罪と罰(中)
ドストエフスキー作/北垣信行訳
目 次
第三編
第四編
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第三編
一
ラスコーリニコフは体を起こして、ソファの上に坐った。
彼はラズーミヒンにちょっと手を振って、母と妹にとりとめもない熱のこもった慰めの言葉をながながと聞かせているのをやめさせると、彼女たち二人の手をとって、二分ほど無言のまま二人の顔をかわるがわるじっと見つめていた。母親はその目つきにはっとした。その目には悩ましいほど烈しい愛情がありありと見えていたが、それと同時にじっと凝りかたまった、気ちがいじみてさえ見えるなにかがひそんでいたのだ。プリヘーリヤは泣き出してしまった。
アヴドーチヤの顔は青ざめ、兄に握られたその手はぷるぷる震えていた。
「もう帰って下さい……この男といっしょに」と彼はラズーミヒンを指さしながら、きれぎれに言った。「あしたまで、あしたになったらなにもかも……もうだいぶ前に着いたんですか?」
「夕方だったわ、ロージャ」とプリヘーリヤが答えた。「汽車が大変遅れちゃったんでね。けどね、ロージャ、わたしはこうなったらもう絶対に、お前のそばから離れないよ! わたしはお前のところに泊まるからね……」
「僕を苦しめないで下さいよ!」と、彼はいらだたしげに手を振って言った。
「僕が残ってそばについています」とラズーミヒンが叫んだ。「一分たりとも離れませんよ、家に来ている連中なんか勝手にしやがれだ、乱痴気騒ぎでもしているがいい! 家のほうは叔父がきりまわしてくれてるから」
「ほんとうになんとお礼を申しあげていいやら!」と、プリヘーリヤが、またもやラズーミヒンの手を握りながらそう言いかけると、ラスコーリニコフはまたそれをさえぎって、
「もうやりきれない、やりきれない」といらだたしげにおなじ言葉をくり返した。「苦しめないでくれ! もういいです、帰って下さいよ……やりきれない!……」
「行きましょうよ、おかあさん、ちょっと部屋を出るだけでもいいから」とドゥーニャはびっくりしてささやいた。「わたしたち兄さんを苦しめているのよ、どうもそうらしいわ」
「ほんとうにわたしにはしみじみと顔を見ることもできないのかねえ、三年ぶりで会ったというのに!」と、プリヘーリヤは泣きだした。
「待って下さい!」と彼はまた二人を呼びとめた。「みんなのべつ僕の話の腰をおるし、僕は僕で考えがこんぐらかってしまっていたもんだから……もうルージンには会ったんですか?」
「いいえ、まだよ、ロージャ、でもあの人はもうわたしたちが着いたことは知っているはずなのよ。わたしたち聞いたんだけど、ロージャ、ルージンさんは親切にもきょうお前を訪ねてきてくれたんだってね」とプリヘーリヤはいくぶんおどおどしながら言いそえた。
「ああ……ご親切にもね……ドゥーニャ、僕はさっきルージンに、階段から突きおとしてやるぞといって、やつを追い出してやったよ……」
「ロージャ、お前なんてこというの! お前はきっと……そんなことをいうつもりじゃなかったんだろうね」とプリヘーリヤはびっくりしてそう言いかけたが、ドゥーニャを見て、いいやめてしまった。
アヴドーチヤは兄の顔をくい入るように見つめながら、そのさきを待った。二人はもうナスターシヤからその理解しうるかぎり伝えうるかぎりの喧嘩の模様を前もって聞かされていて、疑惑と期待にさんざん悩みぬいていたのだ。
「ドゥーニャ」とラスコーリニコフはやっとのことで話しつづけた。「僕はこの縁談には反対なんだ、だからお前はあしたにも、のっけからルージンに断わってしまえ、今後あいつの匂いもしないようにな」
「まあ!」と、プリヘーリヤが叫び声をあげた。
「兄さん、まあ、兄さんたらなにをおっしゃるの!」とアヴドーチヤはかっとなって言いさしたが、すぐに自分をおさえて、「兄さんは、多分、今は自分の言うことなんか考えていられないのね、疲れているんでしょう」と、しとやかに言った。
「熱に浮かされてるって言うのか? そんなことあるもんか……お前は僕のためにルージンのところへ嫁に行こうとしている。だけど、僕はそんな犠牲はおことわりだ。だから、あしたまでに手紙を書け……断わり状をな……そしてあしたの朝僕に読ませてくれ、それでおしまいだ!」
「そんなこと、わたしにはできないわ!」と妹は憤然として叫んだ。「どんな権利があって……」
「ドゥーニャ、お前も短気だね、およし、あしたにしようよ……お前、わかるでしょう……」母親はびっくり仰天して、ドゥーニャに飛びついていった。「ああ、それよりもう帰りましょう!」
「熱に浮かされているんですよ!」と酔っているラズーミヒンがわめきだした。「でなかったら、こんなことがいえるもんじゃない! あしたになればこんなばかげたことはどこかへ消し飛んでしまっていますよ……それはそうと、きょうこの男があいつを追い出したってことはほんとうなんですよ……事実そのとおりなんです。ところが、むこうも怒りましてね……ここで演説をひとつぶって、自分の知識のほどをひけらかしておいて、さっさと尻尾をまいて逃げ出してしまいましたよ……」
「それじゃあれはほんとうだったんですのね?」とプリヘーリヤが叫んだ。
「じゃ、あしたまたね、兄さん」とドゥーニャは同情をこめて言った。「行きましょう、おかあさん……さようなら、兄さん!」
「いいかい、ドゥーニャ」と彼は最後の力をふるって、うしろからさっきの言葉を浴びせた。
「僕は熱に浮かされてるんじゃないんだぞ。この結婚は卑劣な工作だ。僕は卑劣な人間でもかまわないが、お前はそうであっちゃいけないんだ……だれかひとりでたくさんなんだ……僕は卑劣な人間だが、そういう妹だったら妹とは思わんからな。僕をとるか、ルージンをとるかだ! さあ、もうお帰り……」
「きさまは気でも狂ったのか! この暴君め!」とラズーミヒンはわめきだしたが、ラスコーリニコフはもう返事をしなかった、あるいは、返事をする力もなかったのかもしれない。彼はソファに横になると、ぐったり疲れはてて顔を壁のほうへ向けてしまった。アヴドーチヤが好奇心を覚えてラズーミヒンを見ると、その黒い瞳がきらりと光った。ラズーミヒンはその視線にぶるっと身震いを覚えたほどだった。プリヘーリヤは衝撃に唖然《あぜん》として突立っていた。
「わたし、どうしても帰れませんわ!」と、彼女はほとんど絶望のていでラズーミヒンにささやいた。「わたしはここのどこかそこいらに泊まらしてもらいますわ……ドゥーニャを送っていって下さいな」
「そんなことをしたらなにもかもぶちこわしですよ!」とラズーミヒンはわれを忘れてやはりささやき声で言った。「階段まででもいいから出ましょう。ナスターシヤ、明かりを! 嘘でもなんでもない」と彼は階段にかかってから半ばささやくような声で話しつづけた。「さっきも僕たち、つまり僕と医者が今にもなぐられそうだったんですよ! おわかりですか? 医者でさえもですよ! そこで医者は刺激しないようにと譲歩して帰っていきましてね、僕は下に居残って番をしていたところが、その隙に服を着かえて抜け出してしまったんです。だから今だって、刺激するようなことをしたら、夜なかであろうと抜け出して、自分に手をかけるようなことでもしかねませんよ……」
「まあ、なんてことをおっしゃるんでしょう!」
「それにアヴドーチヤさんだってあなたのおられないアパートにひとりっきりじゃいられやしないでしょう! まあ考えてもごらんなさい、あなた方のお宿がどんなところか! あの卑劣なルージンのやつ、なんとかもう少しましな宿を見つけてやれなかったもんかなあ……それにしても、実は僕、少々酔っているんで……つい悪口なんか言ってしまって。ま、どうか気にしないで下さい……」
「だけど、わたし、ここのおかみさんのところへ行って」と、プリヘーリヤはまだ我を張っていた。「頼みこんでみますわ、わたしとドゥーニャに今晩部屋の隅でも貸してくれるように。わたしはあの子をあのままにしては行けませんわ、そんなこととてもできませんわ!」
こんな話をしている間、彼らは階段の踊り場、つまりおかみの住まいの真ん前に立ち、ナスターシヤは下の段から彼らを照らしてやっていた。ラズーミヒンはひどく興奮していた。まだ三十分ほど前にラスコーリニコフを家へ送ってくるときは、自分でも意識していたとおり、おしゃべりが過ぎたようではあったが、今日の夜会で呑んだ酒量は大変なものだったにもかかわらず、まったく元気で、爽快と言ってもいいくらいだった。が、今や彼の気分は一種の歓喜ともいえるほどのものになり、それと同時にまるで呑んだ酒がぜんぶ一ぺんに前に倍する勢いでまた頭にのぼってきたような感じだった。彼は二人の婦人と立ったまま、二人の手をつかんで、二人を説得しながら驚くほどざっくばらんにいろんな理由をならべたてて、おそらくはもっと説得力を増すためなのだろうが、二人の手を、まるで万力にでもかけるように、ほとんどひと言ごとにぎゅっぎゅっと痛いほど握りしめ、その上、いっこう遠慮するようなふうもなく、アヴドーチヤの顔をむさぼるようにじろじろ見るのだった。二人はあまりの痛さにときおり自分の手を相手の大きな骨ばった手から抜きとろうとするのだが、相手はそういった事情にはとんと気がつかず、それどころか、その手をいっそうぐいぐいと自分のほうへ引き寄せるのだった。もしもこのとき二人に、自分たちのために階段からまっさかさまに飛びおりてくれといわれたとしても、彼は思いまどいも疑いもせずに、即座にそれをやってのけたにちがいない。ロージャのことで胸がいっぱいだったプリヘーリヤは、この若い人はずいぶん風変わりだし、自分の手をずいぶん痛く握りしめるものだとは思っていたけれども、この際この男は自分にとって神さまみたいなものであってみれば、そういったいろんな細かい奇癖に気をとめる気にもなれなかった。しかし、おなじような不安は感じながらも、アヴドーチヤのほうは、それほど臆病な性質ではなかったとはいえ、兄の親友の荒々しい炎にぎらぎら輝く視線を驚きと恐怖に近い気持ちで受けとめていた。そんなわけで、ナスターシヤがこの変人のことで話してくれたいろんな話から吹きこまれた無限の信頼感がなかったら、あるいは母親を引きずって彼から逃げ出したいという気持ちがおさえられなかったかもしれないのである。それに、おそらく、今ではもう彼から逃げ出すわけにはいくまいということも彼女にはわかっていた。それでも、十分もすると、その彼女も目に見えて安心したようだった。ラズーミヒンは、どんな気分にあるときでも、自分という人間をすっかりさらけ出してみせる特性を持っていたため、だれにでもたちまちのうちに、自分の相手がどういう人間か見ぬけるのだった。
「おかみさんのところへなんか行っちゃいけませんよ、それこそ愚の骨頂《こっちょう》ですよ!」と、彼は大声をあげて、プリヘーリヤを説得していた。「たとえあなたがおかあさんであろうと、ここに居残るようなことをしたら、あの男を気ちがいにしてしまいますよ、そしてそのあとどんなことが起こるかわかったもんじゃありませんよ! あのね、僕こうしようと思うんです。今はさしずめナスターシヤを彼のとこにつけておいて、僕はあなた方お二人をお宅へご案内しましょう、だって、あなた方二人だけで町を歩くわけにはいきませんからね。このぺテルブルクという所はそういう点になると……いや、そんなことはどうでもいい! ……それからお宅からすぐにここへ駆けもどって、まちがいなく、彼がどんな様子か、眠っているか、いないか、といったような報告を残らず持ってあがります。それから、いいですか! それから、お宅からさあっと自分の家へ帰ります、――そして僕の家にはお客が来ていて、みんな酔っぱらっている最中ですが、――ゾシーモフを連れ出します――これはロージャの治療にあたっている医者で、今僕の家に来てるんですが、酔っちゃいません。あの男は酔っぱらわないんです、けっして酔わない男なんです! その男をロージャのところへ引っぱって来て、それからすぐにお宅へうかがう、ということはつまり、一時間の間にあなた方はロージャに関する知らせを二つ受けとるわけです、――医者のもですぜ、いいですか、医者自身の知らせもですぜ。これは僕の知らせなどとはちがうんですよ! もし病気が思わしくないようだったら、誓って、僕はあなた方をここへ連れてきてあげます、が、経過がいいようだったら、そのままやすんでいらっしゃい。僕はひと晩ここに、入り口にでも泊まります、なあに、ロージャは気がつきゃしませんよ、それからゾシーモフは、すぐに間にあうように、おかみさんのとこに泊まらせます。さあ、この際ロージャにとっちゃどっちのほうがいいでしょうかね、あなたでしょうか、医者でしょうか? 医者のほうが役にたつにきまってるでしょう、そうでしょう。だったら、さあ、このままお引き取り下さい! おかみのところへなんか、行っちゃいけませんよ。僕ならいいが、あなた方はいけません。入れてなんかくれませんよ、なにしろ……なにしろばかな女ですからね。お知りになりたければいいますが、あの女は僕のことでアヴドーチヤさんにやきもちをやくでしょうからね、その上あなたにだって……アヴドーチヤさんにだったらまちがいなしです。あれはまったく、まったく考えも及ばないような気性の女なんですから! もっとも、僕もやっぱりばかですけどね……そんなことはどうでもいいや! 出かけましょう! 僕を信じて下さいます? ねえ、僕を信じて下さいますか、どうです?」
「行きましょうよ、おかあさん」とアヴドーチヤが言った。「この方はきっと、約束どおりして下さるわよ。この方は現に兄さんを生き返らせて下すったんだし、もしお医者さんがほんとうにここに泊まることを承知して下さるんだったら、そんないいことはないじゃありませんか?」
「ほうら、あなたは……あなたは……わかってくれている、それはあなたが天使のような方だからだ!」とラズーミヒンは有頂天になって叫んだ。「行きましょう! ナスターシヤ! さっそく上へあがっていって、あそこで病人のそばについていてくれ、明かりを持っていってな。僕は十五分もしたら帰ってくるから……」
プリヘーリヤは完全には納得がいかなかったけれども、それ以上はさからわなかった。ラズーミヒンは二人に手を貸して、階段をおろしてやった。それでも、彼女は彼に不安を感じていた。
『すばしっこい、いい人らしいけど、約束したことが実行できるのかしら? こんなていたらくなのに!……』
「ああ、わかりましたよ、あなたは、こんなていたらくでなんて思っていらっしゃるんでしょう!」ラズーミヒンは彼女の考えを察して、その考えに水をさすと、持ち前の大変な大またで歩道をすたすた歩いていくので、二人の婦人はそのあとについていくのもやっとといったありさまだったが、そんなことには彼は気がつかなかった。「ばかげたことですよ! というのは……僕が酔っぱらってまぬけみたいに見えるってことですがね、だけど問題はそんなことじゃないんだ。僕が酔っているのは酒のせいじゃないんですよ。これは、あなた方にお会いしたとたんに、頭をがあんとやられたようなぐあいになったせいなんです……が、まあ僕なんか気にしないで下さい! 気にしないで下さい。僕はほらを吹いてるんですから。僕はとうていあなた方におつきあい願うだけの値打ちもない男なんですよ……僕はあなた方をお送りしたあとで、さっそくここの運河で水を桶で何杯か頭からかぶります、そうすればもう大丈夫です……僕は、あなた方お二人がどんなに好きか、知っていただけたらと思いますよ! ……笑わないで下さい、怒らないで下さい! ……ほかの人ならだれのことをお怒りになってもいいが、僕にだけは怒らないで下さい! 僕はロージャの親友です、従ってあなた方の親友でもあるわけです。僕はそうなってほしいんです……僕はそんな予感がしたことがあります……去年ですがね、そういう瞬間があったんです……もっとも、全然予感なんかしなかったのかもしれないな、だってあなた方は天からでも降ってきたように突然現われられたんですからね……それはそうと、僕は今晩は夜どおしでも眠りませんよ……あのゾシーモフはさっき、ロージャが気ちがいになりはしないだろうかって心配していました……そんなわけで彼をいらだたせることは禁物なんですよ……」
「まあ、なんですって!」と母親が叫んだ。
「ほんとうにお医者さまがそんなことをおっしゃったんですの?」とアヴドーチヤはびっくりして聞いた。
「いってました。しかし、それはそうじゃないんです、まるっきり見当ちがいなんですよ。それに医者は薬もちゃんと飲ましたしね、粉薬を、僕はそれをこの目で見たんですよ、そこへあなた方がお着きになったわけです……いやあ! あなた方はあした着いて下さればよかったですよ! でも、われわれが引きあげて来たことはいいことでしたね。一時間もしたらゾシーモフがあなた方にすっかり報告してくれます。あいつのほうは全然酔っちゃいないんですから! 僕だってそのうち酔いがさめてきますよ……どうして僕はあんなに酔っぱらっちゃったのかなあ? 議論に引きこまれちまったからだ、畜生めら! 議論はすまいって誓ったのに!……あんなばかげたことをぬかしやがるんだもの! あぶなく取っ組みあいを始めるところでしたよ! 家に叔父をおいて来たんです、議長としてね……あんなことってありますか、個性なんかすっかりなくしちまえって言うんですよ、そしてそこに最上の喜びを見出そうというわけなんです! なんとかして自分自身でなくなるようにする、なんとか自分らしいところをなくするようにする! これが連中の間では最高の進歩とされているんです。おなじでたらめを言うんでも自分流のでたらめをいうんならまだしも……」
「ねえ、ちょっと」とプリヘーリヤがおっかなびっくり話の腰をおろうとしたが、それはかえって火に油をそそいだようなものだった。
「あなた方が何を考えておられるかと言えば」とラズーミヒンはさらに一段と声を張りあげていうのだった。「あなた方は、僕が腹をたてているのは、連中がでたらめを言うからだとお考えなんでしょう? ばかばかしい! 人がでたらめをいうのは僕好きですよ! でたらめを言うのは、あらゆる有機体に対する人間の唯一の特権なんですからね。でたらめを言っているうちに――人は真理に到達するものなんです! 僕だってでたらめをいうからこそ人間なんですからね。先に十四回も、時と場合では百十四回もでたらめを言わずに発見された真理なんてひとつでもありますか。してみればこれはこれで立派なことです。ところが、われわれロシヤ人は自分の知恵ででたらめを言う術を知らないんです! 僕にむかってでたらめを言うんなら、自分独特のでたらめを言え、そしたら接吻だってしてやらあ。自分独特のでたらめを言うってことは――これはまちがいなく、ひとつ覚えの借り物の真理を語るよりもむしろすぐれているんですからね。前者の場合は人間だが、後者の場合は小鳥にすぎないわけですから! 真理は逃げることはないが、命だったらたたき殺すこともできます。実例はいくらでもあります。ところで、われわれは今どうですか? われわれはみんな、みんな例外なく、学問、発達、思考、発明、理想、希望、自由主義、理性、経験と、すべての、すべての、すべての、すべての、すべての領域にわたって、いまだに中学予科の一年にとどまっているじゃありませんか! 他人の知恵でなんとかやっていけるのがおもしろいと思っているうちに――それが習い性となってしまったのです! そうでしょう? 僕の言うとおりでしょう?」とラズーミヒンは二人の婦人の手を振ったり握りしめたりしながら叫んでいた。「そうでしょう?」
「困ったわ、わたしにはわかりませんわ」とプリヘーリヤはあわれにもそう言うばかりだった。
「そうですわね、そうですわ……もっとも一から十まであなたに賛成というわけじゃありませんけど」とアヴドーチヤは真顔でそう言いそえると同時にあっと悲鳴をあげた。今度の手の握りしめかたがあまりにも痛かったからである。
「そうですって? あなたは、そうだとおっしゃるんですね? そういうことをおっしゃるからにはあなたは……あなたは……」と彼は歓喜の叫びをあげた。「あなたは善と純潔と理知と……完成の本源です! 手をお出し下さい、お出し下さい……あなたもやはり手をお出し下さい、僕はここであなた方の手に接吻したいのです、今すぐ、ひざまずいて!」
こう言うと彼は歩道のまんなかにひざをついたが、さいわいこのときはあたりに人影はなかった。
「およしなさい、お願いです、まあ、なにをなさるんです?」困りきったプリヘーリヤがそう叫んだ。
「お立ちになって、お立ちになって!」ドゥーニャも笑いながらも、困ったような様子だった。
「断じて立ちませんよ、お手を出して下さらないうちは! そうそう、それでいい、さあ、立ちましたよ、出かけましょう! 僕はあわれなばかなんです。僕はあなた方とつきあう値うちなんかないんです。こうして酔っぱらっているんで、恥じ入っているところです……僕はあなた方を愛する値うちもない男ですが、あなた方の前にひざまずくということは――まったくの畜生でないかぎり、各人の義務だ! とこう思ったからこそ僕はひざまずいたのです……ほら、もうあなた方のアパートですよ。ロジオンは、さっきのルージンを追いだしたけど、あれだけはまちがっちゃいなかった! あの男はよくもまああなた方をこんなアパートへ住まわせる気になったもんですねえ。恥さらしな話です! ここへはどんな人間が出入りしているか、ご存知ですか? それに、あなたは花嫁ご寮じゃありませんか! あなたは花嫁でしょう、そうでしょう? だとすれば、僕はあなた方に言いますが、あなたのお婿さんはこんなことをするようじゃ卑劣漢ですよ!」
「ねえ、ちょっと、ラズーミヒンさん、あなたはお忘れになりましたよ……」とプリヘーリヤが言いかけると、
「ええ、ええ、おっしゃるとおりです。前後の見境をなくしてしまいました。面目ありません!」とラズーミヒンはすぐさま引きとって言った。「しかし……しかし……あなた方は、僕があんなことを言ったからって、僕に腹をたてちゃいけませんよ! 僕は真心から言っているんで、別にその……ふむ! こんなことをいったら卑劣ということになるだろうな。要するに、別に僕があなたたちを……ふむ! ……そうあるべきだ、こんなことは言う必要はない、その理由は申しません、とても言えないんです! ……さっきあの男がはいって来たとき、僕たちはみんな、この男はわれわれの仲間じゃないなと感じたのです。それは別に、あの人が床屋で髪をちぢらして来たからというわけでもないし、あの人が急いで自分の頭のよさをひけらかそうとしたからでもありません、あの男がスパイで山師だから、ユダヤ野郎だし、たいこ持ちだからです、それははっきりしています。あなた方は、彼は利口な男だとお思いですか? いや、やつはばかですよ、ばかです! ねえ、あんな男があなたにつりあうでしょうか? とんでもありません! ねえ、あなた方」すでにアパートの階段をのぼりかけたとき、彼は急に立ちどまって、「僕の家に来ている連中はみんな酔っぱらいだけど、そのかわり誠実な人間ばかりですよ。それにわれわれはでたらめを言うし、従って僕もやはりでたらめは言いますが、最後には真理に到達します、というのは清廉潔白な道を歩んでいるからです。ところがルージン氏は……清廉潔白な道を歩んじゃいません。僕はたった今家にいる連中をくそみそに悪く言ったけど、連中をひとり残らず尊敬していますよ。ザミョートフのことだって尊敬はしていないけど、愛しています、なぜってまだ青二才ですからね! それに、あのゾシーモフの畜生ですらそうです、正直だし、仕事には通じていますからね……が、まあこのくらいにしておこう、なにもかもしゃべっちまったし、許してももらったんだから。許して下さったんでしょうね? そうじゃないんですか? さあ、それじゃ行きましょう。この廊下は知ってますよ、来たことがあるんでね。ほら、この三号室でスキャンダルがあったんです……さて、あなた方はここのどこですか? 何号です? 八号ですか? そう、それじゃ夜寝るときはよく戸じまりをして、だれも入れちゃいけませんよ。十五分たったら、知らせを持ってもどってきます、それからさらに三十分したらゾシーモフをつれてきますから、まあ見ていて下さい! さようなら、ひとっ走り行ってきます!」
「ねえ、ドゥーニャ、いったいどうなるのかしら?」とプリヘーリヤは不安そうな、おびえたような顔をして娘に話しかけた。
「安心なさい、おかあさん」とドゥーニャは帽子とケープをぬぎながら答えた。「あの方は宴会からいきなりいらっしゃったらしいけど、神さまがおつかわしになった方だわ。あの人はあてにできる人よ、わたし請けあうわ。あの人はもう兄さんのためにずいぶんいろんなことをして下さったんだし……」
「やれやれ、ドゥーニャ、でもあの人、来てくれるかどうかわかりゃしないよ! いったいどうしてわたし、ロージャをおいてくる気になんかなれたのかしら! ……ほんとに、ほんとに、あの子があんなふうになっているとは思ってもいなかったわ! あの子のぶ愛想なことといったら、まるでわたしたちが来たのが嬉しくないみたい……」
彼女の目に涙がにじみ出た。
「いいえ、それはそうじゃないのよ、おかあさん。おかあさんはよく見てこなかったのよ、泣いてばかりいらしって。兄さんは大病をしたために、とても気持ちが乱れているんだわ、――なにもかもそのせいよ」
「ああ、その病気! どういうことになるのかしら、どういうことに! それにお前にたいする口のききようったらなかったじゃないの、ドゥーニャ!」と、母親は娘の考えを残らず読みとろうとして、娘の目をおずおずのぞきこみながらいったが、ドゥーニャが兄をかばっている、つまり兄を許しているということで、すでに半ば安心して「あしたはきっとあの子も思いなおしてくれるだろうけどね」と、あくまで娘の考えをさぐろうとして、そうつけ加えた。
「ところが、わたしはこう信じているのよ、兄さんはあしたもやっぱりおなじことをいうにちがいないって……あのことについてはね」とアヴドーチヤはずばりと言いきったが、それはいうまでもなく、くさびを打ちこんだようなものだった、というのは、今プリヘーリヤが口に出すのをひどく恐れていた一点はそこだったからだ。ドゥーニャがそばへ来て母親に接吻すると、母親のほうも無言のまま娘をしっかり抱きしめた。そしてそれから母親は不安な気持ちでラズーミヒンの帰りを待ちながら腰をおろして、やはり腕組みをして待ちながらひとり物思いにふけって部屋のなかを行ったり来たりしている娘をおずおずと目で追いはじめた。そういったふうに物思いにふけりながら部屋を隅から隅へと歩きまわるのが、アヴドーチヤのいつもの癖で、そんなときはいつも母親はなんとなく娘の物思いの邪魔をしないようにしようと気づかうのだった。
いうまでもないことだが、ラズーミヒンが酔ったまぎれに突然アヴドーチヤに情熱を燃やしはじめたことは滑稽だった。が、しかしとりわけ今のように彼女が腕組みをして、うち沈んで物思いがちに部屋のなかを歩きまわっているアヴドーチヤの姿を見れば、ラズーミヒンの常軌を逸した精神状態は、抜きにして考えても、たいていの者は彼が情熱を燃やすのも無理はないと思うかもしれない。アヴドーチヤはひときわめだつ美しい女で、――背は高く、見事に均整がとれ、しんが強そうで自信に満ちており――それが彼女のあらゆる物腰に現われていながら、それでいてそれがその動作からけっして物柔らかさや優雅さを奪っていないのだ。顔つきは兄に似ていたが、彼女のほうは美人といってもいいくらいだった。髪は黒味がかった亜麻色で、兄のそれよりもいくぶん明るい色だった。瞳はほとんど黒色に近く、きらきら輝いて、プライドに満ちていながら、同時にときおり瞬間的にひどく善良に見えることがあった。顔色は青白かったが、それは病的な青白さではなくて、清新さと健康に輝いていた。口は小さめで、みずみずしい真赤な唇があごといっしょにほんの少し前へ出ているのがそのすばらしい顔のなかでただひとつ整っていない個所だが、それがその顔に特色を、わけても傲慢さともいうべきものを添えていた。顔の表情はいつも朗らかというよりもむしろまじめそうで、物思いがちだった。そのかわり、その顔には微笑が実にぴったりしていて、陽気そうで、若々しそうな、われを忘れたような笑いが実によく似あっていた! まだこれまでにまったくこういった類いの女に出会ったことのない、情熱的で、率直で、やや単純で、正直で、たくましい豪傑肌で、酒好きなラズーミヒンが、ひと目見ただけでのぼせてしまったのもむりはない。おまけに、偶然がわざわざおぜん立てしたように、彼が最初にドゥーニャを見たのが、兄と顔をあわせた愛と喜びのすばらしい瞬間だったのである。つぎに彼は、兄が乱暴で感謝の念もない冷酷無情な命令を下したのに答えて彼女が唇をぴくりと震わしたところを見たのである、――こうなっては自制力を失わずにいられるはずはなかった。
それにしても、さっき階段で彼が、ラスコーリニコフの下宿のおかみである変わり者のプラスコーヴィヤは自分のことでアヴドーチヤばかりか、ひょっとするとプリヘーリヤにまでやきもちを焼くかもしれないとうっかり口をすべらしてしまったが、あれはほんとうだった。プリヘーリヤは年はもう四十三だったが、その顔はいまだに昔の美貌の名ごりをとどめていた上に、年よりもずっと若く見えた。年とるまで気持ちの明るさや感覚の清新さや心の誠実で清純な情熱を保っている婦人はたいていそうだが、ついでに括弧でかこんだようにしていっておくが、こういったものを保つことが年をとっても美しさを失わない唯一の方法なのである。髪はちらほら白髪も見えはじめ、薄くもなってき、目尻にはもうだいぶ前から放射状の小じわも現われており、ほおは心労と悲しみにこけもし、色つやもなくなってはいるものの、それでもその顔はやはり美しかった。それは二十年後のドゥーニャのポートレートだ。もっとも下唇の表情は抜きにしてのことで、彼女は受け口ではなかった。プリヘーリヤは、甘ったるいというほどではないまでも、感傷的で、気が小さくて、おとなしいが、それもある線までだった。彼女はたいていのことは人に譲歩することもできたし、同意することもできた、それが自分の信念に反するようなことであってもそうすることができたが、それにはつねに篤実さとか、規律とか、ぎりぎりの信念の一線があって、どんな事情があろうと、それを踏み越えることはなかった。
ラズーミヒンが立ち去ってからきっかり二十分たった頃、あまり大きくはないが、忙しげにドアを二つノックする音がした。彼がもどって来たのだ。
「なかへははいりません、そんなことをしている暇はないんです!」ドアがあいたとき、彼は急いでそう言った。「正体なく眠っています、ぐっすり、すやすやと。十時間も寝てくれるといいんですがね。ナスターシヤがついています。僕が来るまで出るなっていっておきました。今度はゾシーモフを引っぱって来ます。あいつがあなた方に報告するはずです。それがすんだらあなた方もおやすみなさい。お見受けしたところ、どうにもならないくらいお疲れのようですから」
こう言うと彼は二人をそこへ置き去りにして廊下を一散に駆けだしていった。
「まあ、なんてはしこい……忠実な若い衆だろうねえ!」とプリヘーリヤが大喜びで叫んだ。
「なかなかいい人らしいわね!」とアヴドーチヤは語気にやや熱をこめてそう答えながら、また部屋のなかを行ったり来たりしはじめた。
かれこれ一時間もした頃、廊下に足音がひびき、もう一度ノックの音がした。女たちは二人とも、今度こそラズーミヒンの約束を信じきって待っていた。果たせるかな、彼はまんまとゾシーモフを引っぱって来た。ゾシーモフは即座に、宴会をぬけ出してラスコーリニコフを見に行くことに同意してはくれたが、婦人たちのところへは、酔っぱらっているラズーミヒンが信用できないところから、大いに疑念をいだきながら、不承不承やって来たのだった。ところが来てみると、彼はたちまち自尊心が和げられるどころか、くすぐられるようなことになった。自分がそれこそ予言者のように待たれていたことがわかったからである。彼はきっかり十分間そこに坐って、すっかりうまくプリヘーリヤを説きつけて安心させてしまった。彼はなみなみならぬ同情を寄せながら話をしていたが、その話しっぷりはひかえめで、なんとなく努めて真剣なところを見せようとし、重大な相談に乗っている二十七歳の医師に完全になりきって、ただのひと言も本題から離れず、また二人の婦人ともっと個人的な私的な関係を結びたいようなそぶりなどみじんも示さなかった。まだ部屋へはいったばかりのときに、アヴドーチヤがまばゆいばかりの美人であることに気づいてからは、すぐに、訪問の間じゅう努めて彼女のほうを見ないようにし、もっぱらプリヘーリヤにばかり話しかけるようにしていた。そして、こういったことに彼はひそかに満足を覚えていた。病人のことでは彼は、現在の時点では病人はすこぶる満足すべき状態にあるように思うという意見を述べた。彼の観察によれば、患者の病気には、ここ数ヵ月の生活の物資的悪条件以外に、なおいくつかの精神的原因がある、『いわば、多くの複雑な精神的物質的影響、つまり不安、危惧《きぐ》、心労、ある二、三の観念……等々の産物がある』とのことだった。アヴドーチヤが特別注意ぶかく耳をかたむけているのをちらっと目にとめると、ゾシーモフはいくぶんこのテーマを敷衍《ふえん》して説明を加えた。プリヘーリヤが不安そうにおずおずと『なんだかいくらか発狂の疑いがあるとかいうことですが』と質問したのにたいしては、彼はおだやかな包むところのない笑みを浮かべて、自分の話はだいぶ誇張しすぎている、もちろん、病人には一種の固定観念のようなもの、なにか偏執狂の徴候を示すようなものが認められる――というのも実は自分はこの頃医学のすこぶる興味ぶかいこの部門に特別注意を払っているからで――が、しかしたしかに病人はきょうがきょうまで熱に浮かされていたということも想起する必要がある、しかし……しかし、むろん、近親者の上京が病人を力づけ、気をまぎらすことになり、好影響を与えることにもなるにちがいないと答え、――『もっともそれは新しい特別な衝撃を与えないようにできたらの話ですがね』と意味深長にいいそえた。それから、彼は腰をあげると、重々しげに、親身のこもったあいさつをし、祝福と熱烈な感謝と、懇願と、こちらからは求めもしないのにアヴドーチヤが差し出した手に送られて、その自分の訪問とそれにもまして自分自身に大いに満足を覚えながら部屋を出た。
「話は、あしたしましょう。今晩は必ずおやすみになって下さい!」とラズーミヒンはゾシーモフとつれだってそこを出るときに、そう念をおした。「あしたはなるべく早く報告をもってあがります」
「それにしても、あのアヴドーチヤって人はまったくうっとりするような娘さんじゃないか!」二人が通りへ出たとき、ゾシーモフがほとんど舌なめずりせんばかりにして言った。「うっとりするような? きさま、うっとりするようなっていったな?」とラズーミヒンはわめくと、やにわにゾシーモフに飛びかかっていって、そののどをつかんで、「もしきさまがいつかそのうち出すぎたまねでもしようものなら……いいか? いいか?」とわめきたてながら、相手の襟がみをつかんで揺さぶって壁におしつけた。「わかったか?」
「おい離せ、この呑んだくれ!」ゾシーモフは相手を払いのけようともがき、そのあと、相手が彼を離すと、相手の顔をじっと見つめていたが、突然腹をかかえて笑いだした。ラズーミヒンは腕をだらりとたれて、沈鬱な顔をして真剣に考えこんだまま、突立っていた。
「言うまでもなく、おれはばかだよ」と彼はまるで雨雲のように陰鬱な顔をして言った。「しかし……お前だってやっぱりそうだぞ」
「いや、ちがうよ、君、まるっきりちがうさ。僕はばかげた妄想なんか描かないからな」
二人は黙って歩きだした。そして、ラスコーリニコフの下宿の近くまで来たとき初めてラズーミヒンがひどく気がかりな様子で、沈黙をやぶった。
「え、おい」と彼はゾシーモフに言った。「君はいい男だが、君は、いろんな嫌らしい性質は別として、浮気者だぞ、おれは知ってるんだ、しかも不潔な部類に属するやつだ。君は神経質で惰弱なやくざ者だ、君はわがまま者だ、ぶくぶく太りだして来たのに、何事も抑制することを知らない、――これを僕は不潔と称するんだ、なぜかというとそれがそのまま不潔な結果をもたらすからさ。君は自分をこんなに甘やかし放題に甘やかしてしまったら、正直いって、僕はなにをおいてもまず、君がこのままで立派な、その上献身的な医者になれるかどうかを疑うね。羽根ぶとんなどに寝て(医者がだぜ!)、毎晩病人のために起き出す! が、三年もしたら、君は病人のために起きだすことさえしなくなるぜ……そうそう、畜生、問題はそんなことじゃない、こういうことなんだ。君は今晩はおかみの家に泊まることになっている(これはむりやりあの女を説きつけちまったんだ)、そして僕は台所に泊まる。こいつは君たち二人がねんごろになるいいチャンスだぜ! あれは君が考えているようなものじゃないんだぞ! これには、君、そんなものはみじんもないんだからな……」
「僕は全然そんなことは考えちゃいないよ」
「こっちの女は、君、恥ずかしがり屋で、無口で、はにかみ屋で、すごく清浄無垢で、そこへ持ってきて――ため息をついているうちに、蝋みたいに溶けちまう、たちまち溶けちまうといったようなところがあるんだ! 後生一生のお願いだ、僕を彼女から救ってくれ! 実に魅力あふれんばかりの女だぜ! 恩返しはするよ、どんなことでもする!」
ゾシーモフはいっそう大声で笑いだした。
「完全に酔っぱらっちゃったじゃないか! どうして僕があの女を?」
「大丈夫、大して骨が折れるようなこともないんだ、ただなんでもいいから、わけのわからんことを言ってりゃいいんだよ、ただそばに坐って話をしてりゃいいんだ。請けあって後悔するようなことはないよ。彼女のとこにはピアノがあるよ。僕は、君も知ってのとおり、少々はやるんだ。僕には純ロシヤ風の歌であそこで弾く歌がひとつあるんだよ、『熱い涙に泣きぬれて』ってやつだがね……彼女は純ロシヤ風のが好きなんだ、――で、まあ、そもそものなれそめは歌からってわけさ。ところが、君ときた日にゃピアノにかけちゃ名人で、先生で、ルービンシュタインそこのけじゃないか……請けあって、後悔はしないよ!」
「どうなんだい、君は彼女になにか約束でもしたんじゃないのかい? 正式の誓約書でも書いて? おそらく、結婚の約束でもしたんだろう……」
「なんの、なんの、そんなことはまったくないよ! それにあの女は全然そんな女じゃないんだ。彼女にはチェバーロフが……」
「よし、そんならそのまま捨てちまえ!」
「それがそのまま捨てちまうわけにいかないんだよ!」
「いったいどうしていかないんだ?」
「それが、なんとなくそうはいかないんだよ、それだけのことさ! そこには、君、なにか誘引力みたいなものがあるんだよ」
「じゃ、なぜ君は彼女を誘惑したんだ?」
「僕は全然誘惑なんかしやしないよ、むしろこっちのほうが誘惑されているくらいかもしれないんだ、僕は根がばかだからさ、ところが彼女のほうは、君だろうが僕だろうがまったくおんなじなんで、ただだれかがそばにいてため息をついてやってりゃいいんだ。この場合は、君……どういったものかわからないんだが、この場合は、――うん、そう、君は数学を心得ているし、今でもまだやっているだろう、僕は知っているんだ……そこで、彼女に積分をひととおり教えてやれよ、僕はけっして冗談をいってるんじゃないぜ、真面目にいってるんだぜ、彼女にとっちゃどっちみちおなじなんだ。彼女はそのうち君を見てため息をつくようになる、そしてまる一年もぶっつづけにそのままなのさ。僕なんざ、彼女にだらだらと、二日もぶっとおしでプロシャの上院の話をしたことがあるが(だってあの女相手になんの話をしたらいいんだい?)、――あの女はただため息をつきながら汗をかいていただけだったよ! ただ恋の話だけは切りださないことだな、――震えあがるくらいはみかみ屋なんだから、――ただし、そばを離れられないといったような顔つきだけはしているんだぜ、――それだけで十分なんだ。居心地はすごくいい。まるで家にいるようなもんだ、――物を読んだり、坐っていたり、寝ていたり、書きものをしたりしていればいいんだよ……接吻ぐらいはしてもいいよ、慎重にやりさえすればね……」
「いったい、なんのために彼女を僕にあてがうんだい?」
「ちぇっ、僕にはどうしても君に説明できないのかな! いいかい、君たち二人はおたがいにぴったりなんだよ! 僕は前にも君について考えたことがあるんだが……君は結局はそういう結末になるんだ! してみれば、君にとっちゃ、早かろうと遅かろうと、おなじことじゃないか? ここには、君、すばらしい羽根ぶとん的要素があるんだよ、――いや! 羽根ぶとん的要素ばかりじゃない! ここには人を誘引するようなところがあるんだ。ここは世界のはてなんだ、錨《いかり》をおろす所、閑静な避難所、地球の中心なんだ、地球を支えていたという三頭のくじらだ、ブリン(ロシヤ風のパンケーキ)だの長い油っこいピロシキだの、晩のサモワールだの、静かなため息だの、温かい婦人用の短い上着だの、ぽかぽかする暖炉の上の寝床だののエキスがあるんだ、――まあ、君は死んでしまっているようでもあると同時に、生きているようでもある、一挙両得ってやつだよ! やあ、君、とんだだぼらを吹いちゃったな、もう寝なくちゃ! いいかい、僕は夜なかにときどき目をさまして、病人の様子を見に行くぜ。どうせなんでもない、ばかげたことだろうし、万事順調ということになるんだろうがね。君も別に心配することもないよ、ただその気があったら、やはり一度くらいは行ってみてくれ。ただし、なにか、たとえばうわ言とか、熱とかに気がついたら、すぐに僕を起こしてくれよ。もっとも、そんなことは起こるはずはないと思うけどね……」
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二
ラズーミヒンは気がかりな、まじめな気分であくる朝七時すぎに目をさました。いろんな、あらたな、予想もしていなかった疑惑が、この朝どっと彼の頭にわきおこった。彼は前には、こんなふうなめざめ方をするときがあろうなどとは想像したこともなかった。彼はきのうの出来事をすっかりごく微細な点まで覚えていたので、自分の身になにかただならぬことが起きて、それまで自分のまったく知らなかった印象が、これまでの印象とはまったく似かよったところのない印象が心に残ったのだということがわかった。それと同時に彼は、自分の頭のなかで燃えあがった夢がとうてい実現不可能である、――それを思うと恥ずかしくなるくらい実現不可能であるということもはっきりと意識したため、大急ぎで、『のろうべききのう』から持ち越しになっていた、別の、もっと緊急の心配事や疑問へと考えを移してしまった。
彼のいちばんぞうっとするような思い出は、自分はきのうどんなに『浅ましくも汚らわしい』人間だったかということであり、それも単に酔っぱらっていたためではなくて、娘を前にして、彼女の現在の立場につけこんで、ばかげたせっかちな嫉妬心から、その婚約者を、二人のおたがい同志の間柄や義務どころか相手の人柄さえも十分に知らないのに、罵倒してしまったことであった。自分はああもせっかちに、軽率に彼を裁くどんな権利を持っていたというのだろう? だれも自分を審判者に呼んだわけでもあるまいに! それにアヴドーチヤのような人間が金を得るためにつまらない男に身をまかすはずがないではないか? ということはつまり、あの男にも長所があるということだ。じゃ、あのアパートは? だが、実際問題として、あの男に前もってあれがどういうアパートかということなど、どうして知ることができたろう? しかも彼は本式の住まいを準備中だというではないか……ちぇっ、なんたる浅ましいことだ! 酔っぱらっていたからと言って、それがなんの言いわけになる? 余計自分の男をさげる愚かな口実にすぎないではないか! 酒中に真ありと言うが、その真の姿がぜんぶ暴露されてしまったわけだ、『つまり自分の嫉妬ぶかいがさつな心のきたならしさがあますところなく暴露されてしまったわけだ!』いったいあんな夢を描くなんてこの自分に、このラズーミヒンなどにその万分の一でも許さるべきことだろうか? あんなすてきな娘と比べたら自分など何者でもありはすまい、――酔っぱらいの乱暴者で、きのうのようなほら吹きの自分など?『こんな恥知らずで滑稽な対照が果たしてありうるだろうか?』こう考えたとたんに、ラズーミヒンは火が出るほど赤くなった。すると、ふと、わざわざ仕組まれてでもいたように、ちょうどそのとき、自分がきのう階段のところで立ち話をしたときに、おかみが自分のことでアヴドーチヤにやきもちを焼くだろうなどと二人に言ってしまったことがまざまざと思い出された……これはもうなんとも我慢のならないことだった。彼はいきなりこぶしを振りあげて台所のペチカをなぐって、自分の手も痛めるし、れんがもひとつたたき落としてしまった。
『むろん』と彼はすぐそのあとで、一種の卑屈感を覚えながら、口のなかでつぶやいた。『むろん、今となってはあのぶざまな言動は絶対に塗り消すことも拭いさることもできない……とすれば、こんなことは考えてもしようがない。だったらもうあとはなんにも言わずに二人の前に出て、……やはりなにも言わずに……自分の義務を果たすことだ、そして……許しも乞わず、なんにも言わないことだ、そして……これでむろん今はもう万事休すということになったわけだ!』
が、それでいて、服を着るときには、ふだんより念入りに服をあらためていた。着がえの服などはなかったが、たとえあったとしても、おそらく、その服を着るようなことはなかったろう、――『こうなったからには、意地でも着るもんか』と考えて。とはいっても、いずれにせよ、わざと恥知らずな、きたない、だらしないかっこうをして見せるわけにもいかなかった。彼には他人の感情を害する権利はないのだし、ましてやあの他人のほうが彼を必要とし、呼んでいるのであれば、なおさらのことだ。彼は自分の服に丹念にブラシをかけた。ワイシャツはふだんからなんとか見られるようなのを着ていた。こういう点では彼は特別きれい好きだったのである。
その日の朝は顔の洗い方も入念だった、――ナスターシヤのところに石鹸があったので――髪や首すじや、とりわけ手をきれいに洗った。自分のごわごわしたひげをそるべきかどうかという問題になったとき(おかみのプラスコーヴィヤのところには故ザルニーツィン氏のかたみとしてすばらしいかみそりが保存してあった)、彼はその問題を乱暴にも否定してしまった。『このままにしておけ! 曰くがあってひげをそったなんて思われちゃたまらんし……必ずそう思うにちがいないんだから! どんなことがあったってそるもんか!』
『それに……それに、肝心なことは、おれがこんながさつできたならしい男で、言うことなすこと、いかにも呑み屋式であることだ。が、まあ……が、まあかりに、自分だって、まあいくらかでも、ちゃんとした人間だと承知しているとしてもだ……この場合、ちゃんとした人間だくらいで、それがなんの自慢になる? だれにしたってちゃんとした人間でなきゃならないじゃないか、もう少し清潔でなきゃならない、それに……それになんと言っても(おれはあれをよく覚えているが)おれにはちょっとした情事もあった……特別破廉恥な情事というほどでもないが、それでもそれに似たようなものだ! ……まして、腹のなかで考えていたことにいたってはひどいものだ! ふむ……あんなことはあのアヴドーチヤとはとても並べられたもんじゃない! えい、畜生! ほうっとけ! よし、わざとこのきたならしい、脂じみた、呑み屋風のかっこうでいてやれ、かまうもんか! もっとひどいなりだってしてやるぞ!……』
こんなひとり言をいっているところへ、プラスコーヴィヤの家の広間に泊まったゾシーモフがはいって来た。
彼は家へ帰るところで、帰りがけに、急いで病人をちょっとのぞいて行こうと思ったのだ。ラズーミヒンが彼に、病人はぐっすり眠っていると報告すると、ゾシーモフは、自分で目をさますまで起こすなと注意を与えた。そして、十時すぎに寄るからと約束した。
「このまま家にいてくれさえすればいいんだが」と彼はつけ加えて言った。「ちぇっ、畜生め!自分の病人ひとりもままならないくせに、治療もくそもないもんだ! 君、知らないか、彼がむこうへ行くのか、それとも|むこうの二人《ヽヽヽヽヽヽ》がこっちへ来るのか?」
「むこうからだろうと思うよ」と、質問の目的を察して、ラズーミヒンが答えた。「それに、むろん、内輪の問題の話になるんだろうさ。僕は席をはずすよ。君は、医者だから、言うまでもなく、僕より権利を持っているわけだ」
「僕だってざんげ聴問僧でもあるまいし、来たらすぐに帰るよ。あの連中のことでなくとも、用事はたくさんあるんだから」
「僕、ひとつ気になることがあるんだ」とラズーミヒンが眉をひそめて、相手の話をさえぎった。「きのう僕は酔ったまぎれに、来る途中で、やつにいろんなばかなことをしゃべっちまったんだよ……いろんなことを……なかんずく、あいつには……発狂の傾向があるんじゃないかと君が心配しているといったようなことも……」
「君は婦人たちにもきのうそのことをしゃべっちまったじゃないか……」
「自分でも、ばかだったとは承知してるよ。張りとばされたってしかたがない! だけど、どうなんだい、ほんとうに君にはそのことでなにか確たる考えでもあったのかね?」
「ばかげた考えだって言ってるじゃないか。確たる考えなんてとんでもない! あの男のところへ僕がつれていかれたときに、彼を偏執狂にしてしまったのは君のほうじゃないか……ところが、僕らはきのう病気をいっそう助長させちまったんだ、つまり君があんな……ペンキ屋の話なんかしてそうさせちまったんだぞ。本人があのことで頭がおかしくなったのかもしれないというのに、あんな話を持ちだすんだもの! 僕が、あのとき警察で起きたことや、あそこでどこかのくだらん野郎がどういうふうに嫌疑をかけて……あの男を侮辱したかを正確に知っていたら! ふむ……僕はきのうあんな話はさせなかったはずなんだ。なにしろ、ああいう偏執狂ってやつは、水一滴を大海ほどに考えてしまったり、ありもしないものが現実に見えたりするものなんだからね……僕の覚えているかぎりでは、きのうのザミョートフの話から、僕には問題の半分ははっきりしたね。こんなことはなんでもないさ! 僕はこういう実例を知っているがね、ある四十歳のヒポコンデリー患者が、毎日食事のたんびに八つの男の子に嘲笑されるのが我慢ならなくなって、その子を斬り殺してしまったんだ! ところが、こっちの場合は、着ているものはぼろぼろの服で、病気がきざしかけているところへ、ずうずうしい警官の野郎が嫌疑なんかかけやがったんだもんな! しかも、こっちは狂乱状態のヒポコンデリー患者で、しかも気ちがいじみているくらいひどく自尊心のつよい男と来ているんだ! ひょっとすると、あの病気の出発点はここにあったのかもしれないぜ! そうだよ、畜生……ところで、あのザミョートフって男は実際いい青年のようだが、ただ、ふむ……きのうはあんな余計なことをべらべらしゃべりやがって。おそろしくおしゃべりだね!」
「いったいだれに話したんだい? 僕と君のほかに?」
「ポルフィーリイにもさ」
「ポルフィーリイになら話したってかまわないじゃないか?」
「ときに、君はあの二人、あの母親と娘さんには多少とも影響力を持っているんだろう? きょうはあの男を慎重にあつかうように持っていってもらいたいな……」
「親子の話しあいもつくだろうさ!」とラズーミヒンは気のない返事をした。
「どうしてラスコーリニコフはああルージンに食ってかかるんだろう? 金持ちらしいし、妹もあの男がまんざら嫌いでもなさそうなのにな……だって、あの親子は無一文なんだろう? え?」
「なんだって君はそう探りを入れたがるんだい?」とラズーミヒンは腹だたしげに叫んだ。「どうして僕が知るわけがある、無一文か無一文でないかなんて? 自分で聞けばいいじゃないか、そうすりゃわかるよ……」
「へっ、君はときどきまったくばかみたいになることがあるね! きのうの酔いがまだ残ってるんだろう……じゃ、さようなら。君のプラスコーヴィヤに泊まらせてくれたお礼を言っておいてくれ。ドアをしめきっちまって、僕がドアの隙間からボン・ジュールといっても、返事もしないんだ。七時にはちゃんと起きていて、台所から廊下を越えてサモワールなんか運ばせていたのにさ……僕は拝顔の栄に浴さなかったぜ……」
きっかり九時にラズーミヒンはバカレーエフのアパートに姿をあらわした。二人の婦人はもうだいぶ前からヒステリックになるくらいじりじりしながら待っていた。二人は七時か、それよりもっと早く起きていたのだ。彼は宵闇のように暗い顔をしてなかへはいると、不器用なお辞儀をしてしまい、そのことでたちまち腹をたててしまった――もちろん、自分に腹をたててしまったのである。が、それはひとり相撲だった。プリヘーリヤはいきなり彼のほうへ飛んでいって、相手の両手をとり、ほとんどその手に接吻もしかねないばかりだった。彼はおずおずとアヴドーチヤのほうへ目をやった。が、その気位の高そうな顔にもその瞬間ふかい感謝と友情の表情が見られ、意外な、溢れんばかりの尊敬が(嘲けるような目つきや隠そうとしてもおのずと出てくる軽蔑のかわりに)現われていたので、彼はそれこそほんとうにむしろ、罵倒されたほうが気楽なくらいで、かえってきまりが悪くなってしまった。さいわい、話題を用意してきたので、彼は大急ぎでその話題に取りついた。
プリヘーリヤは、『病人はまだ目をさましてはいない』が、『なにもかもうまくいっている』と聞くと、そのほうがかえって好都合です、『と申しますのは、前もってぜひとも、ぜひとも、前もってご相談しておかなければならないことがございますので』などと言った。そのあとで、お茶はまだあがっていないかという質問が出、いっしょに飲もうではないかという誘いがあった。彼女たち自身ラズーミヒンを待っていたため、飲まずにいたのである。アヴドーチヤがベルをおすと、それに応じてきたならしいごろつきのような男が出てきたので、その男に紅茶を命ずると、やっと茶道具をそろえてきたのが、あまりにも不潔で不体裁だったため婦人たちはかえってきまりの悪い思いをした。ラズーミヒンはものすごい権幕でアパートの悪口を言いかけたが、ルージンのことを思い出したため、口をつぐみ、どぎまぎしてしまった。そんなことから、やがてプリヘーリヤにやつぎばやに、ひっきりなしに質問を浴びせられたときは、ずいぶん嬉しく感じたものだった。
彼はその質問に答えて、絶えまなく話の腰をおられたり、聞きかえされたりしながら、四十五分もしゃべりとおし、ここ一年間のラスコーリニコフの生活で自分の知っている最も主だった、最も必要な事実を残らず伝え、今の病気の詳細な説明でそのしめくくりをつけた。もっとも彼は省略すべきだと思うことはたいてい省略してしまい、なかんずく警察での一件とその結果などははぶいてしまった。二人は彼の話をむさぼるように聞いていた。それなのに、彼がもう話もおわって、聞き手たちも満足したろうと思った頃になっても、二人から見れば彼がまだ話を始めていないも同然のような気持ちだった。
「お聞かせ下さい、聞かせて下さいな、あなたのお考えを……まあ、ごめんなさいね、わたし、まだお名前もうけたまわりませんでしたわね?」と、プリヘーリヤはあわてて言った。
「ドミートリイ・プロコーフィイチです」
「それでね、ドミートリイさん、わたし、とても、とても知りたいんですの……だいたい……あの子は今どういう物の見方をしているのか、つまり、わたしの言うことがおわかりかしら、なんと申しあげたらいいのかしら、つまりこう言ったほうがいいかしら、あの子はなにが好きで、なにが嫌いなのかとでも。あの子はいつもあんなふうにいらいらしているんでしょうか?あの子はどういう希望を持っているんでしょう、いわば夢ですね、こう言ってよければどういう夢を持っているんでしょう? 今あの子が特別影響を受けているのはいったいなになんですの? 要するに、わたしが知りたいのは……」
「まあ、おかあさんたら、そんなに一ぺんになにもかもおっしゃったら、とても急にはご返事できないじゃありませんか!」とドゥーニャが注意した。
「ああ、情けないわ、わたしまさかあんなふうになっているあの子に会おうなどとはそれこそ全然思っていませんでしたのよ、ドミートリイさん」
「それはまったくむりのない話です」とラズーミヒンは答えた。「僕にはおふくろはいませんで、そのかわり叔父が毎年上京してくるんですが、そのたびに僕を見まちがえるんですよ、顔までもね、頭のいい人間なんですけど。それなのに。あなたみたいに三年も離れていたら、そりゃずいぶん変わりますよ。しかし、あなた方にこんなことをいっても始まりません。僕は一年半ほどこっちロジオンを知っていますが、彼は気むずかしくて、陰気で、傲慢で、気位の高い男です。この頃は(事によると、ずっと前からなのかもしれませんが)疑りぶかいし、ヒポコンデリーなんです。鷹揚《おうよう》で人のいいところもあるかわりに、自分の感情を外に出すことが嫌いで、むしろ残酷な仕打ちになろうとも、自分の気持ちを言葉に出して言わないほうです。かと思うと、ときには全然ヒポコンデリーでなくなって、ただ冷たい、人間味もないくらい冷酷無情な男になることもあるといったふうで、それこそまるで彼の内部で二つの正反対の性格が交互に入れかわっているような感じなんです。ときにはおそろしく無口になることもあります! また、絶えず暇がない、しょっちゅうみんなに邪魔されているといったような顔をしているくせに、ご本人はごろごろして、なんにもしてやしない。それも皮肉屋だとか、鋭敏さが足りないからというわけではなくて、まるでそんなつまらないことを言っている暇なんかないんだといったふうなんです。それに、人の話をしまいまで聞いていないし、みんながそのときそのときに興味を覚えることにけっして興味を示さないんです。それから、自分の価値をおそろしく高く見ていますね、もっともそれだけの権利はないことはないようですけどね。それから、もっとなにかあったかな? ……僕にはどうも、あなた方がいらっしゃったことが彼にとてもいい影響を与えるんじゃないかというふうに思われますね」
「ああ、そうあってくれればねえ!」息子のロージャにたいするラズーミヒンの批評に胸を痛めていたプリヘーリヤは思わずそう叫んだ。
ラズーミヒンはとうとう思いきって前よりもやや大胆な視線をアヴドーチヤに投げてみた。彼は話の最中に何度も彼女に目をやったが、それもちらりとほんのちょっとの間だけで、すぐに目をそらしてしまうのだった。アヴドーチヤはテーブルにむかって注意して話に耳をかたむけているかと思うと、また腰をあげては、例の癖で腕組みをして、唇をきっとむすんだまま、隅から隅へと歩き出し、ときどき質問を発するだけで、あとは歩みをとめずに考えこんでいるのだった。彼女にもやはり人の話をしまいまで聞かない癖があったのだ。着いているものはなにやら軽い生地でつくった黒っぽい服で、首には白いすきとおったネッカチーフを巻いていた。ラズーミヒンはいろんな徴候から即座に二人の女性の生活状態はかなりひどいものと見てとった。もしもアヴドーチヤのよそおいが女王のようであったら、おそらく、彼はかえって彼女に臆するようなことはなかったかもしれない。ところが、おそらく、彼女がひどく貧しい身なりをし、彼にもそのつましい生活状態がすっかりわかったからこそ、彼の心に畏怖の念が巣食い、彼は自分の言葉のはしばしにも、身ごなしのひとつひとつにも気を使いはじめたのだ。が、これは、むろん、それでなくてさえ自分が信用できない人間には窮屈なことだった。
「あなたは兄の性格についておもしろい話をたくさんして下さいました……それも公平無私な話し方で。それはけっこうなことでしたわ。わたしは思っていましたのよ、あなたは兄を崇拝しているんじゃないかというふうに」とアヴドーチヤはにっこりしながら言い、「でも、兄には女の人がいるということも確かじゃないかという気がしますわ」と、考えこみながら言いそえた。
「僕はそういう話はしませんでしたが、しかしその点もあなたのおっしゃるとおりかもしれません、ただ……」
「ただ、なんですの?」
「彼はだれひとり愛してなんかいません。もしかすると、今後もけっして恋愛なんかしないかもしれませんよ」とラズーミヒンはきっぱりと言いきった。
「ということはつまり、恋愛をする能力がないということですの?」
「ねえ、アヴドーチヤさん、あなたはお兄さんにそっくりですね、なにからなにまでと言ってもいいくらい!」と、彼は不意に、自分でも思いがけなくうっかり口をすべらしてしまった。が、たった今彼女にした兄の批評のことを思い出したとたんに、顔がえびのように赤くなり、ひどくどぎまぎしてしまった。アヴドーチヤは、その彼を見て、声をたてて笑わずにはいられなかった。
