白痴(下)
ドストエフスキー/中山省三郎訳
目 次
第三編
第四編
解説
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第三編
一
この国には実際的な人がいない。たとえば政治的な人は多く、将軍などといったような人もかなりに多い。また、支配的な位置に立つ人も、どんなに必要が起ころうとも、すぐにあつらえむきの人がいくらでも見つかるのである。しかし実際的な人となるといっこういないのである。――そういう嘆声が絶え間なしにもらされている。少なくとも、誰も彼もが、そういう人間のいないことを嘆いている。人の話だと、二、三の線などには気のきいた列車ボーイさえもいないという。人がいないためにある汽船会社などでは、どうにもうまく経営してゆくことができないという。どこかの新しく開通された線で客車が衝突したとか、鉄橋から墜落したとかいう話を聞くと思うと、新聞には列車が雪の野原のまん中で、危うく冬ごもりをしかけたという記事が載っている。わずかに五、六時間ばかり乗って行って、五日も雪の中に立ち往生したなどという話が出ている。また、何千トンという貨物が、一つ所に二月《ふたつき》も三月《みつき》も発送されるのを待っているうちに、腐ってきているという話を聞かされるかと思うと、さらに、一人の管理者が、つまり、一種の監視人が、どこかの商店の番頭に自分の店の貨物を発送してくれと、うるさく付きまとわれると、発送をする代わりに横っ面を管理したそうで、しかも自分が『ちょっと腹を立てた』当然の管理行為だと言っているという噂を耳にする(もっともこの話は真《ま》にうけられないくらいである)。思うに、公務を行なう役所の数というものは、考えるのも恐ろしいくらいにおびただしい。そして、たいていの者がかつて勤めていたか、あるいは現に勤めているか、ないしはこれから勤めようと心がけているかであるが、――さればといって、いったい、こんな|がらくた《ヽヽヽヽ》によって、何かそれ相当の汽船会社の経営などといったようなものが成り立つものであろうか? と、かなりにあぶなかしい気がする。
時おり度はずれに単純な、あまりに単純すぎて、その説明を本当にすることさえもできないような応答をする向きがある。この人たちの話によると、事実、わが国ではたいていの者が勤めていたり、現に勤めたりしている。そしてこの状態がすでに二百年も、曾祖父の代から曾孫の代まで、最もすぐれたドイツ流によって続いているが、――こういう勤め人はまた、最も非実際的な人たちであって、ついには、純然たる理論にのみ走ることや、実際的知識を欠いているということが、勤め人そのものの間において、最近はほとんど最もすぐれた美徳であり、人にも勧むべき資質であるかのように見なされるに至っている、――と、そう言っている。それにしても、私はいたずらに勤め人の話など始めてしまったが、実は特に実際的な人物の話をしたかったのである。臆病であるとか、創意を全く欠如しているということが、絶えずこの国において、実際的な人物にとっての最も主要な、最善の特徴だと見なされ、今日においてさえも、なお見なされつつあることは、すでに疑うべからざる事実である。しかし、この意見を非難の意味にとるとすれば、何もこちらのほうばかりを非難するにはあたらないであろう。創造力の欠如ということは、世界の至るところにおいて、昔から実務家、敏腕家、実際家の第一の資格であり、最良の資質であるかのように常に見なされてきている。少なくとも百人のうち九十九人までが(これは本当に|少なくとも《ヽヽヽヽヽ》である)、常にかような思想に支配されており、わずかにあとの残りの百人中の一人が、絶えず違った意見をもち、ないしは、現にもっているのである。
発明家とか天才とかは、世間ではほとんど常に、世に出たばかりのころには(また実にしばしば、活動のやむころにおいても)ばかも同然に見なされてきた、――しかも、これはすでにあまりにもあまねく知れわたっているきわめて因襲的な物の見方である。早い話が、この何十年かの間に、あらゆる人が自分の金を銀行へ持ち込んで、何十億という金を四分の利で預けているが、これがもし銀行というものがなかったとしたら、もちろん、誰もがしかたなしに自分自身でやりくりをしていたであろうし、またこの何十億という金の大部分は必ずや株式熱や、詐欺師の手にかかって消えうせていたはずである。――しかも、こんなことになるのも礼節とか道義心とかの要求によるものである。まことに道義心があればこそである。もしも、道義にかなった臆病さと、礼節にかなった創造力の欠如とが、今日に至るまで、世上一般の定見として、敏腕な相当の人物に欠くべからざる性質であると認められているとしたら、あまり急に早変わりをするのは、あまりにも放埓《ほうらつ》な、あまつさえぶしつけなこととさえもなるであろう。
たとえば、わが子をすなおに愛している母親ならば、自分の息子や娘が常軌を逸しようとするのを見て、恐惶《きょうこう》を感じ、恐怖のあまり病気にかからないような者はないであろう。『いや、もういっそのこと、創造力なんかというものはなくっとも、仕合わせに満足な暮らしをしてくれたほうが、どんなにいいかしれない』と自分の赤ん坊をゆすぶりながら、どこの母親も考えるものである。また、わが国の乳母たちは、赤ん坊をゆすぶりながら、昔々のその昔から同じことをくり返して歌っている、『錦の衣を着なされや、将軍様になりなされ!』してみると、わが国の乳母たちにさえも将軍の位がロシア人の幸福の絶頂と思われているのであり、したがって、これは静かな美しい幸福というものの最も普遍的な国民的な理想であったのだ。事実において、あまりまごまごしないで試験に及第し、三十五年も勤続して、――ついに将軍にもなれず、それ相当の金を銀行へ積みもしなかったというような野暮な人間はわが国にはいないであろう? かくのごとくにして、ロシア人は、ほとんど何一つ骨も折らずに、結局においては、敏腕な、実際的な人だといわれる結構な御身分に到達しうるのである。実際、ロシアにおいて将軍になれないのは、ただ創造力に富んだ風変わりな人、換言すれば、物騒な人ばかりである。ひょっとすると、こんなことを言うのには、いくぶんの思い違いもあるであろうが、だいたいのことを言えば、これが本当のことであり、わが国の社会が、かように実際的な人間の理想を定義したのは、全く公平であるように考えられる。
が、それにしても、とにかく、ずいぶんよけいなことをおしゃべりしてしまった。実は、特にわれわれがすでにお馴染《なじみ》のエパンチンの家庭について、少しばかり説明的なことを言いたかったのである。この家の人たち、あるいは、少なくともこの家庭で最も分別のある人たちは、この一族にほとんど共通ともいうべき一つの性質に絶えず苦しんでいた。その性質は前に述べたいろんな美徳とは正反対なものであった。事実をすっかり理解もしないくせに(事実を理解するのはむずかしいからである)、ときには自分の家では何もかもが、よその家とは違っているのだと不審の念をいだいたりした。よその家では何もかもが、すらすらいっているのに、自分のところでは、そうはゆかない、よその人はみんな常軌を逸せずに、すらすらと走っているのに、――自分たちは、しょっちゅう脱線ばかりしている。よその人は誰しも常につつましやかに小心翼々としているのに、――自分たちは全く趣を異にしている。リザヴィータ・プロコフィーヴナは実際、あまりにびくびくしすぎるぐらいであるが、しかも、それは夫人たちが切望しているつつましやかな俗世間の臆病とは違っている。もっとも、ことによったらこんなに気をもんでいるのはリザヴィータ・プロコフィーヴナばかりかもしれない。娘たちは、かなりに慧眼《けいがん》な、皮肉な連中ではあるが、まだ若い身空のことではあり、将軍もまた慧眼ではあったが(もっとも気転がきくほうではなかった)、事がめんどうになったときには、『ふむ!』と言うだけで、結局はいっさいの期待をリザヴィータ・プロコフィーヴナにかけるのであった。したがって、夫人に責任というものが負わされていた。早い話が、この家族は何か特別な創意をことさらにもっていたわけでもなく、全くぶしつけなことだとされている目新しい創造力なるものに意識的に心をひかれて、そのために常軌を逸しているというわけでもなかった。いやいやけっして!
実際、そんな風なところは少しもなかった。つまり、意識して、これと定めた目的などはなかったのである。しかし、とにもかくにも、結局、エパンチンの家庭は、かなりに尊敬すべきものではあったが、やはり何かしら、一般にあらゆる尊敬すべき家庭にはあるまじきところをもっていた。近ごろになって、リザヴィータ・プロコフィーヴナは何事につけても、罪を自分一人に、自分の『不仕合わせな』性格のみに負わせるようになってきた。そのために彼女の煩悶《はんもん》がいっそうはなはだしくもなったのである。彼女は絶えず自分自身を『愚かな、礼儀知らずの変人』だとののしり、猜疑心《さいぎしん》のために煩悶し、しょっちゅう周章狼狽して、何かのことできわめてありふれた行き違いが起こっても、どうして処理したらいいのかわからずに、絶えず破綻《はたん》を大きくしていた。
すでに、この物語の冒頭において、エパンチン家の人たちが世間から真に尊敬を受けていたことは述べておいたはずである。どこの馬の骨やらわからなかったイワン・フョードロヴィッチ将軍自身さえいたるところで、心から尊敬をもって迎えられていた。また彼は実際に尊敬を受けるだけの値打ちもあったのである。第一に、裕福な、『あまり見下げたものでもない』人間として、第二には、あまり融通はきかなかったが、全くきちんとした人だとしてであった。しかしいくぶん血のめぐりがよくないということは、事業家の全部が全部とはいえないまでも、少なくともあらゆるまじめな利殖家には、ほとんど必要欠くべからざる性質であるように思われる。最後に、将軍はまた、それ相当の礼儀作法を心得、謙譲であり、口のきき方を知って、減らず口をたたくようなことはせず、同時に単に将軍としてばかりでなく、廉潔《れんけつ》にして高尚な一個の人間としても、けっして他人に踏みつけられるようなことはなかった。最も重要なことは、彼が有力な保護のもとに在るということであった。
リザヴィータ・プロコフィーヴナはどうかというに、夫人は前にも述べたごとく、名門の出であった。もっともわが国においては、門地などというものは、のっぴきならぬ立派な親類でもなかったら、そんなに人の関心をひかない。しかしついに夫人にも立派な親戚があらわれて、ついには尊敬もされ、可愛がられもした。しかも相当の人たちがそうするので、自然と、他の人たちもそれに従って夫人を尊敬し、応待もしなければならなかった。いうまでもなく、彼女の家庭的な煩悶は根も葉もないもので、元をただせば実にくだらないもので、おかしいくらいに誇張されていた。それはそうと、もし誰かが鼻の上や額に疣《いぼ》があるとしたら、その人はなんだか自分の疣を見て、誰もがそれをあざわらったり、またたとえ、アメリカ発見のような大手柄をしても、この疣があるからといって自分を非難したりすることを、この世の唯一の仕事としてるかのように思うものである。世間で実際にリザヴィータ・プロコフィーヴナを『変人』扱いにしているのは疑うべからざる事実であるが、同時に尊敬されていたこともいなみがたいのである。が、リザヴィータ・プロコフィーヴナはついに自分が尊敬されているということさえも信じなくなってきた――ここにいっさいの破綻があったのである。
自分の娘たちを見ては、何かしら自分が絶えず出世の邪魔になっているのではないかしらと疑ってみたり、自分の性格は笑止なものであり、ぶしつけで、我慢のならないものだろうといぶかってみたりして煩悶するのである。そしてもちろん、そのために夫のイワン・フョードロヴィッチや自分の娘たちを朝に晩にとがめ立てては、毎日毎日、寝ても覚めても口論していたのである。しかも同時に夫や娘たちを、身をも忘れて、ほとんど煩悩《ぼんのう》といってもいいくらいに愛していた。
何よりも夫人を悩ませたのは、娘たちが自分と同じような『変人』になるだろうという危惧《きぐ》の念であった。あんな娘たちって、この世の中にあるものではない。またいてはならないものだと思い煩うのである。『ニヒリストができかかっている、ただそれだけのことだ!』と絶えずひとり言を言っていた。この一年というもの、わけても、つい最近になって、この憂鬱な気持はいよいよ彼女の胸に根強いものとなってきた。
『第一、あの娘《こ》たちはなんだってお嫁に行かないんだろう?』と夫人は絶えず、あてもなく自分に聞いてみる、『母親をいじめたくって――それをあの娘たちは人生の目的だと思っているのだ、むろん、それに相違ない。なぜといって、こんなことが新しい思想とやらで、こんなことがあのいまいましい婦人問題なのだから! 半年ばかり前にアグラーヤはあのすばらしい髪の毛を切ろうとしたのではなかったか!(ああ、本当に私の娘ざかりにだって、あんないい髪はしていなかったものを!)もう鋏を手にしていたものを、私はひざまずいて、拝むようにしてよしてもらったのではなかったか!……まあ、あの子はきっと、母親をいじめてやろうという意地の悪い魂胆から、あんなことをしたのに相違ない、あの子は意地の悪い、わがままな、甘やかされて育ってきたやつだから。けど、何よりいけないのは、意地悪なことだ、意地悪、意地悪! でも、あの|でぶ《ヽヽ》公のアレクサンドラは、あの子にひかされて、やはり同じように髪の毛を切ろうとしたのではないかしら? あれはけっして意地悪ででも、気まぐれででもなく、髪の毛がなかったら、もっと気楽に寝られるし、頭も痛まないだろうと、アグラーヤに焚《た》きつけられて、ばかみたいに、それを真《ま》に受けてしまったのだ。まあ、この五年の間に、――どれだけ、どれだけ結婚の申込み者があったろう? そして、実際、いい人もあった、とてもとても器量のいい人もあったものを! あの子たちは何を待っているのかしら、なんでお嫁に行かないのかしら? ただ母親をいらいらさせたいばかりに――ほかには何のいわれもない! 何も! 何も!』
ところが、ついに母らしい彼女の親ごころに、太陽が昇ろうとしていた。せめて一人の娘、アデライーダだけでも、やっとかたがつくだろう。『やっと、一人だけでも重荷が軽くなります』と、口に出して言わねばならない機会があった時に、そんなことを言っていた(胸の中では、比較にならないほど、もっともっと優しい言い方をしていたが)。やがて、万事は実に好都合に、身分相応に取り運ばれた。上流社会においてさえも、敬意を払って噂に上ってきた。相手は有名な人物で、公爵で、財産もあれば、器量もよし、そのうえに、令嬢とは気持がしっくり合っている。まことに申し分がないと思われる。しかし、夫人は以前から、アデライーダの身の上をほかの二人の娘ほどには危ぶんではいなかった。たまには彼女の画家らしい性癖が、絶えず危惧の念に包まれているリザヴィータ・プロコフィーヴナの心をかき乱すこともあったが。
『その代わり性質が陽気で、それに、十分に常識もそなえているから、――あれがつまずくようなことはあるまい』と、夫人は、ついには自分を慰めるのであった。彼女は誰にもましてアグラーヤには気をもんでいた。
ついでながら、長女のアレクサンドラについては、リザヴィータ・プロコフィーヴナは気をもんでいいのやら悪いのやら、どうしていいのか自分でもわからなかった。ときには『娘一人がすっかり見る影もなくなった』ような気がしていた。二十五になる、――してみると、いつまでもオールド・ミスで通すのかもしれぬ。『あれほどの器量よしなのに!』と、リザヴィータ・プロコフィーヴナは毎晩のように泣いてさえもいた。しかるに、そんな晩にも、アレクサンドラ・イワーノヴナときたら、実に安らかな夢を見て眠っているのであった。『いったいあれはどんな子なんだろう? ニヒリストなのかしら、それともただのばか娘かしら?』しかし、ばかでないということには、リザヴィータ・プロコフィーヴナもなんらの疑いをももっていなかった。母親はアレクサンドラの判断を非常に尊敬して、この娘に相談をかけるのを好んでいた。しかし、『いくじなし』だということ――それは疑うべからざる事実であった。『まあ、手のつけられないほど落ち着き払っている! だけど、ほかの「いくじなし」って者はあんなに落ち着いてはいない――ふっ! あの子たちにかかったら、気が遠くなっちまう!』
リザヴィータ・プロコフィーヴナはアレクサンドラ・イワーノヴナに対しては、彼女の秘蔵っ子であったアグラーヤに対する以上に、ある言い知れぬあわれみ深い同情を寄せていた。しかし気むずかしい言いがかりや(これは大事なことであるが、夫人の母親らしい心づかいと同情の念をあらわしていた)、かきむしるような態度や、『いくじなし』という悪口は、ただアレクサンドラを笑わせるだけであった。ついには、実につまらない事柄がひどく母なるリザヴィータ・プロコフィーヴナを怒らせ、堪忍袋の緒を切らせるようなことも時おりあった。アレクサンドラはたとえば、いつまでも寝ているのが好きで、いつもいろんな夢を見ていた。ところが、いつも、その夢たるや、何かしら度はずれに単純で、無邪気なものであった、――それこそ七つの子供にふさわしいようなものであった。ところが、この無邪気なのがなぜかしらお母さんに癇癪《かんしゃく》をおこさせた。ある時、アレクサンドラ・イワーノヴナが九羽の牝鶏を夢に見た。そしてこの話から娘と母親との間に妙に形式的な口論がおこった。なぜ? ということは説明がむずかしい。
一度、たった一度、彼女はどうやら奇抜そうな夢を見ることができた――どこかの暗い部屋に一人の坊さんがいて、その部屋へ行くのがこわくてしようがなかったという、この夢の話を二人の娘は大笑いしながら、もっともらしくリザヴィータ・プロコフィーヴナに伝えた。ところが母親はまたもや腹を立てて、三人の娘たちをそろいもそろってばかだと言った。『ふむ! いかにもばか娘らしく落ち着き払っている、ほんとに「いくじなし」だ。手がつけられない。でも、あれは沈んでいる。どうかすると、ほんとに悲しそうな様子をしている! 何を悲しんでいるんだろう? 何を?』時おり、夫人はこの質問をイワン・フョードロヴィッチにも浴びせかけた。そして、いつもの癖として、ヒステリカルに脅やかすような風をして、さっそく返事を聞きたいというような顔をしていた。イワン・フョードロヴィッチは『ふむ』と言って、苦々しい顔をし、肩をすくめて、ついには両手をひろげて、解決を下すのであった。
『亭主が必要なんだ!』
『でも、あの子には、どうかして、あなたのような人を授からないようにしたいもんですわ、ねえ、あなた』とついにリザヴィータ・プロコフィーヴナは爆弾のように破裂した、『あなたみたいな判断をしたり、宣告をしたりしない人を、ねえ、あなた、あなたみたいな無作法な乱暴者を授からないようにね、イワン・フョードロヴィッチ……』
イワン・フョードロヴィッチはさっさと難を免れ、リザヴィータ・プロコフィーヴナは破裂してしまったあとでは、気が落ち着いてくるのであった。
もちろん、その日の夕方ちかくになれば、夫人は必ず夫のイワン・フョードロヴィッチ、『無作法な乱暴者』だと言った、しかも善良な、愛すべき夫、自分が崇拝しているイワン・フョードロヴィッチに対して非常に注意ぶかく、おとなしく、愛想よく、つつましやかになるのであった。なぜなら、彼女は一生涯、夫のイワン・フョードロヴィッチを愛し、惚《ほ》れてさえもいたのであり、そのことはイワン・フョードロヴィッチ自身もよくよく承知していて、その点ではリザヴィータ・プロコフィーヴナを限りなく尊敬もしていたのである。
それにしても、夫人の不断のおもなる苦しみの種はアグラーヤであった。
『全く、全く、私とそっくりだ、どこからどこまで私と生き写しだ』とリザヴィータ・プロコフィーヴナはひとり言を言っていた、『わがままな、けがらわしい悪魔だ! ニヒリストで、変人で、気ちがいで、意地悪だ。意地悪、意地悪! ああ、あの子はどんなに不仕合わせな女になるだろう!』
しかし、すでに述べたように、昇って来た太陽はあらゆるものを和らげ、しばしの間、照らしていた。リザヴィータ・プロコフィーヴナがあらゆる不安をのがれて、本当に心を安めることができたのは、生まれてこのかたわずかにこの一か月ばかりの間であった。いよいよ差し迫ったアデライーダの婚礼を機縁として、アグラーヤの噂も上流社会に立つようになってきた。その間、アグラーヤはどこへ行っても美しく、おだやかに、賢く、ゆったりしていて、いくぶんは傲然《ごうぜん》としていたが、それさえも彼女にふさわしかった。まる一か月の間は母親に対しても、実に愛想がよくて、丁寧であった!(『たしかにあのエヴゲニイ・パーヴロヴィッチのことは、もっともっとよく観察して、腹の底を見きわめなければならぬ。それにアグラーヤもあの人を他の話よりも好いているようにも思われないのだ!』)とにもかくにも、あの子は急にすばらしい娘になった――なんていうきれいな子だろう、ああ、なんてきれいなんだろう、日ましにきれいになってゆく! ところがどうだろう!
ところが、ここにけがらわしい公爵めが、よくよくの白痴《ばか》ものが現われるやいなや、何もかもがまたもやごちゃごちゃになってしまって、家のなかが、がらりとひっくり返ってしまったのだ!
それにしても、いったい、どんなことが起こったのか?
ほかの人たちが見たら、必ずや、何事も起こらなかったように思われるであろう。
ところがリザヴィータ・プロコフィーヴナのよその人と違っているところは、きわめてありふれた事柄が結びついたりもつれ合ったりしているところに、いつも彼女につきものになっている不安な気持ちを透して、いつも何かしら、ときには病気にでもなってしまいそうな激しい恐怖を感じさせるものを見てばかりいるということであった。彼女はそれによって、実に疑い深い、言い知れぬ、したがって、実に重苦しい恐怖を感じさせられるのであった。だから今、不意に、笑止な、根も葉もない不安の入りみだれている陰に、何かしら実際に重大らしいもの、何かしら実際に恐惶や懐疑や、杞憂《きゆう》の念をよび起こさせるようなものが、ありありと見えてきたとき、夫人の気持はどんなものであったろうか?
『それに、なんてずうずうしいんだろう、私にいやらしい無名の手紙なんかをよこして、あの死女郎《しにめろう》のことを書いて、アグラーヤがあいつと交際してるなんて言って、なんてずうずうしいんだろう?』リザヴィータ・プロコフィーヴナは公爵を引っぱって来る道すがら、また家へ着いて家じゅうの者が集まっている丸いテーブルのところへ公爵を坐らせながらも、こんなことを考え続けていた。
『こんなことを考えるなんて、よくもずうずうしいことができたもんだ。たとえちょっとでもそんなことを真《ま》にうけたり、アグラーヤにあの手紙を見せたりしながら、私はもう恥ずかしくって死んじまうわ! これは私たち、エパンチン家の者を嘲弄《ちょうろう》しようというんだろう! これもみんなイワン・フョードロヴィッチのせいなんだ、みんな貴方のせいなんですよ、あなた! ああ! なんだってエラーギン〔フィンランド湾にのぞむネワ河の河口にある小さな島。夏の散策地〕へ引っ越して行かなかったろう、私があんなにエラーギンへ越そうって言ったのに! これは、たぶん、ワーリヤがよこしたんだろう、きっとそうだわ、それとも、ことによったら、……いや、いや、何もかもイワン・フョードロヴィッチの罪なんだ! これはこの人を目当てにこしらえたお芝居なんだ、以前の関係を思い出して、この人にばかな目を見せようっていうんだ。たしかに以前あの人が真珠をあの阿魔のところへ持って行った時、まるでばか者あつかいにして、さんざん笑ったあげく、さんざん愚弄したっていうけど、その時と同じことをしようっていうんだ……。しかし、結局、わたしたちはやっぱり巻き添えを食っているんだ。やっぱり、うちの娘たちも巻き添えにされているんですよ、イワン・フョードロヴィッチ、処女ですよ、令嬢ですよ、上流社会の令嬢ですよ、嫁入り前の娘なのですよ、それだのに、あんなところにいて、あんなところへ行って、みんな聞いてしまったんですよ、そしてあんな小僧っ子たちといっしょに話に巻き込まれてしまったんですよ! あんたは喜んだらいいでしょう、やっぱりあの子たちはあそこにいて聞いてしまったのですよ! でも、私はどうしてもあの公爵のやつを容赦はしませんよ。けっして容赦なんかするもんですか! それになんだってアグラーヤは三日もヒステリーを起こしてたんだろう、なんだって姉たちと、今にも喧嘩しそうにしてたんだろう。いつも手に接吻なんかして、母親のように敬っているアレクサンドラとまでも喧嘩しそうになったりして? なんだってあの子は三日も、みんなに謎をかけるようなことをしているのだろう? それだのに、ガヴリーラ・イヴォルギンはどうなんだろう? 昨日も今日もなんだってあの子はガヴリーラ・イヴォルギンを褒めちぎって、泣いたりしていたんだろう? なんだって、あの子は公爵から来た手紙を姉にも見せなかったのに、あの無名の手紙に、あのいやな「貧しき騎士」のことなど書いてあったのだろう? それになんだって! 何のために、何のために私は気ちがい猫みたいに向こう見ずに駆けつけて、自分からここへわざわざ引っぱってなぞ来たんだろう? ああ、私は気が狂ったのだ、こんなことをするなんて! 若い男を相手にして、娘の秘密をしゃべるなんて、おまけに……おまけに、ほとんどあの人自身に関係している秘密を打ち明けるなんて! ああ、あの人が白痴《ばか》で……そして……家の者の友だちだったのが仕合わせだ……けども、アグラーヤがこんな不具者に参るなんて、どうしたことなんだろう! ああ、私ともあろう者が、なんていう寝言を言っているんだろう! ちぇっ! 私たちは奇人ぞろいだ……ガラスの箱の中へ入れて、うちの連中を、まず第一には私を、見せ物に出したらいいわ、十カペイカくらいの木戸銭を払わせて。でも、イワン・フョードロヴィッチ、あんたのことも容赦はしませんよ、けっしてするもんですか。ときに、あの子はなんだって公爵の気にさわるようなことをしないんでしょうね? ぎゅうぎゅういじめてやるって約束をしたのに、今はそんなことをするけはいもない! ほら、ほら、一生懸命に公爵のほうを見て、黙っている。出て行こうとはしないで、突っ立っている。自分から来てくれるなと言ったくせに……。公爵はまっさおになって坐っている。それに、あのいやな、おしゃべりのエヴゲニイ・パーヴロヴィッチめが自分一人で話を持ちきりにしてる! まあ、しゃべることったら、他人《ひと》にはひと言も口をきかさないで。私はあの話を持ちかけて、何から何までわかってしまいたいけれど』
公爵はなるほど、坐っていた。丸いテーブルの前にほとんど蒼白といってもいいくらいな顔をして坐っていた。そして同時にまた極度の恐怖に襲われているらしかった、時おりは自分自身にさえもわけのわからないあふれるような歓喜に身を任せていた。
ああ、彼に馴染《なじみ》の深い黒い二つの眼が、じっと自分のほうを見つめている部屋の片隅の方をのぞくのを、彼はどんなに恐れたことであろう。また同時に、アグラーヤに便りをもらってから、再びここに来て、この人たちの間に坐り、聞き慣れた彼女の声を聞いているのだと思うと、あまりの嬉しさに気が遠くなるほどであった。『ああ、今あのひとはなんとか言ってくれるだろう!』彼は自分ではただひと言も物も言わずに、一生懸命にエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの『おしゃべり』を聞いていた。エヴゲニイは今宵今晩ほど満足して興奮していることは珍しかった。公爵は彼の話をじっと聞いていたが、長いこと相手の言うことが、ひと言もわからなかった。まだペテルブルグから帰って来ないイワン・フョードロヴィッチのほかは、みんなが集まっていた。S公爵もやはりそこに顔を見せていた。一同の者は、もう少ししたら、お茶の出るまで音楽を聞きに行こうとしているらしかった。まもなく、不意にどこからかコォリャがやって来て、露台《テラス》へすべり込んだ。『してみると、あれは以前のようにここで相手にされているんだな』と公爵は心の中で考えた。
エパンチン家の別荘はスイスの田舎家の趣を採り入れたぜいたくな別荘で、四方は草花や常春藤《きづた》などで飾られていた。あまり大きくはないが、きれいな花園がぐるりを取り巻いていた。一同は公爵のところでと同じように、露台に腰をおろしていた。ただ、そこの露台はいくらか広く、粋《いき》な造りであった。
いま始まっている話の主題《テーマ》は若干の人にしか迎えられぬらしかった。察するところ、この会話は激論の結果、始まったものらしく、もちろん、誰しも話題を変えたがっている様子であった。しかし、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはいよいよ激しく頑張ったものとみえて、相手にどんな印象を与えるかということなどは、てんで気にもかけていないらしかった。公爵がやって来たので、彼はいっそう興奮したらしかった。リザヴィータ・プロコフィーヴナは全部呑み込めなかったが、苦い顔をしていた。アグラーヤはわきのほうに、ほとんど隅のほうに坐っていたが、その場を立ち去ろうともせずに、耳を傾けて、固く口をつぐんでいた。
「失礼ですが」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは熱のこもった調子でやり返した、「私はけっしてリベラリズムを反駁《はんばく》なんかしてはおりません。リベラリズムはけっして悪いもんじゃありません。これは渾然《こんぜん》たるものを形づくるに必要欠くべからざる一部分であり、これがなかったら渾然たるものは分裂するか滅びるかしてしまうものです。リベラリズムは最も穏健な保守主義と同様に当然、存在すべきものです。しかし私はロシアのリベラリズムは攻撃します。もう一度くり返しますが、私はロシアのリベラリストはロシア的リベラリストではなく、非ロシア的リベラリストだという、その点で攻撃するのです。ロシア的リベラリストを見せていただきたい。そしたらさっそくあるかたのいる前で私はその人に接吻して見せますよ」
「でも、その人があなたに接吻したいって言ったらでしょう」と、いつになく興奮していたアレクサンドラがこう言った。頬までが、いつもよりはいっそう赤らんでいた。
「まあ」と、リザヴィータ・プロコフィーヴナは心の中で考えた、「いつも寝たり食べたりして、挺子《てこ》でも動かせないくらいに落ち着き払っているのに、年に一度くらいは、ひょっこり腰をあげて、聞いてるほうで度胆《どぎも》を抜かれるようなことを言いだすじゃないの」
公爵はふと気がついた。見るとエヴゲニイ・パーヴロヴィッチがこんな真剣な問題を話すのに、あまりにも陽気で、まるで夢中になっているような、それと同時に冗談を言っているような風をしているのが、アレクサンドラ・イワーノヴナにはどうも気に入らないらしいのである。
「私はねえ、公爵、あなたがいらっしゃるちょっと前に、断言したのです」と、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはことばをついだ、「わが国のリベラリストは今に至るまで、以前の地主(今は廃《すた》れている)と神学生と、――ただこの二つの階級からばかりできてました。ところがこの二つの階級はついに全くの種姓《カースタ》、国民から独立した一種特別なものに変化し、時がたてばたつに従って、百年また百年といよいよ距離がはなはだしくなるばかりです。そんなわけですから、しぜん、彼らのやったこと、またすでにやりつつあることが一事が万事、非国民的なのです……」
「え? してみると、今までやったことがみんな――みんなロシア的でないと言うのかね?」とS公爵がことばを返した。
「非国民的ですよ。ロシア風かもしれませんけども、しかし国民的ではない。わが国のリベラリストもロシア的でないし、保守主義者もまたロシア的ではない。何もかも……。だから、ようく呑み込んでてください、国民は地主だの神学生だのがやったことを、何ひとつ承認しやしないから。今だって、これから先だって……」
「なるほど、そりゃ結構だ! もしそれがまじめだとすれば、君はどうしてそんな逆説《パラドックス》を主張できるんだね? ロシアの地主に対するそんな言いがかりを僕は黙殺するわけにはいかない。夫子《ふうし》自身だってロシアの地主だのに」と公爵は性急に反駁した。
「だけども、僕は君が考えてるような意味でロシアの地主というものについて論じてるわけじゃない。そりゃあ、僕がただ単にそれに属しているというだけでも尊敬すべき階級には相違ない、わけても今日のように存在しないということになってみれば……」
「それに文学にだって、なにも国民的なものなんかはなかったじゃないんですか?」とアレクサンドラがさえぎった。
「私は文学のほうはあまり得意じゃないんですが、私のつもりでは、ロモノーソフ、プゥシキン、それとゴォゴリを除けたら、ロシア文学は全くロシアのものではないと思うんです」
「第一、それだけあれば結構ですわ、第二に、一人は民衆の間から〔ロモノーソフは平民の出であった〕出ていますが、あとの二人は地主ですね」とアデライーダが笑いだした。
「なるほどそうですが、そんなに威張らないでください。今までのロシア文学者のうちで、ただこの三人だけが、それぞれ、何かしら本当に自分のもの自分独得《ヽヽヽヽ》のものを語ることができたので、それによって、この三人がたちまち国民的なものとなったのです。ロシア人のうち誰でもいい。何か自分のもの、けっして消滅しない、借り物でない|自分のもの《ヽヽヽヽヽ》を言うなり、書くなり、行動にあらわすなりしたら、その人は必ず国民的になります。たとえロシア語もじょうずに話せないとしても。これが私にとっては不易の真理です。しかし、私たちは文学の話を始めたのではなく、社会主義者の話を始めたのでした。それがついその話からこんな話になったのです。さて、私は確信してやまないのですが、わが国には一人のロシア的な社会主義者もおりません。現におらんばかりでなく、昔もおりませんでした。というのは、わが国の社会主義者といえば全部が全部、やはり地主や神学生あがりだからです。わが国の有名な、どこへ出しても恥ずかしくないような社会主義者は、こちらにいる者も、外国にいる者も、ことごとく農奴制時代の地主から出たリベラリストにほかならぬものです。何をあなたがたはお笑いになるのです? まあ、私にあの連中の書いた本を見せてください。あの連中の学説なり、覚え書きなりを貸してごらんなさい。私は文学批評家ではありませんが、きわめて信頼するに足る文学批評を書いてごらんに入れましょう。そして彼らの書物、パンフレット、覚え書きなどの一ページ一ページが、何よりもまず以前のロシアの地主によって書かれたものだということを、火を見るよりも明らかに証明しましょう。あの連中の敵意、不満、諷刺《ふうし》――はいずれも地主的なものです。彼らの歓喜、彼らの涙は本当のものであり、おそらくは、真心《まごころ》からの涙であっても、しかも、――なお地主的なものです! 地主的か神学生的か……またあなたがたはお笑いなさる、あなたも笑ってらっしゃるんですね、公爵? あなたもやはり不賛成なんですか」
実際に一同の者が笑っていた。公爵もほほえみを浮かべていた。
「僕は賛成なのか不賛成なのか、いきなり申し上げることはできませんが」と公爵は急に笑うのをやめて、いたずらをしてつかまえられた小学生のような顔つきをして、こう言った、「しかし、あなたのお話を非常に喜んで拝聴いたしておることだけは御承知おき願います……」
こう言いながら、彼はほとんど息がつまりそうであった。額には冷汗までがにじんできた。これは彼がここへ来て坐ってから、はじめて口に出たことばであった。彼はあたりを見回そうとしていたが、その勇気すらも出なかった。エヴゲニイは彼のそぶりを見てとって、ほほえみをもらした。
「皆さん、私はあなたがたに一つの事実をお話しいたしましょう」と彼は以前の調子、つまり、非常に心をひかれて熱中しているような、同時にまた、おそらくは自分自身のことばをあざけってでもいるような妙な調子でことばを続けた、「その事実、その事実の観察、それに発見したということは僣越《せんえつ》ながら私のもの、しかも私だけの手柄と言いうるものです。少なくとも、この事実については、まだどこでも話にも上っていませんし、書いた人もいないのですから。この事実のうちに、私の言うような意味のロシアリベラリズムの本質がすっかり現われているのです。第一に、リベラリズムというものを、現存する社会の秩序に対する攻撃とは見ないで(この攻撃が論理的なものか、あるいは、間違っているものか、それは別問題ですが)、とにかく、そう見ないで、だいたいのことを言うとしたら、いったい、リベラリストとはなんぞや? と言いたいのです。ねえ、そうじゃありませんか? さて、私の言う事実というのは、ロシアリベラリズムなるものは現存せる社会の秩序に対する攻撃ではなくて、わが国の社会の本質に対する攻撃であり、ただ単に秩序、ロシアの秩序に対する攻撃であるばかりでなく、ロシアそのものに対する攻撃でもある。ついに、わがリベラリストはロシアそのものを否定し、すなわち自分の母親を憎んで鞭《むち》うつところまで立ち至ったのです。不幸なこと、失敗したことがあれば、必ずリベラリストはあざわらったり、ほとんど狂喜したりするのです。またわが国の民俗、ロシアの歴史、なんでもかんでも憎んでいる。彼らのために弁明してやることがあるとしたら、それはただ彼らが自分のしていることを知らずに、ロシアに対する憎悪をもって、最も有効なリベラリストだと勘違いしていることです(ああ、あなたがたはほかの人から賞めそやされているのに、自分は実際のところ、おそらく、このうえもなく間抜けな、ぼんやりな、そして危険な保守主義者なのに、自分ではそれを知らずにいるリベラリストをこの国でしばしばお見うけなさることでしょう!)、このロシアに対する憎悪を、わが国の若干のリベラリストはついこの間まで、ほとんど祖国に対する真心からの愛であるかのように勘違いをして、その愛情の根本ともなるべきものを、他人よりもよく知っていると自慢していたものでした。ところが、今日このごろはもう、ずっとずっと露骨になって、『祖国に対する愛』ということばをさえ恥ずべきものと考えるようになり、あまつさえその概念までも有害な、取るにも足らないものだとして、これを排撃し、ついには除外してしまいました。この事実は正確なもので、わたしはそれを主張してやまない者です……いつかは本当のことを余すところなく、率直に、露骨に言ってしまわなければならなかったのです。しかし、この事実はまた同時にいまだかつて、いついかなるところにも、ただ一つの国民の間にさえも見られなかったという、そういうたぐいのものでした。したがって、この事実は偶然のもので、やがては過ぎ去ってしまうかもしれません、私はそれには同意します。自分の国を憎むなどというリベラリズムはどこへ行ったって見当たらないでしょう、こういうことをわが国では何によって説明しうるでしょう? 以前もこれと寸分違わぬものがあったとか。――ロシアのリベラリストは目下のところでは、まだ非ロシア的リベラリストだとか、その辺のことをいって説明することですね。私の考えでは、ほかには別に何も材料もないと思うのです」
