはしていたが、ときとしてこの貴族という観念にひどく動揺することがあった、だからわたしは彼の生活のわるいところの多くはこの観念から生れたのではないか、と疑うほどである。自分が公爵であるということを自負し、しかも貧しいものだから、彼は生涯見せかけの誇りから金をばらまき、負債の泥沼にはまりこんだのではなかろうか。ヴェルシーロフは何度か、公爵の矜持《きようじ》というものはそんなところにあるのではないということを彼にほのめかして、彼の心にもっと高い思想を植えつけようとした。ところが公爵はしまいには教えられるのを屈辱と感じるようになったらしい。どうやら、この種のなにかがこの朝もあったらしいが、はじめのほうはわたしはいなかったのでわからない。ヴェルシーロフの言葉がはじめのうちは反動的に思われたが、やがて彼はそれを改めた。
「名誉という言葉は義務を意味します」と彼は言った(わたしは意味だけを、それもおぼえているだけ伝えるのである)。「国家を支配階級が統治しているかぎり、その国は堅固です。支配階級は常にその名誉と、名誉の教えというものをもっています、その教えはまちがっているところもあるかもしれませんが、いつも紐帯《ちゆうたい》の役目をはたし、国を強固にします。精神的にも有益ですが、それよりも政治的に役にたちます。しかし奴隷たちは、つまり支配階級に属さないすべての人々は、苦しまなければなりません。その苦しみをなくするために――権利が平等にされるわけです。わが国でもこれがおこなわれたし、これは実に結構なことです。ところがあらゆる経験から見て、いままでどこにおいても(つまりヨーロッパのことですが)権利を平等にすると、それにともなって名誉感の低下という現象が生じます、したがって、義務感も低下するということですね。エゴイズムが従来の結合させる思想にとって代り、すべてが個人の自由に分解してしまうわけです。解放された連中は、結合させる思想がないままにとりのこされるから、しまいには高い結びつきをすっかりなくしてしまい、せっかくあたえられた自分の自由さえも守りとおせなくなってしまう。しかしロシアの貴族のタイプはヨーロッパのそれとはまったくちがいます。わがロシアの貴族は今も、権利は失っても、名誉と、文化と、科学と、高邁《こうまい》な思想の守護者として、やはり最高の階級にとどまることができるでしょう、しかももっとよいことは、思想の死を意味するような個々の小グループの中に閉じこもらないことです。その反対に、階級への門がわが国ではずいぶん昔からすでに開かれていましたが、今こそそれを完全に開放するときがきたのです。名誉と、科学と、献身的活動のいっさいの成果が、すべての人々に高い知識階級に加わる権利をあたえてくれるようにありたいものです。こうして、階級はおのずから、従来の少数特権階級という意味ではなく、その字義どおりの真の意味のすぐれた人々の集りに転化するわけです。この新しい形で、いや更新された形と言ったほうがいいでしょうね、階級は存続できると思いますね」
公爵はあざけるように歯をむいた。
「それが貴族階級と言えるんでしょうかねえ? あなたが目論《もくろ》んでいるのはなにやらフリーメーソン(訳注 中世に石工たちが相互扶助のためにつくった国際的秘密結社。一般にユダヤ人の世界的陰謀の結社のように言われている)みたいなもので、貴族階級じゃありませんね」
くりかえして言うが、公爵はおそろしく教養がなかった。わたしはヴェルシーロフの意見には同意しかねるところもあったが、それでも公爵の言動が腹にすえかねてソファにかけたまま体を横へねじむけた。公爵が嘲笑《ちようしよう》しているのを、ヴェルシーロフが見ぬかないはずがなかった。「あなたがどういう意味でフリーメーソンをもちだしたのか、わたしにはわかりませんな」と彼は答えた、「しかし、ロシアの公爵までがこの思想を否定するとなると、きっと、まだその時機が来ていないということでしょうな。名誉と啓蒙《けいもう》のイデーが、階級への加入を希望するすべての者を呼び招き、階級の門は開かれて、たえず更新されていく、これはもちろん――ユートピアですが、しかしその実現がなぜ不可能なのでしょう? もしこの思想がわずか数人の人々の頭にでも生きていれば、それはまだ死滅していないことで、深い闇《やみ》の中にぽつんと見える燈火のように、光っているのですよ」
「あなたは『最高の思想』とか、『偉大な思想』とか、『結合させるイデー』とかいうような言葉をつかうのが好きですね、ひとつうかがいたいのですが、あなたはその『偉大な思想』という言葉で、だいたい、どういうことを言おうとしているのですか?」
「実際、どう答えたらいいのか、わからんのですよ、公爵」とヴェルシーロフは微妙に笑った。「自分でも答えることができないと、正直に白状するほうが、もっと正しいでしょうな。偉大な思想――それは多くの場合、ときにはかなり長いあいだこれという定義を決定できないような感情なのです。わたしが知ってるのは、それは常に生きた生活が流れでる泉であったということだけです。生きた生活というのは、つまり知的な生活でも、虚構の生活でもなく、その反対の、退屈でない、陽気な生活のことです。だから、そういう生活の泉である最高の思想は、みんながいまいましがっても、ぜったいに必要なものであることは言うまでもありません」
「どうしていまいましいのです?」
「それは、思想なんかといっしょに暮すのは退屈だからですよ、そんなものないほうがいつだって楽しいですよ」
公爵はにがい顔をした。
「では、あなたの言うその生きた生活とはなんですか?」(彼は目に見えてじりじりしていた)
「これもよくわからんのですよ、公爵。ただ、それはきっとおそろしく単純なものにちがいないということだけは知っています。もっとも日常的な、毎日々々、毎時毎分、わたしたちの目につくような、そしてそれがそれほど単純だとはどうしても信じられないほどに単純で、だから自然、気がつかずに、それとわからずに、もう何千年ものあいだそのそばを通りすぎてきたような、そうしたものだと思いますね」
「わたしが言いたいのは、あなたの貴族階級についての思想は同時に貴族階級の否定でもある、ということだけですよ」と公爵は言った。
「では、どうしてもお望みなら言いますが、貴族階級はわがロシアには決して存在しなかった、ようですね」
「それはおそろしくあいまいで、不明ですね。いったん言いだしたのなら、論をすすめるべきでしょうな……」
公爵は額にしわをよせて、壁の時計をちらと見やった。ヴェルシーロフは立ち上がって、帽子を手にもった。
「すすめる?」と彼は言った、「いや、すすめないほうがいいでしょうね、それに、すすめないで話をするのが、わたしの強い好みですので。ほんとに、そうなのですよ。それにもひとつ妙な癖があって、自分が信じている思想をたどりだしたりすると、必ずといっていいほど、話しおわるころには、自分の話してきたことが信じられなくなるというおかしな結果になるのですよ。今もそんなことになってはと思いましてね。さようなら、親愛な公爵。ここへ来るといつもおしゃべりをしてとんだ迷惑をかけてしまいますな」
彼は出ていった。公爵はいんぎんに彼を送りだした、しかしわたしは腹だたしかった。
「なにをむすっとしてるんだね?」と彼はわたしのそばを通って事務卓のほうへ行きながら、こちらを見もしないで、いきなり言った。
「ぼくがむすっとしてるのは」とわたしは声をふるわせながら言った、「ぼくばかりかヴェルシーロフに対してまで、あなたの態度が妙に変ったのに気づいたからですよ、ぼくは……それは、ヴェルシーロフははじめはすこし反動的な言い方をしたかもしれませんが、まもなくそれを改めました……彼の言葉には、深い思想が秘められていた、と思うのですが、あなたにはただそれがわからなかっただけで……」
「わたしはおせっかいな説教や子供あつかいがいやなんですよ!」と彼は怒気をふくんで荒々しく言った。
「公爵、そのような言葉は……」
「どうか、芝居がかった身ぶりはやめてほしいな――お願いだから。わたしは、自分のしていることが――卑劣で、自分が――極道者で、賭博師《とばくし》で、あるいは盗《ぬす》っ人《と》かもしれん、ということくらいは知ってますよ……そう、盗っ人ですよ、家族たちの金を賭博でするんですからな、だが、他人《ひと》にとやかく言われるのはまっぴらです。いやです、許しません。自分のことは――自分で裁《さば》きます。それになんのためにあんなあいまいなことを言われねばならんのです? もし彼がわたしになにか言いたいのなら、ずばりと言えばいいんです、ごちゃごちゃとわけのわからぬ予言じみたことを言う必要がどこにあるのです。しかも、わたしにそれを言うためには、まずその権利をもたなきゃいけませんよ、まず自分が公正でなくちゃあ……」
「第一に、ぼくははじめからいたわけじゃないから、どういう話からはじまったのか知りません、第二に、ヴェルシーロフのいったいどこが公正でないのでしょう、それをうかがわせていただきたいですね?」
「もうたくさんですよ、よしましょう、もううんざりです。あなたは昨日三百ルーブリ貸してくれと言いましたね、さあどうぞ……」彼はわたしのまえのテーブルの上に金をおいた、そして肘掛椅子《ひじかけいす》に腰を下ろすと、いらいらしたように背によりかかって、脚を組んだ。わたしはとまどって立ちどまった。
「ぼくはどうしたらいいのか……」とわたしは口ごもった、「あなたにお願いはしましたが……そして今金がどうしても必要なのですが、でもあなたのそういう口調を考えると……」
「口調はやめてください。もしわたしがなにかけわしいことを言ったのなら、どうかお許しください。はっきり言いますが、わたしは今それどころじゃないのです。実は、モスクワから知らせがあったのですが、弟のサーシャ、まだ小さい子供ですが、あなたもご存じですね、あれが四日まえに亡《な》くなったのです。父は、これもやはりご存じですね、もう二年|脳溢血《のういつけつ》でたおれたきりですが、医者の手紙ですと、このごろ病状が悪化して、口もきけないし、人の見分けもつかないというのです。あちらでは遺産のことをひどく喜んで、父を外国へ転地させたいなんて言ってますが、医者がわたしによこした手紙では、もう二週間ともつまいというのです。そうなると、母と、妹と、わたしの三人がのこされるわけで、ということは、結局わたしが一人で……ま、要するに、わたしが――一人ということですよ……あの遺産は……あの遺産は――おお、あんなものぜんぜんなかったほうがよかったかもしれん! でも、わたしがほんとにあなたに知ってもらいたかったのは、こういうことなんです、つまりわたしはこの遺産から最低《ミニマム》二万ルーブリをアンドレイ・ペトローヴィチにやる約束をしました……ところが、どうでしょう、今にいたるもまだ正式手続きがぜんぜんすすめられないのですよ。わたしはしかも……つまりわたしたちですが……父が戸主ですからね、その父があの領地の所有者にまだ登記されていないのですよ。それなのにわたしはこの三週間にどれほどの金を失《な》くしてしまったことか、あの業《ごう》つくばりのステベリコフに法外な利息をとられて……今あなたに渡したのがほとんど最後の金ですよ……」
「おお、公爵、そういう事情でしたら……」
「いや、そういうつもりで言ったんじゃありません、そんなふうにとられちゃ困ります。ステベリコフがきっと今日もってくるはずですから、当座のまにはあうでしょう。しかしあのステベリコフって男はなんてやつだろう! わたしはせめて一万でもアンドレイ・ペトローヴィチにお渡ししたいと思って、あの男になんとか一万都合してくれとたのんだのですよ。彼に三分の一やると約束したことが、わたしを苦しめ、責めたてるのです。約束したからには、守らねばなりません。あなたに誓って言いますが、わたしはせめてこの面の義務からだけでも解放されたいともがいているのです。わたしにはそれが重いのです、苦しいのです、堪《た》えられないのです! このわたしにのしかかる関係が……わたしはアンドレイ・ペトローヴィチを見るのが苦しい、目を直視することができないからです……いったいなぜ彼は悪用するのでしょう?」
「なにを彼が悪用するのです、公爵?」わたしはびっくりして彼のまえに立ちどまった。「いったい彼が一度でもあなたにほのめかしたというのですか?」
「おお、とんでもない、むしろわたしは感謝してます。そうじゃなくてわたしが自分で自分にほのめかすんです。そして、だんだん深みにひきこまれて……あのステベリコフが……」
「お聞きください、公爵、おちついてください、どうか。見ていると、あなたは日を追うて、ますます心の動揺が大きくなるようですが、しかしそんなものはみな幻影にすぎないのではないでしょうか。おお、そういうぼくだって、のめりこんでしまっています、実に許すべからざる卑劣なことです、でもぼくは、それが一時的なものにすぎないことを、知ってるんですよ……ただある一定額をとりもどしさえすれば、それでいいんです、そのときは言ってください、ぼくはたしかこの三百を加えるとあなたに借りているのは二千五百でしたね、そうですね?」
「わたしはあなたに催促したおぼえはありませんが」と不意に公爵は歯を見せた。
「あなたは言いましたね、ヴェルシーロフに一万渡すつもりだと。ぼくが今あなたに借りているのは、もちろん、ヴェルシーロフの二万にくり入れてもらうつもりです。でなければ、ぼくは借りたりはしないはずです。でも……でもぼくはきっと自分で返すでしょう……だがあなたは、ヴェルシーロフが金の催促に来ているのだと、本気で考えているのですか?」
「彼が金の催促に来てくれたのなら、わたしにはずっと楽だったでしょうがね」と公爵は謎《なぞ》めいたことをつぶやいた。
「あなたは『重くのしかかる関係』がどうとかと言いましたね……もしそれがヴェルシーロフとぼくをさしているのなら、それは、まさに、ぼくたちに対する侮辱というものです。それから、最後に、あなたは、どうして彼自身が教える権利のある人間にならないのだと言いましたね――これがあなたのロジックです! しかし、第一に、これは――ロジックになりません、失礼ですがはっきり言わせてもらいます、なぜなら、彼がそういう人間でないにしても、真理を説いていけない法はないからです……それから、最後に、『説く』という言葉はどういう意味でしょう? あなたはそこに『予言』という言葉をつかいましたね。失礼ですが、ドイツで彼に『女の予言者』という呼称をつけたのはあなたではありませんか?」
「いや、わたしじゃないね」
「ステベリコフがあなただとぼくに言いましたよ」
「彼がでたらめを言ったのでしょう。わたしは――滑稽《こつけい》なあだ名をつける名人じゃありませんのでね。だが、公正を説くなら、本人が公正であれ――これがわたしのロジックです、それがまちがっていても、別にかまいません。わたしはそうありたいと願うし、そうあろうと望むのです。そして誰にも、誰にも、わたしを裁きにわたしの家におしかけ、わたしを子供あつかいすることを、許しません! もうたくさんです」と彼はわたしが話をつづけるのをたち切るように、さっと手を振って、叫んだ。「あ、ようやく!」
ドアが開いて、ステベリコフが入ってきた。
彼はあいかわらずあのときのままで、やはりしゃれた服を着て、やはりぐっと胸を張って、やはり愚かしい目で相手の目を見つめて、やはり自分の言葉がぴりっとしてると思いこんで、すっかり自分に満足していた。今日は、部屋へ入ると、彼はなにか妙なぐあいにあたりをうかがった。その目には特に用心深い、射ぬくような光があって、わたしたちの顔からなにか読みとろうとしているようであった。しかし、それも束《つか》の間《ま》で、彼はほっとした顔になって、自信たっぷりな微笑が口もとにうかんだ。それは『まあ許せる程度の図々しい』微笑だったが、やはりわたしにはなんとも言えないいやなものに思われた。
彼が公爵をひどく苦しめていたことは、わたしはまえから知っていた。彼は二、三度わたしがいあわせたところへ来たことがあった。わたしは……わたしもこの一月のあいだに彼と一度交渉をもったことがあった、しかし今は、ある事情があって、彼の出現にいささか狼狽《ろうばい》したのである。「すぐですから」公爵は彼とあいさつもしないで、こう言うと、こちらに背を向けて、事務卓のひきだしから必要な書類と計算書をそろえはじめた。わたしはといえば、公爵の最後の言葉に腹の中が煮えくりかえっていた。ヴェルシーロフが公正でないというほのめかしはあまりにも明白だったので(しかもなんというおどろくべきほのめかしだ!)早急に解明を求めずに放っておくことはとうていできなかった。といって、ステベリコフのまえではそれもできなかった。わたしはまたソファの上にだらしなく腰を下ろして、目のまえにあった本を手にとった。
「ベリンスキー、第二巻! これは――珍しい。新知識を吸収しようってわけですね?」とわたしは公爵に叫んだが、それがひどくわざとらしかったらしい。
彼はひじょうに忙しそうで、せかせかしていたが、わたしの言葉に不意に振向いた。
「すみませんが、その本にさわらないでください」と彼はぴしゃりと言った。
これはもう限界をこえていた、しかも――ステベリコフのまえでである! わざとのように、ステベリコフはずるそうにいやらしく歯をむいて、目顔でそっと公爵にわたしを示した。わたしはこのばか者から顔をそらした。
「いらいらせんでいいですよ、公爵。あなたを主役にゆずって、ぼくはしばらく姿を消しますから……」
わたしは、なれなれしさをよそおうことにした。
「それは、わたしのことですかな――その主役というのは?」とステベリコフはひきとって、にやにやしながら自分で自分の顔を指さした。
「そう、あなたですよ。あなたがもっとも主要な人物というわけですよ、自分でも知ってるでしょう!」
「いや、すみませんな、世の中にはどこへ行っても脇役《わきやく》というものがいるものでしてな、わたしは――その脇役ですわ。主役があり、脇役があるのですよ。主役がつくり、脇役がそれをいただくというわけです。つまり、脇役が主役になり、主役が――脇役に代るということですな。そうでしょう、ちがいますかな?」
「そうかもしれませんね、ただぼくは、例によって、あなたの言うことがわかりませんが」
「すみませんな。フランスに革命がありまして、みんな処刑されましたな。そのあとへナポレオンが来て、すべてを手中におさめてしまった。革命――こいつが主役で、ナポレオンは――脇役ですな。ところが結果的には、ナポレオンが主役になって、革命が脇役になってしまった。そうでしょう、ちがいますかな?」
ついでに言っておくが、彼がフランス革命の話をわたしにもちかけたことに、わたしはまえにわたしを大いにおかしがらせた、ぬかりない彼の狡知《こうち》を認めた。彼はいまだにわたしを一種の革命家と考えていて、わたしに会うたびに、なにかこうした類《たぐ》いの話を出さなければならないものと決めていたのである。
「あちらへ行きましょう」と公爵は言った、そして二人は別室へ出ていった。一人きりになると、わたしはステベリコフが去ったらすぐに三百ルーブリを公爵に返そうと、きっぱりと決意した。この金がわたしには極度に必要であったが、しかしわたしはこう決めたのである。
彼らは別室で十分ばかりはひっそりとして、いるのかいないのかわからぬほどだったが、突然大声でしゃべりだした。二人がなにやら言い合ったと思うと、公爵が不意に狂気したかと思われるほどかんばしった声で叫びたてた。彼はときどきかっとなる癖があるので、わたしはいつも軽く聞き流すことにしていた。ところがちょうどこのとき家僕が客の来訪を告げに入ってきたので、わたしは彼らのいる別室へ行かせた、するととたんにしずかになった。公爵が不安そうなおももちで、しかし微笑をつくることは忘れずに、急いで出てきた。家僕が走り去ると、三十秒ほどして一人の客が入ってきた。
これは肩飾りをつけた身分の高い重要な客で、年齢はまだ三十になっていなかったが、いかにも名門らしい、どことなく威厳のある容貌《ようぼう》をしていた。ここであらかじめことわっておくが、セルゲイ・ペトローヴィチ公爵は、その熱烈な希望にもかかわらず、まだ正式にはペテルブルグの上流社交界に所属を認められていなかったので、彼は当然このような訪問を極度に重視しなければならなかったわけである。この交際は、わたしが知っていたかぎりでは、公爵のそれこそ並々ならぬ奔走の結果、最近ようやく結ばれたばかりだった、そして、今不幸にも、この重要な客が公爵の不意をおそった形になったわけである。公爵がいかにも苦痛に充ちた困りはてた目でちらとステベリコフを振りかえったのを、わたしは見た。ところがステベリコフはその目を素知らぬ顔で受けながして、姿を消そうなどとはつゆ思わずに、無遠慮にソファにどっしりと腰をおちつけると、どうやら指図は受けぬという気位のほどを示すつもりらしく、片手で髪をかきむしりはじめた。彼はさらにぐっともったいぶった顔をさえつくった、要するに、まったく鼻持ちならない態度であった。わたしはといえば、もちろんそのころはもう自分を制するすべを心得ていたから、誰に対しても礼を失しない態度はとれたはずであるが、そのわたしに対しても公爵の困りはてた、みじめな、呪《のろ》わしげな目が向けられたのを見たとき、わたしの驚きはいかばかりであったろう。つまり、彼はわたしたち二人を恥じたのである、ということはわたしをステベリコフと同列に見なしたのである。この考えはわたしを狂おしいまでに憤らせた。わたしはいっそうだらしなく姿勢をくずして、自分にはまるで関係のないことだというようすで、本をぱらぱらめくりはじめた。反対に、ステベリコフは目を皿のようにして、首をのばして、それが礼にかなった愛想だと考えたらしく、彼らの会話に熱心に耳をすましはじめた。客は一、二度じろりとステベリコフをにらんだ。もっとも、わたしにも同じ目をくれたのである。
彼らは社交界の人たちの新しい話題を話しはじめた。この紳士は有名な名門の出である公爵の母をかつて知っていた。わたしの見たかぎりでは、客は、いかにも人がよさそうな話しぶりで、愛想よく見えたが、実はひどく形式ばっていて、何様であろうと自分の訪問を光栄と考えるのが当然だという強い自負をもっていた。もし公爵が一人きりだったら、つまりわたしたちがいなかったら、おそらく、もっと堂々として、言うことももっとぴりりとしていたにちがいないが、今は微笑にもなにかひくひくひきつったようなところがあり、愛想もすこし度がすぎているようで、一種奇妙な放心が彼の生地を暴露していた。
彼らが坐ってまだ五分もしないうちに、不意にまた来客が告げられたが、これもまたわざとねらったように、名誉を傷つける類いの客であった。その男をわたしはよく知っていたし、いろいろと噂《うわさ》にも聞いていた。もっとも先方ではわたしのことをぜんぜん知らなかった。それはまだひじょうに若い男で、といってもう二十三ぐらいにはなっていたが、たいへんなしゃれ者で、名家の息子で、美男子だった、しかし――明らかに悪い仲間とつきあっていた。彼はつい去年までは有名な近衛《このえ》騎兵連隊のひとつに勤務していたが、無理に依願免官の形をとらされたのだが、その理由は誰も知らない者がなかった。彼のことは、一門の者たちが新聞広告までだして、借金の責任をおわないことを宣言していたが、それでも彼は今でもまだ放蕩無頼《ほうとうぶらい》の生活をつづけ、月一割の高利で金を借り、賭博場に入りびたり、ある札つきのフランス女に入れあげていた。それが、つい一週間ほどまえにカルタで一晩に一万二千ルーブリという大勝ちをしたので、今やあたるべからざる鼻息なのである。彼は公爵とは親友同士で、よくいっしょに組んで賭《か》けをしていた。ところが今公爵は、彼の姿を見ると、ぎくりとした。それがわたしの位置からも見えた。この若い男はどこへ行ってもわがもの顔に振舞って、およそつつしみなどということは知らず、頭にうかぶことをかたっぱしから大声でにぎやかにしゃべりまくるという始末のわるい男で、わが公爵が社交界入りの鍵《かぎ》をにぎるだいじな客をまえにしてびくびくしていることなど、むろん気がつくわけがなかった。
彼は部屋へ入ると、彼らの話をたち切って、まだ坐りもしないうちから、いきなり昨日の勝負の話をはじめた。
「あなたもたしか来てましたな」彼は話の途中で、仲間の一人とかんちがいしてだいじな客に言葉をかけた、が、すぐに人ちがいとわかって、叫んだ。
「あっ、失礼しました、昨日の一人と思いちがいしたものですから!」
「アレクセイ・ウラジーミロヴィチ・ダルザン、イッポリト・アレクサンドロヴィチ・ナシチョールキン」と公爵はあわてて二人を紹介した。
この若い男はそれでもまだ紹介することはできたのである。人に知られた名門の出だからである。しかしわたしたちはさっき紹介されなかった。そして隅《すみ》っこに無視されたまま坐っているほかはなかった。わたしはぜったいにそちらへ顔を向けようとしなかった。ところがステベリコフは若い男を見ると嬉しそうににやにやして、今にもなにか言いだしそうにした。そうしたことがわたしには滑稽にさえなってきた。
「わたしは去年ヴェリーギナ伯爵夫人のところでときどきあなたにお目にかかったことがありますよ」とダルザンが言った。
「わたしもあなたをおぼえております、だが、あのころは、たしか、軍服を召しておいでのようでしたが」とナシチョールキンはにこやかに答えた。
「そう、軍服を着ていました、ところがある……あっ、ステベリコフ、もうここへ来てるのか? どうしてこいつがここへもぐりこんだのだろう? 実はこうした連中のおかげでわたしは軍服をぬいだのですよ」と彼はまっすぐにステベリコフを指さして、からからと笑った。ステベリコフも、それを愛嬌《あいきよう》ととったらしく、嬉しそうににやにや笑いだした。公爵は真っ赤になって、急いでなにやらナシチョールキンに訊いて話を別なほうへ移した。ダルザンは、ステベリコフのそばへよって、なにやらひどく熱心に、しかしもう声をおとしてひそひそ話をはじめた。
「あなたは、たしか、外国でカテリーナ・ニコラーエヴナ・アフマーコワとたいそう親しくしておいででしたね?」と客は公爵に訊いた。
「ええ、まあ、知っておりました……」
「近々あるニュースが発表されるらしいですよ。なんでも、彼女はビオリング男爵と結婚するとかいう噂がありますので」
「そりゃほんとうですよ!」とダルザンが叫んだ。
「あなたは……しかとそれをご存じですか?」と公爵はありありと動揺の色をうかべて、特に力をこめて発音しながら、ナシチョールキンにたずねた。
「わたしはそう聞きました。それにもう噂になってるようですよ。もっとも、正確には知りませんが」
「いや、確実ですよ!」とダルザンが彼らの話に加わった、「昨日ドゥバーソフがわたしに言いましたよ。あれはこういう話なら必ずまっさきに聞きつける男です。それに公爵の耳に入らんて法はないがなあ……」
ナシチョールキンはダルザンのおわるのを待って、また公爵に言った。
「彼女はさっぱり社交界に姿を見せなくなりましたよ」
「この一月ばかりお父さまが病気だったんですよ」と公爵は妙にそっけなく言った。
「しかしいろいろと噂のある婦人らしいですな!」と不意にダルザンが口を入れた。
わたしは顔を上げて、きっと胸をそらした。
「ぼくは幸いカテリーナ・ニコラーエヴナを親しく知っておりますので、いっさいのスキャンダル的な噂は――単に恥ずべきうそであり……まわりをうろうろして、御意にかなわなかったような連中による……捏造《ねつぞう》にすぎないことを、ここに確言することを義務と心得ます」
ところどころつまずいてこんなばかげた言い方をすると、わたしはかっかとほてった顔で一同を見まわし、胸をはったまま、言葉がつづかなくなってしまった。みないっせいにわたしに顔を向けた。急にステベリコフがヒヒヒと笑いだした。ダルザンもあっけにとられて、ぽかんと口を開けた。
「アルカージイ・マカーロヴィチ・ドルゴルーキーです」と公爵はわたしをさしてダルザンに言った。
「あっ、失礼しました、公爵」とダルザンは、気のいい顔で率直にわたしに言った、「わたしが言ったのは自分の考えではありません。そういう噂があったとしても、わたしが流したのではありませんので、あしからず」
「いや、ぼくはあなたに言ったわけじゃありません!」とわたしは急いで答えた、しかしステベリコフはもう許せぬほど無礼な高笑いをはなっていた。それは、あとでわかったのだが、ダルザンがわたしを公爵と呼んだことに対する笑いだった。いまいましいわたしの姓がここでもわたしに恥をかかせたのである。今でも考えると顔が赤らむのだが、わたしは、もちろん羞恥《しゆうち》のために、そのときこのばかげたまちがいをとりあげて、はっきりとわたしは――ただのドルゴルーキーだと言明することをしなかった。これは生れてからはじめてのことであった。ダルザンはきょとんとしてわたしの顔と笑っているステベリコフの顔を見くらべた。
「あっ、そう! 今お宅の玄関のところですてきな娘さんを見かけましたよ、すらっとしたまぶしいような、あれは誰ですか?」と彼はだしぬけに公爵に訊いた。
「さあ、わかりませんね」と公爵は顔を赤らめて、あわてて答えた。
「ほう、じゃ誰に訊いたらわかるのかな?」とダルザンはにやにや笑いだした。
「だが、それは……もしかしたら……」と公爵は妙に口ごもった。
「それはきっとこの方の妹さんのリザヴェータ・マカーロヴナですよ!」とだしぬけにステベリコフがわたしを指さした。「わたしもついさっき見かけましたから……」
「ああ、きっとそうでしょう!」と公爵はすぐにひきとった、が今度はおそろしく気どったかたい表情に顔を変えていた、「それは、きっと、リザヴェータ・マカーロヴナでしょう、この家の女主人のアンナ・フョードロヴナ・ストルベーエワとひじょうに近しくしている娘です。たぶん、今日はダーリヤ・オニーシモヴナを訪ねてきたのでしょう、これもアンナ・フョードロヴナと近しい婦人で、アンナ・フョードロヴナが発《た》つときに、この婦人に留守をまかせてゆきましたので……」
それはたしかにそのとおりだった。このダーリヤ・オニーシモヴナは、わたしがまえに話した哀れなオーリャの母だった、そしてタチヤナ・パーヴロヴナが骨を折って、やっとストルベーエワ夫人のところに住みこませてやったのである。リーザがストルベーエワのところによく出入りしていて、その後ときおり哀れなダーリヤ・オニーシモヴナを訪ねていたことを、わたしはよく知っていた。この哀れな女をわたしの家の者はみなひじょうに愛していたのだった。ところがそのときは、この、しかし、きわめて事務的な公爵の説明と、特にステベリコフのばかげた振舞いのためか、あるいは今公爵と呼ばれたせいもあるかもしれないが、わたしはおそらくそうしたことが重なって、急に真っ赤になった。幸いにも、ちょうどそのときナシチョールキンが辞去のころあいと見て立ち上がった。彼はダルザンにも手をさしのべた。客と公爵が出てゆくと、とたんにステベリコフは、こちらに背を見せて扉口《とぐち》のところに立っていたダルザンを、わたしにあごでしゃくった。わたしはステベリコフに拳骨《げんこつ》を突きだした。
一分後にダルザンも、明日彼らのあいだですでにマークしていたある場所で落ち合うことを公爵と約束して、帰っていった。もちろん賭博場である。彼は出しなに、ステベリコフになにやら声をかけ、わたしにも軽く会釈した。彼が出てゆくと同時に、ステベリコフは椅子を蹴って部屋の中央にとびだし、指を一本天へ突き立てた。
「あのぼんぼんめ、先週ふてえことをやらかしたんですぜ。手形を一枚振出したはいいが、アヴェリヤーノフあての裏書がまっかなにせものさ。その手形は今もそのままになっていますよ、むろん不渡りで! 刑事犯罪ですよ。八千ルーブリという大金でさあ」
