白 夜
ドストエフスキー/小沼文彦訳
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白 夜
感傷的ロマン
――ある夢想家の思い出より――
[#この行2字下げ]……それとも彼は、たとえ一瞬なりともそなたの胸に寄り添うために、この世に送られた人なのであろうか?……
[#地付き]イワン・トゥルゲーニェフ
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第一夜
すばらしい夜であった。それは、愛する読者諸君よ、まさにわれらが青春の日にのみありうるような夜であった。いちめんに星をちりばめた、明るい星空は、それを振り仰ぐと思わず自分の胸にこんな疑問を投げかけずにはいられないほどだった――こんな美しい空の下に、さまざまな怒りっぽい人や、気紛《きまぐ》れな人間がはたして住んでいられるものだろうか? これもやはり、愛する読者諸君よ、幼稚な、きわめて幼稚な疑問である。しかし私は神が諸君の胸にこうした疑問をよりしばしば喚起することを希望する!……。気紛れな人間や、さまざまな怒りっぽい紳士連のことを口にだすとなると、私はこの日一日の自分の品行方正な行状のことも思いださないわけにはいかない。朝早くから、なにか奇妙なわびしさが、私を苦しめはじめたのである。まったく藪《やぶ》から棒に、この孤独な私をみんなが見棄てようとしている、みんなが私から離れようとしているというような気がしはじめたのだ。それはもちろん誰だって、「いったいどこのどいつだね、そのみんなというのは?」とたずねる権利をもっているにちがいない。なにしろ私はこれでもう八年もペテルブルクに住んでいながら、ほとんど一人の知人をつくる才覚もなかった男なのだから。しかし知人なんかこの私になんの必要があるのだ? それでなくとも私はペテルブルクじゅうの人間をよく知っている。ペテルブルクじゅうの人間が腰をあげて、とつぜんそれぞれの別荘へ行ってしまうと、なんだかみんなに見棄てられるような気がしたのも、じつはそのためなのである。私はひとり後に残されるのが急に恐ろしくなった。そこでまる三日間も、自分がどうなっているのかさっぱりわからぬままに、深い憂愁にとざされて、街をさまよい歩いた。ネフスキイ通りへ行ってみても、公園へ行ってみても、河岸《かし》通りをぶらついてみても――この一年間いつもきまった場所で、きまった時間に行き会うことになっていた人々が、一人として顔を見せないではないか。先方では、もちろん、私のことなどは知らないが、こちらでは先方の顔をよく知っている。私にとってはみんな親しい知人なのだ。私は彼らの顔かたちを研究しつくしているといってもいいくらいなのである――そして相手が明るい顔をしていれば思わずそれに見とれるし、暗い顔をしていれば、こっちもついふさぎこんでしまうというわけだ。私は毎日かかさずきまった時間に、フォンタンカで顔を合わせる一人の老人とは、ほとんど友達になりかねないほどであった。ひどくもったいぶった沈思黙考型の顔つきで、いつも口のなかでブツブツいい、左手を振りまわしている男だった。右手には黄金《きん》の握りのついた長い、節《ふし》くれだったステッキをもっている。先方でも私に気がついて、非常に私に関心を寄せているらしい。もしも私がきまった時間にフォンタンカの例の場所に行けないようなことでもあれば、彼はきっとふさぎこんでしまうにちがいないと、私は信じて疑わない。そんなわけで、どうかすると私たちはあやうく互に挨拶をかわしかねないありさまだった、ことに二人とも機嫌のよいときなどはなおさらのことである。現につい最近のこと、まる二日も顔を合わせずに、三日目にぱったりと行き会ったときには、二人はすんでのことに帽子に手をかけそうになったが、さいわいいいあんばいに早く気がついたので、そっと手を下ろし、互にさりげなくそばを通り過ぎたものである。建物もやはり私にとってはお馴染《なじ》みである。私が歩いていると、その一つ一つがてんでに私の前の往来に駆けだしてきて、ありったけの窓で私を見つめながら、こんなことを口にださないばかりのありさまなのだ――「やあ、こんにちは、ご機嫌いかがですか? 私もお蔭様で元気です。ところで私は五月になるともう一階増築してもらうことになってるんですよ」とか、「お元気ですかね? 明日はいよいよ修繕です」とか、「私はあやうく焼けるところでしたよ、あれにはまったく驚きましたね」といった調子である。それらの建物のなかには私のお気に入りもいれば、親しい友達もいる。そのうちの一つはこの夏に建築家の治療を受けることになっている。どうかしてとんでもない治療でも受けると大変なので、私は毎日わざわざ行って見るつもりである。そんなことにでもなったらそれこそおしまいだ!……。しかし一軒のとても可愛《かわい》らしい、明るいピンク色に塗った小さな家に起った出来ごとなどは、決して忘れられるものではない。それはじつに美しい小さな石造の家で、いつも愛想よく私を見つめ、隣り近所の不恰好《ぶかつこう》な家をさも誇らしげにながめまわしているので、そのそばを通ることがあると、私の胸はいつも喜びに打ちふるえるほどであった。ところがとつぜん、先週ふと街を歩いていて、なにげなく自分の親友の方に眼を向けると――いかにも悲しそうな叫び声が聞えるではないか。「わたしは黄色い色に塗りかえられています!」悪党め!野蛮人め! まったくこの連中ときたら、円柱も、蛇腹《じやばら》も、なにひとつ容赦《ようしや》はしないのだ。こうして私の親友はまるでカナリヤみたいに、真黄色に塗られてしまったのだ。この思いがけない出来ごとに、私はあやうく癇癪玉《かんしやくだま》を破裂させるところだった。それ以来今日まで私は、地図の支那帝国の色に塗りかえられてしまった、いまは見る影もない哀れな私の親友と、いまだに顔を合わせる勇気がでない始末である。
こんなわけであるから、読者諸君、私がどうしてペテルブルク全市と知合いなのか、諸君にはよくおわかりになったことと思う。
前にも言ったとおり、私はこれでまる三日間というもの不安に悩まされていたが、いまになってやっとその理由を突きとめたのである。外へでてもどうも気分が悪いし(あの男もいなければ、この男もいない、いったい誰それはどこへ行ってしまったのだ?)家にいてもさっぱり気分が落着かない。なにかこの部屋に足りないものでもあるのだろうかと、私は二晩も心をくだいた。この部屋にいるとどうしてこうも気詰《きづま》りなのだろうか? そしてどうも合点がいかないままに、緑色のすすけた壁や、女中のマトリョーナのお蔭でますますふえてゆく蜘蛛《くも》の巣だらけの天井をながめまわし、家具という家具を何度も調べなおし、不幸の原因はもしやこれではあるまいかと考えながら、椅子まで一つ一つあらためてみた。(というのは、たとえ椅子一つでも昨日と位置が変っていると、私はもう気もそぞろになってしまうからである)こうして窓まで調べてみたのだが、すべては骨折り損のくたびれもうけで……気分はすこしも楽にならないのだ! 私はマトリョーナを呼びつけて、蜘蛛の巣のことやら、その他彼女のだらしないやりかた一般について、いきなり父親的な訓戒をあたえてやろうかなどという妙な考えまで起したものである。ところが彼女はいかにもけげんそうに私の顔をチラリと見ただけで、ひと口も返事をしないでさっさと向うへ行ってしまった。お蔭で例の蜘蛛の巣はいまなお平穏無事に元の場所にぶらさがっている。だがやっとのことで、今朝になってはじめてその原因がわかったのである。なんてことだ! それもこれもみんながおれを見棄てて、別荘へ逃げだしやがるからなんだ! どうか下品な言葉づかいを許していただきたい、とても上品な言葉など使ってはいられないのだ……。なにしろペテルブルクじゅうのありとあらゆる人間が、一人残らず別荘へ行ってしまったか、あるいはこれから出かけようとしているではないか。辻馬車を雇おうとしている堂々とした風采《ふうさい》の立派な紳士が、私の眼の前で誰も彼もたちまち尊敬すべき一家の主人になってしまうからだ。彼らはみんな日々のお役所仕事から解放されて、別荘暮しのその家庭のふところへ身も軽々ととびこもうとしているではないか。いまではどの通行人もみんな一種特別な顔つきをしている、行き会う人ごとにこう言わないばかりの顔をしているのだ。――「私がね、みなさん、こんなところにこうしているのはほんのちょっとのことなので、もう二時間もしたら私は別荘へ行ってしまうんですよ」はじめは砂糖のように白い、細っそりとした指でコツコツ叩かれていた窓が、やがてさっと開かれて、美しい少女が顔をだし、鉢植えの草花を売っている商人を呼びとめるのを見ても、私はすぐさまこんなことを想像する――こんな草花が買われるのも、息苦しい町なかの家で春の花を楽しむためではさらさらなく、ただごく近いうちに一家そろって別荘へでかけるので、草花も一緒にもってゆくつもりなのだ。そればかりではなく、私はすでにこうした新しい、いっぷう変った発見にすっかり眼が肥えてしまったので、一目みただけで、これはどんな別荘に住んでいる人間か間違いなく見わけられるようになった。カーメンヌイ島やアプチェーカルスキー島、あるいはペテルゴフ街道に住んでいる人たちは、洗練されたスマートな身のこなし、シックな夏服、町へでかけてくるときのすばらしい乗物などで、群を抜いている。パルゴロフや、それより先に住んでいる人たちは、その分別くさい、堂々とした態度で、一目で人を『ハッとさせる』し、クレストフスキー島の滞在者は、底抜けの快活さで人目をひく。私はよく荷馬車の長い行列にぶつかることがある。馬方は手綱を手にもって、ありとあらゆる家具類、テーブルや椅子や、トルコ風の長椅子やそうでないものや、その他さまざまな家財道具を山のように積んだ荷馬車の脇《わき》について、いかにも大儀《たいぎ》そうに歩いている。またその荷物の山のてっぺんに、痩《や》せた料理女がちょこんと坐って、ご主人の財産を後生大事に守っている図にもよくお眼にかかる。それに家財道具を積めるだけ積んだ小舟が、ニェヴァ河やフォンタンカの水面を滑《すべ》るように、チョールナヤ川や河口の島々の方へ下ってゆくのをよく見かけた。すると見ているうちにそうした荷馬車や小舟は、私の眼の前でたちまち十倍になり、百倍になってどんどんふえてゆくのだ。まるであらゆるものが浮き足だって、先を急ぎ、みんなが無数のキャラバンを組織して別荘へ引っ越してゆくような気がする。ペテルブルク全市がいまにも無人の地になりそうに思われて、とうとう私は妙に恥ずかしい気持になり、腹は立つし、すっかり悲しくなってしまった。私には行くべき別荘などまったくなかったし、また行かなければならない理由もなかった。私はどの荷馬車とでも一緒に行きかねない気持だった。辻馬車を雇っている立派な風采のどの紳士とでも一緒に、そのまま行ってしまいかねない気持だった。だが一人として、まったく誰一人として、一緒に行こうと言ってくれる者はいなかった、まるで私のことなどは忘れているように、彼らにとって私などはそれこそ赤の他人ででもあるかのように!
私は長いことさんざん歩きまわった。そして例によって、自分がどこにいるのやらもうすっかり忘れてしまったが、ふと気がつくと町はずれの城門の前にきていた。とたんに私は急に気持が明るくなった。そこで私はひょいと遮断機《しやだんき》をまたいで、蒔付《まきつ》けの終った畑や牧場のあいだを足にまかせて歩きだした。もはや疲労感はなく、ただなにか知らない重荷が胸からすっと抜けてゆくような気持を、全身にひしひしと感じるばかりだった。通り過ぎる馬車の客は誰もみな愛想よく私をながめ、まったくすんでのことにお辞儀をしないばかりであった。誰も彼もなぜかいかにも嬉しそうで、みな例外なく葉巻をくゆらせている。私もいままで一度も覚えがないほど、ひどく嬉しかった。まるで不意にイタリヤにでも行ったような気持だった――市街の壁にかこまれてあやうく窒息しそうだった半病人同然の都会人の私に、自然はそれほど強いショックをあたえたのである。
自然が春の訪れとともにとつぜんその威力を、天から授けられたその力を残りなく発揮し、芽をふき、葉をひろげ、さまざまな花でその身をよそおうとき、わがペテルブルクの自然にはなにか言葉には現わしがたい、胸を打つものがある……。思わず知らず自然は私にこんな少女を思いださせる。病弱でやつれはてた娘、諸君は時には憐《あわれ》みの眼で、時には同情的な愛情をいだいて彼女をながめ、また時には彼女の存在にぜんぜん気がつかないこともあるが、その娘がとつぜん、一瞬のうちに、どうした加減か思いもかけぬすばらしい、言葉に現わすことのできぬ美女に変貌する。諸君は驚きにうたれ、うっとりとして、思わず自分の胸にこんな質問を投げかける――あの悲しげな、物思いに沈んだ眼を、このような焔《ほのお》に輝かせたのは、いったいいかなる力なのだろうか? あの蒼《あお》ざめた、痩せた頬に血をかよわせたのは、そもそもなんであろうか? あのいまにもこわれそうなデリケートな顔に、なにが情熱をそそぎこんだのだろう? どうしてあの胸が急にふくよかになったのか? あわれな娘の顔にかくも思いがけなく力と、生命と、美を吹きこみ、その顔を美しい微笑に輝かせ、キラキラと輝く火花のような笑みでその顔を生気あるものに仕立てあげたのは、はたしてなんであろうか? 諸君はあたりを見まわし、何者かを探し求め、いろいろと思案をめぐらす……。だがやがてその一瞬も過ぎ去ってしまう。そして、おそらくは、その翌日にも諸君が眼にするものは、またしても以前とおなじあの物思いに沈んだ、放心したようなまなざし、相も変らぬ蒼い顔、その動作に現われる以前に変らぬ従順さと臆病さ。いやそれどころかむなしく燃やした束《つか》の間の情熱を悔む心、思わずゾッとさせられるようなわびしさと腹立しさの痕跡さえ認められるかも知れないのだ……。そこで諸君は、かくも速かに、また永遠に束の間の美が凋落《ちようらく》し、人の心をくすぐっただけでむなしく眼前をひらめき過ぎたのを悲しく思う――それに心を打ちこむ暇さえなかったのが残念でならないのだ……。
しかしそれでもなお私の夜は、昼間よりもはるかにすばらしいものだった! それはつまりこういうわけである。
私が市内へ戻ってきたのはだいぶおそくなってからで、自分の家の近くへやってきたときには、時計はとっくに十時を打っていた。私の歩いていた道は運河に沿った道で、その時刻には行き会う人などそれこそ一人だっていなかった。もっとも、私はひどい町はずれに住んでいたのである。私は歩きながら歌を口ずさんでいた。というのは、自分が幸福な気分のときには、親しい友もなければ親切な知人もなく、嬉しいときにもその喜びをわかつ相手のいない幸福な人間が誰しもするように、小さな声で歌をうたっていた。ところが不意にまったく思いがけない出来ごとにぶつかったのである。
すこし離れたところに、運河のらんかんに身をもたせかけて、一人の女性が立っていた。らんかんの格子に肘《ひじ》をついて、どうやら彼女は濁った運河の水をひどく熱心に見つめている様子だった。彼女はとても可愛らしい黄色い帽子をかぶり、しゃれた黒いケープをはおっていた。『あの娘はきっとブリュネットにちがいない』と私は考えた。彼女は私の足音も耳にはいらないらしく、私が息をひそめ、はげしく胸をおどらせながらその脇を通りすぎたときも、身動きひとつしなかった。『おかしいな!』と私は思った。『きっとよっぽどなにか考えこむことでもあるんだな』だがとつぜん私の足はその場に釘づけにされた。忍び泣きの声が耳にはいったのだ。そうだ! それは決して私の空耳《そらみみ》ではなかった。娘は泣いていた。そしてしばらく間をおいて、またもやつづくすすり泣きの声。これはなんとしたことだ? 私は胸がギュッとしめつけられるような気がした。私は女性に対して臆病なほうであったが、なにぶんにも時刻が時刻である!……。私は引きかえして彼女のそばへ歩みより「お嬢さん!」と声をかけようとした――もしもこの呼びかけの言葉がロシアの上流社会をえがいたあらゆる小説のなかで、すでに数千回も繰りかえされたものであることを知らなかったら、かならずそれを口にしたに相違ない。だがただそのために私はそれを口にするのをひかえたのである。しかし私が適当な言葉をさがしているあいだに、娘はわれにかえり、あたりを見まわすと、ハッとしたように眼を伏せて、私のそばを滑《すべ》り抜けて運河沿いの道を歩きだした。私はすぐさまその後を追った。彼女はそれに気がつくと、運河沿いに歩くのをやめて、往来を横切って、反対側の歩道に移った。私には往来を横切る勇気がでなかった。私の胸はつかまった小鳥のようにふるえていた。だが思いがけなくある偶然が私に助け舟をだしてくれた。
わが未知の女性からあまり離れていない反対側の歩道に、とつぜん燕尾服《えんびふく》を着た一人の紳士が姿を現わしたのである。堂々としたかなり年輩の男だったが、足のほうは義理にも堂々とはいえなかった。彼はふらふらしながら、用心ぶかく壁につかまって歩いていた。娘のほうは、夜の夜中に妙な男に呼びとめられて家までお送りしましょうなどと言いだされるのがいやでならない娘が一般に誰でもするような歩き方で、ビクビクしながらセカセカと、まるで矢のように歩いていた。それで、もちろん、この千鳥足の紳士などにはとうてい彼女に追いつけようはずはなかった。ところがわが運命はこの男にじつに思いがけない方法を考えつかせたのである。やにわにその紳士は、ウンともスンともいわずに、いきなりサッと駆けだすと、全速力でわが未知の女性の後を追った。娘は風のように走ったが、千鳥足の紳士はしだいにその距離をちぢめ、ついに彼女に追いついた。娘はキャッと叫んだ――そこで私は……私は運命を祝福する。そのとき私はちょうど運よくすばらしい、節くれだったステッキを右手ににぎりしめていたのである。一瞬ののち私はすでに反対側の歩道に立っていた。招かれざる紳士は一瞬のうちに事態をのみこんだ。うむをいわせぬ有力な武器を眼にして、口をつぐんで、引きさがってしまった。そして私たちがずっと遠くに離れてしまってから、かなり猛烈な言葉で私に抗議を申し入れただけであった。しかしその言葉も私たちのところまではどうにかとどいた程度だった。
「さあ、手をおだしなさい」と私は未知の女性にいった。「そうすればもうあの男もうるさくつきまとうこともしないでしょう」
彼女は無言のまま、興奮と恐怖にまだふるえのとまらない手を私にさしだした。おお、招かれざる紳士よ! その瞬間どんなに私はおまえを祝福したことか! 私はちらりと彼女の顔を見た――じつに美しい、しかもブリュネットの女性だった。はたして思ったとおりだった、その黒い睫毛《まつげ》にはまだ涙の玉が光っていた。いましがたの驚きのためか、それともその前の悲しみの涙か――私には知る由もない。しかしその唇のあたりには早くも微笑が輝いていた。彼女のほうでもそっと私に視線を走らせ、かすかに顔をあからめると、眼を伏せてしまった。
「ほらごらんなさい。どうしてあなたはあの時ぼくを追っぱらったんです? ぼくがここにいたら、なんにも起らなかったでしょうに……」
「でもあなたがどんなかたか存じませんでしたもの。あたしはあなたもやっぱり……じゃないかと思って……」
「じゃいまならぼくを知ってるというんですか?」
「すこしばかり、たとえば、なぜあなたはふるえていらっしゃるんでしょう?」
「ああ、まったくそのものズバリですよ!」と私は有頂天《うちようてん》になって答えた。わが娘が意外に頭のいい娘だったからである。これは決してその美しさの邪魔になるものではない。「まったくあなたはたったひと目で相手を見抜いてしまいましたね。確かに、ぼくは女性に対してひどく臆病です。ぼくは興奮しています、それは否定しません。つい一分ほどまえあの男におどかされたときのあなたに負けないくらいです……。ぼくはいまでもなにかびくついているみたいな気持です。まるで夢みたいですよ。いやぼくはたとえ夢のなかでも、誰か女の人と話をすることがあろうなどと思ったことはありません」
「まあ? まさか?」
「そうなんです。もしもぼくの手がふるえているとすれば、それはあなたの手のような美しい、ちいちゃな手でまだ一度もにぎられたことがないからです。ぼくはすっかり女の人と縁が遠くなってしまっていたのです。いや、女の人と親しくしたことなんかまるでなかったんです。なにしろぼくは一人っきりで……。ぼくには女の人とどんな話をすればいいかもわからないんですよ。現にいまだってわかりゃしません――なにかあなたに馬鹿なことを言いはしなかったでしょうか? どうかはっきりおっしゃってください、前もっておことわりしておきますが、ぼくは怒りん坊じゃありません……」
「いいえ、別に、なんにも。むしろ反対なくらいですわ。でももしもどうしてもはっきり言えとおっしゃるんなら、それでしたら言いますけれど、女はそういう臆病さを好むものですわ。もっとお知りになりたいんでしたら、あたしもやっぱりそういうのが好き。ですから家へ着くまで、もうあなたを追っぱらったりなんかしませんわ」
「あなたがそうおっしゃってくださったので」と私は嬉しさに息をあえがせて言いだした。「ぼくはもうすぐびくつかなくなりそうです。でもそうなったら――ぼくのテクニックもオジャンだ!……」
