罪と罰(上)
ドストエフスキー作/北垣信行訳
目 次
第一編
第二編
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主要登場人物
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ラスコーリニコフ(ロージャ)………自己流の理屈から金貸しの老婆を殺害する主人公。
プリヘーリヤ………ラスコーリニコフの母。
アヴドーチヤ・ロマーノヴナ(ドゥーニャ)………ラスコーリニコフの妹。
ソフィヤ・セミョーノヴナ(ソーニャ)………十八歳の娼婦。
マルメラードフ………ソーニャの父。酔いどれの退職官吏。
カテリーナ………ソーニャの病弱な継母。
ポーリャ………ソーニャの妹。
ラズーミヒン………ラスコーリニコフの親友。
ゾシーモフ………ラズーミヒンの友人。医師。
ポルフィーリイ………予審判事。
スヴィドリガイロフ………淫蕩な地主。
マルファ………スヴィドリガイロフの妻。
ルージン………卑劣な弁護士。
アリョーナ………殺害される金貸し老婆。
リザヴェータ………アリョーナの義理の妹。
プラスコーヴィヤ(パーシェンカ)………ラスコーリニコフの下宿の女主人。
ナスターシヤ………ラスコーリニコフの下宿先の女中。
ザミョートフ………警察署の書記。
ニコジーム………警察署長。
ニコライ………ペンキ職人。
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第一編
七月のはじめ、暑いさかりの、夕暮れも迫ろうとする頃、ひとりの青年が、S路地裏のアパートの住人からまた借りしている自分の部屋から表通りに出て、のろのろした、ためらいがちな足どりでK橋をさして歩きだした。
運よくおかみとは階段で顔をあわさずにすんだ。彼の部屋は高い五階だてのアパートのちょうど屋根裏にあって、住まいというよりむしろ戸棚のような感じだった。女中つき賄《まかな》いつきで彼にこの小部屋を貸していた下宿のおかみは、ひと階段下の独立した住まいに陣どっていたので、彼は外出するたびに、たいてい階段にむかって明けはなしてあるおかみの家の台所のそばをどうしても通らなければならず、そのたびに青年はなにやら病的な、おどおどした気持ちになり、それが恥ずかしくて、顔をしかめるのだった。おかみには借りがずいぶんたまっていたので、顔をあわすのが怖かったのである。
が、かといって彼はそれほど小心で臆病だったわけではなく、むしろその正反対だったのだ。それが、いつ頃からか、ヒポコンデリーに似た、いらいらした緊張した気分になっていた。あまりにも自分のなかに閉じこもり、みんなから遠ざかって暮らしていたため、おかみどころか、だれと顔をあわすのも怖くなってしまっていたのである。彼はたしかに貧乏にうちひしがれてはいた。が、その窮迫状態もこのところそれほど苦にならなくなっていた。彼はしなければならぬその日その日の仕事もすっかりやめてしまっていたし、する気もなかった。ほんとうのところは、おかみが自分にたいしてなにをたくらもうと、怖くはなかったのだが、階段でつかまって、自分にはまったく用のない、ありふれたばか話の百万陀羅を聞かされたり、例のしつこい支払いの催促をされたり、威《おど》し文句や泣き言を聞かされたりして、そのたびに言いのがれをしたり謝ったり嘘をついたりするよりは、――なんとかして猫のように階段をすべりぬけて、だれにも見つからないようにこっそり逃げ出したほうがましだと思ったのである。
しかし、通りへ出たあとで今度は、自分はこうも貸主と顔をあわすのを怖がっているのかと、われながらあきれてしまった。
『あんな大事をたくらみながら、こんなつまらないことにびくびくしているなんて!』と彼は妙な薄笑いを浮かべながら考えた。『ふむ……そうだ……人間、何もかも自分の掌中に握っていながら、すんでのところでとり逃がしてしまうのは、ひとえに臆病のせいなんだ……こいつはもう自明の理だ……ところで、人間はなにを一ばん恐れるかだ。あたらしい一歩、自分自身のあたらしい言葉、人間はこれを一ばん恐れているのだ……それはそうと、おれはちょっとしゃべりすぎるんじゃないかな。しゃべりすぎるから、なんにもしないことになるんだ。いや、ひょっとしたら、なんにもしていないからしゃべりすぎるのかも知れないぞ。こういうひとり言をいう癖がついたのはここ一ヵ月の間だ。毎日夜昼ぶっとおしに部屋のなかでごろごろして……夢みたいなことを考えているうちにこういう癖がついてしまったのだ。それはそうと、おれは今なんのために歩いているんだ? いったいおれに|あんなこと《ヽヽヽヽヽ》ができるんだろうか? そもそも|あれ《ヽヽ》はまじめな話なんだろうか? いや、まじめな話などころか、ただ夢を描いて自分で自分を慰めているだけのことさ。おもちゃだ!そうさ、まあおもちゃってところだ!』
往来の暑さと言ったらなく、おまけに息ぐるしさ、雑踏、いたる所にある石灰、建築の足場、煉瓦、埃《ほこり》、それに別荘を借りるほどのゆとりのないペテルブルクの住民ならだれ知らぬものもない例の一種特別な夏の悪臭――そういったものがただでさえ調子の狂っている青年の神経をいっせいに不愉快にゆさぶるのだった。市内のこのあたりに特別多い呑み屋から発散するどうにも我慢のならない悪臭や、平日なのにひっきりなしに行きあう酔いどれなどが、こうした情景のいやらしい憂鬱な色調を一段と濃くしていた。ふかいふかい嫌悪の情が一瞬ちらりと青年のきゃしゃな顔をかすめた。ついでに言っておくが、彼はなかなかの美男子で、すてきな黒ずんだ目をし、髪は栗色で、背は中背よりやや高く、体つきは痩せがたで、すらりとしていた。が、彼はたちまち何やらふかい物思い、いや、もっと正確に言えば、一種の忘我の境とでもいうべき状態におちたらしく、もはや周囲には目もくれず、また目をくれようともせずに歩き出した。ただときたま、なにやらぶつぶつひとり言を言うのだが、これは今自分でも認めた例のひとり言の癖が出たのだ。とたんに、彼は自分でも考えが時おり混ぜこぜになるし、それにからだが衰弱しきっていることに気づいた。これでもう二日も物をほとんど何ひとつ口に入れていなかったのである。
彼の身なりと言ったらひどいもので、ほかの人なら、そういうものを着つけている者でも、これほどのぼろを着て昼日なか外へ出るのは気がひけるくらいだった。もっとも、かいわいがかいわいなだけに、ここでは服装などでそうたやすく人の目を見張らせることはなかった。なにせここはセンナヤに近く、いかがわしい遊び場はやたらにあるし、それに、なんといっても、これらペテルブルクの中心部の通りや横丁は、町工場の職工や職人がびっしり住んでいる所だけに、時にはあたり一帯の眺望にいろんな人間が入り混じるわけで、それだけに変わった風体の人間に出会って驚くほうがおかしいくらいのものなのだ。それにしても、青年は、すでに心に毒々しい侮蔑の情が積もり積もっていたため、ときにはひどくうぶなデリケートなところを見せる男なのに、このときばかりは往来にいながら自分のぼろ服を恥じる気持ちなどさらさらなかった。もっとも、だれか知人とか、昔の学友とか、一体に会いたくないような者にでも出くわせば、問題は別だろうが……ところが、そうこうするうち、どこかの酔っぱらいが、図体の大きい駄馬がひく大型の荷馬車で、今時分どこへどうして行くのか往来を運ばれていきながら、通りがかりに「やい、このドイツ帽め!」といきなりどなって、彼を指さしながら大声でわめきだしたときには、――さすがの青年もぴたりと足をとめて、発作《ほっさ》的に自分の帽子に手をかけた。帽子というのは丈の高い丸いツィンメルマン製なのだが、もうすっかり古びてしまって、完全ににんじん色を呈し、穴だらけ、しみだらけで、ふちはとれてしまい、ぶかっこうきわまる角が横へひんまがっているような代物だった。ところが、彼をとらえたのは羞恥《しゅうち》の気持ちではなくて、そんなものとはまったくちがった、驚愕《きょうがく》にも似た感情だったのである。「おれだってそんなことはわかっていたよ!」と彼はどぎまぎしながらつぶやいた。『おれもそう思っていたんだ! こいつがまず何よりもいけないんだ! こうした、ちょっとしたばかばかしいことが、ちょっとしたくだらない些細《ささい》なことが、計画をすっかりぶちこわしてしまうものなんだ! そうだ、この帽子は目だちすぎる……滑稽だから目だちすぎるんだ……このおれのぼろ服には、よしんば古びた、せんべいみたいなかっこうのでもいいから、どうしても学帽でなくちゃいけない、こんな化け物じゃだめだ。こんなのはだれもかぶっちゃいないから、一キロ先からだって人に気づかれて、覚えられちまう……第一、覚えられちまったが最後、立派な証拠になるじゃないか。今のうちはなるべく目だたないようにしていなきゃ……些細なことが、些細なことが肝心なんだ! いつでもこういった些細なことからなにもかもだめになってしまうんだからな……』
道のりはいくらもなかった。自分のアパートの門から何歩かということまで知っていた。きっかり七百三十歩なのだ。いつか、空想をたくましゅうした折に、数えたことがあったのだ。あの頃はまだ彼は自分でも、あの空想の実現を信じてはいなかった。そしてただその醜悪な、だが魅力にとんだ不敵な考えで自分を刺激していただけだった。ところが、ひと月たった今では、見方がちがってきて、例のひとり言で自分の気の弱さや優柔不断をさんざん嘲《あざけ》りながらも、その「醜悪な」空想をいつしかおのずとすでに立派なひとつのくわだてと見なすことに慣れてしまっていた、とはいっても、やっぱりまだ自分で自分が信じられなかったのだが。で今も彼はその自分のくわだての|瀬踏み《ヽヽヽ》に行くところなのだ。そんなわけで、一歩毎に興奮が激しさを増してくるのだった。
彼は心臓がとまりそうになり神経的なふるえを覚えながら、構えの大きい建物に近づいていった。その建物は一方の壁はどぶ川に面し、もう一方の壁は××通りに面していた。そのアパートは、ぜんたいが小割りの貸部屋になっていて、あらゆる種類の職人――服屋、錠前屋、料理女、さまざまなドイツ人、自分の身を売って生きている女たち、小役人といったような手あいが住んでいた。アパートの二ヵ所の門と二つの中庭の出入りは激しかった。ここには門番も三、四人は勤めていた。青年は、その門番のだれにも出会わなかったので大いに悦に入って、見とがめられずに、たちまち門から右手の階段へすべりこんだ。階段というのは暗くて狭い、いわゆる「裏梯子」だったが、彼はそういったことは全部心得ており、研究しつくしていて、そういった状況がすっかり気に入っていたのである。というのは、そういう暗闇だったら、物好きな人の目でさえ危険ではないからだ。『今からこんなにびくついているようでは、もしひょっとしてこれから例のあの仕事に本式にとりかかりでもしたら、いったいどうなるんだろう?……』と四階めにさしかかったときに、彼はふとそう思った。ここで彼はある貸部屋から家具を運び出していた兵隊あがりの人夫に道をふさがれてしまった。彼にはもう前々から、その貸室に家族もちのドイツ人の官吏が住んでいることがわかっていた。『してみると、あのドイツ人は引っ越しの最中なんだな。ということはつまり、この階段のほうの四階とこの踊り場で、当分のあいだ、ふさがっているのはあの婆さんの住まいだけということになる。こいつは都合がいいぞ……万一の場合に……』と彼はまた考えて、老婆の住まいの呼び鈴を鳴らした。呼び鈴は、まるで真鍮ではなくてブリキかなにかでこしらえたものみたいに、かすかなガラガラという音がした。こういうアパートの小割りの住まいには大抵こういう呼び鈴がついているものなのだ。彼はすでにこの呼び鈴の音を忘れてしまっていたので、今この独特な音にまるで不意に何かを思い出させられ、まざまざと思いうかべさせられたようなぐあいで、……ぶるっと身ぶるいした。このときは神経がひどく弱っていたのだ。しばらくすると、ドアが細めにあいて、その隙間から女あるじが来客をうさんくさそうな目つきで眺めまわしているらしく、闇のなかからぎらぎら光っている小さな目だけが見えていた。が、老婆は踊り場に人が大勢いることがわかったので、勇気を出して、ドアをいっぱいにあけた。青年は敷居をまたいで、間仕切りで仕切ってある暗い玄関にはいった。間仕切りのむこうはちっぽけな台所になっていた。老婆は彼の前にむっつりと立ったまま、問いただすように彼を見つめていた。それは、意地わるそうな鋭い金壺《かなつぼ》まなこと、小さな、とがった鼻をした、小づくりの、しなびた、年の頃は六十くらいの老婆で、頭にはなにもかぶっていなかった。少々白髪まじりの亜麻色の髪にはべっとりと油を塗りつけていた。そして、鶏の足にそっくりの細長い首にはフランネルのぼろ切れかなにかをまきつけ、肩からは、この暑さなのに、すっかりすり切れて黄色くなっている毛皮の上着をぶら下げている。小柄な老婆はひっきりなしに咳をしたり、のどを鳴らしたりしていた。きっと、青年がなにか特別な目つきで彼女を見たせいだろう、彼女の目にたちまちまた最前のうさんくさそうな表情がひらめいた。
「ラスコーリニコフですよ、学生の、ひと月ほど前にうかがったことのある」青年はもっと愛想よくしなければと思いなおして、軽く会釈《えしゃく》をしながら急いでつぶやくように言った。
「覚えていますよ、あんた、よく覚えていますよ、お出でになったことは」と、老婆は相変わらず例の物問いたげな目を相手の顔からそらさずに、はっきりした口調で言った。
「実はその……またおなじような用件で……」と、ラスコーリニコフは語をついだが、老婆の猜疑《さいぎ》心にいささかうろたえ気味でもあり、驚いているふうでもあった。
『が、しかし、もしかしたらこの婆さんはいつでもこんなふうなのかも知れんぞ、この前は気がつかなかっただけで』と彼は、不愉快な気持ちになって考えた。
老婆は、思いめぐらしているようなふうに、ちょっと口をつぐんでいたが、やがてわきへ身をひいて、なかへはいるドアを指さしながら、
「おはいりなさい」
と言って、客を通した。
青年が通った小ぢんまりした部屋には黄色い壁紙がはりめぐらしてあり、窓にはゼニアオイがおいてあって、モスリンのカーテンがかかっていたが、ちょうどそのとき部屋のなかが入り日にぱっと明るく照り映えた。『そうすると、|そのとき《ヽヽヽヽ》もこんなふうに日がさすわけか……』まるで思いもかけなかったようにラスコーリニコフの頭にそんな考えがひらめいた。彼はすばやい視線を部屋じゅうに走らせ、できるだけ部屋の状況を研究して覚えこんでおこうとした。が、しかし室内にはこれといって特別目をひくものはなにひとつなかった。家具はどれもこれもひどく古い、イヌエンジュ製のものばかりで、大きな彎曲した木づくりの背のついた長椅子と、その前においてある楕円形のテーブルと、窓あいにある鏡台と、壁ぞいにならべてある数脚の椅子と、それに小鳥を手にしたドイツ人の令嬢などが描いてある、黄色い額ぶちにはいった二、三枚の安物の絵と、――それで家具は全部だった。部屋の隅のあまり大きくない聖像には燈明があがっていた。なにもかもしごく清潔で、家具も、床も、つやが出るほどふきこまれ、あらゆるものがてかてか光っていた。『リザヴェータがやっているんだな』と青年は思った。部屋じゅう埃ひとつなかった。『因業《いんごう》な年寄りの後家《ごけ》の家というものはえてしてこんなふうに清潔なものさ』とラスコーリニコフは腹のなかで考えながら、小ぢんまりしたつぎの間に通ずるドアの前にかかっている更紗《さらさ》のカーテンを、好奇心にかられて横目づかいにちらりと見た。つぎの間には老婆の寝台とたんすがおいてあったのだが、彼はそこをまだ一度ものぞいたことはなかったのだ。住まいはこの二つの部屋だけだった。
「ご用件は?」と、老婆は部屋へはいって来ると、さっきのように彼の真ん前に突立って相手の顔をまともに見ながら、きっとした口調で言った。
「質草を持ってきたんです、ほら、これです!」青年はポケットから旧式の平べったい銀時計をとりだした。時計の裏ぶたには地球儀が描かれていた。鎖は鉄だった。
「でも、前のももう期限が来てますよ。おとといで、ちょうどひと月ですからね」
「じゃ、もうひと月分利子を入れますから、しびれを切らさないでいて下さい」
「しびれを切らそうと、たった今流そうと、そんなことはこっちの勝手ですよ、あんた」
「この時計なら、うんとはずんでもらえるでしょうな、アリョーナさん?」
「ろくでもないものばかり持ちこんでくるんだね、あんた、まあ、こんなもの、いくらにもなりませんよ。この前はあの指輪には二枚も出してあげたけど、あんなのは宝石屋であたらしいのでも一ルーブリ半で買えるんですからね」
「四ルーブリほど貸して下さいよ、受け出すから、おやじの形見なんでね。もうじき金がはいることになっているんですよ」
「一ルーブリ半ですね、それに利子は天引きで。それでよければ」
「一ルーブリ半!」と青年は叫んだ。
「じゃ、お好きなように」こう言って老婆は時計をつっ返した。青年はそれを受けとると、あまりの腹だたしさに、今にも帰りそうにしたが、とっさに思いなおした。この上どこといって行くあてもなし、それにまだほかのこともあって来たのだということを思いだしたのである。
「貸してもらおう!」と彼はぶっきらぼうに言った。
老婆はポケットへ手をつっこんで鍵をさぐって、カーテンのむこうのつぎの間にはいっていった。青年は、ひとり部屋の中央にとり残されると、好奇心にかられたように耳をそばだてながら、あれこれと考えをめぐらしていた。老婆のたんすをあける音がしていた。『上の引出しにちがいない』などと彼は想像していた。『鍵は、すると、右のポケットに入れているわけだな……全部束にして、鉄の輪にはめてあるんだ……あのなかに、歯のぎざぎざした、ほかのの三倍もある、一ばん大きな鍵がひとつあるが、もちろん、あれは、たんすの鍵じゃない……とすると、まだほかに何か手文庫か行李みたいなものでもあるんだろう……こいつはおもしろいぞ。行李にはたいていああいう鍵がついてるものだ……それにしても、おれはまったくあさましいことを考えてるもんだなあ……』
老婆がもどって来た。
「こういうことになります。一ルーブリにつき、利子が月十コペイカずつとすると、一ルーブリ半にたいして十五コペイカいただく勘定になって、それを天引きさせてもらいます。それからこの前の二ルーブリの分からもおなじ計算で先に二十コペイカ支払っていただきますと、しめて、つまり三十五コペイカになり、で、結局、今お宅さんの時計でお手もとにはいる金は一ルーブリ十五コペイカということになります。さあ、お受け取り下さい」
「えっ! じゃ今度は一ルーブリ十五コペイカか!」
「ええ、そのとおりですよ」
青年はさからいもせずに、金を受けとった。彼はじっと見つめているだけで、急いで立ち去ろうともしなかった。その様子は、まるでまだなにかいいたいことか、したいことがあるようでもありながら、それがいったいなんであるかは自分でもわからないらしかった……
「ひょっとしたらね、アリョーナさん、二、三日うちにもうひと品持ってくるかも知れませんよ……銀製の……立派な……シガレット・ケースをひとつ……友だちから返してもらったらすぐにね……」彼はへどもどして、口をつぐんでしまった。
「まあ、そのときはご相談に乗りましょう」
「じゃ、さようなら……ところで、おばあさんはいつもおひとりなんですか、妹さんはお留守のようですね?」と、彼は玄関に出ていきながら、できるだけくだけた調子で聞いた。
「あれになんの用事がおありかね?」
「いや、別になんにも。ただなんとなく聞いてみただけですよ。それなのにお婆さんはすぐにあれだからな……さようなら、アリョーナさん!」
ラスコーリニコフは気も転倒せんばかりになって外へ出た。惑乱はいやが上にもつのってきた。階段をおりる途中も、彼は、まるで不意になにかにおびえたように、何度か足をとめたくらいだった。そしてそのあげく、通りにおり立ったときとうとうこう叫んでしまった。
「いやはや! まったく厭らしいったらありゃしない! いったい、いったいおれは……いや、こんなことはばかげたことだ、こんなことは愚劣なことだ!」彼はきっぱりとこう言いそえた。
「こんな恐ろしい考えが、よくもまあ、おれの頭に浮かんだものだ! それにしても、おれはなんというけがらわしいことまで考えかねない男なんだろう! 第一、けがらわしいじゃないか、さもしいじゃないか、醜悪だ、実に醜悪だ! ……それなのに、このおれは、まるひと月も……」
しかし、彼は言葉でも絶叫でも自分の興奮を言いあらわせなかった。まだ老婆の家をめざして歩いていた頃から彼の心を圧迫しかきみだしはじめていた止めどのない嫌悪感が今や極限に達し、はっきりと正体をあらわしてきたため、彼は胸もふさがる思いにどこへ身をかくしたらいいかわからなかった。彼は、まるで酔っぱらいのように、道行く人にも気づかず、人にぶつかりながら歩道を歩いていくうちに、つぎの通りに来てやっとわれに返った。あたりを見まわしてみて、彼は居酒屋のそばに立っていることに気がついた。居酒屋の入り口は、歩道から階段づたいに下の地階へおりるようになっていた。ちょうどそのとき、戸口から酔っぱらいが二人出てきて、たがいに寄りかかって悪口を言いあいながら、往来へあがってきた。ラスコーリニコフはちょっと思案しただけで、すぐそこへおりていった。彼はこれまでに一度も呑み屋などへ足を踏み入れたことはなかったが、今は目まいがするし、おまけにのどが焼けつくほどからからに乾いていたのでつめたいビールでも一杯やりたかったのである。それだけではない、自分がこうもがっくり来たのは、空腹のせいだと思ったからである。彼は暗くて汚ならしい片隅の、妙にべとつく小さなテーブルにむかって腰をおろすと、ビールを注文して、最初の一杯をむさぼるように空けてしまった。と、たちまち憂さが晴れ、考えもはっきりしてきた。『あんなことはみんなばかげたことだ』と、彼は希望をいだいて独りごちた。『なにもうろたえることはありゃしないさ! 単なる体の不調にすぎないんだ! ビールの一杯かそこらと、乾パンのひと切れぐらいで――ほれ、このとおり、一ぺんに頭はしっかりしちまうし、考えははっきりするし、意志も強固になってしまったじゃないか! ちぇっ、なにもかもまったくけちくさいことじゃないか……』しかし、彼はこんなふうに軽蔑し唾棄《だき》したいような気持ちになりながらも、急になにか恐ろしい重荷でもおろしたように、はやくもはればれとした顔つきになり、居あわせた連中を人なつかしげに見まわした。とはいえ、その瞬間でさえ、彼は、こうした、なんでもよいほうにとろうとする気持ちもやはり病的なのだということをぼんやり意識していた。
居酒屋にはこのとき人はあまりいなかった。階段で出会った二人づれの酔っぱらいにつづいてさらに、娘がひとり混じり、アコーディオンなどを持った五人ほどのひと組が出ていったあとは、ひっそりとし、ひろびろとした感じになった。そしてあとに残っていたのは、ビールを呑んでいる、ほろ酔いらしい、一見商人ふうの男と、みじかい百姓外套を着、白いあごひげを生やした、でっぷり太った大男の連れだけで、その連れの男はだいぶ酔っぱらっていて、腰かけにかけたまま、居眠りをはじめ、ときおり急に、夢うつつのうちに、両手をひらいて指をぱちりぱちり鳴らしはじめたり、腰かけから腰もあげずに上半身をひょいとおどらすような恰好をしては、
まるまる一年、かかあをかわいがり
まある一年、かーかあをかわいがり……
といったような歌詞を一生懸命思いだそうとしながら、何やらばかげた歌をうたっていたかと思うと、急にまた、目をさまして、
ポドヤーチェスカヤを歩いていたら
昔のかかあを見いつけた……
などと、うたいだすのだった。
が、しかしだれひとりその男と楽しい気分を分けあおうとする者はいなかった。むっつりしている連れの男はそうした発作的な仕草をむしろ敵意をこめた猜疑《さいぎ》の目づかいで眺めていた。その場にもうひとり、一見退職官吏ふうの男もいた。その男は酒びんを前にひとりぽつねんと坐って、ときたま一口やってはあたりを眺めまわしていた。彼もやはり、いくぶん興奮している様子だった。
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ラスコーリニコフは人なかに出つけなかったし、前にも述べたように、とりわけこのごろはつきあいというものを一切避けていた。それが今急に、なにやら人恋しい気持ちになってきたのである。心のなかになにやら新しいことがおこると同時に、なにやら渇《かつ》えたように人が恋しくなってきたのだ。彼はまるひと月も憂悶にふけり、陰鬱な興奮にかられ通しだったため疲れきってしまい、たとえ一分間でもよい、また場所もどこでもよいから、ちがった世界で息ぬきがしたかった。だから、こうして、汚ならしい場所がらにもかかわらず、満ちたりた気持ちでこの居酒屋に腰をすえたわけなのである。
店の亭主は別室にいるのだが、どこからか階段づたいにホールへおりて来る。そしてそのつどまず最初に、大きな赤い折り返しのついている、靴墨をてかてかに塗りたてた、しゃれた長靴をのぞかすのだった。彼はネクタイもつけず、ひだのついた半外套の下にひどく脂じみた黒じゅすのチョッキを着こんでいて、顔は一面に脂でてらてらし、まるで鉄の錠前のように光っていた。カウンターのむこうには十四歳くらいの少年と、そのほかにもっと年のいっていない少年がいて、これは、なにか注文があるたびに、品物を運んでいた。ここには小さなきゅうりや、黒い乾パンや、こま切れの魚がおいてあって、そういったものがまことにいやらしい悪臭を放っていた。息苦しくて、じっと坐っていられないし、あらゆるものに酒の匂いがしみこんでいるため、その空気だけでも五分もすれば酔っぱらってしまいそうだった。
世のなかには、まったく一面識もないのに、口をきく前から、なんだか急に、思わずひと目見ただけで興味を覚える相手とめぐりあうことがあるものだ。やや離れたところに坐っていた、退職官吏らしい例の客は、まさにそういった印象をラスコーリニコフに与えた。青年はその後いく度となくその第一印象を思い出し、これこそ虫の知らせというやつだと思ったものである。彼はその官吏に絶えずちらちら目をやっていた、というのは、いうまでもなく、むこうでもこちらをしつこく眺めて、いかにも大いに話しかけたがっているように見えたからである。官吏は、店のあるじをもふくめて居酒屋に居あわせたほかの連中にたいしては、なんとなく当たり前のような、それどころか飽き飽きしたような調子で、同時にいくぶん見くだしたようなところも見せながら、まるで身分も教養も最低な、話相手にもならない連中でも見るような目つきで見ていた。それはもう五十を越していそうな、中背で骨ぐみのがっしりした男で、ごま塩頭に大きなはげがあり、顔は絶えず酒びたりになっているためにふけてしまって、黄色どころか緑色まで呈しており、まぶたははれあがっていて、その奥から小さい割れ目のようにちっぽけな、だが生き生きとした赤味をおびた目が光っていた。とはいえ、この男にはなにやらすこぶる風変わりなところがあった。そのまなざしには歓喜らしいものさえ輝いていたし――おそらく思慮も分別もそなえていたのだろうが――それでいて同時に気ちがいじみたものが閃《きらめ》きもするのだった。着ていたものは、ふるい、すっかりぼろぼろになった黒の燕尾服で、ボタンはとれてしまって、たったひとつだけどうにかこうにか付いていたのを、たしなみだけは失いたくないと思っているらしく、きちんとはめていた。南京《ナンキン》木綿のチョッキの下からは胸あてがはみ出ていたが、それもすっかりしわくちゃで、よごれ放題、ぬれ放題だった。顔は役人ふうに剃《そ》りあげてはいたが、もうだいぶ前になるので、鳩色のこわい毛が早くも密生しはじめていた。それに、その物腰にも、事実、どことなくどっしりした、役人ふうなところがあった。が、それでいて彼はそわそわ落ちつかず、頭の毛をかきむしったり、酒びたしになってねばつくテーブルに穴のあいたひじをついたその両の手で、ときおり悩ましげに頭をかかえこんだりするのだった。あげくのはてに、彼はまともにラスコーリニコフに目をすえて、大きな、しっかりした声でこう口をきいた。
「ぶしつけで恐縮ですが、あなた、ひとつ話相手になってくださいませんか? ご様子こそ立派とは言えないが、年の功で、あなたはどうも教養のある、酒などはあまりたしなまれないお方のようにお見受けしたものですから。わたし自身つねづね、誠意につながる教養というものを尊重しておりますし、それに九等官でありますのでね。マルメラードフ――これが苗字でして、九等官なんです。失礼ですが、もうお勤めですか?」
「いや、まだ勉強中です……」相手の一種特別な、綾をつけたような言葉づかいと、あまりにもまともに、いきなり話しかけられたことにいささか驚いた青年は、そんな返事をした。ついさっきのどんな話でもいいから人とうちとけた話をしてみたいと思った刹那的な望みはどこへやら、実際に話しかけられてみると、最初のひと言だけでもう彼は突然、自分の個人的なことに触れたり単に触れようとしたりする者ならだれにでも感じるいつもの不快な、いらだつような嫌悪感を覚えた。
「してみると、学生さんか、もと学生、というわけですな!」と官吏は叫んだ。「思ったとおりでしたよ! 年の功ですな、あなた、長年の年の功というやつですよ!」と言って、彼は得意そうに額に指を一本あてた。「学生だったか、専門の学問を身につけてこられた方ですな! じゃひとつご免をこうむって……」彼はやおら身をおこすと、よろめきながら、自分の酒びんとグラスをつかんで、青年のそばにやって来て、ややはすむかいに坐った。男は酔ってはいたが、話しぶりは雄弁だし、勢いもよかった。もっとも、たまに所々でいくぶんまごついて、言葉尻をひっぱるようなところはあった。一種のがつがつしたような話しぶりでラスコーリニコフに襲いかかって来るところは、彼もやはり長いことだれとも話をまじえたことがなかったようなふうだった。
「あなた」と、彼はほとんど荘重といったような調子で切り出した。「貧は罪ならずと言いますが、これは真理ですな。酔っぱらうってことはいいことじゃない、それにこのほうがもっと真理だということもわしは承知しています。しかし赤貧となると、あなた、赤貧となると――これは罪ですよ。ただの貧乏のうちはまだ生まれながらの上品な感情を維持できるが、赤貧ともなれば、だれだって絶対に維持できませんからね。ひどい貧乏だと、棒で追いだされるどころじゃない、もっと侮辱してやろうというんで人間社会からほうきで掃きだされてしまうわけです。それも当然なことですよ、だって貧乏も底をつくと、自分から先に自分を侮辱するようなこともしかねませんからな。そこで酒ということになるんです! ねえ、あなた、現にひと月ほど前にうちの家内までがレベズャートニコフという男にぶちのめされたんですよ。うちの家内はわしなどとは比べものにならないような女なんですがね。おわかりですかな? ところでもうひとつ、ただの物好きから、おたずねするんですが、あなたはネワ川の乾草舟で一夜を過ごしたことがありますか?」
「いいえ、ありません」とラスコーリニコフは答えた。「それはどういうことなんです?」
「なにね、わしはそこからやって来るんでね、もうこれで五晩になるんですよ……」
彼はグラスに酒をついで、それをあおると、そのまま考えこんでしまった。たしかに、彼の服どころか髪の毛にさえ、あちこちに乾草の茎がへばりついていた。彼が五日も着がえもしなければ顔も洗わなかったというのも、大いにありそうなことだった。とりわけ手が汚なかった。脂じみて赤色を呈し、黒い爪をしていたのだ。
彼の話はどうやら居酒屋じゅうの注意をよび起こしたらしい。もっとも慢然たる注意ではあったが。小僧たちはカウンターのむこうでひひひと笑いだした。店のあるじはその「ひょうきん者」の話を聞きにわざわざ上の部屋からおりてきたものらしく、大儀《たいぎ》そうに、そのくせもったいぶった様子でときどきあくびをしながら、すこし離れて腰をおろした。明らかに、マルメラードフはここでは古なじみらしかった。それに、綾をつけたような話しぶりが身についたのも、多分、呑み屋で頻繁《ひんぱん》にさまざまな見知らぬ人たちと話をまじえてきた習慣の結果なのだろう。こうした習慣は、ある酒呑み、主としてとりわけ家で手きびしくあつかわれたり虐待されたりしている者には、欠かせぬ要求なのである。彼らが呑み仲間のあいだでつねに自分の考えを認めてもらおうと、あわよくば尊敬までかち得ようとやっきになるのも、こういったところから来ているのだ。
「ひょうきん者!」と亭主が大声で言った。「だが、お前さんも役人だったら、なんだって、働かねえんだね、なんだって勤めに出ねえんだね?」
「なんで勤めに出ないかって、あなた」とマルメラードフは、まるでラスコーリニコフからそう聞かれたみたいに、もっぱらラスコーリニコフに話しかけるようにして、その質問を引きとった。「なんだって勤めに出ないかって? いったい、わしは腕をこまぬいてこうした惨めな暮らしに甘んじてはいるが、かといってわしの胸が痛んでいないとお思いですか? ひと月前にレベズャートニコフ氏がうちの家内をその手で張りとばしたとき、わしは酔いつぶれて寝ていたんですが、そのときわしは苦しまなかったとお思いですか? ちょっとおたずねしますが、学生さん、あなたはこんな経験はおありじゃありませんかね……うん、と……そう、あてもないのに借金を申しこみにいくといったような経験は?」
「ありますよ……とはいっても、あてがないのにとはどういうことです?」
「つまり、まるっきりあてがない、行く前から、そんなことをしたってどうなるものでもないってことは承知しているのにですよ。早い話が、たとえばあの人間が、あの、すこぶる思想穏健で実に有益な市民であるあの人間がまかり間違っても自分に金を貸してくれないということは、前もって百も承知している、だって、あの男がどうして貸してくれますか、ひとつおうかがいしたいものですな? 先方には、わたしが返さないということはわかっているんですからね。同情心にかられてということもあるって? ところが、新思想を追いかけているレベズャートニコフ氏はついこの間も、今日では学問でさえ同情というものを禁じている、経済学の本家本元のイギリスではすでにもうそうなって来ているなんて説明していた矢先ですよ。どうして貸してくれますかね? それを、貸してくれないことは前もってわかっていながら、やっぱりのこのこ出かけていって……」
「いったいなんのために出かけていくんです?」とラスコーリニコフはつけ加えた。
「だってだれのところへも、どこへもそれ以外行きどころがないとしたら! どんな人だってせめてどこか行くべきあてくらいはなくちゃ困るでしょう。なぜって、どこへでもいいからどうしても出かけていかなけりゃならない場合というものがあるもんですよ! 現にわしのひとり娘が初めて黄色い鑑札(淫売婦の鑑札)で仕事に出かけたときは、わしも外へ出ましたよ……(わしの娘は黄色い鑑札で食っているわけですがね……)」と彼はいささか落ちつきのない目つきで青年を見ながら、括弧《かっこ》つきでそうつけ加え、「なあに平気ですよ、あなた、平気ですよ!」と彼は、カウンターのむこうで少年二人がぷうっと噴きだし亭主までがにやりと笑ったのを見て、たちまちあわてて、それでいて見かけは落ちつきはらったところを見せながらそう言いきった。「平気ですよ! あんな目くばせくらいに度を失うわしじゃありませんや、だってもう全部知れわたっていて、何もかも公然の秘密になってるんですからな。わしはこういうことには軽蔑どころか謙虚な気持ちで臨むことにしているんです。勝手にするがいい! 勝手にするがいい!『この人を見よ!』(ピラトがキリストの我慢づよさをたたえた言葉―ヨハネ伝)でさ。ところで、あなた、あなたにはできますか……いや、もっと強い言葉、もっと表現に富んだ言葉を使えば、できますかじゃない、勇気をお持ちですかな、今のわしを見ていながらあんたは豚じゃないと言いきるだけの勇気を?」
青年はひと言も返事をしなかった。
「さて」弁士はまたも部屋のなかにつづいて起こった、ひひひという笑いが静まるのを待った上で、厳然と、今度はさらに一層威厳まで添えて、語をついだ。「さて、たとえわしは豚ではあっても、あれは貴婦人です! わしは獣じみた相をおびているが、うちの家内のカテリーナは教養ある人間で、生まれから言えば佐官級の軍人の娘なのです。たとえ、たとえわしは卑劣な男でも、あれは、気だかい心と、教育によって高められた感情に満ちた女なのです。それにしても……ああ、家内がもうすこしわしに情けをかけてくれたらねえ! だって、あなた、ねえ、あなた、人はどんな人だって、せめてひとところぐらいは、人から憐れんでもらえるようなところがあってもいいじゃありませんか! ところが、カテリーナと来たら心はひろいけれど、不公平な女なんです……わしだって、あれがわしの髪をつかんで引きずりまわすのも、わしを不憫《ふびん》に思えばこそなのだぐらいのことはわかっていますよ。実は、わしは平気な顔で何度でも言いますが、家内はわしの髪をつかんで引きずりまわすんですよ、あなた」彼は、またひひひという笑い声を耳にすると、さらに威厳をそえて、そう強調した。「が、しかしそれにしても、ああ、家内がたった一度でもいいから……いや! いや! こんなことを言ったってむだだ、言うだけやぼというものです! なんにも言うことはない……望みがかなえられたことももう何度かあったんだし、憐れみをかけてもらったことももう何度かあったんだから、しかし……これがわしの本性なんですよ、わしは生まれながらの畜生なんです!」
「言うまでもねえさ!」と、亭主があくびまじりに言った。
マルメラードフは思いきってげんこで卓をたたいた。
「これがわしの本性なんです! いいですか、あなた、いいですか、わしは家内の靴下まで呑んでしまった男なんですぜ! 靴じゃありません、靴だったら、いくらかでも物の順序を踏んでいるようなところはあるが、靴下を、家内の靴下を呑んじまったんです! 家内のやぎ皮のえりまきも呑んじまいました、昔ひと様からいただいた、わしのものじゃなくて、家内自身のえりまきもね。それに、わしたちは寒い小さな貸間に住んでいるんで、家内はこの冬に風邪をひいて、咳をしはじめ、今じゃ血を吐いているような始末なんでさ。子供は小さいのが三人おりましてな、カテリーナはそこら辺を磨く、洗う、子供に湯を使わせるといったぐあいに朝から晩まで働きづめでさ、何しろ小さい時分からきれい好きだったものですからね、ところがあれは胸がよわくて、肺病の気があるんですよ、わしはそれが身にこたえるんです。どうして身にこたえずにいられますか? 呑めば呑むほど身にこたえますよ。わしが酒をやるのは、こうして呑むことによってあれを憐れに思い、しみじみとそれを感じたいがためなのです……呑むのは、大いに苦しみたいからなんですよ!」こう言うと彼は、絶望したように、テーブルの上に首をたれてしまった。
「学生さん」と、彼は頭をあげながら、また話しつづけた。「わしはあなたの顔になにやら悲哀のようなものを読みとったんですがね。わしは、あなたがはいって来なすったときにその悲哀を読みとったればこそ、さっそく話しかけたのです。というのは、あなたにこんな身の上話をするのも、それでなくともなにもかも承知のここののらくらどもに自分の恥をさらしたいがためではなくて、感情のこまやかな教養ある人間を求めているからなのです。実を言いますと、うちの家内は立派な県立の貴族女学校で教育をうけまして、卒業のときは県知事やその他お歴々の前でショール・ダンスを踊ってごらんに入れ、褒美にメダルや賞状までいただいた女なんですよ。メダルは……そう、メダルのほうは売っちまいました……とうの昔にね……ふむ……が、賞状のほうはいまだにあれのトランクにしまってあって、ついこの間もおかみさんに見せていましたっけ。おかみさんとはそれこそ犬猿の間柄なんですが、あれも、せめてだれかを相手に自慢のひとつもして、ありし日の仕合わせだった時代を吹聴したかったんでしょうよ。わしも咎《とが》めだてはしませんよ、咎めだてはしません、だってこれが家内の思い出のなかでたったひとつ最後に残ったもので、あとはぜんぶ塵のように消え失せちまったんですからな!
ええ、ええ、あれは気性の烈しい、誇りをもった、負けず嫌いな貴婦人ですよ。ゆかは自分で洗おうと、黒パンをかじって生きようと、人に失礼なまねをされて黙っているような女じゃないんです。だからこそ、レベズャートニコフ氏の乱暴な仕打ちが我慢ならず、なぐられたためよりも口惜しさから床についてしまったのです。わたしはあれが後家でいたのを、ずりっ子に匐《は》いっ子の三人の子供といっしょに引きとってやったものなのです。最初の夫の歩兵将校とは恋愛でいっしょになったとかで、手に手をとりあって親の家からかけおちをしたんだそうです。あれはぞっこん夫に惚れこんでいたらしいが、その夫は賭けトランプに手を出して、裁判にかけられると同時に死んでしまったのです。その男は死ぬ前にはあれをよくなぐったらしいが、あれのほうでも、なぐらせたままではいなかったことは、確実に書類などでわかっているんですが、そのくせあれはいまだにその男のことを思いだすたびに涙を浮かべたり、その男の話を持ち出してはわしを責めたりするんですよ。でもわしは喜んでいますよ、喜んでね、だってたとえ想像のなかではあれ、自分の昔の幸福な姿を思い浮かべているわけですからな……
そんなわけであれは夫の死後三人の年端もいかない子供をかかえて、遠い、ものすごくへんぴな地方に、わしもそこにいたことがあるんですが、そのへんぴな地方にとり残されたわけです、それこそ絶望的な窮迫状態のままでね、わしもずいぶんいろんな事件を見てきましたが、その貧窮状態はまったく筆舌につくせないくらいでした。親類という親類からは見はなされてしまいましたしね。その上、気位は高い、おそろしく高いときてはねえ……ところで当時は、あなた、当時はわしもやはりやもめでしてね、先妻とのあいだにできた十四になる娘がいたんですが、結婚を申しこんだわけです、というのは、あれの苦しみ悩むさまを見かねましたものですからね。あれがどれほどの窮乏状態に達していたかは、あれが、教養もあれば育ちもいい、名門のあれがわしのところへ嫁にくることを承諾してしまったことからだけでも判断がおつきでしょう! それでも嫁に来たわけですよ、泣きながら、すすり泣きながら、手をもみしだきながら――嫁に来たのです!
なぜって、行くべき先がなかったからですよ。おわかりですかな、あなた、もうほかに行くべき先がないということがどういう意味か、おわかりですかな? いや、あなたにはまだおわかりになりますまい……それからわしはまる一年間自分の義務を後生大事と誠実に果たしまして、これには手も触れませんでした(と言ってウォトカのびんを指さした)、わしだって人なみの感情は持っていますからね。しかし、それでも家内の機嫌はとりむすべませんでした。そこへもってきて首になってしまったのです。それも自分の落度からではなくて、定員改正のためだったのです。そのときですよ、これに手をつけたのは!……もう一年半にもなりましょうか、わしたち一家があちこち放浪してさんざっぱら苦労をしたあげく、ついにこの、無数の記念物で飾られた、すばらしい都へ流れこんできたのは。
ここでわしは職にありついたんですが……ありついたと思ったら、また失職してしまいました。おわかりでしょうが、今度は自分の落度による失職です。わしの本性が現われたからです……で、今はアマリヤ・フョードロヴナ・リッペヴェフゼルという家主のかみさんのひと間に寝起きしていますが、なにで暮らしをたてているのか、なにで支払いをすましているのか、それはわしにはわかりません。そこにはわしたち以外に多勢住んでおりますが……まさにソドム(乱脈をきわめたため天の火に焼かれたという町)ですな、醜悪きわまるソドムです……ふむ……そう……そうこうするうちに娘も、つまり先妻の子も、年頃になりましてな、年頃になるまでにあの子が、娘が、まま母のことでどんなに辛い思いをしたかについてはなにも言いますまい。なにせ、カテリーナは実にひろい心を持っちゃいるんですが、烈しい、鉄火な女でして、すぐ癇癪《かんしゃく》玉を破裂させるもんですからね……そうなんです! が、まあ、そんなことは今さら思い起こすこともありませんな! 想像できると思いますが、ソーニャは教育といってろくな教育も受けませんでした。四年ほど前に娘に地理と世界史をひととおり教えてやろうとしたことがありましたが、こっちがあやしい上に、適当な参考書もないときてはねえ、なにしろあった本と言やあ……ふむ! ……いや、そんな本すらもう今はありゃしません、そんなわけで勉強もそれでおしまい、ペルシャ王キュロスのところで中止というわけ。
その後、もうすっかり大人になってから、娘は恋愛小説ふうのものを何冊か読み、ついこのあいだは、レベズャートニコフ氏から一冊、リュイスの『生理学』――ご存じですかな? ――あれを借りて、大変面白そうに読んでいましたっけ、そしてわしたちにまでところどころ拾い読みして聞かしてくれましたよ。これがあの子の学問のぜんぶです。ところでひとつ、私的な質問をさせていただきますが、あなたは、貧乏だがまっとうな娘がまっとうな仕事をしてどのくらい稼げると思います? ……まっとうな娘ではあっても特別な才能でもないかぎり、手を休めずに働いたところで、日に十五コペイカとは稼げますまい! それなのに、五等官のクロップシュトック、イワン・イワーノヴィチときたら、――あの男のことはお聞きおよびですかな? ――オランダ麻のルバーシカ半ダースの縫い賃をいまだによこさないばかりか、やれルバーシカの襟が寸法どおりに縫ってないの、やれ形がゆがんでいるのといいたてて、地団太をふんだりさんざん悪態をついたりしてあの子を追いかえしちまいやがったんですよ。ところが、家じゃ子供たちは腹をすかしているし……カテリーナは手をもみしだきながら部屋のなかを歩きまわっていて、その頬っぺたには赤みがさしている、――あの病気につきもののあれでさあ。『このごくつぶしめ』と家内はこう言うんです。『うちで平気でいっしょに暮らして、飲んだり食ったり、暖まったりしくさって』とね。子供らでさえ三日もパンの皮ひとつ拝めないでいるくらいなのに、飲んだり食ったりが聞いてあきれまさあね! わしはそのとき寝ていたんですがね……
いや、隠したってはじまらない! 実はちょっと酔っぱらって寝ていたんですよ。すると、娘のソーニャがこう言っているのが聞こえるじゃありませんか(あの子は口答えというものをしない娘でしてね、それに、その声がまた実にやさしい小さな声なんですよ……髪はブロンドで、いつも青い、やせた顔をしているんですが)。それが『どうなの、おかあさん、わたし、ほんとうにあんなことをしに行かなければならないの?』とこう言っているじゃありませんか。前から、ダリヤという悪辣《あくらつ》な、何度も警察の厄介になっている女が三回もおかみさんをとおして口をかけに来ていたわけなんです。『それがどうだというのさ』とカテリーナがせせら笑って返事をしている。『なにも大事にすることはないじゃないか? 宝物でもあるまいし!』が、まあ、責めないで下さい、責めないで下さいよ、学生さん、責めないで下さい! 正常な頭でそういうことを口にしたんじゃなくて、感情がたかぶっている最中に、患っている最中に、かつえた子供の泣き声を聞きながら言った言葉なんですから、しかもむしろ当てつけのために言ったので、言葉どおりの意味で言ったんじゃないんですから……というのは、カテリーナはそういった気性の女なんで、子供たちがとめどなく泣いていれば、よしんばひもじくて泣いているんであっても、いきなりひっぱたきはじめるような女なんですから。
そのうち見ていると、五時もすぎた頃、ソーニャは立ちあがって、プラトークをかぶり婦人外套を着て、家を出ていったかと思うと、八時すぎに帰ってきました。そして帰ってくるなり、まっすぐカテリーナのそばへ行って、その前の卓の上に黙って銀貨を三十ルーブリほどならべたのです。そのあいだ一言もものを言わず、ちらりとも見ずに、大きな緑色のドラデダム織りのショールをとっただけで(うちにはみんなで共用のそういうショールがあるんですよ、ドラデダム織りのね)、それを頭と顔にすっぽりかぶって、顔を壁のほうにむけてベッドに横になったまま、小さな肩と体だけずっと震わせどおしでした……ところが、このわしは最前どおりおなじかっこうで寝ころんだままです……そのときわしは見ましたよ、学生さん、この目で見たんです、やがてカテリーナが、やはりひと言もものを言わずに、ソーニャの寝床に近づいて、ひと晩じゅうその足もとに膝まずいて、娘の足に接吻したまんま、立ちあがろうともしなかったのを。そしてそれから二人ともそのままいっしょに眠ってしまいました、抱きあったまま……二人でね……二人で……ところが、このわしは……酔っぱらって寝ころんでいたんです」
マルメラードフは、まるで声でもぷつりと断ち切られたように、口をつぐんでしまった。が、やがて不意に急いで酒をつぐと、ぐっと空けてのどをごくりとさせた。
「そのとき以来、学生さん」と彼はしばらく口をつぐんでから話の穂をついだ。「そのとき以来、ある好ましからぬ事件と意地のわるい連中の密告のせいで、――なかでもそれを推しすすめたのはあのダリヤのやつだったんですがね、あの女にしかるべく敬意を表さなかったとかいうのがその理由でしてな、――そのとき以来、娘のソーニャは黄色い鑑札も持たなければならなくなったし、そういうことからわしらといっしょに住むわけにもいかなくなったのです。というのは、おかみのアマリヤがそれを承知しないし(以前ダリヤのやつにけしかけていた張本人でありながらね)、おまけにレベズャートニコフ氏までが……ふむ……あいつとカテリーナとの一件ももとはといえばこのソーニャのことから起きたんですがね、奴さん自身、最初はソーニャをたらしこもうとしていたくせに、今度は傲然《ごうぜん》といなおって、『こんな文化人の僕がああいう女とひとつ屋根の下にどうして暮らせると思う?』などと言い出しやがったのです。するとカテリーナも黙っていられず、娘の肩を持つ……といったようなわけで起きたわけなんですよ……今じゃもうソーニャは家へ暗くなってからやって来ては、カテリーナの手助けをしたり分相応の金をとどけたりしているのです……そして寝とまりは、服屋のカペルナウーモフからひと間を借りて、そこでしているのです。このカペルナウーモフという男はびっこで、どもりで、うじゃうじゃいる家族もひとり残らずどもりだし、その女房がこれまたどもりときている……それがぜんぶひとつの部屋に住んでいるんですが、ソーニャはそこに、中仕切りで仕切って、別の部屋を持っているわけです……ふむ、そうなんです……ひどい貧乏で、どもりの一家なんですよ……そう……その明けがた早く目をさますとすぐにわたしは自分のぼろ服をひっかけ、両手を天にあげて祈っておいて、イワン閣下のところへ出かけていきました。イワン閣下のことをご存じですかな? ご存じない? ほう、あの神さまのような人をご存じないとは! あのかたはまあ、いわばろうそくの蝋ですよ、……主のみ前にあげたろうそくです。その蝋みたいに溶けてしまうんです! ……一部始終をお聞きになると、涙ぐまれて、『な、マルメラードフ君、君はすでに一度わしの期待を裏切った人間だが……君をもう一度わし個人の責任で採用してやろう』とこうおっしゃった。『肝に銘じて帰んなさい!』わしは閣下のおみ足の塵をなめましたね、ただし心のなかでね、だって実際にはそんなことをお許し下さるわけはありませんからな、なにしろ高位高官であり、あたらしい文化的国家思想をお持ちの方ですからな。家へ帰って、また役所勤めをするようになり給料ももらうようになったぞと報告したときの、ああ、あのときの家じゅうの喜びようと言ったら……」
マルメラードフはまたもやはげしい興奮を覚えて話を中断した。そのとき通りから、もういい加減酔っぱらっている酒呑みの一団がくりこんできて、入り口のあたりでやといの手まわしオルガンのメロディーと『田舎の一軒家』をうたう七歳くらいの子供のふるえ声が響きわたり、あたりが騒然としてきた。あるじと従業員は新来の客にかかりきりになった。マルメラードフははいって来た連中には目もくれずに、話のつづきにかかった。彼はもうだいぶ参っているらしかったが、酔いがまわればまわるほど話し好きになってきた。彼は首尾よく就職した最近の思い出に元気づいたらしく、それがその顔に一種の輝きとなって現われた。ラスコーリニコフはじっと話に耳をかたむけていた。
「それは、学生さん、五週間前のことでした。そうです……カテリーナとソーニャのあの二人がそれを知ったそのとたんから、それこそわしは天国に移ったような気分でしたね。それまでは、畜生みたいにごろ寝をして、悪態ばかり聞かされていたものが、今や二人して爪さきだちで歩いては、『おとうさんがお勤めで疲れて来て、今休んでいるところなんだよ、しっ!』などと言って、子供たちを騒がせないようにするじゃありませんか。勤めに出る前にコーヒーは飲ましてくれる、クリームは沸かしてくれるといったぐあいで、そのクリームも本物を手に入れてくるような始末。それに、どこからどう工面してきたものか、ちゃんとした制服をこしらえるために十一ルーブリ五十コペイカほど工面してきました。そして、長靴、キャラコの胸あて――それもとびきり上等なやつで――それに制服と、なにもかも十一ルーブリ五十コペイカで立派にとりそろえてきたのです。わたしが最初の日の朝がた家へ帰ってみると、カテリーナは、スープとわさびをつけた塩漬け肉と、料理を二品も、それまでは夢にも考えなかったようなやつを用意していてくれました。服といったら家内はなんにも持っちゃいなかった……つまり、一枚だって持っちゃいなかったのに、そのときはまるでお客にでも行くみたいに、めかしこんでいる、といってもなにかわけがあるわけじゃない、ただ、無からなんでも生じさせる腕前があるだけのこと、髪をゆって、襟や袖口を小ざっぱりしたのにつけかえれば、それでもうまったくの別人になり、若返りもしようし、器量もあがろうというわけです。かわいい娘のソーニャはソーニャで、ただ金をみつぐだけで、わたしはここ当分は、まだ時期も来ないのにたびたび家へ来ては世間体もよくないから、だれにも見られないように、暗くなってからでなければ来ないようにするわ、なんて言うんですよ。どうですか、学生さん、どうです? 昼飯のあとひと寝入りしに帰ってみると、学生さん、どうでしょう、カテリーナは辛抱しきれなかったんですな、つい一週間前におかみのアマリヤのやつとこれが最後といったような大喧嘩をやらかしたばかりなのに、コーヒーを一杯ご馳走してやろうと招《よ》んでいるじゃありませんか。二人は二時間も坐りこんで、ずうっとひそひそ話のしどおし。『今度うちの人がお勤めに出て、お給料をもらうことになったんですの、こちらから閣下のところへうかがったところ、閣下じきじきでお出ましになり、ほかの者は待たせておくようにとおっしゃって、うちの人の手をとってみんなのそばをぬけるようにして書斎へ案内して下さったんですよ』ですって。どうですか、えっ、どうです?『そしてこうおっしゃるんですの、わしは、もちろん、セミョーン君、わしはあんたの功績を忘れちゃおらんので、あんたは例の酒という軽はずみな弱点におぼれる癖はあったが、今度は誓約していることではあるし、それにあんたがいなくなってわれわれのところも困っていたところだから(えっ、どうですか、どうです!)今はあんたが約束を立派に守ってくれることを期待しているよ、ってね』つまりこれは、お断わりしておきますが、ぜんぶ家内がとっさに思いついたことなんで、それも軽はずみからじゃない、ただ自慢がしたいばっかりに思いついたことなんですよ! いや、家内は自分でもそれをぜんぶ信じこんでいるんです、自分の空想で自分を慰めているんですよ、まちがいなく! ですから、わしは批判などしません。断じて批判などしませんよ! ……六日まえにわしが最初の給料を――二十三ルーブリ四十コペイカの金を――手つかずで持ち帰ったときには、わしを『かわいい人』なんて呼んでいましたよ。『あんたはなんてかわいい人なんでしょう!』と来ましたね。それも二人さしむかいのときなんですよ、どうです? それにしても、いったいわしにどんないいところがあるんですかね、だいたいわしは夫といえるような柄ですかね? それなのに、わしの頬っぺたをつねって、『あんたはなんてかわいい人なんでしょう!』なんて言いやがるんですからな」
マルメラードフは話をやめて、笑おうとしたが、突然あごががくがく震え出した。それでも、彼はそれをじっとおしこらえていた。この居酒屋、堕落した姿、乾草舟のなかですごした五夜、ウォトカのびん、女房子供に対するこの病的な愛情、そういったものに聞き手の頭は混乱してしまっていた。ラスコーリニコフは緊張して、だが病的な感じを覚えながら聞いていた。そして、ここへ立ち寄ったことを後悔していた。
「学生さん、学生さん」と、マルメラードフはもとの状態にかえって叫んだ。「ああ、学生さん、ほかの連中同様あなたにもおそらくこんなことはぜんぶ笑い話にしかならんでしょう、そしてわしは愚かにも自分の家庭生活のこんな惨めなこまごました話を洗いざらい打ちあけたりしてあなたにご迷惑をかけているにすぎないかもしれませんが、わしにとっちゃ笑いごとじゃないんですよ! だって、わしにはひとつひとつぐっと胸にこたえるんですからな……あの、わしの生涯の天国にも似た一日とその晩いっぱい、このわしも浮かんでは消えゆく空想にふけってすごしましたよ。つまり、なにもかもどう始末をつけようか、子供たちにも着るものを着せ、家内も安心させてやろう、自分の一粒種の娘もあの恥ずべき境涯から家庭のふところへ連れもどしてやろうなどと……いろんなことを、あれやこれやと考えながらね……無理もないことでしょう、学生さん。ところがです、学生さん(マルメラードフは突如ぶるっと身ぶるいでもしたようにして、首をあげ、聞き手にひたと目をすえた)ところが、そのあくる日、そんな、いろんな空想にふけった直後の(つまりそれはちょうど五日前ということになりますが)晩方ちかくに、わしは、夜盗のように、カテリーナのトランクの鍵を、奸計を弄《ろう》して奪いとり、持ち帰った給料の残りを、ぜんぶでいくらあったかはもう覚えていませんが、抜きとってしまったのです、さあ、わしの顔を見るがいい、みんな! 家を出てからこれで五日めだ、家じゃわしを探している、勤めももうおさらば、制服はエジプト橋のたもとの居酒屋においてきて、そのかわりにもらって来たのがこれこの服だ……これでなにもかもおしまいさ!」
マルメラードフは自分の額をこぶしでごつんとたたくと、歯をくいしばり、目を閉じて、ぐっとひじを卓についた。が、しかし一分もするとその顔が一変して、一種わざとらしいずるさと作為的な図々しさを見せてラスコーリニコフを見やり、急に笑いだしてこう言った。
「きょうソーニャのところへ行ってきましたよ、迎え酒の金をねだりにね! へ、へ、へ!」
「で、くれたか?」と、はいって来た客のうちのだれかがわきのほうからどなり、どなると同時に大声で笑いだした。
「ほら、このウォトカのびんがあの子がくれた金で買ったやつでさ」と、マルメラードフは、もっぱらラスコーリニコフだけに話しかけるようにして言った。「三十コペイカ出してくれましたよ、なけなしの金を自分の手でね、この目で見たんです……なんにも言わずに、ただ黙ってわしを見つめているだけでした……あんなことはこの世の人のやることじゃない、天国の人がやることだ……あの世の者は人間どもに心を痛めて泣きはするが、咎めだてはしない、咎めるようなことはしないものです! ところが、このほうがかえって辛いです、咎めだてされないほうがかえって辛いんですよ! ……金は三十コペイカですがね、そう。あの子にだってその金は必要でしょう、え? どうお考えですか、あなた? あの子は今身ぎれいにすることに気をつかわなけりゃならない。この身ぎれいにするってこと、特別身ぎれいにするってことは金がかかるものなんですよ、おわかりですか? おわかりですかね? まあ、ああいうことをしていりゃポマードも買わなきゃならんでしょう、なしにはすまされませんからな。のりのきいたスカートも要れば、かっこうのいい小さい靴も要るでしょうよ、水たまりなどを跳びこえるようなときに足をなるべくスマートに見せるためにも。おわかりですかな、おわかりですか、あなた、この身ぎれいにするということがどんな意味か? それなのに、血をわけた父親のこのわしはあの三十コペイカの金を迎え酒の呑み代にふんだくって来てしまった! そしてこうして呑んでいる! そしてもう呑んじまったんです! ……さあ、わしのような、こんな男を、いったいだれが憐れんでくれますかね? え? あなたは今、このわしをかわいそうだと思いますか、どうですか? 言ってくれないか、あなた、かわいそうか、かわいそうでないか? へ、へ、へ、へ!」
彼は酒をつごうとしたが、もうなかった。びんは空だったのである。
「いったいなんだってお前みたいな奴をかわいそうだと思わなきゃならねえんだい?」二人のそばへ来ていた亭主がそう叫んだ。
どっと笑い声がおこり、罵る声まで聞こえた。話を聞いていた者も、聞いていなかった者も、ただその退職官吏の姿を見ただけで、吹きだしたり罵声をあびせたりするのだった。
「かわいそうに思う! なんでわしなんかをかわいそうに思うことがある!」マルメラードフは、片手を前へ突きだして立ちあがりながら、まるでこの台詞《せりふ》を吐くときを今か今かと待ちかまえてでもいたように、決然と意気ごんでそうわめきたてた。「どうしてかわいそうに思わなきゃならねえのか、とお前は言うんだな? そうだ! わしを憐む理由なんか、まったくないさ! わしははりつけになるべき人間だ、はりつけにすべきであって、憐れむべき男じゃない! はりつけにしてくれ、裁判官、はりつけに、だけど、はりつけにした上で、憐れんでくれ! だったら、おれは自分からお前さんのところへはりつけにされに行くぞ、わしが渇望しているのは楽しみなんかじゃない、悲しみと涙なんだ! ……やい、おやじ、貴様は、この酒びんがおれには気晴らしになったと思っているんだろう? おれはこの酒びんの底に悲哀を、悲哀を求めたんだぞ、悲哀と涙を、それを味わい、見出したのだ。万人を憐れみ、万人万物を理解してくれた方がわれわれを憐れんで下さるんだ、その方が唯一の、その方が唯一の審判者なのだ。その方は最後の審判の日にお出ましになってこうおたずねになる。『意地わるな肺病の継母のため、血のつながりのない年端もいかぬ子供たちのために、われとわが身を売った娘はどこにおる? 地上におけるおのが父親である放埓な酒呑みをも、その獣性をも恐れずに、憐れんでやった娘はどこにおるのか』とな。そしてこうもおっしゃるんだ。『さあ、来るがよい! わしは前にも一度お前を許してやったことがある……お前を一度許してやったことがある……が、このたびも、お前の数々の罪を許してやるぞ、人を大いに愛してやったからじゃ……』そして娘のソーニャを許して下さるんだ、許して下さるとも、わしにはもうわかっているのだ、許して下さるということが……わしはさっき、あの子のところへ行ったとき、この胸にはっきりそう感じたのだ! ……そして、みんなをお裁きになった上で、お許し下さるんだとな、善人であろうと悪人であろうと、賢い者であろうと従順な者であろうと……そしてぜんぶひととおり裁きがおわったとき、われわれにもこうおおせられる。『お前たちも出てくるがよい! 酒呑みどもよ、出てくるがよい、心弱き者よ、出てくるがよい、恥じ知らずどもよ、出てくるがよい!』で、われわれ一同が臆面もなく前へ出ると、こうおっしゃる。『なんじら豚どもよ、獣の相とその印をおびたる者どもよ、なんじらも出てくるがよい!』すると、智者も言い、賢者も言う。『主よ! なにゆえにこれらの者を、迎えたまうのですか?』すると、こうおっしゃる。『智者どもよ、わしが彼らを迎え入れるのは、賢者たちよ、わしが彼らを迎え入れるのは、これらの者のうちひとりといえども、おのれをそれに値する者とは考えておらなかったからじゃ……』そして、われわれにみ手をおさしのべになると、われわれはうつむいて……泣きだす……そしてなにもかも悟る! そのとき初めてなにもかも悟るのだ! ……だれもが悟るのだ……カテリーナも……あれもやはり悟るのだ……主よ、み国の来らんことを!」
こう叫ぶと、彼は、ぐったりと疲れはてて、まるで周囲のことなど忘れて深い物思いにふけりだしたように、だれにも目もくれずに、腰かけの上に倒れ伏した。彼の言葉は一同にある種の感銘を与えたらしく、一瞬間沈黙があたりを領した。が、やがて最前とおなじ笑いと罵声がわき起こった。
「うまく決着をつけやがったじゃねえか!」
「大ぼら吹いたもんだて!」
「小役人め!」
等、等。
「行きましょうか、学生さん」と不意にマルメラードフは顔をあげると、ラスコーリニコフのほうを向いてこう言った。「わしを送っていって下さい……コーゼルのアパートです、裏庭に面したほうですよ。もう引きあげなきゃあ……カテリーナのところへ……」
ラスコーリニコフはもうだいぶ前からここを出たいと思っていた。それにこっちも手を貸して帰らせるつもりだったのである。マルメラードフは足のほうが口よりもずっとまいっていたので、青年にしっかりともたれかかった。道のりはせいぜい二三百歩くらいのものだった。酔っぱらいは、アパートに近づくにつれて、次第にとまどいと恐怖にとらえられてきた。
「わしが今怖がっているのはカテリーナのことじゃない」と彼は興奮しながらつぶやいた。「あれに髪の毛をつかんで引きずりまわされることでもない。髪の毛がなんだ! ……ばかばかしい! とこうわしはあえて言うね! いっそ、引きずりまわされたほうがいいくらいのものだ……わしが……恐れているのはあの女の目だ……そうだ……目だ……頬っぺたの赤みも怖い……それに――あれの息づかいも怖い……あんたは、あの病気をわずらっている者が……感情が興奮しているときにどんな息づかいをするか、見たことがあるかね? 子供の泣き声も怖い……だって、もしもソーニャが養ってやらなかったら……どうなっているか、わかったもんじゃないんだからね! わかったもんじゃないんだから。なぐられることなんて怖がっちゃいない……いいですか、学生さん、わしはあんなふうになぐられるのが痛いどころか、嬉しいくらいなんでさ……こっちだってそうでもされなきゃやりきれませんものな。そうされたほうがいいんだ。すこしぶたせりゃ、むこうの気も休まるってもんでね……そのほうがいいんだ……ほら、もうアパートだ。コーゼルのアパートでさ。金もちの、ドイツ人の錠前屋の……さあ、案内してもらおうか!」
二人は裏庭からはいって、四階へのぼっていった。階段は上へのぼればのぼるほど暗くなっている。もうかれこれ十一時だ。この季節のペテルブルクには夜といえるような夜はないのだが、階段の上のほうは真っ暗だった。
いちばん上の、階段も尽きたところにある小さなすすけたドアはあけはなしになっていて、奥ゆき十歩ほどの貧弱な一室が燃えさしのろうそくに照らされていた。その部屋のなかは入り口から丸見えだった。あらゆるものが乱雑にとり散らされているなかに、わけても子供のとりどりのぼろ着物が散らかっていた。奥の隅には穴だらけの敷布が張りわたされている。そのかげには寝台がおいてあるらしかった。部屋のなかにあるものといっては、椅子が二脚と、あちこちひどく引きちぎれている油布張りのソファと、それに、その前にふるい台所用の松のテーブルがひとつ、それも白木で、なんの覆いもかけてないのがあるきりだった。そのテーブルの端には燃えさしの脂ろうそくが鉄の燭台に立ててある。これで見ると、マルメラードフはよその家の片隅ではなくて、独立のひと部屋を借りきっているわけだが、その部屋はほかの家の通り道にもなっているわけである。家主のアマリヤの住まいを小割りにした、奥の部屋や鳥かごのような小部屋に通ずるドアは、あけっぱなしになっていて、そこは騒然として人の喚き声がし、笑い声もしていた。トランプをやったりお茶を飲んだりしているらしく、ときどきひどく下卑《げび》た言葉が飛んで来る。
ラスコーリニコフにはすぐにカテリーナがわかった。それはおそろしく痩せぎすな女で、ほっそりしてかなり背が高く、すらりとしていて、いまだにすばらしい栗色の髪をして、しみとも言えるくらい真っ赤なほおをしていた。彼女は胸に両手をおしつけたまま、かさかさになった唇をして、大きくもない部屋のなかを行きつもどりつしながら、乱れた、とぎれがちな息づかいをしていた。その目は熱病でもわずらっているようにきらきら輝いていたが、目つきはするどく、じっとすわっていた。その興奮した肺病病みの顔は、消えかけているろうそくの、顔の上でゆらめく最後の光を受けて、病的な印象を与えていた。彼女はラスコーリニコフの目には三十くらいに見えたが、確かにマルメラードフには過ぎ者らしかった……彼女には人がはいって来た音が耳にもはいらなかったし、気づきもしなかった。どうやら、彼女は一種の放心状態にあるらしく、ものが見えも聞こえもしない様子だった。室内は息苦しいのに、彼女は窓をあけようともしなかった。また、階段のほうからは悪臭が漂って来ているのに、階段に通ずるドアもしめてないし、奥の部屋からは、タバコの煙の波があけさしの戸口を通っておし寄せてきて、しきりに咳が出るのに、そのドアもしめてなかった。いちばん小さい六つくらいの女の子は、体をまるめ、頭をソファにおしつけて妙なかっこうでゆかのうえに坐ったまま眠っていた。その子より一つ年上の男の子は隅のほうで体全体をぶるぶるふるわせながら、泣いていた。多分、今ぶたれたばかりなのだろう。九つぐらいと思われる、マッチ棒のように細くて背の高い上の女の子はあちこち破れ放題のひどいルバーシカ一枚に、今ではもう膝までもないところから見れば二年も前に自分で縫ったらしい古ぼけたドラデダムのマントをあらわな肩に羽織って、部屋の隅の小さい弟のそばに立って、弟の首をマッチ棒のようにやせた長い腕で抱いてやっていた。彼女は弟をなだめているらしく、弟になにやらささやいては、弟がどうかしてまたしくしくすすり泣きはじめるのをなんとかくいとめようとし、そうしながら、彼女の小さな顔がこけておびえたような顔であるだけになおさら大きく見える黒い目でこわごわ母親の挙動を見まもっていた。マルメラードフは部屋にははいらずに、戸口に膝まずいて、ラスコーリニコフを前へ押しやった。女は、見知らぬ男に気づくと、一瞬はっとわれに返り、男のまえに放心の体で足をとめて、いったいどうしてこの男ははいって来たのだろうと、とつおいつ思いめぐらすふうであった。が、きっと、彼女はとっさに、自分たちの部屋は通りぬけの部屋だからこの人はつぎの間へ行こうとしているのだとでも思ったのだろう、もうそれっきり彼には注意を払わずに、入り口のドアをしめに行こうとしたとたんに、しきいの上に膝まずいている夫の姿に気づいて、突然あっと叫び、
「まあ!」と狂乱の体でわめきだした。「帰ってきたのね! 懲役人! 極道者め! ……お金はどこにあるのさ? ポケットになにがはいっているか、見せなさい! 服までちがうわ!服はどこへやったのよ? お金はどこにあるのか、おっしゃい……」
そう言うと彼女は飛んでいって、彼の体をあらためはじめた。マルメラードフはさっそくすなおにおとなしく両腕をひらいて、ポケットの検査をやりやすいようにしてやった。金は一コペイカもなかった。
「お金はいったいどこへやったのさ?」などと彼女はわめきたてていた。「まあ、ほんとうにこの人ったらみんな呑んじゃったのかしら! トランクのなかに十二ルーブリも残っていたのに!……」こう言うと彼女は気ちがいのようになってやにわに相手の髪をつかみざま部屋のなかへ引きずりこんだ。マルメラードフはおとなしく膝ではってあとについて来て、女房の骨おりを軽減してやった。
「これがわしには楽しみなんですよ! これですよ、痛いどころかたのーしーみだというのは、がーくーせいさーん」などと、彼はつかんで揺さぶられて、一度などゆかに額をごつんとぶつけながら、叫びたてていた。ゆかの上で眠っていた子供が目をさまして、泣きだした。部屋の隅にいた男の子はこらえきれなくなって、がたがた震えだし、わあっと声をあげて、まるで発作でも起こしたようにびっくり仰天して姉にしがみついた。姉娘は気もそぞろにぶるぶる震えていた。
「呑んじまったんだわ! みんな残らず呑んじまったんだわ!」と、あわれな女は絶望した様子でわめいていた。「それに服まで変わっている! みんなひもじい思いをしているのに、ひもじい思いをしているのに!(と言って、手をもみながら、彼女は子供たちを指さしていた)ああ、ほんとにいやらしい生活だわ! それなのに、あんたは、あんたはよくも恥ずかしくないわね」そして今度は急にラスコーリニコフにくってかかった。「酒場から来たのね! あんたもいっしょに呑んだんだろう? あんたもこの人と呑んだんだね! とっとと出ていきな!」
青年はひと言も言わずに、急いで立ち去ろうとした。おまけに奥のドアが一ぱいにあけはなたれて、野次馬の顔がいくつかのぞいていたからである。巻きタバコをくわえたり、パイプをくわえたり、トルコ帽をかぶったりして、ずうずうしげに、にたにた笑っている連中の顔がさしのぞいていたのだ。部屋着姿で前をすっかりはだけている者や、不作法なくらい夏着姿の者や、なかにはトランプのカードを握っている者の姿も見うけられた。連中が特別おもしろそうに笑ったのは、マルメラードフが、髪をつかんで引きずられながら、これがわしには楽しみなんだと叫んでいたときだった。連中は部屋のなかまではいりこんで来たと思うと、そのうちついに不気味な金切り声が聞こえだした。それは、当のアマリヤが、自分流に処置をつけようと思って、これでもう百回にも及ぶのだが、明日にも部屋をあけろと悪口まじりに命令してあわれな女をおどそうと、人をおし分けて前へ出てきたのだ。ラスコーリニコフは帰りがけにポケットに手を入れて、居酒屋でくずしてきた一ルーブリの残りの銅貨を、つかめるだけつかみ出して、どうにか気どられないようにそうっと小窓にのせてきた。が、それから階段にさしかかったとき、思いなおして、引っ返そうかと思った。
『ま、なんておれはばかなことをしたもんだ』と彼は考えたのである。『あの一家にはソーニャがついているんだし、おれだって金は要るんじゃないか』が、しかし今さら取りもどしに行くわけにもいかないし、それにたとえ取りもどせたとしても自分はやっぱり取りもどさないにちがいないと思いあきらめて、自分の下宿をさして歩きだした。『ソーニャにだってポマードも必要だろう』と、彼は通りを歩きながら考えつづけ、毒々しげににやりと笑った。『この身ぎれいにするってやつは金がかかるもんだからな……ふむ! それにソーニャのほうだってひょっとするときょうにも破産するかもしれないじゃないか、だってあの商売は熊狩りだの狐狩りだの……金鉱さがしなんかとおなじような冒険だものな……してみれば、おれの金がなかったらあの一家はあしたにも食いっぱぐれるかもしれないんだ……えらいぞ、ソーニャ! それにしてもあの一家は大した井戸を掘りあてたもんだ! しかしその井戸を連中は利用してやがる! ちゃんと利用してやがるんだ! なれっこになっちまったんだなあ。ひとしきり泣いただけで、もうなれっこになっちまったわけだ。人間て卑劣なもので、なんにでもすぐ馴れちゃうものなんだ!』
彼は考えこんでしまった。
「ところで、もしおれの考えがまちがっているとしたら」と彼は出しぬけに思わず叫んでしまった。「もしも実際に人間が、人間全体が、つまり人類が卑劣《ヽヽ》にできていないとしたら、あとに残るのは先入見だけ、仮相の恐怖だけということになり、全然障害なんかないことになるぞ、当然そういうことになるはずだ!……」
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彼はおちおち眠れずに、そのあくる日はだいぶおそく目をさました。が、眠っても元気は取りもどせなかった。彼は、むしゃくしゃした、いらだたしい、怒りに満ちた気分で目をさますと、憎々しげに自分の小部屋を眺めまわした。それは奥ゆき六歩ほどのちっぽけな部屋で、あちこち壁からはがれている黄ばんだ埃だらけの壁紙がはりめぐらしてあって、見すぼらしいことおびただしく、それに天井のひくいことといったらちょっと背の高い人ならそこへはいると気味が悪く、しょっちゅう、今にも頭を天井にぶつけそうな気がしてならないくらいなのだ。家具がまた部屋につりあったものだった。やや形のくずれている古椅子が三脚とそれに部屋の隅には塗り机が一つあって、その上にはノートと本が何冊かおいてある。その椅子や机が埃をかぶっているところを見ただけでもすでに、もうだいぶ前からだれひとり手をふれていないことは明らかである。最後にもうひとつ、ぶかっこうな大きいソファがあって、それは一方の壁全部と部屋の中の半分を占めていた。かつては更紗《さらさ》張りだったが、今はぼろぼろになって、ラスコーリニコフの寝床のかわりをつとめているのである。彼はちょいちょいそのソファに、シーツも敷かず、着のみ着のままで、自分の古ぼけた学生マントをかぶり、枕べに小さな枕をひとつおいて、その下に、枕をなるべく高くするためにありったけの下着を、きれいなのも着古したのも全部おしこんで、眠るのだった。それにソファの前には小さなテーブルがおいてあった。
なかなかこれ以上だらしなくも、不精にもなれるものではない。が、ラスコーリニコフには今の精神状態ではかえってこのほうが気分がよいのである。彼は、かめが甲羅《こうら》に身をかくすように、徹底的に人から遠ざかって暮らしていたため、彼の身のまわりの世話をやくのが勤めでときどき彼の部屋をのぞきこむ女中の顔でさえ、かんしゃくと神経的発作をひきおこす。こういうことは、なにかにひどく凝ってしまった偏執狂によくあることなのである。下宿のおかみが彼に食事を出さなくなってからもう二週間にもなるのに、彼は、こうして食事ぬきでひきこもっていながら、いまだに彼女にかけあいに行く気もしないのだ。おかみのただひとりの女中であり料理女であるナスターシヤは、下宿人がそういう気分になっていることをいくぶん喜んでいるふうで、彼の部屋の片づけや掃除をまるっきりやめてしまい、ただ週に一度くらい、ときどき思いだしたようにほうきを手にすることがあるきりだった。今彼を起こしたのもその彼女だったのである。
「起きなさいよ、なんだって寝坊してるのさ!」と彼女は彼を見おろしてどなりつけた。「もう九時すぎじゃないか。紅茶を持ってきてあげたよ。紅茶がほしいんだろ? おなかだってぺこぺこだろうに」
下宿人は目をあけ、ぶるっと身震いすると、ナスターシヤに気がついた。
「その紅茶はおかみさんがよこしたのかい?」と彼は聞きながら、病的な顔つきをしてゆっくりとソファの上に身をおこした。
「おかみさんなんかよこすもんかね!」
彼女は彼の前に、自分のひびのはいっている急須《きゅうす》に出がらしの紅茶を入れてきたのをおき、黄色い砂糖のかけらを二つのせた。
「ねえ、ナスターシヤ、すまないが、これを持っていって」と、彼はポケットのなかをまさぐり(彼は服を着たままで寝ていたのだ)、銅貨をひとつかみ取りだして、こう言った。「白パンを買ってきてくれ。それから腸詰屋でちょっとソーセージでも買ってきてくれ、なるべく安いのをな」
「白パンなら今すぐにでも持ってきてあげるよ、ソーセージのかわりにキャベツ汁はいらない?すてきなキャベツ汁だよ、きのうのだけど。きのう取っておいてあげたんだよ。だけどあんたは帰りがおそかったものね。上等なキャベツ汁だよ」
キャベツ汁が来て、彼がそれに手をつけると、ナスターシヤはそばのソファに腰をかけて、おしゃべりを始めた。彼女は田舎《いなか》出の百姓女で、ひどくおしゃべりな女なのである。
「おかみさんがあんたを警察へ訴えるつもりらしいよ」と彼女は言った。
彼はきゅっと眉をしかめた。
「警察へ! なんのことで?」
「あんたが家賃も払わないし、引っ越してもいかないからさ。知れきってるじゃないの、なんのことかは」
「ちぇっ、いい加減にしてくれよ」と彼は歯ぎしりしながら、つぶやいて「いや、そんなことをされちゃ今のところ……ぐあいがわるいんだ……あいつはばかだな」と大声で言い足した。
「きょう、あいつのところへ行って、かけあって来よう」
「あのひともそりゃ、わたし同様ばかはばかだけど、そういうお利口さんのあんただって俵みたいにごろごろしているだけで、なにかやっているようなふうにも見えないじゃないの? 前には子供の家庭教師に行っているという話だったけど、この頃はどうしてなんにもしないんだね?」
「やってるよ……」とラスコーリニコフは荒っぽい口調でしぶしぶ口をきいた。
「なにをやってるのさ?」
「仕事だよ……」
「どういう仕事を?」
「考えごとだよ」と、彼はしばらく黙ってから、真顔でそう答えた。
ナスターシヤは急に腹をかかえて笑いだした。彼女は笑い上戸で、人が笑わせるようなことをすると、声をたてずに、体じゅう揺すって、気分が悪くなるまで笑っているのである。
「どっさりお金をもうけることでも考えついたのかい?」と彼女はやっとこれだけ言えた。
「長靴もなくちゃ子供の家庭教師もできないよ。それにあんな仕事はもうくそくらえだ」
「でも、飲める井戸に唾をはくようなまねはするもんじゃないわ」
「子供の家庭教師をしたって目くされ金しかもらえないものな。そんなはした金でなにができる?」と彼は気乗りのしない調子で、まるで自問自答でもするように、言葉をつづけた。
「じゃ、あんたはいっぺんにひと財産こしらえようっていうの?」
彼は変な顔をして相手を見た。
「うん、ひと財産こしらえたいんだ」彼はちょっと黙ってから、そうきっぱりと答えた。
「ま、すこしずつ溜めるんだね、でないとみんなびっくりしちまうからね。ほんとに恐い話だわ。白パンは買ってくる、買ってこない?」
「どうでも」
「そうそう、忘れてたわ! あんたんとこへきのう留守中に手紙が来てたよ」
「手紙が! 僕にかい! だれから?」
「だれからかは知らないわ。郵便屋さんに三コペイカたてかえておいたからね。返してもらえるんだろうね?」
「じゃ、持ってきてくれ、ね、頼む、持ってきてくれよ!」とラスコーリニコフはすっかり興奮してわめきだした。「ああ!」
手紙は、すぐに持ってきた。案の定、R県にいる母親からだった。彼はそれを受けとりながら、顔色を変えたほどだった。手紙をもらうのはずいぶん久しぶりだった。が、今はそれだけではなく、なにか別のことで胸がぎゅっとしめつけられる思いがしたのである。
「ナスターシヤ、どうか、あっちへ行ってくれ。さあ、これはお前の三コペイカだ、ただし、頼むから、はやくあっちへ行ってくれよ!」
手紙は手に握られたまま震えていた。彼は彼女のいる前で封を切りたくなかったのだ。彼はその手紙と|さしむかい《ヽヽヽヽヽ》になりたかったのである。ナスターシヤが出ていくと、彼は手早くそれを唇へ持っていって、接吻した。それからさらに長いこと宛名の筆蹟に、昔自分に読み書きを教えてくれた母親の、見覚えのある、なつかしい、細字で傾斜気味の筆蹟に見入っていた。彼はぐずぐずして、まるでなにかを怖れているようにさえ見えた。が、とうとう封を切った。手紙は長文で、びっしり書きこんであり、目方も三十グラム近くあって、大判の書簡箋二枚に実にこまかい字で一杯に書きつらねてあった。
『わたしのかわいいロージャ(ラスコーリニコフの名ロジオンの愛称)』と母親は書いていた。『もうこれでふた月の余もお前と手紙で話をしていないため、わたしはそれが苦になり、気にかかって眠れなかった夜さえあったくらいです。でも、きっと、お前は、わたしがこうして心ならずもお便りしなかったことを咎めだてはしないと思っています。わたしがお前をどんなに愛しているかは、お前も知っているはずですからね。お前はわたしたちの、わたしとドゥーニャ(エヴドーキヤの愛称)のたったひとりの身内です、お前はわたしたちのすべてなのです、わたしたちの期待、希望のすべてなのです。お前が自分の身も養っていけないのでもう何ヵ月も大学へ行っていない、家庭教師その他収入の道が途絶えてしまったと知ったときのわたしの気持ちはどんなだったでしょう!