「じゃその手形はあなたの手に渡ってるんですね?」とわたしはかみつきそうな目で彼をにらんだ。
「わたしのところは銀行ですよ、質屋、つまり Mont de piete(貸付貯蓄銀行)ですよ、手形なんかは扱いませんな。聞いたことがありますかな、パリの Mont de piete ってどんなものか? 貧しき者にパンと施しをってやつですよ。わたしのところは Mont de piete でしてな……」
公爵が荒々しく腹だたしげにさえぎった。
「きみはどうしてここにいたんだ? どうして遠慮してくれなかったんだ?」
「へえ!」とステベリコフは目をくりくりさせた、「じゃなんです? こうしてちゃいけなかったんですか?」
「いけない、いけない、いけない、わからんのか」と公爵は叫んで、足を踏み鳴らした、「わたしが言ったじゃないか!」
「おや、そうですかい、そんなら……それでよござんすよ。ただし、あまり感心できないことになりそうですな……」
彼はくるりと向き直って、ちょっと小首をかしげながら、背を前屈《まえかが》みにかがめると、すっとそのまま出ていった。公爵はもう扉口に消えた彼の後ろ姿に叫びたてた。
「いいか、きみ、わたしはきみなんぞすこしもこわくないぞ!」
彼はひどく興奮していた、そして椅子に坐りかけたが、じろりとわたしをにらむと、そのまま坐るのをやめた。彼の目はわたしにも、『きみもなぜ目ざわりになってるんだ?』ととがめているようであった。
「ぼくは、公爵……」とわたしは言いかけた。
「わたしは、ほんとに、時間がないのですよ、アルカージイ・マカーロヴィチ、今からすぐ出かけるので」
「一分だけでいいのです、公爵、ひじょうに重大な用事があるものですから。そのまえに、まずこの三百ルーブリをお返しします」
「これはまたどういうことです?」
彼は歩きまわっていた足をぴたりととめた。
「というのは、今いろいろなことがありましたし……あなたがヴェルシーロフを公正でないと言ったこともありますし、それに、このごろあなたの態度ががらりと変りましたので……要するに、ぼくはどうしても受取るわけにはいかないのです」
「あなたは、しかし、この一月《ひとつき》受取ってきたじゃありませんか」
彼は急に椅子に坐った。わたしは事務卓のそばに立って、片手でベリンスキーの本をトントン叩き、もう一方の手に帽子を抱《かか》えていた。
「別な気持もありましたよ、公爵……というのは、結局、ぼくはぜったいにある定めた金額に達することはあるまいと思うのです……この勝負は……とにかく、ぼくは受取ることはできません!」
「あなたは要するにぜんぜん自分を誇示できなかったので、それで腹をたてているのでしょう。その本にさわらないでいただきたいですな」
「それはどういうことです、自分を誇示できなかったというのは? それから、もうひとつ、あなたは客のまえでぼくをステベリコフと同列におきましたね?」
「ははあ、それだったのですね!」と彼はあざけるように白い歯を見せた。「加えて、ダルザンがあなたを公爵と呼んだとき、あなたはうろたえましたね」
彼は意地わるくにやにや笑った。わたしはかっとなった。
「ぼくにはさっぱりわかりませんね……あなた方のありがたがる爵位なんぞ、ぼくは無償《ただ》でも要《い》りませんよ……」
「わたしはあなたの気性を知ってますよ。アフマーコワの弁護はまさに傑作でしたな……本にさわらないでください!」
「それはどういうことです?」とわたしはまた叫んだ。
「本に、手をふれないでください!」と彼はまるでとびかかろうとするように、椅子の上できっと身がまえながら、急に大きな声をだした。
「もうこれ以上がまんができません」とわたしは言いすてると、急いで部屋を出た。だが、まだ広間の端まで行かないうちに、彼は書斎の入口からわたしに叫んだ。
「アルカージイ・マカーロヴィチ、もどってください! もどって、くださーい! 早く、おもどりください!」
わたしは聞かないで、どんどん歩いていった。彼は急ぎ足でわたしに追いつくと、手をつかんで、書斎へ連れもどした。わたしはさからわなかった。
「おとりください!」彼は興奮に蒼《あお》ざめて、わたしが事務卓の上に投げすててきた三百ルーブリを、わたしの手ににぎらせようとした。「ぜひおさめてください……さもないとわたしは……さあぜひとも!」
「公爵、どうしてぼくが受取れます?」
「じゃ、わたしが謝罪しましょう、そうすればいいのですね? どうか、わたしを許してくれたまえ!……」
「公爵、ぼくはあなたを常に愛してきました、で、もしあなたもぼくを……」
「わたしも――ですよ。さあ、おとりください……」
わたしは受取った。彼の唇《くちびる》がひくひくふるえた。
「公爵、あなたがあの卑劣漢にはげしく立腹されたことは、ぼくもわかります……しかし、公爵、これまでの口論のあとのように、接吻《せつぷん》し合わなければ、ぼくは受取るわけにいきません……」
そう言いながら、わたしもふるえた。
「おや、なんとやさしい心だ」と、公爵はてれ笑いをしながらつぶやいたが、身をかがめて、わたしに接吻した。わたしはぎくりとした。接吻の瞬間に彼の顔をちらと嫌悪《けんお》の色がかすめたのを、わたしははっきりと見てとったのである。
「とにかくあの男は金をもってきましたか?……」
「そんなことはどうでもいいことです」
「ぼくはあなたのことが……」
「もってきました、もってきましたよ」
「公爵、ぼくたちは親友でしたね……それから、ヴェルシーロフも……」
「まあそういうわけですよ、これで、いいでしょう!」
「それから、最後に、ぼくは、ほんとに、どうしてもわからないのですよ、この三百……」
わたしはそれを手ににぎっていた。
「おとりなさい、おとりなさいよ!」と彼はまた薄笑いをもらした、しかしその笑いにはなにかひじょうによくないものがあった。
わたしは受取った。
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第三章
わたしが受取ったのは、彼を愛していたからである。それを信じない者には、わたしはこう答えたい。少なくともわたしが彼からこの金を受取ったそのときは、その気になれば、ほかにも楽に借りられるところがあることを、わたしは確信していたのである。だから、彼から借りたのは、窮余の策ではなく、ただただ彼に恥をかかせまいとする細心な心づかいからなのである。まあ、わたしはそのとき自分にこう納得させた! しかし、それでもやはり彼の家を出たときは、なんともやりきれない気持だった。わたしはこの朝、わたしに対する彼の態度ががらりと変ったのを見た。このような調子はこれまでになかったことである。しかもヴェルシーロフに対するそれは、もはや明らかな反抗であった。ステベリコフがなにかで彼をひどく立腹させたことは、たしかだが、しかし彼のあの態度はステベリコフが来るまえからである。もう一度くりかえすが、態度の変化は数日まえからすでに認められたが、こんなではないし、これほどひどくはなかった――ここが重大な点である。
あの侍従武官ビオリング男爵のばからしい噂《うわさ》も彼の心に衝撃をあたえたのかもしれない……わたしも大いに動揺した、しかし……ありていを言えば、そのころはまったく別な光がまぶしく輝いていたので、わたしは軽はずみにもひじょうに多くのものを見おとしていた。ろくろく見もしないで、暗いものはすべておしのけ、光り輝くものにばかり目を向けていたのである……
まだ午後一時になっていなかった。公爵の家を出るとわたしはマトヴェイの馬車をまっすぐに――信じられるであろうか?――ステベリコフのところへ走らせたのである! 実を言えば、彼がさっきわたしをおどろかしたのは、公爵のところへ現われたということよりは(彼は公爵を訪問することを約束していたからだ)、むしろ例の愚かしい癖でわたしに片目をつぶってみせたことで、しかもそれがわたしが予期していた意味とはまったくちがっていたからである。わたしは昨夜市内郵便で彼からかなり謎《なぞ》めいた手紙を受取ったが、その中で彼はぜひ今日の一時すぎに来てもらいたい、『わたしにとって意外なことを』お知らせできるはずだから、と書いてきたのである。しかもその手紙のことを、今、公爵のところで、彼はおくびにも出さなかったのである。ステベリコフとわたしのあいだにどんな秘密がありえたろうか? こんなことは考えるだにおかしいことであった。とはいえ、いままで起ったことを思いあわせて、わたしは今彼の家へ向いながら、かすかな興奮をさえ感じていた。わたしは、たしかに、二週間ほどまえに一度彼に借金を申込んだことがあった、そして彼が貸すことを承諾したが、しかしどうしたわけかそのときは話がこわれて、わたしは借りなかった。彼はそのときいつもの癖で、なにやらぼそぼそとつぶやいた、そしてわたしには彼がなにか特別の条件を出そうとしているように思われた。ところがわたしはそれまで公爵のところで会うたびに、徹底的に彼を見下していたので、面子《メンツ》にかけても特別の条件などという考えは一蹴《いつしゆう》して、彼が扉口のところまで追いかけてきたのにも目もくれずに、憤然としてとびだしたのであった。そしてそのときもわたしは公爵に借りたのである。
ステベリコフは完全な独立家屋に、かなり豊かに暮していた。住居は美しい四部屋から成っていて、家具類もりっぱで、男女一人ずつの召使をおき、さらに家政婦らしい、しかしかなり年配の女をやとっていた。わたしはむっとした顔で入っていった。
「どうしたというんです」とわたしはまだ扉口のところから、もうとがった声を出した、「まず、あの手紙はなんです? ぼくはあなたに文通など許しませんよ。それに用があるのなら、なぜさっき公爵のところで言ってくれないんです、ぼくは喜んでうかがおうと思ってたんですよ?」
「でも、あなたもさっき黙ってましたね、どうして訊《き》かなかったんですかな?」と彼は口を横にひろげて、いかにも満足そうににたにた笑った。
「それはぼくがあなたに用があるんじゃなく、あなたがぼくに用があるからですよ」わたしは急にかっと熱くなって、こう叫んだ。
「ほう、そういうことなら、いったいどうしてここへ来たんですかな?」彼は満足のあまり椅子の上でほとんどとび上がりそうにした。わたしはとっさにくるりと向き直って、出てゆこうとした、すると彼はわたしの肩をおさえた。
「まあ、待ちなさい、冗談ですよ。問題は重大です、いまにわかりますよ」
わたしは腰を下ろした。正直のところ、わたしは興味があった。わたしたちは大きな事務卓の端に向い合いに位置をしめた。彼はずるそうににたりと笑って、指を一本突き立てかけた。
「どうか、そのずる笑いも、指もなしに願います、とにかく――謎めいたことはいっさいぬきにして、ずばりと用件を言ってください、さもないとぼくはすぐに帰ります!」とわたしはまたむっとして叫んだ。
「あなたは……傲慢《ごうまん》な人だ!」彼は肘掛椅子《ひじかけいす》にかけたままぐいとこちらへ身をのりだし、額のしわをぜんぶつり上げて、どこかまのぬけた叱責《しつせき》をこめて言った。
「あなたにはこれでいいのですよ!」
「あなたは……公爵から今日金を借りましたな、三百ルーブリ。わたしも金はありますよ。わたしの金のほうがよろしいですな」
「どうして知ったのです、ぼくが借りたのを?」とわたしは愕然《がくぜん》とした。「じゃなんです、彼がそれをあなたに言ったんですか?」
「彼がわたしに言ったんですよ。心配は要《い》りません、ただ、ちらっと、言葉のはずみで、口をすべらせただけで、言おうとして言ったことじゃありませんから。でもわたしにもらしたわけですよ。だが、彼に借りなくてもよかったですな。そうでしょう、ちがいますかな?」
「でもあなたは、聞くところでは、途方もない高利をむしりとるそうじゃありませんか」
「わたしのは Mont de piete(貸付貯蓄銀行)てやつでして、むしりとるなぞと人聞きのわるい。わたしは知人たちの便宜をはかるだけで、ほかの者には用だてませんよ。ほかの人々にはこの Mont de piete をつかってもらうことに……」
この Mont de piete というのは、担保をとって、同居人以外のちゃんとした第三者を保証人にたてて金を貸す、きわめて一般的な融資法であった。
「だが、友人には相当の金額を融通しますよ」
「ほう、じゃ公爵はあなたには友人というわけですか?」
「友人ですとも。でも……彼はばかなことばかり言いますな。あんな口のたたける道理はないのですよ」
「なるほど、あなたに運命をにぎられてるってわけですね? たくさん借りてるんですか?」
「そりゃ……たくさんですな」
「でも返しますよ、彼には遺産がありますから……」
「それが――彼の遺産じゃないのですよ。彼は借金もあるうえに、さらに他の借りもあります。遺産なんか右から左で、まだ足りませんや。ところで、あなたには利息なしでお貸ししますよ」
「やはり友人としてですか? ぼくのどこがそんなに気に入られたのでしょうね?」とわたしはにやりとした。
「あなたにそれだけの資格があるのですよ」
彼はまた上体をわたしのほうへのりだして、指を突き立てようとした。
「ステベリコフ! 指はやめなさい、さもないと帰ります!」
「まあお聞きなさい……彼はアンナ・アンドレーエヴナと結婚するかもしれんのですよ!」
そう言うと、彼はいやらしく左目を細めた。
「おや、ステベリコフ、話はえらくスキャンダル的性格をおびてきましたね……よくもあなたごとき者がアンナ・アンドレーエヴナの名を口にできましたねえ?」
「怒っちゃいけませんよ」
「ぼくは歯をくいしばって聞いてるのさ、これにはなにか裏があることは知れきってるし、それをつきとめたいからね……だが、ぼくのがまんも限度がありますよ、ステベリコフ!」
「怒っちゃいかんし、威張ってもいけませんよ。まあしばらく威張らんで、お聞きなさい。そのあとでまあゆっくり威張るんですな。アンナ・アンドレーエヴナのことは知ってますね? 公爵が結婚するかもしれんということは……知ってるでしょうな?」
「その話は、むろん、聞いてるし、すっかり知ってますよ。でも公爵とその話をしたことは一度もありませんね。ぼくが知ってるのは、それは今病床にあるソコーリスキー老公爵の頭に生れた考えだということだけです。でもぼくは老公爵とそういう話はしたことがありませんし、それにはいっさい関与していませんね。ただぼくの立場を明らかにしたいので一応これだけを言っておいて、さてあなたにお訊《き》きしたいのですが、まず、なんのためにあなたはこれをぼくに言いだしたのです? つぎに、いったい公爵はこのような問題をあなたと話しているのですか?」
「彼がわたしに話を出すのじゃありませんな。彼はわたしに話したがらんですが、こっちが話をしかけるのですわ、でも彼は聞きたがりませんな。さっきもどなりましたよ」
「決ってますよ! ぼくも彼に賛成ですね」
「老人は、ソコーリスキー公爵は、アンナ・アンドレーエヴナに相当の持参金をもたせますよ。あの娘さんはうまいこと老人のお気に入りになりましたでな。そこで婿《むこ》のソコーリスキー公爵がその金をそっくりこっちへよこすというわけですよ。金以外の借りもですな。まずそういうことになるでしょうな! だって今は返済しようにも、なにもないのですよ」
「ぼくに、ぼくにどうしろと言うのです?」
「もっとも大切なことをしてもらいたいのですよ。あなたは知合いです。あの家の人はみんな知っています。あなたならすっかりさぐりだすことができますよ」
「あっ、なんてことを……なにをさぐりだすのだ?」
「公爵にその気があるか、アンナ・アンドレーエヴナにその気があるか、老公爵がそれを望んでいるか。それを確実につかむのですよ」
「無礼な、あなたはぼくにスパイになれとすすめるのか、しかも――金のために!」とわたしは激昂《げつこう》して立ち上がった。
「威張らんでください、威張らんで、もうほんのちょっと、五分間だけで結構ですから」
彼はまたわたしを坐らせた。彼は明らかにわたしの動作や怒声をなんとも思っていなかった。だが、わたしは最後まで聞くことに腹を決めた。
「わたしは早くつかまなきゃならんのですよ、早く情報をにぎらなきゃ、というのは……というのはですな、ぼやぼやしてると手おくれになるおそれがでてくるからですよ。さっき見たでしょう、あの士官が男爵とアフマーコワの話をしたとき、彼が苦い顔をしたのを?」
わたしはこのまま聞きつづけることに、たまらない卑屈さを感じたが、好奇心が抗しがたい力でわたしをのみこんでしまった。
「まったく、あなたは……劣等な人間だ!」とわたしはきっぱりと言ってのけた。「ぼくがここに坐ってこうして聞いて、こういう人々の名を口にするのを許しているのは……しかも自分でもそれに答えているのは、あなたにその権利を許しているからではぜったいにありません。ぼくはただなにか卑劣なたくらみがあると見ているので……ところで、だいいち、公爵がカテリーナ・ニコラーエヴナにどんな希望をもちうるというのです?」
「なにも。ところが彼は憤激する」
「それはうそです!」
「憤激しますよ。今度は、つまり、アフマーコワが――パスというわけ。彼はこの勝負で倍|賭《か》けをしてそっくりいかれたんですよ。今彼にのこされたのはアンナ・アンドレーエヴナだけです。あなたに二千ルーブリお貸ししましょう……利息なし、手形なしです」
こう言いおわると、彼はきっとした顔になって悠然《ゆうぜん》と椅子の背にそりかえると、大きな目をじっとわたしにあてた。わたしもまなじりを決して彼をにらみつけた。
「あなたは最高級の服を着ていますな。金が要りますよ、たくさんの金がね。わたしの金は公爵のより得ですよ。どうです、二千以上融通しましょう……」
「でも代償はなんです? なにをしろというんです、畜生め!」
わたしは足を踏み鳴らした。彼はこちらへ身をのりだして、意味ありげに言った。
「あなたにじゃまされないためですよ」
「だってぼくは、そんなことがなくたって無関係ですよ」とわたしは叫んだ。
「あなたが黙っていることは、わたしも知ってますよ。それはいいことです」
「あなたにほめてもらわなくても結構です。ぼくは自分の立場からぜひそうありたいと願うので、それはぼくのすることではないし、むしろ無作法なことだとさえ思っています」
「そらごらんなさい、そうですとも、無作法ですよ!」と彼は指を一本突き立てた。
「見ろって、なにをです?」
「無作法ですよ……ヘッヘ!」彼は急にえへらえへら笑いだした。「わかりますよ、わかりますよ、あなたにとって無作法なわけはね、でも……じゃまはしませんかな?」彼はパチリと目くばせした、しかしこの目くばせにはなにかひどく狡猾《こうかつ》な、しかも愚弄《ぐろう》するような、下劣なものがあった! たしかに彼はわたしの内部になにやら下劣なものを予想して、その下劣なものに期待をかけていた……それは明らかだった、だがねらいがどこにあるのか、わたしにはどうしてもわからなかった。
「アンナ・アンドレーエヴナは――あなたのお姉さんにもなるわけですよ」と彼は暗示するように言った。
「そんなことはあなたの言えることじゃありません。だいたいアンナ・アンドレーエヴナのことは言ってもらいたくないですね」
「威張らんでくださいな、もうあと一分だけですから! よろしいかな、公爵は今に金を受取って、すべてを保証してくれるのですよ」とステベリコフは重みをこめて言った、「すべてをです、みんなをですよ、おわかりですかな?」
「じゃあなたは、ぼくが彼から金をもらうと思ってるんですか?」
「今でももらってるでしょうが?」
「ぼくは自分の金を受取ってるんです!」
「自分の?」
「これは――ヴェルシーロフの金です。彼はヴェルシーロフに二万払わなければならんのです」
「じゃヴェルシーロフのでしょう、あなたのではありませんな」
「ヴェルシーロフは――ぼくの父です」
「いいえ、あなたは――ドルゴルーキーですよ、ヴェルシーロフじゃない」
「どっちでも同じことだ!」
実際に、わたしはそのときはそう考えたのである! わたしは、同じことでないことは知っていたし、それほどばかではなかったが、しかしわたしはまたしても『こまかい心づかい』からそのときはそう考えていたのだった。
「もうたくさんです!」とわたしは叫んだ。「なんのことやらさっぱりわからん。よくもこんなばかげたことでぼくを呼びつけることができましたね?」
「まさか、ほんとにわからないのですか? あなたは――わざとわからないふりをしてるのでしょう、ちがいますか?」ステベリコフは怪しむような薄笑いをうかべて、射ぬくような目でわたしを凝視しながら、ゆっくりと言った。
「神かけて、わかりません!」
「わたしは言いましたよ、彼はすべてを保証できる、みんなをとね、ただじゃまをしないでいただきたいのですよ、よけいな水をさしたりしないで……」
「あなたは、どうやら、頭がへんになったらしい! どうしてそのみんなばかり振りまわすのです? ヴェルシーロフを、彼が保証するとでもいうのですか?」
「あなたやヴェルシーロフばかりじゃありませんね……もっといますよ。だってアンナ・アンドレーエヴナがあなたにとってお姉さんなら、リザヴェータ・マカーロヴナも同じようにお妹さんでしょう!」
わたしはかっと目を開いてにらんでいた。不意になにかわたしをまで哀れむような色が、彼の忌まわしい目にちらと走った。
「おわかりにならん、それもまたいいでしょう! おわかりにならんほうがいいのですよ、そのほうがずっといいんです。そりゃほめていいことです……ただしほんとうにわからなければですがね」
わたしは完全に怒りが爆発した。
「ばかげた考えもろとも消え失《う》せるがいい、あなたは狂人だ!」とわたしは帽子をつかんで叫んだ。
「これは――ばかげた考えじゃありませんな! おや、お帰りですか? いいですか、あなたはまた来ますよ」
「来るものか」とわたしは扉口で叫んだ。
「来ますよ、そしたら……今度は別な話をしましよう。もっともだいじな話をね。二千ですよ、忘れなさんな!」
彼はなんともいえぬ不潔な漠然《ばくぜん》とした印象をわたしの胸にのこした。それでわたしは彼の家を出ると、なるべく考えないようにして、ペッペッと唾《つば》ばかり吐いていた。公爵がわたしのことや、この金のことを、彼のような男に話したという考えは、鋭い針となってわたしを刺した。『賭博《とばく》で勝って、今日にでも返してやろう』とわたしはきっぱりと心に決めた。
ステベリコフがよしんばばかで、はっきりしたもの言いのできない男にしても、わたしは彼の明らかに卑劣な根性をまざまざと見てとった。しかもなによりも始末がわるいのは、こういう場合なにかこそこそと策略を弄《ろう》さずにはいられぬ男なのである。ただわたしにはそのときそうした奸計《かんけい》のひとつをも突きつめてみる暇がなかった、そしてそれがわたしの鳥目《とりめ》の最大の原因だったのである! わたしはそわそわしながら時計を見た。まだ二時になっていなかった。してみると、もう一軒訪問ができるわけだ。さもないと、三時までに興奮で頭がどうかなってしまうかもしれない。わたしは義姉のアンナ・アンドレーエヴナ・ヴェルシーロワの住居へ馬車を向けた。わたしはもうだいぶまえから老公爵のところで彼女と近づきになっていた。老公爵の病気中のことである。そのころ、三、四日老公爵の病床を見舞わないで、良心の呵責《かしやく》に苦しめられていたわたしを、このアンナ・アンドレーエヴナが救ってくれたのだった。老公爵は彼女をそれこそ溺愛《できあい》していて、わたしにまで彼女のことを自分の守護天使だなどと言い聞かせたほどだった。ついでだが、彼女をセルゲイ・ペトローヴィチ公爵と結婚させようという考えは、実際にこの老人の頭の中に生れて、何度かそれをわたしに、もちろんこっそりとだが、打明けたことがあった。わたしはまえにも、だいたいヴェルシーロフがきわめて冷淡な態度をとっていた現実問題の中でも、もっとも現実的なものとして、ヴェルシーロフにこの話をしたことがあった。彼は、それでも、わたしがアンナ・アンドレーエヴナと会った話をすると、いつもなにか特別に関心を示すのだった。ヴェルシーロフはそのとき、アンナ・アンドレーエヴナは聡明《そうめい》すぎるほどの娘だから、こうしたデリケートな問題でも、はたからの助言がなくともうまく処理できるだろう、とつぶやくみたいに言った。老人が彼女に持参金をあたえるというのは、たしかにステベリコフの言ったとおりだが、しかし彼はこれからなにを期待できるのだろう? さっき公爵が彼の後ろ姿に、彼のことなどぜんぜん恐れはしないぞと叫んだ。とすると、ステベリコフはもう実際に書斎でアンナ・アンドレーエヴナのことを公爵に話したのではあるまいか。そうとすれば、公爵の立場におかれたら、わたしだって激昂《げつこう》したにちがいない。
わたしはこのころアンナ・アンドレーエヴナをかなりひんぱんに訪《たず》ねていた。ところが、そのたびにある奇妙なことがあった。いつも彼女のほうからわたしに来るように指示するから、おそらくわたしを待っているにちがいないのに、わたしが入ってゆくと、決ってわたしにいきなり不意をおそわれたようなようすをするのである。この妙な癖にわたしは気づいていたが、わたしはやはり彼女に惹《ひ》きつけられた。彼女は祖母のファナリオートワ夫人の家に住んでいた。もちろん、祖母の養女になっていたが(ヴェルシーロフは一文の生活費も出していなかった)、――しかし普通に小説などに描かれているような名流夫人の家の養女、たとえばプーシキンの『スペードの女王』の老伯爵夫人の養女のような立場からは、はるかに遠かった。アンナ・アンドレーエヴナのほうがむしろ伯爵夫人のようであった。彼女はこの家の中にまったく独立して暮していた、というのはファナリオートフ家の人々と同じ家の中に住んではいたが、ちゃんと独立した部屋を二つもっていて、たとえばわたしが出入りをしても、ファナリオートフ家の誰とも一度も顔をあわせたことがなかったのである。彼女は誰でも好きな客を招き、自分の時間を完全に自由につかってよい権利をあたえられていた。もっとも、彼女はもう二十三歳になっていた。社交界へは、この一年、ほとんど顔を出さなかった。といって、ファナリオートワ夫人が孫娘にかかる金を惜しんだわけでは決してなかった。それどころか、夫人は孫娘を溺愛していた、とわたしは聞いていた。そういう派手やかさではなくて、わたしがアンナ・アンドレーエヴナをすっかり好きになってしまったのは、いつ訪ねても、地味な衣裳《いしよう》を着て、熱心になにか手しごとをしているか、さもなければ本を読んでいるからであった。彼女のようすにはどことなく修道院の尼僧を思わせるところがあり、そこがわたしの気に入っていた。彼女は口数はあまり多くないが、いつも重みのあるしゃべり方をして、それにおそろしいほど聞き上手だった。これがわたしのどうしてもできないことなのである。ひとつも共通したところはないが、それでいて、おそろしいほどヴェルシーロフを思い出させる、とわたしが言うと、彼女はいつもほんのりと頬《ほお》を染めた。彼女はよく顔を赤らめたが、いつもさっと、そしてほんのりと染めるだけで、わたしは彼女の顔のこの特徴も好きでたまらなかった。わたしは彼女のまえでは決してヴェルシーロフを姓で呼んだことがなく、必ずアンドレイ・ペトローヴィチと言っていたが、これはどういうものかひとりでにそうなったのである。総じてファナリオートフ家ではなんとなくヴェルシーロフを恥じているらしいのに、わたしは気づいていた。といっても、わたしはアンナ・アンドレーエヴナだけからそれを気づいたので、それも、『恥じる』という言葉をつかっていいものかどうかも、わたしには判然としないのである。しかし、なにかそれらしいものはあった。わたしはセルゲイ・ペトローヴィチ公爵の話も彼女とした、すると彼女はひどく熱心に聞いているので、わたしは彼女が公爵の身辺に関心をもっているのかと思った。ところが、どういうものかいつもそうなのだが、わたしがいろいろとニュースを伝えるだけで、彼女のほうからはなにも訊《たず》ねないのである。二人の結婚の可能性については、わたし自身もある程度それを望んでいたので、ときどき聞いてみたいと思ったが、どうしてもそれを言いだす勇気がなかった。しかも彼女の部屋に入ると、わたしはどうしてかあまりよけいなことを言えなくなって、ただもううっとりとなってしまうのだった。彼女がひじょうに教養が深く、たくさんの、それも固い本まで読んでいるのも、わたしは好きだった。彼女はわたしなどよりはるかに多くの本を読んでいた。
最初は彼女がわたしを呼んだのである。わたしはそのときも、彼女はきっとときどきわたしになにか訊こうと思ったのだろう、と考えた。おお、そのころなら誰でも、どれほど多くのことをわたしから訊きだせたろう! 『でもまさか、それだけのために彼女がわたしを招くのでもあるまい』とわたしは思った。要するに、わたしはなにか彼女の役にたつことができるのが、むしろ嬉《うれ》しかった、そして……彼女といっしょに坐っているとき、わたしはいつもひそかに、これがわたしの姉なのだと思ったものだった、といって、しかし、わたしたちの関係については、まるでそのような事実はぜんぜんなかったように、わたしは言葉にだして彼女と話したことはもちろん、それとなくほのめかしたことさえなかった。彼女のまえに坐っていると、そんなことを言いだすのが、なぜか、まったく考えられないことに思われたし、また、事実、彼女を見ていると、彼女は、ひょっとすると、まったくそのことを知らないのかもしれない、とときどきふっとこんなばかげた考えが頭にきた――それほど彼女はわたしに対してよそよそしい態度をとっていたのである。
彼女の部屋へ入ると、わたしは思いがけなくリーザに出会った。わたしもこれにはいささかびっくりした。二人がまえにも顔をあわせたことがあったことは、わたしもよく知っていた。それは『乳呑《ちの》み子《ご》』のところで起ったのである。誇りの高い、ひきこもりがちのアンナ・アンドレーエヴナがこの幼な子に会いたいという空想にとらわれたことや、そこでリーザに出会ったことについては、余裕があったら、いずれ語ることになろう。しかしやはり、アンナ・アンドレーエヴナがいつかリーザを自分の家に招くことがあろうとは、わたしはまったく予期しなかった。これはわたしには快い驚きだった。もちろん、そんな素ぶりは見せないで、わたしは、アンナ・アンドレーエヴナとあいさつを交わし、熱をこめてリーザの手をにぎると、そのそばに腰を下ろした。二人はしごとに熱中していた。テーブルの上と膝《ひざ》の上にアンナ・アンドレーエヴナの高価なよそゆきの衣裳がひろげられていた。これはもう古いもので、というのはもう三度着たので、彼女はどんなふうにか縫い直そうとしていた。リーザはこういうことにかけてはひじょうな『名人』で、それで『賢明な婦人たち』のものものしい会議が開かれていたわけである。わたしはヴェルシーロフを思い出して、にやにや笑った。それにわたしはすっかり華やいだ気分になっていた。
「あなたは今日とっても楽しそうですのね、たいへん嬉しいことですわ」とアンナ・アンドレーエヴナはもったいぶって、一語々々きりはなしながら言った。彼女の声はよくひびくふとい低音《コントラルト》で、いつも長い睫毛《まつげ》をすこし伏せかげんにして、蒼白《あおじろ》い顔にほのかな微笑をちらとうかべて、おちついてものしずかに話した。
「リーザが知ってますが、ぼくはくさくさしてるときは、実に不愉快な男なんですよ」とわたしは明るく答えた。
「もしかしたら、アンナ・アンドレーエヴナも知ってらっしゃるかもしれなくてよ」といたずらっぽいリーザがわたしをチクリと刺した。かわいいリーザ! そのとき彼女の心になにがあったか、もしわたしが知っていたら!
