貧しき人びと
ドストエフスキー/北垣信行訳
目 次
貧しき人びと
解説
代表作品解題
年譜
訳者あとがき
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貧しき人びと
おお、私はあの作り話の語り手にはほとほと愛想がつきた! なにかためになる、愉快な、楽しいものでも書いてくれるどころか、地下のありとあらゆる秘密をあばき出すだけではないか!……それこそほんとうに彼らには執筆を禁止すべきだ! いやまったくなんたることだ。読んでいるうちに……いつしか物思いに沈み、……読後、あらゆる妄想が頭にうかぶだけだ。ほんとうに彼らには執筆を禁止させるがいい。それこそまったく完全に禁止すべきだ。
V・F・オドーエフスキイ公爵〔ロシアのロマン主義の作家〕
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四月八日
私のかけがえのないワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
私、きのうは幸福でした、とても幸福でした、これ以上は望めないくらい幸福でした! 意地っ張りやさんのあなたが、たとえ一生に一度にもせよ、私のいうことを聞いてくださったわけですからね。ゆうべ八時頃目をさまして(ワーリニカさん〔ワルラーラの愛称〕、あなたもご存じのように、私は勤めから帰ったあと一、二時間昼寝をするのが好きなのです)、ろうそくを出し、紙を用意して、鵞《が》ペンを削っていました。が、ふと目をあげたとたんに……私は胸がそれこそ激しく躍《おど》りましたよ! ああ、やっぱりあなたは私が望んでいたことを、心に願っていたことを察してくださったんですね! 見れば、あなたの窓のカーテンの端が、私があのときあなたにそれとなく匂わしておいたとおり、ちゃんと折り曲げて、鳳仙花《ほうせんか》の鉢にひっかけてあるじゃありませんか。それと同時に私には、窓際にあなたのかわいいお顔がちらりと見えたような気がし、あなたもお部屋から私のほうを見ていらっしゃるのだ、あなたもやはり私のことを考えてくださっているのだとさえ思いました。
ですから、ワーリニカさん、私はそのとき、あなたの愛くるしいお顔をはっきりと見きわめられないのが、いまいましくてなりませんでした! ワーリニカさん、そりゃこの私どもにしたって、はっきりと物が見えた時代もあったんですよ。まったく年はとりたくないもんですねえ、ワーリニカさん! この頃は、しょっちゅうなんとなく目先がちらちらしましてねえ、前の晩にちょっとでも仕事や書きものでもしようものなら、もうそのあくる朝は、目は赤く充血するし、涙は流れるし、まったく人前に出るのが恥ずかしいくらいなんですよ。それでも私の心眼には、あなたの微笑が急に輝き出して見えたんですよ、ワーリニカさん、あなたの善良そうな、愛想のいい微笑が。そして私は胸に、ほら、おぼえておいででしょう、ワーリニカさん、私あなたに接吻をしたでしょう、あのときの感じと寸分ちがわない感じをおぼえたんです。ご存じですか、ワーリニカさん、それどころか私には、あなたがそちらで私を指で威《おど》すようなまねをなすったのが見えたくらいなんです。そうなんでしょう、お悪戯《いた》さん? ぜひあなたはお手紙にそのことをすっかりできるだけこまごまと書いてよこしてくださいよ。
それはそうと、どうですか、ワーリニカさん、私たちのこのカーテンの思いつきは? じつに気がきいているじゃありませんか? 仕事にむかっていようと、床《とこ》にはいろうと、目をさまそうと、あなたもあそこで私のことを考えてくださっている、私のことを忘れないでいてくださっている、あなたもお体のぐあいがよくて、楽しくしていらっしゃるってことがちゃんとわかるという寸法なんですからね。あなたがカーテンをおおろしになると……これは、さようなら、マカールさん、もう寝《やす》む時間ですわ! という意味になる。と今度はカーテンをあけると、……これは、お早うございます、マカールさん、よくお寝《やす》みになれまして? とか、さもなければ、お体のぐあいはいかがですか、マカールさん? わたしのほうは、お蔭さまで、体の調子もいいし、無事ですわ! ということになるんですからね。どうです、ワーリニカさん、じつにうまい思いつきじゃありませんか。手紙も必要ないくらいじゃありませんか! どうです、私もこういうことにかけちゃ大したものでしょう、ワーリニカさん?
ワルワーラさん、ご報告しておきますが、私は、ゆうべは懸念《けねん》したほどのこともなく、ぐあいよく眠れたものですから、それに大いに満足感をおぼえているところです。新居に引き移った当座は、そのあたらしい住居ではたいてい、なにがなし寝つきが悪いものです。たいていなんとなくそういうものですが、しかしそれがきょうはちがうのです! きょうはじつに晴れ晴れした、わかわかしい気分で跳《は》ね起きました……気持ちよく愉快にね! 今朝はまたじつにすばらしい朝じゃありませんか! 部屋の窓は明け放たれている。太陽は輝いているし、小鳥はさえずっているし、大気は春の芳香に息づいているし、森羅万象《しんらばんしょう》が生気をとりもどした感じです……それにあのときはほかのものまでが、すべてやはりこの気分と合致して、なにからなにまで春らしく秩序立っていました。そのためきょうは私、かなり愉快に空想にふけったくらいです、しかも私の空想といえばみんなあなたのことばかりだったのです。私はあなたを、人間を慰め自然に風情《ふぜい》をそえるために造られた空飛ぶ小鳥と比《くら》べてみたのです。そのとき私は、悩みと不安にみちた生活をしているわれわれ人間が、空飛ぶ小鳥の屈託《くったく》なげな清らかで幸福な暮らしを羨《うらや》むのも当然だと思いましたね、まあそのほかいろんな、こういった類《たぐ》いのことを考えました。つまり、私はそういう比較にならぬ比較ばかりしていたわけです。
ワーリニカさん、私のところには一冊の本があって、それにはこれとまったくおなじことが、これに似たようなことがじつにくわしく書きつづってあるんです。私はここに書きそえておきますが、空想にもまったくいろんなものがあるものですよ。
ところでいまはまさに春です、ですから考えもすべてこういう愉快で奇抜で、おもしろいものになり、空想もなごやかなものがうかび、あらゆるものがバラ色につつまれて見えるわけです。こんな余計なことを書き加えてしまいましたが、じつは、これはみなその本からの剽窃《ひょうせつ》なんです。作者はその本のなかでそういった望みを詩で吐露《とろ》して、こう書いています……。
『なぜにわたしは鳥ならず、
猛《たけ》き鳥にはあらざるか!』
とまあ、こういったようなことをね! その本にはそのほかまだいろんな思想が書きつらねてありますが、そんなことはもうどうでもいいです! ところで、あなたはけさ、いったいどこへ行ってらっしゃったんです、ワルワーラさん? 私はまだ勤めに行く仕度もしていなかったのに、あなたはそれこそまるで春の小鳥のように、部屋からぱっと飛び出して、さも愉快そうに庭をつっ切っていらっしゃったでしょう。私はそういうあなたの姿を発見して、どんなに嬉しかったかしれませんよ! ああ、ワーリニカさん、ワーリニカさん!……悲観してはいけません。涙などでは悲しみはまぎらせないものですからね。そういうことを私は知っているんですよ、ワーリニカさん、私は経験で知っているんです。いまではあなたも気分が安らいで、健康もいくぶん回復なすったようですね。……それはそうと、お宅のフェドーラはいかがですか? いやまったくあの女《ひと》はいい人ですね! ワーリニカさん、どうぞ私に、あなたがお家であの人とどんなふうに暮らしていらっしゃるか、そしてあなたはすっかり満足していらっしゃるかどうか、そういったことを書いてよこしてください。フェドーラという女はいくぶん不平をいう癖がありますが、それは見のがしてやってください、ワーリンカさん。勝手に言わせておくんですね! あの女はあれでなかなかいい人なんですから。
うちの手伝い女のテレーザのことはもうお知らせしましたが、……あれもやはり、人のいい、実のある女ですよ。私はあなたとの手紙のやりとりのことでは、ほんとうにどんなに頭を悩ましたかしれません! ところが、あのとおり、神さまが私たちに幸福を授《さず》けてやろうとの思《おぼ》しめしでテレーザをおつかわしになったじゃありませんか。あの女は人のいい、おとなしい、口数のすくない女です。それにひきかえ、うちのおかみときたら、まったく血も涙もない女ですよ。あの子を、まるで雑巾《ぞうきん》かなにかのようにこき使うんですからねえ。
それにしても、ワルワーラさん、私もとんだぼろ家に入りこんだものじゃありませんか! これでもアパートだっていうんですからねえ! あなたもご存じのように、私は以前にはそれこそ蝦夷山鳥《えぞやまどり》みたいな生活をしていたものですよ。おとなしく、静かにね。私のところではよく、蝿《はえ》が飛びまわっても、その羽音が聞こえるくらいでしたものねえ。ところがここときたら、騒音とわめき声とごった返しの連続でしてねえ!
そうそう、あなたはまだここがどういう構造になっているか、ご存じなかったんでしたね。
それではひとつ、真っ暗できたならしい長い廊下を想像してみてください。廊下の右手には窓なしの壁がぶっとおしにつづいていて、左手はドアばかりで、そのドアが、宿屋式に、ずうっと一列につづいているのです。間借人《まがりにん》はそれらの番号つきの部屋を借りているわけですが、それらの番号つきの部屋はそれぞれひとつずつ部屋があって、そのひと部屋に二人も、三人も寝起きしているのです。秩序なんて聞くだけ野暮《やぼ》ですよ……まるでノアの箱船そこのけなんですから! しかし、住んでいるのは立派な連中ばかりで、そろいもそろって教養のある学者ばかりのようです。公務員がひとりおりますがね(この男はどこかで文学の方面の仕事にたずさわっている人です)、博覧多識で、ホメーロスのことだろうと、ブランベウス〔ロシアの東洋学者、作家、ジャーナリストのセンコーフスキイ(一八〇〇〜五八)の筆名〕のことだろうと、あちらの国のいろんな作家のことだろうと、なんの話でもできる人です。……頭のいい人ですよ! それから将校がふたり住んでいますが、これは年がら年じゅうトランプ博打《ばくち》ばかりやっています。海軍少尉候補生も住んでいますし、イギリス人の教師も住んでいます。……まあ、お待ちください、ワーリニカさん、今度の手紙に、諷刺《ふうし》的に、つまり彼らがめいめい思い思いに、どんな暮らし方をしているかをできるだけ詳細に描き出してお慰みに供しますから。
うちのおかみというのは体のちんちくりんな、きたならしい婆さんで、一日じゅうスリッパにだぶだぶの部屋着といったかっこうでいて、日がな一日テレーザをどなりつけているのです。私の住んでいるのは台所です、いや、こう言ったほうがずっと正確になるでしょう。この台所のわきにひとつ部屋があります(ここでひと言おことわりしておかなければなりませんが、ここの台所は清潔で明るくて、なかなか立派なんですよ)、小じんまりした部屋で、すこぶるつつましやかな一隅なのです、つまり、いや、こう言ったほうがいいでしょう、台所は大きくて窓が三つもあるんですが、その横壁にそって仕切りがおいてあるため、まるでもうひとつ部屋が、特別室ができているようなぐあいになっているのです。どこからどこまで広々として便利で、窓もあるし、なんでもある、……ま、ひと言《こと》で言えば、なにもかも便利にできているのです。ま、こういった所が私の小じんまりした住居《すまい》なんです。
それにしても、こんなふうには考えないでくださいね、ワーリニカさん、これにはなにかほかに秘密の意味あいでもあるのだろうなどとはね。まあ、台所ですって! とあなたはおっしゃるでしょう……つまり、私は、ま、ほかならぬそういう部屋の仕切りのかげで暮らしているわけですが、そんなことはなんでもありません。私は好きでみんなから離れて、小じんまりと暮らし、ひっそりと暮らしているんですから。
私は自分の部屋に、寝台、机、箪笥《たんす》、一対の椅子などを据《す》えつけ、聖像画をかけました。たしかに、もっとましなアパートだってあるでしょう、もっとずっと上等なアパートだってあるかもしれません、しかしなによりも肝心なのは便利ということです。私がこうしているのもみんな、便利だからなんです、ですからあなたもなにかほかのためじゃないかなどとは考えないでください。あなたの部屋の窓は中庭を隔ててさし向かいになっている上に、その中庭がまたごく狭いときていて、通りがかりにでもあなたのお姿が見られるわけですからねえ……私だって、この不仕合わせな男だって、ますます愉快になってくるじゃありませんか、しかも部屋代がよそより安いときているんですから。われわれのところでは、いちばん悪い部屋でも賄《まかな》いつきで、紙幣にして三十五ルーブリにつくんです。とても懐《ふところ》にあいませんよ!
ところが、いまのこの住居は、間代が紙幣で七ルーブリ、食費が銀貨で五ルーブリ、|〆《しめ》て二十四ルーブリ五十コペイカしかかからないんです。ところが前の下宿ではちょうど三十ルーブリ払っていたわけで、そのかわりずいぶんいろんなものを切りつめていましたよ。お茶だっていつも飲むわけにいかなかったんですからね、ところが今度はどうです、茶代だって砂糖代だって出てくるじゃありませんか。こんなことは、なんですね、ワーリニカさん、お茶を飲まずにいるなどということはなんとなくきまりが悪いものですね。ここの人たちはみんな裕福な連中ばかりであるだけに、余計恥ずかしいですよ。だいたい人は他人のためにお茶を飲んでいるんですよ、ワーリニカさん、見栄のため、体裁《ていさい》のためにね。ところが私にはそんなことはどうだっていいんです、私は気まぐれな男じゃありませんからね。ま、あっさりと、懐ぐあいのためとお考えになって結構ですよ……しょっちゅうなにがしかは要《い》るものです……そら、長靴だ、着物だといったぐあいにね……が、そんなものを買ったあとで、金がたんと残るでしょうか? それだけで私の給料はすっからかんじゃありませんか。それでも私は不平は言いません、満足ですよ。それで十分なのです。こうしてもうここ数年やってきているのです。それにボーナスだって出ますからね。
では、さようなら、ワーリニカさん。あなたにと思って鳳仙花《ほうせんか》を二鉢とゼラニウムを一鉢買ってきました……高くはないのです。あなたは、たぶん、木犀草《もくせいそう》もお好きなんでしょう? そんなわけで木犀草もありますから、手紙でお知らせください。それに、いいですか、なにもかもできるだけくわしく書いてよこしてくださいよ。
それにしても、私がこんな部屋を借りたことについて、なにかつまらないことを考えたり、邪推《じゃすい》したりしないでくださいね、ワーリニカさん。そうなんですよ、便利だからこうしたんですから、私はただ便利さだけに心をひかれたんですから。私はですね、ワーリニカさん、これでお金を寄せて、貯金しているんですよ。私は小金を持っているんです。あなたは私を、蝿《はえ》の羽にでも打ち倒されそうな優男《やさおとこ》だなどとは見ないでくださいよ。とんでもない、ワーリニカさん、私はこれでなかなか隅《すみ》におけない男で、落ちついた毅然《きぜん》たる根性の人間らしい性根《しょうね》を持ちあわせているんですからね。さようなら、ワーリニカさん! 私は大版の用紙二枚分も書きちらしてしまいましたが、もうとっくに勤めに行く時刻です。あなたの指に接吻を送ります、ワーリニカさん。
あなたの卑しき僕《しもべ》にして誠実なる友
マカール・ジェーヴシキン
追伸 ひとつお願いがあります。ワーリニカさん、ご返事は、なるべくくわしく書いてください。ワーリニカさん、この手紙につけて砂糖菓子を一フンド〔旧ロシアの重量単位〕ほどおとどけします。たんと召しあがってください、それから私のことはどうぞご心配なく、悪く思わないでください。では、さようなら、ワーリニカさん。
四月八日
マカール・アレクセーエヴィチさま!
いいですか、こんなことをしていただいたら、わたし、しまいにあなたとすっかり喧嘩《けんか》をしなければならなくなりますわ。ご親切なマカールさま、正直言って、わたしはこういう贈物をいただくのがかえって心苦しいんですの。これがあなたにとってどんなに高くついているか、どんなにお困りになるか、ご自身にとって必要欠くべからざるものをどんなに切りつめていらっしゃるか、わたしはよく存じあげているんですもの。わたしはなんにも、それこそなんにも要《い》らないと、わたしはこれまで、あなたからふんだんにおかけいただいたご恩《おん》にお報《むく》いする力もないと、何度申しあげたかしれないでしょう。それに、どうしてこんな鉢植えなどくださいましたの? ま、鳳仙花のほうはまだいいとしても、ゼラニウムなど、どうしてくださいましたの? 例えばこのゼラニウムの場合のように、ちょっとひと言でも不用意に口をすべらそうものなら、すぐに買ってきてくださるんですものね。きっとこれはお高かったんでしょう。
それにしても、これについている花の見事なことといったら! 真紅で、十字架の形をしていて。こんなすばらしいゼラニウムをいったいどこでお求めになったんですの? わたし、これを窓の真ん中の、いちばん目につくところへおきましたのよ。床の上にも長い木の台をおいて、その上にもっと草花をのせようと思っていますの。ただ、このわたしがもっとお金持になりませんとね! フェドーラがとても喜ぶだろうと思いますわ。わたしたちの部屋はいままるで楽園ですわ、すがすがしくて、明るくて!
それはそうと、あの砂糖菓子はまた、どういうわけですの? それに、ほんとうに、わたしたったいまお手紙からお察ししたんですけど、あなたにはなにかあるんですね、普通じゃありませんわ、……天国だの、春だの、芳香がただよってくるだの、小鳥がさえずっているだのって。わたし、これはどうしたことかしら、ここにはほんとうに詩だって書いてあるんじゃないかしらと思いましたわ。ほんとうに、お手紙のなかで足りないものといったら、詩くらいのものですものね、マカールさま! やさしい感覚だって、バラ色の空想《ゆめ》だって……ここにはなんでも、ないものはないんですもの! でも、カーテンのことだけは思ってもいませんでしたわ。あれはきっと、わたしが鉢をおきかえたときに、ひとりでに引っかかったんですわ。ほんとに思いがけませんでしたわ!
まあ、マカールさま! あなたがなんとおっしゃろうと、わたしを言いくるめて、収入を全部ご自分だけのことに使っているように見せかけようとして、ご自分の収入をどんなふうに数えたてようと、わたしになにひとつ包み隠すことはできませんわよ。わたしのために必要なものを切りつめていらっしゃることは、はっきりしているんですもの。例えばあんなお部屋をどうして借りることなどお思いつきになったんですの? あなたはみんながうるさくて、気が落ちつかないにちがいありませんわ。狭苦しいし、不便だと思いワすわ。おひとりの閑静な暮らしがお好きなのに、あのあなたの環境ではそんなものは薬にしたくもありませんもの! あなたのお給料から判断したところ、もっとずっといい暮らしがおできになるはずじゃありませんか。フェドーラの話では、以前にはいまとは比べようもないほど結構な暮らしをしていらっしゃったというじゃありませんの。まさかあなたは、一生涯こんなふうに他人の家の片隅を借りて、喜びもなければ親しい愛想のいい言葉ひとつかけられずに、ひとりぼっちの窮乏生活を送ってこられたわけじゃないでしょう?
ああ、ご親切なマカールさま、わたしあなたがおかわいそうでなりませんわ! せめてお体だけでもお気をつけください! あなたは、目が弱ってきたとおっしゃっていますけど、それならろうそくの光などで書きものをなさいますな。どうして書きものなどしなければいけないんですの? お勤めにご精励なことは、そんなことをなさらずとも、おそらく、上役の方々にはおわかりのことと思いますわ。
もう一度|達《たっ》てお願いしますけれど、わたしのことでそんな大金をお使いにならないでください。わたしを愛してくださっているからだということは承知していますけど、あなたご自身お金持ではないんですもの……きょうはわたしも愉快な気持ちで起きましたわ。わたし、とても気分がよかったんですの。
フェドーラはもうだいぶ前から仕事をしていますけど、わたしにも仕事を見つけてきてくれたんですもの。わたし大喜びで、ちょっと絹地を買いに出ただけで、さっそくお仕事にかかりましたの。午前中いっぱいずっととても軽やかな気分でしたわ、それはそれは愉快な気分でしたの! ところが、いまはまたいろんな陰気な考えがうかんできて、絶えず胸がうずいているんですの。
ああ、わたしはどういうことになるんでしょう、わたしの運命はどうなるんでしょう? わたし、こんなに人に知られずにひっそりと暮らしていることが、わたしには未来がないということが、わたしには先行き自分がどうなるのか予想もつかないということが苦しいんですの。うしろを振り返って見るのもおそろしいんですの。過去は、ちょっと思い出しただけでも心臓が真っぷたつに割れてしまいそうな悲しいことでいっぱいなんですもの。わたしは結局、わたしの一生を台なしにした悪者どものために、生涯泣き暮らすことになるんですわ!
もう暗くなってまいりました。仕事にかからなければならない時刻ですわ。まだまだいろいろ書いてさしあげたいことがあるんですけど、暇がないんですの、期限つきの仕事がありますものですから。急がなければなりません。言うまでもないことですが、手紙っていいものですわね。いつもそれほど退屈しないですみますものね。
それにしてもどうして一度もわたしどものところへお訪ねくださらないんですの? これはどういうわけですの、マカールさま! 今度はあなたもお近くになりましたし、それにあなたにはお暇だってときどきおありのようじゃありませんの。どうぞ、いらしってください! わたし、お宅のテレーザに遇《あ》いましたけど、あの人、なんだかひどく体のぐあいが悪いようですわね。かわいそうだったものですから、わたし、あの人に二十コペイカあげましたわ……そうそう! 忘れてしまうところでした。ご自分の毎日の生活についてすっかり、なるべくくわしく、ぜひともお知らせ願います。ご自分の周囲にいる人たちはどんな方たちか、またその人たちと折りあいよくお暮らしかどうか、わたしそういうことを残らず無性に知りたいんですの。いいですか、かならずお書きくださいね! きょうはほんとうにわざとカーテンの隅を折りかえしておきますわ。今晩はすこしお早めにお寝みください。ゆうべはお部屋に明りが夜ふけまで見えましたもの。
じゃ、さようなら。きょうは憂欝《ゆううつ》ですわ、わびしいし、物悲しい気分ですわ! ほんとにこんな日を体験しなければならないなんて! さようなら。
あなたの
ワルワーラ・ドブロセーロワ
四月八日
ワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
そうですね、 ワーリニカさん、 そうですよ、 ワーリニカさん、ほんとうに幸《さち》薄い私の運命にこんな日がめぐってこようとはねえ! そうです、あなたはこの年寄りをからかいなさったわけですね、ワルワーラさん! しかし、これは自分が悪いんですよ、まったくこの私が悪いんです! 髪の毛も薄くなったこんな年になって、恋だの懸《か》け言葉の暗示なんかに浮身《うきみ》をやつすことはなかったのです……ワーリニカさん、それでも言わせてもらいますが、ときには人間て奇態なものですね、じつに奇態なものですよ。こうしてワーリニカさん、なにかしゃべり出す、ときどき愚にもつかぬおしゃべりをはじめる! が、それがどういうことになるか、それからどういう結果が出てくるかと言えば、なにも出てきやしない、こいつは困った! と叫びたくなるようなばかげたことになるだけなんですからね。
私はね、ワーリニカさん、私は怒っているんじゃありませんよ、いろんなことを思いだすと、ただひどくむしゃくしゃするだけなんです、あんなに気取ったばかげたことを手紙で書いてやったことが癪《しゃく》にさわるだけなんです。私はきょう、いかにも気取った、しゃれのめしたかっこうで勤めに出ていきました。胸がじつに晴れ晴れとした気分だったのです。気分が、なんとはなしに、まったくのお祭り気分だったのです。うきうきしていました! 私はいそいそと書類に向かいました……が、そのあとどういうことになったと思います? そのあとでまわりを見まわしたとたんに、もうなにもかももと通り、暗くて灰色になっているじゃありませんか。インキのしみも依然とおなじなら、机や書類ももとのまま、そして私自身、前とおなじ私なのです、……以前の私とまったくおなじなのです、……では、あのときなんでペガサスに乗るような気持ちになったのでしょう? いったいなにが原因でこんなことになったのでしょう? 太陽はのぞいていたし、空はルリ色を呈《てい》していました! そのせいだったのでしょうか? それに、私どものアパートの中庭では無様《ぶざま》なことが起きているんですから、すばらしい香りもなにもあったものじゃないんですよ! が、これもみんな、きっと、私が馬鹿だからそんなふうに感じただけなんですよ。まったく、どうかすると人間てやつは自分自身の気持ちに迷わされて、愚にもつかぬことをしゃべり出すものですからね。こういうことが起きるのも、結局、気持ちが余計な、ばかげたのぼせ方をするからにほかなりません。
私は、きょうは家へ帰ってきたというより、やっとたどり着いたといったかっこうでした。なんのせいか、ひどい頭痛だったのです。これはきっと、いろんな原因がいっしょになったのだと思います。(背なかから風邪をひきこんだんでしょう)春だというので馬鹿みたいに喜んで、スプリングなどで出かけたからですよ。それはそうと、あなたは私の気持ちを誤解していますよ、ワーリニカさん! あなたは私の感情の披瀝《ひれき》を、全然見当ちがいにとっていますね。私にあんな気をおこさせたのは父性愛なんですよ、単なる純然たる父性愛にすぎないんですよ、ワルワーラさん。あなたがあわれな孤児《みなしご》の身の上であることを思えば、あなたの実父の身代わりになれるのは、さしずめこの私ですからね。これも私は心から、清らかな心から、親身《しんみ》になって言っているんですよ。なにはともあれ、たとえ私はあなたにとって遠縁の者にすぎなくとも、諺《ことわざ》にいう、「七滴《ななたれ》めの水も葛湯《くずゆ》のなか」くらいのものではあったにしても、私はやっぱりあなたの血つづきの者であり、いまとなってはいちばん近い親類だし、保護者なわけです。だってそうでしょう、あなたは真っ先に庇護《ひご》と保護を求める権利のある人たちからは、背信行為と侮辱しか受けとらなかったわけですからね。
それから詩のことでひと言《こと》申しあげますがね、ワーリニカさん、もうこの年になって詩の稽古《けいこ》でもありませんよ! 詩なんてくだらないものです! この頃は、小学校でさえ詩のできが悪いといっては、靴でひっぱたかれていますよ……まあ、そういったもんですよ、ワーリニカさん。
ワルワーラさん、あなたは、便利さがどうの、閑静さがどうのと、いろいろごたごたと、いったいなにを書いておよこしになったんです? ワーリニカさん、私は別に好き嫌いの激しい男でもなければ、口やかましい男でもありませんよ、いまの暮らしよりいい暮らしなどしたことは一ぺんもないんですから。それに、なにも年をとったからと言って気むずかしくならなければならないということもないでしょう? 食べ物だって腹いっぱい食べ、着物だって履物《はきもの》だってちゃんと着たり履いたりしているのに、私どもが欲張った考えをおこしたってはじまりますまい!……伯爵家の家系でもあるまいし!……私の親父は士族の生まれではなかったし、家族を大勢かかえていながら、収入からいったって、いまの私より貧乏でしたよ。わたしは甘やかされて育った人間じゃないんです。とは言っても、本当を言えば、やっぱり前のアパートのほうが比較にならぬほど立派でしたね。もうすこし広々としていましたよ、ワーリニカさん。
もちろん、いまの下宿だって悪くはありませんよ、それどころかある点では楽しいくらいですよ、お望みとあれば、より変化に富んでいるとも言えます。このことにたいしては私は反対する気はありませんが、やっぱりもとの住居《すまい》は懐かしいですよ。われわれ老人、つまりかなりの年輩の者は、古いものには、なにか血をわけたものみたいに馴染《なじ》んでしまうものなんでしてね。そりゃね、あの住居はごく小さいものでしたよ。壁は……いや、壁なんてなにも言うことはない!……壁はそこら辺の壁とおなじで、問題は壁なんかにあるんじゃない、こうして自分の昔のことを思い出すと、私はやるせない気持ちがするんですよ……奇態なものですね……苦しかったことでも、思い出となると楽しい気持ちになりますものね。それどころか、醜悪《しゅうあく》だったもの、ときには腹立たしくなるようなものでも、思い出のなかではその醜悪なものが洗いおとされてしまって、魅力的な姿となって私の心にうかびあがってくるのです。
ワーリニカさん、あの当時私たち、つまり私と亡くなったアパートのおかみのお婆さんとは、ひっそりと暮らしていたものでした。いまでもあのお婆さんのことを思い出すと、悲しい気持ちになります! そのお婆さんはいい人で、下宿代も高くはとりませんでした。あの人はよく七十センチもあるような長い編針を使って、いろんな布きれをつぎあわせて布団《ふとん》を作っていたものです。お婆さんの仕事といったらそればかりでした。明りの費用はふたりで出しあっていたし、仕事もやはりひとつ机でしていました。お婆さんにはマーシャという孫娘がおりましたが、(私はその子をいまだに子供のままの姿で記憶していますが)いまでは十三、四の女の子になっているでしょう。とても茶目で、はしゃぎやで、のべつ私たちを笑わせていました。私たちは三人でそういう暮らしをしていたのです。よく長い冬の晩などには丸い食卓にむかって茶を飲み、それから仕事に取りかかったものでした。
また、お婆さんはマーシャに退屈させまい、悪戯《いたずら》っ子に悪戯をさせまいとして、よくおとぎ話を聞かせていました。しかもその話のうまいことといったら! 子供どころか、分別のある頭のいいおとなでさえ、つい聞きほれてしまうような有様《ありさま》でした。まったくですよ! この私も、よく聞きとれてしまって、仕事のことも忘れてしまったくらいです。その子供、私たちのお茶目は、小さな手でバラ色の頬に頬杖《ほおづえ》をついたまま、小さな口をぽかんと開けて、考えこんでしまう、そして話が怖い話になると、たちまち体をぐいぐいお婆さんにおしつけていくのです。私たちはそれを見るのがおもしろくて、ろうそくの燃えつきるのもわからなければ、外で吹雪《ふぶき》が荒れ狂い、雪嵐《ゆきあらし》が吹き荒れているのも聞こえないくらいでした。……私たちの暮らしは楽しいものでしたよ、ワーリニカさん。こんなふうにして私たちはいっしょにほとんど二十年近く暮らしたわけです。……いや、これはとんだおしゃべりをしてしまいましたね! 多分、あなたにはこんな話題はお気に召さないでしょう、私だってこんなことを思いだすのはそれほど気分のいいものじゃありません、……とくにいまのようなたそがれ時ですとね。
テレーザはなにか用事で駆けずりまわっています。私は頭痛がするし、背なかも少々痛いし、それに考えまでがひどく調子がおかしくて、まるで考えまでやはり痛んでいるようなぐあいです。きょうは憂欝なんですよ、ワーリニカさん! あなたはいったいなんということを書いてよこしたんです、ワーリニカさん? 私がどうしてお宅へなぞ行かれますか? ワーリニカさん、みんながなにを言い出すかしれませんよ。ほら、あの中庭を突切っていかなければならないでしょう、うちの連中の目にとまって、根掘り葉掘り聞かれることになるじゃありませんか、……そして噂は立つ、評判にはなる、事実に、あらぬ意味までつけ加えられますよ。いけませんよ、ワーリニカさん、それよりあす夜の祈祷式《きとうしき》のときにお目にかかりましょう。そのほうが賢明だし、おたがいにさしさわりがありませんよ。
それにしても、ワーリニカさん、私がこんな手紙をさしあげたからといって、どうか私を咎《とが》めだてしないでください。読みかえしてみたら、とりとめもないことばかりなのに気がつきました。ワーリニカさん、私は無学な年寄りです。若い頃からちゃんとした勉強もしなかったし、いまとなってあたらしく勉強をはじめたところで、なにひとつ頭に入りません。ワーリニカさん、正直言って、私は物を書くのは不得手《ふえて》でして、他人から指摘されたり嘲笑《ちょうしょう》されたりするまでもなく、なにかすこし凝《こ》ったことを書いてやろうと思っても、さんざんくだらないことを書きつらねてしまうのが落ちだということは承知しているのです。……きょう、私はあなたが窓ぎわにおられたところもお見かけしましたし、あなたがブラインドをおろされるところもお見かけしました。ではさようなら、さようなら、どうぞお大事に! ワルワーラさん、さようなら。
あなたの私心なき友
マカール・ジェーヴシキン
追伸 ワーリニカさん、私はもうだれのことも諷刺《ふうし》など書きません。ワルワーラさん、私は、ただいたずらに人を嘲笑するには年をとりすぎましたよ! そんなことをしたら、『他人《ひと》に穴掘りゃ、自分が落ちる』というロシアの諺《ことわざ》どおり、こっちも嘲笑されるだけですからね。
四月九日
マカール・アレクセーエヴィチさま!
わたしの親友で恩人のマカールさま、まあ、あなたはよくも恥ずかしくありませんことね、そんなに悲観なさったり、意固地《いこじ》におなりになったりして。まさか腹をおたてになったんじゃないんでしょうね! 確かにわたしはしょっちゅう不用意なことを言ったりする女ですけど、わたしの言葉を皮肉な冗談とおとりになろうとは思ってもいませんでしたわ。どうぞ信じてください、わたしはあなたのお年やお人柄をひやかすような大それたことはけっしてしませんから。これもみんなわたしの軽はずみから起こったことですけど、それよりもむしろひどく退屈だったからなんでしょう、人は退屈だと、どんなことをはじめるかしれませんものね。
わたしはまた、あなたこそお手紙のなかで冗談をおっしゃるおつもりなのだと思っていましたのよ。あなたがわたしに気を悪くしておられるとわかったとき、わたしとても悲しくなりましたわ。ちがいますわ、わたしの親切な友で恩人のマカールさま、わたしを鈍感で恩知らずな女ではないかなどとお疑いになるとしたら、それはあなたの誤解ですわ。わたしだって心のなかで、あなたがわたしを悪い人たちから、悪い人たちの迫害と憎悪から守るためにわたしにしてくださったことをありがたく思うことくらい心得ていますわ。わたしは永久にあなたのために神さまにお祈りするつもりですのよ、ですからわたしのお祈りが神さまにとどいて、天がそれをお聞きとどけになれば、あなたはお仕合わせになれると思いますわ。
わたし、きょうはとても気分が悪いんですの。熱と悪寒《おかん》がかわるがわるしましてね。フェドーラはわたしのことをとても心配してくれていますわ。マカールさま、うちへいらっしゃることを恥ずかしがっておられるようですけど、それは無意味ですわ。他人にはなんの関係もないことじゃありませんか! あなたはわたしたちとお知りあいだという、ただそれだけのことなんですもの……。
では、さようなら、マカールさま。きょうはこれ以上書くこともありませんし、それに書けませんの。ひどく気分が悪いんですもの。重ねてお願いしますけど、わたしに腹をおたてにならず、いつも変わらぬわたしの尊敬と愛情をお信じください。
あなたの最も忠実で従順な婢《はしため》の
ワルワーラ・ドブロセーロワ
四月十二日
ワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
ああ、ワーリニカさん、いったいどうなすったのです? ほんとうにいつでも私をびっくりさせるじゃありませんか。手紙に毎回、御身お大切にとか、着物を十分に着てくださいとか、天気が悪かったら外出しないようにとか、万事に注意を怠らぬことですとか、書いてあげているのに、ワーリニカさん、あなたは私のいうことを聞いてくださらないんですね。
ワーリニカさん、いやまったくあなたは子供かなんかみたいじゃありませんか! たしかにあなたはお弱いのです、藁《わら》しべみたいにひよわいのです、私にはそれはよくわかっています。ちょっとそよ風に吹かれただけでも、もうあなたは病気になるんですからね。だから用心して、自分で自分の体に気をつけて、あぶないと思ったらそれを避けるようにして、友だちを悲嘆《ひたん》に暮れさせないようにしてくださいよ。
ワーリンカさん、あなたは、私の日常生活や私の環境一切についてくわしく知りたいという希望を表明されていますね。さっそく喜んでご希望にそうようにしますよ、ワーリニカさん。最初からはじめましょうね、ワーリニカさん。そのほうが順序立つと思いますから。
まず第一に、この家の正面入り口には階段がいくつかあるんですが、みないたってありふれたものです。とくに、正面玄関の階段はきれいで、明るく、幅が広くて、全部鋳鉄とマホガニーでできています。そのかわり裏口の階段のほうはなんとも言いようがありません。螺旋《らせん》式階段で、じめじめしていて、汚くて、段々はところどころ壊れているし、壁はひどく脂《あぶら》じみていて、寄りかかると手がひっついてしまうくらいです。どの踊り場も、箱だの、腰かけだの、壊れた戸棚などがおいてあるし、ぼろはあちこちにさがっているし、窓ガラスは壊れたままです。あらゆる不潔物、泥、埃《ほこり》、卵の殻、魚のはらわたなどの入っている桶《おけ》もおいてあり……要するに、成っていないのです。
部屋の配置はもう説明してあげましたね。間取りは、……言うまでもなく、……便利にできています、それはほんとうですが、ただ部屋のなかがなんとなく息苦しいんですよ、つまり悪い匂いがするというのでもないんですが、こういう表現が許されるとすれば、やや腐敗気味の、一種の鼻につんとくる甘い匂いなんですね。最初の第一印象はよくないんですが、そんなことはなんでもありません、ほんの二、三分も部屋にいさえすれば、なんでもそうですが、消えてなくなり、感じなくなります、それは自分の体にまで匂いがしみこみ、着物も匂えば手も匂う、あらゆるものが匂って、結局慣れてしまうからです。この下宿では≪まひわ≫などすぐに死んでしまいます。海軍士官候補生はこれでもう五羽めを買おうというところです、……ここの空気ではただもう生きられないんですね。
うちの台所は大きくて、広々としていて、それに明るいのです。たしかに、毎朝、魚や肉を焼くときは多少いやな匂いがこもるし、いたるところ水を流すのでびしょびしょにもなってはいますが、そのかわり晩はもう天国です。うちの台所にはいつも古い下着類がさがっています。私の部屋はその台所から近いため、つまりほとんどくっついているため、その下着類の匂いに悩まされます。が、なんでもありません。ちょっと住めば、慣れてしまいます。
この下宿では、ワーリニカさん、ほんの朝まだきから、大騒動がはじまります。起きだしたり、歩きまわったり、ドアをノックしたりして、……これは、起きなければならぬ者、勤めかなんかに行く者が、それぞれ思い思いに一斉《いっせい》に起き出すのです。そしてみんなが茶を飲みはじめます。うちではサモワールは大部分おかみの持ちもので、数が少ないので、私たちはいつも順番を守っています。自分の番でもないのに自分のポットを持っていく者がいると、たちまちお湯を頭からぶっかけられます。この私も最初そういう目にあわされるところでした、が……しかしこんなことは書いてもしょうがありません! その場ですぐに私はみんなと近づきになりました。まず最初に近づきになったのは海軍士官候補生とです。大変ざっくばらんな人で、私に、父母のこと、トゥーラ県会議員のもとに嫁《とつ》いでいる姉さんのこと、クロンシタット市のことと、なにもかもすっかり話してくれました。なんでも面倒を見てあげようと私に約束し、その場で私をお茶によんでくれました。たずねて行ってみましたが、そこは、ここの連中がふだんトランプの博打《ばくち》をやっている部屋なのです。そこでみんなは私にお茶を出してくれて、私にぜひいっしょに一六勝負《いちろくしょうぶ》をやろうと言うのです。私をからかったのかどうかはわかりませんが、彼ら自身は夜どおしぶっつづけに勝負をやったあとで、私が入っていったときも、やっていたのです。部屋じゅういっぱいに白墨《はくぼく》やカードが散らかっており、タバコの煙が朦々《もうもう》と部屋に立ちこめて、目が痛くなるほどでした。
私は勝負には手を出さなかったので、みんなはたちまち、私を哲学などを論ずる男と見てとり、それからはもう終始だれひとり私と口をきく者はいませんでした。ところが、実を言うと、私はそのほうが嬉しかったのです。この頃はあの連中のところへは行っていません。あの連中がやっているのは博打《ばくち》なんですよ、純然たる博打なんです!
それから、例の、役所の文学関係の仕事にたずさわっている公務員の部屋でも、やはり毎晩集まりがあります。が、このほうは結構なもので、つつましくて、罪がなく、上品なのです。どこからどこまで調子が繊細なのです。
さて、ワーリニカさん、ここでもうひとつついでに申しあげておきますが、うちのおかみはまったくいやらしい女です、おまけに正真正銘の鬼婆なんです。あなたはテレーザにお会いになったそうですね。いやあ、ほんとうにあの女《ひと》はひどいものですねえ。毛の抜けおちた、病みほほけたひよこみたいに痩《や》せ細ってしまって。この家では召使いといえば、テレーザとおかみの下男のファリドニの、ふたりきりなのです。私は知りませんが、あるいは、あの男にもなにかほかに名前があるんでしょうが、ただあの男はそう言えば返事をするのです。みんながあの男をそう呼ぶからなんですね。この男はフィンランド人かなんかで、毛が赤くて、目っかちで、獅子《しし》っ鼻の、乱暴な男です。年じゅうテレーザと口喧嘩ばかりしていて、取っくみあいもしかねないくらいなんです。
概して言えば、私にとってここの暮らしは、申し分ないというほどのものではありません……せめて夜ぐらいはみんな一斉に寝入って静まってくれればと思うんですが……そんなことは一度もあったためしがありません。それこそ年がら年じゅうみんなどこかにこもって博打《ばくち》をやったり、ときにはお話するのも恥ずかしいような騒ぎさえもちあがったりするんですからねえ。いまでは私も慣れっこになってしまいましたが、よくもこんな騒がしい所に妻子をかかえた連中が住みつけたものだと、不思議に思いますよ。
ある貧乏人の一家がうちのおかみから間借りしているんです、もっともほかの番号つきの部屋の並びではなくて、別の側の隅に、離れて住んでいるんですがね。おとなしい一家でしてねえ! この一家の噂はだれひとり、またなにひとつ聞いた者もおりません。
その家族は小さな一室に、衝立《ついたて》で仕切って住んでいるのです。その男は、七年ほど前になにかのことでくびになって、失職しているどこかの公務員なのです。苗字《みょうじ》はゴルシコーフと言って、白髪の多い小男で、見るも気の毒なくらい脂じみてよれよれに擦《す》り切れた、私などよりずっとひどいなりをしています。見すぼらしい、ひどく病弱そうな人です(私たちはときおり廊下で出くわすんですがね)。なんの病気のせいかはわかりませんが、膝も手も頭もふるえているのです。そしておどおどしていて、みんなを憚《はばか》って、わきへよけて通るのです。それこそ私もときにはずいぶん内気にもなりますが、この男は私どころではありません。家族は妻君に子供が三人です。いちばん上の男の子は、父親そっくりで、やはりひどくひよわそうです。妻君はかつてはよほどの美人だったと見えて、いまもその面影が残っています。かわいそうに、ひどく見すぼらしいぼろをまとって歩いています。
私の聞いたところでは、この一家はおかみに借金しているのだそうです。そのせいか、おかみはこの一家にはなんだかあまりいい顔をしません。また聞くところによると、当のゴルシコーフにはなにかおもしろからぬことがあって、そのことで彼は職も失ったのだそうです……訴訟《そしょう》事件なのかそうでないのか、その辺のところは確《しか》とは申しあげられません。この一家の貧乏なことといったら、……まったくなんともはや! 部屋はいつもひっそりと静かで、まるでだれも住んでいないみたいです。子供の声すら聞こえません。また、子供たちがふざけあったり、遊んだりしているような気配もないのです。たしかにこれはよくない兆《きざ》しです。
私はある晩、なにかの拍子で、その家の戸口のわきを通りかかったことがありましたが、そのときはどうしたわけか、この下宿がいつもとちがってひっそり閑《かん》としていました。と、私の耳にすすり泣く声が聞こえ、つづいてささやき声が聞こえてきたかと思うと、またすすり泣きに変わり、どうもみんなして泣いているらしいのですが、それがあまりにも低い声だし、あまりにもあわれっぽい声なので、私は胸が張り裂けそうでした、で、そのあとも、ひと晩じゅうそのあわれな一家のことが頭から離れずじまいで、おかげでよく眠れませんでした。
では、さようなら、私の大事なワーリニカさん! 私はできるだけくわしく書いてあげたつもりです。きょうは一日じゅうあなたのことばかり考えています。ワーリニカさん、私はあなたのことを案じて胸がうずいています。ワーリニカさん、私はちゃんと知っているんですよ、温かい外套《がいとう》を持っていらっしゃらないんでしょう。私にはこのペテルブルクの春が、風と小雪まじりの雨が、……ほんとうにこれが死ぬほど辛《つら》いんですよ、ワーリニカさん! 悲鳴をあげたくなるような結構な天気ですからねえ!
ワーリニカさん、手紙の書きっぷりを咎《とが》めないでください。文章が成ってないんですよ、ワーリニカさん、文章がまったく成ってないんです。せめてすこしでも文体らしいものがほしいですよ! なんとかしてあなたの気分を浮き立たせてやりたいばっかりに、頭にうかぶまま書きつづっているんですからね。私がどうにか学問らしいことでもしていたら、問題は別でしょうがね。ところが、私ときたらたいした教育も受けていないんですから。安手な教育すら受けていないんですからね。
あなたの常に変わらぬ忠実な友
マカール・ジェーヴシキン
四月二十五日
マカール・アレクセーエヴィチさま!
わたし、 きょう|従 妹《いとこ》のサーシャに会ってきましたの! おそろしいことですわ! あの人も、かわいそうに、一生を台なしにしてしまいますわ!
これもよそから聞いた話なんですけど、アンナ・フョードロヴナさんは相変わらずわたしのことを嗅《か》ぎ出そうとしているらしいんですの。あの人はこれからも決してわたしを苦しめるのをやめないんじゃないかと思います。あの人は、過去のことはすっかり水に流して、「あの子を許してあげる」つもりだとか、ぜひとも自分のほうからあの子を訪ねていくつもりだとか言っているんですって。あの人に言わせると、あなたはわたしの親戚でもなんでもなくて、自分のほうが近い身内なんだそうですよ、だからあなたには、わたしたちの家庭の内情に立ち入る権利はないんだそうです、それにあの人に言わせると、わたしがあなたのお情けにすがって、あなたに養っていただいているのはわたしの恥だし、不体裁なことなんだそうです。あの子はわたしに厄介になったことを忘れてしまっているけど、あの子とあの子の母親を餓死《がし》寸前から救ってやったのはこのわたしじゃないか、わたしがふたりの口すすぎをしてやったのだ、二年あまりもふたりのために身銭《みぜに》を切ってやったり、その上借金までも棒引きにしてやったのだと言っているんですって。わたしの母を許そうともしなかったくせに!
あの人たちがわたしをどんな目にあわせたかを、かわいそうな母が知ったとしたらどうでしょう! でも、神さまが見ていてくださっているわ!……アンナさんはこう言っているんですって、あの子は馬鹿だから幸運を取り逃がしたのだ、このわたしがあの子を幸福に導いてやろうとしたのに、わたしはほかのどんな点でもやましいところはないのだ、あの子のほうで自分の体面を守りとおせなかっただけの話だ、またおそらく自分を守る気もなかったのだろうなどと。だったら、だれが悪いことになるんでしょう!
あの人はまたこうも言っているんですって、ブイコーフさんは全然まちがっていないのだ、女でさえあればどんな女とでも結婚できるというようなものではない、ですって……でも、こんなこと書く必要はありませんわ! マカールさま、わたし、こんな出たらめばかり聞かされるなんて、やりきれませんわ。わたしは、いま自分がどうなっているのかもわからないくらいですわ。ぶるぶるふるえながら、泣いたり、むせび泣いたりしているんですの。あなたにこの手紙を書くのに二時間もかかってしまいました。わたし、あの人はすくなくともわたしにたいする自分の罪ぐらいは認めているだろうと思っていましたの、それがいまもってこんな調子なんですからね! わたしの唯一の同情者のマカールさま、どうぞ心配なさらずに! フェドーラはなんでも大げさに言うんですのよ。わたしは病気じゃなかったんですのに。きのう、ヴォルコーヴォ村へ母の供養《くよう》に行ってきたとき、ちょっと風邪をひいただけなんですの。どうしていっしょに行ってくださらなかったんですの? あんなにお願いしたんですのに。ああ、かわいそうな、わたしのかわいそうなおかあさん、もしもお墓から起きあがって、わたしがあの人たちにどんな目にあわされたか、見てくだすったら、知ってくだすったら……V・D・
五月二十日
愛するワーリニカ様!
ぶどうを少々お送りします、快癒《かいゆ》期にある病人にいいという話ですし、医者も渇きを癒《いや》すのにいいと言って勧めているくらいで、のどの渇《かわ》きにはこれをおいてほかにないと思いますので。
あなたはこの間ばらをほしがっておいででしたね、ワーリニカさん。ですからこれもいまおとどけします。ワーリニカさん、食欲はありますか?……これは大事なことですよ。しかし、まあお蔭さまで、なにもかも無事にすんだし、私たちの不幸もこれですっかりおしまいになりそうですね。天にむかって感謝をささげましょう!
ところで、例の本のことですが、いまのところ、どこへ行っても手に入らないのです。ここに一冊いい本があるそうです、大変荘重な文体で書かれたものだそうですがね。いい本だという話ですよ、私はまだ読んでいないんですが、下宿の人たちがとても褒《ほ》めているんです。私も読みたいからと言って頼んだら、持っていってあげようと約束してくれたのです。ただあなたは読んでくださるかどうか? あなたはこういうことにかけてはなかなか注文のやかましい人ですからね。あなたの好みを満足させるのは骨が折れますよ。もう私にはあなたの気持ちはわかっていますよ、ワーリニカさん。あなたはきっと、詩がお入り用なんでしょう、溜息《ためいき》が、恋愛事が、……よろしい、詩集も手に入れましょう、なんでも手に入れてあげますよ。あそこに書き写したノートが一冊あるんです。
私のほうは楽しく暮らしています。ですから、ワーリニカさん、どうか私のことは心配しないでください。それにしてもフェドーラが私のことでしゃべり散らしたことは、みんな出たらめですよ。あの女に言ってください、出たらめばかり言っているって、かならず言ってくださいよ、あのおしゃべりに……新調の通常制服など全然売りゃしなかったんですからね。それに、ご自身判断してみてください、どうして売る必要がありますかね? 話によると今度私に銀貨で四十ルーブリも賞与が出るというのに、どうして売らなければならないのです?
ワーリニカさん、どうか心配しないでください。あの女は疑《うたぐ》りぶかい女なんですよ。フェドーラという女は、あの女は疑りぶかい女なんです。私たちは立ちなおりますよ、ワーリニカさん! ただ、あなたは、ワーリニカさん、健康をとりもどしてください、どうか、健康をおとりもどしになって、年寄りを悲しませないでください。私が痩《や》せたなんて、いったいだれが言っているんです? 中傷ですよ、これまた中傷ですよ! ぴんぴんして、自分でも恥ずかしいくらい太ってしまったんです、腹いっぱい食べて、この上なく満ち足りていますよ。ただあなたのほうこそ、健康になってもらいたいです! では、さようなら、ワーリンカさん。あなたの全部の指に接吻を送ります。
あなたの永久に変わらぬ友
マカール・ジェーヴシキン
追伸 いやはや、ワーリニカさん、あなたはほんとうにまた、いったいなんということを書いてよこしたんです?……なにをそんなわがままをおっしゃるんです! いったいどうして、私がそんなにしげしげとあなたのところへ通えますか、ワーリニカさん、どうして? お聞かせ願います。宵闇《よいやみ》にまぎれてとでもおっしゃるんですか。ですけど、夜だってこんなに短いじゃありませんか。季飾が季節ですからね〔この頃はペテルブルクの白夜の始まり〕。
ワーリニカさん、私だってそりゃあなたのご病気中、あなたが意識不明だったときは、ほとんどあなたのそばを離れませんでしたよ。しかし、あのときだって、どうしてあんな思いきったことができたのか、自分にもほんとうにわからないくらいです。しかしそれでさえその後通うのをやめたのです。みんなが変な目で見たり、なにかと聞いたりしはじめたからです。それでなくともここでは変な噂が立ちはじめたんですから。
私はテレーザだけは頼りにしています。あれはおしゃべりではありませんからね。しかし、それでもやっぱり、ご自身で判断してください、ワーリニカさん、みんなが私たちのことを嗅ぎつけでもしたら、これがどういうことになるか? みんながどう考えるか、そのときはみんながなんと言うかということを。……ですから、ワーリニカさん、気をしっかり持って、健康が回復するまでお待ちなさい。そしてそのあと、それこそあんなふうにして、どこか家の外で会いましょう。
六月一日
ほんとうに親切なマカール・アレクセーエヴィチさま!
いろいろとご心配やお骨折りをいただいたお礼に、わたしを慈《いつく》しんでくださっているお礼に、お気に召すような愉快なことをしてあげたくてたまらなかったもですから、とうとう決心して、箪笥《たんす》のなかを掻《か》きまわして、このノートをさがし出しましたので、これをいまおとどけいたします。わたしはこれをわたしの生涯のまだ幸福だった頃に書き出したのです。あなたはよく好奇心から、わたしの昔の暮らしや、母のことや、ポクローフスキイさんのことや、わたしがアンナさんのところにいた頃のことや、わたしの最近の不仕合わせな出来事についていろいろおたずねになり、わたしがなんの目的もなく自分の生涯の一時期を書きとめる気になって書いたこのノートをぜひとも読みたいとおっしゃっていましたわね。わたしはきっとこの贈物であなたに大変喜んでいただけるにちがいないと思っています。わたし、これを読みかえしてみて、なんだか悲しい気持ちになりました。この手記の最後の一行を書きあげた頃から見ると、もう年が倍にもなったような気がします。これは全部、いろいろちがった時期に書いたものですの。ではさようなら、マカールさま! わたし、この頃ひどくわびしくて、不眠症に悩まされることが多いんですの。病気の回復期ってとても退屈なものですわね!