年に百二十ルーブリやそこらの年金でわたしにどうしてお前を援助できますか? 四ヵ月前にお前のところへ送った十五ルーブリは、お前も知ってのとおり、この年金を抵当に、当地の商人ワシーリイ・イワーノヴィチ・ワフルーシンさんから拝借したお金なのです。あの方は親切な方で、それにお前のおとうさんのお友だちだった方です。けれど、わたしにかわって年金を受ける権利をあの方に譲渡してしまったため、わたしは借金の支払いがすむまでじっと待たなければならず、この頃やっとそれがすんだところなのです。そんなわけで、このところずうっとお前にまるっきり送金できなかったわけです。でも今は、ありがたいことに、わたしもどうやらまた送金できそうになり、それどころか今ではだいたいわたしたち、幸運を吹聴することさえできるようになったことを、まずは取りあえずお知らせしておきます。
第一には、お前にも察しはついていると思いますが、ロージャ、お前の妹はもうこれで半年もわたしといっしょに暮らしていて、二人はもう今後これっきり別れて暮らすようなことはなさそうです。おかげで、あの子の苦労もこれでおしまいになったわけですが、事の次第や今までお前に隠していたことなどをお前に知ってもらうために、一部始終を順序だててお話しすることにしましょう。二ヵ月前にお前がわたしのところへ手紙で、ドゥーニャはスヴィドリガイロフ家で手荒なあつかいをされて大変難儀をしているという話をある人から聞いたといって、わたしに正確なところを知らせてほしいといってきたけれど、あの頃お前にどういう返事が書けたと思います? もしもわたしがありのままを全部書いてやったとしたら、お前はおそらく、なにもかもほうり出して、たとえ歩いてでもわたしたちのところへ来たにちがいありません。わたしはお前の気性も気持ちも知っています。そしてお前は妹に恥をかかせっぱなしにはしておかなかったことと思います。わたしだって神も仏もあるものかといった気持ちでしたもの。でもどうしようがあったでしょう? わたしにだってあの頃は真相が残らずわかっていたわけではないんですもの。一ばん困ったことは、ドゥーニャが去年あのお屋敷へ家庭教師に住みこんだときに、月々お給料から差し引くという条件でまるまる百ルーブリも前借りしていたため、その借金を返済しないうちはあそこをやめるわけにいかなかったことです。あのお金を借りた主な目的は(今なればこそお前になにもかも打ちあけられるのだけどね、ロージャ)、あの頃お前が大変ほしがっていた、そしてお前が去年わたしたちから受けとったあの六十ルーブリをお前に送ることだったのですよ。
わたしたちはあのときお前に嘘を言って、これは前からのドゥーニャの貯金の一部だなどと書いてやったけれど、あれはそうじゃないのです、今こそ洗いざらいほんとうのことをお知らせします、というのは、今では、神さまのお計らいで、なにもかも急に好転してしまったし、それにドゥーニャがお前をどんなに愛しているか、あの子はどんなに気高い心を持った娘かお前にも知ってもらいたいからです。確かに、スヴィドリガイロフさんは初めはあの子にとてもひどいあつかいをして、食事中にもいろんな失礼なふるまいやら嘲弄するようなまねをしました……けれど、そんないやなことをくだくだたち入って話すつもりはありません、もう今では何もかもけりがついてしまっているのに、ただわけもなくお前を興奮させることもありませんからね。かいつまんで言えば、ドゥーニャは、スヴィドリガイロフの奥さんのマルファさんや家じゅうの者から親切で礼をつくしたあつかいを受けていながら、大変いやな思いもしていたのです。とくに、スヴィドリガイロフさんが古い連隊時代の癖でバッカスの影響を受けている(酒に酔っている)ときがそうでした。ところが、あとでわかったことなんだけど、まったくあきれるじゃありませんか、あの色気ちがいめ、もうだいぶ前からドゥーニャに気がありながら、ずうっとそれを粗野なふるまいや軽蔑で隠していたのです。事によると、あの人は、自分がもうかなりの年配であり一家の父親でありながらそんな軽はずみな野心などをいだいているのに気づいて、自分でも恥ずかしくなり、ぞっとし、そのためその気もないのにドゥーニャに当たりちらしていたのかもしれません。でなければ、あるいは、乱暴な態度を見せたり、からかったりしてほんとうの気持ちを他人の目から隠そうとしていただけのことかもしれません。ところが、とうとう我慢しきれなくなって、ずうずうしくもドゥーニャに露骨にいやらしい求愛をしかけ、あの子にそのかわりいろんな品物をやると約束した上、なにもかも棄てて、いっしょによその村か、事によったら外国へでも逃げだしてもよいなどと言ったとか。あの子の苦しみようがどんなだったか想像がつくでしょう!
今すぐ暇をとるというわけにもいかない、それは借金しているからというだけのことではなくて、マルファさんへの配慮もあったので、そんなことをすれば奥さんが急にあやしいと思いはじめるかもしれず、その結果家庭に不和を持ちこむことにもなると思ったからなのです。それに、ドゥーニャにとっても大変なスキャンダルになるわけで、とても無事にすむわけはありません。この場合ほかにいろんな理由もあり、そんなわけでドゥーニャにはどうしても六週間というものあのおそろしいお屋敷を脱出する目鼻がつかなかったのです。むろん、お前はドゥーニャをよく知っているし、あの子がどんなに利口で、しっかりした気性を持った娘かも知っているだろうけれど、ドゥーニャにはたいていのことは辛抱もできるし、どんなどたん場でも、しっかりしたところを失わないような腹の坐ったところがあるのです。あの子はわたしに心配させまいとして、わたしたち二人は頻繁に手紙のやりとりをしていたのに、わたしにはまるっきり書いてよこさなかったくらいです。が、そのうち思いがけない大詰めが到来しました。マルファさんが、自分の夫が庭でドゥーニャをくどいているところを偶然立ち聞きしてしまい、なにもかもあべこべにとって、なにもかもあの子のせいだと思いこんで、全部あの子に罪を着せてしまったのです。
たちまちその庭ですさまじい騒ぎが持ちあがってしまいました。マルファさんはなにひとつ耳を貸そうともせず、ドゥーニャに手まで振りあげ、まる一時間もわめきたてたあげく、ドゥーニャを粗末な百姓馬車で町のわたしのもとに即刻送りかえすように言いつけて、その馬車にあの子の持ちものを全部、下着も服も、手あたり次第、たたみも荷造りもせずに投げこませたのです。折からどしゃぶりの雨が降りだし、そのなかを侮辱され恥ずかしい目にあわされたドゥーニャは百姓といっしょにまるまる十七露里の道のりを覆いのない荷馬車に乗って帰らなければならなかったのです。まあ、考えてごらんなさい、あの二ヵ月前にお前からもらった手紙の返事に、なんとお前に書いてやれたか、なにを書いてやればよかったか? わたし自身絶望にあえいでいたくらいですもの。わたしには真相をお前に書いてやれなかったのです、だってそんなことをしたところでお前はやるせない気持ちになり悲憤慷慨するばかりでなにもできなかったでしょうからね。ひょっとしたら、その上自分から一生を台なしにしてしまうようなことをしでかしたかもしれないし、それにドゥーニャも、書くなととめたのです。かといってて、胸にあんな悲しみを秘めながら、つまらないむだ話やなんかで手紙を埋めることもわたしにはできなかったのです。
まるひと月もこちらでは町じゅうにこの事件で噂が立ち、果ては、ドゥーニャといっしょに教会へ通うことすら、さげすむような目つきで見られたりひそひそ話をされたりするためできなくなり、わたしたちのいる前で聞こえよがしに話をしあう者さえいるようになったくらい。知人もそれこそひとり残らずわたしたちを避けて、みんなあいさつすらしなくなり、それにこれは確実に突きとめたことなのですが、商店の番頭や事務員が何人かでわたしたちに卑劣にも恥をかかせようとて、わたしたちのアパートの門にタールを塗ったことから、家主夫婦がわたしたちに立ちのきを迫りだすような始末。それもこれもみんな、もとはといえばマルファさんのせいで、あの人はあちこち軒なみによその家をまわり歩いてドゥーニャを悪くいいふらし顔に泥を塗って歩いたからなのです。奥さんはこの町の人とはひとり残らず知りあいなのですが、今月はまた町へびっしり通いづめのありさまで、少々おしゃべりで、自分の家庭事情などを洩らしたり、大変よくないことですが、とりわけ自分の旦那さんのことをだれかれの差別なくひとりひとりこぼして歩くことが好きなものですから、事件の一部始終がほんの短い期間に町はおろか郡内一円にひろまってしまったのです。おかげでわたしは病みついてしまいましたが、ドゥーニャはわたしよりしっかりしていて、実際、あの子がなにもかも耐え忍んで、わたしを慰め元気づけてくれた様子をお前にも見てもらいたいくらいでした!
あの子はほんとうに天使です! それでも、神さまのお恵みで、わたしたちの苦しみも短期間ですみました。スヴィドリガイロフさんが思いなおして、前非を悔い、多分ドゥーニャが不憫《ふびん》になったのでしょう、マルファさんに、ドゥーニャの身の潔白を明かす完全で明白な証拠を見せてくれたのです。それは、まだマルファさんに二人が庭にいたところを見つかる前に、ドゥーニャがあの人の強要するじかに会っての愛情の告白や密会を断わるために、よんどころなく書いてあの人に渡した手紙で、その手紙はドゥーニャが屋敷を出たあとスヴィドリガイロフさんの手もとに残っていたものなのです。その手紙のなかであの子は、あの人のマルファさんに対する不品行を、それこそ激しい調子で、すっかり憤慨して責め、あなたは父親であり一家のあるじではないかとあの人に注意し、最後に、それでなくてももう不幸で頼るものもない娘を苦しめたり不幸にしたりすることがあの人の側から見てもどんなに見下げはてたふるまいかしれないと注意したのです。要するに、ロジオンや、その手紙はそれこそけなげに切々と書かれていたので、わたしはそれを読みながらむせび泣いたくらいで、いまだに涙なしには読めません。そればかりか、あげくのはてに、ドゥーニャの無実のあかしに、召使いたちまで出てきてくれたのです。召使いたちは、こういうことはよくあることですが、スヴィドリガイロフさん自身が思っていたよりずっといろんなことを見て知っていたのです。
マルファさんはすっかりびっくり仰天し、あの人自身がわたしたちに告白した言いぐさによると「二度びっくりした」わけですが、そのかわりドゥーニャの潔白をすっかり信じてくれ、その翌日の日曜日にはまっすぐ寺院に車をつけて、聖母さまの前にひざまずいて、この新たな試練に耐えて自分の義務をはたす力を与えて下さいますようにと涙ながらにお祈りしました。そしてその足で、どこへも寄らずに、わたしたちのところへ来て下さって、わたしたちに一部始終を語って、泣きに泣いて、心から罪を悔い、ドゥーニャを抱きしめて、自分を許してくれと一生懸命頼んでいました。それからぐずぐずせずにその朝のうちにわたしどもの家からまっすぐ町じゅうの家を一軒々々まわりはじめ、行くさきざきで涙を流し、表現のかぎりをつくしてドゥーニャをほめちぎりながら、あの子のぬれぎぬを晴らし、あの子の気だかい心ばえとおこないをほめ賛えて歩き、そればかりか、ドゥーニャのスヴィドリガイロフさんあての手紙をみんなに見せたり、朗読して聞かせたり、はてはその写しをとらせたりまでして歩きました(これはわたしにはどうも少々余計なことのように思われるのですが)。こんなふうにして、あの方は幾日かぶっつづけに町じゅうの家を一軒残らずまわることになったわけです。というのも、ほかの人をさきにしたと云って気をわるくした者も出たからで、そんなことから順番までできてしまい、そのためどこの家でももう前もって待機していて、だれにも、いついつの日にはマルファさんがどこそこで手紙を読むことになっているということがわかっていて、朗読会の度ごとに、手紙をもう何度となく自宅でもよその知人の家でも順ぐりに聞いたことのある者までがくり返し集まってくるようなありさまでした。わたしにいわせれば、この場合余計と思われることもずいぶんあったのですが、マルファさんという方はそういう性分の人なのです。少なくとも、あの方はこれでドゥーニャの名誉を完全に回復してくれた反面、この事件の醜悪な面はぜんぶ、張本人であるご主人の身にぬぐえない恥辱となって転嫁されたわけで、ですからわたしはあの人が気の毒な気がするくらいです。皆さんがあの気ちがいじみた人にちょっと手厳しすぎた感じなんでね。ドゥーニャはさっそく何軒かのお屋敷から家庭教師に来てくれと申しこまれましたが、あの子はみんなことわってしまいました。それにしてもだいたいあの子にはだれもが急に特別敬意をはらいはじめたようです。
さて、主にこういったことから思いがけない事件がおこり、その事件のために、いわばわたしたちの運命が今やがらりと一変しようとしているのです。実はね、ロージャ、ドゥーニャに結婚の申しこみをしてきた方があって、あの子ももうその人に承諾を与えてしまったので、とり急ぎお前にお知らせするわけです。この縁談はお前の意見も聞かないうちにまとまってしまったのだけれど、お前からは、多分、わたしにも妹にも苦情は出ないだろうと思っています。というのは、事のなりゆきからお前にも察しはつくと思いますが、わたしたちはお前の返事が来るまで待ったり延ばしたりできなかったのです。それに、お前だって自分の目で見ないことにはぜんぶにわたって正確な判断を下すことはできなかったでしょうからね。
事のいきさつはこうだったのです。先方はすでに七等官になっているピョートル・ペトローヴィチ・ルージンという方で、この縁談に大変お骨折りをいただいたマルファさんの遠縁の方です。先方がマルファさんを介してわたしたちと近づきになりたいとおっしゃって来たのが事の始まりで、こちらもしかるべくお招きして、コーヒーなどさしあげたところ、そのあくる日手紙をおよこしになって、その手紙でまことに丁重な結婚の申しこみがあって、早急に決定的な返事をいただきたいといってこられたのです。その方は忙しいお体で、今も現に急いで上京されるとかで、一瞬一刻もむだにはできないとのことなのです。いうまでもなく、わたしたちも初めは、なにもかもがあんまり急で思いがけないことだっただけに、大変びっくりしました。そして、一日いっぱい二人してあれこれ考えあわせたり思案をこらしたりしました。その方は有望な方で暮らしにも困らないお方で、勤めも二ヵ所に出ておられるし、すでに財産も持っておられるとのことです。もっとも年はもう四十五ですが、お顔だちはかなり人好きもするし、まだまだ女にも好かれるくらいのところもあり、それに総じて押し出しが堂々とした上品な人です。ただいくぶん気むずかしそうだし、お高くとまっているように見えるところもあります。でも、それは、事によると、一見そう見えるだけなのかもしれません。そこでお前に前もって注意しておきますけれど、ロージャや、これはごく近々にあることと思いますが、ペテルブルクであの方にお目にかかったとき、たとえひと目見てどこか気にくわないところがあったとしても、例のお前のもちまえの癖で、あまりせっかちに、気短かな判断はしないでもらいたいのです。
あの方ならお前によい印象を与えるにちがいないとは信じていますけど、念のために言っておきます。それに、それは別としても、だれによらず人を知るには、だんだんと、慎重に接していかなければなりませんよ、でないと、過ちや誤解におちいるし、それをあとで改めたり取り消したりすることはなかなかむずかしいものですからね。ところで、ルージンさんは、少なくともいろんな点から見て、まことに立派な方です。初めて訪ねていらっしゃったとき、あの方はわたしたちにむかって、自分は実務的な人間だが、あの人自身の言いかたによると「わが国の最もあたらしい世代の信念」に共鳴するところが多いそうで、それにあらゆる偏見の敵だともはっきりおっしゃっていました。そのほかにまだいろんな話をしておられました。あの人はどうもいくぶん見栄《みえ》っぱりなところがあるらしく、人に自分の話を聞かせるのが大好きらしいんですね。でも、こんなことはほとんど欠点ともいえないようなこと。わたしには、もちろん、よくはわからなかったのですが、ドゥーニャがわたしに説明してくれたところでは、あの方は教養はたいしてある人ではないけれど、賢い、そして、おそらくは親切な人だとのことでした。お前は妹の気性を知っているはずですけどね、ロージャ、あの子はしっかり者で、思慮分別もあり、辛抱づよくて、かあっとなりやすいところはあるけれど、心のひろい娘で、それはわたしも見とおしています。もちろん、あの子のほうにもあの方のほうにもこの場合特別愛情があるわけではないけれど、ドゥーニャは賢い娘であるばかりでなく、――同時に天使のように気高い清らかな心の持ち主ですから、夫を幸福にすることを自分の義務と心得れば、今度は夫のほうもあの子の幸福に意を用いるようになることでもあるし、正直いって縁談のまとまりかたが少々早かった嫌いはあるけれど、あの子の幸福ということについては、さしあたり、これといって危ぶまなければならぬ理由もないようです。それに加えて、あの人はなかなか目はしのきく方ですから、ドゥーニャが自分のおかげで仕合わせになればなるほど、自分自身の夫としての幸福もますます確実になることぐらい、むろん、自分のほうから悟るにちがいありません。
それに、なんかかんか性格上のちがいとか、古いしきたりとか、意見の不一致といったようなものも、いくらかあるでしょうが(これは、この上なく仕合わせな夫婦にすら、ないというわけにはいきませんが)、この点についてはドゥーニャ自身わたしに云っていました、自分には自信がある、その点はなにも心配することはない、さきざきの二人の関係が誠実で正しくありさえすれば、たいていのことは辛抱できるとのことでした。たとえば、あの人はわたしにも初めはかどのある人のように見受けられましたが、これも、あの方が一本気な人であるところから来ているのかもしれないじゃありませんか、いや、そうにちがいありません。また、たとえば、二度めに訪ねてこられたときなども、承諾の返事をもらったあとでいろんな話の最中に、自分はもう前々から、ドゥーニャを知る以前から、誠実な、ただし持参金など持たない、そしてすでに不幸な目に会ったことのある娘さんをもらうことにきめていたのだなどと申しておりました。そしてその理由は、あの方の説明によると、夫たる者はけっして自分の妻に恩になってはならない、むしろ妻に夫を恩人と思わせるくらいのほうがずっといいのだというのでした。つけ加えておきますが、あの方はわたしが今書いたよりももう少し物やわらかな、やさしいいいかたをなさったのです。なにしろ、わたしはあの方がほんとうはどういう表現を使ったか忘れてしまって、ただ意味しか覚えていないし、それにあの方がそう言ったのもけっして下心があってのことではなくて、明らかに話に油が乗っているうちについ口をすべらしてしまったまでのことなのです。だから、あとで一所懸命言いなおしたり表現をやわらげたりしていました。でも、わたしにはやはり少々言葉がすぎるような感じがしたので、あとでドゥーニャにそう言ってやりました。ところが、ドゥーニャはむしろ腹立たしげにわたしにむかって、「言葉なんか問題じゃないわ」というような返事をしていましたが、それは、むろん、そのとおりです。いよいよ腹をきめなければならないというその前の晩、ドゥーニャは夜どおし眠らず、わたしがもう眠っているものと思ったらしく、寝床をぬけ出て、一晩じゅう部屋のなかを行きつもどりつし、あげくのはてに聖像の前にひざまずいて長いこと熱心に祈っていて、そのあくる朝わたしに、決心がついたむね告げたようなわけでした。
前にもひと言ふれておきましたが、ルージンさんはこれからペテルブルクへ発とうとしています。あの方はそちらに大切な仕事がおありで、ペテルブルクに弁護士事務所をひらきたいのだそうです。あの方はもうだいぶ前からいろんな訴訟事件をあつかっておられ、ついこの間も大きな訴訟に勝ったばかりだそうです。ペテルブルクへどうしても出なければならないのも、最高裁になにか大事な用事があるからなのです。そんなわけで、ロージャ、あの方はお前にもなにかにつけてためになる人ですから、わたしもドゥーニャも、お前はもうきょうからでも将来の出世の道を着実に踏みだせるのだから自分の運命ももうはっきり決まっていると考えてよいものと、早くも決めてしまっています。ああ、もしほんとうにそうなってくれたらねえ!
そうなったら大変得になることがあるわけで、神さまがわたしたち一家に直接お慈悲を垂れたもうたとしか考えようがないことになります。ドゥーニャはそんなことばかり夢見ています。わたしたち、すでにもう思いきってそのことについて二言三言ルージンさんに話してみました。そうしたら、あの方は、慎重ないいかたでしたけど、むろん自分は秘書なしじゃすまないのだから、仕事に向く人だったら、当然、給料を他人に支払うよりは身内に払うに越したことはありませんと言っていました(いったいお前に向かないわけがあるでしょうか!)が、そのとき、大学の勉強もしながら事務所の仕事に時間がさけるだろうかという懸念も洩らしていました。そのときは、その話はそれっきりでしたが、ドゥーニャは今ではそのこと以外なんにも頭にないようなありさまです。あの子はここのところ、もう幾日も、まるっきりなにかのぼせたようなぐあいで、もうすっかり、ゆくゆくはお前が訴訟の仕事の上でルージンさんの片腕とも協力者ともなるような計画までたててしまいました。お前は法学部に行っているんですもの、なおさらいいわけですものね。
わたしもね、ロージャ、あの子とまったく同意見で、あの子の計画と希望は十分に実現性があると見て、その計画や希望をともに語りあったりしています。これは至極もっともな話ですがルージンさんには今のところこの話を避けようとするようなところが見えますが、(だってあの方はまだお前をご存じないんですものね)ドゥーニャは未来の自分の夫によい感化さえ与えればなにもかも実現するものとかたく信じています。その点あの子はかたく信じて疑わないのです。それは、もちろん、そうした自分たちの遠い将来の夢のうちのなにかひとつでも、とりわけお前にあの方の協力者になってもらうなどという夢については、わたしたちもルージンさんの前では心して口をすべらさないようにしています。あの方は実際家ですから、おそらく、あの人にそれこそすげなくあしらわれてしまうでしょうからね。だって、あの人から見れば、こんなことはみんなただの夢にしか見えないことでしょうから。同様に、わたしもドゥーニャも、お前が大学に行っている間あの方に学資の援助をしてもらえたらという強い希望については、まだあの方とひと言も話しあったことはありません。それを話さなかったのは、第一、そんなことはいずれそのうち自然にそうなることだろうし、余計なことを言わずとも、おそらくあの方のほうから申し出てくれるにちがいない(ドゥーニャのこれくらいの頼みをことわるわけはありませんものね)、ましてやお前が事務所の仕事の上であの方の片腕になってあげられる以上、その援助を受けるのも恩恵という形ではなくてお前が稼ぐ給料という形になるわけですから、なおさら早くまとまるはずと思ったからです。ドゥーニャは事をそういうふうに運びたいと思っているし、わたしもそれには賛成です。
第二に、なぜ話さなかったかというと、今度近々二人が顔を会わすときに、わたしはお前をあの方と対等の位置に立たせたいと特に思うからなのです。ドゥーニャがあの方にお前のことを夢中になって話したとき、あの方は、人を判断するには、だれにもせよ、その人を最初自分の目で、なるべく近間からよく観察する必要がある、だから自分はロジオンさんについての見解をまとめるのも、おたがいに知りあった上で自分の一存でするつもりだというような返事をしていました。実はね、ロージャ、わたしにはどうも、いろいろ思いあわせてみて(とはいっても、けっしてルージンさんに関係したことではなくて、わたし自身の、個人的な、どちらかと言えば、あるいは婆さんじみた女特有の気まぐれな考えかもしれないけれど)、――わたしにはどうも、事によると、二人の挙式のあとは、あの二人といっしょに暮らすよりも、今までどおり別居したほうがいいような気がするんですよ。あの方は神経のいきとどいた立派な方だから、ご自分のほうからわたしを呼びよせて、今後は娘と別れて暮らすことはないなどとおっしゃるにちがいない、いまだにおっしゃらないのは、もちろん、言わずとも見当のつくことだからにちがいないと十分に信じてはいますが、わたしはそれをおことわりするつもりです。わたしは、しゅうとめが婿《むこ》とあまりしっくりいっていない実例を一生に何回となく見てきているし、それにわたしは、相手がだれであれ、たとえほんの少しでも心の負担をかけたくないばかりでなく、自分のほうも完全に自由でいたいからです。
まあ、さしあたりわたしにはなにかしらわずかでも食べるものぐらいはあるし、それにお前やドゥーニャのような子供もいるわけですものね。できたら、お前たち二人のそばに住みたいと思います。ところで、ロージャや、わたし、いちばん嬉しい話を手紙の最後に書こうと思ってとっておいたのですよ。
実はね、お前、もしかすると、わたしたちそれこそ近いうちに三年ぶりでまた三人いっしょに落ちあって抱きあうことになるかもしれないのです! わたしとドゥーニャが上京するということはもう|まちがいなく《ヽヽヽヽヽヽ》きまっていることなのですが、いつになるかということはわかっていません、とはいえ、いずれにしてもごくごく近いうちに、ひょっとしたら一週間後にも実現するかもしれません。すべてはルージンさんの指図にかかっていて、あの方がペテルブルクに落ちつき次第こちらへ知らせることになっているのです。あの方は、ある目算から、結婚式をできるだけ早くあげたい、できれば今度の肉食期(クリスマスと大精進期とのあいだ)に、もしそれではあまりにも急で間にあわないというのであれば、聖母昇天祭がおわった直後にでも式をあげたいと言っています。ああ、お前をこの胸に抱きしめられたらどんなに幸福なことでしょう! ドゥーニャもお前に会える嬉しさにすっかり興奮してしまって、一度など冗談に、ただこのことだけでもルージンさんのところへお嫁にいく気になれるなどと言っていました。あの子はほんとに天使ですよ!
あの子はこの手紙にはなんにも書きそえないけれど、兄さんと話さなければならぬことはたくさんある、あんまりたくさんありすぎるから今は筆をとらない、どうせ二、三行ではなんにも書けはしないし、ただむしゃくしゃするだけだから、ということだけ書いておいてくれとのことでした。それから、兄さんをかたく抱きしめて心から接吻を送ると伝えてほしいということでした。それはそうと、わたしたちは、事と次第では、ごく近いうちに顔をあわせられるわけですけど、やはり近日中になるべくたくさんお金を送ることにします。ドゥーニャがルージンさんのところへかたづくことがみんなに知れわたったきょうこの頃では、わたしの信用も急激に高まったので、ワフルーシンさんも今では年金引き当てに七十五ルーブリくらいまでは融通してくれるでしょうから、従ってお前にも、事によれば、二十五ルーブリか三十ルーブリは送金できると思います。もっとたくさん送りたいのですが、二人の道中の費用のほうも気になるものですから。ルージンさんは大変親切にも、わたしたちの上京の費用の一部を引き受けてくれました、つまり自分から申し出て、自費でわたしたちの荷物と大きいトランクを送り出してくれることになったのですが(なにか自分の知りびとのつてで)、それでもやっぱりわたしたちはペテルブルクへ着いたあとのことも計算に入れておかなければならず、まさかペテルブルクへ一文なしで出ていくわけにもいかない、せめて最初の数日分くらいの金は握っていなければと思うのでね。
それでも、ドゥーニャとすっかり正確に計算したところ、旅費はたいしてかからないことがわかりました。うちから鉄道まではせいぜい九十キロですが、これはもう、万一に備えて、ある顔見知りの百姓御者に話がつけてあります。それからさきはドゥーニャと三等車に乗って無事に行けるものと思っています。そうすれば、事によると、二十五ルーブリではなくて、三十ルーブリは確実に送れると思います。でも、もうこれくらいにしましょう。便箋二枚にいっぱいに書きこんだため、もうこれ以上余白が残っていません。これで自分たちの生活の話をすっかりしてしまいました。ほんとうにずいぶんたくさん事件がたまったものです! さて、では、ロジオンや、近く再会する日を楽しみにお別れの抱擁をして、お前に祝福の言葉を送ることにします。ロージャや、妹のドゥーニャを愛してやっておくれね、あの子がお前を愛しているように愛してやっておくれ、そしてあの子がお前を限りなく、自分よりも愛していることを忘れないでね。あの子は天使です、それにお前は、ロージャ、お前はわたしたちの全財産です――お前にはわたしたちの希望と期待がぜんぶかかっているのです。お前さえ幸福になれたら、わたしたちも幸福でいられるのです。お前は昔どおり神さまにお祈りをしていますか、ロージャ、われらの創造主でありあがない主である神さまのお恵みを信じていますか? わたしは、お前も最近流行の不信心にかぶれていはすまいかと、心ひそかに案じております。もしそうだったら、わたしはお前のためにお祈りしましょう。思いだしてちょうだい、お前、お前がまだ子供でおとうさんがまだ生きておられた時分に、わたしのひざの上で廻らぬ舌でお祈りをあげていた頃のことを、そしてあの頃はわたしたちみんながどんなに仕合わせだったかを! ではさようなら、それより|また会う日まで《ヽヽヽヽヽヽヽ》と書きましょう!お前をしっかりと抱きしめて、何度でも接吻をします。
いつまでもお前を愛する母
プリヘーリヤ・ラスコーリニコワ』
ラスコーリニコフが手紙を読み出してからほとんど手紙を読んでいる間じゅう、その顔は涙でぬれていた。が、読みおえたときには、その顔は青ざめて、けいれんにゆがみ、唇のあたりに、辛そうな、気みじかそうで意地わるげな薄笑いがちらりと浮かんだ。彼はぺしゃんこの使い古した枕に頭をつけると、そのまま長いことじっと考えていた。心臓は激しく鼓動し、思いは乱れに乱れていた。とうとう、彼は、戸棚か長持ちのような黄色い自分の部屋が窮屈で息がつまりそうになってきた。目も頭も、ひろい戸外を求めていた。彼は帽子をつかむと外へ出たが、このときはもう階段でだれかに出会うことを恐れてなどいなかった。そんなことはもう忘れてしまっていたのだ。彼は、V大通りをつっきると、道をワシーリエフスキイ島の方向にとったが、まるで用事でそこへ急ぐ人のようなかっこうだった。だが、いつもの癖で、どこをどう歩いているのか気がつかずに、小声でひとり言を言い、声に出して自問自答しながら歩いていくため、道ゆく人はけげんに思うのだった。彼を酔っぱらいと勘違いする者も多かった。
[#改ページ]
母親の手紙に彼は悩みぬいた。だが、いちばん肝心な点については、まだ手紙を読んでいた最中でさえ、一分たりとも疑念をいだいてはいなかった。問題のいちばん本筋のところは頭のなかですでに解決ずみだったのである。完全に解決ずみだったのだ。『おれの目の黒いうちは、そんな結婚なんかさせるもんか、ルージン氏なんか、くたばっちまいやがれ!』『だって、事は見えすいているじゃないか』と彼は自分の決断の勝利を今から意地わるげに祝うようにしてほくそ笑みながら、こう心のなかでつぶやいた。『だめだよ、おかあさん、だめだめ、ドゥーニャ、あんたたちにおれがだませるもんか!……しかも、おれの意見も聞かずにおれを抜きにして決めてしまったことを謝っている。当然のことだ! 連中は今となっちゃもうぶちこわせやしないと思っているようだが、ぶちこわせるか、ぶちこわせないか、ひとつ見てみようじゃないか! その言いわけがまたふるってやがる。「ルージンさんはそれこそ大変な実務家なんです、大変な実務家だから、駅馬車のなかか、ほとんど汽車のなかででもなければ結婚なんかできないんですよ」と来やがった。だめだよ、ドゥーニャ、こっちはなにもかもお見とおしなんだ、お前がおれとなにを|たくさん《ヽヽヽヽ》話すつもりなのか、おれにはわかっているんだ。お前がひと晩じゅう部屋のなかを歩きまわりながら、なにを考えていたかも、おかあさんの寝室にあるカザン聖母像の前でなにを祈ったかも、ちゃんとわかっているんだ。ゴルゴタの丘にのぼる(ゴルゴタはキリストが十字架にかけられて殺された丘。ドゥーニャが兄の犠牲になることをたとえたもの)のは辛いものな。ふむ……じゃ、つまり、もう最終的にきまっているわけか。アヴドーチヤ・ロマーノヴナ(ドゥーニャの本名。アヴドーチヤはエヴドーキヤの俗形)お前さんは実務家で思慮分別のある男のところへお嫁に行かれるわけですか、財産があって(|もう《ヽヽ》財産があるということになれば、重みもつこうし、説得力もあろうというものだ)、勤めも二ヵ所に出ていて、わが国の最もあたらしい世代の信念に共鳴している(おかあさんの書いているところによればな)、そして本人のドゥーニャに言わせれば「親切|らしい《ヽヽヽ》」男のところへな。この|らしい《ヽヽヽ》がなによりすてきじゃないか! あのドゥーニャはこの|らしい《ヽヽヽ》のところへ嫁入りしようとしているんだ!……いや、すてきな話だ!すてきな話だ!』
『……それにしても、おふくろはなんのために「最も新しい世代」のことなんか書いてきたかということだな。ただ単に性格描写のためか、それとも、おれにうまくとり入ってルージン氏をよく見せようという、その先の目的があってのことなのだろうか? まったくずるい連中だ! それに、もうひとつの事情も究明できたらおもしろいぞ。それは、あの二人はあの日とあの晩とその後ずうっとどの程度までたがいに腹のなかを見せあっているかということだ。二人の間では|ひと言ひと言《ヽヽヽヽヽヽ》ぜんぶ率直に口にのぼされたんだろうか、それとも双方とも、もうたがいに心も考えもひとつだから、今さらなにもかも口に出して言うこともないし、むだ口をきくこともないというのだろうか。おそらく、幾分かはそういう気味もあったのだろう。手紙でもそれはわかる。おふくろには少々《ヽヽ》あの男の言葉がすぎるように思われたんで、おふくろは単純だから自分の考えをドゥーニャのところへ持っていった。すると、相手は、当然のことだが、かんしゃくをおこして、「腹立たしげに答えた」。あたりまえじゃないか! ばか正直に聞くまでもなくわかりきっているとすれば、そしてもういうこともないということになっているとすれば、だれだってかんしゃくぐらいはおこすさ。それに、おふくろはなんということを書いてよこしたもんだ。「ドゥーニャを愛してやっておくれ、ロージャ、あの子はお前を自分よりも愛しているんだからね」だって。娘を息子の犠牲にすることに同意したというので、自分自身良心のかしゃくに苦しんでいるんじゃないか。「お前にはわたしたちの期待がかけられているんです、お前はわたしたちの全財産なんですよ!」か。ああ、おかあさん……』憤怒が彼の胸にますます激しくたぎりたった。このとき、もしもルージン氏と顔をあわせでもしたら、彼は相手を殺してしまったかもしれない!『ふむ、あれはそのとおりだ』と、彼は頭のなかをくるくるまわる想念の旋風を追いながら、考えつづけた。『「人間をよく見究めるには、だんだんと慎重に近づく」ことが必要だというのは。しかし、ルージン氏の腹は見えすいてるぞ。肝心なのは、「実務家で、親切な人|らしい《ヽヽヽ》」ってことだ。まったく大変なことだよな、荷物は引き受けてくれる、大きいトランクは自費でとどけてくれるっていうんだものな! そりゃ大した親切な男ださ! ところが、あの二人、|いいなずけ《ヽヽヽヽヽ》と母親は百姓をやとって、むしろがけの荷馬車でやって来るんだぜ(おれもよくそんなのに乗ったものだった)! なあに大したことはないさ! たった九十キロだものな、「それからさきは三等車に乗って無事に来ちまう」ってわけだ、千キロの道をな。なるほどいい分別だわい。「なにごとも分相応」というからな。ところで、ルージン氏、お前さんのほうはどうしたことなんです? あれはお前さんの嫁さんじゃありませんか……おふくろが自分の年金を抵当に旅費を前借りしていることをお前さんは知らないはずはないでしょう? むろん、こいつはお前さんたちの商取引きというやつで、もうけも半々、出し前も平等といった企業、だからつまり出資も半々ということにもなるんだろうがね。ことわざにも、食事はいっしょ、タバコはめいめいと言うからな。だが、ここでも実務家先生、二人を少々ごまかしちゃいませんかね。荷物の送料のほうが二人分の旅費より安くつくし、事によると無料ですむかもしれないものね。いったいどうしてあの二人にはこれがわからないんだろう、それともわざと見て見ないふりをしているのかな? とにかく、満足してござるんだ、満足してな! これで、今のところはまだ花だけだが、ほんとうの実がなるのはこれからなんだから、考えただけでもぞっとするよ!ここで肝心なことはこういうことだ。この場合重大なのは、やつのしみったれでもなければ、けちくささでもない、ぜんたいの調子なんだ。これこそ結婚後ずうっとつづく調子じゃないか、ま、予告のようなものさ……それにしても、なんだっておふくろはこんなに散財するんだ? ペテルブルクへ出てくるのにいくら掛けてくるかと言やあ、ルーブル銀貨三つか、「おさつ」、あの……質屋のばばあのいいぐさじゃないが、「おさつ」を二枚も持ってくるんだろうが……ふむ! おふくろはペテルブルクでそのあとなにで生計を立てていくつもりなんだろう? だって、なにかわけがあって、結婚後はほんの当座ですらドゥーニャとはいっしょに暮らせないものともう見きわめをつけているじゃないか?これはきっと、あのお優しい人がうまくひょっと|口をすべらし《ヽヽヽヽヽヽ》でもして、自分の腹のうちをにおわしたんだぞ、おふくろは両手をふって「こっちからことわる」なんて大見栄をきっちゃいるけどな。してみると、おふくろはどうなんだ、いったいだれを当てにしているんだ、年金の百二十ルーブリを当てにしているのかな、ワフルーシンへの借金を返した金の残りをな? 今もおふくろは田舎で冬のえり巻を編んだり、そで口のししゅうをしたりして、老いの目をわるくしている。えり巻なんかじゃ、あの百二十ルーブリに年にせいぜい二十ルーブリもたし前ができるくらいが関の山じゃないか、こんなことはおれにはわかっているんだ。そうすると、やっぱりルージン氏の高潔な心ばえを当てにしているわけだな。「むこうから言い出して、どうぞと頼みこんでくるだろう」とな。ご用心、ご用心! こういうシラー流の美しい心根の人間によく見られる例だ。最後のどたん場まで人間をくじゃくの羽根で飾りたててやる、つまり最後のどたん場まで善行を期待して悪いことをされようなどとは思ってもいない、そしてたとえ物事に裏があることはうすうすわかっていても、けっして前もってほんとうの言葉を自分に言って聞かせようとはしない、そんなことを考えただけでも恐ろしさに身をすくめてしまい、懸命になって真相をうち消しているうちに、飾りたててやったやつに鼻をあかされることになるんだ。それはそうと、ルージン氏は勲章を持っているかな。賭けてもいい、ボタンの穴にアンナ十字勲章をつけていて、請負師だの商人仲間の宴会にそれをさげていってるぞ。おそらく、自分の結婚式にもさげて出るんだろう! だけど、あんなやつ、どうともなりやがれだ!……
……が、まあ、いいや、おふくろのほうは放っとけ、ああいう人なんだからな。だけど、ドゥーニャのほうはどうなんだ? おい、ドゥーニャ、おれはお前さんならよく知っているぜ!最後にお前さんに会ったとき、お前さんはもう十九になっていた。だから、お前さんの気性はおれもすっかりのみこんでいたよ。おふくろさんはあの手紙にも「ドゥーニャはたいていのことは辛抱できる」と書いている。そんなことはおれだって承知してるさ。そんなことは二年半も前から知っていて、それから二年半の間それを考えとおしてきた、まさにそればっかり、つまり「ドゥーニャはたいていのことは辛抱できる女だ」ってことばかり考えてきたんだ。すでにスヴィドリガイロフ氏とそれから生じたいろんな結果までひととおり耐えしのんだからには、実際にたいていのことは辛抱できるというものさ。そこで今度はあいつはおふくろといっしょに、ルージン氏だって辛抱できるだろうと思った、――貧乏のどん底から拾いだされて夫の恩を感じてくれる妻のほうがいいんだといったような理論を述べたてる男だって、しかも初対面早々にそんなことを述べたてる男だって辛抱できるものと思ったわけだ。ま、仮に、あの男は分別のある人間なのに、「口をすべらしてしまった」のだとしてもいい(分別のある人間であれば、ひょっとすると、まるっきり口をすべらしたのじゃなくて、なるべく早く考えを明らかにする腹だったのかもしれないのだが)、が、それにしても、ドゥーニャはどうなんだ、ドゥーニャは? あれには男の正体ははっきりわかっているんじゃないか、それなのにあの男といっしょに暮らすのか。あいつは黒パンだけかじって、水を呑んで暮らしても、それこそ自分の魂を売るような女じゃない、楽がしたさに自分の精神的自由を渡すような女じゃないんだ。ルージン氏どころか、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン公国そっくりとひきかえでも渡しゃしないさ。いや、ドゥーニャは、おれの知っていたかぎりじゃ、そんな女じゃなかった、それに……そうよ、むろん、今だって変わっちゃいないさ!……なにも言わなくたってわかってる! そりゃスヴィドリガイロフ家は辛かったろう!二百ルーブリもらうために一生涯家庭教師をしてほうぼうの県を歩きまわるのは辛かろう、が、やっぱりおれは知っているぞ、おれの妹はたとえむしろ植民地の農場主のところへ奴隷に行こうとも、ラトヴィヤのドイツ人のところへ下女に行こうとも、自分ひとりの利益のために、尊敬もしていない、どうにもならないような男といっしょになって自分の精神と道徳的感情を汚すようなことはしない女だということは! よしんばルージン氏が全身まったくの純金か純然たるダイヤモンドでできている男であっても、ルージン氏の合法的なめかけになるようなことは承知すまい! それなのにどうして今度は承知してしまったのだ? どういう事情があるんだ? 謎の鍵はいったいどこにあるんだ? 事は明瞭だ。自分のためだったら、自分が楽をするためだったら、それどころか自分が死地から逃れるためであっても、自分を売りはしないが、人のためとあればこのとおり売ってしまうんだ! 愛する者のため、崇拝する人のためとあれば、売ってしまうんだ! ここに一切の問題があるんだ。兄のため、母のためなら売ってしまう! なんでも売ってしまうというところに! ああ、われわれは場合によっては、自分の道徳的感情までおさえつけてしまい、自由も、安楽も、良心さえも、いっさいがっさい古物市場へ持っていってしまうのだ。自分の一生なんかどうともなりやがれ! ただ、自分の愛する人間が仕合わせになりさえすればいい、というわけだ。そればかりか、自分勝手なへりくつを考えだしたり、ジェスイット教徒から教えを受けたりして、おそらくは、一時の自分の気休めにし、こうしなければならないんだ、立派な目的のためにほんとうにこうしなければならないんだなどと自分に説き聞かせようとする。人間はこうしたものなんだ、万事、火を見るより明らかだ。この場合、ほかならぬこのロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフが大もてにもてて舞台の前面に出てきたことは明瞭だ。それもよかろう、兄貴の幸福もきずいてやれるんだし、大学をつづけさせて事務所の共同経営者に仕立てることも、兄貴の一生の運命を確立してやることもできるんだからな。事によったら、やがては金持ちにもなり、名誉と尊敬を一身にあつめた富豪にもなり、事と次第ではその上名士として生涯を全うするかもしれないんだからな。が、それじゃ、おふくろはどうなるんだ?いや、ここで重要なのはロージャのほうなんだ、かけがえのない、そうりょう息子のロージャなのだ! こういうそうりょう息子のためなら、こういう立派な娘だってどうして犠牲に供してわるかろう、というわけだ! ああ、なんといういじらしい、だがまちがった心根だろう! なんのことはない。これじゃわれわれはソーニャの運命も甘んじて肯定してしまうことになるじゃないか! ソーニャ、ソーニャ・マルメラードワ、世のつづく限り永遠にのこるソーニャ! 君たち二人は犠牲というものを、犠牲というものの大きさを十分に測ったことがあるのかね? 測ったかい? 手に負えるかね? 得になることでもあるかね? 理屈にあってるかね? お前さんにはわかっているのかね、ドゥーニャ、ソーニャの運命は、お前さんがルージン氏とともにしようとしている運命と比べてもけっして汚らわしいものじゃないってことが?「この話ではあの子に愛情などあろうはずはない」と、おかあさんも書いてきている。どうなんだ、愛情どころか、尊敬もありえない、それどころか逆に、もはや嫌悪と、軽蔑と憎悪しかないとしたら、そのときはいったいどうなるのだ? そのときは、これまた、つまり、「|身ぎれいにするように心がけ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」なければならぬことになるわけだ。そうじゃないかね? この身ぎれいにするということがどういう意味か、わかっているのかね、わかっているのかね、お前さんにはわかっているのかね? お前さんはわかっているかい、ルージン夫人の身ぎれいというやつはソーニャの身ぎれいとおんなじどころか、あるいは、もっと劣っているかもしれない、もっと汚らわしく、もっと浅ましいかもしれないということが? なぜって、ドゥーニャ、お前さんにはやっぱりぜいたくな楽しみを当てこんでいるところもあるが、むこうはそれこそまったく餓死するかどうかという問題なんだからな!「高くつくもんです、高くつくもんですよ、ドゥーニャ、この身ぎれいにするというやつは!」さ。ところで、もしもあとで力及ばず、後悔でもするようになったらどうする? 悲嘆は、悲哀は、のろいは、人知れず流す涙はいかばかりかしれまい、だってお前さんはマルファなどとはちがうんだからな。そうなったら、おふくろはどうなるんだ? 現に今でさえもう不安になったり、悩んだりしているじゃないか。なにもかもはっきりした暁はどうなるんだ? それにこのおれはどうなる?……お前さんたちはほんとうにこのおれのことで、なんてことを考え出してくれたものだ? おれはお前さんの犠牲なんか欲しくないぞ、ドゥーニャ、欲しくはありませんよ、おかあさん! おれの目の黒いうちはそんなことはさせない、させるもんか、させはしないぞ! 受けつけるもんか!』
彼ははっと、われに返って、足をとめた。
『させないって? そうさせないために、お前はいったいどうしようというのだ? さしとめようというのか? そんな権利はありゃしないじゃないか? そういう権利を持つために、お前は自分のほうからあの二人にどういう約束ができるというんだ? |大学を出て就職したら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、あの二人に自分の運命を、自分の将来をぜんぶ捧げるというのか? そんなことはもう聞きあきたよ、それにそれは第二段階《ヽヽヽヽ》じゃないか、それより今はどうするんだ? 今ここでなにかしなければならないじゃないか、それがお前にはわかっているのか? なのに、お前は今なにをしているんだ? あの二人から金を巻きあげているだけじゃないか。あの金は百ルーブリの年金とスヴィドリガイロフ家の稼ぎを抵当に二人が手に入れたものじゃないか! スヴィドリガイロフの手合いだのワフルーシンなんかからお前は二人をなにで護ってやろうというのだ、未来の百万長者、二人の運命を支配するゼウスの神? 十年もしたらだって? その十年のあいだにおふくろはえり巻の内職か、いや、おそらくは涙のために目がつぶれてしまうさ。食をつめたために骨と皮になってしまうよ。じゃ、妹は? まあ、妹が十年もしたら、いや、十年もたたないうちにどうなっているか考えてみるがいい。どうだ、見当がついたろう?』
こんなふうに彼はこういった質問攻めで自分を苦しめたり、愚弄したりしながら、一種の快感すら感じていた。もっとも、こういった質問はどれもこれも目新しい質問でもなければ今出しぬけに突きつけられたものでもなくて、もうだいぶ前からの、ずきずき痛む古傷のような質問だった。もうずっと前からこうした質問に悩まされはじめ、今では気持ちまでずたずたに引き裂かれてしまっていた。この現在の憂悶が彼の心にめばえたのはもうずいぶん前のことで、それが次第に成長し蓄積されてきて、ここ最近は成熟し凝結して、おそろしい、狂暴で幻想的な問いの形をとって、彼の心と頭を悩まし、有無をいわせず解決を迫ってきていたのだった。そこへ今母親の手紙が突然雷のように彼に一撃をくらわせたのである。今や、問題は解決不可能だなどと考えてばかりいて消極的に悩みもだえているべきときではない、どうしてもなにか、すぐに、それもできるだけ早くやらなければならないことは明白だ。たとえどうなろうと、なんとか腹をきめなければならない、でなければ……
『でなければ、生存をまったく断念してしまうべきだ!』と突然、彼は無我夢中で叫んだ。『あるがままの運命を、これを最後に、おとなしく受け入れてしまい、自分の内部の要求をぜんぶおし殺して、行動したり生きたり愛したりする一切の権利を棄ててしまうべきだ!』
『おわかりかな、あなたはおわかりかな、あなた、もうこれっきり行くべき所がないということがどういう意味か?』というきのうのマルメラードフの質問が思いだされた。『人間はだれだってせめてどこか行ける所がなければなりませんからね……』
突然、彼はぶるっと身ぶるいした。これまたきのうのある想念がまたもや彼の頭をかすめたのだ。が、彼が身ぶるいをしたのは、その想念がかすめたせいではない。彼は、それがかならず「かすめる」ものとわかってもいたし、予感《ヽヽ》もしていた。そしてそれを待っていたのだ。しかも、その想念はまるっきりきのうのとおなじだとはいえなかった。どこがちがうかと言えば、ひと月前には、それどころかついきのうにしても、それはまだ空想にすぎなかったものが、今は……今や空想ではなくて、ある新たな、おそろしい、まったく未知の形をとってぬっと現われ、こちらも突然それを意識したことである……彼は頭をがんとやられて、目の前が真っ暗になった感じだった。
彼はきょろきょろあたりを見まわして、なにかをさがした。腰をおろしたくなって、ベンチをさがしたのである。そのとき彼が歩いていたのはK並木通りだった。ベンチは百歩ほど前方にあったので彼はできるだけ速い足どりで歩きだした。が、途中である小さな出来事がおきて、数分のあいだそれにすっかり注意をひきつけられてしまった。
ベンチを見つけようとしているうちに、彼は前方二十歩ほどのところをひとりの女が歩いているのに気づいたのである。もっとも、最初は、それまで目の前をひらめき過ぎる事物同様、その女になんの注意もはらっていなかった。彼はこれまでにもう何度となく、たとえば家へ帰る途中で、自分が歩いてきた道をまるっきりおぼえていないようなことがあって、もうそういう歩き方が癖になっていたのだが、今歩いていくその女にはどこか妙に変わったところがあり、ひと目見ただけで目につくようなところがあって、少しずつその女に注意をひきつけられだしたのである、――それも初めは気乗りせず、いまいましいくらいの気持ちで、そのうちだんだん強くひきつけられていったのだ。彼は、その女のいったいどこがそんなに変わっているのか、ふと突きとめたくなった。第一、彼女は、まだまだ至って若い娘のはずなのに、この炎天下を、頭になにもかぶらず、かさもささなければ手袋もはめずに、なんとなくこっけいな恰好で腕を大きく振りながら歩いていくのである。着ているものと言えば絹の軽い生地の服(いわゆる「薄もの」)だったが、その着かたにもやはりどこか変なところがあり、ボタンもやっとかかっているようなふうで、それにうしろの腰のあたりのスカートの一ばん上が裂けていて、きれはしがとれて、ひらひらぶらさがっていた。あらわな首には小さなえり巻をまいていたが、それもだらしなくゆがんで、わきへずっていた。おまけに、娘の歩きかたも足もとが不確かで、つまずいたり、あちこちよろめいたりしていた。ラスコーリニコフは、しまいには、この出会いに自分の注意をすっかり呼びさまされてしまった。彼はベンチのすぐそばまで来て娘に追いついたが、彼女はベンチまでたどり着いて、その端のほうにばったり倒れたかと思うと、ベンチのもたれに頭を投げかけて、ひどく疲れているせいだろう、目を閉じてしまった。ラスコーリニコフには、女の顔をのぞきこんでみて、すぐに、こいつ、ひどく酔っぱらっているなと、察しがついた。こうした現象を見るのは変な気持ちだし、それに無気味でもあった。彼は自分の錯覚ではあるまいかとさえ思った。自分の前には、大変幼い、十六かそこらの、ひょっとするとたった十五くらいの女の子の顔が、――ブロンドの髪をした、美しい、だが顔じゅう燃えたったように赤くて、まるで脹れあがったように見える小さな顔があった。娘はそれこそほとんど正体がないらしく、片足をもう一方の足にかけているのだが、そのかけた足を普通以上に突き出していて、あらゆる徴候から見て、自分が往来にいるという意識はあまりないらしいのである。
ラスコーリニコフは腰をかけるでもなければ立ち去ろうともせず、ためらいながら娘の前に突立っていた。その並木通りはいつも人けはないのだが、一時すぎのこんな日盛りでは、ほとんどだれひとり見当たらない。それなのに、わきの十五歩ほど離れた並木道の端に、紳士がひとり足をとめて、どう見ても、これまた娘のそばへ、ある目的があって大いに近づきたがっているような様子をしているのだ。その男もやはり、おそらく、遠くから娘を見つけて追いかけてきたのだろうが、ラスコーリニコフに邪魔されてしまったらしいのである。男は彼に憎々しげなまなざしを投げてはいたけれども、それでも努めてこちらに気どられないようにしていた。そして、癪《しゃく》にさわるぼろ服の男が立ち去って、自分の番がまわって来るのをじりじりしながら待っているのである。事情は明らかだ。その紳士は年のころ三十ばかりの、体のがっしりした、脂ぎった、血色のいい、唇はばら色で、ちょびひげなどたくわえた、すこぶるしゃれた身なりの男だった。ラスコーリニコフはひどくむかっ腹が立ってきて、この脂ぎった伊達男を急になんとか侮辱してやりたくてたまらなくなってきた。そこで、彼は娘をそのまま放ったらかして、紳士のそばへ歩みよった。
「おい、こら、スヴィドリガイロフ! お前さんはここになんの用があるんだい?」と、彼は両のこぶしを握りしめ、唇に憎悪のあまり泡までふいて冷笑をうかべながらどなりつけた。
「それはどういうことなのかね?」紳士は眉をしかめ、見下したようなあきれ顔で詰問した。
「とっとと行っちまえってことさ!」
「なにを生意気な、このやくざ野郎!……」
こう言って相手はステッキをふりあげた。ラスコーリニコフは、このがっしりした紳士なら自分くらいの男の二人やそこら手玉にとれそうなのもかまわず、げんこをふりあげてその男に飛びかかっていった。が、とたんにだれかに背後からむんずと抱きとめられてしまった。警官があいだに割ってはいったのだ。
「およしなさい、あなた方、公共の場所で取っ組みあいなぞするもんじゃありませんよ。あなたはなにをしようというんです? あなたは何者だね?」と、彼はラスコーリニコフのぼろ服に気づくと、きっとなってこうたずねた。
ラスコーリニコフは相手をまじまじと見た。それは口ひげもほおひげも真っ白で、物わかりのよさそうな目つきをした、たくましそうな兵隊ふうの男だった。
「ちょうどいいところへ来てくれましたね」と彼は警官の腕をつかんで叫び、「僕はもと大学生だったラスコーリニコフという者です……こんなことはそのうちお前さんにもわかることだろうけどね」と紳士にむかって言った。「いっしょに行きましょう、見せるものがあるんです……」
こう言うと、彼は警官の腕をつかんで、ベンチのほうへ引っぱっていった。
「ほら、ごらんなさい、へべれけでしょう。さっき並木通りを歩いていたんですがね。どういう素性《すじょう》の女かはわからないが、商売女らしくもないとすれば、てっきりどこかで呑まされた上に、だまされたんですよ……それも生まれて初めてね……わかるでしょう? そしてそのまま往来へ放りだされたってわけです。ごらんなさい、この服を。びりびりじゃありませんか、それに、どうです、この服の着かたは。人に着せられたんで、自分で着たんじゃない、しかも不器用な着せかたじゃありませんか。これはきっと男が着せたんですよ。それははっきりしている。さて今度はこっちをごらんなさい。僕がさっき取っ組みあいをやろうとしたこのきざな男は僕の知らない、初めて会った男なんですが、あの男もやはりさっき途中でこの正体もなくなっている酔っぱらいの女に目をつけて、――この娘さんがこんな状態なのをいいことに――今そばへ寄って、つかまえてどこかへ連れこみたくてうずうずしているところなんですよ……てっきりそうに違いありません。大丈夫、僕の目に狂いはありませんから。僕はこの目で、あいつがこの女に目をつけていたところを見ていたんですから。ただ僕が邪魔にはいったんで、僕がひきあげるのを今か今かと待っているところなんですよ。ほら、今もちょっと離れて立っているじゃありませんか、タバコなんか巻くようなふりをして……どうしたらあいつにこの娘を渡さないようにできるでしょうかね? どういうふうにこの娘を家へ送りとどけたものでしょう、――ひとつ考えてみて下さい!」
警官はとっさに万事のみこんでしまい、いろいろと思案しているふうであった。太った紳士のほうは、むろん、はっきりしているので、あと問題は娘のほうだけである。警官はもう少し近くで見きわめようとして娘の上にかがみこんだ。と、その顔に心からの同情の色があらわれた。
「やれやれ、まったくかわいそうに!」と彼は首をふりながら言い「まだまるで子供なのに。だまされたんですな、そのとおりですよ。もしもし、お嬢さん」と、女に声をかけた。「お住まいはどちらですか?」娘は疲れたような、どろんとした目をあけて、問いかけている二人をぼんやり見つめたと思うと、追いはらうように片手をふった。
「あのね」とラスコーリニコフが言った。「さあ(彼はポケットをまさぐって金を二十コペイカほどとりだした。ちょうどそれだけあったのだ)、さあ、これで辻馬車をやとって、御者に住所どおり送りとどけさせて下さい。住所だけでもわかるといいんだけどなあ!」
「お嬢さん、ねえ、お嬢さん!」警官は金を受けとると、また声をかけた。「今すぐ辻馬車をやとって、このわしが送っていってあげますよ。どこへ馬車をやったらいいんです? え? お住まいはどこですか?」
「あっちへ行け!……うるさいわよ……」と娘はぶつぶつ言って、また片手をふった。
「いやはや、まったくいけませんな! やれやれ、ほんとに見っともないですよ、お嬢さん、いやまったく恥さらしですよ!」彼は恥ずかしいやら、かわいそうやら、腹が立つやらで、また首をふりだし、「困ったことですな」とラスコーリニコフにむかって言ったが、その拍子にちらりともう一度相手を頭のてっぺんから足の爪さきまでじろりと見た。この男も怪しいぞ、と思ったらしいのだ。そんなぼろ服を着ていながら、身銭まで切っているからだ!