「僕は君の言ったことを、冗談だと思うよ、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチ君」とS公爵はま顔になって言うのであった。
「わたしはリベラリストを全部見たわけではありませんから、どちらがいいとは申せませんけれど」とアレクサンドラ・イワーノヴナが言った、「しかし、あなたの御意見を伺って憤慨いたしましたわ。あなたは局部的な場合をとって来て、それを一般的な法則にあてはめようとなさいました、したがって中傷なすったことになります」
「局部的な場合って? あ、あ! よくもおっしゃいましたね」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチはあとを引きとった、「公爵、あなたはなんとお考えになります、これは局部的な場合でしょうか、それとも?」
「僕はやはり、見聞が狭いし、……リベラリストともあまり……ですと申し上げなければなりません」と、公爵は言った、「しかし、あなたのおっしゃるのが、たぶん、本当だろうと、そんな気がするのです、あなたのおっしゃられたロシアリベラリズムは、実際のところ、単にわが国の社会の秩序ばかりではなしに、ロシアそのものをも憎んでいるような傾向があるようですね、いくぶん。むろん、これはただいくぶんというだけのことで……むろん、これはあらゆる人に対して公平な意見だというわけにはまいりませんが……」
彼は口ごもって、そのあとを濁してしまった。彼はすっかり興奮してはいたが、この話には非常な関心をよせていた。公爵には一つの風変わりな特徴があった。それはいつも何か彼の関心をひきよせる話を聞いている時と、人に物を聞かれて答える時に示す、なみなみならぬ無邪気さであった。彼の顔や、からだつきにさえも、この無邪気さ、相手にひやかされても、ユーモアを浴びせかけられても、とんと察しがつかないで、相手を信じきっている気持がどことはなしに漂っていた。ところが、エヴゲニイはかなり前から、たしかにいくぶん、特別な薄笑いを浮かべながら公爵に対していたのであるが、今この答えを聞くと、なんとなく非常にまじめになって、彼を眺め、まさしく彼からこんな答えを聞こうとは夢にも思わなかったというような様子をしていた。
「なるほど……しかしどうもあんたのおっしゃるのは変ですねえ」エヴゲニイは言いだした、「実際、あんたはまじめにお答えになったんですか、公爵?」
「では、あんたはまじめにお尋ねになったんではないんですか?」と、こちらはびっくりして、口答えした。
誰も彼もが笑いだした。
「ほんとだわ」とアデライーダが言った、「エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんはいつでも、相手かまわずばかにしなさる! 承知しててくださりゃいいのに。このかたは時おり、妙なことを、まじめくさってお話しになるんですのに!」
「なんだか、重っ苦しい話らしいわね。そんな話はもう始めなくたっていいでしょうね」とアレクサンドラが鋭く注意した、「散歩に行きたかったのに!……」
「さ、まいりましょう、すばらしい晩ですから!」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが叫んだ、「しかし、僕が今は大まじめで言ったことをあんたがたに証明するために、――主として公爵に証明するために(ねえ、公爵、あなたは僕に非常な興味をおこさせました。そして、誓って申しますが、僕はいつも誰にもそう思われるんですけれど、けっして見かけほど、あさはかな人間じゃありませんよ、――もっとも、実際のところはあさはかな人間なんですけれど!)、もしもねえ、皆さん、皆さんがよろしいっておっしゃるなら、僕は公爵にもう一つ最後の質問をしようと思います。これは私自身の物好きからなんですが、これをもって打ち切りにしたいものです。この疑問は、まるでわざわざみたいですが、二時間前に私の念頭に浮かんできたのです(いいですか、公爵、僕だってときにはまじめなことを考えるんですよ)、僕はこの疑問を解決はしたのですが、まあ、公爵がなんておっしゃるか見てましょう。たった今『局部的な場合』というお話がありましたね。このことばはわが国では意味深長なことばになっていて、よく耳にするものです。つい最近、誰も彼もがこの若い……男の恐ろしい六人殺しのことや、弁護士の妙な議論のことを噂したり、書いたりしていました。あの議論の中に、犯人が貧困の境遇にあって、これらの六人の者を殺そうという気になったのは、きわめて|自然なこと《ヽヽヽヽヽ》だということがありました。これは文字どおりではありませんが、意味は確かこのとおり、あるいはそれに近いものだったと思います。僕一個人の考えでは、弁護士は、かような妙な思想を声明しながら、自分では最もリベラルな、最も人道的な、今のような時勢だからこそ言えるような最も進歩的な意見を語っているのだと、全く信じきっていたように思えるのです。さあ、あなたの御意見だとどうなりましょう? 概念や信念のうえでのこの歪曲《わいきょく》が、かような物事に対する不公平な、ただごとならぬ見方が存在し得るということが、これがいったい、局部的な場合なんでしょうか、それとも一般的な場合なんでしょうか?」
一同はどっと吹き出してしまった。
「局部的なもの、むろん、局部的なものです」と言って、アレクサンドラとアデライーダは笑いだした。
「失礼だけれど、また警告するよ、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチ君」S公爵は付け加えた、「君の冗談ももうあんまり鼻についてきたね」
「あなたはどうお考えです、公爵?」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは相手の言うことなどには耳も傾けずに、ムィシキン公爵の物好きそうなまじめなまなざしを見てとって、「どういう風に見えますかね、これは局部的な場合、それとも一般的な? 僕はね、正直に言うと、あんたに聞きたくて、この質問を考え出したのです」
「いいえ、局部的なものじゃありません」と、静かに、しかもきっぱりと公爵は言い放った。
「冗談じゃありませんよ、レフ・ニコライヴィッチさん」と、いくぶんいまいましそうにS公爵が叫んだ、「あんたはいったい、この人に乗せられてるのがわからないんですか? この人はね、すっかりちゃかしきって、あんたを嬲《なぶ》る気でいるんですよ」
「僕はエヴゲニイ・パーヴロヴィッチ君はまじめな話をしたんだと思いました」と、ムィシキン公爵は顔を赤らめて、眼を伏せた。
「ねえ、公爵」とS公爵は続けた、「いつぞや、三月《みつき》ばかり前に二人で話し合ったことを思い出してくださいよ。ほかでもない、わが国に新しく創立されたばかりの法廷に、早くも実に多くの注目すべき、才能のある弁護士を認めることができるという話をしたじゃありませんか! それは陪審員の決定に、きわめて注目すべきものが多いということを話しましたね。あなた御自身がどんなに喜んでいらっしたか、そして僕があんたの喜ばれているのを見てどんなに嬉しい思いをしたことか……。僕たちは当然、自慢をしてもいいのだと話し合ったじゃありませんか……。ところが、この不細工な弁護ときたら、この奇妙な論法ときたら、これはむろん、偶然のもので、万に一つの例外ですよ」
ムィシキン公爵はじっと考えていたが、やがて非常に確信のありそうな様子をして、声ひくく、おずおずしているような風をさえ見せて、こう答えた。
「僕はただ、観念《イデー》および――これはエヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんのことばをかりて言うのですが概念の歪曲に実にしばしば、出くわして、不仕合わせにも、局部的な場合よりもはるかに一般的な場合のほうが多いということを言いたかったのです。そして、もしもこうした歪曲がかような一般的な場合でなかったら、おそらく、ああいったような有り得べからざる犯罪も起こらなかったろうと思われるほど、それほど多くなっているということを……」
「有り得べからざる犯罪ですって? しかし、僕はきっぱりとこう申し上げたい。これと同じような犯罪、おそらくは、これ以上に恐るべき犯罪は、たしかに以前にもあったものです。いつもありました。そして、わが国ばかりでなく、いたるところにあったものです。僕の考えでは、これから先も長いことくり返されるだろうと思います。ただ違うところは、わが国では以前は今のように世間で騒ぐようなことはほとんどなかったのに、このごろでは口に出して言ったり、おまけに書き立てるようになったことです。だからこそ、こういう犯人が今はじめて現われたかのように見えるのです。ここにあなたの勘違い、きわめて無邪気な勘違いがあるのですよ、公爵、はっきり言うと」S公爵はあざけるようにほほえんだ。
「それは、僕も犯罪が以前にもこういう恐ろしいのが非常に多かったということは、自分でも知っています。つい先ごろ僕は監獄へまいりまして、いくたりかの囚人や未決囚と近づきになることができました。中には今度のよりはずっと恐ろしいのがいて、十人も殺しておきながら、ちょっとも後悔していないような犯人もいました。しかし、僕はその時こんなことに気がつきました。それはこのうえもなく頑強な、そしてちょっとも後悔をしていない殺人犯でも、やはり自分が罪人《ヽヽ》であるということは知っている、つまり良心的に、たとい後悔などはしていないにしても、自分が良くないことをしたのだということだけは考えているということです。そして彼らはことごとくそうなのです。ところがエヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんがお話しになったような人たちは、自分のことを罪人だということを考えてみる気持さえもなく、肚《はら》の中では、当然そうする権利があったのだ……よいことをしたのだと、……つまりだいたいがそういう気持でいるんじゃありませんか。僕をして言わしむれば、ここにこそ非常な相違があるのです。しかも注意しなければならないのは、これがみんな青年であるということ、つまり何よりもたやすく、あっさりと観念の曲解に陥ることのできる年ごろの連中であることです」
S公爵はもう笑ってはいなかった。そうしていぶかしげに公爵の話を謹聴していた。
さっきから何か言いたげにしていたアレクサンドラ・イワーノヴナは、何か特別な考えに押しとどめられたかのように、ふっと口をつぐんでしまった。エヴゲニイはすっかり驚いてしまって、今度という今度はもうあざわらうような様子は少しもなく、じっと公爵を眺めていた。
「いったいどうしてそんなにびっくりなさるんですの、あなた」と、だしぬけにリザヴィータ・プロコフィーヴナ夫人が口を出した、「この人があなたよりも足りなくって、あなたのように物の判断がつきかねるとでもお思いになって?」
「いいえ、そんなわけじゃございません」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが言った、「こんな質問をしまして恐縮ですが、ねえ、公爵、あなたはそれほどの見識がおありなさるのに、どうしてあなたは(これまた恐縮な次第ですが)、あの奇怪な事件……ほら、ついこの間の……ブルドフスキイって言いましたね……あの男の事件のときに、どうしてあなたは観念および道徳的信念のああいう歪曲に気がつかれなかったのでしょう? まさしく、さっきのと同じものじゃありませんか! あの時、僕はあなたがちょっとも気がついておられないように、そういう風に見えましたけれど?」
「まあ、こうなんですよ、公爵」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは熱くなって言った、「私たちはみんな気がついてましたの、ここに集まって、公爵の前で自慢をしてたんですの。するとこの人は今日になって、あの仲間の一人から、ほら、あのいちばん頭《かしら》になっている、面皰《にきび》のある、覚えているでしょう、アレクサンドラ? あの人から手紙をもらったんですよ、あの男はね、公爵に手紙の中でおわびを言ってるの。そりゃあ、おわびの言い方も自己流だけれど。そしてさ、もうあの時、あの男を焚《た》きつけた仲間を……ねえ、アレクサンドラ、覚えてるでしょう? ……あの仲間と離れてしまって、今は誰よりも公爵を信じてるって、そんなことを言って来てますよ。まあ、私たちは公爵の前で天狗《てんぐ》になることだけは一人前だけれど、そんな手紙って受け取ったこともありませんよ」
「そしてイッポリットもやはりさっそくこちらの別荘へ引っ越して来ましたよ!」とコォリャが叫んだ。
「え! もうこちらへ?」と公爵はいまさらながら驚いた。
「あなたがリザヴィータ・プロコフィーヴナ様とお出かけになるとすぐにおいでになったのですよ。僕が連れて来たんです!」
「まあ、わたし、賭《かけ》をしてもいいわ」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは、たった今、公爵を賞めそやしたことなどは、すっかり忘れてしまって、急に怒りだした、「賭をしましょう、この人は昨日あの男の屋根裏の部屋へ出かけて行って、あの毒々しい意地悪に、悪く思わないで、こちらへ引っ越してくれるようにって、拝むようにして頼んだに相違ないんです。あなたは昨日、行ったでしょう? だって、さっき自分で白状したじゃありませんか。そうでしょう、それとも行かなかったの? 拝むように頼んだんでしょう、それとも頼まなかったの?」
「そんなことはしませんでしたよ」とコォリャが叫んだ、「まるで反対です。イッポリットが昨日公爵の手をつかまえて、二度も接吻したんですよ。僕は自分で見ました。もうそれっきりで話はすんだんです。そのほかには、ただ公爵がイッポリットに別荘へ来たほうが楽になるだろうっておっしゃっただけです。するとイッポリットは気持がもっと楽になったらすぐに引っ越しましょうって、たちまち承知したのです」
「だめだよ、コォリャ君……」と公爵は立ち上がって、帽子をとりながらつぶやいた、「なんだってそんなことをしゃべるのさ、僕はね……」
「あんた、どこへ行くのよ?」とリザヴィータ・プロコフィーヴナが彼を押しとどめた。
「気にかけないでください、公爵」とコォリャは胸をときめかしながらことばをついだ、「お出かけなさらんでください、そっとしとってやってください。旅の疲れでぐっすり眠ってますから。とても喜んでいたんですよ。僕はね、公爵、今お会いにならんほうが、ずっといいと思いますよ。明日まででも放っといてください。さもないと、またまごついちゃいますからね。つい今朝も言ってましたけれど、この半年というもの、こんないい気持になって、元気づいたことはないんですって。おまけに咳《せき》も半分くらいになったそうですよ」
公爵はアグラーヤが不意に自分の席から立って来て、テーブルに近づいたのを認めた。彼は彼女の顔を見る元気もなかったが、この瞬間にアグラーヤがこちらを見ているということ、おそらくは、きつい目をしてにらめつけているだろうということ、この黒い眼には必ずや憤ろしい気持が漂い、その顔には朱を注いでいるだろうということを、心の中でしみじみと感じていた。
「ですけども、ニコライ・アルダリオノヴィッチ君〔コォリャをいくぶん冷笑的に、あらたまって呼んだのである〕、僕はもしもね、その人が、泣いて僕たちを自分の葬式に招《よ》んだあの肺病やみの子供だったら、わざわざその人をこちらへ君が連れて来たのはむだだと思うよ」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが言った、「あの人はその時、隣りの家の壁の話をして、この壁を見ると、きっと悲しくなるだろうって、そんなことを実に口達者にしゃべってました。ほんとですよ」
「そりゃあ本当ですよ。あの人はあんたと喧嘩をして、つかみ合いをして、出て行くでしょうよ――それくらいが関の山です!」
そう言って、リザヴィータ・プロコフィーヴナ夫人は厳めしそうな顔をして、縫物のはいっている籠を引きよせた。誰もがもう散歩に行こうとして立ち上がっていることなどは、とんと忘れていた。
「あの人があの壁をとても自慢してたのを僕は覚えてます」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチはまた口を出した、「あの人はあの壁がなかったら口達者にして死んではゆけないでしょう、なにしろ、口達者にして死んでゆきたいっていうんですからね」
「それでいったいどうなんです?」と公爵はつぶやいた、「もしあんたがあの人を許してやる気がないんなら、そしたらあんたにかまわず死んでゆくでしょう……今度はここへ、ここに樹木があるっていうんで引っ越して来たんです」
「おお、僕のほうでは何でも許してやりますとも。そう言ってやってください」
「それをそういう風にとっちゃいけませんよ」公爵は相も変わらずじっと床のひとところを眺めながら、眼を伏せたまま、静かに、気がなさそうな返事をした、「あなたもあの人の許しを快くお受けになる、ということにしたらいいでしょう」
「だって僕はこの場合、どうだっていうんです? どういう罪があるんです、あの人に対して?」
「もしおわかりにならなければ、その時 ……いや、しかしおわかりになってるんじゃありませんか。あの時あの人は……僕たちみんなを祝福して、あんたがたからも祝福を受けたかったのです、ただそれだけのことです……」
「ねえ、公爵」とS公爵はそこに居わせた誰かと目を見交わしながら、なんとなく用心ぶかそうにあとを引きとった、「地上の楽園《パラダイス》は容易に得られるものじゃありません。ところが、あなたはとにもかくにも、楽園というものに若干の期待をもっておいでになる。地上の楽園というものはむずかしいものです。ねえ、公爵、あなたの美しいお心で考えていらっしゃるものよりは、ずっとずっとむずかしいものです。まあ、こんな話はよしたほうがいいでしょう。さもないと、お互いにまた気まずい思いをしなけりゃならんでしょうから、そうなると……」
「音楽を聞きに行きましょう」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは腹立たしげに席を立ちながら、勢いすさまじく、こう言った。
夫人にならって一同の者も立ち上がった。
[#改ページ]
二
公爵はいきなりエヴゲニイに近づいた。
「エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさん」と彼は相手の手を取って、妙に熱のこもった調子で言うのであった、「本当に僕は、どんなことがあろうとも、あんたのことを最も気品のある、最も善良なかただと思っているのです。どうかこのことは信じていてください」
エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは驚きのあまり、一歩あとへ退がったほどであった。その一瞬間、彼はやっとのことで、やむにやまれぬこみ上げてくる笑いをこらえたのであった。しかし、しげしげと見まもっているうちに、彼は公爵がどうも正気ではないらしく、少なくとも一種特別な気持でいるらしいのに気がついた。
「僕は賭《かけ》をしてもいいですが」と彼は叫んだ、「あなたはね、公爵、まるで別のことを言おうとしていらっしたんです。それも、ことによったら、僕にではなく全く別の人に向かって……それにしても、あなたはどうなすったんです? お気分でも悪いんじゃないんですか?」
「たぶんそうでしょう、たぶんそうでしょうとも。あなたは実にはっきりと気がつきましたね。たぶん、あなたでない人に僕が近よろうとしていたらしいなんて!」
こう言って彼はなんとなく奇妙な、おかしくさえも見えるほほえみを浮かべたが、急に興奮したらしく叫びだした。
「どうか三日前の僕の行ないについては触れないでください! 僕はこの三日間、実にきまりが悪かったのです……僕は自分が悪かったことをよく知っています……」
「いったい、……いったい、何をそんなに恐ろしいことをなすったんです?」
「僕にはよくわかります、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさん、たぶん、あなたは僕って者のために誰よりもいちばん恥ずかしい思いをしていらっしゃるんです。あなたは顔を赤らめていらっしゃる。それは美しい心のあらわれです。僕は今すぐ帰ります、間違いなしに」
「まあ、この人ってなんだろう! 発作でも起こってるのかしら?」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは驚いてコォリャをかえり見た。
「気にとめないでください、奥さん、発作などありませんから。僕は今すぐ帰ります。僕はよく知ってます……僕は……自然に虐《しいた》げられた者です。二十四年の間、生まれてから二十四の年になるまで病気していました。今でも病人のことばだと思ってください。僕はすぐ帰ります、今すぐ。ほんとに。僕は赤い顔などしません、だってこんなことで赤くなるって変ですからね、そうじゃありませんか? しかし僕は世へ出るとよけい者です……僕はけっしてうぬぼれでそんなことを言うわけじゃありません……この三日の間いろいろと考えてみて、今度お目にかかっていいおりがあったら、必ず真心から、上品にお話をしなければならないと、こう決心したのです。僕が口に出してはいけないような理想、高遠な理想があることを申し上げたかったのです。なぜ、口に出してはいけないかというと、僕が話をすると必ず、みんなを笑わしてしまうからです。S公爵もこのことを、たった今、注意してくださいました。僕には礼儀にかなった身振《ジェスチァ》りがありません。中庸という感情がありません。僕のことばというものはまるで当てはずれなもので、思想に適応しないものです。これすなわち思想に対する侮辱です。だからこそ、僕には……権利がありません、……おまけに、僕は疑い深い性分です。はっきりと、ここのお宅でははずかしめられていない、もったいないほど愛せられているとは信じながら、しかもよくわかっているのです(たしかによくわかっています)、二十年も病気をしていたあとですから、必ず何かしら痕跡が残っているはずです、それだから笑われずに済むようなものはないのです……、時おり……、ねえ、そうじゃありませんか?」
彼はあたりを見まわしながら、はっきりした返答を待っているような風をしていた。この思いもよらない病的な、どう考えてみても、とにもかくにもなんのいわれ因縁もなさそうな公爵の言いがかりを聞いて、一同は重苦しい不審の念にうたれながらたたずんでいた。が、この言いがかりは、奇妙な插話《エピソード》の原因となったのである。
「なんだってあなたは、そんなことをここでおっしゃるのです?」と不意にアグラーヤが叫んだ、「なんだってそんなことを|この人たちに《ヽヽヽヽヽヽ》おっしゃるんですの? この人たちに! この人たちに!」
彼女は極度に憤慨しているらしかった。眼はまるで火花を散らしているかのようであった。公爵は彼女の前に、唖《おし》のように声もなくたたずんでいたが、たちまちまっさおになってしまった。
「ここにはそんなことばを聞くだけの値打ちのある人が一人もいないんですよ!」とアグラーヤはどなり立てた。「ここにいる人はみんなあなたの小指ほどの値打ちもないんですよ、あなたの知恵、あなたのお心は、こんな人たちにはもったいなさすぎるのですよ! あなたは誰よりも潔白で、誰よりも高尚で、誰よりもおきれいで、誰よりも善良で、聰明なおかたなんです! ここにいる人たちは、あなたがたったいま落としたハンカチを、かがんで拾うだけの資格さえないのです……いったい、あなたはなんだってそんなに自分を卑しめて、誰よりも自分を賤《いや》しいものだとお考えになるのです? どうしてあなたは自分のなかにあるものを何から何までゆがめてしまったのです? どうしてプライドというものをもたないのです?」
「まあ、そんなことは思いもよらなかった!」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは手をたたいた。
「貧しき騎士! 万歳!」とコォリャは有頂天になって叫んだ。
「黙ってなさい! まあ、この家《うち》で私になんて恥をかかせるつもりなんでしょう!」と、いきなりアグラーヤはリザヴィータ・プロコフィーヴナに突っかかった。彼女はもう、まっしぐらにあらゆる邪魔物を飛び越えてゆこうとする時に、誰もが現わすような、ヒステリックな気持になっていた。「どうしてみんなが寄ってたかって、一人のこらず私をいじめるんです? どうして、公爵、この人たちはこの三日間、あなたのことで私にうるさくつきまとっているんでしょう? どんなことがあろうと、私はあなたとは結婚しません! 承知しててくださいな、どんなことがあっても、けっしてですよ! 覚えててちょうだい! いったいあなたみたいなおかしい人のところへ行けるもんですか? その立ってるところの格好を、まあ鏡で見てごらんなさい!……なんだって、なんだってこの人たちは、あなたのところへ私がお嫁にゆくなんて、私をばかにしてるんでしょう? あなたはそれを、ちゃんと承知してらっしゃるはずです! あなたもこの人たちと陰謀をたくらんでいらっしゃるんでしょう!」
「誰もけっしてばかになんかしやしないわ!」とアデライーダはあきれてつぶやいた。
「そんなこと誰も考えてやしなかったわ、ひと言だってそんなこと言いやしなかったわ!」とアレクサンドラ・イワーノヴナが叫んだ。
「誰がこの子をばかにしたの? いつばかにしたの? 誰がそんなこと言えたの? まあ、この子……寝言《ねごと》を言ってる、そうじゃないの?」と、怒りに燃えて身をふるわせながら、リザヴィータ・プロコフィーヴナ夫人はみんなに向かってそう言った。
「みんなが言ってたんです。一人のこらず、みんなでこの三日間! 私はけっしてけっしてこの人のところへなんか嫁《ゆ》きません!」
こう叫んで、アグラーヤはいたいたしい涙に濡れるのであった。ハンカチで顔をおおうと、椅子にどっかと腰をおろした。
「だって、まだおまえに公爵は結婚してくれとは……」
「僕はまだあんたに結婚してくれとは申しませんでしたよ、アグラーヤさん」と、不意に公爵は口をすべらした。
「なあに?」驚きと憤りと恐れとを同時に感じて、リザヴィータ・プロコフィーヴナはことばを長く引っぱった、「なあに、それは、いったい?」
彼女は自分の耳を信用する気になれなかった。
「僕は言うつもりでした、……言うつもりでした」と公爵は震えてきた、「僕はただアグラーヤさんに……けっして僕は……結婚を……たといいつの日が来ても……申し込もうなどという……そんなつもりは今までも、これから先もさらにもっていないって……はっきり申し上げたかったのです。僕には何の科《とが》もないはずです、断じてありません、アグラーヤさん? 僕はそんなことは一度だって望んだことがありませんし夢にも思ったことはないのです。これから先だって望みはしません。それは御自分でよくわかってくださるでしょう。どうか僕を信じていてください! これは誰か悪い人があなたの前で僕を中傷したに相違ありません! どうか! 安心しててください!」
こう言いながら、公爵はアグラーヤに近づいて行った。彼女は顔をおおっていたハンカチをとって、公爵の顔を、どぎまぎしている様子をちらと見た。そうして相手の言ったことばの意味をあれかこれかと考えていたが、不意に公爵の眼の前で吹き出してしまった、――やむにやまれぬ、陽気な高笑い、いかにもおかしそうな、人をばかにしたような高笑いをするので、アデライーダもつい我慢がしきれなくなって(わけても公爵のほうを眺めた時に)、妹に飛びかかって妹を抱きしめると、同じように、やむにやまれぬ、まるで小学生のように陽気な笑い声を立ててしまった。この様子を見ると、公爵も急に笑いだして、嬉しそうな、幸福そうな表情を浮かべてくり返した。
「いや、結構、結構!」
そこでもうアレクサンドラもたまらなくなって、腹をかかえて笑いだした。この三人はいつまでたっても笑うのをよしそうにもなかった。
「まあ、まるで気ちがいみたいな!」リザヴィータ・プロコフィーヴナはつぶやいた、「人をびっくりさせるかと思うと、今度は……」
しかし、もうS公爵も笑いだしていた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチも笑いだし、コォリャも声をあげてひっきりなしに笑い続け、ムィシキン公爵もまた一同を眺めながら大笑いした。
「散歩にまいりましょう、まいりましょう!」と、アデライーダが叫んだ、「みんないっしょに、そして公爵もぜひいっしょにいらしてください。あなたがお帰りになるなんて法はありませんよ、あなたはいいおかたなんですものね! ねえ、アグラーヤ、まあなんていいかたでしょうね? そうじゃなくて、お母さん? それに、私はこのかたにぜひとも、ぜひとも接吻して、抱きしめて上げなければなりませんわ……アグラーヤに言ってきかしてくだすったお礼に。ねえ、ママ、公爵に接吻してもよくって? アグラーヤ! |あんた《ヽヽヽ》の公爵に接吻さしてよ!」だだっ子はこう叫んで、本当に公爵のほうへ駆けよって、その額に接吻した。
公爵は彼女の手をとって、あまりしっかりと強く握りしめたので、アデライーダはもう少しでわめき立てるところであった。公爵は限りもしれぬ喜びに浸って彼女を見つめていたが、いきなりすばやくその手を唇のところへもって行って、三度も接吻した。
「さあ、まいりましょう!」とアグラーヤが呼んだ、「公爵、あなたは私を連れてってくださいね。いいでしょう、ママ? 私を振った花婿さんにそうしていただいても? もうあなたは永久に私を振ったんでしょう、公爵? そんなふうに、そんなふうに婦人に差し出すもんじゃありませんよ。あなたは婦人の手のほんとうの引き方を御存じないんですか? あ、これでいいんです。じゃまいりましょう。私たちは誰より先にまいりましょう。先になって行くのはおいやですの、tete a tete(ふたりきりで)?」
彼女はひっきりなしに話をしていた。やはり時おりは思い出したように笑いながら。
「ありがたい! ありがたい」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは何が嬉しいのやらわからなかったが、わけもなく、こうくり返した。
『実に奇妙な人たちだ』とS公爵は考えた。この家の人たちと交わるようになってから、おそらくこんな気持をもつのは、もう百ぺん目くらいになるかもしれない。しかも……この奇妙な人たちが好きなのであった。ムィシキン公爵はというと、これはことによったら、そんなにS公爵には気に入らないらしかった。S公爵はみんなと散歩に出かけた時、いくぶん苦い顔をして、なんとなく心配そうな風をしていた。
エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはたまらなく愉快な気持になっているらしく、停車場へ行く途中〔パヴロフスクの駅のわきには公園があって、そこには立派な音楽堂があった〕、しきりにアレクサンドラやアデライーダを笑わせていた。この二人は彼の冗談をあまりにも申し合わせたように笑うので、彼のほうでは、この連中はことによったら、ちょっとも自分の話なんか聞いていないんじゃないかしらと、ふっと疑ってみたくらいであった。こんなことを考えていると、ついには不意に、何がおかしいのかわけも言わずに、全く本気になって(彼はこんな性格の男であった!)、大きな声で笑いだした。もっとも、すっかり散歩気分になっていた二人の姉たちは、先頭に立ってゆくアグラーヤと公爵のほうに絶えず目を配っていた。どうやら妹は姉たち二人に大きな謎をかけたらしかった。S公爵はしきりにリザヴィータ・プロコフィーヴナに話をしかけようとしていた。たぶん、夫人の気をまぎらわそうとしていたのであろう。ところがかえって非常にいやがられていた。夫人はすっかり頭が散漫になっているらしく、つじつまの合わない返事ばかりしていて、ときには全く返事をしないことがあった。が、アグラーヤ・イワーノヴナの謎はこの晩だけで終わったのではなかった。最後の謎が、今度は公爵ただ一人に降りかかって来たのである。
別荘からおよそ百歩ばかりも隔った時、アグラーヤは早口に、半ばささやくような声で、片意地に黙ってばかりいる自分の『騎士《カヴレール》』に向かって言うのであった。
「右のほうをごらんなさい」
公爵はふり向いた。
「もっとよく気をつけてごらんなさい。あの公園のベンチ、ほら、あの大きな木が三本あるところに……あれが見えますかしら……緑色のベンチ?」
公爵は「見える」と答えた。
「あなた、この場所がお気に召しまして? わたしは時おり朝早く、七時ごろに、みんながまだ寝ている時分にここへ一人でやって来て、腰かけているんです」
公爵は美しい所だとつぶやいた。
「もう私と離れていらっしゃい。もうあなたと手を組んで歩きたかありません。いや、やっぱり手を組んでいらしたほうがいいわ。だけど、ひと言も口をきいちゃいけませんよ。わたし自分ひとりで考えたいことがあるんです……」
どう見てもこの警告はよけいなおせっかいであった。公爵はこんな命令がなくとも、途中で最初からひと言もきかなかったに相違ないのである。
ベンチのことを聞いた時、彼の胸はひどく動悸をうってきた。けれどもたちまちにして彼は思いなおしてみて、われながら恥ずかしい思いをしながら、愚かしい自分の考えを払いのけた。
バヴロフスクの停車場には知ってのとおり、少なくと誰もが断言しているように、ふだんの日には、かえって市内の「いろんな種類の人たち」が押しかけてくる日曜や祭日よりも、もっと「択《よ》り抜き」の人たちが集まって来る。女の人たちは祭日の時のようにことさらに眼をひくような風はしていないが、粋《いき》な風をしている。ここへ音楽を聞きに集まって来るのをみんなが楽しみにしていた。
おそらく、この国の公園|楽隊《オーケストラ》のうちでも、実際に最もすぐれているこの楽隊は新しい曲を演奏していた。一般に、家庭的な、いかにも親しそうな親子もいくぶん見えないではなかったが、礼儀を重んじて、端正なことは格別であった。かねて知り合いの別荘の人たちは、誰も彼もがお互いに顔を見ようとして集まって来る。多くの者は心から満足して、これを実行し、ただそのためにのみやって来るが、中にはただ音楽だけを目当てにしてやって来る人もあった。不埓《ふらち》なことはきわめてまれであったが、ないことはなく、普通の日にさえも見うけられた。それにしても、こんなことがなくて済むということは、どこへ行ってもないものであろう。
この晩はすばらしくいい晩であったから、人出もかなりに多かった。
演奏中の楽隊に近い座席はすっかりふさがっていた。こちらからやって来た連中は、いくぶん側に寄って、停車場の左の入口のすぐそばにある椅子に腰をかけた。群集と音楽とはいくらかリザヴィータ・プロコフィーヴナを元気づけ、令嬢たちの気をまぎらわした。彼女たちは早くも知り合いの誰彼と眼を見交わして、誰彼に遠くのほうからなつかしげにうなずいて見せた。また早くも聴衆の衣裳を眺めて、何かしら変なことを眼にとめては、その話をしたり、あざけるようにほほえんだりしていた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチもやはり、しょっちゅう挨拶をしていた。相変わらずいっしょになっていたアグラーヤと公爵には、ある人たちが早くも注意を向けていた。知り合いの青年が五、六人、母親と令嬢たちのところへ近づいて来た。二、三の者はそこに居残ってことばを交わしていた。いずれもエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの友人であった。中に一人の年の若い、かなりにきれいな士官がいたが、かなりに陽気な、かなりに話の好きな男であった。彼は早口にアグラーヤに話しかけ、一生懸命に彼女の注意をひこうと努めていた。アグラーヤもこの士官に対しては、かなりにねんごろな態度を見せ、非常に愉快そうにしていた。
エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは公爵に向かって、この友人に紹介させてくれと言った。公爵は、この人たちが自分に対して何をしようとしているのかほとんどわからなかったが、紹介が済んで、二人はお辞儀をして互いに握手をした。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチの友人はちょっとした質問をしたが、公爵はこれに対しては答えなかったらしかった。それとも何やら妙な風をして、もぐもぐ言っていたのであろうか。とにかく、あまりに妙だったので、士官はじっと彼のほうを見つめ、やがてエヴゲニイ・パーヴロヴィッチのほうをちらと見たほどであった。士官はすぐに、何のためにエヴゲニイがこの紹介を思いついたのかを悟って、ほのかにほほえみをもらして、またアグラーヤのほうを向いた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチだけは、このときアグラーヤがさっと顔を赤らめたのに気がついた。
公爵はほかの連中がアグラーヤと話をしたり、御機嫌をとっているのには、気もつかなかった。おまけに、自分がアグラーヤのそばに坐っているということさえも忘れがちであった。どうかすると、彼はどこかへのがれ、ここから全く姿を消してしまいたいような気持になり、たった一人で物思いに沈んで、誰一人として彼がどこにいるのか知る者もないような暗澹として荒涼たるところへ行ってしまいたいとさえも考えていた。それが無理なら、せめて自分の露台《テラス》にでもいたい、しかもレーベジェフも、その子たちもいないところで、自分の長椅子の上にそっとしておいてもらって、枕に顔を埋め、そのまま昼も夜も、またその次の日もというように寝て暮らすようにしたいと思うのであった。時おり山々が胸に浮かんできた。それも彼がいつも楽しく思い浮かべる連山のなかのただ一つの縁《ゆかり》の深い地点であった。まだ外国《あちら》に暮らしていたころ、歩いて行っては、麓の村や、はるか下の方にかすかにちらついている白い糸のような滝や、白い雲、さては荒廃に帰した古い城廓を見おろすのを楽しみにしていたところであった。ああ、どんなに彼は今もそこへ行って、ただ一つのことばかりを思っていたかったろう! ああ! 一生の間、そのことばかりを思っていたかったろう――千年も思い続けて行くに足ることを! たとい、ここでこの人たちに忘れ去られようとも、それでもかまわないのだ。ああ! それは当然に必要なことでさえあるのだ、もしも自分が全く人に知られず、こうしたいっさいの幻が、ただ一つの夢に現われたものにすぎないというのであれば、かえって、そのほうがましなくらいだ。とはいえ、夢にあらわれたことであろうと、現《うつつ》のことであろうと、いずれにしても同じことではなかったのか!
