罪と罰(下)
ドストエフスキー作/北垣信行訳
目 次
第五編
第六編
エピローグ
解説
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主要登場人物
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ラスコーリニコフ(ロージャ)………自己流の理屈から金貸しの老婆を殺害する主人公。
プリヘーリヤ………ラスコーリニコフの母。
アヴドーチヤ・ロマーノヴナ(ドゥーニャ)………ラスコーリニコフの妹。
ソフィヤ・セミョーノヴナ(ソーニャ)………十八歳の娼婦。
マルメラードフ………ソーニャの父。酔いどれの退職官吏。
カテリーナ………ソーニャの病弱な継母。
ポーリャ………ソーニャの妹。
ラズーミヒン………ラスコーリニコフの親友。
ゾシーモフ………ラズーミヒンの友人。医師。
ポルフィーリイ………予審判事。
スヴィドリガイロフ………淫蕩な地主。
マルファ………スヴィドリガイロフの妻。
ルージン………卑劣な弁護士。
アリョーナ………殺害される金貸し老婆。
リザヴェータ………アリョーナの義理の妹。
プラスコーヴィヤ(パーシェンカ)………ラスコーリニコフの下宿の女主人。
ナスターシヤ………ラスコーリニコフの下宿先の女中。
ザミョートフ………警察署の書記。
ニコジーム………警察署長。
ニコライ………ペンキ職人。
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第五編
ルージンの運命を左右するような、ドゥーニャとプリヘーリヤ相手の話しあいがあった日のあくる朝は、さすがのルージンも、一時に酔いがさめたような気がした。この上なく不愉快に感じたのは、きのうはまだほとんど夢みたいな出来事のように思われ、もう実現してしまったこととはいえ、それでもまだありえない出来事のように思われていたことを、もはや取り返しのつかない既成の事実として次第に認めないわけにいかなくなってきたことである。傷つけられた自尊心という黒蛇に彼はひと晩じゅうかまれどおしだった。寝床から起きあがると、ルージンはさっそく鏡を見た。怒りのために一夜のうちに体じゅうに胆汁がまわって黄疸《おうだん》になっていはしないだろうかと、それが心配だったのである。しかし、このほうはさしあたり無事だったので、上品な、白い、最近少々肥えてきた自分の顔を眺めて、これならどこか別の所で、おそらくはもっときれいな花嫁もさがし出せるにちがいないと完全な自信がついて、一瞬慰めを覚えたくらいだった。が、とたんにわれに返ると、ぺっと勢いよくわきに唾を吐き、そのため自分の若い友人で同居人のレベズャートニコフの、口には出さないが皮肉をこめた微笑を誘うことになった。ルージンはこの微笑に気づくと、腹のなかでさっそくそれをこの若い友だちへの貸し勘定に入れた。彼はこのところ友だちへの貸し分がだいぶたまってきていたのである。彼がふと、きのうの面談の結果をこのレベズャートニコフになど知らせるんじゃなかったと思いあわせたとき、彼の憎悪は倍加した。これは彼がいらだつうちについかっとなって感情をぶちまけすぎたために犯してしまった、きのうとしては二度目の失策だった……ついで、この日も午前ちゅういっぱい、まるでわざとのように、つぎつぎと不愉快なことばかり起きていた。最高裁のほうでも、このところ奔走していたある事件が遠からず失敗に帰することになっていた。とりわけ自分の気持ちをいらだたせたのは、間近に迫った結婚のために借り受けて、自費で造作変えまでした住まいの家主であった。この家主は近頃にわかに金持ちになったドイツ人の職人だが、これがとり決めたばかりの契約の解除をどうしても承諾せず、ルージンがほとんどま新しいくらいに手を加えた住まいをそのまま返すというのに、契約書に書きこんだ解約金の全額支払いを要求してきていたのだ。家具のほうもこれまた同様、買ったのにまだとどけて来てもいない家具の手付けを一ルーブリも返そうとはしないのである。『まさか家具のためにわざわざ結婚をするわけにもいくまいじゃないか!』とルージンは腹のなかで歯ぎしりしてくやしがったが、同時にもう一度こういうまったく実現しそうもない希望が彼の頭にひらめいた。『はたしてほんとうにあれはすっかりとり返しがつかないほどだめになってしまい、もうおしまいになってしまったのだろうか? ほんとうにもう一度やってみるわけにいかないものだろうか?』ドゥーニャのことを思うと、彼の胸はまたもや誘惑にかられてうずき出すのだった。彼は悶えるような気持ちでこの瞬間を耐え忍んだ。そんなわけで、このとき、もしただ願いを唱えるだけで即座にラスコーリニコフを亡きものにすることができたとしたら、彼はむろんすぐさまその願いを唱えたにちがいない。
『手ぬかりはまだあればかりじゃない、あの二人にまるっきり金をやらなかったこともそうだったんだ』彼は憂鬱な気持ちでレベズャートニコフの部屋へ帰る道々こんなことを考えていた。『畜生め、なんだっておれはこうもユダヤ人じみてしまったんだろう! これじゃまるで先を読んでいなかったことになるじゃないか! おれはあの二人をもう少しひどい目にあわせておいて、おれを神さまのようにあがめ奉らせてやろうと思っていたのに、あいつらはあんなことをしでかしやがって! ……ちぇっ! ……あんなことをしないで、おれがあの二人にあれからずうっと、結納金だの贈り物だの、まあ、いろんな小箱やら旅行用化粧セットやら肉紅玉髄やら生地やら、そういった、クノップの店やイギリス商店で売っているくだらない品物の代金として、まあ、たとえば千五百ルーブリもやっておいたら、事はもう少しすっきりと……もう少し着実に運んでいたはずだ! そうしたら、むこうもあんなにやすやすとことわりもしなかったろう! ああいう手合いは、破談にする場合には贈り物も金もどうしても返さないではいられないような、そういった気性の連中なんだ。それに、返すとなれば辛くもあるし惜しくもある! おまけに良心がこそばゆい。これまであんなに気前もよければ相当やさしいところもあった人をどうしてそうだしぬけに追っぱらえよう、といったような気持ちになるものなんだ……ふむ! こいつはしくじったわい!』こう考えて、ルージンはもう一度歯ぎしりしてくやしがり、自分をばか呼ばわりした――もちろん、腹のなかでだったが。
こういう結論に到達したため、彼は家を出たときの二倍も不機嫌で、いらだった気分になって帰宅した。彼はカテリーナの部屋で進められていた葬式のふるまいの準備にはいささか好奇心をそそられていた。この葬式のふるまいについては早くもきのうからなんかかんか耳にもはいっていたし、それどころか、自分も招かれているような記憶さえあったが、自分のことであたふた飛びまわるのにかまけてそういう余事には注意を払わずにいたのである。カテリーナの留守中に(墓地へ行っていたために)、食事の用意ができていた食卓のまわりで忙しく立ち働いていたリッペヴェフゼル夫人のところへ急いで問いあわせに行って彼が聞き知ったところでは、追善供養は盛大におこなわれることになっていて、アパートの住人のほとんどぜんぶが招待を受けており、そのなかには故人とは面識もなかった者まで含まれていたし、またレベズャートニコフですら、カテリーナとは喧嘩をした仲でありながら招かれていたし、最後に彼、ルージン自身も招待されているどころか、彼は間借人ぜんぶのなかで最も主だった客であるというので首を長くして出席を待たれているくらいだとのことだった。また、例のアマリヤ自身も、いろんな不愉快ないざこざがあったにもかかわらず、やはり礼をあつうして招待されており、そんなことから今も主人顔で一切の切り盛りをし、それに満足感に近いものを覚えながら忙しそうに立ち働いていた上に、喪服とはいえ、新しずくめ絹ずくめで、上から下まで大いにめかしこんで、得意顔をしていた。こうした事実や情報からルージンはある企てを思いつき、自分の部屋、つまりレべズャートニコフの部屋へ立ちもどるにも、いくぶん思案顔だった。というのもつまりは、同様に彼の聞き知ったところによると、ラスコーリニコフも招待客のなかにはいっていたからである。
レベズャートニコフはどうしたわけかその日は午前中いっぱい家にひきこもっていた。この男とルージンとの間には一種奇妙な、とはいえある面から見れば自然な関係ができあがっていた。ルージンは、自分が彼の家に寄寓《きぐう》するようになったほとんどその日から、ちょっと度が過ぎると思われるくらい彼を軽蔑し憎んでいたが、それでいて多少彼を恐れているようにも見えた。彼がペテルブルク到着後この男の家に止宿しているのは単なるけち臭い経済観念だけによるのではなく、もっともそれはほとんど主な原因ではあったが、そこにはほかの原因もあったのである。彼はまだ地方にいた頃、自分のかつての養い子であるレベズャートニコフが最も急進的な若い進歩派のひとりになって、ある興味ぶかい伝説的なサークルで重要な役割りを演じているという噂を耳にし、これに激しいショックを覚えた。こういった強力な、あらゆることに通じておりあらゆる人間を軽蔑しておりあらゆる人間の非行を暴露してはばからぬサークルにルージンはもうだいぶ前から、まったく漠然としたものであったとはいえ、一種特別な恐怖をいだいておびえきっていた。むろん、彼自身は、まだ地方にいた頃のこととて、|こういった類いの《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ものについては、たとえだいたいのところにもせよ、なんの正確な概念も持つはずがなかった。彼は、多くの人とおなじように、都会、とくにペテルブルクには進歩主義者やニヒリストや暴露家等々がいることを聞き知ってはいたが、たいていの人がそうであるように、そうした呼称の意味や意義をばかばかしいくらい誇張し歪曲して考えていた。彼がここ数年来なによりも恐れていたのはこの暴露であって、これは、とくに自分の活躍舞台をペテルブルクへ移すことを夢見るたびに彼を襲った絶えざる誇張された不安の最大原因だった。その点彼は、ときに小さな子供が|おびえる《ヽヽヽヽ》ことがあるが、あのように、いわゆる|おびえきっていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のである。何年か前、地方にあって、まだ出世の道を切りひらこうとしていた頃、彼は、自分がそれまでよりすがり、かつ引きたててもらっていた県の相当の有力者の非行が手ひどく暴露された事件に二度も出会っていた。一方の事件は暴露された人物にとってなにか特別スキャンダル的な結末におわり、もう一方の事件はすんでのことですこぶる面倒な結末にまでなりそうになった。こういうことがあったればこそ、彼は、ペテルブルクへ出てくるとすぐさま事の真相を突きとめ、もし必要とあれば万一にそなえ、先まわりして『わが国の若い世代』に取り入ろうと思ったのである。この場合彼が頼みの綱にしていたのはレベズャートニコフであって、そのおかげで、たとえばラスコーリニコフを訪問した際などにも、すでに他人の口から有名なきまり文句を借用してなんとか使いこなせるようになっていたわけなのである。
もちろん、彼はたちまちのうちに、レベズャートニコフがきわめて俗っぽい単純な人間であることを見ぬいてしまった。が、しかしだからといって少しもルージンの迷いが解けたわけでもなければ、元気づけられたわけでもなかった。たとえ彼は進歩主義者なんてみんなおなじばか者ぞろいだと確信するようになったところで、彼の不安はおさまらなかったにちがいない。もともと、彼はそういった学説とか思想とか大系などには(レベズャートニコフはそういったものを武器にして盛んに彼に食ってかかっていたのだが)なんの用もなかった。彼には自分独自の目的があったのだ。彼に必要なのは、一刻も早くつぎのようなことをかぎ出すことだけだった。つまり、それは、|ここで《ヽヽヽ》今なにがどういうぐあいに起きているのか? 彼らには勢力があるのかどうか? もともと自分が恐れるべきものがあるのかどうか? 自分がこれこれのことを企てた場合、彼らは自分を暴露するだろうか、どうだろう? 暴露するとしたら、いったいなにを暴露するのか、まただいたい今なにを暴露しているのか? そればかりではない、もし彼らに勢力があるとしたら、なにか手を使って彼らにごまをすり、さっそくやつらに一杯食わすわけにはいかないものだろうか? そんなことをする必要があるのか、ないのか? たとえば、彼らを介してなにか自分の出世のいとぐちでもつくることはできないものだろうか? といったようなことだった。要するに、前途には何百という疑問が山積みになっていたわけである。
このレベズャートニコフという男は、どこかに勤めに出ている、腺病質で|るいれき《ヽヽヽヽ》持ちの小柄な男で、金髪が変に見えるくらい白っぽく、カツレツのような恰好のあごひげを生やして、それを大の自慢の種にしている男だった。それに、ほとんど年じゅう眼病をわずらっていた。気だてはかなり穏やかなほうだったが、話しっぷりは自信満々たる様子で、ときにはひどく人を食っているように見えることさえあり、――それが、そのちんちくりんな姿恰好と比べてたいていの場合こっけいに見えるのだった。それでも、アマリヤのところではかなり立派な下宿人のなかに数えられていた、ということはつまり、酒も呑まなかったし、部屋代もきちんきちんと支払っていたからなのだが。こうした長所を備えていたにもかかわらず、レベズャートニコフは確かにどこかまぬけなところがあった。彼が進歩や『わが国の若い世代』のもとに馳せ参じたのは情熱のおもむくところに従ったまでなのである。これは、瞬く間に必ず最新流行の思想に飛びついていって、たちまちそれを俗化し、ときにはこの上なく真剣に奉仕しようとする、一切のものをこっけいなものにしてしまう俗物だの、ひよわな月足らずだの、なんでも満足に学びおおせたことのない頑迷な連中から成るおびただしい人数の、種々雑多な人間の集団のひとりだった。
もっとも、レベズャートニコフは、いたって気のいい男ではありながら、やはり自分の同居人で元後見人のルージンがいくぶん鼻につき出していた。これは双方からふとしたはずみでたがいにそうなってしまったのである。が、いくらまぬけじみた男でも、やはり、ルージンが彼をあざむいてひそかに軽蔑していることや、『この男はまるっきり外見どおりの人間ではない』ことぐらいは少しずつ見ぬきはじめていた。彼はルージンにフーリエの大系やダーウィンの学説を説いて聞かせようとしていたが、ルージンは、とくにこの頃、なんとなく冷笑的すぎるような態度で聞くようになり、ごく最近にいたっては――悪態までつくようになってきていた。それというのも結局は、レベズャートニコフが単に俗っぽい薄ばかな人間であるばかりでなく、事によるとほら吹きかもしれないということや、彼が自分のサークル内ですらちょっと主だった連中とはまるっきり関係がなく、単にまた聞きでなにかを聞きかじっているにすぎない上に、自分の|宣伝の《ヽヽヽ》仕事にしても、あんなにひどくまごつくところを見れば、ひょっとしたらろくに知らないのかもしれない、とすればとても彼など暴露家になれるはずはないということをルージンが本能的に見やぶりはじめていたからにほかならない。ついでにひと言言っておくが、ルージンはここ一週間半ばかり(とくにその初め頃)レベズャートニコフのすこぶるもって珍妙な賛辞も喜んで受けいれるようにしていた、というのはつまりルージンは、たとえば、レベズャートニコフに、近くメシチャンスカヤ街に新しい『コミューン』が創設されることになっているが、あなたならその創設に援助を惜しまないだろうとか、またたとえば、ドゥーニャが結婚生活の最初の月からでも恋人をつくる気を起こしたところで、あなたならその邪魔をしないだろうとか、自分の将来生まれる子供たちには洗礼はほどこさないだろう等々といった、そういったたぐいのことをいわれても、反駁もせずに沈黙をとおしていたからである。ルージンは例のごとく、こういう長所を並べたてられてもそれを反駁しようとはせず、そんなほめ方まで容認していたのである、――それほど彼はどんな賛辞であれ嬉しかったのだ。
この日の朝方なにかの理由で五分利つき債券を両替えしてきたルージンはテーブルにむかって、札束と国債の債券の束を勘定していた。金などほとんど持ったためしのないレベズャートニコフは部屋のなかを歩きまわりながら、それだけの札束を平然と眺めているどころか蔑視《べっし》しているようなそぶりさえ見せていた。ルージンのほうは、たとえば、レベズャートニコフにはこれだけの大金を平気で見ていられようなどとは絶対に信じていなかったろうし、レベズャートニコフはレベズャートニコフで、ルージンなら、あるいは、自分のことをほんとうにそんなふうに考えかねない男だし、その上、そこへ並べた札束で自分の若い友人の気持ちをくすぐったり、じらしたりして、自分がつまらない存在であることや二人の間には大変な懸隔《けんかく》があることを思い知らせる機会が来たことを、おそらく喜んでいるにちがいないと、悲痛な気持ちで考えたりしていた。
レベズャートニコフはルージンを前にして新しい特殊な『コミューン』の創始という十八番の話題をくりひろげかけたにもかかわらず、彼は相手がこのたびはいつになくいらいらして注意を向けようともしないのに気がついた。そろばん玉をぱちぱちいわせる合い間合い間にルージンが洩らす短い反駁や短評はひどく露骨で、わざと無作法に見せようとする嘲笑に満ちていた。が、しかし『ヒューマニスティックな』レベズャートニコフはルージンのその精神状態をきのうのドゥーニャとの決裂から受けたショックのせいだと思い、一刻も早くその話題で話を切り出したくてじりじりしていた。彼はこの問題について、自分の尊敬すべき友を慰めることにもなれば『疑いもなく』相手の今後の成長発展に裨益《ひえき》するところもあるような、進歩的でプロパガンダ的な、意見をいくつか持ちあわせていたのである。
「いったいあそこじゃどんな葬式のふるまいをするつもりなんだろうね、あの後家さんのとこじゃ?」と、ルージンがレベズャートニコフの話をこれからが佳境というところでさえぎって、不意にそう尋ねた。
「まるでご存じないみたいですね。きのう二人でそれを話題に話をしたばかりじゃありませんか、そして僕がああいう儀式にかんする考えを開陳したでしょう……それにあなたもあの後家さんから招待されているというじゃありませんか。あなた自身あの人ときのう話をまじえたんでしょう……」
「あの素寒貧《すかんぴん》のばか女がもうひとりのばかの……あのラスコーリニコフからもらった金をすっかりつぎこんでしまおうとは、まったく思いもよらなかったね。今、通りすがりに見て、びっくりしたよ。大変な準備がしてあるんだものな、酒まで用意して! ……人も何人か呼ばれているらしいが、――まったく、なんのつもりなのかねえ!」とルージンは話しつづけて、なにかと聞きただしながら、話をそういったほうへ持っていくあたり、なにやら目的があるらしかった。「なんだって? お前さんは、私も呼ばれているって言っていたね?」と彼は首をあげて不意に言い足した。「いったいいつのことだね? 覚えがないね。それにしても、私は行かないよ。あんなとこへ行ったってしようがないからね。きのうはただ通りすがりにあの人と、貧乏な官吏の未亡人として、一時金の形で一年分の給料がもらえるかもしれないといったような話をしただけのことなんだ。そうするとそのお礼に私を招ぼうってわけなのかな? へ、へ!」
「僕もやはり行くつもりはありませんよ」とレベズャートニコフは言った。
「それはそうだろうさ! 自分のその手でなぐったんだもの。気がひけることはわかるよ、へ、へ、へ!」
「だれがなぐりましたかね? だれを?」レベズャートニコフは急にあわて出し、顔まで赤らめた。
「お前さんがさ、カテリーナさんをだよ、ひと月かそこら前に! 私は確かにきのうこの耳で聞いたんだ……お前さんたちの信念なんて、まずそんなところさ! ……例の婦人問題はどうも失敗の巻らしいね。へ、へ、へ!」
こう言うとルージンは、気分がすっきりしたらしく、またそろばんをはじき出した。
「そんなことはみんなばかげた中傷ですよ!」いつもこの一件を持ち出されはしないかとびくびくもののレベズャートニコフはかあっとなった。「それに事実とはまるっきりちがっています! そんなんじゃなかったんだ……あなたの聞きちがいですよ。単なる噂にすぎませんよ!僕はあのときはただ自己防衛をしただけなんですからね。むこうからさきに飛びかかってひっかこうとしたからですよ……しかも僕のほおひげをすっかりむしり取ってしまったんですからね……だれにしろ、自己防衛くらいは許さるべきことだと思うね。それに、僕はだれにたいしても自分に暴力をふるうことは許しませんからね……主義から言って。だってそれじゃまるで専制主義じゃありませんか。僕はどうすりゃよかったんです、なにもせずにあの女の前に突立ってろって言うんですか? 僕はただあの女を突きのけただけなんですよ」
「へ、へ、へ!」とルージンは相変わらず意地悪げにせせら笑っていた。
「あなたがそんなに突っかかってくるのは、自分自身腹が立ってむしゃくしゃしているからですよ……それにこんなことはくだらないことで、婦人問題にはまるっきり関係ないことですよ、まるっきり! あなたはどうも誤解しているようだ。僕は、もしすでにしきたりとして、女性はあらゆる点で、体力においてすら(これはもう確認されていることだけど)平等であるということであれば、この場合も平等でなければならないとさえ考えていたんですからね。もちろん、僕はその後、そんな問題は本質的に存在するはずがないという判断を下しましたけどね、だって取っ組みあいの喧嘩なんて存在するはずはないし、将来の社会では取っ組みあいの事件なんて考えられもしないことですからね……それに、取っ組みあいの喧嘩にも平等があるはずだなんて考えるとしたら、それもむろんおかしな話ですしね。僕はそれほどばかじゃありませんからね……もっともこれからもまだ取っ組みあいの喧嘩はありますよ……つまり、そのうちなくなるでしょうけど、今のところはまだこのとおりあります……ちぇっ! 畜生! あなたを相手にしていると、どうも頭がこんぐらかっちまうな! 僕が葬式のふるまいに行かないのは、ああいういやなことがあったからじゃないんですよ。僕はただ主義上行かないだけの話で、追善ふるまいなんていういやらしい古いまちがった考えの仲間入りをしたくないからなんですよ、そういうことなんです! もっとも、行ったっていいとも思うんですよ、ただし笑ってやるためだけど……それにしても坊主どもが来ないってことは残念だな。でなかったら、必ず行くんだけど」
「ということはつまり、よそへご馳走になりに行きながら、そのご馳走と、それに自分を招んでくれた人たちにつばを吐きかけようってことだね。そうでしょう?」
「けっしてつばを吐きかけようってわけじゃない、抵抗をしようってわけですよ。僕は有益な目的があって行くんですよ。間接的に啓蒙と宣伝に資することになるわけです。人はだれでも啓蒙と宣伝をやる義務があるのであって、それもそのやり方が、烈しければ烈しいほどいいのかもしれません。僕は思想の種をまくことができる……そして、その種から事実が生ずるわけです。どうして僕があの連中を侮辱することになります? 最初は怒るかもしれないが、そのうち先方にも、僕が連中に利益をもたらしたんだということがわかって来ますよ。現に、われわれの仲間のうちでもテレビヨーワが(この人は今コミューンにはいっていますけどね)みんなの非難を受けそうになったことがあります。彼女が家を飛び出して……男に身をまかせたとき、親たちに手紙を出して、因習的な物の考え方のなかで暮らすのはいやだから自由結婚をすると言ってやったところが、相手は親なんだから、それじゃあんまり乱暴すぎる、親にはもっと手加減して、もっともの柔らかに書くべきだなんて言われたんです。僕に言わせりゃ、そんなことはくだらんことで、もの柔らかに書く必要なんか全然ない、それどころか逆に、そんなときこそ抵抗すべきですよ。例のワレンツなんか、夫といっしょに七年も暮らしていたのに、二人の子供まで棄てて、いっぺんに手紙でこうぴしゃりと言ってやったですよ。『わたしは、あなたといっしょにいたのでは幸福になれないと悟りました。わたしは、あなたがコミューンによるちがった社会機構が存在するということを隠してわたしをだましてきたけれど、これはけっして許せません。わたしは最近ある視野の広い人からそういう話を聞きましたので、わたしはその人に身も心も捧げ、いっしょにコミューンを設立することにしました。こういうことを率直に申しあげるのは、あなたをだますということは不誠実だと思うからです。あなたは今後、どうぞ好きなようにして下さい。わたしをつれもどすことなど考えないで下さい、もう手遅れです。どうぞお仕合わせに』とね。こういう手紙はこういった書き方をするもんですよ!」
「そのテレビヨーワというのは、君がいつか、これでもう三度も自由結婚をしているとか言っていた例の女じゃないのかね?」
「ほんとうのところは、あとにもさきにもたった二回ですよ! もっとも、四回めであろうと、十五回めであろうと、そんなことは下らない、どうでもいいことだけどね! もし僕がこれまでに親父もおふくろも死んでしまっていないことを残念に思ったことがあるとしたら、それは、むろん、今ですよ。もし親たちが生きていたとしたら、抵抗してさんざんな目にあわしてやるんだがなんて何度空想したかわからないくらいですからね! わざとにでもそうしたろうと思いますよ……ところが、僕はもう一種の『切り離されたパン切れ』なんでね、畜生! 親どもに見せてやるところだったな! びっくりさせてやるところだったよ! 相手がだれもいないってことはまったく残念ですよ!」
「度胆《どぎも》をぬいてやるためにかね! へ、へ! まあ、それは勝手にするがいいさ」とルージンは相手をさえぎって言った。「それより、ひとつ聞きたいことがあるんだがね。お前さんはあの、死んだ官吏の娘を知っているだろう、あのやせこけた娘! あの娘のことでみんなが噂していることは、あれは正真正銘の事実なのかね?」
「それがどうだというんです? 僕の考えでは、つまり僕個人の信念によれば、あれこそ女性の最も正常な状態ですよ。どうしてあれがいけないんです? つまり、distinguons(われわれは区別しましょう)。現在の社会ではあの状態は、もちろん、完全に正常だとは言えない。なぜって強制された状態だからです。ところが将来は完全に正常になります、なぜかといえば自由な状態になるからです。今だって彼女には当然の権利があったわけですよ。彼女は苦しみ悩んだが、それが彼女の基金であり、彼女が自由に使う権利を持っていた、いわば資本だったからです。言うまでもなく、未来の社会ではそんな基金なんか必要なくなります、そして彼女の役割りも意味あいがちがって来、整然たる合理的なものになります。ソフィヤ(ソーニャ)さん個人についていえば、現在僕は彼女の行動を社会制度にたいする精力的な、人格化された抵抗と見て、その点彼女をふかく尊敬しています。あの人を見ていると、喜びさえ感じるくらいですよ!」
「だけど、人の話によると、あの娘をこのアパートから追い出したのはそう言う君だっていうじゃないか!」
レベズャートニコフは猛然といきり立った。
「これまた中傷ですよ!」と彼はわめき出した。「実状はまるっきり大ちがいです! それこそ見当ちがいってものです! そういうことはみんな、カテリーナさんがあの頃、なんにもわからなかったんで言いふらしたでたらめですよ!それに僕は、全然ソフィヤさんの気をひくようなことをした覚えもないしね! 僕は私利私欲を離れてただ単に彼女を啓蒙して、彼女に抵抗精神を呼びさまそうとしただけなんですよ……僕に必要だったのは抵抗だけだったんで、それにソフィヤさん自身すでにこのアパートにいたたまれなくなっていたんですからね!」
「コミューン入りでもすすめたのかね?」
「あなたはしょっちゅうひやかしてばかりいる、しかもはなはだもって不手際に。ご注意までに言わしてもらうけどね、あなたはなんにもわかっちゃいないんですよ! コミューンにあんな役割りなんてあるもんですか。コミューンはああいう役割りをなくすために作られるんですよ。コミューンのなかではあの役割りはその現在の本質がすっかり変わってしまって、こちらでは愚昧なものが、むこうではもっと知的なものに、こちらの現在の状況では不自然なものが、むこうではまったく自然なものになるんです。すべては、人間がどういう状況におかれているか、どういう環境のなかにおかれているかによってきまるものなんです。すべては環境次第であって、人間それ自体は問題じゃないんですよ。ところで、ソフィヤさんとは今でもうまくいっているんで、これなどは、彼女がけっして僕のことを敵とか自分を侮辱した人間と見たことがない立派な証拠になるんじゃないかと思うね。確かに僕は今彼女をコミューンにはいるように誘っていますが、ただこのコミューンはそれこそまるっきりちがった基盤に立ったものなんです! なにがおかしいんです! 僕らは自分たち独自のコミューンをつくろうと思っているんです。これはこれまでのものよりずっと広い基盤の上に立ったものなんです。僕らは信ずる理論の点ではさらに一歩前進しているわけです。われわれはもっと多くのものを否定しています!ドブロリューボフ(一八三六―六一。五○年代の後半から六○年代の初めに活躍したロシヤの左翼的社会文芸評論家)が棺桶のなかから立ちあがって出てきたとしたら、僕は彼を相手にひと論争やらかしますね。ベリンスキイ(一八一○―四八。三○年代、四○年代に活躍したロシヤの有名な文芸評論家)なんかひねりつぶしてやりますよ! が、今はさしあたりソフィヤさんの啓蒙をつづけるつもりです。あれはすばらしい、気だての実にすばらしい女性ですからね!」
「そうすると、そのすばらしい気だてを利用しようってわけかね、え? へ、へ!」
「ちがう、ちがう! まったくちがいますよ!逆ですよ!」
「ふうん、逆と来たか! へ、へ、へ! おっしゃるね!」
「いや、ほんとうですよ! いったいどんな理由で僕があなたに隠すようなことをしますかね、とんでもない! それどころか、僕自身でさえ不思議に思っているくらいですよ。僕を前にするとあの人はどうしたわけかひどく、おどおどするくらい純潔な、はにかみ屋になっちまうんですからねえ!」
「で、君は、むろん、啓蒙して……へ、へ! 彼女に証明してみせるわけかね、そんなにはにかむのはくだらんことだなんて?……」
「全然ちがう! 全然ちがいますよ! いやまったくあなたって人は粗雑に、愚劣に――と言っちゃ失礼だけど――啓蒙という言葉を解釈しているんですね! あなたはそれこそなんにもわかっちゃいないんだ! いやはや、まったくあなたはまだ……できあがっていないんだ! 僕らは女性が自由を得ることを希求しているのに、あなたの頭にはひとつの考えしかないんだ……僕は純潔とか女の羞恥心とかいった問題は、それ自体無益で偏見にさえ満ちたものだと思うから全然触れないけど、彼女が僕にたいして純潔にふるまおうとする態度は完全に、完全に認めてやりますね、だってそういうことにしか彼女の意志も、彼女の権利もないんですからね。むろん、彼女のほうから僕に『わたし、あんたといっしょになりたい』とこう言ってくれたとしたら、僕は自分を幸運児だと思いますよ、だって僕はあの子がとても好きなんですからね。しかし、今のところは、少なくとも今は、むろん、僕ほどいんぎんに礼儀正しく、彼女の美点を尊重して彼女に接した者はこれまでにだれひとりいないでしょうね……僕は期待して待っているんです――それだけのことですよ!」
「それより彼女になにかプレゼントしたほうがいいんじゃないかな。賭けをしてもいい、君はこんなことは考えてみたこともないだろう」
「さっきも言ったとおり、あなたはなあんにもわかっちゃいないんですよ! それはむろん、彼女の境遇はああいったものですよ、だけどこの場合は問題が別なんです! まったく別なんですよ! あなたは頭から彼女を軽蔑してかかっている。あなたはある事実を軽蔑に値するものと誤解して、すでにその人間を人道的に見ることを拒否してしまっているわけです。あなたはまだ、あの人がどんな性格の人間か知らないんですよ! ただ僕が非常に残念に思うのは、近頃どうしたわけか読書をすっかりやめてしまって、もう僕のところへさっぱり本を借りに来なくなったことです。以前は借りに来ていたんだけどねえ。もうひとつ残念に思うことは、あれほど抵抗するだけのエネルギーと決断力を十分に備えていながら、――これはすでに彼女は一度証明してみせたことだけど――彼女はやっぱりまだ自主性、いわゆる独立独歩の精神が乏しく、否定精神に欠けていて、ある種の因習的な考えや……ばかげた考えから完全に抜けきっていないことです。が、それでいて、彼女はある種の問題になると実によく理解しているんですよ。たとえば、手にする接吻の問題、つまり男が女の手に接吻をすれば男が女に差別をつけているから侮辱していることになるといったようなことは、立派に理解していましたものね。僕らの間でこの問題が討論されていたもんだから、それをすぐさま彼女に伝えてやったわけなんです。フランスの労働組合のことなんかも彼女は熱心に聞いていましたよ。今僕は未来の社会で他人の部屋へ自由に出入りする問題について彼女に解説してやっているところです」
「それはまたどういうことかね?」
「最近、コミューンの団員は男の部屋であれ、女の部屋であれ他の団員の部屋へ随時はいる権利があるかどうかという問題が討議されましてね……でまあ、あると決議されたわけですよ……」
「それじゃ、その男なり女なりがちょうど生理的欲求を満足させている最中だったらどうするね、へ、へ!」
レベズャートニコフはとうとう怒り出してしまった。
「あなたはしょっちゅう、そんなことばかり、そんないまわしい『生理的欲求』なんてことばかり口にしている!」と、彼は、憎々しげに叫んだ。「ちぇっ、僕はあのときあのシステムの説明をしている最中に、早まってこうしたいまいましい生理的欲求のことなんか持ち出してしまったことがしゃくで残念でたまらないね! 畜生! こいつはあなたみたいな連中のつまずきの石なんだ、それにいちばんいけないことは――事のなんたるかもわきまえないうちに笑い草にしてしまうことですよ! そしてまるで自分たちの考えのほうが正しい、なにか誇るに足るものを持っているといったような顔つきをしていることです! ちぇっ! 僕は幾度となくくり返して言って来たことなんだが、こういう問題を初心者に説明できるのは、人間がすでにそのシステムを信じていて、すでに成長をとげ一定の方向をとってしまって、いよいよ最後の段階に来たときに限るんです。それに、ちょっとお聞きしたいんだが、それがたとえ下水溜めであろうとその下水溜めにあなたはどんな恥ずべきことが、軽蔑すべきものがあると思っているんです? 僕なぞは率先して、どんな下水溜めでもきれいに掃除をする覚悟でいますよ! それはもうけっして自己犠牲なんてものじゃないんだ! あるのはただ仕事だけです、高尚で、社会にとって有益な活動だけですよ、ほかのどんな活動より価値のある、そしてたとえばラファエルとかプーシキンのような人間の活動よりずっと高級な活動がね、それがより高級だというのはこのほうが有益だからですよ!」
「それに、より高尚でね、より高尚で、へ、へ、へ!」
「より高尚なとはどういうことです? 人間活動の定義としてのそういう表現は僕には理解できませんね。『より高尚な』とか『より寛大な』とかいったようなことは、無意味で、ばかげたことですよ、僕の否定する古い因習的な言葉です! 人類にとって有益《ヽヽ》なものはみんな高尚なんですよ。僕にわかるのはただひとつ、有益《ヽヽ》なという言葉だけです! 幾らでも好きなようにせせら笑うがいい、だけど事実はそうなんですから!」
ルージンは大いに笑った。彼はもう勘定をおえて、金もしまったのだが、その一部だけどうしたわけかまだテーブルの上においてあった。例の『下水溜めの問題』は、すこぶる下劣な性質のものであったにもかかわらず、もう何度となくルージンと若い友人との不和反目の原因になっていたのである。しかしそれがばかげて見えたのは、なによりもまずレベズャートニコフが本気で腹を立てていたからなのである。ルージンのほうはそれをいい気晴らしにしていたのだが、このときは特別レベズャートニコフを怒らしてみたい気持ちに駆られていたのだった。
「あなたはきのううまくいかなかったんで無性に腹が立って、そんなふうにからんで来るんでしょう」とレベズャートニコフはとうとうそんなことまで口に出してしまったが、彼はいったいに、始終『独立独歩』とか『抵抗』とか言っていながら、どうしたわけかこのルージンには思いきって反抗しようとはせず、だいたいいまだに彼にたいして昔から習慣になっている一種恭順な態度を守りつづけている男なのである。
「それよりちょっとうかがいたいんだが」とルージンが横柄な調子で腹立たしげに相手をさえぎって言った。「お前さんにはできるかね……というよりこういったほうがいいかな、ほんとうにそんなにお前さんは今いった若い娘さんと懇意なのかね、だったらひとつ今ちょっとここへ、この部屋へ彼女に来てもらえないもんだろうか? どうやら、あそこの連中はもう墓地から帰って来たらしくて……足音がしはじめたようだから……あの人に、あの娘さんにちょっと会っておく必要があるんでね」
「それはなんのためですか?」とレベズャートニコフがけげんな顔をして聞いた。
「いや、ただそうしておく必要があるんだよ。きょうあすにも私はここを発つんで、あの人にあることを知らせておきたいと思っているんだ……もっとも、話しあいをする間、君にここにいてもらってもいいんだよ。そのほうがむしろいいくらいなんだ。そうしないと、君にどんなことを考えられるかわからないからな」
「僕は全然なんにも考えやしませんよ……僕はただなんとなく聞いただけのことですよ。もしご用があるんだったら、こんな造作ないことはない、すぐにも呼んで来ますよ。僕はけっしてお邪魔になるようなことはしませんから」
はたして、五分もするとレベズャートニコフはソーニャをつれて帰って来た。彼女はひどく驚いたような様子で、例によっておどおどしながらはいって来た。彼女はいつもこんな場合にはおどおどして、初めて会う人や新しく近づきになることをひどく恐れていたのである。これは昔から、まだ子供の時分から、そうだったのだが、この頃はそれが一段とひどくなってきていたのだ……ルージンは彼女を『愛想よく丁重に』迎え入れたが、その態度にはいくぶん一種はしゃいだようななれなれしいところがあった。もっともそれは、ルージンに言わせれば、自分のような名誉ある重味のある人間がこういう若くてある意味において|興味のある《ヽヽヽヽヽ》女性に接する場合にふさわしい態度なのであった。彼は急いで彼女を『勇気づけ』ようとして、自分と向かいあわせに卓につかせた。ソーニャは腰をおろすと、あたりを見まわし、――レベズャートニコフから卓の上の金に、それから急にまたルージンへと目を移したが、それからはもうそれっきり、まるで彼に釘づけにでもされたように、相手から目を離さなかった。レベズャートニコフが戸口のほうへ行きかけると、ルージンは腰をあげ、ソーニャには手まねでそのまま坐らせておいて、レベズャートニコフを戸口のところで呼びとめた。
「例のラスコーリニコフはむこうにいたかね?来ているのかね?」と彼は、レベズャートニコフにささやき声で聞いた。
「ラスコーリニコフですか? むこうにいますよ。それがどうしたんです? ええ、あそこにいますよ……たった今はいって来たところです、僕見ましたよ……それがどうしたんです?」
「いや、それならなおさらここにいっしょにいてくれるように頼むよ、そして私とあの……娘さんと二人っきりにさせないようにしてくれたまえ。つまらんことなんだけど、どんな噂をたてられないもんでもないからね。僕はラスコーリニコフに|むこう《ヽヽヽ》で言いふらされたくないんだ……僕がなにを言っているのか、わかるだろう?」
「ああ、わかりますとも、わかりますとも!」レベズャートニコフは急に見当がついたらしかった。「そうですね、あなたにはその権利がありますよ……それは、むろん、僕個人の信ずるところによれば、あなたの危惧は少々度を越しているようですがね、しかし……それでもやはりあなたにはその権利はありますよ。いいでしょう、僕はここに残ります。お邪魔にならないようにここの窓ぎわに立っていましょう……僕に言わせれば、あなたにはその権利がありますよ……」
ルージンはソファにもどって、ソーニャのむかいに腰をおろし、注意をこらして相手を見つめると、急にひどくかたい、ややきついくらいの顔つきをした。『お前さんも変なふうにとるんじゃないよ、お嬢さん』とでもいいたげな顔つきだった。ソーニャはすっかり度を失ってしまった。
「まず第一に、どうかひとつ、ソフィヤさん、あなたのおかあさんにおわびの言葉を伝えていただきたいのです……確かそうでしたね? カテリーナさんはあなたにはおかあさんにあたるんでしたね?」とルージンはすこぶる手がたい、がそれでいてかなり愛想のいい調子できり出した。彼がきわめて友好的な調子でいこうという腹でいることは見えすいていた。
「まったくそのとおりでございます、そのとおりですわ。母にあたるんですの」と、ソーニャは早口におびえたような調子で答えた。
「そういうわけでしたら、ひとつおかあさんにおわびを言って下さい、私は余儀ない事情で、せっかくおかあさんのご親切なお招きにあずかったのに、お宅のお茶の会……いやお葬式のふるまいに欠席させていただかなければなりません、出られませんとね」
「そうですか、そう申し伝えます。今すぐに」そう言うとソーニャはあわただしく椅子からさっと立ちあがった。
「話は|まだ《ヽヽ》これでぜんぶじゃないんですよ」ルージンは相手が薄ぼんやりで礼儀をわきまえていないのを見るとにやりと苦笑して、相手を引きとめた。「ソフィヤさん、もし私がこんなつまらない、自分だけにかんすることでご迷惑にもあなたのようなお方をお呼びたてしたなどとお考えでしたら、あなたは私という人間をあまりご存じないことになりますよ。私の目的は別にあるんです」
ソーニャはあわててまた腰をおろした。テーブルから取り片づけられていなかった灰色や虹色の札(灰色の札は二十五ルーブリ、虹色は百ルーブリ)がまた目にちらついて見えたが、彼女はすばやくその札から顔をそむけて、ルージンのほうへ顔をあげた。彼女にはふと、わけても自分《ヽヽ》のような女が他人の金に目をやるということははなはだ失礼なことのように思われたのである。彼女は、ルージンが左手で持っていた金ぶちの柄つき眼鏡に、それと同時にその手の中指にはめていた大きな、目方のありそうな、黄色い石の、大変美しい指輪に目をやろうとした――が、急にそれから目をそらすと、もう目のやり場がなくなって、結局またルージンの目をまともに見つめることになってしまった。ルージンは前よりもなおいっそう毅然として口をつぐんでから、語をついだ。
「きのう私はたまたま通りすがりにお気の毒なカテリーナさんとふた言三言話をまじえたのですが、ふた言三言聞いただけでもう、あの方が、もしこういう言い方をしてもよいとすれば、自然でないような精神状態にあることがわかりました……」
「そうでございます……自然でない状態でございます」とソーニャはあわてて相づちを打った。
「あるいはもっと簡単明瞭な言い方をすれば――病的な状態と言っていいでしょう」
「そうです、簡単明瞭に……そうです、病的な」
「そうですとも。そこでですね、人道主義的な感情と、それにですね、いわば同情の念から、私は、自分としても、あの方の避けえない不幸な運命を見とおして、なにかお役に立てればとこう思ったわけです。お見受けしたところ、あのまったくお気の毒なご家族のみなさんが今のところあなたおひとりの双肩にかかっているらしいのでね」
「ちょっとおうかがいしますが」とソーニャは急に立ちあがって言った。「きのう母になにか年金がいただける見込みがあるとかおっしゃったそうですわね? それで、母はきのうわたしに、あなたが年金がおりるように骨をおることを引き受けて下さったと申しておりましたが、あれはほんとうなんでしょうか?」
「全然だめですよ、ある意味ではばかげた考えと言えるくらいです。私はただ在職中に亡くなった官吏の未亡人には一時金がおりるといったようなことをそれとなく申しあげたまでで、――それもなにか手づるでもあればの話でしてね、――ところが、あなたの亡くなられたおとうさんは年限を勤めあげていないどころか、最近は勤めにも出ておられなかったらしいじゃありませんか。ま、要するに、望みはたとえあったとしても、すこぶるはかない望みですよ、だってこの場合はほんとうのところ扶助料を受けるなんの権利もないどころか、むしろ逆なくらいなんですから……それなのに、あの人はもう年金のことまで考え出しなすったかねえ、へ、へ、へ! なかなか手まわしのいい奥さんだ!」
「そうですわ、年金のことなんか……それというのも、あの人は信じやすくて人のいいところがあるからですわ、人がいいもんですからだれのことでも信じてしまうし、それに……それに……それに頭があんな調子なもんですから……そうなんですのよ……失礼いたしました」ソーニャはそう言うと、また立ちあがって出ていこうとした。
「失礼ですが、あなたはまだ話をしまいまでお聞きになっていないんですよ」
「そうでしたわ、おしまいまで聞きませんでしたわね」とソーニャはつぶやいた。
「ですから、ま、お坐り下さい」
ソーニャはひどく狼狽して、また腰をおろしたが、腰をおろすのはこれで三度めだった。
「不幸な幼な子をかかえての、あの人のああした身の上を見て、私は――すでに申しあげたとおり、――分相応に、つまりいわゆる分相応にであってそれ以上ではないんですが、なにかお役に立ちたいと思ったわけです。たとえば、あの人のために募金をするとか、いわゆる富くじとか……なにかそういった類いのものを催すことでもできればと思った次第です、――よくこういう場合に近しい人とか、でなければ局外者ではあっても一般に人助けをしたいと思っている人たちが催すあれですがね。実は私があなたにお伝えしようと思っていたのはこのことだったんですよ。これなら可能だと思うんです」
「はい、けっこうなことでございます……このことであなたに神さまの……」とソーニャは、じっと相手の顔を見つめながら、やっとのことでどもりどもりそう言った。
「可能ですよ、しかし……それはまたあとで……いや、きょうにもやり出そうと思えばやり出せることですけどね。晩にまたお目にかかって、相談をし、そしていわゆる土台を固めることにしましょう。だいたい七時頃に私のこの部屋へいらしって下さい。レベズャートニコフ君も、多分、仲間に加わってくれるものと思います……ただ……ここにひとつ、前もってよくよく申しあげておかなければならないことがあります。私がご面倒でもここへ来ていただいたのも、ソフィヤさん、実はそのためなんですよ。私の意見というのは、ほかでもありません、――お金をカテリーナさんご自身の手に渡してはいけないし、そんなことをしたら危険だということなのです。その証拠はきょうのあの追善ぶるまいです。いわゆるあすのために欠かせないパンひと切れも……それに履物もなんにもない身でありながら、きょうはジャマイカ産のラム酒だの、おそらくはマデラ産のぶどう酒だの、それに、それに、それに、コーヒーまで買いこんで来ているんですからね。私は通りすがりに見たんですがね。あしたになればまたそういったものがぜんぶ、最後のパンひと切れにいたるまで、あなたにかかってくるわけですよ。これはもうばかげきった話ですよ。そんなわけで、私個人の考えでは、例の募金も、あの不幸な未亡人には、まあ金のことはなんにも知らさないようにして、たとえばあなただけにふくんでいてもらうことにして、やらなければなりません。私の言うことはまちがっていないでしょう?」
「わたしにはわかりませんわ。でも、母があんなことをしたのはきょうだけなんですのよ……こんなことは一生に一度だけですわ……母はただもう追善ぶるまいがしたくて、立派に追悼をしたくてたまらなかったんですの……あの人はとても利口な人なんですけどね。でも、どうぞ、お気の召すままに。わたし、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに……家の者もみんなあなたに……神さまもあなたを……ててなし子たちも……」
ソーニャはしまいまで言いきらずに、泣き出してしまった。
「そんなわけです。とにかく、そのようにおふくみのほどを。で、さしあたり、おかあさんのために、当座の分として、私の手から応分の金をお受け取り下さい。ついては私の名前を口にされないように、くれぐれもお願いしますよ。さあ、これを……私のほうにも、いわば、心配事がありますんで、これ以上はできませんが……」
こう言ってルージンは十ルーブリ札を念入りにひろげて、ソーニャの方へさし出した。ソーニャはそれを受けとると、ぽっと顔を赤らめ、すばやく立ちあがって、なにやらぼそぼそ言って、そそくさとおじぎをしはじめた。ルージンはもったいをつけて彼女を戸口まで送って出た。ソーニャはすっかり興奮して、へとへとに疲れはてて、とうとう部屋から飛び出すと、当惑しきった様子でカテリーナのもとに帰っていった。
このひと幕の間じゅうレベズャートニコフは話を中断させまいと気を使いながら、窓ぎわに立ったり、部屋のなかを歩きまわったりしていたが、ソーニャが出ていくと、いきなりルージンのそばへ歩み寄って、まじめくさった顔つきで相手に手をさし出した。
「僕は残らずこの耳で聞いたし、残らずこの目で|見ました《ヽヽヽヽ》よ」と、彼は最後の言葉に特に力を入れて言った。「あれは見上げた行ないです、つまり僕はこう言いたかったんです、人道的な行為だと! あなたは感謝されるのを避けるようにしていましたね、僕はこの目で見ましたよ! 正直言えば、僕は、主義からいって、個人的慈善には共感できない、というのはそういう慈善は悪を抜本的に根絶できないどころか、かえって悪をなお一層育てることになるからです。が、それにもかかわらず僕は、あなたの行為を眺めて喜びを覚えたと白状せずにはいられません、――ええ、ええ、まったく気に入りましたね」
「いやあ、あんなことはつまらんことだよ!」と、ルージンはいささか興奮の体で、なぜかレベズャートニコフの顔をじっと見ながらつぶやいた。
「いや、つまらんことじゃありませんよ! あなたみたいに、きのうのような事件で屈辱をなめ無念の涙をのんでいながら、同時に他人の不幸に思いをいたすことのできる人間は、――そういった人間はですよ……たとえその行為において社会的過ちをおかしていようと、――それでもなおかつ……尊敬に値しますよ! 僕はね、ルージンさん、あなたにこんなことができようなどとは思ってもいませんでしたよ、ましてあなたの物の見方から考えればね、ああ、あなたはそのご自分の物の見方にどれくらい邪魔されているかしれませんよ! たとえば、きのうのあの失敗にあなたがどんなに気持ちを乱されているか」と、人のいいレベズャートニコフはまたもやルージンにたいする好感が強まって来るのを覚えながら、感嘆の叫びを放った。「いったいなんのために、なんのためにあなたはあの結婚が、あの|法律的な《ヽヽヽヽ》結婚がぜひとも必要なんです、わが敬愛するルージンさん? なんのためにあなたは|法律にのっとって《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》結婚をする必要があるんです? さあ、僕を張りとばしたかったら張りとばしてもいい、僕はあの結婚が破談になったことが嬉しくてなりませんね、あなたが自由の身だということが、あなたが人類にとってまだ完全には堕落していなかったということが嬉しくてならないんですよ、嬉しくてね……さあ、これで僕は自分の気持ちをすっかり吐き出したわけです!」
「それはさ、君たちの唱える自由結婚などをして女房に不貞を働かれたり、他人の子供を養ったりしたくないからだよ、そのために私には法律的な結婚が必要なんだよ」ルージンはなんとか返事をしなければと思って、そんなことを言った。彼はなにやら特別気にかかることがあるらしく、物思いがちだった。
「子供? あなたは子供の問題に触れましたね?」レベズャートニコフは、戦闘のラッパを聞きつけた軍馬のように、武者震いした。「子供ってものは社会問題です、しかも最も重要な社会問題だということでは私も同感です。しかし、子供の問題にはちがった解決法があるはずです。人によっては、家庭くさいものはなんでも否定するように子供というものを完全に否定してしまう者もいます。が、子供のことはあとまわしにして、今は不貞の問題にかかりましょう! 実をいうと、これは僕の弱い所なんですよ。こういう不潔な、軽騎兵的、プーシキン的な表現は未来の辞書では考えられもしないんですがね。それに不貞とはいったいなんですか? いやはや、大変な錯誤ですよ! 不貞とはどんなものなんでしょう? どうして不貞なんです? まったくくだらん! これとは反対に、自由結婚には不貞なんてあり得ないんですよ! 不貞というものは、これはあらゆる法律的結婚の自然的な産物にすぎません、いわばその修正、抗議にすぎないのです、ですからその意味では不貞は少しも恥ずべきことじゃありません……もしも僕が、――ばかげたことを仮定するようですが、――法律的な結婚をしたとしたら、僕はむしろ、あなた方のいわゆる呪うべき不貞を喜びますよ。そのときは僕は細君にこう言いますね。『君、これまで僕は君をただ愛していたにすぎない、だけどこれからは尊敬するよ、君は立派に抵抗できたわけだからね!』とね。おや、あなたは笑っておられますね? それは、あなたは因習的な考えから抜け出る力を持たないからですよ。畜生、僕だってそりゃ、法律的な結婚をしていながら妻に裏切られたときの不快さがどんなものかぐらいわかっていますよ。だけど、それは、どっちもたがいに屈辱を与えている卑劣な事実の卑劣な結果にすぎないじゃありませんか。自由結婚の場合のように不貞が公然のことのようになってしまえば、もう不貞なんてものは存在しないし、そんなことは考えられもしないし、不貞なんていう呼称もなくなってしまいますよ。それどころじゃない、あなたの奥さんはそうした行為で、奥さんがあなたをどんなに尊敬しているかを証明することになるだけです、というのは、奥さんはあなたを、妻の幸福に逆らえない人、新しい夫を持ったからといって妻に復讐しないくらいに進歩的な人間だと思うわけですからね。畜生め、僕はときどきこんなことを空想することがあるんですよ。もしも僕が嫁に行ったら、ちぇっ、まちがいやがった! もしも僕が細君をもらったら(それが自由結婚だろうと法律的な結婚だろうと、どっちだっておなじだが)、僕は、どうも、細君がなかなか恋人をつくらなかったら、自分から女房のところへ恋人をつれて来てやるんじゃないかと思うんですよ。そして女房にこんなことを言うかもしれない。『君、僕は君を愛しているけど、その上さらに、君に尊敬してもらいたいんだ、――それでこんなことをするわけだよ!』とさ。僕の言うことはまちがっていますか、まちがっていますかね?……」
ルージンは話を聞きながら、へ、へ、へ、とせせら笑ったが、特別身を入れて聞いているようなふうもなかった。それどころか、ろくに聞いてもいなかった。彼は確かになにかほかのことを考えていたらしいのだ。さすがのレベズャートニコフも、とうとうそれに気がついた。ルージンはどちらかと言えば興奮したような様子で、手をもみながら、考えこんでいた。レベズャートニコフはあとになってこういったことをいろいろ思いあわせ、思い起こすことがあった……
[#改ページ]
なにが原因でカテリーナの調子の狂った頭にこんな無意味な追善ぶるまいの思いつきが浮かんだのか、これを正確に記述するとしたらそれはそうたやすいことではあるまい。実際、この追善供養には、ラスコーリニコフからもともとマルメラードフの葬儀費用にもらった二十ルーブリ余のうち十ルーブリに近い金がつぎこまれたのである。ことによると、カテリーナは故人の追悼の集いを『ちゃんと本式に』催すことによって、アパートの住人ぜんぶ、とくにアマリヤなどに、夫は『彼らよりけっして劣った人間ではないどころか、もしかしたら、遙かにすぐれていたのかもしれない』、彼らのうちのだれにも彼にたいして『いばる』権利などないのだぞと思い知らせてやるのが亡き夫にたいする自分の義務だと思ったのかもしれない。あるいはまた、この場合いちばん大きく作用したのは例の貧者《ヽヽ》独特の自尊心《ヽヽヽ》かもしれない、つまり、たいていの貧乏人はわが国の社会生活でだれでも欠かせない社会的な儀式に際して、ただただ『ほかの者に負けまい』、ほかの者から『とやかく言われまい』として、ない力をふりしぼって、なけなしの貯金をはたくものだが、その原因である|貧者の自尊心《ヽヽヽヽヽヽ》だったのかもしれない。それからまた、カテリーナは、自分が世のあらゆる人間から見捨てられてしまったような気のする今のこの機会に、今のこの瞬間に、これら『とるに足らぬ汚らわしいアパートの住人ども』に、自分は『人なみの暮らし方も知っているし客のもてなし方も知っている』どころではない、自分は全然こんな運命に甘んずるように育てられたのではなくて、『上流の、貴族と言ってもいいくらいの大佐の家』に育ったのだ、そして自分でゆかを掃除したり毎晩夜なかに子供のぼろ着物を洗濯したりするようにしつけられてきたのでは全然ないというところを見せてやりたくなったということも大いに考えられることである。こうした自尊心と虚栄心の発作的衝動は時に極端に貧しい、生活にうちひしがれた人たちをも見舞って、ときにはいらだたしい、どうにもおさえのきかない欲求になることもあるものなのだ。しかも、カテリーナはそれどころか、そのうちひしがれた人たちにも属していなかった。彼女は境遇に殺されるということはあったとしても、精神的に|うちひしがれる《ヽヽヽヽヽヽヽ》ということ、つまり人におどしつけられてその言うなりになるということはありえなかったのである。それに、ソーニャが彼女のことを、頭の調子がおかしくなっていると言っていたが、これは根拠のないことではなかった。確かに、まちがいなく完全にそうだとは言いきれないまでも、実際このところ、この一年の間、あわれにも彼女の頭はあまりにも悩まされどおしだったため、部分的にもせよ損われずにはいなかったのである。医者に言わせると、肺病の烈しい病勢の亢進《こうしん》も、頭の働きの乱れを促進するとのことである。
酒《ヽ》は複数であらわすほど種類がいろいろあったわけでもないし、|マデラ産のぶどう酒《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》もありはしなかった。あんなことは誇張にすぎなかったのだ。が、かといって酒がないわけでもなかった。ウォトカ、ラム酒、リスボンぶどう酒などがあって、いずれも質はこの上なくひどいものではあったが、量はかなりあった。食べものは、聖飯以外に三皿ないし四皿はあった(そのなかにはブリン〔ロシヤ風パン・ケーキ〕も含まれていた)が、いずれもアマリヤの家の台所から運ばれてきたものばかりだった。その上、食後に予定されていたお茶とポンス酒用にサモワールがいっぺんに二つも据えられた。買い出しのほうはカテリーナが、なんのためかは不明だがリッペヴェフゼル夫人の家にやっかいになっていた得体の知れぬ見すぼらしいポーランド人に手つだってもらって自分でとりしきった。このポーランド人はさっそくカテリーナのところへ廻されてきのう一日ときょうの午前中いっぱい、あたふたと、舌を出しながら、しかもどうやら特にこのあとのほうの仕草を見てもらおうと腐心しながら、駆けずりまわっていた。彼はしょっちゅうつまらないことにもいちいちカテリーナのところへうかがいをたてたり、彼女を市場へ探しにまで駆けつけたり、彼女にのべつ幕なし『パニ・ホルンジナ(ポーランド語で少尉の奥さんの意)』と呼びかけたりするので、初めのうちこそ、この『世話好きで気立てのいい人』がいなかったら、すっかりお手あげだったなどと言っていた彼女も、ほとほとうんざりしてしまった。
カテリーナの性分にはこういうところがあった。初めて会った人をだれかれの差別なく性急にこの上なく美しい極彩色の言葉で飾りたて、人によっては褒められてかえってきまり悪くなるくらい褒めあげ、その人を褒めるために、全然ありもしない絵空事まで考え出して、自分からそれこそ本気でそのまま現実のことのように信じこんでしまう。ところがそのうち急に、いっぺんに、幻滅を覚えて、自分がつい数時間前までは文字どおり傾倒していた人間にひどい悪口雑言を浴びせ、唾を吐きかけて突き出してしまうのである。彼女は生まれつき笑い上戸で、陽気で、穏やかな性質だったが、絶え間ない悲運と失敗の結果、だれもが平和と喜びのうちに暮らして、それとはちがった暮らし方など|しようとしない《ヽヽヽヽヽヽヽ》ことをあまりにも、熱烈に希望し要求するようになったため、生活上のごくわずかな不調和やごく小さな失敗にもたちまち狂乱に近い状態におちいり、ついさきほどまで非常に明るい希望と幻想にふけっていたものが、たちまちのうちに運命をのろい、手あたり次第になんでも引き裂いたり投げ散らしたり、頭を壁にぶつけたりしはじめるのだった。アマリヤもやはりそんなふうにして急にどうしたわけかカテリーナからひとかたならず重要視され、並々ならぬ尊敬をかち得た。が、それにしたところでただ、この追善ぶるまいが企てられたとき、アマリヤが心から一切の面倒を見る気になったからにすぎないのかもしれない。彼女は食事の用意から卓布、食器等の工面や、自分の台所を使っての調理にいたるまで引き受けてくれたのである。そこでカテリーナも一切を彼女に任せ、好きなようにさせて、自分は墓地へ出かけていったわけなのだ。
確かに、なにもかも立派に用意されていた。食卓にはかなり清潔なテーブルかけがかけてあり、皿小鉢、フォーク、ナイフ、グラス、コップ、茶碗、すべてこういったものは、むろん、寄せ集めもので、形もちがえば、大きさもちがい、いろんな間借人から借りてきたものばかりだったが、ぜんぶ予定の時刻にそれぞれの場所に並べてあった。そして、立派に役目を果たしたと感じていささか得意然たるアマリヤが新しい黒いリボンをつけた室内帽に黒の喪服をつけてすっかりめかしこんで、帰宅した家の者を出迎えたのである。この得意気な様子は、当然そうあってしかるべきだったのに、なぜかカテリーナには気にくわなかった。『まったく、まるでこのアマリヤがいなかったら食卓の用意もできなかったとでも言わんばかりの顔つきじゃないか!』彼女には新しいリボンをつけた帽子も気に入らなかった。『悪くすると、このばかなドイツ女は、自分は家主だから、お情けでこの貧乏な間借人に援助の手をさしのべることを承知したんだなどと、それを得意がっているんじゃないかしら? お情けだって! とんでもない! 大佐でほとんど知事と言ってもいいくらいだった、このカテリーナのおとうさんの家では、ときには四十人からの人間の食卓の用意もしたことがあるんだよ、それだもの、どこかのアマリヤ・イワーノヴナなんか、――じゃなかった、リュドヴィーゴヴナなんか――家の台所にさえ通してもらえなかったろうさ……』
とはいえ、カテリーナは時期が来るまでは自分の感情を表に出さないことにした。もっとも腹のなかでは、きょうはこのアマリヤをどうしてもとっちめて、身のほどを思い知らせてやらなければ、でないと、なにを考え出すかわかったもんじゃない、とこう決めていたが、さしあたりは彼女をそっけなくあつかうだけにとどめることにした。もうひとつ、やはり一部分カテリーナの気持ちをいらだたせていた不愉快なことがあった。それは、葬式には招いたアパートの住人のうち、墓場へやっと駆けつけたポーランド人以外に、ほとんどだれひとり来なかったのにひきかえて、追善供養、つまりふるまいには、彼らのうちでもいちばんひどい貧乏人どもが、たいていは人間らしいかっこうもしていない、いわばぼろくずみたいな連中がぞろぞろ現われたことである。しかも、彼らのなかでもいくらか年輩で多少しっかりした連中はわざと申しあわせでもしたように、ひとり残らず欠席というありさまだった。たとえば、アパートの住人のうちで地位や身分ではいちばんと言ってもよいルージンなども顔を出さなかった。ところが、きのうの晩にはもうカテリーナはありとあらゆる人、つまりアマリヤ、ポーリャ、ソーニャ、ポーランド人と、みんなに、あの人は実に上品で心ばえの立派な方で、広く各方面に縁故関係もあり、資産家で、自分の最初の夫の元親友で、自分の父の屋敷へも出入りしていた人だが、この人があらゆる手をつくしてかなりの年金がおりるよう骨折ってやると約束してくれたなどと吹聴《ふいちょう》してしまっていたのである。
ここでひと言ことわっておくが、カテリーナがたとえだれかの縁故関係や資産を自慢の種にするようなことがあったところで、それにはなんらの利害関係の意識も、個人的な打算もあるわけではなく、まったくの無私無欲、いわば感情のあふれるままに、ただ褒めることによって褒める相手にさらに一段と価値をそえる喜びを味わいたいからにすぎなかったのである。ルージンにつづいては、多分『その例にならった』のだろう、『あのいやらしい卑劣漢のレベズャートニコフ』も姿を見せなかった。『ほんとにあの男は自分のことをなんと思っているんだろう? あの男なんかただ単なるお情けで招いてやったんじゃないか、それもルージンと同居しているし、その知りあいでもあるから、招ばないとぐあいが悪かろうと思ったればこそなのに』それからまた『|とう《ヽヽ》の立った娘』をつれたやせた婦人もやはり姿を見せなかった。これは、アマリヤのアパートに住んでまだやっと二週間くらいしか経たないのに、マルメラードフ家で、とくに亡くなった夫が酔っぱらって帰宅したようなときに立てる物音や叫び声のことでもう何度か家主のところへ苦情を持ちこんできていて、このことは、むろん、すでにアマリヤを通じてカテリーナの耳にもはいっていた、というのは、この女家主がカテリーナと口喧嘩をしたとき、家族をひとり残らず追い出してやるとおどしつけたついでに、お前さんたちは『お前さんなど足もとにも及ばない上品な間借人』に迷惑をかけているんだとありったけの声でわめきたてたことがあったからである。そこでカテリーナは今度わざわざこの『自分などその足もとにも及ばない』婦人とその娘を招待することにきめたのである。これまで偶然出会ったようなときにむこうが見下すように顔をそむけていただけになおさら招ばずにはいられなかったのだ――こうすればその女に、ここの人は『もっと上品なものの考え方をしたり感じたり恨みも忘れて招待したりするのだ』ということを思い知らせると同時に、みんなにも、カテリーナという女はこんな暮らしに慣れた女じゃないというところを見せつけてやれるからであった。食事のときに、今は亡き父親が知事同然だった話といっしょに、ぜひともあの親子にこのことを説明して聞かせると同時に、出会ったときになにも顔をそむけることはない、そういうことはひどくばかげたことだということを遠まわしに注意してやることも予定されていた。そのほか、太った陸軍中佐(ほんとうのところは退役二等大尉)も来なかったが、これは、きのうの朝から『酔っぱらって腰が立たないのだ』ということだった。
そんなわけで要するに、姿を見せたのは、例のポーランド人と、脂じみた燕尾服を着た、いやな匂いのする、にきび面の、口数のない、薄ぎたないどこかの事務員と、それからもうひとり、昔どこかの郵便局に勤めていたことがあって、だれも覚えがないような頃から、なんのためかはわからないが、だれかがアマリヤのアパートにおいてやっている、あるつんぼでほとんど盲目同然の小柄な老人くらいのものだった。それに、ある酔っぱらいの退役中尉も姿を見せたが、これもほんとうのところは糧秣局の役人で、無作法きわまる笑い声を立てる上に、『驚いたことには』チョッキも着ていなかった! それから、カテリーナにおじぎもせずにいきなりテーブルについたある得体のしれぬ男がい、最後にひとり、服を持ちあわせていないために寝間着のままで出席しようとした者もいたが、これはいかにも無作法すぎるので、アマリヤとポーランド人が骨おってやっと外へつまみ出した。もっとも、そのポーランド人自身も、さらにほかにだれか、アマリヤのアパートには全然住んでいたこともなければだれひとりこれまでこのアパートで見かけたこともないポーランド人を二人もつれてきていた。こういったことがいっしょくたになってカテリーナの神経がひどく不愉快にいらだっていたのである。『これじゃいったいだれのためにこれだけの料理をこしらえたのかわかりゃしない』というわけである。子供たちでさえ、無理して席をこしらえるために、それでなくとも部屋をいっぱいにふさいでいる食卓にはつかせられず、子供たちのために奥の隅の長持ちで食卓がつくられ、二人の小さな子はベンチにかけさせられた。そして、ポーリャは姉だというので、その面倒を見、物を食べさせてやったり、『立派な家庭の子らしく』鼻をふいてやったりしなければならなかった。
要するに、こんなわけでカテリーナはやむを得ずつねにもましてもったいぶった、傲慢とも見える態度でみんなを迎えなければならなかったわけである。何人かにたいしてはとくにきつい目つきでじろりと見てから、見下したような態度で着席をすすめた。どういうわけか彼女は、みんなが姿を見せなかった責任は当然アマリヤにあると考えて、急に彼女にひどくぞんざいな態度をとりはじめ、相手もそれに気づいて、ひどく憤慨してしまった。がこんなぐあいであってみれば、よい結末など予想できるはずはない。ついに、一同席についた。
ラスコーリニコフが部屋へはいって来たのは、家の者が墓地から帰って来たのとほとんど同時だった。カテリーナは彼が来てくれたことをこおどりせんばかりに喜んだ。そのわけは、第一、彼が客のなかでただひとりの『教養のあるお客』で、『人も知るとおり、二年後にはこの地の大学で教授の職につくはず』の人だったからであり、第二には、彼がさっそくていねいに彼女にたいして、葬儀に参列したい気持は山々だったが、それが果たせなかったことをわびたからである。彼女はいきなり彼のところへ飛んで行って、彼を自分の左側の席につかせ(右手にはアマリヤが坐っていた)、料理がまちがいなく配られてみんなに行きわたるよう、絶えず気をくばったり気をもんだりし、またとくにここ二、三日しつこくなった苦しい咳にしょっちゅう声がとぎれ、のどがつまりそうになりながらも、ひっきりなしにラスコーリニコフのほうを振り向いては、半ばささやき声で胸にたまった感情や失敗に帰した追善ぶるまいにたいする至極もっともな憤懣を残らず急いで吐き出そうとするのだった。その際、その憤懣が、寄りあった客、主として当の女家主にたいするはしゃぎきった、どうにもおさえられない嘲笑にとって代わられることもしばしばだった。
「みんなあのかっこう鳥が悪いんですよ。わたし、だれのことを言ってるのか、おわかりですか? あの人のことですよ、あの人!」とカテリーナは女家主のほうをあごでしゃくってみせた。「見てごらんなさいな。あんなに目を皿のようにしていますよ、わたしたちが噂をしているのを感づいているんですわ、だけど、なんのことかわからないもんだから、目をぎょろつかせているんですよ。へ、まるでふくろうだわ!は、は、は! ……ゴホン、ゴホン、ゴホン!この女はあんな帽子をかぶって来ていったいなにをみんなに見せようっていうのかしら? ゴホン、ゴホン、ゴホン! あなたもお気づきでしょうけれど、あの人はずうっとみんなに、自分は面倒を見てやっているんだ、こうして出席してやっているのも面目をほどこさせてやっているんだというふうに思わせようとしているんですよ。わたしはあの人をちゃんとした人だと思って、すこしはましな連中を、つまり亡くなった主人の知りびとだけを招んでくれるように頼んでおいたのに、ごらんなさいな、この人がつれて来た連中を。どれもこれも道化者みたいな連中ばかりじゃありませんか! 不潔な連中ばっかり! あのきたならしい顔をした男をごらんなさいな。あれは鼻汁が二本足を生やした化け物ですよ! それにあのポーランド人ども……は、は、は! ゴホン、ゴホン、ゴホン!ここの者でだれひとり、だれひとりあの連中を見た者はいないんですよ、わたしだって見かけたことはありませんわ。あの連中はほんとになんだってやって来たんでしょう? いやにすまして並んでいるじゃありませんか。パーネ《あなた》、ねえ!」と彼女はだしぬけにそのうちのひとりに声をかけた。「あなた、ブリンをお取りになりました? もっとお取んなさいな!ビールもお呑みなさい、ビールを――ウォトカはいかが? ほら、ごらんなさい。飛びあがって、ぺこぺこおじぎをしているじゃありませんか。ごらんなさい、ごらんなさい、きっとおなかがぺこぺこなんですよ、かわいそうに! かまやしない、少し食べさせてやるがいいわ。ま、少なくとも騒ぐようなことはしないんだから、ただ……ただ、わたし、おかみさんの銀のスプーンが心配ですわ! ……アマリヤさん!」と今度は不意に彼女にみんなにもほとんど聞こえるくらいの声で話しかけた。「ひょっとしてあなたのスプーンが盗まれても、わたしはその責任は持ちませんよ、前もってことわっておきますけどね! は、は、は!」彼女はまたラスコーリニコフのほうを向いて、またもやおかみのほうをあごでしゃくってみせ、自分の奇抜な発言に悦に入りながら、笑いを爆発させた。「わからないんだわ、今度もわからないんだわ! 口をぽかんとあけて坐っているわ、ごらんなさい。ふくろうだわ、本物のふくろうですわ、新しいリボンをつけたみみずくですわ、は、は、は!」
とたんに、笑いはまたもやおさえきれない咳に変わり、それが五分ほどつづいた。ハンカチには少し血が残り、額には汗の玉がにじみ出た。彼女は無言のままその血をラスコーリニコフに見せたが、やっと息ができるようになると、異常なほどの元気を見せ、ほおを桜色にしてまたさっそく彼にささやき声で話しかけてきた。
「実はですね、わたし、おかみさんに、あの奥さんと娘さんを招んでくれるようにって――わたしだれのことを話しているかおわかりですか――ま、いわば大変デリケートなことを頼んだんですのよ。こういうときにはこの上なくデリケートにふるまって、この上なく上手に立ちまわらなければならないのに、あの人はとんだことをしてくれましたの、あのよそ者のばか女め、あの高慢ちきなくだらない田舎女め、というのは、あれはどこか田舎の少佐未亡人で、年金の運動に出てきて、あちこちのお役所にお百度をふんで、もう五十五だというのに眉はかく、おしろいは塗りたくる、紅はさすといった調子なんですもの(こんなことはだれひとり知らない者はありませんよ)……そんな犬畜生のくせに出席を遠慮したばかりか、来られないなら来られないとこういう場合ごく普通の礼儀とされているわび言を言いに人をよこしもしないんですからねえ! ルージンさんもやはりどうして来て下さらないのか、わけがわかりませんわ。それはそうと、ソーニャはどこにいるのかしらね? どこへ行ったのかしら? あ、とうとう来たわ! どうしたのよ、ソーニャ、どこへ行っていたのよ? おとうさんのお葬式だっていうのにそんなに時間にしまりがなくちゃ困るじゃないの。ロジオンさん、この子をそばに坐らせてやって下さいまし。ほらここがお前の席よ、ソーニャ……なんでも好きなものをお取り。そのほうがいいわよ。今すぐブリンを持ってきてくれるからね。子供たちにはやったかしら? ポーリャ、お前たちのほうにはみんなあるかえ? ゴホン、ゴホン、ゴホン! ああ、よしよし。お利口ちゃんにしているんだよ、リーダ。それからお前、コーリャ、あんよをばたばたさせちゃいけませんよ。坊っちゃんらしくちゃんと坐っているんですよ。なんだって、ソーニャ?」
ソーニャはさっそく急いで、努めてみんなに聞こえるくらいの声を出しながら、ルージンに代わってわざわざ自分で創作をして飾りたてた選りぬきのていねいな言葉づかいで、母にルージンのわび言をつたえた。彼女はさらにそれにつけ加えて、ルージンは、体のあき次第おうかがいして、例の用件《ヽヽ》について差し向かいで相談をしたり、今後なにをしたらいいか、なにを企画したらいいか、取り決めたりしたいということを特に伝えるようにと言われてきたともいった。
ソーニャは、この話をすれば、カテリーナの気持ちをやわらげ、落ちつかせ、彼女を喜ばすことになるし、なによりも彼女の自尊心が満足することになるということを承知していたのである。彼女はラスコーリニコフにそそくさとおじぎをして、そのわきに腰をおろし、せんさくするようにちらりと相手の顔を見た。が、そのあとはなぜか彼のほうに目をやることも、彼と口をきくことも避けていた。彼女は母親の機嫌をとろうとしてしきりに彼女の顔を見るようにはしていたが、なんとなくうわの空といった様子だった。彼女も、カテリーナも喪服は持ちあわせていなかったので、着ていなかった。ソーニャが着ていたのはやや黒っぽいなにやら肉桂色の服だったし、カテリーナの着ていたものも、しまの更紗の黒っぽい一張羅だった。ルージンにかんする報告はすらすらといった。カテリーナはもったいぶった様子でソーニャの話を聞きおえると、やはりもったいぶった態度で、ルージンさんは元気かどうかと尋ねた。それからすぐさま、ほとんど聞こえよがしに、いくら自分たち一家に誠意を示し、また自分の父親といかに古いつきあいであったにしても、ルージンさんほどの、尊敬すべき地位身分の高い人がこんな『ちょっと類のない寄りあい』の仲間入りをしたとしたらそれこそ妙なぐあいだったろうと、ラスコーリニコフに|ささやいた《ヽヽヽヽヽ》。
「そんなわけで、ロジオンさん、こんなありさまなのに、あなたがわたしの心ばかりのもてなしをお厭《いと》いにならずに来て下さったことを大変ありがたく思っておりますわ」と彼女はほとんど聞こえるくらいの声で言い足した。「もっとも、うちのかわいそうな亡くなった主人にたいする特別なご友情があったればこそ約束を守る気になられたんだとは思いますけど」
それから彼女はもう一度客たちを誇らしげに威厳をつけて見わたしたかと思うと、不意に特別世話好きなところを見せて大声でテーブル越しにつんぼの老人に、「もっと焼き肉はいかが、リスボンぶどう酒はおあげしたかしら?」と聞いた。老人は返事もしなかったし、隣りの者がからかって彼をこづき出したが、なんのことを聞かれているのか、長いこと合点がいかず、口をぽかんとあけてあたりを見まわしているだけだったので、それがまたなおいっそう一座の陽気な気分に油をそそぐことになった。
「まあ、なんてとんまだろう! ごらんなさい、ごらんなさい! いったいなんだってあんな人をつれてきたのかしら? ルージンさんのことなら、わたしいつでも信じておりましたわ」とカテリーナはラスコーリニコフにむかって話をつづけた。「それにあの方なら、そりゃもちろん、くらべものになりませんわよ……」きっぱりと声高に彼女はいって、ひどく険しい顔つきをしてアマリヤのほうを向いたので、相手はその権幕におじ気づいてしまったくらいだった。「例のあなたんとこのいやにめかしこんだお引きずりの親子なんかとはくらべものになりませんよ。あんな女どもなんか、うちのおとうさんなら台所の女中にも採用しなかったでしょうよ。そりゃもちろん、亡くなった主人なら採用の光栄に浴させてやったかもしれないけどね、それもあの人がああいう底なしの善人であればこそですよ」
「そうでしたな、一杯やらかすのがお好きでしたな。これがお好きでした、よく呑んでいましたな!」と、退職の糧秣官吏が十二杯めのウォトカを乾しながら、出しぬけに叫んだ。
「亡くなった主人は確かにそういう弱点を持っていましたわ、それはだれでも知っていることですわ」と、カテリーナはいきなりその男にからんでいった。「ですけどね、あの人は気のいい、心の気高い、家族の者を愛しもし大事にもした人ですわ。ただひとつ、いけなかったことは、あんまり人がいいもんですからどんなやくざな男でも信用して、どこのだれだかわからないような者とでも、自分の靴底ほどの値うちもないような連中とでも呑んでいたことです! それがね、どうでしょう、ロジオンさん、あの人のポケットから鶏を型どったしょうが餅が出て来たんですよ。正体なく酔っぱらってはいても子供たちのことは忘れていなかったんですわねえ」
「鶏ですって? あなたは、鶏とおっしゃいましたな?」と糧秣氏が叫んだ。
が、カテリーナは返事もしてやらなかった。そして、なにやら物思いに沈んで、ほうっとため息をひとつ吐いた。
「あなたも、きっと、みなさんとおなじように、わたしのあの人に対する扱いがきつすぎたというふうにお思いなんでしょうね」と彼女はラスコーリニコフにむかって話しつづけた。「ところが、それはそうじゃなかったんですのよ! あの人はわたしを尊敬してくれていましたわ、わたしをそれはそれは尊敬してくれていましたわ! 気だてのいい人でしたからね! ですから、ときにはかわいそうでたまらなくなることもありましたわ! よく、じっと坐って、部屋の隅のほうからわたしを見ていることがありましたけど、そんなときにはあの人ががわいそうでたまらなくなって、やさしくしてやりたくなるんですけど、そのあとで、『やさしくなんかしてやったら、また大酒を呑んで来るにちがいない』とこう思いなおしたもんですわ、きつくしないことにはすこしでも呑み癖をおさえさせることさえできなかったんですもの」
「そうでしたな、よくこめかみの毛をむしられていましたっけね、そういうことが何度あったことか」と、また糧秣氏がわめきたてて、ウォトカを一杯口に流しこんだ。
「こめかみの毛をむしるどころか、ほうきではき出したほうが身のためになるようなばか者もいますよ。これは亡くなった主人のことを言っているんじゃありませんよ!」とカテリーナが糧秣氏にしっぺ返しをした。
彼女の赤いほおはますます赤味を増し、胸は大きく波うっていた。あと一分もすれば、彼女はまたひと騒動起こしかねない形勢だった。大勢してへ、へ、へ、と笑っているところ、みんなはどうやらそれがおもしろいらしく、糧秣氏をこづいたり、彼になにか耳うちしたりしはじめた。明らかに、二人をかみあわせたかったのだ。
「ちょっと聞かしてもらいたいね、いったいあなたは今なんのことを」と糧秣氏が言い出した。