「あなた今なにをなさってますの?」とアンナ・アンドレーエヴナが訊いた。(ことわっておくが、彼女が今日わたしに来るようにたのんだのである)
「ぼくは今ここに坐って、自分の胸に訊いてるんですよ、どうしてぼくは手しごとをしてるあなたよりも、本を読んでるあなたを見るほうが、いつも楽しいんだろうって。そうです、たしかに、手しごとはどうしてかあなたに似合いませんね。この点でぼくはアンドレイ・ペトローヴィチに似たんですね」
「まだ大学へ行く決心はつきませんの?」
「ぼくたちの話を忘れずにいてくれたことは、実に感謝にたえません。これはつまり、ぼくのことをときどきは考えてくださるということですからね。でも……大学についてはぼくはまだ考えをまとめていません、それにぼくには自分の目的がありますから」
「つまり彼には自分の秘密があるのよ」とリーザが注釈を加えた。
「ふざけるのはよしなさい、リーザ。二、三日まえにある聡明《そうめい》な男が言ったのですが、最近二十年間の啓蒙《けいもう》運動でわがロシア人がなによりも明瞭《めいりよう》に証明したのは、彼らがおそろしく無教養であるということだそうですよ。これには、もちろん、わが大学のことも言及されたのですがね」
「あら、きっと、お父さんが言ったのね。兄さんはこのごろはほんとにお父さんの考えの受売りばかりしてるのね」とリーザが釘《くぎ》をさした。
「リーザ、まるでぼくに自分の知性があることをきみは認めていないらしいね」
「今の世の中では聡明な人々の言葉をしっかり聞いて、それをおぼえておくほうがとくですわ」とアンナ・アンドレーエヴナはやんわりとわたしを弁護した。
「たしかにそうですよ、アンナ・アンドレーエヴナ」とわたしは熱をこめて受けた、「ロシアの現実を考えない者は、国民ではありません! ぼくの見方はすこし妙かもしれませんが、われわれは韃靼《タタール》族の侵略にさらされ、その後二百年というもの奴隷状態におかれました、そして、そのいずれもがわれわれの好みに適していたのですね。ところが今自由があたえられ、その自由をもちこたえなければならなくなったわけですが、その力がはたしてあるでしょうか? 自由もやはりわれわれの好みに合うものとなるでしょうか?――これが問題なのです」
リーザはすばやくアンナ・アンドレーエヴナを見やった、しかしそちらはすぐに目を伏せて、自分のまわりのなにやらをさがしはじめた。リーザは必死になってこらえているようすだったが、ふとわたしと目が会うと、たまりかねてプッとふきだしてしまった。わたしはかっとなった。
「リーザ、おまえもへんな娘だな!」
「ごめんね!」と彼女は不意に、笑うのをやめて、ほとんど悲しそうに言った。「あたしなにを考えていたのかしら……」
そしてその声に不意に涙がふるえたように思われた。わたしはなんとも言えぬ恥ずかしさをおぼえた。わたしは彼女の手をとると、強く接吻《せつぷん》した。
「あなたってほんとにいい人ですわ」わたしがリーザの手に接吻してるのを見て、アンナ・アンドレーエヴナはやさしく言った。
「ぼくはね、リーザ、今笑っているおまえを見たのが、なによりも嬉しいんだよ」とわたしは言った。「ほんとですよ、アンナ・アンドレーエヴナ、このごろこの娘はいつもなにか妙な目でぼくを見るんですよ、まるで、『どう、なにかわかって? なにもかもうまくいってて?』と訊いてるみたいな目で。ほんとに、この娘はなにかそんなことを気に病んでいるのですね」
アンナ・アンドレーエヴナはゆっくりと、さぐるような目をリーザに上げた。リーザは目を伏せた。わたしは、しかし、この部屋に入りながら想像したよりも、二人がずっと親しいことを、はっきりと見てとった。この考えがわたしには快かった。
「あなたは今ぼくをいい人だと言ってくれましたね。ほんとにできないかもしれませんが、ぼくはあなたのところへ来るといいほうへ変っていくのが、自分でもわかるんですよ、あなたのそばにいるとぼくは楽しくてたまらないのですよ、アンナ・アンドレーエヴナ」とわたしは感情をこめて言った。
「あなたにそうおっしゃっていただくと、わたしもとっても嬉しいわ」と彼女は意味ありげに答えた。
ここで一言ことわっておかなければならないが、彼女はわたしの乱脈な生活や、わたしがはまりこんでいた軛《くびき》について、一度としてわたしに言ったことがなかったのである。といって決して知らないのではなく、すっかり詳細に知っていたばかりか、わきでいろいろと人に訊いていたほどである。わたしはそれを知っていた。だから、今のこれがはじめてのほのめかしのようなもので、そのために――わたしの心はますます彼女のほうへ傾いたのだった。
「病人はいかがですか?」とわたしは訊いた。
「ええ、とっても楽になったわ。もう歩けますし、昨日も今日も馬車で散歩に出かけたほどですわ。じゃあなたは今日もお寄りにならなかったのね? 老公爵はあなたをあんなに待っておりますのに」
「ぼくは老公爵にわるいと思っています、でもこのごろはあなたが見舞いに行って、ぼくの役目をすっかりうばってしまったから。老公爵は――ひどい移り気ですよ、ぼくをすっかりあなたに見かえてしまって」
わたしの冗談があまりに月並みすぎたためか、彼女はひどく生まじめな顔をした。
「ぼくはさっきセルゲイ・ペトローヴィチ公爵を訪ねましたよ」とわたしはてれかくしに言った、「そこで……あっ、そうそう、リーザ、おまえ今日ダーリヤ・オニーシモヴナを訪ねたね?」
「ええ、訪ねたわ」と彼女はうつむいたまま、なにかそっけなく答えた。「兄さん、あんたは毎日病気の老公爵をお見舞いに行ってるようですけど?」と彼女は妙に唐突に言った。なにか言わないと間がもてなかったらしい。
「うん、ぼくは行くには行くんだが、老公爵のところまで行きつかないだけなのさ」とわたしは苦笑した。「玄関を入ると、つい左へ折れてしまうんだよ」
「老公爵も気づいておられるほどですわ、あなたがひんぱんにカテリーナ・ニコラーエヴナをお訪ねになることをね。昨日もそうおっしゃって、笑ってらしたわ」とアンナ・アンドレーエヴナは言った。
「いったいなにを、なにを笑ったのです?」
「冗談をおっしゃったんですよ、あなたもご存じでしょう。おかしいな、若い美しい女というものは、あなたぐらいの青年にはいまいましさと怒りの感情だけしかあたえないものだが……なんておっしゃって」と言うと、アンナ・アンドレーエヴナは急に笑いだした。
「ほう……おどろきましたね、老公爵にしては実にうまいことを言ったものです」とわたしは叫ぶように言った、「きっと老人が言ったんじゃなく、あなたが老人に言ったんでしょう?」
「あら、どうしてですの? いいえ、これは老公爵がおっしゃったのよ」
「ほう、じゃその美人がですね、まるで虫けらみたいになんの取柄《とりえ》もなく、隅《すみ》っこに突っ立って、ふくれてるのに、だって『子供』ですからね、そんな彼に注意を向けて、ですよ、だしぬけに彼女をとりまく崇拝者たちの誰よりも、彼を選んだとしたら、いったいどんなことになるでしょう?」とわたしは不意に思いきった挑発《ちようはつ》するような調子で言った。わたしの胸はどきどきしだした。
「そしたら兄さんは、その美人のまえで骨ぬきになってしまうわよ」とリーザが笑った。
「骨ぬきになる?」とわたしは声をうわずらせた。「いや、ぼくは骨ぬきになんかならんな。きっと、ならんと思うよ。もしその美人がぼくの行く手に立ちふさがったとしても、彼女はきっとぼくについてくることになるだろう。ぼくの道をふさぐものは必ず罰をうける……」
リーザがあとで、もうだいぶすぎてから思い出しながら、ちらとこんなことを言った。わたしがそのときこの文句をおそろしく奇妙に、生まじめに、急に考えこんだみたいに言って、しかも同時に、『その言い方のおかしいったらないので、どうにもがまんができなかった』そうである。事実、アンナ・アンドレーエヴナも声をたてて笑った。
「お笑いなさい、ぼくを笑ってください!」とわたしは有頂天になって言った。この話ぜんたいも、その傾向も、すっかりわたしの気に入っていたからである。「あなたに笑ってもらうと、ぼくは嬉しいだけなのです。ぼくはあなたの笑いが好きなんですよ、アンナ・アンドレーエヴナ! あなたにはこんな癖があります。黙っているかと思うと、突然笑いだす、それがとっさのことなので、顔を見ていても予想がつかないほどです。ぼくはモスクワである婦人を知っていました、といっても隅《すみ》のほうから遠くにながめていただけですが。その婦人もほとんどあなたと同じくらいに美しいひとでしたが、ただあなたのようなすてきな笑い方ができないのです、そのためにあなたに負けないくらいのせっかくの魅力的な顔が――笑うと、とたんに魅力を失ってしまうのです。あなたは実に魅力的です……特にこの癖があるために……ぼくはまえまえからそれを言おうと思っていたのです」
わたしはモスクワの婦人をもちだして、『あなたと同じくらいに美しいひとでした』と言ったとき、ひとつ巧妙なてをつかった。それが無意識に口から出たもので、そう言ったことに自分でも気がついていないようなふりをしたのである。このような『無意識に口からもれた』讚辞《さんじ》が、どのようにみがきあげられたお世辞よりも、女によって高く評価されるものであることを、わたしはちゃんと心得ていたのである。そしてアンナ・アンドレーエヴナがどんなに真っ赤になっても、それが嬉しさのためであることも、わたしは知っていた。しかもこの婦人はわたしの創作だった。わたしはモスクワでそんな婦人など一人も知らなかった。わたしはただアンナ・アンドレーエヴナを賞讚して、喜ばせてやりたかっただけである。
「どうやらほんとうらしいわね」と彼女は魅力的に微笑した、「あなたがこのごろ、どこやらのとっても美しいご婦人の影響下におかれているというのは」
わたしはふわふわとどこかへ飛んでゆくような気がした……わたしは二人になにか打明けたいような気持にまでなったが……しかしそれは抑えた。
「でも、ついこのあいだまでは、あなたはカテリーナ・ニコラーエヴナのことをひどい敵意をもって話してらしたわね」
「もしぼくがなにかよくないことを言ったとすれば」わたしはきらりと目を光らせた、「彼女が――アンドレイ・ペトローヴィチの敵だなどという、彼女に対する醜怪きわまる中傷がその原因なのですよ。彼が彼女を愛していて、結婚を申込んだ云々《うんぬん》というような、彼に対する愚にもつかぬ中傷もあったのです。この中傷も醜怪なら、もうひとつ、彼女がまだ良人《おつと》の生きているあいだに、未亡人になったら結婚するとセルゲイ・ペトローヴィチ公爵に約束して、その後その約束を反古《ほご》にしたなどという中傷も、実に醜怪きわまりますよ。でもぼくは当事者から聞いたのですが、そんなことはみんなうそで、単なる冗談だったのですよ。ぼくは直接聞いたのです。一度、外国で、冗談を言い合っていたときに、彼女はたしかに公爵に、将来、『もしかしたらね』と言ったことがあるそうですが、こんなのはほんの軽い言葉という以外に、どんな意味をもちうるでしょう? ぼくは知りすぎるほど知ってるんですが、公爵としても、こんな約束にすこしも意味を認めていませんし、おまけにそんなつもりは毛頭ありませんよ」。わたしははっと気がついて、こうつけくわえた。「彼にはまるで別な意図があるらしいですね」とわたしは巧妙にさしはさんだ。「さっき彼のところでナシチョールキンが言ってましたが、カテリーナ・ニコラーエヴナはビオリング男爵と結婚するらしいですね。どうでしょう、彼はこの知らせを聞いても眉毛《まゆげ》一筋動かしませんでしたね、実にりっぱでしたよ、ほんとですよ」
「ナシチョールキンが彼の家を訪問しましたの?」不意に重みのある声で、びっくりしたように、アンナ・アンドレーエヴナはこう訊いた。
「そうですとも。なんでも、彼は一流の名門らしいですね……」
「それで、そのナシチョールキンがそのビオリングとの結婚の話を彼にしましたの?」と、アンナ・アンドレーエヴナは急にひどく興味を示した。
「結婚とはっきりは言いませんが、ただ噂では、そうらしいと。社交界にそういう噂が流れているように、彼は言ったのですが、でもぼくは、そんなばかなことはないと信じてますね」
アンナ・アンドレーエヴナはちょっと考えて、縫物の上に目をおとした。
「ぼくはセルゲイ・ペトローヴィチ公爵が好きです」とわたしは急に熱くなってつけくわえた。「彼には欠点はあります、もちろんです、まえにあなたにも言いましたが、それはすこし一本気すぎることです……でも、この欠点も彼の心の美しさを証明するものだと思いますが、そうじゃないでしょうか? ぼくは、たとえば今日も、ある考えであぶなく彼と口論になるところでした。彼の信念は、公正について人に説くなら、まず自分が公正であれ、さもないと、きみの言うことはすっかり――うそになる、というのです。どうです、これはロジックでしょうか? まあ、それはともかくとして、これこそ彼の心の中にある誠意、義務、正義の高い要求を証明するものだと思いますが、そうじゃないでしょうか?……あっ、これはいけない、今何時ですか?」なにげなく暖炉《カミン》の上の時計の文字盤に目をやると、わたしは思わず叫んだ。
「三時十分まえですわ」と彼女は時計を見やって、しずかに言った。わたしが公爵の話をしているあいだじゅう、彼女は目を伏せたまま、なにかずるそうな、しかし愛らしいほほえみをうかべて聞いていた。わたしがなんのために彼をこんなにほめるか、彼女は知っていたのである。リーザもしごとの上に頭をかがめて聞いていて、もうさきほどから話に口をはさまなかった。
わたしは尻《しり》に火がついたみたいにとび上がった。
「どこかへおくれましたの?」
「ええ……いや……でも、ちょっとだけ、今からすぐ行けば。一言だけ聞いてください、アンナ・アンドレーエヴナ」とわたしはどきどきしながら言いだした、「今日はあなたに告白せずにいられないのです! ぼくは正直に告白します、ぼくはあなたがぼくをここへ呼んでくださった親切と深い思いやりに、もうどれだけ感謝したかわかりません……あなたとお知合いになったことがぼくにもっとも強い感銘をあたえました……あなたの部屋にいますと、ぼくは魂を洗われて、実際よりもよい人間になってここから出てゆくような気がします。これはほんとうです。あなたのそばに坐ってると、ぼくはわるいことを言えないばかりか、わるい考えももつことができないのです。あなたのまえにそのようなものは消えてしまうのです、そしてあなたのそばでなにかよくないことをちらとでも思い出すと、ぼくはすぐに恥ずかしくなって、おろおろして、心の中で赤くなってしまうのです。そして、どうでしょう、今日はあなたのそばに妹を見出《みいだ》して、ぼくは嬉しくてたまらなかったのです……これこそあなたの心の美しさと……態度の美しさを……証明するものです……つまり、あなたは肉親のような親しみのこもったことをおっしゃってくださいました、で、もしこの氷を割ることをお許しくださるなら、ぼくは……」
わたしがしゃべってるあいだに、彼女は椅子から立ち上がって、ますます顔を赤らめた。ところが不意になにものかにおびえたように、こえてはならぬある線にはっと気づいたのか、急いでわたしをさえぎった。
「信じていただきたいの、わたし心のありったけであなたの感情を尊敬させていただきますわ……お聞きしなくてもわかっていました……もうまえまえから……」
彼女はわたしの手をにぎりながら、恥ずかしそうに言葉をとぎらせた。不意にリーザがそっとわたしの袖《そで》をひいた。わたしは別れを告げて、部屋を出た。ところが次の間へリーザが追ってきた。
「リーザ、どうしてぼくの袖をひっぱったんだい?」とわたしは訊《き》いた。
「あのひとは――いやな女よ、ずるい女なのよ、あんなにほめることないわ……兄さんを出入りさせてるのは、いろいろ聞きだすためなのよ」と彼女は憎悪《ぞうお》に燃えたひそひそ声で早口にこうささやいた。わたしは彼女のこのような顔をこれまでに一度も見たことがなかった。
「リーザ、なにを言うんだ、あのひとは――あんなすばらしいお嬢さんじゃないか!」
「まあ、じゃわたしが――わるい女なの」
「どうしたんだ、おまえ?」
「あたしひどくわるい女よ。どうせ、あのひとがすばらしいお嬢さんで、あたしがわるい女でしょうよ。もういいわよ、ほっといて。ねえ、兄さん、お母さんがたのんでてよ、『わたしにゃどうしても言いだせないけど』って、そう言ってたわよ。あたしの大好きなアルカージイ! 賭博をやめてよ、ね、お願い……お母さんもよ……」
「リーザ、ぼくは自分でもわかってるんだよ、だが……これが――みっともない気の弱さだってことは、わかってるんだよ、だが……こんなことは――ばかげたことだよ、それ以外のなにものでもないのさ! ただね、ぼくはばかみたいに借金してしまったんだよ、それが返したいだけなんだよ。勝てるさ、だっていままではばかみたいに、めくらめっぽうにやってただけだが、今度は一ルーブリもおろそかにしないからな……勝つ自信がなきゃ、やりゃしないさ! ぼくは夢中になってしまったわけじゃないよ、あそびだよ、ほんの一時的なことにすぎないのさ、ほんとだよ! ぼくはやめようと思って、やめられないほど、弱くないさ! 金を返してしまったら、もう今度こそおまえたちのものになるよ、お母さんにも言ってくれ、もうはなれないからって……」
「さっきの三百ルーブリだって兄さんはどれほどの思いをしたかしら!」
「どうしておまえはそれを知ってるんだ?」とわたしはぎくりとした。
「ダーリヤ・オニーシモヴナがさっきすっかり聞いてたのよ……」
そう言いかけて、リーザは不意にわたしをカーテンのかげへおしこんだ。わたしたちは『ガラス部屋』と呼ばれる、まわりが窓のまるく張り出した小さな部屋へ入っていた。わたしは驚きからさめきらないうちに、聞きおぼえのある声と拍車の音が聞えた、そしてなつかしい足音を聞きとった。
「セリョージャ公爵だ!」とわたしはささやいた。
「そうよ」とリーザがささやき返した。
「どうしておまえ、そんなにおびえてるんだね?」
「ただね、どうしても見られたくないの……」
「Tiens(へえ)、まさかあの男がおまえの尻を追いまわしてるんじゃあるまいね?」とわたしは苦笑した、「もしそんなことなら、あいつをぎゅうって目にあわせてやる。おまえどこへ?」
「出ましょうよ。あたし兄さんといっしょに帰るわ」
「じゃなんだい、もう別れのあいさつをしてきたのかい?」
「別れてきたわ。あたしの外套《がいとう》は控室にあるの……」
わたしたちは玄関を出た。階段のところではっとわたしは思いあたった。
「ねえ、リーザ、彼は、ひょっとしたら、結婚の申込みに来たんじゃないのか!」
「ううん、ちがうわ……彼は申込みなんかしないわ……」とリーザはしずかな声でゆっくりと、しかもきっぱりと言った。
「おまえは知らんのだよ、リーザ、ぼくは近頃彼と口論はしたけど、――もうおまえも聞いてるだろうけど、――でも、ほんと、ぼくは彼を心から愛してるんだよ、だからこの話もうまくいってくれればいいと願ってるんだよ。ぼくらはさっき仲直りしたんだ。ぼくらは幸福なときは、それは善良なんだぜ……ほんと、彼にはたくさんいいところがあるよ……ヒューマニティもある……少なくとも萌芽《ほうが》はある……だからヴェルシーロワのような、しっかりした利口な娘に手綱をにぎられたら、すっかり角がとれて、幸福な男になるだろうよ。時間がなくて残念だが……どう、すこしいっしょに乗ってゆかない、すこしおまえに話したいことがあるから……」
「いいえ、行ってちょうだい、あたしそっちじゃないから。食事に来るわね?」
「行くよ、行くよ、約束どおり。実はね、リーザ、一人ダニみたいなやつがいてね――つまり、卑劣きわまる男なのさ、ほら、おまえも知ってるかな、ステベリコフってやつだよ、あいつが公爵の問題におそろしい力をもってるんだよ……手形だがね……まあ、要するに、公爵の急所をにぎって、ぎゅうぎゅうしめあげているものだから、公爵もすっかりみじめさをさらして、アンナ・アンドレーエヴナに結婚を申込む以外に、もう出口がないんだよ。ダニも、公爵も、それ以外に出口がわからないのさ。彼女にはほんとうは注意しておいたほうがいいんだが、でも、いいよ、彼女なら自分でいずれ立て直すだろうさ。しかしどうかね、彼女はことわると、おまえは思ってるようだが?」
「さようなら、あたし急ぐから」とリーザはいきなり話をたち切った、そしてちらと流れた彼女の目に、わたしは不意に燃えるような憎悪を認めて、思わずぎょっとして叫んだ。
「リーザ、おまえどうしたんだ?」
「兄さんのことじゃないの。でも賭博だけはやめてね……」
「なんだ、賭博のことか、近くやめるよ」
「兄さんは今言ったわね、『ぼくらが幸福なとき』って、じゃ兄さんは今ひどく幸福なの?」
「そうとも、リーザ、ひどく幸福だよ! おや、もう三時だ、すこしすぎてる!……さようなら、リーザ。だって、リーザ、そうじゃない、女に待たせていいものだろうか? そんなことが許されるかい?」
「それ、あいびきのことなの?」リーザはなにか生気のない、ひきつった微笑をちらとうかべた。
「さ、幸福のために手をおくれ」
「幸福のために? あたしの手を? いやなことだわ!」
そして、彼女は急いで遠ざかっていった。それにしても、おかしいのは、彼女がこれほど真剣に叫んだことだ。わたしは橇《そり》にとび乗った。
そうだ、そうなのだ、この『幸福』こそがそのときわたしが、めくらのもぐらみたいに、自分のほかはなにも見えなかったし、なにもわからなかった大きな原因なのである!