V・D・
おとうさんが亡《な》くなったのは、わたしがやっと十四歳のときだった。
幼年時代は、わたしの最も幸福な時代だった。その幼年時代がはじまったのは、ここではなくて、ここからかなり遠方の人里離れた片田舎《かたいなか》なのである。おとうさんはT県にあるP公爵の大きな所有地の管理人だった。わたしたちは公爵の持ち村のひとつに住んで、平和な人知れぬ仕合わせな日々を送っていた……わたしはひどくお転婆《てんば》な小娘だった。ただもういつも野原や果樹園を駆けまわってばかりいた。だれひとりわたしの世話を焼いてくれる者はいなかった。おとうさんは絶えず仕事に追われどおしだったし、おかあさんは家事で忙しかった。だから、なにひとつ勉強をさせられることがなかった、が、かえってそれをわたしは喜んでいた。いつも朝まだきから池のほとりや森や草刈り場や麦《むぎ》刈り中の百姓のところへ飛び出していって、日がじりじり照りつけようが、村からどこまで遠っ走りしようが、薮《やぶ》で掻《か》き傷をこしらえようが、そんなことはてんでおかまいなしだった。……そしてあとで家へ帰ってから叱りとばされるのだったが、それすらわたしは平気だった。
そんなわけで、わたしはたとえ一生涯あの村から出ることなく、おなじ場所で暮らしていたとしても、あのまま仕合わせでいられたのではないかと思う。
ところが、わたしはまだほんの子供の頃に、この生まれ故郷をあとに去らなければならなかったのである。一家がペテルブルクへ引き移ったとき、わたしはまだやっと十二歳だった。ああ、あの旅仕度のときのことが、どんなに悲しい思い出として残っていることか! 自分にとってあんなに懐しく思われた一切のものに別れを告げたとき、わたしはどんなに泣いたかしれない。わたしは、おとうさんの首に抱きついて、涙を流しながら、もうちょっとでもいいから田舎にいさせてくれと頼みこんだのをおぼえている。おとうさんはわたしをどなりつけ、おかあさんは泣いて、どうしても行かなければならないのだ、いろんな事情でこうしなければならならないのだとわたしに言って聞かせた。P公爵が亡くなって、その相続人たちがおとうさんを解雇《かいこ》したのだった。おとうさんはなにがしかの金をペテルブルクのある個人の手に融通してあった。で、この窮境の打開を期するには、自分のほうからペテルブルクへ出向いていかなければならぬと考えたのである。こういうことはみな、あとでおかあさんから聞かされたことだ。こうしてわたしたちは当地のペテルブルク区に居を定めると、おとうさんの亡くなる直前まで、そのままそのおなじ場所で暮らしてきたのである。
あたらしい生活に馴染《なじ》むことは、わたしには大変な苦労だった! わたしたちがペテルブルクへ入ったのは、秋のことだった。村を出たのは、暖かい、うららかな日の、野良仕事もおわろうとする頃で、脱殻場にははやくも殻物の束が積みあげられ、絶えずさえずっている小鳥がそこここに群がっていた。すべてがいかにも晴れ晴れとして楽しそうだった。
それにひきかえ、この町に足を踏み入れたとき、ここで見たのは、雨や、じめじめした秋のひやりとするような空気、不順な、みぞれ模様の悪天候、それに不愛想で不機嫌そうな、怒ってでもいるような、見知らぬ、あたらしい人たちばかりだった! それでもどうにかこうにかこの町に落ちついた。家じゅうの者がひどくせわしなく歩きまわり、いそがしく立ち働いて、新生活の準備に大童《おおわらわ》だったことをおぼえている。
おとうさんはしょっちゅう家を明けていたし、おかあさんには片時も気の休まる暇がなかったので、……わたしはすっかり忘れ去られた形だった。新居の第一夜が明けたあくる日の朝は、起き出すのが憂欝だった。家の窓はどこかの黄色い塀《へい》に面していた。通りはいつもぬかるみだった。行き交う人はすくなく、たまに通る人はみな、着物を何枚も着こんで、いかにも寒そうだった。
一方、家のなかは来る日も来る日もおそろしい憂愁と退屈の連続だった。わたしたちには親戚や親しい知りあいはほとんどなかった。おとうさんはアンナさんとはいがみあいの仲だった(おとうさんは彼女にいくらか借りがあったのである)。わたしたちの家へは、いろんな用件でかなり頻繁《ひんぱん》に人が出入りしていた。そういう人たちはたいてい口論をしたり、騒ぎをおこしたり、大声でわめき散らしたりしていた。
おとうさんはそういう客が帰ったあとは、きまってひどく不機嫌になり、怒りっぽくなって、何時間も顔をしかめて部屋じゅう隅から隅へと歩きまわって、だれとも口をきかなかった。そういうときは、おかあさんもおとうさんに話しかける気になれずに、黙りこくっていた。そしてわたしもどこか隅のほうに引っこんで本に向かったまま……おとなしく、静かにして、身動きひとつせずにいるのだった。
ペテルブルクへ着いてから三か月もたった頃、わたしは寄宿学校へ入れられた。最初のうちは、見知らぬ人たちの間で暮らすのがひどく悲しかった! なにもかもが無味乾燥で冷やかだった。女の先生たちはいやに口やかましく、女生徒はひどく人を小馬鹿にする連中ばかりなのに、わたしはまったくの山出しだった。厳格で、やかましいことといったらなかった! 何事にもきちんきちんときめられた時間割り、全生徒共用の大食卓、退屈な先生たち……最初こういったものがわたしには悩みの種、苦しみの種だった。わたしはそこでは眠れもしなかった。よく、ひと晩じゅう、長い、もの悲しい、寒い夜を泣きあかしたものだった。晩になるといつでもみんなは学校の予習や復習をするので、わたしも会話の本や単語帳にむかって、身じろぎひとつせずにいるが、心のなかでは絶えず家のことや、おとうさん、おかあさんのこと、ばあやのこと、ばあやのおとぎ話のことばかり考えていた……するともう悲しくてたまらなくなるのだった! そして家のことならごくつまらないことでも、楽しく思い出されてくる。いま家にいたらどんなに楽しいことだろう! 家の者といっしょに小さな部屋でサモワールのそばに坐っているだろう。部屋のなかはとても温かで、気持ちがよく、馴染《なじ》みぶかい気分がするにちがいない。いまおかあさんをぎゅっと強く、熱く抱きしめられたら、どんなだろう! などと思いをめぐらす。……こうしてあれこれと考えているうちに、無性に悲しくなって、涙に胸をつまらせながら、そっとしのび泣きでもはじめると、もう単語など頭に入るどころではない。あしたの予習などできるものではない。ひと晩じゅう先生や女舎監や生徒たちの夢を見る。ひと晩じゅう夢のなかで授業の復習をしている。が、翌日になってみると、なにひとつおぼえていないような有様だった。で、その罰にひざまずかされ、食事はひと皿しか出ない。
そんなわけで、その頃わたしはひどく険気で退屈な娘だった。はじめのうち、生徒たちはみんなでわたしをからかったり、怒らしたり、教科書を読んでいる最中にまごつかせたり、列をつくって食事やお茶にいく途中でつねったり、理由も、言いつけるべきこともないのに、女の先生に告げ口をしたりした。
そのかわり、土曜日の夕方、ばあやがわたしを迎えに来てくれるときは、まるで天にものぼる気持ちだった。もう有頂天になっていきなり老婆に抱きつくのだった。ばあやはわたしに服を着かえさせ、外套《がいとう》にくるみ、道中わたしにのろのろついてくるので、わたしはのべつ幕なし話しかけ、しゃべりまくり、語って聞かせる。こうして喜々としてほがらかな娘になって家へ着くなり、まるで十年も別れていたあとのように、みんなをぎゅっと抱きしめる。噂話や雑談や物語がはじまる。みんなと挨拶をかわしたり、にこにこしたり、大声で笑ったり、駆けまわったり、飛びまわったりする。それから、おとうさんとの間に、学問や先生やフランス語やロモンドの文典のことで、まじめな話がはじまる……そして家じゅうの者がはしゃぎきり、満足しきってしまうのだった。
わたしはいまでもあの頃のひと時を思い出すと、楽しい気持ちになる。わたしは全力をあげて勉強して、おとうさんを喜ばせようと懸命だった。わたしの目には、おとうさんがわたしのためになけなしの金まではたいて、人知れず苦しんでいる姿が映っていたのだ。おとうさんは日毎に陰気になり、気むずかしくなり、腹立ちやすくなってきた、そして性格がすっかり損《そこな》われてしまっていた。仕事のほうはうまくいかず、借金は山ほどあった。おかあさんはおとうさんを怒らせまいとして、泣くことも憚《はばか》り、ものを言うことも恐れているうちに、大病にとりつかれてしまった。どんどん痩せていき、いやな咳《せき》をするようになってきた。
寄宿学校から帰ると、みんな一様に沈んだ顔つきをし、おかあさんはしくしく忍び泣きをし、おとうさんはぷりぷりしていることが多かった。小言や叱責がはじまる。おどうさんはわたしにむかって、お前はなにひとつおとうさんの喜びにも慰めにもなってくれていない、親たちはお前のためになけなしの金まではたいてしまっているのに、いまになってもお前はフランス語ひとつ話せないじゃないかなどと言い出す。
要するに、事業の失敗も不幸もみんなわたしとおかあさんのせいだというのだった。それにしてもどうしてあのかわいそうなおかあさんをいじめるようなことができたのかしら? おかあさんの顔を見ていると、わたしは胸も張り裂けんばかりだった。頬はげっそりこけ、目は落ちくぼんで、顔には例の肺病患者特有の色がさしていた。だれよりもいちばん風あたりがひどかったのはわたしだった。
小言がはじまるのはいつもつまらぬことからだったが、はじまったが最後どこまでいくかわからなかった。わたしは自分がなんのことで叱られているのかわからないことがしばしばあった。どんなことでも文句を言われないことはなかった……フランス語もそうだし、わたしが大馬鹿だということも、わたしの学校の校長は怠慢《たいまん》で馬鹿な女だということも。そして校長はお前たちの操行についてまるっきり頭を悩ましていないとか、おれはいまだに職が見つからないのだとか、ロモンドの文典はくだらない文典だ、ザポーリスキイのほうがよっぽどいいとか、お前のためにとんだ無駄使いをさせられたとか、お前はどうも冷淡で、石みたいに鈍感な女だとか言い散らした。
要するに、わたしは、あわれにも、全力をあげて、会話や単語をおぼえようと四苦八苦《しくはっく》しているのに、なにからなにまでお前が悪い、全部お前の責任だというのだった! それでいてそれはおとうさんがわたしを愛していなかったせいでは全然ないのだった。わたしのことも、おかあさんのことも、目のなかへ入れても痛くないくらい愛していたのだ。が、実際はそんなふうだった、気性がそういう気性だったのである。
いろんな気苦労、悲観、失敗などでこのあわれなおとうさんは極度に疲労困憊《ひろうこんぱい》してしまった。疑《うたぐ》りぶかくなり、怒りっぽくなってきた。そしてしばしば自暴自棄に近い状態になり、自分の健康を無視しはじめたため、風邪をひき、突然発病して、しばらく患《わずら》っただけで、死んでしまった。それがあまりにも唐突《とうとつ》な急逝《きゅうせい》だったため、わたしたち一同は数日の間その打撃に呆然《ぼうぜん》としていた。おかあさんは一種の無感覚状態にあった。わたしは、おかあさんの頭がおかしくなりはしないかと心配したくらいだった。
おとうさんが亡くなったとたんに、まるで降ってでも湧いたように借金取りがわたしたちの前に現われ、群れをなしておしかけてきた。わたしたちは、持っていたものを全部手放してしまった。おとうさんがペテルブルクへ引っ越してから半年後に買いとったペテルブルク区のわたしたちの家も、売りはらってしまった。そのほかのものはどう処分されたのかはわからないが、とにかくわたしたち自身は家もなければ、身を寄せる所もなく、食べるものにも事欠く状態になっていた。おかあさんは消耗性の病気に悩み、わたしたちは口を糊することもできず、生きていく手立てもなく、行く手にはただ死あるのみだった。わたしはそのとき、やっと十四歳になったばかりだった。
わたしたちのところへアンナ・フョードロヴナが訪ねてきたのは、ちょうどその頃のことである。彼女はのべつ、わたしはこうこういう女地主で、あなた方には親類筋にあたるんだと言っていた。おかあさんも、あの人はうちの親戚なんだよ、もっとも非常に遠い親戚だけどね、と言っていた。おとうさんが生きていた頃には、彼女は一度も家へ来たことがなかった。ところが、その彼女が目に涙をうかべて立ち現われ、あなた方には大変同情していますなどと言い、父の死について悔やみを言い、わたしたちの悲惨な境涯に同情を示し、これというのも本人のおとうさんが悪いからですよ、あの人は分不相応な生き方をして、手を広げすぎ、自分の力を過信したからなんですよとも言っていた。そして、わたしたちともっと親しくつきあいたいという希望を述べ、いままでの感情の行きちがいを忘れようと言いだした。おかあさんが、あなたには一度も悪感情などいだいたことはないと言いきると、彼女は涙を流し、おかあさんを教会へ連れていって、あのいい人(彼女はおとうさんのことをこう言っていた)の追善供養を頼んだ。そのあとで彼女は正式におかあさんと仲直りをした。
アンナ・フョードロヴナは長々と前口上や前置きを並べたあとで、わたしたちの窮迫状態や、片親を失った身の上や、希望のない、寄るべない立場などをどぎつい色彩で描き出して、彼女自身の言い方を借りれば、わたしの家へ身を寄せたらとわたしたちを誘った。おかあさんはお礼は言ったものの、なかなか決心がつきかねていた。が、どうにもしようがないし、どうにも処置のつけようがなかったので、とうとうアンナ・フョードロヴナに、お申し出を喜んでお受けしますと言ってしまった。
わたしはペテルブルク区からワシーリエフスキイ島へ引っ越していった朝のことを、いまのことのようにおぼえている。それは、秋の、よく晴れわたった、空気の乾燥した、ひどく寒い朝だった。おかあさんは泣いていた。わたしもひどく悲しかった。わたしは胸が張り裂けそうで、心はなんとも言いようもない、おそろしい哀愁に悩まされていた……辛《つら》い時代だった……
はじめのうち、わたしたち、つまりわたしとおかあさんがまだあたらしい住居《すまい》に住み馴《な》れるまでは、ふたりともアンナ・フョードロヴナの家に厄介になっているのがなんだか気味悪いような、馴染《なじ》まない気持ちだった。アンナ・フョードロヴナは六丁目の自分の持ち家に住んでいた。家にはきれいな部屋が全部で五つあった。そのうちの三つにはアンナ・フョードロヴナとわたし従妹のサーシャが住んでいた。サーシャは彼女の手もとで養われていたが、まだ子供で、父母のいない身なし子だった。それからもうひと部屋にはわたしたちが住み、最後のもうひと部屋には、わたしたちと隣りあわせに、アンナ・フョードロヴナの下宿人の、ポクローフスキイというある貧乏な学生が住みこんでいた。アンナ・フョードロヴナは思いのほか裕福な、いい暮らしをしていた。が、その資産は、職業同様、謎《なぞ》めいていた。彼女はいつもせかせか歩きまわっていて、いつも気にかかることがあるらしく、日に何度も馬車や徒歩で外出していた。しかし、彼女がなにをしているのか、なにを、またなんのために心配して歩いているのか、その辺のことはわたしにはどうにも見当がつかなかった。彼女の知りあいは非常に多く、多方面にわたっていた。彼女のところへはひっきりなしに人が出入りしていたが、みな得体《えたい》の知れぬ人たちばかりで、いつもなにか用事で来ては、ほんのちょっとの間で切りあげていくのだった。
おかあさんはいつも、呼び鈴が鳴るとすぐに、わたしを自分たちの部屋へ連れてきてしまうのだった。アンナ・フョードロヴナはそのことでおかあさんにひどく腹を立て、実際お前さんたちは気位が高すぎるよ、柄でもなくお高くとまりすぎるよ、お高くとまるだけのものでもあればまだしもだけど、とひっきりなしにまくしたてて、何時間でも口をつぐまなかった。
その頃のわたしには、気位が高いという非難の意味がわからなかった。同様にして、おかあさんがなぜあんなにアンナ・フョードロヴナのところに厄介になることを決心しかねていたのかも、わたしにはこの頃やっとわかってきた、少なくとも見当ぐらいはついてきている。
アンナ・フョードロヴナは意地の悪い女で、わたしたちを絶えずいじめていた。彼女がいったいなぜわたしたちを自分のところへ呼ぼうとしたのか、それはわたしにはいまだに謎である。彼女ははじめのうちこそわたしたちにかなりやさしくしてくれていたが、やがて、わたしたちがまったく寄る辺《べ》のない、どこといって行き所もない身の上であることを見てとると、たちまちその本性をあらわした。その後彼女はわたしにはすこぶる当たりがよくなり、なんだか不作法なくらい、お追従《ついしょう》に近いくらいちやほやするようになったが、はじめのうちはわたしもおかあさんとおなじ苦しみをなめていたのだった。彼女はわたしたちをひっきりなしに詰《なじ》っていた。彼女の口にすることといえば、自分がわたしたちにかけてきた恩恵のお談義ばかりだった。よその人たちにわたしたちを紹介するときはきまって、自分がお慈悲に、キリスト教的な愛から自分の家へ引きとった、貧乏な親類の後家と身なし子として引き合わせるのだった。食事のときは、わたしたちがつまむひときれ毎に目を光らしていて、わたしたちが食べなければ食べないで、ひと悶着《もんちゃく》おこし、やれ、あんたたちは好き嫌いが激しいとか、やれ、要求がましいことを言うもんじゃないよ、わたしはこれで分相応と思って満足しているんだからねとか、やれ、お前さんのとこではこれよりいい暮らしでもしていたんだったらまだしもだけどさ、などと言いたてるのだった。
それに、おとうさんの悪口もひっきりなしだった。人よりよくなってやろうと思っていながら、かえってまずいことになってしまったじゃないか、妻子を路頭《ろとう》に迷わせたりして、もしもわたしのようなキリスト教的精神を持った、慈善心のある、情ぶかい親類の者がいなかったら、いまごろは往来で野たれ死にしていたかもしれやしないなどと言っていた。それこそ口にまかせてなんでも言いたてるのだった! それを聞いているのは、辛いというより、虫酸《むしず》が走る思いだった。おかあさんはしょっちゅう泣いていた。そのためおかあさんの健康は日増しに悪化し、明らかに衰弱してきた。が、その間もわたしとおかあさんは朝から晩まで働きづめに働き、仕立て物の注文を取ってきては、仕事をつづけていた。が、これがまたアンナ・フョードロヴナにはひどく気に入らなかった。彼女はのべつ、うちは洋装店じゃないんだからねと言っていた。
しかし、わたしたちにしてみれば、着物も着ないわけにはいかなかったし、不時の物入りの用意に貯金もしておかなければならなかった。またどうしても自分たちの金というものも持っていなければならなかった。わたしたちは万一の場合に備えて金を貯め、そのうちどかへ引っ越せるだろうと、それを楽しみにしていた。が、しかしおかあさんは賃仕事で病気をよくよくこじらせてしまった。おかあさんは日毎に衰弱していった。病魔は、虫のように、おかあさんの命を見る見るむしばんでいき、おかあさんを死期に近づけていった。わたしは始終それを見、それを感じては、胸を痛めていた。そういうことがわたしの見ている前で進行していったのだった!
日は日についで過ぎ去り、毎日似たような日がつづいていた。わたしたちは、都会に住んでいるとは思えないほど、静かに暮らしていた。アンナ・フョードロヴナは、自分が支配権を握ったことを完全に意識しはじめるにつれて、すこしずつおとなしくなってきた。もっとも、それまでにもだれひとり彼女に逆らってやろうなどと考える者はいなかったのだが。
わたしたちの部屋は彼女の家の半分とは廊下で隔てられていて、わたしたちと隣りあわせに、前にも言ったとおり、ポクローフスキイが住んでいた。彼はサーシャにフランス語、ドイツ語、歴史、地理と、アンナ・フョードロヴナに言わせると、あらゆる学問を教え、そのかわりに部屋と食事を支給されていた。サーシャはお転婆《てんば》で悪戯《いたずら》っ子ではあったが、大変利発な子で、そのころは十三歳だった。アンナ・フョードロヴナはおかあさんに、あんたの娘さんは寄宿学校を終了できなかったのだから、勉強をはじめても悪くはないんじゃないかしらと注意した。おかあさんは喜んで同意し、こうしてわたしはサーシャといっしょにまる一年ポクローフスキイについて勉強をした。
ポクロースキイは貧しい、大変貧しい青年だった。つづけて学校へかようことは、彼の健康が許さなかった。だから、わたしたちの間で彼が学生と呼ばれていたのは、ただ習慣でそう呼ばれていたにすぎなかったのである。彼はつつましく、おとなしく、静かに暮らしていたので、わたしたちの部屋からは彼の声など聞こえなかった。彼は見るからにひどく変わっていた。歩き方もひどく不格好《ぶかっこう》だったし、お辞儀のしかたもひどく不器用だったし、話しっぷりもひどく変だったので、わたしは最初のうち彼を見て噴き出さずにはいられなかった。サーシャはしょっちゅう彼をからかっていた、ことに授業中がそうだった。おまけに、彼は生来|癇癪《かんしゃく》もちだったので、絶えず腹を立て、ちょっとしたことにも前後の見境《みさかい》がなくなり、わたしたちをどなりつけたり、わたしたちのことを言いつけたりし、授業を中途にして、怒ってぷいと自分の部屋へ引きあげていってしまうこともめずらしくなかった。自分の部屋にいれば彼は幾日でもぶっつづけに本に向かっていた。彼は大変な蔵書家で、しかも持っている本がみな高価な珍本ばかりだった。彼はほかにもどこかあちこち教えにいく所があって、いくらか授業料をもらっていたので、ちょっとでも金ができると、さっそく本を漁《あさ》りに出かけるのだった。
時がたつにつれてわたしは彼をよく知るようになり、親しくもなってきた。彼は、わたしが出遇《であ》った人のなかで最も善良で、最も尊敬すべき、最も優秀な男だった。おかあさんは彼を大変尊敬していた。その後、彼はわたしにとっても最上の親友になった、……もちろん、おかあさんのつぎではあったが。
はじめのうち、わたしは、こんな大きななりをした娘でありながら、サーシャといっしょになって悪戯《いたずら》をし、よくふたりで、どうしたら彼に腹を立てさせ、勘忍袋の緒《お》を切らせることができるだろうかと、何時間もぶっつづけに首をひねって考えたものだった。彼の怒りかたがひどく滑稽《こっけい》だったので、わたしたちはそれがおもしろくてたまらなかったのである(わたしはいまではこのことを思い出すさえ恥ずかしいのだが)。
あるとき、わたしたちは彼をなにかでほとんど泣き出さんばかりに癇癪《かんしゃく》を起こさせたことがあったが、そのときわたしの耳に、彼が「意地の悪い子供らだ」とつぶやいたのがはっきりと聞こえた。わたしははたと当惑してしまった。きまり悪くもなったし、悲しくもなり、彼が気の毒にもなったのである。わたしの記憶では、そのときわたしは耳のつけ根まで赤くなり、目に涙があふれそうになりながら、どうか気を落ちつけて、わたしたちの悪ふざけに気を悪くしないでくださいと頼みはじめたらしかったが、彼は本を閉じると、わたしたちの授業を中途で打ち切って、自分の部屋へ引きあげてしまった。わたしはまる一日じゅう悔恨《かいこん》に悩みもだえていた。わたしたちは、子供のくせに、残酷なことをして彼を泣かしてしまったのだと思うと、わたしはたまらない気持ちだった。
結局、わたしたちは彼が泣くのを望んでいたのだ。つまり、わたしたちは泣かしてみたかったのだ。首尾よく彼に堪忍袋の緒を切らせたわけだ。わたしたちはむりやりあの男に、あの不幸な貧乏な男に、自分の悲運を思い起こさせたわけだ! わたしは腹立たしさと悲哀と悔恨に、夜っぴてまんじりともしなかった。悔恨は人の心を和《やわ》らげると言う……が、それは逆だ。わたしの悲しみにどうして自尊心が混ざったのかはしらないが、わたしは彼に自分を子供に見られたくなかったのである。わたしはそのときすでに十五歳になっていた。
その日からわたしは、どうしたらポクローフスキイにわたしにたいする見方を変えさせることができるだろうかと、計画を立てることにありったけの知恵をしぼりはじめた。しかし、わたしはときどき臆病な、はにかみやになることがあった。いまのようなこういう状態になると、わたしはどうにも決心がつかず、空想にとどまっているばかりだった(その空想がどんなたぐいのものかは神のみぞ知るである!)。
とにかくわたしはサーシャといっしょにいたずらをするのだけはやめてしまった。で、彼もわたしたちに腹を立てなくなった。だが、わたしの自尊心にしてみれば、それくらいのことでは物足りないのだった。
ここでわたしはすこし、これまでわたしが出遇《であ》ったことのある人のなかで、いちばん風変わりで、いちばん興味に富む、この上なくあわれな人の話をしておこう。わたしがその人の話をいまごろ、つまりわたしの手記のこんな所で語ろうというのは、その頃までわたしはその人になんの注意も払っていなかったのに、この頃そのポクローフスキイに関することがすべて、わたしにとって急に関心事になったからである!
わたしたちの家へときおり、きたない身なりをした、小柄な、白髪《しらが》頭の、のろまで不格好な、ひと口に言ってこの上なく風変わりな老人が姿を見せていた。ひと目見ただけでも、この人はなにか恥ずかしく思っていることがあるらしい、自分自身をきまり悪く思っているらしいと思えるような人だった。そのためこの人はいつもなんとなく身をすくめているような、なんとなく体をかがめているような格好をしていた。そして、この人は頭がおかしいのだろうと結論してまちがいなさそうな挙動や身振りをしていた。
この老人はよく、わたしたちの家へ来ても、玄関のガラス戸のそばに立ちつくしたまま、入ろうとしないことがあった。わたしたちのだれか……わたしなりサーシャなりが、でなければ自分にたいして親切にしてくれるとわかっている召使でも……そばを通りかかると、彼はさっそく手招きして自分のそばへ呼び寄せ、いろんな合図をやり出す、そこでこちらがうなずいて呼んでやると(これは、家のなかにはほかの人はだれもいないから、好きなときに入っていいよという合図なのだ)、はじめて、老人はそおっとドアを開けて、嬉しそうににこにこし、満足して≪もみ手≫をしながら、爪先立ちでまっすぐポクローフスキイの部屋へ入っていくのである。これは彼の父親だったのだ。
その後、わたしはこのあわれな老人の経歴をすっかりくわしく聞き知った。彼は昔どこかに勤めていたのだが、なにひとつ才能を持ちあわせていなかったので、勤め先でもいちばん下の、いちばんつまらぬ職務についていた。最初の妻(ポクローフスキイの母親)が死んだとき、彼は再婚する気になって、下層階級の女と結婚した。ところが、あたらしい妻が来ると、家のなかがなにもかもひっくり返ってしまい、だれもが彼女のために生きた心地もなくなってしまった。家じゅうのものを自分の掌中におさめてしまったのである。
学生のポクローフスキイはその頃まだ十《とお》ばかりの子供だった。継母《ままはは》は彼を憎んでいた。が、ポクローフスキイ少年の運命は俄《にわ》かに好転した。公務員のポクローフスキイの知人で前にも彼の世話を見てやったことのあるブイコーフという地主が、子供を手もとに引き取って、ある学校へ入れてくれたのである。この人がこの子供に関心を持っていたのは、まだ娘時代にアンナ・フョードロヴナの世話になり彼女の世話で公務員のポクローフスキイのところへ嫁いだ、彼の死んだ母親を知っていたためだった。ブイコーフ氏は、アンナ・フョードロヴナの親友で彼女とは昵懇《じっこん》な間柄にあったし、腹の大きなところを見せる質《たち》の人だったから、花嫁に五千ルーブリの持参金をくれてやった。その金がどこへ消えてなくなったかはわかっていない。
これはみな、アンナ・フョードロヴナがわたしに語ってくれた話である。当の学生のポクローフスキイは自分の家庭事情はけっして話したがらない人だった。人の話では、彼の母親は大変な美人だったそうだが、そんな美人がどうしてそんなつまらない男のところへ嫁にいくようなまずいことをしたのかと、わたしはそれが不思議でならない……そして彼女は結婚して約四年というわかい身空《みそら》で亡くなったのである。
ポクローフスキイ少年はその学校からある中学校へ入学し、その後大学へはいった。頻繁《ひんぱん》にペテルブルクへ出てきていたブイコーフ氏は、その頃になっても彼を見捨てずに目をかけてやっていた。ポクローフスキイは健康を害したため、大学の勉強をつづけることができなかった。ブイコーフ氏は彼をアンナ・フョードロヴナに引きあわせて、自ら紹介の労をとり、こうして青年ポクローフスキイは、サーシャに必要なことをなんでも教えてやるという約束で、寄食することになったのである。
ポクローフスキイ老人のほうは、妻の虐待《ぎゃくたい》による悲しみから、いちばん質《たち》のよくない悪癖にひたり出し、ほとんどいつも素面《しらふ》でいることがなかった。妻は彼をぶったり台所へ追っぱらってそこで寝起きさせたりして、夫をついには、殴打《おうだ》や虐待に慣れて不平もこぼさぬほどの男にしてしまった。彼はまだ大して年はとっていなかったが、悪癖のためにほとんど頭がはげてしまっていた。彼に残っていた、人間的な高尚な感情の唯一のあらわれといったら、自分の息子にたいする限りない愛情くらいのものだった。息子のポクローフスキイは亡くなった母親に瓜《うり》ふたつだという話だった。身を滅ぼしたこの老人の心にこのような、息子にたいする無限の愛情を育《はぐく》んだのは、善良な先妻にたいする追慕の情ではなかったろうか? 老人は息子のこと以外なんにも話さず、週に二回は変わらず息子を訪ねてきていた。それより足繁く出入りするようなことはなかった。息子のポクローフスキイが父の訪問を嫌っていたからである。彼が父にたいして尊敬を抱いていなかったことは、彼のさまざまな欠点のなかでも議論の余地なく第一の最大の欠点だった。
とはいえ、老人のほうも、ときには世にも鼻持ちならぬ存在になることがあった。第一、この男はおそしく物好きだった。第二に、彼はまったく下らない無意味な話や質問でのべつ息子の勉強の邪魔をしていた。第三に、ときどき酒気をおびた風態で姿をあらわすことがあった。息子は老人の飲酒癖と物好きと間断のないおしゃべりの癖をすこしずつ矯《た》めていって、とうとう、相手に自分のいうことをなんでも、神の御託宣《ごたくせん》のように、聞くようにし向け、自分の許可なしには口も開かせないようにしてしまった。
あわれな老人は、わが子のペーチンカ(彼は息子をこう呼んでいた)に驚嘆し喜んでついに飽きることを知らなかった。彼が息子のところへお客に来るときは、おそらく息子が自分をどんなふうに迎え入れてくれるかわからないためだろうが、たいてい、なんとなく心配そうなおどおどした様子をして、いつも長いこと部屋へはいることをためらっている、そしてわたしがたまたまそこへ来あわそうものなら、ペーチンカはどうですか? 達者ですか? 機嫌はどんなぐあいですかな? なにか大事な勉強でもしているんじゃないんですか? あれはいったいなにをやっているんです? 書きものでもしているんですかね、それともなにか考え事でもしているんじゃありませんか? といったような質問をものの二十分間くらいわたしに浴びせかけるのだった。わたしが十分に元気づけ安心させてやると、老人はやっと入る決心をつけて、そおっと用心しいしいドアを開け、まず頭だけなかへ突込んで、息子が怒らずに彼のほうにうなずいてみせたと見てとると、静かに部屋のなかへ入って、外套と、いつでもしわくちゃで穴だらけで縁《ふち》がとれてしまっている帽子をぬいで、……いちいちそれを掛け釘にかけるのだが、なにをするにもそおっと、音のしないようにするのである。
つぎに今度はどこかそこらにある椅子に用心ぶかく腰をおろし、息子から目を離さずに、息子の一挙一動を見まもって、ペーチンカの機嫌のよし悪《あ》しを推測しようとする。息子の機嫌がすこしでも悪く、そしてそれに気づきでもすると、老人はたちまち浮き腰になって、「なに、ペーチンカ、わしはただ、わしはちょっと寄ってみただけなんだよ。きょうは遠出をしてきて、そばを通りかかったもんだから、ひと休みしに寄ってみただけなんだよ」などと言いわけをする。そしてそれから黙ったままおとなしく外套と帽子を手にとると、またそおっとドアを開け、胸に沸き立つ悲しみをおさえ、それを息子に見せまいとして、無理に笑いをうかべながら、出ていくのだった。
ところが、息子が父親を機嫌よく迎えるときには、老人は喜びのあまりわれを忘れてしまい、顔にも身振りにも動作にも満足の色がうかぶのである。話しかけでもすると、老人はいつも椅子から腰をやや浮かし加減にして、小声で、ほとんど敬虔《けいけん》に近い卑下した態度で返事をし、最も選《え》りすぐった、つまりいちばん滑稽な表現を使うのだった。だが、彼には天賦《てんぷ》の弁舌の才はなかった。いつでもどぎまぎしたり、怖気《おじけ》づいたりし、果ては手のおき所も、身のおき所もわからなくなり、そのあとも、言いなおしたげに、なおも長いことぶつぶつ返事のひとり言を言っているのである。が、うまい返事ができたとなると、老人は身じまいをなおし、身につけているチョッキやネクタイや燕尾服のぐあいをなおして、彼独特の威張《いば》った様子を見せる。そしてときにはあまりにも勢いづき、図に乗ってしまって、やおら椅子から立ちあがると、本棚のそばへ行って、なにか本を一冊取って、それがどんな本であろうとかまわずに、その場でなにかを読みあげることまでしてのける。しかもそんなことをするときには、平気を装い、落ちつきはらった様子を見せて、さも自分はせがれの本などいつでもこんなふうに自由にできるのだ、せがれがわしに優しくしてくれることなんか、わしにとってはごく当り前のことなのだといわんばかりなのである。
ところが、わたしは一度、このあわれな老人がポクローフスキイに、本にさわらないようにと言われて、びっくりしてしまったところを見かけたことがある。老人は度を失ってあわてふためき、本を逆さに差しこんでしまい、つぎにそれをなおそうと思って本の向きを変えたとたんに、本の截目《たちめ》をこちらに向けて立ててしまい、にやりと笑って赤い顔をし、自分の過《あやま》ちをなにで償ったらいいのかわからないといった様子だった。
ポクローフスキイは父を諌《いさ》めて、すこしずつ老人の悪癖をなおさせるようにし、老人が三回つづけて素面《しらふ》でいるところを見たときは、そのつぎ最初に来たとき別れ際《ぎわ》に二十五コペイカから五十コペイカを、あるいはそれ以上の金を握らせるようにしていた。ときには長靴やネクタイやチョッキを買ってきてやることもあった。そのかわり老人はそうした新品を身につけているときは、雄鶏《おんどり》のように傲然《ごうぜん》とかまえていた。
彼はときにわたしたちのところへ立ち寄ることもあった。そんなときはわたしとサーシャに鶏《とり》を形どった蜜入り菓子やりんごを持ってきてくれ、いつもわたしたちを相手にペーチンカの話をしていくのだった。彼はわたしたちに、身を入れて勉強してくださいよ、あの子のいうことを聞いてくださいよと言って頼み、ペーチンカはいい息子ですよ、模範的な息子でさあ、おまけに学問があるときていますからな、などと言っていた。そんなときはよく、わたしたちに左の目でじつに滑稽なウインクのしかたをし、じつにおかしく顔をしかめてみせるので、わたしたちは笑いをこらえきれずに、腹の底から笑いだしてしまうのだった。わたしのおかあさんは彼が大好きだった。しかし、老人はアンナ・フョードロヴナのことを憎んでいた。もっともその前では小さくなり、へこへこしてはいたが。
その後間もなく、わたしはポクローフスキイに教わることをやめてしまった。彼が依然としてわたしを子供あつかいし、サーシャとおなじようないたずら娘としてあつかっていたからである。わたしは一所懸命自分の以前の素行を帳消しにしようと努力していただけに、それがひどくいやだったのである。が、彼はわたしのそういうところを認めてくれなかった。それがわたしを次第にいら立たせてきた。わたしは顔を真っ赤にし、どぎまぎし、果てはどこか隅のほうで口惜《くや》し泣きに泣いたものだった。
もしもあのときある奇妙な出来事が起きて、それがわたしたちふたりが親密になる助けとなることがなかったら、これがどういう結末をとげたか、わたしにはわからない。おかあさんがアンナ・フョードロヴナの部屋へ行っていたある晩、わたしはぬき足さし足でポクローフスキイの部屋へ入っていった。わたしは、彼が留守なことは承知していたが、自分がどうして彼の部屋へ入ってみようという気になったのか、それはわたしにもさっぱりわからない。わたしたちはすでに一年あまりも隣りあわせに暮らしていたのに、わたしはそれまでただの一度も彼の部屋をのぞいたことがなかった。そのとき、わたしは、心臓があまりにも激しく鼓動するので、胸のなかから飛び出すのではないかと思ったほどだった。わたしは一種特別な好奇心をおぼえながらあたりを見まわした。
ポクローフスキイの部屋は飾りつけがまことに貧弱だった。整頓もほとんどできていなかった。机や椅子の上には紙がおいてあった。あるのは本と紙ばかりだった! わたしの胸に奇妙な考えが訪れ、それと同時にわたしはある不愉快な、口惜《くちお》しいという気持ちにとらえられた。わたしは、わたしのこの親愛の情やわたしの愛する心だけでは彼には物足りないのだという気がした。あの人は学問があるのに、わたしは愚《おろ》かで、なにひとつ知らない、本一冊、ろくに読んでいないのだと……そのときわたしは、本の重みでしなっている長い本棚を羨ましい気持ちで眺めやった。わたしはいまいましさと物悲しさと、一種の狂憤にとらえられた。わたしは彼の本を最後の一冊にいたるまで残らず、それもできるだけ速く読破してしまいたいと思い、即座にそうしようと決意した。これはよくはわからないが、ことによると、わたしはあの人の知っていることを全部学びとったら、もっとあの人と交わるにふさわしい女になれるだろうと思ったのかもしれない。
わたしはいちばん手近な本棚のそばへ飛んでいくなり、なんの思案も躊躇《ちゅうちょ》もせずに、最初に手にふれた、埃《ほこり》だらけの古綴じの本を一冊取り出すと、赤くなったり青くなったりして、胸騒ぎと恐怖に打ちふるえながら、その盗んできた本を夜、おかあさんが眠りこんでしまってから燭台のそばで読みあげてしまおうと思って、自分の部屋へ持ち帰った。
が、しかし自分の部屋へ帰ってすぐにその本を大急ぎで開いてみて、その本が古ぼけて半《なか》ば腐りかけた、すっかり虫にくわれているラテン語の書物であることに気がついたときの、わたしのいまいましさといったらなかった。わたしは時を移さずとって返した。が、本を書棚におさめようと思ったとたんに、廊下に物音がして、だれかが近づいてくる足音が聞こえてきた。わたしは急にせきこみ、慌てだしたが、癪《しゃく》にさわることに本があまりにもぎっしり詰まっていて、わたしが一冊引き抜いたあとを、すぐにほかの本がみんなで詰めあってしまったため、いまではもうそれ以上前の仲間のはいりこむ場所が残っていなかった。本を押しこむにはわたしの力では足りなかった。それでもわたしは精いっぱいの力で本を押しこんだ。と、書棚を支えていた錆《さ》び釘が、わざわざこの瞬間を待ちかまえてでもいたように……ぽきりとへし折れてしまった。書柵の一方の端が下へどしんと落ち、本は音をたてて床の上に落ち散った。とそのとき、ドアが開いて、ポクローフスキイが部屋へ入ってきたのである。
ここでひと言《こと》ことわっておかなければならないが、ポクローフスキイという人は、だれか他人に自分の領分内で勝手なことをされるのが我慢のならない性分だった。だから彼の本などに手をふれた者こそ災難だ!
小さな本、大きな本、種々雑多な形の本、あらゆる大きさ、あらゆる厚さの本が、どっと本棚から崩れ落ちて、机の下といわず椅子の下といわず、部屋じゅういっぱいに飛び散り、飛びはねたときの、わたしの恐怖を察していただきたい。わたしは逃げ出そうとしたが、時すでにおそかった。……しまった、おしまいだ! ……とわたしは思った……わたしはもうだめだわ、破滅だわ! まるで十《とお》かそこらの子供みたいに行儀の悪いことをするなんて、こんないたずらをするなんて。わたしは馬鹿な娘だわ! 大馬鹿だわ!……ポクローフスキイの怒り方といったらすさまじかった。…… 「おい、あれだけじゃまだ足りなかったっていうのか!」と彼はどなり出した。……「え、君はそんないたずらをしてよくもまあ恥ずかしくないね……いつになったらおとなしくなるんだ」
こういうと彼は自分で飛んでいって本をひろい出した。わたしも手伝ってやろうとして身をかがみかけた。……「いいよ、いいよ、そんなことしてくれなくたって」と彼はどなった。「それより、頼みもしない所へ入って来なければよかったんだ」
……が、それでもわたしのおとなしい挙動にいくぶん気持ちが和《やわ》らいだらしく、前よりも物静かに、つい先頃までの先生の資格を適用してこの間まで使っていた説教口調でこう言いつづけた。
「え、いつになったらまじめになるんです、いつになったら、心を入れかえるんです? まったく、自分を見てごらん、もう子供でもないし、小さな女の子でもないでしょう、もう十五にもなっているくせに!」……こう言っておいて、彼は、自分がいま、子供じゃないと言った言葉がそのとおりかどうか確かめようとしたらしく、わたしをあらためてじっと見なおした。とたんに彼は耳のつけ根まで真っ赤になってしまった。わたしはわけがわからなかった。わたしは彼の前に突立って、びっくり目を丸くして相手を見つめていた。
彼は身を起こして、ばつの悪そうな様子でわたしのそばへ歩み寄ると、ひどくしどろもどろになって、なにか言い出し、なにか詑《わ》びているようなぐあいだった。あるいは、いま頃になってやっと、あなたがこんな大きな娘さんだったことに気づいて悪かったとでも言っていたのかもしれない。やっとわたしにも、わけが呑《の》みこめた。そのときわたしはどうなったのかはおぼえがない……わたしは途方に暮れ、度を失ってしまい、ポクローフスキイよりもさらにもっと赤くなって、両手で顔を覆《おお》うなり、部屋から逃げ出してしまった。
わたしは、このあとどうしたらいいのか、どこへ身を隠してこの恥ずかしさから逃れたらいいのか、わからなかった。恥ずかしいのは、自分が男の部屋に入っていたところをその男に見つかったということだけではなかった! まる三日間というもの、わたしは彼に目をやることができなかった。わたしは泣き出したくなるほど真っ赤になっていた。わたしの頭のなかにはこの上なくおそろしい考え、滑稽な考えが渦巻いていた。なかでもいちばん気ちがいじみた考えのひとつは、彼のところへ出かけていって、彼といろいろ話しあい、彼にすっかり白状して、なにからなにまで包みかくさず話してしまい、わたしがやったのは、馬鹿な少女の悪戯《いたずら》ではなくて、立派な考えがあってやったことなのだということを彼に信じこませたいというのだった。わたしはいまにもすっかり行く気になったが、ありがたいことに、勇気が足りなかった。出かけていったら、わたしはなにをしでかしたかしれなかったと思う!
わたしはいまでも、あのときのことを思い出すと、恥ずかしくてたまらない。
それから数日後に、おかあさんが突然|危篤《きとく》状態に陥った。すでに二日も床から起きあがれなかった上に、三日めの夜には熱が出て、うわ言まで言っていた。わたしはひと晩じゅうまんじりともせず、おかあさんのベッドのそばにつきっきりで看病をし、飲物を持っていってやったり、きまった時間に薬を飲ませてやったりしていた。二日めの夜になると、わたしはへとへとに疲れきってしまった。ときどきわたしは眠気《ねむけ》に襲われて、目が緑色に霞《かす》み、目まいがし、しょっちゅう疲労のためにいまにも倒れそうになるが、おかあさんのかすかな呻《うめ》き声にはっとわれに返り、ぶるっと身ぶるいしては、ほんのちょっとの間目をさましている、が、そのあとまた眠気に負けてしまうといったふうだった。
わたしにはわからないし、はっきりと思い起こすこともできない……が、夢と現《うつつ》の苦しい闘いの瞬間に、なにやらおそろしい幻がわたしの混乱した頭にうかんだ。わたしはぞっとして目をさました。
室内は暗く、燭台のともしびがいまにも消えかかっていて、光の縞《しま》がぱっと部屋じゅうにみなぎったり、壁の上でちらちら瞬《またた》いたり、すっかり消えてしまいそうになったりしていた。わたしはなぜかおそろしくなり、なにやら烈しい恐怖に襲われた。わたしの想像力はおそろしい夢魔《むま》に掻きたてられた。そして胸は憂愁に締めつけられる思いだった………わたしはなにか苦しい、おそろしくも悩ましい気持ちから、ぱっと椅子から立ちあがり、思わず、きゃっと悲鳴をあげた。とたんにドアが開いて、ポクローフスキイがわたしたちの部屋へはいってきた。
わたしがおぼえているのは、気がついてみると彼の腕に抱かれていたことだけである。彼は用心しいしいわたしを安楽椅子にかけさせ、水を一杯飲ませてから、いろんな質問をあびせかけてきた。わたしは彼にどう答えたか記憶がない。
……「あなたは病気なんですよ、あなたのほうも大病なんですよ」こう彼はわたしの手をとって言った。「あなたは熱があります、あなたは自分を殺すようなことをしておられる、自分の体を虐待しているんですよ。落ちついて、横になって寝《やす》むがいい。二時間もしたら起こしてあげるから、すこし気持ちを休めなさい……寝みなさい、寝みなさい!」……彼はわたしにひと言《こと》も反対させずに、たてつづけにそんなことを言っていた。疲労がわたしの最後の力を奪ってしまった。そして目は衰弱のためにふさがりそうだった。わたしは三十分だけ眠るつもりで安楽椅子に体をもたせかけたのに、朝まで寝すごしてしまった。ポクローフスキイに起こされたのは、やっと、おかあさんに薬を飲ませなければならぬ時間が来た頃だった。
明くる日、昼間ひと休みしてから、今度こそ眠りこむまいとかたく決心して、またおかあさんの枕もとの安楽椅子に腰かけようとしていたところへ、十一時頃ポクローフスキイがわたしたちの部屋のドアをノックした。わたしはドアを開けた。
「ひとりでいると退屈でしょう」とこう彼はわたしに言った。「ほら、本を持ってきてあげたから、読んでごらんなさい。それほど退屈しないですむでしょうから」
わたしはその本を受け取った。それがどういう本だったかはおぼえていない。わたしは、その晩は夜っぴて寝なかったのに、その本をのぞいてもみなかったような気がする。わたしは怪しい胸騒ぎがして眠れなかった。そしてひとつ所にじっとしていられず、何度も安楽椅子から立ちあがって、部屋のなかを歩き出した。ある精神的な満足感が体全体にみなぎっていた。わたしはポクローフスキイの心|遣《づか》いがとても嬉しかったのだ。あの人がわたしのことを心配してくれている、いたわってくれているということが、誇らしいような気持ちだったのだ。わたしはひと晩じゅう考えつづけ、空想をめぐらしていた。ポクローフスキイはそれっきり来なかった。彼がその晩はもう来ないということはわたしにもわかっていたので、わたしは明日の晩のことを想像してみたりしていた。
その明くる日の晩、家じゅうの者が寝静まった頃、ポクローフスキイは自分の部屋のドアを開けて、敷居の上に立ったまま、わたしを相手に話をはじめた。わたしは、そのときふたりがかわした話のなかの一言一句もおぼえていない。おぼえているのはただ、彼が来てくれることを熱望し、一日じゅう彼のことばかり考えて、前もって自分の問いや答えをこしらえておいたくらいだったくせに、その場になるとただ怖気《おじけ》づいたり、どぎまぎしたり、自分がいまいましくなったりして、はやく話がおわればいいのにと思ってじりじりしていたことだけだった……ふたりの友情の最初の結びつきが生じたのは、その晩のことである。
おかあさんの病気の間じゅうわたしたちは毎晩二、三時間ずついっしょに過ごした。わたしはすこしずつ自分のはにかみに打ち勝っていった、とは言ってもその後もふたりの話の度ごとに、かならずそのあとに、まだなにか自分がじれったいような気持ちは残った。それにしても彼がわたしのためにあの恨《うら》めしい本のことを忘れてくれているのを見て、わたしはひそかな喜びと誇らしい満足をおぼえていた。
が、そのうちたまたまあるとき、冗談まぎれに、棚から本が落ちたときのことに話が及んだことがあった。それは不思議な瞬間だった。わたしはどうしたわけか≪ひどく≫打ち解けた、率直な気持ちになっていた。で、激情と不思議な歓喜にそそのかされて、彼になにもかも……わたしは勉強したかったのだ、なにか知りたかったのだということから、わたしは自分が小娘と思われ、子供に見られるのが口惜しかったのだということまで、洗いざらい告白してしまった。
くり返して言うが、わたしはそのとき、はなはだ不可思議な精神状態にあった。胸は甘く、目には涙が宿っていた。……わたしは、なにひとつ包みかくさず、すっかり話してしまった……彼にたいする親愛の情、彼を愛したい、彼とひとつ心で暮らしたい、彼を慰めてやりたい、いたわってやりたいという気持ちまで、打ち明けてしまった。彼は困惑と驚きを見せた、なんとなく妙な目つきでわたしを見つめているだけで、わたしにひと言《こと》も口をきかなかった。わたしは急にひどく悩ましい、悲しい気持ちになった。彼はわたしの気持ちをわかってくれていない、もしかしたらわたしを嘲笑《あざわら》っているのかもしれないという気がしたのである。
わたしは突然子供のようにわっと泣き出し、しゃくりあげて、自分で自分をおさえることができなかった。まるでなにか発作でもおこしているようなぐあいだった。彼はわたしの手を取って接吻し、自分の胸におし当てて、わたしにいろいろ言い聞かせたり、慰めたりしてくれた。彼はひどく感動していたのだ。わたしは、彼がわたしにどんなことをしゃべっていたのか、おぼえていない、ただわたしは泣いたり笑ったり、また泣いたり、顔を赤らめたりしているだけで、嬉しさのあまりひと言《こと》もものが言えないのだった。
ところが、わたしのほうはこんなに興奮しているのに、ポクローフスキイの心には依然として困惑とわざとらしさのようなものが残っているのがわかった。思うに、彼はわたしの無我夢中の感激の様子、こんなに薮《やぶ》から棒に示された、熱烈な、火のような親愛の情にあっけにとられていたのだろう。彼には最初は単に物珍しかっただけなのかもしれない。が、そのうちの煮えきらぬ態度も消えて、わたしとおなじ純粋で率直な気持ちでわたしの彼にたいする思慕の情や、わたしのやさしい言葉や心|遣《づか》いを受け入れてくれ、そういったものに、わたしの心友、わたしの血をわけた兄のような心遣いで、おなじように親密に愛想よく答えてくれるようになった。
わたしはほのぼのと温かい気分で、じつに心楽しかった……わたしは何事も包み隠さなかった。彼もそれを認め、日一日とますます彼のわたしにたいする愛着が増してきた。この悩ましいが、それと同時に甘いふたりの夜毎の逢瀬《おうせ》に、ランプのかすかにふるえる光のもと、あわれなおかあさんの病床の枕もと近くで、彼とどんなことを話しあったのかは、まったくおぼえがない……頭にうかぶこと、胸のなかからほとばしり出ること、吐露《とろ》してしまいたいと思うことならなんでも話した、……それだけでふたりはほとんど幸福そのものだったのだ……ああ、それは悲しくもまた喜びにみちた時代、……その気持ちをいっしょに味わえた時代だった。だから、いまあの頃のことを思い出すと、わたしは悲しくなると同時に嬉しくもなる。思い出というものは、嬉しいものであれ、悲しいものであれ、つねに悩ましいものだ。すくなくとも、わたしの場合はそうだ。だから、胸が重く、苦しく、悩ましく、鬱々《うつうつ》としているとき、思い出は胸をすがすがしくしてくれ、生き生きとよみがえらせてくれる、それはちょうど、暑い昼のあとのしっとりした夕暮れの露のしずくが、昼の暑熱に焼かれてしおれかかったあわれな草花をよみがえらせ、生気をとりもどさせるようなものである。
おかあさんは健康をとりもどしてきたが、わたしはまだ毎晩枕もとにつきっきりだった。ポクローフスキイはたびたびわたしに本を貸してくれた。
わたしは初めのうちは眠気《ねむけ》ざましに読んでいたが、やがて身を入れて読むようになり、ついには貪《むさぼ》るように読むようになった。わたしの目の前には、忽然《こつぜん》として、それまで知らなかった、わたしにとっては未知なあたらしい世界が開けてきた。あたらしい思想、あたらしい印象が、水量のゆたかな流れとなって、どっとわたしの胸に流れこんできた。そして、それらのあたらしい印象を受け入れるときおぼえる興奮が激しければ激しいほど、またわたしにとってとまどいや労力が必要であればあるほど、その印象はわたしにとってますます愛《いと》おしくなり、ますます甘くわたしの心をゆさぶるのだった。それらは一度にどっとわたしの心のなかに群れをなして押しよせて、わたしの心を休ませなかった。そしてなにやら不可思議な混沌《こんとん》たるものがわたしの全存在を湧き立たせはじめた。だが、この精神的な暴力も、わたしを完全に圧倒することはできなかったし、またその力もなかった。わたしはあまりにも空想好きだったため、それによって救われたのだった。
おかあさんの病気がなおると、わたしたちの晩の逢引きと長話もやめになった。それでも、ときどき二言《ふたこと》三言《みこと》、言葉をかわすことぐらいはできた。その言葉はたいていつまらない、意味のないものではあったが、わたしはそのどんな言葉にも好んでそれぞれ意味を持たせ、特別の暗示的な価値を与えた。わたしの生活は充実し、わたしは幸福だった。おだやかで静かな幸福感にひたっていた。こうして何週間か過ぎた……。
あるときポクローフスキイ老人がわたしたちのところへ立ち寄った。彼は長時間わたしたちを相手にしゃべっていたが、いつになく陽気で、元気で、口数も多かった。そして笑ったり、独特のしゃれを言ったりしていたが、最後にとうとう自分の喜びの謎を解いてみせ、きょうからちょうど一週間するとペーチンカの誕生日が来るから、そのときはかならず倅《せがれ》をたずねて来るつもりだとわたしたちに発表し、自分はあたらしいチョッキを着てくるつもりだとか、女房があたらしい長靴を買ってやると約束してくれたということまでわたしたちに白状してしまった。要するに、老人は完全に幸福感にひたりきって、頭にうかぶままになんでもしゃべりまくっていったわけである。
あの人の誕生日! わたしはあの人の誕生日を思うと、昼も夜も、落ちついていられなかった。わたしはぜひとも自分の友情を思い出させるため、ポクローフスキイになにか贈物《おくりもの》をしようと決心した。それにしてもなにを贈ったらいいだろう? あげくの果てに、本を贈ることを思いついた。わたしは、彼が最新版のプーシキン全集をほしがっていたのを知っていたので、プーシキンを買うことにした。わたしの手もとには、手仕事で稼いだへそくりが三十ルーブリほどあった。その金はあたらしい服を買うためにとっておいたのだった。さっそくわたしは料理番のマトリョーナ婆さんに、プーシキンが全部でいくらするか、聞きにやった。困ったことに、全巻十一冊の値段は、製本代も加えて、すくなくとも六十ルーブリくらいだった。その金をどこから捻出《ねんしゅつ》したものだろう?