「ロージャのことではあなたがたお二人の考えはまちがっているかもしれませんよ」と、いくらかむっとしたらしいプリヘーリヤが話を引きとった。「わたしは今のことを言うんじゃないのよ、ドゥーニャ。ルージンさんがこの手紙で書いてよこしたことや、……わたしがお前といっしょに推測したことは、――あるいはまちがっているのかもしれない。でもねえ、あなたには、ラズーミヒンさん、あの子がどんなにとっぴで、どう言ったらいいかしら、そう、気まぐれな人間かは、ちょっと想像ができないかと思いますよ。あの子の気性には、わたしけっして安心ができなかったんですの、それが十五くらいの年になってもね、あの子は今でも自分だけで急になにか、ほかの人ならけっしてしてみようとも思わないようなことをしでかしかねないというふうにわたし思いこんでいるんですの……なにも古いことを持ち出すこともありません、あなたはご存じかどうかはしりませんが、一年半ほど前にもあの子があの、なんていいましたっけ、――あのザルニーツィナとかいう下宿のおかみさんの娘さんと結婚するなんて言いだしたときは、わたしびっくりするやら動顛《どうてん》するやらで、ほんとに死ぬような思いをしましたわ」
「あなたはあのことでなにかくわしいことをご存知ですの?」とアヴドーチヤがたずねた。
「あなたなどはこうお思いでしょう」とプリヘーリヤは熱をおびて話しつづけた。「あの子があのとき思いとどまったのは、わたしが泣いて頼んだり、わたしが病気になって、ひょっとすると悲歎のあまり死んでしまうかもしれなかったり、家が貧乏だったりしたからだというふうに? ところが、どうして、あの子はどんな障害でも平気で踏みこえていくつもりだったんですよ。ほんとうにあの子は、ほんとうにあの子はわたしたちに愛情がないんでしょうかねえ?」
「彼は一度もあの件については僕となんにも話したことはありませんが」とラズーミヒンは用心ぶかく答えた。「僕は当のザルニーツィナ夫人の口から少々聞いております。あの人もこれはこれで話好きのほうでもないんですがね。しかし僕が聞いた話は、なんだかちょっと変な話でしたよ……」
「どういう話、どういう話をお聞きになったんですの?」と二人の女性がいっせいに聞いた。
「しかし、これと言って別にそれほど変わったこともないんですよ。僕が聞いて知っているのはただ、あの縁談はすっかりまとまったのに、いいなずけが亡くなったばっかりに成立しなかったんですが、当のザルニーツィナ夫人にすらひどく気にくわなかったということだけです……その上、人の話では、そのいいなずけは器量もどちらかといえばいいほうではなかった、つまり不器量なほうだったそうで……それにひどい病身で、……変わった娘だったそうです……もっとも、どこかいい所はあったんでしょうけどね。いや、必ずどこかいい所があったにちがいありません。でないとしたら、まったく合点がいきませんものね……持参金だって全然なかったんだし、もっとも彼は持参金なんかあてにするような男じゃありませんけどね……だいたい、こういったことは、そう簡単に判断ができるもんじゃありませんよ」
「わたし、その人は立派な娘さんだったにちがいないと思うわ」と、アヴドーチヤがぽつりと意見を述べた。
「こんなことをいっては悪いけど、わたしはそれでもあのときはその娘さんが死んでくれたことを喜びましたよ、もっとも二人のうち、あの子が娘さんの一生をだめにしてしまうものやら、娘さんがあの子をだめにしてしまうものやら、どっちがどうなのかわかりませんけどね」とプリヘーリヤは話を結んだ。そしてそれから、用心ぶかく、言いよどんだりのべつドゥーニャの顔を盗み見たりしながら――もっとも明らかにドゥーニャはそうされるのがいやだったようだが――またきのうの、ロージャとルージンとの悶着《もんちゃく》についていろいろと聞きただしにかかった。この事件は、見たところ、なによりも彼女の心をかき乱して、恐怖や戦慄までひきおこしているらしかった。ラズーミヒンは事の顛末をもう一度事こまかに語って聞かせたが、このたびは自分の結論もつけ加えて、あれはラスコーリニコフが前からたくらんでルージンを侮辱したことだといって頭から彼を非難し、今度はあの行為を少しも病気のせいにしなかった。
「あれはまだ病気になる前に考え出したことですよ」と彼はつけ加えた。
「わたしもそう思いますよ」と、プリヘーリヤはしょげた様子で、そういった。ところが、彼女が大変驚いたことには、今度はラズーミヒンのルージンにたいする意見の述べ方がひどく慎重で、まるで敬意まで払っているようなぐあいなのである。これにはアヴドーチヤも驚いたらしかった。
「では、あなたはルージンさんについてはそういうご意見をお持ちなんですの?」などとプリヘーリヤは聞かずにはいられなかった。
「お嬢さんの未来の旦那さんについて僕などが異をたてるわけにはまいりません」とラズーミヒンは熱をこめてきっぱりと答えた。「これは単なる俗っぽい礼儀の上から申しあげているのではなくて、つまり……その……まあ、アヴドーチヤさんがご自分から自由意志であの方をお選びになったことからだけでもそういわなければならないのです。もし僕がきのうあの人のことをくさしたとしたら、それは、僕が泥酔していた上に……頭がおかしくなっていたからです。そうです、頭がおかしくなって、分別がなくなって、完全に気が狂っていたのです……そんなわけで、きょうは大いに恥じ入っている次第です!……」彼は赤い顔をして口をつぐんだ。アヴドーチヤはぽっと顔を赤らめたが、沈黙はやぶらなかった。彼女はルージンの話が出たとたんからひと言も口をきかなかったのである。
一方、プリヘーリヤは娘の助けがないため、見るからに思いまどっているふうだった。が、やがてのはてに、口ごもったり絶えず娘の顔に目をやったりしながら、今ひとつ、とても気がかりなことがあるのだと言いだした。
「あのね、ドミートリイさん」と彼女はきりだした。「わたし、ドミートリイさんに打ち明けてお話してしまうわよ、ドゥーニャ?」
「もちろん、けっこうよ、おかあさん」とアヴドーチヤは励ますように言った。
「こういうことなんですの」母親は、自分の心配事を伝えてもよいという娘の許可に肩から重荷でもおろしたように、急いで話し出した。「今朝早く、わたしたちルージンさんから、わたしたちがきのう、着いたという知らせをさしあげたその返事の手紙をいただいたのです。実はね、きのうあの人は、約束では、わたしたちを駅まで出迎えてくれるはずでしたのに、そうはしないで、わたしたちを迎えにだれかボーイ風の男をよこして、ここのアパートの住所の書きつけを持たせて道案内をさせることにして、自分はあした早朝うかがうからとことづけさせたのです。ところが、それもせずに、きょうあの人からこんな手紙がとどいたんですのよ……あなたがご自分でお読みになるのがいちばんいいと思いますわ。このなかに、わたしとても心配なことがひとつあるんですの……それがどういう点かということは、すぐにおわかりになると思いますけど……ひとつ、わたしに腹蔵《ふくぞう》のないご意見をお聞かせ下さいませんでしょうか、ドミートリイさん! あなたはロージャの気性をだれよりもよくご存じですから、あなたからはだれよりもいいご助言がいただけると思いますわ。前もっておことわりしておきますけど、ドゥーニャはもう初めっからすっかり覚悟をきめてしまっているんですが、わたしは、わたしはまだ、どうしたらいいのかわかりませんので、……それであなたをお待ちしていたようなわけなんですの」
ラズーミヒンはきのうの日づけの手紙を開いて、つぎのような文面の手紙を読んだ。
『拝啓、謹しんでお知らせ申しあげます。昨日は、突然さしつかえが生じましたため、プラットホームにお出迎えできず、そのためによく気のつく男をさし向けました。またさらに、のっぴきならぬ最高裁の用件もあり、かつは、あなた様にはご子息との、アヴドーチヤ様には兄上との水入らずのご対面の妨げをいたすのもいかがかと思いまして、明朝の訪問も同様欠礼させていただきます。明日は必ず、午後の正八時におうかがいしてごあいさつ申しあげますが、ついては勝手ながら、切なる、加えてはたってのお願いをつけ加えさせていただきます。それは、明日お会いする際にご子息様にはご同席をさしひかえていただきたいのです。と申しますのは、昨日病気のお見舞いにあがりました折、類例を絶するような無礼な侮蔑を受けておりますし、それは別としても、例の件についてはあなた様に親しく必要かつ詳細なる説明もいたし、あわせてあなた様ご自身のお話も承りたいからでございます。念のため事前にご注意申しあげておきますが、万一小生の依頼にそむいて、ご子息様と顔をあわせるようなことがありました場合は、小生、やむを得ず即刻お暇させていただきますから、そのときは自業自得とご承知おき下さい。このようなことを申しあげますのは、小生が見舞いにあがりましたときは、まったくの病人のようにお見受けしたご子息様が二時間後には突然全快なされた点から見て、家を出られてお宿へ来られることもありうると予想しての上のことでございます。このことは小生この目で確認した事実で、馬に蹴られてそのため死亡したある酔漢の住まいで、その娘の、いかがわしい生業を営む女にきのうご子息は葬式代を口実に二十五ルーブリも与えました。これには小生も、あなた様がひと方ならぬご苦心によってその金を調達されたことを存じあげておるだけに、まことに驚き入った次第でございます。末筆ながら、アヴドーチヤ様には小生の格別の敬意をお伝え願い、あわせてあなた様にたいする敬服の情をおくみとり下さるようお願いいたします。 敬具
P・ルージン』
「わたしこれから、どうしたらいいんでしょう、ドミートリイさん?」と、プリヘーリヤは今にも泣き出しそうになりながら、こう言い出した。「いったいどうしてこのわたしに、ロージャに来てくれるななんていえるでしょう? あの子はきのうあんなに強硬に、ルージンさんをことわってしまえなんて言うし、あちらはあちらでそのあの子を家へ入れるななんて言ってよこしているし! あの子は、このことを知ったら、意地にでもやって来ますわ、……そうしたらどういうことになるのかしらねえ?」
「アヴドーチヤさんがおきめになったとおりになさったらいいでしょう」とラズーミヒンは落ちつきはらって言下に答えた。
「まあまあ、めっそうもない! この子は言うんですのよ……この子ったら、とほうもないことをいうんですよ、その目的もわたしに説明しないで! この子に言わせると、ロージャにも今晩の八時に来てもらって、二人が必ず顔をあわせるようにしたほうがいい、つまり、いいというよりも、なんのためか、ぜひともそうしなければいけないって言うんですの……ところが、わたしはあの子にはこのまま手紙も見せたくないし、なんとかうまい手を用いて、あなたに間にはいってもらってあの子に来させないようにしていただきたいんですの……だって、あの子はあのとおりのかんしゃく持ちでしょう……それにしてもわたしにはなんのことやらさっぱりわかりませんわ、どこのどういう酔っぱらいが死んだのやら、そこの娘がどういう娘なのやら、どうしてあの子がその娘になけなしのお金を残らずやってしまったのやら……あのお金は……」
「あれは、おかあさんが大変な苦労をして手に入れたものなんですものね、おかあさん」とアヴドーチヤが言いそえた。
「彼はきのうは正気じゃなかったんですよ」とラズーミヒンは考えこむようにして言った。「彼がきのう食堂でやらかしたことなんか、お耳に入れたいくらいですよ、もっともなかなか頭のいいところを見せましたけどね……ふむ!どこかの亡くなった人とか娘のことは、きのう二人で家へ帰る途中で実際に彼がなにやら話していましたが、僕にはひと言もわかりませんでした……もっとも、こっちもこっちできのうは……」
「これは、おかあさん、こちらから兄さんのところへ出かけていくのがいちばんじゃないかしら、わたし請けあうわ、むこうへ行けば、どうしたらいいかというようなことはいっぺんにわかってしまうわよ。それにもう時間だし、――あら! もう十時すぎよ!」と、彼女は首から下げていた時計を見てそう叫んだ。それは細いヴェニス製のくさりでつってある、七宝入りのすばらしい金時計で、ほかの衣裳とはひどくつりあいがとれていなかった。『婿さんのプレゼントだな』そうラズーミヒンは思った。
「あら、もう時間だわ! 時間よ、ドゥーニャ、もう時間だわ!」とプリヘーリヤがあたふたと騒ぎだした。「こんなにいつまでも行かないでいると、わたしたち、きのうから怒っているんだなんて思われてしまうわ。まあ、大変」
そんなことを言いながら、彼女はあわただしくケープを羽織り、帽子をかぶった。ドゥーニャも身じまいをした。彼女がはめていた手袋は古びているどころか、あちこち穴さえあいていたことにラズーミヒンは気がついた。ところが、そのありありとわかる服装の貧しさがかえって二人の婦人に一種特別な威厳をそえていた。こういうことは、粗末な衣服を上手に着こなす者によく見られることである。ラズーミヒンは敬虔の念をもってドゥーニャを眺め、彼女を案内するのが誇らしいような気持ちさえした。『あの、牢屋のなかで自分の靴下をつくろったという女王は』などと彼はひとり腹のなかで考えていた。『むろんそのときのほうが、この上なくはなやかな儀式や出御《しゅつぎょ》のときよりもかえってほんとうに女王らしく見えたにちがいない』
「あーあ!」とプリヘーリヤが叫び、「わたし、こんなこと考えたことあったかしら、自分のかわいい、かわいい息子のロージャに会うのをこんなに怖がることになるなどと! ……わたし、怖いんですのよ、ドミートリイさん!」と、臆病そうに相手を見てそうつけ加えた。
「怖がることなんかないわ、おかあさん」とドゥーニャは母親を接吻しながら言った。「それよか、兄さんを信じていらっしゃい。わたしは信じているわ」
「ああ、どうしよう! わたしだって信じているわよ、でもゆうべはひと晩じゅう眠れなかったのよ!」と、あわれな彼女は叫んだ。
三人は通りへ出た。
「あのね、ドゥーニャ、わたし朝方すこしとろとろとしたとたんに、亡くなったマルファさんの夢を見たんだよ……白ずくめの着物を着てね……わたしのそばへ来て、手をとって、わたしにかぶりを振ってみせるのよ、それこそこわい顔をして、まるで責めているみたいだったわ……あれはいい夢知らせかしらね? あら、まあ、ドミートリイさん、あなたはまだご存じなかったんでしたわね。マルファさんはお亡くなりになったんですよ!」
「ええ、知りません。マルファさんてだれですか?」
「急にぽっくりとね! それがね、あなた……」
「あとになさいな、おかあさん」とドゥーニャが口を出した。「この方はまだ、マルファさんてどういう人なのか、ご存じないんじゃないの」
「あら、まだご存じじゃなかったんですのね?わたしはまた、なにもかもご存じだと思っていましたわ。ごめんなさいね、ドミートリイさん、わたし、ここ二、三日すっかり気が顛倒しているものですから。それこそ、わたし、あなたをわたしたちの神さまみたいに考えているので、てっきり、あなたはもうなにもかもご存じだとばかり思いこんでいて。わたしはあなたを家の者のように思っているんですのよ……どうぞお怒りにならないで下さいね、こんなことをいったからって。あらまあ、あなたは右の手をどうなすったんですの! ぶっつけなすったのね?」
「ええ、ぶっつけたんです」ラズーミヒンはすっかり幸福な気分になってそうつぶやいた。
「わたしはときどきあんまり心にあることをずばずばいってしまうもんですから、ドゥーニャにたしなめられるんですよ……それにしても、あの子は、まあ、なんてひどい部屋に住んでいるんでしょうね! それはそうと、あの子はもう目をさましたかしら? いったいあの人は、あの下宿のおかみさんは、あれでも部屋だと思っているのかしら? ねえ、あなた、あなたはおっしゃっていましたわね、あの子は腹のなかをさらけ出すのが嫌いだって、だとすると、わたし、ひょっとすると、自分の……いけない癖であの子をうんざりさせているんじゃないかしら? ……ねえ、教えて下さらない、ドミートリイさん? わたし、あの子をどうあつかったらいいんでしょう? わたしは、ほら、こうやって途方にくれながら歩いているんですよ」
「もし彼が渋い顔をしているのを見たら、あんまりあれこれといろんなことを聞かないことですね。とくに、健康についてはあんまり尋ねないことです、いやがりますから」
「ああ、ドミートリイさん、母親になるということはほんとに辛いことですわ! けど、もうあの階段だわ……ほんとに恐ろしい階段だわ!」
「おかあさん、顔色まで青いわよ、安心なさい、おかあさん」とドゥーニャはやさしく母親にすり寄るようにしていって、「兄さんは、おかあさんに会うってことは仕合わせなはずなのに、おかあさんをこんなに苦しめるなんて」と目をきらりとさせて、言いそえた。
「ちょっと待って下さい、目が覚めたかどうか、さきに見てきますから」
二人の婦人は、さきに階段をのぼっていったラズーミヒンのあとから、静かな足どりでのぼりはじめた。すでに四階のおかみの部屋のドアにさしかかったとき、二人は、ドアがごく細めにあいていて、暗闇のなかから二つのぎょろぎょろした黒い目が自分たちを凝視しているのに気づいた。そして、目と目が合ったとたんに、ドアがばたんとしまり、その音があまりにも大きかったため、プリヘーリヤはびっくりしてあぶなくあっと叫ぶところだった。
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三
「元気ですよ、元気です!」とこうゾシーモフが、はいって来た二人の婦人を出迎えながら、陽気な声で叫んだ。彼はもう十分ほど前に来て、ソファのきのうとおなじ席に腰かけていた。ラスコーリニコフはすっかり身なりをととのえて、念入りに顔まで洗い、髪までとかして、反対の隅に腰かけていたが、こんなことはもう久しくないことだった。部屋はたちまちいっぱいになってしまったが、それでもナスターシヤはお客のあとから首尾よくすべりこんで、みんなの話に耳をかたむけはじめた。
確かに、ラスコーリニコフはもうほとんど健康そうで、きのうと比べれば特にそう見えたが、ただ顔色が非常に悪く、ぼんやりして、憂鬱そうだった。外見は、けが人か、でなければなにか肉体的な激痛でもこらえている人のような感じで、眉根は寄せ、唇はきっと結び、目は燃えるように輝いていた。口数は少なく、それも不承不承、まるでやっと、義務でも果たすような口のきき方をし、その挙動にはときどきなにやら不安めいたものが見えた。
これで、もし腕に包帯でもしていたり、指に琥珀《こはく》織りのサックでもはめていたりしたら、たとえば指が化膿してずきずき痛むとか、腕に打撲傷を負ったとか、なにかそういった状態の人にそっくりに見えるところである。
それでも、その青い憂鬱そうな顔も、母親と妹がはいって来たときは、一瞬、光でもあてられたようにぱっと輝いた、が、それも彼の表情に、さっきまでのわびしげな放心状態のかわりに、もっと凝結した苦悶の影をそえただけのことだった。光はたちまち消えうせて、苦悶が残ったわけである。まだ治療をはじめたばかりの医者特有の若々しい情熱をかたむけて自分の患者を観察し研究していたゾシーモフは、肉親の者の来訪に喜びどころか、これから一、二時間、まぬがれられぬ拷問《ごうもん》を耐えしのぼうという、いかにも辛そうな秘かな覚悟めいたものが患者の顔に現われたのを見て怪訝《けげん》に思った。彼はそのあと、つづいてかわされた会話のほとんどひと言ひと言がまるで患者のなにか傷口にでもさわってそれを刺激するようなぐあいであることにも気がついた。が、それと同時に彼はまた、きのうはほんのちょっとした言葉にも狂乱状態におちいった偏執狂がきょうはよく自分をおさえて自分の感情をかくしているのにも、いささか驚かざるを得なかった。
「ああ、僕は今は自分でも、ほとんど健康になっているってことがわかるよ」と、ラスコーリニコフが愛想よく母親と妹に接吻しながら言ったので、プリヘーリヤの顔が見るまに晴れ晴れとしてきた。「それも僕はもう|きのうのような気分で《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》いっているんじゃないぜ」と彼はあとをラズーミヒンに向かって言いながら、親しげに相手の手を握った。
「僕もきょうはこの人を見てびっくりしたくらいですよ」とゾシーモフも、三人が来たので大喜びで話し出した。彼はもう十分も患者との話のつぎ穂を失って困っていたのである。「この分だと、三、四日のうちにはすっかり前のように、つまりひと月前かふた月前……か、あるいは三月前かな? とにかく前のようになりますよ。この病気はもうずいぶん前からきざして、潜伏していたんですからね……そうでしょう?今なら、もしかしたら原因は自分にあったと白状するでしょう?」と彼は気をつかっているような微笑を浮かべながらそう言いそえたが、その様子はどこかまだ相手をなにかでいらだたせはしないかと恐れているようなふうだった。
「大いにそうかもしれません」とラスコーリニコフは冷やかに答えた。
「僕がなぜそういうことを言うかというと」と、ゾシーモフは今うまくいったことに味をしめて、語をついだ。「あなたの全快は、だいたい今や一にあなた自身にかかっているからなんです。今、こうしてあなたとお話できるようになったところで、僕はあなたに肝に銘じていただきたいと思うんですが、あなたはあなたの病的状態の発生に作用していた最初の、いわば根本的原因を除去することが絶対に必要なのです。そうすれば回復しますが、そうしなければ、かえって悪くなりますよ。その最初の原因がなんであるかは知りませんが、あなたにだけはわかっているはずです。あなたは賢い方だし、もちろん、自分を観察してきておられることでしょうからね。僕の見るところでは、あなたの体調の乱れが始まった時期はある程度あなたが大学をやめられた時期と一致しているように思われるんです。あなたはこのまま仕事を持たずにいるということはよくありません。勤労と、自分の前途に立てた確乎たる目標、これがあなたを救うことになるように僕には思われるんです」
「ええ、ええ、まったくおっしゃるとおりです……そのうち、なるべく早く大学へもどりましょう、そうすれば万事……すらすらうまくいくでしょうから……」
ゾシーモフがこのさかしげな忠告を始めたのは、ひとつには婦人たちにたいする効果を狙ったのだが、一席話をおえて聞き手に目をやって、聞き手の顔にはっきりした冷笑をみとめたときは、いささか度肝をぬかれたかっこうだったことは言うまでもない。もっとも、それはほんのつかの間だった。プリヘーリヤがさっそくゾシーモフにお礼を述べ、特にゆうべ宿に訪ねてきてくれたことにたいして謝意を表明しはじめたからである。
「へえ、この人は夜も訪ねてくれたんですか?」と、ラスコーリニコフは胸さわぎを覚えながら聞いた。「それじゃ、お母さんたちも旅のあとなのに眠らなかったわけですね?」
「なあに、ロージャ、それは二時までのことなのよ。これまでだってわたしもドゥーニャも二時より前に寝たことなんかないのよ」
「僕もこの人にはなんとお礼を言ったらいいのかわからないんです」とラスコーリニコフは急に眉をひそめて、目をふせながら語をついだ。「金の問題は別としても、――こんなことを口にしちゃ失礼なんですが(と彼はゾシーモフのほうを向いていった)、――僕はなんであなたからこんな特別のご配慮を受けることになったのか、僕にはとんとわからないんですよ。まったく理解に苦しみます……それに……それに、僕にはそれが心苦しいくらいなんです、というのは解せないからです。ざっくばらんに言わせてもらいますがね」
「まあそういらいらしないで下さいよ」と言って、ゾシーモフはむりに笑顔をつくった。「まあ、あなたが僕の最初の患者だとでも思って下さい。われわれ開業したての医者というものは、自分の最初の患者をわが子のようにかわいがるものなんですよ、なかにはほとんどほれこんだみたいになる者もいますよ。なにしろ、僕はまだ患者がありあまるというほどでもないんでね」
「この男のことはもう言ったって始まらないが」とラスコーリニコフはラズーミヒンを指さしながら言い足した。「この男もやっぱり僕からは侮辱されたり、苦労させられたりするだけなんですけどね」
「えい、こいつ、でたらめばかり言ってやがって! きょうは気分が感傷的なんじゃないのか?」とラズーミヒンが叫んだ。
彼にもう少し人を見ぬく力があったら、ラスコーリニコフには感傷的な気分など薬にしたくもなく、あったのはなにかまるっきり正反対のものであったことに気がついたにちがいない。が、しかしアヴドーチヤはそのことに気がついたらしく、じっと不安そうに兄の挙動を見まもっていた。
「あなたについては、おかあさん、僕はなにを言う勇気もありません」と彼は、まるで朝から宿題を暗記していたような調子で、言葉をつづけた。「僕はきょうになってやっと、おかあさんたちはきのうここでどんなにさんざん気をもみながら僕の帰りを待ちわびていたことだろうと薄々想像できるようになったくらいなんです」こう言いおわると、彼は黙って微笑を浮かべながら、いきなり妹に手をさし出した。その微笑には今度は見せかけではないほんものの感情がひらめいた。ドゥーニャは自分にさしのべられた手をぱっとつかむと、さも嬉しそうに、感謝の思いをこめてぎゅっと握りしめた。これがきのうのいさかい以後初めて妹にしたあいさつだった。この兄妹の完全な無言の和解を見たとたんに、母親の顔は歓喜と幸福感に輝きわたった。
「これだから僕はこの男が好きなんだ!」何事でも誇張する癖のあるラズーミヒンがエネルギッシュに椅子ごと体をふり向けてつぶやいた。「この男にはこういうふうに心をがらりと転換するところがあるんだ」
『この子のすることなすことなんでも、どうしてこうもすらすらぐあいよくいくのかしら』などと母親は腹のなかで思っていた。『ほんとに上品な衝動的なしぐさを見せるわ! それにあの、簡単に、しかも心づかいもやさしくきのうの、妹とのもつれを解いてしまう手ぎわといったら――それもただ、うまいときにさっと手をさしのべて、やさしい目つきをしてみせるだけなのに……この子のあの目のすばらしいことといったら、それに顔全体もほんとにすばらしいわ! ……ドゥーニャより器量がいいくらいだわ……それにしても、まあまあ、ひどい服を着ていること、身なりのひどいこと! アファナーシイさんとこの配達夫のワーシャだってもっとましななりをしているわ! ……このままいきなり、このままいきなりあの子に飛びついていって、抱いて……泣いてみたい気もするけど、――でも、怖いわ、怖いわ……この子はなんという子だろう、ああ! ……あんなに愛想のいい口をきいているのに、怖いんだからねえ! いったいどこが怖いのかしら?……』
「ああ、ロージャ、お前は信じちゃくれないだろうけど」と彼女は、急に息子の言葉を引きとって、急いでこう答えた。「わたしとドゥーニャはとても不仕合わせな気持ちだったわ! もう何もかもすんで、けりがついてしまって、わたしたちみんながまた仕合わせにかえった今だから、話して聞かせることもできるんだけどね。まあ考えてもごらん、早くお前を抱きしめたいばっかりに、汽車をおりると、まっすぐここへ駆けつけたところが、あの女の人が、――あ、そこにいたわね! こんにちは、ナスターシヤさん! ……この人がわたしたちに出しぬけに言うことには、息子さんは熱病で寝ていたのに、今しがた医者の目をぬすんで熱に浮かされて外へ飛び出したんで、みんながお前を探しに駆けだしていったところだっていうじゃないの。そのときわたしたちどんな気持ちだったか、話したってお前にはほんとにできないだろうね! わたしにはとたんに思い出されたのさ、うちの知りあいでお前のおとうさんの親友だったポタンチコフ中尉が悲惨な最期をとげたときのことが、――お前はあの人のことは覚えていないでしょうね、――やはり熱病にかかってね、やはり外へ駆け出していって、裏庭の井戸にはまって、やっとあくる日になって引きあげられたようなわけだったのよ。だからわたしたち、もちろん、なおさら大げさに考えちまったわけなの。飛び出していってルージンさんをさがそうかとさえ思ったわ、せめてあの人の力でも借りようかと思ってね……だって、わたしたちは二人っきりなんだもの、それこそ二人っきりなんだものねえ」と彼女はあわれっぽい声を出して言葉じりを引きのばすようにしたかと思うと、ぴたりと話をやめてしまった。ルージンの話を持ち出すのは、たとえ『みんながもうすっかり仕合わせな気持ちにたちかえった』今でもまだかなり危険だと気がついたからである。
「ええ、ええ……それは、もちろん、残念なことでしたね……」とラスコーリニコフはつぶやくような返事をしたが、それがあまりにも放心したような、ほかへ注意がいっているような様子だったので、ドゥーニャは驚いて兄の顔を見た。
「ええと、僕はもっとなにを言おうと思ったんだっけ」と彼は懸命に思い出そうとしながら、語をついだ。「そう、そう。どうぞ、おかあさん、それにお前もだけどね、ドゥーニャ、きょう僕はそっちへ出かけるのがいやなもんだから、まずそっちから二人が来てくれるのを待っていたんだなんて考えないで下さいね」
「まあ、なにを言うんだね、ロージャ!」とプリヘーリヤは、これまたびっくりして、そう叫んだ。
『兄さんはどうしたのかしら、まるでお義理でわたしたちに返事をしているみたいじゃないの』とドゥーニャは思った。『仲直りするのも、許しを乞うのも、まるでお経でも読むか、宿題の暗誦でもしているみたいだわ』
「僕は目を覚ましたとき、すぐに出かけようと思ったんだけど、服のことで思いとどまっちまったんです。きのうこの人に……ナスターシヤに……この血を洗い落としてくれって……言うのを忘れちまったんでね……それで今やっと服の着がえをすましたところなんです」
「血? なんの血なの?」と、プリヘーリヤは心配そうな顔をした。
「なんでもないんですよ……ご心配なく。きのう少し熱に浮かされてふらふら歩いているうちに、ある馬車にひかれた男に……ある官吏にぶつかったためについた血なんです……」
「熱に浮かされて? だけど、君はすっかり覚えてるじゃないか」とラズーミヒンが話の腰を折った。
「それはそのとおりだ」と、ラスコーリニコフはこのことにはなぜか特別気を使いながら答えた。「実に細かい点までなんでも覚えている、ところがだね、どうしてあんなことをしたのか、どうしてあんな所へ行ったのか、どうしてあんなことを言ったのか、というようなことになると、もうどうしてもうまく説明がつかないんだ」
「あまりにもよく知られている現象ですよ」とゾシーモフが話に割りこんだ。「行為の遂行はときに巧妙で老獪《ろうかい》をきわめていながら、行動の制御力、行動の根源は混乱していて、いろんな病的な印象に左右されるんです。まあ、夢みたいなもんですよ」
『この男はおれをほとんど気ちがいと見ているが、これは、事によると、かえって好都合かもしれないぞ』
「でも、そういうことは、おそらく、健康な人にもあるんじゃないかしら」と、ドゥーニャが心配そうにゾシーモフの顔を見ながらいった。
「かなり的を射たご意見です」と相手は答えた。「そういう意味では、実際われわれはみんな、たいてい、ほとんど気ちがいみたいなもので、『病人』はわれわれよりもいくらか多く気がちがっているというわずかな違いがあるだけです。ですからどうしてもその間に一線を引く必要があるわけです。調和のとれた人間なんて、いやほんとうです、ほとんど絶無と言っていいでしょう。数万人にひとりか、ひょっとすると数十万人にひとりぐらいしかお目にかかれません、それもかなり頼りない標本でしかね……」
得意なテーマでべらべらしゃべり出したゾシーモフの口から『気がちがっている』という言葉がうっかり飛び出したときは、一同思わず眉をひそめた。が、ラスコーリニコフはいっこう注意も払っていないような様子で、物思いにふけりながら、血の気のない唇に妙な笑いをうかべたまま坐っていた。彼は相変わらずなにか思いめぐらしていたのである。
「おい、それでその馬車にひかれた男はどうだったんだい? さっき君の話の腰をおってしまったけど!」とラズーミヒンがせきこんで叫んだ。
「なんのこと?」とラスコーリニコフは、目をさましたばかりのような顔つきで聞きかえした。
「ああ、あのことか……それで、その人を家まで運ぶのを手伝ったときに、血だらけになったんだよ……ときに、おかあさん、僕、きのうひとつ申しわけないことをしちまったんですよ。ほんとうに頭がおかしかったんだなあ。僕、おかあさんが僕に送ってくれた金を……きのうその男の妻君に……葬式の費用に、そっくりやっちまったんです。今は未亡人になってしまった、肺病やみの、かわいそうな女なんです……小さい親なし子が三人いて、ひもじい思いをしていて……家のなかにはなんにもありゃしないんです……ほかに娘さんがひとりいるんですが……おかあさんだってあれを見たら、やってしまったかもしれませんよ……しかし、正直なところ、僕にはそんな権利はなかったはずです、とくに、おかあさんがどんなに苦労してこしらえた金か知っているだけにね。人助けをするには、まずそういう権利を得なくちゃね。それがなかったら、≪Crevez chiens, si vous n'etes pas contents!≫(ひもじかったら、犬よ、勝手にくたばれ!)ってことだ」といって彼は高らかに笑った。「そうだろう、ドゥーニャ?」
「いいえ、そうじゃないわ」とドゥーニャはきっぱり答えた。
「おやおや! じゃ、お前も……方針を持っているわけか!……」と彼は、妹を憎悪に近い目つきで見、嘲笑を浮かべてつぶやいた。「僕もそいつを考えるべきだったんだ……ま、いいさ、それも褒《ほ》むべきことだよ。お前はそのほうがいいいんだ……そしてある一線まで行くんだな、それを踏みこえなければ不幸になるし、踏みこえたところで――さらにもっと不幸になるかもしれないような一線までな……しかし、こんなことはみんなくだらんことだ!」と、彼は自分がその気もなく夢中になってしまったことがいまいましいらしく、いらだたしげにそう言いそえて、「僕はただ、おかあさん、おかあさんにごめんなさいと言いたかっただけなんですよ」と、ぶっきらぼうに、とぎれとぎれに言葉を結んだ。
「もうおやめ、ロージャ、わたしは信じているよ、お前のすることなら、なんでも、なんでも立派なことにちがいないって!」と母親は嬉しそうにいった。
「信じないほうがいいですよ」と、彼は口をゆがめて笑いながら答えた。つづいて沈黙が襲った。こういった会話ぜんたいにも、沈黙にも、和解にも、許しにも、なにやら緊迫したものがひそんでいたし、だれもがそれを感じていた。
『みんなしておれを怖がっているみたいだな』と、ラスコーリニコフは額ごしに母親と妹を見ながら、ひとりで考えていた。プリヘーリヤは実際に、黙っていればいるほどおじけづいてきた。
『離れていたときは、なんだか、あんなにこの二人に愛情を感じていたのになあ』という考えが彼の頭にひらめいた。
「ねえ、ロージャ、マルファさんが亡くなったのよ!」とプリヘーリヤが藪から棒にいい出した。
「マルファさんてだれのことです?」
「おやまあ、スヴィドリガイロフの奥さんのマルファ・ペトローヴナだよ! ついこの間手紙にいろいろ書いてあげたじゃないの」
「ああ、そうか、覚えてますよ……じゃ亡くなったんですか? へえ、ほんとうですか?」彼は、まるで目がさめたように、ぶるっと身ぶるいした。「ほんとうに死んだんですか? それはまたどうして?」
「それがねえ、まったく突然だったんだよ!」プリヘーリヤは息子が好奇心を持ったことに元気を得、きおいこんだ。
「それがちょうど、お前に手紙を出したあのときなんだよ、ちょうどあの日のことなのさ! それがね、あの恐ろしい男が、どうやら、その死因だったらしいんだよ。人の話だと、あの人が奥さんをすごくなぐったんだって!」
「その夫婦は前からそんなぐあいだったのかい?」と彼は妹のほうを向いて聞いた。
「いいえ、むしろその反対なくらいよ。あの人は奥さんにはいつもとても辛抱づよく、大事にあつかっていたくらいだったわ。たいていは、奥さんの気性をずいぶん大目に見てやっていたわ、まる七年も……それがなにかのはずみで急に堪忍袋の緒を切ってしまったのね」
「それじゃ、その男は、七年も辛抱しつづけたくらいなら、それほど恐ろしい人でもないんじゃないのか? ドゥーニャ、お前はどうもその男の肩を持っているみたいだね?」
「ちがうわ、ちがうわ、あの人はほんとに恐ろしい人よ! わたし、あれより恐ろしいものなんて、ちょっと想像もつかないわ」と、ドゥーニャはほとんど震えあがらんばかりになって答えると、眉をしかめて、考えこんでしまった。
「それは朝がた起きたことなんだよ」とプリヘーリヤはあわてて話をついだ。「そのあとで奥さんは昼ご飯を食べるとすぐに町へ出るために馬をつけさせたのよ、そんなときはいつも町へ出ることにしていたんでね。昼ご飯のときは、ずいぶん食欲を見せて召しあがったそうよ……」
「なぐられていながら?」
「……でも、あの奥さんにはふだんそういう……癖があったのよ、食事がすむとすぐに、出かけるのを遅らせまいとして、さっそく水浴場へ出かけたんだって……それはね、あの人はそこの水浴場でなにか水浴療法みたいなことをやっていたからなのよ。あそこには冷泉があってね、あの人は毎日欠かさずそれにつかっていたんだそうよ。で、水のなかへはいったとたんに卒中が起きたわけなのよ!」
「それはそうでしょうとも!」とゾシーモフが言った。
「じゃ、よっぽどひどくなぐったんだな?」
「そんなことはどうだっていいじゃありませんか」とドゥーニャが答えた。
「ふーん! しかし、おかあさんもいい物好きですね、おかあさん、そんなくだらない話を持ち出すなんて」と、ラスコーリニコフが急にいらいらした口調で、まるでうっかり口をすべらしたように言った。
「あら、お前、わたしはどんな話をはじめたらいいのかわからなかったからよ」プリヘーリヤの口からうっかりそういう言葉が出てしまった。
「いったいどうしたんです、あなた方は、みんなで僕を怖がってでもいるんですか?」と彼はゆがんだような笑いを浮かべながらいった。
「ほんとうにそのとおりなのよ」と、ドゥーニャはまともに兄をきっと見すえながら、そう言った。「おかあさんは、階段をのぼって来るときなんか、おそろしさのあまり十字まで切っていたくらいよ」
ラスコーリニコフの顔は、けいれんでも起こしたようにゆがんだ。
「まあ、ドゥーニャ、お前なんてことを言うの! ロージャ、どうか怒らないでちょうだい……ドゥーニャ、どうしてお前はそんなことをいうの!」とプリヘーリヤはおろおろしてそう言い出した。「そりゃわたしは確かにこっちへ来る途中ずうっと汽車のなかでいろいろ思い描いてきたわ――三人が顔をあわせるときのことだの、おたがいにいろんな話をかわす模様なんかを……そしてあんまり楽しかったんで旅の辛さも知らなかったくらいよ! まあ、わたしはなにをいってるのかしら! わたしは今だって仕合わせなのに……ドゥーニャ、お前はまた余計なことをいって! わたしはもうただお前の顔を見ているだけで楽しいんだよ、ロージャ……」
「もういいですよ、おかあさん」と彼は困ったような様子で、母親の顔を見ないようにしてその手を握りながら、ぼそぼそ言った。「まだ話はいくらでもできますよ!」
こう言ったかと思うと、彼は急にうろたえて、顔色も真っ青になった。またもやつい最近の例の恐ろしい感覚が死のようにひやりと心内をはせすぎたのである。自分は今恐ろしい嘘をいってしまった、けっして今ではもう話はいくらでもできるどころか、もはや何の話もこれっきり、絶対にだれとも、|でき《ヽヽ》ないのだということが、またもや突然はっきりし、わかったのである。この苦しい思いの印象があまりにも強烈だったため、彼は一瞬すっかりわれを忘れて席を立つと、だれにも目をくれずに、部屋から外へ出ようとしたくらいだった。
「どうしたんだ、君?」とラズーミヒンが彼の腕をつかんで叫んだ。
ラスコーリニコフはまた腰をおろすと、なにも言わずにあたりを見まわしはじめた。一同、けげんそうにその顔に目をこらしていた。
「どうしてみんなはそんなに相変わらずつまらなそうな顔をしているんです!」と彼は突然、まったく出しぬけに叫んだ。「なにか話したらどうですか! ほんとうにこうやってただ坐っていたってしようがないでしょう! さあ、話しなさいよ! 語りあおうじゃありませんか……せっかく集まったのに、黙りこんでしまって……さあ、なにか話を!」
「まあ、ありがたい! わたしはまた、この子にきのうのようなことが起きたのかと思って」とプリヘーリヤは、十字を切っていった。
「どうしたんですの、兄さん?」とアヴドーチヤはけげんそうに聞いた。
「いや、なんでもないんだ、ひとつちょっとしたことを思い出したんでね」こう彼は答えると、突然笑い出した。
「ま、そういうことなら、けっこうです! そうじゃないと思ったんで、この僕もこれはひょっとしたらと思いましたよ……」とゾシーモフはソファから腰をあげながら、つぶやくようにいった。「しかし、僕はもう時間です。またお寄りするかもしれません……お家にいらっしゃるようでしたら……」
彼はおじぎをして出ていった。
「まあ、なんて立派な方でしょう!」とプリヘーリヤがいった。
「ええ、立派な、すばらしい、教養のある、利口な人ですよ……」とラスコーリニコフは突然、思いがけない早口で、これまでにない活気を見せて言いだした。「病気になる前にはいったいどこで会ったのか、とんと覚えがないけどな……どこかで会ったようではあるんだが……しかし、いつもいい人間だ!」と彼はラズーミヒンをあごでしゃくってみせて、「ドゥーニャ、お前、この男が気にいったかい?」と妹に聞いたとたんに、どうしたわけか、大声で笑いだした。
「ええ、とっても」とドゥーニャは答えた。
「ちぇっ、きさまはまったく……ひどいやつだな!」おそろしく狼狽して真っ赤になったラズーミヒンはそう言って、椅子を立った。プリヘーリヤは軽くほほ笑み、ラスコーリニコフは大声で笑い出した。
「おい、どこへ行くんだい?」
「僕も……帰らなければ……」
「君は全然そんな必要はないよ、もっといろよ! ゾシーモフが帰ったからって、君も帰らなきゃならないわけはないだろう。行くんじゃないよ……ところで、今何時だろう? 十二時かい? ドゥーニャ、すばらしい時計を持っているじゃないか! どうしてみんなはまた黙りこんでしまったんだい? ずうっとしゃべっているのは僕だけじゃないか!……」
「これはマルファさんからいただいたのよ」とドゥーニャは答えた。
「しかもとても高価な時計なんだよ」と、プリヘーリヤがつけ加えて言った。
「ほう! だけど、ずいぶん大きいんだね、女持ちじゃないみたいだ」
「わたし、こういうのが好きなの」とドゥーニャが言った。
『してみると、婿さんのプレゼントじゃなかったのか』とラズーミヒンは考えて、なぜか嬉しい気持ちになった。
「僕はルージンのプレゼントかと思ったよ」とラスコーリニコフが言った。
「いいえ、あの人はまだドゥーニャになんにもくれないんだよ」
「へーえ! ところで覚えてるでしょう、おかあさん、僕、恋をして結婚をしようと思ったことがあったでしょう」彼は母親の顔を見ながら、突然そんなことを言い出した。母親は話題の思いがけない転換と息子がその話をきり出した語調にはっとしたようだった。
「ああ、お前、そんなことがあったわねえ!」プリヘーリヤはドゥーニャとラズーミヒンに目くばせをした。
「ふむ! そうそう! だけど、なにから話したものかな? もうほとんど覚えてないな。あの子はひどく病身の娘だった」と彼はまた急に物思いにふけりながら、目をふせて、話しつづけた。
「まるっきり病人だった。乞食にほどこし物をするのが好きで、しょっちゅう修道院にはいることばかり考えていましてね、一度なぞ、僕にその話をしかけて、泣き出したことがありましたよ。そう……覚えていますよ……とてもよく覚えています。とても不器量な娘でした。あの頃あの子のどこがよくて心ひかれたのか、まったくわからないな、いつも病気がちだったせいかもしれない……あの子がさらにびっこかせむしだったら、僕はなお一層好きになったかもしれないな……(彼は物思いがちににやりと笑った)まあ……春の夢といったところかな……」
「いいえ、その場合は春の夢ばかりじゃないわ」とドゥーニャが感激して言った。
彼はじっと緊張した面もちで妹を見つめたが、それは相手の言ったことが聞きとれなかったか、その言葉の意味がのみこめなかったかのどちらかだった。それから、ふかい物思いにふけったまま腰をあげると、母親のところへ行って、母親に接吻し、またもとの席にもどって腰をおろした。
「お前は今でもその子が好きかい?」大いに感動したプリヘーリヤがひょいとそんなことを言った。
「その子を? 今でも? ああ、そうか……おかあさんはあの子のことを言ってるんですか!いや。今じゃあのことはなにもかもあの世のことみたいで……遠い昔のような気がしますよ。それに、今周囲で起きていることだってこの世のことじゃないみたいです……」
彼は注意をこらしてみんなを見つめた。
「現にあなたたちにしても……まるで千里も離れた所から眺めているようなぐあいですよ……それにしても、いったいぜんたい、なんで僕たちはこんな話をしているんだろう! こんなことを根掘り葉掘り聞いてなんになるんだ?」と彼はいまいましげにそう言い足したきり、黙りこんで、爪をかみながらまた考えこんでしまった。
「お前の部屋はほんとにひどい部屋だわ、ロージャ、まるで棺桶みたいじゃない」と突然プリヘーリヤが言い出して、重苦しい沈黙をやぶった。「わたしきっとそうだと思うわ、お前がそんな憂鬱症にかかったのも半分くらいはこの部屋のせいよ」
「部屋?……」と彼は気ぬけしたような返事をした。「ええ、部屋もずいぶん作用してますね……僕もやはりそう思ったことがあります……だけど、おかあさん、おかあさんにはわからなかったろうけど、おかあさんは今ずいぶん奇妙な考えを口にされたわけですよ」と、彼はにやりと変な薄笑いを浮かべて、そう言いそえた。
もうちょっとでもこれがつづいたら、この三年ぶりの集まりも肉親も、どんな話も絶対に心から話すことのできない状態でいかにも親密そうな調子でかわしているこの会話も、ついには彼にとってまったく耐えられないものになったにちがいない。ところが、ひとつどうにもさきに延ばすことのできない問題が残っていて、なんとか、それもきょうじゅうにぜひとも解決しなければならなかった、――彼はさっき目をさましたときにそう決めてしまっていたのだ。今彼はその問題《ヽヽ》を思い出して、いい逃げ道が見つかったとばかり喜んだ。
「あのね、ドゥーニャ」と彼はまじめな、味もそっけもない調子で切り出した。「僕は、むろん、きのうのことはあやまるけど、自分の義務としてお前にもう一度注意しておくが、僕は基本線だけは譲らないからね。僕か、それともルージンかだ。僕は卑劣な人間ではあっても、お前はそうであっちゃいけないんだ。どっちか、ひとりだけでいいんだ。お前がルージンのところへ嫁に行くようだったら、僕はそのときかぎりもうお前を妹とは思わないからな」
「ロージャ、ロージャ! それじゃきのうとまったくおなじじゃないか」とプリヘーリヤが情けなさそうな叫び声をあげた。「どうしてお前はしょっちゅう自分を卑劣な人間だなんて言うの、わたし、聞いちゃいられないわ! きのうだってそうでしょう……」
「兄さん」とドゥーニャはしっかりした、やはり味もそっけもない口調で答えた。「このことでは兄さんのほうに誤解があるのよ。問題は、なんだかわたしがだれかのために自分を犠牲にしてでもいるように兄さんが想像していることにあるんだわ。全然そうじゃないのよ。わたしはまったく自分だけのために嫁に行くのよ。だってこのままだとわたし自身が辛いんですもの。その上、もちろん、家の者のためになるようだったら嬉しいにはちがいないけど、そんなことはわたしの決心のいちばん根本的な動機じゃないの……」
『嘘をついてやがる!』彼は腹立ちまぎれに爪をかみながら、腹のなかでこう考えていた。『気位の高い女だ! 人に恩をほどこそうと思っていながら、本音を吐くまいとしている! ……ああ、卑劣なやつらだ! この連中は人を愛するにも憎んでいるように見せかけやがるんだ……ああ、おれは……こいつらが憎くてたまらん!』
「要するに、わたしはルージンさんのところへ嫁に行くわよ」とドゥーニャは語をついだ。
「だってわたしは二つの不幸があれば小さい不幸のほうを選びますからね。わたしは、あの人がわたしにしてもらいたいと思っていることはなんでも誠実に果たすつもりよ、そうすればわたしはあの人をだましたことにならないわけですからね……あら、なぜ兄さんはそんな変な笑いかたをなすったの?」
彼女もやはりかあっとなり、目には憤怒がひらめいた。
「なんでも果たすって?」彼は毒々しげな薄笑いを浮かべながら聞きかえした。
「ある限界まではね。あの人の求婚のしかたや形式から、わたしはすぐに、あの人がなにを求めているかがわかったの。あの人は、むろん、自分の値打ちを高く見ているわ、あるいは、あまりにも高く見すぎているかもしれない、だけど、あの人はわたしの値打ちも認めてくれるものと思っているのよ……なにをまた兄さんは笑ってるの?」
「じゃ、お前はどうしてまた赤い顔をするんだい? お前は嘘をついているんだよ、ドゥーニャ、お前は故意に嘘をついてるんだ、ただ女の強情さから、僕にたいして我を通したいばっかりに……お前にはルージンなんか尊敬できないさ。僕はあいつに会って話もしているからわかってるけどな。だとすると、お前は金のために自分を売っていることになる、だとすれば、お前はとにかくはしたない行動に出ているわけだ。が、僕は、お前がせめて赤い顔をすることぐらいは知っているということだけでも嬉しいよ」
「ちがうわ、嘘なんかついていないわ!……」とドゥーニャはすっかり冷静さを失って叫びたてた。「あの人がわたしの値打ちを認めてわたしを大事にしてくれるという確信がなかったら、いくらわたしだってあの人のところへ嫁になんか行かないわ。また、自分にもあの人を尊敬できるという確信がなかったら、あの人のところへなんか行きやしないわよ。さいわい、きょうにもわたしはそういう確信が得られると思うの。それに、こういう結婚は、兄さんが言っているようにはしたない行為じゃなくってよ! たとえ兄さんのいうことが正しくって、わたしはほんとうにはしたない行為に踏みきったのだとしても、兄さんとしてもそんな口のきき方をするのはあんまり残酷じゃない? なぜ兄さんはわたしから、自分にだってできないような英雄的な行動を要求するの? それは横暴ってものよ、圧制よ! よしんばわたしがだれかを殺すとしても、自分ひとりを殺すだけのことでしょう……わたしはまだ人を殺したことなんかありませんからね! ……なんで兄さんはそんなにわたしの顔を見つめているの? どうして兄さんはそんなに真っ青になったの? 兄さん、どうしたの? 兄さん!……」
「まあ大変だわ! 気絶させちゃったじゃないの!」とプリヘーリヤが悲鳴をあげた。
「いや、いや……つまらないことだよ……なんでもないよ! ちょっと目まいがしただけだ。全然気絶なんかじゃないよ……なにかというとすぐに気絶気絶って騒ぎ出す! ……ふむ! そう……なにを言おうと思ったんだっけ? うん、そうだ。あれはどういうことなんだい、お前はきょう、あの男を尊敬できるし、あの男も……お前の言ったところによると、お前の値打ちを認めてくれるという確信が得られるなんて言っていたけど? お前は、きょうっていったようだったね? それとも僕の聞きちがいかな?」
「おかあさん、兄さんにルージンさんの手紙を見せてやってちょうだい」とドゥーニャが言った。
プリヘーリヤは手をわなわな震わせながら手紙を渡した。息子は大変な好奇心を覚えながらそれを受けとったが、手紙をひらく前に、突然なぜか驚いたようにドゥーニャの顔を見つめて、
「おかしいぞ」と、はっと新たな考えに打たれたように、ゆっくりとこう言った。「僕はなんだってこんなに気をもんでいるんだろう? なんだってこんなにわめいたりしているんだろう? 行きたいやつのところへ嫁に行かせりゃいいじゃないか!」
彼のいい方はまるでひとり言のようだったが、声に出してそう言うと、まるで当惑したように、しばらく妹の顔を見ていた。
彼はなおも妙な驚きの表情を浮かべたままで、とうとう手紙をひらき、それからゆっくりと注意しながら読みはじめ、それを二度読んだ。プリヘーリヤはとりわけそわそわしていた。それに、ほかの者もなにか特別なことが起きるのではないかとはらはらしていた。
「こいつは驚いた」彼はしばらくとつおいつ考えてから手紙を母親に渡しながらそういい出したが、それは特にだれにむかって言ったのでもなかった。「あの男は弁護士で、事件で飛び歩いている男だから、話し方にもやはりそういった……癖があるけど、――書くほうはまるで無学じゃないか」
みんなは少しざわついた。全然そんなことを期待していたのではなかったのだ。
「ああいった連中はみんなそういう書き方をするんじゃないかい」とラズーミヒンがとぎれがちな口調で言った。
「じゃ君も読んだのかい?」
「うん」
「わたしたち、お見せしてね、ロージャ、さっき相談して来たんだよ」とプリヘーリヤが困って、そう言い出した。
「それはもともと裁判所式の文体なんだよ」とラズーミヒンがさえぎって言った。「裁判所の文書ってものは今でもそういう書き方をするものなんだ」
「裁判所式の? うん、確かに裁判所式だ、事務家ふうだ……ひどい無学というのでもないが、非常に文学的というんでもない。つまり、事務家ふうなんだな!」
「ルージンさんは苦学をしたことを隠すどころか、自分で自分の道をきりひらいたことを誇りに思っているくらいなのよ」と、アヴドーチヤは兄の新しい調子にいくらかむっとして言った。
「まあいいさ、誇りにしているとすれば、それだけのことがあるんだろうから――僕は反対はしないよ。ドゥーニャ、どうもお前は、僕がこの手紙にたいしてこんな上っ面だけの批評をしたというんで怒っているようだね、そして僕は腹立ちまぎれにお前をいじめてやろうと思ってわざとこんなつまらないことをいい出したんだと思っているらしいね。ところがその反対で、その文体に関連して、僕の頭にひとつ、この場合まったく余計とはいえないような考えが頭に浮かんだんだ。その手紙のなかにひとつ、『自業自得《じごうじとく》』という、なかなか深い明瞭な意味を持たせた表現があるし、そのほか僕が行けば即座に帰ってしまうというおどし文句まであるじゃないか。このおどし文句は、もしもいうことを聞かなければ二人を捨ててしまうぞ、すでにペテルブルクへ呼び寄せた今だって捨ててやるぞという威嚇とおんなじだぜ。さあ、そこでお前はどう考える、ルージンがそういう表現を使った場合と、ま、かりにこの男(と彼はラズーミヒンを指さして)かゾシーモフか、われわれの仲間のだれかがそういうことを書いた場合と、まったくおなじように腹が立つかね?」
「そ、そりゃちがうわ」と、ドゥーニャは元気づいて答えた。「わたしとてもよくわかったわ、それはあまりにも素朴な表現で、あの人はたぶん、文章のほうは腕がたつほうじゃないんだってことが……兄さんの批評は見事だったわ。わたし意外なくらいだったわ……」
「これは裁判所式の表現だよ、裁判所式だとこれ以外の書きようはないわけだ、それで、あるいは、自分で思ったよりも荒っぽい書き方になってしまったのかもしれない。だけど、僕はもう少しお前の夢を打ちくだいてやらなきゃならないね。この手紙にはもうひとつ妙な表現が、僕にたいする誹謗《ひぼう》が、それもかなり下劣な誹謗が含まれている。僕はきのう絶望におちいっていた肺病やみの未亡人に金をやって来たが、『葬式代を口実に』じゃなくて、本式に葬式費用として、それも娘さん――つまりあの男の書いているところによれば『いかがわしい生業を営む』女に(その女には僕は生まれて初めて会ったんだが)その女にやったんじゃなくて、まちがいなくその未亡人にやったんだ。こんなところに僕は、僕をこきおろしてお前たちと仲たがいさせようというあまりにもせっかちなやつの下心があるように思うんだ。しかもこれまた裁判所式の、つまり目的をあまりにも露骨に見せた、せっかちな、すこぶる素朴な書きっぷりと来ている。あの男は人間は利口なようだが、利口に立ちまわるには利口なだけじゃ足りないんだ。こんなことをお前にいっておくのは、ただ教訓になればと思えばこそなんだ、だってお前には心から幸福になってもらいたいと思うからね……」
ドゥーニャは答えなかった。決心はもうさっきからついていて、今晩を待つばかりだったからである。
「で、お前はどういうふうにきめるつもりなの、ロージャ?」息子の思いがけない新しい|事務家ふう《ヽヽヽヽヽ》の口調にさっきよりなおいっそう不安になったプリヘーリヤがそう聞いた。
「なんですか、その『きめるつもり』っていうのは?」
「だってあのとおりルージンさんが、今晩お前に来させるな、来たら……帰るって書いているじゃないの。で、お前は……どうするのさ?」
「それは、もちろん、僕がきめることじゃなくて、まず第一におかあさんがきめることでしょう、もしルージンのああいう要求に腹が立たなければね、それから第二にはドゥーニャがきめることですよ、ドゥーニャも腹が立たなければ。僕は二人のいいようにします」と彼はそっけない調子でいいそえた。
「ドゥーニャはもう決心がついていてね、わたしはドゥーニャにまったく賛成なんだよ」とプリヘーリヤは急いで口をはさんだ。
「わたしはね、兄さん、兄さんに来てもらうことにきめたのよ、ぜひともその席に来てくれるように無理にも頼むことにしたの」とドゥーニャはいった。「来て下さる?」
「行くよ」
「わたし、あなたにも、お願いしますわ、うちへ今晩八時に家へいらしって下さいませんか」と彼女は今度はラズーミヒンにむかって言った。「おかあさん、わたし、この方もおまねきするわよ」
「それはけっこうね、ドゥーニャ。さあ、これでお前たちがきめてしまった以上は」とプリヘーリヤがあとをつけ足した。「もうそうすることにしましょう。わたしだって気が楽だもの。わたしは見せかけたり嘘をいったりするのは嫌いだからね。ほんとうのところをいったほうがいいわ……こうなったら、ルージンさんが怒ろうと怒るまいと、どうだっていいさ!」
[#改ページ]
四
そのときドアが静かにあいて、部屋のなかへ、ひとりの娘が|おずおず《ヽヽヽヽ》とあたりを見まわしながらはいって来た。一同、驚きと好奇心のまざった面持ちで娘のほうをふり向いた。ラスコーリニコフはひと目見ただけではそれがだれなのかわからなかった。それはソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワだった。彼女に会ったのはきのうだったが、ああいうときでもあり、ああいう状況でもあり、ああいう身なりもしていたため、彼の記憶に残っていたのは全然ちがった顔形だったのである。今見る彼女は質素というよりもむしろみすぼらしい身なりをした、まだごく若い、少女に近いくらいの娘で、物腰はつつましやかで礼儀正しく、晴れやかではあるが、いくらかおびえたような顔つきをしていた。体にはひどく粗末なふだん着をまとい、頭には古びた旧式な帽子をかぶっていたが、手にはきのうどおりパラソルを持っていた。部屋のなかが思いもかけず人でいっぱいなのを見ると、彼女はうろたえてしまったというほどではないにしても、すっかり度を失い、小さい子供みたいにおじけづいてしまって、引っ返しそうなかっこうさえ見せた。
「ああ……あなたでしたか?……」とラスコーリニコフはひどく驚いた様子でそう言うと、急に自分もあわててしまった。
彼の頭にそのとき、母と妹はすでにルージンの手紙から、この『いかがわしい生業を営む』娘のことをうすうすでも知っているはずだということがとっさに思い浮かんだ。それにたった今彼がルージンの中傷を反駁して、あの娘に会ったのは初めてだといっていたところへ、突然その本人がはいって来たのである。それから、『いかがわしい生業を営む』という表現にたいしては少しも反駁しなかったことも思い出した。こういったことが漠然とではあるが、さっと彼の頭をひらめきすぎたのである。しかし、もっとつくづくと見たとき、そのいやしめられている女がかわいそうなほどいじけていることに急に彼は気がついた。で、彼女が恐ろしさのあまり逃げ出しそうなかっこうをしたときは、はっとして胸のなかがひっくり返るような気がした。
「来て下さろうとはまったく思いもよりませんでした」と彼は相手を目でひきとめるようにしながら、あわててそう言った。「どうか、おかけ下さい。きっと、カテリーナさんのお使いでいらっしゃったんでしょう。そっちじゃなくて、こっちへおかけなさい……」