「テクニック? どんなテクニックですの、なんのために? そんなのはよくないことよ」
「すみません、もう言いませんよ。ちょっと口がすべったんです。しかしこんな時に希望をいだくなっていったって、どだい無理な話ですよ……」
「気に入られたいとでもおっしゃるの?」
「まあそんなところですね。しかしお願いですから、どうか気を悪くなさらないように。まあ考えてもごらんなさい、いったいぼくは何者でしょう! なにしろぼくはもう二十六歳にもなるというのに、今まで誰にもこれという人に会ったことがないんですからね。だから上手に、如才なく、すらすらと話のできるわけなんかないじゃありませんか? なにもかも開けっぴろげに、明るみにだしてしまったほうが、あなたにだってずっと得になることです……ぼくはいったんこうと思ったら、もう黙ってはいられない男なんです。しかしまあ、そんなことはどっちでもいいことですがね……。とにかく嘘じゃありません、女性は一人も、それこそ一人も、ぜんぜん知らないんです! まったく付き合ったことがないんですよ! そしてただ毎日、やがていずれは誰かに会うにちがいないと、そればかりを夢にえがいているんです。ああ、あなたはご存じないでしょうが、ぼくはそれこそ何度今までにそんなふうに恋をしたか知れやしません!……」
「というと、誰にですの?……」
「なに相手なんかいやしません、理想の女性に、夢にあらわれる女性にですよ、ぼくは空想のなかで無数の小説を創作するんです。ああ、あなたはぼくという人間をご存じないんだ! そりゃ確かにぼくは二、三の女に出会ったことはあります、ぜんぜん出会わないというわけにはいきませんからね。しかしそれはいったいどんな女性でしょう? どれもこれもみんなつまらないそこら辺のおかみさんで、まったくその……。それよりひとつ面白い話をして、あなたを笑わせてあげましょうか。じつはぼくも何度か往来でどこかの上流婦人に、さりげなく話しかけてみようと思ったことがあるんですよ。もちろん、相手が一人きりの場合ですがね。おずおずと、礼儀正しく、情熱的に話しかけることはいうまでもありません。つまり、たった一人でほろびかけている人間だから、どうか追っぱらわないでもらいたい、じつはどんな女性でもいいから知合いになりたいのだがその手だてがなくて困っているのだといって、自分のような不幸な男の臆病な哀願をむげにしりぞけないことは、女性としての義務でさえあると、相手を説き伏せようというわけです。結局、煎《せん》じつめれば、自分の要求するのはただこれだけのことに過ぎない――つまり、なにかせめてひと言、心のこもった親身な言葉をかけてもらいたいこと、剣もほろろに追っぱらわないこと、こちらの言うことをしまいまで聞いて、それを信じてもらいたいこと、お望みならばあとで腹をかかえて笑おうとどうしようとそれは勝手だが、一応は希望をもたせていただきたい、そしてひと言、たったひと言、声をかけてくださればそれでいい、そうしてくれればあとはもう二度と会わなくても文句はない!……。おや、あなたは笑っておいでですね……。もっとも、ぼくはそのためにわざわざこんな話をしたんですけれど……」
「どうぞお怒りにならないで。あたしが笑ったのは、あなたが自分で自分を痛めつけていらっしゃるからですわ。もしもあなたが実際におためしになったら、ひょっとすると、うまくいったかも知れませんわね、たとえそれが往来の真中の出来ごとであっても。あっさりとやればやるだけ、効果があるわけよ……。気だてのやさしい女だったら、馬鹿でない限り、またそのとき特になにかに腹を立てていない限り、あなたがそんなにもおずおずと哀願しているたったひと言を出し惜しみして、そっけなくあなたを追いはらう気にはなれないでしょうよ……。でも、あたしったらなんてことを言ってるんでしょう! もちろん、あなたは気違い扱いにされるにきまってますわ。自分の気持から推して、あたしはそう思いますわ。だってこれでもあたしは、世の中の人がどんな暮しをしているか、いろいろと知ってるんですもの!」
「ああ、ありがとう」と私は叫んだ。「いまあなたがぼくのためにどれほどのことをしてくださったか、とてもあなたにはおわかりにならないでしょうよ!」
「結構、もう結構ですわ! でも一つだけおうかがいしますけどね、どうしてあなたは、あたしがそんな女だってことがおわかりになりましたの、つまりその……まあ、あなたが注意と友情に値いするとお思いになった……ひと口にいえば、あなたのおっしゃるおかみさんタイプの女でないということが。どうしてあなたは思いきってあたしのそばへ歩み寄ろうなどという気におなりになりましたの?」
「どうして? どうしてとおっしゃるんですか? だってあなたは一人きりだし、あの男はあまりにも図々《ずうずう》しい奴だし、それに夜中じゃありませんか。考えてもおわかりになるでしょう、これはむしろ男の義務というものですよ……」
「そうじゃありません、そうじゃありません、それよりもっと前、まだあすこの、往来の向う側にいらしたときですわ。だってあなたはあたしのほうへ歩み寄ろうとなすったでしょう?」
「あすこの、往来の向う側に? しかしぼくは、じつのところ、なんとお答えしていいかわかりませんね。こわいんですよ……。じつはですね、ぼくは今日とても幸福だったんです。それで歩きながら、歌をうたっていました。郊外へ行ってきたんですがね、こんな幸福な気分を味わったことはいっぺんもありませんでした。ところがあなたが……あるいは、そんな気がしただけかも知れませんが……。もしもいやなことを思いださせることになったら、どうかお許しください、ぼくにはあなたが泣いていらっしゃるように思われたんです。それでぼくは……黙って聞いていられなかった……胸がしめつけられるような気がして……ああ! しかしぼくはあなたを気の毒だと思ってはいけなかったのでしょうか? あなたに対して同胞としての同情を感じるのは、はたして罪なことだったでしょうか?……。同情なんていう言葉を使ってごめんください……。しかしまあ、簡単にいえば、ぼくが思わずあなたのそばへ歩み寄ろうという気になったとしても、それがあなたを侮辱することになるでしょうか?……」
「もうおよしになって、結構ですわ、もうなにもおっしゃらないで……」と娘は眼を伏せ、私の手を握りしめていった。「こんなことを言いだした、あたしのほうが悪いんですわ。でもあたしは嬉しい、あなたを誤解しなくって……でも、ほらもう家のところまできてしまいましたわ。この横町を曲らなくちゃいけませんの、ここからはほんのひと足ですわ……では、さようなら、ありがとうございました……」
「しかしまさか、まさかこれっきりお会いできないのじゃないでしょうね?……まさか、これでおしまいというわけじゃないでしょうね?」
「ほらごらんなさい」と娘は笑いながらいった。「あなたは最初はほんのひと言だけとおっしゃった癖に、今度は……。でも、いいですわ、もうなにも申しません……。もしかすると、お会いするかも……」
「ぼくは明日またここへきます」と私はいった。「ああ、ごめんなさい、ぼくはもういい気になって要求している……」
「そう、あなたはせっかちなのね……要求なさっているのも同然ですわ……」
「まあ、お聞きください、お聞きください!」と私はさえぎった。「もしぼくがまたなにか変なことを言っても、どうか許してください……。でも、それはこういうわけなんです、ぼくは明日の晩どうしてもまたここへ来ないではいられないんですよ。ぼくは空想ばかりしている男でしてね。現実の生活があまりにもすくないので、いまのような、こうした瞬間がぼくにはじつに珍しいものに思われ、それを空想のなかで繰りかえさずにはいられないんです。ぼくはあなたのことをひと晩じゅう、まる一週間、いや、このさき一年間ずっと夢にえがいて暮すでしょう。ぼくは明日の晩きっとここへでかけてきます。かならずここへ、このおなじ場所へ、おなじ時刻にやってきます。そして前の晩のことを思いだして幸福な気分にひたることでしょう。この場所さえもぼくにとってはもうなつかしいものなのです。ぼくにはこのペテルブルクにそうした場所がもう二、三か所もあるんですよ。一度などは、あなたのように、昔を思いだして涙を流したことがあるくらいです……。あなただって、ひょっとすると、十分前には昔のことを思いだして泣いていたのかも知れませんからね……。いや、ごめんください、またすっかりいい気になってしまって、あなたは、ことによると、いつかここで、特別な幸福感を味わったことがおありなのかも知れませんね……」
「よろしいですわ」と娘はいった。「たぶん、明日の晩ここへきますわ、やっぱり九時ごろ。どうやら、あなたをおとめすることはできそうもありませんものね……。でもそれはですね、ここへこなければならない用があるからですのよ。ですからランデヴーのお約束をしたなどとお思いにならないで。これは前もっておことわりしておきます、あたしは自分の用でここへこなければならないんですから。でも……こうなったらもうはっきり申しあげますけれど、あなたがおいでになっても、別に差しさわりはぜんぜんありませんの。だいいち、また今夜みたいにいやなことが起るかも知れませんものね、でもこれは冗談……まあひと口にいいますと、ただあなたにお会いしたいんです……ひと言あなたにお話したいことがありますので。ただね、あの、あなたはあたしを悪い女だとお思いじゃないかしら? 二つ返事でランデヴーのお約束をしたなんて、どうぞお考えにならないで……。あたし、こんなお約束なんかしたくはなかったんですけど、ただ……。でもこれはあたしの秘密にしておきますわ! ただ前もってお約束していただきたいことがあるんですけれど……」
「約束ですって! 言ってください、おっしゃってください。前もってすっかりおっしゃっておいてください、ぼくはどんなことでも引受けます、どんなことでもするつもりです」と私は有頂天になって叫んだ。「ぼくは自分に対して責任をもちます――なんでもあなたのおっしゃる通りにして、礼儀をきちんと守ります……あなたはぼくをご存じでしょう……」
「知っていればこそ、明日おいでくださいと言ってるんですわ」と、娘は笑いながらいった。「あたしにはあなたという人間がようくわかっていますわ。だけど、いらっしゃるには一つ条件がありますのよ。まず第一に(ただ、どうぞお願いですから、これからお頼みすることをかならず実行なすってね――ほら、あたしずいぶんはっきり申しあげてるでしょう)あたしに恋をなさらないこと……。これだけはいけませんわ、よくって? お友達にならいつでもなりますわ、では握手しましょう……。ただ恋をなさることだけは駄目、どうぞお願い!」
「誓います」と彼女の小さな手を握りしめて、私は叫んだ。
「結構よ、誓いなんかたてなくても。だってあたしには、あなたが火薬みたいに爆発しやすいかただってことがよくわかってるんですもの。こんなことを申しあげたからって、どうぞあたしを悪くお思いにならないで。もしもあなたがご存じだったら……。あたしだってやっぱり誰も、話しかけようにもその相手が、相談相手が一人もいないんですもの。そりゃもちろん、相談相手は往来でさがすものじゃありませんけどね、あなただけは例外ですわ。もう二十年もお友達だったみたいに、あたしにはあなたがよくわかるんです。まさか裏切るようなことはなさらないでしょうね?……」
「まあ見ていらっしゃい……ただ、せめてこの一昼夜なりと無事に生きのびられるかどうか、ぼくにはどうも自信がありませんね」
「ぐっすりとおやすみになることですわ。ではおやすみなさい――あたしがあなたをもうすっかり信用していることを、どうぞお忘れなく。でもさっきのあなたの心からの叫び声はほんとによかったわ。たとえ同胞としての同情でも、いちいち他人の感情に合槌は打てませんものね! そうですわ、じつに感情のこもった言いかただったので、このかたなら信用できるっていう考えが、すぐに頭にひらめいたんですわ……」
「お願いです、なにをですか? なにがですか?」
「明日までおあずけよ。いまのところは秘密ということにしておきましょう。そのほうがあなたにとってもいいことよ。まだるっこしくても小説じみてていいじゃありませんの。ことによると、明日あなたにお聞かせするかも知れませんわ、でも、もしかすると、お聞かせしないかも知れませんし……。とにかくあなたともっといろいろお話することにしますわ、もっと親しくなるように……」
「ああ、しかしぼくは明日にも早速、自分のことをすっかり話してしまうでしょうよ! だが、これはいったいどうしたことでしょう? まるで奇蹟でも起ったみたいだ……。いったい、ぼくはどこにいるんだ? どうかお聞かせください、ほかの女《ひと》ならきっとそうしたでしょうが、いきなり腹を立てて、しょっぱなからぼくを追っぱらってしまわなかったことを、あなたは不満に思っていらっしゃるんじゃないでしょうね? たった二分間、それであなたはぼくを永久に幸福な男にしてしまわれたんです。そうですとも! 幸福な男に。まったく、ひょっとすると、あなたはぼくをぼく自身と和解させて、ぼくの疑問を解決してくださったのかも知れません……。あるいはまた、そういう時期が訪れたのかも知れませんが……。いや、とにかく明日なにもかもお話しますよ、そうすればすっかりおわかりになります、それこそなにもかも……」
「よろしいですわ、お引受けしましょう、どうぞお聞かせください……」
「承知しました」
「ではさようなら!」
「さようなら!」
こうして二人は別れた。私は夜通し歩きつづけた。思い切って家へ帰る気になれなかったのである。私は非常に幸福だった……なにごとも明日までの辛抱だ!
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第二夜
「ほら、ちゃんと生きのびられたじゃありませんの!」と笑いながら私の両手を握りしめて、彼女はいった。
「ぼくはここでもう二時間も待っていたんですよ。まる一日ぼくがどうしていたか、あなたにはとてもおわかりにならないでしょう!」
「わかってます、わかってますとも……でも、それより用件に取りかかりましょう。あたしが何故《なぜ》ここへきたか、あなたはご存じでしょうね? 昨晩みたいに、とりとめのないことをお喋《しやべ》りするためじゃないことよ。つまりこうですの――あたしたちはこれからはもっと利口にふるまわなくちゃいけませんわ。あたしはこのことを昨日、長いあいだいろいろと考えてみましたの」
「なにをです、なにをもっと利口にしなけりゃいけないんです? ぼくのほうなら、いつでも用意はできていますよ。しかし、まったくのところ、いまのように利口にふるまってることは、生まれてはじめてなくらいですがねえ」
「本当? まず第一に、お願いですから、そんなにきつくあたしの手を握らないでくださいな。それから次に、はっきり申しあげておきますけれどね、じつはあたし、今日あなたのことを長いことよく考えてみましたのよ」
「それで結論はどうなりました?」
「結論ですって? 結論はですね、はじめから全部やり直さなけりゃいけないということになりましたわ。だって最後の締めくくりとして、要するにあなたはあたしにはぜんぜん未知な人間だ、昨夜のあたしのふるまいは、まるで子供みたいな、小娘みたいなふるまいだったと、今日になって結論をくだしたんですもの。それで、もちろん、すべての罪はあたしのやさしい心にあるということになりましたの。つまり、自分を批判しようとすると決まってそういうことになるんですけれど、結局、自分で自分を賞《ほ》めたわけですわ。ですから、その間違いを訂正するために、あなたのことをことこまかく調べあげようと決心しましたの。でもあなたのことはほかに訊《たず》ねる人もおりませんので、あなたがご自分でなにもかも、くわしくすっかりお話してくださらなけりゃいけませんわよ。ねえ、あなたはいったいどういうお方なんですの? さあ早く――おはじめになって、身の上話をお聞かせくださいな」
「身の上話!」と私はびっくりして叫んだ。「身の上話ですって! いったい誰がそんなことを言ったんです、ぼくに身の上話があるなんて? ぼくには身の上話なんかありゃしませんよ……」
「それじゃどんな暮しをなさってきたとおっしゃるの、もしも身の上話がないとすれば?」と彼女は笑いながらさえぎった。
「ぜんぜんそんなことなしにですよ! よくいわれるように、一人でひっそりと暮してきたんです、つまり、まったく一人ぼっちで――一人、完全に一人きりで。わかりますか、一人きりというのがどんなことだか?」
「でも、どうして一人きりですの? するといままで誰にも会ったことがないとおっしゃるの?」
「いや、そうじゃありませんよ、会うことは会いましたがね、とにかくぼくは一人ぼっちなんです」
「それじゃ、あなたは誰とも口をおききにならないんですの?」
「厳密にいえば、誰とも口をききませんね」
「じゃいったいあなたはどんなお方なの、どうか説明してちょうだい! ちょっと待って、どうやらわかってきたようだわ。あなたには、きっと、お祖母《ばあ》さんがあおりなんでしょう、あたしと同じように。うちのお祖母さんは盲目なんです。それであたしを絶対に外へだしてくれないので、あたし、話すことをほとんど忘れてしまったくらいですわ。二年ばかり前に、あたしがあんまりいたずらをしたもんですから、これではとても手に負えないと思ったんでしょう、あたしを呼びつけて、あたしの服を自分の服にピンで留めてしまいましたの――それからというもの二人は毎日、朝から晩まで一緒にすわったっきり。お祖母さんは眼は見えませんけれど、靴下を編《あ》んでいるんです。あたしはそのそばにすわって、縫物をするか、本を読んで聞かせるか――まったく奇妙な習慣でしょう、これでもう二年もピンで留められているなんて……」
「ああ、なんてことだ、とんでもない目にあったもんですね! いや、ありません、ぼくにはそんなお祖母さんはありません」
「おありにならないとしたら、どうして家にばかりすわりこんでいられますの?……」
「あのう、あなたはぼくがどういう人間か、それをお知りになりたいんですか?」
「ええ、そうです、そうですわ!」
「厳密な意味で?」
「この上なく厳密な意味で!」
「それでは言いますが、ぼくは――そういうタイプの男なんです」
「タイプ、タイプ! タイプっていいますと?」と、まる一年間も笑う機会にめぐまれなかったように、声をあげて笑いながら娘は叫んだ。「ああ、あなたってとても愉快な方ね! ごらんなさい、ここにベンチがありますわ。掛けましょうよ! ここは誰も通りませんから、話を聞かれることもありませんわ。そして――早く身の上話をおはじめになってよ! だって、いくらないとおっしゃっても、あなたには身の上話があるに決まってますもの。あなたは隠していらっしゃるだけよ。だいいち、そのタイプってなんのことですの?」
「タイプですか? タイプってのはね――変り者のことですよ、じつに滑稽《こつけい》な人間のことです!」と、相手の子供っぽい笑い声に誘われて、自分もつい大きな声で笑いながら、私は答えた。「つまり、そういう性格があるんですよ。ところで、あなたは空想家ってものはどんなものだかご存じですか?」
「空想家ですって! まあ失礼ね、知らないはずはないじゃありませんか? そう言うあたしも空想家ですもの! お祖母さんのそばにすわっているとき、どうかすると、それこそいろんなことが頭に浮かんでくることがありますわ。そして、いったん空想をはじめると、もうすっかり考えこんじまって――そのまま、支那の王子様のところへお嫁入りでもするような気持になるんですの……。でもこれは時によってはいいものですわ――空想するってことは! でもね、ほんとは、どうだかわからないわ! とりわけ、そんなことをしなくても、なにかほかに考えることのある場合は」と今度はかなりまじめな口調で娘はつけくわえた。
「すばらしいじゃありませんか! あなたもいちど支那の皇帝のところへお嫁入りまでしたことがあるとなると、つまり、ぼくの気持も完全に理解してくださるでしょうよ。そこでですね……。しかし失礼ですが、ぼくはまだあなたのお名前をうかがっていませんでしたね?」
「まあ、いまごろになって! ずいぶん早く気がおつきになったこと!」
「ほんとに、なんてことだ! てんでそんなことには気もつかなかった、それでなくてもあんまりいい気持だったもんで……」
「あたしの名前はね――ナースチェンカですわ」
「ナースチェンカ! それだけですか?」
「それだけかですって! それだけじゃ不足だとでもおっしゃるの、まあ、なんてあなたは欲深なんでしょう!」
「不足ですって? いや十分です、十分です、それどころか、十分すぎるくらい十分ですよ。ナースチェンカ、あなたがぼくのためにいきなりただのナースチェンカになってくださったところをみると、あなたはじつに心のやさしい娘さんにちがいありませんね!」
「ほらごらんなさい! それで!」
「そこでですね、ナースチェンカ、まあ聞いてください、これからどんな滑稽な身の上話がとびだしてくるか」
私は彼女のそばに腰を下ろし、キザなくらいまじめな姿勢をとると、まるで書いたものでも読むような調子で喋《しやべ》りはじめた――