「つまり、だれのことを……あてつけて……言ったんです……が、まあ、いいや! 下らん!後家さんなんだから! 未亡人なんだから! ま、かんべんしてやろう……パスにしよう!」と言って、彼はまたウォトカをぐいとあおった。
ラスコーリニコフは坐ったまま、黙って、嫌悪を覚えながら話を聞いていた。彼はただ礼儀上、カテリーナが彼の皿にひっきりなしに取ってくれる料理に手をつけてはいたが、それも彼女の気を悪くさせないためにすぎなかった。彼はじっとソーニャの顔に見入っていた。しかしソーニャは次第に不安そうな、心配そうな顔つきになってきた。彼女も、追善ぶるまいはこのまま平穏にはおわるまいと予感して、カテリーナが次第にいらだって来る様子を、こわごわ見まもっていた。彼女にはなによりもまず、例の、田舎から上京した二人の婦人が、カテリーナの招待にたいしてあれほど無視したあしらい方をした主な原因は自分だということが、ソーニャだということがわかっていた。当のアマリヤの口から、母親のほうがむしろこの招待に憤慨して、『わたしがどうして|あんな娘《ヽヽヽヽ》の隣りに自分の娘を坐らせられますか?』と逆ねじをくわしたということを聞いていた。ソーニャは、もうすでにこの話は何かのひょうしにカテリーナの耳にはいっているような気がしていた。この、彼女に対する、ソーニャに対する侮辱は、カテリーナにとって、自分一個人や自分の子供たちや自分の父親にたいする侮辱よりも大きな意味を持っていた。要するに致命的な侮辱であったわけである。だから、もはや今となっては『あのお引きずりどもに身のほどを知らせないうちは』カテリーナの気持ちがおさまらないだろうということも、ソーニャにはわかっていた。ちょうどそのとき、わざとこのときを狙ったように、だれかがテーブルの向こう端のほうからソーニャのところへ、黒パンでこしらえた二つの心臓に矢を通したのを皿にのせて廻してよこした。カテリーナはかあっとなって、とっさに大声でテーブル越しに、こんなものを廻してよこしたやつは、むろん、『酔っぱらいのばか』にちがいないと叫び、一方なにやら不吉なものを予感すると同時にカテリーナの高慢ちきさ加減を腹の底から憤慨していたアマリヤは、一座の不愉快な気分をわきへそらし、ついでに自分の一般の評判を高めようと思って、出しぬけに、なんの話のきっかけもなしに、『薬屋のカルル』という自分の知りあいの男がよる夜なか辻馬車に乗っていったところが、「御者はその人を殺そうと思った。カルルは御者に殺さないように、非常に、非常に頼んだ、泣いた、手をあわせた、びっくりした、怖くて心臓刺されたみたい」と語り出した。カテリーナは思わずにやりと笑ってしまったが、そのあとですかさず、アマリヤなどはロシヤ語でひと口話をするような柄ではないと注意した。すると、相手はなおいっそう腹を立てて、「わたしのファーター・アウス・ベルリン(ベルリンの父)非常に、非常に偉い人だった、いつも、あっちこちポケット探っていた」とやり返した。笑い上戸のカテリーナはどうにもおさえきれず、大笑いに笑い転げ、そのためアマリヤもすでに堪忍ぶくろの緒を切らしかけたが、やっとのことでおしこらえた。
「ほうら、みみずく、みみずく!」とカテリーナはすっかりはしゃぎきって、さっそくまたラスコーリニコフに耳打ちしはじめた。「ポケットに手を入れて歩いていたと言いたかったのに、人のポケットを探って歩いていたことになってしまったじゃありませんか、ゴホン、ゴホン!あなたはお気づきになりまして、ロジオンさん、ああいったペテルブルクにいる外国人は、といってもだいたい主にどこかからここへ流れてきたドイツ人ですけどね、どれもこれもわたしたちよりばかばかりじゃありませんか! だってそうでしょう、『薬屋のカルルはおっかなくて心臓刺されたみたい』だの、その男は(腰ぬけめ!)その御者をふんじばりもしないで、『手をあわせました、泣きました、非常に頼みました』なんていう話がよくもまあできたもんじゃありませんか。ほんとにばかですよ! しかも、あんなのがとても感動的な話だなんて思っていて、自分がどんなにばかかなんて考えてもみないんですものねえ! わたしに言わせれば、あの酔っぱらいの糧秣官吏のほうがよっぽど利口ですよ。少なくとも、道楽者で、最後の知慧まで呑んじまったってことがひと目でわかりますもの。それがあの連中ときたら、みんなおなじようにお行儀ばかりよくて、ばかまじめでさ……ほうら、坐って、目をむき出していますよ。怒ってる! 怒ってる! は、は、は! ゴホン、ゴホン、ゴホン!」
カテリーナは大はしゃぎで、たちまちいろんな細かい話にふけり出したかと思うと、出しぬけに、年金がおりたらそれを元手に生まれ故郷のT……市でぜひとも良家の娘のための寄宿学校を開くつもりだと言い出した。この話はまだカテリーナ自身ラスコーリニコフにしたことがなかったので、彼女はたちまち魅力に富むデテールの説明に夢中になってしまった。どういうふうにして出てきたのか、そのときいつの間にか彼女の手に例の『賞状』が、いつぞや故人のマルメラードフが呑み屋でラスコーリニコフに、つれあいのカテリーナが女学校の卒業式に『県知事その他お歴々の前で』ショール・ダンスを踊った話をしたときに口にのぼした例の賞状が握られていた。この賞状は、明らかに、今となればカテリーナに寄宿学校を開く資格があるという証明になるはずのものだった。だが、いちばん大事なことは、それが、『めかしこんだお引きずり親子の両人』が追善ぶるまいに出て来た場合にあの二人を完膚《かんぷ》ないまでにやっつけて、このカテリーナはきわめて素姓《すじょう》のいい『貴族とも言えるくらいの家に生まれた大佐の娘で、この頃むやみにふえてきたその辺の女山師などよりはちっとはましな人間だ』ということをあの二人にはっきり証明してやるつもりで用意されていたということである。
賞状はすぐさま酔ったお客どもの手から手へと渡りはじめたが、カテリーナは別にそれをとめようともしなかった、というのは、それにはまちがいなく、en toutes lettres(ちゃんと)、彼女が七等文官の勲章所有者の娘であることが、したがってほんとうに大佐の娘も同然であることが書かれていたからである。のぼせあがってしまったカテリーナはさっそく、T……市におけるすばらしい平穏な暮らしを巨細《こさい》にわたって語り出した。自分が自分の寄宿学校の授業のために招こうと思っている教師たちの話や、自分が女学校時代にフランス語を習ったことのある、マンゴーというある老齢のフランス人で、今でもまだT……市で余生を送っている人がいるから、きっと手頃な報酬で来てくれるにちがいないといったような話もした。話はついにソーニャのことに及び、『この子はわたしといっしょにT……市へ行って、そこで一切の手助けをしてくれることになっている』といったような話になった。ところが、とたんにだれかテーブルの端のほうでぷうっと吹き出した者がいた。カテリーナはすぐさま、そんなテーブルの端のほうで起こった笑いなどは無視して気がつかないようなふりをしようとしたが、すぐにわざと声を高めて、ソフィヤには自分の助手としての疑いもない素質がある、『おとなしくて、忍耐づよくて、献身的で、上品で、教養があって』などと興奮の体で語り出し、話のさなかにソーニャのほおを軽くたたいたり、腰を浮かして二回ほど熱い接吻をしてやったりした。ソーニャはぽっと顔を赤らめ、カテリーナはわあっと泣きくずれながら、自分で自分のことを『わたしは神経の弱いばかな女で、もう神経がめちゃめちゃになってしまったから、もうこの辺でそろそろお開きにしなければならない、それに食べるものももう切れてしまったから、お茶を配ったほうがいい』と言った。
ちょうどそのとき、どんな話にもそれこそちっとも仲間入りできず、自分の話もてんで聞いてもらえなかったというのですっかり腹を立ててしまったアマリヤががぜん最後の冒険を試み、情けないような気持ちをおし隠して、敢然とカテリーナにむかって、あなたのつくろうとしている寄宿学校では娘《デベイーツア》たちの下着《ディ・ヴェーシェ》はいつも清潔になっているように特別注意を払うべきで、『下着をよく見るため、ひとり立派な舎監、どうしても必要』であり、第二には『すべて若い娘、夜なか小説、そと隠れ読むやらせないように』と、ひじょうに実際的で深い意味をこめた注意を与えた。実際に神経がめちゃめちゃになって疲れきってしまい、追善ぶるまいにはもうすっかりうんざりしてしまっていたカテリーナは即座にアマリヤに、お前さんは『ばかばかり言っている』、お前さんはなんにもわかっちゃいないんだ、(娘たち)のディ・ヴェーシェ(下着)の心配などは服装がかりの仕事で、貴族寄宿学校の校長がすることじゃない、小説の隠れ読みのことなら、これはもうそんなことはまったく無作法なことはわかりきっている、余計なことに口出ししないでもらいたいと、『きっぱりきめつけた』。
アマリヤはかあっとなり、かんかんに腹を立てて、自分はただ『ためを思った』までだ、自分は『うんと、うんと、ためを思った』のだ、それなのにお前さんは『もうだいぶ前から部屋代のゲルト(お金)を払っていないじゃないか』とやり返した。カテリーナはすぐさま、『ためを思った』なんて言うけど、それは嘘だ、ついきのうだって、まだ亡くなった主人の死骸が机の上においてあったのに、わたしを部屋代のことでいじめたじゃないかと言って、相手の『鼻っ柱をくじいてやった』。これにたいしてアマリヤは『お前さん、あの婦人たちを招んだ、でも、あの婦人たち来なかった、これ、あの婦人たち、上品な婦人たち、だから上品でない婦人の家、来られない』と、たてつづけにきめつけた。すると、カテリーナはすかさず、『声をはげまして』相手に、お前さんなんか下司《げす》女だから、ほんとうの上品とはどんなものなのか判断がつかないんだと言ってのけた。アマリヤはたまりかねて、すぐさま、わたしの『ファーター・アウス・ベルリン(ベルリンの父)非常に、非常に偉い人だった、いつも両手あっちこちポケット探って歩いていた、そしていつもこうやっていた。プフー! プフー!』とはっきり言ってのけ、自分のファーター(父)の様子をもっとありありと描いてみせようとして、椅子からいきなり立ちあがって、両手をポケットに突込み、ほおをふくらまして、口でプフー、プフーといったような、なにやら得体の知れない音をたてはじめた。すると、間借人一同どっとばかりに笑い出し、つかみあいの喧嘩になればよいとばかりに、わざとアマリヤをけしかけた。
だが、こうなってはカテリーナも我慢がならず、たちどころに、みなに聞こえよとばかり、アマリヤには、きっと、全然ファーターなんかいなかったんだ、アマリヤなんてただの酔っぱらいのフィンランド女にすぎず、きっと、以前はどこかに女中奉公か、おそらくもっとひどい暮らしをしていたにちがいないと、『ずばり言ってのけた』。アマリヤはえびのように真っ赤になって、おそらく、カテリーナのほうこそ『全然ファーターいなかったが、わたしにはファーター・アウス・ベルリンいた、そして長いフロック着て、いつもプフー、プフーやっていた』と、金切り声で叫びたてた。カテリーナは、わたしの生まれはだれでも知っている、この賞状にも活字で、父親が大佐だということがちゃんと明記してある、ところがアマリヤの父親なんか(もしだれか父親なるものがいたとしたら)、きっと、牛乳でも売っていたペテルブルクのフィンランド人かなにかだ、いちばん確実なところは、父親なんかまるっきりいなかったんだ、その証拠には、父称をどう呼んでいいのか、イワーノヴナと呼ぶのか、リュドヴィーゴヴナと呼ぶのか、いまだにわからないじゃないかと、軽蔑したような口調で言った。そこで、アマリヤは突然すっかり狂いたち、げんこで卓をたたいて、わたしはアマル・イワンで、リュドヴィーゴヴナじゃない、わたしのファーターは『ヨハン言った、そして市長していた』、それなのにカテリーナのファーターは『全然一度も市長なかった』などと、金切り声でわめき出した。カテリーナは椅子からすくっと立ちあがると、厳然と、うわべは冷静に見せた声で(顔はすっかり真っ青になり胸は激しく波立たせていたのに)、相手にむかって、あとたった一度でも『あつかましくも自分のぼろくその親父とわたしの父をおなじようにあつかったが最後、お前さんからその帽子をむしり取って、足で踏みにじってやるから』と言った。これを聞くと、アマリヤは、わたしは家主だから、カテリーナに『たった今この家を出ていってもらおう』とありったけの声でわめきたてながら、部屋のなかを駆けまわりはじめ、つぎに何と思ったものかテーブルの上のスプーンをかき集め出した。
人のどよめき声と騒々しい物音が起こり、子供たちは泣き出した。ソーニャはカテリーナを引きとめに飛んでいこうとした。が、アマリヤが突然黄色い鑑札がどうのとわめき出すと、カテリーナはソーニャを突きのけて、帽子のことで吐いたおどし文句をすぐさま実行に移そうとして、アマリヤに飛びかかっていった。とたんにドアがあいて、部屋の敷居の上にピョートル・ペトローヴィチ・ルージンがぬっと姿をあらわした。彼は突立ったまま、けわしい注意ぶかい目つきで部屋のなかをひとまわり見わたした。カテリーナは彼のほうへ飛んでいった。
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「ルージンさん!」と彼女は叫びたてた。「せめてあなただけでもわたしに味方して下さい!あのばかな女に言いきかせて下さい、今不幸な目に会っている立派な家柄の婦人をそんなふうにあしらうという法はない、そういうことのために裁判というものがあるんだぞって……わたしじかに総督に訴えて出ます……あの女はその報いを受けるはずです……わたしの父にひいきされたことをお忘れなく、このみなし子たちを守ってやって下さい」
「失礼ですが、奥さん……失礼ですが、失礼ですが、奥さん」と言って、ルージンは相手を払いのけようとした。「私はあなたのおとうさんとは、ご存じのとおり、一面識もございませんよ……失礼ですが、奥さん!(だれか大声で笑い出した者がいた)それに、あなたとアマリヤさんの果てしない仲たがいにかかわりあうつもりもありません……私は自分の用事であがったんですから……それであなたの義理の娘さんのソフィヤ……イワーノヴナと……確か、そういうお名前でしたね? 今すぐお話しあいがしたいのです。すみませんが、通らして下さい……」
こう言うと、ルージンはカテリーナのわきをすり抜けて、ソーニャがいた向こう側の隅にむかって歩き出した。
カテリーナは雷にでも打たれたようにその場に立ちすくんでいた。彼女は、ルージンがどうして父の愛顧を否定したのか、ふつふつ合点がいかなかったのである。いったんこの愛顧なるものを思いついたとたんから、彼女自身すでにそれを神聖なものとして信じきっていたからである。彼女は今のルージンの事務的な、そっけない、一種軽蔑的な威嚇に満ちた調子にもショックを感じた。みんなも彼の出現と同時に少しずつ鳴りを静めてしまった。この『事務的でまじめくさった』男が一座の者とはあまりにも際だって調和を欠いていたことは別としても、彼がなにか重大な用件で来た、つまりおそらくなにか普通でない理由があればこそこんな集まりの席に踏みこんで来たのだろう、とすれば今にもなにか起こるにちがいない、何事かあるにちがいないということはだれの目にも明らかだった。ソーニャのそばに立っていたラスコーリニコフはわきへよけて彼を通してやった。ルージンは、彼にはまるで気づかぬらしく見受けられた。一分もした頃、敷居の上にレベズャートニコフも姿を見せた。彼は部屋のなかへははいらずに、一種特別な好奇心というよりもけげんといった表情を浮かべて立ちどまって、耳をすましてはいたが、長いことなにやら腑に落ちないといった様子をしていた。
「多分、お邪魔かとは思いますが、ご容赦願います。事がかなり重大なものですから」と、ルージンは特にだれにむかって言うというのでもなく、なにか一般的に言うような調子でそう言った。「私は皆さんがおそろいなので嬉しいとさえ思っております。アマリヤさん、あなたは家主ですから、あなたにはこれから私がソフィヤさんと始める話をよく注意して聞いて下さるよう折り入ってお願いしておきます。さて、ソフィヤさん」と彼は、ひどくびっくりし、すでに事前におびえきってしまっていたソーニャのほうにまともに向きなおって語をついだ。「実は今友人レベズャートニコフ君の部屋で、さきほどあなたがお出でになった直後に、私のテーブルから私のものである百ルーブリ紙幣が一枚紛失したのです。もし、どんなふうにもせよ、あなたがその札の在りかをご存じで、われわれに教えて下さるなら、私は誓って請け合いもしますし、皆さんにも証人になってもらいますが、事件はそれだけで片がついてしまいます。が、そうでない場合は、やむを得ず非常手段に訴えなければなりません、そうなったら……もう自分を恨むよりしかたがありませんよ!」
部屋のなかはまったくしいんとしてしまった。泣いていた子供たちまでひっそりしてしまった。ソーニャは死人のように青い顔をして突立って、ルージンの顔を見つめたまま、なんとも返事ができずにいた。彼女は話がまだのみこめないらしかった。何秒か過ぎた。
「さあ、どうです?」とルージンはじっと彼女に目をそそぎながら尋ねた。
「わたしは知りません……わたしはなんにも存じません……」と、ソーニャはついに弱々しい声で言った。
「知らない? ご存じない?」とルージンは聞きかえして、さらに何秒か黙っていたが、「考えてごらんなさい、マドモアゼル」と、きびしい、だが、やはりまだ訓誡でも垂れるような調子でまた切り出した。「よくお考えになるんですな、私はもう少し考える時間をさしあげますから。おわかりでしょうが、私にそういう確信がなかったら、もちろん、私のように経験をつんだ者がこんなにいきなりあなたに罪を着せるような冒険をするはずはないでしょう。だって、こんなぐあいにじかに、公然と、だがいつわりの罪を、もしくは単なるまちがいではあっても罪を人に着せるからには、私のほうも、ある意味で責任を負うわけですからね。私はそんなことは承知の上なのです。けさ、私は必要があって、額面総額三千ルーブリの五分利つき債券を何枚か現金にかえて来ました。そして家へ帰ってから、――レベズャートニコフ君がその証人ですが、――金の勘定を始め、二千三百ルーブリ数えると、それを財布に入れて、その財布をフロックのわきポケットへ入れました。で、机の上には札で五百ルーブリほど残っていて、そのなかに百ルーブリ札が三枚まじっていました。ちょうどそこへあなたが来られたわけです(私が呼んだんでね)――そしてそれからあなたは私のところにおられた間じゅう大変もじもじしておられ、そんなわけで話の最中に、まだ話がすんでいないのに、三回も立ちあがって、どうしたわけか急いで出ていこうとした。こういうことはぜんぶレベズャートニコフ君が証明できるはずです。マドモアゼル、おそらくあなたご自身否定なさらずにはっきりと確認して下さると思いますが、私がレベズャートニコフ君を介してあなたをお呼びたてしたのは、ただひとえに、あなたの身内であるカテリーナさんの(私はこの方の催された追善ぶるまいには出席できませんでしたが)みなし子同然の頼りない境遇について、この方のためになにか募金とか富くじとかそういったようなことを催したらどんなに有意義だろうと思って、そんなことであなたの相談に乗ってあげようと思ったからなのです。あなたは私にお礼を言い、涙まで流されました(私は今ありのままを話していますが、これはひとつには、あなたに思い起こしてもらいたいため、もうひとつは、どんな些細なことでも私の記憶から消えていないということをあなたに知ってもらいたいためです)。それから私は机の上から十ルーブリ紙幣を取って、私から、あなたのおかあさんのために、その救済の手はじめとして、あなたにさし上げました。こういったことはぜんぶレベズャートニコフ君が見ていたことです。それから私はあなたを戸口までお送りし、――その間もずうっとあなたはおなじようにもじもじしておられましたが、――そのあと、レベズャートニコフ君と二人きりになって、いっしょに十分ばかり話をまじえた後、レベズャートニコフ君が出ていったので、私は、札を数えて、前に考えていたとおり別にしておこうと思って、金を置いておいた机のところへもう一度行ってみました。ところが、驚いたことに、ほかのにまじっていた百ルーブリ札が一枚ないじゃありませんか。ひとつ判断してみて下さい。私はとてもレベズャートニコフ君に嫌疑をかけるようなことはできません。そんなことは思っただけでも恥ずかしいことです。また、私が勘定ちがいをしたということもありえないことです、なぜといって、あなたが来られる一分ほど前に、勘定をすっかりすましたとき、総計はぴったり合っていたんですからね。そこであなたももっともとお思いになるでしょうが、あなたが始終もじもじしておられたことや、あわてて出ていこうとされたことや、あなたが手をしばらく机の上に置いておられたことなどを思い起こし、さらには、あなたの今の社会的な身分やそれと関連のある習性などを思いあわせた末、私は、いわば恐ろしいことであり、また自分の本意にさえそむくことであるとは思いながらも、むろん残酷ではあるけれども、公正な嫌疑をかける立場に立た|ざるを《ヽヽヽ》えなかったわけです! さらにつけ加えてもう一度言っておきますが、私には十分に|明瞭な《ヽヽヽ》確信はありながらも、やはり私が今やっている摘発は私にとっていささか冒険であることは私にもわかっています。が、しかし、ごらんのとおり、私はこれを闇に葬ることはしませんでした。私は敢然と立ちあがりました、それはなぜでしょう。それはただひとつ、あなた、ただひとつ、あなたの汚らわしい忘恩がその原因なのです! どうです? 貧窮のどん底にあるあなたのおかあさんのためにと思ってあなたをお呼びしたのはこの私ですぞ、あなたに十ルーブリの応分の喜捨を与えたのもこの私ですぞ、それなのにあなたはその場でさっそくそれにたいしてあんなことをして報いてくれたわけです! いや、こんなことはけっしていいことじゃありません! 見せしめが必要です。よく判断して下さい。その上、あなたの真の友として、頼みます(だって、今の今あなたには私以上の親友はいるはずがないんですからね)、思いなおして下さい! でないと、容赦しませんぞ! さあ、どうです?」
「わたしはなんにもあなたのものを取った覚えはありません」とソーニャは恐怖を覚えながらささやくように言い、「わたし、十ルーブリはいただきました。さあこれをお取り下さい」ポケットからハンカチを取り出して、結びめをさがしあて、それをほどいて十ルーブリ札を取り出して、ルージンのほうへさし出した。
「じゃ、あとの百ルーブリのほうはやっぱりしらをきられるわけですか?」と彼は、札はそのまま受けとらずに、責めるような、しつこい調子でそう言った。
ソーニャはあたりを見まわした。みんな、実に恐ろしい、けわしい、嘲けるような、憎々しげな顔つきをして彼女を見つめていた。彼女はラスコーリニコフのほうを見やった……彼は壁ぎわに腕ぐみをして突立ったまま、燃えるような目で彼女を見つめていた。
「まあ、どうしよう!」という言葉がソーニャの口からほとばしり出た。
「アマリヤさん、警察へ知らせなければならないでしょうから、ひとつお願いします、さしあたり庭番でも呼びにやって下さい」とルージンはおだやかに、愛想さえ見せてそう言った。
「ゴート・デア・バルムヘルツィゲ(まあ、何てことでしょう)! わたし、この人盗んだこと、ちゃんと知っていた!」アマリヤはぱんと両手を打ち鳴らした。
「あなたもちゃんと知っていたんですって?」とルージンは相手の言葉じりをおさえた。「ということはつまり、すでに前にも多少ともそう結論できる証拠があったわけですな。じゃ、ひとつ、アマリヤさん、今おっしゃった言葉をよく覚えていてくれるようお願いしますよ、もっとも証人はほかにも大勢いますけどね」
四方から急にがやがやと話し声がわき起こった。
「なあんだって!」と、カテリーナがわれに返って、突然わめきたて、まるで縛《いまし》めから脱出でもしたように、ルージンのほうへ飛んでいった。「なんだって! あなたはこの子が盗みを働いたというんですか? このソーニャが? まあ、ほんとに卑劣な連中だこと!」こう言うと、彼女はソーニャのそばへ駆け寄って、締め木にでもかけるように骨と皮の両腕でぎゅっと抱きしめた。
「ソーニャ! お前はどうしてこんな人から十ルーブリなんかもらって来るようなことをしたの! おばかさんね! こっちへおよこし! さっさとその十ルーブリをよこしなさい――ほら!」
そういってカテリーナはソーニャから札をもぎ取ると、それを両手で丸めて、いきなり手を振ってルージンの顔を目がけて投げつけた。丸めた紙玉は相手の目に当たってゆかの上にはね返って落ちた。アマリヤは飛んでいって金をひろいあげた。ルージンはかんかんに腹をたてて、「この気ちがい女を取りおさえろ!」とわめき出した。
戸口にはこのときレベズャートニコフと並んで、さらに何人かの顔が現われ、それらにまじって例の二人の田舎から出てきた婦人も顔をのぞかせていた。
「なんだって! 気ちがい女だって? わたしが気ちがいだって言うの? ばか!」とカテリーナは金切り声をあげた。「そっちこそばかじゃないか、三百代言じゃないか、下劣な人間じゃないか! ソーニャが、ソーニャがこんなやつの金に手をつけるかってんだ! それじゃソーニャは泥棒女だって言うの? この子はかえってこっちからくれてやるような子だよ、ばか!」こう言うとカテリーナはヒステリックに大きな声で笑い出し、「皆さん、このばかを見ましたか?」ルージンを指さしながら、四方八方へ飛びまわり「なにさ! お前もそうだって言うのかい?」と、おかみが目にとまるとこう食ってかかった。「この腸詰め屋、お前まで尻馬に乗って、この子が『泥棒した』なんて相づちを打ちやがって、この見下げはてたプロシャの、スカートをはいた鶏の足め! まったくお前らは! まったくお前らはひどいやつらだ! この子はこの部屋から出てやしないんだよ、お前のところから帰ってきてから、畜生、ここに、ロジオンさんのそばに並んで坐ったきりだったんだ! ……この子を調べてみるがいい! どこへも出ていかなかった以上、お金はこの子が身につけているはずだから! さがしてごらんよ、さがすがいい、さがすがいい! もしお前にみつからなかったら、悪いけど、お前さん、責任をとってもらうよ! 陛下のところへ、陛下のところへ、お情けぶかい皇帝のところへ駆けつけて、お足もとに身を投げ出して訴えてやるからね、たった今! わたしは身寄りも夫もない女だもの! 通して下さるわ! 通してくれないと思っているんだろう? そんなことあるもんか、おそばまで行ってみせるよ! おそばまで行ってみせるとも! この子がおとなしいのにつけこみやがって! ところが、お前さん、そのかわりわたしはきかん気な女だからね! 今ぎゃふんと参らしてやるから! さがせったら! さがせ、さがせ、さあ、さがすがいい!」
こう言うとカテリーナは狂ったようにルージンをせっついてソーニャのところへ引っぱっていった。
「私は覚悟はしています、責任は持ちますよ……だけど、気を静めて下さい、奥さん、気を静めて! あなたがきかん気の女だということはわかりすぎるほどわかりましたから……しかし、それは……それは……それはどうしたもんだろう?」ルージンはつぶやいた。「それは警察の立ちあいの上でやるべきことなんでね……もっとも今でも証人は十分すぎるほどいるけどね……私はいつでもやれるんですが……しかし、いずれにしても男じゃやりにくいんでね……相手が女性ですからな……アマリヤさんにでも手伝ってもらえればね……もっともそういうふうにしてやるもんじゃないんだけど……これはどうしたもんでしょう?」
「だれだっていいから、やらせたい人にやらせればいいじゃないか! 調べたい人に調べさせればいい!」とカテリーナは叫んだ。「ソーニャ、ポケットを裏返してみせなさい! ほら、ほら! ごらんよ、人でなし、ほら、からっぽでしょう、ここにはハンカチがはいっていた、ポケットは空っぽでしょう。わかったかね! ほら、もう一方のポケットだって、ほら、ほら! わかったかね! わかったかね!」
こう言ってカテリーナは裏返すというよりも、両方のポケットをつぎつぎといきなりつかみ出した。ところが、二つめの右のポケットから不意に紙きれが飛び出たかと思うと、空中に抛物線《ほうぶつせん》を描いて、ルージンの足もとに落ちたのである。それはだれの目にも見えた。大勢の者がわあっと叫んだ。ルージンは体をかがめて、その紙きれを二本の指でゆかからつまみあげ、みんなに見えるように高くあげて、広げてみせた。それは八つ折りにした百ルーブリ紙幣だった。ルージンはみんなに札を見せようとして、自分の手をぐるりとまわした。「泥棒女! 家から出てけ! ポリス、ポリス!」とアマリヤがわめき出した。「こいつら、シベリヤへ追っぱらうよろし! 出てけ!」
四方八方から怒号が飛んだ。ラスコーリニコフはときおりルージンのほうに目を移すだけで、あとはソーニャから目を放さずに、黙りこくっていた。ソーニャは気を失ったようになってその場に立ちすくんでいた。彼女はほとんど驚いてもいないような顔つきだったが、不意にさっと顔じゅうに赤味がさしてきたかと思うと、絶叫して、顔をおおってしまった。「いいえ、それはわたしじゃないわ! わたしは取りません! わたしは知りません!」と彼女は胸も張り裂けんばかりの号泣もろともカテリーナにしがみついていった。相手は彼女を抱きとめると、ひしとばかりに自分の胸におしつけたが、その様子はまるで自分の胸で娘をみんなから守ろうとでもするように見えた。
「ソーニャ! ソーニャ! わたしは真に受けやしないよ! このとおり、わたしはほんとうにしてやしないよ!」と、カテリーナは叫びながら(すべては明瞭なのにそれを無視して)、赤ん坊でもゆすぶるようにゆすぶり、数限りない接吻をあびせ、相手の両手をつかんで、いきなり吸いつくようにしてその手に接吻をするのだった。「お前が取るなんて! まったくばかなやつらだわ! ああ、情けない! みんな、ばかだよ、ばかだ」と、彼女はみんなにむかって叫んだ。「あんたたちはまだ知らないんだわ、知らないんだわ、この子がどんな娘か、どんな心を持った娘か! この子が人のものなんか取るもんか、この子が! この子は、もしお前さんたちが要るといえば、自分の一張羅でもぬいで、売っぱらって、はだしで歩いてもお前さんたちにやってしまうわよ、この子はそういう女だよ! この子は黄色い鑑札も受けたけど、それはわたしの子供たちが餓死しかけていたんで、わたしたちのために自分の身を売ってくれたわけなんだよ! ……ああ、今はもういないあなた、あなた! ああ、死んでしまったあなた、あなた! 見える? 見える? これがあんたへの追善ぶるまいよ! ああ! この子を弁護してやって下さい、あんたたちはみんななんだってそうやって突立ったままでいるんです! ロジオンさん! あなたまで、なんだって味方をしてくれないんです? あなたもやはりほんとうにしているんですか? あんたたちはみんな、みんな、ひとり残らず、ひとり残らず、この子の小指ほどの値打ちもありゃしないわ! 神さま! あなただけはお守り下さい!」
あわれな、肺病やみの、もはや身寄り頼りもないカテリーナの嘆きは並みいる人々に強烈な感銘を与えたらしかった。このときの、その苦しみにゆがんだ、かさかさになった肺病やみらしい顔、そのひからびて血のこびりついた唇、そのしわがれた叫び声、その子供の泣きかたにも似たすすり泣き、その信じきった、子供じみた、と同時に絶望的な、守ってくれという歎願、それらにはあまりにも哀れさ、辛さがこもっていたため、だれもがこの不幸な女に憐憫を覚えたように見受けられた。少なくともルージンはたちまち|憐憫の情を披瀝した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
「奥さん! 奥さん!」と彼はさとすような語調で叫び、「この事実はあなたには無関係なことなんですよ! だれひとり、あなたが企んだことだとか、あなたがぐるだったとか言って責めようとする者はいないんですよ、ましてあなたはポケットを裏返して、さらけ出してみせたんですから。ということは、こんなことはちっとも予想していなかったということですからね。もしも、いわば貧窮なるものに責められてソフィヤさんがこんな拳に出られたのなら、私だっていくらでも同情してあげるつもりですよ。それにしても、マドモアゼル、あなたはなぜ白状する気にならなかったのです? 自分の顔をつぶすのが怖かったんですか? 初犯だからですか? あるいは、度を失ってしまったのかもしれませんね? いや、わかりますよ、よくわかります……しかし、それにしてもなんのためにこんなことをする気になったものでしょうね!皆さん!」と彼は並みいる一同にむかって聞いた。「皆さん! 私は個人的に侮辱を受けたわけではありますが、そういう今でも、同情の念から、いわば惻隠《そくいん》の情から、許してあげてもよいと思っています。マドモアゼル、今のこの恥辱はあなたにとって将来のいい教訓になりますよ」とソーニャにむかっていった。「で、私はこれ以上のことは不問に付します、もうこれでいい、やめにします。もうたくさんです!」
ルージンは流し目にラスコーリニコフをちらっと見た。二人の視線がぴたりと合った。ラスコーリニコフの燃えるような視線は今にも相手を焼きつくさんばかりだった。一方、カテリーナはもうなんにも耳にはいらないらしく、ただ気ちがいのようにソーニャを抱いて接吻しているだけだった。子供たちも小さな手であちこちからソーニャにとりすがっていた。ポーリャは――事のいきさつがまるっきりわからないのに――すっかり涙にくれ、泣きじゃくることに疲れはてながら、泣きはらした、かわいい小さな顔をソーニャの肩に埋めていた。
「まったく卑劣きわまる!」と、そのとき突然戸口に大きな声がした。
ルージンがひょいと振り返ると、
「まったく卑劣きわまる!」とレベズャートニコフがじっと相手の目を見すえながら、もう一度言った。
ルージンはぶるっと身震いさえしたようだった。それはだれにもわかった(あとでみんなはこのことを思い出した)。レベズャートニコフは部屋のなかへ足を一歩踏み入れた。
「あなたはよくもずうずうしく僕を証人になんか立てる気になったもんですね?」と彼はルージンのほうへ歩みを運びながら言った。
「それはどういう意味かね、レベズャートニコフ君? 君はなんのことを言ってるんだね?」とルージンはつぶやいた。「それは、あなたは……人を誹謗する男だということですよ、これが僕の言った言葉の意味です!」レベズャートニコフは度の強い近視の金壺まなこで相手をきっと見すえながら、熱した口調でそういった。彼は憤慨にたえぬといった様子だった。ラスコーリニコフは彼にぴたりと目を吸いつけられたようになり、彼の一語一語をかみしめてはかりにかけているようなぐあいだった。またもや沈黙があたりにみなぎった。ルージンはほとんど度を失いそうだった。とくに最初のうちそうだった。
「もしそれが、君が私に……」と彼はどもりながら言い出した。「君はどうしたんだね? 気は確かかね?」
「僕のほうは気は確かだが、あなたのほうはそれこそ……ペテン師じゃありませんか! いや、まったく卑劣きわまる! 僕は初めから終わりまで聞いていました、すっかり得心がいくように、わざと最後まで待っていたんです、というのは、実は、いまだにいささかつじつまのあわないところがあるからです……それにしても、なんのためにあなたがこんなことをしたのか――僕にはわからないね」
「私がいったいどんなことをしたと言うんだね! そんなばかばかしい謎めいたことを言うのはよしたらどうだ? それとも一杯引っかけているんじゃないのか?」
「それは、あなたみたいな下等な人間は呑むかもしれないが、僕はそんなことはしやしませんよ! 僕はウォトカだってこれまで一度も口にしたことはないんだ、それは僕の信念に反するからです! どうです、皆さん、この男が、この本人が自分自身の手でソフィヤさんにこの百ルーブリをやったんですよ――僕は見たんです、僕は目撃者です、僕は誓ってもいい! この男がです、この男がですよ!」とレベズャートニコフはみんなひとりひとりにむかって、そうくり返し言っていた。
「お前さんは気でもふれたか、この青二才め?」とルージンは金切り声をあげた。「本人の娘さんがここに、お前さんの目の前にいるじゃないか、――本人がここでたった今、皆さんの前で、十ルーブリ以外になんにも僕からもらわなかったと認めたじゃないか。それなのにいったいどうやってこの人に渡すことができたと言うんだね?」
「僕は見たんだ、僕は見たんだ!」とレベズャートニコフはくり返し叫んだ。「だから、たとえこれが僕の信念に反しようとも、僕は今すぐにでも裁判の席でどんな宣誓でもしてのけるつもりです、だって僕はあなたがこの人のポケットに札をそうっと押しこむところを見たんですから! ただ僕は、ばかだもんだから、あなたが慈善心から押しこんだんだとばかり思っていたんだ! あなたは戸口でこの人と別れるとき、この人が振り向いて、あなたが片方の手でこの人に握手したとき、この人のポケットに札をそうっと入れたんだ。僕は見たんだ! 見たんだから!」
ルージンは真っ青になった。
「なにをでたらめをぬかす!」と彼はふてぶてしげにわめきたてた。「窓ぎわに立っていながら、どうして札の見わけがついたんだ! 君の目の錯覚だよ……ひどい近視眼だから。寝ごとを言っているのさ!」
「なあに、錯覚なもんか! 僕は遠い所に立っていたけど、始終をすっかり見とどけたんだ、窓ぎわからでは確かに札は見わけにくかったけど、――これはおっしゃるとおりです、――しかし、ある特別な事情で、僕には、それがまちがいなく百ルーブリ札だということが確実にわかっていたんです、というのは、あなたがソフィヤさんに十ルーブリ紙幣をやろうとしたとき、――僕はこの目で見ていたんだが、――あなたはそのときテーブルの上から百ルーブリ札を取りあげた(それは僕にも見えた、だって僕はそのときはすぐ近くに立っていたんですからね、それに、僕の頭にとっさにある考えが浮かんだんで、それで、あなたがその札を握っていたことを忘れなかったわけです)。あなたはその札を折りたたんで、ずうっと手に握って持っていました。その後僕はまたそのことを忘れかけたんだが、あなたが立ちあがろうとしたとき、それを右手から左手へ持ちかえて、落としそうにしたんで、僕はまた思い出したんです、というのは、そのとき僕の頭にまた例の考え、つまり僕にかくしてそうっとこの人に慈善をほどこすつもりなんだなという考えが浮かんだからなんだ。そこで想像がつくと思いますが、目をつけはじめたところが、――ついに、あなたがまんまとこの人のポケットに押しこんだところを見てしまったわけです。僕は見たわけです、僕は見たわけですよ、僕は誓ってもいい!」
レベズャートニコフはほとんど息も切れそうだった。四方八方からいろんな叫び声があがった。いちばん多かったのは驚きの叫びだったが、威嚇《いかく》の調子をおびた叫びも聞かれた。一同、ルージンのほうへひしめき寄ってきた。カテリーナはレベズャートニコフのそばに駆け寄った。「レベズャートニコフさん! わたし、あなたを誤解していました。この子をかばってやって下さい! あなただけがこの子の味方なんです! この子はみなし子だもんだから、神さまがあなたをおつかわしになったんですわ! レベズャートニコフさん、ご親切に、ありがとうございます!」
こういうと、カテリーナはほとんど無我夢中で、体を投げ出すようにして彼の前にひざまずいた。
「でたらめだ!」とルージンは狂わんばかりにたけりたってこうわめきたてた。「お前さんはいつもでたらめばかり言っている。『忘れた、思い出した、思い出した、忘れた』――あれはなんのことだい! それじゃつまり、僕はわざとポケットにそっと忍びこましたと言うのかね? なんのために? なんの目的で? 僕とこの女との間になんの関係が……」
「なんのため? これこそ僕自身にも腑に落ちない点なんだが、僕が語ったことが真相だということは、これは確実ですよ! 僕がまちがえるはずはないでしょう、実際あなたは胸くその悪い犯罪者だね、だって、僕があなたに感謝してあなたに握手したあのときに、このことで頭にひょいとこんな疑問が浮かんだくらいだったんですよ。いったいなんのためにこの男は彼女のポケットに金を忍びこましたんだろう? つまり、いったいどうしてそうっと入れたんだろう? という疑問が。これは単に、僕の信念がまるで反対で、僕がなんら根本的な改善にならない個人的な慈善というものを否定しているってことを知っているんで、僕に隠れてやろうと思ったんだろうか? とこう思い、結局、あんな大金をやるのが僕にたいして実際きまりが悪かったのだろうと判断したわけだが、それ以外にこうも考えたわけです、ひょっとしたら、この男は彼女に思いがけない贈り物をして、彼女に家へ帰ってからポケットに百ルーブリもの大金がはいっているのに気がついてびっくりするように仕組もうと思ったのかもしれないとね(というのは、慈善家のなかにはそんなふうにして自分の善行にいろいろ手を加えることの大好きな人がいるからです。僕は知ってるんだ)。それから僕の頭にこういう考えも浮かびましたよ、あの男は彼女が金を見つけてお礼を言いに来るかどうか試そうと思っているんじゃなかろうかと! それからまた、こうも考えた、感謝されるのを避けようとしているのだと、ほら、よく言うでしょう、右手にも知らしむべからずって、あれをやろうと思ったのだとね……要するに、まあそんなわけで……そのときは実にいろんな考えが浮かんだんで、僕はあとでそれをぜんぶよく考えなおしてみることにしたんです、が、それでもやっぱり、秘密を知っているということをあなたの前に暴露するのは少々デリカシイを欠くんじゃないかと思ったわけです。ところが、私の頭にすぐさまさらにこういう考えも浮かびました。ソフィヤさんは金に気づく前に、ひょっとしてその金をなくしでもしたらどうするかという疑問です。そんなわけで、僕はここへやって来て、彼女を呼び出して、ポケットのなかに百ルーブリはいっていることを知らせてやろうという気になったわけです。その前についでにコブィリャートニコワ夫人の部屋に立ち寄って、『実証的方法の一般的結論』を届けてやり、特にピーデリット(ドイツの経済学者)の論文を(あわせてワーグナーのも)読むようにすすめて来て、それからここへ来てみると、ここじゃもうこんな騒ぎが持ちあがっているじゃありませんか! もしも僕が実際に、あなたが彼女のポケットに百ルーブリ入れるところを見なかったとしたら、はたしてこんなにいろんな考えや判断が下せますかね、下せますか?」
レベズャートニコフは、この考察の長広舌を終えて、話をこうした論理的な結論で結んだとき、へとへとに疲れてしまい、顔からは汗まで流れていた。悲しいことに、彼はロシヤ語ですら、筋道たてて考えを述べる能力を持ちあわせていないくらいだったから(もっとも、ほかの言語もなにひとつ知らなかったのだが)、この弁護の大事業がすむと、体じゅう一時に憔悴《しょうすい》して、まるでげっそりやせてしまったように見えた。だが、それにもかかわらず、彼の弁舌は大変な効果をもたらした。彼の話しかたには大変な熱と確信がこもっていたため、ひとり残らず彼の話を信じてしまったらしいのである。ルージンは形勢不利と見てとった。
「お前さんの頭になにやら愚にもつかない疑問とやらが浮かんだからって、そんなことこっちの知ったことじゃないよ」と彼はわめきたてた。「そんなもの証拠になるもんか! そんなことはみんなお前さんが夢にでも見たことなんだろう、それだけの話さ! お前さんにはっきり言っておくけど、お前さんはでたらめを言ってるんだ! お前さんは、なにか私にたいする恨みからでたらめをいって中傷してるのさ、つまり私がお前さんの自由思想的な、無神論的な社会的提案に賛成しなかったのを根にもってその腹いせをしたわけなんだ、そういうことだよ!」
しかし、このいい逃れもルージンを有利に導きはしなかった。それどころか、あちこちから不満の声がわき起こった。
「いやあ、話をとんだ方向へそらしちまったもんだ!」とレベズャートニコフが叫んだ。「出放題をぬかしやがって! 警察を呼べ、僕は宣誓してやるぞ! だけど、どうしても腑に落ちないことがある。なんのためにこの男はこんな下劣な行動に出たかってことだ! いやまったく憐れないやしい人間じゃないか!」
「なんのためにこの男がこんな行動に出たか、僕には説明できるし、必要とあれば、宣誓もしましょう!」と、ついにラスコーリニコフが断乎たる調子で言いきると、一歩前へ進み出た。
見たところ、彼は毅然とし、落ちついていた。彼をひと目見ただけで、彼こそほんとうに事の真相を知っている人であり、事件はいよいよ大詰めに来たということが、なぜかだれの目にも明白となった。
「今僕はすっかり納得がいきましたよ」と、ラスコーリニコフはまっすぐレベズャートニコフのほうを向いて言葉をつづけた。「この事件のそもそもの初めからすでに僕は、これにはなにか醜悪なよからぬ企みがひそんでいるんじゃなかろうかと、疑い出していたのです。僕が疑い出したのは、僕ひとりしか知らないある特別な事情があるからです。それを今皆さんにご説明申しあげましょう。問題の鍵はすべてこの事情にあるのです! あなたは、レベズャートニコフさん、今の貴重な証言で僕になにもかも完全に明らかにして下さったわけです。皆さんに、皆さんに聞いていただきましょう。この紳士は(と彼はルージンを指さした)最近ある娘に、つまり僕の妹のアヴドーチヤ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワに結婚の申しこみをしました。ところが、ペテルブルクへ出て来てから、この人はおととい、初対面で僕と喧嘩をして、僕に僕の家から追い出されたのです。このことについては証人が二人います。この男は実に腹黒いやつです……おとといは僕もまだ、この男がこのアパートのお宅に泊まっていることは知らなかったんですよ、レベズャートニコフさん。従って、二人が喧嘩をしたその当日、つまりおととい、僕が亡くなったマルメラードフ氏の友だちとしてその夫人であるカテリーナさんに葬式代としてなにがしかの金を渡したところをこの男が目撃していようとは知るよしもなかったわけです。そこでこの男はさっそく僕の母に手紙を書いて、僕がカテリーナさんではなくソフィヤさんにありったけの金をやってしまったと報告した上に卑劣この上もない表現でこの……ソフィヤさんの人となりにまで言及した、つまり僕とソフィヤさんとの関係が特別なものであるようなことを匂わしたのです。皆さんももうおわかりでしょうが、こういったことはみな、僕の母と妹に、二人が僕のために送ってくれたなけなしの金をよからぬ目的に使っているということを吹きこんで、僕と二人を仲たがいさせるのが目的だったのです。そこで昨晩、僕は母と妹とそれにこの人のいる前で真相を明らかにして、金は葬式代としてカテリーナさんにあげたのであって、ソフィヤさんにやったのじゃないということや、ソフィヤさんとはおとといはまだ面識もなかったし、まだ顔も見たことはなかったということを証明してみせました。そしてその際、このピョートル・ペトローヴィチ・ルージンなど、そのいい所をぜんぶかき集めても、彼があんなに悪く言っているソフィヤさんの小指一本の値打ちもないとこうつけ加えたわけです。それに、この男が、そんならあなたはソフィヤさんとご自分の妹を同席させるつもりはあるかと聞いたから、それに対して僕は、そんなことはもうきょうやってしまったと返事をしてやりました。母と妹がこの男の中傷に乗って僕と仲たがいしそうもないのにごうを煮やしたこの男は、二人にひと言ごとにだんだん許せないような暴言を吐きはじめました。そしてついに最終的な決裂となり、この男は二人の家から追い出されたわけです。ここでひとつこういう点に特別注意を払っていただきたいと思います。まあ考えてもみて下さい、もしかりに今ソフィヤさんが泥棒だということが証明できたとしたら、第一、彼は僕の妹と母に、自分の疑惑がだいたいまちがっていなかったということが立証できるし、僕が自分の妹とソフィヤさんを同等にあつかったことにこの男が憤慨したのももっともだということにもなるし、この男が僕を攻撃すれば、それはこの男が僕の妹、つまり自分の婚約者の名誉を守り、かつ予防したことになるじゃありませんか。ま、要するに、こういうことをすることによってこの男は僕と身内の者との間を裂くことができ、もう一度二人の機嫌を取りむすべると思ったことは言うまでもありません。またこの男はこうして僕に私怨を晴らそうとしたということも、もう今さら申しあげるまでもないかと思います、だってこの男は、ソフィヤさんの名誉と幸福は僕にとって非常に貴重なのだと想像する根拠を持っているわけですからね。これがこの男の計算の全貌です! 僕はこの事件をこのように理解しているわけです! これが原因のすべてであって、これ以外に原因はありえません!」
こんなふうに、でなくともだいたいこんなふうにラスコーリニコフが話しおえたこの弁論は、人群れの叫び声にしばしば中断されたが、それでも彼らは非常に注意ぶかくその話を聞いていた。しかし、こうしてたびたび中断されたにもかかわらず、彼の話しぶりは語調がするどく、落ちついていて、正確で、明快で、しっかりしていた。その歯ぎれのよい声とその確信に満ちた調子ときびしい顔つきは並みいる一同に異常な感銘を与えた。
「そのとおり、そのとおり、それはそのとおりです!」とレベズャートニコフは有頂天になって相づちを打っていた。「それはそうにちがいありません、だってこの男はソフィヤさんが僕たちの部屋へはいって来たとき、さっそく僕に、『あそこにラスコーリニコフはいなかったか?カテリーナさんのお客のなかに見かけなかったか?』なんて聞いたんですからね。この男はそのためにわざわざ僕を窓ぎわへ呼んで、そこでこっそり聞いたんですから。つまり、この男には、あなたがここに来ていることがぜひとも必要だったわけなんですよ! それはそのとおりですよ、ぜんぶそのとおりです!」
ルージンは口をつぐんで、にやにや軽蔑的な笑いを浮かべていた。もっとも、顔色は真っ青だった。彼はどうやってここを抜け出したものかと、思案をめぐらしているようなふうだった。あるいは、なにもかもほうり出してここを立ちのけたら喜んでそうしたかもしれないが、今の今そんなことは不可能だった。それは、自分に向けられた弾劾が正当であると直接認め、かつ自分は確かにソフィヤを中傷したと白状してしまうことを意味したからである。それに、それでなくともすでに酒気を帯びていた野次馬《やじうま》連中もひどく興奮していたのである。なかでも糧秣官吏は、事態がよくのみこめなかったくせに、だれよりもわあわあわめきたてて、ルージンにはすこぶるおもしろくない処分の方法まで二、三提案したりしていた。だが、そこには酔ってない者も来ていた。方々の部屋からぞろぞろ落ちあい寄りあった連中である。ポーランド人は三人とも恐ろしくいきりたって、のべつ『パーネ・ラーイダク(この悪党め)』と呼ばわり、その間にさらに何やらポーランド語でぼそぼそおどし文句を並べていた。ソーニャは緊張して話を聞いていたが、やはりまだよくのみこめないらしく、まるで今失神から意識を取りもどしかけているような気分だった。ただラスコーリニコフこそ自分を護ってくれる者だと感じて、彼から目だけは放さなかった。カテリーナはのどをぜいぜいいわせて苦しそうな息をし、ひどく疲れはてているように見えた。いちばんばか面をしていたのは、アマリヤでぽかんと口をあけて、なにがなにやらさっぱりわからずに突立っていた。彼女にわかっていたのは、ルージンがなんだか苦境におちいったらしいということだけだった。ラスコーリニコフはもう一度話をさせてくれと頼もうとしたが、みんなはもうしまいまで話させてはくれず、わあわあ叫びながらルージンのまわりにひしめきあって、罵声とおどし文句を浴びせていた。それでも、ルージンはびくともしなかった。彼はソーニャを罪におとし入れる仕事がすでに完全に失敗に帰したと見てとると、いきなりずうずうしい出方でのぞんだ。
「ちょっと失礼。皆さん、ちょっと失礼。そんなに押しあわずに、通して下さいよ!」と彼は言いながら、群衆を押しわけて通ろうとした。「それに、どうか、そんなおどかすようなまねはしないで下さい。私は請けあうが、そんなことをしたってどうなるもんでもないし、なにができるもんかね、私は十|把《ぱ》ひとからげの臆病者とはわけがちがうんですからね。それどころか、皆さん、皆さんこそ、暴力で刑事事件をもみ消してしまったことにたいして責任をとらなければなりませんぞ。泥棒女の罪証は明白すぎるほど明白なんだから、私はどこまでも追及します。法廷にはこれほどの盲目もいないし……酔っぱらいもいませんからね、このような札つきの無神論者で煽動者で自由思想家の言うことなんか信じちゃくれませんよ。この二人は私を個人的な怨みから私を責めたてているだけのことで、この二人はばかだから、それを認めてしまっているじゃありませんか……はい、ちょっと失礼!」
「今すぐ僕の部屋にはもうお前さんの匂いひとつさせてもらいますまい。さっさと引っ越していって下さい、これでもうわれわれ二人の間もおしまいだ! それにしても、一生懸命になってこの男に説明して聞かしたかと思うとなあ……まるまる二週間もかけて……」
「こっちも、レベズャートニコフ君、さっき、お前さんがまだ私を引きとめていたときも、引っ越すってちゃんと言ったじゃないか。今はただ、お前さんはばかだとだけ、つけ加えておくよ。まあせいぜいその頭と近視眼をなおしておくんだな。じゃ、ごめんなさい、皆さん!」
彼は人垣を押しわけて通った。しかし、糧秣官吏はただ罵声を浴びせるだけでそう簡単に釈放してやりたくなかったらしく、テーブルの上のコップをつかむが早いか、ひと振り振りまわして、ルージン目がけて投げつけた。ところが、コップはまともにアマリヤに当たった。彼女はきゃあっと悲鳴をあげ、糧秣官吏は手を振りあげたはずみにバランスを失って、どしんとばかりテーブルの下へ転がりこんだ。ルージンは自分の部屋へ引きあげていき、三十分もした頃には彼の姿はもうアパートには見られなかった。生来気の小さいソーニャには前々から、自分はほかのだれよりも踏みつけにされやすいし、人はだれでもわたしを侮辱してほとんど罰せられもしないのだということがわかっていた。が、それでもやはり、今の今まで彼女には、みんなひとりひとりにたいして慎重に、おとなしく、従順に振舞えば、不幸はなんとか避けられるような気がしていた。それだけに、このたびの幻滅はやりきれないほどつらかった。彼女は、むろん、じっと辛抱して不平ひとついわずに一切を――この災難さえも――耐えしのぶことはできたが、最初の瞬間の辛さといったらなかった。今自分は勝利をかち得、身のあかしもたったにもかかわらず、――最初の驚きと最初の呆然自失の状態がすぎて、なにもかもはっきりとわかり、思いあわされるようになった今でさえ、わが身の頼りなさと侮辱されたくやしさに、苦しいくらい胸がしめつけられる思いがした。彼女はついにヒステリーを起こしてしまった。そして、とうとうこらえきれなくなって、部屋から外へ飛び出すと、わが家をさして駆け出した。それはほとんどルージンが引きあげていった直後のことである。アマリヤは、コップを投げつけられて居あわせた人たちの爆笑をあびると、これまたそばづえをくったことが我慢がならなくなり、なにもかもカテリーナのせいだとばかり、かん高い叫び声もろとも、気ちがいのようにカテリーナに飛びかかって来た。
「部屋を明けな! 今すぐ! 出てけ!」こう言うと同時に彼女はカテリーナの持ち物を手あたり次第になんでもつかんではゆかへ投げおろしはじめた。ただでさえほとんど死んだようになって気を失いかけ、息を切らして、真っ青になっていたカテリーナは寝床からがばと起きあがりざま(弱りはてて寝床の上に倒れふしていたのだが)、アマリヤに飛びかかっていった。が、勝負はあまりにも段ちがいな勝負だった。アマリヤに羽でも吹き飛ばすように突き飛ばされてしまったのである。「まあ、なんてことかしら! さんざんひどい中傷を受けた上に――こんなろくでなしにまで食ってかかられるなんて! なんてことかしら! 夫の葬式の日に、ご馳走してやったあげくのはてに、みなし子たちをかかえて家から追い出されるなんて! わたしはいったいどこへ行ったらいいのかしら!」と、あわれな女は大声で泣きながら、あえぎあえぎ、叫ぶのだった。「神さま!」と、突然彼女は目をぎらぎら輝かして叫んだ。「ほんとうにこの世に正義というものはないのでしょうか? わたしどもみなし子たちを守らないで、あなたはだれをお守りになるのですか? そうだ、見て来よう! この世には裁きも正義もあるはずだわ、わたしはさがし出してみせる! 今すぐ出かけるから、待っているがいい、ばちあたりのろくでなしめ! ポーリャ、子供たちといっしょにいておくれ、すぐに帰って来るからね。おかあさんを待っていなさいよ、外で待っていてもいいから! この世に正義があるかどうか見て来るから」
こう言うと、カテリーナは、亡くなったマルメラードフが話のなかで触れたことのある緑色のドラデダム織りのショールを頭にひっかぶって、まだ相変わらず部屋のなかにひしめいている雑然たる酔っぱらいの間借人の群れを押しわけて、わあわあ泣いて涙を流しながら、今すぐにでも、たとえどうなろうとどこかで正義を見つけ出そうという漠然たる目的を抱いて、通りへ駆け出した。ポーリャは恐怖のあまり子供たちと隅のトランクの上に固まって、二人の小さな子を抱きこむようにして、全身がたがた震えながら、母親の帰りを待ちはじめた。アマリヤは部屋のなかを駆けまわりながら、金切り声で叫んだり、わあわあ泣いたり、手あたり次第に物をゆかに投げつけたりして、暴れまわっていた。間借人どもはてんでに勝手なことをわめきたてていた――今起こった事件のことで、自分の知慧に応じた結論を下す者もいれば、喧嘩になって悪口の言いあいをする者もおり、かと思えば歌をうたい出す者もいるといったありさまだった……
『さて、おれももう引きあげどきだぞ!』とラスコーリニコフは考えた。『さあ、ソフィヤ、お前さんは今度はなんというか、ひとつ拝聴しようかね!』
そして、彼はソーニャの家をさして歩き出した。
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ラスコーリニコフは、自分のほうにもあれほど大きな恐怖と苦悩があったにもかかわらず、ルージンにたいしてはソーニャの勇猛果敢な弁護人だった。とはいえ、午前中あれほど苦しんだあとだっただけに、彼にはどうにも耐えきれなくなっていた気分を転換できる機会が与えられたことを喜んでいるようなところもあった。もっとも、ソーニャを弁護してやりたいという彼の気持ちには個人的な衷心からの感情が多分にひそんでいたことは言うまでもない。それは別として、さし迫った問題として彼の頭から離れず、ときどき彼の胸を烈しくゆさぶっていたのは、ソーニャとの会見であった。彼は彼女に、だれがリザヴェータを殺したか、それを|教えなければならなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のだが、おそろしい苦痛をなめなければならないことがわかっていたので、その考えを払いのけるようにしていたのである。してみると、彼がカテリーナの家を出るときに、『さあ、お前さんは今度はなんと言うだろう、ソフィヤ?』と心のなかで叫んだときは、明らかにまだ、ルージンにたいする勝利感に酔って意気揚々とし、挑戦的な、ある表面だけの興奮状態にあったのにちがいない。ところが、不思議なことが起こった。カペルナウーモフの家まで来たとき、彼は急激な無力感と恐怖を覚えたのである。『リザヴェータの下手人の名前を、どうしても教えなければならないのだろうか?』こういう奇妙な疑問をいだきながら、彼は思案にくれてドアの前に立ちどまった。この疑問は確かに奇妙な疑問だった。というのは、同時になんだか急に、これを言わないわけにいかないばかりか、たとえ一時でもそれを延ばすわけにもいかないような気がしたからである。だが、なぜできないのかは、彼にもまだわからなかった。ただそう|感じた《ヽヽヽ》だけなのだが、この必然性にたいして自分は無力だというこの悩ましい意識に彼はほとんど圧倒されてしまった感じだった。彼はもうとやかく考えたり思い悩んだりしてもしかたがないと思って、手早くドアをあけて、敷居の上に立って目をやると、そこにソーニャがいた。ソーニャは小さなテーブルにひじを突き、両手で顔をおおって、腰をおろしていたが、ラスコーリニコフに気づくと、彼を待ちかねていたかのように、急いで立ちあがって、彼を迎えに出た。
「あのときあなたがいらっしゃらなかったら、わたしどうなっていたかしら!」と、彼女は部屋の真ん中辺で彼と顔をあわせたとき、早口にそう言った。明らかに、彼女はこれだけは一刻も早く言いたかったらしい。彼を待っていたのもそのためだったのだ。
ラスコーリニコフはテーブルのほうへ歩いていって、ソーニャが今立って来たばかりの椅子に腰をかけた。そして、彼女は、きのうとまったくおなじように、彼の前、二歩ばかりのところに立った。
「どうだね、ソーニャ?」と彼は言ったとたんに、自分の声が震えているのに気がついた。「事はすべて、『社会的境遇とそれにともなう慣習』次第なんだ。君にもさっきそれがわかったろう?」
彼女の顔に苦悩の色があらわれた。
「ただわたしにきのうのようなことは言わないで!」と彼女は相手をさえぎって言った。「どうか、もうあんな話は始めないでね。このままでも苦しいことはたくさんあるんですから……」
彼女は、ひょっとして、こんななじるようなことを言って相手の気にさわりはしなかったろうかと思い、はっとして、急いで笑顔をつくった。
「わたし、ばかなもんだからあそこから逃げ帰ったりしてしまって。あそこは今どうなっていますかしら? すぐまた行って見ようとも思ったんだけど、今にも……あなたがいらっしゃりそうな気がしたもんですから」
彼が彼女に、アマリヤがたち退きを迫っていたことや、カテリーナが『真実をさがしに』どことも知れず飛び出していったことなどを話すと、
「まあ、大変!」とソーニャは叫んだ。「早く行きましょう……」
こう言って彼女は自分のケープをつかんだ。
「君は相変わらずだなあ!」とラスコーリニコフはいら立たしげに叫んだ。「君の頭には、あの人たちのことしかないのかね! 少しは僕といっしょにいたっていいじゃないか」
「でも……おかあさんが?」
「カテリーナさんなら、そりゃむろん、家を出ていった以上、君のところへ寄りつかないはずはないから、ほうっておいても君のところへやって来るよ」と彼は不服そうに言い足した。「そのとき君が家にいなかったら、悪いじゃないか……」
ソーニャは悩ましそうに思いまどいながら椅子に腰をおろした。ラスコーリニコフは黙って、ゆかを見つめたまま、なにやら思いをこらしていた。
「ルージンのやつに今度はそんな気はなかったからよかったようなものの」と、彼はソーニャを見ないようにして、こんなことを言い出した。「もしかりにそんな気になったら、それにどういう形でかそれが計画のなかにはいっていたとしたら、君はあいつに監獄へぶちこまれたかもしれないぜ、僕とレベズャートニコフさんがあそこにいあわせなかったらさ! そうだろう?」
「そうねえ」と彼女は弱々しい声で言い、「そうねえ!」と、気が散ってそわそわしながらそうくり返した。
「だって僕は実際あそこにいあわせなかったかもしれないんだからね! レベズャートニコフさんにいたっちゃ、それこそまったく偶然にひょっこり現われたんだものな」
ソーニャはおし黙っていた。
「もし監獄へでもぶちこまれたとしたら、そのときはどうなったと思う? 僕がきのう言ったことを覚えているだろう?」
彼女はまたもや返事をしなかった。相手は返事をしばらく待っていた。
「僕は、また君が『そんな話はしないで下さい、やめて下さい!』なんてどなるかと思ったよ」と言ってラスコーリニコフは笑い出したが、なんとなく作り笑いのように見えた。「どうしたんだね、まただんまりかね?」と彼はしばらくしてから聞いた。「だってなにか話をしないわけにはいかないだろう? 僕にはね、レベズャートニコフさんのいう『問題』なるものを君だったらどう解決するか、それが知りたくてたまらないんだよ(彼はどうやらそろそろしどろもどろになって来たようだった)。いや、僕は実際まじめに言っているんだぜ。ま、こういうことを想像してごらん、ソーニャ、ま、かりに君にルージンの企みが前からすっかりわかっていて、その企みのためにカテリーナさんが、それに子供たちまで、それからおまけに君も(というのは、君は自分のことはまるで眼中にないから、それで|おまけに《ヽヽヽヽ》ということになるんだが)破滅させられるとわかっている(それも確実に)としたらどうだろう。ポーリャも同様さ……あの子だっておなじ道をたどるにきまっているからね。ま、そんなわけで、かりに突然こういう問題がぜんぶ君の決定にまかされて、この世に彼と彼女たちとどっちが生きるべきか、つまりルージンが生きのびて汚いことばかりやっているべきか、そしてカテリーナさんは死ぬべきかということになったとしたら、あなたはどういうふうに解決するかね、どっちが死ぬべきだと思う? 僕はそれが聞きたいんだ」
ソーニャは不安そうに相手の顔を見つめた。彼女には、この、遠くからなにかを求めて忍び寄って来るような不安定な話のなかになにやら特殊なものが感じとれたからである。
「わたしもう前から、あなたがなにかそういうことをお聞きになるんじゃないかという予感がしていたわ」と彼女はさぐるように相手を見ながら言った。
「そうかね。ま、いいさ。それにしても、どういうふうに解決するのかね?」
「どうしてあなたはそんなありえないようなことをお聞きになるんですの?」とソーニャはいやでたまらないといった調子で言った。
「それじゃつまり、ルージンが生きのびて汚いことばかりやっていたほうがいいって言うのかね? 君にはそんなことをすら解決する勇気もないのかね?」
「神さまの御心はわかりませんもの……それにあなたはなんのために、そんな聞いちゃいけないようなことをお聞きになるの? そんなつまらないことを聞いてなんにするんですの? わたしの決定次第でどうにでもなるというような、そんなことが起こるわけはないじゃありませんか? わたしはだれにも、だれは生きるべきで、だれは生きるべきではないというようなことを決める審判者にされたわけじゃないでしょう」
「神の御心なんかがはいりこんで来ちゃ、もうどうしようもないね」とラスコーリニコフは不機嫌そうにつぶやいた。
「それより、率直におっしゃいな、あなたはなにを必要としているのか!」と、ソーニャは苦しそうに叫んだ。「あなたはまたなにかに話を持っていこうとしているんだわ……いったいあなたはただわたしを苦しめるためにここへいらしったんですの!」
彼女はこらえきれなくなって、急に激しく泣き出した。ラスコーリニコフは暗いわびしい気持ちで彼女を見つめていた。が、五分もたつと、
「確かに君の言うとおりだよ、ソーニャ」と彼はついに静かに口をひらいた。彼はまるで人が変わってしまっていた。取ってつけたような人を食った調子も、迫力のない挑戦的な調子も消えうせてしまっていた。声まで急に力がなくなっていた。「僕はこの口できのう、許しを乞いに来るわけじゃないって言ったけど、ほとんど許しを乞うているような調子で話を切り出しちまったね……僕がルージンのことだの神の御心のことなんか言ったのは、あれは自分のために言ったんだ……あれは許しを乞うていたわけなんだよ、ソーニャ……」
彼は笑いかけそうにしたが、その青ざめた微笑にはなにか力のない、中途半端な調子が出ていた。彼は首を垂れて顔を両手でおおった。
とにわかに、奇怪な、思いがけない、ソーニャにたいするなにか突きさすような憎しみの感じが彼の心にひらめいた。彼はまるでこの感じにわれながらぎょっとしたように、ひょいと頭をあげて彼女の顔を見た。が、しかし彼は自分の上にそそがれている彼女の苦しいまでに彼を気づかっている不安そうな視線に出くわした。そこにあったのは愛情だった。彼の憎しみは幻のように消えうせてしまった。それは別のものだったのだ。彼はひとつの感情を他の感情と思いちがいしていたのだ。それは、|例の《ヽヽ》瞬間が訪れたことを意味していたにすぎなかったのである。
またもや彼は両手で顔をおおって、首を垂れた。突然彼は真っ青になって椅子から立ちあがると、ソーニャを見、なんにも言わずに、機械的に彼女のベッドに席を移した。
この瞬間は、彼の感じでは、自分が老婆の背後に立って、すでに輪から斧をはずして、『もうこれ以上一瞬も猶予《ゆうよ》はならんぞ』と感じたときのあの瞬間におそろしく似ていた。
「どうなすったんですの?」とソーニャはすっかりおびえきって聞いた。
ラスコーリニコフはひと言も口がきけなかった。彼はこんな告白《ヽヽ》のしかたをしようとはそれこそまるっきり予想さえしていなかっただけに、自分が今どういうことになっているのか、自分にもよくわからなかった。彼女はそうっと彼のそばへ来て、ベッドに並んで腰をかけて、相手から目をはなさずに、待っていた。彼女の心臓は激しく鼓動して、今にもとまりそうだった。二人はもはやどうにもやりきれなくなった。彼は死人のように青ざめた顔を彼女のほうへ振り向けた。その唇は、なにか言い出そうとする努力に力なくゆがんだ。ソーニャの胸を恐怖がはせすぎた。
「どうなすったの?」と、彼女は心もち相手から身を引いて、もう一度そう言った。
「なんでもないんだよ、ソーニャ。怖がることはないよ……くだらないことなんだ! よくよく考えてみれば、まったくくだらないことなんだ」と、熱に浮かされて意識がなくなった人のような顔つきで、そうつぶやき、「なんだって僕は君だけを苦しめに来たんだろう?」と、相手を見つめながら、そう言い足した。「まったくの話。なぜだろう? 僕はずうっとこう自分に問いつづけているんだよ、ソーニャ……」
彼は、あるいは十五分前にはそう自分に問いかけていたかもしれないが、今は体が完全に萎えはてた感じで、ほとんど自分を意識せず、体じゅう絶えまなく震えているのを感じながら、うわの空でそう言ったのだった。
「まあ、あなたはずいぶん苦しんでいらっしゃるのね!」と彼女は相手の顔に見入りながら、辛そうにそう言った。
「なにもかもくだらんことさ! ……実はこういうことなんだよ、ソーニャ(彼はふとどうしたことか、妙に青白い力ない顔つきで、二、三秒笑ってみせた)、――君は、僕がきのう言おうとしていたことを覚えているかね?」
ソーニャは不安そうに待っていた。
「僕は帰りしなにこう言ったろう、事によったらこれが永久の別れになるかもしれないが、もしあした来るようなことがあったら、君に……だれがリザヴェータを殺したか教えてやるって」
彼女は急に体じゅうぶるぶる震え出した。
「ね、だからこうしてそれを教えに来たんだ」
「それじゃあなたはほんとうにきのう……」と彼女はやっとのことでささやくように言って、「どうしてあなたはご存じなんですの?」と、まるで突然われに返ったように、早口に聞いた。
ソーニャは苦しげな息づかいになり、その顔はますます青ざめてきた。
「知ってるんだ」
彼女はちょっと口をつぐんでから、
「|その人《ヽヽヽ》を見つけたんですの?」とこわごわ聞いた。
「いや、見つけたんじゃない」
「それじゃどうしてあなたは|そのこと《ヽヽヽヽ》をご存じなの?」と、彼女はまたもやほとんど一分ほど口をつぐんでから、やっと聞こえるくらいの声で聞いた。
ラスコーリニコフは彼女のほうにくるりと振り向くと、じっと穴のあくほど相手の顔を見つめた。
「あててごらん」と、彼はさっきとおなじゆがんだ力ない微笑を浮かべてそう言った。
彼女は体じゅうをけいれんが走るのを覚えた。
「あなたは……わたしを……どうしてあなたはわたしをそんなに……びっくりさせるんですの?」と、彼女は幼な子のような微笑を浮かべながら言った。
「つまり、僕は|その男《ヽヽヽ》と大の仲よしということになるわけさ……知っている以上は」とこうラスコーリニコフは語をついだが、その間もしつこいくらい相手の顔に目をこらしていて、まるでもう目をそらせなくなったかと思われるくらいだった。「その男はあのリザヴェータを殺す気はなかったんだ……その男はあの女を思わず殺しちまったんだよ……その男は婆さんのほうを殺すつもりだったんだ……ひとりでいたところを……そして出かけていったわけだ……ところが、そこへリザヴェータがはいって来た……それでその男は……リザヴェータまで殺してしまったわけだ」
さらに恐ろしい一分が過ぎた。二人はなおもたがいに顔を見あっていた。
「これでもまだ見当がつかないかね?」急に彼は、鐘楼からでも飛びおりるような気持ちで、そう聞いた。
「つ、つかないわ」彼女はやっと聞こえるくらいの声でささやいた。
「ようく見てごらん」
こう言ったとたんに、またしてもある身に覚えのある感覚に彼の心はみるみる凍っていくような気持ちがした。相手の顔を見つめているうちに、突然その顔にリザヴェータの顔を見たような気がしたからである。彼の目に、自分が斧を持ってリザヴェータのほうへにじり寄っていったときの彼女の顔の表情がまざまざと思い浮かんだのである。あのとき彼女は手を前へ突き出して、顔にはまったく子供のような驚きの表情を見せて、壁のほうへあとずさっていったのだった。その驚きの表情は、ちょうど小さな子供が急になにかにおびえ出して、自分がおびえているものをじっと不安げに見つめながらあとずさりし、小さな手を前へのばしながら今にも泣き出しそうにしているときのあの表情にそっくりだった。今ソーニャにもあれとほとんどおなじことが起こったのである。おなじように気力が失せ、おなじような驚きをあらわして、彼女はしばらく彼を見つめていたかと思うと、不意に、左手を前へ突き出し、男の胸に指さきを軽く微かに触れてそれで体を支えるようにして、寝台からおもむろに腰をあげながら次第に相手から身を遠ざけはじめたのだ。しかも、相手にそそがれたその目はますます動かなくなってきた。と突然、彼女の恐怖が相手にも伝わった。まったくおなじ驚きの色が彼の顔にも現われ、まったくおなじような目つきで彼も相手を見つめはじめ、しかもほとんどおなじような|子供のような《ヽヽヽヽヽヽ》微笑まで浮かべていた。
「見当がついたろう?」と、彼はあげくの果てにそうささやいた。
「ああ!」というおそろしい悲鳴が彼女の胸からほとばしり出た。彼女は顔を枕に埋めて、ベッドの上にぐったりと倒れてしまった。が、つぎの瞬間にはすばやく体を起こして、彼のほうへ身を寄せ、相手の両手をつかんで、まるで締め木にでもかけるように、それを細い指でぎゅっと握りしめ、またもやじっと、食い入るように相手の顔を見つめ出した。彼女はこの最後の、死にもの狂いの凝視でなにか自分にとって最後の希望のかけらでもいいから見つけ出し、とらえようと思ったのである。だが、希望はなかった。もはや疑問の余地は一切なかった。なにもかも|そのとおり《ヽヽヽヽヽ》だったのだ。その後、あとあとまでも、このときのことを思いおこすたびに、彼女は、それこそどうしてあのときあんなに|いっぺん《ヽヽヽヽ》に、もはや疑問の余地は一切ないとわかったのだろうと、不思議にも、奇怪にも感じられたものである。たとえば、彼女には、自分はなにかそういった予感がしていたなどと言えたろうか? ところが、このとき、彼にこう言われたとたんに、彼女は急に、実際に自分は前から|このこと《ヽヽヽヽ》をまるで予感していたような気がしたのである。
「もういいよ、ソーニャ、たくさんだ! 僕を苦しめないでくれ!」と、彼は悶えるようにして頼んだ。
彼は彼女にまさかこんなうち明け方をしようとはそれこそ全然思っていなかったのに、結果は|こんなふうに《ヽヽヽヽヽヽ》なってしまったのである。
彼女はわれを忘れたようにぱっと立ちあがると、両手をもみしだきながら部屋の中央まで歩いていったが、足早にもどって来ると、またほとんど肩と肩がふれあうくらい近い所に並んで腰かけた。と突然、彼女はまるで刺し貫かれでもしたようにぶるっと身震いしたかと思うと、ひと声絶叫して、自分でもなんのためともわからずに、彼の前に身を投げるようにしてひざまずいた。
「あなたはなんてことを、いったいなんてことをご自分にたいしてなすったんですの!」と彼女は絶望したような調子でそう言うと、ぱっと立ちあがって、男の首にしがみつき、男を抱いて、両手でかたくかたく相手を抱きしめた。
ラスコーリニコフはちょっとよろけて、悲しそうな微笑を浮かべながら相手を見つめた。
「君はまったく変わってるね、ソーニャ、――僕は君に|あのこと《ヽヽヽヽ》を白状したのに、君は抱いたり接吻したりするなんて。君は今うわの空なんだろう」
「そうだわ、今世界じゅうであんたより不幸な人はひとりもいないわ!」と、彼女は相手の言葉も耳にはいらずに、気ちがいのようになってそう叫ぶと、とたんにヒステリーでも起こしたように、すすり泣きはじめた。
もうずいぶん久しいこと味わったことのない感情が彼の胸に波のように押し寄せて、一挙に彼の心をやわらげてしまった。彼はその感情に逆らおうとはしなかった。涙がふたしずく彼の両の目からこぼれ出て、まつ毛に宿った。
「じゃ、君は僕を見捨てないわけだね、ソーニャ?」と彼はほとんど希望に近いものを覚えて彼女を眺めながらそう言った。
「ええ、ええ、けっして、どこへ行こうと!」とソーニャは叫んだ。「わたし、あんたについて行くわ、どこまでもついて行くわ! おお、神さま! ……ああ、わたしは不幸な女だわ!……どうして、どうしてわたしはもっと早くあんたを知らなかったのかしら! どうしてあんたはもっと早く来て下さらなかったの? おお、神さま!」
「だから、こうして来たんじゃないか」
「今頃? まあ、今となってはもうどうにもならないわ! ……いっしょに、いっしょに!」と彼女はわれを忘れたようにこうくり返して、ふたたび彼を抱いた。「あんたといっしょに、懲役にだって行くわ!」彼は不意にぴくりと身を震わせた。そして、最初とおなじ、憎悪に満ちた、ほとんど見下したような微笑がその唇にあらわれた。
「僕はね、ソーニャ、まだ懲役になんか行く気はないかもしれないよ」と彼は言った。
ソーニャはすばやく相手の顔を見た。
不幸な男にたいする最初の熱烈な苦しいほどの同情が過ぎ去り、彼女はまた人殺しという恐ろしい考えにはっと胸を突かれた。がらりと変わった彼の語調に彼女は突然人殺しの声を聞いたような気がしたのだ。彼女はぎょっとして相手の顔を見た。彼女にはまだ、その人殺しがなぜおこなわれたかも、どういうふうに、なんのためにおこなわれたかも、わかっていなかった。で、今こういった疑問が彼女の意識のなかに一時にわきおこった。そしてまたもや彼女はそれが信じられなくなった。『この人が、この人が人殺しだなんて! いったいそんなことあるのかしら?』
「これはどうしたことなんだろう! わたし、ぽうとしてどこにいるかもわからないくらいだわ!」と、彼女はそう口走りながらも、ふかい疑惑におちいって、まるでまだ自分が取りもどせないような様子だった。「いったいどうしてあなたが、あなた|のような人が《ヽヽヽヽヽヽ》……そんなことを思いきってやる気になれたのかしら? ……これはどうしたことなんでしょう」
「いやなあに、物を盗《と》ろうと思ったのさ。もうよしてくれ、ソーニャ!」彼はなにか疲れたような、腹だたしげにさえ見える調子でそう答えた。
ソーニャは茫然と立っていたが、急にこう叫んだ。
「あんたは餓えていたんでしょう! あんたは……おかあさんを助けたいと思ったんでしょう? そうなんでしょう?」
「そうじゃないんだ、ソーニャ、ちがうんだよ」と彼はつぶやいて、顔をそむけて、うなだれた。「僕はそれほど餓えていたわけじゃないんだ……そりゃ確かにおふくろを助けたい気持ちはあったよ、だけど……それだけがぜんぶというわけでもないんだよ……僕を苦しめないでくれ、ソーニャ!」
ソーニャはぱんと両手を打ち鳴らした。
「じゃ、ほんとうに、ほんとうになにもかもそのとおりだったってわけなの? いいえ、いいえ、こんなこと、ほんとうなはずはないわ! だれにそんなことが信じられますか? ……それに、なけなしのお金を人にやってしまうようなあなたが強盗殺人を犯すなんてことがどうして、どうしてありえますか! あ!……」と彼女は不意に叫び声を発した。
「それじゃ、母に恵んでやったお金も……あのお金も……まあ、ほんとうにあのお金も……」
「ちがうよ、ソーニャ」と彼はあわててさえぎった。「あの金はそういう金じゃないよ、安心してくれ! あの金はおふくろがある商人を通じて送ってくれたものなんだ。僕はあれを病気をしている最中に受けとって、その日のうちにやってしまったんだよ……ラズーミヒンが見て知っているはずだ……あの男が僕の代理で受けとってくれたんだからね……あの金は僕のなんだ、僕自身の、正真正銘僕の金なんだよ」
ソーニャは半信半疑でそれを聞きながら、懸命になにか考えをまとめようとしていた。
「ところで、|その金《ヽヽヽ》のことだが……僕はあのなかに金があったのかどうかも知らないんだ」と、彼は物静かに、物思いにふけっているような調子でつけ加えた。「僕はあのとき婆さんの首から財布を、なめし皮の……いっぱいにぎっしり詰まった財布だったが……その財布をはずしても、なかを見ようともしなかったんだ。きっと、そんな暇はなかったんだろう……でまあ、品物は、なにか飾りボタンだのくさりだのばかりだったけど、――その品物と財布は残らずそのあくる朝V大通りのよその裏庭にあった石の下へかくしちまったんだ……今でもぜんぶあそこにあるはずだ……」
ソーニャは一生懸命話を聞いていた。
「そんならなぜ……どうして物を盗るためだったなんて言ったの、そのくせ自分はなんにも盗らなかったじゃないの?」と彼女は一本の藁《わら》にでもすがりたい気持ちで、そう早口にたずねた。
「わからないね……僕は――盗るか盗らないか、まだきめていなかったんだ」と、彼はまた物思いにふけるような様子で、そうつぶやいたかと思うと、急に、はっとわれに返って、にやっとつかの間、薄笑いを浮かべた。「ちぇっ、僕は今なんてばかげたことを言ったもんだろうね、え?」
ソーニャの頭に、『この人は気ちがいじゃないのかしら?』という考えがちらっとひらめきかけたが、すぐに、いや、これには別に原因があるんだと思って、すぐにその考えを捨ててしまった。彼女にはこうなってみるとさっぱり、それこそさっぱりわけがわからなかったのだ!