わたしは思案に思案をかさねたが、なんとも決心のつけようがなかった。おかあさんにねだることはしたくなかった。もちろん、おかあさんならかならず助けてくれただろうが、そうすれば、わたしの贈物の一件が家じゅうの者に知れてしまうにちがいない。のみならず、そういう贈物では、ポクローフスキイが丸一年間教えてくれた骨折りにたいする報酬《ほうしゅう》、つまり授業料ということになってしまう。
わたしはだれにも知れないようにこっそりと、自分ひとりで贈物をしたかったのだ。そして、わたしにたいする彼の骨折りにたいしては、わたしは自分の愛情以外にどんな報酬もはらわずに、永久に借りっぱなしにしておきたかったのである。……が、ついにわたしはこの難関を切りぬける方法を思いついた。
わたしは、マーケットの古本屋へ行って、うまく値切りさえすれば、ときには、半値くらいで、ほとんど手垢《てあか》のついてない本やまったくの新本に近い本が買えることを知っていた。わたしは、ぜひマーケットへ出かけていってみることにした。
折りも折り、ちょうどそういうことになった。わたしたちにも、アンナ・フョードロヴナにもその翌日そこへ行く用事ができたのだ。ところが、おかあさんは健康がまだ完全には回復していなかったし、アンナ・フョードロヴナはアンナ・フョードロヴナでちょうどうまいぐあいに出ることを億劫《おっくう》がった。そこですっかりわたしに一任されることになり、わたしはマトリョーナと連れ立って出かけることになったのである。
プーシキンはすぐに見つかった、しかもとても美しい装幀《そうてい》だった。わたしは値引きの交渉にかかった。最初、先方は新本屋よりも高い値をつけた。が、それでもそのうち、幾度か帰りそうな素振りをみせたりして、やっとのことで本屋に値引きさせ、もうこれが限度で銀貨なら十ルーブリにしてもいいというところまで漕ぎつけた。わたしは値切るのがおもしろくてたまらなかった……かわいそうなのはマトリョーナで、わたしがどうしたのか、わたしがどうしてそんなにたくさんの本を買う気になったのか、さっぱり見当がつかないのだった。それにしても困ったことだった! わたしの有り金は全部はたいても紙幣で三十ルーブリしかないというのに、本屋はどうしてもそれ以上はまけることを承知しないのだ。とうとう、わたしは拝み倒しにかかり、頼みに頼んで、ついに拝み倒してしまった。が、まけてはくれたものの、たった二ルーブリ半だけだった。そして、こんなにまけたのもあなただからこそで、あなたがとても気立てのいいお嬢さんだからなんですよ、ほかのお客さんだったらどなたにだってけっしてまけるこっちゃありませんと断言した。それでもまだ二ルーブリ半足りなかった! わたしは残念で、いまにも泣きだしそうだった。ところが、思いがけなく情勢が一変して、わたしはその悲嘆から救われることになった。
わたしのところから遠くない、別の露店の本屋に、わたしはポクローフスキイ老人を見つけたのだ。老人のぐるりには古本屋が四、五人たかっていた。老人はその連中のためにまったくわけがわからなくなり、すっかり困りはてていた。本屋はみなそれぞれ自分の品物を売りつけようとして、なんでも勧めるので、老人はどれもこれも買いたくなってくるのだった! かわいそうに、老人は彼らの間に、まるで釘づけにでもなったように立ちすくんだまま、勧められるもののなかからどれを取ったらいいのか、見当がつかずにいた。わたしは老人のそばへ行って、ここでなにをしているのかと聞いてみた。老人はわたしの出現に大喜びだった。彼はわたしが大好きで、ひょっとするとペーチンカ以上に好きだったかもしれないのである。
……「いまここで本を買っているところなんですよ、ワルワーラさん」と老人は答えた。「ペーチンカに本を買ってやろうと思いましてね。ほら、もうじきあれの誕生日でしょう、それにあれは本が好きなもんですから、それでこうして本を買ってやろうとしているわけなんですよ」……。
老人はなにか説明をするときには、ふだんでも滑稽なのだが、このときはおまけにひどいまごつきようだった。どれに当たってみても、みんな銀貨で一ルーブリとか二ルーブリとかで、ときには三ルーブリすることもあった。で、もう彼は大きな本になると値段も聞かず、ただ恨《うら》めしそうに眺めたり、指でページをめくってみたり、手に持っていじくりまわしたりするだけで、またもとの場所においてしまうのだった。
「だめだ、だめだ、これは高い」などと彼は小声で言っていた。「しかし、こっちならなにかいいのがありそうだな」……と言って彼は薄っぺらなノート・ブックや歌謡集や文集をつぎつぎと手にとりはじめた。それはみなひどく安手なものばかりだった。
……「でもどうしてそんなものばかり買おうとなさるんですの?」とわたしは彼に聞いてみた。「みんなひどくつまらないものばかりじゃありませんか」
「いやいや」と彼は答えた。「そうじゃありませんよ、 ま、 ちょっと見てごらんなさい、 ここにあるのはいい本ばかりですから。なかなかいい本がありますよ!」……こう言って彼は最後の言葉をいかにもあわれっぽく長く引っ張ったので、わたしは、彼が、いい本はどうしてこんなに高いんだろうと言って口惜しがって泣きだしそうになり、いまにも青い頬から赤い鼻に涙がぽつりとしたたるのではないかと思った。わたしは、お金はどのくらいお持ちですの? と聞いてみた。すると、あわれな老人は「ほら、これだけですよ」と言って、脂《あぶら》だらけの新聞紙に包んだ自分の持ち金をすっかり出してみせた。……「このとおり五十コペイカ銀貨に、二十コペイカ銀貨、それに銅貨が二十コペイカとね!」
わたしはさっそく彼をさっきの本屋へ引っ張っていった。……「ほら、この十一冊の本が全部で三十二ルーブリ五十コペイカなんですの。わたしは三十ルーブリ持っていますから、二ルーブリ半足してくださいな、そしてふたりでいっしょにこの本をひとそろい買って、あの人にあげましょうよ」
老人が嬉しさのあまり気ちがいのようになって、持ちあわせの金を全部さらけ出すと、本屋はふたり共同で買った全集をそっくり彼に持たせた。老人は本をポケットというポケットに突っこみ、両手にも脇の下にも掻《か》いこんで、明日こっそりあなたのところへ本を全部持っていきますと約束して、一冊残らず持ち帰った。
明くる日、老人は息子のところへやって来ると、例によって小一時間ほど彼の部屋にいたあと、わたしたちの部屋へ立ち寄り、すこぶる滑稽な秘密めかしい顔つきをしてわたしのそばへ腰をおろした。
彼は最初、にやにやしながら秘密を持っているんだという誇らしい満足感から手をこすりこすり、本は全部、だれにも全然わからないようにしてここへ運んできて台所の隅において、マトリョーナに保管してもらっているとわたしに告げた。やがて話は自然と待ちこがれている誕生日のことに移っていった。そしてそのうち老人はどうやって贈物を渡そうかという話をくどくどとはじめ、自分の話題に深入りすればするほど、そしてその話が長びけば長びくほど、いよいよわたしには、彼がなにか胸に蔵《しま》っていることがあって、それを口に出せずにいる、口に出す勇気がないどころか、それを恐れているのだということがはっきりしてきた。わたしは引きつづきそれを待ちながら、黙っていた。
やがて、それまで彼の変な身振りやしかめっ面や左の目をぱちりとさせる癖からわたしにもたやすく読みとれていた彼の秘めた喜び、ひそかな満足は、もう消えてしまった。そして、刻一刻と落ちつきを失い、いよいよもの悲しげな顔つきになってきたと思ううち、とうとうこらえきれなくなってしまった。
「あのね」と彼はもじもじしながら、小声で切り出した。「ね、ワルワーラさん……ひとつどうでしょう、ワルワーラさん?……」
老人はひどく因惑しきった様子だった。「実はですね、倅《せがれ》の誕生日が来たら、あなたは本を十冊お取りになって、それをご自分でお贈りになる、つまりご自分から、ご自分のほうから贈物をしていただく、わしのほうも十一冊めの一冊を取って、やはり自分から、つまり自分自身のほうから贈物をするということにしてはどうでしょう。そうすれば、ほら……あなたのほうにもなにか贈るものがあるし、わしのほうにも贈るものがあるということになるでしょう。ふたりともなにか贈るものがあるということになるじゃありませんか」
ここで老人はどぎまぎして、ぴたりと黙りこんでしまった。わたしは相手に目をやった。相手はおっかなびっくりわたしの宣告を待っていた。……「でもどうしてふたりでいっしょに贈りたくないんですの、おじいさん?」……「それはこうなんですよ、ワルワーラさん、じつはそれはこうなんですよ……わしは実は、それはその……」
要するに、老人はしどろもどろになり、顔を真っ赤にし、自分の言葉に足をとられて、動きがとれなくなってしまったのである。
「実はですね」と、彼はやっと説明にかかった。「ワルワーラさん、わしはときどき放埒《ほうらつ》をやらかすんですよ……つまりあなたに申しあげておきたいんですが、わしはほとんどしょっちゅう放埒をやらかす、いつでも放埒をやらかすんですな……よからぬものをたしなむわけです……つまり、ほら、こんなぐあいに外が馬鹿に寒い天気がつづくこともあれば、またときにはいろんな不愉快なことも起こるでしょう、なんだか憂鬱《ゆううつ》になったり、なにかよくないことが起きたりする。するとときどき、つい矢も楯《たて》もたまらなくなって、放埒をやらかし、ときどき余計なものを飲んじまうんです。ペーチンカがそれをとてもいやがりましてな。ご承知のとおり、ワルワーラさん、怒って、わしをどなりつけたり、わしにいろいろ説教を垂れたりするわけです。そんなわけでわしは今回、倅《せがれ》に贈物をして、わしは心を入れかえて、身持ちがよくなっているという証拠を見せてやりたいわけなんですよ。わしは、本を買ってやりたいと思えばこそ、あれだけの金を貯めたんですよ、長い間かかってね、だってそうでしょう、ペーチンカがときどきくれることはあるが、それを除けば、わしの手もとに金なんぞあったためしはないんですからな。あれはそれをよく承知しているんです。そんなわけで、あれにはわしの金の使途がわかるわけです、なにもかもわしはあれひとりのためにやっているんだってことがわかってもらえると思うんですよ」
わたしは老人がたまらなく不憫《ふびん》になった。わたしはしばらく考えていた。老人は不安そうにわたを見つめていた。「じゃ、ねえ、おじいさん」とわたしは言った。「あれを全部あなたがお贈りになったら」……「全部ですって? つまりあの本を全部ということですか?」……「ええ、そうよ、あの本を全部ですのよ」……「しかもわしからですか?」……「ええ、あなたからですわ」……「わしひとりだけからですか? つまりわしの名儀でですか?」……「ええ、そうですとも、あなたの名儀でですの……」
わたしはずいぶんわかりやすく説明したつもりだったが、老人にはなかなかわたしのいうことがのみこめない様子だった。
「なるほどね」とこう彼は、しばらく考えこんでから言った。「なるほど! それは大変結構ですね、そう願えれば、まったく結構ですが、それじゃあなたのほうはどうなるんです、ワルワーラさん?」
「それはもちろん、わたしはなんにも贈物をしないことにしますわ」……「どうして!」と老人は肝《きも》をつぶさんばかりにして絶叫した。「そうすると、あなたはペーチンカになんにも贈物をなさらないわけですか、それじゃあなたはあれになんにも贈物をしたくないというわけですか?」
老人はびっくり仰天してしまったのである。この瞬間、彼は、わたしにもなにか贈物をさせたい気持ちから、自分の提案をいまにも撤回してしまいそうに見えた。まったくこの老人は好人物だったのだ! わたしは、わたしだってなにか贈物をすれば嬉しいにはちがいないけれど、ただあなたの喜びを奪いたくないのだと言って、彼を納得させた。「あなたの息子さんも満足してくださるし、あなたも喜んでくださるんですから、わたしも嬉しいんですよ」とわたしは言い足した。
「だって、心のなかで秘かに、実際に自分が贈物をしたような気持ちが味わえるんですもの」
こう言われて老人はすっかり安心した。老人はそのあとさらに二時間もわたしたちの部屋に腰をすえていたが、その間じゅう一つ所にじっとしていられず、腰をあげたり、歩きまわったり、騒ぎまわったり、サーシャとふざけ合ったり、わたしにこっそり接吻したり、わたしの手をつねってみたり、アンナ・フョードロヴナのほうへそっと赤んべえをしてみせたりしていた。そしてしまいにアンナ・フョードロヴナに家から追い出されてしまった。要するに、老人はあまりの嬉しさに、それまで一度もなかったくらい羽目を外してしまっていたのである。
お祝いの当日、彼はきっかり十一時にちゃんと補衣《つぎ》のあたった燕尾服《えんびふく》を着、彼が言っていたとおり新調のチョッキを着こみ、あたらしい長靴をはいて、教会の朝の礼拝式からまっすぐやって来た。両腕には束ねた本が抱えられていた。そのとき、わたしたちはみんなしてアンナ・フョードロヴナの広間に座りこんで、コーヒーを飲んでいた(日曜日だったからである)。
老人は、たしか、プーシキンはじつにすばらしい詩人だということから切り出したようだった。つづいて、まごついたりあわてたりしながら、出しぬけに、身持ちはよくしなけりゃいかん、人が身持ちが悪いということは、とりもなおさず、自分を甘やかしているということになる、悪癖は人間を台なしにし、破滅させるものだといったような話に移り、身をつつしまなかったために身を亡ぼした幾つかの実例まであげて、自分はある時を転機としてすっかり身持ちを改め、いまでは模範的に立派に身を持《じ》している、自分は前々から倅《せがれ》の教訓は正しいと感じていたし、もうずいぶん前からそういったことを感じて心にたたみこんではいたのだが、実際に身をつつしむようになったのはついこの頃のことなのだ、でその証拠に、自分が長年かけて貯めた金で買ったこの本を息子に贈る次第なのだと言って、話を結んだ。
わたしは、このあわれな老人の話を聞いている間じゅう、涙と笑いがおさえられなかった。こんな男でも、必要とあれば、嘘八百も並べられるではないか! 本はポクローフスキイの部屋へ運びこまれて、本柵に並べられた。ポクローフスキイはたちまち真相を見破ってしまっていた。老人は食事に招かれた。この日は、わたしたち一同すこぶるはしゃぎきっていた。食後は、罰金遊びやトランプをやった。サーシャは活発に騒ぎまわっていたが、そういうことではわたしも彼女にひけをとらなかった。ポクローフスキイはわたしに絶えず気をくばり、ずうっとわたしとふたりきりで話す機会をねらっていたが、わたしはそうはさせなかった。その日は、それまでの丸四年間の生活でいちばん楽しい日だった。
ところが、これからさきは悲しく辛い思い出の連続となり、わたしの暗黒時代の物語がはじまるのだ。わたしのペンの動きが鈍《にぶ》り出してさきへ進むことを渋っているかのように見えるのも、そのためかもしれない。また、わたしが仕合わせだった当時の、日常生活のごく些細《ささい》な出来事でも、それを記憶によみがえらすことに異常な魅力と愛着をおぼえたのも、あるいはそのためだったのかもしれない。その仕合わせな時期はきわめて短期間で、いつ果てるともしれぬ悲しみ、暗澹《あんたん》たる悲しみにとって代わられたのである。
わたしの不幸は、ポクローフスキイの病気と死に端を発した。
彼が発病したのは、わたしがここに書いた最後の出来事から二か月後のことである。その二か月の間、彼は自分の生活手段を求めて根気よく奔走してまわっていた。そのときまで彼には定職がなかったからである。肺病患者の例に洩《も》れず、彼は最後の瞬間が来るまで、大いに長生きをしたいという望みを棄てなかった。どこかに教師の口もあったが、彼はこの職業には嫌悪感をいだいていた。が、どこか官庁に勤めるということは、体が弱いためにできなかった。
その上、そういう所に勤めるとすれば、最初の俸給《ほうきゅう》が出るまでしばらく待たなければならなかった。簡単に言うと、ポクローフスキイはどこへ行っても失敗にばかりめぐり遇っていたわけなのだ。性格は荒《すさ》んできた。健康も調子が狂ってきたが、彼はそれを気にしなかった。
秋が近づいてきた。毎日彼は薄い外套を着て出かけては、自分の仕事のことであくせく歩きまわり、どこかに勤め口の世話を頼んだり頭を下げてまわったりしていた、……これが彼を精神的に苦しめた。こうして、足をずぶ濡れにして帰ったり雨に打たれて帰ったりしているうちに、ついにどっと病床に伏し、そのままもはや二度と起きあがれなくなったのである………彼が死んだのは、秋もたけた十月末のことであった。
わたしは彼の病気中ほとんど彼の部屋に詰めきりで、看護をしたり、用を足してやったりしていた。幾晩もぶっつづけに眠らぬこともたびたびだった。彼は、正気にかえることはめったになく、多くは熱に浮かされて、なにかわけのわからぬことや、勤め口のことや、本のことや、わたしのことや、父親のことなどを口走っていた……そのときになってわたしは彼のうわ言から、それまで知らず、また想像もつかなかったような、彼の家庭事情をずいぶん聞き知ったものである。
彼の発病当座は、家の者がみな、わたしを変な目で見ていた。アンナ・フョードロヴナは困ったことだと、しきりに首を振っていた。が、わたしがみんなの目をまともに見返してやってからは、わたしがポクローフスキイの世話を焼いてやっていることを非難しなくなった、……すくなくとも、おかあさんはそうだった。
ときどきポクローフスキイがわたしに気づくこともあったが、そんなことは珍しいことだった。彼はほとんどぶっつづけに昏睡《こんすい》状態にあった。ときによると幾晩でもだれかを相手に長いこと、はっきりしない曖昧《あいまい》な言葉で話しつづけ、そのしゃがれ声が、棺桶《かんおけ》のなかででも響くように、彼の狭い部屋にうつろな音を立てることがあった。そんなとき、わたしはぞおっとするのだった。
ことに、臨終の前の晩には彼はまったくの狂乱状態だった。おそろしく苦しみ悶《もだ》えていた。わたしは彼の呻《うめ》き声に胸を掻きむしられる思いがした。家じゅうの者が一種|兢々《きょうきょう》たる状態にあった。アンナ・フョードロヴナは絶えず、神よ、一刻もはやく彼をお召しくださいと祈っていた。
医者が呼ばれた。医者の言うところでは、病人はどうしても朝までは持つまいとのことだった。
ポクローフスキイ老人はひと晩じゅう廊下で、息子の部屋の戸口で過ごした。彼はそこに蓆《むしろ》のようなものを敷いてもらっていた。しかし老人はひっきりなしに部屋へはいってきた。彼は、見るからにおそろしい形相をしていた。悲しみにすっかり打ちひしがれて、感情も思考も完全に失っているようだった。頭は恐怖にふるえていた。そして全身をぶるぶるふるわせて、のべつなにかひとり言を言ったり、ひとり問答をしたりしていた。彼は悲しみのために発狂するのではあるまいかとわたしは思った。
夜明け前に、老人は心痛に疲れはてて、死人のように蓆《むしろ》の上で眠りこんでしまった。七時すぎに息子の容態が急にあらたまったので、わたしは父親を呼び起こした。ポクローフスキイは意識が完全にはっきりしていて、わたしたちみんなにお別れの言葉を告げた。不思議なことに、わたしは泣けなかった。が、それでいて胸はずたずたに破れんばかりだった。
しかし、わたしがいちばん責めさいなまれたのは、臨終のときである。彼はまわらぬ舌で長いことなにか頼んでいたが、わたしにはその言葉がなにひとつ聞きわけられなかった。痛ましさにわたしは胸が張り裂けそうだった! まる一時間も彼は、そわそわして、なにか絶えず気をもみ、冷えきった手で懸命になにか合図をしようとしていたあと、ふたたびうつろなしゃがれ声で訴えるように哀願しはじめた。
が、彼の言葉はなんの脈絡もない音響にすぎなかったので、わたしには今度も皆目《かいもく》わからなかった。わたしは家の者を残らず連れてきてやったり、飲物を与えたりしてみた。が、彼は相変わらず悲しげに首を振るだけだった。が、とうとう彼がしてもらいたがっていることがわかった。彼は、窓のブラインドをあげて、鎧戸《よろいど》を明けてくれと頼んでいたのだった。彼はきっといまわの際《きわ》にもう一度、日の目を、神の光を、太陽を仰ぎ見たかったのにちがいない。
わたしはブラインドをあげてやった。だが、まさにはじまろうとしていたその日は、瀕死《ひんし》の病人のまさに消えようとするあわれな命同様、悲しくも陰欝《いんうつ》で、太陽は見えなかった。雲が空をどんよりとした掛布でつつんで、雨のそぼ降る、憂鬱な、物悲しい空模様だった。小雨はガラスに当たって、ガラスを冷たい汚い水の流れで洗っていた。あたりはどんよりと暗かった。室内に青白い昼の光がかすかに射しこんではいたが、その光は、聖像の前にともっている燈明のふるえる光にやっと打ち勝てるくらいの強さだった。臨終の人は悲しみに耐えぬ面持《おもも》ちでわたしを見つめて、首を振った。それから一分後に彼は亡《な》くなった。
葬式の宰領は、アンナ・フョードロヴナ自身がした。ごくありふれた粗末な棺桶が買いととのえられ、荷馬車の御者がやとわれた。アンナ・フョードロヴナは、葬式費用の埋めあわせに、故人の蔵書と持物を全部巻きあげてしまった。老人は彼女と喧嘩《けんか》をして騒ぎたてたあげく、彼女から本をできるだけ取りかえし、自分のポケットというポケットにぎっしり詰めこみ、帽子にもいっぱいに入れて、三日間というもの、持っていける所ならどこへでも持ち歩き、教会へ行かねばならぬときになっても、手離そうともしなかった。
その三日の間、彼は健忘症になった人か、ものに憑《つ》かれた人のように、妙にそわそわして絶えず棺《ひつぎ》のまわりを歩きまわっていた。そして死人にのせてある花輪をなおしたり、ろうそくに火をつけたり消したりしていた。思考がなにか一か所にちゃんと固定しないことは明らかだった。
おかあさんも、アンナ・フョードロヴナも、教会の葬式には出なかった。おかあさんは病気だったし、アンナ・フョードロヴナはすっかり出かけるばかりだったのに、ポクローフスキイ老人といさかいを起こしたため、家に残ることになったのである。で、結局わたしと老人だけということになった。
聖書|読誦《どくじゅ》のとき、わたしはある恐怖……未来の予感のようなもの……に襲われた。わたしは教会の式場で立ちとおすのもやっとだった。……ついに、棺の蓋《ふた》が閉じられ、釘が打たれ、棺が荷馬車にのせられて、馬車は動きだした。
わたしは通りの外れまでしか見送らなかった。御者は馬車をギャロップで走らせていった。老人はおいおい泣きながら馬車を追って駆けだした。その泣き声は走っているため、ふるえたり途切れたりしていた。あわれな老人は帽子を落としたが、足をとめて拾おうともしなかった。頭は雨に濡れていた。風が起こり、霙《みぞれ》が顔をびしびし打っていた。老人は天気が悪いことなど感じていないらしく、泣きながら、荷馬車の片側から反対側へと、駆け足で行ったり来たりしていた。古びた燕尾服《えんびふく》の裾が、翼のように、風にひるがえっていた。あちこちのポケットから本がはみ出し、手にはなにか大きな本をしっかと抱えていた。通行人は脱帽して、十字を切った。立ちどまって、あわれな老人を怪訝《けげん》そうに眺めている者もいた。
本がのべつばらばらとポケットから泥のなかに落ちた。そして人に呼びとめられ、落としたことを注意されると、それを拾って、また棺のあとを追って走り出すのだった。
街角でどこかの乞食《こじき》の婆さんが彼にまつわりつき、いっしょに棺を見送りに駆け出していった。荷馬車はとうとう街角を折れて、わたしの視界から消え去った。わたしはすごすごと家路についた。
わたしはおそろしいわびしさに襲われておかあさんの胸にすがりついた。そしておかあさんをかたくかたく抱きしめ、しくしくすすり泣きながら接吻した、いまとなってはもう最後の身近な人である母をしっかと抱きしめて死の手に渡すまいとでもするように、恐れおののきながら母にぴったりと体をおしつけて。……だが、死神ははやくもこのあわれなおかあさんの上にたたずんでいたのである………………………
六月十一日
マカールさま、きのうは島へ散歩に連れていってくださって、ほんとうにありがとうございました!
あそこはほんとにすがすがしい、気分のいい所でしたわ、それに青々とした草木のすばらしかったことといったら!……わたし、それこそずいぶん久しく青いものを見ていませんのよ。わたし病気中は、死ぬにきまっている、かならず死ぬに相違ないと、しょっちゅうそんな気ばかりしていたんですの、……そういうわたしがきのうなにを感じ、どういう気分になったか、お察しください!……きのうあんなに沈んでいたからといって、腹をお立てにならないでください。わたしとても楽しかったし、とても爽快《そうかい》な気分でしたわ、でもわたしはどんなに幸福な瞬間でも、いつもどういうわけか沈欝な気分になるんですの。
わたしあそこで泣きましたけど、あれもなんの意味もないことなんです、どうしてこうしょっちゅう泣いているのか、自分でもわからないくらいなんですから。わたしはいつも病的な、いらだった物の感じ方をするんですの。ですから自分の印象まで病的になるんですわ。一点の雲もない薄青い空、日没、夕暮れの静けさ、……そういったものばかりでしたが、……わたしにはよくわからないんですけど、……わたしきのうはなんだか、受ける印象がすべて重苦しく感じるような気分だったんですのね、胸がいっぱいになって、涙ぐみたくなったのもそのせいですわ。
それにしても、わたし、どうしてこんなことを書いているのかしら? こういうことは自分の心にもたやすく説明できないことなんですもの、他人に伝えるなんて、なおさらむずかしいことですのに。でも、あなたになら、わかっていただけるかもしれませんわ……悲しみも、笑いも!
あなたは、ほんとうに、なんていい方なのかしら、マカールさま! きのうあなたは、わたしが感じていることを読みとろうとして、しきりにわたしの口をのぞきこんで、わたしが大喜びなのを見て喜んでくださいましたわね。潅木《かんぼく》、並木道、帯のような水の流れ……あなたがそういう所に、そういう美しさに飾られて、ちゃんとわたしの前にお立ちになって、しょっちゅうわたしの目をのぞきこまれるその様子は、まるでご自分の領地をわたしに見せてくださっているみたいでしたわ。これは、あなたが親切なお心を持っていらっしゃる証拠ですわ、マカールさま。だからこそ、わたしはあなたが好きなんですのよ。
ではさようなら。わたし、きょうはまた体のぐあいがよくないんですの。きのう足を濡らしたために、風邪をひいたらしいんですの。フェドーラもどこか悪いものですから、ふたりともいまふせっております。
わたしをお忘れなく、もっとたびたびいらしってください。
あなたの
V・D・
六月十二日
私のかわいいワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
ワーリニカさん、きのうのことを全部ほんものの詩で描いてくださるものと思っていましたのに、お手紙は便箋《びんせん》がたった一枚の簡単なものでしたね。申しそえておきますが、あなたは一枚の便箋にわずかしか書いてくださらなかったけれど、そのかわり非常に上手に、情趣ゆたかにお書きになっていますよ。自然の風物も、さまざまな農村の風景も、そのほかご自身のお気持ちも……ひと口に言って、なにもかも非常にうまく書けていました。ところが、この私ときたら、てんからそういう才能は持ちあわせていないのです。たとえ十ページ書きつぶしたところで、なにひとつできてくるわけでもなし、なにひとつ描けるわけでもないのです。これはもう試験ずみなのです。……ワーリニカさん、あなたは、わたしはいい人間だ、悪意のない人、隣人に害を与えることのできない人、自然のなかに現われている神の恵みを悟っている人だなどとお書きになり、はてはいろんなお褒《ほ》めの言葉までいただきました。たしかにおっしゃるとおりですよ、ワーリニカさん、まったくそのとおりです。私は実際、おっしゃるとおりの人間なのです、そして自分でもそれは承知しています。しかし、あなたのお書きになっているようなものを読んでいると、胸が知らず知らず感激にふるえてきて、いろんな重苦しい考えが湧き起こってくるのです。
ではひとつ、私の話を聞いてください、ワーリニカさん、あなたにお話することがあるのです。
まず、わたしはやっと十七の頃に勤めに出たのですから、私の勤務生活もこれでもうじき三十年になろうとしているということから、はじめますよ。ですから、私がずいぶん制服を着つぶしてきたことは言うまでもありません。私もおとなになったし、知恵もついたし、人を見る目もできました。ちゃんと暮らしてきましたし、人並みに世のなかを渡ってきたとも言えましょう、だからわたしも一度十字勲章の下付願いを出してやろうなどと言われたこともあるんですよ。信じてくださらんかもしれないが、私はあなたに嘘などつきません。ところがどうでしょう、ワーリニカさん、そのことで意地悪をする連中が出てきたじゃありませんか!
ここで申しあげておきますが、ワーリニカさん、私はいくら無学な人間で馬鹿な人間だとしても、心だけはほかの人と変わりないつもりですよ。ワーリニカさん、私が意地悪な男にどんな目にあわされたかご存じですか? その男のしたことなど、話すのも恥ずかしいくらいですよ。あなたはきっと、どうしてそんな目にあわされたのかとおたずねでしょう。それは、私がおとなしいからですよ、物静かな人間だからです、人がいいからなんですよ! 私が連中の肌にあわないというので、私はそういう目にあわされたのです。最初は「マカールさん、あなたははっきりしない人ですね」なんて言い出したんですが、そのうち「マカールさんなんかに聞くだけ野暮《やぼ》だ」となり、いまでは「それは、もちろん、マカールさんにきまっているさ!」で片づけられてしまったのです。
これで、ワーリニカさん、どうなったかはおわかりでしょうか。なにもかもこのマカールのせいにしてしまったんですよ。やつらのやれることといったら、このマカールを役所じゅうの名物男にすることだけですよ。私を名物男にしたり、ほとんど悪口に近い言葉をつくったりしただけじゃ足りなくて、……あらさがしが私の長靴だの、制服だの、髪の毛だの、姿|格好《かっこう》にまで及んだのです。なにからなにまで気にくわないから、すっかりたたき直してやらなければならんというわけなんです……しかもこういうことがいつからともなく毎日くり返されているような有様なんですよ。でも、私は馴れっこになってしまいました、私はなににでも馴れやすい質《たち》ですからね。おとなしい人間だし、小者だからです。しかしそれにしても、どうしてこんな目にあうんでしょう? 私がだれかに悪いことでもしたんでしょうか? だれかの官等でも横どりしたんでしょうか? 上役の前でだれかをくさしでもしたんでしょうか? 賞与を強請したとでもいうんでしょうか? なにかいかがわしいことでも隠したんでしょうか? ワーリニカさん、あなたがそんなふうなことを考えたとしたら罪ですぞ! 私がそんなことをしたってしょうがないでしょう? ワーリニカさん、あなたには、私が奸策《かんさく》を弄《ろう》したり野心をいだいたりするだけの能があるかどうか、その点だけでもとくと見究《みきわ》めていただきたいですね。それなのに、なにが理由でこの私はそんな攻撃を受けなければならないんでしょう? 現にあなたは私を立派な人間だと認めてくださっているが、そのあなたこそあの連中とは比べものにならないくらい立派ですよ、ワーリニカさん。
いったい市民の最大の善行とはどんなことなんでしょう? この間エフスターフィイさんが内輪の話のときに、市民の最も重んずべき善行は、金を稼ぐ腕があるということだなんて言っていました。連中は冗談めかして(私は冗談めかしてだということは承知しています)、だれにも厄介をかけてはならぬという道徳論をぶっていましたがね、……私はだれの荷厄介にもなってなんかいませんよ! 私のひときれのパンは自分が稼いだものです。なるほど、それはありふれたひときれのパンにすぎないでしょう、ひょっとすると固いかもしれません。が、しかしそれは自分の労働で合法的に稼ぎ出した、だれにも非難されずに使えるパンなんです。それなのに、この上なにをしなけりゃならんというんでしょう? 私だって、筆耕《ひっこう》なんかしたところで、大したことにはなっていないことぐらい承知していますよ。それでも、私はそれを誇りに思っているのです。私は働いているわけですからね、汗を流しているわけですからね。してみれば、私が筆耕をしているからって、実際それがなんだというんです? 筆耕をするということは罪悪だとでもいうんでしょうか?「あいつは筆耕をやっている男ですよ」とか「あの小役人の鼠《ねずみ》は筆耕係なんですよ!」なんていう者がいますけど、この筆耕のどこが不名誉なんでしょう? 私の書いたものはとてもはっきりしていて、きれいで、見ても気持ちがいいものだから、閣下《かっか》もご満足なんですよ。私は閣下に最重要書類を書き写してさしあげているんですがね。そりゃ文章ということになれば、成っていませんよ、癪《しゃく》にはさわるが、自分の文章が成っていないことぐらいは承知していますよ。だからこそ勤めのほうも成功しなかったのだし、いまこうしてあなたに差しあげている手紙だって、うかうかと、なんの意味もなく、工夫もなく、ただ胸にあるままを書きなぐっているんですから……私はそういうことは承知していますよ。が、しかしですよ、これがもし、猫も杓子《しゃくし》も文章を書くほうにまわるとしたら、いったいだれが筆耕をやるんです? 私はこういう質問をしておきますから、ワーリニカさん、ひとつ答えていただきましょう。
とにかく、そんなわけで、私は現在、自分は必要な人間なのだ、なくてはならぬ人間なのだ、人を困らすようなくだらんことはなにひとつしていないのだと自覚しているんです。なあに、たとえ鼠《ねずみ》だっていいじゃありませんか、似ているというんなら、それだってかまいやしませんよ! これでもこの鼠は必要な鼠なんですからね、この鼠は人に利益をもたらしているんですからね、この鼠は人をおんぶしているんですからね、そしてこの鼠にはボーナスが出るんですよ、……鼠といったってこういう鼠なんですから!……それにしても、こんな話はもうたくさんですね、ワーリニカさん。私はほんとうはこんな話をする気じゃなかったんですが、少々のぼせてしまったものですから。やっぱりときには、自分の正しさを確認するということは気持ちのいいことですからね。
ではさようなら、ワーリニカさん、愛《いと》しいワーリニカさん、私の慰めになってくださっている親切なワーリニカさん! 行きますよ、かならず寄らしていただきます、お邪魔させてもらいますよ、ワーリニカさん。それまで退屈しないでいてください。本を持っていってあげますから。では、さようなら、ワーリニカさん。
心からあなたの多幸を祈る
マカール・ジェーヴシキン
六月二十日
マカール・アレクセーエヴィチさま!
期日までに仕事をしあげなければなりませんので、取り急ぎ一筆さしあげます。こういうことなんですの。なかなかいい掘り出しものがあるんですの。フェドーラの話によると、だれかあの人の知りあいのところで、全然手を通してない略式制服と、下着と、チョッキと、帽子が売りに出ていて、それがまたみんなとても格安なんですって。そんなわけで、あなたがお買いになったらと思いましたの。いまではあなたもお困りではないし、お金もお持ちのようですから。ご自分でも持っているっておっしゃっていましたもの。もうこれくらいにして、どうぞ、あまり倹約などなさらないでください。こういうものは必要なものばかりですもの。
ご自分の姿をごらんなさい、どんな古びた服を着ていらっしゃるか。ご体面にもかかわりますわ! なにもかもつぎだらけなんですもの。あたらしいものはお持ちじゃないんでしょう。あるって断言なさるけど、わたしにはちゃんとわかっているんですからね。どこへどうやっておしまいになったのかは、それはだれにもわかりませんけど。ですから、わたしの言うことをお聞きになって、どうぞお求めください。わたしのためと思ってそうしてください。わたしを愛してくださっているのでしたら、お求めになってください。わたしに下着類の贈物をおとどけくださいましたのね。ですけど、マカールさま、こんなことをなさっていたら、あなたは破産してしまいますわよ。冗談じゃありませんわ、わたしのためにいくらほどお金をお使いになったことか、……ほんとうに大変なお金ですわ!
まったくあなたは無駄使いがお好きなんですのね! わたしには必要ないんですよ、ああいうものは無駄だったんですのよ。あなたがわたしを愛してくださっていることは承知しています、信じてもいます。ですから、それをわたしにいろんな贈物で思い起こさせようなんて、全然無駄なことですわ。わたし、ああいうものをお受けするのが心苦しいんですもの。あなたにとってああいう贈物がどんなに高いものについているか、わたしは承知していますもの。もうこれっきりということにして……およしになってください! いいですか? お願いします、後生ですから。
マカールさま、わたしの手記のつづきを送ってくれるように、あれを完結してくれるようにとのご希望でしたわね。でもわたし、あれだけ書いたのだって、どうして書けたのかわからないくらいですのよ! しかも、わたしにはもういまとなっては、自分の過去を語るだけの気力もありませんわ。わたし、あの頃のことを考えることすらしたくないんですの。あれを思い出すだけでも、おそろしくなるんですもの。自分のあわれな子供をああいう人非人どもの手に残していったかわいそうなおかあさんの話をするのが、わたしはいちばん辛いんですの。わたし、思い出しただけでも心臓の血が煮えくりかえる思いですわ。すべてがあまりにもなまなましくて、もう一年余りにもなるのに、平静をとりもどす余裕どころか、思いなおす余裕もないくらいですもの。でも、こんなことはすっかりご存じでしたわね。
それからあなたに、アンナさんがこの頃どういう考えを持っているかということはお話しましたわね。あの人はわたしを恩知らずだと非難し、あの人がブイコーフさんと共謀《ぐる》だったという非難を、いっさい否定しているんですよ! あの女《ひと》はわたしを自分のところへ呼び寄せようとしているのです。そして、あの子は乞食みたいなまねをしているとか、あの子は悪い道に踏みこんでいるのだなどと言っているのです。そして、あの子がわたしのところへもどって来れば、わたしが万事ブイコーフさんとの問題の調整に乗り出して、ブイコーフさんにすっかりあの子にたいする罪のつぐないをさせるなんて言っているんですって。
あの女の話では、ブイコーフさんはわたしに嫁入りの持参金を出してやるつもりでいるんだそうです。好きなようにさせておくがいいわ! わたしはここにあなたたちとご一緒にいられ、わたしにたいする情愛の点で亡《な》くなったばあやそっくりの、人のいいフェドーラのそばにいられれば、それだけでもう結構なんですから。あなたはわたしには遠い親戚にすぎませんけど、自分の名前にかけてわたしを護《まも》ってくださっているんですものね。あの人たちのことなんか、わたし知らないわ。できれば、あの人たちのことは忘れてしまいたいんですの。あの人たちはこの上わたしをどうしようっていうのかしら? フェドーラは、あんなことはみんな出たらめで、あの連中はしまいにはあんたを諦《あきら》めてしまいますよって言いますけどね。そうあってくれればいいと思っています!
V・D・
六月二十一日
愛《いと》しいワーリニカ様!
書きたいんですが、なにからはじめたらいいでしょうかね。ワーリニカさん、私たちがいまこうしていっしょに暮らしているなんて、まったく不思議なことじゃありませんか。ついでに言っておきますが、私はこれまでに一度だってこんな喜びにみちた月日を送ったことはないんですよ。これじゃまるで神さまが私に家と家族をお恵みくださったようなものじゃありませんか! あなたは私の子供、この上なく立派な子供というわけです! それにしても、いったいなんだってあなたは私がおとどけした四着の下着のことをとやかく言って来られたんです? あなたはあれが入り用だったんでしょう、私はフェドーラから聞いて知っているんですよ。ワーリニカさん、私にはあなたを喜ばすことが、ことのほか楽しみなんですよ。ほんとうにそれが私の楽しみなんですから、私をほっといてください、ワーリニカさん。かまわないでください、私に逆《さか》らわないでください。私にはこんなことはいままでになかったんですからね、ワーリニカさん。私はこの頃やっとこうして明るい所へ出たわけなんですよ。
第一、私はふたりで暮らしている、というのはあなたが私のところからごく近い所に住んでいて、私に慰めになってくれているということです。第二に、私はきょう隣の下宿人から、ラタズャーエフという、作家たちの夜会を開いている例の公務員からお茶の招待を受けたのです。きょうその会があって、われわれは文学作品を朗読することになっているのです。われわれはこの頃こういう暮らしをしているんですよ、ワーリニカさん、……ま、そういったわけです!
ではさようなら。私はただなんとなくこんなことを書いたのであって、全然はっきりした目的があったわけではありません。ただ私が無事だということをお知らせしたかったまでです。あなたは、刺繍《ししゅう》用の色物の絹糸がほしいと、テレーザの口を借りて言っておよこしになりましたね。買いますよ、ワーリニカさん、買います、絹糸を買います。明日になれば、あなたを大喜びさせる楽しみが味わえるわけですね。私はどこで買ったらいいかも知っています。では。
あなたの真心の友
マカール・ジェーヴシキン
六月二十二日
ワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
ワーリニカさん、私どもの住居に、まことにあわれな、真に憐憫《れんびん》に値する事件が起きたことをお知らせします!
けさ四時過ぎに、ゴルシコーフ家の子供が亡くなったのです。死因だけは、わたしにもわかりませんが、猩紅熱《しょうこうねつ》かなにかではないでしょうか! このゴルシコーフ家へ見舞いに行ってきました。ワーリニカさん、あの一家の惨めなことといったら! それに乱脈ぶりもひどいものです。しかしそれも無理はありません。全家族が、お体裁に衝立《ついたて》を立てただけの、ひとつ部屋に住んでいるわけですからね。あそこにはすでに棺も……ごくありふれたものですが、かなり立派な棺もおいてありました。出来あいを買ってきたのです。
死んだ子は九つくらいで、先行き見こみのある子だったそうです。家族の連中は、見るも気の毒なくらいでしたよ、ワーリニカさん! 母親は泣いてはいませんでしたが、それこそ悲しそうな、あわれな様子をしていました。あの夫婦は、これでひとり肩の荷がおりたんで、前より楽になったのかもしれませんが、……まだ乳飲み子と、六つをちょっと出たくらいの幼女と、二人の子供が残っているわけです。実際の話、こうして子供が、それも血を分けた自分の子供が苦しんでいるのを見ていて、それを助けてやる術《すべ》さえもないのですから、愉快なはずはないでしょう!
父親は古ぼけた、脂《あぶら》じみた燕尾服《えんびふく》を着て、壊れた椅子に腰をかけている。そして涙を流しているのですが、それも悲嘆のためではなくて、例によって、ただ目がただれているせいかもしれません。あの人はまったく変わった人ですよ! 話しかけられると、かならず顔を真っ赤にしてどぎまぎしてしまって、答えようも知らないんです。娘の、小さな女の子が棺に寄りかかって立っているんですが、それがまた物悲しそうな、物思い勝ちな、あわれな様子なんですよ! ワーリニカさん、私は、子供が考えこんでいるのは嫌いですねえ。見るのもいやですよ! そのそばの床《ゆか》には、端切《はぎ》れで作った、なんの人形か、人形がひとつ転がっていましたが、……それを弄《もてあそ》ぼうともせず、指をくわえたまま、じっと立って、身動きひとつしないのです。下宿のおかみがお菓子をやりましたが、それを取りはしたものの、食べようともしませんでした。憂鬱ですねえ、ワーリニカさん……え?
マカール・ジェーヴシキン
六月二十五日
ご親切なマカールさま! ご本をお返しいたします。これはほんとうに下らない本ですわね!……手にとる気にもなれませんわ。あなたはこんな宝物をどこから掘り出していらっしゃったんですの? 冗談はぬきにして、ほんとうにあなたはこんな本がお好きなんですか、マカール・ジェーヴシキンさま? ちょうどわたしに、二、三日じゅうになにか読むものを貸してやると約束してくれた方がいるんですの。よかったらいっしょに読みましょう。では、きょうはこれで失礼します。ほんとうにこれ以上書いている暇がありませんの。
V・D・
六月二十六日
かわいいワーリニカさん! 問題は、私がまったくあの本を読んでいなかったということにあるのです。たしかに、何ページか目をとおして、愚劣なものだ、ただひとを笑わせるために、おかしみだけを狙《ねら》って書かれたものだということはわかったのですが、まあ、これだって実際にはおもしろいのかもしれない、きっとワーリニカさんにも気に入るだろう、とこう思ったものですから、さっそくお送りしたような次第です。
今度ラタズャーエフさんが、なにか本格的な文学書を読ましてあげると約束してくれましたから、まあ、そのうちあなたのところにも何冊か本が届くものと思います。ラタズャーエフという人は物のわかっている人です……鑑識眼のある人なんです。それに自分も物を書くんです、いやその達者なことといったら! じつに筆が立って、言いまわしがじつに豊富なんです。つまり一語一語に、もうそれこそごくありふれた卑俗な言葉にも、あの人のはおのずから格調が出ているんですよ。私はあの人のところの夜会にもよく出席していますがね。私たちがタバコをふかしているそばで、あの人が私たちに朗読してくれるんですが、約五時間もたてつづけに朗読して、その間私たちはじっと聞いているわけなんです。こうなるともう文学じゃなくて、ご馳走《ちそう》ですね! じつに美しいですよ、ま、花ですね、まったく花ですよ。どのページからでも花束が作れますよ! あの人はとても人好きのする、人もいいし愛想もいい男なんです。ま、私などがあの人の前へ出たら、さしずめなんでしょうね、なんといったところでしょう?……無きに等しいですよ。あちらは名声の高い人間だというのに、こちらはどうかといえば、……まったくの話……存在していないもおなじなんですからね。それなのに、こんな私にまで好意を見せてくれているんですよ。私はあの人になんかかんか清書をしてあげていますがね。どうか、ワーリニカさん、それにはなにか思惑があるんだろうとか、私が清書をしてあげているからこそ、あの人も私に好意を見せているのだろうなどと考えることだけはよしてください。人の噂話なんか真《ま》に受けないでくださいね、ワーリニカさん、下劣な噂なんかほんとうにしないでください! なあに、あれだって自分なりに、自分の意志で、あの人を喜ばせるためにやっていることだし、あの人が私に好意を見せてくれるのも、私を喜ばせるためなんですからね。私は人間の行ないの微妙な動機がわかるんですよ、ワーリニカさん。あの人は人のいい、非常に人のいい男で、しかもたぐい稀《まれ》な作家なんです。
ところで、文学っていいものですね、ワーリニカさん、じつにいいものですよ。私はこれを一昨日の会のときから知ったんですがね。深みのあるものですね! 人間の心を強固にし、教訓を与えるものです、……それにあの人たちの本にはそういったことについてまだまだいろんなことが書いてあるんです。じつに見事に書いてありますよ! 文学ってやつは、これは絵ですね、つまりある種の絵であり、鏡であるわけです。情熱あり、表現あり、微《び》に入り細をうがった批評あり、道義心を起こさせる教訓あり、ドキュメントありですからね。こういったことはみんなあの人たちから学んだんですよ。有体《ありてい》に申しあげますが、ワーリニカさん、あの連中の間に座って聞いているうちはいいですがね(まあ、あの連中同様、タバコなどをくゆらしてね)……ところがいったんあの連中が議論を戦わしたり、いろんな問題で論争をはじめたりしたが最後、もうこっちはそんなときは、そのままそれをやり過ごしているほかありませんよ、そんなときは、ワーリニカさん、私やあなたはただあっさりとやり過ごすだけですよ。そんなときには私はまったくのでくの坊になってしまって、自分で自分が恥ずかしいくらいですよ、で、なんとかしてその共通の論題に一言半句でもくちばしを入れてやろうと思って、夜会の間じゅう文句をさがしているわけですが、その一言半句だって、まるでわざとみたいに、見つからないんですからね! そしてワーリニカさん、自分のぼんやりさ加減が、諺《ことわざ》に言う、『育ちはしたが知恵は育たず』なのが、自分でもあわれになってくるんです。それなら、いま暇なときに私はなにをしているかと言えば、……ただ馬鹿みたいに眠っているだけなんですからね。そんな役に立たない駄眠《だみん》などむさぼらずに、もっと愉快な仕事にでもかかればいいものを。まあ、机にむかって書きものをするとかしてね。そうすれば自分にも有益だし、他人も楽しいということになりますものね。
ところで、どうです、ワーリニカさん、あの連中がどれくらい金をとっているか、ちょっと考えてみてください、それこそ大変な金なんですよ! あのラタズャーエフさんにしたって、どんなにとっているかねえ。あの人にとって、一折分(十六ページ)くらい書くのはなんでもないでしょう。日によっては五折分も書くことがあるというのに、一折分につき三百ルーブリも取っているんだそうです。ちょっとした|逸 話《アネクドート》とか、なにかおもしろいものでも書くと……五百だ、どうでもこれだけよこせ! でなかったらいやだ、といった調子で、ときには何千という金を懐《ふところ》にねじこむんですからね。どうです、ワルワーラさん? そんなことはまだたいしたことじゃない!……あの人のところには詩集のノートがあるんですがね、たいして大きくもない詩集なんですが、……そんなものに七千ルーブリよこせって言っているんですよ、ワーリニカさん、七千ルーブリですよ、考えてみてください! これじゃまるで不動産じゃありませんか、大邸宅じゃありませんか! 五千ルーブリ出そうと言う者がいるんですが、あの人はいやだと言っているんです。私はあの人を説得して、……その五千ルーブリをもらいなさい、そして連中に唾《つば》をひっかけてやるがいい、……五千ルーブリじゃありませんか! と言ったんですが、……いや、結局七千くれることになるんですよ、ペテン師どもめ、とこう言うんですからね。まったく、抜け目のない男ですよ!
ところで、どうでしょう、ワーリニカさん、もう話がこうなったからにはしかたがない、ひとつあなたに『イタリア的情欲』から一節抜き書きしてお目にかけましょう。あの人の作品がそういう題名になっているのです。ワーリニカさん、ひとつお読みになって、ご自分で判断してみてください。
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「ヴラジーミルはぶるっと身ぶるいをした。情欲が狂暴に身内に沸《わ》き立ち、血がたぎり立った……『……伯爵夫人!』と彼は叫んだ。『奥さん! あなたは、この情熱がどんなにすさまじいものか、この狂おしい気持ちがどんなに涯《はて》しないものか、ご存じですか? これでとうとう私の空想《ゆめ》が実現したわけです! 私はあなたを愛しています、夢中で、熱烈に、狂ったように愛しています! ご主人がご自分の血潮を残らずかけたところで、私の胸の狂い立ち、たぎり立つ歓喜を消すことはできませんよ! この私の悩み疲れた胸に傷跡を残している、なにものをも破壊せずにはおかぬ地獄の業火は、ちょっとやそっとの障害などでとめられるものではありません。ああ、ズィナイーダさん、ズィナイーダさん!……』
『ヴラジーミルさん……』……と伯爵夫人は相手の肩に身をもたせかけながら、われを忘れて、ささやいた……
『……ズィナイーダさん!……』と、有頂天になったスメーリスキイが叫んだ。
彼の胸から熱い吐息がもれた。情熱の火は鮮かな炎となって愛の祭壇に燃えあがり、不幸な恋の受難者の胸をえぐった。
『……ヴラジーミルさん……』伯爵夫人は酔い心地でこうささやいた。彼女の胸は高く波打ち、頬は赤紫色を呈し、目は燃えていた……
新らしい、おそろしい契りが結ばれたのである!…………
それから三十分後に、老伯爵が妻の私室にはいってきた。
『……どうだね、お前、大事なお客さんのためにサモワールの用意を言いつけたら?……』彼は、妻の頬を軽くたたいて、そう言った」
[#ここで字下げ終わり]
まあ、こんなところです。ここでひとつうかがいたいんですが……あなたの読後感はいかがですか? たしかに、少々|奔放《ほんぽう》なようですね、その点異論はありませんが、そのかわりうまいでしょう。たしかにうまいことはうまいですよ! それから、もうひとつ、『エルマークとズュレイカ』という中編物からの抜き書きをさせてもらいましょう。
ワーリニカさん、ここでひとつ、狂暴な恐ろしいシベリヤ征服者のエルマークが、捕虜にしたシベリヤの汗クチュームの娘のズュレイカを恋したところを想像してみてください。この事件は、ご承知のとおり、イワン雷帝の時代からそのまま材を取ったものです。これはエルマークとズュレイカとの対話です。
[#ここから1字下げ]
「『……お前はわしが好きだと言うのか、ズュレイカ! おお、もう一度言ってくれい、もう一度……』
『わたしはお慕い申しております、エルマークさま……』とズュレイカはささやいた。
『……天よ、地よ、わしは感謝をささげるぞ! わしは仕合わせだ!……御身たちはわしにすべてを授けてくれた、幼少の頃よりわしのたぎり立つ心があこがれ求めていたものをすべて授けてくれた。わしの導きの星よ、御身はよくぞここまで導いてきてくれた、御身がここ、ウラルの彼方まで導いてきてくれたのはこのためだったのか! わしは世間のやつらにわしのズュレイカを見せつけてやろう、そうすれば、やつらも、あの狂った人非人どもも、わしをそしるようなことはしないだろう! ああ、あいつらがこのやさしい娘の人知れぬ悩みを知ってくれたら、わしのズュレイカのひとしずくの涙に立派な詩があることを見てとってくれたらなあ! おお、わしにその涙を接吻で拭《ぬぐ》いとらせてくれ、わしにその涙を、その聖《きよ》らかな涙を……汚れのない涙を飲みほさせてくれ!』
『エルマークさま』……とズュレイカは言った。『……世間はつれなく、世間の人は邪悪でございます! わたしたちは迫害と非難を受けるでしょう、愛《いと》しいエルマークさま! ふるさとのシベリヤの雪国で、父の天幕で生い育った娘は、冷たい、冷酷無情で強い人たちのいるお国へ行ったら、どうすればいいのでしょう? 世間の人たちはわたしを理解してはくれないでしょう、わたしの望みの綱である、わたしの愛しいエルマークさま!』
『そのときはコサックのサーベルがやつらの頭上に振りあげられ、唸《うな》りもろとも振りおろされるだけのことだ!』……こうエルマークは殺気立って目を輝かしながら絶叫した」
[#ここで字下げ終わり]
ワーリニカさん、自分のズュレイカが斬《き》り殺されたのを知ったときのエルマークの気持ちはどんなだったでしょう。盲目の汗クチュームが、エルマークの留守中、夜陰に乗じてエルマークの天幕に忍びこみ、自分の王笏《おうしゃく》と王冠を奪ったエルマークを一撃のもとに打ち殺すつもりで、自分の娘を斬り殺してしまったのです。
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「『……わしは砥石《といし》で刃物をごしごし砥ぐのが好きだ!』……とエルマークは、自分のダマスコ鋼の剣をシャーマンの砥石で砥ぎながら、狂暴な憤怒《ふんぬ》にかられて叫んだ。……『わしはやつらの血がほしい、血が! やつらを斬って斬って斬りきざんでやらねばならん!!』」
[#ここで字下げ終わり]
そして、あげくの果てにエルマークは、自分のズュレイカにとり残されて生きる気力を失い、イルトゥイシ河に身を投げて死ぬという結末になっているのです。
それから、例えばこんなのもあります。小さな断片で、笑わせることだけを旨として書かれた、滑稽物《こっけいもの》からとったものです。
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「『イワン・プロコーフィエヴィチ・ジェルトプースをご存じですか? ほら、プロコーフィイ・イワーノヴィチの足に噛みついたあの男ですよ。イワン・プロコーフィエヴィチは気の短かい男ですが、そのかわり稀に見る美徳をそなえた男です。それに引きかえ、相手のプロコーフィイ・イワーノヴィチときたら、これは蕪《かぶ》に蜂蜜をつけて食べるのが大好きでしてな。これは、まだペラゲーヤ・アントーノヴナがこの人と親しくしていた頃のことなんですが……ところでこのペラゲーヤ・アントーノヴナのことはご存じでしたかな? ほら、スカートをいつでも裏返しにはいている例の女ですよ』」
[#ここで字下げ終わり]
ワーリニカさん、これはまさにユーモアですよ、まったくのユーモアですよ! あの人がわれわれにこれを読んでくれたときは、われわれ、腹をかかえて笑いこけましたよ! いやまったく、たいした人ですよ! それにしても、ワーリニカさん、これはやや手を加えすぎているし、ふざけすぎているようですね、そのかわり無神論的なところや自由主義的な思想は薬にしたくもありません。ちょっとひと言《こと》いっておきますがね、ワーリニカさん、ラタズャーエフという人は品行方正な男で、したがって、その辺の作家とはちがって、立派な作家なんですよ。
ところで、実際にどんなもんでしょうね、ときどきこういう考えが頭にうかぶことがあるんですよ……私がなにか書いたとしたら、まあ、どうだろう、まあ、そのときはどういうことになるだろう? といったような考えがね。まあ、たとえば、かりに『マカール・ジェーヴシキン詩集』といった書名の本が、どういうわけか、ひょっこりと世に出たとしますよ! ねえ、そうしたらあなたはどう言うでしょう? あなたにはそれがどういう感じがし、それをどう思うでしょう? 自分のことを言えばね、ワーリニカさん、自分の本が世に出たとしたら、そのときは私はもう断然ネーフスキイ通りなどへ姿をあらわすようなことはしませんよ。みんなから、ほら、作家で詩人のジェーヴシキンがやって来るよとか、あれはまちがいなく本人のジェーヴシキンだよなどと言われたとしたら、実際たまったもんじゃありませんからね! そうしたら私は、たとえば、この自分の長靴をどうしたらいいでしょう? ついでに言っておきますが、ワーリニカさん、私の長靴ときたら、たいていつぎがしてあるし、それに、実を言えば、ときには底革まで抜けてまったく醜態をさらしていることもあるんですからね。
ね、作家のジェーヴシキンの長靴につぎがしてあることが知れでもしたら、そのときはどうなります? だれか伯爵夫人か公爵夫人にでも見つかったら、ま、その人はなんと言うでしょう、ワーリニカさん? その人は、ひょっとしたら、気づかないかもしれません。なぜって、思うに、伯爵夫人などは長靴などに、おまけに公務員の長靴などに関心はないでしょうからね(だって、長靴と言ったっていろいろあるわけですから)、それにしてもみんながその伯爵夫人にすっかりしゃべってしまうかもしれませんね、友だちなどにすっぱ抜かれそうですね。例のラタズャーエフさんなんか真っ先にすっぱ抜きますよ! あの人はV伯爵夫人のお宅に出入りしていましてね、なにかあるごとにかならず夫人のお宅へうかがうんだそうです、それも平服でね。夫人は大変かわいらしい方で、とても文学好きな婦人なんだそうですがね。あのラタズャーエフさんて人はまったく抜け目のない人ですよ!
が、しかしこんな話はもうたくさんですね。これもね、ワーリニカさん、あなたを慰めてあげようと思って、いたずら気分で書いているんですよ。ワーリニカさん、ではさようなら。ずいぶんだらだらと書きつらねてしまいましたが、これは、きょうは気分がすこぶるもって愉快だからにすぎないのです。きょうはみんなしてラタズャーエフさんのところで食事をしましてね、大いに高級輸入ぶどう酒をやらかしましたよ(みんな茶目気たっぷりの連中ばかりでしてね、ワーリニカさん!)……それにしても、ほんとうにこんなことを書いてもはじまりませんね! ただね、ワーリニカさん、注意してくださいよ、私のことでまたなにかつまらないことを考え出さないでくださいよ。ほんとうにこんなことはただなんの気なしに書いたんですからね。本はお送りしますよ、かならずお送りします……いまここではポール・ド・コックのある作品が大はやりなんですが、ポール・ド・コックだけはあなたには読ませられませんね………絶対に! あなたにはポール・ド・コックは向きません。この作家はペテルブルクの批評家全部から公憤を買っているんだそうです。
キャンデーを一フントお送りします、……あなたのためにわざわざ買って来たんですよ。ワーリニカさん、召しあがってください、そして、ひと粒ごとに私のことを思い出してください。ただ氷砂糖だけはがりがり噛まずに、しゃぶるだけにしてください、そうしないと歯が痛みますからね。あなたはきっと、果物の砂糖漬けもお好きなんでしょう?……書いてよこしてください。では、さようなら。お大切に、ワーリニカさん。
この上なく忠実な友
マカール・ジェーヴシキン
六月二十七日
マカール・アレクセーエヴィチさま!