「いいですか、ナースチェンカ、あなたはご存じないかも知れませんがね、このペテルブルクには、かなり奇妙な一角があるんですよ。そういう一角に顔をのぞかせる太陽は、ほかのペテルブルクの全住民を照らしているものとはちがって、まるでそういう一角のために特に注文したような、なにかそれとはぜんぜん別な、新しい太陽みたいで、その光もそれとはちがった、一種特別な光なんです。そういう一角ではですね、ナースチェンカ、われわれのそばで沸き返っているような生活とは似ても似つかぬ、まるっきり別な生活がいとなまれているんです。それは容易ならぬ、きわめて容易ならぬこの現代の、わが国のものではなく、どこか遠い遠い不思議の国にのみありうるような生活なんですよ。しかもその生活たるやですね、なにかまるっきり幻想的な、ものすごく理想主義的なものと、見る影もない散文的な月並《つきなみ》なものとの(悲しいかな、その通りなんですよ、ナースチェンカ!)混合物なんですからね。あえて信じられぬほど俗悪なものとまでは言いませんがね」
「まあ、いやらしい! ほんとになんてことでしょう! いったいなんていう前置きですの!これからどんなお話を聞かされるか恐ろしいみたい?」
「それはですねえ、ナースチェンカ(どうやらぼくは、いくらあなたをナースチェンカと呼んでも疲れることがないようですね)それはですね、つまりそうした一角には奇妙な人たち――いわゆる空想家なるものが住んでいるんですよ。空想家というのは――もしもくわしい定義が必要なら言いますがねえ――それは人間ではなくて、いいですか、中性的な一種の存在なんですね。彼らは主としてどこか人の近づきがたい隅っこにへばりついて、まるで白昼の光線さえも避けるようにして、そこに身をひそめているんです。そしてそこに引きこもったら最後、かたつむりみたいに自分の巣にぴったりとくっついてしまう。その点、かたつむりでなければ、すくなくともあの驚くべき動物、動物でもあり同時に家でもある、あの亀と呼ばれる動物に非常によく似ています。あなたはどうお考えですか、なぜ彼らはその四囲の壁が、きまって緑色に塗られた、煤《すす》けてわびしい、見るも無残にたばこの煙でいぶされた壁が、そんなに好きでならないのでしょう? なぜこの滑稽な紳士は、数すくない知人の誰かがやってくると(結局はその知人もぜんぶいなくなってしまうんですがね)なんだってこの滑稽な男はひどくどぎまぎして顔色まで変え、すっかり取り乱してしまうんでしょう? まるでたったいまこの四つ壁のなかで犯罪でもおかしたか、贋造紙幣《がんぞうしへい》でもつくっていたか、それでなければ、この詩の作者はすでに死んでしまったが、遺稿を発表することは親友として神聖な義務であると思うと書いてある匿名《とくめい》の手紙を添えて、雑誌に送るために妙な詩でも書いていたような狼狽《ろうばい》ぶりなんですからね。まあ一つ聞かしてください、ナースチェンカ、この二人の会話がどうもしっくりとしないのは、いったいどういうわけなんでしょう? 不意を襲って相手の度胆《どぎも》を抜いた、ほかの場合ならば笑い上戸《じようご》で、気のきいた洒落《しやれ》や、女性の噂《うわさ》や、その他さまざまな愉快な話題が大好きなこの友人の口から、笑い声も聞えなければ、気のきいた洒落ひとつとびださないのはどうしたことでしょう? それから最後にですね、どうしてこの友人は、おそらくつい最近の知合で、しかもこれが最初だというのに――だってこうなったらもう二度目の訪問なんてありゃしません、この友人はもう二度とやってはきませんからね――まったくどうしてこの友人はなかなかウィットに富んでいる男なのに(もしもそんなものがあればの話ですがね)、主人の取りつく島もない顔をながめながら、もじもじしたり、しゃっちょこばったりしているのでしょう? 一方主人はまた主人で、なんとかして会話を滑《なめら》かにしたり、会話にいろどりを添えたり、こちらも進んで社交界の知識をひけらかしたり、負けずに女性の噂をもちだしたりして、せめてそういう従順さで、ひょんなことから間違ってお門違いのところへとびこんできた気の毒な客になんとか気に入られようと、いたずらに大努力をしたあげくの果てに、もうすっかり途方に暮れて、どうしたらいいかわからないという有様なんですからねえ。それから、とどのつまり、客が急に帽子をつかんで、有りもしないのっぴきならぬ用事を不意に思いだしたからといって、あわてて出て行こうとして、あらゆる努力をはらって後悔の情を披瀝《ひれき》し失敗を取り返そうと大車輪になっている主人の熱烈な握手を、どうにかこうにか振りほどくのは何故でしょう? またこの暇《いとま》をつげた友人が、ドアの外へでるが早いか、すぐにその場でこんな変人のところへなんか二度とくるもんかと固く心に誓うのは、いったい何故でしょうね? ところがこの変人は、本質的にはじつにすばらしい男なんですがねえ。ただどうもちょっとした気紛れな空想の遊戯をせずにはいられないだけのことなんですよ。たとえば、先刻の話相手の顔つきを、話し合っているあいだじゅう、間接的ながら、可哀そうな仔猫の姿になぞらえるといったようなものです。その仔猫は子供たちにもみくちゃにされ、さんざんにおびやかされ、不意討ちをくらって捕虜になったあげくに、いやというほどいじめ抜かれる。それからやっとのことで子供たちの手をのがれて椅子の下の暗がりにもぐりこみ、そこでまる一時間も暇をみては毛を逆立てたり、唸《うな》り声をあげたり、さんざんな目にあわされた鼻面《はなづら》を両手で洗ったりしなければならない。またその後も長いこと自然や生活をうらめしそうにながめずにはいられない。情ぶかい女中頭がもってきてくれたご主人の食べ残りにさえも、敵意のこもった眼をむけるということになるんです」
「あのねえ」と、眼を大きく開き、小さな口をポカンとあけて、あっけにとられてずっと私の話を聞いていたナースチェンカがさえぎった。「あのねえ、どうしてこんなことになったのか、なぜあなたがわざわざそんなおかしな質問をなさるのか、あたしにはさっぱり見当がつきませんわ。でもあたしに一つだけはっきりとわかっているのは、そうした妙な出来ごとはきっとあなたの身の上に実際にあった話にちがいないってことです。一言一句の違いもなく」
「疑問の余地はありませんね」と私はしごくまじめな顔つきで答えた。
「そう、もしも疑問の余地がないなら、どうぞ先をおつづけになってくださいな」とナースチェンカは答えた。「だってあたし、そのお話の結末をとても知りたくてならないんですもの」
「それじゃ、ナースチェンカ、あなたはわれらの主人公が、いや、それよりもぼくがと言ったほうがいいでしょう、何故なら事件の主人公は――このぼくなんですからね――で、ぼくが自分の片隅でなにをしたかお知りになりたいというんですね? 友人の不意の訪問のために、ぼくがまる一日なぜあんなにもあわてふためき、途方に暮れたかを、お知りになりたいというんですね? 部屋のドアが開いて友人がはいってきたとき、なぜぼくが思わずとびあがって、なぜパッと顔を赤らめたか、なぜぼくが客をもてなすすべも知らず、自分自身のもてなしの重圧に屈して、かくも恥さらしの敗北を味わったのか、あなたはその理由《わけ》を知りたいというのですね?」
「ええ、そうよ、そうなのよ!」とナースチェンカは答えた。「その点が問題ですわ。ねえ、いいこと、あなたのお話はとてもすてきですわ。でもなんとかそんなに言葉を飾らずにお話してくださるわけにいきませんかしら? でないと、あなたのお話はまるで本でも読んでいらっしゃるみたいなんですもの」
「ナースチェンカ!」やっとのことで笑いをこらえて、私はもったいぶった、きびしい声で答えた。「ああ、ナースチェンカ、ぼくは自分が言葉を飾って話していることを知っています。しかし――失礼ですが、ぼくにはこれよりほかの話し方はできないんですよ。いまのぼくは、ねえ、ナースチェンカ、いまのぼくは七つの封印をほどこされて、千年ものあいだ箱の中に閉じこめられていて、やっとのことでその七つの封印を取り除かれたソロモン王の霊みたいなもんですからね。ですから、ねえ、ナースチェンカ、あれほど長い別離の後で、二人がふたたびめぐりあったいま――だってぼくはもうずっと前からあなたを知っていたんですよ、ナースチェンカ、なにしろぼくはもう長いこと誰かを探し求めていたんですから、これこそほかならぬあなたを探し求めていた証拠です、二人がいまここでめぐりあうように運命づけられていた証拠です――それでいまやぼくの頭の中にある数千の蓋《ふた》が一度にパッと開いたというわけなんですよ。だからぼくは大河のような言葉を吐きださずにはいられないんです、でないと息がつまってしまいますよ。そういうわけですから、どうぞぼくの話の腰を折らないでください、ナースチェンカ、そしておとなしくじっと聞いていてください。さもないと――ぼくは口をつぐんでしまいますよ」
「ええ、いいですわ、いいですわ! 絶対に! もうひと言も口をききませんから」
「では、つづけます。いいですか、ナースチェンカ、ぼくには一日のうちにとても好きな時間があるんですよ。それはですね、ほとんどあらゆる種類の仕事や、お勤めや、義務がすんで、みんなが食事と横になって休息するためにそれぞれの家へと急ぐ、そして歩きながらさっそく、その晩とその夜、つまり残された自由な時間について、てんでに昼間とまるでちがった愉快なテーマをあれこれと考えだす、あの時間です。その時刻になるとわれらの主人公も――ねえ、ナースチェンカ、もうそろそろ三人称で話してもいいでしょう、だってこんなことを一人称で話すのはひどく気恥ずかしいですからね――さてそこで、この時刻になると、多少の仕事がなくもなかったわれらの主人公も、みんなの後からぶらぶらと歩いていきます。しかしその蒼白《あおじろ》い、いくらか疲れのでた顔には奇妙な満足感が浮かんでいるのです。冷たいペテルブルクの空にゆっくりと消えていく夕映えを、彼は無関心でもなさそうな様子でながめます。いや、ながめるといっては――嘘になります。彼はながめるのじゃありません、ぐったりと疲れているか、あるいはなにかほかの、もっと興味のあるものに気でも取られているように、なんとなくぼんやりと眼をむけているだけなのです。だからときどきチラリと、ほとんど無意識に周囲のあらゆるものに眼を走らせるのがせいぜいというところなんですね。彼は自分にとっていやでたまらない仕事《ヽヽ》と明日まで縁切りになったことで満足し、教室のベンチから解放されて大好きな遊戯やいたずらをしに走る小学生みたいに、大喜びなんです。まあ、彼のようすを横の方から見てごらんなさい、ナースチェンカ、その喜びの感情が彼の弱い神経や、病的にいらだっている想像力に、早くも幸福な作用をあたえていることが、あなたにはすぐにおわかりになるでしょう。ほら、彼はなにか深く考えこんでしまいました……。食事のことだと思いますか? それとも今晩のことでしょうか? 彼はいったいなにを見ているのでしょう? 快速の馬をつけたすばらしい馬車に乗ってそばを通り過ぎた貴婦人にむかって、絵から抜けだしたような優美な姿で頭を下げた、あの堂々とした風采《ふうさい》の紳士でしょうか? ちがいます、ナースチェンカ、いまの彼にはそんなつまらないことには用はありません! 彼はいまやすでに|自分の一種独特な《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》生活によって豊かな人間なのですからね。彼はどうした加減かとつぜん富者になってしまったのです。消えゆく太陽の名残《なご》りの光線が、かくも楽しげに彼の前にひらめいたのも決して無駄ではありませんでした。それは彼の暖められた心から無数の印象を引きだしてくれたのですからね。前にはどんなつまらないことでも彼に強い印象をあたえることのできた道にすら、いまの彼はほとんど注意をはらわないくらいです。いまや『空想の女神』は(ジェコーフスキーの詩をお読みならばおわかりでしょうよ、ナースチェンカ)、気紛れな手で早くもその金色の経糸《たていと》を織りはじめ、彼の眼の前に見たことも聞いたこともない、あやにおかしき人生の絵模様を繰りひろげはじめたのです。そして、ことによると、この女神はいま彼が家路をたどっているすばらしい花崗岩《かこうがん》の歩道から、そのまま彼をその気紛れな手で第七天国の水晶宮へと連れていったかも知れません。まあ試《ため》しにいま彼を呼びとめて、あなたはいまどこに立っているか、どんな道を通ってきたかと、だしぬけにたずねてごらんなさい。おそらく彼は、どこをどう通ってきたかも、いまどこに立っているかも、まるっきり思いだすことができずに、いまいましさに顔を赤らめ、体裁《ていさい》をつくろうために、きっとなにか口から出まかせのことを言うにちがいありません。ですから、一人の非常に上品な老婦人が歩道の中央で礼儀正しく彼を呼びとめ、道に迷ったので教えてほしいと頼んだとき、彼が思わずドキリとして、おびえたようにあたりを見まわしあやうく声を立てようとしたのも、そんなわけだったからなのです。いまいましさに顔をしかめて、彼はなおも先へと歩いてゆく。通行人が一人ならず彼をながめてニヤニヤ笑い、通り過ぎてからうしろを振り返ったり、またどこかの小さな女の子が、彼の開けっぴろげな瞑想《めいそう》的な微笑と妙な手つきに驚きの眼をみはり、彼のためにおっかなびっくり道をゆずり、急に大きな声で笑いだしたのにも、ほとんど気がつかない有様です。しかしながら、相変らず例の空想は、その老婦人も、物好きな通行人も、笑っている少女も、フォンタンカを(まあかりに、そのときわれらの主人公がそのそばを通りかかったことにしておきましょう)いっぱいにみたしているそれぞれの艀《はしけ》の上で、ちょうど夕食最中の百姓どもも、ぜんぶ一まとめにしてそのおどけた翼《つばさ》に乗せ、まるで蜘蛛の巣にひっかかる蠅《はえ》のように、ありとあらゆるものをふざけ半分に自分のカンヴァスに織りこんでいきます。こうした新しい収穫をたずさえてその変人は早くも自分の楽しい穴にもぐりこみ、そそくさと食卓につく。そしてもうとっくに食事をすませて、食卓のサーヴィスをしてくれる、いつもなにか考えこんだように年がら年じゅう悲しげな顔をしている女中のマトリョーナが、もうすっかりテーブルの上を片づけて、パイプをだしてくれたとき、彼はやっとのことでハッとわれに返るのです。ハッとわれに返って、もう食事がすっかりすんでしまったことを思いだし、思わずびっくりするが、どうしてそうなったのかいくら考えてもわからないという始末なんです。部屋の中はもう暗くなっている。そして彼の胸中は空虚で、なんとなく物悲しい。空想の王国が彼の周囲で完全に崩れ去ったのです。跡かたもなく物音ひとつ立てずに崩れ去り、夢のように消え去ってしまったのです。しかも彼はなにを夢見たのか、自分でも覚えがないときています。しかしなにかぼんやりとした感覚があって、そのために彼の胸はかすかに疼《うず》き、なんとなく落着きません。なにか新しい願望が誘惑するように彼をくすぐり、その空想をいらだたせ、自分でも気がつかないうちにまた無数の新しい幻想を呼び集める。小さな部屋の中には静寂がたちこめている。孤独と怠け心がやさしく彼の空想を撫《な》でさする。すると空想はかすかに燃えあがり、やがて老女中マトリョーナのコーヒー・ポットの中の水のように、しだいに沸きたってくる。マトリョーナは隣りの台所で自分のコーヒーを沸かしながら、なんの屈託もなくいそいそと働いています。そうこうしているうちにその空想は早くもグツグツと沸き返り、なんの目的もなくでたらめに取りあげた本は、三ページも読まないうちに、わが空想家の手からばたりと落ちてしまう。彼の空想はふたたび調子を取り戻し、刺激され、不意にまた新しい世界、新しい、魅惑的な生活が、彼の眼の前の輝かしい遠景の中にひらめく。新しい夢――新しい幸福! デリケートな、心をとろかすような毒薬がふたたび服用されたのです! おお、彼にとってわれわれの現実生活がなんでありましょう! 空想のとりことなった彼の眼から見ればですね、ナースチェンカ、ぼくやあなたなんかは、じつに怠惰な、のろのろとした、元気のない生活を送っているんです。彼の眼から見ればわれわれはみんな自分たちの運命に不満で、自分たちの生活にうんざりしているんですよ! それに実際、まあ見てごらんなさい、正直なところわれわれのあいだにあるものはなにもかも、ちょっと見たところ、まるで怒ってでもいるように、冷たく、気むずかしい顔をしているじゃありませんか……。『可哀そうな奴らだ!』とわれらの空想家は考える。まったくそう考えるのも決して不思議じゃありません! まあ彼の眼の前の魔力にみちた、いきいきとした画面に、じつに魅惑的に、心の赴くままに、果《はて》しなくひろびろとくりひろげられた、この魔力的な幻影を見てごらんなさい。その前景の中心人物となっているのは、もちろん、彼自身、貴重な人格をそなえたわれらの空想家なんです。まったく、なんという変化に富んだ冒険、なんという歓喜にあふれた幻想の無限の集積でしょう。ことによるとあなたは、いったい彼はなにを空想しているのかとお尋ねになるかも知れません。だがそんなことを尋ねてなにになりましょう! ありとあらゆることについて空想するんですからね……はじめは認められなかったが、後に月桂冠を授けられた詩人の役割、ホフマン(ドイツの小説家、一七七六−一八二二)との友情、聖バーソロミューの夜、ディアナ・ヴェルノン(英国の作家ウォルター・スコットの作中の人物)、イワン・ヴァシーリエヴィチ雷帝のカザン占領の際の英雄的役割、クラーラ・モーヴライ(スコットの小説の主人公)、エフフィヤ・デンス(スコットの小説の主人公)、大僧正の集会とその前に立つフッス、歌劇ローベルト(ドイツの作曲家マイエルベールのオペラ)の中の亡者どもの一揆(あの音楽を覚えていますか? まさに墓場の匂いがするじゃありませんか!)、ミンナ(ジュコーフスキーの詩の主人公)とブレンダ(コズロフの詩の主人公)、ベリョージナ河の戦闘、V・D伯爵夫人(ヴォロンツォーヴァヤ・ダシコヴァヤ夫人一八一八−一八五六)のサロンでの詩の朗読、ダントン(フランスの革命運動家一七五九−一七九四)、クレオパトラとその恋人(Kleopatra e i suoi amanti)、コロムナの小さな家(いずれもプーシキンの作品よりの引用)、自分の片隅、そしてそのそばには美しい少女が冬の夜、小さな口をポカンと開け眼を輝かして彼の話を聞いている、丁度いまあなたがぼくの話を聞いているようにですね、ぼくの可愛《かわい》い天使……。いいえ、ナースチェンカ、彼にとっては、この情熱的な怠け者にとっては、ぼくやあなたがこんなにも憧《あこが》れているあの生活なんか、まるで問題じゃないんですよ! 彼はそんなものは貧弱な、みじめな生活だと思っています。そして彼にとっても、ことによると、いつかは必ず悲しみの瞬間がやってくる、このみじめな生活のたった一日のために、自分の幻想的な長い年月を、しかも喜びのためでもなく、幸福のためでもなく、ぜんぶ投げだすことになろうなどとは夢にも気がつかないんですからねえ。そしてこの悲しみと、後悔と、取り返しのつかない嘆きの瞬間には、彼はいまさら選択なぞする気にはなれないのです。しかしいまのところはまだそれは、その恐ろしい瞬間はやってこない――そこで彼はなにひとつ希望しようとはしない。なぜならば、彼は希望を超越しているからです、彼にはすべてが備わっているからです、充ち足りているからです、また彼自身がその生活の芸術家であり、時々刻々、自分の新しい希望どおりに生活を創造しているからなんです。なにしろそのお伽噺《とぎばなし》のような、空想の世界たるや、じつに簡単に、じつに自然に創造されるんですからね! まるでなにもかもまるっきり幻影でないみたいなんですからね! まったくのところ、どうかすると、その全生活が感情のいらだちでもなく、蜃気楼《しんきろう》でもなければ、想像の錯覚でもなく、それこそ本当に現実的な、真実であり、実在しているものと信じたいくらいなんですよ! ひとつおうかがいしますがねえ、ナースチェンカ、いったいどうして、どういうわけでそんな瞬間には、息がつまりそうになるんでしょう? なにか知らない魔力にでもあやつられたように、なにか未知のものの気紛れにでも踊らされているように、自然に脈が早くなり、空想家の眼から涙がほとばしり、涙にぬれた蒼白い頬は燃え、全身がどうにもならない喜びでみたされるのは、いったいどういうわけでしょうか? 眠られぬ夜なが、限りない喜びと幸福のうちに一瞬のごとくに過ぎ去り、朝焼けがばら色の光を窓に投げかけ、朝の光線がわがペテルブルクの常として、そのおぼつかない幻想的な光で陰気な部屋を照らしはじめるころ、身も心もくたくたに疲れたわれらの空想家は、やっとのことでベッドにとびこみ、病的な強い精神的ショックを受けた喜びに気も絶えだえになり、悩ましいほど甘い痛みを胸にいだいたままとろとろとまどろむのですが、これはいったいどういうわけでしょうかね? まったく、ナースチェンカ、そうなるとついだまされて、知らない人なら彼の心を掻き乱しているのは現実の、真の情熱であると信ぜざるを得なくなります。彼のとらえどころのない幻想の中には、手で触れることのできる、生命の通ったものが存在していると、つい信じこみたくなります! ところが、これこそとんでもない錯覚なんですよ――まあ、たとえばですね、つきない喜びと悩ましい苦しみをともなった愛の火が彼の胸にともったとします……。