「ねえ、ソーニャ」と彼は一種の感激をこめてこう言い、「ねえ、僕はこう言いたいよ、これがかりに自分が餓えていたために人殺しをしたんだったら」と、一語一語力をこめて、謎めいた、だが真剣な目つきで相手を見つめながら語をついだ。「僕は今……幸福《ヽヽ》だったはずだってね! こいつを胆に銘じていてもらいたいんだ!」
「君にはなんの関係もありゃしない。なんの関係もありゃしないんだ」と、そのすぐあとで彼は一種絶望的な調子さえひびかせながら叫んだ。「僕が今、悪いことをしたと白状したところで、君にとってそれがなんの関係があるんだ? こんな自分にたいする勝利なんか、君になんの関係がある? ああ、ソーニャ、僕は今こんなことをしに君のところへ来たわけじゃないんだ!」
ソーニャはまたなにか言いそうにしたが、黙ってしまった。
「僕がきのういっしょに行こうと言ったのは、僕にはもう君ひとりしかいなかったからなんだ」
「どこへ行こうと言うの?」とソーニャはおずおず尋ねた。
「物を盗りに行こうというんでもなければ人殺しをしに行こうというんでもないから安心しなよ、そんなことのためじゃないんだ」と彼は言ってにやりと皮肉な笑いを洩らした。「どうせ二人は人間がちがうんだからな……ねえ、ソーニャ、今になってやっと、たった今やっと、きのう僕は君を|どこへ《ヽヽヽ》誘ったのかわかったよ。きのう誘ったときは、自分にもどこへ行こうとしているのかわからなかったけどね。行こうと誘ったのも、ここへこうして来たのも、ただひとつ僕を見捨てないでもらいたいと思ったからなんだ。見捨てやしないかい、ソーニャ?」
彼女は相手の手をぎゅっと握りしめた。
「いったいどうして、どうしておれは言ってしまったのだろう、どうしてうち明けてしまったのだろう!」と彼は尽きない懊悩《おうのう》に満ちた目で相手を見ながら、しばらくして絶望にかられて絶叫した。「君はそうやって僕の説明を待っているんだろう、ソーニャ、坐って待っているんだろう、僕にはそれがわかるんだ。だけど、僕は君になにを言ったらいいんだ? 君にはどうせこういうことはなんにもわかりゃしないんだ、ただもう苦しむばかりじゃないか……僕のことで! ほら、そうやって君は泣きながら、また僕を抱きしめる、――いったいなぜ君は僕を抱きしめるんだ? まさか僕が自分でも耐えられなくなって、『君も悩んでくれ、そうすれば僕は気が軽くなるから!』なんて言って、他人に苦しみを背負わせに来たからでもあるまい。君はこんな卑劣な男が好きになれるのかね?」
「あなただってやはり苦しんでいるじゃないの?」とソーニャは叫んだ。
またもやさっきとおなじ感情が波のように彼の心におし寄せて、またもや一瞬心がやわらげられた。
「ソーニャ、僕は根性がひねくれているんだ、君はこれを記憶にとどめるがいい。たいていのことはこれで説明がつくから。僕がこうしてやって来たのも、ひねくれているからだよ。やって来ない者だっているんだからね。ところが、僕は臆病者で……卑劣な男なんだ! しかし……こんなことはどうでもいい! 見当ちがいなことばかり言っている……今話しておかなければならないことがあるのに、切り出すことができないんだ……」
彼は言いやめて、考えこんだ。
「えいくそ、どうせ二人はできのちがう人間なんだ!」と彼はふたたび叫んだ。「つりあう相手じゃないんだ。いったいどうして、どうしておれは出かけて来たんだ! こいつばかりは絶対に許せないぞ!」
「いいえ、いいえ、これはいいことだったのよ、来て下さったってことは!」とソーニャは叫んだ。「わたしが知ったほうがいいのよ! ずっといいのよ!」
彼は苦痛を顔に表わして相手を見た。
「それがほんとうにそうだとしたって、どうってこともありゃしない!」と、彼は決心がついたといった様子でこう言った。「あれはそのとおりだったじゃないか! つまりこういうことなんだ。僕はナポレオンになりたくて、それで人殺しをしたんだよ……どうだ、今度はわかったかい?」
「い、いえ」と、ソーニャは無邪気な、おどおどした調子でこう言った。「でも、話してちょうだい、話してちょうだい! わたし、わかるわ、|心のなかで《ヽヽヽヽヽ》ぜんぶわかってみせるわ!」と彼女は彼にせがんだ。
「わかってくれる? そうか、よし、じゃ、やってみよう!」
彼はおし黙って長いこと考えをこらしていた。
「実はこういうわけなんだ。あるとき僕は自分にこういう問題を出したことがある。たとえば、かりにナポレオンが僕の立場にあって、出世の道をきり開こうというのに、トゥーロンも、エジプト遠征も、モンブラン越えもなくて、そういったすばらしい金字塔的事件のかわりになるものとしてはただ、ある滑稽な婆さん、十四等官の後家さんがひとりいるきりで、その上おまけに、婆さんの長持ちから金を盗み出すには(立身出世のためにだよ、いいかい?)そいつを殺さなければならないとしたらだね、それにもしほかに手がないとしたら、ナポレオンはそれを決行したろうか? それがあまりにも金字塔的な大事業じゃないし、それに……それに罪ぶかいことだというんでしりごみしなかったろうか? という問題をね。ま、僕は白状するが、僕はこの『問題』にずいぶん長いこと悩んだものだった。ま、そんなわけで、あげくのはてに、ナポレオンならしりごみなどしなかったばかりか、こんなことは金字塔的な事業じゃないというような考えすら頭に浮かばないだろう、こんなことでなにをしりごみすることがあるのか、それすらまるで理解できないにちがいないと(ふとしたひょうしに)こう思いあたったときには、むしょうに恥ずかしかったくらいだ。もしほかに打開の道がないとしたら、全然考えこんだりせずに、有無をいわさず絞め殺しちまったにちがいないとこう思った! ……そこで僕も……考えこむことをよして……権威にならって……殺してしまったんだ……正真正銘このとおりだったんだよ! おかしいかい? そうだ、ソーニャ、この場合、まさにこのとおりだったのかもしれないってことがいちばん滑稽なんだ……」
ソーニャはいっこうに滑稽だとは思わなかった。
「もっとぶっつけ話して下さいな……たとえ話はぬきにして」と彼女はなおいっそうおどおどと、やっと聞こえるくらいの声で頼んだ。
彼は彼女のほうへ向きなおって、悲しげに相手の顔を見つめ、相手の手をとった。
「これまた君の言うとおりだよ、ソーニャ。今言ったことはぜんぶくだらんことで、単なるおしゃべりと言ってもいいくらいだ! 実はね、君も知ってのとおり、僕のおふくろはほとんど無一物なんだ。妹はたまたま教育を受けていたもんだから、あちこち家庭教師をしてまわることになった。で、二人はありったけの希望を僕にかけたわけだ。僕は通学していたけど、大学をつづけられなくて、一時退学しなければならなくなった。これでもしあのままつづけていたとしたら、あるいは、十年か十二年もすれば(事情が好転したときは)、僕もどこかの教師か官吏にでもなって、千ルーブリくらいの年俸はもらえたかもしれない……(彼の話しぶりはそらんじたことを復唱しているような調子だった)だけど、その頃までにおふくろは気苦労と悲しみにやせ衰えてしまい、僕はやっぱりおふくろを安心させるわけにはいかない、それに妹は……そうだ、妹のほうはもっとまずいことが起こるかもしれない! ……だとしたら、一生涯あらゆるものを避けて通り、あらゆるものから顔をそむけて暮らし、母親のことを忘れ、たとえば妹の恥も忍びとおすなんて、まったく酔狂な話じゃないか? それもなんのために? 二人を葬って、新しい家族――つまり妻子をもうけ、あとでまた文無しのまま、ひときれのパンもなしに妻子を残していくためじゃないか?そこで……そこでこう僕は決心したわけだ、婆さんの金を横領して、それを最初の何年かの生活費に使っておふくろを苦労させないようにし、大学生活を確保した上、卒業後社会へ第一歩を踏み出す費用にもあて、――しかもこういったことを大々的に徹底的にやりとげて、新しい出世の道を完全に切りひらいて、新しい道に出ようとね……まあ……まあ、こんなところだ……そりゃいうまでもないさ、僕が婆さんを殺したってことがいけないことだったってことはね……しかし、もうたくさんだよ!」
なにか元気のない調子でやっと話を最後までこぎつけると、彼はうなだれてしまった。
「あら、そんなことないわ、そんなことないわ」とソーニャは切なそうに叫んだ。「そんなことがあってたまるもんですか……いいえ、そうじゃないわ、そうじゃないわ!」
「君は、そうじゃないと思っているんだね! ……だけど、僕は本気で話したんだぜ、ありのままを!」
「それがありのままなもんですか! おお、神さま!」
「僕はただ、しらみを殺しただけなんだよ、ソーニャ、有害無益な、けがらわしいしらみを」
「まあ、人間なのにしらみだなんて!」
「しらみじゃないってことぐらい僕だって知ってるさ」と彼は変な目つきで相手を見ながら答え、「それにしても僕はでたらめを言っているね、ソーニャ」と言いそえた。「もうだいぶ前からでたらめばかり言っているんだ……今言ったことはみんなちがうんだ。君の言うとおりだよ。これにはまったく、まったく、まったく別な原因があるんだ! ……僕はもうだいぶだれとも話をしていないんでね、ソーニャ……僕は今やけに頭が痛いんだ……」
彼の目は熱病患者のようにかっかと燃えていた。彼はほとんど熱に浮かされそうになり、落ちつきのない微笑が唇の上にさまよっていた。興奮した気分の合い間に早くもはなはだしい意気|銷沈《しょうちん》が見られた。彼がどんなに悩んでいるか、ソーニャにはよくわかった。彼女もめまいを覚え出していた。彼の話しぶりも変だった。なにかわかるような気もするが、……『でも、どうなのかしら! どうなるかしら! おお、神さま!』そして絶望にかられて彼女は両手をもみしだくのだった。
「いや、ソーニャ、それはちがうんだよ!」と彼は急に頭をあげて、また言い出したが、その様子はまるで考えの思わぬ急変に激しい衝撃を覚え、ふたたび元気を取りもどしたようなふうだった。「それはちがうんだ! それより……こう思ってくれたほうがいい(そうだ! ほんとうにこのほうがいいんだ!)、僕はうぬぼれが強くて、ねたみ屋で、根性が曲がっていて、いやらしい、執念ぶかい男で、そう……それに、事によると、その上気ちがいの傾向のある男だというふうに思ってくれたほうがいい(こうなったらもうなにもかもひとまとめにしちまえ!気ちがいだとは前から人に言われていたよ、僕も気がついていたんだ!)。僕は君にさっきこう言ったね、大学がつづけられなかったって。だけどね、君、あるいはつづけられたかもしれないんだよ。大学へ納めるべき金くらいはおふくろが送ってくれたんだし、靴だの服だのパンの費用などは自分で、きっと稼げたろうしさ!家庭教師の口もちょいちょいあって、一回五十コペイカよこすという話もあったんだからね。ラズーミヒンだって働いているんだからね! ところが、僕はかんしゃくを起こして、働こうとしなかったんだ。まさしく|かんしゃくを起こした《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》わけだよ(こいつはいいせりふだ!)。僕はそのとき、くもみたいに、自分の巣にこもってしまった。君は僕の犬小屋みたいな小部屋へ来たことがあるから、見てわかっているだろう……君も知っているだろうけどね、ソーニャ、天井の低い狭い部屋ってものは人の気持ちや頭まで圧迫するものなんだよ! いや、僕はあの部屋をどんなに憎んだかしれない! それでいて、やっぱりあの部屋から出る気にならなかったんだ。わざと出る気にならなかったのさ! 夜昼毎日外へ出もしなければ、働く気もなく、それどころか物を食べる気もなく、始終寝てばかりいた。ナスターシヤが持って来てくれれば――食べるし、持って来てくれなければ――そのまま一日過ごしてしまうといった調子で、わざと意地を張って頼まなかったんだ! 夜、明かりがなければ、暗闇のなかに寝たっきりで、ろうそく代も稼ごうとはしなかった。勉強しなければならなかったのに、本も売っぱらってしまったし、僕の机の上の手帳だのノートの上には今でも埃が厚くつもっているくらいだ。僕はどちらかといえば好んで寝て考えごとをしているほうだった。だから、のべつ考えてばかりいたね……それに、いつも夢ばかり見ていた、変な、いろんな夢をね、話にもならないような夢を! ところが、その頃からそろそろこんなことが頭に浮かびはじめたんだ……いや、ちがう! またまちがったことを話しはじめたぞ! 実はこうなんだ。僕はその頃しょっちゅうこう自分に問いかけていた。おれはどうしてこうばかなんだろう、もしほかの者がばかで、連中がばかだと確実にわかっているんなら、どうして自分はもっと利口になろうとしないんだろうとね。その後僕はこう悟ったんだ、ソーニャ、もしこれでみんなが利口になるときを待っていたら、時間が長くかかりすぎちまうだろうとね……その後僕はさらにこう悟ったんだ、そういうときはけっして来ないだろう、人間は変わらないし、人間を改造するなんてだれにもできることじゃない、そんなことに労力を費す値打ちはないとね! そうだ、そのとおりなんだよ! それが人間の法則なんだ……法則なんだよ、ソーニャ! それはそうなんだ! ……そして僕は今やこういうことを知ったんだ、ソーニャ、頭脳と精神が堅固で強靭な者は人間を支配する主権者なのだ! 多くを敢然となしとげる者は人間の間で正しいということになるのだ。より多くのものを無視できる者は人間のもとでは立法者となり、だれよりも多くのものを敢然となしとげうる者はだれよりも正しいことになるのだとね。これまでもそうだったし、今後もつねにそうなんだ! めくらにはその見わけがつかないだけなんだと!」
ラスコーリニコフはこういう話をしている間、ソーニャを見てはいたけれども、もはや、相手にわかろうが、わかるまいが、そんなことは気にしていなかった。彼は激しい情熱にとりつかれてしまっていたのである。彼は一種の暗い歓喜に酔っていたのだ(事実、彼はあまりにも長いことだれとも口をきいたことがなかったのである!)。ソーニャには、この暗い信条が彼の信仰とも法則ともなったのだということがわかった。
「僕はそのとき思いあたったんだ、ソーニャ」と彼は歓喜の口調で語をついだ。「権力は、あえて身をかがめてそれを拾いあげる者にしか授からないんだということに。ここで重要なのはたったひとつ、それを敢行すればよいということだけなんだ! そのとき僕の頭に初めてある考えが浮かんだのだ、僕以前にはだれひとりただの一度も思いついたこともないような考えが! だれひとりね! すると突然僕の目にこういうことが太陽のようにはっきりと見えて来た、いったいどうしてこれまでただのひとりとして、こういったいろんな不合理な現象のそばを通りすぎながら、ただ単にあえてその尻尾をつかんで投げ捨てる者もいなかったし、今もいないのだろうということが! そこで僕は……|僕は思いきって《ヽヽヽヽヽヽヽ》断行しようと思い、そして殺してしまったのだ……僕はただ思いきって断行する気になっただけのことなんだよ、ソーニャ、これがその原因のすべてなんだよ!」
「ああ、もう言わないで、もう言わないで!」とソーニャは両手をぱんと打ち鳴らして叫んだ。「あなたは神さまから離れてしまったんで、神さまにうちのめされて、悪魔に引き渡されてしまったんだわ!……」
「ついでだけど、ソーニャ、僕は暗いところに寝ている間、これは悪魔にまどわされているんじゃなかろうかという考えがしょっちゅう頭に浮かんだものだったが、それじゃあのときがそうだったのかね? え?」
「お黙んなさい! ひやかすのはやめてちょうだい、神さまを誹謗《ひぼう》したりして、あなたはなんにも、なんにもわかっちゃいないんですよ! 困ったものだわ! この人はなんにも、なんにもわかっちゃいない!」
「お黙り、ソーニャ、僕は全然ひやかしてなんかいないよ、悪魔にそそのかされたんだってことは自分にだってわかっているんだ。黙っていてくれ、ソーニャ、黙っていてくれ!」と彼は陰鬱《いんうつ》な調子でしつこくそうくり返した。「僕はなんでもわかってるんだ。こんなことはみんな、もうすでに、暗闇のなかに寝ころびながら、さんざん考えぬいて、さんざん自分にささやいたことなんだ……こんなことはみんな、さんざん自分相手に議論したことなんだ、最後の微細な点にいたるまで。だからなにもかもわかっているんだよ、なにもかも! そしてそのとき、僕はそんなふうに駄弁を弄《ろう》しているのがほんとにあきあきしちゃったんだよ、ほんとにうんざりしちゃったんだ! で、僕は一切を忘れて、出なおしたいと思ったんだよ、ソーニャ、そして駄弁を弄するのはもうやめにしようと思ったんだ! 君はまさか、僕はばかみたいにむこうみずなことをしでかしたなんて思っているんじゃあるまいね? 僕は知恵ある男として行動を起こし、それが僕を破滅させたんだよ! また、君はこう思っているんじゃあるまいね、たとえば、僕には権力を握る権利があるんだろうかなどと僕が自問したり念をおしたりしはじめたら、――もうそれはつまり、権力を握る権利がないことになるのだってことを僕が知らなかったのだろうなんて? あるいはまた、もし人間はしらみだろうかといったような問いを発したとすれば、もう|僕にとっては《ヽヽヽヽヽヽ》人間はしらみじゃないことになる、そしてそんな考えは頭にもはいって来ないような人間、疑問なんか抱かずにまっすぐ突進するような人間にとってのみ人間はしらみになるんだということを知らなかったなんて? 僕は、これがナポレオンだったら出かけるだろうかなどとあんなに何日も思い悩んだからには、もう、自分はナポレオンではないとはっきり意識していたんだぜ……僕はこうした空しい自問自答の苦しみにとことんまで耐えぬいたんだよ、ソーニャ、そしてそれをすっかり肩から振り落としたいと思ったんだ。僕はね、ソーニャ、是非の判断をぬきにして殺したくなったんだよ、自分のために、自分ひとりのために殺したくなったんだ! 僕はこのことじゃ自分にさえ嘘をつきたくなかったのだ! 僕はおふくろを助けるために人殺しをしたんじゃない――そんなだったらばかばかしい! 僕が人殺しをしたのは、金と権力を手に入れて、人類の恩人になるためでもない。これもばかげている!僕はただ殺したんだ。自分のため、自分ひとりだけのために殺したんであって、あとで僕がだれかの恩人になろうが、一生涯、くものように、みんなをくもの巣にひっかけて、みんなの生き血をすうことになろうが、あのときの僕にはおなじことであるべきはずだったんだ! ……だいたい、僕が人殺しをしたとき、僕に必要だったのは金じゃないんだよ、ソーニャ。金なんてほかのものほど必要じゃなかったんだ……今じゃそういうことはみんなわかっているんだ……この気持ちをわかってもらいたいね。おそらく、おなじ道を歩んだとしても、僕はもうこれっきり二度と人殺しはしないつもりだ。僕はある別なことを突きとめたかったんだ、僕はある別なことにあやつられたわけなんだ。僕はあのとき、僕はみんなみたいにしらみなのか、それとも人間なのか、突きとめたかったのだ、一刻も早く突きとめたかったのだ。僕は踏みこえることができるかどうか? 敢然と身を屈して拾いあげられるかどうか? 僕は震えおののく虫けらか、それとも権利《ヽヽ》を持っているのかを……」
「殺す権利を? 人を殺す権利を持っているかを?」ソーニャは両手をぱんと打ち鳴らしてそう叫んだ。
「ちぇっ、ソーニャ!」と彼はいらだたしげに叫んで、なにか彼女に言いかえそうとしたが、そのままさげすむように口をつぐんでしまった。「話の腰をおらないでくれよ、ソーニャ! 僕は今君にひとつだけ証明してみせたかったんだ、僕は結局あのとき悪魔に引きずられて行ったんだが、そのあとで悪魔に、お前にはあそこへ出かけていく権利はないんだ、だってお前はみんなとまったくおなじしらみじゃないかと言い聞かされたってことを! 僕は悪魔に愚弄されたわけなんだ、だからこそ僕は今こうして君のところへやって来たわけなんだ! このお客を迎え入れてくれ! 僕がしらみでなかったら、僕は君のところへなんか来るもんか。いいかね。僕があのとき婆さんのところへ出かけていったのは、ただ|試してみるために《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》行ったんだぜ……そう心得てもらいたいね!」
「そして殺したんでしょう! 殺したわけなんでしょう!」
「だけど、いったいどうやって殺したと思う?人ははたしてあんな殺し方をするものだろうか? はたして、僕があのとき殺しに行ったようなふうにして、人は殺しに行くものだろうか……僕がどうやって出かけていったかは、いずれそのうち君にも話してあげるよ……いったい僕は婆さんを殺したんだろうか? 僕は自分を殺しこそすれ、婆さんを殺したんじゃない! あのとき結局僕はひと思いに自分を殺してしまったわけだ、永久にな! ……あの婆さんを殺したのは悪魔のほうで、僕じゃないんだ……もういい、もういいよ、ソーニャ、もういいよ! 僕なんかうっちゃっといてくれ」と彼は発作的なわびしさに襲われて突然こう叫んだ。「僕なんか、ほうっといてくれ!」
彼はひざに両ひじをついて、まるで釘ぬきででも締めつけるように、自分の頭を両の手のひらで締めつけた。
「まあ、ほんとうに苦しいのねえ」という辛そうな叫び声がソーニャの口からほとばしり出た。
「さあ、そこでこれからどうしたらいいか、教えてくれ!」と彼は急に頭をもたげて、絶望に醜くゆがんだ顔をして相手を見つめながら聞いた。
「どうしたらいいかですって!」と、彼女はその場からぱっと立ちあがったかと思うと、それまで涙がいっぱいにたまっていた目がみるみる輝き出した。「お立ちなさい!(彼女が相手の肩をつかむと、相手はびっくりしたような様子で彼女を見つめながら身を起こした)今すぐ、たった今出かけていって、十字路に立って、おじぎをして、まずあんたが血でけがした大地に接吻なさい、そしてそれから全世界にむかって、四方八方に頭を下げて、みんなに聞こえるような声で、『私は人殺しをしました!』と言いなさい。そうすれば神さまがまたあんたに生命を授けて下さるわ。いらっしゃるわね? いらっしゃるわね?」彼女はまるで発作にでも襲われたように五体をぶるぶる震わせながら、相手の両手をつかんで自分の両手でぎゅっと握りしめ、火のような目で相手を見つめながら、そう聞いた。
男はびっくりし、むしろ相手の突然の熱狂に胸をつかれたようなぐあいだった。
「君が言っているのはそれは懲役のことかい、ソーニャ? 自首しなければならないってことかい?」と彼は暗い顔をして聞いた。
「苦しみを甘受して、それで自分の罪をあがなうことだわ、それが必要なのよ」
「いや! 僕はあんなやつらのとこへは行きゃしないよ、ソーニャ」
「じゃ、どうやって、どうやって生きていくつもりなの? なににすがって生きていくつもりなの?」とソーニャは叫んだ。「これからそんなふうにしてやっていけると思って?(ああ、あの二人は、あの二人は、これからさきどういうことになるんでしょう!)まあ、わたしなにを言っているのかしら? あんたはもうおかあさんと妹さんを捨てちまったんだったわね。ああ、だめだわ」と彼女は叫んだ。「この人はもうこんなことはなにもかも承知しているんだもの! それにしても人と交らずにいったいどうやって、いったいどうやって生きていけます!あんたはこれから先どうなるのかしら!」
「子供じみたことを言うもんじゃないよ、ソーニャ」と彼は小声で言った。「連中にたいして僕はどんな罪があるんだ? 僕はなんのために行くんだ? やつらになにを告白しようって言うんだ? こんなことはなにもかもただ単なる幻じゃないか……やつら自身何百万もの人間を殺していながら、それを善行だと思ってやがるじゃないか。やつらはペテン師の卑劣漢だよ、ソーニャ! ……僕は行かないよ。それになにを言おうってんだい。人殺しはしたが、金のほうは盗る気になれなかったんで、石の下へ隠しましたってか?」と彼は皮肉な笑いを浮かべてこう言い足した。「そんなことをしたらかえってやつらは僕を笑いものにして、ばかなやつだ、金も盗らなかったとは。意気地なしの大ばか者だ! と言うだろう。やつらにはなんにも、なにひとつわかりゃしないんだ、やつらは、ソーニャ、わかる資格もないんだよ。なんのために行くんだ? 行くもんか。子供みたいなことを言うもんじゃないよ、ソーニャ……」
「あんたは苦しむわよ、苦しむわよ」と彼女は、彼のほうへ手をさしのべて必死に拝みたおそうとしながら、そうくり返し言っていた。
「僕はどうも自分を|いまだに《ヽヽヽヽ》くさしているようだ」と彼は考えこむようにして暗い顔つきで言った。「どうやら、僕は|まだ《ヽヽ》人間であって、しらみじゃないらしい、だからあわてて自分を責めたりしているんだ……僕は|まだまだ《ヽヽヽヽ》戦うぞ」
不敵な笑いが彼の唇におし出されるようにして現われた。
「大変な苦しみを背負っていかなければならないのよ! しかも、ずうっと一生涯、ずうっと一生涯!……」
「そのうち慣れるさ……」と彼は不機嫌そうに思案顔で言い、「ちょっと聞いてもらいたいんだがね」と彼は一分も間をおいてから言い出した。「泣くのはもうよしたまえ、用件にかからなきゃ。僕はここへ、やつらは今僕に探りを入れて、つかまえようとしているってことを言いに来たんだ……」
「まあ!」とソーニャはおびえたように叫んだ。
「やれやれ、なんて声を出すんだ! 自分じゃ、僕が懲役に行くことを望んでいながら、今度はおびえちまってるのかい? だけど、見てるがいい。僕はやつらに負けやしないから。僕はまだまだやつらと戦ってみせるよ、そうすりゃやつらは手も出やしないさ。やつらにはほんとうの証拠なんかないんだから。きのう僕は一大危機に直面して、もうだめだと思ったがね、きょうは形勢がまた持ちなおしたんだ。やつらの証拠はどれもこれも曖昧《あいまい》なものばかりなんだ、つまりやつらの起訴理由をこっちに有利なように向けかえられるんだよ、わかるかい? そして必ず向けかえてみせるよ。僕はもう今は要領を覚えちまったからね……もっとも、監獄へはきっとぶちこまれるだろうな。もしある出来事が起きなかったら、きょうにもぶちこまれていたかもしれないし、事によったら、まだきょうこれからだってぶちこまれないともかぎらないんだ……もっとも、そんなことは平気だけどね、ソーニャ、どうせ、ちょっとはいっているだけで釈放ということになるんだから……だって、やつらにはほんとうの証拠なんかひとつもないし、今後も出てきやしないんだから、これは請けあうよ。今やつらが握っているような証拠ぐらいじゃ人間ひとりを監獄へぶちこむわけにゃいかないんだ。さあ、もうたくさんだ……僕はただ君に知っていてもらいたかっただけなんだ……妹とおふくろには、極力なんとか、疑いを解いてびっくりさせないようにするよ……もっとも、妹のほうは今じゃもう、どうやら、生活は保証されたけどね……ということはつまり、おふくろもってことだ……さあ、話はこれだけだ。それにしても、気をつけてくれよ。僕が監獄へはいったら、僕のところへ面会に来てくれる?」
「ええ、いきますとも! 行きますとも!」
二人が並んで、憂鬱そうにしょんぼりと腰かけているその様子は、まるで嵐のあとで住む人もない岸に二人だけ打ちあげられたようなかっこうだった。彼はソーニャを見ているうちに、彼女の愛がどんなに多く自分にそそがれているか感じとることができた。ところが、奇態なことに、自分がそれほど愛されていることが、彼には急に辛い苦しいことに感じられてきたのである。確かに、それは奇妙な、恐ろしい感覚だった! ソーニャのところへ来る道々、彼は、自分の希望と活路のすべては彼女にあるような気がしていた。彼は自分の苦しみを、その一部分にもせよ、取りのけてもらえるものと思っていた。それなのに彼女が心のたけを彼に傾けてくれた今、彼は急に、自分が前とは比べものにならないくらい不幸になったと感じ、意識したのだ。
「ソーニャ」と彼は言った。「僕が監獄へはいったら、もう僕のところへは来てくれないほうがいいよ」
ソーニャは返事もせずに、ただ泣いていた。そんなふうにして何分かたった。
「あんたは十字架を首にかけていらっしゃる?」彼女はふとなにか思い出したように、出しぬけにそう聞いた。
相手は最初その問いの意味がわからなかった。
「かけてないんでしょう、かけてないんじゃないの? ――だったら、さあ、ほらこの糸杉のを持っていらっしゃい。わたしのところにはまだもうひとつありますから、銅製の、リザヴェータのが。わたし、リザヴェータと十字架を取りかえっこしたの、あの人はわたしに自分の十字架をくれ、わたしはあの人にお守りのお像をあげるというふうにして。わたし、これからはリザヴェータのをつけて歩くことにして、これはあんたにあげるわ。お取りになって……わたしのだから! わたしのですもの!」と彼女は頼みこむようにいった。「苦しみもともにするんじゃないの、十字架もともに背負って行くんじゃないの!……」
「じゃ、もらおう!」とラスコーリニコフは言った。彼は彼女を悲しませたくなかったのである。が、しかし十字架を受けとろうとして出した手をすぐに引っこめてしまった。
「今はよしておこう、ソーニャ。あとにしたほうがいい」と彼は彼女を安心させようとして、そう言い足した。
「そうね、そうね、そのほうがいいわ、そのほうがいいわ」と彼女は夢中で引きとって言った。「苦しみを受けに行くときに、かけていらっしゃい。わたしのところへ来たら、わたしあんたにかけてあげるわ、いっしょにお祈りをして出かけましょう」
ちょうどそのとき、だれか、ドアを三回ノックして、
「ソフィヤさん、はいっていいですか?」というだいぶ聞き覚えのある礼儀正しい声がした。
ソーニャがびっくりして戸口へ飛んでいくと、ブロンドの髪の毛をしたレベズャートニコフが部屋のなかをのぞきこんだ。
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レベズャートニコフはとり乱したような様子をしていた。「僕ですよ、ソフィヤさん。ごめんなさい……あなたにここでお目にかかれるような気がしましたよ」と彼は不意にラスコーリニコフにむかって言い出した。「いや、なんにも考えちゃいなかったんだ……そんなことはね……僕が考えていたのは実は……うちのアパートでカテリーナさんが発狂したんですよ」と彼は、ラスコーリニコフのほうはそのままにして、不意にソーニャに荒っぽい調子でそう言った。
ソーニャは、まあと叫んだ。
「つまり、少なくともそんなふうに思われるんですよ。ところがですね……われわれアパートの者は、どうしたらいいのか、わからないわけなんです! さっきあの人、帰っちゃ来たんですがね――どこかの屋敷から追い出されてきたらしいし、ひょっとすると、なぐられて来たかもしれないんですよ……ま、少なくともそんなふうに思われるんです……あの人はまず長官の屋敷へ駆けこんだところが、先方は留守で、だれかおなじおえら方の屋敷へ食事に招かれて行っていたんですって……ところがどうです、あの人は、食事中なのにその屋敷へ駆けこんだものなんです……そのお偉方の屋敷へね、そして、ま、どうでしょう、――ついにくいさがったあげく、長官を呼び出しちまったんですよ、それもまだ食事の最中だったらしいのに。さあ、そのあとどうなったかは、想像がつくでしょう。追い出されたことは言うまでもありません。あの人の話だと、こっちも相手に毒づいて、長官になにかぶっつけて来たらしいんですよ。ま、それくらいのことは想像できますがね……どうしてあの人が取りおさえられなかったか――不思議なくらいですよ! 今あの人はみんなに、アマリヤさんにまで、盛んに語って聞かしている最中ですが、ただなかなか話の内容がのみこめないんですよ、わめいたり、身もだえしているだけでね……あ、そうそう。あの人はこんなことを言ってわめいていましたよ、もうこうしてみんなから見捨てられたからには、子供たちをつれて手まわし風琴を持って街へ出て、子供たちに歌や踊りをさせ、自分もやって、喜捨を集めながら、毎日例のおえら方の窓下へ行って……『父親が役人だった、れっきとした家柄の子供たちが物乞いをして街を歩いているところを見せつけてやる!』なんて。そして、子供たちをひっぱたくもんだから、子供たちはわあわあ泣きわめくんです。それに、リーダには『田舎家』の歌を教え、男の子と、それにポーリャには踊りを教えて、服はすっかりずたずたに引き裂くし、子供たちにはなにか、役者がかぶるような帽子をこしらえてやるし、自分は金だらいを、楽器がわりにたたくつもりで持って行こうとするといったふうで……人の言うことなどにはいっこう耳を貸そうともしないんです……いやまったく、どうしたことでしょう? それこそどうにも手のつけようもありませんよ!」
レベズャートニコフはまだまだ話しつづけたい様子だったが、息のつぎかえもやっとといった様子で話を聞いていたソーニャはやにわにケープと帽子を引っつかみざま、道々それを身につけながら、部屋から駆け出していった。ラスコーリニコフはそのあとを追って外に出、レベズャートニコフもそれにつづいて外へ出た。
「どう見ても気がふれたんですよ!」と彼はラスコーリニコフといっしょに通りへ出ながらこんなことを言っていた。「僕はソフィヤさんをびっくりさせたくないばっかりに『そう思われる』なんて言ったけど、疑問の余地はありませんよ。話によると、結核患者には脳に腫れものができる者がいるそうですね、残念なことに、僕は医学のほうは知らないけど。もっとも、僕はあの人を納得《なっとく》させようとしてみたんですが、あの人はなにひとつ聞こうとしないんです」
「あの人に腫れもののことを話したんですか?」
「いや、腫れもののことは大して話したわけじゃないんです。それに、話したところで、なんにもわかりっこないんですからね。ただ、僕が言いたいのはこういうことなんですよ。人間てものは、自分にはほんとうは泣くべきことなんかないんだと論理的に説得されれば、泣くのをやめるものだってことです。これは明白な事実ですよ。あなたの信ずるところはいかがです、泣くことをやめないとお思いですか?」
「そうだとしたら、生きていくのが楽すぎやしませんかね」とラスコーリニコフは答えた。
「ちょっと言わしてもらいますがね、ちょっと言わしてもらいますがね。むろん、カテリーナさんにはなかなか理解がいかないでしょうが、あなたはお聞きおよびですか、パリではもう単に論理的に説得するだけで気ちがいを治療できるということでその実験が真剣におこなわれているという話を? 最近死んだ、ある向こうの教授で重きをなしている学者が、そういうふうにして治療できると考えたんです。その人の基本的な考えは、気ちがいのオルガニズムには特別な故障があるわけではない、狂気とは、いわば論理的な誤解、判断の錯誤、事物にたいする正常でない見方にすぎないということなんです。その人は次第に病人の考えをくつがえしていって、驚くじゃありませんか、ついに成果をあげたそうですよ! もっとも、その教授はその際シャワーも利用したそうですから、その治療法には、むろん、疑問の余地はあるわけですがね……少なくとも、そういうふうに思われますね……」
ラスコーリニコフはもうだいぶ前から聞いていなかった。自分のアパートにさしかかると、彼はレベズャートニコフにちょっとうなずいてみせて、門のなかへはいってしまった。レベズャートニコフははっと気がついてふり返ったが、そのまま先へ駆けていった。
ラスコーリニコフは自分の部屋へはいると、部屋の中央に突立った。『おれはなんのためにここへ帰って来たんだ?』彼は例の黄ばんだ、すり切れた壁紙や、例のほこりや、自分のソファを見まわした……なにやら裏庭のほうから鋭い音が絶えまなく聞こえていた。どこかでなにか釘のようなものでも打ちこんでいるらしかった……彼は窓のそばへ歩いていくと、爪先だちになって、ひどく緊張した面持ちで長いこと裏庭の様子をうかがっていた。が、しかし裏庭はがらんとしていて、音をたてている者の姿は見えなかった。左手の離れにはあちこちに明けはなった窓が見えていた。窓敷居には貧弱なゼラニウムを植えた鉢がおいてあり、窓の外には洗濯物がさがっていた……こういうことは残らず、彼はそらで知っていた。彼はくるりと踵を返すと、ソファに腰をおろした。
彼はこれまでにただの一度も自分をこれほど恐ろしく孤独な人間に感じたことはなかった!
そうなのだ、彼はもう一度、ひょっとするとほんとうにソーニャを憎み出すかもしれないという気がしたのである、しかも彼女をいっそう不幸にしてしまった今になってそんな気がしたのだ。『なぜおれは彼女のところへ泣いてもらいになんか行ったんだろう? どうしておれにはあんなに彼女の命をむしばむ必要があるんだろう? ああ、実に卑劣だ!』
「おれはひとりっきりになろう!」と彼は突然きっぱりと言いきった。「そして彼女にも監獄へ面会に来てもらわないようにしよう!」
それから五分もした頃、彼は頭をあげて、薄笑いを浮かべた。それは奇怪な考えだった。『事によると、徒刑生活のほうが実際ましかもしれないぞ』という考えがふと浮かんだのである。
頭に形をなさない考えが群がり寄せるまま、それからどれくらいの間自分の部屋にこもっていたか、彼には覚えがなかった。と、不意にドアがあいて、ドゥーニャがはいって来た。彼女は最初立ちどまって、先ほど彼がソーニャをじっと見たように、敷居の上に立って彼をじっと見つめ、それから中へはいると、きのうの自分の席である、彼のむかいの椅子に腰をおろした。彼は黙って、なにも考えていないような顔つきで彼女を見た。
「怒らないでちょうだい、兄さん、わたし、ちょっとだけ寄ってみたのよ」とドゥーニャは言った。その顔の表情は物思わしげではあったが、きびしそうではなかった。目は澄んでいて、おだやかだった。彼は、この女も愛情を胸にいだいて自分のところへ来てくれたものと見た。
「兄さん、わたしは今はもうなにもかも知っているのよ、|なにもかも《ヽヽヽヽヽ》。ラズーミヒンさんがすっかり説明して下さったのよ。兄さんは、ばかばかしい、いやらしい嫌疑をかけられて尾行されたり苦しめられたりしているんですってね……ラズーミヒンさんはわたしに言っていたわ、兄さんにはなんの危険もないのに、ただ意味もなくそれをひどく恐ろしがっているだけだって。わたしはそうは思わないわ、そしてわたしには|完全にわかって《ヽヽヽヽヽヽヽ》よ、兄さんははらわたが煮えくり返る思いだろうってことも、その憤ろしい気持ちは一生消えないだろうってことも。それがわたしには心配なのよ。兄さんがわたしたちを捨てたことでも、わたしは兄さんを批判しようとも思わないし、そんな勇気もないわ。わたしこの前兄さんを責めたけど、ごめんなさいね。わたし自分の身に引き移してみてこう思うのよ、もしもわたしにそういう大きな悲しいことがあったら、わたしだってやっぱりみんなから離れたにちがいないって。わたしおかあさんには|この話《ヽヽヽ》はいっさいしないことにするわ、ただ兄さんの噂だけはしょっちゅうすることにして、兄さんが言っていたけど、もう間もなく来てくれるだろうって言っておくわ。おかあさんのことはくよくよすることなんかなくってよ、わたしおかあさんを安心させるから。だけど、兄さんのほうもおかあさんを苦しめないようにしてね、――一度でもいいから顔を見せてちょうだい。おかあさんだということを思い出してね!きょうわたし、ここへ来たのは(と言いながらドゥーニャは腰をあげかけた)、万が一なにかわたしで役にたつことでもあるとか、わたしの命なりなんなり……入り用なことでもあったら……わたしに声をかけてちょうだい、わたし駆けつけるから。じゃ、さようなら!」
彼女はくるりと向きを変えて、戸口にむかって歩き出した。
「ドゥーニャ!」とラスコーリニコフは妹を呼びとめると、立ちあがって、そのそばへ歩み寄った。「あのラズーミヒンは、ドミートリイ・プロコーフィイチはとてもいい人間なんだよ」
ドゥーニャはほんのり顔を赤らめた。
「それで?」と彼女はちょっと待ってから聞いた。
「あの男は事務的で、仕事好きで、誠実で、強く愛することのできる人間だよ……じゃ、さようなら、ドゥーニャ」
ドゥーニャはぱっと顔を真っ赤にしたかと思うと、そのあと急に不安そうな顔つきになった。
「兄さん、それはどういうことなの、それじゃほんとうに永久にお別れするみたいじゃないの、わたしに……そんな遺言みたいなことを言って?」
「どっちみちおなじことさ……じゃ、さようなら……」
彼は顔をそむけて、妹から離れて窓のほうへ歩き出した。妹はしばらく立って、心配そうに兄を見ていたが、不安な気持ちのまま部屋を出た。
彼はけっして妹に冷淡だったのではない。一瞬(いちばん最後の)だったけれども、むしょうに妹をぎゅっと抱きしめて、彼女に|別れを告げ《ヽヽヽヽヽ》、洗いざらい|白状して《ヽヽヽヽ》しまおうとさえ思ったときもあったのに、妹に手を与えることすら決心がつきかねたのである。
『妹のやつ、あとで今おれに抱きしめられたことを思い出したら、おそらくぞうっと身ぶるいして、おれに接吻を盗まれたなんて言うかもしれない』
『それにしても|あれ《ヽヽ》には持ちこたえられるだろうか、どうだろう?』と、彼は何分かしてからこういう考えをつけ加えた。『いや、持ちこたえられまい。|ああいう人間《ヽヽヽヽヽヽ》には持ちこたえられやしないさ! ああいう人間はけっして持ちこたえられるものじゃないんだ……』
そして彼は今度はソーニャのことを考え出した。
窓から涼しい風が吹きこんで来た。外の日ざしはもうそれほど強くなかった。彼はひょいと帽子を取って、外へ出た。
彼が自分の病的な体のぐあいを気にしてもいられなかったし、気にする気もなかったことは言うまでもない。が、しかしこれほどの絶えまない不安とこれほどの精神的恐怖がなんの結果ももたらさずにすむはずはなかった。こうしてまだ本ものの熱病で伏せることもなくいられたのは、あるいは、この心中の絶えまない不安がいまだに彼の足を支え、彼の意識を保たせていたからかもしれない、だがそれはどこか人工的で、一時的なものだった。
彼はあてもなくさまよい歩いていた。太陽は沈みかけていた。ここ最近彼の胸には一種特別なやるせない気分がきざして来ていた。その気分にはこれといって別に刺すようなところも、じりじり焼くようなところもなかったが、その気分からはなにやら恒常的な永遠なものが感じられ、その冷たい、しびれるような哀愁が果てしなく長い年月にわたることが予感され、『二間四方の空間』に永遠に立っていなければならないような予感がするのだった。そしてこの感じは夕暮れどきに特に一段と激しく彼を悩ましはじめるのだった。
「こんなに、日没くらいのものに左右されるような、こんなばかげきった、純然たる肉体的な衰弱がある以上、よっぽど気を確かに持たないとばかなまねをしでかすぞ! ソーニャの家へ行くところを、ドゥーニャのところへでも行っちまうかもしれんぞ!」と彼は憎々しげにつぶやいた。
と、そのときだれか彼に声をかける者がいたので、ふり返ってみると、彼のほうへレベズャートニコフが駆け寄って来た。
「いや実はね、お宅へうかがったりして、あなたをさがし歩いていたんですよ。どうでしょう、あの人、とうとう自分の計画を実行に移して、子供たちをつれて出ちゃったんですよ! そして僕とソフィヤさんがやっとのことであの連中をさがし出したんです。自分はフライパンをたたいて、子供たちを踊らせているし、子供たちは泣いているんですよ。そして、十字路だの店の前に立ちどまってやって歩くそのあとをやじ馬どもがぞろぞろついて来るといったありさまなんです。さあ、行きましょう」
「で、ソーニャは?……」ラスコーリニコフは急ぎ足でレベズャートニコフについていきながら、心配そうに聞いた。
「まったくの狂乱状態ですよ。といっても、ソフィヤさんのほうじゃなくて、カテリーナさんのほうですがね。もっともソフィヤさんも狂乱の体ですが、カテリーナさんのほうはもう完全に狂乱状態なんです。僕は断言しますが、これはもう完全に気がちがったんですよ。あれじゃみんな警察へつれていかれちまいますね。それがどんなショックを与えることになるかは、あなたにも想像がつくでしょうがね……あの連中は今、××橋のそばの堀ばたに、ソフィヤさんの家のすぐ近くにいるんです。すぐそこですよ」
橋からほど遠くない所、ソーニャの住んでいるアパートから二軒といかない堀ばたに、一団の人群れが集まっていた。特に駆け寄ってきていたのは、男の子と女の子だった。カテリーナのしわがれた痛んだ声が早くも橋のあたりから聞こえていた。確かに、それは通りの人々の興味をそそるにたる珍らしい見ものだった。カテリーナがいつもの古びた服の上にドラデダム織りのショールをひっかけ、片方へぶざまにひしゃげた麦わら帽をかぶっている様子は、なるほど本ものの狂乱状態だった。彼女は疲れて、あえいでいた。疲れきったような肺病やみらしいその顔はいつもより苦しげに見えた(それに、結核患者というものはつねに、通りで日光にさらされているときのほうが家にいるときよりも病人くさく醜く見えるものである)。が、それでも彼女の興奮状態は静まりそうになく、刻一刻といらだちを増してくるのだった。彼女は子供たちのそばへ飛んでいっては、どなりつけたり、さとしたり、その場で、人の大勢いる前で踊り方や歌の文句を教えたり、なんのためにそういうことをしなければならないか、いろいろと説明して聞かせたり、子供たちののみこみが悪いのにやけを起こして子供たちをたたいたりしていた……それから、それを途中でほうったらかして、人だかりのほうへ飛んでいき、ちょっとでも身なりのいい人が見物しようとして立ちどまるのに目をとめると、さっそくその男に、『家柄のいい、貴族と言ってもいいくらいの家に生まれた』子供たちがこれほどまでに落ちぶれてしまったのだとくどきにかかる。また、群衆のなかから笑いやなにかちょっとでも癇《かん》にさわる言葉でも聞きつけると、すぐさまその無礼者に食ってかかって、悪口の言いあいを始めるのだった。実際に笑う者もいれば、気の毒そうに頭をふる者もいた。だいたい、おびえきった子供たちを引きつれた気ちがい女を見物するのはだれにとってもおもしろいことにはちがいなかった。レベズャートニコフが言っていたフライパンはなかった。少なくとも、ラスコーリニコフの目にはつかなかった。カテリーナはポーリャに歌わせリーダとコーリャに踊らせるときは、フライパンをたたくかわりに、自分のかさかさの手のひらでひょうしをとり出し、同時に自分もそれにあわせて歌おうとするのだが、そのつど第二句あたりで苦しい咳に妨げられてとぎれてしまい、またもややけを起こして、自分の咳をのろったり、泣いたりさえするのだった。なによりも彼女をかっとさせたのは、コーリャとリーダの泣き声とおじけづいた様子であった。なるほど、子供たちには、流しの男女の歌い手に似せたいでたちをさせようという試みの跡が見られた。男の子にはなにやら赤に白のまじったターバンをかぶせて、トルコ人になぞらえようとしていたが、リーダは衣装が足りなかったため、頭に赤い毛糸で編んだ亡夫の帽子(というよりもナイトキャップといったほうがよさそうな)をかぶせただけで、その帽子に、カテリーナの祖母の持ちもので、家宝として今まで長持ちのなかにしまってあった駝鳥《だちょう》の白い羽の切れっぱしがささっていた。ポーリャは自分のふだん着のままだった。彼女はおどおどした目つきで母親を見、当惑顔で母親についてまわり、涙をかくしてはいたが、母親は発狂したのだと察して、不安そうにあたりを見まわしていた。彼女は往来と人群れにひどくおびえきったような様子だった。ソーニャは離れないようにカテリーナについて歩きながら、家へ帰っておくれと泣き泣きひっきりなしに頼んでいた。だが、カテリーナはいっかな聞こうとはしなかった。
「およし、ソーニャ、およしよ!」と彼女は、急いで、息をきらし、せきこみながら早口で叫ぶのだった。「お前は自分がなにを頼んでいるかもわかっていないんじゃないの、まるで子供じゃないか! わたしはもうお前に言ったはずだよ、あの酔っぱらいのドイツ人の女のところへは帰らないって。わたしはみんなに、ペテルブルクじゅうの人に見せてやるよ、忠実に正直一途に一生涯勤めとおして、勤務中に死んだとも言える家柄のいい父親を持った子供たちが物乞いして歩いているところを(カテリーナは早くもこうした架空の話をつくりあげてそれを盲信してしまっていたのだ)。あの役たたずの将軍めに見せつけてやるんだ、見せつけて。お前もほんとにおばかさんだねえ、ソーニャ、これからさきどうやって食べていったらいいのよ、え? わたしたちはもういい加減お前をしぼりあげて来たんだもの、もうこれ以上苦しめたくないんだよ! あら、ロジオンさん、まあ、あなたでしたね!」と、彼女はラスコーリニコフを見つけると、いきなりそばへ駆け寄りながらこう叫んだ。「あなた、どうか、このおばかさんに、これからやっていけることでこうしていくより賢明なことはないんだってことを、よく言い聞かせてやってちょうだいな! 流しの風琴ひきだってあがりがあるんですからね、わたしたちなら、だれが見てもすぐに見わけがつきますよ、わたしたちは乞食にまでなりさがってはいるけど、もとは家柄のいい、気の毒な、身寄り頼りのない一家だってことがわかってもらえますよ。それに、あの将軍のやつはきっと首になるから、見ていらっしゃい! わたしたち、あいつの窓の下へ毎日でもかよってやるから。それから陛下がお通りになったら、わたしはひざまずいて、この子たちを前へおし出して、お見せしながら『父よ、お守り下さい!』って申しあげるつもりです。陛下は身寄り頼りのない者の父で、お情けぶかくていらっしゃるから、守って下さるはずよ、見ていらっしゃい、それにあの将軍のやつを……リーダ! Tenez vous droite!(体をまっすぐにするのよ!)コーリャ、お前はすぐまた踊るんだよ。お前はなんだってめそめそしているのさ? またべそをかいている! まあ、なにが、なにがお前は怖いのさ、おばかちゃんだね! あーあ! この子たちはほんとに手がつけられませんわ、ロジオンさん! ほんとに聞きわけがないったらないんですよ! まったく、こんな子供たち相手じゃどうにもなりませんわ!……」
こう言って彼女は、自分も泣き出さんばかりになって(もっとも、それも彼女がのべつ幕なしにべらべら早口でしゃべりまくる妨げにはならなかった)、泣きじゃくっている子供たちを彼に指さしてみせた。ラスコーリニコフは彼女を説得して家へ帰らせようと試み、自尊心に訴えようと思って、流しの風琴ひきみたいに通りを渡り歩くのはみっともないじゃないか、だってあなたは良家のお嬢さんのはいる寄宿学校の校長にもなろうという人なんだからとまで言ってみた……すると、
「寄宿学校ですって、は、は、は! 遠くのものは美しいって言いますからね!」とカテリーナは叫んで、笑ったとたんに激しくせき入った。「だめですわ、ロジオンさん、夢はもう消えちまいましたよ! わたしたち一家はみんなから見捨てられてしまったんですもの! ……それに、あの将軍め! ……実はね、ロジオンさん、わたしあいつにインキびんを投げつけてやったんですよ、――あそこに、ちょうど小使い部屋の机の上にあった、みんなが署名する、わたしも署名して来た紙のわきにあったんで、それを投げつけて、逃げ出して来ちゃったんです。ほんとに見さげはてた連中ですよ、見さげはてた連中です! でも、あんな連中はどうだっていい。これからはこの子たちもわたしが自分の手で養っていきますわ、だれにも頭なんかさげるもんですか! わたしたちはもういい加減この子に苦労をかけたんですからね!(と言ってソーニャを指さした)ポーリャ、いくら集まったか見せてごらん! まあ、なんだね! ぜんぶでたった二コペイカ? まあ、なんていやらしい連中でしょう! なんにもくれやしないんだからね、ただ舌を出して息をはずませて、わたしたちのあとを追いかけてくるだけで! まあまあ、このでくの坊ったら、なにを笑ってるのさ?(彼女は群衆のなかのひとりを指さした)これというのも結局、このコーリャがひどいわからずやで、世話を焼かすからだよ! お前はどうしたのさ、ポーリャ? フランス語でわたしと話してごらん、Parlez moi francais(わたしにフランス語で話してごらん)。おかあさんがお前に教えてあげたろう、お前はいくつか文句を知ってるじゃないか! ……そうしないと、お前たちが家柄のいい家の者で、育ちのいい子供たちで、そこいらの風琴ひきとはわけがちがうってことがわかってもらえないじゃないの。わたしたちは街頭で『ペトルーシカ』(ロシヤの人形芝居の一つ)かなんか演じようというんじゃない、上品なロマンスを歌おうってわけなんだからね……あ、そうだ! わたしたち、なにを歌ったらいいかしら? あなたは絶えず話の腰をおっていらっしゃるけど、わたしたちが……いいですか、わたしたちがここに足をとめたのはね、ロジオンさん、なにを歌ったらいいか、歌を選び出すため、――つまりコーリャにも踊れるようなものを選び出すためなんですよ……なぜって、わたしたち、想像がおつきでしょうけど、なんの下準備もないんですもの。下相談をして、すっかりひととおり稽古をした上で、わたしたち、ネフスキイ通りへ繰り出そうってわけなんですの、ネフスキイ通りならここより上流社会の人がずっとたくさんいるから、すぐにわたしたちに目をとめてくれると思うんですよ。リーダは『田舎家』を知っているんだけど……ただ、『田舎家』が大はやりで、だれでもこれを歌うんでね! わたしたち、なにかもっとずっと上品なのを歌わなければねえ……どう、ポーリャ、なにか思いついたかえ、せめてお前だけでもおかあさんの手助けになってくれたらねえ! わたしはさっぱり記憶力が悪くなってしまったんだよ、でなかったら、わたしが思い出すんだけど! まさか『驃騎兵《ひょうきへい》はサーベルにもたれて』なんか歌うわけにもいかないし! あそうそう、フランス語で≪Cinq sous≫(銅貨が五つ)を歌おう! わたし、お前たちに教えてあげたじゃないの、教えてあげたでしょう。第一、これはフランス語だから、お前たちが貴族の子だってことがすぐわかってもらえるし、それにこの歌はほかのよりずっと感動的だものね……≪Malborough s'en va-t-en guerre≫(マルボルーは出征したが)でもいいわ! これはほんとうに子供の歌だし、それにどこの貴族屋敷でも子供を寝かしつけるときに使っているものね」
Malborough s'en va-t-en guerre,
Ne sait quand reviendra……
(マルボルーは出征したが、いつになったら帰るやら)
と彼女は歌い出したが……「いや、これより≪Cinq sous ≫のほうがいいわ! さあ、コーリャ、お手々を腰にあてて、早く、それからお前、リーダ、お前も向こう側へまわるんだよ、そしたらわたしとポーリャが歌をつけて手でひょうしをとるから!
Cinq sous, cinq sous,
Pour monter notre menage……
(銅貨が五つ、銅貨が五つ、これでやりくりせにゃならぬ)
ゴホン、ゴホン、ゴホン!(と彼女は止めどなくせきこんだ)おべべをなおしておやり、ポーリャ、肩のところがさがっちまったじゃないの」と彼女は咳の合い間合い間にあえぎながら注意した。「今お前たちに特別必要なことは、お行儀よく上品にすることですよ、みんなに、お前たちが貴族の子だってことがわかるようにね。わたしあのとき、チョッキをもっと長めに、それにふた幅に截《た》たなければいけないって言ったでしょう。それなのに、ソーニャ、お前が『もっと短く、もっと短く』なんて余計なことを言うもんだから、子供をすっかり見っともないかっこうにしてしまったじゃないの……おやまあ、お前たちはそろってまた泣いているじゃないの! なんだって言うの、ばかな子供たちだねえ! さあ、コーリャ、早く始めなさい、早く、早く、――まあまあ、ほんとに始末におえない子だねえ! ……
Cinq sous, cinq sous……
またお巡りが来たよ! ねえ、お前さんはなんの用があるのさ?」
なるほど、警官が人垣をかきわけて現われた。が、同時に文官の通常制服の上に毛皮外套を着て、首に勲章をかけた(この勲章はカテリーナの気分をしごく愉快なものにし、警官にも影響を与えたのだが)五十がらみの堂々たる紳士がひとり近寄ってきたかと思うと、黙ってカテリーナに緑色の三ルーブリ紙幣を握らせた。その顔には心からの同情の色があらわれていた。カテリーナはそれを受けとると、丁重に、むしろ儀式ばったくらいのおじぎをした。
「これはこれはありがとうございます」と彼女は威厳をつけてこんなことを言い出した。「わたしどもがこんなことをするようになった原因は……このお金をあずかっておいておくれ、ポーリャ。ほらね、不幸な身の上の貧乏な貴族の女にさっそく援助の手をさしのべようとなさる心の気高い、腹の大きい方々もいらっしゃるじゃないの……あなた、あなたが今ごらんになっていらっしゃるのは、最上流の貴族と言ってもいいくらいの、縁故関係を持つ、家柄のいい父を失った一家でございますよ……それなのに、あの将軍のやつ、食堂に坐りこんで、えぞ山鳥なんか食べて……わたしが邪魔をしたというんで、地だんだを踏みやがったんですよ……わたしはこう言ったんです、『閣下、あなたは亡くなった宅をよくご存じでしょうから、ひとつこのみなし子たちを守ってやって下さい、主人の血をわけた娘が卑劣この上もない男から、それも父親の死んだ日にとんだ中傷をされたんですよ……』ってね。あら、またあのお巡りがやって来たわ! 助けて下さい」と彼女は官吏にむかって叫んだ。「なんだってあの警官はわたしにつきまとって来るのかしら? わたしたちはもう、メシチャンスカヤ街からここへ逃げて来たのに……お前さんはなんの用があるんだい、ばか!」
「往来でこんなまねをすることは禁じられてるんですよ。ぶざまなことはやらないで下さい」
「あんたこそぶざまじゃないか! わたしがこうして歩いているのは流しの風琴ひきとおなじことじゃないか、あんたなんかなんのかかわりがあるんだい?」
「オルガンひきだったら、許可証を持たなけりゃ、ところがあなたは自分で勝手にこうやって人を集めているじゃありませんか。お住まいはどちらです?」
「許可証だって」とカテリーナはわめき出した。「わたしはきょう主人のお葬いをして来たばかりなんだよ、許可証もへったくれもあるもんかね!」
「奥さん、奥さん、落ちついて下さい」と官吏が言い出した。「ごいっしょしましょう、送ってあげますよ……こんな、人の大勢いるところじゃみっともないから……それにお体のぐあいも悪いようだし……」
「あなた、あなた、あなたはなんにもご存じないんですよ!」とカテリーナは叫んだ。「わたしたちはネフスキイ通りへ行くんですよ、――ソーニャ、ソーニャ! あの子はいったいどこへ行っちまったのかしら? あれ、やっぱり泣いているわ! お前たちはみんなどうしたのさ……コーリャ、リーダ、お前たち、どこへ行くの?」と彼女は急にびっくりして声を張りあげた。
「まあ、ばかな子供たちだこと! コーリャ、リーダ、あの子たち、いったいどこへ行こうっていうのかしら!……」
それはこういうことだったのだ。通りの人だかりと狂った母親の常軌を逸した言動に極度におびえきってしまったコーリャとリーダが、ついに、警官が自分たちをつかまえてどこかへつれていこうとするのを見ると、突然、しめしあわせてでもいたように、たがいに手と手をとりあって、ぱっと逃げ出したのである。あわれなカテリーナは泣き叫びながら駆け出して子供たちのあとを追いかけた。泣き泣き息をきらして走っていく彼女の姿は見苦しくもあわれであった。ソーニャとポーリャもそのあとを追って駆け出した。
「つれもどしておくれ、子供たちをつれ返っておくれ、ソーニャ! まあ、ばかな、恩知らずな子供たち! ……ポーリャ! 二人をつかまえておくれ……わたしはお前たちのために……」
彼女は全速力で走っている最中につまずいて、ばったり倒れてしまった。
「あらまあ、けがをして血だらけだわ! まあ、どうしよう!」と、ソーニャは母親の上にかがみこんで叫んだ。
みんなが走り寄って、まわりをぎっしり取りかこんだ。ラスコーリニコフとレベズャートニコフはまっさきに駆けつけた。官吏も急ぎはせつけ、つづいて警官も駆けつけたが、これは、事がやっかいになりそうだと予感して、片手を振って「やれやれ」とつぶやき、
「さあ、どいた! どいた!」と、まわりにひしめく人群れを追いちらそうとした。
「死にかかってるぞ!」と、だれかわめいた者がいた。
「気がちがったんだ!」と、もうひとりが言った。
「まあ、かわいそうに!」と、だれか女が言って十字をきった。「女の子と男の子はつかまったのかしら? あ、あそこへつれて来たわ、姉娘がつかまえたんだ……まあ、手におえない子供たちだねえ!」
だが、カテリーナをよくよく見ると、彼女は、ソーニャが考えたように石に当たってけがをしたのでは全然なくて、歩道を真っ赤に染めた血は胸から出た喀血であることがわかった。
「これは私も知ってます、見たことがあるんです」と官吏がラスコーリニコフとレベズャートニコフにむかってつぶやくように言った。「これは肺病ですよ。こんなぐあいにどっと血が出て、のどがつまるんです。私の親類の女の場合も、ついこの間、見たんですが、こんなぐあいにコップに一杯くらい出しましたよ……突然ね……それにしても、いったいどうしたもんでしょう、このままじゃすぐに死んでしまいますよ」
「あそこへ、あそこへ、わたしの家へ!」とソーニャは頼んだ。「わたし、あそこに住んでいるんです! ……ほら、あの家です、ここから三軒目の……わたしの家へ、早く、早く!……」と言って、彼女はあちこちみんなにすがりついた。「お医者さんを呼びにやって下さい……まあ、どうしよう!」
官吏の骨折りで事はうまく運び、警官までがカテリーナを運ぶ仕事を手つだってくれた。彼女はほとんど死んだようになってソーニャの住まいに運びこまれ、寝床に寝かされた。喀血はまだつづいていたが、彼女はどうやら意識を取りもどしはじめていた。部屋のなかへは、ソーニャ以外に、ラスコーリニコフ、レベズャートニコフ、官吏、警官といった連中がいっせいに入って来た。警官は前もって群集を追いはらったのに、そのうちの何人かは戸口のすぐそばまでついて来た。ポーリャは、震えながら泣いているコーリャとリーダの手を引いて、なかへはいって来た。カペルナウーモフ家の者も集まった。当の、びっこで目っかちで、髪とほおひげがごわごわしていて突立っている、妙な顔つきの主人と、なにか永久にびっくりしっぱなしのような顔つきをしたその女房と、それに年じゅうびっくりばかりしているため硬直したような顔でぽかんと口をあけている子供たちとだった。その大勢の人群れにまじってスヴィドリガイロフも姿をあらわした。ラスコーリニコフは、彼が人群れのなかにいたような記憶がなかったので、どこから現われ出たか、腑におちずに、けげんな面持ちで彼に目をやった。
医者や坊さんのことを口にする者がいた。官吏はラスコーリニコフに、医者はもう今じゃ不要なようですがと耳打ちはしたものの、それでも迎えにやるように手配した。カペルナウーモフが自分から駆け出していった。
そうこうする間に、カテリーナは呼吸が楽になり、喀血も一時とまった。彼女は、病的ではあるが、じっとこらした突きさすような目つきで、自分の額の汗をハンカチで拭いながら、青い顔をして震えているソーニャを見つめていた。が、あげくの果てに自分を起こしてくれと言い出した。そこでみんなは両側から支えるようにして寝床に坐らせた。「子供たちはどこにいるの?」と彼女は弱々しい声で聞いた。「お前、つれて来たんだろう、ポーリャ? ほんとにばかな子供たちだよ! ……いったいなんだってお前たちは逃げ出したのさ……ああ!」
血はまだ彼女の乾ききった唇いっぱいについていた。彼女はいちいち点検するようにあたりに目をくばった。
「お前はこういうふうにして暮らしているわけなのね、ソーニャ! いっぺんもわたしはお前のところへ来たことがなかったけど……こんなところで……」
彼女は辛そうにソーニャを見た。
「わたしたち、お前を食いものにしてしまったわね、ソーニャ……ポーリャ、リーダ、コーリャ、ここへおいで……さあ、これでみんな来たわ、ソーニャ、この子たちを受け取っておくれ……手から手へ……わたしはもうたくさん! ……これで一巻の終わりだわ! ああ! ……寝かせておくれ、せめて静かに死なせてちょうだい……」
みんなはまた彼女の頭を枕につけさせてやった。
「なに? 坊さん? 必要ないわ……どこにそんな余分なお金があるのさ? ……わたしは罪なんか背負っていませんからね! ……そんなことをしなくたって神さまはお許し下さるわ……わたしがどんなに苦しんだかは、ちゃんとご存じのはずだから! ……それに、許して下さらなければ、それでもかまわないし!……」
彼女は次第に意識不明の状態に落ちていった。ときおり彼女はぶるっと身震いをして、あたりに目をやって、一瞬みんなに気づくこともあったが、すぐにまた意識がなくなって意識不明の状態に移るのだった。息づかいは苦しげで、ぜいぜいとかすれた音がし、なにか、のどのなかでごろごろいっているようなぐあいだった。
「わたしはあいつに言ったんですよ、『閣下!……』とね」と、彼女はひと言言うごとに息を切らしながら、こんなことを叫ぶのだった。「あのアマリヤ・リュドヴィーゴヴナが……ああ、リーダ、コーリャ! お手々を腰にあてて、早く、早く、グリッセ、グリッセ(すべり足、すべり足)、パ・ドゥ・バスク(バスク風の足の運び)! 足音を立てて……上品な子になるんだよ。
Du hast Diamanten und Perlen……
(ダイヤモンドも真珠もある)
そのさきはどうだったっけ? これを歌ったらいいわ……
Du hast die schoensten Augen,
Maedchen, was willst du mehr?