「あなたは遠い所から二人に気づかれたんですか?」と警官は彼に聞いた。
「だから言っているじゃありませんか、この人は僕の前をよろよろしながら歩いていたんですよ、この並木通りを。そしてこのベンチにたどり着くなり、倒れてしまったんですよ」
「いやはや、この節はとんでもないぶざまなことがはやりだしたもんですなあ! こんなあどけない娘が、こんなにぐでんぐでんになって!だまされたんですな、まさにおっしゃるとおりですよ! これこのとおり服をべりべりにして……ああ、なんという堕落した世のなかになったもんだろうねえ! ……おそらく、家柄はいいんだろうが、落ちぶれた家の娘さんなんだろう……きょうびはこういうのがふえましたな。見たところは、良家の出らしいし、お嬢さんらしいんだがね」と言って彼はまた娘の上にかがみこんだ。
事によると、彼にもこんな娘がいるのかもしれない――上流の人間のまねをし、流行ならなんでもとり入れようとするような「お嬢さんじみた、良家の子女にみえる」娘が……
「大事なことは」とラスコーリニコフはひとりで気をもんでいた。「なんとかしてあの悪党の手にこの子を渡さないことですよ! あの男はこの上この娘さんをひどい目にあわすにきまっているんですから! あいつがしようと思っていることなんか、わかりきっているんですからね。ほら、悪党め、離れようともしないでしょう!」
ラスコーリニコフが大声でそう言って、直接その男を指さすと、それがむこうの耳にもはいったらしく、男はまた怒りだしそうにしたが、思いなおしたらしく、軽蔑したような視線を投げるだけにし、それからゆっくりとさらに十歩ほど離れて、また立ちどまった。
「あの人の手に渡さないことぐらいはなんでもありませんが」と下士官上がりの警官は考えこみながら答えて、「ただ、どこへ送りとどけたらいいのか、それさえこの人が教えてくれればいいんですがねえ。でないと……お嬢さん、ね、お嬢さん!」と、またかがみこんで言った。
娘は急に目をぱっちりあけてまじまじと相手を見つめていたが、そのうち事情がのみこめたらしく、ベンチから立ちあがると、もと来たほうへひっかえしはじめた。「へ、恥知らずども、うるさくつきまといやがって!」と、彼女はもう一度追いはらうように手をふって、そう言った。その足どりは速かったが、相変わらずひどくふらついていた。きざな男はそれについて歩きだした、ただし並木通りのむこう側を、彼女から目を離さないようにして。
「どうぞご心配なく、渡しゃしませんから」と、ひげの警官はきっぱりと言いきると、二人のあとをつけはじめた。
「いやはや、きょうびはなんたる堕落した世のなかになったもんだ!」と彼はため息をつきながら、もう一度声に出してそう言った。
とたんにラスコーリニコフはなにかにちくりと刺されたような気がした。一瞬のうちに彼は考えががらりと変わったらしく、
「おおい、ちょっと!」とひげの警官にうしろから声をかけた。
相手はふり返った。
「放っときなさいよ! お前さんの関係したことじゃない! うっちゃっときなさい! あいつに勝手におもしろい目を見させときゃいいんだ(とラスコーリニコフはしゃれ男を指さしていった)。お前さんにはなんの関係もないんだから」
警官はとんとわけがわからないらしく、目を皿にしてこちらを見たので、ラスコーリニコフは笑い出した。
「ちぇっ!」警官は片手をふってそう言うと、おそらくラスコーリニコフを気ちがいか、もっとひどい人間ととったのだろう、しゃれ男と娘のあとをつけて歩き出した。
『おれの二十コペイカを持っていっちまいやがった』と、ラスコーリニコフはひとりになると、憎々しげにそう言った。『ま、あいつからも取って、あいつと娘を放免にしてやるがいいさ、それで事は落着だ……なんだっておれはさしでがましくも人助けなんかする気になったんだろう! このおれが人助けをする柄かい? おれに人助けをする権利なんかあるのか? あんな奴らは勝手に、生きながら食いあうがいいんだ、――おれになんの関係がある? それにしても、よくまあおれはあの二十コペイカをやってしまったものだなあ。あれはおれの金でもないのに』
こんな妙なことを言ってはみたものの、いっこうに心は軽くならなかった。彼はとり残されたベンチに腰をおろした。考えにはまとまりがなかった……それにこのときはだいたいなにを考えても、考えること自体苦痛だったのだ。できることなら、すっかり忘我の状態になり、一切を忘れてしまい、それから目をさまして、まったく新規まきなおしで始めたかった……
「かわいそうな娘だ!」彼は空席になったベンチの隅を眺めてそう言った。「われに返ってしばらく泣き、それから母親にばれる……初めはただひっぱたかれるだけだが、そのうちむちでこっぴどく、恥ずかしいくらい打ちのめされて、おそらくは追いだされることだろう……追いだされないまでも、やっぱりダリヤみたいなやり手婆の嗅ぎつけるところとなり、そのうちあっちこっちに出没しはじめる……それから、たちまち病院行きだ(生まじめな母親のもとで暮らしながらその目をぬすんで悪ふざけをする娘たちのきまってたどる道だ)、さてそれから……それからまた病院……酒……酒場……そしてさらに病院……そして二、三年もすると――片輪になって、生まれてからせいぜい十五か十八で生涯の幕をとじる……そんなのをおれは何人見てきたことか? それがどうやってそうなったかといえば、つねにあんなぐあいにしてなったわけだ……ちぇっ! 勝手にしろだ! 人の話によると、これはそうなるべきはずのものなんだそうだ。毎年それくらいのパーセンテージは消え失せなければならないんだそうだ……どこかへ……どうせ悪魔のとこへでも行くんだろう、ほかの者を純潔にして、その邪魔をさせないためにな。パーセンテージか! まったく、奴らはうまい言葉を知ってやがる。こいつはなかなか気休めになる言葉だし、科学的な言葉だ。パーセンテージとこう言ってしまえば、つまりもうなにも胸を騒がすこともないからな。これがもしほかの言葉だったら、そのときは……ひょっとすると、こんなに安心しちゃいられないかもしれないぞ……それにしてももしドゥーニャもなにかのはずみでそのパーセンテージのなかにはいったら、どうなる!……このパーセンテージでなくとも、別のパーセンテージにでも?……」
『ところで、おれはどこへ行くところだったんだっけ?』とふと彼は思った。『変だな。おれはなにか用事があって出かけてきたんだがなあ。手紙を読んだらすぐに出かけてきたんだが……そうだ、ワシーリエフスキイ島のラズーミヒンの家をさして出かけたんだっけ、あそこだ、今やっと……思いだしたぞ。それにしてもなんの用事で? いったいどうしてこんなときにラズーミヒンのところへ行こうなんていう考えが頭にひょっこり浮かんだもんだろう? こいつは驚いたな』
彼はわれながらいぶかしく思った。ラズーミヒンは大学に行っていた頃の級友のひとりなのだ。ここで注目すべきことは、ラスコーリニコフには大学にほとんど友だちらしい友だちもいず、みんなから遠ざかって、だれのところへも行かなかったし、人に来てもらうのも気が重いような様子だったことである。もっとも、みんなのほうも間もなく彼からそっぽを向いてしまった。彼は一般の会合にも、雑談にも、遊びにも、なんということもなく一切加わらなかった。勉強のほうは骨身をおしまず一生懸命やっていたので、その点は尊敬されていたが、だれにも好かれてはいなかった。彼はひどく貧乏でいながら、なんとなく傲慢なところがあり、非社交的で、なにか心に秘密でもいだいているような風に見えた。ある友だちには、彼は自分たちみんなを子供でも見るように上から見下していて、まるで自分は頭の発達の点でも学識の点でもみんなよりすぐれていると思いこんでいるように見え、みんなの信念や興味をなにか一段ひくいものみたいに見ているようにとられた。
ところが、ラズーミヒンとはなぜか気が合った、つまり気が合ったというよりも、彼とはもっとうちとけた、遠慮のない態度で接していられたのである。もっとも、ラズーミヒンとはそれ以外のつきあいはありえなかった。これは度はずれに陽気で、つきあいもよく、単純なくらい人のいい若者だったのである。とはいえ、その単純さの底にふかみも美点もひそんでいた。友人のなかでもすぐれた連中にはそれがわかっていて、みんな彼を愛していた。彼は、実際、ときには単純めいて見えることもあったけれど、なかなかどうして馬鹿ではなかった。その風采は印象的で――丈が高くて、痩せぎすで、いつもひげはろくに剃ったこともなく、髪は真っ黒だった。ときおり暴れまわることがあって、大力無双の評判をとっていた。ある夜の寄りあいで、六尺ゆたかな警官を一撃のもとになぐり倒したことがあった。呑みだせば底なしに呑めたかわりに、全然呑まずにもいられた。どうかすると目にあまるようないたずらをするかと思うと、いたずらなどまるっきりせずにもいられた。ラズーミヒンはそれに、どんな失敗にもけっしてあわてず、どんな逆境にもへこたれていないように見えるところも、非凡な点だった。彼は屋根の上にでも住めたし、ひどい餓えや極寒も耐えしのぶことができた。この男は大変な貧乏で、なんかかんか仕事をして金をもうけながら、それこそ独力で自活し、むろん、賃仕事ではあったが、いつでも汲みだせる泉を無数に知っていた。ある年など彼は丸ひと冬も部屋を暖めないで、このほうがかえって気持ちがいい、寒いほうがよく眠れるなどとうそぶいていた。現在は彼もやむを得ず大学を離れてはいるが、それも長期というのではなくて、極力急いで事態を改善して学業を継続できるようにしようとしているところなのだ。ラスコーリニコフは彼のところへこれでもう四ヵ月も行っていないし、ラズーミヒンのほうも彼の下宿すら知らないくらいなのである。一度ひょっこり、ふた月ほど前に二人は往来で顔をあわせそうになったが、ラスコーリニコフはそっぽを向いて相手に見つからないように道のむこう側へ渡ってしまった。ラズーミヒンのほうも気がつくことは気がついたが、友の気持ちを乱すまいとして、素通りしてしまった。
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『確かに、おれはこの間もラズーミヒンに仕事を頼みに行こうと思ったことがあったっけ、あいつに家庭教師の口かなんか世話してもらおうと思って……』とラスコーリニコフはやっとそこまで思い出した。『だけど、今じゃあの男にはどんなことをしたっておれを助けることはできまい? ま、かりに家庭教師の口を持ってきてくれたにしたところで、またかりにあいつの手もとに小銭があって、それを分けてくれ、おかげで長靴まで買え、服の修繕ができて、家庭教師に行けたとしたところで……ふむ……さて、それからさきは? そんなはした金でなにができるかってんだ? 今のおれに果たしてそんなものが必要だろうか? いやまったく滑稽《こっけい》だ、ラズーミヒンのところへ出かけてきたってことは……』
なぜ自分が今ラズーミヒンのところへ出かけてきたのかという疑問に、彼は意外にも激しい不安を覚えた。一見ごくあたりまえに見えるこの行動に、彼は不安な気持ちで自分にとって不吉なある意味を探りだそうとしていた。
『なんということだ、ほんとうにおれはラズーミヒンひとりの力で事態をすっかり改善するつもりだったのだろうか、ラズーミヒンに一切の解決の道があると見たのだろうか?』と彼は怪しんで自問自答した。
彼は考えながら額をこすっていた。と、不思議にも、ずいぶん長いこと思いめぐらしたあげく、偶然にひょいと、ほとんどひとりでに彼の頭にある奇怪千万な考えがうかんだ。
『ふむ……ラズーミヒンのところへ』と彼は、まるで最後の決断を下すような調子で、急にすっかり冷静に返って言った。『おれはラズーミヒンのところへ行くぞ、それはもちろんだ……ただし――今じゃない……あいつのところへは……|あれ《ヽヽ》をすましたあくる日に行こう、すでに|あれ《ヽヽ》がおわって、なにもかもこれから新規まき直しというときに……』
と言ったとたんに彼ははっとわれに返った。
『|あれ《ヽヽ》をすましてからだって』と彼はベンチから飛びあがって絶叫した。『いったいおれは|あれ《ヽヽ》をやろうっていうのか? ほんとうにやろうって?』
彼はベンチをあとに歩きだした、というよりもほとんど駆けだしていた。彼は家のほうへとって返しそうにしたが、家へ帰るのが急にいやでたまらなくなった。あの部屋で、あのぞっとするような戸棚みたいな部屋ですでにひと月以上もかかって|あの考え《ヽヽヽヽ》が成熟してきたのだと思ったからである。そこで彼は足の向くままに歩きだした。
神経的な震えは一種の熱病的な震えに変わった。彼は悪寒《おかん》さえ覚えた。こんな猛暑なのに、ぞくぞくしてきた。彼はほとんど無意識に、一種の心理的必然性にしたがって、気ばらしになるものを懸命に探しもとめるように、行きあうもの、行きあうものに、努めて目をこらしはじめたが、それもあまりうまくいかず、たちまちふかい物思いに沈んでしまった。そして身ぶるいをしながらふたたび頭をあげてぐるりを見まわしたときは、今なにを考えていたのかも、どこを歩いてきたのかさえ、たちまち忘れてしまっていた。そんなふうにして彼はワシーリエフスキイ島をくまなく歩きまわり、小ネワ川に出、橋を渡って、群島のほうへ足をむけた。都会のほこりや石灰やひしめきのしかかってくるような巨大な建物ばかり見慣れた疲れた目には緑葉やさわやかな風が初めのうち心地よかった。このあたりには息苦しさも、悪臭も、呑み屋もなかった。が、しかし程なくそうした新たな心地よい感じも病的でいらいらした感じに変わってしまった。ときには緑葉のなかにあるどこかのけばけばしく塗りたてた別荘の前に足をとめて、囲いのなかを眺めたり、遠くのバルコニーやテラスにいる装いをこらした女や庭のなかを走りまわっている子供たちを眺めたりすることもあった。とりわけ心を奪われたのは草花で、花にはいちばん長く見入っていた。きらびやかな幌馬車や騎馬の紳士や婦人にも出会った。彼はそれらを物珍しげに見送るが、それらが視界から消え去る前にもう忘れてしまっていた。あるときは立ちどまって、持っていた金を算えたこともあった。あった金は三十コペイカほどだった。『警官に二十コペイカやって、ナスターシヤに郵便料金を三コペイカ払ったとすると……――つまり、マルメラードフの家へきのう四十七コペイカか五十コペイカ置いてきたことになるぞ』――と、彼はなんのためか金勘定をしながらそう思ったが、なんのためにポケットから金まで出したのかさえじきに忘れてしまった。それから居酒屋じみた一軒の食堂のそばを通りかかったときに彼はそれを思いだして、食欲を覚えた。彼はその居酒屋にはいって、ウォトカを一杯ひっかけ、なにか詰めもののはいったピロシキをひとつ食べた。が、それを食べおえたのは、道へ出てからだった。もうだいぶウォトカを呑まなかったので、たった一杯のウォトカだったが、たちまち効いてきた。足が急に重くなり、猛烈な眠気がさしてきた。彼は家にむかって歩きだしたのだが、ペトローフスキイ島までたどり着いたとたんにすっかりへとへとになって立ちどまり、道からそれて、茂みのなかにはいると、草の上にたおれて、たちまち寝入ってしまった。
病的な状態にあるときの夢は往々にして、異常な立体性と鮮明さをもち、現実とすこぶる似通っていることがあるものだ。ときにはおそろしい光景が展開するが、そのときは夢の映像ぜんたいの状況や全過程があまりにも現実に起こりうるような感じがし、その夢を見ている者がたとえプーシキンやツルゲーネフのような芸術家であっても、うつつにはそれほど細かい、意表をつくような、それでいて芸術的にまったく完ぺきと云えるような細部は考えだせまいと思えるほどのものであったりする。そして、そういう夢、そういう病的な夢はつねに長いあいだ記憶に残り、人間の調子の狂った興奮した神経組織に強烈な印象をおよぼすものである。
ラスコーリニコフは奇怪な夢を見た。それはまだ田舎町にいた頃の幼年時代の夢だった。彼は七つくらいの子供で、祭りの日の夕方、自分の父親といっしょに町はずれをぶらぶら歩いていた。うっとうしい季節の、むし暑い日で、場所は彼の記憶に残っているのとまったくおなじだった。むしろ彼の記憶に残っている場所のほうが、今夢に現われた場所よりもはるかにぼやけているくらいだった。町はがらんとした所にあって、ひと目に見わたせ、あたりには柳の木一本なかった。どこか非常に遠い所、空のつきようとするあたりに林が黒ずんで見える。町のいちばんはずれの菜園から数歩離れたあたりに居酒屋が、大きな居酒屋があって、父といっしょに散歩をしながらそこへさしかかるたびにいつもこの上なく不快な印象というよりもむしろ恐怖をおぼえたものである。そこにはいつでも人が大勢いて、盛んにわめいたり、笑い声をたてたり、ののしりあったり、しわがれ声でひどく卑猥《ひわい》な歌をうたったり、しょっちゅうつかみあいの喧嘩をしたりしていた。居酒屋のまわりにはいつもそういった酔っぱらいのおそろしい形相《ぎょうそう》をした連中がぶらついていた。そういう連中に出会うと、彼はぴったりと体を父親に寄せて、全身ぶるぶるふるわせていた。居酒屋のそばには道が、村道があって、その道はいつもほこりっぽくて、しかもそのほこりがいつも真っ黒だった。道はくねくねまがりながらつづいていて、そのさきは三百歩ほどのところで町の墓地にそって右へおれていた。墓地の真んなかに緑色の屋根をいただいた石造りの教会があって、そこへ彼は年に何度か、もうずっと前に死んで、全然見たこともない祖母の法事が営まれるたびに、父母につれられて祈祷に行っていた。そのとき、親たちはいつでも白い皿に盛った聖飯をナプキンにつつんで持っていったものであるが、聖飯は砂糖入りで米でこしらえ、飯に干しぶどうが十字形におしこんであった。彼はその教会や、教会にある大部分天蓋のないたくさんの古めかしい聖像や、首のふるえる老司祭が好きだった。平らな墓石のおいてある祖母の墓のかたわらには、生後六ヵ月で死んだ彼の弟の墓もあった。この弟のことも彼はまるっきり知らないし、おぼえているはずもないのだが、小さな弟がいたと聞かされていたから、墓参りのたびにその小さな墓にむかって信心ぶかそうにうやうやしく十字を切り、墓におじぎをし、接吻をしていた。彼が見たのはこんな夢だった。彼は父とつれだって墓地へ行く道を歩いていくうちに、例の居酒屋にさしかかった。彼は父親の手をつかんだまま、おそるおそる居酒屋のほうをふり返って見た。と、特別な情景に注意をひきつけられた。このときはそこになにやらお祭り事でもあるらしく、着飾った商家のおかみや百姓の女房やその亭主やいろんなならず者が群がっていた。だれもかれも酔っぱらって、歌をうたっている。居酒屋の表階段のそばには荷馬車があったが、変わった荷馬車で、大きな駄馬をつけた、荷物や酒だるを運ぶ大型の荷馬車のたぐいなのである。彼はいつも、こういうたてがみが長くて足の太い、図体の大きな駄馬が、まるで荷を積んでいるほうが積んでいないよりも楽だとでも言いたげに、なにか山のような荷物を、疲れた様子ひとつ見せずに、悠然と平均した足どりでひいて行くのを見るの好きだった。ところが、今は奇体なことに、そういう大型の荷馬車にちっぽけな痩せほそったあし毛の農耕用のやくざ馬がつけてあるのだ。それは、――彼もよく見かけたものだが、――ときになにか薪か乾草を高々と積んで、わけてもぬかるみやわだちにはまりこむとへたばってしまうようなやくざ馬の一種で、そんなときにはいつも百姓にむちでそれこそこっぴどく、ときには鼻面や目までひっぱたかれ、彼はそれを見ているととてもかわいそうでたまらなくなり、今にも泣きださんばかりになっては、いつも母に窓から引きはなされたものだった。ところで、そのとき急にあたりがひどく騒々しくなった。居酒屋のなかから赤や青のルバーシカを着、百姓外套をひっかけて、ぐでんぐでんに酔っぱらった大柄な図体の百姓どもがわめき声をたて、歌をうたい、バラライカを鳴らしながら出てきたのである。
「さあ、乗った、みんな乗った!」と、ひとりの、首のひどく太い、顔がまた肉づきがよくて人参みたいに赤い、まだ若い男がそう叫んだ。「みんなを家さとどけてやるぞ、乗れ!」すると、すぐさま笑いと、
「そんなやくざ馬で家さとどけてやるもねえもんだ!」
というような叫び声が響きわたった。
「ニコライ、てめえ正気か。こうったら痩せ馬にこねえなでっけえ車をつけて!」
「このあし毛はきっともう年ははたちぐれえになってるべ、な、みんな!」
「乗れ、みんな家さとどけてやっから!」とニコライはもう一度そう叫びながら真っ先に荷馬車に跳び乗り、手綱をとって御者台にすっくと立った。「栗毛の野郎はさっきマトヴェイと出かけちまったからな」と彼は荷馬車の上から叫んでいる。「ところが、この牝馬にかかっちゃ、腹わた煮えくりけえるばっかりよ。それこそぶち殺してやりてえくれえだ、ただ飯ばかりくらいやがって。乗れっちゅうに! ぶっ飛ばしてみっから! ぶっ飛ばさせるぞ!」と言って、むちを手に取って、これからあし毛をひっぱたくのを楽しみにしているような様子なのである。
「乗れよ、どうした!」人群れのなかに笑い声がおこった。
「聞いたか、ぶっ飛ばさせるんだとよ!」
「この馬はもう大方十年も駆けたことはあんめえ」
「なあに、これから駆け出すさ!」
「なにもかわいそうに思うことはねえ、みんな、むちを持って、用意しろ!」
「それもそうだ! むちでぶちのめせ!」
みんなはげらげら笑ったり、しゃれを飛ばしたりしながら、ニコライの荷馬車に乗りこんだ。六人ばかり乗ったが、まだ乗せる余地はある。太った、頬っぺたの赤い女をひとり乗せていくことにした。その女は赤いファスチャン織りの服を着、ビーズのついた晴れ着用の婦人帽をかぶり、足には毛皮靴をはいて、くるみをかちかちいわせながら、ときどきくすくす笑っている。まわりの人群れのなかにも笑う者がいる。実際、どうして笑わずにいられよう。こんな痩せこけた牝馬がこんな重い荷物を乗せて飛ばそうというのだ! 荷馬車の上の若者二人がさっそくむちを一本ずつ取って、ニコライに手を貸すことになった。「それっ!」というかけ声がかかると、駄馬がありったけの力を出してひっぱるが、飛ばすどころか、ほんの一歩も踏みだせず、ただ足を小きざみに動かすばかりで、雨あられと振りおろされる三本のむちに、鼻を鳴らして尻もちをつきそうになる。荷馬車の上と人群れのなかの笑い声は一段と大きくなったが、ニコライがむかっ腹をたてて、狂ったようになってますます激しく牝馬を打ちのめしているところは、まるでほんとうに馬が駆けだすものと思っているように見える。
「みんな、おれも乗っけてってくれや!」と、人群れのなかから、乗りたくてたまらなかったひとりの若者が叫んだ。
「乗れ! みんな乗れ!」とニコライはわめき、「みんな連れてってやるぞ。今ひっぱたくからな!」と言って、さかんにむちをくれ、猛りたって、なにでひっぱたいたらいいのかわからないような様子。
「おとうさん、おとうさん」とラスコーリニコフは父親にむかって叫んだ。「おとうさん、あの人たち、なにをしてるの! おとうさん、かわいそうに馬なんかひっぱたいて!」
「行こう、行こう!」と父親は言った。「酔っぱらいだよ、悪ふざけをしているんだよ、馬鹿どもが。行こう、見るんじゃない!」そう言って父は子供をつれて行こうとするが、彼が父の手から逃れて、無我夢中で馬のほうへ駆けつけたときには、もうあわれな馬はおかしくなっていた。馬ははあはあ息をきらし、足をとめると、また引っぱるため、今にも倒れそうになるのだった。
「くたばるまでひっぱたけ!」とニコライは叫んでいる。
「こうなったからにゃかまうことはねえ、ぶち殺してやれ!」
「やいこら、てめえは十字架つけてねえのか、この悪党め!」と、人群れのなかから叫ぶ年寄りがいた。
「見たこともねえぞ、こうったら痩せ馬にこうったら荷物引かせるなんて」と第二の男がつけ加えるようにして言った。
「くたばっちまうぞ!」と第三の男がどなった。
「つべこべいうな! おれのもんだ! やりてえようにやるだけだ。もっと乗れ! みんな乗れ! どうでもぶっ飛ばしてみせるだ!……」
突然どっと笑い声がおこって、なにもかもその笑い声につつまれてしまった。牝馬はいや増す打撃に耐えかねて、力なくうしろ足で蹴りはじめた。例の年寄りまでがこらえきれなくなってにやりと笑った。それもそのはず、こんなやくざ馬なのに、まだうしろ足で蹴ろうとしているのだから!
群集のなかの若者がさらにむちをめいめい一本ずつ持ってきて、横あいから馬をひっぱたこうとして、それぞれ左右から駆け寄った。
「鼻っつらを、目ん玉をひっぱたけ、目ん玉を!」とニコライがわめいている。
「歌をやれ、みんな!」と荷馬車のなかからだれかが叫ぶと、馬車に乗った連中が声をそろえて歌いだした。陽気な歌がとどろき、タンバリンが鳴り、伴奏には口笛がはいった。百姓女はくるみをかちかち鳴らして、くすくす笑っている。
……少年が馬の横を走って前へ走り出て見ると、馬は目を、まともに目をひっぱたかれている! 彼は泣きだし、心臓は波うち、涙が流れ出た。ひっぱたいている男のひとりのむちが彼の顔をかすっても、彼は感じない。そして、手をもみしだき、泣きわめきながら、この有様になじるように頭をふっていた白いあごひげの白髪の老人にすがりついた。百姓女でひとり彼の手をとって連れ去ろうとする者がいたが、彼はその手を逃れて、また馬のほうへ駆けだしてしまう。馬はもう最後のあがきではあるが、もう一度うしろ足で蹴り出した。「くたばりやがれ、この野郎!」とニコライは荒れ狂って絶叫した。そしてむちを放りだし、腰をかがめて荷馬車のなかから大きな太いながえを引っぱりだして、両手でその端を握りざま、あし毛の頭上に力いっぱい振りあげた。
「ぶっつぶしちまうぞ!」という声々がまわりにあがった。
「ぶっ殺しちまうぞ!」
「おれのもんだい!」とニコライが叫んで、ながえを大きく振りかぶってさっと打ちおろすと、どさっという重そうな音がした。
「むちでひっぱたけ、ひっぱたけ! なにを突立っていやがる!」という声々が群集のなかからした。
ニコライがもう一度ながえを振りかぶり、力まかせに打ち振ってあわれなやくざ馬の背なかに第二の打撃を加えると、馬はぺったりと尻もちをついてしまった。が、それでも跳びあがると、最後の力をふりしぼって車をあっちこっち盛んに引っぱって運び出ようとする。だが、四方八方から六本のむちが飛び、ながえがまたまた振りあげられては、力いっぱい第三、第四と、規則正しく打ちおろされる。ニコライは一撃で殺せなかったため、半狂乱になっている。
「まだ生きてやがる!」とあたりにわめく声がする。
「もうじききっとぶったおれるさ、これで奴もおしめえだ!」などと群集のなかに叫ぶ者がいる。
「斧でやっつけたらどうだ! 一ぺんに片づけちまえ」ともうひとりが叫ぶ。
「えい、つべこべ言うな! どいた、どいた!」とニコライは狂暴な叫び声をあげて、ながえを放りだし、また荷馬車のなかにかがみこんだかと思うと、今度は金てこを引っぱりだして、「みんな気をつけろよ!」と叫びざま、ありったけの力で振りかぶってあわれな馬目がけて打ちおろした。どさりと打撃が加えられると、牝馬はよろめいて腰をおとし、荷馬車を引っぱろうとしたが、そこへまたもや金てこが力いっぱい背なかへ振りおろされたため、一度に四本足をなぎ倒されたように、どうっとばかりにぶっ倒れた。
「ぶち殺しちまえ!」こうニコライは叫ぶと、無我夢中で荷馬車から跳びおりた。すると、やはり酔っぱらって赤ら顔をした若者が数人、むち、棒切れ、ながえと、手あたり次第にひっつかんで、息も絶え絶えの牝馬のそばへ駆け寄った。ニコライはわきに突立って、金てこで馬の背なかをめった打ちにぶちのめしはじめた。やくざ馬は鼻面をさしのべて、苦しそうにため息をついたと思うと、ついにそれきりこと切れてしまった。
「とうとうやっつけちまった!」と、群集のなかに叫ぶ者があった。
「なんだってこの馬は駆け出さなかったもんだか!」
「おれの持ちもんだ!」とニコライは金てこを握り、目を血走らせて叫んでいる。その棒立ちになっているところは、まるでもはやなぐりつける相手がいなくなったのが残念でたまらないといった面もちである。
「いやまったくの話、てめえは十字架をつけていねえと見えるな!」群集のなかにすでにそんなことを叫ぶ者も多くなっていた。
ところが、あわれな少年はもう無我夢中だった。彼はわあっと泣きわめきながら人群れのあいだを通りぬけてあし毛のそばへ駆けつけると、その死体をつかみ、血まみれの鼻面をつかんで、その鼻面に口づけをし、その目と唇にも口づけをした……それから、ぱっとはね起きると、半狂乱の体で小さなこぶしをかためてニコライに飛びかかっていった。ちょうどそのとき、さっきからあとを追いかけまわしていた父親がついに彼を抱きとめて、人群れのなかから連れだしてしまった。
「行こう! 行こう!」と父親は子供に言っていた。「な、家へ帰ろう!」
「おとうさん! なんであの人たち……かわいそうにあの馬を……殺しちゃったの!」彼はすすり泣いているうちに、息がつまって、そのおしつぶされた胸から言葉が叫びとなってほとばしり出る。
「酔っぱらいなんだよ、悪ふざけしているんだよ。こっちの知ったことじゃない、行こう!」と父は言う。子供は父親に両手でつかみかかろうとすると、胸がぐいぐい圧迫されるような感じがし、息をついて、叫ぼうとしたとたんに、目がさめた。
目がさめたときは、全身びっしょり汗をかき、髪はじっとり汗にぬれ、その上息切れがしていた。彼はぞうっとして身をおこした。
「ああ、夢でよかった!」彼は木蔭にすわり、ふかい息を入れて、そう言った。「それにしてもこれはどうしたことだ? 熱病でも始まったんだろうか? こんな恐ろしい夢を見るなんて」
彼は全身打ちくだかれたような感じだった。心はよどんで暗かった。彼はひざにひじをつき、両手にあごをのせた。
「ああ!」と彼は叫んだ。「ほんとうに、ほんとうにおれは斧を握って、あいつの頭をなぐりつけて、あいつの頭蓋骨を粉みじんにするつもりなんだろうか……ねばりつくあったかい血で滑ったり、錠前をこわして物を盗んだり、慄えながら、全身に返り血を浴びて……斧を持って……身をひそめたりするんだろうか……ああ、ほんとうにそんなことを?」
彼はぶるぶる慄えながらそんなことをいっていた。
「いったいぜんたい、なんたることをおれは考えているんだ!」彼はまた身をおこして、心の底からぎょっとして、言いつづけた。「おれはあんなことがやり通せないことは、自分にもわかっていたじゃないか。それなのに、なんだっておれは今まで自分を苦しめるようなことをしてきたんだ? 現についきのうだって、きのうだって、あの……下見《ヽヽ》に行ったときに、きのうだってやり通せないってことは十分にわかったはずじゃないか……それを今もって何たることだ? なんだっておれはいまだにやれるかもしれないなんて思っていたんだろう? きのうだって、階段をおりるときに、おれは自分で自分にいったじゃないか、あんなことはあさましいことだ、いやらしいことだ、見下げはてたことだって……おれは考えただけでも|現実に《ヽヽヽ》胸がわるくなり、ぞっとしたじゃないか……」
『いや、おれなんかにはやり通せるもんか、やり通せやしないさ! よしんば、よしんばあの計算がぜんぶ一点の疑いもないとしても、このひと月のあいだにきめたあのことがぜんぶ火を見るよりも明らかで、算術よりも正確だとしてもだ。ああ! おれはやっぱり結局踏みきれやしないんだ! おれにはやり通せやしないさ、やり通せるもんか!……それなのになんだって、なんだっておれはいまだに……』
彼は立ちあがると、不思議そうに、まるでどうしてこんなところへ迷いこんだのだろうと怪しむような様子であたりを見まわしてから、T橋のほうへ歩きだした。顔色は青く、目は燃え、手足もぐったり疲れきっていたのに、急に呼吸が楽になったような気がした。彼は、長いあいだ自分がおさえつけられていたおそろしい重荷をもう投げ捨ててしまったように感じて、心が急に軽くなり、おだやかになったのだ。「神さま!」と彼は祈った。「私に道をお示し下さい、私はあののろわしい空想を捨てます!」
橋を渡りながら、彼はネワ川を、ぎらぎら輝く赤い太陽が沈みゆくさまを、おだやかな落ちついた気持ちで眺めていた。彼は衰弱していたのに、体に疲労も覚えなかった。まるでまる一ヵ月も化膿していた心の腫れものがつぶれてしまったような気持だった。自由、自由! 彼は今やあの妖術から、魔法から、幻惑から、誘惑から解き放たれたのである!
後になって、このときのことや、この数日間に自分の身に起こったことをいちいち、一分毎に、一点一画ずつそれからそれへと思い起こすたびに、彼はいつでもあるひとつの状況に迷信も信じたくなるくらいの驚きを覚えたものである。それは本質的には大して異常な状況ではなかったが、彼にはその後絶えずなにか運命の予告のようなものに思われたのである。つまり、彼はこのときへとへとに疲れていて、まっすぐに一ばん近い道を通って帰るのが一ばん得だったのに、どうして自分には余計な廻り道であるセンナヤを通って帰ったのかどうしてもわからなかったし、納得もいかなかったのである。大した廻り道ではなかったけれども、明らかに廻り道だし、まったく不必要な廻り道にはちがいなかったのだ。もちろん、彼には、歩いてきた道の記憶もなく家へ帰ってきたことはこれまでに何十回となくあった。が、しかしなぜだろう、と彼はいつも自分に問うてみるのだった、あれほど重大な、自分にとってあれほど決定的な、それと同時にあれほどこの上なく偶然なセンナヤでの出会い(自分にはそこを通る用すらないような場所なのに)が、生涯のちょうどあんな時刻、あんな瞬間に、しかもあんな精神状態のときに、あれが、あの出会いが自分の運命ぜんたいにもっぱら最も決定的で最も完全な作用を及ぼしうるような状況のときにやって来たのはいったいなぜなのか、これではまるでその出会いがわざわざおれを待ち受けていたみたいではないかと。
彼がセンナヤにさしかかったのは、かれこれ九時頃だった。テーブルやお盆や屋台や小店で商いをしていた商人たちはみな店をたたんだり、品物を取り片づけたりして、買い手たち同様、それぞれ家へ散って行こうとしていた。センナヤ広場の建物の地階、つまり汚らしい、いやな匂いのする市場にある下等な飲食店のあたり、とりわけ酒場のそばには種々雑多な、あらゆる種類の職人や乞食が大勢むらがっていた。ラスコーリニコフは、あてもなく外へ出るようなときには、この辺やその近くにある路地裏をぶらつくのが特別好きだった。この辺だと、彼のぼろ服も、だれにも見下したような目で見られることはなかったし、どんな好き勝手な身なりでも、だれにも迷惑がられずに歩けたからである。K横町のとっつきの片隅には商人と女、つまりその女房が、テーブルを二つ並べて、糸、ひも、更紗のプラトークなどの品物を商っていた。この二人もやはり帰り仕度をしながら、たち寄った知りあいの女と立ち話をして手間どっていたのである。この知りあいの女というのが、リザヴェータ・イワーノヴナ、世間一般の呼びかたでは、単にリザヴェータといって、きのうラスコーリニコフが時計の質入れがてら下見《ヽヽ》をしに行ってきた例の十四等官未亡人で金貸し婆のアリョーナの妹だったのである……彼はもうだいぶ前からこのリザヴェータのことならなにもかも知っていたし、むこうもまた彼のことをうすうす知っていた。それは背の高い、おどおどした、おとなしい、白痴に近い三十歳のまだひとり者で、姉の完全な奴隷になって夜昼姉のために働き、姉の前では震えおののいて、姉にたたかれてもそれを黙って耐えしのんでいるような女だった。彼女は包みを抱えて思案顔で商人夫婦の前に突立って、二人の話に耳をかたむけていた。夫婦は特別熱をこめて彼女になにか説きつけているところだった。ラスコーリニコフはふと彼女の姿を見かけたとき、この出会いにはなにひとつ驚くべきこともなかったのに、なにやらふかい驚きにも似た不思議な感じに打たれた。
「リザヴェータさん、お前さんは自分の一存で決めればいいんですよ」などと商人は大声で話していた。「あした七時頃いらっしゃいよ。あの連中も来ますから」
「あした?」リザヴェータは決心がつきかねるような様子で、物思いがちに言葉じりをのばすようにしてそう言った。
「お前さんたら、アリョーナさんにすっかり脅えきっちまってるのね!」と、鉄火な女である商人の女房はべらべらしゃべりだした。「お前さんを見ていると、まるでちっちゃな赤ん坊みたいに見えるよ。姉さんと言ったってあの人はお前さんにはほんとうの姉さんじゃなくて腹ちがいの姉さんだっていうのに、お前さんをまったくいいようにしちまっているじゃないの」
「今度の場合はアリョーナさんにはなんにもいわないでおきなさいよ」と亭主は話の腰をおった。「わっしは勧めますがね、姉さんにはことわらねえでうちへいらっしゃい。割のいい話なんだから。あとになりゃ姉さんもわかってくれるから」
「じゃ行こうかね?」
「七時ですぜ、あしたのね。先方も来ることになってますからね。自分の一存で決めなさいよ」
「お茶ぐらいご馳走しますよ」と女房は言いそえた。
「いいわ、行くわ」リザヴェータはやはりまだ思案顔でそういうと、のろのろした足どりでその場を離れた。
ラスコーリニコフはそのときはもうそこを通りすぎていたので、それ以上は聞けなかった。彼は努めて一語も聞きもらすまいとしながら、そうっと、気づかれないように通りすぎた。最初の驚きは少しずつ恐怖にかわってき、まるで背筋に冷水をあびせられたような気がした。彼は聞きこんだのだ、彼はふと、突然、まったく思いもかけずに、あした晩の七時かっきりに婆さんの妹でたったひとりの同居人であるリザヴェータが家をあけるということを、つまり老婆はちょうど晩の七時には家に|ひとりっきりでいる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということを聞きこんだわけだ。
下宿まではあと数歩しかなかった。彼は死刑の宣告でもうけたような気持ちで自分の部屋へはいった。彼はなんにも考えなかったし、まるで考えることもできなかった。が、しかし自分にはもはや思考の自由もなければ意志もなく、すべてが突然最終的にきまってしまったことを直感したのである。
もちろん、たとえ何年もぶっつづけに好機の到来を待ったところで、いまたまたま現われたこの機会より明瞭確実な計画成就への第一歩を踏み出せる機会は来ないだろう。いずれにせよ、あした、これこれの時刻に、謀殺の相手である老婆がひとりっきりで家にいるということを、その前夜に、確実に、正確この上もなく、冒険や危険な聞きだしや探索など一切せずに突きとめられるというようなことはそうざらにあるものではない。
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後にラスコーリニコフはたまたま偶然、商人夫婦がリザヴェータを自宅へよんだわけを知った。それはごくありふれたことで、なにもこれといって特別なことがあったわけではない。よその土地から来て金に窮した一家で、持ちもの、服など、婦人ものをすっかり売りはらおうとする者がいて、それが市場などへ出しては損なので、女の売り手をさがしていたところ、リザヴェータがちょうどそういう商いをしていたというだけのことなのである。彼女は手数料をとって用を足して歩いていたが、大変正直でいつもいっぱいの値をつけるので、得意先もたくさん持っていた。それにこの女はだいたい口数は少ないし、前にも言ったとおり、大変おとなしい臆病な女だったのである。
それにしても、ラスコーリニコフはこの頃迷信的になっていた。この迷信的傾向はずうっとのちのちまで尾をひいて、ほとんど消しがたいものになっていた。だから、その後いつでもこの事件ぜんたいをなにか不思議なもの、神秘的なものと見、なにやら特別な作用や偶然の一致のようなものがあるように思いがちだった。つい今年の冬、ある自分の知っている学生で、ポコリョーフという男がハリコフにむけて発つにあたって、彼になにかの話のついでに、万一質入れでもしなければならないようなことでもあったらと、彼にアリョーナ婆さんの住所を教えていったことがあった。その頃は家庭教師の口があってどうにかやっていたので、彼は長いこと老婆のところへは足を向けなかった。ところが、ひと月半ほど前にふとその住所を思いだしたのである。彼の手もとにふた品ほど質草になる品物があった。父の形見のふるい時計と、妹が別れるときに記念にくれた、なにやら赤い宝石の三つはいった小さな金の指輪だった。彼はまず指輪を持っていくことにした。老婆の住まいを探りあてたとき、彼はひと目見ただけで、まだ彼女について特別なんの知識もなかったのに、彼女におさえきれない嫌悪感を覚え、彼女から「さつ」を二枚受けとると、帰り道である下等な簡易食堂にたち寄って、紅茶を注文したあと、腰をかけたままふかい物思いに沈んでしまった。こうして、卵のなかからひながこつこつつつくように、奇怪な想念に彼の頭のなかをつっつきまわされているうちに、彼はその考えにすっかりとっつかれてしまったのだ。
彼とほとんど並びのもうひとつの卓に、まるっきり知らないし記憶にもない学生と、それにわかい将校がひとり腰かけていた。彼らは玉突きをおえて、紅茶を飲みだしたところだった。彼は思いがけなく、学生が将校にしていた、金貸しの十四等官未亡人のアリョーナの話を耳にし、相手に老婆の住所を教えているのを小耳にはさんだ。このことだけでももうラスコーリニコフはなにか不思議な気がした。彼はたった今そこから出てきたばかりなのに、ここでちょうど婆さんの話を聞かされたからである。むろん、偶然にはちがいないが、彼が現に今あるまったく異常な印象から抜けきれずにいたところへ、ちょうど彼をだれかがけしかけてでもいるように、その学生が急に友人にあのアリョーナについていろいろ事細かに話しはじめたのだ。
「あれは大した婆さんだよ」と彼は話していた。「あの婆さんのとこへ行けば、いつだって金の工面《くめん》がつくんだから。ユダヤ人そこのけの金持ちで、一度に五千ルーブリだって用だてられるかと思うと、一ルーブリの質草だっていやとはいわない。僕らの仲間であそこへ出入りしている者もずいぶんいるんだ。ただ、ひどくいやなやつでね……」
そして彼は、彼女がどんなに意地わるで気まぐれな女かといった話や、たった一日でも期限が切れたが最後、品物を流してしまうことや、品物の値段の四分の一しか貸さず、利息は月に五分から七分も取るといったようなことを語りだした。学生はさんざんしゃべった上に、婆さんにはリザヴェータという妹がいて、婆さんはひどく体のちんちくりんな、いやらしい女のくせに、妹をしょっちゅうひっぱたいて、まるで小さな子供でもあしらうようにすっかり奴隷あつかいにしている、ところがそのリザヴェータのほうは背丈が少なくとも六尺はあろうという大女なのだといったようなことも話していた……
「これまた珍現象だよ!」と学生は言いはなって、大笑いした。
二人はリザヴェータの話にかかった。学生は彼女については一種特別の満足そうな様子で語り、将校は大いに興味をそそられながら耳をかたむけ、自分のところへリザヴェータを下着のつくろいによこしてくれと学生に頼んでいた。ラスコーリニコフは一語も聞きもらさずに、一どきになにからなにまで聞き知ってしまったわけである。リザヴェータは婆さんの腹ちがいの妹で、もう三十五になっていた。彼女は夜昼姉のために働き、家のなかでは料理女と洗濯女のかわりをつとめているほか、売りに出すための縫いものもしたり、はてはゆか洗いにまでやとわれたりしていながら、稼ぎはそっくり姉にわたしていた。しかも、姉の許可なしには、どんな注文も取ろうとはしないし、どんな仕事も引き受けようとはしなかった。婆さんはすでに遺言状をこしらえていて、その内容は当のリザヴェータも承知していたのだが、その遺言状によると、リザヴェータの手には、家財道具、椅子などを除けば、びた一文はいらず、金は残らずN県のある修道院に永代供養に寄進することになっていた。リザヴェータは官吏の娘ではなくて、商家の女で、まだ嫁入り前だったが、顔はひどく醜く、背丈は度はずれに高くて、長い、まるで脱臼でもしたような大足にいつも履きつぶした山羊皮の靴をはいていた、が、それでもなりだけは身ぎれいにしていた。学生が不思議がりもし笑いもした肝心な点は、リザヴェータがしょっちゅう妊娠していたことである……
「しかし、君にいわせると、その女は醜女だっていうじゃないか?」と将校がいった。
「そう、顔色はばかに浅黒くて、仮装した兵隊みたいだけど、でもね、全くの醜女っていうほどじゃないよ。なかなか人のよさそうな顔や目をしていてね。とても善良そうな女といってもいいくらいなんだ。その証拠に――みんなから好かれているよ。とても物静かで、おとなしくて、すなおで、同調的で、なんでも同意するような女なんだ。その笑顔なんか、なかなかいけるくらいだぜ」
「すると、君もまんざらじゃないんだな?」と言って将校は笑いだした。
「変わっているところがね。いや、それより君にこういうことを言いたいね。僕だったら、あのいまいましい婆を殺してやつのものをはぎとったとしても、君に断言するけど、全然良心の苛責を感じないと思うね」と学生は熱した調子で言いたした。
将校はまた笑いだしたが、ラスコーリニコフはぶるっと身ぶるいした。奇怪至極なことだったが!