彼は時おり思い出したようにアグラーヤのほうへ眼をつけて、五分間ほどじっと見まもっていたが、その眸《ひとみ》はあまりにも奇妙であった。しかも、まるで二|露里《エルスター》も離れたところにある物体か、ないしは彼女の肖像画を眺めているような眼つきをしていて、正真正銘のアグラーヤその人を見ているとは思えなかった。
「何をそんなに私を見てるんですの、公爵?」自分をとり巻いている人たちと陽気に話をしたり、笑ったりしていたのを、ふっつりとやめて、アグラーヤはいきなり言うのであった、「わたし、あなたがこわいわ。なんだか手をのばして、私の顔に指をあてて、そうっとさわりそうな気がしてならないの。そうじゃなくって? エヴゲニイさん、公爵はそうらしいでしょう?」
公爵は自分が話をしかけられたのを聞いて、びっくりしたらしかった。何やら思いめぐらしていたらしかったが、おそらく、相手の言ったことがさっぱり見当がつかなかったらしく、返事をしてやらなかった。しかし、彼女もほかの人もみんなが笑っているのを見ると、だしぬけに大きな口をあけて、自分も笑いだした。あたりの笑い声はいっそうひどくなった。士官はかなりの笑いん坊とみえて、おなかをかかえて笑いころげるばかりであった。アグラーヤは急に腹立たしげに声低くひとり言を言った。
「白痴《ばか》!」
「まあ! いったい、この子はこんなやつに……どぎまぎさせられるのかしら?」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは歯ぎしりした。
「これは冗談なんですよ。これはさっきの『貧しき騎士』のときと同じように、冗談なんですよ」と母親にアレクサンドラはしっかりした声で耳打ちした。「ただそれだけよ! この人はね、いつものやり方で公爵をまたからかったんですよ! でも、この冗談はあんまり深入りしすぎたわ。もうよさせなくちゃなりませんよ、ママ! さっきは女優みたいに変ないたずらをして私たちをびっくりさせるし……」
「でも、いくらいじめたって、こんな白痴《ばか》ならいいわよ」とリザヴィータ・プロコフィーヴナはまた耳打ちした。
娘の注釈はとにもかくにも夫人の気を軽くした。
それにしても、公爵は自分を『白痴《ばか》』と言ったのを耳にして、身震いした。しかし、『白痴』と言われたから身震いしたのではなかった。『白痴《ばか》』ということばはすぐに忘れてしまった。が、群集の中の、自分の坐っている席からほど遠からぬ、どこか側のあたりに――公爵はどこのどの辺ということは、はっきり言えなかったであろうが――一つの顔が、ちらちらしたからであった。ちぢれた黒っぽい髪の毛と、見覚えのある、実によく見覚えのあるほほえみ方と眼つきをする青白い顔がちらついて、消えて行ったのだ。ことによったら、それはただ、そんな風に思えたのかもしれなかった。彼の印象に残った面影は、ちらと目にとまった紳士のゆがんだようなほほえみと、二つの眼と、淡緑のしゃれたネクタイだけであった。この紳士は群集の中に姿を消したのか、それとも停車場の中へ忍び込んだのか、やはり公爵は、はっきりしたことは言えなかった。
けれど、一分間ほどすると、公爵は急に不安らしい様子をして、あたりを見まわし始めた。あの最初の面影は、次に来る面影の前兆であり、先駆者であったかもしれぬ。必ずそうなければならないものであった。はたして彼は停車場をさしてやって来る時、この人に会えるかもしれないということを忘れていたのであろうか? たしかに彼は停車場へ来る時、自分がここへ来るということを全く知らずにいたらしかった、彼の気持は、それほどの余裕をすらもたなかったのである。
もしも彼がもっと気をつけて観察することができたなら、アグラーヤが時おり不安げにあたりを見まわして、やはり何かしら自分の周囲にあるものを捜すような風をしているのを、すでに十五分も前に見てとっていたはずである。今、彼の不安が著しく目立ってくると共に、アグラーヤの興奮も不安もいよいよ大きなものとなってきた。そして、彼がふり返って、あたりを見まわすやいなや、ほとんど同時に彼女もまたふり返るのであった。この胸さわぎはまもなく解決がついた。
公爵およびエパンチン家の一行が陣取っていた停車場の横の出口のところから、不意に何人か、少なくとも十人くらいの人が一隊を成して現われて来た。この一隊の先頭には、三人の女が立っていた。うちの二人はすばらしい美人であったので、この女たちのあとから、これほどの崇拝者たちが従って来るのも、けっして不思議なことではなかった。しかし、崇拝者たちにも女たちにも、――何かしら特殊なもの、音楽を聞きに集まったほかの人たちとはまるで似てもつかないものがあった。ほとんど全部の者が、この連中にはじきに気がついたが、大部分の者は見ていながらも全く見ぬふりをしようと努めていた。ただ若い者の五、六人が互いに声低くささやきながら、彼らを見てほほえみを浮かべるだけであった。彼らを全然見ないというわけにはいかなかった。彼らは、これ見よがしの風をして、大きな声で話をしたり、笑ったりしていた。二、三の者はしゃれた、粋《いき》な服装をしていたが、彼らの多くが酔っ払っているということは、明らかに察しのつくことであった。もっとも、そこには実に妙な格好をして、妙な服を着、妙に興奮した顔をしている人たちもいた。彼らの中には軍人もおり、あまり年の若くない人たちもいた。ゆったりと、スマートに仕立てた服を着て、宝石入りの指環や飾りボタンも美しく、見事な漆黒《くろ》の鬘《かつら》をかぶって、頬髭も堂々と、顔にはいくぶん人好きのしないところもあるが、しかも特殊な気品をもった威風をそなえた人もいた。それにしても、世間では、こういう人はまるでペストのように忌み嫌われるのである。この郊外の人ごみの中には、もちろん、人並みすぐれて端正な、特に評判のよい人たちも交っていた。それにしても、このうえもない用心ぶかい人でも、ときには、隣りの家から落ちてくる煉瓦に頭を打たれることがあるのである。この煉瓦は音楽を聞きに集まって来た端正な公衆の上に今まさに落ちかかろうとしていたのである。
停車場から、楽隊が陣取っている広場へ行くには、三つの階段を降りて行かなければならなかった。この階段のいちばん上のところに例の一隊は立ち止まった。彼らはそこから降りるのを躊躇《ちゅうちょ》していた。すると一人の女が前へ進み出た。意を決してそれに続いたのは、わずかに二人のお供だけであった。一人は四十がらみの、かなりに内気そうな男で、あらゆる点から見て見かけは一人前の風をしていたが、まぎれもない浮浪人の風貌をそなえていた。つまり、自分もまるで他人を知らず、いつの日が来ても人に知られないといったような手合いの一人なのである。自分が崇拝している婦人のそばを離れずにいるいま一人の男は、全くの乞食風で、かなりに薄気味の悪い風をしていた。
それ以上に誰ひとりとして、このとっぴな婦人のあとにつく者はなかった。しかし、階段を降りながら、彼女はさながら、人がついて来ようが来まいが、結局は同じことだというような顔をして、あとをふり返って見ようともしなかった。彼女は相変わらず笑ったり、大きな声で話をしたりしていた。服装にはなみなみならぬ嗜好《しこう》があらわれ、ぜいたくではあるが、いくぶん普通以上に派手なようにも見うけられた。彼女は楽隊のわきを通って広場の別の側をさして進んで行った。そこには道ばたに誰かの馬車が、何びとかを待ちうけていた。
公爵はもう三か月あまりも彼女《ヽヽ》に会わなかった。ペテルブルグへ来てから、彼は毎日のように彼女を訪れようと考えていた。しかし、おそらくは神秘的な予感に引きとどめられていたのであろう。少なくとも、彼は彼女と会ってどういう印象をうけるか、どうしても察しがつかなかったのである。ときには恐怖の念をもって、その日の印象を胸に描いてみようと努めた。が、彼女と会えば、重苦しい気持になるだろう――と、ただそれだけのことしか、はっきりわからなかった。
はじめて写真を見た時に、あの女の顔から受けた最初の感じを、彼はこの六か月の間に、いくたびか思い起こしていた。しかし、写真から受けた印象のうちにさえも、あまりにも重苦しいものが含まれていることを彼は思い起こすのであった。ほとんど毎日といってもいいくらいに彼女と会っていた田舎の一月《ひとつき》が自分に恐るべき影響を与えていたので、公爵はついこの間の思い出すらもときには払いのけようとしていた。
この女の顔そのものには、常に彼にとって悩ましい何ものかが潜んでいた。ラゴージンとことばを交わした時、この感じを彼は限りなき憐憫《れんびん》の感じだと言ったが、それは確かなことであった。この顔は、はじめて写真を見たその時から、彼の心にまぎれもなく憐憫の苦痛をよび起こしたのであった。この人間に対する同情の念、それに苦痛の念すらもが、今までに一度として彼の心を去ったことがなかった。今もなお去らないのである。
ああ、たしかにそうだ。そうしてかえって根強くなっているのだ。しかし、ラゴージンに話したことだけでは満足がいかなかった。ところが、今にしてようやく、あの女が忽然《こつぜん》として姿を現わした刹那《せつな》に、彼は、おそらく第六感によってであろう、ラゴージンに語った自分のことばに何が不足していたかを、はっきりと理解したのである。恐怖、まぎれもない恐怖を言い表わすのには、ことばが足りなかったのだ! 彼は今、この瞬間に、それを完全に直覚した。彼はこの女が――気ちがいなのだと、彼一流の論拠によって深く信じ、全く信じきっていた。もしも、この世において、何ものにもまして一人の女を愛し、ないしはかような愛がありうるものだと予感している時に、その女がにわかに鎖につながれ、鉄の格子の中に入れられて、看守に棒でなぐられているところを見つけた者があったら、――いま公爵が感じたものといくぶん似通った印象を受けるであろう。
「あなた、どうなすって?」とアグラーヤは彼のほうをふり返って、無邪気にその手を引っぱりながら、早口にささやいた。
彼はそのほうに頭を向けて、女の顔を見た。女の黒い眼、彼には理解できないほどに輝いているこの瞬間の眼をちらと見て、にっこり笑って見せようとしたが、ちょっとのあいだアグラーヤのことを忘れてしまって、またもや右のほうに眼を転じて、またもやあのただごとならぬ面影を追い始めた。ナスターシャ・フィリッポヴナはこのとき、令嬢たちの席のすぐわきを通り過ぎていた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは何やら非常に滑稽な、おもしろそうなことをアレクサンドラに話していた。早口に、威勢よく話していた。公爵はアグラーヤがこの時、いきなり半ばつぶやくような声で『なんていう……』と言ったのを忘れることができなかった。
このことばは曖昧《あいまい》な、尻の切れたことばであった。彼女はすぐに切ってしまって、それ以上、なんとも付け加えなかったが、もうそれだけでも十分であった。ナスターシャ・フィリッポヴナは別にこれといって、誰に眼をつける風もなく通り過ぎていたが、ひょいと彼らのほうを向いて、今はじめてエヴゲニイに気がついたような風をした。
「あら、まあ! この人ここにいるじゃないの!」と彼女は急に立ち止まって叫んだ、「飛脚を頼んでも見つからないと思えば、こんな思いもよらないところに、まるでわざとみたいに、ちゃんと坐ってる……わたしはあの……伯父さんのところにでもいると思っていたのに!」
エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは癇癪を立てて、すさまじい顔をしてナスターシャ・フィリッポヴナを見たが、すぐにまたわきを向いてしまった。
「どうしたの? いったいあんた知らないの? この人はまだ知らない、どうでしょう、まあ! 自殺したのよ! つい今朝、あんたの伯父さんは、ピストル自殺をしたのよ! わたし、さっき、二時ごろ聞いたんです。もう町の人が半ば知ってますよ。官金三十五万ルーブルがなくなっているんですってさ。人によっては五十万って言う人もありますよ。わたし、あんたが遺産をもらうんだと思って、あてにしていたのに、みんな水にしてしまったのね。手のつけられない道楽爺さんだわねえ……。じゃ、さようなら、bonne chance(いいおりだったわね)! それでは向こうへは行かないの? なるほど、いい潮時にあんたは退職したもんだわね、虫がいいわ! だけど、御冗談でしょう、知ってたはずだわよ、前から知ってたはずだわ。ひょっとしたら昨日あたり知ってたんでしょう……」
こんなずうずうしく、うるさい、ありもしない友情や親しさの押し売りには必ず目的が潜んでいた。それは今や疑うべからざる事実である。しかし、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは最初、なんとかして突っ離し、たといどんなことがあろうとも、こんな無礼者には眼もくれまいと考えていた。ところが、ナスターシャ・フィリッポヴナのことばは雷のように彼をたたきのめしたのである。伯父が亡くなったと聞いて、彼は生きた空もなく青ざめて、伯父の死を伝えた相手のほうをふり向いた。この瞬間に、リザヴィータ・プロコフィーヴナはさっさと立ち上がってほかの人たちをうながして、今にも走り出しそうにして、この場をのがれた。ただムィシキン公爵ばかりは躊躇するかのように、ちょっと、その場に居残っていた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチもやはり茫然として、相変わらずその場に立っていた。ところがエパンチン家の一行がまだ二十歩とも離れぬうちに、恐ろしい騒ぎが持ちあがった。
さっきアグラーヤとことばを交わしていた士官はエヴゲニイの友人であったが、極度に憤慨した。
「もう、たたかなくちゃだめだ。あの引きずりめはそうしなけりゃ手に負えないんだ!」と彼はほとんどわめかんばかりに言った(彼は以前からエヴゲニイの子分らしかった)。
ナスターシャ・フィリッポヴナはちらと彼のほうをふり返った。眼は輝いていた。彼女は二歩ほど離れて立っている、まるで見も知らぬ青年に飛びかかった。この青年の士官は細い編んで作ったステッキを手にしていたが、彼女はステッキをもぎ取って力まかせにこの無礼者の顔を斜めに打ちのめした。これは、ほんのまたたく間の出来事であった……。
士官はわれをも忘れて、彼女に飛びかかった。ナスターシャのまわりには、もう誰もお供の者はいなかった。中年の気取った紳士は早くも雲がくれして、もう一人の紳士がわきに立って、すこぶる上機嫌で、声を立てて笑っていた。一分間すればもちろん、警官がやって来たであろうが、それもまだ来ないので、もしもこの瞬間に思いがけないすけだちが来なかったなら、ナスターシャはひどい目に会うところであった。ところが、やはり二歩ばかり離れたところに立っていた公爵が、うしろから士官の両手をつかまえてしまった。士官はその手を振り放そうとして、したたか公爵の胸を突きとばした。公爵は三歩ほどよろめいて、椅子の上に倒れた。ところがナスターシャにはなお二人の護衛があらわれていた。今にも襲いかかろうとしていた士官の前には、拳闘家が立っていた。これはお馴染の新聞記事の筆者で、以前のラゴージン一派の片われであった。
「退職中尉ケルレルです!」と、彼は力を入れて名乗りをあげた、「大尉殿、もし取っ組み合いがお望みでしたら、小生が、か弱い女性に代わってお相手をいたしましょう、英国式拳闘はすっかり修業した者です。大尉殿、突き飛ばさんでください。あなたの|血の出るような《ヽヽヽヽヽヽヽ》憤慨はお気の毒に存じますが、公衆の面前で女性に鉄拳制裁を加えるのは黙認するわけにはいきません。もしも高潔なる人物にふさわしい他の方法をおとりになるというのでしたら――あなたはもちろん、よくわかってくださるはずですが、大尉殿……」
しかし大尉はすでにわれに返って、もう拳闘家のことばなど聞いてはいなかった。この刹那に群集の中から現われたラゴージンはすばやくナスターシャ・フィリッポヴナの手をとって、引っぱって行った。ラゴージンのほうでも、恐ろしく興奮しているらしく、青ざめて震えていた。ナスターシャ・フィリッポヴナを連れ去りながら、彼は士官のほうをまともに見ながら意地悪そうに笑いながら、勝ち誇った勧工場の商人のような顔をして言うのであった。
「ちぇっ! 何の得《とく》があったんだえ! その面《つら》あ血だらけだぞ! ちぇっ!」
われに返って、相手がどんな男であるかを悟った士官はことばやさしく(もっとも顔をハンカチでおおいながら)、すでに椅子から立ち上がっていた公爵にことばをかけた。
「あなたは先ほどお近づきになりましたムィシキン公爵でしたね?」
「あの女《ひと》は気ちがいだ! 狂人だ! 本当ですよ!」と公爵は震える手を何のためか知らないが相手のほうに差し出して、震え声で答えた。
「僕はもちろん、そんなことを知ってても自慢するわけにはいきません。しかも僕はあなたのお名前をぜひとも承わりたい」
彼はうなずいて、その場を離れた。
警官は最後の登場人物が姿をかくしてから、ちょうど五秒してから駆けつけた。それにしても、この騒ぎはどう見ても二分以上は続かなかった。群集のうちには席を立って、行ってしまった者もあった。またある人たちは座席だけを変え、ある者はまたこの騒ぎを非常に喜んでおり、またある者は力《りき》みかえって話をし、かなりの興味を寄せていた。要するに、事件は月並みな終わりを告げたのである。
楽隊はまた演奏を始めた。公爵はエパンチン家の人たちのあとをつけて行った。もしも彼が突きとばされて椅子に坐り込んでしまった時、思いあたるか、あるいは右のほうを見るかしていたら、二十歩ばかりのところに、もうずっと先のほうへ行っている母や姉が呼ぶ声にも耳をかさず、このもってのほかの場面をじっとたたずんで眺めているアグラーヤを眼にとめたはずである。S公爵は彼女のところへ走り寄って、ついに一刻も早くここを立ち去るようにと言い聞かせた。リザヴィータ・プロコフィーヴナは、アグラーヤがこちらの呼び声も耳にはいったかどうか怪しいほど興奮して帰って来たのをよく覚えていた。しかし二分間して、一同が公園の中へはいったかと思うと、アグラーヤはいつもの平然とした、気まぐれな声で言うのであった。
「わたしは狂言がどんな落ちになるかと思ってそれが見たかったの」
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三
停車場での出来事は母リザヴィータ夫人にも令嬢たちにも、ほとんどおじけづくほどの驚きを与えた。リザヴィータ・プロコフィーヴナは不安と興奮に駆られて、停車場から、令嬢たちと共に、文字どおり駆け出さないばかりにして家へ戻って来た。夫人の見解によると、この出来事によってあまりにも多くのことが起こり、暴露されたのである。さればこそ愕然《がくぜん》として、すっかりしどけなくなったのにもかかわらず、彼女の胸に、はっきりとした考えが浮かんできたのである。しかも、ほかの人たちもみな、何かしら特別なことが起こって、またおそらくは仕合わせにもある非常な秘密が暴露されかかっているのだと悟っていた。S公爵がさきにいろいろと保証をしたり、説明をしたのにもかかわらず、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは『今や明るみに出され』、化けの皮を剥《は》がされ、『あの引きずりとの関係を明らさまに暴露されたのだ』リザヴィータ・プロコフィーヴナ、それに二人の令嬢までが、そういう風に考えていた。
もっとも、この結論からかち得たものは、なお解きがたい謎がさらに加わったというだけのことであった。令嬢たちは母親のあまりにも激しい驚きようと、実に見え透いた脱走ぶりを、心の中ではいくぶんいまいましく思わぬでもなかったが、このどさくさが起こったばかりの時に、いろんな問題で母親に不安を感じさせる気にはどうしてもなれなかった。のみならず、どうしたわけか、二人には妹のアグラーヤ・イワーノヴナが、ことによったら母親や自分たち二人よりは、この事件についてさらに詳しく知っているのではあるまいかというように思われたのであった。S公爵もやはり、すっかり暗い顔をして、やはり深い物思いに沈んでいた。リザヴィータ・プロコフィーヴナは、途中でひと言も彼と物を言わなかったが、彼のほうでもそれに気がつかないらしかった。
アデライーダは彼に向かって、「いま話していた伯父さんて、どんな伯父さんですの、そしてぺテルブルグでどんなことが起きたんです?」と聞いてみた。しかし彼はその答えとして、実に苦々しい顔をしながら、何かの照会がどうとか、きわめて取りとめもないことをつぶやいて、もちろん、それはみんなたわごとにも等しいことだと言った。「それは疑うまでもありません!」とアデライーダは答えたが、もうそれ以上何も聞きはしなかった。
アグラーヤはまたなんだか非常に落ち着いてしまって、途中であまりみんなが早く駆けすぎると注意しただけであった。ただ一度、彼女は後をふり返って、自分たちを追いかけて来る公爵を眼にとめた。公爵が一生懸命に追いつこうとしているのを見て、彼女はあざけるように薄ら笑いをもらしたが、もうそれ以上、公爵のほうを顧みようともしなかった。
ついに別荘のほとんどすぐ傍のところで、一行を迎えに出て来る父イワン・フョードロヴィッチに出会った。将軍はペテルブルグから、つい今しがた帰って来たばかりであった。将軍は顔を見るやいなや、まずエヴゲニイ・パーヴロヴィッチのことを尋ねた。が、夫人は返事をしないばかりか、夫のほうへは眼もくれずに、厳めしい顔をして通り抜けてしまった。娘たちやS公爵の眼つきを見て、将軍は家の中に雷雨がやって来たと臆測した。しかし、そんな気持がなくとも、彼自身の顔にも何かしら、ただごとならぬ不安の色が映っていた。彼はすぐにS公爵の手をとって、家の入口のところへ引きとめ、ほとんど耳打ちするような声で、二|言《こと》、三|言《こと》、彼とことばを交わした。やがて二人が露台へあがって、リザヴィータ・プロコフィーヴナのところへ行った時の二人の不安な顔つきには、何かしらなみなみならぬ報知を耳にしたらしい様子がはっきりとうかがわれた。だんだんと一同の者が二階のリザヴィータ・プロコフィーヴナのところへ集まって行って、露台にはついにムィシキン公爵だけがとり残されてしまった。彼は何ものかを期待しているらしく、しかも自分では何のためにこうしているのかわかりもせずに、片隅に腰をおろしていた。家の中がごたついているのを見ながら、彼はもう帰ろうという気は少しも起こらなかった。どうやら彼は全宇宙を忘れ果てて、どこへ自分が坐らされようとも、そのまま二年くらいは、ずっと坐り続けることも辞さないようなけはいを見せていた。
二階からは時おりただならぬ話し声が彼の耳に聞こえてきた。そこにどれくらい坐っていたか、彼は自分でもわからなかったであろう。もう時もすでに晩《おそ》く、あたりはすっかり暗くなっていた。
不意にアグラーヤが露台へ出て来た。彼女は見たところ、顔はいくらか青ざめていたが、それでも落ち着き払っていた。アグラーヤはこんなところで椅子に腰をかけていようとは、『思いもよらなかったらしく』、公爵の姿を見ると、なんだか狐につままれたような風をして、ほほえみを浮かべた。
「そんなところで何をしていらっしゃるの?」と言って、彼女は公爵のほうへ近づいた。
ムィシキン公爵はどぎまぎして、口の中で何やらつぶやいて、ひょいと椅子から飛び上がった。けれど、アグラーヤがすぐに彼のそばへ腰をおろしたので、自分もまた席に着いた。
彼女はいきなり、しかも注意ぶかく公爵を見つめて、やがて今度は何一つ考え事もないような風で窓の外を眺め、それからまた公爵のほうを見た。『たぶん、僕のことを笑いたくなっているんだろう』公爵にはそういう気もしたが、『いや、そうじゃない、笑いたいのなら、あのとき笑ったはずだろうが』
「きっと、あなた、お茶が欲しいんでしょう、そうだったら言いつけましょう」としばらく黙っていたのち彼女は言った。
「い、いいえ……僕わかりません」
「まあ、それがわからないなんて法はありませんわ! ああ、そうだわ、ねえ、もし誰かあなたに決闘を申し込んだら、どうなさいます? わたし、さっきからお聞きしたかったんですの?」
「だって……いったい誰が……誰も決闘を申し込む人なんかありませんよ」
「まあ、もしも申し込んだらって言うんです? あなたはあわてるでしょうね?」
「僕はきっとひどく……こわがるでしょう」
「ほんと? では、あなたは臆病ですね?」
「い、いいえ、たぶんそうじゃないでしょう。臆病者というのは、こわがって逃げる者のことです。こわがっても逃げなければ、まだ臆病とはいえません」と公爵はちょっと考えてから、ほほえみをもらした。
「じゃ、あなたはお逃げにならない?」
「たぶん、逃げないでしょう」と言って彼はついにアグラーヤの質問に笑いだしてしまった。
「私は女ですけれど、どんなことがあったって逃げたりなんかしませんわ」と彼女はほとんど腹立たしそうに言いだした、「もっとも、あなたは私をからかってらっしゃるんですね、いつもの癖で、自分がいっそうおもしろくなりたいために、ちゃらかしてしまうんですね。ねえ、聞かしてちょうだい、たいてい決闘は二十歩くらいの距離で撃ち合うんでしょう? それとも十歩くらい? してみると、どうしても殺されるか、負傷するかにきまってるんでしょう?」
「決闘ではむやみに死なないと思いますがね」
「むやみにって、どうして? だって、プゥシキンは殺されましたよ」
「たぶんそれは偶然でしょう」
「決して偶然じゃありませんわ。命がけの決闘ですもの、それで殺されたんですわ」
「あの弾丸《たま》は〔一八三七年一月、詩人プゥシキンは、妻ナタリヤに懸想せるフランス生まれの青年士官ダンテスに決闘を申し込み、ついにその弾丸にたおれた〕非常に低いところへ当たりましたから、きっとダンテスはどこかもっと高いところ、胸か頭を狙ったのでしょう。だから当たったのです。誰もそんな狙い方はしません。したがってプゥシキンに弾丸《たま》が当たったのはむしろ偶然だったんです。まぐれ当たりでしょう。その道にくわしい人から僕は聞いたんです」
「わたし、いつかある兵隊さんと話をしましたが、その人の話では、軍隊では操典に、散兵で射撃の時には半身を狙えということになっていて、はっきり『半身』をといってあるそうですね。ほら、してみるともう、胸や頭ではなくって半身を射つようにと、わざわざ命令がしてあるんですわ。あとで、わたしがある士官に聞いてみましたら、全くそのとおりだと言っていましたよ」
「それは間違いありません、なにしろ遠距離の時ですからね」
「あなたは射撃ができますの?」
「僕は一度もやってみたことがありません」
「ではピストルを装填《そうてん》することもおできにならないんですか?」
「ええ、実はそのやり方はわかってるんですが、自分でやってみたことはないんです」
「じゃ、やっぱりできないってことですね。それには稽古が必要ですからね! ね、実地にやってごらんなさい。まず湿りけのない、ピストル用の上等の火薬をお買いなさい(湿りけのない、乾燥したのでなければいけないんですって)。そしていい粉末のを。そんな風のをお求めなさい、大砲に使うようなのはいけませんよ。そして弾丸《たま》はなんとかして自分で造るんですって。あなた、ピストルをお持ちですの?」
「いいえ、それに必要もありません」と公爵は不意に笑いだした。
「ああ、なんてつまらないことを! 必ずお買いなさい、フランス製かイギリス製の上等のを。これがいちばん良いんですって。それから雷管へ一本分、ことによったら二本分くらいの火薬を出して、それを中へ落とすんです。も少し多いほうがいいでしょう。それからフェルトをお詰めなさい(どういうわけですか、ぜひともフェルトでなければいけないそうです)。これはどこか、敷蒲団のようなものからも取れましょう。また扉にもフェルトが打ち込んでありますし。それからフェルトのきれを詰めたら、今度は弾丸《たま》をお入れなさい。よござんすか、弾丸《たま》はあとからで、火薬が先ですよ。でないと射てませんから。何を笑ってらっしゃるの? わたし、あなたが毎日、三、四度ずつ射撃をして、必ず、命中するようになっていただきたいんです。おやりになりますか?」
公爵は笑っていた。アグラーヤはいまいましそうに足を踏み鳴らした。こんな話をしているのに、彼女がまじめくさった顔をしているので、公爵はいささか驚いた。彼は、何かしら知っておく必要がある、何かしら――とにかく、ピストルの装填法より、も少しまじめなことを聞いておく必要があろうとは、いくぶん感じていた。しかし、そんなことは何もかも念頭から離れてしまった、ただ自分の前にアグラーヤが坐っている、そして自分はその顔を見つめているということだけしか考えていなかった。しかも相手がどんなことを言いだそうとも、この場合に、われにおいて何のかかわりあらんやといった風であった。
ついに二階から父イワン・フョードロヴィッチ自身が露台へおりて来た。彼は苦々しい、心配そうな、しかも、きっぱりした顔をして、どこかへ行こうとしていた。
「ああ、レフ・ニコライヴィッチさん、君でしたか……。今どちらへ?」レフ・ニコライヴィッチが席を立とうとも考えていないのに、彼はこう聞いた。「まいりませんか、僕は君にちょっとお話ししたいことがある」
「さよなら」と言って、アグラーヤは公爵に手をさし出した。
露台のあたりも、もうかなりに暗くなっていた。公爵はこの時、アグラーヤの顔をはっきり見分けることができなかったであろう。一分間ののち、公爵が将軍と共に別荘の外へ出たとき、彼はにわかにおそろしく顔を赤らめて、強く自分の右の手を握りしめた。
聞いてみると、イワン・フョードロヴィッチは彼と行く先が同じであった。イワン・フョードロヴィッチは、こんなに遅くなっているのに、何かのことで誰かと打ち合わせることがあって急いでいるのであった。しかし、そのうちに彼は不意に公爵に向かって、早口に、不安げな様子で、実にまとまりのないことを話しだした。しょっちゅうリザヴィータが、リザヴィータが、と言いながら。
もしも公爵がこの時、もっと気をつけていられたら、将軍が話をするうちに何かしら探り出してやろう、というよりはむしろ、直截に打ち明けて、何事かを尋ねてやろうとしながら、しかも最も重大な点に触れることができずにいることを、おそらく察し得たであろう。ところが、恥ずかしいことには、公爵は実にうっかりしていたので、初めのうちは何一つ耳にはいらなかった。そこで将軍が何か熱心な質問をしながら、彼の前に立ち止まった時には、やむを得ず、相手の言うことがさっぱりわからないと、明らさまに白状しなければならなかった。
「君たちはみんな、なんだか妙な人間になってしまったね、どこから見ても」と将軍はまた一生懸命に話しだした、「実を言うと、僕はリザヴィータの考えや心配が、さっぱり呑み込めん。あれはヒステリーを起こして泣いたり、やれ、われわれは侮辱されたの、体面を汚されたのと、そんなことを言ってる。誰が? どんな風にして? 誰に? いつ、どういうわけで? どうもわけがわからん。僕も正直に言うと、悪かった(これは自分でも認めている)、大いに悪かった。しかし、あの物騒な(おまけに身持の悪い)女の……迫害は、結局、警察の手で押さえてもらえることで、今日も僕は二、三の人に会って、あらかじめ注意をしておくつもりです。何もかも穏便に、やさしく、親切にまでしても、うまく収まることで、これは今までのよしみからいけばわけもないでしょう、けっして人聞きの悪いようなことはしなくても済むでしょうよ。これから先、いろんな事件が起こることも、現にわけのわからないことがたくさんあることは自分もよく承知はしている。これには策略があるのでしてね。しかも、ここで何か知らないといえば、あちらへ行ってもやはり何も説明がつかないという。わたしが聞かないと言えば、君も聞かない、あの人も聞かない、この人も何一つ聞かない、それでは結局、誰が聞いたんだろう、ねえ、君? いったい、君はこれをどういう風に説明しますね、それにまた、この事件は半分は蜃気楼《しんきろう》で、たとえば月の光とか……何かそのほかの幻のように、実際に存在していないものです」
「|あのひと《ヽヽヽヽ》は気ちがいです」と公爵は今までのことを急に痛々しく思い起こして、つぶやいた。
「もし君があの女のことを言ってるのなら、僕の言うこととぴったり合ってます。僕もやはり若干そういう気持がしたので、今まで安眠ができたわけです。しかし今になってみると、みんなの考えていることはもっと正確で、どうも気ちがいだとは受けとれんのです。かりに、ナンセンスな女だとしても、しかもデリケートで、とてもとても気ちがいどころの騒ぎじゃない、今日のあのカピトン・アレクセィヴィッチのことでの乱暴なしぐさを見ても、十分にわかることです。あの女のほうからみても、あの一件は詐欺だ、少なくとも何かあの女に特別な目的があって仕組んだ狡猾《こうかつ》な仕事だ」
「カピトン・アレクセィヴィッチってどんな人です」
「あら、まあ、レフ・ニコライヴィッチさん、君はなんにも聞いていなかったんだね。僕はカピトン・アレクセィヴィッチの話から始めたんですよ。実に驚いてしまって、今でも手足が震えるくらいだ。それで今日、市内で遅くなったんですよ。カピトン・アレクセィヴィッチ・ラドムスキイはエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの伯父だが……」
「ああ!」と公爵は叫んだ。
「今朝、夜明けの七時ごろ、ピストル自殺をしたのさ。もう七十ぐらいの爺さんで、人から尊敬をうけ、相当の道楽者で――全くあの女が言ったとおり、――官金費消で、しかも容易ならぬ金額だ!」
「あの人はいったいどこから……」
「聞いたかって? は、は! だって、もうこちらへ姿を見せたかと思うとあの人のまわりにはもう一小隊ぐらいの子分ができてるじゃありませんか。どんな連中があの人をたずねて行って、『近づきになる光栄』を求めているか、君は知らないんでしょう。そういうわけだからさっきペテルブルグから来た人に何か聞かしてもらったのも無理のない話さ。なぜって、あちらでは市内にすっかり知れ渡ってるんだから、それに、パヴロフスクだって、町の半分、いや、もうパヴロフスクの町じゅうの者がみんな知ってるんだからね。しかし、何度も僕は聞いてるが、制服のこと、つまり、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチが潮時を見はからって、退職したってことを、実にあの人はうまく言ったもんだね! なんていう悪辣《あくらつ》な当てこすりだろう! いや、これはとても気ちがいに言えたことじゃない。僕だって、むろん、エヴゲニイが前もって、この騒ぎを知っていた、つまり、いつの幾日《いくか》の何時ごろにあるのなんのってことを知ってたとは信じたくない。けども、こんなことはいっさい、前もって感じていたはずだ。僕は、いや、われわれはS公爵といっしょに、あの人はエヴゲニイに遺産をやるだろうって、胸算用をしてみたんだ、恐ろしい! 恐ろしいことだ! もっとも、よく了解してくれたまえ、僕はエヴゲニイを、どんなことでもとがめやしない。これはとりあえず君に言明しておこう。しかし、ともかく、怪しいね。S公爵はとても腰を抜かしてる。なんだか、妙に、何もかも一時に落ちて来たんだね」
「しかし、エヴゲニイさんの品行にいったい、どんな怪しいところがあるんです?」
「何もない! そりゃあ、品行は実に高潔なものだ。僕はそんなことをほのめかしたんじゃない。あの人自身の財産は、そっくりしてると僕は思う。リザヴィータは、むろん、そんなことを聞きたがっていない……それにしても、いけないことに、家庭のいろんな騒ぎ、というよりはむしろ、いろんなみっともないこと、いや、なんともかとも言えないようなことがあって……。君は実際のところ、ねえ君、うちの友だちだから言うんだけれど、また察してくれたまえ、実はどうも、これは確かな話じゃないけども、エヴゲニイが一か月あまり前にアグラーヤと膝詰談判《ひざづめだんぱん》をして、あれから正式に断わられたらしいんでね」
「そんなはずがありません!」と公爵は熱のある調子で叫んだ。
「けども、君は何か知ってないかね? ねえ、君」将軍はまるで釘づけにされたようにその場にじっと立ち止まって、慄然《りつぜん》として驚いた。「僕は、ことによったら、つまらんことをぶしつけにうっかり言ったかもしれん。しかし、そりゃあ、君が……君が……いわば……そんな人だからですよ。おそらく、君は何か特別なことを知ってるでしょう?」
「僕はなんにも知りません……エヴゲニイさんのことは」と公爵はつぶやいた。
「僕も知らん! 僕のことを、僕のことを、ねえ、君、……みんなが息を引き取らして、土の中へ葬ってしまおうとしてる、そして生きた人間にそんなことは無理なことだ、そんなことはとても僕に堪えられないってことを、考えてみようともしないんだ。今も実に恐ろしい狂言を打って来たところだ! 僕は親身の息子として君に話すわけなんだが、アグラーヤがどうも母親をばかにしてるらしい、そいつがとてもやっかいだ。あの子がひと月ばかり前にエヴゲニイさんの申し込みをはねつけたらしい、二人の間にかなり正式な談判があったらしいということは、あれの姉たちが、謎の形で知らしてくれたんですがね……もっともこの謎たるや、立派な謎なんだが。ところが、あの子は、お話にならんほどわがままな、変なやつでね! おうような気持とか、情や知の方面のすばらしい性質は――なるほど、持ってるかもしれんけど、しかもあの気まぐれ、あざわらい――要するに鬼のような性質で、おまけに空想がはげしいんでね。ただちに母親を、眼の前で嘲笑する、姉たちやS公爵をひやかす、僕なんかときたら言わずと知れたことだ。あの子が僕を嘲弄《ちょうろう》しないことなんて、しないほうがまれなくらいだ。でも、僕は、ねえ、君、あの子が可愛い、笑うのがかえって可愛いくらいだ。そして、どうもあの子は、鬼の子はそのために僕を特に好いてるような気がする。つまり、ほかの誰よりも好いてるらしい。これは賭をしてもいいくらいなんだが、あの子はもう何かのことで君のことを嘲弄したに相違ない。ついさっき、二階で大騒ぎをしたあとで、君らが話をしてるところへ僕は出っくわしたが、あの子は君と、まるで何事もなかったような顔をして坐っていた」
公爵はひどく顔を赤らめて右の手を握りしめたが、やはり口をつぐんでいた。
「ねえ、君、レフ・ニコライヴィッチさん!」と不意に将軍は情をこめて、熱心に言いだした、「僕は……それにリザヴィータ・プロコフィーヴナまでが(もっともあれはまた君をちやほやするようになったね、君のおかげで僕にまで当たりがよくなった、どういうわけか解せないが)、共に僕たちは君を愛している。心の底から愛して、尊敬している、たといどんなことがあってもですよ、つまり、見たところはどうあろうともです。ときにねえ、君、考えてくれたまえ、いきなり、あの薄情な鬼の子が(というのはあの子は母親の前に、どんなことを僕たちが尋ねても、実にばかにしきった顔をして、立ってるばかりなんだからね、僕が物を聞いたりする時なんかことにはげしい。それは実に僕がばかをしたのさ――自分は家長なんだから、厳めしいところを見せてやれなんて考えたもんだから、これは実にばかなことをした)、さて、その薄情な鬼の子が、いきなり薄笑いを浮かべて、こんなことを言うのさ、『あの気ちがい女は』(あの子もそう言いました。それで君の言うのとあれの言うのとぴったり合ってるのが、僕には不思議な気がする)。『あの気ちがい女は、どんなことがあろうとも、わたしをレフ・ニコライヴィッチ公爵と結婚させようと思いついて、そのためにエヴゲニイさんを家から追い出そうとしているのを、今まで察しがつかなかったのですか?』とこう言うんです、そう言われた時の妙な気持、いまいましい気持を察してください。ところが、たったそれだけ言ったきりで、なんの詳しい説明もしないで、ひとりで声を立てて笑ってるんです。われわれはあいた口がふさがらなかった、そのうちにあの子は戸をぱたんと閉めて出て行ってしまった。それから、僕はあれと君との一件を聞かされて……それで……それで……ね、君、公爵、いいかね、君は怒りん坊でもないし、かなり分別もあるんだ、それは僕もよく認めている、しかし……怒らないでくれたまえ、誓って言うが、あの子は君をばかにしていますよ。まるで子供がふざけてるようなもんだ、だからあの子を怒らないでくれたまえ、しかしそれは全く確かなことだ。妙なことを考えられては困る――あれはただ、つれづれなるままに君や、われわれをばかにしてるわけなんだ。じゃ、失敬! 君は僕たちの気持を知ってるだろうね? 君に対する真の気持を? それはどんなことがあっても、けっして変わらない、……ときに、……僕は今こっちへ行く、ではさようなら! あんなにまで胸くそ悪かったことは(妙な言いぐさじゃないか?)めったにない。そして今も……これは、これは、いい別荘だ!」
四つ辻に一人のこされた公爵はあたりを見まわして、すばやく通りを横切り、ある別荘の灯りの点《とも》った窓に近づき、将軍と話をしている間じゅう、しっかりと右の手に握りしめていた小さな紙切れをひろげて、かすかな明りをたよりに読んで見た。
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明日の午前七時に公園の緑色のベンチへ行ってお待ちしています。わたしはあるきわめて重大な事柄について、あなたとお話をしようと決心いたしました。それは直接にあなたと関係のある事です。
二伸。この手紙をどなたにもお見せにならないようにお願いいたします。こんなさしずがましいことを申し上げますのは恐縮のいたりですが、あなたにはそういうことをするだけのことがあると存じましたので、あえて書きつけます次第です。あなたのおかしい性質に対して、羞恥の念を覚え、顔を赤らめながら。
追白。緑色のベンチと申すのは、さきほどお教え申しましたもののことです。恥ずかしいことだとお思いください! わたしはこんなことまで余儀なく書きつけました。
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手紙は走り書きでアグラーヤが露台《テラス》に出て来るちょうどその前に、どうにかこうにかして畳んだことは間違いのないところであった。公爵は驚愕に似た、言い知れぬ興奮を覚えながら、この紙切れをしっかりと手に握りしめて、まるで度胆を抜かれた泥棒のように、窓のそば、灯りのさすところから、そそくさと飛びのいた。ところが身を動かしたかと思うと、すぐ肩のうしろのところに現われた一人の紳士にいきなり強くぶつかった。
「公爵、僕はあなたのあとを従《つ》けてるんです」と男は言いだした。
「まあ、君はケルレル君ですね?」公爵は驚いて叫んだ。
「あなたを捜してたんです、公爵。エパンチン家の別荘のわきで待っていたのですが、むろん、中へははいれませんでしたよ。あなたが将軍とごいっしょに歩いていなさる間、こちらはあなたがたのあとをつけていたのです。何かお役に立ちたいと存じます。公爵、どうかケルレルになんなりと言いつけてください。もし必要がございましたら喜んで犠牲になりましょう、死をも覚悟のうえです」
「だって……なんのために?」