(きれいな瞳を持ちながら、なにが欲しいの、娘さん?)
そうさ、まったくそのとおりじゃないか! was willst du mehr だなんて――変なことを思いつくもんだよ、ばかめ! ……あ、そうだ、こんなのもあった。
暑い真昼に、ダゲスタンの谷で……
ああ、わたしほんとに好きだったわ……わたしは夢中になるくらいこのロマンスが好きだったんだよ、ポーリャ! ねえ、お前、これはお前のおとうさんが……まだおむこさんだった頃によく歌った歌なんだよ……ああ、あの頃はよかったわ! ……わたしたちこれを、これを歌ったほうがいいわ! それで、どうだったっけ、どうだったっけ……わたし忘れちまったよ……思い出さしておくれよ、どうだったっけね?」彼女はひどく興奮した様子で、懸命に起きあがろうとした。が、そのうちとうとう、ひと言ひと言叫んでは息をきらし、顔には刻々とつのって来る驚きをあらわしながら、恐ろしい、しわがれた、痛んだ声で、
暑い真昼に! ……ダゲスタンの! ……谷間で!……
胸に鉛の弾丸を受け!……
と歌い出したかと思うと、「閣下!」と突然、はらはらと涙を落としながら、はらわたをかきむしるような号泣を始め、「みなし子たちをお守り下さい! 死んだ主人の知遇を受けたことを覚えておられるんなら……貴族と言ってもいいくらいの! ……ああ!」ここで彼女ははっと意識をとりもどして、なにやらおびえたように一同を見まわして、ぶるっと身震いをしたが、たちまちソーニャに気づくと、「ソーニャ、ソーニャ!」と、ソーニャが目の前にいるのが不思議だと言わんばかりの様子で、おだやかに、やさしくこう言い出した。「ソーニャ、かわいいソーニャ、お前もここにいたのかえ?」
みんながまた彼女を起こしてやった。
「もういいよ! ……もうお別れをしなきゃ!……さようなら、不仕合わせなソーニャ! ……みんなでやせ馬を乗りつぶしちまったわね!……もう精も根もつきはてちまったわ!」と彼女は絶望と憎悪の叫びを放ったかと思うと、ばったりと頭を枕の上に落とした。
こうして彼女はまた意識を失ったが、この最後の昏睡《こんすい》状態はそんなに長くはつづかなかった。その青黄色い色のひからびた顔はがっくりとのけぞり、口は開き、足はぐっと延びた。そして、深い深い息を吐いたかと思うと、そのまま死んでいった。
ソーニャは母のむくろの上に倒れ伏すと、両手でひしとかきいだき、死人のやせ衰えた胸に頭をおしつけたまま、突然気を失ってしまった。ポーリャは母親の足もとに身を投げて、泣きじゃくりながらその足に接吻していた。コーリャとリーダはまだなにが起こったのかはわからないながらも、なにやら大変恐ろしいことにちがいないと感じたらしく、たがいに相手の肩を両手でつかみ、じっと目と目とを見合っていたかと思うと、いきなりいっしょにわあっと口をあけて泣き出した。二人ともまだ例の衣装をつけたまま、ひとりはターバンを巻き、もうひとりは駝鳥の羽のついた丸帽をかぶったままだった。
そこへどんな経路で出て来たものか、不意にカテリーナのそばに例の『賞状』が現われた。そして、それは彼女のすぐ枕もとに置かれていた。ラスコーリニコフもそれに気がついた。
彼は窓のほうへ離れた。とそこへレベズャートニコフが駆け寄った。
「死にましたね!」とレベズャートニコフは言った。
「ロジオンさん、あなたにひと言申しあげておきますが」と言いながらスヴィドリガイロフが歩み寄って来た。レベズャートニコフはすぐさま場所を譲って、気をきかして姿を消した。スヴィドリガイロフはけげんそうな顔をしているラスコーリニコフをさらに奥の隅のほうへ引っぱっていった。
「このごたごた、つまり葬式その他のことはぜんぶ私がお引き受けします。どうせ金さえありゃいいわけでしょう、ところが、この前も言ったとおり、私は余分の金を持っていますからね。私はこの二人のひよ子とこのポーリャをどこかのできるだけりっぱな孤児院に入れて、成年に達するまで、ひとりあたり千五百ルーブリずつつけてやって、ソフィヤさんをすっかり安心させてあげようと思うんです。それに、ソフィヤさんを泥沼から引き出してやろうとも思っています、だってなかなかいい娘さんですからな、ね、そうでしょう? そこで、あなた、ひとつアヴドーチヤさんに、あの人の一万ルーブリを私がこういうことに使ったということをお伝え下さい」
「なんの目的があってあなたはそんなにやたらに慈善をほどこそうとするんです?」とラスコーリニコフは聞いた。
「いやはや! まったく疑りぶかいお方ですな!」と言ってスヴィドリガイロフは笑い出した。
「今も言ったじゃありませんか、その金は余分な金なんだって。それに、単に人道上からだけでも、あなたはお認めにならざるを得ないでしょう? 彼女は(隅のほうにあった死体を指さして)、どこかの金貸し婆とはちがって、『しらみ』なんかじゃなかったわけでしょう。ねえ、賛成でしょう、ねえ、『実際にルージンが生きながらえて汚らしいまねをすべきか、それとも彼女が死ぬべきか? じゃありませんか?』それに、もし私が救ってやらなかったら、『たとえば、ポーリャもおなじ道を歩む……』ことになるんじゃありませんか」
彼はラスコーリニコフから目をはなさずに、なにやら|目くばせでもするような《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、愉快そうで、ずるそうな顔つきをして、そう言いきった。ラスコーリニコフは、自分がソーニャにむかって言ったとおなじ言いまわしを耳にしたとたんに、さあっと血の気を失い、ぞうっと寒けを覚えた。そしてひょいとうしろへ身をひくと、妙な目つきでスヴィドリガイロフを見つめた。
「ど、どうして……あなたは知っているんです?」と、彼はやっとのことで息をつぎながら、ささやくように言った。
「だって私はここの、壁ひとつ隔てた、レッスリヒ夫人のとこに宿を取っているんですもの。こっちはカペルナウーモフだし、あっちは古なじみで大の親友のレッスリヒ夫人だし、お隣り同士というわけですよ」
「あなたが?」
「ええ、私が」とスヴィドリガイロフは、腹をかかえて笑いながら、話しつづけた。「誓って言いきれることですが、ロジオンさん、私は不思議なほどあなたに興味を覚えましたよ。二人は親密な仲になるって私言ったでしょう、ちゃんとそう予言したでしょう、――ほら、このとおり親密になったじゃありませんか。そのうち、私がどんなに役だつ人間かもわかって来ますよ。見ていてごらんなさい、私とならまだまだ仲よく暮らしていけますから……」
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第六編
ラスコーリニコフにとって不思議な時期がやって来た。まるで不意に目の前にもやが降りて、自分は出口のない重苦しい孤独のなかに閉じこめられてしまったようなぐあいだった。あとで、すでにだいぶたってからこの時期のことを思い起こしてみたとき、この頃ときおり意識が混濁したようなふうになって、それが、途中で何度か切れめはあったにせよ、そのままずうっと最後の破局のぎりぎりまでつづいていたような感じがしたものである。また、これは彼もその後はっきり信ずるようになったことだが、彼は当時ずいぶんいろんな点で、たとえば事件が起こった時期とか期間などで思いちがいをしていたものである。少なくとも、あとで思い出し、その思い出したことを懸命になって解明しようとするうちに、第三者から得た知識の助けを得て、初めて自分のことで納得がいったようなことも少なくなかった。たとえば、ある事件を他の事件とまぜこぜにしていたり、ある事件を他の事件の結果だと考えていたけれども、その第二の事件が自分の単なる想像のなかに存在していたにすぎなかったりしたこともあった。
ときには、病的なほど苦しい不安にとらえられて、その不安があわてふためくばかりの恐怖に変わることさえあった。が、しかし彼はそれと同時に、それまでの恐怖とはまったくうって変わったような無関係な気分に、――ある種の瀕死の人間に見られる病的な無関心な状態にも似た気分に、何分も、何時間も、いや、事によると何日もとらえられていたような記憶もあった。だいたいのところ、その最後の数日間は、彼自身、努めて自分の現在の状況をはっきりと完全に理解することを避けようとしていたようであった。即刻解明しなければならないあるさし迫った事実に彼は特別重苦しさを感じていた。彼はそのある心配事から逃れて自由になれたら、どんなに嬉しかろうと思った。ところがその心配事を忘れたら、自分の立場上、完全な、どうにも避けられない破滅をまねく恐れがあったのである。
とりわけ彼の胸を騒がせていたのは、スヴィドリガイロフであった。彼の考えはスヴィドリガイロフの上に停止してしまっていたかの観があると言ってもよかった。カテリーナが死んだとき、ソーニャの住まいでスヴィドリガイロフが彼にとってあまりにも恐ろしい言葉をあまりにもはっきりと吐いたのを聞いて以来、彼の平常の思考の流れがかき乱されてしまったような感じだった。が、そのくせ、この新事実にひどく不安を覚えていたにもかかわらず、ラスコーリニコフはなぜか事態の解明を急ごうとはしなかった。ときには、どこか町の遠く離れたうら淋しい場末の、ある見すぼらしい安食堂に自分がひとり物思いにふけってテーブルにむかっているのにふと気がついたけれども、どうやってそんなところへ迷いこんだのかほとんど覚えがないようなときに、ふとスヴィドリガイロフのことを思い出すことがあった。すると急に、なるべく早くあの男と話し合って、できる限りきっぱり話をつけてしまわなければという意識があまりにもはっきり浮かんで胸騒ぎさえ覚えるのだった。
一度など、町の城門の外へ出ようとしたとき、ここでスヴィドリガイロフを待ちあわせることになっているんだ、ここが二人の面会の指定の場所だなどと勝手に思いこんでしまったりしたことさえあった。またあるときは、夜明け前にどこか藪《やぶ》のなかの地べたに寝こんでしまって目をさまし、どうしてそんなところへまよいこんだものか、とんと合点がいかなかったこともあった。
それでも、カテリーナの死後ここ二、三日の間に彼はスヴィドリガイロフとはもう二、三度、顔をあわせていた。しかもそのほとんどがソーニャの住まいで、そこへぶらりとなんのあてもなく、たいてい一、二分くらいのつもりで立ち寄ったようなときだった。二人はいつも短い言葉をかわすだけで、肝心な問題点には一度もふれたことはなく、まるでそのことについては時が来るまで黙っていようという約束ができあがってでもいるようなぐあいだった。カテリーナの遺骸はまだ棺に納まったままだった。スヴィドリガイロフは葬式の手配をし、なにくれと世話を焼いていた。ソーニャもやはり忙殺されていた。最後に顔をあわせたとき、スヴィドリガイロフはラスコーリニコフに、カテリーナの子供たちのことは自分がなんとか始末をつけた、しかも首尾は上々だった、つまり、ある手づるのおかげで口をきいてくれる人が何人か見つかり、その手を借りて三人のみなし子をぜんぶ、ちょうどいい施設へさっそく入れることができた、その際自分がつけてやった金も大変役だった、というのは金を持っている孤児のほうが文なしの孤児よりもずっと入れやすいからだといったような報告をした。それになにかソーニャのことも話にのぼせ、ここ数日のうちに自分のほうからラスコーリニコフを訪ねるという約束もした。そして、『ご相談したいことがあるんですよ、ぜひともお話しなければならない重大な用件があるんです』とも言っていた。この立ち話は、階段のそばの入り口でしたのだった。スヴィドリガイロフはラスコーリニコフの目をじっと見つめていたかと思うと、急に口をつぐみ、それから声を低めてこう聞いた。
「どうなすったんです、ロジオンさん、気もそぞろといったご様子じゃありませんか? まったく! 聞いてもいるし見てもいるようでありながら、なんにもおわかりにならないみたいですね。もっと元気を出しなさいよ。まあひとつ話しあうことにしましょうや。ただ残念なことに、用事がありすぎてね、自分の用事、人の用事と……え、ロジオンさん」と彼はだしぬけにこうつけ足した。「どんな人にも空気が必要ですよ、空気が、空気がね……なにはさておき!」
彼はそのとき、階段をのぼって来た司祭と補祭を通してやろうと、つとわきへ体を寄せた。彼らは法会《ほうえ》に来たのだった。スヴィドリガイロフの処置に従って法会は日に二度、きちんきちんとおこなわれていたのである。スヴィドリガイロフは自分の用事で出かけ、ラスコーリニコフはしばらく突立って思案していたが、やがて司祭のあとからソーニャの住まいへはいっていった。
彼は戸口に立った。法会がしめやかに、折目正しく、物悲しげに開始されようとしていた。ほんの子供の時分から彼はいつも、死を意識し死は存在すると感じるごとになにやら重苦しい、神秘的な恐ろしいものにつきまとわれたものだった。それに、もう久しいこと法会に列したことがなかった。その上、この場合はさらになにか別の、あまりにも恐ろしい、不安なものがあったのである。彼は子供たちに目をやった。子供たちはそろって棺のそばにひざまずき、ポーリャは泣いていた。子供たちのうしろではソーニャが静かに、声をしのぶようにして泣きながら、祈っていた。『ここ数日彼女は一度もおれのほうを見もしなかったし、おれに言葉ひとつかけてくれなかったじゃないか』という考えがふとラスコーリニコフの頭に浮かんだ。日光が明るく室内を照らし、香の煙がうずまきながら立ちのぼっている。司祭は『主よ、安らぎを与えたまえ』を唱えていた。ラスコーリニコフは法会がおわるまで立ちつくしていた。司祭は祝福して別れを告げるときに、なにか妙な目つきであたりを見まわした。法会がすんだあとで、ラスコーリニコフがソーニャのそばへ行くと、ソーニャは不意に彼の両手を取って、彼の肩に頭をもたせかけた。この短い動作はラスコーリニコフに烈しいけげんな気持ちをいだかせた。不思議な感じさえした。どうしたことだろう? 自分にたいするいささかの嫌悪も、いささかの反感も、いささかの手の震えも見られないじゃないか! それはまさに一種の限りない自己卑下の結果ではあるまいか。少なくとも彼はそれをそう解釈した。ソーニャはなんにも言わなかった。ラスコーリニコフは彼女の手をぎゅっと握ると、外へ出てしまった。彼はたまらなく苦しくなってきたのである。この瞬間どこかへ雲隠れして、完全にひとりっきりになれたとしたら、たとえそれが一生涯つづこうとも、彼は自分を仕合わせだと思ったにちがいない。ところが、問題なのは、ここ最近、いつもほとんどひとりでいながら、どうしてもひとりでいるような気がしないことである。彼は郊外へ出かけたり、街道へ出たり、あるときなどどこか森のなかへはいりこんだりしたことさえあったが、場所がさびしい所であればあるほど、だれかがそばにいるような不安な気持ちがひしひしと感じられて、恐ろしいというのでもないが、なにかひどく腹だたしい気持ちになって来るため、大急ぎで町へ引っ返して、人群れにまぎれこみ、食堂や呑み屋にはいりこんだり、トルクーチイ(古着市場)やセンナヤへ行ってみたりするのだった。そういうところのほうが、かえって気が楽で、ひとりっきりになったような気がするからなのだ。ある居酒屋では夕方歌を歌っていたが、彼は歌に耳をかたむけながらまる一時間もそこに入りびたっていて、かえって大変愉快だったような記憶があった。が、しかし終わり間近になると、またもやふうっと不安になり、まるで急に良心の苛責に悩まされ出したようなふうになった。『はたしておれはこうやって腰をかけて歌など聞いていていいものだろうか!』と、こんなことを思ったらしかった。
が、しかし彼はその場で、自分が胸騒ぎを覚えているのはこのことだけじゃない、なにか即刻解決しなければならない、そのくせ考えにあらわすことも、言葉でつたえることもできないようなものがあるのだということに気がついた。すべてがぐるぐる巻かれた糸玉のようにこんぐらかってしまうのだった。『いや、もうこうなったら、なんでもいいから戦ったほうがいい!もう一度ポルフィーリイか……それともスヴィドリガイロフとでも渡りあったほうがいい……一刻も早くまただれかが挑戦してくればいい、攻撃してくればいい……そうだ! そうだ!』などと彼は思った。と、そのとき不意に彼はドゥーニャと母親を思い、とたんになぜか惑乱するような恐怖に襲われた。その夜、朝になる前に、彼はクレストーフスキイ島の藪のなかで、全身熱で震えながら目をさました。そして、帰路につき、早朝のうちに家へ着いた。何時間か眠ると、熱病は去ったが、目が覚めたのはだいぶおそく、午後の二時だった。
彼は、カテリーナの葬式がきょうであることを思い出し、それに参列しなくてよかったと思った。ナスターシヤが食事を持ってきてくれた。彼は、旺盛な食欲を見せて、ほとんど貪るように飲み、かつ食べた。頭はここ三日ほどよりすっきりし、気分も落ちついていた。さきほどあわてふためくような恐怖に襲われたことが、ちらっと不思議にさえ思われた。とそこへ、ドアがあいて、ラズーミヒンがはいって来た。
「やあ! 食べているな、ということはつまり病気じゃないってことだ!」とラズーミヒンは言うと、椅子を取って、ラスコーリニコフに向きあうようにしてテーブルについた。彼は妙にそわそわした様子で、しかもそれを隠そうともしなかった。その話しっぷりは明らかにかんしゃくを起こしているような調子だったが、別に急ぐようなふうでもなければ、特別声を高めるというふうでもなかった。胸になにやら尋常でない特別な目論見《もくろみ》が秘められていると考えられないこともなかった。
「いいか、おい」と彼は決然たる調子で切り出した。「これから君たちみんながどうなろうと、僕は一切知らんぞ、もっとも、それは、僕にはどうにもわけがわからないってことが、今こそはっきりとわかったからなんだ。ただ、どうか、僕がなにか聞き出しに来たんだなどとは思わないでくれよ。そんなことはどうでもいいんだ!そんなことはこっちから願い下げだ! たとえ今君のほうから自分の秘密を残らずうち明けてくれたところで、こっちはおそらく耳もかさずに、唾を吐いて、出ていってしまうよ。僕がここへ来たのはただ、第一、君が気ちがいだというのはほんとうかどうか、この目で徹底的に確かめたかったからなんだ。君のことでは、いいかい、君はあるいは気ちがいか、でないとしても大いにその傾向があると信じている者がいる(まあ、どこかその辺にな)。正直なところ、僕自身も、その見解を支持するほうにだいぶ傾いていた、というのは、第一、君のばかげた、ものによってはぶざまな(なんとも説明のしようもない)行動から推して、第二には、君の最近の、おかあさんと妹さんにたいする振舞いから推してそう思われたからなんだ。だって、気ちがいでないとすれば、人でなしか卑劣漢ででもなければ、あの二人にたいして君みたいな行動はとれないはずだからな。従って、君は気ちがいということになるわけだ……」
「君が二人に会ったのはいつだい?」
「たった今だよ。君はあれ以来会っていないんだろう? 君はどこをうろついていたんだ、頼むからひとつ教えてくれ、僕はもうこれで君のとこへ三回も来たんだぜ。おふくろさんがきのうから大変な病気なんだ。君のとこへ来る気になったんで、アヴドーチヤさんがとめたところが、『もしもあの子が病気だったら、あの子が、頭がおかしくなっているとしたら、母親でなくてだれが看病してやれますか?』なんて言って、まるで言うことを聞かないんだ。で、みんなでここへ来たわけさ、だっておふくろさんをひとりでほうったらかしておくわけにもいくまい。それでここの戸口へ来るが来るまで、僕らはなだめどおしさ。はいってみりゃ、君がいないんで、おふくろさんはここに腰かけていた。十分も腰かけていたかな、で僕らは黙ってそばに突立ったきりさ。が、そのうちおふくろさんは立ちあがってこう言うじゃないか。『あの子が出歩いているとすれば、体のほうは大丈夫だってことだわ。それで母親のことなんか忘れてしまったのよ、だったら、わが子の家の入り口に立って、施しでもねだるように、愛情をねだるのは不体裁だし恥ずかしいことだわ』ってさ。それで家へ帰って、そのまま床について、今は大熱なんだ。そして、『どうも、あの子には|自分の女《ヽヽヽヽ》のためなら暇があるらしいね』なんて言っているんだ。おふくろさんの考えている、その|自分の女《ヽヽヽヽ》っていうのはソフィヤさんのことなんだ、君のいいなずけか恋人か、それはおれも知らんけどな。そこで僕はさっそくソフィヤさんのところへ出かける気になったわけだ、というのは、君、なにもかも調べあげてやれと思ったからさ、――で、来て見ると、棺がおいてあって、子供たちが泣いているじゃないか。そして、ソフィヤさんは子供たちに喪服の寸法などをとってやっている。が、君の姿はない。で、僕はそれを見とどけると、わび言を言ってそこを出て、そのとおりアヴドーチヤさんに報告した。してみると、あんなことはみんな根も葉もない話で、|自分の女《ヽヽヽヽ》なんてまるっきりいやしないんじゃないか、としてみれば、いちばん確かなのは発狂ということになる。ところが、君はといえばこうして坐って、ボイルド・ビーフなんかを、まるで三日も食べものにありつけなかったみたいに、がつがつ食っているじゃないか。そりゃ気ちがいだって食べることは食べるだろうさ。だけど、君は僕とまだひと言も口をきいちゃいないが、君は、まずどう見ても……気ちがいじゃないな! この点は僕誓ってもいい。なにはともあれ、気ちがいじゃないよ。だから、君たちなんかみんなどうとも勝手にしやがれってことになるんだ、だってこれにはなにか秘密が、なにか隠し事があるにちがいないもの。しかし、僕は君たちの秘密に頭を悩ますつもりなんかないぜ。僕がここへ立ち寄ったのはただ、思いきり悪態をついて、溜飲《りゅういん》を下げようと思ったからなんだ」と話を結んで、彼は立ちあがった。「こっちは、これからさき自分はなにをしたらいいかぐらいは、ちゃんと心得ているからな!」
「じゃ、これからさきなにをしようと思っているんだ?」
「僕がこれからどうしようと、そんなこと君の知ったことかい?」
「気をつけろよ、やけ酒でも呑もうってんだろう?」
「どうして……どうしてそれがわかった?」
「へっ、それくらいのことがわからなくてどうする!」
ラズーミヒンはちょっと口をつぐんだ。
「君はいつでもすこぶる的確な判断を下す男で、これまでに一度だって、一度だって気ちがいだったことなんかありゃしないさ」と、彼は急に熱した口調でいった。「確かに君の言うとおり、僕はやけ酒をやろうと思っているんだ! じゃ、失敬!」こう言って彼は出ていこうとした。
「ラズーミヒン、僕は、確かおとといだったと思うが、妹と君の噂をしたんだ」
「僕の噂を! いったい……どこで君はおとといあの人に会う暇なんかあったんだ?」ラズーミヒンは急に足をとめ、顔の色までいくぶん青くなったようだった。彼の胸のなかで心臓がゆっくりと張りつめた鼓動を始めたのが察せられるようだった。
「ここへ来たんだよ、ひとりで。ここに坐りこんで、僕と話をして行ったんだ」
「あの人が?」
「そうさ、あれがさ」
「で、君はどんな噂をしたんだ……つまり僕のことで?」
「僕はあれに、あの男は誠実で仕事好きで実にいい人間だって言っておいたよ。君があれを好きだってことは言わなかったがね、だってそんなことはあれには言わなくたってわかっているからさ」
「わかってるって?」
「そうさ、わかりきってるさ! 僕がどこへ行こうと、僕の身になにが起ころうと、――僕は君にいつまでもあの二人の面倒を見てもらいたいね。僕は、いわばあの二人を君にリレーするわけだよ、ラズーミヒン。こんなことを言うのは、君があれをどんなに愛しているか、僕にはちゃんとわかっているし、それに君の心の清らかさも信じているからなんだ。あれのほうもそのうち君を愛するようになる、いや、もしかすると、もうすでに愛しているかもしれないってことも、僕にはわかっているんだ。さあそこで、どうしたらいいか、――やけ酒を呑むべきか、呑むべきでないかを決めるんだな」
「ロージャ……それがね……ちぇっ……えい、畜生! しかし、君はいったいどこへ行くつもりなんだい? まあ、それは秘密だって言うんなら、それでいいさ……僕は……僕はそのうちその秘密をかぎ出してみせるから……だけど、まあ、まずなにかばかげた、ひどくたあいもないことにちがいないな、きっと、何もかも自分ひとりでたくらんでいるんだろう。が、それにしても君はまったくすばらしい男だよ! 実にすばらしい男だ!……」
「さっきつけ加えて言っておこうと思い、君に口を出されて言いそびれてしまったんだが、君はさっき、秘密や隠し事なんか知ろうとすることはないなんて言っていたが、あれはまったくいい分別だよ。時期が来るまでこのままほうっといてくれ、心配しないで。なにもかもそのときが来ればわかることなんだ、つまり必要なときが来ればね。きのう僕はある男に、人間には空気が必要だ、空気が、空気が、って言われたんでね! で、僕は今すぐその男のところへ出かけて行って、どういう意味なのか、聞いてこようと思っているんだ」
ラズーミヒンは考えこんで興奮しながら突立って、なにやらしきりに思いめぐらしていた。
『こいつはきっと政治的陰謀の一味なんだぞ!きっとそうだ! そして今、なにか決定的な一歩を踏み出そうとしているところなんだ――それにちがいない! そうでないはずはないもの、それに……それにドゥーニャもそれを知ってるんだ……』彼はふと腹のなかでそう思った。
「すると、アヴドーチヤさんは君のとこへ来ているわけか」と、彼は言葉に抑揚をつけながら言った。「そして君は、空気がもっと必要だ、空気が、なんて言っている男と会おうとしている……そうすると、つまり、あの手紙も……あれもやはり出所はおなじなんだな」と彼はひとり言のような口調で話を結んだ。
「手紙ってどんな?」
「妹さんがきょう手紙を一通受け取ってな、とても心配そうな顔をしていたんだ、とっても、それこそひどくな。そして、僕が君の話を持ち出したら――黙っていてくれなんて言ってさ。それから……それから……ひょっとしたら、わたしたち早急にお別れすることになるかもしれないなんて言ったかと思うと、そのあとで僕に、なんのことか熱っぽい調子でお礼なんか言い出してね。それから自分の部屋へ引っこんで、鍵をかけて閉じこもってしまったんだ」
「あれが手紙を受けとったって?」とラスコーリニコフは思案顔で聞きかえした。
「そうだよ、手紙をさ。君は知らなかったのかい? ふうん」
二人ともしばらくおし黙っていた。
「じゃ、失敬するよ、ロジオン。僕も、君……一時は……が、やめとこう、さようなら。実は、一時……まあ、いいや、さようなら! 僕ももう時間なんでね。酒はもうよしたよ。こうなったらもうそんな必要はないものな……ちぇっ、なにを言ってるか!」
彼はあわてていた。が、すでに外へ出て、うしろ手にほとんどドアをしめてしまってから、またあけて、どこかそっぽを向きながら、こんなことを言った。
「ついでにひと言! あの殺人事件を覚えているだろう、え、ほら、あのポルフィーリイのやつさ、例の婆さんの事件を? それがさ、こうなったんだよ、その犯人が見つかったのさ、自白してね、証拠を残らず出してみせたわけなんだ。それが、どうだい例のペンキ屋のひとりの、ほら、君も覚えているだろう、僕がここで弁護したことがあったじゃないか。君には信じられないだろうけど、あの連中、つまり庭番と二人の目撃者が階段をのぼっていったとき、階段のところで相棒相手に取っ組みあいをしたり笑ったりしたあのひと幕はぜんぶ、そいつが人の目をはぐらかすためにわざと仕組んだものなんだってさ。あんな若造のくせに、大した悪知恵じゃないか、大した度胸じゃないか! なかなか信じられないことだけど、自分がそう説明しているんだし、自分からすっかり白状しているんだからな! いやまったく僕もとんだへまをやったもんだ! なんのことはない、僕に言わせりゃ、あれは単に空っとぼけと頓智の天才、法網くぐりの名人というだけのことであって、――してみれば、なにも別に驚くべきこともないわけだがね! こういう例はいくらでもあるからな! 最後までそれで押しとおせずに白状に及んじまっただけに、かえってそいつの言うことを信じたくなるじゃないか。そのほうがいかにもほんとうらしいもの……が、それにしても僕はあのときはとんだどじを踏んじまったよ!やつらのために狂態を演じちまったわけだものな!」
「頼むからいってくれ、君はその話をいったいどこから仕入れて来たんだ、それにどうして君はその事件にそんなに興味を感じているんだい?」と、ラスコーリニコフは明らかに興奮の体で聞いた。
「これはまた驚いた質問だね! どうして僕が興味を感じているかだって! 変なことを聞くもんだね! ……ポルフィーリイから聞いたんだよ、ほかの者からも聞いたけどな。もっとも、大部分はあいつから聞いたのさ」
「ポルフィーリイから?」
「ポルフィーリイからさ」
「で、あいつ、なんて……なんて言っていた?」とラスコーリニコフはおびえたような調子で聞いた。
「あいつは見事に解説してくれたよ。やつ一流の心理的方法でな」
「あいつが解説してくれた? あの男が自分で君に解説したのか?」
「自分でだよ、自分で。じゃ、失敬! またいずれそのうちいろいろ話すことにしよう、きょうはほかに用事があるんでな。あの頃……一時、僕もそう思ったことがあったけどな……が、まあいいや。あとにしよう! ……こうなったらもう酒なんか必要ないさ。君は僕を、呑まないのに酔わしてくれたものな。僕はもう酔っぱらってるぜ、ロージャ! もう酒も呑んでないのに酔っぱらっちまっているよ、じゃ、さようなら。ごく近いうちにまた来るから」
彼は出ていった。
『あれは、あれは政治的陰謀の一味なんだ、きっとそうだ、きっとそうだ!』と、ラズーミヒンはゆっくり階段をおりながら、腹のなかでそう断定した。『そして妹も引き入れてしまったんだ。こういうことは、アヴドーチヤさんの気性から言って大いにありうることだ、大いに。二人はひそかに会いはじめたんだ……それに彼女もおれにちょっと匂わしたことがあったじゃないか。彼女のいろんな言葉……ちょっとした言葉のはしばし……ほのめかすような言い方などから推して、確かにそういうことになるものな! それ以外にあのこみ入った問題はなんとも解釈のしようがないもの。ふむ! おれも一時あんなことを考えかけたけど……やれやれ、おれもなんてことを考えだしたもんだろう。そうだ、あれは気の迷いだったんだ、あいつにたいしてすまないことをしたわい! あれは結局、あのときあいつが廊下のランプのそばでおれにそういう気の迷いを起こさせたわけなんだ。ちぇっ! おれとしちゃあれはまったくきたない、乱暴で下劣な考えだったな! えらいぞ、ニコライ、自白してくれて……さあ、これで今までのこともすっかり説明がつくってものだ! あの頃のあいつの病気も、あいつのああいった奇怪な振舞いも。以前だって、ずっと前だって、まだ大学へ行っていた頃だって、あいつはいつもあんなふうに陰気な気むずかしい男だったじゃないか……だけど、そうなるとあの手紙はどういう意味なんだろう? あれにもやはり、多分、なにかいわくがあるんだな。あれはだれから来た手紙だろう? どうもおかしいぞ……ふむ。いや、おれはすっかり調べあげてみせるからな』
彼はドゥーニャのことを思い出して、いろんなことを思いあわせているうちに、心臓がとまりそうになった。彼はその場から身をおどらせて駆け出した。
ラスコーリニコフは、ラズーミヒンが出ていくとすぐに立ちあがって、窓のほうへ向きを変え、まるで自分の部屋が狭いことを忘れてしまったように、隅から隅へとぶらついたかと思うと、……またソファに腰をかけた。彼は体じゅうよみがえったような感じだった。また、戦いだ――つまり出口が見つかったということだ!
『そうだ、出口が見つかったってことだ! これまではなにもかも詰めこまれて栓でもされたみたいで、苦しいほど圧迫感を覚え、なにか麻酔剤でもかけられたようなぐあいだった。ポルフィーリイのところであのニコライのひと幕に接して以来、おれは闇のなかで出口が見つからずにあえぎはじめたんだ。ニコライの一件のあとで、そのおなじ日にソーニャのところでまたひと幕あった。それであのときは、それまでまるっきり想像もしていなかったようなふうに事を運んで、結末をつけてしまったんだ……つまり、一瞬にして急に気が弱くなってしまったわけだ! 一どきに! そして、ソーニャに同意してしまったわけだ、こっちから進んで同意してしまったわけだ、このままひとりでこんな問題を胸にかかえて生きていけるものじゃないという意見に、心から同意してしまったわけだ!ところで、スヴィドリガイロフのほうは? スヴィドリガイロフは謎だ……スヴィドリガイロフにも不安は感じる、それはそのとおりだ。が、しかしどうもあっちとはちがうようだな。スヴィドリガイロフとも、もしかしたら一戦を交えなければなるまい。もっとも、スヴィドリガイロフのほうも、事によると、立派な出口かもしれないぞ。だが、ポルフィーリイのほうは別問題だ』
『そうか、なるほど、ポルフィーリイのやつ、自分から進んでラズーミヒンに解説してやったか、あいつに|心理的な《ヽヽヽヽ》解説をして聞かしたか!またしても持ち前のいまいましい心理的方法を持ち出しやがったか! あのポルフィーリイが? あのときおれとあいつとの間にああいうひと幕があったあとで、ニコライが現われる前に、正しい解釈は|たったひとつしかない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と思えるような、双方目と目を見あってにらみあったあのひと幕があったあとで、あのポルフィーリイがたとえ一分たりとも、ニコライが犯人だなどと思いこむはずがあるだろうか?(あのあと数日というもの、ラスコーリニコフの頭に何回もあのポルフィーリイとのひと幕がきれぎれにひらめき、思い出されるだけで、全体として思い出をたぐることはできなかったのだった)あのときは、二人の間にあれほどの論戦がかわされ、あれほどのしぐさやジェスチュアが示され、二人があんな視線をかわし、あんな大声で物を言い、あんなぎりぎりのところまで行ってしまった以上、あんなひと幕があったところでニコライになど(ニコライのことなどポルフィーリイはその最初の言動からしてそらんじるように見ぬいてしまっていたのだ)、今さらニコライになど彼の信念が根底からゆすぶられるはずはないじゃないか』
『それにしてもどうしたことだ! ラズーミヒンまでがおれを怪しみ出していたじゃないか!してみると、あの廊下のランプのそばでのひと場面はただじゃすまなかったわけだ。だからこそあいつはポルフィーリイのところへ飛んでいったわけなんだ……だとしたら、しかし、ポルフィーリイのやつ、どういうわけであいつをあんなことまでしてだましにかかったんだろう?あの男はどういう目的があってラズーミヒンの目をニコライのほうへそらすようなことをしたんだろう? こいつはどうしてもあいつなにか思いつきやがったんだな。これにはなにかもくろんでいることがあるんだ、が、それならそれはなんだろう? 確かに、あの朝以来ずいぶん時がたっている、――あまりにも時がたちすぎているくらいなのに、ポルフィーリイの噂はなにひとつ小耳にはさんでいないぞ。なににしても、これはむろんいいことじゃない……』
ラスコーリニコフは帽子を取ると、物思いにふけりながら部屋を出た。このところ、少なくとも自分は意識が健全だと感じたのはきょうが初めてだった。『まずスヴィドリガイロフのほうを片づけてしまわなければ』と彼は思った。『それも、たとえどうなろうと、なるべく早く。それにあの男のほうも、僕が行くのを待っているらしいからな』とたんに、彼の疲れはてた胸の底からむらむらとすさまじい憎悪がこみあげてきて、事と次第では、スヴィドリガイロフかポルフィーリイか、この二人のうちのだれかを殺してしまいかねないような気がした。少なくとも、彼は、今でないとすれば、そのうちいつか決行しかねないような気がした。『今に見ていろ、今に見ていろ』と彼はくり返しひとり言を言っていた。
ところが、入り口へ出るドアをあけたとたんに、ばったり当のポルフィーリイと顔をあわせてしまったのである。むこうは彼の部屋へはいろうとしたところだったのだ。ラスコーリニコフは一瞬間立ちすくんだ。が、奇態なことに、彼はポルフィーリイの出現を大して不思議とも思わなかったし、ほとんど驚きもしなかった。彼はただぴくっと体を震わせただけで、たちまちのうちにすばやく身がまえをしていた。『事によると、これが大詰めかもしれないぞ! それにしても、こいつめ、なんだって猫みたいにそうっと忍び寄って来やがったんだろう、おれにはなんにも聞こえなかったぞ。まさか立ち聞きしていたわけじゃあるまいな?』
「こんな客が来ようとは、思いがけなかったでしょう、ロジオンさん」と、ポルフィーリイは笑いながら声をかけた。「もうだいぶ前からお寄りしようと思っていたんですがね、ちょっと通りかかったんで、こう考えたんです、五分くらいご機嫌うかがいにお寄りしても悪いことはなかろうとね。どこかへお出かけになるところでしたか? 長くお引きとめはしません。もしもいいと言うんでしたら、タバコを一本すう間だけでも……」
「さあ、おかけ下さい、ポルフィーリイさん、おかけ下さい」とラスコーリニコフは客に椅子をすすめたが、その顔つきたるや、見たところ、いかにも嬉しそうな、親しげな様子で、もしも自分の姿を見ることができたとしたら、それこそ自分で自分にあきれはてたにちがいないと思われるくらいだった。それこそなに食わぬ顔をしていた! 人間はよくこんなぐあいに強盗と向かいあっても半時間も死の恐怖に耐えぬき、いよいよのどもとに短刀を擬せられでもすると、かえって恐怖さえ消えてしまうことがあるものだ。ラスコーリニコフはポルフィーリイの真向かいにぴたりと坐って、まばたきひとつせずに相手をじっと見つめていた。ポルフィーリイは目を細めて、巻きタバコをふかしはじめた。
『さあ、口をきいたらどうだ、口をきいたら』こんな言葉がラスコーリニコフの胸から今にも飛び出してきそうな気持ちだった。『さあ、いったいなんで、なんだって、なんだってきさまは口をきかないんだ?』
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「いやまったくこのタバコというやつは!」ポルフィーリイはタバコを一本吸いおわって、ひと息入れてから、あげくのはてにこう口をきった。「毒なんですがねえ、まったく毒なんですが、やめられませんな! 咳は出る、のどはむずむずする、喘息は起こるといった始末なのにね。私はね、実は気が小さいもんですから、この間さっそくBのところへ見てもらいに行ったんですが、――その先生ときたら、――患者ひとりに minimum(最少限)三十分もかけるような男なんですが、それが私を見て、笑い出してしまったくらいですよ。それでも、打診も、聴診もしてくれて、言うには、あなたにはとりわけタバコはいけませんな、肺がひろがっているんでね、ですって。だからといって、どうして私にタバコがやめられますか? 代わりになるものもないというのに。酒はやりませんからね、こいつが困りものなんですよ、へ、へ、へ、酒が呑めないということが困りものなんです! 事はなんでも相対的なものですからな、ロジオンさん、何事も相対的ですよ!」
『こいつはいったいなにをしようっていうんだろう、また持ち前のお役所主義にとりかかろうとでもいうのか!』とラスコーリニコフは思って嫌悪を催した。と不意に、この前の二人の会見の模様が思い出されると同時にあのときの感情が波のように胸におし寄せてきた。
「私はおとといの晩もお寄りしたんですよ。ご存じないでしょう?」とポルフィーリイは室内を見まわしながら語をついだ。「部屋のなかへ、この部屋のなかまではいったんですよ。やはりきょうとおなじように、そばを通りかかったんで、――ひとつ訪ねてみようと思ったんです。立ち寄ってみると、部屋はあけはなしてある。そこで、なかの様子を見て、しばらくお待ちしたんですが、お宅の女中さんにはなにも告げずに――そのまま出てしまいました。鍵はおかけにならないんですか?」
ラスコーリニコフはますます暗い顔になってきた。すると、ポルフィーリイは彼の腹を見ぬいてしまったらしく、
「釈明をしに来たんですよ、ロジオンさん、釈明をしに! 私はあなたに釈明をすべきだし、する義務もあるわけです」と彼は微笑を浮かべながら語をついで、手のひらでラスコーリニコフのひざまで軽くたたいてみせたが、ほとんど同時に、その顔は急にまじめくさった、心配そうな顔つきになり、ラスコーリニコフが驚いたことには、顔が一面憂愁にとざされたのである。ラスコーリニコフはこれまでまだただの一度も彼のそんな顔を見たこともなかったし、彼がそんな顔つきをしようなどとは思ってみたこともなかった。
「先日は二人の間に妙な光景がくりひろげられましたね、ロジオンさん。確か初めてお目にかかったときも、二人の間に妙なことが起こりましたけど、あのときは……が、まあ、今となってみればどっちでもおなじようなものですがね! そこでですな、多分、私はあなたに大変すまないことをしたのじゃないかと思うんですよ。私にはそういう感じがするんです。あのときの二人の別れ方といったら、覚えていますか、あなたも神経がぴりぴり、ひざはがくがく、私も神経がぴりぴり、ひざはがくがくといったぐあいでしたね。それにさ、ね、あのときは二人の間がなんだか妙にぐあいがおかしくなって、紳士的じゃなかったでしょう。われわれはなんといってもやっぱりジェントルマンですからな。つまり、とにもかくにも、まずジェントルマンですものね。これは心得ておくべきことですよ。あのときどうなってしまったか、覚えていらっしゃるでしょう……いやまったくもう無作法と言ってもいいくらいでしたな」
『こいつなにを言ってやがるんだ、おれをだれだと思ってやがる?』ラスコーリニコフは頭をあげ、目をいっぱいに見ひらいてポルフィーリイの顔を見ながら、あっけにとられてこう自問した。
「私はこう判断したんですよ、こうなったら二人はざっくばらんにやったほうがいいとね」ポルフィーリイはやや頭をのけぞらし、目を伏せたまま語をついだが、その様子は自分の以前のいけにえに目をやってこれ以上困らせたくもないし、また以前のやり口やトリックなど用いるまでもないといったふうに見えた。
「そうでしょう、あんな嫌疑やあんな光景なんかそんなにいつまでもつづけられるはずはありませんからな。あのときニコライが解決してくれたからいいようなものの、でなかったら、二人の間がどうなったか、まったく見当もつきませんよ。あのしゃくにさわる商人め、あのとき私のとこで仕切りのむこうにずうっとひそんでいやがったんですからな、――あなたにはそんなこと想像がつきますか? しかし、あなたはもう、もちろん、こんなことはご承知のはずだ。私にだって、あの男がそのあとでお宅へあがったことはわかっているんです。しかし、あなたがあのとき想像されたようなことはまったくなかったんですよ。あの頃はまだだれを召喚したわけでもないし、まだなんの手配もしていなかったんですから。どうして手配をしなかったのかとおたずねですか? ま、なんと言ったらいいか、あのときは私自身ああいったいろんなことにぶちのめされたような状態だったんですよ。庭番たちの喚問の手配もようやっとやれたくらいでしてな。(庭番たちがいたことには、おそらく、通りしなにお気づきだったろうと思いますがね)あのとき私の頭にある考えが稲妻のようにきらりとひらめいたんです。あのときはすでに、それ、私もてっきりそうにちがいないと信じこんでいましたからね、ロジオンさん。ようし、と私は考えましたね、片方は一時取り逃がしたとしても、そのかわりもう一方の尻尾をおさえてやるぞ、――自分がねらったものだけは、少なくとも自分がねらったものだけは取りおさえてみせるぞとね。ロジオンさん、あなたはまったく怒りっぽい人ですね。あなたの気性や心ばえのいろんな、それ以外の基本的な特質――私は部分的にはそれを理解したと自負しているんですが――そういった特質を思えば、あまりにも度がすぎると思われるくらいですよ。そりゃもう、もちろん、私にだって、あのときですら、人間、立ちあがるなり秘密という秘密を洗いざらいぶちまけてしまうなんてことはそうざらにあるものじゃないくらいの判断はつきましたよ。そういうことは、人間、堪忍袋の緒を切らされたような特殊な場合にはありうるにしても、とにかくめったにあるもんじゃない。私にもそれくらいの判断はつきましたよ。で、私は思いましたね、いや、ほんのちょっとした証拠でもいいんだ! ほんのけし粒ほどの証拠でもいい、たったひとつの証拠でもいい、ただ、こうして手でつかめるようなものがほしい、例の単なる心理的なものでない、物的なものがほしいとね。というのは、もしある人間が罪をおかしていたとしたら、いずれにせよ、そのうちなにか重大なものがその人間からつかめるものだとこう考えていたからです。あのとき私はあなたの気性をあてにしていたわけですよ、ロジオンさん、なによりもまず気性をね! あのときは大いにあなたに期待をかけていたわけです」
「それにしてもあなたは……あなたはいったいどうして今頃そんな話ばかりするんですかね」と、ラスコーリニコフはついに、自分の質問の意味をよく考えもせずに、そうつぶやいた。『こいつはなんのことを言っているんだろう』彼は内心途方にくれていた。『まさかほんとうにおれを白だと思っているわけでもあるまい?』
「どうしてこんな話をするかって言うんですか? 私は釈明をしに来たんですよ、それを、いわば神聖な義務だと思ってね。私はなにもかも洗いざらい、あったまま、あのとき起こった、いわば心の迷いのいきさつの全貌を述べさせてもらいたいんです。私もずいぶんあなたを苦しい目におあわせしましたものね、ロジオンさん。私だって悪人じゃありませんからな。生きていく気力を失った、がそれでいて気位が高くて鼻っ柱の強い、短気な、わけても短気である人間にとって、こういったいろんなことを背負っていくということがどんなに辛いかぐらいのことは、私にだってちゃんとわかりますからね! 私はともかくあなたを高潔この上もない人間、寛大な心の芽さえ持った人間と見て尊敬しています、もっとも私はあなたの信念には一から十まで賛成しているわけじゃありませんがね、このことは義務と心得てあらかじめ率直に、十分な誠意をもってはっきり申しあげておきます、なにはさておきあなたをだましたくはありませんからね。あなたという人がわかって以来、私はあなたに愛着を覚えましたよ。あなたは、多分、私がこんなことを言っているのをさぞお笑いでしょうな? それはあなたの権利ですからご随意に。私は、あなたが私をひと目見たときから嫌っておられる、従って本質的に好きになれるわけもないということは承知しております。しかし、どうお考えになろうと、それはあなたのご勝手ですが、今の私のほうの希望としては、これまでに与えた印象をあらゆる手をつくして拭いさって、私も血も涙もある人間であるということを証明したいのです。これは衷心《ちゅうしん》から言っているんですよ」
ポルフィーリイはもったいをつけてここで話をきった。ラスコーリニコフは一種の新しい驚きがわき起こるのを感じた。ポルフィーリイは自分を白だと見ているという考えに、彼は突如驚きを覚えはじめたのである。
「あれがあのとき突然どういうふうにして起こったかといういきさつを、ぜんぶ一々順序だてて話す必要はありますまい」とポルフィーリイは話しつづけた。「むしろ余計なことだと思います。それに、私にはとてもできそうにもありません。だって、精確細密な説明をすることなんてとてもできるわけはないでしょう? 最初噂が立った。それがどういう噂で、だれから、いつ出たのか……そしてどういう原因でそれがあなたの身にまで及んだかといったようなことも――これまた余計なことだと思います。私個人の場合は、偶然から、それも最高度に起こりえたかもしれないし起こりえなかったかもしれないような、あるまったく偶発的な偶然から始まったのですが、――ではどういう偶然なのか? ふむ、これもやはり話すことはないと思います。あのときは私の頭のなかで、そういったことが、噂や偶然がぜんぶいっしょになってひとつの考えにまとまったわけです。どうせもう白状したからには、なにもかもあからさまに白状してしまいますが、――あのとき最初にあなたに嫌疑をかけたのもこの私です。
ああした、たとえば品物に書いてあった婆さんの覚え書等々といったような――あんなことはみんなくだらないことです。あんなものなら、百でも二百でも挙げられますよ。それにやはりその頃たまたま、やっぱり偶然に、警察署でのひと幕を詳細に聞き及ぶ機会にめぐまれたのです、それも通りすがりになどというんじゃない、権威筋のある特別な人間から聞いて、しかもその話し手が自分でもそれとは知らずに、あの一件を強調してしまったんです。こういったことがつぎつぎと重なっていったわけですよ、ロジオンさん! こうなったらいやでもある方向に向かわざるを得ないでしょう? 百羽の兎を集めてもけっして馬一頭にはならないし、百の嫌疑を集めたって証拠ひとつにもならないことは、イギリスのことわざが示すとおりですが、そういうことがわかるのもいい分別のある場合だけであって、かあっとなっているときに、かあっとなっている最中にうまくさばけるかどうか、まあやってみてごらんなさい。なんと言ったって判事だって人間ですからな。そこへ私はあなたの論文、小さな雑誌にのったあなたの論文も思い出したわけです。
覚えていらっしゃるでしょう、ほら、あなたが初めて訪ねてこられたとき、あの論文についてくわしくお話し下さったでしょう。あのとき私はあなたをからかいましたが、あれはあなたをもっと誘い出してしゃべらせるためだったのです。もう一度言いますが、あなたは実に短気ですね、病的ですよ、ロジオンさん。あなたは大胆で、傲慢で、まじめで……感受性がある、すこぶる感受性に富んでおられるということは、私はもうだいぶ前から知っていましたよ。そういった感情は私も身に覚えがあるんで、あなたの論文を懐かしく拝読させてもらいました。あの論文は眠れぬ夜な夜な、昂揚した気分で、胸の高鳴りを覚え、熱狂をおさえながら、夢中で構想されたものでしょう。ところが、若いときのこのおさえつけた、誇りに満ちた熱狂というやつは危険なんですよ! 私もあのときはからかいましたけど、今だから申しあげますが、私はだいたい、つまりひとりのアマチュアとして、あの最初の、若々しい、熱をおびた試作が大好きなんですよ。あれは煙です、もやです、そのもやのなかに絃の音がひびいています。あなたの論文はばかげた空想的なものですが、あれにはすばらしい真摯《しんし》さがきらめいている、あれには若々しい、買収のきかない誇りがある、あれには向こう見ずな大胆さがあります。あれは陰鬱ですよ、あの論文は。しかしそれもけっこうです。
あなたのあの論文を私はあの頃読んで、そしてわきにおきました、そして……そのときあれをわきへおいて考えましたね、『うん、この男はこれだけではすむまい!』とね。さあ、ひとつ言って下さい、前にこういったことがあったというのに、どうしてそのあと起こった事件にひきつけられずにいられますか? なんのなんの! 私はなんにも言ってやしませんよ! 今なんにも断定しているわけじゃありませんよ! 私はあのときそう気づいたというだけのことです。こんなことになにがひそんでいるというのだ、と私は考えました。なんにもありゃしない、つまりまったくなんにもあるわけじゃない、事によると、それこそまったくなんにもないかもしれないんだとね。それに、判事たる私がそんなことにそんなに熱を入れるなんて、まったく醜態もはなはだしいくらいですものね。私はあのニコライという人間を掌中に握っている、それにもう事実までそろっている、――この場合なにを言おうと勝手だが、事実は事実ですからな! あいつはあいつでやはり自分なりの心理を持ちこんで来ている。あの男の調べにもかからなければならない。なにしろ、生死にかかわる問題ですからな。ところで、私は今なんのためにこんなことを説明していると思います? あなたに一切を知ってもらって、あなたの頭と心に訴えてあのときの私の敵意に満ちた行動を責めないように願いたいと思うからなんです。敵意に満ちていたわけでもないんですよ、まじめな話、へ、へ!
あなたはどうお考えです、私はあの頃あなたのところへ家宅捜索に来なかったとお思いですか? 来ましたよ、来ましたとも、へ、へ、来ましたとも、あなたがほらそこで床に寝ていたときにね。正式にでも、私的にでもありませんが、来たんですよ。お宅にあるものは、まだ最初の証跡が残っている間に、髪の毛一本残さずに調べあげたんです。が、しかし―― umsonst(むだ骨)でしたよ! で、私は思いました。今そのうちあの男はやって来るさ、自分からやって来るさ、それもごく近いうちに。罪を犯していれば、必ずやって来るはずだ。ほかの者ならいざ知らず、あの男ならやって来るはずだとね。ところで、覚えていらっしゃいますか、その頃ラズーミヒン君があなたにいろいろしゃべり出したのを? あれはわれわれが、あなたを興奮させるために仕組んだんで、われわれはわざと風説を放って、あの男にあなたの前でしゃべらせようとしたんです、なにしろラズーミヒン君はあのとおり、憤慨したらそれをおさえられない人間ですからね。ところで、まっさきにザミョートフ君の目についたのは、あなたの怒りっぽさとあなたのむきだしな大胆不敵さでした。だって、食堂でいきなり『おれが殺したんだ!』なんて口をすべらすんですからな。大胆すぎますよ、不敵すぎますよ。そこで私は、あの男が犯人だとしたら、こいつは恐ろしい闘士だぞと思いましたね。それから待ちましたよ! 一所懸命あなたを待ちましたよ。あなたはあのときザミョートフをすっかり圧倒してしまったわけです、……そこがそれ、例のしゃくにさわる、両様にとれる心理というやつなんですよ!
で、まあ、私はそうやって待っていたわけですが、見れば、神さまのお導きでしょうか――あなたがやって来たじゃありませんか! 私はいきなり胸がどきんとしましたね。だって、あなたには来なくちゃならない理由なんかなかったんですからな! それに、あの笑い、あのときあなたがはいって来たときのあの笑い、覚えていらっしゃるでしょう、私はあのときガラス越しにでも見るように、なにもかも見破ってしまいました。これがもしああいう特別な気持ちであなたを待っていなかったら、あなたの笑い声を聞いてもなんにも気づかなかったでしょうな。これがつまり、気分の恐ろしさってやつですよ。あのラズーミヒン君もあのとき、――あ、そうだ! あの石、石、覚えていらっしゃるでしょう、下へ物を隠したというあの石のことを? いやまったく、どこかその辺の野菜畑にある石が目に見えるようでしたね、――野菜畑とあなたはおっしゃってたでしょう、ザミョートフに、それから二度めには私の家で? それに、われわれがあのときあのあなたの論文を検討し出すやいなや、あなたが考えを述べ出すやいなや、――あなたの言葉のひとつひとつが二様にとれて、その言葉のかげに別の意味が隠れているように聞こえたものです! さて、そこで、ロジオンさん、そんなふうにして私は最後の柱までたどり着いたとたんに、額をごつんとぶっつけて、われに返ったわけです。いや、いったいおれはなにをしているんだ、とこう自分に言いました。もしその気になれば、こんなことはみんな最後の一点にいたるまで、別様にも説明のつくことじゃないか、それにそのほうがいっそう自然なくらいだ、とね。私も悩みましたね! 『いや、こうなったらほんのちょっとした証拠でも握るにこしたことはない!……』と思っていたやさきに、例の呼び鈴の件を耳にしたときには、体じゅうとたんにしびれたようになって、ぞくぞくと身震いがついたくらいでしたよ。『さあ、これこそ例のちょっとした証拠だぞ! これだ!』と私は思いましたね。
そのときはもう私は慎重に考えるなんてことはしなかった、ただもう考えたくなかったのです。あの瞬間、あなたの顔を|この目《ヽヽヽ》で見ることができさえしたら、自分の懐を痛めても千ルーブリだって投げ出したでしょうよ、あなたがあの小商人に面とむかって『人殺し』と言われたあと、その小商人と百歩ほど肩を並べて歩き、その百歩ほど歩く間じゅうあの男になにひとつ聞く気力もなかったあのときのあなたのお顔をね! ……それにしても、あのとき背すじを走ったぞうっとする気持ちはどうでした? それに、病気中に、半ば熱に浮かされて引っぱったあの呼び鈴は? こんなわけで、ロジオンさん、こういうことがあったんですもの、私があのときあなたにあんな悪ふざけをしたからと言って、あなたはなにも驚くにはあたらんでしょう? それにあなただってちょうどあんなときに来ることはなかったでしょう? あれじゃまるであなたはてっきりだれかに突っつかれて来たみたいじゃありませんか、全く私たち二人をニコライが引き分けてくれなかったら、それこそ……ところであのときのニコライを覚えていますか? よく覚えていますかね? まさにあれは青天の霹靂《へきれき》でしたよ! あれは黒雲のなかから雷鳴がとどろき、稲妻の矢がきらめいたようなものです! が、さて私はそれをどう迎えたでしょう? その稲妻の矢なんかちっとも信じてやしませんでした、それはあなたもごらんのとおりです! 信ずるなんて、とんでもない! あのあと、あなたが帰られてから、あの男がある点についてまったくもって筋の通った答弁を始めたときには、いささか私も驚きましたが、そのあとではあの男の言うことなどちっとも真に受けてやしませんでした!これこそ、鉄石のごとく揺がぬってやつでしょうな。私は思いましたね、なんの、なんということがあるか! ニコライなぞになにができるもんか、とね」
「ラズーミヒンがたった今僕に話していったんだけど、あなたは今でもニコライを有罪と認めていて、自分でそうラズーミヒンに断定なさったというじゃありませんか……」
彼は息がつまってしまったので、最後まで言いきらなかった。彼は、相手の腹の底を見ぬいていながらその自分の目を信じまいとする人間の気持ちで、言いようのない興奮を覚えながら話を聞いていた。彼は信ずることが怖かったので、信じようとしなかったのである。そして、まだどちらとも取れる言葉のなかになにかもっと正確で決定的なものをさがしもとめ、とらえようとしていたのである。
「ラズーミヒン君ですか!」ずうっと黙りこんでいたラスコーリニコフから質問が出たのが嬉しいといった様子で、ポルフィーリイは叫んだ。「へ! へ! へ! ラズーミヒン君なんかはあのままわきへどけておくべきだったんですよ。二人はうまくいっている、他人は割りこむなってとこですからね。ラズーミヒン君は場ちがいだし、それに局外者ですよ、私のところへ真っ青な顔をして駆けつけたりして……なあに、あんな男はかまうことはない、あの男のことなんかこの話のなかへ持ちこむことはありませんよ! ところでニコライについては、あれはどんな題材か、私の理解しているかぎりではどんな題材なのか、知りたいとは思いませんか? まず第一に、あれはまだ成年に達していない子供でしてね、それに臆病者というんでもないんで、まあ、一種の芸術家みたいなもんでしょうかね。まったくそのとおりなんで、私が彼にこんな解釈を下しているからといって、笑わないで下さいよ。無邪気で、何事にも感受性がつよく、情が深くて、夢想家なんです。それに、歌もやれば踊りもやるし、おとぎ話にしても、人の話では、よそから人が集まって来るくらいの語り手だそうです。学校へも行ってるし、ちょっとしたことにも笑いころげる、かと思えば、わからなくなるほど呑むこともある、といってもそれは遊び癖からというのじゃなくて、ときどきみんなに呑まされてそうなるんで、まだ子供なんですよ。あのときだって盗んでいながら、自分じゃそれを知らないんですからね。『地面に落ちていたものをひろったのに、なんで盗んだことになるんだ?』とこうなんですから。ご存じかどうか知らないが、あの男は分離派教徒(十七世紀にロシヤ正教会から離れた非改革派の教徒)なんです、いや、分離派教徒というんでもなくて、単なる分派なんですがね。あの男の一族にはベグーン派(僧侶を持たぬ非改革派の一)教徒がおりましてな、あの男自身つい最近まる二年間田舎である長老の教えを受けていたのです。こういったことはぜんぶニコライとザライスクの同郷人たちから聞きとったことなんですがね。それどころじゃない! ただもうひたすら広野へ修業に逃げ出そうと思っていたくらいです! 物に熱中する男でしてね、毎晩神に祈りをささげ、古書を、『真実の』本を読み、耽読したそうです。ペテルブルクには強烈な影響を受けたらしいですな、わけても女性と、それに酒にね。感受性が強いもんですから、長老もなにも忘れてしまったんです。私の聞き及んだところによると、ペテルブルクのある画家で彼のことを好きになった男がいて、足しげく彼を訪ねていくようになったということです。そんなところへ例の事件が持ちあがったわけですよ! さあ、たちまちおじ気づいちまった――そして首をつろうか! ずらかろうかという騒ぎ! 民衆の間に行きわたっている法律に関する通念たるや、まったく始末におえませんからな! なかには、『裁判にかけられる』という言葉だけでも怖いという者もいるんですから。だれの罪でしょうかね! そのうち新制度の裁判がなんとかそれに答えてくれるでしょう。いやほんとに、そうあってもらいたいもんですよ! それはそうとして、奴さん、監獄へはいってみると、どうやら、今度は長老さまのことが思い出されたらしいですな。聖書もまたそばに見られるようになった。ところで、ご存じですか、ロジオンさん、彼らのある者には『苦しむ』ということがなにを意味するかを? これはだれかのためにというのじゃなくて、ただ単に『苦しむことが必要』なんですな。つまり、苦しみを受けるということがね、そしてそれが官憲から受けるのであれば――なおさらいいわけなんです。かつて、あるこの上なくおとなしい囚人がまる一年ほど入獄していたことがありましたがね、ペチカの上で毎晩聖書ばかり読んでいましたよ、ところがあんまり読みすぎたために頭がすっかりおかしくなっちまいましてね、なんの理由もないのに煉瓦をくずし取って、なにひとつ気持ちをそこねるようなことをしていない看守長に投げつけたものなんです。それもその投げつけ方たるや、相手にまったくけがをさせないように、わざと一メートルもわきに投げつけたんですよ。が、武器をとって上司に飛びかかっていった囚人がどんな結末になるかは、言わずと知れたことです。そこで『つまり、苦しみを受けた』ことになるわけです。そんなわけで、私は今、ニコライも『苦しみを受ける』とか、そういったたぐいのことをしようと思っているのじゃなかろうかと疑っているわけですよ。これは私には、事実に徴《ちょう》して、確実にわかっていることなんです。ただ、私にはわかっていることが当人にはわかっていないだけのことなんです。どうです、あんな民衆のなかからそんな夢想家が出るなんて、お認めにはならないでしょう? ところが、ざらにいるんですよ。やつには今頃になってまた長老の影響が現われ出したわけですよ、首つり事件以来特に思い出されてきたわけです。が、しかしいずれそのうち自分からやって来て、洗いざらいうち明けるにきまっていますよ。あの男はどこまでも頑張るとお思いですか? まあ、お待ちなさい、そのうち前言をひるがえしますから! 私は今、奴さんがやって来て自供を取り消すのを、今か今かと待っているところなんです。私はあのニコライが好きになったんで、あの男を徹底的に研究しているんですよ。あなただったらどうお考えになりますかな! へ! へ! あの男はある点についちゃ、実によどみなく私に答弁するんです、明らかに必要な情報を仕入れて、手ぎわよく準備をしたものと見えてね。ところが、ほかの点となると、もうまるっきりへまの連続で、なにひとつ知っちゃいないし、わかってもいない、おまけに、わかっちゃいないってことを自分じゃ不思議にも思わないんですからなあ! いや、あなた、ロジオンさん、これはニコライなんかの仕業じゃありませんよ! あれはファンタスティックな、暗黒な事件です、人心が濁り、血は『すべてを清める』といったような文句が盛んに引用され、快楽こそ人生のすべてであるなどという説教の横行する現代の事件ですよ。ここにあるのは机上の夢です、理論によっていらだたされた心です。この場合、第一歩を踏み出す決意は見られますが、その決意たるや特別な種類の決意であって、――決行はしたが、まるで山からでも落ちるようなぐあいにして、でなければ鐘楼からでも飛びおりるような気持ちで決行し、犯罪に取りかかるにしても、まるで足が地についていない。自分がはいったあとドアをしめるのを忘れたくらいなのに、人を殺してしまった、二人も殺してしまった、理論にもとづいてね。人を殺しはしたが、金を盗ることはできなかった、そしてやっとつかみとってきたものを石の下へ隠してしまった。ドアのかげにひそんで、ドアがこわれるほどたたかれ、呼び鈴が鳴っている間になめた苦しみだけじゃ足りなかったと見えて、――そのあとまたあの呼び鈴の音を記憶によみがえらせるために、半ば熱に浮かされて、例の空き家へ出かけていった。背すじを走るぞうっとした気持ちをもう一度味わいたいという欲求にかられてね……まあ、それは病気中夢中でやったことだとしても、それならこれはどうしたことでしょう。人殺しをしていながら、自分を義人と見て、人を見下し、青い顔の天使面してのし歩いているんですよ、――いやどうしてこれがニコライなもんですか、ロジオンさん、ニコライなんかじゃありませんよ!」
この最後に吐かれた言葉は、それまで述べられていたことがすこぶる否定的な調子だっただけに、あまりにも不意打ちを食わしたかっこうだった。ラスコーリニコフは、突き刺されでもしたように、体じゅうぶるぶる震え出した。
「じゃ……殺したのは……だれなんです?……」と彼は、こらえきれずに、声をはずませながら、そう聞いた。ポルフィーリイは、自分もその問いがあまりにも思いがけなかったのでびっくりしたという様子で、椅子の背に身をのけぞらした。
「殺したのはだれかとはどういうことです?……」と彼は、自分の耳が信じられないといった様子で、こう聞き返し、「|あなた《ヽヽヽ》ですよ、ロジオンさん! あなたが殺したんですよ……」と、自信に満ちた声で、ほとんどささやくような調子で、そうつけ加えた。
ラスコーリニコフはソファからぱっと立ちあがると、何秒かそのまま立っていたが、ひと言もものを言わずに、また腰をかけてしまった。急に小刻みなけいれんが彼の顔を走った。
「またあのときみたいに唇が震えていますよ」ポルフィーリイがまるで同情したような調子でそうつぶやくと、「あなたは、ロジオンさん、誤解しておられたようですな」と、しばらく黙ってから、言い足した。「だから、そんなにびっくりなすったんでしょう。私がここへうかがったのは、もうなにもかも言ってしまって、事の真相を大っぴらに見せてやるためだったんですよ」
「殺したのは僕じゃありません」と、ラスコーリニコフはささやき声で言いかけたが、その言い方はまるで、わるさの現場をおさえられて、おびえてしまった小さな子供のそれのようだった。
「いや、あれはあなたですよ、ロジオンさん、あなたでこそあれ、ほかのだれでもありませんよ」と、ポルフィーリイは自信たっぷりな厳しい調子でささやいた。
二人とも黙りこくってしまい、その沈黙が奇妙なくらい長く、十分ほどもつづいた。ラスコーリニコフはテーブルにひじを突いて、無言のまま自分の髪を指でかきむしっていた。ポルフィーリイはおとなしく腰をかけたまま、待っていた。と不意にラスコーリニコフがさげすむようにポルフィーリイを見た。
「またあなたは古い手を持ち出しましたね、ポルフィーリイさん! いつも変わらぬ例の手をね。よくもまあほんとにあきないもんですね」
「いやもう、たくさんですよ、今の私にあの手もこの手もあるもんですか! 今ここに第三者でもいると言うんなら、話は別ですけど、そうじゃなくてわれわれは二人さし向かいで内緒話をしているんじゃありませんか。ごらんのとおり、私は、あなたを兎みたいに駆り出してつかまえるためにお宅へあがったんじゃありませんよ。あなたが自白しようとすまいと――今の私にはおなじことなんだ。あなたが自白しなくたって、私は腹のなかじゃそうと信じているんですから」
「だったら、なんのためにお出でになったんです?」とラスコーリニコフはじれったそうに聞いた。「もう一度前とおなじ質問をさせてもらいますけどね、僕を犯人と思っておられるんなら、なぜすぐにも僕を監獄へぶちこまないんです?」
「ははあん、そういう質問ですか! では、箇条別にお答えしましょう。まず第一に、あなたをそんなふうにいきなり逮捕するってことは私にとって不利だからですよ」
「どうして不利なんです! 確信がおありなら、あなたはそうすべきでしょう……」
「ちぇっ、確信があったところで、どうってこともありませんよ! こういったものはみんな今のところまだ空想にすぎないんですからね。それに、私があなたを|落ちつかせるために《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》監獄へ入れたところでしようがないでしょう? 自分から頼むくらいだから、それくらいのことは自分でもご承知でしょうがね。たとえば、私があなたをあの職人と対決させたら、あなたは彼に、『お前は酔っぱらっているんじゃないのか? 僕とお前がいっしょにいたところを見ていた者でもいると言うのか? 僕はお前を酔っぱらいだとばかり思っていたが、実際に酔っぱらっていたんだろう』なんて言うでしょう、――さあ、そうしたら私はそれにたいしてあなたになんと言ったらいいんです、ましてあなたの自供のほうが奴さんの自供よりもっと真実らしいと来てはなおさらでしょう、だって奴さんの自供には心理的なものしかないんですからね、――心理的なものなんてあのつらじゃ不つりあいですからな、ところがあなたのほうは急所を突いていますものね、だってあいつはひどい呑んだくれでとおっているくらいですからね。しかも、私自身あなたにもう何度もあからさまに白状しているとおり、この心理というやつは二本にわかれた尻尾みたいにどっちともとれ、二本めの尻尾のほうが大きくて、ずっと真実らしいし、それに私は今のところあなたに対抗するものはなんにも持っちゃいないんですから。それに、私はそのうちやっぱりあなたを収監するだろうし、その上私は自分からこうやってあなたに事前になにもかもはっきり言いに来たわけですが(これは全然世間なみのやり方じゃないけど)、それでもあなたに、そんなことをしたら私には不利になると率直に言っているんですからね……」
「なるほど、それで第二には?」(ラスコーリニコフはやはりまだ息を切らしていた)
「それは、すでに先ほどもはっきり申しあげたとおり、私はあなたと話しあうのが自分の義務だと思っているからです。私は、あなたに冷血漢とは思われたくないんですよ。まして、あなたがほんとうになさろうが、なさるまいが、どうでもいいんですが、あなたに心から好意を感じているんですから。そんなわけで、第三に、ざっくばらんに、かつ率直に――自首して出ることをすすめに上がったわけは、そうすれば、あなたもはかり知れないほど有利になるでしょうし、私もやはりそのほうが得だからです、――肩の荷がおりますからね。どうです、私のほうとしてはざっくばらんなやり方じゃありませんか?」
ラスコーリニコフはちょっとの間考えていた。
「ねえ、ポルフィーリイさん、あなたは自分では、心理だけだとおっしゃっていたけど、いつの間にか数学の領域へ踏みこんでしまいましたね。これがもしあなたのほうがまちがっていたら、どうなります?」
「いや、ロジオンさん、まちがってなんかいませんよ。こっちは例のちょっとした証拠を握っているんですからね。その証拠を私は実はあのとき見つけたんですよ。神さまがお授け下さったわけです!」
「どういう証拠を!」
「どういう証拠かってことは言いますまい、ロジオンさん。それに、いずれにしても今はもう私にはこれ以上てまどっている権利はありませんから、収監しますよ。ですから、よく判断して下さい。私にとっては|今じゃ《ヽヽヽ》もうどっちでもいいんです、従って私はただひとえにあなたのために言ってることになるわけです。まちがいなく、そうしたほうがいいですよ、ロジオンさん」
ラスコーリニコフは毒々しげににやりと笑った。
「こうなるともう滑稽どころじゃない、鉄面皮といってもいいくらいだ。まあ、かりに僕が犯人だとしても(僕はそうだなどとは全然言っていないけど)、あなたが自分の口からすでに、僕を監獄へぶちこんで|落ちつかせてやる《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》と言っているのに、どうして私があなたのところへ自首して出る必要がありますかね?」
「いやはや、ロジオンさん、私の言うことをそう額面どおりにとられちゃ困りますよ。もしかしたら、完全には|落ちつけ《ヽヽヽヽ》ないかもしれませんよ。これは単なる理論にすぎないんですから、しかも私の理論にね、それに私はあなたのオーソリティでもなんでもないんだし。ひょっとしたら、私は今でもまだ、なんかかんか隠していることがあるかもしれませんよ。あなたにそうなにもかもそのままいきなりぶちまけなくちゃならないこともないですからね、へ! へ! そこで、第二の問題として、そうしたらどういう利益があるかということになりますが、それに付随してあなたにどんな減刑が施行されるかは、あなたもおわかりでしょう? あなたが自首して出るのが、どういうときにあたるか、これをひとつよくよく考えることですな! 別の男がすでに罪をひっかぶって、事件ぜんたいを紛糾《ふんきゅう》させてしまったときでしょう? 私は神明に誓って言っておきますが、そうしたら『あそこで』私は、あなたの自首がまるでまったく出しぬけにおこなわれたようにとりつくろい、そういうふうにまとめてみせますよ。こういった心理的やりとりなんかぜんぶないことにし、あなたにたいする嫌疑も全然なかったことにしてしまいますよ、そうすればあなたの犯罪は一種の精神的|昏迷《こんめい》のようなかっこうになります、だって、正直な話、精神的昏迷にはちがいないんですからね。私は正直な人間なんですよ、ロジオンさん、だから自分の約束はきっと守りますよ」
ラスコーリニコフは悲しそうに口をつぐんで、うなだれてしまった。彼は長いこと思案していたあげく、またにやりと笑った。だが、その笑いはもはやおとなしい悲しげな笑いになっていた。
「なあに、そんな必要はありませんよ!」と彼は、もうポルフィーリイには全然隠しだてなぞしないぞといった調子で、うっかりこんなことを言ってしまった。「どういたしまして! 僕にはあなたに減刑してもらう必要なんかまったくありませんよ!」
「ほうら、それなんですよ、私が恐れているのは!」とポルフィーリイは熱したような、われを忘れたような調子で叫んだ。「それなんですよ、私が恐れていたのは、あなたに減刑してもらう必要なんかないというせりふなんだ」
ラスコーリニコフは悲しそうな、心にしみるような目つきで相手を見た。
「いや、命を粗末にするもんじゃありませんよ!」とポルフィーリイは語をついだ。「あなたはまだまださきのある方です。減刑の必要はないなんて何事ですか、減刑の必要はないなんて! あなたって人はほんとに短気な人ですな!」
「さきがあるって、さきになにがあるんです?」
「生活ですよ! あなたは予言者でもなんでもないでしょう、あなたはどれだけのことを知っていますか? 求めよ、さらば与えられんですよ。事によると、神さまもあなたにそういうことを期待しておられるのかもしれませんぜ。それにあれだって、鎖だっていつまでもつけていなければならんものでもなし……」
「減刑になりますよ、か……」ラスコーリニコフは笑い出した。
「じゃ、なんです、あなたはブルジョア的な恥辱というようなものでも怖くなったんですかな? これは多分、それを怖がっているくせに、それに気づいておられないんだ、――だから若いっていうんですよ! が、それにしてもあなたくらいの男なら自首して出るのを怖がったり恥辱に思ったりすることはなさそうですがね」
「ちぇっ、そんなことはどうでもいい!」ラスコーリニコフはもう口をきくのもいやだといった様子で、軽蔑したように、嫌悪の色を浮かべてそうつぶやいた。そして、また腰をあげて、まるでどこかへ出ていきそうなそぶりを見せたが、明らかに絶望した様子でまた腰をおろしてしまった。
「それそれ、そのどうでもいいってやつですよ! あなたは人を信用しなくなってしまったんで、それで私があなたに粗雑なおせじなどを言っているとお思いなんだ。あなたはいったい十分に人生経験を重ねておられるんですかね?世のなかのことがいろいろわかっておいでですかね? 理論は思いついたが、見事にしくじってしまい、それこそまったく非独創的なものになってしまったんで、恥ずかしくなったんでしょう! 俗悪な結果におわってしまったってことは、まずまちがいない。が、しかしそれでもあなたは見こみのない卑劣漢じゃありませんよ。全然そんな卑劣漢じゃありません! 少なくとも長いこと自分をあざむいていたりせずに、一挙に最後のゴールまで行ってしまったくらいですからね。私はあなたをどういう人間と見ていると思います? 私はあなたを、信仰や神を見出だしさえすれば、たとえはらわたを切り取られても、じっと立ちつくして、ほほ笑みながら迫害者を眺めているといった連中のひとりだと見ていますよ。さあ、それを見出すんですな、そして生きるんですよ。あなたは、まず第一、もうだいぶ前から空気を変えることが必要だったんです。なんでもありゃしない、苦しむこともまたいいことですよ。苦しみなさい。ニコライは正しいのかもしれない、苦しみを願っているということはね。なかなか信仰なんか得られるものじゃないってことは、私も知っています、――が、ずるく小利口ぶることはやめて、あれこれ考えずに、いきなり生活に身をゆだねなさい。心配することはありません、――まっすぐ岸へ打ちあげて、立たしてくれますから。その岸とはどんな岸なのかといわれても、それは私にもわかりません。ただ私は、あなたって人はまだまだ大いに生きなければならぬ人だと信じているだけです。あなたが、今私の言っていることを月並なお説教ぐらいにしか受けとっておられないということは私も承知しています。しかし、あとで思い出したとき、いつか役にたたないともかぎりませんよ。そのためにこうして話しているわけです。あなたは婆さんなんかを殺しただけだったから、まだよかったんですよ。なにか別の理論でも考え出したら、おそらく、さらに一億倍もひどいことをしてのけたかもしれませんからね! もっと神さまに感謝しなければならないのかもしれませんよ。わかってはおられないでしょうが、そのために神さまがあなたを守って下さっているのかもしれないじゃないですか。心を大きく持って、もっともっと怖れないようにすることですね。あなたは目前に迫っている偉大な義務の遂行におじ気づいたんでしょう? いや、ここで怖じ気づくなんて、それこそ恥というものですよ。ああいう第一歩を踏み出したからには、歯をくいしばって頑張るんですね。そういうことにこそ正義があるんですよ。正義の要求するところを、さあ、実行なさい。あなたに信仰がないことは私も知っていますが、必ず、人生はおのずと開けてきますよ。そのうちには自分にも人生が気に入って来ますよ。今のところあなたに必要なのは空気だけです、空気だけですよ、空気だけ!」
ラスコーリニコフはぶるっと身震いさえした。
「あなたこそ、いったい何者ですか」と彼は絶叫した。「あなたは予言者だとでもいうんですか? なんです、そんな高みから見下すように、えらそうに落ちつきはらって、僕にむかってこざかしげな予言なんかして?」
「私は何者かと言うんですか? 私は人生をおえた人間であって、それ以上の何者でもありませんよ。そりゃまあ物を感じもすれば同情もするし、なんかかんか物も知っている人間ではあるが、もうすっかり人生をおえた人間ですよ。ところが、あなたは別ものです。神さまはあなたに生活を用意して下さっているのです(もっとも、あなたの場合も、生活がただ煙のように過ぎ去って、あとになにも残らないかもしれない、これはだれにもわからないことです)。あなたが人間の別の部類に移るからといって、それがなんですか? あなたほどの心を持った人間が安楽な生活など望むわけはないでしょう?そりゃ事によると、あなたの姿が長いこと人前から消えることになるかもしれないが、それがなんですか? 問題は時間じゃなくて、あなた自身なんですよ。太陽におなんなさい、そうすればみんながあなたを仰ぎ見ますよ。太陽はなによりもさきにまず太陽にならなければなりません。またなにを笑っておられる、私がこうしてシラーめいたことを言っているからですか?私は賭けてもいい、あなたはきっと、こいつ、今おれにおべっかをつかってたらしこもうとしてやがると思っておいででしょう? いや平気ですよ、もしかしたら実際おべっかをつかってたらしこもうとしているのかもしれませんからね、へ! へ! へ! ロジオンさん、あなたは多分私の言うことなんかお信じにならないほうがいいかもしれませんね、まあこれからさきも絶対に信じないことですな、――これが私の癖なんですよ、おっしゃるとおりです。ただこういうことだけつけ加えておきます。私がどのくらい下劣な人間か、どのくらい誠実な人間かは、ご自分でも判断がおつきだろうと思うとね!」
「あなたはいつ僕を逮捕するつもりですか?」
「まあ、あと一日半か二日はまだあなたにその辺をぶらつかせてあげられましょうな。まあ、ひとつお考えになって、神さまにお祈りでもあげるんですな。それに、そのほうが得ですよ、きっと得ですよ」
「これで、もし私が逃げるようなことをしたら?」と、ラスコーリニコフはなにか妙な笑いを浮かべながら聞いた。
「いや、あなたは逃げやしませんよ。百姓なら逃げますがね、今はやりの分派の信者なら逃げます――他人の思想の奴隷ならね、――だって、ドゥイルカ海軍少尉(ゴーゴリ作『結婚』中のヱピソード。ただしペトホーフの誤り)がそうだったように、彼らだったら指のさきをちょっと見せられただけでもうなんでも一生涯信じてしまうんですから! ところが、あなたときたら、ご自分の理論だってもう信じちゃおられない、――としたら、なにを信ずるものをたずさえて逃げるんですか? それに逃亡したからってあなたになんの得るところがありますか? 逃亡生活ってやつは実にいやな辛いものですよ、ところがあなたにはなによりもまず生活と一定の境遇が、自分にふさわしい空気が必要なんです、それなのに逃亡生活にはあなたにふさわしい空気なんかありゃしないでしょう? あなたは逃亡したところで、自分でまた舞いもどって来ますよ。|あなたはわれわれなしには生きていけないんですから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。私があなたを牢屋へ入れれば――まあ、ひと月か、ふた月か、三月もはいっているうちに突然、この私の言葉を思い出して、自分から出頭するにきまっていますよ、それも、多分自分でも思いがけなかったようにしてね。まだ一時間前には、自白をしに行くなんてことは、自分でも知らずにいるでしょうよ。それどころか私はこう信じているくらいです、あなたは『苦しみを受けることをとつおいつ考えはじめる』にちがいないとね。今のところは私の言うことを信じておられないが、自然にそこへ落ちつくことになります。だって、受難というものは、ロジオンさん、偉大なものですからね。あなたは私がこんなに太っていることなんかに目をとめることはありませんよ、なんということもないんですから、私だってちゃんと承知しているんですから。そんなことを笑うもんじゃありませんよ。苦しみには思想があるんです。ニコライの考えは正しいですよ。いいや、あなたは逃げやしませんとも、ロジオンさん」
ラスコーリニコフは席を立って、帽子を取りあげた。ポルフィーリイも立ちあがった。
「散歩にお出かけですか? 今晩は気持ちのいい晩になるでしょうな、ただ夕立が来なければいいんですがね。もっとも、来たほうがいいかもしれませんがね、爽快になって……」
彼もやはり帽子に手をかけた。
「ポルフィーリイさん、どうかうぬぼれないように願いますよ」と、ラスコーリニコフはしつこく食いさがるようにして言った。「僕はきょうあなたに自白したなんて思って。あなたがあんまり変わった人なんで、ただ好奇心からお話を聞いていただけなんですから。僕はなんにも自白なんかしていませんからね……このことを覚えていて下さいよ」
「いや、そりゃもう心得ています、覚えておきますよ、――おやおや、震えているじゃありませんか。ま、ご安心なさい、あなた。お考え次第ですから。少し散歩していらっしゃい。ただ、あんまり長く散歩しちゃいけませんよ。ところで、万一のためにひとつ小さなお願いがあるんですがね」と彼は声をおとしてこう言いそえた。「ちょっとデリケートではあるが、重大なお願いなんです。もしもですな、つまり万が一(もっとも、私はこんなことは信じてもいないし、あなたは全然そんなことができる人ではないとは思いますが)、もしも万が一、――そうです、万が一にも、――この四、五十時間の間に、なにかちがったファンタスティックなやり方でこの事件に結末をつけてしまおうと――つまり自分で自分に手をかけようという気を起こすようなことがあったら(こんなことはばかげた仮定ですが、悪いけどそう仮定させてもらいます)、――簡単なものでけっこうですから、正確な書きつけをひとつ残していって下さい。そう、二、三行でけっこうです、たったの二、三行で、それに石のことも書いて下さい。そのほうがいさぎよいことになりますからね。じゃ、さようなら……いい思案が浮かび、立派な企てをなさるようお祈りします」
ポルフィーリイはなぜか身をかがめてラスコーリニコフを見ないようにして、外へ出た。ラスコーリニコフは窓ぎわへ行って、ポルフィーリイが通りへ出てもうだいぶ行ってしまったなと思う頃合を見はからって、それから急いで自分も外へ出た。
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彼はスヴィドリガイロフの宿をさして急いだ。あの男からなにが期待できるかは彼自身にもわかっていなかったが、あの男にはなにか彼を支配する力がひそんでいたのである。いったんこれを意識すると、彼はもう平静ではいられなくなった。それにいよいよ会わなければならない時期が来ていたのだ。
道々、彼はある疑問に悩まされていた。それは、スヴィドリガイロフはこれまでにポルフィーリイのところへ行っているか、どうかという疑問である。
彼の判断できるかぎりでは、またその点なら誓ってもいいと思ったのだが――いや、行ってはいないというのがその答えだった。彼は考えに考えを重ね、ポルフィーリイの訪問の一部始終を思い起こしてみて、結局、いや、行ってはいない、むろん行ってはいないという判断に達した。
が、もしまだ行っていないとすれば、あの男は今後ポルフィーリイのところへ行くだろうか、行かないだろうか?