彼の様子をちらりと見ただけでも、なるほどそれに違いないと思われるほどです! それなのにですねえ、ナースチェンカ、彼がその狂熱的な空想の中でそれほど恋いこがれている女性を、現実にはまだ一度も見たことがないのだなんてことが、彼の様子を見てはたして信じられるでしょうか? はたして彼は魅惑的な幻の中でその女性を見たに過ぎないのでしょうか、その情熱も単なる夢の中の出来ごとに過ぎないのでしょうか? 現実的にもこの二人はもう何年ものあいだ、手に手を取り合って人生の道を歩み続けてきたのではないでしょうか――二人っきりで、俗世間から離れて、それぞれが自分の世界、自分の生活を相手の生活としっかりと結びつけて? 夜が更けて、いよいよ別れの時刻が迫ってきたとき、彼の胸に倒れ伏し、やるせなさに声をあげて泣き、険悪な空の下で吹きすさぶ嵐の音も耳にはいらず、風がその黒い睫毛《まつげ》から涙の玉をもぎとり、吹き散らすのにも気がつかずにいたのは、はたして彼女ではなかったでしょうか? なにもかも夢に過ぎなかったのでしょうか――淋しい、荒れはてた、不気味なあの庭も! そこには苔《こけ》むした、人気《ひとけ》のない、陰気な小径《こみち》があり、あんなにもたびたび二人きりでその小径を歩きまわり、希望をいだいたり、悲しい思いにひたったり、あれほど長いこと、『あれほど長いことやさしく愛し合った』あの庭。またあの奇妙な曾祖父の代からの家。やるせない気持でびくびくしながら自分の恋心を互に秘《ひ》め合っていた、まるで子供のように臆病な二人をおびやかす、年中むっつりと黙りこんでいる癇癪《かんしやく》もちで、気むずかしやの年をとった亭主と一緒に、彼女があれほど長いあいだ淋しい、悲しい生活をつづけてきたあの家も? 二人はどんなに苦しみ、どんなに恐れ、二人の恋はどんなに清浄無垢《むく》なものだったか、そしてまた(これはもう言うまでもないことですがね、ナースチェンカ)世間の人たちがどんなに意地悪であったことか! そしてどうでしょう、その後でまた彼は彼女にめぐり会うんですよ、故国の岸から遠く離れた、灼熱《しやくねつ》の南方の異国の空の下、あの驚くべき永遠の都ローマでね。きらめくばかりの舞踏会、ひびきわたる音楽のひびき、灯火の海に沈んだ宮殿(どうしても宮殿《パラツツオ》でなければいけません)、木犀草《もくせいそう》とばらがいちめんにからんでいるバルコン。そのバルコンで彼女は彼に気がつくと、あわててその仮面《マスク》を脱ぎすて『あたしはもう自由の身なのよ』と囁《ささや》くが早いか、全身をふるわせて、いきなり彼の抱擁《ほうよう》の中に身を投げる。そして喜びの声をあげ、互にひしと抱き合うと、二人はたちまち悲しみも、別離も、すべての苦しみも、遠い故国のあの陰気な家のことも、老人のことも、淋しい庭のことも、その上で熱い最後の接吻をかわし、絶望的な苦しみに麻痺《まひ》した彼の抱擁から身をもぎはなしたあのベンチのことも、すっかり忘れてしまいます……。ところがどうでしょうね、ナースチェンカ、その折も折、どっかののっぽでがっしりとした体格の男が、つまり陽気でお喋《しやべ》りの、呼んだ覚えもない友人が、ひょっこりドアを開けてはいってくる、そして『ぼくは、ねえ君、たったいまパーヴロフスクから着いたところさ!』なんて、まるで何事もなかったような調子でわめかれてごらんなさい。こっちは隣りの庭から盗んできた林檎《りんご》を、たったいまポケットに突っこんだばかりの小学生みたいに、思わずとびあがってどぎまぎしながら顔を赤らめずにはいられませんよ。まったくなんてことです! 老伯爵が死んで、やっとのことで筆紙につくしがたい幸福がめぐってきたというのに――パーヴロフスクからなにもわざわざやってくることはないじゃありませんか!」
私はこうした哀切な叫声を叩きつけると、悲壮な顔つきをして口をつぐんだ。私はなんとかして無理に大声をあげて笑いたくてたまらなくなったことを覚えている。私は早くも自分の内部で妙に意地の悪い小悪魔がゴソゴソ動きはじめた気配《けはい》を感じていたからである。早くものどがムズムズしはじめ、下顎は踊りだそうとして、眼はいよいようるみを帯びてきた……。私は、利口そうな眼をいっぱいに開いてじっと私の話を聞いていたナースチェンカが、いまにもその子供っぽい、どうにも抑えきれない快活な笑いを爆発させるにちがいないと覚悟していた。そしてあまりにも深入りし過ぎたことを、またずっと以前から私の胸の中につもりにつもっていて、まるで書いたものでも読むように話すことのできることを、あさはかにもベラベラと喋《しやべ》ってしまったことを、早くも後悔しはじめていた。なにしろ私はもうずっと前から自分に対する宣告文を準備していたので、こうなってはどうにも我慢ができず、それを読みあげずにはいられなかったのである。だが正直なところ、私の気持が理解してもらえるとは期待してはいなかった。ところが、驚いたことに、彼女は沈黙をまもっていた。そしてしばらくしてからそっと私の手を握りしめると、なにか妙におずおずした同情のこもった調子でたずねた――
「じゃ本当にあなたはそんなふうにいままでずっと暮していらっしゃったの?」
「ええ、いままでずっとね、ナースチェンカ」と私は答えた。「いままでずっと、そしてどうやら、これからもそれで押し通すらしい!」
「いいえ、それはいけませんわ」と彼女は不安そうにいった。「そんなことをしちゃ駄目よ。それなら、もしかすると、あたしだってお祖母《ばあ》さんのそばで一生暮すことになるかも知れないわ。ねえ、そんなふうに暮すのはほんとによくないことだと思いません?」
「わかってます、ナースチェンカ、わかってますよ!」とそれ以上どうにも自分の感情を抑えることができずに、私は叫んだ。「いまこそこれまでになくはっきりと思い知らされましたよ、自分の生涯でも最良の何年かをぼくはみすみす失ってしまったんだ! いまこそそれがよくわかりました、そしてその意識のために余計胸の痛みが身にしみるというわけです。だって神様がぼくのためにあなたを送ってくださったんですからね、ぼくにそのことを話して証明させるために、あなたのようなやさしい天使を送ってくださったんですからね。いまこうしてあなたのそばにすわって、あなたと話をしていると、未来のことを考えるのがなんだかひどく恐ろしいみたいです。だって未来もやっぱり――例のあの孤独、あのかびくさい、なんの役にも立たない生活の連続なんですからね。それにこうしてあなたのそばにいると現実にこんなにも幸福なんですから、なにもいまさら空想することなんかありませんよ! おお、どうかあなたに天の恵みがありますように、あなたは本当にやさしい娘さんです。だってあなたはぼくを頭からしりぞけようとなさらなかったんですからね、自分の生涯でたとえ二晩でも本当に生きたと、いまこそぼくははっきりと言うことができるんですからね!」
「いいえ、ちがいます、ちがいます!」とナースチェンカは叫んだ。そしてその眼にキラリと涙が光った。「いいえ、もうそんなことはありません。もう二人は別れるもんですか! いやですわ、二晩だけなんて!」
「ああ、ナースチェンカ、ナースチェンカ! おわかりですか、これからさきどんなに長いことあなたがぼくを自分自身と和解するようにしてくれたか? おわかりですか、ぼくがもうこれからは自分のことを、いままでどうかすると考えたように、ひどい悪者だと思わなくってもすむことが? ねえ、そうでしょう? ぼくはもう、ことによると、これからは自分の生涯で犯罪をおかした、罪なことをしたなんてこれ以上思い悩まなくてもすむかも知れないんですよ。だってこんな生活はまさに犯罪ですからね、罪ですからね。ぼくがなにか特に誇張しているなんて、どうか考えないでください。お願いですからそんなことは考えないでくださいよ、ナースチェンカ。なにしろぼくはどうかするとひどい、それこそじつにひどい、やるせなさに襲われることがあるんです……。それというのも、そういうときには自分には真の生活をはじめる能力がぜんぜんないような気がしてくるからなんです。真の、現実的なものに対するコツを、カンをすっかり失くしてしまったような気がするからなんです。そして結局は、自分自身を呪《のろ》うのが落ちだからです。何故《なぜ》かといえば、こうした幻想的な幾夜かが過ぎると、今度は覚醒の時期がやってくるからなんですがね、それがまたじつに恐ろしいときています。しかも自分の周囲では世間という大群集が生活の嵐の中で、大きな音をたてキリキリ舞いをしているのが聞える。世間の人たちが生きているのが――現実に生きている気配が感じられ、眼にはいってくる。生活は彼らにとっては注文されたものではない、彼らの生活は夢やまぼろしのように雲散霧消するものではなく、その生活は永遠に更新され、永遠に若々しく、その一刻一刻は決して他の一刻と同じものではないということが、はっきりとわかる。ところが臆病な空想の生活は陰気で、俗悪なほど単調きわまるものです。それは影の奴隷、観念の奴隷、だしぬけに太陽をおおい隠して、自分の太陽をあれほど大切にする、真のペテルブルクの住人の胸をやりきれぬ思いで締めつける最初の雲の奴隷なのです――いったんそんなやりきれない気持になったら最後、空想もへちまもあったもんじゃありませんよ! そしてついにその空想が疲れはて、不断の緊張にこの|尽きることなき《ヽヽヽヽヽヽヽ》空想の泉が涸渇《こかつ》してゆくのが感じられます。それは自分がしだいに成長して、以前の理想の殻から脱けだしてゆくからです。古い理想は粉々になって砕けとんでしまう。そこでもしもほかの生活がなかったら、その破片の中からそれを築きあげなければならなくなります。だが一方ではその心はなにか別なものを望み、求めてやまないのです! そこで空想家は灰の中を掻きまわすように、自分の古い空想の数々を掘り起して、その灰の中にせめて火の粉なりとも探しだし、火種《ひだね》に息を吹きかけ、あらたに燃えあがる火で自分の冷えきった心を温《あたた》めようといたずらに努力をかさねる。かつてあれほどなつかしいと思ったもの、心を動かされたもの、血を湧きたたせたもの、眼から涙をしぼりださせたもの、じつに見事な欺かれ方をしたものなど、そうしたありとあらゆるものをその胸にふたたび復活させようというわけです! ところでですねえ、ナースチェンカ、ぼくが結局どんな立場に追いこまれたかあなたはご存じですか? いいですか、ぼくはとうとう自分の感覚の一周年記念を催さなければならない羽目《はめ》に追いこまれてしまったんですよ、以前あれほどなつかしいと思ったものの、しかも実際にはぜんぜん存在しなかったものの一周年記念をね。だってその一周年記念は例によってやはりあの馬鹿げた、雲をつかむような空想の世界を対象に取り行われることになっているんですからね。それでもなおそれをしなければならないのは、そうした馬鹿げた空想は実在のものではないので、それを追い払う方法がないからなんですよ。だって空想もやはり長い生命をもっていますからね! それでいまのぼくはですね、自分なりにぼくがかつて幸福であったと思う場所を思いだして、一定の時期にそこを訪れるのが好きなんです。二度と返らぬ過去に調子をあわせて、自分の現在を築きあげるのが好きなんですよ。それで目的もなく、またその必要もないのに、ぼくはまるで影のように、しょんぼりとわびしげな姿で、ペテルブルクの街々や暗い小路をよくさまよい歩くんですよ。その思い出のすばらしさ! たとえば、ちょうどいまから一年前、ちょうどいま時分、時刻もいまと同じころ、ここを、この同じ歩道をさまよい歩いたことが思いだされる。そのときもいまとまったく同じように孤独で、しょんぼりとしていたっけ! そしてそのときの空想もやはり物悲しいものであったことを思いだす。以前だってなにも格別いいことはなかったのに、なんだかいまよりずっと楽で、落着いて暮らせたような気がしてならない。いま自分の心にからみついて離れないこの暗い物思いもなければ、この良心の苛責《かしやく》も、昼となく夜となくすこしも心を休ませてくれない、いまわしい、陰気な良心の苛責もなかったような気がする。そこで思わず自分に問いかける――いったいおれの夢はどこへ行ってしまったのだ? そして頭を振りながらつぶやくのです――月日のたつのはなんて早いものだろう! それからまた自分に問いかける――いったいお前は自分の年月をどうしてしまったのだ? 自分の最良の月日をどこへ葬ってしまったのだ? お前ははたして生きていたのか、どうなのだ? そして自分に言い聞かせる――いいか、気をつけるんだぞ、世間はだんだん冷《つめ》たくなってゆくんだからな。さらに何年かたつと、その後にゆううつな孤独がやってくる、松葉杖《まつばづえ》をついてヨタヨタの老年がやってくる。そしてその後につづくものはわびしさと気落ちです。お前の幻想の世界は影がうすれ、お前の空想は萎《な》えしおれ、秋の枯葉のように散ってしまう……。ああ、ナースチェンカ! 一人っきりになる、それこそ完全に一人ぼっちになって、いとおしむものさえもたない――なにひとつ、全くなにひとつもたないということは悲しいことじゃありませんか……なにしろ、失ったものはすべて、それこそなにもかも、みんな無であり、ばかばかしい、まるっきり無価値なもので、すべてはただの夢に過ぎなかったのですからねえ!」
「ねえ、あたしに涙を流させるのはもうやめにしてちょうだい!」と眼からこぼれ落ちた涙の玉をぬぐいながら、ナースチェンカはいった。「もうこれで話は決まったのよ! こうなったらもう二人はいつも一緒、たとえあたしにどんなことがあっても、あたしたちはもう決して別れることはないんですわ。ねえ、聞いてちょうだい。あたしは無教育な娘ですわ。お祖母《ばあ》さんは家庭教師を雇ってくれましたけど、あたしはあんまり勉強はしませんでした。でもあたしには、あなたのおっしゃることがほんとによくわかるんです。だっていまあなたが話してくださったことは、お祖母さんがあたしの服を自分の服にピンで留めたとき、自分で身にしみて経験したことなんですもの。そりゃもちろん、あたしにはあなたみたいに上手にはお話できませんけれど。あたしには学問がないんですもの」と彼女は臆病そうに付け加えた。私の悲壮な話しぶりともったいぶった言葉に、いまだになにか尊敬に似た感情をいだかされていたからである。「ですけど、あなたがすっかり打ち明けてくださったので、あたしはとても嬉しいわ。これであなたって方がよくわかりましたわ、すっかり、なにもかもよくわかりました。それで、どうでしょう? あたしもあなたに自分の身の上話をしようと思うんですけど、なにもかもかくさずに。その代りそれがすんだらあたしに忠告をしてくださるのよ、あなたはとても頭のいい方ですもの、忠告をするとお約束してくださいますわね?」
「ああ、ナースチェンカ」と私は答えた。「ぼくはまだ一度も人に忠告なんかしたことはないし、気のきいた忠告なぞできっこありませんけど、しかしこれだけはわかりますね。もしも二人がこれからずっとこんなふうに暮していったら、それはなにか非常に賢明なことにちがいないし、またお互にとても気のきいた忠告をし合うにちがいありませんよ! ところで、ねえナースチェンカ、いったいどんな忠告をしてほしいというんですか? ひとつざっくばらんに言ってください。いまのぼくはじつに明るい気持で、幸福で、大胆で、頭がよく働いていますからね、言葉につまるようなことはありませんよ」
「いいえ、いいえ!」とナースチェンカは笑い声をあげてさえぎった。「あたしに必要なのは気のきいた忠告だけではなくって、心のこもった、親身の忠告が必要なのよ、いままでずっとあたしを愛していらしたような!」
「いいですよ、ナースチェンカ、いいですとも!」と私は有頂天になって叫んだ、「ぼくがこれまで二十年もあなたを愛しつづけていたにしても、いまより強く愛してることはなかったでしょうよ!」
「握手しましょう!」とナースチェンカがいった。
「よしきた!」と私は手をさしのべて答えた。
「それじゃ、あたしの身の上話をはじめることにしますわ!」
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ナースチェンカの物語
「あたしの身の上話の半分はあなたはもうご存じですわね、つまりあたしに年とったお祖母さんがあるってことはご存じでしょう……」
「もしも後の半分もそれくらい短いものだったら、それは……」と私は笑って相手をさえぎろうとした。
「黙ってお聞きになって。いちばんはじめにお約束してくださいね、あたしの話の腰を折らないって。でないと、まごついてしまうかも知れませんもの。じゃ、おとなしく聞いているのよ」
「あたしには年とったお祖母さんがあるんです。あたしがお祖母さんの所に引き取られたのは、まだとても小さい子供の時分でしたわ、だって父も母も亡《な》くなってしまったんですもの。お祖母さんは昔はずっと金持だったにちがいないわ、いまでも昔のよい暮しをしていたころのことをよく思いだすところを見ますとね。あたしにフランス語を教えてくれたり、後になって家庭教師を雇ってくれたりしたのは、このお祖母さんなんです。あたしが十五になったとき(あたしはいま十七になるんですけど)勉強はおしまいになりました。あたしがいたずらをしたのは、ちょうどそのころのことなんです。あたしがどんなことをしたか――それをお話するのはやめにしますわ。大したことではなかったというだけで十分よ。ただね、ある朝お祖母さんはあたしを呼びつけて、自分は盲目だから、とても監督がしきれないといって、ピンを取りだして、あたしの服を自分の服に留めてしまったんですの。そしてお前がいい子にならない限り、一生こうして暮すんだと宣告したんです。それでひと口にいえば、はじめのうちはどうしてもそばを離れるわけにはいかなくって、お仕事をするのでも、本を読むのも、勉強をするのも――みんなお祖母さんの脇につきっきりなんですのよ。でも一度あたしはずるいことを考えて、フョークラを拝み倒してあたしの代りに坐ってもらったことがあるんです。フョークラってのは――うちの女中なんですけれど、つんぼなんですの。それでフョークラがあたしの代りに坐ってくれました。そのときちょうどお祖母さんは肘掛《ひじかけ》椅子で居眠りをはじめたので、あたしは近くのお友達のところへ遊びにでかけました。ところが結局、失敗に終ってしまったんです。お祖母さんがあたしが帰らないうちに眼をさまして、なにかきいたんです。あたしがずっとおとなしく元の場所にすわっていると思ったんですのね。フョークラはお祖母さんがなにかきいているとは感づいたものの、なにしろなんにも聞えないもんですから、どうしたらいいかと散々考えたあげくに、そっとピンを抜きとって、そのまま逃げだしてしまったんです……」
ここでナースチェンカは言葉を休めて、愉快そうに笑いだした。私も一緒に笑いだした。だが彼女はすぐに笑いやめた。
「ねえ、お祖母さんのことを笑うのはやめて。あたしが笑っているのは、ただおかしいからなのよ……。だって仕方がないじゃありませんか、お祖母さんたら、ほんとにその通りなんですもの。でもねえ、あたしはやっぱりお祖母さんが少しは好きなのよ。それで、そのときも散々|叱《しか》られて、すぐにまた元の場所に坐らせられて、今度はもうそれこそ身動き一つできなくなったというわけ」
「それから、も一つ言い忘れたことがあるんですけど、あたしたちの、いえつまり、お祖母さんの家は自分の家だったんですの。といっても小っぽけな、窓が三つしかない、ぜんぶ木造の、お祖母さんと同じくらい古ぼけた家なんですけどね、それでも上に中二階がついていますの。ところがその中二階に新しい間借人が引っ越してきたのよ」
「というと、古い間借人もいたというわけですね?」と私はさりげなく口をはさんだ。
「ええ、もちろん、いましたわ」とナースチェンカは答えた。「あなたよりちゃんと口をつぐんでいることのできる人がね。もっとも、やっと口がきけるかきけないかという人にはちがいありませんでしたけど。その人は乾《ひ》からびたようなおじいさんで、おまけに唖で、盲目で、びっこときているので、結局この世に生きていることができなくなって、死んでしまいましたわ。それで新しい間借人が必要になったわけなんですの。だって部屋を貸さなければ暮しがたちませんものね。この部屋代とお祖母さんの年金があたしたちの収入のほとんど全部なんですから。ところがこの新しい間借人が、まるでわざとのように、若い人だったんです。ここの人じゃなくて、ほかの土地からきた人なんですけれど。その人が部屋代のことをとやかく言わなかったので、お祖母さんも入れることにしたのでしょうが、後になってこんなことをきくんですのよ――『ねえ、ナースチェンカ、今度の人は若い人かい、それとも年寄りかい?』ですって。あたしは嘘はつきたくなかったので――『ええ、そうよ、お祖母さん、そんなに若いというほどじゃないけど、でも、年寄りじゃないわ』って言いました。『それで、見たところ気持のよさそうな人かい?』とまた追いかけるようにお祖母さんがきくじゃありませんか」