「いや、もうたしかに申込みが来るはずです。あのマラツォフ中尉は、僕も知っとりますが、個人的にじゃありませんが……あの男はけっして人から失敬なことをされて平気でいるような男じゃないんです。われわれの兄弟分、すなわち、僕やラゴージンはあの男からは、むろん、どちらかというと無頼漢に見られているので、ことによったら、そんなぐあいであんた一人に責任がかかってくるかもしれんのです。酒手はあんたが払わなくちゃならんでしょうよ、公爵。あの男はあんたの様子を聞いてましたが、それは僕も聞いてました。だからきっと明日になったら、あれの友だちがあんたのところへ見えるでしょうよ。いや、たぶん、今ごろやって来て待ってるかもしれません。もし僕を介添え人に選んでくだすったら、そしたら僕はあんたのために火の中へでも飛び込むつもりです。それで僕はあんたを捜してたわけなんですよ、公爵」
「すると君もやっぱり決闘の話をしてるんですね!」と公爵はにわかに大声を立てて笑いだした。これにはケルレルもすっかり胆をつぶした。
彼は呵々大笑《かかたいしょう》してやむところを知らぬほどであった。ケルレルは自分を介添え人にしてくれと申し出たのに、まだ色のいい返事をしてもらえなかったので、実にたまらない思いをしているところへ、公爵が実に陽気な笑い方をしているのを見せられて、ほとんど侮辱されたような気になっていた。
「ですけど、公爵、あんたはさっきあの男の手をおつかまえなすったでしょう。品位ある人物にとって、しかも、公衆の面前でそんなことをされるのは、容易に我慢ができないことです」
「でもあの人は僕を突き飛ばしたじゃありませんか!」と公爵は笑いながら叫んだ、「僕らはなにも喧嘩をするいわれはありません! 僕はあの人にあやまります、それで済むことです。もし喧嘩をしなくちゃならんのでしたら喧嘩もしましょう! 射つっていうんならそれもかまいません、むしろ望ましいことです。は、は! 僕はもうピストルの装填法を心得てますよ! ねえ、君、今しがた僕がピストルの装填法を教わったのを知ってますか! あんたはピストルへ装填するのを知ってますか、ケルレル君? まず初めにピストル用の火薬を買うんです、湿っていないので、大砲に使う火薬のように大粒でないのを買うんです、それから先に火薬を中へ入れて、どこかのドアのところからフェルトを取って来て、さてこんどは弾丸《たま》をこめるのです。弾丸《たま》は火薬より先に入れてはだめです。そうすると射てませんからね。あのね、ケルレル君、射てないからなんですよ。は、は! これはとても立派な道理じゃありませんか、ケルレル君、ああ、そうだ、ねえケルレル君、僕は今さっそく、君を抱きしめて接吻しますよ。は、は! どうして君はさっき、あんなに不意にあの男の前へ現われたんです? なんとかして、なるべく早く僕のところへシャンパンを飲みにいらっしゃい。みんなでせいぜい飲みましょうよ、実はね、僕んところにシャンパンが十二本もあるんです、レーベジェフの穴蔵にありますよ。レーベジェフが一昨日《おととい》、あの人んところへ僕が引っ越して行った次の日に『何かのはずみ』で僕に譲ってくれたんです、それで僕はみんな買い取っちゃいました! 僕はみんなを仲間に入れよう! さて、どうです、今夜は君は寝《やす》みますか?」
「そりゃあ、いつもと同じように寝みますよ、公爵」
「まあ、そんならせいぜいいい夢を見なさい! はは!」
公爵はいくぶん面くらったケルレルがぐずぐずしているのをそのまま置き去りにして、通りを横切り、公園の中に消えて行った。ケルレルは今までこんな妙な気持になっている公爵を見たことがなく、また今まで胸に描いてみることすらもできなかった。
「たぶん熱病だろう、なにしろ神経質な人だからな。それにいろんなことが影響したんだ。しかし、むろん、おじけづきやしまい。あんな連中はびくともしないんだからな、とてもとても!」とケルレルは肚の中で考えていた、「ふむ! シャンパンだって! てもさても、なかなか味のある知らせだな。十二本だってさ、一ダースだわい。わけはない、立派な守備隊だ。それに、賭をしてもいい、レーベジェフはこのシャンパンを誰かから抵当《かた》に取ったに決まってる。ふむ……あれはとても可愛い男だ。あの公爵は。全く、僕はあんな連中が好きだ。ときに、時間をむだにしたって始まらない……それにシャンパンがあるとなりゃ、こいつはまさに時間そのものだわい……」
公爵が熱に浮かされていたらしいことは、もちろん、そのとおりであった。
彼は長いこと、暗い公園の中をぶらついていた、やがて、気がつくと『自分は』、とある並木道をさまよっているのであった。この並木道を、例のベンチのところから、一もとの高い、夜目にも著しい老樹のあるところまで、およそ百歩ばかりの間を三十ぺん、ないしは四十ぺんも、行きつ戻りつした思い出が彼の意識の中に残っていた。公園の中で、少なくとも丸一時間のあいだ考えていたことは、たとい彼がどんなに望んでみたところで、とても再び思い出すことはできなかったであろう。もっともある一つことを心に浮かべると、不意に腹をかかえて笑いださずにはいられなかった。けっして笑うほどのことではなかったのであるが、それでもやはり笑いたくてしかたがなかったのである。彼の胸には決闘についての予想は単にケルレルの念頭にのみ浮かぶべき性質のものではなく、したがってピストルの装填法についての話も、けっして偶然なことではないんだ……というような気持が浮かんできた。
「あら!」と彼は不意に立ち止まった。別の考えが彼の心に光のように射してきたのである。「さっきあのひとは僕が露台の隅のほうに坐っていた時、そこへおりて来て、僕のいるのを見つけると、ひどく驚いて、――笑っていた……茶のことを言いだした。ところで、あの時、あのひとはすでにこの紙切れを手に持っていたはずだ。してみると、あのひとは僕が露台に坐っていることを必ず知っていたに相違ない。ということになるといったい、なんであんなにびっくりしたんだろう? は、は、は!」
彼はポケットの中から紙を取り出して、ちょっと接吻したが、すぐに、それもやめて、物思いに沈んだ。
「まあ、なんて妙なんだろう! なんて妙なんだろう!」と悲しみに似たような気持をすら浮かべながら、一分間ほどすると言いだした。激しい喜びを感じた時、彼はいつも物悲しくなるのであった。どうしてそうなるのか、それは自分にもわからなかった。
彼はじっとあたりを見まわして、こんなところへ来ていることにいまさらながら驚いた。彼はかなりに疲れていた、ベンチのところに近づいて、腰をおろした。あたりは闃《げき》として声もなかった。停車場の音楽ももう済んでいた。公園には誰ひとりいないらしかった。もちろん、十一時半は過ぎていた。夜はひっそりして、温かく、明るかった、――六月の初めごろのペテルブルグの夜であった。が、彼のいる、こんもりした、樹かげの多い公園の並木道はもうほとんどまっくらであった。
もし誰かが、この時、おまえは女に惚れている、熱烈な恋をしていると彼に言ったら、彼は驚いて、おそらく憤慨してまでも、『そんなことはない』と否定したであろう。またもしその人が、アグラーヤの手紙は恋文だ、あいびきの申し渡しだと付け足したら、彼はその人に対する羞恥の念に燃えて、おそらくは決闘を申し込んだであろう。彼にとっては何もかも真剣な問題であって、彼はこの娘が彼を恋するということ、ましてや自分がこの娘を恋するなどということがあり得ることかしらなどとは一度として疑ってみたこともなく、またかような『どっちつかず』な考えをいだくことすら潔しとはしなかった。こんなことを考えたら、彼は慚愧《ざんき》の念に耐えられなくなったであろう。彼に対する、『彼のような男』に対する恋というものが成り立つとしたら、それを彼は奇々怪々な事実と見なしたであろう。もしもここに何ものかが伏在しているとしたら、それは単に女のいたずらにすぎないのだ、と彼にはおぼろげながらそういう気がするのであった。しかし彼はことさらにこういう考え方に対しては、なんだかあまりにも恬然《てんぜん》としていて、こういう考え方をあまりにも在り来たりの普通なことだと考えていた。彼自身はそれと全く違った別のことに気をとられて、心をいためていたのである。
さっき、興奮していた将軍の口からうっかりもらされたことば、とりもなおさずアグラーヤが一同の者、わけても彼、公爵をばかにしているということは、彼も全く信じて疑わなかった。しかも、いささかの屈辱をも彼は感じなかった。彼のつもりではむしろそうあるべきはずのものであった。明日の朝早く、また彼女に会えるということ、緑色のベンチに彼女と並んで腰をかけ、ピストルの装填法を聞かしてもらって、彼女の顔をしみじみと見ることができるという、ただそれだけのことが、彼にとっての最も重大なこととなっていた。もうそれ以上のことは何一つなく、ある必要もないのであった。また彼に会ってどんなことを話すつもりなのか、直接に彼に関係のある大事のことというのはいったいどんなことなのかという疑問も一度か二度、彼の念頭にひらめいた。そのほかに、わざわざ彼を呼び出すほどの大事なことがはたして実際にあるかしらとは、彼はただ一分間たりとも疑ってみはしなかった。また、その大事なことについて今は全く、ほとんど考えてもみなかった。それよりも、それを考えてみようといういささかのショックをさえも感じなかったのである。
並木道の砂をきしませて歩いて来る静かな足音に彼は思わず頭をあげた。闇の中に顔がなかなか見分けのつかないその人はベンチに近づいて来て、彼のわきに腰をおろした。公爵はいきなり、ぴったりといってもいいほどその男のほうへ身を近づけた。よく見るとラゴージンの青ざめた顔であった。
「どうせここらあたりを、うろうろしてるだろうとはわかっていた。そんなに暇もとらずに捜し当てたよ」とラゴージンは歯の間から吐き出すようにつぶやいた。
居酒屋の廊下で会って以来、彼らが顔を合わせたのは、これが最初であった。思いがけないラゴージンの出現に驚かされて公爵はしばらくは、はっきりと一つのことを考えることもできなかった。痛々しい感じが彼の胸に蘇ってきた。ラゴージンは見たところ、自分が公爵にどんな印象を与えたかを悟っているらしかった。彼は最初のうちは途方に暮れて、話をするのにもなんとなく妙に取ってつけたような大らかな風をしているらしかったが、公爵は、ラゴージンには何一つ取ってつけたようなところがなく、またことさらにまごついているような風もないことに、すぐに気がついた。もしも彼のそぶりや話しぶりに、何か調子の悪いところがあれば、それはただ、うわべだけのことではなかったか。精神的にこの男が見違えるようになるなどということは、ありようはずがないのである。
「どうして君は……僕がここにいるのを捜し当てたんだえ?」と公爵は何か口をきかなければいけないと考えて、こう聞いてみた。
「ケルレルから聞いたんだよ(僕はおまえんところへ寄ったんだよ)、『公園へいらしった』って、そう言ってたっけ。だから、そりゃそうだろうって思ってたのさ」
「『そうだろう』ってなんだね?」と公爵は不安らしく、うっかり相手の口からもれたことばじりをとらえた。
ラゴージンはほくそえんだが、説明はしなかった。
「僕は君の手紙をもらったよ、レフ・ニコライヴィッチ。あんなことはみんなだめだ……はじまらんぜ、君!……ときに僕は今、|あれ《ヽヽ》のところからここへ来たんだ、ぜひとも君を呼んでくれって申し渡されて。なんだかとても君に話してやることがあるんだってさ。今日にも会いたいってさ」
「僕は明日ゆく。今日はすぐ家へ帰るんだ……君……僕のところへ?」
「なんだってよ? 僕はもう話すことはないよ、さいなら」
「じゃ寄らないんだね?」と公爵は静かに聞いた。
「奇妙きてれつなやつだなあ、君は、レフ・ニコライヴィッチ。君にゃたまげるよ」
ラゴージンは毒々しげに薄ら笑いをもらした。
「なぜさ? なんだって君は今、僕をそんなに恨んでるんだ?」物悲しげに、しかも熱のこもった調子で公爵はことばを引き取った、「だって君は、君の考えてたことが、みんな本当でないってことを自分で知ってるんじゃないか。もっとも、僕は君の恨みが今もって残ってるということは思っていた。いったい、なぜだか知ってるかえ? というのは、実は君は僕の命をとろうとした、だから、それがため君の恨みが残っているんだ。はっきり言うけど、僕はただ一人の、あの日、十字架をやり取りした、あのパルフェン・ラゴージンを覚えているだけだ。昨日の手紙にも、君がこのいやなたわごとを思ってくれないように、忘れてくれるように、この話を僕の前で切り出さないでくれるようにと思って、それでそのことを書いたわけなんだ。なんだって僕のところから傍のほうへ行くんだ? なんだって手を隠すんだえ? ようく言っておくけど、あの時のことは何もかも、ただ、いやなたわごとだと僕は思うんだ。僕はあの日一日の君のことを、わがことのように、諳《そら》で覚えている。君の想像していたことは、実際に存在していなかった、存在しようはずもなかったんだ。いったい、何のために僕たちの恨みが存在して行くんだろう?」
「いったい、僕は恨みをもっているのかえ?」公爵の熱のある、全く思いもかけないことばに報いて、ラゴージンはまたもや笑いだした。
彼は事実、二歩ほど退いて、両手を隠しながら、公爵を遠ざけて立っていた。
「今となってはもう、僕は君んところへどうしたって出入りするわけにゃいかねえんだよ、レフ・ニコライヴィッチ」と彼はおもむろに、しかつめらしい調子で付け加えてことばを結んだ。
「それほど僕を憎んでいるのか、え?」
「僕は好いちゃいねえよ、レフ・ニコライヴィッチ、だから、なんだって君んところへ行くわけがあるんだ? ええっ、公爵、君はまるで赤ん坊みたいだ、玩具を欲しがって――引っ張り出したり、引っ込めたり、そうして物がわからないんだ、それはなるほど、手紙に書いてあることと、今言ってることとは同じことだ。だが、君を僕が信じないなんてことがあるのかえ? 一言一句、君のことばを信じている、今まで僕をだましたこともないし、これから先もだまさないってことは、よく承知してる。だが、やっぱりそれでも好いちゃいねえ。あれ、君は何もかも忘れてしまって、ただ一人、十字架の兄弟ラゴージンを覚えていて、刀《どす》を振り上げたラゴージンを覚えていないと、こう手紙には書いてあったな。だが、どうしておれの気持がわかるんだ?(ラゴージンはまたもや、ほくそえんだ)ときに、僕はそんなことは、どうやら今まで一度も後悔もしたことがねえらしいんだ、しかも君はもう兄弟分のわび状をよこしている。ことによったら、僕はあの晩、まるで別なことを考えていて、こんなことは……」
「考えることも忘れてたんだろう!」と公爵があとを引き取った、「そりゃあもちろん! 僕は賭をしてもいいが、君はあの時、すぐ汽車に乗って、このパヴロフスクの楽隊んところへ駆けつけて、人ごみの中を、ちょうど今日みたいに、|あれ《ヽヽ》の尻を追いまわして見張りをしてたんだろう。そんなことはびくともしねえよ! あの時、君がたった一つのことしか考えられないようなありさまになっていなかったらおそらく刀《どす》なんかを僕に向かって振り上げはしなかったろうよ……僕はあの日は朝から、君を見るなり、なんだか虫が知らしていた、君はあの時、自分がどういう風をしてたと思う? 十字架をやり取りした時、僕には、そんな気持が動いていたらしい。なんだって君はお婆さんのところへあの時、僕を連れて行ったんだ? あんなことをして自分を押さえつけようとしたんだろう? だが、そんなことを考えるなんて、ありようはずがないことだ。ただ、僕と同じように感じただけなんだね……僕たちはあの時、全く同じことを感じていたんだ。あの時、君が僕に向かって手を振り上げなかったら(だが神様が払い退けてくだすったが)、僕はいま、どんなになってたろう? だって僕は、いずれにしてもこのことでは君を疑った、したがって二人とも同罪だ、全く同じだ!(だが、そんな苦い顔をするなよ! さあ、なんだって笑うんだえ?)『後悔しなかった』って! だが、いくら後悔したがったって、たぶん、後悔はできなかったんだろう。なぜって僕を好いてもいないんだから。それに、|あれ《ヽヽ》が君でなく、僕を愛してるなんかと考えているうちは、たとい僕が天使のように、君に対して罪けがれがないにしたところで、君はやっぱり僕が憎らしくってたまらないだろうよ。してみると、実際に嫉妬なんだ。けれど、僕はついこの週になってから、こんなことを考えついたんだ。ねえ、パルフェン、話して聞かそう、というのは、君は知らんだろうが、|あれ《ヽヽ》は今、君を、おそらく誰よりも愛しているんだよ、そして愛すれば愛するほど、君が苦労するほどだ。あれはそんなことを僕に言わないだろう、だから自分で見抜かなくちゃだめだ。どうして向こうから君んところへ嫁になんか来るものか? いつになったって、行きましょうなんて、言うもんか? ある種の女たちは、こんな風に愛されたいと、そんなことさえも思っている、ところが、|あれ《ヽヽ》がちょうどそういう性格の女なんだ! そして君の性格と、君の愛情は、|あれ《ヽヽ》の心を打つべきものなんだ! 君にはわかるまいが、女ってやつは残酷なことをして、嘲弄して、そうして男を悩ませるだけの腕前があって、しかも一度だって良心の苛責《かしゃく》を感じないんだ、つまり、男を見るたびに、肚の中では、『わたしはいま、この人を死ぬほど悩ましている、でもその代わりあとになれば、愛して上げてその埋め合わせをして上げる』と考えているからなんだよ……」
ラゴージンは公爵の話を聞き終わると、声を上げて笑いだした。
「おい、公爵、どうだい、君もいつか、その女に引っかかったことがあるのかえ? 僕はちょっと君のことを耳にしたんだが、本当だったら?」
「何を、何を君は聞いたんだ?」と公爵はぎくりとし、ひとかたならずどぎまぎして立ち止まった。
ラゴージンは相変わらず笑っていた。彼はいささかの好奇心を覚え、またおそらくは満足をすら覚えて、公爵の話を聞き終えたのであった。公爵の嬉しそうな、熱のある話しぶりは非常に彼を驚かし、また彼に威勢をつけた。
「うむ、とても聞いたというくらいのことじゃねえんだ。今になって、あれが本当だってことが、はっきりわかったよ」と彼は付け足した、「さて、君が今までに今夜みたいに話したことがあったかえ? だってこんな話は君の口から出そうもないことだ。もし君の噂を聞かなかったら、僕はここへだって来なかったはずだ。しかも公園へま夜中なんぞに」
「僕は君の言うことがさっぱり呑み込めないよ、パルフェン君」
「|あれ《ヽヽ》が、かなり前に君のことを話してくれたが、さっき、君が楽隊んところで、その娘と坐ってるのを見て、はっきり呑み込めたよ。|あれ《ヽヽ》が僕に誓ったんだ、昨日も今日も誓ったんだ、君がアグラーヤさんに首ったけだってさ。そんなことは公爵、僕にはどっちにしたって同じことだ、こっちの知ったことじゃねえんだ。たとい君があの子を愛しなくなったって、別に向こうは愛しなくなんか、ならねえからな。知ってはいるだろうが、|あれ《ヽヽ》は君をぜひともあの子といっしょにしてやりたいと、誓ってまでいたんだ。へ、へ! その言いぐさがさ、『そうしなければ、おまえさんのところへは嫁《ゆ》きませんよ、あの人たちが教会堂へ行ったら、そのあとから私たちも教会堂へ行きましょう』だってさ、いったい、これはどんなことなんだろう? さっぱり呑み込めねえ。今もって呑み込めたためしがない。それとも、君に現《うつつ》を抜かしてるのかしら、……もしそうだとすれば、ほかの女といっしょにさせようってのは、いったいどういうわけなんだろう?『あの人の仕合わせになったのを見たい』なんて言うのは、やっぱり惚れてる証拠だろう」
「僕は口でも言ったし、手紙にも書いてる、|あのひと《ヽヽヽヽ》はね……正気の沙汰じゃないんだって」と公爵は悩ましそうにラゴージンの話を聞き終わると、こう言った。
「どうだかわからん! それはたぶん君の勘違いだぞ……もっとも、今日《ヽヽ》、あれは僕が楽隊んところから連れて帰ると日取りを決めたんだ、三週間たってから、ことによったらもっと早く、必ず結婚しようって言うのさ。そう言って誓ったんだ、頸にかけてる聖像をはずして、接吻したんだ。したがって、問題はなあ、公爵、君の出よう一つなんだぞ、へ、へ!」
「それはみんな、たわごとだ! 君が僕のことで言うようなことは、けっして、けっしてあってはならないんだ! 明日になったら君のところへ行こう……」
「いったい、どうして気ちがいなんだ!」とラゴージンが言った、「ほかの人には誰が見ても正気だというのに、ただ君ひとりにだけ気ちがい扱いにされるのは、いったい、どういうわけなんだ? どうして|あれ《ヽヽ》はあそこへ手紙なんかやれたんだろう? もしも気ちがいだと言うんなら、あそこの連中も手紙を見れば気がついたはずだ」
「手紙って、どんな?」と公爵は驚いて聞いた。
「あそこへやったのさ、|あの《ヽヽ》娘に、そしてあの娘が読んだのさ。知らないのかえ? まあ、そのうちわかるだろう、きっと自分から見してくれるだろうから」
「そんなことは当てにならない!」と公爵は叫んだ。
「ええい! おい、レフ・ニコライヴィッチ、君はまだ僕の見たところでは、まだまだこの道の苦労が足りない、やっと乗り出したばかりだ。も少し待ってみろ、自分で警察を構えて、朝に晩に見張りをして、女の足どりがすっかりわかるようになるから、ただもしも……」
「そんな話はよしてくれ、けっして言わないでくれ!」と公爵は叫んだ。「あのね、パルフェン、僕は君が来るちょっと前にここを歩いていたんだが、急に笑いだしちゃったんだ。何がおかしかったんだか、それはわからん。ただね、明日は僕の誕生日だな、とふっと思い出したのが原因《もと》なんだ、誕生日なんて、まるでわざわざそうなるみたいだ。もう、あらまし十二時だろう。さあ、いっしょに行って、その日を迎えよう! 僕んとこには酒があるから、いっしょに飲もうよ。そして僕にも自分で何を望んでいるのかわからないでいるものの来ることを祈ってくれ。ほかならぬ君に祈ってもらいたいんだ。僕も君の多幸ならんことを祈ろう。それがいやなら、十字架を返してくれたまえ! まだ君は十字架をあのあくる日に送り返してもくれなかったじゃないか! 下げてるじゃないか? 今もってまだ下げてるじゃないか?」
「下げてるよ」とラゴージンは叫んだ。
「さあ、行こうよ。僕は君がいないところで、新しい生活を迎えたくはないんだ。なにしろ僕の新しい生活は始まったんだから! ねえ、パルフェン、君は知らんだろうが、僕の新しい生活は今日いよいよ始まったんだよ?」
「今、僕にも見える、本当に始まったんだ。|あれ《ヽヽ》にも、そう言って知らしてやる。君はまるで、正気じゃないぜ、レフ・ニコライヴィッチ君!」
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四
公爵はラゴージンといっしょに自分の別荘に近づきながら、声さわがしく多くの人たちが、皎々《こうこう》とあかりをともした露台《テラス》に集まっているのを眼にとめて、少なからず驚いた。陽気な連中が大きな声で笑ったり、話をしたりしていた。どうやらどなりたてんばかりにして議論をしているのではないかとさえも思われる。一目見て、かなりに楽しい遊びをしているのだとは察しがついた。実際に露台へ上がって見ると、誰も彼もが飲むも飲む、シャンパンを飲んでいたのである。酒宴はもうずっと前から始まっていたものとみえて、飲んでいる連中の中にはいい気持になっている者も多かった。客はいずれも公爵の知り合いばかりであったが、公爵が誰ひとり招《よ》びもしなかったのに、彼らがまるで招ばれてでも来たようにいっせいにおしかけて来ているのは、まことに妙であった。誕生日のことは公爵自身もたった今、ゆくりなくも思い起こしたばかりなのである。
「きっと誰かにシャンパンを出すと言ったに相違ない、だからこそ寄って来たんだ」とラゴージンは公爵のあとから露台に昇りながらつぶやいた、「僕らあ、ここいらの骨《こつ》はちゃんと呑み込んでるがな。やつらにちょいと口笛を鳴らしゃあ……」と彼はほとんど憎らしげな調子で付け加えた。いうまでもなく自分についこの間あったことを思い起こしたのである。
誰も彼もがどっとわめき立てて、お祝いのことばを述べながら公爵を迎えて、ぐるりを取り囲んだ。ある者はひどくさわがしくある者はずっと落ち着いていた。もっとも誰もが挨拶をする順番のまわって来るのを待ちうけていた。中に二、三の者が居合わせていることが公爵の興味をひいた。たとえばブルドフスキイである。しかし、何よりも驚異であったのは、この連中の中にだしぬけにエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが見えたことであった。公爵は自分で自分の眼を信じたくないくらいであった。彼の姿を見ると、彼はほとんど胸をひしがれんばかりであった。
そのうちに顔をまっかにして、まるで有頂天になっているようなレーベジェフが、子細を話そうとして走り寄って来た。彼はだいぶいい機嫌になっていた。彼がおしゃべりするのを聞いていると、一同が全く自然に、偶然にといってもよいくらいに集まったということがわかってきた。まっ先に、イッポリットが日の暮れない前にやって来て、いつもよりはずっと気分がよかったので、露台で公爵を待とうと考えた。彼は長椅子の上に身を横たえていた。やがてレーベジェフがおりて来て、そのあとから家族の者全部、すなわちイヴォルギン将軍と娘たちがやって来た。ブルドフスキイはイッポリットに付き添って来たのである。ガーニャとプチーツィンはどうやらつい今しがた通りがかりに立ち寄ったものらしい(二人がここに見えたのはちょうど停車場での出来事と時を同じゅうしていた)。続いてケルレルがやって来て、公爵の誕生日のことを申し述べて、シャンパンを出してくれとせがんだ。エヴゲニイはちょうど半時間まえにやって来た。シャンパンを抜いて祝宴を張ろうと一生懸命に主張したのはコォリャであった。レーベジェフは待ってましたとばかりに酒を出した。
「でも自分のですよ、自分の!」と彼は公爵に向かって、口の中でつぶやいた、「お祝い申したいと思いまして、自腹を切ったわけでして、いずれまた御馳走がね、おつまみ物が出るんです。それは娘が心配してくれるでしょう。ところで、公爵どんな問題を論じてるか御存じないでしょうな。覚えておいでですかな、あのハムレットの『この世に在る、この世に在らぬ?』というのを? こいつあ現代的な問題ですぜ、現代的な! 質問を出したり答えたり……チェレンチェフ氏はとても乗り気で……眠ろうとなさらんのです! ときにシャンパンはほんの一口、ちょっぴりお飲みになっただけですから、別に害はないでしょう、……さあ、公爵、こっちへ寄って、きまりをつけてください! みんながお待ちしてたんです、あなたのうまい思案をお待ちしてたんです……」
公爵は群がる人の間をかきわけて、同じく彼のほうへ通り抜けようとあせっているレーベジェフの娘ヴェーラのやさしい、愛くるしい眸《ひとみ》を眼にとめた。彼は誰よりも先に彼女のほうへ手をさしのべた。ヴェーラは嬉しくなって、さっと顔を赤らめ、彼に対して『今日という今日から幸福な生活』が始まるようにと挨拶した。それから台所へ大急ぎで走って行った。そこで彼女はつまみ物のしたくをしていた、しかし公爵の帰って来るまでは、――ほんのちょっとの間でも仕事の手が空くと、――露台へ出て来ては、ほろ酔いの客人たちの間にやむときもなく続けられているきわめて抽象的な、ヴェーラにとっては奇妙な事柄についての盛んな議論を一生懸命に聞いていた。妹のほうは口をあけたまま次の部屋の櫃《ひつ》の上に寝こんでいたが、レーベジェフの息子の少年はコォリャとイッポリットのわきに立っていた。いきいきした顔つきを見ただけでも、この少年が同じところに人の話を聞いて楽しみながら、さらに十時間くらいも、じっと立ち通すくらいの意気込みでいることがうかがわれた。
「僕は特にあなたをお待ちしてました、そんなに幸福そうな様子でお帰りになったのがとても嬉しいんです」公爵がヴェーラのすぐあとから握手をしようとして歩み寄ったとき、イッポリットは言いだした。
「僕が『そんなに幸福そう』なんて、どうしてわかるんです?」
「顔つきでわかりますよ。さ、皆さんに挨拶をして、早く僕のわきへ坐ってください。僕はことさらにあなたを待っていたんです」と彼は『待っていたんです』ということばに著しく力を入れながら付け加えた。「こんなに遅くまで起きて害にならないでしょうか」という公爵の注意に対して、彼はどうして三日まえに死ぬ気になれなかったのか自分でも不思議な気がする、そしていまだかつて今夜くらい気分がよかったことは一度もなかったと答えた。
ブルドフスキイは飛び上がった、自分は『その……』、イッポリットの『お伴をして来たので、やはり嬉しい』あの手紙には『つまらんことを書いてしまいました、が』今は『ただもう嬉しいのです』というようなことをどもりながら言うのであった。しまいまで言いきらないうちに彼はしっかりと公爵の手を握って、椅子に腰を下ろした。
最後に公爵はエヴゲニイのほうへも近づいて行った。相手はすぐに公爵の手をとった。
「ほんの二|言《こと》ばかり、お話ししたいことがあるんです」と彼はかすかな声でささやいた、「実は非常に重大な事情がありましてね。ちょっとあちらへまいりましょう」
「ほんの二|言《こと》ばかり」と公爵の一方の耳へ別な声がささやいて、別な手が別のほうから彼の手をとった。公爵はひどく髪の毛のみだれた男が顔を赤らめて、目配せをしながら笑っているのを見つけて驚いたが、いったい、どこから出て来たものか、その男がフェルデシチェンコだということはすぐにわかった。
「フェルデシチェンコを覚えてますかね?」とその男は聞いた。
「君はどこから出て来たんです?」と公爵は叫んだ。
「この男は後悔してるんです」と走り寄って来て、ケルレルが叫んだ、「今まで隠れてたのです。あなたのところへ出たがらないで、あそこの隅に隠れてたのです。公爵、この男は後悔しています。自分が悪かったと気づいているんです」
「いったい、何が悪かったのです、何が?」
「実はねえ、公爵、この男に行き会ったもんですから僕は行き会うなり引っぱって来たんですよ。この男は僕の友だちの中でも珍しい男でしてね。でも後悔してるんですよ」
「まあ、ようこそ、皆さん。あちらへ行って、みんなのところへ坐ってください。僕はじきにまいりますから」と、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチのほうへ急ぎながら、やっとのことで公爵はその場をのがれた。
「あなたの所はおもしろいですねえ」とエヴゲニイは言いだした、「僕は三十分間ほど、あなたを、とても愉快にお待ちしていました。ときにねえ、公爵、僕はクルムィシェフのほうは万事よろしくやっておきました。それで安心していただくために、お寄りしたわけです。あなたは何も気にかけことはありませんよ。あの男はとても、とてもわかりのいい判断を下してくれました。おまけに、僕の見るところではむしろあの男が悪いんですからね」
「クルムィシェフってどこの?」
「ほら、さっきあなたが手をつかまえなすった、あの男ですよ……。ひどく憤慨して、明日はあなたのところへ人をよこして釈明を求めようって気でいたのです」
「もうたくさんです、なんてばかげたことだろう!」
「むろん、ばかげたことです。最後は必ずばかげたことになるはずだったんですが、僕らにとってこんな人間は……」
「たぶん、あなたはもっと何か別の用事でいらしったんでしょうね、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさん?」
「おお、むろん、そうですとも」と相手は笑いだした、「僕はねえ、公爵、明日は夜明け前に、あの困った事件(それ、あの伯父のことです)、そのことでペテルブルグへ出かけます。まあ、どうでしょう、みんなあれは本当のことで、僕以外の人はもう誰でも知ってるんですよ。僕はもう実にびっくりしちゃって、あそこのあの、エパンチン家へ寄る暇もなかったくらいでした。明日も行きやしません、明日はですね、ペテルブルグへ行きますから。あちらへ行ったらたぶん、三日くらいはこちらを空《あ》けることになりましょう――一口に言うと、僕の仕事のほうに頓挫《とんざ》をきたしたのです。なるほど今度の事件はなんといっても重大なことは重大ですが、僕はある問題について、できるだけざっくばらんにあなたと時を移さずに、つまり出発をする前に話をつける必要があると考えたのです。もしそうしろとおっしゃるならば僕はみんなが帰るまで、ここにじっとしてお待ちしてましょう。おまけに、僕はさしあたって行く所もありませんし。気がいらいらするので、寝ることもできません。とにかく、こんなに人を追っかけまわすのはぶしつけ千万で申しわけないことですが、はっきり申しますと、実は僕はあなたの友情を求めてやって来た次第なんです、公爵、あなたは実に天下に類のないおかたです。つまり、どんなことがあっても嘘を言わないおかたです。おそらく全然といってもいいでしょう。ときに、僕はある問題について友であり、忠告者である人が必要なんです。というのは、僕が今、全く困った人たちの仲間入りをしてしまったからで……」
彼はまた笑いだした。
「さてこれはたいへんだ」と公爵はちょっとの間考えて、「あなたはあの連中が帰るまで待とうとおっしゃるけれど、いつのことだかわかりませんよ。それよか、二人で公園のほうへでもおりて行きましょう、あの人たちは必ず待ってるでしょうよ。僕はあやまりましょう」
「いやいや、僕はわけがありましてね、あの人たちから、われわれ二人が何か目当てがあって、特別な話でもしてるように思われたくないのです。あそこには、われわれ二人の関係を非常におもしろがっている人たちがいるんでしてね。公爵、あなたにはそれがおわかりになりませんか? そういうわけですから、目当てがあって云々《うんぬん》なんかということではなしに、きわめて友だちらしい、それも特別というのではなく、ただの関係なんだということをよく承知してもらったら、そのほうがずっとましでしょうよ、どうですか? あの人たちは二時間もすれば帰りましょうから、そしたら僕は二十分、まあ三十分ばかりおつき合い願いましょう」
「どうぞ、どうぞ。僕はそういうわけはお聞きしなくっても、お目にかかってとても嬉しいんです。また友人関係というおことばに対して、厚くお礼を申し上げます。僕が今日ぼんやりしてるのをお許しください、僕はどうしてか今、注意を集中することがどうにもできないんでして」
「ええ、そりゃあわかります。よくわかります」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチはかすかに冷笑をうかべながらつぶやいた。
彼は今宵は、どうかするとすぐに笑いだすのであった。
「何がおわかりです?」と公爵はぎょっとした。
「気がつきませんかねえ、公爵」と質問そのものには答えずに、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは相変わらず冷笑をうかべていた、「僕がこちらへまいったのは、あなたをだましてうまうまと何か探り出すためなんですよ、気がつきませんか、え?」
「あなたが探り出しにいらしったことは、それはもう疑問の余地がありません」と公爵もとうとう笑いだしてしまった、「おまけに、ことによったら僕を少々だましてやろうとさえもお考えになったかもしれませんね。でも、そんなことは平気です、僕はあなたを恐ろしいとは思いません。なにしろ僕は今、なんだかどっちでもいいような気がするんです。まさかと思うでしょうね? そして……そして……僕は何を措《お》いても、あなたがとにかく、立派なおかただと信じていますから、おそらく、実際に、結局のところは友人としてつき合うことになるでしょうよ。僕はあなたがとても気に入りましたよ、エヴゲニイさん、あなたは実に実に申し分のないおかただと思うんです、僕は」
「いや、とにかく、どんなことがあってもあんたという人といっしょに事をするのは実におもしろいですよ」、とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは話を結んだ、「さあ、まいりましょう。僕はあんたの健康のために一杯あけますから。なにせ僕はあなたのところへわざわざやって来てああよかったと、とても喜んでるんです。あ!」、と彼は不意に立ち止まった、「あのイッポリット君はあなたのところへ来て暮らしてるんですか?」
「ええ」
「あの人はすぐに死にませんね、きっと?」
「どうしてそんなことを?」
「いや、その、なんでもないんです。僕はここでさっき、あの人と三十分ばかりいっしょにいましたが……」
イッポリットはその間じゅう公爵を待ちわびて公爵とエヴゲニイがわきのほうで話をしている間、絶えず二人のほうを見まもっていた。二人がテーブルのほうへ近づいて来ると、彼は無性に元気づいてきた。彼は落ち着きがなく、そわそわしていた。額には汗がにじんできた。輝く眼の中には、何かしらふらふらしているような、絶え間のない不安のほかに、一種のそこはかとない焦燥の念が十分にうかがわれた。その眸はあてもなく、物から物へ、顔から顔へと移っていた。彼は今まで、一同の者のさわがしい話に自分もひどく乗り出していたのであるが、その元気はなんのことはない、ただ熱狂的なものであった。彼は人々の話そのものには心をとめていなかった。彼の議論は支離滅裂で、嘲笑的で、粗漏な逆説的なものであった。一分間まえに非常な熱情をこめて自分みずから話した事柄さえも、たちまちに中途で投げ出してしまった。公爵は、今晩ここに来た連中がなみなみとシャンパンをついだ杯までも、飲み乾すことをイッポリットに許したこと、おまけに三度目の杯が飲みさしのまま彼の前に立っていたことを聞かされて、驚きかつ嘆いたのであった。しかし、それを知ったのは、後のことであった。この時の彼はそんなに気のつくほうではなかった。
「ねえ、公爵、僕は今日という今日があなたの誕生日だというので、とても嬉しいんです」とイッポリットは叫んだ。
「どうして?」
「今わかりますよ、さあ早く掛けてください。第一に、あなたの……お仲間がここへ集まったからです。お仲間が大ぜい来るだろうとは僕も見込みはつけてました。こんなに見込みが当たったのは、生まれてはじめてです! でも、あなたの誕生日だってことを、つい知らなかったのは残念です。知ってたらプレゼントを持って来るんでしたのに……は、は! そう、僕だってきっとプレゼントを持って来たでしょうよ! 夜が明けるにはまだ間がありますか?」
「夜明けまでには二時間とはありません」とプチーツィンが時計を見ながら言った。
「夜明けなんかどうだっていいじゃありませんか、日の光がなくたっておもてで本は読めるんだから?」と誰かが口を出した。
「実は僕は太陽のあがるのを見たいんです。公爵、太陽の健康を祝して飲んでもいいでしょうか? いかがですか?」
イッポリットは無遠慮に一同のほうを向いて、語気も鋭く尋ねるのであった。まるで命令でも下すかのようであった。しかし、自分ではそれと気づかないらしかった。
「いいでしょう、飲みましょう、でも君はもう少し気を落ち着けなくちゃいけませんよ、イッポリット君、ね?」
「あんたはいつでも寝《やす》め寝《やす》めですね。公爵。あなたは僕の乳母《おもり》なんですね! 太陽があらわれて、空に『鳴り始め』たら、そしたら寝みましょう(誰かが詩の中で『陽は空に鳴り始めたり』って言ってましたね? 無意味なことですけれど、うまいですね!)。レーベジェフさん! 太陽は生命《いのち》の根源じゃありませんか? 黙示録の中では、『生命《いのち》の根源』はどういう意味になってますか? 公爵、あなたは『苦艾《にがよもぎ》』〔黙示録第八章第十一節に出る〕の星の話をお聞きになったでしょう?」
「僕はレーベジェフさんが、この『苦艾』をヨーロッパにひろがっている鉄道網と認めてられる話を聞きました」
「いいえ、失礼でござんすが、そんなことはござんせん」レーベジェフは飛び上がって、一同の者が笑いかかったのを制しようとでもするかのように、両手を振りながら叫んだ。
「失礼でござんすが! この人たちは……この人たちは……」と言いかけて、不意に公爵のほうをふり向いて、「ですけれど、ある点において、ただその……」こう言って彼は無遠慮に二度ほどもテーブルをこつこつとたたいた。すると、このために笑い声はいよいよ高まった。
レーベジェフは例の『暮れ方』気分でいたのであるが、今はさきほどの長たらしい『学問的な』議論のためにあまりにも興奮していらいらしていた。こういう場合に彼は限りのない、極度の侮蔑《ぶべつ》をもって論敵に接するのであった。
「そりゃあ違いますんで! 私どもはねえ、公爵、横合いから口を出さないこと、一人が話をしてる間は大声で笑わないこと、話をしている者には自由に所見をすっかり述べさせること、もうそれさえ済んだら、無神論者にでも誰にでも勝手に反駁をさせる――という風の約束を三十分ほど前に取りきめましてね、将軍を議長に選びまして、え、そうです! ところが、どうでござんしょう? こんなぐあいでは、いかに高邁《こうまい》な思想、いかに深遠な思想をもっていてもたちまちやりこめられちゃいますよ」
「いや、話したまえ、話したまえ、誰もやりこめやしないから!」という声が聞こえてきた。
「いったい、『苦艾の星』って何ですね?」と誰かが聞いた。
「さっぱり見当がつかん」もったいぶった風をして、さっきまで着いていた議長席に帰りながらイヴォルギン将軍が答えた。
「僕はこういった議論や反駁が恐ろしく好きでしてね、公爵、もちろん、学問的なのをです」とケルレルは有頂天になって、もどかしそうに尻をもじもじさせながらつぶやいた、「学問的で、政治的なのをです」彼は自分とほとんど並んで坐っていたエヴゲニイのほうを不意にいきなりふり向いた、「あのね、僕は新聞で英国議会の記事を読むのが恐ろしく好きなんですよ、つまり、何を論じているかということではなくって、(だいたい、僕は政治家ではないから)、彼らの議論のしかた、いわば政治家としてふるまいいかんということがおもしろいんです。『反対席におられる高邁なる子爵』だとか、『余の意見に賛同せられたる高邁なる伯爵』だとか、『その提言によってヨーロッパを震駭《しんがい》せしめたる高邁なる余が論敵だ』とか、つまりこういったような言い方や、こういったような自由な国民の議会政治、それがわれわれごとき者にとっては実に魅力があるのです! 僕はねえ公爵、魅惑されるんですよ。僕はいつも、正直にいうと、ね、エヴゲニイさん、本当の腹を割ってみると芸術家なんでしてね」
「それはそうと、どういうわけなんです」と一方の隅ではガーニャが熱叫した、「君の意見によると、鉄道は呪《のろ》うべきもので、それは人類を滅ぼすもので、『生命の根源』を濁らせるために地におちた毒だということになるようだけれど?」
公爵の見たところでは、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ(ガーニャ)は、今宵はことさらに興奮していて、ほとんど、勝ち誇っているかのような陽気な気分になっていた。彼はレーベジェフをおだてて、もちろん、彼とふざけていたのであるが、すぐに自分から熱くなってしまったのである。
「いいえ、鉄道じゃござんせん!」とレーベジェフも同時に夢中になり、いうにいわれぬ快感を覚えながらことばを返した、「特に鉄道ばかりが生命の根源を濁すものじゃござんせん。そういったようなもの全体が呪うべきものです、最近何世紀かの思潮も、全体的に科学や物質の方面から見ると、おそらく実際に呪うべきものでしょう」