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第四章
わたしは今語るのも恐ろしい。これはみな遠くすぎ去ったことだが、今でもわたしには幻影のように思われるのである。あのような婦人が当時のわたしのような鼻たれ小僧にあいびきを求めるなどということが、はたして考えられるだろうか?――これがまずふしぎなことだった! わたしはリーザと別れて、橇《そり》を走らせたとき、胸が早鐘をついて、気が狂うのではないかと、本気で考えた。あいびきを求められたということが、わたしには急にあまりにも見えすいたばかばかしいことに思われて、どうしても信じられそうもなかった。ところがどうだろう、わたしはすこしもそれを疑わなかったばかりか、かえって、ばかばかしく思われれば思われるほど、ますますわたしは強くそれを信じたのである。
もう三時をまわったことが、わたしを不安にした。『あいびきを指定されて、おくれてゆくなんてあまりにも無作法ではないか』とわたしは思った。また、『会ったらどう振舞ったらいいのだろう、大胆にか、それとも臆病《おくびよう》にか?』などという愚劣な疑問もちらちらした。だが、そうした考えはただちらちらしただけだった、というのは心の中は、これとはっきり定義することはできないが、ある大きな考えに充《み》たされていたからである。実は昨日、『明日の三時にわたしタチヤナ・パーヴロヴナのところへまいりますわ』と言われた――ただそれだけのことなのである。しかし、だいいち、わたしは彼女のところには、部屋に、いつも一人きりで迎えられていたし、彼女はなにもタチヤナ・パーヴロヴナの住居まで行かなくとも、なんでもわたしに言うことができたはずである。とすると、タチヤナ・パーヴロヴナの住居などと別な場所をいったいなぜ指定したのか? それにもうひとつ問題がある。それはタチヤナ・パーヴロヴナが家にいるかどうか? ということだ。もしこれが――あいびきだとしたら、タチヤナ・パーヴロヴナは家にいないわけである。だが、あらかじめタチヤナ・パーヴロヴナに事情を説明しないでは、どうしてそれができよう? とすると、タチヤナ・パーヴロヴナもこの秘密に加担しているということか? この考えがわたしには奇異な、なにかうすよごれた、ほとんど無謀に近いものに思われた。
それとも、彼女はただなんとなくタチヤナ・パーヴロヴナのところへ行ってみたくなって、別になんの他意もなく昨日わたしにそう言っただけなのを、わたしが勝手にあれこれと気をまわしすぎたのか。そう言えば、あの言葉はちらと、無造作に、なにげなく言われたし、それもすっかり退屈しきったあげくだった。というのは昨日彼女の部屋にいたあいだ、終始、わたしはなぜか気がぬけたみたいにぼんやりしていたからである。わたしは坐りこんだまま、ぼそぼそつぶやいているばかりで、なにを言っていいものやらわからずに、ひねくれて、すっかりいじけきっていたし、彼女は、あとでわかったのだが、どこかへ出かけようとしていたところで、わたしが別れのあいさつをしだすと、露骨に嬉《うれ》しそうな顔をしたのだった。こうしたさまざまな考察がわたしの頭の中に渦巻《うずま》いていた。わたしは、最後に、玄関でベルを鳴らし、女中がドアをあけたら、『タチヤナ・パーヴロヴナはいらっしゃいますか?』と訊《き》くことに決めた。もしいなければ、『あいびき』なのだ。しかし、わたしは疑わなかった。ぜったいに疑わなかった!
わたしは階段をかけのぼった、そして――のぼりきって、ドアのまえに立つと、恐怖はすっかり消えてしまった。『なに、かまうものか、こうなったらもう一気にぶつかるのみだ!』とわたしは思った。女中がドアをあけて、いやなねちねちした態度で、ぼそぼそと、タチヤナ・パーヴロヴナは不在だと言った。『じゃ誰か、タチヤナ・パーヴロヴナをお待ちになってる方はいませんか?』とわたしは訊こうと思ったが、『自分で見たほうが早い』と思って訊かなかった。そして、しばらく待たせてもらうから、と半分口の中で女中につぶやいて、すばやく外套《がいとう》をぬいで、ドアを開けた……
カテリーナ・ニコラーエヴナは窓際《まどぎわ》に坐って、『タチヤナ・パーヴロヴナを待ちあぐねていた』
「いませんの?」わたしを見るより早く、彼女はいきなり不安と怒りのまじり合ったような顔で言った。その声も顔もわたしの期待とはあまりにかけはなれていたので、わたしは思わず入口に立ちすくんでしまった。
「誰がです?」とわたしはやっとつぶやいた。
「タチヤナ・パーヴロヴナですよ! 昨日あなたに言づてをたのんだじゃありませんか、わたしが三時に訪《たず》ねるからって?」
「ぼくは……ぼくはぜんぜん会っていないんです」
「あなたは忘れたのね?」
わたしは打ちのめされたようにくたくたと椅子に坐った。こんなことだったのか! それに、なによりも腹がたつのは、すべてが二二が四というほどにはっきりしていたのに、わたしは――わたしはそれでもなお執拗《しつよう》に信じていたことである。
「あなたに言づてをたのまれたことは、ぼくはおぼえてませんね。それにあなたはそんなことたのみませんでした、あなたは、三時に行きます、と言っただけですよ」わたしはがまんができなくなっていきなりこうぶっつけた。わたしは彼女の顔を見なかった。
「あら!」と不意に彼女は叫ぶように言った、「あなたは言うのは忘れたけど、わたしがここへ来るのを自分では知ってたのね、それならあなたはいったいなんのためにここへいらしたの?」
わたしは顔を上げた。嘲笑《ちようしよう》も、怒りも、彼女の顔にはなかった。その顔の表情には明るい陽気な微笑と、いつもよりも強いいたずらっ気があらわれているだけだった。これが彼女のいつもの表情で、とはいえ――ほとんど子供っぽいようないたずらっ気なのである。『ほらごらん、痛いところをついたでしょう。さあ、どんな言いのがれをするつもり?』彼女の顔ぜんたいが、こう言っているようであった。
わたしは答えたくなかったので、また目を伏せた。沈黙が三十秒ほどつづいた。
「あなた今パパのところから来ましたの?」と不意に彼女がきいた。
「ぼくは今アンナ・アンドレーエヴナのところからです、ニコライ・イワーノヴィチ公爵のところへはぜんぜん行ってません……それはあなたもご存じのはずですが」とわたしはいきなりつけくわえた。
「アンナ・アンドレーエヴナのところでなにかありませんでした?」
「というのは、ぼくが今狂気じみたようすをしてるということですか? いいえ、ぼくはアンナ・アンドレーエヴナのところへ行くまえからもう狂気じみていたのです」
「それで、あのひとのところでも正気にもどしてもらえなかったの?」
「ええ、正気にもどれませんでした。おまけに、あなたがビオリング男爵と結婚するなんて聞かされたものですから」
「それをあのひとがあなたに言いましたの?」と急に彼女は興味を示した。
「いいえ、ぼくがそれを彼女に伝えたんです、聞いたのは、さっきセルゲイ・ペトローヴィチ公爵のところでです。客に来たナシチョールキンが公爵に言ったのを耳にしたんです」
わたしはまだ彼女に目を上げなかった。彼女を見れば、じきに光と、喜びと、幸福に充たされてしまうのだが、わたしは幸福になりたくなかった、怒りの毒針がわたしの心に突きささった、そして一瞬にしてわたしは勇猛心をふるいおこした。そして、わたしはまるでせきを切ったようにしゃべりだしたが、なにを言ったのかほとんどおぼえていない。わたしはぜいぜい息を切らしながら、なにやらしゃべりつづけた、しかし今はもうきっと彼女に目をあてていた。胸はどきどきと高鳴っていた。わたしはまるでなんの関係もないようなことをしゃべりまくったのだが、しかし、流暢《りゆうちよう》に口がすべったようにおぼえている。彼女ははじめのうちは、いかなるときも決して彼女の顔から去ることのない、いつものおだやかなしんぼう強い微笑をうかべながら聞いていたが、しだいにおどろきが、ついで恐怖さえも、そのじっとすえた目の中にちらちらうかびはじめた。微笑はまだ去らなかったが、その微笑もときどきふるえにひきつったように見えた。
「どうなさいました?」と、彼女がぎくりと全身をふるわせたのを見て、わたしは不意に訊《たず》ねた。
「わたしあなたがこわいわ」と彼女はほとんどおろおろしながら答えた。
「なぜあなたはお帰りにならないのです? だって、今はタチヤナ・パーヴロヴナがいないのですよ、それにしばらくもどりそうもないことは、あなたもご存じです、としたら、あなたはお帰りになるのがほんとうじゃありませんか?」
「わたししばらく待ってみようと思ったんですけど、でもこれなら……ほんとに……」
彼女は立ち上がろうとした。
「いいえ、いけません、お坐りください」とわたしは彼女をとめた、「おや、またふるえましたね、でもあなたは恐怖におそわれても微笑を忘れない……あなたはいつもにこにこしている。ほうら、お笑いになった……」
「あなたは熱に浮かされてるのね?」
「そのとおりです」
「わたしこわいわ……」と彼女はまたささやいた。
「なにがです?」
「あなたが……壁を破りはしないかと……」彼女はまた笑った、しかしもうほんとに怯気《おじけ》づいていた。
「ぼくはあなたのその笑いががまんできない!……」
そしてわたしはまたしゃべりだした。わたしはまるでふわふわと宙に浮いているような気がした。わたしはなにかに押しまくられているような気がした。わたしは今まで、一度も彼女にこんなにしゃべったことはなかった。いつもびくびくしていた、今もおそろしくびくびくしてはいたが、それでもしゃべっていた。わたしは、おぼえているが、彼女の顔についてしゃべっていたのだった。
「ぼくはもうあなたのその笑いががまんできない!」とわたしは不意に声をうわずらせた、「なぜぼくはまだモスクワにいたころ、近づきがたい威厳のある、おそろしく華麗な、そして辛辣《しんらつ》な社交界の言葉を話す貴婦人として、あなたを想像していたのだろう? そう、モスクワでです。ぼくはあちらでよくマーリヤ・イワーノヴナとあなたの噂《うわさ》をして、あなたをきっとこのような貴婦人にちがいない、と二人で想像したものです……おぼえておいでですね、マーリヤ・イワーノヴナを? あなたは彼女を訪ねましたものね。ぼくはペテルブルグへ来る途中、汽車の中で一晩じゅうあなたの夢を見ました。こちらへ来ても、あなたが現われるまで、あなたのお父さまの書斎でまる一月《ひとつき》というものあなたの肖像写真を眺《なが》め暮しましたが、どうしても察しがつきませんでした。あなたの顔にあらわれている表情は、子供っぽいいたずらっ気と、限りない純朴《じゆんぼく》さです――それなんです! ぼくはあなたの部屋を訪ねるたびに、いつもこれにはおどろかされたんです。おお、それはあなたは傲然《ごうぜん》と相手を見すえて、ちぢみあがらせることもできます。あなたがモスクワから出ていらしたとき、お父さまの書斎でじろりとぼくをにらんだ目は、ぼくは忘れることができません……あのときぼくはあなたを見ましたが、でも部屋を出てすぐに、あなたがどんな人だった? と訊かれても、ぼくはなにも言えなかったでしょう。背丈《せたけ》が大きいか小さいかさえ、言えなかったでしょう。ぼくはあなたを一目見たとたんに、それっきり目がくらんでしまったのです。肖像はまるであなたに似ていません。あなたの瞳《ひとみ》は暗い色ではなく、明るい色です、睫毛《まつげ》が長いために暗く見えるだけです。あなたはふとっています、背丈は中位です、でもかたぶとりで、軽やかで、健康な若い村娘のような肉づきです。それに顔もまったく田舎《いなか》ふうです。村の美人の顔です――怒らないでください、それがいいのです、そのほうがいいんです――まるくて、血色がよくて、明るくて、鼻っぱしらが強くて、にこにこしていて、しかも……羞《は》じらいをふくんだ顔! そうです、羞じらいです。カテリーナ・ニコラーエヴナ・アフマーコワが羞じらいをふくんだ顔をしてるんです! 羞じらいをふくんだ、そして清純な顔です、ほんとうです! 清純というよりももっと清らかな――子供の顔です!―― これがあなたの顔なのです! ぼくはいつもびっくりして、いつも自分に訊いたものです、これがあの女《ひと》だろうか? と。ぼくは今はあなたがひじょうに聡明《そうめい》なことを知っていますが、最初のうちは、すこし単純すぎるのではないかと思っていました。あなたの知性は陽性で、なんの粉飾もありません……もうひとつぼくが好きなのは、あなたの顔から笑いが消えないことです。これは――ぼくの天国です! それからさらに、あなたのおちつきも、あなたのものしずかさも、ぼくは好きです、そして、あなたのなだらかな、ゆったりした、いっそものうげなようなしゃべり方も――このものうげなところこそ、ぼくは大好きなのです。おそらく、足下の橋がくずれても、あなたはあれまあとか、なだらかに折目正しく感想を述べることでしょう……ぼくはあなたを高慢と情熱の頂点のように想像していましたが、あなたはこの二月のあいだぼくと、まるで学生同士のように話をしてくれました……ぼくはあなたがこのような額をおもちだとは、夢にも思いませんでした。それは彫刻のそれのように、いくぶん低目ですが、まるで大理石のように、真っ白く、きめがこまかく、豊かな髪の下に輝いています。胸は高く盛り上がり、足さばきは軽やかで、まれに見る美しい容姿をもちながら、すこしも高慢なところがありません。ぼくはずっと信じられなかったのですが、今はじめてそれをはっきりと確信したのです!」
彼女は明るい目を大きくみひらいて、じっとこの奇妙な長談議を聞いていた。わたし自身がふるえているのを、彼女は見ていた。何度か彼女ははらはらして、美しいしなをつくって手袋につつまれた小さな手を上げて、わたしを制止しようとしたが、そのたびに迷いと恐怖におびえたようにそれをひっこめた。ときには急いで体ぜんたいをうしろへひいたこともあった。二度三度それでも微笑が顔に透けて見えた。彼女は一度顔をさっと赤らめた、がしまいにはすっかりおびえきって、しだいに蒼《あお》ざめていった。わたしがちょっと言葉を切ると、彼女はすぐにおしのけるように片手を突きだして、祈るような、それでもやはりなだらかな声で言った。
「そんなことは言わないものです……そんな言い方はいけませんわ……」
そして急に立ち上がると、のろのろとスカーフと黒貂《くろてん》のマフを手にもった。
「帰るのですか?」とわたしは叫んだ。
「わたしはほんとにあなたが恐ろしい……あなたは悪用してます……」彼女は哀れむように、そしてなじるように、こう言葉をひきのばしながらゆっくり言った。
「ご安心ください、ぼくは決して壁を破るようなことはしませんから」
「でも、もう破りかけたじゃないの」彼女は抑えきれずににこっと笑った。「わたしをここから出してくれるかしら、それさえわたしわからないのよ」どうやら、わたしがここから出さないかもしれないと、彼女は本気で危ぶんでいたらしい。
「ぼくは喜んであなたにドアをあけてあげますよ、どうぞお帰りください、でも、はっきり申しあげますが、ぼくはひとつの大きな決意をしたのです。もしぼくの心に光をあたえてやろうというお気持になられたら、どうか椅子におもどりになって、一言だけ聞いてください。だが、おいやなら、どうぞお帰りになってください、ぼくは喜んでドアをあけましょう!」
彼女はじっとわたしを見まもっていたが、やがてもとの位置にもどった。
「他の女なら憤然として出てゆくところでしょうが、あなたは坐ってくれましたね!」とわたしは有頂天になって叫んだ。
「あなたはこれまで一度もそんなふうに言ってくれませんでしたものね」
「ぼくはいつもおどおどしていました。ぼくは今だってここへ入ってきたときは、なにを言っていいかわからなかったのです。ぼくが今びくびくしていないと、お思いですか? びくびくなのですよ。でも、ぼくは自分でも思いがけなくひとつの大きな決意をしたんです、そしてそれをやりとげられる、と直感したのです。ところが、それを決意したとたんに、狂気にとらわれたようになって、べらべらしゃべりだしたのです……お聞きください、これがその一言です、ぼくはあなたのスパイでしょうか、それともちがいますか? どうかお答えください――これが問題なのです!」
朱がさっと彼女の顔にさした。
「まだ答えないでください、カテリーナ・ニコラーエヴナ、まずすっかりぼくの言うことを聞いて、それからいつわりのないところを言ってください」
わたしは一挙にすべての垣《かき》を突き破って、広い空間へおどり出た。
「二月ほどまえ、ぼくはそこのカーテンのかげに立っていました……ご存じですね……あなたはタチヤナ・パーヴロヴナとある手紙のことを話していました。ぼくはとびだして、われを忘れて、つまらんことを口走りました。あなたはとっさに、ぼくがなにか知っていることを見ぬきました……見ぬかないはずがなかったのです……あなたは重大な手紙をさがしていて、それが誰かの手に渡りはしないかとひどく恐れていたのですから……お待ちください、カテリーナ・ニコラーエヴナ、もうすこしがまんしてください。はっきり申しあげますが、あなたの疑惑は正当だったのです。その手紙がりっぱにあるのですから……つまりあったのです……ぼくはそれを見たのです。それは――アンドロニコフにあてたあなたの手紙ですね、そうですね?」
「あなたはその手紙を見ましたの?」彼女はうろたえて、おろおろしながら、急いでこう訊いた。「どこで見ましたの?」
「ぼくはそれを……クラフトのところです……ほら、あの拳銃《けんじゆう》自殺をした……」
「ほんとうですの? あなたは自分で見ましたの? それでその手紙はどうなりました?」
「クラフトが破りました」
「あなたのまえでですの、あなたは見ましたの?」
「ぼくのまえでです。彼は死をまえにして破ったものと思われます……ぼくはそのときは、まさか彼が自殺しようとは……」
「じゃ、あれはもうなくなったのね、よかった!」と彼女はゆっくり言うと、ほっと溜息をついて、十字を切った。
わたしはうそをついたのではない。といって、手紙はわたしがもっていて、決してクラフトがもっていたわけではなかったから、表面ではうそをついたわけだが、それは些末《さまつ》なことにすぎず、実質的にはうそにならなかった。というのは、このうそが口に出た瞬間に、わたしはその晩のうちにこの手紙を焼きすててしまおうと心に誓ったからである。誓って言うが、もしそれがそのときわたしのポケットの中にあったら、わたしはそれをとりだして、彼女に渡したはずである。ところがそれはポケットの中にはなく、わたしの部屋においてあった。とはいえ、やはり、おそらく渡さなかったろう、なぜなら、それをもっていながら、これほど長く彼女を警戒して、かくしておいたことを告白することが、そのときのわたしにはあまりにも恥ずかしいことだったにちがいないからである。どっちにしたって同じことだ。家で焼いてしまえば、いずれにしても、うそはつかないことになる! 誓って言うが、わたしはそのとき純粋な気持だったのである。
「ところで、もしそうとしたら」とわたしはほとんどわれを忘れて言葉をつづけた、「はっきり言っていただきたいのですが、あなたがぼくを誘惑し、ぼくに出入りを許して、ぼくにやさしくしてくれたのは、ぼくが手紙のことをなにかつかんでいるとにらんだからじゃないのですか? 待ってください、カテリーナ・ニコラーエヴナ、もう一分だけ何も言わないで、ぼくに終りまで語らせてください。ぼくはこれまであなたの部屋を訪ねるごとに、そのあいだじゅうずっと、あなたがぼくにやさしくしてくれるのは、ただただぼくからその手紙のことをさぐりだすためなのだ、ぼくをのっぴきならぬところまで追いつめて、白状させようというのにちがいないのだ、と疑っていたのでした……待ってくだざい、もう一分だけ。ぼくはそう疑って悩みました。あなたの心に裏があるということがぼくには堪《た》えられなかったのです、なぜなら……なぜならぼくはあなたにこのうえない高尚な気品を見出《みいだ》したからです! ぼくは率直に言います、ぼくはずばりと言います、ぼくはあなたの敵でしたが、しかしこのうえない高尚な気品をあなたに見たのでした! ぼくは一撃で完敗しました。だから二心が、つまり二心への疑惑が、ぼくを苦しめたのです……今こそすべてが解決されなければなりません、すべてが明らかにされなければなりません、その時が来たのです。でも、もうちょっと待ってください、言わないでください、ぼく自身が今、この瞬間に、この問題をどう見てるかを、知ってもらいたいのです。率直に言います。もしそれがそうであっても、ぼくは怒りません……という意味は、つまり、侮辱に思わない、ということなのです、なぜなら、そうあるのが当然だと、ぼくは心得ているからなのです。そこにどうして不自然なよくないものがありうるでしょう? あなたは手紙のことで苦しんでいる、あなたはこれこれがすっかり知っているらしいと疑惑をもつ、そしたらどうするでしょう、なんとかこれこれに口を割らせたいものだと、あなたが望むのは至極当然のことです……ここにはなにもわるいものはありません、これっぽっちもありません。ぼくは心底から言ってるのです。でもやはり、あなたに今なにか言ってもらいたいのです……告白してもらいたいのです(こんな言葉をつかってお許しください)。ぼくは真実がほしいのです。どうしてかそれが必要なのです! そこで、言っていただきたいのですが、あなたがぼくにやさしくしてくれたのは、ぼくから手紙のことをさぐりだすためだったのでしょうか……カテリーナ・ニコラーエヴナ?」
わたしは崖《がけ》からとび下りるような思いで一気に語り終えた。額が燃えるように熱かった。彼女はじっと聞いていたが、その顔にはもう不安の色はなく、それどころか、ほのぼのとした愛情があらわれていた。それでも彼女はまるで羞じらうように、すこしきまりわるげにわたしを見ていた。
「そのためでした」と彼女はゆっくり低声《こごえ》で言った。「お許しくださいね、わたしがわるうございました」わたしのほうへ心持ち、両手をさしのべるようにしながら、彼女は不意にこう言いそえた。これはまったくわたしの予期しないことだった。わたしはすべてを予期していたのだが、でもこの言葉だけはまったく思いがけなかった。彼女がどのような女性かはもう知ってはいたが、それにしても……
「えっ、あなたはぼくに『わるうございました』と言うのですか! そんなに率直に、『わるうございました』と?」とわたしは声をうわずらせた。
「ええ、わたしはもうだいぶまえからそう感じはじめていましたのよ、あなたに申し訳けないことをしたって……そして今、それがこうして明るみに出て、かえって嬉しいと思ってるのよ……」
「だいぶまえから感じていた、とおっしゃいましたね? じゃどうしてそれを、もっと早くおっしゃってくれなかったのです?」
「だってわたしどんなふうに言ったらよいかわからなかったんですもの」と彼女はにこっと笑った、「でも、言えば言えたんでしょうけど」彼女はまたにこっと笑った、「なんだかすっかり恥ずかしくなってしまって……だってわたしはじめはほんとにただそのために、あなたを『誘惑』しましたのよ、あなたの言葉を借りますとね、ところがその後じきにそんなことがいやになりまして……とにかくそんなふうにいつわりの装いをしてることがたまらなくなってしまいましたのよ、ほんとうよ!」と彼女はいかにもにがにがしそうに言いそえた、「それにごたごたしたいろんな厄介なことも!」
「だったらなぜ、なぜそのときずばりと訊《き》いてくれなかったんです? 『おまえは手紙のことを知ってるのね、どうして知らないふりをしてるの?』とこう言ってくださればよかったんですよ。そうしたらぼくはすぐにあなたに言ったのに、すっかり白状してしまったでしょうに!」
「でもわたしあなたが……すこしこわかったのよ。実を言いますと、わたしもあなたを信用できなかったのよ。だってそうじゃありません、わたしがずるいことをしたなら、あなただってやはり同じですもの」彼女はにこっと笑って、こう言い足した。
「そうですとも、そうですとも、ぼくは信用されるような人間じゃなかったんです!」とわたしは痛いところをつかれて叫んだ、「おお、あなたはまだぼくの堕落の底無しの泥沼を知らないのです」
「あら、もう底無しの泥沼になりましたの! あなたらしい言葉ね!」と彼女はしずかに笑った。「あの手紙は」と彼女は悲しそうに言いそえた、「わたしの生涯のもっとも悲しい、もっとも軽率なおこないでした。あの手紙の記憶が心の呵責《かしやく》となっていっときもわたしの頭をはなれませんでしたの。さまざまな事情がありましたし、とても不安になりまして、わたしはあのやさしいおおらかなお父さまの理性をつい疑ってしまったんですもの。それが今度は、あの手紙がひょっとして……わるい人々の手に入ったら、と案じまして……だってそう考える十分な根拠があったものですから(これを彼女は熱をこめて言った)……その人々がそれをいいことに、父に見せたりしないかと、それが心配で……だってあの手紙はきっと父にひじょうなショックをあたえるにちがいありませんし……特にあの体ですもの……さわりはしないかと……それに父はわたしをきらいになってしまうかもしれませんもの……そうですわ」彼女は明るい目でわたしの目をのぞきこみながら、ちらとわたしの目の中になにかをとらえたらしく、こうつけくわえた、「そうですわ、わたし自分の運命のことも忘れましたのよ、もしかしたら……あのようなご病気ですし……わたしに対する愛情を失ってしまいはしないかと……こういう気持もわたしの心にありましたの、でもわたしそんな考えをもつなんて、ほんとに父にすまなかったと思いますわ。だって父はあんな善良で、そして心の広いお人ですもの、きっと許してくださるにちがいありませんもの。これですっかりよ。あなたにあんな態度をとりましたことは、いけないことでした」と彼女は結ぶと、急にまた羞じらいをうかべた。「あなたにはすっかり恥ずかしい思いをさせられましたわ」
「いいえ、あなたはなにも恥じることはありません!」とわたしは叫んだ。
「わたしほんとうは、あなたの……かっとなりやすいところにつけこもうとねらってましたのよ……これも告白しますけど」と彼女は目を伏せて低声で言った。
「カテリーナ・ニコラーエヴナ! 誰が、いったい誰が、そんな告白をぼくにせよと、あなたに強《し》いたんです?」とわたしは酔ったように叫んだ、「そのままぷいと立ち上がって、みがき上げられた表現で、このうえなく優雅に、そういうことはあったにしても、やはり実際にはなにもなかったのだと、明確にぼくに証明することぐらい、あなたにはなんでもなかったじゃありませんか――おわかりでしょう、あなた方の上流社会ではいつも真実がどのようにあつかわれているか? ぼくは愚かな田舎者ですもの、すぐにあなたの言葉を信じるはずです、あなたがどんなことを言おうと、あなたの言葉ならもう頭から信じてしまうでしょう! そんなことをするくらいあなたにはなんの痛痒《つうよう》も感じなかったはずじゃありませんか? まさかあなたはほんとにぼくを恐れてるわけじゃないでしょう? どうしてあなたはそれほど自分からこんな出すぎ者のまえに、こんなみじめたらしい未成年者のまえに、自分を低くすることができたのです?」