「あたしは今度も嘘はつきたくありませんでした。だから『ええ、見たところ気持のよさそうな人よ、お祖母さん!』といいました。するとお祖母さんはこんなことをいうんですの――『ああ! なんてことだ、なんてことだ! わたしがこんなことをいうのはね、ナースチェンカ、お前がその人の顔をじろじろ見ないようにと思ってなんだよ。まったく世も末だね! たかがつまらない間借人のくせに、人並に気持のいい様子をしているなんて。昔とは大違いだよ!』――」
「お祖母さんにはなんでも昔のほうがいいんです! 昔は年だっていまより若かったし、太陽だっていまよりは暖かかったし、クリームだって昔はこんなに早く酸《す》っぱくならなかったもんだ――なんでもかんでも昔は昔はなんですからね! あたしは坐ったまま、なにもいわずに考えていました。なんだってお祖母さんは自分のほうからあんなことを言いだしたんだろう、今度の間借人は若くて、様子のいい人かなんてきいたりして? でもちょっと、ほんのちょっとそう考えただけで、すぐにまた目を勘定して、靴下を編みはじめ、やがてそんなことはすっかり忘れてしまいましたの」
「ところがある朝のこと、その間借人があたしたちのところにやってきて、部屋の壁紙をはりかえる約束だったがとたずねました。お祖母さんはお喋《しやべ》りなもんですから、いろいろ話しているうちに急に『ナースチェンカ、ちょっとわたしの寝室へ行って、そろばんを持ってきておくれ』といいました。あたしはいきなりサッと立ちあがりましたが、理由はわかりませんけどひどく真赤になって、自分がピンで留められていることをすっかり忘れてしまったじゃありませんか。間借人に見つからないようにそっとピンをはずせばいいものを、いきなり立ちあがったもんですから、お祖母さんの椅子がぐらりと大きく揺れました。あたしは間借人にもうすっかりあたしのことを知られてしまったと思うと、ますます顔を赤くして、釘づけにされたようにその場に突っ立っていましたが、不意に大きな声で泣きだしてしまったの。そのときの恥ずかしさ、やるせなさ、ほんとに生きているのもいやなくらいでしたわ! 『なにをぼんやり突っ立ってるのさ!』とお祖母さんはどなりますが、あたしはどなられるとなおのこと悲しくなって……。間借人はあたしがその人に見られたのを恥ずかしがっていることがわかると、お辞儀をして、あわてて出ていってしまいましたわ!」
「それからというもの、玄関のホールでちょっとでも音がすると、あたしはまるで生きた心地《ここち》がしませんでした。ほら、あの間借人がやってくると思うんです。そして万一に備えてそっとピンをはずしたもんですわ。ところがいつも人違いで、その人はそれっきりやってきませんでした。二週間ほどたちました。するとその間借人は今度はフョークラを使いによこして、自分はフランス語の本をたくさん持っている、それにみんないい本ばかりだから、お読みになったらいいと思います。お祖母さんも退屈しのぎに、お嬢さんに読んでもらったらどうでしょう?と言ってきました。お祖母さんはお礼をいってその好意を受けましたが、ただ道徳的な本かどうか、くどいくらい念を押したもんですわ。『不道徳な本だったら、とてもお前に読ませるわけにはいかないよ、ナースチェンカ、悪いことを覚えるからね』というわけなの。
『なにを覚えるっていうの、お祖母さん? いったいどんなことが書いてあるの?』
『なんだって! そういう本にはね、若い男たちが、ちゃんと結婚するとかなんとかうまい口実をつけて、品行の正しい娘たちを誘惑してさ、親の家から連れだして、あげくの果てにそうした可哀そうな娘を後はどうとでもしろと放りだしてしまう、そして娘たちはそれこそみじめな最後をとげるというようなことが書いてあるんだよ。わたしもね』とお祖母さんはいうんですの。『そういう本をたくさん読んだもんだよ。それがみんなとてもきれいな言葉で書いてあるもんだから、ひと晩じゅうすわりこんで、人にかくれて夢中で読まずにはいられないのさ。だからお前もね、ナースチェンカ、気をつけて、そんな本は読んじゃいけないよ。ところでどんな本を持たせてよこしたんだい?』
『みんなウォルター・スコットの小説ばかりよ、お祖母さん』
『ウォルター・スコットの小説! それならいいがね、なにか仕掛けでもしてあるんじゃないのかい? なにか恋文みたいなものでも挟んでないか、よく見てごらんよ』
『いいえ、お祖母さん、手紙なんかはいってないわよ』
『表紙の裏側ものぞいてごらんよ。あの連中ときたら表紙の裏に突っこむこともあるんだから、まったく油断もすきもありゃしないよ』
『いいえ、お祖母さん、表紙の裏にもなんにもないわよ』
『ふん、それならいいけどね!』
こうしてあたしたちはウォルター・スコットを読みはじめて、一か月ほどのうちにほとんど半分ばかり読んでしまいました。それから後もその人はいろんな本をどんどん持たせてよこしましたわ。プーシキンも持たせてよこしましたし。こんなわけで、しまいにはあたしも本なしではいられないようになって、支那の王子様のところへお嫁にゆくことなんか、考えなくなってしまいましたの」
「こんなことをしているうちに、一度あたしはその間借人と階段の上でばったりと顔を合わせたことがありました。なにかの用でお祖母さんがあたしをお使いにだしたんです。その人は立ちどまりました。あたしが顔を赤らめると、その人も顔を赤らめました。それでもニッコリ笑って、挨拶をすると、お祖母さんの加減なんかをたずねてから『どうです、本は読みましたか!』ときくじゃありませんか。あたしは『読みました』と答えました。すると『ところで、なにがいちばん気に入りましたか?』というんです。それであたしは『アイヴァンホーとプーシキンがどれよりもいちばん気に入りましたわ』といいました。そのときは話はそれだけでおしまいだったわ」
「それから一週間ばかりしてあたしはまた、階段でその人と顔を合わせました。そのときはお祖母さんのお使いではなく、なんだったか自分の用があったんです。二時過ぎで、その間借人はいつもその時刻に家へ帰ってくるんです。『こんにちは!』と声をかけましたから、あたしも『こんにちは!』と言いました。
『ところで、一日じゅうお祖母さんと二人っきりですわっていて、退屈なことはありませんか?』
そんなことを改めてきかれると、あたしは何故かは知りませんが、急に恥ずかしくなって顔をあからめました。そしてまたなんだか侮辱されたような気がしました。たぶん、よその人に余計なせんさくをされたからにちがいありません。あたしはそのまま返事をしないで、行ってしまおうと思いましたが、その勇気もありません」
「『まあお聞きなさい』とその人は言いました。『あなたは気だてのやさしいお嬢さんです! こんなことを言って失礼ですけど、しかし正直なところ、お祖母さんよりもあなたのためを思えばこそ言うんですよ。あなたにはいったい遊びに行けるお友達もいないんですか?』」
「あたしには一人もありません。じつは一人マーシェンカという友達がいたけれど、その人もプスコフへ行ってしまったのでと答えました。
『どうです、ぼくと一緒に劇場へでも行きませんか?』
『劇場へ? でもお祖母さんはどうするんですの?』
『そりゃもちろん、お祖母さんには内緒で……』
『いけませんわ、あたし、お祖母さんをだますようなことは、したくありません。失礼します!』
『そうですか、じゃさよなら』と言っただけで、それ以上なにもいいませんでした」
「ところが食事の後で、あたしたちのところへ今度は向うから押しかけてきましたのよ。ゆっくりすわりこんで、お祖母さんと長いこと話をして、どこかへお出かけになることもありますかとか、知合いがおありですかとか、いろんなことをきいていましたが、藪《やぶ》から棒に『じつは今日オペラのボックスを一つ取ってあるんですがね。≪セヴィリヤの理髪師≫をやっているんですよ。知合いのものが行きたいということだったんですが、後で断《ことわ》ってきたので、切符が余ってしまいましてね』と言いだしました」
「『まあ、≪セヴィリヤの理髪師≫ですって!』とお祖母さんは叫びました。『するとそれは昔やってたのと同じ≪理髪師≫ですかね?』
『そうですよ。同じ≪理髪師≫です』といって、ちらりとあたしの顔を見るんです。あたしはすっかり種がわかってしまったので、パッと顔を赤らめました。あたしの胸は期待にドキドキと鳴りはじめました」
「『ええ、それならもう』とお祖母さんはいいました。『わたしはよく知っていますとも! こう見えても昔うちで芝居をやったとき、ロジーナの役をやったことがあるんですからねえ』」
「『それじゃ今日これからお出かけになりませんか?』とその人は言いました。『どっちみち切符が無駄になってしまいますからね』」
「『そうですね、では出かけることにしますか』とお祖母さんは言いました。『行ってはならないってこともないでしょうよ? なにしろうちのナースチェンカは、まだ一度も劇場へ行ったことがないんですからね』」
「ああ、なんて嬉しいことだったでしょう! あたしたちはすぐに支度をはじめ、おめかしをして、出かけました。お祖母さんは眼は見えませんが、せめて音楽だけでも聞きたいというわけですし、それに、心のやさしい人だったので、それよりもなによりもあたしを慰めてやりたいという気持が強かったんですのね。だってあたしたち二人だけではとても思いきって出かける気になんかなれませんもの。≪セヴィリヤの理髪師≫の印象がどんなものだったか、それはあらためて申しあげるまでもありません。ただ、その間借人がその晩ずっと、とても感じのよい眼つきであたしの顔を見つめ、気持よくいろいろと話しかけてくれましたので、今朝あたしに二人っきりで行かないかと誘ったのは、あたしを試すつもりだったということが、あたしにはすぐにわかりました。それにしても、なんという嬉しさ! あたしはとても誇らかな、浮き浮きした気分でベッドにはいりました。胸ははげしく鼓動して、ちょっとした熱病にでもかかったようなありさまでした。そしてあたしは夜通し≪セヴィリヤの理髪師≫のうわごとを言いつづけたのです」
「あたしはこうなったらその人は、うるさくなるくらいちょくちょく顔を見せるだろうと思っていました――ところが、それが大違いなんです。ほとんどすっかり足が遠のいたといってもいいくらいなんですの。そうね、月に一度くらい顔を見せることもありましたが、それもただ劇場に招待するためだけなんです。その後あたしたちは二度ばかり出かけましたかしら。でもあたしはさっぱり心がみたされませんでした。だってその人はただ、お祖母さんに縛りつけられているあたしが、なんのことはないただ可哀そうでならないのだってことが、あたしにはちゃんとわかってたんですもの。時がたつにつれて、あたしはますます変になってきました。居ても立ってもいられない気持で、本を読んでもちっとも頭にはいらないし、仕事も手につかない始末なんです。にこにこ笑ってお祖母さんになにか意地悪なことをしてみたり、そうかと思うとただメソメソ泣いてばかりいるというわけ。とうとうあたしはすっかり痩《や》せ細って、まるで半病人みたいになってしまったの。そのうちオペラのシーズンも終って、その間借人はぜんぜん顔を見せなくなりました。顔を合わせることがあっても――もちろん、いつも例の階段の上と決まっていましたけれど――その人は黙ってお辞儀をするだけで、口もききたくないというようにまじめくさった顔つきをしているので、その人が玄関先へ出てしまうまで、あたしは階段の中途に突っ立って、桜ん坊みたいに真赤な顔をしてもじもじしているだけ。だってその人と顔を合わせると、血がぜんぶ頭へのぼってしまうんですもの」
「もうすぐおしまいですわ。ちょうど一年前の五月に、その間借人があたしたちのところへやってきて、ここの用事もこれですっかり片がついたので、また一年ばかりモスクワへ行ってこなければならないと、お祖母さんに言うじゃありませんか。あたしはそれを聞くが早いか、真蒼《まつさお》になって、死んだように椅子の上に倒れてしまいました。お祖母さんはなんにも気がつきませんでしたけれど、その人は宿を引き払うことにしたからといって、お辞儀をするとそのまま出ていってしまいました」
「いったいどうすればいいんでしょう? あたしはさんざん考えに考え、悩みに悩んだ末、やっとのことで、覚悟を決めました。いよいよ明日は出発という日、今夜こそお祖母さんが寝室へさがってから、なにもかも一度に片をつけてしまおうと決心したんです。そしてその通りにしました。あたしはありったけの服と、差しあたり必要な肌着類を風呂敷《ふろしき》につつみ、その風呂敷包みを両手にかかえて、まるで生きた心地もなく、中二階の間借人のところへ忍んで行きました。その階段をのぼるのに一時間もかかったような気がしましたわ。思いきって部屋のドアを開けると、その人はあたしの顔を見てアッと叫びました。きっとあたしを幽霊だと思ったんでしょう、そしてあわてて水を取りに行きました。だってあたしは満足に立っていられない様子をしていたんですもの。心臓はドキドキするし、頭は痛むし、なにがなんだかわからなくなってきました。やがて正気《しようき》に返ると、あたしはいきなり例の包みをその人の寝台の上において、自分はそばに腰をおろすと、両手で顔を隠して、滝のように涙を流して泣きはじめました。その人は、どうやら、すぐになにもかもわかったらしく、真蒼な顔をしてあたしの前に突っ立ったまま、とても悲しそうにあたしの顔を見つめているんです。あたしはいまにも胸が張り裂けそうな気持でした」
「『まあお聞きなさい』とその人は口をきりました。『聞いてください、ナースチェンカ、ぼくにはどうすることもできないんです。ぼくは貧乏な人間です。今のところぼくにはなんにもありません、ちゃんとしたお勤めさえないんですからね。もしもあなたと結婚したら、二人はいったいどうやって暮してゆくんですか?』」
「あたしたちは長いこといろいろ話し合いましたが、しまいにあたしはまるで気違いみたいになって、もうこれ以上お祖母さんのとこで暮すことはできないから、逃げ出そうと思う、ピンで留められている生活はいやだ、もしもあなたさえその気なら、一緒にモスクワへ行きます、だってあなたなしにはとても生きていけないんですもの、と言いました。恥ずかしさと、恋しさと、プライドと――それが一度に口をついて出たのです。そしてあたしは痙攣《けいれん》でもおきたように、あやうく寝台の上に倒れるところでした。拒絶されるのが、それほど恐ろしかったのです!」
「その人はしばらくのあいだ黙って坐っていましたが、やがて立ちあがると、そばへ歩み寄り、あたしの手を取りました」
「『いいですか、ぼくのやさしい、いとしいナースチェンカ!』とその人は、やはり涙ながらに口をひらきました。『まあ聞いてください。誓ってもいいですが、もしいつの日にかぼくが結婚できる身分になれたら、ぼくに幸福をさずけてくれるのはあなたをおいてほかにはありません。まったく、いまとなってはぼくに幸福をさずけることのできるのは、あなただけなんですからね。いいですか、ぼくはこれからモスクワへ行って、きっかり一年間むこうで暮すことになります。自分の仕事のことはうまく処理できるつもりです。それでここへ戻ってきて、もしあなたの愛が冷《さ》めていなかったら、誓って言いますが、二人はきっと幸福になれるでしょう。ところがいまはどうにもなりません、駄目なんです、どんなことにもせよ約束をする権利がぼくにはないんですから。しかし繰り返して言いますが、一年後にたとえそうならなくてもいつかは必ずそうなるでしょう。もちろん――あなたがぼくを誰かに見変えない場合の話ですがね。なにしろぼくはなんらかの言葉であなたを縛りつけるなんてことはできないし、その勇気もないんですから』」
「その人はこれだけのことを言って、その翌日たって行きました。二人で相談して、お祖母さんにはこのことはひと言もいわないでおくことに決めました。そうした方がいいと言うもんですから。まあ、これであたしの身の上話もほとんどおしまいです。きっかり一年たちました。その人は帰ってきました。こちらへきてからもう三日になるんですけど、でも……」
「でも、どうなんです?」と話の結末を知りたくてじりじりしながら私は叫んだ。
「でも、いままで姿を見せないんです!」と無理に元気をだすようにして、ナースチェンカは答えた。「さっぱり音沙汰《おとさた》がないんです……」
こう言うと彼女は言葉を休め、しばらく無言のままうなだれていたが、やがて不意に両手で顔をおおって、声をあげて泣きはじめた。その声を聞くと私は胸が張り裂けるような思いだった。
私はこんな結末になろうとは思わなかったのである。
「ナースチェンカ!」と私はおずおずとした、猫なで声で口をひらいた。「ナースチェンカ! お願いですから、泣かないでください! どうしてあなたは知っているんですか? もしかすると、その人はまだ……」
「来ているんです、帰ってきてるんです!」とナースチェンカは急いで答えた。「その人は帰ってきてるんです。あたしはちゃんと知ってるんです。あたしたちは約束したことがあるんです。その晩、出発の前の晩のことなんですけれど。いまあなたにお話したようなことを、もうすっかり話し終って、約束もできてから、あたしたちはここへ散歩にやってきました、この河岸《かし》通りに。十時でしたわ。あたしたちはこのベンチに腰をおろしました、あたしはもう泣いてはいませんでした、あの人の話を聞いているのが、とてもいい気持だったんです……。あの人は、こちらへ着いたらすぐにその足でうちへきて、もしもあたしの心が変っていなかったら、二人でなにもかもお祖母さんに打ち明けようと言ったんです。ところがあの人はこちらへ帰ってきたのに――あたしはちゃんと知ってるんです――それなのに姿を見せない、きてはくれないんです!」
そして彼女はまた声をあげて泣きだした。
「ああ! それにしてもなんとかしてあなたの悲しみをやわらげるわけにはいかないものかなあ?」と私はすっかり途方に暮れてベンチから跳《と》びあがって叫んだ。「そうだ、ナースチェンカ、せめてぼくなりとその人のところへ行ってみてはいけないかな?……」
「そんなことができるとお思いになって?」と不意に頭をあげて、彼女はいった。
「できない、むろん、できない相談だ!」と私はハッと気がついて叫んだ。「じゃこうしたらどうです、ひとつ手紙を書いてみたら」
「駄目よ、そんなことはできないわ、できない相談よ!」彼女はきっぱりとした調子で答えたが、もう今度は頭を下げて、私の顔を見てはいなかった。
「どうして駄目なんです? なぜいけないんです?」と私は自分の思いつきにしがみついて言葉をつづけた。「しかし、いいですか、ナースチェンカ、問題はその手紙ですよ! 手紙といってもいろいろありますからね、それに……。ああ、ナースチェンカ、そうなんですよ! まあぼくにまかせてください、ぼくを信頼してください! ぼくは悪いことはすすめはしません。なにもかもうまくゆくことですよ。あなたはすでに第一歩を踏みだしたんですからね――なにもいまさら……」
「いけません、いけませんわ! そんなことをすれば、まるであたしがなにか無理に押しつけるみたいで……」
「ああ、ぼくの優しいナースチェンカ!」と私は思わず微笑をもらして、相手の言葉をさえぎった。「そりゃ違いますよ、そうじゃありません。だいいち、そりゃあなたの当然の権利じゃありませんか、なにしろその人はちゃんとあなたに約束したんですからね。それにすべての点から見て、その人はデリケートな人間で、その行動も立派だったようにぼくには思われます」と自分の論証ぶりと信念が論理的なのにますます有頂天になって、私はさらに言葉を続けた。「その人の行動はどうであったか? 彼はその約束で自分を縛ったのです。もしも結婚するならば、あなた以外の女性とは絶対に結婚しないと彼は言って、その場で拒絶してもいいという完全な自由をあなたにあたえたんですからねえ……。こういう場合にはあなたはイニシアチヴをとることができるんです、あなたにはその権利があるんです、つまり相手に対して優先権をもっているわけですよ、たとえば、先方に約束をほごにする自由をあたえる気になったにしても……」
「ところで、あなたならどんなふうにお書きになって?」
「なにをですか?」
「その手紙をですわ」
「ぼくならこう書きますね――まず、拝啓……」
「どうしてもそう書かなけりゃいけませんの――拝啓なんて?」
「どうしても必要ですね! しかし、なぜですか? ぼくの考えでは……」
「そんなことはどうでもいいですわ! どうぞ先をおつづけになって!」
「――拝啓!
失礼もかえりみず……。いや、ちがう、なにも失礼なんて書くことはありゃしない! 事実そのものがすべてを立証しているんですからね。こう書くだけでいいんだ――
『取り急ぎペンをとりました。どうぞわたくしの短気をお許しください。わたくしはこの一年間、希望にみちた幸福な日を送ってまいりました。いまになって疑惑の一日すら忍べないと申しましても、それはわたくしの罪でございましょうか? すでにこちらへお帰りになったいま、ひょっとすると、あなたはお気持がお変りになったのではないでしょうか。もしそうでしたら、わたくしが不平ももらさず、あなたを非難するものでもないことを、この手紙があなたにお知らせするにちがいありません。あなたのハートをつかむことができなかったからといって、わたくしはあなたを非難はいたしません。それが運命だと思ってあきらめます!