今のところ彼には、行かないだろうという気がした。なぜと言われても、彼にはその説明はできなかった。が、しかしたとえ説明できたとしても、今の彼だったら別にそんなことに頭を悩ましはしなかったろう。確かにそういうことは苦になることにはちがいなかったが、それでいながら彼にはなんとなくそれどころではないような気がしていたのである。不思議なことに、こんなことは、おそらく、だれひとり信じないだろうが、自分の現在のさし迫った運命については、彼はどうしたわけか淡い漠然たる心配しかしていなかった。彼が悩んでいたのは、なにかもっと別な、もっともっと重大な、特殊なことだった、――それは自分自身のことであって、ほかの人のことではないが、なにかそんなものとはちがう重大なことだった。そればかりでなく、けさはここ数日と比べれば判断力の働きは上々だったにもかかわらず、かぎりない精神的疲労を感じていたのだ。
それに、ああいうことがあった今、こんなつまらない新しい障害を克服しようと努力する必要がはたしてあるのだろうか? たとえば、スヴィドリガイロフがポルフィーリイのところへ出入りしないように、懸命に策略をめぐらしたり、研究したり、調べたりして、スヴィドリガイロフのような男のために時間をつぶす必要があるのだろうかと、彼は思った。
そんなことは、彼はもうあきあきしていたのだ!
が、それでいてやっぱり彼はスヴィドリガイロフのもとへと急いでいた。彼は、事によったら、あの男からなにか|新しい《ヽヽヽ》ものが、指摘なり活路なりが得られるものと期待していたのではあるまいか? おぼれる者はわらをもつかむと言うではないか! 彼ら二人が落ちあおうとするのも、あるいは運命の導きではなかろうか、本能の導きではなかろうか? が、事によったら、これは単に疲労|困憊《こんぱい》のせいかもしれないし、絶望のためかもしれない。あるいは、今必要なのはスヴィドリガイロフではなくて、ほかのだれかであって、スヴィドリガイロフはただひょっこりこの場に姿を見せただけのことなのかもしれない。では、それはソーニャだろうか? いったいなんのためにソーニャのところへなど出かけることがあろう? もう一度彼女に泣いてもらいたいからか? それどころではない、彼はソーニャが怖かったのだ。ソーニャはそれ自体、仮借《かしゃく》なき宣告であり、変更されることのない決定だったからである。あそこへ行けば、彼女の道を行くか、自分の道を行くか、二つに一つしかないのだ。今はとくに会うわけにはいかない。いや、それよりもむしろ、スヴィドリガイロフは何者なのか、ひとつ試してみるべきではなかろうか? すると、彼は、実際あの男はもうだいぶ前から自分にとってなにかのために必要な人間だったようだと、内心認めざるを得なくなってきた。
が、それにしても二人の間に共通なものといってなにがあるだろう? 悪事にしたところで、二人のそれはおなじではないはずだ。あの男は、その上、不愉快きわまる男、明らかにひどく淫乱で、どう見てもずるくて嘘つきで、もしかしたらしごく意地の悪い男かもしれないではないか。彼についてはいろんな噂が流布している。なるほど、彼はカテリーナの子供たちの面倒を見てやってはいるが、なんのためにやっているのか、またそれがどういう意味を持つものなのか、だれにもわかりはしないのだ。いつでも腹になにかしらたくらみやら計画をいだいている人間なのだ。
ここ数日来ラスコーリニコフの頭に絶えずちらついて、彼がひどく不安になり、懸命になってそれを払いのけようとしていたもうひとつの考えがあった。それほどその考えは彼にとって苦しかったのである! 彼はときどきこんなことを考えるのだった。スヴィドリガイロフはこれまでずうっとおれをつけまわして機嫌をとり結ぼうとしてきたし、今もとり結ぼうとしている。スヴィドリガイロフのやつ、おれの秘密をかぎつけてしまった。一方これまでドゥーニャに野心を持っていた。今でも持っているだろうかと聞かれれば、|持っている《ヽヽヽヽヽ》と答えて、まずまちがいはないだろう。だから、もし今、おれの秘密を突きとめた以上はおれにたいして権力を握ったわけだから、これをドゥーニャにたいする武器として使う気を起こしたら、どういうことになるだろう?
この考えに、彼はときには夢のなかでさえ苦しめられたものだが、この考えが彼の頭にこれほど意識的にはっきりと現われたのは、スヴィドリガイロフのところへ行こうとしている今が初めてだった。こう考えただけでも彼はすでに陰にこもった憤りを覚えるのだった。第一、そうなったらもうなにもかも一変し、彼自身の立場にすら変化が生ずるはずだ。ドゥーニャには即刻秘密をうち明けなければなるまい。事によったら、ドゥーニャになにか不用意な一歩を踏み出させないためには、おれは敵に自分の身を売るようなこともしなければならないかもしれない。ところで、あの手紙は? けさドゥーニャがなにか手紙を受け取ったということだったが! ペテルブルクにあれが手紙をもらう相手なぞいるのだろうか?(ルージンからだろうか?)なるほどそのほうはラズーミヒンが見張ってくれてはいるが、ラズーミヒンはなんにも知ってはいないのだ。もしかしたらラズーミヒンにもうち明けなければならないかもしれない!ラスコーリニコフはそう考えると、胸がむかつく思いだった。
なにはともあれ、一刻も早くスヴィドリガイロフに会わなければ、と彼は腹のなかで最後の決断を下した。ありがたいことに、この場合必要なのは事の本質であって、こまごましたことではない。が、もしも、ただもしも、スヴィドリガイロフがドゥーニャにたいしてなにか陰謀でもめぐらしかねない男だったら、また実際に陰謀をめぐらしているとしたら……
ラスコーリニコフはここのところ、ここ一ヵ月というもの、あまりにも疲れきっていたため、もはや、こういった問題になると、『そのときはあいつを殺してやる』と決める以外に解決の方法を知らなかった、――で今も彼ははだ寒い絶望を覚えながらそうしようという気になった。彼は重苦しい気持ちに胸がしめつけられる思いがした。彼は往来の真ん中に足をとめて、今どこの道を歩いているのだろう、どこへはいりこんでしまったのだろうと、あたりを見まわしはじめた。彼は今通ってきたセンナヤから三、四十歩ほど離れた××大通りに来ていた。左手の建物の二階はそっくり一軒のレストランになっていて、窓はぜんぶ明けはなしてあった。レストランは、窓のむこうを行き来している人影から見て、満員の盛況らしかった。ホールには歌声があふれ、クラリネットやヴァイオリンの音がし、ターキッシュ・ドラムの音がとどろいていた。女の金切り声も聞かれる。ラスコーリニコフはどうして××大通りなどへ曲がってしまったものかといぶかりながら、引っ返そうと思ったひょうしに、レストランのはずれの明けはなった窓ぎわにスヴィドリガイロフがパイプをくわえて茶卓にむかっている姿が目についた。これにはラスコーリニコフもぞっとするくらいぎくりとした。スヴィドリガイロフは黙って彼をじっと観察していたが、これまたラスコーリニコフの驚いたことには、腰をあげて、気づかれないうちにそうっと逃げ出してしまおうとするらしいのである。ラスコーリニコフはすぐさま、彼に気がつかなかったようなふりをし、考えこんでわきを見ているように見せかけて、横目をつかってひきつづき観察していた。心臓は騒がしく高鳴っていた。案の定、スヴィドリガイロフは明らかに顔をあわせたくないらしいのだ。彼は唇からパイプを離して、早くも姿を隠そうとした。ところが、立ちあがって椅子をどけたとき、どうやらふと、ラスコーリニコフがこちらを見て観察しているのに気がついたらしいのである。二人の間には、彼が最初にラスコーリニコフの仮眠中に訪ねてきたときの光景に似たようなことが起きた。スヴィドリガイロフの顔にいかにもずるそうな微笑が現われ、それが次第に顔いっぱいにひろがっていった。双方ともたがいに見たり観察したりしていることがどちらにもわかったのだ。あげくのはてに、スヴィドリガイロフは大声でわっははと笑い出した。
「さあ、さあ! よろしかったら、ひとつおはいりなさい。私ですよ!」と彼は窓から呼びかけた。
ラスコーリニコフはレストランへあがっていった。
スヴィドリガイロフは大広間に隣りあった、ひとつしか窓のない、ごく小ぢんまりとした奥の部屋にいた。二十脚ほどの小さなテーブルで、商人、官吏、その他ありとあらゆる種類の人間が、歌手たちの狂いたったようなコーラスの叫び声につつまれながら、お茶を飲んでいた。どこからか玉突きの玉のかち合う音も聞こえていた。スヴィドリガイロフの前のテーブルには、手をつけたシャンパンのびんと、半分ほど酒のはいっているコップがおいてあった。この小部屋にはさらに小さなアコーディオンを持った少年と、縞のスカートの裾をたくしあげ、リボンのついたチロル帽をかぶった、十八くらいの、健康そうな、ほおの赤い娘がいて、娘は別室の合唱などにはおかまいなく、アコーディオンひきの伴奏にあわせてなにやら流行歌をだいぶしわがれたコントラルトで歌っていた……
「おい、もういいよ!」スヴィドリガイロフはラスコーリニコフがはいって来ると、そう言って歌をやめさせた。
娘はさっそくぴたりと歌いやめると、うやうやしく待つようなかっこうでその場にひかえていた。彼女は韻《いん》をふんだ流行歌を歌うにも、おなじように顔に一種生まじめそうな、うやうやしい表情を見せたままだった。
「おい、フィリップ、コップをひとつ!」とスヴィドリガイロフが叫ぶと、
「僕は、酒は呑みません」とラスコーリニコフが言った。
「どうぞご自由に。あなたのために頼んだんじゃないんですよ。呑みな、カーチャ! きょうはもうなんにも歌わなくていいから、お帰り!」
彼は彼女に酒をいっぱいについでやり、黄色い一ルーブリ札を出してやった。カーチャは、女がよく酒を呑むときするようにいっぺんに、つまりコップに口をつけたまま、ごくりごくりと二十回ほどで呑みほして、札を取り、スヴィドリガイロフがしごくまじめくさった顔つきで接吻させようと出した手に接吻をして部屋を出ていくと、アコーディオンを持った男の子もとぼとぼそのあとについていった。二人は通りから呼びこまれたのだった。スヴィドリガイロフはペテルブルクに住んでまだ二週間とたたないのに、もうまわりのものをなにからなにまで族長制的な調子にしてしまっていたのである。レストランのボーイのフィリップももう『顔なじみ』で、へこへこしていたし、ホールへ出るドアもしめ切ってしまって、スヴィドリガイロフはこの部屋をわが家同然にしているところを見れば、この部屋で幾日もぶっとおしに過ごすこともあるのかもしれない。レストランは不潔で、お粗末で、二流とも言えない店だった。
「僕はあなたのところへ行ってあなたをさがそうとしていたところなのに」とラスコーリニコフはきり出した。「どうしてさっきセンナヤから××通りへひょいと曲がっちまったんでしょうね? 僕は今まで一度もこっちへ曲がってこんなところへ来たことはないんですがねえ。いつもはセンナヤから右へはいっていたんだし、あなたのとこへ行く道もこっちじゃないんですものね。しかも、こっちへはいったとたんに、あなたに出会ったんですからね! こいつは不思議ですよ!」
「どうしてあなたは率直に、こいつは奇蹟だ!とこうおっしゃらないんです?」
「だって、これは単なる偶然かもしれないでしょう」
「いやまったく、こういう方々にはきまって妙な癖があるもんですな!」と言ってスヴィドリガイロフは笑い出した。「内心では奇蹟というものを信じていながら、けっして白状なさらんのですからなあ! 現にあなたご自身、単なる偶然『かもしれない』とおっしゃっていらっしゃる。ここのペテルブルクの連中が自分自身の意見にかんしてみんなどれほど臆病かは想像のほかですよ、ロジオンさん! 私はあなたのことを言っているんじゃありませんよ。あなたはご自分の意見を持っていらっしゃるし、持つことを恐れなかった。そこが私の好奇心をそそるところなんですからね」
「それ以上はなんにもそそりませんか?」
「それだけで十分じゃありませんか」
スヴィドリガイロフは明らかに興奮状態だったが、それもほんの少しだった。酒も精々コップに半分くらいしか呑んでいなかった。
「僕にはどうも、あなたが家へ来られたのは、僕が、あなたのいわゆる自分の意見なるものを持つことのできる人間だということがおわかりになる前だったような気がしますがね」とラスコーリニコフは注意した。
「いや、あのときは別問題ですよ。人にはだれにだって自分の行き方というものがありますからな。奇蹟ということに関連して申しあげますと、あなたはどうもここ二、三日眠っておいでのようですな。私自身があなたにこのレストランを教えてあげたんですから、あなたがまっすぐここへ来られたからといって、この場合は別に奇蹟が起こったわけでもなんでもないんですよ。私自身が道順をすっかり説明して、この店の場所から、何時にここへ来れば私に会えるかということまで、話してあげたんですからね。覚えていらっしゃいますか?」
「忘れましたね」とラスコーリニコフはけげんな顔つきで答えた。
「てっきりそうでしょう。私は二度もあなたに教えてあげたんですよ。ここのあり場所が機械的にあなたの記憶にきざみこまれていたんで、あなたは自分ではそれとは知らずに、きちんとアドレスどおりに、こちらへ曲がられたわけなんですよ。私は、あのときあなたに教えてやりながら、私の言っていることがおわかりになったとは思っていませんでしたよ。あなたはあまりにも自分の正体を見せて歩いていますぜ、ロジオンさん。それからもうひとつ。私の確信するところでは、ペテルブルクには歩きながらひとり言を言っている人が実に多いですねえ。ここは半気ちがいの人間の町ですよ。もしもわが国に学問というものがあるとすれば、医学者や法律学者や哲学者は、それぞれの専門に応じて、ペテルブルクについて貴重この上もない研究ができますね。ペテルブルクほど人間の心にたいする甚大な陰鬱《いんうつ》で奇怪な影響の見出だせる所はめったにありませんぜ。気候的影響だけにかぎっても大変なものですからな! それにここはロシヤ全国の行政上の中心地ですもの、この町の性格があらゆるものに反映しないわけはありませんよ。が、しかし今問題になっているのはそんなことじゃなくて、私がすでに何回かあなたを観察したことがあるという事実でしたな。あなたは家を出られるときは――まだ首をしゃんとまっすぐにしておられる。ところが、二十歩も行くと、もう首はたれ、手はうしろで組んでしまっている。そして、目はあけておられるが、明らかに、もう前方のものも、わきのものも、なにひとつ目にはいらないようなご様子です。あげくのはてに、唇を動かしてひとり問答をはじめ、しかもときには片手を振りあげて演説のようなまねまでする、そしてしまいには道路の真ん中に長いこと立ちつくしてしまう。これは実にいけませんな。私でなくともだれかに気づかれないともかぎりませんからね。これはまったく不利ですよ。私にしてみれば、ほんとうのところはこんなことどうでもいいことなんです、私などあなたを治療してあげられるわけでもないんですから。しかしあなたには、もちろん、私の言うことがわかっていただけるでしょう」
「じゃ、あなたは、私が今尾行されているってことを知っているんですね?」とラスコーリニコフは探るように相手の顔を見ながら、そう聞いた。
「いや、そんなことはいっこうに知りませんな」とスヴィドリガイロフはけげんそうな顔をして答えた。
「そんなら、僕のことはほうっといてもらいましょう」とラスコーリニコフは渋い顔をして、つぶやいた。
「よろしい、ま、あなたのことはほうっておきましょう」
「それよりこういうことをお聞きしたいね、あなたはここへしょっちゅう来ておられて、僕に二回もここへ来るようにとこの場所を指定なすったんなら、どうしてあなたは今、僕が通りから窓を見あげたときに、急に逃げ隠れようとしたんです? 僕にはそれが実にはっきりとわかりましたよ」
「へ! へ! じゃ、私がいつぞやお宅の敷居の上に立っていたとき、どうして目をつぶってソファに横になったまま、まるっきり眠ってもおられないのに眠っているようなふりをしておられたんです? 私にはそれが実にはっきりとわかりましたがね」
「僕には……それだけの理由があったんで……それはあなた自身ご存じでしょう」
「あなたはご存じないでしょうが、私にも自分なりの理由があったんですよ」
ラスコーリニコフはテーブルに右ひじを突き、右手の指であごを下から支えるようにして、スヴィドリガイロフにじっと目をすえた。彼は、前にもたびたび驚きを覚えたことのある相手の顔をしばらくの間しげしげと眺めていた。それはまるで仮面にも似た奇怪な顔で、色白で、ほおは赤く、鮮やかな真紅の唇をし、明るいブロンドのあごひげをたくわえ、まだかなりふさふさしたブロンドの髪をしていた。目はなんだかあまりにも青すぎるし、視線はなんだかあまりにもうっとうしく、じっとすわったきりなのである。その美しい、年のわりに異常なほど若々しく見える顔にはなにやらひどくいやらしいところがあった。スヴィドリガイロフの服装は、しゃれた軽やかな夏物で、とりわけ下着に凝ったところを見せていた。それに指には宝石入りの指輪をはめていた。
「僕はこの上さらにあなたとまで関りあいを持たなきゃならないんですかね」と、ラスコーリニコフは突発的な焦燥からざっくばらんに手のうちを見せて、だしぬけにこう言い出した。「よしんばあなたが、もしかしたら、害を加えようと思いたったらこの上なく危険な人間であろうと、僕はこれ以上悩むのはもうまっぴらです。僕はあなたに今すぐにでも、自分はあなたが考えているほど命を大事に思っていないぞってところを見せてあげますよ。いいですか、僕は、もしもあなたが今までどおり僕の妹に野心をいだいていたり、最近わかった事実のうちのなにかをそれに利用しようと考えていたりしたら、僕はあなたに監獄へぶちこまれる前に、あなたを殺してやると、じかに言ってやろうと思ってここへ来たんですよ。第二に、僕になにかはっきり言いたいことがあったら、――というのは僕にはこの間じゅうから、あなたがなにか僕に言いたそうにしているように見えるからなんですが、――そうだったら、早くそれを言って下さい。時間は貴重だし、それに、事によると、もうじき手遅れになってしまうかもしれないからね」
「いったいどこへあなたはそんなに急いでおられるんです?」と、スヴィドリガイロフは好奇心をそそられたように相手をじろじろ見ながら聞いた。
「人にはだれにだって自分の行き方ってものがありますからね」とラスコーリニコフは陰気くさい調子で、じれったそうにいった。
「あなたはたった今ご自分のほうからざっくばらんに話をしようと言っておられながら、もうとっぱじめの質問から返答を拒絶しておられるじゃありませんか」とスヴィドリガイロフはにこにこしながら注意した。「あなたには絶えず、僕がなにか目的を持っているように見えてならないもんだから、それで私を猜疑《さいぎ》の目で見ておられるんですよ。いやそれも、あなたの立場としてはしごくもっともなことで。とはいっても、いかに私があなたと親密になりたいと願ってはいるにしても、私はやっぱりわざわざ骨を折ってあなたの疑いを解いて考えを変えさせるつもりはありませんね。まちがいなく骨折り損でしょうからな。それにこれといって別にあなたと話しあおうと思っていたこともありませんのでね」
「じゃどうしてあのときはあんなに僕が必要だったんです? あなたはあんなに僕につきまとっていたじゃありませんか?」
「ただ単に観察の興味ある対象としてですよ。ま、あなたの今の状態の奇抜なところが気に入ったんでしょうな――まず、そんなところがね! その上、あなたは、大変私の興味をひいた方の兄さんですし、それに、かつて私はそのかたからあなたのお噂をたびたびいやというほど聞かされていて、その噂話から、あなたはその方に大きな影響力を持っておられると結論したわけですよ。こんなことではまだ足りませんかな? へ、へ、へ! しかし、正直なところ、あなたのご質問は私にとってすこぶる複雑でしてな、それにたいしてお答えするということは容易じゃないんですよ。まあ、たとえばですな、あなたが今ここへいらっしゃったのだって、用事のためばかりじゃないでしょう、なにか新しいことを知りたいということもあったでしょう? そうじゃないですか? そうでしょう?」とスヴィドリガイロフはずるそうな微笑を浮かべながらしつこく聞いた。「さあ、そう考えた上でひとつ想像してみて下さい。この私もこちらへ汽車で出て来るときは、やはりあなたになにか|新しい《ヽヽヽ》ことを聞かしてもらえるだろう、あなたからなにかをうまく借用できるだろうと、そういうことをあなたに期待していたわけです! おたがいにこのとおりなかなかの物持ちですからな!」
「なにを借用しようって言うんです?」
「さあ、なんと言ったらいいでしょうかね? なになのか自分にもわかっちゃいないんですよ。ごらんのとおり、私はこんな安料理屋にしょっちゅう入りびたっているんですが、これでけっこう堪能《たんのう》しているくらいでして、いや、堪能というほどでもない、が、まあ、どこか坐る所ぐらいはなくちゃね。ま、早い話があの気の毒なカーチャにしたってそうですよ――今ごらんになったでしょう? これがもし私がたとえば大食漢だとかクラブ通いの食道楽ででもあったらまだいいんですが、私はこんなものでもけっこう食べていられるような男でしてな!(彼は隅のほうを指さしたが、そこには小さな卓の上のブリキ皿にひどくお粗末なビフテキの残りがじゃがいもといっしょにのっていた)ときにあなたは食事はおすみになりましたか? 私は軽くやりまして、もうほしくはないんですが。たとえば、酒だって全然呑んじゃいないんですよ。シャンパン以外になんにもやらないし、しかもそのシャンパンにしたって夕方いっぱいかかってたったの一杯、それでもう頭が痛むんですからな。これだって、ただ景気づけに出させただけです、というのはある所へ出かけようとしているもんですからね。そんなわけでごらんのとおり特別ご機嫌でいるわけなんですよ。私が先ほど小学生みたいに隠れようとしたのは、あなたに出かける邪魔をされると思ったからなんです。しかし、どうやら(と、時計を出してみて)一時間はごいっしょにいられそうですな。今、四時半ですから。いや、実際の話、なにか仕事でもありゃいいんですがね、地主だったり、父親だったり、槍騎兵だったり、写真屋だったり、ジャーナリストだったりね……それがなにひとつ、なんの定職もないんですからなあ! ときには退屈になることもありますよ。まったくの話、私はあなたになにか新しいことでも聞かしていただけるかと思っていましたがね」
「あなたはいったい何者で、何のために上京なんかされたんです?」
「私が何者かって言うんですか? ご存じないでしょう。貴族ですよ、二年ほど騎兵隊に勤務して、それからこんなふうにこのペテルブルクでぶらぶらして、そのあとマルファと結婚して田舎暮らしをしていた。これが私の経歴ですよ!」
「あなたはばくち打ちだったようですね?」
「なあに、私がばくち打ちなもんですか。いかさま師ですよ――ばくち打ちじゃありませんよ」
「じゃ、あなたはいかさま師だったわけですか?」
「ええ、いかさま師でした」
「どうですか、なぐられたこともあったでしょう?」
「そういうこともありましたな。それがどうしました?」
「すると、つまり、決闘を申しこむこともできたわけでしょう……だいたい、生活が活気をおびるわけだ」
「お説に異を唱えることはしますまい、それに私は理屈をこねることは不得手なほうですからな。白状しますが、私が急いで上京したのはむしろ女の問題が主なんですよ」
「マルファさんの葬式をすましたばかりなのに?」
「ええ、そうですよ」スヴィドリガイロフはにやりとこちらがたじたじするくらい露骨な笑いを浮かべた。「それがどうしたと言うんです?あなたはどうも、女のことで私がこんな言い方をしているのを、なにかけしからんことだとお思いのようですな?」
「ということはつまり、私が放蕩を悪いことだと見ているかどうかということですか?」
「放蕩! いやこれはまたとんだ飛躍ですな!が、しかしまず順序として女一般のことであなたにお答えしておきましょう。実は、今私、おしゃべりをしたいような気分になっていますんでね。ひとつおうかがいしますが、なんのために私は自分をおさえなければならないんでしょう? 私がたとえ女好きだからといって、なにも女というものをあきらめなければならぬ理由はないでしょう? 少なくとも、これは仕事ですからね」
「すると、あなたはこのペテルブルクでは放蕩にしか希望をかけていないと言うんですか?」
「そうだとしたらどうだと言うんです、放蕩にもかけていますよ! 放蕩という言葉がひどくお気に召したようだけど。少なくとも私は率直な質問が好きですよ。この放蕩というやつには少なくとも、なにやら不変なもの、自然に根ざしていて、幻想などに支配されないものが、つねにかっかと燃えている炭火みたいに血のなかにあって永遠に心を焼き、さらに長いこと、おそらくは年をとってもそんなに早く消すことのできないものがある。ね、そうでしょう、してみれば一種の仕事と言えないこともないでしょう?」
「なにもそんなに喜ぶことはありませんよ? そいつは病気ですよ、それも危険なね」
「いやはや、とんでもないほうへ話をもっていかれますな! 私もそれが病気だということには同意しますよ、限度を越えるものがみんなそうであるようにね、――ところが、この場合はどうしても限度を越えざるを得ないんでね、――それにしても、第一、こいつは人によってまちまちですし、第二に、言うまでもないことだけど、何事でも限度を守り、たとえ卑劣な打算にもせよ打算打算でやっていた日にゃどうにもなりませんからね。こいつがなかったら、おそらく、ピストル自殺でもしなければなりますまい。まっとうな人間は退屈しなけりゃならんという意見には私も賛成ですが、しかし……」
「ところで、あなたにはピストル自殺ができますか?」
「これはまた!」とスヴィドリガイロフは嫌悪の表情を浮かべてそれに反応し、「どうか、その話はしないで下さい」と彼は急いで言い足したが、このときはもう、それまでの彼の話全体に見られた大言壮語はあとかたもなく消え失せ、顔つきまでが一変してしまったように見えた。「白状しますが、私は許すべからざる弱味を持っているんですよ、しかしどうにもしようがありません。死というものが怖いし、死の話をされるのがいやなんです。私がいくぶん神秘主義者だってことは、あなたもご存じでしたね?」
「ああ、マルファさんの幽霊ね! どうです?やっぱりまだ出ますか?」
「いやそいつは口にしないで下さい。ペテルブルクではまだ出ていません」彼はなんとなくいら立った様子で叫んだ。「いや、それよりこっちの話をしましょう……が、しかし……ふむ!ちぇっ、あんまり時間がありません、ゆっくりあなたのお相手もしていられませんな、残念ですなあ! お耳に入れておきたいこともあるんですがね」
「何ですか、用事というのは女のことですか?」
「ええ、女なんですよ、実に思いがけないチャンスでしてね……いや、話そうと思ったのはそんなことじゃないんで」
「なるほど、あなたはこんな周囲の汚らわしさにももうなんの反応も示さなくなっているわけですね? もう踏みとどまろうとする力もなくしてしまっているわけですか?」
「あなたは力まで求めておられるわけですか?へ、へ、へ! あなたには驚きましたよ、ロジオンさん、もっともこういうことは前からわかっていましたけどね。あなたは私に放蕩とか美学の説教をなさる! あなたはシラーですな、理想主義者ですよ! むろん、こういうことはこうあるべきなんで、こうでなかったら、かえって驚かなくちゃならん道理ですがね。が、それにしても実際となると、どこかやっぱり変ですね……やれやれ、残念ですな、時間がなくて。あなたは実に興味をそそる人なんですがねえ!ところで、あなたはシラーはお好きですか? 私は大好きなんですよ」
「しかし、それにしてもあなたって人は大変なほら吹きですね!」とラスコーリニコフはいくぶん嫌悪の色を見せて言った。
「なあんのなんの、そんなことがあるもんですか!」とスヴィドリガイロフは笑いながら答えた。「もっとも、あえて反対はしませんがね、ほら吹きならほら吹きでけっこうです。それが人を侮辱することにならなければ、ほらぐらい吹いたっていいじゃありませんか。私は七年もマルファと田舎暮らしをしていたもんですから、こうしてあなたみたいな頭のいい人に――頭がよくて興味津々たる人間に出会うと、なんのことはない、ただもうおしゃべりをするのが嬉しくてたまらないんですよ。そればかりじゃなくて、この酒を半杯ばかりやったんで、もう頭がちょっぴりぽうっとしているところなんです。それに、なによりかにより、気分が浮きたつようなある事情がございましてね、しかし、ま、そのことは……申しあげずにおきましょう。おや、いったいどこへいらっしゃるんです?」とスヴィドリガイロフは急にびっくりして聞いた。
ラスコーリニコフが腰をあげそうにしたのである。彼は気分が重くなり、息苦しくなり、ここへ来たことがなんだかきまり悪くなったのである。そして、スヴィドリガイロフという男は世界じゅうでこの上なしのつまらない、とるにたらない悪党だときめこんでしまっていた。
「まあまあ! もう少しおかけになって、もうしばらくいて下さいよ」とスヴィドリガイロフは拝むようにして頼んだ。
「お茶でも持って来させたらいかがです。まあ、お坐りなさい、いやもうばかげたおしゃべりはしませんから、つまり自分のことはしゃべりませんから。なにかひとつお話してさしあげましょうか。そう、もしよかったら、私がある女性に、あなたの言いかたを借りれば『救われた』話でもしましょうか? これは最初のご質問にたいする回答にもなるわけで、というのはその女の人というのはあなたのお妹さんだからですがね。お話していいでしょうか? それにひまつぶしにもなりますからね」
「お話なさい、もっとも私は大して期待はしていませんがね、あなたはまさか……」
「いや、ご心配には及びません! それどころか、アヴドーチヤさんは私のようなけがらわしい、つまらない人間にすら、すこぶる深い尊敬の念しか起こさせないような方ですからな」
[#改ページ]
「あるいはご存じかもしれませんが(もっとも、私の口からもお話しましたっけね)」とスヴィドリガイロフは語り出した。「私はこのペテルブルクで莫大な借金を背負って、返済の意思もなく、債務者監獄にはいっていたことがありました。そのときマルファが請け出してくれたいきさつについては、別にくわしく話す必要はありますまい。いやまったくの話、女ってものはどうかするととことんまで血道をあげるものですからな。あれは正直で、なかなかもって利口な女でしたよ(教養こそまったくありませんでしたけどね)。それがどうでしょう、あのこの上なしのやきもち焼きで正直な女が、さんざん物凄い気ちがい騒ぎと非難攻撃をくり返したあげく、自分のほうから折れて出て、私とある種の契約をむすぶ気になり、二人の結婚生活を通じてずうっとそれを実行したんですからな。問題なのは、あの女は私よりずっと年上だったし、その上年がら年じゅう口に丁子《ちょうじ》かなんかくわえていたことです。私は根がひどく下劣でありながらそれはそれなりの正直さも持ちあわせていたものですから、あれに、おれはお前のために操を守りとおすことなんかできやしないと率直に言ってやりました。この告白にあれは狂ったように怒りましたが、私のこの乱暴な率直さがある意味ではあれの気にも入ったらしいんですな。『これはつまり、前もってこうはっきり言うところを見れば、当人はわたしをだます気はないと見える』となったわけです、――なんと言ってもやきもち焼きの女にとってはこれが第一ですからね。あれが長いこと泣きわめいたあげく、二人の間にこういう口約束ができました。第一に、私はマルファを絶対に捨てず生涯あれの夫で通すこと。第二に、あれの許可なしには家を明けてどこへも行かないこと。第三に、きまった恋人は絶対にこしらえないこと。第四に、そのかわりマルファは私に、ときには小間使いに手を出すことを許すが、ただしあれの内諾なしにはやらないこと。第五には、われわれとおなじ身分の女性を好きにならないこと。第六には、こういうことはあってもらいたくないが、万が一私に強烈で真剣な恋愛が生じた場合は、マルファにうち明けるべきこと、というのです。しかし、この最後の箇条については、マルファはその後ずうっとかなり安心していました。あれは利口な女でしたから、私を、真剣な恋などできっこない道楽者、浮気者として見るほかに見る目を持たなかったからです。しかし、利口な女とやきもち焼きの女とは別物でしてな、ここがむずかしい点なんですよ。それにしても、人によってはその人を公平に判断するには、ある種の先入見や、ふだんわれわれをとりまいている人間や事物に対する日常の習慣を捨ててかからなければならぬ者がいるものです。あなたの判断は、だれかほかの人の判断よりもあてにしていいと私は思っていますが、ひょっとすると、マルファについては、もうずいぶん滑稽な話やらばかげた話を耳にしておられるかもしれませんね。事実、あれにはなにかとすこぶるおかしな癖がありましたんでね。それにしても、率直に申しあげますが、私が数知れぬ不幸の原因となったことについては私は心から後悔しています。まあ、この上なくやさしい妻に捧げるこの上なくやさしい夫の oraison funebre(弔辞)としては、まずこのくらいで十分かと思います。夫婦喧嘩のときは私はたいてい沈黙をまもって、かんしゃくを起こすようなことはありませんでした。そしてこの紳士的態度はいつもだいたい図にあたったものです。これがあれに作用したし、それにこれがあれの気にも入っていたくらいです。あれが私を自慢の種にするようなことだってありましたからね。それでいながら、あなたの妹さんにはやっぱり我慢がならなかったんですね。それにしてもいったいどうしてあれがあんな絶世の美人をわが家へ家庭教師に入れるといったような冒険をしたものでしょうねえ! 私はこう解釈しているんですがね、マルファは情熱的な、感受性の強い女なもんですから、ただもう自分からほれこんでしまった、――文字どおりほれこんでしまったんですよ、――あなたのお妹さんに。なにしろ、お妹さんはすばらしい方ですからな! 私は、ひと目見るなり、これはもうだめだと思いましたね――それでいったいどうしたと思います? ――私は妹さんに目もくれまいと決心したのです。ところが、アヴドーチヤさんのほうからまず最初の手を打って来たんですよ――ほんとうになさるかどうかは知りませんがね。これまたほんとうになさるかどうかはわかりませんが、マルファは熱の入れようが昂じて、ついには私がお妹さんのことではいつもなんにも言わない、あれが絶えずアヴドーチヤさんのことでべたぼれの批評をしているのに私がまったく平気な顔をしているというので初めは私に腹を立てていたくらいです。そんならあれはどうしてもらいたかったのかとなると、これは私にもわかりませんね! まあそんなわけで、マルファのやつ、アヴドーチヤさんに私のことをその秘中の秘まで洗いざらい話してしまったことはもはや言うまでもありません。あれには情けない悪い癖がありましてな、それこそ相手かまわず家庭内の秘密を残らずぶちまけてしまって、だれかれかまわずひっきりなしに私のことをこぼすんですよ。ですもの、これほどのすばらしい新しい親友になにもせずにいるわけはないでしょう? 二人の間の話といえば私のことでもちきりだったものと想像されますし、私のせいとされている例のありとあらゆる陰惨な神秘めいた話がぜんぶアヴドーチヤさんの耳にはいってしまったことも疑いの余地はありません……賭けをしてもいいくらいですが、あなたももうなにかそういった種類の話をお聞きになっているでしょうな?」
「聞いています。ルージンが、あなたのせいで子供が死んだこともあるくらいだなんて言ってあなたのことを悪く言っていましたよ。あれはほんとうの話なんですか?」
「後生です、そんな俗悪な話には触れないで下さい」とスヴィドリガイロフは嫌悪の色を見せて気むずかしげに拒否した。「もしそういうばかげた話を残らずぜひとも知りたいというんでしたら、そのうちいつか特別にお話しましょう、しかし今は……」
「それから、お宅の下男が村でどうとかして、これまたあなたがなにかの原因だったとかという話も聞きましたよ」
「後生ですよ、もうたくさんです!」とスヴィドリガイロフはまた明らかに我慢がならないといった様子で相手の話をさえぎった。
「これは、死んだあとであなたのパイプにタバコをつめに出てきたというあの下男じゃないんですか……いつかあなたが話してくれましたっけね?」ラスコーリニコフはいよいよもっていらだってきていた。
スヴィドリガイロフがラスコーリニコフの顔を注意して見ると、相手のまなざしに悪意ありげな薄笑いが稲妻のようにきらりと光ったように見えた。が、スヴィドリガイロフは自分の気持ちをおさえて、すこぶるいんぎんな調子でこう答えた。
「ええ、その男です。どうも見たところ、あなたもやはりそういう話にひどく興味をお持ちのようですな、なにかいい機会のあり次第、あらゆる点にわたってあなたの好奇心を満足させてあげるのが私の義務かと思います。まあ、そんなことはどうでもいい! 私はどうも、実際に、だれかさんの目にはロマネスクな人物に見えているようですな。こうなってみると、亡くなったマルファが神秘めいた興味ある話をたくさんあなたの妹さんの耳に入れてくれたことにたいして亡くなった家内にどれほど感謝しなければならないかしれない道理でしょう。妹さんがどんな印象を受けたかということについては詮議しないことにしますが、ともかくそういうことになったことは私には有利だったわけです。アヴドーチヤさんは当然ながら私にすっかり嫌悪を感じていたし、私は私でいつも陰気くさい、いやらしい顔つきをしていたにもかかわらず、彼女は、ついに、私に憐憫《れんびん》を覚え出し、この堕落した男が不憫《ふびん》になってきたのです。乙女心に|憐憫の情《ヽヽヽヽ》がきざしだしたら、もう彼女にとってそれ以上危険な話はないことは言うまでもありません。こうなるともう必ず、『救って』やりたい、迷いを解いてやりたい、更生させてやりたい、もっと崇高な目的を志ざさせたい、生きかえらせて新生活と新たな活動に向かわせてやりたいと思いはじめるもので、――まあ、こういった類いの夢をいろいろと描くものだということはわかりきったことです。
私はたちまち、小鳥め、自分のほうから網のなかへ飛びこんで来たぞと見てとったもんですから、こっちも身がまえて待っていました。顔をしかめておられるようですな、ロジオンさん? 大丈夫ですよ、事は、ご存じのように、空っ騒ぎでおわってしまったわけですから(畜生、これはだいぶ酒をきこしめしちまったわい!)。実は私はね、そもそもの初めから、運命のやつ、どうしてあなたの妹さんを二世紀か三世紀頃に、どこかの小王国の王女とか、どこか地方の領主か小アジアの総督の令嬢に生まれさせなかったものかと、それがいつも残念でなりませんでしたね。あの人は殉教の苦しみを耐えしのんだ人たちのひとりにもなれたことは疑いありません、そして言うまでもなく、胸を焼け火ばしで焼かれてもにっこりと笑っておられたにちがいありません。それもわざわざ自分から進んでそれを受けに行かれるような人です。また、四、五世紀の頃だったら、エジプトの砂漠に身を隠して、そこに三十年も木の根草の根を食《は》みながら見神と随喜の生活を送るだろうと思います。あの人はただ、だれかのためになにか苦しみを一刻も早くその身に引き受けたいと、そればかりひたすらに念願し希求していて、その苦しみが授からなければ、窓からでも飛びおりかねないような人です。
私はラズーミヒンとかいうかたの噂も二、三耳にしています。この方は、人の話では、思慮分別のある好青年らしいですね(それは苗字からもわかりますけどね≪ラーズムは「理性」の意≫、きっと神学生なんでしょうな)、まあその人にお妹さんの身辺を守ってもらうんですな。ま、要するに、私はお妹さんの人柄がわかったような気がしますし、それを名誉と思っているような次第です。が、しかしああいうとき、つまり知りあった当初は、あなたもご存じでしょうが、えてしてだれでもどことなく軽率でばかになりやすいものでして、見方がまちがっていたり、ちがったふうに見えたりするものです。畜生、どうしてあの人はあんなに美人なんでしょうかねえ? 私が悪いんじゃありませんよ! ま、要するに、事は、どうにもおさえきれない情欲の衝動から起こったことなんですよ。アヴドーチヤさんは聞いたことも見たこともないくらい恐ろしく潔癖な方です(いいですか、私はこうしたお妹さんの話はひとつの事実としてお耳に入れているわけなんですよ。あの人はあれだけの広い知性にめぐまれていながら、おそらくは病的と言ってもいいくらい純潔な方です、そしてそれがあの人に害になるんじゃないかと思いますね)。
ちょうどその頃私の家にひとり、パラーシャという娘が、黒目のパラーシャという娘がおりましてな、これはよその村からつれて来られたばかりで、小間使いをしていたんですが、私はそれまで一度も会ったことはなかったけれど、――なかなかの美人でしてな、ところが頭のほうはちょっと考えられないくらいばかでした。これが泣き出して屋敷じゅうに聞こえるくらい大声をたてたもんですから、スキャンダルになってしまったわけです。すると、ある日、食事のあとで、アヴドーチヤさんが庭の並木道に私がひとりでいるところをさがしに来て、かわいそうなパラーシャをほうっといてもらいたいと、目をぎらぎらさせながら私に|要求をつきつけた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のです。これが私たち二人の間にかわされた最初の会話じゃなかったかと思います。言うまでもなく、私は彼女の希望をいれてあげることを名誉だと思いましたもんですから、一生懸命、心を打たれたような、きまり悪げな様子をしてみせました、まあ、要するに、なかなか大した演技力を発揮したわけですよ。それから交渉が始まり、秘密めいた話のやりとり、道徳論、お説教、懇願、哀願とつづき、ついには涙まで、――ほんとうですよ、涙まで流されたんですよ! 娘さんでもなかには説教の情熱の力があれほどまでになる者がいるんですからなあ! 私は、むろん、すべてを自分の運命のせいにして、光明を渇望し光明に飢えているように見せかけて、とうとう最後に、女心を征服するもっとも偉大で確実な手を、けっしてだれにたいしてもはずれることがなく、まったく例外なく、どんな女であろうと断然ききめを発揮する奥の手を使い出したのです。この奥の手というのはだれでも知っている手で――いわゆるおせじというやつですよ。
世のなかに正直ほどむずかしいものもないが、またおせじほどたやすいものもありません。もしも正直のなかにたった百分の一でもいつわりの調子がまじろうものなら、たちまち調子がくずれて、そのあとにスキャンダルが起こる。ところが、おせじのほうは一から十まで嘘っぱちであっても、この場合は聞いていやなものでもないし、満足を覚えない者はいないものです。たとえげびた満足ではあっても、満足を覚えるわけです。それに、そのおせじがよしんばどんなにへたくそなものであろうと、必ず少なくともその半分くらいは真実らしく見えるものです。これは社会のあらゆる発達の程度、あらゆる階層の者に適用できることなんです。このおせじをもってすれば、どんな貞潔な娘だって誘惑できるものなんですよ。まして、普通の人間だったら言うまでもないことです。今でも思い出すたびにほくそ笑まずにいられないんですが、私はあるとき、自分の夫、自分の子供、自分の徳行に忠実なある奥さんを誘惑したことがあるんですよ。その愉快だったこと、その手間のかからなかったこと! ところが、その奥さんはほんとうに徳行家だったんですよ、少なくともそれはそれなりのね。
私の戦術といったら、ただその奥さんの貞潔さに四六時中圧倒され、ひれ伏しているだけのことだったんですがね。私はあつかましいおせじを並べたて、苦労して握手をかち得、それどころか好意ある目つきをしてもらっただけでも、これは私があなたから無理やりもぎとったのです、あなたは抵抗なすった、私がこれほど背徳的な人間でなかったら、きっとなにひとつ手にはいらなかったと思われるくらい抵抗なすったのです、そして、あなたはご自分が純真なものだから私のずるい手のうちが読みとれず、自分でもそれとは気づかずに、うっかりこっちの甘言に乗ってしまったのですなどと、自責の言葉を吐いていたわけです。ま、要するに、そんなふうにしてなにもかも手に入れてしまったわけですよ。ところが、そのわが奥さんは、自分は清浄|無垢《むく》で貞淑で、務めという務め、義務という義務はぜんぶはたしている、あんなまちがいをしでかしたのはまったくふとしたはずみにすぎなかったのだと完全に信じきっていたものです。ですから、私がいよいよ最後に、私は心底から信じているんですが、あなたは私とまったくおなじように快楽を求めていたんですよと言ってやったときの、彼女の私にたいする怒りようといったらありませんでしたね。
あわれなマルファもやっぱりおせじには手もなく参ってしまう女でした。ですから、むろん、私さえその気になったら、まだあれの生きている間にあれの領地をぜんぶ私の名義に書きかえることだってできたはずです(それはそうと、私はずいぶん酒を呑みましたし、おしゃべりもしたもんですな)。さあそこで私が、アヴドーチヤさんにもこれとまったくおなじ効果が現われ出したといっても、ひとつ怒らないように願いますよ。ところが、私は根がばかで、こらえ性《しょう》がないもんですから、事をすっかりぶちこわしてしまったのです。アヴドーチヤさんは前にも何度か(一度なぞどうしたわけか殊のほか)私の目の表情をひどくいやがっていました、ほんとうなんですよ! 要するに、私の目にある種の炎がだんだん烈しく、かつ不用意に燃えてきたもんですから、あの人はそれに恐れをなし、ついには嫌悪を覚え出したんです。なにもこまごましたことは話すまでもない、要するに私たちは袂《たもと》をわかってしまったわけです。そのとき、私はまたまたばかなまねをやらかしてしまったんですよ。この上なく無作法なやり方で例の説教だの呼びかけをひやかしにかかったものなんです。そこへパラーシャがまた登場しました、それも彼女だけじゃないんです、――ま、要するに、大騒動が持ちあがったわけです。
いやまったく、ロジオンさん、一生に一度だけでいいから、ひとつ、お妹さんの瞳がときおりどんなに美しく輝くものか、ごらんになってもらいたいものですよ! 私は今このとおりもうコップ一杯分もあけてしまって酔っぱらっているが、こんなことはなんのこともありゃしない、私はほんとうのことを言っているんですよ。嘘じゃありません、私はその瞳を夢にまで見ました。しまいにはもうあの人のきぬずれの音を聞いただけで矢もたてもたまらなくなったものです。いやまったくの話、私はてんかんでも起きるんじゃなかろうかと思いましたね。そんなに狂おしいほどの気持ちになろうとは夢にも思っていませんでしたね。ま、要するに、どうしてもあきらめなければならなかったんですが、それはもうできない相談だったわけです。そこで、私はそのときなにをしたと思いますか? 人間って、夢中になると、どこまでばかになるもんでしょう? あなたも夢中になっている最中はけっしてなんにも企てちゃいけませんぜ、ロジオンさん。アヴドーチヤさんは実際のところは乞食同然の身の上(やっ、これは失礼、そんなつもりじゃなかったんです……だけど、おなじような意味になるとしたら、どっちだっていいじゃありませんか?)、ま、要するに自分の手で働いて食って、そしておかあさんとあなたを扶養している(やれやれ、また顔をしかめておられる……)とまあそういうところをあてこんで、自分の金をぜんぶ(その頃でも私は三万ルーブリくらいまでなら楽にこしらえられたもんですからね)、私といっしょにここへ、このペテルブルクへでもかけおちしてくれるという条件つきで提供しようと決心したのです。私がそのとき、いつまでも愛するとか、幸福にしてやるとか誓ったことは言うまでもありません。
あなたはほんとうになさるまいが、私の当時のほれこみようといったら大変なもので、あの人に、奥さんを斬り殺すか毒でも盛るかしてわたしと結婚してちょうだいとでも言い出されたとしたら、――それくらいのことはたちどころにやってのけたにちがいないと思われるくらいでした! ところが、すべては、あなたもすでにご存じのような悲劇的な結末におわってしまったわけです。しかし、あなたにもご判断いただけると思いますが、あの頃マルファが例の卑劣この上もない三百代言のルージンを見つけてきて、縁談をまとめかけていると知ったときは、私ももうまったく狂わんばかりでしたね、――これじゃ本質的には、私があなたの妹さんに申し出たこととおんなじですものね。そうでしょう? え、そうでしょう? そうじゃありませんか? お見受けしたところ、あなたはなんだかとても身を入れて話を聞き出されたようですね……いや、実におもしろい青年ですな……」
スヴィドリガイロフはこらえきれなくなってテーブルをこぶしでたたいた。その顔は真っ赤だった。わからない間にすするようにして一杯か一杯半ほどぐびりぐびりと呑んでしまったシャンパンが彼に病的な作用を及ぼしたのをはっきりと見てとったラスコーリニコフは、この機会を利用する気になった。彼にはスヴィドリガイロフがすこぶるもって怪しい人物に見えたのである。
「さあ、これですっかり得心がいったぞ、あなたが上京してきた腹には僕の妹のことがあったにちがいない」と彼は、なおいっそう相手をいらだたせてやろうと思って、包みかくさずまともにこうぶっつけてみた。
「いやはや、もういいじゃないですか」とスヴィドリガイロフははっとわれに返ったようになって言った。「それはもうあなたに言ったじゃありませんか……それに、お妹さんのほうは私の顔なんか見るのもいやなくらいなんですからね」
「見るのもいやだということは僕も確信していますよ。だけど今問題なのはそんなことじゃない」
「見るのもいやだと確信しておられる?(スヴィドリガイロフは目を細めて、にやりと嘲笑的な笑い方をした)あなたのおっしゃるとおり、あの人は私を好いてはいません。が、しかし夫婦間とか恋人同士の間の問題ではけっして請けあうようなことを言うもんじゃありませんよ。そういった間柄には必ず、つねに世間のだれにもわからず、彼ら二人にしかわからない盲点があるものなんですからね。あなたは、アヴドーチヤさんは私を嫌悪の目でしか見たことはないと請けあわれるんでしょう?」
「僕が、あなたの話の最中に吐かれた幾つかの言葉のはしばしから見て、あなたはどうもいまだにドゥーニャにたいして思惑とさし迫ったたくらみを持っているらしい、むろん、卑劣な企てにはちがいないけど」
「えっ! そんな言葉を私が洩らしましたかね?」とスヴィドリガイロフは急にひどく無邪気そうに驚いてみせたが、たくらみという言葉につけられた形容語などにはまるで注意を払っていなかった。
「今だって洩らしていますよ。たとえば、いったいどうしてあなたはそんなにびくびくしているんです? あなたは今どうして急にびっくりしたんです?」
「この私がびくびくしたりびっくりしたりしていますかね? あなたにおびえていますかね?むしろあなたのほうが私にびくびくしなければならないはずでしょう、cher ami(あなた)。それにしても、そんなことはまったくつまらんことですよ……それにしても、私も酔いましたよ、自分でもわかります。またあぶなく口をすべらすところだった。もう酒なんかくそくらえだ! おい、水だ!」
彼は酒びんをつかむと、乱暴にもそれを窓の外へ投げ捨てた。フィリップが水を持って来た。
「そんなことはみんなつまらないことですよ」と、スヴィドリガイロフはタオルをぬらして頭にあてながら言った。「私がたったひと言で攻めるだけで、あなたの疑惑なんか残らず雲散霧消してしまいますよ。たとえば、あなたは私が結婚しようとしているのをご存じですか?」
「あなたはもう前にもそんなことを言ってましたね」
「言ってましたかね? 忘れてしまったな。しかし、そのときはまだ確実な話はできなかったはずですよ、だって、いいなずけにさえまだ会っていなかったんですからね。そういう意図を持っていただけのことで。ところが、今じゃちゃんといいなずけもいるし、話もきまっているんで、のばすわけにいかない用事さえなかったら、ぜひともあなたを引っぱって、さっそくそこへご案内したいところなんですがね、――というのはご意見をうかがいたいからなんで。ちぇっ、畜生め! せいぜいあと十分くらいしかありませんな。ほら、時計をごらんなさい。しかし、ま、お話することにしましょう。なにしろおもしろい話なんですよ、私の縁談てのは。おもしろいといっても一種独特なおもしろさなんですがね、――どこへいらっしゃるんです?また帰りそうになどなさって」
「いや、もうこうなったら帰りませんよ」
「ほんとうに全然お帰りになりませんか? どうですかな! そのうちあそこへご案内しますよ、ほんとうですよ、花嫁をごらんに入れましょう、ただし今じゃありませんよ、今はあなたももうすぐ帰らなくちゃならないでしょうから。あなたは右へ、私は左へ。あなたはあのレスリッヒをご存じでしょう? ほら、私が今泊まっている、例のレスリッヒのことを、え? 聞いていらっしゃるんですか? いや、あなたはなにかほかのことをお考えのようですな、ほら、例の、女の子を、水のなかで、冬のさなかにどうとかしたと言われているあの女ですよ、――ね、聞いているんですか? 聞いていらっしゃる? で、まあ、あの女が私に一切のおぜんだてをしてくれたわけです、そんなふうじゃあなたもさぞご退屈でしょう、少し気晴らしでもなさったら、なんて言ってね。確かに私は陰気で退屈そうな人間ですからね。あなたは、陽気な人間とお思いですか? いや、陰気な人間なんですよ。人の害になることはしないが、隅のほうに引っこんでいて、ときによると、三日も人と話をしない男です。ところで、あのレスリッヒという女はなかなかのしたたか者でしてな、あなただから言うんだけど、あいつ、腹に一物持ってやがるんですよ。私が女房にあきて、捨ててどこかへ行ってしまえば、女房はあいつのものになる、そうしたら女房をたらいまわしにして売りつけようってわけですよ。われわれの階級か、もう少し上の者にね。あいつの話では、その娘には退職官吏で、もうひどく体の弱っている父親がいて、これが安楽椅子に坐ったきりで、もう足かけ三年も足を使って歩いたことがないんだそうです。それに、母親もいるんです、なかなか物のわかった婦人ですがね。息子はどこか田舎で勤めているが、家計を助けてはくれないし、娘は嫁に出たきり見舞いにも来てくれない、そのくせ小さな甥《おい》を二人も引き取って(自分の子供だけでは足りないらしくてね)育てているのに、自分の末娘は中学を中途退学させてしまっているんです。これがもうひと月すれば十六になるから、なったらすぐに、つまりひと月たてば嫁に出せるんで、私に世話しようってわけです。そこで私たちはそこへ出かけていったわけですが、まったく滑稽でしたよ。私はこういうふれこみなんです、地主で、やもめで、聞こえた家柄で、これこれの縁故関係があり、財産もあるとね、――さあ、こうなれば、私が五十で女が十六にもなっていなかったところで、なんということもないでしょう? だれがそんなことを気にしますか? ねえ、魅惑的じゃありませんか、え? 魅惑的でしょう、は! は! あなたに、私がそのおとうさんとおかあさんを相手にどんな話をしたか、その様子をお見せしたかったですねえ! そのときの私の様子ときたら、金を払ってでも見るべきでしたよ。娘が出てきて、小腰をかがめておじぎをしたんですが、それがどうでしょう、まだ裾の短い服など着ているところは、まだほころびそめたつぼみといった風情で、これが顔をぽっと赤らめて、夕焼けのように真っ赤になるんですからなあ(むろん、娘には言い聞かせてあるからですがね)。あなたは女の顔についてどういうご意見をお持ちかは知りませんが、私に言わせれば、あの十六歳という年頃、あのまだ子供っぽい小さな目、あのおどおどした様子に羞恥の涙、――私にいわせれば、これはもう美を越えていますよ。しかもその上その娘は絵のようにきれいと来ているんですからな。ちぢれて小さな輪に巻いた明るいブロンドの髪、ぷっくりした小さなくれないの唇、小さな足――まったくすばらしいですよ! ……さて、顔見知りになったところで、私が、家の都合で急ぐからと言ったもんですから、その明くる日、というのはおとといのことですが、二人は祝福してもらったわけです。そこへ行くと、私はすぐさまその娘をひざの上にのせたっきり、もう離そうともしませんでした……すると、むこうは朝焼けみたいに真っ赤になるし、こっちはひっきりなしに接吻の雨を降らす。おかあさんから、この人はお前の夫だから、こうしなければならないんだよと教えこまれていることは言うまでもありません。ま、ひと言で言えば、まず極楽ですな! ですから、この現在の婿《むこ》という身分は、まったくの話、ひょっとしたら、夫たる身分にもまさるかもしれませんよ。この状態にはいわゆる la natureet la verite(自然と真実)がありますからな! は! は! 私は彼女と二、三度話をかわしてみましたが――どうしてどうしてばかな子じゃありません。ときどきこちらを盗み見るんですが、――その目つきはまるで焼きつくさんばかりです。ところが、顔はというとラファエルのマドンナじみているんですよ。システィナのマドンナは幻想的な顔を、悲哀に満ちた狂信者の顔をしているでしょう、そういうことにお気づきになりませんでしたか? まあ、そんなふうな顔なんですよ。二人が祝福を受けたあとすぐにその翌日、ダイヤの飾りを一個と、真珠の飾りを一個、それにこれくらいの大きさで、なかにいろんなもののはいっている銀製の婦人用化粧箱と、ぜんぶで千五百ルーブリほどのものを持っていってやりましたが、これには彼女も、マドンナも顔を真っ赤にしましたね。きのうもひざの上に坐らせたんですが、きっと、こちらがあまりにも無遠慮すぎたからでしょうな、――顔じゅう真っ赤にし、涙までぽろぽろこぼしながらも、それを気どられまいとするもんだから、体じゅうかっかとほてっているんですよ。そしてみんながちょっとの間座をはずして、二人っきりになったとたんに、私の首っ玉にかじりついてきて(自分のほうからこんなことをするのは初めてなんですが)、私を小さな両手で抱いたり接吻したりして、あたしはあなたの従順で貞淑で善良な妻になる、そしてあなたを仕合わせにしてみせる、あたしは自分の一生を、生涯の一分一秒たりともあなたに捧げつくし、なにもかも全部犠牲に供するつもりだから、そのかわりあなたからは|ただひとつ尊敬だけ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》してもらいたい、それ以外は『なんにも、なんにもいりません、どんなプレゼントもいりません!』とこう誓うんですよ。こんな天使のような十六歳の娘と二人きりでいるときに、その娘が乙女らしい恥じらいに顔を赤らめ、目には歓喜の涙をたたえながらそういった告白をするのを聞くのは、――あなたも同感だろうと思いますが、なかなか魅惑的なもんですぜ。ねえ、そう思いませんか? どれほどかの値打ちはあるでしょう、え? ねえ、確かに値打ちはあるでしょう? ねえ……え、ひとつどうです……ねえ、私のいいなずけのところへ行ってみようじゃありませんか……ただし、今すぐじゃありませんよ!」
「要するに、年齢と頭の発達の大変なちがいにあなたは情欲をそそられたわけなんでしょう!いったいあなたはほんとうにそんなふうな結婚をするつもりでいるんですか?」
「したっていいでしょう? 必ずやりますよ。だれにしろ、人は自分のことは自分で工夫していくものだし、自分をだれよりもうまくだませる者がだれよりも愉快に暮らせるものなんですよ。は! は! なんだってあなたはそんなに徳行一本でおしまくって来なさるのかねえ? お手やわらかに願いますよ、あなた、私は罪ぶかい男なんですから。へ! へ! へ!」
「しかし、あなたはカテリーナさんの子供たちの身の振りをつけてやったけど……しかし、これにもそれだけの理由はあったわけだな……僕は今になってやっとすっかりのみこめましたよ」
「私はだいたい子供は好きなんですよ、私はとても子供が好きなんです」スヴィドリガイロフは大きな声で笑い出した。「このことでしたら私はあるとてもおもしろい挿話を話してあげられますがね。その話はいまだに尾を引いているんです。上京した最初の日に私は例のいろんな魔窟《まくつ》をあちこち歩いてみました、なにしろ七年ぶりなもんですからそれっとばかり飛びついていったわけですよ。あなたも、おそらく、お気づきと思いますが、私は自分の昔の仲間、昔の親友とはこちらから進んでつきあうことはしないようにしています。まあ、これからさきもなるべくいつまでもそうしていこうと思っていますがね。実はですな、田舎でマルファと暮らしていた時分から私は、その道に通じている者にならなんでもおもしろいものが発見できるそうした神秘的に見える、いろんな場所の思い出に死ぬほど悩まされていたものですよ。畜生め!みんな酒を呑んで酔いしれているし、インテリの青年どもはなにもすることがないんで遂げられぬ夢や妄想に身を燃やし、理論にふけって精神的不具になっている。どこからかわんさと流れついたユダヤ野郎はもうけた金はそうっとしまっておいて、あとは残らず遊興に使ってしまう。私はこの町に足を踏み入れたとたんからこのなじみぶかいにおいを強烈に感じとったものです。私はたまたま、ある、いわゆる舞踏夜会なるものに行きあわせたんですが、――それがおそろしい魔窟でしてな(ところで、私はおなじ魔窟でも薄ぎたないような所が好きなんです)、むろんカンカン踊りをやっているんですが、それが、よそにもないし、われわれの時代にもなかったような代物《しろもの》なんですよ。そうです、こういう面にも進歩というものがあるものなんですな。ふと見ると、なかなかかわいい身なりをした十三くらいの女の子がその道のベテランと踊っている。それに、その前には別のひと組が踊っています。そして壁ぎわの椅子には女の子の母親が腰かけているんですがね。それが、あなた、大変なカンカン踊りでしてな! 女の子はきまり悪くなり、顔を真っ赤にして、しまいには侮辱されたものととったらしく、わあっと泣き出す始末。するとベテランはその子を抱きあげて、くるくるまわしながら、その子を前にして妙技のほどを披露《ひろう》に及んだもんですから、まわりの者がひとり残らずどっと笑いころげるような騒ぎ、――私は、たとえそれがカンカン踊りの見物人であろうと、こうしたときのこの土地の見物人が好きですな、大笑いに笑って、『そうだ、そう来なくちゃいけねえ! ここは子供なんかつれてくる所じゃねえんだ!』なんてわめきたてるからね。さて、私はというと、そんなものはどうでもいいし、それにやつらの楽しみようが理屈に合っていようが、合っていまいが、そんなことは知ったことじゃない! 私はとっさに自分の席の目星をつけて、その母親のそばに腰をかけて、私も田舎から出て来た者ですが、ここの連中ときたらまったく無作法者ばかりで、人間のほんとうの値打ちの見わけもつかなければ、それに相当した敬意を払うことも知らないといったような話から切り出して、自分は金をうんと持っているというところを匂わせ、自分の車でお送りしてあげようと申し出ておいて、家へ送りとどけてやり、こうして近づきになったわけです(その親子は借家人からまた借りした小部屋に寝起きしていて、まだ上京して間もないんだとのことでした)。こうしてお知りあいになったことは、わたしにとっても娘にとっても光栄のいたりというほかはありませんなんて、はっきり言ってましたよ。聞けば、その二人は今は無一物の身の上で、ある役所になにか嘆願をしに上京したということなので、私はいろいろ骨もおってあげようし、お金も融通してあげようと申し出たわけです。それにまた、聞けば、あの夜会に出かけたのは、あれはまちがいで、あそこでは実際にダンスを教えてくれるものと思ったのだということでしたので、それでは自分としても若いお嬢さんの教育にご尽力しよう、フランス語もダンスも教えてあげようと申し出たところ、先方は大喜びでそれを受け、光栄だなどと言っておりまして、それから今までずうっとつきあっているようなわけです……よかったら、ごいっしょしましょう、――ただし今すぐじゃありませんよ」
「よして下さい、よして下さい、そんな俗っぽい下品な話は。堕落した、下品な、色気ちがい!」
「シラーですなあ、わが国のシラーですよ、シラーですって! Ou va-t-elle la vertu se nicher ?(徳はいずこにありや?)実はね、これからもわざわざこんな話を持ち出すかもしれないが、これは、あなたのそういう叫び声が聞きたいからなんですよ。いや楽しいですなあ!」
「そりゃそうだろうさ、僕だってこういうときは自分で自分が滑稽に見えるくらいだもの」とラスコーリニコフは憎々しげにつぶやいた。
スヴィドリガイロフは大声でわっははと笑った。が、やがて最後にフィリップを呼んで、勘定をすますと、みこしをあげ出して、
「いやすっかり酔っぱらっちまった、assez cause!(おしゃべりはもうたくさんだ!)」と言った。
「そりゃ、もちろん、あなたのほうは楽しくないはずはないさ」と、ラスコーリニコフはやはり腰をあげながら、そう叫んだ。「甲羅《こうら》に苔のはえた遊び人が、なにかそういった種類のおそろしいたくらみを始終頭に浮かべながら、こういう情事を話して聞かせるんだもの、楽しくないはずはないでしょう。しかもこういった状況で、僕みたいな人間を相手に話をするんだもの……興奮もするだろうさ」
「へえ、そんなことを言うようだったら」と、スヴィドリガイロフはラスコーリニコフをまじまじと見つめながら、いささか驚いたような様子さえ見せてこう答えた。「そんなことを言うようだったら、あなたも相当恥知らずですぜ。少なくともそういう素質は多分に持っておられるね。ま、意識過剰というところですかな、まったくのね……その上実行力のほうもずいぶんおありのようですがね。がしかし、まあ、このくらいにしておきましょう。あなたと十分にお話しあいができなかったことは、ほんとうに残念です。だけどどうせあなたは私から離れていきゃしませんからね……まあ、もう少しお待ち下さい……」
スヴィドリガイロフはレストランを出た。ラスコーリニコフもつづいて出た。しかし、スヴィドリガイロフはそれほどひどく酔っているわけではなかった。酒が頭へのぼったのはほんのつかの間で、酔いはみるみるうちにさめてきていた。彼はなにかすこぶる重大なことで非常に気になることがあるらしく、眉をしかめていた。明らかに、彼はなにか心待ちしているものがあって、それに興奮し、胸を騒がしているらしかった。ラスコーリニコフにたいする態度も、ここ数分の間にがらりと変わってしまい、刻一刻とつっけんどんになり、嘲笑的になってきていた。ラスコーリニコフはそういうことに気づいたらしく、やはり胸を騒がしていた。彼の目にはスヴィドリガイロフがすこぶる怪しい男に見えてきたので、あとをつけてみることにした。
二人は歩道に出た。
「あなたは右へ、私は左へ、それともあるいはその逆かな、adieu, mon plaisir(じゃ、さようなら、あなた)、またお会いしましょう!」
そう言うと、彼は右手のセンナヤをさして歩き出した。
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ラスコーリニコフもそのあとについて歩き出した。
「これはどうしたわけです!」と、スヴィドリガイロフがうしろをふり返って叫んだ。「私はさっき言ったでしょう……」
「僕はこうなったらもうあなたから離れないってことですよ」
「なあんですってえ?」
二人とも足をとめて、双方一分ばかり、さぐりあうようにして、たがいに相手の顔をじろじろ見ていた。
「さっきあなたがほろ酔い機嫌で聞かせてくれたいろんな話から」とラスコーリニコフはするどく切りこんだ。「僕は断定的《ヽヽヽ》にこういう結論を下したんです、あなたは僕の妹にたいする例の卑劣きわまる野心をいまだに捨てていないばかりか、かえってあの頃よりも凝っているらしい。けさ妹がなにやら手紙をもらったことも僕にはわかっているんです。それに、あなたはずうっと腰が落ちつかない様子だった……たとえ、あなたが行きずりにいいなずけだとかいう娘さんを掘り出したという話がほんとうの話だとしても、そんなことはなんにも意味のないことだ。僕はじかにこの目で確かめたいと思っているんですよ……」
が、ラスコーリニコフには、自分が今いったいなにをしようと思っているのか、また自分の目でいったいなにを確かめたいと思っているのかということになると、自分でもほとんどはっきりとは言えなかった。
「ははあ、そうですか! なんなら、今すぐおまわりさんを呼びましょうか?」
「呼ぶがいい!」
二人はまたしばらくたがいにむかいあって立っていた。あげくのはてに、スヴィドリガイロフの顔の表情ががらりと変わった。ラスコーリニコフがおどしなどにびくともしないのを確認すると、急にひどく愉快そうな親しげな顔つきになった。
「いやまったく大した人だ! 私は、あなたの事件のことにはわざとふれないようにしていたんですよ、むろん、好奇心にかられちゃいますけどね。ファンタスティックな事件ですからね。このつぎまでのばそうかと思っていたんだが、あなたと来たら、まったく、死人だって怒らせるような人ですからな……よろしい、行きましょう、ただあらかじめ言っておきますがね、私は今ちょっとだけ家へ寄って、金を取って来ますから。それから宿の戸じまりをして、辻馬車をひろって、ひと晩かけて島で遊びましょう。私のあとについて、いったいどこへ行こうって言うんです?」
「僕はさしあたりお宿へ行きます、それもあなたのところじゃなくて、ソフィヤさんのところへ、お葬式に行かなかったおわびを言いに行こうと思っています」
「どうぞお好きなように、しかしソフィヤさんはお留守ですよ。あの人は子供をぜんぶつれて、ある孤児院の監督をしている、私の古なじみのある老貴婦人の家へ出かけているんでね。私はね、カテリーナさんとこのひよっこども三人分の養育費をおさめた上に、孤児院にさらに寄付までして、その婦人の心をつかんでおいて、最後に、ソフィヤさんの身の上を、なにひとつ隠さずに、すっかり話したところ、それがすばらしい効果をあげましてね。そんなことから、ソフィヤさんにきょう、わが老婦人が別荘から一時出て来ている××ホテルに直接出向いてくれというお達しがあったわけです」
「かまやしない、僕はやっぱり寄ってみますよ」
「どうぞご勝手に、ただし私はあなたのお仲間じゃありませんからね。私はなんということもないんだから! さあ、もう家へ着きましたよ。ところで、どうなんでしょう、私はこう確信しているんですがねえ、あなたが私を怪しいと見ているのは、私がいろいろ気をつかって今まであなたにいろんなことを聞かなかったからだとね……おわかりですか? あなたには、こいつはどうも普通とはちがうぞという気がしたんでしょう。私は賭けてもいい、まずそんなところでしょう! まあ、これからはもっと気をつけることですな」
「そして、戸口で立ち聞きしろと言うのかね!」
「ははあ、あのことですか?」スヴィドリガイロフは笑い出した。「そうですよ、ああいうことがあったのに、あなたがあのことをなんとも言わないですましたとしたら、私もかえって驚くところでしたよ。は! は! 私は、あなたがあのとき……あそこで……ソフィヤさんにさんざんいやみをいってご自分からお話しになったうちで多少理解できたこともありますが、それにしてもあれはいったいなんですか? 私はもうまったく時代遅れな人間で、もうなんにもわからなくなっているのかもしれない。どうか、ひとつ説明してくれませんか! 最新の原理で啓蒙して下さい」
「なんにも聞こえなかったくせに。出まかせ放題のことを言って!」
「私は聞いたとか聞かないとかいうことをいってるんじゃありませんよ(もっとも、なんかかんか耳にははいりましたけどね)、そうじゃなくて、私が言おうとしているのは、あなたはそうやってしょっちゅうため息ばかり洩らしているが、どうしたのかということですよ! これはシラーがあなたの心のなかでのべつ騒ぎを起こしているんですよ。だから、今みたいに戸口で立ち聞きなんかするななんて言うんですよ。そんならそうと、出るべき所へ出て、これこれしかじか、私はこんな事件を起こしてしまいました、理論に少々まちがいがあったもんですからと、はっきり言えばいいじゃないですか。また、戸口で立ち聞きはしちゃいけないが、婆さんなら、手あたり次第のもので、好き勝手に殺してもいいと信じておられるんだったら、早くどこかアメリカへでも脱走するんですね! お逃げなさいよ、お若いの! もしかしたら、まだ時間はあるかもしれない。私は本心で言っているんですよ。金がないとでも言うんですか?旅費なら私があげますよ」
「僕はそんなことは全然考えちゃいません」とラスコーリニコフは嫌悪の色を浮かべて話の腰を折ろうとした。