「この問題では少なくともわたしは、あなたのまえに自分を低くするようなことはしていませんわ」わたしの叫びの意味がわからなかったらしく、彼女はみごとな品位をたもちながらこうきっぱりと言った。
「おお、ちがいます、まるで逆です! ぼくはそのことだけを強く言ってるんです!」
「あっ、わたしとしたことが、ほんとに愚かでしたわ、軽率でしたわ!」と彼女は叫んだ、そして顔をかくそうとするように、左手を顔のまえに上げた。「わたしもう昨日から恥ずかしくてたまらなかったものですから、そのためにあなたがここへ坐ったときから、もうすっかり気がそぞろになってしまって……ほんとうのことを言いますと」と彼女はつけくわえた、「今度急にいろいろな事情が重なり合ったものですから、あの不幸な手紙がその後どうなっているかをどうしても知っておく必要にせまられたのです、こんなことがなかったらあの手紙のことなんかもう忘れかけていましたのに……だからわたしがあなたと親しくしたのは、決してあの手紙のためばかりではなかったのよ」と不意に彼女は言いそえた。
わたしの胸はふるえだした。
「むろん、ちがいますとも!」と彼女は微妙に笑った、「むろん、ちがいますとも! わたしは……あなたはここのところをさっきぴたりと言いあてましたわね、アルカージイ・マカーロヴィチ、わたしがときどきあなたと、学生同士みたいにお話をしたって。ほんとうを言いますと、わたしときどき人中《ひとなか》にいるのが退屈でやりきれなくなりますの。外国生活をして、さまざまな家庭の不幸にあいましてから、それがよけいに高じましたわ……わたしこのごろさっぱり外へ出なくなりましたけど、それはものぐさのせいばかりではありませんのよ。わたしときどき田舎へ行ってしまいたいと思うことがありますわ。そして、もういつからかのばしのばししている大好きな本を、うんと読んでやりたいと思うのですけど、やはりどうしてもそれができませんの。このことはまえにもあなたに話したことがありましたわね。おぼえてます、わたしがロシアの新聞を、それも一日に二種類ずつ読むといって、あなたが笑ったことがありましたわね?」
「ぼくは笑いませんでしたよ……」
「あらそうでしたかしら、それはそうね、あなたもやはりロシアの問題にだいぶ胸を痛めてらしたものね、でもわたしはかなりまえにあなたに打明けたはずですわ、わたしはロシア人だから、ロシアを愛するって。おぼえてらっしゃる、わたしたちよくいっしょに、あなたの言う『事実』を読みましたわね(彼女はくすっと笑った)。あなたはたいていはなにかしら……妙なふうでしたけど、でもときどきすっかり生きかえったみたいになって、ぴたりぴたりと実にうがったことを言って、わたしが関心をもっているのと、まったく同じ問題に興味を示してくれましたわ。あなたが『学生』になると、ほんとに、かわいらしくて、オリジナルでしたわ。他の役柄は、あなたにはあまり映らないようよ」と彼女は魅惑的な、ずるそうな笑《え》みをうかべて、言いそえた。「おぼえてらっしゃる、わたしたちときどき何時間も数学の話ばかりしていたことがありましたわね、かぞえてみたり、足してみたり、ロシアには小学校がいくつあるかとか、教育はどの方向にむかうかとか、そんな問題に熱中したりして。わたしたちは殺人事件や刑事事件をかぞえて、いいニュースの数と比較して……そのグラフがどんな線をたどり、しまいにわたしたちがどんなことになるかを、さぐろうとしたことがありましたね。わたしあのときあなたの誠意にうたれましたのよ。社交界では、わたしたち女には決してあんなお話はいたしませんもの。わたし先週ある公爵とビスマルクのお話をいたしましたの。ひじょうに興味がありましたけど、自分では解決できなかったからですの。ところがどうでしょう、その公爵はわたしのそばに坐って、いろいろと話してくださったのですけど、それもひじょうに詳しくよ、ところがたえずどことなく皮肉な調子で、しかもわたしの大きらいなあの子供に教えるみたいな態度で、おわかりでしょう、わたしたち女が『柄にないこと』に口を出すと、『えらい人たち』が必ずとるような……ところがおぼえてらっしゃる、わたしたちビスマルクの話であぶなく喧嘩《けんか》になるところでしたわね? あなたはあのとき、ビスマルクの理想なんかよりは『はるかに純粋な』自分の理想をもっていると、さかんに強調なさいましたわね」彼女は不意にくすっと笑った。「わたしがこれまでにお会いした、真剣にわたしとお話をしてくださったお方は、たった二人ですのよ。一人は亡《な》くなった良人《おつと》、とても、とっても聡明で、それに……心の美しい人でしたわ」と彼女はしんみりと言った、「もう一人は――あなたがご存じのはずよ……」
「ヴェルシーロフですね!」とわたしは叫んだ。わたしは彼女の一言々々にほとんど息をのんでいた。
「そうですわ。わたしあの方のお話を聞くのが大好きでしたの、わたしはしまいにあの方にすっかり……あまりにも、と言えるかもしれませんね……打明けるようになったのですけど、あのときはわたしを信じてくれませんでしたわ!」
「信じてくれなかったですって?」
「ええ、もっとも誰も決してわたしを信じませんでしたけど」
「でもヴェルシーロフは、ヴェルシーロフだけは!」
「あの方は信じなかったばかりか」と彼女は目を伏せて、なにか妙な笑みをちらともらして、つぶやくように言った、「わたしを『悪徳』のかたまりだと思いましたの」
「そんなものはあなたにひとかけらもないのに!」
「いいえ、わたしにもすこしはありましたわ」
「ヴェルシーロフはあなたを愛さなかったのだ、だからあなたがわからなかったのだ」とわたしは目をぎらぎら光らせながら叫んだ。
彼女の顔がわずかにゆがんだ。
「その話はやめてください、ぜったいにわたしに言わないでください……あの人のことは……」と彼女ははげしく、異様な力をこめて言った。「でも、もうやめましょうね、時間ですわ」彼女は帰ろうとして、立ち上がった。「どうかしら、わたしを許してくださいます、それともおいや?」と、彼女は明るい目でわたしを見ながら言った。
「ぼくが……あなたを……許すですって! ねえ、カテリーナ・ニコラーエヴナ、怒らないでくださいね! あなたが結婚なさるって、ほんとうですか?」
「それはまだぜんぜん決ってませんのよ」彼女はなにかにおびえでもしたように、うろたえ気味に言った。
「その人はいい人間ですか? ごめんなさい、ごめんなさいね、こんなことを訊いて!」
「ええ、とってもいいお方です……」
「もう答えないでください、これ以上ぼくに返事をあたえないでください! ぼくは知ってるんです、こんなことはぼくが訊けることじゃないのです! ぼくはただその人がふさわしい人間かどうかだけ知りたかったのですが、その人のことは自分でしらべます」
「まあ、そんなことを!」と彼女はびっくりして言った。
「いや、しません、しません。目をつぶって通ります……でも、これひとつだけ言わせてください、すべての幸福があなたに恵まれることを祈ります、あなたご自身が選びとられるすべての幸福を……あなたが今、この一時間に、ぼくにこれほどの幸福をあたえてくださったお礼に! あなたは今ぼくの心に永久に刻みつけられました。ぼくは宝物を、あなたの心のこのうえない美しさという宝物を発見したのです。ぼくは狡猾《こうかつ》と、デリカシイのないコケットを疑ったとき、不幸でした……この考えをあなたと結びつけることができなかったからです……この数日は日夜思い悩みました。それが不意に白日のように明らかになったのです! ここへ入ってきたときに、ぼくは老獪《ろうかい》、狡知、秘密を食うさかしき蛇《へび》の印象をもちかえることになろうと思っていました、それが誠意と、光栄と、学生を見出《みいだ》したのです!……あなたは笑ってますね? 笑ってください、笑ってください! あなたは――神聖な女神《めがみ》ですもの、うやうやしくぬかずいている者を嘲笑するはずがありません……」
「あら、ちがいますわ、わたしはただあなたの言葉があんまり恐ろしいので……その、『秘密を食うさかしき蛇』ってなんのことですの?」と彼女は笑いだした。
「あなたはさっき、ひとつの貴重な言葉をうっかり口からすべらせました」とわたしは有頂天になってつづけた。「どうしてあなたはぼくにむかって、『ぼくのかっとなりやすいところにつけこもうとねらった』などという言葉をもらすことができたのでしょう? そりゃ、あなたが聖女で、それを自分で認めるのもいいでしょう、とにかく自分にある罪があると想像して、自分を罰したいと望んでおられるのですから……といっても、しかし、いかなる罪もなかったのですがね、というのは、よしんばなにかあったにしても、あなたから出るものはみんな神聖だからですよ! でもやはりあの言葉は言わないでもよかった、あの表現はつかうべきではなかった!……このような不自然とさえ言える正直さは、ひとえにあなたの崇高な純潔と、ぼくに対する尊敬と、ぼくによせる信頼とを示すものです」とわたしはあとさきもなく叫んだ。「おお、顔を赤らめないでください、どうして赤くなることがありましょう!……そして誰が、誰があなたを誹謗《ひぼう》したり、奇妙な女だなどとあしざまに言ったりすることができたのか? あっ、お許しください、ぼくはあなたの顔に苦悩の色を見たものですから。とりみだした未成年者の無作法な言葉をお許しください! それに、言葉や、表現が、今は問題でしょうか? あなたはあらゆる表現を超越してはいないでしょうか?……ヴェルシーロフが一度こう語ってくれました、オセロは嫉妬《しつと》のためにデスデモナを殺したのではなかったが、そのあとで、嫉妬のために自分を殺した、それは自分の理想を失ったからだ、と。……ぼくは今それがわかりました、というのはぼくにも今日ぼくの理想がもどったからです!」
「あなたはあまりにもわたしを讚美《さんび》しすぎますわ。わたしには重すぎますわ」と彼女は感情をこめて言った。「おぼえてらして、わたしがあなたの目のことを言ったこと?」と彼女はいたずらっぽくつけくわえた。
「ぼくの目は目じゃなくて、二つの顕微鏡で、どの蠅《はえ》もらくだほどに大きく見るということですね! ちがいます、この場合はらくだじゃありません!……おや、お帰りですか?」
彼女はマフとスカーフを手にして、部屋の中央に立っていた。
「いいえ、わたしはあなたが出るのを待っていますの、わたしはそのあとで出ます。タチヤナ・パーヴロヴナにちょっと置手紙をしたいと思いますので」
「ぼくは今帰ります、すぐ、でももう一度だけ言わせてください。幸福を祈ります、お一人か、あるいはあなたがお選びになったお方との、おしあわせを! ぼくには――ぼくは理想だけあればいいのです!」
「かわいい、やさしいアルカージイ・マカーロヴィチ、信じてくださいね、わたしはあなたのことを……あなたのことを父がいつも口癖のように言ってますわ、『かわいい、やさしい少年』だって。いいこと、わたしはいつもあなたのお話、他人の手の中に置き去りにされたかわいそうな子供の話や、一人きりの空想の話などを思い出しますわ……あなたの魂がどのように形成されたか、わたしにはわかりすぎるほどわかりますわ……でもこれからは、たといわたしたちは学生でも」と彼女は祈るような羞じらいの微笑をうかべて、わたしの手をにぎりしめながら、つけくわえた、「もうこれまでみたいにお会いすることはいけませんわ、それは……あなたもきっとおわかりですわね?」
「いけない?」
「いけませんわ、もうずっと……これもわたしの罪なのですが……これからはもうぜんぜんできないことだと思いますわ……ときどきパパのところでお会いするようにしましょうね……」
『あなたはぼくの感情のかっとなりやすいのをおそれているのですね、ぼくを信じないのですね?』とわたしは叫びかけたが、彼女が不意に消え入りそうな羞じらいを見せたので、言葉が口の中で凍りついてしまった。
「ねえ、おっしゃって」と彼女は急に思い出したように、もうドアをあけかけたわたしをとめた、「あなたはご自分で見ましたの、その……手紙が……破かれたのを? あなたはそれをよくおぼえてらして? どうしてそのとき、それがたしかにアンドロニコフにあてた手紙だとわかりましたの?」
「クラフトがその内容をぼくにおしえてくれましたし、それにその手紙を見せてくれたのです……では、これでお別れです! これまであなたの部屋を訪ねたとき、あなたがいるとびくびくしてるくせに、あなたが出てゆくと、床に身をなげだして、あなたが立っていたその場所に接吻《せつぷん》したい思いでした……」わたしは唐突に、自分でもなんのためかわからずに、放心したようにこうつぶやくと、彼女に目を上げないで、急いで部屋を出た。
わたしは家へ急いだ。わたしの胸は歓喜にふるえていた。頭の中は旋風が吹き荒れていたが、心の中は充実していた。母の家に近づくと、わたしは不意にアンナ・アンドレーエヴナに対するリーザのにくまれ口と、さっきのきびしい奇怪な言葉を思い出した、すると急に心がうずきだした! 『彼女らはみなどうしてああ心が硬《かた》いのだ! それにリーザまでが、なにかあったのかしら?』わたしはこんなことを考えながら、玄関に立った。
わたしは、九時にわたしの部屋に迎えに来るように言って、マトヴェイを帰した。
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第五章
食事の時間にわたしはおくれたが、一同はまだ食卓につかないで、わたしを待っていた。おそらく、わたしがここで食事をよばれるのが珍しいためか、幾皿か特別のごちそうが添えられていて、ザクースカにいわしなどもつけられていた。ところが、おどろいたことに、むろん心も痛めたわけだが、みんながなにか心配ごとがあるらしく、暗い顔つきをしていたのである。リーザはわたしを見ると、わずかに笑顔《えがお》をつくったが、母は目に見えておろおろしていた。ヴェルシーロフはにこにこ笑って見せたが、こわばったぎごちない笑いだった。『なにか喧嘩《けんか》でもしたのかな?』という考えがわたしの頭にきた。しかし、はじめは別になにごともなかった。ヴェルシーロフはペリメニ・スープにはちょっと顔をしかめただけだったが、肉饅頭《にくまんじゆう》が出されると、もう露骨にいやな顔をした。
「わたしの胃袋はこれこれの食物はうけつけない、とことわってさえおけば、あくる日はもうちゃんとそれが出されるんだからな」という皮肉が腹だたしげに彼の口から吐きだされた。
「そんなことをおっしゃっても、アンドレイ・ペトローヴィチ、どんなものを考えることができまして? 新しい料理なんてどうしたって思いつかないんですもの」と母がおろおろしながら答えた。
「きみのお母さんはね、新しいものはよいと思っているわが国のある種の新聞にはまったく反対なんだよ」ヴェルシーロフはもっとぴりっとした、もっと親しみのこもったしゃれをとばそうと思ったらしいのだが、それが妙にこわばったものになって、ますます母をおびえさせただけだった。母は、もちろん、新聞を引合いに出されたことがなんのことやらわからないで、けげんそうに目を光らせた。
そのときタチヤナ・パーヴロヴナが入ってきた、そしてもう食事はすましてきたからとことわって、母のそばのソファに腰を下ろした。
わたしはまだこの婦人の好意を得《う》ることができなかった。それどころか、彼女はなにかにつけてますますわたしに攻撃をかけるようになった。特にこのごろはわたしに対する彼女の不満がいよいよはげしさをました。彼女はわたしの粋《いき》な服装が見ていられなかったし、リーザから聞いたところでは、わたしが専用の辻馬車をもっていると聞いたとき、彼女はほとんど卒倒しそうになったそうである。わたしは結局、彼女とできるだけ会わないようにしたのだった。二月まえ、遺産を拒否した直後、わたしは彼女のところへかけつけてヴェルシーロフの行為を賞讚《しようさん》したことがあったが、彼女はすこしも共鳴しなかったどころか、かえって火のようになって怒ったのだった。半分ではなく、全部を渡したことが、彼女にはひどく気に入らなかったのである。そのとき彼女はぐさりと胸をえぐるようなことを言った。
「賭《か》けてもいいよ、おまえはこう思ってるんだよ、彼が金をなげだし、決闘を申込んだのは、ただただアルカージイ・マカーロヴィチに見直してもらいたいからだ、とね」
そして、たしかに彼女はほとんど見ぬいていた。わたしはそのとき心の底で実際にそれに似かよったことを感じていたのである。
わたしは彼女が入ってきたとたんに、これはきっと一悶着《ひともんちやく》あるぞとさとった。もともと、それが目的で来たにちがいないのだ、という気持さえいくぶんわたしにはあった、だからわたしはわざと、急にいつになくなれなれしい態度をとった。それにことさらにそうつとめるまでもなかった、というのはさきほどの喜びに充ちたまぶしいような気分がまだつづいていたからである。ここではっきりとことわっておくが、なれなれしさはこれまでも一度としてわたしに似合ったことがなく、つまり顔がそれに向いていないということで、かえって逆に、すっかり卑屈で塗りつぶしてしまうのである。今もそれが出た。わたしはとっさにばかなことを口走ってしまったのである。別にすこしの悪気もなく、ただ軽率から、リーザがおそろしくさびしそうな顔をしているのを見て、わたしは、自分でなにを言ってるか考えもしないで、気がついたときはもうこんな言葉が口から出てしまっていた。
「ぼくはめったにここで食事しないのに、なんだいリーザ、まるであてつけみたいに、そんなつまらなそうな顔をして!」
「あたし頭痛がするのよ」とリーザは答えた。
「まあ、あきれた」とタチヤナ・パーヴロヴナが突っかかった、「頭が痛いくらいで、どうだというの? せっかくアルカージイ・マカーロヴィチが食事においでくださったのじゃないの、踊りでもおどって喜ばなくちゃ申し訳ないわよ」
「あなたはまったく――ぼくの人生の不幸ですよ、タチヤナ・パーヴロヴナ。あなたがいるときは今後ぜったいにここへ来ません!」と言うと、わたしは心底から腹をたてて掌《てのひら》でピシャリと食卓を叩いた。母はびくりとしたが、ヴェルシーロフは妙な目でじろりとわたしを見た。わたしは急に笑いだして、一同に許しを請うた。
「タチヤナ・パーヴロヴナ、不幸という言葉を撤回します」とわたしはあいかわらずなれなれしい態度をつづけながら、彼女のほうを向いた。
「いいえ、とんでもない」と彼女ははねつけた、「わたしはあんたの不幸でいたほうがどれほど嬉《うれ》しいかわかりゃしない、どうぞご心配なく!」
「おい、アルカージイ、人生の小さな不幸はしのぶことを知らにゃいかんよ」とヴェルシーロフは笑いながら半分口の中で言った、「不幸がなけりゃ生きている甲斐《かい》がないよ」
「おや、あなたは――ときどきおそろしく保守的になりますね」とわたしはひきつった笑いをうかべながら、声をうわずらせた。
「アルカージイ、そんなことはどうでもよいよ」
「いや、どうでもよくはありません! どうしてあなたは、ろばを見たら、ろばとはっきり言わないのです?」
「そりゃきみ自分のことじゃないか? わしは、だいいち、人を裁《さば》くのはいやだし、できもしないよ」
「どうしていやなのです、どうしてできないのです?」
「なまけものだし、それにきらいなのさ。ある利口な女があるときわしに言ったよ、わしは『苦悩することを知らない』から、他人を裁く権利がない、他人を裁ける人になるには、苦悩という代償でその権利を取得せにゃいかんとな。いささか誇張はあるが、わしにあてはめれば、おそらくあたっていよう、それでわしはむしろ喜んでその判決に服したのだよ」
「なるほど、それをあなたに言ったのは、どうやら、タチヤナ・パーヴロヴナらしいですね?」とわたしは叫んだ。
「だが、きみはどうしてそれがわかったんだい?」とヴェルシーロフはいささかおどろきの目でわたしを見た。
「なに、タチヤナ・パーヴロヴナの顔から読んだのですよ。急にぎくりとしましたからね」
わたしは偶然に当てたのである。この言葉は実際に、あとでわかったのだが、昨夜はげしいやりとりの際にタチヤナ・パーヴロヴナがヴェルシーロフにむかって言ったものだった。それにだいたいが、くりかえして言うが、わたしが嬉しさをむきだしにして一同にぶつかったのは、まったくその場の空気にそぐわないものであった。それぞれが自分の、しかも容易ならぬ悩みをかかえていたのである。
「でもぼくはさっぱりわかりませんね、それがあまりに抽象的すぎて。これも癖ですよ。あなたは抽象的な言い方をするのがおそろしく好きですが、アンドレイ・ペトローヴィチ、これは――利己主義者の特徴です。抽象的な言い方を好むのは利己主義者だけですよ」
「おもしろい意見だね、だが、そうしつこくしないでくれ」
「では、これだけ」とわたしは興にまかせて追いすがった、「苦悩を代償にして裁く権利を取得するというのは、どういうことです? 自分が公正な者は、裁く権利がある――これがぼくの考えですが」
「そうしたらきみは裁く者をさっぱり集められんな」
「一人はもう知ってますよ」
「ほう、誰だね?」
「その人は今ぼくのまえに坐って、ぼくと話していますよ」
ヴェルシーロフはにやりと奇妙な薄笑いをもらした、そしてわたしの耳もとへ口をよせると、わたしの肩を抱いて、『その人はきみにうそばかりついてるよ』とささやいた。
彼の頭にそのときどんな考えがあったのか、わたしはいまだにわからないが、彼がそのときなにか極度の不安の中にあったことは明らかである(あとで思いあわせると、ある知らせの結果だったらしい)。しかしこの『その人はきみにうそばかりついてるよ』という言葉が、まったく思いがけなく、しかもまったく冗談とは思われない異様なニュアンスで、あまりにも切実に発しられたので、わたしは妙な胸さわぎにはっとし、ほとんど度を失って、おびえた目で彼を凝視した。しかしヴェルシーロフは急いで笑いにまぎらした。
「やれやれ、よかったわ!」彼がわたしの耳もとにささやいたのを見てびっくりした母が、ほっとして言った、「わたしはまたなにかはじまるんじゃないかと……ねえ、アルカーシャ、わたしたちを怒らないでおくれね。そりゃ利口な人々はわたしたちがいなくたっておまえとお話はしてくれるでしょうが、わたしたちが仲よくしなかったら、いったい誰がおまえをほんとに愛してくれます?」
「それなんですよ、お母さん、肉親の愛ってものは、苦労して得られたものでないから、だから背徳なんですよ。愛というものは労してかちとられるべきものなのです」
「まあね、かちとるまで、せいぜいここでただで愛されることだね」
みんなが急に笑いだした。
「へえ、お母さん、あなたは鉄砲を撃つ気もなかったらしいのに、みごとに鳥をおとしましたね!」と叫んで、わたしもにやにや笑った。
「おや、あんたは、愛される理由があるなんて、本気で考えていたのかい」とタチヤナ・パーヴロヴナがまたかみついた、「あきれたよ、あんたなんかただで愛されるどころか、この人たちはいやいやながら愛してるのさ!」
「ところがそうじゃないんだね!」とわたしは陽気に叫んだ、「知ってるかね、ええ、誰が今日ぼくに、ぼくを愛してるって言ってくれたか?」
「あんたをからかって、言ったのさ!」とタチヤナ・パーヴロヴナは、まるでわたしのその言葉を待ちかまえていたみたいに、だしぬけに不自然なほどにくにくしげに言った。「そうですとも、デリケートな人間なら、ことに女なら、あんたのその根性のきたなさだけで吐き気がしますよ。あんたは髪をきちっとわけて、薄手のシャツを着て、フランス人の仕立てた服を着てるけど、そんなものはみんな――不潔ったらありゃしない! いったい誰の金でそんな服をつくったの、誰に食わせてもらってるの、誰にルーレットをやる金をせびってるの? ええ、誰に恥ずかしげもなく金をたかってるのさ?」
母は火のように真っ赤になった。わたしはいまだかつて母の顔にこれほどのはげしい羞恥《しゆうち》を見たことがなかった。わたしは胸の中がひっくりかえった。
「ぼくが浪費してるとすれば、それは自分の金で、帳尻《ちようじり》は誰の借りにもなっていません」とわたしは真っ赤になって、きっぱりと言ってのけた。
「自分のって誰のさ? どんな自分の金さ?」
「ぼくのでなければ、アンドレイ・ペトローヴィチのです。彼はいやとは言わないはずです……ぼくはアンドレイ・ペトローヴィチに対する公爵の借り分の中から受取ったのです……」
「アルカージイ」と不意にヴェルシーロフがきっぱりと言った、「あそこにはわしの金は一コペイカもないのだよ」
この言葉は恐ろしい意味をもっていた。わたしは茫然《ぼうぜん》としてしまった。おお、もちろん、あのときのわたしの逆説的な向う見ずな気分を考えてみるとき、なにか『きわめて高尚な』とっさのしぐさか、大げさな言葉か、なにかそうしたものでさらりとかわすことができたはずなのだが、不意にわたしはリーザのしかめられた顔に、呪《のろ》わしげな非難の表情、ほとんど冷笑にちかい、不当な表情を認めたのである、そしてそれが悪魔の毒針でわたしを刺した。
「あなた、お嬢さん」とわたしはだしぬけに彼女に言った、「あなたは公爵の家に住んでいるダーリヤ・オニーシモヴナをときどきお訪《たず》ねになるようですね? あなたが今日すでにぼくに、したたか嫌味《いやみ》を言われたこの三百ルーブリですが、まことに恐縮ですが、これを公爵にお渡し願えないでしょうか!」
わたしは金をとりだして、彼女のほうへさしだした。信じられないかもしれないが、この下劣な言葉がそのときはなんの目的もなく、ということはなにに対するいささかのほのめかしもなく、言われたのである。それにそんなほのめかしなどあるわけがなかった。そのときわたしはまったくなにも知らなかったのだから。おそらく、なにかあまり罪のない皮肉で彼女をちょっと突ついてやろう、というくらいの軽い気持しかわたしにはなかったと思うのである。まあ言ってみれば、お嬢さん、出すぎたまねをしてますね、では、どうしても干渉したいなら、自分であの公爵と、ええ、ペテルブルグの青年士官と会って、渡してくれてはいかがです、『それほど若い人々の問題に首をつっこみたかったら』ですね、というくらいのところだったのである。ところが、突然母が立ち上がって、指を一本突きつけてわたしをおどしながら、『おやめなさい! おやめなさい!』とどなりつけたときは、わたしの驚きはいかばかりであったろう。
母がこれほど激怒しようとはわたしはまったく予想もできなかったので、わたしもあわてて立ち上がった。びっくりしたのではない、なにかたいへんなことが起ったことを不意に察知して、苦痛というか、心の苦しい傷をうけたのである。しかし母は長くは堪えられなかった。両手で顔をおおうと、母は急いで出ていった。リーザは、わたしを見向きもしないで、母を追って出ていった。タチヤナ・パーヴロヴナは三十秒ほど無言のままわたしをにらんでいた。
「まったくあんたという人は、ほんとになにかばかなことを言うつもりだったのかねえ?」と彼女は深いおどろきの目でわたしを見まもりながら、謎《なぞ》めいた言葉をたたきつけた。が、わたしの返事を待たないで、やはり彼女らのあとを追って小走りに出ていった。ヴェルシーロフは苦りきって、ほとんど敵意を見せて食卓から立ち上がると、隅《すみ》のほうにおいてあった帽子をつかんだ。