あなたはご立派な方でございます。わたくしのこの性急な手紙をお読みになりましても、あなたはニヤニヤ笑ったり、お気を悪くはなさらないでしょう。どうぞこれを書いているのが哀れな娘であるということを、思いだしてくださいまし。その娘は一人きりで、誰も教えてくれるものもなければ、忠告してくれる人もなく、一度も自分で自分の気持を抑えることのできなかった女なのです。たとえほんの一瞬にもせよ、わたくしの胸に疑いの念が忍びこんだことを、どうぞお許しください。あなたはお気持だけでも、あれほどあなたを愛し、今もなお愛しつづけている娘を侮辱するなどということは、とうていおできにならない方でございます――』」
「そう、そうよ! あたしが考えていたのとそっくり同じですわ!」とナースチェンカは叫んだ。その眼は喜びにパッと輝いた。「ああ! あなたはあたしの疑惑を解いてくださいましたわ。あなたこそあたしのために神様がお送りくだすった方ですわ! ありがとう、ありがとうございます!」
「なんのためのお礼です? 神様がぼくを送ってくれたことに対するお礼ですか?」とその喜びにあふれた美しい顔を有頂天になってながめながら、私は答えた。
「ええ、そういうことにしておいてもいいですわ」
「ああ、ナースチェンカ! まったくぼくたちはある種の人たちに対しては、ぼくたちと一緒に生きているということだけでも感謝の気持をささげたいことがありますからね。ぼくはあなたがぼくと出会ったということに対して、一生あなたを忘れることはあるまいということに対して、あなたにお礼をいいますよ!」
「まあ、もう結構よ、たくさんですわ! ところでじつはこうなんですの、まあ聞いてくださいな。そのときの二人の約束ではね、あの人はこちらへ着いたらすぐに、あたしの知合いのある人のところへ手紙をことづけて、自分の到着を知らせるということになっていましたの。その人はとても親切で、人が好くって、このことについてはなんにも知らないんです。もしもあたしに手紙を書くことができない場合は――だって手紙にはなんでも書けるって決まったものじゃありませんものね――そのときには、こちらへ着いたその日の夜の十時きっかりに、二人で会うことに約束したこの場所に出向いてくることになっていたんです。あの人がこちらへ来たことはあたしにはもうちゃんとわかってるんですけど、もうこれで三日目になるというのに、手紙もこなければ、本人も姿を見せないんです。あたしは朝からお祖母さんのそばを離れるわけにはどうしてもいかないんです。それでいまお話したその親切な人のところへ、明日あなたがあたしの手紙をもっていってくださいな。そうすればあの人の手にわたりますから。それでもしも返事があったら、夜の十時にあなたがここへもってきてくださればいいわ」
「しかしその手紙は、手紙は! その前にまずその手紙を書かなけりゃ駄目じゃありませんか! そうなるとすべては明後日のことですよ」
「手紙ね……」とナースチェンカはちょっとどぎまぎした様子で答えた。「手紙ね……でも……」
だが彼女はしまいまで言わなかった。はじめすこし顔をそむけて、ばらのように顔を染めたかと思うと、不意に私は自分の手のなかに一通の手紙が押しこまれるのを感じた。どうやらそれはもうずっと前に書かれ、すっかり用意され、きちんと封までされた手紙のようだった。なにかなつかしい、心を楽しませる優美な想い出が、ちらりと私の頭をかすめた。
「R, o−Ro, s, i−si, n, a−na」と私はうたいはじめた。
「Rosina!」二人は声を揃えてうたいだした。私はあまりの嬉しさに彼女を抱きしめんばかりにして、また彼女はこれ以上は無理なくらい顔を真赤にして笑いながら。その黒い睫毛《まつげ》の上には真珠のような涙の玉がふるえていた。
「ねえ、もうたくさん、たくさんよ! 今夜はこれでお別れしましょう!」と彼女は早口にいった。「さ、これが手紙、届け先のアドレスもここにありますわ。では、これで失礼! さようなら! また明日ね!」
彼女はぎゅっと私の両手を握りしめ、ちょっとうなずいて見せると、そのまま矢のように、いつもの横町に姿を消してしまった。私はそのうしろ姿を見送って、いつまでもその場に立ちつくしていた。
『また明日! また明日ね!』彼女の姿が私の視界から消え去ったとき、私の頭にひらめいたのはこの言葉だった。
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第三夜
今日は悲しい日だった。雨が降っていて、お日さまも拝めず、まるで来たるべき私の老年のような一日だった。さまざまな奇怪な考えや暗い感じに胸はしめつけられ、自分にもまだはっきりとわからないいろいろな疑問が頭の中で渦を巻いている――それなのに妙にそれを解こうとする気力もなく、その気にもなれないのだ。とても私の手には負えないのだ!
今日はたぶん会えないだろう。昨日、二人が別れをつげたとき、雲が空にひろがりはじめ、霧が立ちこめてきた。明日はお天気が悪くなるだろうと私はいったが、彼女は返事をしなかった。彼女は自分の気持と反対のことを言いたくなかったのだ。彼女にとってはこの一日は明るく晴れわたり、彼女の幸福をさえぎる一片の雲さえもないのだ。
「もしも雨だったら、あたしたちお会いできませんわね!」と彼女はいった。「出てこられませんもの」
彼女はきっと今日の雨には気もつかなかったろうと私は思ったが、とにかく彼女は姿を見せなかった。
昨夜は私たちの三度目のランデヴーだった、私たちの三度目の白夜だった。
それにしても喜びと幸福は、なんと人間を美しくするものだろう! 愛にハートを沸きたたせるものだろう! 自分のハートにあるものをそのままひとのハートに移せたらと思う、なにもかも楽しくあれ、喜びに笑《え》み輝けという気がする。そしてその喜びはなんと感染しやすいものだろう! 昨夜の彼女の言葉にはどれほどのやさしさが秘められ、その胸には私に対するどれほどの好意があふれていたことか……。どんなに私をいたわり、私に甘え、どんなに私を元気づけ、私の心をもみほぐしてくれたことか! ああ、幸福感が生みだす媚態《びたい》のかずかず! それなのに私は……。すべてを額面通りに受け取って、彼女は私を……などと思っていたのだ。
しかし、ああそれにしても、どうして私はそんなことを考えることができたのだろう? すべてがすでに他人のものとなり、なにからなにまで私のものではなくなっているのに、どうして私はああも盲目でいられたのか? しかもそれに止《とど》めを刺すように、ほかならぬあのやさしさも、あの心遣いも、その愛情さえも……そう、彼女の私に対する愛情すらも――ほかの男との間近に迫った再会の喜び、自分の幸福を私にも分けあたえたいという希望以外の何物でもないというのに!……。彼がとうとう姿を見せず、二人が待ちぼうけをくわされたとわかったとき、その彼女は眉をひそめ、急に怖気《おじけ》づき、妙にびくびくしはじめたではないか。彼女の動作の一つ一つ、その言葉のすべては、もはや前ほど軽快でなく、軽妙さと明るさを失ったものになってきた。そして、不思議なことに――彼女は私に対して以前に倍する注意を払うようになったのである。それはまるで彼女が自分で自分に望んだもの、もしも実現しなかったらと彼女自身が恐れていたものを、本能的に私になにもかもぶちまけたいとしているかのようであった。私のナースチェンカがすっかり怖気づき、おびえきってしまったところを見ると、どうやら彼女は、私が彼女を愛していることにやっと気がつき、私の哀れな恋を気の毒に思ったらしいのだ。そうだ、われわれは自分が不幸なときには、他人の不幸をより強く感じるものなのだ。感情が割れずに、かえって集中するのである……。
私は胸にあふれる思いをいだいて彼女のところへ駆けつけた。ランデヴーの時間が待ちきれない気持だった。私には自分がこれからどんな感じをいだかされるか、すこしも予感がなかったのだ、すべてがこれと違う結末をとろうなどとは、全く夢にも思わなかったのである。彼女は喜びに輝いていた。彼女は返事を待ちこがれていた。その返事は彼自身であった。彼はここへこなければならない。彼女の呼出しに応じて走ってこなければならないはずだった。彼女は私よりも一時間も早くきていたのである。はじめのうち彼女はなにを聞いても大きな笑い声をあげ、私の言葉の一つ一つに笑顔を見せた。私は話しだそうとしたが、口をつぐんでしまった。
「おわかりになって、どうしてあたしがこんなに嬉しがっているか?」と彼女はいった。「あなたのお顔を見るとどうしてこんなに嬉しいか? どうして今日はこんなにもあなたを愛しているか?」
「なんですって?」と私はたずねたが、思わず心臓がどきんとふるえだした。
「あたしがあなたを愛しているのは、あなたがあたしに恋をなさらなかったからなのよ。だってもしもほかの人があなたの立場にいたとしたら、きっとやたらに世話を焼いたり、うるさくつきまとったり、ためいきをついてみたり、苦しそうな顔をして見せたりするに違いありませんもの。それなのにあなたはなんてすてきなんでしょう!」
そう言って彼女がぎゅっと私の手を握りしめたので、私はもうすこしで声を立てるところだった。彼女は笑いだした。
「ああ! ほんとにあなたはすばらしいお友達ですわ!」としばらくしてから、ひどくまじめな調子で彼女は言いだした。「あたしのために神様がお送りくだすったんだわ! ねえ、もしもあなたがいらっしゃらなかったら、いったいあたしはどうなったでしょうねえ? なんてあなたは公平無私な方なんでしょう! なんてご立派な愛し方なんでしょう! あたしがお嫁にいったら、あたしたちはみんなとても仲のいいお友達になりましょうね、血をわけた兄妹以上の。あたしあなたを、ほとんどあの人と同じように愛しつづけますわ……」
その瞬間、私はなんだか恐ろしく悲しい気持になった。とはいうものの、なにか笑いに似たものが私の胸の中でもぞもぞと動きだした。
「あなたは発作《ほつさ》を起しているんですよ」と私はいった。「あなたはびくついているんだ。あの人はやってこないと思ってるんでしょう」
「まあなんてことを!」と彼女は答えた。「もしもあたしがこんなに幸福でなかったら、あなたに信じてもらえないで、非難されたりしたら、きっと泣きだしたかも知れませんわ。でもあなたはあたしに暗示をあたえて、時間をかけて考えなければならない問題をおだしになったわ。だけどそのことは後でゆっくり考えることにして、いまは正直なところ、確かにあなたのおっしゃる通りよ。そうだわ! 確かにあたしはなんだか上《うわ》の空《そら》みたい。あたし、待ちこがれて気もそぞろなもんだから、なんでもひどくピンと感じちゃうみたい。でも、もういいわ、感情の話はやめにしましょう!……」
そのとき足音が聞えて、闇の中にこちらへ向ってやってくる通行人の姿が現われた。私たちは二人ともガタガタふるえだした。彼女はすんでのことに声をたてるところだった。私は彼女の手をはなして、その場から立ち去るような身振りをした。しかし二人の思い違いで、それは彼ではなかった。
「なにをこわがっていらっしゃるの? どうしてあたしの手をお放しになったの?」と彼女はいって、またその手を私にまかせた。「ねえ、いいじゃありませんの? 二人で一緒にあの人を迎えましょうよ。あたしたちがどんなに愛し合っているか、あたしあの人に見てもらいたいのよ」
「どんなに愛し合ってるかですって!」と私は叫んだ。
『ああ、ナースチェンカ、ナースチェンカ!』と私は胸の中で考えた。『君のその一言にどんなに多くの意味が含まれていることか! そういう愛はね、ナースチェンカ、|時と場合に《ヽヽヽヽヽ》よっては、相手のハートをヒヤリとさせ、心苦しくさせるものなんですよ。君の手は冷たいが、ぼくの手は火のように熱い。なんて君は盲目なんだろうな、ナースチェンカ!……。ああ、幸福な人間というものは、時によるとなんてやりきれないものなんだろう! しかしぼくは君に腹を立てるわけにはいかなかったよ!……』
とうとう、私は胸がいっぱいになってしまった。
「ねえ、ナースチェンカ!」と私は叫んだ。「あなたは知っていますか、今日いちにちぼくにどんなことがあったか?」
「まあ、なにが、どんなことがありましたの? 早く聞かしてちょうだいな? どうしていままで黙っていらしたの?」
「まず第一にですね、ナースチェンカ、あなたから頼まれたことをすっかりすまし、手紙もわたし、あなたのいう親切な人の家にもよってから、それから……それからぼくは家へ帰って、ベッドにはいったというわけなんです」
「たったそれだけ?」と彼女は笑ってさえぎった。
「まあ、だいたいそれだけなんですがね」と私は苦しい気持を抑えて答えた。というのは、私の眼には早くも愚かな涙があふれていたからである。「ぼくは約束の時刻の一時間まえに眼をさましたんですが、まるで全然眠らなかったような気がしました。いったいどうしたのか、自分でもわかりませんがね。あなたにこうしたことをなにもかもお話しようと思って、ここへ歩いてくる途中も、なんだかぼくに関する限り時の歩みがとつぜん止まってしまって、ただ一つの感覚、ただ一つの感情だけが、そのとき以来ぼくの胸の中に永遠にとどまるべきである、ただ一つの瞬間だけが永遠につづくべきであって、まるでぼくのためには全生活が停止してしまったような気がしてなりませんでした……。ぼくが眼をさましたとき、どこかで聞いたことのある、古馴染《ふるなじ》みの、だがすっかり忘れてしまっていた甘いメロディが、ふと記憶によみがえったような気がしたんです。そのメロディはいままでずっとなんとかしてぼくの胸から外へ出よう出ようとしていたのですが、いまやっとのことで出てきたように思われました……」
「まあ、いやだわ、いやですわ!」とナースチェンカはさえぎった。「いったいなんのことですの? あたしにはさっぱりわかりませんわ」
「ああ、ナースチェンカ! ぼくはなんとかしてその奇妙な印象をあなたにお伝えしようと思ったんですがねえ……」と私は哀れっぽい声で言いだした。その声にはきわめて遠まわしなものではあったが、まだ一片の希望がかくされていたのである。
「結構ですわ、おやめになって、もうたくさん!」と彼女はいった。彼女は一瞬のうちに悟ってしまったのだ、抜目のない女!
急に彼女はいつになく妙にお喋《しやべ》りになり、その態度は陽気な、ふざけたものになった。彼女は私の手をとって愉快そうに笑い、私にも笑いのつきあいをさせようとした。そして私が当惑してなにか言うたびに、彼女はひどく甲高《かんだか》い、長い笑いでそれにこたえるのだった……。私はしだいに腹が立ってきた。彼女は急に媚態をつくりはじめたのだ。
「あのねえ」と彼女は言いだした。「あなたがあたしに恋をなさらないので、あたしは少々おかんむりなのよ。だってそうなると人間なんてわからなくなってしまいますもの! でもとにかくあなたは、強情っぱりさん、あたしを褒《ほ》めないわけにはいかないわよ、あたしがこんなざっくばらんな女だってことを。だってあたしなんでもみんな、どんな馬鹿な考えが頭に浮かんでも、すぐになんでも話してしまうんですものねえ」
「お聞きなさい! あれは十一時ですよ、確か?」と私はいった。遠い町の鐘楼から規則正しい鐘の音がひびきはじめたのである。彼女は不意に言葉を休め、笑うのをやめて、鐘の音を数えはじめた。
「そう、十一時ですわ」とやがて彼女は、おずおずとした、ふんぎりのつかない声でいった。
彼女を驚かし、鐘の音を数えさせたことを私はたちまち後悔した。そして発作的に意地悪なことをした自分を呪った。私は彼女の気持を考えると気がめいり、どうして自分の罪をつぐなったらいいかわからなかった。私は彼が出てこられないさまざまな理由を考えだし、いろいろな根拠や論証をもちだして、彼女を慰めにかかった。誰にとってもこの瞬間の彼女をだますくらい楽なことはなかったにちがいない。それにどんな人間でもこうした瞬間には、たとえどんな慰めの言葉にも喜んで耳をかし、自分を納得させる片影でもあれば、たまらなく嬉しい気持になるものなのだ。
「それに滑稽じゃありませんか」と私はますます夢中になり、自分の論証の異常な明白さにすっかりいい気になって、こう切りだした。「あの人はやってこられるわけはなかったんですよ。あなたがぼくまで巻きぞえにして一杯くわしたので、ナースチェンカ、時間の計算がわからなくなってしまったんです……。まあ考えてもごらんなさい、あの人がはたして手紙を受け取ったかどうか怪しいもんですよ。まあかりに、どうしてもこられないとしましょう、そこで手紙に返事を書くとする。するとその手紙が届くのは早くても明日ということになるじゃありませんか。とにかく夜が明けたらすぐにあの人のところへ行ってみて、様子を知らせることにしますよ、いずれにしても、それこそいろんなことが想像できるわけです。たとえば、手紙が届いたとき、あの人は家にいなかった、それでことによると、いままでその手紙を読んでいないということだってあるでしょう? なにしろあらゆることが起りうるわけですからね」
「そう、そうね!」とナースチェンカは答えた。「あたし、そんなこと考えてもみませんでしたけど、確かに、どんなことでもありうるわけですわ」と彼女はいたって素直な声でつづけたが、その声にはなにかそれとは裏腹《うらはら》な別な考えのようなものが、腹立たしい不協和音となってひびいていた。「それじゃこうしてくださいな」とさらに彼女は言葉をつづけた。「明日の朝できるだけ早く行ってみて、もしもなにかわかったら、すぐにあたしに知らせてちょうだい。あたしの住所はご存じでしたわね?」こう言って彼女はまた自分のアドレスを繰り返しはじめた。
それからとつぜん彼女は私に対して、ひどくやさしい、ひどくおずおずとした態度をとるようになった……。彼女は私の話に注意ぶかく耳を傾けているように思われたが、私がなにか質問をすると、急に押し黙って、どぎまぎして、顔をそむけてしまうのだった。私は彼女の眼をのぞきこんだ――やはりそうだった、彼女は泣いていたのである。
「おやおや、こいつは驚きましたね! ああ、なんてあなたは子供なんでしょう! まったく子供じみていますよ!……。もういい加減になさい!」
彼女は笑顔を見せて気を落着けようとした。だがその下顎はふるえ、胸は相変らず波を打っていた。
「あたし、あなたのことを考えているんですの」と彼女はちょっと黙っていてから言いだした。「あなたはとても親切な方ね、それを感じないようだったら、あたしは木か石みたいな人間よ……。いまどんなことが頭に浮かんだか、あなたはご存じ? じつはあなたがた二人を較《くら》べてみたんですの。どうしてあの人が――あなたでないんでしょう? どうしてあの人は、あなたみたいな人間でないんでしょう? あたしはあの人をあなたよりもずっとよけい愛しているにはちがいないけど、確かにあの人はあなたより劣っていますわ」
私はなにも返事をしなかった。彼女は私がなにか言うのを待っているらしかった。
「そりゃもちろん、もしかすると、あたしはまだ完全にはあの人を理解していないのかも知れません、十分知っているとはいえないかも知れませんわ。でもねえ、あたしはいつもあの人をなんだかこわがっていたような気がしますの。だってあの人はいつもとてもまじめで、なんだかひどく高慢ちきみたいなんですもの。そりゃもちろん、ただそう見えるだけで、心の中にはあたしなんかよりずっと余計やさしさをもった人だってことは、あたしにもわかってるんですけど……。あたしはいまでもあの人の眼つきを覚えていますわ、ほら、あたしが風呂敷包みをもってあの人のところへ行ったときのことよ。でもやっぱりあたしはなんだかあまりにもあの人を尊敬しすぎてるみたいで、これじゃまるで二人が対等な人間じゃないようね?」
「ちがいますよ、ナースチェンカ、そうじゃありません」と私は答えた。「それはつまりですね、あなたがその人をこの世の何物よりも愛している、自分自身よりもずっと愛しているということですよ」
「そうね、あるいはそうかも知れませんわ」と無邪気なナースチェンカは答えた。「でもねえ、いまあたしがいったいどんなことを考えたとお思いになって? これからあたしがお話するのはあの人のことだけじゃなくて、一般的なことなんですけれど、もうずっと前からしょっちゅう頭に浮かんでいたことなんですの。あのねえ、いったいどうしてあたしたちはみんなお互に、兄妹同士みたいにしていられないんでしょう? どんなにいい人でも、いつもなんだか隠しごとでもあるみたいに、決してそれを口にださないのはどういうわけなんでしょう。相手に向ってちゃんと喋《しやべ》っているんだと知っていたら、なぜすぐに、ざっくばらんに言ってしまわないのでしょうね? これじゃまるで誰でも実際の自分よりもすこしでも固苦しく見せかけようとしてるみたいじゃありませんの、すぐになんでも思ってることを言ってしまったら、自分の感情をはずかしめることになりはしまいかと、みんなでびくびくしてるみたいじゃありませんの……」
「さあ、ナースチェンカ! 確かにあなたのおっしゃるとおりです。しかしそれはいろいろな理由があってそうなるもんでしてね」と私はさえぎった。そのくせその瞬間の私は、ほかのいかなる瞬間にもまして自分の感情を押し殺していたのである。
「ちがいます、ちがいます!」と彼女は深い感情をこめて答えた。「たとえば現にあなたは、ほかの人とはちがうじゃありませんか! あたし、ほんとに、自分の感じてることを、どうあなたに説明していいかわかりませんけど、でも現にあなたは、たとえば……いまにしても、あたしにはなんだか、あたしのためになにか犠牲をはらっているような気がしてなりませんわ、あたしにはそんなふうに思われるんですの」と臆病そうに付け加えて、彼女はちらりと私の顔を見た。「こんな言い方をしてごめんなさいね。だってあたしは教育のない娘なんですもの、まだ世間というものをよく知らないので、ほんとに、どうかすると話の仕方もわからないときがあるんですもの」と彼女はなにか胸に秘めた感情のためにふるえる声で付け足したが、それでも無理にニッコリと笑おうとした。「でもあたしはただあなたに、あたしはあなたに感謝している、あたしにもやはりそれぐらいのことは感じられるってことをお話したかったんですの……。ああ、どうぞそのことに対して神様があなたに幸福をお授けくださるように! ほら、あのときあなたはいろいろと例の空想家のことをお話しになりましたけど、あれはまるっきり事実とちがいますわ、いえ、そうじゃない、つまりその、あなたにはぜんぜん関係のないことなんですわ。だってあなたはからだもだんだんよくおなりだし、それに、正直なところ、あなたが描写なさったご自分とは、まるでちがったお方なんですもの。もしもあなたがいつか愛する人をお見つけになったら、どうぞお二人で幸福にお暮しになりますように! その女の方のためにはあたしはなにもお祈りしません、だってあなたとご一緒なら幸福になるに決まっていますもの。あたしにはわかっているんです、あたしだって女ですもの。女のあたしがこう言うんですから、あなたもあたしの言うことを信じなければいけませんわ……」
彼女は口をつぐんで、私の手をぎゅっと握りしめた。私もやはり興奮のあまりなにも言うことができなかった。何分かすぎた。
「そう、どうやら今夜はもうやって来そうもありませんわね!」とやがて頭を上げると、彼女はいった。「もうおそいわ!……」
「明日はきっと来ますよ」と私は自信たっぷりな、きっぱりとした声でいった。
「そうね」と彼女も元気をだしていった。「こうなればあたしにだってわかりますわ、明日でなければ来ないだろうってことぐらい。それじゃ、さようなら! また明日! もしも雨だったら、ことによると、来られないかも知れませんわ。でも明後日は出てきます。どんなことがあっても、きっと出てきますから、間違いなくここに来ていてくださいね。ぜひあなたにお眼にかかりたいの、なにもかもお話しますわ」
そしてそれから二人が別れの挨拶をかわしたとき、彼女は私に手を差しのべて、晴ればれとした眼で私の顔を見つめて、こういった――
「これからはもう二人はいつも離れっこなしね、そうじゃありません?」
おお、ナースチェンカ、ナースチェンカ! 私がいまどんな孤独を味わっているか、それが君にわかったならば!