「わかりますよ(それにしても、あんまりむりをしないことですね。なんだったら、あまり口をおききにならないほうがいいですよ)。今あなたがどういう問題に悩んでいるのかは私にもわかっています。道徳上の問題でしょう? 市民の問題、人間の問題でしょう? そんなものは投げ出しちゃうがいい。そんなもの、今のあなたになんになるんです? へ、へ! やっぱりまだ市民だし人間だからと言うんですか? だったら、なにもあんな出しゃばったことをすることはなかったんでしょう。余計なことに手を出すことはなかったんですよ。それじゃ今度は、ピストル自殺ですかな、どうです、それもおいやですか?」
「あなたはどうも、今僕を追っぱらいたいばっかりに、わざと僕を怒らせようとかかっているらしいね……」
「いや、あなたも変わった人ですなあ、しかしもう着きましたよ、どうぞ階段をおのぼり下さい。ごらんなさい、ほらここがソフィヤさんの部屋の入り口ですよ。見てごらんなさい、だれもいないでしょう! 嘘だと言うんですか? じゃ、カペルナウーモフさんに聞いてごらんなさい。あの人はいつでもあそこへ鍵をあずけて行くんですから。ほら、来ましたよ、マダーム・ド・カペルナウーモフが、ね? え、なんですって?(あの人は少し耳が遠いんでね)お出かけになったんですって? どこへね? さあ、お聞きになったでしょう? あの人は留守で、ひょっとしたら、晩もおそくでないと帰らないんですよ。じゃ、今度は私の部屋へ行きましょう。だって、私のところへも寄るおつもりだったんでしょう? さあ、私の部屋へ来ました。マダーム・レスリッヒは留守なんですよ。あの女は年がら年じゅうせわしなく駆けずりまわっているんでね、しかしいい人ですよ、これは請けあいます……あなたがもう少し分別がおありだったら、あの女はあなたのお役にたつかもしれないのに。ほら、これをごらんなさい。今この事務机のなかから五分利つき債券を出しますけどね(ほら、まだまだこんなにたくさんあるでしょう!)、これをきょう両替屋で現金にかえようと思っているんです。どうです、ごらんになりましたか? もうこれ以上時間をつぶすことはない。事務机の鍵はかけたと、部屋の戸じまりもしたと、さあ、また階段です。さて、いかがでしょう、辻馬車をひろいましょうか?私はこの馬車をエラーギン島へやるんですが、どうです? いらっしゃいますか? つづける気がなくなりましたか? 馬車を走らせてみましょうや、なんということもありませんよ。雨が降ってきそうだが、大丈夫です、ほろをおろしますから……」
スヴィドリガイロフは早くも馬車に乗っていた。ラスコーリニコフは、自分が彼にたいしていだいている疑いが、少なくともこのときばかりはまちがっているように思った。彼はひと言も答えずに、くびすを返してセンナヤのほうへとって返した。このとき、もしもその途中、一度でもうしろを振り返ってみれば、スヴィドリガイロフが百歩も車を走らせないうちに、馬車の勘定を払って歩道におり立ったところが見られたはずである。ところが、彼はなにひとつ気づかずに、早くも街角をまがってしまった。彼はふかいふかい嫌悪感にスヴィドリガイロフから引き離されてしまったわけである。
「たとえつかの間とはいえ、よくもまあおれはあんながさつな悪党から、あんな色気ちがいの身を持ちくずしたげすな男からなにかを期待するような気持ちになれたものだ!」と彼は思わず叫んでしまった。が、実際のところ、ラスコーリニコフはあまりにも軽率に速断してしまったことになる。スヴィドリガイロフを取りまく雰囲気には、神秘的なものとまでは言えないまでも、少なくともある独特なものを感じさせる何ものかがあったはずなのだ。それにしても、妹のことでは、スヴィドリガイロフのやつ、妹をただではほうっておかないだろうというラスコーリニコフの信念は依然として変わっていなかった。が、しかしこういったことを考えたり、考えをめぐらしたりするのが彼はもうあまりにもおっくうで、耐えられないような気持ちになっていたのである。
いつもの癖で、彼は、ひとりっきりになると、二十歩も歩かないうちにもうふかい物思いにふけっていた。橋の上へ来ると、彼は手すりのそばに足をとめて、水面を眺めはじめた。ところが、その彼を見おろすようにして、そこにアヴドーチヤが立っていたのである。
ラスコーリニコフは橋のたもとで彼女に出会ったのだが、顔の見わけがつかないままに、そばを通りすぎてしまったのだった。ドゥーニャはこれまでに一度も兄がそんなふうにして通りを歩いているのに出くわしたことがなかっただけに、はっとした。彼女は立ちどまりはしたが、兄に声をかけてよいものかどうかわからなかった。そのときふと彼女は、センナヤのほうからスヴィドリガイロフが足早に近づいてくるのに気がついた。
ところが、相手の近づいて来るその来かたが、どうも、そうっと警戒しているようなぐあいなのである。そして橋には上らずに、ラスコーリニコフの目にふれないようにとしきりに気をつかいながら、歩道のわきに足をとめた。そうして、ドゥーニャにはもうさっきから気がついていて、彼女に合図を始めていた。彼女には、彼がその合図で、兄さんには声をかけずにそうっとそのままにして自分のほうへ来てくれと頼んでいるように思われた。
ドゥーニャはそのとおりに、こっそりと兄のうしろをまわって、スヴィドリガイロフのほうへ近づいていった。
「早く行きましょう」と、スヴィドリガイロフは彼女にささやいた。「私はロジオンさんに二人が会うってことを感づかれたくないんですよ。前もってお教えしておきますが、実はお兄さんについそこのレストランにいるところをさがし出されて、今までそこにいっしょにいて、お兄さんをむりやり振り切ってきたところなんです。あの人はどうしたわけか、私がさしあげた手紙のことを知っていて、なにか怪しんでいるんです。あの人にそのことを打ちあけたのは、むろん、あなたじゃないでしょうね? あなたでないとすると、いったいだれでしょう?」
「さあ、わたしたち、もう角をまがってしまいましたから」とドゥーニャは話の腰を折った。
「もう兄に見つかるようなことはありませんわ。わたし、あなたにはっきり申しあげますけど、わたしはこれよりさきへはごいっしょしませんわよ。なにもかもここでおっしゃって下さい。往来だっておっしゃれるはずですから」
「第一、こんな話は絶対に往来でなんかできませんよ。第二に、あなたはソフィヤさんから話を聞かなければならないんでしょう。第三に、私にはあなたにお見せしたい証拠物件が二、三あるんです……それに、第四には、もしも私の部屋へはいることを承知して下さらなかったら、私は説明は一切お断わりして、すぐにもここから立ち去ることにします。それに、あなたにお忘れにならないようお願いしておきますが、私はあなたの大好きなお兄さんのきわめて興味ある秘密を完全に自分の手に握っているんですぞ」
ドゥーニャはためらいながら立ちどまって、突きさすような目つきでスヴィドリガイロフを見つめた。
「あなたはなにを怖がっているんです?」と相手は落ちつきはらってこう言った。「都会は田舎とはちがいますよ。田舎でさえ、あなたは私がしたよりもひどいことを私になすったじゃありませんか、ところがここでは……」
「ソフィヤさんには前もってお知らせしてあるんですの?」
「いや、私はあの人にはひと言も話してありません、それどころか、今家におられるかどうか、それさえ確実なところはわかっていないんですよ。しかし、多分、おられるでしょう。あの人はきょうはおかあさんの葬式をすましたばかりで、お客に歩くような日じゃありませんからね。時期が来るまでこの話はだれにもしたくないんですよ。あなたにお知らせしたことさえ、少々後悔しているくらいなんですから。こういう場合はちょっとした不注意がすでに密告とおなじようなことになりますからね。私はほらあそこに、あの家に住んでいるんですよ、さあ、もうひと足です。ほら、あれがうちのアパートの庭番です。あの庭番は私をとてもよく知っているんですよ。だから、ほら、おじぎをしているでしょう。あの男はああして、私がご婦人同伴で歩いているところを見ている以上、むろん、あなたのお顔も覚えたことでしょうから、あなたがとても怖がって私を疑っているとすれば、それがあなたに役だつことがあるかもしれませんよ。こんな無礼なことを言って、すみません。私は部屋をまた借りしているんです。ソフィヤさんは私とは壁一重の隣り同士で、これも同様また借りです。この階には下宿人がびっしりはいっているんです。だから、なにも子供みたいに怖がることはありませんよ。それとも私がそんなに怖いんですか?」
スヴィドリガイロフの顔は自分を卑下しているような微笑にゆがんだ。だが、彼はもう笑いどころではなかった。心臓はどきどきし、胸には息がつまって、つかえているような感じだった。彼がわざと大声でしゃべっていたのは、次第に高まってくる興奮を隠すためだったのである。が、ドゥーニャはその異常な興奮に気づく余裕もなかった。子供みたいに怖がっているだの、私はあなたから見てそれほど怖い人間かだのと言われたため、ひどく気が立っていたのである。
「わたしはあなたが……恥知らずな人だということは承知していますけど、あなたなんかちっとも怖がってなんかいませんわ。案内して下さい」と彼女は、外見は落ちつきはらった様子で言ったが、その顔はひどく青ざめていた。
スヴィドリガイロフはソーニャの部屋の前で足をとめた。
「家にいるかどうか、ちょっと聞いてみましょう。いないらしい。どうもまずいね! しかし、じきに帰ってくるということはわかっているんですよ。あの人が外出したとすれば、みなし子たちのことで、ある婦人のところへ行く以外に行くはずはないんです。子供たちが母親をなくしたんで、私も首を突っこんで、世話をしてやったんですよ。ソフィヤさんが十分たってももどらないようだったら、あの人をお宅へあがらせますよ、よかったら、きょうにも。さあ、ここが私の宿です。私の部屋はこのふた部屋です。ドアのむこうが私の家主のレスリッヒ夫人の住まいになっています。さあ、今度はここを見て下さい、私の主な証拠物件をお見せしますから。私の寝室から、ほらこのドアを通ってまったくがら空きのふた間にはいれるようになっていますが、このふた間は貸しに出ているのです。これがそうです……こいつはほかのとこより少々注意して見る必要があるんですよ……」
スヴィドリガイロフは家具つきのかなり広々とした部屋をふた間借りていた。ドゥーニャはうさんくさそうにあたりに目をやったが、飾りつけといい、部屋の配置といい、別にこれといって変わったところはなにひとつなかった。もっともちょっと気がつくようなこともなかったわけではない、たとえば、スヴィドリガイロフの住まいはどうしたわけか、ほとんど人の住んでいない二つの住まいにはさまれたようになっていることなどがそのひとつだった。それに、彼の部屋にはいるには直接廊下からではなくて、あき部屋も同然の貸し主のふた部屋を通らなければならぬことになっていた。スヴィドリガイロフは寝室のほうから、鍵のかかっているドアをあけて、これもがらあきで貸しに出ている住まいをドゥーニャに見せた。ドゥーニャが、なんのためにそんなものを見ろと言うのか腑に落ちないため、敷居の上に立ちどまりそうにすると、スヴィドリガイロフは急いで説明にかかった。
「ほら、こちらをごらんなさい、この二つめの大きな部屋を。このドアに目をとめて下さい、これには鍵がかかっています。戸口には椅子がおいてあるでしょう、両方の部屋でたったひとつっきりの椅子がね。これは私が、聞くのに都合がいいように自分の部屋から持ってきたものなんです。ドアのすぐむこうにソフィヤさんのテーブルがおいてあって、彼女はそのそばに腰かけて、ロジオンさんと話をしていたんです。で、私はこちらで椅子に腰をかけて、ふた晩ぶっつづけに、二回とも二時間ぐらいずつ立ち聞きしたわけです、――ですから、むろん、なにかかぎ出すことができたわけですよ、どうですか?」
「立ち聞きなんかなすったんですの?」
「ええ、立ち聞きしたんですよ。それじゃ今度は私の部屋へ行きましょう。ここじゃ腰をかける所もありませんから」
彼はアヴドーチヤを客間にしているとっつきの部屋へつれ帰ると、椅子にかけるようすすめた。そして、自分はテーブルのむこう端の、彼女から二メートルほど離れたところに腰をかけたが、多分、彼の目には早くも、かつてドゥーニャをひどくおびえさせたことのある例の焔が輝いていたのであろう、彼女はびくっとして、もう一度うさんくさそうにあたりを見まわした。それは無意識のしぐさだった。彼女は、おそらく、不信の色など見せたくはなかったのにちがいないのだが、あたりの人けのない気配に、彼女もぎょっとしないわけにいかなかったのだろう。彼女はせめておかみでも家にいるかどうか聞きたかったのだが、それもしなかったのは……プライドがそうさせたのである。その上、彼女の胸にはもうひとつ、自分の身の危険を思う恐怖よりはかり知れぬほど大きな悩みがあった。彼女はこらえられないほど苦しみ悶えていたのである。
「これがあなたの手紙です」と、彼女は手紙をテーブルの上において、こうきり出した。「お手紙に書いておられるようなことがあってたまるもんですか。あなたはなにか兄が犯罪をおかしたようなことを匂わしていらっしゃるけど、あなたのほのめかしははっきりしすぎていますわ。ですから今となっては前言をひるがえすわけにいきませんわよ。いいですか、わたしはね、もうあなたからうかがう前からあのばかげた作り話は聞いておりましたけど、一言だって信じてなんかいませんわ。それこそいやらしい滑稽な嫌疑というものです。わたしには、あれがこしらえ事だってことも、それがどういうふうにして、またなんのためにその話が作り出されたかも、ちゃんとわかってるんです。あなたには証拠なんかひとつだってあるはずはありません。でも、あなたは証拠を見せてやると約束なさいましたわね。じゃ言ってごらんなさい! ただし前もって言っておきますけど、わたしはあなたのおっしゃることなんか信じませんからね!信じるもんですか! ……」
ドゥーニャはこれだけのことを早口に、せきこんでまくしたてたため、彼女の顔に一瞬ぽっと赤味がさした。
「あなたがほんとうに信じておられないとしたら、危険をおかしてまでひとりで私のところへ来るはずもないでしょう? そんなら、なぜいらっしゃったんです? 単なる好奇心からですか?」
「わたしをいじめないで、おっしゃって下さい、おっしゃって!」
「あなたが気丈な娘さんなことは言うまでもない。私はてっきり、ラズーミヒン氏に頼んでここまで送ってきてもらうものと思っていましたよ。ところが、あの人はごいっしょでもないし、あなたのまわりにも見あたらないじゃありませんか、私はこれでよくよく見たんですけどね。これは大胆な振舞いです、こいつは、つまり、ロジオンさんにいやな思いをさせたくなかったからなんでしょう。それにしても、あなたという人はどこからどこまで実に見あげた方ですなあ……お兄さんのことについては、どう申しあげたらいいか? あなたはたった今ご自分の目でごらんになったでしょう。どんなふうでした?」
「まさかあなたはそれだけを根拠にしていらっしゃるんじゃないんでしょうね?」
「ちがいますよ、私はそんなことじゃなくて、あの人自身が言ったことを根拠にしているんですよ。お兄さんはふた晩ぶっつづけにここへ、ソフィヤさんのところへいらっしゃったんです。私は今、お二人が腰かけておられた場所をお見せしたでしょう。お兄さんはあそこであの人にすっかり告白なすったんです。お兄さんは人殺しなんですよ。あの人は、ご自分も入れ質していた官吏の未亡人で金貸しをしていた婆さんを殺した上に、姉が殺されたところへひょっこりはいって来た、名前はリザヴェータという、古着の商いをしている妹まで殺してしまったのです。あの人はその二人を、持っていた斧で殺してしまったわけです。殺人の目的は物盗りだったんで、品物を盗りました。金と品物を何点か持ち去ったわけです……兄さんは自分の口からその顛末を逐一ソフィヤさんに話して聞かせたわけで、ですからこの秘密を知っているのは彼女ひとりきりなんですが、彼女は教唆《きょうさ》という点でも実際の仕事の上でもこの殺人には関係ありません、それどころか、今のあなたとおなじように、それを聞いておびえてしまったくらいです。ま、ご安心なさい、あの人は兄さんを売るようなことはしませんから」
「そんなことあるはずがないわ!」とドゥーニャは死人のように血の気の失せた唇でつぶやいた。彼女はあえいでいた。「あるはずがないわ、だって原因なんかいっさい、これっぱかしもないんですもの、動機なんかいっさいないんですもの……そんなこと嘘よ! 嘘だわ!」
「お兄さんは物を盗んだ、これが原因のすべてです。あの人は現金と品物を持ち去った。なるほど、あの人は、自分で告白しておられるところによれば、金も物も使わずに、どこかの石の下に埋めてしまって、今でもそこにあるそうですが、それはただ、あの人はそれを使う気になれなかっただけのことなんですからね」
「兄が物を取ったり盗んだりするなんて、はたしてありうることでしょうか? そんなこと、考えられもしないじゃありませんか?」とドゥーニャは叫ぶと、椅子からさっと立ちあがった。
「あなたは兄をご存じなんでしょう、お会いになっているんでしょう? 兄は泥棒になんかなれる人でしょうか?」
彼女はもうまるでスヴィドリガイロフに哀願するような調子になっていた。彼女はもう怖いことなどすっかり忘れてしまっていた。
「アヴドーチヤさん、こういうものには幾千、幾百万という組みあわせや種類があるもんですよ。泥棒ってものは物を盗みますが、そのかわり腹のなかでは、自分は卑劣な人間だということをちゃんと承知しているものです。ところが、ある立派な紳士が郵便馬車を襲った話を聞いたことがありますがね、その男なんか、ひょっとしたら、実際には、自分は立派なことをしてのけたんだなんて考えていたかもしれないですものね! これがもしわきからでも聞いた話だったら、あなた同様、私だって、もちろん、真に受けなかったでしょうよ。しかし、私も自分自身の耳は信じないわけにいきませんでしたね。あの人はソフィヤさんに理由も残らず説明したんですが、ソフィヤさんも初めのうちは自分の耳が信じられないようでした、が、とうとう目を、自分自身の目を信じたわけです。あの人が自分の口から話したことなんですからね」
「いったいどういう……理由だったんですの?」
「話せば長いんですがね、アヴドーチヤさん。この事件には、さあ、どう表現したらいいか、まあ、一種の理論が根底にあるんですよ。ま、たとえば、肝心な目的さえ立派なものだったら、悪事のひとつくらいは許されるべきだといったようなものと私は解していますがね。悪事ひとつと百の善行ってやつですかな! そりゃもちろん、いろいろすぐれたものを持った自負心過剰な若い者にとって、たとえば、たかだか三千ルーブリもあれば、出世の道も、生涯の目標の未来図もがらりとちがった形を呈するというのに、実際にその三千ルーブリがないという事実を思い知らされたとしたら、確かに屈辱を覚えるでしょうよ。それに加えて、飢えだの、狭苦しい部屋だの、ぼろ服だの、自分の社会的地位と同時に妹や母親の生活状態のみじめさにたいする明瞭な意識から来る心のいらだちといったようなものも思いあわせてみてごらんなさい。しかし、いちばん大きいのは虚栄心ですよ、自負心と虚栄心です、もっともあの人はほかにもっと美点も持ちあわせているのかもしれませんがね……私は別にあの人を責めているわけじゃありませんよ、どうか、そんなふうにはとらないで下さい。それに、そんなことは私には関係のないことなんですから。それから、これにはちょっとした独特の理論があったのです、――まあ、大したこともない理論ですがね――それによると、人間というものは、いいですか、素材的な人間と特別な人間、つまり、高い所に位置するために法律の起草の対象にはならず、逆にほかの人間、素材、くずのために法律をつくる人間とに分けられる。なんということもない、まあ大した理論でもありませんがね、une theorie comme une autre(ありふれた理論)ですよ。が、お兄さんはこれにひどくひきつけられてしまったんですな、つまりだいたい、たいていの天才的な人間は一つや二つの悪事などには拘泥《こうでい》もしなければ、考えこみもせずに、それを踏みこえて行ったという点にひきつけられてしまったんですよ。どうやら、あの人は、自分も天才的な人間だと勝手に想像していた、――つまり一時はそう思いこんでいたらしいんですな。あの人は大いに悩んだし、今も悩んでいるようですが、それは、自分には理論をつくる能力はあったが、考えこみもせずに踏みこえることはできない、ということはつまり、天才的な人間ではないということだと考えたからなんです。いやまったく自負心の強い青年にとっては、こういったことは屈辱的なことですからな、とりわけ現代ではね……」
「じゃ、良心の苛責はどうなんですの? あなたは、そうするとつまり、兄には道徳的感情なんて一切ないと見ていらっしゃるんですの? 兄って、ほんとうにそういう人間なんでしょうか?」
「いやそれがねえ、アヴドーチヤさん、今はなにもかも混乱した世のなかなんですよ、もっとも、これまでに一度だって特別秩序整然としていた時代なんてありませんでしたけどね。ロシヤ人てやつはだいたい茫洋《ぼうよう》とした国民なんですよ、アヴドーチヤさん、国土とおなじように茫洋としていて、幻想的なもの、無秩序なものにひかれる傾向が非常に強いんです。ところが、これといって天才的なところもないのに茫洋としているのは困りものなんでしてね。覚えていらっしゃるでしょう、私たち、毎晩夕食のあとで庭のテラスに腰かけて、あなたと二人っきりでこういったテーマでこれとおなじようなことをずいぶん話しあいましたっけね。それに、あなたは私にはそうした茫洋としたところがあるといって攻撃なさいましたな。もしかしたら、私たちがそういう話をしていたのとちょうどおなじ時刻に、お兄さんもこちらで横になって自分の考えをこらしていたのかもしれませんよ。なにしろ、わが国の教養階級には特別神聖な伝統なんかありませんからね、アヴドーチヤさん、ただ、だれかがどうにか本に頼って勝手につくるか……でなければ、年代記のなかからなにか引っぱり出してくるくらいのところですからねえ。しかも、そういうのはたいてい学者連中で、まあ、一種のまぬけばかりですから、上流階級の人間から見れば礼を失しているくらいのもんですよ。もっとも、私の意見はだいたいあなたもご存じのとおりで、私はだれのことも絶対に非難しない男です。私自身高等遊民だし、それを固持している男なんですから。私たちはこういう話を何度もしましたっけね。幸福にも、あなたが私の見解に興味を持って下すったことすらありましたな……あなた、顔色が大変よくないようですね、アヴドーチヤさん?」
「わたし、兄のその理論を知っていますわ。わたし、雑誌にのった、なにをしても許される人間について書いた兄の論文を読んだんですの……ラズーミヒンさんが持ってきて下さったので……」
「ラズーミヒン氏がですか? お兄さんの論文を? 雑誌にのった? そんな論文があるんですか? 知りませんでしたね。それは、きっと、おもしろいもんでしょうなあ! けど、あなたはどこへいらっしゃるんです? アヴドーチヤさん?」
「わたし、ソフィヤさんに会いたいんですの」とドゥーニャは弱々しい声で言った。「あの人のところへはどう行ったらいいんですの? あの人、もうお帰りになったかもしれないわ。わたし、ぜひとも今すぐあの人に会いたいんです。あの人の口から……」
アヴドーチヤはしまいまで言いきれなかった。文字どおり息がきれてしまったのだ。
「ソフィヤさんは夜ふけまで帰りませんよ。私はそう思います。あの人は非常に早くか、でなかったら、非常におそく帰るはずです……」
「あら、じゃ、あんたは嘘をついているんだわ! わたし、わかったわ……あんたは嘘をついたんだわ……あんたはでたらめばかり言っている! ……わたし、あんたの言うことなんか信じないわよ! 信じないわ! 信じないわ!」とドゥーニャはすっかりとり乱して、ほんとうに狂ったようになって叫びたてた。
そして、ほとんど気絶したようになって、スヴィドリガイロフが急いであてがった椅子の上に倒れてしまった。
「アヴドーチヤさん、どうしました、お気を確かに! さあ、水を。ぐっとひと口お飲みなさい……」
彼は彼女に水を振りかけた。ドゥーニャはぶるっと身ぶるいしてわれに返った。
「これはまたひどく効きすぎたもんだな!」と、スヴィドリガイロフは顔をしかめてつぶやいた。「アヴドーチヤさん、ご安心なさい! いいですか、兄さんには親友がいますよ。われわれが救ってやりますよ、助け出してみせます。よかったら、兄さんを外国へつれ出してあげましょうか? 金はありますから、切符なんか三日以内に手にはいりますよ。それに、あの人が人殺しをしたことだって、あの人ならまだまだいくらでも善根を積むこともできますから、あんなこと、ぜんぶ帳消しになってしまいますよ。その上、偉い人になるかもしれないし。ねえ、どうなすったんです? 気分はいかがです?」
「意地悪な人! まだからかっている。わたしをはなして下さい……」
「どこへ行くんですか? いったいどこへいらっしゃるんです?」
「兄のところへ。兄はどこですか? ご存じなんでしょう? このドアにはどうして鍵がかかっているんですの? いつの間にこのドアに鍵をかけたんですか?」
「私たちがここで話していることが家じゅうの部屋につつぬけに聞こえちゃいかんと思ったからですよ。私は決してからかってなんかいませんよ。ただあんな言葉使いで話すのがいやになっただけのことです。あなたはそんなかっこうでどこへ行こうっていうんです? それとも、お兄さんを敵の手に渡したいんですか? そんなことをしたら、お兄さんは気が狂ったようになって、自分で自分の身を敵に売ってしまいますよ。いいですか、お兄さんはつけ狙われて、もう尾行されているんですぞ。あなたはお兄さんをただ敵に売り渡してしまうだけです。お待ちなさい。私はたった今お兄さんに会って、いっしょに話をしてきたところなんです。まだ救う余地はありますよ。お待ちなさい、おかけなさい、いっしょに考えを練りましょう。あなたをお呼びしたのも、二人っきりでその相談をして、よくよく考えるためだったんですから。さあ、おかけなさいったら!」
「どうやってあなたには兄が救えると言うんですの? ほんとうに救えるのかしら?」
ドゥーニャが腰をおろすと、スヴィドリガイロフもそばに腰をかけた。
「それはみんなあなた次第ですよ、あなた次第です、あなただけでどうにでもなることです」彼は目をぎらぎら輝かせながら、ほとんどささやき声になって、まごつきながら、興奮しているためにほかの言葉も出ずに、そう言い出した。
ドゥーニャはびっくりして相手から身を引いた。相手も体じゅうぶるぶる震えていた。
「あなたが……あなたのたったひと言で、兄さんは救われるんですよ! 私は……私はお兄さんを救ってみせます。私は金と友だちを持っています。すぐさまお兄さんを発たせましょう。私は旅券を手に入れます、旅券を二枚。一枚はお兄さんので、もう一枚は私のです。私には幾人も親友がいます。私には腕ききの連中がいます……いかがです? 私はさらにあなたにも旅券を手に入れてあげましょう……あなたのおかあさんにも……ラズーミヒンなんかいいじゃないですか? 私もあなたを愛しているんです……あなたを無限に愛しています。あなたの服の端でもいいから接吻させて下さい、接吻させて下さい! 接吻させて下さい! 私は、あなたのきぬづれの音を聞いただけでもたまらないんです。私に、これをしろと言って下さい、やりますから! 私はなんでもやります。できないことだってやってみせます。あなたが信じることは、私も信じることにします。私はなんだって、なんだってやってみせますよ! そんな目つきで私を見ないで下さい、見ないで! あなたは私をなぶり殺しにしているようなもんですよ……」
彼はうわ言じみたことすら言いはじめた。彼はなにか急に、頭がぽうとなったようなぐあいだった。ドゥーニャはぱっと身をおどらせると、戸口のほうへ飛んでいった。
「あけて下さい! あけて下さい!」と彼女はだれかを呼び寄せるようにしてドア越しに叫びながらドアを両手でゆすぶった。「あけて下さいったら! ほんとうにだれもいないんですか?」
スヴィドリガイロフははっとわれに返って立ちあがった。毒々しい嘲笑がまだ震えている唇に徐々に現われ出た。
「むこうにはだれもいませんよ」と彼は静かに、間をおきながら言った。「おかみさんは出かけてしまっているから、そんなにわめいたってむだですよ。ただ興奮するだけですよ」
「鍵はどこにあるんです? 今すぐあけてちょうだい、今すぐ、卑怯な人ね!」
「鍵はなくしちまって、見つからないんですよ」
「え? それじゃ暴行しようってわけね!」とドゥーニャは叫ぶと、死人のように真っ青になって部屋の隅へ飛びのき、手もとにあった小机で急いで体を遮蔽《しゃへい》した。彼女は叫び声はたてなかったが、自分の加害者をくい入るように見つめながら、相手の一挙一動をするどく見守っていた。スヴィドリガイロフもやはりその場から動かずに、部屋のむこう端に彼女と相対して立っていた。彼は自制力さえ持っていた、少なくともうわべはそう見えた。が、しかしその顔は依然として青かった。嘲笑はまだその顔から去らなかった。
「あなたは今『暴行』と言いましたな、アヴドーチヤさん。暴行だと思えば、あなたにも、なるほど相手はいろいろ手段を講じたなと判断がおつきでしょう。ソフィヤさんは留守だし、カペルナウーモフ家まではずいぶん遠くて、その間に閉めきった部屋が五つもある。その上、私は腕力だったら少なくともあなたの二倍はあるし、そればかりでなく私には恐れるべきものはない、だってあなたはあとで訴えるわけにもいきませんからな。実際、あなただって兄さんを敵の手に渡したくはないでしょう? それに、だれもあなたの言うことを真に受けてはくれないだろうしね。そうでしょう、どうして若い娘が、男がひとりでいるところへ出かけていくかということになりますからな。そんなわけで、兄さんのほうを犠牲にしたところで、なんにも証明はできませんよ。暴行というやつはきわめて証明のむずかしいものなんですからね、アヴドーチヤさん」
「ひどい人!」とドゥーニャは色をなしてつぶやいた。
「なんとでもおっしゃい、ただこういうことに注意して下さい、私はまだ仮定の形で言ったまでですよ。私個人の信念から言えば、まったくあなたのおっしゃるとおりです。暴力は醜悪な行為です。私はただ、たとえ……たとえあなたが進んでお兄さんを救う気になられたとしても、私があなたに提案しているんですから、あなたの良心にはなにひとつやましいものは残らないということを言いたかっただけです。あなたは、単に、情勢に、どうしてもこういう言葉を使わなければならないと言うのなら、力としてもいい、その力に従っただけだということになるんですよ。その点をよく考えるんですな。あなたのお兄さんとあなたのおかあさんの運命はあなたの手に握られているんですぞ。私はあなたの奴隷になりましょう……一生でも……私はここにこうしてご返事を待っていますから……」
スヴィドリガイロフはドゥーニャから八歩ほどのところにあったソファに腰をおろした。彼女にはもはや、相手の決心が不動であることを疑う余地はみじんもなかった。それに、彼女は彼の気性をよく知っていたのである……
やにわに彼女はポケットから拳銃を取り出して、撃鉄をあげ、拳銃を握った手を小机の上におろした。スヴィドリガイロフはその場から跳びあがった。
「ははあ! そういうわけだったのか!」と彼は驚いて、がそれでも憎々しげな微笑を浮かべて叫んだ。「いや、こうなれば事の進みぐあいが一変してしまいますな! あなたは私に仕事を大変やりやすくしてくれるわけですよ、アヴドーチヤさん! あなたはいったいどこで拳銃を手に入れました? まさかラズーミヒンからじゃないでしょうな? おや! 私の拳銃じゃないですか! 古い、なじみの拳銃だ! 私はそれをあの頃ずいぶんさがしたんですよ! ……じゃ、私が田舎でしてあげた射撃の稽古《けいこ》も、むだではなかったわけですな」
「あんたの拳銃じゃないわ、あんたが殺したマルファさんのものよ、悪党! あの人の家にはあんたのものなんかなんにもなかったじゃないか。わたしは、あんたがなにをやり出すかわかりゃしないと気がついたんで、これを取っておいたのよ。一歩でも踏み出したが最後、必ずあんたを殺してみせるからね!」
ドゥーニャは狂いたっていた。彼女は拳銃を射つばかりにして身がまえをした。
「そうすると、お兄さんのほうはどうするつもりですかな? 好奇心から聞くんだけど」とスヴィドリガイロフは相変わらずまだ同じ場所に突立ったまま、聞いた。
「したけりゃ、密告でもするがいい! その場から動くんじゃないよ! そこから動いたが最後、射つからね! あんたは奥さんを毒殺したんでしょう、わたし知ってるわ、あんたこそ人殺しじゃないか!……」
「すると、あなたは、私がマルファを毒殺したものとかたく信じているわけですな?」
「あんたよ! あんたが自分から匂わしていたじゃないの。あんたはわたしに毒薬の話をしたし……わたしは知っているけど、あんたはそれを買いに出かけたじゃないの……あんたは前から用意していたんだわ……あれはあんたのしわざにちがいないわよ……人でなし!」
「よしんばそれがほんとうだとしても、もとはあんたのせいだとすれば……やっぱりあんたが原因じゃないか……」
「嘘おっしゃい! わたし、あんたをいつも、いつも憎んでいたわ……」
「へへえ、アヴドーチヤさん! どうやら、説教熱に浮かされてうっとりしておられたときのことをお忘れになったようですな……それはあなたの目つきからわかりましたぜ。覚えているでしょう、晩方、月あかりのもとで、うぐいすがまだ鳴いていましたっけね?」
「でたらめだわ!(ドゥーニャの目に狂いたったような憤怒の色が輝き出した)でたらめ言ってるわ、嘘つき!」
「でたらめを言ってるって? いや、ひょっとしたら、でたらめを言っているのかもしれない。いかにも嘘をつきましたね。女にむかってこんなことは口にのぼすべきじゃなかったんだ(彼は薄笑いをもらした)。射つだろうってことはわかっているよ、かわいいけだもの。さあ、射つがいい!」
ドゥーニャは拳銃をあげて、死んだように真っ青な顔をし、血の気の失せた下唇をぷるぷる震わせ、炎のように輝いている大きな黒い目で相手をにらみつけながら、むこうからちょっとでも動き出すのを、意を決して、測るようにして、待っていた。スヴィドリガイロフはこれまでにまだ一度もこれほどすばらしい彼女を見たことがなかった。彼女が拳銃をあげようとしたとたんにその目から輝き出た炎に、彼は焼かれるような思いがし、心臓がぎゅっと痛くしめつけられるような気がした。男が一歩踏み出したとたんに、銃声がとどろいた。弾は彼の髪の毛をかすめて、うしろの壁にあたった。彼は足をとめて、くすくす笑い出した。
「蜂にさされたみたいだ! まともに頭をねらいやがって……なんだ、これは? 血か?」彼はハンカチを取り出して、右のこめかみを細い筋をなして流れ落ちる血を拭きとった。多分、弾が頭の皮膚をかすったのだろう。ドゥーニャは拳銃をおろして、恐怖というよりも一種異様なけげんな気持ちで、スヴィドリガイロフを見つめていた。彼女はまるで、自分がなにをしたのか、また事がどうなっているのか、自分にもわからないといった様子だった。
「しようがない、しくじりましたね! もう一度射ちなさい、待っていますよ」とスヴィドリガイロフは、やはりまだ薄笑いを浮かべながら静かにそう言ったが、その言い方はなんとなく陰鬱だった。「そんなふうじゃ、あなたが撃鉄をあげないうちにこっちがつかまえてしまいますぜ!」
ドゥーニャはびくっとして、手早く撃鉄をあげ、ふたたび拳銃をあげた。
「わたしを帰らしてください!」と彼女は死にもの狂いで言った。「ほんとうにまた射つわよ……わたし……殺しちゃうわよ!……」
「しようがない……三歩の距離じゃ殺せるにきまっている。が、もし殺せなかったら……そのときは……」彼は目をぎらぎら輝かしながらさらに二歩ほど前へ踏み出した。
ドゥーニャは引き金を引いた、が、不発だった!
「弾のこめ方が不正確だったんですよ。大丈夫です! まだ雷管があるでしょう。なおしなさい、待っていてあげるから」
相手は彼女の前方二歩ほどのところに立って、待っていた。そして、荒々しい決意をこめて、情熱に燃えた、いやらしい目つきで彼女を見つめていた。ドゥーニャは、この男は死んでも自分をはなしてはくれまいと感じた。『だから……だから、むろん、今、二歩の距離がある間に殺してしまわなければ……』
が、やにわに彼女は拳銃を投げ捨ててしまった。
「捨てちまったか!」スヴィドリガイロフは不思議そうにそういって、ふかく息をついだ。彼は胸からなにかが一挙に取りのぞかれたような気持ちだったが、それは、あるいは単に死の恐怖の重荷ばかりではなかったのかもしれない。彼はこの瞬間、死の恐怖などほとんど感じていなかったのである。それは、懸命に定義しようとしても自分にも定義できない、別の、悲しい陰鬱な感情からの解放感だった。
彼はドゥーニャのそばに寄ってきて、静かに彼女の腰に手をまわした。彼女はさからいはしなかったが、体じゅうぶるぶる震えながら、哀願するような目つきで相手を見つめていた。男はなにか言いたそうにしたが、唇がゆがんだだけで、口はきけなかった。
「わたしを帰して!」と、ドゥーニャは拝むようにして言った。
スヴィドリガイロフはぶるっと身震いした。この敬語ぬきの言い方にはなにやらさっきとはちがった響きがあったのだ。
「じゃ、愛してはいないんだね?」と彼は静かに聞いた。
ドゥーニャは首を振って愛していないという意味をあらわした。
「それに……愛せないというのかね? ……絶対に?」と彼は絶望したような調子でささやいた。
「絶対に!」とドゥーニャはささやくように言った。
スヴィドリガイロフの胸のなかで一瞬すさまじい無言の闘いが起こり、そしてそれもおわった。彼はなんとも言えないような目つきで彼女を見つめていた。と、急に彼は手を引っこめたかと思うと、くるりと向きを変え、足早に窓のほうへ離れて、窓を前にして立った。
さらに一瞬間がすぎた。
「ほら、鍵です!(彼は外套の左ポケットから鍵を取り出すと、ドゥーニャのほうを見もしなければ振りかえりもせずに、うしろのテーブルの上へおいた)お取りなさい。そして、早く出ていって下さい……」
彼はしつこく窓の外に目をやっていた。
ドゥーニャはテーブルのそばへ行って鍵を手に取った。
「さ、早く! さ、早く!」と、スヴィドリガイロフは相変わらず身動きもしなければ振りかえりもせずにそうくり返した。だが、その『さ、早く』という言葉には、明らかに、ある気味の悪い調子がひびいていた。
ドゥーニャにはそれがわかったので、鍵をつかむなり、ドアのそばへ駆け寄って、急いで鍵をはずすと、部屋を飛び出した。そして一分後には、狂ったように、無我夢中で堀割りに出て、××橋を目ざして駆け出していた。
スヴィドリガイロフはさらに三分ほど窓ぎわに突立っていたが、やがてゆっくり振りかえると、あたりを見まわし、手のひらでそうっと額をなでた。その顔は奇妙な微笑に、みじめな、悲しそうな、弱々しい微笑に、絶望の微笑にゆがんだ。手のひらは、早くも乾き出していた血にまみれていた。彼はその血を恨めしげに眺めてから、タオルを水でぬらして、こめかみを拭いた。そのときふと、ドゥーニャが投げ捨てていった拳銃が彼の目にとまった。彼はそれをひろいあげて、調べてみた。それは作りの旧式な、小型の、懐中用三連発銃だった。なかにはまだ弾が二発と雷管がひとつ残っていた。もう一回は射てるはずだ。彼はちょっと考えていたかと思うと、その拳銃をポケットに突っこみ、帽子を取って、外へ出た。
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彼はその晩はひと晩じゅういろんなレストランや魔窟をつぎからつぎへとまわり歩いた。どこかでカーチャもさがしあてた。カーチャは、だれか『卑劣なひどい男』が、
『カーチャに接吻しはじめた』
という別の流行歌を歌っているところだった。
スヴィドリガイロフはカーチャにも、アコーディオンひきにも、歌手たちにも、ボーイたちにも、どこかの二人づれの書記にも酒をふるまった。この書記たちと関係がついたのは、実は、二人とも鼻がまがっていて、ひとりは鼻が右へ、もうひとりは左へまがっていたからである。これにはスヴィドリガイロフも驚嘆した。彼は最後に、二人にどこかの遊園地へ引っぱっていかれた。そこでは彼は二人の入場料まで払ってやった。その遊園地にはひょろひょろした三年もののもみの木が一本と見すぼらしい灌木が三株植えてあり、そのほかに、『駅』なるものがあって、実際は酒場にすぎないものだったが、そこでは紅茶くらいは注文できたし、緑卓(賭トランプの卓)と椅子もいくつかおいてあった。客を楽しませるものといったらせいぜいへたくそな歌手の合唱団と、鼻が赤くて道化じみていながら、なぜかひどくうち沈んだような、ミュンヘン出身の酔っぱらったドイツ人くらいのものだった。そのうち書記たちがどこかの別の書記たちと口げんかをはじめ、今にも取っ組みあいになりそうになり、スヴィドリガイロフがその仲裁人に選ばれた。そこで彼は十五分もかけて調停をこころみたが、みんないっせいにわあわあわめきたてるため、調べをつける見こみなどまったくたたなかった。いちばん確からしいと思われたのは、彼らのうちのだれかがなにかを盗んだ上に、ひょっこり来あわせたあるユダヤ人にその場でまんまと売っぱらいはしたものの、売ったあとで、仲間と金を山分けする気がなくなったということらしかった。あげくのはてに、売った品物が『駅』の茶さじであることがわかった。そのうち『駅』の者がスプーンのないのに気づいたため、事はいよいよめんどうになってきた。スヴィドリガイロフはスプーンを弁償してやってから、腰をあげて遊園地を出た。時刻は十時頃だった。彼自身はこの間ずうっと酒は一滴も呑まず、せいぜい『駅』で自分の飲み料に紅茶を注文したくらいのところで、それもむしろ体裁のために注文したのだった。そうこうするうちに、むしむしした闇夜になった。そして十時頃には四方八方からすさまじい黒雲がおし寄せてき、雷鳴がとどろいたかと思うと、雨が滝のようにばしゃばしゃ降り出した。雨水はしずくをなしてぱらぱら落ちるのではなくて、完全に流れのようになって地面をたたくのだった。絶えず稲妻がきらめき、稲妻は、空が一度ぱあっと明るくなる間に五つくらい数えることができた。彼は全身ずぶぬれになって家へたどり着くと、ドアをしめ切って、事務机の引出しをあけて、ありったけの金を取り出し、二、三の書類をずたずたに破いてしまった。つぎに、金をポケットにねじこんでから、着がえをしようと思ったが、窓の外を見、雷鳴と雨の音に耳をすましたかと思うと、着がえを断念して、帽子を取って、部屋に鍵もかけずに廊下へ出た。そしてまっすぐソーニャの部屋へ行ってみたところ、彼女はちょうど家にいあわせた。
彼女はひとりっきりではなかった。カペルナウーモフの子供が四人も取りまいていたのだ。ソーニャは子供たちにお茶を飲ましていたのである。彼女は無言でいんぎんにスヴィドリガイロフを迎え入れ、驚いた顔つきで相手のびしょぬれの服に目をやったが、口はひと言もきかなかった。子供たちは言いようもないほどおびえきってたちまち逃げ出してしまった。
スヴィドリガイロフはテーブルにつくと、ソーニャにそばへ腰をかけてくれと頼んだ。彼女はおずおずと話を聞く身がまえをした。
「ソフィヤさん、私はアメリカにむけて発つかもしれないんです」とスヴィドリガイロフは言った。「それで、あなたにお会いするのもこれが最後になるかもしれないので、なにか始末をつけに来たわけなんです。どうでした、あなたはきょうあの婦人に会って来られましたか? あの人があなたに言ったことは、私にはわかっていますから、改めてお話し下さることはありません(ソーニャはもじもじして、顔を赤らめた)。ああいう人たちには一定のしきたりがありますんでね。あなたの小さい妹さんや弟さんについて言えば、子供さんたちの身のふりはすっかりついたわけで、子供さんたちに割りあてた金はそれぞれ別々に領収書を取って、しかるべく確かなところへ預けましたから。しかし、この領収書は、万一の場合のために、預っておいて下さい。さ、これを取っておいて下さい!さて、これで片がついたと。それから、ここに五分利つき公債証書が三枚ありますが、ぜんぶで三千ルーブリになります。これはご自分の分としてお収め願います、そしてこのことは二人だけの間の話にして、たとえどんなことを耳にされようと、だれにもお洩らしにならないように。この債券がご入り用になることが必ずあります、だってそうでしょう、ソフィヤさん、このままこれまでのような生活をつづけるということはみっともないし、それにあなたにはもうそんな必要はまったくないわけですからね」
「わたしは、子供たちのことでも、死んだ母のことでも、大変なお世話になっておりますのに」とソーニャは早口に述べ出した。「今までろくにお礼も申しあげませんでしたけど、……どうぞ悪しからず……」
「いやあ、そんなことはもうたくさんですよ、たくさんですよ」
「それからこのお金は、スヴィドリガイロフさん、ほんとうにありがとうございますけど、今さしあたりその必要はございません。自分ひとりくらいならいつでも食べていけますから。どうぞ恩知らずなどとおとりにならないよう。それほどお情けぶかい気持ちをお持ちでしたら、このお金は……」
「これはあなたに取っていただかなければ、あなたに、ソフィヤさん。どうか、なにもおっしゃらずに受け取って下さい、私もゆっくりしていられないのでね。あなたには入り用になることがありますよ。ロジオンさんには、額に弾を射ちこむか、ヴラジーミル街道(シベリヤへ流される囚人が通った道)を行くかの二つしか道はありません(ソーニャは変な目つきで相手を見て、ぶるぶる震え出した)。ご安心下さい、本人の口から聞いたんだし、それに私はおしゃべりではないから、だれにも洩らしませんから。あなたはあのときあの人に、自首して出るようにと教えて、いいことをしました。あの人にはそのほうがずっと有利になりますものね。どうなんです、ヴラジーミル行きという判決がおりて――あの人がヴラジーミル街道を行くことになったら、あなたもあの人についていくんでしょう? そうじゃないんですか? そうでしょう? ね、そういうことになったら、つまり、すぐにも金がいることになりますよ。あの人のために必要になるんですよ。わかりましたか?私があなたにあげれば、あの人にあげたも同然なんですよ。その上、ほら、あなたはアマリヤさんにも借金を払うと約束なすったでしょう。私の耳にはいっていますよ。いったいなんだって、ソフィヤさん、そんなにいつもよく考えもしないでそんな契約だの義務なんか背負いこむんですか? あのドイツ人の女に借金を残していったのはカテリーナさんであって、あなたじゃないじゃありませんか。あんなドイツ人の女には、つばでもひっかけてやりゃいいんですよ。そんなことじゃ世のなかを渡っちゃ行けませんよ。さてそこで、もしだれかにいつかそのうち、――まあ、あすかあさってでも、――私のことを、でないとしても私に関することを聞かれたら(あなたはきっと聞かれますよ)、私がこうしてお宅へあがったことは口に出さないで下さい。それに金も絶対に見せないことです、それから私がさしあげたことも、だれにも言わないで下さいよ。さて、じゃこれで失礼します(彼は椅子から腰をあげた)。ロジオンさんによろしく。ついでに言っておきますが、金は、いるときが来るまで、ラズーミヒン氏にでも預けておいたらいいと思います。ラズーミヒン氏をご存じでしょうね? むろん、ご存じでしょう。あれはあれでなかなかの好青年ですよ。あの人のところへ持っていらっしゃい、あしたか……適当なときに。それまではなるべく奥のほうへしまっておくんですね」
ソーニャもやはり椅子からひょいと立ちあがって、びっくりしたように相手を見つめていた。彼女はむしょうになにか言いたかったし、なにか聞きもしたかったのだが、初めの一、二分はそんな勇気もなかったし、どうきり出したらいいのかもわからなかった。
「どうしてあなたは……どうしてあなたは、こんな雨の降るなかを行かれるんですの?」
「なあに、アメリカへ出かけようという男が雨なんかに恐れをなしてどうしますか、へ! へ! じゃ、さようなら、ソフィヤさん! 長生きしなさいよ、うんと長生きしなさいよ、あなたは他人の役にたつ人です。ついでに……ラズーミヒン氏に、よろしく言ってくれるようにと言っていたと伝えて下さい。こういうふうに伝えて下さい、アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフがよろしくと言っていたと。きっとですよ」
彼は、びっくり仰天してなにやら漠然とした重苦しい疑惑につつまれているソーニャを残したまま、出ていってしまった。
あとでわかったのだが、そのおなじ夜の十一時すぎに彼はもうひとつすこぶる奇矯《ききょう》な思いがけない訪問をしていた。雨は相変わらずやみそうもなかった。彼は全身ぬれねずみのまま、十一時二十分頃、ワシーリエフスキイ島のマールイ通り三丁目にあった自分のいいなずけの両親の手ぜまな住まいにはいっていった。やっとのことでたたき起こしたため、初めは大騒ぎをひきおこすところだった。しかし、スヴィドリガイロフという男は、その気にさえなれば、すこぶる魅力的な挙措《きょそ》ふるまいのできる男だったから、多分どこかでひどく酔いくらって、もう覚えもなくなっているのだろうという、分別ある親たちの最初の(だが、なかなかうがった)推測も、――たちまち自然に解消してしまった。体のすっかり弱りはてている夫を安楽椅子にのせてスヴィドリガイロフのところへ押してきた、情にもろい思慮に富んだ、いいなずけの母親は、いつもの癖で、さっそく遠まわしな質問にかかった(この女はけっしてずばりと単刀直入の質問をしかけたことがなく、いつも最初は笑顔ともみ手から行動をおこして、たとえば婚礼の日どりはいつがいいかといったような、なにかぜひとも正確なところを知らねばならぬことがあっても、まずパリやパリの宮廷生活にかんする、好奇心に満ちた、貪欲ともいえるくらいの質問から始めて、それから初めて順序を追ってワシーリエフスキイ島の三丁目まで話を持って来るのだった)。ほかのときであれば、もちろん、こうした話し方は多分に人に尊敬の念をおこさせるのだが、このときのスヴィドリガイロフはなぜか殊のほかいらだっているような様子で、すでに最初から、いいなずけの娘はもう寝床にはいっていると告げられていたのに、断乎として花嫁の顔が見たいと言い出した。いいなずけが出てきたことは言うまでもない。スヴィドリガイロフは、自分はあるすこぶる重大な事情から一時ペテルブルクを去らなければならないので、いろんなお札《さつ》を取りまぜて銀貨にして一万五千ルーブリほど(当時ロシヤでは銀貨と紙幣の流通価値がちがっていた)持ってきてあげたから、これを贈り物として取ってほしい、これはつまらないものだが、かねてから婚礼の前に贈ろうと思っていたのだから、といきなり彼女に自分の意向をつたえた。この贈り物と、あわただしい旅立ちと、そのためにこの雨のなかを夜もふけてからどうしても来なければならなかった必然性との間にどういう特別な論理的な関係があるのかは、むろん、これくらいの説明ではすこしもはっきりしなかったが、しかし事は無事にきわめてすらすらと運んだ。こういう場合になくてはならぬ『あら』とか『まあ』とかいう嘆声や根ほり葉ほりの質問や驚愕《きょうがく》すら、どうしたわけか急にひどく節度のある、ひかえめなものになった。そのかわり、この上なく熱烈な謝意の表明があり、思慮に富んだ母親の涙でそれが補強されもした。スヴィドリガイロフは腰をあげて、笑い出し、いいなずけに接吻をし、そのほおを軽くたたいて、じき帰ってくるからと、何度も言い、そしていいなずけの目に、子供っぽいものであったとはいえ好奇心と、同時になにか非常に真剣な無言の問いがひそんでいるのに気づくと、ちょっと思案し、もう一度接吻したかと思うと、とたんに腹のなかで、この贈り物も世にもまれなほど思慮ぶかい母親がさっそく鍵をかけてあずかることになるのかと思って、心からいまいましい気持ちになった。彼はみんなを異常な興奮状態においたまま、そこを立ちのいた。しかし、情にもろい母親は、なかばささやくような早口で、いくつかのすこぶる重大な疑問を即座に解決してしまった。つまり、スヴィドリガイロフさんという人はえらい人で、いろいろ仕事もかかえ、つきあいも広い人で、金持ちなのだから、――頭のなかでなにを考えているのか、だれにもわかりっこないのだ、だからこうと思いたったら旅にも出ようし、こうと思いたったら金も持ってきてくれようというわけで、してみればなにも不思議がることはない、あの人が全身ずぶぬれで来たということは、むろん、変にはちがいないが、たとえばイギリス人などはもっと風変わりだし、それにああいう上流階級の人たちは世間の取りざたなどは意に介しもしないし、四角ばったりもしないものなのだ、ひょっとしたら、あの人は、自分にはだれひとり怖い者はいないんだというところを見せようと思って、わざわざああいうふうにして歩いているのかもしれない、肝心なことは、このことをだれにもひと言も洩らさないことだ、それがもとでさらになにが起きるか知れやしないのだから、それから金は一刻も早く錠をかってしまっておかなければならない、こうしたいろんなことがあったなかでいちばんよかったことは、もちろん、フェドーシヤが台所に引っこんでいてくれたことだ、いちばん大事なことは、あの老獪な女のレスリッヒには絶対に、絶対に、絶対になんにも教えないことだなどと、判断をつけたのだった。みんなはそこに坐りこんだまま、二時頃までひそひそ声で語りあっていた。それでも、いいなずけは驚き怪しんでいるような、いくぶん悲しげな様子をしながら、だれよりも早く寝室へ引きあげていってしまった。
一方、スヴィドリガイロフのほうはちょうど夜なかの十二時頃××橋を渡ってペテルブルク区にむかって歩いていた。雨はやんだが、風がざわめいていた。彼はぶるぶる震え出していた。ちょっとの間一種特別な好奇心を覚え、疑問さえいだきながら小ネワ川の黒々とした水面に眺め入ったが、間もなく水を見おろして立っているのがひどく寒いような気がしたので、向きを変えて、××通りのほうへ歩き出した。彼は果てしのない××通りを、もうだいぶ長いこと、ほとんど三十分近く、暗がりの木煉瓦の歩道の上で幾度も倒れそうになりながら歩みを運んでいたが、その間ずうっと好奇心をそそられてでもいるように通りの右側にそってなにかを探しつづけていた。どこかその辺の、もう通りも切れようとするあたりで、彼はついこの間この辺を通りかかったとき、ある木造ではあるが大きな旅館があるのに気がついていた。その名前は、彼の記憶するかぎりでは、たしかアドリアノーポリといったふうなものだった。彼の見当にまちがいはなかった。その旅館はこんな場末では大変めだつ目標だったので、こうした暗闇のなかでさえ見つからないわけはなかったのである。それは長い木造の黒ずんだ建物で、こんなにおそい時間なのに、まだ明かりがともっていて、いくらか活気さえおびて見えた。彼はなかへはいると、廊下で行きあったぼろ服の男に明いた部屋があるかどうか聞いた。ぼろ服のボーイはスヴィドリガイロフをちらりと見やって、ぶるっと身震いしたが、さっそく彼を、どこか廊下のはずれの階段下あたりにある、離れの暑苦しそうな狭い部屋へ案内した。ほかに部屋がなくて、ぜんぶふさがっていたのである。ぼろ服の男は問いかけるような目つきでこちらを見ていた。
「紅茶はあるかい?」とスヴィドリガイロフは聞いた。
「はい、できます」
「ほかになにがある?」
「子牛の肉、ウォトカ、おつまみ物といったようなところでございます」
「じゃ、子牛の肉と紅茶を持ってきてくれ」
「ほかにはなんにもご注文はございませんか?」と、ぼろ服のボーイはいささかけげんそうな面持ちさえ見せて聞いた。
「なんにもいらん、なんにもいらん!」
ぼろ服のボーイはすっかり失望したような様子で去っていった。
『ここはなかなかいい場所にちがいないのに』とスヴィドリガイロフは思った。『どうしておれはここを知らなかったのかな。おれも、おそらく、どこかカフェー・シャンタン(音楽やアトラクションつきのカフェー)帰りの男で、しかも途中でひと騒ぎやって来た人間に見えるんだろうな。それにしても、こんなとこに泊まっていく連中ってどんな連中なんだろう?』
彼はろうそくに火をつけて、もっと仔細に部屋のなかを点検した。それはほとんどスヴィドリガイロフの背丈ほどもない小さな部屋で、窓はひとつしかなかった。ひどくきたならしい寝台と粗末な色塗りのテーブルと椅子がほとんど部屋のぜんぶを占領していた。壁は見たところ、板を打ちつけた上に壁紙をはっただけらしく、その壁紙ももうすり切れて、すでにひどく埃にまみれ、ずたずたに破れているため、色(黄色)こそまだ見わけはつくものの、模様にいたってはまったく見当もつかなかった。壁と天井の一部は、普通屋根裏部屋がそうなっているように、ななめに切ってあって、そこの傾斜した天井の上は階段になっていた。スヴィドリガイロフはろうそくをおいて、ベッドに腰をかけ、物思いにふけり出した。が、やがて彼は奇妙な、絶え間ない、ときどき怒号に近いくらいに高まる隣室のささやき声に注意を向けた。このささやき声は彼がはいって来たときから小止みなくつづいていたのである。彼は聞き耳を立てた。だれかがののしっていて、涙を流さんばかりにしてもうひとりの男を責めたてているのだが、そのひとりの声しか聞こえなかった。スヴィドリガイロフが立ちあがって、片手でろうそくの光をさえぎると、とたんに壁の隙間がちらりと光った。彼はそばへ行って、のぞき見を始めた。彼自身の部屋よりもやや大きめの部屋には二人の客がいた。そのうちのひとりは、ひどいちぢれ毛で、のぼせて真っ赤な顔をしていたが、この男は上着をぬいで、弁士のような姿勢で体の平衡をたもつために両足を踏んばって立ち、自分の胸をたたきながら、お前は乞食同然で、官等さえ身におびていないじゃないか、お前を泥沼から引っぱりあげてやったのはこのおれだから、その気にさえなれば、おれはお前をいつだって追い出せるんだ、こういうことは神さましかご存じないことだが、などと言って、パセティックな調子でもうひとりの男を責めているのだった。責められている親友のほうは椅子に腰かけて、くしゃみをしたくてしようがないのだが、それがどうしてもうまく出ないような顔つきをしていた。その男はときたま羊のようなどんよりした目つきで弁士に目をやるが、明らかに、今話がどんなことになっているのか、ちっともわかっていないらしく、ほとんど耳にはいってもいないような様子だった。テーブルの上には今にも燃えつきそうなろうそくが一本立ててあり、もうほとんどからのウォトカのびんや、グラスや、パンや、コップや、きゅうりや、もうだいぶ前に飲んでしまった紅茶の器などがおいてあった。スヴィドリガイロフはこの光景をひとわたり注意ぶかく見わたすと、関心がなさそうに隙間から離れて、またベッドに腰をおろした。
ぼろ服のボーイは紅茶と子牛の肉を持ってもどって来ると、もう一度聞かずにはいられなかったらしく、「ほかになにかお入り用なものはございませんか?」と聞いてみたが、ないという返事を聞くと、もうそれっきり引っこんでしまって出て来なくなった。スヴィドリガイロフは体をあたためたいと思って紅茶に飛びついて、一杯ほどあけたけれども、食欲がすっかりなくなっていたため、食べるほうは、ひと切れも口にはいらなかった。どうも熱が出てきているらしかった。彼は外套とジャケツをぬぐと、毛布にくるまってベッドに横になった。彼はいまいましくなって、『せめてこんなときぐらいは健康でいたいのに』と思って、苦笑した。部屋のなかは息苦しかった。ろうそくはぼんやりともり、戸外では風がごうごう鳴り、どこか部屋の隅ではねずみががりがり音をたて、おまけに部屋じゅうねずみとなにか皮製品の匂いがこもっているような感じだった。彼は横になったまま、まるで熱にでも浮かされているような気分だった。考えがつぎつぎと入れかわっては消えていった。彼は無性になんでもいいからなにかひとつのものにしがみついて思い浮かべていたいような気持ちになった。『これは、窓の下が、きっと、庭になっているんだな』と彼は思った。『木がざわめいているもの。おれは暗い嵐の夜に、木がざわめくのを聞くのがいやでたまらないんだ、まったくいやな感じだ!』そして彼は、さっきペトローフスキイ公園のわきを通りながら、ふとそのことを考えていやでたまらなかったことを思い出した。すると、そのついでに、××橋や小ネワ川のことも思い出し、またもや、さっき水を見おろして立っていたときのように、ぞくぞく寒くなって来たような感じがした。『おれは生まれてこのかた、水が好きだったためしがない、風景画の水でさえそうだった』と、彼はもう一度考えたが、ふとまた、ある妙な考えが浮かんできて、苦笑した。『もう今となっちゃ、こんな美的感覚だの快適さなんかどうだっていいようなものなのに、この期に及んでばかに選り好みするようになったものだ、これじゃまるで……こういう場合に必ず自分の場所を選ぶという獣とおんなじじゃないか。確かにさっきはペトローフスキイ公園のほうへ折れるべきだったんだ! 多分、あっちは暗くて寒いような感じがしたんだろうな、へ! へ! これじゃまるで愉快な気分でも必要だったみたいじゃないか! ……それはそうと、どうしておれはろうそくを消さないんだ?』(彼はろうそくを吹き消した)『隣りはもう寝たんだな』と彼は、さっきの隙間に明かりが見えないので、そう思った。『ほら、マルファ、こんなときこそお出ましになるべきじゃないか、暗くもあり、場所もかっこうだし、時も奇想天外じゃないか。まったくこんなときに出て来ないなんて……』
と、ふと今度はなぜか、さっき、ドゥーニャにたいする計画を実行する一時間前に、ラスコーリニコフにドゥーニャの保護はラズーミヒンにまかせたほうがいいと勧めたことが思い出された。『ほんとうにおれは、もしかしたら、ラスコーリニコフの推測どおり、あのときはなによりも自分の傷を突っつくためにあんなことをいったのかもしれないぞ。それにしても、大変な悪党だ、あのラスコーリニコフというやつは! あんな重荷を背負いこんだんだからな。あのばかげた考えが抜けきったら、そのうち大した悪党になれる男だ。だが今のところどうも命に未練があり|すぎる《ヽヽヽ》ようだな! こういう点になると、ああいう連中はあさましいからな。が、まあ、あいつなんかどうともなりやがれ、ま、勝手にするがいい、こっちの知ったことじゃないや』
彼はやっぱり寝つけなかった。少しずつさきほどのドゥーニャの姿が目の前に現われ出したかと思うと、突然戦慄が身うちを走った。『いや、もうこんな考えは捨てなければ』彼ははっとわれに返って、そう思った。『なにかほかのことを考えるようにしなければ。不思議だし滑稽だが、おれはだれにたいしてもいまだかつて大きな憎しみというものをいだいたことがないし、これまでに特に復讐しようとさえ思ったこともない。しかしこいつは確かによくない兆《きざ》しだぞ、よくない兆しだ! 議論もやはり好きじゃなかったし、かあっとなるということもなかった――これもよくない兆候だ! それにしてもさっきおれは彼女にずいぶんいろんな約束を並べたてたもんだ、ちぇっ、畜生め! おそらく、おれも彼女にならどうにかたたき直してもらえたんだろうがな……』彼はまた口をつぐんで歯をくいしばった。すると、またもやドゥーニャの姿が目の前に立ち現われた。が、今度は、彼女が生まれて初めて人を射ったため、ひどくおびえあがってしまい、だらりと拳銃を下げて、死人のように真っ青になって彼を見つめていたときの彼女と寸分たがわぬ姿だった。あんなふうだったら彼は優に二回も彼女をつかまえることができたはずだ、ところが彼女は、彼のほうで注意してやらなかったら、身を防ぐために手もあげなかったにちがいないのだ。彼は、あの瞬間彼女がたまらなくかわいそうになり、胸がぎゅっとしめつけられる思いがしたことも思い出した……『えい! 畜生! またこんな考えが浮かびやがった、こんな考えは捨ててしまわなければ、捨ててしまわなければ!……』
彼はすでに忘我の境にあった。発熱の悪寒もおさまって来た。と突然なにかが毛布の下の手と足のあたりを駆けぬけたような気がした。彼はぶるっと身震いした。『ちぇっ、畜生、こいつはねずみらしいぞ!』と彼は思った。『テーブルの上に子牛の肉を置いておいたからだな……』彼はとても毛布をまくって起き出て寒い思いをする気にはなれなかった。すると、突然またなにかが気味悪く足のあたりでごそごそしたので、彼は毛布を引っぱいで、ろうそくをつけた。発熱の悪寒にがたがた震えながら寝床のなかを調べてみたが、なにもいなかった。毛布をふるってみると、ひょいと敷布の上にねずみが飛び出た。彼は飛びかかってつかまえようとしたが、ねずみは寝床から駆けおりようともせずに、ちょろちょろあちこちジグザグを描いて走り、指の下から駆けぬけたり腕をつたって走りぬけたりしているうち、不意に枕の下へもぐりこんでしまった。彼は枕を投げおろしたが、そのとたんになにかがふところへ飛びこんだかと思うと、体の上をちょろちょろ走って、あっという間にルバーシカのなかをくぐって背なかへまわった。彼は神経的な身震いを覚えて、はっと目がさめた。部屋のなかは真っ暗で、彼はさっきと変わりなく毛布にくるまったままベッドに寝ており、窓のそばでは風がほえていた。『ああ、いやだ!』と、彼はいまいましい気持ちで考えた。
彼は立ちあがって、窓を背にして寝床の端に腰をかけた。そして、『もうこうなったらまるっきり眠らないでいたほうがいい』と腹をきめた。しかし、窓から寒気と湿気がはいりこんできた。彼はその場から腰もあげずに毛布を引きよせて体にかけ、それにくるまった。ろうそくはともさなかった。彼はなんにも考えなかったし、考えたくもなかった。が、それでいて幻想がつぎからつぎへとわきおこり、きれぎれな想念が、初めも終わりも脈絡もなくひらめくのだった。彼はなかばまどろみの状態に落ちこんでいくらしかった。彼になにかしら幻想的な志向と憧憬《どうけい》を執拗《しつよう》に呼び起こしていたのは寒さだろうか、暗闇だろうか、湿気だろうか、それとも窓のそばでほえながら木々をゆさぶっている風だろうか、――が、とにかくそのうち花々が目に浮かびはじめた。ある絶景が目の前に描き出された。明るい、あたたかい、暑いと言ってもいいくらいの日であり、祭日であり、三位一体の日だ。家のぐるりにめぐらした花壇に香ぐわしい花々のいっぱいに植えてある、豪華できらびやかなイギリス風の田舎のコッテージ。ばらの花壇を配置した、つたのからんでいる表階段。ぜいたくなじゅうたんを敷きつめて、めずらしい花のいけてある花びんがあちこちにおいてある明るくて涼しい階段。ことに彼の目をひいたのは、窓においてある水盤のなかで、あざやかな緑色の、育ちのいい長い茎から首を垂れて強い芳香を放っている、たおやかな白水仙の花束だった。彼はそこを離れたくなかったのだが、階段をのぼって、大きな、天井の高い広間にはいってみると、そこもまたいたる所、窓のそばも、テラスへ出る明けはなたれたドアのあたりも、またそのテラスそのものも、どこもかしこも花でいっぱいだった。ゆかには新鮮な刈りたての香ぐわしい草がばらまかれ、窓は明けはなたれ、すがすがしい軽やかな涼しい空気が室内に流れこみ、窓のそばでは小鳥がさえずり、広間の中央の、白いしゅすの卓布をかぶせたテーブルの上にはひつぎがおいてある。そのひつぎは白いグロデナプル(イタリー産絹布)でつつまれ、へりには白いひだつきのひもがびっしり縫いつけられ、花輪がそれを四方から取りかこんでいる。ひつぎのなかには全身花におおわれて、少女が、白い絹レースの服を着せられ、胸の上に、まるで大理石でほりあげたような手と手を握りしめるように組んで、横たわっている。ところが、そのほどいてある髪、明るいブロンドの髪はしっとりと濡れていて、ばらの冠がその頭にまきつけてあるのだ。すでに硬直している、きつそうなその横顔は、これまた大理石で彫刻したような感じだったが、血の気のない唇に浮かんでいる微笑はどこか子供らしくない無限の悲哀と大いに訴えたい気持ちにあふれていた。スヴィドリガイロフはこの少女を知っていた。そのひつぎのそばには聖像もなければ、ともした燈明もなく、祈りの声も聞こえなかった。この少女は自殺者であり、身投げをした娘だったのである。彼女はまだやっと十四歳にすぎなかったが、すでに手ひどい傷を受けたその心は、その幼い子供らしい意識をおびやかし驚かした屈辱にいたみ、その天使のように清らかな心を不当な恥ずかしい思いでいっぱいにした屈辱感に苦しんで、われとわが身を殺したのだった、風のほえたける暗い、寒む寒むとした、しめっぽい雪どけの夜に、おし殺した最後の絶望の叫びも人に聞かれず、ただ声を立てたことを叱られながら……
スヴィドリガイロフはふとわれに返ると、寝床から起き出して、窓のそばへ歩み寄った。手さぐりで掛け金を見つけて窓をあけると、風が狂ったように狭い山小屋にどっと流れこみ、顔とルバーシカ一枚の胸に凍った霜のようなものがひっついた。窓のそばはきっと実際になにか庭園のようなものに、おそらくは、やはり遊園地のようなものになっているのだろう。昼間は、多分、ここでも歌手たちが歌を歌ったり、テーブルにお茶が運ばれたりしているのにちがいない。それが今は立ち木や植えこみから窓のなかへしぶきが飛んで来、穴蔵のなかのように暗いため、かろうじてなにやら黒っぽいしみのようなものが見わけられ、なにか物があるなとわかるだけなのだ。スヴィドリガイロフは、体をかがめて窓敷居にひじを突いたまま、もう五分も、目を離さずにその闇をじっと見入っていた。夜の闇のなかに大砲の音がとどろき、つづいてもう一発鳴りわたった。
『やっ、号砲だぞ! 水かさが増してきたんだな』と彼は思った。『朝になる頃には、むこうの低い所じゃ通りに水がおし寄せて、地下室だの穴蔵を水びたしにすることだろう、そして穴蔵のねずみもぷかぷか浮きあがるし、雨風のなかを人間は、ずぶぬれになって、がみがみ言いながら、家のがらくたを二階に引っぱりあげることだろう……ところで、今、なん時かな?』彼がそう思ったとたんに、どこか近いところで、柱時計がちくたく時をきざみながら、まるで懸命に急いでいるような調子で三時を打った。『へえ、あと一時間もすればもう明るくなるのか! なにもぐずぐず待っていることはない!今すぐ出かけて、まっすぐペトローフスキイ公園へ行こう。そして、あそこのどこかに大きな灌木をさがしだすんだ、すっかり雨を浴びているんで、ちょっと肩でさわっただけでも何百万というしずくが頭にかかるようなやつを……』彼は窓から離れると、錠をかけ、ろうそくに火をともして、チョッキや外套を身につけ、帽子をかぶって、ろうそくをかざして廊下へ出た。どこかその辺の小部屋でいろんながらくたやろうそくの残りかすなどの間に眠っているぼろ服のボーイをさがし出し、宿賃の勘定をすまして宿を出ようと思ったのである。『絶好の時だ、今よりいいときなんてそう見つかるもんじゃない!』
彼は長いことかけて細長い廊下をくまなく歩きまわったが、だれひとり見つけ出せなかったので、今にも大声で呼ぼうとしたそのとたんに、暗い片隅の、古びた戸棚とドアの間になにか変なものが、生きものらしいものが見わけられた。ろうそくを持ったまま身をかがめてよく見ると、それは子供だった――せいぜい五つくらいの女の子で、ぞうきんのようにぐしょぬれになった服を着て、がたがた震えながら泣いているのだった。その子は別にスヴィドリガイロフにおびえるふうもなく、かすかな驚きの表情を浮かべてつぶらな黒い瞳で彼をじっと見つめ、子供が長泣きをしてもう泣きやみ、気もまぎれたのに、急にまたすすり泣きを始めるあの調子で、ときどきすすり泣いていた。女の子は青白い疲れはてた顔をしていた。体は寒さにかじかんでいた、が、それにしても『どうしてこんな所にはいりこんだんだろう? これはつまり、ここに隠れて、一晩じゅう眠らなかったんだな』彼がその子にいろいろ問いただしはじめると、少女は急に元気づいて、おそろしく早口で、子供らしいまわらぬ舌でなにやら彼にわけのわからぬ話を始めた。その話からは『かあちゃん』がどうのとか、『かあちゃんがぶちゅ』とか、なにか茶碗らしいものを『こわちた』とかいうようなことが聞きとれた。女の子は口をつぐむことなく話しつづけた。それらの話を総合してどうにか察しがついたところでは、この女の子は嫌われ者らしく、おそらくはこのおなじ旅館にいるのだろうが、年じゅう酔っぱらってばかりいる料理女の母親にでもさんざん打ちのめされ、おどしつけられたものらしかった。女の子はおかあさんの茶碗を割ったため、ひどくおびえてしまい、まだ宵のうちから逃げ出してしまって、多分、雨に打たれながらどこか裏庭に長いことかくれていたあげく、ここへ忍びこんで、戸棚のかげに身をかくし、じめじめして暗いのと、ああいうことをした以上今度こそこっぴどくひっぱたかれるにちがいないという恐怖心からぶるぶる震えながら、泣き泣き、ここの片隅で一夜をあかしたものと思われる。彼は女の子を抱きあげて自分の部屋へ帰り、ベッドに坐らせて、服をぬがせにかかった。素足の上にはいていた穴だらけの小さな靴は、一晩じゅう水たまりのなかにつかってでもいたように、びしょぬれにぬれていた。彼は子供に服をぬがしてやると、寝床の上に寝かせて、頭ごとすっぽり毛布をかけてくるんでやった。子供はすぐに寝入ってしまった。なにもかもしおえたところで、彼はまたもやむずかしい顔をして考えこんでしまった。