フェドーラの話ですけど、私の境遇に同情してわたしさえその気になれば、喜んであるお屋敷へ家庭教師のとてもいい口を心配してくださるという方がいるんだそうですの。あなたはどうお考えになりますか……行ったほうがいいでしょうか、行かないほうがいいでしょうか? もちろん、そうなればわたしはあなたのご厄介にはならずにすみますし、それにその口はなかなか割りがいいらしいんですの。が、一方では、知らない家へ行くのが気味悪いような気持ちもするんですよ。その一家はどこかの地主なんですけどね。わたしの身の上を知りたがって、根掘り葉掘り聞かれたり、好奇心を持たれたりしたら、……ね、そのときはわたしどう言ったらいいかしら? おまけに、わたしはこんなに人間嫌いの野育ちで、住み馴れた所でいつまでも暮らしていたいほうでしょう。住み馴れた所のほうがどこかいいものですものね。たとえ半分泣きながら暮らしていても、やっぱりそのほうがいいですものね。その上|都落《みやこお》ちでしょう。それに、どんな仕事を当てがわれるかもしれませんしね。ただ子供のおもりばかりさせられるかもしれないし。それに先方は、もう二年間に家庭教師を変えるのがこれで三度めなんですって。
お願いですから、マカールさま、行ったほうがいいか、行かないほうがいいか、相談にのってくださいな。たまにはお顔だけでも見せてください。ほとんど日曜の朝の礼拝式にしかお目にかかっていないんですもの。あなたって、なんて交際嫌いな方でしょう! わたしとまったくおんなじですわ! わたしはあなたにはほとんど身内も同然じゃありませんか。わたしを愛していてくださらないのね、マカールさま、わたし、ひとりっきりでいると、ときどき悲しくてたまらないことがありますの。ときどき、ことに日暮れ方など、たったひとりぽつねんと坐っていることがありますが……フェドーラはどこかへ出かけていって、わたしは坐って物思いにふけっていると、……いろんな昔のこと、嬉しかったこと悲しかったことが思い出されてきて、……いろんなものが目の前を通りすぎ、霧のなかにでもきらめくように、ひらめき過ぎるんですの。なつかしい人たちの顔がうかんできます(目《ま》のあたりに見えてきますの)、……いちばん多く見るのはおかあさんのお顔ですわ……それに、わたしとてもいやな夢ばかり見るんですの! 体《からだ》のぐあいがめちゃめちゃになっている感じですわ。とても衰弱していましてね、現にけさだって、床を離れた拍子に気分が悪くなったくらいですの。おまけに、いやな咳《せき》が出るんですの! もうじき死ぬような気がしますわ、わたしにはちゃんとわかっているんですの。そうなったら、いったいだれがわたしを葬ってくれるんでしょう? だれがわたしの柩《ひつぎ》についてきてくれるのかしら? だれがわたしの死を歎き悲しんでくれるかしら?……それにひょっとすると、よその土地で、他人の家の片隅で死ぬことになるかもしれませんわ! ああ、生きていくってことは、なんて憂欝なんでしょうね、マカールさま!……マカールさま、あなたはどうしてこうしょっちゅうキャンデーをご馳走してくださるんですの? どこからこんなにお金を取っていらっしゃるのか、わたしにはとんとわかりませんわ。ああ、マカールさま、どうかお金を大事にしてください、大切にしてくださいな。……フェドーラがいま、わたしが織った絨毯《じゅうたん》を売りに行ってくれているんですの。紙幣で五十ルーブリはくれるだろうって言ってましたわ。そうだとほんとうにいいんですけどね。わたしは、もっと安いだろうと思っていましたからね。わたし、フェドーラに銀貨で三ルーブリあげて、自分もごくありふれた、そのかわりなるべく温かい服を縫おうと思っておりますの。あなたにもチョッキを仕立ててあげましょう、自分で仕立てますわ、上等な生地を選んでね。
フェドーラが本を……『ベールキン物語』〔プーシキンの小説〕を借りてきてくれましたから、もしお読みになりたかったら、とどけさせます。ただ、どうかよごさないようにしてください。それに長くはお貸しできませんのよ。よその方の本ですから。……これはプーシキンの作ですの。二年前におかあさんといっしょにこの小説を読んだことがありますの、今度読みかえしてみたら、とても悲しくなりましたわ。お手もとになにかご本がありましたら、お貸しください……ラタズャーエフさんからお借りしたのでなかったらね。あの人は、なにか自分で出した本があったら、きっとそれを貸してくれるんでしょうからね。
マカールさま、あなたはいったいどうしてあの人の作品なんかお好きなんですの? あんなつまらないものが……では、さようなら! ずいぶんおしゃべりをしてしまいましたわ! わたし、憂鬱なときには、なんでもいいからおしゃべりをするのが嬉しいんですの。なによりの薬ですわ。じきに気分が楽になるんですもの、胸にたまっているものを残らず口に出してしまったような場合はなおのことね。では、さようなら、さようなら、マカールさま!
あなたの
V・D・
六月二十八日
愛するワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
くよくよするのはもういい加減になさい! そんなことをしてよくも恥ずかしくないものですね! ね、もうおやめなさい、ワーリニカさん。いったいどうしてあんな考えが頭にうかぶんです? あなたは病気じゃありませんよ、ワーリニカさん、全然病気じゃありません。あなたはいまが花盛りなんですよ、まったく、咲き誇っているところです。いくぶん色目は悪いようですが、それでもやっぱり花盛りですよ。
それに、夢だの幻だのとおっしゃるが、あれはなんですか? 恥ずかしいことですよ、ワーリニカさん、もういい加減になさい。そんな夢なんかには唾《つば》を吐きかけてしまうんですね、あっさりと唾を吐きかけてしまいなさい。じゃ、どうして私はこうよく眠れるんでしょう? どうして私はどうもしないんでしょう? ワーリニカさん、私をよくごらんなさい。私はこのとおりのびのびと暮らしているじゃありませんか、安眠していますよ、元気|溌刺《はつらつ》としていますよ、威勢のいい若者みたいに。見ても好ましいでしょう。いい加減におよしなさい、ワーリニカさん、恥ずかしいことですよ。思いなおしなさい。私にはあなたのおつむのぐあいがわかっているんですよ、ワーリニカさん、ちょっとでもなにか変なことか起きると、もうあなたは取り越し苦労をして、ああだ、こうだとくよくよしはじめるんですからね。私のためと思ってやめてください、ワーリニカさん。あなたはよその家へ行くんですって?……絶対にいけませんよ! だめ、だめ、いけませんよ、いったいどうしてそんなことが考えられるんですかね、どうしてあなたにはそんな考えが浮かぶんですかね? しかも都落ちをなさるなんて! だめだめ、ワーリニカさん、許しませんよ、そんな企てには私は全力をあげて反対しますよ。自分の古びた燕尾服を売っぱらって、シャツ一枚で街なかを歩くことになろうと、ここであなたに不自由な思いはさせませんよ。
いけませんよ、ワーリニカさん、いけません。私にはあなたという人が、ちゃんとわかっているんですから! それはわがままというものです、完全にわがままですよ! これはまちがいなく、フェドーラが悪いんです。てっきりこれはみんなあの女の、あの馬鹿な女の差し金にちがいありません。ワーリニカさん、あなたはあの女の言うことを真《ま》に受けちゃいけませんよ。それにあなたはまだ、なにもかも確実に知っているわけじゃないでしょう、ワーリニカさん? あの女は馬鹿で、難癖《なんくせ》をつけたがる、下らん女なんですよ。自分の亭主さえこの世からいびり出してしまったような女なんすからね。もしかしたら、あいつめ、きっとあなたの気にさわるようなことでもしたんですね?
いえ、いけません、ワーリニカさん、断じていけません! そうなったら、私はいったいどうなんです? 私はどうしたらいいんです? いけません、ワーリニカさん、あなたはそんな考えは頭から放り出してしまいなさい。ここにいてあなたは、なにが不足なんです? 私たちはあなたから尽きせぬ喜びを与えられているんだし、あなたは私たちを愛してくれているんですから、このままご自分の部屋でのんびりとつつましく暮らしていらっしゃい。縫い物をしたり読書をしたりしてね、いや縫い物などはなさらなくてもいい、……とにかく私たちといっしょに暮らしていらっしゃい。ひとつあなたもご自分で考えてごらんなさい、そうなったらどういうことになるか……本も借りてきてあげますよ、それからまたどこかへ散歩にも行きましょう。ただあなたはいい加減にして、よすんですね、ワーリンカさん、お利口さんになって、下らないことで強情を張らないことです! お宅へあがりますよ、それもすぐに、しかしそのかわり私の卒直な腹臓《ふくぞう》のない気持ちだけは汲《く》んでください。よくないですよ、ワーリニカさん、じつによくないです!
私は、もちろん、無学な男で、自分自身、自分が無学で、安直な教育しか受けていないということは承知しています。が、私の言いたいことはそんなことじゃない、ここで問題なのも私じゃありません。が、しかしあなたはどうお考えになろうと勝手ですが、私はラタズャーエフの肩を持ちますよ! あの人は私の親友です、だから私はあの人の肩を持つわけなんです。あの人は文章がうまいですよ、とてもうまいもんです、もう一度言いますが、とてもうまいですよ。私はご意見には賛成しかねます、どうしても同意できませんね。あの人のは華やかに、切れ目よく、立派な修辞で書いてあるし、いろんな思想が盛られています。そりゃすばらしいものですよ! あなたはきっと、気持ちが乗らずに読まれたんでしょう、ワーリニカさん、さもなければ、お読みになったとき、虫の居所でも悪かったんでしょう、なにかでフェドーラに腹を立てていたか、そのときあなたになにかいやなことでもあったかして。いけません、身を入れて、もうすこしよく読んでごらんなさい、心が満ち足りて愉快で、快適な気分のとき、たとえばキャンデーを頬張っているようなときに……そんなときに読んでごらんなさい。
私は、ラタズャーエフよりすぐれた作家もいる、ずっとすぐれた作家だっているということに異議をさしはさむ者ではありません(だれもそんなことに反対はしませんよ)、しかしそういう連中もうまいが、ラタズャーエフもうまい。そういう連中も上手に書きますが、ラタズャーエフも上手に書いていますよ。あの人はあの人で独特な味があります、ちゃんと書きこなしているのです。
では、さようなら、ワーリニカさん。もうこれ以上書いてはいられません。急がなければならないのです、仕事があるのです。いいですか、ワーリニカさん、気を落ちつけるんですよ、ではご無事で。
あなたの忠実な友
マカール・ジェーヴシキン
二伸 ご本をありがとう、ワーリニカさん、プーシキンも読んでみます。それからきょうは、晩方ぜひともお宅へ寄らしていただきます。
マカール・アレクセーエヴィチさま!
いえ、マカールさま、だめですわ、わたしはあなたたちの間で暮らしていると、生きた空もありません。わたし、さんざん考えた末、こんな割りのいい口をことわるなんて、ほんとうにまちがったことだと悟りましたの。あそこへ行けば、少なくとも、たとえひときれのパンにでもまちがいなくありつけるんですもの。わたし懸命にやってみようと思います。よそさまに愛されるよう努めてみます、必要とあれば自分の性格を改造することにだって努力してみるつもりです。それは、もちろん、よそさまの間で暮らし、他人の恵みにすがって、自分を殺し、自分を強制していくということは辛いし苦しいにちがいありません、でも神さまが救ってくださると思いますの。一生人間嫌いで通せるものでもありませんもの。
わたしには前にこういうことがありましたの。わたしおぼえていますけど、わたしがまだ小さくて、寄宿学校へかよっていた頃のことですわ。よく、日曜になると、一日じゅう家でふざけまわったり跳びまわったりして、ときにはおかあさんに叱られることもありました……でもそんなことは平気で、いつも心は楽しかったし、気分も晴れ晴れとしていましたが、やがて夕方が迫ってくると、ひどい憂鬱に襲われるんですの、九時までには寄宿学校へ行かなければならない、ところがあそこではなにもかもがよそよそしくて冷やかで厳格にできているし、舎監は月曜日にはいつもひどくぷりぷりしていると思うと、急に胸がしめつけられるようになり、泣きたくなってくるんですの。で、部屋の片隅にひっこんで、ひとりさびしく、涙を隠してしくしく泣きだしては、……怠け者なんて言われたものでした。でも、わたしはけっして、勉強しなければならないのが悲しくて泣いていたのではありません。……ところがどうでしょう? わたしは馴《な》れてしまって、その後学校を出るときには、お友だちと別れるのが辛くて、やはり泣いたくらいですのよ。
それに、あなた方のご厄介になって暮らしているということは、いいことじゃありません。このことを考えると、わたし苦しくてたまりませんの。わたし、なにもかも包まずに申しあげているんですよ、あなたとは包み隠さずに話しつけていますからね。フェドーラが毎朝大変早起きをして、洗濯仕事にかかり、夜も遅くまで仕事をしていますけど、それがわたしの目にはいらないはずはないでしょう? あんなに年老いた体《からだ》では、骨休みもしたいでしょうに。また、あなたがわたしのために貧乏になり、財布の底をはたいて、わたしのためにお金を使っていらっしゃることだって、わたしの目にはいらないはずはないでしょう? マカールさま、あなたの懐《ふところ》ぐあいでできることではありませんわ! 最後の持ち物を売りとばしても、わたしに不自由はさせないというお手紙でした。
わたし信じていますわよ、マカールさま、あなたのその善良なお心は信じていますわ。ですけど、それだっていまだからおっしゃれるんですわ。いま、あなたの懐には思いがけないお金があります、賞与をおもらいになりましたからね。ですけど、その先はどうなるんですの? ご存じのとおり……わたしはいつでも病気がちです。ですから、働けば気分はいいんですけど、あなた方とおなじようには働けません。それに仕事だっていつもあるというわけではなし。そうしたら、そのあと、することといってなにが残りますか? 真心こめてつくしてくださるあなた方ふたりを眺めながら、悲しみに胸を痛めていることだけでしょう。なにをしたらちょっとでもあなた方のお役に立てますかしら? それに、わたしがあなたにとって必要な女であるわけもないでしょう、マカールさま? わたしはあなたになにかいいことをしてあげたことがありまして? わたしはただ、心のたけをかたむけてあなたをお慕いし、あなたを強く、熱烈に、心底から愛しているだけですわ、それにしても……わたしは辛《つら》い運命を背負っているのです!……わたしは愛する術《すべ》も心得ているし、愛せもしますが、ただそれだけで、よいことをしてあげることも、あなた方のご恩に報いることもできないのです。もうこれ以上わたしを引きとめないでください、そしてよくお考えになってあなたの最後のご意見をお聞かせください。ご返事をお待ちしつつ。
あなたをお慕いする
V・D・
七月一日
わがままです、わがままですよ、ワーリニカさん、まったくわがままというものです! あなたをこのままほっておいたら、あなたはその頭でどんなことを考え出すか知れたものじゃありません。ああでもない、こうでもないと! 私にはいまこそわかりましたが、それはみんなわがままから来ているのですよ。あなたは私たちのそばにいて、いったいなにが不足なのです、ワーリニカさん、それだけ聞かしてもらいましょう! あなたは愛されている、あなたも私たちを愛しておられる、そしてみんな満足しているし、幸福です、……この上なにが要るんですか?
それはそうと、あなたは他人のなかでなにをしようというんですか? あなたはきっと、他人とはどんなものか、まだご存じないんでしょう……いや、あなたは私に根掘り葉掘り聞いてごらんなさい、そうすれば私は、他人とはどんなものか、あなたに教えてあげますから。私は他人というものを知っているんですよ、ワーリニカさん、よく知っていますよ。他人のパンを食べたこともあるんですからね。他人なんて、意地悪なもんですよ、ワーリニカさん、意地悪なもんです、その意地悪なことといったら、なにか気にくわないことでもあると、非難や詰責や角立てた目で責めさいなむんですからね。私たちのそばにいれば、あなたは温かで、居心地がよくて、……まるで巣にこもっているようなものじゃありませんか。それに、私たちだってあなたにおき去りをくったら、首をなくしたようなものですよ。ね、あなたがいなくなったら、私たちはどうしたらいいんです、そのときはこの年寄りの私はどうしたらいいんです? あなたは私たちには必要のない存在ですって? ためになっていないんですって? どうしてためになっていないんです? とんでもない、ワーリニカさん、あなたがためになっていないかどうか、自分でよく判断してみてください。あなたは大いに私のためになっているんですよ、ワーリニカさん。あなたはこんなに好影響を与えているじゃありませんか……私はこうしてあなたのことを考えているだけでも楽しいんですからね……私はあなたにときどき手紙を書いて、そのなかに自分の気持ちを残らず吐露《とろ》する、そしてそれにたいしてこまごまと書いたご返事をもらっているじゃありませんか。……私はあなたに洋服|箪笥《だんす》を買ってあげました、帽子もこしらえてあげました。ときどき、あなたからなにか無理難題を持ちこまれる、私のほうも難題を持っていくといった調子でしょう。……とんでもない、どうしてあなたがためにならないもんですか? それに、私はこの年になってひとりでなにをしていったらいいんですか、なんの役に立ちますか?
あなたは、多分、こんなことは考えてもみなかったんでしょう、ワーリニカさん。だめですよ、ぜひこのことを考えてくださらなくちゃ……わたしがいなくなったら、あの人はなんの役に立つのかしら? って。ワーリニカさん、私はあなたに馴染《なじ》んでしまったのです。……あなたがいなくなったら、その結果どうなると思いますか? ネヴァ河へ行く、それでおしまいですよ。そうです、ほんとうにそういうことになるんですよ、ワーリニカさん、あなたがいなくなったあと、私になにかすることが残っていますか!
ああ、ワーリニカさん! あなたはどうやら、私が荷馬車の御者《ぎょしゃ》にヴォルコヴォの共同墓地へ運ばれて、どこかの乞食の婆さんにしか野辺の送りをしてもらえず、そこで砂をかけられて、放りっぱなしで立ち去られて、そこにひとりで取り残されればいいと思っているんですね。罪ですよ、罪ですよ、ワーリニカさん!
ご本をお返しします、ワーリニカさん、あなたがこの本に関する私の意見をおたずねでしたら、お答えしますが、私は一生の間にこんなすばらしい本を読んだことがありません。私はいま、ああ、どうしておれはいままでこんな馬鹿みたいな暮らしをしてきたんだろうと、自分に問いかけているような有様です。おれはなにをしてきたのだろう? おれはどこの山のなかから出てきたのだろう? とね。私はまったくなんにも知ってはいないんですからね、ワーリニカさん、まるっきりなんにも知らないんですから! 全然なにひとつ知らないんですよ!
私は率直に申しあげますが、……私は無学な人間です。私はこれまでにわずかしか読んでいません、じつにすこししか読んでいません、ほとんどなんにも読んでいないくらいです。『人体図』という知的な本を読んだことがあります。『鈴でさまざまな曲を奏でる少年』も読みました、それに、『イービュクスの鶴』と……あとにも先にもこれだけで、これっきりいままでになにひとつ読んでいません。そして今度このあなたの本で『駅長』〔プーシキン作『ベールキン物語』中の一編〕を読んだわけです。いまこういうことを申しあげておきますが、ワーリニカさん、こういうこともあるんですね、こうして生きていながら、自分のすぐ近くに、自分の一生がすっかり事細かに書かれている本があることを知らずにいるようなこともね。それに、自分でもそれまで思ってもみなかったことが、そういう本を読み出すにつれて、なにもかもすこしずつ思い出しもするし、発見もするし、その謎《なぞ》も解けてくるといったこともあるんですね。
それから最後に、私があなたの本を好きになった理由がもうひとつあります。本によっては、なにかその本を読んでも読んでも、ときにはどんなに努力して読んでも……あまりにもむずかしくて、まったくわからないようにできているのがあります。例えばこの私ですが、私は頭の悪い男です、生まれつき頭の悪い男ですから、あまり堅い本は読めません。
ところがこの本は、読んでみると、……まるで自分が書いたみたいなんです。例えて言えば、これはちょうどなにか私自身の心みたいなもので、それを取り出して、人々の前に裏返して見せ、それをすっかり詳細に描いてみせて、……ほら、このとおりです! と言っているようなものです! それに事件だって、いやはや、まったくありふれたものです。まったく、なんということもありゃしない、私だってあんなふうに書けそうですよ。どうして書けないわけがありますか?……だって私にしたってあれとおなじことを、まったくあの本に書いてあるとおりに感じたこともあるし、それにこの私だって、たとえばあのあわれな男のサムソン・ヴィーリンとおなじような立場におかれたことがあるんですからね。
実際、われわれのなかにはサムソン・ヴィーリンのような連中が、ああいう情《じょう》のふかい哀れな男がいくらほどいるかわかりませんよ! それに、なにもかもなんてうまく描いてあるんでしょう! ワーリニカさん、私は、あの罪ぶかい男がすっかり記憶力を失ったようになって酒ばかりくらって、いたましい男になりはて、一日じゅう羊の毛皮外套をひっかぶって眠りこけ、ポンチ酒で悲しみをまぎらし、道に迷った小羊の、娘のドゥニャーシャを思い出しては、服のきたない裾《すそ》で目を拭いながら悲嘆にくれて泣いているというくだりを読んだときは、いまにも涙をもよおしそうになりましたよ! いや、あれはまったく真に迫っていますね! まあ、読んでごらんなさい。あれは真に迫っていますよ! あれは生きていますよ! 私はこの目であれを見ましたよ。現に私のまわりにみんな生きていますよ。ほら、あのテレーザにしたってそうでしょう……なにも遠い所をさがし歩くことはない!……われわれのとこの貧乏な小役人だってそうですよ、……あの男だっておなじサムソン・ヴィーリンかもしれませんよ、ただゴルシコーフというほかの苗字《みょうじ》を持っているだけの話で。……あれは一般的な事件でね、ワーリニカさん、あなたの身の上にも、私の身の上にも起きないとはかぎらないんですよ。ネーフスキイ通りや海岸通りに住んでいる伯爵だって、おなじことになるんですよ、ただちがったふうに見えているだけでね、どうしてそうかと言えば、あの連中の場合はそれなりにもっと高い調子で現われるからです、が、伯爵だっておなじで、どんなことが起こらないともかぎらないし、私にだって起こるかもしれないんですよ。
ま、こういったものですよ、ワーリニカさん、が、これでもあなたは私たちのもとから立ち去りたいとお思いなんですか。ワーリニカさん、私は不幸に見舞われるかもしれませんよ。あなたは自分の身も、私の身も滅ぼすことになるかもしれないんですよ、ワーリニカさん。ああ、ほんとうに、ワーリニカさん、お願いですから、そんな気ままな考えはすっかり頭から放り出してしまってください、益もなく私を苦しめないでください。私の、まだ羽も生えそろわぬ、ひよわい小鳥のワーリニカさん、あなたにはとてもわが身を養うことなんかできゃしませんよ、破滅に陥る自分をおさえたり、悪者から身を護ったりできるもんですか! ワーリニカさん、もういい加減にして、思いなおしてください。下らない忠告だのそそのかしなどに耳をかさずに、あなたのご本をもう一度読んでごらんなさい、熟読してごらんなさい。あなたのためになりますから。私はラタズャーエフに『駅長』の話をしてみました。あの人は私に言っていましたが、あれはもうまったく旧式で、この頃はいろんな情景やさまざまな描写のしかたの本がはやっているそうです。まったくのところ、私には、あの人がなんのことを言っているのか、よくのみこめませんでしたがね。
しかし、結論としてプーシキンはいいですね、彼は聖なるロシアに栄光をそえましたよと言って、さらにいろいろ私にプーシキンの話をしてくれました。そのとおり、とてもいいですよ、ワーリニカさん、とてもいいです。あの本をもう一度熟読玩味してください、私の忠告を入れてね、そして私のいうことを聞いて老人の私を仕合わせにしてください。そうすれば神さまがあなたに報いてくれますよ、ワーリニカさん、かならず報いてくれますよ。
真心ある、あなたの友
マカール・ジェーヴシキン
七月六日
マカール・アレクセーエヴィチさま!
フェドーラがきょう銀貨で十五ルーブリ持ってきてくれました。かわいそうに、わたしが三ルーブリあげたときの、あの人の喜びようといったらありませんでしたわ! 取り急ぎ手紙をしたためます。わたしはいま、あなたのチョッキを裁《た》ってあげているところです、……生地のすばらしいことといったら、……浅黄地に小さい花模様をあしらったものです。
ご本を一冊お送りいたします。この本にはいろんな小説がはいっています。わたしも何編か読みましたが、そのなかの一編で『外套《がいとう》』〔ゴーゴリの短編小説〕という本を読んでごらんなさい。……いっしょにお芝居に行かないかというお誘いですけど、高くつくんじゃありませんの? どこか大向こうの席を取ったほうがいいんじゃないかしら。わたしお芝居にはもうずいぶん長いこと行っておりませんの、ですからいつだったか、とんと覚えがありませんわ。ただやっぱり心配ですわ、この計画は高くつくんじゃありませんの? フェドーラはただしきりに首を振ってばかりいますわ。マカールさまは分不相応な暮らしをおはじめになったと言っていますけど、それはわたしにもわかっていますわ。あなたはわたしだけのためにずいぶんお金をお使いになりましたもの! マカールさま、あとでお困りにならないように、お気をつけくださいね。フェドーラはまた、わたしになにか噂を話してくれましたわ……あなたがアパートのおかみさんに部屋代を払っていないことから、おかみさんと喧嘩《けんか》をなさったらしいとかって。わたし、あなたのことが気がかりでなりませんわ。では、さようなら、急いでいるものですから。小さな仕事があるんですの。帽子のリボンをつけ変えていますの。
V・D・
追伸 じつは、お芝居に行くようでしたら、わたし、あたらしい帽子をかぶって黒いケープをかけて行こうと思います。そうしたらいいんじゃないでしょうか?
七月七日
ワルワーラ・アレクセーエヴナ様
……さてこれからきのうの話のつづきをやります。そうです、ワーリニカさん、私どもにも馬鹿なまねをやらかした時代がありましたよ。例の女優に惚《ほ》れこんでしまったのです、ぞっこん惚れこんでしまったのです、が、それだけならまだなんでもないんです、なによりも奇妙なことに、わたしはその女優をほとんどまったく見たこともなかったし、芝居にもたった一回しか行ったことがなかったのに、それでいながら惚れこんでしまったのです。
その頃私と壁一重隔てて、五人ばかりのわかい血気盛んな連中が住んでいましてね、私はその連中と意気投合してしまったのです、自然と仲よくなってしまったわけです、とは言っても連中にはいつも相当の間隔をおいてはいましたがね。とにかく、私は連中に仲間外れにされたくないばっかりに、こっちも万事調子をあわせていたのです。私にその女優の話を盛んにして聞かせたのもその連中でした! 毎晩、劇場の蓋《ふた》が開くとさっそく、仲間が打ちそろって、……必要なものに使う金はびた一文持っていないくせに……劇場の大向こうへくりこんで、拍手はするわ、女優に声をかけるわで……まるで気ちがい沙汰なんです! が、そのあとも寝てるどころじゃない、ひと晩じゅうぶっつづけに彼女の噂話で、みんなてんでに彼女をおれのグラーシャ呼ばわりして、みんなして彼女ひとりに惚れてしまい、だれの胸にもおなじ一羽のカナリヤが囀《さえず》っているようなあんばいでした。その連中が誘惑に弱い私までそそのかしたわけです。
なにしろ、その頃は私もまだほんの若僧でしたからね。で、自分も気がつかないうちに、連中といっしょに劇場の、四階の大向こうに入りこんでいたわけです。私の目に入るものと言ったら、幕の端だけでしたが、そのかわり、耳にはなにからなにまで入ってきます。その女優の声はまさしく美声でしたね。……よく響く、鴬《うぐいす》のような、蜜のようにあまい声でした! 私たちは盛んに拍手|喝采《かっさい》したり連呼《れんこ》したり、要するにいまにもひどい目にあわされんばかりの騒ぎで、事実そのうちの一人がつまみ出されたほどでした。私は家へ帰りましたが、……歩きっぷりがまるで炭気にでも当てられたみたいにふらふらです。しかも、ポケットのなかにはたった一ルーブリしか残っていないというのに、月給日までまだたっぷり十日はあるといったていたらくです。で、どうしたとお思いです、ワーリニカさん? 明くる日、私は勤めに出る前にフランス人の香水店に立ち寄って、その店で、全財産を投じて、ある香水と匂いのいい石鹸を買いこんだのですが、それがなんのつもりでそんなものを買いこんだのか、自分でもわからない。しかし、家へ食事にも帰らずに、のべつ彼女の家の窓の下を行きつもどりつしていたのです。彼女はネーフスキイ通りのある家の四階に住んでいたんですがね。そして家へ帰って、小一時間ほど息を入れると、また彼女の窓のわきを通ってみたさに、ネーフスキイ通りへ出かけていったものです。
こんなふうにして私はひと月半もかよいつめて、彼女のあとを追いまわしていたわけです。そして、ひっきりなしに上等の辻待ち馬車をやとっては、彼女の窓の下を往復させていたのでした。こうしてすっからかんに金を使いはたし、借金までこしらえたあげく、とうとう彼女にたいする恋も冷めてしまいました。……つまり飽きてしまったわけです。こんなわけで、ワーリニカさん、女優ってものは、ひとかどの男をこんな状態にすることもできるんですからね! もっとも、あの頃は私もうぶな若者でしたからな!……
M・D・
七月八日
ワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
今月六日にお借りしたご本をお返しすると同時に、この手紙で取りあえず話しあいたいと思います。
よくないことですよ、ワーリニカさん、私をこんなにとことんまで追いつめるなんてよくないことです。そう言ってはなんですがね、ワーリニカさん、どんな境遇でも、神の御手《みて》によって人間の運命《さだめ》として割りふられたものなんですよ。ある者には将軍の肩章をつけるように、ある者には九等官として勤めるように、またある者には命令をするように、ある者には不平も言わず戦々兢々《せんせんきょうきょう》として命令に服従するように定められているものです。これはすでに人間の能力に応じて予定されているのです。ある者にはある能力があり、他の者には他の能力があり、そしてその能力は神が自《みず》からお定めになったものなのです。……私はもう三十年ほど勤務をつづけていますが、非の打ちどころなく、品行も謹直《きんちょく》に、だらしがないと言って咎《とが》められることもなく勤めてきました。
もちろん、自分でも市民としては、自分は欠点、長所ともに備えた人間だと自覚しています。が、私は上役にも重要視されているし、閣下も私に満足してくださっています。これまでのところまだ上役からこれと言って特別なご愛顧《あいこ》のしるしを示されたことはありませんが、上役が満足しておられることは、承知しています。私の筆蹟はかなり明瞭で美しく、大きすぎもしなければ、小さすぎもせず、むしろ斜めに曲がってはいますが、書けばいつも快心の出来栄えです。われわれの所でこんなふうに書けるのは、イワンさんくらいのものでしょう。
こうして私は白髪《しらが》頭になるまで生きてきましたが、これまでにこれと言って大きな罪を犯したおぼえはありません。無論小さな罪も犯したことがないというような人はだれひとりいないでしょう。だれだって罪科《つみとが》はありますよ、ワーリニカさん、あなたにだってあります! しかし、私は大罪を犯したり鉄面皮《てつめんぴ》なことをしたりして叱責《しっせき》を受けたことは一度もありません、そんなふうにしてなにか規則違反をしたり、社会の安寧《あんねい》を乱したりといったようなことで叱責をこうむったことは、まだ一度もないのです、そんなことはなかったのです。十字勲章が出そうになったくらいですからね……が、まあ、こんなことはどうでもいい! こういったことは、あなたも良心に照らしてみて知っていなければならぬことだし、あの男だってすっかり知っていなければならぬはずですよ。物を書こうとするからには、当然なんでも知っていなければならぬはずですからね。いや、私はまさかあなたからこんなことをされようとは思いもよりませんでしたよ、いやまったく、ワーリニカさん! ほかの人ならいざ知らず、よもやあなたからこんなことをされようとは思いもよりませんでしたよ。
なんです! それじゃこれからはもう、自分の小部屋で、……たとえそれがどんな小部屋だろうと……思うようにつつましく暮らしていてはならんというんですか、諺《ことわざ》で言えば『虫も殺さずに』、だれにもさわらず、神の恐れとおのれを知るだけにして、人に指一本触れさせずに、自分の部屋に入りこんで中をじろじろ見たりさせないで暮らすわけにはいかないわけですか……どうなんだい、お前の家庭生活はどんなふうなんだ、例えばお前は上等のチョッキを持っているかね、お前のところには当然あるべき下着類はそろっているかね、長靴はあるか、それに長靴にはどんな底革が張ってあるんだ、なにを食べているのだ、なにを飲んでいるのだ、なにを清書しているのだなどと聞かれずに暮らすわけにはいかないわけですか?
それに、たとえこの私が、舗道《ほどう》が悪い所でときどき爪先立ちで歩いて、長靴を大切にしたって、そんなことはかまわないじゃありませんか? ほかの人のことを、ほら、あの男はときどき金に困って茶も飲まないことがあるなんて、どうして書く必要があるんでしょう? それじゃまるでだれでもお茶をかならず飲まなければいけないみたいじゃありませんか! はたしてこの私が、この男はどんな食べものを噛んでいるんだろうなどと言って、いちいち人の口のなかをのぞきこんででもいますかね? 私がだれをあんなふうに侮辱したことがありますかね?
いや、ワーリニカさん、こっちがなにもされないのに、どうして他人を侮辱なんかできるもんですか! ワルワーラさん、よろしい、じゃひとつ実例を見せてあげましょう、これはこういうことになるんですよ。ここに、精を出して熱心に勤務に励んでいる者がいます。……結構なことでしょう!……そして上役も尊重してくれている(どういうふうであろうと、とにかく尊重してくれているのです)、……そこへいきなりだれかが、これといった理由など一切ないのに、どうしたわけか、その男の鼻っ先で当てこすりの文章をこしらえやがったんですよ。そりゃ、もちろん、たしかに、だれだってなにやら新調すれば、……嬉しくて、ろくろく眠れもしないものですよ、例えば、あたらしい靴などはそれこそわくわくした気持ちではくものですよ。……これは確かです、私もそういう気持ちを味わったことがありますが、凝《こ》った、しゃれた長靴をはいた自分の足を見るのは気持ちのいいもんですよ、……ここのところは正確に描かれています!
それにしてもやっぱり、フョードル・フョードロヴィチともあろう者〔『外套』の主人公アカーキイ・アカーキエヴィチは新調の外套をおいはぎに奪われたあと、さるわかい高官のもとに陳情に行き、「順序を踏んで来い」と言って叱られ、追い返される。ゴーゴリはその高官の名を明示していない。フョードル・フョードロヴィチとあるのは、ジューヴシキンが勝手につけたもの〕がなんの気にもとめずにこんな本の出版を見のがして、弁明もしていないのには、ほんとうに驚き入りますね。確かに、彼はまだわかい高官なんですから、ときにはどなってみたくもなるでしょう。またどなっていけないわけもないしね! われわれ下輩《げはい》を叱りとばす必要があれば、叱りとばしていけないという法はないでしょう?……まあそうですね、かりに、たとえば調子を出すためにそんなふうに叱りとばすのだとしてもいいですよ……まあ、気合いを入れるためでもやっていいことですよ。訓練しなければなりませんからね。嚇《おど》しをきかせる必要がありますからね。なぜかというと、……これはふたりだけの内緒《ないしょ》ということにしておいてくださいよ、ワーリニカさん、……われわれの仲間ときたら、嚇しをきかさないことにはなにひとつしやしないくせに、どこかいい所に入りこむことばかり狙《ねら》っていて、私はどこそこへ行ってくるからねなどと言って、仕事のほうは避けよう、よけようとするんですからね。
しかも、位にもいろいろあって、お目玉にしてもその位々に応じたものが心要なんですから、そのあとの小言の調子もそれぞれちがってくるのは、当り前のことなんです、……それが物の順序というものですよ! 世の中がこうしてもっているのもですね、ワーリニカさん、われわれみんながたがいに気合いを入れあい、われわれめいめいが、たがいに叱りとばしあっているからなんですよ。この戒《いまし》めあいをぬきにしては世の中は成り立たないし、秩序もなくなってしまうはずですからね。フョードル・フョードロヴィチがあんな侮辱を気にとめずに見のがしてしまったのには、ほんとうに驚き入りますよ!
それに、何のためにあんなものを書くんですかね?また、あんなものがなんのために必要なんでしょう? 読者のうちのだれかがその埋めあわせに私に外套《がいとう》でも買ってくれるんですかね? あたらしい長靴でも買ってくれるんですかね?……どういたしまして、ワーリニカさん、あれを読んだあとは、さらにあの続きを所望するだけですよ。人は、ときおり身をひそめようとすることがあります。身をひそめ、なんでも手当たり次第のものをひっかぶって隠れようとし、ときにはどこへも顔を出したくなくなることがありますが、これは世間の評判が恐いからです、世の中のどんなものでも種にして、当てこすりの文章を書かれるからです……そしてそれこそもう自分のどんな市民生活だろうと家庭生活だろうと、文学作品のなかにとり入れられ、なんでも印刷され、読まれ、笑いものにされ、さんざんこきおろされるからです! これじゃ往来へも出られやしませんよ。これじゃすっかり証拠があがっているわけだから、歩きっぷりを見ただけでもわれわれの仲間だとばれてしまいますからね。
それでも、作者が結末近くで、思いなおして、なんとかもうすこし手加減を加えて、紙が彼の頭上にばらばらと落ち散ったというくだりのあとにでも、……こんなふうであったにもかかわらず、彼は徳のある立派な市民であって、自分の同輩たちからこんな扱いを受けるべき男ではなく、上役の命令にもよく服従し(ここのところでなにか実例を引っぱってきてもよろしい)、だれにも不幸など望んだこともなく、神を信仰していたため、みんなから哀悼《あいとう》の涙を受けながら、この世を去った(ここで作者が彼をどうしても死なせたければね)、……といったような文句でも入れればよかったんですよ。また、彼を、このあわれな男を死なせずに、彼の外套が見つかって、フョードル・フョードロヴィチ、つまり私ということになりますがね……その将軍が彼の数々の善行を詳細に聞き知って、自分の官房にまわしてもらうよう申請し、位をあげてやり、いい定額俸給を支給してやるといったぐあいにすれば、いちばんよかったんです。そうしたら、どうなったかというと、悪人は処罰され、善人は勝利をおさめ、同僚の役人どもはなんにも得るところがなかったということになります。
例えば、私だったらそんなふうにしましたね、でないとこの本では、その男にひと際《きわ》目立ったところも、いいところもないじゃありませんか? これじゃ、日常の卑俗な生活からとったある無意味な実例でしかないじゃありませんか。それにしても、あなたはいったいどうしてこんな本を私のところへよこす気になったんです。これはまさしく悪企《わるだく》みを秘めた本ですよ、ワーリニカさん。これはまったく写実的じゃありませんよ、なぜってこんな公務員が実在するなんてありえないことですからね。断じて私は訴えますよ、ワーリンカさん、公式に告訴してやりますよ。
あなたの最も従順なるしもべ
マカール・ジェーヴシキン
七月二十七日
マカール・アレクセーエヴィチさま!
最近の出来事とお手紙には、わたしびっくりしてしまい、どうしたのかしらと小首をかしげておりましたところ、フェドーラの話からすっかり納得がいきました。それにしても、どうしてそんなに自暴《やけ》におなりになって、急にそんなどん底に落ちなければならなかったんですの、マカールさま? あなたのご説明ではわたし、まるっきり満足がいきませんわ。ねえ、これじゃわたしがあの割りのいい就職口を勧められたとき、あれをお受けしたいと言い張ったのも、もっともじゃありませんか?
それに、わたし、あの自分の最近の出来事には、冗談でなくおびえきっているんですもの。あなたがおっしゃるには、わたしを愛していればこそ、わたしに隠していたのだということですけどね。
あなたがわたしのためには、万一の場合にと思って抵当貸銀行に預けてあるとかいう自分の貯金しか使っていないと断言していらっしゃった頃でさえ、わたし、ご面倒をかけすぎるのではないかと思っていました。ですからあなたにはまるっきりお金などなかったのだと知ったいま、そしてあなたがたまたまわたしのあわれな境遇をお知りになり、それに深く同情されてご自分の月給の前借りまでしてそれを使う気になられ、わたしが病気だったときにはご自分の服までお売りになったことを知ったいま、そういったことがわかったため、かえってわたしは大変苦しい立場におかれることになり、これをどう取ったらいいのか、どう考えたらいいのか、いまもってわからないくらいなんですのよ。
ああ、マカールさま! あなたは、同情と血縁の愛情によって呼び起こされた最初の慈善だけにとどめて、そのあと不要なものにまでお金を濫費《らんぴ》しないようになさるべきだったんですわ。あなたは二人の友情にそむいたわけなんですのよ、マカールさま、だってあなたはわたしに打ち明けてくださらなかったんですもの。で、あなたが最後の持ち物まで、わたしの衣裳やキャンデーやハイキングやお芝居や本のためにお使いになったことを知ったいまになって、わたしはそういったことにたいして、自分の許せない軽はずみにたいする自責の苦しみで大変な代償を支払っているわけですわ(なにしろ、わたしは肝心なあなたのことは心にもかけないで、あなたからなにもかも受けとっていたんですもの)。そしてあなたがわたしを喜ばしたい一心でしてくださったことが、いまではわたしにとって悲しみとなり、無益な後悔を残すだけとなったわけですわ。
わたしは、あなたが近頃浮かぬ顔をしていらっしゃることに気づいて、なにか起きるのではないかと気にしてはおりましたが、今度のことのようなはめになろうとは思ってもいませんでしたわ。どうしたことでしょう! あなたでもこんなに落胆することがおありなんですの、マカールさま! それにしても、あなたをご存じの方たちは、これからあなたのことをどう思うでしょう、あなたのことをなんと言うでしょう? わたしをはじめみなさんに、お心が善良で謙譲で思慮ぶかいというので尊敬されていたあなたが、いまになって突然、おそらく以前にはけっして見られなかったような忌《いま》わしい堕落の淵に落ちたわけですもの。わたしがフェドーラから、あなたが往来で酔いつぶれていらっしゃるところを人に見つけられて、お巡《まわ》りさんにつきそわれてお宿へお帰りになったという話を聞かされたときの、わたしの気持ちはどんなだったでしょう! あなたが四日も行方不明だったわけですから、なにか変わったことが起こるだろうとは思っていたものの、わたしは驚きのあまり茫然《ぼうぜん》としてしまいましたわ。
それにしても、マカールさま、あなたは、あなたの上役の方々があなたの欠勤のほんとうの理由を知ったとき、どう言うだろうとお考えになったことがありますか? あなたは、みんながあなたを嘲笑《ちょうしょう》しているとか、ふたりの関係がみんなに知れてしまったとか、同宿の人たちが嘲笑する際にわたしのことまで口にのぼすとかおっしゃっていますけど、マカールさま、そんなことは気にかけないでください、どうか心をお静めになってください。
それから、あなたとあの将校の方たちとのいざこざにも、わたしびっくりしてしまいましたわ。もっとも、これははっきりと聞いた話ではありませんけど。これはみなどういうことなのか、わたしに説明してくださいね、あなたはお手紙に、わたしに打ち明けるのが恐かったのだとか、わたしをどうしたら病気から救えるかわからなくて自暴《やけ》くそになっていたのだとか、わたしを手もとに引きとめて入院させないようにしようと思って、なにもかも売りはらってしまい、背負えるかぎりの借金を背負ったのだとか、下宿のおかみさんとの間に不愉快ないざこざが絶えないなどと、いま頃書いておよこしになったけれど、……あなたはそういうことをわたしに隠しておいでになって、かえっていちばんまずい結果をまねいてしまったわけなんですわ。
でも、わたしも今度こそはなにもかも知ってしまいました。あなたは、わたしがあなたの不幸の原因になっていることをわたしに悟らせることを恥じていらっしゃったが、いまになってみれば、あなたはその行動でわたしに二重の悲しみを与えたことになるわけです。こういう事情を知ってわたしはほんとうにびっくりしましたわ、マカールさま。ああ、マカールさま! 不幸というものは伝染病です。不幸な者や貧乏人は、この上さらに感染しないようにするには、おたがいに離れて住まわなければならないのです。わたしはあなたに、以前あなたがつつましい孤独な生活を送っていらっしゃった頃には経験もなさらなかったような不幸をもたらしたことになるんですもの。こういうことを考えるとわたしは苦しくて、ほんとうに死ぬ思いですわ。
今度こそわたしに、あなたはどういうことになったのか、どうしてあんなことをしようという気になったのか、包まずに一部始終をお知らせください。そして、できることなら、わたしを安心させてください。いまわたしに、安心させてくださいなどと書かせているのは、わたしの利己心ではなくて、なにものをもってしてもわたしの心から掻《か》き消すことのできない、あなたにたいする友情と愛情ですのよ。では、さようなら。ご返事を待ちこがれています。あなたはわたしのことを悪くとっていらっしゃいましたわね、マカールさん。
心からあなたを愛する
ワルワーラ・ドブロセーロワ
七月二十八日
私の大事なワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
いまではもうなにもかもすんでしまい、次第に旧状に復しつつありますので、つぎのようなことを申しあげましょう。あなたは、みんなが私のことをどう考えるだろうとご心配のようですから、それについて、ワルワーラさん、あなたに取り急ぎはっきりと言っておきますが、私にとっていちばん大切なのは自尊心なのです。ですから、わたしの災難やあの乱行のかずかずをお耳に入れるにあたって、私はまず、いまのところまだ上役のだれにもなにひとつ知れていないし、これからさきも知れることはあるまい、みんないままでどおり私に尊敬をいだいてくれるだろうということをお知らせしておきます。ただひとつ私の恐れていることがあります。それは世間の噂です。私どものアパートでは、おかみががみがみ言うだけですが、これとても、私があなたから十ルーブリをいただいたおかげで借金の一部を払うことができたため、いまではただ、ぶつぶつ言っているだけで、それ以上のことはなにもありません。ほかの人たちはどうかというと、これも大丈夫です。あの連中には金を貸してくれなどと頼む必要もないのですから、そんなことをしない以上平気です。
これらの説明の結論として申しあげておきますが、ワーリニカさん、私がこの世でいちばん重要視しているのは、あなたの私にたいする尊敬なんでして、私はこうして一時乱行を重ねていたときでも、その尊敬に慰められていたのです。ありがたいことに、私の最初の打撃と騒ぎも過ぎ去り、それにあなたは、私があなたと別れるに忍びず、且《か》つ、あなたを自分の天使のように愛しているためにあなたを手もとに引きとめて、あなたを瞞《だま》してきたことにたいして、私を不実な友だ、利己主義な男だとはお考えになりませんでした。おかげでいまでは私も懸命になって勤務に励みはじめ、自分の職務を立派に果たすようになりました。
ただ、私がきのうみんなのそばを通りかかったとき、エフスターフィイさんが、ひと言《こと》ですが、厭味《いやみ》を言っていました。ワーリニカさん、私は包み隠さず申しあげますが、私は借金と洋服|箪笥《だんす》のなかの悲惨な状態には心を傷《いた》めています。が、これまたなんでもありません、ですから、このことについてもお願いします……ワーリニカさん、どうか悲観しないでください。
ワーリニカさん、私にさらに五十コペイカ銀貨をとどけてくださいましたが、この五十コペイカには胸を突き刺される思いがしました。とうとうこんなことになってしまいました、まったくこんなにまでなってしまったのです! つまり、老いぼれの馬鹿者の私があなたの世話をしているのではなくて、あわれな孤児のあなたに世話になっているわけです! フェドーラがお金をこしらえてきたそうで、よかったですね。私のほうは、ワーリニカさん、いまのところ金の入る見込みはまったくありませんが、ちょっとでもなにか見込みがついたら、すっかり詳細にお知らせします。それにしても、噂が、噂がなによりも心配です。
では、ワーリニカさん、さようなら。お手に接吻をし、ご快癒《かいゆ》をお祈りします。出勤を急いでいますので、くわしく書くわけにまいりません、刻苦勉励《こっくべんれい》して、職務のほうを怠けていた罪を償いたいと思うからです。いろんな出来事や将校とのいざこざのその後の話は、晩までくり延べさせていただきます。
あなたを尊敬し、真心こめて愛している
マカール・ジェーヴシキン
七月二十八日
愛するワーリニカ様!
ああ、ワーリニカさん、ワーリニカさん! 今度こそ罪はあなたのほうにあります、そしてその罪の意識はあなたの心にいつまでも残りますよ。あの短かいお手紙には私もすっかり迷ってしまい、途方に暮れてしまいました。そして今度暇ができたので、自分の心のなかに立ち入ってみて初めて、自分のほうがまちがっていなかったこと、まったく正しかったことがわかりました。私が言っているのはあの乱行のことではありません(あんなことはどうだっていいんですよ、ワーリニカさん、あんなことは!)、私はあなたを愛している、そしてあなたを愛するということは、私には無分別なことではなかった、全然無分別なことではなかったということを私は言っているのです。
ワーリニカさん、あなたはなんにもご存じないのです。もしもあなたに、いったいどうしてこういうことになったのか、いったいどうして私があなたを愛さずにいられなかったのかということさえおわかりだったら、あんな口はきけなかったはずです。あなたはああやって、いかにももっともらしいことばかりおっしゃってはいるけれども、あなたが心のなかで考えておられることは全然別だと、わたしは信じています。
ワーリニカさん、自分と将校たちとの間にどんなことがあったのか、私は自分にもわかっていないし、よくおぼえてもいないのです。ワーリニカさん、あなたにひと言《こと》ことわっておきますが、そのときまで私はそれこそひどい惑乱状態にあったのです。ま、想像してみてください。すでにまるひと月も、言わば一本の糸にしがみついているような状態だったんですよ、この上なしの惨めな状態でした。あなたには隠していましたし、アパートでも隠していたのですが、うちのおかみが騒ぎたて、わめきたて出したのです。それだけなら私は平気でした。あんな質《たち》の悪い女には勝手にわめかしておいてもよかったんですが、ひとつには外聞が悪いし、もうひとつには、どうして嗅《か》ぎつけたものか、あいつめ、われわれの関係を嗅ぎつけやがって、家じゅうに聞こえよとばかり大声でそのことをわめき散らしたものですから、こっちは閉口してしまい、耳までふさいでしまったくらいです。
ただ問題なのは、ほかの者が耳をふさぐどころか、反対に耳をそばだてたことです。私は、ワーリニカさん、いまでも身のおき所がないくらいですよ……。
こうして、ワーリニカさん、こういったいろんなこと、こうした種々雑多な、ありとあらゆる不幸に、私はすっかり参ってしまいました。そこへ突然、フェドーラから奇怪なことを聞きこみました。お宅へ柄《がら》にも似あわぬ求愛者が現われて、不当な申し込みをしてあなたを侮辱《ぶじょく》したというのです。その男はあなたを侮辱したにちがいない、ひどい侮辱を与えたにちがいないと私は自分勝手に判断しています、というのは、私自身ひどい侮辱を感じたからです。とたんに私は、ワーリニカさん、狂ったようになり、とたんに度を失ってしまい、がっくりしてしまいました。私は、ワーリニカさん、一種の前代未聞の狂憤状態でやにわに表へ飛び出して、そいつのところへ、そのやくざな男のところへ乗りこんでやろうと思ったのです。私はもう、自分でもなにをするつもりかわからない有様でした、私はただ自分の天使であるあなたを人に侮辱させておけるかという気持ちでした! それこそ実にやるせない気持ちでしたよ! ちょうどそのときは、雨が、霙《みぞれ》が降っていて、ひどく憂欝な気分でした……私はいまにも引っ返そうかと思いました……が、私が堕落してしまったのはこのときからなんです、ワーリニカさん。
このとき私はエメリヤン・イリイーチという男に出くわしたのです。その人は公務員で、いや、もとは公務員だったのですが、いまはもう公務員じゃありません。われわれの役所をくびになっていましたからね。……その男はいまなにをしているのか、私は全然知りませんが、そのときはなんだか弱りはてているような様子でした。そこで連れ立って出かけました。……そのとき、……いや、こんなことをお話したってはじまりませんね、ワーリニカさん、私の友だちの不幸の話などを、彼のいろんな災難や彼が耐えてきたいろんな試練の物語などをお読みになったところで、おもしろくもなんともないでしょう?
で、三日めの晩に、そのエメリヤンに私はすっかりそそのかされて、やつのところへ、その将校のところへ出かけていったわけです。住所は、ここの屋敷番に聞いてね。ワーリニカさん、ちょうど思い出したから言っておきますが、私はあの若僧にはだいぶ前から目をつけていたんですよ。その男がまだわれわれのアパートに住みこんでいた時分から、その挙動に注意していたのです。が、いまになってみれば、失礼なことをしてしまったものだと思っています。なにしろ私が彼に取り次がせたとき、私は普通の様子じゃありませんでしたからね。ワーリニカさん、実を言うと、私はなんにも覚えていないんですよ。覚えているのは、その男の家にはずいぶん大勢の将校がいたということだけです、あるいは、それは私の目に二倍に見えただけなのかもしれません。私がそこでなにを言ったのか、これも覚えていません、ただ私は、義憤にかられて大いに弁じたてたことは知っています。
ところが、その場で私は追い出されてしまいました。その場で私は階段から投げ落とされてしまったのです、いや、完全に投げ落とされたわけではなくて、ただ押し出されただけですがね。
私がどんなふうにして帰ったかは、ワーリニカさん、あなたもすでにご存じでしょう。話はこれでおしまいです。もちろん、私は男も下げましたし、自尊心も傷つきました。しかしこのことはだれも知らないんですよ、局外者は、あなたを除いて、だれひとり知らないのです。してみれば、あれはなかったも同然じゃありませんか。そうでしょう、ワーリニカさん、どうお思いになりますか? これは私だけが確実に知っていることなんですが、去年われわれの役所のアクセンチイさんがおなじようなやり口で、ピョートルさんの人格を傷つけるようなことをしたことがあるんですが、それはこっそりとでした、彼はそれをこっそりとやってのけたのです。相手を夜警の部屋へ呼びこんだのです。私は一部始終を戸の隙間《すきま》から見ていましたがね。彼はそこでやりたいように始末したわけです、ただし紳士的にね、というのは、私は別として、だれひとりそれを見ていた者はいなかったわけですからね。それに、私は大丈夫です、つまり私が言っておきたいのは、私はだれにも口外などしなかったということですがね。
それはともかく、ピョートルさんとアクセンチイさんはその後なんのこともありません。ピョートルさんは、あのとおりの自尊心の強い男でしょう、で、だれにも口外しなかったもんですから、ふたりはいまではお辞儀もすれば握手もしていますよ……私は反論などしませんよ、ワーリニカさん、あなたと議論をする気などありません。
私は確かに大失敗を演じました、しかもなによりもおそろしいことに、自分自身の見解でも失敗してしまったのです。しかしこれは確かに生まれたときからこういうふうに運命づけられていたんですね、これはまちがいなく運命ですよ、……ご承知のとおり、運命はのがれられません。……ま、これが私の不幸と災難の詳細な説明ですよ、ワーリニカさん、読んでもらわなくともいいようなことばかりですがね。……私は少々体のぐあいがよくないんですよ、ワーリニカさん、気分の陽気さをすっかりなくしてしまいました。ですから、愛着と愛情と尊敬を表しながら、筆をおかしていただきます、ワルワーラさん。
あなたの最も従順なしもべ
マカール・ジェーヴシキン
七月二十九日
マカール・アレクセーエヴィチさま!
お手紙を二本とも拝読いたしまして、思わず嘆息をもらしてしまいました! ねえ、マカールさま、あなたはわたしになにかお隠しになってご自分のいやな出来事の一部分しか書いておよこしにならなかったか、でなければ……確かに、マカールさま、お手紙はまだどこか調子が乱れているような感じですわ……どうぞ、うちへお出かけください、きょうにもお出かけください。ねえ、いいですか、それこそそのままじかにうちへお食事にいらっしゃってください。わたしほんとうに、あなたがそちらでどういう暮らしをしていらっしゃるのか、アパートのおかみさんとどんなふうに折りあいがついたのか、わかっていませんのよ。そういうことについてはなんにも書いてくださらないんですもの、まるでわざと隠していらっしゃるみたいに。
では、さようなら、マカールさま。きょう、ぜひいらっしゃってくださいね。それより毎日食事に来てくだすったら、そのほうがいいんですけどね。フェドーラは、料理がとても上手なんですの。では、失礼いたします。
あなたの
ワルワーラ・ドブロセーロワ
八月一日
ワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
神様が、今度はあなたのほうが善にたいして善をもって報いる機会を、私に返礼する機会を恵んでくださったというので、ワーリニカさん、あなたは喜んでいらっしゃるんでしょう。私はそう信じていますよ、ワーリニカさん、それにあなたの天使のようなお心根の善良さも信じていますので、こんなことを言っても、あなたを咎《とが》めるつもりはないのですが、……ただどうか、私がこんな年になって金の無駄使いをしたことをあんなに責めないでいただきたいのです。いや確かに大変悪いことでした。あなたがどうしてもあれは悪いことだったということにしたいのでしたら、なんともいたし方ありません! ただ、あんなふうにあなたの口からああいう言葉を聞くのは、私にとって大変な苦痛なんですよ!