ソーニャがはいって来たとき、ラスコーリニコフの三脚の椅子のひとつにかけて戸口に陣どっていたラズーミヒンは腰をあげて、彼女を通してやった。はじめ、ラスコーリニコフは、ゾシーモフが腰かけていたソファの一隅に席を与えようとしたが、そのソファではあまりにも|なれなれし《ヽヽヽヽヽ》すぎるし、それにそこは寝床にもなっている所だと気がついて、急いで相手にラズーミヒンの椅子を指定した。そして、
「君はここへかけたまえ」とラスコーリニコフはいって、ゾシーモフのかけていた場所に彼をかけさせた。
ソーニャはおびえたために震えんばかりになって腰をおろすと、おどおどしながら二人の婦人に目をやった。見うけたところ、彼女は、どうしてこの婦人たちと並んで坐るようなまねができたのか、自分にもげせないといった様子だった。そんなことを思ったため、彼女はひどくおびえてしまって、急にまた腰をあげると、すっかりうろたえながらラスコーリニコフにむかって話しかけた。
「わたし……わたし……ほんのちょっとと思ってお寄りしましたの、お騒がせしてすみません」と彼女は口ごもりながら切り出した。「わたし、母の使いでまいりました、ほかにだれも使いの者がおりませんので……母が、あしたお葬式にお出で下さるようぜひともお願いして来いといっておりましたので。午前ちゅうに……祈祷式がございます……ミトロファニエフスキイで。それからわたしどもで……母のところで……ひと口召しあがって下されば……光栄だというように……母はお願いして来いということでした」
ソーニャは言いよどんで、黙ってしまった。
「必ず……必ずうかがうようにします」とラスコーリニコフもやはり立ちあがって答えたが、やはり口ごもって、しまいまで言いきれなかった……「どうぞ、おかけ下さい」と彼は出しぬけに言った。「ちょっとあなたとお話しなければならないことがありますんで。どうか、――お急ぎかもしれませんが、――お願いします、ちょっと時間をおさき下さい……」
こういって彼は相手に椅子をすすめた。ソーニャはまた腰をおろし、またもやおずおずと、途方にくれたように、ちらっと二人の婦人に目をやると、にわかに目をふせてしまった。
ラスコーリニコフの青い顔がぱっと赤く燃えたった。まるで体ぜんたいがひきつったようになり、目はぎらぎら燃え出した。
「おかあさん」と彼は断乎としたくいさがるような調子で言った。「この人がソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワといって、すでにさっきお話した、きのう僕の目の前で馬に蹴り殺された例の不幸なマルメラードフさんの娘さんです……」
プリヘーリヤはソーニャをちらっと見て、かすかに目を細めた。ロージャのくいさがるような、いどむような目つきにひどくうろたえながらも、彼女はそういう態度を見せて一種の満足を味わわずにはいられなかったのである。ドゥーニャは真剣にじっと、あわれな娘の顔をまともに見すえて、腑におちないような面もちで相手を点検していた。ソーニャは紹介の言葉を耳にすると、また目をあげそうにしたが、前よりいっそうどぎまぎしてしまった。
「あなたにうかがおうと思っていたのは」とラスコーリニコフはせきこんで話しかけた。「きょうお宅ではあと始末がうまくついたかどうかということなんです。なにかうるさいことはありませんでしたか? ……たとえば、警察のことなどで」
「いいえ、なにもかも無事にすみましたわ……だって、死因はわかりすぎるくらいわかっているんですもの。うるさいことはありませんでしたわ。ただ、間借人たちが怒ってはいましたけどね」
「どうして?」
「死骸をいつまでもおいとくって……なにしろこんな暑さでしょう、臭うんですの……そんなわけで、きょう晩の祈祷式までにお墓へ運びまして、あしたまで礼拝堂においていただくことにしました。母は初めはそうしたくなかったようですけど、今は自分でも、しかたがないと思っているようです……」
「じゃ、きょうなんですね?」
「母はあなたにあした教会へお葬式に来ていただいて、それから母の家へお葬式のふるまいにいらしっていただきたいといっております」
「葬式のふるまいもなさるんですか?」
「ええ、ほんのお口よごしですけど。母はあなたにくれぐれも、きのうわたしたち一家をお助け下さったお礼を述べて来いと申しておりました……あなたがお出でにならなかったら、葬式の出しようもなかったんですもの」彼女は唇もあごも急にぴくぴく震え出したが、急いでまた目をゆかに落として、じっと我慢してそれをこらえていた。
話をかわしている間じゅう、ラスコーリニコフはじっと相手を観察していた。それは、やせた、それこそやせこけた、色の悪い小さな顔で、あまり整ってもいず、どこか尖ったような感じで、小さな鼻もあごも尖っていた。その顔は美しいとも言えないくらいの顔だったが、そのかわり空色の目は実に澄んでいて、その目が生気をおびたときは、顔の表情がまことに善良そうに無邪気に見えてくるため、思わずひきつけられてしまうのだった。彼女の顔には、その姿ぜんたいにも、そのほかにある際だった特徴があった。年は十八だというのに、まだほとんど小娘のようで、年よりずっと若く見え、ほとんどまったく子供子供して見えることで、それがときにはおかしいくらいある種の身ごなしに現われるのだった。
「だけど、カテリーナさんはあれっぽっちのわずかな金でなにもかもすました上に、ご馳走までするつもりなんですか?……」などとラスコーリニコフはたずねたりして、なおもしつこく話をつづけようとした。
「棺は粗末なのにしますし……なにもかも簡単にすますことになっていますので、いくらもかかりませんの……わたしさっき母とすっかり計算してみましたら、お葬式のふるまいをするくらいは残るんですの……それに母もぜひそうしたいと申しますものですから、どうしてもそうしないわけにいきませんの……母にしてみればそれがせめてもの慰めなんですから……母は、あなたもご存じでしょうけど、ああいう人ですのでね……」
「わかります、もちろん……わかります……いったいどうしてあなたは僕の部屋をじろじろごらんになるんです? 今母も、棺桶みたいだなんて言ったところなんですよ」
「あなたはきのうわたしたちにお持ちあわせをすっかりはたいて下さったんですのね!」ソーニャは突然返事がわりに、勢いのいい早口でささやくようにそう言うと、急にまたがくりとうなだれてしまい、唇とあごがまたぴくぴく震え出した。彼女はもうさっきからラスコーリニコフのみすぼらしい住まいに驚いていたため、今そういう言葉が突然ひとりでに口をついて出てしまったのである。つづいて沈黙が襲った。ドゥーニャの目はなぜか輝き出し、プリヘーリヤも愛想よくソーニャを見たほどだった。
「ロージャ」と彼女は腰をあげながら言った。「わたしたちは、むろん、いっしょに食事をすることになっているのよ。ドゥーニャ、帰りましょう……ロージャ、お前は少し散歩にでも出かけて、それからひと休みするなり寝るなりするといいわ、そしてその上でなるべく早くいらっしゃい……でないと、わたしたちお前を疲れさせたようで、心配だからね……」
「ええ、ええ、行きますとも」と、彼は腰をあげて、あわてたような調子で答えた。「ただ僕には用事があるんでね……」
「じゃ君は食事も別々にするつもりなのかい?」とラズーミヒンはわめきながら、あっけにとられたようにラスコーリニコフを見た。「なにを君はいってるんだ?」
「ええ、ええ、行きますとも、むろん、むろんね……だけど、君はちょっと残ってくれ。おかあさん、この男は今は必要じゃないんでしょう? それとも、この男を横取りすることになりますか?」
「いえ、いえ、とんでもない! じゃ、あなたも、ドミートリイさん、食事に来て下さいますわね、いいでしょう?」
「どうぞ、いらしって下さいましね」とドゥーニャも頼んだ。
ラズーミヒンもおじぎをしたが、とたんにその顔がぱっと輝きだしたような感じだった。が、どうしたことか、一瞬間みんな急になぜかばつが悪くなった。
「じゃ、ロージャ、さようなら、じゃない、じゃ、またね。わたしは『さようなら』というのが嫌いなんだよ。さようなら、ナスターシヤ……あら、また『さようなら』なんて言ってしまったわ!……」
プリヘーリヤはソーニャにもおじぎをしようと思ったが、なぜかしそびれてしまい、あわてて部屋を出てしまった。
が、しかしアヴドーチヤはまるで順番でも待っていたように、母親のあとについてソーニャのそばを通ったとき、相手に心のこもった、ていねいな、行きとどいたおじぎをした。ソーニャはどぎまぎして、びっくりしたように、なんとなくあわてておじぎをしたが、その顔には一種病的とも言えるくらいの感じが出て、まるでアヴドーチヤの丁重な態度と心づかいが彼女には辛くて心苦しくてならないというふうに見えた。
「ドゥーニャ、さようなら!」とすでに入り口に来ていたラスコーリニコフが叫んだ。「手を出しな!」
「あら、今出したじゃないの、お忘れになったの?」とドゥーニャはやさしくきまり悪そうに兄のほうを向きながら答えた。
「まあいいじゃないか、もう一度出せよ」
こう言うと彼はぎゅっと妹の指を握りしめた。ドゥーニャは兄にほほ笑んでみせ、顔をぽっと赤くして、自分の手を急いで抜きとると、やはりなぜか幸福感で胸がいっぱいになりながら、母親のあとを追って出ていった。
「さあ、これでよしと!」と、彼は自分にもどりながらソーニャの顔を晴れ晴れと見つめながらソーニャに言った。「主よ、死せる者には安らぎを、生ける者にはなおも生きながらえんことを、ですね! そうでしょう? そうでしょう? そうじゃありませんか?」
ソーニャは顔に驚きさえ浮かべて不意に明るくなった彼の顔を眺めていた。彼はしばらく無言のままじっと彼女に目をこらしているうちに、死んだ父親が彼女のことで語った物語がこの瞬間、ふと彼の記憶のなかによみがえった……
「やれやれ、ドゥーニャ!」プリヘーリヤは表へ出るか出ないかにこう言いだした。「まったく今こうしてあそこを出て来たのが、まるで嬉しいみたいだよ。なんだか気が軽くなってしまって。きのう汽車に乗っていたときは、まさかこんなことまで嬉しがろうとは思わなかったよ!」
「またおなじことを言うようだけど、おかあさん、兄さんはまだよっぽど体のぐあいが悪いのよ。おかあさんにはわからなかったかしら? 事によると、わたしたちのことで悩んで、頭をおかしくしたのかもしれないわ。もっと大目に見てやらなくちゃね、そうすればたいていのことは許せるものよ……」
「そういうお前だってちっとも大目に見てやらなかったじゃないの!」とプリヘーリヤはすかさずせっかちにむきになって相手をさえぎった。「ねえ、ドゥーニャ、わたしはお前たち二人をずうっと見ていたけれど、お前はあの子に生き写しだよ、顔よりむしろ気性がさ。お前たちは二人とも陰気で、二人とも気むずかしくて短気で、二人とも気位が高くて、しかも鷹揚でさ……あの子が利己主義な人間だなんてあり得ないものね、ドゥーニャ? そうだろう? ……それにしても、今晩うちでどういうことが起きるかと思うと、心臓がちぢみあがる思いだわ!」
「心配しないことよ、おかあさん、なるようにしかならないわ」
「ドゥーニャ! わたしたちが今どんな立場におかれているか、まあ考えてもごらんよ! ルージンさんにことわられでもしたら、どうする?」あわれなプリヘーリヤはふと不用意にそんなことを口に出してしまった。
「そんなことをするようだったら、あの人はなんのとりえもない人よ!」と、ドゥーニャは軽蔑したような口調できっぱりと答えた。
「わたしたち、今引きあげてきてよかったわね」とプリヘーリヤは急きこんで相手の言葉をさえぎった。「あの子は用事でどこかへ急いでいたようだけど、散歩でもして、少しは外の空気でも吸って来ればいいんだよ……あの子の部屋の息苦しいことといったら……それにしてもこの町じゃどこへ行ったらいい空気が吸えるのかしらねえ? ここじゃ往来だって、通風窓のない部屋のなかも同然だものね。ああ、まったくなんという町だろう! ……お待ち、わきへお寄り、つぶされてしまうよ。なにか運んで来たわ! あれはピアノを運んでいったんだわ、まあ、ほんとうに……ずいぶんあちこちぶつかって歩くこと……わたし、あの娘もとても気になるわ……」
「娘ってだれのこと、おかあさん?」
「ほら、今あそこにいた、ソフィヤとかいうあの娘さ……」
「どうして?」
「わたし、そういう予感がするのよ、ドゥーニャ。まあお前が信じようと信じまいとどうでもいいけど、わたしは、あの子がはいって来たとたんに、大もとはこれなんだなと思ったのよ……」
「全然そんなことじゃないわ!」とドゥーニャは腹だたしげに声を張りあげた。「予感予感て、まったく変よ、おかあさん! 兄さんはあの人とはついきのうから顔見知りになったばかりで、今も、はいって来たときに、顔がわからなかったじゃないの」
「まあ、そのうちわかるさ! わたしはあの娘が不安なんだよ、そのうちわかるさ、そのうちね! わたしはほんとうにびっくりしてしまったよ。あの娘がわたしをじいっと見つめるあの目つきといったら、わたしは椅子に腰が落ちつかないくらいだったわよ。それに覚えているかえ、あの子がどうやって紹介しはじめたか? わたしは変な気持ちだったよ。ルージンさんがあの娘のことをあんなふうに書いてよこしたばかりなのに、ロージャはあの娘をわたしたちに、お前にまで紹介するんだものねえ! ということはつまり、あの娘はロージャにとって大事な人だってことなのよ!」
「あの人ならどんなことだって書いて来るわよ! わたしたちだってやはり世間の人に噂されたり書かれたりしたじゃないの、もうお忘れになったの? わたしは、あの人はきっと……立派な人で、あんなことはみんなでたらめだと思っているわ!」
「そうであってくれればいいけどね!」
「ルージンさんは箸《はし》にも棒にもかからない言いふらし屋よ」と突然ドゥーニャはずばりと言いきった。
プリヘーリヤはぴたりと口をつぐんでしまい、話はそれきりとぎれてしまった。
「実はこういうことなんだよ、僕の用件ていうのはこういうことなんだ……」ラスコーリニコフはラズーミヒンを窓のほうへ引っぱっていきながら、そう言った……
「それじゃ、母にはあなたがいらしって下さるというふうに申し伝えますから……」と、ソーニャは急いでそう言いながら、おじぎをして帰ろうとした。
「今すぐおわりますよ、ソフィヤさん、秘密な話じゃないんですから、さしつかえありませんよ……僕はあなたにもう二言三言話したいことがあるんです……こういうことなんだよ」と、彼はまるで断ち切ったように、しまいまで言い終わらないうちにラズーミヒンに話しかけた。
「君はあの男を知っていたね……なんて言ったっけ? ポルフィーリイか?」
「むろん、知ってるさ! 親類だもの。で、それがどうした?」と、相手は好奇心がむらむらわいてくるのを覚えながらそう言いそえた。
「あの男は今あの事件を……ほら、あの殺人事件を……きのう君たちが話していた……あれをあつかっているんだろう?」
「うん……それで?」ラズーミヒンは急に目を見張った。
「あの男が質入れ主を調べているそうだが、あそこには僕の品物もはいっているんだ。いや、つまらない物なんだけどね、僕が上京するときに妹が僕に記念にくれた指輪と、親父の銀時計なんだ。ぜんぶでせいぜい五ルーブリか六ルーブリくらいのものだが、僕にとっちゃ大事なものなんだ、かたみだからな。そこでどうしたもんだろう? その品物はなくしたくないんだ、とくに時計のほうがね。さっきドゥーニャの時計の話が出たとき、おふくろがあの時計を見せろって言いやしないかと思って、僕はびくびくしていたんだよ。親父が死んでから残った唯一の品物なんでね。あれをなくしちまったら、おふくろは病気になっちまうかもしれないんだ!女だからな! そこでどうしたらいいか、ひとつ教えてくれないか! 警察へとどけることは知ってるが、直接ポルフィーリイに言ったほうがよくはないだろうか、え? 君はどう思う?早くなんとかうまく手を打っておかないとな。ま、見ていたまえ、きっと食事前におふくろが聞くから!」
「警察は絶対いかんよ、ぜひポルフィーリイのところへ行くんだな!」とラズーミヒンが一種異常な興奮を見せながら叫んだ。「こいつは愉快だ! なんでもないさ、今すぐ行こう。ほんのひと足だ、きっと家にいるにちがいない!」
「よし……行こう……」
「あの男は君と近づきになればとても喜ぶよ、とてもね、とても、とっても! 僕は君のことをいろいろ話しているんだ、折にふれてしょっちゅう……きのうも話したよ。行こう! ……すると君はあの婆さんを知っていたわけか? そう来なくちゃな! ……こいつは何もかもすーばーらーしい展開を見せてきたぞ! ……あっ、そうだ……ソフィヤ・イワーノヴナが……」
「ソフィヤ・セミョーノヴナだよ」とラスコーリニコフが訂正した。「ソフィヤさん、これは僕の友だちで、いい男なんですよ……」
「もしこれからお出かけになるんでしたら……」とソーニャは、まるっきりラズーミヒンのほうを見ないようにして、そのためなおいっそうきまり悪くなって、そう言いかけた。
「じゃ、いっしょに出かけましょう!」とラスコーリニコフは話をきめた。「きょう僕はお宅へお寄りしますよ、ソフィヤさん、ただ僕に住所を教えて下さい」
彼はまごついたというのでもないが、あわてているような様子で、彼女の視線を避けていた。ソーニャは自分の住所を教えながら、赤い顔をした。三人はそろって部屋を出た。
「鍵はかけないのかい?」と、ラズーミヒンが二人のあとから階段をおりてきながら聞いた。
「全然かけたことなんかないよ! ……もっとも、もうここ二年ごし錠を買いたいとは思っているんだがね」と彼は無造作に言いそえ、「戸じまりの鍵もない者は仕合わせですね」と笑いながらソーニャに話しかけた。
三人は表の門のところで立ちどまった。
「あなたは右ですね、ソフィヤさん? ところで、あなたはどうやって僕の居所をさがし当てました?」と彼は聞いたが、そのかっこうはまるでなにかまったく別なことでも言い出したいようなふうだった。彼はさっきから彼女のおっとりした明るい目をとっくりと見たいと思っていたのだが、どうもそれがなかなかうまくいかなかったのである。
「きのうポーリャに住所を教えて下さったじゃありませんか」
「ポーリャ? ああ、そうか……ポーリャがね! あの……小さな女の子が……あの子はあなたの妹さんですか? 僕、あの子に住所を教えましたかね?」
「まあ、お忘れになったのね?」
「いや……覚えていませんね……」
「わたし、あなたのお噂はあの頃亡くなった父からうかがっていましたわ……ただ、あの頃はまだお名前は存じあげませんでしたし、父もそうでしたわ……さっき来たときも……きのうお苗字《みょうじ》をうかがっていたもんですから……ラスコーリニコフさんのお住まいはどこでしょうって聞いたんですけど……まさかあなたも間借りをしていらっしゃろうとは思いもよりませんでしたわ……じゃ、さようなら……母には言っておきますから……」
彼女は、とうとう二人から別れられたのが嬉しくてたまらないらしかった。彼女はうつむいて急ぎ足に歩き出したが、それは、なんとかなるべく早く二人の目から逃れて、なんとか一刻も早くこの二十歩ほどの道を通りすぎて右手の通りへおれる曲がり角まで行き、ひとりっきりになって、だれにも目をくれず、なににも目をとめずに、急ぎ足に歩きながら、今話した一言一句を、状況のひとつひとつを考えたり、思い起こしたり、考えあわせたりしたかったのである。彼女はこれまでに一度もそういった感情を味わったことがなかった。新しい世界がそっくり知らぬまに、漠然とながら、その心のなかに忍びこんで来ていたのである。彼女はふと、ラスコーリニコフがきょううかがいたいと言っていたから、もしかすると午前ちゅうに、あるいは今すぐにも来るかもしれないのだということを思い出した!
「ただ、きょうだけは来てもらいたくないわ、どうか、きょうだけはいらっしゃらないように!」と彼女は、おびえた子供のようにだれかに哀願するような調子で、心臓がちぢむような思いをしながら、つぶやいた。「まあ、どうしよう! わたしの……あの部屋へ……あの人に見られちゃうわ……まあ、どうしよう!」
といったわけで、もちろん、彼女はそのとき、だれか見知らぬ紳士に、自分がすぐあとから根気よくつけて来られていることに気づくはずはなかった。その男は彼女が門を出たとたんからつけて来たのである。ラズーミヒンとラスコーリニコフと彼女の三人がそろって歩道で二言、三言立ち話をしていたちょうどそのとき、この通行人は、通りすがりに思いがけず、ソーニャが『ラスコーリニコフさんのお住まいはどこでしょうって聞いたんです』と言った言葉を小耳にはさんだとたんに、ぶるっと身ぶるいをしたらしかった。その男はすばやく、とはいえ注意してその三人を、とくにソーニャが話しかけていたラスコーリニコフを見とどけ、ついでアパートを見あげて、記憶にとどめた。こういったことをしてのけたのはすべて一瞬の間で、しかも歩きながらのことだった。そしてその男はなに食わぬ顔をして先へ行き、だれかを待つようなふうをよそおって歩度をゆるめた。男はソーニャを待ち受けていたのである。彼は、三人が別れのあいさつをして、ソーニャが今どこかこっちのほうへやって来るのを見たのだ。
『あれはいったいどこへ帰るんだろう? あの顔はどこかで見たことがあるぞ』と彼は思って、ソーニャの顔を思い出そうとしていた……『ひとつ突きとめなければ』
曲がり角まで来たとき彼が通りの反対側にわたって、振り返ってみると、ソーニャはもうおなじ道を彼のうしろから、なんにも気づかずに歩いて来ていた。そして曲がり角のところでちょうど彼女もおなじ通りへまがった。男は反対側の歩道から、目を彼女から離さないようにして、あとをつけた。そして、五十歩ほど歩いたところで、また、ソーニャの歩いている側に移って彼女に追いつき、五歩ばかり距離をおいてあとをつけて来た。
それは、年輩は五十前後、背は中背よりやや高く、肩幅はひろくて怒り肩なためにいくぶん猫背に見える、でっぷり太った男だった。着心地よさそうな粋《いき》な服装をしていて、堂々たる紳士に見えた。手には見事なステッキを握り、一歩ごとにそのステッキで歩道をこつこつ鳴らしながら歩き、手には真新しい手袋をはめていた。顔は幅があって、ほお骨が出てはいるが、なかなか感じがよく、さわやかな色つやをしていて、ペテルブルク人らしくなかった。まだふさふさしている髪の毛は、ちらほら白いものが見えるのをぬきにすれば、完全に亜麻色で、シャベルの形に垂れている幅広い、毛の多いあごひげは頭髪よりも薄色をしていた。目は空色で、冷やかに、じっと、物思わしげに物を見、唇は真っ赤だった。だいたいから言って、それはまだ若さを十分に残している、年よりもずっと若く見える男だった。
ソーニャが堀割りへ出たときは、歩道には彼ら二人しかいなかった。彼は彼女を観察しているうちに、彼女が物思いにふけっていて気もそぞろであることに気がついた。ソーニャが自分のアパートまで来て、門内にはいると、男も、いささか驚いたような様子で、そのあとについてはいった。中庭へはいると、彼女は自分の住まいへのぼっていく階段のある一角をさして右へまがった。『おや!』見知らぬ紳士はそうつぶやくと、彼女について階段をのぼりはじめた。そこまで来たとき初めてソーニャはその男に気がついた。彼女は三階へのぼりきると、廊下へまがって、ドアにチョークで『服屋カペルナウーモフ』と書いてある十号室の呼び鈴を鳴らした。「おやおや!」と、見知らぬ男は不思議な偶然の一致に驚いたらしく、もう一度そうつぶやいて、隣りの八号室のベルを鳴らした。二つのドアはたがいに六歩ぐらいしか離れていなかった。
「あなたはカペルナウーモフの家にお住まいでしたか!」と、彼はソーニャを見て笑いながら言った。「わたしはきのう隣りでチョッキをつくろってもらいましたよ。わたしはこの、あなたと隣りあわせのレッスリヒ夫人、ゲルトルーダ・カールロヴナの家におります。不思議なご縁ですな!」
ソーニャは相手を注意ぶかく見つめた。
「お隣り同志ですね」と彼はなにやら特別浮き浮きした調子で言葉をついだ。「わたしは上京してこれで三日めなんですよ。では、またそのうち」
ソーニャは答えなかった。そして、ドアがあくと、自分の部屋へすべりこんだ。なんとなくきまり悪くなって、まるでおじけづいたような様子だった。
ラズーミヒンはポルフィーリイのところへ行く道中、殊のほか興奮している様子だった。
「こいつは、君、すばらしいや」という言葉を彼は何度もくり返していた。「僕も嬉しいぜ!僕も嬉しいよ!」
『なにが嬉しいんだ?』とラスコーリニコフは腹のなかで思った。
「まったく、君も婆さんのところへ質入れしていたとは知らなかったな。それで……それで……それはだいぶ前のことなのかい! つまり、君が婆さんのところへ行ったのはだいぶ前のことなのかい?」
『こいつ、なんて無邪気なまぬけだろう!』
「いつのことかって?……」ラスコーリニコフは足をとめて思い出そうとした。「行ったのは婆さんの死ぬ三日ほど前だったかな。しかし、今はその品物を受け出しに行くんじゃないぜ」と、彼は妙にあわてて特別品物を心配しているような面もちで言いなおした。「僕はせいぜい銀貨で一ルーブリくらいしか持ちあわせがないんだから……あのきのうの夢遊病のおかげでな!……」
この夢遊病という言葉を彼は特別印象づけるように発音した。
「うん、そうだね、そうだ、そうだ」とラズーミヒンはせきこんで、なんということもなく相づちを打った。「そんなわけで君はあのとき……ちょっとショックを受けたわけなんだな……実はね、君は熱に浮かされていたときもしょっちゅうなにか指輪だの鎖だのって言っていたぜ! ……うん、そうか、そうか……それではっきりした、今度こそなにもかもはっきりしたぞ」
『ほうら! やつらの間にあの考えが行きわたっているんだ! こいつなんか僕のためとあれば、はりつけもいとわないような男なのに、それでも、なぜ僕がうわ言で指輪のことなんか口にしていたかが|はっきりした《ヽヽヽヽヽヽ》などと、喜んでいるような始末だものな! どうもあの考えがみんなの間に根をおろしてしまっているらしいな!……』
「今あの男はいるだろうかね?」と彼は声に出して聞いた。
「いるさ、いるとも」とラズーミヒンは急いでいった。「あれは、君、すばらしい男だぜ、会ってみりゃわかるけどね! ちょっと無骨《ぶこつ》なところはあるがね、とはいっても人間は世慣れているんで、僕が無骨と言っているのは別の意味なんだよ。頭のいいやつだぜ、頭のいい奴なんだ、目から鼻へぬけるような男なんだが、思想傾向が一風変わっているんだ……なかなか人を信用しない男で、懐疑家で、皮肉屋で……人をかつぐのが、いや、かつぐというよりも愚弄するのが好きなんだ……まあ、形而下的な古い手だけどね……しかし、腕は大したもんだよ、腕ききだぜ……ある事件を、去年あった事件だけど、ほとんど手がかりがなくなったような殺人事件を割り出しちまったくらいなんだからね!君とはとても近づきになりたがっているよ、とても、とっても!」
「どういうわけなんだ、とてもだなんて?」
「つまり、どうというわけでもないんだが……実はね、この頃、君が病気になってからこっち、たびたび君のことを話にのぼすことがあって……それであの男も聞いていたわけさ……そして、君が法科のほうをやっているんだが、事情があって卒業できないでいると聞いたときなど、『実に気の毒だ!』なんて言っていたよ。で、僕の結論は……つまりこういったことがみんないっしょくたになっているんで、これひとつだけじゃないということなんだがね。きのうはザミョートフのやつ……あのね、ロージャ、ゆうべ君を家へ送っていったとき、僕、酔っぱらったまぎれになにかしゃべったろう……それで僕はね、君、君が針小棒大に考えてやしないかと思って、心配しているんだよ……」
「なんだい、それは? みんなが僕を気ちがいだと思っているってことかい? いや、そのとおりかもしれないぜ」
彼はにやりとこわばった薄ら笑いを浮かべた。
「うん……うん……つまり、ちぇっ、そんなことはないさ! ……まあ、僕がしゃべったことはみんな……(あのときはほかのこともそうだが)、あれはみんなでたらめで、酔ったまぎれのたわ言にすぎないんだ」
「なにを君はそんなに言いわけしてるんだ? そんなことはもうそれこそあきあきしてるよ!」とラスコーリニコフは大げさにいらだってみせながらどなった。もっとも半分は芝居だったのだ。
「知ってるよ、知ってるよ、わかってるよ。ほんとうだよ、わかってるんだ。口にするのも恥ずかしいくらいなんだ……」
「恥ずかしかったら、言うな!」
二人はそれっきり黙ってしまった。ラズーミヒンの喜びようは有頂天どころの騒ぎではなかった。ラスコーリニコフはそれがわかると胸がむかむかした。彼には、ラズーミヒンが今ポルフィーリイについて話してくれたことも不安の種だったのである。
『あの判事にもひとつ泣き落としをかけなきゃならんかな』などと彼は、青くなって、胸をどきどきさせながら考えていた。『それもできるだけ自然にな。が、いちばん自然なのはなんにも泣き言なんか述べないことかもしれんぞ。極力なんにもそういうことをしないことだ! いや、極力《ヽヽ》ということになると、また不自然になってしまう……まあ、出たとこ勝負といこう……見てみよう……こっちから出かけていくのがいいのか悪いのか? 飛んで火に入る夏の虫かな。胸がどきどきしてやがる、こいつはいかんぞ!……』
「この灰色の家だよ」とラズーミヒンが言った。
『いちばん肝心なことは、おれがきのうあの婆の家へ行って、血のことなんか聞いたことをポルフィーリイが知っているか、いないかということだ……家へひと足踏みこんだ瞬間に、こいつを突きとめなくちゃならんぞ、やつの顔色から読みとらなくちゃ。でないと……いや、死んでも突きとめてみせるぞ!』
「え、おい」と突然、彼はずるそうな薄笑いを浮かべながらラズーミヒンに話しかけた。「僕はね、君、きょう、君が朝っぱらから大変な興奮状態なのに気がついているんだが、図星《ずぼし》だろう?」
「興奮てどんなふうに? 別になんにも興奮なんかしてやしないよ」ラズーミヒンは顔をゆがめた。
「いや、君、まったく、はっきり目についたぜ。さっき椅子にかけてた様子だっていつもとだいぶちがっていたもんな、なんだか端っこのほうにちょこんと腰かけてさ、のべつけいれんでも起こしているみたいだったじゃないか。なんの理由もないのにひょこひょこ腰をあげたり、怒ったような顔をしているかと思えば、急にどうしたのか、あまいあまいキャンディみたいなご面相になったりしてさ。その上、顔を赤くしたりしやがって。わけても、食事に招かれたときなんざ、恐ろしいほど真っ赤になったじゃないか」
「なにをおれがそんな。嘘つけ! ……なんのことを言ってるんだい?」
「そんなら、なんだってそんなに小学生みたいにせかせか落ちつかないんだい! へっ、畜生、また赤くなりやがったじゃないか!」
「それにしても、きさまはとんだ豚野郎だな!」
「なんだってそんなにはにかんでやがるんだい? いよう、ロメオ! まあ、待ってろよ、こいつをひとつきょうどこかですっぱぬいてやるからな、はっ、はっ、はっ! ひとつおふくろを笑わせてやろうっと……それから、ほかのだれかもな……」
「ま、聞けよ、聞け、聞けったら、これはまじめな話なんだ、これは……そんなことをしたらどうなると思うんだ、畜生!」ラズーミヒンは恐ろしさに肝を冷やし、すっかり度を失ってしまった。「いったいあの二人になにを話すつもりなんだ? おれは、きさま……ちぇっ、なんたる豚野郎だ!」
「まさに春のバラってとこだ! いやまったく似合ってるぜ、君に見せてやりたいくらいだ。いよう、六尺ゆたかなロメオ君! いやまた、きょうのめかしようと来たら、爪まできれいにしてあるじゃないか、え? 今までにこんなことがあったかな? いや、まちがいない、ポマードまでつけてやがる! かがんで見せてくれ!」
「豚め!」
ラスコーリニコフは見たところこらえきれないくらい笑いころげ、そのまま笑いころげながらポルフィーリイの家へはいっていった。ラスコーリニコフにはそうする必要があったのだ。部屋のなかからでも、彼らが笑いながらはいって来て、控え室にはいってもまだぶっつづけに大笑いしているのが聞こえた。
「ここじゃもうひと言も言っちゃならんぞ、そうしなかったら、きさまを……たたきつぶしてやるからな!」と、ラズーミヒンはラスコーリニコフの肩をつかんで、狂ったような調子で耳打ちした。
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五
ラスコーリニコフのほうはもうなかへはいりかけていた。彼は、なんとかして吹き出すまいと懸命にこらえているような様子をしながら、はいっていった。そのあとから、すっかり動顛して強暴な顔つきをし、|しゃくやく《ヽヽヽヽヽ》のように真っ赤になって恥ずかしがっているラズーミヒンがひょろ長い不恰好な体つきをしてはいって来た。このときのその顔と姿かっこうは、確かに滑稽をきわめていたので、ラスコーリニコフが笑うのもむりはないように思われた。ラスコーリニコフはまだ紹介もされないのに、部屋のまんなかに突立ってけげんそうに二人を見ているこの家のあるじに頭をさげ、手をさし出して握手をしたが、その間もひきつづき見たところ、いかにも自分のはしゃいだ気分をおさえて、せめて二言でも三言でも自己紹介の言葉を述べようと極力努力しているような様子をしていた。ところが、やっとまじめな顔つきをとりもどして、なにかぼそぼそ言い出しかけたひょうしに――ふと、さも何気なさそうに、またラズーミヒンのほうに目をやったとたんに、もうおさえきれなくなり、こらえていた笑いが、それまで懸命におさえつけていただけにどうにもならないくらい烈しい勢いで爆発した。そこへもってきて、ラズーミヒンがこの『心底からの』笑いにたいして殊のほかすさまじい形相を見せたことが、その場の情景ぜんたいにまったく本物らしい陽気さを与え、なにより肝心なことに、自然らしさをそえたのである。それにラズーミヒンがまた、まるでわざとしたように、さらにその仕事の片棒をかついだかっこうになったわけなのである。
「ちぇっ、こん畜生!」彼が手をふってわめきだし、そのひょうしに、もう飲んでしまった紅茶のコップのおいてあった小さな円卓に手をぶつけたため、ひとつ残らず四方へけし飛んで、がちゃんというすさまじい音をたてた。
「諸君、いったいなんだって椅子をこわすんです、国庫の損失じゃありませんか!」(ゴーゴリの『検察官』中のせりふ)とポルフィーリイが陽気な声で叫んだ。
その場の光景はまずこんなぐあいだったのである。ラスコーリニコフは自分の手があるじの手に握られているのも忘れて、存分に笑いころげてはいたが、程度を心得ていたから、なるべく早く、なるべく自然にけりをつけるおりを待っていた。ラズーミヒンは卓を倒したりコップを割ったりしたためすっかり当惑してしまい、陰気な顔つきをしてコップの破片に目をやったかと思うと、ぺっとつばを吐いて、くるりと窓のほうを向いて、二人に背をむけて立ち、おそろしくむずかしい顔をして、なにを見るともなく窓の外を眺めていた。ポルフィーリイは笑ってもいたし、笑いたくもあったのだが、同時に、明らかに笑っている理由を説明してもらいたいらしかった。隅の椅子にはザミョートフが坐っていたが、これは客がはいって来ると同時に腰をあげて、口をほころばせて笑いかけたまま物待ち顔に突立っていた。それでいて、けげんそうな、というよりもむしろ疑りぶかそうな目つきでその光景を眺め、ラスコーリニコフを見る目にはどこかうろたえたようなところさえあった。ザミョートフが思いもかけず居あわしたことはラスコーリニコフにとって不愉快なショックだった。
『こいつも計算に入れてかからなけりゃならんぞ!』と彼は思った。
「どうも失礼しました」と彼は努めてきまり悪そうにしながら、そう言い出した。「ラスコーリニコフです……」
「どういたしまして、お近づきが願えてこんな愉快なことはありません、それにはいって来られたご様子がいかにも愉快そうでしたな……どうしたんでしょう、あの男はあいさつもしたくないってわけですかね?」とポルフィーリイはラズーミヒンのことをあごでしゃくってみせた。
「いやまったく、どうしてやつがあんなに狂ったように怒ったのか、全然わからないんですよ。僕はただ、来る途中で彼に、君はロメオに似ているといって、……そしてその証拠をあげただけのことで、それ以上なんにもなかったと思うんですがね」
「豚め!」とラズーミヒンは、振り返りもしないで、応酬した。
「そうしますとつまり、たったひと言でそんなに怒るからには、すこぶる重大な原因があったわけですな」と言ってポルフィーリイは大笑いした。
「おい、きさま! 予審判事! ……えい、きさまらみんな勝手にしやがれ!」とラズーミヒンは荒っぽく言い放ったかと思うと、急に自分も大きく笑って、何事もなかったような朗らかな顔をしてポルフィーリイのそばへやって来た。
「もうやめだ! みんな、ばかだよ。それより用件にかかろう。これは友だちでロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフだ、第一には、あんたのことをいろいろ噂に聞いているんで、面識を得たいと言うし、第二にはあんたにちょっとした用件があるんで来たわけだ。おや! ザミョートフ! 君はどんなわけでこんなとこへ? いったい君たちは知りあいなのかい? だいぶ前からのつきあいかい?」
『これはまたなんとしたことだろう!』と、ラスコーリニコフは胸騒ぎを覚えながら考えた。
ザミョートフは狼狽したようにも見えたが、それほどではなかった。
「きのう、あんたの家で知りあったんだよ」と彼はうちとけた口調で言った。
「すると、つまり、顔合わせの費用がはぶけたわけだ。ポルフィーリイ、先週僕はこの男に、なんとかあんたに紹介の口をきいてくれってうるさくせがまれていたんだが、あんたたちは僕を介さないで、よろしくやってしまったわけだな……タバコはどこだ?」
ポルフィーリイは家庭むきに、さっぱりした下着の上にガウンを着、はき古したスリッパをつっかけていた。年は三十五、六、背は中背よりやや低めで、肉づきがよく、腹もいくぶん出ており、ひげはそりあげて、口ひげもほおひげもなく、大きな丸い頭の毛は短く刈りこみ、後頭部がなんだか丸く特別出っぱった男だった。鼻がやや獅子っ鼻の、ぶくぶくした丸い顔は病的などす黄色をしてはいるが、かなり元気そうで、人を食ったようなところさえ見られた。その顔は、目の表情の邪魔がなかったら、人がよさそうにさえ見えたのだろうが、一種あわい水のような光をたたえたその目は、ほとんど真っ白なまつ毛におおわれていて、まるでだれかに目くばせでもするようにしょっちゅうまばたきをしていた。その目つきは、どこか女性的なところさえある体ぜんたいとなにか妙につりあいがとれず、どこか、ひと目見たときに受ける印象よりずっとまじめな感じを与えていた。
ポルフィーリイは、客が自分に『ちょっとした用件』があるということを耳にするが早いか、さっそく客にソファにかけてもらい、自分も一方の端に腰をおろして、時を移さず、用談が切り出されるのを待ち受ける恰好で、真剣すぎるくらいの注意をこらして客を凝視したが、その向けた注意たるや、初めてのとき、とりわけ初対面のときなど、わけても、自分が述べようとすることがとうていそんな注意を払われるほど特別重大なことでもないと思うような場合には、こちらの気分が重苦しくなり当惑を感じるような注意だった。が、しかしラスコーリニコフは短い筋道のとおった言葉づかいで自分の用件を明瞭的確に説明できたため、そのあとで自分でも満足を覚え、ポルフィーリイをかなりよく観察する余裕さえあった。ポルフィーリイもやはりその間じゅう一度も相手から目を離さなかった。ラズーミヒンはおなじ卓のむかいに座を占めて、熱心にじれったそうに用件の説明に耳をかたむけながら、ひっきりなしにかわるがわる二人に目を移していたが、それがやや度を越しているきらいがあった。
『ばかめ!』とラスコーリニコフは腹のなかで毒づいた。
「あなたは警察へ申告しなければなりません」とポルフィーリイはこの上なく事務的な顔つきをして答えた。「これこれの事件、つまりあの殺人事件ですがね、あの事件を知ったので、事件担当の予審判事にたいし、これこれの品物は自分の所有品であるから、受け出したいむねお知らせします……とかなんとか言って願い出るんですな……もっとも警察で適当に書いてはくれますがね」
「つまりそこが問題なんですよ、僕は現在のところ」と、ここでラスコーリニコフはできるだけ困ったようなかっこうをしてみせた。「あまり金の持ちあわせがないんで……そんなはした金すら都合がつかないんです……そこでですね、今の希望では、あの品物は僕のものだが、いずれ金ができたときには……といったようなことを申告するだけにとどめたいんです」
「それはどっちにしてもおなじですよ」と、ポルフィーリイは財政状態の説明のほうは冷然と聞きながして、そう答えた。「もっとも、あなたは、もしそうしたいんなら、直接私に書いて出されてもいいんですよ、これこれのことを知ったので、これこれの品物は私のものであることを申告し、これこれのことをお願いする……といったような、おなじ意味のをね……」
「で、それは普通の用紙でいいんですか?」とラスコーリニコフはまたもや財政的な面を気にするように見せて、急いで相手をさえぎった。
「そりゃもうそれこそ普通の用紙でけっこうですよ!」と言ったかと思うと、突然ポルフィーリイはなにか明らかに小ばかにしたように、目を細め、相手に目まぜでもしたようなぐあいにして、相手の顔を見た。もっとも、それは、ひょっとすると、ただラスコーリニコフにだけそんな気がしたのかもしれない、というのは、それがほんの一瞬間のことだったからである。が、少なくともそういうことがあったことだけはたしかだった。ラスコーリニコフには、ポルフィーリイが、なぜかはわからないが、目まぜをしたということだけは誓っていえた。
『知ってやがるぞ!』という考えが彼の頭に稲妻のようにひらめいた。
「すみません、こんなつまらないことでお手数をわずらわしまして」と彼はいくらかしどろもどろになりながら語をついだ。「僕の品物はぜんぶでせいぜい五ルーブリくらいのものなんですが、僕には殊のほか大事なんです、それをくれた人のかたみなものですからね。そんなわけで正直なところ、あれを知ったときはとてもびっくりしたんですよ……」
「そんなことがあったんで、きのう僕がゾシーモフに、ポルフィーリイは質を入れた連中を調べているって口をすべらしたとき、君はあんなに急に立っていきそうにしたんだな!」とラズーミヒンが、腹は見えすいているのに、そんな口を入れた。
これはもはや腹にすえかねることだった。ラスコーリニコフはこらえきれなくなって、憎々しげに、憤怒に燃える黒目をぎらりと光らせて彼をにらみつけた。が、たちまちはっと自分をとりもどした。
「君は僕をからかっているらしいな?」彼は巧みにいらだたしさを装ってラズーミヒンのほうを向いて言った。「そりゃ僕だってそう思うよ、君の目から見りゃ、僕はあんなくず同然の品物にあんまり気をもみすぎるかもしれないさ。が、だからといって僕をエゴイストだの欲の皮の突張った男だのと見なすわけにはいくまい、僕の目から見りゃあの二つのとるに足らない品物だって全然くずなんかじゃないんだからな。君にたった今も言ったとおり、あの一文の値うちもない銀時計は、親父の死後残った唯一の品物なんだもの。ま、僕をいくらでも笑いものにするがいいさ、だけど今度おふくろが出て来ましてね」と彼はひょいとポルフィーリイのほうを向いて、「もしもおふくろに」とまた急いでラズーミヒンのほうに顔を向けて、特別声を震わすようにしながら、「あの時計がなくなっていることが知れたら、必ずおふくろはがっかりするにちがいないんだ! 女だから!」
「それはまるっきりちがうよ! 僕は全然そんな意味で言ったんじゃないんだ! まるっきり逆だよ!」とラズーミヒンはべそをかいたような調子で叫んだ。
『これでいいかな? 自然だったかな? 誇張しすぎやしなかったろうか?』ラスコーリニコフは心のなかでは震えあがっていた。『どうして「女だから」なんていっちまったのかな?』
「おかあさんが出ていらっしゃったんですか?」ポルフィーリイがなんのためかそう聞いた。
「それはいつですか?」
「ゆうべです」
ポルフィーリイはまるで思いはかるように黙ってしまった。
「あなたの品物はどんなことがあってもなくなりっこなかったんですよ」と彼は冷静に話をつづけた。「もうだいぶ前からあなたがいらっしゃるのをお待ちしていたくらいですから」
こう言うと彼は、何事もなかったような顔をして、遠慮会釈なく絨毯《じゅうたん》をタバコの灰でよごしているラズーミヒンの手もとに気を使って灰皿を出してやった。ラスコーリニコフはぎくりとした。が、ポルフィーリイはこちらには目もくれず、なおもラズーミヒンのタバコのことばかり心配しているようなふうに見えた。
「なに? 待っていたって! じゃ、あんたはこの男も|あそこ《ヽヽヽ》へ質入れしていたことを知っていたのかね?」とラズーミヒンが叫んだ。
ポルフィーリイは直接ラスコーリニコフに話しかけた。
「あなたの品物は二つとも、指輪も時計も、|婆さん《ヽヽヽ》のところに一枚の紙につつんでありましたよ。それにその紙にはあなたの名前が、婆さんが品物をあなたから預かった日づけ同様、鉛筆で明記してありました……」
「いやまったくあなたはよく気のつく人ですねえ!……」ラスコーリニコフは殊さらまともに相手の目を見るようにしながら、いかにもまずい薄笑いを浮かべかけたが、たまりかねて、急にこうつけ加えてしまった。「僕が今こんなことを言ったのは、質屋のお客の数は、おそらく、大変なものでしょうから……あなたにはそれをぜんぶ記憶するということは容易なことじゃなかろうと思ったからです……ところが、それどころかあなたは名前をぜんぶ実にはっきり覚えておられるし……それに……」
『間がぬけてるぞ! 気弱だな! どうしてこんなことをつけ加えちまったか!』
「質屋のお客はもうほとんどぜんぶわかっているんですよ、いらっしゃらなかったのはあなたひとりくらいのものでしてな」とポルフィーリイはほとんどわからないくらいの冷笑を浮かべて答えた。
「体のぐあいがあまりよくなかったもんですから」
「そのこともうかがっておりました。それどころか、なにかで大変健康を害されたということも聞きました。今でもお顔の色が悪いようですな?」
「全然顔色なんか悪くはありませんよ……それどころか、すこぶる健康です!」と、ラスコーリニコフは急に語調を変えて、荒っぽく敵意ありげにきっぱりと答えた。胸に憤怒が煮えたぎって、おさえることができなかったのである。『腹をたてているうちに、うっかり口をすべらしてしまうぞ!』という考えがまた頭にひらめいた。『どうしてこうこいつらは僕をいじめやがるんだろう!……』
「体のぐあいがあまりよくなかっただと!」とラズーミヒンが言葉尻をとらえて言った。「なにをでたらめ言っているか! ついきのうまでほとんど意識不明でうわ言なんかいっていたくせに……ねえ、ポルフィーリイ、こんなことって信じられるかね、本人はやっと立てるくらいの体でいながら、僕たち、僕とゾシーモフがきのうちょっとわき見をしているすきに――服を着てそうっとぬけ出しちまって、夜なか近くまでどこかほっつき歩いていたんだ、しかも、それがさ、君、まったくの夢遊状態ときているんだからな。想像できるかい! まったく驚くべき出来事じゃないか!」
「ほんとうに|まったくの夢遊状態《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だったのかね? これはまた驚いたね!」ポルフィーリイは変に女じみた身ぶりをして首をふった。
「ちぇっ、たわけごとを! 真に受けちゃいけませんよ! もっとも、あなたはそう言わなくとも真に受けやしないでしょうけどね!」あまりの憎らしさにラスコーリニコフの口からそんな言葉が飛び出してしまった。しかし、ポルフィーリイにはその妙な言いぐさが聞きとれなかったようだった。「夢遊状態でなかったら、君はどうして出かけられたかね?」ラズーミヒンはがぜんのぼせてしまった。「なぜ出たんだ?なんのために? ……それにどうしてこっそりと? いったいあのとき君は健全な意識を持っていたのかね? すっかり危険状態を脱した今だからこそ、僕はぶっつけ君にいっているんだぜ!」
「きのうは連中がほとほといやになっちまったんですよ」とラスコーリニコフはずうずうしく挑むような薄笑いを浮かべて不意にポルフィーリイに話しかけた。「で、二人にさがし出されないような部屋を借りようと思って、大金を懐にしてみんなから逃げ出したわけです。その金はこのザミョートフ君の目にふれたはずです。どうです、ザミョートフ君、僕はきのう頭の調子がよかったか、それとも夢遊状態だったか、ひとつこの論争を解決してくれませんか?」
彼はこのときいきなりザミョートフを締め殺してやりたいくらいの気持ちだった。それほど彼の目つきと黙りこくっている様子がしゃくにさわったのである。
「僕にいわせると、あんたの話しっぷりはすこぶる理路整然としていて、むしろずるいくらいに見えましたよ、もっともひどく気が立ってはいるようでしたがね」とザミョートフはすげなく言いきった。
「きょう署長が話していたけど」とポルフィーリイが口をはさんだ。「きのう、もうだいぶおそくなってから、馬に踏み殺された役人の家でお会いしたそうですね……」
「それ、その役人のことにしたってさ!」とラズーミヒンが話を引きとった。「おい、君はその官吏の家にいたときは気がちがっていたんじゃないのか? そこの後家さんになけなしの金を葬式代にやっちまったりして! まあ、人助けのつもりだったんだろうが――それならそれで十五ルーブリか二十ルーブリもやって、まあ、せめて三ルーブリくらいは取っておきゃいいのに、二十五ルーブリをそっくりそのままやっちまうんだからな!」
「だけど、ひょっとしたら、僕がどこかで宝物を見つけたのに、君は知らないのかもしれないぜ? だからあのとおり僕はきのう気前がよかったんだよ……僕が宝物を見つけたことは、あのザミョートフ君もご存じだ! ……どうもすみません」と彼は唇を震わせながらポルフィーリイに話を向けた。
「こんなつまらないよけいな話で半時間もお邪魔して。もううんざりなさったでしょう、え?」
「とんでもない、それどころじゃありません、そーれどころじゃありませんよ! あなたにはわかりますまい、私があなたにどんなに興味を感じているか! 見ていても、聞いていても、興味津々ですよ……それに、実をいえば、とうとうあなたがおいでになったことが嬉しくてたまらないんです……」
「せめてお茶ぐらい出したらどうだ! のどがからからだよ!」とラズーミヒンがどなった。
「いいところに気がついたな! 多分、皆さんもつきあって下さるだろう。もっと実質的なものは……欲しくないかい、お茶を飲む前に?」
「さっさと言いつけて来いよ」
ポルフィーリイは茶を言いつけに出ていった。
ラスコーリニコフの頭のなかではいろいろな考えが旋風のように渦まいていた。彼はおそろしく気が立っていた。
『第一、やつらは隠しもしなければ、飾りもしない! もしも全然おれのことがわかっていないとしたら、きさまは署長なんかとおれのことを話しあうはずがないじゃないか? して見ると、やつらはもう、犬の群れみたいにおれのあとをつけ廻していることを隠そうとも思っていないわけだ! こうやってやつらは露骨に、人の顔につばを吐きかけるようなまねをしてやがるんだ!』彼は激怒に身を震わせていた。『さあ、ぶつならまっこうからぶったらどうだ、猫がねずみをなぶるようなまねだけはよせ。こんなことは失礼じゃないか、ポルフィーリイ、もうこのままにさせてはおかんかもしれんぞ! ……立ちあがるなり、きさまらぜんぶのつらに真相を残らずぶちまけてやるから。そうすれば、おれがきさまらをどんなに軽蔑しているかがわかるだろう!……』彼はやっとのことで息をついだ。『だが、これがもしおれの気のせいにすぎなかったら、どうする? もしこれが単なる蜃気楼《しんきろう》にすぎず、なにもかもおれの思いちがいで、体験のなさからかんしゃくを起こして、自分の卑劣な役割を持ちこたえられないとしたら、どうする? ひょっとして、こんなことになんの下心もないとしたら? しかし、こいつらの言うことはみんな普通の言葉だが、その言葉になにかが隠されているぞ……あんなことはふだんいつでも言える言葉だが、なにかあるぞ。なぜこの男はぶっつけ「婆さんのところに」なんていったんだろう? なぜザミョートフのやつ、僕の口のききかたは|ずるい《ヽヽヽ》なんてつけ加えやがったんだろう? なぜやつらはああいう調子でものをいうんだろう? そうだ……調子だ……ラズーミヒンはここに同席しながら、どうしてこいつはなにも感じないんだろう? この罪のないまぬけは絶対になんにも感じない男なんだ! また熱が出てきたぞ! ……さっきポルフィーリイのやつがしたのは目くばせなんだろうか、どうなんだろう? きっと、なんでもないんだな。なんのために目くばせなんかする必要がある? おれの神経でも刺激してやろうというのか、それともじらそうっていうのか? なにもかも蜃気楼なんだろうか、それとも奴らは|知ってる《ヽヽヽヽ》んだろうか! ザミョートフでさえ態度が不遜じゃないか……いや、ザミョートフの態度は不遜だろうか? ザミョートフは一晩のうちに考えなおしたんだ。どうも、やつは考えなおしたような感じがするぞ! やつはここへ初めて来たくせに、家の者みたいな顔をしてやがる。ポルフィーリイもやつをお客とは考えていないらしく、やつに尻を向けて坐っているじゃないか。やつらはなれ合いやがったんだな!きっと|おれのことで《ヽヽヽヽヽヽ》なれ合いやがったんだ! これはきっとおれたちが来る前におれのことを話していたんだ! ……ところで、あの婆さんの家を見にいったことを知っているかな? できるだけ早くこいつを突きとめなくちゃ! ……おれが、きのう貸間をさがしにぬけ出したといったとき、この男は聞き流して、取りあげようともしなかった……が、それにしても貸間の話をはさんでおいたのは上出来だったな。あとで役に立つだろう! ……夢遊状態で、というんだからな! ……は、は、は! やつはゆうべのことはぜんぶ知ってやがるんだ! そのくせ、おふくろの上京のことは知らなかった! ……ところで、あの婆が鉛筆で日づけまで書きつけておいたって! ……嘘つけ、その手に乗るもんか! そんなことはまだ事実じゃなくて、蜃気楼にすぎないんだ! だめだよ、きさまたち、ひとつ事実を見せてもらおうじゃないか!あの貸間のことだって、事実じゃなくて夢遊状態の仕業なんだからな。やつらにどう言ったらいいかぐらいは、こっちだってちゃんと心得ているんだ……あの貸間の件は知っているんだろうか? 突きとめないうちは帰らんぞ! でなかったら、おれはなんのためにここへ来たんだ? こうして今おれはかんしゃくをおこしているが、これこそ、ひょっとすると、証拠になりかねないぞ! ちぇっ、おれはまったくかんしゃく持ちだな! が、まあ、それもよかろう。病人という役割なんだからな……やつはおれに探りを入れてやがる。足を払われるぞ。これじゃなんのために来たか、わからなくなるじゃないか』
こういったいろんな考えが、稲妻のように、彼の頭のなかをひらめきすぎたのである。
ポルフィーリイはすぐもどって来た。彼はどうしたわけか急にはしゃぎ出した。
「どうもね、君、きのうの君んとこの宴会以来頭が……それに体までがなんだかねじがゆるんじまったようなぐあいでね」と彼はまるっきり調子を変えて、笑いながら、こう話をきり出した。
「で、どうだった、おもしろかったかい? 僕はきのうはちょうどいちばん興ののったところで抜け出しちまったものな? で、だれが勝ったんだい?」
「もちろん、だれも勝ちやしないさ。永遠の問題に移って、天空をかけめぐっただけのことさ」
「え、ロージャ、きのうわれわれはどういう議論になったと思う、犯罪はあるか、ないかという問題なんだ。空理空論の続出でめちゃくちゃさ」
「なにも驚くことはないだろう? ありふれた社会問題じゃないか」とラスコーリニコフはうわの空で答えた。
「問題はそんな形をなしていたわけじゃないよ」とポルフィーリイが注意した。
「あんまりちゃんとしていなかった、それはそのとおりだ」とラズーミヒンは例によってあわただしい熱をおびた調子ですかさず同意した。「ねえ、ロジオン、ま、話を聞いて、ひとつ君の意見を聞かしてくれ。ぜひ聞きたいんだ。僕はきのうは連中と死にもの狂いで渡りあってね、君が来るのを待っていたんだよ。僕は連中にも、君が来るって言っておいたんだ……話は社会主義者の見地から始まったんだよ。だれでも知っている見解だが、犯罪は社会機構の不備に対する抗議だ――というだけのことで、それ以上なんにもないし、それ以外なんの原因も認めないんだ、――なんにもさ! ……」
「ほうら、またでたらめが始まったぞ!」とポルフィーリイが叫んだ。彼は明らかに活気づいてきて、ラズーミヒンを見てはひっきりなしに笑い、それがまたいっそう彼をたきつけることになった。
「なあんにも認めやしないんだ!」とラズーミヒンは相手をさえぎって言った。「でたらめなんかいってやしないよ! ……なんなら連中の本を見せてやるぜ。連中の説によると、なにもかも『環境にむしばまれた』ためで、――それ以上なんにもありゃしないんだ! 例の十八番のお題目さ! それから一足飛びにこういうことになるんだ、もしも社会を正常なものに改造すれば、犯罪もぜんぶいっぺんに消えうせてしまう、というのは、抗議の目的もなくなってしまうし、だれもが、またたくまに正しい人間になってしまうからだということにね。人間の本性なんて計算にはいっていないんだ、そんなものは除外されている、考察されていないんだ!連中の考えによると、人類は歴史的な|生きた《ヽヽヽ》過程を踏んで、究極まで発達すれば、ついにはひとりでに正常な社会を構成するようになるのじゃなくて、逆に、ある数学的な頭から割り出された社会制度がただちに全人類を改造して、一切の生きた過程よりもさきに、いっさいの歴史的な生きた道程を経ずに、一瞬のうちに人類をただしい罪のないものにしてしまうんだってさ! だからこそ連中はあんなに本能的に歴史を嫌うんだ、『歴史なんて醜悪と愚劣の連続だ』なんて言ってね――そして一切をその愚劣さだけで説明してしまうのさ! また、だからこそあんなに|生きた《ヽヽヽ》生活過程というものを好かないんだ、|生きた魂《ヽヽヽヽ》なんか必要ないんだもの! 生きた魂は生活を要求する、生きた魂はメカニズムに従わない、生きた魂はなんでも疑ってかかる、生きた魂は保守的だ! ところが、こっちはいささか死肉のにおいはするが、人間をゴムで作れる、――そのかわり生きていない、そのかわり意志を持たない、そのかわり奴隷的で、反逆しない! そしてその結果は、結局すべてを共同宿舎(フーリエの構想した生活共同宿舎)のれんがの積みあげだの、廊下や部屋の配置だのに帰してしまうわけだ! さて共同宿舎はできあがったものの、その共同宿舎のための人間の本性が忘れられている、人間は生活を欲する、生活過程はまだ完了していない、が、墓場へ行くにはまだ早い! 論理だけじゃ人間の本性を跳びこえることはできない! 論理では三つの場合しか予想されていないが、それは無数にあるんだ! その無数の場合を切り捨ててしまって、ぜんぶ快適な生活というただひとつの問題にしぼってしまえってわけだ! これ以上楽な問題の解決法なんてあるもんじゃないよ! 魅力的なくらい明快だ、それに考える必要がないときている! 肝心なことはその考える必要がないってことだ! 生活の秘訣がぜんぶたった三十二ページのパンフレットにおさまっちまうんだからな!」
「ほうら、堰《せき》が切って落とされたぞ、まくしたてること、まくしたてること! 手でもおさえつけなきゃ」とポルフィーリイは笑っていたが、「ま、想像してみて下さい」とラスコーリニコフに話しかけた。「ゆうべもこんなぐあいだったんですよ、ひとつの部屋で六人からの男がいっせいにわめきたてる、その上その前にポンス(果物酒の一種)がしこたまはいっているときている、――たいてい想像がつくでしょう? ちがうぞ、君、君のいうことはでたらめだ。『環境』は犯罪に大変な意味を持っているもんだよ。それは僕が保証するよ」
「大変な意味を持っていることぐらい、僕だって知ってるさ。じゃ、君、こういうことはどうなんだい、四十男が十歳の少女を犯すってのも、――これも環境がそんな考えをおこさせたことになるのかい?」
「なあに、それだって厳密な意味でいえば、環境のせいかもしれんよ」と、ポルフィーリイは驚くほどもったいぶっていった。「小さい女の子にたいする犯罪だってそれこそいくらでも『環境』で説明がつくよ」
ラズーミヒンはほとんど狂いたたんばかりになった。