『また余計なことに関りあう気を起こしちまったぞ!』と彼は不愉快な、毒をふくんだ気持ちを覚えながら突然そう断定した。『ばかばかしい限りだ!』彼は、これから行ってなにがなんでもあのぼろ服のボーイをさがし出して一刻も早くここを出てしまおうと、いまいましい気持ちでろうそくを取りあげた。『ちぇっ、あのあまっちょめ!』と、彼はのろうような気持ちでそう思いながらすでにドアを明けたが、眠っているか、どんな眠り方をしているか、もう一度見てやろうと思ってとって返した。そうっと毛布をまくってみると、女の子はぐっすり気持ちよさそうに眠っていた。毛布をかぶっていたために体があたたまったらしく、青白いほおにはすでに赤みがさしていた。ところが、奇体なことに、その赤みは、普通の子供のほおの紅潮よりも鮮かでどぎつい感じがした。『これは熱が出ているときのほおの赤みだ』とスヴィドリガイロフは思った。
『これはまるで酒を呑んだための紅潮じゃないか、まるで酒を一杯分も呑まされたみたいじゃないか。真っ赤な唇もまるで燃えているみたいに赤みがさしているが、これはどうしたことなんだろう?』ふとそのとき彼は、その子の長い黒いまつ毛がまるでぷるぷる震えてまばたくように思われ、まぶたがほんのわずかあがって、その下からずるそうな、するどい、なんとなく子供らしくないウィンクしている小さな目がのぞいているような気がし、女の子は眠っているのではなくて、眠っているふりをしているにすぎないような気がしてきた。はたしてそのとおりだった。その唇はひらいて微笑に変わり、唇の端は、まだこらえてでもいるようにぷるぷる震えていたが、もうこらえるのをやめてしまうと、それはすでに笑いになっていた、まぎれもない笑いになっていたのである。人を食ったような挑発的なものがそのまったく子供らしからぬ顔に現われていたのである。それは淫乱《いんらん》の顔つきであり、娼婦の顔であり、フランス人の、肉を売る娼婦の臆面もない顔である。今ではもうすっかり大っぴらに両の目をあけている。今や、その目は火のような恥知らずな視線で彼を見まわし、彼に呼びかけ、笑いかけているではないか……その笑顔、その目、子供の顔に現われたそのいやらしさぜんたいに、なにやら限りなく醜悪なものが、こちらを侮辱するようなものがひそんでいた。『なんだ! 五つやそこらの子供のくせに!』とスヴィドリガイロフはほんとうにぞうっとしてつぶやいた。『これは……これはいったいどうしたことなのだ?』しかしその子は今やもう完全に彼のほうへ燃えるような顔を振りむけて、両手をひろげているではないか……『ええい、畜生め!』と、スヴィドリガイロフはぞうっとして、相手に手を振りあげながら叫んだ……と、そのとたんに、はっと目がさめた。
彼はおなじ寝床のなかに、さっきとおなじように毛布にくるまって寝ていた。ろうそくはもうともっておらず、窓の外はもうすっかりしらじらと明けていた。
『一晩じゅう悪夢の連続だ!』彼は体じゅうくたくたになったように感じながら、虫の居どころが悪いような気分で体を起こした。骨の節々が痛んだ。外は完全に濃霧が立ちこめていて、なんの見わけもつかない。時刻はもう五時近くだ。寝すごしてしまったのだ! 彼は立ちあがると、まだしめっぽいジャケツと外套を身につけた。つぎにポケットのなかの拳銃をさぐって、それを取り出し、雷管のぐあいを直した。それから腰をかけて、ポケットから手帳を取り出すと、見開きの、いちばん目につきやすいページに大きな字で二、三行書きつけた。そして、それを読みかえしたあと、テーブルにひじをついたまま、物思いにふけり出した。拳銃と手帳はすぐそばの、ひじのわきにほうり出してあった。目をさましたはえが、テーブルの上におきっぱなしになっている、手のつけてない子牛の肉にへばりついていた。彼は長いことじっとそれを眺めていたあげく、あいている右手でそのうちの一匹をつかまえにかかった。長いことかけて疲れるほど骨おってみたが、どうしてもつかまえられなかった。が、とうとうしまいにそのおもしろい仕事に夢中になっている自分に気がつくと、はっとわれに返り、ぶるっと身震いをして立ちあがり、思いきって部屋を出た。そして、一分後にはもう通りに出ていた。
乳を流したような濃霧が町の上に立ちこめていた。スヴィドリガイロフはすべりやすい泥だらけの木煉瓦の歩道を小ネワ川にむかって歩き出した。夜のうちに水位のあがった小ネワ川、ペトローフスキイ島、ぬれた小道、ぬれた草、ぬれた木立ちや植えこみ、はては例の灌木と、そういったものが彼の目の前に浮かんでは消えた……なにかほかのことを考えようと思って、彼はいまいましげにあたりの家並みに目をこらしはじめた。大通りではひとりの通行人にも一台の辻馬車にも行きあわなかった。けばけばしい黄色の木造の家々がよろい戸をおろしているところは、憂鬱そうで汚らしく見えた。体じゅうに寒さと湿気がしみとおって、彼は寒けを覚えはじめた。ときたま雑貨店や八百屋の看板に行きあたると、それをひとつひとつ念入りに読んでいった。もうこの辺で木煉瓦の歩道も終わりだ。すでに大きな石造りの家にさしかかった。汚い、寒さにこごえきった小犬が、尻尾をまいて、彼の行く手をさえぎって走っていった。毛皮外套を着た、どこかの死んだように酔っぱらった男が、うつぶせになって、歩道にぶっちがいに寝ていた。スヴィドリガイロフはその男をちょっと見て、さらに先へ歩き出した。高い火の見やぐらが左手にちらっと見えた。『やあ!』と彼は思った。『そうだ、あそこがいい、なにもペトローフスキイ公園なんかへ行くことはない! 少なくとも、官憲の証人の面前だからな……』彼はこの新しい思いつきにほとんどにやりとほくそ笑みそうになり、××街のほうへまがった。すぐそこに火の見やぐらのある大きな建物が立っていた。その建物のしめきった門のそばに、その門によりかかるようにして、灰色の兵隊外套に身をつつんだ、アキレス風のヘルメットをかぶった小柄な男が立っていた。その男は眠そうな横目をつかって、そばへ寄ってくるスヴィドリガイロフを冷やかに見やった。男の顔には悲哀の色が見られたが、それはユダヤ民族のだれの顔にも例外なく見られる苦虫をかみつぶしたような、あの永遠に変わらない気むずかしげな悲哀の色である。スヴィドリガイロフとアキレスは双方ともしばらくの間黙ったまま、たがいにじろじろ見合っていた。が、とうとうアキレスには、酔ってもいない男が自分の前三歩ばかりのところに突立ったなり、じっとこちらを見ているだけで、なんにも言わないのがどうも普通ではないように思われたらしく、
「え、ここになにか用でもあるのかね?」と、依然として身動きもしなければ姿勢も変えずに、そう言った。
「いや、君、なんでもないよ、おはよう!」とスヴィドリガイロフは答えた。
「ここはそんな突立ってるとこでねえ」
「私は外国へ行こうと思っているんだよ、君」
「外国へ?」
「アメリカへ」
「アメリカへ?」
スヴィドリガイロフが拳銃を取り出して、撃鉄をあげると、アキレスは眉をつりあげた。
「おや、なんだね、ここはそんなふざけたまねするとこでねえぞ!」
「どうしてここがそんな場所でないことがある?」
「んだって、ここはそんな場所でねえもん」
「いや、君、そんなことはどうだっていいんだよ。なかなかいい場所だぜ。だれかに聞かれたら、こう返事しておいてくれ、アメリカへ行ったとな」
彼は拳銃を自分の右のこめかみに当てた。
「いやあ、ここじゃいけねえ、ここはそんなことをする場所でねえ!」アキレスは目をますます大きく見開いて、ぶるっと身震いした。
スヴィドリガイロフは引き金を引いた。
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そのおなじ日、とはいってももう夕方の六時すぎに、ラスコーリニコフは母と妹の住まい、――ラズーミヒンが世話してくれた、例のバカレーエフのアパートの貸間へと歩みを運んでいた。階段の裏口は通りからはいるようになっていた。ラスコーリニコフは近づきながらも、やはりまだ足どりをひかえて、ためらっているようなふうだった。だが、彼はもはやどんなことがあってもとって返すようなことはしなかったろう。決心はもうついていたのである。『それにどうだっていいじゃないか、二人はまだなんにも知っちゃいないんだし』と彼は思った。『おれのことはもうどうせ変人と見ているんだから……』彼の身なりはひどかった。ずうっとひと晩雨にうたれていたため、すっかりよごれてしまい、ほうぼうちぎれて、ぼろぼろになっていた。また、顔は疲労と悪天候と肉体の衰弱と、ほとんど一昼夜近い自分自身との戦いに、ほとんど見る影もなかった。ゆうべひと晩を彼は、どこともわからないところで、ひとりで過ごしたのだ。しかし、その間に彼は、少なくとも決心だけはついていたのである。
彼はドアをノックした。あけてくれたのは母親だった。ドゥーニャは留守だった。女中すら、そのときは居あわさなかった。プリヘーリヤは嬉しさのあまりびっくりして初めのうちは口もきけなかった。が、やがて息子の手をとって、部屋のなかへ引っぱりこんだ。
「まあ、お前来てくれたんだねえ!」と彼女はあまりの嬉しさに口ごもりながら、こうきり出した。「わたしに腹を立てないでちょうだいよ、ロージャ、涙なんか流して、こんな間のぬけた迎え方をしたからって、これは泣いているんじゃなくて、笑っているんだからね。お前は、わたしが泣いていると思っているんだろう? そうじゃないんだよ、わたしは喜んでいるんだよ、ほんとにわたしにはこういうばかげた癖があってね、涙が自然に出て来るのさ。これはお前のおとうさんが亡くなったときからの癖で、なにかというとすぐに泣けて来るんだよ。さあ、おかけ、お前、さだめし疲れているんだろう、そう見えるよ。まあ、お前のよごれようったら」
「きのう雨にうたれて歩いたからですよ、おかあさん……」と、ラスコーリニコフが言い出しそうにすると、
「いいえ、そうじゃないのよ、そうじゃないのよ!」とプリヘーリヤは相手をさえぎって、叫びたてた。「お前は、わたしが昔からの女の癖でさっそく根ほり葉ほり聞き出すんだろうと思ったのね、心配することはないよ。わたしにはわかっているよ、なにもかもわかっているよ。今じゃわたしはもうこの町の流儀を覚えこんじまったからね。なるほど、わたしにもわかってきたけど、ここの人のほうが利口だよ。わたしも今度こそ判断がついたよ、わたしなんかにお前の考えていることがわかってたまるもんじゃないし、お前にはっきりわからしてもらおうったってどだい無理なんだってことがさ。お前の頭のなかには、ひょっとしたら、どんな仕事や計画があるのかもしれない、つまりお前の頭にはなんかかんかいろんな考えも浮かんで来るんだろうからね。だとしたら、わたしなんか、お前はなにを考えてるのかなんて、お前の手をとってやいのやいのと聞きただすこともないわけじゃないの。わたしはね……あら、まあまあ!いったいなんだってわたしは、気ちがいみたいに、話をあっちこっち持ってまわるのかしら……わたしはね、ロージャ、雑誌にのったお前の論文をもうこれで三回も読んだんだよ、ラズーミヒンさんが持ってきてくれたんでね。それを見るなり、わたし思わずあっと叫んでしまったよ。わたしはほんとにばかだったわと、心のなかで思ったよ、あの子はこういうことをやっていたのか、これでやっと謎が解けたわとね! ひょっとしたら、あの子は今でも頭のなかに新しい思想が浮かんでいて、今考えをこらしている最中かもしれない、それなのにわたしったらあの子を苦しめたり困らしたりして、とこう思ったよ。わたしは読んではいるけど、お前、むろん、わからないところだらけなのさ。もっとも、それがあたりまえさね。わたしなんかにわかってたまるもんかね」
「それを見せてくれませんか、おかあさん」
ラスコーリニコフは小冊子を受けとって、自分の論文にちらりと目を走らせた。これは彼の今の立場や心境とは矛盾したことではあるが、彼は、自分が書いたものが印刷されたのを初めて見る筆者が味わうあの不思議な、刺激的であまい気持ちを覚えた。おまけに二十三歳という年齢もそういった気持ちをつよめたわけなのである。しかし、それもつかの間のことだった。何行か読むと、彼は顔をしかめ、おそろしいやるせない気持ちに胸がしめつけられる思いがした。ここ数ヵ月間の心の戦いがあますところなく一時に思い出されたのである。彼は胸がむかむかし、腹だたしい気持ちになって、論文をゆかの上にほうり出した。
「でもねえ、ロージャ、いくらわたしがばかでも、わたしにだって、お前がそれこそ近いうちに、わが国の学者の世界で第一人者にはなれないまでも、一流のひとりくらいにはなれるという判断はつくよ。それなのに、みんなはお前のことを気がふれたなんて、よくもまあ考えられたもんだよ。ほ、ほ、ほ! お前は知らないだろうけど――ほんとうにみんなはそう考えていたんだよ! ほんとに下劣なうじ虫どもだよ。あんな奴らに、才能ってどういうものかわかってたまるもんかね! それをドゥーニャまでがすんでのところで真に受けるところだったんだからねえ――なんということでしょう! お前の亡くなったおとうさんもね、二度ばかり雑誌社へ原稿を送ったことがあるんだよ――最初は詩で(わたしのところにそのノートもとってあるから、そのうち見せてあげようね)、そのつぎのはそれこそもう本式の小説だったわ(このわたしが無理に頼んで、清書をさせてもらったんだけどね)、そしてわたしたち二人して、どうか採用になりますようにって、ずいぶん祈ったものだったけど、――採用にはならなかったわ! わたしはね、ロージャ、六、七日前には、お前の身なりを見て、この子はどんな暮らしをしているんだろう、なにを食べ、どんなものを着ているんだろうと、どんなに心を痛めていたかしれないよ。でも、今では、やっぱりわたしはばかだったんだってことがわかってきたのよ、だって、これからお前は、その気にさえなれば、お前のその頭と才能でそんなものはいっぺんに手に入れられるんだものね。ただお前は今はさしあたりそんなものはほしがらずに、ずっと大事な仕事に精根を打ちこんでいる最中ってわけなんだもの……」
「ドーニャは留守なんですね、おかあさん?」
「留守なんだよ、ロージャ。この頃あの子はしょっちゅう家をあけて、わたしをおいてきぼりにするんだよ。でも、ありがたいことにラズーミヒンさんがのぞいて下さってわたしの相手をしてくれてね、いつもお前の話をしていってくれるんでね。あの人はお前を好いているし、尊敬もしているんだよ、お前。そうは言っても、わたしは、ドゥーニャはわたしをひどく粗末にしているなんて言っているわけじゃないんだよ。わたしは別にこぼしているわけじゃないんだからね。あの子とわたしはそれぞれ気性がちがうのよ。あの子にはなにか自分だけの秘密ができたみたいだわ。わたしのほうにはお前たちに隠していることなんてなんにもありゃしないんだけどね。もちろん、わたしはかたく信じているわよ、ドゥーニャは利口すぎるほど利口だし、その上わたしやお前を愛してくれているものとね……でも、こんなことをしていてどんなことになるのか、さっぱりわからないものね。今もお前はこうして来てくれて、わたしを仕合わせな気持ちにさせておくれだけれど、あの子はこうして遊び歩いているんだもの。あの子が帰ってきたら、わたしこう言ってやるわ。お前の留守中に兄さんが来てくれたのに、お前はどこで暇をつぶしていたんだえ? ってね。ねえ、ロージャ、お前はわたしをそんなによくしてくれなくたっていいんだよ。寄れたら寄ってくれてもいいし、寄れなかったら――しかたがない、こうして待っていることにするからね。だってわたしにはそれでも、お前がわたしに愛情を持ってくれているってことはわかるし、わたしのほうはそれだけで満足なんだからね。こうしてお前の書いたものを読んだりお前の話をみんなから聞いたりしているところへ、ひょっこりお前がどうしているかと訪ねてきてくれる、これよりけっこうなことはないじゃないの? 今だってこうしておかあさんを慰めに寄ってくれたんだものね、わたしにはわかるんだよ……」
こう言うと、プリヘーリヤは急にさめざめと泣き出した。「またこんなことをして! わたしのことなんか気にかけないでおくれ、こんなばかな女のことなんか! あら、まあまあ、なんだってわたしはぼんやり坐りこんじまっているのかしら」と、彼女はぱっと席を立ちながら叫んだ。「コーヒーだってあるのに、お前にごちそうもしないで! これが、つまり、婆さんの利己主義というやつだよ。今すぐ入れるからね、今すぐ!」
「おかあさん、そんなこと、やめておくれ、僕はすぐ帰るんだから。僕はそんなことで来たんじゃないんです。どうか、僕の話を聞いて下さい」
プリヘーリヤはおずおずと彼のそばへやって来た。
「おかあさん、たとえなにが起ころうと、僕のことでどんなことが耳にはいろうと、僕のことで人になんといわれようと、おかあさんは僕を今のように愛してくれますか?」と、彼は胸がいっぱいになって、まるで自分の言っていることをよく考えもしなければ、その言葉をはかってみることもせずに、だしぬけにそう聞いた。
「ロージャ、ロージャ、お前はどうしたのさ?それに、いったいどうしてそんなことを聞くことがあるの? だれが、お前のことでかれこれわたしに言うもんかね? わたしはだれの言うこともほんとうにしやしないよ、ここへだれが来ようと、ただ追いかえしてやるだけのことだよ」
「僕がこうして来たのは、僕はおかあさんにこれまでいつでも愛情を持っていたということをおかあさんに信じてもらおうと思ったからなんです。だから今こうして二人っきりでいられるのが嬉しいんです。ドゥーニャがいないってことすら嬉しいんですよ」と、彼はおなじように激情にかられて言いつづけた。「僕はここへ、おかあさんにじかにこういうことを言いに来たんです、たとえおかあさんが不幸になろうと、やはりこれだけは知っていてもらいたい、おかあさんの息子は自分よりもおかあさんのほうを愛している、おかあさんは僕のことを、あの子は薄情だ、わたしを愛してくれないと思っていたようだけど、あれはみんな思いちがいだったんだということを言いにね。僕はこれからもずうっとおかあさんを愛しつづけますよ……さあ、これでいいんだ。僕は、こうしなければならない、まずこういうことから始めなければならないという気がしたんです……」
プリヘーリヤは無言のまま息子を自分の胸にぎゅうっと抱きしめながら、しのび泣いていた。
「ロージャ、お前はいったいどうしたのか、わたしにはさっぱりわからないんだよ」と彼女はあげくのはてにこう言った。「わたしはこのところずうっと、わたしたちはただお前にあきられてしまっているのだとばかり思っていたんだけど、今やっといろんなことから、お前にはこれから大変悲しいことが起ころうとしている、そのためにお前は悩んでいるんだということがわかってきたわ。わたしにはもうだいぶ前からそんな予感がしていたんだよ、ロージャ。こんなことを言い出して、ごめんね。わたしはのべつそのことばかり考えて、毎晩ろくろく寝てもいないんだよ。ゆうべはお前の妹も寝ながら夜っぴてうなされどおしで、ひっきりなしにお前のことを口にしていましたよ。わたしにはいくらか聞きわけられたけど、あとはなんにもわからなかったわ。それで、きょうは朝方いっぱいなんだか死刑の前みたいに落ちつきなく歩きまわって、なにかあるような気がし、予感がしていたけど、結局こういうことだったのね! ロージャ、ロージャ、お前はどこへ行くの? どこかへ旅に出るのかえ?」
「旅に出るんです」
「わたしもそういうことだろうと思っていたよ! でも、もしそうする必要があるというんだったら、わたしだっていっしょに出かけられるんだよ。ドゥーニャだってさ。あの子はお前を愛しているんだから、とても愛しているんだから。それにソフィヤさんにも、もし必要だったら、わたしたちといっしょに行ってもらったっていいじゃないの。実は、わたしはこっちからあの子を娘がわりに引きとってもいいくらいに思っているんだよ。ラズーミヒンさんもわたしたちがいっしょに発つのを手つだって下さるわよ……それにしても……お前はいったいどこへ……行くつもりなのさ?」
「じゃ、さようなら、おかあさん」
「え! きょうなのかえ!」と、彼女はまるで永久に息子をなくしでもするように叫んだ。
「僕はこうしちゃいられないんですよ、もうそういう時間なんです、どうしても行かなきゃならないんです……」
「わたしもいっしょに行っちゃいけないのかえ?」
「そうはいかないんですよ。おかあさんはひざまずいて僕のことを神さまに祈っていて下さい。おかあさんのお祈りなら、きっと、聞きとどけてもらえるでしょうから」
「じゃ、お前に十字を切らしておくれ、祝福させておくれ。そう、そう、これでいい。ああ、わたしたち、なんてことをしているのかしら!」
確かに彼は嬉しかったのだ、だれもいなくて、母親と二人きりだったことが非常に嬉しかったのである。この恐ろしい時期を通じて初めて一度に彼の心はやわらいだ感じだった。彼は母親の前に倒れふして母親の足に接吻をし、二人は相擁して泣いた。そして、母親は今度は別に不思議がりもしなければ、いろいろ尋ねたりもしなかった。彼女にはもうだいぶ前から、息子の身の上になにか恐ろしいことが起こっているのだ、そして今や息子にとってある恐ろしい瞬間がやってきたのだということがわかっていたからである。
「ロージャ、お前、わたしの総領息子」などと彼女はすすり泣きながら言っていた。「今のお前は小さかった頃のお前とおんなじだよ、お前はこうやってわたしのところへやって来ては、こういうふうに抱きついてわたしに接吻してくれたものだった。まだおとうさんが生きていらっしゃって、わたしたち貧乏していた時分は、ただもういっしょにいてくれるということだけでお前はわたしたちの慰めになってくれていたし、それにおとうさんのお葬いをしたときなども、わたしたち何度こんなふうにお前と抱きあって、おとうさんのお墓の上で泣いたかしれないわ。わたしがずっと前から泣いていたのは、母親の本能で不幸が来ることを予感していたからなんだよ。わたしはあの晩、お前覚えているだろう、わたしたちが上京したばかりのときに、お前の顔を初めて見たとたんに、お前の目つきひとつでなにもかも察しがついたんだよ。だからわたしあのときは胸がどきりとしたわ、そしてきょうお前にドアをあけてやって、ひと目お前の顔を見たときは、さあ、いよいよ最後のときが来たようだと思ったよ。ロージャ、ロージャ、お前はまさか今すぐ発つわけじゃないんだろうね?」
「そうじゃありません」
「じゃまた来てくれるわね?」
「ええ……来ます」
「ロージャ、怒らないでちょうだい、わたしは根ほり葉ほり聞くようなことはしないからね。自分にもわかっているけど、そんな気はないんだから、でも、ただひと言だけわたしに言ってちょうだい、お前はどこか遠い所へ行くのかえ?」
「とても遠い所です」
「そこにはなにかあるのかえ、お前にはなにか勤め口とか、出世の手づるでもあるわけなの?」
「それは神さまのおぼしめし次第ですよ……ただ僕のことを祈っていてくれさえすればいいんです……」
ラスコーリニコフが戸口にむかって歩き出すと、彼女は息子にとりついて、絶望的な目つきで相手の目を見つめた。母親の顔は恐怖にゆがんだ。
「もういいですよ、おかあさん」と、ラスコーリニコフはここへ来る気になったことをふかく後悔しながら、そう言った。
「これが最後というわけじゃないんだろうね?まだこれが最後じゃないんだろうね? また来てくれるんだろうね、あした来てくれるかえ?」
「来ますよ、来ますよ、じゃ、さようなら」
彼はついに振り切って外へ出た。
さわやかな、あたたかい、よく晴れた夕方だった。まだ朝のうちから空は晴天だった。ラスコーリニコフは自分の下宿にむかって歩いていた。彼は急いでいた。日没までにすっかり|けり《ヽヽ》をつけてしまいたかったのだ。それまではだれとも顔をあわせたくなかった。自分の住まいにあがっていくときに、彼はナスターシヤがサモワールから手を離して、じっと自分を見まもり自分を見送っているのに気づいた。『おれのところへだれか来ているんじゃなかろうか?』と彼は思った。ふとポルフィーリイの顔が目に浮かび、嫌悪をもよおした。だが、自分の部屋にたどりついて、ドアをあけると、そこに見いだしたのはドゥーニャだった。ひとりぼっちで腰をかけて、ふかい物思いにふけっていたところを見れば、もうだいぶ前から彼を待っていたらしかった。兄は敷居の上に立ちどまった。妹はびっくりしてソファから腰をあげると、兄の前に棒だちになった。彼にじっとそそがれた彼女の目は、恐怖と癒《いや》しえない悲哀をあらわしていた。その目つきを見ただけで、彼にはもういっぺんに、妹にはなにもかも知れているのだとわかった。
「はいってお前のそばへ行ってもいいかい、それとも出て行こうか?」と彼はあやふやな気持ちで聞いた。
「わたし、まる一日ソフィヤさんのとこにいたのよ。二人して兄さんを待っていたの。わたしたち、兄さんはきっとあそこへ来て下さるものと思っていたからなの」
ラスコーリニコフは部屋へはいると、ぐったりと椅子に腰をおろした。
「僕はなんだかへばってしまったよ、ドゥーニャ。えらく疲れちまったんだ。今ちょっとの間だけでもしっかりしていたいと思うんだけどね」
彼は疑わしそうにちらっと妹を見た。
「兄さんはゆうべひと晩どこにいらしたの?」
「よく覚えてないんだ。いいかい、お前、僕はね、いよいよ最後の腹をきめようと思って、何回もネワ川のあたりを行きつもどりつしていたんだ。それは覚えているんだ。僕はあそこで|けり《ヽヽ》をつけちゃおうとも思ったんだけど……その決心がつかなかったんだ……」と彼はつぶやきながら、またドゥーニャを不信の目つきで見た。
「まあ、よかった! わたしたち、それをどんなに心配していたかしれないわ、わたしもソフィヤさんも! それじゃ、兄さんはまだ人生を信じているわけね。よかったわ、よかったわ!」
ラスコーリニコフは苦笑した。
「僕は信じてなんかいなかったけど、さっきおかあさんといっしょに、抱きあって泣いてきたよ。僕は信じてなんかいないけど、おかあさんに僕のことを祈ってくれって頼んできたよ。これはどういうことになるのか、だれにもわかりやしないさ、ドゥーニャ、僕にもこんなことはさっぱりわからないんだ」
「兄さんはおかあさんのところへ行ってきたの? じゃ、兄さんはおかあさんに話したわけなのね?」ドゥーニャはぞっとして声を張りあげた。「よくまあ思いきって話す気になったわね?」
「いや、話さなかったよ……口に出しては。だけど、おかあさんはだいたいわかったらしい。おかあさんは夜なかに、お前がうわ言を言っていたのを聞いていたしね。僕はてっきり、おかあさんにはもう半分くらいはわかっているにちがいないと思っているよ。僕が寄ってきたことはまずかったかもしれない。なんのために寄るようなことをしたのか、それすら僕にはわからないんだ。僕は見さげはてた人間だよ、ドゥーニャ」
「見さげはてた人間に苦しみを受けに行く覚悟がありますか! 兄さんは苦しみを受けに行くんでしょう?」
「行くさ。これからすぐに。そうだ、そんな生き恥をさらしたくないと思って、僕は身投げをしようと思ったんだよ、ドゥーニャ、だけど水を見おろして立ったとき、こう思いなおしたんだ、もし今まで自分を強い人間だと思っていたのなら、今さら恥などを恐れることはないじゃないかってね」彼は先まわりしてこう言った。「これは傲慢《ごうまん》というものだろうか、ドゥーニャ?」
「傲慢だわ、兄さん」
彼の生気の失せた目にきらりと火のようなものがきらめいた。自分がまだ傲慢さを失っていないことがわかって愉快になったような気がしたのである。
「だけど、僕はただ水が怖くなったにすぎないんだなんてお前は思っているんじゃないかい?」と彼は、醜くゆがんだ笑いを浮かべて妹の顔をのぞきこみながら聞いた。
「まあ、兄さんたら、もうやめて!」とドゥーニャはつらそうに叫んだ。
二、三分、沈黙がつづいた。彼はうなだれて腰をかけたまま、ゆかを見つめていた。ドゥーニャはテーブルのむこう側に立って、苦しげに兄を見つめていた。とだしぬけに彼は立ちあがった。
「もうおそい、行かなきゃ。僕は今これから自首しに行くよ。だけど、僕には、なんのために自首しに行くのかわからないんだ」
大粒の涙が彼女のほおをつたって流れおちた。
「お前、泣いているんだね、じゃお前は僕に握手してくれるだろうね?」
「まあ、兄さんはそんなことを疑っていたの?」
彼女は兄をぎゅっと抱きしめた。
「兄さん、苦しみを受けに行くとすれば、もう自分の罪の半分は洗い清めてしまっているわけじゃないの?」と彼女は兄を抱きしめて接吻しながら叫んだ。
「罪? 罪ってどんな?」と、彼は突然思いがけず狂いたったようにわめき出した。「僕があのけがらわしい有害なしらみを、だれにも必要のない金貸し婆を殺したことかい? あんな、貧乏人の汁を吸っていた婆を殺せば、四十の罪も許されるようなものだ、あんなことが罪だって言うのかい? そんな罪なんて僕は考えてもいないし、そんなものを洗い清めようとも思っちゃいないぞ。それなのに、いったいなんだってみんなして寄ってたかって『罪だ、罪だ!』とこづきまわしやがるんだ! 今になってやっと、こんな必要もない恥をかきに行く決心をした今になってやっと、おれは自分の臆病の愚劣さがはっきりわかったんだ! 僕はただ自分の見さげはてた根性と無能ぶりに愛想をつかして自首を決意しただけなんだ、その上あの……ポルフィーリイのやつが……勧めるように、そのほうが有利だと思えばこそなんだ!……」
「兄さん、兄さん、兄さんはなにをいってるの! そんなことを言ったって、兄さんは血を流したんじゃないの!」とドゥーニャは絶望したような調子で叫んだ。
「だれもが流している血をな」と、彼はほとんど狂乱の体で相手の言葉を引きとった。「この世で滝のように今も流され、これまでにもつねに流されてきた血をな。シャンパンのように流され、それを流したことでジュピター神殿で王冠をいただき、その後人類の恩人だなどと言われるその血を。まあせめてもっと目をすえて、ようく見るがいい! 僕は人類に幸福をもたらそうと思った、そして何百、何千という善事をなしとげられたかもしれないのに、あんな愚劣なことしかできなかった、いや、愚劣なことじゃない、不手ぎわだったにすぎないんだ、だってあの考えはだいたい、今失敗してから思うほど愚劣なものじゃけっしてなかったんだからな……(失敗してみればなんでも愚劣に見えるものなんだ!)僕はこの愚劣な行為で独立し、第一歩を踏み出し、資金を獲得しようと思ったんだ、そうすればそれに比してはかり知れないくらいの利益でなにもかもつぐなえるものと思ったからだ……ところが、僕は、僕はその第一歩さえ持ちこたえられなかった、それは僕が卑劣な男だからだ! こういった点に問題の一切があるわけなんだ! それでもやっぱり僕はお前たちの見方で物を見ることはしないぞ。これがもし成功していたら、僕は栄冠をかちえたはずなんだ、ところが今はわなに落ちいってしまったのさ!」
「でも、それはちがうわ、全然ちがうわ! 兄さん、兄さんはいったいなんてことをおっしゃるの!」
「ああ! 形式がまちがっているというのか、形式がそれほど美的じゃないって言うんだな!いや、僕にはさっぱりわからんよ、爆弾だの正規の包囲攻撃で大量殺人をするほうがなぜ立派な形式なのかが。美的でないんじゃないかなどと気にすることは無力の第一の徴候なんだ! ……今までに僕は今ほどはっきりとこのことを自覚したこともないし、今までに今ほど自分が罪をおかしたということがわからなかったこともない! 僕はこれまでに一度も今ほど強かったこともないし、強い確信を持ったこともないんだ!……」
彼の青白い疲れはてた顔に、さっと血の気さえあらわれた。しかし、最後の叫びを発したとき、彼の目がふとドゥーニャの目と合い、彼はそのまなざしに兄の身を思うふかい苦しみがこめられているのを見て、思わずはっとわれに返った。彼は、いずれにせよこの二人のあわれな女を不幸にしてしまったのだ、なにはともあれ自分がその原因だったのだと感じたのである。……
「ドゥーニャ、お前! もし僕が罪をおかしているとしたら、僕を許してくれ(もっとも、罪をおかしているとしたら、僕のことを許せるはずはないけどね)。さようなら! もう議論はよそう! もう行かなくちゃ、どうしても行かなくちゃ。僕について来ないでくれ、ほんとうに頼むから。僕はまだ行かなくちゃならない所があるんだ……お前にはこれから帰って、さっそくおかあさんのそばについていてもらいたいんだ。お前にこのことをよくよく頼んでおくよ! これがお前にたいする僕の最後の、いちばん大きな頼みだ。おかあさんから片時も離れないでいてくれ。僕はおかあさんを不安な気持ちのままにして来ちまったのだ。おかあさんはその不安に耐えられるかどうかわからないくらいなんだ。あのままだと、おかあさんは死んじまうか、気が狂うか、どっちかだ……おかあさんといっしょにいてくれ! ラズーミヒンがお前たちについていてくれるからね。あの男にそう言っておいたんだから……僕のことで泣くことはないよ。僕は、人殺しではあっても、一生かけて、一生懸命男らしい誠実な人間になるように努力するからね。ひょっとしたら、お前はそのうちいつか僕の名前を聞くかもしれないが、僕はお前たちの顔に泥をぬるようなことはしないからね、見ているがいい。その上それを証拠だててみせるから……だけど、今は当分さようならだ」彼は自分がこの最後の言葉と約束を口にしたとき、ドゥーニャの目にまたなにやら奇妙な表情があらわれたのに気づくと、急いで話を結んだ。「なんだってお前はそんなに泣くんだい? 泣くんじゃない、泣くんじゃない。なにもこれで完全に別れてしまうわけでもないんだから! ああ、そうだ! 待ってくれ、忘れていた!……」
彼は机に歩み寄ると、厚い、ほこりだらけの本を一冊手に取って、開き、ページの間にはさんであった、象牙に水彩で描いた小さな肖像画を取り出した。それは、熱病で死んだ彼のかつてのいいなずけで下宿のおかみの娘、修道院へはいりたがっていた例のひどく風変わりな娘の小さな肖像画だった。彼はちょっとの間、その表情に富んだ病人じみた顔にじっと見入っていたが、その肖像画に接吻をしてドゥーニャに渡した。
「この娘とはずいぶん|あの話《ヽヽヽ》もしたものだった、この子とだけは」と彼は感慨ぶかげにいって、「僕はこの娘の心に、こんなだらしない結果におわってしまった思想をずいぶん吹きこんだものだった。安心しなさい」と、今度はドゥーニャにむかって、「あの子はお前と同じように僕の考えに賛成しなかったんだから。僕は嬉しいよ、あの子がもう死んでしまって、いないことが。肝心なことは、肝心なことは、なにもかもこれから新規まきなおしということになって、現在と将来の二つにわかれてしまうということなんだ」と彼はまたもやわびしい気持ちにたちもどって、急にそう叫んだ。「なにもかもが、なにもかもが、だけど僕にはその覚悟ができているだろうか? 僕は自分でもそれを望んでいるんだろうか? 人は、僕の試練のためにそうすることが必要なんだと言う! そんな無意味な試練がなんのために、なんのために必要なんだ? そんなものがなんの役にたつ? 二十年の懲役をおえて、いろんな苦労にうちひしがれて白痴同然になり、老いこんで弱りはてた頃になってからのほうが今より立派な自覚ができるとでも言うのか? そんなになってから僕はなんのために生きたらいいんだ? 僕が見さげはてた人間だってことぐらい、もうすでにきょう明け方ネワ川の上に立ったときからわかっているのに!」
ついに、二人は外へ出た。ドゥーニャは辛かった。が、彼女はやっぱり兄を愛していたのだ! 彼女は歩き出したが、五十歩ほど歩いてから、もう一度振りかえって兄のほうを見た。彼の姿はまだ見えていた。が、角まで来て彼も振りかえった。二人はこれを最後に目と目を見かわした。しかし、兄は妹がこっちを見ているのに気づくと、じれったそうに、というよりもいまいましげに手を振って、行けという合図をし、自分も急に角を曲がってしまった。
『おれは意地悪な男だ、それは自分にもわかっている』と彼は、すぐあとで自分がドゥーニャにいまいましげに手を振ったことを恥じながら、心のなかでそう思った。『それにしても、おれはそんな値打ちもないのに、どうしてみんなはこんなにおれを愛してくれるんだろう? ああ、いっそのこと、おれはひとりぼっちで、だれにも愛されず、こっちもけっしてだれも愛さずにいられたらなあ! |そうすればこんなことも起きないだろうに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! それにしても、これから先き十五年か二十年たつうちに果たしておれの心がすっかり折れてしまって、なにかひと言いうごとに自分を強盗呼ばわりして、神妙に人前ですすり泣いたりするようになるかどうかだ。そうだ、確かにそうだ、確かにそうだ! そうしようと思って今やつらはおれを流刑にしようとしているんだ、それがやつらには必要なんだ……こうしてやつらはみんな往来を行き来しているが、やつらのうちのどいつをとってみたって生まれつき卑劣で泥棒でないやつなんかいやしないじゃないか。それよりもっとひどいや――やつらは白痴じゃないか! ところが、おれが流刑をまぬがれたとしてみるがいい、やつらはひとり残らず、公憤に狂ったように騒ぎ出すから! ああ、おれはやつらがどいつもこいつも憎くてたまらん!』
彼はふかく考えこんでしまった。『どういう過程を経たらそんなことが起こり得るんだろう、このおれが、ついに、もう理屈ぬきでやつらの前に屈服するなんてことが、確信をもって屈服するなんてことが! だが、どうしてそんなことが起こり得ないと言えるか? むろん、そうならなければならないはずだ。二十年も絶え間なく迫害されて、完全に打ちのめされないはずはなかろう。雨だれも石をうがつと言うじゃないか。そんなら、なぜそのあとも生きなければならないのだ、おれはなぜ今こうして行くのだろう、なにもかもまったく本に書かれているとおりになり、それ以外にはなりようがないということが自分にもわかっていながら!』
彼は、おそらく、ゆうべからもう百回も自分にこう問いかけていたのだが、それでもやっぱり歩くことをやめなかった。
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彼がソーニャの部屋へはいっていった頃は、もうそろそろ夕暮れが迫ろうとしていた。ソーニャは終日恐ろしく興奮しながら彼の来るのを待っていたのである。彼女はドゥーニャといっしょに待っていたのだ。ドゥーニャがまだ朝のうちから彼女の家を訪れたのは、ソーニャは『そのことを知っている』ときのうスヴィドリガイロフが言った言葉を思い出したからだった。二人の会話の詳細や、二人の女が涙を流したことや、二人がどれほどたがいに親しい間柄になったかといったようなことは、ここではお伝えしないことにしよう。ドゥーニャには、この会見から、少なくとも兄はひとりっきりになることはないだろうというひとつの慰めだけは得られた。兄はまっさきに彼女のところへ、ソーニャのところへ、告白をしに来たのだ。兄にとって人間が必要になったとき、兄は彼女を求めたのだ。してみれば、彼女はきっと、運命の導くところへ、彼のあとについて行ってくれるだろう、という慰めである。ドゥーニャは聞きはしなかったが、そうなるだろうということは彼女にもわかっていた。彼女のソーニャを見る目に一種の尊敬さえも見られたため、初めのうちソーニャは自分にたいする態度として見せられたその尊敬にとまどいを感じて、今にも泣き出さんばかりだった。というのは、彼女は、かえって自分のほうこそドゥーニャを正視する資格もない女と考えていたからである。ラスコーリニコフの部屋で二人が初めて会ったおりドゥーニャにすこぶる配慮と敬意に満ちた態度であいさつされて以来、ドゥーニャのすばらしい面影は、彼女の生涯を通じて最もすばらしい、自分など手のとどかないまぼろしのひとつとして永久に彼女の心に印象づけられていたのである。
ドゥーニャはとうとう待ちきれなくなって、兄をその下宿で待ち受けるため、ソーニャをそこへおいてきてしまった。ドゥーニャには、兄が先にそちらへ来るような気がしてならなかったのである。ソーニャはひとりっきりになると、すぐさま、ひょっとしたら、ほんとうにあの人は自殺してしまうかもしれないと思って、その恐怖に悩まされはじめた。それはドゥーニャも心配していたことだった。それでも、二人は一日じゅう競いあうようにしていろんな証拠をあげて、そんなことはあり得ないと、たがいにうち消しあっていたので、いっしょにいる間はまだ安心していられた。ところが、今こうして別れてみると、そのとたんから二人とももうそのことが頭から離れなくなってしまった。ソーニャは、きのうスヴィドリガイロフに、ラスコーリニコフは二つの道しかない――ヴラジーミル街道か、でなければ……と言われたことが思い出されてならなかった……彼女はその上、彼が虚栄心が高く、傲慢で、自尊心が強い上に、信仰を持っていないことを知っていた……『単に臆病で死ぬのが怖いくらいのことであの人がはたして死を思いとどまれるものかしら?』と、彼女はしまいには絶望のあまりそんなことを思った。そうこうするうちに、早くも太陽は傾きかけてきた。彼女は悲しい気持ちで窓の前に立って、窓の外をじっと眺めていた、――が、その窓の外には隣りの建物の途方もなく大きな荒壁が見えるだけだった。ついに彼女がすでにあの不幸な人は死んでしまったのだとすっかり信じこんでしまったそのとたんに、――彼が部屋にはいって来たのである。
彼女の胸から歓喜の声がほとばしり出た。が、相手の顔をじっと見たとたんに、彼女は急に真っ青になってしまった。
「ねえ、いいかい!」とラスコーリニコフはにやにやしながらいった。「僕は君の十字架をもらいに来たんだよ、ソーニャ。僕に十字路へ行けといったのは君じゃないか。それなのに、いよいよ実行の段どりになった今になって、なんだって急におじけづいたんだね?」
ソーニャはびっくりして彼の顔を見つめていた。その調子が彼女には変な感じがしたのだ。ぞうっと戦慄が彼女の体を走りかけたが、つぎの瞬間には彼女は、その調子もその言葉も――みな見せかけにすぎないものと見ぬいてしまった。彼は彼女と話をするにも、なぜか隅のほうを見て、相手の顔をまともに見るのを避けているようなふうなのだ。
「僕はね、ソーニャ、そうしたほうが、どうも得なようだと判断したんだよ。それにはある事情があるんだ……しかし、話せば長いことだし、それに話したってしようがない。ただ僕にはしゃくにさわることがあるんだが、なんだと思う? 僕がしゃくなのは、あのばかな畜生面をしたやつらがみんないっせいに僕をとりかこんで、ぎょろぎょろまなこを皿のようにして僕を真っ正面から見たり、僕にまぬけな質問をして、僕がそれに答えなければならなかったり、――僕を指さしたりするだろうということなんだ……畜生め! いいかい、僕はポルフィーリイのところへは行かないぜ。あいつにはうんざりしちゃってるんだ。僕はいっそのこと仲よしのかみなり副署長のところへ行くよ、そうすりゃやつをびっくりさせられるし、一種の効果もあげられるからな。それにしても、もっと冷静でなくちゃね。僕はどうも最近気短すぎるものね。君は嘘だと思うだろうが、僕は今も、ただ妹が見おさめに僕を振りかえって見たというだけのことで妹を拳固でおどかしそうになったくらいなんだ。まったく下劣きわまる心的状態じゃないか! いやまったくここまで落ちてしまったんだ! まあ、しかたがない、十字架はどこにあるんだい?」
彼は気もそぞろといった様子で、一つ所に一分と坐ってもいられないし、ひとつのものに注意を集中してもいられなかった。考えはつぎつぎと飛躍するし、話はしどろもどろだった。それに、手はかすかにぶるぶる震えていた。
ソーニャは黙って引き出しから、十字架を、糸杉のと銅のと、二つ取り出すと、自分が十字を切ってから、相手にも十字を切ってやった上で、糸杉の十字架を相手の胸にかけてやった。
「これは、つまり、十字架を背負うというシンボルだな、へ、へ! してみると、僕は今まで苦しみようが足りなかったってわけか! 糸杉のはつまり一般に使われているやつだ。銅のはリザヴェータのだね、それは君が自分でかけるんだろう、――見せてくれないか? するとあの人はこれをかけていたわけか? 僕はこういった種類のを、銀製のと聖像のついたのと二つ知っているよ。僕はあのときその二つを婆さんの胸に投げつけてきたんだ。あれが今あったらよかったんだけどな、ほんとうに、あれこそ僕がかけるべきだったんだ……だけど、僕はでたらめばかり言っている、これじゃ肝心なことを忘れちまうぞ。どうも僕はぼんやりしているようだ! ……いいかい、ソーニャ、――実は、君に先に知らせよう、知ってもらおうと思って、それで来たわけなんだよ……ただ、それだけのことなんだ……それだけのためにやって来たんだよ(ふむ、しかし僕はもっといろいろ言おうと思っていたんだがなあ)。僕を行かせようとしたのは君じゃないか、これで僕は監獄で暮らすことになるんだから、君の望みもかなえられるわけじゃないか。それなのに、なんだって君は泣いているんだい? 君まで泣くのかい? やめなよ、もういいよ。ああ、こういったことがやりきれないんだ!」
それでいながら、彼の胸には新しい感情が生まれてきていた。彼女を見ているうちに、彼は胸がしめつけられるような思いがした。『この女は、この女はどうしたわけだ?』と彼は心のなかで考えていた。『おれなんかこの女にとっちゃなんでもあるまいに? なんだってこの女は泣いているんだ、なんだっておふくろやドゥーニャみたいにおれに仕度などしてくれているんだろう? 僕の乳母にでもなろうって言うんだろうか!』
「十字を切ってちょうだい、一度だけでいいから祈って」とソーニャはおどおどした震え声で頼んだ。
「ああ、いいとも、君の好きなだけいくらでもやってやるよ! それも真心からね、ソーニャ、真心からだよ……」
だが、彼はもっとなにか別なことを言いたかったのだ。
彼は幾度か十字を切った。ソーニャはショールをつかんで、それを頭にかぶった。それは緑色のドラデダム織りのショールで、多分、あのときマルメラードフが『一家共用の』といったあれなのだろう。ラスコーリニコフの頭にそういう考えがちらっとかすめたが、彼は別に聞かなかった。実際、彼はもう自分でも感じはじめていたのだが、ひどく注意が散漫になり、なにか醜いほど落ちつかなかった。これには彼もあきれてしまった。彼は、ソーニャがいっしょに出ようとしているのにもびっくりしてしまった。
「君はなにをしようっていうんだ? どこへ行くんだい? 家にいなさい、家にいなさい! 僕ひとりでいいんだ」と、彼は狭量らしくいらだってそう叫ぶと、ほとんど怒ったような調子で、戸口にむかって歩き出し、「こんなときに、そんな大げさなお伴なんかいるもんか!」と、出ていきながらぶつぶつ言っていた。
ソーニャは部屋の真ん中に取り残された。ラスコーリニコフは彼女に別れのあいさつすらしなかった。すでに彼女のことなど忘れてしまっていたのだ。彼の心のなかでは毒々しい反抗的な疑惑が煮えくりかえっているだけだった。
『これでいいんだろうか、すっかりこれでいいんだろうか?』彼は階段をおりながら、またしてもこう考えた。『ほんとうにここでまた思いとどまって、なにもかももう一度やりなおすわけには……行かないですますわけにはいかないんだろうか?』
しかし、彼はそれでもやはり歩きつづけた。彼は突然、もう今さら自分にそんな問いを発することはないのだということを決定的に感じた。往来へ出たとき、彼は、ソーニャと別れのあいさつをして来なかったことを、そして彼女が自分にどなりつけられたため身動きひとつせずに、部屋の真ん中に緑色のショールをかぶったままたたずんでいたことを思い出して、一瞬、はっと足をとめた。その刹那、ぱっとある考えに彼の心があざやかに照らし出された、――それはまるでその考えが、彼を徹底的に驚かしてやろうと待ちかまえていたようなぐあいだった。
『いったいなにが目的で、いったいなんのためにおれは今あの娘のところへ行ったんだろう?おれは彼女に、用があって来たと言ったが、なんの用事があったのだ? まるっきり用事なんかなかったくせに! これから|行く《ヽヽ》ということを言いにか、そんなことをしてどうなるのだ?そんな必要がどこにある! そんなら、おれはあれを愛しているんだろうか? まったくそんなことはないじゃないか? 今だって犬ころみたいに追いかえしてしまったじゃないか。おれはほんとうに彼女から十字架などもらう必要があったのだろうか? いやはや、おれも実に堕落したもんだ! いや、そんなことじゃなくて、――おれは彼女に泣いてもらいたかったのだ、彼女の驚く様子が見たかったのだ、彼女が心を痛め、苦しみ悩む様子が見たかったのだ、なんでもいいからすがりついて、ぐずぐず時間をのばして、人間を見ていたかったのだ! そんなおれなのに、よくもまあ自分をたのみ、あんなに自分のことで夢など描けたものだ、おれは乞食だ、おれはとるに足らない人間だ、卑劣な男だ、卑劣な男だ!』
彼は堀割りの河岸通りを歩いていった。もうあとは大した距離ではなかった。が、橋まで来ると、彼は橋のほうへ方向を変えて、センナヤのほうへ渡っていった。
彼は左右にむさぼるように目をこらし、あらゆるものに緊張して見入るのだが、なににたいしても注意を集中できなかった。なにもかも彼の注意からそれてしまうのだった。『これから一週間後か一ヵ月後に例の囚人護送馬車でこの橋を通って運ばれていくときは、どんな気持ちでこの堀割りに目をやることだろう、――こいつは覚えておいたほうがいいかな?』という考えが彼の頭をかすめた。『ほら、この看板だってそうだ、おれはそのときこのおなじ文字をどんな気持ちで読むことだろう? ほら、ここに会社《ヽヽ》と書いてあるが、まあ、これでこの会《ヽ》を、この会という文字を覚えていて、一ヵ月後にこの会《ヽ》という文字を見るとしたら、そのときおれはどんな気持ちで見ることだろう? そのときおれはなにを感じ、なにを思うだろう? ……ああ、こんなことはみんなまったく下らないことだ、おれのこの今の……心配事なんか! そりゃ、むろん、こういったことはおもしろいことにはちがいない……それはそれなりに……(は、は、は! なにをおれは考えてるんだ!)おれは子供に返っちまったぞ、自分で自分に大口をたたいてやがる。が、かといってなにも自分を恥じることもないぞ。ちぇっ、いやにぶつかって来やがるな! あのでぶだな、おれにぶつかったのは――きっと、ドイツ人にちがいない。いったいあいつはぶつかった相手が何者だか知ってるんだろうか? あそこじゃ子供づれの女が物乞いをしているが、おもしろいことに、あの女はおれを自分より幸福な人間だと思っていやがる。どうだ、ひとつ遊び半分に金をめぐんでやるか。おや、ポケットにまだ五コペイカ玉が残っていたぞ、どこから手にはいったんだろう? さあ、さあ……取っておきな、おふくろさん!』
「ありがとうございます!」という女乞食の悲しそうな声が聞かれた。
彼はセンナヤへはいって行った。彼は人群れのなかでもみあうのがいやだった、実に不愉快だったのに、ことさらに、人が多いと思われる所をめざして進んで行った。彼はひとりきりになれるものなら、一切がっさい投げ出してもいいくらいの気持ちだったが、自分にも、もう一分たりともひとりではいられないのだということがわかっていた。人ごみのなかで酔っぱらいがひとり醜態を演じていた。その男はのべつ踊ろうとしては、そのつどわきへどさりと倒れてしまうのである。その彼をみんなが取りまいていた。ラスコーリニコフは人群れをかきわけて進み、しばらく酔っぱらいを見物していたかと思うと、突然短く引きちぎったような笑い声をたてた。が、一分もするともうその男のことなどけろりと忘れてしまい、その男に目はやっていながら、目には映らなくなってしまっていた。彼はついにそこを離れたが、自分はどこにいるのかさえわからなくなっていた。ところが、広場の中央まで来たとき、彼の胸に突然ある衝動が起き、一時にある感覚にとらえられてしまい、全存在が――身も心も――ひっとらえられてしまった。
彼は突然ソーニャの言葉を、『十字路へ行って、みんなに頭を下げ、大地に接吻をしなさい、だってあんたは大地にも罪をおかしたわけですもの、そして全世界にむかって大声で「私は人殺しです!」とおっしゃい』といった言葉を思い出したのである。彼はそれを思い出したとたんに、体じゅうぶるぶる震え出した。そして、この間じゅう、とくにここ数時間どうにもやり場のないわびしさと不安にあまりにもおしつぶされていたため、彼はその純粋な新たな充実した感情のなかにまっしぐらに飛びこんでしまった。その感情は一種の発作のように突然彼を襲い、彼の胸のなかでひとつの火花として燃え出したものが、にわかに炎となって全存在をとらえてしまったのだ。身内がいっぺんに和らぎ、涙がどっとほとばしり出た。彼は立ったままの姿勢でどうと大地に倒れ伏した……
広場の中央にひざまずくと、彼は地面にとどくくらいのおじぎをして、そのきたない地面に愉悦と幸福を覚えながら接吻した。そして、立ちあがって、もう一度頭を下げた。
「見ろ、ひどく酔っぱらっちまっているじゃねえか!」とそばにいたひとりの若い男が言った。
どっと笑い声が起こった。
「この男はエルサレムへ出かけるとこなんだぜ、皆の衆、それで子供らだの生まれ故郷に別れをつげて、世間の連中にも頭を下げ、聖ペテルブルクの都とその地面に接吻をしているってわけさ」とほろ酔い機嫌の職人のひとりがそうつけ加えて言った。
「まだ若え男じゃねえか!」と三人めの男が口をはさんだ。
「貴族のようだな!」とだれか、もったいぶった声色で言った者がいた。
「今どき、だれが貴族で、だれがそうじゃねえかなんて見わけがつくもんか」
こういった野次や話にラスコーリニコフは気持ちをおさえられてしまって、彼の口から飛び出しかけていたかもしれない『私は人殺しをしました』という言葉も、出なくなってしまった。それでも、彼はそうした叫び声を平然と聞き流して、あたりに目もくれずに、まっすぐ横町を越えて警察署にむかって歩き出した。途中で人影がひとつ目の前にちらっと見えたが、彼は怪しみもしなかった。彼はすでに、当然そうなるはずだと予感していたのである。センナヤで左へ向きを変えて、もう一度地面につくくらいに頭を下げたとき、自分のところから五十歩ほど離れたところにソーニャの姿をみとめたのだ。彼女は彼から身をかくすようにして、広場に並ぶ木造バラックのひとつのかげに身をひそめていた、ということはつまり、彼の悲しい行進の間じゅう彼を見送っていたわけなのである! ラスコーリニコフはこの瞬間、ソーニャは今や永久に自分のそばにいて、運命の導く所なら世界のはてまででも自分についてきてくれるものと感じ、悟ったのである。彼の心は感動に打ち震えた……だが――そのときはもう運命を決する場所にたどり着いていた……
彼はかなり元気よく構内へはいって行った。三階まで上らなければならなかった。『まだ上りきるまで間があるわけだ』と彼は思った。彼はだいたい、運命を決する瞬間が来るのはまだまださきで、まだ時間は十分に残っているから、まだいろいろ考えることもできるような気がしていた。
またしても螺旋《らせん》階段はごみだらけ、卵の殻だらけだ。またしても部屋部屋のドアはあけはなしだし、またしても台所から炭酸ガスと悪臭がただよって来ている。ラスコーリニコフがあのとき以来ここへ来たのはこれが初めてだ。足は言うことをきかず、がくりといきそうだったが、彼は歩きつづけた。が、途中でちょっと足をとめた。息をついで、身じまいをなおし、|人間らしいかっこうで《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》はいっていこうと思ったのである。『しかし、なんのために? なぜこんなことをするんだ?』と、彼はふと自分の仕草の意味を考えてみた。『どうせこの盃を呑みほさなければならないんだったら、もうこんなことはどうだっていいじゃないか? 見っともなければ見っともないほどいい』その瞬間、かみなり署長の姿がちらっと頭をかすめた。『ほんとうにあの男のところへ行ったほうがいいんだろうか? ほかの人じゃいけないんだろうか? 署長のところじゃまずいだろうか? 今すぐ引っ返して、署長の官舎へ出かけたら? 少なくとも家庭的な形で事がすむじゃないか……いや、いや! かみなり副署長のところにかぎる、かみなり副署長のところだ! 呑むんなら、ぜんぶ一気に呑みほしちまったほうがいい……』
彼はぞうっと寒けを覚え、ほとんど無我夢中で事務室のドアをあけた。今度は人はほんのわずかしかいず、どこかの門番とほかに普通の町の者らしい男がひとりいるだけだった。守衛はつい立てのむこうからのぞきもしなかった。ラスコーリニコフはつぎの部屋へはいって行った。
『ひょっとしたら、まだ話さなくともいいかもしれないぞ』という考えが彼の頭にひらめいた。そこには私服を着たひとりの書記と覚しい男が事務机でなにか書こうとしていた。また、部屋の隅のほうではもうひとり書記が席につこうとするところだった。ザミョートフはいなかった。署長も、むろん、いなかった。
「だれもいないんですか?」とラスコーリニコフは事務机にむかっていた私服の男に聞いた。
「だれにご用ですか?」
「やあ! 声も聞かねば、姿も見ずとも、ロシヤ人の匂い……という文句がおとぎ話のなかにありましたな……なんだったか忘れちまいましたけど! やあ、ようこそ!」と、突然聞きおぼえのある大きな声がした。
ラスコーリニコフはぶるっと身震いした。自分の前にかみなり副署長が立っていたのである。彼は出しぬけに奥の三つめの部屋から出てきたのだ。『これこそ運命というものだ』とラスコーリニコフは思った。『どうしてこの男がこんな所にいたんだろう?』
「ここへいらっしゃったんですか? なんのご用です?」と副署長は叫んだ(彼は、見たところ、すこぶる上機嫌で、しかもほんの少しだったが、興奮までしていた)。ご用でいらっしゃったとすれば、お出でになるのがまだ早いようですがね。私のほうは偶然に……それはそうと、お役に立つことでしたら、なんでも。あなたに白状しますがね……ええと、お名前はなんて言いましたっけね? なんと? 失礼ですが……」
「ラスコーリニコフです」
「あ、そうでしたな、ラスコーリニコフさんでしたね! まさかあなたは、私が忘れたなんてお思いにはならないでしょうな! どうか、私をそんな人間だとは思わないで下さい……ロジオン・ロ……ロ……ロジオーヌイチ、確か、そうでしたね?」
「ロジオン・ロマーヌイチです」
「そう、そう、そう! ロジオン・ロマーヌイチ、ロジオン・ロマーヌイチ! それを知ろうとして、私はさんざん手を焼きましたよ。何回も問いあわせまでしてね。白状しますが、私はあのとき以来、あのときあなたとあんなぐあいになったことを心から後悔していたんですよ……あとで人の説明を聞いて知ったんですが、若い文学者で、その上学者だっていうじゃありませんか……それに、ま、いわば、第一歩を踏み出されたばかりだとか……いやはや! 文学者や学者でまず最初踏み出した第一歩が一風変わってないなんていう者はいやしませんからね!私も私の家内も――二人とも文学を尊重しているんですが、家内のほうはもう夢中でしてな!……文学と芸術にね! 人間、人格さえ立派であれば、あとはなにもかも才能と知識と理性とで獲得できますものね! 帽子――たとえば、帽子になんの意味があります? 帽子なんてブリン(ロシヤ風パンケーキ)みたいなもんで、私にだってツィンメルマンの店で買えますよ。ところが、帽子の下にしまってあって、帽子でおおわれているものは、それはもう私なんぞには買えませんからね! ……私は、正直言って、お宅へ釈明にあがろうかとさえ思ったんですが、ひょっとしたら、あなたは……それはそうと、お尋ねもしませんでしたが、ほんとうになにかご用がおありなんでしょう? 話によると、お家の方が出ていらっしゃったそうですね?」
「ええ、おふくろと妹が」
「お妹さんには、ありがたいことに、幸運にもお目にかかれましたが、――教養のある、とてもきれいなお方ですな。正直言って、あのときあなたを相手にとりのぼせてやり合ったことを残念に思ったくらいですよ。まったく変なぐあいでしたな! あのとき、あなたが卒倒なすったんで、私はちょっと妙な考えを持ったんですが、あとであれはすこぶる見事に説明がつきましたよ! 狂信とファナティズムですよ! あなたが憤慨なすったのもむりはありません。もしかしたら、ご家族が来られたんで、家をお移りになるというようなことじゃないんですか?」
「い、いや、僕はただなんということなく……僕はお聞きしたいことがあって来たんですが……ザミョートフ君に会えると思ったもんですから」
「ああ、そうですか! お二人は仲よしになられたとかいうことでしたな。聞きましたよ。それがねえ、ザミョートフはここにはいないんですよ、――つかまえられなくて残念でしたな。そうです、われわれは彼を失ってしまったわけです! きのうから出てきておりませんのです。転勤になりましたんでね……しかも、転勤間際に、みんなと口論までしていきましたよ……それも無作法きわまる口論を……軽薄な小僧っ子で、それ以上の何者でもありませんよ。見こみがありそうだったんですがね。いやまったく、あの連中と来たら始末におえませんな、わが国のこの頃の花々しい青年諸君と来たら! なにか試験を受けたいとかいっていましたが、われわれのとこの試験と来たら、ただちょっとばかりしゃべって、ほらでも吹いてみせただけで、それでおしまいなんですからな。まあ、たとえば、あなたとかあなたのお友だちのラズーミヒン氏などとはわけがちがうんですよ! あなたのご専門は学問のほうですから、ひとつやふたつの失敗などでめげるようなことはありますまい! あなたにとっちゃこうした人生の美なんてものはみんな、いわば―― Nihil est(空の空なるもの)といったところでしょう、あなたは禁欲主義者、修道士、世捨て人でいらっしゃるんですからな! ……あなたにとっちゃ書物とか、耳にはさんだペンとか、学問的研究といったようなものが大事なんで、――あなたの精神はそういったものの上を飛翔しているわけですものね! そういう私も少しばかり……あなたはリヴィングストンの記録をお読みになりましたか?」
「いいえ」
「私は読みましたよ。それはそうと、この頃ニヒリストがやけにふえてきましたな。ま、それもむりのない話ですよ。こういう時代ですもんな、ね、そうでしょう? もっとも、私やあなたは……あなたは、むろん、ニヒリストじゃありますまいね! 率直にお答え下さい、率直にね!」
「そ、そうじゃありません……」
「いや、いいですか、私とはざっくばらんにやって下さいよ、遠慮なさらずに、私にはご自分にでもお話なさるように! スルージバ(職務)ともなれば別問題ですよ……あなたは、私がドルージバ(友情)というつもりだったとお思いでしょう、おあいにくさま、見当ちがいでしたな! 友情じゃなくて、市民としての、人間としての感情、人道的感情、神にたいする愛の感情です。私は勤務中といえども、公人でもあり得ますが、同時につねに自分のなかに市民と人間を感じ、それを自分に徹底させる義務があると思っているんです……あなたは今ザミョートフのことを口にされましたが、ザミョートフは、あの男はどこかいかがわしい店でシャンパンやドン・ワインでも呑みながら、なにかフランス式に見っともないまねをやらかすようなやつなんですよ、――あなたのお友だちのザミョートフとはそういう男なんです! ところが、私のほうは、ひょっとしたら、ま、いわば、忠誠の念と高尚な感情に燃えているかもしれず、その上身分も官等も持ち、重要な地位も占めている! それに、妻帯者であり、子供もいる。市民としての、人間としての義務もはたしていますが、あの男のほうは、あれはいったい何者ですか? 私はあなたを、教養によって品性を高められた方としてお話しているんですよ。さらにもうひとつ、産婆も実にふえてまいりましたなあ」
ラスコーリニコフはいぶかしげに眉をあげた。明らかについ今しがた食卓をあとにして来たらしい副署長の言葉はその大部分が空虚な音をひびかせて、彼の前に落ち散るだけだったが、それでもその一部分は彼にもなんとか理解できた。彼はいぶかしげに相手を見ているだけで、その話がどういう結末でおわるのか、見当がつかないといった顔つきをしていた。
「私が言っているのは例の髪を短く刈りこんだ娘さんたちのことですよ」と話好きな副署長は言葉をつづけた。「私はあの連中に産婆というあだ名をつけたんですが、このあだ名は実にぴったりだと思っているんですよ。へ、へ! 医科大学なんかにはいりこんで、解剖学なんか学んではいますが、どうです、私が今病気をしたとしても、ああいう娘さんを呼んで自分の病気をなおしてもらう気になれますかね? へ、へ!」
副署長は自分のしゃれにすっかり悦に入って、大声をたてて笑った。
「これは、まあ、文明開化にたいする渇望の無節度な現われと見てもいいんですが、文明開化がおこなわれた以上、それでもう十分じゃありませんか。どうして悪用せずにはいられないんでしょう? どうして、やくざなザミョートフのように、立派な連中を侮辱しなければならないんですかね? どうしてあいつは私を侮辱したんでしょう、ひとつお聞かせ願いたいもんですな。それから、あの自殺の数のふえたことといったら、――これはもうあなた方には想像もつかないくらいですよ。それがみんな、最後の金まで使いはたして、そのあげくの自殺なんですからなあ。小さな女の子から男の子、老人にいたるまでね……現についけさも、だれか最近上京したばかりの紳士にかんする報告がありましたよ。ニール君、え、ニール君! あの紳士の名前はなんて言ったっけね、さっき報告のあった、ペテルブルク街でピストル自殺をしたとかいう紳士の名前は?」
「スヴィドリガイロフです」とこう、つぎの部屋からだれかがしわがれ声で関心のなさそうな返事をした。
ラスコーリニコフはぶるっと身震いして、
「スヴィドリガイロフ! スヴィドリガイロフがピストル自殺をしたんですか!」と叫んだ。
「おやおや! スヴィドリガイロフをご存じですか?」
「ええ……知っています……あの男は最近上京したばかりで……」
「ええ、そうですとも、最近上京したばかりですよ。細君をなくした人ですが、身持ちの悪い男で、突然自殺をとげたんですよ、それも想像もつかないような醜いやり方でね……手帳にふた言三言、自分は正気で自殺するのだから、だれにも自分の死因の罪を着せるようなことはしてくれるなと書きのこしていったそうですがね。その男は金を所持していたということですよ。あなたはどうしてご存じなんです?」
「僕は……知りあいなもんでね……妹がその男の家の家庭教師に住みこんでいたもんですから……」
「おや、おや、おや……そうすると、あなたからわれわれにその男のことで情報を提供していただけるわけですな。あなたはそういった気ぶりに気がつきませんでしたかね?」
「僕はきのうあの男に会ったんですが……あの男は……酒を呑んでいましてね……しかし、僕はなんにも気がつきませんでしたね」
ラスコーリニコフは、自分の上になにか落ちてきて、それにのしかかられたような感じがした。
「また顔色が青くなりましたよ。ここはどうもひどく空気の流通が悪いですからね……」
「そう、もうそろそろ帰らなくちゃ」とラスコーリニコフはぶつぶつ口のなかでいった。「お邪魔して、失礼しました……」
「いや、とんでもない、どうぞお好きなだけごゆっくりと! おかげで愉快でした、嬉しいくらいですよ、そう言えるのが……」
副署長は握手の手までさしのべた。
「僕はただ……僕はザミョートフ君のところへ……」
「わかっています、わかっています、いや、おかげで愉快でしたよ」
「僕も……大変嬉しいです……じゃ、さようなら……」ラスコーリニコフはにっこりと笑ってみせた。
彼は部屋の外へ出たが、ふらふらだった。それに、めまいもしていた。足で立っているのかどうか、その感じさえなかった。右手で壁によりかかるようにして、階段をおりはじめた。なにか、庭番らしい、帳簿を持った男が、警察へとこちらに向かってあがって来たひょうしに、彼にどしんとぶつかったようだった。犬がどこか下のほうでけたたましく吠え、その犬にだれか女がめん棒を投げつけてどなりつけるのが聞こえたような気もした。ラスコーリニコフは下へおりると、裏庭へ出た。と、そこに、裏庭の出口の近くに、真っ青な顔をし、全身死人のようにこわばらせたソーニャが立って、なんとも言えない変な目つきで彼をじっと見ていた。ラスコーリニコフは彼女の前に立った。彼女の顔にはなにやら病的な、疲れきったような表情が、なにやら絶望的な表情が浮かんだ。彼女がはたと両手を打ちあわせると、男の唇に醜い、途方にくれたような微笑がおし出されるようにして現われた。彼はほんのちょっと立っていたかと思うと、にやりと笑って、ふたたび階上の警察へととって返した。
副署長は腰をかけて、なにか書類をさかんにかきまわしていた。その前には、階段をのぼりながらたった今ラスコーリニコフに突きあたった例の男が立っていた。
「ほう! またお出でになりましたな! なにか忘れものでも? ……それにしても、どうなすったんです?」
ラスコーリニコフは唇を真っ青にし、目を一つ所にすえたまま、彼のほうへ近づいて、机のきわまでたどりついたと思うと、机に片手で寄りかかるようにして、なにか言おうとするのだが、いえず、ただなにかとりとめのない声音が洩れるばかりだった。
「気分が悪いんですね、椅子だ! さあ、椅子におかけなさい、腰をかけて下さい! 水を持って来い!」
ラスコーリニコフは椅子にどさりと体を落としたが、目は、はなばなしく不愉快そうに驚いている副署長の顔から離さなかった。双方、一分ばかりたがいに目と目を見あったまま、待っていた。そこへ水が持って来られた。
「あれは僕が……」とラスコーリニコフは言いかけた。
「さあ、水をお飲みなさい」
ラスコーリニコフは片手で水を払いのけると、静かな声で、間をおくようにしながら、しかしはっきりとこう言いきった。
「|あれは《ヽヽヽ》、あのとき官吏の後家婆さんと妹のリザヴェータを斧で殺して物を盗ったのは|この僕なんです《ヽヽヽヽヽヽヽ》」
副署長は口をぽかんとあけたきりだった。あちこちから人がはせ寄った。
ラスコーリニコフはもう一度自白の言葉をくり返した……
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エピローグ
シベリヤ。ひろびろとした荒涼たる河の岸に、ロシヤの行政的中心地のひとつである町がある。町には要塞があり、要塞のなかに監獄がある。この監獄に第二級徒刑囚のロジオン・ラスコーリニコフがもう九ヵ月も監禁されている。犯行の日からほとんど一年半の年月が経過していた。
彼の事件の審理は大してめんどうなこともなく完了した。犯人は毅然として正確明瞭に自分の自供を主張して、いろんな状況をまぜこぜにしたり、状況の説明を自分に有利になるように手加減してやわらげたり、事実をまげたりせず、ごく微細な点まで忘れないで供述した。殺人の経過を最後の一点一画にいたるまで洩れなく物語り、殺された老婆が手に握っていた質草《ヽヽ》(板きれと金属片の)の秘密も解きあかせば、被害者から鍵を奪った模様も詳細に語り、それらの鍵の形も説明すれば、長持ちとそのなかに詰めこんであったものまで叙述するというふうだった。その上、その長持ちのなかにあった二、三の品物についてはその数量まで挙げたり、リザヴェータ殺しの謎を解明してみせたり、コッホがやって来て、ノックをしていたところへつづいて学生が来た経過を語って、二人が話しあっていたその話の内容まで伝えたり、それから犯人の彼が階段を駆けおりたとき、ニコライとドミートリイのきゃあきゃあいう声を耳にしたことや、彼が空き家に身をかくして、それから家へ帰ったことなども語ったりして、最後に、ヴォズネセンスキイ通りにある、ある家の裏門のそばに石があることも教えた。その石の下から、はたして、品物と財布が出てきた。要するに、事件は明白になったわけである。予審判事と裁判の判事たちは、なかんずく、彼が財布と品物を石の下にかくしたままそれを使わなかったことに、それよりもなによりも、彼が自分で盗んだ品物を詳細に覚えていなかったばかりか、その数さえもまちがって記憶していたことに、ひどく驚いていた。彼が一度も財布をあけず、そのなかにいったいいくら金がはいっていたのかさえ知らなかったという事実それ自体、あり得べからざることに思われたのである(財布のなかには銀貨で三百十七ルーブリと二十コペイカ銀貨が三枚はいっていた。長いこと石の下においてあったため、何枚かの、上のほうの高額紙幣はひどく痛んでいた)。被告はほかの点についてはぜんぶ自発的に、かつ正直に自白したのに、いったいなぜこの一点については虚偽の申したてをするのかという疑問を解明するのに、関係者は長いこと苦心惨憺した。そのあげく、数人の者(とくに心理学者のある者)は、実際に彼は財布のなかを見なかったのだ、従ってなかになにがはいっていたのか知らず、知らないまま石の下にかくしたのだという仮定まで持ち出した、そして同時にそこから、この犯罪自体、ある種の一時的精神錯乱、いわば、将来の目的や打算的な考えをぬきにした病的な殺人強盗|偏執狂《へんしゅうきょう》の発作がなければ起こり得なかったという結論が引き出された。ちょうどこの頃は折よく、一時的精神錯乱なる最新流行の学説が登場したばかりで、わが国でもある種の犯罪者につとめて頻繁《ひんぱん》に適用しようという趨勢《すうせい》にあった。そこへもってきて、ラスコーリニコフがもうだいぶ前からヒポコンデリー的精神状態にあったという正確な陳述が、多くの証人、医師のゾシーモフや、彼の以前の学友や、下宿のおかみや、女中たちによってなされた。こういったことが強く作用して、ラスコーリニコフは普通ありきたりな人殺しや泥棒や物盗りとはまったくちがって、これにはなにかもっと別なものがあると結論されるにいたった。この見解を主張しようとする人たちにとって遺憾《いかん》千万なことには、当の犯人はほとんど自分を弁護しようとしなかった。そもそも彼を殺人へと誘ったものはなんであるか、なにが彼に掠奪などをする気を起こさせたのかという最終尋問にたいして、彼は、すべての原因は自分のみじめな境遇と、自分の貧窮と孤立無援の状態、それに被害者から手に入れられるとあてこんでいた少なくとも三千ルーブリにはなると思われる金の助けをかりて、自分の立身出世の第一歩を確立したいという希望であったと、すこぶる明快に、すこぶる大づかみな正確さで答えた。殺人に踏みきったのは、軽率で小胆な性格に加えて窮乏と不遇にいらだっていた神経のなせる業であったと言うのである。また、ではなにが自首する気を起こさせたのかという質問にたいしては、心からの悔悟であると率直に答えた。こういった陳述はほとんど荒けずりと言ってもいいくらいのものだった。