「たしかに呪うべきものか、それともただ『おそらく』ですか? この場合それを知ることは重大なことじゃないかしら」とエヴゲニイが問いただした。
「呪うべし、呪うべし、たしかに呪うべしです!」とレーベジェフは興奮してくり返した。
「あわてるな、レーベジェフ君、君はいつも朝のうちはずっと善良ですね」とほほえみながらプチーツィンが口を出した。
「その代わり晩になるとずっと明け放しです!」と熱くなってレーベジェフは彼のほうをふり向いた、「ずっと無邪気で、頭もはっきりしていて、正直で、立派で、こんなことを言うとあなたに弱点をさらけ出すようなものですが、かまいやしません。私は今、あなたがた、無神論者を全部よび出して、お尋ねしたい、さあ、皆さん、何をもってあなたがたはこの世を救うのです、どこにあなたがたは正しく行くべき道を見つけ出しました? あなたがたは科学を、工芸を、協会を、賃銀を、その他そういうたぐいの問題を云々《うんぬん》するおかたたちですが、いったいどうなんです? 何をもって救うのです? 信用によってですか? しからば信用とはなんであるか? 信用はあなたがたになんの役に立ちましょう?」
「いやはや、あなたはずいぶん物好きですね!」とエヴゲニイが言った。
「私の意見では、こういう問題に関心をもたない者があったら、それは 上流社会の chenapan(ごろつき)です」
「君の役って、とにかく一般人の共同一致とか、利害関係の平均とかをもたらすものですよ」とプチーツィンが言いだした。
「ただそれだけ、ただそれだけ! 個人的なエゴイズムと物質的必要の満足のほかには、なんらの精神的な基礎をもたないで? 一般の平和、一般の幸福は――必要から生まれる! 失礼ですが、あなたのおっしゃることを、そういう風にとってもよろしいでしょうね。え?」
「そうですとも、生きて、飲んだり、食ったりするという誰しもの要求、それにあらゆる人の協力および利害関係の一致なしにはこの必要を満足させることができないという十二分な、科学的信念は、きたるべき時代の人類のよるべき根本原理となり、『生命の源泉』となるに、十分の力ある思想だと信じています」熱中したガーニャは大まじめになって言うのであった。
「飲んだり食ったりする必要は、ただ単に自己保存の感情であり……」
「しかし、はたしてその自己保存の感情というものは、そんなに小さいものでしょうか? 自己保存の感情は――人類のノルマルな法則じゃないですか……」
「あなたは誰にそんなことを聞かされました?」と不意にエヴゲニイが叫んだ。「法則――なるほどごもっともです。しかし、ノルマルだとはいっても、それは破壊の法則がノルマルなのと程度は同じものです。あるいは自己破壊の法則といってもいいです。はたして、自己保存ということにのみ、人類の全くノルマルな法則があるものでしょうか?」
「へえ!」とイッポリットはすばやくエヴゲニイのほうをふり向きながら叫んで、粗野な好奇心をいだいて相手を眺めまわした。ところが、エヴゲニイが笑っているのを見て、自分でも笑いだし、今度はまたわきに立っていたコォリャを突いて、何時になるかと尋ね、コォリャの銀時計を自分のほうへわざわざ引きよせさえもして、むさぼるように針を眺めていた。やがて、何もかも忘れ果ててしまったかのように、長々と長椅子に身をのばし、頭のうしろへ両手をあてながら、天井を眺めだした。三十秒ほどすると彼はまたまっすぐに起きなおって、極度に熱中しているレーベジェフのくだらぬおしゃべりに耳を傾けながら、テーブルに向かっていた。
「人をばかにしたずるい考えですね!」と、レーベジェフはエヴゲニイの逆説《パラドックス》を槍玉にあげた、「相手をそそのかすつもりで言いだした意見なんですよ、――でも、間違いのない意見ですね! つまり、あなたは世慣れた皮肉屋で、色事師なんですから(もっとも、そのほうの腕前がないわけじゃござんせんけど!)。御自分では、御自分のお考えが、どの程度に深味があって、正しいものだか、御存じない! そうでござんす! 自己保存の法則と自己破滅の法則は、人類にあっては、ひとしく力の強いものです! 悪魔というやつは神様と同じように、いつまで続くか、期限はわかりませんが、やはり人類を支配してるものです。あなた笑ってらっしゃるんですね? 悪魔をあなたは信じなさらんのですか? 悪魔を信じないのはフランス思想で、軽薄な思想ですよ。あなたは悪魔とは何者であるか、御存じなんですか? 悪魔の名はなんというか、御存じでしょうか? あんたがたは名前さえも御存じないくせに、その格好を、ヴォルテールの伝で嗤《わら》ってらっしゃる。蹄《ひづめ》だの、尻尾《しっぽ》だの、角だのと、みんなあんたたちが発明したものを。なにしろ悪魔ってやつは偉い、恐ろしい魂なんで、けっして、あんたがたが発明した蹄だの、角だのは持ってないんですからね。いや、こいつは今は別問題で!……」
「それが別問題だって、どうしてわかるんです」と、不意にイッポリットは叫んで、発作でも起こったかのように、からからと笑いだした。
「実に如才のない、婉曲《えんきょく》な御意見ですね!」とレーベジェフは持ち上げた。
「でも、やはりそれは別問題でござんして、今のわれわれの問題は、『生命《いのち》の根源』は、衰えはしなかったかということです、つまり、盛んになるにつれて、その……」
「鉄道がですか?」とコォリャは叫んだ。
「鉄道機関がじゃありませんよ、気短かな若い衆の世間全体の傾向が激しくなるにつれてっていうんです。鉄道なんかっていうものは、いわば、この傾向に対して、絵図になり、芸術的表現になるだけのものです、誰も彼も、人類の幸福とやらのために、せかせかと、喧々囂々《けんけんごうごう》、あわてふためいているのです!『人類はあまりにも騒がしく、あまりにもせちがらくなってきた。精神的な平和というものはほとんどなくなってしまった』と、一人の隠遁《いんとん》している思想家が嘆いている。すると、『そうかもしれない。しかし、餓えた人類にパンを運ぶ荷車の輾《きし》りは、おそらくは精神的平和よりはましだろう』と、もう一人のいつもあちこち歩き回っている思想家が、得意然として答えて、偉そうな顔をして、その人のところを立ち去ってしまうというような世の中です。それにしても、わたしは、――けちな野郎ですけれど、人類にパンを運ぶ荷車をいいとは思いません! すなわち、行為に対する道徳的な根拠というものをもたずに、全人類にパンを運ぶ荷車は、パンを運んでもらう一部の者の快楽のために、平然として大部分の人類をそっちのけにしかねないからです。それはすでに前例もあったことです」
「荷車が平然としてそっちのけにしかねないっていうんですか!」と誰かが合いの手を入れた。
「すでに前例もあったことです」と、そんな質問には注意を払わずに、レーベジェフはくり返した、「人類の友、マルサス〔イギリスの経済学者〕の例もあります。しかし、道徳的根拠がぐらついている人類の友は、人類を食う者です。その虚栄心に至っては、言うがものはありません。こういったような人類の友というやつは数えきれないほどでありますが、まあ、そのうちの誰か一人の虚栄心をきめつけてごらんなさい。そしたら、やっこさん、すぐに、けちな復讐心をおこして、四隅から、この世界に火をつける気になるでしょうからね。もっとも、これは、われわれだって一人のこらず、みんなそのとおりで、本当のところを言うと、誰よりも、けちなレーベジェフの野郎もそうなんでしてね。なんせ、私ときたら、たいてい、まっ先に薪を運んで来て、自分では遠いところへ逃げてしまいますからね。いや、これもやはり別の問題でして!」
「それじゃ、いったい、何が本筋なんですか?」
「うんざりしちゃった!」
「問題は何百年の昔から伝わってる次のような逸話《アネクドート》のことです。わたしはぜひとも、何百年も昔の逸話《アネクドート》をお話ししなければなりませんので。現代の、わが祖国においてですね……皆さんも、祖国は愛していらっしゃることと存じますが、わたしと同様に、というのは、ね、皆さん、わたしは、わたしで祖国のためには、あらん限りの血をさえも流す覚悟で……」
「それから! それから!」
「いま、できる限りの統計と記憶に基づいて、申しますると、わが祖国においては、西部ヨーロッパにおけると同様に、全国的な恐るべき饑饉は、このごろ一世紀の間に四たび、言い換えますると、二十五年に一度くらいしかやってはまいりません。あえて正確な数字であるとは申しませんけども、比較的に、いたってまれであります」
「何と比較して?」
「十二世紀およびその前後と比較してです。と申しますのは、当時は、文学者たちの書いた説によりますと、全国的な饑饉は二年に一度、少なくとも三年に一度は、わが国にやって来たそうですからね。ですから、食べ物がなくなって、人間が人間の肉を食べるようなことにまでも及んだそうです。もっとも、お互いに秘密は守っていたのですが。さて、こんなひどいことをした一人が寄る年波につれて、別に人から強いられたわけでもないのに、自分から白状をしたのです。人を殺して、ごくごく内緒に一人で食べてしまったといって。長い、貧しい一生涯の間に、坊さんを六十人と、民家の赤ん坊を若干と――実はこれは六人ですがね、たったそれだけです、つまり、坊さんの数にくらべて。ただし、普通の世間の大人には、そんなことを目当てにして接近したことはなかったそうです」
「そんなことがあってたまるもんか!」と、議長たる将軍みずから、ほとんど憤慨に堪えないというような声でどなりつけた、「わしは、ねえ皆さん、よくこの男と議論をしたり、喧嘩をしたりしますが、いつも似たり寄ったりの問題です。ところが、この男はしょっちゅう耳が痛くなるような、ちょっとももっともらしいところのない、こんなばか話を持ち出すんでしてね」
「将軍! 御自分のカルス包囲の話をごらんなさい。ときに、断言しますがね、皆さん、今のわたしの逸話《アネクドート》は嘘もかくしもない実話なんです。ここであえて御注意申し上げますが、ほとんどすべての現実というものは、一定不変の法則を持っているとは申せ、ほとんど常に本当らしくもなく、もっともらしくもないものです。そうして、現実的であればあるだけ、どうかすると、いよいよもっともらしくなくなるものです」
「それはそうと、はたして六十人の坊さんを食べられるものかしら?」と、あたりの人たちが笑いだした。
「もとより、一どきに食べてしまったわけじゃありませんよ。おおかた、十五年か、二十年か間のことでしょうよ、それはわかりきった自然のことで、……」
「自然のことって?」
「自然のことですよ!」と、つっけんどんに、衒学的《ペダンチック》な執拗さをもって、レーベジェフは言い放った。
「それに、なにしろ、カトリックの坊さんは性分からいって、お調子者で、物好きですから、森だとか、どこか、人|気《け》のないような所へおびき出して、さきに申し上げたようなことをするのは、まことにたわいもないことでしてね。それにしても、食われた人間の数が、実に途方もないほど、非常な数に上っているということは、やはり打ち消すことはできませんよ」
「たぶん、それは本当でしょうよ、皆さん」と、だしぬけに公爵が言った。
この時まで、彼は黙々として、人々の議論を謹聴しながら、けっしてくちばしを容《い》れようとはしなかった。ときどき、みんながどっと笑いくずれるあとについて、腹の底からおかしそうに笑うばかりであった。見たところ、彼はあたりの者が陽気にはしゃいでいるのが、嬉しくてたまらないらしかった。それどころか、みんなが浴びるほどに酒を飲んでいるのさえも、嬉しいらしかった。ひょっとすると、彼は今晩じゅう、ひと言も口をきかずに過ごすつもりかもしれなかった。ところが、何かのはずみで、いきなり物を言う気になったらしかった。さて、言いだしたものの、その様子がひどくまじめだったので、一座の者は好奇心にかられて、ふっと彼のほうをふり向いた。
「僕はね皆さん、実際、そのころは、しょっちゅう饑饉があったと思うのです。それについては僕も聞いてはいました。もっとも歴史はあんまりよくは知らないんですけど……。でも、きっとそうだったろうと思います。スイスの山ん中へはいり込んだとき、僕は非常に驚いたんですが、山の斜面の切り立った岩の間へ建っていた封建時代の古めかしい城址《しろあと》がありましてね。そこの岩は垂直で、少なくとも半|露里《エルスター》くらいの高さはありました(つまり、小道づたいに上ると、五、六露里あるのです)。城ってどんなものかは、ご存じのとおりですが、なんのことはない、全体が石の山です。実に思いもよらない恐ろしい大工事です! そして、これはもちろん、そのころの貧乏人、すなわち、家来どもが建てたものばかりです。こういう人たちは、そればかりではなしに、いろんな租税を払ったり、坊さんの扶持をしてやらなければならなかったのです。そんなわけですから、手前どもの暮らしを立てたり、地面を耕したりなんか、とてもできようはずはありません。そのころはこういう連中はいたって少なかったのですが、おそらくは饑え死にしたことでしょう。そして、おおかた、文字どおりに、なんにも食べる物がなかったことでしょう。こういう人民どもが全滅をするとか、または、何か不慮の災難に見舞われるとか、そういうことにどうしてならなかったのか、また、どうして踏みとどまって持ちこたえてこられたのかと、時おり僕は考えたりしたものです。人食いというものがいて、それもおそらく、大ぜいいただろうと思いますが、このことでは、レーベジェフさんのおっしゃることにむろん間違いはありません。ただ、なんですね、僕は、どういうわけで坊さんを引き合いに出したのか、また、それによって何を言おうとしたのか、そいつだけはわかりません」
「きっと、十二世紀ごろには、坊さんしか食べられなかったんでしょうよ。肉のついてるのは坊さんだけだったんでしょうからね」とガーニャが言った。
「これはこれは、実にすばらしい、もっともな御意見で!」とレーベジェフが叫んだ、「だって、その男は平民どもには、さわりもしなかったんですからね。坊さんが六十人もいたのに、平民は一人もいなかったんですからね。それは恐ろしい思想、歴史的な思想、統計的な思想で、結局、こういう事実に基づいて、心得のある人が歴史というやつを建てなおしていくんです。つまり、坊さんたちのほうは、ほかの当時の人類全部よりも、少なくとも、六十倍も仕合わせで、暮らしもいたって気楽だったということが数字的に、正確にわかってくるからです。それに、おおかた、ほかの人類全部よりも、少なくとも六十倍も肉づきがよかったでしょうし……」
「そいつは大げさだ、大げさだ、レーベジェフさん」と、周囲の人たちが声を立てて笑いだした。
「歴史的な思想ということは賛成ですが、君の話は結局どこへ落ち着くんですか?」と公爵は相変わらず質問を続けた(彼の話しぶりは大まじめで、一同の笑い者になっているレーベジェフをからかったりあざけったりするような様子は少しもなかった。そのために、かえって彼の調子は、一座の者の調子から見て、はからずも滑稽なものになった。もう少しのところで、彼らは今度は公爵をあざけるところであった。しかも、彼はそんなことにはちょっとも気がつかなかった)。
「はたして、あなたはおわかりにならないんですか? 公爵、この人は気ちがいなんですよ」エヴゲニイは公爵のほうへかがみこんだ、「僕はついさっき、ここで聞かされたんですけれど、この人は弁護士気ちがいで弁論に夢中になって、試験を受ける気でいるんですって、すばらしい|もじり《パロディ》が出て来るのを僕は待ってるところなんです」
「わたしは大結論に至らんとしているところです」と、そのうちにレーベジェフがどなりだした。
「しかしながら、まずもって最初に、罪人の心理的また法律的状態をつまびらかにいたしましょう。まず、われわれの見るところでは、犯人、すなわち、いわゆる、わたしの依頼人が、かの猟奇的な所業を続けていますあいだに、ほかの食料を発見することが全く不可能なるにもかかわらず、幾たびか、悔悟の念を表わし、僧侶階級を避けようとした事実であります。これは、種々の事実に徴して、歴然たるものがあります。彼は、とにもかくにも、五人、ないし、六人の赤ん坊を食べたとは述べておりますが、その数は、比較的些細なものであります。が、その代わり、別な点から見ますると、重大なる意味を有するものであります。明らかに、恐るべき良心の苛責《かしゃく》に悩まされて(すなわち、わたしの依頼人は宗教心の篤《あつ》い、良心的な人だからでありまして、これはわたしが証明いたしまする)、そこで、できるだけ自己の罪障を軽くせんがために、試験として、坊主の肉に代うるに平民の肉をもってしたものであります。単に試験としてやったということは、これまた疑うまでもないことです。すなわち、ただ単に食道楽のうえでの変化を求めたものといたしますると、六なる数字はあまりにも些細すぎるのであります。どういうわけで、たった六人きりで三十人にしなかったか?(わたしなら半分にしますね。つまり、両方半分ずつに)しかし、これがただ単に冒涜罪《ぼうとくざい》や、教会に対する侮辱が恐ろしくって、やけになっての試みであったとすれば、六という数字は実によくわかってくるのであります。つまり、良心の苛責を満足させるための試みならば、六という数字は全く十分すぎるのであります。なにしろ、こういう試みがうまく成功するはずはないんでしてね。まず第一に、これはわたしの考えですけれども、赤ん坊はあまりにも小さくて、なんぼうにも、大きくないものですから、したがって、ある一定の時期には、平民の赤ん坊の数は、坊主よりも二倍、ないしは三倍もよけいに必要だったはずであります。そういうわけですから、罪が一方から見て小さくなるとすると、結局、他の一方から見た場合は大きくなるはずです。これは、質の点からではなく、量の点から。こう論じてきますると、ねえ、皆さん、わたしはもちろん、十二世紀の犯人の気持を大目に見ることになります。十九世紀の人間たるわたしの場合であれば、おそらく、違った理屈もつけられるでしょう、失礼な言い分ですけれど、そういうわけですから、ねえ、皆さん、なにも私をそんなにばかにすることはないでしょう。それに、将軍、あなたなんかもう、てんで、その柄じゃありませんよ。第二に、赤ん坊は、わたし一個の考えでは、滋養になるものじゃありません。きっと、あまり甘くって、しつこすぎるぐらいでしょうから、こちらの要求を満たしもしないで、ただ、後に良心の苛責を残すだけでしょう。ところで、結論です、今度は結論ですよ、皆さん、この結論には、その当時および現代における最も大きな一つの問題の解答が含まれているのです――。犯人はついに坊さんのところへ行って自首し、お上《かみ》の手にかかったのです。当時のことですから、いかなる苦痛、いかなる拷問《ごうもん》が彼を待ち設けていたか、――いかなる歯車、いかなる烈火が、ということが問題です。いったい、誰が彼をして、自首するに至らしめたか? 何ゆえに彼はあっさりと六十の数にふみとどまって、死ぬまで秘密を守らなかったのか? 何ゆえにあっさりと教会をすてて、隠者として悔悟の生活を送らなかったか? さらにまた、何ゆえに彼自身も僧門にはいらなかったのか? すなわち、ここにこそ、解答があるのです! つまり、烈火よりも強く、二十年にわたる習慣にも劣らないほど力強いあるものがあったのです! つまり、ありとあらゆる不幸よりも、凶作よりも、拷問よりも、ペストよりも、天刑病よりも、あらゆる苦難よりもさらに強い思想があったのです! 人間の心を拘束し、嚮導《きょうどう》し、生命《いのち》の根源を豊富ならしむるこの思想がなかったら、人類は、この苦難を、とてもこの苦難を耐え忍ぶことができなかったはずです。もし、苦難を挙げてもこの力に比すべき何ものかが、今の悪徳と鉄道の時代にあるならば、見せていただきたいものです、……言い換えると、汽船と鉄道の時代と言わなければならないのでしょうが、わたしは今の悪徳と鉄道の時代にと、こう言うのです。わたしは酔っ払ってはいますが、間違ったことは言いませんからね! せめてあの時代の半分でも、現在の人類を拘束する力があったら、見せてもらいたいものです。この『星』、人間を迷わせるこの網の下《もと》にも、生命《いのち》の根源は衰えもしなかったし、濁りもしなかったなんかと、ずうずうしいことをおっしゃるもんじゃありません。また、皆さんの幸福なこと、財産があること、饑饉が少ないとか、交通機関が敏速だとか、そんなことでわたしを脅やかすもんじゃありません! 財産が多くなっても、力は減っている。今や人を拘束する思想もなくなっている。あらゆるものが軟弱になり、あらゆるものがぐにゃぐにゃになってしまったのです。誰も彼もがぐにゃぐにゃになってしまった! みんな、みんな、みんなわれわれはぐにゃぐにゃになってしまったのです!……しかしもうたくさんだ、これも今は別問題で、当面の問題はこういうことです、こちらへ持ってまいってもよろしゅうございましょうかしら、公爵様、お客様がたのために用意をいたしましたおつまみ物のことなんでございますが?」
レーベジェフのたわごとを聞かされて、何人かの人は、ほとんど、むきになってまで憤慨していたが(ここで注意しておかなければならないが、酒壜の栓は絶え間なく抜かれていた)、ゆくりなくも演説の結論に、おつまみ物のことが出てくると、腹を立てていた連中は誰も彼もたちまちにしていい機嫌になった。彼自身も、かような結論を、弁護士の『巧妙なる弁護士的事態転換』と名づけていた。再び陽気な笑い声がおこって、お客たちは活気づいてきた。手足を伸ばし、露台をぶらつこうとして、一同の者はテーブルを離れた。ただケルレルだけはレーベジェフの演説に相変わらず不満で、極度に興奮していた。
「文明を攻撃して、十二世紀ごろの信心気ちがいを今ごろかつぎ出して、ちょっとも純情なところもなく、気取った顔をしてやがる。いったいあいつは自分で、何をしてこの家をもうけたんだろう、お伺いしたいもんですね」と、彼は一人一人呼びとめて、聞こえよがしに言った。
「わしは黙示録の本当の解説者に会いました」とイヴォルギン将軍が一方の隅で、別な聞き手を相手に話していたがそのうちにプチーツィンもつかまって、くどくどと話をしかけられていた、「それは亡くなったグリゴリイ・セミョーノヴィッチ・ブルミストロフという人なんですが、いってみれば、この人にかかると、気がふらふらになるくらいでしたよ。第一に、眼鏡をかけて、黒い革の装幀の古めかしい大きな本をあけてましてね。おまけに、白い鬚《ひげ》を生やして、奉納のしるしに贈られたメダルを二つさげて。厳粛に話を始めると、将軍たちでも頭を下げたものですが、御婦人がたになると、よく卒倒したものです。さて、――ところがですね、この人の話の落ちはおつまみ物だった。全くもって話のほかです!」
プチーツィンは将軍の話を聞きながら、ほほえみをうかべて、帽子に手をかけてこの場をのがれたそうな風をしていた。しかし、思いきれなかったものか、行くつもりだったのをすっかり忘れていたものか、はっきりしなかった。ガーニャはみんなが席を離れる前に、ふっつり酒をよしてしまって、コップをわきのほうへ押しのけてしまった。なんとなく憂鬱なものが彼の顔をかすめて行った。ほかの人たちが席を立ったとき、彼はラゴージンのほうへ近づいて、並んで腰をおろした。見たところ、二人はかなりに親しい友だちの間柄らしかった。ラゴージンも初めのうちは、やはり幾たびか、こっそりと出て行くつもりになっていたらしいが、今はうなだれて、身じろぎもせずに坐っていた。やはり、この場を去って行こうと考えていたことを忘れ果てているらしかった。彼は今夜は、最初からただ一滴の酒も飲まずに、深く物思いに沈んでいた。ただ時おり眼を上げて、一同の者を一人一人眺めるだけであった。今になってみると、彼は何かしら、自分にとって非常な重大なことを待ちわびていて、それまではけっして帰るまいと覚悟をきめているらしくも、想像された。
公爵はわずかに二杯か三杯、飲み乾しただけであったが、ただもう陽気になっていた。テーブルから立ち上がりしなに、エヴゲニイと視線が合ったので、彼は二人の間に約束されている相談のことを思い出して、愛想のよいほほえみをうかべた。すると、エヴゲニイは軽くうなずいて、いきなりイッポリットを指さして、じっとその顔を見つめるのであった。イッポリットは長椅子の上に長々と身を横たえて、眠っていた。
「なんだって、この小僧はあなたんとこへはいりこんだんです、ねえ、公爵!」と、彼はだしぬけに、公爵がびっくりするほどの鬱憤と、悪意をさえあらわに見せながら、こう言った、「賭けをしてもいいけども、この小僧は腹の中ではよろしくないことを考えてんですよ!」
「僕の気づいたところでは」と公爵は言った、「少なくとも、見受けたとこではこの人は今日は、非常にあなたの興味をひいているように思いますが。エヴゲニイさん、そうじゃありませんか?」
「それに、こう付け加えてください、『僕自身の今の状態では、自分で考えるべきことはあるはずだ』ってね。たしかに、自分でもわれながら驚いているんですよ、今夜は最初からこのいやな面《つら》つきを見ずにおられないもんだから!」
「この人の顔はきれいですよ……」
「ほら、ごらんなさい!」エヴゲニイは公爵の手を引きながら、叫んだ、「ほら!……」
公爵はまたもやびっくりして、エヴゲニイの顔をじろじろと眺めるのであった。
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五
レーベジェフの弁論が終わろうとしているころ、長椅子の上でにわかに眠り込んだイッポリットは、今度は確かに脇腹を突かれたかのように、いきなり眼を覚まして、身震いをして、起き上がり、あたりを見まわしたかと思うと、青くなった。一種の驚愕の念にさえもうたれて、あたりを眺めていたが、やがて、いっさいのことを思いおこしたとき、彼の顔にはほとんど恐怖ともいうべき表情が現われた。
「どうしたんです、もう散会ですか? おしまいになったんですか? 何もかもおしまいに? 太陽は出ましたか?」と彼は公爵の手をつかまえながら、不安そうに尋ねた、「何時《なんじ》です? どうぞ教えてください、一時ですか? 僕、寝過ごしちゃった。しばらく寝てましたか?」ほとんど絶望したような様子をして、彼は付け加えたが、少なくとも、彼の運命の別れ目となるべきほどの時を寝過ごしてしまったかのようであった。
「君は七分か八分、寝ただけですよ」とエヴゲニイが答えた。
イッポリットはむさぼるように彼を見つめて、しばらくは物思いにふけっていた。
「ああ……たった、それだけ! してみると、僕は……」
こう言って、彼は非常な重荷でも放り出すかのように、深い深い息を心ゆくまでつくのであった。ついに彼は思い当たった。何ひとつ『おしまい』にはなっていないし、まだ夜も明けないし、お客たちがテーブルを立ったのはおつまみ物の御馳走になるためだということ、そしてただレーベジェフのおしゃべりだけが済んだところなのだと、こう考えついて、彼はほほえんだ。結核性の潮紅が、二つの鮮かな斑点のように彼の頬にあらわれてきた。
「じゃ、あなたは僕が寝ている間に、一分二分の勘定をしてらっしゃったんですね、エヴゲニイさん」と彼はあざけるようにあげ足を取った、「あなたは一晩じゅう、僕から眼を放しませんでしたね、僕はちゃんと見てましたよ……ああ! ラゴージン! 僕、たった今あの人を夢に見ました」苦い顔をして、彼はテーブルに向かって坐っているラゴージンを顎《あご》でしゃくりながら公爵にささやいた、「ああ、そうだ」と彼はまたもや、たちまちに話をそらしてしまって、「弁士はいったい、どこにいます、レーベジェフはどこに? レーベジェフはしてみると、済ましたんですね。何の話をしてたんです? 公爵、本当でしょうか、あなたがいつぞや、世界を救うものはただ『美』あるのみだとおっしゃったのは? 皆さん」と彼は一同に向かって叫びだした、「公爵は美なるものが世界を救うと主張してらっしゃるんです! けども、僕は断言しますけれど、公爵はそんな遊戯的な思想をもっているのは、恋をしているからなんです。皆さん、公爵は恋をしてるんですよ。さっき、公爵がここへはいって来られた時、僕はてっきりそうだと思いました。赤くなんかならないでください、ね、公爵、あなたが可哀そうになってきますから。いったいどんな美が世界を救うんです? コォリャが僕に言ったことなんですが、……あなたは熱心なキリスト教徒なんですってね? コォリャの話では、あなたは御自分でキリスト教徒だとおっしゃってるそうですね」
公爵はじっと気をつけて、彼を見つめていたが、返答はしなかった。
「返事してくださらないんですか? あなたは、僕があなたを非常に好いているものと思ってらっしゃるでしょうね?」不意にイッポリットは、取って付けたように言い添えた。
「いいえ、そうは思いません。君が僕を好いていらっしゃらないことは僕も承知です」
「え! 昨日のことがあってもですか? 昨日、僕はあなたに対して誠実だったじゃありませんか?」
「昨日も僕はやはり承知はしていました、好かれていないってことは」
「というのは、つまり、僕があなたを嫉《そね》んでるからでしょうか? 嫉んで? いつもあなたはそう思ってらしったんです、今でもそのつもりで、けども、……いったい、なんだって僕はこんなことをあなたに言うんでしょうね? 僕は少しシャンパンが飲みたい。ケルレル君、注《つ》いでください」
「もう君は飲んじゃいけません、イッポリット君、僕は上げませんよ……」
と、公爵は彼の傍から杯を押しのけた。
「いや、全く……」と、彼は物思いにふけるかのようにして、すぐに同意した。「きっと、いろんなことを言うだろうな……しかし、あいつらがなんて言ったって、かまいやしないんだ! そうじゃないかしら、そうじゃないかしら? あとでなんとでも言わしておきましょう、そうでしょう、ねえ、公爵? それに、|あと《ヽヽ》でどんなことになろうと、われわれにとって、そんなことは問題じゃないんですからね! もっとも、僕は夢うつつなんです。僕はなんて恐ろしい夢を見たんだろう、たったいま思い出しました。……僕はあなたにこんな夢を見せたくはありません、公爵、実際に僕はあなたを好いていないかもしれませんけれど。それにしても、好いていないくらいなら、その人に何も悪いことを祈る必要はありませんね、そうじゃありませんか? いや、なんだって僕はこんなことを聞いてばかりいるのかしら。相変わらずいろんなことを聞いてばかりいて! さ、手をお出しなさい、僕はしっかり握ってあげましょう、ほら、こんな風に……けどもあなたはよくまあ僕に手を出してくれましたね? してみると、僕がまごころから握りしめるんだくらいは、よく御存じなんですね? ……おそらく、僕はもう酒は飲まないでしょう。何時《なんじ》でしょう? もっとも、聞かなくってもいいです、僕は何時だか知ってますから。時間が来た! 今こそ、ちょうどいいときだ! なんですね、あれは? あちらの隅で、おつまみ物を並べてるんですか。してみると、このテーブルは空いてるんですね? うまい、うまい! 諸君、僕は、……と言ってもこの諸君は聞いちゃくれない……。公爵、僕は文章を一つ読もうと思っています。おつまみ物はむろん、ずっと興味があるはずですが、しかし……」
と言いながら、いきなり、全く思いがけなく、彼は上衣の脇のポケットから、大きな赤い封印のしてある大型の紙包みを取り出した。彼はそれを自分の前のテーブルの上に置いた。
この思いがけないしぐさは、これに対して心構えをしていない、というよりもむしろ、別なものに対して心構えをしていたといったほうがよい一座の人々に感銘を与えた。エヴゲニイは驚いて椅子の上で飛び上がったほどであった。ガーニャは大急ぎでテーブルのほうへ寄って来た。ラゴージンもまた同じようであったが、いかにも問題の真相を悟っているかのように、一種の性急な鬱憤を含んでいるらしかった。すぐそばに居合わしたレーベジェフは、物好きそうな眼を見はって近づいて来て、じっと包みを眺めていた。彼は問題の真相をさぐろうとしていた。
「何ですかそれは?」と公爵は心配しながら尋ねた。
「太陽がちょっとでも顔を見せたら、僕は床にはいります。公爵、僕が言ったことは間違いありませんから、よく見てらっしゃい!」とイッポリットは叫んだ。「だけど……だけど……あなたたちは僕にこの包みの封が切れないと思ってらっしゃるんですか?」挑《いど》みかかるような眼をして、一同を見まわしながら、特に誰に向かうともなしに、彼は付け足した。
公爵は、彼がからだじゅうをぶるぶると震わしているのに気がついた。
「われわれは誰もそんなことを考えていませんよ」と彼は一同に代わって、答えた、「それに誰かがそんな考えをもっているなんかって、どうしてそんな気になるんです? それに、物を読んで聞かせるなんて、ずいぶん妙な思いつきじゃありませんか? それはいったい、何なんですか、イッポリット君?」
「いったい、何です? この人はまた、どうかしたんですか?」と、あたりの人たちが尋ねた。
一同はイッポリットのほうへ寄って来た。なかにはまだおつまみ物を頬張っている者もあった。赤い封印を捺《お》した紙包みは、まるで磁石のように人々を引き寄せた。
「これは僕が昨日、自分で書いたものです、ちょうど、あなたのところへ行って暮らしますって、お約束をした直後でした。僕は昨日一日、それに夜どおし書いて、今朝になって書き終えたのです。ゆうべ、夜明けごろになって、僕は夢を見ました……」
「明日にしたほうがいいじゃありませんか?」と公爵は恐る恐るさえぎった。
「明日になれば、『この後《のち》、時は延ぶることなし』ですよ!」イッポリットはヒステリックな薄ら笑いを浮かべた。「もっとも、心配しないでください、四十分――まあ、一時間もすれば、すっかり読んでしまいます……それにごらんなさい。みんなが興味を寄せてるじゃありませんか。みんなこっちへやって来て、みんなこの封を見ています。実際、もしも僕がこの文章を包まなかったら、なんの効果も与えなかったでしょうよ! は、は! これがすなわち、神秘というものですね! 封を解きましょうかどうしましょう、諸君?」と彼は奇妙な笑い方をして、眼を輝かしながら叫んだ、「秘密! 秘密! ところで、公爵、誰が『この後《のち》、時は延ぶることなし』〔黙示録第十章第六節に出る〕と宣言したか、覚えてらっしゃいますか? それは黙示録の中の巨《おお》きな、力強い天使が宣言したのですよ」
「読まないほうがましです!」と、だしぬけにエヴゲニイが叫んだ。しかも、その様子は、彼にも思いがけなかったほど不安の色を浮かべていたので、多くの人には奇妙な気がするのであった。
「読むんじゃありません!」と、公爵も紙包みに手をのせながら叫んだ。
「読まなくってもいい。今は食べ物が出てるんだし」と、誰かが言った。
「文章ですって? 雑誌にでも載せるんですか?」と、ほかの者が聞いた。
「きっと、おもしろくないものでしょう?」と、次の者が付け加えた。
「いったいどんなものです?」と、その他の者が尋ねた。
しかし、公爵の驚いた身ぶりには、まるで当のイッポリットさえも驚かされたらしかった。
「それでは……読まないんですね?」青ざめた唇にゆがんだ微笑を浮かべて、彼は畏れをなしているかのように公爵に向かってささやいた、「読まないんですね?」以前の、まるで一同に食ってかかるようなそぶりをして、またもや一同の者に言いがかりをつけるかのように、眼や顔を、順々に見渡しながら、彼はつぶやくのであった、「あなたは……こわがってるんですか?」と、彼はまたもや公爵のほうをふり向いた。
「何を?」相手はいよいよ開きなおって、問い返した。
「どなたか、銀貨をお持ちのかたはありませんか!」イッポリットは誰かに突かれたように、いきなり椅子から飛び上がった。「どんなのでも鋳貨《ぜに》ならいいですけど」
「じゃ、これ!」と、さっそくレーベジェフが差し出した。病気のイッポリットは気がちがったのだという考えが、ちらと彼の胸にひらめいたのである。
「ヴェーラさん!」とイッポリットはあわただしく呼んで「これを取ってテーブルの上へ投げてください。鷲《わし》が出るか格子が出るか、鷲だったら――読むんです!」
ヴェーラはびっくりしたように銀貨とイッポリット、それから父親の顔を見くらべたが、やがていかにも無器用そうに、まるで自分はもう銀貨を見てはならないのだと思い込んでいるかのように、頭を上のほうへふり向けながら、銀貨をテーブルの上に投げつけた。出たのは鷲であった。
「読むんだ!」とイッポリットは、あたかも運命の判断に圧《お》しひしがれたようにつぶやいた。彼は、かりに死刑の宣告を読み上げられたとしても、これ以上にはなるまいと思われるほど青ざめた、「だが、それにしても」と、ほんのちょっとの間、口をつぐんでから彼は不意に身震いをして、「いったいこれは何なのか? はたして僕はいま運命の籤《くじ》を引いたのかしら?」彼は相変わらず、おしつけがましい無遠慮な態度で一座の者を見渡した、「しかし、これは驚くべき心理学的な項目じゃありませんか!」と彼は心から驚異の念にうたれて、公爵のほうを向きながら、不意に叫ぶのであった、「これは……これは、実に不可思議な項目です、公爵!」やっとわれにかえったらしく、彼は活気づいて、念を押した、「これを書き留めておいたらいいでしょう、公爵、そして、覚えてらしったらいいでしょう。だって、あなたは死刑に関する材料を収集してらっしゃるんでしょう、……そんな噂を聞きましたよ、僕は、は、は! おお! なんてわけのわからんばかげたことを僕は言ってるんだろう!」彼は長椅子に腰をおろし、テーブルに両肘をついて自分の頭をかかえた、「かえって恥ずべきことではないのか!……しかし、恥ずかしいなんかっていうことは、僕には問題じゃないんだ」と、彼はほとんど同時に頭を上げて、「諸君! 諸君、僕はこの包みをあけます」と、たちまちにして決心がついたらしく、宣言した、「僕は……僕は、しかし、無理に聞いてくださいとは言いません!……」
興奮のために震える手で、彼は包みの封を切って、細かい字のいっぱいに書いてある何枚かの書簡箋を中から取り出し、自分の前に置いて整理し始めた。
「いったい、これはなんでしょう! いったい、これはどんなものなんでしょう? 何を読むんでしょう?」とある者は憂鬱そうにつぶやいたが、その他の人たちは黙っていた。が、誰も彼も席に着いて、好奇心をいだきながら眺めていた。おそらく、彼らは、実際に何かしら異常なものを待ちうけていたのであろう。ヴェーラは父の椅子にしがみついて、驚愕のあまり、ほとんど泣きださんばかりであった。コォリャもまたほとんどこれと同様に驚愕の念に満たされていた。レーベジェフはもう席に着いていたが、急に立ち上がって、蝋燭《ろうそく》を取り、いっそう読みよくしてやるために、イッポリットの傍へそれを近づけてやった。
「諸君、これが……どんなものだかということは、今すぐにおわかりになるはずです」イッポリットは何かのために、こう言い添えて、いきなり朗読を始めた、『必要なる告白!』題銘 Apres moi le deluge(わが死後はよしや洪水あるとも)ふむ、畜生」まるで火傷でもしたようにどなり立てた、「よくまあ、本気でこんなばからしい題銘がつけられたもんだ!……さあ、聞いてください、諸君!……、はっきりお断わりしておきますが、結局のところ、これはみんな、おそろしいナンセンスになるかもしれません! しかし、いくらか僕自身の思想があることだけは……もし、皆さんがここに何か秘密なこととか、あるいは……禁止されていることがあるようにお考えでしたら……つまり、ひと口に言うと……」
「前置きをぬきにして、読んでもらいたいんです」と、ガーニャがさえぎった。
「気取ってやがる!」誰かが付け足した。
「文句が多いぜ!」と、今まで黙りこんでいたラゴージンが口を出した。
イッポリットはふっとそのほうを見たが、二人の視線がぴったりと合ったとき、ラゴージンは苦々しそうに、気むずかしそうに、作り笑いをして、おもむろに奇怪なことばを発した。
「こういうことはそんな風に細工しちゃだめだよ、若い衆、そんなじゃだめだ……」
ラゴージンが何を言おうとしたのかは、もとより誰にもわからなかった。しかし、このことばは一同の者にかなり奇妙な印象を与えた。ある一つの共通した考えが、誰もの心をちらりとかすめたのであった。イッポリットに対しても、このことばは恐るべき印象を与えた。彼はひどく震えだして、そのために公爵は手をのばしてささえようとしたほどであった。もしも、急に声がつまったりしなかったら、必ず声を立てたことであろう。まる一分間というもの、彼は物も言うことができずに、重苦しげに息をつきながら、ずっとラゴージンを見つめていた。ついに彼は息を切らしながら、必死になって言いだした。
「それじゃ、あれはあんただったんですか……あんた……あんただったん?」
「何がさ? 何が僕だったのさ」と、ラゴージンは腑《ふ》に落ちないで、答えた。しかし、イッポリットはかっとなって、ほとんど狂暴に近い調子で、あげ足を取った相手に向かって、辛辣《しんらつ》に、力をこめて叫んだ。
「あんたは先週、僕が午前中にあんたのところへ行ったあの日の晩、一時過ぎに僕んところにいたはずです、あんたは! 白状しなさい、あんたでしょう?」
「先週の晩だって? けども、おまえは本当に気がふれたんじゃないのかえ、若い衆?」
『若い衆』は、何かと思いめぐらしているらしく、人さし指を額にあてながら、またもや一分間ほど黙っていた。しかし、今なお恐怖のためにゆがんでいる青ざめたほほえみの中に、不意に何かしら、狡猾らしい、勝ち誇っているらしくさえも見えるものが、ちらとひらめいた。
「あれはあんたでしたよ!」ついに彼はほとんどささやくかのように、しかも非常な確信をもってくり返した。「あんたはあのとき、僕のところへ来て、窓ぎわの椅子に、一時間も、もっと、黙って坐っていたのです。夜中の十二時過ぎから一時ごろにかけて。それから二時過ぎに、立って出て行ったのです……あれはあんただった。あんただった! 何のために僕をおどかしたのやら、何のために僕を苦しめにやって来たのやら、――呑み込めないけれど、しかし、あれはあんただったのです!」
彼の眸《ひとみ》の中には、今もなお恐怖の念に震えが止まらなかったが、不意に果てしのない憎悪の色がひらめいた。
「このことは、ねえ、皆さん、今にすっかりおわかりになります、僕は……僕は……さあ、聞いてください……」
彼は再び、恐ろしくあわてながら、原稿をつかんだ。原稿はばらばらに手から滑り落ちた。彼はそれを拾い合わせるのに骨を折った。紙は彼のわななく手の中に、震えていた。長いこと彼は気を落ち着けることができなかった。
「気がちがったか、それともうわごとを言ってるかだ!」と、ラゴージンは聞きとれないほどの声でつぶやいた。
ついに朗読が始まった。初めのうち五分ばかり、この思いがけない文章《ヽヽ》の筆者はなお相変わらず息を切らして、しどろもどろに読んでいた、そのうちに声はしっかりして、文章の意味を遺憾なく表わすようになった。ただ時として、かなりに強い咳《せき》にさえぎられるだけであった。文章の中途ごろから、ひどく声がしわがれてきた。朗読の進むにつれて、いよいよはなはだしく彼の心にあふれてくるなみなみならぬ感激は、聞く人に与える病的な印象とともに、終りごろになると、頂点に達していた。この『文章』の全部は次のようなものであった。
わが必要欠くべからざる告白
A pres moi le deluge !