「きみは決してそんなばかな者じゃなく、ただ無邪気なだけだ、とわしは思うね」と彼はあざけるように半分口の中でつぶやいた。「もどってきたら、デザートにわしを待たんでもいいと言ってくれ。わしはすこし歩いてくる」
わたしは一人とりのこされた。はじめはなにか割切れない気持だったが、つぎに腹だたしくなり、それがすぎると、自分がわるかったことをはっきりと自認した。といって、特にどこがわるいのかは、わからなかったが、ただなにかそんな気がして、わたしは窓べに坐って、待っていた。十分ほど待ってみて、わたしも帽子をつかんで、上のわたしのもとの屋根裏部屋のほうへのぼっていった。わたしは彼女らが、つまり母とリーザがそこにいることを、そしてタチヤナ・パーヴロヴナはもう帰ったことを、知っていた。はたして、二人はわたしのソファに腰かけて、なにかひそひそと話し合っていた。わたしを見ると、二人はぴたりと話をやめた。おどろいたことに、彼女らはわたしに腹をたてていなかった。母は少なくともわたしに笑顔を見せた。
「お母さん、ぼくがわるかったのです……」とわたしは言いかけた。
「いえ、いえ、なんでもないんだよ」と母はさえぎった。「ただね、みんなで仲よくして、決して喧嘩をしないことだよ、そうすればきっと神さまが幸福をさずけてくださる」
「お母さん、兄さんは決してあたしを辱《はずか》しめるようなことはしないわ、あたしはっきりお母さんに言うわ!」ときっぱりと、感情をこめて、リーザは言った。
「あのタチヤナ・パーヴロヴナさえいなかったら、こんなことにならなかったんです」とわたしは叫んだ、「忌まわしい女だ!」
「そらね、お母さん? 聞きまして?」とリーザは母にわたしを指さした。
「ぼくはあなたたち二人にはっきり言います」とわたしは声を大きくして言った、「もし世の中に醜悪なものがあるとすれば、それはぼくだけです、あとはみな――美しいものばかりです!」
「アルカーシャ、怒らないでおくれよ、ねえ、お願いだから、それだけはやめておくれな……」
「それは賭博《とばく》のことですね? 賭博ですね? やめます、お母さん。今日が最後です、ましてアンドレイ・ペトローヴィチがはっきりとあそこには一コペイカの金もないと言ったのですから、今日かぎりやめます。お母さんは信じられないかもしれませんが、ぼくの心は恥ずかしさで真っ赤になってるんですよ……ぼくは、しかし、アンドレイ・ペトローヴィチとよく話し合わなければなりません……お母さん、ねえ、ぼくこのまえここで言いましたね……気まずいことを……お母さん、あれはぼくの本心じゃなかったんです。ぼくはまじめに信仰したいのです、あれはただ威張ってみただけなんです、ぼくはキリストをひじょうに愛してるんです……」
このまえ実際にわたしと母のあいだにこういった話が出て、母がひじょうに悲しみ、胸を痛めたのである。今このわたしの言葉を聞くと、母はまるで子供に笑ってみせるようににっこり笑った。
「アルカーシャ、キリストはすべてを許してくださいます。おまえの冒涜《ぼうとく》も許してくださるし、おまえよりもっとわるい者だって許してくださるんだよ。キリストは――父です、キリストはすこしも困りませんし、どんな暗闇《くらやみ》の中でも光り輝くのだよ……」
わたしは母と妹に別れを告げて、今日ヴェルシーロフと会う方法をあれこれ考えながら、外へ出た。わたしはどうしても彼と話す必要があったが、さっきはそれができなかった。わたしはなんだか彼がわたしの部屋で待っていてくれそうな気がしてならなかった。わたしは歩いていった。昼のぬくもりがしずんですこし凍りかけたころで、歩くのはなんとも言えないいい気持だった。
わたしはヴォズネセンスキー橋付近の大きな建物の内庭に向いた部屋に住んでいた。門に入りかけたところで、わたしは出てくるヴェルシーロフにばったり出会った。
「いつもの癖で、歩いているうちにきみのところへ来てしまってな、ピョートル・イッポリトヴィチのところできみの帰りを待っていたのだが、待ちくたびれて出てきたところだよ。あの連中はよくまあいつも喧嘩ばかりしてるねえ、今も細君がふて寝して、泣いてるんだよ。ちょっとのぞいて見たがね」
わたしはなぜか腹がたってきた。
「あなたは、ほんとに、ぼくのところへばかり来ますね、まったく、ぼくと、ピョートル・イッポリトヴィチのほかは、ペテルブルグ中に誰も知人はいないのですか?」
「アルカージイ……まあ、そんなことはどうでもいいじゃないか」
「それで、これからどちらへ?」
「いや、もうきみの部屋へはもどらんよ。よかったら――すこし歩こうじゃないか、美しい晩だ」
「もしあなたが例の抽象論の代りに、ぼくと人間的に話をしてくださっていたら、たとえば、あの呪わしい賭博のことをせめてちらとでも言ってくれたら、ぼくは、おそらく、ばかみたいにのめりこまなかったでしょうね」とわたしは不意に言った。
「きみは後悔してるのか? それはいいことだ」と彼は歯のあいだから言葉をおしだすように言った、「わしはいつもそう思っていたよ、賭博は――きみの本道ではない、単に一時的の道草にすぎんとな……、そのとおりだよ、アルカージイ、賭博は――下劣なことだ、しかも損をするおそれがある」
「他人の金までね」
「じゃきみは他人の金まで負けたのかね?」
「あなたの金ですよ。ぼくは公爵からあなたの分の内金としてとったんです。もちろん、これは――ぼくとしては愚の愚です……あなたの金を自分のものと思うなんて……でもぼくは勝って埋合せをしたかったんです」
「もう一度きみに言っておくがね、アルカージイ、あそこにわしの金はないのだよ。あの若い男が自分でその気になって苦しんでいるのを、わしは知ってるが、しかしあの男の約束はともかく、わしはあの男からもらおうとは思っていないのだよ」
「それならぼくは、ますます苦しい羽目になります……ぼくの立場はもの笑いですよ! それなら、どういう理由で彼はぼくに金をくれるんです、またどうしてぼくはそれをもらうのでしょう?」
「それは――もうきみの問題だよ……だが実際に、きみは彼から金をもらうすこしの理由もないのかね、あ?」
「友情のほかはね……」
「いや、友情のほかにだ? なにかないのかね、そのために彼から金をもらっていいのだときみが認めたようなことは、あ? まあ、なにかの事情を考えてとか?」
「なにを考えてですか? ぼくにはわかりませんね」
「そのほうがいいんだよ、わからないほうがね、実を言うと、アルカージイ、わしもそう思っていたんだよ。Brisonsla mon cher(この話はよそうよ、アルカージイ)、そしてなるべく賭博をやらんようにすることだな」
「それをもっと早く言ってくださったら! 今だってなにかすっきりしない言い方ですよ」
「もしわしがもっとまえに言ってたら、わしたちはただ言い合いになっただけで、きみは毎晩こんなに喜んでわしを迎えてはくれなかったろうさ。いいかな、アルカージイ、およそ早目のありがたい忠告というものは――要は他人の金をつかって他人の良心の中へ入りこむようなものだよ。わしもかなり他人の良心の中へとびこんだが、結局は毛ぎらいされて嘲笑《あざわら》われるのがおちだったよ。毛ぎらいされようと、嘲笑われようと、そんなことはもちろんどうでもいいが、いちばんわるいのは、この方法ではなにも達せられないということだよ。どんなに一生けんめいになったところで、誰にも聞いてもらえないで……しまいにはきらわれてしまうだけさ」
「あなたがやっと抽象的でないことを話してくださって、ぼくは嬉しいですよ。ぼくはもうひとつあなたに訊《き》きたいことがあるんです、もうまえまえからそう思ってたのですが、どうもあなたを見ると言いだせなくなってしまって。幸い、今は外です。おぼえているでしょうか、あの夜あなたと、二月ほどまえのあの最後の夜です、いっしょにぼくの『墓穴』に坐って、ぼくがしつこく母とマカール・イワーノヴィチのことを訊ねたことがありましたね、――おぼえていますか、ぼくがあの夜あなたに対してひどく『なれなれしかった』のを? 半人前の小僧があんな言葉をつかって自分の母の話をすることが許されていいものでしょうか? ところがどうでしょう? あなたはちらともそんな素ぶりは見せなかったばかりか、逆に自分も『くだけた態度』をとって、それでぼくをますます打解けさせてくださいましたね」
「アルカージイ、わしはきみから……そういう気持を聞かされて、実に嬉しいよ……そう、よくおぼえているとも、わしはあのときたしかにきみの顔に紅潮がさしてくるのを期待してたのだよ、そして自分からくだけた態度をとったのは、おそらく、きみを限界までもってゆくつもりだったかもしれん……」
「そしてぼくを欺《だま》しただけでした、そしてぼくの心の中の清らかな泉をかえってひどくにごしただけでした! そうです、ぼくは――みじめな未成年者で、なにが悪で、なにが善なのか、ときどき自分でもわからないのです。あのときあなたがちょっぴりでも道を示してくれたら、ぼくはそれをさとって、すぐに正しい道にとびこんだことでしょう。ところがあのときあなたはぼくの心をじらしただけでした」
「Cher enfant(親愛な子よ)、わしはいつも予感していたんだよ、どういう形かで、わしたちが必ず和解することをな。きみの顔のその『紅潮』は、今は、わしが言わなくたって、ひとりでに来たんだよ、そして、誓って言うが、そのほうがきみによく映るよ……きみは、アルカージイ、このごろ多くのものを身につけたようだね、わしはそう見てるが……それはあの公爵との交際からかね?」
「ぼくをほめないでください、ぼくはそういうことはきらいです。あなたがほめるのは老獪《ろうかい》さからで、ぼくにきらわれないために真実をまげているにちがいないというような、重苦しい疑惑を、ぼくの心にのこさないでほしいのです。ところで最近……おわかりでしょうが……ぼくはよく婦人を訪ねます。たとえば、アンナ・アンドレーエヴナのところですが、ぼくはひどく人気があるんですよ、ご存じですか?」
「ああ、あの娘に聞いてるよ、アルカージイ。うん、あれは――ひじょうにやさしい、利口な娘だよ。Mais brisonsla mon cher.(だが、その話はよしにしようや)。わしは今日どういうものか妙に気分がわるいのだよ――憂鬱《ゆううつ》症でもおきたのかな? きっと痔《じ》のせいだよ。家はどうだった? どうってことはなかったかい? むろん、仲直りをしたろうね、どう、抱き合ったかい? Cela va sans dire(それは当然だよ)。どういうものかときどき彼女たちのところへもどるのがたまらなく憂鬱になるんだよ、実にいまいましい散歩のあとでさえそういうことがあるんだよ。ほんと、ときには巣へ近づくのをすこしでもおくらせようと、雨の中をわざわざ回り道してみたり……さびしいんだな、さびしくてたまらないんだよ、あれが、かわいそうだが!」
「お母さんが……」
「きみのお母さんは――まったく非のうちどころのない、りっぱな女だよ、mais(だが)……結論は、わしには、どうやら、りっぱすぎるらしいのだよ。しかし、今日はなにかあったのだろう? 家の女たちはこの二、三日どうもおかしいのだよ……わしは、いつもなるべく気にとめないようにしてるのだが、今日はなにかあったらしい……きみはなにか気がつかなかったかね?」
「まったくなにも知りませんね、ぼくに噛みつかないではいられないあの呪わしいタチヤナ・パーヴロヴナがいなかったら、まったくそんな気配にも気づかなかったでしょうね。あなたの言うとおりですね、たしかになにかありますね。今日ぼくはアンナ・アンドレーエヴナのところでリーザに会ったのですが、そのときもなんとなくへんで……びっくりしたんですよ。あなたはご存じなんですか、リーザがアンナ・アンドレーエヴナのところに出入りしてるのを?」
「知ってるよ、アルカージイ。だが……きみは今日アンナ・アンドレーエヴナを訪ねたと言ったが、それはいったい何時ごろのことだね? それをわしはあることのために知っておきたいのだが」
「二時から三時のあいだです。そしてどうでしょう、ぼくが帰るとき、公爵が来ましたよ……」
そこでわたしは訪問のもようを詳細に彼に語った。彼は黙って聞いていた。公爵がアンナ・アンドレーエヴナに求婚する可能性については、彼は沈黙をまもった。アンナ・アンドレーエヴナに対するわたしの感激的な讚辞には、また『あれは――やさしい娘だ』と半分口の中でつぶやいただけだった。
「ぼくは今日あのひとをすっかりびっくりさせてやったんですよ、カテリーナ・ニコラーエヴナ・アフマーコワがビオリング男爵と結婚するという、社交界のホット・ニュースで」とわたしは不意に言った。まるでなにかが不意にわたしの内部から鎖を切ってとびだしたかのようだった。
「そう? おかしいな、あの娘はその『ホット・ニュース』とやらを今日、昼前に、わしにおしえたんだよ。ということは、きみがあの娘をびっくりさせたよりも、ずっと以前にあたるわけだ」
「なんですって?」わたしは唖然《あぜん》としてその場に立ちどまった、「しかしいったいどこから知ったのでしょう? いや、ぼくはなにを言ってるのだ? むろん、あの娘《こ》がぼくより早く知ったとてなんのふしぎもありません、しかしおかしいじゃありませんか、ぼくから聞いたとき、まるで初耳みたいな態度だったのです! しかし……しかし、ぼくはなにを言ってるのだ? おおらかさ、大いに結構です! 人はおおらかに認めるべきです、そうじゃありませんか? たとえば、ぼくなんかすぐにすっかりべらべらしゃべってしまいますが、あのひとは小箱の中にしまっておく……それもいいでしょう、別にかまいませんよ、それにしてもあのひとは――なんとすばらしい人だろう、最高の性格ですよ!」
「そりゃ、もちろん、人さまざまだよ! しかもなによりも傑作なのは、その最高の性格とやらがときによると、おそろしく奇抜なことを言いだして人を面くらわせることだよ。どうだろう、アンナ・アンドレーエヴナが今日だしぬけに、『あなたはカテリーナ・ニコラーエヴナ・アフマーコワを愛してるのでしょう、ちがいます?』なんて質問をわしにあびせかけたんだよ」
「なんという奇抜な、しかも信じられぬ質問だろう!」とわたしはまた唖然として叫んだ。わたしは目のまえが暗くなったほどだ。これまでわたしは一度もこのテーマについて彼に話しかけたことがなかったのに、それが突然――彼のほうから……
「どうしてそんなことを?」
「どうもないよ、アルカージイ、まったくどういうつもりもないのさ。小箱がすぐに閉ざされてしまったし、いっそう固くな。そしてなによりも、きみも知ってるだろうが、わしもこのような話をわしにしかけることはぜったいに許さなかったし、あの娘も……しかし、きみはあの娘を知っていると言ってたから、想像できるだろうが、どうだね、このような問いがあの娘から考えられるかね……おかしいと思うのだが、なにか心当りはないかね?」
「ぼくもあなた以上に面くらいましたよ。単なる好奇心でしょうか、あるいは冗談かもしれませんね?」
「いや、とんでもない、真剣そのもののような質問だった、それも質問なんていうのじゃなく、ほとんど、言ってみれば、訊問《じんもん》というほどで、よほど緊急なのっぴきならぬ原因があることはまちがいない。きみはあの娘のところへ行ってくれんだろうか? なにか聞きだしてくれはしないか? わしはきみにそれをたのみたいほどだよ、だって……」
「しかし、どだい、カテリーナ・ニコラーエヴナに対するあなたの愛を想像するなんてことが、できることでしょうか! ごめんなさい、ぼくは頭がまだぼうっとしてるんです。ぼくは決して、一度として、このような、あるいはこれに類した話をあなたにもちだすことを自分に許しませんでした……」
「それが賢明だったのだよ、アルカージイ」
「あなたの過去の策謀や人間関係などは――もちろん、ぼくたちのあいだの話としてとり上げるのは礼にもとりますし、ぼくとしてはそんな話を出すのは非常識でもあるでしょう、でもぼくは最近になってから、特にこの数日、幾度ひそかに叫んだことでしょう、もしあなたがいつか、ほんの短時間でも、この女を愛したとしたら、どうであろう? おお、そうしたら、あなたは彼女に対する観念の中で、その後あらわれたようなあんな恐ろしい誤りはぜったいにおかさなかったろう、と! その後生じたことについては、ぼくは知っています。あなた方双方の敵意のことも、お互いのいわば憎み合いのことも、ぼくは知っています、聞かされました、いやになるほど聞かされました、まだモスクワにいるころからです。しかしそこで必ず表面に出るのは、はげしい憎み合いの事実、苛酷《かこく》なまでの反目、つまり憎悪ということでした、それなのに突然アンナ・アンドレーエヴナがあなたにむかって、『愛しているのでしょう?』と訊くなんて、いったいあのひとはそれほど知らされていないのでしょうか? どうもふしぎですね! いたずらを言ったんでしょう、きっと、ひやかしを言ったんですよ!」
「しかしわしは気づいているがね、アルカージイ」彼の声の中に不意になにかぴりぴりした、真情のこもった、心にしみとおるようなものが聞きとられた。こんなことはめったにないことだった、「どうやら、きみ自身もこの問題になると話に熱がこもりすぎるようじゃないか。きみは今よく婦人たちを訪ねると言ったな……わしも、むろん、きみの表現を借りれば、このテーマをだな……きみにしつこく訊くのはどうもなんだが……でも、『その女』もやはりきみの最近の交友リストに入ってるんじゃないのか?」
「その女……」と急にわたしの声はふるえだした、「ねえ、アンドレイ・ペトローヴィチ、いいですか、その女こそ、あなたが今日公爵のところで『生きた生活』のことを話されましたね、まさにそれなのですよ――おぼえてますね? あなたはこう言いました、この生きた生活というのはあまりにも単純で、素朴《そぼく》で、あまりにもまっすぐにこちらを見ているので、ほかならぬそのあまりの単純さと明確さのために、それが、われわれが一生のあいだ苦労をしてさがしもとめているそのものだということが、どうしても信じられないほどだ……そうです、まさにこのような目で、あなたは理想の女性をも見たのです、そしてその完全な理想の姿に――『悪徳のかたまり』を認めたのです! これがあなたの目ですよ!」
わたしがどれほど狂喜していたか、読者にはわかっていただけることと思う。
「悪徳のかたまり! ほう! このフレーズはわしも知ってるよ!」とヴェルシーロフは嬉しそうに言った。「このフレーズがきみにおしえられるというところまで、すでに行ってるとすれば、もうきみになにかお祝いを言わにゃならんのじゃないか? それはきみたちのあいだがもうかなり親密になっているということで、あるいは、きみの謙遜《けんそん》と口のかたさをほめてやるのがほんとうかもしれんな、これはいまどきの若者にはまったく珍しいことだからな……」
彼の声にはやさしい、親しみのこもった、愛《め》ずるような微笑が輝いていた……わたしが夜目に気づいたかぎりでは、彼の言葉に、彼の明るい顔に、なにか心をそそるような、やさしいいつくしみがあった。彼はおどろくほど興奮していた。わたしは思わず顔を輝かせた。
「謙遜、口のかたさ! おお、とんでもない、ちがいますよ!」とわたしは赤くなりながら、そして同時に彼の手をにぎりしめながら、叫んだ。わたしはその手をいつのまにかつかんでいて、それに気がつかないで、放さずにいたのだった。「そんなことはありません、ぜったいに!……要するに、ぼくはお祝いを言われることなんかなにもありませんし、そんな、ぜんぜん、なにもあるわけがないのですよ」とわたしは息をはずませた、そしてふわふわ浮いているような感じだった。わたしは大空に舞い上がりたかった、そしてそれがなんとも言えないいい気持だった、「ねえ……一度だけでいい、ほんの数秒でいいから、こんな気持でいましょうよ! ねえ、お父さん、ぼくの大好きなお父さん――あなたはぼくにお父さんと呼ぶのを許してくれますね――父が子とばかりか、誰だって第三者と、たといそれがどんなに清らかなものであっても、自分の女性に対する関係は話してはいけないものです! それはいやなことですし、無神経というものです、要するに――いっさいの秘密を打明けていいのは神以外にありえないのです! でも、ほんとになにもないなら、まったくなにもないのなら、話してもいいわけですね、いいはずですね?」
「良心の命令にしたがえばいいのさ」
「無遠慮な、実に無遠慮な質問ですが、あなたは、これまでに、女というものを知ってますね、関係をもったことがありますね?……ぼくは一般的に言ってるのです、一般的にです、決して特殊の例をさしているのじゃありません!」わたしは赤くなって、興奮に息をつまらせた。
「そりゃあな、よくないこともあったさ」
「実はこういうケースなのですが、あなたの経験から説明してもらいたいのです。ある女が別れしなに、不意に、まったく思いがけなく、わきのほうを見ながら、『わたし明日の三時にどこそこへまいりますわ』と言ったとします……まあ、タチヤナ・パーヴロヴナのところとでも……」とわたしはうっかり口をすべらした、そしてもうどうにでもなれとすっかり腹を決めた。心臓がドキンとうって、とまった。言葉までとぎれた、つぎの言葉がどうしても出なかった。彼はおそろしく真剣な顔で聞いていた。
「そこでぼくは、明日の三時にタチヤナ・パーヴロヴナの家を訪ねます、階段をのぼりながら、こんなことを考えます、『女中が扉を開けたら、――あなたはあの女中をご存じですね?――まず、タチヤナ・パーヴロヴナはいらっしゃいますか? と訊こう。そしてもし女中が、タチヤナ・パーヴロヴナはお留守ですが、これこれのお客さまがいらして、お待ちになっております、と言ったら』――その場合、ぼくはそれをどうとるべきでしょう、おしえてください、もしあなただったら……一口に、あなただったら……」
「簡単なことじゃないか、きみはあいびきを指定されたのだよ。でも、してみると、それがあったんだな? 今日のことだな? そうだろう?」
「おお、ちがいます、ちがいます、そうじゃないんです、ぜんぜんちがうんです! それはありました、でもそういうことじゃなかったんです。会ったことは会ったんですが、そのためじゃないんです、ぼくはまずこの点をはっきりさせておきます、卑劣漢になりたくありませんから。会いました、しかし……」
「アルカージイ、どうやらひどく佳境に入ってきたようなので、ひとつこうしようじゃないか……」
「これでも請われれば十コペイカや二十五コペイカ銅貨の一枚ぐらいは恵んだものです。ほんの一杯ひっかけるだけで結構です! ほんのちょっぴりでいいですから、中尉がお願いしてるのですぞ、退役中尉が!」と不意に背丈の高い姿がわたしたちの行く手をさえぎった。ひょっとしたら、実際に退役中尉かもしれない。なによりも珍奇なのは、物乞《ものご》いにしてはあまりにもりっぱな服装をしていて、そのくせ手をさしだしていることだった。
この物乞いの中尉についてのごく些末《さまつ》なエピソードを、わたしがとばさずにわざわざここに詳述しようと思うのは、今わたしの目のまえに、あの彼にとって宿命的な数分間の事態のこまごました点にからんで、ヴェルシーロフのすべてがまざまざと浮き出してくるからである。宿命的な数分であったが、そのときわたしはそれを知らなかったのである。
「きみ、そこを退《ど》かないと、すぐに警官をよびますぞ」ヴェルシーロフはいきなり中尉のまえにつめよると、妙に不自然に声を張りあげた。わたしはこの哲学者のような人がこんなつまらないことでこれほど怒るとは、まるで想像もできなかった。しかも、おぼえておいていただきたいのは、わたしたちの話が彼にとって興味の頂点に達したところで、それは彼自身も言明したのだが、ぷつりとたち切られたことである。
「ほう、じゃあんたは五コペイカの持ちあわせもないのかね?」と中尉はあきれたように手を振って、乱暴に叫んだ。「ヘッ、いまどきはどんな悪党でも五コペイカぐらいくれますぜ! この人でなしめ! けだもの! てめえはラッコの毛皮を着てやがるくせに、わずか五コペイカのことでお上《かみ》の手をわずらわそうってのか!」
「警官!」とヴェルシーロフは叫んだ。
だが、叫ぶまでもなかった。ちょうど一人の警官が街角に立って、中尉の罵言《ばげん》を聞いていたのである。
「どうかこの侮辱の証人になってください、これから署まで同行していただけませんか」とヴェルシーロフは言った。
「ヘッ、おれはどっちでもいいぜ、どうせなにも証明なんかできやしないさ! まずきみの頭のほどが証明できまいさ!」
「そいつを逃さんでくれ、警官、さ、案内してくれたまえ」とヴェルシーロフは執拗《しつよう》に叫んだ。
「じゃ、ほんとに署まで行くつもりですか? こんなやつ放っときなさいよ!」とわたしは彼にささやいた。
「いや、ぜったいに放っとけないよ、アルカージイ。こうした街頭の乱暴が目にあまるほどになってきている、一人々々が自分の義務を履行すれば、みんながよくなるのだよ。C'est comique, mais c'est ce que nous ferons.(ばからしいことだが、わしらはちゃんと実行しようじゃないか)」
百歩ほどは中尉はたいへんな勢いで、熱に浮かされたみたいに威張りちらした。彼は『こんな法はない……たかが五コペイカのことじゃないか』等々と、しきりに訴えていたが、そのうちに警官になにやらささやきはじめた。警官は、もののわかった男で、どうやら街の騒ぎは好まないようで、むしろ中尉のほうに肩をもっていたらしいが、ここまで来てはもうある一線をひいていた。彼は中尉の問いに低声でこんなことを答えていた、『もうこうなってはどうにもならんよ……なにしろもう事件になってしまったからな……もっとも、きみがあやまって、この旦那《だんな》がそれをきいてくれれば、話は別だがな……』
「よう、きいてくれよ、旦那、ええ、おれたちはどこへ行こうってんだね? おうかがいいたしますがね、おれたちはどこへすっとんでゆくんですかい、こりゃなんのしゃれですかい?」と中尉は大声で叫んだ。「もし不幸な人間が自分の失敗を認めて謝罪しようって気になったら……要するに、そいつに頭を下げさせることがあんたに必要ならだ……ちえっ、おれたちは客間にいるんじゃねえ、ここは往来なんだ! このくらいの謝罪でたくさんじゃないか……」
ヴェルシーロフは立ちどまって、不意に大声で笑いだした。わたしはこんなことを彼は気晴らしにしたのではないか、と思ったほどだが、しかしそうではなかった。
「きれいさっぱりきみを許してあげよう、士官殿、はっきり言うが、きみはなかなか才能のある人間だ。まあ、客間でもその調子でやりたまえ――いまに客間でもそれはごめんということになるだろう、ところでさしあたって二十コペイカ銀貨が二枚ほどある、これで一杯やりたまえ。警官、おさわがせしてすまなかったな、きみの労にも報いたいところだが、きみの職務に傷つくといかんので……アルカージイ」と彼はわたしを見返った、「すぐそこに食堂がある、おそろしくきたない店だが、まあ茶ぐらいは飲めるよ、それでさっきもきみに言いかけたのだが……これからちょっと寄ってみようじゃないか」
くりかえして言うが、顔は楽しげで、晴れやかに輝いてはいたが、これほど興奮している彼を、わたしはまだ見たことがなかった。ほかでもないが、彼は士官にやるために、財布から二十コペイカ銀貨を二枚つまみだそうとしたが、手がぶるぶるふるえて、指がさっぱり言うことをきかないために、とうとう業《ごう》を煮やして、わたしにそれをつまみ出して士官にやるようにたのんだほどだった。わたしはこれを忘れることができないのである。