ワーリニカさん、私がこんなことを言っても、怒らないでください、私の胸は絶えずうずいているんですから。貧乏人ってわがままなものです。……これは生まれつきそういうふうにできあがっているのです。私も前々からこのことは感じていましたがね。彼ら、つまり貧乏人というものは気むずかしいものなんですよ。貧乏人は、世間を見る目もちがっていて、通る人をひとりひとり冷たい目で見、落ちつきのない目であたりを見まわしては、人の言葉にいちいち聞き耳を立てて、……あそこで話しているのは、おれのことじゃなかろうか? とか、あれはどうだい、あいつはなんて無様《ぶざま》なかっこうをしているんだろう? あの男はいったいなにを感じているんだろう? どうなんだろう、例えば、あの男はこっちの横から見たらどんなふうだろう、あっちの横から見たらどんなふうだろう? なんて言っているんじゃないだろうかなどと臆測《おくそく》をたくましゅうするものです。
それに、こういうことはだれ知らぬ者もないことですが、ワーリニカさん、貧乏人というものはぼろにも劣る存在で、だれからも尊敬なぞ受けることはありません。人がなにを書こうと、あのへぼ作家どもがなにを書きたてようと……貧乏人はどこからどこまで昔どおり変わらないんです。じゃどうして昔どおり変わらないのでしょう? それは、彼らに言わせると、貧乏人は全部裏返しにして見せていなければならないからです、彼らはなにひとつ秘密など持っていられない、ましてなにか自尊心らしいものなど爪の垢《あか》ほども持ちあわせていないからなんです!
現に例のエメリヤンさんがこの間話していましたがね、どこかで彼のために醵金《きょきん》をしてくれたんだそうですがね、みんなは彼に十コペイカ銀貨を一枚渡す毎に、一種の公式の顔あらためをしたそうですよ。彼らは、その十コペイカ銀貨をただでくれてやっているのだと思っているんでしょうが、……どういたしまして、彼らは、貧乏人の観覧料を払ったまでなんですよ。
ワーリニカさん、きょう日《び》は慈善のやり方もなんだか奇抜なのがありましてね……あるいはもとからそうだったのかもしれませんが、得体が知れませんよ! 彼らはやり方を知らないのか、その方面のヴェテランなのか、ふたつにひとつです。
あなたは多分こんなことはご存じないでしょうから、ひとつこういうことを教えてあげましょう! ほかのことだと、われわれはパスと言ってやりすごすほかありませんが、こういうことなら、そりゃもうよく知っていますからね!
では貧乏人はどうしてこういうことを知っているんでしょう、こういうことを考えているんでしょう? どういうわけだと思います?……なあに、経験からですよ! 例えばですね、貧乏人は、自分のわきにああいう紳士がいるが、あの紳士はいまどこかのレストランへ行けば、『あの貧乏な小役人はきょうはなにを食べるかな? わが輩《はい》はソーテ・パピリオを食べるんだが、あいつはおそらくバターぬきのオートミールでも食べるんだろう』なんてひとり言を言うのを知っているんですよ。
しかし、私がバターぬきのオートミールを食べようと食べまいと、そんなことは大きなお世話じゃありませんか? ワーリニカさん、往々《おうおう》にしてそういう人間がいるものなんですよ、そういうことしか考えない人間がね。そしてそういう連中、無礼な誹謗《ひぼう》的な作品を書く連中は歩きながら、人が敷石に足を全部つけて歩いているか、それとも爪先だけで歩いているかなどと、そんなことばかり見てやがるんです。あの公務員の、九等官の役人の長靴の破れから露《む》き出しの脚の指が出ている、あいつの肘《ひじ》が擦《す》りきれて穴があいているといったようなところを見ていて……家へ帰ってからそれをすっかり書きとめて、ああいうくだらない本を出すのです……が、こちとらの肘に穴があいていようといまいと大きなお世話じゃありませんか?
そうだ、ワーリニカさん、不躾《ぶしつ》けな言い方を許していただければ、申しあげますがね、貧乏人というものは、こういうことでは、例えて言えば、あなた方が持っておられるのとおなじ処女のような差恥心を持っているものなんですよ。あなたはみんなの前で……無礼な言い方を許してください……裸になりはしないでしょう。それとおなじように、貧乏人も、こいつの家庭内の関係はどんなふうなんだろうなどと、自分のむさ苦しい小屋をのぞきこまれるのを好まないものなんです……そういうわけなんですよ。それなのに、ワーリニカさん、なにも、正直な男の名誉と自尊心を傷つけようとする私の敵どもとぐるになって、私を侮辱することはなかったでしょう!
きょうなど役所へ行っても、私は顔から火が出るほどの恥ずかしい思いをしながら、小熊か、羽をむしられた雀よろしくといったかっこうで坐っていましたよ。恥ずかしかったですよ、ワーリニカさん! そりゃそうでしょう、服のなかから露《む》き出しの肘《ひじ》がてかてかして見えたり、糸の先にボタンがぶらさがっていたりすれば、だれしもおどおどするのは当たり前でしょう。それが私の身につけているものといったら、わざとそうしたみたいに、どこからどこまでそういうだらしないざまだったんですからね! これじゃ自然と意気消沈せざるを得ませんよ。
と、どうでしょう! きょうステパンさんが仕事のことで私と話をはじめたんですが、さんざん話したあげく、さも偶然気がついたようにして、「いやはや、マカールさん、あんたという人はまったく!」と言いそえただけで、心のなかで考えたあとの言葉を言わずじまいなんです。が、それでもこっちはすっかり察しがついたものですから、顔じゅう真っ赤になり、この禿頭《はげあたま》まで赤くなったくらいでしたよ! こんなことは、元来なんでもないことなんですが、やっぱり気にかかるし、重苦しい考えももよおしますよ。連中はもうなにか嗅ぎ出したのじゃなかろうか? こりゃ大変だ、どうやって嗅ぎ出したんだろう! とね。
正直なところ、私はある男を怪しいと睨《にら》んでいるのです、強い疑いをかけているのです。ああいう悪党にとっては、わけないことですからね!……洩《も》らしちまいますよ! 人のどんな私生活だろうと、たった一文の金でももらえるとあれば洩らしちまうんですから。……神聖なものなんて、なにもありゃしないんですからね。
私にはもう、これがだれの仕業《しわざ》か、ちゃんとわかっているのです。これはラタズャーエフの仕業なんです。あの男には私たちの役所にだれか懇意《こんい》な人がいるので、きっと、なんということなく、話のついでに、話に尾ひれをつけてすっかりその人の耳に入れてしまったんですよ。さもなければ、ひょっとすると、自分の役所で話したところが、それが次第にうちの役所に伝わってきたのかもしれません。ここのアパートの連中もひとり残らず知っていて、あなたのとこの窓を指さしたりしています。私はそのことを、指さしたりしていることを知っているんですよ。きのう、私がお宅へ招《よ》ばれに行ったときも、みんなして窓から顔を突き出し、おかみは、ほら、ごらん、あの色魔《しきま》め、あんな子供とくっついちまってるからなどと言って、そのあとあなたまで名指して失敬なことを言っていましたよ。
しかし、そんなことは、私とあなたのふたりを自分の作品に取り入れて、私たちを凝《こ》った諷刺で描こうというラタズャーエフのいやらしい企てと比べたら物の数ではありません。本人がそう言っていたのを、このアパートの親切な連中が私に教えてくれたのです。
ワーリニカさん、私はもうなんにも考える元気もないし、どう腹をきめたらいいのかもわかりません。罪を隠してもしょうがありません、私たちは神様の怒りにふれたんですよ、ワーリニカさん! ワーリニカさん、あなたは私に、退屈ざましにと、なにか本を送ってくださるおつもりのようですが、そんな本なんか、糞《くそ》くらえですよ、ワーリニカさん! なんですか、本なんて! あんなものは出たらめの作り話ですよ! 小説なんて、下らんものです、下らない目的で、ただ閑人《ひまじん》に読ませるために書かれたものですよ、だから、ワーリニカさん、私の言うことを信じてください、私の長年の経験を信じてください。たとえ連中がシェークスピアかなんかであなたを言いくるめようとして、このとおり、文学にはシェークスピアがあるじゃありませんかなどと言ったところで、それがなんですか、……シェークスピアだって下らんものですよ、みんなまったく下らんもので、人を中傷することを目的にこしらえたものですよ!
あなたの
マカール・ジェーヴシキン
八月二日
マカール・アレクセーエヴィチさま!
なにもご心配なさいますな、神さまのおはからいで、なにもかもうまくおさまりますわ。フェドーラが自分の仕事もわたしの仕事もどっさり取ってきてくれましたので、ふたりして大喜びで仕事に取りかかりました。ですから、多分すっかりもとどおりになると思います。
フェドーラは、私の最近の不愉快な出来事はみなアンナ・フョードロヴナと無関係ではないのではないかと疑っておりますが、いまではわたしにはどうだっていいことですわ。
わたし、きょうはなんだか無性《むしょう》にほがらかなんですの。お金を借りようと思っていらっしゃるようですけど……とんでもないことですわ! あとで、返さなければならなくなったとき、きっといろいろお困りになりますわ。
あなたはわたしたちともっと隔てなくお暮らしになるべきですわ、もっとたびたび家へいらっしゃってください、おかみさんのことなどに気をお使いになることはありませんわ。そのほかの敵や悪意をいだく人たちのことでしたら、わたし、益もない猜疑心《さいぎしん》に悩んでいらっしゃるだけのことと信じておりますわ、マカールさま! お気をおつけください、わたしこの前も、お手紙に文章の調子が大変乱れていると申しあげたでしょう。では失礼いたします。さようなら。お待ちしております、かならずおいでになってください。
あなたの
V・D・
八月三日
私の天使のワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
ワーリニカさん、取り急ぎお知らせします、私のほうにもなんかかんか希望の兆《きざ》しが見えてきました。ちょっと言わしてもらいますが、ワーリニカさん、……あなたは、借金をすべきではないと書いておよこしになっていますね? しかし、ワーリニカさん、借金をせずにはやっていけないんです。すでに私も左前だし、それにあなたのほうだってひょっとして急になにかまずいことが起きないともかぎらないでしょう! なにしろあなたはそんなふうに体が弱いんですからね。そんなわけで私はあらためて申しあげますが、どうしても借金しないわけにいかないんです。では、このまま先をつづけますよ。
ワルワーラさん、まずあなたに申しあげておきますが、役所では私はエメリヤン・イワーノヴィチという人と机を並べています。これは、あなたもご存じのエメリヤンさんではありませんよ。この人は私同様九等官で、私とこの人は役所じゅうでほとんどいちばんの古株で、生《は》えぬきの役人なんです。彼は人のいい無私無欲な男で、大変口数がすくなく、いつも熊のような風貌をしています。そのかわり、仕事は達者な男でして、その筆蹟は純然たる英国風の書体で、正直言って、私に退《ひ》けをとらないくらいの能書家です、……得がたい人物ですよ! 私はこの人とはいまだかつて親密なつきあいをしたことはありません、ただ習慣的に、さようならとか、おはようとか挨拶をかわすだけで、ときどきナイフが要《い》るようなことでもあれば、すみませんが、エメリヤンさん、ひとつナイフを貸してくださいなどと言うことがあるくらいのものです、……ま、要するに、口をきくのは共同生活上必要なことにかぎられていたのです。
ところが、その人がきょう私にむかって、マカールさん、どうしてあなたはそんなに考えこんでいらっしゃるんです? とこう聞くじゃありませんか。で、私はこっちに好意を持ってくれているんだなと見てとったものですから、じつはこうこういうわけなんですよ、エメリヤンさん、と打ち明けたわけなんです。とは言っても、なにからなにまでぶちまけてしまったわけじゃありませんよ、とんでもない、絶対に洗いざらいしゃべってしまうようなことはしません、それほどの勇気はありませんからね、ちょっと手詰まりでしてねえとかなんとか言って、ちょっぴり打ち明けたわけです。
「じゃ、あなた」とこうエメリヤンさんは言うのです。「借金をなすったら。ピョートルさんにでもお借りになったらいい、あの人は利息貸ししていますから。私も借りたことがありますが、利息もほどほどで……ひどくぼるようなことはありません」
ワーリニカさん、いや私は胸が躍《おど》りましたね。これはおそらく、神さまがあの慈善家のピョートルさんにその気をおこさせて、おれはあの人に金を貸してもらえることになるぞなどと、しきりに考えていました。そして、そうすればアパートのおかみに部屋代も払えるし、ワーリニカさんも助けてやれるし、自分も身につけているものをすっかり繕《つくろ》えるし、などと胸算用をしていました、そうでもしないと、アパートの皮肉屋どもに笑われることはまあいいとしても、自分の席に着いているのも気がひけて、うじうじしているくらいですからねえ! それに、閣下もときどきわれわれの机のそばを通られることがあるから、私に目をくれて、私がだらしないかっこうをしているのに気づくことでもあったら、それこそ一大事ですからねえ!
閣下は清潔と清楚《せいそ》をモットーとしておられるんですから。閣下は多分、なんともおっしゃらないでしょうが、この私は恥ずかしさに死んでしまいますよ、……きっとそうなります。そこで、私は気力をふるい起こし、自分の恥ずかしい気持ちを穴のあいているポケットにおし隠して、ピョートルさんのところへ出かけていったんですが、そのときは希望で胸がいっぱいで、期待に、生きているのか死んでいるのかわからないような心地で……いろんな気持ちがいっしょくたでした。
それがどうでしょう、ワーリニカさん、すべては馬鹿げた結果におわってしまったんですよ! 彼はなにか仕事に忙殺されていて、フェドセイさんと話をしているところでした。私が横あいからそばへ近づき、相手の袖を引っぱって、ピョートルさん、ピョートルさんと言うと、むこうはこちらを振り向いたので、私はつづけて、こう、こう、こういうわけなので、三十ルーブリほど貸してもらえますかと言いました。……はじめ相手は私の言うことが呑《の》みこめぬ様子でしたが、そのあとすっかり説明すると、急ににやりと笑いました。が、それっきりで、黙りこんでしまったのです。
で、私はまたおなじことを頼んでみました。すると、彼は私に……担保《たんぽ》がありますか……と言うのです。しかも、本人は書類に顔を突込んだまま、こちらを見ようともしないのです。……私は少々あわてました。……「いや、ピョートルさん、担保はないんですよ……」と言って私はさらに説明しました。「……どうでしょう、今度給料が出たら、すぐにお返ししますがね、かならずお返ししますよ、第一の義務と心得てね」
そのときだれかが呼んだので、私が待っていると、彼はもどって来ました。が、鵞《が》ペンを削り出して、まるで私のいることなどには気づいていないような素振りなのです。私は、なおも自分の話を持ち出して、ピョートルさん、なんとかなりませんか、と聞いてみましたが、向こうは相変わらずうんともすんとも言わずに、まるで聞こえないような振りをしているのです。
私はしばらく立っていたあげく、よし、最後にもう一度当たってみようと考えて、相手の袖を引っぱってみました。ところが、向こうはなにかひと言《こと》でも言い出すどころか、鵞ペンを削って、書きものをはじめるだけなんですよ。で、私もしょうことなく、引き上げてきてしまったわけです。ねえ、ワーリニカさん、あの連中はみんな立派な人たちかもしれないが、傲慢《ごうまん》な連中ですね、じつに傲慢な連中ですよ、……私などは物の数じゃないんですね! われわれにはまったく無縁な連中ですよ、ワーリニカさん! だからこそ、あなたにこんなことを逐一《ちくいち》書いてさしあげたわけですよ。……エメリヤンさんも笑い出して、首を振ってみせましたが、そのかわり私に希望を持たしてくれました、真心のある人ですね。エメリヤンさんは確かに立派な人ですよ。私をある人に紹介してやると約束してくれたんです。その人はですね、ワーリニカさん、ヴィボルクスカヤ通りに住んでいましてね、やはり利息貸しをしていて、十四等官だとかいうことです。エメリヤンさんは、あの人ならかならず貸してくれると言っていました。ワーリニカさん、あす出かけてみますよ、……え? あなたはどうお思いです? 借金しなかったら事《こと》ですよ! おかみは私をいまにもたたき出さんばかりだし、私に食事をさせることさえ不承知なんですからね。それに、私の長靴もひどく痛んでいるしね、ワーリニカさん、それにボタンもないし、ないものずくめなんですから! 上役のだれかにこういったふしだらに気づかれたらどうしますか? 災難ですぜ、ワーリニカさん、災難ですよ、まったくの災難ですよ!
マカール・ジェーヴシキン
八月四日
親切なマカールさま、アレクセーエヴィチさま!
どうか、マカールさま、いくらでも結構ですから大至急お金を借りてください。いまこんな状態でおられるあなたには、どんなことがあってもご援助などお願いしたくないんですけど、わたしのいまの状況がどんなか、知っていただけたらと思いますわ! わたしたち、このアパートにはどうしてもこれ以上いつづけるわけにいかないんですの。こちらでは世にも恐ろしい、いやなことが起きたんですの。わたし、いまどんなに取り乱して興奮しているか、お察し願いますわ!
想像してみてくださいな、マカールさま、けさ方、わたしたちの部屋へ、勲章をいくつもさげた、かなりの年輩の、老人に近い、見も知らぬ人がはいってきたんですの。そんな人がわたしたちになんの用事で来たのかわからなかったものですから、わたし胆《きも》をつぶしてしまいましたわ。フェドーラはそのとき買い物に出ていたんです。その男は、あんたはどうやって暮らしておられるのかねとか、なにをしておられるんだね、などといろいろ聞いたあげく、返事も待たずに、わしは例の将校の叔父《おじ》ですがね、とわたしに告げて、わしは甥《おい》のやつがあんなけしからんことをしでかして、あなた方の名誉を傷つけてアパートじゅうに知れわたらせたことに大いに憤慨しておるのですよ、などと言い出したのです。あの甥のやつは軽薄な小僧っ子ですよ、とか、わしはあんたを引き取って保護してあげてもよいと思っておるとも言っていましたわ。それから、あんたはわかい者の言うことなどに耳を傾けることはないなどと忠告めかしいことも言い、わしは父親のようにあんたを不憫《ふびん》に思い、あんたには父親のような気持ちをおぼえておる、だからあんたを何事によらず助けてあげたいと思っておるとこうつけ加えました。
わたしは顔じゅう真っ赤になって、どう考えていいやらわからず、お礼の言葉もすぐには出ませんでした。その人は無理にわたしの手をとって、わたしの頬を軽くたたいて、あんたはじつにきれいだね、あんたの頬っぺたにえくぼがあるところが大変気に入ったなどと言って(なにを言い出すかわかったものじゃありませんわ!)、最後に、わしはもう老人だからな、なんて言いながら、わたしに接吻をしようとしたんですのよ(ほんとにいやなやつったらありゃしないわ)。……
そこへフェドーラが入ってきたんですの。その人はいくらかうろたえ気味でしたが、また、あんたのしとやかで品行方正なのには敬服していますよ、あんたがわしによそよそしくなさらないことを切に望みますなどと言い出しました。そのあと今度は、フェドーラをわきへ呼んで、なにか妙な口実をつけて、お金をいくらか握らせようとしました、もちろん、フェドーラは受け取りませんでしたけどね。やがてとうとう老人は帰り仕度をはじめ、もう一度さっきの口説《くど》きをくり返して、またあらためてお邪魔にあがるが、そのときにはイヤリングを持ってきてあげようなんて言っていました(当人はひどくどぎまぎしていたようでしたわ)。
そして、わたしに住居《すまい》を変えたほうがいいと言って、自分がかねてから目をつけている立派な貸間があるが、部屋代を全然払わなくていいからと言って、引っ越すことを勧めていましたわ。それから、わしはあんたの、純心で物わかりのいい娘さんであるところが大変気に入りましたよ、などと言って、わかい道楽者を警戒するようにと忠告したあげく、最後に、自分はアンナさんを知っているのだが、あの人から、そのうち訪ねていくからと伝えてくれるように頼まれてきたのだと言いました。
そのときになってはじめて、わたしすっかり事情がわかったんですの。そのあと自分がどうなったかは、おぼえていません。わたし生まれてはじめてこんな目に遭《あ》ったんですもの。わたしは、かあっとなって、その男に思いきり恥をかかしてやりましたわ。フェドーラもわたしに加勢してくれて、おじいさんを部屋から追い出さんばかりにしてくれました。
わたしたち、これはみんなアンナさんの仕業《しわざ》だと、断定しましたの。だって、そうでもなければ、そんなおじいさんがわたしたちのことなど、どこからも嗅ぎつけようはずがありませんものね。
そこで、マカールさま、あなたにおすがりして、切にご援助をお願いするわけなのです。後生ですから、こういう立場にあるわたしを見捨てないでください! どうぞ、いくらでもかまいませんから、お金をお借りください、こしらえてください。わたしたち、この住居《すまい》を引き払おうにもその費用がないんですから、かと言って、ここにこれ以上いつづけることも絶対にできませんしね。フェドーラもそうするように勧めておりますの。わたしたち、すくなくとも二十五ルーブリは入り用なんですの。このお金はお返しいたします。わたし働いて稼ぎますから。フェドーラが二、三日うちにまた仕事を見つけてきてくれるでしょうから、利息が高くてどうかと思われることがあっても、そんなことには頓着《とんちゃく》なく、どんな条件でも承諾してください。全部お返しいたしますから。ただ、どうか、わたしをお見捨てなくご援助をお願いします。こういうご事情であられるいま、あなたのお心をわずらわすのは大変心苦しいのですが、あなたおひとりが頼みの綱《つな》ですので! では、失礼します、マカールさま、わたしにお心をおかけください、ご成功をお祈りいたします。
V・D・
八月四日
かわいいワルワーラ・アレクセーエヴナ様
こういういろんな思いがけぬ打撃に私は愕然《がくぜん》としております。こういうさまざまなおそろしい災難に、私は息の根もとまりそうです! あのいろんなご機嫌とりややくざ爺《じじい》どもが、寄ってたかって私の天使のあなたを病床にひきずりこもうとするばかりでなく……やつらは、あの取りまき連は、この私までへたばらそうとしているんです。これじゃへたばってしまいますよ、誓って言いますが、へたばってしまいますよ! あなたを助けられないくらいなら、私はむしろいま死んでもよいと思っています!……あなたを助けられない場合は、もはや死あるのみですよ、ワーリニカさん、もはや完全なほんものの死があるだけです。が、ここで助けられたとしたら、あなたはそのときは、梟《ふくろう》ども、猛禽《もうきん》どもについばまれそうだった小鳥が巣から飛び去るように、私のところから飛んでいってしまうのでしょう。これが私の悩みの種なんですよ、ワーリニカさん。それなのに、あなたという人はなんというきびしい方でしょう! いったいどうしてあなたはあんなことをおっしゃるんです? あなたは苦しめられているんですよ、あなたは侮辱を受けているんですよ、あなたは、ワーリニカさん、あなたは悩んでいらっしゃるんじゃありませんか。それなのにさらに、私に心配をかけなければならないことを苦にしていらっしゃる、しかもさらに、稼いで借金を返す約束までなさっている、それはとりもなおさず、実を言えば、期限までに私に借金を返すために、ひよわい自分の体をそこねてしまうということなんですよ。
ほんとうに、ワーリニカさん、自分がなにを言っているかくらい考えてくださいよ! いったいなんのためにあなたは縫物をしなければならないんです、なんのために働かなければならないんです、自分の頭を心配事で悩ましたり、自分の美しい目をそこねたり、束《つか》の間の健康を害したりしなければないのです?
ああ、ワーリニカさん、ワーリニカさん! ごらんのとおり、ワーリニカさん、私はなんの役にも立たない男ですよ、自分でも役に立たない人間だということは承知しています。が、私は役に立つ人間になってみせます! 私はあらゆることに打ち勝ってみせますよ、内職も自分でさがしてきます、いろんな作家にいろんな原稿の清書をしてやろうと思っています。作家のところへ出かけていって、こっちから出かけていって、無理にでも仕事をもらって来ます。というのは、たしかにあの人たちは、ワーリニカさん、腕のいい筆耕屋をさがしているからです。私は、さがしていることを知っているのです、そしてあなたに体を疲れさすようなことはさせませんからね。あなたに、あんな身の破滅になるような企ては実行させないつもりです。
ワーリニカさん、私はかならず金を借りてきますよ、金が借りられないくらいなら、むしろ死んでしまったほうがましです。それから、あなたは利息が高くとも驚かないでくれとおっしゃいましたね、……驚くもんですか、ワーリニカさん、驚きやしません、こうなったらなんだって驚きやしませんよ。ワーリニカさん、私は紙幣で四十ルーブリ申しこみます。それほど大金でもないでしょう、ワーリニカさん、どう思います? 四十ルーブリと最初にひと言《こと》言っただけで、私は信用されますかね? つまり私が言いたいのは、あなたはひと目見ただけで私に支払い能力と信用があると思いこませる腕があるとお思いになるかということです。人相から言って私は初対面で感じよく見てもらえるでしょうかね? ワーリニカさん、ひとつ考えてみてください、私にそういう思いこませる腕前があるかどうか。あなただったらどうお考えになります? ねえ、ワーリニカさん、たいへんな危惧《きぐ》をおぼえるものですよ……病的にね、正直言って、病的に! その四十ルーブリのうちから二十五ルーブリをあなたの分として取り除けますね、ワーリニカさん。で、銀貨で二ルーブリをおかみに渡し、あとは自分の使い料に当てます。
実は、おかみにはもうすこし多く払ってやるべきところなんですがね、いや、ぜひともそうしなければならないところなんです。しかし、事情をいろいろ思いあわして、私に必要なものをすっかり数えあげてみてください。そうすればこれ以上はもうどうしても渡せない、したがってそんなことは言うに及ばないし、口にのぼす必要もないということがおわかりと思います。銀貨一ルーブリで長靴を買います。私はもう、あしたあんな古びた長靴をはいて勤めに出られるかどうかと思っているくらいなんですから。マフラーもやはりぜひとも必要というところですがね。だってあの古いのはもうじき一年になるんですから。が、しかしあなたは私に、ご自分の古いエプロンを裁《た》ってマフラーばかりでなく、ワイシャツの≪いか胸≫まで作ってくださると約束してくれましたので、マフラーのことはもう考えないことにします。さあ、これで長靴とマフラーはそろったことになります。今度はボタンですよ、ワーリニカさん! 私がボタンなしでいられるものでないということには、ワーリニカさん、あなたも同意してくださるでしょう。ところが私のは片側が半分近くとれてしまっているんですよ。私は、閣下が私のあんなだらしないかっこうにお気づきになって、なんとおっしゃるだろうと思うたびに、身ぶるいするんですよ……まったくなんとおっしゃるでしょうねえ! ワーリニカさん、私は、おっしゃることが耳にはいらないかもしれません。というのは死んでしまうでしょうから、死んでしまいますよ、その場で死んでしまいますとも、考えただけでも、恥ずかしくて死んでしまいそうなんですから!
ああ、ワーリニカさん!……こうして全部必要なものを買っても、まだ銀貨で三ルーブリ残ります。そこでこれは生活費に当て、それにタバコ半フント分に当てようと思います、なにしろ、ワーリニカさん、私はタバコなしでは生きていけないのに、タバコを口にしなくなってからもう九日目になるんですからね。ほんとうを言えば、あなたになにも言わずに買ってもいいわけですが、それでは気がとがめますからね。あなたのほうはそちらでそんなに困っておられて、最後の持ち物まで手離しておられるのに、こちらはいろんな楽しみを貪《むさぼ》っているわけですもの。私がこうしてあなたにこんなことをすっかり申しあげるのも、良心の呵責《かしゃく》に悩まされまいと思うからなんです。
私はあなたにざっくばらんに告白しますがね、ワーリニカさん、私はいますこぶる困った状態にあります。つまり私がこんなふうになったことは、これまでにただの一度もなかったのです。おかみは私を軽蔑しているし、だれひとり私に敬意を払ってくれる者はいないし。それに、おそろしい不如意な借金です。これまでだって同僚にいじめられていたため天国とは言えなかった勤めのほうは、……これはもういまでは、ワーリニカさん、お話にもなにもなったものではありません。私はなにもかも隠しています、私はこまかく気を使ってみんなになにもかも隠しています、それどころか自分の体まで隠すようにしています、役所へ入っていくにも、体を横向きにしてはいり、みんなを避けるようにしています。こんなことを白状する気力が出るのは、あなたにたいしてだけなんですよ……それにしても、貸してくれなかったら、どうしましょう? いやいや、ワーリニカさん、いっそそんなことは考えないほうがいいですね、なにもそんなことを考えてさきに気力をなくしてしまうこともありませんからね。
こんなことを書くのも、あなたに前もって注意して、肝心なあなたにそんなことを考えて取り越し苦労をさせまいと思うからなのです。ああ、そんなことになったら、あなたはいったいどうなることでしょう! しかし確かに、そのときはあなたは引っ越しをしないことになり、私はあなたといっしょにいられるわけですね、……いや、そうじゃない、そのときはもう私は帰って来ないんだ、私はあっさりとどこかへ消えてなくなるだけです。いろいろ取りとめもないことを書いてしまいましたが、もうひげを剃《そ》らなくちゃなりません。こういうことはもっと品を添えることになる、品というやつはつねに役に立つものです。神さま、お願いします! お祈りして出かけることにしましょう!
M・ジェーヴシキン
八月五日
この上なく親切なマカールさま!
ほんとうにあなただけでも絶望なさらないでください! それでなくとも、悲しいことはあり余るほどあるんですから。……銀貨で三十コペイカお送りします。これ以上はどうしても都合がつかないんですの。いちばんお入り用なものをお求めになって、せめてあすまでなりと、なんとかおしのぎください。わたしたちの手もとにはほとんどなにも残らず、あすはどうなることやら、見当もつきませんわ。悲しいことですわね、マカールさま! でもおふさぎにならないでくださいね。金策がうまくいかなかったからといって、どうしようもありませんわ! フェドーラは、こんなことはまだ不幸のうちにはいりませんよ、期限まではこの家にいられるんだし、たとえ引っ越したところで、どうせ大した得になるわけじゃなし、それに向こうがその気にさえなれば、どこへ行ったって見つかってしまうんだからなんて言っているんですの。でもやっぱり、いまここにこうしていつづけるということは、なんとなくおもしろくありませんわ。いまこんなに気が滅入っていなければ、あれやこれや書いてさしあげたいこともあるんですけど。
マカールさま、あなたはほんとうに変わった性分ですのね! あなたは何事にも感受性が強すぎますわ。そんなことをしていたら、あなたはいつまでもだれよりも不幸な人間でいなければなりませんわ。わたし、お手紙を注意して読んでわかったんですけど、どのお手紙でもあなたはわたしのこととなると、ご自分のことではけっして見られないくらい強く悩んだり心配したりなさるんですのね。無論、だれでも、あなたのことを善良な心を持った人だと言うでしょうけど、わたしに言わせれば、あなたのお心はあまりにも善良すぎますわ。わたしはあなたに親友として苦言を呈しているんですのよ、マカールさま。わたし感謝していますわ、いろいろお尽《つ》くしくださってありがたいと思っていますのよ、そういうことは身にしみて感じていますわ。そんなわけで、そんなつもりもなくわたしがもとで起きたさまざまな不幸に見舞われたいまでも、……そのいまになってもあなたは、わたしが生きているということだけを慰めに生きておられ、わたしの喜び、わたしの悲しみ、わたしの心だけに生き甲斐をおぼえておられるのを目《ま》のあたりにしている私の気持ちがどんなか、お察しください! どんな他人のことでもそんなにお感じになり、あらゆることにそんなにふかく同情していらしったら、それこそいちばん不幸な人になることは請《う》けあいですわ。
きょう、お勤めからお帰りになって家へはいっていらしったとき、お顔を見て、わたしびっくりしましたの。それはそれは真っ青な、おびえきった、絶望しきったご様子でしたもの。まるであなたのお顔じゃありませんでしたわ、……これもみな、わたしにご自分の失敗の話が恐くてできず、わたしを悲しませたり、わたしをびっくりさせたりしないかと心配だったからなんですのね、それでわたしがいまにも笑い出しそうな顔をしているのを見て、はじめてあなたは胸の重荷が大方おりたようなふうでしたわね。
マカールさま! どうか悲観しないでください、がっかりなさらないでください、もっと思慮ぶかくなってください、……お願いします、このことを折り入ってお願いします。さあ、もうこれでなにもかもよくなる、万事好転するというふうに見てください。でないと、いつまでもそうやってくよくよして、他人の悲しみを苦にしてなどいらっしゃったら、生きているのが辛《つら》くなるでしょうからね。さようなら、マカールさま。くれぐれもお願いします、どうかわたしのことをあまりご心配になりませんように。
V・D・
八月五日
かわいいワーリニカさん!
それはよかったですね、ワーリニカさん、それは結構なことです! 私に金策ができなかったことぐらい、まだまだ不幸のなかに入らないと判断なすったわけですか。それは結構です、事あなたに関してはこれで安心しましたし、仕合わせと思います。それどころか、あなたがこの年寄りの私を捨てていかれることなく、いままでどおりいまのお住居《すまい》にいてくださることを喜んでいるくらいです。実際、なにもかも言わせてもらえば、ご自分の手紙のなかで私のことをあんなによく書いてくださったり、私の気心をそれなりに褒《ほ》めてくださったりしているのを拝見したとき、私は胸が喜びでいっぱいになりました。私は気位が高いからこんなことを言うのではありません。あなたが私の感じやすい心根について大変案じてくださっているときは、あなたが私をどんなに愛していてくださるかがわかるからなのです。まあ、いいでしょう。もういまさら私の心根のことなど話したってはじまりません! 心根って独立したもので、どうにもならないものですからね。
ところで、私にたいして、小心であってはいけないという強いお咎《とが》めでしたね。ワーリニカさん、私だっておそらく、そんな小心なんて必要ないということくらい言えますよ。しかし、ワーリニカさん、それじゃあなたにひとつ、あした私はどんな靴をはいて行ったらいいか、きめていただきましょう! 問題はこれだけのことなんですがね、ワーリニカさん、たしかに、こういったたぐいの心配が人間一匹を殺すことだってあるんですよ、完全に殺してしまうことだってあるんです。ところが、ここでいちばん肝心なことはですね、ワーリニカさん、私は自分のために悲しんでいるのでもなければ、自分のために悩んでいるのでもないということなんです。私だけのことならどうでもいいですよ、たとえ厳寒に外套も着ず、靴もはかずに歩こうと、私はいくらでも我慢しますよ、なんだって耐えしのんでみせます、私は平気ですよ。どうせ私なんか、しがない、ちっぽけな人間なんですから、……が、しかし世間の人はなんと言いますかね?……私の敵は、あの毒舌家どもはみんな、私が外套なしで歩いているところを見たら、なんと言い出すでしょう?
外套を着て歩くのも世間の連中のためだし、靴をはいているのだって、おそらく、連中のためですよ。こういう場合靴は、ワーリニカさん、私にとって体面とよい評判を維持するために必要なんです。それなのに穴だらけの靴なんかはいているために、私はその両方ともなくしてしまったのです。……信じてください、ワーリニカさん、私の長年の経験を信じてください。私の言うことを、世間と世間の人たちをよく知っているこの年寄りの言うことを聞いてください、そしてそこらの三文文士やへぼ作家などの言うことには耳を貸さないでください。
ところで、ワーリニカさん、実際にきょうはどんなふうだったのか、私はきょうどんなことを耐え忍んできたのか、私はまだ詳細にお話していませんでしたね。私は心のなかで、ほかの人ならまる一年かかってもなめつくせないほどの苦しみをひと朝のうちになめたんですよ。事の次第はこうです。
まず最初私は、例の男を家でつかまえ、勤めにも遅刻しないようにと思って、思いきり早く出かけました。きょうはひどい雨降りに、ひどいぬかるみでした! 私は外套にくるまって、歩きながら絶えず『神さま! わが罪をお許しくだされ、わが願いをかなえさせたまえ!』と念じつづけていました。××教会のそばを通り過ぎたとき、十字を切って、すべての罪を懺悔《ざんげ》しましたが、私には神さまと言葉をかわすほどの値打ちがないことを思い出しました。私は自分のなかに沈潜《ちんせん》してしまって、なんにも見る気がしませんでした。そこでもう、道がどうなっているのかも考えずに、どんどん歩いていきました。通りは人影もなく、たまに出くわす者と言えばみな、いかにも忙しそうな、怒ったような顔をした、心配そうな顔つきの人たちばかりでした。が、それも不思議はありません。そんな早い時刻に、しかもそんな天気にだれが遊びになど出るものですか! 私は汚い身なりの労働者の一群に出遭いました。乱暴な連中が私に突き当たりました。
私は急に怖気《おじけ》づき、薄気味悪くなって、正直言って、金のことなどを考えるのもいやになってしまいました、……出たとこ勝負だ! ヴォスクレセンスキイ橋のたもとで靴底が離れてしまい、そのためもう自分でも、なんの上を歩いているのやらわからない状態でした。
とそのとき、うちの役所の書記に出くわしたんですが、奴《やっこ》さん、体を前へ乗り出すようにして突っ立ったまま見送っているその恰好《かっこう》ときたら、まるで酒手《さかて》でもねだっているみたいなんです。
『ちえっ』と私は思いました。『酒手だと、こっちは酒手どころじゃないよ!』
私はひどく疲れたので、ちょっと足をとめて、ひと息入れ、またさらに歩き出しました。わざとあちこち見まわして、考えをなにかに固定させて、気をまぎらし、元気づけようとするのですが、だめです、ひとつと言えども考えをなにかに固定させることができません。おまけに、自分自身が恥ずかしくなるくらい、体じゅう泥だらけになってしまいました。
とうとう遠くから見晴らし台ふうの中二階のある黄色い木造の家が私の目にとまりました、……『うん、なるほど』と私は思いました。『エメリヤンさんがそう言っていたが、するとあれがそれにちがいない、……あれがマールコフの家だろう』(そのマールコフというのは、ほら、ワーリニカさん、金貸しをしている例の男なんですよ)
私はもうそのときは自分で自分がわからないような状態で、それがマールコフの家だとわかっているくせに、お巡《まわ》りに、……あれはどなたの家ですか?……などと聞いてしまいました。そのお巡りはひどくつっけんどんなやつで、しぶしぶと、まるでだれかに腹を立ててでもいるように、口のなかでもぐもぐ言って、……あれはマールコフの家だ、とこう言うんです。……お巡りってみんなそんなふうに情《じょう》のない連中ばかりですからね。が、お巡りなんか私にはどうでもいいんです……まあ、そんなわけで、なにもかもなんとなく感じが悪いし、不愉快なんです。ま、要するに、そういう不愉快なことの続出なんですよ。こういうときはつねにそういうものですが、見るもの聞くもの、なんでも自分の気分に似かよっているように感じるんですね。
私は家の前の通りを三回行きつもどりつしましたが、歩けば歩くだけ気分が滅入ってくるんです、……いや、貸しちゃくれまい、……とこう私は思いました。……絶対に貸しちゃくれないさ! こっちは見ず知らずの男だし、用件はおいそれとは乗れないようなものだし、こっちは風采《ふうさい》のあがらん男ときているんだから、……よし、あとで後悔しないですますためだけでもいい、ひとつ運を天にまかせてやってみるか、試してみたって取って食われるわけでもあるまい……とこう考えました。そしてそうっと木戸を明けたんですが、そこにもうひとつ災難が待ち受けていました。役立たずの馬鹿な番犬が私にしつこくつきまとって、死にもの狂いで吠えたてやがったのです!……ワーリニカさん、こういうくだらぬ小さな事件が、つねに人間に癇癪《かんしゃく》をおこさせ、臆病風を吹きこんで、前もってよくよく考えておいた決意がすっかり崩れてしまうものなんですよ。
そんなわけで私は生きた心地もなく家のなかへ飛びこんだわけですが、飛びこんだとたんに、もうひとつ災難にぶつかったわけです、……敷居際の暗がりの足もとになにがあるのか見わけがつかぬまま踏みこんだ拍子に、だれか女に突き当たってしまい、その女はちょうど牛乳桶から壷に牛乳を入れている最中だったので、牛乳を残らずぶちまけてしまったのです。その馬鹿な女はきゃっと悲鳴をあげて、ぶるっと身ぶるいをすると、……お前さんはどこへ入りこむつもりかね、なんの用だね?……と、こう言って、聞き捨てならぬことをまくしたてはじめたのです。
ワーリニカさん、ついでに申しあげておきますがね、私の場合こういう用件のときにはきまってこういうことが起きるんですよ。つまり私はこういう運命なんですね。いつでもかならずなにか余計なことに引っかかってしまうんです。この物音に、鬼婆のようなエストニヤ女のかみさんが首を出したので、私はじかに彼女に当たってみました。……マールコフさんのお住居《すまい》はこちらでしょうか? とね。すると相手は、いいえ、と言って、しばらく立ったまま、私をじろじろ眺めまわしてから、「あの人になんかご用ですかね?」と聞き返しました。で、私は、エメリヤンさんがこれこれこういうわけでと、ほかのこともつけ加えて説明し、……そういう用件でうかがったのです……と言いました。婆さんが娘を呼ぶと、……娘が入ってきました、素足《すあし》の年頃の娘です。……「おとうさんをお呼び。二階の下宿人のところにいるから、……さあ、どうぞ」と言われて、私は中へはいりました。部屋はなんのこともない、壁には絵がかかっているが、どれもこれもだれか将軍の肖像ばかりで、それに長椅子、丸テーブル、木犀草《もくせいそう》、鳳仙花《ほうせんか》の鉢などがおいてあるだけです、……私は、いい加減に、足もとの明るいうちに引きあげたほうがよくはないかな、帰っちまおうか、どうしようか? と思案していました。
ワーリニカさん、私はもう逃げ出したくてたまりませんでしたよ。……あした、また出なおしたほうがいいようだな、天気ももっとよくなるだろうし、待てばいいこともあるだろう……きょうはあそこへ牛乳はぶちまけちゃうし、将軍どもはあんな怒った顔をして睨《にら》んでいるしするからな、とこう私は思って……すでに戸口へ行きかけたところへ、例の男がはいってきました、……様子のごくありふれた、ごま塩頭の、いやに泥坊くさい目つきをした男で、脂《あぶら》じみたガウンに細ひもをしめています。どういうご用で、どうして来られたのかと聞くものですから、私は、こうこういうわけで、エメリヤンさんの紹介で、……四十ルーブリほどお借りしたいという、そういう用件で、と切り出しましたが、……しまいまで言いきらぬうちに、私は相手の目の色から、用件は不首尾だと見てとりました。
「いや、そういうことでしたら、金はありませんな。が、なにか担保《たんぽ》でもお持ちですかな?」
私は、担保はないが、エメリヤンさんがこうこうで、と説明しかけました……ま、要するに、金が入り用なのだと説明したわけです。むこうはすっかり聞きとってから、……だめですよ、エメリヤンさんがどうであろうと、手もとに金がないんですから……とこう言うのです。……ふん、そうか、やっぱりそうだったか、そんなことはちゃんとわかっていたよ、予感がしていたんだ……とこう私は思いました。
ワーリニカさん、いやまったくそのときは、足もとの地面が割れてしまったほうがましだと思いましたよ、寒さはひどくて足はしびれ、背筋はぞくぞく悪寒《おかん》がするんですからね。こっちは向こうを見つめ、向こうもこっちを見つめて、どうだね、さっさと出ていったら、お前さん、こんな所にはもう用事はないだろうが、とでも言わんばかりです、……ですから、ほかの場合だったら、恥ずかしくていたたまれなかったろうと思います。……それにしてもどうしてまたあなたはそんな金が入り用なんです?……(まったくこんなことまで聞くんですよ、ワーリニカさん!)
私は、そうやってただぼんやり突立っていてもしょうがないと思って、口を開きかけましたが、向こうは耳を貸そうともせずに、……金がないんですよ、ないんです、喜んでお貸ししたいところですがね……とこう言うんですね。そこで私はもう躍起《やっき》になって、ほんのわずかなんだし、いまも言うとおり、お返ししますよ、期限にはかならずお返しします、いや、期限前にだってお返しするし、利息も好きなだけ取ってもらいます、かならずお返ししますよ、とこう頼みこみました。ワーリニカさん、私はそのときあなたを思い出したんですよ、あなたのいろんな不幸や困窮状態も思い出し、あなたが廻してくだすった五十コペイカ銀貨のことも思い出しました。むこうは、……ないんですよ、担保《たんぽ》さえあれば、利息なんかどうだっていいんですがね! ところが、私には金がないんでしてね、ほんとうにないんですよ、喜んでお貸ししたいところなんですが、などと言って……盗人《ぬすっと》め、その上、神に誓って、なんてぬかしやがるんです!
ワーリニカさん、そのときはもう私は、どうやってその家を出、どうやってヴイボルクスカヤ通りを過ぎて、どうやってヴォスクレセンスキイ橋に出たのか、おぼえがなく、くたくたに疲れはて、体じゅう冷えきってしまい、ぶるぶるふるえながら、やっと十時頃勤めに顔を出せたような始末でした。私が泥を落とそうとすると、守衛のスネギリョーフが、それはいけませんよ、ブラッシが台なしになってしまいます、ブラッシは、旦那、お上《かみ》のものですからね、などとぬかしましたよ。この頃はあの連中までこんな調子なんですよ、ワーリニカさん、こんなわけであの連中のところでさえ、私は足を拭くぼろ切れにも劣るばかりの存在なんですからね。ワーリニカさん、私に死ぬような思いをさせているのはなんだと思います? それは金なんかじゃない、こうした浮世の不安、こうしたひそひそ話、冷笑、冗談などなんですよ。閣下もひょっとして出しぬけに私のことをおたずねになるかもしれませんしね、……ああ、ワーリニカさん、私の黄金時代も過ぎてしまいました! きょう、お手紙を全部読みかえしてみました。情ない気持ちですよ、ワーリニカさん!
では、さようなら、ワーリニカさん、ご機嫌《きげん》よう!
M・ジェーヴシキン
追伸 ワーリニカさん、私はこの悲しい出来事を冗談半分に叙述しようとしたのですが、明らかに、そういう冗談などというものは私の手にあわないようです。あなたを喜ばしてあげようと思ったんですがね。ワーリニカさん、お宅へうかがいますよ、かならずうかがいます
八月十一日
ワルワーラさん! ワーリニカさん! 私はもうだめです、ふたりともだめになってしまいました、取り返しがつかないくらいだめになってしまったのです。私の評判も自尊心も、……すべて消滅してしまいました! 私はもうだめです、あなたももうだめですよ、ワーリニカさん、あなたも私ともども回復もおぼつかないくらいだめになってしまったのです! それは私なのです、私があなたを身の破滅に引きこんでしまったのです! ワーリニカさん、私はいじめられ、軽蔑され、物笑いの種にされています、それにおかみは私を徹底的に罵倒《ばとう》しはじめました。きょうは私をさんざんにどなりつけ責め立てて、まるで木ぎれ以下のあつかいなのです。
また、ゆうべはラタズャーエフのところで連中のうちのだれかが、私があなたあてに書いておいて、うっかりポケットから落としてしまった手紙の下書きを朗読しやがったのです。ワーリニカさん、そのときの連中の冷かしようといったらありませんでしたよ! ふたりをやんやとはやしたて、さんざん笑い立てやがったんですよ、あの裏切りどもめが!
私は連中の部屋へはいっていって、ラタズャーエフの背信行為を難詰《なんきつ》して、君は裏切り者だと言ってやりました! すると、ラタズャーエフが答えるには、あなたこそ裏切り者じゃないですか、いろいろと女をたらしこむようなまねをやっているじゃありませんか、と言うのです。あなたはわれわれに隠していたんじゃありませんか、あなたはラヴレース〔英国のサミュエル・リチャードソンの長編小説『クラリッサ・ハーロウ』の主人公の名。当時女たらしの異名に用いられていた〕ですよ、とこう言うんです。そしていまでは、もうだれもかれも私をラヴレース呼ばわりして、私にはほかに名前がなくなってしまっているんです! いいですか、ワーリニカさん、いいですか、連中はいまではもう、みんな知っているんです、なにからなにまで知れわたってしまっているんですよ、ワーリニカさん、あなたのことも知っていれば、あなたのところにあるものも、なにもかも知っているんです! そればかりじゃない! ファリドニまでそのまねをしているんですよ、あいつまでやつらと気脈を通じやがるんです。きょう| 腸 詰《ソーセージ》屋へ使いにやって、すこしばかり買ってきてもらおうとしたところが、用事があるとか言って、行こうとしないんです! で、私が、だってそれがお前の義務じゃないか、と言うと、「そんなことはありませんよ、そんな義務なんかあるもんですか、あなたがうちのおかみさんに金を払っていない以上、あなたにたいしては義務なんかありませんよ」とこう言いやがるんです。
で、あいつの、あの無教育な土百姓の侮辱にこらえきれなくなって、馬鹿野郎とどなりつけてやると、やつは私に……「そういうそっちこそ馬鹿じゃねえか」とやり返しやがる。で、私は、こいつ酔ったまぎれにこんな乱暴な口をききやがるんだなと思ったものですから、……さらに、「きさまは酔っぱらっているんだな、この土百姓め!」と言ってやると、やつは私に「お前さんは、おれになにかくれたことでもあるのかね? 迎え酒の酒手《さかて》も持っていねえくせに。どこかの女《あま》から二十コペイカずつ恵んでもらっているくせに」と言いかえしてからに、さらに「へん、それでも旦那面《だんなづら》してけつかる!」と、こんな言いぐさまでつけ足《た》しやがるんですよ。
こうなんですよ、ワーリニカさん、事はこんなところまできているんですよ! 生きているのも気恥ずかしいくらいですよ、ワーリニカさん! まるで半気ちがいあつかいなんです。旅券なしの浮浪者かなんかよりもひどいんですからね。ひどい災難ですよ! 私はもうだめです、まったくだめです! 取り返しがつかないくらいだめになってしまいました!
M・D・
八月十三日
ご親切なマカールさま! こう不幸につぎからつぎへと襲われては、わたしにももう、どうしたらいいのかわかりませんわ! これからあなたはどうなるんでしょう、 それにわたしまでが当てにならなくなってしまったのです! きょう、アイロンで自分の左手に火傷《やけど》をしてしまったんですの。うっかり落としてしまったものですから、打ちみと火傷《やけど》といっしょでしたの。これじゃとても働くこともできませんわ、それにフェドーラも病気をして、これでもう三日めなんですの。わたし不安に悩まされています。銀貨で三十コペイカお送りします。これはわたしたちのほとんどなけなしのお金ですの、それこそほんとうにわたし、いまお困りになっていらっしゃるあなたをお助けしたい気持ちでいっぱいです。涙が出るほど残念ですわ! では、さようなら、マカールさま! きょういらしってくださると、ほんとうにわたし慰めになるんですけど。
V・D・
八月十四日
マカールさま! あなたはいったいどうなすったんですの? きっと神さまのお怒りなど恐くなくなったんでしょう! おかげで、わたしすっかり気が変になってしまいますわ。きまり悪くありませんの! あなたは身を滅ぼそうとしていらっしゃるんですわ、せめてご自分の評判のことだけでもお考えになってくださいな! あなたは誠実で潔白で自尊心の強い方じゃありませんか……皆さんがあなたのことを知ったらどうなります? それこそあなたは恥ずかしさのあまり死なずにいられなくなりますわ! ご自分の白髪《しらが》が泣きますわ。神さまが恐くはありませんの!
フェドーラは、もうこれからはお助けしないと言っていましたけど、わたしもお金はさしあげませんわ。……マカールさま、あなたはわたしをずいぶんひどい目にあわせたわけですのよ! あなたはきっと、自分はこんなふうに身持ちが悪くとも、わたしのほうはなんともないだろうとお考えなのね。わたしがあなたのおかげでどんなことを忍んでいるか、まだご存じないんですのね! わたし、うちの階段の上り降りもできないくらいなんですのよ。みんながわたしをじろじろ見たり、わたしを指さしたり、それはそれは恐ろしいことを言うんですもの。≪あの女は酔っぱらいとくっついているんだよ≫なんて、ずけずけと言うんですもの! それを聞くときの気持ちは、どんなだと思います? あなたが連れて来られたときには、下宿人がみんなして軽蔑顔で指さしながら、ほら、例の役人がかつぎこまれたぞ、なんて言っているんですよ。
わたしはもうあなたが恥ずかしくて恥ずかしくてたまりませんわ。誓って言いますけど、わたしここを引きはらってしまいますわ。どこかへ女中か洗擢女に行ってしまって、こんな所にはもういませんからね。わたし来てくださるようにと書いてさしあげたのに、来てくださいませんでしたのね。これはつまり、あなたにはわたしの涙やお願いなんかなんでもないってことでしょう、マカールさま! それに、あなたはどこからお金をこしらえてきたんですの? どうか自重してください! 身を滅ぼしてしまうじゃありませんか、どうしたって身を滅ぼすことになりますわ! それにこの恥ずかしさ、大変な恥さらしでしょう! きのうはおかみさんがあなたを家へ入れてくれなかったものだから、あなたは玄関でごろ寝をなすったんでしょう。わたしはみんな知っているんですよ。わたしがそれを知ったとき、どんなに辛《つら》い気持ちがしたか、察していただきたいわ。家へいらしってください、うちだったら愉快になれますわ。いっしょにご本を読んだり、昔のことをしのんだりしましょうよ。フェドーラが巡礼参りをした頃のことを話してくれますわ。
後生です、マカールさま、ご自分の身も、わたしの身も滅ぼすようなことをしないでください。わたしはあなたおひとりのために生きているんですもの、あなたのために、こうしておそばを離れないでいるんですもの。それなのにこの頃のあなたときたら!
立派な、不幸にもめげない人間になってください。貧は罪ならずということをお忘れなく。それにまた、どうして自暴自棄になることがありますか。これはみんな一時的なことじゃありませんか! 大丈夫……なにもかも立ちなおりますわ、ただあなたはいま頑張ってさえいてくださればいいんですのよ。二十コペイカ銀貨をお届けしますから、タバコなり、なんなりほしいものをご随意にお求めください、ただ後生ですから、悪いことにはお使いにならないでくださいね。家へいらしってください、ぜひいらしってください。いつかのように恥ずかしい気持ちがするかもしれませんけど、恥ずかしがることはありませんわ。そんなのはほんとうの恥じゃありませんもの。ただ心から悔悟してくださればいいんですわ。神さまにおすがりなさい。神さまは何事もよいほうへ運んでくださいますから。
V・D・
八月十九日
ワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
ワルワーラさん、お恥ずかしいことです、すっかり恥じ入りました。しかし、この場合はなにも取り立ててどうのというほどのこともありますまい? どうして気晴らしをしてはいけないんです? その間は自分の靴底のことなど考えません、だって靴底なんて馬鹿げたものですからね、どこまでも単なる、くだらない、汚い靴底にすぎないんですから。それに長靴だってやっぱり馬鹿げたものですよ! ギリシャの賢人たちでも靴などはかずに歩いていたんですから。われわれともがらにかぎって、なにもそんなつまらないもので仰山《ぎょうさん》に騒ぎたてることもないじゃありませんか! だとしたら、なにも私などを辱《はずか》しめる理由もなければ、軽蔑する理由もないはずでしょう! ちえっ、ワーリニカさん、ワーリニカさん、これはまたとんだことを書いておよこしになったものですね! それからフェドーラには、お前はくだらない、落着きのない、激しやすい、おまけに馬鹿な、なんとも言いようもないほど馬鹿な女だと言ってください。それから、私の白髪《しらが》のことですが、この点でもあなたは誤解していますよ、ワーリニカさん、私は全然、あなたが考えるほどの年寄りじゃないんですからね、エメリヤンさんがあなたによろしくとのことです。あなたは悲嘆に暮れて泣いてばかりいると書いておよこしになりましたね。それなら私も書きますが、私もやはり悲嘆に暮れて泣いていました。末筆ながら、ご健康とご無事をお祈りします、私のほうは同様健康で無事に過ごしております。
あなたの親友
マカール・ジェーヴシキン
八月二十一日
親切な友のワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
私は悪いと思っています、あなたにたいして悪いことをしたと思っていす。が、しかし私の考えるところ、あなたがなんと言ってくださっても、私がこう思っているだけでは、ワーリニカさん、何の足《た》しにもなりません。私はあんなふしだらをしでかす前でも、こういうことを感じていたのに、このとおり気がくじけて、悪いとは知りながら堕落してしまったんですからね。ワーリニカさん、私は意地悪でもなければ、残忍な人間でもありません。ところが、あなたの心をさいなむには、ワーリニカさん、ちょうど血に餓《う》えた虎のようでなければなりません、それなのに私の心は羊のそれでして、私は、ご承知のとおり、残忍な衝動にかられることはありません。従って、ワーリニカさん、私の心にも考えにも罪がないと同様に、私は自分の過失においてもそれほど罪はないはずです。そんなわけで、私はどこが悪いのかわかっていないんですよ。いやまったくわけのわからない話ですね、ワーリニカさん! あなたは私に銀貨で三十コペイカ送ってくださったのに、そのあとさらに二十コペイカ送ってくださいました。身なし子のあなたのお金を眺めたとき、私は胸がうずきました。ご自分は手に火傷《やけど》をして、いまにも飢《う》えようとしている身でありながら、私にタバコでもお買いなさいと言ってくださる。
さてこういう場合、私はどうすべきだったのでしょう? いっそ、それなら良心の呵責《かしゃく》もおぼえずに、泥棒のように、身なし子から金を巻きあげはじめてよかったのでしょうか? こう考えたとき、私はすっかり意気消沈してしまったのです、ワーリニカさん。つまりまず、自分はなんの役にも立たない男だ、おれは自分の靴底よりもたいしてましな男じゃないと、いや応なしに思うようになり、自分をなにか意義のあるもののように思うのは怪《け》しからんと思いはじめ、果ては逆に、自分自身をなにか怪しからん、かなり礼儀をわきまえない男と考えはじめたのです。が、ひとたびこうして自尊心を失い、自分の長所と自分の価値の否定に身を任せたが最後、もうなにもかも消滅してしまえということになり、そこにはもう堕落しか、避けえない堕落しかありません! これはそうなる運命なのであって、その点では私は悪いわけではないのです。
私ははじめ、すこし気晴らしをするつもりで出かけたのです。ところが、そのときはなにもかも道具立てがそろってしまったわけです。あたりの自然はいまにも泣き出しそうだし、天気はさむざむとして雨もよいと来ている。そこへ、例のエメリヤンさんに出くわしたわけです。ワーリニカさん、彼はすでに自分の持っているかぎりのものを全部|質《しち》に入れてしまって、彼のものは全部おさまる所へおさまってしまい、私が彼に出遭ったときには、彼はもう二日二晩、けし粒ひとつ口に入れてない状態だったため、絶対に質には入れられないような代物、質草でもないようなものを持っていこうとしていたところだったのです。
さあ、こうなったらやむを得ませんよ、ワーリニカさん、私は自分自身が迷ったというより、むしろ人間にたいする同情に負けてしまったのです。ま、こういうふうにして例の不行跡が発生したわけなんですよ、ワーリニカさん! ふたりはいっしょにさんざん泣きましたよ! あなたの噂話もしました。彼はとても善良な男でしてね、とても善良で、すこぶる情にもろい男なんです。ワーリニカさん、私はこういったことがよくわかるんですよ。こういったことが非常によくわかるからこそ、私はああいうことを起こしてしまうんです。ワーリニカさん、私はあなたにどんなに世話になっているか、それはよく承知していますよ!