「昨日の朝、私のところへ公爵がやって来た。いろんな話のついでに、自分の別荘へ引っ越して来るようにとの勧めがあった。きっと彼がこのことを主張するだろうとは、前々からわかっていたし、それにまた、例のようにま正面から、『別荘の人たちや木立の間で死ぬほうが気楽だろうから』と、いきなり切り出すだろうとはよくよく信じきっていた。ところが、今日という今日は、|死ぬほう《ヽヽヽヽ》がとは言わずに、『暮らすほうが気楽だろう』と言った。それにしても、私のような境涯にあるものにとっては、いずれにしたところで大差はないのである。彼がしょっちゅう『木立、木立』と言っているのは、はたしてどんな意味を含ませてのことか、またなんだってそんなに『木立』を私に押しつけるのかと尋ねてみたら、私自身が、あの晩に、今生の思い出にぜひとも木立が見たいとて、わざわざパヴロフスクへ来たのだと、そんなことを言ったとかいう話を聞かされて、私は少なからず驚いた。しかしながら、木立のかげに死んでゆくのも、窓の外の煉瓦《れんが》を見ながら死んでゆくのも結局同じことではないのかしら、余命わずかに二週間という今となっては、何もそんなに固苦しいことをいうがものはないと、公爵に言ってやった。そしたら、すぐに賛成はしたけれど、彼の考えによると、木立の青々しい色合いと、澄みきった空気は、必ず私の身体に一種の生理的変化をもたらして、私の興奮も、私の夢も変わってきて、おそらくは緩和されるだろうと、そういう話であった。私は笑いながら、あなたの話はまるで物質論者《マテリアリスト》の話のようだと、また指摘してやった。すると、彼は例のほほえみを浮かべて、自分はいつも物質論者《マテリアリスト》だと答えた。けっして嘘をつく人ではないから、こういうことばも何かの意味を含んでいることであろう。彼のほほえみぐあいがよかったから、私はいまさらながら、いっそう気をつけて彼の顔をじろじろと眺めてやった。私は今、彼を心から愛しているのやら、いないのやらわからない。今は、そんなことに世話をやいている余裕はないのである。これは気にとめておかなければならないが、五か月にわたる私の彼に対する憎しみは、この一か月の間に、すっかり和らいでいる。ことによったら、私がパヴロフスクへ行ったのは、主として彼に会うためであったかもしれない。しかし、……私はあの時に、なんだってこの部屋を見捨てて出て行ったのであろう? 死を宣言された者は、自分の運命に甘んじて、そこに踏みとどまっていなければならぬ。したがって、もしも今、私がかような確定的な決心をつけずに、むしろ、じっと最後の時の至るのを待とうと覚悟を決めていたならば、その時はむろん、どんなことがあってもこの部屋を見捨てて、パヴロフスクの彼のところへ『死にに』来いなどという、彼の申し出を聞き入れなかったはずなのだ。
「私はどうしても明日までに、この『告白』を全部仕上げなければならない。したがって、読み返したり訂正したりしている暇はあるまい。明日になって、公爵と、たぶんそこに立会ってくれるはずの二、三の人に読んで聞かせるとき、はじめて読み返すことになろう。ただ一つの虚言もなく、あくまでも絶対的な、厳粛な真理のみによって終始するはずであるから、これを私が読み返すそのときに、この真理が私自身にいかなる印象を与えるものか、私には今からそれが楽しみなのだ、それにしても、『絶対的な、厳粛な真理』などということばを、よくいたずらに私も書いたものだ。それでなくてさえも、余命わずかに二週間という今となっては、嘘などついたところでしかたがないのだ。というのは、今から二週間を生きたところでしかたがないからだ。このことこそ、私が唯一の真理を書いているという最もよい証明になる(NB、ここで、私はこの時、いや、このごろ、気が違っているのではあるまいか? ――という気持をおろそかにはできない。よくよくの肺結核患者が、どうかすると、一時的に発狂することがあるという話を私は断定的に人から聞かされている。これは明日になって、朗読の時に、聞く人たちに与える印象によって、よく吟味をしてみなければならぬ。この疑問は必ず、十分に的確に解決をつけなければならぬ。さもなくば、いかなることにも手出しすることができないのである)。
「私は今、なんだかひどくばかげたことを書いたような気がする。けれども、前に言ったように、訂正をしている余裕がないのである。それにまた、たとい五行目ごとに、自家撞着《じかどうちゃく》をやっていることに自分ながら気がつくようなことがあったとしても、私はこの原稿のただの一行たりとも、ことさらに訂正しないことをここに誓っておきたい。私はつまり、自家の思想の論理的傾向がはたして正鵠《せいこく》を得ているかどうかを、明日、はっきりと確かめたいのである。はたして自身の誤謬《ごびゅう》を認めるのであろうか、したがって、六か月の間、この部屋の中で、つくづく私が考えていたことは、何もかも正確であったろうか、それともただ単に、たわごとにすぎないものであったろうか。
「もしも、二か月前に私が、今のように全くこの部屋を見捨てて、マイエルの家の壁にも別れを告げることになっていたら、必ずや私は悲しい思いをしたに相違ない。ところが、今となっては全くなんの感じもないのである。それに、明日はこの部屋をも、あの壁をも、|永劫に《ヽヽヽ》見捨ててしまうのだ! したがって、わずか二週間のために物を惜しんだところでしかたがなく、または感覚といったようなものに身を任せたところでしかたがないのだという確固たる信念が、ついに私の天性を克服して、すでに今は私のいっさいの感情を支配しうるようになっている。ところで、これは本当なのか? 私の天性が今や全く克服されたというのは、これは本当のことなのか? もしも、人がいま私を詰問しだしたら、きっと私は悲鳴をあげるだろう、そして、わずかに二週間の命なのだから、いまさら悲鳴をあげたり、痛みを感じたりしたってしかたがない、……などとはけっして言わないはずである。
「はたして、わずか二週間の命で、私はもう生活の日がわずか二週間それ以上のことはない、――というのは本当だろうか? あの時、パヴロフスクで私は嘘を言った。Bは私には何も言わなかったし、一度だって私に会ったためしはないのだ。が、一週間ほど前のこと、私のところへ大学生のキスロロードフが連れられて来た、彼自身の信念によると、彼は物質論者《マテリアリスト》で、無神論者《アテイリスト》で、虚無論者《ニヒリスト》だという。だからこそ、ことさらに私はあの男を呼んだのだ。今度という今度は、おべっかをつかったり遠慮をしたりせずに、ざっくばらんに本当のことを言ってくれる人が欲しかったのだ。ところで、彼はそのとおりにしてくれたのだ。ただ単に快く、遠慮会釈がなかったばかりではなく、いかにも満足らしい顔をして、してくれたのだ(もっともこんなことは、自分の本当のつもりではよけいなことだ)。彼はだしぬけに、まっ正面から、私の余命が、せいぜい一か月だと言いだした。境遇がよければ、あるいはもっと長く生き延びるかもしれないが、ことによったら、それよりずっと早く行くかもしれないとそうも言った。彼の意見によると、私は急に、たとえば明日にでも死ぬかもしれないという。こんなことはよくあることだが、つい三日ばかり前にも、ある若い女で、私と同様、やはり肺病で、やはり同様の境遇にあったロームナの女が、市場へ食料品を買い出しに行こうとしたくをしているうちに、不意に気分が悪くなり、長椅子にどっかと倒れたままため息をついたと思ったら、とうとうあの世の人となった。これはみんなキスロロードフが、自分の無感覚と不注意とを気取るような風までして私に聞かしたことであった。彼は、まるで私に敬意を表するように、つまり、死ぬということなどをもちろん、なんだとも思っていない自分自身と同様に、私を目していっさいを否定する高等な人間だと考えているようなそぶりを見せながら話すのであった。結局、事実はとにもかくにも、はっきりとわかってきた。ただ一か月、けっして、それ以上ではないのだ! と。けっして彼の言ったことに間違いはないのだと、私は全く信じきっている。
「さきほど、公爵は、私が『悪い夢』を見るということを、いかなる子細があって、あれほどまでに見抜いてしまったのだろうか、ということが私をいたく驚かした。パブロフスクへ来れば、私の興奮も私の夢も変わってくるだろうと、彼は文字どおりそう言ったのであった。それにしてもいったいなんだって夢なんかということばを使ったのであろう? 彼は医者なのか、それとも事実において、なみなみならぬ知恵をもち、非常に多くのことを臆測することのできる人間なのだろうか(とはいえ、なんといっても彼が『白痴』であるということ、そこにはなんらの疑いをさしはさむ余地もないのである)。彼がたずねて来る直前に、私はまるで、ことさらめかしく、よい夢を一つ見た(もっとも、それは今日このごろ私が幾たびとなしに見る夢と類を同じゅうしているものであった)。私はいつしか眠り込んだ、――おそらく彼がたずねて来る一時間前のことであったと思う、――すると、夢の中で私はある部屋の中にいるのであった(しかも私の部屋ではなかった)。それは私の部屋よりも大きく高さも高く、道具の類もずっと上等の、明るい部屋であった。戸棚、箪笥《たんす》、長椅子、それに、緑色の、絹の、ふっくらした掛布団のかかっている大きな、広々とした私の寝台があるのであった。ところが、私はこの部屋の中に一つの恐るべき動物、一種の怪物を目にとめた。それは蠍《さそり》に類するものであったが、蠍とは違って、もっと汚らわしく、ずっとずっと恐ろしかった。おそらく、かような動物が自然界にいないこと、またそれがことさらに私の所へ現われたこと、その中に何かしら神秘ともいうべきものが潜んでいること、そういったようなことが、私に右のような気持を感じさせたのであろう。私はよくよくこの怪物を見きわめた。それは褐色をしていて殻のようなものにつつまれている爬虫類《はちゅうるい》で、長さは四ヴィルショーク〔一ヴィルショークは四・四一五センチメートル〕ばかり、頭のところの厚さは指を二本並べたほどで、尾に近づくにつれてだんだん細くなっていた。それゆえに尾の先はせいぜい一ヴィルショークの十分の一ほどしかなかった。頭のところから一ヴィルショークほどのところに、二ヴィルショークくらいの長さの足が、胴の両側から四十五度の角をなして一本ずつ出ていた。そのために、上から見ると、この動物の全体が、三本槍のような形をして見える。頭は十分に見きわめなかったが、あまり長くはなく、丈夫な針のような形をして、やはり褐色をしている二本の触角が見うけられた。こういったような触角が、尻尾の先にも、両足の先にも二本ずつ、したがって、全部合わせると八本出ていたのである。この動物は足と尻尾とで身体をささえながら、実にすばやく、部屋じゅうを走りまわっていたが、走りまわる時には、固そうな殻をもっているのにもかかわらず、胴と両足とが非常な速度で、まるで小さな蛇のようにのたうちまわるので、それを見ているとひどく胸がむかつくのであった、私を刺しはしないかと、非常に私は恐れていた。これが毒をもっているということは、かねてから聞かされていたが、私に最も苦痛を感じさせたのは、誰がいったいこれを私の部屋へ追い込んだのか、また私をどうしようというのか、ここにいかなる秘密があるのか、という恐ろしい気持であった。怪物は箪笥や戸棚のかげに隠れたり、あちこちの隅にはい込んだりしていた。私は椅子の上に両足を上げて、どっかと胡座《あぐら》をかいた、怪物は部屋をすばやく斜めに横切り、どこかしら私の椅子の辺にかくれて見えなくなった。私はあまりの恐ろしさに、あたりを見まわしたが、胡座をかいているので、まさか椅子の上まではい上がっては来ないだろうと、それを当てにしていた。ところが、にわかに後ろのほうで、しかもほとんど私の頭のあたりで、かさかさという変な音が聞こえてきた。ひょいとふり返って見ると、もういやらしい動物は壁づたいに、私の頭と同じくらいの高さのところへはいのぼって、とてつもない速さでうねりくねっている尻尾が、もう私の髪の毛にさえも触れているのだ。私が飛び上がったら、そいつの姿は見えなくなった。私は怪物が枕の下へはい込んで来ては大変だと考えて、寝台に横になるのが恐ろしかった。そのうちに、部屋の中へ、私の母と、もう一人、母の知合いの人がはいって来た。二人は怪物をつかまえようとかかったが、私よりはずっとずっと落ち着き払っていて、こわがりさえもしなかった。もっとも、二人は何が何だかわからなかったのである。またもや不意に怪物ははい出して来た。今度はかなり静かに、何か特別な下ごころでもあるかのように、おもむろに身体をうねらせながら、――それはまた、いっそう胸の悪くなることではあったが、――またもや部屋を斜めに横切り、戸口のほうへ歩いて行った。すると、母はドアをあけて、家の飼犬のノルマを呼んだ、――これは黒い尨犬《むくいぬ》で、ずうたいの大きなテルニョフ〔ニューファウンドランド種〕であったが、今から五年まえに死んでしまった。さて、ノルマは部屋へまっしぐらに駆け込んで来たが、まるで釘づけにされたかのように、怪物の前にぴたりと立ち止まってしまった。怪物もやはり相変わらずからだをうねらせて、床を両足や尻尾の先で、とんとんたたきながら、やはり立ち止まった。もし私が勘違いをしていなかったら、動物というやつは、神秘的な驚愕を感ずることのできないものであろう。ところが、この瞬間、私にはノルマの驚愕のうちに、何かしら普通でない、ほとんど神秘的といってもよいような何ものかがあって、したがって、ノルマが私と同じように、この動物に何かしら宿命的な、一種の秘密がひそんでいることを予感しているかのように私には思われた。静かに用心深く、怪物がノルマのほうへはい寄って来ると、ノルマはのそのそと後へ退くのであった。怪物はどうやら不意に相手を襲って、螫《さ》そうとしているらしかった。しかし、ノルマは極度に恐れているのにかかわらず、ひどく恨めしげに、肢《あし》をぶるぶるさせながらも怪物のほうを見まもっていた。不意に、そろそろと、恐るべき歯を剥《む》き出したかと思うと、ノルマは大きな赤い口をあいて、隙をうかがいながら身構えしていたが、ついに覚悟を定めて、いきなり怪物をくわえた。おそらく、怪物はすべり抜けようとして、力いっぱいもがいたことであろう。そこでノルマは落ちかけた敵をもう一度、歯でくわえて、二度までも口をいっぱいにあけて、あたかも呑み込んでしまうかのように、絶えず落ちかかる敵を押さえつけた。殻は歯に当たって、からからと音を立て、口からはみ出している尻尾や足の先は、恐ろしい速さでぴくぴくと動いていた。不意にノルマは物悲しそうにきゃあと鳴いた。怪物は見事にノルマの舌を螫してしまったのである。吠《ほ》えたり、うなったりしながら、ノルマは痛さに耐えかねて、口をあけた。噛《か》まれた怪物が半ば圧しつぶされた胴体から、踏みつぶされた黒い油虫の液体に似た白い液をいっぱいにノルマの舌に吹き出しながら、口の中に横になり、なおもうごめいているのが眼についた。……ここで、私は眼が覚めた、公爵がはいって来た」
「諸君」とイッポリットは急に朗読をやめて、ほとんどきまり悪げな様子をさえもして言うのであった。「僕は読み返さなかったけれど、なんだか、僕は、実際、むだなことをたくさん書いてしまったような気がします。この夢は――」
「そんなとこもありますね」と、ガーニャは急いで口をはさんだ。
「ここには個人的なことが多すぎるんですね、ほんとに。つまり、ことに僕だけのことが……」
こう言いながらイッポリットは、疲れて、弱りきった風をして、ハンカチで額の汗をぬぐった。
「そうでござんすね、あんまり御自分のことにばかり、気をひかれすぎてらっしゃるようですね」と、しわがれ声で言ったのはレーベジェフであった。
「僕、諸君、もう一度、申しますけれど、どなたにも強いて聞いてくださいとは申しませんからね、おいやでしたら、あちらへいらっしってくだすってもいいんですよ」
「追い立てるんだな……他人様《ひとさま》の家へ来ているのに」聞こえるか聞こえないくらいのかすかな声で、ラゴージンが不平を言った。
「どうしたもんでしょう、われわれがみんな、いきなり立ち上がって、あちらへ行ってしまったら?」今まで大きな声を立てて口をきくのをはばかっていたフェルデシチェンコが不意に口を出した。
イッポリットはにわかに眼を伏せて、原稿をつかんだ。けれど、同時にまた首をあげて、両方の頬に赤い二つの斑点をうかべ、眼を輝かして、じっとフェルデシチェンコを見つめながら、言いだした。
「あんたは僕を全く好いてない!」
すると、笑い声が聞こえてきた。もっとも、大部分の者は笑いはしなかった。イッポリットはおそろしく顔を赤らめた。
「イッポリット君」と公爵が言った。「その原稿を伏せて、僕によこしなさい。そして、ここの僕の部屋でやすみなさい。二人で話しましょう、寝る前に、それから明日も。でも、この原稿はもうけっしてひろげないことにしてですよ。いいですか?」
「そんなことって、できるもんですか?」イッポリットはすっかり驚いて、彼の顔を眺めた。「諸君!」とまたもや熱に浮かされたように勢いこんで彼は叫んだ、「ばかげた余興で、僕は自分を押さえつけることのできないのをお目にかけてしまった。もうこれからは朗読を中途でやめないことにします。聞きたいかたは――聞いてください……」
彼は大急ぎでコップの水を呑んでから、人目を避けようとして、すばやくテーブルに肘《ひじ》をついて、根気よく朗読を続けた。それにしても、羞恥の色はたちまちにして消えうせてしまった。
「わずか二、三週間、生きてみたところで(彼は読み続けるのであった)しかたがないという観念が、明らかに私を克服し始めたのは、一か月ほど前、まだ四週間の寿命があるというときのことであったと思う。しかし、全く私を克服しきったのは、パヴロフスクのあの夜の集まりから戻って来たときで、わずかに三日前のことである。直接に全くこの考えに入りびたった最初のときは、公爵の家の縁側でであった。すなわち、この一生涯の最後の試練をしようと考え、人と木立とを見たいと思い(私自身が言ったことにしておこう)、熱くなって、『私の隣人』たるブルドフスキイの権利をあくまでも主張し、誰も彼もが急にびっくりして両手をひろげ、私を胸にだきしめて、何がなし私に許してくれといい、また私も彼らに許してくれというようなことになろうと空想した、あの刹那《せつな》のことであった。けれど、要するに私は、結局、頭の足らないばか者のようなことになってしまった。ところで、この時に、『最後の確信』が私の胸の中に燃えあがったのだ。この六か月というもの、どうしてこの『確信』をもたずに生きてこられたのか、私は今にして驚くばかりである。自分は肺をわずらい、しかも不治の病いにかかっているのだということは、はっきり承知していた。そうして、みずからを欺くことなく、私は事実を明瞭に呑み込んでもいた。事の真相を知り尽くしていた。しかも、明瞭に呑み込めば呑むほど、私は震いつくほど生きたかった。人生にしがみついて、いかなることがあろうとも、生きようと考えた。あの時、私を蠅《はえ》のようにつぶしてしまえと下知した(もちろん、わけがわからずに)あの暗い、陰惨な運命に対して、私が癇癪《かんしゃく》を起こしたのが当然だということはみずから認めている。けれども、なんだって私はただ単に恨むだけで済まさなかったのか! もう生きられはしないのだと、よく承知をしながら、私はなんだって実際に生きることを始めたのか? 今ははや試むべき何ごともないと、よくよく承知をしながら、何ゆえに試みをしたのか? それにしても、私は本さえも読むことができずに、ついに読書をやめてしまったのだ。何のために読書をするのか? 何のために六か月の間に物を覚えようとするのか? かような考えは一度ならず、私に書物をなげうたせた。
「そうだ、あのマイエルの壁は、いろんなことを伝えることができる! あの壁に私はいろんなことを書きつけた。あのよごれた壁に、私が諳《そら》んじていないような汚点《しみ》は一つもないのだ。呪《のろ》われたる壁よ! とはいえ、とにもかくにもあの壁は、パヴロフスクのありとあらゆる木立よりも、私にとっては貴重なものだ。すなわち、もし今、あらゆるものに私が何のかかわりもないというのでなかったならば、あの壁は何よりも貴重なものでなければならないはずだ。
「今にして思いおこす。あのとき、私はいかばかりむさぼるように興味をいだいて、世の人々の生活に眼を注ぎ始めたことであろう。あれほどの興味は、前には絶えてなかったのだ。病気がひどくなって、そのために表へ出ることができなかったとき、私は時おりコォリャの来るのを待ちかねて、来るのがおそいと言っては悪しざまにののしっていた。私はあらゆる小さなことを穿鑿《せんさく》して、あらゆる風説に興味を動かし、ついに一人前の告げ口屋になってしまった観がある。私には、たとえば、なぜ世間の人たちはあれほど長い生活を与えられていながら、金持になれないのか、というようなことがどうしても解《げ》せなかった(もっとも、今もなお解せないのである)。私は一人の貧乏人を知っていたが、あとでこの人が餓え死にしたという話を聞かされた。忘れもしないが、この事実は私に勘忍袋の緒を切らせた。この貧乏人を再びよみがえらせることができたならば、私はたぶん、この男に刑罰を与えたことであろう。どうかすると、二、三週間も続けて気分の軽くなることがあって、私は通りへ出てゆくことができた。が、その通りへ行ってみると、ついに激しい憤激の情にかられるので、私は人並みに表へ出ることのできる身ではありながら、わざわざ幾日も幾日も部屋のなかに閉じこもったきりでいた。鋪道に沿って私の傍をうろつきまわる、あのいつも心配そうな、気むずかしげな顔をして、あくせくと、そわそわしながら、どこへでも出しゃばる世間のやつらが、どうにも私には我慢がならなかった。何のために、あの連中は明けても暮れても悲しそうに、いつもそわそわして、あくせくしているのか、年百年じゅう、何のために気むずかしく、意地悪そうにしているのか(いや、あの手合いは実際に意地悪、意地悪、意地悪なんだから)? 彼らがいずれも六十年の長い生涯を有《も》っていながら、運が悪くて、気のきいた暮らしができないからといって、はたして、誰の罪なのか? 何のためにザルニツィンは前途に六十年の生涯をもちながら、おめおめと餓え死にをしたのか? それぞれに襤褸《ぼろ》やら節くれだった手を見せびらかして、腹を立てたり、『われわれは牛のように働いて、苦労をして、しかも、犬のように餓えて、貧しいんだ! ところが、ほかには働いたり、苦労をしたりしなくとも、金を持っているやつらがいる!』などとわめき立てているのだ(おきまりの文句を!)。『家柄者だ』とかいうイワン・フォミッチ・スーリコフというみじめな、皺《しわ》くちゃ爺――これは私と同じ家で、上に暮らしている――こいつもやはりあの連中と同じ仲間で、いつも、肘が抜けてボタンのちぎれた服を着て、あちこちのいろんな人の走り使いに雇われ、朝から晩まであくせくと駆けずり回っている男がいる。この男と話をしてみるがいい、『貧乏で、乞食のように、しがない者でござんす、女房は死んでしめえましたが、薬を買うだけの銭がなかったもんでして。今年の冬は赤ん坊を、凍え死にさせましての。上の娘《あま》っ子はお囲い者になっちめえまして……』明けても暮れてもめそめそと、いつも泣き言を並べているのだ! ああ、私には――今も昔も、こんなばか者どもに対しては、全くなんらの憐憫《れんびん》の情もない。私はあえて、誇りをもって、言いうるのである。いったい、どうして彼らはみずからロスチャイルドにならないのか? 彼らに、ロスチャイルドのように、何百万の金がないからといって、誰に罪があるのか? あたかも謝肉祭の見世物小屋にうず高く積まれているイムペリアルやナポレオンドルの山(共に金貨の名)――すばらしく高い金貨の山が彼らにないからといって、誰の罪なのか? 生きているからには、何もかもが自分の勢力範囲にあるのではないのか! 彼らにこれくらいのことが呑み込めないからといって、誰の罪であろうぞ? ああ! 今となっては、どうなろうともかまいはしない。今となってはもう癇癪をおこしている余裕がない。しかし、あのころ、あのころは、くり返していうが、私は夜ごと夜ごとを狂暴の念にかられて、文字どおり、枕を噛んだり、夜着を引き裂いたりした。あのころ、私はほとんど着る物もなく、かぶる物もない十八の少年であったが――その私を、不意に往来へ追い出して、全く一人ぽっちに置きざりにしてくれるようにと、いかばかり空想したことであろう、いかばかり願ったことであろう、ことさらにいかばかり願ったことであろう! 家もなく、仕事もなく、一きれのパンとてもなく、身内の者もなく、涯《かぎ》りなく広い都に頼るべき一人の知合いもなく、餓え果てて、疲れ果てて(それに越したることはない!)しかもただ健康で、かくてこそ、世の人々に、男を見せてやろうものをと!
「どうして男を見せるのか? と諸君は聞かれるであろう。
「ああ、はたして諸君はそれでなくてさえも、すでにこの『告白』によってみずから男を下げたのを、私が知らずにいるものと推察しておられるのか? さて、誰も彼も、私がもはや十八の少年ではなく、この六か月を私が生きて来たような生き方をするのは、すなわち髪の毛の白くなるまで生き延びるのと同じことになるということを忘れ果てて、私を目して人生を知らないやくざ者だと言われても、かまいやしない。実際に私は自分で作り話を自分に言い聞かせていたのだから。そうして、私はかような作り話によって、自分の夜な夜なを常に満たしていたのだ。私は今でもすっかりそれを覚えている。
「しかし、はたして私はそんな作り話を改めてここにくり返すべきだろうか、――私にとって、すでに作り話の時代が過ぎ去った今となって? それにいったい、誰に話して聞かせるのか? 私がかような作り話によって、みずから心を慰めていたのは、ギリシア文法を読むことさえも禁ぜられているということが、はっきりわかったときのことで、ちょうど『文章論《シンタキス》までもいかないうちに私は死んでしまうだろう』という考えが、ふっと、最初の一ページから頭に浮かんできて、たちまちテーブルの下へ書物を放り出してしまったころのことだ。今もその本は同じ所にころがっている。私は女中のマトレーナに、拾ってはいけないと言いつけたのだ。
「私の『告白』を手にして、しんぼうづよく読み通してくれる人があったなら、その人は私を気ちがいか、または中学生とすらも考えるであろう。それともまた、死を宣告されて、自分以外のあらゆる人があまりにも生命を軽んじ、あまりにも粗末に浪費し、あまりにも懶惰《らんだ》に、あまりにも恥知らずにそれを利用し、したがって、誰も彼もが、最後の一人に至るまで、生きてゆく資格がないのだという風に考えだした人間だと、そういう風に見なすかもしれない。いったい、なんだというのだ? 私は言明する、かような読者は勘違いをしているのであって、私の信念はけっして私の受けた死の宣言には関係がないのだと。彼らに尋ねてみるがいい、幸福というものが、はたしていかなるところにあるものかということについて、世間の人たちの誰も彼もがいかなる見解を持っているか? それを聞いてみるがいい。ああ、実にコロンブスが幸福だったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、発見しかかっていた時のことだ。実に、彼の幸福の絶頂に達した瞬間は、おそらくは新世界発見のまさに三日前であったろう。絶望のあまり乗組員が反乱を起こして、今にも船をヨーロッパへ向けて引返させようとした時であろう! ここで、問題は新世界にあるのではなく、そんなものは消えてなくなってもかまいはしなかったのだ! コロンブスは、ほとんど新しい世界を見ずに、実際自分が何を発見したのかさえも知らずに、死んでしまったのだ。問題は生活にあるのだ、ただただ生活のみにあるのだ、――絶え間なく、やむこともなき生活を発見する過程にあるのであって、けっして、発見そのものにあるのではないのだ! だが、何を言っているのか! 私の今言っていることの全部が、きわめてありふれた決まり文句に似通っているので、必ずや、人は私のことを『日の出』なんかに作文を投書している、中学の下級生と見なすかもしれない、あるいは、『おそらく、何か言おうとしたのであろうが、どんなにあせってみたところで、……やはり「告白」なんかできなかったのだ』と、そう言うかもしれない。私はそれを危ぶんでいる。しかし、そうはいっても、私はこう付け加えておこう、すなわちあらゆる天才的な思想、もしくは新しい人間的な思想、ないしは、ただ単に何びとかの脳裡に生じたあらゆるまじめな思想の中にさえも、どうしても他人に伝えることのできないものが何かしら残っていて、たとい多くの書物を書き埋めても、三十五年もかかって、その思想を解説しても、けっして頭蓋のなかから出て行こうとせず、永劫に自身の内部にふみとどまっているような何物かが残っている。そのために、人々はおそらく自己の思想のうち最も重要なものを、何びとにも伝えずして、あの世の人となってしまう。ところで、私がまた同様に、六か月の間私を悩ませたいっさいのものを伝えることができなかったら、私はあの『最後の信念』を獲得したとはいえ、あまりにも高い値をそれに支払ったと考えられるであろう。実に私はこのことをこそ『告白』の中で、ある目的のために、ぜひとも明らかにしておく必要があると考えていたのである。
「それにしても、なお先を続けることにしよう。
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六
「私は嘘を言いたくない。この六か月の間、現実のことにかまけて、ときにはあまり心をひかれて、あの恐ろしい宣言を忘れ、というよりはむしろ、そんなことを考える気にもならず、ついには仕事にさえも取りかかるようなことがあった。ついでながら、そのころの私の周囲の事情を述べることにしよう。八か月ほど前、かなり容態が悪くなったころ、私はいっさいの交渉を絶って、以前の友だちともつきあわなくなった。いつも私は非常に気むずかしい人間であったから、もちろん、きれいさっぱりと、こんな事情がなくとも、彼らはわけもなく私を忘れてしまった。家にいるとき、つまり家庭における私の位置もやはり孤独的であった。五か月ほど前から、永久に私は中から鍵をかけて一室に閉じこもり、自分というものを家族たちの部屋から、全く切り放してしまった。家の人たちは私の言うことをいつもよく聞いてくれて、誰一人として、おきまりの時間に部屋をかたづけに来るのと、食べ物を持ち運んで来る以外には、私の部屋へはいることをはばかっていた。母は私の命令があると、どぎまぎして、時おり私が部屋へはいってもよいと許してやっても、遠慮して、私の前で泣き言さえも言わなかった。子供たちは騒ぎ回って、私に世話をやかせてはいけないといって、絶えず折檻《せっかん》されていた。私は私で、子供たちのわめき声がうるさいといっては、よく不平を並べ立てた。こんなわけで、今は誰もが私を愛しているのに相違ないのだ! 私のいわゆる『信頼するに足るコォリャ』をも、同時に私はかなり悩ませたと思う。今日このごろは彼も私を悩ますようになったが、これは何もかも自然なことだ。人間同志は互いに悩まし合うように作られているのだから。しかし、病人であるからそれに免じてやろうと前もって彼が心に誓ってでもいたかのように、私の癇癪を忍んでいるのに私は気がついていた。当然、それは私をいらいらさせた。しかも彼は、公爵の『キリスト教的忍従』を模倣しようと企てているように見える。この忍従なるものは、いささか滑稽なことであった。彼は若々しい熱のある少年であったから、もとより何事をも模倣しているのである。それにしても、もうそろそろ自分自身の頭脳によって生きるべき年ごろではないかと、私には時おりそういう気がするのであった。私はこの少年が大好きなのである。また私は同様にスーリコフをも悩ませた。彼は私たちの一階うえに暮らしていて、朝から晩まで、誰かの用足しに走り回っていた。彼に向かって、おまえの貧乏なのは自分の科《とが》なのだぞと、いつもいつも言い渡すので、ついに度胆を抜かれて、ぱったり来なくなってしまった。非常に彼は腰の低い男で、無類の謙遜家《けんそんか》である(NB、忍従は力だといわれているが、これは公爵にただしてみなければならない、なにしろこれは公爵自身の言いぐさなのだから)。それはさておき、私は三月に、この男が赤ん坊を『凍え死に』させた――と言ったのを聞いて、様子を見るために上へあがって行ったことがある。この時、私はまたもや、『おまえの科《とが》なんだぞ』とスーリコフに言い聞かせながら、ついうっかりと赤ん坊の死骸に冷笑をもらした。すると、にわかにこの皺くちゃ爺いの唇がぴくぴく動いて、彼は片方の手で私の肩をつかまえ、一方の手でドアのほうを指さしながらこっそりと、つまり、ほとんどささやくような声で、『出てってください!』と言った。そこで私は外へ出たのだが、このしぐさが実に気に入った。彼が私を戸口から送り出したその瞬間にさえも、ひどく気に入った。ところが、あとになると、いつまでも彼のことばは私の思い出の中になんとなく奇妙な、彼に対する侮蔑的な憐憫を催す重苦しい感じを与えていた。かような憐憫の情を私は少しも感じたくなかったのだが。かかる侮辱を受けた時すら(私は何もそんなつもりはなかったのだけれど、彼を侮辱したという感じがするのだ)、そういう時ですらも、この男は憤慨することができなかった! あのとき唇がぴくぴく動いたのは、けっして憎悪の念からではなかったのだ。このことは、ここに私が誓っておこう。私の手を取って、あのすばらしい『出てってください』を言ったのも、けっして腹を立てていたからではなかった。威厳があった、十分にあった。しかも全然、顔に似合わぬほどの威厳であった(だから、実をいうと、道化の感じが大いにあった)。が、悪意はなかったのである。おそらく、にわかに彼は私をただ軽蔑し始めたのかもしれない。その時から、二、三度、梯子段《はしごだん》でばったり出会ったことがあるが、急に彼は今までになく帽子をぬぎ始めた。もっとも、もう以前のように立ち止まらずに、そそくさと、わきを走りぬけるばかりであった。もしも彼が軽蔑しているとしても、やはり彼らしいやり方であって、つまり『腰を低くして軽蔑して』いるのであった。さて、たぶん、彼が帽子をとるのは、なんのことはない、ただ単に債権者の息子に対する恐怖のためかもしれなかった。というのは、彼がしょっちゅう私の母から借金をしていて、どんなにしても借財を免れられなかったからである。これは何よりも確かな話である。私は彼と話をつけようかとも思っていた。そうしたら爺さんは十分もたたないうちに、許してくれろと言うに決まっていると、はっきり見当をつけていた。しかし私はもうあの男にはさわらないほうがいいと考えるに至った。
「ちょうどそのころ、つまり、スーリコフが子供を『凍え死にさせた』ころ、三月の半ばごろであったが、私は急に、どうしたわけか、すっかり身体の調子がよくなり、その調子が二週間ほど続いていた。そこで、私は表へ出るようになったが、わけても日の暮れぎわにはよく出かけた。あたりがいよいよ凍りかかって、ガス燈の点《とも》り始める三月の黄昏《たそがれ》どきが好きなので、ときには、ずっと遠くのほうまで乗り出して行った。ある時|六軒店《シエスチラーヴォチナヤ》の通りで暗がりの中を、どこかの『家柄者』らしい男が、私を追い越した、私にはよく見分けることができなかったが、何かしら、紙に包んだ物を持って、妙に丈《たけ》の短い、――季節はずれに薄い、無格好な外套を着込んでいた。私のところから十歩ばかり前の、街燈のわきへやって来たかと思うと、ポケットから何か滑り落ちたものがあった。私は急いで拾い上げた、――それはちょうどいいあんばいであった。というのは、誰やら長い上衣《カフタン》を着た男が、もう横合いから駆け出して来たからであった。この男は私が品物を手にしているのを見ると、別に喧嘩を吹っかけようともせずに、さっと私の手の中をのぞき込んで、傍を通り抜けてしまった。それはぎっしり詰まっている大きな、モロッコ皮で造った、旧式な紙入れであった。私は一目見て、この中には結構なしろものがはいっているであろうが、金のはいっている気づかいはないと、どうしたわけか、すぐ見抜いてしまった。
失《な》くした人はもう四十歩も向こうのほうを歩いていたが、たちまち群衆にまぎれて見えなくなってしまった。私はあとを追いかけて、大きな声で呼びかけ始めた。が、『おうい!』と呼ぶほかに呼びようがなかったので、相手はふり返りもしなかった。ふと彼は左のほうにある一軒の家の門の中へはいって行った。私がひどく暗い門の下へ駆け込んだとき、もうそこには誰もいなかった。その家はとても大きな家で、小さく仕切って人に貸すために、思惑に駆られる連中が建てるようなものと軌を同じゅうしていた。かような家の中には、ときには百号に及ぶほどの仕切りがついている。門の中へ駆け込むと、私には、大きな屋敷の裏手の右の片隅を人間が歩いているような気がした。もっとも、暗がりのことで、物の見分けがかすかにつくぐらいのところであった。その隅まで駆けつけて行って見ると、階段の入口があった。階段は狭く、ひどくよごれていて、灯の光はちょっとも射していなかった。ところが、高いところの段々を昇って行く人の足音が聞こえる。どこかで彼が戸をあけているひまに、追いついてやろうと、それを当てにしながら、私はまっしぐらに階段のほうへ突き進んで行った。さあ、いいあんばいだ! 実に短い階段が数えきれないほどあったので、私はひどくあえいだ。やがて、五階に戸が開いて、また閉まる音が聞こえた。五階だなということは、三つも下の階段から、はっきりと察しがついた。私が上へ駆け登って、踏み段のところで一休みして、ベルはないかと捜しているうちに、もう何分かはたっていた。そうこうしているうちに、小さな台所でサモワルの火を吹いていた内儀《かみ》さんが私のために戸をあけてくれた。彼女は黙々として私の質問を聞いていたが、もちろん何のことやらさっぱり呑み込めなかった。相変わらず黙々として、次の間へ通ずる戸をあけてくれた。それもやはり小さな、天井の恐ろしく低い部屋で、きたならしい日常の道具類と、帷《とばり》をおろした大きな広い寝台とがあって、その上に「チェレンチヴィッチ」(と、内儀さんが声をかけた)が寝《やす》んでいた。どうやら、酔っ払っているらしい。テーブルの上には、鉄の燭台の燃えさしが、燃えきろうとしており、ほとんど空になった小さな酒壜が立っていた。チェレンチヴィッチは寝たまま何やらうなるように言って、次のドアのほうをさして手を振った。内儀さんが出て行ってしまったので、私はどうしてもこのドアをあけるよりほかに道がなくなっていた。そこで、私は戸をあけて、さらに次の部屋へはいって行った。
「この部屋は前のよりいっそう狭く、身動きさえもできないほどであった。隅にある幅の狭いシングルのベッドが、大部分の場所を取っていた。その他の家具といっては、いろんな襤褸《ぼろ》を積み重ねた粗末な椅子が合わせて三脚、それに、古めかしい、模造皮を張った長椅子の前にある実に粗末な台所用の木のテーブルと、ただそれだけなので、テーブルとベッドとの間は、ほとんど通り抜けができなかった。テーブルの上には前の部屋と同じような燭台があって獣脂蝋燭が点っていた。ベッドの上には小さな赤ん坊が泣いていたが、その泣き声から推して、おそらくは生まれてからまる三週間ぐらいしかたっていないらしかった。病みあがりの青白い顔をした女が『取り換え』を、つまり襁褓《むつき》を仕換えてやっていた。女は若いらしかったが、話にならないほどお粗末な身なりをしていた。おそらく産後でやっと床上げをしたばかりなのであろう。赤ん坊はなかなか収まらないで、瘠せた母親の乳を待ちかねて、しきりに泣いていた。長椅子の上にはもう一人――三つばかりの女の子が、燕尾服のようなものにくるまって眠っていた。テーブルの傍には七つさがりのフロックを着た例の『紳士』が、立ったまま(彼はもう外套を脱いでいた。外套はベッドの上に転がっていた)、青い紙の包みをほどいて、二斥ばかりのパンと、二切れの小さな腸詰を取り出した。テーブルの上にはそのほか茶のはいった急須があり、黒パンの切れがころがっていた。ベッドの下には、鍵のかかっていないトランクがのぞいており、また何かぼろ切れのはいった包みが二つころがっていた。
「要するに、恐ろしく雑然たるものがあった。ちょっと見たところでは、『紳士』も『夫人』も二人とも相当な人たちであったものが、貧乏なためにかような見るかげもない境遇に陥り、とうとうふしだらが身についてしまって、それと闘おうという元気もなくなり、日に日につのるこの乱脈のなかに、一種の復讐的な、痛々しい満足というようなものを見いだそうとする苦しい要求をさえももつに至ったものであろうと考えられた。
「私がはいったとき、やはり私より少し前にはいって来た『紳士』は、食料品の包みを広げながら、何かしら早口に一生懸命になって、妻君とことばをかわしていた。妻君はまだ襁褓を仕換え終わらなかったが、もうさっそく、愚痴をこぼし始めていた。おそらく亭主のもたらした報告が、例によって、思わしくなかったのであろう。見たところ二十八くらいと思われるこの紳士の顔は、浅黒く、かさかさしていて、黒い頬髯にふち取られ、顎《あご》はつや光りのするほどきれいに剃り上げてあった。私にはこの顔がかなり上品に思われ、気持よくさえも思われた。気むずかしい眼つきをした気むずかしい顔で、しかも、ちょっとしたことにでもすぐ気をいらだたせるような、プライドに満ちた病的な感じが漂っていた。私がはいったとき、奇妙な場面が持ち上がった。
「世の中には、自分のいらいらする癇癪の中に、極端な快感を見いだす人がいる。それも、憤怒が絶頂に達したときには(こんな人はいつも、たちまちにして絶頂に達する)、ことにはなはだしく、こんな時には侮辱を与えられたほうが、与えられないよりはいっそう気持がよいのではないかとさえも考えられる。かようなむやみに腹を立てる人間は、あとになると後悔の念にひどくさいなまれるのが普通である。もっとも、これはいまさらいうまでもなく、彼らが聰明で、自分は十倍も必要以上に腹を立ててしまったと、それぐらいのことを思いめぐらすことのできる場合にかぎるのである。この『紳士』はしばらくのあいだ、あきれたように私を見つめていた。また妻君は妻君で、まるで、自分のところへ誰かがはいって来たということが、恐るべき稀有《けう》の事件ででもあるかのように、愕然《がくぜん》としていた。かと思うと、いきなり彼はほとんど狂気のごとく私にとびかかって来た。私はわずか二言《ふたこと》も言ったか言わないくらいであった。ところが、彼は私のきちんとした服装を見て、ことに、おそらくはなはだしく侮辱されたように感じたのであろう。つまり、私が遠慮会釈もなく彼の隠れ家へ踏み込んで、彼自身が、恥ずかしい思いをしている部屋の中の醜態ぶりを見てしまったからである。もとより、彼は自分の失敗に対する鬱憤を、相手かまわず浴びせかける機会が来たので、これ幸いと喜んだに相違ない。最初の瞬間、つかみかかって来やしないかとさえも私は考えた。彼は全く女がヒステリイでも起こした時のように青ざめて、細君をひどく驚かした。
『――よくまあ君は無遠慮にはいって来たもんだ! 出て行きなさい!』――と彼は震えながら、やっとのことでこれだけのことばを発した。しかし、はからずも彼は私が手にしている紙入れに眼をとめた。
『――あなたが落とされたんだろうと思いますが』――と私はできるだけ落ち着き払って、無愛想に言った(もっとも、それが当然ではあったが)。
「相手はすっかり度胆を抜かれて、私の前に突っ立ったまま、しばらくの間は、何が何やらさっぱり見当がつかないらしかった。やがて、すばやく自分の脇のポケットをおさえてみて、恐ろしさのあまり、口をあけて、片手で自分の額をたたいた。
『――や、しまった! どこで見つけました? どういうぐあいにして? ――
「私はできるだけ無愛想に、紙入れを拾った時の様子から、彼のあとを追って、後ろから呼びかけたこと、ついにはいいかげんな見当と感じとで、あとを追って階段を駆け上がって来たことなどを、簡単に説明してやった。
『――ああ、これはこれは!』と、彼は妻君のほうを向いて叫んだ、『――この中にはうちの証文やら、私のとても大事な商売道具やら、何から何まで……いや、どうも、あなた様。どんなに助かりましたか、よもや御存じありますまいが? ほんとに、私は倒れるところでしたよ!