時計が九時を打つと、私はもう部屋にじっとすわっていられなかった。ひどい天気だったが、私は服を着かえて外へ出た。私は例の場所へ行って、例のベンチに腰をおろした。彼女の住んでいる横町へも足を向けてみたが、途中で恥ずかしくなって、窓も見上げず、その家に二歩と近寄らず、そのまま引返してしまった。私はいまだかつて味わったことのない淋しさを胸にいだいて、家へ戻った。なんというじめじめとした、やりきれない天気だろう! もしも天気さえよかったら、夜っぴてでもあのあたりを歩きまわったのに……。
しかし明日まで、明日までの辛抱だ! 明日になれば彼女がなにもかも話してくれる。
それにしても、今日も手紙はこなかった。しかし、それもあるいは当然なのかも知れない。二人はきっともう一緒にいるにちがいない……。
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第四夜
ああ、すべてがこんな結果に終ろうとは! なんという結末をつげたことか!
私が着いたときは九時だった。彼女はすでにそこに来ていた。私は遠くのほうから彼女の姿に気がついた。彼女は最初のあのときと同じように、運河のらんかんに肘をついて立っていたが、私が歩みよる足音も耳にはいらないようだった。
「ナースチェンカ!」と私はやっとのことで興奮を抑えながら、彼女に声をかけた。
彼女は素早くこちらを振り向いた。
「さあ!」と彼女はいった。「さあ! 早く!」
私は狐につままれたように彼女の顔を見つめた。
「ねえ、手紙はどこにあるんですの? 手紙を持ってきてくださったんでしょう?」と片手でらんかんをつかんで、彼女は繰り返した。
「いや、手紙なんかありゃしませんよ」とやがて私はいった。「まだあの人は来ていないんですか?」
彼女は恐ろしいほど顔を真蒼《まつさお》にして、身動きもしないで長いこと私の顔を見つめていた。私は彼女の最後の希望を粉砕してしまったのである。
「もうあんな人はどうでもいいわ!」と彼女はやっとのことで、跡切《とぎ》れがちな声で言いだした。「こんなふうにあたしを棄てるんなら、あんな人なんかどうだっていいわ」
彼女は眼を伏せた。それからまた私の顔を見ようとしたが、できなかった。それからさらに何分か彼女は興奮をしずめようと努めていたが、いきなりくるりと向きを変えると、運河のらんかんに肘をついて、声をあげて泣きだした。
「もういいですよ、いい加減によしたらどうです!」と私は言いかけたが、彼女の顔を見ると、言葉をつづける気になれなかった。それにいまさらなんと言えばよかったのだろう?
「どうか慰めたりなさらないでちょうだい」と彼女は泣きながらいった。「あの人のことなんかなにも言わないでちょうだい。あの人はきっとやってくる、決してあたしを棄てたんじゃないなんて言わないでちょうだい。こんな残酷な、こんな血も涙もない棄て方をするなんて、なんてひどい人なんでしょう。でもいったいなんのために、なんのために? あたしの手紙に、あの不幸な手紙に、なにか変なことでも書いてあったというの?……」
ここではげしい泣き声に彼女の声は中断された。彼女の様子を見ていると、私は胸が張り裂けるようだった。
「ああ、なんて血も涙もない、残酷なやり方でしょう!」と彼女はまた言いだした。「それに一行も、一行も返事をくれないなんて! せめてもうお前は要《い》らなくなった、おれはお前を棄てることにするとでも返事を書いてくれればいいのに。それなのにまる三日も待たせたあげく、一行の返事もよこさないなんて! あの人を愛しているというほかにはなんの罪もない、可哀そうな、頼りのない娘を侮辱するくらい、あの人にとってやさしいことはありませんわ! ああ、この三日のあいだ、あたしはどんなに辛《つら》い思いをしたことでしょう! ああ、まったくなんてことでしょう! あたしがはじめてこちらからあの人のところへ忍んで行って、恥をしのんでまで、せめて一片の愛情でもと泣いて頼んだあの時のことを思いだすと……。それなのにこんな結果になるなんて……。ねえ、聞いてちょうだい」と彼女は私のほうを振り向いていった。その黒い眼がキラキラと光りだした。「こりゃきっとなにかの間違いよ! こんなことってあるはずがないわ、こんなことは不自然よ! きっとあなたか、あたしかが勘違いをしてるんだわ。ことによると、まだ手紙を受け取ってないんじゃないかしら? ひょっとすると、あの人はいまでもまだなんにも知らないんじゃないかしら? まあ考えてもごらんなさいな、お願いですから言ってちょうだい、説明してちょうだい――あたしにはどうしてもそこがわからないんです――いったいあの人があたしにしたような、あんな野蛮な、乱暴なことができるはずはないじゃありませんか! ひとことも返事をよこさないなんて! この世で屑《くず》の屑のような人間にだって、すこしはましな世間の同情ってものがあるもんですわ。もしかすると、あの人はなにか聞きこんだのかも知れない、ことによると、誰かがあたしのことを中傷したのかも知れないわね?」と彼女は私に問いかけるように叫んだ。「ねえ、あなたはどうお思いになって?」
「あのねえ、ナースチェンカ、ひとつぼくが明日でもあなたから頼まれたことにして、あの人のところへ行ってきてみましょう」
「それで!」
「すっかりあの人にたずねてみましょう、なにもかも事情をお話して」
「それで、それで!」
「一つ手紙を書いてください。いやだなんて言っちゃいけませんよ、ナースチェンカ、いやだなんて言わないでください! ぼくはきっとあなたの行為を尊敬させてみせますよ。なにもかも話して聞かせます、それでもしも……」
「いけません、あなた、いけませんわ」と彼女はさえぎった。「もうたくさん! これ以上あたしはなんにも、ひと言も、一行も書きません――もうたくさんよ! あんな人なんか知りません、あんな人なんかもう愛してはいません、あんな人はもう、わ……す……れる……ことにするわ……」
彼女は終りまでいわなかった。
「気を落着けるんです、気を落着けることですよ! まあ、ここへお掛けなさい」と私はいって、彼女をベンチに腰かけさせた。
「あたしは落着いていますわ。よしてちょうだい! なんでもないわよ! こんな涙なんか、すぐ乾いてしまいますわ! あたしが自殺するとでも、身を投げるとでも思っていらっしゃるの?……」
私は胸がいっぱいだった。なにか言おうと思ったが、どうしても口がきけなかった。
「ねえ!」と彼女は私の手をつかんで言葉をつづけた。「ねえ、あなたならあんなことはなさらなかったわね? あなたなら自分からあなたのところへ身を投げてきた女に、あんなことはなさらなかったわね、そのか弱い、愚かな娘心に、面と向って恥知らずの嘲笑を投げつけるような真似はなさらなかったわね? あなたならその娘をもっと大切にしてくださったわね? あなたならよくわかってくださったわね、その娘は一人ぼっちで、自分で自分がどうにもならず、あなたに対する愛から自分をまもることができず、その娘にはなんの罪もない、なんといっても、なんの罪もないのだってことを……だってその娘はほんとになにもしなかったんですもの!……。ああ、ほんとに、なんてことでしょう……」
「ナースチェンカ!」と、とうとう興奮を抑えきれずに私は叫んだ。「ナースチェンカ! それはぼくをさいなむというもんです! ぼくのハートを傷《きず》つける、ぼくを殺すというもんですよ、ナースチェンカ! ぼくは黙ってはいられません! ぼくはどうしても言わずにはいられない、この胸に沸き立っているものを、ぼくはすっかり言ってしまわなければならない……」
そう言いながら、私はベンチから腰を上げた。彼女は私の手をつかんで、びっくりしたように私の顔を見つめていた。
「いったいどうなさったの?」とやがて彼女は口を開いた。
「まあ聞いてください!」と私はきっぱりとした調子でいった。「ぼくの言うことを聞いてください、ナースチェンカ! これからぼくの話すことは、みんなでたらめです、実在不可能なことばかりです、なにもかも馬鹿げきったことです! 決してそんなことになりっこはないと、自分でもよくわかっていますが、しかしもう黙ってはいられないんです。あなたがいま苦しんでるものの名において、前もってお願いします、どうか許してください!……」
「まあ、なにを、なにをですの?」と彼女は泣くのをやめて、じっと私の顔を見つめながらいったが、そのびっくりしたような眼には奇妙な好奇心がきらめいていた。「いったいどうなさったの?」
「こんなことは実現するはずはないけれど、しかしぼくはあなたを愛しているんです、ナースチェンカ! それだけのことです! さあ、これでなにもかも言ってしまいました!」とやけに手を振りまわして、私はいった。「こうなればあなたにもおわかりでしょう、いま言ったようなことを、ぼくに向っていえるかどうか、それにこれからぼくの言うことを聞いていられるかどうか……」
「まあ、どうして、どうしてですの?」とナースチェンカはさえぎった。「それがどうだっておっしゃるの? あたしは前からちゃんと知っていましたわ、あなたがあたしを愛していらっしゃるということは。ただね、あなたの愛情は単純な、漠然としたものだとばっかり思っていましたわ……。ああ、どうしましょう、どうしましょう!」
「そりゃはじめは単純なものでしたよ、ナースチェンカ、だがいまでは、いまでは……ぼくはあの時のあなたと同じことなんですよ、風呂敷包みをもってあの人のところへ行ったときのあなたと。いや、あなたよりもみじめなくらいです、ナースチェンカ、だってあの時はあの人には誰も愛する人がいなかったんですからね、それをあなたが愛したんですから」
「まあ、なんてことをおっしゃるの? それじゃ、あなたって人がまるっきりわからなくなるじゃありませんか。ねえ、聞いてちょうだい、なんのためにそんなことを、いえ、なんのためじゃない、いったいどんな理由があってそんなことを、いまになってだしぬけに……。ああ! あたしったら馬鹿なことをいってるわ! でもあなたは……」
そしてナースチェンカはすっかりまごついてしまった。その頬が真赤に染まった。彼女は眼を伏せた。
「仕方がありません、ナースチェンカ、どうにも仕方がありませんよ! ぼくが悪いんです、つい図に乗ってしまったんです……。しかし、そうじゃない、違います、ぼくはなにも悪いことなんかしやしませんよ、ナースチェンカ。ぼくにはそれがわかります、感じられます。だってぼくのハートはお前は正しいといってるんですからね。あなたを怒らせたり、侮辱したりすることは、とてもぼくにはできないことなんですからね! ぼくはあなたの親友でした、いや、いまだってやはり親友です。ぼくは決してあなたを裏切るような真似はしませんでした。ほら、いまだってぼくの眼からは涙が流れているじゃありませんか、ナースチェンカ。勝手に流れさせておけばいいんだ、勝手に流れさせておけば――誰の邪魔になるというものでもありませんからね。そのうちに乾いてしまいますよ、ナースチェンカ……」
「まあ、とにかくお掛けになって、お掛けになることよ」と私をベンチに掛けさせながら、彼女はいった。「ああ、ほんとにどうしましょう!」
「いいえ! ナースチェンカ、ぼくは腰はおろしません。ぼくはこれ以上ここにいるわけにはいきません、あなたはこれっきりぼくを見ることはできないでしょう。ぼくはすっかりあなたにお話して、すぐにここを立ち去ります。ぼくはただあなたが永久に知らずにすんだことを、ぼくがあなたを愛してるってことを、あなたに言いたいだけなんです。ぼくはこの秘密をあくまで守るつもりでした。いまこの瞬間に、ぼくのエゴイズムであなたを苦しめるようなことはしなかったでしょう。そうです! しかしぼくはもう我慢ができませんでした。あなたが自分でこんなことを言いだしたんです、あなたが悪いんです、なにもかもあなたが悪いんで、ぼくが悪いんじゃありません。あなたはぼくを追っぱらうわけにはいきませんよ……」
「いえ、そんなことはありませんわ、ちがいます、あなたを追っぱらったりしてはいませんわ、ちがいます!」と可哀そうなナースチェンカはいって、できるだけその狼狽《ろうばい》ぶりをかくそうとした。
「あなたはぼくを追っぱらわない? そうですとも! ぼくのほうであなたのそばから逃げだそうと思ったんですよ。どうせぼくは行ってしまいます、しかしその前になにもかもお話します。というのは、あなたがここでお話なさったとき、ぼくはじっと腰をおろしていられなかったからです。あなたがここで泣いていらしたとき、あなたがその、つまりその(こうなればもう言ってしまいますがね、ナースチェンカ)自分は棄てられた、自分の愛ははねつけられたのだといって苦しんでいらしたとき、ぼくはこの胸にあなたに対するあふれるほどの愛を感じたのです、はっきりと思い知らされたのです。ナースチェンカ、ほんとにあふれるほどの愛情でした!……。するとその愛でもあなたを助けることはできないのかと、ぼくは悲しくなりました……胸が張り裂けそうになって、ぼくは、ぼくは……黙っていられなかったんです。ぼくは言わなければならなかったんです、ナースチェンカ、言ってしまわなければならなかったんです!……」
「そう、そうよ! そんなふうに、そんなふうにお話しになって!」といってナースチェンカは、なんとも説明のつかない身の動きを示した。「あたしがこんなことをいうのは、もしかすると、あなたには不思議に思えるかも知れませんけれど、でも……どうかお話しになって! あたしも後でお話します! なにもかも残らずお話しますから!」
「あなたはぼくを可哀そうだと思ってるんだ、ナースチェンカ、なんのことはない、ただ可哀そうでならないんですよ! いったん自分の手から離れたものはどうにもならない! いちど口からだした言葉は、もう取り返しがつかないんだ! そうじゃありませんか? さあ、これであなたはなにもかも知ってしまったわけです。つまり、これが話の出発点になるわけです。さて、これでよしと! これでなにもかも結構ずくめということになります。ところでまあ聞いてください。あなたがここにすわって泣いていらしたとき、ぼくは心の中で考えました(ああ、ぼくの考えたことを、とにかく言わしてください!)、ぼくはこんなことを考えました(つまりその、もちろん、そんなことはありうべきことじゃないんですがね、ナースチェンカ)つまり、ぼくはあなたは……あなたはなにかの拍子で……その、まったくなにかの拍子で、もうあの人を愛さなくなったんではないかと考えたんです。もしそうだとしたら――ぼくは昨日も、一昨日もそのことを考えたんですがね、ナースチェンカ――そうだとしたら、ぼくはこうする、あなたがぼくを愛してくれるようにぜひともやってみるんだと、こんなことを考えたんです。だってあなたがそう言ったんですからね、自分の口からそう言ったんですからね、ナースチェンカ、もうすっかりぼくが好きになったといってもいいくらいだって。さて、それからなんだっけな? いや、これがぼくが言いたいと思ったことのほとんどすべてです。言い残したことといえば、もしもあなたもぼくを愛するようになったら、そのときはどうかということ、ただそれだけで、ほかにはなにもありません! まあ、いいから聞いてください――だってなんといってもあなたはぼくの親友なんですからね。そりゃもちろんぼくは貧しい、平凡な、なんの取柄《とりえ》もない人間です。しかし問題はそんなことじゃありません(どうもぼくは見当ちがいのことばかり喋《しやべ》っているようですね、つまりてれているからですよ、ナースチェンカ)、問題なのはあなたに対する愛、愛し方なんです。もしもあなたがまだあの人を愛しているとしたら、ぼくの知らない男のことを愛しつづけているとしたら、とにかくあなたに気づかれないように、ぼくの愛がひょっとしてあなたの重荷になるようなことがないように、そんな愛し方をしなければならないということなんです。あなたがただいつも自分のそばで、感謝にみちたハートが鼓動していることを感じさえすれば、感じとってくれさえすればそれでいいんです。感謝にみちたハート、あなたにあこがれている燃えるようなハート……。ああ、ナースチェンカ、ナースチェンカ! あなたはぼくにいったいなんてことをしてくれたんですか!……」
「泣かないでちょうだい、あなたに泣かれるとたまらないわ」とナースチェンカはいって、急いでベンチから立ちあがった。「さあ行きましょう、お立ちになって、そして一緒に行きましょう。泣かないで、泣かないでくださいってば」と彼女はいって、自分のハンカチーフで私の涙をぬぐってくれた。「さあ、もう行きましょうよ。ことによると、なにかあなたにお話することがあるかも知れませんわ……。そう、もしもほんとにもうあの人があたしを棄ててしまったのなら、あたしのことを忘れてしまったのなら、あたしはまだあの人を愛していますけど(あたしはあなたに嘘はいいたくありません)……でも、どうか、あたしの質問に返事をしてくださいな、まあかりに、もしもあたしがあなたを愛するようになったら、つまりもしもあたしが……。ああ、ほんとにあたしったら! あなたの愛情を笑ったり、あなたがあたしに恋をしなかったといってあなたを褒《ほ》めたりして、あなたを侮辱したんですわ。それを思うと、それを思うと! ああ、どうしましょう! ほんとにどうしてそれがあたしにわからなかったのかしら、どうしてそれが見抜けなかったのかしら、どうしてあんな馬鹿だったのでしょう、でも……でも、いいわ、あたし覚悟を決めました、なにもかも言ってしまいますわ……」
「いいですか、ナースチェンカ、まあ聞いてください! ぼくはあなたのそばを離れることにします、それがいちばんですよ! これじゃただあなたを苦しめるばかりですからね。あなたはぼくを嘲笑したといって、現に良心の苛責《かしやく》に悩んでいらっしゃる。ぼくはそんなのはいやなんです、いやなんですよ、自分自身の悲しみのほかに、まだそんなことで苦しむなんて……ぼくが、もちろん、悪いんですよ、ナースチェンカ、ではこれで失礼します!」
「待ってちょうだい。あたしの言うことをお聞きになって。あなたはいましばらくお待ちになれて?」
「なにを待つんです、どうやって?」
「あたしはあの人を愛しています。でもその愛はいずれ冷《さ》めてしまうでしょう、冷めるのが当りまえです、冷めないはずはありません。もう冷めかかっているんですもの。あたしにはそれがわかるんです……。ひょっとすると、今日にもすっかり冷めてしまうかも知れませんわ。だってあたしはあの人を憎んでいるんですもの。あなたはここであたしと一緒に泣いてくださったのに、あの人はあたしをからかったんですもの。あなたはあの人のように、あたしを突っぱねるような真似は決してなさらない方ですもの。それというのも、あなたはあたしを愛しているのに、あの人はあたしを愛していなかったからなんですわ。それに、だいいち、あたしだってあなたを愛しているんですもの……ええ、愛していますわ! あなたがあたしを愛していらっしゃるように、あたしもあなたを愛していますわ。このことは前にもあなたに自分の口から申しあげましたわね、あなたはお聞きになったはずよ――あたしがあなたを好きなのは、あなたがあの人よりもいい方だからです、あの人よりも、立派な人だからです、だって、だって、あの人は……」
可哀そうに、あまりにもはげしい興奮のために、彼女はしまいまで言葉をつづけることができずに、頭をはじめ私の肩に、それから胸に押しあてて、切ない声で泣きだした。私は慰めたり、すかしたりしたが、彼女は涙をとめることができなかった。彼女はずっと私の手を握りしめたまま、「待ってちょうだい、待ってちょうだいな。いますぐ泣きやめますから! あたし、あなたにお話したいことがありますの……変にお考えにならないでね、こんな涙なんか別に……気が弱ってるからなんですの。気が落着くまで、ちょっとお待ちになって……」とすすり泣きの合間に言葉をつづけた。やがて、彼女は泣きやみ、涙をぬぐった。二人はまた歩きだした。私は口をきこうとしたが、彼女はそれからなおもしばらくのあいだ、ちょっと待ってくれと頼むばかりだった。私たちは黙りこくっていた……。やっとのことで、彼女は元気をだして話しはじめた……。