「ようし、望みとあらば、今すぐにも」と彼はわめきたてた。「君のまつ毛が白いのは、イワン大帝教会の高さが七十五メートルあるためにほかならないという|結論を出して《ヽヽヽヽヽヽ》みせようか、しかも明快に、的確に、進歩的に、自由主義的なニュアンスさえ出して、そういう結論に導いてみせようか? 始めるぞ! どうだ、賭けるか!」
「よし、承知した! まあ、聞きましょうや、奴さん、どんなふうに導き出すか!」
「いつでもこのとおり空っとぼけてやがるんだ、畜生め!」とラズーミヒンはわめきたてて、ぱっと立って手をふった。「きさまなんかと話したって始まらん! こいつはいつでもわざとこんなことをぬかしやがるんだよ、ロジオン、君はまだ知らんだろうけど! きのうも奴らの肩を持ったんだが、それがただ奴らを愚弄してやりたいばっかりにやってるんだからな。しかもこいつのきのうの話ときたら、まったく! ところが、連中はこの男の助太刀に大喜びなのさ! ……この男はそんな調子で二週間でもかつぎとおすんだからな。去年なんかも、なんのためか、坊主になるんだなんて言い出して僕らを信じこませたまま、ふた月も頑張りやがったんだぜ! それに、つい最近も結婚をする、結婚式の準備もすっかり調っているなんて信じこませようとかかって、新調の服までこさえやがった。で、われわれはお祝いを言いはじめたところが、花嫁もいなけりゃ、なんにもありゃしない。すべては蜃気楼さ!」
「ほうら、またでたらめだ! さきにまず服をこさえたんだよ。そして新調の服をこさえたについては、ひとつみんなをかついでやろうかという考えが浮かんだわけさ」
「ほんとうにあなたはそういう空っとぼけの名人なんですか?」とラスコーリニコフが漫然とたずねた。
「そうじゃないとお思いだったんですか? ま、お待ちなさい、そのうちひとつあなたもかついでみせますから――は、は、は! いや、実はね、あなたにほんとうのところを言っちまいましょう。こういった、犯罪、環境、少女といったようないろんな問題に関連して今思い出したのは、――もっとも、いつも興味を覚えてはいたんですがね――あなたの例の論文ですよ。『犯罪論』だったか……それともあなたのあれはどうなっていたか、その標題は忘れてしまって、覚えていませんがね。二ヵ月ほど前に『定期公論』で読ましていただきましたよ」
「僕の論文ですか?『定期公論』に?」とラスコーリニコフが驚いて聞いた。「僕は確かに半年前に、大学をよした頃、ある本について論文を一編書きましたが、あのときはあれを『週刊公論』に持ちこんだんで、『定期公論』じゃなかったはずですよ」
「ところが、『定期公論』に出ていましたよ」
「『週刊公論』は廃刊になったんで、それでのらなかったんですがね……」
「それはそうでしょう。だけど、廃刊になるとき、『週刊公論』が『定期公論』と合併したんですよ。それであなたの論文も『定期公論』にのったわけです。ご存じなかったんですか?」
ラスコーリニコフは実際なんにも知らなかったのである。
「冗談じゃない、あなたは原稿料を請求できるんですよ! しかし、あなたはまったく変わった方ですな! あんまり孤独な生活をしておられるために、直接ご自分に関係のあるこんなことまでご存じないとは。これは事実なんですよ」
「ブラヴォー、ロージャ! 僕も知らなかったぞ!」とラズーミヒンが叫んだ。「きょう図書館へ行って、その号を借りて来よう! 二ヵ月前だね? 日にちは幾日かね? まあ、いいや、さがし出すから! こいつはちょっとした事件じゃないか! それなのにひと言も言わないんだものな!」
「だけど、どうして僕の論文だということがわかりました? 頭文字の署名しかしてないのに」
「ふとしたことでね、それもつい数日前のことですよ。編集長を通じて知ったんです。知りあいなもんですから……実に興味を感じましたね」
「僕は、確か、犯罪遂行中の犯人の心理状態を考察したように記憶しているんですが」
「そうです、そして犯罪遂行の行為にはつねに病気が伴うと主張しておられる。実に、実に独創的ですな、しかし……私がとりわけ興味を覚えたのはあなたの論文のその部分じゃなくて、論文の末尾にある、残念ながら手を抜いて暗示だけにとどめておられるためあまり明瞭でないある思想なんです……ま、要するに、覚えておられますかな、世のなかにはどんな無法な振舞いでも犯罪でもなし得る……いや、なし得るというよりもむしろなす絶対の権利を持つある種の人間がいて、そういう人たちにとっては法律もなきに等しいといったようなことを暗示しておられる」
ラスコーリニコフは相手が自分の思想をむりにわざと曲解しているのでにやりと苦笑をもらした。
「え? なんだね、それは? 犯罪をなす権利だって? しかし、それだと、『環境にむしばまれた』せいというのでもないんだね?」と、なにか驚いたような表情さえ浮かべてラズーミヒンがたずねた。
「いや、いや、まるっきりそうじゃないというのでもないんだ」とポルフィーリイが答えた。
「問題の要点は、この人の論文によると、人間はぜんぶ『凡人』と『非凡人』とに分けられるという点にあるんだ。凡人は服従の生活を送るべきで、法律を踏みこえる権利は持たない、というのはだ、いいかね、彼らは凡人だからなんだよ。ところが、非凡人はあらゆる犯罪をなしあらゆる方法で法律を犯す権利を持つ、その本来の理由は彼らが非凡人だからだ、とこういうんだ。確かそうでしたね、私の誤解でなければ?」
「いったいどうしてそういうことになるんだ?そんなことがあるわけはないじゃないか!」とラズーミヒンは解しかねてそうつぶやいた。
ラスコーリニコフはまたにやりと笑った。彼は、問題の所在がどこか、相手は自分をどこへ誘導しようとしているか、たちまち見破ってしまったのである。彼は自分の論文を覚えていた。彼は挑戦に応ずる覚悟をきめた。
「僕の論文はぜんぶがぜんぶそのとおりだというわけじゃないんです」と彼は率直な控えめな調子で切り出した。「もっとも、正直言って、あなたは内容をほとんどまちがいなく叙述しておられる、なんだったら、まったく正確にと言ってもいいくらいです……(彼はまるで、まったく正確だと同意するのが愉快でたまらないような様子だった)ただひとつまちがっている点と言えば、あなたがおっしゃったように、非凡人は必ずつねにあらゆる無法な振舞いをすべきであり、する義務があるなどとは僕は全然主張していないということぐらいです。わたしは、ああいう論文は印刷に付さるべきでないとまで思っています。僕はただ単にこう暗示したにすぎません、『非凡な』人間は……ある種の障害を乗りこえる権利を持つ……とはいっても公的な権利じゃありませんよ、それを越えることを良心に許す権利を持つ、それも専ら、その思想を(ときにはそれが全人類にとって救世的な思想であることもあるわけですが)その思想を実行することがどうしても必要である場合にかぎられるとね。あなたは、僕の論文が明瞭でないとおっしゃっていますが、僕は今その内容をできるかぎり解説してお目にかけるつもりです。あなたがそれを望んでおられるらしいと想像しても、おそらく、まちがっちゃいないでしょうからね。よろしい、じゃやってみましょう。僕の考えによれば、もしかりにケプラーやニュートンの発見が、ある事情の組みあわせの結果、一人なり、十人なり、百人なり、あるいはそれ以上の、その発見を妨げる人間の生命を犠牲にするのでなければ、どうしても世間の者に認められないとすれば、ニュートンにはそれらの十ないし百人の人間を……排除《ヽヽ》して自分の発見を全人類に知らせる権利があるばかりか、義務さえあるということになりますが、かといってけっして、ニュートンにはだれかれの差別なく手あたり次第に人を殺したり、毎日市場で泥棒を働いたりする権利があるなどという結論を出して下すっては困りますよ。僕の記憶するところでは、僕は自分の論文のなかでそのさきこう論旨を展開しているはずです、あらゆる……まあたとえば、全人類的立法者なり制定者でもよい、古代のそれから始まってリュクルゴス、ソロン、マホメット、ナポレオンとつづく人たち、そういった人たちはひとり残らずすでに、新しい法律を発布し、そうすることによって、社会から神聖視され父祖代々うけつがれて来た古い法律を破棄し、もし流血以外に(ときには古い法律を守るためにまったく罪のない人間の血が敢然と流された場合もあったのですが)その流血以外に自分たちを救う手だてがないとあれば、むろん、血を流すことも辞さなかったということだけでもすでに犯罪者だったのです。これら全人類的立法者や制定者の大部分が特別おそろしい流血の徒であったということは注目に値するじゃありませんか。要するに、僕のひき出した結論というのは、人はだれでも、偉人とはいわないまでも、ほんのちょっとでも常道から逸脱した人間、つまりほんのちょっとでもなにか新しいことを言い出せるくらいの人間ならだれでも、その本性上、必ず犯罪者たらざるを得ない、――もちろん、程度の差はありますがね――とまあそういうことなのです。犯罪者でなければ常道から逸脱することはむずかしい、が、かといって彼らは、もちろん、これまたその本性上、常道に踏みとどまることに同意できない、というよりもむしろ同意してはならない義務があるのです。まあ要するに、おわかりでしょうが、僕の論文にはこれまで述べたところ、これと言ってなにひとつ目新しい点があるわけではありません。こんなことはもう千回も書かれたり読まれたりしていることです。ところで、僕の凡人非凡人の分類について言えば、いささか独断的であるということでは僕も異存はありません。が、しかし、僕は別に正確な数字にもとづいて主張しているわけじゃないんです。僕はただ自分の根本的な考えを信じているだけです。その根本的な考えというのはこういうことなのです。人間は自然の法則に従って|だいたい《ヽヽヽヽ》二つの部類に分けられる。すなわち、より低級な(普通の)人間、つまりもっぱら自分に類した人間を生殖するだけの役目しかない、いわば素材のような部類と、本来の人間、つまり自分の仲間のなかにあって|新しい言葉《ヽヽヽヽヽ》を吐く天賦の才なり才能なりを持った人間の部類とです。この場合、その細分は、もちろん、無限なのですが、これら二つの部類を区別する特徴はかなりはっきりしています。第一の部類、つまり素材は、一般的にいえば生まれつき保守的で行儀のいい人間たちですが、これは人に服従して暮らし、また服従的であることを好みます。僕の考えでは、こういった連中は服従的であることが義務でさえあるのです、というのはそれが彼らの使命だからなのです。が、そのことで彼らが卑屈に感ずることはまったくないのです。第二の部類の者はみな、才能の多少に応じて、法律をおかす破壊者であったり、その傾向を持ったりする者ばかりです。こういった連中の犯罪といっても、それは、もちろん、相対的だし、種々雑多です。が、彼らは大部分、すこぶる多種多様な声明のしかたで、よりよいもののために現状を破壊することを要求します。そして、もしも自分の目的をとげるためにはしかばねや血をも乗りこえて行かなければならないとあれば、そういう人間は、僕の考えでは、心のなかで、良心に照らして、血をも乗りこえる許可を自分に与えることができます――とはいっても、それは理念の性質とその大きさ次第ですけどね――この点を注意して下さい。専らこういう意味でしか、僕はあの論文のなかで彼らの犯罪を遂行する権利を云々しちゃいないんですから。(ひとつ思い出して下さい、僕らの話は法律問題から始まったってことを)もっとも、別に大して不安に思うことはありません。大衆はほとんどいかなるときでも、彼らにそういう権利があることを認めず、彼らを処罰したり、しばり首にしたりします(程度の差はありますがね)、そしてそうすることで、これはまったく正しいことなんですが、自分たちの保守的使命を果たしているのです、もっとも、つぎの世代になるとその大衆が処刑された人たちを祭りあげて跪拝《きはい》することになるわけですがね(これも程度はいろいろです)。第一の部類はつねに現在のあるじであり、第二の部類は未来のあるじです。第一の人々は世界を保持し、それを数量的に増大し、第二の人々は世界を動かして、世界を目標へと導きます。そして、そのどちらもまったく同等の生存権を持っているのです。要するに、僕の論文では万人が平等の権利を持っている、そして―― vive la guerre eternelle(永遠の戦い万歳)です、――それも新エルサレムの出現までであることは言うまでもありません!」
「じゃ、あなたはやっぱり新エルサレムを信じていらっしゃるわけですな?」
「信じておりますとも」ラスコーリニコフはきっぱりとそう答えた。彼はそう言ったときも、この長広舌の間じゅうもずうっと、絨毯の上の一点を選んで、そこを見つめとおしていた。
「そ、そ、それに神も信じておられますか? 物好きにもこんなことを聞いちゃ失礼ですが」
「信じています」とラスコーリニコフはこう返事をくり返しながら、目をポルフィーリイのほうへあげた。
「そ、それにラザロの復活も信じていますか?」
「信じています。なぜそんなことをお聞きになるんです?」
「文字どおり信じておられるんですね?」
「ええ、文字どおり」
「そうですか……大変物好きなことをおたずねして失礼しました。しかし、ちょっと言わせていただきますが、――さっきの問題にもどりまして、――彼らはつねに処刑されるとはかぎらないでしょう。なかには逆に……」
「生きている間に勝利をおさめる者もいると言うんですか? ええ、そりゃなかには生きている間に目的を達する者もおりますよ、そしてそのときは……」
「今度は、自分のほうが人を罰しはじめると言うんでしょう?」
「必要な場合にはね、それに、大部分がそうするでしょう。概して、あなたのご発言は機知縦横というところですね」
「それはありがとう。ところで、もうひとつお聞かせ願いたいんですが、その非凡人と凡人とはいったいどこで区別しますかね? 生まれたときに、そういう印でもついているんでしょうかね? 私のいう意味は、この場合もう少し正確さが、いわばもっと外面的な明瞭さが必要じゃないかということです。私のこの不安を実際的で思想穏健な人間が自然に持つ不安としてご容赦願いたいんですが、この場合たとえば特別な服を着るとか、服になにか、印みたいなものをつけるとかできないものでしょうかね? ……というのは、あなたもご同感でしょうが、もしも混乱が生じて、一方の部類の者が、自分はもう一方の部類に属するんだなどと思いこんで、あなたの実におもしろい表現を借りれば『あらゆる障害を排除し』はじめたりしたら、それこそ……」
「ああ、それはきわめてひんぱんに起こることです! このご発言はさっきのよりもっと機智に富んでいるくらいですよ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。しかし、そういったまちがいは第一の部類、つまり『平凡な』連中(ひょっとすると、これははなはだまずい呼び方だったかもしれませんが、その僕の呼び方によれば)その『平凡な』連中の側にしか起こりえないということを考慮に入れて下さい。もともと服従するように生まれついているにもかかわらず、牝牛にすら起こりかねないある自然のいたずらから、そういう連中の多くが好んで自分を先覚者と、『破壊者』と思いこんで、『新しい言葉』を吐こうなどという気を起こす、しかもそれが大まじめにやり出す。と同時にそういう連中は実際にえてして新しい人間に気がつかないばかりか、かえって彼らを時代遅れな、卑屈に物を考える人間として軽蔑さえするものなのです。しかし、僕の考えでは、この場合は大した危険はありえませんから、まったく心配ご無用です、というのは、そういう連中はけっして深入りしませんから。もちろん、あまり熱をあげすぎた場合はその罰として、時には身のほどを思い知らせるために、むち打つのもよろしいが、それ以上は必要ありません。そんな場合には刑罰の執行者も必要ないくらいです。そういう連中は自分で自分をむち打ちますから、なにしろすこぶる心がけのいい連中ですからね。ある者はおたがいにそれをやりあうだろうし、ある者は自分の手で自分をむち打つでしょうから……その際、公けにいろんな形で悔悟の情を吐露するようなこともあって、――美しい教訓的な結果になるわけですから、要するに、ご心配には及びません……そういう法則があるんですから」
「なるほど、少なくともその方面は、おかげで、いくらかでも安心しました。しかし、ここにまたもうひとつ困ったことがあるんです。ひとつお聞かせ願いたいんですが、そういう、他人を斬り殺す権利を持つ連中、つまりそういった『非凡人』は大勢いるんでしょうか? 私は、むろん、そういった連中の前にひざを屈するにやぶさかではないんですが、ご同感でしょうけれど、そういった連中がやたらに大勢いた日には、薄気味悪いですからねえ、そうでしょう?」
「ああ、それもご心配には及びません」とラスコーリニコフはおなじような調子で話しつづけた。「だいたい新思想の持ち主というものは、単になにか|新しいこと《ヽヽヽヽヽ》だけでも言い出せる者でさえ、ごくわずかしか生まれないものです、不思議なくらい少ないものです。ひとつだけはっきりしているのは、これらの部類と細分された小部分に属する人間が発生する秩序はある自然の法則によって実にきちんと正確に定められているにちがいないということです。この法則は、もちろん、今のところまだわかっていませんが、それは存在するし、そのうちわかっても来るものと、僕は信じています。人間の大集団、つまり素材がこの世に存在する目的は、なんらかの努力により、なんらかのいまだに神秘的な経路を経て、種族や血族のある交配の結果、最後にたとえ千人にひとりでもせめていくらかでも自主的な人間を骨おって生み出すこと以外にありません。より広く自主性を持った人間は、おそらく、一万人にひとりぐらいしか生まれないでしょう(僕はわかりやすいように概数で言っているのです)、さらにもっと広く自主性を持っている者ということになれば、十万人にひとりということになるでしょう。また、天才的な人間は百万人にひとり、大天才、人類の完成者ということになれば、この地上で幾兆もの人間が流れては消えていったあとでやっとひとりくらい生まれるのかもしれません。要するに、そうした一切の現象が生じているレトルトのなかを僕はのぞいたことはありませんが、一定の法則は必ず存在するし、存在しないはずはありません。この場合、偶然ということはありえないのです」
「君たちは二人ともどうしたんだね、冗談の言いっこでもしてるのかね?」と、ついにラズーミヒンが叫んだ。「君たちはだましっくらでもやっているのかい、どうなんだ? 二人で対坐して、からかいっこをしているじゃないか! 君はまじめなのかい、ロージャ?」
ラスコーリニコフは黙って彼のほうに青ざめたほとんど悲しげに見える顔をあげただけで、なんとも返事はしなかった。ラズーミヒンには、そのおだやかな悲しげな顔とならんで、ポルフィーリイの隠しおおせない、しつこそうで、いらだたしげで、無作法《ヽヽヽ》な、毒々しい表情が見られるのが、異様な感じがした。
「なあ、おい、君、もしこれがほんとうにまじめな話だとしたら……むろん、君の言うとおりで、これは別に新しくもない、われわれが千回も読んだり耳にしたりしたのと似たようなものだ。が、それでも、この話ぜんたいのなかでほんとうに独創的《ヽヽヽ》で、――ほんとうに君ひとりのものはなにかと言えば、僕から見れば恐ろしいことだが、――それは、結局君が|良心に照らして《ヽヽヽヽヽヽヽ》流血を許していることだ、しかも、そう言っちゃなんだけど、大いに狂信的なところさえあるということだ……従って、君の論文の根本思想もこの点に要約されるわけだ。ところが、この、|良心に照らして《ヽヽヽヽヽヽヽ》流血を許すということは、これは……これは、僕の考えじゃ、まさに流血の公けの許可よりも、合法的な許可よりも恐ろしいことだと思うね……」
「まったくそのとおりだ、そのほうが恐ろしいですよ」とポルフィーリイが相づちをうった。
「いや、こいつは君はなにかのはずみで迷いこんじまったんだぞ! そこにまちがいがあるんだよ。僕も読んでみよう……君は迷いこんじまったんだ! 君がそんなふうに考えるはずはないよ……読んでみよう」
「論文にはこんなことは全然書いてないんだよ、あのなかではただほのめかしてあるだけなんだ」とラスコーリニコフは言った。
「なるほど、なるほど」ポルフィーリイは落ちついて坐っていられない様子だった。「あなたが犯罪にたいしてどういう見方をしておられるか、これでだいたいはっきりしてきました、ところで……しつこいようでほんとうに悪いんですけど(大変ご迷惑をかけて、自分でも気がとがめるんですが!)――いいですか、さっきの、二つの部類をまちがって混同した場合については、おかげさまで私大いに安心したわけですが、……やっぱりまだ実際上のいろんな場合が気になるんですよ! ま、かりにだれか男なり青年なりが、自分はリュクルゴスかマホメットだ……――もちろん、未来のですよ――とこう思いこんで、さあ、あらゆる障害を排除しようということになったらどうします……これから遠征に出なけりゃならんが、遠征には金がいる……で、まあさっそく遠征のための資金の獲得にかかる……ね、おわかりでしょう?」
ザミョートフが部屋の隅のほうで突然ぷっと吹き出した。ラスコーリニコフはそのほうへは目もあげなかった。
「僕も同意せざるを得ません」と彼は落ちつきはらって答えた。「そういう場合も確かにあり得るはずです。頭の足りない連中だの見栄坊なんかは特にそういった誘惑にひっかかるものです。若い者は特にね」
「ほうらね。そこでどうです?」
「どうもこうもありませんよ」ラスコーリニコフはにやりと笑った。「そんなことは僕のせいじゃありません。現在もそうだし、将来もつねにそうですよ。この男は(と彼はラズーミヒンをあごでしゃくってみせて)今、僕は流血を許しているなんて言っていましたが、それがどうしたというんです? 社会は流刑やら牢獄やら予審判事やら、徒刑やらで十分すぎるほど守られているじゃありませんか、――なにを心配することがありますか? 遠慮なく泥棒をさがしゃいいでしょう!……」
「それで、さがし出したら?」
「当然の報いを受けるべきですよ」
「あなたの考えはまったく論理的ですな。それはそうとして、その男の良心のほうは?」
「その男の良心なんかあなたになんの関係もないでしょう?」
「いや、ただ、人道的感情からですがね」
「良心を持っている者は、あやまちを悟ったら、苦しめばいい。それがその男に対する罰ですよ、――徒刑以外のね」
「それはそうと、まちがいなく天才的な人間は」とラズーミヒンが顔をしかめながら聞いた。
「例の、人を斬り殺す権利を与えられている連中は、自分が血を流したことにたいして、全然悩まずにいなければならないのかね?」
「どうしてこんな場合に、|べき《ヽヽ》だなんて言葉を持ち出すんだい? この場合は許可も禁止もありゃしないじゃないか。犠牲者が不憫《ふびん》だったら、悩むがいいさ……苦悩と苦痛は、ひろい意識とふかい心の持ち主にはつねにつきものなんだから。まことの偉人は、思うに、この世で大いなる悲哀を感じなければならないのだ」と彼は急に物思いがちにそう言いそえたが、それはもうその場の話にそぐわない調子になっていた。
彼は目をあげると、考えこんだような目つきで一同を見まわし、微笑をもらして帽子をとった。彼はさきほどはいって来たときと比べて、落ちつきすぎるくらい落ちついていたし、自分でもそう感じていた。あとの者も立ちあがった。
「まあ、お小言をちょうだいするか、お腹立ちになるかわかりませんが、私はおさえきれないんです」とポルフィーリイはまた話にけりをつけようとした。「さらにもうひとつちょっと質問をさせていただけませんか(大変ご迷惑でしょうけど)、ひとつだけつまらない考えを述べさせていただこうかと思ったのです。これはただ、忘れないうちに聞いておきたいというだけのことなのです……」
「けっこうです、お考えをおっしゃって下さい」ラスコーリニコフは真剣な青い顔をして、その前に立って相手の発言を待った。
「こういうことです……どう言ったらうまく表現できるのか、まったくわからないんですが……その考えというのはちょっとふざけすぎているような……心理的なものなんでして……こういうことなんです、あなたがご自分の論文をお書きになっていた頃、――まさかこんなことはありえないと思うんですが、へ、へ! あなたはご自分を――それこそほんのちょっぴりでも、――やはり『非凡な』人間、|新しい言葉《ヽヽヽヽヽ》を発する人間――これはあなたのおっしゃる意味でですよ――そういう人間だというふうに考えていなかったかということですがね……どんなもんでしょう?」
「大いにそうかもしれません」とラスコーリニコフは軽蔑したような調子で答えた。
ラズーミヒンが身じろぎをした。
「だとしたら、あなたご自身決意なさったでしょうか、――ま、なにか生活上の不始末や窮迫のためとかなにかで全人類に貢献するために、――障害を乗りこえようと? ……ま、たとえば、強盗殺人をしようなどと?……」
こういうと、彼はどういうわけか不意にまた相手に左の目でまばたきをしてみせて、声をたてずに笑った、――それはさっきのとまったくおなじだった。
「よしんば僕が乗りこえたとしても、むろん、僕はあなたになんか教えませんよ」とラスコーリニコフは挑戦的な、人を食ったような侮蔑の色を見せて答えた。
「いや、これはただそういうことに興味を持っただけのことです、あなたの論文をよく理解するために、ただ単なる文学的な意味でね……」
『ちぇっ、なんて見えすいたあつかましい出かただ!』ラスコーリニコフは嫌悪を覚えながらそう思った。
「ひと言ことわらしてもらいますが」と彼は素気ない調子で答えた。「僕は自分をマホメットだともナポレオンだとも……たとえだれであろうとそういったたぐいの人間だなんて思っちゃいません、従って、そういう人間でない以上、僕がどういう行動をとったかということについてはあなたを満足させるような説明はできかねますね」
「まあ、そんなことを言うのはおよしなさい、今のわがロシヤに自分をナポレオンと思わない者がいるもんかね?」とポルフィーリイは急になれなれしい調子でそう言った。その声の抑揚にさえ今度はなにか特別はっきりしたものが認められた。
「先週アリョーナ婆さんを斧でばらした男も、どこかの未来のナポレオンじゃないんですかね?」と出しぬけにザミョートフが部屋の隅から口を出した。
ラスコーリニコフはおし黙って、じっと、しっかりとポルフィーリイを見すえていた。ラズーミヒンは陰気そうに顔をしかめていた。彼はもう最前からなにか感づいてきたようなふうだった。彼は腹だたしげにあたりを見まわした。陰鬱な沈黙の一分がすぎた。ラスコーリニコフは向きを変えて出ていきそうにした。
「もうお帰りですか!」とポルフィーリイはやさしい口調でそう言って、すこぶる愛想よく手をさし出した。「お近づきになれて、こんな嬉しいことはありません。ご依頼の件については、どうか信用して下さい。あのとおり、私が言ったように書いて出して下さい。それより、あなたがご自身であそこの私の部屋へいらっしゃるのがいちばんいいんですがね……なんとか二、三日うちに……あしたでも。私はあそこへは十一時には、まちがいなく行っていますから。ぜんぶ片づけちゃいましょう……お話もしましょう……あなたは、|あそこへ《ヽヽヽヽ》行かれた最後のひとりですから、なにかわれわれに教えていただけるかもしれませんからな……」と彼はこの上なく人のよさそうな顔つきをしてそう言いそえた。
「あなたは正式に訊問するつもりなんでしょう、すっかり道具だてをそろえて?」とラスコーリニコフは激しい口調で聞いた。
「どうしてだね? さしあたりそんな必要はまったくありませんよ。あなたの誤解ですよ。私は、そりゃね、チャンスを逃すようなことはしませんよ、だから……だからひとり残らず質入れ客とはもう話をしているし……ある者からは自供書も取ってあります……で、あなたは最後のひとりだから……ああ、そうだ、ちょうどいい機会だ!」と彼は突然なにやら喜んでそう叫ぶと、「いいときに思い出したぞ、おれとしたことがいったいどうしたことだ!……」と今度はラズーミヒンのほうを向いて、「ほら、君はあの頃あのニコライのことを耳にたこができるほど言っていたっけな……いや、こっちだってわかってるんだよ、こっちだってわかってるさ」と言ってまたラスコーリニコフのほうに向きなおって、「あの若い男は白だってことは。だけど、どうにもしようがないんで、ニコライにああやって迷惑をかけるようなことになったわけです……問題はこういうことなんですよ、本題はね。あのとき階段をのぼっていく途中で……失礼ですが、あなたがいらしったのは七時すぎだったんでしょう?」
「七時すぎです」とは答えたものの、そのとたんに彼は、こんなことは言わずともよかったのにと思い、不愉快になった。
「それで七時すぎに階段をのぼっていく途中でせめてあなただけでも見かけませんでしたかね、二階のあけ放してあった貸室に――覚えていませんかね? 職人が二人いたのを、そのうちのひとりだけでもいいんですが? その二人はそこでペンキを塗っていたんですが、お気づきになりませんでしたかね? これはあの連中にとって実に、実に重大なことなんですよ!……」
「ペンキ屋を? いや、見ませんでしたね……」とラスコーリニコフは記憶のなかをさがすようにゆっくりと答えながら、同時にわなはどこにあるのか一刻も早く見破ろう、なにか見のがしてはいないだろうかと、全身を緊張させ、苦痛に身もしびれる思いだった。「いや、見ませんでした、それにそんなあけ放した部屋だって何だか気がつかなかったようです……そうそう四階で(彼はこのときはもう完全にわなを見やぶって凱歌を奏していた)――よく覚えていますが、ある官吏が……アリョーナ婆さんの向かいの部屋から引っ越していくところでした……覚えています……あれははっきりと覚えていますよ……兵隊あがりの人夫がなにかソファみたいなものを運び出していて、僕は壁に押しつけられましたよ……だけど、ペンキ屋はいませんでしたね、ペンキ屋がいたことは覚えていませんよ……それにあけ放した部屋なんてどこにもなかったみたいだったけどなあ。ええ、ありませんでしたね……」
「あんたは何をいってるんだね!」とラズーミヒンが、事情を考えあわせて、はっと思い当たったように、出しぬけにそう叫んだ。「ペンキ屋がペンキを塗っていたのは殺人のあった当日だし、この男があそこへ行ったのはその三日前のことじゃないか? なにを聞いているんだね?」
「やあ! すっかりごっちゃにしてしまった!」と言ってポルフィーリイは自分の額をたたいた。「ちきしょうめ、この事件と取っ組んでいるうちに頭の調子がすっかり狂っちまったぞ!」彼はわびるようなふうさえ見せながら、ラスコーリニコフにこう話しかけた。「七時すぎにあの部屋にあの二人を見かけた者はいないかどうかを調べることが肝心だとばかり思っていたもんだから、今も、あなたに教えてもらえるかと思って……すっかりごっちゃにしていましたよ!」
「だったらもっと気をつけなきゃだめじゃないか」とラズーミヒンが不機嫌な顔をして注意した。
その最後の言葉がかわされたのは、すでに控え室へ出てからだった。ポルフィーリイはしごく愛想よく二人を戸口まで送り出した。二人は暗い気むずかしい顔をして通りへ出たまま、何歩かの間はひと言も口をきかなかった。ラスコーリニコフは深く吐息をついた……
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六
「……僕は信じないよ! 信じられないよ!」当惑顔のラズーミヒンはそうくり返しながら、躍起になってラスコーリニコフの推論をくつがえそうとしていた。二人は早くもバカレーエフのアパートの近くまで来ていた。そこにはプリヘーリヤとドゥーニャがもうだいぶ前から二人の来るのを待ちかねているはずだった。ラズーミヒンは来る途中も話に熱中してひっきりなしに立ちどまっていた。彼は、二人が初めて|あのこと《ヽヽヽヽ》をはっきりと口にのぼらせたということだけで、もう度を失い、興奮してしまっていたのである。
「まあ、信じないがいいさ!」とラスコーリニコフは冷やかな無頓着そうな薄笑いを浮かべながら答えた。「君は例によってなんにも気づかなかったようだが、僕はひと言ひと言はかりにかけていたんだぜ」
「君は疑りぶかい男だから、はかりにかけていたんだろうがね……ふむ……いや確かに、僕も同感だが、ポルフィーリイの調子はかなり変だったな。殊にあのげす野郎のザミョートフときたら! ……君の言うとおりだ、あいつにはなにかあったね、しかしどうしてだろう? どうしてだろう?」
「ひと晩のうちに考えが変わったのさ」
「いや、それはあべこべだよ、あべこべだよ!もしかりにやつらがそういうばかげた考えをいだいているとしたら、やつらは一生懸命それをひた隠しに隠して、自分のカードを伏せておこうとするはずじゃないか、あとでつかまえようと思ってさ……ところが、さっきのはまったく臆面もない不用意な出方じゃないか!」
「もしもやつらが証拠を、つまりまちがいのない証拠をつかんでいるか、でないとしても多少とも根拠のある嫌疑ぐらいいだいていたら、そりゃやつらもそのときは実際に勝負を隠したかもしれないよ、そのうちもっと大きな勝利がおさめられるものと思ってね(もっとも、そうだったらもうずっと前に家宅捜索をしていたはずだがね)。ところが、やつらには証拠がないんだ、ひとつもな、――すべて空中楼閣なんだ、なにもかもどっちともとれるようなものばかり、あやふやな思いつきばかりなのさ――といったわけでやつらはしゃあしゃあとしたやり口でひっかけて倒そうと躍起なんだよ。ひょっとしたら、証拠がつかめないのに業を煮やして、腹たちまぎれに自爆を試みたのかもしれない。あるいは、なにか魂胆でもあるのかもしれないな……あの男はなかなか頭のいい人間らしいから……また、事によると、知っているふりをして僕の胆をつぶさせようと思ったのかもしれないよ……その場合だって、君、それはそれなりの心理作戦だからな……だけど、こんなことをいちいち説明するのはもういやだ。やめてくれ!」
「いやまったく侮辱だ、侮辱だ! 僕には君の気持ちがわかるよ! しかし……僕たちはもう今やはっきりとあの話を口にのぼせはじめたんだから(こいつはいいことだよ、ついに、はっきりと口にのぼせはじめたってことは。僕はかえって喜んでいるよ!)、もう今こそ君に率直に白状するけどね、僕はだいぶ前からやつらがああいう考えを抱いていることを感づいていたんだよ、ここんところずうっとね、もちろん、ほんのあるかなしかの程度、微かに感じられる程度だったけどね、が、それにしても、たとえ微かに感じられる程度にもしろ、いったいなぜそんなことをするんだ? どうしてやつらはそんな考えを起こすんだ? やつらのその根拠はどこに、どこにあるんだ? そう思って僕がどんなに憤慨したか、君に知ってもらいたいくらいだったよ! なんたることだ。赤貧とヒポコンデリーに痛めつけられている貧乏学生が、熱に浮かされるような悲惨な病気の前日に、あるいはすでに発病していたかもしれないようなときにだよ(いいかい!)、猜疑心も強いし、自尊心も強い、自分の値打ちを知っている男が、もう六ヵ月も自分の部屋にひきこもってだれにも会わずに、ぼろ服に靴底なしの長靴といったなりで暮らしていた学生が、素姓もしれないような警官の前に突立って、奴らの暴言をじっと忍んでいる。そこへその鼻っ先に突きつけられたのが、思いもかけなかった借金、七等官チェバーロフの手に渡った期限切れの手形だ。それに腐臭を発するペンキ、三十七度の暑熱、息づまるような空気、人の山、前の日に訪ねた人間の殺人事件の話、こういったものがいっぺんにすきっ腹の男を襲ったんだ! これで卒倒でも起こさなかったら、どうかしてらあ! しかも、それを、それを一切の根拠にしようっていうんだからなあ! 畜生め! 君がしゃくにさわるってことは僕にもわかるよ、だけど、僕が君だったら、ロージャ、やつらの目の前で笑いとばしてやるがね、それよかいっそのこと、やつらのつらにたんを吐きかけてやるね、それもできるだけ粘っこいやつをな、それからあっちこっちへ二十くらいびんたをくれてやるよ、これが利口なやり方なんだ、あいつらにはつねにこの手にかぎるんだよ、僕ならこれで片づけちまうね。歯牙にかけるな! 元気を出すんだ! 恥ずかしいと思わんか!」
『だけど、こいつなかなか弁舌もさわやかに述べたてやがったじゃないか』とラスコーリニコフは思った。
「歯牙にかけるなってか? だけど、あしたはまた訊問じゃないか!」と彼は悲痛な面もちで言った。「どうしてもあいつら相手に弁明をしなくちゃならないんだろうか? 僕は、きのう食堂であさましくもザミョートフまで相手にしたことすらしゃくにさわっているんだぜ……」
「畜生め! よし、ひとつこっちからポルフィーリイのところへ出かけていってやるぞ! そして、あいつをうんととっちめてやろう、|内輪同士のやり方《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》でな。とことんまで泥を吐かせちまおう。それにザミョートフなんかはもう……」
『とうとう気がついたか!』とラスコーリニコフは思った。「待てよ!」とラズーミヒンは相手の肩をつかんでわめきだした。「待て! 君の言ったことはまちがってるぞ! 僕はよくよく考えてみたけど、君の言ったことはまちがっているよ! なんであれが計略なもんか? 君は、職人のことを聞いたのは計略だって言うけど、とっくり考えてみるがいい。かりにもし|あれ《ヽヽ》が君の仕業だとしたら、部屋の壁を塗っているところを見たとか……職人の姿を見かけたなんて君が口をすべらすわけがないじゃないか?逆に、たとえ見たとしても、なんにも見なかったと言うべきだろう! 自分に不利な自白をするばかがどこにいる?」
「もしも|あれが《ヽヽヽ》自分の仕業だとしたら、僕はまちがいなく、職人も部屋も見たって言ったね」とラスコーリニコフはありありと嫌悪の色を見せながら、しぶしぶ返事をつづけた。
「なんだって自分に不利なことを言うんだい?」
「だって、百姓か、ずぶの未経験な新米でもなけりゃ、訊問に対して、どこまでも知らぬ存ぜぬで押し通すようなことはしないもんだよ。ほんのちょっとでも頭の発達した場数をふんだ人間だったら、必ずできるだけ、やむを得ない表面的な事実は残らず白状してしまおうとするものなんだ、そしてただ、別の原因をさがし出して、事実にまったくちがった意味を与え、まったく別なものに仕立てられるような、特別な、思いもよらない色合いをつけ加えるものなんだ。ポルフィーリイも、僕は必ずやそういう返答をし、必ずや、ほんとうらしく見せかけるために、見たと言い、そしてその際にその弁明になにかつけ加えるものと、それを当てこんでいたのかもしれないぜ……」
「そうしたら、やつは君にすかさず、二日前には職人なんかあそこにいたはずはないんだから、殺人事件の当日七時すぎに確かにあそこへ行ったんだろうと、こう来るわけだな。つまらないことでこっちをひっくり返しちまうわけだ!」
「まさにそいつをやつは当てこんでいたわけだよ、僕がよく考えあわせている暇がないんで、それこそ急いで、なるべくまことしやかに答えようとしているうちに、二日前には職人なんかいるはずはなかったということをど忘れしちまうものとな」
「どうしてそんなことを忘れるもんかね?」
「それがいちばん造作ないんだよ! 狡猾《こうかつ》な人間はいちばん造作なくそういうごくつまらないことにひっかかってひっくり返されるものなんだ。人間は狡猾であればあるほど、自分が簡単なことにひっかかってひっくり返されようなどとは思ってもみないものだよ。だから、この上なく狡猾な人間をひっくり返して取りおさえるには、この上なく簡単なことでやらなきゃならないわけさ。ポルフィーリイはどうしてどうして、君が考えているほどばかじゃないよ……」
「だとしたら、あいつは卑劣な男だ!」
ラスコーリニコフは笑い出さずにはいられなかった。が、そのとたんに彼には、解説の最後のあたりで自分がすっかり活気づき、興が乗っていたのが不思議な気がした。それまではずうっと、明らかにある目的があるので、しかたなしに、不機嫌にいやいやながらつづけていたのである。
『おれも問題によっちゃ夢中になるほうだな!』と彼は腹のなかで思った。
だが、ほとんどそれと同時に、彼はどうしたわけか急に落ちつきを失い、思いがけない不安な考えにショックを受けたようなふうになった。その不安は次第に大きくなってきた。二人はすでにバカレーエフのアパートの入り口まで来ていた。
「ひとりで行ってくれ」と急にラスコーリニコフが言い出した。「僕はじきもどって来るから」
「君はどこへ行くんだ? もう着いちまったじゃないか!」
「行って来なくちゃならないんだ、行って来なくちゃ。用があるんだ……三十分もしたら帰って来るよ……二人にもそういっといてくれ」
「勝手にするがいい、僕もついて行くから!」
「なんだ、君まで僕を悩まそうっていうのか!」と彼は叫んだが、その目にひどく苦々しそうないらだちとはげしい絶望の色があらわれていたため、ラズーミヒンはあきらめてしまった。そして、しばらく表階段の上に突立ったまま、ラスコーリニコフが自分の家のある横町のほうへ足ばやに歩いていくのをしぶい顔をして見まもっていたが、あげくのはてに、歯をくいしばり、拳固《げんこ》をこしらえると、きょうにもポルフィーリイのやつをレモンみたいにしぼりあげてみせるぞとその場で誓ってから、彼らが長いこと姿を見せないためにすでにやきもきしているにちがいないプリヘーリヤを安心させてやろうと、階段をのぼっていった。
ラスコーリニコフは、自分の家へたどり着いたとき、――こめかみは汗でびっしょり濡れ、息づかいも苦しげだった。彼は急いで階段をのぼり、鍵のしてなかった自分の部屋にはいるなり、さっそく掛け金をかけてしまった。それから、ぎょっとして、気ちがいのように、あのとき品物を入れておいた隅の壁紙の穴のところへ飛んで行ったかと思うと、その穴に片手を突込んで、何分間か穴のなかを念入りにさぐって、隅々から壁紙の折れ目まで調べていた。そして、なんにもないことがわかると、立ちあがって、ほうっと深い息をついた。先ほどバカレーエフのアパートの表階段へ歩み寄ったとき、ふと彼は、何か品物が、くさりとか、カフスボタンとか、そういったものを包んでその上に老婆が覚えに書いた紙きれでもあのときなにかのはずみで滑り落ちてどこかの隙間にはいりこんでしまい、あとで突然自分の前に思わぬ、動かしえない証拠品として現われて来ないともかぎらない、とこう想像したのだった。
彼は物思いにふけっているようなかっこうで立っていたが、その唇には妙な、卑下したような、半ば無意味な微笑がただよっていた。考えは混乱していた。あげくの果てに学帽を取りあげると、そうっと部屋を出た。そのとき、
「ほら、あの人ですよ!」という大きな声がしたので、彼はひょいと頭をあげた。
庭番が自分の小屋の戸口に立って、だれかずんぐりした男にじかに彼を指さして教えてやっていたのである。それはなにやら部屋着ふうのものにチョッキを着た、遠見にはすこぶる女じみて見える、見たところは職人ふうの男だった。あぶらじみた帽子をかぶった頭はひくくたれ、おまけに体ぜんたいが猫背のように前かがみだった。たるんで、しわのよった顔は五十を越しているように見えた。まぶたのはれた、小さな目は気むずかしげな、けわしい、不機嫌そうな目つきをしていた。
「なんだい?」と、ラスコーリニコフは庭番のそばへ歩いていきながら聞いた。
職人は上目づかいに彼を流し目に見やって、悠然と、じっと注意をこらして見つめ、それからゆっくりと向きを変えて、ひと言も口をきかずに、アパートの門から通りへ出ていった。
「どういうことなんだ?」とラスコーリニコフは叫んだ。
「今あのどこかの男があなたの名前を言って、ここにこうこういう大学生が住んでいるか、だれのところに下宿しているんだなんて聞いていたところへ、あなたがおりていらっしゃったんで、教えてやったら、ぷいと行っちまいやがったんでさ。ほんとにけったいな話でさ」
庭番もいささか狐につままれたようなふうだったが、それも大したことはなく、ほんのちょっと首をひねっただけで、方向を変えると、自分の小屋へひっこんでしまった。
ラスコーリニコフが職人のあとをつけて駆け出すと、すぐに、通りのむこう側を、地面に目をすえて、なにか思いめぐらすような様子をして、相変わらず規則正しいゆっくりした足どりで歩いていくその男を見つけた。彼は間もなく男に追いついたが、あとをつけて歩き、そのうちとうとう並んだひょうしに、横あいから相手の顔をのぞきこんだ。相手はすぐに彼に気づき、ちらりと目をくれたが、また目をふせてしまったので、二人はそのままちょっとの間、肩をならべて、ひと言も口をきかずに、歩いていった。
「お前さんでしょう、僕のことを……庭番に聞いていたのは?」と、ついにラスコーリニコフは口をきったが、なぜかその声はひどく小さな声だった。
職人はなんとも返事をするどころか、目もくれなかった。「なんだってお前さんは……聞きに来ていながら……そうやって黙っているんだね……これはいったいどういうことなんです?」ラスコーリニコフの声は途絶えがちだし、言葉もなにか明瞭な発音になって出ようとしないようだった。
今度は職人も目をあげて、気味の悪い暗い目つきでラスコーリニコフをじっと見た。そして、「人殺し!」と、彼は出しぬけに低いけれども、はっきりした明瞭な声で言った……
ラスコーリニコフは相手のそばを歩いていたが、足が突然くたっと力抜けし、背筋にぞうっと寒けを覚え、心臓は一瞬まるでとまったような感じだったが、ついで、まるで鍵がはずれて飛び出すように、急に激しく打ち出した。そんなふうにして二人は並んで、またもや黙りこくったまま百歩ほど歩いていった。
職人は彼のほうを見ようともしなかった。
「お前さんはなんてことを言うんだね……なんてことを……人殺しとはだれのことです?」ラスコーリニコフはやっと聞こえるくらいの声でそうつぶやくように言った。
「|てめえ《ヽヽヽ》だよ、人殺しは」と男はさらにいっそうはっきりと印象的な言いかたで、微笑になにやら憎々しげな勝ちほこったような感じを見せながら、そう言って、またもやラスコーリニコフの青ざめた顔と死んだような目をひたと見すえた。二人はそのとき四つ角の近くまで来ていた。職人は左の通りへ曲がると、そのままふり返りもせずに歩き出した。ラスコーリニコフはその場に足をとめて、長いことそのあとを見送っていた。そうして見ているうちに、男は五十歩ほど行ったと思う頃、ひょいとふり返って、なおもおなじ場所に身じろぎもせずに突立っている彼のほうを見た。はっきりとは見わけられなかったが、ラスコーリニコフには、男は今度もにやりと例の冷たい憎々しげな微笑を浮かべたように見えた。
ラスコーリニコフは力の抜けた静かな足どりで、ひざをがくがくさせながら、まるで凍えきったようになって取って返すと、自分のねぐらへとのぼって行った。そして、学帽をぬいで机の上におき、そのそばに十分ばかり身動きもせずに突立っていた。そしてそれから力なくソファに横になり、病人のように、微かなうめき声をもらして、体をのばした。こうして目を閉じたまま彼は三十分ほど横になっていた。
彼はなんにも考えていなかった。ただなんということもなく、ある考えや考えの断片が、ある観念が秩序も脈絡もなく頭に浮かぶだけだった、――まだ子供の頃に会ったかどこかでたった一度だけ出会ったことのある、そしてその後一度も思い出したことのない人たちの顔だの、教会の鐘楼だの、ある料理屋の玉つき台や玉つき台のそばにいたある将校だの、どこか地下にあったタバコ店の葉まきの匂いだの、呑み屋だの、汚水でびしょびしょになっていて、卵のからなどの散らかっている、真暗な裏階段だのが現われ、どこからともなく、日曜の鐘の音が聞こえて来……いろんなものが入れかわり立ちかわり現われては旋風のようにくるくる廻っていた。物によっては気に入ったと思うものもあって、それにすがりつくのだが、それらはたちまち消え去ってしまう。ぜんたいとして、なにかに胸を圧迫されるような感じだったが、それは大したことはなく、かえって気持ちがいいくらいのときさえあった。軽い悪寒がまだ残ってはいたが、これもほとんど快感に近かった。
ふと、ラズーミヒンのあわただしい足音とその声が聞こえてきたので、彼は目を閉じて、眠っているふりをした。ラズーミヒンはドアをあけて、しばらく敷居の上に立って、とつおいつ思案をしているようなふうだったが、やがてそうっと室内に足を踏み入れて、用心しいしいソファに近寄った。ナスターシヤのこういうささやき声がした。
「邪魔しないほうがいいよ。たんと眠らせておきなさいよ。食事はあとでするだろうからさ」
「それもそうだな」とラズーミヒンが返事をした。
二人は用心しながら外へ出て、ドアをしめた。さらに三十分ほどした頃、ラスコーリニコフは目をあけ、またあお向けに寝返りをうって、両手を頭のうしろに当てがった……
『あれは何者だろう? あの、地の底からでもわいて出たような男は何者だろう? やつはどこにいて、なにを見たんだろう? なにもかも見ていたんだな、これは疑いのないところだ。あいつはあのときどこに立って、どこから見ていたんだろう? どうしてあいつはやっと今頃になってひょっこり出て来たんだろう? それに、どうしてあいつに見とどけられてしまったんだろう、――こんなことって果たしてありうるものだろうか? ……ふむ……』とラスコーリニコフはぞうっとしてがたがた震えながら考えつづけた。『ニコライがドアのかげでケースを見つけたと言うが、あんなことだって果たしてあったんだろうか? 証拠品か? 十万分の一ほどの些細なものでも見落としたが最後、――エジプトのピラミッドほどの証拠になってしまうんだからな! あのときはえが飛んでいたから、あいつでも見ていたんだろうか! そんなことあるものじゃない!』
すると彼は急に、自分が弱りはてたように、肉体的に弱りはてたように感じて、いやでいやでたまらなくなった。
『こんなことはわかっていなければならなかったんだ』などと彼は苦笑いを浮かべながら考えていた。『自分という人間がわかっていながら、自分はこうなると|予感して《ヽヽヽヽ》いながら、斧なんか振りあげて血まみれになるなんて、どうかしてるよ。前からわかっていなけりゃならなかったんだ……いや! おれは前からわかっていたはずなんだ!……』と彼は絶望的な気分になってつぶやいた。
ときおり彼はなにかある考えにじっと思いふけったままでいることがあった。
『いや、ああいう人間はできがちがうんだ。なにをすることも許されている真の統治者《ヽヽヽ》は、トゥーロンを壊滅させ、パリでは大虐殺をおこない、エジプトでは大軍を|おき忘れ《ヽヽヽヽ》、モスクワ遠征では五十万の人命を|使いはたし《ヽヽヽヽヽ》、ヴィルナではしゃれなどをいって切りぬけているじゃないか。しかも、その男が、死後は偶像に祭りあげられているのだ、――つまり、|なにもかも《ヽヽヽヽヽ》許されているわけだ。ちがうんだ! ああいう人間の体は、どうも、肉じゃなくて、青銅でできているのにちがいない!』
本筋から離れた、思いがけないある考えがふと頭に浮かんだため、彼は急に吹き出しそうになった。
『ナポレオン、ピラミッド、ワーテルローと、――それに、ベッドの下に赤い長持ちを隠している痩せこけた、胸くその悪い十四等官の未亡人の金貸し婆、――これじゃいかにポルフィーリイでもどうこなしたものかわからんだろう!……とてもこなしきれたものじゃないさ! ……美的感覚が邪魔になるからな。「ナポレオンが『婆さん』のベッドの下へはいこむわけはないだろう!」ということになるさ。ちぇっ、ばかばかしい!……』
ときにはまた、瞬間的に熱に浮かされているような感じがし、熱病的な歓喜に満ちた気分におちいることもあった。
『婆のことなんか、ばかげきったことだ!』とこう彼は夢中になって意気ごんで考えた。『婆のことは、あれはまちがいだったのかもしれない。問題は婆にあるんじゃないんだ! 婆は、単なる病気にすぎなかったんだ……おれは一刻も早く踏み越えたかったんだ……おれは人間を殺したんじゃない、主義を殺したんだ! 主義だけは殺したが、踏み越えるほうは踏み越えられずに、こっち側に足どめをくっちまったわけだ……できたのは殺すことだけだったのだ! いや、それさえも、今にしてわかったのだが、やりとげる力がなかったわけだ……じゃ、主義は殺せたか? なんだってさっき、ラズーミヒンのばかめ、社会主義者をくさしやがったんだろう? 連中は仕事好きな商売人で、「一般の幸福」のために励んでいるじゃないか……ところが、おれには人生は一度しか与えられていない、そしてもはや二度とやって来ないんだ。おれは「一般の幸福」など待っているのはまっぴらだ。おれは自分の生活もしたいんだ、でなかったら、いっそ生きていないほうがましだ。なんのことはない。おれはただ、はした金を懐に握りしめて、「一般の幸福」の到来を期待しながら、おふくろが餓えているのを見て見ないふりをして生きていきたくなくなっただけのことだ。「おれは一般の幸福をきずくために煉瓦をひとつ運んでいる、だから心の安らぎを覚えている」か。は、は! どうしてお前らはおれの存在を見落としたんだ? おれだってたった一回きりの生涯を生きているんだぞ、おれだって生きたいだろうじゃないか……ちぇっ、おれもしらみだったわけだ、もっとも美的趣味を持ったしらみだけどな、が、それ以上のものじゃない』と彼はつけ加えると、急に、狂ったように笑い出して、『そうだ、おれは確かにしらみだ』と、意地悪いよろこびを覚えながらその考えにしがみつき、それを掘っくり返し、それで遊びたわむれながら、考えつづけていた。『それはもうつぎのような理由を考えただけで明瞭だ。第一、おれは今こうして、おれはしらみだろうかどうだろうなどと考えているじゃないか。第二に、おれはここまるひと月もの間、証人に神さままで呼び出して、おれがこの仕事をやろうと思っているのは自分の欲望や気まぐれのためじゃない、すばらしい愉快な目的を念頭において企てたことなのだなどと証明しようとして神さまにご迷惑をかけてしまったじゃないか、――は、は! 第三に、実行するにあたって、できるだけ正義を守りとおそうとして、重さや尺度をはかり、数字まで使って、しらみというしらみのなかからいちばん無益な奴を選び出し、それを殺して、そのしらみから、おれが第一歩を踏み出すのにちょうど必要なだけを過不足なく奪い取ることにきめたじゃないか(従って残りはそのまま遺言状どおり修道院におさまる勘定だ――は、は!)……だから、だからおれは完全にしらみだというんだ』と彼は歯がみをしながら言い足した。『事によったら、おれは殺されたしらみよりもっときたない、けがらわしいしらみかもしれんぞ、だから、前々から、すでに殺してしまった|あとで《ヽヽヽ》こんなことを自分に言うんじゃないかなという|予感がしていた《ヽヽヽヽヽヽヽ》んだ! いや実際、この恐ろしさと比べうるものがほかにあるだろうか! ああ、この俗悪なこと! この卑劣なこと! ……ああ、今こそおれはあの「予言者」というものがわかってきたぞ、アラーの神命じ給う、「震えおののける」いやしき者どもよ、服従せよ! と、馬にまたがって剣をふるって叫んだかの「予言者」がわかったぞ! どこかの町の通りをすばらしい砲兵隊でふさぐようにして砲列をしき、罪ある者罪なき者の別なく砲火をあびせて、弁解ひとつしなかった「予言者」はまちがっていなかったのだ、まちがっていなかったのだ! 服従せよ、震えおののけるいやしき者どもよ、――望むなかれ、そは汝らに関りなきことなればなり! ……これでいいんだ! おお、絶対に、絶対にあんな婆なんか許すもんか!』
髪の毛は汗にぐっしょり濡れ、震えていた唇はかさかさに乾き、じっとすわったまなざしは天井にそそがれていた。
『おふくろ、妹、前にはおれはあの二人を実に愛していたものだった! ところが、今はこんなに憎んでいるが、これはなぜだろう? そうだ、おれはあの二人を憎んでいる、生理的に憎んでいる、そばにいられても我慢がならない……さっきもおれはおふくろのそばへ行って接吻したが、おれは忘れもしない……抱擁しながら、もしおふくろにあのことが知れたら、……そのときはおふくろに洗いざらい打ち明けてしまおうか? などと考えていたっけ。おれならそれくらいのことはやりかねないぞ……ふむ! |お《ヽ》|ふくろ《ヽヽヽ》もおれとおなじような人間でなくちゃならないはずだからな』彼がそうつけ加えながら、必死になって考えつづけるその様は、まるで襲いかかってくる悪夢とたたかっているようなふうだった。『ああ、おれはあの婆が今憎らしくて憎らしくてたまらない! この分だと、あいつが息をふき返しでもしたら、もう一度殺してしまうかもしれない! が、リザヴェータはかわいそうだ! どうしてあの女はあそこへもどって来たんだ! ……それにしても不思議だ、なぜおれはあの女のことはほとんど考えもしないんだろう、まるで殺さなかったみたいじゃないか? ……リザヴェータ! ソーニャ! あの二人はおとなしい目をした、かわいそうな、おとなしい女たちだ……愛すべき女たちだ! ……どうしてあの女たちは泣かないんだろう?どうしてうめき声も発しないんだろう? ……なんでも人に与えながら……おとなしい、おだやかな目つきをしているじゃないか……ソーニャ、ソーニャ! おだやかなソーニャ!……』
彼は前後不覚におちいった。自分でも不思議に思ったのだが、どうしていつのまに往来に出ることになったのか、とんと覚えがなかった。もう夕方もかなりおそく、夕闇も濃くなってき、満月は刻一刻と光を増してきていた。だが、空気はどうしたわけかひどく息苦しかった。人は群れをなしてぞろぞろ通りを歩いていた。職人や用のある連中はめいめい家路をたどり、そうでない者はぶらぶら歩いていた。石灰やほこりやたまり水の匂いがしていた。ラスコーリニコフは沈んだ心配そうな顔をして歩いていた。彼は、なにか目的があって家を出てきたのだ。なにかしなければならない、だから急がなければならないのだということは非常によく覚えているのだが、それが果たしてなんであったかは忘れてしまっていた。彼がつと足をとめて、見てみると、通りのむこう側の歩道に人が立って、彼を手まねきしている。で、通りを渡ってその男のところへ行こうとすると、その男はひょいと向きを変えて歩き出したが、まるで何事もなかったように、首をたれ、ふり返りもしなければ、彼を呼んだようなそぶりひとつ見せないのだ。『よせやい、あいつ呼んだのかい?』とラスコーリニコフは思ったが、それでもあとを追いかけていった。ところが、十歩も歩かないうちに、ふと彼はそれがあの男だとわかって――ぎょっとした。それはさっきの職人、おなじ部屋着姿でおなじように背なかを丸めたあの職人だったのだ。ラスコーリニコフは遠く離れてついていった。心臓はどきどきしていた。二人は横町へ曲がったが、――男はやっぱりうしろをふり返らない。『こいつ、おれがあとをつけているのを知ってるんだろうか?』とラスコーリニコフは考えた。職人はある大きなアパートの門のなかへはいったので、ラスコーリニコフは大急ぎで門のそばまで行って、あいつ、ふり返っておれを呼びはしないだろうかと、しばらくじっと見ていた。はたして、男は門をくぐりきって、すでに裏庭へはいろうとしたとたんに、ひょいとふり向いて、また彼を手まねきしたようだった。ラスコーリニコフはすぐさま門をくぐったが、裏庭にはもう職人の姿はなかった。ということはつまり、男はすぐにとっつきの階段をのぼり出していたのだ。ラスコーリニコフはそのあとを追って駆け出した。案の定、階段を二つばかりのぼったあたりから、さらにだれかの規則正しい、ゆっくりした足音が聞こえてきた。不思議にも、階段にどこか見覚えがある感じだ! もうすぐそこに一階の窓があって、月光がガラス越しにわびしくさしこんで、神秘めいて見える。もう早くも二階だ。おや! これは例の、職人がペンキを塗っていた部屋だ……どうしてすぐに気がつかなかったのだろう? さきへ行く男の足音がしなくなった。『これはつまり、奴さん、立ちどまったか、どこかへ隠れたかしたんだな』さあ、もう三階だ。このさき、行ったものだろうか? 上はなんとしいんとしていることだろう、気味が悪いくらいだ……が、しかし彼は歩き出した。彼は自分の足音にびくびくし、胸さわぎを覚えた。やあ、真っ暗じゃないか! 職人は、てっきり、どこかその辺の隅に隠れてしまったのだ。あっ! 部屋は階段にむかってあけ放してある。彼はちょっと思案してから、はいっていった。玄関の間は真っ暗で、がらんとしていて、人っ子ひとりいず、まるでなにもかも運び出してしまったあとのようだ。彼はそうっと爪先だちで客間へ通った。部屋はくまなくぱあっと明るい月の光をあびている。部屋のなかはなにもかももとのままだ、椅子も、鏡も、黄色いソファも、額入りの絵も。大きくて、まんまるな銅紅色の月がまともに窓のなかをのぞいている。『月のせいだな、こんなに静かなのは』とラスコーリニコフは思った。『お月さまは今、きっと、なぞをかけているところなんだ』彼は立って待っていた、長いこと待っていた。月の気配が静まりかえれば静まりかえるほど、心臓の鼓動は激しくなり、痛いくらいになってきた。あたりは相変わらずしいんとしている。突然一瞬、木っぱでも折ったような、乾いた、物の割れる音がしたが、そのあとはまたなにもかもひっそり静まり返ってしまった。目をさましたはえが飛び出したはずみにガラスに当たって、訴えるようにぶんぶん羽音をたてはじめた。ちょうどそのとき、部屋の隅の小ぶりの戸棚と窓の間の壁に、婦人用の外套らしいものがかかっているのが目についた。『こんなとこにどうして女ものの外套なんかあるんだろう?』と彼は思った。『前にはなかったじゃないか……』そうっと忍び寄ってみてわかったのだが、婦人外套のかげにだれかが隠れているらしいのである。ラスコーリニコフが気をつけて手でその外套をのけてみると、そこに椅子があって、その隅の椅子に小柄な老婆がひとり腰かけているのだが、体を折りまげて、うなだれているため、彼にはどうしても顔の見わけがつかない。が、それは彼女だったのである。彼はしばらく彼女を見おろすようにして立っていた。『怖がってるんだな!』と彼は思い、そうっと斧を輪からはずして、老婆の脳天目がけて一度、二度と打ちおろした。ところが、不思議なことに相手はその打撃にも身じろぎひとつせず、まるで木かなにかでできているみたいなのである。彼はぎょっとして、なおも間近に身をかがめて、相手の顔を見きわめようとした。ところが、相手はいよいよ低く首をかがめる。そこで彼はほとんどゆかにつくくらいかがみこんで、下から相手の顔をのぞきこんだ。そしてのぞきこんだとたんに、死人のように真っ青になってしまった。老婆は坐ったまま笑っていたのである、――相手に聞かせまいと懸命にこらえながら、低い、聞こえないくらいの声でしきりに笑っていたのだ。と、ふと今度は、寝室のドアがほんのわずかあいたかと思うと、そちらでもやはり人が笑い出したり、ひそひそ話しあったりしているような気がした。彼は狂気にとらえられたようになって、あらんかぎりの力をふるって老婆の頭をめった打ちに打ちはじめたが、斧をひとつ打ちおろす毎に、寝室の笑い声とひそひそ声はますます高くなり、ますますはっきり聞こえ出し、老婆はそれこそ体ぜんたいをゆすりながら笑うのである。ラスコーリニコフはいきなり駆け出そうとしたが、玄関の間はもう人でいっぱいになっているし、階段へ出るドアはみんなすっかりあけはなしてあって、踊り場から階段にかけて、そこから下へずうっと人がいっぱいで、頭をくっつけあって、みんなこちらを見ている、――もっともみんなは息をひそめて待ちながら、黙りこくっているだけである……彼は、心臓はしめつけられるようだし、足は根が生えたように動かない……そこで声をたてようとしたとたんに――目がさめた。