「ところでね、僕はひとつまじめな質問を呈したいんだがね」学生は熱してきた。「もちろん、今言ったことは冗談だが、いいかね、一方には、馬鹿で、無意味で、つまらない存在で、意地わるで、だれにも必要でないどころか、だれにとっても有害な、自分でもなんのために生きているのかもわからない、そしてあしたにもひとりでに死んでしまうような、病人の婆がいる。ね、わかってるかね? わかるかね?」
「ああ、わかるとも」と、将校は熱した友にじっと目をすえながら答えた。
「じゃ、そのさきを言うぜ。ところが、一方には、援助の手がさしのべられないばっかりにあたら空しく消えていく若い新鮮な力がある。しかも何千となく、いたる所にあるんだ! また、修道院へおさめることになっている婆の金で何百何千という立派な事業や計画をすすめたり改善したりできる! また、ひょっとしたら、何百何千という生活が正道に向けられるかもしれない。幾十もの家族が貧困や腐敗や死や堕落や性病の病院から救われる、――こういったことがぜんぶあいつの金でできるんだぜ。あいつを殺してその金を奪い取れってわけだ、ただしそれは、そのあとでその金を利用して全人類と公共事業への奉仕に身をささげるのが目的なんだけどね。君はどう思うね、ひとつのちっぽけな犯罪くらい何千という立派な事業をしても償いがつかないものだろうか? たったひとつの命で何千もの命が腐敗と堕落から救われる。ひとつの死と百の生の交換だ――こいつはまったく算術みたいに明らかじゃないか! それに社会全体のはかりにかけたらあの肺病やみの馬鹿で意地のわるい婆の命がどれだけの意味があるかね? しらみや油虫の命より上じゃない、いや、それだけの値うちすらありゃしないよ、だってあいつは有害なんだもの。あいつは他人の命をしゃぶっているんだからな。この間もあいつは腹だちまぎれにリザヴェータの指にかみついて、あぶなく食いちぎるところだったんだ!」
「むろん、そいつは生きるに値しないさ」と将校は言った。
「しかし、それが自然というものだよ」
「ちぇっ、君、自然は修正され、その方向を変えられているじゃないか、それがなかったら、人間はまちがった考えのなかにはまりこんでいなきゃならなかったはずだぜ。そうしなかったらひとりの偉人も出なかったはずだぜ。『義務だ、良心だ』と人は言う、――僕は義務や良心に反対するつもりは毛頭ないよ、――だけど、われわれはその義務とか良心をいったいどう解していると思う? 待ってくれ、ここで君にもうひとつ質問を呈しよう。聞きたまえ!」
「いや、君、待ってくれ。こっちが君に質問するよ。聞きたまえ!」
「よし!」
「君は今ひとくさり演説をぶったようだが、じゃどうなんだね、君は|自分の手で《ヽヽヽヽヽ》婆を殺すかね、どうだね?」
「もちろん、殺さないさ! 僕は正義のために言ってるんで……なにも僕の関係したことじゃないからね……」
「僕に言わせれば、君自信が決心するんでなかったら、正義もへちまもあったものじゃないよ! もうひと勝負やりにいこうか!」
ラスコーリニコフは異常な興奮にかられていた。むろん、これらはみなごくありふれた、しょっちゅう出くわす会話であり、形式やテーマこそ違え、すでに一度ならず耳にしている青年じみた会話だし考えだった。が、それにしてもいったいなぜ選《よ》りに選《よ》って今、彼自身の頭に……|まさにおなじような考え《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が生まれたばかりというときに、事もあろうにこんな話やこんな考えを聞くことになったのだろう? なぜほかならぬ今、老婆のところから自分の考えの種子を植えつけられてきたばかりというときに、こんな老婆の話を聞くはめになったのだろう?……彼にはこの偶然の一致がいつも不思議でならなかった。この食堂でのつまらない雑談が、さらに事件が展開するにつれて彼に異常な影響を及ぼしていったのである。まるで、実際にこのとき一種の宿命が、啓示があったかのようだった……
センナヤから帰ると、彼はソファに体を投げだして、まる一時間も身じろぎもせずにじっと坐っていた。やがてあたりは暗くなってきたが、ろうそくもなかったし、それに明りをともそうという考えも頭に浮かばなかった。彼は後に、このときなにか考えていたのかどうか、どうしても思いだせなかった。最後に彼はさっきとおなじ熱病を、悪寒を感じ出したが、今度はソファに寝られるのだと思うと、嬉しかった。まもなく、鉛のように重い熟睡が、まるでおしつけるように、彼の上にのしかかってきた。
彼はつねになく長い時間を夢も見ずに眠った。あくる朝十時に彼の部屋へはいってきたナスターシヤはやっとのことで彼を揺り起こした。紅茶とパンを持ってきてくれたのである。紅茶は相変わらず出がらしだったし、相変わらず自前の急須にはいっていた。
「まあこの人の寝ることといったら!」と彼女はむっとして声を張りあげた。「ずうっと眠りっぱなしじゃないの!」
彼はやっとのことで体を起こした。頭がずきずきしていた。彼は立ちあがりかけたが、部屋のなかでくるりと向きを変えただけで、またソファの上に倒れてしまった。
「また眠ろうっていうの!」とナスターシヤは叫びたてた。
「加減でもわるいのかい?」
彼はなんとも返事をしなかった。
「紅茶はほしいんだろ?」
「あとで」と彼はやっとのことでそう言いながら、また目を閉じて壁のほうへ向きを変えてしまった。ナスターシヤはしばらく相手を見おろして立っていた。
「これじゃほんとうに病気なのかもしれないわ」と彼女はそう言うと、向きを変えて、出ていってしまった。
二時に彼女はまたスープを持って、はいってきたが、彼は相変わらず横になったままだった。紅茶は手もつけてなかった。ナスターシヤはむっと来たらしく、憎々しげに彼をつっつきはじめた。
「なんだって眠ってばかりいるのさ!」彼女はいやらしいといった顔つきで相手を見おろしながら、そうどなりつけた。男は身をおこして坐ったが、彼女にはなにも言わずに、ゆかを見つめていた。
「加減がわるいの、どうなのさ?」とナスターシヤは聞いたが、やっぱり返事はなかった。
「表へでも出たらいいのに」と彼女は、ちょっと口をつぐんでから言った。「せめて風にでも吹かれてくればいいのに。食べるんでしょ?」
「あとで」と弱々しげな声で彼は言い、「あっちへ行ってくれ!」と、手をふった。
彼女はなおもしばらく立ったまま、気の毒そうに相手を眺めていたが、やがて出ていってしまった。
それから何分かした頃、彼はふと目をあげて、長いこと紅茶とスープに目をあてていたかと思うと、やがてパンを取り、スプーンを手に、食べはじめた。
彼は、食欲もなく、ほんの少し、三さじか四さじほど、機械的に食べた。頭は前ほど痛くなかった。食事をすますと、またソファに体をのばして横になったが、もう眠れるはずはなく、体をうつぶせにし、顔を枕にうずめたまま、身じろぎもせずに横たわっていた。その間ずうっと幻覚の見どおしだったが、それがまたどれもこれも奇怪な幻覚ばかりだった。一ばん頻繁《ひんぱん》に見たのは、自分がどこかアフリカに、エジプトのあるオアシスにいるところだった。隊商が休息をとり、らくだがおとなしく寝そべっている。まわりにはあたり一面にしゅろが生いしげっている。みんなは食事をしているが、彼だけは、そこのすぐわきをさらさら流れている小川に口をつけて、ぶっつづけに水を飲んでいる。とても涼しくて、実にすばらしい、青い冷たい水が色とりどりの石や金色の輝きをおびたきれいな砂の上を流れている……と突然、彼は時計のうつ音を耳にした。彼はぶるっと身ぶるいしてわれに返ると、首をもたげて窓外を見、時間をはかった上で、すっかり正気づいたらしく、まるでだれかにソファからもぎ離されでもしたように、ぱっとはね起きた。そして、忍び足にドアへ歩み寄ると、そうっとドアをあけて、階段の下の気配をうかがいはじめた。心臓がどきどき激しく動悸《どうき》を打っていた。だが、階段は、まるでみんな寝しずまってしまったように、ひっそり閑としている……彼には、自分がきのうからこんなに正体もなく眠りこけて、まだなにひとつせず、なんの用意もしないでいられたことが、奇妙にも感じられ不思議にも思われた……その間に六時を打ったようだった……と突然今度は、眠気と無気力にとってかわって、異常な熱病じみた、一種あわただしい心せく思いにとらえられた。もっとも、準備といっても大してあるわけでもなかった。彼は全力をあげて考えを練り、なにひとつ手落ちのないように工夫した。心臓は相変わらずどきどきして、息をするのも苦しいほどの打ちかただった。まず第一に、輪をこしらえて、外套に縫いつけなければならないが、――これはわずか一分ほどの仕事である。彼は枕の下に手を入れて、その下に押しこんであった下着のなかから、すっかりぼろぼろになった洗濯もしてない古いルバーシカをさがし出した。そのぼろから、幅四センチ半、長さ三十五センチほどの切れをひも状にちぎり取った。そのひもを彼は二重に折って、自分が着ていた、なにか厚い木綿地の、だぶだぶで丈夫そうな夏外套(彼の一枚っきりの上着)を脱いで、左わき下の内側にひもの両端を縫いつけはじめた。縫いつける間彼の手はぶるぶるふるえていたが、なんとかやりおおせて、もう一度外套を着たとき、外側からはなんにも見えないように仕上げることができた。針と糸はもうだいぶ前から用意して、紙につつんで小机のなかに入れてあったのである。輪のほうは、これは彼自身の妙案によるもので、斧を下げるためのものだった。まさか往来を斧を手にぶらさげて行くわけにもいかなかったからである。また、外套の裏にかくすにしても、やはり片手でおさえていなければならず、そんなことをしたら人目につきやすい。ところが今はこうして輪がついている上、ただそれに斧の刃をおしこみさえすれば、斧は道中ずうっと脇の下の内側に安全にぶらさがっているわけだ。それに、片手をわきポケットに入れれば、斧をぶらぶらさせないように、その柄のさきをおさえることもできる。また、外套がひどくだぶだぶで、袋そっくりだったから、外側からは、なにかを片手でポケットごしにおさえていても、目につくはずもなかった。この輪もやはりもう二週間も前に思いついていたのだった。
それを終えると、彼は「トルコ風の」ソファとゆかの間の小さな隙間に指をつっこんで、左の隅のあたりを、まさぐって、もうだいぶ前に用意してそこにかくしておいた質草《ヽヽ》を引っぱりだした。その質草はしかし、まるっきりほんとうの質草ではなくて、大きさも厚みも銀のシガレット・ケースほどもない、なめらかにかんなのかかった単なる板きれにすぎなかった。その板きれは、彼が散歩の途中で、離れになにか製作所のあったある裏庭で偶然見つけたものなのである。それから彼はその板きれになめらかな鉄の薄板(大方なにかの切れはしだろうが)を重ねた。その薄板もそのとき通りで見つけたものなのだ。鉄の板は木の板よりも小さかったが、彼はその両方の板を重ねあわせて、いっしょに糸でしっかりと十文字にしばりつけた。それから、それをきれいな白い紙にきちんと体裁よくくるんで、なるべくほどきにくいようにくくった。それは、老婆がその小さい包みを解きにかかったとき、しばらく老婆の注意をそっちへそらし、そんなふうにして機会をとらえるためである。また、鉄板をつけ足したのは、重さをつけて、老婆に最初ちょっとの間でも「品物」が木であることを見やぶらせないようにするためだった。そういったものはぜんぶ、時期が来るまでソファの下にかくしてあったのである。彼が質草をとり出したとたんに、どこか裏庭のあたりで、だれかが叫ぶ声がした。
「もうとっくに六時をまわっているぞ!」
「もうとっくに! そりゃ大変だ!」
彼は戸口へ飛んでいって、聞き耳をたて、帽子をひっつかんで、警戒しながら、猫のように足音をしのばせて十三段の階段をおりはじめた。まっさきにやらなければならない一ばん肝心な仕事は台所から斧を盗むことだった。斧でやらなければならないということは、もうずっと前にきめたことだった。彼はそのほかに折りたたみ式の園芸用ナイフも持っていたが、とくに自分の力が頼みにならなかったので、結局斧に落ちついたのである。ついでに、この仕事ですでに彼がとりあげた最終決定全部についていえる、ある特異性について指摘しておこう。これには奇妙な特異性があった。その決定がいよいよ確定的になればなるほど、彼の目には醜さとばからしさがますます大きく見えてきて、心のなかでずいぶん苦しい戦いをくり返しながらも、彼はその間じゅう一瞬たりとも自分の計画の実現性が信じられなかったことである。
だから、かりにもしいつか、もはやなにもかも最後の一点にいたるまで研究しつくし、完全に解決がついて、もうこれ以上どんな疑問点も残っていないようになったとしても、――そんな場合ですら、これを、ばかげたこと、奇怪なこと、不可能なこととしてぜんぶ放棄してしまったかもしれないのだ。ところが、この場合未解決な点や疑問点はまだ山ほど残っていた。斧をどこで手に入れたらよいかというようなそんな細かい点は、彼にはちっとも気にならなかった、というのは、これほど造作ないことはなかったからである。それは、ナスターシヤはとくに宵の口など、しょっちゅう家をあけて、隣りに用足しに行ったり店屋へ使い走りに出たりして、戸がいつでもあけ放してあったからだ。おかみが彼女と口論をするのも、もっぱらそれが原因だった。そんなわけで、そのときになったら、そうっと台所へ忍びこんで斧を取ってき、そのあと一時間もしてから(すでに一切が完了したときに)そこへはいって返してくれば、それでよかったのである。しかし、疑問もわいた。もしかりに一時間後に返しに来たとき、ちょうどそこへナスターシヤが帰ってきたらという疑問である。もちろん、その場合はそばを通りぬけて、彼女がまた出ていくまで待たなければならない。が、それにしても彼女がその間に斧がないことに気づいて、探しはじめ、大声でわめきだしでもしたら、――そのときは嫌疑がかかる、少なくとも嫌疑の機会を与えることになる。
が、しかしこんなことはまだ、考え出しもしなかったし考える暇もなかったような些細なことだった。彼は考えるのは大筋だけにして、細かい点は|ぜんぶにわたって《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》自分の|確信がつく《ヽヽヽヽヽ》まで延ばしていたのだ。そうはいっても、その確信なるものは絶対に得られそうもなかった。少なくとも彼自身はそういう気がしていた。といったようなわけで、たとえば、いつかそのうち自分は思案に見きりをつけて立ちあがり、――さっさとあそこへ出かけていくだろうなどとはどうしても想像できなかったのである……つい最近の下見《ヽヽ》(つまり、現場を最終的に調べるつもりで試みた訪問)にしても、彼はそれを|試み《ヽヽ》かけただけのことであって、真剣にやる気など毛頭なく、ただ『どれ、ひとつ出かけていって、試してこようか、空想ばかりしていたってしようがない!』といった程度のものにすぎなかった――だからたちまち我慢がならなくなって、自分に愛想をつかし、自分自身に腹をたてて逃げだしてきてしまったのだ。が、一方問題の道徳的解決という点では、彼はもう分析をすっかり完了しているような気がしていた。彼の是非判断はかみそりのように研ぎすまされていて、彼は自分の内部にもはや意識的な反駁《はんばく》など見いださなくなっていたのである。が、そのくせ最後のどたん場になるとまったく自分が信じられず、かたくなに、卑屈に、あちらこちら手さぐりで反論を探しもとめて、まるでだれかに手を取ってそっちへ引っぱられていくようなあんばいだった。あんなに思いがけずやってきてなにもかも一ぺんに解決してしまったあの最後の日の、彼に対する作用のしかたは、ほとんどまったく機械的と言ってもよかった。それはまるで、だれかに自分の手をつかまれて、いや応なく、盲目的に、超自然的な力で、うむを言わさず、引きずっていかれるようなぐあいだった。それはちょうど、着物の端が機械の車輪にひっかかって、機械のなかに引っぱりこまれ出したときのようなものだった。
初め(とはいっても、もうだいぶ前のことだが)、彼はある疑問に興味を感じていた。それは、どうして犯罪というものはほとんどすべてあんなにたやすく探知され露見してしまい、大部分の犯人の足どりがあんなにはっきりと明るみに出てしまうのだろうという疑問である。彼は次第に多種多様な興味ある結論に到達していった。彼の見解によれば、その最大の原因は犯罪隠ぺいの物的な不可能性よりもむしろ犯人自身にある、つまり犯人自身が、ほとんど例外なく、犯行の瞬間に、まさに理性と慎重さが最も必要であるその瞬間に、一種の意志と理性の減退におちいり、逆に子供じみた異常な軽率さに見舞われることにある。彼の確信するところでは、この理性の混迷と意志の減退は病気のように人間をとらえて次第に増大し、犯行の直前にその極限に達する。そしてその状態が犯行の瞬間、人によってはそのあともしばらくつづく。その後の経過はあらゆる病気の経過と同様である。しかし、病気が犯罪を生むのか、それとも犯罪自体が、その特別な本性から、つねに病気に類した状態を伴うのかという問題になると――彼はまだ自分にはそれを解決する力がないような気がしていた。
こういう結論に到達してから、彼は、この事件では自分にかぎってそんな病的な変化は起こりえない、理性と意志は、計画を遂行している間じゅう、自分から離れないにちがいない、その理由と言えば、ただひとつ、自分の企ては「犯罪ではない」ということだけだ、と断定した……彼がこの最後の断定に到達したその途中の経過は、ぜんぶ省略しよう。でなくとも、あまり先走りしすぎたようだから……ただ、つけ加えておくが、この事件の実際的な物的困難などはだいたい彼の頭のなかではほんとうの二次的な役割しか演じていなかった。『そんな困難は、それに対して意志と理性をそっくりそのまま維持できさえすれば、時が来て、仕事の細部がその微細な部分にいたるまでわかってくるにつれて、ぜんぶ克服できるもの……』と彼は思っていたのである。しかし、仕事はいっこうに着手されそうになかった。そして、相変わらず自分の最後の決断がなににもまして信じられずにいたところへ、時計が鳴ったとたんに、すべてがまったく違ったことに、なにか出しぬけに、ほとんど思いももうけなかったようなことになってしまったのである。
まだ階段をおりきらないうちに、彼はあるごくつまらない事情にはたと当惑してしまった。例によってあけ放しになっていたおかみの家の台所にさしかかったとき、彼は警戒しながら横目でなかをのぞいてみた。ナスターシヤはいないまでも、おかみ自身がそこにいはしないだろうか、もしおかみがいないとしても、部屋の戸がよくしまっていて、自分が斧を取りにはいったとき、やはり彼女になにかのひょうしでそこをのぞかれやしないかどうかあらかじめ見ておこうと思ったのである。ところが、そのときにかぎってナスターシヤが家に、しかも持ち場の台所にいたばかりか、その上仕事までしているのを見たときの彼の驚きようと言ったらなかった。彼女は洗濯物をかごから取り出して綱にかけていたのである! 彼女は彼の姿を見かけると、洗濯物をかける手をやめて、彼のほうをふり返って、彼が通りすぎるまで、ずうっと見送っていた。彼は目をそらして、なにくわぬ顔をして通りすぎた。だが、万事休す。斧がない! 彼は打ちのめされたような気がした。
『いったいどこからおれはあんな考えを割りだしてきたんだろう』と彼はおりて門をくぐりながら考えた。『どこから割りだしてきたんだろう、あの女はきっとこんな時間には家にいないにちがいないなどと? どうして、どうして、どうしておれはてっきりそうなるものときめてしまっていたんだろう?』彼はおしひしがれ、なにか鼻っ柱でもくじかれたような気持ちさえした。彼は腹だちまぎれに自分をせせら笑ってやりたかった……そして、胸に漠然たる、けだものじみた憎悪がわきおこった。
彼は思案にくれて門の下に立ちどまった。体裁をつくろってこのまま表へ散歩に出るのもいやだったが、家へひっ返すのはなおさらいやだった。『またとないチャンスを永久に逸しちまったぞ』彼は門の下の、やはりあけはなしてある暗い番小屋にまともに向きあって当てもなくたたずみながら、そんなことをつぶやいた。と突然彼はぶるっと身ぶるいした。彼から数歩のところにあった番小屋の、ベンチの下の右手から何かぴかりと光って彼の目を射たものがあったのだ……あたりを見まわしたが、だれもいない。彼は爪先立ちで番小屋へ近づくと、階段を二段ほどおりて、小声で庭番を呼んでみた。『案の定、いない! もっとも、屋敷内のどこか近いところにいるかもしれない、戸があけはなしてあるから』彼はまっしぐらに斧に飛びついていって(それは斧だったのである)、ベンチの下の二本の薪のあいだから引っぱりだすと、そこを出ずにその場でそれを例の輪にひっかけ、両手をポケットにつっこんで、番小屋を出た。だれひとり気づいた者はいなかった!『理性の働きでないとすりゃ、悪魔の手引きだな!』彼はそう考えて、にやりと妙な薄笑いを浮かべた。彼はこの偶然の発見に大いに元気づけられた。
彼は途中、人に一切怪しまれないように、静かに、|ちゃんとして《ヽヽヽヽヽヽ》、急がずに歩いていった。通行人にはあまり目をくれず、その上努めて全然人の顔を見ないようにし、なるべくめだたないようにしていた。そのときふと自分の帽子のことが思いうかんだ。『こいつはしまった! おとといは金があったのに、学帽にかえることは思いつかなかったぞ!』こん畜生、という言葉が口をついて出た。
ふとある店を横目で窺《うかが》ったところ、そこの柱時計は七時十分になっていた。急がなければならない、しかも廻り道をしてあのアパートに裏側から近づかなければならない……
以前、こんなところをひととおり想像に描いてみたことがあったが、そんなときはずいぶん恐怖を感じることだろうと思ったものである。ところが、今になってみると大して恐怖を感じない、それどころか、まるっきり感じないのだ。こんなときだというのになにか事件に無関係な考えにすらとらわれていた。もっともそれはみなちょっとの間ではあったが。ユスーポフ公園のそばを通ったときなど、彼はどこの広場にも高く吹きあげる噴水をこしらえたら空気がどんなにさわやかになるだろうなどと考えて、噴水設置の考えに耽りかけたくらいだった。それから次第に考えが移っていって、レートニイ・サート(『夏の園』)をマールソヴォ原(練兵場『軍神が原』)まで拡張して、さらにミハイローフスキイ御苑と合併したら、すばらしい、そしていちばん町のためになるものができあがるにちがいないという確信までいだいた。このとき彼は急に、どこの大都会でも人間は単に必要からというのではなくて、なんとなく、公園も噴水もない、ぬかるみや悪臭やあらゆる汚らしいものに満ちた区域で特に暮らしたり住みついたりしがちなのはいったいなぜなのだろうという疑問に興味をひかれた。そこへ、自分自身もセンナヤをぶらついていたことを思い出し、とたんにはっとわれにかえった。『なんだ、ばかばかしい』と彼は思った。『いや、いっそのこと全然なんにも考えないことだ!』
『きっと、刑場にひかれていく者も、こんなふうに途中で出会うあらゆるものに心を奪われるにちがいない』こんな考えが頭のなかにひらめいた、が、それはただ、稲妻のようにひらめいたにすぎなかった。自分から急いでそういう考えを打ち消してしまったからである……だが、もうすぐそこだ、そこが家だ、門だ。だしぬけに、どこかで時計がひとつ鳴った。『あれはどうしたんだ、もう七時なんだろうか? そんなはずはない、きっと進んでいるんだ!』
さいわい、門も無事に通過できた。しかも、まるでおあつらえむきに、ちょうどこのとき大きな乾草車が、彼がはいる直前に門をくぐったので、車が門の下を通りすぎる間じゅうすっかり身を隠すことができた。そこで、その荷車が門から中庭へ出るが早いか、彼はひょいと右手に滑りぬけた。荷車のむこう側では、何人かでどなったり言い争ったりしている声がしていたが、彼はだれにも気づかれもしなかったし、出会いもしなかった。その大きな四角い中庭に面した数多い窓はおりからあけ放してあったが、彼は顔をあげなかった――そんな気力もなかったのだ。老婆の住まいへ行く階段は門のすぐ右手にあった。彼は早くも階段に足をかけていた。
彼は息を入れて、片手で高鳴る心臓をおさえ、同時に斧にさわってもう一度位置をなおしてから、絶えず耳をすましながら、用心しいしい静かに階段をのぼりはじめた。しかし、階段もこのときは人けがなく、ドアはぜんぶしめきってあったし、だれにも出くわさなかった。もっとも、二階にひとつあき部屋があって、あけっ放しになっていて、そのなかでペンキ屋が仕事をしていた。が、しかし彼らは目もくれなかった。彼はちょっと立ちどまって、考えてから、先へ歩きだした。『もちろん、あいつらがここにいないに越したことはないが……まだこの上に二階があるからな……』
が、そこはもう四階だ。そこにドアがあり、むかいも住まいになっているが、そこはあき部屋だ。三階の、老婆の真下の住まいも、あらゆる徴候から見て、やはりあき部屋のようだ。戸口に釘でとめた表札がはずしてあったから、――あれは引っ越したあとなのだ! ……彼は息がつまってきた。一瞬、『帰ったほうがいいんじゃないだろうか?』という考えが頭をかすめた。が、それには答えずに、老婆の住まいの気配を窺いはじめた。死のような静けさだ。それから、もう一度階段の下のほうに耳をすまして、長いことじっと聴き耳をたてていた……そのあと、最後にふたたびあたりに目を配って、忍び寄り、身じまいをなおして、もう一度輪にかかっている斧にさわってみた。ふと、『青い顔をしちゃいないだろうか……真っ青な顔を?』という考えが浮かんだ。『特別興奮しちゃいないだろうか? あの婆は疑りぶかいからな……もうすこし待つべきじゃないかな……動悸がやむまで?……』
だが、動悸はやみそうもなかった。それどころか、まるでわざとのように、ますます激しく打つばかりだ……彼は我慢しきれなくなって、徐々に手をのばしていって、呼び鈴を鳴らした。それから三十秒ほどしてからもう一度、今度はもうすこし大きく鳴らしてみた。
返事はない、むやみに鳴らしたところでしかたがないし、彼の人柄にも似つかわしくない。婆さんは、いうまでもなく、うちにいるのだが、疑りぶかい女な上に、今ひとりっきりでいるからなのだ。彼は多少彼女の癖も心得ていたのである……そこでもう一度ドアにぴったり耳をつけてみた……感覚がそれほど鋭敏になっていたせいか(概してこういうことは推測が困難なものだ)、それとも実際によく聞こえたのか、とにかく不意に、錠前の掛け金のあたりで手を用心ぶかく動かしてこすれるらしい音と、服がドアにじかに触れてさらさらいう音を聞きとった。だれかがこっそりと錠前の近くに立って、彼が外でやっているように、なかから息をひそめて、おそらくはおなじようにドアに耳をあてて、聞き耳をたてているらしいのだ……
彼はわざと体を動かしたり、なにやらやや大声でつぶやいたりして、身をひそめているように見せまいとした。そしてそれから三度めの呼び鈴を鳴らしたが、今度はおだやかで、落ちつきはらった、いらだっているところなどみじんもないような鳴らし方だった。あとでこのときのことを思い出してみたが、彼の記憶にこの瞬間が鮮やかに、はっきりと、永久に刻みつけられていた。彼は、どこからあれほどの悪知恵を仕入れてきたものか、とんと合点がいかなかった。ましてあのときは頭がときどき曇っているようなぐあいで、自分の体さえほとんど感じないくらいだったのだ……すぐそのあとで、掛け金をはずす音が聞こえた。
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ドアが、この前のように、ごく細めにあき、またしても闇のなかから二つの鋭いうさんくさそうなまなざしが彼にそそがれた。とたんに、ラスコーリニコフは度を失って、重大なしくじりをするところだった。
彼は、老婆が自分たち二人きりなのにおびえはすまいかと思い、また自分の様子では彼女の疑いを消せる見こみもないと思ったため、老婆になんとかまた急に閉めきってしまう気を起こさせまいとして、ドアに手をかけて手前へぐいと引っぱった。老婆はそれを見て、ドアを自分のほうへ引きもどしこそしなかったが、錠前の掛け金も放さなかったため、彼はあぶなくドアといっしょに老婆を階段のほうへ引っぱり出すところだったのである。彼は老婆が戸口に立ちふさがって彼を通そうとしないのを見てとると、ずかずかと相手にむかって進んでいった。相手はびっくりして跳びすさり、なにかいいそうにしたが、声にならないらしく、目をいっぱいに見開いて彼を見つめていた。
「今晩は、アリョーナ婆さん」と彼はできるだけくだけた口調で切りだしたが、声が言うことをきかず、とぎれたり、震えたりした。「僕……品物を持ってきたんですがね……こっちへ来たほうがいいですよ……明るいところへ……」こう言って彼は相手を置き去りにして、案内も待たずに、つかつかとなかへ通ってしまった。老婆はあとを追って駆けこんだ。彼女の舌はやっとほぐれ始めた。
「まあまあ! なんですね、あなたは?……どなたですか? なんのご用です?」
「冗談じゃありませんよ、アリョーナ婆さん……ご存じの男です……ラスコーリニコフですよ……ほらこのとおり、この間約束した質草を持ってきたんですよ……」こう言って彼は相手に質草を差しだした。
老婆は質草にちらっと目をやりそうにしたが、すぐにその招かれざる客をまともに見すえた。彼女はまじまじと、意地わるげに、うさんくさそうな目つきで見つめていた。一分ほど過ぎた。彼は老婆の目になにやら嘲笑めいたものすら感じとれ、まるでなにもかももう見やぶられてしまったような気さえした。彼は自分が度を失いかけていると感じ、もう恐ろしいくらいになり、恐ろしさのあまり、彼女にこの上もう三十秒も一言も口をきかずにそうやって見つめられていたら、自分のほうから逃げだしたろうとさえ思われた。
「なんだってあなたはそんなに見つめているんです、まるで見覚えがないみたいに」と彼は出しぬけに、やはり憎悪をこめてこう言った。「よかったら預かって下さい、だめだったら、よそへ行きます、ぐずぐずしていられないんですよ」
彼はそんなことをいうつもりはなかったのだが、ただひとりでにひょいと口に出てしまったのである。
老婆はわれに返り、客のきっぱりした調子に元気づけられた様子だった。
「なんだってまた、お前さん、そんなに出しぬけに……物はなんですか?」と彼女は質草に目をやりながら聞いた。
「銀のシガレット・ケースですよ。この前お話したでしょう」
彼女は手をのばした。
「なにか知らないけど、お前さんはずいぶん顔の色がわるいんじゃありません? ほら、手まで震えている? 湯あがりにでもお出でになったのかね?」
「熱が出てるんですよ」と彼はぶっきらぼうに答えた。「いやでも顔色はわるくなりますよ……食べるものもなけりゃ」と彼は一語々々やっと口から出すような調子でそういいそえた。またもや気力が失せそうになった。しかし、その答えはいかにももっともらしく聞こえたのだろう、老婆は質草を手に取った。
「これはなんです?」と彼女はもう一度ラスコーリニコフをじっと見やって、片手で質草の重味をはかりながら聞いた。
「物は……シガレット・ケースですよ……銀製の……ま、見て下さい」
「なんだか銀じゃないみたいですね……まあ、ずいぶんよく縛ってあること」
老婆は懸命にひもをほどこうとして明りのさす窓のほうを向いて(その部屋は、蒸し暑いのに、窓がぜんぶしめきってあった)、数秒の間まったく客をほうったらかしにして、背を向けて立った。青年は外套のボタンを外して、斧を輪から引きぬこうとしたが、まだぜんぶは抜かずに、ただ外套のなかで右手でおさえるようにしていた。手は恐ろしく力がなくなって、一瞬一瞬ますますしびれて固くなってくるのが自分にもわかった。彼は斧を取り落としはしないかと心配だった……と突然目まいがしてきたようだった。
「なんだってこの人はこんなにしっかりゆわえたものだろう!」と老婆はいまいましげに叫びながら、ちょっと彼のほうへ体を動かしそうにした。
もはや一刻の猶予もならなかった。彼は斧を抜きとると、ほとんど意識ももうろうとしながら、斧を両手に握ってふりかぶり、ほとんど無造作に、ほとんど機械的に斧のみねを脳天に打ちおろした。そのときはまるで力が抜けたような感じだった。が、ひとたび斧を打ちおろしたとたんに、力がわいてきた。
老婆は、いつものように、頭になにもかぶっていなかった。例によって油をこってりつけた、白髪まじりの薄色の髪をねずみの尻尾のように編み、それを束ねてとめてある一つの櫛のかけらがうしろに突き出ていた。打撃が加えられたのはちょうど頭のてっぺんだった。相手の背が低かったからである。相手はきゃあっと叫びを発したが、それもごく微かな声で、体は突然へたへたとくずおれてしまった。それでも両手を頭へあげることはあげた。それに、片方の手にはなおも「質草」をにぎっていた。そのとき青年はあらんかぎりの力をふるって、やはり斧のみねで、同様脳天に一度、二度と打撃を加えた。血が、コップでもひっくり返したように、どっと流れ出、体はあお向けにぶっ倒れた。彼はあとへ身をひいて、倒れるにまかせてから、すぐに相手の顔にかがみこんだ。老婆はもうこときれていて、目は今にも飛び出さんばかりに見開かれ、額と顔は一面しわだらけになり、けいれんに引きつっていた。
青年は死人のそばのゆかに斧をおくと、流れる血でよごさないように気をつけながら、さっそく相手のポケットに、――この前老婆が鍵をとり出した右のポケットに手をつっこんだ。頭はしっかりしていて、意識の混濁や目まいはもうなくなっていたが、手はやはりまだ震えていた。あとになってから彼は、このときはなかなか細心で、慎重で、絶えず体をよごさないようにしていたことを思いだしたものである……鍵はすぐに取りだせた。あのときのように、ぜんぶひとつに束ねて、ひとつの鋼鉄製の輪につけてあった。彼はすぐさまそれを持って寝室へ駆けこんだ。そこはいたって小さな部屋で、そこには聖像の安置してある大きな壇がおいてあり、第二の壁ぎわには作りの大きい、なかなか清潔なベッドがおいてあって、それには絹布の端ぎれを縫いあわせた綿いれの布団がかけてあった。さらに第三の壁ぎわにはたんすがおいてあった。奇体にも、たんすに鍵をあわせはじめ、そのがちゃがちゃいう音を聞いたとたんに、体じゅうけいれんが走ったような感じがした。彼はまたもやなにもかも放りだして立ち去りたい気持ちに駆られた。が、それも束の間だった。立ち去るにはもうおそかったのである。彼は自嘲の笑いさえ浮かべた。と突然今度は別の不安な考えが彼の頭にひょいと浮かんだ。急に、事によると婆さんがまだ生きていてまだ息を吹きかえすかもしれないという気がしたのである。彼は鍵束とたんすをそのままうっちゃって、死体のところへ駆けもどると、斧をおっ取りざま、もう一度老婆にむかって振りあげたが、振りおろすのはやめた。疑いもなく相手は死んでいたからである。身をかがめて、もう一度もっと近間からよくよく見て、はっきりわかったのだが、頭蓋骨は粉々に砕けて、おまけに少々わきへはみ出ていた。彼は指でさわってみようとしたが、その手を引っこめてしまった。そんなことをするまでもなく、はっきりわかったからである。血はその間にもう大きな水溜りのように、その辺を浸していた。彼はふと彼女の首にかかっているひもに気づいて、それを引っぱったが、ひもは丈夫で、ちぎれなかった。おまけに、血でべとべとになっていた。彼はそのまま懐から引っぱり出そうとしたが、なにか邪魔になるものがあって、抜けなかった。彼はじれったくなって、とっさにひもを体もろとも断ち切ろうと思って斧を振りかぶりそうにしたが、その勇気もなかったので、死体に斧はあてずに、二分ほどごそごそしているうちに、手を血だらけにしてやっとそれをはずすことができた。案の定、それは財布だった。ひもには糸杉と銅の十字架二つと、ほかにエナメル塗りの小さな聖像と、それらといっしょに鉄の縁と輪のついた、かもしか皮の手脂で汚れた小さな財布がさがっていた。財布はぎっしり詰まっていた。ラスコーリニコフはよく見もしないでそれをポケットに押しこみ、十字架を老婆の胸の上にほうり投げると、今度は斧をつかんで、寝室へ駆けもどった。
彼はひどくせかせかして、鍵束をつかむなり、またもやいじくりまわしはじめたが、なぜか、どうもうまくいかず、鍵が錠にはまらなかった。手はそんなに震えているわけでもないのに、彼はのべつしくじってばかりいて、たとえば、鍵がちがっていて合わないのに、いつまでもおしこんでいるといったぐあいだった。ふと彼は、ほかの小さな鍵といっしょにぶらさがっている、この、ぎざぎざのある大きな鍵はきっと全然たんすの鍵などではなくて(この前もふと頭に浮かんだように)、なにか長持ちの鍵にちがいない、そしてその長持ちに、ひょっとするとなにもかもしまってあるのかもしれないと気づき、そう判断した。そこで彼はたんすをそのままにして、どこの婆さんでも長持ちはたいてい寝台の下に置いておくものであることを知っていたので、さっそく寝台の下へもぐりこんだ。はたして思ったとおり、長さ一メートル近くもある、キッドの赤革を張った上に一面に鉄びょうの打ってある反り蓋のついた立派な長持ちがおいてあった。ぎざぎざのある鍵はぴったり合って、すぐにあいた。一ばん上の白いシーツの下に赤い表のついた兎の皮の外套が、その下には絹の服が、そのまた下にはショールがはいっていて、その奥は、どうやらぼろばかりらしかった。まず彼は赤い表地に血まみれの手をこすって拭きとろうとした。
『赤いものか、まあ、赤いものなら血をつけてもわかるまい』と彼は判じかけて、はっとわれにかえり、『ああ! おれは気でも狂うんじゃないんだろうか?』と、ぎくっとしながら思った。
ところが、ぼろに手をふれたとたんに、毛皮外套の下から金時計が転げ出た。そこで、いきなりぜんぶひっくり返しにかかると、なるほど、ぼろの間に、腕輪、くさり、耳輪、飾りピンなど、おそらくはみんな質流れ品か今質にはいっているものばかりなのだろう、金製品がごちゃまぜにはいっていた。ケースにはいっているものもあれば、新聞紙に、それもきちんと丹念に二枚の紙にくるんで、ぐるぐる細ひものかけてあるものもあった。彼は時を移さず、包みやケースを、あけて調べもせずに、ズボンや外套のポケットに詰めこみはじめた。が、そうたくさん取りこんでいる暇もなかった……
出しぬけに、老婆の倒れている部屋から人の足音が聞こえてきた。彼は手をやめて、死人のように息をひそめた。が、あたりはひっそり閑としている、ということは空耳だったのだろう。突然今度ははっきりとかすかな叫び声が聞こえた、つまりだれかが小声で断続的な呻き声を発し、すぐに黙りこんでしまったらしいのである。それからまた死んだような静けさが、一分か二分くらいつづいた。青年は長持ちのそばにしゃがみこんで、やっとの思いで息をつぎながら待っていたが、いきなりさっと立ちあがると、斧をつかんで寝室から駆け出した。
部屋の中央に立っていたのは、大きな包みをかかえたリザヴェータだった。彼女は真っ青な顔をして、叫ぶ気力もないらしく、呆然と殺された姉を見つめていた。駆け出してきた男の姿を見ると、彼女は小刻みにぶるぶる震え出し、顔ぜんたいにけいれんが走った。つぎに片手をあげ、口を開きかけたが、それでも叫び声はあげなかった。そして、まともにひたと相手を見すえたまま、まるで叫ぼうにも空気が足りないといった様子で依然として声をたてずに、徐々に、相手から離れて部屋の隅のほうへあとずさりしはじめた。青年が斧をふるって相手に躍りかかると、相手の唇はさも情けなさそうにゆがんだが、それはちょうどごく小さな子供がなにかにおびえ出して、自分をおびえさす対象にじっと目をそそぎながら今にもわあっと泣きだそうとするときの表情に似ていた。このあわれなリザヴェータはあまりにも単純で、とことんまでいじめぬかれ、おどかされてしまっていたためか、手をあげて自分の顔を守ろうともしなかった。そのときは、斧がまっすぐ彼女の顔の上にふりあげられていたのだから、そうするのが必要かつ自然な動作だったのだ。彼女は自分のあいている左手をほんのちょっと、とても顔までもいかない程度にあげて、相手を払いのけようとでもするように、その手をのろのろと相手のほうへ突き出しただけだった。打撃はまともに頭蓋骨に刃で打ちおろされたため、一ぺんに額の上部をほとんど脳天までぶち割り、彼女はどうとばかりその場に倒れてしまった。ラスコーリニコフは完全に度を失って、彼女の包みをつかんだかと思うと、またそれをほうりだして、玄関へ走り出た。
彼は恐怖に、とりわけこの第二のまったく予期しなかった殺人のあとでは、いよいよもって激しい恐怖にとらえられた。彼は一刻もはやくそこから逃げだしたかった。だから、もしもこの瞬間にもっと正確に物事を見たり判断したりできたとしたら、いやかりに自分の窮境、絶望状態、自分の醜悪さ、愚行等を残らず思いあわせ、同時にここから脱出して家へたどり着くのに、これからまだどれほどの困難を克服し、事によるとどれほどの悪事を重ねなければならぬか理解できさえしたら、彼はなにもかも投げ出して今すぐにも自首して出たかもしれない、それも自分の身を案じての恐怖どころか、自分が犯したことに対する恐怖と嫌悪のためだけでもそうしたかもしれない。とくに嫌悪感がこみあげてき、心のなかに刻一刻とつのってきた。今やどうあろうとも、長持ちはおろか、部屋のなかにさえはいりたくない気持ちだった。
ところが、彼は少しずつ一種の放心状態に、それどころかもの思いのような状態におち入りはじめ、ともすればわれを忘れ、というよりもむしろ肝心なことを忘れて、些末なことにかかずらわっていた。それでも、台所をのぞいて、腰かけの上に半分ほど水のはいっている桶を見かけると、自分の手と斧を洗わなければならないと思いついた。手は血にまみれて、ねばねばしていた。彼は斧の刃のほうを下にしてそのまま水に入れ、小窓の欠け皿の上においてあった石鹸のかけらを取って、じかに桶のなかで自分の手を洗いはじめた。手を洗いおわると、今度は斧を引きあげて、鉄の部分を洗い、長いこと、三分ほどかけて、血のこびりついた木の部分を洗いきよめ、石鹸まで使って血を洗いおとした。ついで、台所に張りわたした綱に干してあった下着類ですっかり拭きあげると、それから窓ぎわで長いことかけて丹念に斧を調べた。血痕は残っておらず、ただ柄がまだ濡れているだけだった。彼は注意して斧を外套の裏の輪にかけた。つぎに、薄暗い台所の光でできるかぎり外套、ズボン、長靴などを点検した。外からちょっと見たところでは、なんにもついていないらしかった。ただ長靴にしみがいくつかあったのでぼろ切れを濡らして長靴を拭きあげた。しかし、自分にはよく見わけがつかず、ひょっとすると、なにか自分では気づいていないもので人の目につくものがあるかもしれないということはわかっていた。彼は部屋のまんなかに突立って思案にくれた。胸のなかに悩ましい暗い考えが頭をもたげ出した、――それは、おれは気がちがいかけているんじゃないんだろうか、ひょっとしたら、この瞬間、自分には判断力も、自分を守る力もないんじゃないんだろうか、今おれはまるっきり見当ちがいなことをやっていやしないだろうかという考えである……『大変だ! 逃げなきゃならんぞ、逃げなきゃ!』と彼はつぶやくなり、玄関へ飛びだした。が、しかしそこには、もちろんまだ一度も味わったこともないような恐怖が待ちかまえていた。
彼は突立って凝視したまま、自分の目が信じられずにいた。ドアが、外のドア、玄関から階段へ出るドアが、彼がさっき呼び鈴を鳴らしてはいってきたドアがあいたままになっているのである、手のひら一ぱいくらい空いていたのだ。しかもそれが、錠も、掛け金もかけずに、ずうっと、あの間じゅうずうっと空いていたのだ!婆さんがあるいは用心のために、彼がはいったあとしめなかったのかもしれない! しかし、なんたることだ! そのあとでリザヴェータを見たではないか! 彼女がどこからはいって来たか思いつかないわけがないではないか! まさか壁を破ってはいってきたわけでもあるまい!
彼は戸口へ飛んでいって、掛け金をかけた。
『いや、ちがう、また見当ちがいなことをやっている! 逃げなくちゃ、逃げなくちゃ……』
彼は掛け金をはずしてドアをあけると、階段の様子をうかがいはじめた。
そのままで彼は長いこと耳をすまして聞いていた。どこか遠くでおそらくは下の門のあたりだろう、だれか二人で大きな金きり声でわめいたり、議論をしたり、ののしりあったりしている。
『やつらはなにを騒いでるんだろう?……』彼は辛抱して待っていた。ついに、断ち切ったように、ぴたりとあたりが静まりかえった。二人は別れていってしまったのだ。彼がすでに出ようと思ったところへ、突然一階下で階段へ出るドアがあいて、だれか、なにやらメロディを歌いながら階段をおりはじめた。『いったいなんだって奴らはこんなにのべつ騒いでやがるんだろう!』という考えが彼の頭にひらめいた。彼はまたうしろ手にドアをしめて、じっと待った。とうとうなにもかも森閑《しんかん》として、人っ子ひとりいなくなった。そこで彼がすでに階段に一歩踏みだそうとしたとたんに、また新たにだれかの足音が聞こえてきた。
その足音はだいぶ遠くから、階段のとっつきあたりから聞こえたのだが、このとき最初にその音を聞いたとたんから、彼はどうしたわけか、これはきっと|ここへ《ヽヽヽ》、この四階の婆さんのところへ来るのじゃなかろうかと疑い出したことを、のちのちまではっきりと非常によく覚えていたものである。なぜそう思ったのだろう? それはなにか特殊な、意味ありげな音だったのだろうか? それは重い、平均した、悠然とした足どりだった。その男ははやくも一階を通過して、まだ昇ってくる。足音はますますよく聞こえてくる! あがってくる男の苦しげな息切れが聞こえだした。もう三階にかかった……ここへ来るのだ! と急にラスコーリニコフは石化したようになり、夢を見ているような心地、夢のなかで人に間近まで追いかけられ殺されそうになっているのに、自分はその場に根が生えたようになって手を動かすこともならないときのような気分がした。
いよいよ客がすでに四階にのぼりはじめたとき、初めて彼はぶるっと身ぶるいをしたが、それでもすばやく機敏に玄関から部屋のなかへ滑りこんで、うしろ手にドアをしめることはできた。ついで彼は掛け金をつかんで、そうっと聞こえないように、それを受けつぼにさしこんだ。本能の助けだった。それをしおおせると、彼はドアのすぐそばに息を殺して身をひそめた。招かれざる客もすでに戸口に来ていた。二人は、ちょうどさきほど彼が老婆とドアを隔てて立ち、聞き耳をたてていたように、今やたがいに向かいあって立っていた。
客は何度か苦しそうな太い息を吐いた。『太った、図体の大きい男なんだな、きっと』とラスコーリニコフは思いながら、斧を握りしめた。なにもかも夢を見ているような感じだった。客は呼び鈴にとっついて、烈しく鳴らした。
呼び鈴のブリキめいた音ががらんと鳴ったとたんに、彼は突然、部屋のなかの人間が動きだしたような気がした。数秒の間彼は真剣に耳をすましていた。未知の男はもう一度がらんと鳴らして、またちょっと待ったかと思うと、じれったくなってやにわにありったけの力でドアのハンドルを引っぱりはじめた。ラスコーリニコフはぞうっとしながらほぞのなかで躍っている掛け金の鍵手を見つめ、ぼんやりした恐怖を覚えながら、掛け金が今はずれるか、今はずれるかと思っていた。事実はずれかねないように思われたのだ。それほど烈しい引っぱり方だったのである。彼は片手で掛け金をおさえてやろうかとも思ったが、そんなことをしたら相手《ヽヽ》に感づかれるかもしれないと思った。またもや目がまわりそうになってきた。『こいつはぶったおれるかもしれんぞ!』という考えが頭にひらめいたとたんに、未知の男が口をききだしたため、彼ははっとわれに返った。
「なかのやつらはいったいなにをしてやがるんだろう、眠ってやがるか、それともだれかに絞め殺されでもしたか。畜生め!」と男は樽のなかからでもわめくような胴間声《どうまごえ》でわめきたてた。
「おい、鬼婆のアリョーナ! 絶世の美人のリザヴェータ! あけてくれよ! えい、畜生め、やつらは眠ってやがるのかな?」
そういうとその男はかんしゃくをおこして、またもやたてつづけに十回ばかり力まかせに呼び鈴のひもを引っぱった。もちろん、この男はこの家に顔のきく親密な間がらの人間にちがいなかった。
ちょうどそのとき、にわかに小きざみな気ぜわしげな足音が階段のあまり遠くないところから聞こえてきた。だれかもうひとりやって来るのだ。ラスコーリニコフの耳には最初それが聞きとれなかった。
「だれもいないんですか?」その男はそばへ来ると、まだ相変わらず呼び鈴のひもを引っぱっていた先客にむかって、よく透る陽気な声でそう呼びかけた。「今晩は、コッホさん!」『声から判断するのに、きっとまだ若い男なんだな』ラスコーリニコフはふとそう思った。
「やつらはどうしたんだろうねえ、私は錠前をぶちこわさんばかりにがたがた揺さぶってるんだけど」とコッホは答えた。
「ところで、どうしてあなたはこの私をご存じなんです?」
「これはまた! おととい『ガンブリヌス』で、玉突きで三番たてつづけにあなたを負かしたじゃありませんか」
「ああ……」
「すると連中は留守なんですかね? 変ですね。しかし、ずいぶんばかげた話じゃありませんか。あの婆さんに出かけるとこなんてあるんですかね? 僕は用があるんだけどなあ」
「私もあるんですよ!」
「はて、どうしたものでしょう? つまり、引っ返せということですかね。ちぇっ! 金を貸してもらおうと思って来たのに!」と若い男はわめきたてた。
「もちろん、引っ返さなくちゃならないが、そんならどうして時間なんか指定しやがったんだろう。鬼婆め、むこうから時間をきめやがってたくせに。こっちにとっちゃ遠いまわり道だというのに。それにしても、わからんね、あの婆さんにほっつきまわる所なんかあるのかねえ。一年じゅう家にひっこんで、くすぶって、足が痛むなんていっているくせに、急に遊びに出るなんて!」
「庭番にでも聞いてみたらどうでしょう?」
「なにをね?」
「どこへ出かけたか、それにいつ帰ってくるか」
「ふむ……畜生……聞いてみるか……確かにどこへも行きっこないんだがなあ……」といって彼はもう一度ドアのハンドルを引っぱった。「畜生、しようがない、帰るか!」
「待って下さい!」と突然若い男が叫んだ。「ごらんなさい、ほら、引っぱると、ドアがなかへちょっと引っこむでしょう?」
「それで?」
「というのはつまり、このドアには錠がかかっているんじゃなくて、掛け金の鍵手がかかっているんですよ! 聞こえるでしょう、掛け金ががちゃがちゃいうのが?」
「それで?」
「どうしておわかりにならないんです? これはつまり、あの二人のだれかが家にいるってことですよ。二人とも外出したんだったら、外から錠をかけるはずで、内側から掛け金なぞかけるはずはないでしょう。それに、――ほら、聞こえるでしょう、掛け金のがちゃがちゃいう音が? なかから掛け金で戸じまりをするには、家にいなければならない理屈でしょう。いいですか? してみると、家にいるのに、あけないということになるでしょう!」
「なるほど! ほんとうにそのとおりだ!」とコッホは驚いていった。「するとやつらはなかでなにをしているんだろう!」そういうと彼はいきり立ってドアを引っぱりはじめた。
「お待ちなさい!」とまた若い男が叫んだ。「引っぱっちゃいけませんよ! こいつはなにか変わったことでもあるんですよ……あなたが呼び鈴を鳴らしたり引っぱったりしても――あけない。ということはつまり、二人とも気絶しているか、さもなければ……」
「なんだって?」
「じゃこうしましょう。庭番を呼んで来ましょう。そして庭番にたたき起こさせましょう」
「それがいい!」二人はおりだした。
「待って下さい! あなたはここに残っていて下さい、僕が下へ庭番を呼びに行ってきますから」
「どうして残らなきゃならないんです?」
「だって大したことないでしょう?……」
「それもそうだな……」
「僕は予審判事になろうと思って勉強中なんです! こいつは明らかに、あっきらかになにかおかしいですぞ!」若い男はのぼせあがってそうわめきたてながら階段を駆け足でおりていった。
コッホが一人きりになってから、もう一度そうっと呼び鈴のひもを動かしてみると、呼び鈴はひとつだけがらんと鳴った。それから彼は思案したり調べたりしているらしく、ドアのハンドルを動かしてそれを引っぱったり離したりして、掛け金しかかかっていないかどうか確かめはじめた。そしてそれから息をはずませながらかがんで鍵穴をのぞき出したが、内側から鍵がさしてあるため、なんにも見えなかった。
ラスコーリニコフは突立ったまま、斧を握りしめていた。まるで悪夢でも見ているような気持ちだった。彼は、二人がはいってきたら、格闘も辞さない覚悟だった。二人がドアをたたいたり相談したりしている間に、彼は幾度かむらむらっと、なにもかも一ぺんにけりをつけて、なかからどなりつけてやろうかという考えに襲われた。ときには、ドアがあくまで、二人を相手に悪口のいいあいをして二人をからかってやりたくもなった。『もうこうなったら一刻も早くけりをつけちまえ!』という考えが彼の頭にひらめいた。
「それにしても、あの野郎、畜生め……」
時間は一分、二分と過ぎていったが――だれひとりやって来る者はいない。コッホはもじもじしはじめた。
「それにしても、畜生め!……」彼は突然こう叫ぶと、辛抱しきれずに、見張り役を放りだして、これまた階段をあわただしく靴音をたてながらおりていった。そしてやがてその足音も消えてしまった。
「ああ、どうしたらいいだろう?」
ラスコーリニコフは、掛け金をはずしてドアをあけてみたが、なんにも聞こえてこないので、それこそもうなにも考えずに、ひょいと部屋を出ると、ドアをうしろ手にできるだけぴったりしめて、階段をおりはじめた。
階段を三段ほどおりたとき、突然下から騒々しい物音が聞こえてきた、――どこへ身を隠したものだろう! どこへも隠れようがなかった。彼はまた部屋へ駆けもどろうかと思った。
「やい、この野郎、畜生め! 待て!」
そういう叫び声もろともだれかが下のどこかの部屋から跳び出したかと思うと、
「ドミートリイ! ドミートリイ! ドミートリイ! ドミートリイ! ドミートリイ! こん畜生!」
とだれかが大声でわめきながら、階段を駆けおりるというよりも、それこそ転げ落ちていった。
そのわめき声は金切り声になっておわった。最後の物音がしたのはもう裏庭のあたりだった。そして、なにもかもしいんと静まりかえってしまった。ところが、ちょうどそのとき、数人の者が大声でしきりに話をかわしながら、どやどや階段をあがってきた。人数は三、四人だった。そのなかにさっきの青年のよく透る声が聞きわけられた。『連中だ!』
彼はもうまったくの破れかぶれになってまっすぐその連中のほうへ向かっていった。なるようになるがいい! 呼びとめられたら、万事休す、すれ違っても万事休すだ。顔を覚えられてしまうからだ。双方早くも近づいて、間隔は階段ひとつを残すばかりになった、――と突然救いの道が現われた! 二、三段下の右手に、ドアのあけ放してあるあき間があった。そこは職人がペンキを塗っていた二階の例の部屋で、今は、まるであつらえたように、彼らは帰ってしまっていた。たった今ああしてわめきながら駆けおりていったのは、まちがいなく彼らだったのだ。ゆかは塗りあげられたばかりで、部屋のまんなかに小桶と、刷毛のはいった欠け皿がおいてあった。とたんに彼はあいているドアのなかに滑りこみ、壁のかげに身をひそめた。間一髪、彼らは早くも踊り場に立っていた。ついで彼らは上へ足をむけて、声高に話しあいながら四階をさして、そばを通ってのぼっていった。彼は連中をやりすごすと、爪先だちで部屋を出て、階段を駆けおりた。
階段にはだれひとりいなかった! 門の下も同様だった。彼はさっと門をくぐりぬけると通りを左へまがった。
彼にはよくよくわかっていた。あの連中はもう今頃はあの老婆の家にいるだろうということも、あそこがついさっきしまっていたのに今はあいているのを見て大いに驚いていることも、あの連中がすでに死骸を眺めていることも、ここにたった今人殺しがあって、下手人がまんまとどこかに姿を隠し、自分たちのそばをすりぬけて逃げのびたのだと気づき、そう推定するのに一分もかからないということも彼にはよくわかっていた。彼はまた、おそらく、あの連中は、自分たちがのぼっていく間犯人があき部屋にひそんでいたことを見やぶっているかもしれないとも思った。が、それでいながら、最初のまがり角までまだ百歩も残っているというのに、彼はどうしてもあまり歩度をます気になれなかった。『どこか門のなかへ滑りこんで、どこか知らない家の階段で時を稼いだらどうだろう? いや、だめだ! 斧をどこかへ棄てたほうがいいんじゃなかろうか? 辻馬車でもやとおうか? 弱ったな! 困った!』
ついに、横町へ来た。彼は生きた心地もなく横町へまがった。ここまで来ればもう半分は助かったようなものだ、それは彼にもわかっていた。怪しまれることも少なくなったし、おまけにそこは人の往き来も激しかったから、人ごみのなかに、砂つぶのようにまぎれこむこともできるはずだ。だが、こうしたいろんな苦労、さまざまな難儀にへとへとになってしまったため、彼は足を運ぶのもやっとだった。汗はしずくをなして流れ落ち、首はぐっしょり濡れていた。「ほほう。酔っぱらってやがる!」彼が堀割りに出たとき、だれか彼にそう叫んだ者がいた。
彼は今はもう自分にたいしてほとんど意識がなくなっていた。歩けば歩くほどそれはひどくなっていくばかりだった。それでも、堀割りに出たとたんに急に人通りが少なくなり、前より人目につきやすくなったのに愕然として、さっきの横町へひっかえそうかと思ったことは覚えていた。それでもとにかく彼は今にもぶったおれそうだったにもかかわらず、廻り道をして、まるっきりちがった方角から家へ帰り着いた。
自分の家の門をくぐるときも、意識は不確かだった。少なくとも、斧を思い出したのもすでに階段にかかろうとしたときだった。それにしてもまだ、斧をもとへ戻す、それもなるべく人目につかないようにして戻すという非常に大事な仕事が残っていた。むろん、このときの彼にはもはや、斧をもとの場所においてくるようなことはしないで、あとでもいいから、どこかよその中庭にでも放りこんだほうがいいのかもしれないなどと考えあわせる余裕もなかったのである。
しかし、すべては無事にすんだ。番小屋の戸はしまっていたが、錠はかかっていなかった、ということはつまり庭番が小屋にいる可能性が最もつよかったわけである。それなのに、彼はもう思考力を完全に失っていたため、ずかずかと番小屋に近づいてドアをあけてしまった。このとき、庭番に「なんのご用です?」と聞かれでもしたら、彼はいきなり斧を渡してしまったかもしれない。ところが、庭番はまたしても留守だったので、彼はベンチの下のさっきの場所に首尾よく斧をおき、しかももとどおり薪までかぶせてきた。そのあとは自分の部屋へ帰り着くまで、人っ子ひとり、だれにも出くわさなかった。おかみの家の戸はしまっていた。自分の部屋へはいると、彼は服を着たままの体をソファに投げだした。眠りはしなかったが、気もそぞろだった。このときだれか部屋へはいって来でもしたら、彼はいきなり起きあがって、わめきだしたかもしれない。頭のなかにはさまざまな考えの断片や切れはしが盛んにひしめいているだけで、いかに骨おってみても、そのひとつすら捕えることもできないし、そのひとつに思いをこらすこともできなかった……
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第二編
彼はそのままずいぶん長い間横になっていた。ときおり彼は目がさめたようになって、そのたびに、もうだいぶ夜もふけたことに気づくのだが、起きようなどという考えは頭にうかばなかった。ついに、彼はあたりがもう昼間のあかりになっているのに気がついた。彼はソファにあお向けになって寝ていたが、まださきほどの深い眠りから覚めきれず、ぼうとしていた。そこへ往来から、すさまじい、やけっぱちな叫び声が彼のところまで聞こえてきたが、これは毎晩二時すぎに窓の下から聞こえるわめき声なのである。今もこのわめき声で目がさめたのだ。『ああ! あれは酔っぱらいどもが呑み屋から出てくるところだな』と彼は思った。『じゃ二時すぎか』すると彼はソファからはじかれたようにぱっとはね起きた。『え! もう二時すぎなのか!』彼はソファに坐り、――とたんになにもかも思い出した! 突然一瞬のうちになにもかも思い出したのである!
最初の瞬間、彼は気がちがうのではないかと思った。おそろしい寒む気に襲われたのだ。もっとも、その寒む気は、すでに眠っているうちから起こっていた熱のせいでもあったのだ。それが今や突然、歯の根もあわず、体じゅうがたがた震えるほどの悪寒に襲われたのである。彼はドアをあけて、耳をすましはじめた。家じゅうしいんと寝しずまっている。彼はぎょっとして、自分の姿と室内をくまなく見まわしてみて、いったいどうして自分はきのう部屋へはいるなり、ドアに掛け金もかけず、着がえもしないどころか帽子までかぶったままでソファの寝床に飛びこめたのか、とんと合点がいかなかった。帽子は滑りおちて、枕の近くのゆかに転がっていた。『だれかがはいって来たら、なんと思ったろう? 酔っぱらっているとでも思ったろうか、しかし……』彼は小窓のところへ飛んでいった。かなり明るかったので、彼は体じゅう、足のさきから頭のてっぺんまで、それに服もすっかり、血のあとはないかどうか、調べはじめた。だが、着たままでは調べがつかなかったので、悪寒にふるえながら、着ているものをぜんぶぬいで、身のまわりをもう一度残るくまなく調べ出した。それこそなにもかも、糸一本、切れはしひとつにいたるまで、ひっくり返して、それでも自分の目が信じられずに、三度もくり返し検査をした。が、しかし血痕らしいものはなにひとつ見つからなかった。ただ、ズボンのすそのほうで、ふさのようにさがっているあたりに色濃い凝血のあとが残っていた。そこで彼は大きな折りたたみナイフをつかんで、そのふさを切りとった。ほかにはもうなにもないようだ。ふと彼は、老婆の長持ちのなかから持ち出してきた財布や品物がいまだにそっくりそのままあちこちのポケットに入れたままになっていることを思い出した! 今の今までそれらを取りだして隠そうとも思わなかったわけだ! しかも、服をあらためていた今ですら思いださなかったとは! いったいこれはなんとしたことだ? 彼はたちまちそれを取りだして机の上にほうり出しはじめた。そして、ぜんぶ取り出すと、ポケットを裏返したりまでして、まだなにか残っていはしないかどうか確かめてから、その品物の山を残らず部屋の隅へ運んだ。いちばん隅の下のほうに一ヵ所、壁紙が破けて壁からはがれている所があった。彼はさっそくその紙の下の穴にひとつ残らず押しこみはじめた。『うまく入っちまったぞ! これでもうすっかり人目にふれなくなったわけだ、財布も!』――彼は立ちあがって、前よりも出っぱった隅の穴をぼんやり眺めながら悦に入ってそう考えた。と突然彼は恐怖に震えあがってしまい、『ああっ』と絶望の声を放った。『おれはどうしたわけだ? これでも隠したつもりか? こんな隠しかたってあるもんじゃない!』
確かに、彼は品物のほうを計算に入れていなかったのである。入れるのは金だけだろうと思って、前もって場所の用意をしておかなかったのだ、――『それなのに、今、今、おれはなにを喜んでいたのだ?』と彼は思った。『こんな隠しかたをする者がどこにいる! ほんとうにおれは理性に見放されちまったのだろうか!』彼はぐったりしてソファに腰をおろした。と、とたんに彼は耐えがたい悪寒にがたがた震えだした。そこで、そばの椅子の上においてあった外套を、温かいことは温かいけれどももうほとんどぼろぼろになってしまった、学生時代の冬外套を機械的に引きよせて、それをひっかぶると、またもや一ぺんに睡魔と夢幻に襲われ、前後不覚の状態におちいった。
五分もたった頃、彼はまたまたぱっとはね起きると、いきなり無我夢中で自分の外套のそばへ飛んでいった。『またしてもよくもまあ寝つけたものだ、まだなんにもしていないのに! 案の定、案の定、そうだった。脇の下の輪をいまだに取ってないじゃないか! 忘れてやがる、こんな大事なことを忘れてやがる! 立派な証拠物件じゃないか!』彼はその輪を引きちぎると、大急ぎで細かく引き裂いて、枕の下の下着類のなかに押しこみはじめた。『引き裂いたぼろ切れならまさか嫌疑をうけることもあるまい。ま、そういうことだ、ま、そういうことだ!』と、彼は部屋のまんなかに突立ってそうおなじ言葉を反復していた。そして、苦しいくらい気を張って、まだなにか忘れていはしないかと、もう一度ゆかの上から部屋の隅々まで、ぐるりを見まわした。自分はあらゆるものに、記憶力にまで、単純な判断力にまで見放されているにちがいないという考えに、彼はこらえようもなく苦しみ出していた。『どうなんだろう、もうそろそろ始まっているんじゃなかろうか、もう罰があたってきたんじゃなかろうか? ほら、ほら、やっぱりそうだ!』実際そのとおり、ズボンから切りとった房の断ちきれが、だれの目にもつくように、そのまま部屋の真んなか辺のゆかに落ちていた!『おれはいったいどうしたんだ!』彼はまたもや、途方にくれたように、そう叫んだ。
このとき、彼の頭に奇妙な考えが浮かんだ。もしかしたら、自分の服はどこからどこまで血だらけなのではあるまいか、血のしみがいっぱいついているのではあるまいか、それなのに、判断力が衰弱し、考えが支離滅裂になり……頭がぼやけているために、それが目にはいらないし、気がつかないのではあるまいかという考えである……ふと彼は、財布にも血がついていたことを思いだした。『あれ! そうすると、ポケットのなかにも血がついているはずだぞ、あのときまだ血でべとべとの財布をポケットへつっこんだんだから!』とっさに彼はポケットを裏返してみた、――案の定――ポケットの裏地に血のしみがついているではないか!『してみると、まだ全然理性に見はなされてしまったわけでもないんだな、そうすると、自分で気づいて考えあてたわけだから、思考力や記憶力もまだあるわけだ!』彼は勝ち誇ったような気持ちでそう思い、嬉しそうに、胸いっぱいの深い、吐息を吐いた。
『単に熱が出たための衰弱にすぎない、ちょっとの間熱にうかされただけのことなんだ』そこで、彼はズボンの左のポケットから裏地をすっかり引きちぎってしまった。ちょうどそのとき、彼の左の長靴に日光がさした。と、その長靴のなかからのぞいていた靴下に、血のあとらしいものが見えたような気がしたので靴をぬいでみた。『やっぱり血のあとだ! 靴下のさきにすっかり血がしみこんでいるじゃないか』てっきり、あのときあの血だまりのなかに不用意に足を踏みいれたのに相違ない……『さて、今度はこれをどう始末したものだろう? この靴下だのふさだのポケットをどこへ隠したものだろう?』
ラスコーリニコフはそれをぜんぶかきあつめて片手に握ったまま、部屋の中央に突立っていた。『ペチカのなかへしまおうか? しかし、ペチカなんかはまっさきに探されてしまう。焼いてしまおうか? なにで焼く? マッチもないのに。いや、それよりどこかへ行って、ぜんぶ捨ててきたほうがいい。そうだ! 捨ててきたほうがいい!』と、彼はまたソファに腰かけながら、考えた。『それも、すぐに、たった今、ぐずぐずせずと!……』が、そうしないうちそう思うのに、またしても頭は枕の上に傾いてしまうのだった。そして、またこらえようもない悪寒に体が冷えそうになったため、外套をひっかぶってしまった。こうして彼は長いこと何時間も発作的に夢にうなされていた。『さあ、ぐずぐずしていないで今すぐどこかへ行ってぜんぶ捨ててしまって、人の目にふれないようにしなくちゃ。一刻も早く、一刻も早く!』彼は何度か長椅子から飛び起きて、立ちあがりかけたが、だめだった。あげくのはてに、彼はドアを激しくたたく音で目がさめた。
「あけなさいよ、生きているの、死んでいるの? いつもぐうぐう眠ってばかりいて!」と、ナスターシヤが拳固でドアをたたきながらどなっていた。「何日でもぶっつづけに、犬ころみたいに眠っている! ほんとに犬ころだよ! いい加減にあけなさいってば。もう十時すぎよ」
「留守かもしれねえよ!」という男の声がした。
『やっ! あれは庭番の声だぞ……なんの用があるんだろう?』
ラスコーリニコフは跳び起きてソファに腰をかけた。心臓が、痛いほど激しく動悸していた。
「じゃ、だれがこの掛け金をかけたのさ?」とナスターシヤが言いかえした。「これこのとおり戸じまりなんかしはじめて! 自分の体まで持っていかれると思っているのかしら? あけなったら、お前さん、起きなさいってば!」
『なんの用だろう? なんで庭番なんか来やがったんだろう? なにもかもばれちまったのかな。言うことをきかないほうがいいか、あけたほうがいいか? えい、どうともなりやがれ……』
彼は身をおこすと、前にかがむようにして掛け金の鍵をはずした。
部屋の広さはせいぜい、寝床から起きないでも鍵がはずせる程度だったのだ。
案の定、そこにいたのは庭番とナスターシヤだった。
ナスターシヤはなんだか妙な目つきでラスコーリニコフをじろじろ見た。こちらはいどむような、やけっぱちのような顔つきをして庭番を見やった。相手は、二つ折りにして安封ろうで封印をした灰色の紙きれをさし出した。
「呼び出し状だよ、役所からの」と彼は紙きれを渡しながら言った。
「どこの役所から?……」
「つまり、警察へ来いって言ってきてるのさ、役所へね。どこの役所かは、知れたことさね」
「警察へ!……なんのために?……」
「そんなこと、なんでわしらにわかるもんかね。来いと言ってきてるんだから、行きなせえ」彼はまじまじとラスコーリニコフの顔を見、あたりを見まわしてから、くびすをかえして出ていきそうにした。
「どうやらすっかり病気になっちまったようね?」と、ナスターシヤは相手から目をはなさずに言った。庭番もちょっとふり返った。「きのうから熱が出ているんだものね」と彼女はいいそえた。