「私はその間に返事もせずに、立ち去ろうとしてドアに手をかけた。が、急に息がつまってしまった。私はあまり興奮したので、急にひどく咳きこんでしまい、ついには立っていることさえもできなくなってしまった。見ると『紳士』は私のために空いている椅子を見つけようとして、大急ぎで、あちらこちらと捜し回った。ついには一つの椅子の襤褸を引っつかんで床に放り投げ、そそくさとその椅子を持ち出して、気をつけて私に腰をかけさせた。が、咳は相変わらず出て来て、三分間ほども収まらなかった。やっと私が人心地がついたとき、彼はもう私の傍へ別な椅子を出して来て坐っていた。おそらくこれに載っていた襤褸をも床へ放り出したのであろう。彼はじっと私を見つめていた。
『――あなたは、……おかげんが悪いんでしょうね?』と、よく医者が患者に接したときに言うような調子で彼はことばをかけた、『私は、実は……医学者なんですが、(彼は医者だとは言わなかった)』こう言ってから何のためか知らないが、あたかも今の境遇に対して抗議を申し込むような風をして、自分の部屋を指すのであった、『お見受けしたところ、あなたは……
『――わたしは肺病なんです』できるだけあっさりと、こう言って、私は立ち上がった。
『――たぶん、あなたは誇張してらっしゃるんでしょう……薬を飲んで……
「彼はかなりにまごついてしまって、いつまでもわれに返ることができなかった。紙入れを相変わらず、左の手に持っている。
『ああ、心配なさらんでください』と私はまたもやドアのハンドルに手をかけながら、さえぎった――わたしは先週Bに見てもらいましたが(ここで私はまたBのことを持ち出した)、問題はもう決まっているんです。御免なさい……――
「私は再びドアをあけて、羞恥《しゅうち》の念に打ちのめされてどぎまぎしながらもありがたがっているこの医師を見捨てようとしていたが、おりしも憎らしい咳にまたしてもとりつかれてしまった。すると医師は、また坐って休むようにと言ってきかなかった。彼は妻君のほうをふり向いた。すると妻君は席を離れずに、二|言《こと》三|言《こと》、愛想よくお礼のことばを述べた。このとき彼女はかなりにどぎまぎしていたので、青黄ろい艶のない頬には紅らみが浮かんでさえもきた。私は居残ったが、しかも二人に窮屈な思いをさせるのが、たまらなく気がかりになるといった様子を絶えず見せていた(当然そうするべきことではあったが)。後悔の念がついに医師をなやまし始めた。私にはそれがよくわかった。
『もしも私が……』と、彼はつかえながら、きれぎれに言いだした、『私はあなたには深く感謝しておりますが、また一面あなたに対して恐縮の至りです……私は……御覧のとおり……』と彼はまた部屋を指さした、『ただいまのところ、私はこんな境遇におりますので……
『おお』と私は言った、『何ももう見るがものはありません、見なくても話はよくわかってます。きっとあなたは職を失いなすったので、事情をよく打ち明けて、さらにまた勤め口を捜そうとして、こちらへおいでになったんでしょう!
『どうして……あなたは御承知なんですか?』と彼は驚いて尋ねた。
『一目見ればわかりますよ』私は心にもない冷笑的な調子で答えた、『こちらへはいろんな人が希望をいだいて地方から出て来て、あちこちと奔走しながら、御同様の暮らしをしてますからね。
「彼は急に熱情をこめて、唇を震わしながら話しだした。窮状を訴え、身の上話を始めたが、それはまぎれもなく、私の心をひきつけた。私は一時間ほども彼のところに腰を据えていた。きわめてありふれたものではあったが、彼は私に自分の身の上を物語った。彼はある地方の医者で、官職についていた。ところが、そのうちに一種の陰謀事件が始まって、細君までがその中へ巻きこまれてしまった、彼は男子の意気を示して、憤慨した。そのうちに県知事の更迭があって、形勢は敵方に有利となり、敵の陥穽《かんせい》におちいって、彼は讒訴《ざんそ》され、ついに職を失い、やむなく家を畳んで、身のあかしを立てるために、ペテルブルグへとやって来たのである。が、ペテルブルグへ来たところで、もとより、彼の言うことなんかを人はいつまでも聞いていてはくれなかった。一通り聞いてしまうと、一も二もなくはねつけて、それからまたいろんな約束をして釣っておいて、さて今度は厳めしい挨拶をして、何か始末書のようなものを書けと命令し、あげくの果ては、書いたものを受けるのを拒んで、願書を提出せよという――要するに、こういうことで、彼はもう五か月も走り回って、持ち物はすっかり食うことに費やしてしまったのである。わずかに残っていた妻の小間物類までも質にはいっていた。そのうちに子供が生まれた。かてて加えて……『今日は差し出した願書がきっぱりと突き返されてしまい、今はほとんどパンさえもなく、全く無一物で、おまけに女房はお産するし。私は、私は……』という始末であった。
「彼は椅子から飛び上がって、わきを向いてしまった。隅のほうでは妻君は泣いているし、赤ん坊はまたもやむずかりだした。私は手帳を取り出して、ノォトをとり始めた。書き終えて、私が立ち上がったときには、彼は私の前にたたずんで、おずおずした好奇心をいだいて眺めていた。
『わたしはここへあなたのお名前を書きました』と、私は彼に向かって言った、『して、このほかに、勤めていらっしった所や、県知事の名や、月日などもすっかり書きとめておきました。実は小学校時代からの私の友だちで、バフムートフというのがいまして、それの叔父さんのピョートル・マトヴェーヴィッチ・バフムートフというのは、四等文官で、今は課長になっていますので……
『ピョートル・マトヴェーヴィッチ・バフムートフですって?』医者は身震いせんばかりに叫んだ、『私の一件はほとんどあの人次第で、どうにでもなるんですからね!
「実際のところ、私がゆくりなくも加勢することになったこの医者の事件も、その事件の解決も万事すらすらと、まるで、それこそ小説か何かの筋のように、わざと最初から用意してあったかのように、調子よく運んでいった。私はこの哀れな人々に向かってこういうことを言った、――私に対しては何の希望をもかけないでもらいたい、私自身は哀れな中学生であって(私は自分をわざと誇張して卑下したのである。なにしろ、私はもうとうに中学校を卒業し、今はすでに中学生ではなかったのである)、私の名前を知らせるほどのことはない、だが、私はこれからすぐにワシーリェフ島にいる友だちのバフムートフのところへ行って来る。私のたしか覚えているところでは、叔父さんの四等文官は独身者で、子供がないので、甥《おい》を自分の一族における最後の一人として、これを畏敬し、どうかと思われるほど可愛がっているから、『たぶん、この友だちがあなたがたのためにも、私のためにも、なんとかしてくれるはずです、もちろん叔父さんのところへ行って……』というような話をした。
『ただもう閣下に身のあかしを立てることを許していただけたら! ただもう口頭で釈明をする光栄を賜わったら!』と、彼は熱病やみのように震えながら、眼を光らせて、叫ぶのであった。彼は実際に『賜わったら』と言った。私はもう一度、この事件が必ずだめになって、万事がナンセンスに終わるに相違ないとくり返して、もし、明日の朝、私がここへやって来なかったら、事件が済んだものと思って、待たないでくれと付け加えた。二人はしきりにお辞儀をしながら、私を送り出したが、二人はほとんど気が変になっていた。私はけっして彼らの顔の表情を忘れはしない。私は辻馬車を雇って、さっそくワシーリェフ島へと出かけて行った。
「中学時代の何年間というもの、私はこのバフムートフとはいつもかたき同志となっていた。学校では彼は貴族と見なされていた。少なくとも私はそう呼んでいた。きれいな服装をしておかかえの馬車に乗って学校へ通っていたが、少しも大言壮語するようなことはなく、いつも優れた学友で、いつも非常に陽気で、どうかすると、実に気のきいたことを言うことさえもあった。常に組の首席を占めていたにもかかわらず、けっしてそれほどの才人ではなかった。私のほうは何にかけても、第一位になったためしがなかった。ただ一人、私を除いて、クラスじゅうの者がことごとく彼を愛していた。この何年かの間に、彼はいくたびか私に近づいて来た、しかも私はそのたびに気むずかしく、いらいらしながら顔をそむけてしまうのであった。今はもう一年ばかり彼に会わない。彼はもう大学にはいっていた。八時過ぎに私が彼の住居を訪れたとき(たいへんな格式で、私は取次ぎに名を聞かれたりした)、彼は最初に驚いて、全く浮かぬ顔さえしながら私を迎えたが、すぐ陽気になって、私の顔を眺めながら、不意に大声をあげて笑いだした。
『チェレンチェフ君、いったい、なんだって僕んところへなんかやって来たのさ?』と、彼はときによってはずうずうしくも見えるが、けっして人に悪感をいだかせることのない、例の持ち前の愛嬌《あいきょう》のよい打ち解けた調子で叫ぶのであった。私はこの巧みな調子を愛したり、またこれがあるために彼を憎んだりしたものであった。『だが、どうしたんだい?』と彼は愕然として叫んだ、『君は病気なんだね?
「咳はまたもや私を悩まし始めた。私は椅子の上に倒れかかって、やっとのことで息を休めていた。
『心配しないでくれたまえ、僕は肺病なんだから』と私は言った、『実はね、僕はお願いがあって来たんだが
「彼はびっくりしながら席に着いた。私はすぐに例の医師の一件をすっかり話して聞かせ、叔父に対して彼が非常な勢力を持っている以上はおそらくなんとかしてもらえるだろうと、率直に申し述べた。
『するとも、きっとする、明日にでも叔父貴のところへすぐに行って来る。僕はかえって嬉しいんだ。それに君の話があんまりじょうずなもんだから、……ときにね、チェレンチェフ君、どうして君は僕んとこなんかへ来るつもりになったんだい?
『だってこの一件は、君の叔父さんの了簡ひとつで、どんな風にでもなるんだもの。そのうえ、君と僕とはいつも敵同志だったろう。ところが、君は高潔な人だから、むげに敵をはねつけることもあるまいと思ったのさ』と私は皮肉まじりに付け加えた。
『ナポレオンがイギリスに対したようにだね!』と、彼は声を立てて笑いながら叫んだ、『するとも、するとも! できるなら、今すぐにでも行って来る!』私がまじめな、厳めしい顔をして椅子から立ち上がるのを見て、彼はあわてて付け足した。
「実際に、この事件は実に思いがけなく、それ以上は望めないほど、調子よく運んだ。一か月半して、医者は別な県で再び職にありつき、旅費をもらい、補助金までも交付された。私は、バフムートフはかなり足しげく毎日のように医者のところへ通っていたのではないかと思う(そのくせ、私はその時以来、わざと彼の家へ行くのをやめていた。彼が私のところへ立ち寄ってもたいていは味もそっけもなく応待していた)。バフムートフは医者が金を借りたりするまでに気を許したらしかった。私はこの六週間の間に、バフムートフには二度ばかり会ったが、三度目には医者の送別会の時に会った。この送別会はバフムートフが自分の家で催したもので、シャンパンの出る正式な宴会であった。この席へは医者の妻君も出席したが、赤ん坊を残してあるので、すぐに帰ってしまった。それは五月の初めで、明るい晩であった。大きな日輪が入江の上にかかっていた。バフムートフは私の家まで送ってくれた。ニコラエフスキイ橋を渡って行ったが、二人ともかなり酔っていた。バフムートフは、事件がうまくけりがついて喜びにたえないと言い、私に何かのお礼を言って、あのような人助けをしたあとの今、どんなに自分が愉快だかという説明をして、この手柄はひとえに君のものだと主張して、このごろの多くの人が個人的の善行には何の意味もないと説教しているのは、いわれのないことだと主張した。私もまた、ひどくしゃべりたくなってきた。
『個人的な「慈善」を悪く言うのは』と、私はやりだした、『人間の本然性を譏《そし》り、個人的な価値を軽蔑するものである。しかも、「公共的慈善」の組織化と、個人の自由に関する問題とは、――二つの異なった、互いになしではすまされない問題なんだ。個人の善行は常に存在する。それは個性の要求だから。一つの個性が他の個性に、直接の影響を与えようという生きた要求だから。モスクワに一人の爺さんがいた、「将軍」といわれているが、実際はドイツ風の名前を持った四等文官だった。この人は一生涯、監獄や罪人の間を放浪していて、シベリア行きの囚人の一行は必ず、この「爺さんの将軍」が、「雀が丘」の自分らのところへいつたずねて来てくれるかということを、前もってちゃんと承知していた。爺さんは自分の役目を極度にまじめに、敬虔《けいけん》な態度でやっていた。流刑囚のところへ現われると、しずしずとその列の側を通って行く。囚人たちは爺さんを取り巻く。すると爺さんは一人一人の前に立ち止まって、彼らの必要とする物を根掘り葉掘り尋ねる。教訓なんかはけっして誰にも言わずに、みんなを「いい子だ」という。金を恵んでやったり、靴下代わりの布だとか、巻き脚絆《きゃはん》だとか、麻布だとか、そういう必要品を送ってやったり、ときには精神修養の本を持って行って、字の読める者にわけてやったりした。これは字の読める者は途中で自分も読み、また読める者は読めない者に読んでやりもするだろうと堅く信じていたからだ。この人のところへ来ると、囚徒はいずれも対等で、そこにはなんらの差別もなかった。爺さんは話をするのにまるで兄弟かなんかとするような風だったが、囚徒のほうでもしまいごろには、自分の父親ででもあるかのように思うようになった。もしも赤ん坊を抱いた女の流刑囚でも見つけるとお爺さんは傍へやって来て子供をあやして、子供が笑いだすまで指をぱちぱち鳴らしていた。こんなことを死ぬ間ぎわまで何年となしにやっていたので、しまいにはロシアじゅう、シベリアじゅう、――つまり囚人という囚人が一人残らず爺さんを知るまでになった。シベリアにいたことのある一人の人が、自分で見たのだといって聞かしてくれた話によると、病みつきになっているような極悪の囚人でもしばしばこの「将軍」を思い出していたそうだ。そのくせ「将軍」は遠くへ送られてゆく一行をたずねても、一人あたり二十カペイカより以上に分けてやることはめったになかった。みんなが思い出したといっても熱烈にとか、まじめにとか、なんとかでなかったのは事実だ。あるとき、「運の悪い連中」〔無期懲役に処せられた人たち〕の一人で、ただ単に自分の気休めのために二十人の人を殺し、六人の子供を刺し殺したとかいう男が(気休めに人殺しをする手合いがよくいるそうだ)、不意に何のためという、これというわけもなしに、おそらく二十年にたった一度であろうが、ため息をついて、「おい、あの爺さんの将軍は今ごろどうしてるだろう、まだ生きてるかな?」と言ったそうだ。そのとき、たぶん、薄笑いをしたかもしれぬ、――とにかく、まあ、それっきりのことだ。ところで、この男が二十年の間忘れないでいたこの「爺さんの将軍」によって、その胸のうちに掻き消すことのできないいかなる種が蒔《ま》かれていたか、君にはとてもわからないだろうね? ね、バフムートフ君、一つの人格の、他の人格への交流が、交流せしめられた人の運命に、いかなる意味をもつものか、とても君にはわからないだろう? ……そこには渾然《こんぜん》とした一つの人生があり、われわれの眼には見えずに別れている数えきれないほどの多くのものが含まれている。かなりに上手な、かなりに機知に富んだ将棋さしでさえも、勝負の手はせいぜい五つか六つしか予測することができない。あるフランスの名人が十も予測できるというのを、まるで奇跡ででもあるかのように書いたものがあった。いったい、われわれに知らない手は、いくつあるだろう? 君は自分の種子を、自分の慈善を、自分の善行を、いかなる形式をもってしようとも、他人に投げ与えるとき、君自身の人格の一部を他人に渡し、その代わりに相手の一部を自己のうちに受け容れることになる。つまり互いに交流するのだ。そこで、もう少し注意を払ったならば、君は知識によって、実に思いがけない発見によって報いられるであろう。ついには必ずや自己の仕事を、一つの学問として見なすようになるだろう。かくて、その学問が君の生活の全部を占め、おそらくは充実させるに相違ない。一方から見れば、君のいっさいの思想、投げられたまま忘れられていた種子が、再び肉をもって、生長する。授けられた者はさらに別の人間にそれを伝える。未来の運命の解決に、君がいかなる役割をするか、君にはわからないだろう? もしも、この知識と、この仕事によって満たされた生活が、ついに、君をして偉大なる種子を投げしめるところにまで、すなわち、偉大なる思想を遺産としてこの世に残しうるところにまで引き上げたならば、その時は……等々、私はその時こんなことをさんざんおしゃべりしていた。
『それだのに、君はもうこの世において、見放されているのだと思う!』とバフムートフは誰かを躍起になって責めるような調子で叫んだ。
このとき、私たちは橋の上に立って、手すりにもたれながらネワ河の水の流れを眺めていた。
『ねえ君、いま僕の頭に浮かんできたことがわかるかえ?』と私はなおいっそう手すりに身をかがめながら言った。
『君は川の中へ飛び込もうと思ってるのかい?』とバフムートフはほとんど仰天せんばかりに叫んだ。おそらく私が考えていることを顔に読んだのであろう。
『いやいや、今のところ、まだこう考えているだけなんだ。つまり、こうなんだ。今や僕の命は余すところ二、三か月、あるいは四か月かもしれないが、かりに二か月しかないとして、僕が一つの善行、しかも非常な労苦やわずらいや奔走を必要とする、いわば今度の医師の一件のようなことをしてみたいと思ったとしたら、そんな時には寿命のある間がほんのわずかなために、この仕事を思いきって、自分の「手」に負えるもっと小さな「善行」を捜さなくてはならない(どうしてもこうしても善行をしてみたくてたまらなくなったらである)。どうだろう、おもしろい考えだろう!
「気の毒にも、バフムートフはひどく私のことを気づかって、家まで送りとどけてくれたが、あくまでもデリケートな気持をもって、ただの一度も気休めのことばを発せず、ほとんどしまいまで口をつぐんでいた。別れるとき、彼は熱情をこめて私の手を握りしめ、私を見舞うことを許してくれと言った。私はもしも彼が『慰問者』として私をたずねるのであったら(というのは、たとい彼が黙っているとしても、やはり彼は私のところへ慰問者として来ることになるからである。私はこのことを説明してやった)、その事によって、当然、そのたびごとにいっそうはげしく死を痛感させることになると答えた。すると、あきれて、肩をすくめたが、それでも私の言うことに相づちを打った。私たちは実に、ねんごろに別れを告げた、こんなことは私には思いもよらぬことであった。
「しかもこの夕べ、この夜、私の『最後の信念』の最初の種子が投げられていた。私はむさぼるように、この『新しい』思想にとびかかって、むさぼるようにその思想の全貌を究明した(その晩とうとう徹夜をしてしまった)。深くその思想に沈潜し、より多く自身の胸に受け容れるにつれて、私はいよいよ愕然たらざるを得なかった。ついに恐るべき驚愕の念が私を襲って、それからの幾日というもの、私の心を離れなかった。時として、絶え間のない驚愕の念を心に浮かべながら、私はまた新しい畏怖《いふ》の念にとらえられて、たちまちに氷のようになることがあった。この驚愕の念から推して、私の『最後の信念』はあまりにも厳粛に私の心のうちに食い入って、必ずや解決を得なければやまぬであろうとの結論に達することができたからであった。しかし、解決のためには、決断力が足りなかった。しかし、二、三週間たって、万事が見事にけりがついた。決断力がついてきたけれども、それもきわめて奇妙な事情に由来するものであった。
「私はこの告白のうちでいっさいの経過を数学的な正確さをもって述べておこう。もとより、私にとってはどっちにしたって同じではあろうが、しかし今《ヽ》(おそらく、この瞬間だけに限るかもしれないが)、私は私の行動を批評するあらゆる人たちに、この『最後の信念』がいかなる論理的な推論の連鎖から生じたのかを、はっきり見ていただきたく思う。私はたった今、次のようなことを書いておいた。すなわち、私の『最後の信念』を実行せんとするにあたって不足している断固たる決断力は、全く、論理的推論のためではなく、一種の奇怪な衝動のために、おそらくは事件の進行とは全く何の関係もないような奇妙な事情のために生じたような気がすると書いておいた。十日ばかり前に、ラゴージンが自分のある用事のために私のところへやって来た。どんな用事かということをここに披露するのはよけいなことである。私はその以前にラゴージンに会ったことは一度もなかったのであるが、噂はかなりたくさん聞いていた。私が参考になることを全部聞かしてやると、すぐに彼は帰って行った。つまり彼が来たのは、ただ照会のためなので、その用件が済むとともに私たち二人の問題はそれで全く終りを告げた。しかし彼があまりにも私に興味を寄せていたので、私はその日一日、奇妙な考えに支配されて、そのために、あくる日になったら、こちらから彼を訪問しようと決心したほどであった。ラゴージンは私に会ってもあまり嬉しくなかったらしく、もうこのうえの交際を続ける必要はないと、『デリケート』にほのめかしたほどであった。それにしても、とにかく、私は非常におもしろみのある一時間を送った。おそらく、彼も同様であったろう。私たち二人は互いに気づかずにはいられないほどの、――ことに私にはそうであるが――激しい対照をなしている。私はすでに華やかな時代をあとにした人間であるが、彼のほうは最も充実した、行動的な生活をし、現在の刹那に生きる『最後』の推論だとか、計算だとか、……その……その、なんだ……まず、夢中になれるものといおうか……そういうものに関係のないことは何事によらず、気にもとめずに暮らしている。こんなことばづかいをしては失礼だけれど、まあこれは自分の思想を表現することのできない三文文士として、ラゴージン君に許していただくことにしよう。彼ははなはだ無愛想なのにもかかわらず、私には賢い人間であるように思われた。そして、『あれ』以外のものには、いささかの興味をももっていないが、それでもさまざまなことを理解することができる人だと思われた。私が彼に自分の『最後の信念』をほのめかしたわけでもないのに、どうしたわけか、彼は私の話を聞いているうちに、見抜いてしまったらしかった。彼は始終だまりこんでいた、彼は実に恐ろしく無口な男であった。私は彼に向かって、二人の間にはたいへんな違いがあり、何もかも裏腹ではあるが、――Les extremites se touchent(極端は一致す)ということもあるのだから(私はこれをロシア語で説明してやった)、おそらく、私の『最後の信念』にも、それほど縁遠くはないらしいとほのめかしてやった。すると、そのことばに対する返事として、彼は実に気むずかしい渋い顔をしながら立ち上がって、わざわざ私の帽子を自分が捜し出し、まるで私が立ち去ろうとでもいっているかのように、帰れといわぬばかりの顔をして、礼儀のために見送るような様子をしながら、自分の陰気な家からあっさりと私を追い出してしまった。彼の家は私を驚かした。まるで墓場のようであった。どうやら彼はそれが気に入っているらしかった。もっとも、これはわかりきったことではあった。彼のいま営んでいる充実した、行動的な生活は、家の造作などを云々《うんぬん》しなくともよいほど、それ自身があまりにも充実しているからである。
「このラゴージン訪問はかなりに私を疲れさせた。それでなくとも、私は朝のうちから気分がすぐれなかったので、夕方近くなるとひどくぐったりして、ベッドに横になった。ときどき、激しい熱を覚えて、どうかするとうわごとさえも言っていた。コォリャは十一時まで付いていてくれた。それでも、私は彼の言ったことも、二人で話したこともすっかり覚えている。しかし、ほんのちょっとのあいだ、眼をふさいでいると、すぐに例のスーリコフが何百万という金をもらった夢を見るのであった。彼はこの金をどこへしまっておいたらいいかわからずに、頭を悩まし、盗まれては大変だとびくびくしていた。ついには土の中へ埋めることに決めたらしかった。そこで私はそんな大金を空しく土中に埋めるよりも、『凍え死んだ』赤ん坊のために、その金貨で棺を鋳たらいいだろう、そのためには、赤ん坊を掘り出さなければならないと忠告してやった。このひやかしをスーリコフは感涙にむせびながら受け容れて、すぐにこの計画の実行に着手した。私は唾《つば》を吐いて、彼の傍を離れた。すっかり元気づいたとき、コォリャの断言したところによると、この間じゅう私は少しも眠らないで、ずっと彼を相手にスーリコフの話をしていたという。時おり私は極度に物憂く、やるせない気持になったので、コォリャはひどく心配しながら帰って行った。私は自分でドアに鍵をかけようとして立ち上がったとき、不意に一つの絵〔バーゼル博物館にあるハンス・ホルバインの絵のこと〕が頭に浮かんできた。それは、さっきラゴージンのところで見て来たもので、彼の家のいちばん陰気な広間のドアの上にかかっていたものであった。ラゴージンは通りすがりにその絵を指さした。私は五分ばかりもその前にじっと立っていたろうと思う。それは画としては、けっしてすぐれたものをもっていなかったが、しかも、何かしら不思議な不安を、私の胸のうちに呼びおこした。
「この画にはたったいま十字架からおろされたばかりの、キリストが描かれていた。私には、画家がキリストを描くとき、十字架にかけられているものも、十字架からおろされたものも、共にその面《おもて》になみなみならぬ美しさの感じを与えて描くのが普通の習わしになっているように思われる。彼らはキリストが最も恐ろしい苦しみを受けているときでさえも、この美しさを保つ方法に心を砕いている。ところが、ラゴージンのところにある画には、美などというものはそのけはいさえもないのであった。これは十字架にのぼるまでにも、十字架をになったり、十字架の下になって倒れたりしながら、傷つけられ、拷問され、番人からは鞭《むち》うたれ、愚民たちからは笞《むち》を加えられたりして、限り知られぬ苦しみを耐え忍んで、ついには六時間にわたる(少なくとも、私の勘定ではそれくらいになる)十字架の苦しみを耐え忍んだ、一個の人間の死骸のありのままの姿を描いたものであった。まことに、それは|今の今《ヽヽヽ》、十字架からおろされたばかりの、つまり、まだ生きた、温かさを豊富に保っている人間の顔であった。今なおいささかも硬直してはいなかったので、今もなお息絶えた人の感じているらしい苦しみが、この顔にほのかにうかがわれるかと思われた(この感じは画家によって巧みにつかまれていた)。その代わり、顔はなんの仮借するところもなしに描かれてあった。そこにはただ自然があるばかりであった。たしかに、いかなる人であろうとも、あのような苦しみのあとの人の死骸はあんな風であったに相違ない。私は、キリスト教会がすでに上代において、キリストが苦しんだということはけっして寓意的なことではなく、全く現実的なことであって、したがって、十字架の上で彼の肉体も十分に、完全に、自然律に征服させられていたものと決めてかかっていることをよく知っている。画に描かれているこの顔は恐ろしきまでに鞭うたれて腫《は》れあがり、ものすごくふくれあがっている血みどろな打ち身を見せて、眼は開いたままで瞳《ひとみ》は藪《やぶ》にらみになっていた。大きく、見ひらいている白睛《しろめ》はなんとはなしに死人らしい、どんよりした光を帯びていた。しかも不思議なことに、この責めさいなまれた人の死骸を見ていると、一つの風変わりな興味のある疑問が起こってくる、――もしも、ちょうどこれと同じような死骸を(また必ずこれと同じようであったに相違ない)キリストのあらゆる弟子たちや、おもなる未来の彼の使徒たちが見ていたとしたらば、キリストを慕って山にゆき、十字架のわきに立っていた女人たちや、彼を信じ、彼を崇拝していたあらゆる人々が見ていたとしたならば、目のあたりこのような死骸を見ながら、この殉教者が復活しようなどと、どうして信ずることができたのか? と。もしも死がこのように恐ろしく、自然の掟《おきて》がこのように強いものであるならば、どうしてそれを征服することができるのかと、こういう観念が思わずも浮かんでくるはずであろう。生きているうちには、この世を克服して、『タリタ・クミ』〔マルコ伝第五章四十一節〕(むすめよ、われなんじにいう、起きよ)と叫び、女を起《た》たしめ、『ラザロよ、きたれ』〔ヨハネ伝第十二章四十三節〕と叫べば、死せる者があらわれて来たというほどの、あのキリストすらも、ついには打ち破ることのできなかった法則を、いかにして、他の者に打ち破ることができるのか! この画を見ていると、自然というものが、何かしら大きな、凶暴きわまりない、物言わぬ獣のように、すなわち変な言い方ではあるが、さらに正確に、ずっとずっと正確に言えば、――きわみなく貴い偉大な存在物を、わけもなく、引っつかんで、こなごなに打ち砕き、ぼんやりと何の感じもなしに呑みこんでしまった、最新式の何かの大きな機械のように感ぜられる。しかも、この場合の存在というものは、自然全体にも、そのありとあらゆる掟にも、さてはまた、おそらくはただ単にこの存在物の出現のためにのみ、作られたとも考えられるようなこの地球の全部にも値するものである。この画によってすなわち、今言ったようないっさいのものを征服してやまない、あの向こう見ずな、傲岸《ごうがん》な、いわれなく永遠的な力の観念が表現されているらしく、この観念はおのずからにして見る者の胸に伝わって来るのである。画のなかには一人も現われていないが、このみまかれる人を取りまいていた人々は、必ずや自己のいっさいの希望、ないしはほとんど信仰ともいうべきものを、一挙にして打ち砕いてしまったこの夕暮れに、恐るべき苦悩と困惑とをことごとくその胸に感じていたことであろう。今までに一度として彼らの胸から消すことのできなかった雄大な思想を彼らが互いに今もなお心にささえていたにしても、しかもなお、彼らは凄惨《せいさん》きわまりなき恐怖をいだいて、散り散りになって行ったに相違ない。もしも師みずからが、おのれの姿を殉職前夜に察することができたならば、はたして、このような態度で、十字架に昇り、今ここに見るような死に方をしたであろうか? かような疑惑もまた、この画を眺めるとき、ゆくりなくも心の中に浮かんでくる。
「このようなことはみな、きれぎれに、おそらくは全く夢うつつの間にではあろうが、ときにはまざまざと、はっきりした姿までも眼に映って、コォリャが帰ってから一時間半も眼にちらついていた。姿のないものが姿を現わして、眼に映るということがいったいありうべきことなのか? しかも、私は時として、あの限り知られぬ力、あの耳も聞こえず物も言わぬ、不吉な物が、奇妙な形を帯びているのを、ありうべからざる姿を現わしているのを、この眼に見ているかのように思われるのであった。誰かが蝋燭を持って、私の手を引いて行って、何かしら大きないやらしい蜘蛛《くも》のようなものを指して見せて、これこそ暗愚にして全能な存在物であると断言しながら、私の憤慨するのを冷笑したような気がしたのを私は覚えている。私の部屋の聖像の前には、夜になると、いつも燈明が点《とも》っている――その光はぼんやりと、いかにも頼りないが、物のけじめはつくし、燈明の真下へ行けば本を読むことさえもできる。もう夜ふけの十二時を回ったころだったと思う。私は少しも眠れないので、眼をあけたまま横になっていた、すると不意に私の部屋の戸が開いて、ラゴージンがはいって来た。
「彼は部屋にはいると戸を閉めて、物をも言わずに私を眺めて、片隅の燈明のほとんどま下のところにある椅子のほうへと、静かに通り過ぎて行った。私は非常に驚いて、どんなことになるのかしらと思いながら眺めていた。ラゴージンは、テーブルに肘をついて、黙々として私を見つめ始めた。こうしているうちに二分か三分たっていった。今でも覚えているが、彼の黙っていることが、私にひどく癪《しゃく》にさわり、いらだたしかった。なんだって彼は物を言おうとしないのか? もとより、彼がこんな夜ふけにやって来たことは、妙に思われぬではなかったが、どうしたわけか、ことさらにこれだけのことには驚きもしなかった。それどころではなかった。今朝、私は自分の思想をはっきりと、彼に言ったわけではなかったけれど、彼がそれを悟ったということはよくわかっている。さて、この思想たるや、たとい夜がふけていようとも、当然もう一度そのことについて、わざわざ話しにやって来てもさしつかえのない性質のものであった。そこで私は彼はそのことのためにわざわざ来たのだと考えていた。今朝、私たち二人はいくぶん打ち解けないままに別れた。そして、彼が二度ほども非常に嘲笑的な眼で、私をにらんだのをさえも、覚えている、ところで、この嘲笑を今もまた彼の眸に読むことができたのである。それが私には腹立たしかった。もっとも、これこそラゴージンの本領であって、幻覚でも迷妄《めいもう》でもないということは、初めから私は少しも疑わなかった。事実、そんなことは考えさえもしなかった。
「それにしても彼はなおじっと坐ったまま、例の嘲笑を浮かべて、相変わらず私を見つめていた。私は恨めしそうに床の中でくるりと背を向け、同じように枕に肘をつきながら、たとえ、いつまでこうしてにらみ合っていなければならないにしても、やはり何も言わずに黙っていようと決心した。どうしたわけか、私はどんなことがあろうとも、まず第一に彼のほうから切り出させようと考えていた。そうこうしているうちに、二十分ほどたったと思う。にわかに、これはひょっとすると、ラゴージンではなくて、ただの幻ではないかしら? という考えが胸に浮かんできた。
「病中にも、またその前にも、いまだかつて私は幽霊というものを見たことがなかった。が、私は子供の時分に、のみならず、今でさえも、つまり、ついさきごろでさえも、ただ一目なりとも幽霊を見るようなことがあったら、たちどころに死んでしまうような気がいつもしていた。けっしていかなる幽霊をも信じているわけではなかったけれど。ところが、これはラゴージンでなくて、ただの幽霊にすぎないのだという考えが、私の脳裡にひらめいても、私は少しも驚かなかったように覚えている。それどころか、私はこのことで癇癪を起こしたくらいであった。さらに不思議なことには、はたしてこれは幻覚なのか、それとも、まぎれもないラゴージンなのかという疑問を解決しようとする興味を私はどうしたわけか少しも感じないうえに、当然、感じてもよさそうな不安をさえも感じなかった。私はその時、何か別のことを考えていたのではないかと思う。私には、たとえば、今朝は寝巻にスリッパをはいていたラゴージンが、どうして今は燕尾服に白いチョッキ、白いネクタイをしているのかしら、といったようなことのほうが、ずっとずっと気にかかっていた。また、もしもこれが幽霊であって、しかも自分がこれを恐れていないとしたら、なぜ私は立ち上がって、傍へ近づき、自分で正体を確かめないのかという考えもちらついていた。それにしても、おそらくそれほどの勇気がなく、やはりこわがっていたのである。やがて、たしかにこわがっているのだと考えついたかと思うと、にわかに私は総身を氷でさすられたかのような気持になった。私は背中が冷やりとするのを感じて、膝《ひざ》はわなわなと震えだした。この刹那に、私が恐れているのを察したかのように、ラゴージンは今まで肘をついていた手を引いて、しゃんと起きなおり、今にも笑いだしそうに、口を動かし始めて、じっと私を見つめるのであった。私は激しい憤怒の念にかられて、決然として飛びかかろうとしたほどであったが、自分から先には口をきるまいと誓っていたので、そのまま寝台の上でじっとしんぼうしていた。そのうちに、これがはたしてまぎれもないラゴージンなのかどうか、私にはまだ確信がなかった。
「この状態がどのくらい続いたのやら、私ははっきりと覚えていない。また、時おり意識を失ったのかどうか、これもはっきりとは覚えていない。結局、ただ一つ、ラゴージンが立ち上がって、前にはいって来たときと同じように、おもむろに注意深く私を見つめて、薄ら笑いをやめたかと思うと、ほとんど爪先立ちといってもいいくらいに、忍び足してドアに近づき、ドアをあけてまた閉めて、そっと出て行ったのを覚えているだけである。私は寝床についたままであった。どれくらいの間、眼をあけたまま、じっと横になったまま、物思いにふけっていたか、少しも覚えていない。何を考えていたのかもわからぬ。また、どういう風に意識を失ったか、これも覚えていない。あくる朝の九時過ぎになっても私が自分でドアをあけて、茶を持って来るようにと声をかけなかったときには、女中のマトレーナが必ず自分でドアをたたいてみるということに決めてあったからである。そこで、私は彼女のためにドアをあけてやるとき、ドアはこうして、しっかり鍵がかかってあったはずだのに、どうして彼がはいって来たのであろうかと、すぐにそういうことが胸に浮かんできた。家の者に問いただして、私は本物のラゴージンにはいって来られようはずはなかったということをよく納得した。というのは、うちの戸は夜になれば、すっかり錠《じょう》をかけてしまうからである。
「さて、私がかように事細かに書き並べた異様な出来事こそ私が全く『意を決する』に至った、その原因ともなったのであった。したがって、決定的な最後の決意を促進せしめたものは、論理的な信念ではなくして、ひとえに嫌悪の情にほかならなかった。かように、私を侮辱する奇怪な形式を受け容れる生活に、このうえ踏みとどまっていることはできない。この幽霊が私をはずかしめたのだ。大蜘蛛の姿をして現われる暗愚な力に、私はどうしても降伏することができぬ。やがて早くも黄昏《たそが》るるころとなって、ついに断固たる決意を十分に心に感じた時に、私ははじめてのびのびとした気持になった。これはほんの序幕であり、次の幕ではもう私は、パヴロフスク行きの汽車の中に身を置いていた。ところでこのことはもう十分に説明しておいたところである。
[#改ページ]
七
「私は小さなポケット用のピストルを持っている。これはまだ私が子供のころに買い入れたもので、決闘だとか強盗の襲撃だとか、どういう風にして決闘の申込みをうけ、どんなに潔くピストルの的になるべきかというような話が、急に好きになってくる、笑止千万な年ごろのことであった。ひと月ほど前に私はこれをあらためて、もしもの時の用意をしておいた。今までしまってあった箱の中を捜したら、二発の弾丸《たま》があり、薬筒には、三発分の火薬があった。このピストルたるや、実にやくざなしろもので、側のほうへそれてしまうので、せいぜい十五歩くらいの間でしかあたらなかった。といっても、これは言うまでもないことではあるが、こめかみへぴったりと当てて射てば、頭蓋骨をへし曲げるくらいのことはできるのであった。
「私は日の出るころに、パヴロフスクで死のうと覚悟を決めた。しかも別荘の誰にも心配をかけないように、ひとり公園へ行って死のうとしたのである。私の『告白』は警察に対して、事件の顛末《てんまつ》を十分に説明するに足るであろう、心理学に興味を寄せている人や、そのほか必要のあるかたがたは、この『告白』からなんとでも、都合のいいように、結論を下されるがよろしい。それにしても、私はこの原稿が公けにされないようにと念じている。なるべく公爵に写しの一部を手もとに保存し、さらに一部をアグラーヤ・エパンチナに渡していただきたいと思う。これが私の本懐である。ここに遺言して、私の遺骨は学術研究の資料として、医科大学へ寄付することにしよう。
「私は私を裁こうとする人を認めない。私は今、あらゆる法権の外に立っていることを知っている。ついさきごろ、こんなことを予想して吹き出してしまった。もしも今、急に私が手当たり次第に、一度に十人くらいの人を殺すとか、この世の中でとにかく最も恐ろしいことと考えられている何か最もすさまじいことをしてみようと考えついたら、余命わずか二、三週間にして、拷問も折檻《せっかん》も何の役にも立たない私の前に立つ裁判官はいかなる苦境に陥るであろうかと。私は注意深い医者がついていて、おそらくは自分の家よりもはるかに居心地がよく温かいお上《かみ》の、病院で、温まりながら、眠るがごとき往生を遂げるであろう。私と同じ境遇にいる人々に、たといほんの冗談にもせよ、これしきの考えが、どうして念頭に浮かばないのか、私には呑み込めない。もっとも、ことによったら、浮かんでいるのかもしれない。この国には、そのくらいのことを考える陽気な連中が、ざらにいるのである。
「しかし、私がいくら私に対する裁判を認めないとはいっても、すでに、耳も聞こえず、口もきけないような被告になりながらも、裁判をされるくらいのことは、やはり承知している。私は答弁のことばを、――強制されたのではない自由なことばを残さずに、この世を去って行くに忍びない。それもけっして、弁解のために言おうというのではない。ああ、そうだとも! 誰にあやまることもなく、あやまるべきいわれもない。ただ自分でそうしたいから言うだけのことなんだ。
「ここに、まず第一に奇怪な観念がある。というのは、せいぜい二、三週間くらいの寿命しかない私の権利を、無効ならしめようなどという了簡を、いったい、誰が、いかなる権利を楯《たて》にとって、いかなる動機によって起こしたのであろう? 今ごろ、裁判なんかというものに、何の用事があるものか? 私が単に宣告を受けるばかりではなしにおとなしく刑期を耐え忍ぶということが、いったい、誰様のためになるのだ? 実際に、誰かにとって必要だというのか? 道徳のためにでもなるというのか? もしも私があふれるような健康と力とをもちながら、『隣人、およびその他の者に対して有用の材となりうべき』自身の命をそこねるのであったら、私が勝手に自分の命を持ち扱ったとか、あるいはおきまりのいわくをつけて道徳のとがめを受けもするだろうことは、よくわかっている。ところが、今は、すでに刑の期間までも宣告されている今はどうなるのだ? いったい、道徳というものは、生命《いのち》ばかりではなしに公爵の慰めのことばに耳を傾けながら、この世の命の最後の原子《アトム》に別れを告げるときに発する臨終のひと息までも必要とするものなのか? ときに、あの公爵は必ずやキリスト教的論拠に立って、――実際、あんたの死ぬのは何よりも結構なことだというようなはなはだおめでたい思想に到達するにきまっているのだ(彼のごときキリスト教徒は、常にこの観念に到達する。これが彼らの奥の手なのである)。彼らはあの笑止な『パヴロフスクの木立』を種に、いったいどうしようというつもりなのか? 私の生涯の最後の何時間かを和らげようというのか? あの連中は生と愛との最後の幻影によって、あの『マイエルの家の壁』や、淡白に、無邪気に書きつけてあるその上のあらゆる文字をすっかり私の眼から隠してしまおうとしているけれど、私は夢中になればなるほど、私がわれを忘れれば忘れるほど、ますます彼らは私を不幸にするのだということが、はたして、あの人たちには悟れないのか? 君たちの自然、君たちのパヴロフスクの公園、君たちの日の出、日の入り、君たちの青空、君たちの満ち足れる顔も、――今や果てしない饗宴が、ただひとりの私をよけい者と数えて、それを皮切りにいよいよ始まっているとき、――いったい、この私にとって何になるのか? いま私のそばで日の光を浴びながらうなっているいとささやかな一匹の蠅さえも、この饗宴と合唱《コーラス》に加わり、みずからの所を心得て、これを愛し、幸福に浸っているのに、この私ひとりだけが見すてられているのだと、何もかも美しい中にあって、一分一秒ごとに、むりやりにでも感じなければならないのだ。今までは狭い了簡のために、このことを悟ろうとしなかったまでなのだ! ああ、私は知っている、公爵はじめその他あらゆる人たちは、私をこのような『狡猾な、意地の悪い』ことを言う代わりに、お行儀よく、道徳の勝利のために、有名なミルヴァの古典詩〔この詩は事実においては、ギルバートの作詩であった〕の一節を朗吟するくらいに、しむけてやろうと考えていたらしいことは、よく自分も承知している。
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Ah,puissent votre longtemps votre deaute sacree
Tant d'amis sourds a mes adieux!