彼は苦しそうに息をついだ、――が、奇態なことに、夢はまだ依然としてつづいているような感じなのだ。部屋のドアはいっぱいに明いていて、敷居の上に彼のまったく知らない男が立って、じっと彼に瞳をこらしていた。
ラスコーリニコフはまだすっかり目をあける間もなく、すぐにまた閉じてしまった。そして、あお向けに寝たまま、身じろぎもしなかった。『これはあの夢のつづきなんだろうか、ちがうんだろうか』と彼は考えながら、ちょっと見ようと思って、またほんのわずか、わからないくらい、まつ毛をあげた。見知らぬ男はもとの場所に突立ったまま、なおも彼に目をこらしていたが、つと、用心しながら敷居をまたぐと、うしろ手にそっとドアをしめ、机のそばへ来て、一分ほど待ってから――その間ずうっとラスコーリニコフから目を放さなかったのだが――音もなく静かにソファのわきの椅子に腰をおろした。そして、帽子をわきのゆかの上におき、両手でステッキに寄りかかるようにして、その手の上にあごをおいた。彼はどうやら、いつまでも待つつもりらしかった。またたいたまつ毛の間から見わけられたかぎりでは、その男はもう若いとはいえないが、体つきはがっしりしていて、毛の多い、白いといってもいいほど色の薄いあごひげを生やしていた……
十分ほどたった。外はまだ明るかったが、もうたそがれ出していた。部屋のなかはまったくひっそり閑としている。階段から物音ひとつ聞こえて来ない。ただ、大きなはえが一匹、飛び出したはずみにガラスに当たって、ぶんぶん羽音をたてて、もがいているだけである。とうとう我慢しきれなくなったらしく、ラスコーリニコフはいきなり体をおこして、ソファの上に坐った。
「さあ、言って下さい、なんのご用です?」
「私には、あなたが眠っておられるのじゃなくて、眠っているふりをしているだけだということはちゃんとわかっていましたよ」と、見知らぬ男はおだやかに笑いながら、妙な返事をした。
「自己紹介をさせていただきます、アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフです……」
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第四編
一
『ほんとうにこれは夢のつづきじゃないのかな?』もう一度ラスコーリニコフにそういう考えが浮かんだ。彼は用心ぶかく、うさんくさそうにその思いがけぬ客に瞳をこらした。
「スヴィドリガイロフ? そんなばかな! そんなこと、あるもんか!」と彼はついに、狐につままれたような気持ちで、声に出してそう言った。
客はこの叫び声にもいっこう驚いた様子はなかった。
「私は二つの理由があってお訪ねしたのです。一つには、親しくお近づきを願いたいと思ったからなんですが、これは、もうだいぶ前から、まことに興味ぶかい、あなたにとって有利なお噂をさんざん聞かされていたからなんでして。もうひとつは、お妹さんであるアヴドーチヤさんの利害に直接関係のある、ある計画にあなたから多分お力添えが願えるのではあるまいかと、こう思ったからなのです。私がひとりで紹介もなしにあがったのでは、あの方は今ではある先入観をお持ちですので、おそらく、庭先へも入れて下さるまいが、あなたのお口添えがあれば、かえってうまくいくのではないかとそれを当てにしましてね……」
「そいつはとんだ当てはずれですよ……」とラスコーリニコフは相手の話をさえぎった。
「ちょっとおうかがいしますが、お二人はついきのうあたり上京されたんでしょうな?」
ラスコーリニコフは答えなかった。
「きのうでしょう、知っていますよ。この私もついおととい上京したばかりでしてな。さて、ロジオンさん、あのことについて、ひとつこういうことを申しあげたいのです。弁解は無用とは思いますが、私にもこれくらいのことは言わしていただきたいのです。いったいあの場合あの件では、まったくのところ、偏見なしに常識で判断して、私のほうになにか特別犯罪めいたようなものでもあるでしょうかね?」
ラスコーリニコフは相変わらずむっつりと黙ったまま相手を観察していた。
「自分の家でかよわい娘を追っかけまわして、『いやらしいことを申しこんで娘を侮辱した』とこうおっしゃるんでしょう、――そうでしょう?(こちらから先まわりして言うようだけど!)ま、こういうことだけでもお考えいただきたいですな、つまり、私だって人間です、 et nihil humanum(古代ローマの喜劇中の台詞 〈私は人間だ、だから人間的なことで私に無縁なものはなにもない〉から一部引用したもの)……端的にいえば、私だって女に惚れる能力も恋する能力も持っている(これはすでに、むろん、われわれの意志じゃない、神の意志によってそう造られているものでしてな)。ま、こういうことだけでもお考え下されば、すべて、ごく自然に解釈がつくわけですよ。この場合問題は、私は悪党か、それとも私のほうが犠牲者なのかという点につきるのです。それなら、どうして犠牲者ということになるのかというとそれは、私が私の相手にいっしょにアメリカかスイスへ駆け落ちしようじゃないかと話を持ちかけたとき、私はあのとき、事によると、彼女を尊敬してやまないような気持ちをいだき、その上おたがい同士の幸福をきずこうと考えていたのかもしれないからですよ! ……なにしろ、恋には理性だって奉仕するものですからな。もしかしたら、私は他人より自分のほうをよけい破滅させたことになるのかもしれませんよ、考えてもごらんなさい……」
「いや、そんなことが問題じゃないんですよ!」とラスコーリニコフは虫酸《むしず》が走るといった面持ちで相手の話をさえぎった。「あなたが正しいか正しくないかにかかわらず、僕はただもうあなたがいやでたまらないんですよ、さあ、こうやってつきあいたくないといわれ、追っ払われているんですから、さっさとお帰りになったらどうです!……」
スヴィドリガイロフは突然大声で笑い出した。
「しかし、あなたは……しかし、あなたはなかなか手強いですな!」と、彼は手ばなしで笑いながらそう言った。「私はひとつずるい手をつかって丸めこんでやろうと思ったんですが、どっこい、あなたはずばり問題の核心にはいりこんで来られたわけですものな!」
「そう言っている今だって、やっぱりずるい手で丸めこもうとしているじゃないですか」
「そうであったっていいでしょう! そうであったって!」とスヴィドリガイロフはあけっぴろげに笑いながら、おなじ言葉をくり返した。「これはいわゆる bonne guerre(正々堂々たる戦い)というやつで、大いに許さるべき手ですよ! ……が、いずれにせよ、あなたは話の腰を折られたわけで、そこで、賛否はともかく、もう一度くり返して言わしてもらえば、例の庭先の一件さえなかったら、なんの不愉快なことも起きなかったはずです……マルファは……」
「そのマルファさんも、あなたはいじめ殺したんだって言うじゃありませんか?」とラスコーリニコフは乱暴な調子で相手の話をさえぎった。
「そのこともお聞き及びでしたか? もっとも、お耳にはいらないはずもありませんがね……さあ、そのご質問については、なんと申しあげたらいいか、まったくわかりませんな、その点にかんしては私の良心はいたって平静なもんですがね。ということはつまり、私がなにかそのことで危惧《きぐ》の念をいだいているなどとお考えになっちゃ困るということです。あれは終始、完全に順序どおりに、一分の狂いもなく進行したことなんですからな。検視の結果も、料理をしこたま詰めこんだ上にぶどう酒をひとびんもあけた直後に水浴した結果生じた卒中と出て、それ以外なんにも検証されなかったんですから……そうですとも。私もしばらくの間、とりわけこちらへ来る途中、汽車にゆられながら、ひとりでこんなことを考えていましたよ、おれはあの……不幸の発生を促すようなことをしたんじゃなかろうか、なにかのはずみで気持ちをいらだたせたり、なにかそういったようなことをしたんじゃなかろうかとね。がしかし、そんなことすら断じてなかったという結論に達しましたね」
ラスコーリニコフは笑い出した。
「そんなに心配するなんて、あなたも物好きですね!」
「いったいなにを笑っていらっしゃる! まあ、考えてもみて下さい。私がむちで打ったのはたった二回きりで、しかも跡すら残らなかったんですよ……どうか、私を恥知らずな人間だなんて思わないで下さい。私だって、あれが私から見てもどんなに下劣な行為かくらいのことはちゃんと知ってますよ。が、また、マルファがこの私の、いわば見境をなくした振舞いをどうやら喜んでいたらしいということもこれまた確実に承知しているんですから。あなたのお妹さんにかんする噂話ももう種がつきてしまった。家内は家にこもることを余儀なくされてもうこれで三日めです。町へ持っていく話もなけりゃ、手紙を持ちまわっての訪問も、みんなに飽きられてしまった(手紙の朗読の話はお聞き及びでしょうな?)。そこへ天からでも降ってわいたように、あの二度にわたるむち打ち事件が起きたわけです! ……それっとばかりまっさきに家内がやったのは馬車をつけさせることでした! ……今さらこんなことはいうまでもないんですが、女には、外見はどんなに怒っていようと、侮辱されるのが楽しくてたまらないといったような場面があるものです。もっとも、それは、そういった場合は、だれにでもあるものですがね。人間はだいたい侮辱されるのが大好きなものですが、お気づきですか? ところが、女には特別そういうところがあるんですよ。それどころか、これがあればこそどうにか生きていけると言ってもいいくらいのものです」
一時ラスコーリニコフは立ちあがって部屋を出てしまうことでこの面会にけりをつけてしまおうかと思ったこともあったが、そのうち多少の興味に打算のようなものまでいっしょにわいてきて、それにしばらく引きとめられてしまった。
「あなたはけんかが好きなんですか?」とラスコーリニコフは漫然と聞いた。
「いや、それほどじゃありません」とスヴィドリガイロフは落ちつきはらって答えた。「家内ともけんかなんかほとんどしたことはなかったんですよ。私たち夫婦の生活は実に仲むつまじいもんでして、あれは私にいつも満足していたものです。むちを使ったのも、夫婦生活七年を通じてあとにも先にもたった二度きりなんですよ(もっとも、もうひとつ、それこそどうともとれるような第三の場合を計算に入れなければの話ですがね)。結婚後ふた月して田舎へ引きあげた直後の第一回めと、それに今回の最後の場合と二度だけです。ところが、あなたは私のことを大変な悪党で、反動家で、農奴制賛成論者だくらいに考えていらっしゃったんでしょう? へ、へ……ときに、ロジオンさん、こういう事件をお思い出しになりませんか、何年か前、まだあのありがたい言論の自由な時代(一八六一年の農奴解放前後の時代)に、ある貴族が――苗字は忘れましたがね! ――全国の新聞にたたかれたことがあったでしょう――列車内でドイツ人の女をむちでひっぱたいたとかいうんで――覚えておられますかな? あのころもうひとつ、確かおなじ年だったと思いますが、『〈世紀〉誌の醜悪行為』という事件が起きたでしょう(実際はこの見出しでペテルブルク新聞がペルミ出身の一主婦の公開朗読を種にドストエフスキー兄弟の雑誌「時代」を攻撃した事件)ほら、『エジプトの夜』(プーシキンの未完の小説)の公開朗読ですよ、覚えておられますか? 黒い瞳よ! ああ、今いずこ、わが青春の黄金時代よ! ってやつです! さて、私の意見はこういうのです。そのドイツ人の女をひっぱたいた紳士にはふかくは同情しません。だって実際それは……なんにも同情すべきところはありませんものね! が、しかし同時にこう言明せずにもいられませんな、ときには、どんな進歩主義者でもひとりとして、自分はそんなことはしないと完全に保証できるような者はいないくらい挑発的な『ドイツ人の女』もいるものだとね。当時はこういった見地からこの問題を見た者はまったくいませんでしたが、こういう見地こそほんとうの人道的な見地じゃありませんかね、まったくそうでしょう!」
こう言いおわると、スヴィドリガイロフはだしぬけにまた大声をあげて笑い出した。ラスコーリニコフの目から見れば、この男がなにか心にかたく期するもののある、腹黒い男であることは明らかだった。
「あなたはさだめし、ここ数日ぶっとおしにだれとも口をきいておられないんでしょう?」と彼は聞いた。
「まあ、そんなところですな。ところで、あなたはどうやら、私がこんな気のおけない人間なのに驚いておられるようですな?」
「いや、僕は、あなたがあまりにも気がおけなさすぎるんで、驚いているんです」
「それは、あなたの乱暴な質問にも腹をたてなかったからでしょう? そうでしょう? いや……なにも腹をたてることなんかありませんものね! あなたが聞かれるとおりに答えているだけの話ですから」と彼は不思議なくらい人のよさそうな表情をしてそう言いそえ、「私はこれといってほとんどなににも興味を覚えない人間なんですよ、いやほんとうに」と、どこか物思いにふけっているような調子で話をつづけた。「とくに今はなんにも関心を持っておりません……もっとも、あなたには、なにか思惑があってこうして取り入ろうとしているのだととられてもしかたがありませんがね、ましてや、こっちからお妹さんに用があるなどと言い出したんですからな。しかし、ざっくばらんに言わしてもらえば、私は退屈でたまらんのです! 特にここ三日ほどはね。ですからあなたにお会いできたのが嬉しいくらいなんですよ……お怒りにならないでいただきたいんですが、ロジオンさん、あなただって私の目にはどうしたわけかひどく変わった人に見えますよ……なんとおっしゃろうと、どうもあなたにはなにかあるようですな。今の今、とはいっても今の瞬間というのではなくて、だいたいの今ですがね……いや、いや、もう言いません、言いません、そんな渋い顔をなさらないで下さい! 私は、あなたが思っておられるような熊みたいな男じゃありませんからね」
ラスコーリニコフは暗い顔つきで相手を見た。
「それどころか、あなたは、事によると、全然熊みたいな男じゃないかもしれません」と彼はいった。「僕には、あなたは上流社会の方か、少なくとも機会に恵まれさえすればひとかどの人物になるものを持っている方のようにさえ見えますよ」
「ところが、実際、私は別に人の思惑などにはまったく関心を持たない男でしてな」と、スヴィドリガイロフはすげない調子で、傲慢《ごうまん》の色さえ見せて答えた。「である以上、ときには俗物になっちゃいかんということもないわけです、この俗物という着物はわが国の気候では至極着心地がいいし……それに、わけても、そういう生来の傾向を持っているとあらばね」と彼はいいそえて、また笑い出した。
「だけど、僕の聞いたところでは、あなたにはここにたくさん知り人がおありだと言うじゃありませんか。あなたは、いわゆる『顔が広い』ってほうじゃないんですか。それなのに、目的があって来たんじゃないとしたら、あなたは僕などを相手にしたってしようがないでしょう?」
「あなたのおっしゃるとおり、知人はおります」と、スヴィドリガイロフは肝心な点には答えずに、相手の言葉を引きとって言った。「私はもうたびたび出会っていますよ。これでもう町をぶらついて三日めになりますからね。こっちが気がつくこともあれば、むこうがこっちに気がついたらしいと思われることもあります。そりゃそうでしょう、こっちだって身なりはちゃんとしているし、けっして貧乏人というんでもないんですから。私どもは農奴制改革にも無傷ですみました。森林だの春に水浸しになる牧草地ばかりですから、実収入は減らなかったわけです。しかし……私はそんな連中のところへは出かけませんよ。もう前から飽き飽きしてるんですから。もうこれで出歩いて三日めですが、だれにもこっちへ来ているということは明かしていません……それに町がまた大変な町ですもんな! いったいどうしてこんな町がわが国にできたんでしょう、驚きますね! 役人どもとあらゆる種類の神学生の町ですな! もっとも、八年ほど前にこの町でのらくらしていた時分には、いろいろ気づかなかったこともありますが……今私が期待を持っているのは、解剖くらいのもんですよ、まったくのところ!」
「解剖と言いますと?」
「例のクラブだの、デュッソーのレストランだの、例のあなた方の好きなポアン(爪先で踊る踊り方)だの、それにもうひとつ進歩も入れましょうか、まあそういったものの解剖ですよ――が、まあこういうものは、われわれは無関係で、ほうったらかしておいてもいいようなもんですがね」と、彼はまたもや質問を無視して、話しつづけた。「それに、今さらいかさま師になるのもどうかと思うしね」
「いかさま師だったこともあるんですか?」
「なくてどうしますか? 八年ばかり前に、私たちはそれこそちゃんとした、立派な仲間をつくって、よろしくやっていたもんですよ。仲間はみんな折目正しい連中ばかりで、詩人もいれば、資本家もいるといったふうでしたよ。だいたい、わがロシヤ社会では最上の礼儀作法を心得ているのは、辛酸をなめた、経験をつんだ連中ですよ、――あなたはそれにお気づきですかな? この私も今じゃ田舎暮らしでこのとおりだらしなくなってしまいましたがね。それでもこの私もやっぱりあの頃は借金のことで牢屋へぶちこまれかけたこともあるんですよ、相手はネージンのあるギリシャ人でしたがね。そこへひょっこりマルファが現われて、かけあって私を銀貨三万ルーブリで請け出してくれたんです(私には全額七万ルーブリの借金があったんですがね)。そこで私とあれとは正式な結婚で結ばれましてな、家内は私をまるで宝物かなんかのように大事にしてさっそく田舎へ連れ帰ったわけです。あれは私より五つ年上でしたが、とてもかわいがってくれましたんで、七年も村から出ないで暮らしましたよ。ところが、いいですか、あいつは一生涯、例の他人名義になっていた三万ルーブリの借用証書を握りっぱなしだったんですよ、ですから、私がちょっとでもなにか謀反気でも起こそうものなら、たちまちわなに引っかかることになっていたわけです! また、それくらいのことはしかねない女でしたよ! 確かに、女にはそういったいろんな気持ちがいっしょくたに巣食っているもんですものな」
「じゃ、その証書さえなかったら、あなたは逃げちまったでしょうかね?」
「さあ、なんとも言えませんな。私はそんな証文なんかに縛られていたわけじゃないんで、どこへも出かける気にならなかっただけですからな。で家内は私がつまらなさそうにしているのを見て、自分でも二度ほど外国へ行ってみたらと勧めてくれましたよ! でも、行ったからってどうなりますか! その前にも外国へは行ったことがありますが、そのつどいつも私は不愉快になるだけでしたものね。不愉快になるというよりも、これから空が白みはじめようとする頃にナポリ湾や海を眺めていると、なんだかわびしくなってくるんですよ。いちばんいやなのは、実際になにか憂鬱になる対象がある場合です。いや、やっぱり国のほうがいいですよ。国にいれば少なくともなんでも他人のせいにして、自分はいい子になっていられますものな。私は今、ひょっとしたら、北極探検にでも出かけようかと思っているくらいです。J'ai le vin ma uvais(私は酒癖がよくないんで)ですから呑むのは大嫌いなんですが、かといって酒を除いたら、ほかになんにも残りゃしないでしょう。もうやってみましたけどね。ところで、どうなんでしょう、日曜日にユスーポフ公園で、ベルクが大きな気球に乗ってあがるんで、一定の料金で同乗の客をつのっているという話ですが、ほんとうでしょうか?」
「どうです、あなたもひとつ乗ってみたら?」
「私が? いや……私はただちょっと……」とスヴィドリガイロフは、ほんとうに考えこむようなかっこうをして、そうつぶやいた。
『この男はどうなんだろう、ほんとうに乗る気なんだろうか?』とラスコーリニコフは思った。
「いや、私は証文などに縛られていたわけじゃありません」とスヴィドリガイロフは物思いがちに言葉をついだ。「あれは、私が自分から村を出なかったまでのことです。これでもうかれこれ一年になりますが、家内が私の命名日に私にその証文を返してくれて、おまけに莫大な金をつけてくれましたよ。あれはなかなかの資産家でしたからな。『これで、わたしがあなたをどんなに信用しているか、おわかりになったでしょう、アルカージイ』と、あれはまったくこのとおりの言い方で言ったんですよ。このとおりの言い方をしたとは、あなたには信じられないでしょう? ところが、あなた、この私は村ではひとかどの地主になって、今じゃ近在でだれ知らぬ者もない男なんですからな。本なども取り寄せていましたしね。家内は初めのうち賛成してくれていましたが、しまいには、私が勉強しすぎてばかになりはしないかとしょっちゅう心配していましたよ」
「どうも、マルファさんをずいぶん懐かしがっておられるようですね?」
「私が? あるいはそうかもしれません。まったくそのとおりかもしれません。ときに、あなたは幽霊を信じておられますか?」
「幽霊って、どんな幽霊です?」
「どんな幽霊でもない、普通の幽霊ですよ!」
「あなたは信じているんですか?」
「そう、まあ、信じていないといえるでしょうかな、pour vousplaire(お望みとあればね)……といって、信じないのともちがうんですがね……」
「じゃ、出るんですか?」
スヴィドリガイロフはなにか妙な目つきで相手を見た。
「家内がご来訪あそばすんですよ」と、彼は口をゆがめて一種妙な笑いをうかべて、そう言った。
「どういうふうにご来訪あそばすんです?」
「もうこれで三回出ましたよ。最初あれを見たのは、葬式の当日、墓場から帰って一時間ほどした頃でした。それは私がこちらにむけて発つ前日のことでしたがね。二回めはおとといの明け方、こちらへ来る途中マーラヤ・ヴィシェーラ駅で、三回めは二時間ほど前、私が今とまっている宿の部屋で見たのです。そのときは私ひとりきりでした」
「夢でなくてうつつにですか?」
「完全にうつつですよ。三回ともぜんぶうつつです。来たかと思うと、ちょっとの間しゃべって戸口から帰っていくんです。いつもきまって戸口からなんですよ。足音まで聞こえるようでしたね」
「どうして僕はそう思っていたんだろう、あなたにはそういったふうなことがきっとあるにちがいないなんて!」と不意にラスコーリニコフはそう口走ってしまい、とたんにそう言ってしまったことにあっけにとられてしまった。彼はひどく興奮していた。
「へえ、そうですか? あなたはそう思ったんですか?」とスヴィドリガイロフは不思議そうに聞いた。「ほんとうにそうなんですか? だから、私も言ったじゃありませんか、われわれの間にはどこか共通点があるって、え?」
「あなたはそんなことは一度も言っていませんよ!」とラスコーリニコフはむきになってきっぱりと答えた。
「言いませんでしたか?」
「言いませんよ!」
「言ったような気がしましたがね。さっきはいって来たとき、あなたが目をつぶって寝たまま、眠っているふりをしておられるのを見たとたんに、私は、『これが例の男だな!』とこうひとり言を言ったわけです」
「なんですか、その、例の男とは? いったいなんのことを言っているんですか?」とラスコーリニコフが叫んだ。
「なんのことかって? まったくの話、私にもなんのことかわからないんですよ……」とスヴィドリガイロフはなんだか自分でもわけがわからないといった様子で、率直にそう言った。
一分ほど二人は黙りこんでいたが、やがて双方たがいに目と目を見合った。
「なんだ、ばかばかしい!」とラスコーリニコフはいまいましげに叫んだ。「それで、奥さんは出てきて、あなたにどんなことを言うんです?」
「家内ですか? それがねえ、あなた、それこそまったくくだらないことばかり言うんですよ。人間て妙なものじゃありませんか、あなた、それが私は腹が立ってならないんですよ。最初のときは、はいって来ると(実は、私はそのとき疲れていたんです。葬式の行事、冥福の祈り、慰霊の小祈祷、供養のふるまいとつづいたんですからね、――で、やっとのことで書斎にひとりっきりになって、葉まきを吸いつけて、考えこんでいたそのときです)あれが戸口からはいって来たかと思うと、『あなた、あなたはきょうは、忙しさにとりまぎれて、食堂の時計を巻くのを忘れましたね』なんていうじゃありませんか。その時計は、事実、七年間ずうっと毎週私が自分の手で巻いておりまして、私が忘れれば――必ずあれが注意してくれていたものなんです。そのあくる日にはもう私はこちらへ向けて発ったわけです。私が明け方に停車場の食堂へはいって、――その前の晩はちょっとうたた寝したきりだったもんですから、体はへとへとだし、目はとろんとしているような状態でしたが、――コーヒーを手に取って、ふと見ると――家内がいつの間にかひと組のカルタを手にして私のそばに坐っていて、『あなたに旅の占いをしてあげましょうか、ねえ、あなた?』とこう言うんですよ。家内は占いの名人だったんです。いや、あのとき占ってもらわなかったことが、今さらながら残念でなりませんな! ぎょっとして、逃げ出したところへ、ちょうど発車のベルが鳴ってしまったわけです。それから、きょうは食堂から取り寄せたお粗末至極な昼飯をすましたあとで重い胃をかかえて――坐ってタバコをふかしていたところへ――ぬっとまた家内がはいって来たんですが、すっかりめかしこんで、新しい緑色の絹服などを着て裾を長くひきずっているんです。そして、『こんにちは、あなた! わたしのこの服、あなたの好みに合っているかしら? アニーシカだってこんなには仕立てられませんわよ』とこう言うんですアニーシカというのは――これはうちの村のお針女で、農奴あがりの娘で、モスクワへ見習いに出たことのある、なかなかきれいな子なんですよ。家内は私の前に立ったままで、くるりとまわって見せるのです。私は服を見てから、じっと相手の顔を見てこう言いました。『お前、そんなつまらないことでわざわざ私のところへ出て来るなんて、お前もいい物好きじゃないか』すると、『あらまあ、あなた、ちょっとぐらいお邪魔したっていいじゃないの!』とこう言うんですよ。そこで、私はちょっとからかって怒らしてみようと思ってこう言いました。『マルファ、私は結婚しようと思うんだよ』すると、『あなたなら、そのくらいのことはやりかねないでしょうけどね、あなた、女房のとむらいをして間もないというのに、さっそく結婚をしに行くなんて、あなたにとってあんまり外聞のいい話じゃなくってよ。せめてちゃんと選んだ相手ならともかくも、わたしにはちゃんとわかっているけど、あの子にも、自分にもいいことにはならないし、世間の人のいい物笑いになるだけよ』とこう言ったかと思うと、すうっと出ていってしまって、なんだか服の裾がさらさらと鳴るみたいでしたよ。なんとばかげた話じゃありませんか、え?」
「しかし、あなたの話はみんなでたらめかもしれませんね?」とラスコーリニコフは意見をさしはさんだ。
「私はめったにでたらめは言いませんよ」と、スヴィドリガイロフは考えこむようにして、相手の問いの無礼なのにはまるで気づいていないような様子で答えた。
「で、前には、そういうことがある前には、一度も幽霊を見たことはなかったんですか?」
「い……いや、見たことがあります、たった一度、六年前のことですがね。私のところに、フィーリカという下男がおりましてな、その男を葬ったばかりのときに、うっかりして『フィーリカ、パイプだ!』とどなったところが――そいつがはいって来て、私のパイプが立てかけてある器物棚のほうへずかずか行こうとするじゃありませんか。私は坐ったまま、『こいつ、おれに仕返しをしに来たんだな』と思いました、というのは、死ぬ直前に、二人でひどい口げんかをやらかしたもんですからね。で、私が、『きさまはよくもひじのぬけたようなものを着てわしのところへはいって来られたもんだな、――出て行け、このやくざ者!』と言いますと、くるりと向きを変えて出て行きまして、それっきりもう二度と出ませんでしたね。そのときは家内にも話しませんでした。あとで私はその男のために供養《くよう》をしてやろうとも思ったんですが、きまりが悪いんでやめてしまいましたよ」
「医者へ行ったほうがいいですよ」
「それはあなたに言われなくともわかっています、まったくどこが悪いのかはわからないが、健康でないことは確かですからな。しかし私の考えじゃ、私は、確かなところ、あなたの五倍はじょうぶでしょうな。私がお聞きしたのは、――幽霊の出現を信じておられるかどうかということじゃありません。私が聞いたのは、幽霊なるものが存在するかどうかということですよ」
「いや、絶対に信じませんね!」と、ラスコーリニコフは一種の憎悪すら見せてそう叫んだ。
「普通、世間の人はなんて言いますか?」と、スヴィドリガイロフはわきを向いて、ややうなだれ加減にして、ひとり言のようにそうつぶやいた。「連中はこう言うでしょう、『お前は病気なんだ、つまり、お前の目に映るのは、実在しない幻にすぎないんだ』とね。だけど、これには厳密な論理なんかないんじゃないですか。幽霊は病人にしか現われないということには私も賛成ですよ。だけど、それはただ、幽霊は病人にしか現われないということの証明にはなっても、幽霊なんてものはない、それ自体は存在しないという証明にはならないでしょう」
「もちろん、存在しませんよ!」とラスコーリニコフはいらだたしげに自説を主張した。
「存在しない? あなたはそう考えていらっしゃるんですか?」とスヴィドリガイロフはゆっくりと相手に目をあてて、語をついだ。「それじゃ、こういうふうに判断したら、どんなもんでしょう(ひとつお知恵を貸して下さい)、『幽霊というものは――これは、いわば、別世界の端切れであり断片であり、そういったものの手がかりである、健康な人間には、もちろん、そんなものが見えるわけはない、というのは、健康な人間は最も現世的な人間であって、従って、生活を充実させ、秩序を維持するために、現世的生活だけを生きるべきものだからです。ところが、ちょっとでも病気になって、肉体組織のノーマルな現世的秩序が破れると、たちまち別世界の可能性が現われ出して、病的になればなるほど、別世界との接触面も多くなり、こうして、人間が完全に死んだときは、そのまま別世界へ移行してしまう』と、こう私はもうずいぶん前から考えてきているのです。もしあなたが来世を信じておられるとすれば、この考えも信じられるはずですよ」
「僕は来世なんか信じちゃいませんよ」とラスコーリニコフはいった。
スヴィドリガイロフは考えこんだまま坐っていたが、
「しかし、どうでしょうな、もしそこには蜘蛛《くも》かなにかそういったものしかいないとしたら」と突然言い出した。
『こいつは気ちがいだぞ』とラスコーリニコフは思った。
「われわれはつねに、永遠というものは、なにか不可解な観念、なにかとてつもなく大きなものだと想像していますね! しかし、どうして必ず巨大なものでなければならないんでしょう? ところで、そんなものじゃなくて、そこには田舎のすすけた湯殿みたいな小さな部屋しかなくて、その隅々には蜘蛛がいる、これが永遠というものだ、とこう想像してみてごらんなさい。私はね、ときたまそういったようなものが目の前に浮かぶことがあるんですよ」
「あなたっていう人は、ほんとうに、ほんとうに、そんなものよりもう少し楽しい、まともなものはなんにも思いうかばないんですかねえ!」とラスコーリニコフは病的な気分になってそう叫んだ。
「もう少しまともな? どうしてわかります、もしかしたらこれこそまともなものであるかもしれないでしょう、それに、いいですか、私はむりにでもそういうことにしてしまいたいくらいなんですよ!」とスヴィドリガイロフは曖昧な微笑を浮かべながら答えた。
この乱暴な答えを耳にしたとたんに、ラスコーリニコフはなにかぞうっとするような寒けを覚えた。スヴィドリガイロフは頭をあげて、じっと相手を見つめたと思うと、突然大声で笑い出した。
「いや、これはまったくどうしたことでしょう」と彼は叫んだ。「三十分ほど前までは私たちはおたがいにまだ顔をあわしたこともなかったし、今なお敵視しあっている仲で、二人の間には未解決の問題が残っている。それなのに、その問題をほうっぽり出して、こんな文学談義にふけってしまうとは! ねえ、私の言ったとおりでしょう、二人はおなじ穴のむじなじゃありませんか?」
「どうぞ、お願いですから」と、ラスコーリニコフはいらいらして言葉をつづけた。「早いとこご自分の意志を明らかにして、どういう理由でここへ訪ねて来られたのか、おっしゃって下さい、それに……それに……僕急いでいるんですから。時間がないんですよ、家をあけるつもりなんです……」
「はい、はい、承知しました。お妹さんのアヴドーチヤさんはルージン氏と結婚しようとしていらっしゃるんでしょう?」
「なんとか妹の問題は一切ぬきにして妹の名前を口にしないでいただくわけにはいかないんですかね。僕は理解に苦しむくらいですよ、あなたがほんとうにスヴィドリガイロフさんだったら、よくもまあ僕の前で妹の名前など口にできたものだと思って」
「だって、私はお妹さんの話をしに来た以上、口にしないわけにはいかないでしょう?」
「じゃ、いいでしょう、話して下さい、ただし、早いとこ願いますよ!」
「きっと、あなたは、私のつれあいの親類にあたるあのルージン氏についてはすでにご自分の見解をまとめておられるものと思います、もっともそれはあなたがあの男にたとえ三十分でもお会いになっているか、彼のことでなにか確実でまちがいのない話をお聞きになっていればの話ですがね。あの男はアヴドーチヤさんには不つりあいです。私の考えでは、アヴドーチヤさんはこのことでは、すこぶる鷹揚な、打算をぬきにしたお気持ちからご自分の家族のために……ご家族のために自分を犠牲に供しようとしておられるのです。私は、私があなたについて聞いた話を総合した結果、もしこの縁談が利益を損うことなしにこわれてしまえば、あなたのほうも大変喜ばれるのじゃないかと、こういう気がしたのです。しかも今、あなたに親しくお会いするに及んで、私はむしろそれを確信してしまいましたね」
「あなたのような人にしてはその考えはちと無邪気すぎやしませんかね。いや、失礼、実は、あつかましいといいたかったのです」とラスコーリニコフは言った。
「ということはつまり、私が自分のためをはかって気をもんでいるということを言っておられるんでしょう。ご心配には及びませんよ、ロジオンさん、もしも私が自分のためをはかって気をもんでいるのだったら、こんなまともな言い方はしやしませんよ、私だって、まんざらばかじゃありませんからね。このことであなたにある不思議な心理的現象を打ちあけましょうか。さきほどアヴドーチヤさんにたいする自分の恋愛問題の弁解をしたとき、私は、自分のほうが犠牲者だと言いましたね。そこでひとつご承知おき願いたいんですが、私は今ではお妹さんに全然愛情なんか感じてやしません、ぜーんぜん、そんなわけで私自身それが不思議でならないくらいなんです、だってあの頃は実際、なにか感じていたんですからね……」
「遊惰《ゆうだ》と放縦《ほうじゅう》のせいですよ」とラスコーリニコフは話をさえぎって言った。
「確かに、私は放縦で、遊惰な人間です。が、しかしお妹さんはたくさん美点をお持ちだったため、私も身をあげて感銘してしまわずにはいられなかったわけですよ。しかし、あんなことはみんなくだらないことです、今では自分でもはっきりわかっていますがね」
「わかったのはもうだいぶ前からですか?」
「気がつきだしたのはもっと前のことですが、決定的に確信したのはおとといペテルブルクへ着いたとたんです。ところが、モスクワにいたときはまだ、アヴドーチヤさんに結婚を申しこんで、ルージン氏と張りあって見るつもりでいたんですからな」
「お話を中断してすみませんが、どうかひとつ、話をはしょって、ぶっつけご来訪の目的に移っちゃいただけませんかね。僕は急いでいるんですよ、家をあけなければならないんです……」
「じゃ、そうしましょう。私、上京してから、今度ある……旅に出ることを思いたちましたんで、その前にぜひとも必要な、いろんな処置をとっておきたいと思ったわけです。子供たちは叔母のところへおいていきますが、みんなそれぞれ財産を持っていますから、子供たちには私という人間は必要ないわけです。それに、私など、父親らしい父親でもありませんしね! で、自分の分としては、一年前に家内からもらったものしか持って来ていません。私にはこれで十分なんです。ごめんなさい、今すぐ本題に移りますから。で、おそらく実現するものと思っているこの旅行に出る前に、ルージン氏との問題にも決着をつけておきたいと思うのです。私は別にあの男がどうにも我慢がならないというようなことでもないんですが、しかし、ともかくあいつのために、つまりこの結婚のおぜん立てをそろえたのが家内だという話が耳にはいったことから、あの家内とのけんかも起きたわけですからね。で、私が今望んでいるのは、あなたの仲介でアヴドーチヤさんにお目にかかり、あなたに立ちあっていただいてもけっこうですが、お妹さんに、まず第一に、ルージン氏と結婚されたところでそれこそちっとも得になることはないどころか、必ず損になることは明らかだということを説明してさしあげ、それから先だってあんないろんないやな目にお合わせしたことにたいしておわびを申しあげた上で、お妹さんに一万ルーブリ提供させていただき、そうすることによってルージン氏との破談の損害を軽減させていただくと、まあこういう寸法なのです。もっとも、私の信ずるところでは、お妹さんのほうも、機会さえあれば、破談にご異存はないはずですけどね」
「いや、まちがいなく、まちがいなくあなたは気ちがいだ!」と、ラスコーリニコフは、腹が立ったというよりもむしろあきれたといった様子で、そう叫んだ。「よくもまあ、そんなことがぬけぬけと言えたもんですね!」
「あなたにどなりつけられるということはちゃんとわかっていましたよ。が、しかし第一、私はそれほど金持ちじゃないが、この一万ルーブリは遊んでいる金、つまりそれこそまったく私には不用な金なんです。アヴドーチヤさんが受け取って下さらなければ、私は、おそらく、もっとばかげたことに使ってしまうと思うんです。これがひとつ。二つには、私には心がとがめるようなことはまったくない、だって私は打算をいっさい抜きにして提供しようとしているんですからね。ほんとうになさろうがなさるまいが、そのうちいずれあなたにもアヴドーチヤさんにもわかっていただけるものと思っています。問題は結局、私が尊敬すべきお妹さんにほんとうになにかとご心配やらいやな思いをさせたことにあるので、今は心から悔悟すると同時に、衷心からそう希望しているわけです、――とはいってもそれで、いやな思いをさせたことを帳消しにしてもらおうとか、賠償しようとかいうのではありません、ただなにかあの方に為になることをしてあげたいというだけのことでして、私だってなにも実際悪いことばかりする専売特許を取っているわけじゃないということがその根拠なのです。かりにもし私のこの申し出でに百万分の一でも打算がふくまれているとしたら、私はたかが一万ルーブリやそこらの金を提供するわけはありません、だってつい五週間前にそれよりずっと多いお金を提供しようとしたくらいですからな。そればかりではありません、私は、もしかしたら、ごくごく近々のうちにある娘さんと結婚するかもしれないんでして、してみればアヴドーチヤさんにたいしてなにか企みがあるのじゃなかろうかという疑いもすべてこれによって解消してしまうはずです。結論として言わしてもらえば、アヴドーチヤさんはルージン氏のところへお嫁入りされるときはまったくおなじくらいの金を受けとられるはずです、ただ出所がちがうだけでね……ロジオンさん、まあひとつ腹をおたてにならずに、ひとつ落ちついて冷静にお考えになることですな」
そう言っているスヴィドリガイロフのほうは至極冷静で、落ちついたものであった。
「お願いです、その辺でもうやめにして下さい」とラスコーリニコフは言った。「とにかく許すべからざるあつかましい頼み事だ」
「ちっともそんなことはありませんよ。そんなことを言ったら、この世で人間が人間になしうることといったら悪事だけということになって、あべこべに、できあいのつまらない形式主義のためにほんのちょっとしたいいこともできなくなってしまうじゃありませんか。そいつはばからしいことですよ。かりにたとえば私が死んで、これだけの金をお妹さんに遺言で残してあげたとしても、それでもお妹さんは受けとることをおことわりになるでしょうかね?」
「大いにありそうなことですね」
「いや、それはちがいましょう。が、しかし、だめならだめで、このままということにしましょう。ただ、一万の金もいざというときはけっこう悪いものじゃありませんがね。ま、いずれにせよ、今言ったことはアヴドーチヤさんにお伝え願います」
「いや、伝えませんよ」
「そういうことでしたら、ロジオンさん、私もしかたがありませんから、こちらからむりにでもじきじきお会いできるようにはからいますからね、つまりご迷惑をおかけすることになりますよ」
「僕が伝えれば、あなたはむりに直接会うようなことはしませんか?」
「さあ、なんと申しあげたらいいか。一回だけでいいからぜひお会いしたいんですがねえ」
「まあ、あてにしないことですね」
「残念ですな。もっとも、あなたは私をご存じないからね。ま、そのうち、もう少し親密になるでしょうがね」
「あなたは、二人はもう少し親密になるだろうなんて考えているんですか?」
「どうしてそういうことはないと言いきれます?」スヴィドリガイロフはにやりと笑ってそう言うと、腰をあげて、帽子を取った。「私も実は、ぜひともあなたのお手をわずらわそうという気はなかったんでしてね、ここへ来ながらも、大してあてにしてもいなかったくらいなんです。もっともさっき朝方あなたのお顔を見たときはびっくりしましたがね……」
「けさどこで僕をごらんになったんです?」とラスコーリニコフは不安そうに聞いた。
「偶然に見たんですよ……私はどうもしきりに、あなたにはどこか私に似かよったところがあるような気がしてならないんですよ……ま、ご安心なさい、私はしつこい男じゃありませんから。私はいかさま師とうまをあわせて暮らしたこともあるし、私の遠縁にあたる高官のスヴィルベイ公爵にも飽きられなかったし、プリルーコワ夫人のアルバムにラファエルのマドンナのことでなにか書きこむくらいの才能も持ちあわせているし、マルファのような女とも七年もどこへも出ずに暮らせたし、昔センナヤのヴャーゼムスキイ邸に泊まったこともあるし、これからも、事によると、ベルクといっしょに気球にも乗るかもしれないような男ですから」
「ま、けっこうですね。ところで、うかがいますが、旅行にはもうすぐお発ちですか?」
「旅行とは?」
「ほら、例の『旅』ですよ……今ご自分でおっしゃったじゃありませんか」
「旅? ああ、そうか! ……確かに、あなたに旅の話をしましたっけね……いや、それは広範な問題でしてな……しかし、あなたが聞いておられるのがなんのことなのか、その意味がわかっていただけたらと思いますよ!」と彼は言いそえたかと思うと、大声で短く笑った。「私は、もしかしたら、旅に出るかわりに、結婚するかもしれないんですよ。嫁さんを世話してくれている者がいるもんですからね」
「ここでですか?」
「ええ、そうです」
「いつの間にそんなことになったんです?」
「それにしても、アヴドーチヤさんには一度ぜひお目にかかりたいと思っています。本気でお願いしますよ。じゃ、さようなら……あ、そう、そう! 大事なことを忘れていました! ロジオンさん、お妹さんにこうお伝え下さい、家内の遺言状のなかに三千ルーブリの受けとり人にお妹さんの名が挙がっているとね。これはまったくまちがいのない話なんです。家内は死ぬ一週間前にそういう処置をとり、そこに私が居あわしたんですから。二、三週間もしたら、アヴドーチヤさんのお手もとにその金がとどくはずです」
「あなた、それほんとうですか?」
「ほんとうですよ。そうお伝え下さい。じゃ、これで失礼します。私はすぐそこに泊まっているんですよ」
出しなに、戸口でスヴィドリガイロフはラズーミヒンにばったり出くわした。
[#改ページ]
二
時間はもう八時近かった。二人はバカレーエフのアパートへと急いだ。ルージンよりさきに行き着こうというのである。
「おい、いったいあいつは何者だい?」とラズーミヒンが通りへ出たとたんに聞いた。
「あれがスヴィドリガイロフさ。僕の妹が家庭教師をしていた頃、妹をひどい目にあわした例の地主だよ。妹はあいつにつきまとわれたおかげで、細君のマルファさんに追い出されて、あそこの家を出たわけだよ。そのマルファさんはあとでドゥーニャにあやまったそうだが、今度それがぽっくり死んじまったんだ。さっきその細君の話が出たろう。なぜだかわからないけど、どうも僕はあの男が怖くってねえ。あの男は細君の葬いをすますと早々に出て来たんだよ。ひどく変わった男で、どうもなにか固く決意していることでもあるらしいんだな……あいつはなにか知っているようだぜ……ドゥーニャをあの男から守ってやらなくちゃね……君に言っておこうと思っていたのはそのことなんだ、わかったかい?」
「守るとも! あんな男に、アヴドーチヤさんにたいして指一本ささせるもんかってんだ! いや、ありがとう、ロージャ、よく言ってくれた……守ってやろうよ、守ってやろう! ……あいつどこに住んでいるんだ?」
「知らないね」
「どうして聞かなかったんだ? ちぇっ、惜しいことをしたな! でも、突きとめてみせるよ!」
「君はあの男の顔を見たかい?」と、ラスコーリニコフはしばらく黙っていてから聞いた。
「ああ、見たとも。しっかり覚えておいたよ」
「正確に見ておいたかい? はっきり見たかい?」と、ラスコーリニコフはしつこく聞いた。
「ああ、はっきり覚えているよ。千人のなかからだって見つけ出してみせるよ、僕は人の顔はよく覚えているほうなんだ」
また二人は黙ってしまった。
「ふむ……そう、そう……」とラスコーリニコフがつぶやいた。「な、おい……僕はふとそういう気がしたんだが……どうも、あれは幻想かもしれないぜ」
「なんのことを言ってるんだい? 僕は君の言うことがさっぱりわからないぜ」
「君たちはしょっちゅう言っているじゃないか」と口をゆがめて苦笑いしながら言葉をついだ。
「僕のことを気ちがいだなんて。で、僕も今そんな気がしたんだが、ひょっとしたら、僕はほんとうに気ちがいで、幻を見ただけなのかもしれないぞ!」
「いったいなにを言ってるんだ?」
「だってだれにわかる! 事によったら、僕は正真正銘気ちがいで、ここ二、三日の間に起きたことはなにからなにまで、ただ単なる想像の産物にすぎなかったのかもしれないじゃないか……」
「やれやれ、ロージャ! また頭の調子を狂わされちまったな! ……あいつはいったいどんな話をしていったんだ、どんな用件を持って来たんだ?」
ラスコーリニコフは返事をしなかった。ラズーミヒンはちょっとの間考えていたが、
「まあいいから、ひとつ僕の報告を聞いてくれ」と彼は言い出した。「君のところへ寄ってみたところが君は寝ていたんだ。で、それから食事をすましてポルフィーリイのところへ出かけていったわけさ。ザミョートフめ、やっぱりポルフィーリイのとこにいやがったよ。僕はさっそく話をきり出そうとしたんだが、全然だめなんだ。どうしても本調子できり出せないんだよ。やつらはまるでこっちの言うことがわからない、どうものみこめないといったふうでありながら、そのくせさっぱり困ったような顔もしないんだ。そこで、僕はポルフィーリイを窓のほうへ引っぱっていって、話し出したんだが、これまたどうしたわけか思うようにいかないんだ。こっちもむこうもそっぽを向いたようなかっこうでな。で、とうとう僕は奴の鼻先に拳固を突きつけて、親戚のひとりとしてきさまをたたきのめしてやるぞと言ってやったんだ。ところが、やつは僕をじろりと見ただけなのさ。で、僕はぺっと唾を吐いて引きあげて来ちまって、それっきりさ。実際ばかげた話さ。ザミョートフとはひと言も口をきかなかったよ。ただね、僕は事をぶちこわしちまったと思いながら、階段をおりる途中である考えが浮かび、ふっとこう思いついたんだよ。なんだって僕らはおたがいにこんなに気をもんでいるんだ? 君になにか危険でも迫っているというんでもあれば、そりゃ騒ぐのはあたりまえだが、君の身になんにも起きてやしないじゃないか! 君はこの場合無関係なんだから、あんなやつらはほうっとけばいい、やつらをあとで笑ってやろうじゃないか、それに僕が君だったらその上奴らをかついでやるな。奴らはあとでさぞかしきまり悪い思いをするだろうさ! 歯牙にかけるなよ。たたきのめすのはあとでできるから、今はただ笑っておくんだな!」
「そりゃ言うまでもないさ!」とラスコーリニコフは答えた。『だけど、あしたになったら、こいつ、なんと言うか!』と彼は腹のなかで思った。奇態にも、『ラズーミヒンのやつ、ほんとうのことを知ったら、どう思うだろう?』というような考えは今の今までただの一度も彼の頭に浮かんだことはなかったのである。そう考えて、ラスコーリニコフは相手の顔をまじまじと見つめた。今のラズーミヒンの、ポルフィーリイ訪問の報告には彼は大して興味を感じなかった。あれ以来、それほど大変な変化があったわけである。
廊下で二人はルージンとばったり顔をあわせた。ルージンはきっかり八時にやって来て部屋をさがしていたため、はいったのは三人いっしょだったが、たがいに見かわしもしなければ、おじぎもしなかった。青年たちは先にはいったが、ルージンのほうは礼儀を守って入り口で少し手間どりながら外套をぬいだりしていた。プリヘーリヤはさっそく敷居際まで彼を迎えに出、ドゥーニャは兄とあいさつをかわしていた。
ルージンはなかへはいると、愛想はかなりよかったが、いつもに倍するもったいぶった態度で婦人たちとあいさつをかわした。もっとも、いささかとりみだして、なかなか自分がとりもどせないような様子でもあった。プリヘーリヤもやはり狼狽した様子で、急いでみんなにサモワールのふつふつたぎっている丸テーブルをかこむようにして席をとらせた。ドゥーニャとルージンはテーブルの両端に向かいあわせに座を占めた。ラズーミヒンとラスコーリニコフはプリヘーリヤと向きあうことになり、――ラズーミヒンはルージンに近いところに、ラスコーリニコフは妹のそばに腰をかけた。
一瞬間沈黙が訪れ、ルージンは悠然と香水の匂う麻のハンカチを取り出して、鼻をかんだが、その様子には、いかにも有徳の士といったところもありながら、やはりいささか自分の威厳を傷つけられたのでその説明を求めようとかたく決意した男といったようなところもあった。まだ入り口にいたときから彼の頭に、外套もぬがずに帰ってしまい、そうすることによって二人の婦人に胸にこたえるような厳罰を加えて一挙にすべてを思い知らせてやろうかという考えも浮かんだが、さすがに決行しかねた。それに、この男は事をはっきりさせないでおくことが嫌いだったから、この場で事情を究明せずにはいられなかったのである。こんなに露骨に自分の命令が破られている以上は、なにかあるにちがいない、とすればまずそれを突きとめるにしくはない。こらしめることはいつでもできるし、それはこちらの手中にあることだ、とこう思いなおしたのである。
「道中ご無事だったことと思いますが?」と彼はプリヘーリヤに改まった調子で話しかけた。
「おかげさまでね、ルージンさん」
「それはまことにけっこうでした。アヴドーチヤさんもお疲れではありませんでしたか?」
「わたしのほうは若いし丈夫ですから、疲れるなんてことはございませんけど、母はそれこそとてもこたえたようですわ」とドゥーニャが答えた。
「どうもいたし方ありませんな。わが国の鉄道ときたら実に長いですからな。いわゆる『母なるロシヤ』は広大無辺ですから……きのうは、お出迎えしたいのは山々でしたが、どうにも間にあわせることができませんでしたので。でも、特別めんどうなこともなくてすんだでしょう?」
「いいえ、ルージンさん、わたしたち、とてもがっかりいたしましたわ」とプリヘーリヤは一種特別な抑揚をつけて急いで言い出して、「もしきのう神さまのおかげでこのドミートリイさんにお会いできなかったら、わたしたちそれこそもうだめでしたわ。こちらがそのドミートリイ・プロコーフィイチ・ラズーミヒンさんですの」と言いたして彼をルージンに紹介した。
「いやもうきのう……お会いしています」と、ルージンはラズーミヒンに敵意ありげな横目をつかってそう言ったかと思うと、顔をしかめて、黙りこんでしまった。いったいに、ルージンという男は、見たところ人なかではきわめて愛想よく見え、また特に愛想よく見せたがるくせに、なにかちょっとでも気にくわぬことがあると、たちまちそのとりえをすっかりなくしてしまって、座をにぎわす気さくな紳士というよりもむしろ粉袋みたいな人間になる部類の男だった。一同はまた黙りこんでしまった。ラスコーリニコフはかたくなにおし黙っていたし、アヴドーチヤは時機が来るまでは沈黙を破るまいと思っていたし、ラズーミヒンには話すべきことといってなんにもなかったため、プリヘーリヤはまた気をもみはじめた。
「マルファさんがおなくなりになりましたわねえ、お聞きになりました?」と彼女はきり出して、とっておきの話にすがりついた。
「むろん、聞いておりますとも。まっさきに聞いて知っておりますし、その上今も、スヴィドリガイロフ氏が奥さんの葬式がすむ早々に急いでペテルブルクに向けて発ったことをお知らせにあがったようなわけですよ。少なくとも、私が得た、いちばん正確な情報ではそういう話です」
「ペテルブルクへ? こちらへ?」とドゥーニャが不安そうにそう聞いて、母親と顔を見あわせた。
「まったくそのとおりなんです、しかも出発を急いでいたことやそれに先だつ諸般の事情を考慮に入れれば、目的があってのことであることはいうまでもありません」
「まあ! あの人ったら、ここへ来てまでドゥーニャを心配させようというのかしら?」とプリヘーリヤが叫んだ。
「私にはどうも、あなたにしてもアヴドーチヤさんにしても別にご心配なさることはないように思われますね、むろん、あなた方のほうからあの男となんらかの関係を持つ気を起こされなければの話ですがね。私のほうは、注意を怠らずに、止宿《ししゅく》先を目下探索中です……」
「まあ、ルージンさん、あなたにはおわかりにならないでしょうけど、あなたの今のお話にはほんとにびっくりしてしまいましたわ!」とプリヘーリヤは言葉をついだ。「わたしあの方にお会いしたのはたった二度きりですけど、わたしにはとても恐ろしい人のように思われましたわ! わたし、マルファさんが亡くなられたのもてっきりあの人が原因だと思っていますのよ」
「その点についてはそういうふうには断定できないでしょう。私は正確な情報を握っていますがね。あの男が、侮辱という、いわば精神的影響で事態の進行を速めたかもしれないということには、私も異を立てるつもりはありません。また、あの男の行状や精神的特異性という点に関しては、私もあなた方と意見をおなじゅうする者です。あの男は現在裕福なのか、それにマルファさんがあの男にいったいどれくらい残していかれたのか、その辺のところは私も知りません。もっとも、その点はごく近々のうちに私の耳にはいることになっていますがね。それでも、むろん、このペテルブルクへ出てくれば、たとえいくらかでも金は持って来ているでしょうから、たちまち昔に立ちもどるにちがいありません。なにしろあの男は、あの種の連中のなかでもまずいちばん堕落した罪悪に身を持ちくずした男ですからね! 私は相当の根拠があってこう推測するんですが、不幸にも八年前にあの男が好きになって債鬼の手から受け出してやったことのあるマルファさんがさらにもうひとつの点でもあの男に尽くしてやったらしいのです。あの奥さんの骨折りと犠牲があったればこそ、確実にシベリヤ落ちになったはずの、残忍で、いわば奇怪な殺人事件のまじった刑事事件がほんの初期のうちにもみ消せたのです。あの男はこういった人間なんですよ、お知りになりたいのではないかと思うのでお教えしておきますがね」
「まあ、驚いた!」とプリヘーリヤが叫んだ。ラスコーリニコフは注意をこらして聞いていた。
「そのことで確かな情報をつかんでいらっしゃるっておっしゃっていましたけど、それほんとうですの?」とドゥーニャが相手の胸にひびくような、きつい調子でそう聞いた。
「私は、この耳で、亡くなられたマルファさんから内密に聞いたことだけを話しているんです。ひと言お断わりしておかなければなりませんが、法律的な見地からしますと、この事件はすこぶる曖昧|糢糊《もこ》たるものなのです。このペテルブルクに、レスリッヒとかいう、外国人で、ささやかな高利貸しで、ほかの商売もやっていた女が住んでいた、いや、今も住んでいるらしいですがね。スヴィドリガイロフ氏はこのレスリッヒとはずいぶん古くからあるすこぶる親密な、秘密めいた関係にあったのです。ところで、この女の家に遠縁の娘で、姪かなんかじゃないかと思いますが、唖でつんぼの、十五か、事によると十四にもならないくらいの娘が住んでおりまして、この娘をそのレスリッヒが際限なく憎んで、はしのあげおろしにも小言をいっていたばかりか、残忍なくらい折檻《せっかん》していたのです。それがあるとき屋根裏部屋で縊死《いし》した姿で発見されたわけです。で、検死は自殺ということで、事件は普通の手続きを経て片づいたわけですが、そのあとで、その子供は……スヴィドリガイロフにむごい辱かしめを受けたのだと密告する者が出てきたのです。確かに、そのいきさつは曖昧なんでして、その密告をしたやつがこれまたドイツ人の女で、信用のない札つき女だったんです。で、まあ結局、その密告も、マルファさんの骨折りと金のおかげで、本質的にはないようなものになり、ぜんぶ噂の程度にとどまることになったわけです。が、しかしこの噂はすこぶる意味ぶかいものだったのです。もちろん、あなたも、アヴドーチヤさん、あの家におられた頃、六年前のまだ農奴制の時代に下男のフィリップがいじめぬかれて死んだ話を聞いておられるでしょう」