ラスコーリニコフは返事もしないで、紙きれを封も切らずに握っていた。
「ほんとに起きないほうがいいよ」ナスターシヤは、相手がソファから足をおろそうとするのを見て、急に気の毒になったらしく、そう言葉をついだ。「病気だったら、なにも行くことはないさ。急用でもないんだろうから。あんた、その手に持っているのはなんなの?」
彼は、ひょいと目をやると、右手に例の切りとったふさの切れっぱしと靴下と引きちぎったポケットのぼろきれを握っていた。それを持ったまま眠っていたわけだ。後になって、彼はこのときのことをいろいろ思いめぐらすうちに思いだしたのだが、このときは熱にうかされて半ば目をさまして、手のなかにあるものをしっかりぎゅっと握りしめてはそのまままた寝入ってしまうというふうだったのだ。
「まあ、この人ったらそんなぼろきれを集めて、宝物みたいに抱いて寝たりして……」そう言ってナスターシヤは持ちまえの病的な神経性の笑いかたで笑いころげた。ラスコーリニコフはそれをすばやく外套の下につっこむと、食い入るようにじっと相手の顔を見つめた。彼はこのときはとても完全に理路整然と物を考えることはできなかったけれども、人を逮捕しに来るんだったら、こんな手は使うはずはないと直感した。『それにしても……警察とは?』
「紅茶でも飲んだら? ほしい? 持ってきてあげるわよ。残っているから……」
「いや……僕は出かけるよ。今すぐ出かけるんだ」と彼は立ちあがりながら、つぶやいた。
「階段さえおりられないのに?」
「出かけるよ……」
「じゃ、好きにしなさい」
彼女は庭番について出ていった。ラスコーリニコフは早速明るいところへ飛んでいって、靴下とふさを調べてみた。『血のしみはあるが、大してめだつほどでもない。ぜんたいがよごれて、すり切れて、色ももうあせてしまっている。知らない人だったら――てんで見わけられやしないさ。だから、ナスターシヤだってちっとも気がつかなかったはずだ、こいつはありがたい!』それから彼は震えながら呼び出し状の封を切って読みはじめた。長いことかけて読んで、やっと意味がとれた。それはきょう九時半に区警察署長のもとに出頭せよという区警察署からの普通の呼び出し状だった。
『今までにこんなことなかったけどなあ。警察なんかになんの関係もないはずなのに! しかもおりもおりきょうだなんて、どうしたわけだろう?』と、彼は悩ましく思いまどっていた。『神さま、こんなことはなるべく早くすみますように!』彼はいきなりひざまずいて祈りかけたが、自分でもおかしくなって笑いだしてしまった、――と言っても祈りがおかしかったのではなくて自分がおかしかったのだ。彼は急いで着がえにかかった。『だめになるんなら、だめになるがいい、おんなじことだ! この靴下をはいちまえ!』ひょいとそんな考えが浮かんだ。『もっと埃にまみれれば、血痕も消えちまうだろう』しかし、はいたとたんに、嫌気がさし、恐ろしくなってぬぎすててしまった。が、ぬぎすててはみたものの、ほかにはくものがないことに気づいて、また取りあげてそれをはき、――そしてまた笑いだした。『こんなことはみんな制約事だ、みんな比較の問題だ、こんなことはみんな形式だけのことだ』と彼は思ったが、それはちらっと頭の片隅で思っただけで、そのくせ本人は体じゅうぶるぶる震えていた。『ほら、このとおりはいてしまったじゃないか! はいてしまえば、それでおしまいじゃないか!』とはいえ、笑いはたちまち絶望にかわってしまい、『だめだ、こいつはやりきれたもんじゃない……』という考えになった。それに、目まいはするし、頭は熱のためにずきずき痛かった。『これは策略だ! これはおれを策略でおびきよせて、不意打ちをくらわして泥を吐かせようっていう魂胆なんだ』などと彼は、階段へ出ながら、引きつづきひとり言を言っていた。『なによりいけないのは、ほとんど熱にうかされどおしだということだ……なにかばかげたことを口走らないともかぎらないからな……』
階段のところで彼は、品物をぜんぶあのまま壁紙の穴のなかに入れたままにしてきたことを思いだし、――『これは、ひょっとすると、わざとおれのいないところを家宅捜索するつもりなのかもしれないぞ』こう思って足をとめた。しかし、むらむらと激しいやけ気分と、もしこういえるとすれば激しい破滅的シニスムが起きてきたため、どうともなれと思って、ずんずん歩きだした。
『なんでもいい、一刻も早くすましたいものだ!……』
通りはまたもや耐えがたい暑さだった。ここ四、五日のあいだずうっと雨一滴降らばこそ、またもや埃と煉瓦と石灰に、またもや小店や呑屋からの悪臭に、またもやひっきりなしに出会う酔いどれとフィンランド人の行商人と壊れかけた辻馬車だ。太陽はぎらぎら目を射て、物を見ると痛いくらい、頭もすっかりくらくらだった、――日ざしのつよい日にいきなり通りへ出た熱病患者がたいてい感じるあの気分である。
|きのうの《ヽヽヽヽ》街路へ折れるまがり角まで来たとき、彼は胸苦しい不安を覚えながらその通りの|あの《ヽヽ》アパートをちらっと見やって……すぐさま目をそらしてしまった。
『もし尋問されたら、おれは口に出してしまうかもしれないぞ』と、彼は警察署に近づいたとき、そう思った。
警察署は彼の下宿から二百メートルばかりの所にあって、そこの四階だての新しい建物に移ったばかりだった。前の署へはいつかちょっと行ったことがあったが、もうだいぶ前のことだった。門をくぐったとき、右手に階段が見え、その階段を、帳簿を持った男がおりてくるところである。『これはつまり小使いだな、そうすると、ここに警察署があるわけだ』こう思って彼は当てずっぽうに階段をのぼりはじめた。だれにも、なにひとつ尋ねる気になれなかったのである。
『はいって行ったら、ひざまずいて、洗いざらいぶちまけてしまおう……』彼は四階にのぼりながら、そう思った。
階段は狭いし、急だし、汚い水でびしょびしょだった。一階から四階までの貸室の台所がぜんぶその階段にむかって明けっぱなしになっていたため、ひどい息づまるような匂いがたちこめていた。小脇に帳簿をかかえた小使いや警官や種々雑多な男女の外来者がしきりに上り下りしていた。警察署のドアもいっぱいにあけ放してあった。ラスコーリニコフはなかへはいると、控え室で足をとめた。そこには百姓ふうの男が何人も立って自分の番が来るのを待っていた。そこもやはり息苦しさはひどいもので、その上壁を塗りかえた部屋の、腐ったような油をつかった、まだなまなましいペンキの匂いがぷうんと鼻をうって吐き気を催すほどだった。彼はしばらく待ってから、さらに奥へ進んでつぎの部屋へはいっていくことにした。みんな、天井のひくい、ちっぽけな部屋ばかりだった。おそろしくいらだってきて、そのいらだたしい気持ちに引っぱられて奥へ奥へとはいっていった。だれひとり彼に気づいた者はいなかった。つぎの部屋には、彼より少しはましかと思われる身なりの、書記と覚しい連中が坐って、せっせと書きものをしていた。一見したところどれもこれもどこか変わった連中ばかりだった。ラスコーリニコフはそのひとりに声をかけた。
「なんの用かね?」
ラスコーリニコフは警察の呼び出し状を見せた。
「あなたは大学生ですか?」と相手は呼び出し状をちらりと見て、そう聞いた。
「ええ、もと大学生です」
書記は彼をじろじろ見たが、好奇心ひとつ覚えないような様子だった。それは、なにか特別くしゃくしゃした髪をした、固定観念を持っているような目つきの男だった。
『こいつからはなんにも聞き出せやしないだろう、どうだっていいといったような顔つきをしてやがる』とラスコーリニコフは思った。
「むこうの事務官のところへ行って下さい」と書記は言って、指を前へ突きだして、いちばん奥の部屋を指さした。
ラスコーリニコフはその部屋(順序からいって四番めの部屋)へはいっていった。そこは人でいっぱいだったが、――そこにいたのはほかの部屋の者よりも多少気のきいた身なりをした者ばかりだった。外来者にまじって婦人が二人いた。みすぼらしい喪服を着たひとりのほうは、事務官と向かいあわせに机の前に腰かけて、なにやら事務官の口授する文句を書きとっていた。もうひとりは、でっぷり肥えた婦人で、紫がかった赤い顔にしみのある、押しだしの立派な女で、なにやらすこぶるはでやかな身なりをして、胸に紅茶の受け皿ほどのブローチをつけて、わきのほうに立って、なにか待っているらしかった。ラスコーリニコフは事務官の前へ呼び出し状をさし出した。相手はそれをちらりと見て、「ちょっと待って下さい」と言っただけで、そのあともひきつづき喪服の女にかかっていた。
ラスコーリニコフは前より楽な気持ちになってほっと息をついだ。『きっと、あのことじゃないんだな!』彼は少しずつ元気づいてきた。そして、懸命に自分をさとして気力をふるい起こし、正気をとりもどすようにしていた。
『なにかちょっとしたばかげた振舞いから、なにかごくつまらない不注意から、すっかり尻尾《しっぽ》を出してしまうかもしれないからな! ふむ……残念なことに、ここは空気が悪いや』と彼は心のなかでいいそえた。『このむんむんすることといったら……頭がさっきよりもっとくらくらしてきたぞ……頭の働きも悪くなってきたし……』
彼は自分がすっかり取り乱しているのを意識した。自分で自分が制御できないのではないかと心配だった。彼は懸命になにかにすがりつき、なにか全然無関係なことでも考えようとしたが、いっこうにうまくいかなかった。それでも事務官には強烈な興味を覚えて、しきりに相手の顔から何かを読みとりたい、嗅ぎだしたいという気持ちにかられた。それは大変若い男で、年の頃は二十二、三、浅黒い、動きの早い顔つきは年よりもふけて見え、流行の服を伊達に着こなし、こってりポマードをつけ、よくくし目のいれてある髪は後頭部まで分け、ブラシで磨きあげた白い指には宝石のはいったのやら、はいっていないのやら、指輪をいくつもはめ、チョッキには金鎖をのぞかせていた。その上、そこに居あわせた外国人相手に二言三言フランス語を使ったが、それもかなりなものだった。
「ルイーザさん、おかけになったら」と男はついでに例のめかしこんだ紫がかった赤ら顔の婦人に声をかけた。彼女は椅子がわきにあるのに、自分からかけるのは気がひけるといった様子で、ずうっと立ちとおしていたのである。
「イッヒ・ダンケ《ありがとう》」と女が言って、きぬずれの音をさせながら椅子にそうっと腰をおろすと、白いレースのアップリケのついた薄い空色の服が、まるで気球のように、椅子のまわりにひろがって、部屋のほとんど半分かた占領してしまった。同時に香水のにおいがただよいはじめた。もっとも、婦人は明らかに、部屋の半分も占領し、香水のにおいをぷんぷんさせているため、気がひけるらしかった。そのくせ、おどおどしたようでありながら同時にあつかましい、それでいて明らかに落ちつきのない微笑を浮かべていた。
喪服の婦人のほうはやっと用事をすまして、腰をあげかけた。とそこへ出しぬけに、かなり騒々しい音をたて、一歩歩くごとに一種風変わりな肩のゆすりあげかたをする警部が威勢よくはいって来るなり、記章をつけた制帽を机の上にほうりだして、安楽椅子にどっかと腰をおろした。はでな身なりの婦人はその姿を見かけると、いきなりさっと席を立って、一種特別な喜びようを見せながら小腰をかがめかけた。しかし、警部が相手に少しも注意をむけようとしないので、婦人はもうそれ以上そばに腰をかける気がなくなってしまった。これは区警察の副署長で、赤みがかった口ひげを両方へ水平にぴんとのばし、顔だちはいかにも小造りで、それでいていくぶん人をくったようなところがある以外にこれといって特別表情もないような男だった。その男はいささか腹だたしげな目つきで流し目にラスコーリニコフを見やった。着ていた服があまりにも汚いし、そうした見すぼらしさにもかかわらず、なりに似あわず傲然とかまえていたからである。ラスコーリニコフがついうかつにあまり長いことまともに彼を見つめていたため、相手は気を悪くしてしまった。
「なんの用だね?」彼は、そんなぼろ服を着ているくせに自分の稲妻のような視線にひるむ色すら見せないのが不思議だといわんばかりの様子で、そう叫んだ。
「出頭しろっていわれて来たんです……呼び出し状で……」とこうラスコーリニコフはどうにか返事をした。
「それは、この人に対する、この|学生さん《ヽヽヽヽ》に対する貸し金取りたての件です」と事務官が書類から目を放して、あわてて口をはさみ、「これです」とラスコーリニコフのほうへ帳簿を投げてよこして、なかの一ヵ所をさし示した。「読んでごらんなさい」
『貸し金? なんの貸し金だろう?』とラスコーリニコフは考えた。『しかし……それじゃ、きっとあのことじゃないんだな!』彼は嬉しさのあまりぞくぞくし、急にひどく、いいようもないほど気が軽くなった。肩の荷がすっかりおりてしまった感じだった。
「何時に出頭しろと書いてあるかね、お前さん?」と、警部は、なにに憤慨したのか、ますますいきり立ってわめきたてた。「ちゃんと九時と書いてあるのに、もう十一時すぎじゃないですか!」
「僕がこれを受け取ったのはつい十五分くらい前のことなんですよ」と、ラスコーリニコフは肩越しに大声で答えた。彼のほうも思いがけずむらむらと腹が立って来たのである、もっとも内心ではそれがかえって嬉しかったのだが。「しかも、病人の僕がこうして熱をおして出て来たんですよ、それだけでもいいとしてくれなくちゃ」
「そうわめきなさんな!」
「僕はわめいてなんかいませんよ。いたって穏やかに口をきいているつもりです。わめいているのはあなたのほうじゃありませんか。僕は大学生です、どなられて黙っちゃいられませんよ」
副署長はすっかり逆上してしまったため、しばらくは口もきけず、口からただ泡を飛ばしているばかりだった。彼はぱっと席を立った。
「だ、だ、黙りたまえ! お前さんは役所にいるんですぞ、ぼ、ぼ、暴言をつつしみなさい、お前さん!」
「あなただって役所にいるわけでしょう」とラスコーリニコフはわめきたてた。「どなるばかりじゃない、タバコまですっているじゃありませんか、これはつまりわれわれに対して無作法な態度をとっているということですよ」こういったあとで、ラスコーリニコフは言いようもない快感を覚えた。
事務官はにやにやしながら二人を眺めていた。短気な警部は明らかにへどもどしてしまった。
「そんなことはお前さんなんかの知ったこっちゃありませんよ!」あげくのはてに彼はどこか不自然な大声でそう叫びたてた。「それより、さあ、要求されている回答書でも提出しなさい。アレクサンドル君、この人に見せてやってくれたまえ。お前さんに訴状が出ているんだ! 借金も払わないで! いや実に見あげた青年だよ!」
だが、ラスコーリニコフはもう耳もかさず、書類に飛びついていって、一刻も早く謎をとこうとしていた。一度読み、二度読んでみたが、どうも意味がわからなかった。
「これはどういうことですか?」と彼は事務官に聞いてみた。
「それは、借用証書にもとづいてあなたに借金の支払いを請求してきているのです。督促ですよ。あなたは費用や損害などもふくめて借金を支払うか、でなければいつ返済できるか書面で回答しなければなりません。と同時に、金の支払いをすますまでは首都を離れたり、自分の所有物を売りはらったり隠したりしてはならないのです。それに、債権者は自由にあなたの所有物を売却することもできるし、あなたを法律で処分することもできるのです」
「でも、僕は……だれにも借金なんかしていませんよ!」
「それはもうわれわれの関知したことじゃありません。こちらへはこのとおり、すでに期限が切れた百十五ルーブリの借用証書に対する返済要求の告訴が出ているのです。これはあなたが九ヵ月前に八等官未亡人のザルニーツィナに書いて渡し、そのザルニーツィナから支払いに当てられて七等官のチェバーロフの手に渡ったものなんです。そこで本署ではあなたを召喚したわけです」
「というと、先方は下宿のおかみさんじゃありませんか?」
「下宿のおかみさんだから、どうだというんです?」
事務官は同情と同時にいくぶん勝利感をこめた大様な微笑を浮かべて相手を見やったが、それはちょうど、古参兵が、今しがた初めて集中砲火をあびたばかりの新兵を「どうだい、どんな気持ちがする?」と言いたげに見返るときのような見つめかただった。だが、今の彼にとっては借用証書だろうと取りたてだろうと、どれほどの問題でもあり得なかった! そんなものは現在、いささかでも不安を感じたり、いささかでも注意をはらうだけの値うちがあるだろうか? 彼は立ったままで読んだり聞いたり答えたり、自分のほうから質問を試みたりもしたが、それはすべて機械的だった。自衛の勝利感、自分にのしかかっていた危険からの離脱感、――これがこの瞬間彼の全存在を満たしたすべてであった。そこには予想もなければ分析もなく、将来の予測も推測も疑惑も問題もなかった。それは完全に本能的な、純然たる動物的な歓喜の一瞬だった。ところが、ちょうどそのとき事務所のなかで稲妻がひらめき雷が落ちたような騒ぎが持ちあがった。さきほどの青年の無礼な態度にすっかり気持ちが動転し、すっかり逆上してしまっていた警部が、明らかに、傷ついた自尊心を回復したいと思ったらしく、彼がはいってきたときから間抜けたような微笑をたたえて彼を眺めていた例の不運な『はでな身なりの婦人』に、百雷の落ちるような勢いで猛然と食ってかかったのである。
「きさまはまったく箸にも棒にもかからんやつだ」と彼は突然ありったけの声でどなりつけた(喪服の婦人はもう帰ってしまっていた)。「きさまんとこのゆうべのあのざまはなんだ?あ? また街じゅうに恥をさらし、醜態をさらしやがって。またぞろけんかと泥酔じゃないか。懲治監へでもはいりたいのか! もうきさまにはいっておいたはずじゃないか、十ぺんも警告したじゃないか、十一ぺんめはもう許さんぞと! それなのにまたぞろ性こりもなくやらかしやがって、しようのないやつだ!」
ラスコーリニコフは思わず書類を取り落としてしまったくらいだった。彼はこうも遠慮会釈なくやっつけられているはでな身なりの婦人を不思議そうに眺めやった。が、しかしそのうち事の次第がわかると、たちまちその事件ぜんたいがひどく気に入ってしまった。で彼は満足を覚えながら聞き入り、笑って笑って笑いまくりたいくらいの気持ちになったくらいだった……神経という神経が盛んに躍動してやまなかったのである。
「警部さん!」と事務官が気づかわしげに言いかけたが、いいやめて時期を待つことにした、というのは、猛り立った警部を取り静めるには腕ずく以外に方法がないことを、彼は自分自身の経験で知っていたからである。
はでな身なりの婦人はというと、これは初めのうちこそその落雷に震えあがっていたが、奇体なことに、罵倒の数がふえ、激しさが増すにつれて、彼女の顔つきはいよいよ愛嬌たっぷりになり、雷警部に見せる微笑もますます魅力を増してきたのである。彼女はその場でちょこちょこ足踏みしたり、ひっきりなしに小腰をかがめたりしながら、最後に自分に言葉をさしはさましてくれるときの来るのをもどかしげに待っているうちに、とうとうそのチャンスが訪れた。
「うちでは騒ぎもけんかも全然ありませんでした、カピテン(大尉)」と彼女は、威勢のよいロシヤ語ではあったがつよいドイツ語なまりで、まるで豆でもぱらぱらまきちらすように、出しぬけにべらべらしゃべりだした。「シュカンダル(スキャンダル)も全然ね。ただあの人たち、酔っぱらって来た。それぜんぶ話しましょ、カピテンさん、わたし悪くない……わたしの店、上品な店よ、カピテンさん、お客あつかいも上品よ、カピテンさん、わたし、いつも、いつも、全然シュカンダルいや。でも、あの人たち、とっても酔っぱらって来た、その上にまた三本注文した、それからひとり足あげて、足でピアノひきだした、これ、上品な店では全然よくないね、そしてその人、ピアノをガンツ(すっかり)壊した、これではマニール(作法)全然、全然ない、わたしそう言ってやった。するとその人、びん持って、みんなをうしろからそのびんで突っつきはじめた。わたしすぐに庭番呼んだので、カルルやって来た。するとその人、カルルつかまえて、目のとこなぐった、ヘンリエットの目もなぐったし、わたしのほっぺたも五回ひっぱたいた。これ、上品な店、とっても失礼ね、カピテンさん、で、わたし大声出した。するとその人、堀に向いた窓あけて、窓むいて、ちっちゃい豚みたい、ぴいぴいやりだした。これも恥さらし。どうして窓から通りにむかって、ちっちゃい豚みたい、泣けますか? ぴい、ぴい、ぴいなんて! でカルル、うしろからその人の燕尾服つかんで窓からはなした、そしてそのとき、これほんとうよ、カピテンさん、ザイン・ロック(その男の上衣)を破いてしまった。すると、その人、自分に十五ルーブリ罰金払うマン・ムス(べきだ)とどなった。で、わたし、カピテンさん、ザイン・ロックのお金、五ルーブリ払った。あれ下品なお客ね、カピテンさん、いろんなシュカンダルやって! その人こういていた、お前たちを大きな諷刺小説にゲドリュクト(書く)するぞ、おれはどんな新聞にでもお前たちのこと書けるのだからって」
「著述家だったわけか、つまり?」
「そうです、カピテンさん、あれはひどい下品なお客ねえ、カピテンさん、上品な店へ……」
「よし、よし、よし! もうたくさんだ! もうお前にはいってあるはずだぞ、いってあるはずじゃないか、お前にはいってあるはずだ……」
「警部さん!」と事務官がまた意味ありげに声をかけた。警部がちらりと彼のほうに目をやると、事務官は軽くうなずいて見せた。
「……それじゃいいかな、|ラヴィーザ《ヽヽヽヽヽ》さん、これがお前に聞かす最後の説教だ、もうこれが最後だぞ」と警部は言葉をついだ。「もしも今後お前の『上品な店』でたった一度でもスキャンダルを起こしたら、それこそお前に、高尚な言葉づかいをすれば、手ひどい制裁を加えてやるからな。わかったな? そうすると、文士だか、著述家だかがお前の『上品な店』で燕尾服の裾の賠償金として五ルーブリ取ったってわけか?ああいうやつらは、著述家なんてやつらは、みんなそうしたもんさ!」こう言って彼はラスコーリニコフのほうに軽蔑的な視線を投げた。「おとといも簡易食堂でやはりおなじような事件があったよ。食事をしておきながら、代金を払おうとしないんだ。そして『お前らを諷刺小説に書いてやる』なんて抜かしやがるのさ。先週も汽船のなかでもう一件そんなのがあったな。れっきとした五等官の家族に、その奥さんとお嬢さんに、下劣この上もないいいぐさで罵倒《ばとう》したやつがいたんだ。それから、ついこの間も喫茶店で店からつまみ出されたやつがいる。著述家だの、文士だの、学生だの、新聞記者なんて、みんなそういうやつらばかりだよ……畜生! よし、お前はもう帰ってもいい! いずれそのうちおれが自分で調べに行くからな……そのときは気をつけろよ! わかったか?」
ルイーザはせかせか愛想をふりまきながら四方八方に会釈をし、会釈をしながらあとずさりして戸口までさがったところが、明るい、はればれとした顔にすばらしい豊かな亜麻色のほおひげをたくわえた風采の堂々たるひとりの警官にどしんと尻をぶつけてしまった。これこそほかならぬ署長のニコジームだったのである。ルイーザは急いでゆかにつかんばかりのおじぎをして、小刻みな足どりではねるようにしながら事務所を飛びだして行った。
「またまた雷鳴に、稲妻、落雷、竜巻、暴風の到来か!」と署長は愛想のいい親しげな調子で、副署長に言葉をかけた。「また気分を乱されたんで、またかんしゃく玉を破裂させたってわけかね! 階段のあたりまで聞こえたぞ」
「いや、なあに!」と副署長は鷹揚に無造作なところを見せて言い(なあに、ではなくて、『なあん』と聞こえたくらいだった)、なにか書類を持って別の机へ移動するのに、一歩足を踏み出すごとにおなじほうの肩を突きだすようにして、恰好よろしく肩を動かしながら歩いていった。
「この人です、ま、ごらんなさい。この著述家先生、じゃない、大学生だったな、つまりもと大学生なんですがね、金を払わずに、手形をふり出しただけで部屋を明けわたそうともしないんで、この先生のことでひっきりなしに訴えが来ているんですよ、そのくせわたしがこの先生の前でタバコをすいだしたというんで、ごねはじめるんですからな! 自分こそ卑劣なまねをしていながら、どうです、見てごらんなさい。この先生が見せているすずしい顔つきといったら!」
「貧は罪ならずだよ、君、しようがないさ! もっとも君は名だたるかんしゃく持ちだから、侮辱されて我慢がならなかったのも無理はないさ。あなたのほうもなにか、きっと、この男に腹のたつことがあって、自分で自分がおさえきれなかったんだろう」と言ってから、署長のニコジームはラスコーリニコフのほうへ愛想よく話を持っていった。「しかしそれは無駄というもんですよ。わしはあなたに教えてあげますが、この人はそーれこそ、じーつに心の清らかな男でしてな、が、ただかんしゃく持ちなんですな、かんしゃく持ちなんですよ! かあっとなって、ぐらぐら煮えくりかえったかと思うと、燃えきってしまって――もうあとにはなんにも残らない! 台風一過ってとこです! で、残るのはただ黄金のようなきれいな心だけなんです! 連隊でも『かみなり中尉』で通っていたんですからな……」
「いやそのれ、れ、連隊がまたねえ!」と、副署長は、こう愉快にくすぐられれば悪い気持ちもしないらしく、思わず嬉しそうに叫んだが、顔つきは相変わらずふくれっ面だった。
ラスコーリニコフも急にみんなにむかってなにかとびきり愉快なことでも言ってやりたくなった。
「とんでもないですよ、署長さん」と彼は突然ニコジーム署長のほうを向いて、すこぶるうちとけた調子で切りだした。「ま、僕の身にもなってみて下さいよ……僕はね、もし自分のほうになにか礼を失したことでもあったら、いつでもこのかたに謝罪するくらいの気持ちでいるんですよ。僕は貧乏で病身の学生で、貧乏に意気消沈しているんです(彼はそのとおり『意気消沈している』という言葉を使った)。僕はもと大学生なんです、というのは今のところ食いつないでもいけないような状態だからです。でもそのうち金が来ることになっています……おふくろと妹が××県にいて……僕のところへ金を送ってきますから、そうしたら僕は……払いますよ。下宿のおかみさんはいい人なんですが、僕が家庭教師の口をなくして、これで三月ごし下宿代を払わないもんだから、かんかんに怒ってしまって、食事もよこさないようなありさまなんです……それから、手形がどうのとかいってますが、そいつはさっぱりわけがわかりませんね! 今あの人は借用証書をたてにとってぼくに支払えと言っているけど、僕にどうして払えますか、ひとつ考えてみて下さい!……」
「だけど、そういうことはわれわれの関知したことじゃありませんよ……」と、また事務官がいいさした……
「ちょっと、ちょっと、僕はあなたに反対するわけじゃありませんが、僕にも釈明させて下さい」とラスコーリニコフはまた話を引きとって、事務官ではなくて、相変わらず署長のニコジームに話しかけたが、実際は副署長のイリヤーの耳にも入れようと躍起になっていたのである。ところが、相手はかたくなに、書類などをかきまわして、彼を無視しているような振りをしていた。「まあ、僕にも事情を説明させて下さいよ。僕は田舎から出てきたそもそもからずうっとこれでもうかれこれ三年もあの下宿に住んでいるんですが、以前……前に……なあに、こっちも白状したってかまやしない、当初から僕はおかみさんの娘と結婚する約束をしてしまったんです、口約束ですけどね、それもまったく自由な……それはまだほんの小娘でしたがね……もっとも、こちらもどちらかといえば好きだったんです……惚れこんでいたというほどではないにしてもね……ま、要するに、若気のいたりというやつですよ。つまり僕がいいたいのはこういうことなんです、その頃はおかみさんが僕にどしどし信用貸ししてくれていたものですから、僕も多少楽な暮らしができたわけです、僕はずいぶん軽率だったわけですよ……」
「だれもそんな内輪話をしろなんていっちゃいませんぜ、お前さん。それにこっちは暇もないんだ」と副署長がつっけんどんな調子で威猛高に話の腰をおろうとしたが、ラスコーリニコフは躍起になってそれをおしとめた。もっともとたんに口をきくのがひどくおっくうにはなったが。
「でも、まあ話させて下さい、僕にひととおり話させて下さいよ……事のいきさつを……それに僕としては……もっともこんな話をするのは余計なことでしょうがね、それはおっしゃるとおりです、――が、それはそうとその娘は一年前にチフスで死んでしまったのです。ところが僕のほうは相変わらずそこに下宿していたんですが、おかみさんは、今の住まいに引っ越したときに、こう言ったんです……しかも親切そうにこういうんですよ……自分はあんたを一も二もなく信用してはいるが……ひとつここで、あんたに貸してあげたお金の総額百十五ルーブリの借用証書を一本入れてはくれまいかとね。いいですか、あの人は間違いなくこう言ったんですよ、あんたがその証書を入れてくれさえすれば、これからもまたいくらでも貸してあげるし、自分のほうとしても、けっして、けっして、――これはおかみさん自身が口にした言葉なんですよ、――あんたが支払ってくれるまではこの証書を利用するようなことはしないからと……それを、僕が家庭教師の口までなくして食べるものもない今になって、告訴して取りたてようっていうんですからねえ……僕にしてみれば、なんとも言いようがないじゃありませんか?」
「そんなセンチメンタルなこまごました事情なんか、お前さん、一切われわれには関係ないことです」と、副署長が無遠慮に話の腰を折った。「お前さんがやらなきゃならないことは回答書と約定書を書いて出すことだけです。お前さんがあの家の娘に首ったけになったなんていう、そんな悲劇めいた話なんか一切われわれには無関係なんですからね」
「いやどうも、君……それはちょっと酷じゃないかな……」署長は机にむかって、やはりサインの仕事にかかりながら、そうつぶやいた。彼はなんとなくきまりが悪くなってきたのである。
「さあ、書いて下さい」と事務官がラスコーリニコフに言った。
「どう書いたらいいんです?」こちらはどうしたわけか、ことさらぞんざいな聞きかたをした。
「わたしが今口授してあげますよ」
ラスコーリニコフは、事務官が今のうちあけ話を聞いてから自分に対して前よりぞんざいになり軽蔑的になったような気がした、――が、奇妙なことに、――突然彼は、人の思惑がどうあろうと、自分にはまったくどうでもいいじゃないかという気持ちになった。しかもその気持ちの変化がなぜか一瞬のうちに、あっというまに起きたのである。もしかりにこのとき彼がいくらかでもものを考える気になったとしたら、むろん、ちょっと前にはどうしてあんなにこの連中を相手に話をしたり、自分の感情の押し売りまでする気になれたのだろうと、不思議に思ったにちがいない。いったいどこからそういう気持ちがわいてきたのだろう? 逆に、今もしこの部屋が突然警官ではなくて、いちばん仲のいい友だちでいっぱいになったとしても、彼には彼らにいうべき人間的な言葉ひとつ見出せなかったろう、それほど彼の心が突然空洞になってしまったのである。悩ましい無限の孤独と疎外の暗い感覚がにわかに彼の心に現われ意識されたのである。突然こんなふうに彼の心をひっくり返してしまったのは、副署長を前にして自分の心のうちをさらけだしてしまった浅ましさでもなければ、彼にたいする副署長の勝ち誇ったような態度の下劣さでもなかった。ああ、今の彼にとって、自分自身のあさましさ、こういった連中のうぬぼれ、副署長、ドイツ人の女、借金のとりたて、役所といったようなことなどなんのかかわりがあろう! たとえこの瞬間彼が火あぶりの刑をいいわたされたとしても、彼はびくともしなかったにちがいない、それどころかその宣告にほとんど注意して耳を傾けようともしなかったろう。彼の心になにかまったく覚えのない、新しい、思いがけない、まったく未曾有の事態がおきたのだ。さっきのような感傷的な気持ちの吐露ばかりでなく、たとえどんな話であれ、自分はもはやこれっきり、警察署のこうした連中を相手に話してはならないのだ、いや、それが区警察の副署長などではなくて、自分の血のつながった兄弟姉妹であろうと、生涯のどんな場合でも彼らにああいうふうに話しかける必要はまったくないのだと彼は悟った、というよりも自分の感覚ぜんたいではっきりと感じとったのである。彼はこの瞬間までまだ一度もこういった奇怪な恐ろしい感じを味わったことはなかった。それに、なにより辛かったことは――それが意識とか観念というよりもむしろ感触に近かったことである。じかに肌に感じた感触、これまで生涯に自分が味わったあらゆる感触のうちで最も苦しい感触だったことである。
事務官は、こういう場合に普通使われる回答書の書式、つまり今は返済できないが、これこれの日に(いつかそのうち)支払うことを約束する、町からは出ない、所有物は売却も贈与もしないといったようなことを口授しはじめた。
「あなたは字が書けそうもありませんね、ほら、ペンが手から落ちそうですよ」と、事務官は不思議そうにラスコーリニコフに目をこらしながら、そう注意した。「加減でも悪いんですか?」
「ええ……めまいがしてね……そのさきをいって下さい!」
「それでおしまいです。サインをして下さい」
事務官はその紙を受けとると、ほかの者にかかりはじめた。
ラスコーリニコフはペンを返したが、立ちあがって帰りもせずに、机に両ひじをついて、両手で頭をぎゅっとおさえてしまった。脳天に釘でも打ちこまれるような感じだったのである。彼は不意に奇怪な考えに襲われた。すぐにも立ちあがって、署長のところへ行って、きのうのことを洗いざらい、細大洩らさずぶちまけてしまい、それから下宿へ同行してもらって、部屋の隅の穴のなかに隠した品物を見せてしまおうかという考えに襲われたのである。その衝動は実に強烈なもので、それを実行しようと思ってすでに席を立ったくらいだった。『ほんのしばらくでもよく考えたほうがいいんじゃないんだろうか?』こういう考えが頭のなかにひらめいた。『いや、考えることなんかやめて、ひと思いに肩の荷をおろしてしまったほうがいい!』が、突然彼は釘づけになったように立ちどまってしまった。署長が副署長にむかって熱弁をふるっているその文句が彼の耳にはいったのである。
「そんなことあるもんかね、二人とも釈放さ。第一、それじゃなにもかも矛盾しているじゃないか。考えても見たまえ。あの二人の仕業だったら、なんで庭番なんか呼ぶことがある? 自分で自分を摘発することになるじゃないか? それともトリックだとでも言うのかね? いや、それじゃあまりにも手がこみすぎるよ! それに、最後にもうひとつ挙げれば、学生のペストリャコフは門のところで庭番二人と職人の女房に、はいろうとするところを見られているんだぜ。あの学生は友だち三人とつれだって来て、門のすぐそばで別れたんだが、まだ友だちがいるあいだに、庭番に家を聞いているんだよ。あんな殺意をいだいて来ながら、家の所在を聞いたりするもんかね? それからコッホのほうだが、これは婆さんのところへ立ち寄る前に、下の銀細工屋に三十分もいて、きっかり八時十五分前にそこから婆さんの家へあがっていったんだ。さあ、そこで考えてみたまえ……」
「しかし、待って下さいよ、それならどうしてあんな矛盾が生じたんですかね。彼ら自身断言しているところでは、ノックをしたときはドアがしまっていたのに、三分ほどして庭番といっしょに行ってみると、ドアがあいていたと言うじゃありませんか?」
「そこにいわくがあるんだよ。犯人はきっとなかにいて、掛け金をかけていたのさ。だからもしコッホがばかな考えをおこして自分で庭番を呼びに行くようなことをしなかったら、犯人は必ずその場でつかまったはずなんだ。犯人《ヽヽ》はまさにその間隙をぬってまんまと階段をおり、どうかして連中のわきをすりぬけてしまったわけなんだよ。コッホは両手で十字をきって、『もしもわたしがあそこに残っていたら、きっと犯人が飛び出してきて、わたしも斧で殺されてしまったにちがいありません』なんて言っていたぜ。それに、ロシヤ式の感謝祈祷式でもあげたいくらいだなんていっていたよ、へ、へ!……」
「しかし、だれひとり下手人を見た者はいないじゃありませんか?」
「見た者なんかいるわけはないでしょう。あの家はノアの箱舟なんですからね」と、自分の席で聞き耳をたてていた事務官が口をはさんだ。
「問題ははっきりしているよ、問題ははっきりしている!」と署長は熱を入れてくり返した。
「いや、どうしてどうして問題ははっきりしていませんね」と副署長は自説を固持した。
ラスコーリニコフは帽子をとって、戸口にむかって歩きだしたが、その戸口までも行きつけなかった……
気がついてみると、自分は椅子にかけて右側からだれかに支えられ、左手にはもうひとりの男が黄色い液のいっぱいにはいった黄色いコップを持って立ち、署長も彼の前に突立ってじっと彼を見つめていた。ラスコーリニコフは椅子から立ちあがった。
「どうしたんです、加減が悪いんですか?」と、署長はかなり鋭い口調で聞いた。
「この人はサインをするときも、やっとペンを動かしているようなぐあいでしたよ」と、事務官が自分の席について、また書類の仕事にとりかかりながら言った。
「もうだいぶ前から病気なんですかね?」と、副署長が、やはり書類をめくりながら、自分の席から声をかけた。彼ももちろん、青年が失神していた間じゅう病人を観察していたのだが、病人が意識をとりもどすと同時にそこを離れたのだった。
「きのうからです……」とラスコーリニコフはつぶやくように返事をした。
「ところで、きのうは外出しましたか?」
「しました」
「病気なのに?」
「ええ、病気なのに」
「なん時ごろ?」
「晩の七時すぎです」
「で、どこへ、失礼ですが?」
「通りへ」
「簡単明瞭ですな」
ラスコーリニコフは布のように血の気のない顔をして、きっぱりと、とぎれとぎれに答え、その間じゅう黒い燃えるようなひとみを副署長の視線から離さなかった。
「この人はやっと立っているくらいなのに、君は……」と署長が言いかけると、
「だーいじょうぶですよ!」と副署長はなぜか特別な調子をつけて言った。署長はさらになにか言い足そうとしたが、事務官も同様ラスコーリニコフをまじまじと見つめているのを見て、黙ってしまった。一同ぴたりと黙りこくってしまったため、なにやら変なぐあいだった。
「いや、もうけっこうです」と副署長が締めくくりをつけた。「もうお引きとめしません」
ラスコーリニコフは外へ出た。彼が出たとたんに活溌な話のやりとりが始まり、なかでもひときわ高く署長の問いただす声が響いているのが彼の耳にも聞きとれた……彼は通りへ出てやっとすっかりいつもの自分にたち返ることができた。『捜索だ、捜索だ、すぐ家宅捜索が始まるぞ!』と、彼は帰りを急ぎながら、くり返していた。『盗人どもめ! 嫌疑をかけてやがる!』彼はまたもやさっきの恐怖に足のさきから頭のてっぺんまでとらえられてしまった。
[#改ページ]
『が、もしかしてもう家宅捜索をされてしまっていたらどうしよう? 自分の家でばったりやつらと鉢合わせでもしたら?』
しかし、自分の部屋へはいってみたが、何事もなかったし、だれもいなかった。だれひとりなかをのぞいた者はいなかった。ナスターシヤですら指一本触れていなかった。が、それにしても、ああ! さっきはよくもあの品物をぜんぶあの穴のなかに突込んだまま出られたものだ!
彼は部屋の隅へ飛んでいって、壁紙の下へ手をさし入れ、品物を引っぱり出して、ポケットへ詰めこみはじめた。ぜんぶで八点あった。小さな箱が二つ、――それには耳輪か、なにかそれに類したものがはいっているらしかったが、――彼はよく見もしなかった。それからさほど大きくない山羊皮のサックが四つあった。さらに、くさりが一本ただ新聞紙につつんだだけのがあり、もうひとつなにか新聞紙にくるんだ、勲章らしいものもあった……
彼はそれをぜんぶあちこちのポケットに、外套や、ズボンの残った右のポケットに、なるべくめだたないように工夫しながら詰めこんだ。財布も、品物といっしょに持って、部屋を出たが、今度は部屋をすっかり明けっぱなしにしておいた。
彼はしっかりした早い足どりで歩いていった。体のほうはすっかり弱りはてた感じだったが、意識はしっかりしていた。彼は追跡を恐れ、早くも三十分後か十五分後にはおそらく尾行命令が出るかもしれないと心配していた。だとしたら、たとえどうなろうとも、それ以前に証拠を湮滅《いんめつ》しなければならないわけである。まだ少しでも力が残り、少しでも判断力が残っている間に、処置をとらなければならなかった……が、どこへ行ったらいいだろう?
それはもう前からきまっていた。『ひとつ残らず堀へ捨てて、証拠物件を水中に葬ってしまえば、それで事はけりがついてしまう』まだ夜なかに熱にうかされていた間に、自分の記憶によれば幾度かはね起きて出かけようともがきながら『できるだけ早く、できるだけ早く、ぜんぶ捨ててしまわなければ』と思ったあの瞬間に、そうきめたのだった。だが、捨てることもなかなか生やさしいことではなかった。
彼はエカテリーニンスキイ運河の河岸通りをもうかれこれ三十分か、あるいはそれ以上もぶらついて、運河への降り口に出くわすたびに、幾度かのぞいてみた。しかし、考えを実行することなど思いもよらなかった。降り口のすぐそばにいかだが浮かんでいて、その上で洗濯女が下着の洗濯をしていたり、ボートがつないであったりしたが、どこでも人がうようよしていて、河岸通りからでも、どこからでも見えるし、目にとまるから、人がわざわざ下りていって、足をとめて、なにか水中にほうりこみでもしたら、怪しまれるにちがいないのだ。それに、サックが沈まないで、ぷかぷか浮いて流れ出したりしたら、どうする? むろん、そうなるにちがいないのだ。いやでもみんなの目につくわけだ。それでなくてさえ、もうみんなが、行き会うたびに彼を盛んに見たり、まるで彼ひとりだけに用でもあるように、彼を眺めまわしたりしているではないか。『どうしてこうなんだろう、あるいはこっちにそう見えるだけなのだろうか』と彼は思った。
とうとう最後に、彼の頭に、どこかネワ川へでも行ったほうがよくはあるまいかという考えが浮かんだ。あの辺だったら人通りが少ないから人目につくことも少ないし、とにかく都合がいい。それに、第一、この辺からだいぶ離れている。すると、いったいどうして自分はまるまる三十分も心配と不安に悩みながら、危険な場所をうろつきまわってばかりいて、もっと早く、こんなことが思いつかなかったのだろうと、急に不思議な気がした。夢を見ながら熱にうかされてすでに一度こういうふうにきめてしまったからというだけのことで、こんな無分別なことをしてたっぷり三十分もつぶしてしまうとは!彼はひどく頭が散漫になり、忘れっぽくなっていた。そして自分にもそれがわかっていた。もう断然急がなければならない!
彼はネワ川をさしてV大通りを歩きだした。が、その途中で、さらにふと、『なぜネワ川へ行くんだ? どうして水のなかなどへ捨てるんだ? どこか、ずっと遠い所へ、もう一度群島へでも行って、そこのどこか淋しい場所、森の灌木《かんぼく》の下にでも――それを残らず埋めて、立木でも目印にしたら?』という考えが浮かんだ。彼はこの瞬間なにからなにまで明快で健全な判断を下せる状態ではないような気はしたけれども、この考えはまちがっていないように思われた。
ところが、そういう運命だったのだろう。彼は結局群島へは行かず、まるっきりちがったことになってしまった。V大通りから広場へ出ようとしたとき、彼はふと左側に、それこそ窓ひとつない壁をめぐらした中庭にはいる入り口を見かけた。右手は門をはいるとすぐに、遠く中庭へと、隣りの四階だての家の窓のない荒壁がのびていた。左手は、窓のない壁にそってやはり門からすぐに、中庭の奥へ二十歩ほど板塀がつづき、そこからはもう左へ折れるようになっていた。そこは仕切りでしめきってある、なにかの材料置き場だった。そのさきの、中庭の奥には、塀のかげから、明らかになにかの仕事場の一部らしい、低い、すすけた石造りの蔵の角がのぞいていた。そこは、きっと、馬車工場か、鉄工所か、なにかそういったたぐいの建物だったのだろう、門のすぐそばからあたり一面、石炭粉で真っ黒になっていた。『ここはほうりこんで行くのにうってつけの場所だ!』という考えが彼の頭に浮かんだ。中庭にだれひとり人影がないのを見すまして、門のなかへ踏みこんだとたんに、ちょうど門のすぐ近くの塀の下水樋(職工や組合労務者や御者などが大勢住んでいるような建物によく備えつけてあるような)がとりつけてあるのが目についた。その樋の上の塀には、チョークでこういう場所にはつきものの『ここへ小使《ヽヽ》すべからず』という落書きがしてあった。してみると、好都合なことには、ここへはいって立ちどまったところで、全然怪しまれないわけだ。『ここでどこかその辺にひとまとめにして捨てて逃げちまえ!』
もう一度あたりを見まわして、すでに片手をポケットに突込んだとたんに、外側の壁のすぐそばに、幅七十五センチ余くらいの、門と下水樋との間あたりに、彼は、おおよそ十六、七キロはあると思われる、大きな自然石が通りの石壁にぴったりくっつけておいてあるのに気がついた。その石壁のむこうは通り、つまり歩道になっていて、この辺はいつも多い通行人が足繁く行きかう音が聞こえていた。しかし、だれか通りからはいって来ないかぎり、だれの目にもとまる心配はなかった。とはいっても、はいってくるようなことも大いにありうるので、手早く片づけなければならなかった。
彼は石に身をかがめると、その上端にしっかりと手をかけて、ありったけの力をふるって、石をひっくり返した。石の下にはちょっとしたくぼみができていた。さっそく彼はそこへポケットのなかのものをぜんぶほうりこみはじめた。財布はいちばん上にのせたが、それでもくぼみにはまだ余地があった。ついで、また石に手をかけて、ひと回転させて前どおりにひっくり返すと、石はちょうどもとの場所におさまった。もっとも、ほんのちょっと高くなっているようには見えた。しかし、土をかき寄せて、その端々を踏みつけると、まるっきりめだたなくなった。
それから彼は通りへ出て、広場をさして歩きだした。と、彼はまたもや一瞬、さっき警察で経験したとおなじような、強烈な、おさえきれない喜びに襲われた。『罪証は葬ってしまったぞ! だれの頭に、いったいだれの頭にあの石の下を探そうなどという考えが浮かぶだろう?あの石はあそこに、おそらく、あの家が建った頃から置いてあるんだ、これからもまだそのくらいの期間は置いてあるにちがいない。それにたとえだれかが見つけたにしても、だれがおれだなどと思うものか? これでもうぜんぶ片がついてしまったんだ! もう証拠はないんだ!』こう思うと彼は思わず笑いだしてしまった。そうだ、彼はその後も覚えていたが、このとき彼は神経的で小刻みで、よく聞こえない、長い笑い声をたてはじめ、広場を突切って歩いている間じゅうずうっと笑いつづけていた。が、しかしおととい例の少女に出会ったK並木道に足を踏み入れたとたんに、その笑いははたとやんでしまった。べつの考えが彼の頭に忍びこんで来たのである。それにやはり、自分があのとき、少女が立ち去ったあとで腰をおろしてあれこれと思いめぐらしたあのベンチのそばを通るのが今はいやでたまらないし、それに自分があのとき二十コペイカをやったあのひげの警官に再会でもしたらこれもやはりやりきれないだろうと思われたのである。『あんなやつ、どうともなりやがれ!』
彼は放心したような意地わるげな目つきであたりを見まわしながら歩いていった。彼の考えはことごとく今やある重大な一点を中心にぐるぐるめぐっていた、――そして彼自身、それが実際にそのとおり重大な一点であることも、今や、今こそ、自分はその重大な一点に面と向かいあっているということも、――またそれがここ二ヵ月以来初めてのことであるということも、感じていた。
『えい、こんなことはみんなどうともなりやがれ!』突然彼はとめどない怒りの発作にかられてこう思った。『どうせ始まってしまったことはどうにもならないんだ。あの婆も、新生活も、くそくらえだ! ああ、あいつはまったく愚劣きわまる!……きょうおれはどれほど嘘をついたり、卑しいまねをしたことか! さっきもあの胸くその悪い副署長なんかの鼻息をうかがったり、取り入ったりして、醜悪なことといったらありゃしない! が、しかしあんなこともくだらないことだ! あいつらにも、それにおれが鼻息をうかがったり取り入ったりしたという事実にも、唾を吐きかけてやればいい! 問題は全然そんなことじゃない! 全然そんなことじゃないんだ!……』
と突然彼は足をとめた。新たな、まったく思いもうけなかった、至極単純な問題に彼は一時にとまどってしまい、烈しい驚愕を覚えたのである。
『もしほんとうにああいったことを、痴呆状態ではなくて、意識があってしたのだったら、もしほんとうに一定の確乎たる目的があったのだったら、いったいどうしていままで財布のなかをのぞきもせず、なにが手にはいったのかも知らずにいるんだ? なんのためにわざわざあらゆる苦しみを一身に引き受けて、あんな見下げはてた醜悪で下劣なことをしに行ったのだ? 現に、今だってあれを、あの財布を、やはりまだよく見てもいない品物といっしょに水のなかへ捨てようとしたじゃないか? あれはいったいどういうわけだ?』
そうだ、それはそのとおりだ。なにもかもそのとおりだ。しかし、そんなことは彼にも前からわかっていたことであって、彼にとって全然新しい疑問ではない。昨夜水のなかに投げ捨てようと決めたときも、なんのためらいも反対もなしに、まるで当然のことのように、それ以外にやりようがないみたいに、きめてしまったのだ……そうなのだ、彼はこんなことはなにもかも知っていたし、なにもかも覚えていたのだ。これはすでにきのう、長持ちにかがみこんで、なかからケースなどを取り出していたあの瞬間に、ほとんどこうときめてしまっていたのだ……まさにそのとおりなのだ! ……『これは、おれがひどい病気を患っているせいだ』と彼はついに不きげんそうに断定を下した。『おれは自分で自分を責めさいなみながら、自分ではなにをしているのかわかっていないのだ……きのうも、おとといも、ずうっと自分で自分を苦しめてきているが……病気がなおれば……自分を苦しめることもなくなるだろう……じゃ、もし病気がなおらなかったら? ああ! こんなことはなにもかもすっかりいやになった!……』彼は立ちどまらずに歩きつづけた。彼は無性になにか気晴らしをしたかったが、なにをしたらいいのか、なにをはじめたらいいのか、わからなかった。彼はある新しい、どうにもおさえきれない感覚に刻一刻と次第につよくとらえられていった。それは、行きあう一切のもの、自分をとりまく一切のものに対する一種の果て知れぬ、ほとんど生理的ともいえる嫌悪感、執拗な、怒りと憎しみに満ちた嫌悪感だった。彼には行きあう者のだれもがいとわしかった、――彼らの顔が、歩きぶりが、動作がいとわしかった。だれかに話しかけられでもしたら、彼はただもう唾を吐きかけ、事によったら、かみついてやったかもしれない……
ワシーリエフスキイ島にある、小ネワ川の河岸通りの橋のたもとに出たとき、ラスコーリニコフはふと足をとめて、『ここのあの家にあいつが住んでいるんだ』と彼は思った。『これはどうしたことだ、どうやらおれは自分のほうからラズーミヒンのところへ来てしまったらしいぞ! またあのときとおなじようなことになってしまった……それにしても、こいつはまったくおもしろい。おれは自分からその気でやって来たんだろうか、それともただ歩いているうちに、ここへ来ちまったんだろうか? ま、どっちでもいいや。おれは言ったんだから……おとといかな……|あれ《ヽヽ》がすんだらそのあくる日、あいつのところへ来るって、なに、かまうことはない、行ってみよう! これじゃ今となっちゃやつのところへ行けないみたいだものな……』
彼は五階のラズーミヒンの住まいへあがっていった。
当人は自分の小部屋にいて、そのときなにか仕事に精を出して、書きものをしていたようだったが、自分でドアをあけてくれた。もう四ヵ月このかた二人は顔をあわせていなかったのである。ラズーミヒンは、すりきれてぼろぼろになった部屋着をまとい、素足にスリッパをつっかけて、髪はぼうぼうだし、ひげも剃らなければ顔も洗わずに、家にひきこもっていた。その顔には驚いたような表情があらわれていた。
「いったいどうしたんだい、君?」と彼は、はいってきた友を足のさきから頭のてっぺんまでじろじろ眺めまわしながら、そう叫んだ。それから、ちょっと口をつぐんで、ひと吹き口笛を鳴らした。
「そんなに不景気なのかい? そんなじゃ、君はおれたち以上じゃないか」と彼はラスコーリニコフのぼろ服を見てこう言い足した。「ま、かけろよ、疲れているんだろう!」そして、相手が自分のとこのソファよりもひどい油布ばりのトルコ風のソファにくずおれるように腰かけたとき、ラズーミヒンはふと、客が病気なのに気がついた。
「君は大病じゃないか、自分でもそれがわかっているのかね?」彼が相手の脈を見はじめると、ラスコーリニコフは手を引っこめてしまった。
「よしてくれ」と彼は言った。「僕がここへ来たのは……こういうわけなんだ。僕は今家庭教師の口がまるっきりないんで……できたら……もっとも、僕は家庭教師の口なんか全然いらないんだけど……」
「おい、君、君はうわ言を言っているぜ!」と相手をじっと観察していたラズーミヒンが言った。
「いや、うわ言なんか言ってやしないよ……」ラスコーリニコフはソファから腰をあげた。彼はラズーミヒンの部屋へ上ってくるときも、上っていけばつまり、彼と顔をつきあわさなければならないのだなどとは考えてもいなかったのだ。ところが、今や彼は一瞬のうちに今の経験から、自分は今とても世界じゅうのだれとも顔をつきあわせられるような気分ではないのだと悟った。彼はかんしゃくがむらむらと起きてきた。ラズーミヒンの部屋の敷居をまたぐか、またがないうちにもう、自分自身に対する憤怒でむせかえらんばかりだった。
「さようなら!」と彼は出しぬけに言って戸口のほうへ歩きだした。
「待て、待てったら、変人!」
「いや、よしてくれ!……」と本人は、また手をふりほどきながら、おなじことを言った。
「そんなら、じゃなんのためにやって来たんだい! 頭でもおかしくなったのか? これじゃ……まるで侮辱じゃないか。僕はこのままじゃ帰さんぞ」
「よし、そんなら聞きたまえ。僕が君のところへやって来たのは、君以外に、僕が新規まきなおしでやりだすのを……手つだってくれる者をだれひとり知らなかったからなんだ……というのは、君はだれよりも親切で、つまり利口で、判断力を持っているからだよ……ところが、今、おれはわかったんだ、おれはなんにもいらない、いいかい、まるっきりなんにも……だれの世話も同情も、いらないってことがわかったんだ……僕は自分で……ひとりで……いや、もういい! そうっとしておいてくれ!」
「ちょっと待てよ、煙突掃除夫! まるで気ちがいじゃないか! 君がどうしようと僕はかまわんけどさ。実はね、家庭教師の口は僕にもないんだが、そんなものはくそくらえだ、ところで、トルクーチイ(古物市場)にヘルヴィーモフという本屋がいてな、こいつが、ま、一種の家庭教師の口みたいなものなんだよ。今だったら僕はこの男を商人の家の家庭教師五口ぶんとでもとりかえる気はないね。この男が小さいけどどえらい出版をやっていて、自然科学の豆本などを出しているんだが、――その売れるのなんのって! 表題だけでも大した値うちがあるんだ! 君はしょっちゅう、僕のことをばかよばわりしていたけど、僕に輪をかけたばかがいるぜ! そいつはこの頃人なみに傾向がどうのなんて言いだしやがんのさ。そういう本人、さっぱりわかっちゃいないくせにさ。それはともかく、僕は、もちろん鼓舞激励してやっているけどね。ほら、ここに三十二ページとちょっとくらいのドイツ語のテキストがある、――ま、僕に言わせりゃ、ばかげきったまやかし物だけどね。一言でいえば、女は人間か人間でないかといったようなことを究明して、そうしてからに、当然のことだが、もったいぶって、人間であるって論証していやがんのさ。ヘルヴィーモフはこいつを婦人問題むきに仕立てようと思っているんだ。で、僕が翻訳して、あいつが三十八ページのものを九十六ページに水増しして、半ページ分もあるすごくはでな標題をつけて、五十コペイカで売ろうってわけなんだ。こいつはいけるぜ! 僕には翻訳料として十六ページにつき六ルーブリ、つまりぜんぶで十五ルーブリはいる勘定だが、僕はもう六ルーブリ前借りしちまっているんだ。これを仕上げたら、鯨の本の翻訳に取りかかるし、それから『コンフェッション(懺悔録)』の第二部からこの上なくつまらないむだ話をいくつかやはりチェックしてあるんで、こいつも訳すことになっているんだ。だれかヘルヴィーモフに、ルソーは一種のラジーシチェフ(ロシヤの十八世紀末の革命的思想家)だなんてたきつけた者がいたんだよ。僕は、もちろん、反駁する気持ちはないけどね、あいつなんか、くそくらえって考えだから! どうだい、ひとつ『女は人間なりや?』の後半を訳す気はあるかい? やりたかったら、さっそくテキストを持っていきな、ペンも持っていきな、紙も――これは全部支給品なんだから――それから三ルーブリの金も持っていきたまえ。僕は翻訳ぜんぶの分として、つまり前半の分も後半の分も前借りしちゃったから、この三ルーブリは君の取り分ということになるわけだ。それに、十六ページ仕上げたら、さらに三ルーブリもらえるわけだ。それからもうひとつ。どうか、僕に世話になったなどとは考えないでくれよ。それどころか、君がはいってきたとたんに、僕は、君に僕の得になるようなことをやってもらえるぞなんて、あてこんだくらいなんだから。第一、僕は綴り字法が弱いし、第二にドイツ語だとときどき全然うまくいかないことがあって、そんなわけでしょっちゅう自分で作文をやらかすことが多くて、ただ、そのためかえってよくなったなんてみずから慰めているような始末なんだから。まあ、いいさ、ひょっとしたら、よくならずに悪くなったかもしれないなんてことはだれにもわかりゃしないんだから……持っていくかい、どうだい?」
ラスコーリニコフは黙ってドイツ語の論文を取りあげ、三ルーブリの金も受けとると、一言もものをいわずに、そこを出ていってしまった。ラズーミヒンはあっけにとられて、そのうしろ姿を見送った。が、しかしラスコーリニコフは最初の通りまで行きつくと、急にとって返して、またラズーミヒンの部屋へ上っていき、ドイツ語のテキストも三ルーブリも机の上において、またもやひと言も口をきかずに、出ていこうとした。
「君は脳病かなんかじゃないのか!」ラズーミヒンはとうとうかあっとなってこうわめきだした。「なんだってそんな喜劇なんか演じてやがるんだ! 僕まで頭の調子がおかしくなっちまったじゃないか……それくらいなら、どうしてやって来たんだい、畜生?」
「いらないんだ……翻訳の仕事なんか……」とラスコーリニコフはつぶやいたが、そのときはもう階段をおりかけていた。
「じゃ、君はいったいなにがいるんだい?」と、ラズーミヒンが上からどなった。が、相手はそのまま黙々と階段をおりていくのだった。
「おい、君! 君は今どこに住んでいるんだ?」
返事はなかった。
「ちぇっ、そんならどうとも勝手にしやがれ!……」
しかし、すでにラスコーリニコフは通りへ出ようとしていた。ニコラーエフスキイ橋の上で、彼はあるすこぶる不愉快な出来事のためにもう一度すっかりわれに返ることになった。ある幌馬車の御者にむちで背なかをぴしりとやられたのである。御者に三、四回どなられたのに、あやうく馬の下敷きになりそうになったからだ。彼はむちに打たれたことに激しい怒りを覚えて、橋のらんかんに飛びのき(どうしたわけか、彼は歩道ではなくて車道である橋のまんなかを歩いていたのだ)、憎らしそうに歯をくいしばって、歯ぎしりしたほどだった。あたりにどっと笑い声がおこったことは言うまでもない。
「ざまあ見やがれ!」
「一種のかたりよ」
「知れきったことよ、酔っぱらいのふりして、わざと車の下になって、さあ、どうしてくれると息まくやつさ」
「あれで飯をくってるやつらだ、な、お前さん、あれで飯をくってるんだよ」
ところが、彼がらんかんのそばに立って、背なかをさすりながら、遠ざかり行く幌馬車のあとをなおも意味もなく憎々しげに見送っている最中に、ふと、だれかに金を握らされたような気がした。見ると、頭巾に山羊皮の短靴といったかっこうをした年配の商家のおかみと、多分その娘であろう、帽子をかぶり、緑色のパラソルを手にした連れの女の子が立っていた。「お前さん、どうぞ取っておくれ」受けとると、二人はそのまま通りすぎていった。金は二十コペイカ銀貨だった。身なりや様子から見て、彼は乞食、街頭の小銭を集めるほんものの袖乞いと大いにまちがえられかねなかった。彼が大枚二十コペイカ銀貨の施しを受けたのも、てっきり、むちで打たれたことが彼女たちの憐憫の情をさそったせいだろう。
彼は二十コペイカ銀貨を握りしめて、十歩ほど歩いてから、ネワ川の、宮殿の見える方向に顔を向けた。空には一片の雲もなく、水は淡青色に近かったが、こんなことはネワ川のほとりではそれこそめったにないことだった。寺院の円屋根は、どこの地点といって、ここ、つまり礼拝堂まで二十歩とない橋の上から見遙かすほどすばらしくくっきりと描きだされる所はないのだが、その円屋根がまばゆいばかりに輝いて、そのひとつひとつの装飾すら澄みきった空気をとおしてはっきりと見わけられた。むちで打たれた痛みがおさまると、ラスコーリニコフは打たれたことなどけろりと忘れてしまっていた。そして今はもっぱら、ある不安な、まだはっきりしない考えにのまれてしまっていた。彼はそこに立ちつくして、遠くの景色を長いことじっと眺めていた。この辺は彼にとって特別なじみぶかい場所なのだ。大学へかよっていた頃は、たいていいつも、――とはいってもいちばん多かったのは帰り道だったが――おそらくは百回近くもこのおなじ場所に足をとめて、このえもいわれぬ壮麗なパノラマに見入り、そのたびにある漠然とした、どうにも解きがたい感銘にほとんど驚きに似たものを感じたものだった。そして、そのつどいつもその壮麗なパノラマからいい知れぬ冷気がおし寄せてくる感じがしたものだった。彼から見れば、この華麗な一幅の絵図は、口もきかなければ耳もかさない鬼気に満ちていた……彼はそのたびに自分の憂鬱《ゆううつ》な謎めいた印象におどろいて、自分の考えが信じられないままに、その謎の解明を将来にのばしのばししてきたものだった。ところが今急に彼はこの昔の疑問と疑惑をありありと思い出し、今それを思い出したのが決して偶然ではないように思われたのである。ただひとつここに彼に奇怪にも思われ、奇異とも感じられたことは、今このおなじ場所に以前のように立ちどまったけれども、それがまるで自分は今も以前とおなじことを考えることも、……つい最近興味を感じたのとおなじ以前のテーマや風景に興味を覚えることもできるのだと実際に思ったらしいことである。彼はほとんど滑稽《こっけい》といってもいいような気もしたが、同時に胸が痛いくらい締めつけられもした。今では彼にはそういったあらゆる過去や以前の考えが、以前の問題も、以前のテーマも、以前の印象も、このパノラマぜんたいも、自分自身も、ありとあらゆるものが、足もとのほとんど見えない、下のどこか深い所に沈んでしまったように思われ……そして、自分はどこか上空へ飛び去って、一切が自分の視界から消え去ってしまったような気持ちがしたことである……彼はなに気なく片手を動かしたひょうしに、ふとこぶしのなかに二十コペイカ銀貨を握りしめていたのに気がついた。彼はこぶしを開いて、銀貨をつくづくと眺めていたかと思うと、いきなり手を振りあげて、それを水中にほうり投げ、それから向きを変えて家路についた。彼はこの瞬間、はさみででも自分で自分をすべての人間、すべての物から切りはなしてしまったような気がした。
自分の下宿へもどったときはもう夕方近かった、ということはかれこれ六時間も歩きまわったことになる。どこをどうして帰ってきたかについては、なにひとつ記憶がなかった。服をぬぎ、走らせられてへとへとになった馬のように体じゅうぶるぶる震えながらソファに横になって、外套をひっかぶると、そのままたちまちなんにもわからなくなってしまった……
あたりがすっかりたそがれの色につつまれた頃、すさまじい絶叫に目をさました。ああ、なんという叫び声だろう! そんな不自然な物音やそんな吠え声や歯ぎしりや涙や殴打や悪口雑言を、彼はまだ一度も聞いたこともなければ、見たこともなかった。彼にはそんな獣的な振舞いは、そんな狂乱状態は想像もできなかったのだ。彼はおびえきって身を起こすと、寝床に坐って、ひっきりなしに気を失いかけたり悶えたりしていた。しかし、取っくみあいと号泣と罵りあいはますます激しくなるばかりだった。ところがまったく驚いたことに、突然《ヽヽ》その声のひとつが下宿のおかみの声であることがわかったのである。彼女はわめいたり、金切り声をあげたり、大泣きに泣いたりしているのだが、それがせきこみ、あわてふためいて、言葉をぬかしたりするため、よく聞きとれなかった。それに、なにか哀願しているらしいのだが、それはむろん、階段の上で情容赦なくぶたれているところを見れば、どうか、ぶつのだけはやめてくれと頼んでいるにちがいなかった。なぐっている男の声は憎悪と狂憤に聞くもおそろしいくらいになり、もうただしわがれ声でわめきたてるだけだったが、それでもなぐっている男もやはり早口に、あわてて、のどをつまらせながら、なにかわけのわからないことを口走っていた。と突然、ラスコーリニコフはぶるぶる震えだした。その声の主がわかったのである。それは副署長のイリヤーの声だった。副署長がここへやって来て、下宿のおかみをなぐっているのだ! 足で蹴ったり、おかみの頭を階段にたたきつけたりしているのである、――それは明らかなことだ、物音や悲鳴やなぐる音でわかる! これはなんとしたことだ、世界がひっくり返りでもしたのだろうか? どの階でも、階段のどこでも人が集まってきているのが聞こえ、人声や叫び声が聞こえ、人がのぼってきたり、ノックをしたり、ドアをばたんばたんいわせたり、駆け寄ってきたりしていた。『いったいなんだってぶちのめしているんだろう、いったいなんだって? どうしてあんなことがやれるんだろう?』彼は本気で、自分はすっかり気ちがいになったのかと思いながら、そうひとり言をくり返していた。しかし、そうじゃない、あまりにもはっきり聞こえてくるではないか!……が、しかしもしそうだったら、すぐにもこっちへやって来るはずだ、『だって……これは確かにあの一件が……きのうの一件が原因なのだから……さあ、大変だ!』彼は鍵をかけようと思ったが、腕があがらない……それにそんなことをしてもむだだ! 彼の胸は氷のような恐怖につつまれ、恐怖に悶え、固くなってしまった……が、ついに、確実なところ十分はつづいていたその騒動も次第におさまってきた。下宿のおかみは呻き声を発したり嘆声をもらしたりし、副署長もやはりまだおどし文句を並べたり罵倒したりしていた……が、その彼もとうとう静まったらしく、その声ももう聞こえなくなった。『ほんとうに行ってしまったのだろうか! ああ、よかった!』なるほど、そのとおりおかみも、相変わらず呻いたり泣いたりしながらも、引きあげていく……と、そこへおかみの部屋のドアがばたんと鳴った……人群れも階段からそれぞれの部屋へ散っていきながら、――嘆声をもらしたり、議論をしたり、呼びかわしたりしていくのだが、その声はときに叫び声にまで高まるかと思えば、ときにささやき声くらいまで低くなる。それは大勢だったのにちがいない。アパートじゅうの人間がはせ寄ったのだろう。『それにしても、はたしてあんなことがあり得るのだろうか! それにどうして、どうして副署長なんかがここへやって来たのだろう!』
ラスコーリニコフはぐったりしてソファの上に倒れたが、もはや目もふさがらなかった。彼はそのあと三十分も、そんなふうに苦悶し、いまだかつて味わったこともないような、とめどもない恐怖の堪えがたい感じに襲われながら横になっていた。と突然まばゆいばかりの明かりが彼の部屋をぱっと照らした。ナスターシヤがろうそくとスープ皿を持ってはいって来たのだ。まじまじと彼を眺めて、彼が眠っていないことを見きわめると、彼女はテーブルにろうそくをたてて、パン、塩、皿、スプーンなど、持ってきたものを並べだした。
「多分、きのうからなんにも口にしていないんだろ。まるまる一日じゅうほっつき歩いてさ、熱病にやられている体だというのに」
「ナスターシヤ……おかみさんはなんでひっぱたかれたんだね?」
彼女は相手の顔にじっと目をこらした。
「おかみさんがだれにひっぱたかれたっていうのさ?」
「さっき……三十分ほど前に、副署長に、階段のところで……どうしてあいつはあんなにぶちのめしたんだい? それに……何の用で来たんだい?」
ナスターシヤは無言のまま眉をひそめて相手をじろじろ見、長いあいだそのまま見つめていた。ラスコーリニコフはそうやってじろじろ見られたことでひどく不愉快になり、それどころか気味わるくさえなった。
「ナスターシヤ、なんだって君は黙っているんだね?」と、あげくのはてに彼は弱々しい声でおどおどしながら言った。
「それは血よ」と彼女はついに小声で、ひとり言のように答えた。
「血! ……なんの血?……」彼はさっと顔青ざめ、壁のほうへすさりながら、つぶやいた。ナスターシヤは相変わらず無言のまま相手を見つめていた。
「おかみさんはだれにもぶたれやしなかったよ」と彼女はまたきっとした、きっぱりした口調でそう言った、ラスコーリニコフはやっと息をしながら相手を見つめていた。
「この耳で聞いたんだよ……僕は眠っていなかったんだ……坐っていたんだ」と彼はいよいよおどおどしながら言った。「僕はずうっと耳をすまして聞いていたんだ……副署長が来たんだよ……みんなが階段へ駆け寄ってきたんだ、自分の部屋から……」
「だれも来やしないわよ。それはあんたの体のなかで血が騒いでいるんだわ。それは、血の出どころがなくて、肝みたいに凝り固まりだすと、ありもしないものが見えたり聞こえたりしてくるのよ……食べるんでしょう?」
彼は答えなかった。ナスターシヤは相手を見おろすように立ったまま、じっと見つめているだけで、出ていこうとはしなかった。