私はあなたを知ったおかげで、第一、自分自身が前よりよくわかってきたし、あなたが好きにもなりました。あなたを知るまでは、ワーリニカさん、私は孤独で、この世に生きているというより、まるで眠っているようなものだったのです。連中は、あの悪党どもは、私の| 姿 恰 好《すがたかっこう》 まで無礼だなどと言って、私を忌《い》み嫌っていたものですから、私までが自分を忌み嫌うようになり、人が、あいつは頭の悪いやつだと言うものだから、実際に自分は頭が悪いのだと思っていたのです。
そこへあなたが私の前に姿を見せて、私の暗い生活をくまなく照らしてくだすったため、私は心も性根も明るくなり、心の安らぎを得、おれだって他人に劣らないのだと自覚したわけです。これだけではなにひとつぱっとしたところもないし、押し出しもよくなければ品格もないが、それでもやはり一個の人間だ、心から言っても考えから言っても、おれは一個の人間なのだと自覚したのです。
ところが今度また、自分は運命の迫害を受けていると感じ、運命の虐待を受けて、自分自身の価値の否定に身をまかせてしまったと感じたとたんに、私は重なる災難に悩み疲れて、意気沮喪《いきそそう》してしまったわけです。ですから、ワーリニカさん、これでもうあなたもすっかりおわかりでしょうから、この問題はこれ以上せんさくなさらぬよう、泣いて懇願《こんがん》します、胸が張り裂けそうになり、辛《つら》くも苦しくもなりますから。敬具
あなたの忠実な
マカール・ジェーヴシキン
九月三日
この前の手紙を最後まで書かなかったのは、マカールさん、書くのが辛かったからです。わたしはときどき、ひとりでいるのが嬉しいことがあるんです。相手もなしに、ひとりで悲しんだり、ひとりで悶《もだ》えたりしているのが嬉しいようなときがあって、この頃わたしにはそういうときがますます頻繁《ひんぱん》に訪れるようになってきております。わたしの思い出のなかには、なにか自分にも説明のつかない不思議なものがあって、私はそれに無意識にぐいぐい引きこまれていくものですから、何時間でも周囲のものになにひとつ気がつかずに、現在というものをすっかり忘れてしまっていることがあります。現在のわたしの生活の印象で、それが楽しいものであれ、苦しいものであれ、悲しいものであれ、なにか自分の過去にあったことを、なかんずく自分の黄金時代である幼年時代のことを思い起こさせぬものはありません! ですけど、そういうひと時のあとではいつも重苦しい気持ちになるんですの。わたし、なんとなく体《からだ》が弱ってきているようですわ。自分の空想癖に疲れはててしまうからなんですけど、それでなくとも体のぐあいはますます悪くなってきております。
でも、きょうは、ここの秋にはめずらしくすがすがしい、晴れやかな、輝かしい朝でしたので、わたしは生きかえったような気分になって、嬉しく朝を迎えました。いよいよ、ここももう秋ですわね! わたし、田舎にいた頃は、秋がとても好きでしたわ! あの頃はまだほんの子供でしたけど、それでももういろんなことを感じていました。わたしは秋は夕方のほうが朝よりも好きでした。いまでもおぼえていますけど山の麓《ふもと》の、わたしの家から数歩のところに湖がありました。その湖は、……いまでもそれを目《ま》のあたりにしているような気持ちになりますが、……とても広く、水晶のように平らで明るく澄みきっていました! 静かな夕暮れですと、……湖はひっそりとしていて、岸辺に生い茂る木々は葉ずれの音ひとつせず、水は鏡のように、動こうともしません。空気はさわやかで、寒いくらいです! 草には露《つゆ》がおり、岸辺の百姓家にはぽつぽつ灯がともり出し、家畜の群れが追われてきます。……私が自分の好きな湖を見に、家をそっと抜け出して、そういう景色に見とれるのは、そんな時刻ですの。
水際《みぎわ》の漁師たちのかたわらでは粗朶《そだ》の束らしいものが燃えていて、その火の光が水面を遠くへ流れていきます。空は青々といかにも冷たそうで、その外れには一面に赤い火の帯がひろがっていて、その火の帯が次第に青白色をおびてくる。やがて月が出ます。空気はいやが上にも澄みきって、物音に驚く小鳥の飛び移る音だろうと、葦《あし》の葉のそよ風にさわぐ音だろうと、水面に魚の躍《おど》り出る音だろうと、……なんでも聞こえてきます。青い水面には白い、淡い、透明な蒸気が立ちのぼっています。遠方は暗くなってきて、万象が靄《もや》のなかに沈んできますが、近くのものは……小舟も、岸も、島々も……みな、のみで浮彫りにでもしたように、くっきりと浮いて見えます。……岸のすぐ近くにおき忘れた樽《たる》のようなものが水面に微かに揺れるともなく揺れ、黄ばんだ葉をつけた白柳の小枝が葦《あし》のなかにまざっている、……帰り遅れたかもめが一羽、ぱっと飛び立つと見る間に、冷たい水に体をひたしたり、また飛び立ったりして、靄《もや》のなかに姿を消していきます、……わたしはそういう景色に見とれたり、聞きほれたりしているのでした。 すばらしい、 いい気分でしたわ! わたしはまだ幼児で、ほんの子供だったんですけどねえ!……。
わたしは秋が大好きでしたわ、……もう殻物の取り入れもすみ、野良仕事もすっかりおわって、はやくもほうぼうの百姓家に夜の寄りあいがはじまり、すでにみんなで冬の訪れを待っているあの晩秋が大好きでした。その頃はすべてがもっと陰欝になり、空は雲におおわれてどんよりと曇り、黄色い朽ち葉は裸になった森の外れの小道を埋め、森は、とくにしっとりした霧のたちこめる夕暮れどきなど、青色をおび、黒ずんできて、霧のなかから立ち木が、まるで巨人のように、醜いおそろしい幽霊のように、ちらちら見えます。散歩で帰り遅れ、ほかの人から離れてひとりで急ぎ足にもどるときなど、……気味が悪いんですの! 自分も木の葉のようにぶるぶるふるえています。いまにもその辺の洞穴《ほらあな》のなかから、だれか恐い人がぬっと姿をあらわすのではないかと思って。
そのうちに、風が森のなかをさあっと吹きとおり、ごうと音をたてて、ざわめき出し、いかにも哀れそうに吠えはじめ、枯れ枝から無数の葉を引きちぎって、くるくると空中に巻きあげると、そのあとを追って小鳥が長くて幅広い騒々しい群れをなして、異様な鋭い啼声《なきごえ》をたてながら飛びすぎ、そのため空が一面に真っ黒になり、すっかり小鳥でいっぱいになってしまいます。すると恐くなり、まるで人声が……だれかの声が……聞こえ出したような、だれかが……「走れ、走れ、子供、遅れるな、この辺はすぐに恐くなるぞ、走れ、子供!」とささやいているような気がする。……すると心の底まで恐くなって、息もつまりそうになりながら、ひた走りに走る。そして息を切らしながら家へ駆けつけたものです。家のなかはにぎやかで陽気です。
わたしたち子供にも仕事が割り当てられます。えんどうやけしの莢《さや》を剥《む》くのです。湿った薪《まき》が暖炉《だんろ》のなかでぱちぱち音をたてている。おかあさんはわたしたちのはしゃいだ仕事ぶりを、楽しそうに跳めています。婆やのウリヤーナは昔話や、おそろしい魔法使いや幽霊の話をしてくれます。わたしたち子供は体を寄せあって、みんな唇のあたりに微笑をうかべています。
と不意に、一斉《いっせい》におし黙ってしまいます……おや! 音がした! だれかが戸をたたいているようだ! ……が、それはたいていなんでもないのでした。それはフローロヴナ婆さんの糸車の音なのです。どっと大笑いになります! が、そのあとの夜はおそろしくて眠れず、とても恐い夢に襲われるのです。目がさめても、身じろぎひとつできず、夜の明けるまで布団のなかでぶるぶるふるえているのでした。
朝になると、花のように生き生きとして起き出します。窓の外を眺めると、野面は一面に霜《しも》におおわれ、秋のほそい氷柱《つらら》が裸になった枝にさがっており、湖には紙のように薄い氷が張って、湖面から白い水蒸気がゆらゆらと立ちのぼっています。小鳥は陽気にさえずっている。太陽はあたり一面をまばゆい光で照らし、その光線が薄氷をガラスのようにこまかく崩します。あたりは明るく、晴れ晴れとして、楽しそうです! 記憶のなかではまた火がぱちぱち音をたてはじめる。みんながサモワールの近くに陣取ると、夜なかに冷えこんでしまったうちの黒犬のポルカンが窓をのぞきこんで、愛想よく尻尾《しっぽ》を振りたてる。お百姓さんが森へ薪をとりに元気のいい馬に乗って窓のそばを通っていきます。だれもかれも大いに満足し、いかにもほがらかそうです……穀物小屋には穀物がいっぱい蓄《たくわ》えてあり、藁《わら》をかぶせた大きな麦の山が太陽の光に金色に輝いていて、見た目も楽しいくらいです! そしてだれもが落ちついた気分だし、みんな嬉しそうです。神さまがみんなに豊作を恵んでくださったからです。だれもが、冬の穀物の蓄えがあることを知っているし、お百姓さんは妻子がひもじい思いをしないですむことを知っているからです。だから毎晩娘たちの甲高《かんだか》い歌声と輪舞がやむこともないし、祭日には一同うち揃《そろ》って教会で感謝の涙を浮かべてお祈りをささげるのです!……ああ、わたしの幼年時代はほんとうに輝かしい黄金時代でした!……
あら、わたしはいま、自分の思い出にひきこまれて、子供みたいに、おいおい泣いてしまいましたわ。わたし、ほんとうにまざまざと、ほんとうにありありとすっかり思い出してしまったんですもの、過ぎ去ったことが全部、それこそはっきりと目の前にうかんだんですもの、これにひきかえ、現在はほんとうに陰気で、ほんとうに暗澹《あんたん》としていますわ!……最後はどういうことになるんでしょう、結局どういう結果になるんでしょうね?
実はねえ、わたし、この秋にはかならず死ぬという確信のようなもの、信念のようなものを持っているんですの。とても体のぐあいがよくないんですもの。わたし、しょっちゅう死んでしまうんじゃないかと思うことがあるんですけど、やっぱりこのまま死んで……ここの土になりたくはありませんわ。ひょっとしたら、わたしまた、この春のように床についてしまうかもしれません。まだなおりきっていなかったんですもの。いまだってわたしとても辛《つら》いんですの。フェドーラは、きょうは一日がかりでどこかへ出かけたものですから、わたしひとりなんですよ。わたしはしばらく前からひとりぼっちでいるのが恐くなってきましてねえ。しょっちゅう、部屋のなかにだれかよその人がいっしょにいて、話しかけられているような気がするんですの。とりわけ、なにか考えこんでいて、ふと物思いからさめたようなときにそうなるものですから、おそろしくなるんですの。こんな長い手紙を書いたのも、そのためですのよ。書いていると、それがまぎれますからね。
では、失礼しますわ。これで手紙をおしまいにします、紙も時間もありませんから。服と帽子を買おうと思って取っておいたお金も、もうあと銀貨で一ルーブリになってしまいました。おかみさんに銀貨で二ルーブリあげたそうですけど、それは大変いいことですわ。あの人もしばらくは口をつぐむことでしょう。なんとかご自分の服をおつくろいになったらいいと思います。
では、さようなら。ぐったりしてしまいましたわ。どうしてこんなに弱ってしまったのか、自分でもわかりませんの。ちょっとお仕事をしただけでも、疲れきってしまうんですもの。仕事が見つかっても、……これじゃ働けっこありませんわ! それを思うと、死ぬ思いです。
V・D・
九月五日
かわいいワーリニカさん!
きょうは、ワーリニカさん、ずいぶんいろんな気分を味わいましたよ。第一、きょうは一日じゅう頭が痛かったのです。なんとか気を晴らそうと思って、フォンタンカ運河のほうへそぞろ歩きに出かけました。じつに陰気な、じめじめした夕方でした。五時過ぎになると、たそがれてきます、……この頃はそうですものね! 雨は降っていませんでしたが、そのかわりいい加減な雨にも劣らぬ霧が立ちこめていました。空には黒雲が広い帯状をなしてただよっていました。河岸通りを数知れぬ人の群れが歩いていましたが、みなまるでわざとのようにいやにおそろしそうな、人を沈欝にさせるような顔つきをしていて、酔っぱらった百姓とか、長靴ははいているが頭にはなにもかぶっていない獅子《しし》っ鼻のエストニヤ女とか、荷運び人夫とか、御者《ぎょしゃ》とか、なにかの用事で出てきたわれわれの仲間の役人とか、少年たちとか、縞《しま》の上っ張りを着こみ、錠前を手に持ち、油煙だらけの顔をした、痩せこけた、肺病やみの、どこかの錠前屋の小僧とか、商人にペンナイフか青銅の指輪を売りつけようと待ち受けている、身の丈《たけ》が二メートル余もある退役軍人とか、……そういった人たちばかりでした。時刻も明らかに、そういう連中でもなければ出てこない時刻だったのです。
船舶の通うフォンタンカ運河! ここにはこれだけのものがどうしてはいりこめるかと怪しまれるくらいのおびただしい荷船が集まっています。橋の上には、濡れた蜜入り菓子や腐ったりんごを持った女どもが腰をおろしていましたが、揃いも揃ってみんな実に汚いなりの、濡れしょぼれた女ばかりです。フォンタンカの散歩は退屈ですよ! 足もとには濡れた花崗岩《かこうがん》があり、両側には高い、真っ黒な、煤《すす》だらけの建物が立ち並び、足下も霧、頭上も霧ですからね。きょうの夕方はいやに陰欝なひどく暗澹《あんたん》とした夕方でした。
ゴローホワヤ通りに曲がった頃にはもうすっかり暗くなって、ガス燈に灯をともしはじめていました。私はゴローホワヤ通りは久しぶりでした……そういう機会がなかったのです。まったく賑《にぎ》やかな街ですねえ! なんと立派な小店や大きな店があることでしょう。ガラスのなかの布地にしても、花にしても、いろんなリボンつきの帽子にしても、なにもかもが燦然《さんぜん》と輝き、燃えているのです。こういったものはただ装飾のために並べてあるのだと考える人もいるかもしれませんが、……そんなことはありません。そういうものを買って妻君に持っていってやるような人が確かにいるんです。豪勢な街ですよ!
ゴローホワヤ通りにはドイツ人のパン屋もじつにたくさんいます、やはり大変裕福な連中にちがいありません。ひっきりなしに往来している馬車の数も大変なものです。どうして舖道が保《も》っているかと思うほどです! 馬車はじつにきらびやかに飾りたててあって、ガラスはまるで鏡みたいに光っているし、内側にはビロードや絹が張ってあるし、士族の下僕などは肩章《けんしょう》をつけたりサーベルをさげたりしているのです。
私はいちいち馬車のなかをのぞきこんでみましたが、みな貴婦人が美々しく着飾って乗っているのです。多分、公爵夫人だの、伯爵夫人だのなんでしょうね。きっと、皆さん、舞踏会や集まりに急ぐ刻限だったのでしょう。公爵夫人にかぎらず、一般に高貴な夫人たちを間近に見るのは、興味ぶかいことでしょうね。とても愉快なことに相違ありません。私はせいぜいきょうみたいに、ただ馬車のなかをのぞき見するくらいのところで、まだ一度も見たことがないんです。
そのとき、私はあなたのことを思い出しました。……ああ、ワーリニカさん、ワーリニカさん! こうしてあなたのことを思い出すと、胸がうずき出すんですよ! ワーリニカさん、どうしてあなたはそんなに不運な人なんでしょう! ワーリニカさん! あなたは、いったいどこがあの人たちに劣っているというんでしょう? 私のあなたは、気立てはいいし、美しいし、学問のある人なのに、いったいどうしてそのあなたにはこんな不運が見舞うんでしょう? いったいどうしてこういうことが起きるんでしょう、こういう立派な人間がこんな荒涼たる生活を送っているのに、だれかほかの人にはひとりでに幸運が舞いこんでくるというようなことが?
ワーリニカさん、知っていますよ、知っていますとも、そういうことを考えるのはよくない、それは自由思想というものだということくらいは。それにしても、正直言って、ほんとうのところ、どうしてある女には、まだ母親の胎内にいるうちから運命の鴉《からす》が幸運を啼《な》き知らせてくれるというのに、一方には孤児院から世のなかへ出ていかなければならぬ者がいるのでしょう? 往々にしてイワンの馬鹿だってこうした幸運が授かるじゃありませんか。イワンの馬鹿、お前はお祖父さんの金袋のなかを掻きまわして、飲んだり食ったり遊んだりするがいい、だが、だれそれや、お前のほうはただ舌なめずりをしていろ、お前はせいぜいそんなことぐらいにしか向かないのだ、お前はそういう人間なのだ! というわけですよ。罪な考えですとも、ワーリニカさん、こんなふうに考えるなんて罪ですよ。ですけど、あそこにいくと、自然にこういう罪な考えが心のなかに忍びこんでくるんですよ。
ワーリニカさん、あなたもああいう馬車が乗りまわせたらね。われわれじゃなくて、将軍達があなたの好意の眼差しを求めるようになったらいいんですがね。そして麻地の古びた服などじゃなくて、絹物を着て、金ずくめで歩けたらいいんですがね。そして、いまみたいに痩《や》せこけて病身ではなくて、砂糖菓子の人形のように、溌剌《はつらつ》として、赤い頬っぺたで、肥えていたらいいんですがね。そうなったら、私は通りから、煌々《こうこう》と照らされた窓のなかのあなたをひと目見ただけでも、あなたの影を見ただけでも、幸福な気持ちになりますよ。あなたはあそこで仕合わせに楽しく暮らしていらっしゃると思うだけでも、私は楽しい気持ちになるに相違ありません。
それがいまはどうでしょう? 悪党どもがあなたの一生を台なしにしてしまっただけでなく、どこかその辺のやくざが、道楽者が、あなたに侮辱を加えているじゃありませんか。そういう恥知らずめが燕尾服《えんびふく》を気どったかっこうに着こなして、金縁の|柄つき眼鏡《ロルネット》であなたを見ただけで、もうなんでも思うとおりになる、そしてあなたは、そいつの無作法きわまる横柄《おうへい》な言いぐさでも、ごもっともと拝聴《はいちょう》していなければならないというんですか! いい加減にしてもらいたいね、そうでしょう! じゃ、いったいどうしてこんなことになるんでしょう? あなたが孤児だからですよ、あなたが寄るべのない女だからです。あなたに適当な支援をしてくれる力強い友がいないからですよ。孤児を平気で侮辱できるなんて、どんな人間なんでしょう、どんな人間どもなんでしょう? そんなのはどこかその辺のやくざではあっても、人間じゃありませんよ、やくざ以外の何者でもありません。自分で勝手に人間のなかに入れているだけで、実際は人間じゃありませんよ、私はそう信じています。やつらはそういう連中なんですよ、ああいうやつらは! 私に言わせれば、ワーリニカさん、私がきょうゴローホワヤ街で出遭ったあのシャルマンカ弾《ひ》き〔小型オルガンを肩にさげて歩く大道芸人〕のほうが、やつらよりよっぽど尊敬の念を呼びおこしますよ。
あの男は一日じゅう歩きまわって、くたくたに疲れきって、人から財布の底に残っていた、びた銭をもらいながら自分の口を糊してはいるが、そのかわりあの男はあれでひとかどの紳士ですよ、自分で自分を養っているんですからね。彼は施《ほどこ》しを乞《こ》う気はありません。それよりも彼は人を喜ばすために、ぜんまい仕掛けの機械のようにせっせと働いて……できるかぎりのことで満足していただこうと思っています、と言っているのです。乞食は乞食ですよ、たしかに乞食にはちがいありません。が、そのかわり高尚な乞食です。彼は疲れきっていました、凍《こご》えていました。が、それでも勤労に励んでいるのです、それはそれなりに勤労に従事しているのです。
ワーリニカさん、世のなかにはこういうまじめな人間がたくさんいるのです。自分の労働の量と有益性から言えば稼ぎ高はすくないけれども、だれにも頭をさげず、だれにもパンを乞わないという人間がね。かく言う私もちょうどこのシャルマンカ弾きとおなじようなものです。つまり私は完全に彼とおなじとは言えないにしても、ある意味では、高尚であり貴族的であるという点ではまさに彼とおなじです。力に応じて、いま言ったように、できるかぎりのことで勤労に励んでいるわけですからね。私からは大きなことは期待できませんよ。ない袖は振れませんからね。
私がこんなシャルマンカ弾きの話を持ち出したのはね、ワーリニカさん、きょうはたまたま自分の貧乏なことを倍も痛感せざるを得ないことになったからなんです。私はシャルマンカ弾きを見物するために立ちどまったのですが、ああいういやな考えが頭にはいりこんできたものですから……それで私は、気晴らしにと思って、立ちどまったのでした。そこに立っていたのは私と、数人の御者と、どこかの女中と、それにひどく汚いなりをした、まだ年もいかない女の子でした。シャルマンカ弾きはどこかの家の窓先に陣取っていました。ふと私はそこに、十《とお》にもなるかと思われるくらいの男の子がいるのに気づきました。顔立ちはかわいい子なんですが、うち見たところ、いかにも病身らしく、ひよわそうで、着ているものはシャツ一枚きり、それでも履物《はきもの》は履いているのですが、ほとんどはだし同然で佇《たたず》んだまま、口をぽかんとあけて、音楽を聞いているのです、……まだ子供なんですねえ! ドイツ人の手もとで人形が踊るのにじっと眺め入っているのですが、本人は手も足もかじかんでしまい、ぶるぶるふるえながらシャツの袖口を噛《か》んでいるのです。見ると、その手にはなにか紙きれが握られています。
そのとき、ひとりの紳士が通りすがりに小銭をシャルマンカ弾きに投げていきました。その小銭は、フランス人が婦人たちとダンスをしているところを型どった縁飾りのついた例の箱のなかへ真っ直ぐ落ちました。小銭がちゃらんと音をたてたとたんに、くだんの男の子はぶるっと身ぶるいをし、おずおずあたりを見まわしたかと思うと、明らかに金を恵んだのは私だと思ったらしく、私のほうへ駆け寄ってきて、小さな手をわなわなさせ、小さな声をふるわせながら、私のほうに紙きれをさし出して、「これを!」と言うのです。
書きつけを開いてみますと……なに、なんのこともない、みんなわかりきったことです。……お慈悲ぶかい皆さま、この子たちの母親はただいま死にかけており、三人の子は飢《う》えておりますので、どうぞわたしたち親子をお助けくださいまし。わたしはこのまま死にましても、お慈悲ぶかい皆さま、わたしの子供たちをお忘れにならなかったご恩は、あの世へ行きましても、けっして忘れるものではありません、というのです。別に変わったことはありません。事態は明瞭です、生活の問題なのです。が、私にはその親子になにを恵んでやれるでしょう? ですから、その子になにも恵んでやりませんでした。
しかし、ほんとうにかわいそうでした! 少年はかわいそうに、寒さに顔は青ざめています。あるいは飢えているのかもしれません。その子は嘘《うそ》をついているのではありません、絶対に嘘などついているわけじゃありません。そういうことは私にはわかるのです。それにしても、なぜこういう卑しい世の母親たちは子供たちを護《まも》ってやりもせずに、この寒空に半裸のまま書付けなどを持たせて物乞《ものご》いに出すのか、このことだけはよくないことですね。この母親は、愚かな女で、意地など持ちあわせていないのかもしれません。そして自分のために骨を折ってくれる者がいないので、ただなにもせずに坐りこんでいるのかもしれません、あるいはまたほんとうに病気なのかもしれません。が、それならそれで然《しか》るべき筋へ願い出ればいいじゃありませんか。が、しかしあるいは、これは単に騙《かた》りにすぎないのかもしれませんね、そして人々を瞞《だま》すためにわざわざ飢えて弱っている子供を物乞いに出して、子供を病気にしてしまうのかもしれません。
それにこのあわれな少年はこんな書付けなどを持って歩いて、どんなことを覚えることでしょう? 少年の心は荒《すさ》むばかりです。彼はあちこち歩きまわり、走りまわって、物乞いをしているんですからね。人々はさっさと通りすぎてしまって、そんな子供を相手にしている余裕などありません。人々の心は石のように冷たく、人々の言葉は残酷です。「どけろ! 失《う》せやがれ! ふざけるな!」……みんなから聞くのはこういう言葉ばかりです、こうして子供の心は頑《かたく》なになり、あわれな、おびえきった少年は、まるで巣をたたき壊されてそこから落ちた小鳥のように、この寒空にただわけもなくぶるぶるふるえているだけです。手足は凍え、息はつまりそうです。見れば、もう彼は咳《せき》をしているじゃありませんか。こうなったらもうじきです、病魔はたちまち汚らわしい爬虫類《はちゅうるい》のように彼の胸に這いこみ、ふと見ればもう死神は臭い家のどこか片隅で、彼を見おろして佇《たたず》んでいる。こうして看護も、人の援助もなく死んでいくのです……これがその子の一生なのです! 人生なんて、たいていこんなものです!
ああ、ワーリニカさん、「後生です」という言葉を聞き流してそばを通り過ぎて、「やるものはないよ」と言ってなんにも恵《めぐ》んでやれないほど辛《つら》いことはありませんよ。ほかの場合の「後生です」なら、まだまだなんでもありません(「後生です」という言葉にもいろいろありますからね、ワーリニカさん)。語尾を長く引っぱって、慣れきって、型にはまった、いかにも乞食らしいのもあります。こういうのには恵んでやらなくても、まだそれほど辛いことはありません、こういう手合いは長年商売にしている古狸《ふるだぬき》の乞食なんだから、こういうのは慣れっこになっていて、なんとか凌《しの》いでいくだろうし、凌ぐすべも心得ているだろう、とこう考えられますからね。
ところが、なかには、いかにも不慣れなような、乱暴な、おそろしいのもあります、……例えばきょうのがそうです、私があの男の子から書付けを受け取ろうとしたとき、おなじ塀《へい》のそばにだれか男がひとり立っていて、これはだれかれかまわず物乞いをしていたわけじゃないんですが、それが私にむかって「且那、後生だ、小銭を恵んでやってくんな!」とこう言ったんですよ、その声がまたいかにもぽつりぽつりと乱暴な調子だったものですから、私は思わずぞうっとし、ぶるっと身ぶるいしましたね。結局小銭は恵んでやりませんでしたがね、持ちあわせがなかったものですから。
ところがまた、金持というものは、貧乏人に不運をかこたれたりするのを好まないものです……小うるさいやつだ、押しつけがましいやつらだ! とこう言います。たしかに、貧乏人というものはつねにうるさいものです。……が、貧乏人の飢餓の呻《うめ》き声が邪魔になって眠れないとでもいうんですかねえ!
ワーリニカさん、あなたに白状しますが、私がこんなことをいろいろ書きたてたのは、ひとつには気晴らしのつもりもあったのですが、それよりむしろ、あなたに私の書くものの立派な文体の見本を見せてあげようという気があったからなのです。それというのも、あなたご自身、近頃私の文体がととのってきていると、いみじくもお認めくださっているからです。それにしても、私はいま深刻な憂愁にとらえられているため、自分で自分の考えに腹の底まで同感している有様なのです。そして、ワーリニカさん、そんな同感などしていてもなんにもならないということは、自分でも承知しているんですが、それでもやっぱりある程度自分がまちがっていないことを確認することにはなりますよ。
実際、ワーリニカさん、人間てよく、なんの理由もないのに、自分自身を葬り去って、一文の値打ちもないものと見たり、なにか木屑よりも下らないものと決めてしまったりすることがあろものです。譬《たと》えで言えば、そういうことが起こるのも、あるいは、この私自身、例の、私に施しを乞うた少年みたいに、怖気《おじけ》づいてしまい、追いこまれてしまっているからなのかもしれません。
ワーリニカさん、いまひとつあなたに、例をあげて譬喩《ひゆ》的に申しあげましょう。まあ、私の話を聞いてください。ワーリニカさん、私はよくこういうことがあるんですよ、朝早く急いで勤めに行く途中で、町が目覚めて、起き出し、煙をあげ、沸きたち、轟々《ごうごう》たる音を立てるさまに見とれてしまい、……そんなときそういう光景の前に立つと、ときどき自分をひどくちっぽけなものに見てしまい、そのため、まるで物好きに突き出した鼻先をだれかからぴしっとはじかれたような気持ちになり、とてもかなわんと思って、おとなしく、すごすごと、とぼとぼ道をたどるわけです。
が、さてここでひとつ、それらの黒い、煤《すす》ぼけた、宏壮《こうそう》な建物のなかでなにがおこなわれているか、よくごらんになってください、そのなかを深くさぐってみてください。そうすれば、わけもなく自分を下らぬと決めこんで、つまらぬ迷いに陥ったりすることが正しいかどうかがわけなくおわかりになるでしょう。
ワーリニカさん、私はここで譬《たと》えで言っているのであって、直接の意味で言っているのではないということにご注意願いますよ。それではひとつ、その建物のなかでなにがおこなわれているか観察してみましょう。
そのある建物の、煙のたちこめた一隅の、必要上やむを得ず住居《すまい》ということにしている、あるじめじめした小部屋で、ある職人が夢からさめたとします。この男が、例えば、ひと晩じゅう見ていた夢というのが、きのうひどい裁《た》ち違いをしてしまった長靴の夢だったとします。まるで人間というものはこういう愚にもつかぬ夢を見ないわけにはいかないみたいにね! それにしても彼は職人ですからね、彼は靴屋なんですからね、いつも自分の仕事のことばかり考えていても、それはしかたないでしょう。まして、彼にはぴいぴい泣いている子供もいれば、飢《ひも》じい思いをしている女房もいるんですから。しかも、どうかするとこういう起き方をするのは靴屋ばかりじゃないんですからね。ですから、こんなことは別になんということもありません。なにもこんなことは、とりたてて書くほどのこともないわけです。が、ここにこういう事情があるんですよ、ワーリニカさん。
その同じ建物の上階《うえ》か下階《した》の、金で飾りたてた豪奢《ごうしゃ》な部屋で、ある大金持が夜、やっぱりおなじ長靴の夢を見ていたかもしれないんです。とは言ってもそれは型も作りもちがう長靴ですがね、それでもやっぱり靴にはちがいない、もっとも私がここで暗示しているような意味あいではわれわれにはみんな、ワーリニカさん、多少靴屋的なところがあることになりますがね。ですから、これもやはりなんのこともないことにしていいんですが、ここにひとつ、いけないことがある。それは、この大金持の身辺に、彼の耳もとで、「そんなことを考えるのは、もうよしなさい、自分のことばかり考えて、自分のためだけに生きることは、もういい加減にしなさい。君は靴屋じゃないじゃないか、君の子供はみんな健康だし、君の妻君だって食べるものに飢《う》えているわけじゃないんだから。周囲を見まわしてみたまえ、自分の靴よりもっと高尚なことで思い煩《わずら》うべきものが目に入らないのかね!」とささやいてくれる者がだれひとりいないということです。
私が譬《たと》えであなたに言いたかったのは、このことだったんですよ、ワーリニカさん。あるいは、こういう考えはあまりにも自由思想的かもしれませんがね、ワーリニカさん、ときどきこういう考えが胸にあったり浮かんできたりして、そんなときには思わず胸のなかから熱い言葉となってほとばしり出るのです。してみれば、ちょっとした騒音や轟音《ごうおん》くらいにおびえてしまって、自分を一文の値打ちもないなどと思ってしまう理由はないはずですよ!
私はここで結論として言っておきたいんですが、あなたは、ひょっとしたら、私が人を中傷しているのだろうとか、ただくさくさした気持ちになっているのだろうとか、さもなければ私がなにかの本から抜き書きでもしたんだろうくらいに思っているんじゃありませんか? そうじゃありませんよ、ワーリニカさん、そんな誤解は解いてください、……ちがうんですから。私は中傷は大嫌いだし、くさくさした気侍ちになっているわけでもないし、私は本から抜き書きしたわけでもありませんよ……そうなんですからね!
私は憂鬱な気分で家へ帰ると、テーブルに向かい、茶沸かしを沸かして、茶を一、二杯飲む仕度をしました。と、見ると、私の部屋へ、われわれのとこの貧乏な間借人のゴルシコーフが入ってくるじゃありませんか。私はすでに朝のうちから、彼がずうっとなにか間借人たちの部屋をあちこち訪ねまわって、私のところへも来たがっていたのに気づいていました。ついでに申しあげておきますがね、ワーリニカさん、あの一家の暮らしむきは私のなどとは比べものにならないくらいひどいんですよ。桁《けた》ちがいなんです! 妻君もいれば、子供もいるんですからね!……ですから、もしも私がゴルシコーフで、あの立場だったら、私はなにをしでかすかわかりませんね……それはともかく、ゴルシコーフはそうやって入ってくると、お辞儀《じぎ》をしたわけですが、まつ毛には、例のとおり、目やにが出ていました、そして足を引きつけて直立不動の姿勢をとったはいいが、ひと言《こと》も言葉が出ないのです。
私は彼を椅子にかけさせました。壊れた椅子なんですが、ほかにないものですからね。そして紅茶をすすめました。彼はすみません、すみませんと長いこと言っていたあげく、とうとうコップを手にとりました。で、砂糖も入れずに飲もうとしたので、砂糖を入れなければと説得にかかると、また、すみませんをはじめるのです。長いこと押し問答をして、辞退していましたが、あげくの果てに自分のコップにいちばん小さな塊《かたまり》を入れて、この紅茶はじつに甘いですねと、言い出しました。まったく、貧乏というやつは、人間をずいぶん卑屈にさせるものですよ!
「ところで、どういうことなんです、どういうご用件ですか?」と私は彼に言いました。……「実はこうこうしかじかですが、お情けぶかいマカールさん、ひとつお慈悲をおかけくださって、不幸な私たち一家にご援助を願えませんでしょうか。女房子供をかかえながら、食べるものにも事欠く有様で、父親であるこの私の気持ちたるや、まったく切ないものなんです!」
私が口をききそうにすると、彼は私をさえぎって、「マカールさん、私はここの皆さんが恐いんですよ、いや、恐いというわけじゃない、まあ、気がひけるんですね、あの人たちはみんな威張った、高慢な人たちばかりなものですからね。実は、あなたにはご迷惑をかけたくはなかったのです。あなたご自身にもおもしろくないことがおありなことも知っていますし、大金を貸していただけないこともわかっているんですが、いくらでも結構ですから、お貸し願えないものでしょうか。こうして思いきってお願いする気になったのも、あなたのご親切なお心も承知しているし、あなたご自身お困りになったこともおありのようだし、現在も貧乏の味を知っておられる、……それだけにご同情も願えるだろうと思ったからなんです!」……と言って、最後に、マカールさん、私のぶしつけな厚かましさをお許しください、という言葉で結びました。……そこで私が、そうできればこんな嬉しいことはないんですが、私はちっとも持ちあわせがないんですよ、まったく持ちあわせがないんです、と答えると、……「マカールさん」と相手は私に言うのです。「私は大金をお願いしているわけじゃないんですよ、それがこうこういうわけで……(とたんに彼は顔を真っ赤にしました)……女房子供が腹をすかしておりますので……十五コペイカかそこらでも結構ですから」
いやまったく、そのときはもう私もきゅっと胸を締めつけられましたよ。私は、この困りようは、おれなどの比じゃないわい! と思いました。私のところには有り金全部あわせても二十コペイカしかなかったし、しかもその金も使い道がちゃんときまっていたのです。あした、自分のいちばん必要なものに使おうと思っていたのです。……「いや、ゴルシコーフさん、こうこういうわけで、お貸しできないんですよ」と私が言うと、「マカールさん、ほんの思《おぼ》しめしだけで結構です、十コペイカほどで結構ですから」と言うのです。そこで、私は引き出しから虎の子の二十コペイカを取り出して、彼にやってしまいました。まったくいいことをしましたよ! 大変な貧乏暮らしなんですからねえ! そのあと、いっしょにいろいろ話しましてね。私は、「どうしてそんなに金に詰まってきたのです、その上そんなに困っておられるのに、どうして銀貨で五ルーブリもする部屋を借りていらっしゃるんです?」と聞いてみました。
あの人の説明するところによると、あの部屋は半年前に借りて、三月分前金が入れてあったんだそうですが、その後悪い事情が重なって、かわいそうに、にっちもさっちもいかなくなってしまったのだそうです。例の訴訟事件もいま頃までには片づいているだろうと思っていたんだそうです。あの人の事件というのは不愉快な事件なんですって。あの人はね、ワーリニカさん、なにかのことで裁判所で責任を問われているんです。あの人は商品納入で官金を詐取《さしゅ》したある商人を相手どって係争中なんだそうですがね。詐欺《さぎ》は発覚して、商人は裁判にかけられているんですが、その商人は、たまたま関わりあいのあったゴルシコーフさんまでその泥棒事件に巻き添えをくわしたんだそうです。ほんとうのところは、ゴルシコーフさんの罪というのは、国家的利益の見地から見れば、怠慢であり、不注意であり、許すべからざる不行き届きだったという点だけらしいんですがね。
この事件はもう何年越しつづいているんですって。ゴルシコーフさんにとって不利な故障が、つぎつぎと出てきたものですからね。……「私の身に振りかかったこの破廉恥罪《はれんちざい》では」と、こうゴルシコーフさんは私に言っていました、「私は無実なんです、ちっとも身に覚えのないことなんです、詐欺横領では無実なんです! あの人はこの事件で相当名誉を毀損《きそん》されたらしいんですね。そして役所のほうをくびになった上に、あの人に主な罪があるという証拠はあがっていないとは言え、青天白日の身になるまでは、法廷で争い取ろうというあの人が当然受け取るべきある巨額の金がいまだに取り返せないんだそうです。私はあの人を信じていますが、判事団はあの人の申し立てを信じないんですって。
この事件は、いろんなからくりだの、百年かかっても解けない結ぼればかりある事件なんだそうです。やっとすこしほぐれかけると、商人のやつがまたからくりを弄《ろう》するといった調子なんですって。私はゴルシコーフ氏には、ワーリニカさん、心から同情し、憐憫《れんびん》をおぼえているんですよ。失職している人なんです。見込みがないという理由で、どこでも傭《やと》ってくれないんだそうです。あった蓄《たくわ》えは食べてしまったし、事件は紛糾《ふんきゅう》しているのに、生活していかなければならないわけですからね。その間に、まったく間の悪いときに、ひょっこり子供が生まれましてね、……そら、物要《ものい》りだということになり、子供が病気になれば……また物要り、死ねば……また物要りといったぐあいなんですよ。おまけに、妻君は病気だし、あの人もなにか持病でぐあいが悪いと来ている。要するに、苦労のなめどおしなんですよ。それでも、あの人は数日中にはこの事件も都合よく解決する、その点、もはやまったく疑いの余地はないと言っています。
気の毒ですよ、気の毒です。あの人はじつに気の毒ですよ、ワーリニカさん! 私はあの人をいたわってやりました。あの人は、途方に暮れて、おどおどしているんですよ。庇護《ひご》を求めているんです。だからこそ私はあの人をいたわってあげたわけです。
じゃ、さようなら、ワーリニカさん、お元気で。ワーリニカさん! あなたのことを思い出すと、私はまるで自分の病める心に薬でもつけたような気持ちになります。あなたのことで苦しんだところで、あなたのことで苦しむことなど、気楽なものですよ。
あなたの真の友
マカール・ジェーヴシキン
九月九日
愛するワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
私は無我無中でペンを取っています。私はおそろしい事件にすっかり興奮しきっています。目がまわりそうです。まわりのものがなにもかもぐるぐるまわっている感じです。ああ、ワーリニカさん、私はこれから大変な話をします!
まったくあんなことは、われわれ予感もしていませんでした。いや、そんなことはありません、予感もしていなかったなどということは。私にはあの予感はあったのです。全部私の胸に前知らせがあったのです! この間なにかこれに似た夢を見たくらいですから。
こういうことが起こったのです……文体などには拘泥《こうでい》せず、心に浮かぶままお話します。きょう私は勤めに行きました。役所へ着くと、腰をおろして、清書をしていました。ワーリニカさん、ここで知っておいていただかなければなりませんが、私はきのうもやはり清書をしていたのです。するとそこへチモフェイさんがやって来て、……これはね、大事な急ぎの書類なんだけれどね、マカールさん、ひとつできるだけきれいに、できるだけはやく、丁寧に清書してください、きょうのうちにサインをいただくことになっているんだから、とお命じになったのです。……ここでひとつおことわりしておかなければなりませんがね、ワーリニカさん、きのうは私、気が転倒していましてね、なににたいしても目もくれたくないような気持ちで、じつにわびしいような、うら悲しいような気分に襲われていたんです! 心は冷たく、胸は暗かったのです。そして頭にはしょっちゅうあなたのことがこびりついていたんですよ、ワーリニカさん。
ま、そんなわけで私は清書にかかりました。そしてきれいにうまく清書はしたんですが、魔がさしたとでも言いましょうか、それともなにか神秘な運命の結果なのでしょうか、それともただそうならざるを得なかったのでしょうか、どう申し上げたらより正確に表現できるかわからないのですが、……とにかく私は一行そっくり書き落としてしまったのです。意味は一応通じたんですが、なんとも得体の知れないものになって、形をなさなかったのです。そしてきのうはその書類の提出が遅れてしまったため、やっときょう提出して閣下のサインをいただくことになったわけです。で、きょうは、何事もなかったつもりで、いつもの時間に登庁して、エメリヤンさんの隣の席に着きました。
ワーリニカさん、ここでまたおことわりしておかなければなりませんが、私は最近以前の倍も恥ずかしがり屋になってしまってね、すぐに恥ずかしがるんですよ。で、この頃はだれの顔も見ないんです。だれかの机が軋《きし》んでも、もう生きた心地もないような有様なのです。きょうもちょうどそんなふうで、じっとうつむいて、おとなしく、針鼠《はりねずみ》そっくりの格好で腰かけていたので、エフィームさんが(この人は前代未聞の毒舌家なんですが)あたりに聞こえるような大声で、マカールさん、あなたはなんだってそんなにううーとでも唸《うな》り出しそうなかっこうで坐っているんです? などと言って、変な面相をしてみせたものですから、彼のまわり、私のまわりにいた者がひとり残らずどっと笑いくずれました。これはもう、私のことを笑ったのであることは言うまでもありません。いや笑い出したのなんのって! 私は耳をふさぎ、目を閉じて、じっと坐ったきり、身動きひとつしませんでした。これが私の癖なのです。そうしていると、連中はじきにやめるわけです。と、そのとき突然、ざわざわいう音、駆けずりまわる音、あたふたする気配が聞こえてきました。聞こえているが……あれは空耳《そらみみ》じゃないんだろうか? とこう思ったのですが、まさしく私を名ざしているのです、用があると言っているのです、ジェーヴシキンと呼び立てているのです。私は、胸の心臓がいきなりどきどきしはじめて、なににびっくりしたのか自分でもわからない始末、わかっているのは、これまでに一度も経験したことがないくらいびっくり仰天《ぎょうてん》してしまったことだけです。私は机にしがみついて、……自分のことではないといったような、なに食わぬ顔をしていました。ところが、また騒ぎがはじまり、だれかが歩み寄ってくるではありませんか。すると私のすぐ耳の上で、「ジェーヴシキンを呼べ! ジェーヴシキンを! ジェーヴシキンはどこにいる?」という声がしました。目をあげてみると、目の前に、エフスターフィイさんが突立っていて、「マカールさん、閣下のところへ、はやく! あなたは書類のことでとんだことをしてくれましたね!」とこう言うのです。
彼が言ったのはただそれだけでしたが、それだけでもう十分ですよ、そうじゃありませんか、ワーリニカさん、それだけ言われれば十分でしょう? 私は死んだようになり、氷のようにつめたくなり、感覚を失って歩きだしました、……いやそれこそ、生きているのか死んでいるのかもわからないような気持ちで、ただわけもなく歩き出したのです。
私は最初の部屋、つぎの部屋、またつぎの部屋と通りぬけて案内され、閣下の書斎へ出頭しました。私は、そのとき自分がなにを考えていたのか、とてもはっきりとはあなたに説明できません。見れば、閣下が立っておられ、そのまわりにはお歴々がずらりと並んでいます。私はお辞儀もしなかったようでした。忘れてしまっていたのです。あまりにもあわてふためいていて、唇もぶるぶるふるえ、足もがたがたふるえるといった有様でね。それもそのはず、ワーリニカさん、第一、私はきまりが悪かったのです。私はただなんの気なしに右手の鏡に目をやったのですが、そこに見た自分の姿は確かにそれだけでも気がおかしくなってもしかたないようなひどい恰好《かっこう》なのです。第二に、私はふだん、この世にいないみたいに振舞っていたんですから、閣下には私の存在など、ほとんど知られていないだろうと思っていたのです。ひょっとすると、自分の役所にジェーヴシキンという男がいることぐらいちょっと小耳に挟《はさ》まれたことはあったかもしれませんが、それ以上ふかい関係に入られたことはただの一度もなかったのです。閣下は憤然としてこう言い出しました。
「あなたはいったいどうしたというんだ! どこへ目をつけているんだ? 大事な書類で、急を要するというのに、あなたは台なしにしてしまったじゃないか。それにあなたもいったいどうしたんだね」……と今度は閣下はエフスターフィイさんにむかっておっしゃいました。私には、つぎのような言葉が飛んできて、耳にはいるだけでした。……「怠慢だ! 不注意だ! 不愉快な目にあわして」……私はなにか言おうと思って口を開きかけました。許しを乞《こ》おうかと思ったのですが、だめでした、逃げ出そうとも思いましたが……それだけの気力もありません、とそのときです……そのときワーリニカさん、いまでも恥ずかしくてペンも持っていられないようなことが起きてしまったのです。……私のボタンがですね……まったく癪《しゃく》にさわるじゃありませんか……私の胸の糸のさきにぶらさがっていたボタンがね……不意にちぎれて跳び出し、ぴょんぴょん跳ね出して(私はどうやらそれにうっかり手をかけたらしいんですね)、ことんことん音を立てながらまっすぐ、それこそまっすぐに、ちくしょうめ、閣下の足もとへ転《ころ》がっていきやがったんですよ。それもみんなしいんと静まりかえっているさなかにですよ!
これが私の弁解、謝罪、返事、私が閣下に申しあげようと思っていたことすべてのかわりになったわけです! その結果はじつにおそろしいものでした! 閣下がたちまち私の様子と服に注意をお向けになったのです。私は、鏡に映った自分の姿を思い出しました。私はやにわにボタンをつかまえようと飛んでいきました! 馬鹿げたことを考えたものです! 身をかがめて、ボタンを取ろうとしましたが……ボタンはころころと転がり、くるくるまわるものですから、どうしてもつかまりません。要するに、不器用という点でも抜群だったわけです。そのときはもう、精根も尽《つ》きはてて、それこそなにもかもだめになってしまったような気がしました! 評判も丸つぶれ、人間としての値打ちもすっかりなくなってしまった感じでした!
と、そのとき、どうしたわけか、両耳にテレーザとファリドニの声が聞こえ、耳鳴りがしはじめました。とうとうボタンをつかまえ、体を起こして、体をぴんとのばしました、が、ここで、馬鹿なら馬鹿らしく、両手をズボンの継目につけて、すなおに突っ立っていればよかったのです! ところが、そうするどころか、そのボタンをちぎれた糸にくっつけはじめたのです、まるでそうすればまたもとのように付くとでも思っているみたいに。そしてにやりにやり笑っていたのです。
閣下ははじめ顔をそむけていましたが、また私のほうを見ました……そして、私の耳に入ったところでは、エフスターフィイさんにこうおっしゃっていました。
「どうしたわけだね?……見たまえ、この男のなりを……この男はどうしたのかね!……この男は何者だね!……」……ああ、ワーリニカさん、この場合……「この男はどうしたわけだ? この男は何者だね?」というのはどういうことだと思いますか、私は衆人から抜きん出たわけですよ! エフスターフィイさんがこう言っているのが聞こえました……「この男は注意を受けたことはありません、なんの注意も受けたことはありません、素行は模範的な男です、給料は定額どおり十分にもらっています……」
「そんなら、なんとかもうすこし生活を楽にしてやるんだね」と閣下がおっしゃいました。「給料の前払いでもしてやるとかして」……「しております、前借りはしております、もうかなり前からしております。確かによくよくの事情があるんでしょうが、素行は立派なもので、注意を受けたことはありません、ただの一度もありません」
ワーリニカさん、私はもう、かあっと熱くなり、地獄の火で焼かれる思いでした! 死ぬかと思いましたよ!……「よし」と閣下は大声でおっしゃいました。「もう一度大至急で新たに清書することだ。ジェーヴシキン君、ここへ来て、もう一度、まちがいのないように、清書してくれたまえ。いいかね」……ここで閣下はほかの連中のほうへ向きなおって、いろんな命令をお授《さず》けになり、一同思い思いに引きさがりました。 みんなが退散してしまうと、閣下はさっそく金入れを出し、中から百ルーブリ紙幣を取り出して、「これはね、気持ちだから、よかったら取ってくれたまえ」とおっしゃって、それを私の手に握らせたのです。ワーリニカさん、私はぶるっと身ぶるいしましたね、心の底からうちふるえましたよ。私は自分がどうなったのかもわからないくらいでした。私は閣下の手を取ろうとしました。すると、閣下は顔じゅう真っ赤にされてですね、ワーリニカさん、……この場合私はそれこそ毛ほども真実から外《そ》れるようなことは言いませんよ、ワーリニカさん、私ごとき取るに足らぬ者の手をお取りになってですよ、それをうち振られたんですよ、そのとおり手を取ってうち振られたのです、まるでご自分と対等の者にでもなさるように、あるいは将軍にでもなさるように。そして「あっちへいらっしゃい、これは気持ちだからね……まちがいをしないように、今度の失敗はわしと両成敗《りょうせいばい》だ」とこうおっしゃるのです。
ワーリニカさん、今度私はこう決心しましたよ。あなたにもフェドーラにもお願いしますが、またもしも私に子供ができるようなことでもあれば、子供たちに、神さまにお祈りをしろと、つまり生みの父親には祈らずとも、閣下のことは毎日欠かさず、一生涯祈るようにと言いつけるつもりです!
さらにもうひとつ言わしてもらいますがね、そしてこれは厳粛《げんしゅく》な気持ちで言うのですから、……私の言うことをよく聞いてください、ワーリニカさん……私は誓って申しますが、私は、あなたを見、あなたの不幸を見、自分を省《かえり》み、自分の卑屈さと自分の無能ぶりを省みて、私たちの不幸の厳しい日々に、心の痛みにどんなに死ぬような思いをしているにもせよ、そういうことがあるにもかかわらず、私にとってありがたいのはこの百ルーブリよりもむしろ、閣下が私のような、藁《わら》くずにも等しい、飲んだくれの、取るに足らぬ男の手を握ってくだすったという事実だと、あなたに断言しますよ! 閣下はそうすることによって、私をもとの私に立ち返らせてくだすったのです。閣下はあのご行為で私の精神をよみがえらせ、私の生涯を永久に楽しいものにしてくださったのであって、私は、神の御前に出ればいかに罪ぶかい者ではあっても、私が閣下のお仕合わせとご無事とをお祈りする声は、かならず神の玉座にとどくものと、固く信じています!……
ワーリニカさん! 私はいま心のおそろしい惑乱状態にあります、興奮状態にあります! 私の心臓は激しく鼓動《こどう》して、いまにも胸のなかから跳び出しそうです。そして私自身は、体じゅうぐったりと萎《な》えきってしまったような感じです。……紙幣で四十五ルーブリおとどけします、あと二十ルーブリをおかみに渡し、三十五ルーブリを手もとに残して、二十ルーブリを服代に当て、残りの十五ルーブリを生活費に残そうと思っています。いま頃やっと、あの朝の感銘に体じゅう震えをおぼえはじめました。すこし横になろうと思いますが、気分は安らかです、大変安らかです。ただ、心が痛み、胸の奥で自分の心がうちふるえ、戦慄《せんりつ》し、動くのが聞こえるだけです。……後《のち》ほどうかがいます。いまはただもう、こうしたさまざまな感じに酔っているような状態ですので……ワーリニカさん、神さまはなにもかもごらんになっておられます!
あなたにふさわしい友
マカール・ジェーヴシキン
九月十日
ご親切なマカール・アレクセーエヴィチさま!