「わたしが聞いたのはその正反対で、そのフィリップが自分で首をくくったんだということでしたわ」
「まさにそのとおりですが、スヴィドリガイロフ氏の絶え間のない虐待と懲罰のしかたがその男を無理に死なせた、というよりはむしろ死ぬようにしむけたと言えるのです」
「わたし、そんなことは存じません」とドゥーニャはすげなく答えた。「わたしが聞いたのはなにかあるとても風変わりな話で、それによると、そのフィリップはどこかヒポコンデリーじみたところのある、独学の哲学者で、人の話では、『あんまり本を読みすぎて頭がおかしくなった』のだそうで、首をくくったのもスヴィドリガイロフさんにからかわれたためで、ぶたれたためではないということでしたわ。それに、わたしがいた頃は、召使いにたいするあつかいもよくて、召使いのほうでもあの人を好いていたくらいですのよ。もっともフィリップが死んだことではみんなも確かにやはりあの人を非難してはいましたけどね」
「お見受けするところ、どうも、アヴドーチヤさん、あなたはなんだか急にあの男の肩をもちたい気持ちになってきたようですね」と、ルージンは口をゆがめて意味の二様にとれる薄笑いをうかべながら、そう言った。「実際、あの男は女にかけては狡猾で、たらしこむことのうまい男ですからね、その悲しむべき実例が、あのとおりの変死をとげたマルファさんですよ。私はただ、あの男は疑いもなく近く新手を試みようとしていると思いますので、あなたとあなたのおかあさんにご忠告申しあげてお役に立ちたいと思ったまでです。私自身としては、あの男は必ずまた債務者監獄にぶちこまれるものと固く信じております。マルファさんには、子供たちのことをおもんばかって、なにかあの男に所有権を確保してやるような考えはまったくなかったろうし、たとえあの男になにか残してやったとしても、それはそれこそ絶対に必要な、大した値打ちもない、その場しのぎのものくらいで、それくらいのものでは、ああいう性癖の持ち主であれば一年分にも足りないだろうと思います」
「ルージンさん、お願いです」とドゥーニャがいった。「スヴィドリガイロフさんのお話はもうこれで打ちきりにしましょうよ。そういう話を聞いていると、わたし悲しいような気持ちになるんですの」
「あの男はつい今しがたまで僕のところへ来ていきましたよ」とラスコーリニコフが、初めて沈黙を破って、急にそう言い出した。
四方から叫び声があがり、一同彼のほうに目をむけた。ルージンですら興奮しはじめた。
「一時間半ほど前、僕が眠っていたところへはいって来て、僕を起こして、自己紹介をしたんです」とラスコーリニコフは語をついだ。「あの人はかなりうちとけた様子で愉快そうだったし、それになんだか僕と仲よくなれるものとすっかり思いこんでいたようでしたよ。とくに、ドゥーニャ、お前にとても会いたがっていたぜ、そして僕にその面会のとりもち役になってくれなんて頼んでいたよ。あの男はお前に申し入れたいことがあるとか言って、その内容を僕に話していったよ。それからな、これは確かな話として僕に伝えてくれたんだが、マルファさんが死ぬ一週間ほど前に遺言で、ドゥーニャ、お前に三千ルーブリ残してくれたんで、今度その金が近々お前の手にはいるそうだよ」
「まあ、ありがたいこと!」プリヘーリヤが叫んで十字を切った。「あの奥さんのためにお祈りしてあげなさいよ、ドゥーニャ、お祈りしてあげなさい!」
「それは確かな事実です」ルージンは思わずそう言ってしまった。
「それで、それでその先はどうだったの?」とドゥーニャは話をせかした。
「それからあの人が言うには、自分は今はそれほど裕福じゃない、財産はぜんぶ、今叔母のところに行っている子供たちのものになることになっているということだった。それから、どこか僕のとこから近いところに宿をとっているとも言っていたな、どこなのかは知らないけどね、聞かなかったものだから……」
「それにしても、いったいどんなことを、いったいどんなことをドゥーニャに申しこむつもりなのかしらね?」と、すっかりおびえきったプリヘーリヤが聞いた。「お前に話したんだって?」
「ええ、話しましたよ」
「どういうことなの?」
「あとで話しますよ」ラスコーリニコフは口をつぐんで、自分のお茶のほうに注意をむけた。
ルージンは時計を出して見て、
「用事でどうしても出かけなければなりません、それにそうしたほうがお邪魔をすることにもなりませんので」と、いささかむっとしたような面もちで言いたすと、椅子から腰を浮かしかけた。
「もうちょっと残って下さいな、ルージンさん」とドゥーニャが言った。「あなたはひと晩居つづけるおつもりだったんじゃないんですの。それに、お手紙にも、なにか母と話しあいたいことがあるって書いておよこしになったんじゃありませんか」
「まったくそのとおりです、アヴドーチヤさん」とルージンは、また椅子に腰はおろしたけれども、まだ帽子は手に持ったままで、相手の胸にこたえるような言い方できり出した。「私は確かにあなたとも、あなたのおかあさんともとっくり話しあいたいと思っておりました、それもきわめて重大な点についてですよ。しかし、あなたの兄さんには私の前ではスヴィドリガイロフ氏の申し出でとやらを明かすわけにいかないのと同様に、私も……ほかの人のいる前で……すこぶる重大な件について説明したくもないし、するわけにもまいりません。おまけに、私のたっての肝心な願いが聞き入れられなかったわけですからね……」
ルージンは苦りきった顔つきをし、もったいぶって口をつぐんだ。
「わたしたちが会うときに兄を同席させないようにというご希望を果たさなかったのは、ただわたしがそれを主張したからなんですの」とドゥーニャは言った。「あなたのお手紙によると、兄から侮辱を受けたということですが、それなら即刻話しあって、お二人には仲なおりをしていただかなければ、とこうわたし思いましたもんですから。それに、兄がほんとうにあなたを侮辱したんでしたら、兄はあなたに許しを乞う|べき《ヽヽ》だし、許しを乞う|だろう《ヽヽヽ》と思いますの」
ルージンはとたんに力み返った。
「アヴドーチヤさん、世のなかにはどんなに善意を持っていても忘れることのできない侮辱というものがあるものですよ。何事にも、踏み越えたら危険だという一線があるものです。なぜ危険かというと、ひとたび踏み越えたら、絶対に引っ返せないからなのです」
「わたしが申しあげたのはそういうことじゃないんですのよ、ルージンさん」と、ドゥーニャはいくぶんじれったそうに相手の話をさえぎった。「ようく考えて下さいまし、わたしたちの将来はぜんぶ、おたがいに話がついて、こういうことがなるべく早く円満に片づくかどうかということにかかっているんですのよ。わたしは率直に、ぶしつけに申しますけど、わたしにはこういう見方しかできませんの。ですから、あなたに少しでもわたしを大事に思う気持ちがおありでしたら、むずかしいことでしょうけど、この一件はきょうじゅうにすっかり片づけて下さらなければなりませんわ。くり返して申しあげますが、もし兄に落度があれば、兄はおわび申しあげると思います」
「驚きますねえ、アヴドーチヤさん、そんな問題の提起のしかたをなさろうとは」ルージンはいよいよいらだってきた。「私があなたを大事に思い、かついわば尊敬しながら、同時におうちのだれかが好きになれないということはきわめてありうべきことですよ。あなたとの幸福な結婚を求めるからといって、同時に不本意な義務まで背負いこむわけにはいきませんからね……」
「あら、そんなに短気をお起こしにならないで下さいな、ルージンさん」とドゥーニャは感情のこもった調子で相手をさえぎった。「そして、わたしがいつもそう思い、またそう思いたいと思っている、物わかりのいい、上品な人になって下さいな。わたしはあなたに大事なお約束をした身ですわ。わたしはあなたのいいなずけですのよ。ですから、この問題ではわたしを信用して下さい、そしてわたしは公平無私な判断が下せるのだと信じて下さい。わたしが審判者の役割を引き受けたことは、あなたにもそうだったでしょうが、兄にとっても思いもかけないことだったのです。わたし、お手紙をいただいたあとで、きょうこの席にぜひ来てくれるようにと兄を招んだときも、自分の計画はなにひとつ知らせておかなかったんですの。こういうことをわかって下さいまし、もしもあなたが仲なおりをして下さらなければ、わたしは、あなたか兄か、どちらかを選ばなければなりませんのよ。あなたのほうからも、兄のほうからも、問題がそういうことになって来たんですの。わたしは選択を誤りたくもないし、誤ってもならないのです。あなたにということになれば兄と手を切らなければなりませんし、兄にということになればあなたと手を切らなければなりません。わたしは今これで、この人がわたしにとって兄かどうか、またあなたについては、わたしはあなたにとって大事かどうか、わたしの値打ちをあなたが認めて下さっているかどうか、あなたはわたしにとって夫かどうか、そういうことを確実に知りたいし、また知らせていただけるものと思っていますの」
「アヴドーチヤさん」とルージンは顔をしかめて言った。「あなたのお言葉は私にとって実に意味深長です、さらに言わしてもらえば、私があなたにたいする関係で占めさせていただいている位置から見れば侮辱にさえとれます。私と……この傲慢な青年とを同等なものとして並べて考えるといったやり方がいかに侮辱的で奇怪千万なことかということは今さら言うまでもないことながら、その上、あなたは今の言葉で、私に与えた約束を破るかもしれないと自認しておられるわけです。『あなたか兄さんかだ』とあなたはいっておられる、ということはつまり、それによってあなたは私に、私などはあなたにとってどれほど意味のない存在かということを知らせているようなものです……私は、私たち二人の間にはこうした関係と……義務が存在する以上、そういうことは断じて許せません」
「なんですって!」と、ドゥーニャはかっとなって叫んだ。「わたしはあなたの利害を、これまで一生を通じてわたしにとって大事だったもの、これまで私の命の|すべて《ヽヽヽ》だったものと同列において考えているのに、あなたの価値にたいするわたしの認め方が|少ない《ヽヽヽ》と云って、急にお腹立ちなんですか!」
ラスコーリニコフは無言のまま毒々しげににやりと笑い、ラズーミヒンは顔じゅう嫌悪感にひきつらせていた。ところが、ルージンのほうはこの反駁をとりあげようともせず、かえってひと言ごとにけんか腰になり、いらだってくる様子が、まるで油が乗ってくるようなぐあいだった。
「これから生涯の伴侶となる人、つまり夫に対する愛情は兄弟にたいする愛情を凌駕《りょうが》すべきです」と彼は警句めいた調子で言った。「とにかく、私は同列におかれることはいやです……私は先ほどあなたの兄さんがおられる前ではお訪ねした用向きをお話したくもないし、するわけにもいかないと主張しましたが、にもかかわらず私は今ここであなたのおかあさんに、すこぶる重要な、私には無礼と思われるある点にかんしてぜひともご説明を願いたいと思います。あなたの息子さんは」と彼はプリヘーリヤのほうを向いて、「きのうラッスートキン氏の(確か、そういうお名前でしたね? ごめんなさい、お名前を失念しまして、――と彼はいってラズーミヒンに愛想よく頭をさげた)おられる前で、私がいつぞやコーヒーを飲みながらの内輪話の最中にお話した私の考えを、つまり、生活の苦労をなめた貧乏な娘さんを妻にするということは、私の考えでは、満ち足りた暮らししか知らない娘さんと結婚するよりも夫婦関係から見て有益だ、というのは徳義上有益だからだ、という私の考えを曲解して私を侮辱したんです。あなたの息子さんは言葉の意味をばかばかしいくらいわざと誇張して、私に悪だくみがあるものとして私を非難したのですが、私のにらんだところでは、どうもそれがあなたご自身の通信をもとにしているらしいのです。そこでもし、プリヘーリヤさん、あなたが私の誤解を解いて、そうすることによって私を大いに安心させて下さることがおできになれば、私は幸甚に思うわけです。そこで、ひとつ、ロジオンさんにあてた手紙のなかでいったいどういう言葉をつかってお伝えになったか、それをお聞かせ願いたいのです」
「わたしは覚えていませんが」と、プリヘーリヤはおろおろして答えた。「わたしは自分の理解したままを伝えたまでです。ロージャがあなたにどういうふうに伝えたかは知りませんが……あるいは、この子がなにか大げさに考えたのかもしれませんわ」
「あなたが吹きこまれるようなことがなかったら、息子さんだって誇張して考えることもなかったはずでしょう」
「ルージンさん」とプリヘーリヤは厳然と言いはなった。
「わたしとドゥーニャがあなたの言葉をそんなに悪くとらなかった証拠には、わたしたち|ここまで《ヽヽヽヽ》来ているじゃありませんか」
「いいことをおっしゃったわ、おかあさん!」とドゥーニャが賛成するように言った。
「そうすると、この点も私が悪いということですな!」とルージンはむっとして言った。
「そうやって、ルージンさん、あなたはロジオンを責めてばかりいますけど、あなただってさっきの手紙にこの子のことでありもしないことを書いていらっしゃるじゃありませんか」とプリヘーリヤは元気づいて言いたした。
「私には、ありもしないことを書いた覚えはありませんね」
「あなたはこう書いているんですよ」とラスコーリニコフがルージンのほうに顔もむけずに、激しい調子で言い出した。「僕が、ほんとうは馬に踏みつぶされた男の未亡人に金をやったのに、未亡人じゃなくて、娘にやったとね(僕はその娘さんにはきのうまで一度も会ったことはなかったのに)。あなたがあれを書いたのは、僕とうちの者をけんかさせるためだったんだ、だからそのためにいやらしい表現で、自分が知りもしない娘の身もちなんか書きそえたのさ。ああいうことは下劣なかげ口というもんですよ」
「失礼ですが、あなた」と、ルージンは憤怒に身を震わせて答えた。「あの手紙のなかであなたの性質や行動に言及したのは、ただ単に、ああすることで、私があなたをお訪ねしたときあなたがどんなふうだったか、私があなたからどういう印象を受けたか、自分たちに知らせてほしいというあなたのお妹さんとおかあさんのご依頼にそったまでのことなんですよ。ところで、私の手紙のなかでご指摘になった個所のことですが、ほんの一行でもまちがっているところがあったら、教えていただきましょう、つまり、あなたは金をむだ使いしなかったか、またたとえあれは不仕合わせな家族とはいえ、あの家族のなかに軽蔑すべき者はいなかったかといったようなことで、まちがっている所があったらね」
「だけど、僕に言わせれば、あなたなんか、あなたの長所を総動員したところで、あなたが今石を投げているあの不幸な娘の小指ほどの値打ちもありゃしませんよ」
「そうすると、あなたは、そういうことでもあれば、あなたのおかあさんや妹さんと同座させる覚悟でいらっしゃるわけですな?」
「知りたければ言うけど、そんなことはもうやってしまいましたよ。僕はきょうあの子をおかあさんやドゥーニャといっしょに坐らせましたよ」
「ロージャ!」とプリヘーリヤが叫んだ。
ドゥーニャは顔を赤らめ、ラズーミヒンは眉根を寄せた。ルージンは毒々しげに、にやりと見下したような笑いを浮かべた。
「アヴドーチヤさん、あなたもごらんのとおり」と彼は言った。「これじゃ折りあいなどつくはずはないでしょう? これでこの問題はもう永久に片づいたし、はっきり解明されたということにしていただきたい。では私は、このあとの楽しい水入らずのご面会と秘密のお話しあいの邪魔にならないように、失礼させてもらいます(と言って彼は椅子を立ち、帽子を手に取った)。ただ、出ていく前にひと言注意させてもらいますが、今後はこういったたぐいの顔合わせとか、いわば妥協みたいなものはごめんをこうむらしていただきたいんです。この点については、プリヘーリヤさん、あなたに特にお願いしておきます。ましてあの私の手紙は余人ならぬあなたあてのものだったんですからね」
プリヘーリヤはいささかむっとしたらしかった。
「なにか、あなたはわたしたちをすっかりご自分の自由にしているみたいですわね、ルージンさん。なぜあなたの希望が実現しなかったか、その理由はドゥーニャがお話し申しあげました。この子は立派な考えを持っていたわけですわ。それに、あなたの、わたしたちにたいする手紙の書きようは、まるで命令でもしているみたいですわ。いったいわたしたちはあなたの希望をいちいち命令のように受け取らなければならないものでしょうか? こんなことを申しあげたら、あなたに逆らうようですけど、あなたは今わたしたちにたいして特にいたわるような寛大なあつかいをして下さるべきですわ。だってわたしたちはなにもかも振り棄てて、あなたを信頼してここまで出てきたんだし、してみれば、それでなくとも、わたしたちはもうほとんどあなたの自由にできる状態にあるんですからねえ」
「さあ、そうとばかりも言えないんじゃないんですか。プリヘーリヤさん、特に、ちょうどいいところへ転がりこんで来たらしい、マルファさんが残してくれた三千ルーブリの話が出た今、私にたいする口のききようが変わってきたところから見ればね」と彼は針をふくんだ調子でそうつけ加えた。
「そうおっしゃるところから見れば、ほんとうに、あなたはわたしたちの寄るべない身の上をあてにしていたと想像してもよさそうだわ」とドゥーニャがいらだたしげに言った。
「しかし、少なくとも今はもうそんなことをあてにするわけにはいきませんよ。それに特に、スヴィドリガイロフ氏があなたの兄さんに全権を委任した秘密の申し出での伝達の邪魔はしたくありませんからね。私の見るところでは、その申し出でなるものはあなたにとって重大な、ひょっとしたらこの上なく楽しいような意味あいを持っているようですな」
「まあ、ひどい!」とプリヘーリヤが絶叫した。
ラズーミヒンはじっと椅子にかけていられないような様子だった。
「ドゥーニャ、お前はこれでも恥ずかしくないのかい?」とラスコーリニコフが聞いた。
「恥ずかしいわよ、兄さん」とドゥーニャは言うと「ルージンさん、出ていって下さい!」と憤怒に顔青ざめて、ルージンにむかって叫んだ。
ルージンはこんな結末になろうとはまるっきり予期していなかったらしい。彼はあまりにも自分を頼みすぎ、自分の権力と自分のいけにえたちの頼りない身の上に期待をかけすぎていたのだ。だから、いまだに信じられないくらいだったのである。彼は、顔は真っ青になり、唇はぴくぴく震え出していた。
「アヴドーチヤさん、今こんなはなむけの言葉をちょうだいしてこの戸口から出ていったが最後、――これは覚悟して下さいよ――私はもう二度と取って返しませんからね。よくよく考えて下さいよ! 言ったが最後、考えは変えませんからね」
「まあ、ずうずうしいこと!」ドゥーニャはさっと席を立ちながら叫んだ。「わたしだって、取って返してもらいたくなんかないわ!」
「なんですと? ははあ、なあるほど!」今の今までこんな結末になるものとはまったく思っていなかったルージンは、そのため今やまったく話のつぎ穂を失ってこう叫んだ。「なるほど、そうなんですか! だけど、いいですか、アヴドーチヤさん、その気になれば私には抗議することもできるんですぞ」
「あなたにどんな権利があってこの子にそんな口がきけるんです!」とプリヘーリヤはかあっとなって割って入った。「あなたはなにを材料に抗議ができますか? あなたはいったいどんな権利を持っているんです? ふん、あなたみたいなそんな男に娘のドゥーニャがやれますか? 出ていって下さい、もうこれっきりわたしたちにはかまわずに! わたしたちが悪いんです、こんなまちがったことに乗り出したことが、だれより悪いのはわたしです……」
「だけど、プリヘーリヤさん」ルージンは狂ったように興奮してしまった。「あなたは約束で私をしばっておきながら、今になってそれを破って……しかも、あげくの果てに……あげくの果てに、いわばそれによって私は余計な失費を強いられてしまったじゃありませんか……」
この最後の苦情があまりにもルージンの性格にぴったりだったため、憤怒とそれをおさえようとする努力で真っ青になっていたラスコーリニコフは急にこらえきれなくなって――大声で笑い出してしまった。が、プリヘーリヤは前後の見境がなくなってしまった。
「失費ですって? 失費っていったいどんな失費です? まさかわたしたちのトランクのことをおっしゃってるんじゃないんでしょうね? あれは車掌があなたにただで運んでくれたんじゃありませんか。まあ、わたしたちがあなたをしばったんですって! ほんとにしっかりして下さいよ、ルージンさん、これはね、あなたのほうがわたしたちの手足をがんじがらめにしたんで、わたしたちがあなたをしばったんじゃありませんよ!」
「もうたくさんよ、おかあさん、どうか、もうよしてちょうだい!」とアヴドーチヤは懸命に頼んでいた。「ルージンさん、どうかお願いですから、帰って下さい!」
「帰りますよ、だけど、最後にたったひと言だけ言わしてもらいます!」と彼はもうほとんどすっかり自制力を失って言った。「あなたのおかあさんはどうもすっかり忘れてしまったようですが、私は、あなたのことで近郷近在に悪評が立った直後にあなたをもらう気になったんですよ。あなたのために世論を無視し、あなたの評判をもとどおりにしてあげたわけだから、むろん、私としてはそれこそ十分に褒美を期待し、さらにあなたに感謝を要求してしかるべきだったんですよ……しかし、やっと今私は目があきましたよ! 私にも、事によると、世間の声を無視して行動したのは、実に、実に無鉄砲なことだったかもしれないということがわかりましたよ……」
「こいつ、命が二つあるとでも思ってるのか!」とラズーミヒンが椅子からぱっと立ちあがって、今にも制裁を加えようと身がまえながら、どなりつけた。
「あなたは下劣で意地悪な人だわ!」とドゥーニャが言った。
「なんにも言うんじゃない! なんにもするんじゃない!」とラスコーリニコフはラズーミヒンをおさえながら叫んだ。そしてそれから体がぶつからんばかりにルージンのそばへ寄って、
「とっとと出ていって下さい!」と静かに、区切り区切りいった。「もうこれ以上なんにも言わずに、さもないと……」
ルージンは数秒の間、憤怒にゆがんだ真っ青な顔をして、じっと彼をにらんでいたが、そのうちくるりと向きを変えると、そのまま出ていってしまった。このときこの男が立ち去りながら彼に対して抱いたほどの怒りに満ちた憎悪はだれでもそう滅多に覚えるようなものでなかったことはいうまでもない。ルージンは一切の罪はラスコーリニコフにある、ラスコーリニコフだけにあるときめてしまっていた。ただ、驚くべきことに、彼は階段をおりながらも、まだ、ひょっとすると、事態はまだ全然収拾つかなくなってしまったわけではないのかもしれない、二人の婦人のことだけだったら、『まだまだ十分』回復の見こみはあるなどと思っていた。
[#改ページ]
三
なによりも肝心なことは、彼が最後のどたん場まで、あんな結末になろうとは夢にも思っていなかったことである。彼は最後のぎりぎりまで、まさかあの貧窮にあえぐ寄るべない二人の女が自分の権力下から抜け出すようなことがあろうとは予想もせずに、いばり返っていたのだった。こうした信念を大いに助成したのは、虚栄心と、それにうぬぼれと呼ぶのが最もふさわしい自信であった。ルージンは、末輩から身を起こした人間だっただけに、病的なうぬぼれ癖がついており、自分の才知と能力を買いかぶっていて、ときには、ひとりきりでいるときなど、自分の顔を鏡にうつして見とれていることさえあった。それにしても、彼が世のなかでいちばん愛し、かつ大事に思っていたのは、粒々辛苦、あらゆる手をつくして手に入れた自分の金であった。その金こそは、彼より上にあったあらゆるものと肩を並べさせてくれたものだったからである。
ルージンはたった今ドゥーニャに、自分は彼女の悪評をも省みず彼女を妻にする決心をしたのだと悲痛な気持ちで言ってそれを思い起こさせようとしたが、それはあくまで本気で言ったのであって、ああした『いやしい忘恩的振舞い』にたいしてふかい憤りさえ感じていたのである。もっとも、あのときドゥーニャに結婚の申しこみをした頃には彼にも、あの噂はすでにマルファの手で大っぴらにくつがえされてしまい、もうとっくに町の者にも忘れ去られていたくらいだったから、あの噂が愚にもつかないものであるという確信はあった。それに彼自身にしても、あの当時でもすでにそういう事情を知っていたことを今でも否定するわけにはいかないはずである。それでいながら、彼はやっぱり、自分がドゥーニャを自分の位置まで引きあげてやろうと決意したことを高く評価し、それを偉業のように思っていた。だから、今ドゥーニャにむかってそれを口にのぼしたときも、自分が内心ひそかに愛《め》でいつくしみ、もう一度ならず嘆賞もしてきた自分の考えを口に出したのであって、それだけに、みんなはどうしてこの自分の偉業を嘆賞しないでいられるのか、腑に落ちなかったのだ。ラスコーリニコフを訪ねていったあのときも、彼は自分の成果を楽しみ、甘い甘いおせじを聞くつもりで恩人気どりではいっていったのだった。だから、今階段をおりながら、自分はこの上ない侮辱を受けた上に価値も認められなかった人間のように感じたのも当然だったわけである。
ドゥーニャは彼にとってそれこそなくてはならぬ存在だった。だから、彼女を思いきることなど、彼には考えられぬことだった。もうだいぶ前から、もう何年にもわたって、彼は結婚を楽しく夢見て、それでもひきつづき金をためながら、時機の来るのを待っていたのである。彼は、品行がよくて貧しい(ぜひとも貧乏でなければならない)、非常に若くて美しく、気品があって教養もある、苦労という苦労を大いになめつくして、大変おずおずしていて彼の前では顔もあげられないような、そして彼を一生涯自分の恩人と思って敬いあがめ、彼に、彼だけに服従し感心しているような娘を、心ひそかに、夢中になって思い描いていた。仕事を離れて静かなところで休息をとりながら、彼はこの魅惑的で気持ちの浮きたつようなテーマでどれほど多くの情景を、甘いエピソードを空想に描いたかしれない! その数年来の夢が今やほとんど実現しかけていたわけなのだ。彼はアヴドーチヤの美貌と教養に驚嘆し、その寄るべない身の上に極端なほど欲望をそそられていた。しかもこの場合は、自分が夢見ていたものを数段上まわるものすらあった。プライドを持った、個性のある、美徳を備え、教養と頭脳の発達の点では自分より上の(彼はそれを直感していた)娘が現われ、そういうすばらしい女が一生涯彼の偉業にたいして彼に奴隷のように感謝し、うやうやしく自分を無にして彼にかしずこうというのだ、しかもそれにたいして限りない完全な支配権を握るのがほかならぬ自分なのである! ……ちょうど折も折、まるであつらえたように、彼はそのちょっと前に、長い熟慮と待望の末、ついに、立身出世の道に決定的な変更を加えて、一段と広い活動舞台に足を踏み入れると同時に、すでにだいぶ前から耽溺《たんでき》するほど夢見ていた一段上の社会へ少しずつ移っていく決心をしていたところで……要するに、ペテルブルクでひとつ運試しをしてみようという気になっていたのである。彼は、女によって利するところは『実に、実に』多いということを知っていた。美しくて徳と教養をかね備えた女の魅力は彼の人生行路の驚くべき飾りとなり、彼に人をひきつけ、彼の後光ともなるわけだ……それが今やこうして――なにもかも崩壊しようとしているのである! この今起こった思いもかけぬ醜い決裂が彼に及ぼした作用は、さながら落雷のそれのようだった。それは一種の不様な悪ふざけであり、ばかげた出来事だった! ほんの少しばかりいばりかえってみせただけで、意見を述べたてる暇もなく、ただ冗談を言って調子に乗りすぎただけで、こんな重大な結果におわろうとは! しかも、彼はすでに彼なりにドゥーニャを愛してさえいたし、空想のなかではすでに彼女を支配していたのだ――それが突然こうなってしまったのである! ……いや! あしたにも、あしたにも全体を修復し、手当てを加え、修正しなければならない、それに第一――すべての原因となっている、あの高慢ちきな青二才をやっつけてしまわなければならない。さらに、やはりなにかふと、ラズーミヒンのことも、病的な感じとともに思い出された……が、しかしこのほうはじきにこう安心してしまった。『あんなやつはあの青二才とおんなじだと思えばいい!』では、彼が実際に真剣に恐れていたのはだれかといえば、――それはスヴィドリガイロフだった……要するに、いろんな心配事が目前に迫っていたわけである…………
「いいえ、わたしが、わたしがだれよりも悪いのよ」とドゥーニャは母親を抱いたり接吻したりしながら、そんなことを言っていた。「わたし、あの人のお金に目がくらんだんだわ。それにしても、ほんとのところ、兄さん、わたし、あの人があんなつまらない人だとは思っていなかったわ。わたし、もっと前にあの人を見ぬいていたら、なにに対しても迷うようなことはなかったのにねえ! わたしを責めないでね、兄さん!」
「神さまのお救いよ! 神さまの!」とプリヘーリヤはつぶやいていたが、その言いかたも何かうわの空で、まるで今起こったことがまだ完全にはのみこめないといった様子だった。
一同、たがいに喜びあい、五分もした頃には大笑いさえしていた。ときたまドゥーニャだけは、さっきのことを思い出すらしく、青い顔になったり、眉根をよせたりしていた。プリヘーリヤは、自分もやはりこんなに喜ぶことになろうとは、想像もしていなかった。つい今朝ほどはまだルージンとの決裂が彼女にはおそろしい不幸のように思われていたのだ。ラズーミヒンのほうはもう有頂天だった。彼はまだその喜びを完全に口に出す気にはなれなかったが、まるで百キロもあるおもりが胸から取りのけられたような感じで、熱病にでもかかったように体じゅう震えていた。今こそ彼は彼女たちに自分の全生涯をなげうって尽くす権利を得たわけである……今だってずいぶんいろんなことが起きているのだ! が、それでいて彼は先のこととなるともっと臆病にそうした考えを追い払おうとし、自分の想像に恐れをなしていた。ひとりラスコーリニコフだけはほとんど不機嫌に近い、ぼんやりした顔つきをして、ずうっとおなじ場所に坐りとおしていた。彼は、なにはさておきまずルージンを遠ざけることを主張していたくせに、さっきの出来事にだれよりもいちばん関心がなさそうに見えた。ドゥーニャは、兄がいまだに自分に大いに腹をたてているのだと思い、プリヘーリヤは息子をびくびくした目つきでじっと見つめていた。
「スヴィドリガイロフさんは兄さんになんていったの?」と、ドゥーニャが彼のそばへ来て聞いた。
「ああ、そうそう!」とプリヘーリヤも叫んだ。
ラスコーリニコフは頭をあげた。
「あの人はお前にぜひとも一万ルーブリ贈りたいと言っているんだ。そして、そのとき僕も立ちあいの上で一度お前に会いたいとも言っていたよ」
「会いたいって! 絶対にいけませんよ!」とプリヘーリヤが叫んだ。「よくもまあこの子にお金を贈りたいなんて言えたものね!」
それからラスコーリニコフはスヴィドリガイロフとの話を(かなりあっさりと)伝えた。が、それでもマルファの幽霊の話ははぶいてしまった、というのはよけいな話に深入りしたくなかったし、またいちばん必要なこと以外は、たとえどんなことでも話すのはいやだったからである。
「で、兄さんはあの人にどういう返事をなすったの?」とドゥーニャが聞いた。
「最初、僕は、お前になんにも伝言はしてやらないと言ったんだ。そうしたら、あの男は、自分の手で、あらゆる手をつくして、会見の機会をつくると言うんだ。それに、自分がお前に熱をあげたのは一時の気の迷いで、今はお前にはなんにも感じちゃいないと断言していたよ……あの男はお前をルージンと結婚させたくないらしいんだ……だいたい、支離滅裂《しりめつれつ》な話しぶりだったな」
「兄さん自身はあの人をどう思っていらっしゃるの? 兄さんにはあの人どういうふうに見えて?」
「正直言って、てんでよくわからないんだ。一万ルーブリ提供するなんて言うかと思えば、自分は金持ちじゃないなんて言うしさ。どこかへ旅に出たいと思っているなんて言うかと思うと、十分もすると、今言ったことを忘れてしまって、やはりいきなり、自分は結婚しようと思っている、自分に嫁を世話しようという者がいるなどと言ったりするんだ……むろん、目的はある。が、それがろくなことじゃないことはまずまちがいないだろうな。が、かといって、もしかりにお前にたいしてよからぬ企みをいだいているんだとしたら、やり方が間がぬけているようなのもなんだか変だしな……僕は、いうまでもなく、お前のために、その金はきっぱり断わっておいたけどね。だいたいのところ、あの男は実に奇怪な男に見えたね……なにか発狂の兆しさえ……あるような感じだったよ。だけど、僕の目が狂っていたのかもしれないよ。あれはただ単なる一種のまやかしだったのかもしれないからな。それにしても、マルファさんに死なれたことは、あの男にもショックだったようだな……」
「神さま、奥さんの魂が安らかでありますように!」とプリヘーリヤが叫んだ。「わたしは一生涯、一生涯あの方のために祈ります! ねえ、ドゥーニャ、その三千ルーブリがはいって来なかったら、今わたしたち、どうなっていたかしれないわよ! まあまあ、ほんとに天からでも降ってきたみたいだわ! それがさ、ロージャ、けさはわたしたちの手もとにそれこそたった三ルーブリしかなかったのよ。で、わたし、ドゥーニャといっしょに、時計を早急にどこかの質屋へでも入れようかと、そんなことばかり考えていたの、あの人のほうから察してくれないうちは、あの人からはもらうまいと思っていたんでね」
ドゥーニャはスヴィドリガイロフの申し出にはなぜかひどいショックを受けたらしく、ずうっと立ちつくしたまま、考えにふけっていた。
「あの人はなにかおそろしいことを思いついたんだわ!」と彼女はほとんど震えあがらんばかりになって、ささやくような声でひとり言を口走った。
ラスコーリニコフはそのなみなみならぬおびえように気づいた。
「僕はあの男にこれから何度か会うようなことになりそうだよ」と彼はドゥーニャに言った。
「みんなして注意してましょう! 僕はあいつの居場所をつきとめてやるよ!」とラズーミヒンは精力的にわめきたてた。
「目をはなさんぞ! ロージャが僕に許可してくれたんですからね。ロージャはさっき僕にこういったんですよ、『妹を守ってやってくれ』ってね。あなたも許可してくれますか、アヴドーチヤさん?」
ドゥーニャはにっこり笑って、彼に手をさしのべたが、心配はその顔からまだ去っていなかった。プリヘーリヤはこわごわと娘の顔を盗み見ていた。が、それでも彼女は三千ルーブリに明らかに安心した様子だった。
十五分もすると、みんなの話はこの上なくはずんでいた。ラスコーリニコフでさえ、話にははいらなかったが、しばらくの間注意して話を聞いていた。ラズーミヒンは熱弁をふるっていた。
「なぜ、なぜお二人は帰らなきゃならないんです?」彼は夢中になって歓喜にあふれんばかりの弁舌でまくしたてていた。「あなた方は田舎の町でなにをしようっていうんです? いちばん大事なことは、あなた方がここでみんないっしょに暮らして、たがいに必要としあうってことです、――今だってどんなに必要としあっているか、まあ考えてもごらんなさい! とにかく、しばらくの間でもね……そして僕を親友のひとりにして下さい、仲間に入れて下さい、そうしたら必ずすばらしい仕事が始められますよ。まあ、聞いて下さい、今すっかりくわしく説明してあげますから――計画をぜんぶ! まだけさのこと、まだなんにも起きていなかった頃に、僕の頭にひらめいたことなんですよ。実はこういうことなんです。僕には叔父がいて(僕、いずれあなた方にもご紹介しますけどね、実によくできた、すこぶる尊敬に値するじいさんなんですよ!)その叔父が千ルーブリの金を持っているんですが、本人は年金で暮らしているんで、困っていないんです。これでもう二年ごしその叔父に、その千ルーブリを借りてくれ、利子は六分も払ってくれればいいから、としつこく僕はせがまれているんです。僕にはそのからくりがわかっているんですよ。叔父はただ僕を助けたいだけなんです。それでも、去年は僕も別に必要はなかったんですが、今年は叔父の上京を待ちかまえて借りることにしたのです。それからあなた方がもう千ルーブリ、あなた方のその三千ルーブリのなかから貸して下されば、それでまず手初めとして十分です。こうやってわれわれは合同するわけですよ。さて、そこでわれわれはなにをするか?」
ここでラズーミヒンは自分の計画を展開しはじめた。そして、わが国のたいていの書籍商や出版業者は自分の商品のなんたるかを知るところ少ないため、出版業者はたいてい損をしている、ちゃんとしたものを出せばだいたい収支つぐなうもので、ときには巨額の利潤さえあげることもできるのだということを縷々《るる》説明した。出版活動は、もう二年も他人のために働いてきていたし三ヵ国のヨーロッパ語にもかなり通じていたラズーミヒンの夢見ていたところであった。六日ほど前にラスコーリニコフに、ドイツ語は『だめ』だといったが、あれは、彼に翻訳の仕事を半分引き受けさせて、三ルーブリの前金を受けとらせるためにでたらめを言ったのであって、そのことはラスコーリニコフもよく知っていた。
「どうして、いったいどうしてわれわれはこの好機を逸していいものですか、われわれの手にいちばん重要な資金のひとつが――つまり自分の金がはいることになったというのに?」とラズーミヒンは熱弁をふるった。「もちろん、大変な努力が必要ですよ。でも、みんなで努力しましょう、あなたと、アヴドーチヤさんと、僕とロジオンとでね……現在、出版によってすばらしい利潤をあげているものもいるんですからね! ところで、この企業のいちばん大事な基礎は、いったいなにを訳すべきかを知ることなんです。翻訳も、出版も、勉強も、なにもかもいっしょにやっていきましょう。今のところ、僕は役にたちますよ、なにしろ経験があるんですからね。もうここ二年もあちこち出版屋を渡り歩いているんで、連中の手のうちはすっかり知りつくしているんです。連中だって神さまじゃありませんからね、まったくの話! いったいなぜ、なぜご馳走を前にして、箸をつけないんです! 僕だって、本を二つや三つは知ってるんですよ、そうっと胸におさめているんです、翻訳して出すというアイデアだけでも一冊につき百ルーブリも取れそうなのをね、だけどそのうちの一冊なんかは、アイデア料に五百ルーブリくれるといわれても、そのアイデアを売らないね。あなた方はどうお思いか知らないが、僕がだれか出版屋にこいつを教えてやったところで、おそらく出版屋は信じないでしょうな、でくのぼうだから! ところで、仕事上のいろんな面倒なこと、印刷屋とか、紙とか、販売といったようなことだったら、こいつは僕に任せて下さい! そういうことなら隅の隅まで知っていますから! まあ、最初は小さく始めて、ついには大を成すことになります。少なくとも食っていくものくらいははいって来ますよ、それにいずれにせよ元ぐらいはとれます」
ドゥーニャの目はぎらぎら輝いていた。
「あなたのお話しになったこと、わたし大変気に入りましたわ、ラズーミヒンさん」と彼女は言った。
「わたしはこういう話になると、もちろん、なんにもわかりませんけど」とプリヘーリヤは意見を述べた。「これはなかなかよさそうね、もっともこれまただれにもわからないことですけど。どうも新しいことなんで、見当がつきませんよね。そうすると、むろん、わたしたちは絶対にここに残らなければなりませんわね、しばらくの間だけでも……」
彼女はロージャのほうに目をやった。
「兄さんはどう思って?」とドゥーニャが言った。
「僕は、非常にいいアイデアだと思うよ」と彼は答えた。「会社をこしらえるなんてことは、もちろん、前から考えることはないが、ほんとうに五、六冊は出してもきっと成功するだろう。僕も一冊、必ず売れるのを知ってるよ。それから、この男に事業経営の能力があるかどうかということだが、その点は疑問の余地はない。この男は、仕事のことはちゃんとのみこんでいるからな……もっとも、まだみんなで相談する暇はあるがね……」
「万歳!」とラズーミヒンが歓声をあげた。「ところでちょっと待って下さい、ここに、このおなじ建物に、おなじ家主の貸し室がひとつあるんですがね、こいつは独立の離れた部屋で、こちらの貸し室とはつながっちゃいないんです。家具はついているし、値段も手頃だし、部屋も小さいけど三つあるんです。まずさしあたりそれを借りるんですね。時計はあした僕が質に入れて金にして来ますから、そうすればあとは万事うまくいくでしょう。肝心なことは、あなた方が三人そろって暮らせるということですよ、ロージャもいっしょにね……おい君、どこへ行くんだ、ロージャ?」
「まあ、ロージャ、お前、もう帰るのかえ?」とプリヘーリヤがびっくりした様子さえ見せて聞いた。
「しかもこんなときに!」とラズーミヒンが叫んだ。
ドゥーニャはけげんそうな驚きの表情を見せて兄を見た。彼は帽子を握って出ていきそうにしていたのである。
「なんだ、みんなはまるで僕を野辺送りでもするか、永久に別れるかするような顔つきをしているじゃない」と彼はどこか変な調子で口走った。
彼はにやりと笑ったようだったが、それは微笑になっていなかった。
「だけど、ひょっとしてこれが最後になるかもしれんということも、だれにもわかりゃしないんだもんな」と彼はうっかりよけいなことをつけ加えてしまった。
腹のなかで考えかけたことが、ひょいと自然に口に出てしまったのだ。
「お前、いったいどうしたの?」と母親が叫んだ。
「どこへ行くのよ、兄さん?」とドゥーニャはどこか妙な調子で聞いた。
「いや、ただちょっとどうしても行かなきゃならん所があるんでね」と彼は曖昧な返事をしたが、その様子は、言おうとすることに迷っているようなぐあいだった。が、それでいてその青ざめた顔にはなにかはっきりと決意の色が現われていた。
「僕は言わなければと思っていたんです……ここへ来ながらも……おかあさんに言わなければと思っていたんです……ドゥーニャ、お前にもだ、僕たちはしばらく別れていたほうがいいって。僕はどうも加減が悪いんだ、気持ちが落ちつかないんだよ……僕はそのうち来ますよ、自分のほうからやって来ます……来られる時が来たらね。僕はあなた方を忘れやしません、愛していますよ……これは固く決意したことなんです……僕をほうっといて下さい! 僕をひとりっきりにしておいて下さい! 僕はこう決心したんです、もう前々から……これは固く決意したことなんです……たとえ僕になにが起ころうと、これで僕がだめになろうとなるまいと、僕はひとりっきりでいたいんです。僕のことはすっかり忘れてしまって下さい。そのほうがいいんだ……僕のことをほうぼう問いあわせたりしないで下さい。必要なときは、僕が自分から出向いて来るか……あなたたちを呼びますから。あるいは、なにもかも元どおりになるかもしれない! ……が、今は僕を愛してくれているんなら、あきらめて下さい……でないと、僕はあなたたちを憎むようになる、僕はそんな気がするんだ……じゃ、さようなら!」
「まあ!」とプリヘーリヤが絶叫した。
母親も娘もびっくり仰天してしまっていた。ラズーミヒンも同様だった。
「ロージャ、ロージャ! わたしたちと仲直りしてちょうだい、また元のようになろうよ!」とあわれな母親は叫んだ。
が、息子はゆっくりと戸口のほうに向きを変えると、のろのろした足どりで部屋を出ていこうとした。ドゥーニャが彼に追いすがった。
「兄さん! 兄さんはおかあさんをどうするつもりなのよ!」と、彼女は目を憤怒に燃えたたせながら小声で言った。
彼は辛そうに妹を見た。
「なんでもないよ、僕また来るよ、しょっちゅう来るよ!」と、彼はなにを自分が言おうとしているのか十分に意識していないような様子で、半ば声に出してそうつぶやくと、ぷいと部屋を出ていってしまった。
「冷酷で、意地悪なエゴイスト!」とドゥーニャは叫んだ。
「あの男は気ちがいなんですよ、冷酷なんじゃありません! 頭がおかしいんですよ! あなたにはあれがわからないんですか? だとしたら、あんたのほうが冷酷なんだ!……」とラズーミヒンが彼女の手をぎゅっと握って、その耳もとに口をつけんばかりにして熱した声でささやいた。
「僕今すぐもどって来ます!」彼は死んだようになっているプリヘーリヤにむかってそう叫ぶと、部屋を駆け出していった。
ラスコーリニコフは廊下のはずれで彼の来るのを待ちうけていた。
「僕は、君が駆け出して来るってことをちゃんと知っていたんだ」と彼は言った。「二人のところへ帰って、いっしょにいてやってくれ……あしたも二人のところに来てやってくれ……これからいつも。僕は……また来るかもしれない……できたらね。じゃ、さようなら!」
こう言うと、彼は手をさし出しもせずに、相手から離れていった。
「いったい君はどこへ行くんだ? どうしたんだ? 君の身にいったい何が起きたんだ? こんなことってあるもんか!……」ラズーミヒンはすっかり途方にくれてそうつぶやいていた。
「もうこれっきり言わないぞ、もうけっしてなんにも僕には聞かないでくれ。僕には君に答えられることなんかなんにもないんだから……僕のところへは来ないでくれ。ひょっとしたら、僕のほうからここへやって来るかもしれない……僕のことは放っといてくれ、だけど、あの二人のほうは……|放ったらかさないでくれよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。僕の言ったことがわかったかい?」
廊下は暗かった。二人はランプのそばに突立っていた。一分ほど二人は無言のままたがいに目と目を見合っていた。ラズーミヒンには一生涯この瞬間が忘れられなかった。ラスコーリニコフの燃えるような、じっと動かぬ視線が刻々と強さを増して、彼の心を、意識をつらぬくような感じだった。突然ラズーミヒンはぶるっと身震いした。なにやら奇怪なものが二人の間を通りすぎたような気がしたのである……ある想念が暗示のようにひらめきすぎたのだ、ぞっとするような、醜怪な、両人とも悟ってしまったあるものが……ラズーミヒンは死人のように色を失ってしまった。
「今こそわかったろう?」だしぬけにラスコーリニコフが顔を病的にひきゆがめたまま言うと、「二人のところへ帰ってくれ」と急に言いたし、ぱっと身をひるがえして、建物の外へ出ていってしまった……
その晩プリヘーリヤのところで起きたことについては、もはやくわしく述べることはよそう。ラズーミヒンはとって返すと、二人を安心させ、ロージャには病気中は静養させる必要がある、ロージャは必ずまたやって来る、毎日でもやって来るだろう、彼はずいぶんひどく神経の調子が狂ってしまっているから、彼を刺激してはいけない、自分は彼から目を放さないようにし、彼にいい医者もつれて来てやろうし、完全な立ちあい診察もさせようなどと誓った……要するに、その晩を境にしてラズーミヒンは二人の息子ともなり兄ともなったわけである。
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四
ラスコーリニコフのほうはまっすぐソーニャの住む堀ばたのアパートをさして歩き出した。アパートは三階建てで、緑色の古い建物だった。彼は庭番をさがし当てると、服屋のカペルナウーモフが住んでいるだいたいの場所を教えてもらった。そして裏庭の片隅に狭い暗い階段を見つけ出して、やっと二階へあがると、裏庭の側の二階をまわっている廊下に出た。カペルナウーモフの住まいの入り口はどこなのだろうと思いまどいながら暗闇のなかをぶらぶら歩いているうちに、ふいに自分のところから三歩ほど離れたどこかのドアがあいた。彼は機械的にそのドアに手をかけた。
「どなたですの?」と女の不安そうに聞く声がした。
「僕ですよ……あなたのところへ来たんです」とラスコーリニコフは返事して、ちっぽけな入り口の部屋へはいった。そこには、おしつぶれた椅子の上においてあるゆがんだ銅製の燭台にろうそくがともっていた。
「あなたでしたのね! まあ!」とソーニャがかすかな声を立てて、釘づけになったように立ちすくんだ。
「あなたの部屋へはどう行くんです? こっちですか?」
こう言うと、ラスコーリニコフは努めて彼女のほうを見ないようにしながら、大急ぎで部屋へ通った。
一分もした頃、ソーニャもろうそくを持ってはいって来て、ろうそくを立てると、思いがけない彼の訪問に驚いたらしく、言いようもない興奮で胸がいっぱいになり、まったく途方にくれて、男の前に立った。と、見る見るその青白い顔に赤味がさし、目には涙さえにじみ出た……彼女はたまらないほどいやな気持ちもすれば、恥ずかしくもあり、また甘いような気持ちもした……ラスコーリニコフはすばやく顔をそむけると、テーブルのそばの椅子に腰をおろした。その間に彼はちらっとひと目で部屋の様子を見てとっていた。
それは広いことは広いが、ひどく天井の低い部屋だった。これはカペルナウーモフ一家の唯一の貸間で、左手の壁にそこへ通ずる閉めきったドアがあった。反対側の右手の壁にもうひとつドアがあったが、これは年じゅう閉めきりになっていて、そこはもう、隣りの別の住まいになっていた。ソーニャの部屋はなんとなく物置じみて、ひどくいびつな四角形をなし、それが部屋になにか片輪じみた感じを与えていた。掘り割りに面した、窓が三つある壁はなぜか部屋をななめに切っていて、そのため一方の隅はひどく狭い鋭角をなしてずっと奥のほうへひっこんでいて、弱い明かりではよく見わけがつかないくらいで、もう一方の隅はそれこそ不恰好すぎるくらい鈍角を呈していた。このだだっ広い部屋には家具らしいものはほとんどなかった。右手の片隅には寝台があり、寝台のそばのドアに近いところには椅子が一脚おいてあった。寝台のある壁にそって、よその住まいに通ずるドアのそばには青色のクロースをかけた粗末な薄板張りのテーブルがあって、それをかこんで籐椅子が二つおいてあった。それから、反対側の壁の、鋭角の隅に近いところには大きくもない普通の材質のたんすが、ぽつんと置き忘れられたように立っていた。これが部屋にあったすべてであった。古びて、すりきれている黄ばんだ壁紙は、あちこち隅のほうが黒ずんでいた。さだめし、ここは冬はじめじめして、炭酸ガスもこもるものと思われる。貧乏なことはひと目でわかった。寝台のそばにさえカーテンもかかっていなかった。
ソーニャは、自分の部屋のなかを注意ぶかく無遠慮に見まわしている客を無言のまま見つめていたが、しまいに、まるで裁判官や自分の運命を決する人の前にでも立たされたように、恐怖のあまりわなわな震え出した。
「こんなにおそくあがって……もう十一時でしょう?」とラスコーリニコフは相変わらずまだ目をあげようともせずに、そう聞いた。
「ええ、そうです」とソーニャはつぶやいてから、「あ、そうだったわ、そうだったわ!」と、自分にとってこの急場を脱する道はこれしかないような様子で、急にあわてて言い出した。
「たった今大家さんのうちの時計が打ったばかりでしたわ……わたし、この耳で聞いたんですの……そうですわ」
「僕はあなたのところへこれが最後と思って来たのです」と、ラスコーリニコフは、ここへ来たのはこれが初めてなのに、気むずかしげな顔で語をついだ。「僕は、ひょっとしたら、もうこれっきりお会いできないかもしれません……」
「どこかへ……お出かけになりますの?」
「わかりません……なにもかもあしたの朝です……」
「それじゃ、あした母のところへもいらっしゃらないんですの?」というソーニャの声は震えをおびた。
「わかりません。なにもかもあしたの朝になったらわかります……問題はそんなことじゃない、僕はひと言言いたいことがあって来たんです……」
彼は彼女のほうへふと物思わしげな目をあげたとたんに、自分は腰かけているのに、彼女のほうはまだ自分の前に立ったままでいるのに気がついた。
「どうしてあなたは立っておられるんです? おかけなさい」と彼は急におだやかな、やさしい声になってそう言った。
ソーニャは腰をおろした。ラスコーリニコフは愛想よく、ほとんど同情に近い目つきで一分ほど彼女を見つめていた。
「あなたはほんとにやせていますね! あなたのその手ときたら! まるで透きとおっているみたいだ。指なんかも、死人の指みたいだし」
彼は彼女の手を取った。ソーニャは微かに笑みを浮かべて、
「わたし、いつもこうでしたのよ」と言った。
「お家にいた頃から?」
「ええ」
「いや、それは、むろん、そうだろう!」彼はぶっきらぼうにそう言ったが、顔の表情も声音もまたがらりと変わってしまった。彼はもう一度あたりを見まわした。
「この部屋はカペルナウーモフから借りているんでしょう?」
「ええ、そうですわ……」
「その家族はあっち側に、ドアのむこうにいるんですね?」
「ええ……むこうにもやはりおなじような部屋があるんですの」
「家族ぜんぶひと部屋に住んでいるんですか?」
「ええ、ひと部屋に」
「僕だったらこんな部屋には夜は、怖くっていられないね」と彼は陰気そうな顔をして言った。
「大家さん一家がとてもいい人たちだし、とてもやさしい人たちですから」とソーニャは答えたが、相変わらずまだわれに返れず、考えもまとまらないような様子だった。「家具からなにからなにまで……みんな大家さんのものなんですよ。あのご夫婦もとてもいい人だし、子供たちもしょっちゅうわたしのところへ遊びに来ているんですの……」
「それはどもりの夫婦でしょう?」
「ええ、そうです……旦那さんはどもりで、それにびっこですの。おかみさんもやはり……どもるというほどでもないんですけど、なんだか、しまいまで言わないようなぐあいですわ。おかみさんもいい人ですわ、とっても。旦那さんはもと屋敷奉公をしていた人なんですって。子供さんは七人いて……いちばん上の子だけはどもるけど、あとの子は病気がちなだけで……どもりませんわ……どこであの人たちのことをお聞きになりましたの?」と彼女は少々驚いたような様子でそう言いそえた。
「みんなあなたのおとうさんがあのとき話してくれたんです。あなたのこともすっかり話してくれましたよ……あなたが六時に外へ出ていって、八時すぎにもどって来たことも、カテリーナさんがあなたの寝床のそばでひざまずいていたことも」
ソーニャは困った顔をした。
「わたし、きょうあの人に出会ったかと思いましたわ」と彼女は思いきり悪そうに小声で言った。
「だれに?」
「父にですの。わたし、通りを歩いていましたの、すぐそこの角を、九時すぎにね、そしたら父が前を歩いていくじゃありませんか。ほんとにうちの父にそっくりだったんですよ。わたし、よっぽど母の家へ寄ろうかと思いましたわ……」
「あなたはぶらついていたんですね?」
「ええ」と、ソーニャはまたもや困って目をふせて、ぶっきらぼうに小声で答えた。
「あなたはカテリーナさんにぶたれそうになったことだってあるんでしょう、家におられた時分に?」
「あら、とんでもない、なにをおっしゃるんですの、いったいなんてことを、そんなことありませんわ!」ソーニャはなにやらびっくりしたような顔つきさえして彼に目をあてた。
「じゃ、あなたはあの人を愛しているわけですね?」
「母を? ええ、そりゃあ、もう!」ソーニャは切なげにそう言葉じりを引いたかと思うと、悶えるようにぱっと手を組んで、「ああ! 母を……あなたに知っていただけたらと思いますわ。あの人はまったくの子供なんですよ……あの人は……不幸で……頭がまるでおかしくなっているみたいなんですの。とても利口な人だったんですけどねえ……とても心の広い……とてもやさしい人だったわ! あなたはなんにも、なんにもご存じないんです……ああ!」
ソーニャはまるで絶望でもしたように、興奮し悶えて、両手をもみしだきながら、そんなことを口走り、その青白いほおがまたぱっと燃え立ち、目には苦痛が現われた。見たところ、彼女はおそろしくいろんなことに心を動かされ、なにか表現したり、口に出したり、弁護したりしたくてたまらないらしかった。なにか、もしこういう表現が許されるとすれば、|飽くことを知らぬ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》同情ともいうべきものが見る見る彼女の顔ぜんたいに現われ出た。
「あの人がぶったなんて! いったいなにをおっしゃるんです! まあ、ぶったなんて! たとえぶったにしても、それがなんですか! え、それがなんですの! あんたはなんにも、なんにもご存じないんだわ……あの人はそれは不幸な人ですのよ、ああ、ほんとに不仕合わせな人だわ! それに病身で……あの人は正義を求めているんです……あの人は心の清らかな人なんですよ。あの人は、何事にも正義がなければならないと信じていて、それを求めているんですのよ……たとえどんなに苦しめられようと、あの人は不正なことはしないんですわ。あの人は、世のなかはなににでも正義がおこなわれるというわけにはいかないんだってことに自分でも気づかないもんだから、いつもいらいらしているんですよ……まるで子供みたいなのよ、子供みたいなんですの! あの人は正義の人ですわ、正義の人ですわ!」
「だけど、あなたはどうなるんです?」
ソーニャは問い返すように相手を見た。
「あの人たちはみんな、あなたの肩にかかってきたでしょう。そりゃ、確かに、これまでだってぜんぶあなたの肩にかかっていましたけどね、その上亡くなったおとうさんがあなたのところへ酒代をねだりに来たりして。それはそうとして、これからはどうなるんですかね?」
「わかりませんわ」ソーニャは悲しげに答えた。
「あの人たちはあそこに居つづけるんでしょうか?」
「さあ、どうですかしら、家賃がたまっていますから。きょうも、おかみさんが立ちのいてもらいたいって言ったら、母は、こっちも一分だっていてやるもんかって言っていたそうですわ」
「いったいなんだってあの人はそんないばった口をきくんでしょうかね? あなたをあてにしているからでしょうか?」
「まあ、いけませんわ、そんな言いかたはしないで下さい! ……わたしたちはひとつ家の者で、いっしょに暮らしているんですからね」ソーニャの、また急に興奮し、いらだちさえしたその様子は、カナリヤかなにかそういった小鳥でも怒ったらそうなるかと思われるようなふぜいだった。「あの人にしてみればどうしようもないじゃありませんか? あの人はどうしたら、どうしたらいいというんですの?」とこう彼女は、熱して興奮しながら聞くのだった。「きょうだって、あの人、ずいぶん泣いていましたわ! あの人は頭が混乱しているんですのよ、お気づきになりませんでした? 混乱しているんですの。あしたはなにもかもきちんとやらなければ、前菜も出さなければなどと子供みたいに気をもんでいるかと思えば……手をもみしぼったり、血を吐いたり、泣いたり、まるでやけどでも起こしたように、いきなり壁に頭をぶつけ始めたりするんですの。それからまた自分を慰めたり、あなたを頼りにして、今あの人はわたしの救い主だわなんて言ってみたり、どこかからお金を少し借りて、お前をつれてわたしの生まれた町へ帰ろう、そしてお嬢さん方を入れる寄宿舎をたてて、お前を舎監にしてやろう、そうして新規まきなおしですばらしい生活を始めようなんて言ったりして、わたしを接吻したり、抱いたり、慰めたりしてくれるんですの、しかもまちがいなくそうなるものと信じているんですものねえ! そんな夢みたいなことを信じているんですもの! それなのに、どうしてそれに逆らえますか? それでいてきょうなども自分で一日じゅう拭き掃除をしたり、修繕をしたり、あの弱い力で桶を部屋のなかへ運びこんだりしているうちに、息を切らして、寝床にばったり倒れこんでしまったんですよ。それなのに今朝はまたわたしと二人で市場へポーリャとリーダの短靴を買いに行ってきたんですの、あの子たちの靴がすっかりだめになってしまったものですからね。ところが、心づもりして持っていったお金では足りなかったんですの、とても足りなかったんですの、あなたはご存じないでしょうけど、あの人はセンスがあるもんですから、それこそかわいい小さな靴を選り出したんですよ……そこの店さきで商人たちのいる前で、あの人、お金が足りないって、わあっと泣き出してしまいましたのよ……それはそれはかわいそうで見ていられなかったわ」
「それでわかりましたよ、どうしてあなた方が……こんな暮らしをしているのかが」とラスコーリニコフは悲痛な薄笑いを浮かべて言った。