「飲むものをくれ……ナスターシヤ」
彼女は下へおりていき、何分かすると、白い瀬戸の碗に水を入れてもどって来た。が、彼はもう、そのさきどうなったかは覚えがなかった。覚えていたのはただ、水をひと口すすって、碗から胸に水をこぼしたことだけだった。そしてそれから人事不省におちいったのである。
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それでも、彼は病気の間じゅうまるっきり人事不省におちいっていたわけではなかった。それは、夢にうなされたり、半ば意識があったりする熱病状態だったのである。彼はあとになってからいろんなことを思い出した。ときには、まわりに人が大勢集まって、自分をつかまえてどこかへつれていこうとして、自分のことで大いに議論を戦わしたり口げんかをしたりしているようでもあれば、ときには急に部屋のなかにひとりぼっちにされ、みんな彼を恐がって出ていってしまい、ただときたまほんのすこしドアをあけて彼の様子をうかがって、彼をおどかしたり、自分たちだけでなにやら相談をしたり、笑ったり、彼をからかったりすることもあった。ナスターシヤがしょっちゅう自分のそばにいたのも記憶にあった。もうひとり人がいることもわかったが、それが、非常によく知った相手でありながら、はたしてだれなのか――どうしても見当がつかず、そのじれったさに泣き出したくらいだった。ときには、もうひと月も寝ているような気がすることもあれば、ときにはなにもかも一日のことのように思われることもあった。が、しかし|あのこと《ヽヽヽヽ》は、――|あのこと《ヽヽヽヽ》だけはまるっきり忘れてしまっていた。そのかわり、なにか忘れてならないことを忘れてしまっているということは絶えず記憶にあって、――思い起こそうとしては悩みもだえたり、呻き声を発したり、狂乱状態や身の毛もよだつような耐えがたい恐怖におちいったりしていた。そんなときはその場から飛び出して、駆けだそうと思うのだが、いつもだれかに力ずくでおしとめられてしまい、そして虚脱状態と人事不省におちいってしまうのである。が、やがてついにその彼もすっかり自分をとりもどした。
それは朝の十時頃のことだった。朝のその刻限には、晴れた日であれば、いつも日光が長い縞をなして右手の壁をよぎって戸口の隅を照らすのだ。寝床のそばにはナスターシヤと、それにもうひとり、ひどく興味ありげに彼をじろじろ眺めている、彼の全然見知らぬ男が立っていた。それは、裾長の外套を着て小さなあごひげを生やした若者で、一見配達夫ふうの男だった。半びらきのドアのかげからはおかみがのぞきこんでいた。ラスコーリニコフは身を起こして、
「この人はだれかね、ナスターシヤ?」と、若者を指さしながら、聞いた。
「まあ、気がついたわ!」と彼女が言った。
「気がつきなすったね」と配達夫がそれに応じた。ドアのかげからのぞいていた下宿のおかみは、彼が意識をとりもどしたとわかると、すぐにドアをしめて、姿を消してしまった。彼女はふだんからはにかみ屋で、雑談やかけあいは虫酸《むしず》が走るほど嫌いな女だった。年は四十前後で、黒い眉に黒い目の、肥えてあぶらぎった女で、太っていて、ものぐさなために人がよく、器量もなかなかだった。ところが、はにかみ方が必要の度を越していたのである。
「あなたは……どなたです?」と彼は今度は当の配達夫にむかって、質問をつづけた。ところが、このときドアがぱっとあいて、ラズーミヒンが、長身なためいくぶん身をかがめてはいってきた。
「これじゃまるで船室だ」と彼は、はいりしなに叫んだ。
「いつもおでこをぶつけちまう。これでも貸間だっていうんだからな! おい、君、正気づいたんだってね? 今パーシェンカ(おかみの名プラスコーヴィヤの愛称)から聞いてきたんだ」
「たった今正気づいたのよ」とナスターシヤが言った。
「いま正気づかれたんです」と配達夫がまたにこにこしながら相づちをうった。
「ところで、そういうあなたはどなたなんです?」とラズーミヒンは急にその男のほうを向いて、たずねた。「僕はごらんのとおりの男で、ヴラズーミヒンと言って、人にはいつもラズーミヒン、ラズーミヒンって呼ばれていますが、そうじゃなくてヴラズーミヒンなんですが、学生で、士族のせがれで、この男の友だちです。ところで、あなたはどなたですか?」
「わっしはうちの営業所で配達夫をしている者ですが、商人のシェロパーエフの使いで、用事があってこちらへまいった者です」
「ま、その椅子におかけ下さい」と言ってラズーミヒン自身も小机のむこう側のもうひとつの椅子にかけると「君、よかったな、気がついて」とラスコーリニコフのほうを向いて、しゃべりつづけた。「君はもうこれで四日も飲まず食わずだったんだからな。それこそ、紅茶もスプーンで飲ましていたんだぜ。僕は君のところへゾシーモフを二度もつれてきたんだ。ゾシーモフを覚えているかい? 君を丹念に診察して、その場で、いや、大したことじゃないって言ったよ――なにか脳にさわったことがあったんだそうだ。ちょっとした、つまらない神経の故障なんだってさ、栄養が悪かったし、それにビールとわさびの取りかたが足りなかったんで発病したんだそうだ、大丈夫、じき自然になおるという話だったよ。ゾシーモフのやつ、なかなか大したものだぜ! 治療のしかたが堂に入ってきたよ。さて、こんなことをしてお仕事をてまどらせないようにしましょう」と彼はまた配達夫に話しかけた。「ご用向きの説明をなすったら? 注意しておくけどねロージャ、この人の営業所から使いの人が来たのはもうこれで二回めなんだよ。もっとも、この前来た人はこの人じゃなくて、別の人だったけどね。僕はその人といろいろ話し合ったよ。前にここへ来られた人は、あれはどなたです?」
「あれはおとついのことだと思いますが、確かにそうです。あれはアレクセイでした。やはりうちの営業所の者です」
「あの人はあなたより少々物わかりがいい人のようだったけど、そうじゃないですか?」
「はい、そうですね。あの人は確かにわっしよりしっかりしているようです」
「こいつは見あげたものだ。さあ、先をお話しなさい」
「実はワフルーシンさんから、この方については一度ならずお聞きおよびと思いますが、あなたさまのおかあさまからのご依頼で、うちの営業所を通じてお手もとへご送金がありましたので」と、配達夫は直接ラスコーリニコフにむかって切りだした。「あなたさまの意識がしっかりされてから――三十五ルーブリをあなたさまにお渡しすることになっていたのです。と申しますのは、手前どもではワフルーシンさまからあなたさまのおかあさまのご依頼で、従前どおりの方法で送金したという通知を受けとったからでございます。ご存じでいらっしゃいましょうね?」
「ええ……覚えています……ワフルーシンね……」とラスコーリニコフは考えこむようにして言った。
「どうです。商人のワフルーシンを知っているとさ!」とラズーミヒンが歓声をあげた。「これでどうして意識が確かでないって言うんだい? それにしても、僕は今にして気がついたんだが、あなたもやはり物わかりのいい人ですね。いやどうも! 頭のいい人の話ってものは、聞いていても気持ちがいいもんだ」
「ほかならぬその方でございます、そのワフルーシンさま、アファナーシイ・イワーノヴィチが、この方があなたさまのおかあさまのご依頼で前にもおなじような方法でご送金なすったそうですが、このたびもご承知下さって、二、三日前に手前どものところへあちらから、あなたさまに三十五ルーブリ渡してくれるように、『なにぶんよろしく願います』と申してまいりましたんです」
「『なにぶんよろしく願います』か、これはまた上出来だ。それに、『あなたさまのおかあさま』も悪くない。それはそうと、あなたの考えじゃどうです、この男の意識は完全ですかね、それとも不完全ですかね、え?」
「わっしにはそんなことはどうでもいいんでして。わっしは受領証さえちゃんといただければそれでけっこうなんですから」
「のたくり書きくらいできるだろうさ! あなたが持ってきているのはそれはなんです、受領簿ですかね?」
「へ、受領簿です、これでございます」
「こっちへ貸して下さい。さあ、ロジオン、起きたまえ。僕が支えてやるから。この人に、ラスコーリニコフと、なぐり書きでもいいから書いてやれよ、さあペンを取りな、なんと言ったって君、金は今のわれわれにとっちゃ蜜以上だものな」
「いらないよ」とラスコーリニコフは、ペンを払いのけながら言った。
「いらないとはどうしたことだ?」
「署名なんかするもんか」
「ちぇっ、畜生、受けとりを書かないで、いったいどうするんだ?」
「いらないんだよ……金なんか……」
「金なんか、いらないって! おい、君、でたらめをいうもんじゃないよ、僕が証人だ! ま、どうぞご心配なく、こいつはただちょっと……夢の国をさまよっているだけなんだから。もっとも、こいつは正気のときでもこういうことはよくあるんですがね……あなたは物わかりのいい人だから、ひとつ二人がかりでこの男を指導してやりましょうや、と言っても、なんのことはない、この男の手を持って動かしてやるだけのことだけどね、そうすりゃこの男はサインしちまうから。さあ、ひとつ手を貸して下さい……」
「ですけど、わっしはもう一度出なおしてまいりますよ」
「いけません、いけません。なにもそんなに心配することはありませんよ。あなたは物わかりのいい人でしょうが……さあ、ロージャ、そんなにお客さんをお引きとめしちゃいかんよ……ほら、こんなに待ってくれてるじゃないか」と言って彼は本気でラスコーリニコフの手を動かしてやるつもりになった。
「いいよ、自分でするから……」と当人は言うと、ペンをとって、受領簿に署名した。配達夫は金をおいて、立ち去った。
「ばんざい! さて今度は、君、なにか食べたくないかい?」
「食べたいよ」とラスコーリニコフは答えた。
「お宅にはスープはあるかい?」
「きのうのがあります」と、この間じゅうずうっとそこに立ちとおしていたナスターシヤがそう答えた。
「じゃがいもと米のひき割りのはいったのだろう?」
「ええ、じゃがいもとひき割りのはいったのよ」
「こっちはもうそんなことはお見通しなんだ。そのスープを持ってきてくれ、それに紅茶もな」
「持ってくるわ」
ラスコーリニコフはこの始終を深刻な驚きとつかみどころのない意味のない恐怖をいだきながら眺めていた。彼はこれからどうなるか黙って待つことにした。『どうもおれは熱に浮かされているんじゃないらしいな』などと彼は考えていた。『どうやらこれは現実のことらしいぞ……』
二、三分もした頃ナスターシヤはスープを持ってもどって来て、紅茶も今すぐ持って来るからと告げた。スープにはスプーンが二本と皿が二枚と、それに塩入れ、こしょう入れ、牛肉用からし入れ等、こんなにきちんとそろったことは絶えて久しくなかったような付属食器がひとそろいついていた。テーブルかけも洗いたてだった。
「ナスターシヤ、プラスコーヴィヤ(下宿のおかみ)がビールの小びんを二本ばかりよこしてくれても、悪くはないんだけどな。二人でいっぱいやろうってわけだ」
「まあ、この人ったら、すばしっこい人!」とナスターシヤは言って、言いつけをはたしに行った。
ラスコーリニコフは相変わらずびっくりしたような張りつめた目つきで凝視していた。その間にラズーミヒンは彼のソファのほうへ席を移して、熊みたいに無器用な恰好で、本人は自分で身を起こすこともできたのに、左手で頭をつかみ、右手で相手の口にスープのスプーンを持っていってやったが、その前に、やけどをさせないように、あらかじめ何度かふうふう吹いてやっていた。ところが、スープはやや温かいといった程度だったのである。ラスコーリニコフはひとさじめ、二さじめ、三さじめと、貪るように飲みこんだ。が、幾さじか口へ運んでやったあとで、ラズーミヒンは急にその手をやめて、これ以上はゾシーモフの意見をきかなければ、と言い出した。
ナスターシヤがビールを二びん持ってはいって来た。
「紅茶はほしいかい?」
「ほしいさ」
「ナスターシヤ、紅茶も早いとこ頼むぜ、紅茶なら、医学部の先生に相談しなくてもよかろうからな。ところで、ほら、ビールも来たぞ!」彼は自分の椅子に移り、スープと牛肉を引きよせて、三日も食べなかったような食欲を見せて食べはじめた。
「ロージャ、僕はこのところ毎日ここでこんなふうにして食事をとっているんだぜ」と、彼は牛肉を口いっぱいにほおばっているためやっとのことでこう言った。「これはみんな、君んとこのおかみのパーシェンカの宰領によるんだ、僕を心から歓待してくれているわけだよ。ほれ、ナスターシヤが紅茶を持ってきてくれたぞ。なんて機敏なんだろう! ナスターシヤ、ビールほしいかい?」
「いやな人、からかうもんじゃないよ!」
「じゃ、紅茶は?」
「紅茶ならもらってもいいわ」
「つぎな。待て、僕が手ずからついでやることにしよう。テーブルにつきたまえ」
彼はさっそく手順をととのえて、紅茶をついでやり、さらにもうひとつの茶碗にもつぐと、朝飯をほうり出して、またもやソファに席を移した。そして、さっき同様、左手で病人の頭をつかんで、病人を起こしてやって、茶さじで紅茶を飲ませはじめたが、またもやそのつど、特別懸命にスプーンのスープを吹きさますその恰好が、まるでその吹きさますという作業に病気回復のいちばん大事な救いのポイントがあるようなぐあいだった。ラスコーリニコフは黙って逆らわないようにしていた。その実自分には、他人の助けなど一切借りずとも、体を起こしてソファの上に坐っていたり、スプーンや茶碗を持っていたりするくらいの手足の自由もきくどころか、ひょっとすると歩けさえするくらいの力は十分にあると感じていたのだが、ある奇妙な、ほとんど獣じみたずるさから、時期がくるまで自分の力をおし隠して身をひそめ、必要とあればまだ十分には意識が回復していないふりさえよそおって、その間に、今どういう情勢か探りを入れてやろうという考えがふと頭に浮かんだのである。が、しかし、嫌悪感だけはどうすることもできなかった。紅茶を十さじほどすすると、急に自分の頭をふりほどき、わがままを言うようにスプーンをおしのけて、また枕に頭をおとしてしまった。頭の下には実際今では本ものの枕――きれいなカバーでつつんだ羽根枕――がおいてあった。彼はそれにも気づいて、頭のなかにいれておいた。
「パーシェンカにきょうはいちごジャムをとどけてもらおう。こいつに飲みものをこしらえてやらなきゃならないからな」と、ラズーミヒンは自分の席にもどって、またスープとビールにとりかかりながら、そう言った。「だけど、おかみさんはあんたなんかにいちごをどこから手に入れて来るのかね?」とナスターシヤは聞きながら、五本の指をひろげて受け皿を持ち、『砂糖を口にふくんで』紅茶をすすった。
「いちごは、君、店で買って来てくれるさ。実はね、ロージャ、君の知らない間にひと騒動あったんだよ。君がああやって詐欺師みたいなやり口で住まいも告げずに僕のところからずらかったんで、僕は猛烈にむかむかっときたものだから、君を探しだして、ひとつこらしめてやろうという気になったんだ。そしてその日のうちに行動を開始した。それこそあっちこっちさんざん歩いて、ほうぼう聞いてまわったよ! ここの、今の下宿を忘れちまったもんだから。もっとも、また覚えているはずもないわけさ、だって初めから知っちゃいなかったんだもの。が、一方、前の下宿が、ピャーチ=ウグロフのそばで、――ハルラーモフの持ち家だということだけは覚えていたんで僕はそのハルラーモフのアパートをずいぶん探しまわったよ、――で、結局あとでわかったんだが、それはまるっきりハルラーモフのアパートじゃなくて、ブーフのアパートさ、――音《おん》というやつはまったくまぎらわしいものだもんな! 僕はいよいよ腹を立てちゃってね。腹立ちまぎれに、一か八か当たってみろとばかり、あくる日警察の住所係りのところへ出かけていったね。ところが、どうだ、ものの二、三分のうちに君の住所を探し出してくれたじゃないか。君はあそこに記録されていたぜ」
「記録されていた!」
「もちろんさ。ところが、コベリョーフとかいう将軍の住所は僕のいる間に探しだせなかったんだからなあ。まあ、話したら、きりがないがね。僕はひょっこりここへ現われるが早いか、たちまち君の身辺の事情にすっかり通じてしまったよ隅の隅までね、君、だからもうなにもかも知っているんだ。彼女がその証人さ。署長とも知りあいになったし、副署長にも紹介してもらったし、庭番とも、ザミョートフ氏なるここの警察の事務官とも、そして最後にパーシェンカとも顔見知りになったわけだ、――こいつはまったく大手柄だったな。この女がその証人だ……」
「おかみさんには砂糖をたっぷりきかしたものね」とナスターシヤはずるそうににやにやしながらそうつぶやいた。
「お前さんも紅茶にその砂糖を入れて飲んだら、ナスターシヤ・ニキーフォロヴナ」
「まあ、この人ったら、牡犬め!」とナスターシヤはだしぬけに叫んで、ぷうっとふきだした。
「それに、わたしはペトローヴナで、ニキーフォロヴナじゃないわよ」と、彼女は笑いやめて、急にそう言いそえた。
「今後はもっと気をつけましょう。さてそこで、君、余計な口をきくのはよすがね、僕は、この近辺の連中のまちがった考えをいっぺんに根絶やしにするために、初めのうちこの辺一帯に電流を流してショックを与えてやろうかと思っていたんだ。だけど、パーシェンカの言うことを聞いちゃったよ。僕は、君、彼女があんな……魅力的な女だとは……夢にも思わなかったね……え? 君はどう思う?」
ラスコーリニコフは、ちょっとの間も相手から不安そうな視線を離さずにいたが、口はつぐんだままだった。で、今もひきつづき執拗《しつよう》に彼をじっと見つめていた。
「実に、と言ってもいいくらいだ」と、ラズーミヒンは、相手が黙りこくっていようといっこう困ったふうもなく、まるで相手の返事に相づちをうつような調子で、しゃべりつづけた。「むしろ実にぐあいがいいくらいだ、あらゆる点で」
「まあ、なんて人だろ!」とまたナスターシヤは大声をたてたが、どうやら彼女にはこのむだ話に言い知れぬ楽しみを覚えているらしかった。
「まずいことには、君、君はそもそもの初めから事をとりしきる能力を欠いていたね。あの女にはあんなふうにやっちゃいけなかったんだよ。あれは、ま、いわば、まったく予想を絶する性格の女なんだからね! まあ、性格論はあとまわしにして……ただ、たとえば、どうして君は彼女が食事もよこさなくなるところまで持っていっちまったのかね? それからまた、例えば、あの手形はどうなんだ? いったい君は気でもちがったのかね、手形にサインをしてしまうなんて! それに、例えば、まだ娘さんのナターリヤが生きていた時分に結んだ例の婚約だってそうさ……僕はなにもかも知っているんだぜ!もっとも、あれはデリケートな心の琴線の問題で、ああいうことにかけちゃ僕は|ぼくねんじん《ヽヽヽヽヽヽ》だということは自分でも承知してるよ。だからその点は大目に見てくれ。馬鹿の話が出たついでに聞くんだけど、君はどう思うね、プラスコーヴィヤは、君、まるっきり、ひと目見て馬鹿と思うほどの馬鹿じゃないだろう、え?」
「うん……」ラスコーリニコフはそっぽを向いて、しかし話をつづけさせておいたほうが得だと思って、なま返事をした。
「そうだろう?」とラズーミヒンは返事をしてもらえたのがいかにも嬉しいらしく、声を張りあげて言った。「が、かといって利口というほどでもないよ、な? まったくもって予想を絶する性格だ! はっきり言うけどね、君、僕は少々面くらっているんだよ……あの女は確実なところ四十にはなっているだろう。彼女にいわせれば三十六だそうだが、またそういえるだけの資格はあるけどね。が、しかし僕は君に誓って言うけど、僕は彼女をむしろ知的に、もっぱら形而上学的に批評しているんだぜ。この場合、君、僕と彼女との間には、君の代数学にも匹敵するような表象《エンブレム》が生じてるわけなんだ! だから、なにがなんだかさっぱりわからないのさ!ま、いいさ、そんなことはみんな下らないことだから、が、ただあの女は、君がもう大学生じゃなくなって、家庭教師の口や着るものまでなくしてしまい、娘が死んでしまった以上はもはや君を親類あつかいすることもないとわかると、急にはっと驚いちまったわけだ。しかも、君のほうでも部屋にひっこんだきり、なにひとつこれまでやっていたことを履行しないものだから、彼女は君をこの部屋から追い出そうという気になったわけさ。だいぶ前からそういう腹があったところへ、急に手形が惜しくなった。おまけに、君自身も、おかあさんが払ってくれるなんて請けあったんだもの……」
「それは僕が卑劣な気持ちからいったことなんだ……おふくろからして袖乞いもしかねないありさまなのに……下宿においてもらいたいばっかりに……食わしてもらいたいばっかりに、僕は嘘をついていたわけなんだよ」とラスコーリニコフは大声で、はっきりと言いきった。
「なるほど、それは賢明だった。ただ、そこへひょっこり実務に通じた七等官のチェバーロフ氏が立ち現われたことに問題があるんだ。パーシェンカはその男が現われなければ、なにひとつ思いつかなかったにちがいない、それこそ大変な内気な女なんだから。ところが、実務家は内気じゃないから、まず手はじめに、その手形は落とせる見こみがあるだろうかという問いを発したことは言うまでもない。すると、あるという返事、でその理由は、こうこういうおふくろがいて、自分の年金百二十五ルーブリから、たとえ自分が食べなくとも、ロージャに金をさいて渡すし、それにこうこういう妹がいて、兄さんのためとあれば身を売ることも辞さないくらいだと言う。そこで実務家先生、これを足がかりにした……なにをもぞもぞしているんだい? 僕は、君、君の秘中の秘までぜんぶ嗅ぎ出してしまってるんだぜ、君がおかみとまだ親類づきあいをしていた頃にパーシェンカと腹蔵なく語りあっていたことはむだじゃなかったわけだ、だが、僕は今君が好きだからこそこんなことをいうんだよ……そこなんだよ、君。正直で感傷的な人間は腹のうちを見せてしまうが、実務的な人間てやつはそれを聞いていて食いものにする、そしてついには骨までしゃぶってしまうものなんだ。こうして彼女はその手形を、支払いに当てたような形にして、このチェバーロフに譲渡し、この男が、ためらいもせずに、形式どおり請求したってわけさ。僕は、このいきさつを聞き知ったとき、ただやつの良心を洗い清めてやるためにもと思って、やはり電流でショックを与えてやろうかと思ったんだが、ちょうどその頃僕とパーシェンカとの間にハーモニーが生じたものだから、僕は、君が支払うからと保証して、事件ぜんたいの進行を、まだほんの発生したばかりのところで、とめさせてしまったわけだ。僕が、君のために保証してやったんだぜ、わかったかい? そしてチェバーロフを呼んで、やつのほっぺたに十ルーブリたたきつけて、手形を取りもどしたわけさ、さあ、これをお前さんに進呈するよ、――もう今じゃお前さんは口約束だけの信用貸しということになっているんだ、――さあ、受けとりたまえ、僕はしかるべく端を切っておいたからね」
ラズーミヒンは机の上に借用証書をおいた。ラスコーリニコフはそれにちらりと目をやっただけで、ひと言もものを言わずに、壁のほうへくるりと向きを変えてしまった。これにはさすがのラズーミヒンもむっとした。
「わかったよ、君」と彼は一分もしてから言った。「どうやら僕はまたばかなまねをやらかしたようだ。おしゃべりをして君の憂さを晴らして慰めてやろうと思ったのに、ただかんしゃくを起こさせただけらしい」
「僕は熱に浮かされてだれだかわからなかったけど、あれは君だったのか?」とラスコーリニコフが、やはり一分ほど黙ってから、首をめぐらさないで、そう聞いた。
「僕だよ、君は狂乱状態になったくらいだったぜ、とくに僕が一度ザミョートフをつれてきたときなど」
「ザミョートフを? ……事務官をかい? どうして連れてきたんだ?」とラスコーリニコフはくるりと振り向いて、ラズーミヒンをにらみつけた。
「いったいなんだって君はそんなに……なんだってそんなにあわててるんだ? 君と近づきになりたいって言いだしたんだよ。むこうからそういいだしたんだ、僕と二人でいろいろ君のことを話しあったものだから……でなかったら、いったいだれから僕が君のことをこんなにいろいろ聞き出せるかね? すばらしい男だよ、君、あれはいい男だよ、実にすてきな男だ……もっとも彼なりにだけどね、むろん。今じゃ親友の間柄で、ほとんど毎日くらい会ってるよ。僕はここの地区へ移って来たんでね。君はまだ知らなかったかな? 引っ越してきたばかりなんだよ。ラヴィーザの家へもあの男と二度ほど行ってきたよ。ラヴィーザのことを覚えているだろう、ラヴィーザ・イワーノヴナのことを?」
「僕、なにかうわ言を言った?」
「もちろん、言ったさ。自分であって自分でないような状態だったんだもの」
「どんなうわ言を言っていた?」
「いやいや! どんなうわ言を言ったかだって? 人のうわ言なんて、わかりきってるじゃないか……さあ、君、時間をむだにしないために、さっそくこれから仕事にかかろう」
彼は椅子から立ちあがって、帽子をつかんだ。
「どんなうわ言を言ったのかね?」
「まったくのひとつ覚えってやつだ! なにか秘密でもあって、それが心配なんじゃないのか? ま、心配するなよ。伯爵令嬢のことなんか、なんにも口にのぼさなかったから。だけど、どこかのブルドッグがどうのとか、耳輪がどうの、なにかの鎖がどうの、それからクレストーフスキイ島だの、どこかの庭番など、署長だの、副署長のイリヤーだの、いろんなことをしゃべっていたぜ。そのほか、ご自分の靴下にもばかにご執心のようだったな、ばかにね! 泣かんばかりに頼んで、靴下をよこせの一点張りなんだ。そこでザミョートフが自分で部屋の隅々をくまなく探して、香水で洗いきよめて指輪を幾つもはめたその手でお前さんにそのぼろきれを出してやったよ。そうしたらやっと安心して、まる一昼夜もそのぼろを手に握りとおして、もぎ取ることもできなかったよ。きっと、今でも君の掛け布団の下かどこかに転がっているぜ。それからまた、ズボンのふさかなんかもくれって頼んでいたな、それも涙を流さんばかりにして!僕らは、どんなふさなのか、それこそ根掘り葉掘り聞いてみたんだが、さっぱり見当がつかなかったね……さあ、それじゃ仕事にかかろう!ここに三十五ルーブリあるが、このなかから十ルーブリ持っていくぜ、そして二時間もしたら勘定書を提出するからな。その間にゾシーモフにも知らせよう、そんなことをしなくとももうとっくにここへ来ていなきゃならんはずなんだがなあ、だってもう十一時すぎだもの。それに、お前さんは、ナスターシヤ、僕のいない間、できるだけしょっちゅうのぞいてみてくれよ、飲みものとか、そのほか欲しいものがあるかもしれないからな……パーシェンカには僕が自分で、必要なものをいっておくから。じゃ、失敬!」
「おかみさんのことをパーシェンカなんて呼んで! まあ、いけずうずうしい人!」とナスターシヤが彼のうしろからそういう言葉を浴びせ、それからドアをあけて、耳をすましはじめたが、やがてこらえきれなくなって、自分も下へ駆けおりていった。彼が下でおかみとどんな話をしているのか、知りたくてたまらなくなったのだ。それに、だいたいどうやら、彼女はラズーミヒンにのぼせあがっているらしかった。
彼女がドアをしめていくとすぐに、病人は毛布をはねのけて、気ちがいのように、寝床から飛び起きた。彼は焼けつくような、けいれんにも似たいらだちを覚えながら、彼らが早く出ていけばいい、出ていったらすぐに仕事に取りかかろうと、そればかり待っていたのである。しかし、なにに取りかかろうというのか、どんな仕事に?――彼はまるでわざとのようにそれをど忘れてしまっていた。『神さま! ひとつだけ教えて下さい、やつらはなにもかも知っているのか、それともまだ知っていないのかを? もしひょっとして知っているのに、おれの寝ている間じゅう空っとぼけていらだたせておいて、そこへいきなり踏んごんで来て、もうとっくになにもかもばれてしまっていたんだ、おれたちはただ……なんて言いだしたらどうしよう……さて、これからどうしたらいいか? このとおり、まるでわざとみたいに、ど忘れしちまっているじゃないか。はたと忘れてしまったじゃないか、今の今まで覚えていたのに!……』
彼は部屋のまんなかに突立って、悩ましい疑惑を覚えながらあたりを見まわしていた。戸口に歩みよって、ドアをあけ、聞き耳もたててみた。しかし、やるべきことはこんなことではない。突然、思い出しでもしたように、壁紙に穴のあいている部屋の隅に飛んでいって、くまなく調べてみたり、穴に手をつっこんで、かきまわしたりもした。が、これでもない。さらに彼はペチカのそばへ行って、その戸をあけ、灰のなかをかきまわしはじめた。ズボンの裾の切れはしと引きちぎったポケットのぼろが、あのときほうりこんだままの形で転がっていた、ということはつまり、だれも見た者はいないということだ! と、そのとき彼はふと、たった今ラズーミヒンが話していた靴下のことを思いだした。確かに、それはソファの掛け布団の下にあったが、すでにあのとき以来あまりにももみくしゃになり、よごれきっていたから、もちろん、ザミョートフにも見わけがつくはずはなかった。
『あっ、そうだ、ザミョートフ!……警察!……なんの用でおれは警察へ呼ばれているんだろう? 呼び出し状はどこにある? いやはや!……おれはごっちゃにしてるじゃないか。出頭しろっていってきたのはあのときだったんだ!あのときもやっぱり靴下を点検していたんだったな、ところが今は……ここずうっと病気だったんだ。それにしても、なんだってザミョートフなんかやって来やがったんだろう? なんだってラズーミヒンのやつ、あんな男を引っぱってきたんだろう?……』と、彼はまたソファに腰をおろしながら、力尽きたようなかっこうでつぶやいた。『これはいったいどうしたことだ? 夢うつつの状態がまだつづいているんだろうか、それとも現実なんだろうか? どうも、現実らしいな……ああ、思い出したぞ。逃げなければならないんだ! 早く逃げなければ、どうしても、どうしても逃げなければ! そうなんだ……が、どこへ? おれの服はどこにあるんだ? 長靴がないぞ! 片づけちまったんだな! 隠しちまったんだ! わかった! あっ、外套がある、あいつめ、見落としやがったんだな! ほれ、机の上に金もあるぞ、ありがたいことに! 手形もある……金を持って出て、別の下宿を見つけよう、そうすればやつらなんかにさがし出せるもんか! そうだ、だが、住所係りがいるじゃないか? 見つかっちまうな!ラズーミヒンに見つかっちまう。いっそのこと、やつらを尻目に……遠く……アメリカへでも完全に亡命しちまうか! 手形も持っていったほうがいいな……むこうへ行ってから役に立つだろう、それからほかになにを持っていったらいいだろう? やつらは、おれを病気だと思ってやがる! やつらは、おれが歩けることを知らないんだ、へ、へ、へ! ……しかし、やつらの目色から察するに、やつらはなにもかも知っているぞ! 階段さえおりてしまえればいいんだが! だけど、階段に見張りが立っていたら、お巡りが! いったいこれはなんだい、紅茶かな? ああ、ビールも残っている、びんに半分も、冷たいのが!』
彼は、まだたっぷりコップ一杯ぶんも残っていたビールびんをつかむなり、胸の火を消そうとでもするように、さもうまそうに一気に呑みほしてしまった。しかし、一分もたたないうちに、ビールが頭へ来て、背すじを軽い、むしろ気持ちのいい寒けが走った。彼は横になって、掛け布団をひっかぶった。それでなくとも病的でまとまりのない考えがますます入り乱れはじめたと思うと、間もなく軽い快い眠りにとらえられていった。彼は楽しい気持ちで枕の落ちつきのいい箇所を頭で探ると、今では前の破れ外套のかわりに体の上にのっているやわらかい綿入れの掛け布団にぴったりくるまり、静かにほっと吐息をついて、ふかい、健康的な熟睡にはいった。
だれかが部屋へはいってきた物音を耳にしたとたんに、彼は目をさました。目をあけてみると、ラズーミヒンがドアをあけ放って、はいったものかどうか思いまどうようにして、敷居の上に突立っていた。ラスコーリニコフはソファの上にぱっと起きあがって、彼を見つめていたが、その様子はまるでなにか一所懸命思いおこそうとしているみたいだった。
「なんだ、眠っていないのか? 僕だよ! ナスターシヤ、ここへ包みを持ってきてくれ!」とラズーミヒンが下にむかって叫んだ。「今すぐ勘定書を渡すから……」
「いま何時かね?」とラスコーリニコフは不安げにあたりを見まわしながら聞いた。
「えらく寝たもんだね、君。外はもう夕暮れだぜ。もうかれこれ六時になるだろう。六時間の余も寝たわけだ……」
「そりゃ大変だ! 僕はいったいどうしたんだ!……」
「それがどうした? 存分に寝るがいい! どこへ急ぐことがある? デートにでも行こうってのかい? これで時間はぜんぶ僕たちのものになったわけだ。僕はこれでもう三時間も君を待っていたんだぜ。二度ほど来てみたが、君は眠っていたんだ。ゾシーモフのところへも二度ほど訪ねてみたんだが、二度とも留守さ! いや大丈夫、そのうち来るよ。やはり自分の用事で家をあけたんだから。僕、実はきょう引っ越して来たんだ、すっかり引っ越しちまったんだよ、叔父といっしょに。今、僕のとこには叔父がいるわけなんだよ……そんなことはどうでもいい、用件にかかろう!……ここへ包みをよこしたまえ、ナスターシヤ。さあ、これから二人で……ところで、君、ぐあいはどうだい?」
「元気だよ。病気じゃないよ……ラズーミヒン、君はここへだいぶ前から来ていたのかい?」
「三時間も待ちとおしたって言ったじゃないか」
「そうじゃない、その前のことだよ」
「前って、なんだい?」
「いつ頃からここへかよっているかってのさ」
「僕はさっきもう君にすっかり話したじゃないか。それとも、覚えてないのかい?」
ラスコーリニコフは考えこんでしまった。さっきのことが夢でも見ているように目に浮かんできた。自分だけでは思い出せないらしく、尋ねるようにラズーミヒンの顔を見た。
「ふむ!」と相手は言った。「忘れちまったんだな! 僕にはどうもさっきはまだ、君がまだ正気でないような気がしていたよ……が、今は睡眠で持ちなおしたらしいね。もうすっかりよくなったように見えるぜ。でかした、でかした! さあ、それじゃ用件にかかろう! じきに思い出すよ。こっちを見てくれないか、君」
彼は、どうやらひどく気になっていたらしい包みをほどきにかかった。
「こいつがね、君、実は、特に僕の気にかかっていたことなんだよ。だって、君を人間に仕立てなきゃならんからね。さあ、着手しよう。上から始めるぜ。この帽子はどうだ?」彼は、包みのなかからかなり小ぎれいな、が同時にごくありふれた安物の学帽を取り出しながら、しゃべりだした。
「寸法を見てくれないか?」
「あとでやるよ、このつぎ」とラスコーリニコフは言って、不機嫌そうに払いのけた。
「そりゃいけないよ、君、ロージャ、逆らわないでくれよ、あとじゃおそいんだ。それに、今晩ひと晩じゅう眠れやしないじゃないか、寸法もとらずに、当てずっぽうで買ってきたんだから。ぴったりだ!」と、彼は、あわせてみて、勝ちほこったように叫んだ。「寸法がぴったりじゃないか! 頭の飾りというものはね、君、服装のなかでいちばん大事なものなんだぜ、一種の紹介状みたいなものだからな。僕の友だちのトルスチャコーフなんか、どこか公共の場所へ出るときは、ほかの者はみんな帽子をかぶっているのに、そのつど、しかたなく自分のかぶりものをぬぐんだ。みんなは、奴隷根性からそんなことをするのだと思っているけど、実際はただ、小鳥の巣みたいな帽子が恥ずかしいからそうしているにすぎないんだ。いやもう大変な恥ずかしがり屋なんだ! さて、ナスターシヤ、お前さんに頭の飾りものを二つ見せるが、どっちがいい、こっちのパーマストン(彼は部屋の隅からラスコーリニコフのゆがんだ丸帽を取り出してきた。それを彼はなぜかパーマストン(イギリスの政治家)と称していた)か、それともこっちの珠玉のような逸品か? 値ぶみをしてごらん、ロージャ、いくらしたと思う? じゃ、ナスターシヤは?」彼は相手が黙っているのを見て、彼女のほうをふり向いたのである。
「二十コペイカってとこかしら」とナスターシヤが答えると、
「二十コペイカだって、ばか!」と彼は怒声を放った。「今どき二十コペイカじゃお前の体だって買えるもんか、――八十コペイカだぞ! それもちょっと使った代物だからなんだ。しかも、ほんとうの話、こいつがいたんでだめになったら、来年もうひとつ必ずただでよこすという条件つきなんだ! さあ、今度はアメリカ合衆国、われわれの中学じゃそう呼んでいたんだが、そのアメリカ合衆国にかかるとしよう。前もって断わっておくが、このズボンは僕の自慢の品なんだ!」と彼は言って、ラスコーリニコフの前へ、夏物の軽いウール地の、グレイのズボンをひろげてみせた。「穴もなけりゃ、しみもない、それに古物ではあるが、けっこうはける。チョッキもおなじ出来で、流行の要求どおり共色と来ている。手を通した品物だということが、実をいうと、かえっていいんだ。しなしなして、やわらかいからな……いいかね、ロージャ、世間的に出世するには、僕にいわせりゃ、つねにシーズンさえ守っていれば、それでいいんだぜ。正月にアスパラガスをほしがるようなことさえしなけりゃ、財布に何ルーブリかは残る勘定だ。それはこの買いものにもあてはまることさ。今は夏のシーズンだから僕は夏ものの買いものをしたんだ、というのはだね、秋に向かえば、それでなくとももっと温かい生地が必要になるから、こんなものは捨てちまわなけりゃならないことになる……ましてやこんなものはみんなその頃には自然にだめになってしまう、ぜいたくが昂じてくるか、品物自体参ってきてね。さあ、値段をつけてみろ! 君のふんだところ、幾らだね? ――二ルーブリと二十五コペイカだ! それに覚えておけよ、これまたさっきのとおなじ条件がついているんだぜ、はきつぶしたり着つぶしたりしたら、来年は別のをただでくれると言う! フェジャーエフの店じゃそういう売り方しかしないんだ。一度金を払ったら、一生それですんじまうんだ、というのはもう二度とこっちも買いに行くことはないからね。さて、今度は長靴にかかろう――これはどうだね? 古物だってことは一見してわかるが、大丈夫二ヵ月くらいのご用は勤めてくれるさ、なにしろ仕立ても外国なら材料も外国ものときているんだから。先週イギリス大使館の秘書官が古物市場で手ばなしたものなんだ。はいたのはたった六日だけなのに、ひどく金のいることがあったんでね。値段は一ルーブリと五十コペイカだ。掘り出しものだろう?」
「でも、ひょっとしたら、足にあわないかもしれないわね!」とナスターシヤがけちをつけた。
「足にあわない! じゃ、これはどうなんだ?」と言って、彼はポケットからラスコーリニコフの古い、粗末な、乾いた泥がびっしりこびりついている、穴だらけの長靴を片方だけ引っぱり出した。「僕は用意したものを持っていったんだぞ。この化けものにあわせてほんとうの寸法をとってもらったんだ。なにごとも終始真心こめてやったつもりだよ。下着類についてはおかみと相談したんだ。まず、この三枚のルバーシカだが、生地は荒い麻織りだけど、流行の胸あてがついているんだ……まあ、こんなわけで、帽子が八十コペイカに、ほかの衣類が二ルーブリ二十五コペイカだから合わせて三ルーブリ五コペイカ。長靴が一ルーブリ五十――極上だからな、――しめて四ルーブリ五十五コペイカだ。下着類はぜんぶで五ルーブリ、かけあって卸し値に値切ったんだ、――で、合計は九ルーブリ五十五コペイカとなる。おつりは四十五コペイカで、五コペイカ銅貨ばかり、さあ、お納め願おう。と、まあこういったわけで、ロージャ、君は今や服装ぜんたいにわたって面目一新したわけだ。だって、君の外套のほうは、僕の考えじゃ、まだけっこうご用が勤まるばかりじゃない、見かけが一種特別な気品さえ備えているからな。シャルメルの店に注文でもしたら大変なことになるぜ! 靴下その他は、本人の君に一任するよ。金はまだ二十五ルーブリ残っているからな。それに、パーシェンカだの部屋代の支払いのことなら心配することはない。さっきもいったとおり、信用絶大なんだから。それじゃ、君、君の下着を代えさせてくれ、でないと、病気がいまだにルバーシカのなかに巣くっているかもしれないからな……」
「ほうっといてくれ! いやだよ!」ラズーミヒンの衣類購入にかんするむりに茶化したような戦況報告をむかむかしながら聞いていたラスコーリニコフはそう言って断わった。
「そいつは、君、いかんよ。それじゃなんのために僕は靴をすり減らしたことになるんだ!」とラズーミヒンは言い張った。「ナスターシヤ、きまり悪がることはない、手を貸してくれたまえ、そうそう!」そして、彼はラスコーリニコフが抵抗するのもかまわず、ともかく相手の下着をかえてしまった。相手はごろりと倒れて頭を枕につけて、何分かの間ひと言も口をきかなかった。
『まだなかなか離れてくれそうもないぞ!』などと彼は考えていたが、「どういう金でこういういろんなものを買って来たんだ?」と、あげくのはてに、壁に目をやりながら聞いた。
「どういう金? いやこれは驚いた! 君自身の金で買ったんじゃないか。さっき、ワフルーシンの使いで、配達夫が来たろう、おかあさんが送金してよこしたんだよ。あのことまで忘れてしまったのかい?」
「今やっと思い出したよ……」と、ラスコーリニコフは長いこと暗い顔をして考えこんだ末に、そう言った。ラズーミヒンは、眉をしかめて、不安げにちょいちょい彼のほうに目をやっていた。
ドアがあいて、背の高い、がっしりした男がはいって来た。これもやはり見たところすでにラスコーリニコフに多少面識がありそうな様子をしていた。
「ゾシーモフだ! やっと来たぞ!」とラズーミヒンは歓声をあげた。
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ゾシーモフは背の高い脂肪ぶとりの男で、ややむくんだ色のわるい顔はきれいに剃りあげ、髪は亜麻色で癖がなく、眼鏡をかけている上に、脂肪でむっちりした指には大きな金の指輪などをはめていた。年の頃は二十七、八。身なりは、ゆったりした粋な夏外套に、明るい色の夏ズボンといったかっこうで、だいたい身につけているものはなんでもゆったりして、粋で、仕立ておろしのものばかりだった。それに、下着も一点の非のうちどころもないくらいだし、時計のくさりも大きくてどっしりしていた。身のこなしは緩慢で、まるで物憂そうに見えながら、同時にわざと無遠慮にしているようにも見えた。しかし、うぬぼれをつとめて隠すようにはしているが、それがのべつちらちらしているのである。彼を知る者はだれでも彼をつきあいにくい感じの男と見ていたが、仕事には明るいという評判だった。
「僕は、君、二度も君の家へ寄ったんだぜ……ほら、わかるだろう、こいつ、意識が回復したぜ!」とラズーミヒンが叫んだ。
「ああ、わかる、わかる。今のご気分はいかがです、え?」とゾシーモフは相手の顔をじっと見ながらそう問いかけ、ソファの上、ラスコーリニコフの足のあたりに腰をおろして、すぐさまできるだけ楽な姿勢をとった。
「相変わらずふさぎこんでいるよ」とラズーミヒンはしゃべりつづけた。「今も二人がかりで下着を取りかえてやったんだが、今にも泣き出さんばかりなのさ」
「それはそうだろう。本人がいやだと言うんなら、下着なんかあとでもよかったんだ……脈は上々だ。頭はやっぱりまだいくらか痛みますかね、え?」
「僕は健康ですよ、健康そのものですよ!」ラスコーリニコフは急にソファの上に身をおこすと、目をきらりと光らせて、強情そうに、いらだちながらそういったかと思うと、すぐさままたごろりと横になって枕に頭をつけて壁のほうを向いてしまった。ゾシーモフは相手の様子をじっと観察していた。
「大変けっこうだ……なにもかもぐあいよくいっているよ」と彼は大儀そうに言った。「なにかあがったかね?」
そのことについてラズーミヒンの話があり、なにを食べさせたらいいかという質問が出た。
「なにを食べさせてもいいよ……スープや紅茶ならね……きのこやきゅうりなんかは、もちろん、やっちゃいけないがね、牛肉もやはり食べさせちゃいかんね、それに……いや、なにもくどくど言うことはない!……」彼はラズーミヒンに目まぜをして、「水薬もなにもいりゃしないよ。あしたまた見に来るからね……ま、きょうでもいいんだが……しかし……」
「あした夕方、こいつを散歩につれだすからね!」と、こうラズーミヒンはきめてしまった。
「ユスーポフ公園へ、それからパレー・ドゥ・クリスタル(水晶宮)へも行ってみるつもりだ」
「あしたはまだこの人を動かしたくはないが、少しならね……まあ、とにかく様子を見ようじゃないか」
「ちぇっ、残念だなあ、きょうはちょうど引っ越し祝いなんだけどなあ。ほんの目と鼻の間だから、この男にも来てもらいたいとこなんだが。せめて僕たちにまじってソファにでもしばらく寝ていてくれるとなあ! 君のほうは来てくれるんだろうね?」とラズーミヒンは不意にゾシーモフのほうをふり向いて言った。「忘れないようにしてくれよ、約束したんだから」
「よかろう、ちょっとおそくなるけどね。どんな用意をしたんだね?」
「なんにもしてやしないよ、紅茶にウォトカに、ニシンくらいのもんだ。それにピロシキも出るけどね。集まるのは内輪の者だけだから」
「いったいだれが来るんだね?」
「みんなこの辺の連中ばかりで、ほとんどぜんぶ新顔だよ、――年とった叔父は別としてね、もっともその叔父だって新顔だけどね。きのう上京したばかりだからな、なにかちょっとした用事でさ。五年に一ぺんくらいしか顔をあわせてないんだ」
「なにをしている人なんだね?」
「一生地方の郵便局長なんかして平々凡々と暮らしてきた男なんだ……年金を少しもらっていて、年は六十五、取りたてて言うほどのこともない男だよ……もっとも、僕はあの叔父が好きだけどね。ポルフィーリイも来るぜ。ここの予審判事で……法律家の。そうそう、君も知っているはずじゃないか……」
「あの男も君の親類かなんかだったね?」
「遠い遠い親類筋さ。君はなんだって渋い顔をしてるんだい? 君たちは一度かみあったことがあったな、そうすると君は来ないかもしれないな?」
「あんなやつ、歯牙にもかけちゃいないよ……」
「そいつはなによりいい。それはそうと、来るのは――学生たちに先生がひとり、それに役人と、音楽家と、事務官のザミョートフと……」
「ちょっと聞くがね、君にしろこの人にしろ」とゾシーモフはラスコーリニコフをあごでしゃくってみせた。「そのザミョートフとかいう男とどういう相通ずるところがあるのかね?」
「いやあ、まったくこむずかしいことをいう連中だなあ! 主義主張の一点ばりだ!……君はぜんまい仕掛けみたいに主義で動いていて、自分の意志で向きひとつ変えられない男だものな。僕にいわせりゃ、人物がいいとあれば――それが主義ということになるわけだよ、それ以上はなんにも知っちゃいないさ。ザミョートフはまったくすばらしい男だぜ」
「私腹など肥やしやがってな」
「なんだい、私腹を肥やしたって、かまいやしないじゃないか! 私腹を肥やしているからどうだっていうんだ!」と、ラズーミヒンがなぜか不自然にいらだって、声を張りあげた。「あの男は私腹を肥やしているから偉いなんて、僕が君に褒《ほ》めてみせたことがあるかい? あの男はあれはあれでただいい男だといったまでじゃないか! 率直に言って、あらゆる点から見て立派な人間なんてそうざらにいるものじゃないよ。僕は信じているんだが、だったら、僕なんざ人から臓物ぐるみ、せいぜい焼きたまねぎ一個くらいにしか踏んじゃもらえまいよ、君のおまけをつけたとしても!……」
「そいつはちと少なすぎるよ。僕なら君を二個で買うぜ……」
「僕なら君なんか一個ぐらいでしか買わないね! もっとしゃれを飛ばしたらどうだい! ザミョートフはまだ子供だから、僕はもっとやつの髪の毛を引きむしってやるつもりだよ、ああいう男は、突っ放さないで、引きつけておかんとね、人間てやつは突っ放すようなことをしたら、――矯正できないものなんだ、まして子供ならなおさらのことさ。子供は二倍も慎重にあつかわなきゃならないんだ。いやまったく君たち、進歩的鈍物にはなにひとつわかりゃしないさ! 君たちは人をも敬わず、自分もくさすっていう手合いだもんな……聞きたかったら話すけど、僕たち二人の間に、どうやら、ある話の相通ずる問題が起こりかけているんだ」
「聞かしてもらいたいね」
「というのはやはり、例の塗り屋、つまりペンキ屋に関する一件なんだけどね……僕らはあの男を救い出そうってわけなんだ! もっとも、今じゃもうなんにもやっかいなことなんかないんだけどね。事件は今やまったく明々白々なんだから! 僕らがちょっとひと押しするだけでいいんだから」
「なんだい、そのペンキ屋っていうのは?」
「へえ、僕話さなかったかな? 話さなかったかね? そうだ、君には初めのところしか話してなかったっけ……官吏の後家で質商いの婆さんの殺人事件さ……それが、今度はその事件にペンキ屋が巻きこまれちまったんだよ……」
「あの人殺しのことなら君より前に聞いているよ。あの事件には、あるひょっとしたことから……僕は多少興味さえ持っているんだ……それに新聞でも読んでいるしね! で、その……」
「リザヴェータまで殺されたのよ!」と、ナスターシヤがラスコーリニコフのほうを向いて、だしぬけに口を出した。彼女はずうっとそこに居残って、ドアのそばに身を寄せたまま、話を聞いていたのである。
「リザヴェータ?」と、ラスコーリニコフがやっと聞こえるくらいの声で言った。
「古着屋のあのリザヴェータよ、あんた知らないの? 下へよく来ていたじゃないの。それにあんたのルバーシカもつくろってくれたじゃないか」
ラスコーリニコフは壁のほうへ向きを変えてしまい、よごれた黄色い壁紙に描かれた白い花のなかから、なにやら茶色の線で縁どった不恰好な白い花をひとつ選り出して、その花に葉が何枚ついているか、葉にぎざぎざがいくつあるか、線が何本あるか調べはじめた。彼は自分の手足が、まるでもぎ取られでもしたように、麻痺したような感じだったが、体を動かしてみようともせずに、ただしつこく花を見つめていた。
「それでそのペンキ屋がどうだって言うんだい?」と、ゾシーモフがなんだかことさら不機嫌そうにナスターシヤのおしゃべりの腰をおると、彼女はため息をひとつして、黙ってしまった。
「その男もやっぱり下手人にされちまってるのさ!」とラズーミヒンは熱をおびた口調で話をつづけた。
「なにか証拠でもあるのかね?」
「証拠なんかあってたまるもんか! もっとも、確かに証拠を頼りにやってはいるんだが、その証拠というのが証拠になっていないんで、その点を証明する必要があるわけなのさ! そのやり口たるや、最初やつらがあの連中、ほら、なんていったっけ……そう、コッホとペストリャコフ、あの二人を拘引《こういん》して、嫌疑をかけたのと寸分たがわぬやり方なんだ。ちぇっ! そのばかげたやり口といったら、人ごとでも胸くそが悪くなってくるよ! ペストリャコフは、ひょっとすると、きょう僕のところへ来るかもしれないんだ……ところで、ロージャ、君はもうこの事件を知っているだろうね、まだ病気になる前に起きた事件だから、君が警察で卒倒した日のちょうど前の晩に起きた事件で、そのときみんながあそこでその話をしていたっていうからね……」
ゾシーモフは好奇のまなざしをラスコーリニコフにあてたが、相手は身じろぎひとつしなかった。
「しかし、なんだね、ラズーミヒン、こうして見ていると、君もずいぶんおせっかい焼きだなあ」とゾシーモフが半畳をいれた。
「そうであったっていいじゃないか、とにかく救い出してみせるよ!」とラズーミヒンは叫んで、こぶしで机をどんとたたいた。「この場合いちばん癪にさわるのはなんだと思う? やつらがでたらめを言っていることじゃない。でたらめってやつはつねに大目に見てやるべきところがあるもんだ。でたらめって、愛すべきものだよ、真実に達する道だからね。そんなことじゃなくて、いまいましいのは、でたらめを言いながら、その上その自分のでたらめを大事にして押し通そうとしているってことなんだよ。僕はポルフィーリイを尊敬してはいるがね、だけど……たとえば連中がまず最初になににはぐらかされてしまったと思う? 前にはドアがしまっていたのに、庭番をつれて来たときは――あいていた。だからつまり、コッホとペストリャコフが殺したにちがいないと、こう来るんだよ! これが連中の論理なんだ」
「まあそういきりたつなよ。あの二人は単に拘留されただけなんだから。それはやらないわけにいかないものね。ついでだけど、僕はそのコッホに会ったよ。やつはあの婆さんから質流れ品の買い占めをしていたんだって言うじゃないか? え?」
「そうさ、そういったインチキ野郎さ! あいつは手形の買い占めもやってるんだ。あんなやつはどうでもいい! いったい僕がなにに腹をたてているか、君にはそれがわかるかい? やつらの古い、俗悪きわまる、時代遅れな、旧態依然たるやり口に腹をたてているんだぜ……ここでこのひとつの事件からだってまったく新しい道を切りひらくこともできるんだからね。単に心理的な材料だけでも、いかにして真の証跡をつかむべきかを示すこともできるんだ。『われわれには事実があるんだ!』なんてやつらはいう。が、事実がすべてじゃあるまい。少なくとも問題の半分は、その事実のあつかい方の腕にあるんだ!」
「すると、君は事実をあつかう腕を持っているってわけかね?」
「だって、今事件解決に助力できると感じている、はっきりと感じているというのに、黙っているという手はないだろう、もしも……えい、くそ! ……いったい君は事件を詳細に知っているのかね?」
「だから、こうしてペンキ屋の話を待っているんじゃないか」
「ああ、そうだっけ! ……じゃ、ひとつ事の次第を聞いてくれ。人殺しのあった日からちょうど三日めの朝方、コッホとペストリャコフが自分たちの足どりをひとつひとつ証明して、無罪は歴然たるものなのに、警察の連中がまだあの二人にかかずらわっているさなかに――突然まったく思いがけない新事実が現われたんだ。ドゥーシキンとかいう、例のアパートのむかいで呑み屋を経営している、百姓あがりの男が警察へ出頭して、金の耳輪のはいった宝石箱を持参に及んで、一編の物語を披露したものなんだ。『手前どもの店へおとといの晩方、だいたい八時をちょっとまわった時分に、――そういう日にちと時間なんだ! いいか、よく聞いておけよ、――その前にも昼間手前どもの店に寄っていったペンキ屋の職人のニコライというのが、手前のところへこの、金の耳輪と宝石のはいった箱を持ってきて、これをかたに二ルーブリ貸してくれとこう頼みますんで、はい。で、手前が、どこで手に入れた? と聞きますと、歩道で拾ったと申します。こちらもそれ以上はくどくど聞かずに』――とこうドゥーシキンのやつが言うんだ、――『その男にさつを一枚』――というのはつまり一ルーブリだがね――『出してやりました、と申しますのは、手前のとこでなければほかの店にかたに入れて、どっちみち呑んじまうんだから、まあ、わしが品物をあずかっておいたほうがよかろう、奥へしまえば出すのも早いって諺《ことわざ》もあるし、それになにか発覚したり噂が立ったりしたときは手前がおとどけすりゃいい、とこう思いましたもんですから』なあに、もちろん、語っていることはとんだたわ言で、嘘八百をならべているのさ、なぜって僕はそのドゥーシキンという男を知っているが、そいつ自身金貸しで、盗品などを隠匿《いんとく》しているような男だから、三十ルーブリからする品物をニコライからまきあげたのだって、なにも『おとどけする』ためにやったんじゃないさ。なんのことはない、おじけづいただけのことさ。が、まあそんなことはどうでもいい、そのさきを聞きたまえ。ドゥーシキンめ、つづけて言うには、『実は手前はその百姓のニコライ・デメンチエフを小さい時分から存じておりますんで。あの男は手前どもと同県で郡もザライスク郡の出なもんですからね、手前どもはリャザン生まれなんでして、はい。ニコライは呑んべえというほどではございませんが、ちょっとひっかけるくらいはやりますんで。あの男が例のあのアパートで仕事をしている、ドミートリイといっしょにペンキを塗っているってことは手前どもも承知しておりました。このドミートリイともあの男は同郷なんでして、はい。ニコライはさつを受けとると、さっそくそいつをくずして、たてつづけに二杯ほど一ぺんにひっかけたかと思うと、釣り銭をつかんで出ていきましたが、ドミートリイはそのときはいっしょじゃありませんでした。ところが、そのあくる日手前どもの耳に、アリョーナとその妹のリザヴェータが斧で殺されたという話がはいりまして、手前どもはあの姉妹を存じておりましたもんですから、あの耳飾りは臭いぞという考えがぴいんと来ました、――と申しますのは、殺された婆さんが品物をかたにとって金貸しをしていたことを、手前も承知していたもんですからね、はい。で、手前は連中が仕事をしていたアパートへ出かけていって、用心しながらこっそりと足音を忍ばせて、嗅ぎだしにかかりまして、まずのっけに、ニコライはいるかと聞きましたところ、ドミートリイの話では、ニコライは遊びに出て、あけ方になってから酔っぱらって家へ帰ったが、家にいたのはものの十分くらいで、また家を出ていったとのこと、そしてそれっきり姿を見かけないんで、ドミートリイはひとりで仕事をしあげているんだと、こういう話なんで。二人の仕事場というのは、人殺しのあった住まいとおなじアパートの二階なんでございます。手前はそういったことを残らず聞き出しましたが、そのときはだれにもなにひとつ洩らさずにいました』とこうドゥーシキンは言うんだ。『それに人殺しの件についても、できるかぎり聞きこみまして、やはりおなじように臭いなと思いながら家へ帰りました。ところが、今朝の八時でございます』というのはつまり三日めのことだよ、いいかい?『見れば、ニコライのやつ、手前の店へはいって来るじゃありませんか、しらふでもありませんが、へべれけというほどでもなくて、話はちゃんとわかるんでございます。腰かけに腰をおろして、むっつりしています。店にはそのとき奴のほかにたったひとり、ふりのお客が、それももうひとつの腰かけにかけて眠っているのと、うちの小僧が二人いるきりでした。で、わっしが『ドミートリイに会ったか?』と聞きますと、『いや、会わねえ』と申します。『この辺にも姿を見せなかったんだろう?』と聞けば『おとといから帰らねえ』という返事。『ゆうべどこへ泊まった?』――『ペスキにいる、コロームナの仲間の家だ』『あんときあの耳輪をどこで手に入れた?』――『歩道で拾ったんだ』と、こう奴は言うんですが、どうもうしろ暗いところがあるようなふうで、人の顔を見ようともしません。『あのおなじ晩のあの時間にあの階段の上でこれこれこういうことが起きたことを聞いているか?』と申しますと、『いや、聞いてねえ』と言っていながら、わっしの話を目をまるくして聞いているうちに、見る見る真っ青になってきたじゃありませんか。しかも、わっしが話している最中に、見れば、やっこさん、帽子をつかんで、腰を浮かしはじめたもんですから、わっしはやつをおさえる気になりまして、『待ちなよ、ニコライ、一杯やらねえか?』と言っておいて、小僧に目くばせして、ドアをおさえさせ、カウンターから出ていきますと、やつはわっしのところからぱっと通りへ飛び出したかと思うと、一目散に路地へ駆けこみまして、――わっしにはそのうしろ姿が見えたきりでした。こうなると、わっしが臭いとにらんだとおり、てっきりやつの仕業にちがいありません……』」
「そりゃ、もちろんそうさ!……」とゾシーモフが言った。
「ま、待ちたまえ! しまいまで聞くもんだよ! そこで、いうまでもなく全力をあげてニコライの捜索《そうさく》にかかったわけだ。ドゥーシキンは拘留されて、家宅捜索がおこなわれ、ドミートリイもやられた。コロームナの仲間も徹底的に調べあげられ、――そしてやっとおとといになって本人のニコライがしょっぴいて来られたわけさ。××門の近くの宿屋で取りおさえられたんだ。やつがその宿屋へやって来て、身につけていた銀の十字架をはずして、その十字架とひきかえに酒を一本飲ましてくれと頼むと、酒を出してくれた。ところが、しばらくして女房が牛小屋へ行って、ふと隙間からのぞいて見ると、やっこさん、わきの納屋のなかで梁に帯をゆわえつけて輪をこしらえ、切り株の上にのって、自分の首にその輪をかけようとしているじゃないか。女房がありったけの声でわめきたてると、みんながそこへ駆けつけて、『こいつめ、とんだ野郎だ!』と言うと、『わっしをどこそこの警察へつれてってくれ、なにもかも白状するから』とのこと。そこで、みんなは適当に護衛をつけて、その、どこそこの警察署、つまりここの警察署へ突き出したわけさ。さあ、それから型のごとく、姓名は、職業は、年齢はと聞かれ『二十二です』といったような返事があり、『ドミートリイと仕事をしていたときに、これこれの時間に階段でだれかを見かけなかったか?』と尋問すると、『それは確かに、だれか人が通ったかもしれないが、わっしらは気がつきませんでした』という返事。『じゃ、なにか物音のようなものは聞かなかったか?』――『別に変わった物音はなにも聞こえませんでした』――『その当日お前は、ニコライ、これこれの日時にこうこういう後家が妹もろとも殺されて物を盗られたことを知っていたか?』――『いっこうに知りません、いっこうに存じません。三日めに呑み屋でアファナーシイさんから初めて聞いたくらいでして』――『じゃ、耳輪はどこから手に入れた?』――『歩道で拾いました』――『どうしてつぎの日にドミートリイといっしょに仕事に出なかったんだ?』――『遊びほうけていたもんですから』――『どこで遊びほうけていた?』――『こうこういう所で』――『どうしてドゥーシキンの家から逃げ出したんだ?』――『あんときはなんだかばかに怖くなったもんですから』――『怖くなったって、なにが?』――『裁判にかけられるのがです』――『もし自分はなんの罪とがもないと思っているんだったら、そんなことを怖がることはなかったじゃないか?』……なあ、ゾシーモフ、信じようと信じまいと、それは君の勝手だが、ま、そういう訊問があったわけだ、文字どおりそういった言い方でな、僕は確実に知っているんだ、正確に聞いてきたんだから! どうだね? え?」
「なるほど、しかし、だめだね、証拠があがっている以上は」
「僕が今言っているのは証拠のことじゃないよ、訊問のことなんだ、やつらが自分らの本質をどう解しているかということだよ! が、まあどうでもいいや! ……さて、それから連中はその男をちくりちくり痛めつけ、さんざん絞りあげたもんだから、とうとう白状してしまった。『実は歩道で拾ったんじゃなくて、ドミートリイと二人でペンキを塗っていたあのアパートで見つけたんです』とね。『どんなふうにして?』――『それはこういう次第です、ドミートリイと二人でその日いっぱい八時までペンキ塗りをして、帰り仕度をしていたところが、ドミートリイのやつ、刷毛を手にして、わっしのつらにひと刷毛ペンキを塗りこくりやがって、塗りこくるが早いか、逃げだしやがったんで、わっしはそのあとを追いかけていきました。わっしはありったけの声でわめきたてながら、やつのあとを追いかけて行ったんです。ところが、階段から門へ出たとたんに――わっしはいきなりどしんと庭番と旦那衆にぶつかりましたんで、その庭番と旦那衆が何人だったかは覚えがありませんが、庭番のやつにどなりつけられました。それに、もうひとりの庭番もどなりつける、庭番の女房も出てきて、わっしどもにくってかかる。あげくのはてに旦那がひとり、奥さんと門にはいってきまして、これまたわっしどもを叱りつけました、というのは、わっしとドミートリイが道幅いっぱいに転がっていましたんでね。わっしがドミートリイの髪の毛をひっつかんで、引き倒してぶんなぐると、ドミートリイも下からわっしの髪の毛をつかんで、なぐりだしました。わっしどもがそんなことをしていたのは、憎いからじゃねえんで、つまり仲がいいばっかりに、遊び半分にやっていたわけなんでさ。そのうちドミートリイのやつ、身をふりほどいて、往来へ逃げだしやがったもんですから、わっしはそのあとを追いかけたんですが、追いつけなかったんで、ひとりでアパートへ帰りました、――あと片づけをしなけりゃならなかったもんですから。わっしは物を片づけにかかって、ドミートリイのやつ、もう帰って来るだろうと思って待っていました。そのとき、玄関の戸口で、壁のかげの隅で小箱を踏んづけたんです。見ると、紙につつんだものが転がっているじゃありませんか。紙をはいでみると、こんなちっちゃい留め金がついていたんで、その留め金をはずしてみると、――小箱のなかに耳輪がはいっていたわけなんです……』」
「ドアのかげにかい? ドアのかげに転がっていたのかい? ドアのかげに?」と、ラスコーリニコフが濁ったびっくりしたような目をしてラズーミヒンを見つめながら、突然そう叫ぶと、片手をついて長椅子の上にゆっくりと起きなおった。
「そうだよ……が、それがどうした? 君はいったいどうしたんだ? なんだって君はそんなに?」とラズーミヒンも自分の席から腰をあげそうにした。
「なんでもないよ!……」と、ラスコーリニコフはやっと聞こえるくらいの声で答えながら、またもや枕に頭を落として、また壁のほうを向いてしまった。一同、しばらく黙りこんでしまった。
「きっと、うとうとしかけて、寝ぼけて言ったんだろう」と、その果てにラズーミヒンが問いかけるようにゾシーモフを見ながらいった。が、相手は否定の意味で軽く首を横にふって、「ま、話をつづけたまえ」と言った。「そのさきどうなったんだい?」
「そのさきはどうなったかってのかい? 奴さんは耳輪を見るなり、もうその部屋の仕事もドミートリイのことも忘れちまって、さっそく帽子をひっつかんで、ドゥーシキンの店をさして駆けだし、先刻ご承知のとおり、歩道で拾ったなんて嘘をついて、ドゥーシキンから一ルーブリ受けとると、その足ですぐさま遊びに出かけちまったってわけさ。ところで、殺人事件については、『いっこうに知りません、いっこうに存じません、三日めに初めて聞きました』の一点ばりなんだ。『そんならどうしてお前は今まで姿を見せなかったんだ?』――『怖かったからです』――『どうして首をくくろうと思ったんだ?』――『思案にあまったからです』――『思案にあまったって、どんな思案に?』――『裁判にかけられやしねえかと思ったんでさ』、ま、これがその一部始終さ。さあ、そこで、君はどう思う、連中はそこからどういう結論をひき出したと思う?」
「なにも考えることはないじゃないか、証拠があがっているんだもの。どんなものにせよ、あがっているんだからな、事実が。君のそのペンキ屋を無罪放免にするわけにはいかないだろう?」
「連中は今やその男を頭から殺しのほしに仕立てちまってるんだ! やつらはもう一点の疑いも持っちゃいないんだ……」
「君のいっていることはでたらめだ。君はのぼせちゃってるんだよ。じゃ耳輪はどうなんだい? 君だって同意しないわけにいかないだろう、もしも当のあの日あの時間に婆さんの長持ちのなかにあった耳輪がニコライの手中にあったとすれば、その耳輪はなんらかの方法で手にはいったにちがいないということには、君も同意しないわけにはいくまい? この事実は、こういう事件の審理の際には小さなことじゃないぜ」
「どういう方法で手にはいったかって! どういう方法で手に入れたかっていうのかい?」とラズーミヒンは叫んだ。「だいたい君は、ドクトル、君はなによりもまず人間を研究する義務を負っている人間じゃないか、ほかのだれよりもまず人間性を研究する機会を持っている人間だぜ、――その君が、これだけの材料を持ちながら、このニコライがどんな気性の人間か、ほんとうに見ぬけないのかね? 彼が訊問されて供述したことはぜんぶ神聖きわまる真実だってことが、いっぺんでわからないのかね? あれは、彼が陳述したのと寸分ちがわない経路で手にはいったんだよ。小箱を踏んづけて、拾いあげたのさ!」
「神聖きわまる真実か! しかし、彼自身、最初にいったことは嘘だと白状しているじゃないか?」
「ま、僕の話を聞きたまえ。よく注意して僕の話を聞くがいい。庭番も、コッホも、ペストリャコフも、もうひとりの庭番も、最初の庭番の女房も、あのとき番小屋にいた女も、ちょうどあのとき辻馬車からおりて、婦人と手をとりあって門のなかへはいってきた七等官のクリュコフも、――みんなが、つまり八名から十名の証人が口をそろえて証言しているところによると、ニコライはドミートリイを地べたにおさえつけて、上になって相手をなぐっていたし、相手は相手で彼の髪につかみかかって、やはりなぐっていたというんだぜ。二人が道幅いっぱいに転がって、通行の邪魔になっていたもんだから、四方八方からどなりつけられたのに、二人は『小さな餓鬼《がき》みたいに』(こいつは証人たちの文字どおりの表現だ)、上になり下になりして、きゃっきゃっ声をたてたり格闘したり大笑いしたりしていた、つまり二人とも滑稽きわまる面つきをして負けず劣らず大声で笑いたてたり、子供みたいに追いかけっこをしながら往来へ駆けだしたりしていたんだぜ。いいかね? さあ、ここんとこに注目してくれよ。ところが、そのころ四階にはまだ生あったかい死骸が転がっていたんだ、いいかい、生あったかい死骸がだぜ、発見されたときはそうだったんだ! もしもあの二人が、でなければニコライが単独で殺人を犯し、その際に長持ちをこわして物を取るか、でないとしても単になにかで強盗の片棒をかついだのだとしたら、たったひとつだけでいいから質問させてもらいたいね。そうした精神状態、つまりきゃあきゃあいったり、げらげら笑ったり、門の下で子供じみた取っくみあいをしたりするような精神状態が、斧とか、血とか、悪知恵とか、細心な注意とか、強盗といったようなものと、はたしてマッチするかね? たった今、せいぜい五分か十分くらい前に人殺しをしておきながら――だってそういうことになるだろう、死骸はまだ生あったかかったんだからね、――急に、死体もほうったらかしにし、部屋もあけっぱなしにしたままで、今その部屋にむかって人が通っていったのを承知していながら、獲物も投げ出して、二人が、小さな餓鬼みたいに、往来に転がったり、げらげら笑ったりして人目をひくようなことをするものだろうか、それにそれを声をそろえて証言する者が十人もいるんだぜ!」