わたし、あなたのご幸運を言いようもないほど喜んでおります、それにあなたの長官の善行は大変立派だと思っています。そうすると、これであなたも不幸から逃れてひと息つけるわけですわね! ですけど、お願いですから、もう二度と無駄金はお使いにならないでくださいね。静かに、できるだけつつましくお暮らしになり、きょうからいくらかずつでも毎日貯金をおはじめになって、また思わぬ不幸に見舞われずにすむようにしてください。わたしたちのことは、お願いですから、もうご心配なさらないように。フェドーラとふたりでなんとかやっていきますから。これはまたどうしてこんなにどっさりお金を届けてくださいましたの、マカールさま! わたしたち、お金などままったく要《い》りませんのよ。わたしたちは、いまあるだけで満足なんですもの。それは確かに、わたしたち、そのうちこの家から引っ越すのにお金が入り用にはなるでしょうけれど、フェドーラにだれかから、ずっと前に貸してあった金がかえってくる当てがあるんですから。ですけど、二十ルーブリだけは、よほど必要なことがあったときの用意におあずかりしておきます。そしてあとはお返ししますわ。どうぞ、お金は大事にしてくださいね、マカールさま。では、さようなら。平穏にお暮らしください、どうぞお達者で、お元気で。もっと書いてさしあげたいんですけど、大変に疲れをおぼえますので。きのうは丸一日床を離れませんでした。おいでくださるとお約束くださいましたが、結構なことですわ。どうぞお出ましください。
マカールさま。
V・D・
九月十一日
私のかわいいワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
切にお願いします、ワーリニカさん、いま、まったく幸福で、すべてに満足している矢先に、私と別れるなどとおっしゃらないでください。ワーリニカさん! フェドーラの言うことなどには耳をかさないでください、あなたのしてほしいことはなんでもしてあげますから。品行もつつしみましょう、閣下にたいする尊敬の念からだけでも立派に公明正大に身を持していきますよ。おたがいに幸福な手紙をやりとりし、おたがいの考えや喜びや、心配事があれば心配事も、打ち明けあいましょう。ふたりいっしょに仲よく幸福に暮らしましょう。文学も勉強しましょう……ワーリニカさん! 私の運命は一変して、なにもかも好転しました。おかみは前よりずっとおとなしくなったし、テレーザも利口になったし、ファリドニまでがどこかきびきび動くようになったのです。ラタズャーエフさんとも仲なおりをしまた。嬉しまぎれにこちらから出向いていったのです。彼はまったく善良な愛すべき青年ですよ、ワーリニカさん、みんなは彼のことを悪い人間のように言っていましたが、あれはみんな出たらめだったのです。私はいまになってやっと、あれがみんないやらしい中傷にすぎなかったことがわかりました。あの人は、私たちのことを書こうなどとは全然考えていなかったのです。当人が私にそう言っていました。
あの人は私に新作を読んでくれました。それから、この前あの人が私にラヴレースという名をつけたのも、あれは、悪口とか失礼な≪あだ名≫などでは全然なかったのだそうです。私に説明してくれましたがね。あの言葉は外国語から取ったもので、『すばしこいやつ』とか、もうすこし美しい文学的表現を用いれば、『隅《すみ》におけない若者』……といったような、それくらいの意味で、別にほかの意味があるわけじゃないのだそうです。罪のない冗談だったわけなんですよ、ワーリニカさん! 私はまた無学なものですから、やみくもにむかっ腹を立ててしまったわけです。ですから今度私はあの人に謝りましたよ……それにしても、きょうはまたまったくすばらし天気ですね、ワーリニカさん、じつにいい天気じゃありませんか。確かに朝方は、篩《ふるい》にかけたように、薄霜がおりていましたけどね。なんでもありませんよ! そのかわり空気がいくぶんすがすがしくなりましたものね。私は長靴を買いに出かけて、すばらしい長靴を買ってきました。ネーフスキイ通りを歩いてきました。『蜜蜂』〔一八二五〜五七年にブルガーリンとグレーチの刊行していた政府の御用新聞『北の蜜蜂』〕を読みました。そうそう! 肝心なことをお話するのを忘れるところでした。それはこういうことです。
けさ私はエメリヤンさんとアクセンチイさんを相手に閣下の噂話をしたんですがね。ワーリニカさん、閣下は私だけにあんな情けぶかいあつかいをなすったんじゃないんだそうです。閣下は私だけに善行を施されたのではなくて、閣下のお心のやさしさは、世間一般周知の事実なんですって。閣下には各方面から賞賛の言葉がささげられ、感謝の涙が流されているんだそうです。閣下はある身なし子の女の子を手もとでお育てになったそうですがね。その子の身の振りをつけておやりになって、閣下の下である特別な役目についていた、さる名の知れた役人のところへ嫁がせてやったそうです。ある未亡人の息子を役所に入れておやりにもなったし、まだまだたくさんいろんな慈善行為をなさったということです。
ワーリニカさん、私はここで自分も貧者の一燈を献ずる義務があると思ったものですから、みんなに聞こえるように大きな声で閣下のご行為を語って聞かせました。私はすっかりぶちまけて、なにひとつ隠したりしませんでした。私は恥ずかしさなどポケットにしまいこんでしまいました。こんな場合、恥も外聞もあったものじゃありませんし、こんな状況で自尊心もへちまもあったものじゃありませんからね! やっぱり声を大にして……閣下のご行跡を顕彰すべきですよ! 私は夢中になって話しました、熱をこめて話して、顔など赤らめるどころか、逆にそういうことを語らずにいられないことを誇りに思ったくらいです。私はなにもかも話してしまいました(あなたのことだけは分別をきかして口をつぐんでいましたけどね)、おかみのことも、ファリドニのことも、ラタズャーエフのことも、長靴のことも、マールコフのことも……みんな話してしまいました。だれか二、三人笑っていた者もいました、そう、たしかに、だれもが笑っていたようでした。しかし、それは私の姿恰好にどこかおかしなところでも見つけたのか、さもなければ、私の長靴のことだったのでしょう……まちがいなく長靴のことですよ。なにか悪企《わるだく》みがあってそんなことをするはずはありませんからね。あれはただ、若気のいたりか、でなければ裕福だからなんでしょう、意地悪な悪意で私の話を嘲笑するなんて絶対にありえなかったはずですから。つまり、閣下のことでなにかそんなことをするなんて、……あの連中には絶対にできっこないはずですからね。そうじゃありませんか、ワーリニカさん?
私はいまもってなんとなく日頃の自分がとりもどせない有様です、ワーリニカさん。ああしたいろんな出来事にそれほど心を掻《か》き乱されてしまったわけなんです! 薪《たきぎ》の蓄えはありますか? 風邪《かぜ》を引かないでください、ワーリニカさん。すぐに風邪を引く人ですからね。ああ、ワーリニカさん、あなたのあの憂鬱な考えを聞かされる度に、私はまったく死ぬ思いですよ。そんなとき私は神さまに祈るんですよ、あなたのことを神さまに、それこそ一所懸命お祈りするんですよ、ワーリニカさん! たとえば、毛糸の靴下は持っているだろうかとか、着物にしてもできるだけ温かいものを着てくれればいいが、とか思ってね。気をつけてくださいね、ワーリニカさん。なにかお入り用なものがあったら、どうか、この年寄りに恥をかかさずに、まっすぐ私のところへ来てくださいよ。もう不運な時期は過ぎました。私のことではご安心ください。前途はまったく明るいし、快適なんですから!
それにしても、ワーリニカさん、悲しい日々でしたね! しかし、もうどうでもいいです、過ぎてしまったんですから! 何年かたったら、この時期のことも嘆息をもらして思い出すことでしょう。私はわかい頃のことをおぼえていますがね。いまよりずっとひどかったですよ。ときには一コペイカもないようなこともあったんですから。寒くもあったし、腹も空《す》かしていましたが、それでも愉快でしたね。朝ネーフスキイ通りを通って、きれいな顔のひとつも見れば、それでもう丸一日幸福でしたものね。すばらしい、じつにすばらしい時代でしたよ、ワーリニカさん! この世に生きているということは楽しいものですね、ワーリニカさん! ことにペテルブルクで暮らすということは。
私はきのう、目に涙して、神さまの御前で懺悔《ざんげ》して、この憂鬱な日々に犯した自分の罪を、不平や、自由思想や、乱行や、短気などをお許しくださるようお願いしました。あなたのことも感激をおぼえながら祈願しておきました。ワーリニカさん、私を元気づけてくれたのはあなただけなんですからね。私を慰めてくれ、立派な忠告や訓戒で私に餞《はなむけ》してくれたのはあなただけなんですから。ワーリニカさん、私はこのことをけっして忘れることができません。きょう、私はあなたのお手紙のひとつひとつに接吻をしました!
では、さようなら、ワーリニカさん。どこかこの近くに服の売物が出ているそうですから、ちょっと行って見て来ようと思っています。では、さようなら、ワーリニカさん。失礼します!
心からあなたに忠実な
マカール・ジェーヴシキン
九月十五日
マカール・アレクセーエヴィチさま!
わたし、ひどく興奮しきっております。こちらにどういうことがあったか、ひとつお聞きください。わたし、なにか宿命的なことが起きるような予感がするんですの。マカールさま、あなたもひとつ判断してみてください。ブイコーフさんがペテルブルクへ出てきているんですって。フェドーラが出遭ったんだそうですの。あの人は馬車に乗っていたんだそうですけど、その馬車を停めさせて、フェドーラのところへ歩いてきて、いまどこに住んでいるのかと聞き出しにかかったんですって。フェドーラははじめのうちは口を割らなかったんだそうです。そのうち、あの人はにやにや笑いながら、お前のところにだれが住んでいるかは、ちゃんとこっちにはわかっているんだなんて言うんだそうです。(きっと、アンナさんがあの人にすっかり話してしまったんですのね)そこでフェドーラはもう我慢ができなくなって、その場で、往来の真ん中で、責めたり詰《なじ》ったりして、あの人に、あんたはひどい人だわ、ワルワーラさんの不幸も、もとを質《ただ》せばみんなあんたのせいじゃないかって言ってやったんですって。すると、人間|文《もん》なしじゃ、不幸なのは当たり前さ、とこういうあの人の返事なんだそうですよ。そこでフェドーラはこう言ってやったんですって。ワルワーラさんは自分の働きで食っていくことだってできたんだし、お嫁にだって行けたはずだし、それがいやならなにか勤め口にだってありつけた人なんだけど、いまじゃもうあの人の仕合わせの見込みは永久に絶たれてしまい、おまけに病気にまでおなりになって、もう長いことはないんだよ、ってね。そうしたらあの人はそれにたいして、ワルワーラさんはまだあまりにも若すぎて、まだ頭が固まっていないから、それで、「おれたちの善行も光らなかったわけなんだ」(これはあの人の言いぐさです)などと言ってのけたそうですの。
わたしもフェドーラも、あの人はわたしたちの住居《すまい》を知るまいと思っていたのに、きのうわたしがマーケットへ買物に出たのと入れちがいに、ひょっこりわたしたちの部屋へはいってきたんですって。どうも、あの人は、わたしが家にいるときにわたしと顔をあわせたくなかったらしいんですの。
あの人は長いことわたしたちの暮らしのことをいろいろ聞いたり、わたしたちの部屋のなかをじろじろ見まわしたりしていたそうですわ。そしてわたしの仕事を眺めたりしたあげく、「あんたたちと懇意《こんい》な公務員の人って、いったいどんな人なんだね?」なんて聞いたんですって。ちょうどそのときあなたが庭先を通りかかったものですから、フェドーラがあなたのことを指さして教えたところが、あの人はあなたを一瞥《いちべつ》して、せせら笑ったそうですわ。フェドーラはあの人に、出ていってくれと拝み倒しにかかったんですって、ワルワーラさんはそれでなくとも、もういろんな気苦労で健康を害しておられるんだから、あんたがここにいるところをワルワーラさんが見たら、それこそ不愉快な気持ちになるだろうからなどと言ってね。あの人はしばらく黙っていてから、ここへはただ暇だから来てみただけなんだと言って、フェドーラに二十五ルーブリやろうとしたんですって。フェドーラはもちろん、取らなかったそうですけどね。
これはいったいどういう意味なんでしょうね? あの人はなんのためにわたしたちのところへ来たんでしょう? あの人はどこからわたしたちのことをすっかり聞き出してきたのか、どうも合点《がてん》がいきませんわ! わたし見当がつかないで困っているんですの。フェドーラは、うちへよく来るフェドーラの義妹のアクシーニヤが洗濯女のナスターシヤと懇意にしているし、ナスターシヤの従兄《いとこ》はアンナさんの甥《おい》の勤めている役所の門番をしているので、そんな関係で、噂がいつの間にか伝わっていったんじゃないかって言うんですけどね。でも、フェドーラの推測がまちがっていることだって大いにあり得ますわ。わたしたち、どう考えをまとめたらいいのか、わからないんですの。
ほんとうにあの人はもう一度うちへ来ますかしら! 考えただけでもぞっとしますわ! フェドーラにきのうの話を聞かされたときは、わたしすっかりびっくりしてしまって、恐ろしさのあまり、いまにも卒倒するところでしたわ。あの人たちはこの上なにが入り用なのかしら? わたし、いまではあの人たちのことなど知りたいとも思いませんわ! この不幸なわたしになんの用があるのかしら! ああ! わたしはいまひどい恐怖に襲われています。いまにもブイコーフさんがはいってきやしないかと、そればかり考えているんですの。わたしはどうなるんでしょう? わたしにはこれからさらにどういう運命が待ちかまえているのかしら? どうか、いますぐにもうちへいらしてください、マカールさま。いらしてください、お願いですから、いらしてください。
V・D・
九月十八日
愛するワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
きょう、私どものアパートでこの上なく傷《いた》ましい、なんとも説明しようもない突発事件が起きました。うちの気の毒なゴルシコーフさんが(これはとくに強調しておかなければなりませんがね、ワーリニカさん)ついに青天白日の身になったのです。決定はもうずっと前についていたんですが、きょうあの人は最終判決を聞いてきたのです。事件はあの人にとってじつに幸福な結末をとげたわけなんです。彼が着せられていた怠慢と不行届きの罪も、……全部完全に赦免《しゃめん》ということになったんだそうです。相手の商人はあの人のほうに巨額の金を返すべきことという判決だったため、あの人は財政状態もぐんとよくなるし、不名誉もそそがれるし、……要するに多年の宿望がそれこそ完全にとげられたわけです。あの人はきょう三時に帰宅しましたが、顔色はまるでなくて、麻布のように青白く、唇はぶるぶるふるえていましたが、それでもにこにこして……妻や子供たちを抱きしめていましたっけ。
私たちはみんなでどやどやと押しかけていって、お祝いを述べてきました。あの人は私たちの行為に大いに感動したらしく、四方八方へお辞儀をしたり、私たちの手を一日に何度も握ったりしていました。私には、あの人の背が急に伸びて、体がまっすぐになり、目にたまっていた目やにまでなくなっているようにさえ見えました。かわいそうに、ひどい興奮状態でした。おなじ所に二分と立ちとおしていられず、物を手あたり次第手にとってはそれをまた放り出し、絶えずにやにやしたり、お辞儀をしたり、腰をおろしてみたり立ちあがってみたり、かと思うとまた坐ってみたり、なにかわけのわからぬことを口走って……「私の名誉、名誉、立派な名前、私の子供たち」などと言っているのです……そうしてそのしゃべること、しゃべること! その上泣き出してしまいました。私たちも大方もらい泣きをしました。ラタズャーエフは、明らかに元気づけてやろうと思ったのでしょう……「あんた、食べるものもないようなときに、名誉がなんですか? 金ですよ、あんた、肝心なのは金ですよ。その金のことを神さまに感謝しなさい!」……とこう言って、相手の肩をぽんとたたきました。ゴルシコーフさんはむっとしたようでした。つまり露骨《ろこつ》に不満の色を示したわけではないのですが、なんとなく妙な目つきでラタズャーエフ氏を見つめておいて、肩にかけた相手の手を払いのけたのです。以前だったら、そんなことはしませんでしたがね、ワーリニカさん!
それにしても、人によって気質はいろいろなんですね。……例えばこの私でしたら、こういう嬉しいときには傲然《ごうぜん》とした態度など見せませんね。なんということもないでしょう、ワーリニカさん、人はときに余計に頭をさげてみたり謙遜《けんそん》してみたりしますが、それだって発作的に人のよさが出たり、気持ちが過度に柔和《にゅうわ》になったりするせいにすぎないんですからね……が、しかしここで問題なのは私じゃありませんでしたね!……「そう」とゴルシコーフさんは言いました。「金も結構ですよ。おかげさまで、おかげさまで!」そしてそのあとも、私たちがいる間じゅう、「おかげさまで、おかげさまで……」を連発していました。妻君はなるべくおいしい、なるべく贅沢《ぜいたく》な食事を出してくれと注文しました。うちのおかみはこの一家のために自分から先に立って料理をこしらえてやっていました。おかみは、一面人のいいところもあるんです。
ゴルシコーフさんは食事の用意ができるまでひとつ所に落ちついていられず、呼ばれようが呼ばれまいがおかまいなしに、みんなの部屋へ入りこんで来るのです。そうして勝手に入ってきては、にやにやして椅子《いす》に腰をおろして、なにかしゃべっていくのですが、ときにはなんにも言わずに……ぷいと行ってしまうこともありました。海軍士官候補生の部屋ではトランプのカードさえ手にしました。そして四人勝負の四人めに入れられて坐らされました。が、しばらくやっているうちに、なにか勝負で馬鹿げたへまをやってしまい、三、四回まわったところで、やめてしまいました。
「私はただちょっと、私はただほんのちょっとやってみたかっただけなんで」……とこう言いおいて、あの人は引きあげていってしまいました。廊下で私に出遭うと、私の両手を取って、私の目をじっと見つめましたが、その目つきがまたひどく変な目つきでした。そして私の手を握りしめて立ち去ったのですが、ずっとにやにやのしどおしでした、しかもそれがなんだか重苦しい妙な笑い方で、まるで死人のような感じなのです。妻君は嬉し泣きに泣いていました。あの家はなにからなにまでお祭りのように陽気でした。間もなく一家の者は食事をしました。
食後、彼は妻君に「いいかい、お前、すこし横になるからな」と言いおいて、寝床へ寝に行きました。そしてそれから娘を呼び寄せて、娘の頭に手をおいて、長いこと子供の頭をなでていたそうです。それからまた細君のほうを向いて、「ペーチニカはどうした? うちのペーチニカは、ペーチニカは?……」と聞いたもんですから、妻君は十字を切って、あの子はもう死んでしまったじゃありませんか、と答えたんですって。……「そうそう、知っているさ、なにもかも知っているよ、ペーチニカはいまは天国にいるんだ」……妻君は、夫が今度の事件にすっかり衝撃を受けて、気が転倒しているものと見てとったものですから、夫に……「あんた、もうお寝みになったら」と言うと、……「うん、よしよし、じきに……すこし……」こう言って彼は向きを変えて、すこし寝ていましたが、やがて寝返りを打って、なにか言いそうにしました。妻君はよく聞きとれなかったので、……「なんですって、あんた?」と聞きかえしたんですが、なんの返事もありません。で、妻君は、ちょっと返事を待ってから、なに、寝入ったのだろうと思って、一時間くらいのつもりでおかみのところへ遊びに出かけました。一時間たってもどってみると、夫はまだ目がさめず、横になったまま、こそとも音を立てません。妻君は、眠っているものと思い、腰をおろして、なにか仕事をはじめたのだそうです。彼女の語るところによると、三十分ほど物思いに耽《ふけ》っていたそうですが、なにを考えていたのか、おぼえがないとのことで、ただ夫のことはすっかり忘れてしまっていたとは言っていました。
なにか不安な感じに、はっとわれに返り、なによりもまず室内の墓場のような静けさにぎょっとしたんですって。寝台のほうに目をやると、夫は相変わらずおなじ姿勢で寝ているんですね。そこで夫のそばへ行って、毛布をめくって、よく見ると……夫は冷たくなっているじゃありませんか、……死んでいたんですよ、ワーリニカさん、ゴルシコーフさんは死んでいたのです、まるで雷にでも打たれたように、ぽっくり死んでいたのです。どうして死んだのかは、……それはわかりません。ワーリニカさん、これには私も、びっくり仰天《ぎょうてん》して、いまだにわれに返れない有様です。人間ひとりがこんなに造作なく死ねるなんて、なんとも信じられませんものね。まったくかわいそうな人でしたよ、不幸な人でした、あのゴルシコーフという人は! ああ、運命、まったくなんという運命なんでしょう! 妻君はびっくり仰天してしまい、涙に暮れっぱなしです。女の子はどこか片隅《かたすみ》に隠れていました。
あそこではいま大変な取りこみようです、検死もあるでしょう……もうこれ以上ははっきりしたことは申しあげられません。ただかわいそうでねえ、ああ、不憫《ふびん》でなりませんよ! 考えても悲しいことですね、実際こんなに一日だって一時間だって先のことはわからないんですからね……こんなに他愛もなく死んでしまうなんて……
あなたの
マカール・ジェーヴシキン
九月十九日
ワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
ワーリニカさん、取り急ぎお知らせします、ラタズャーエフ氏がある作家のところから私に仕事を見つけてきてくれたのです。……ある人があの人のところへ馬車でやって来て、大変部厚な原稿を持ってきてくれたんだそうです……ありがたいことに仕事が山ほどできました。ただ、ひどくわかりにくい書き方をしているので、どう仕事に手をつけたらいいのかわからないのです。大至急やってくれということです。なんだか、まるでさっぱりわからないようなことばかり書いてあります……一枚四十コペイカということで話がつきました。こういうことを急いでお知らせするのは、ワーリニカさん、これから副収入の金が入ることになるからですよ。……それはそうとして、きょうはこのくらいで失礼します。さっそく仕事にかかろうと思います。
あなたの忠実な友
マカール・ジェーヴシキン
九月二十三日
大事な親友のマカール・アレクセーエヴィチ様!
これで二日以上もなんのお便りもしませんでしたが、実は心配事が、胸を痛めることがたくさんありましたの。一昨日、うちへブイコーフさんが訪ねてきました。わたしひとりきりでした、フェドーラがどこかへ行っていたものですから。ドアを開けて、あの人だとわかったときは、わたしびっくりしてしまって、その場から動けなくなってしまいましたわ。わたし、青くなったのが、自分にもわかったくらいなんですの。
あの人は、いつもの癖で、大声で笑いながら入ってくると、椅子を取って、腰をおろしました。わたしはしばらく自分を取りもどすことができませんでしたが、あげくの果てに部屋の隅《すみ》に腰をおろして、仕事にとりかかりました。あの人は間もなく笑いやめました。あの人、わたしの顔形にびっくりしてしまったらしいんですの。わたし近頃めっきり痩《や》せてしまいましたものね。頬はこけてしまうし、目は落ちくぼむし、顔色はハンカチのように青ざめてしまうし……実際、一年前ならわたしの見わけがついた人でも、いまではわたしだと容易にわからないくらいですもの。
あの人は長いことまじまじと私を見つめていましたが、あげくの果てにまたはしゃぎ出しました。あの人はなにか言いましたけど、わたし、そのときあの人にどんな返事をしたのか、おぼえておりません。そのうちあの人はまた笑い出しました。あの人はうちにまる一時間もいて、長いことわたしを相手に話をしたり、あれこれといろんなことを聞いたりしていましたわ。そしていよいよ別れの挨拶をする前に、わたしの手を取って、わたしにこんなことを言ったんですの(一字一句そのまま書きます)。
「ワルワーラさん! ここだけの話ですけどね、アンナさんはあなたの親類だし私の懇意な友だちでもあるわけだが、あの人はじつに下劣な女ですね(ここであの人はさらに彼女にある下品な言葉を浴びせました)。あの人はあんたの従妹《いとこ》に道を踏み外させたし、あなたの一生も台なしにしてしまったんですからね。私のほうもあの場合は結局卑劣な男になってしまいましたがね。ま、しかたないさ、浮世のならいですからな」
ここであの人は思いきり大笑いしました。そしてそのあとで、私は弁は立つほうではないし、説明すべき肝心なこと、紳士の義務として黙っているにしのびない大事なことはもう言いつくしてしまったので、残っている話にかいつまんで取りかかろうと思うと切り出しました。そして、私はあなたから結婚の承諾を得たいと思っていると言い、あなたの名誉を回復させてあげるのを自分の義務だと思っているとか、私は金持だが結婚式をあげたらあなたを曠野《ステップ》の田舎へ連れていき、そこで熊狩りをしようと思っているなどと言ったり、私はもうこれっきり二度とペテルブルクへは来ないつもりだ、ペテルブルクっていやな所だからね、このペテルブルクには、あの人の表現を借りると、能なしの甥《おい》がいるのだが、その甥から自分の遺産の相続権を剥奪《はくだつ》することを誓った、そしてじつはその場合のために、つまり法定相続人を持ちたいと思うからこそ、あなたに結婚の承諾を求めるのであって、私の求婚の主な動機はここにあるのだ、とこうはっきり言いました。
それから、あなたはひどく貧しい暮らしをしているんですね、こんな貧民窟《ひんみんくつ》に住んでいたら、病気になるのは当然ですよなどと言い、あと一か月もこんなことをしていたら、きっと死んでしまうにちがいないと予言しました。ペテルブルクの貸間はひどいものだなどと言い、最後に、なにか入り用なものはないかと聞いていました。
わたしはあの人の申しこみにはすっかりびっくりしてしまって、わけもなく、泣き出してしまいました。そうしたら、あの人、わたしの涙を感謝の涙ととったんですね、わたしにむかって、私は常日頃あなたは気立てのいい、情に脆《もろ》い、学問のある娘さんだと信じてはいたが、あなたの現在の身持をくわしく調べあげないうちはこういう挙に出ることができなかったのだと言っていました。そう言ってあの人はあなたのことをいろいろ聞き質《ただ》して、私はその人が素行の立派な方だということは聞いている、自分としてはその人に借金をしていたくないのだが、あなたがいろいろ厄介になったお礼に五百ルーブリもあげたら足りるだろうか? と言ったんですの。そこでわたし、あの人にはお金やなんかでは償《つぐな》えないようなことをしてもらっているんですと説明したところ、あの人はわたしに、そんなことはまったく下らんことだ、そんなことは小説だ、あなたはまだわかいから詩などを読んでいるが、小説はわかい娘の身を誤まらす、書物なんて徳義心を損《そこな》うだけだ、自分はどんな書物でも我慢がならない、なんて言うんですの。そして、私の年ぐらいまで生きぬいてから人間のことを語るべきだなどと忠告し、その頃になってはじめて人間というものもわかるんです、とつけ加えました。それからあの人は、私の申しこみについてはよくよく熟考していただきたい、あなたが軽はずみな気持ちでこんな大事な第一歩を踏み出すようなことでもあったら、不愉快|至極《しごく》だからと言い、軽はずみや一時の出来心は経験の浅い若者の身を滅ぼすものです、とは言っても、私自身としては色よい返事を切望していますがねと言い足し、最後に、でないと私はモスクワの商家の娘とでも結婚しなければならない、私は能なしの甥から相続権を剥奪《はくだつ》する誓いを立てたのだから、と言っていました。あの人は、菓子代だと言って、無理にわたしの刺繍《ししゅう》台の上に五百ルーブリおいていきました。そして、田舎へ行けばあなたは餅《もち》みたいに太るだろうとか、私のところへ来れば、裕福な暮らしができるはずだとか、私はいま繁忙《はんぼう》をきわめていて、一日じゅう用事で飛びまわっているその仕事の合間を見て、あなたのところへ立ち寄ったのだという言葉を残して、引きあげていきました。
わたし長い間考え、いろいろ思いめぐらし、思い悩んだあげく、とうとう腹をきめましたの。マカールさま、わたしあの人のところへお嫁に行きますわ。あの人の申しこみを承諾すべきだと思いますの。わたしを恥辱から救い、わたしに名誉を回復してくれ、わたしを将来の貧困と窮乏《きゅうぼう》と不幸から免《まぬが》れさせてくれる人がいるとすれば、それはあの人をおいてほかにいないんですもの。将来にこれ以上なにを期待できるでしょう、また運命になにを求めることができますか?
フェドーラも、こんな幸運をむざむざ棄てることはないと言い、……これを幸福と言わなかったら、なにを幸福と言えますか? と言っています。わたしは、すくなくとも自分にはこれ以外の道はないと思いますのよ、マカールさま。わたしはどうしたらいいんでしょう? わたしはこのままでも仕事で体がめちゃめちゃになってしまっているし、休みなしに働くことはできません。では人中《ひとなか》へ出ていったら?……そうしたらわたしはわびしさに憔悴《しょうすい》してしまいますわ、おまけにわたしはだれの役にも立たない女ですもの。わたしは生まれつきひよわい女ですから、いつでも他人の荷厄介になるだけですわ。そりゃ無論、今度の結婚は、天国へ行くようなものじゃありません、ですけど、それならわたしはどうしたらいいんですの、マカールさま、わたしどうしたらいいんでしょう? わたしはどんな道を選んだらいいのでしょうか?
このことではわたし、あなたに相談に乗っていただきませんでした。ひとりでよく考えてみたかったんですの。ただいまお話した決心はもはや変わることはありません、わたしこの決心をすぐにもブイコーフさんにはっきり申しあげようと思います、それでなくともあの人は最後の決意を迫っているんですもの。
あの人は、急を要する仕事があって、出かけなければならない、つまらぬことで仕事を延ばすわけにはいかないのだと言っておりました。わたしが仕合わせになれるかどうかは、神さまにしかわかりません、わたしの運命は神さまの神聖な、測り知れない権力の中にあるわけですが、わたしは行く覚悟をきめました。ブイコーフさんはいい人だということですから、あの人はわたしを大事にしてくれるだろうと思います。もしかしたら、わたしのほうもあの人を尊敬するようになるかもしれませんわ。この結婚からは、これ以上なにが期待できますか?
マカールさま、これで残らずお知らせしたことになります。あなたはきっとわたしのわびしい気持ちを理解してくださるものと信じています。どうぞ、わたしの決意を鈍らせないでください、無駄骨でしょうから。ご自分のお心のなかで、わたしがこういう行動をとらなければならなくなったすべての事情を考えあわせてみてください。はじめのうちは大変不安でしたけれど、いまは前より落ちついてまいりました。先行きどうなるかは……わたしにはわかりません。なるようにしかなりませんわ。神さまの御心のまま生きるほかありません!……
ブイコーフさんが来ましたので、この手紙、書きかけのままでよします。まだまだ申しあげたいことはたくさんあるんですけど、もうブイコーフさんがはいってきましたので!
V・D・
九月二十三日
愛するワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
ワーリニカさん、取り急ぎ、返事をしたためます。ワーリニカさん、急いではっきりと申しあげますが、実際私は驚きました。これは余談ですが……きのう私たちはゴルシコーフ氏の葬儀をすませました。ええ、あれはおっしゃるとおりですよ、ワーリニカさん、あれはおっしゃるとおりです。ブイコーフ氏の行動は見上げたものです。だからこそ、ね、ワーリニカさん、あなたも承諾されたんでしょう。申すまでもなく、何事も神さまの思《おぼ》し召《め》しです。それはそのとおりです、これはどうしてもこうなるべきはずなんです、つまりこれにはかならず神の思し召しがあるはずなんです。そして天の創造主の御計《おはか》らいは、無論、善であると同時に、窺《うかが》い知れないものであって、運命もそうなのです、運命もまったくおなじです。……フェドーラもあなたに共感していることでしょう。
もちろん、ワーリニカさん、あなたは今度こそ幸福になれることでしょう。ワーリニカさん、満足を味わわれますよ、ワーリニカさん……ただですね、ワーリニカさん、いったいどうしてそんなに早くしなければならないのです?……そうそう、仕事が……ブイコーフさんには仕事があるということでしたね、……もちろん、仕事のない人なんていないんだから、あの人にだって仕事はあるでしょうよ………私は、あの人がお宅から出て来るところを見かけましたが、立派な堂々たる男ですね。むしろあんまり堂々としすぎるくらいです。ただどうも、なにもかもどこかおかしいですね、問題はまったく、あの人が堂々たる男だというようなことにあるんじゃなかったのです、私のほうがきょうはどこか調子が狂っているんですよ。ただ、私たちはこれからどうやって手紙のやりとりをしたらいいんでしょう? 私は、私のほうが、ひとりで残ることになったらどうなるんでしょう。私は、ワーリニカさん、すっかり考えあわせているんですよ、すっかり考えあわせているのです、あなたがあの手紙に書いておよこしになったとおり、自分の心のなかであのことを残らず考えあわせているのです、あの原因なるものをね。すでに二十枚めの原稿の清書を終えようとしていたその矢先に、この事件が降って湧《わ》いたわけなんです!
ワーリニカさん、こうしてあなたは出発されるということになれば、いろいろ買物をしなければならないでしょう、いろんな靴だの、服だのとね、ところでちょうどいいあんばいに私にはゴローホワヤ通りによく知っている店があるんです。ほら、おぼえていらっしゃるでしょう、前にあの店のことを手紙に書いてあげたじゃありませんか。……それにしてもこれはいけませんね! あなたはなんということです、ワーリニカさん、なにをおっしゃるんです? あなたはいま出かけるなんてできっこないでしょう、全然不可能ですよ、絶対にできやしませんよ。買物だってたくさんしなければならないし、馬車の用意だってしなければなりません。おまけにいまは天候だってよくないし。まあ、見てごらんなさい、土砂降《どしゃぶ》りじゃありませんか、大変なざあざあ雨で、それに……それにあなたは冷えこんでしまいますよ、ワーリニカさん。あなたの心臓まで冷えきってしまいますよ! あなたはあんなに他人を恐がっていらっしゃったのに、お出かけになるなんて。それじゃこの私はだれを頼りにここにひとりで残ることになるんです? そうですとも! あのフェドーラのやつ、あなたの前途には大きな幸福が待っているなんてぬかしていますがね……あれは乱暴な女だから、きっと私が死ねばいいと思っているんですよ。
ワーリニカさん、あなたは今夜の祈祷式《きとうしき》にいらっしゃいますか? 私も行ってお目にかかりたいと思っています。あれは確かに、ワーリニカさん、まったくあのとおりですよ、あなたが学問のある、操《みさお》の固い、情に脆《もろ》い娘さんだというのはね、ただあの人はほんとうに商家の娘と結婚したほうがいいんですがね!
あなたはどうお思いです、ワーリニカさん? いっそ、その商家の娘と結婚したほうがいいんじゃないんでしょうかね!……まいりますよ、ワーリニカさん、暗くなり次第、一時間ほどお邪魔にあがりますよ。この頃は早く日が暮れますから、そしたら駆けつけますよ。ワーリニカさん、きょうはかならず一時間ほどお邪魔にあがります、あなたはいまブイコーフさんを待っていらっしゃるようですが、あの人が帰ったら、さっそく……まあ待っていらっしゃい、私、飛んでいきますから……
マカール・ジェーヴシキン
九月二十七日
親友のマカール・アレクセーエヴィチさま!
ブイコーフさんのおっしゃるには、わたしにはどうしてもリンネルの下着が三ダースはなければいけないんですって。そうすると、二ダース縫ってもらうために大至急、下着の女裁縫師をさがさなければなりませんの、日にちがわずかしかありませんのでね。ブイコーフさんは腹を立てて、こんなぼろきればかりじゃ手間ばかりかかってしょうがないじゃないかなんて言うんですよ。結婚式は五日先で、結婚式の翌日は出発ですの。ブイコーフさんはやきもきして、こんな下らないことにいつまでも時間をつぶしちゃおれん、なんて言っているんですの。わたし、気忙《きぜわ》しさにへとへとに疲れきって、立っているのもやっとですのよ。仕事が山ほどあるんですもの、ほんとうに、こんなことなんにもなかったほうがいいくらいですわ。
それからもうひとつ。絹レースと綿レースが足《た》りないので、これも買い足さなければなりませんの、だってブイコーフさんは、自分の女房に料理女みたいなかっこうをさせて歩かせたくないんだ、どうしても、「地主の細君達の鼻をあかしてやらなければならんからな」なんて言っているんですもの。あの人からしてそんなことを言うんですもの。
そんなわけで、マカールさま、どうかひとつ、ゴローホワヤ通りのマダム・シフォーンの店へ行って頼んでください。まず、女の裁縫師を何人かよこしてくれるようにと、それからマダムご自身、ご足労でもおいで願えまいかと、頼んでみてくださいな。
きょうはわたし、体のぐあいがよくないんですの。今度のあたらしい住居《すまい》はとても寒いし、ひどく取り散らかしてあるんですの。ブイコーフさんの伯母《おば》さんという人は老衰のため、やっと息をしているくらいです。わたしたちが出発する前に伯母さんが亡《な》くなりはしないかとわたし心配しているんですけど、ブイコーフさんは、なんともないさ、じき持ちなおすよ、と言っております。わたしたちの家ときたら、大変な取り散らかしようなんですの。ブイコーフさんはわたしたちと起居をともにしていないものですから、召使がみんな、どこかほうぼうへ散っていってしまいますのでね。そのため、ときにはフェドーラしかわたしの用を足してくれる者がいないことがありますの、それに全部の監督をするはずのブイコーフさんの侍僕も、もう二日以上どこかへ雲隠れしてしまっています。
ブイコーフさんは毎朝家へ寄っていってくれますけど、しょっちゅうぷりぷりしていて、きのうなどもこのアパートの管理人をひっぱたいたことから、警察を相手にいやなことが起きました……手紙をお届けする者がおりませんので、市内郵便で出します。
あ、そうそう! もうすこしでいちばん肝心なことを忘れるところでした。マダム・シフォーンに、絹レースはきのうの見本どおりかならず取りかえてくれるようにと、それにあたらしいサンプルを見せに来てくれるようにと、そう言ってくださいな。それから、カネズ〔軽い袖なしジャケット〕についてはいろいろ考えましたけど、こまかい刺繍《ししゅう》ということにしたと言ってください。
それからもうひとつ。ハンカチのイニシアルの組み合わせ文字は円枠繍《まるわくぬ》いにしてもらいたいんですの。いいですか? 円枠繍いですよ、平繍《ひらぬ》いじゃなくてね。注意して、円枠繍いだということをお忘れなくね!
そう、もうひとつ忘れるところでしたわ! マダムに、どうかお伝えください、肩掛けにつける葉は盛りあがるように刺繍をして、蔓《つた》と刺《とげ》は、ひも繍《ぬ》いにして、それから襟《えり》にはレースか広い縁飾りを縫いつけてくれるようにとね。どうか、そうお伝えください、マカールさま。
あなたの
V・D・
二伸 こんなお使いなどでお手数をわずらわして、ほんとうに恥ずかしい気がします。一昨日も午前ちゅういっぱい駆けまわっていただいたんですのに。でも、どうしようもないんですの! 家のなかはめちゃくちゃですし、当のわたしは加減が悪いんですもの。そんなわけですから腹をお立てにならないでくださいね、マカールさま。とてもやるせない気持ちですわ!
ああ、いったいどういうことになるんでしょう、お懐かしい、ご親切なマカールさま! わたし、自分の将来をのぞいただけでも恐いんですの。しょっちゅうなにか予感がして、まるでなんか悪酔いでもしているような感じですわ。
三伸 マカールさま、どうかお願いですから、ただいま申しあげたことのうち、なにかをお忘れにならないでくださいね。わたし、なにかの拍子でおまちがいになりはしないかと、心配のしどおしですのよ。おぼえていてくださいね、円枠繍《まるわくぬ》いですのよ、平繍いじゃなくて。
V・D・
九月二十七日
ワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
お使いの用事は全部きちんと果たしてきました。マダム・シフォーンは、自分も円枠繍いにしようと思っていたところだったと言っていました。そのほうが体裁がいいとかなんとか言っていましたが、そういうことはもう私にはわかりません、ほんとうのところはよく呑《の》みこめませんでした。それから、あなたは手紙に縁飾りのことも書いておられましたが、あの人はその縁飾りのことも言っていました。ただ、ワーリニカさん、あの人が縁飾りのことでなんと言っていたのかは忘れてしまいました。おぼえているのは、あの人がなにかべらべらしゃべっていたということだけです。
じつにいやな女ですね! はて、どう言っていたんでしたかねえ? しかしまあ、あとで本人があなたにすっかり話してくれるでしょう。ワーリニカさん、私はくたくたに歩き疲れてしまいましたよ。ですから、きょうは勤めにも行きませんでした。ただあなただけは、ワーリニカさん、つまらないやけを起こさないでくださいよ。私は、お心を安めるためだったら、店という店を全部でも駆けずりまわるつもりですから。
あなたは、将来をのぞいただけでも恐いと書いておられますが、今晩六時すぎにはすっかりわかるじゃありませんか。マダム・シフォーンが自分でお宅へあがるそうです。ですからやけなど起こさないでください。希望を持ってください、ワーリニカさん。きっとなにもかもうまく運びますよ……そうなりますとも。そんなわけでその、私はずうっとあのいまいましい縁飾りが気になっていたんですよ……いやまったく、あの縁飾りのやつめ! できたらお宅へ飛んでいきたいところですよ、ワーリニカさん、飛んでいきたいところです、ぜひとも飛んでいきたいところです。お宅の門のところへもうこれで二、三度行ってみたんですよ。ところがその度にブイコーフ氏がいるんです、つまり私の言いたいのはですね、ブイコーフ氏はいつもひどく怒りっぽい人だということですから別に変なことではないのに……いや、いまさらなにも言うことはない!
マカール・ジェーヴシキン
九月二十八日
マカール・アレクセーエヴィチ様!
お願いですから、いますぐ、ひとっ走り宝石屋へ行ってください。パールとエメラルドのイヤリングは作らないでほしいと言ってくださいな。ブイコーフさんは、贅沢《ぜいたく》すぎる、値が張りすぎると言うんですの。あの人はぷりぷりして、それでなくとも出費が嵩《かさ》んでいるのに、これじゃお前さんたちから掠《かす》め取られているようなものだなんて言うんですもの、それにきのうなぞ、こんなに出費があると前もってわかっていたら、結婚なんかするんじゃなかったなんて言うんですよ。式がすみ次第、すぐに出発しよう、お客も呼ぶまい、お前さんも踊ったり跳《は》ねたりできるなんて当てにしなさんなよ、お祭り騒ぎはまだまだずっと先のことだ、などと言っていましたわ。あの人はそんなことまで言うんですよ! わたしがそんなものをしてほしがっているかどうかは、神さまがご存じのはずですわ! なにもかも、そう言うブイコーフさんが注文したくせに。わたしはなんにも口答えをする気はしません。あの人はそれは短気な人なんですもの。わたしはどうなるのかしら?
V・D・
九月二十八日
ワルワーラ様!
私どものほうは……と、これはつまり、宝石屋が言っているんですがね、……結構でございますよ、ということでした。まず自分のことから申しあげたいと思いますが、じつは私、病気になって、床から起きあがれずにいます。ちょうどいま、この忙しい大事なときに、風邪《かぜ》にやられましてね、癪《しゃく》にさわるったらありません! それからもうひとつお知らせしますが、私の不幸の総仕上げでもするように、閣下までが厳格におなりになって、エメリヤンさんにかんかんにお怒りになり、どなり散らされ、そのあげく、おかわいそうに、ぐったりと参っておしまいになりました。これですっかりお知らせしたことになります。まだなにか書いてあげたかったのですが、ご迷惑になりはしないかと思いまして。私は、ワーリニカさん、このとおり馬鹿で単純な男ですので、頭にうかぶまま、手当たり次第に書くものですから、ひょっとすると、あなたはそこになにかその……いや、こんなことを書いても、もうはじまりません!
あなたの
マカール・ジェーヴシキン
九月二十九日
ワルワーラ・アレクセーエヴナ様!
ワーリニカさん、私はきょう、フェドーラに会いました。フェドーラの話では、あなた方はもう明日式をあげて、あさってにはお発《た》ちになるんだそうですね、そしてブイコーフさんはもう馬まで傭《やと》ったんですってね。それからですね、……ゴローホワヤ通りの店から来た勘定書を調べてみました。全部まちがいはありませんが、ただずいぶん高いですね。それにしてもブイコーフさんはなんだってあなたに怒り散らすんでしょう? まあ、とにかく仕合わせにお暮らしください、ワーリニカさん! 私は嬉しいんですよ。そうです、私は、あなたさえ幸福になってくだされば、嬉しいのです。教会の式にも出たいんですがね、ワーリニカさん、出られないんですよ、腰が痛むものですから。手紙のことばかり言うようですが、これからいったいだれが手紙の取り次ぎをしてくれるんでしょうかね、ワーリニカさん?
そうそう! あなたはフェドーラに善行をほどこしておやりになりましたね、ワーリニカさん! あれはいいことをしましたよ、ワーリニカさん。大変いいことをなさいました。立派なことです! ああいう善行にたいしてはその都度《つど》、神様の祝福がありますよ。……いいことをして酬《むく》いられないことはありません、善行を積む者はつねに、晩《おそ》かれ早かれ、神の御手《みて》から正義の月桂冠をいただくことになるのです。ワーリニカさん! 私はあなたにいろいろ書きたいのです。一時間毎に、一分毎にしょっちゅう書きたくなるのです、絶えず書いていたいのです!
私の手もとに、まだあなたの本が一冊、『ベールキン物語』が残っていますが、あなたはこれをですね、ワーリニカさん、私のところから持っていかずに、私にください、ワーリニカさん。とは言っても、それはいま読みたくてたまらないからというのではありません。ご承知のように、ワーリニカさん、冬が迫ってきています。夜が長くなって、寂しくなるようなことがあるでしょう、そんなときに読みたいのです。ワーリニカさん、私は自分の住居《すまい》を引き払ってあなたのもとの住居に引っ越して、フェドーラの部屋の一隅を借りようと思っています。私はこれから先、あの正直な女とはどんなことがあっても別れまいと思っています。それに、あの女は大変な働き者ですからね。私はきのう、あなたが空《あ》けていらした部屋を綿密に調べてみました。あそこには、あなたの刺繍台と、それにかけた刺繍とが、そっくりそのまま、手も触れられずに残っていました。片隅《かたすみ》においてあったのです。私はあなたの刺繍をよく見てきましたよ。あそこにはまた、いろんな裁《た》ち切れも残っていました。私がさしあげた手紙にあなたは糸を巻きかけていましたね。小机の上には便箋《びんせん》が何枚かあって、一枚の紙に……「マカールさま、取り急ぎ」とだけ書いてありました。明らかに、ちょうどおもしろい所でだれかに中断させられたわけなんですね。隅《すみ》の衝立《ついたて》のかげには、小さなベッドがおいてありました……ああ、ワーリニカさん! では、失礼します、さようなら。どうか、なるべく早くこの手紙になんとかご返事をください。
マカール・ジェーヴシキン
九月三十日
大事な親友のマカール・アレクセーエヴィチさま! なにもかも終わってしまいました! わたしの運命もきまりました。どんな運命かはわかりませんが、わたしはただ神さまの思《おぼ》し召《め》しに従うだけです。あす、わたしたちは出発します。最後のご挨拶をします、わたしのこの上なく大事な友だちであり、恩人であるマカールさま! もうわたしのことなどにお心をお痛めにならずに、仕合わせにお暮らしください、わたしのことをときどきは思い出してください、あなたの上に神の祝福が降《お》りますよう!
わたしもいろいろ思いをめぐらすたびに、お祈りをささげるたびに、始終あなたのことを思い起こすことでしょう。……これであの時代も終わりを告げたわけですわ! 過ぎし日の思い出から新生活へ持っていける楽しかったことはほんのわずかしかありません。それだけになおさら、あなたの思い出はいよいよ貴いものになり、わたしの心にとっていよいよ価値高いものとなるわけです。あなたはわたしの唯一の友ですわ。当地でわたしを心から愛してくださったのは、あなただけなんですもの。あなたがわたしをどんなに愛してくださったか、わたしはすっかり見て知っていましたわ。わたしがほほ笑《え》んだだけでも、わたしの手紙の一行をお読みになっただけでも、あなたは仕合わせにおなりだったんですもの。
あなたはこれから、わたしにいない生活にお馴《な》れにならなければなりませんわね! おひとりでこの地にお留まりになるあなたのお気持ちはどんなでしょう! だれを頼りにあなたはここにお残りになれるでしょう、お心のやさしい、この上ない唯一の友のマカールさま! あなたに本と、刺繍台と、書きかけの手紙を残してまいります。あの書き出しの数行をごらんになりながら、頭のなかで、あなたがわたしの口からお聞きしたかったこと、わたしの手紙から読みたいとお思いになったこと、わたしがあなたに書いてさしあげたいと思ったことを、なにもかもお読み取りください。いまわたしはなんでも書いてさしあげたいところですけどね!
あなたをあれほどふかくお慕《した》い申しあげていた、あなたのあわれなワーリニカのことを思い出してください。あなたのお手紙は全部、フェドーラの箪笥《たんす》のいちばん上の引出しに入れておきました。お手紙によれば、あなたはご病気だそうですけど、ブイコーフさんはきょうわたしをどこへも出してくれませんの。
わたし、手紙をさしあげますわね、マカールさま、お約束しますわ。でも、どうなるかは、だれにもわかりませんわ。それでは、これで永久にお別れいたします、マカールさま、永久に! さようなら、マカールさま、さようなら。お仕合わせにお暮らしください。ご健康をお祈りいたします。永久にあなたをお祈り申しあげます。ああ! 悲しくて、悲しくて、胸がつぶれそうです。ブイコーフさんが呼んでいますので。
あなたを永久にお慕いする
V・D・
追伸 わたしは胸が涙でいっぱいです、いま、せき来る涙でいっぱいです……涙に胸がしめつけられるようです、胸が張り裂けそうです。さようなら。悲しくてたまりません! 忘れないでいてください、あなたのあわれなワーリニカを忘れないでいてください!
………………………
ワーリニカさん、ワーリニカさん、私の大事なワーリニカさん! あなたは連れていかれるんですね、あなたは出発されるんですね! そうです、私の手からあなたを奪い去られるくらいなら、たったいまこの胸から心臓をつかみ出されたほうがよっぽどましです! あなたはいったいどういうことなんです? ほうら、あなたは泣きながらお発《た》ちになるじゃありませんか! あなたからただいまお手紙をいただきましたが、このとおりいっぱいに涙がにじんでいるじゃありませんか。してみると、あなたは出発したくないんでしょう。してみると、あなたは無理やり連れていかれるわけなんですね。つまり、あなたは私が不憫《ふびん》なんですね、ということはつまり、あなたは私を愛してくださっているということだ! あなたはこれからどうやってだれと暮らすことになるのです? そんな所へ行ったら、あなたの心は憂鬱《ゆううつ》になり、不愉快になり、さむざむとなるにきまっています。心がわびしさに蝕《むしば》まれ、悲哀に真っ二つに引き裂かれるにちがいありません。あなたはそこで死んでしまいますよ、じめじめした土のなかに埋められてしまうだけです。そんな所では、だれひとりあなたの死を悼《いた》んで泣いてくれる者はいませんよ! ブイコーフ氏などは兎《うさぎ》狩りばかりしていることでしょうからね……ああ、ワーリニカさん、ワーリニカさん! あなたは大変なことを思い立ったものじゃありませんか? よくもあなたはそんな挙に出る決心がつきましたね? あなたはなんということをされたんです、なんということをしたものでしょう、あなたはわれとわが身に、なんということをしたものでしょう? そんな所へ行ったら墓場へ引きずりこまれるようなものですよ。そこへ行ったら、みんなに死ぬほどの苦しみをなめさせられるだけですよ。ワーリニカさん、あなたは鳥の羽のようにひよわい体じゃありませんか?
それにしても、この私はどこにいたというのだ? 私はここにいながら、馬鹿めが、ぽかんとしてなにを見ていたのだ? 子供がむずかっているのを見ていながら、ただ頭痛がするんだろうくらいに考えて! そんなときはちょっとなにか手当てでもしてやればいいものを……馬鹿みたいに、そんなことをするどころじゃない! なんにも考えず、なにひとつ目に映《うつ》らずに、まるで自分はまちがっていないような顔をし、自分には関係ない問題のような顔をしているなんて。その上、縁飾りのことで駆けずりまわったりしているなんて!……いや、ワーリニカさん、私は起き出しますよ。あすまでには、おそらく病気もなおるでしょうから、そうしたら私は起きますよ!……私は、ワーリニカさん、車輪の下に身を投げますよ。私はあなたを出発なんかさせませんからね! とんでもない、ほんとうにこれはいったいなんですか? なんの権利があってこんなことをするんです? 私はあなたといっしょに発《た》ちますよ。私を連れていってくれなければ、馬車を追いかけていきます、力の及ぶかぎり、精根が尽きるまで、走ってみせますよ。
それにしてもあなたは、向こうにはなにがあるのか、あなたはどこへ行こうとしているのか、ご存じなんですか、ワーリニカさん? あなたは、多分、そんなことはご存じないんでしょう、だったらこの私に聞いてみるがいい! あなたの行く所は曠野《ステップ》なんですよ、ワーリニカさん、そこは曠野なんです、なんにも生えてない曠野なんですよ。この私の手のひらみたいになにひとつ生えてない曠野ですよ。そんな所を歩いているのは、冷酷無情な百姓女だの教育のない百姓だけです、酔っぱらいしか歩いちゃいませんよ。そこではもう木の葉も落ちつくして、雨が降りしきっていて、寒いんです、……あなたはそういう所へいらっしゃるんですよ! そりゃ、ブイコーフ氏には向こうへ行けば仕事があるでしょうよ。向こうでは兎《うさぎ》を相手に暮らすわけでしょうから。
ところが、あなたはどうでしょう? あなたは地主の奥さんになりたいんですか、ワーリニカさん? ワーリニカさん! まあ、ご自分の姿を篤《とく》とごらんになってください、あなたは地主の奥さん然としたところでもありますか?……そんなところなどあるはずはないでしょう、ワーリニカさん! それに私はこれからだれに手紙を書いたらいいんです、ワーリニカさん?
そうそう! こういうことも考えてみてください、ワーリニカさん、……あの人はこれからだれに手紙を書くことになるのかしらとね。これからさき私はだれをあなたと呼んだらいいんです、愛情をこめてだれをそう呼んだらいいんです? これからは私はどこへ行ってもあなたのお姿が見られないじゃありませんか、ワーリニカさん? 私は死んでしまいますよ、ワーリニカさん、きっと死んでしまいます。私の心はそんな不幸にはとても耐えきれませんからね! 私はあなたを神の光のように愛してきたのです、生みの娘のように愛してきたのですよ、ワーリニカさん、私はあなたのどこからどこまで好きだったんですよ、ワーリニカさん! しかも私自身はあなたひとりだけのために生きてきたわけなんですよ! 仕事をしてきたのも、書類を書いてきたのも、役所へかよったのも、散歩をしたのも、自分の観察を親しい手紙の形でお伝えしてきたのも、みんな、ワーリニカさん、あなたがすぐそばに、向かいあわせに住んでおられたればこそなんですよ。もしかしたら、こういうことはご存じなかったかもしれませんが、これはまったくこのとおりだったのです! そうです、私の言うことを聞いてください、ワーリニカさん、ひとつ考えてみてください、ワーリニカさん、私たちをおいて立ち去るようなことがあっていいものかどうか。
ワーリニカさん、あなたは出発なんかできやしませんよ、不可能ですよ。それこそ絶対にできるはずはありませんよ! このとおり雨は降っているし、あなたは体が弱いときているんですから、風邪《かぜ》をひきこんでしまいますよ。あなたの馬車はびしょ濡れになってしまいます。きっと雨が滲《し》みとおってしまいます。馬車は市の関所を出たとたんに、壊《こわ》れてしまいます。わざと壊したみたいに、壊れてしまいます。まったく、このペテルブルクの馬車ときたら、作りが実際成っていないんですから! 私はここの馬車屋という馬車屋を残らず知っていますがね。連中ときたら、見本の、玩具《おもちゃ》の馬車みたいなものをこしらえるくらいが関の山ですから、頑丈《がんじょう》じゃないんですよ!
ワーリニカさん、私はブイコーフ氏の前にひざまずいて、あの人に証明してみせますよ、すっかり証明してみせます! ですから、あなたも、ワーリニカさん、証明してみてください、あの人に事をわけて証明してください……ああ、あの人はまたなんだってモスクワの商家の娘と結婚しなかったのでしょう? あの人なんかはそういう女と結婚すればいいんですよ、あの人にはそういう女のほうがいいんですよ、ずっと似合っているんですから。私にはその理由はちゃんとわかっているんです! 私はあなたをここへ引きとめておけばよかったのです。あなたにとってあんな男がなんですか、ワーリニカさん、ブイコーフなんて男が! なんであの男は突然あんなにあなたにとって親しい人間になってしまったんです! 多分、あの男はあなたに飾り繍《ぬ》いなどをしょっちゅう買ってあげているからなんでしょう、きっとそのためですね? それにしても、その飾り繍いがなんですか? そんな飾り繍いなんて、なにになるんです? そんなものは、ワーリニカさん、くだらないものじゃありませんか! ここでいま問題になっているのは人間の命のことなんですよ、そんなものは、ワーリニカさん、飾り繍いなんてものは、ぼろきれじゃありませんか。この私だって今度給料をもらったら、すぐにそんな飾り繍いなんかいくらでも買ってあげますよ。いくらでも買ってあげますとも、ワーリニカさん。私にはあそこに懇意《こんい》な店があるんですから。ただ月給をもらうまでちょっと待ってください、ワーリニカさん!
ああ、主よ、主よ! それじゃあなたはどうしてもブイコーフ氏といっしょに曠野《ステップ》へいらっしゃるんですね、そしてこれっきり帰っていらっしゃらないわけですか! ああ、ワーリニカさん……いえ、これからも手紙をよこしてください、これからも私に手紙になんでも書いてよこしてください、出発してしまわれたら、向こうからでも手紙をください。でないと、ワーリニカさん、これが最後の手紙になってしまうじゃありませんか。これが最後の手紙になるなんて、そんなことがあってたまるもんですか! こんなふうにしていきなり、どうでも最後の手紙になってしまうなんて。
いやいや、私も手紙をさしあげますから、あなたも手紙をください……でないと、私の文章がせっかくこの頃形をなしてきたのに……ああ、ワーリニカさん、文章なんかもうどうでもいいです! もうこうなると、なにを書いているのか、自分でもわかりません、さっぱりわかりません、なんにもわからないのです、私は読みかえしもしないし、文章もなおしません、ただ書いているだけです、ただ書きたいから、すこしでも多く書きたいから書いているだけです……ああ、愛《いと》しいワーリニカさん!