「じゃ、あなたはかわいそうとは思わないんですの? かわいそうとは?」そう叫んでソーニャは椅子から飛びあがった。「でも、あなたは、わたし知っていますわ、あなたご自身、まだなんにもごらんにならないうちに、ありったけのものを恵んでおしまいになったでしょう。これがもしなにもかもごらんになっていらっしゃったら、ああ、どうなるかしら! それなのに、わたしったら、何度、何度あの人を泣かすようなことをしたかしれないわ! つい先週だってそうでしたわ! ああ、わたしったら! おとうさんがなくなるたった一週間前なのに! わたし残酷なことをしてしまったわ! しかも、何度、何度そういうことをしたかしれませんわ。ああ、きょうも一日じゅうあのことを思い出して、どんなに苦しかったかしれないわ!」
ソーニャはそう言いながら、思い出の苦しみに、手をもみしだきさえした。
「あなたが残酷な人なんですって?」
「ええ、わたしがです、わたしがです! わたしがあのとき行くと」と彼女は泣きながら話しつづけた。「亡くなった父がこう言うんですの。『わしに読んでくれないか、ソーニャ、なんだか頭痛がするんでな、読んでおくれ……ここに本があるから』なにか薄っぺらな本が父のところにあったのです、おなじ建物に住んでいらっしゃるレベズャートニコフさんから借りてきたものなんですの、父はそういうおもしろい本をしょっちゅう借りてきていたんですのよ。ところが、わたしは、『もう帰らなければならないから』と言って、そのまま読んであげようとしなかったんですの、わたしが家へ寄った主な目的は、母にえりを見せることだったもんですからね。古着屋のリザヴェータがわたしにえりと袖当てを安い値段で手に入れてきてくれたんですけど、なかなか立派で、まだ新品で、飾りまでついていたんですの。すると、それが大変母の気に入りましてね、自分でそれをつけて、鏡にうつしてみたりして、とっても気に入ったらしくて、『わたしにこれ、ちょうだいな、ソーニャ、後生だから』なんて言うんですよ。|後生だから《ヽヽヽヽヽ》と頼んだところを見ると、よっぽどほしかったんでしょうね。でも、あの人はあんなものをつけてどうしようというんでしょう? なんのことはない、ただ昔の仕合わせだった時代が思い出されたわけなんですわ! あの人は自分の姿を鏡にうつして、自分に見とれていましたけど、あの人には着物なんてなんにも、それこそなんにもないんですよ、物だってなんにもないんですの、もうここ何年も前から! それでいてあの人はだれにも絶対になにひとつねだったことなんかないんですのよ。プライドを持った、むしろ自分のほうからなけなしのものでもやってしまうような人なんですの、それがそのときばかりはくれというんですから、――よっぽど気に入ったんでしょうね! それなのに、わたしはやるのが惜しくなって、『こんなもの、おかあさんにはなんにもならないでしょう?』なんて言ってしまったんですの。そういうふうに言ってしまったんですよ、なんにもならないでしょうって。あの人にはまったくそんなことを言うべきじゃなかったのにねえ! 母はわたしをじっと見ていましたわ、わたしにことわられたことがひどく胸にこたえたんでしょうね、それこそこちらも見ていて気の毒なくらいだったわ……えりのことじゃなくて、わたしにことわられたことが胸にこたえたんだと、わたしは見てとりましたわ。ああ、今になってああいったことをぜんぶもとに返して、なにもかもやり直せたら、ああいう昔言ったことをぜんぶ取り消せたらと思いますわ……あらまあ、わたしったら! ……なんだってこんな話を! ……あなたにはどうだっていいことなのにね!」
「あなたはその古着屋のリザヴェータをご存じだったんですか?」
「ええ……あなたもご存じでしたの?」とソーニャはいくぶん驚いたようにそう問いかえした。
「カテリーナさんは肺病です、それも悪性の。もうじき死にますよ」と、ラスコーリニコフはしばらく黙ってから、問いには答えずに、そう言った。
「いいえ、そんなことはありませんわ、ありませんわ、ありませんわよ!」と言ってソーニャは無意識なしぐさで相手の両手をつかんだが、それはまるで、どうかそんなことにならないようにしてくれと哀願しているようなふうだった。
「だって、死んだほうがいいじゃありませんか」
「いいえ、よくはありませんわ、よくはありませんわ、絶対によくはありませんわ!」と彼女はおびえきって、意味もわからずにそう何べんも言っていた。
「じゃ、子供たちは? そうなったらあなたはあの子供たちをどこへやるつもりです、自分のところへ引き取らないとしたら?」
「ああ、もうわたしにはわからないわ!……」とソーニャはほとんど捨てばちな気持ちでそう叫ぶと、頭をかかえこんでしまった。見たところ、こういう考えはもう何度となく彼女の頭にひらめいたことがあって、彼はただその考えをもう一度つっつき出したにすぎなかったのだ。
「じゃ、それはいいとして、もしもあなたが今、カテリーナさんが生きている間に病気になって、病院へかつぎこまれるようなことにでもなったら、そのときはどうします?」と彼は残酷にも問いつめていった。
「まあ、あなたったらなにをおっしゃるの、なにを? そんなこと絶対にありえませんわ!」そう言うと、ソーニャの顔が烈しい驚きにひきゆがんだ。
「どうしてありえないんです?」ラスコーリニコフはこわばった薄笑いを浮かべながらつづけた。「あなたには保険がついているわけでもないんでしょう? だったら、あの人たちはどうなりますかね? みんなしてぞろぞろ往来へ出て、カテリーナさんはせきをしながら物乞いをして、きょうみたいにどこかの壁に頭をぶっつけるし、子供たちは泣き出す……で、その辺でぶっ倒れて警察から病院へと運ばれたあげく、死んでしまい、子供たちは……」
「いいえ、いいえ! ……そんなことは神さまがおさせになりませんわ!」という叫び声がついにソーニャのしめつけられた胸からほとばしり出た。彼女は、まるですべてが彼にかかっているかのように、祈るような目つきで相手を見つめ、黙って哀願するように両手をあわせたまま、じっと聞いていた。
ラスコーリニコフは立ちあがって、部屋のなかを歩き出した。一分ほど過ぎた。ソーニャはおそろしい悲哀にくれたまま、両手と頭を垂れて、そこに立ちつくしていた。
「貯金をすることはできませんか? 災難でも起きたときの用意にのけておくことは?」と彼は彼女の前にぴたりと立ちどまりながら聞いた。
「できませんわ」とソーニャはささやくように答えた。
「もちろん、できないでしょうね! だけど、やってみたことはありますか?」彼はほとんど嘲笑に近い笑いを浮かべながらそうつけ加えて聞いた。
「ありますわ」
「で、うまくいかなかったんでしょう! いや、それはもういうまでもないことだ! 聞くまでもないことだ!」
そう言ってまた彼は歩き出した。さらにまた一分ばかり過ぎた。
「稼ぎは毎日あるわけじゃないんでしょう?」
ソーニャはさっきよりも困った顔をし、またもや顔がさっと赤くなった。
「ええ」と彼女はそれこそやっとの思いでささやくように答えた。
「ポーリャも、きっと、おなじ道をたどるよ」と彼はだしぬけにそう言った。
「いいえ! いいえ! そんなこと、あろうはずがないわ、あるもんですか!」と、ソーニャはまるでナイフでぐさりとやられでもしたように、死にもの狂いの形相をして、大声でわめきたてた。「神さまは、神さまはそんな恐ろしいことをお許しになるわけはありませんわ!……」
「だけどほかの人にはお許しになっているでしょう」
「いいえ、いいえ! 神さまがあの子を守って下さいますわ、神さまが!……」と、彼女はわれを忘れておなじことを言っていた。
「もしかしたら、神さまなんて全然いないのかもしれないよ」とラスコーリニコフはある意地の悪い喜びさえ覚えながらそう答えたかと思うと、急に笑い出して、相手の顔を見つめた。
突然ソーニャの顔に烈しい変化が起き、その顔をけいれんが走った。彼女は言い表わしようもないほどの非難をこめて相手をちらりと見ると、なにか言いたそうにしたが、なんにも言い出せず、ただ顔を両手でおおって、急に激しくすすり泣きはじめただけだった。
「あなたは、カテリーナさんの頭が混乱しているって言うけど、あなたの頭こそ混乱しているじゃありませんか」とラスコーリニコフはしばらくおし黙っていたあげくそんなことを言った。
五分ほど過ぎた。彼は絶えず、無言のまま、彼女には目もくれずに、行きつもどりつしていた。が、あげくの果てに彼女のそばへ歩み寄った。その目はぎらぎら輝いていた。彼は両手で彼女の肩をつかむと、まともに相手の泣き顔をひたと見すえた。そのまなざしはかさかさして、燃えたつようで、鋭く、唇は激しくぷるぷる震えていた……と彼はがばとばかりに体をかがめたかと思うと、ゆかにうずくまって、相手の足に接吻した。ソーニャはぞうっとして、まるで気ちがいからでも身を引くように、彼から身を引いた。実際、彼の目つきは、さながら気ちがいのそれだった。
「なにをあなたは、なにをあなたはなさるの?わたしなんかに!」と彼女は、顔青ざめて、そうつぶやき、とたんに心臓が痛いほどぎゅっとしめつけられた。
ラスコーリニコフはすぐさま立ちあがった。
「僕は今君に対してひざまずいたんじゃない、僕は全人類の苦しみにたいしてひざまずいたんだ」とこう彼は一種強暴な口調で言うと、窓のほうへ離れていったが、「実はね」と、一分ほどした頃彼女のところへもどって来て、こう言い足した。「僕はさっきある無礼なやつにこう言ってやったんだ、きさまなんかあの娘さんの小指ほどの値打ちもないって……それから、僕はきょう自分の妹に名誉にもその娘さんと同席させてやったとも言ってやったんだ」
「まあ、なんてことを皆さんにおっしゃったんです! 妹さんもいらっしゃる前で?」とソーニャはびっくりして叫んだ。「わたしと同席させたなんて! 名誉にもだなんて! このとおりわたしは……けがれた女ですのに……まあ、あなたはなんてことをおっしゃったんでしょう!」
「僕が君のことをそう言ったのは、けがれや罪のためじゃない、君の偉大な苦しみのためなんだ。君は大いなる罪の女だと言うが、それはそのとおりだ」と彼は感激に近い調子で言い足した。「君が罪の女であるわけは、なによりもまず、君が|ただ益もなく《ヽヽヽヽヽヽ》自分を殺し、自分を犠牲にしてしまったことだ。これが恐ろしいことでなくてなんだろう! 君が、自分でもこんなに憎悪しているこの泥沼のなかに生きている、しかも(目をあけさえすれば)、こんなことをしてもだれを助けることにもならないし、だれもなにからも救えるわけではないということが自分にもわかっているのに、これが恐ろしいことでなくてなんだろう! ひとつ最後に僕に教えてくれ」と彼は半狂乱の体で叫んだ。「どうしてこんな恥辱やこんな下等なことが君の内部で別のこれとは正反対の神聖な感情と共存しているんだ? いっそまっさかさまに水のなかへ飛びこんで、いっぺんに片をつけてしまったほうが正しいんじゃないか、千倍も正しいし、利口じゃないのか!」
「じゃ、あの人たちをどうしますか?」とソーニャが苦悩に満ちた目つきで彼をちらりと見て、弱々しい声でそう問い返したが、それでいて、彼の提案に驚いたふうはまるっきりなかった。ラスコーリニコフは不思議そうに彼女の顔を見つめた。
彼は彼女の目つきひとつに一切を読みとった。つまりこれは、実際に彼女の頭にすでにそういう考えがあったということなのだ。事によったら、彼女は絶望にかられてもう何度となく真剣に、どうやっていっぺんに片づけてしまおうかと考えぬいたかもしれないのだ、そしてずいぶん真剣に考えたからこそ、今の彼の提案にたいしてほとんど驚きの色も見せなかったのかもしれないのである。彼の言葉が残酷であることにすら彼女は気づいていなかった(彼の非難と、彼女の恥辱にたいする彼の特別な見方の意味にも彼女は、むろん、気づいていなかった。それは彼の目にも明らかだった)。が、しかし、今の自分の身の上がけがらわしい恥ずべきものだという考えに、彼女はもう久しいこと、どんなにおそろしい痛みを覚えながら苦しみ悩んできたかということは、彼にも十分に理解できた。それならなにが、いったいなにが、ひと思いに片をつけてしまおうという決意を、これまで思いとどまらせてきたのだろう、と彼は考えた。ここまで来てやっと彼にも、あの哀れな、小さなみなし子たちと、あの、肺病やみで、壁に頭を打ちつけたりする、みじめな半気ちがいのカテリーナが彼女にとってどういう意味を持っているかが、完全にわかった。
が、それにしても、ソーニャがこれだけの個性を持ち、まがりなりにもこれだけの教育を受けている以上は、どうあろうともこのままではいられなかったろうということも、これまた彼には明らかだった。こうして彼にはやっぱり、どうしてこれほど長い間こんな身の上に甘んじていながら、身投げもできなかったし、発狂もせずにいられたのだろうということが疑問になってくるのだった。むろん、彼には、ソーニャのような身の上は、たとえ、不幸にも、唯一の現象でもなければ例外的な現象でもないとはいえ、社会における偶然的な現象だということはわかっていた。それにしても、このほかならぬ偶然性が、この多少の教育と彼女の前歴のすべてが、このいまわしい道に第一歩を踏み出したとたんに、おそらく、彼女を殺したはずではなかったろうか。いったいなにが彼女を引きとめてきたのだろう? 淫蕩《いんとう》の味ではあるまいか?この恥ずべき行為は、明らかに、彼女に単に機械的に触れただけで、まことの淫蕩はまだ一滴も彼女の心にしみこんではいない。それは、彼女が彼の前に現に立っているその姿を見れば、彼にもわかることである……
『この女には三つの道がある』と彼は思った。『堀に身を投げるか、気ちがい病院へはいるか、それとも……それとも第三の道として、知能を混濁させ心を麻痺させる淫蕩のなかに飛びこむかだ』最後の考えは彼にはいちばんいやな考えだった。だが、彼はすでに懐疑家だし、若くて、物の考え方が抽象的だったから、従って残忍だったから、最後の解決の道、つまり淫蕩がいちばん確かだと信じないではいられなかった。
『しかし、はたしてそうだろうか』と彼は心のなかで叫んだ。『はたして、いまだに精神の清らかさを保っているこの女も、ついには意識しながらあの胸くその悪い悪臭に満ちた穴のなかへ引きずりこまれてしまうのだろうか? はたしてすでに引きずりこまれはじめているのだろうか、そしてはたしてこの醜悪行為がもはや彼女にはそれほどいとわしく思われなくなっているからこそ、彼女は今まで耐えてこられたのだろうか? いや、いや、そんなことはあるはずがない!』と彼はさっきのソーニャのように心のなかで叫んだ。『いや、これまで彼女を身投げから引きとめていたのは罪の観念なのだ、それに|あの人たち《ヽヽヽヽヽ》なのだ……それももし彼女がいまだに気がちがっていないとしたらの話だ……いや、待てよ、彼女はまだ気がちがっていないなどとだれも言っていはしないじゃないか? はたして彼女は健全な判断力を持っているのだろうか? はたして健全な判断力を持っていながら、彼女のようなあんな考え方ができるものだろうか? はたして破滅の深淵のふちに、すでに自分を引きずりこもうとしている悪臭に満ちた穴の上にこうして坐って、危険だと言われているのに、それを振りはらって耳をふさいでいられるものだろうか? 彼女はどうなるのだろう、事によると奇蹟の出現を待っているのではあるまいか? きっとそうだ。が、しかしこういうことこそ発狂の徴候ではあるまいか?』
彼はしつこくこの考えに固執した。この結論はほかのどんな結論よりも彼には気に入っていた。彼はじっと彼女の顔に目をこらしはじめた。
「それじゃ君は一心に神さまに祈っているわけかい、ソーニャ?」と彼は相手に聞いた。
ソーニャは沈黙をつづけ、男はそのそばに立って、返事を待っていた。
「神さまを持たなかったら、わたしとても生きてなんか来られなかったわ?」彼女は彼にきらきら光をおびてきた目をちらりと投げて、早口に力をこめてそうささやくと、相手の手をぎゅっと固く握った。
『なるほど、やっぱりそうだったのか!』と彼は思った。
「だけど、そうしていたからって神さまは君になにをしてくれるかね?」と彼はさらに問いつめていった。
ソーニャは、まるで答えに窮したように、長いこと黙っていた。そのひよわそうな胸は興奮に大きく波うっていた。
「お黙んなさい! 聞かないで下さい! あなたにはそんな資格はありません!……」と彼女は憤然として彼をきっとにらみつけながら、だしぬけにそう叫んだ。
『そうだったのか! そうだったのか!』と彼はしつこく腹のなかでくり返していた。
「なんでもして下さるわ!」と、彼女はまた目をふせて、小声で早口に言った。
『これが解決の道なんだな! これが解決の説明なんだ!』彼はむさぼるような好奇のまなざしでしげしげと相手を眺めながら、腹のなかでそう結論した。
新たな、怪しい、ほとんど病的ともいえる感情を覚えながら彼はその青白い、やせぎすな、目鼻だちのととのっていない尖った顔に、これほど烈しい炎と燃え、これほど厳しい力強い感情に輝くこともあるそのおとなしそうな青い目に、憤慨と激昂にまだ震えているその小柄な体にじっと見入っているうちに、そういったものが彼には不可思議な、ありうべからざるものに思われてきた。『神がかりだ! 神がかりの女だ!』と彼は心のなかでくり返した。
たんすの上になにやら一冊本がおいてあった。彼は行きつもどりつしながらその前を通るたびにそれに気づいていたのだが、それを今手に取って、見た。それはロシヤ語訳の新約聖書だった。古い、読み古した、皮表紙の本だった。
「これはどこから手に入れたの?」と彼は部屋のむこうはしから彼女に声をかけた。彼女は相変わらずおなじ場所、テーブルから三歩ほどのところに立っていた。
「持ってきてくれたんですの」と彼女は、不承不承、相手の顔も見ずに答えた。
「だれが持ってきてくれたの?」
「リザヴェータが持ってきてくれたんです、わたしが頼んだもんですから」
『リザヴェータが! こいつは不思議だ!』と彼は思った。ソーニャにかんするものはなんでも、彼には刻一刻なんだか奇妙に、不可思議に見えてくるのだった。彼は本をろうそくのほうへ持っていって、ページをめくりはじめた。
「ラザロの話はどこにあるんだね?」と彼はだしぬけに聞いた。
ソーニャはかたくなにゆかを見つめたまま、返事をしなかった。彼女はテーブルにむかってやや横のほうに立っていた。
「ラザロの復活のところはどこかね? さがしてくれないか、ソーニャ」
彼女は流し目に彼のほうを見やった。
「そんなとこじゃありません……第四福音書ですよ……」と彼女は、彼のほうへ寄ろうともせずに、荒っぽい口調でささやいた。
「さがし出して、僕に読んでおくれよ」と言うと、彼は腰をおろして、テーブルにほおづえをつき、聞く身構えをして、気むずかしげにあらぬ方に目をすえた。
「三週間もしたら気ちがい病院のほうへお出で願いますぜ! おれはどうやら、もっと悪いことでもないかぎり、そこへ行っているらしいわい」と彼はひとり言をつぶやいた。
ソーニャは、ラスコーリニコフの変な頼み事をけげんそうな面持ちで聞くと、思いきり悪そうにテーブルのほうへ歩み寄り、それでも本を取りあげた。
「いったいあなたは聖書を読んだことがないんですの?」と、彼女はテーブルごしにうわ目使いに彼の顔をちらと見て、そう聞いた。その声はしだいにきびしくなってきた。
「もうずっと昔……学校へ行っていた頃読んだことがある。さあ、読んでおくれ!」
「教会で聞いたこともないんですの?」
「僕は……行ったことがないんだよ。君はちょいちょい行くのかい?」
「いいえ」とソーニャはひくい声で言った。
ラスコーリニコフはにやりと笑った。
「わかるよ……そうすると、あしたおとうさんの葬式にも行かないんだろう?」
「行きますわ。わたしは先週も行って……供養をしてきましたわ」
「だれの?」
「リザヴェータの。あの人、斧で殺されたんですの」
彼は神経がしだいにいらだってき、めまいが始まった。
「君はリザヴェータと仲よしだったの?」
「ええ……あの人は心のまっすぐな人でしたわ……あの人は……たまにしか来なかったわ……来られなかったんですの。わたし、あの人と読んだり……話したりしたものだったわ。あの人は神を見るでしょう」
この書物くさい言葉は彼の耳に異様にひびいた。それに、リザヴェータとの一種神秘めいた寄りあいも、二人とも神がかりだということも、これまた新奇な事実だった。
『ここにいると、こっちまで神がかりになってしまうぞ! まったく感染力があるからな!』と彼は思い、「読んでくれ!」と、強制するような、いらだたしげな調子で叫んだ。
ソーニャはなおもためらっている。心臓は激しく鼓動していた。なんとなく読んでやる勇気が出なかったのだ。ラスコーリニコフはほとんど苦しいくらいの気持ちで『あわれな狂女』を見つめていた。
「なんのために読んであげるんですの? あなたは信仰していらっしゃらないんでしょう? ……」と彼女はそうっと、なぜか喘ぎながら、ささやき声で言った。
「読んでおくれよ! 僕はそうしてもらいたいんだ!」と彼は言いはった。「リザヴェータにも読んでやったじゃないか!」
ソーニャは本をひらいて、場所をさがし出した。手は震え、声は出なかった。二度ほど読みかけたが、やっぱり最初の一句がうまく発音できなかった。
『さて、ここにひとりの病人があった、ベタニヤの人ラザロといった……』とうとう彼女は懸命になってやっとこれだけ読んだが、三言めあたりから急に声の調子が狂って、張りすぎた絃のようにぷつりと切れてしまった。息がつまり、胸がしめつけられそうになったのである。
ソーニャはなぜ読んで聞かせるのがためらわれるのか、ラスコーリニコフにもそのわけが多少はわかっていた。が、それでいて、それがわかればわかるほど、ますます荒っぽく、ますますいらだちながら朗読を迫るのだった。彼女は今|自分のもの《ヽヽヽヽヽ》をすっかりさらけ出してしまうのがどんなに辛いかも、彼にはわかりすぎるほどわかっていた。こうした感情は現在の、そしてもうずいぶん昔からの、もしかするとまだそれこそ幼い頃からの、まだ家庭にあって、不幸な父と悲しみのあまり気のふれた継母の膝下、餓えた子供たちや醜い怒声や叱責にかこまれていた頃からの彼女の秘密《ヽヽ》だったのかもしれないということも彼にはわかっていた。が、それと同時に彼には今わかったし、確実にわかったのだが、彼女は今朗読にとりかかるにあたって、思い悩みもし、なにかをひどく恐れてもいながら、その反面、そうした悩みや危惧《きぐ》にもかかわらず、ほかならぬ|この男《ヽヽヽ》に、しかもどうしても今《ヽ》――『たといあとでどういうことになろうとも!』悩ましいほど読みきかせてやりたくてたまらなかったのだ……彼はそれを彼女の目から読みとり、彼女の感激に満ちた興奮から理解した……彼女は自分を制し、節の初めのところで自分の声をとぎらせたのどのけいれんをおさえて、ヨハネ伝第十一章の朗読をつづけ、こうして十九節まで読みおえた。
『大勢のユダヤ人が、その兄弟のことについてマルタとマリアを慰めに来ていた。マリアは家に残ってすわっていた、マルタは、イエスがお着きになったと知って迎えに行き、イエスに向かって、「主よ、もしあなたがここにおられたら、私の兄弟は死ななかったでしょう。けれど今でも私は、あなたが神におねがいになることは、何でも神があたえて下さるということを、知っています」といった』
ここで彼女はまた朗読をやめた。またしても声が震えてとぎれるのを予感して恥ずかしくなったのである。
『イエスは、「あなたの兄弟はよみがえるだろう」とおおせられた。マルタが、「かれも、おわりの日、復活のときに、よみがえることを知っています」といった。イエスが、「|私は復活であり《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|生命である《ヽヽヽヽヽ》、私を信じる人は、死んでも生きる。生きて、私を信じる人は、永久に死なない。あなたはこのことを信じますか」とおおせられると、彼女は……』
(ソーニャはここでいかにも苦しそうに息をつぎ、一語一語くぎって、力をこめて朗読した。その様子はまるで、大勢の者に聞こえるように説教しているようだった)
『……「そうです、主よ、あなたが、この世に来るべきお方、神の子キリストであることを信じます」といった』
ソーニャはここで朗読をやめかけて、|彼のほうへ《ヽヽヽヽヽ》目をあげようとしたが、大急ぎで自分をおさえて、さきを読み出した。ラスコーリニコフは坐ったきり、身動きもしなければ、そちらをふり返りもせず、テーブルにほおづえをついてそっぽを向いたまま、耳をすましていた。こうして第三十二節まで読みすすんだ。
『マリアは、イエスのおられる所につき、かれを見るやその足もとにひれふし、「主よ、もしあなたがここにおいでになったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう」といった。イエスは、彼女がすすり泣き、いっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり感動し、心をさわがせられて、「かれをどこに置いたのか?」とおおせられた。マリアは、「主よ、来てごらんなさい」と答えた。そのとき、イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「ほんとに、どんなにかれを愛しておられたことだろう!」といった。その中のある人は、「生まれながらのめくらの目をあけたこの人でも、かれが死なないようにはできなかったのだろうか」といった』
ラスコーリニコフは彼女のほうをふり向いて興奮の体で相手を見まもっていた。そうだ、やっぱりそうだったのだ! 彼女はすでにまぎれもない本物の熱病をおこして全身わなわな震えていた。彼が期待していたのはこれだったのだ。偉大な前代未聞の奇蹟の物語に近づくうちに、彼女は偉大な勝利感にとらえられてしまった。彼女の声は金属のようにかん高くなり、その声には勝利とよろこびが響き、それがその声を強めていた。彼女は目の前が真っ暗になり、そのために行と行が入り乱れて見えた。が、読んでいた場所は暗記していた。『生まれながらのめくらの目をあけたこの人でも……できなかったのだろうか……』という最後の一節を読んだときには――彼女は声を落として、不信の盲目の徒であるユダヤ人の疑いと非難と中傷をつたえ、そのユダヤ人たちがたちまち一分後には落雷にでも会ったようにひれふし、号泣して信仰にはいる模様を熱い情熱をこめて伝えたのである……『|この人《ヽヽヽ》も、同様盲目の不信の人である|この人《ヽヽヽ》も、やはりたった今これを聞いたら、この人もやはり信仰にはいるにちがいない、そうだわ、そうだわ! たった今、今にも』と彼女は空想し、喜ばしい期待に震えていた。
『イエスはまた感動された。それから墓にいかれた。墓は洞穴で、前に石がおいてあった。イエスが、「石をとりのけなさい」とおおせられた。死人の姉妹マルタは、「主よ、四日もたっていますから、くさくなっています」といった』
彼女はこの四日《ヽヽ》という言葉に力を入れて朗読した。
『イエスは、「もしあなたが信じるなら、神の光栄を見るだろうとあなたにいったではないか」とおおせられた。そこで、石がとりのけられた。イエスは、目をあげておおせられた、「父よ、私のねがいをきき入れて下さることを感謝いたします。わたしは、あなたが常に私の願いをきき入れて下さることをよく知っています。しかし、私がこういいますのは、ここに取りかこんでいる人々のためで、あなたが私をつかわされたことを、この人たちに信じさせるためであります」。そういってのち、声高く、「ラザロ、外に出なさい」とおよびになった。|すると死者は《ヽヽヽヽヽヽ》』
(彼女は、まるで自分もまのあたりにしているように、ぞくぞくし、震えながら、感激して声高に朗読した)
『手と足とを布でまかれ、顔を汗ふきで包まれたまま出て来た。イエスは人々に、「それを解いて、行かせなさい」とおおせられた。
|マリアのところに来ていて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人は《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|かれを信じた《ヽヽヽヽヽヽ》』
ソーニャはもうそのさきは朗読しなかった、朗読できなかったのだ。そして本を閉じると、さっと椅子から立ちあがった。
「ラザロの復活の話はこれだけです」彼女はぶっきら棒に荒っぽい口調でこうささやくように言うと、わきのほうを向いてじっと立ったが、その様子はまるで照れて相手のほうへ目があげられないといったふうだった。彼女の熱病じみた震えはまだとまらなかった。ゆがんだ燭台に立っていたろうそくの燃えさしはもうだいぶ前から消えかけて、この貧しい部屋に奇しくも落ちあって永遠の書を読みあっていた殺人犯と淫売婦をぼんやりと照らし出していた。こうして五分かそれ以上もたった。
「僕は用件があって、それを話しに来たんだ」とラスコーリニコフは顔をしかめて大声でだしぬけにそう言うと、立ちあがってソーニャのそばへ来た。相手は無言のまま彼のほうへ目をあげた。彼の目つきはひときわ険しく、その目にはなにやら強暴な決意のようなものがあらわれていた。
「僕はきょう肉親を捨てて来たんだ」と彼は言った。「おふくろと妹を。僕はもうあの二人のところへは行かない。僕はあそこですっかり縁を切って来たんだ」
「どうして?」とソーニャは唖然としてたずねた。先ほどの彼の母親と妹との会見は、彼女自身にもはっきりしないながら彼女に異常な印象を与えただけに、彼女はこの縁切りの知らせを、ほとんど恐怖に近い気持ちで聞いた。
「今じゃ僕には君しかいないんだ」と彼は言いたした。「いっしょに行こう……僕はこうして君のところへやって来たのだ。僕らはおたがいにのろわれた人間なのだ。だからいっしょに行こう!」
彼の目がぎらぎら輝き出した。『まるで気ちがいみたいだわ!』とこう今度はソーニャが思った。
「どこへ行くんですの?」と彼女はぞっとしてたずね、思わず一歩あとずさった。
「僕がどうして知るもんか? ただ、わかっているのは、おなじ道づれだということだけだ、それだけは確実にわかっている、――それだけだ。行き先はおなじなんだ!」
彼女はじっと相手を見つめてはいたが、なんにもわからなかった。わかっていたのは、相手がこの上なく、限りなく不幸な男なのだということだけだった。
「君があいつらに話したところで、あいつらはだれひとりなんにもわかっちゃくれまい」と彼はいいつづけた。「だけど、僕にはわかったんだ。僕には君が必要なんだ、だから僕はこうして君のところへ来たんだ」
「わからないわ……」とソーニャが小声で言った。
「そのうち、わかるよ。君だっておなじことをしたんじゃないか? 君もやはり踏みこえたんだ……踏みこえることができたんだ。君は自分に手をかけた、君はひとつの命をあやめたんだ……自分《ヽヽ》の命をな(どっちだっておなじことだ!)。事情さえ許せば君は精神と理性で生きていけた人間かもしれないのに、結局はセンナヤで生涯をおえる運命なんだ……だけど、君は持ちこたえられまい。|ひとりっきり《ヽヽヽヽヽヽ》になれば、僕もそうだが、気ちがいになってしまうよ。君はもう今でさえ気ちがいじみているぜ。ということはつまり、僕らはいっしょにおなじ道を行かなければならないってことだよ! 行こう!」
「どうして? どうしてあなたはそんなことをおっしゃるんです!」ソーニャは、相手の言葉にあやしく胸をさわがせながら、そう言った。
「どうして? だって、ずっとこのままではいられないじゃないか――これがその理由さ! 結局、真剣に、まともに判断をつけなけりゃならないんだ、子供みたいに泣いたり、神さまがお許しにならないなんてわめいたりしているときじゃないんだぜ! もしほんとうにあしたにも病院へ運びこまれるようなことにでもなったら、どうするね? あの人は頭がおかしくなっているし肺病やみだから、やがて死ぬだろうけど、そうしたら子供たちはどうなる? ポーリャが身を滅さずにすむと思うか? 君は町の角々で、母親たちに物乞いに出されている子供たちを見たことはないのか? 僕は、その母親たちがどこに、どういう状況で暮らしているか、調べて知っているんだ。ああいうとこでは子供も子供じゃいられない。ああいうとこじゃ七つの子供でも堕落したり、一人前の泥棒だったりしている。ところが、子供ってキリストの化身じゃないか。『神の国は彼らのもの』と言うからね。キリストは子供たちを敬い愛することを命じた、彼らは未来の人類なんだ……」
「じゃ、どうしたらいいのかしら、どうしたら?」とソーニャは、ヒステリックに泣き、手をもみしだきながらそうくり返していた。
「どうしたらいいかって? 破壊すべきものを一挙に破壊してしまうのさ、それだけのことだよ。そして、苦しみを一身に背負うんだ! どうだ? わからないかね? そのうちわかるよ……自由と権力だ、なかでも重要なのは権力だ! 震えおののく虫けらどもにたいし、蟻塚の群れにたいして権力を握ることだ! ……これが目的だよ! これを覚えておけ! これが僕が君に与えるはなむけの言葉だ! 事によると、二人で話をするのも、これが最後かもしれない。僕があした来なかったら、ひとりでに一切の話が君の耳にはいるだろう。そうしたら、この今の言葉を思い出してくれ。やがていつかそのうち、何年か後には、生きていくうちに、この言葉がどういう意味だったのかわかるかもしれない。もしあした来るようなことがあったら、だれがリザヴェータを殺したのか、君に教えてやるよ。じゃ、さようなら!」
ソーニャは愕然《がくぜん》として身ぶるいした。
「ほんとうにあなたは、だれが殺したのか、知ってらっしゃるの?」と、彼女は恐ろしさに身も凍る思いで、妙な目つきで相手を見つめながら、聞いた。
「知ってるよ。だから教えてやるのさ……君に、君だけに! 僕は君を選んだんだ。僕は君のところへ許しなどを乞いに来るんじゃない、ただ言いに来るだけなんだ。僕はずっと前から君を、このことを話す相手に選んでおいたんだ。まだ君のおとうさんが君の話をしてくれた頃から、リザヴェータが生きていた頃から、僕はそうしようと考えていたんだ。さようなら。手を出さないでくれ。じゃ、またあした!」
彼は出ていった。ソーニャは気ちがいでも見送るように彼を見送っていた。しかし、自分も気ちがいのようだったし、そう感じてもいた。彼女はめまいがしていた。『まあ! どうしてあの人はリザヴェータの下手人を知っているのかしら? あの言葉はどういう意味だったのかしら? 恐ろしいことだわ!』が、それでいてあの|考え《ヽヽ》は彼女の頭に浮かばなかった。金輪際《こんりんざい》! 金輪際浮かばなかったのである! ……『ああ、あの人はきっとおそろしく不幸な人なんだわ! ……あの人はおかあさんと妹さんを棄てたって言っていたけど、なぜなのかしら?なにかあったのかしら? それにあの人はなにをもくろんでいるのかしら? いったいなにをあの人はわたしに言っていたのかしら? あの人はわたしの足に接吻して言っていたわ……言っていたわ(そうだ、あの人ははっきりそう言っていたわ)、わたしなしにはもう生きていけないって……まあ!』
ソーニャはその夜ひと夜を熱と悪夢のうちにすごした。彼女はときどきとび起きては、泣いたり、手をもみしだいたりし、かと思うとまた前後不覚の熱病的な眠りに落ちて、ポーリャやカテリーナやリザヴェータや、福音書を読んでいるところや、彼を……真っ青な顔をし燃えるような目をした彼を、夢に見た……彼は彼女の足に接吻して、泣いていた……ああ、どうしよう!
右手のドアのむこう、ソーニャの住まいとゲルトルーダ・カールロヴナ・レッスリヒの住まいを隔てていた例のドアのむこうには中の間がひとつあって、これはレッスリヒ夫人の住まいの一部なのだが、もうだいぶ前から空き間になって、貸しに出ており、貸間札が門に下げてあったり、掘割りに面した窓のガラスに広告の紙がはりつけてあったりしていた。ソーニャはもうずっと、その部屋は人が住んでいないものと思いこんでいた。ところが、こういうことがおこなわれていた間じゅう、その空き間のドアのそばにスヴィドリガイロフがずうっと立ちつくして、息をのんで、立ち聞きしていたのだ。ラスコーリニコフが出ていってしまうと、彼はしばらく突立ったまま、思案して、爪先だちで空き間の隣りの自分の部屋へもどり、椅子を一脚持ち出して、音が聞こえないようにそれをソーニャの部屋に通ずるドアのすぐそばへ運んだ。二人の話は彼には興味ぶかく、かつ意味ぶかいものに思われ、実に、実に気に入ってしまった、――ひどく気に入ってしまったので、彼は椅子まで運んで、将来に、たとえばあしたにでも備えて、またまる一時間も立ちとおすようないやな思いをしないように、そしてもっと居心地をよくして、あらゆる点で十分に満足が得られるようにしておこうという気になったわけである。
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五
そのあくる日の朝、十一時きっかりにラスコーリニコフが××警察署の予審課にはいって行って、ポルフィーリイに取りついでくれと頼んだとき、彼はあんまり長いこと自分を通してくれないので、不思議に思ったほどだった。少なくとも十分は経ったと思う頃にやっと呼ばれた。彼の計算では、待ってましたとばかり一挙に飛びついてこなければならぬはずだった。それなのに、彼が控え室に立っているそばをいろんな人たちが右往左往していたが、見たところその連中は自分には何の関係もないといったような様子をしていた。また、役所めいたつぎの間には書記が何人か控えて書きものをしていたが、そのうちのひとりとして、ラスコーリニコフが何者なのか、知っている者すらいないようだった。彼はまわりに落ちつかない猜疑《さいぎ》の目をくばって、自分の身辺にだれか監視人のような者でもいはしないか、自分をどこかへ逃げ出させないように見張りを命ぜられただれかの秘密の目が光っていはしないかと、様子をうかがった。が、しかしそれらしいものはなにもなかった。彼の目にはいったのは、こせこせと気忙しげな役所の人たちの顔と、そのほかどこかの男の顔だけで、たとえ彼が今すぐどこへ出かけようと、だれもそんなことには用はないといった顔つきをしていた。そこで、もしあのきのうの謎めいた男が、地下からわいて出たようなあの幻のような男がなにもかも知っているし、なにもかも見ているのだとしたら、――今自分をこうして立ったまま悠々と待たせておくようなことはすまいという考えが彼の頭のなかで次第に固まってきた。それに、もしそうだったら、こうして自分から足を運んでくる気になった十一時頃までむこうはここに手をこまぬいて待っているはずもないではないか? してみれば結局、あの男はまだなんにも密告していないか、さもなければ……さもなければただあの男はやっぱりなんにも知らないし、自分の目でなにひとつ見てもいないかのいずれかだ(あんなやつ、見るはずがないではないか)とすれば自分の身に起こったあのきのうの一件は、またしてもいら立った病的な想像力が誇張して描いた幻にすぎなかったことになる。こうした推定は、まだきのう、不安と絶望がいちばん激しかった頃に彼の心中で固まりかけていたのだった。彼は今こういったことを残らず考えつくして新たな戦いの覚悟を固めているうちに、ふと、自分が震えているのに気がついた、――それどころかあの憎らしいポルフィーリイが怖くて震えているのだと思ったとたんに身内に憤怒すらわきたつのを覚えた。なにより恐ろしいのはあの男と顔をあわすことだ。彼はあの男を度はずれに限りなく憎んでいたため、憎悪のあまりなにかのはずみに自分を暴露してしまいはしないかと、それが怖いくらいだった。また、その憤慨があまりにも激しかったため、震えまでがぴたりととまってしまった。彼は、冷静かつ不敵な面がまえをしてはいっていく心の準備をし、できるだけ沈黙をまもって、目をこらし耳をすましていることにしよう、せめて今回だけでも、どうなろうと、病的にいらだつ自分の気性に打ちかとうと心に誓った。ポルフィーリイの部屋へ呼ばれたのは、ちょうどそのときだった。
はいってみると、このとき自分の書斎にポルフィーリイひとりしかいなかった。書斎は大きくも小さくもないような部屋で、そこには大型の文机とその前には模造革をはったソファ、事務机、片隅の戸棚、それに椅子が数脚あったが、――すべて官品で、堅木づくりでぴかぴかに磨きあげてあった。正面の壁、というよりも仕切りの隅にはしめきったドアがあった。してみれば、その仕切りのむこうにはずうっと、まだ部屋がいくつか続いているに相違なかった。ラスコーリニコフがはいるとすぐにポルフィーリイは彼のはいって来たドアをしめてしまったので、部屋のなかは二人きりになった。彼は、見たところ、すこぶる陽気そうで愛想のいい物腰で客を迎えたが、すでに何分かするとラスコーリニコフは、二、三の徴候から、相手がなにかあわてているらしく、まるで突然めんくらったか、ひとりっきりでなにか秘密なことでもしている現場を見つけられたかしたような様子に見えることに気がついた。
「これはこれは、御大! 遠路はるばる……お出まし下さいまして……」ポルフィーリイは、相手に両の手をさし出して、こうきり出した。「さあ、おかけ下さい、大将! もしかしたら、あなたは、御大とか……大将とかいわれるのはお好きでないかもしれませんな、――これじゃ tout court(なれなれしすぎて)ね? どうか、なれなれしすぎるなどとおとりにならないで下さい……さあ、こちらのソファへ」
ラスコーリニコフは、相手から目をはなさずに、腰をかけた。
『遠路はるばる』とか、なれなれしかったことにたいする謝罪とか、tout court といったようなフランス語などは――すべてきわだった徴候だった。『こいつ、しかし僕に両手をさし出しておきながら、片手も握らせずにうまいぐあいに引っこめちまいやがったぞ』臭いぞという考えが彼の頭にひらめいた。双方ともたがいに相手の挙動をうかがっているくせに、視線が合ったとたんに、さっと稲光のような速さでたがいに相手から目をそらしてしまうのだった。
「僕はこの届けを持ってあがったんです……時計の……これです。こんな書き方でいいでしょうか、それとももう一度書きなおしたほうがいいでしょうか?」
「え? 届け? いいですよ、いいですよ……ご安心下さい、まさにこのとおりです」ポルフィーリイはどこかへ急いででもいるように、そそくさとそう言い、すでにそう言ってしまってから、届けの紙を手に取って、それに目を通した。「ええ、まさにこの通りです。これ以上なんにも必要ありません」と彼はおなじように早口でそうくり返すと、その書類を机の上においた。それから一分もした頃、すでにほかの話をしながら、またそれを机から取りあげて、自分の事務机の上に移した。
「あなたは、確か、きのうおっしゃっていたようでしたね、僕に……公式に……僕とあの……殺された婆さんとの関係を聞きたいって?」とラスコーリニコフはまたもやきり出した。とたんに、『なんだっておれは|確か《ヽヽ》なんて言葉を入れちまったんだろう?』という考えが稲妻のように彼の頭をかすめた。が、そのすぐあとから、『なんだっておれはこの|確か《ヽヽ》を入れてしまったことを気に病んでいるんだ?』という別の考えが、これまた稲妻のように頭のなかをかすめた。
そして彼はふと、おれの猜疑心は、ちょっとポルフィーリイと接触しただけで、二言三言言葉をかわし二つ三つ目を見かわしただけで、もうまたたく間に恐ろしいほど大きくふくれあがってしまったじゃないか……こいつはきわめて危険なことだ、神経がいらついて、興奮が高まって来ているんだと感じた。『困ったな! 困ったな! ……また口をすべらしちまうぞ』
「ええ、ええ、ええ! ご心配には及びませんよ! 大丈夫、時間はたっぷりありますから、大丈夫、時間はあります」とポルフィーリイはつぶやきながら机のそばを行ったり来たりしていた。が、これといってなんの目的があるわけでもなくてただなんとなく、窓のほうへ飛んで行ったり、事務机のほうへ突進したり、また文机のほうへもどって来たりして、ラスコーリニコフの疑りぶかそうな目を避けるかと思えば、ぴたりとその場に足をとめて、相手をまともにずっと見つめるのである。このときの彼の、小柄で太り気味の丸々とした姿恰好は、まるで四方八方へ転がっていっては四方の壁や隅からはじき返されてくるボールのような感じで、すこぶる珍妙だった。
「間にあいますよ、間にあいますよ! ……タバコはおやりになりますか? お持ちですか?どうぞ一本」と彼は客に紙まきタバコをさし出しながら語をついだ……「実はですね、私はあなたをここへお通ししましたが、私の住まいはあそこの仕切りのむこうなんです……官舎なんですがね。今は私、私宅にいます、しばらくね。こちらはなんかかんか修繕しなければならないところがあるもんですから。もうほとんどできあがっているんですよ……官舎ってやつは、こいつはなかなかいいものですな、え? そう思いませんか!」
「ええ、なかなかいいものでしょうね」とラスコーリニコフは、ほとんど嘲笑に近い目つきで相手を見ながら、答えた。
「なかなかいいものですよ、なかなかいいものです……」とポルフィーリイは、ふと何かまるっきり別のことを思いついたような顔つきで、そうくり返していた。「ええ! なかなかいいものですよ!」と、彼は最後にほとんど叫ばんばかりの声で言うと、不意にラスコーリニコフのほうに視線を投げて、彼から二歩ばかりのところに足をとめた。この、官舎はなかなかいいものだという文句のばかげたくり返しは、それが俗悪だという点で、彼が今客にそそいだ、まじめくさった、なにか考えているような、謎めいた視線とはあまりにもちぐはぐだった。
ところが、それがなお一層ラスコーリニコフの憎悪をたきつけたのである。彼はその嘲笑的でかなり不用意な挑戦がどうにも我慢がならなくなった。
「ところで、こうなんでしょう」と彼は、ほとんど人を食ったような目つきで相手を見つめ、その人を食ったような態度を楽しむような調子で、こう出しぬけに聞いた。「どうも、どんな予審判事でも使う法律上の定石が、法律的なやり方があるらしいですね――初めは遠まきに、ごくつまらないことから、でなければまじめなことではあるが、ただしまったく無関係なことからきり出して、被訊問者を、いわば元気づけ、いや、むしろこういったほうがいいかもしれない、注意をそらし、警戒心を眠らせておいて、それから出しぬけに、思いもかけないやり方で相手の脳天に、なにか運命を左右するような危険きわまる質問を浴びせるといったような。そうでしょう? どうも、今でもいろんな規則や訓令のなかにこういうことが神聖な調子で述べられているらしいですね?」
「それじゃ、それじゃ……なんですか、あなたは、私がこうして官舎の話などを持ち出したのもその……なんだというんですね……え?」こう言うと、ポルフィーリイは目を細めて、ぱちりと瞬きをした。なにやら愉快そうな、ずるい表情が彼の顔をはせすぎ、額のしわが伸び、小さな目が細くなり、間延びのした顔になったかと思うと、彼は突然、ラスコーリニコフの目をひたと見つめながら、体ぜんたいを波のように揺すぶるようにして神経的な持続的な笑いを爆発させた。こちらも、いくぶん自分を強いるようにして笑い出そうとしたが、ポルフィーリイがこちらも笑っているのを見て顔がほとんど赤紫色になるくらいに笑いころげ出すと、ラスコーリニコフの嫌悪感は一気に警戒心を凌駕《りょうが》してしまった。彼は笑いやめると、気むずかしい顔をして、相手が長く、なにか思惑あってのようにとめどなく笑いつづけている間じゅうポルフィーリイから目をはなさずに、いつまでも憎らしそうに相手を見つめていた。もっとも、不注意は明らかに双方にあった。結局、ポルフィーリイは面とむかって客に嘲笑をあびせ、客はその笑いを憎悪の気持ちで受けとっているのに、そうした状況にほとんど困惑を感じていないらしいのである。これはラスコーリニコフから見てきわめて意味ぶかいことだった。彼は、きっとポルフィーリイはさっきも全然あわてていたのではないのだ。逆に、おそらく自分のほう、ラスコーリニコフのほうこそわなにかかったのだ、これには、明らかに、なにか自分の知らないことがあり、なにか目的があるのだ、ひょっとすると、もう準備万端ととのっていて、それがぜんぶ今すぐにも正体を見せて、頭上に襲いかかって来るのかもしれないということに気づいた……
そこで彼はすぐさま用件に取りかかろうとして、席を立ち、帽子を取りあげた。
「ポルフィーリイさん」と彼は断乎たる調子とはいえ、かなりいらだった口調で言い出した。
「あなたはきのう、僕になにか訊問をするから来てほしいという希望を述べられたでしょう(彼はことさら訊問《ヽヽ》という言葉に力を入れた)。それで僕は来たわけなんですから、もしなにか聞かなければならぬことがおありだったら、聞いて下さい、でなかったらもうおいとまさせてもらいます。僕は暇がないんですから、用事があるんですから……僕は、あなたも……ご存じの、例の、馬に踏みつぶされた役人の葬式に出なけりゃならないんです……」と彼は言い足したあとですぐにそう言い足したことに癇癪《かんしゃく》を起こし、それからすぐまたいらいらして、「僕はね、いいですか、こういうことにはもううんざりしちまってるんですよ、それにもうだいぶ前から……部分的にはこれが原因で病気になっているんですからね……ま、要するに」彼は、病気の一句がさっきのよりももっと時宜を得てないと感じて、ほとんど叫ぶようにして言った。「要するに、訊問するか、今すぐ放免するかして下さい……それに訊問するんだったら、正式にでなければいけませんよ! でなかったら、承知しませんからね。そんなわけで、きょうのところはこれで失礼します、われわれ二人だけじゃどうにもしようがありませんからね」
「これはこれは! なにをおっしゃる! なにをあなたに訊問することなんかありますかね」と、ポルフィーリイはたちまち調子も態度もがらりと変え、ぴたりと笑うのをやめて、急に牝鶏がこっこっこと鳴き出したような調子になり、「ま、どうぞ、ご安心なさい」などとあたふた気を使いながら、またもやあちこち飛んでいったり、急にラスコーリニコフを坐らせようとしたりした。「大丈夫、時間はたっぷりありますよ、大丈夫、時間はあります、それにこんなことはみんなつまらないことじゃありませんか!それどころか、私は、ようこそとうとうお出でなすったと思っているんですよ……だから、こうしてあなたを、お客様としてお通ししているじゃありませんか。ただし、今のくそいまいましい大笑いについては、大将、ロジオンさん、ごかんべん願いますよ。ロジオン・ロマーヌイチでしたね? 確か、あなたの父称はそういうんでしたね? ……私は神経過敏な人間なもんですから、あなたのうがった言葉に大笑いさせられてしまったわけですよ。どうかすると、私はそれこそ、弾性ゴムよろしく、体をゆすって笑い出したが最後そのまま三十分も笑いづめでいることがあるんですよ……笑い上戸なんですな。体質が体質なもんですから、卒中でも起こしやしないかと心配しているくらいです。まあ、おかけなさいよ、どうなすったんです? ……さあ、どうぞ、大将、でないと、私はお怒りになったかと思いますよ……」
ラスコーリニコフはなおも怒って仏頂面をしたまま、黙って相手の話を聞きながら、観察していた。それでも、腰だけはおろした。が、帽子は手から離さなかった。
「ひとつあなたに、ロジオンさん、いわば性格論の説明として自分のことをお話しておきましょう」と、ポルフィーリイは部屋のなかをせかせか動きまわって、相変わらず客と視線があうのを避けるようにしながら、話しつづけた。「私はね、ほら、独り者で、このとおり社交界も知らない無名の人間で、その上もうできあがった人間、すっかり固まってしまって、とうが立っている人間です、で……で……で、あなたはお気づきかどうかわかりませんがね、ロジオンさん、わが国、つまりわがロシヤでは、なかんずくわがペテルブルクの社会では、たがいに大して深く知りあった仲ではないが、いわば、たがいに尊敬しあっているといったような、ま、たとえば今の私とあなたのような、二人の賢い人間がいっしょに落ちあったとすると、たっぷり三十分くらいはどうしても話題が見つからない、――たがいにこちこちになり、坐ったまま、たがいにばつの悪そうなかっこうをしているもんですよ。これがたとえば婦人連とか……例えば上流の社交界の人たちだと、だれでも話題を持っています、話題はいつでも持ちあわせています、C'est de rigueur(これは必要欠くべからざるものです)、ところが、われわれのような中流の人間となると、――みんなはにかみ屋で、話好きじゃない……つまり、思索人なんですな。どうしてこういうことが起きるんでしょう? 社会的関心がないせいか、それともわれわれは誠実すぎて、たがいにだましあうようなことはしたくないからか、その辺のところは私にもわかりませんがね。え? あなたはどうお考えです? 帽子をわきへお置きになったら、まるで今すぐにも帰ろうとしているみたいじゃありませんか、まったく見ていてもぐあいのいいもんじゃありませんよ……私は、それどころか、嬉しくてたまらないくらいなのに……」
ラスコーリニコフは帽子をおいて、ひきつづき黙ったまま、まじめくさって、仏頂面でポルフィーリイの無内容な、とりとめもないおしゃべりに聞き入っていた。『こいつどうなんだろう、ほんとうにこのばかばかしいおしゃべりでこっちの注意をはぐらかそうとしているんだろうか?』
「コーヒーはさしあげませんよ、場所がらね。しかし、五分やそこらは友人と座をともにして気晴らしをしていけないわけはないでしょう」とポルフィーリイは休まず、まくしたてた。「それがですな、こういった勤めというやつは……ところで私がこうして絶えずあちこち歩きまわっているからといって、あなた、お怒りにならないで下さいよ。失礼だけど、私はあなたを怒らせやしないかとえらく心配なんですが、運動が私にはそれこそまったく欠かせないんでしてね。年じゅう坐りどおしなもんですから、五分でも歩けると思うと、とても嬉しくてね……痔があるもんですから……ここずうっと体操でなおそうと思っているんですよ。話によると、五等官とか四等官の、いや三等官の役人までが進んでなわとびをやっているというじゃないですか。いやまったく、現代は科学の時代ですな……そんなわけですよ……さて、この役所の職務である訊問や、例のいろんな形式的なことについてですが……今、ほら、大将、あなたご自身も訊問のことを口にされましたが……そりゃね、実際、ロジオンさん、この訊問てやつにはどうかすると被訊問者よりも訊問者のほうがまごつかされるようなことがあるもんでしてな……この点についちゃあなたからも今、一言実に的を射た機知に富んだご指摘がありましたけどね(ラスコーリニコフはそういったようなことはいっこうに指摘した覚えはなかった)。迷わされちまいますよ! まったく迷わされちまいますよ! それでつい、ばかのひとつ覚えみたいにおなじことのくり返しということになるわけです! あのとおり改革が進行しているんですから、われわれも、せめて名前だけでも変えてもらいたいもんですな、へ! へ! へ! ところで、法律的なやり方という点では、――あなたの当意即妙な表現を借りますがね、――あなたとまったく同意見ですな。どんな被告だって、それこそ土《ど》ん百姓の被告だって、たとえば、初めは無関係な質問をあびせておいて(あなたの巧みな表現を借りればね)、それからだしぬけに脳天にごつんと峰打ちをくらわすんだってことぐらい知らない者はありませんや、へ! へ! へ! 脳天へ、あなたの巧みな比喩を借りればね! へ! へ! すると、あなたはほんとうにそうお思いでしたか、私は官舎の話であなたを……なにしようと思っているなんて……へ! へ! あなたはまったく皮肉なお人ですな。いや、もう言いません! ああ、そうそう、ついでにもうひとつ、言葉は言葉を呼び、思想は思想を呼ぶもんですな、あなたはさきほど正式になんておっしゃいましたね、ほら、訊問のことで……その、正式にとは、いったいなんですかね! 形式なんてものはですよ、たいていの場合、愚にもつかないものでしてね、ときには、ただ仲よくちょっと話しあっただけなのに、そのほうが有益なことだってありますからね。あなたの正式ってやつはけっして逃げていくようなものじゃありませんから、その点は、ま、ご安心下さい。ひとつうかがいますけど、形式とは、ほんとうに、いったいなんでしょう? 形式なんてなにをするにも予審判事をしばるものじゃありませんよ。予審判事の仕事ってやつは、これは、いわば、一種の自由芸術ですからね、一種のというより種類のちがったとでも言いますかね……へ! へ! へ! ……」
ポルフィーリイはここでちょっと息を入れた。彼は疲れも知らずに盛んにまくしたてて、無意味で空虚な文句をならべているかと思うと、ひょいとなにやら謎めいた言葉をもらしてはすぐまた無意味なおしゃべりに脱線していくというふうだった。部屋のなかを彼はもう駆けずりまわって、肥えた短い足をますます早くちょこちょこ動かし、その間絶えずゆかを見つめたまま、右手は背なかへまわし、左手はひっきりなしに振りまわしていろんな手ぶりをするのだが、それがまたしゃべる言葉に驚くほどそぐわないのだった。ラスコーリニコフはそのうちふと気がついたのだが、ポルフィーリイはそうして部屋のなかを走りまわりながら、二度ほどドアのそばに一瞬立ちどまって、なにか耳をすますようなまねをするのである……『こいつ、なにか待ってやがるんだな?』と彼は思った。
「いや、あれはまったく実際あなたのおっしゃるとおりです」とポルフィーリイは愉快そうに、ひどく無邪気な目つきでラスコーリニコフを見ながら(そのためこちらはぶるっと身震いをし、ぱっと身がまえをしたくらいだった)、また話をついだ。「実際そのとおりですよ、すこぶる当意即妙に法律的な形式を嘲笑されましたけど、へ、へ! 確かにあの(むろん、ぜんぶとは言いませんが)われわれが使う意味深長な心理的方法ってやつは、滑稽至極だし、それにあまりにも形式にしばられすぎるようであれば、おそらく、有害無益でしょうな。そうですよ……おや、また形式の話になってしまいましたな。まあ、かりに私が自分に任されたある事件のことで、AなりBなりCなりを犯人と認める、というよりも嫌疑をかけるとしますかな……ところで、あなたは法律家志望で勉強中でしたね、ロジオンさん?」
「ええ、勉強していました……」