彼は運河ぞいの地下室にある小さな居酒屋へわたしを案内した。調子の狂った音の割れたオルガンが鳴っていた。脂《あぶら》のしみたナプキンの臭《にお》いがした。わたしたちは隅のテーブルについた。
「きみは、たぶん、知らんだろうな? わしはときどき退屈しのぎに……気がくさくさしてたまらないときなど……気晴らしにこうした安酒場に来るのが好きでな。この雰囲気や、このどもりの『ルチア』のアリアや、この鼻持ちならぬロシア服を着た給仕どもや、この煙草のけむりや、この撞球室《どうきゆうしつ》から聞えてくる喧噪《けんそう》や――こうしたものがどうにもならぬほど俗悪で、散文的で、かえって幻想の世界にいるような気がするのだよ。ところで、さっきのつづきだが、アルカージイ? あの軍神《マルス》の息子めがどうやら話がもっともおもしろくなりかけたところでじゃまを入れおったが……さあ、茶が来たよ。わしはここで茶を飲むのが好きでな……それはそうと、あのピョートル・イッポリトヴィチがね、さっきあのあばた面の下宿人をつかまえて、だしぬけにこんなことを言いだしたんだよ。英国の議会で、前世紀に、祭司長とピラトによるキリスト裁判の全過程を検討するために、法律家たちから成る特別委員会が組織されたが、それは今日の法律に照らしたらどういうことになるか調べるのが唯一の目的だったというのだ、そしてその委員会が、弁護士、検事その他の必要人員をそろえて、いとも厳粛におこなわれたが……その結果、陪審員たちは有罪判決を下さざるをえなかったというのだよ……おどろくじゃないか、なんということだ! するとあのばかな下宿人が異論をとなえだし、かんかんになり、すっかりへそを曲げてしまって、明日引越すなんて言いだした……細君は収入がなくなると言ってわあわあ泣きだす……Mais passons.(まあよそう、こんな話は)。こうした安酒場にはよくうぐいすが飼ってあるものでな。きみ知ってるかな、ピョートル・イッポリトヴィチ式の古いモスクワの笑話を? モスクワのある安酒場で一羽のうぐいすが鳴いていた、するとそこへ一人の商人が入ってきて、『うるさい、耳ざわりだ』と腹をたてて、『このうぐいすはいったいいくらだ?』――『百ルーブリでございます』――『焼いて出せ』というわけで、うぐいすが焼いて出された。ところが商人はすまして、『十コペイカ分だけ切ってくれ』と言ったというのさ。わしは一度ピョートル・イッポリトヴィチにこの話をしたことがあったが、彼はほんとにしないで、かえって腹をたててしまってな……」
彼はもっともっとたくさんしゃべった。これはほんの一例にあげただけである。わたしが話をはじめようとして口を開きかけると、彼はすぐにそれをさえぎって、まるで関係のない風変りな話をはじめるのだった。彼は興奮して楽しそうにしゃべりまくり、なにがおもしろいのかにやにや笑い、ときにはヒヒヒとげびた笑いさえ見せた。彼がこんな笑い方をするのをわたしはまだ一度も見たことがなかった。彼は一気に茶を飲みほして、また新しく注《つ》いだ。今のわたしにはわかるのだが、そのときの彼は長く待ち望んでいた、珍しい、貴重な手紙をついに受取った人に似ていた。その手紙を目のまえのテーブルの上において、わざと封を切らないで、長いこと手の中でひねくりまわし、丹念《たんねん》に封筒の消印をながめたり、隣の部屋へなにか言いつけに行ったり、要するに、それが決して逃げないことを知りながら、楽しみをできるだけ大きなものにするために、そのもっとも興味ある瞬間を一寸のばしにのばしているのである。
わたしは、彼にいっさいをものがたったことは言うまでもない。そもそものはじめから、ほぼ一時間近くも、細大もらさず彼に話したのである。それに、どうして語らずにいられたろう。もうさっきから語りたくてうずうずしていたのである。わたしはまず彼女がモスクワから到着して公爵のところで初めて会ったときのことを語りおこした。それから、この交際が徐々に進展していった経過を語った。わたしはなにひとつとばさなかったし、それにとばすこともできなかった。彼のほうから誘導し、察知して、ちょいちょいと口を添えるからである。ときどきわたしは、なにか幻想の中にいるような気がして、この二月のあいだいつも彼がどこかドアのかげに立って一部始終を盗み聞きしていたのではないかと思われた。彼は言わない先からわたしのひとつひとつの動作、ひとつひとつの感情を知っていた。わたしはこの告白に言い知れぬ悦《よろこ》びを感じていた。なぜなら、彼の中にこのような親しみのあふれる柔和さと、深いせんさいな心理と、一を聞いて十を知るようなおどろくべき洞察力《どうさつりよく》を見ることができたからである。彼は女のようなやさしいいたわりをもって聞いた。なによりも感心させられたのは、わたしにすこしも恥ずかしがらないようにしむける、彼の手腕であった。ときどき彼は、話がなにかのこまかいところに来ると、わたしをとめて、神経質そうにこうくりかえした、『こまかい点を忘れないことだよ、大切なのは――こまかい点を忘れないことだ、こまかいところほど、ときとして重大な意味がかくされていることがあるものだよ』。こういった点で彼は何度かわたしをとめた。
おお、もちろん、わたしは最初は誇りをもって、彼女を見下すような話し方をしていたが、たちまち地金を出してしまった。わたしはかくさずに、彼女が立っていた床に突っ伏して、足のあったところに接吻《せつぷん》したい衝動にかられたことも、彼に語った。なによりも美しく、そして輝かしかったのは、彼女が『手紙の恐怖』におびえながらも、同時に今日わたしのまえにその全貌《ぜんぼう》を見せたように、非のうちどころのない清純な魂を保ちえたことを、彼が完全に理解したことであった。彼は『学生』という言葉を完全に理解した。しかし話がもう終りに近づいたころ、彼のやさしい微笑のかげからときどき彼の目にはげしい焦燥というか、なにか散漫なけわしい光がちかっちかっともれるようになった。わたしは『手紙』まで来たとき、『彼にほんとうのことを言うべきだろうか?』とちらと考えた――しかし、あれほど感激していたのに、わたしはやはり言わなかった。これはわたしが生涯忘れぬためにここに記《しる》しておくのである。わたしは彼女にしたと同じように、つまりクラフトによって破棄されたと、彼に説明した。彼の目がぎらぎら燃えだした。異様なしわが額にちらと走った。おそろしく陰鬱なしわである。
「よくおぼえているんだね、アルカージイ、その手紙は、クラフトがたしかに蝋燭《ろうそく》で燃やしたんだね? まちがいないね?」
「まちがいありません」とわたしはうなずいた。
「要は、その手紙が彼女にとってあまりにも重大な意味をもっているということなのだよ、だから、もし万一それがきみの手もとにあるなら、きみは今夜にでも……」しかし今夜にでも『なになのか』、それは彼は言わなかった。「しかしなにか、それは今きみの手もとにないのかね?」
わたしは内心ふるえあがったが、表には出さなかった。表面はわたしはいささかも自分を裏切らなかったし、目ばたきひとつしなかった。しかしわたしはどうしてもこの質問を信じる気になれなかった。
「手もとにないかですって? 今ですって? だってクラフトがあのとき燃いてしまったものが?」
「そうかな?」彼はぎらぎら燃える動かぬ視線をじっとわたしに注いだ。この視線をわたしは忘れることができない。彼はやはり微笑してはいたが、しかし、彼のいっさいのやさしさ、それまであった表情の女らしさが、不意に消えてしまった。なにかはっきりしない、調子のくずれがあらわれて、彼はますます散漫になってきた。もし彼がそのとき、その瞬間までのように、自分を抑《おさ》えていたら、手紙についてのこんな質問はわたしにしなかったであろう。こんな質問をしたのは、おそらく、自分がわれを忘れたからにちがいない。とはいえ、わたしは今だからこんなことが言えるので、そのときはわたしはしばらくは彼に生じた変化の裏を見るところまでいかなかった。わたしはあいかわらずふわふわと宙に浮いていて、心の中にはやはり同じ音楽が鳴っていたのだった。さて、話が終って、わたしは彼を見つめた。
「ふしぎなことだ」わたしがすっかり話しおわると、彼は不意にこう言った。「なんともふしぎな話だよ、アルカージイ。きみはそこに三時から四時までいて、タチヤナ・パーヴロヴナは不在だった、と言ったな?」
「ちょうど三時から四時半までです」
「ところが、おかしいじゃないか、わしは三時半かっきりに、それこそ一分とちがわずに行ったのだが、タチヤナ・パーヴロヴナは台所でわしを迎えたんだよ。わしはたいてい裏口から行くのでな」
「なんですって、彼女が台所であなたを迎えた?」と叫んで、わたしはあっとのけぞった。
「そうだよ、お通しするわけにはいかないと、彼女が言うので、二分ほどしかいなかったが、食事に来るようにと言いに寄っただけなのでな」
「ひょっとしたら、どこかからもどったばかりのところじゃなかったでしょうか?」
「わからんな。しかし――そうじゃないな。ふだんのカーディガンを着ていたから。あれはちょうど三時半だった」
「でも……タチヤナ・パーヴロヴナは言わなかったんですか、ぼくが来てるって?」
「いや、きみがいるとは、言わなかったな……さもなきゃわしも知っていたわけだから、きみにこんなことを訊かなかったろうさ」
「ねえ、これはひじょうに重大なことです……」
「そうかな……考えようさ。おい、きみは蒼《あお》くなったじゃないか、アルカージイ。しかし、いったいなにがそう重大なんだね?」
「ぼくを子供みたいに愚弄《ぐろう》したんです!」
「ただきみのかっとなりやすいのを恐れただけだろうさ、自分でもきみに言ったようにな――それで、タチヤナ・パーヴロヴナに万一の場合の救援をたのんだんだろうよ」
「それにしても、おお、なんという卑劣な細工をしたのだ! どうでしょう、彼女は第三者のまえで、タチヤナ・パーヴロヴナのまえで、これをすっかりぼくに告白させたのですぞ。とすると、タチヤナ・パーヴロヴナは、さっきぼくが言ったことを、すっかり聞いていたのだ! こんなことは……想像するだにぞっとする!」
「C'est selon, mon cher.(それはきみ、事情によるさ)。それにきみは自分で今しがた婦人一般に対する見方の『おおらかさ』ということを言って、『おおらかさ、大いに結構!』と叫んだばかりじゃないか」
「もしぼくがオセロで、あなたが――イヤゴーだったら、あなたはしてやったりというところでしょうよ……しかし、ぼくは哄笑《こうしよう》しますよ! オセロなんかありえません、だってそんな関係はつゆほどもないのですから。これが笑わずにいられますか! かまうものですか! ぼくはやっぱりぼくよりも限りなく高いものを信じます、そしてぼくの理想を失いません!……たといそれが――彼女の悪ふざけにしても、ぼくは許します。みじめな未成年者に対する愚弄《ぐろう》――いいじゃないですか! 実際に、ぼくは自分以上の何者にも仮装したことがありません、ただの学生ですよ――なにはともあれ、学生として彼女の心に入り、そのままのこったのです、彼女の心の中にそのままいつまでも生きつづけるでしょう! それでいいのです! ねえ、あなたはどう思いますか、ぼくは今から彼女を訪ねて、いっさいの真実をききだすべきでしょうか?」
わたしは『哄笑する』と言ったが、目には涙がにじんでいた。
「さあな? 行きたければ、行くもよかろうさ」
「あなたにこんなことをしゃべってしまって、ぼくは心を汚したような気がするのです。どうか、怒らないでください、だが女のことは、くりかえして言いますが――女のことは第三者に語るべきではないのです。神さまでなきゃわからないのですから。天使だってわからないのですから。女を尊敬するなら――誰にも打明けないことです、自分を尊敬するなら――誰にも打明けないことです! ぼくは今自分を尊敬していないのです。さようなら。ぼくは自分を許しません……」
「もういいじゃないか、アルカージイ、きみは誇張しすぎるよ。『なにもなかったのだ』と、自分で言ったじゃないか」
わたしたちは運河のほとりに出て、別れようとした。
「おい、きみはまだ一度も心をこめて、子供みたいに、子が父にするみたいに、わしに接吻してくれたことがなかったね?」と彼はわたしに言った。その声に異様なふるえがあった。わたしははげしく彼に接吻した。
「アルカージイ……いつも今のようなきれいな心をなくさないでおくれ」
わたしは生れてからまだ一度も彼に接吻したことがなかったのだ。彼のほうからそれを望むなどと、どうして想像することができたろう。
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第六章
『どうしても、行くのだ!』とわたしは家へ急ぎながら、腹の中で決めた、『これからすぐに行こう。おそらく、一人でいるだろう。あるいは誰かいるかもしれないが――かまうものか。そしたら呼びだすまでだ。彼女は会ってくれるだろう。びっくりはするだろうが、きっと会ってくれる。もし会わないと言ったら、緊急の用事だからと言って、がんばるのだ。そしたら手紙のことでなにかあるのだ、と思って、通すだろう。そしたらタチヤナのことをすっかり問いただすのだ。それから……それからどうしよう? もしぼくがまちがっていたら、彼女に償いをしよう、だがぼくが正しくて、彼女がまちがっていたら、そのときは決然とすべてに終止符をうとう! いずれにしても――すべてが終りだ! それでいったいなにをぼくが負けるのだ? なにも負けるものがないではないか。行こう! 行くのだ!』
ところが、わたしは行かなかった。わたしは決してこのことを忘れないし、誇りをもって思い出すのである。これは誰にも知られることなく、葬られてしまうのだが、ただわたしにだけはわかっていて、このような瞬間にわたしは高潔な心を持することができたのだと思うだけで、十分なのである。
『これは誘惑だ、ぼくはこれを避けて通ろう』わたしは思い直して、ついにこう決意した、『ぼくは事実でおどかされたが、しかしそれを信じなかった、そして彼女の清純さに対する信念を失わなかった! それならなんのために行って、なにを確かめようというのだ? なぜ彼女がぜったいに、ぼくが彼女を信じているように、ぼくを信じなければならぬのだ、ぼくの純情を信じなければならぬのだ、そしてぼくのかっとなりやすいところを恐れて、タチヤナ・パーヴロヴナにひそかに援助をたのんではいけないのだ? ぼくがまだ彼女からその信用をかちとっていないだけのことだ。いいのだ、ぼくがそれだけのことをしていることを、誘惑に負けないことを、彼女に対する悪質な誹謗《ひぼう》を信じないことを、彼女に知ってもらえなくたってかまやしないのだ、そのかわりぼくが自分でそれを知っているし、そのために自分を尊敬すればいいのだ。自分の感情を尊敬しよう。おお、しかし、彼女はタチヤナのまえでぼくにあの告白を許した、彼女はタチヤナを許した、タチヤナがカーテンのかげに坐って盗み聞きしてるのを、彼女は知っていた(なぜならタチヤナが盗み聞きをしないわけがないからだ)、そしてタチヤナがぼくを嘲笑《ちようしよう》してるのを、彼女は知っていた、――これは恐ろしい、実に恐ろしいことだ! だが……実際に――これは避けることのできないことだったとしたら? さっきの状態でいったい彼女はどうすることができたろう、そしてそのためにどうして彼女を責められよう? 現に、ぼくだってさっきクラフトのことで彼女にうそをついたではないか、あれも避けることができなかったから、彼女を欺《だま》したので、やむをえないことで、別に罪はないのだ。あっ!』とわたしは思わず真っ赤になって叫んだ、『自分こそ、自分こそ今なにをしたのだ? ぼくこそ彼女をあのタチヤナのまえに引きずり出したのではないのか? 今ヴェルシーロフになにもかもしゃべってしまったではないか? でも、ぼくはなにを言ってるのだ? ここには――おのずから相違がある。これは手紙のことだけだ。ぼくがヴェルシーロフに語ったのは実質的に手紙のことだけだ、というのはそれよりほか告げることがなかったし、ありえなかったからだ。ぼくのほうから先に彼にことわって、「あるはずがない」と叫んだではないか? 彼は――頭の鋭い人間だ。ふむ……それにしても、今でさえ彼の心には彼女に対するなんというはげしい憎悪《ぞうお》が燃えていることか! いったいなにが原因で、どのようなドラマが、そのとき二人のあいだに演じられたのだろう? もちろん、自尊心が原因にちがいない! ヴェルシーロフは、限りない自尊心以外は、いかなる感情ももちえない人間なのだ!』
そう、この最後の考えはそのとき無意識に出たもので、わたしはそれに気がつかなかったほどである。このような考えが、つぎつぎと連関して、そのときわたしの頭の中を通りすぎたのだが、わたしはそのときは自分に対してまったく正直であった。わたしは自分で自分をごまかしも、欺しもしなかった。そしてそのときなにか考えもらしたことがあったとすれば、それはただ頭がそこまでまわらなかったからで、決して自分自身に対する老獪《ろうかい》さから避けたのではない。
わたしはおそろしく興奮して、どういうわけか、ひどく漠然《ばくぜん》とはしていたが、おそろしく陽気な気分で家へもどった。だが、わたしはそれを分析することをおそれて、できるだけ気を散らそうとしていた。わたしはすぐに主婦のところへ出向いた。実際に、夫婦のあいだには恐ろしいにらみあいがつづいていた。主婦は重い肺病におかされていて、根は善良らしいが、この種の病人の例にもれず、ひどく気ままな女だった。わたしはすぐに二人の仲裁をかってでて、例の下宿人の部屋へおもむいた。これはひどく無作法で、あばた面で、血のめぐりがにぶいくせに、自尊心だけはむやみに強い、ある銀行に勤めているチェルヴャコフという小役人で、わたしは大きらいだったが、ときどきいっしょになってピョートル・イッポリトヴィチをからかうという下品な楽しみのために、適当に仲よく暮していた。わたしはすぐに彼に引越さないように説得した、それに彼にしても本気で引越そうとまでは思っていなかったらしい。結局、わたしは主婦をすっかり安心させて、そのうえ、枕《まくら》のぐあいまで手際《てぎわ》よく直してやった。『うちの人は一度だってこんなに上手に直してくれたことなんかないのよ』と主婦は良人《おつと》にあてつけを言った。それからわたしは台所で芥子《からし》入れをひっぱりだして、すばらしい芥子|膏薬《こうやく》を二つもつくってやった。哀れなピョートル・イッポリトヴィチはただおろおろしながらわたしをながめて、うらやましそうにしていたが、わたしは彼には手もふれさせないで、それこそ彼女から文字どおり感謝の涙で報いられた。そのうちに急に、こんなことをしているのがいやになった。決して病人に同情してこんな世話をやいているのではなく、ただ、なにか、まったく別な理由からちょこまかしているだけだと、不意にわたしは気がついたのである。
わたしはいらいらしながらマトヴェイを待っていたのである。この夜わたしは最後の運だめしをしようと決意していた、そして……そして、幸運をにぎりたいという気持のほかに、はげしい賭博欲《とばくよく》を感じていた。一勝負でもやってみなければやりきれない気持だったのだろう。もしどこへも行くところがなければ、おそらくがまんができなくなって、彼女のところへ出かけたにちがいないのである。マトヴェイはもうじき来るはずだった、ところが不意にドアがあいて思いがけない客が入ってきた。ダーリヤ・オニーシモヴナである。わたしはおどろいて、しぶい顔をした。彼女は一度母にたのまれてきたことがあるので、わたしの部屋を知っていた。わたしは彼女を坐らせて、用件はと目で問うた。彼女はなにも言わないで、ただわたしの目をじっと見つめて、卑屈な笑いをうかべた。
「リーザにたのまれてきたのですか?」とわたしはふとそんな気がしてきいた。
「いいえ、ただちょっと」
わたしはもうすぐ出かけるので、とことわった。彼女はまた『ただちょっと』寄っただけだから、すぐ帰ると答えた。わたしはなぜか急に彼女が哀れになった。ここで一言言っておくが、家の者たちみんなから、母や特にタチヤナ・パーヴロヴナから、彼女はひどく同情をよせられたが、ストルベーエワ夫人の家におちつけてしまうと、みんなはなんとなく彼女に対する関心がうすらいで、リーザだけがしげしげと訪《たず》ねるだけであった。その原因は、彼女自身にあったらしい。というのは、腰が低く、いつも顔色をうかがうような愛想笑いをうかべているくせに、どうも人を避けて、自分の中に閉じこもりがちな傾向があったからである。彼女のこの卑屈な追従《ついしよう》笑いと、いつもわざとらしく表情をつくっているのが、わたしにはひどく気に入らなかった、そして一度など、哀れなオーリャのこともあまり長く彼女を悲しませなかったのではないかとさえ、わたしは思ったほどだった。ところがこのときはわたしはなぜか彼女がかわいそうになった。
と、不意に、彼女はものも言わずに、身をかがめて目を伏せたかと思うと、いきなり両手を投げ出すようにまえにさしのべて、わたしの胴にすがりつき、顔をわたしの膝《ひざ》にうずめた。彼女はわたしの手をとった。わたしは接吻《せつぷん》するのかなと思った、ところが彼女はそれを目におしあてた、そして熱い涙がわたしの手を伝った。彼女は全身をはげしくふるわせて泣いていたが、しかし口をもれる嗚咽はしずかだった。わたしは腹だたしいような気持になったが、でもやはり心がはげしくしめつけられた。彼女はつい今しがたまであんなにおどおどと卑屈な笑いを見せていたのに、今はわたしに腹をたてられはしまいかなどという危ぶみはみじんもなく、完全に信じきってわたしを抱きしめていた。わたしは彼女の気をしずめようと背中をなでてやった。
「ああ、お許しください、もう自分をどうしてよいのやらわからないんです。夕暮れになると、もうたまらなくなって、日が落ちると、もうがまんができなくなって、ふらふらと外の闇《やみ》の中へひきよせられていくんです。まぼろしが、呼ぶんですよ。まぼろしが頭の中に生れて、通りへ出るとすぐに、あの娘《こ》に出会うんです。歩いてると、あの娘を見かけるような気がします。それは他の娘に決ってるんですが、わざとあとからついていって、あれはあの娘ではないか、と思ってみます、あれはわたしのオーリャじゃないかしら、とはらはらしながら考えるんです。こうして考え考えしていると、しまいに頭がばかになって、人につきあたってばかりいて、胸が苦しくなってきます。酔ったみたいにふらふらと、みんなにどなりちらされながら、それでなるべく閉じこもって、誰も訪ねないようにしているんです。それにどこへ行きましても――胸が重くなるばかりですもの。それが今そばを通りかかったら、ふっと、『あのひとのところへ寄ってみようかしら、あのひとは誰よりもいいお人だし、あのときもいあわせてくれた方だから』とこう思いましたものですから。どうか、目ざわりなばかなこの女を許してやってください。もうじき帰りますから……」
彼女は不意に立ち上がると、そわそわしだした。そこへおりよくマトヴェイが来た。わたしは彼女を橇《そり》に乗せて、途中でストルベーエワ夫人の家に寄り、彼女を送ってやった。
最近わたしはゼルシチコフの経営するルーレット場へかよいはじめた。それまでわたしは三軒ほどに出入りしていたが、いつも公爵といっしょで、公爵がそういう場所へわたしを『手引き』したのである。その一軒では主にバンクがおこなわれ、しかもひじょうに賭《か》けが大きかった。しかしそこはわたしはあまり好まなかった。大金をもっていなければ都合がわるいし、それに勝負にきたない連中や、上流社会の『悪名高い』青年たちがたくさん集まりすぎるからである。ところがそれを公爵は好んでいた。彼は勝負も好きだが、そうした遊蕩児《ゆうとうじ》たちと親しくするのも好きだった。この幾晩か、彼はときどきわたしといっしょには行ったが、賭博場ではずっと妙にわたしを避けるようにして、『仲間』の誰にもわたしを紹介しようとしないのに、わたしは気づいた。わたしはそこでは完全な場ちがい者に見えて、そのためにどうかするとかえって人目を惹《ひ》くこともあった。カルタ卓を囲んでいるとつい誰かと口をきくことがあるものだが、わたしはあるとき、昨日この同じ部屋でカルタ卓を囲んで話したばかりか、笑いまで交《か》わして、おまけにカルタを二枚ほど読んでやったある紳士に出会ったので、あいさつを交わそうとした、ところがどうだろう――彼はまったくわたしに気がつかないのだ。いや、それよりももっとわるく、わざとふしぎそうな顔でまじまじとわたしを見て、にたりと笑うと、ぷいと向うへ行ってしまったのだ。こうしたわけで、わたしはまもなくそこをすてて、もっぱらある魔窟《まくつ》へかよいだした。まさに魔窟とより名付けようがないのである。ここはきたならしい小さなルーレット場で、ある妾《めかけ》が経営していたが、自分はぜんぜん顔を出さなかった。ここはおそろしく開放的で、士官たちも、裕福な商人たちも来ていたが、やり方がすべて下品で、それがまたかえって人々に人気があった。おまけに、ここでわたしはよく当てた。しかしわたしは、あるとき勝負の最中にもちあがって、二人の賭博師のなぐりあいにおわった、ある忌まわしい事件があってからここもすてて、これもまた公爵に手引きされたゼルシチコフのルーレット場へかようようになった。これは退役騎兵二等大尉で、ここの空気は軍隊風にかなりきちんとして、名誉の形式の遵守《じゆんしゆ》には神経質なほどにうるさく、すべてが簡潔で、事務的であった。だから、うるさい取巻き連や遊蕩児たちはここへは来なかった。それに、バンクもいたずら半分でやれるような額ではなかった。ここではバンクとルーレットがおこなわれた。この夜、つまり十一月十五日の夜までに、わたしはそこへ二度しか行ってなかったが、ゼルシチコフはもうわたしの顔をおぼえていたらしい。しかしわたしはまだ友だちは一人もいなかった。故意にしくんだように、この夜にかぎって公爵とダルザンが現われたのはもう深夜の十二時近くだった。彼らはわたしが見限った例の上流社会の遊蕩児たちの賭博場の帰りに、立ち寄ったのである。というわけで、この夜はわたしは異邦人のように見知らぬ人々のあいだに身をおいたのだった。