………………………( 完 )
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解説
作家誕生
〔生いたち〕
一八二一年の初冬に、モスクワのマリインスカヤ貧民病院付属官舎で、軍医あがりの医長のミハイール・アンドレーエヴィチ・ドストエフスキイに次男が生まれた。これが未来の文豪フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキイである。父親は、辛抱強い働き者ではあったが、厳格で吝嗇《りんしょく》で、大変な癇癪《かんしゃく》持ちで、その上ひどいアルコール中毒にかかっていた。この父親の性格がかもしだしていた一家の雰囲気は、少年ドストエフスキイに耐えがたい暗い気分を味わわしていたらしい。母親はこれに反して、ほがらかで楽天的な気性で、宗教心のあつい人だったが、気むずかしくて怒りっぽい夫にいつもはらはらしどおしだった。この夫婦の取り合わせは、『貧しき人びと』の女主人公の手記にその反映を見せている。つまり、上京後のワルワーラの両親の関係がそれである。
暗い陰気な雰囲気は家の外にもあった。病院の界隈《かいわい》は、モスクワの旧市外で最も陰気くさい地区で、近くには浮浪者、自殺者、犯罪者等の墓地や汚い飲み屋があり、捨て子のための孤児院や精神病院があり、職人や職工や小商人《こあきんど》が住んでいた。また病院の殺風景な庭には青い陰気な顔をした患者たちが散歩をしていた。少年ドストエフスキイは好んでこの病人たちと話をまじえていたという。未来の、大都会の文学的風俗画家ドストエフスキイはこうして早くから下層社会の観察をはじめ、こうした陰鬱《いんうつ》な人間の群れが彼の注目と同情をよび、のちに彼の作品に取り入れられることになるのである。
父親には教育熱心な一面があって、子供に母国語とラテン語を教えた。が、文豪の幼時の主な教師は母親だった。彼女は文学好きで、ロシアの詩人のジュコーフスキイやプーシキンを高く評価し、小説も数多く読んでいた。彼女は子供に読み書きを教えるのに、新約聖書と旧約聖書の物語集を使った。これが息子の宗教心を培《つちか》ったことは言うまでもない。
子沢山《こだくさん》のドストエフスキイ家には乳母が近隣の村から次々と雇われてきていた。彼女らは子供たちにおとぎ話を聞かせて、早くから民衆の作品、口碑文学に親しませてくれた。子供たちがやや長じてからはこの家では、夜は毎晩のように、親子一緒になって、スコット、クーパー、プーシキン、ジュコーフスキイらの作品の読み合いがおこなわれていた。家の蔵書は多く、客間の本棚にはさまざまな作品がぎっしり詰まっていて、読むものには事欠かなかった。といったわけで、文学的雰囲気は十分にあったと言わなければならぬ。
幼少時の教育条件と環境は、人間の人格と趣味傾向を決定する。ラテン語を教えた父親があまりにも厳格で癇癪《かんしゃく》持ちだったことが災いして、文豪は古代文学には終生ほとんど興味を示さなかった。そしてそのかわり十八世紀後半から十九世紀初頭にかけてヨーロッパ文学を支配した中世やルネッサンスの文学様式、ロマン主義の文学に強い牽引《けんいん》をおぼえていた。幼時、寝る前に親たちが朗読してくれた十八世紀イギリスの女流作家アン・ラドクリフの怪奇冒険小説がその端緒《たんしょ》であるが、青年時代にはその傾向がドイツのホフマン、フランスのスュー、ロシアのゴーゴリらの作品によって強められ、文豪の作品に犯罪の問題や幻想性や怪奇趣味の濃い影を落とすことになる。また、彼の作品の特異なメロドラマ的な筋の構成なども、西欧の新文学の影響の跡と考えられる。
ドストエフスキイが十歳のとき、しまり屋の父親がこつこつ金を貯めて、トゥーラ県にダロヴォーエとチェルマーシニャのふたつの小さな村を買いとって、士族に列せられることになった。こうして母親と子供たちは毎夏をそこで過ごし、ドストエフスキイは生まれて初めてロシアの自然と農村生活に接することになった。このときの印象はワルワーラの手記と手紙のなかの思い出に利用されている。
一八三三年に、ドストエフスキイは兄のミハイルといっしょに、フランス人スシャールの経営する私塾へ入れられ、翌年にはレオポルド・チェルマークの寄宿学校へ移った。この寄宿学校にはモスクワの有名な学者が教鞭《きょうべん》をとっていたが、ロシア文学を教えていたI・I・ダヴィドフにしても、作品の鑑識眼や趣味はもはや古く、生徒たちがたがいに啓発しあう面のほうが強かった。ドストエフスキイも文学はむしろ独学で勉強していた。同級生の思い出には、「彼は生《き》まじめな、物思いがちな少年で、金髪で青白い顔をしていた。遊びにはあまり興味を示さなかった。休み時間にもほとんど本を手離したことがなく、余った自由時間を年長の生徒たちとの談話で過ごしていた」とある。
この頃はロシア文学の受難の時期であると同時に、ようやくロマン主義からリアリズムへの移行の兆《きざ》しが見えだし、プーシキンの小説『大尉の娘』、ゴーゴリの小説『タラス・ブーリバ』、戯曲『検察官』、ベリンスキイの論文『文学的空想』、レールモントフの詩『詩人の詩に』『ボロジノー』等が出た時期である。
この学校在学中に、母親は夫の猜疑心《さいぎしん》から来た心労がもとで肺を病み、他界した。父は退職してダロヴォーエにひっこみ、下の子供たちを親類にあずけ、上のふたりの息子を、近衛《このえ》将校か工業技師に仕立てるつもりで一八三八年にペテルブルク陸軍工兵学校へ入学させた。そして、息子の在学中に、彼は酒に身を持ちくずし、百姓たちを虐待したため、彼に恨みを持つ百姓たちの手で殺されてしまった。
青年ドストエフスキイには学校の厳格な規律やおもしろくもない教練と学科、軍隊調の雰囲気が性に合わなかった。そのため、孤立的で閉鎖的な性格はますます強められてきた。同級生たちは回想記のなかで彼を陰気くさい、人づきあいの悪い、孤独を好む青年として描いている。彼は自室に閉じこもって、夜おそくまで蝋燭《ろうそく》の光で読書にふけった。読書範囲は広くなり、ホメーロス、シェクスピア、コルネーユ、ラシーヌ、ゲーテ、シラーから、現代文学のスコット、バルザック、サンド、ユゴー、スューに及び、自国の文学もデルジャーヴィンからカラムジーン、ナレージヌイ、ザゴースキンらまで隈《くま》なく読みあさった。
この頃の彼は多読博識のおかげで数少ない親友たちの尊敬をかち得、彼よりひと足先に作家の道を踏みだすことになるグリゴローヴィチら級友の読書の手引きをしてやった。彼は読書だけでは満足がいかず、この時期に早くも劇作を試みている。同級生のひとりは、彼が自作の戯曲『ボリース・ゴドゥノーフ』と『マリア・スチュアート』を朗読してくれたことを追想している。これらの戯曲は現存せず、それにその後彼は戯曲を手がけたことはなかったが、この経験は、彼の小説の劇的な構成や、シラーを思わせるような情熱的な長広舌等、作風に歴然たる痕跡を残している。
〔花やかなデビュー〕
一八四一年の秋に、ドストエフスキイは野戦工兵少尉補に任ぜられ、工兵学校の通学見習生となった。そして四三年の夏には、将校高等科の全学科課程を終了して、ペテルブルク部隊付属工兵局製図室に勤務することになった。この頃、一時に自由を得たドストエフスキイはかなり放縦な生活を送り、晩年になるまで抜けなかった乱費癖を身につけ、質屋や高利貸しの厄介にもなり、資本主義社会の裏表にも通じるようになった。親類の後見人からしつこくねだって送ってもらった多額の金を、ひと晩で玉突きやドミノの賭勝負ですったようなこともあった。
が、資本主義社会の人間性の歪《ゆが》みを描いて他に比類を見ない作家となるドストエフスキイに、こうした体験が無駄でなかったことは言うまでもない。しかし、無論、彼は、文学の志を捨ててしまったわけではなく、すでに作家として立つつもりで、さまざまな作品のプランを立てたり、いくつか作品を書きだしたりもしていた。また、バルザックの『ウジェニー・グランデ』を訳して、雑誌に連載してもいる。
一八四四年に、ドストエフスキイは多額の費用と数か月の日数を要する、遠方の要塞《ようさい》への出張を命ぜられた。文学の仕事を中断したくなかった彼は、ついに意を決して退役を願い出た。そしてパンと水だけで餓《う》えをしのぎながら心血をそそいで処女作『貧しき人びと』を書きあげたのである。
一八四五年五月のある朝早く、まだ無名の青年作家ドストエフスキイの部屋を訪れたふたりの青年があった。新進作家のグリゴローヴィチと詩人でジャーナリストのネクラーソフである。ドストエフスキイが、書きあげたばかりの『貧しき人びと』を、工科学校時代からの親友のグリゴローヴィチに読んで聞かせたところ、ひどく感動したこの親友が、ちょうどネクラーソフが文集を出版しようとして原稿を集めているのを知っていたところから、その晩ネクラーソフを訪ね、二人で読みだし、ひと晩かけて一気に読みあげてしまった。そして熱狂したネクラーソフが作者にぜひ会いたいと言いだし、朝の四時だというのに、グリゴローヴィチの案内でドストエフスキイの住居を訪れたのである。ふたりは無名作家を抱擁し、前途を祝した。ネクラーソフはその足で原稿を持って大批評家ベリンスキイの家に駆けこみ、「新たなゴーゴリ」の出現を知らせた。批評家は疑いながらも、相手があまりにもしつこくすすめるので読みだしたところ、第一ページからひきつけられ、原稿を全部一挙に読みとおしてしまい、これまた深い感激にとらえられてしまった。そしてそれから二、三日してネクラーソフが恥ずかしがる作者を連れてベリンスキイを訪れると、批評家は作品と作者の才能を絶讃し、「芸術家たるあなたに真理の啓示があり、託宣があって、あなたはその真理を獲得されたのです。ご自分の才能を天賦の才として大事になさい。どこまでもその才能に忠実でとおせば、あなたは大作家になれます!……」と激励した。
ドストエフスキイは三十年後にこのときのことを回想して、「これは私の生涯中最も感激的な一瞬だった。私は、徒刑時代にこのときのことを思い出しては、勇気を奮い起こしたものだった」と述懐している。この中篇小説は翌年一月にネクラーソフ監修の『ペテルブルク文集』に収録されて出、読書界に一大センセーションを巻きおこした。
『貧しき人びと』について
〔成立の背景と経過〕
一八四一年、つまり工兵少尉補になったばかりの頃、ドストエフスキイはある小さなドラマを体験した。彼は二十年後にそのときのことを思い出してこう書き記している。
「……ところが、私は現実のアマーリヤを見落としていた。彼女は私のすぐわきに、すぐそこの衝立《ついたて》の向こうに住んでいたのである。私たちはみなその頃部屋の片隅で暮らし、大麦のコーヒーを飲んで生きていた。衝立の向こうには、ムレコピターエフという綽名《あだな》の、ある男が住んでいた。彼は一生涯自分の就職口をさがしつづけ、一生、ひどい長靴をはき、肺病の妻と五人の腹をすかした子供をかかえて餓《う》えていた。アマーリヤは長女だった。ほんとうはアマーリヤではなくて、ナージャという名前だったのだが、私にしてみればいつまでもそのままアマーリヤにしておきたい。私たちふたりはいっしょに小説をどれほど読んだかしれない。私は彼女にウォールター・スコットの本を貸してやっていた。私はスミルジン書店の双書を予約などしていながら、自分の長靴は買わないで、穴にインキを塗ってごまかしていた。ふたりはいっしょにクララ・モッブレイ(スコットの『聖ロナンの泉』の女主人公)の物語を読んで……感動したものだった、それはいまでも思い出すたびに神経の戦慄《せんりつ》をおぼえずにはいられないくらい強烈な感動だった。彼女は、私が小説を読んでやったり語ってやったりするかわりに、私の古靴下をかがったり、ワイシャツのいか胸に糊をつけたりしてくれていた」
彼女は作家志望の青年ドストエフスキイを恋した。「私はなにひとつ気づかなかった。いや、あるいは気づいていたのかもしれない。が、……私には『たくみと恋』(シラー作)やホフマンの小説を読んでやるのが楽しかったのだ。あの頃私はほんとうに純真だったのだ! ところが、アマーリヤは突然、この上なく貧乏なある男のところへ嫁いでしまったのである。四十五歳くらいの、鼻にこぶのある男で、私たちの住居の一隅にちょっとの間住んでいて、就職するとその翌日、アマーリヤに結婚を申しこんだのだ……どうしようもないほど貧乏だったくせに……。アマーリヤと別れの挨拶をしたときのことは忘れない。私は生まれてはじめて彼女のかわいらしい手に接吻をした。彼女も私の額に接吻をしたかと思うと、にやりとなんだか妙な笑みをうかべた」
このドストエフスキイの追憶の断片からは『貧しき人びと』の原型じみたものが読みとれる。ここにはすでにジェーヴシキンとワーリニカとの関係、あるいはポクローフスキイとワーリニカとの関係に似通ったものが見出だされる。男はポクローフスキイ同様、作家志望の青年である。が、男はまだポクローフスキイとジェーヴシキンのふたりの人物に分裂していない。アマーリヤが鼻にこぶのある四十男に連れ去られるところは、ワーリニカがブイコーフに連れ去られるくだりに照応する。ここにはさらにゴルシコーフ一家さえ見出される。ただヒロインがその一家の娘になっているという違いがあるだけである。
しかし、ドストエフスキイはこれを体験した当座は、まだこれを創作の素材とは見ていなかった。ただ、ひとつの体験として彼の頭に記憶されていただけである。
ところが一八四四年の一月になって、彼は「ネヴァ河の幻影」と呼んでいる心的事件を体験した。これは一種の啓示であるが、彼は一八六一年に発表した『詩と散文によるペテルブルクの夢』にこう書いている。
「そのとき、もうひとつの物語が私の目の前に浮かんだ。どこか暗い貸間、ある律儀《りちぎ》で心の清らかな九等官、彼とともに登場するのは、辱《はずか》しめを受け、悲しみに打ち沈んだ、ある娘。ふたりの物語全体に私の心は深くえぐられる思いがした」
ここで『貧しき人びと』全体のイメージが作家の頭に閃《ひらめ》き、ジェーヴシキンが登場するわけだが、最初は首都に出てきた現代の田舎娘の不幸というテーマが中心におかれ、やがて起稿した作品の全体の形式も女主人公の自伝的手記という体裁になっていた。その一部分がワーリニカの手記という形で最終稿にも残されている。
この処女作の稿が起こされたのがいつなのかは判然としないが、一八四四年九月三十日付の兄ミハイルあての手紙に、「『ウジェニー・グランデ』くらいの大きさの長編小説を脱稿しようとしています。この長編小説はかなり独創的なものです……(私は自分の小説に大いに満足しています)」とあるから、一八四四年九月以前であることは確実である。
また、手記から書簡体に書き改められたのはいつかという問題も、これまた明瞭ではないが、これは同年の十二月ではないかと推測される。それは、翌年三月二十四日付のやはり兄に出した手紙に、「小説はまだ完成していないのです。もう昨年十一月にはほとんど完成したのですが、十二月になって急にすっかり書きなおす気になり、またご破算にして書きなおしました」とあるからである。
そのあとに「この二月になって、また磨《みが》きをかけたり、鉋《かんな》をかけたり、入れたり、抜いたりしはじめたのです。三月中旬にはいよいよできあがって、満足というところまで漕《こ》ぎつけました」とあり、その後ふた月たってから兄に送った手紙には、「私はもう一度これを書き変えようと思い立ったのです。きっとよくなるだろうと思ったのです……、しかし今度こそおしまいです、今度の訂正が最後です。私はもう手を触れまいと誓いました。処女作の運命はつねにこうしたもので、際限なくなおされるものです」と書いてあるが、晩年の大作『カラマーゾフ兄弟』は別として、彼がこれほど改作と推稿を重ねたのは異例のことであった。彼の作品の大部分は、借金と期限に責められて大急ぎで書きあげられ、中には速記者まで雇って仕上げたものもあった。彼がいかにこの小説に自分の作家としての運命をかけ、この作品の成功、不成功が自分の将来の浮沈に関わるものと考えていたかが察せられよう。
〔構成〕
主人公のジェーヴシキンは、自分を「年寄り」と呼んではいるが、実際は中年の、書記で、教育もろくに受けていないし教養や智能は低く、貧乏ではあるが、そのかわり職務には熱心で、鋭敏な感受性と稀に見る深い人間愛の持ち主である。彼は遠縁の娘ワルワーラにたいする、尽きせぬ清らかな、父性愛に似た愛情に生きている。
ワルワーラは隣家の貸間に住む二十五歳の病身の娘である。彼女の手記によると、田舎で楽しい子供時代を過ごした彼女は、両親に連れられて上京し、最初寄宿学校へ入れられるが、家の経済状態が悪化し、父が病死したため、中退する。その後母娘は遠縁にあたるアンナ・フョードロヴナの家に身を寄せる。年のいかないワルワーラには初めわからなかったが、アンナの職業は女衒《ぜげん》で、彼女たち母娘を引き取ったのも、ふたりを食いものにする腹づもりがあったからなのである。ワルワーラはそこに寄食する貧しい学生のポクローフスキイに恋し、母の病気がきっかけで相愛の仲になるが、学生は間もなく病死する。つづいて彼女の母親も死に、娘がひきつづきそこで暮らすうち、アンナ・フョードロヴナは彼女を金持の地主のブイコーフに世話しようとする。このブイコーフこそ実は学生ポクローフスキイの実父なのであって、彼の母親を姙《みごも》らせて持参金つきで老ポクローフスキイのもとに嫁がせたのだった。ワルワーラはブイコーフの要求を逃れて、乳母のフェドーラとともに家を出て身を隠す。
彼女とジェーヴシキンの文通は、彼が彼女の隣のアパートに引っ越してきたばかりの頃から始まる。彼は自分も貧しい身でありながら、出費を節約し、貧乏を隠して、身寄りのない娘に献身的に尽くす。そして月給を前借りしたり、服を売りはらったり、夜おそくまで内職の筆耕をしたりして、彼女を助ける。主人公の愛は単に彼女だけに注がれるのではない。自分より貧しいゴルシコーフになけなしの二十コペイカを与え、乞食に施しを乞われてなにもやれないことで心を痛めもする。作者は貧乏人も、いや貧乏人だからこそ他人の苦しみにも同情でき、これほどの深い人間愛が抱けることを示そうとしているのである。だがこの貴い愛も、当人が貧しいために、十分な力を発揮できない。そこに悲劇がある。全力をあげてもワルワーラひとりの不幸すら救えないどころか、救う者も溺れる者と相擁したまま水底に沈むほかないのだ。
ジェーヴシキンは、身なりは一層ひどくなるし、部屋代も払えなくなり、そのためおかみばかりか下男にまで軽蔑され、同宿の人たちからはワルワーラとのつきあいを笑いものにされ、役所の同輩にも疎《うと》んぜられる。そして自暴自棄になり、その辛さを酒にまぎらすうちに、いよいよ窮乏のどん底に落ち、逆にワルワーラから援助を受けるまでになる。そうしたさなかに、譴責《けんせき》のために彼を呼びつけた長官から百ルーブリを恵まれ、彼もようやく立ちなおるかに見える。
だが、それも束《つか》の間の光明でしかない。ワルラーラにはその窮迫《きゅうはく》につけこんでさまざまな誘いの手がのびる。家庭教師にならないかと言ってくる者もあれば、妾にならないかと言ってくる老将軍もいる。最後に彼女はブイコーフから結婚の申しこみを受け、その動機の不純さを承知の上で、涙をのんで承諾する。結局はジェーヴシキンの生活を救うことになると思ったからである。ジェーヴシキンは最初は利他的な愛情からそれに賛成して、結婚の準備のために奔走してまわる。これはドストエフスキイの他の作品にも(例えば『永遠の夫』などに)よく出遇う自己犠牲的行為であり、作者自身にもその後これを地でいくようなことがあった。愛するイサーエワとその若い恋人の間をとり持つようなことをするのである。
ジェーヴシキンは、しかし、彼女が結婚して連れ去られるにあたって、取り残される侘《わ》びしさに耐えかねて、彼女に立ち去らないでくれと、切々と訴える感動的な手紙を書く。行く者、留まる者のいずれの前途にも光明の兆《きざ》しはない。
この作品は、その後ドストエフスキイも続々と大作を生み、ゴンチャローフ、ツルゲーネフ、トルストイ、シチェドリーンら他の文豪も競って傑作を発表し、ロシア文学の巨大な楼閣を築いたのを知っている現代のわれわれの目には、もはや眇《びょう》たる存在のように映るが、もちろん、現在でもその存在価値が失われてしまっているわけではない。この小説は現代の読者にも芸術的感動を与えるものを十分に備えているし、われわれはこの処女作からすでにドストエフスキイの天才のひらめきを明瞭に感じとることができる。が、文学史的に見るとき、その価値は一層大きい。ベリンスキイがこの作品の出現を狂喜して迎えたのは、これがゴーゴリを始祖としてベリンスキイの指導のもとに発生する「自然派」の先駆と見たからである。(「自然派」とは、当時のロシアの現実の社会生活をリアルに描写し、社会の否定現象を摘発し、農奴や都会の下層民、下級公務員、雑階級の知識人たちの生活に深い関心と同情を示した作家たちで、ドストエフスキイ、ゴンチャローフ、ゲルルェン、ネクラーソフ、ツルゲーネフら十九世紀半ばから後半にかけて活躍する大作家は大抵これに属していた。)
果たしてこのあと、グリゴローヴィチの『不仕合せ者アントン』、ゲルツェンの『だれの罪』『泥棒かささぎ』、ゴンチャローフの『平凡物語』、ツルゲーネフの『猟人日記』、オストローフスキイの『内輪同士はあと勘定』等、この派の新人の作品が続出するのである
〔作品鑑賞〕
≪特色一……テーマと形式≫
この作品が最初、手記の形で書かれ、それが中途で書簡体に書き改められたのには、作品の内容と作者の意図に関わる重大な原因があったと見なければならぬ。最初の構想では作者は上京した田舎娘の哀れな身の上を描くつもりであった。このテーマはもはや時代遅れで、ひと昔もふた昔も前のプレ・ロマンチズム乃至《ないし》センチメンタリズム時代に流行したもので、西欧では、『新エロイーズ』『クラリッサ・ハーロウ』などに、ロシアではカラムジーンの『哀れなリーザ』などに見出だせる。もっとも、ドストエフスキイのこの『友れなリーザ』の現代版はあたらしい当時の現代的感覚でリファインされた、個性のある、見事な出来栄えのものであったろうということは、完成した『貧しき人びと』に一部分残された『ワルワーラの手記』だけからでも容易に推察がつく。こうしたテーマならば、ヒロインの自伝的手記という形式で十分だった、というよりもむしろこの形式が最適だったのかもしれない。なぜなら、手記なら事実や現象の叙述以外に、主人公の感情の動きや考えの推移を、悲哀や苦悩を自由に表現でき、それを読者に十分に伝えられるからである。
ところが、そのうち構想に変化が起き、テーマの移行が生じた。つまり、下級公務員が主人公に登場し、その主人公と、女主人公との高潔で献身的な愛の交流がテーマとなった。こうした変化にもかかわらず、日記体を用いれば、どうしても観察は一方的になるし、感情や考えの吐露《とろ》も偏頗《へんぱ》で不十分になることは論をまたない。こうした欠点も補い、かつ感情や心の動きを普通の客観的叙述形式よりも自由に表現でき、相寄り相助けあうふたつの魂の心理的悲劇を余すところなく展開できるのは、往復書簡体をおいてほかにはない。作者がこの形式を選びだした理由はこうしたものだったのに相違ない。そしてこの形式の選択が成功だったことは、作品の出来栄えが雄弁に物語っている。
≪特色二……心理主義≫
『貧しき人びと』は『外套《がいとう》』の影響を受けているとか、そのパロディであるとは、よく言われているところである。そしてそれはそうにちがいあるまい。双方とも主人公は写字以外に能のない下っ端役人で、勤勉で実直で、浄書という仕事をこよなく愛している等、確かに類似点が多いからだ。だが、その描き方には大きな相違点がある。ドストエフスキイのほうは、おなじ浄書係りを描いても、ゴーゴリのようにこれを突き離して、外から客観的に描くだけでは満足しない。人物の心のなかまで入りこんで、心の動きを開き見せ、主人公の苦痛に同情し、ともに喜び、ともに悲しまずにはいられないのだ。ゴーゴリのアカーキイ・アカーキエヴィチは、写字と新調の外套にしか興味と生き甲斐を見出ださぬ、言わば「写字機械」と化してしまっているのにたいして、ドストエフスキイはジェーヴシキンを、人間を愛することのできる、というよりも愛しすぎるために不幸をなめなければならぬ一個の生きた人間として描いているのである。つまり彼は主人公に人間的な感情を、美しい愛情を、没我的、献身的な精神を与え、さまざまな感想や考えを抱かせて、矛盾し衝突し渦巻く心の動きまでも描破せずにはいられないのだ。ジェーヴシキンが『外套』の作者に憤慨したのは、要するに一見非情に見え、嘲笑的に見えるその描き方にたいしてだった。もっとも他方から見れば憤慨したこと自体、ゴーゴリの描き方が真に迫っていた証拠でもあるのだが、ドストエフスキイは、無論、ジェーヴシキンのような表面的な、単純な作品の受けとり方はしていなかったにちがいないが、自分が描くとしたらこう描いてみせるという自負はあったに相違ない。いずれにせよ、この心理主義と露《あら》わに表現されたヒューマニズム的精神こそ、ゴーゴリにもなかった、ドストエフスキイ特有の斬新《ざんしん》な特色であって、彼は最初からそうしたあたらしい装いをもって登場したのである。この特色は以後の作品でますます深化され、広範に展開されることになる。
≪特色三……貧困の問題≫
この作品では主人公たちの不幸の原因は貧窮である。生活苦が男女の主人公を不幸にし、別離を余儀なくさせるのである。貧窮はマカールとワーリニカから幸福を奪うばかりでなく、猛獣のようにワルワーラの父母や学生ポクローフスキイに襲いかかって、罹病《りびょう》させ、その命を奪い、ポクローフスキイ老人からは愛する息子を奪い、ゴルシコーフ一家からはその支柱である一家のあるじを奪い去る。従って作者はこの貧困の問題を単に主人公たちだけの問題として扱うのではなくて、もっと広範な社会問題として考えようとしていることになる。
先にも触れたように、ドストエフスキイは幼時からそうした社会状況を目撃し、とりわけ工兵学校を卒業してからは自分も貧乏の苦痛を身をもって体験し、都会の貧民に立ちまじって暮らしながら、彼らの生活をつぶさに観察してきた。その上、彼はすでに西欧のスュー、ディッケンズ、バルザック、サンドらの小説に、この貧民と貧窮の問題、金銭の問題が盛んに作品のテーマとして扱われだしているのを知っていた。このような事情から、作者は貧窮の問題をとりあげるにあたって、必然的に、主人公たちだけでなく、周囲の貧しい人々や彼らを取りまく環境、女衒《ぜげん》や高利貸しにまで描写の範囲を広げざるを得なかったのである。ということはつまり、この小説がいわゆる社会小説的性格もおびてきたということである。とすれば、貧しき人々とは主人公ふたりだけを指すのではなく、その周囲の人たちまでも包含するものと解さなければならない。
ロシアでも金銭の問題、貧窮の問題はすでにプーシキンやゴーゴリによって部分的に扱われてはいた。例えば、プーシキンの『吝嗇《りんしょく》の騎士』『スペードの女王』『青銅の騎士』、ゴーゴリの『外套』『肖像画』等がそれである。だが、『貧しき人びと』のように広く大きなテーマとして扱われたことはかつてなく、ドストエフスキイをもって嚆矢《こうし》とする。
この後ドストエフスキイは『罪と罰』『白痴』等で、この問題を人間の運命までも左右するおそろしい問題として掘りさげていくことになる。
それにしてもこの処女作でも作者は貧窮の問題を描くにあたって、単に平面的に対象の枠《わく》をひろげるだけでは満足しない。彼はさらに貧窮と人間の心の関係にまで洞察の目を注がなければ気がすまないのである。作者は、貧窮が貧乏人の心にいかにむごたらしい爪跡を残し、いかに人間の考えや気持ちまで変えてしまうものであるかを残忍なまで刻明に描き示す。例えば、ジェーヴシキンは貧乏ではあってもまだいくらかでも余裕のある間は、自尊心を維持し、自分の仕事に誇りを持って「私はだれの荷厄介にもなってはいません! 私のひときれのパンは自分が稼いだものです。なるほど、それはありふれたひときれのパンにすぎないでしょう、ひょっとすると固いかもしれません。が、しかしそれは自分の労働で合法的に稼ぎだした、だれにも非難されずに使えるパンなんです……私だって、筆耕なんかしたところで、大したことにはなっていないことぐらい承知していますよ。それでも、私はそれを誇りに思っているのです」と誇らかに書いてのけている。ところが、その彼も貧乏のどん底に落ちれば、自負心を失って、「靴は、ワーリニカさん、私にとって体面といい評判を維持するために必要なんです。それなのに穴だらけの靴なんかはいているために、私はその両方ともなくしてしまったのです」と嘆く。また、ふだんは「ワーリニカさん、どんな境遇でも、神の御手によって人間の運命《さだめ》として割りふられたものなんですよ。ある者には肩章をつけるように、ある者には九等官として勤めるように、またある者には命令をするように、ある者には不平も言わずに命令に服従するように定められているものです。これはすでに人間の能力に応じて予定されているのです」と恭順そのもののジェーヴシキンも、ゴローホワヤ街で貧富の差を見せつけられれば、「ワーリニカさん、知っていますよ、知っています、こういうことを考えるのはよくない、それは自由思想というものだということくらいは。それにしても、正直言って、ほんとうのところ、どうしてある女には、まだ母親の胎内にいるうちから運命の鴉《からす》が幸運を啼《な》き知らせてくれるというのに、一方には孤児院から世のなかへ出ていかなければならぬ者がいるのでしょう?」と、運命を恨み、世の不公平に不平を言う。かと思えば、閣下から百ルーブリの金を恵まれたあとでは、もとのこの上なく善良で、謙譲にすぎるくらいの男に立ちかえって、「ワーリニカさん、今度私はこう決心しました。あなたにもフェドーラにもお願いしますが、またもしも私に子供ができるようなことでもあれば、子供たちに、神さまにお祈りをしろと、つまり生みの父親のことは祈らずとも、閣下のことは毎日欠かさず、一生涯祈るようにと言いつけるつもりです!」と叫び、閣下は「私を立ちなおらせてくれた」と言って感涙にむせぶのである。これは、ドストエフスキイの人物の服従と反逆、恭謙と傲慢《ごうまん》の心理的二重性として研究家たちに問題にされている点である。
≪特色四……喜劇的要素と悲劇的要素≫
さらに、ドストエフスキイの作品の特色としてこの処女作から顕著に認められるものに、笑いと涙の交錯、喜劇的要素と悲劇的要素との結合、滑稽と悲哀との混合がある。ゴーゴリにも、いわゆる「笑いを通しての涙」という手法は見られるが、ドストエフスキイにおいてはそれがもっと意識的な強烈な発現を見せている。その好例は、ポクローフスキイ老人の滑稽な言動のかげに見える悲哀であろう。この老人に人間感情としてただひとつ残っている父性愛の発露を描いたエピソード、つづく終幕の息子の死と野辺の送りの場面は、ドストエフスキイの非凡な才能を証して余りある。
グリゴローヴィチといっしょにこの原稿を読んでいたネクラーソフがここまで来たとき、思わず「こいつめ!」と叫んで、テーブルをたたいたというグリゴローヴィチの思い出の挿話もなるほどと頷《うなず》ける。この種の場面として、滑稽の勝ったものとしては、ジェーヴシキンが閣下から小言を食う場面があり、悲哀の勝った場面としてはジェーヴシキンの最後の別れの手紙がある。絶望の悲哀と興奮に文章も支離滅裂になる、号泣にも似たこのフィナーレも感動的である。こうした劇的なクライマックスを構成するドストエフスキイの技倆《ぎりょう》はまさに名人芸と言っていいだろう。
≪特色五……明暗の手法≫
この作品で用いられている、見逃しがちな手法として指摘しておきたいものに、「明暗の手法」ともいうべきものがある。『貧しき人びと』には主人公たちの思い出がいくつか見出だせる。ワーリニカの田舎における幼年時代の思い出が二つと、ジェーヴシキンの、前の下宿にいた頃の生活の思い出と、わかい頃ある女優に熱中した思い出である。いずれも明るい楽しい思い出として描かれているが、これは、対照法によって、現在の二人の生活の暗さを、苦しさを強調することを狙って、意識的に挿入されたものである。この辺にも作者の細心な配慮が見てとれる。
≪特色六……文体≫
手紙は、ジェーヴシキンのものも、ワルワーラのものも、それぞれ職業、階級、性別、年齢に応じた、当時の俗語をまじえた都会の言葉で書きわけられている。とくに、主人公の文章の表現や叙述の仕組みに年齢や、教養と知性の程度や、善良な性格などを出そうとして、綿密な注意が払われている点に注目すべきである。
全体として、二十四歳の青年の作とは思えぬほどの技巧の老練さが見られると言えるだろう。
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代表作品解題
『罪と罰』(一八六六年)
ロシアのみならず、世界の名作と見られている。筋は質屋の老婆殺しを中心に展開される。時は一八六五年頃のロシアの経済恐慌時代。所は首都ペテルブルク(今のレニングラート)。貧民街に住む元大学生のラスコーリニコフが、生活の窮状を打開し、田舎に暮らす母と妹の暮らしを助け、将来社会に貢献する資金を獲得するため、同時に自分が編み出した「非凡人の論理」を身をもって実証しようとして、強欲な金貸し婆を殺害するが、たまたま来あわせたその妹までも殺してしまう。「非凡人の論理」とは、犯罪なるものは凡人のために作られたものであって、例えばナポレオンのような非凡人は人類の福祉の名のもとに犯罪の境界を踏み越えてよいという、超人主義と虚無主義をないまぜたような論理なのである。主人公はその後、良心の呵責《かしゃく》から熱に浮かされ悪夢に悩み、予審判事ポルフィーリイと警察を相手の心理戦に疲れはてる。彼はその前に知りあった酔漢マルメラードフの事故死に立ち合い、取り残された一家を救ったのが機縁で、その娘、清純な娼婦ソーニャを知り、そのすすめに従って自首する。裁判の結果はシベリヤへ八年の流刑と決まり、ソーニャはあとを追ってシベリヤへ行き、監獄の近くに住んで男の更生を助ける。
作者は、主人公が改悛したようには描いていない。ラスコーリニコフは自分が非凡人でなかったことを認めるだけで、自分の論理がまちがっていたとは思っていない。飽くまでも否定と懐疑のままで残る。この小説は、ラスコーリニコフに代表される、合理主義的な、神にたいする反逆と、ソーニャに代表される、非合理主義的な、神にたいする信仰との戦い、平たく言えば無神論と唯神論との戦いであると見ることができる。が、ここではその勝敗の判定は下されていない。
『白痴』(一八六八〜六九年)
作者の創作の動機は「真実美しい人間」を描くことであった。キリストのように清純と愛の人間を十九世紀ロシアの、金権主義の世界、貪欲と淫蕩と犯罪の都に投じたならば、どういう結果になるか、それを描きだすのが作者の狙《ねら》いであった。
主人公ムイシキン公爵は人に白痴と言われるほど単純で正直で、類《たぐ》い稀な美しい愛と深い同情を備えた、癲癇《てんかん》持ちの青年である。彼はスイスで精神病の治療を受けて数年ぶりにペテルブルクへ帰ってくる。止宿した親戚のエパンチン家で、実業家トーツキイの囲い者であるナスターシヤの写真を見、美しいその顔から内心の悩みを読みとる。ムイシキン公爵は彼女を知ると、深い憐憫《れんびん》を覚え、彼女を救うために結婚を申しこむ。だが、彼女は内心喜びながらも汚れた自分を清純な公爵と結びあわして、相手の一生を台なしにするに忍びず、それを断わって、若い百万長者の商人で、激情と衝動の男ロゴージンと駆け落ちする。そして愛するムイシキンを仕合せにしてやろうと思い、彼を恋しているエパンチン将軍の次女アグラーヤとの間を取り持ち、自分は身を引いて、好きでもないロゴージンと結婚しようとする。
だが、いざアグラーヤに会ってみると、誇り高いアグラーヤの侮辱に耐えきれず、会見は決裂する。ムイシキンは憐憫にかられてナスターシヤの側につき、結婚式にまで漕ぎつけるが、彼女は公爵を不幸に陥れる気になれず、式場に現われたロゴージンと連れ立って逃げ去る。ロゴージンは嫉妬の発作にかられて彼女を殺してしまう。清純なふたつの魂は、汚れた世界では滅びざるをえないのである。
筋の運びに難点はあるが、美しい劇的な場面に満ち、抒情的な雰囲気がかもし出されて、悲劇的な余韻を残す。ムイシキンのような理想的な人物を描いて成功した例は珍しい。
『悪霊』(一八七一〜七二年)
作品の創作の動機は、当時世を騒がしたネチャーエフ事件である。それは、国外にいた無政府主義者バクーニンと連繋《れんけい》を保ち、その指導を受けて、秘密結社を組織していた大学生のネチャーエフが、分派活動を起こそうとした党員イワーノフを、秘密の漏洩《ろうえい》を恐れて同志とともに謀殺した事件で、作品ではネチャーエフはピョートル・ヴェルホーヴェンスキイとなり、イワーノフは社会主義から汎スラヴイズムに移行したシャートフとなっている。このシャートフは、若い頃ドストエフスキイも属していたペトラシエフスキイのサークルの一員で、後スラヴ派に転向したダニレフスキイがモデルとされ、その他主人公スタヴローギンはバクーニン乃至《ないし》スペシネフがモデルで、ピョートルの父ステパン・ヴェルホーヴェンスキイは西欧主義者でモスクワ大学の歴史学の教授だったグラノーフスキイを写したものと言われ、主要な人物の大部分が実在の人物をもとにしている。とは言え、勿論、作者の構想の都合上、いろいろに変形されてはいる。人物たちはロシアの新旧世代のさまざまな思想を表現している。統一された筋の展開はなく、さまざまな概念に憑《つ》かれた人物がそれぞれの観念に動かされて、さまざまな結末をとげる。例えば、キリーロフという、ラスコーリニコフの倫理観をもっとつきつめた人神の思想を抱く男は、人間の最大の敵は死の恐怖で、これにうち勝てば、内心の自由を得、自己を支配することになり、超人、つまり人神となることができるという考えから、自殺をとげる。また、『罪と罰』のスヴイドリガイロフを発展させ、深化させたスタヴローギンは、非凡な知力と才能の持ち主で、偉大な理論を築きながら、熱烈な信念に欠けるためそれが動力とならず、ついには虚無主義に陥り、神も社会の一切の制縛も否定した結果、放縦無慚な生活を続け、煩悶《はんもん》の末自殺して果てる。
要するに、この作品は作者が自己の正教的立場とスラヴ主義|乃至《ないし》土地主義的な観点から、これら無神論や虚無主義を批判し、その帰結を示したものと言える。
『カラマーゾフの兄弟』(一八七九〜八〇年)
ドストエフスキイの最後のライフワーク。この作品は、思想的な深さから言っても、構想の規模の壮大さから言っても、世界屈指の名編と言える。筋は父親殺しなる殺人事件を中心に展開されている。十九世紀の半ば過ぎ、ロシアの田舎町に住む強欲で無信心で淫蕩な地主、フョードル・カラマーゾフの家に、父親の手を離れてよそで育った三人の息子、ドミートリイとイワンとアレクセイが帰郷する。さらに、その家にはフョードルが町の白痴の娘に生ませた私生児のスメルジャコーフが料理番になっている。ドミートリイは母の遺産を横領した父と、町の商人の妾グルーシェンカの取りあいをし、いいなずけのカテリーナから送金を頼まれていた大金を使ってモークロエ村でグルーシェンカと豪遊し、彼女の愛情をかち得る。彼は二度めの遊びの直前に、グルーシェンカが父の家にいるものと思って、庭に忍びこみ、下男のグリゴーリイをまちがってなぐり倒し、気絶させてしまう。かねてフョードルに恨みを抱いていたスメルジャコーフは仮病を使って寝ていたが起きだして、この折を利用してフョードルを殺し、金を奪って、その罪を巧みにドミートリイに着せる。ドミートリイは恋が成就した瞬間に嫌疑を受けて逮捕され、裁判にかけられる。イワンはスメルジャコーフを責めてフョードル殺しを自白させ、金を取り返し、スメルジャコーフはその直後首をつって自殺をとげる。裁判の当日、スメルジャコーフに教唆したという罪の意識に半ば発狂したイワンは、出廷して金を証拠に提出して兄を救おうとするが、その場で完全に発狂する。しかし、被告に恨みを晴らしたいと思うカテリーナの反証が物をいい、名弁護士の奮闘も空しく被告はシベリヤへ流刑に処せられる。
この作品で提起されている問題はやはり、イワン、フョードル、スメルジャコーフに代表される無神論と、アレクセイやその師のゾシマ長老に代表される唯神論との対決である。そしてその戦いは、前者の代表者たちの死と発狂という悲劇的な敗北におわる。作品の構成は緊密で、多くの緊迫した劇的な場面に満ちていて、読者を飽かせない。芸術的観点から見ても完璧な作品である。
作者は、この続編を書いて、総題を『偉大な罪びと』とする予定であったが、他界して計画を果たせなかった。(訳者)
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年譜
一八二一 ロシア暦十月三十日(新暦十一月十一日)、モスクワのマリインスカヤ貧民病院の官舎で軍医の父ミハイール・アンドレーエヴィチと母マリーヤ・フョードロヴナの間に次男として生まれ、フョードルと名付けられる。ちなみに、兄ミハイールは一八二〇年生まれ。
一八二二(一歳) 妹ワルワーラ生まれる。
一八二六(五歳) 弟アンドレイ生まれる。
一八二八(七歳) 父や兄弟とともに世襲士族として登録される。
一八二九(八歳) 妹ヴェーラ生まれる。
一八三〇(九歳) 弟ニコライ生まれる。
一八三四(十三歳) 兄ミハイールとともにモスクワのチェルマークの寄宿学校に入学。
一八三五(十四歳) 妹アレクサンドラ生まれる。
一八三七(十六歳) 二月、母死去。ペテルブルクのコストマーロフ寄宿学校に入学。グリゴローヴィチと相知る。
一八三八(十七歳) 一月、陸軍工科学校に入学。ホフマン、バルザック、ユゴー、ゲーテを耽読。
一八三九(十八歳) 父、持ち村ダロヴォーエの農奴たちの恨みを買って惨殺される。
一八四〇(十九歳) シラー、ホメーロス、フランスの古典劇等を耽読。十一月に下士官となり、十二月に見習士官となる。
一八四一(二十歳) 戯曲『マリア・スチュアート』、『ボリース・ゴドゥノーフ』を書くが、原稿は現存しない。観劇にも熱中する。
一八四二(二十一歳) 八月、少尉に任官。
一八四三(二十二歳) 八月、陸軍工兵学校を卒業し、ペテルブルクの工兵局製図科に勤務。年末から翌年春にかけてバルザックの『ウジェニー・グランデ』を翻訳、またG・サンドの作品の翻訳も試みる。
一八四四(二十三歳) 十月、中尉に昇進。退職願いを出し、許可おりる。『貧しき人々』に着手。
一八四五(二十四歳) 五月初旬、『貧しき人びと』を完成。グリゴローヴィチ、ネクラーソフ、ベリンスキイに絶讃される。夏、『分身』の稿をおこす。十一月ツルゲーネフと相知る。
一八四六(二十五歳) 一月、『貧しき人びと』、ネクラーソフ編集の「ペテルブルク文集」に掲載され、一躍人気作家となる。二月、『分身』を「祖国の記録」に発表。春、ペトラシェーフスキイと知りあう。十月、『プロハルチン氏』を同誌に発表。十二月、『ネートチカ・ネズワーノワ』に着手。
一八四七(二十六歳) 年初、ベリンスキイと決裂。一月、『九通の手紙より成る小説』を「現代人」に、十、十一月、『主婦』を「祖国の記録」に発表。
一八四八(二十七歳) 一月、『人妻』を「祖国の記録」に発表。ベリンスキイ、『貧しき人びと』評を「現代人」に掲載。二月、『弱気』を「祖国の記録」に、『ポルズンコフ』をネクラーソフ、パナーエフ編集の「絵入り文集」に発表(ただし、後者は発禁となり、世に出ず)。三月、ベリンスキイ『一八四七年のロシア文学概観』を「現代人」に発表し、『主婦』を酷評する。四月、『世なれた男の話』を「祖国の記録」に発表。(一八六〇年、オスノーフスキイ版の二巻作品を出したとき、第一話の二ページに第二話をつなぎ合わせ、いくらか手を加えて、『正直な泥棒』と改題。)九月、『クリスマス・トリーと結婚式』を、十二月、『白夜』と『やきもちやきの夫』を、いずれも「祖国の記録」に発表。(このうちの三番目の作品はオスノーフスキイ版の出版の際、『人妻』につないで一編の作品に改作、『人妻とベッドの下の夫』と改題。)
一八四九(二十八歳) 一月より『ネートチカ・ネズワーノワ』を「祖国の記録」に連載。年初よりペトラシェーフスキイ会の会合にたびたび出席し、四月に会の席上で出版の自由、農奴解放、裁判制度の改革について発言し、また当局が禁じていた、ベリンスキイの『ゴーゴリへの手紙』を朗読。四月、逮捕され、他のペトラシェーフスキイ会員とともにペトロパーヴロフスク要塞監獄に投じられる。獄中で『小英雄』を書く。九月末日より十月十六日まで法廷に立たされ、十二月二十二日、セミョーノフスキイ練兵場で銃殺の刑に処せられる直前に、特赦を受ける。四年のシベリヤ流刑につづく四年の兵役義務を言い渡されて、二十四日流刑地オムスクに向かい、途中トボリスクでデカブリストの妻たちと面会、聖書を贈られる。
一八五〇(二十九歳) 一月、受刑地オムスクに到着、入獄し、労役に服す。
一八五四(三十三歳) 三月、刑期満了、シベリヤ国境守備隊第七大隊に編入され、セミパラチンスクに移る。春、イサーエフ夫妻と知り合う。十一月、州検事ヴランゲリ男爵着任、ふたりの交友はじまる。
一八五五(三十四歳) 年初、『死の家の記録』の稿を起こす。五月、イサーエフ一家クズネーツクに転任、八月、イサーエフ死ぬ。この間、その夫人マリーヤ・ドミートリエヴナに激しい恋情を寄せ、大いに悩む。十一月、下士官に昇進。
一八五六(三十五歳) ヴランゲリと、陸軍工科学校時代の学友トトレーベンの兄(セワストーポリの英雄)を通じて赦免運動を開始する。十月、勤務成績良好の故をもって少尉補に任ぜられる。
一八五七(三十六歳) 二月初旬、クズネーツクでマリーヤ・ドミートリエヴナと結婚式をあげ、セミパラチンスクへ同行。四月、復権の許可おりる。八月、『小英雄』を「祖国の記録」に発表。年末、辞表を提出して、モスクワ居住の許可を願い出る。
一八五八(三十七歳) 三月、少尉に任ぜられ、退役とトヴェーリ居住を許される。七月、セミパラチンスクを出発、トヴェーリに到着。十一、十二月、『ステパンチコヴォ村とその住人』を「祖国の記録」に発表。十二月、ペテルブルクに帰還。
一八六〇(三九歳) 一月、作品集二巻(オスノーフスキイ版)出る。同月、兄ミハイールと共同編集の雑誌「時《ヴレーミヤ》」の発刊予告文発表。
一八六一(四十歳) 一月、「時」を創刊し、『虐げられし人々』を同誌に掲載しはじめ、四月から『死の家の記録』の発表も同誌に移す。ドストエフスキイの作品を論じたドブロリューボフの論文『打ちのめされた人々』、「現代人」に載る。
一八六二(四十一歳) 一月、『死の家の記録』第二部を「時」に発表しはじめる。六月、最初のヨーロッパ旅行に出る。七月、ロンドンでゲルツェンに会い、バクーニンと知り合う。八月末、帰国。
一八六三(四十二歳) 二、三月、『冬に記す夏の印象』を「時」に発表。五月、ポーランド問題を論じたストラーホフの論文『宿命的な問題』を掲載したため、「時」発行停止を命ぜられる。八月、第二回めの西欧旅行に出る。途中、ヴィスバーデンで賭博でもうけ、パリに向かい、愛人スースロワと会い、いっしょにイタリアへ行く。バーデン・バーデンで賭博をし、持ち金を失う。ツルゲーネフに会う。九、十月、スースロワとイタリア旅行をする。ローマで『賭博者』の想を練る。十月、帰国、肺病が悪化していた妻マリーヤの看病につとめる。
一八六四(四十三歳) 一月、兄、雑誌「時代《エボーハ》」の発行を許可される。三月、創刊と同時に『地下生活者の手記』第一部発表(第二部は四号に掲載)。三月、妻マリーヤ死去。七月、兄ミハイール死去。十二月、親友アポロン・グリゴーリエフ死去。年末から翌年初めにかけてマルタ・ブラウンとのロマンス生ず。
一八六五(四十四歳) 三、四月、アンナ・コルヴィン=クルコーフスカヤとつきあい、四月、求婚してことわられる。七月、著作権をステローフスキイに三千ルーブリで売る。同月、三回めの外遊に出て、スースロワと落ちあい、賭博に熱中して、無一文になる。ツルゲーネフに借金し、九月に「ロシア報知」誌のカトコーフに構想中の『罪と罰』の前払いを申し込んで、やっと危機を脱し、コペンハーゲンを経て、一月半ばに海路で首都に帰る。この間に、スースロワとの恋愛は完全に決裂する。年末から翌年にかけて『全集』三巻(ステローフスキイ版)が出る。
一八六六(四十五歳) 一月、『罪と罰』を「ロシア報知」誌に発表しはじめ、年内に完結。十月、ステローフスキイとの契約期限迫り、女速記者アンナ・グリゴーリエヴナ・スニートキナを雇い、口述筆記させて、『賭博者』を完成。十一月、アンナに求婚し、承諾を得る。年末、『賭博者』の入っている『全集』(ステローフスキイ版)の第三巻出る。
一八六七(四十六歳) 二月、アンナ・スニートキナと結婚。四月、新妻をつれて外国旅行に出、四年にわたる外国滞在がはじまる。四月、ドレスデンで美術館を訪れ、後の作品にティティアン、クロード・ロランらの作品の印象が生かされる。六月、バーデンでツルゲーネフと思想上の意見の相違から衝突。バーデンで賭博にふけり、経済的に窮迫。バーゼルの博物館に立ち寄り、ハンス・ホルバインの絵に強烈な感銘を受ける。八月、ジュネーヴ着。八月『白痴』の稿を起こすが、十二月、最初の草稿を放棄して、新たな構想のもとに着手。この間、五月、『罪と罰』を論じたピーサレフの論文『生活のための闘い』の前半『生活の日常的な側面』が「事業」誌に発表される。『罪と罰』、単行本として出版される。
一八六八(四十七歳) 一月、『白痴』を「ロシア報知」に発表しはじめ、年末に完成。二月、ジュネーヴで長女ソフィヤ誕生。五月死亡。十一月、フィレンツェに行く。十二月、長編『無神論者』(『カラマーゾフの兄弟』の原型)の想を得る。この間に八月、ピーサレフの『生活のための闘い』の後半『生存競争』が「事業」に発表される。
一八六九(四十八歳) 七月、それまで滞在していたフィレンツェを引き上げ、プラーハに入る。八月、さらにドレスデンに移る。九月、二女リュボーフィ(のち亡命してエーメと言う)生まれる。十一月、ネチャーエフ事件起こり、これを素材に長編の創作を思い立ち、材料を集めはじめる。十二月、長編『偉大な罪びとの生涯』を計画する(この想はのちに『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』に分けて織り込む)。十二月、ネチャーエフ事件から着想した『悪霊』の稿を起こす。
一八七〇(四十九歳) 一、二月、『永遠の夫』を『あけぼの』誌に掲載する。この年は主に『悪霊』の執筆に没頭。十月、『罪と罰』収載の『全集』(ステローフスキイ版)第四巻出る。
一八七一(五十歳) 年初から『悪霊』を「ロシア報知」に発表開始。七月、ベルリンを経由して帰国。同月、長男フョードル生まれる。この年、『永遠の夫』単行本で出る。
一八七二(五十一歳) 五月、スターラヤ・ルネッサに行き、以後この地で仕事をすることになる。九月、ペテルブルクに帰る。十一、十二月、発表を中断していた『悪霊』の第三編を「ロシア報知」に掲載して完結。十二月、反動的な週間誌「市民《グラジダニン》」の編集者に招かれる。
一八七三(五十二歳) この年いっぱい、「市民」の編集に従事するかたわら、『作家の日記』を連載する。『悪霊』を改訂して単行本として出す。
一八七四(五十三歳) 三月、「市民」の編集の辞職願いを出す。同年末、検閲規則違反で拘引、留置される。四月、ネクラーソフから「祖国の記録」に寄稿の依頼を受ける。五月、家族とともにスターラヤ・ルッサに住み、六、七月の外国滞在を除き、そこにこもって、『白痴』の執筆に没頭する。この年、『白痴』の再版出る。
一八七五(五十四歳) 一月、『未成年』を「祖国の記録」に発表しはじめ、年内に完結。五月末、エムスに行き、『未成年』の最終プランをまとめて、七月初め、スターラヤ・ルッサに帰る。八月、二男アレクセイ生まれる。『死の家の記録』第四版出る。
一八七六(五十五歳) 一月より個人雑誌の形で『作家の日記』を再び継続して発表(なかに、『百姓マレイ』『おとなしい女』等、すぐれた短編をふくむ)。七、八月、エムス滞在。
一八七七(五十六歳) 一年間を通じ引きつづき『作家の日記』を刊行。十一月、重態のネクラーソフをたびたび見舞う。十二月、学士院ロシア語ロシア文学部門準備会員に選ばれる。同月末、ネクラーソフ死去。その葬儀に列し、墓前で追悼の辞を述べる。
一八七八(五十七歳) 一月、『作家の日記』を一八七七年第十二号をもって休刊とし、『カラマーゾフの兄弟』の構想にかかる。三月、ヴェーラ・ザスーリッチの裁判に出席、多大の感銘を受ける。六月、哲学者ソロヴィヨーフとオープチナ修道院を訪れ、長老アンブローシイに会う。(このときの体験は『カラマーゾフの兄弟』に生かされる。)このとき、ソロヴィヨーフに最後の長編の構想について語る。十二月、『カラマーゾフの兄弟』の詳細な構想成る。
一八七九(五十八歳) 一月、『カラマーゾフの兄弟』を「ロシア報知」に発表しはじめる。夏のはじめスターラヤ・ルッサにおり、七月下旬から九月はじめまでエムスに滞在、『カラマーゾフの兄弟』を書きすすめる。
一八八〇(五十九歳) 一月より『カラマーゾフの兄弟』を引きつづき「ロシア報知」に発表、年末完結。五、六月、モスクワのプーシキン銅像除幕式に出席、「ロシア文学愛好者協会」の第二回記念講演会でプーシキンに関する講演を行ない、大成功を博す。八月、『作家の日記』を復刊、『プーシキンに関する講演』を載せる。
一八八一(六十歳) 一月、『作家の日記』続刊の仕事に従事する。一月二十八日、ペテルブルクで肺動脈が再出血し、夜、息を引きとる。一月三十一日、アレクサンドル・ネーフスキイ大寺院に葬られる。この年『カラマーゾフの兄弟』単行本で出版される。
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訳者あとがき
『貧しき人びと』の私の最初の訳が出たのは、昭和二十二年、終戦後間もない頃のことであった。当時外務省に勤めていた二十九歳の私の最初のまとまった翻訳で、ドストエフスキイの処女作の、私からすれば≪処女訳≫だったわけだ。
いまの若い人はご存じあるまいが、当時は物資が払底《ふってい》していた時代で、本にはみな、仙花紙《せんかし》という屑紙をすき返した粗悪な紙が使われていた。その訳本もそれを使った見すぼらしい本ではあったが、あのときの感激はいまでも忘れられない。出来栄えはかなりのものと自惚《うぬぼ》れていたが、旺文社文庫に入れるに当たって(昭和四十五年)読み返してみて、それが相当若気の気負いであったことがわかった。
あの頃と比べれば語学力も格段にちがい、ドストエフスキイにたいする理解も遥かに深まった私の目から見れば、誤訳もあったし、全体として不完全であったことを痛感させられた。そこで思いきり大鉈《おおなた》をふるって改訳し、ほぼ満足できる程度のものができあがった。発表当時あれほど当時のロシアの読書界を騒がし、日本の戦時中の暗い空気のなかで作品の主人公たちのように貧しい青年だった私が読んで感激したこの作品が、国情も社会も時代もちがっている現代の日本の若い読者層にいかに受けとめられるか、これは訳者の強い関心事である。いまの若い読者も昔どおりに感動してくれたならば、文豪の作品の不朽性《ふきゅうせい》を立証するものとして、訳者としても嬉しい限りである。
〔訳者紹介〕
北垣信行(きたがきのぶゆき)東大教授、翻訳家。一九一八年、茨城県生まれ。一九四四年、東京外語大卒業。外務省に二年間勤務の後、翻訳活動にはいる。一九五〇年から北大で、一九六三年から東大でロシア文学を教える。著書に、『ロシアの文学』(共著)、『ロシア・ソビエト文学』(共著)などがある。訳書は、『カラマーゾフ兄弟』(ドストエフスキー)、『現代の英雄』(レールモントフ)、『父と子』(ツルゲーネフ)他多数。