「そういうわけでしたら、今あなたにひとつ、いわば将来のご参考までに、――とはいっても、私が生意気にもあなたに教えを垂れる気になったなどとはお考えにならないで下さいよ。あのとおりあなたは犯罪にかんする立派な論文を発表しておられるような方ですからな! とんでもない、私はただ一事実として一例をあげさせてもらうだけのことなんです、――そんなわけでひとつ、私がたとえばAなりBなりCなりを犯人と考えたとしますよ、そこでひとつうかがいますが、たとえ私がその犯人にたいして証拠をおさえていたにしたって、時期も来ないうちに当人を騒がす理由がどこにありますかね? 犯人によっては、たとえばなるべく早く逮捕しなければならぬ者もいます。が、また性質のちがう犯人もいるじゃありませんか、まったくの話。そんな場合、犯人に町をぶらつかせていけないって法はないでしょう、へ、へ! いや、どうも見たところ、あなたは完全にはおわかりにならないようですな。ではもっとわかりやすく説明しましょう。私が、たとえば犯人をあんまり早く未決にぶちこんだとすると、それによって私はそいつに、ひょっとすると、精神的な、いわば支えを与えることになるかもしれませんよ、へ、へ! 笑っておいでですな(ラスコーリニコフは笑おうなどとは思ってもいなかった。彼は唇をきっと結んで、燃えるような視線をポルフィーリイから離さずに、坐っていたのである)。ところが、とりわけある種の人間をあつかう場合がそうなんですよ、というのは、人間は千差万別ですが、その万人に適用する実際的方法はひとつしかないからです。あなたは今、証拠と言われましたね。それは、証拠は確かに重要だとしてもいいですが、この証拠というやつは、大将、大部分どっちとも取れるようなものでしてな、私は予審判事で、つまり弱い人間ですから、告白しますが、審理の結果を、いわば数学的明快さで示したい、二二が四といったような証拠を握りたい! ずばり議論の余地もない証拠のようなものがほしいんです! それなのに、たとえ、私に、|あいつ《ヽヽヽ》にまちがいないという確信があったにしても、その男を時期でもないときに未決にぶちこんでごらんなさい、――そんなことをしたら私は、おそらく、その男の証拠をつかむ方法を自分で自分から奪ってしまうことになるじゃありませんか。なぜとおっしゃるんですか? だって、私はその男に、いわば、一定の状態を与えてしまう、いわば、心理的に安定させてしまう、そうするとその男は私のところからするりとぬけて殻に閉じこもってしまうじゃありませんか。そして、最後に、なるほど自分は囚人なのかと悟るといったわけです。聞くところによると、あのセヴァストーポリの役では、アリマ河畔の戦闘の直後、識者たちは、正面きって攻撃をかけてきて、一挙にセヴァストーポリを占領してしまうのではないかととても心配したそうですね。ところが、敵が正攻法の包囲戦を選んで、最初の平行壕を掘りはじめたのを見て、識者たちは大喜びして安堵《あんど》の胸をなでおろしたという話です。つまり、正攻法の包囲戦だと攻略はいつのことかわからないから、少なくともふた月は事の決着が延びるわけですからな! また笑っていらっしゃるね、またほんとうになさらないんですね? そりゃ、むろん、あなたのお考えもまちがっちゃおりませんよ。まちがっちゃおりませんとも、まちがっちゃおりません! こんなのはみんな、個別的なケースですからな、お説ごもっともです。今あげた例は確かに個別的なケースです!が、しかしこの際、ロジオンさん、こういうことも見のがしちゃいけませんよ。一般的なケースなんてものは、あらゆる法律的な形式と法則を適用でき、そういった形式や法則が割り出されるといったような、教科書に書きこまれるような、そんな一般的なケースなんて、全然存在しないってことをね。その理由はほかでもありません、どんな事件でも、どんな、たとえば犯罪にしろ、それが現実に発生するや否やたちまちまったく個別的なケースになってしまうからなんです。実際、ときには前例とは似ても似つかないようなものになる場合だってあるんです。ときには、そういった例で滑稽きわまる事件が起こることもあります。かりに今私がある人をまったくのひとりっきりにしておくとしますよ、そしてつかまえもしなければ不安がらせもしないが、そのかわりこっちはなにもかも、すっかりなにからなにまで知りつくしている、夜昼やつをつけまわし夜の目も寝ずに監視しているということを毎時毎分相手に知らせるようにするか、少なくともそういう疑惑をもたせるのです、こうしてその男に私から絶えず嫌疑をかけられ恐怖をいだかされていると意識させているうちに、必ず奴さん、へとへとに疲れはてて、ほんとうの話、自首して来ますよ。その上、事と次第では、なにか、二二が四みたような、いわば数学的外観を持ったようなことをしでかすわけです、――こいつは実に愉快ですよ。これはがさつな百姓にすら起こることなんですから、いわんやわれわれ現代的な知識を持った人間、それも特にある方面の発達した人間ともなればなおさらのことです! そんなわけで、その人間がどういう方面の発達した人間かを見きわめることがきわめて重要なことになって来るわけです。神経ですよ、神経、こいつをあなたはとんと忘れておられる! 当節の人間はみんな病的で、やせこけていて、いら立ちやすい! ……それにだれも彼もその怒りっぽいことといったら! これはまあ、私に言わせれば、一種の鉱脈ですな! ですから、私にしてみれば、やつがなわもつけられずに町を歩きまわったところで、そんなことはいっこう心配にはならないわけです。まあ、歩けるうちは、勝手に歩かせておくがいい、勝手に、ってわけです。こっちはそれでなくても、あいつは私の獲物で、私のところからどこへも逃げやしないということはわかっているんですから! それにどこへ逃げたらいいですかね、へ、へ! 外国ですか? 外国へなんか逃亡するのはポーランド人くらいのもので、|その男《ヽヽヽ》じゃありませんよ、ましてこっちは監視しているんだし、手も打ってあるんですからな。じゃ内地の奥へでも逃げこむとしますか? ところが、そういう所には百姓が住んでいますぜ、正真正銘の荒くれたロシヤ人が。そんなわけで現代的教養のある人間だったら、わが国の百姓のような異邦人と暮らすよりはむしろ監獄暮らしのほうをとるといったわけですよ、へ、へ! しかし、こういったことはばかげたことだし、表面的なことです。いったい逃げるとはどういうことでしょう! それは形式的なことで肝心なことはそういうことじゃない。奴さんは、逃げ場がないということだけで私のそばから逃げないんじゃありませんぜ。私のそばからは心理的《ヽヽヽ》に逃げられないんですよ、へ、へ! どうです、この表現は! 奴さんは、たとえ逃げ場があったとしても、自然の法則で私のところから逃げられないんですよ。ろうそくを慕ってくる蛾をごらんになったことがあるでしょう? ねえ、あれとおなじこと、奴さん、ろうそくのぐるりをまわるように、私のまわりを絶えずぐるぐるまわるんですよ。自由の身も嬉しいものじゃなくなり、考えこんだり取り乱したりしはじめ、網にでもからまるように、自分で自分をからんでしまって、自分を死ぬほど悩ましはじめる! ……それどころか、自分から私に、二二が四式のなにやら数学的な証拠まで作ってくれるんです、――少々幕あいを長くしてやりさえすればね……そして絶えず私のまわりで円を描きながら、直径をますますちぢめて来たかと思うと、――ついにぱたりとひっかかる! で、まっすぐ私の口のなかへ飛びこんで来、私はのみこんでしまう、こいつは実に愉快ですぜ、へ、へ、へ! あなたはほんとうになさらんようですな?」
ラスコーリニコフは返事をせずに、青い顔をしてじっと坐ったまま、依然として変わらぬ緊張した表情をしてポルフィーリイの顔に目をこらしていた。
『なかなか堂に入った講義だ!』と、彼はぞうと寒けを覚えながら思った。『こうなるともう、きのうみたいな、猫がねずみをなぶるのともちがうぞ。こいつ、ただわけもなくおれに自分の力のほどを見せびらかして……暗示をかけているわけでもなかろう。この男はそんなまねをするようなばかじゃないからな……こいつには、なにか別に狙いがあるんだぞ、が、どんな狙いだろう? ちぇっ、ばかばかしい、きさまはおれをおどかして、裏をかこうってわけなんだな! きさまは証拠を握っているわけじゃなし、きのうの男だって架空の存在じゃないか! きさまはただ単におれを迷わせ、前もっていら立たせておき、そうしておいてばっさりやろうと思っているだけさ。でたらめをぬかしているうちに、自分の穴に落ちこんじまうぜ、自分の穴に! それにしても、いったいなんだって、なんだってこうまで暗示をかけようとするんだろう? ……おれの病的な神経を当てこんでいるんだろうか? ……だめだよ、きさま、きさまがなにやらおぜん立てをしたところで、でたらめを言っているうちに、自分の穴に落ちこんじまうだけさ……さあ、ひとつ、きさまがどんなおぜん立てをしたか、拝見させてもらおうじゃないか』
そこで彼は、おそろしい未知の大詰めにそなえて、あらん限りの勇気をふるい起こした。ときどき、彼はポルフィーリイに飛びかかって、その場でしめ殺してやりたくなった。ところが、この憎悪こそ、まだここへはいって来た当座から恐れていたものだったのだ。彼は、唇が干からび、心臓がどきどきし、唾の泡が唇の上で乾いてかさかさになるのがわかった。が、それでも沈黙をまもって、時が来るまではひと言も口をきくまいと決心した。彼は、これが彼の立場では最良の戦術だと悟ったのである。なぜなら、彼は口をすべらすこともないばかりか、かえって沈黙で敵をいらだたせ、その上、ひょっとしたら相手のほうが口をすべらすことになるかもしれないからだ。少なくとも彼はそれをあてにしていた。
「いや、あなたは、見たところ、ほんとうにはなさらんようだ、ずうっと、私があなたに罪のない冗談を並べてみせているものと、お考えのようですな」とポルフィーリイは、いよいよもって快活になり、嬉しさのあまりひっきりなしにへへへと笑いながら言葉をついで、また部屋のなかをぐるぐるまわりはじめた。「そりゃ、むろん、ごもっともなことです。私は姿かっこうからして、人に滑稽な考えしか起こさせないように神さまから作られておりますんでな。道化役者ですよ。が、私はあなたにこういうことをいわしてもらいましょう。ひとつもう一度くり返させてもらいますが、あなたは、大将、ロジオンさん、まあ老人と思ってご容赦下さい。まだお若い、いわば青春にはいったばかりのお人ですから、あらゆる青年の例にもれず、人間の知性というものをなによりも高く見ておられる。あなた方は遊戯的な英知のひらめきや抽象的な結論に魅せられてしまう。そしてそれは、私が軍事上の事件のことで判断しうるかぎりでは、たとえば、昔のオーストリアの軍事会議にそっくりなんです。彼らは紙の上ではナポレオンすら粉砕し捕虜にしてしまい、また自分の書斎ではまったく機知縦横の計算と結果を出しておきながら、見ればどうでしょう、マック将軍が全軍をひきいて降伏しているじゃありませんか、へ、へ、へ! わかりますよ、わかりますよ、ロジオンさん、私が、文官のくせに、なんでも戦史からばかり例をひくというんで、私を笑っておいでなんでしょう。しかたがありませんよ、これが私の弱点なんでして、軍事的なことが好きでしてな、それに、こういった戦況報告を読むのが大好きなんですよ……私はまったく進路を誤りましたな。私は軍務につけばよかったんですよ、まったくの話。ひょっとしたら、ナポレオンにはなれないまでも、まあ少佐くらいにはなれたでしょうからね、へ、へ、へ! さて、そこで今度はひとつ、例の、つまり|個別的な《ヽヽヽヽ》ケースのことで、くわしくほんとうの話をしましょう。現実や自然というものは、あなた、大事なものでしてな、まったくときにはこれにかかったらこの上なく、読みの深い計算でも切りくずされてしまうものです! まあ、まじめに話してるんですから、ひとつ老人の話をお聞きなさい、ロジオンさん(こう言うと、三十五歳になったかならぬかくらいのポルフィーリイが実際にまるで急にすっかり老いこんでしまったように見えた。声まで変わり、なんだか腰までまがってしまったように見えた)、――それに私はあけすけな人間でしてな……私はあけすけな人間でしょう、そうじゃありませんか? いかがです、あなたのお考えは? まったくそうだと思うんですがね。こんなことをあなたにただでお教えした上に、その報酬も要求しないんですからな、へ、へ! さて、そこで先をつづけますよ。機知というものは、私の考えでは、すばらしいものでしてな、これは、いわば、自然の美であり、人生の慰めであって、これをもってすればどんな手品だってやってのけられそうな気がします。といったわけで、よくあることですが、これまたやはり人間ですから自分から自分の妄想に夢中になってしまうその辺のあわれな予審判事などにはとうてい見ぬけそうもなさそうなときもあります! ところが、そんなとき自然がそのあわれな予審判事を救ってくれるんですよ、困ったことにはね! ところが、機知に迷って『あらゆる障害を踏みこえようとする』(あなたの機知にあふれた巧妙きわまる表現を借りればね)そういう青年はこういう点を考えようともしません。かりに、彼が嘘をつくとしますね、つまり|個別的な《ヽヽヽヽ》ケースである人間が incognito(人知れず)うまく、実に巧妙な嘘をつくとしますよ。さあ、これで大勝利だ、自分の機知の成果が楽しめるわいと思っているその矢先に、奴さん、ぱったり行っちまうんですよ! いちばん興味のある、いちばん外聞の悪い場所で失神して倒れたりするんです。そりゃまあ、病気のせいということもありましょうし、ときには室内が息苦しいせいもありましょうが、それでもやっぱりねえ! それでもやっぱりヒントを与えたことにはなりますよ! 奴さん、嘘は無類にうまくついたものの、自然というものを計算に入れることを知らなかった。こういう所に落とし穴があるわけですよ! まあ、あるときは、自分の機知の遊戯にふけっているうちに、自分に嫌疑をかけている人間を愚弄しはじめ、さもわざとらしく、お芝居らしく青い顔をしてみせるが、その顔の色の青ざめ方が|あまりにも自然らしいし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、あまりにも真実らしいんで、あにはからんや、またヒントを与えてしまう! たとえ最初はだましおおせたにしても、こちらもさる者、一晩とっくり考えているうちにゃ気がつきますよ! 一歩一歩がまあこんな調子なんですな! そればかりじゃありません。自分から先っ走りして、頼まれもしない所へ顔を出しはじめたり、逆に黙っているべきことをひっきりなしにべらべらしゃべり出したり、いろんなたとえ話を持ち出したりしはじめる、へ、へ! あげくの果てには自分からのこのこやって来て、どうしてこんなに長いこと逮捕しないんだなんて聞きはじめますよ、へ、へ、へ! こういうことはすこぶる機知に富んだ人間にも、心理学者や文学者にも起こりうることなんですからね! 自然は鏡ですよ、鏡です、この上なく澄みきった鏡ですよ! まあ、自分を鏡に映して、とっくりと見るんですな、ま、そういったことですよ! いったいどうしたんです、そんな青い顔をして、ロジオンさん、息苦しいんじゃないんですか、窓をあけましょうか?」
「いやいや、どうぞ、ご心配なく」とラスコーリニコフは叫んで急に大声で笑い出した。「どうぞ、ご心配なく!」
ポルフィーリイは彼に向きあうようにして立ちどまると、しばらく待ってから、突然自分も相手につりこまれたように笑い出した。ラスコーリニコフは完全に発作的な笑いを急にぴたりととめて、ソファから立ちあがった。
「ポルフィーリイさん!」と彼は大きな声で、はっきりとそういったが、その実震える足でやっと立っているような体たらくだった。「僕にもとうとうはっきりわかりましたよ、あなたが完全に僕に、例の婆さんと妹リザヴェータの殺人の嫌疑をかけているってことが。で、自分としてはあなたにはっきり言っておきますが、僕はこういったことにはもうだいぶ前からうんざりしているんです。もしあなたが、僕を法律的に追及する権利があるとお思いになるんでしたら、追及して下さい。逮捕するんでしたら、逮捕して下さい。が、しかし僕を面とむかって嘲笑したり僕を悩ましたりすることだけは断じて許しませんぞ……」
彼はにわかに唇が震え出し、目は狂いたつ怒りに燃え、それまでおさえていた声がりんりんとひびき出した。
「許しません!」と彼は拳で力まかせに卓をたたいて、突然どなりつけた。「おわかりでしょうな、ポルフィーリイさん? 許しませんぞ!」
「いやはや、これはまたどうしたわけです!」とポルフィーリイはおびえきったような様子を見せて叫んだ。「あなた! ロジオンさん! いやはや! あなたはどうなすったんです?」
「許しませんぞ!」とラスコーリニコフはもう一度どなろうとした。
「あなた、もうちょっとお静かに! 人が聞きつけて、やって来ますよ! そうしたらなんと言ったらいいんです、少しは考えて下さいよ」と、ポルフィーリイは自分の顔をラスコーリニコフの顔のすぐ近くまで持ってきて、こわごわそうささやいた。
「許しません、許しません!」とラスコーリニコフは機械的に反復していたが、これまた急にすっかりささやき声になっていた。
ポルフィーリイはさっと身をひるがえして、駆けていって窓をあけた。
「空気を入れなくちゃ、新鮮なのを! それに、あなた、少し水をあがったほうがいいですよ。まさしくこれは発作です!」こう言うと彼は水を持ってこさせるために戸口のほうへ駆け出そうとしたが、そこの隅に折よく水のはいっている水差しが見つかった。
「さあ、あなた、お飲みなさい」と彼は、ラスコーリニコフのところへ水差しを持って飛んで来ながらささやき声で言った。「ききめがあるかもしれませんから……」ポルフィーリイの驚きようと同情ぶりがあまりにも自然だったため、ラスコーリニコフは口をつぐんで、荒々しい好奇心を見せて相手をじろじろ眺めはじめた。が、しかし水は受けとらなかった。
「ロジオンさん! え、あなた! そんなことをしていたら、それこそほんとに、自分で自分の頭をおかしくしちまいますぜ! いやはや!さあ、お飲みなさい! 少しでもいいからお飲みなさいよ!」
彼はそれでも、どうにか相手に水を入れたコップを持たせた。相手は機械的にそれを口もとに持っていきかけたが、はっと気がついて、厭《いと》わしげにテーブルの上へおいた。
「そうですとも、ちょっと発作が起きたんですよ! こんなことをしていると、あなた、またこの前の病気をぶり返しますぜ」とポルフィーリイは親身な同情を見せて牝鶏の鳴き声のような声を出しはじめたが、まだ相変わらずどこか途方にくれたような様子もしていた。「いやはや! いったいどうしてあなたはこんなに自分の体を大事にしないんです? きのうラズーミヒンのやつが来ましたがね、――ええ、そりゃね、私の性分が毒舌家でいやらしいってことは私も認めますがね、ところが、やつはそのことからとんでもない結論をひき出しやがったんですよ! ……いや驚きましたね! きのう、あなたが帰られたあとで、奴さんが来たもんですから、いっしょに食事をしたんですが、そのしゃべること、しゃべること、こっちはただ両手をひろげて唖然《あぜん》としたきりでしたよ。私はもう……どうにもならんわいと思いましたね! あいつはあなたからさし向けられて来たんでしょうか? まあ、おかけなさいよ、あなた、ちょっとおかけになって下さい、お願いですから!」
「いや、僕がさし向けたわけじゃありませんよ! もっとも、僕は、彼がお宅へ出かけたことも、なんのために出かけたかも、承知していましたけどね」とラスコーリニコフはきっぱりと答えた。
「ご承知でしたか?」
「知ってました。で、それがどうしたんです?」
「ということはですな、ロジオンさん、私はまだまだそれくらいのものじゃなくてもっとどえらいことをあなたがなさっていることも知っているということですよ。こっちにはなんだってわかっているんですから! あなたが、日もとっぷり暮れてこれから夜になろうという刻限に、|貸間さがし《ヽヽヽヽヽ》などに出かけて、呼び鈴などを鳴らして、血のことを聞いたりして、職人や庭番を煙にまかれたことだって、私は知っているんですからね。そりゃ、あなたのそのときの精神状態というものもわからないじゃありませんよ……しかし、それにしてもあんなことをしていたらあなたはただ自分で自分の頭を狂わしてしまうくらいが落ちですよ、ほんとうに! へたばっちまいますよ! あなたの胸には憤怒がそれこそふつふつと煮えたぎっている、崇高な憤怒がね、初めは運命にしいたげられたため、つぎには警察の連中から侮辱されたための怒りが。それであなたはあちこち駆けずりまわって、いわばできるだけ早くみんなに言い出させて、それでもってぜんぶいっぺんにけりをつけてしまおうとしておられるわけです、というのは、こうしたばかげたことやこういう嫌疑がいやでいやでたまらなくなったからです。確かにそうでしょう? あなたのお気持ちをずばり言いあてたでしょう? ……ただ、あなたはこんなことをしていたらご自分ばかりか、ラズーミヒンまでへとへとにしちまうだけですよ。あの男はこういうことに耐えるにはあまりにも|人がよすぎる《ヽヽヽヽヽヽ》人間ですからね、あなたもご存じでしょうけど、あなたは病気を持っているし、あいつは善意を持っているとなれば、感染しやすい病気は当然あいつにうつるわけですよ……あなたには、そのうち気持ちが落ちつかれたら、お話しますがね……まあ、おかけなさいよ、あなた、お願いですから。どうか、ひと休みして下さい、お顔の色ったらありませんよ。すこしおかけになって下さい」
ラスコーリニコフは腰をおろした。震えはおさまってきたが、代わって体じゅうにかっかと熱が出てきた。ふかい驚きに打たれながら、彼は、びっくりして親切そうに自分の世話をやいてくれているポルフィーリイの話を緊張して聞いていた。が、しかし彼は相手の言葉はひと言も信じていなかった。もっとも、信じたいという一種不可思議な欲求は感じていた。彼は貸間さがしのことでポルフィーリイが思いがけなく口にした言葉には、まったく大変なショックを覚えた。
『これはどうしたことだ、それじゃ、こいつめ、あの貸間さがしの一件も知ってるんじゃないか?』という考えがひょいと彼の頭に浮かんだ。『しかも、自分のほうからおれに語って聞かせやがる!』
「そうそう、私たちがあつかった実際の裁判事件にも、これとほとんどおなじような心理的な事件が、こういった病的な事件がありましたよ」とポルフィーリイは早口に話しつづけた。「やはり自分ひとりで自分に殺人の罪をなすりつけてしまったんですが、しかもそのなすりつけ方がまたひどいんですよ。一編のばかげたありもしない物語をでっちあげて、事実の自供はする、そのときの情況は語って聞かせるというようなふうで、みんなをひとり残らず迷わせ、煙にまいてしまったわけですが、それがなんと、当人はまったく偶然に、多少殺人の原因になったというだけの話で、それも問題にならない程度なのに、奴さん、自分が人殺したちに動機を与えたことを知ると、急にくよくよしはじめ、意識がおかしくなり、いろんな幻覚に悩まされ、すっかり気が狂ってしまって、そのあげく自分が人殺しの犯人だと思いこんでしまったんです!が、ついに、最高裁が事件を取り調べた結果、あわれな男の無罪が証明されて、監視つきの釈放ということになりましたがね。最高裁様々ってところですよ! いやまったく、驚きますな! ですから、そんなことをしていたらどういうことになるかわかりませんぜ、あなた? 夜毎に呼び鈴を鳴らしに行ったり、血のことを聞いたりして、自分の神経をいらだたせたいといったような傾向が現われ出したら、わけなく脳炎くらい起こしちまいますよ! 私はこういう心理はすっかり実地に研究しつくしているんですから。そんなことをしているうちに窓や鐘楼から飛びおりたくなってくるんですよ、そういう気持ちってものは、なかなか魅力的なものですからな。呼び鈴もこれとおなじことです……病気ですよ、ロジオンさん、病気ですよ! あなたは自分の病気を軽く見すぎているようですな。ま、経験のある医者に相談するんですな、あの、あなたのかかりつけのでぶちゃんじゃだめですよ! ……あなたは熱に浮かされているんです! あれだってぜんぶ単に熱に浮かされてやったことですよ!……」
一瞬、ラスコーリニコフはまわりのものが急にぐるぐるまわり出したように感じた。
『はたして、はたしてこいつは今でも嘘をついているんだろうか?』という考えが彼の頭をかすめた。『そんなことはありえない。ありうるはずはない!』彼はその考えを払いのけた。それは、そう考えれば自分がどこまで狂憤にかられるかしれないという予感もしたし、また狂いたった結果ほんとうに発狂するかもしれないような気もしたからである。
「あれは熱に浮かされてやったんじゃありませんよ、あれは正気でやったことですよ」と彼は叫びながら、自分の判断力の限りをつくしてポルフィーリイの演技を見やぶろうとした。「正気ですよ、正気ですよ! わかりましたか?」
「ええ、わかってますよ、わかってますよ! あなたはきのうも、熱になんか浮かされていないとおっしゃっていましたね、ことさら、熱に浮かされちゃいないと強調していたくらいです! あなたが言い出しそうなことは私にはなんでもわかっていますよ! ちぇっ、……まあ、聞いて下さいよ、ロジオンさん、あなた、せめてこういうことだけでも。かりにもしあなたが実際に、ほんとうに罪を犯しているか、どんな形でかこのいやな事件に連坐しておられるとしたら、あなたは、冗談じゃない、あれはぜんぶ熱に浮かされてやったんじゃない、それどころかまったくの正気でやったんだなんて自分から言い張りますかね? それもことさら、あれほど特別に強情なところを見せて言い張る、――そんなことってあるもんでしょうかね、そんなことってありうるもんでしょうか、冗談じゃない! 私に言わせりゃ、まったくその逆ですよ。もしなにか自分にうしろ暗いことを感じておられるとしたら、あなたはまさに、確かに熱にうかされていたと主張すべきはずですよ! そうでしょう? 確かにそうでしょう?」
この問いにはなにやら狡猾なからくりが感じられた。ラスコーリニコフは、自分のほうに乗り出してきたポルフィーリイから急に身を引いてソファの背に体をつけて、無言のまま、思いまどいながら相手をじっと見つめていた。
「それに、ラズーミヒン氏のことでも、つまり彼はきのう自分から言いに来たのか、それともあなたのそそのかしによるものかという問題でもそうでしょう。あなたはまさしく、あれは自分の意志で来たのだといって、僕のそそのかしによるんじゃないと言うべきところでしょう!ところが、あなたは隠そうとはなさらない! それどころか、あれは僕のそそのかしによるんだと主張しておられる!」
ラスコーリニコフはけっしてそんなことを主張した覚えはなかった。ぞうっと背すじを寒けが走った。
「あなたは嘘ばかりついておられる」と彼は、唇を病的な笑いにゆがめて、弱々しい声でゆっくりといった。「あなたはまた僕に、お前さんの手のうちはすっかり読んでいますよ、あなたの返事だってぜんぶ前からわかっていますよってとこを見せようと思っているんでしょう」と彼は言いながらも、自分でもだいたい、もうどういう言葉を使うべきか考えなくなって来ているなと感じていた。「あなたは僕をおどかそうと思っているんだ……でなければ単に僕をからかっているんだ……」
彼はそんなことを言いながら、なおもじっと相手を見つめているうちに、不意にまたもやその目にとめどもない憎悪がきらりと輝いた……
「あなたは嘘ばかりついている!」と彼は叫んだ。「犯人にとって最良の切りぬけ策は、隠さないでいいことはできるだけ隠さないことだということを、自分でも知っておられるくせに。僕はあなたの言うことなんか信じませんよ!」
「あなたはまったくひねくれ者ですなあ!」ポルフィーリイはへへへと笑った。「あなたはあつかいにくい人ですよ。なにかモノマニヤにでもとりつかれていますね。それじゃあなたは私の言うことなんか信じないというわけですね?ところが、私はあなたに言っておきますがね、もうあなたは信じていますよ、もう四分の一メートルくらい信じています、そのうち一メートルぜんぶ信じさせてお目にかけますからね、なぜって、私は心からあなたが好きだし、心からあなたのためによかれと願っているんですからね」
ラスコーリニコフは唇が震え出した。
「そうなんですよ、願っているんですよ、ですから、もうこれっきり申しあげませんけどね」と彼はさも親しげに、ラスコーリニコフのひじより少し上のあたりを軽くつかんで、しゃべりつづけた。「これっきり言いませんけど、くれぐれもご病気には気をつけて下さいよ。おまけに、今ご家族の方もいらっしゃっているんですから。あの方たちのことも少しは思い出してあげるんですな。あなたはあのお二人を安心させ、いたわってやるべきなのに、おどかしてばかりいるじゃありませんか……」
「そんなこと、あなたになんの関係がありますか? どうしてあなたはそんなことを知っているんです? なんのためにそんなに関心をお持ちなんです? それはつまり、あなたは僕の動静を調べて、それを僕に見せつけようというんでしょう?」
「いやはや! こんなことはみんな、あなたから、あなた自身の口から聞いたことですよ! あなたは興奮しているさなかに先走りしてなにもかも私やほかの者にしゃべっておきながら、それに気づいてもおられないんですよ。ラズーミヒン氏からもやはりきのうおもしろい楽しい話をたんと聞きましたよ。いや、こうしてあなたに話の腰をおられてしまったわけだが、私はこういうことを言わしてもらいますよ、あなたはその猜疑《さいぎ》心のために、鋭い機知を十分に備えておられながら、物事を健全に見ることすらできなくなっているわけなのですよ。まあ、たとえば、またおなじ話題になりますけど、例の呼び鈴のことにしてもですよ、あんな貴重な材料を、あんな事実を(あれはりっぱな事実ですからねえ!)私はそっくりそのままあなたにぶちまけてしまったじゃありませんか、予審判事の私が! それなのにあなたはそれをなんとも思っちゃ下さらない! もし私がほんの少しでもあなたに嫌疑をかけているとしたら、こんな行動に出るべきでしょうかね! 反対に、私は、最初あなたの疑念を眠らしておき、私がその事実を知っているということは気振りも見せず、そうやってあなたの注意をまるっきり見当ちがいのほうへそらしておいて、いきなり脳天にみね打ちをくらわして(あなたの表現を借りればね)、相手を呆然とさせるべきでしょう。つまり、『いったいあなたは晩の十時どころか十一時近い頃に人殺しのあった家でなにをしていましたか? なぜ呼び鈴なんか鳴らしたんです?それになぜ血のことなぞ聞いたんです? なぜ庭番たちを煙にまいたり、警察の副署長のところへ行こうなどと誘ったりしたんです?』と聞いたでしょうな。もし私がほんのこれっぽっちでもあなたに嫌疑をいだいていたとしたら、まずこんなやり方をすべきじゃないですか。そして、型どおりにあなたから供述を取って、家宅捜索をして、さらにはあなたを捕縛したかもしれません……そんなわけで、そういう行動をとらなかった以上、私はあなたに嫌疑をかけていないことになるわけじゃありませんか! それなのに、あなたは健全な見方ができなくなっているため、くり返して言いますが、なんにも見えないわけですよ!」
ラスコーリニコフは体じゅうぶるっと震わせた。ポルフィーリイにもそれははっきりすぎるほどわかった。
「嘘ばっかり言っている!」と彼は叫んだ。「あなたの狙いは僕にもわからないが、あなたの言っていることはみんなでたらめですよ……さっきあなたが言っていたのはそんな意味じゃなかった、僕が聞きちがえるわけはありませんよ……あなたは嘘をついているんですよ!」
「私が嘘をついている?」とポルフィーリイは相手の言葉を引き取ったが、見たところはかっとなっているようでありながら、例の上機嫌の嘲笑的な表情をくずさず、見たところ、ラスコーリニコフが自分のことをどう見ていようと、そんなことに少しも心を乱した様子はなかった。「私が嘘をついてるんですって? ……じゃ、私はあなたにたいしてどういう行動をとりましたかね(予審判事である私が)、こちらからあなたにありとあらゆる弁護法を教えたり、洩らしたり、こっちからあなたに『病気、熱病の発作、ひどい侮辱、メランコリー、警察の連中』などと、心理状態をすっかり解説してあげたりしたじゃありませんか? え? へ、へ、へ!もっともそれは、――ついでに言っておきますが、――そういった心理的弁護法とか、口実とか言いぬけなんてものはみんな、きわめてあやふやなものだし、どうともとれるものですがね。『病気だった、熱に浮かされていた、幻覚だ、そんな気がした、覚えがない』みんなそれはそうだろうけれど、そんならどうして、あなた、病気で熱に浮かされている最中にいつもおんなじ幻覚を見て、ほかの幻覚は見ないんでしょう? ほかの幻覚が起こったっていいはずじゃありませんか? そうでしょう? へ、へ、へ、へ!」
ラスコーリニコフは傲然と、さげすむような顔つきで相手を見た。
「要するに」と彼は、立ちあがったひょうしにポルフィーリイをちょっと突きのけるようにして、かたくなに、大声でこう叫んだ。「要するに、僕が知りたいのは、あなたが僕を完全に嫌疑が晴れた者と認めるか|どうか《ヽヽヽ》ということです。それを言って下さい、ポルフィーリイさん、はっきりと最終的に言って下さい、早く、今すぐ!」
「いやはや、まったくやっかいなことだ! いやまったく、あなたという人は、やっかい千万な人ですなあ」と、ポルフィーリイはいかにも愉快でたまらないといったような、ずるそうな顔つきで、狼狽した気ぶりすら見せずに、そう叫んだ。「それに、まだあなたにご迷惑をかけるようなことはちっともしていないさきから、なんのためにあなたは、なんのためにあなたはそんなにいろいろなことを聞きたがるんです!あなたはまるで子供みたいだ。手に火を握らしてくれ、握らしてくれってわめいたりして! いったいどうしてあなたはそんなに気をもんでいらっしゃるんです? どうして自分のほうからそんなにおしかけて来てせがむんです、なんの理由で? え? へ、へ、へ!」
「もう一度言いますが」とラスコーリニコフは怒りに燃えて叫んだ。「僕はもうこれ以上我慢できないんですよ……」
「なにがですか? 事がはっきりしないということがですか?」とポルフィーリイが口を入れた。
「毒舌を吐くようなまねはよして下さい! 僕はそういうことはいやなんだ……いやだといってるじゃないですか! ……我慢ならないし、いやなんですよ! ……いいですか! いいですか!」と彼はまたもやどしんと拳固で卓をたたいて絶叫した。
「まあお静かに、お静かに! 人に聞こえるじゃありませんか! まじめに注意しますけど、もっと自重なさいよ。冗談を言っているんじゃありませんよ!」とポルフィーリイは声を落として言ったが、今度はもうその顔にはさっきの女じみた親切そうな表情もびっくりしたような表情も見られなかった。それどころか、今度はけわしく眉をしかめて、まるで秘密や曖昧《あいまい》な態度をぜんぶ一挙にかなぐり棄てたかっこうで、正面きって|命令を下し《ヽヽヽヽヽ》た。が、それもほんのつかの間にすぎなかった。面くらったラスコーリニコフはがぜんほんものの狂憤状態におちいりかけたかと思うと、不思議にも、狂憤の激しい発作の絶頂にあったにもかかわらず、もっと静かに話せという命令にまたもや従ってしまったのである。
「これ以上僕を苦しめるようなまねはさせないぞ!」と彼はさっきのように急に声をおとして言い出したが、そのときは心のなかで、命令に従わないわけにはいかないのだと一瞬苦痛と憎悪を覚えながら意識し、そう思ったため一層激しい狂憤にかりたてられていた。「僕を逮捕するもよし、家宅捜索するのもいいが、ただ正式にやって下さい、人をおもちゃにすることだけはやめて下さい! そんな失礼なまねは……」
「まあ、形式のことは心配することはありませんよ」とポルフィーリイはさっきの狡猾そうな微笑にかえり、悦に入ったような表情さえ浮かべてラスコーリニコフの狂態を見て楽しみながら、相手の言葉をさえぎった。「私はあなたをきょうは家庭的に、まったくの友だちづきあいでお招きしたんですからね!」
「僕はあなたとの友だちづきあいなんかまっぴらですよ、そんなものはくそくらえだ! いいですか? こうして僕は帽子を取って出ていきますよ。さあどうです、逮捕するつもりだったら、なんとか言ったらどうですか?」
彼は帽子をつかんで、戸口をさして歩き出した。
「あっと驚くようなものをごらんになりませんか?」ポルフィーリイが、戸口のところでまたひじのやや上のあたりをつかんで引きとめながら、へへへと笑った。彼は明らかにますます上機嫌になり、ふざけた気分になってき、それがまたラスコーリニコフをまったく見境がつかないほどのぼせあがらせることになった。
「あっと驚くようなものってなんです? どんなものです?」と彼はぴたりと足をとめて、びっくりした顔つきでポルフィーリイを見ながら、そう聞いた。
「あっと驚くようなものは、ほら、あそこのドアのむこうにいますよ、へ、へ、へ!(彼は、自分の官舎へ行けるようになっている仕切りのしめきったドアを指さした)逃げられないように、錠をかって閉じこめてあるんです」
「なにがですか? どこに? なにが?……」ラスコーリニコフはドアのそばへ行って、あけようとしたが、ドアには鍵がかかっていた。
「鍵がかかっていますよ、ほら、これが鍵です!」
なるほど、まちがいなく彼はポケットから鍵を取り出して、相手に見せた。
「きさまは嘘ばかりついてやがる!」と、ラスコーリニコフはもはやこらえきれなくなって、わめき出し、「嘘をつきやがって、この道化野郎め!」と言いざま、戸口のほうへあとずさりはしたものの少しもひるんだ様子もないポルフィーリイに飛びかかっていった。
「おれにはなにもかも残らずわかっているんだ!」と彼は相手のそばへ駆け寄りながらそうわめいていた。「きさまはでたらめを言ったりおれをからかったりして、おれに尻尾を出させようっていうんだろう……」
「もうこれ以上尻尾を出せるわけがないでしょう、あなた、ロジオンさん。あなたはもう半狂乱じゃないですか。そんなにわめきたてるもんじゃありませんよ、人を呼びますぞ」
「嘘つけ、きさまになにができる! 人を呼ぶんなら呼べ! きさまはこっちが病気なのを知っていながら、人をからかって半気ちがいにして、尻尾を出させようっていうんだろう、きさまの狙いはそんなところだ! そんなんじゃなくて、証拠を見せろ! おれはすっかりわかったぞ! きさまは証拠なんか握っちゃいないんだ。あるのはザミョートフ流の愚にもつかない、くだらん当て推量だけさ! ……きさまはおれの気性を知っているんで、おれを半狂乱にもっていって、それからだしぬけに牧師だの陪審員だので度胆をぬこうっていう腹なんだ……きさまはそいつらを待ってるんだろう? え? なにを待ってるんだ? どこにいるんだ? 出してみせろ!」
「こんな所に陪審員なんかいるはずはないでしょう、あなた! 人間ていろんなことを想像するもんですな! そんなふうじゃ、おっしゃるように正式にやることすらできませんよ、あなたはなんにもわかっちゃいないね、あなた……正式なやり方ってやつはそんなにあわてなくたって逃げていきやしませんよ、そのうちご自分の目で見られますよ!……」とポルフィーリイはつぶやきながら、ドアのほうに耳をすました。
実際、そのときつぎの間の戸口で物音らしいものがした。
「あっ、来たぞ!」とラスコーリニコフが叫んだ。「きさまはやつらを呼びにやったんだな!……きさまが待っていたのはやつらなんだろう! きさまはちゃんと腹づもりしていたんだ……さあ、そいつらをぜんぶここへ出せ、陪審員でも、証人でも、好きなやつを……出せ! こっちは覚悟はできてるぞ! できてるぞ!……」
ところが、そのとき奇々怪々な出来事が起きた。もちろん、ラスコーリニコフもポルフィーリイもそんな大詰めになろうとは予期していなかったような、物事の普通のなりゆきではまるで思いもよらないようなことが起きたのである。
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六
あとでラスコーリニコフがこのときのことを思いおこしたときに思い浮かんだ状況は、つぎのようなぐあいだった。
ドアのかげから聞こえてきた物音がたちまち大きくなってきて、ドアが細目にあいた。
「何してるんだ?」とポルフィーリイはいまいましそうに叫んだ。「前もって注意しておいたじゃないか……」
一瞬なんの答えもなかったが、ドアのむこうには人が何人かいて、だれかを押しもどしているらしい気配がした。
「そこでいったいなにをしているんだ?」とポルフィーリイがそわそわしてまた聞いた。
「未決囚のニコライをつれてまいりました」というだれかの声がした。
「まだそんな必要はない! むこうへつれて行け! もうしばらく待ってろ! ……なんだってこんなところへはいりこんで来やがったんだ! めちゃくちゃじゃないか!」とポルフィーリイは戸口へ飛んで行って、わめきたてた。
「こいつが……」と、またおなじ声が聞こえ出したが、急にとぎれてしまった。
すると、二秒もたたないうちに、本式の格闘が始まった。それからだれかがだれかを力まかせに突きのけたらしかったが、つづいてだれか真っ青な顔をした男がずかずかとポルフィーリイの書斎へはいりこんで来た。
その男の挙動は見るからに異様だった。まっすぐ前方を見ていながら、だれも目にはいらないらしいのである。その目には決意の色がきらめいていたが、と同時に顔一面死人のような青白い色を呈し、まるで刑場へでもひかれていく人のようだった。まったく血の気のない唇はかすかに震えていた。
それはまだごく若い男で、身なりは平民ふう、背は中背で、痩せぎすで、髪は丸く刈りこみ、顔だちは細おもてで、かさかさした感じだった。そこへ不意に突きとばされた男がまっさきにあとを追って部屋のなかへ飛びこんできて、その男の肩をつかまえようとした。それは看守だった。だが、ニコライはぐいと腕をひいて、もう一度振りもぎった。
戸口には物見高い連中が数人寄り集まってきた。なかにはむりやり部屋のなかへはいりこもうとする者もいた。今ここに描いたことはほとんど一瞬間の出来事だった。
「あっちへつれて行け、まだ早い! 呼ばれるまで待っているんだ……なんだってこんなに早くつれて来たんだ?」とポルフィーリイは途方にくれたらしく、ひどくいまいましげにそうつぶやいた。しかし、ニコライはやにわにそこにひざまずいてしまった。
「どうしたんだ、お前は?」とポルフィーリイが驚いて叫んだ。
「あっしが悪うござんした! あっしの仕業です! 人殺しはあっしです!」ニコライは、いくぶんあえぎながら、それでいてかなりの大声でだしぬけに口走った。
十秒ほど沈黙がつづいていた。一同、茫然自失の体だった。看守までが一歩あとずさって、もはやニコライのそばへは寄ろうともせず、機械的に戸口のほうへ退いて、身動きもせずに突立っていた。
「なんだと?」と、ポルフィーリイがつかの間の茫然たる状態からぬけ出して、そう叫んだ。
「あっしは……人殺しです……」とニコライはほんのちょっと口をつぐんでから、またくり返した。
「なんだって……お前が……どうして……だれを殺したというんだ?」
ポルフィーリイは明らかに度を失っていた。
ニコライはまたちょっと口をつぐんだ。
「アリョーナとその妹のリザヴェータは、あっしが……殺したんでさ……斧で。魔がさしたんです……」と彼は不意に言いたして、また黙ってしまった。彼は相変わらずひざまずいていた。
ポルフィーリイはややしばらく考えこむような様子で立っていたが、ぱっとまた躍りあがると、呼ばれもしないのに出て来た見物人たちを、手を振って追いはらった。連中はたちまち姿を消し、ドアはぴったり閉ざされた。ついで彼は、部屋の隅に突立って妙な目つきでニコライを眺めているラスコーリニコフを見やると、そちらへ行きかけたが、急に足をとめて、彼を見、その目をすぐにニコライのほうに移し、それからまたラスコーリニコフとニコライをかわるがわる見たかと思うと、憑《つ》かれたようにまたもやニコライを目がけて飛んでいった。
「どうしてお前は魔がさしたなんて先走ったことをいうんだ?」と彼は憎悪に近い顔つきをして相手をどなりつけた。「魔がさしたかどうかなんて、まだお前に聞いちゃいないじゃないか……さあ、いえ、殺したのはお前なのか?」
「下手人はあっしです……これから申し立てをします……」
「ちぇっ! お前はなにで殺したんだ?」
「斧で殺しました。前から用意しておきました」
「ちぇっ、先まわりして答えやがる! ひとりでか?」
ニコライは質問の意味がわからなかった。
「ひとりで殺したのか?」
「あっしひとりです。ドミートリイには罪はねえし、だいたいあれには関りあいはねえんでさ」
「ドミートリイのことなんか、先走りして言わなくてもいい! ちぇっ!……」
「どうしてお前は、そんなら、どうしてお前はあのとき階段を駆けおりたんだ? 庭番たちがお前たち二人に出くわしたというじゃないか?」
「あれは人の目をくらますために……あんとき……ドミートリイといっしょに駆けおりたんです」ニコライはせきこむようにして、前もって用意していたらしい返事をした。
「ふん、やっぱりそうだろうと思った!」とポルフィーリイは憎らしげに叫んだ。「人から教えこまれたせりふをいってやがる!」彼はひとり言のようにそうつぶやいたとたんに、またラスコーリニコフに気づいた。
彼は、見たところ、ニコライにすっかり気をとられていたため、一瞬間ラスコーリニコフの存在を忘れてしまっていたらしいのだ。が、今ふとわれに返ると、うろたえた様子さえ見せた……「ロジオンさん! 失礼しましたね」と、彼はラスコーリニコフのところへ駆け寄って、こう言った。「これじゃどうにもなりません。お引きとり願います……ここにおられてもしようがありませんから……私のほうも……ごらんのとおり、とんだ、あっと驚くようなものになってしまって! ……お引きとり願います! ……」
こう言うと、彼は相手の手をとって、ドアのほうを指さした。
「あなたはこんなことになろうとは予期していなかったようですね?」と、むろんまだはっきりとは得心がいかないなりに、すでにかなり元気を取りもどしていたラスコーリニコフが言った。
「あなただって、大将、思っていなかったでしょう。ほれ、そんなに手がぶるぶる震えて、へ、へ!」
「あなただって震えているじゃありませんか、ポルフィーリイさん」
「そりゃ私だって震えていますよ。こうなろうとは思っていませんでしたからね!……」
二人はもう戸口に立っていた。ポルフィーリイは、ラスコーリニコフが早く出ていってくれないかと、じりじりして待っていた。
「すると、あの、あっと驚くようなものは見せて下さらないわけですね?」とだしぬけにラスコーリニコフが言った。
「おっしゃいますね、そういうご本人、まだ歯の根もあわないような状態のくせに、へ、へ!あなたも皮肉なお人ですな! じゃ、さようなら」
「僕の考えじゃ、これで|永久に《ヽヽヽ》、|おさらば《ヽヽヽヽ》だと思いますがね!」
「それは神さまのおぼしめし次第ですな、神さまのおぼしめし次第ですよ!」と、ポルフィーリイは妙にゆがんだような微笑を浮かべてつぶやいた。
役所のなかを通りぬけるとき、ラスコーリニコフは、みんながじっと自分に目をそそいでいるのに気がついた。控え室の人群れのなかに彼は、あの晩おそく彼が警察へ行こうと誘った|例の《ヽヽ》アパートの庭番が二人とも来ていることに気がついた。その二人はそこに突立って、なにかを待っているような様子だった。ところで、階段へ出るか出ないうちに、彼はふと背後にポルフィーリイの声を聞きつけた。ふり返って見ると、ポルフィーリイがはあはあ息せき切って自分に追いついたばかりだった。
「ほんのもうひと言だけ、ロジオンさん。ああしたことがどうなるかは神さまのおぼしめしですが、やっぱりなにやかとお尋ねしなければならないと思います……そんなわけでもう一度お目にかかることになるわけです、そういうことです!」
こう言ってポルフィーリイはにやにやしながら彼の前に足をとめ、
「そういうことです」ともう一度つけ加えた。
彼はまだなにか言いたいのだが、なんとなく言い出せずにいるようにも見受けられた。
「さっきのことは、ポルフィーリイさん、どうか堪忍して下さい……ちょっととりのぼせたものですから」もうすっかり元気づいて、少し気どってみたいというおさえがたい欲望を覚えるまでになっていたラスコーリニコフがそう言いかけると、
「なんの、なんの」とポルフィーリイは嬉しそうともいえる調子ですぐに引き取って答えた。
「私のほうもそうですよ……私は辛辣《しんらつ》な人間なもんですからね、慚愧《ざんき》にたえません、慚愧にたえません! そのうちまたお目にかかりましょう。神さまのお導きがあったら、これからも大いに、大いにお会いしましょうや!……」
「そして、徹底的におたがい同士知りあいましょう、でしょう?」とラスコーリニコフが引きとっていった。
「徹底的に知りあいましょう」とポルフィーリイは相づちを打ち、目を細めて、まじめくさった顔つきで相手を見つめた。「これから命名日のお祝いですか?」
「葬式です」
「ああ、葬式でしたっけね! お体に気をつけて下さい、お体にね……」
「こちらからはどうごあいさつ申しあげたらいいのかわかりませんね!」すでに階段をおりかけていたラスコーリニコフはこう引きとって言ったが、くるりとまたポルフィーリイのほうを向いて、「ま、なお一層のご成功を祈るとでも言いましょうかね、それにしてもあなたのご職業も実に喜劇的な職業ですねえ!」
「どうして喜劇的です?」やはりくびすをかえして帰りかけたポルフィーリイはさっそく耳をそばだてた。
「だってそうでしょう、ほら、あのあわれなニコライをあなた方はきっと、あなた方一流のやり方で心理的にさんざん責めさいなんだあげく、白状させたわけでしょう。日がな夜がな証拠をならべたてて、『お前は人殺しだ、お前は人殺しだ……』と言って聞かして。ところが、いざあの男が白状してしまうと、今度は『でたらめをぬかせ、人殺しはお前じゃない! お前みたいなやつが人殺しなんかできるはずはない! 人から教えこまれたせりふを言ってやがる!』なんて言ってあの男をぎゅうぎゅういう目にあわせはじめるんですもの。さあ、これでも喜劇的な職業じゃないなんて言えますかね?」
「へ、へ、へ! やっぱり、私が今ニコライに、『人から教えこまれたせりふを言ってやがる』と言ったことに気がつきましたか?」
「気がつかないでどうしますか?」
「へ、へ! 奇知に富んでいますな、奇知に富んでいますよ。なんでも気づいてござる! 正真正銘《しょうしんしょうめい》ユーモアを解する頭脳ですな! ぴったり喜劇的なつぼをおさえておられますものな……へ、へ! 作家のなかではゴーゴリにこういった特徴が最高度に発達していたそうじゃありませんか?」
「そう、ゴーゴリにね」
「ええ、ゴーゴリに……じゃ、いずれまた」
「じゃ、いずれまた……」
ラスコーリニコフはまっすぐ家へ帰った。彼はひどく頭が混乱していたため、すでに家へ帰ってソファに身を投げ出してからも、十五分ほど坐ったまま、ひたすら休息をとって、懸命に少しでも考えをまとめようとするだけだった。ニコライのことは考えようともしなかった。彼は激しいショックを覚えた。ニコライの自白にはなにやら、今の彼にはどうにも理解できず、説明もできない、驚くべきものがひそんでいると感じていた。しかし、ニコライの自白は厳然たる事実である。彼にはこの事実の結果も即座に明白になった。嘘は露見しないわけはないから、そうなったらまた彼の取り調べが始まるだろう。が、少なくともそれまでは自由の身だから、その間にぜひとも自分の身の安全をはかるために手を打っておかなければならない、なんにしても危険は避けられないからだ。
それにしても、この危険はどの程度のものだろう? 状況ははっきりしてきた。ポルフィーリイとのさっきのひと幕を|ざっと《ヽヽヽ》そのぜんたいのアウトラインだけ思い出しただけでも、彼はもう一度恐怖のあまり震えあがらざるを得なかった。もちろん、彼にはまだポルフィーリイの目ざしているところがすっかりわかっていたわけでもないし、さっきの向こうの目算もぜんぶ読みとれたわけでもない。が、勝負の手のうちの一部は明らかになったわけだ。このポルフィーリイの勝負の『指し手』が彼にとってどんなに恐ろしいものかが、彼以上にわかった者は、もちろんだれひとりいなかったにちがいない。もう少しで、彼はすでに事実上完全に尻尾を出してしまった|かもしれない《ヽヽヽヽヽヽ》のだ。ポルフィーリイは彼の病的な性格がわかっていたので、ひと目で彼という人間を正確にとらえ、かつ見ぬいてしまい、あまりにも思いきった出方であったとはいえ、ほとんど的確な行動をとっていた。議論の余地なく、ラスコーリニコフはさきほどもすでに面目まるつぶれのような行動をとってしまったが、それでもまだ証拠《ヽヽ》というところまでは行っていず、すべてはまだ相対的であるにすぎない。が、しかし彼は今、はたしてこういったことをすべてあるがままに、理解しているだろうか? まちがって判断してはいないだろうか? きょうポルフィーリイはいったいどんな結果に導いていこうとしたのだろう? きょうほんとうに彼はなにか用意していたのだろうか? だとしたら、それはいったいなんだろう? ほんとうに彼はなにかを待っていたのだろうか、どうだろう? もしニコライのおかげであんな思いもかけないような破局が来なかったとしたら、きょう二人はいったいどんな別れ方をしていたろう?
ポルフィーリイは手のうちをほとんど全部見せてしまった。むろん、冒険だったわけだが、とにかく見せてしまった。もしかりに実際ポルフィーリイがもっとなにか握っていたとしたら、それまでも見せてしまったかもしれない(ラスコーリニコフにはどうもそんな気がしてならなかった)。あの『あっと驚くようなもの』とはなんだろう? ただ、からかっただけなのだろうか? あれにはなにか意味があったのだろうか、どうだろう? あの言葉のかげに、なにか証拠とか有力な起訴理由のようなものでも隠されていたのではあるまいか? それはきのうのあの男だろうか? あの男はどこへ雲隠れしてしまったのだろう? あの男はきょうどこにいたのだろう! もしポルフィーリイがなにか確実なものを握っているとすれば、むろん、それはきのうの男に関連したことだ……
彼はうなだれて、ひざの上にひじをつき、両手で顔をおおったまま、ソファに腰かけていた。神経的な震えがまだ身うちに残っていた。ついに彼は立ちあがって帽子を取ると、ちょっと思案してから、戸口へ足を向けた。
彼はなぜか、少なくともきょう一日はほとんど確実に自分の身が安全だと見てよいという予感がした。すると突然胸のなかにほとんど喜びに近い感情がわきあがるのを覚えた。彼は一刻も早くカテリーナのところへ出かけたくなった。葬式にはむろん間にあわないだろうが、追善のふるまいには間にあうだろう、あそこへ行けばすぐにソーニャに会えるわけだ。
立ちどまって、ちょっと考えているうちに、病的な微笑が唇におし出されて来た。
「きょうだ! きょうだ!」と彼はくり返しひとり言を言った。「そうだ、きょうじゅうだ!どうしてもそうしなきゃ……」
彼がドアをあけようと思ったとたんに、ドアが急にひとりでにあきかけたので、彼は思わず震え出して、うしろへ飛びすさった。ドアが徐々に静かにあいたかと思うと、ぬっと人の姿が――きのうの、|地の下から《ヽヽヽヽヽ》でもわき出たような男が――現われた。
男は敷居の上に立ちどまると、無言のままラスコーリニコフをじっと見つめてから、部屋のなかへ一歩足を踏み入れた。その男は、きのうと寸分たがわず、おなじような姿かっこうに、おなじような身なりをしていたが、顔つきと目つきにははなはだしい変化が生じていた。きょうの彼はなんとなくしょんぼりして見え、しばらく立っていたかと思うと、ふかいため息をもらした。この上にほおに片手などを当てて、首をかしげさえしたら、百姓女にそっくりだった。
「なにか用ですか?」と、ラスコーリニコフは生きた心地もなく、そう尋ねた。
男はしばらく黙っていたかと思うと、突然、彼にふかぶかと、ゆかにとどかんばかりのおじぎをした。少なくとも右手の指はゆかに触れた。
「どうしたんです?」とラスコーリニコフが叫ぶと、
「あっしが悪うございました」と男は小声でいった。
「なにがね?」
「悪い考えなど起こしまして」
二人はたがいに目と目を見合っていた。
「しゃくにさわったんでございます。あなたがあのときお出でになって、多分お酔いになっていたんでしょうが、庭番たちに警察へ行こうなんておっしゃったり、血のことなどを聞かれたりしたとき、みんながあなたを酔っぱらいだと思って何もせずにうっちゃっておいたのが、あっしはしゃくにさわったんでさ。そしてあんまりしゃくで、夜も眠れねえくれえでした。で、あっしゃ、あなたの所番地を覚えていましたんで、きのうここへ探りに来たわけです……」
「だれが来たって?」とラスコーリニコフは相手の言葉をさえぎるそばから記憶がよみがえって来た。
「あっしでさあ、で、つまりあなたに失礼なことを言ってしまったわけです」
「それじゃ、お前さんはあそこのアパートの人なのかね?」
「へえ、あっしはあそこの者なんで、はい。あのときは連中といっしょに門のとこに立っていたんですが、お忘れになりましたかね? あっしどもはもうずいぶん前からあそこに仕事場も持っておりますんで、はい。あっしどもは毛皮商でして、家へ注文を受けてやっております……いちばんしゃくにさわりましたのは……」
ふとラスコーリニコフには、おとといの門のそばでの情景がすっかりまざまざと思い出された。あのときはあそこに庭番たちのほかに何人か人が立っていたし、女たちもいたことまで思い浮かべた。彼は、ひとりがこんなやつはいきなり警察へ突き出してしまえといっていたその声も思い出した。そんなことを言っていた男の顔は思い出せなかったし、今会ってもわからないだろうが、自分がそっちを向いてなにか受け答えまでしたという記憶はあった……
すると、これであのきのうの恐怖はすっかり解消してしまったわけだ。自分はこんな|つまらない《ヽヽヽヽヽ》ことで実際に今にも身を滅ぼすところだった、あぶなく自分をだめにしてしまうところだったと思うと、それがいちばん恐ろしいような気がした。すると、この男は間借りの件と血にかんする問答以外、なにひとつ人に話せるようなものは持っていないわけだ。してみるとポルフィーリイも同様、あの|熱に浮かされて《ヽヽヽヽヽヽヽ》したこと以外なにひとつ、|どうとも意味のとれる心理《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》以外に確実な証拠などなにひとつ握っていないわけだ。してみると、これ以上なんにも証拠が出てこないとすれば(それに証拠などもうこれ以上出て来っこないのだ、金輪際、絶対に出てくるはずはないのだ!)、……彼らにはおれをどうすることもできないではないか? たとえ逮捕したとしても、結局なにを理由にこのおれを告発できよう? こうなってみると、ポルフィーリイは今やっと、たった今やっと貸間の件を知ったばかりで、それまではまるで知らなかったわけだ。
「じゃ、きょうポルフィーリイに……僕があそこへ行った話をしたのはお前さんだったのか?」と、彼は思いがけない考えにはっとして、叫んだ。
「ポルフィーリイと言いますと?」
「予審判事さ」
「話したのはあっしでさあ。庭番どもがあのとき行かねえんで、あっしが出向いていったわけです」
「きょうかね?」
「あなたが来られるちょっと前でした。そして、すっかり聞いてしまいました、あの人があなたをやっつけているところを残らず」
「どこで? なにを? いつね?」
「あそこの、仕切りのかげでさ、ずうっとあそこにいたんでさ」
「え? じゃ、あっと驚くようなものっていうのは結局、お前さんだったわけか? どうしてこんなことになったんだろう? いやまったく驚くね!」
「実はこうなんでさ」と商人は語り出した。「庭番のやつらは、いくらあっしが言っても、もう時間が遅い、大方こんな時間に来やがってなんて小言をくうだけのことだなんて言いやがって出かける気がねえのを見て、あっしはしゃくにさわりましてね、夜もおちおち眠れやしません。そこで自分で調べにかかったわけでさ。そして、きのうやっと調べがついたんで、きょう出かけて行ってみるてえと、最初行ったときは、お留守だってんで、一時間してからまた行ってみましたが――会ってくれません。そこで三回目に行ったら――やっと通してくれたわけです。で、あっしがなにもかもありのまま申しあげるてえと、あの人は部屋のなかを跳びはねるようにして歩きながら拳固で自分の胸をたたきたたき、『お前らはこのおれをどうしてくれるんだ、悪党ども! そうと知っていたら、あいつを護衛つきで呼び出すんだったのに!』なんて言ってました。それから駆け出していったかと思うと、だれかを呼んで来て、いっしょに隅のほうで相談を始めましたが、そのあとまたあっしのところへ来て、なにかと聞いたり小言をいったりしてましたが、あっしはずいぶん小言をくいましたよ。で、あっしが洗いざらい申しあげて、きのうあの学生はあっしの言ったことになんとも返事ができなかったとか、あの学生にはあっしがだれなのかわからなかったらしいてなことを話しますてえと、あの方はまた部屋のなかを駆けまわり出して、のべつ自分の胸をたたいたり、怒ってみたり駆けずりまわったりしていたところへ、あなたがいらっしゃったという取りつぎがあったわけです、するとあの人は――いいか、仕切りのむこうに隠れて、しばらくじっとしてろ、なにが聞こえても身動きひとつするんじゃないぞ、とこう言って、自分でそこへあっしに椅子を運んで来てくれて、あっしを閉じこめてしまったんですよ。事によったらお前を訊問するかもしれないなんて言ってね。そして、ニコライがつれて来られたときに、あなたがお帰りになったあとですが、あの人はあっしを出してくれたわけです。お前にはもう一度来てもらって、もっといろいろ聞くことがあるとかおっしゃいましてね……」
「で、ニコライは君のいる前で訊問されたのかね?」
「あの人は、あなたを送り出すとすぐにあっしも出してしまって、それから訊問を始めたようです」
商人はここで言葉を切ると、急にまた指がゆかに触れるほど、ていねいなおじぎをした。
「告げ口をしたり恨んだりして、どうもすみませんでした」
「神さまが許して下さるさ」とラスコーリニコフがそれに答えてそう言うと、商人は彼におじぎをしたが、今度はゆかにとどくくらいではなく、帯くらいまでのおじぎだった。そしてそれからゆっくりと向きを変えて、部屋を出ていった。「さあこれでなにもかもどうともとれるものばかりになったぞ、これで不確かなものばかりになったわけだ」とラスコーリニコフはくり返しつぶやきながら、いつになくさっそうと部屋を出た。
「さあ、これからまだまだ戦いをつづけるぞ」と彼は階段をおりながら憎悪に満ちた笑いを浮かべて、つぶやいた。その憎悪は自分自身にたいする憎悪だった。彼は軽蔑と羞恥の念にかられながら自分の『臆病さ』を思い出していたのである。 (つづく)