「そりゃ、もちろん、おかしいさ。言うまでもなく、ありうべからざることだよ、しかし……」
「いや、君、|しかし《ヽヽヽ》じゃないよ。もしもその日のその刻限にニコライの手にはいった耳輪が実際に彼にとって不利な、重要な証拠品になるとしたら――もっともその証拠なるものも直接彼の自供によって説明のつくもので、従ってまだ|議論の余地のある証拠《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》にすぎないのだが――もしそうだとしたら、弁護的な事実も考慮に入れてやるべきじゃないだろうか、ましてやその事実が|反駁の余地のない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ものなんだからね。ところで君はどう思う、わが国の法律学の性質からいって、彼らはこういう事実を――もっぱら、こういうことは心理的に起こりえないという論拠だけ、つまり精神状態だけを拠り所とする事実を――どんな告発的物的事実でもことごとく覆えしうる反駁しえない事実として認めてくれるだろうか、いや、認めるだけの度量があるだろうか? いや、認めちゃくれまい、絶対に認めてくれやしないさ、なぜって、小箱は見つかったんだし、それに人間ひとりが首をくくろうとしたんだからね。『身に覚えがないのに、どうしてそんなことをするはずがあるか!』というわけさ。これこそ大問題じゃないか。こういうことがあればこそ僕ものぼせあがっちまうわけさ! そこのところをわかってくれよ!」
「そりゃ、僕にも、君がいきりたっているのはわかるさ。が、待ってくれよ。実は聞くのを忘れていたんだが、その耳輪のはいった小箱がまちがいなく婆さんの長持ちのなかにあったものだってことは、なにによって証明されたのかね?」
「それはちゃんと証明ずみなんだ」とラズーミヒンは渋い顔をして、あまり気乗りのしない様子で答えた。「コッホがその品物に見覚えがあって、質入れ主を名ざし、その質入れ主が、まちがいなく自分のものだと、はっきり証言したんだよ」
「それはまずいな。じゃ、もうひとつ。コッホとペストリャコフが上へあがっていったときに、だれかニコライを見かけた者はいなかったのかね、そのことをなにかで証明できないのかね?」
「そこなんだよ、問題は。だれひとり見かけなかったんだ」とラズーミヒンはいまいましげに答えた。「そこが泣きどころなんだ。コッホやペストリャコフでさえ、上へあがっていくときに、彼らに気がつかなかったんだよ、もっともあの二人の証言なんか今じゃ大した意味はないけどね。彼らはこういうんだ。『見たところ、貸間はあいていたから、きっと、なかで仕事をしていたんでしょう、しかし通りしなに注意しなかったから、確かにあそこにあのとき職人がいたのか、いなかったのかは覚えがありません』とね」
「ふむ。してみると、無罪の証明といったら高々、たがいになぐりあって、げらげら笑っていたということぐらいしかないわけだな。じゃ、まあかりにそれを有力な証拠だということにしよう、しかし……じゃ、ひとつ聞かしてもらうがね、君自身はこの事実ぜんたいをどう説明するんだね? もし実際にその耳輪を供述どおり拾ったのだとしたら、その発見をどう説明する?」
「どう説明する? この場合、説明もくそもありゃしないさ。事は明瞭だよ! 少なくとも、問題を片づけるべき道は明瞭だし立証されているよ。まさしくその小箱がその道を証明しているじゃないか。真犯人がその耳輪を落としていったんだよ。コッホとペストリャコフがノックしたとき、犯人は四階のあの部屋に、閉じこもっていた。そして、コッホがばかなまねをして下へおりていったその隙に、犯人は飛び出して、やはり下へ駆けおりたわけさ。だってそいつにはほかに全然出口がなかったんだからね。それから、ドミートリイとニコライが例の貸間から走り出たそのとたんに、犯人は階段のところでコッホとペストリャコフと庭番に見つからないようにその空き家に身を隠した。そして庭番とあの連中が通りすぎる間ドアのかげに隠れていて、足音が消えるのを待って、そうっと下へおりていったのがちょうど、ドミートリイとニコライが通りへ駆けだした直後で、みんな散ってしまって、門の下にはだれもいなかったんだ。その犯人を見た者はいたかもしれないが、気にとめなかった。人が通ったところで珍しくはないだろうからね。小箱はドアのかげに隠れていたときに落としたんだが、犯人はその落としたことに気がつかなかったんだ。だってそれどころじゃないもんね。小箱がそこにあったということは、やつがまさしくそこに隠れていたことをはっきり証明しているわけさ。これがそのからくりだよ!」
「うまいもんだ! いや、君、こいつはうまいね。こいつはまったくうますぎるぜ!」
「どうしてさ、どうしてなんだい?」
「だって、あんまりなにもかもつじつまが合いすぎるじゃないか……ぴったりいきすぎるよ……まるで芝居じゃないか」
「ちぇっ!」とラズーミヒンは叫びかけたが、そのとたんにドアがあいて、そこにいあわせた者のうちだれひとり知らない、新たな人物がひとりはいって来た。
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それは、年はもうそれほど若くはなく、警戒心の強い気むずかしげな顔つきの、きどった、偉ぶった紳士で、まずはいるなり戸口に足をとめると、相手の気持ちを悪くするくらいあらわに驚きの色を見せて、まるで『こいつはまたとんだところへ飛びこんだものだ』とでも言いたげな目つきであたりを見まわした。男はうさん臭そうに、きざっぽくいくらかびっくりしたような、ほとんど侮辱を受けたような顔つきをして、ラスコーリニコフの狭苦しくて天井の低い『船室』を見まわし、それからおなじような驚きの色を浮かべた目を、着物もろくに着ず髪ももみくしゃにして顔も洗わずに自分の見すぼらしい、よごれたソファに寝そべってやはり相手をじっと見つめている当のラスコーリニコフに移した。ついで、ラズーミヒンの、ひげもそらなければ髪にくしも入れてないぶざまな姿をやはりおもむろにじろじろ眺めはじめた。それにたいしてラズーミヒンのほうも、その席から動こうともせずに、不敵な、詰問するような目つきで相手の目をひたと見すえた。緊張した沈黙が一分ほどつづいたが、そのあげく、期待どおり、状況に小さな変化が生じた。はいって来た紳士は、おそらく、二、三の、とはいえすこぶるはっきりした徴候から、ここ、この『船室』では大げさにいかめしい尊大な態度を見せたところでまるでなんの効果もないと思ったのだろう、いくぶん態度をやわらげて、いんぎんに、それでいていささかきっとしたところを見せながら、ゾシーモフにむかって一語一語はっきり区切るようにしてこう尋ねた。
「大学生の、いや、もと大学生のロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフさんですか?」
ゾシーモフはゆっくり体を動かして、ここでおそらく返事をするつもりだったのだろうが、とたんに全然問いかけられたのでもないラズーミヒンのほうがさきまわりしてこう答えた。
「そのソファに寝ている男がそうです! なにか用ですか?」
この、なれなれしげな『なにか用ですか?』に、気どった紳士は一本やられた恰好だった。彼は今にもラズーミヒンのほうを振り向きそうにしたが、それでも機をはずさずに首尾よく自分をおさえて、大急ぎでまたゾシーモフのほうに向きなおった。
「あの人がラスコーリニコフです!」とゾシーモフは病人のほうをあごでしゃくって、ぼそぼそいってから、あくびをひとつしたが、しかもそれがどうしたわけか度はずれに大きな口のあけかただったし、口をあけたままにしていた時間も度はずれに長かった。それからおもむろにチョッキのポケットに手をやって、おそろしく大きい、胴のふくらんでいる、両ぶたの金時計を取り出して、ふたをあけて見てから、やはりおもむろに、大儀そうにまたポケットに手をやってそれをしまいこんだ。
当のラスコーリニコフはその間じゅうずうっと黙ってあおむけに寝たまま、はいって来た男をしつこく、とはいえなにを考えるでもなく、じっと見つめていた。今しがた壁紙の興味ある花模様から振り向けたばかりのその顔はひどく真っ青で、まるでたった今辛い手術を受けたばかりか、でなければ今拷問から解放されたばかりとでもいったような、尋常ならぬ苦痛の色を見せていた。それでも、彼ははいって来た紳士に少しずつ次第に注意を呼びおこされ、やがてそれが疑惑から不信へ、はては恐怖のようなものにまで変わっていった。ゾシーモフがあごで彼をしゃくってみせて『あの人がラスコーリニコフです』と言ったとき、とたんに彼はぱっと身を起こして、まるではね起きるようにして寝床の上に坐りこむと、ほとんど挑戦に近い、とはいえとぎれとぎれのよわよわしい声でこう言った。
「そのとおりです! 僕がラスコーリニコフです! なんのご用ですか?」
客はまじまじと相手を見て、相手の脳裏に刻みつけるような調子でこう述べた。
「ピョートル・ペトローヴィチ・ルージンです。私の名前はすでに十分お耳に達しておるのではないかと思っておりますが」
ところが、ラスコーリニコフはなにかまるっきり別なことを期待していたように、考えこんでいるような鈍い目つきで相手を見ただけで、なんとも答えず、まるでピョートル・ペトローヴィチという名前はまったく初耳だといったような顔つきをしていた。
「へえ! あなたはいまだにまだなんの知らせも受けておられないんですか?」とルージンはいささか不愉快そうな口調でたずねた。
返事をするかわりにラスコーリニコフは枕にゆっくりと頭をおとし、両手を頭のうしろで組んで、天井を眺めはじめた。ルージンの顔には悩ましげな色があらわれた。ゾシーモフとラズーミヒンがますます好奇心をそそられて相手を眺めまわしはじめたため、彼はとうとううろたえてしまったようなふうだった。
「わたしは予想もし、あてにもしていたんですが」と彼はもぐもぐいいはじめた。「もう十日の余も前、いやそれどころかほとんど二週間も前に出されたはずの手紙が……」
「もしもし、あなた、なにもそんなに戸口に立ちとおしていることはありませんよ」とラズーミヒンが話の腰を折った。「なにかお話でもあるんでしたら、おかけ下さい、そこは、ナスターシヤと二人じゃ窮屈でしょう。ナスターシヤ、わきへ寄って、通してあげなよ! こちらへお通り下さい、さあ、椅子はこちらです! 割りこんで下さい!」
彼は自分がかけている椅子をテーブルから離して、テーブルと自分のひざのあいだにわずかばかりの空間をつくってやって、客がその隙間へ『割りこんで来る』のを、いくぶん窮屈な姿勢で待っていた。タイミングがよかったため、客はどうにもことわりきれず、あわててつまずきながら、その狭い隙間を通りぬけた。そして椅子のところまで来ると、そこへ腰をおろして、疑りぶかそうにラズーミヒンを見た。
「しかし、なにも窮屈にお感じになることはありませんよ」とラズーミヒンは遠慮なくしゃべりたてた。「ロージャはこれでもう五日も病気で伏せっておりまして三日間うわ言のいいどおしだったのです。でも、今は意識も回復しましたし、さっきなど実に食欲旺盛なところを見せたくらいです。ここにいるのはこの男の主治医で、たった今診察をおえたばかりです。それから僕はロージャの友だちで、やはりもと大学生で、今こうしてこの男のお守りをしてやっているところなんです。そんなわけですから、われわれにはおかまいなく、遠慮などなさらずに用談をお続けください」
「ありがとうございます。でも、私がここにいて話などしたら、ご病人にさわるようなことはないでしょうか?」と、ルージンはゾシーモフにむかって聞いた。
「い、いや」とゾシーモフは口のなかでもぐもぐ言い、「かえって気ばらしになるくらいのもんですよ」と言ってまたあくびをした。
「そうとも、この男はもうとうから正気なんですよ、今朝からね!」とラズーミヒンは話をつづけたが、そのなれなれしさにはいかにも自然らしい人のよさが現われていたため、ルージンはちょっと考えたあと、次第に元気づいてきた。その原因の一部は、このあつかましいぼろ服の男がいちはやく自分は大学生だと名乗ったことにあったのかもしれない。
「あなたのおかあさんは……」とルージンは話をきりだした。
「ふむ!」とラズーミヒンが大声でそう言ったので、ルージンは聞きただそうとするように彼を見た。
「いや、なんでもないんですよ、僕はただその、が、まあ、話をおつづけ下さい……」
ルージンは肩をすくめた。
「……あなたのおかあさんは、私がまだ向こうにおりました頃、あなたにあてて手紙を書きかけておられました。そこで、私は上京してからも、わざと四、五日お宅へあがるのを見あわせていたのです、というのは、もうなにもかもご承知になったと思われる頃にあがったほうがいいと思ったからです。ところが、今、おどろいたことには……」
「知ってますよ、知っていますよ!」と突然ラスコーリニコフは我慢がならないほど癪にさわるといった様子で言い出した。「じゃ、あれはあなただったんですか? 婚約者というのは?いや、知ってますよ! ……それならもうけっこうですよ……」
ルージンは完全にむっと来たらしいが、おし黙っていた。彼は、これはいったいどういう意味なのだろうと、大急ぎで懸命にあれこれ思いめぐらしていた。一分ほど沈黙がつづいた。
一方、ラスコーリニコフは返事をしたときそちらへ少し向きを変えそうにしたが、そのあとで急にまたもや一種特別な好奇心を浮かべてじっと彼に瞳をこらしはじめた。その様子はまるで、さっきはまだとっくりと観察するいとまがなかったからというふうにも見えたし、相手になにか新しいものを発見して驚いたというふうでもあった。そのために彼はわざわざ枕から身を起こしたくらいだった。事実、ルージンの風采《ふうさい》全体に、なにやら一風変わったところが目についた、つまり今ひどく無遠慮につけられた『婚約者』という呼び名の裏づけになるようなところがあったのである。第一、ルージンは上京してからの数日を利用して、花嫁を待つ間に大あわてにあわててかざったりめかしこんだりしたことは明らかだ、というよりもむしろそれが目につきすぎるくらいだった。が、しかしこれはまことに罪のない、許さるべきことかもしれない。それどころか、自分は男前があがったという愉快な変化の意識、そのうぬぼれ過剰な自意識ですら、こんな場合には大目に見てやるべきことなのかもしれない。なんと言っても、ルージンは今、婚約者という立場にあるのだから。彼が身につけているものはなにからなにまで、今服屋からとどいたものばかりで、どれもこれも立派だったが、ただ、なにもかもが新しすぎ、あまりにもその目的が見えすいている嫌いはあった。粋な、ま新しい丸い帽子までがその目的を証明していた。ルージンの帽子のあつかいかたがなぜかあまりにも丁重にすぎ、持ちかたがあまりにも気をつかいすぎる感じだった。その上、藤色のすばらしい本物のジウヴェーン製らしい手袋まで、それをはめずにただ見せびらかすために手に持っていることだけでも、やはりおなじ目的を証明しているように見えた。ルージンの服装で支配的な色は青年むきのあかるい色あいだった。彼が身につけていたのは薄茶色の上等な夏の背広に、あかるい色の夏ズボンに、それと共色のチョッキ、買いたての薄地のシャツ、それにばら色のしまのはいった、いかにも軽やかな上麻地のネクタイなどだったが、しかもなによりもいいことには、そういったものがぜんぶルージンの顔によく似あっていたのである。彼の顔はすこぶるみずみずしく、むしろ美しいと言っていいくらいで、それをぬきにしても四十五という自分の年よりもずっと若く見えた。黒っぽいあごひげは、カツレツを二枚ならべたようなかっこうで顔の両側を見た目よくふちどっていて、きれいに剃りあげた光りかがやくあごのあたりには毛が見事に密生していた。髪の毛にしても、ほんの少し白髪がまじっていたとはいえ、床屋でよく櫛目を入れ、カールまでして来ていながら、そうしたことでなにか滑稽なところが見えたり、間がぬけて見えたりするようなところはなかった。普通は、えてして、カールをするとそんなぐあいになるものなので、そうするとどうしても結婚式にのぞむドイツ人に似たようなところが現われるものなのである。もしこのかなり美しい、きりっとした顔つきになにかほんとうに不快な嫌らしいものがあったとすれば、それはなにかほかの原因から来ていると見ていい。ラスコーリニコフはルージンの顔を無遠慮に穴のあくほど見てから、毒々しくにやりと笑い、またもや枕に頭を落として、さっきのように天井を眺めはじめた。
しかし、ルージン氏はじっとこらえて、時期が来るまではそういった変な態度を気にかけないようにしようと決心したらしかった。
「こんなご容態だとは、まことにお気の毒なことで」と彼は努めて沈黙をやぶろうとして、あらためて話をきりだした。「ご病気と知っていたら、もっと早くうかがうんでしたが。もっとも、忙しい体なものですから! ……それに、自分の弁護士の仕事のほうでも大審院にすこぶる重大な事件をかかえているものですから。お察しの心配事についてはあらためて申しあげるまでもありません。お身内の方、つまりおかあさまとお妹さんを一日千秋の思いでお待ちしているようなわけでして……」
ラスコーリニコフは体を動かして、なにか言いそうにした。その顔はいくぶん興奮の色を見せていた。ルージンは言葉をきって、相手の言い出すのを待ったが、いっこうに言いださないので、話をつづけた。
「……一日千秋の思いでね。で、まず当座の住まいとしてお二人のために宿を探しておきました……」
「どこに?」とラスコーリニコフが弱々しい声で言った。
「ここから目と鼻の、バカレーエフのアパートです……」
「ああ、それはヴォズネセンスキイ通りだ」とラズーミヒンが口を出した。「あそこに二階だての貸間専門のアパートがあるよ。商人のユーシンが経営しているんだ。僕も行ったことがある」
「そうです、貸間専門のアパートです……」
「実にひどい所だよ。きたないし、くさい匂いはするし、それにいかがわしいアパートなんだ。変な事件が起きたりしてね。それにありとあらゆる連中が住んでいるんだ! ……そう言う僕もあそこへはちょっと聞こえのよくないことで行ったんだけどね。ただし、家賃は安いよ」
「私は、むろん、それほどくわしく調べあげるわけにもいかなかったもんですからねえ、なにしろ私自身上京したばかりなものですから」とルージンは慎重な受け答えをした。「しかしなかなかきれいな部屋を二部屋借りておきました、ま、ごく短期間のことですからね……それにすでに本式の住まい、つまり将来の二人の住まいも見つけまして」とラスコーリニコフにむかって、「目下造作に手を入れているところです。私自身さしあたり貸間暮らしで窮屈な思いをしているくらいなんでしてね、ここからほんのひと足の、リッペヴェフゼル夫人の家で、ある私のわかい親友でアンドレイ・セミョーヌイチ・レベズャートニコフという男の住まいに厄介になっております。そのバカレーエフのアパートを教えてくれたのもその男なんですよ……」
「レベズャートニコフ?」とラスコーリニコフは、なにか思いだそうとでもするように、ゆっくりと言った。
「ええ、そうです、アンドレイ・セミョーヌイチ・レベズャートニコフという役所勤めの男です。ご存じですか?」
「ええ……いや……」とラスコーリニコフは答えた。
「ごめんなさい、聞きかえされたご様子でそんな気がしたもんですから……私は前にその男の後見人だったことがありましてね……実に愛すべき青年ですよ……新思想の追随者ですがね……私は若い連中に会うのが好きでしてな。若い連中からは新知識が得られますからね」と言ってルージンは同意が得られるものと思って一座の者を見まわした。
「それはどういう意味ですか?」とラズーミヒンが聞いた。
「ごくまじめな意味、いわば問題の本質そのものともいうべきところでしょうか」とルージンはそう質問されたことが嬉しくてたまらないといった調子で、すぐに引きとって答えた。「私はですね、実はもう十年もペテルブルクへ出て来てなかったんですよ。そりゃわが国のいろんなニュースとか、改革とか、新思想とか――そういったものは田舎住まいの私どものところへもぜんぶ伝わってはきますが、そういったものをはっきり見たり、すっかり見とどけたりするには、ペテルブルクに身をおかなければなりません。まあとにかく、私の考えを言わしてもらえば、いろいろ気づいたり認識したりするにはどうしてもわが国の若い世代を観察しなければなりません。ですから、正直いって、嬉しかったですね……」
「なにがですか?」
「どうもご質問が大きすぎるようですな。私はまちがっているかもしれませんが、どうも私は、若い人のほうが明快な見解を、いわば批判精神を、さらには実際的能力をより多く持っているような気がするんですよ……」
「それはそのとおりです」とゾシーモフが口のなかでいった。
「それは嘘だ、実際的能力なんか持っちゃいないよ」とラズーミヒンがからんで来た。
「実際的能力なんてそんなにたやすく得られるものじゃない、ただわけもなく天から降ってくるわけじゃないからね。ロシヤ国民はいっさいの事業らしい事業から遠ざかってからもうかれこれ二百年にもなるんだ……もっとも、思想は現在発酵している最中かもしれないけれどね」そして今度はルージンに話しかけた。「そりゃ子供っぽいものではあるけど、善事にたいする欲求もあるし、山師もずいぶんふえてきたとはいいながら、真摯《しんし》さだって発見できますよ、だけど実際的能力だけは依然としてありませんね! 実際的能力なんてそう簡単に身につくものじゃありませんからね」
「ご意見には賛成しかねますな」とルージンはいかにも楽しそうに言い返した。「もちろん、行きすぎた熱中もあれば、まちがいもあります、がしかし大目に見てやることも必要ですよ。熱中しすぎるということは、事業に対する熱意のほどを証明すると同時に、事業をとりまく外的事情が狂っていることも証明しているわけですからな。もし成しとげた事業が少ないとすれば、それは時間が足りなかったせいではないでしょうか。方法や手段については今は申しますまい。私個人の見解をいわしてもらえば、すでに何事か成しとげられたとさえいえます。有益な新思想も普及しているし、新しい有益な著書も、以前の空想的でロマンティックな著書のかわりに、広く行きわたっています。また、文学にしても以前より大人っぽいニュアンスをおびてきているし、いろんな有害な偏見も嘲笑され根絶されてしまいました……ま、要するに、わが国民はきっぱり過去と絶縁してしまったのであって、これはすでに、私にいわせれば、立派な事業ですよ……」
「人の説のむしかえしだ! 自己礼賛をやっている」とだしぬけにラスコーリニコフが言いだした。
「なんですと?」ルージンは聞きとれなかったらしく、そう聞きかえしたが、返事はなかった。
「おっしゃることは一々、ごもっともです」とゾシーモフは急いで口をはさんだ。
「そうでしょう?」とルージンは嬉しそうにゾシーモフを顧みて語をつぎ、「あなたも賛成して下さると思いますが」と今度はラズーミヒンにむかって話しつづけたが、このときはもういくぶん勝利感と優越感の色あいさえおび、今にも『お若い方』という言葉までつけ加えそうに見えた。「進歩が、つまり、今の言いかたをすれば、プログレスが見られますよ、よしんば科学的、経済学的な真理という点だけでもね……」
「平凡な説ですな!」
「どうして平凡な説なもんですか! たとえばですよ、これまでは『隣人を愛せよ』などと言われてきましたが、だからといって私が隣人を愛したとすれば、結果はどういうことになるでしょう?」とルージンは語をついだが、話しっぷりはひどくせきこんでいるようだった。「私が百姓外套を二つに裂いて隣人と分けあったとすれば、私たちは二人とも半分ずつでいなければならないでしょう、『二兎を追う者は一兎をも得ず』のたとえどおりに。ところが、学問ではこう言います、まずだれよりも先に自分だけを愛せよ、なぜならこの世の一切は個人的利害に基礎をおいているから、とね。自分だけを愛せば、自分の仕事もぐあいよく運び、自分の百姓外套も無傷で残るわけです。経済的真理はさらに、社会に整然たる私的な事業が、言ってみれば完全な百姓外套が多くなればなるほど、社会の基盤もしっかりして来、社会の福祉事業もますます確立されてくるとも言っています。従って、私はただ専ら自分だけのために物を獲得していながら、それしかしていなくとも結局は万人のために物を獲得してやっているような結果になり、それがひいては隣人にも二つに切った百姓外套よりいくらかましなものが手にはいることにもなるわけです。しかも、これはすでに私的な個々の慈善心の結果じゃなくて、社会ぜんたいの進歩の結果そういうことになってくるのです。これは単純な思想なんですが、不幸にも、熱狂とか空想癖に妨げられて、ずいぶん長い間われわれの頭に浮かばなかったのです。ちょっとした明敏さがあれば、このくらいのことはすぐに気がつくはずなんですがね……」
「失礼なことをいうようだけど、僕も明敏なほうじゃありませんので」とラズーミヒンは乱暴に相手をさえぎって言った。「この辺でその話はやめにしようじゃありませんか。僕は実は目的があって話を切りだしたんですが、そんなひとりよがりなへらず口は、そんな、きりのない月並みな説は、もう三年も耳にたこができるほど聞かされているんで、僕はほとほとうんざりしてしまって、自分はおろか人にそんな話をされただけでも、まったく顔が赤くなるくらいなんです。あなたは、もちろん、さっそく自分の知識をひけらかそうとお思いだったのでしょうが、これは大いに許さるべきことで、僕はそれをどうのとは申しません。僕は今ただ、あなたという人はどういう人なのか知りたかっただけなんです。だって、おわかりでしょう、近頃その福祉事業なるものにやたらといろんな産業人が食いついて、手あたり次第なんでも自分の利益になるようにゆがめてしまい、すっかり台なしにしちまってるじゃありませんか。が、まあ、こんな話はもうたくさんですよ!」
「あなた」と、ルージン氏は大いにもったいをつけてそっくり返りながら、こう言いかけた。
「あなたがそんなに無遠慮におっしゃりたい腹は、私もその仲間……」
「いや、とんでもない、とんでもない……僕がそんなことをいうはずがないでしょう! ……それにしても、まあそういう話はもうたくさんですよ!」とラズーミヒンは話を打ちきってさっきの話をつづけるつもりで、くるりとゾシーモフのほうに向きを変えてしまった。
ルージンは、即座にこの釈明を受け入れるだけの聡明さを持ちあわせていた。もっとも、彼ももう二、三分もしたら引きあげるつもりではいたのだが。
「きょう初めてお目にかかったわけですが」と彼はラスコーリニコフに話しかけた。「ご全快の節は、ご存じの事情もありますので、なお一層深いおつきあいが願えるものと思っています……特に、ご健康になられるようお祈りしておりますよ……」
ラスコーリニコフは首をまわしもしなかった。ルージンは椅子から腰をあげかけた。
「あれはどう見ても質屋の客のしわざだね!」とゾシーモフは相手の説を肯定するように言った。
「うん、どうしてもお客だよ!」とラズーミヒンが相づちを打った。「ポルフィーリイは自分の考えを洩らしちゃいないが、やっぱり質入れ主を喚問しているよ……」
「質入れ主を喚問してるって?」とラスコーリニコフが大声でたずねた。
「そうなんだ、それがどうした?」
「いや、なんでもないよ」
「どうやって捜査しているんだね?」とゾシーモフが聞いた。
「コッホが名前を挙げたのもいるし、質草の上包みに名前が書きつけてあったのもあるし、なかには聞きつけて自分から出頭した者もいるんだってさ……」
「とにかく、ぬけめのない熟練した悪党であることはまちがいないね! 実に大胆だものな!まったく思いきったやり口だもの!」
「いや、どっこいそれがそうじゃないんだよ!」とラズーミヒンが相手をさえぎった。「そこがみんなを迷わせるところなんだよ。僕に言わせりゃ――ぬけめのない男でもないし、熟練した男でもないね、おそらくこれが初めての仕事じゃないかな! ちゃんと計算した、ぬけめのない悪党のしわざだとすると、どうもおかしくなってくるんだ。ところが、不慣れな男のしわざだとすると、単なる偶然のおかげで災難を逃れられたということになるんだ、まったく偶然てやつはなにをしでかすかわかったもんじゃないからな! それどころかやつはおそらく邪魔がはいることだって予想していなかったろうさ!だから結局――せいぜい十ルーブリか二十ルーブリくらいの品物を盗んで、ポケットに詰めこんで、婆さんの長持ちのなかのぼろをひっかきまわすくらいのことしかできず――たんすの、上の引きだしの手箱から、債券は別にしても千五百ルーブリからの現なまが手つかずで出てきたわけさ! やつはろくに盗むすべも知らず、ただやっと人殺しだけやってのけただけなのさ! だから初めての仕事だって、僕はいうんだよ。初めての仕事だから、泡をくっちまったんだよ! 計算した上のことじゃなくて、偶然のおかげで難をのがれたわけさ!」
「それはどうもつい最近あった老官吏未亡人殺しのお話のようですな」とそのときルージンがゾシーモフに話しかけるようにして口をはさんだ。彼はもう帽子と手袋を手にして立っていたのだが、出ていく前になにかもう二言三言気のきいたことをいって行きたかったのである。彼は明らかに自分に有利な印象を与えておきたいと腐心しているらしく、分別が虚栄心に制せられたかっこうだった。
「ええ、そうです。あなたもお聞きおよびですか?」
「そりゃもう、すぐ近所のことですもの……」
「くわしいことをご存じですか?」
「そうとは言えませんが、私はこの事件ではある別の事柄に、いわば問題ぜんたいに興味を感じているんです。ここ五年くらいの間に下層階級の犯罪がますます増加してきていることは今さらいうまでもないし、またあちこちいたる所に強盗や放火が頻発《ひんぱつ》していることも、言うまでもありませんが、私から見て何よりも奇怪千万と思われるのは、上流階級の犯罪も同様に、いわば平行的に増加してきているということです。どこそこでもと大学生が街道で郵便物を強奪したという話を聞くかと思えば、どこそこでは社会的位置からいって最も進んでいるはずの人たちが偽札をこしらえていたという。かと思えば、モスクワでは割増し金つき債券の偽造団の一味が根こそぎ挙げられ、――しかもその主謀者のなかに世界史の講師がひとりはいっていたとか。それからどこそこではわが国の外国駐在の秘書官が金銭上のなにか謎めいた原因で殺害されたとかいいます……それに、もし今度もあの金貸しの婆さんが上流階級の者の手で殺されたのだとしたら、というのは百姓は金製品なんか質入れするわけはないからですが、もしそうだとしたら、わが国社会の文化人一般の、この一面から見て腐敗堕落した現状をいったいどう解釈したらいいんでしょう?」
「現在の経済的変動はひどいですからね……」とゾシーモフが応じた。
「どう解釈すべきかですって?」とラズーミヒンはからんできた。「それこそあまりにも深く根を張った非実際的能力ということで説明がつくじゃありませんか」
「というとつまり、どういうふうに?」
「モスクワで、ほらその、お話の講師が、なぜ債券などを偽造したかと訊問されたのにたいして、『世間のやつらはみんないろんな方法で金持ちになっている。それで僕も手っとり早く金持ちになりたいと思ったんです』と答えたというその回答で説明がつくでしょう。正確な表現は覚えていないが、人の金で、手っとり早く、労せずして、といったような意味だった! つまりわれわれは上げ膳据え膳で暮らしたり、他人のふんどしで相撲をとったり、人がかんでくれたものを食べたりする癖がついてしまったんですよ。ところが、偉大な時の鐘が鳴りわたった(農奴解放令の発布を指す)とたんに、みんな本性をさらけ出してしまったわけです……」
「しかし、それでも倫理観というものがあるでしょう? いわば、人の道とでもいうべきものが……」
「いったいなにを気をもんでいるんです?」と不意をついてラスコーリニコフが口を出した。
「ちゃんとあなたの理論どおりになってるじゃないですか!」
「どうして私の理論どおりです?」
「あなたがさっき説教していたことをぎりぎりまで推しすすめていけば、人間を斬り殺してもいいということになるでしょうが……」
「とんでもない!」とルージンが叫んだ。
「いや、それはそうじゃないよ!」とゾシーモフが応じた。
ラスコーリニコフは真っ青な顔をして寝たまま、上唇をふるわせ、やっと息をしているようなぐあいだった。
「何事にも程度というものがあるもんですよ」と、ルージンは見下すような調子で言葉をついだ。「経済的理念だけじゃ殺人への誘いにはなりませんよ、だからもしかりに……」
「あれはほんとうですか、あなたが」とだしぬけにラスコーリニコフがまた憎悪に震えた声で相手をさえぎったが、その声には人を侮辱する喜びのような調子が聞かれた。「あれはほんとうですか、あなたが自分の婚約した娘から結婚の承諾を得たそのとき……その娘にむかって、なによりも嬉しいのは……あなたが貧乏人だということだ……というのは、貧乏な家から嫁をもらったほうが、あとで妻に権力をふるえるし、……妻に恩を着せて責めたてることもできて得だからといったというのは? ……」
「あなた!」と、ルージンはすっかり逆上して、あわてながら、憎悪に満ちた、いらだった声でわめきたてた。「あなた……曲解も甚だしいですぞ! 失礼ながら、こちらも言わしてもらわなければ。あなたの耳にはいった、というよりもむしろあなたのところに伝わったその噂には、これっぽっちも確かな証拠なんかあるわけじゃないんですよ、だから私は……これはだれかが怪しいとにらんでいます……ま、要するに……この毒矢は……要するに、あなたのおかあさんは……あの人はこんなことがなくとも、私にはどうも、いろんな長所を備えてはいるようだが、考え方に多少のぼせたりロマンティックになったりするようなところがあるように見受けられたんです……が、それにしても、あの人がこの問題をそんなふうに空想で歪曲《わいきょく》した形に解し、想像していようとは、まったく意外でしたよ……これでは、結局……結局……」
「いいかね」とラスコーリニコフは、枕の上に頭をもたげて相手を突きさすようなぎらぎらした目でにらみつけながら、叫んだ。「いいかね!」
「なにがです?」とルージンはいいやめて、腹だたしげな、挑戦的な物腰で、相手の言葉を待った。何秒か沈黙がつづいた。
「もう一度……ひと言でも……おふくろのことで……そんな口をきいたら……僕はきさまを階段から突きおとしてやるから……」
「おい、どうしたんだ!」とラズーミヒンが叫んだ。
「ははあ、そういうことだったのか!」ルージンは青い顔をして唇をかみ、「それじゃ言うがね」と、懸命に自分をおさえながら、それでもやっぱり息をはずませながら、言葉に間をおくようにして切りだした。「私はもうさっき、ここへ足を一歩踏み入れたときから、この人は敵意をいだいているなと見てとったが、わざとここに残って、もっといろいろ突きとめようと思ったんだ。病人ではあるし身内でもあるしするので、たいていのことは大目に見ようと思っていたけど……こうなったらもう……あなたを……断じて……」
「僕は病気じゃありませんよ!」とラスコーリニコフがわめきたてた。
「そんなら、なおさらです……」
「とっとと出ていって下さい!」
だが、ルージンは話も終わらないうちに、またもやテーブルと椅子の間をすりぬけて、もう自分から部屋を出ようとしていた。ラズーミヒンも今度は立ちあがって、彼を通してやった。ルージンはだれにも目をくれず、もうさきほどから病人にはかまうなとあごで合図《あいず》をしていたゾシーモフにも頭ひとつさげずに部屋を出たが、小腰をかがめて戸口を通るときは、例の帽子を肩の辺まで用心ぶかく捧げ持っていた。その背なかのかがめぐあいにまでこのときは、まるでひどい屈辱を背負って立ち去るような感じが現われていた。
「いいのかい、いいのかい、あんなことをして?」当惑したラズーミヒンは首をふりふりそう言っていた。
「ほうっといてくれ、みんな僕をほうっといてくれ!」ラスコーリニコフは気ちがいのようにわめきたてた。「いつになったら僕をひとりぼっちにしてくれるんだ、人を苦しめやがって!僕はきさまらなんか怖くはないんだ! 僕は今はもうだれも、だれも怖くはないんだ! 僕から離れてくれ! 僕はひとりっきりでいたいんだ、ひとりで、ひとりで、ひとりっきりで!」
「行こう!」といって、ゾシーモフはラズーミヒンにあごで合図した。
「とんでもない、こいつをこのままほうったらかしていけるか」
「行こうってば!」とゾシーモフは頑強にいい張って、部屋を出てしまった。ラズーミヒンはちょっと考えていたが、そのあとを追って駆け出した。
「二人であの男のいうなりにならなかったら、もっとまずいことになったかもしれないんだ」と、すでに階段にさしかかったとき、ゾシーモフがいった。「いら立たしちゃいけないんだよ……」
「あいつ、いったいどうしたんだろう?」
「なにかいい刺激でも与えられるといいんだけどなあ! さっきはあんなに元気だったんだものな……あれはなんだぜ、なにか頭にひっかかっていることがあるんだぜ! なにか重苦しい固定観念でも……僕はそれを大いに心配しているんだ。きっとそうだぜ!」
「ああ、そうだ、ひょっとしたら、あの紳士、あのルージンのせいかもしれないぞ! 話から察するに、あの男はあいつの妹と結婚するらしいし、それにロージャは、病気になる直前にその知らせの手紙を受けとっているらしいからな……」
「うん、あいつ、とんだときに来やがったもんだね。事によると、あいつ、なにもかもぶち壊してしまったかもしれないぞ。ところで、君も気がついたろうけど、ラスコーリニコフはほかのことはなににたいしても無関心で、口をつぐんだきりなのに、ひとつだけは別で、そのことになると、かあっと分別をなくしてしまう。それは例の殺人事件のことなんだ……」
「そうだ、そうなんだ!」とラズーミヒンが相づちを打った。「それは僕も大いに気がついてるよ! 妙に興味を持ったり、おどおどしたりするね。あれはきっと発病した当日警察でびっくりさせられて、卒倒したからだぜ」
「今晩もう少しくわしくその話をしてくれないか、そのあとで君に話すことがあるんだ。僕はあの男に興味を感じているんだよ、とっても!三十分もしたら、もう一度病人の容態を見に来るよ……もっとも、脳炎のおそれはないと思うけどね……」
「ありがとう! 僕はその間パーシェンカのところに待機して、ナスターシヤを介して監視していることにしよう……」
ラスコーリニコフはひとりっきりになると、いらだたしげな悩ましげな目をナスターシヤに向けた。が、相手はなおもぐずぐずして立ち去ろうとしなかった。
「紅茶を今飲む?」と彼女が聞いた。
「あとでいい! 僕は寝たいんだ! 僕のことはうっちゃっといてくれ!……」
彼はくるりと壁のほうへ向きを変えてしまい、ナスターシヤは部屋を出ていった。
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ところが、彼女が出ていくとすぐに、彼は起きあがって、ドアに鍵をかけ、さっきラズーミヒンが持って来てつつみなおしておいた衣類の包みをほどいて、着がえにとりかかった。不思議にも、彼の様子が急にすっかり落ちついてしまった感じで、さっきのような気ちがいじみたうわ言も、このところずうっと見られたあのうろたえたような恐怖の発作もなくなっていた。これは一種不可思議な、にわかに訪れた落ちついた気分の最初の瞬間だった。身のこなしも確かで、不可解なところもなく、その動作には確乎たる意図が見えていた。『きょうこそやらなければ、きょうこそ!……』と彼はつぶやいていた。もっとも、彼は体がまだ衰弱していることはわかっていたのだが、冷静さにまで達し不動の考えにまで到達したこの上なく強烈な精神の緊張が、彼に力と自信を与えていたのだ。とはいえ、通りで倒れなければいいがとは思っていた。すっかり新しいものに着がえてから、テーブルの上にあった金に目をやると、ちょっと考えて、それをポケットに突っこんだ。金は二十五ルーブリあった。ラズーミヒンが衣類代につかった十ルーブリのおつりの、五コペイカ銅貨も持った。ついで、そうっと鍵をはずして部屋の外へ出、階段をおりて、あけっぱなしの台所をのぞいてみると、ナスターシヤはこちらへ尻を向けたまま、かがみこんでおかみのサモワールの火を吹きおこしていた。彼女はいっこうに聞きつけた様子もなかった。それに、彼が出ていくだろうなどと、だれに予想できたろう。一分もすると彼はもう通りに出ていた。
時刻は八時頃で、日は沈みかけていた。蒸し暑さは依然として変わりなかった。が、それでも彼はそのいやな匂いのする、埃っぽい、都会のよごれた空気をむさぼるように吸いこんだ。急に軽い目まいを覚えた。と、にわかに彼の燃えるような目とやせこけた青黄色い顔になにかしら野性的なエネルギーが輝きだした。彼は行きさきもわかっていなかったどころか、考えてもいなかった。彼にわかっていたのはただひとつ、『|こんなこと《ヽヽヽヽヽ》はきょうにも、いっぺんに、今すぐけりをつけてしまわなければならない。でなかったら家へは帰るまい、|こんな暮らしはしたくない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》』ということだけだった。が、どんなふうに始末をつけたらいいのか? なにでけりをつけたらいいのか? ということになると、彼はなんの考えも持っていなかったし、考えてみようともしなかった。彼はむしろ考えを追いはらうようにしていた。考えに責めさいなまれるからだった。彼には、『たとえどんなふうでもいいから』ともかくなにもかも一変させてしまわなければという気持ちしかなかったし、そういうことしかわかっていなかった。彼は絶望的な、ゆるがぬ自信と決意をこめてそのことをくり返し口にしていた。
古い習慣から、彼は散歩のときのいつもの道をとってまっすぐセンナヤにむかった。センナヤに行く手前の、小店の前の歩道に年の若い黒い髪の毛の風琴ひきが立って、なにかひどく感傷的なロマンスを弾いていた。彼は前の歩道に立っている十五歳ぐらいの娘の伴奏をしていたのである。娘は、クリノリーヌ(輪骨入りスカート)にマンチリヤ、手袋に、火の色の羽飾りのついた麦わら帽と、いかにも令嬢然としたかっこうはしていたが、身につけているものはなにからなにまで古ぼけてくたびれきっていた。彼女は安っぽい、かん高い、だがかなり聞きよい力づよい声で、店の者が二コペイカ銅貨を投げてくれるのを期待してロマンスをうたっていたのである。ラスコーリニコフは二、三人の聞き手のそばに足をとめて、しばらく歌を聞いていたが、そのうち五コペイカ銅貨を取り出して、娘の手に握らせた。娘は、調子の高い、いちばん感動的な節まわしのところで、まるで断ちきるように、ぴたりと歌いやめると、風琴ひきにむかって、荒っぽく「もういいのよ!」と叫び、二人はゆっくりつぎの店へと移っていった。
「あなたは流しの歌が好きですか?」とだしぬけにラスコーリニコフが、自分と並んで風琴ひきのそばに立っていた、遊び人じみた風体の、もうあまり若くもない通りすがりの男に声をかけると、相手はけげんそうにきょとんとした顔をして彼の顔を見た。「僕は好きなんです」と言葉をついだが、その顔つきはまるでまるっきり流しの歌の話をしているのではないようなふうだった。「僕はね、寒くて暗い、じめじめした秋の晩などに風琴の伴奏でうたっている歌を聞くのが好きなんですよ。それはどうしても、通行人がみんな青い病人じみた顔をしているような、じめじめした日に限るんです。でなかったら、ぼた雪が、風がないために、まっすぐ落ちてくるような日ならなおいいですね、わかるでしょう? そしてその雪をすかしてガス燈が輝いているといったような……」
「わかりませんね……失礼します……」男はラスコーリニコフの問いと変な様子にぎくりとしたらしく、そうつぶやくように言うと、通りの向こう側へ渡ってしまった。
ラスコーリニコフはまっすぐ歩きだして、あのときリザヴェータと話をしていた例の商人夫婦が店を出していたセンナヤの角へ出た。が、今はその夫婦の姿は見あたらない。その場所に気づくと、彼は足をとめてあたりを見まわし、粉屋の入り口であくびをしていた赤いルバーシカ姿の若者にこう声をかけた。
「この角で商人《あきんど》が女づれで、女房といっしょに商いをしていなかったかい、え?」
「商いはずいぶんいろんな人がやってるからねえ」と、若者は見くだすようにラスコーリニコフをためつすがめつ眺めまわしながら答えた。
「あの男はなんて名前なのかね?」
「洗礼を受けたときにつけられたとおりの名前でしょうさ」
「君もザライスク郡出身じゃないのかい? どこの県だい?」
若者はまたラスコーリニコフの顔をじろりと見た。
「わっしんとこは、旦那、県じゃありません、郡でさあ、兄貴はよくあっちこっち旅をして歩いていたが、わっしは家にばかりいたんで、なんにも知らねえんでさ……ま、こんなとこで旦那、ひとつごめんこうむりやんす」
「あれは呑み屋かね、あの二階は?」
「あれはレストランでさあ、玉突き場もあるし、女郎もいますぜ……すげえとこでさあ!」
広場を横ぎって行くと、むこうの隅に黒山のような人だかりがしている。百姓ばかりである。彼はいちばん人のこんでいるあたりにもぐりこんで、みんなの顔をのぞきこんだ。彼はなぜか、みんなを相手にしゃべってみたくてたまらなかったのである。だが、百姓たちは彼には目もくれずに、いくつかに固まって、ひっきりなしになにかてんでに自分たちだけでがやがやしゃべりあっていた。ラスコーリニコフはちょっと立ちどまって何か考えていたかと思うと、右手の、V大通りのほうへと歩道を歩きだした。広場をぬけると、横町へ出た……
彼は前にも、広場からサドーワヤ街に出る、かぎの手に曲がった、この短い横町をよく通ったものだった。ことに最近は、気分がむかむかするようなときは、『もっとむかむかした気分になればいいと思って』、このかいわいをぶらつく気になったものだった。が、今は、はいっていくのに、なんにも考えていなかった。そこには大きな建物があって、建物ぜんたいが呑み屋とかその他いろんな飲み食いをする店で埋まっていた。そういった店からは、『ちょっと隣りへでも』出かけるようなかっこうの、頭になにもかぶらず、服も一枚きりといった身なりの女がひっきりなしに走り出てくるのだった。女どもは歩道の二、三ヵ所に、だいたい地階の降り口あたりに群れをつくっていた。その地階は、段々を二つもおりると、いろんな遊び場へ行けるようになっていた。そのときはそういった遊び場のひとつから通りいっぱいにどんちゃん騒ぎの音が流れてきて、ギターの爪びき、歌声と、なかなか楽しそうだった。入り口には女が大勢群がって、階段に腰かけている者もいれば、歩道に腰をおろしている者もいるし、立ったまま、しゃべっている者もいた。そばの車道をタバコをくわえた酔っぱらいの兵士が大声で人に悪態をつきながらあちこち歩きまわっているところは、どこかへはいろうと思うのだが、その行き先を忘れてしまったものと見えた。また、どこかのごろつきがもうひとりのごろつきと口汚く口論をしているかと思えば、どこかの酔いつぶれた男で往来をふさぐようにしてぶっ倒れている者もいる。ラスコーリニコフは女が大勢群がっているそばに足をとめた。女たちはしわがれ声で話しあっていた。みんな、更紗《さらさ》の服に山羊皮の靴といったなりをしていたが、頭にはなにもかぶっていなかった。なかには四十を越している者もいたが、たいていは十七くらいで、ほとんどみんな、目のふちにあざができていた。
ラスコーリニコフはなぜかその地階の歌声と喧噪に興味を覚えた……そこからは、哄笑と金切り声の合い間に、ほそい裏声の勇ましい歌とギターの伴奏で、だれかがかかとで拍子をとりながら無鉄砲に踊りまくっていた。ラスコーリニコフは入り口にかがんで、歩道から玄関をのぞきこむようにして、暗い物思わしげな顔つきでじっと耳を傾けていた。
わたしのすてきな大事な人よ、
わけもないのにぶたないで!
といったような、歌い手のほそい声が流れてきた。ラスコーリニコフは、みんなの歌っている歌の文句を知りたくてたまらなくなった。まるでそれを知ることで一切がきまるかのような気持ちだった。
『はいってみようかな?』と彼は思った。『大笑いしていやがる! 酔っぱらって。どうだろう、ひとつぐでんぐでんになるまで呑んでみたら?』
「寄ってらっしゃらない、お兄さん?」と女のひとりがまだ完全にはしわがれていない、かなりよく透る声でそう聞いた。女はまだ若くて、それにいやらしいところもない――おなじ女の群れのひとりだった。
「ほう、美人じゃないか!」と、彼は身をおこしてその女に目をあてて、そう応じた。
相手はにっこりと笑った。そのおせじがひどく気にいったらしい様子だった。
「あなただってなかなか男前じゃないの」と彼女は言った。
「まあ、ずいぶん痩せてること!」と、もうひとりの女がバスをひびかせた。「退院でもしていらっしゃったばかり?」
「ちょっと見は、将軍さまのご令嬢だが、鼻はどいつもこいつも獅子っ鼻じゃねえか!」厚い百姓外套をひっかけて、顔はずるそうににやにやさせている、一杯機嫌の百姓がそばへ来て、だしぬけにこうくちばしを入れた。「やあ、楽しそうにやってるじゃねえか!」
「せっかく来たんなら、おはいりよ!」
「はいるとも! お楽しみだあ!」
そう言うとその男は転がり降りていった。
ラスコーリニコフは先へ歩いていった。
「ちょいとお兄さん!」と、うしろから女が声をかけた。
「なんだい?」
相手は照れてしまった。
「あたしゃ、お兄さん、いつでも喜んであんたと遊んであげられるけど、今はだめ。なんだかきまりがわるくって。ねえ、お兄さん、一杯ひっかけるんだから六コペイカほどちょうだいな!」
ラスコーリニコフはありったけつかみ出した。五コペイカ銅貨が三枚あった。
「まあ、なんて気前のいいお兄さんだろ!」
「君はなんていう名前なんだい?」
「ドゥクリーダってたずねて来てちょうだいな」
「いけないよ、それはなにさ」と、女の群れのなかのひとりがドゥクリーダのほうへ首を振ってみせながら、突然そう言った。「どうしてあんたはそんなねだるようなことができるの! わたしだったら、恥ずかしくって穴にでもはいりたくなっちゃうわよ……」
ラスコーリニコフはしゃべっている女の顔を興味ありげに見た。それは三十前後の、顔じゅう青あざだらけで、上唇もちょっとはれている、あばた面の女だった。女はおだやかなまじめな口調で、相手をなじっていた。
『あれはなにで読んだっけ』と、ラスコーリニコフは先へ歩みを運びながら考えた。『あれはなにで読んだんだったかな、死刑をいいわたされたある男が、処刑の一時間前に、こんなことをいったか考えたかした話だった。かりにどこか高い断崖の上に、それもやっと二本の足しかおけないくらいの狭い場所で暮らさなければならず、――深淵、大海原、永遠の闇、永遠の孤独と永遠の暴風雨などにかこまれて、――その二尺四方ほどの空地に立って、そのまま一生涯、千年も万年もそこにとどまっていなければならないとしても、――今死ぬよりもそうやってでも生きていたほうがましだ! ただ生きてさえいられれば、生きてさえいられれば、生きてさえいられればいい! たとえどんな生き方にもせよ、――生きてさえいられれば! ……とな。いやまったくだ! ああ、まったくそのとおりだ! 人間て卑劣にできてるからな! また、だからといってそれを卑劣漢呼ばわりするやつもやっぱり卑劣漢なんだ』と彼はすぐそのあとからつけ加えた。
彼はつぎの通りへ出た。『おや!「水晶宮」じゃないか! さっきラズーミヒンが「水晶宮」の話をしていたっけ。ところで、ええと、おれはなにをしようと思っていたんだっけな? うん、そうだ、新聞を読もうと思っていたんだ……ゾシーモフが新聞で読んだっていっていたんだな……』
「新聞はあるかい?」彼は、だいぶ広々とした、小ぎれいな食堂へはいりながら、そう聞いた。部屋数は幾つかあったが、人けはあまりなかった。二、三人の客が紅茶を飲んでいるのと、遠く離れたひと部屋に四人ほどのひと組が陣どって、シャンパンをあおっているだけだった。ラスコーリニコフは、その連中のなかにザミョートフがいるような気がしたが、遠いのでよく見わけがつかなかった。
『かまうことはない!』と彼は思った。
「ウォトカをお持ちしましょうか?」とボーイが聞いた。
「紅茶をくれ。それから新聞を持ってきてくれ、古いのを、五日ほど前からそろえてな。チップを出すぞ」
「承知しました。これはきょうのです。ウォトカも持って来ましょうか?」
古い新聞と紅茶が出た。ラスコーリニコフは腰をすえて、探しにかかった。『イーズレル――イーズレルと、アツテキ――アツテキと、――イーズレルに――バルトーラに――マッシーモと――アツテキ――イーズレル……ちぇっ、畜生! あ、こいつは雑報欄だな。女、階段から墜落――商人、酔って焼け死ぬ――ペスキの火事――ペテルブルク区の火事――またペテルブルク区の火事――さらにもうひとつペテルブルク区の火事と――イーズレル――イーズレル――イーズレル――イーズレル――マッシーモ……あ、これだ……』
彼はとうとう探し出して、読みはじめた。彼の目には行が躍って見えたが、『報知』にすっかり目をとおすと、つぎの号にのった最近の追加の記事を貪るように探しはじめた。ページをめくる手がけいれん的なもどかしさに震えていた。不意にだれか彼のテーブルに来て彼のそばに腰をおろした者がいた。ふと見ると、――ザミョートフだった、指輪といい、金鎖といい、ポマードを塗った黒い巻き毛にくっきりつけた分け目といい、粋なチョッキといい、ややすりきれたフロックといい、洗いたてとはいえないシャツといい、あのときとおなじようなかっこうをした、まぎれもないザミョートフである。彼は愉快そうに見えた。少なくとも愉快そうに、人のよさそうな笑みを浮かべていた。その浅黒い顔は、シャンパンを呑んだためほんのり赤くなっていた。
「なんとまあ! こんな所へ来ておられたんですか?」と彼はけげんそうに、まるで百年の知己のような調子で口をきった。「ラズーミヒンのついきのうの話では、あなたはずうっと意識不明だということでしたがねえ。いや不思議ですね! お宅へうかがったんですよ……」
ラスコーリニコフは、彼がやって来るだろうとは思っていた。彼は新聞をわきへやって、ザミョートフのほうへ向きなおった。唇には冷笑が浮かび、その冷笑にはなにやら新たな、いらだたしげな焦燥《しょうそう》の色が見えていた。
「それは知ってますよ、おいでになったってことは」と彼は答えた。「聞きましたよ。靴下をさがして下さったんだってね……ところでね、ラズーミヒンのやつ、あなたに夢中でしてねえ、あいつの話じゃ、ラヴィーザのところへご一緒したというじゃありませんか、そしてそのことをあのときあなたが盛んにやきもきして、例の雷副署長に目くばせしたのに、奴さんどうしても気がつかなかったでしょう、覚えていますか? いやまったく、わからないはずはないんですがねえ――はっきりした話なんですからねえ……え?」
「いやまったくあの男はひどいやつだな!」
「かみなり警部がですか?」
「いや、あなたの友だちのラズーミヒンですよ……」
「けっこうなご身分ですな、ザミョートフさん。あんなおもしろい所にも顔がきくなんて! 今あなたがシャンパンのご馳走になっていた相手はいったいだれです?」
「あれはわれわれ仲間で……呑んだんですよ……ご馳走なんて、とんでもない!」
「謝礼でしょうが! なんでも逃さず利用なさるからねえ!」ラスコーリニコフは笑いだした。
「いやなんでもないさ、お人よしの坊っちゃん、なんでもありませんよ!」と彼はザミョートフの肩をぽんとたたいて言いそえた。「僕はいやがらせに言ったんじゃない、『つまり仲がいいばっかりに、遊び半分に』言ってるんですからね、こいつは、ほら例の職人がドミートリイをなぐったときの言いぐさですよ、ほら、例の婆さん殺しの事件のことで」
「どうしてご存じなんです?」
「僕は、事によるとあなたがたよりくわしいかもしれませんよ」
「あなたはどうも少し変ですね……きっとまだ病気がひどく悪いんですよ。外出はいけませんね……」
「あなたには僕がそんなに変に見えますか?」
「見えますとも。ところで、新聞を読んでいらっしゃったんですか?」
「新聞です」
「ずいぶん火事の記事が出ていますね」
「いや、僕が読んでいたのは火事のことじゃないんです」こういうと彼は謎めいた視線をザミョートフに投げ、そして、またもや唇があざけるような冷笑にゆがんだ。「いや、火事のことじゃないんですよ」と、彼はザミョートフにまばたきをしてみせながら語をついだ。「白状なさい、坊っちゃん、僕がなにを読んでいたか、それが知りたくてたまらないんでしょう?」
「全然知りたくなんかありませんよ。ただ聞いてみただけですよ。聞いちゃいけないってことはないでしょう? なんであなたはしょっちゅう……」
「ま、お聞きなさい、あなたは教養ある、文学的な人間だ、そうでしょう?」
「僕は中学は六年まで行きましたよ」とザミョートフはいくぶん誇らしげな様子で答えた。
「六年ねえ! いやあ、わが小雀君! 頭はちゃんと分けて、指輪はいくつもはめて――いやあ、金持ちはちがったもんだ! へっ、まったくかわいい坊っちゃんだよ!」とたんにラスコーリニコフはヒステリックな笑いをザミョートフの顔にまともに浴びせかけた。相手はひと足あとずさったが、それは憤慨したというよりも、思わずぎょっとしたのである。
「ちぇっ、まったく変な人だ!」と、ザミョートフは大まじめにもう一度そう言った。「どうも、あなたはまだやっぱり熱に浮かされているようですね」
「僕が熱に浮かされている? でたらめいっちゃいけませんよ、小雀君! ……そんなに僕は変な男ですかね? ふん、それにしても僕はあなたにとって興味津々でしょう、え? 興味ぶかいでしょう?」
「興味ぶかいですね」
「つまり、それは僕がなにを読んでいたか、なにをさがしていたかってことがでしょう? なにしろこのとおり何日分も持って来させているんですからね! 怪しいでしょう、え?」
「それで?」
「神経のありったけを傾けているんでしょう?」
「神経のありったけとはまたなんですか?」
「それがなにかってことはあとで教えてあげるとして、今はあなたにはっきりいっておきましょう……いや、『白状しよう』と言ったほうがいいな……いや、これもぴったりしない。『供述するから、お書きとり下さい』――そうだ、これだ! それじゃ供述しよう、僕が読んでいたのは、興味を持っていたのは……さがしていたのは……さがし出そうとしていたのは……」ラスコーリニコフはここで目を細めて、ちょっと間をおいてから、「さがしていたのは――そしてそのためにここへ寄ったのは――それは官吏の老未亡人の殺人事件のことだったんですよ」と、ついに、思いきり自分の顔をザミョートフの顔に近づけて、ほとんどささやくような声でいった。ザミョートフは身じろぎもしなければ自分の顔を相手の顔から離そうともせずに、相手の顔をまともにじっと見つめていた。あとでザミョートフがなによりも奇異に感じたのは、二人の間にちょうどまる一分間も沈黙がつづき、二人がそんなふうにしてまる一分間もにらみあっていたことである。
「それがどうしたというんです、それを読んでいたからって?」と、出しぬけに彼は疑惑と焦慮にかられてわめきたてた。「僕になんの関係があるんです? それがどうだというんです?」
「それが、ほら、あの例の婆さんさ」とラスコーリニコフはザミョートフのわめき声にも微動だもせず、おなじようなささやき声で言葉をつづけた。「覚えてるでしょう、警察でその話が出たとき、僕が気を失ってぶったおれた、その婆さんなんですよ。どうです、今度はわかったでしょう?」
「なんのことです? なんですか……その『わかったでしょう』というのは?」と、ザミョートフは不安な気持ちにかられていった。
ラスコーリニコフの動きのないまじめくさった顔がたちまちがらりと変わったかと思うと、彼はまたもやいきなりさっきとおなじようなヒステリックな哄笑を爆発させて、まるで自分がまるっきりおさえられないような様子だった。とたんに彼には、自分がドアのかげに斧を握って立ち、掛けがねがおどり、あの二人がドアの向こうで悪態をつきながら押し入ろうとしていたとき、急にやつらをどなりつけ、連中を相手に口喧嘩をし、連中にぺろりと舌を出してやつらをいらだたせてやり、せせら笑って、大声で笑って笑って笑いぬいてやりたくなったあのついこの間の一瞬が異常なほど鮮明によみがえった!
「あなたは気ちがいか、それとも……」とザミョートフは口をすべらして――それきり言いやめてしまったが、その様子はふと頭にひらめいた考えに突然はっとしたようなぐあいだった。
「それとも?『それとも』、なんですか? ねえ、なんです? さあ、言ってごらんなさい!」
「なんでもありません!」とザミョートフはぷりぷりして答えた。「みんなばかげたことです!」
双方とも黙ってしまった。不意に爆発した発作的な笑いがおさまると、ラスコーリニコフは急に物思いに沈み、憂鬱な顔つきになった。そして、テーブルにひじをつき、ほおづえをついた。どうやら、ザミョートフのことなどすっかり忘れてしまったように見えた。かなり長い沈黙がつづいた。
「どうして紅茶を飲まないんです? さめちまいますよ」とザミョートフが言った。
「え? なに? 紅茶が? ……なるほど……」ラスコーリニコフはコップの紅茶をひと口ごくりと飲み、パンの切れはしをひとつ口へ入れ、ザミョートフに目をやったとたんに一切を思い出したらしく、びくっと身ぶるいをした様子だった。その瞬間彼の顔は最初のあざ笑うような表情に返った。そしてそのまま紅茶を飲みつづけた。
「近頃ずいぶんああいう兇悪事件がふえて来ましたね」とザミョートフがいった。「これも最近『モスクワ報知』で読んだんですが、モスクワで紙幣偽造団の一味が一網打尽に挙げられましたよ。ひと会社分くらいの数だったそうですがね」
「ああ、あれはだいぶ前の話でしょう! 僕が読んだのはもうひと月も前ですよ」とラスコーリニコフは冷静に答えた。「そうすると、あなたの考えでは、ああいうのが悪党なんですね?」
「悪党にちがいないでしょう?」
「あんなのが? あんなのは子供ですよ、青二才ですよ、悪党なもんですか! あれっぽっちの仕事に五十人からの人間が寄ってたかってやるなんて! あんなのってあるかね? あの場合は三人でも多いくらいですよ、それでもおたがい同士相手を自分以上に信用していなきゃならないんですよ! でないと、ひとりが酔っぱらったはずみに口をすべらしただけでも――なにもかもおじゃんになっちまうからね! 青二才ですよ! 銀行で札を両替させるのに頼みにもならん人間をやとったりして。あんな大事な仕事を行きあたりばったりの人間に任せていいもんですかね? が、まあ、かりに青二才でもうまくいったとするね、そしてめいめい百万ずつも両替できたとしますよ、が、そのあとはどうなると思います? 一生どうなると思います? 一生涯めいめいたがいに運命は相手次第ということですよ! それくらいなら首でもくくったほうがましですよ! ところが、連中は両替のしかたすら知らなかった。銀行で両替にかかって、五千ルーブリ受けとると、手が震えだした。四千ルーブリまでは数えたが、五千ルーブリめは数えもせずに、信用して受けとって、ポケットへねじこむなり、それっとばかりに逃げ出しちまった。それで、こいつは臭いということになり、たったひとりのまぬけのためになにもかもおじゃんになってしまったわけだ! こんな話ってあるもんですか?」
「手が震えたことがなんですか?」とザミョートフが引きとって言った。「いや、それはありえますよ。いや、私は頭から、それはありうると信じますね。時にはこらえきれないこともありますからね」
「それくらいのことが?」
「あなたならこらえきれますか? いや、僕だったらこらえきれませんね! 百ルーブリやそこらの報酬でそんな恐ろしいことをしに行くなんて! 偽札をもって乗りこむなんて――それも所もあろうに――その道にかけちゃ海千山千の連中のいる銀行へ乗りこもうっていうんですからね、――いや、私だったら泡をくっちまいますよ。あなたはまごつきませんか?」
ラスコーリニコフは急にまた無性《むしょう》に『舌をぺろりと出し』てやりたくなった。悪寒がときどきさあっと背筋を走った。
「僕だったらそんなことはしませんね」と彼は遠まわしに切りだした。「僕だったらこんなふうに両替しますよ。まず最初の千ルーブリを、一枚一枚あらためながら、あっちからもこっちからも四回ほど数えなおして、つぎの千ルーブリにかかる。それを数え出して半分くらいまで数えあげたところで、どれか五十ルーブリ札を一枚抜きとって、――偽札じゃないかと――明かりにすかしてみては、ひっくり返してまた明かりにすかしてみますね。そして、『僕は心配なんですよ。うちの親類の女でひとり、この間この手で二十五ルーブリふいにしちゃった者がいるんでね』とかなんとか言って、その一部始終をひとくさり語って聞かせる。それから三千ルーブリめを数えだしたところで、『いや失礼。さっき二千ルーブリめのとこで七百ルーブリのあたりを数えちがえたようで、疑わしくなってきましたから』とか言って、三千ルーブリめを放りだして、また二千ルーブリめにかかる、――とまあ、こんなふうにして五千ルーブリをすっかり数えあげるわけです。そしてぜんぶ数えおえたときに、また五千めの分と二千めの分から一枚ずつ札をぬいて、また明かりにすかしてみたり、また疑りぶかく、『すみませんが、これを取りかえて下さい』などと言って、――銀行員を汗だくにしてしまい、そのため相手には僕をどうやってやっかい払いしたものかわからないというふうにしてしまうんです! で、ついに終わって、出て行く段になって、ドアをあけたとたんに――いやいや、失礼、とか言ってまたとって返して、なにか聞きただして、なにか説明してもらう、――とまあ、僕だったらこんなふうにやりますね!」
「いやはや、あなたはまったく恐ろしいことをいいますねえ!」とザミョートフは笑い出しながら言った。「ただしそんなことはみんな話の上のことで、いざ実行という段になったら、きっとけつまずきますよ。そんなときは、ま、あなたにはっきり言っておきますが、僕やあなたどころか、かなり甲羅を経た無鉄砲な人間でさえ、自分で自分のことが保証できないものですよ。手っとり早い話が――現に実例があります。僕たちの管内で婆さん殺しがありましたがね。まったく向こう見ずなやつと見えて、昼日なか一か八かの冒険をやってのけて、それこそ奇跡的に助かったわけだけど、――やっぱり手が震えた証拠には、物を盗《と》って行けなかった。つまりこらえきれなかったわけです。それは仕事のやり口から見て明らかなんです……」
「明らかねえ! じゃ、ひとつ行ってひっ捕えていらっしゃい、今すぐ!」と彼は意地悪をいってみるのが嬉しいような調子でザミョートフをそそのかしながら、そう叫んだ。
「大丈夫、そのうちつかまりますよ」
「だれに? あなたに? あなたにつかまえられますかね? まあ、くたびれもうけでしょうな! あんたらのいちばんの狙い所は、ま、ある人間の金使いが荒いかどうかといったような所でしょう? 金を持っていなかった者が急に金を使い出すと、――あいつに相違ないということになる。そんなふうだったら、こんなちっちゃな子供だってその気になりゃ、あんた方なんかだませますぜ!」
「それそれ、そいつをやつらはみんなやるんですよ」とザミョートフが答えた。「ぬけめなく人を殺し、命を賭けるようなことをしていながら、そのあとすぐに酒場に入りびたって、つかまっちまうんですよ。金を使っているうちにご用ということになるんです。みんな、あなたのようなぬけめのない連中ばかりじゃないんでね。あなたなら、もちろん、酒場へなんか出かけないでしょうけどね?」
ラスコーリニコフは眉根をよせて、じっとザミョートフに目をすえた。
「あなたは、どうやら、味をしめて、僕ならそんなときどんな行動をとるか知りたがっているようですな?」と彼は不機嫌そうな顔つきで聞いた。
「知りたいですね」と相手はきっぱりと真顔で答えた。
「大いに?」
「ええ、大いに」
「よろしい。僕ならこんなふうに行動しますね」とラスコーリニコフはいいだしたが、今度もまた急に自分の顔をザミョートフの顔に近づけ、またもや相手をじっと見すえ、話す声もひそひそ声だったので、今度は相手もぶるっと身震いしたくらいだった。「僕ならこうしますね。まず金品を持って、そこを立ち退いたら、その足で、どこへも寄らずに、どこか淋しい所で、塀ぐらいしかなく、ほとんどだれもいないような所へ、――なにか野菜畑とかそういったような所へ行きますね。そしてそこの裏庭あたりに何かこれくらいの、重さ十五キロか二十キロくらいの石を、どこか塀のそばの隅に、家が建った頃から転がっているのかもしれないようなのを、前もって見つけておくんです。その石を持ちあげてみると――その下にくぼみができているにちがいないから、――そのくぼみに品物と金をぜんぶ入れてしまう。そこへしまったら、石を前のとおりに転がしてのっけて、足で踏みつけてそこを立ち去る。そして、一年も、二年も、三年も取りに行かない、――さあ、そこでさがしてごらんなさい! まず迷宮入りってとこでしょう!」
「あなたは気ちがいだ」とザミョートフもなぜかささやき声に近い声でそう言うと、これまたなぜかラスコーリニコフのそばから不意に身を引いた。ラスコーリニコフは、目はぎらぎら輝き出し、顔色もおそろしいほど青くなった。そして、上唇がぴくりと動き、そのままひくひく躍りだした。彼はザミョートフのほうへなるべく近くかがみこむようにして、唇を動かしはじめたが、なにひとつ言葉となって出ず、そのまま三十秒ほど経過した。彼は自分のしていることはわかっていたのだが、自分がおさえられなかったのである。恐ろしい言葉が、あのときのドアの掛けがね同様、彼の唇の上で躍っていて、今にも口をついて出そうだった。ただ言葉を自然に出るに任せさえすれば、出てしまいそうだった!