それにもかかわらず、判決は、行なわれた犯罪から予想し得たよりはるかに寛大なものとなった。これは、事によると、犯人が自分を弁護しようとしなかったばかりか、自分のほうからもっと自分の罪を重くしてくれと希望しているようにさえ見えたことによるのかもしれない。それに、この事件のいっぷう変わった特殊事情も残らず考慮に入れられた。犯罪決行前の犯人の病的で悲惨な精神状態についてはいささかの疑いもさしはさむ余地はなかった。彼が奪ったものに手をつけなかったことは、ひとつには悔悟の情が目ざめたせいであり、もうひとつには犯罪決行当時の犯人の精神能力が十分に健全な状態になかったことを証明するものであると見なされた。その気もなくリザヴェータを殺してしまったという事情も、かえってこの仮定を裏づける例証となった。人間が殺人を二つも犯していながら、ドアがあけはなしてあったことを忘れていたくらいだったからである! 最後に、絶望してしまった狂信者《ニコライ》が虚偽の自供をしたために事件が異常な紛糾をきたしていたそのさなかに、のみならず、真犯人には明白な罪証どころか、ほとんど嫌疑さえかけられていなかったときに自首して出たという(ポルフィーリイは完全に約束をまもってくれたのだ)、こういった事情が被告の運命を軽減する上にあずかって力があったのである。
その上、まったく思いがけなくほかの事実も明るみに出て、それが被告をすこぶる有利な立場に立たせることになった。元大学生のラズーミヒンがどこからか情報を掘り出してきて、証拠を提出したのだが、それによると、犯人のラスコーリニコフは大学在学中に自分のなけなしの学費をさいてある貧乏で肺病の学友を助け、半年もの間ほとんどこれを扶養してやったというのである。それに、その友だちが死んだあとは、その亡くなった友だちの生き残った、老衰した父親(その友だちはほとんど十三歳になるやならずから自分の父親を自分の稼ぎで扶養していた)の世話をし、しまいにはその老人を入院させ、老人が死んだときには葬式まで出してやったというのであった。こういった情報はラスコーリニコフの運命の決定にかなりの好影響を与えた。それに、彼の元下宿のおかみで、ラスコーリニコフの亡くなったいいなずけの母親である未亡人のザルニーツィナ自身もやはり、自分たちがまだピャーチ・ウグロフの別のアパートに住んでいた頃、夜なかに火事があったとき、ラスコーリニコフがすでに火がまわっていたある部屋から小さい子供を二人助け出し、その際やけどまでしたという証言をしてくれた。この事実は、綿密に調査したところ、多くの証人によってかなり立派に証言がなされた。要するに、犯人が自首して出たことと、罪の軽減に役だつような、いくつかの事実が重要視されたため、犯人は、第二級の徒刑、刑期はたったの八年という宣告を受けることで事件は落着したわけである。
まだ裁判が始まったばかりの頃、ラスコーリニコフの母親が病気になった。ドゥーニャとラズーミヒンは裁判の進行中くらいは病人をペテルブルクから連れ出しても大丈夫と思った。ラズーミヒンは鉄道の沿線でペテルブルクから近距離にあるある町を選んだ。これは、裁判のなりゆきから片時も目をはなさずにいられるように、それと同時になるべく頻繁にアヴドーチヤと顔をあわせられるようにというので、そこを選んだのである。プリヘーリヤの病気はなにか奇妙な神経性のもので、完全にとは言えないまでも、少なくともいくらか精神錯乱的なものをともなっていた。ドゥーニャが兄と最後の面会をして帰ったとき、母親はすでに完全に発病していて、熱にうなされていた。その晩、彼女は母親に兄のことをいろいろ聞かれたらいったいどう返事したらいいかということでラズーミヒンと打ち合わせもし、二人で母親のために一編の物語までこしらえあげた。その物語では、ラスコーリニコフは個人的にある仕事を託されて、どこか遠く離れたロシヤの辺境にむけて発ったのであって、その任務を果たせば、やがて金も名声も彼の手中にはいることになる、ということになっていた。ところが、二人が驚いたことには、プリヘーリヤはそのことについては、そのときもその後もなにひとつくわしく聞こうとはしなかった。それどころか、彼女のほうにも息子がにわか発ちすることについての一条の物語ができあがっていて、彼女は息子が自分のところへ暇乞いに来た模様を涙ながらに語って聞かせ、その際、いろんな重大で秘密な事情を知っているのは自分だけだということや、ロージャにはすこぶる手ごわい敵が多勢いるので、身を隠すようなこともしなければならないのだといったようなことをほのめかしてみせるのだった。息子の将来の出世については、彼女も、いくつかの不愉快な事情さえ消えてなくなれば、疑いなく輝かしいものになるようなつもりでいた。そして、ラズーミヒンに、自分の息子はやがてそのうち国家的な人物にすらなるにちがいない、その論文とすばらしい文才がその証拠だなどと断言したりしていた。その論文を彼女はひっきりなしに読みかえし、ときには声まで出して朗読し、夜はそれこそ抱いて寝ないばかりだった。が、それでいながら、ロージャは今いったいどこにいるのかということについては、どうも二人とも話すことを避けていて、――それだけでもすでに彼女に疑いを呼び起こすはずなのに、ほとんど聞こうともしなかった。ついには、彼らも、プリヘーリヤがある点になるとこんなふうに不思議にも口をつぐんで語りたがらないことを心配しはじめた。たとえば、以前田舎町に暮らしていた時分は、かわいいロージャから早く手紙が来ないかと、そればかりを希望に、それだけを待って生きていたのに、今では息子から手紙が来ないことをこぼしもしないのである。これはどうにも説明のつかないことだったので、ドゥーニャはひどく不安を覚えた。母は、事によると、息子の運命にかんしてなにか恐ろしいことを予感しているので、もっと恐ろしいことを聞かされはしないだろうかと思い、いろいろ聞きただすことを恐れているのではあるまいかという考えが彼女の頭に浮かんだ。いずれにしても、プリヘーリヤの判断力が健全な状態にないことはドゥーニャにもはっきりとわかっていた。
それでも二度ばかり、プリヘーリヤのほうから、ロージャが今どこにいるのか、それを口にのぼさずには彼女に返事ができないように話を持っていったことがあった。そして、その返事が自然彼女にとって不満な、怪しいものにならざるを得なかったので、彼女は急にひどく悲しげで憂鬱そうな顔つきになり、口数も少なくなって、そういう状態が非常に長くつづいた。ドゥーニャも、しまいには、嘘をついたり作り話を考え出したりすることはむずかしいと見てとり、結局、ある点にかんしてはまったく沈黙をとおしたほうがいいという結論に達した。しかし、あわれな母親がなにか恐ろしいことになっているのではないかと疑っているということは、ますますはっきりしすぎるくらいはっきりしてきた。ドゥーニャは特に、例の最後の運命を決する日の前夜、スヴィドリガイロフと自分とのひと幕があったあとで、母親が娘のうわ言を聞いたらしいという兄の言葉を思い出した。母はあのときなにか聞きとったことでもあるのではあるまいか? 病人がしばしば、ときには幾日も、ときによると何週間にもわたって気むずかしい暗い顔をして黙りこくって、なにも言わずにさめざめと涙を流していたかと思うと、どうしたわけかヒステリックに元気づいて、自分の息子や自分の希望や将来について、急に大声で、ほとんど口もつぐまずにしゃべりはじめることがあった……そして、彼女の幻想はときにはすこぶるもって奇怪なものになることがあった。そんなときは、二人は彼女を慰めたり、相づちをうってやったりするのだが(相づちなどうってただ慰めてくれているにすぎないのだということぐらい、彼女自身にもはっきりわかっていたのかもしれないが)、彼女はやっぱりしゃべりつづけるのだった……
犯人が自首してから五ヵ月たった頃、宣告がおりた。ラズーミヒンはできるかぎり頻繁に獄内で面会をするようにしていた。ソーニャも同様だった。とうとう別離のときが来た。ドゥーニャは兄に、この別離もそんなに長いことではないと誓った。ラズーミヒンも誓った。ラズーミヒンの若々しい熱しやすい頭には、これから三、四年の間に、できるだけ、せめて将来の地位の基礎なりと築き、いくらかでも金を貯めて、あらゆる点で土地がゆたかなのに働き手や人間や資本の足りないシベリヤへ移住し、ロージャの行くその町に住みついて、……いっしょに新生活を始めようという計画がしっかりと固められていたのである。別れるときは、みんな泣いた。ラスコーリニコフはその最後の数日間はひどく物思いがちになり、いろいろと母親のことを尋ね、絶えず母親のことで気をもんでいた。兄が母親のことであまりにも悶々と悩んでいるのに、ドゥーニャは不安を覚えたくらいだった。母親の病状の詳細がわかると、彼はひどく暗い顔になった。ソーニャとは彼はずうっとなぜか特に口をきかなかった。ソーニャはスヴィドリガイロフが残していってくれた金の助けをかりて、もうだいぶ前から、ラスコーリニコフもいっしょに送られる囚人隊について行く心づもりをし、その用意をしていた。そのことについては彼女とラスコーリニコフの間でまだ一度もひと言も口にのぼされたことはなかった。が、しかし両人とも、そういうことになるだろうということは承知していた。いよいよ最後の別れというときに、妹とラズーミヒンがいっしょになって、彼の出所後の将来の幸福な生活については請けあうと熱弁をふるったのにたいして、彼は妙な笑いを浮かべただけで、それと同時に、おふくろの病的状態は間もなく不幸な結末をとげるだろうと予言した。彼とソーニャは、ついに発っていった。
それからふた月もした頃、ドゥーニャはラズーミヒンと結婚した。結婚式はひっそりした、わびしいものだった。それでも、招待客のなかにはポルフィーリイとゾシーモフもいた。ここずうっとラズーミヒンは固く決意するところある人間といった顔つきをしていた。ドゥーニャは、この男なら自分の計画という計画はぜんぶなしとげるものと盲目的に信じていたし、それに信じないではいられなかった。彼には鉄のような意思が見られたからである。一方、彼は全課程を終了するために復学して大学の講義を聞きはじめた。二人は始終将来の計画を立て、五年したら必ずシベリヤへ移住しようと固く決意していた。そして、それまではむこうにいるソーニャに期待をかけることにした……
プリヘーリヤは喜んで娘にラズーミヒンとの結婚を祝福してやった。が、しかし結婚後、彼女はいっそう悲しげな心配そうな顔をするようになった。ラズーミヒンは、彼女をちょっとの間でも喜ばしてやろうと思って、話のついでに、例の大学生とその老父の話や、ロージャが去年二人の幼児を死から救ってやって、自分はやけどをし、病気までした話をしてやった。この二つの情報は、ただでさえ頭の調子がおかしくなっていたプリヘーリヤをほとんど有頂天にしてしまった。彼女はひっきりなしにその話をし、往来でさえ(ドゥーニャが絶えず彼女につきそって歩いていたのであるが)話をきり出すのだった。乗りあい馬車のなかでも、店先でも、だれか聞き手をつかまえては、話を自分の息子とその論文に持っていって、息子が学生を助けてやった話や、火事でやけどをした話を語り出すので、ドゥーニャはそれをどうやって引きとめたものか、わからないくらいだった。そうした有頂天な病的な気分が危険であることは別としても、だれか、この前あった裁判事件のことでラスコーリニコフの苗字を思い出してその話を持ち出す者がいはしないかということだけでも、彼女には気苦労だった。プリヘーリヤは、火事から救出された幼児の母親の住所まで聞きこんできて、ぜひともそこへ行ってくるつもりになっていた。しまいには、彼女の不安な気持ちが極限にまで達して、ときおり急に泣き出したり、たびたび病気をしたり、熱に浮かされたりした。ある日の朝早く、彼女はいきなり、自分の計算では、ロージャはもうすぐ帰って来るはずだ、自分は、ロージャが自分に暇乞いに来たとき、九ヵ月したら帰るからそのつもりでいてくれといって言ったことを覚えているなどと言い出した。そして、部屋のなかをすっかり片づけて再会の準備をし、息子用に割りあてた部屋(自分自身の部屋)の飾りつけをしたり、家具を磨いたり拭いたり、新しいカーテンをかけたりなどしはじめた。ドゥーニャは心配でならなかったが、なにも言わずに、兄を迎えるための部屋の模様がえを手伝ってやったりまでした。こうして母親は絶え間ない幻想と喜びに満ちた夢と涙のうちに不安な一日をすごしたその夜、急に発病したかと思うと、その朝方はもう熱にうかされて、うわ言の言いどおしだった。こうして熱病が始まり、二週間後には息を引きとった。熱に浮かされて彼女はいろんなことを口走っていたが、それから結論できたところでは、彼女は想像していたよりもずっと息子の恐ろしい運命に疑いをいだいていたらしかった。
ペテルブルクとの通信の道はすでにシベリヤに住むようになった当初からついていたにもかかわらず、ラスコーリニコフは母親の死については長いこと知らなかった。その通信はソーニャを通じておこなわれ、ソーニャはラズーミヒンにあててペテルブルクへきちんきちんと毎月手紙を出し、ちゃんと毎月ペテルブルクから返事を受けとっていた。ソーニャの手紙は初めのうちドゥーニャとラズーミヒンにはなんとなくそっけなくて物足りない感じがしたが、しまいには、それ以上うまく書くことはできないのだということがわかってきた。それというのも、そういう手紙からでも、けっこうあわれな兄の運命についてこの上なく充実した正確な描写に接することができたからである。ソーニャの手紙はごくありふれた日常生活とラスコーリニコフの監獄生活の状況ぜんたいのすこぶる簡単明瞭な叙述に満ちていて、そこには彼女自身の希望の開陳も、将来にかんする推測も、自分の感情の表白も見られなかった。彼の精神状態や彼の内的生活全般を解明しようという試みのかわりに、事実だけが、つまり彼の言葉や彼の健康状態のくわしい情報だけが、彼がいつの面会のときにどういう希望を言っていたかとか、自分になにを尋ねたかとか、なにを頼んだかといったようなことばかり書きつらねてあった。そういった情報がぜんぶ実にくわしく伝えられていたのである。そのためしまいには不幸な兄のおもかげがおのずと浮かびあがり、正確に、はっきりと描き出されて来るのだった。そこにはまちがいもあろうはずはなかった、なぜならひとつ残らず正確な事実だったからである。
しかし、とりわけ初めのうちは、ドゥーニャと夫はそうした知らせからはあまり嬉しい事実は引き出せなかった。ソーニャが絶えず知らせてきていたところでは、彼はいつも不機嫌で、口をききたがらず、彼女が手紙を受けとるたびにそのつどその情報をつたえても、それにたいしてほとんどと言っていいくらい興味を示さず、ときおり母のことを聞くので、彼女が彼ももう真相に気づいているだろうと思って、とうとう、母が亡くなったことを彼に教えたときも、彼女の驚いたことには、母親の訃報《ふほう》すら彼に大してつよい衝撃を与えたふうもなかった、少なくとも外見はそう見えたとのことだった。彼女がついでに伝えてきたところによると、彼は、見たところ、まったく自分のなかに沈潜し、みんなを避けて閉じこもってしまっているようでありながら、――自分の新しい生活にたいしてはきわめて率直かつあっさりした態度で臨んでいる、そして自分の今の立場をはっきり理解して、近い将来になにかもっとよいことがあるだろうなどとはまったく期待せず、軽はずみな希望もいっさい持たず(これは彼の立場としては当然なことだが)、以前の環境に似たところのいたって少ない新しい環境のなかにありながらほとんどなににたいしても驚くふうはなかった。彼女の報告によれば、彼の健康状態は満足すべきものだとのことだった。彼は労役にも出ていたが、それを別にいやがりもせず、かといって自分のほうから進んでやりたがるというふうでもなかった。食べものにたいしてはほとんど無関心だったが、その食べものたるや、日曜祭日を除けば、あまりにもひどいものだったので、とうとう自分から進んでソーニャから金をもらって、毎日自分のところでお茶を飲むことにした。そのほかのことについてはいっさい彼女に心配しないようにと頼み、自分のことでいろいろ気をつかわれるとかえって腹が立つばかりだからときっぱり言って聞かせたとのことだった。さらにソーニャが知らせて来たところでは、監獄内の彼の居室はみんなといっしょの雑居房で、獄屋のなかは彼女も見たことはないが、そこは窮屈で、汚く散らかっていて不健康にちがいないときめてしまっていた。彼は板寝床の上に毛布を敷いて寝ていたが、ほかになにひとつ自分のためにしつらえようとはしなかった。とはいっても、彼がそんなふうに粗略な貧しい生活をしていたのは、なにかあらかじめ立てた計画や意図があっての上のことでは全然なく、ただ単に自分の運命にたいする無頓着さと表面的な無関心から来ているのである。ソーニャが率直に書いてよこしたところによると、彼は、わけても初めのうちは、彼女の訪問に関心を示さなかったばかりか、彼女にほとんどいまいましそうな顔をしてみせ、口もろくにきかず、彼女にたいしてつっけんどんな態度さえ見せていたが、しまいにはそういった面会が彼の習慣というよりもむしろ欲求のようなものに変わり、そんなわけで、彼女が数日患って訪ねていってやれなかったときなど、非常にさびしがるくらいになったと言う。彼女と彼の面会は祭日ごとに監獄の門のそばか衛兵詰所で、そこへ数分間ということで彼を呼び出してもらってするのだった。また、平日には労役に出ているので、彼女がそこへ彼を訪ねるようにして、でなければ仕事場とか煉瓦工場とか、イルトゥイシ河の岸辺の小屋などで会うことにしていた。自分のことではソーニャは、町に何人か知りあいやひいきにしてくれる人ができ、自分は縫いものの仕事をしているが、町には婦人物をあつかう店がほとんどないところから、どこの家でも今はなくてはならぬ存在になったということなども知らせてきた。ただ、彼女のおかげでラスコーリニコフまでが長官の庇護《ひご》を受けて、労役も軽減されたことなどには触れていなかった。最後に来た知らせでは(ドゥーニャは最後の何通かの手紙にはいくぶん特別の不安と動揺が見られるのに気づいたほどだった)、彼はこの頃みんなから孤立して暮らしているため、監獄内で徒刑囚たちから好かれなくなり、何日もぶっとおしに黙りこくっていて、顔色も非常に悪くなってきているということだった。そして、最後の手紙でソーニャは突然、彼がひどい重病にかかって、病院の囚人病棟にはいっていると書いてよこした……
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彼はもうだいぶ前から体のぐあいが悪かった。だが、彼を弱らせたのは、徒刑生活の恐怖でもなければ、労役でも、食べものでも、そり落とされた頭でも、ぼろぼろの獄衣でもなかった!いや! 彼にはそのくらいの苦労や苛責などなんでもなかったのだ! それどころか、彼は労役を喜んでいたくらいだった。労役で体がへとへとに疲れれば、少なくとも何時間かの安眠は得られたからである。食べ物も――あの油虫のはいった実のない汁にしても、彼にはなんでもなかった! 学生だった頃の以前の暮らしではそんなものさえ口にはいらなかったこともしばしばだったのだ。獄衣はあたたかくて彼の生活様式に合っていたし、足かせなど、つけていることすら感じないくらいだった。それなら、そり落とした頭や半分色のちがった上着がきまり悪かったのだろうか? しかし、だれにたいして? ソーニャにたいしてか? ソーニャは彼にはびくびくしていたくらいだから、彼女にたいして恥ずかしく思うこともなかったはずである。
では、いったいなんだろう? 彼はソーニャにさえ羞恥《しゅうち》を感じ、そのために彼女を軽蔑的に乱暴にあつかって苦しめていたのだが、彼が恥ずかしがっていたのはそり落とした頭でもなければ足かせでもなかった。彼は誇りを傷つけられていて、病気になったのもその傷つけられた誇りのためだったのである。ああ、彼は自分で自分は罪人であると認めることができたら、どんなに幸福だったろう! そうだったら彼は羞恥の気持ちであれ、屈辱であれなんでも忍べたにちがいない。ところが、彼は厳重に自己批判してみても、残酷な良心に照らしてみても、自分の過去になんら特別恐ろしい罪など発見できず、発見できたのはただだれにでもありがちな失敗《ヽヽ》だけだったのである。彼が恥じていたのはほかでもない、彼ラスコーリニコフともあろう者がかくも目も耳もふさがれたままで、あえなくも、盲目的な運命の宣告に従って愚かしい身の滅し方をし、少しでも自分の気持ちを落ちつけようと思えば、えたいの知れない『無意味な』宣告の前に屈従し屈伏しなければならないという事実なのだった。
現在においては対象も目的もない不安、未来においてはなにひとつもたらさない絶え間ない犠牲、――これがこの世で彼を待ち受けているものなのだ。あと八年たったところでまだやっと三十二歳だからまだまだ新規まきなおしの生活もできるといったところで、そんなことになんの意味があるだろうか! 自分はなにを目的に生きていったらいいのだろう? なにを目標に? なににむかって邁進したらいいのか? ただ存在するために生きるべきだというのか?ところが、自分は前には思想のためなら、希望を実現するためなら、たとえそれが幻想にすぎなかろうと、自分の存在を千度でも犠牲に供する覚悟だった。単なる生存というだけでは彼にはいつも物足りなかったのだ。彼が望んでいたのはつねにもっと大きなものだったのである。事によると、この自分の旺盛な欲求の力があったればこそ、彼はあの頃自分を、他人よりも多くのものが許される人間であると思ったのかもしれない。
だから、たとえ彼が悔恨を――心が痛み、眠れもしないほどの焼けつくような悔恨を、その恐ろしい苦しみに首つりの繩や深淵を目に浮かべるような悔恨をなめる運命になったとしても、ああ、彼はそれをむしろ喜んだにちがいない!苦しみや涙も――これまた人生ではないか。が、しかし彼は自分の犯罪を後悔してはいなかったのである。
少なくとも彼は、自分を監獄にまではいらせることになった自分の醜い愚劣きわまる行動にたいしてかつて腹を立てたことがあったように、自分の愚かさ加減に腹を立ててもよかったはずである。ところが、今やすでに監獄にはいって|自由な立場に立って《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》自分の以前の行動を再検討し熟考してみても、あの行動が、以前、運命が決せられようとする頃に自分が思っていたほど愚劣で醜悪な行動のようにはまったく思えなかったのである。
『いったいどこが、どんな点で』と彼は考えた。『おれの思想が、この世が始まって以来群がり起こり衝突しあっているほかの思想や理論よりも愚劣だったというのだろう? あの問題を、まったく縛られない、月並みな影響から脱した見方でちょっと観察しさえすれば、むろん、おれの思想はそれほど……変な思想には見えないはずだ。おお、五コペイカ銀貨ほどの値打ちしかない否定論者や賢人どもよ、なぜ君たちは中途半端なところで立ちどまっているのだ!』
『おれの行動のいったいどういう点がやつらには醜悪に見えるのだろう?』と彼は自分に言うのだった。『それが悪事だからと言うのか? 悪事とはいったいどういう意味なのだ? 今おれの良心は安らかだ。むろん、刑法的犯罪は犯した。もちろん、法律の条文を踏みにじり、血も流した、が、それなら法律の条文に照らしておれの首をはねれば……それで十分ではないか! だとすれば、むろん、権力を受けついだのではなくて自分の力で奪った大多数の人類の恩人でさえ最初に第一歩を踏み出したときに処刑されなければならなかったはずではないか。だが、あの連中は最後まで歩みとおした、だから|彼らは正しい《ヽヽヽヽヽヽ》のだ、ところがおれは歩みとおせなかった、だから、おれにはその一歩を踏み出す権利がなかったわけなのだ』
この点にしか彼は自分の罪悪を認めていなかったのである。それをおしとおせずに自首してしまったという点にしか認めていなかったのだ。
彼はまたこういう考えにも悩んでいた。それは、なぜおれはあのとき自殺しなかったのだろう? なぜおれはあのとき川を見おろして立ちながら、自首のほうを選んだのだろう? この生きたいという欲望にはそれほどの力がひそんでおり、その欲望にうち勝つことはそんなにむずかしいことなのだろうか? 死を恐れていたスヴィドリガイロフでさえうち勝ったではないか? という考えである。
彼は苦しみもだえながら自分にそう問いかけてはいたが、すでに川を見おろして立ったときから、あるいは自分と自分の信念に大きな嘘があると予感していたのかもしれないということはわかっていなかったし、その予感こそ自分の人生における来るべき転換の、来るべき更生の、将来の新しい人生観を予告するものであるかもしれないということもわかっていなかったのである。
彼はこの場合むしろ本能の鈍い重圧感だけを認めようとしていた、というのはその本能を断ちきることもできなかったし、それを踏みこえることもやはりできなかった(自分が弱くてつまらない人間であるために)からである。彼は仲間の囚人たちを見て、彼らもみなやはり生活を愛し生活を貴重なものと見ているのに驚異の目を見張った! つまり、彼には、獄中にある者は自由の身であった頃よりもいっそう生活を愛し、その価値を認め、大事にしているように見えたのである。彼らのうちのある者、たとえば脱獄囚などはどんな恐ろしい苦しみや拷問《ごうもん》にも耐えしのんでいた! なんということもないたったひと筋の日光、密林、どこか、人の知らない奥地にある泉などが彼らにとってどれほどの意味を持ち得るかと思うほどなのに、彼らはその泉にすでに三年も前から目をつけていて、それとのめぐりあいをまるで恋人との逢う瀬のように夢見たり、その泉や、そのまわりの青草や茂みのなかで歌っている小鳥などを夢にまで見るのだ。なおも周囲に目をこらすうちに、彼はもっともっと説明のつかない実例に気づいた。
獄中で、自分を取りまく環境のなかにあって、彼にはまだまだいろいろ気がつかないところがあったことは言うまでもない。それに、彼はまるでそれに気がつこうともしなかった。彼は、いわば目をふせるようにして暮らしていた。正視するのがいやでたまらず、それに耐え得なかったのである。しかし、しまいにはその彼もいろんなことに驚異の目を見はり、なんということもなく自然に、前にはそんなことがあるとは夢にも思わなかったことにも気がつきはじめた。一般的に言って、彼がいちばん驚いたのは、自分とこうした連中との間に横たわっていた恐ろしい、越えることのできない深淵であった。まるで、自分と彼らとは民族がちがうような感じなのである。彼と彼らとはたがいに相手を不信と敵意をこめた目で見ていた。彼はこうした隔絶の一般的な原因は知ってもいたし、わかってもいたが、以前だったら、こうした原因が実際にこれほど根深くも強力なものであるとは絶対に認められなかったにちがいない。監獄にはポーランド人の国事犯の徒刑囚もいたが、この連中は彼らを無知な人間、奴隷と見て、上から見下していた。が、しかしラスコーリニコフにはそういう見方はできなかった。彼には、そういう無知な連中には多くの点でそうしたポーランド人よりずっと賢いことがはっきりとわかっていたのである。ここにはさらにロシヤ人で、同様その連中を極端に軽蔑している者もいた、――一人の元将校と二人の神学生である。が、ラスコーリニコフは彼らの誤解にもはっきりと気がついていた。
ところが、その彼がみんなから好かれず、みんなは彼を避けるようにしていたのである。それどころか、みんなはしまいには彼を憎みはじめた――それはなぜだろう? 彼にはそれがわからなかった。みんなは彼を軽蔑し、彼をあざ笑い、彼の犯罪を嘲笑していたが、そのくせその連中のほうが彼よりずっと重い罪を犯していたのである。
「てめえは貴族の旦那じゃねえか!」とみんなは彼にむかって言い言いした。「てめえなんか斧など持って歩くがらかよ。そんなことは旦那衆のやることじゃねえや」
大斎期の第二週に、おなじ監房の者といっしょに精進をする番がまわってきた。彼はみんなといっしょに教会へ祈祷にかよった。と、あるとき、彼は自分にもなにが原因なのかわからなかったが、――口げんかが始まりみんなはかんかんに怒っていっせいに彼に襲いかかってきた。
「てめえは不信心者じゃねえか! てめえは神さまを信じていねえんじゃねえか!」と、みんなは彼にむかってわめきたてた。「てめえをばらしちまわなきゃ」
彼はこれまでに一度も彼らと神や信仰の話をしたことはなかったのに、彼らは彼を不信心者だと言って殺してしまおうというのである。彼は口をつぐんで、言葉を返さなかった。ひとりの囚人はすっかり気ちがいのようになって彼に飛びかかって来そうにした。ラスコーリニコフはおだやかに無言でそれを待った。彼は眉ひとつ動かすでもなければ、顔の筋肉一本震わすでもなかった。ちょうどそのとき折よく護送兵が彼とその人殺しの間に割ってはいってくれた――でなかったら、血を見たことは明らかだった。
彼にはもうひとつ解けない疑問があった。それは、どうしてみんなはあんなにソーニャが好きになってしまったのだろうという疑問であった。彼女は彼らの機嫌をとるわけでもなかったし、それに彼らのほうも彼女にはごくたまに、作業場で出会うだけで、それもちょっとだけラスコーリニコフに会いに来るときぐらいのものだった。それなのに、みんなは早くも彼女を知っていたし、彼女が彼のあとを追って来たのだということも、彼女がどこで、どういうふうに暮らしているかということも知っていた。ところが、彼女は別に彼らに金を恵むこともしなければ、特に彼らにつくしてやることもなかったのだ。ただ一度、クリスマスのときに、監獄じゅうの者に施し物としてピロシキと丸パンを持ってきてやったことがあった。こんなふうだったのに、彼らとソーニャとの間には少しずつ前よりも親密な関係がむすばれてきた。彼女は彼らに身内の者への手紙を代筆してそれを郵便で出してやっていた。また、町へやって来る身内の男や女は、彼らの指示に従って、彼らに渡すべき品物や金までもソーニャに預けていくのだった。彼らの妻や恋人たちは彼女を知っていて、よく彼女のところへやって来た。それに、彼女がラスコーリニコフのところへ来て、作業場に姿を見せたり、作業場へ出かける囚人の一隊と出会ったりすると、――みんなは帽子をぬいで、おじぎをし、その荒くれの刻印をおされた囚人たちがこの小柄でやせこけた女に、『おっかさんのソフィヤさん、あんたはおれたちのおっかさんだ、やさしい、思いやりのあるおっかさんだよ!』などと言う。すると、彼女も彼らに笑顔で答えてやるのだった。彼らは彼女の歩きっぷりまで大好きで、彼女が歩いていくうしろ姿をふり返って見てはほめそやし、彼女が大変小柄な女であることまでほめて、しまいにはほめる種もつきてしまうくらいだった。また、彼女のところへ病気の治療をしてもらいにいく者までいた。
ラスコーリニコフは大斎期の末と復活祭の週いっぱい病院に入院していた。すでに病気も回復しかけた頃、彼は、まだ熱が出てうなされていた間に見た夢を思い出した。彼が病気中に見た夢というのはこういうものだった。全世界が、アジアの奥地からヨーロッパへと蔓延《まんえん》してきたある恐ろしい、これまで聞いたことも見たこともないような疫病の犠牲になることとなり、何人かのごく少数の選ばれた者をのぞいては、人類はぜんぶ、亡びなければならなくなった。ある新しい旋毛虫が、人体に寄生する微生物が出現したのである。ところが、この生物は知能と意志をそなえた精霊なのだ。そして、これに感染した人間はたちまち興奮して発狂するのである。ところが、人類は、いまだかつて、それに感染した人たちほどに自分を賢くて真理にたいする信念の点で揺ぎないと思ったことはなかったし、またこのときほど自分たちの宣伝や学問的結論や自分たちの道徳的信念や信仰ほど確乎不動だと思ったこともなかった。村という村、町という町、民族という民族がことごとくこれに感染して、気が狂っていった。だれもが不安におののき、たがいに相手を理解せず、だれもがめいめい、真理は自分にしかないと思い、他人を見ては悩みを覚え、われとわが胸をたたいて、手をもみしだきながら歎き悲しむのだった。そして、だれをどう裁くべきかを知らず、なにを善とし、なにを悪とするかということで意見の一致を見ることもなかった。また、だれを有罪とし、だれを無罪とするかもわからなかった。人間どもはなにか意味のない憎悪からたがいに殺しあった。たがいに相手を攻撃するために全軍をあげて集結したが、軍隊はすでに行軍の途中から突如仲間同士で虐殺を開始し、隊伍は乱れて四分五裂し、兵士たちはたがいに相手に飛びかかって、たがいに突く、斬る、かむ、かじるといったありさま。町という町では終日警鐘を乱打して、全市民を集めようとするのだが、だれがなんのために呼び集めているのか、だれにもわからず、みな不安におののくばかりだった。みんなはありふれた日常の仕事をほうり出してしまった、というのは、だれもがめいめい自分の意見や改善案を持ち出して、意見が一致しないからである。こうして畑仕事も中止されてしまった。人々はあちこちに駆け寄っていくつもの集団をつくって、いっしょに相談をしてなにかをきめ、離ればなれになるまいと誓うのだが、たちまち、たった今きめたこととはまったくちがったことをやり出し、たがいに相手を責めはじめ、取っ組みあいをし、斬りあいをする。火事が起こり、飢饉《ききん》が始まり、あらゆる人間、あらゆるものが滅亡に瀕してきた。疫病ははびこって、さきへさきへとひろがっていった。世界じゅうで助かった者はやっと数名を数えるにすぎなかった。これこそ、新しい人類を生み、新生活を開始し、地上を一新し浄化する使命をおびた清純な選ばれた人たちなのだが、どこにもひとりとしてその人たちを見た者もなければ、だれひとりその言葉、その声を聞いた者もなかった。
ラスコーリニコフは、この無意味な悪夢が自分の思い出にこんなに憂鬱な、こんなに苦しい反響を残し、この熱病による悪夢の印象がこれほど長く消えずに残っていることが苦しかった。復活祭の週がすんで早くもつぎの週にはいっていた。暖かい、よく晴れた春の日がつづいていた。囚人病棟の窓もあけられた(それは格子窓で、その下を哨兵《しょうへい》が歩いていた)。ソーニャは彼の病気中たった二回しか病院へ見舞いに来られなかった。そのつど許可を願い出なければならず、それが容易なことではなかったからである。それでも、彼女は病院の裏庭の窓のそばへは、特に夕方頃にたびたび、それもときには裏庭にほんのちょっとの間でも立って、せめて遠くからでも病棟の窓を眺めようと、出かけてきていた。ある日、夕方間近に、もうほとんど全快していたラスコーリニコフがひと寝入りして目をさますと、何気なく窓辺に近づいたひょうしに、ふと遠く、病院の門のあたりにソーニャの姿を認めた。彼女はたたずんで、なにかを待っているような様子だった。とたんに、彼はなにかに心臓をぐさりと刺されたような気持ちがした。そのあくる日、ソーニャは姿を見せず、三日めもやはり来なかった。彼は、そわそわしながら彼女を待っている自分に気がついた。やがて、彼は退院した。監獄へ帰ってから、彼は囚人たちの口から、ソーニャがわずらって、家に寝たままどこへも出ないでいることを知った。
彼はひどく心配になったので、人に行ってもらって様子を問いあわせてみた。そして間もなく彼は、彼女の病気が危険なものではないことを知った。ソーニャはソーニャで、彼が彼女のことをそんなに恋しがり、心配してくれていることを知ると、彼のところへ鉛筆で走り書きした短い手紙をよこして、彼に、もうずっとよくなっていることや、なんということもない、軽い風邪をひいただけだということや、もうじき、それこそもうじき作業場へ会いに行くといったようなことを知らせてきた。彼はその手紙を読んだとき、心臓が痛いくらい烈しく鼓動するのを覚えた。
きょうもまた晴れわたった暖かい日であった。早朝、六時頃に彼は河岸の作業場へ出かけていった。そこでは、小屋のなかに雪花石膏《アラバスター》を焼くかまがしつらえてあって、その石膏を粉にひいていたのである。そこへやられたのは、ぜんぶで三名の労役囚だった。囚人のひとりは看守につきそわれて、要塞へなにか道具をとりに行き、もうひとりの囚人は薪をこしらえてかまのなかに積みはじめた。ラスコーリニコフは小屋を出て岸のすぐ近くまで行き、小屋のそばに積んである丸太に腰をかけて、荒涼とした洋々たる河面を眺めはじめた。高い岸からはひろびろとした近辺の景色がくりひろげられていた。遠いむこうの岸からはやっと聞こえるくらいの歌声が流れて来る。あちら、陽光の降りそそぐ果てしない草原には遊牧民の天幕がかろうじて見わけられるくらいに点々と黒ずんで見えていた。そこには自由があり、こちらの人間とは似ても似つかぬ、ちがった人間が暮らしていて、そこでは時そのものも停止して、まるでアブラハムとその羊群の時代がまだ過ぎ去っていないかのように見えた。ラスコーリニコフは腰をかけたまま、目をはなさず、身じろぎひとつせずに眺めて、それから目をはなそうともしなかった。彼の思いは夢想へ、瞑想へと移っていった。彼はなにも考えていなかったが、なにかわびしい気持ちに心は波だち、悩むのだった。
そこへ不意に彼のかたわらにソーニャが姿を見せた。彼女はほとんど足音もたてずに近づいて来て、彼とならんで腰をおろした。時刻はまだ大変早く、早朝の冷気はまだやわらいでいなかった。彼女は例の見すぼらしい古びた外套を着、緑色のプラトークで頭をつつんでいた。顔はまだ病気の跡をとどめて、やつれて、顔色も悪く、ほおもこけていた。彼女は愛想よく嬉しそうに彼ににっこりしてみせたが、例によって、おずおずと彼に手をさしのべた。
彼女はいつも彼には手をおずおずとさし出すのだった。ときには、まるでその手を払いのけられはすまいかと恐れてでもいるように、まったくさし出さないこともあった。そして、男のほうはいつも、まるでいやでたまらないといった調子で女の手をとり、いつもまるで腹でもたてているような態度で彼女をむかえ、ときには彼女が来てくれている間じゅうずうっとかたくなに口をつぐんだままでいることもあった。ところが、このときは二人の手は離れなかった。男はちらりとすばやく女の顔を見やると、なんにもいわずに、目をふせてしまった。彼らは二人っきりで、だれひとり二人を見ている者はいなかった。看守はそのときむこうを向いていたのである。
どうしてそんなことになったのか、本人の彼にもわからなかったのだが、彼は出しぬけになにかにとらえられて彼女の足もとに投げ出されたようなふうだった。彼は泣きながら彼女のひざをだいていた。最初の瞬間、彼女はひどくびっくりして、顔は死人のように真っ青になってしまった。そして、その場から飛びあがって、ぶるぶる震えながら、相手に目をこらしていた。が、そのとたんにたちまちなにもかも了解した。彼女の目は限りない幸福感に輝いた。彼女にはわかったのだ、彼が愛してくれていることに、限りなく愛してくれていることに、そしてとうとうこの瞬間が来たことに、もうなんの疑問もなかった……
二人は口をきこうとしたが、きけなかった。二人の目には涙が浮かんでいた。二人とも、顔色は悪く、やせこけていた。だが、その病みほおけた青白い顔には新しくよみがえった未来の曙光が、新生活への完全な更生の曙光が輝いていた。二人を復活させたのは愛であり、二人の心はたがいに相手の心の、涸《か》れることを知らぬ生命の泉となったのである。
二人は辛抱して待とうと決心した。二人にはまだあと七年の年月が残されていた。それまでにその年月に応じた耐えられぬ苦しみと、それに応じた尽きることのない仕合わせがあるわけである! だが、彼はよみがえったのである、自分にもそれはわかっていた、完全に生まれかわった自分の全存在で感じていた。彼女のほうはといえば――これはもともとまさしく彼の生活だけを自分の生活として生きてきていたのだ!
その日の晩方、すでに獄舎に鍵がかけられてから、ラスコーリニコフは板寝床の上に横になって、彼女のことを考えていた。この日彼の目には、まるでこれまで自分の敵であった囚人ぜんぶがすでに自分をちがった目で見てくれているようにさえ見えた。彼は自分のほうから彼らに話しかけたくらいだった。すると、みんなも彼に愛想よく答えてくれた。彼は今そのことを思い出した。が、それはそうあるべきはずだったのだ。こうなった今、すべてが一変しないはずはあるまい。
彼は彼女のことを考えた。彼は、自分がどんなに彼女を苦しめ、彼女の心をさいなんだかを思い出した。彼女の青ざめてやせている小づくりの顔が思いうかんだが、今はそれらの思い出にもほとんど悩まされることはなかった。今では彼には自分の無限の愛情で彼女の苦しみを残らずつぐなってやれるということがわかっていたからである。
それに、こうしたすべての、|すべての《ヽヽヽヽ》過去の苦しみなど、なんのことがあろう! 今の、この最初の感激を知った彼の目には、すべてが、自分の犯罪すら、宣告や流刑までが、なにやらうわべだけの、奇怪な、まるで自分の身に起こったことでもないような事実に見えてくるのだった。だが、彼はこの晩は、長くつづけてなにかを考えたり、なにかに考えを集中したりできなかった。それに、今ではなにかを意識的に解決しようとしてもなにひとつ解決できなかったにちがいない。弁証法にかわって生活が訪れたのだ、だから当然意識のなかでなにかまったくちがったものができてくるはずだったのだ。
彼の枕べには福音書がおいてあった。彼はそれを機械的に取りあげた。その本は彼女のもので、彼女が彼にラザロの復活を読んでくれたあの本だった。流刑生活のはじめ頃彼は、きっと彼女は自分を宗教で悩ましたり、福音書の話をはじめたり、彼に宗教書をおしつけたりするものと思っていた。しかし、大変驚いたことには、彼女は一度もそんな話を持ち出したこともなければ、一度も彼に福音書を読むようにすすめたこともなかった。そして彼のほうから病気になる少し前に彼女にそれを持ってきてくれと頼むと、彼女は黙ってそれを彼に持ってきてくれるのだった。が、このときまで彼はそれをあけてみようともしなかった。
彼は今もそれを開かなかったが、彼の頭にある考えがひらめいた。それは、『今後彼女の信念が同時におれの信念でないはずはない。少なくとも、彼女の感情、彼女の志向くらいは……』という考えである。
ソーニャもやはりその日は一日じゅう興奮して、夜なかには病気がぶり返したくらいだった。しかし、彼女は幸福だった、幸福すぎて、自分の幸福にほとんどおびえんばかりだった。七年、七年ではないか! この幸福な気持ちになりたての頃、あの瞬間には、二人ともこの七年間を七日と見てもよいくらいの気持ちになっていた。彼は新生活なるものはけっして無償で手にはいるものではなくて、それをあがなうにはまだまだ高い代償を払い、その代価として今後大きな仕事をなしとげなければならないことさえ忘れてしまっていた……
だが、ここで早くも始まろうとしているのは新しい物語、ひとりの人間が次第に生まれかわっていく物語、ひとつの世界から他の世界へと次第に移行していくうちに、それまで全然知らなかった新たな現実を知っていく物語である。それはそれだけでも優に一編の新しい物語のテーマとなり得るだろう、――だが、われわれのこの物語はひとまずこれで終わるわけである。 (完)
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解説
ドストエフスキーの生涯
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは一八二一年十月三十日(新暦十一月十一日)にモスクワのマリインスカヤ貧民病院付属の官舎で生まれた。作家の幼時の環境が作品の基調に影響を与えるとすれば、彼の場合はまさにその好例といえるかもしれない。病院の殺風景な中庭、陰気な顔つきの貧しい病人の群れ、天井のひくい暗い部屋、元軍医で医長の、厳格で吝嗇《りんしょく》で、気むずかしくて怒りっぽい父親、その夫の前で始終おどおどしているおとなしい母親、都会の裏町の詩人として出発する文豪の幼時の環境は、そうしたじめじめした陰気くさいものであった。
それでも、教育熱心な父親からは母国語とラテン語を、私立中学校では独仏語を学び、とくに夜は毎晩のように親たちも加わって、スコット、クーパー、プーシキン、ジュコーフスキイらの作品の読み合いがおこなわれていたというから、幼少から文学的雰囲気には十分にひたっていたといってよい。とくに、早くから創作的試みや好きな作品の劇化をくわだてていたことは注目すべきである。
やがてしまり屋の父親がこつこつ金をためてトゥーラ県にささやかな土地を買ったため、母親と子供たちは毎夏をそのダロヴォエ村で過ごすことになった。こうしてドストエフスキーは生まれてはじめて自然に接し、百姓たちと交渉をもつことになったわけである。それがのちに『ステパンチコヴォ村とその住人』『百姓マレイ』など数少ない田園物の素材となる。
ドストエフスキーは一八三四年に十三歳で兄のミハイルといっしょにチェルマーク私立寄宿学校へはいり、そこで三年間学んだ後、三八年にペテルブルク陸軍工科学校に入学した。これは息子を近衛将校か工業技師に仕立てようという父親の意思に従ったのである。学校の厳格な規律と軍隊調の雰囲気にはなかなかなじめず、この時代の生活はあまり愉快なものではなかったらしい。同窓生たちは回想録のなかで彼を陰気くさい、人づきあいの悪い、孤独を好む青年として描いている。唯一の楽しみは、ひとり部屋に閉じこもって、プーシキン、ゴーゴリ、シラー、スコット、バルザック、ジョルジュ・サンド等に読みふけって、文学の世界に耽溺《たんでき》することであった。また、この頃彼はホフマン、ラドクリフ、シューら、西欧の空想的怪奇小説を盛んに読みあさった。これが彼の作品に幻想性や怪奇趣味の濃い影を落とすことになった。さらに、このごろ作劇に熱中したことも見のがせない。同級生のひとりは彼が自作の戯曲『マリア・スチュアート』や『ボリス・ゴドゥノーフ』を朗読してくれたことを追憶している。これらの戯曲は現存せず、それにその後ドストエフスキーは戯曲を手がけたことはなかったが、この経験は、彼の小説の劇的な構成や、シラーを思わせるような情熱的な長広舌(『罪と罰』などにも見られる)等、作風に歴然たる痕跡を残している。
この学校へはいる前の年に、母のマリヤは死亡し、その年父は退職してダロヴォエ村にひっこんで、酒に身をもちくずし、あげくのはてに百姓たちの手で殺されてしまった。原因は百姓たちを虐待したためともいわれ、小間使いに手を出したためとも言われている。この体験は最後の大作『カラマーゾフ兄弟』の父親殺しのテーマと無縁ではない。
一八四三年にどうにか工科学校を卒業すると、陸軍省工兵製図課に勤務することになったが、一時に自由を得たドストエフスキーはかなり放縦な生活に明け暮れ、晩年になるまで抜けなかった乱費癖を身につけ、質屋や高利貸しのやっかいにもなり、資本主義社会の裏表にも通じるようになった。資本主義社会の人間性のゆがみを描いて他に比類を見ないドストエフスキーに、こうした体験がむだではなかったことは言うまでもない。しかしこの間も、もちろん、彼は文学から遠ざかっていたわけではない。創作を試みたり、大きなプランを立てたりしていたのである。また、バルザックの『ウージェニー・グランデ』を訳したり、ジョルジュ・サンドの小説の翻訳を試みたりもしている。こうして文学の世界に沈潜《ちんせん》するうち、ついに勤めがどうにも辛抱しきれなくなり、文筆一本で立つつもりになって、翌一八四四年には辞職してしまった。こうしてパンと水で餓えをしのぎながら心血をそそいで書きあげたのが処女作『貧しき人々』である。
一八四五年五月のある朝早く、まだ無名の青年作家ドストエフスキーの部屋を訪れた二人の青年があった。グリゴローヴィチとネクラーソフである。ドストエフスキーが書きあげたばかりの『貧しき人々』を、工科学校の同窓の友ですでに文壇にデビューしていたグリゴローヴィチに読んで聞かせたところ、ひどく感動したこの親友が、ちょうど詩人でジャーナリストのネクラーソフが文集を出そうとして原稿を集めているのを知っていたところから、その晩ネクラーソフを訪れ、二人で読みだし、一晩かけて一気に読みあげてしまった。そして熱狂したネクラーソフが作者にぜひ会いたいといいだし、朝の四時だというのにグリゴローヴィチの案内でドストエフスキーの住まいを訪れたのである。二人は無名作家を抱擁し、前途を祝した。ネクラーソフはその足で原稿を持って大批評家ベリンスキイの家に駆けこんで、「あらたなゴーゴリ」の出現を知らせた。批評家は疑いながらも、相手があまりにもしつこくすすめるので読みだしたところ、第一ページからひきつけられ、一挙に読みとおしてしまい、これまた深い感激にとらえられてしまった。そしてそれから二、三日してネクラーソフが、いやがる作者をつれてベリンスキイを訪れると、批評家は作品と作者の才能を絶賛し、「ご自分の才能を大切にして、どこまでも才能に忠実でとおせば大作家になれます!」と予言した。ドストエフスキーは三十年後にこのときのことを「私の全生涯で一番うれしかった瞬間である」と述懐している。この中編小説は翌年一月にネクラーソフ監修の『ペテルブルク文集』に収録されて出、読書界にセンセイションを巻きおこした。これがドストエフスキーのはなやかなデビューの経緯である。
この成功は彼にそれまで知らなかったさまざまな経験をさせることになった。これが機縁でパナーエフ家の文学サロンに出入りして、美しい女主人のパナーエワに恋してみたり、ツルゲーネフら有名な作家たちと近づきになったり、新作発表の契約が結ばれたりした。だが、この突然の成功はこの経験の浅い病的なほど神経質な青年作家によい結果ばかりはもたらさなかった。成功に酔い、自信と自負心をかきたてられた彼は、サロンで客に議論をふっかけて作家仲間の顰蹙《ひんしゅく》を買い、意見の相違からベリンスキイとの関係までまずくし、雑誌社から前借りした金で賭博その他|放埓《ほうらつ》な生活にふけることにもなった。その上、『分身』『プロハルチン氏』等続いて発表した作品は批評家にも読者の間でも不評だった。
こうした新しい不愉快な事件にこづきまわされて神経病をわずらったドストエフスキーは、文学仲間から遠ざかって、一八四八年頃青年の思想団体に近づいていった。それはペトラシェーフスキイを首班とする、サン・シモン、カベー、フーリエ、オウエンらのユートピア社会主義を研究し、その思想を宣伝しようとする団体であった。ドストエフスキーはその会に出席して、キリスト教的社会主義者ラムネエの書いたものを批評したり、当時禁じられていたベリンスキイのゴーゴリへの手紙を朗読したりした。が、そうしたことは細大もらさず会に潜入していたスパイを通じて官憲に探知されていた。そして一八四九年四月、ついに三十九名の会員とともに逮捕されて、ペトロパーヴロフスク要塞監獄に入れられた。そして、つらい八ヵ月の独房生活ののち、会員たちは裁判にかけられ、罪状も明確にされないまま、ドストエフスキーをふくむ二十一名の会員が死刑の宣告を受けた。十二月下旬のある厳寒の朝、セミョーノフスキイ連隊の練兵場に引き出された囚人のうち、最初の三名が白衣と目隠しをされて柱の前に立たされた。横列に並んだ兵士が狙いをつけて、今まさに一斉射撃の火ぶたを切ろうとしていたところへ、皇帝の使者が馬で駈けつけ、減刑の達しが伝えられた。これはロシヤの皇帝が国事犯の処刑によく使う芝居だったのだが、それを知らぬ会員たちは死を覚悟していた。死刑執行の芝居の数分間に会員のひとりは発狂し、ひとりは真っ白の髪になったと言う。ドストエフスキーはのちにこのときの異常な体験を『白痴』のなかで、主人公のムィシキン公爵に、人から聞いた話として語らせている。こうしてドストエフスキーは政治犯としてシベリヤへ送られ、オムスク監獄で四年間苦しい徒刑生活を送り、その後五年間セミパラチンスクで軍務に服することになった。
鼻孔を引き裂かれた殺人犯や、額に烙印《らくいん》をおされた囚人たちの間で過ごした、監獄での言語に絶する苦しい生活については、首都帰還後発表した『死の家の記録』にくわしい。また、その生活の素描はこの『罪と罰』の「エピローグ」にも見られる。「エピローグ」に描かれたラスコーリニコフの獄中生活は大体作者自身の当時の生活の再現であったと見てよい。彼が囚人たちから不信心者とののしられてあぶなく殺されそうになったところを護送兵に救われたという挿話なども作者が自分の体験をそのまま写しとったものとされている。しかし、『死の家の記録』や書簡からもうかがえるように、この監獄生活で、どんな極悪な罪人の心にも美しい人間的な価値がひそんでいることを発見したことは、大きな収穫であった。だが、ドストエフスキーは苦しい獄中生活で神経を痛め、前からおきていた癲癇《てんかん》もひどくなった。変化は精神面にもあらわれた。ここでは、徒刑地へ来る途中で、流刑中の十二月党員《デカブリスト》の妻たちにあたたかく迎えられ慰められたとき贈られた新約聖書が唯一の読むことを許された書物であった。こうして牢を出たとき、彼はすでに思いあがった革命家などではなく、宗教に救いを見出す、謙譲を美徳とする、そして皇帝と国家秩序に忠実な人間に変貌していた。
四年の懲役の刑を終えたのち、彼はセミパラチンスクの守備隊に一兵卒として配属されて軍務に服し、やがて友人の尽力で将校に昇進し、かなり自由な生活を営むこともできるようになった。何人か友だちもでき、はじめて激しい恋も味わった。相手は、酒に身をもちくずした元税関吏を夫にもち、男の子まである、マリヤ・イサーエワという病身の女だった。文豪はのちに、この夫のイサーエフを『罪と罰』中に酔漢マルメラードフとして、マリヤをカテリーナとして描きとめることになる。ドストエフスキーはこのマリヤを狂おしいほど恋した。彼女の夫は間もなく死んだが、ドストエフスキーは結婚にこぎつけるのにもうひとつ困難を克服しなければならなかった。競争相手の若い教師があらわれたからである。ドストエフスキーはこのとき相手の男のためをはかったり、恋人の幸福のためにわが身を犠牲に供しようとしたり、彼の作品の主人公たちによく見られる自己犠牲的な役割を演じた。が、結局イサーエワが比較的生活力にまさるドストエフスキーのほうを選んだため、二人はクズネーツクで正式に結婚式をあげることになった。しかし、結婚後の生活は彼にそれほど喜びをもたらさなかった。間もなく妻が肺をわずらい、その看病もしなければならず、生活は経済的に窮迫を告げるようになったのである。それでも、一八五九年にはようやく作品発表の許可を得、翌年には『伯父の夢』と『ステパンチコヴォ村とその住人』を書きあげることができた。そしてその頃軍務を退いた彼は居所をトヴェーリに移し、年の瀬には、嘆願書を出してやっと居住を許されたペテルブルクへ帰ることができた。
上京したとき、首都は改革の期待にわきたっていた。革新的勢力として彼の流刑以前に活躍していた自由主義者たちにとって代わって中間層の雑階級のインテリゲンツィヤが登場し、その先頭をきってチェルヌイシェーフスキイやドブロリューボフが「現代人」に拠って活躍していた。またこれら社会主義的革命的民主主義者と並んで、いくぶん毛色のちがう唯物論を奉ずる批評家ピーサレフも「ロシヤの言葉」に拠って活躍を開始していた。それに、作家としては、『ルージン』『貴族の巣』『その前夜』等で文壇の中心となろうとしていたツルゲーネフと並んで、新星トルストイも『幼年時代』『少年時代』、戦記物等をひっさげて花々しくデビューしていた。
ドストエフスキーもそうしたロシヤ社会と文壇の活気に加えて首都へ帰還できた喜びが活動源となって、めざましい活躍を開始した。一八六一年に兄と協同で雑誌「時《ヴレーミヤ》」を創刊し、同誌に『虐げられた人々』と『死の家の記録』を連載しはじめたのである。その翌年には最初の外国旅行に出て、パリ、ロンドン、ジュネーヴ等をまわって見聞をひろめて帰国した。後に『賭博者』のポリーナや『白痴』のナスターシャ・フィリポヴナのモデルとなった、誇り高い奇矯な女アポリナーリヤ・スースロワと知り合ったのはこの年のことである。二十歳そこそこの美貌の娘が彼の講演を聞いて、この世紀の受難者に魅せられてしまったのがその発端《ほったん》だが、ドストエフスキーはこの娘の作品を自分の雑誌に載せてやったり文通をかさねたりするうち、彼の熱のほうがうわ廻ってきた。そして、彼はちょうどストラーホフの論文が当局ににらまれて雑誌が発行停止をくった苦しまぎれに、さきに国外旅行に出ていた彼女のあとを追って、パリで落ちあい、ドイツ、フランス、イタリアと旅行をして回った。彼が矢も楯もたまらず旅に出たのには、女にたいする気ちがいじみた情熱もさることながら、ヴィスバーデンで賭博をしてみたいという制しきれない気持ちもあったのである。このときの賭博の経験はやがて『賭博者』という作品を生むことになる。
ロシヤへ帰ってみると、妻は死にかけていた。そして一八六四年の四月にこの世を去った。不幸は相ついで彼を襲った。その二ヵ月後に兄のミハイルが多額の借財と家族を残して死んだため、その扶養もしなければならず、借金はふえる一方だった。経済的観念に乏しく、生活の処理のしかたを知らない文豪は、あまりの苦しさにステローフスキイという男と不当きわまる契約まで結んで金を借りてしまった。それは、一定の時期までに作品を一編書いて渡す、そしてそれが履行されなかった場合は、向こう九ヵ年にわたって彼が書く全著作をステローフスキイが無償で出版する権利を獲得するというのである。こうしてほうぼうから借りた金で彼はもう一度外国へ出、賭博を試み、スースロワとも会い、結婚も申しこんだが、承諾は得られなかった。そして、二人の関係は切れ、その上賭博で無一文になり、ツルゲーネフから借金したり、シベリヤ時代の親友から送金してもらったりして、やっとロシヤへ舞いもどることができた。
しかし、もちろん、文豪はただこの間もこうした無軌道な生活に終始していたわけではない。兄の死ぬ数ヵ月前には「時」誌にかわる新しい雑誌「時代《エポーハ》」を兄と協同で創刊し、傾向と作風の転換の里程標と考えられている『地下生活者の手記』を同誌に発表している。それに、作者がそれまでの仕事の総決算と見ていた『罪と罰』もヨーロッパを転々としている間に構想が練られ、部分的に書きつがれていた。しかし、首都へ帰ってから、彼は例の不当な契約の期限が迫っているのに気づき、途方にくれてしまった。が、偶然たずねてきた友人が貸してくれた知恵に救われた。友人が、腹案のできていた小説を口授して速記させることをすすめてくれたのである。こうして彼はアンナ・スニートキナという女速記者に『賭博者』を速記させることにした。この発案は二重の喜ばしい結果を生んだ。一つは、仕事が予定どおり進んで無事に完成して債鬼のわなから逃がれられたことであり、もう一つはその速記者に求婚して、一八六七年にめでたく結婚できたことである。
ドストエフスキーはこうして利口で誠実で経理の才に恵まれたこの二度目の妻のおかげで、平和な安定した晩年を送ることができるようになった。だが、アンナにとって幸福な生活はすぐには来なかった。結婚後、彼女がドストエフスキー家にはいって来たことを快く思わない先妻の連れ子のパーヴェルや亡兄の未亡人との不快ないざこざとか債権者の仮借ない督促の苦しみをのがれるため、二人はヨーロッパ旅行に出た。が、夫はドレスデンでは相変わらず賭博熱にとりつかれて、有り金をすって来る。妻が実家に無心して取り寄せた金もルーレットに持ち去られ、夫は妻の最後の持ち物であるブローチやイアリングを質に入れてこしらえて来た金まで使いはたして来る。やがてジュネーヴへ移ってから生まれた娘のソフィヤは生まれてから数ヵ月で死ぬ。二人は出版社や妻の肉親から送金してもらって、イタリアやドイツの各地を旅行してまわった。が、この間にも『罪と罰』が好評だったのに力を得たドストエフスキーは長編『白痴』と中編『永遠の夫』を外国滞在中に完成し、おりからロシヤ国内に起こったネチャーエフ事件から着想した『悪霊』の構想をひっさげて一八七一年七月に帰国した。四年と数ヵ月ぶりの帰国である。
一八七一―七二年に発表した『悪霊』は激しい論争を巻きおこしたが、わりあい好評だった。この『悪霊』をアンナは自費出版して利益をあげ、つぎつぎと夫の作品をこの方法で出版するようになってから、一家の財政状態は目に見えてよくなって来た。彼はさらに平穏無事な生活のうちに、一八七五年には『未成年』を書きあげ、八〇年には最後の大作『カラマーゾフ兄弟』を完成した。
『カラマーゾフ兄弟』がまだ発表中だった一八八〇年の夏、プーシキンの銅像の除幕式とその記念祭がモスクワで催された。その式典に際してドストエフスキーがおこなったプーシキンにかんする講演は大成功をおさめた。彼独特の情熱的な演説調でこの国民詩人の民族的意義と世界性を説いた講演は満堂の聴衆を熱狂させた。
それはしかし、生涯のフィナーレ前夜の出来事であった。それから数ヵ月後の一八八一年一月二十六日、文豪は肺動脈の出血を起こし、一時小康を得たものの、二日後の二十八日にふたたび血を吐き、妻に聖書の一節を読んでもらい、十年間の幸福な生活を送ったことを妻に感謝し、子供たちをその手に託して、夜の八時に息を引きとったのである。
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『罪と罰』について
『罪と罰』がロシヤ文学のなかで、また世界文学のなかでどんな位置を占めているかはだれ知らぬ者もないことで、ことさら無用な言葉をつらねるまでもなかろう。また、この作品がいかに非凡な驚嘆すべき作品であるかということも、一読してみればおのずとわかることである。読者の理解力の深浅にかかわりなく、あらゆる読者を震撼させずにはおかぬ激しい、底深い力を蔵した作品なのだ。
ドストエフスキーの作品は、どれをとってみても、読者をぐいぐい引きずっていくダイナミックな迫力に満ちていないものはないが、この『罪と罰』はとくにその迫真性と迫力においてすぐれている。この作品ではおだやかで悠長な叙述などにはまったく出くわすことなく、リズムは急ピッチで、筋の展開は意表をつき、場面はつぎつぎとめまぐるしくかわりながら、息つく暇も与えずに物語が進行していく。主筋は主人公の殺人の経緯とその結果にはちがいないが、この迫力はもちろん、いわゆる推理小説や探偵小説がもつような底の浅いところから来ているのではない。たしかに、この殺人というテーマの展開だけをとってみても、ドストエフスキーのたぐいまれな叙述力をうかがうことはできる。その犯罪心理描写の的確さと細緻さ、犯人の犯行から以後の行動の迫真性は真に驚くべきものではある。だが、この小説の構成はそんな単純なものではない。この主筋とからみ合いながらマルメラードフ家の解体の過程が進行し、主人公の妹ドゥーニャを中心とする、スヴィドリガイロフとルージンの金と恋を媒体とする葛藤《かっとう》、予審判事ポルフィーリイその他警察側を相手どっての主人公の心理的闘い、そして最後に主人公とソーニャとの一風変わった恋とそれに彼女の影響による彼の自白と、さまざまな人物、それも実にリアルに個性的に描きわけられた人物と事件がからまり合い、激突しあい、その複雑な展開のなかにも本題が見失われることなく、整然として運ばれていく。その大河の流れに、読者はただもう作者の意のままにその中に引きずりこまれ、押し流されるほかはないのである。これがたった十三日間の出来事を描いたものだと聞かされたら、だれしも二度びっくりしないわけにいかないだろう。ドストエフスキーの迫力の主要因は、このように集中的に示される劇的場面の連続と交替と、そこでときには長広舌で行なわれる人物たちの対蹠的な思想や激しい感情の激突にあるように思われる。
しかし、こうした壮大な構成と深みのある叙述を展開する方法を思いつくまでに、作者はずいぶんと苦心を重ねたのである。彼はこの作品の形式を発見するまでに三つの形式を考えてみた。ひとつは一人称による物語、つまり主人公による告白、もうひとつは作者による叙述という普通の方法、第三は混合形式(「物語が終わって日記が始まる」)である。第一の「内的独白」の方法は『ネートチカ・ネズワーノワ』、『虐げられた人々』、『地下生活者の手記』等でこれまでに幾度も試みたことのある手なれた叙述形式である。それは人間の内面世界を重視し、心理描写を作品の主要な課題とする作家にはうってつけの形式であるはずだ。ところが、作者は今度の作品では「あらゆる問題を掘りつくす」ことをめざした。あらゆる社会的矛盾と悲劇性から、異なる世界観の衝突、ロシヤ国民の運命等、ありとあらゆるものをほうりこんで、その解決を求めようとしていた。ところが、一人称的形式では語り手自身が登場しない場面を全部切り棄てなければならないとすれば、この形式ではぶちこもうと思うものを盛りきれないことになる。そこで作者は、いったん取り上げたこの方法を棄てて、書きかけた原稿を全部焼却してしまった。が、かといって作者は第二の形式(「普通の方法」)でも満足できなかった。この方法では叙述の緊迫性が欠けることを恐れたからにちがいない。
そこで彼は新しい叙述法を編み出した。それは、彼が「もうひとつのプラン。目には見えないが全知全能の作者による物語で、しかも彼ラスコーリニコフを一瞬たりとも手放さないといった叙述法」とメモした方法である。この叙述形式による場合は、事件の進行と主人公の行動や思考がつねに読者の視野のなかにあり、事件の集中性と統一性と緊迫性が得られる道理である。ただひとつこの原則に例外があった。それはスヴィドリガイロフの挿話の一部で主人公がまったく姿を消してしまう点で、これは盛りこもうとした問題の範囲を広げるためにあとから付加的に変更されたものと推測される。少なくとも、カトコフにその雑誌「ロシヤ報知」への連載を申しこんだ頃そのとき書き送った梗概から察して、スヴィドリガイロフ個人の行く末にまつわる物語は念頭になかったのではないかと思われるのである。
ドストエフスキーはこの『罪と罰』でなにを描き示そうとしたのか? これについてはこの作品の発表当初から多くの批評家や研究家からさまざまな意見が出されていて、いまだに論議しつくされてはいない。
ロシヤ社会は農奴解放令がしかれた一八六一年前後から新しい時代へと突入した。社会は一大変動を経験し、経済界は次第に経済恐慌的様相をおび、貧富の差はまし、零落する者の数はふえる一方であった。こうした社会状況はこの作品でも冒頭から随所に描き出されている。またそうした社会に犯罪が横行しないわけはなく、とくにめだって知識階級の犯罪が増加していたことは、ルージンがラスコーリニコフを初めて訪れたときの会話からもうかがえる。実際に、ドストエフスキーがこの『罪と罰』を印刷に付している最中に、このラスコーリニコフの質屋殺しとまったくおなじような事件が発生して、作者自身驚きもし、自分の洞察力を誇ったという事実さえある。しかし、ラスコーリニコフの場合、その犯罪の動機には物質的窮迫以外に、それを母胎とする理論がある。例の、ナポレオンと虱《しらみ》の理論である。この理論を練りはじめたときから、主人公は観念の世界に足を踏み入れたわけである。それはたしかにある意味のニヒリズムである。この作品が完結した直後の一八六七年初頭に作者の最も親しい協力者であったストラーホフが「祖国の記録」に『わが国の文学』という論文を発表し、そのなかで「『罪と罰』には不幸なニヒリスト、人間的に深く苦悩するニヒリストが描かれているが、これはわが国では初めてのことである……。作者はニヒリズムを、それ以上進みようのない、発展のぎりぎりの限界点でとり上げている……」と指摘し、筆者自身が後に回想記で証言したところでは、ドストエフスキーはこの論文の読後彼にむかって「私を理解してくれたのはあなただけです」と言ったという。
ロシヤの六〇年代は、社会の変動につれて新しい人間が出現し、新しい思想と感情が生まれた時代である。雑階級のインテリゲンツィヤが唯物論をひっさげて登場した時代、あらゆる過去の遺産を否定して芸術の上に有用性をおいたバザーロフの時代である。それは、一言にして尽くせば、「社会主義とニヒリズムの時代」であった。その先頭をきったのがチェルヌイシェーフスキイ、ドブロリューボフ、ピーサレフらだが、彼らの理論をゆがめて解釈したり俗悪化したりする青年男女の輩出した時代であった。この作品でもレベズャートニコフにおいてそれが戯画化され、揶揄《やゆ》されている。法律と既成の善悪の埓《らち》を無視してこれを踏み越えようとしたラスコーリニコフもまたニヒリズムという新しい思想と無縁ではなかった。作者はラスコーリニコフを通じてニヒリズムの悲劇を描こうとしたのである。それはまさしく、ドストエフスキーがシベリヤから帰還後自分の土地主義でチェルヌイシェーフスキイら革命的民主主義と交えてきた戦いの継続だった。すでにチェルヌイシェーフスキイの小説『何をなすべきか』にたいして『地下生活者の手記』のなかの論争で一戦をまじえたドストエフスキーは、この『罪と罰』でもチェルヌイシェーフスキイを指導者とするラディカルな青年たちを批判しようとしたのである。
しかし、作者が上に述べたような時事的な問題から出発してそれだけの解決のためにこの作品を書いたのであったなら、『罪と罰』はこれほどの永遠の価値を獲得できなかったろう。ドストエフスキーは主人公に、自分一個の境遇の改善とともに、人間には人類一般の福祉の名のもとに法を犯し、暴力に訴え、血を流す権利があるかという普遍的な問題にたち向かわせることによって、彼に、永遠に変わらぬ人生問題、社会問題に体当たりする受難者的風貌をおびさせた。この問題こそ、作者自身ペトラシェーフスキイ事件に連坐してシベリヤへ流されて、獄舎の板寝床に横たわりながら日夜悩みとおした問題であったのにちがいない。ラスコーリニコフは自分の理論にしたがって殺人を決行したあと、超人的な力をふりしぼって自分の理論を敵の攻撃から守ろうとする。だが、自分が一個の虱にすぎなかったことを発見したとき、自分の理論にも屈伏させられ、踏み越えたというよりも踏み越えようとした一線から後退をよぎなくされる。これはぎりぎりまで巻かれたゼンマイが、それ以上巻かれて切れる(つまり主人公が死ぬ)ことのないかぎりたどらなければならない自動作用である。ゼンマイはゆるみはじめ、ラスコーリニコフは自白への道をたどりはじめる。主人公はゼンマイが巻かれたままの緊張に耐え得なかったのだ。それはソーニャの自白のすすめがなくともたどるべき道であった。彼女の自白のすすめはただ転落する玉に試みられた軽いひと押しにすぎない。主人公は自白後も、シベリヤの獄舎につながれてからも、自分の理論の正しさを疑っていない。ただ、自分が虱なのにナポレオンと見誤った失敗を認めるだけである。ちょうど、作者自身が後年世界観の転換後も、ペトラシェーフスキイ会員の雄々しさを賛え、自分がそのひとりであったことを誇りに思っていたように(これについては幾多の証拠があげられる)。だが、主人公の理知のみによる道の打開は最後にソーニャの献身的な愛によってなしとげられる。それは作者が福音書の繙読《はんどく》による愛の体得から方向転換が始まったのに照応する。
〔訳者紹介〕
北垣信行(きたがきのぶゆき)
ロシヤ文学者。東大教授。一九一八年、茨城県生まれ。一九四四年、東京外語大卒。著書に『ロシアの文学』(共著)、『ロシア・ソビエト文学』(共著)など、訳書に『罪と罰』『カラマーゾフ兄弟』、『貧しき人々』、『戦争と平和』、『父と子』などがある。