もし読者が幸いに、わたしが自分の身辺についてこれまで述べてきたことをすっかり読んでくれたら、ここになにも説明するまでもなく、わたしがおよそ集団生活のために創《つく》られた人間でないことは、疑いもなく理解されたことと思う。要するに、わたしはなんとしても人中に身をおいておくことができないのである。わたしは人が大勢いるところへ入ると、いつもみんなの視線がわたし一人に集中するような気がする。そしてすっかりいじけてしまう、生理的にすくんでしまうのだが、劇場のような場所でさえそうなのだから、個人の家ではなおさらである。こうしたルーレット場や人の集まるところでは、わたしは悠々《ゆうゆう》とかまえることがどうしてもできなかった。あるいは坐りこんで、あまりにも態度がやわらかで、ばかていねいすぎるとくよくよ自分を責めてみたり、そうかと思うとだしぬけに立ち上がって、なにか無作法なことをしでかしてみたりする。ところが、わたしよりはるかにくだらない男が、おどろくほどの威厳を見せてぐっとかまえている――それがなによりも癪《しやく》にさわって、わたしはいよいよ冷静さを失ってしまう。率直に言うと、今は言うまでもないが、そのときでもすでにこうした集りが、それに、もうすっかり言ってしまうが、賭博で勝つこと自体も――ようやく、忌まわしい苦痛になりかけていた。まったく――苦痛なのである。わたしは、もちろん、極度の快感を経験したが、しかしその快感は苦痛をとおして生れたものなのだ。それらすべてが、つまりそれらの人々と、賭博と、そしてなによりも、彼らとともにいるわたし自身が、わたしにはおそろしくきたないものに思われた。『ひと儲《もう》けしたら、こんなきたないことはすぐにやめよう!』わたしは徹夜の賭博からもどって明け方に自分の部屋でうとうと眠りにおちながら、たびごと、自分にこう言い聞かせるのだった。そしてまたしてもこの儲けのことだが、わたしが決して金を愛したのではないことを、重ねて言っておきたい。といってわたしは、こうした言い訳につきものの醜いきまり文句をふんで、わたしが賭《か》けるのは勝負そのもののため、緊迫感を味わうため、リスクの快感にひたるため、熱情等々のためであって、決して金儲けのためではない、などと言うつもりはない。わたしには金はのどから手の出るほど必要だった、そして、これがわたしの道でも、わたしの理想でもなく、ただこれだけのものであったにしても、わたしはやはり、一つの経験として、この道もふんでみようと決心した。ここでひとつの強い考えがわたしを完全に脇道《わきみち》へそらしたのである。『それにふさわしい強い性格をもってさえいれば、ぜったいに百万長者になることができる、これがおまえの結論ではないか。そしておまえはもうその性格は試験ずみなのだから、ここでも自分の力を示してみるがいい。まさかルーレットに、おまえの理想実現のためよりも強い性格を必要とすることはあるまい?』――これがわたしが自分にくりかえし聞かせたことであった。ところが、わたしは今でも、どんなはげしい勝負のときでも、すこしも冷静さを失わず、頭脳の怜悧《れいり》さと読みの正確さを保っていれば、血迷って雑なしくじりをしでかして負けるわけがない、という確信をもっているくらいだから――そのときは、自分を抑《おさ》えきれずに、しょっちゅう子供みたいにのぼせきってしまう自分を見て、わたしがますます苛《いら》だちをおぼえていったことは当然である。『飢えに堪《た》えることができたおれが、こんなばかげたことで自分を抑えることができないのか!』――これがわたしを苛だてたのであった。加えて、わたしには、わたしの内部には、外見はどれほど滑稽《こつけい》で下劣に見えようと、崇高な力が宿っていて、それがいまに彼らすべてにわたしに対する見方を変えさせずにはおかないのだ、という意識があった。この意識が――すでに虐《しいた》げられたわたしの幼年時代から――そのころわたしの生活のたったひとつの源泉、わたしの光明、わたしの価値、わたしの武器、そしてわたしの慰めとなっていたのだが、これがなかったらわたしは、おそらく、まだ子供の時分にすでに自分の生命を絶っていたことであろう。だから、カルタ卓のまえで自分がいかにみじめな人間になり下がっているかを見たとき、どうして自分に憤激せずにいられたろう? これが、わたしがもはや賭博からはなれることができなかった理由なのだ。今わたしにはそれがはっきりとわかる。この最大の理由のほかに、小さな自尊心の悩みもあった。敗北がわたしを公爵のまえに、ヴェルシーロフのまえに、みじめなものにしていた。といって彼がそんなことを誰にも、タチヤナ・パーヴロヴナにも、一言ももらしたわけではないのである、――わたしはそう思っていたし、そう感じてもいた。最後に、もうひとつ告白をしよう。わたしはそのころすでに堕落していたのである。わたしはレストランの豪勢な食事や、マトヴェイや、英国屋や、行きつけの香水店の意見や、まあそうしたいっさいの贅沢《ぜいたく》からはなれることが、もはやつらかったのである。わたしはそのころもそれを意識していたが、なにかまうものかと笑いとばしていた。今、これを書きながら、わたしは羞恥《しゆうち》で顔が染まるのである。
一人で来て、見知らぬ人々の群れの中に身をおくと、わたしはまずルーレット台の隅《すみ》っこに席をしめて、けちけちと小さく賭けはじめた、そしてそのまま二時間ほどねばっていた。この二時間のあいだどっちつかずの実にばかげた勝負がつづいた。わたしは何度かすばらしいチャンスを逃したが、血迷わないで、冷静と確信を保つようにつとめた。結局、この二時間のあいだにわたしは損もしなければ、儲けもしなかった。三百ルーブリを十ルーブリか十五ルーブリヘらしただけだった。このばかげた結果がわたしを苛だたせた、しかもそこへ実に不愉快なことがもちあがった。こうしたルーレット場にはよく盗難事件が起るものだが、それも泥棒が外からまぎれこむのではなく、賭博者たちの中にそういう手くせのわるいのがいるのである。たとえば、わたしは確証をにぎっているのだが、あの有名な賭博師アフェルドフは――まぎれもない泥棒である。彼は今でも市中をなにくわぬ顔で流している。わたしは先だっても一対の小馬《ポニー》にひかせた馬車に乗った彼を見かけたが、彼は――泥棒で、しかもこのわたしから盗んだのである。しかしこの事件についてはもっと先へいってから語るとして、この夜起ったのは単なる序曲でしかなかった。わたしはこの二時間のあいだずっと隅っこに位置していたが、左隣に、これも終始はなれずに、どうやらユダヤ人らしい、実に嫌味《いやみ》なしゃれ者が坐っていた。この男は、なんでも、なにかの雑誌に関係していて、しかもなにやら書いて、発表もしているそうである。終り近くにわたしは思いがけなく二十ルーブリ当てた。二枚の赤紙幣がわたしのまえにおかれた、そしてふと気がつくと、このジュウめが片手をのばして、悠々とその一枚を自分のまえへ移動させているではないか。わたしは彼の手をおさえた、ところが彼は、実にふてぶてしい態度で、おちつきはらった声で、だしぬけに、これは――自分の勝ち分だ、今賭けて、とったのだ、とわたしに言明したのである。そして彼はもうそういう言いがかりはごめんだと言わぬばかりに、ぷいとそっぽを向いた。まずいことに、わたしはそのときひどくばかげた気分にとりつかれていた。わたしは大きな勝負を張ろうという気になっていたので、勝手にしろと思って、争おうともしないで、そんなものは彼にくれてやって、急いで立ち上がると、その場をはなれた。それに、時間がむだだし、ゲームはどんどん進むばかりだし、こんな図々《ずうずう》しいこそ泥にかかりあっていたのではかなわないと思ったのである。ところがこれがわたしの大きな失敗だった、そしてそれがあとを引いたのである。わたしたちのそばにいた三、四人の客たちはわたしたちのいざこざに気づいたが、わたしがあっさり引退《ひきさが》ったのを見て、わたしのほうをいんちきな男ととったらしい。
ちょうど十二時だった。わたしは隣の部屋へ行って、ちょっと頭を冷やして、新しいプランの想をまとめると、引返してきて、両替でもっている紙幣を半インペリアル金貨にかえてもらった。四十何枚かになった。わたしはそれを十《とお》に分けて、四枚ずつを連続十回、ゼロに賭けることにした。『勝てば――幸いだし、負けたら――なお幸いだ。もうこれっきり賭博と縁を切るのだから』と思った。ことわっておくが、この二時間のあいだにゼロには一度も入らなかった、それでしまいにはもう誰もゼロに賭ける者はなかったのである。
わたしは立ったまま、むすっと顔をしかめ、歯を食いしばって賭けた。三度目にゼルシチコフが、その日それまで一度も出なかったゼロを大声で叫んだ。わたしは半インペリアル金貨を百四十枚受取った。わたしはもう七組のこっていた、それでわたしはまた賭けをつづけた。わたしのまわりは急にがやがやと騒がしくなった。
「こっちへ移りませんか!」とわたしはさっき並んで坐っていたフロックを着た赤ら顔の白い口ひげの男に叫んだ。その男はもう何時間もあきれるほどしんぼう強くこまかく賭けては、負けてばかりいたのだった。「ここへいらっしゃい! ここはついてますよ!」
「わたしに言ってるのかね?」となにか怒ったようなおどろいたような声で、口ひげが向う隅からどなり返した。
「そうですよ、あなたにですよ! そんなところにいるとつるつるにいかれちゃいますよ!」
「あなたの知ったことじゃない、じゃましないでくれたまえ!」
しかし、わたしはもうどうしても自分を抑えることができなかった。わたしの真向いに、一人の年配の士官が坐っていた。わたしの賭けを見ながら、彼はぼそぼそと隣の男に話しかけた。
「おかしいですな、ゼロとは。いや、わたしはゼロはよしますよ」
「思いきりなさいよ、大佐!」とわたしはまたゼロに賭けながら、叫んだ。
「わたしもじゃまをせんでいただきたいですな、あなたの助言は受けません」と彼はぴしゃりとはねつけた。「あなたはすこし騒ぎすぎますぞ」
「ぼくは有益な助言をしてるんですよ。なんでしたら、賭けましょうか、今度またゼロが出ますよ。さあ金貨十枚、このとおり、賭けますよ、よろしいですか?」
そして、わたしは金貨を十枚まえにおいた。
「金貨を十枚、賭けるのかね? よろしい」と彼は乾《かわ》いた声できびしく言った。「ゼロが出なかったら、わたしの勝ちだ」
「ルイ金貨十枚ですよ、大佐」
「ルイ金貨とはなんだね?」
「半インペリアル金貨十枚ですよ、大佐、それを詩的に言うと――ルイ金貨というわけです」
「それなら半インペリアル金貨とはっきり言いたまえ、わたしに冗談はやめてもらいたい」
わたしは、もちろん、賭けに勝つとは思っていなかった。ゼロが来るのは、三十六対一のチャンスでしかない。しかしわたしがこんな提案をしたのは、ひとつには高慢からであり、もうひとつは、なにかでみんなの注意を惹《ひ》こうとしたためであった。どういうものかわたしはここではきらわれ者で、みんながそれをわたしに思い知らせることに特別の満足を感じていることを、わたしは知りすぎるほど知っていた。ルーレットがまわりだした――そして思いがけなく針がゼロをさしてとまったとき、一同のおどろきはどれほどであったろう! あっという嘆声が場内を埋めたほどだった。ここにいたって勝利の栄光が完全にわたしの頭をくもらせてしまった。またわたしのまえに百四十枚の金貨がかぞえられた。ゼルシチコフが一部紙幣にしましょうかとわたしに訊《き》いたが、わたしはなにやらもぞもぞとつぶやいた。わたしはもう冷静にはっきりとものを言うことができなかったのである。頭がくらくらして、膝《ひざ》の力がゆるんだ。わたしは不意に、自分が恐ろしいリスクに突進してゆきそうな気がした。そのうえ、またなにかやってみたくなった、またなにかの賭けを申込んで、誰かに数千ルーブリをぽんと払ってみたくなった。わたしは機械的に両手で札束や金貨をかきあつめたが、それをかぞえるところまでは気がゆかなかった。そのときわたしは不意にうしろに公爵とダルザンの姿を認めた。彼らは例の賭博場のバンクからのもどりに立ち寄ったところで、あとで知ったのだが、そちらでさんざんな目に会ってきたのだった。
「あ、ダルザン」とわたしは彼に叫びかけた、「ここは運がついてますよ! ゼロに張りなさい!」
「負けてしまって、文無しさ」と彼はそっけなく答えた。公爵のほうはまるでわたしに気づかないようなふりをしていた。
「金ならここにありますよ!」とわたしは金貨のかたまりを示しながら、叫んだ、「いくら要《い》ります?」
「ふざけちゃいかん!」とダルザンは真っ赤になって叫んだ、「ぼくはきみに金を貸してくれと言ったおぼえはない」
「あなたを呼んでますよ」とゼルシチコフがわたしの袖《そで》をひいた。
金貨十枚の賭けに負けた大佐が、ほとんど罵声《ばせい》に近い声で、もう何度かわたしを呼んでいた。
「受取ってくれたまえ!」と彼は怒りで顔を真っ赤にして叫んだ、「わしはきみのまえに突っ立っている義務はない。あとで受取らなかったなどと言われては迷惑だ。かぞえたまえ」
「信じますよ、信じますよ、大佐、かぞえるにはおよびませんよ。ただ、そんなにどなったり腹をたてたりしないでいただきたいですな」こう言って、わたしは大佐の金貨を片手でかきあつめた。
「きみ、失礼だが、喜びは誰か他の者に向けてもらいたいな、わしは迷惑だ」と大佐は鋭く叫んだ。「わしはきみの仲間じゃない!」
「おかしいな、あんなやつを入れるとは、――ありゃ何者だ?――どこかの若造だよ」こんな声声が聞えた。
だが、わたしは聞いていなかった。わたしはめくらめっぽうに賭けた、そして今度はもうゼロではなかった。わたしは虹色《にじいろ》紙幣(訳注 百ルーブリ)の束を手近かの十八に張った。
「行こう、ダルザン」という公爵の声が背後に聞えた。
「家へ帰るのですか?」とわたしは彼らを振向いた。「待ってください、いっしょに出ましょう、ぼくは――これでやめます」
わたしの数字が出た。これは大きな勝ちだった。
「さあ、やめた!」とわたしは叫んで、ぶるぶるふるえる手で金貨をかきあつめてポケットに突っこみはじめた。さらに、かぞえもせずに、札束を見苦しくわしづかみにしながら、いっしょくたに脇ポケットにおしこもうとした。そのとき不意に、今はわたしの右隣に坐って、やはり大きく賭けていたアフェルドフの、指輪をはめたふっくらした手が、わたしの虹色の紙幣三枚の上におかれて、それを掌の下にかくした。
「失礼ですが、これは――あなたのではありませんな」と彼はきびしく、しかしかなりやわらかみのある声で、一言々々歯のあいだからおしだすように言った。
これがそもそも序曲で、その数日後に、重大な結果をもたらすことになるのである。今は、誓って言うが、この三枚の百ルーブリ紙幣はわたしのものであったと確信している、しかしそのときは、わたしの運命が呪《のろ》われていたというか、わたしはその紙幣が自分のものであると信じてはいたが、それでも十中の一はもしやという疑惑がのこった。そして誠実な人間にとってはそれが――すべてだ。そしてわたしは――誠実な人間だ。なによりもいけなかったのは、わたしがそのときはまだ、アフェルドフが――泥棒だということを確実に知らなかったことだ。わたしはまだ彼の名も知らなかった、だからその瞬間には、わたしの思いちがいで、この三枚の百ルーブリ紙幣はわたしに払われたものの一部ではなかったかもしれない、と考えてもしかたのない事情が実際にあったのだ。わたしはずっと目のまえの紙幣のやまをかぞえないで、ただ手でかきよせただけだったし、アフェルドフのまえにも、わたしのまえと同じように、いつも金がおいてあった。しかしそれはきちんとかぞえておいてあったのだ。それに、アフェルドフはここでは知られていて、金持と思われて、尊敬されていた。こうしたさまざまな事情がわたしに作用して、わたしはまた抗議をしなかった。重大な過失である! わたしが有頂天になっていたのが、なによりもいけなかったのである!
「確実におぼえていないのは、きわめて遺憾ですが、どうしてもこれはわたしのもののように思われます」とわたしは怒りにふるえる唇《くちびる》で言った。この言葉はたちまち不平のつぶやきを呼びおこした。
「そういうことを言うのは、確実におぼえていてこそ許されることです、ところがきみは、確実におぼえていないと言われましたな」とアフェルドフは鼻持ちならぬ尊大な態度で言った。
「いったいあれは何者だ? どうしてこんなことを許すのだ?」といくつかの声々が叫んだ。
「あの男はこれがはじめてじゃないよ。さっきもレフベルグと十ルーブリのことでいざこざを起したばかりだ」とそばで誰かの卑劣きわまる声が言った。
「もういい、たくさんです!」とわたしは叫んだ、「ぼくは抗議しない、とりたまえ! 公爵……公爵とダルザンはどこです? 帰った? どなたか、公爵とダルザンがどちらへ行ったか見ませんでしたか?」そして、やっと、金をすっかりポケットにおしこむと、のこった何枚かの金貨はポケットに突っこむのももどかしく、わしづかみにしたまま、わたしは公爵とダルザンを追ってかけだした。読者もおわかりと思うが、わたしは自分を容赦せずに、どんな忌まわしいことももれなく、あのときのわたしのすべてをここに思い出した。これはその後に起るはずのことを、よく理解してもらうためなのである。
公爵とダルザンは、わたしの呼び声や叫び声にはまったく素知らぬ顔で、もう階段を下りてしまった。わたしはもうすぐ追いつくところで、ちょっと玄関番のまえに立ちどまって、なんのためか、半インペリアル金貨を三枚その手におしこんだ。玄関番はけげんそうな顔でわたしを見ただけで、お礼も言わなかった。しかしわたしにはどうでもよかった、そしてもし今マトヴェイがいたら、おそらく一つかみの金貨をあたえたことだろう。そして実際にそうしてやろうと思っていたらしいのだが、玄関へ出てみて、さっき彼を帰したことをふっと思い出した。そのとき公爵のまえに競走馬をつけた彼の橇《そり》がとまって、彼はそれに乗りこんだ。
「ぼくもいっしょに行きます、公爵、あなたの家へ!」とわたしは叫んで、膝掛けをつかみ、それをはらいのけて、橇に乗りこもうとした。ところが不意に、わたしのそばをすりぬけて、ダルザンが橇にとび乗った。そして馭者《ぎよしや》が、わたしの手から膝掛けをもぎとって、それを二人の膝にかけた。
「畜生!」とわたしは激怒して叫んだ。結局、わたしが従者みたいにダルザンのために膝掛けを開いて席を用意してやったようなかっこうになった。
「家へやってくれ!」と公爵は叫んだ。
「待ってくれ!」とわたしは橇につかまりながら、わめいた、しかし馬がさっと走り出したので、わたしは雪の中につんのめった。彼らが笑ったのが、わたしには聞えたような気がした。わたしはとび起きると、そこへ来た馬橇にとび乗って、たえずやせ馬をせきたてながら、公爵の家へ急いだ。
馭者に一ルーブリをはずむからと約束したのに、やせ馬はまるでわざとみたいに、じれったいほどのろのろと走った。馭者は申し訳に鞭《むち》をくれるだけだった、もちろん、一ルーブリ分だけ鞭をくれたわけである。わたしは胸がしめつけられて心臓がとまりそうになった。わたしは馭者になにやら話しかけたが、言葉にもならないで、なにかわけのわからないことをぼそぼそつぶやいただけだった。こんな状態でわたしは公爵の家にかけこんだのである。彼は今しがたもどったばかりだった。彼はダルザンを送ってからもどったらしく、一人だった。彼は蒼《あお》い不機嫌《ふきげん》な顔で書斎の中を歩きまわっていた。くりかえして言うが、彼は今日賭博で惨敗《ざんぱい》したのである。彼はなにか放心したようないぶかしげな目でわたしを見た。
「あなたはまた来たんですか?」と彼は顔をしかめて言った。
「あなたときれいに清算するためです、公爵!」とわたしは息を切らしながら言った。「どうしてあなたはぼくにあんな態度がとれたのです?」
彼はけげんそうな顔でわたしを見た。
「ダルザンと行くのなら、ダルザンと行くからと、そうぼくに答えてくれていいはずです、ところがあなたは急に馬を出したので、ぼくは……」
「ああそうだ、あなたは雪の中にころんだようでしたね」そう言って、彼はわたしの顔を見て笑いだした。
「あの侮辱には決闘で応《こた》えることになるでしょう、だからそのまえに清算したいと思います……」
そして、わたしはふるえる手で金をつかみ出しては、くしゃくしゃのばらのまま、あるいは札束のまま、ソファの上や、大理石の小卓の上や、開いたままの本の上などにばらばらおきはじめた。何枚かの金貨がじゅうたんの上にころがった。
「ああそうか、あなたは勝ったらしいですね?……それそれ、その声の調子でわかりますよ」
彼がわたしにこんな見下した口をきいたことはこれまでに一度もなかった。わたしは真《ま》っ蒼《さお》になった。
「ここに……いくらあるのかぼくは知りません……かぞえてみなきゃ。ぼくの借りは三千ルーブリほどでしたね……それともいくらでしたかしら?……それより以上でしたか、それとも以下でしたか?」
「わたしは払ってくれとは言ってないはずですが」
「いいえ、ぼくのほうが払いたいのです、その理由はあなたが知ってるはずです。たしか、この虹色の札束は――千ルーブリあるはずです、これです!」そう言って、わたしはふるえる手でかぞえはじめたが、途中でやめた。「かぞえなくても同じです、たしかに、千ルーブリです。さて、この千ルーブリはぼくがとります、のこりは全部、おさめてください、借金の一部として。ここには、二千はあると思います、あるいは、もっとあるかもしれません!」
「じゃ、千ルーブリはやはり自分にのこすのですね?」と公爵は歯を見せた。
「あなたはそれも要るのですか? それなら……ぼくのつもりでは……ぼくは、あなたが望まないだろうと思ったものですから……でも、要るのなら――さあどうぞ……」
「いや、要りませんな」彼はけがらわしそうに顔をそむけて、また室内を歩きまわりはじめた。
「わからんな、どうして急に返そうなどと?」と彼は不意に恐ろしい敵意をみなぎらせた顔をわたしに向けた。
「ぼくが返すのは、あなたにはっきりと説明を求めるためです!」と今度はわたしが敵意をみなぎらせた。
「あなたのその口癖や身ぶりはもうたくさんです、出ていってください!」と彼は狂気したように、いきなりわたしに足を踏み鳴らした。「わたしはあなた方をもうとっくに寄せつけまいと思っていたのです。あなたとヴェルシーロフをです」
「あなたは気が狂ったのか!」とわたしは叫んだ。たしかにそう見えた。
「あなた方二人はこけおどしの文句でわたしを苦しめぬいた、のべつべらべらと空虚な文句ばかりだ、文句、文句の連続だ! たとえば、名誉の論議だ! 阿呆《あほ》らしい! わたしはもうとっくに縁を切りたかったのだ……わたしは嬉《うれ》しいよ、嬉しいよ、その時が来たのが。わたしは自分があなた方に縛りつけられていると考えて、恥をしのんで、無理にあなた方を……二人を迎えていたのです! だが今はもう自分が縛られているとは思わない、なにによっても、いかなる絆《きずな》でも、これをおぼえておきたまえ! ヴェルシーロフはアフマーコワを攻撃して恥をかかせろとわたしをそそのかした……これでもう名誉がどうのこうのとわたしにご託宣をならべることはできまい……なぜなら、あなた方は――破廉恥な人間だからです……二人とも、そろいもそろって。あなたはこれまでわたしから金を借りるのが恥ずかしくなかったのですか?」
わたしは目の中が暗くなった。
「ぼくはあなたを友だちと思って借りたのです」とわたしはおそろしく低い声で言いだした。「あなたのほうから言ってくれたので、ぼくはあなたの好意を信じたのです……」
「わたしはあなたの――友だちではありません! わたしはあなたに金をやりました、でもそのためではない、なんのためかはあなたが知ってるはずです」
「ぼくはヴェルシーロフのもらい分の中からとっていたのです。むろん、これはばかなことですが、でもぼくは……」
「あなたはヴェルシーロフの許可がなければ彼のもらい分の中からとることはできなかったはずですし、わたしとしても彼の許可がなければあなたに渡すことができなかったはずです……わたしはあなたに自分の金を渡していたのです。あなたもそれは知っていました。知りながら、とっていたのです。そしてわたしはこの家で呪わしい喜劇をじっとこらえていたのです!」
「いったいなにをぼくが知っていたんです? どんな喜劇です? じゃなんのために、あなたはぼくに渡したのです?」
「Pour vos beaux yeux, mon cousin!(あなたの美しい目のためですよ、わたしの従弟さん!)」彼はわたしをまともに見すえて高らかに笑った。
「笑うな!」わたしはかっとなった、「すっかりとりたまえ、さあ、この千ルーブリも! これで――貸し借りなしです、明日……」
そしてわたしは資金としてとっておこうと思った虹色の紙幣の束を公爵に叩きつけた。札束はまともに彼のチョッキにあたって、床にとんだ。彼はいきなり大股《おおまた》で三歩つかつかとわたしのほうへ寄った。
「白《しら》をきるのもいいかげんにしたまえ」彼は激昂《げつこう》して、一語々々切りはなすように、ぽきぽきと言った、「まあ一月《ひとつき》もわたしの金をもってゆきながら、あなたの妹さんがわたしの子を宿していることを、あなたは知らなかったというのですか?」
「なに? なんですと!」とわたしは叫んだ、と不意に、膝の力がぬけて、くたくたとソファにくずれた。
彼自身があとでわたしに語ったのだが、わたしは文字どおり白布のように蒼白《そうはく》になったそうである。わたしは頭が混乱してしまった。おぼえているが、わたしと公爵はしばらく無言のまま顔を見合っていた。不意に驚愕《きようがく》が彼の顔を走ったように見えた。彼はいきなり身をかがめると、わたしの肩をつかんで、わたしをささえはじめた。わたしは彼のこわばった微笑をまざまざとおぼえている。その微笑には疑いとおどろきがあった。そうだ、彼はわたしが知らぬふりをしていたものと信じこんでいたのだから、自分の言葉がこれほどの効果をあたえようとは夢にも思わなかったのである。
わたしは気を失ったが、しかし一分ほどにすぎなかった。わたしはわれに返ると、ふらふらと立ち上がり、彼を見つめながら、しばらく考えていた――すると不意に、これほど長く眠っていたわたしの理性のまえに、いっさいの真実がありありと開かれた! もしわたしがもっとまえに知らされて、『きみはあの男をどうするつもりだ?』と訊かれたら――わたしはきっと、あいつを八つ裂きにしてやる、と答えたことであろう。ところが、それとはまったくちがう結果になった、そしてそれがぜんぜんわたしの意志から出たことではないのだ。わたしは急に両手で顔をおおうと、体をふるわせて、はげしく泣きだした。ひとりでにそうなったのだ! 青年が不意に子供に変ったのだ。ということは、子供がそのころはまだわたしの心の半分を占めていたのである。わたしはソファに突っ伏して、泣きじゃくった。『リーザ! リーザ! かわいそうに、なんということだ!』公爵はそのとき完全にわたしを信じた。
「ああ、あなたにすまないことをした!」と彼は深い悲しみをこめて言った。「おお、わたしは浅はかにもあなたになんという醜い誤解をいだいていたのだろう……お許しください、アルカージイ・マカーロヴィチ!」
わたしは不意にとび起きて、彼になにか言おうとして、彼のまえに立ったが、しかし、なにも言わずに、部屋をとびだし、玄関から走り出た。わたしは夢遊病者のようにふらふらと家へもどったが、どこを通ったのかほとんどおぼえていない。わたしは寝台に身を投げだすと、枕に顔を埋めて、暗闇の中で、夢中で考えつづけた。こんなときには整然と筋道だてては決して考えられるものではない。頭脳と思考がまるで糸からちぎれたみたいで、まるで無関係な途方もないことを考えだしたりしたことも、わたしはおぼえている。しかし悲哀と不幸がまた急に苦痛とうずきをともなって思い出されて、わたしはまた腕をもみしだいて、『リーザ、リーザ!』とうめきながら、もだえ泣くのだった。どんなふうにして眠りにおちたのか、おぼえていないが、いつのまにか固い、甘い眠りをむすんでいた。