「どうです、もしもあの婆さんとリザヴェータを殺したのが僕だったとしたら?」こう彼は突然口をすべらしてしまって、――はっとわれにかえった。
ザミョートフはぎょっとして相手を見、顔は真っ青になった。そしてその顔が苦笑でゆがんだ。
「そんなことがあってたまるもんですか」と彼はやっと聞こえるくらいの声で言った。ラスコーリニコフは意地悪げにじろりと相手を見やった。
「白状なさい。あなたはそう信じていたんでしょう? そうでしょう? そうにちがいないでしょう?」
「全然ちがいますよ! 今だったら前よりもっと信じませんね!」とザミョートフはあわてて打ち消した。
「とうとうわなにひっかかったぞ! 小雀がつかまったぞ。そうするとつまり、今は『前よりもっと信じていない』というところを見ると、前には信じていたわけでしょう?」
「全然そんなことはありませんよ!」ザミョートフは明らかに困りはてた様子でそう叫んだ。
「するとあなたがああやって僕をおどかしてきたのは、ここまで持ってくるためだったんですね?」
「じゃ信じていないんですね? そんなら、あのとき僕が警察を出てから、あんたらはなんの話を始めたんです? それにかみなり警部のやつ、僕が失神したあとでなぜ尋問なんかしたのかねえ? おい君」と彼は腰をあげて学帽を取りあげると、給仕を呼んだ。「僕の分はいくらだね?」
「ぜんぶで三十コペイカになりますが」と給仕が走ってきて答えた。
「ほら、この二十コペイカ、君にチップだ。どうです、ずいぶん金を持っているでしょう!」と言って、彼はザミョートフのほうへ札を持った震えている手をぐっとのばして見せた。「赤札に青札二十五ルーブリ。どこからはいったと思います? それにこの新調の服はどこから出てきたんでしょうね? ご存じのとおり、一文もなかったのに! おそらくおかみさんからもう聞き出しているでしょうがね……いや、もうたくさんだ! Assez cause(おしゃべりはたくさんだ)さようなら……ごきげんよう!……」
彼はそこを出るとき、一種奇怪な、それでいてぞくぞくするような快感のまざった感覚に全身わなわな震えていた、――がそれでいて、陰鬱で、おそろしく疲れきったような様子だった。顔は、なにか発作でもおこしたあとのように、ゆがんでいた。疲労感はみるみる増してきた。ほんのちょっとしたショックにも、ちょっとした刺戟にも、たちまちふるいたち、元気になるかと思うと、その感覚が弱まるにつれて、おなじくらいの速さで元気も衰えてくるのだった。
ザミョートフのほうはひとりっきりになったあとも、さらに長いことおなじ場所に腰かけたまま、物思いにふけっていた。ラスコーリニコフにはからずもある点に関する自分の考えがすっかりひっくり返されてしまい、彼の意見は決定的にきめられてしまったのである。
『副署長はでくの坊だ』と彼は最後の断を下した。
ラスコーリニコフが表へ出るドアをあけたとたんに、表階段で、はいって来ようとしたラズーミヒンに出くわした。二人ともつい一歩手前までたがいに気づかなかったため、あぶなく鉢あわせをするところだった。しばらくの間二人はたがいに目で相手の腹のなかをさぐっていた。ラズーミヒンは大いに驚きあきれていたが、不意に憤怒が、それこそ嘘いつわりのない憤怒がその目に猛烈な勢いで燃えだした。
「きさまはこんなとこへ来てやがったのか!」と彼はありったけの声でどなりつけた。「寝床から抜けだしやがって! おれはソファの下までさがしたんだぞ! 屋根裏まであがったんだぞ! きさまのことでナスターシヤをぶんなぐるとこだったんだ……それなのに本人はしゃあしゃあとこんな所へ来てやがる! ロージャ!これはどうしたことなんだ? すっかりありのままを言え! 白状しろ! え、おい!」
「これはつまり、君たちみんながうるさくてたまらなくなったんで、ひとりっきりになりたいってことさ」とラスコーリニコフは落ちつきはらって答えた。
「ひとりっきりに? まだ歩けもしないのに、まだつらも真っ青なら、息も切らしているというのに! ばかめ! ……きさまは『水晶宮』なんかでなにをしていたんだ? 今すぐ白状しろ!」
「通させろよ!」とラスコーリニコフは言って、そばを通りぬけようとした。それがラズーミヒンをかっとさせてしまった。彼は相手の肩さきをむんずとつかんだ。
「通させろだと? よくもきさまは『通させろ』なんて言えたもんだな? おれが今きさまをどうしようとしているか、わかってるのか? 羽がい締めにして、ふんじばってな、小脇にかかえて家へ連れかえって、錠をかけちまうつもりなんだぞ!」
「え、おい、ラズーミヒン」とラスコーリニコフは静かに、見たところ、まったく落ちつきはらった様子でこう言い出した。「僕が君の親切をありがた迷惑に思っているってことが君にはわからないのか? まったく物好きにもほどがあるじゃないか、こういうことをしてやっても……軽蔑するような人間に、こうした親切をやっとのことで我慢しているような人間に親切の押し売りをしてどうするんだ? いったいなんのために僕が発病したばかりのときに君は僕をさがし出したりしたんだい? ひょっとしたら、僕は死ぬのを大いに喜んでいたかもしれないじゃないか? どうなんだ、きょうだって僕は君に、君は僕を苦しめている、僕は君に……うんざりしているって言ったつもりなのに、あれじゃまだ足りなかったのかい! ほんとに物好きだよ、人を苦しめるなんて! 僕は君に断言するけど、こういったことが僕の病気の回復を妨げていることおびただしいんだぜ、なぜって、僕はこういったことにのべついらだたされているんだもの。さっきゾシーモフは、僕をいらだたせまいとして、帰ってくれたじゃないか! 君も、頼むから、ほうっといてくれ! それに、君はどんな権利があって僕を力ずくでおさえておこうとするんだい? 君にはほんとうに、僕が今完全に正気で物をいっているのがわからないのかね? ひとつ教えてくれ、どうやって、どうやって君に頼んだら、君は僕につきまとったり親切の押し売りをしたりするのをやめてくれるのかね? 僕は恩知らずだっていいんだ、下劣な人間であったっていい、ただ、お願いだから、ほうっといてくれ、ほうっといてくれ!ほうっといてくれ! ほうっといてくれよ!」
彼はこれを言いだしたときは、おだやかな調子で、これからぶちまけるつもりのかんしゃくをあらかじめ楽しんでいるようなふうだったが、終わったときは、さっきのルージンを相手にしたときと同様、狂乱状態になり、息まではずませていた。
ラズーミヒンは突立ったまましばらく考えていたが、ついに相手の手をはなしてしまった。
「じゃ、どこへでも勝手に行くがいい!」と彼は静かに、ほとんど考えこむような調子で言ったかと思うと「待て!」と、ラスコーリニコフがその場から動こうとしたとたんに、出しぬけに声をかけた。「ま、僕の話を聞け。僕ははっきり言っておくが、きさまらはみんなひとり残らず多弁でほらふきだ! きさまらはちっぽけな悩みでも生ずると――もうその悩みを、まるで牝鶏が卵をかかえるみたいに後生大事にかかえっぱなしなんだ! しかも、そんなときですら、他人の書いたものの受け売りをしてやがる! きさまらには自主的な生活なんかその印さえありゃしないんだ! きさまらは鯨油でできているのさ、体じゅう血のかわりに、チーズの残り汁が流れているんだ! 僕はもうきさまらのうちのだれも信用しないぞ! きさまらがどんなときでもまずやり出すことは、どうやって人間らしくなく見せようかってことばかりなんだ! おい、待てったら!」と、彼はラスコーリニコフがまた行きかけようとするのに気づくと、狂暴さを倍加して絶叫した。「最後まで聞けよ! きさまも知ってるとおり、僕んとこじゃきょう引っ越し祝いの集まりがあるんだ、ひょっとすると、もうみんな来ているかもしれない、それに叔父を置いてきちゃったんだ、――ついさっき駆けつけてくれたんだ、――来客の接待にな。そこでもし君がばかでなかったら、俗物のまぬけでなかったら、徹底したばかでなかったら、外国からの翻訳物でなかったら……いいか、ロージャ、白状するが、君は愛すべき賢い男だが、ばかだよ! ――が、もし君がばかでないと言うんだったら、君はただいたずらに靴底をすりへらして歩くより、きょう僕の家へ来て、ひと晩坐っていたほうがよかないか!いったん外へ出てしまったのは、これはもうしかたがない! 僕は君に上等なふわふわした安楽椅子を持ってきてやってもいい、家主のとこにあるんだ……ま、お茶飲みの寄りあいさ……それに、その椅子じゃいやだと言うんだったら、――枕つきのソファにだって寝かしてやるぜ、――いずれにしろ僕らのそばに寝てりゃいいんだ……ゾシーモフも来るんだ。君、来るだろう?」
「いやだ」
「う、う、嘘つけ!」とラズーミヒンはたまりかねて大声を放った。「きさまなんかにわかってたまるかい? きさまは自分のいうことに責任を持てないんじゃないか! それにきさまはこういうことについちゃなんにもわかっちゃいないんだ……僕は千回もちょうどこんなぐあいに人と喧嘩別れをしてはまた仲なおりした男なんだ……恥ずかしくなって――相手のところへもどるわけさ! それじゃ覚えておけよ。ポチンコフのアパートだぞ、三階だぞ……」
「してみるとラズーミヒンさん、お前さんはおそらく、親切をつくす喜びのためとあれば、だれかに自分をなぐらせもするんだろうな」
「だれを? おれをか? そんなことを空想しただけでも、そいつの鼻をひん曲げてやるよ!ポチンコフのアパートだぞ、四十六号、官吏のバーブシキンの住まいだぞ……」
「僕は行かないぜ、ラズーミヒン!」ラスコーリニコフは向きを変えて、さっさと歩きだした。
「賭けをしてもいい、君は来るよ!」とラズーミヒンはそのうしろから叫んだ。「来なかったら、きさま……来なかったら、きさまのことなんかもう知らないぞ! おい、待て! ザミョートフはそこにいたかい?」
「そこにいるよ」
「会ったかい?」
「会ったよ」
「話をしたかい?」
「したよ」
「なんの話を? まあいいや、勝手にしろ、話してくれなくたっていい。ポチンコフだぞ、四十六号、バーブシキンの家だぞ、覚えておけよ!」
ラスコーリニコフはサドーワヤ街まで行きつくと、角をまがった。ラズーミヒンは考えこんでそのあとを見守っていた。が、ついにあきらめて建物のなかへはいったが、階段の中途で立ちどまってしまった。
『畜生、くたばっちまえ!』と彼はほとんど声に出して考えつづけていた。『いうことは筋道だっている、そのくせまるで……しかし、おれもばかだぞ! 気ちがいだって筋道だった話をすることもあるじゃないか? ゾシーモフが心配していたのはきっとこのことなんだな!』と考えて彼は指で額をはじいた。『どんなもんだろう、しかしあいつを……今あいつをひとりで放すって法があるだろうか? ひょっとすると、身投げでもするかもしれんぞ……やっ、これはしまったことをしたぞ! いけねえ!』こう思って彼は駆けもどってラスコーリニコフのあとを追ったが、もう影も形もなかった。彼はぺっとつばを吐くと、一刻も早くザミョートフに様子を聞きただそうと、急ぎ足で『水晶宮』へとって返した。
ラスコーリニコフはまっすぐ橋へ抜けると、橋のなかほどでらんかんのそばに立ち、らんかんに両ひじをついて、遠くを眺めはじめた。ラズーミヒンと別れたあと、彼はひどくぐったりしてしまい、そこへたどり着くのもやっとだった。往来でもいい、どこかその辺に坐るなり寝るなりしたかった。彼は水の上に身をかがめて、ばら色の最後の夕映えや、次第に濃さをましてきている夕闇のなかに黒ずんで見える家並や、左手の河岸通りのどこか屋根裏部屋の、一瞬射しこんだ最後の陽光にまるで炎にでもつつまれたように輝いている遙か遠くの小窓や、黒ずんできた運河の水を機械的に眺め、とりわけその運河の水に注意をこらして見入っているようだった。あげくの果てに、目のなかでなにやら赤い輪がぐるぐる廻りだし、家並が遠くへ退いて、通行人、河岸通り、馬車と――あらゆるものがぐるぐる施回し、踊りはじめた。突如彼はぶるっと身震いをした。あるいはこのときも、ある奇怪な恐ろしい光景に卒倒から救われたといえるかもしれない。彼は、だれかが自分の右側に立った気配を感じて、ふと目をやった――見れば、顔は面長で黄色く痩せほそって、目は落ちくぼんで赤っぽく充血している、頭はプラトークでつつんだ、背の高い女である。女は彼をまともに見たが、明らかに、なにも目にはいらず、だれも見わけられなかったらしい。と、やにわに彼女は手をらんかんに突いて、右足をあげて格子の向うへ出し、それから左足も出したかと思うと、運河にさっと身を躍らせた。汚い水が割れて、犠牲者を一瞬のうちに呑みこんでしまったが、一分もすると身投げした女は浮きあがり、頭と足は水につかり、背なかだけ上に出して、ずれたスカートを枕のように水面にふくらましたまま、しものほうへ静々と流されていった。
「身投げだ! 身投げだ!」と数十人の叫び声がし、人々が駆け寄って来て、河岸どおりは両岸とも見物人でびっしり埋まり、橋の上のラスコーリニコフのまわりにも人が、うしろからのしかかったり、彼を押しつけたりしながら、黒山のように群がった。
「あれまあ、あれはわたしらんとこのアフロシーニヤじゃないの!」どこか近くでそう言う女の泣くような声がした。「皆さん、救ってやって下さい! だれか親切な人がいたら、水からあげてやって下さい!」
「ボートを出せ! ボートを!」と、人群れのなかで叫ぶ者がいた。
しかし、ボートの必要はなかった。警官が運河へ降りる段々を駆けおりると、外套や長靴をぬいで、ざんぶとばかり水中に飛びこんだのである。手間は大してかからなかった。身投げの女が水に流されてきたのは降り口から数歩のあたりだったので、彼は女の着物を右手でつかみ、左手で、同僚のさし出した竿に首尾よくつかまった。たちまち女は引きあげられ、降り口のみかげの敷石の上に寝かされた。女は間もなく意識をとりもどし、身を起こして、そこに坐り、意味もなく両手で濡れた服をこすりながら、くさめをしたり、鼻を鳴らしたりしはじめた。だが、なにひとつ口をきこうとはしなかった。
「呑みすぎてこんなことになったんですよ、旦那方、呑みすぎたんで」さっきの女が、今度はアフロシーニヤのそばへ来て、わめいていた。「この間も首をくくろうとしたのを、繩からおろしたんです。たった今わたしは店へ買いものに出かけしなに、娘っ子を見張りにつけておいたのに、――こんなとんでもないことをしでかしちまって! 町内の女なんですよ、旦那、わたしらんとこの町内の女なんですよ、近所に住んでるんです、端から二軒めの家です、ほら、あそこの……」
人群れは散りはじめたが、警官たちはまだ身投げをした女の世話をしていた。だれか、警察がどうのと叫んだ者がいた……ラスコーリニコフは一部始終を妙に冷淡な無関心な気持ちで眺めていた。彼はいやな気持ちがしてきた。「いや、あれはいやらしい……水じゃ……だめだ」と彼はつぶやいた。そして「どうということもないじゃないか」と、つけ加えた。「なにも待っていることはない……警察がいったいなんだ……それにしてもザミョートフはどうして警察へ出ていないんだろう? 警察は九時すぎには開いているはずなのに……」彼はらんかんに背をむけて、まわりを見まわした。
『それがどうだというんだ! それでもいいじゃないか!』彼は断乎としてそういいきると、橋から動きだして、警察署の方角にむかって歩きだした。心はうつろでどんより濁っていた。彼は物を考えたくもなかった。わびしさまでが消え去り、さっき『なにもかもけりをつけてしまおう』と思って家を出たときの意気ごみはその跡かたすらなくなっていた。そして、まったくの無関心がそれにとって代わっていた。
『いいじゃないか、これだって結末のひとつだ!』などと、彼は静かな足どりで、ものうそうに運河の河岸通りを歩きながら考えていた。『とにかく、けりをつけてしまおう、そうしたいんだから……しかし、こんな結末があるかな? が、どっちみちおんなじじゃないか! 二尺四方くらいの空間は残るんだ、――へ! それにしても、なんという結末だ! が、これはほんとうの結末だろうか? おれはやつらに白状できるかな、どうだろう? えい……畜生!それにおれは疲れちまった。一刻も早くどこかで寝るか坐るかしたいよ! なにより恥ずかしいのは、実にばかげているってことだ。が、こんなこともどうだっていいや。いやまったく、なんというばかげた考えばかり頭に浮かんでくるもんだろう……』
警察署へ行くには、どこまでもまっすぐ行って、二つめの角で道を左へとらなければならなかった。警察はもうそこから数歩だった。それなのに、最初の曲がり角まで来ると、彼は立ちどまってしばらく考えていたが、路地へと方向を変えて、通りを二つ越えて廻り道をした――これは、あるいは、なんの目的もあるわけではなかったのかもしれないが、事によると、一分のばしに時を稼ぐつもりだったのかもしれない。彼は足もとを見つめながら歩いていった。と、ふと彼はだれかに耳もとでささやかれたような気がした。頭をあげてみると、例のアパートのそば、門のすぐそばに立っていた。|あの《ヽヽ》晩以来彼はここへ来たこともなければ、そばを通ったこともなかったのだ。
彼ははねのけることのできない、説明しようもない欲求にぐいぐい引っぱられていった。彼は屋敷内にはいり、門の下を通り、それから右手の最初の入り口にはいって、なじみの階段を四階にむかってのぼり出した。狭い急な階段は真っ暗だった。彼は踊り場ごとに立ちどまって、好奇の目を光らせて眺めまわした。一階めの踊り場の窓わくはすっかり取りはずしてあった。『あのときはこんなじゃなかった』と彼は思った。もうそこは、ニコライとドミートリイが仕事をしていた二階の部屋だ。『しまってる。ドアも塗り変えてある。ということはつまり、貸間ありってわけだ』そこはもう三階……そして四階だ……『ここだ!』彼はにわかにためらいを感じた。その住まいのドアはあけ放たれていて、そこには人がいるらしく、声がしていた。まったく予期しないことだった。しばらくためらってから、彼は最後の何段かをのぼりきって、部屋へはいっていった。
そこもやはり新しく手を入れている最中で、職人がはいっていた。それには彼もぎょっとしたようだった。彼はなぜか、自分が立ち去ったときとそっくりおなじ状態の部屋に、ひょっとしたら、ゆかの上のおなじ場所にころがっている死骸にまで出くわすものと思っていたのである。ところが、今は壁はむき出しだし、家具も全然なくて、なんとも変なぐあいなのだ! 彼は部屋を横ぎって窓辺に行き、窓のしきいに腰をかけた。
職人はみなで二人きり、しかもどちらも若者だったが、ひとりは年かさで、もうひとりはずっと若かった。以前の黄色い、古ぼけてすり切れた壁紙のかわりに藤色の花模様のついた白い新しい壁紙をはりかえているところだった。ラスコーリニコフはなぜかそれがひどく気に入らなかった。彼はその新しい壁紙を憎らしそうににらんでいたが、その様子はまるでなにもかもそんなふうに変えられてしまったことが残念でならないようなふうだった。
職人たちは、明らかに、ぐずぐず手間どっていたらしく、今大急ぎで紙を巻いて、帰り仕度をしているところだった。ラスコーリニコフが現われてもほとんど彼らの注意をひかず、彼らはなにやら盛んに話をしていた。ラスコーリニコフは腕ぐみをして、耳を傾けはじめた。
「その女がよ、おれんとこへ朝っぱらやって来やがったのさ」と年上のほうが年下のほうにこんな話をしていた。「朝、べらぼうに早く、どこからどこまでめかしこんでな。それで『なんだっておめえそんなにおれにいちゃつきやがんでえ、なんだって、おめえそんなにおれの気をひくようなことをしやがんでえ?』っておれが言うと、『あたしゃ、チートさん、これから先、すっかりお前さんのいうなりになろうと思うんだよ』とこう来やがったのさ。まあ、そんなわけさ! ところが、そのめかしようと来たら、モード雑誌だあ、なんのこたあねえ、モード雑誌よ!」
「いってえなんだい、兄貴、そのモード雑誌ってのは?」と若いほうが聞いた。彼は、明らかに、『兄貴』になにかと教わっているらしかった。
「モード雑誌ってえのはな、おめえ、それは色つきのすげえ絵のことさ、ここの服屋へ土曜ごとに外国から郵便で来ているんだが、つまり女も男も、だれはどういう服を着たらいいかってことが書いてあるものさ。つまり、絵だよ。男はやっぱしたいてい裾長の外套を着ているところが描いてあるが、女のほうになるてえと、お前が持ちものをぜんぶ投げ出したっておっつかねえくれえ豪勢な服ばかりだ!」
「このペテルブルクってとこはねえもののねえとこだねえ!」と年下の職人が熱狂したように叫んだ。「おやじとおふくろを抜きにすりゃなんでもありやがる!」
「それをのけたら、おめえ、なんでもねえものはねえってわけよ」と年かさのほうが教えさとすような調子で結論を下した。
ラスコーリニコフは立ちあがると、前には長持ちや寝床やたんすのおいてあったつぎの部屋へはいってみた。その部屋は、家具がなくなっているせいか、彼にはひどく小さく見えた。壁紙はもとのままで、隅の壁紙には聖像箱のおいてあった場所の跡がくっきりと残っていた。彼はひとわたり見渡すと、もとの窓のところへひっかえして来た。年かさの職人が彼のほうを横目でじっと見た。
「なにかご用ですかい?」と彼はラスコーリニコフにむかって聞いた。
ラスコーリニコフは返事もせずに立ちあがると、玄関さきへ出ていって、呼び鈴のひもをつかんで、ぐいと引いてみた。あのときとおなじ呼び鈴に、おなじブリキのような音だった。彼は二度三度とそれを引っぱっては、耳をすまして、あのときのことを思い出そうとした。すると、あのときの苦しいまでに恐ろしい、醜悪な感じがいよいよ鮮かに生き生きと蘇ってきた。彼はひとつ鳴らすごとにぶるっ、ぶるっと震えあがっているうちに、だんだん快感を覚えてきた。
「なんの用があるんだい? あんたは何者だね?」と職人が出て来てどなった。ラスコーリニコフはまたドアのなかへはいっていった。
「部屋を借りようと思って、見ているところなんだよ」と彼は言った。
「部屋を借りるのに夜来る人はありませんぜ。それに、庭番に案内してもらわなくちゃいけねえ」
「ゆかは洗っちまったんだね。塗るのかね?」とラスコーリニコフは話しつづけた。「血はもうないじゃないか?」
「血ってなんの血です?」
「ここで婆さんが妹といっしょに殺されたじゃないか。このあたりは一面血の海だったんだ」
「いったいあんたはどなたです?」と職人は不安を覚えたようにそう叫んだ。
「僕かね?」
「ええ」
「君は知りたいのかね? ……警察へ行こう、警察で教えてやるよ」
職人はうさん臭そうに彼を見やった。
「あっしらはもう帰らなくちゃ、すっかり手間どっちまった。行こう、アリョーシャ。戸じまりをしなくちゃなんねえぞ」と年かさの職人が言った。
「じゃ行こう!」とラスコーリニコフは気乗りのしない調子で答え、先に立って、ゆっくりと階段をおりて外へ出ると、「おい、門番!」と、門にさしかかったとき、そう声をかけた。
人が何人かアパートの入り口のすぐわきに立って、行きかう人を眺めていた。庭番二人と女と、部屋着のままの小商人と、そのほか二、三人いた。ラスコーリニコフはずかずかとそばへ歩み寄った。
「何かご用ですか?」と庭番のひとりが応じた。
「警察へ行ってきたかね?」
「ただ今行ってきました。なにかご用ですか?」
「みんな仕事をしていたかね?」
「していやんした」
「副署長もいたかね?」
「しばらくいたようでした。が、なんのご用でしょう?」
ラスコーリニコフは答えずに、考えこみながら、相手と並んで立っていた。
「部屋を見に来たらしいんだよ」と、年かさの職人がそばへ来ていった。
「どの部屋を?」
「あっしらが仕事をしている部屋さ。『どうして血を洗っちまったんだ?』だの、『ここで人殺しがあったんだが、おれはこの部屋を借りに来たんだ』だのと言ってやがってな。それから呼び鈴を鳴らしはじめたんだが、ひもを引きちぎらんばかりだったぜ。それに、警察へ行こう、警察でなにもかもはっきりさせてやるなんてぬかしやがって、からんで来やがんのさ」
庭番はうさん臭そうに、眉をひそめながら、ラスコーリニコフを品定めしていた。
「あなたはいったいどなたです?」と彼はやや威丈高《いたけだか》になって叫んだ。
「僕はロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフという元大学生で、このちょっと先の横町にあるシーリのアパートの十四号にいる者だよ。そのアパートの門番に聞いてみな……知ってるから」ラスコーリニコフは振り向きもせずに、暗くなった通りにじっと目をそそぎながら、なんとなく大儀そうに、考えにふけりながら、これだけのことを言った。
「あなたはあの部屋へなにをしに来たんです?」
「見に来たのさ」
「あそこになにか見るものでもありますかね?」
「ひとつ、とっつかまえて、警察へ突き出したら?」と小商人が出しぬけに割りこんできたが、すぐ口をつぐんでしまった。
ラスコーリニコフはその男を肩越しに横目でじっとにらんでおいて、それからやはりおだやかな大儀そうな調子でこう言った。
「行こう!」
「突き出しちまえ!」と、小商人は勢いづいて、引きとるようにして言った。「なんだってこの男は|あのこと《ヽヽヽヽ》なんか持ち出しやがったんだ、こいつなにか魂胆でもあるんじゃねえか、え?」
「酔っぱらっているのか、いねえのか、さっぱりわかりゃしねえ」と職人がつぶやいた。
「いったいなんの用があるんだね?」と、そろそろ本気になって怒りだした庭番がまたこうどなった。「なんだってそうしつこくからんで来るのかね?」
「警察へ出るのが怖くなったか?」とラスコーリニコフはあざけるように言った。
「なにが怖いもんか。なんだってからんで来やがるんだ?」
「|かたり《ヽヽヽ》め!」と女が叫んだ。
「こんな野郎を相手につべこべ話すことはねえ」と、もうひとりの庭番がどなりつけた。これはラシャ外套の前をはだけて、帯にかぎをいくつもぶらさげた大男だった。「失せやがれ……まちがいなく|かたり《ヽヽヽ》だ……とっとと失せやがれ!」
こう言うと彼はラスコーリニコフの肩さきをつかんで、通りへほうり出した。ラスコーリニコフはもんどりうってひっくり返りそうになったが、倒れもせずに、体をしゃんと伸ばすと、黙って見物人どもをにらんで、そのまま先へ歩きだした。
「けったいな野郎だ」と職人が言った。
「きょうびはけったいな人間が多くなったよ」と女が言った。
「やっぱり警察へ突き出してやりゃよかったな」と小商人がつけ加えて言った。
「なんにも関りあうことあねえさ」と図体の大きい庭番が断定を下した。「まちがいなく|かたり《ヽヽヽ》だ! 自分から行きたがるなんてえのは、わかりきってらあな、だから関りあってみろ、抜きさしならねえことになっちまうから……こちとらはちゃんとわかってるんだ!」
『このまま行ったものだろうか、どうだろう』とラスコーリニコフは考えながら、四つ辻の車道のまんなか辺に立ちどまって、だれかが最後のひと言をいってくれるのを待つようなかっこうで、あたりを見まわした。だが、どこからもなんとも応答はなかった。なにからなにまで、今彼が踏んでいる石畳のように冷たくて、死んだようだった。彼には、少なくとも彼にだけは死んだようなものだったのだ……ふと彼は、自分のところから遠く二百歩ほど行った、通りのはずれの、濃くなってきている宵闇のなかに、人群れや人の話し声や叫び声がしているのに気がついた。……人だかりのなかになにか馬車らしいものがとまっていた……と、通りのなかほどに灯がちらつき出した。『何事だろう?』ラスコーリニコフは右へ折れて、人ごみのほうへ歩きだした。まるでおれはなんにでも手あたり次第にかかずらわるようだな、こう思って彼は冷たい笑いをもらした。これも結局は、警察に自首して出ることにきめていたし、万事すぐにけりがついてしまうものと思いこんでいたからである。
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通りのまんなかに、元気な灰色の馬を二頭つけた、しゃれた、紳士用の四輪馬車がとまっていた。乗っている者はおらず、御者は御者台からおりて、そばに立ち、馬どもはくつわをおさえられていた。ぐるりには人が大勢ひしめきあい、いちばん前には警官が何人か立っていた。そのうちのひとりは火をともした角燈を手に持って、それでかがみこむようにして車道の車輪のすぐ近くにあるなにかを照らしていた。みんなはがやがやいったり、わめいたり、嘆息をもらしたりしていた。御者はどうしたらいいかわからないらしく、時たまこうくり返しいっているだけだった。
「とんだ災難だ! ああ、まったくとんだ災難だ!」
ラスコーリニコフはできるだけ人を押しわけて前へ出て、やっとその騒ぎと好奇心の対象をつきとめた。地べたに、たった今馬に踏みつぶされたばかりの男が気を失って倒れていたのである。見たところはひどい身なりだが、ともかく『紳士らしい』服装をした男で、全身血まみれだった。顔からも、頭からも血が流れ、顔は一面打ち傷だらけで、皮がむけて崩れてしまっていた。なみたいていの踏みつぶされようでないことはひと目で明らかだった。
「みなさん!」と御者は泣き言をならべていた。「あのときはとても見定められる段じゃありやせん! わっしが馬を飛ばしていたとか、この人に声をかけなかったとでもいうんなら、しかたねえが、急がずに、並足でやって来たんですからねえ。皆さんも見ていたはずでさあ。人間て嘘つきで、わっしもそのひとりですがね。酔っぱらいってものは明りをつけて歩きやしねえってことは――わかりきった話……見るてえと、この人は、よたよたして、今にも転びそうなかっこうで往来をつっきろうとしているじゃありやんせんか、――わっしは一度、二度、三度と声をかけて、馬をとめた。それなのに、この人はそのまままっすぐ馬の足もとに倒れこんで来たんでさ! わざとそうしたのか、それともそれこそへべれけに酔っぱらっていたのかはわからねえ……馬どもは若えし、臆病ときているもんだから、――ぴょんと飛んだところが、この人がぎゃあと大声をたてたんで――馬どもはますますもって……で、こんな大変なことになっちまったんで」
「まったくそのとおりだ!」と、だれか目撃者の声が人群れのなかでした。
「声はかけたぞ、それは確かだ、三回声をかけたぞ」と、もうひとりがそれに応じた。
「ちゃんと三回だった、だれにも聞こえたぞ!」と第三の男が叫んだ。
もっとも、御者は大してしょげてもいなかったし、おびえきっているわけでもなかった。見たところ、馬車は金持ちの有名人の持ちもので、その持ち主はどこかでその馬車の到着を待っているらしかった。警官たちはそこのところをどううまく処理したらいいかと少なからず苦慮していたことはいうまでもない。とにかく、まず踏みつぶされた男を分署なり病院なりに担ぎこまなければならなかった。が、だれひとり彼の名を知っている者はいなかった。
そうこうするうちにラスコーリニコフは人ごみを押しわけていって、もっと近い所にかがみこんだ。そのとき角燈の光に不幸な男の顔がぱっと鮮かに照らしだされたため、その顔が見わけられた。
「この人を僕は知っていますよ、知っています!」と、彼は人垣をかき分けて前へ出ながら叫んだ。「これは役人で、退職九等官のマルメラードフという男です! この辺の人ですよ。この近所のコーゼルのアパートに住んでいるんです……早く医者を! 金は僕が払います、ほらこのとおり!」彼はポケットから金を取り出して警官に見せた。彼は不思議なくらい興奮していた。
警官たちは、押しつぶされた男の身もとがわかったので喜んでいた。ラスコーリニコフは自分の名前も告げ、住所も教えて、まるで生みの父親のことででもあるかのように、一刻も早く人事不省のマルメラードフをその家へ運んでくれと懸命にみんなを説得していた。
「ほら、あそこの、三軒さきですよ」と彼は気をもんでいた。「コーゼルという金持ちのドイツ人のアパートです……この人は、きっと、酔っぱらって、家へ帰るところだったんですよ。僕はこの人を知ってますが……呑んべえでね……家には家族が、妻君と子供たちと娘さんがひとりいるんです。病院へはあとで運ぶことにして、あそこのアパートにも、きっと、医者がいるにちがいない! 金は僕が払いますよ、払います! ……なんといっても身内の者の看護があれば、たちまち効きめが現われますからね、そうしないと、この人は病院へ行きつくまでに死んじゃいますよ……」
彼はその上、うまく警官の手にこっそりいくらか握らせた。もっとも、事は明瞭で合法的だったし、とにかくそうすればもっと効きめがあったわけなのだ。けが人はかつぎあげられて運ばれた。手を貸してくれる者が現われたのである。コーゼルのアパートまでは三十歩くらいのものだった。ラスコーリニコフは慎重に頭を支えて、道を教えながら、うしろからついて行った。
「こっち、こっち! 階段は、頭を上にして運ばなきゃいけない。ぐるっと廻って……そうそう! 僕が払いますよ、お礼をします」などと彼はつぶやいていた。
カテリーナは、いつもの癖で、ちょっとでも暇が見つかると、さっそく、手を胸の上にしっかりと組んで、独り言を言いながら咳をしいしい、小さな部屋のなかを、窓から暖炉へ、それからまた暖炉から窓へと行きつもどりつしていた。それに、最近は年上の娘である十歳のポーリャを相手に話をする回数も時間もますます多くなってきていた。ポーリャには、話は大方わからなかったが、それでも母親には自分が必要なのだということだけは非常によくわかっていたので、いつでもその大きな賢そうな目で母親を追いながら、一所懸命なんでもわかっているように見せかけようとしていた。このときポーリャは、一日じゅうぐあいの悪かった小さい弟の服をぬがせて、寝かせつけようとしていた。男の子は、夜なかに洗うことになっているルバーシカを着かえさせてくれるのを待ちながら、まじめな顔をして、小さな足のかかとをぴったりつけ、爪先だけ開いて前へ突き出し、体をまっすぐにして身動きもせずに、黙って椅子に腰かけていた。彼は、唇をとがらせ、小さな目を見張って、身じろぎもせずに、普通利口な子ならだれでも寝に行く前に服をぬいでもらうとき必ず坐る姿勢と寸分ちがわない恰好をして、母と姉の話を聞いていた。その男の子よりさらに年下の女の子はすっかりぼろぼろの着物を着て、ついたてのそばに立って、自分の番が来るのを待っていた。階段へ出るドアはあけてあったが、これは、奥の部屋部屋から侵入してきて、あわれな肺病やみの女をいつまでも苦しそうにせきこませるタバコの煙の波をいくらかでも防ぐためなのである。カテリーナはここ一週間の間に痩せも一段とめだってきたようだし、ほおの赤みも前より一段とあざやかさを増したように見えた。
「お前はほんとうにしないだろうけどね、想像もできないだろうけどね、ポーリャ」などと彼女は部屋のなかを歩きながら話していた。「わたしたちはお前たちのおじいさまの屋敷ではそれはそれは楽しいはでな暮らしをしていたんだよ、それなのにあの酔っぱらいのやつ、わたしの生活をだめにしてしまった上に、お前たちみんなの生活までだめにしようとしているんだよ! おじいさまは五等官で軍人なら大佐というところで、もうほとんど県知事みたいなものだったの。もう一歩で知事というところだったのさ、だから家へいらっしゃる人はみんな、『わたしどもは、イワンさん、あなたを知事同様に考えていますよ』なんていっていたわ。わたしがね……ごほん! わたしがね……ごほん、ごほん……ああ、ほんとに嫌な暮らしだわ!」と、彼女は痰を吐きながら胸をおさえて叫んだ。「わたしが……ああ、貴族団長さんのお屋敷で催された……最後の舞踏会のときに、ベズゼメーリナヤ公爵夫人がさ――この方はその後わたしがお前のおとうさんのところへ嫁に来るときに祝福して下さった方だけどね、ポーリャ――その方がわたしをごらんになるとすぐに、『あの人は卒業式のときにショール・ダンスを踊ったかわいい娘さんじゃないかしら?』っておたずねになったんだよ……(ほころびを縫っておかなくちゃね。さ、針を持ってきて、わたしが教えてやったとおり、今すぐつくろってごらん、そうしておかないと、あした……ごほん! あした……ごほん、ごほん、ごほん! ……もっと破けちゃうからね! ――と彼女は疲れはてた様子で叫んだ)……――そのときは、ペテルブルクからいらしって間もない侍従のシチェゴリスコーイ公爵が……わたしとマズルカを踊って下さってね、そのあくる日結婚の申しこみをしに来る気になられたんだよ。でも、わたしはこちらからていねいな言葉づかいでお礼を申しあげて、もうだいぶ前からこの人と思う人がございますので、と言って断わってしまったのよ。そのこの人というのがお前のおとうさんだったんだよ、ポーリャ。おじいさまは大変お腹だちになってね……お湯は沸いてるかしら? さあ、ルバーシカをおよこし。それから靴下は? ……リーダ」と彼女は下の娘にむかって、「お前は今晩はそのまま下着を着ないでおやすみ、なんとか工夫してね……それから靴下はそばへおいときなさい……いっしょに洗っちゃうから……なんだってあのルンペンは帰ってこないのかしら……呑んだくれめ! ルバーシカを雑巾みたいに着古して、ぼろぼろにしちまってるくせに……ぜんぶいっしょに洗いたいのにさ、二晩つづけて辛い洗いものをするのは嫌だからね!ああ、ああ! ごほん、ごほん、ごほん、ごほん! またこれだ! あれはなんだろう?」と、彼女は入り口の群衆と、部屋のなかへなにやら荷物をかついで人を押しわけてはいってきた男たちをひと目見るなり、そう叫んだ。「これはなんですの? いったいなにを運んできたんですの? まあ!」
「どこへおいたらいいでしょう?」と警官があたりを眺めまわしながらこう尋ねたときはもう、血まみれになって気を失っているマルメラードフが部屋のなかへかつぎこまれていた。
「ソファへ! そのままソファの上へおいて下さい、頭をこっちにして」とラスコーリニコフが指図をしていた。
「往来でひかれたんですよ! 酔っぱらっていたところを!」と、だれか入り口から叫んだ者がいた。
カテリーナは真っ青になって突立ったまま、苦しそうに息をはずませていた。子供たちはすっかりおびえきってしまっていた。小さいリーダはきゃっと叫ぶと、ポーリャのところへ飛んでいって、しがみついて、わなわな震え出した。
ラスコーリニコフはマルメラードフを寝かすと、カテリーナのそばへ駆け寄って、
「どうか、気を落ちつけて下さい、びっくりしないで下さい!」と早口に言った。「ご主人は通りを横切ろうとして、馬車にひかれたんですが、心配することはありません、すぐに気がつきますから。僕がここへ運ばせたんです…… 僕はお宅へうかがったことがあるんですよ、覚えていらっしゃるでしょう……今じき意識がもどりますよ、金は僕が払いますからね!」
「とうとうやったわね!」とカテリーナは絶望的な叫びをあげて、夫のそばへ駆け寄った。
ラスコーリニコフは即座に、この女はおいそれと卒倒するような女ではないということに気づいた。さっそく不幸な老人の頭の下に枕があてがわれた――これはだれも思いつかなかったことだった。カテリーナは夫の着ているものをぬがせて、傷をあらため、とり乱さずに、自分のことなど忘れて、まめまめしく立ち働いていたが、震える唇をぎゅっとかみしめて、胸からほとばしり出そうになる叫びをおさえているようなふうであった。
ラスコーリニコフはその間にだれかを説きつけて医者を呼びに走らせた。医者は結局、一軒おいた隣りに住んでいた。
「医者を呼びにやりましたから」と、彼はカテリーナに何度も言っていた。「ご安心なさい、僕が払いますから。水はありませんか? ……それからナプキンかタオルかなにか早く下さい。けががどのくらいかは、まだわからないが……けがはしていても、死んでいるわけじゃないんですから、それはほんとうですよ……医者はなんというか!」
カテリーナは窓のそばへ飛んでいった。その隅の、押しつぶれた椅子の上に、子供と夫の下着を夜なかに洗濯するために用意した湯のはいっている大きな瀬戸のたらいがおいてあったのだ。こうした夜なかの洗濯を、カテリーナは少なくとも週に二回、ときにはそれ以上も自分の手でしていた。着がえの下着などはもうほとんどなくなっていて、家の者はひとり一枚ずつぐらいしか持っていなかったのだが、カテリーナは不潔にしていることが我慢のならないたちだったので、家のなかに汚いものがおいてあるよりは、たとえ自分が辛い思いをしてでも、毎晩みんなが眠っている間に自分の力にあまる洗濯をし、渡した綱に濡れた下着をかけて朝までに乾かして、きれいな下着を着せるほうがいいと思っていたのである。彼女はラスコーリニコフの求めに応じてたらいを運ぼうとして、それに手をかけたが、あぶなく持ったものもろとも倒れるところだった。しかし、ラスコーリニコフのほうはその間にタオルが見つかったので、それを水で濡らして、マルメラードフの血だらけの顔をふきはじめていた。カテリーナは辛そうに息をつぎながら、胸を両手でおさえたまま、その場に突立っていた。彼女自身手当てが必要なくらいだった。ラスコーリニコフには、けが人をここへ移すように説きつけなどしてまずいことをしたのかもしれないということがわかりかけてきた。警官も途方にくれて立っていた。
「ポーリャ!」とカテリーナが叫んだ。「ソーニャのところへ走って行っておいで、大急ぎで。もし家にいなかったら、どっちにしても、こう言っておいで、おとうさんが馬車にひかれたから、帰ったら……すぐ来るようにって。さあ、早く、ポーリャ! さあ、このプラトークをかぶって!」
「いっちょ懸命はちるんだよ!」と弟が不意に椅子の上から叫び、そう言ったあとは、また前のように椅子に体をまっすぐにして黙って坐ったまま目を大きく見張り、爪先を開いてかかとを前に突きだした恰好にもどった。
そうこうするうちに部屋は立錐《りっすい》の余地もないくらい人でいっぱいになってしまった。警官はひとりだけ残ってみんな引きあげてしまい、そのひとりの警官はしばらくそこに居残って、階段から押しかけてくる人群れを懸命になって階段のほうへ追い返そうとしていた。かわりに、奥の部屋からリッペヴェフゼル夫人の間借り人どもがほとんどひとり残らずばらばら飛びだしてきて、初めのうちは戸口にしかむらがっていなかったものが、そのうち群れをなして部屋のなかまでなだれこんで来た。カテリーナはかあっとなってしまった。
「せめて死ぬときだけでも静かに死なせてやっておくれよ!」と彼女は群衆ぜんぶにむかって叫びだした。「見せものじゃないよ! タバコなんかくわえやがって! ごほん、ごほん、ごほん! その上に帽子でもかぶって来るがいいわ! まあほんとに帽子をかぶったのがひとりいるわ……出ていけ! 死んだ者にせめて敬意ぐらい払ったらどうなのよ!」
彼女は咳で息がつまったが、おどし文句は確かに効きめがあった。みんなは、明らかに、カテリーナにはいささか恐れをなしているらしかった。間借り人たちはひとり、またひとりと、人を押しわけるようにして戸口のほうへとって返しはじめた。もっとも、彼らも、どんなに親しい間柄でも、その親しい相手が不慮の災難に見舞われたときに常に認められるあの奇怪な内心の満足感を覚えながら引きあげていくのだった、というのもだれひとり例外なく、たとえ一方では心から憐憫《れんびん》と同情を覚えながらも、この満足感だけは避けられないからである。
それでも、ドアのむこうから、病院へ入れたらとか、こんな所でただ騒いでいてもしようがあるまいなどという声が聞こえていた。
「ここで死んじゃいけないって言うのかい!」とカテリーナはどなって、今にも飛んでいってドアをあけてみんなの頭に雷をひとつ落としてやろうとしたが、ちょうど戸口で当のリッペヴェフゼル夫人とばったり顔をあわせてしまった。夫人はたった今この不幸な出来事を聞きつけて、ひとつ処置をつけてやろうと駆けつけたのである。これはひどく口やかましい乱暴なドイツ女だった。
「こら、どうも!」と彼女は両手をぱんと打ち鳴らした。
「お宅の旦那さん、酔っぱらって、馬に踏まれたってね。病院へ入れる、よろしい! わたし、ここの家主よ」
「アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ! どうか、考え考え物をいって下さいよ」と、カテリーナは高飛車に言いかけた(彼女はおかみと口をきくときはいつでも、相手に『身のほどを知らせる』ように、高飛車に出ていたので、こんなときでさえこの楽しみを棄てることができなかったのである)、「アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ……」
「わたし、あなたに前に一度言ったでしょ、けしてわたしにアマリヤ・リュドヴィーゴヴナいうなと。わたし、アマリ・イワンよ!」
「あなたはアマリ・イワンじゃなくて、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナですよ。わたしは、今ドアのむこうで笑っているレベズャートニコフさんのようなあなたの下劣なおべっかつかいの仲間じゃありませんから(ドアのむこうに実際にどっと笑う声と、『四つに組んだぞ!』と叫ぶ声がした)、これからもいつもあなたをアマリヤ・リュドヴィーゴヴナって呼びますよ、もっともどうしてあなたにはこの名前が気にくわないのか、わたしにはどうしてもわかりませんけどね。うちのひとがどんなことになったかは、あなたにもおわかりでしょう。あの人は今死にかけているんですよ。お願いですから、今すぐそのドアをしめきって、だれもこっちへ入れないようにして下さい。せめて死ぬときぐらいは静かに死なせてやって下さいよ! そうしてくれなかったら、ほんとうですよ、あしたにもあなたの行跡が総督さまご自身のお耳に達するようにしますからね。公爵はわたしをまだ娘の時分からご存じだし、うちの人のことも大変よく覚えていらっしゃって何度も目をかけて下さったんですから。それにだれ知らぬ者もないことだけど、うちのひとにはお友だちや保護者が大勢いたんだけど、あの人は自分の不幸な弱点を身にしみて感じていたればこそ、見上げた自尊心から自分のほうから寄りつかないようにしていただけのことなんですからね。でも今度はこの(彼女はラスコーリニコフを指さして)、財産も縁故もおありで、うちのひとがまだお小さい時分から存じあげていた若いお方がわたしたちをご援助下さることになっているんですよ、ほんとうなんですよ、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ……」
こういったことを彼女は猛烈な早口でまくしたて、しかも話が進めば進むほど速くなってきたと思っているうちにそのカテリーナの雄弁も咳でいっぺんにふっきれてしまった。が、ちょうどそのとき瀕死《ひんし》の夫が意識をとりもどして、うめき声を発したため、彼女はそのほうへ駆けつけた。けが人は目をあけたが、まだなんにも見わけがつかず、わけもわからないらしく、自分にかがみこんで立っているラスコーリニコフにじっと瞳をこらしはじめた。息づかいは苦しそうで、深く、それに間遠《まどう》だった。唇の両はしには血がにじみ出、額には汗が吹き出していた。彼はラスコーリニコフの顔がわからず、不安そうに目をあちこちさまよわせはじめた。カテリーナは彼を悲しげな、だがけわしい目つきで見つめていたが、その目からは涙が流れていた。
「まあ! この人ったら胸がすっかりおしつぶされてしまっているわ! 血が、血が!」と彼女は絶望にくれて口ばしった。「この人の上着をすっかりぬがしてしまわなければ! もしできたら、あんた少し体を横にしてちょうだい」と彼女は夫に大声で言った。
マルメラードフは妻の顔がわかった。
「坊さんを!」と彼はかすれた声で言った。
カテリーナは窓のほうへ離れ、額を窓枠にもたせかけて、絶望の叫びを放った。
「ああ、ほんとにいやなくらし!」
「坊さんを!」と、瀕死の夫がちょっと間をおいてからまたそう言った。
「迎えに行ったわよ!」と、カテリーナが夫をどなりつけた。夫はその叫び声を聞くと、黙ってしまった。彼はおどおどした物悲しげな目つきで彼女をさがしていた。彼女はまた夫のところへもどって、枕もとに立った。彼はいくぶん安心したが、それもちょっとの間だけだった。間もなく彼の目は、発作でも起きたように部屋の隅でぶるぶる震えながら、いかにも子供らしくじっと動かない驚いたような目で父親を見つめている小さなリーダ(彼の秘蔵っ子)の上にとまった。
「あ……あ……」と彼は気づかわしげに妻に目顔で知らせた。彼はなにかいいたかったのだ。
「まだなにをしてもらいたいのさ?」とカテリーナが叫ぶと、
「はだし! はだし!」と夫はつぶやくように言って、気ちがいじみた目で女の子がはだしであることを教えた。
「お黙り!」とカテリーナはいらだってどなりつけた。「どうしてはだしなのかは、自分にもわかっているでしょう!」
「ありがたい、医者が来た!」とラスコーリニコフが嬉しそうに叫んだ。
几帳面《きちょうめん》そうなドイツ人の老医師がうさん臭そうにあたりを見まわしながらはいって来た。そして、病人に近づくと、脈をとり、注意ぶかく頭をさわってみ、カテリーナに手つだってもらって血でぬれているルバーシカのボタンをすっかりはずして、けがをした男の胸をはだけさせた。胸はすっかりめちゃめちゃにされ、皮がはげ、右側の肋骨が何本か折れてしまっていた。左のほうにはちょうど心臓の真上あたりに、ひづめで無残にも蹴りつけられた跡である、不吉な、大きい、黄色味をおびた黒いしみができていた。医者は眉をひそめた。警官は医者に、けが人は車輪にひっかかったまま、くるくる廻転しながら、車道の上を三十歩ほど引きずられていったと語った。
「もう一度意識をとりもどしたのが不思議なくらいですね」と医者がラスコーリニコフにそうっと耳うちした。
「どういう見たてでしょうか?」
「長いことはありませんな」
「望みは全然ないんですか?」
「まるっきりありませんな! もうご臨終ですよ……おまけに頭のほうも実にひどい重傷ですからな……ふむ。まあ、放血してもいいんですが……しかし……それもむだでしょう。五分か十分もすれば、どうしても息をひきとることになりますな」
「そんならいっそ放血をしてもらいましょうか」
「よろしい……しかし、前もっておことわりしておきますが、やってみたところでまったくむだですよ」
このとき、また足音がして、玄関先の人群れが左右にわかれたと思うと、しきいの上に貯えの聖餐をささげた司祭が姿を現わした。白髪の小柄な老人である。そのうしろには、警官がお供をしていたが、これは通りからずうっといっしょについて来たのである。医者はさっそく僧侶に席をゆずって、僧と意味ありげに目まぜをした。ラスコーリニコフは医者に無理に頼んで、なんとかもうしばらく待ってもらった。医者は肩をすくめたが、居残ってくれた。
一同、うしろへ引きさがった。ざんげ式はほんの短時間しかかからなかった。臨終の男はほとんどなんにもわかっていなかった。それでも、とぎれとぎれに不明瞭な音声を発することはできた。カテリーナはリーダの手をとり、男の子を椅子から抱きあげると、隅の暖炉のほうに離れて、ひざをつき、子供たちも自分の前でひざまずかせた。女の子はただ震えているだけだったが、男の子はむき出しの小さなひざをついて、規則正しく小さな手をあげては、ちゃんと十字をきり、額をゆかにぶつけながら低いおじぎをくり返していた。どうやらそれをするのが嬉しくてたまらないような様子だった。カテリーナは唇をぎゅっとかみしめて、涙をこらえていた。彼女もやはり祈りをささげてはいたが、その合い間にときおり赤ん坊に着せてある小さなルバーシカの着つけをなおしてやったり、ひざまずいてお祈りをつづけながら、たんすの上の小さなショールを取って、あまりにもむき出しになっている娘の肩にかけてやったりしていた。その間に奥へ通ずるドアが物見高い連中の手でまたあけられ、入り口にも、アパートじゅうのやじ馬の住人がますますひしめきあってきたが、さすがに敷居をまたごうとする者はいなかった。たった一本のろうそくの燃えさしがこの情景ぜんたいを照らしていた。
ちょうどその最中に、走って姉を迎えに行ってきたポーリャが人垣をかきわけてするするとはいって来た。そして、駆け足で来たため息をつくのもやっとといった様子ではいってくるなり、プラトークをとり、母親を目でさがし出すと、そばへ来て、「今来るわ! 通りで会ったの!」といった。母親は彼女をおさえて、自分のそばにひざまずかせた。と、人群れのなかから、音もなく、おずおずと娘がひとり現われた。こんな部屋に、貧窮とぼろと死と絶望に満ちた部屋のなかに彼女が突然姿を現わしたということは、異様な感じだった。彼女もやはりぼろをまとっており、身なりは安っぽいものではあったが、そうした特殊な世界におのずからできあがった好みと慣習どおりに、いかにも街の女らしくけばけばしく飾りたて、恥ずべき目的がありありと露骨に現われて見えた。ソーニャは入り口の敷居のそばに立ちどまったまま、敷居をまたがずに、途方にくれたような恰好で部屋のなかを見まわしていたが、見たところ、ぼうっとして、何人の手を通ったかもわからないような、ひどく長い滑稽なひき裾のついた、この場には不つりあいな、絹の色染めの服のことも、戸口をいっぱいにふさいでしまった、途方もなく大きなクリノリーヌのことも、薄色の靴のことも、夜は必要でもないのに持ってきてしまった日傘のことも、あざやかな火のような色の羽飾りのついた滑稽な丸い麦わら帽子のことも、一切忘れてしまっているらしかった。その、男の子のように横っちょにかぶった帽子の下から、恐怖のあまり口をぽかんとあけ、目もじっとすわっている、痩せた、青白い、びっくりしたような顔がのぞいていた。ソーニャは、年は十八かそこらで、背は小さいし、痩せがたではあるが、かなり美しい顔をしたブロンドの娘で、すばらしい青い目をしていた。彼女は寝床と司祭にじっと目をこらしていた。彼女も駆け足で来たため息をきらしていた。とうとう、人群れのなかのひそひそ話や言葉のいくつかが、おそらく、彼女の耳にはいったせいだろう、彼女は目をふせたまま、敷居をひと足またいで、部屋のなかとはいえ、すぐ戸口の近くに立った。
ざんげ式と聖餐式はおわった。カテリーナはまたもや夫の寝床に歩みよった。司祭がうしろへさがって、帰りしなに二言三言はなむけと慰めの言葉をカテリーナにむかって言いかけたとたんに、彼女は、
「この子たちをわたしはどうしたらいいのかしら?」と幼い子供たちを指さしながら、鋭く、いらだった調子で、相手をさえぎって言った。
「神さまはお慈悲ぶかくていらっしゃいます。神さまのご加護におすがりなさい」と司祭が言いかけた。
「へ! お慈悲ぶかいかしれないけど、わたしたちのことなんかかまっちゃくれませんよ!」
「そんな罪なことを言うもんじゃありませんよ、奥さん」と司祭が、首をふりながら注意した。
「じゃ、こういうことをしても罪じゃないんですの?」とカテリーナは臨終の男を指さしながら叫んだ。
「その気もなく不幸の原因をつくってしまった人たちが、きっと、あなたに賠償金を払う気になってくれるでしょうよ、失った収入だけでもね……」
「あなたにはわたしの言うことがおわかりにならないんですよ!」と、カテリーナは手をふって、いらだたしげに叫んだ。「賠償をしてもらう理由なんかありませんよ! だって、こっちが酔っぱらって、馬の下によろけこんだんじゃありませんか! 収入だなんて、とんでもない! この人は収入どころか、苦労の種をつくっていただけですよ。この呑んだくれときたら、なにもかも呑んでしまったんですからね。わたしたちのものをくすねては呑み屋へ運んで、わたしと子供たちの一生を呑み屋でふいにしてしまったんですから! 死んでくれて、かえってありがたいくらいですよ! これからは損害が少なくてすみますからねえ!」
「臨終のときには許してあげなければなりません。そんなことをいうのは罪ですよ、奥さん。そんな気持ちを持つということは大きな罪です!」
カテリーナはけが人のそばでまめまめしく立ち働いて、夫に水を飲ましたり、頭の汗や血を拭きとってやったり、枕をなおしてやったりしながら、用事の合い間に、ときおり司祭のほうをむいては話をまじえていたのだが、このときは急にほとんど狂ったようになって相手にくってかかった。
「いや、神父さん! そんなのはただの言葉ですよ! 許すべきだなんて! きょうだって、もし馬車にひかれなかったら、この人はへべれけになって帰って来て、一枚っきりのルバーシカを、それもさんざん着古したのを着、ぼろをまとって、そのままぶったおれてぐうぐう寝くさったにちがいないんです。ところがわたしのほうは夜があけるまで水をじゃぶじゃぶさせて、この人と子供たちの着古しを洗って窓の外に干して、夜があけた頃には今度は坐ってつぎ物、――これがわたしの夜なんですよ! ……こんなふうなのに、どうして許すなんていえますか! これでもわたしはずいぶん許してきたつもりですよ!」
そのとき、ひどい、ぞっとするような咳に彼女の言葉はとぎれてしまった。彼女はハンカチに痰を吐くと、片手で痛そうに胸をおさえながら、そのハンカチを司祭のほうに差し出して見せた。ハンカチは血にまみれていた……
司祭はうなだれたまま、なんにも言わなかった。
マルメラードフは断末魔の状態だった。彼は、またもや自分の上にかがみこんだカテリーナの顔から目をはなさなかった。彼は絶えず、なにか彼女にいいたそうにしていた。そして、懸命に舌を動かして、不明瞭な言葉を口に出しかけたが、カテリーナは、夫が彼女に許しを乞おうとしているのだとわかると、たちまち命令口調で相手をどなりつけた。
「お黙んなさい! 言うことなんかないわ! ……なにをいおうとしているかぐらいわかっているわよ……」そう言うと、病人は口をつぐんでしまった。が、ちょうどそのとき、さまよっていた視線がドアのあたりに落ち、ふと彼はソーニャを見つけた……。
そのときまで彼はソーニャに気づかなかったのだ。部屋の隅の物かげに立っていたからである。
「あれはだれだ? あれはだれだ?」彼は顔じゅうに不安の色を浮かべ、娘の立っている戸口をおびえたような目で示しながら、不意にしわがれた息ぎれのする声で口走り、懸命になって身を起こそうとした。
「寝ていなさい、寝ていなさいったら!」とカテリーナはどなりそうにした。
だが、彼は超自然的な努力をふるってどうにか片ひじつくと、娘の見わけがつかないらしく、しばらく娘の顔を不思議そうにじっと見つめていた。それまでに一度も彼は娘がそういうなりをしているところを見たことがなかったのだ。とそのうち彼ははっとそれが娘であることに気づいた。恥ずかしめられうちひしがれた娘、けばけばしく着飾って恥じ入りながら、臨終の父に別れを告げる自分の番が来るのをつつましやかに待っている娘に気づいたのである。父親の顔には限りない苦悶の色が現われた。
「ソーニャ! 娘! 許しておくれ!」こう絶叫すると、彼は娘のほうへ手をのばそうとしたが、支えを失って、顔をまともに下にして寝椅子からどさりと転げ落ちた。一同、飛んでいって起こして寝かせたが、そのときにはもう彼はこときれていた。ソーニャはかすかにあっと叫ぶと、駆け寄って父親を抱きしめたが、とたんにそのまま気が遠くなってしまった。彼は娘の腕に抱かれて死んだのである。
「本望を達したわけだわ!」と、カテリーナは夫のなきがらを見て叫んだ。「さあ、これからどうしたらいいだろう! どうやってこの人の葬式を出したらいいのかしら! この子たちに、あしたからこの子たちになにを食べさせたらいいのかしら?」
ラスコーリニコフがカテリーナのそばに歩みよって、
「奥さん」と言いだした。「先週、僕は亡くなられたご主人からご自分の身の上話とご家庭の事情をすっかりお聞きしました……信じて下さい、ご主人はあなたのことを感激にみちた尊敬の念をこめて語っておられました。ご主人がお家の方みんなにどんなに信服しておられ、ああいうお気の毒な弱点があったにもかかわらず、奥さん、とりわけあなたをどんなに敬愛しておられるかをうかがったあの晩から、僕たちはおたがいに親友になったのです……そこで僕に今……亡くなられた僕の親友に……義務を果たさせては……いただけないでしょうか。今ここに……たしか、二十ルーブリあるはずです、――これをあなたのお役に立てられたらと思うのです……要するに、僕はまたあらためて寄らしていただきます、――必ず寄らしていただきます……ひょっとしたら、またあした、うかがうかもしれません……では失礼します!」
こう言うと彼は、できるだけ早く人群れをかきわけるようにしてすばやく部屋から階段へ出てしまった。が、人群れのなかで署長のニコジームにばったり出くわした。彼はこの不幸な事件を聞きつけると、自分の手で始末をつけようと思ってやって来たのである。警察でのひと幕以来顔をあわせていなかったのに、ニコジームはとっさに彼に気づいた。
「あ、あなたですか?」と彼はラスコーリニコフに聞いた。
「亡くなりましたよ」とラスコーリニコフは答えた。「医者も来たし、坊さんも来て、万事順序よく運びました。あの大変気の毒な婦人の気持ちを乱さないようにして下さい、でなくとも肺病をわずらっているんですから。もしできたら、なにかで元気づけてやって下さい……あなたは親切な方ですもの、僕は知ってますよ……」と、彼は相手の目をまともに見ながら、薄笑いを浮かべてそう言いそえた。
「それにしても、あなたはだいぶ血まみれになっていますよ」と、ニコジームが角燈の明かりでラスコーリニコフのチョッキに幾つかの真新しい血のしみを見つけて、そう注意した。
「ええ、血まみれになりました……体じゅう血だらけです!」とラスコーリニコフは一種特別な顔つきをしてそう言い、それからにやりと笑ってうなずいたと思うと、そのまま階段をおりていった。
彼は静かな足どりで急がずに、体じゅうほてったようになっておりていったが、自分ではそれと意識してはいなかったが、充実した、たくましい生命感がどっとおし寄せてきたような、ある新しい果てしれぬ感覚に全身満ちあふれていた。その感じは、死刑の宣告を受けていた者が突然思いがけなく特赦をいいわたされたときの感じに似ていたともいえよう。階段のなかほどまで来たとき家へ帰ろうとする司祭に追いつかれた。ラスコーリニコフはたがいに黙礼をかわして、黙って相手をやりすごした。ところが、すでに最後の数段をおりようとしたとき、ふと背後にあわただしい足音を聞きつけた。だれかが彼を追いかけてきたのだ。それはポーリャだった。彼女は走って彼を追いかけてきながら、彼を、「ねえ、ちょっと! ねえ、ちょっと!」と呼んでいた。
彼は彼女のほうを振りむいた。女の子は最後の階段を駆けおりると、ひとつ上の段に、ぴったりくっつくようにして彼の前に立ちどまった。薄明かりが裏庭からさしこんで来た。ラスコーリニコフは自分にほほ笑みかけて子供らしく快活に自分を見つめている、痩せ気味ではあるが愛くるしい少女の顔をつくづくと眺めた。少女は、どうやら自分も伝えるのが嬉しくてたまらないらしいことづてを持って駆けつけたのだった。
「ねえ、ちょっと、あなたはなんていうお名前なの? ……それに、どこに住んでいらっしゃるの?」と彼女は息をきらしながら、せきこんでそう聞いた。
彼は相手の両肩に手をおいて、ある幸福感を覚えながら彼女を見つめていた。彼は彼女を眺めているのが嬉しくてたまらなかったのだ――が、それがどうしてなのかは自分でもわからなかった。
「だれが君を使いによこしたの?」
「ソーニャ姉さんがよこしたのよ」と少女はなお一層愉快そうにほほ笑みながら答えた。
「僕もきっとそうだろうと思っていたんだ、ソーニャ姉さんがよこしたんだろうってね」
「おかあさんも行ってきなっていってたわ。ソーニャ姉さんがあたしを使いに出そうとしたら、おかあさんもそばへ来て、『急いで行っておいで、ポーリャ!』って言ってくれたの」
「君はソーニャ姉さんが好きかい?」
「だれよりもいちばん好き!」ポーリャはなにか特別力をこめて言ったかと思うと、彼女の微笑が急に一段と真剣なものになった。
「僕のことも好きになってくれる?」
返事は聞かれなかったが、そのかわり彼は少女の小さな顔が自分のほうに近づいて来、ぷっくりした小さな唇が無邪気に突き出されて彼に接吻しようとするのを見た。そして少女は突然マッチ棒のように細い腕で彼をぎゅっと抱きしめ、頭を彼の肩にもたせかけたかと思うと、しくしく泣きだして、顔をだんだん強く彼の体におしつけてきた。
「おとうちゃんがかわいそうだわ!」と彼女は、一分ほどしたころ泣きはらした小さな顔をあげ、両手で涙をぬぐいながら言い、「この頃こういう不仕合わせなことばっかりつづくのよ」と不意にことさら固い顔つきをしてそういい足したが、それは子供が急に『おとなびた』口をききたくなったときに無理につくる表情だった。
「おとうさんは君をかわいがってくれたのかい?」
「おとうさんはあたしたちのうちでいちばんリーダをかわいがっていたわ」と彼女は大まじめに、にこりともせず、もうすっかり大人のような口ぶりで話しつづけた。「あの子は小さいからかわいがってもらえたんだわ、それに体が弱かったからよ、いつもおみやげを持って帰っていらしたわ、それからおとうさんはあたしたちに読みかたを教えてくれたのよ、あたしには文法と聖書をね」彼女はいばってそう言いそえた。「おかあさんはなんにもいわなかったけど、おかあさんがそういうところを見るのが好きなことはわたしにもわかっていたわ、そしておとうさんもそれを知っていたのよ。おかあさんはあたしにフランス語を教えるつもりでいるのよ、だってあたしもう教育を受ける年頃なんですもの」
「君はお祈りのあげ方を知っている?」
「ええ、もちろん、知ってるわ! もうずっと前からよ。あたしは、もう大きいから、自分で口のなかでお祈りするけど、コーリャとリーダはおかあさんといっしょに声に出してお祈りするのよ。最初『聖母マリヤ』を唱えて、それからもうひとつ『神よ、姉ソーニャを許し、祝福したまえ』というお祈りをあげて、それからまた『神よ、わたしたちの二度めのおとうさんを許し、祝福したまえ』ってやるの、それはあたしたちの前のおとうさんはもう死んでしまって、今のは二度めのおとうさんだからなのよ。あたしたち前のおとうさんのこともお祈りするわ」
「ポーリャ、僕の名前はロジオンて言うんだよ。いつかそのうち僕のことも祈っておくれ。『|しもべ《ヽヽヽ》ロジオンも』ってね――それだけでいいから」
「これからさき一生、あなたのことを祈ってあげるわ」と少女は熱をこめてそう言ったあとで、急にまた笑いだし、彼に飛びついて、またぎゅっと彼を抱きしめた。
ラスコーリニコフは彼女に自分の名前を告げ、住所を教えて、あしたは必ず寄るからと約束した。少女は彼にすっかり無我夢中になって帰っていった。通りへ出たときは、十時をすぎていた。五分もした頃には彼は橋の上の、ちょうど先ほど女が身投げをした場所に立っていた。
『もうたくさんだ!』と彼は決然と勝ち誇ったように言った。『蜃気楼なんか吹っ飛ばせ、根拠のない恐怖も追っぱらっちまえ、幻影なんか消えてなくなれ!……このとおり生活があるじゃないか! おれはたった今ちゃんと生きていたじゃないか? まだおれはあの婆さんといっしょに死んでしまっていたわけじゃないんだ!婆さんよ、天国に安らわせたまえだ、――もうたくさんだよ、婆さん、安らかに眠ってもいい頃だぜ! これからは理性と光明の王国なんだ……意志と力のな……さあ見てみようぜ! さあ力くらべをしてみようぜ!』と、彼はまるでなにか目に見えない力にむかって物を言い、挑戦するように、傲然とそう言い放った。『だっておれはもう二尺四方の空間に生きることを同意したんだからな!』
『……おれはいま体が弱りきっている、が……どうやら病気はすっかりなおったようだ。さっき家を出たときから、なおるということはわかっていたんだ。ときに、ポチンコフのアパートと言えば、ここからほんのひと足だ。これはどうでもラズーミヒンのところへ寄らなくちゃ。たとえひと足の所でなくともな……まあ、やつに賭けに勝たしておいてやろう! ……あいつにも喜ばしてやるがいい、――なあに、かまうことはない! ……力だ、必要なのは力なんだ。力がなけりゃ、なんにも得られやしない。その力を得るにも力が必要なんだ、これをやつらは知らないんだ』と彼は誇らしげに自信満々としてそうつけ加えると、やっと足を引きずるようにして、橋の上から歩きだした。誇りと自信は彼の身内に刻一刻と増してきた。そして、つぎの瞬間にはもう、前とはまるっきりちがう別人になってしまっていた。が、それにしても、どんな特別変わったことが起きたために、彼はこうもがらりと人間が変わってしまったのだろう? それは本人の彼にもわからなかった。わらにもすがろうとしていた彼は突然、自分も『生きていける、まだ生命はあるんだ、おれはあの老いぼれ婆といっしょに死んだわけじゃないんだ』という気がしたのである。事によると、彼はあまりにも結論を急ぎすぎたのかもしれない、が、そんな考えは彼の頭には浮かびもしなかった。
『だけど、さっきは|しもべ《ヽヽヽ》ロジオンの冥福を祈ってくれなんて頼んだじゃないか』という考えが彼の頭にひらめいたが、『いや、あれは……万一の場合にと思ってしたことだ!』と考えをつけ加えて、彼は自分の子供っぽい振舞いを即座に笑いとばしてしまった。彼はこの上なく上機嫌だった。
ラズーミヒンの家はわけなく見つかった。ポチンコフのアパートの者は新しい入居者のことを知っていたし、門番がさっそく彼に道順を教えてくれたからである。すでに階段を半分ものぼったあたりからいかにも大勢集まっているらしいざわめきや活気をおびた話し声が聞きとれた。階段へ出るドアがあけっぱなしになっていたので、わめき声や議論をする声がそのまま聞こえて来るのだった。ラズーミヒンの部屋はかなり大きいほうで、集まっていたのは十五人くらいだった。ラスコーリニコフは入り口の部屋に足をとめた。そこのついたてのかげでは家主の家の女中が二人、二つの大きなサモワールや、酒びんや、家主の家から運びこんできたピロシキだの前菜を盛りつけた皿小鉢のまわりで忙しく立ち働いていた。ラスコーリニコフがラズーミヒンを呼んでもらうと、彼は大喜びで出てきた。彼がいつになく酒を過ごしていることはひと目でわかった。ラズーミヒンは絶対にと言ってもいいくらい酔っぱらうほど呑むことのない男だったが、このときばかりはどうしたわけかだいぶ呑んだことがわかった。
「あのね」とラスコーリニコフは急いで言った。「僕はこれだけ言いに寄ったんだよ、君は賭けに勝ったということと、自分の身になにが起こるかは実際だれにもわかりはしないということを。なかへはいることはできないんだ。体が衰弱しきっていて、今にもぶったおれそうなんでね。だから、きょうはこれで失敬するよ! あした、僕の家へ来てくれ……」
「それじゃ、僕が家まで送ろう! 自分の口から、衰弱しているなんて言っているんだから……」
「だけど、お客さんは? あの巻き毛の男はだれだい、ほら今こっちをのぞいた男は?」
「あれかい? あんなやつ、だれが知るもんか! 叔父の知り合いだろう、きっと。ひょっとしたら、自分で勝手に来たのかもしれない……連中の相手には叔父をおいていくよ。あの叔父はまったく貴重な存在なんだ。今君に紹介できないのは残念だな。しかし、ま、あんな連中はどうでもいいんだよ。やつらは今僕どころじゃないんだ、それに僕も風に当たって気分を一新しなくちゃ。君はちょうどいいところへ来てくれたわけなんだ。もう二、三分もしたら、僕は向こうで、まちがいなく、つかみあいの喧嘩をしていたはずなんでね! あんなでたらめをぬかしやがるんだもの……君には想像もできないだろうけど、人間てまったく途方もない嘘がつけるもんだねえ! もっとも、想像できないこともないがね。僕ら自身でたらめを言わないわけでもないからな。ま、勝手にでたらめをいわしておきゃいい。そのかわりそのうちでたらめも言わなくなるだろうから……ちょっとそこにかけていてくれ、ゾシーモフをつれてくるから」
ゾシーモフは一種の、かつえたようなといってもいいような勢いでラスコーリニコフに襲いかかってきた。彼の顔には一種特別な好奇心がありありと現われていたが、たちまちその顔は明るい顔になった。
「すぐに寝るんですね」彼は患者をできるだけ念入りに診察したのち、そう診断を下した。「そして夜寝しなに薬を一服飲むといいんだが。今飲みますか? ついさっき調剤しておいたんだけど……散薬を一服」
彼は散薬をその場で飲んだ。
「二服だって飲みます」とラスコーリニコフは答えた。
「それは非常にけっこうだよ、君がこの人を送っていくっていうのは」と、ゾシーモフはラズーミヒンに言った。「あしたどうなるかは、またあした見ることにして、きょうのところはなかなかいいですよ。さっきから見ると、いちじるしい変化だ。学ぶ果てなしですな……」
「僕たちが出ようとしたとき、ゾシーモフが今僕にどういうことを耳うちしたか、わかるかい」とラズーミヒンは、通りへ出るとすぐに、秘密を洩らしてしまった。「僕はね、君、君にはぜんぶありのままを言ってしまうよ、あいつらはばかだからさ。ゾシーモフのやつ、僕に、道々君とおしゃべりをして、君にもしゃべらして、それをあとで聞かせろなんて言いやがったんだ、というのは、やつは……君は気ちがいか、でないとしてもそれに近い……という考えを持っているからなんだ。ま、考えてもみたまえ! 第一、君はやつの三倍も利口だし、第二に、君は、気ちがいでなかったら、やつがそんなばかげた考えを持っていようと、そんなことは歯牙にかけなくていいんだし、第三にあの肉の塊にすぎない男が、専門は外科のくせに、今精神病に熱をあげているんだが、きょうの君とザミョートフがかわした話にやつの君に関する考えが根底からくつがえってしまったわけだよ」
「ザミョートフは君になにもかも話したのかね?」
「ああ、なにもかもね、でも話してくれてほんとによかった。僕は今度こそなにからなにまでわかったぜ、ザミョートフにもわかったんだ……そうなんだ、でまあ要するに、ロージャ……問題はこういうことなんだよ……僕は今ちょっぴり酔ってはいる……が、そんなことはなんでもない……問題は、あの考えが……わかるだろう? ほんとうにやつらの頭にこびりついていたってことなんだよ……わかるだろう? つまり、やつらはだれもその考えをあえて口に出して言いはしなかった、だってあんまりばかげきった考えだものね、わけても、あのペンキ屋がつかまって、そういう妄想が、ぜんぶ崩壊して永久に消え失せちまった今となってはね。それにしても、やつらはなんだってあんなにばかなんだろう? 僕はあのときザミョートフをちょっと痛めつけてやったよ、――これは二人だけの話だぜ、君。頼むから、知っているなんてことはおくびにも出さないでくれよ。僕は気がついたんだけど、あいつはなかなか神経のデリケートな男なんだから。それはラヴィーザのとこであったことなんだけどね、――しかし、きょうというきょうはなにもかもはっきりしたわけなんだ。いちばんの張本人はあの副署長のやつなのさ! あいつはあのとき君が警察で卒倒したことを利用しやがったんだ、もっともあとで自分でもきまり悪くなったらしいがね。僕はちゃんと知ってるんだ……」
ラスコーリニコフはむさぼるように耳を傾けていた。ラズーミヒンは酔ったまぎれに余計なことまでしゃべるのだった。
「僕があのとき卒倒したのは、部屋のなかが息苦しかったし、それにペンキの匂いがひどかったからだよ」
「まあだ言いわけなんかしてやがる! ペンキばかりじゃないよ。熱病がまるひと月も潜伏していたせいだよ。ゾシーモフが証人だ! だけど、あの青二才が今どんなにしょげ返っているか、君には想像もできないだろう!『僕はあの人の小指ほどの値打ちもありゃしない!』なんて言ってるのさ。というのは、君の小指の、ってことだよ。でも、あの男も、ときには、君、善良な感情を持つこともあるんだぜ。しかし、教訓だったよ、きょうの『水晶宮』での一件は教訓だった、あれは極めつきの完璧ってやつだよ! 君は初めあいつの度胆をぬいて、震えあがらせた! そしてまたあの形をなしていない、意味のない想像をほとんど信じこませておいて、それから、いきなり『ほうら、ざまあ見やがれ』とばかり、舌をぺろりと出してみせたかっこうだものな。完璧だよ! 奴さん、今じゃぺしゃんこになって、型なしさ! 君はまちがいなく凄腕《すごうで》だよ、やつらにはああいうふうにやらなきゃいかんよ! しゃくだな、僕がそこに居あわせなかったとは! やつはさっきも君のことを待ちこがれていたぜ。ポルフィーリイも君と面識を得たがっているよ……」
「ああ……あの男もか……それにしてもなんだって僕は気ちがいのなかに入れられちまったのかね?」
「とはいっても、気ちがいのなかに入れられたわけじゃないよ。僕はどうやらおしゃべりがすぎたようだな……あいつはさっきね、君が例のひとつことにばかり興味を示すってことに、異様な感じを受けたんだよ。が、今じゃ、なぜ興味を示すかは、はっきりしてしまったわけさ、事情がすっかりわかったんでね……それにあれが、病気とからみあって、どんなに君の神経をいらだたせたかがわかったんでね……僕は、君、いささか酔っぱらっているが、ただなんだか知らんが、あいつにはなにか自分の考えがあるような気がするんだ……僕は君に言っておくけど、やつは精神病に熱をあげているんだよ。だけど、君は歯牙にかけることはないよ……」
三十秒ほど二人は黙りこくっていた。
「いいかい、ラズーミヒン」とラスコーリニコフは言いだした。「僕は君にありのまま言ってしまいたいんだ。僕は今臨終に立ち合ってきたんだよ、ある役人が死んだんだ……僕はそこであり金をはたいてやってきちゃった……それだけじゃなく、僕は今ある人間に接吻されて来たんだ、たとえ僕がだれかを殺したとしても、やっぱり……が、まあ要するに、僕はそこでもうひとりの人間に会った……火のような色の羽飾りをつけた……が、しかし僕はでたらめをいい出したようだな。僕はひどく体が衰弱してるんだ、僕を支えてくれないか……もうじき階段だ……」
「おい、どうしたんだ? どうかしたのか?」とラズーミヒンがあわてて聞いた。
「すこし目まいがするんだ。が、問題なのはそんなことじゃなくて、やけに気がふさぐことなんだ、やけに気がふさぐんだ……まるで女みたいにさ……まったく! 見ろ、あれはなんだろう? 見ろよ! 見ろ!」
「なんだい?」
「あれが見えないかい? 僕の部屋に明かりがついてるじゃないか、見えるだろう? 隙間から……」
二人が早くもおかみの部屋のわきにある最後の階段の前に立ってみると確かに下から、ラスコーリニコフの小部屋に明かりがともっているのが見えた。
「変だな! ナスターシヤかもしれないぞ」とラズーミヒンが言った。
「こんな時間にあの女が僕の部屋へ来ることは絶対にないんだ、それにあの女はもうとうに寝ているよ、だけど……どうだっていいや! じゃ失敬!」
「なにを言うんだ? せっかく送ってきたんじゃないか、いっしょにはいろう!」
「いっしょにはいることは知ってるが、僕はここで君と握手をして別れたいんだ。さあ、手を出せよ、さようなら!」
「どうしたんだ、ロージャ?」
「なんでもないよ。じゃ、行こう。君に立ち合ってもらおう……」
二人は階段をのぼり出した。ラズーミヒンの頭に、ゾシーモフの考えていたとおりかもしれないという考えがひらめいた。『ちぇっ! おれはしゃべりすぎてこいつの頭をおかしくしてしまったぞ!』と彼はひそかにつぶやいた。戸口に近づこうとしたとき、彼らはふと部屋のなかの人声を聞きつけた。
「これはいったい何事だろう?」とラズーミヒンが叫んだ。
ラスコーリニコフがまずドアに手をかけて、さっといっぱいにあけ放ち、明けたとたんに、しきいの上に棒だちになってしまった。
母と妹が彼のソファに腰かけて、これでもう一時間半も待っていたのである。どうして彼はこんなに二人の出現を予期してもいなかったし、二人のことを考えてもいなかったのだろう、それもきょう、二人は汽車でこれから発つから、間もなくそちらへ到着するとくり返し知らせてきていたというのに? この一時間半のあいだずうっと二人は先を争ってナスターシヤを質問攻めにしていた。そしてナスターシヤは今も二人の前に立って、もう二人にすっかり語りおえたところだったのである。彼が、病気なのに、『きょう家から抜け出した』ことを聞き、しかも話の模様ではてっきり熱に浮かされているらしいとわかったとき、二人は驚きのあまり茫然としてしまった。『ああ、ロージャはどうしたんだろう!』そう思って二人は泣いた。そして、こうして一時間半も待つ間、十字架の苦しみを忍んでいたのである。
ラスコーリニコフは嬉しそうな歓喜の叫び声に迎えられた。二人は彼に飛びついていったのに、彼は死人のように突立ったままだった。彼は、雷にでも打たれたように、不意に襲った、こらえようもない意識に打たれたのである。それに、二人を抱きしめようにも腕があがらなかった。上げられなかったのである。母と妹は彼をぎゅっと抱きしめ、接吻をしながら、笑ったり泣いたりしていた……が、彼は一歩あとずさったかと思うと、ぐらりと体が傾いで、そのまま気を失ってゆかの上にどうっと倒れてしまった。
騒動、恐怖の叫び、うめき声……敷居の上に立っていたラズーミヒンが部屋のなかへ飛びこんで、たくましい腕で病人を抱きあげ、病人はたちまち長椅子の上に寝かされた。
「大丈夫です、大丈夫です!」と彼は母親と妹に叫んだ。「これは気絶しただけです。大したことじゃありません! つい今も医者が、ずっとよくなっている、もうすっかり健康体だって言っていたところですから! 水を下さい! ほらね、もう意識をとりもどしかけています、ほうら、気がついたでしょう!……」
こう言うと、ドゥーニャの手を、抜けそうになるくらいぎゅっとつかんで、彼女をかがませて、『もう気がついた』ところを見せようとした。母も妹も、神でも仰ぎ見るように、ラズーミヒンを感嘆と感謝の気持ちをこめて見まもっていた。二人はすでにナスターシヤから、この『すばしこい若い衆』がロージャの病気中ロージャにどんなにつくしてくれたかという話を聞いていたのである。『すばしこい若い衆』とは、その晩ドゥーニャと水入らずの話をしている最中に母親のプリヘーリヤが彼につけた名前だった。 (つづく)