「あのねえ」と彼女は弱々しい、ふるえる声で言いだしたが、その声には思いがけなくも私の心臓をいきなり突き刺し、甘い疼《うず》きを感じさせるような妙な調子がひびきはじめた。「どうかあたしのことを移り気で、浮気な女だなんて思わないでくださいね、しごくあっさりとすぐに忘れてしまって、簡単に相手を裏切ることのできる女だなんて、どうか思わないでくださいね……。あたしはまる一年間もあの人を愛しつづけ、神様に誓ってもいいですけれど、それこそ一度だって、ほんの気持だけでもあの人を裏切るような真似はしなかったんですもの。それなのにあの人はそれを軽く見て、あたしをからかったんですわ。あんな人どうとでも勝手にするがいいわ。でもあの人はあたしを傷つけ、あたしのハートを侮辱したのよ。あたしは――あたしはあんな人なんか愛してはいません。だってあたしの愛することのできる人は、心がひろく、あたしを理解してくれる、立派な人だけなんですもの。だって、あたし自身そういう女なんですものね。だからあの人はあたしに愛される値うちのない人なんですわ――ほんとに、もうどうとでも勝手にするがいいわ! かえっていいことをしてくれたくらいですわ、だって後になって期待を裏切られて、正体《しようたい》を見せつけられるよりまだましですもの……。さあ、この話はもうこれでおしまい! でも、どうだかわかりませんわね、あなた」と彼女は私の手を握ったまま言葉をつづけた。「どうだかわかりませんわね。もしかすると、あたしの愛情だってはじめから終りまで気の迷いだったのかも、錯覚だったのかも知れませんわ。ひょっとすると、始終お祖母《ばあ》さんに監視されていたことからきた、ばかばかしいいたずらが事の起りなのかも知れませんわね? ことによると、あたしはあの人ではなく、ほかの人を愛すべきなのかも知れない、あんな人ではなく、ほかの、あたしを憐れんでくれるような、そして、そして……。でも、もうよしましょう、よしましょうねこんな話は」と興奮に息をあえがせながら、ナースチェンカは自分で自分をさえぎった。「ただ、あたしがあなたにお話したかったのはね……あたしがお話したかったのはこういうことなんですの。もしもあなたが、あたしがあの人を愛している(いいえ、愛していた)にしても、そんなことには構わずに、それでもまだ……あなたの愛情が大きくて、結局は、あたしの胸から以前の愛を追いだすことができるとお感じでしたら……もしもあなたがあたしを可哀そうだとお思いになったら、もしもあなたが慰めもなければ希望もない運命のままに、あたしを一人ほうっておきたくないとお思いになったら、もしもあなたがいまと同じように、これからいつまでもあたしを愛していきたいとお思いになったら、その感謝の念だけでも誓って……あたしの愛は、やがては、あなたの愛に価するものになると思いますわ……。これでもあなたはあたしの手を取ってくださいますか?」
「ナースチェンカ」と私は涙に息をあえがせて叫んだ。「ナースチェンカ!……。おお、ナースチェンカ!……」
「さあ、もういいことよ、いいことよ! さあ、今度こそ本当にもういいことよ!」と彼女はやっと自分を抑えつけるようにして言いだした。「さあ、これでなにもかも言ってしまいましたわね、そうじゃありません? そうですわね? さあこれで、あなたも幸福なら、あたしも幸福よ。もうこれ以上なにも言うことはありませんわ。ちょっと待って、しばらくそっとしておいてくださいな……。なにかほかのことをお話しになって、お願い!……」
「そうだ、ナースチェンカ、そうですとも! この話はもうたくさんだ、ぼくはいま幸福なんだから、ぼくは……。さあ、ナースチェンカ、さあ、なにかほかの話をしましょう。早く、早く話をはじめるんだ。それがいい! ぼくならいつでも用意ができてますよ……」
だが二人はなにを話していいかわからなかった。二人は笑ったり、泣いたりしながら、連絡もなければ意味もない無数の言葉を、口から出まかせに喋りつづけた。私たちは歩道を歩いているかと思えば、急に後戻りをしたり、やたらに往来を横切ったりした。それから足をとめて、また河岸通りのほうへと道を横切って歩きだす。二人はまるで子供のようだった……。
「ぼくはいま一人で暮していますがねえ、ナースチェンカ」と私は言いだした。「明日になれば……。そりゃ、もちろん、ぼくは、ご存じのように、ナースチェンカ、貧乏ですよ。年にたった千二百ルーブリしかもらってませんからね。しかしそんなことはなんでもありゃしません……」
「もちろん、なんでもありませんわ。お祖母さんには年金がついてますもの、あたしたちを困らせるようなことはなくってよ。でもお祖母さんは引き取らなくっちゃ」
「むろん、お祖母さんは引き取らなくっちゃいけない……。ただ問題はマトリョーナですがね……」
「あっ、そうそう、うちにもやっぱりフョークラがいましたわ!」
「マトリョーナは人は好いんですがね、ただ一つ欠点があるんですよ。あの女には考えがないんです、ナースチェンカ、考えというものがぜんぜんないんですよ。しかしそんなことはなんでもありゃしない!……」
「どっちみち同じことよ。二人一緒に働いてもらってもいいわけでしょ。ただあなたは明日にもさっそくあたしたちのとこへ越していらっしゃらなくちゃ」
「え、なんですって? あなたの家へ! よろしい、いつでも越して行きますよ……」
「そうよ、家の部屋を借りるわけよ。家はね、上が中二階になっていますの。そこがいまあいてるのよ。年をとった、貴族の女の人がそこに住んでいたんですけど、引っ越してしまいましたの。お祖母さんはね、若い男の人にはいってもらいたいらしいのよ。『どうして若い男の人がいいの?』って、あたしきいてみたの。そしたらね、お祖母さんたら『なあに、わたしももう年だからね。だけどね、ナースチェンカ、わたしがお前をその人のところへお嫁にやろうと思ってるなんて考えないでおくれ』ですって。そこであたしは、やっぱりそのためだったのかと、一度にわかってしまいましたわ……」
「ああ、ナースチェンカ!……」
そして二人は声を揃えて笑いだした。
「さあ、もうたくさん、たくさんよ。ところでいまどちらにお住まいでしたかしら? あたし、忘れてしまって」
「そこの――橋の近くの、バランニコフの家ですよ」
「あのとても大きな建物?」
「そう、とても大きな建物です」
「ああ、それなら知ってますわ、なかなかいいお家ね。だけど、いいこと、あんなとこは引きはらって、できるだけ早くあたしたちの家へ越していらっしゃるのよ……」
「明日にも、ナースチェンカ、明日にもさっそく。部屋代がすこしたまってるけれど、なにそんなことは構いやしません……。もうすぐ月給日ですから……」
「あのね、もしかしたら、あたし家庭教師をしてもいいわ。自分も勉強して、子供たちの勉強を見てやることにするわ……」
「そう、そいつはいいですね……ぼくだってもうじきボーナスをもらいますからね、ナースチェンカ……」
「それじゃ明日からあなたはもう家族の一員ね……」
「そうですよ、そして一緒に≪セヴィリヤの理髪師≫を聞きに行きましょう、今度また近いうちに上演されるそうですよ」
「ええ、行きましょう」と笑いながら、ナースチェンカはいった。「いいえ、それよりなにかほかのものを聞きに行きましょうよ、≪セヴィリヤの理髪師≫じゃないものを……」
「ええ、いいですとも、なにかほかのやつにしましょう。もちろん、そのほうがいい、つい気がつかなかったもんで……」
こんなことを話しながら、私たちは二人ともまるで炭火《すみび》にあてられたか、霧にでもまかれたように、ふらふらと歩きまわり、自分でも自分がどうなっているかわからない有様だった。足をとめて、一つところで長いこと喋《しやべ》りこんでいるかと思うと、またもやふらふらと歩きだし、とんでもないところへ出てしまう。そしてまたしても笑い、またしても涙……。そうかと思うと、ナースチェンカが急に家へ帰りたいと言いだす。私は引きとめる勇気もなく、それでは家まで送って行こうという。そして二人は歩きだすのだが、十五分もすると、二人はいつの間にか河岸通りの例のベンチのそばにきているという始末だった。彼女はためいきをついて、またまた涙がその眼にあふれてくる。私は急に怖気《おじけ》づいて、思わずヒヤリとする……。だが彼女はすぐさま私の手を握って、ぐんぐん引っぱるようにして歩きだし、取りとめのないお喋りがはじまる、夢中になって話しこむ……。
「もう帰らなくっちゃ、もう家へ帰らなけりゃなりませんわ。もうとてもおそいんじゃないかしら」と、とうとうナースチェンカはいった。「こんな子供じみた真似はもうたくさんですわ!」
「そうですね、ナースチェンカ、しかしこの調子じゃぼくはきっと眠れませんよ。ぼくは家へは帰りません」
「あたしもやっぱり眠れそうもありませんわ。でも家まで送ってくださるわね……」
「もちろんですよ!」
「だけど今度こそ間違いなく家まで行きましょうね」
「大丈夫、間違いありません……」
「本当ね?……だっていつかは家へ帰らなくちゃなりませんもの!」
「約束しますよ」と私は笑いながら答えた……。
「さあ、それじゃ行きましょう!」
「行きましょう」
「あの空をごらんなさい、ナースチェンカ、まあ見てごらんなさい! 明日はきっとすばらしい天気ですよ。なんて青い空だろう、なんて月だろうな! ごらんなさい、ほら、あの黄色い雲、いまちょうど月をおおいかくそうとしてるでしょう、ごらんなさい、ごらんなさい!……。あっ、違った、脇のほうを通りすぎちゃった。ごらんなさいよ、ほら!……」
しかしナースチェンカは雲を見てはいなかった。彼女は無言のまま釘づけにされたようにその場に立ちすくんでいた。しばらくして彼女は妙におずおずと、ぴったりと私のほうへからだを寄せてきた。その手は私の手の中でふるえていた。私は彼女の顔をのぞきこんだ……。彼女はさらにぴったりと私に寄りそった。
ちょうどその瞬間、一人の青年が私たちのそばを通りすぎた。彼は不意に足をとめて、じっと私たちの姿を見つめていたが、それからまたさらに何歩か足を進めた。私の心臓はおののきはじめた……。
「ナースチェンカ」と私は低い声でいった。「あの人は誰なの、ナースチェンカ?」
「あの人よ!」と囁《ささや》くような声で答えて、彼女はいっそうぴったりと、ますますはげしくからだをふるわせながら私に寄りそった……。私は立っているのもやっとの有様だった。
「ナースチェンカ! ナースチェンカ! やっぱり君だったのか!」という声が私たちのうしろで聞えた。そして同時にその青年は私たちのほうへ何歩か進み寄った……。
ああ、なんという叫び声! ギクリとふるえた彼女のからだ! そして私の手を振りほどいて、彼のほうへ走り寄った彼女の素早い動作!……。私は打ちのめされたように、じっと立ったまま、ぼんやり二人をながめていた。だが彼に手をさしのべ、その抱擁に身をまかせるかまかせないうちに、彼女は不意にまた私のほうを振り返り、アッという間にまた私のそばへ戻ってきていた。風のような、稲妻のような早さだった。そして私がハッとわれに返ったときには、彼女はすでに両手を私の首にまきつけ、熱い、息づまるような接吻で私の唇を封じていた。それから、私にひと言も声をかけずに、ふたたび彼のほうへ身を躍《おど》らすと、その両手をつかんで、先に立ってずんずん歩きだした。
私は長いことその場に突っ立って、二人のうしろ姿を見送っていた……。やがて、二人とも私の視界から姿を消してしまった。
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朝
私の幾夜かは終りをつげて朝になった。いやな天気だった。雨が降っていて、雨滴が淋しく私の部屋の窓ガラスを叩いている。部屋の中は薄暗く、外は灰色に煙っていた。私は頭がズキズキ痛み、目まいがしていた。手足が妙に熱っぽかった。
「お手紙ですよ、旦那さま、市内便でいま郵便屋がもってきてくれましたんで」と私の頭の上でマトリョーナがいった。
「手紙! 誰からだい」と私は椅子からとびあがって叫んだ。
「知りませんよ、旦那さま、まあ開けてごらんになるんですね、差出人の名前が書いてあるかも知れませんからね」
私は急いで封を切った。それは彼女からのものだった!
『おお、お赦《ゆる》しください、どうぞあたしをお赦しください!』とナースチェンカは書いていた。『膝をついてお願いいたします、どうぞあたしをお赦しください! あたしはあなたをも、自分をもあざむいていたのでございます。あれは夢でした、まぼろしだったのでございます……。あなたのことを考えると今日のあたしは身も細る思いでございます。お赦しください、どうぞあたしをお赦しください!……』
『どうかあたしをお責めにならないでください、だってあたしはあなたを裏切るような真似はなにひとつしなかったのですもの。あたしはあなたを愛しつづけると申しました。いまでもあなたを愛しております、いえ、愛しているなどというなまやさしいものではありません。ああ! あなたがたお二人を同時に愛することができたならば! ああ、もしもあなたがあの人だったならば!』
『ああ、もしもあの人があなただったら!』という声が不意に私の頭にひびいた。君の言葉を思いだしたよ、ナースチェンカ!
『神様もご照覧あれ、いまのあたしはあなたのためなら、どんなことでもするつもりでございます。あなたが辛《つら》い、苦しい思いをなさっていらっしゃることは、あたしにもよくわかります。あたしはあなたを侮辱したのですもの。でもあなたもご存じのように――愛していれば、いつまでも侮辱されたことを覚えていられるものではありません。そしてあなたはあたしを愛していらっしゃる!』
『ありがとうございます! そうです! その愛情に対してあたしはあなたに感謝いたします。あなたの愛情は、眼がさめてからも長いこと心に残っている甘い夢のように、あたしの記憶にしっかりと刻みつけられているのですもの。あなたが兄妹のようにあたしに対してご自分の心を開いてくださったあの瞬間、そして寛大にもあたしの悲しみに打ちひしがれたハートをやさしく受け入れ、それを大切にし、愛情をそそぎ、その傷をいやしてくださった瞬間のことは、永久にあたしの記憶に残るに違いありませんもの……。あなたがあたしを赦してくだされば、あなたの思い出はあたしの胸の中で、永遠に変ることのない感謝の念にまで高められ、あたしの心から決して消え去ることはないでしょう……。あたしはこの思い出を大切に守り通し、常にそれに忠実に、そしてそれを裏切るような真似は、自分のハートを裏切るような真似はいたしません。あたしのハートはそれにしてはあまりにも永久不変なのでございます。そのために昨夜もあんなに早く、それが永久に所属している人のもとへと戻って行ったようなわけでございました』
『またお眼にかかりましょう、あなたもどうぞこちらへお出かけください。あなたは決してあたしたちをお見棄てになるようなことはないでしょう、あなたは永遠にあたしの親友、あたしの兄なのですもの……。そしてあたしにお会いになったら、どうぞ手を差しのべてくださいまし……そうしてくださいますわね? あなたは手を差しのべてくださるにちがいありません、だってあなたはあたしを赦してくだすったんですもの、そうじゃありません? あたしを|前と同じように《ヽヽヽヽヽヽヽ》愛していてくださいますわね?』
『おお、どうぞあたしを愛してください、見棄てないでください。だってあたしはこの瞬間、こんなにもあなたを愛しているんですもの、あたしはあなたの愛に価する女ですもの、その愛にむくいることのできる女ですもの……ああ、あなたはあたしの親友です! あたしは来週あの人と結婚いたします。あの人はふたたび恋する人として帰ってまいりました、あの人は決してあたしを忘れていたのではなかったのです……。あの人のことを書いたからといって、あなたはお怒りにはなりませんわね。でもあたしはあの人と一緒に一度あなたをお訪ねしたいと思っています。あなたはきっとあの人を好きになってくださるでしょう、ねえ、そうですわね?
どうぞあたしたち二人をお赦しください、どうぞお忘れにならずに、いつまでも愛していてくださるように、あなたのナースチェンカを』
私は長いこと何度もこの手紙を読み返した。涙が眼からあふれでてきた。やがて、手紙が手からすべり落ちた。そして私は両手で顔をおおった。
「旦那さま! ねえ、旦那さま!」とマトリョーナが声をかけた。
「なんだい、ばあや?」
「天井の蜘蛛の巣をすっかり取ってしまいましたよ。これならいつお嫁さんをもらって、お客さまを呼ぶようなことがあっても、もう大丈夫というもんですよ……」
私はマトリョーナの顔を見た。それはまだいたって元気な、|年の若い《ヽヽヽヽ》ばあやであったが、なぜかは知らないが、私の眼にはとつぜん彼女が、眼のつやも消え、顔はしわだらけで、腰の曲った、よぼよぼの老婆になったように思われた……。どうしたわけか、不意に私の部屋がばあやと同じように、老いこんでしまったように思われた。壁も床も急に色があせ、なにもかもうすねぼけた色に変り、蜘蛛の巣もかえって前より多いくらいだった。どういうものか、ふと窓の外を見ると、向い側に立っている家もこれまた急に古ぼけて、妙にくすんだ色に変ってしまったような気がした。円柱の漆喰《しつくい》は剥《は》げ落ち、蛇腹《じやばら》は黒ずんで、ひびがいり、濃い黄色に塗られて鮮《あざや》かだった壁も、いまは無残にもところまだらになっている……。
それとも思いがけなく黒雲のかげからちょっと顔をのぞかせた太陽の光線が、またもや雨雲のかげに隠れてしまったので、眼の前のあらゆるものがふたたび色つやを失ってしまったのだろうか。いや、もしかすると、私の眼の前に物悲しくもよそよそしい私の未来の生活の一齣《ひとこま》が、そっくりそのままチラリとひらめきすぎたのかも知れない。そして私は、きっかり十五年後の、すっかり年を取った私が、同じこの部屋で、やはり一人ぼっちで、このながの年月にもすこしも利口にならないマトリョーナと二人で、相変らず淋しく暮している今と同じ自分の姿を見たのかも知れないのだ。
しかし、ナースチェンカ、侮辱されたことをいつまでも根にもつ私だろうか? 君の晴れわたった平穏無事な幸福な生活に、暗雲を吹き送るような私だろうか、はげしい非難の言葉を投げつけて、君の胸を哀愁にとざさせ、ひそかな良心の苛責で君の胸を傷つけ、至上の喜びの瞬間にやるせない想いで胸をどきつかせるような私だろうか、彼と並んで祭壇に向って進むとき、君がその黒髪に編みこんだ、あの可憐《かれん》の花の一つでも、もみくちゃにするような私だろうか……。おお、決して、決してそんなことはしやしない! 君の心の空のいつまでも晴やかであらんことを、君の美しい微笑のいつまでも明るく、平穏無事であらんことを、そしてまた法悦《ほうえつ》と幸福の瞬間に君の上に祝福のあらんことを。それは君がもう一人の孤独で、感謝にあふれたハートにあたえる幸福でもあるのだ!
ああ! 至上の法悦の完全なひととき! 人間の長い一生にくらべてすら、それは決して不足のない一瞬ではないか?……。
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あとがき
『感傷的ロマン』及び『ある夢想家の思い出より』という二つのサブタイトルをもつ『白夜』は、一八四八年『祖国雑誌』十二月号に発表された。これは固苦しい説教者と誤解されやすいドストエフスキー(一八二一−一八八一年)が、いかにデリケートな愛情をもった抒情詩人であったかを、われわれの前にあますところなく示してくれる愛すべき小品であり、そのテーマは彼が終始愛してやまなかった『空想家』の生活記録である。
ドストエフスキーといえば『罪と罰』とか『カラマーゾフ兄弟』といった大作だけが問題にされ、『白夜』とか『弱気』などの小品は、よほどの愛好家でないと眼を通す機会がないが、この作家を知るためには『地下生活者の手記』『死の家の記録』などとともに、絶対に無視することのできない作品であろう。
『白夜』の主人公はペテルブルクの貧しいインテリ青年であり、どこかにささやかな勤めをもってはいるが、世間から姿をかくして、『罪と罰』のラスコーリニコフのように、そのうら淋しい下宿の部屋の中で、孤独な、空想だけに生きる生活を送っている。彼にとっては実生活は問題ではなく、ただ空想だけが生き甲斐なのだ。そうした若い『空想家』が人の心を狂わせる、ゴーゴリを狂死させ、プーシキンを狂喜させ、そしてまた都会の作家ドストエフスキーがこよなく愛した神秘的な白夜のペテルブルクで、ふとしたキッカケから一人の不幸な、これもまた夢をいだいた少女を知り、やがてその少女に愛情をいだき、恋の喜びを知ろうとする。失恋の悲しみに胸を痛めていた少女も、この純情で汚れを知らない青年にしだいに心を惹かれるようになり、二人はその生涯の運命を結び合わせようと決心する。そこには純真な若い男女が心から願う幸福への夢がある。そこには健康な、はつらつとした少女の、夢見がちな愛情がある。だがそれも結局はペテルブルクの白夜に一瞬姿を現わして、二人の胸をときめかせた幻影にすぎないことがわかる。最後の、二人の愛がその最高潮に達した瞬間に、その幻影はもろくもくずれ去り、少女は心の底で心待ちにしていた、だしぬけに現われた以前の恋人とともに、白夜の町角に姿を消してしまう。その空想が現実に触れ合ったとき、ある者はそこに幻滅の悲哀を感じ、ある者はこの上もない喜びを感ずる。彼はドストエフスキーの主人公にふさわしい『弱気』の持主であったために、ついにその幸福をつかむことができないのである。
『女主人』(一八四七年)にその原型が示されたドストエフスキーの『空想家』のタイプは、そのシベリヤ流刑生活によってさらに磨きをかけられ、『地下生活者の手記』(一八六四年)を経て、その甘い感傷的空想は棄て去られ、ついに『罪と罰』(一八六六年)のラスコーリニコフにいたって、その頂点に達する。だが『白夜』ではそのセンチメンタリズムは主要なモチーフとなり、全篇に甘いロマンの香りをただよわせ、われわれを白夜のペテルブルクの河岸通りに立たせるのである。
[#地付き]訳 者
角川文庫『白夜』昭和33年4月15日初版刊行
平成11年5月10日79版刊行