Qu'ls meurent pleins de jours, que leur mort soit pleuree,
Qu'un ami leur ferme les yeux!
(大意)ああ、わが別れのことばに、心をとめぬあまたの友も、なれがとうとき美を末ながく心にとめて、光につつまれ、人々の涙のうちにこの世を去りて、友ありてかたき瞼《まぶた》をとざさんことを。
[#ここで字下げ終わり]
「だが、信じてくれ、心から信じてくれ、世のおめでたい人々よ、このお行儀のいい詩の中にも、このフランスの詩のアカデミックなこの世を祝福することばの中にさえも、韻律《いんりつ》の中でせめてもの気晴らしをするような、あきらめきれない執念と、奥深い憤懣《ふんまん》の情とが潜んでいることを。また詩人みずからさえも、おそらくは窮境に陥って、この恨みを感激の涙と思い違えたまま、死んで行ったに相違ないのだ。まことにおめでたい大往生ではある! また、こんなことも申し上げたい、人間のはかなさ、頼りなさの自覚のうちにも、それから先へはもう踏み出すことができず、踏み出した時には人間が自己の醜態の中に、大いなる歓びを感じ始めるというような一定の限界があることを。……さて、もちろん、この意味においてあきらめなるものが偉大なる力となるのだ、これは私も肯定する、――もっとも、宗教があきらめを力と見なすのとは、意味が違うけれど。
「宗教! 私は永生を認めている、おそらく、今までも常に認めてはきたかもしれぬ。至高の神の意志によって、自覚が焼きつくされようとも、この自覚が世界をふり返って、『われ有り!』と言おうとも、また至高の神によって、これこれの目的があるからと言い、――それどころか目的も説明しないで、ただ必要があるからと言って、死んでしまえと命令されてもいっこうかまわない、そんなことは何もかも平気である。しかし、それにしても、『だからといって、何のためにおれのあきらめが必要なのだ?』という相変わらずの疑問がやはり残る。私を食った者に対して、讃辞をささげることなどを私に要求しないで、あっさりと食ってくれないものかしら? この二週間を私がおとなしく待とうとしないからといって、はたして事実において、誰か腹を立てる人があるのだろうか? そんなことは信ずるわけにはいかない。それよりも、こう想像したほうがはるかにもっともらしい。つまり、ただ何かしら全体としての宇宙の調和のためとか、プラスやマイナスとかいうようなもののためとか、あるいは何かの対照とか、かようなもののために、取るにも足らぬ私の生命が、原子の生命が必要なのであろうと。それはちょうど、数百万の生物の命が、それ以外のものの世界を維持するために、毎日のように犠牲に供されるのと、同じわけであろう(もっとも、この思想がそれ自身として、それほど立派なものでないことを指摘しておかなければならぬ)。ところで、そうなってもかまわない! こうしなければ、すなわち、絶え間なく互いの肉を食いあわなければ、世の中を組織だててゆくことはどうしてもできないのだ、――ということには、私も同意している。のみならず、この組織について、自分に何もわからないと言われても、別に私は異存はない。けれども、その代わりに、次のことはしっかりと承知している。つまり、もしも『われは有り』という自覚を与えられたものとすれば、世の中が幾多の誤謬《ごびゅう》をもって組織されていて、そうでなければ世の中というものがどうしても立っていけないのだとしても、そんなことはもう私には知ったことではないのである。まずそういった次第なのだから、誰にもせよ、私をかれこれと批判する筋合いはないのである。なんと言おうとも、そんなことは不可能なことであり、不公平な話である。
「それにしても、私は一生懸命に念じてさえもいるのに、来世というものも、神というものもないのだとは、どうしても想像することができなかった。最も正確な言い方をすれば、来世も神の摂理もあるにはあるのだが、われわれは来世についても、その法則についても少しも悟るところがないのだということになる。もしも、これを悟ることが非常に困難な、むしろ全く不可能なことでさえもあるならば、私がその不可解なことを会得しえなかったからといって、はたしてそこに何の責任を負う必要があるのか? 彼らが、いうまでもなく公爵もその一人として、――かような場合には服従が必要なのである、なんのかのと理屈を言わないで、ただおとなしく服従しなければならない、従順であればそれは必ずあの世で報いられる、――と彼らが私に言うことはなんの間違いもない。われわれは、自分たちが神を理解しえない腹立ちまぎれに、自分たちの概念を神に押しつけて神をあまりにもつまらない者にしすぎている。が、なんといっても、やはり、神を理解できないとすれば、人間に理解することを許されないということに対して、くり返すようではあるが、責任を持つことは困難なわざである。もしも、事情かくのごとくであれば、私が神の真の意志と法則とを理解することができないからといって、私を批判することなどは、できようはずがないのである。いやいや、もう宗教談のことはこれくらいでよすことにしよう。
「ああ、もうたくさんだ。私がこの辺まで読んでくるうちには、必ず太陽が昇って、『空に鳴り始め』、大きな量り知られぬ力が宇宙にみなぎり渡ることであろう、それもよい! 私はこの力と生の泉を目のあたり眺めながら、この世を去るのだ、この命は欲しくはない! もしも、私が生まれないだけの権力を持っていたなら、必ずや、こんな人をばかにしたような条件によって、存在を肯《がえ》んずるようなこともなかったはずである。しかし、私はもう寿命がきまっているにしても、なお死ぬだけの権力はもっているのだ。権力は大きくはない。したがって、また叛逆も大きくはない。
「さて、いよいよ最後に告白をしておきたい、すなわち、私が死のうとするのは、けっしてこの三週間を耐え忍ぶ力がないからではないのである。おお、私は十分の力をもっている。もしも、その気にさえなれば、自分の受けた侮辱の自覚にだけでも十分に慰めを得たことであろう。しかし、私はフランスの詩人でないので、かような慰めはほしくはない。ついにまた、誘惑がやって来た。自然は例の三週間の宣告によって、はなはだしく私の行為を制限してしまったので、もうおそらくは、私が自分自身の意志のみによって終始一貫しうる唯一の業といえば、ただ自殺あるのみであろう。さてさて、私は自分の仕事の最後可能性を利用しようとしているのかもしれない。反抗も時としては、ただごとではなくなる……」
『告白』はここに至って終わりを告げた。イッポリットはついに口をつぐんだ。
これは極端な場合のことではあるが、神経質な人間が激昂してわれを忘れて、もはや何人びとをも恐れず、いかなる醜態をも演じかねない状態に陥り、それをするのが、かえって気持よくさえもなって、他の人々にとびかかって行き、しかもその際に、はっきりしたものはないが、堅固な目的を、つまり、醜態を演じたらすぐに、高い鐘楼の上から飛びおりて、もしも何か困るようなことが起こったら、一挙に死をもって解決してしまおうというくらいのつもりになるときは、皮肉《シニカル》な露骨さが極端にあらわれる。たいていは、しだいに募ってくる肉体力の衰弱がかような状態の徴候となる。今までイッポリットをささえていた異常な、ほとんど不自然ともいうべき緊張はついにこの極端に達した。見たところでは病気にやせ衰えたこの十八の少年は、樹の枝から離れて震えている一枚の木の葉のように弱々しく見えたが、一時間も読み続けてから、はじめて聞いている人たちのほうをちらりと見渡したかと思うと、――たちまちにして、非常に高慢な、人を軽蔑するような、腹立たしげな嫌悪の表情が、その眸にもそのほほえみにも浮かんできた。彼は急いで、挑戦しようとした。しかし、聴衆は全く憤慨しきっていた。誰もが、がやがやと、気を悪くして、テーブルのところから立ち上がった。疲労と酒と緊張とが、その場のだらしなさと、もしそんなことが言えるならば、印象の汚らわしさともいうべきものをいっそうはなはだしいものにした。
不意にイッポリットははじかれたかのようにいきなり椅子から飛び上がった。
「陽が昇った!」と、輝きそめた樹々の梢を眼にとめて、彼はまるで奇跡か何かのように、公爵に向かってそのほうを指しながら大声をあげた、「昇った!」
「いったい、君は昇らないとでも思ってたんですか、え?」とフェルデシチェンコが口を出した。
「また一日、暑くなるんだ」とガーニャは帽子を手に、伸びをして、あくびをしながら、気のない、いまいましそうな調子でつぶやいた、「こんなにひと月も、照りが続いちゃたまらん!……プチーツィン、出かけようか、どうだえ?」
イッポリットは棒立ちになるほど驚いて、聞き耳を立てていたが、ふっと、恐ろしいくらいになって、からだじゅうぶるぶると震えだした。
「あなたは僕をはずかしめようとして、平気を装ってなさるけれど、実にぎごちないですね」と彼はガーニャの顔をじっと見据えながら、ことばをかけた、「あなたはごろつきです!」
「ふむ、なんてえ体たらくだ!」とフェルデシチェンコがわめきだした、「なんてえそのざまはいくじなしなんだろう!」
「なあに、ただばかなのさ」とガーニャが言う。
イッポリットはいくらか、きりっとした。
「皆さん」と、彼は相変わらず、ぶるぶると震えながら、ひと言ひと言に声をとぎらしながら言いだした、「あなたがたから、個人としての恨みを買ったことは、よく私も承知しています。そして、……この寝言をお耳に入れて、あなたがたを退屈させたのを残念に思っています(と彼は原稿を指さした)、それにしても、ちょっともその効きめがなかったのが残念でなりません……(と彼はばかのような薄ら笑いをした)。効いたでしょうかね、エヴゲニイさん?」だしぬけに彼は一転して、こんな質問を発した。「効いたか効かないか? 言ってみてください!」
「少し長ったらしかったですね、でも、……」
「すっかり言ってください! せめて一生に一度だけでも嘘を言わないことにして!」イッポリットは身を震わせて、こう命令した。
「おお、僕はそんなことはどうだってかまわないんです、お願いですから、そっとしといてください」とエヴゲニイは気むずかしそうに傍を向いてしまった。
「じゃ、おやすみなさい、公爵」とプチーツィンが公爵に近づいた。
「まあ、今にもこの人がピストル自殺をしようっていうのに、いったい、あなたがたはなんです! ちょっとあの人を見てごらんなさい!」叫んで、ヴェーラは驚愕に色を失いながらイッポリットのほうへ飛んで行って、その手を押さえさえもした、「だって、この人は日の出といっしょに自殺をするって、そう言ったじゃありませんか。それだのに、まあ、いったい、あなたがたは!」
「自殺なんかしないよ!」と、幾人かの人の声が、表向きは事もなげにつぶやいたが、そのなかにはガーニャも加わっていた。
「皆さん、気をつけてください!」と、やはりイッポリットの手を押さえて、コォリャが叫んだ。「まあ、ちょっとこの人見てごらんなさい? 公爵! 公爵! あなたはいったいどうしたんです!」
イッポリットのまわりにはヴェーラ、コォリャ、ケルレル、ブルドフスキイが集まった。合わせて四人の者が彼の手をつかまえた。
「この人は権利を持っている……権利を……」とブルドフスキイは口の中で言ったが、自分もやはり、全く途方に暮れているらしかった。
「失礼ですが、公爵、あなたはどういう処置をおとりになるんです?」とレーベジェフは公爵の傍へ近寄って来たが、酔っ払って、あまりにも激昂していて、無礼なくらいであった。
「どういう処置って?」
「いやはや、失礼ですけれども、わたしはここの主人なんでございますよ、……けっして、あなた様に敬意を払うのをずるけてるわけではございませんが、……まあ、かりにあなた様がここの主人だとしましても、自分の持ち家でこんなことになるなあ、いやでしてね、……私は……」
「自殺なんかしやしないよ、小僧っ子が甘いまねをしてるだけなんだ!」と、イヴォルギン将軍がいきなり、慨嘆にたえぬというように、しかも泰然自若として叫ぶのであった。
「ようよう、将軍様!」とフェルデシチェンコが賞めはやした。
「承知していますよ、自殺しないってことは、ねえ、将軍、でも、やはり……なにしろここの主《あるじ》なもんですから」
「ちょっと、チェレンチェフ君」と、プチーツィンは公爵にいとまを告げてから、イッポリットに手を差し伸べながら、言いだした、「君はその手帳のなかで、御自分の遺骨のことを言ってたようですね、大学へ寄付しようっていうんですね? あれは君の遺骨のことでしょう、御自分の、つまり、君のお骨《こつ》を寄付するっていうんでしょう?」
「そうです、僕の骨です……」
「なるほど。うっかりしてると、間違う気づかいがあるもんですから。すでに、そんな場合があったそうですよ」
「どうしてあなたは、この人をからかうんです?」だしぬけに公爵が叫んだ。
「とうとう泣かせちゃった」とフェルデシチェンコが付け足した。
しかし、イッポリットはけっして泣いてはいなかった。彼は席を離れようとしていたが、ぐるりにいる四人の人たちが、たちまちいっせいにその手をつかんでしまった。どっと笑う声が聞こえる。
「つまり、手をつかませるようにしむけたんだ。そのために手帳を読んだんだ」とラゴージンが言った、「さようなら、公爵! やれやれ、長居をしてしまって、骨が痛い」
「チェレンチェフ君、君は本当に自殺するつもりだったかもしれんけど」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは笑いだしてしまった、「僕が君の位置にいてあんなお世辞を言われたら、みんなをからってやるために、わざと自殺しないでしまうんだが」
「あの連中は、僕が自殺するのを見たくて見たくてしようがないんだ!」と、イッポリットは彼に食ってかかった。
彼はまるで飛びかかるような調子で物を言った。
「見られないもんだから、口惜しがってるんだ」
「それじゃ、あんたは見られないと思ってるんですか?」
「僕はけっして君をおだててるわけじゃありませんよ、それどころか、僕は君が自殺されるくらいのことは大ありだろうと思ってるんですよ。だが、まあ、怒らんことが肝心ですよ……」エヴゲニイはかばうような口調で、だらだらと言っていた。
「僕はやっと今になってわかった。この連中に原稿を読んで聞かせたのは、とんでもない間違いだった」と、イッポリットはまるで親友に向かって友情のこもった助言を求めるかのように、急に信頼に満ちた面持ちで、エヴゲニイのほうをながめながら、もらすのであった。
「君もずいぶんばからしい立場だけれど、しかし、……実際、どんな助言をしたらいいか、わかりませんね」エヴゲニイはほほえみながら答えた。
イッポリットはじっと眼を凝《こ》らして、相手をにらんだまま、ひと言も言わなかった。時おりは、全く意識を失ったかとも思われるくらいであった。
「いや、失礼でござんすけれど、いったい、なんていうしぐさでござんしょう」とレーベジェフが言いだした、「『誰にも心配をかけないように、ひとり公園へ行って死のう』だなんて! 梯子段から三歩も下へおりて、庭へ出れば、もう誰にも心配をかけないなんて、そんな了簡でいるんですからね」
「皆さん……」と公爵が言いかけた。
「いや、失礼ではござんすけれど、公爵様」とレーベジェフはいきり立って、さえぎった、「あなたも御自分でごらんのとおり、これはけっして冗談じゃございませんし、少なくとも、お客様の半数は、わたくしと同意見で、たしかにそう思っていらっしゃることと存じますが、今ここで、こんなことを言ったからには、必ず、男を立てて自殺しなくちゃなりません。そういうことが皆さんおわかりだとすれば、わたしはここの主《あるじ》として、あなた様に加勢をしていただきたいということを、証人のいる前で、はっきりと申し上げたいんでございます!」
「何をしたらいいんですか、レーベジェフさん? 加勢なら喜んでいたしましょう」
「それは、こうでございますよ。第一にですね、あの人が私たちの前で御自慢なすったピストルを、付属品ぐるみ、さっそく渡してもらいたいのです。もし、引き渡してくれれば、病態に免じて今晩はこの家へ泊らせるのに異存はありません。もっとも、いうまでもなく、わたしのほうから監視をおくということにしましてですね。でも、明日になったら、ぜひとも、どこへなりと勝手に出て行ってもらいます。ぶしつけなことを申しまして相済みませんね、公爵! もしかして、火道具を渡してくれなかったら、さっそく、わたしはあの人の手を取って、わたしが片手を、将軍が片手を取って、じきに警察へ使いをやって知らしてやります。そうすれば、もうこの事件は警察の調べに移るんでございますから。フェルデシチェンコ、君は友だちのよしみで、行って来てくれるでございましょう」
騒ぎが持ちあがった。レーベジェフは熱くなって、無遠慮になっていた。フェルデシチェンコは警察へ行くしたくをし、ガーニャは猛烈に、誰も自殺をする者なんかいやしないと主張してやまなかった。エヴゲニイは黙っていた。
「公爵、いつかあなた鐘楼から飛びおりたことがありますか?」と、だしぬけにイッポリットがささやいた。
「い、いいえ……」公爵は無邪気にこう答えた。
「あなたは僕がこんなに皆から憎まれるってことを、前に気がつかずにいたと思いますか!」眼を輝かして、公爵を見つめながら、イッポリットはまたもやささやいたが、実際に相手の返答を待ちうけているらしかった、「たくさんです!」と、いきなり彼は一座の者に向かってわめき立てた、「僕が悪かったんです、……誰よりも! レーベジェフさん、ここに鍵があります(と彼は財布を取り出して、その中から三つ四つ小さな鍵のついた鋼鉄の環を引き出した)。この最後から二番目の……そう、コォリャが教えてくれますよ……コォリャ! コォリャはどこに?」コォリャを見ていながら、彼にはそれがわからずに、叫ぶのであった、「そう……あれに教えてもらってください。さっき、僕といっしょに鞄《サック》をかたづけたんですから。コォリャ、案内してあげて。公爵の書斎のテーブルの下に、……僕の鞄《サック》がある……この鍵であけて、……その下の箱の中にピストルと火薬筒がある。レーベジェフさん、さっきこの子が自分でかたづけたんですから、この子が教えてくれるはずです。でも、僕が明日の朝早くペテルブルグへ行く時は、ピストルをまた返してくださるという条件つきですよ、いいですか? こんなことを僕がするのも公爵のためで、あなたのためじゃありません」
「いかにも、そのほうがいい!」とレーベジェフは鍵を引っつかんで、毒々しい薄ら笑いを浮かべながら、隣りの部屋へ走って行った。
コォリャは立ち止まって、何かしら言いたげであったが、レーベジェフはどんどん、引っぱって行った。
イッポリットは笑っているお客たちを見まわした。公爵は彼の歯が、あたかも強烈な悪寒におそわれているかのように、がたがたと音を立てているのに気をとめた。
「あの連中はなんていうごろつきなんでしょう!」と、イッポリットはまたしても憤激して、公爵にささやいた。彼は公爵と口をきくとき、いつもかがみかかって、ささやくのであった。
「あんな人たちは放っときなさい。君は非常に弱ってるんだから……」
「すぐに、すぐに……すぐに、出て行きます、僕は」
いきなり彼は公爵を抱きしめた。
「あなたはたぶん、僕を気ちがいだと思ってなさるでしょうね?」と、彼は妙な笑い方をして、相手の顔を眺めた。
「とんでもない、……しかし、君は……」
「すぐに、すぐに、黙っていてください。もうなんにも言わないでください。じっと立っててください、……僕はあなたの眼を見たいんです、……そのとおり立っててください、僕は見るんですから。僕は人に別れるんです」
彼はじっと立って、身じろぎもせずに公爵を見つめていた、口をつぐんで十秒間も。汗のためにこめかみの毛は乱れ、顔は青ざめて逃げられては大変だとでもいうように、なんとなく妙な格好をして、公爵をつかまえていた。
「イッポリット、イッポリット、どうしたの、君は?」と公爵は叫んだ。
「すぐに、……もうたくさん……僕は寝みます。太陽の健康を祝してほんの一口、飲もう……飲みたいんです、飲みたいんです、放してください!」
彼は手早く椅子の上のコップを取って、勢いすさまじく席から飛び上がって、またたくうちに露台《テラス》の降り口へ近づいた。公爵はあとを追いかけようとしたが、あいにく、わざと仕組んだかのように、ちょうどこのときエヴゲニイがいとまごいをしながら、公爵のほうへ手を差し出した。ほんの一秒たったと思うと、だしぬけに露台でみんなの叫ぶ声が聞こえた。それに続いて極度の狼狽《ろうばい》の一分間がやって来た。
事の成りゆきはこうであった。
露台の降り口へ近づくと、イッポリットは左の手にコップを持ったまま、立ち止まって、右の手を外套の右ポケットへ突きこんだ。あとでケルレルの保証するところによると、イッポリットはまだ公爵と話しているときから、ずっと右手をこのポケットへ入れたままで、左の手で公爵の肩や襟をおさえていたという。また、このポケットへ入れたままの右手は、彼の心に最初に不審の念というようなものを起こしたと、こうもケルレルは断言するのであった。そこにどんなことがあったにしても、ある種の不安にかられて、彼はイッポリットのあとを追い駆けて行ったのである。しかし、もうすでに時はおそかった。彼はただ、不意にイッポリットの右手に、何かがひらめいたのを見たばかりであった。その刹那に、小さな懐中用のピストルは、彼のこめかみにぴったりと押し当てられていた。ケルレルは彼の手をおさえようとして飛びついたが、その瞬間にイッポリットは引き金を引いた。鋭い、乾いたような引き金の音が聞こえたが、続いて発射の音は聞こえなかった。ケルレルが抱きとめたとき、イッポリットは気を失ったかのように、その手に倒れかかった。おそらく、実際に自分は死んだものとばかり思い込んでいたのであろう。ピストルはもうケルレルの手にあった。あたりにいた人はイッポリットをつかまえて椅子を差し出し、その上に腰をかけさせた。一同はそのまわりに寄って来て、大きな声でわめきながら、どんなになったのかと聞いていた。引き金の「かち」という音は聞こえたが、見れば、当人は生きているばかりか、かすり傷さえも負っていないのであった。イッポリット自身はどんなことになるのかわからないで、ぼんやりと腰をかけたまま、ぼんやりした眸を一同のうえに投げて行った。このときレーベジェフとコォリャが駆け込んで来た。
「不発だったのかしら?」と周囲の者が尋ねた。
「ひょっとすると、装填《そうてん》してなかったのかもしれない」と臆測する者もあった。
「装填してある!」と、ケルレルがピストルをあらためながら叫んだ、「しかし……」
「いったい不発だったんですか?」
「まるで雷管がないんです」とケルレルが叫んだ。
これに次ぐ哀れな場面は、物語るのさえも容易ならぬものであった。最初の一同の驚きは、たちまちに笑いと変わってきた。なかにはこの出来事に意地の悪い歓びを見いだして、声を立てて笑いだしたりした者すらあった。イッポリットは癪《しゃく》でもおこしているかのように、すすり泣きしながら、自分の手を固く握りしめて、誰彼の差別なしに飛びついた。フェルデシチェンコにさえも飛びついて、両手で彼をおさえながら、雷管を入れ忘れたこと、「ついうっかりしていたので、わざと忘れたわけではなく、雷管はすっかりこのチョッキのポケットの中にある、十ばかりある」と誓うのであった(彼はあたりの人にそれを出して見せた)。また、彼が初めから入れなかったのは、ポケットの中で発射しては困ると思ったからで、必要のある時には、いつでも間に合わすことができると考えていたのに、ふっと忘れてしまったのだとも言っていた。彼は、公爵やエヴゲニイに食ってかかったり、ケルレルに泣きついたりして、ピストルを返してくれと哀願し、「すぐにでも自分の廉恥《れんち》心……廉恥心のあることを証明して見せます」と言ったり、「僕はいま永久にはずかしめられた!」と言ったりした。
とうとう彼は実際に意識を失って倒れてしまった。彼は公爵の書斎へ運ばれて行った。すっかり酔いの覚めてしまったレーベジェフは、すぐに使いを出して医師を迎えにやって、自分は、娘や息子やブルドフスキイや将軍といっしょに、病床に付き添っていた。感じのなくなったイッポリットが運び出されたとき、ケルレルは部屋のまん中にすっくと立ち上がって、ひと言ひと言はっきりと発音しながら、ひどく感激して、誰にも聞こえるような大きな声で叫んだ。
「諸君、もし諸君のうち誰にもせよ、僕のいる前で、もう一度、わざと雷管を忘れたんだとか、不仕合わせな青年が単なる喜劇を演じただけだとか、かりそめにもそんなことを聞こえよがしに言う者があったら、――誰でも僕が相手になります」
しかし、答える者はなかった。ついにお客たちはあわてて、がやがやと騒ぎながらその場を離れて行った。プチーツィンとガーニャとラゴージンとは連れ立って出て行った。
公爵はエヴゲニイが予定を変更して、別になんの話もなしに、立ち去ろうとするので、ひどくあきれてしまった。
「あなたはみんなが帰ったあとで、わたしに話したいことがあるって、そうおっしゃったじゃありませんか?」と彼は尋ねた。
「たしかにそのとおりです」と、エヴゲニイは急に椅子に腰をおろして、公爵をわきに坐らせながらこう言った。「でもわたしはひとまず予定を変更することにしました。正直に言いますと、わたしは少しまごつかされたんです。あなたも御同様でしょう? わたしは考えがめちゃくちゃになっちゃったんです。おまけにあなたと御相談したいことは、わたしにとって、大事なことで、これはいやあなたにとっても大事なことです。実はね、公爵、わたしはせめて一生にただ一度なりと、全く潔白な事を、つまり、全く妙な下ごころなしに、やってみたいと思うのですが、さて、今日という今日は、全く潔白な事をする能力を持ち合わしてはいないように思うのです。しかし、あなただって、やはりそうでしょう……そこで、その……いや、またあとで御相談しましょう。今度わたしは、三日ばかりペテルブルグへ行って来ますが、そのあいだ待っていたら、おそらく、問題はお互いにはっきりしてくるだろうと思います」
と言って、彼はまたもや椅子から立ち上がった。そんなくらいなら初めに何のために腰をかけたのかと不思議なくらいであった。また公爵にはエヴゲニイが不満をもっていらいらしながら、恨めしそうに自分を見ているが、その眼つきはさっきとはまるで違っているのだと、そういう気がするのであった。
「ところで、あなたはいま患者のほうへ?」
「そう……しかし、僕が気づかいなのは……」と公爵は言いだした。
「気にかけることはありませんよ。きっと六週間くらいは生きのびるでしょう、ことによったら、ここですっかりなおってしまうかもわかりませんから。でも、おして、追い出してしまうのが何よりですね」
「たぶん、僕はほんとにあの人を突き出したかもわかりません、なにしろ……僕は何も話さなかったんですからね。ひょっとすると、あの人は自殺をはかったのを僕が疑っているとでも思ってるでしょうよ。あなたどう思いますか、エヴゲニイさん?」
「けっしてけっして。あなたまだそんなことで気苦労するなんて、あんまりお人好しすぎますよ。よく人に賞めてもらいたいためだとか、また賞めてもらえなかった恨みとかで、わざと自殺する人があるって話は聞いてましたが、今までに本当に見たことはなかったのです。しかし、何よりも本当にすることのできないのは、あの弱気の見本ですね! が、とにかく明日はあれを追い出してしまいなさい」
「あなたはもう一度、あの人が自殺すると思いますか?」
「いいえ、今度はもうやりませんよ。でも、わが国のあんなぶざまなラセネールにはお気をつけなさいよ。もう一度言うようですが、あんな天分のない、気短かな、そして欲の深いやくざ者にとって、犯罪というやつはあまりにもありふれた逃げ道なんですからね」
「あれはいったい、ラセネールでしょうか?」
「やり口はいろいろあるでしょうけれど、本質《もと》は同じですね。見てらっしゃい、さっきあの人が自分から『告白』の中で言ってましたが、ちょうどそのとおりに、ただ男一匹の慰みのために、十人の人を殺す腕前があるかどうか。僕はあんなことを聞いたので、寝られそうもありません」
「あなたは、気をつかいすぎるようですね」
「公爵、あなたは実に見上げたものですね。あなたは、今あの人が十人もの人を殺す腕前があると、そうは思いませんか?」
「あなたに返事するのはこわいですね、僕は。これはみんな妙ですけれど、でも……」
「まあ、お好きなように、お好きなように!」と、エヴゲニイはいらだたしげにことばを結んだ。「おまけにあなたはそんなに勇敢な人なんですからね。でも、御自分でその十人の数へはいらないでくださいよ」
「でも、あの人はたいてい人殺しなんかしないでしょうよ」と、物思わしげにエヴゲニイを見つめながら、公爵が言った。すると、相手は、意地悪そうに笑いだした。
「じゃ失礼、だいぶおそいですから! ところで、あなたは気がつきましたか、あれがあの告白の写しを、一つをアグラーヤさんにと遺言したのを?」
「え、気がつきました。そして……そのことを考えているところです」
「なるほど、十人殺しのときは……」とエヴゲニイはまたもや笑いだして、外へ出て行った。
一時間ののち、もう三時過ぎにもなっているのに、公爵は公園へおりて行った。彼はうちで寝《やす》もうとしたが、心臓の動悸がはげしくて、だめであった。それにしても、家の中はすっかりかたづけられて、できるだけ静かにされていた。病人は眠り込んで、往診に来た医師は、特にこれというほどの危険はないと言った。レーベジェフとコォリャとブルドフスキイは交代に宿直をすることになって、病人の部屋で横になった。したがって、今は何も心配するものはなくなっていた。
しかし、公爵の不安は一刻一刻と募るばかりであった。彼はぼんやりと、あたりを見まわしながら、公園をぶらついていたが、ふと驚いて立ち止まった。いつの間にか停車場の前の広場のところまでやって来て、人のいないベンチの列や、オーケストラの楽譜台の列を眼にとめたからであった。ここへ来ると恐怖を覚えて、なぜかしら、彼にはおそろしく醜い場所のように思われた。そこで、彼は踵《きびす》を返して、ひたすら昨日、エパンチン家の人たちといっしょに、停車場へ行ったときと同じ道をたどって、あいびきに指定された緑色のベンチに近づいて、どっかと腰をおろし、いきなり彼は大きな声を立てて笑いだしたが、すぐにそのことによって極度の嫌悪の情を感ずるのであった。わびしさはいつまでも続いていた。彼はどこかへ行ってしまいたかった……しかし、どこへ行っていいのやら、自分でもわからなかった。ま上の一もとの樹に、小鳥が鳴いていた。彼は葉がくれに眸を移して、小鳥を捜し始めた。と、不意に小鳥が樹から飛び立った。その瞬間に、どうしたわけか彼の胸にはイッポリットの書いた『熱い日の光を浴びている一匹の蠅』、『この蠅すらも宇宙の饗宴に加わり、みずからの所を心得ているのに、この私ひとり見すてられているのだ』ということばが浮かんできた。その一句はさっきも彼の胸を打ったが、今もこのことが思い返されるのであった。とうの昔に忘れ果てた一つの思い出が、彼の胸のなかにうごめきだして、たちまちにして、一時に、はっきりしたものとなってきた。
それはスイスへ行って治療をうけていた最初の一年、というよりも、最初の三、四か月の間のことであった。そのころ、彼はまだ全く白痴も同然で、一人前に話をすることさえもできず、ときには、人に要求されることすらも呑みこめないことがあった。ある時のこと、よく晴れた麗らかな日に山に登って、いい知れぬ悩みをいだきながらしばらくあちらこちらをさまよっていた。前には輝かしい青空があって、見おろせば、湖水あり、周囲には、きわまるところもない、明るい、果てしのない地平線が見えていた。長いこと彼はこの景色に見とれながら、苦痛を感じた。この明るい、果てしのない青空に自分が手をさしのべていたことを思い出して、彼は男泣きに泣くのであった。彼を悩ましたのは、これらすべてのものに対して、自分はなんの縁もゆかりもない、という気持であった。昔から、まだ子供の時分から、いつも心をひきよせられて、しかも、彼にはどうしても加わることのできない、この果てしのない不断の大祭、大饗宴は、いったい、なんだというのか? 朝な朝な、同じような輝かしい太陽が昇り、朝ごとに、滝の上には虹がかかり、夕べとなれば、遠いあなたの空の果てに、雪におおわれた、いと高い山が、紫の炎のように燃えあがる。『いま私のそばで、熱い日の光を浴びているいとささやかな一匹の蠅さえも、宇宙の合唱《コーラス》に加わり、みずからの所を心得て、これを愛し、幸福に浸っている』のだ。草という草は生い立ち、めぐまれている! あらゆるものに自分の道があり、あらゆるものが行くべき道を知っている。歌とともに遠ざかり、歌とともにやって来る。ただひとり自分だけが何一つ知るところなく、何一つ悟ることなく、人を知らず、音をも悟らず、あらゆるものに縁もゆかりもなく、のけものとなっているのだ。ああ、彼はもとより、この時にかようなことばをもって、みずからの疑惑をあらわすことはできなかった。彼は声もなく、唖《おし》のように悩むばかりであった。しかも、今になって、彼にはそのころの自分がこうしたことを何もかも、このようなことばで述べたような気がするのであった。また、あの『蠅』のことも、イッポリットが、そのころの彼自身のことばと涙のなかから、取って来たかのように思われた。彼はたしかにそうだと思い込んでいたが、このことを思うと、何がなし動悸がはげしくなってきた。……
彼はベンチの上で眠りにおちたが、不安の念は夢のなかでも、相変わらず続いていた。眠る前にイッポリットが十人を殺すということを思い出して、この臆測のばかげているのに苦笑をもらした。あたりには快い、さわやかな静寂がみなぎって、ただ木の葉の触れ合う音が聞こえるばかりで、そのためにあたりがいっそう静かに、もの寂しくなるような気がした。彼はかなりに多くの夢を見た。どれもこれも不安に満たされていたので、絶えず彼は身を震わせていた。やがて、一人の女が彼のところへやって来た。彼は彼女を知っていた、悩ましいほどよく知っていた。いつもその名を覚えていて、どこで会っても見分けがつくほどであった。――ところが、不思議なことに、――今のこの顔は、いつもの見覚えのある顔とはなんだかまるで違うような気がして、彼にはたしかに人の顔だと認めるのが、苦痛なほど気が進まなかった。この顔には悔悟と恐怖の色があふれて、たったいま恐るべき罪を犯した大罪人ではないかと思われるくらいであった。涙は青ざめた頬に震えていた。彼女は公爵を手招きして、あとからできるだけ静かについて来るようにといましめるかのように、唇に指を当てて見せた。彼の心臓は氷のようになった。たといいかなることがあろうとも、この女を罪人だと見なす気にはなれなかった。しかも、すぐに何かしら、自分の一生涯にとって恐るべきことが起こって来るような感じにうたれるのであった。女はどうやら、公園の中のほど遠からぬ所にある何かしらを、公爵に見せたがっているらしかった。彼は女のあとについて行こうとして立ち上がった。すると、不意に彼の後ろから誰かの明るい、威勢のよい笑い声が聞こえてきた。誰かの手がだしぬけに彼の手の上にあらわれた。彼はこの手をつかまえて、固く握りしめた、そこで彼は眼がさめた。自分の前にはアグラーヤがたたずんで、声高らかに笑っていたのである。
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八
彼女は笑っていた、しかもまた憤慨していた。
「眠ってらっしゃる! あなたは眠ってらしたんだ!」と、彼女はさげすむようなあきれた色を浮かべてわめき立てた。
「あれは、あなたですか!」まだ十分に眼がさめきらないで、公爵はびっくりしながら相手を見分けて、こうつぶやいた。「ああ、そう! お会いするはずでしたね……僕はここで眠っちゃって……」
「わかりましたわ」
「僕を誰もあなたのほかに起こした人はありませんか? ここに、あなたのほかに誰もいなかったでしょうか? 僕はここにいたと思いましたよ……別の女の人が……」
「ここに別な女がいたんですって?」
やがて彼はすっかり眼がさめた。
「いや、ちょっと夢を見ただけで」と公爵は物思わしげに言った。「でも、こんなときにこんな夢を見るなんて変な話だ……まあお坐んなさい」
彼は彼女の手をとってベンチに坐らせ、自分もそのそばに腰をおろして、じっと物思いに沈んだ、アグラーヤは話を始めないで、ただじっと相手を見つめるばかりであった。公爵もまた、相手を眺めていたが、どうかすると、自分の前にいる彼女が全く眼にはいらないような風であった。彼女はついに顔を赤くした。
「ああ、そうだ!」と公爵は身震いして、「イッポリットがピストルで自殺しましたよ!」
「いつ! あなたのお宅で?」と彼女は聞いたが、別にそれほど驚いてもいなかった。「だって、昨日の晩はまだ生きてたようじゃありませんか? でも、あなたはそんなことがあったあとで、よくまあ眠れましたわね!」急に活気づいて彼女は叫んだ。
「でも、あの人は死ななかったんですよ。ピストルが発火しなかったもんですから」
アグラーヤの切なる頼みによって、公爵はさっそく、昨夜の出来事を、できるだけ詳しく話してやらなければならなかった。彼女は絶え間なしに話の先を急がせた。しかし、ひっきりなしに、いろんな、ほとんどわき道にそれた質問ばかりして、話の邪魔をしていた。もっとも、エヴゲニイの言ったことばは非常な好奇心をよせて傾聴し、幾たびか聞き返しさえもした。
「さあ、もうたくさんですわ。先を急がなくちゃなりませんわ」話をすっかり聞いてしまうと、彼女はこう結んだ。「わたしたちは八時まで、たった一時間しかここにいられません。なにしろ、わたしがここにいたことを人に知られないように、八時にはぜひとも家へ帰ってなくちゃならないんですもの。それに、わたし用事があって来たんですの。あなたにいろんなことをたくさんお知らせしなくちゃなりませんわ。でも、あなたは今すっかりわたしをまごつかせておしまいなすったのね。イッポリットのことなら、あの人のピストルが発火なんかしてたまらないと思いますわ、わたし、そのほうがあの人にずっと似合うと思います。けれど、あなたは、あの人がどうしても自殺したがっていたんだ、そして、何もそこにお芝居がかったことなんかないと、そう思い込んでいらっしゃるんですね?」
「けっしてお芝居がかったことなんかありません」
「それはそうでしょうね。けど、わたしのところへ、その告白をあなたに持ってっていただきたいなんて、そんなこと、ほんとに書いてあったのかしら? あなた、どうしてわたしに持って来てくださらなかったの?」
「だって、死ななかったじゃありませんか。僕、あの人に聞いてみましょう」
「ぜひとも届けて、何か聞くことなんかありませんわ。あの人はきっとそうしたら大喜びでしょうよ、だって、あの人はたぶん、あとでわたしに告白を読んでもらいたいって、そういう目当てがあって自殺をはかったんでしょうよ。どうかわたしの言うことを笑わないでちょうだい、ね、レフ・ニコライヴィッチさん、だって、大いにそうかもしれないんですもの」
「僕は笑いやしません。なにしろ、僕自身も、いくぶん、そんなこともあるはずだとは、信じてますからね」
「信じてらっしって? やっぱりあなたもそうお思いになって?」アグラーヤは急にひどく驚いた。
彼女はせきこんで物を聞いたり、早口に物を言ったりしていたが、どうかするとまごついてしまったかのように、時おりしまいまで言いきらないでしまうことがあった。そして絶えず何か警告しようとあせっていた。だいたいが彼女はなみなみならぬ不安をもって、たとえば、眼つきにしても、かなりに大胆で、何かしらいどむようなところがあった、しかしおそらくは、いくぶん、おじけづいていたのであろう。彼女はきわめて、ありふれた、ふだん着を着ていたが、それは実によく似合っていた。彼女はたびたび、身震いしながら顔を赤くして、ベンチの端に腰をかけていた。イッポリットが自殺しかけたのは、アグラーヤに告白を読んでもらいたいためかもしれないという公爵の相づちは、ひどく彼女を驚かした。
「もちろん」と公爵は説明した。「あなたばかりではなく、僕たちみんなに賞めてもらいたくって……」
「賞めてもらいたいって、どんなことですの?」
「つまり、それは……なんて申し上げたらいいか? どうもお話ししにくいです。ただ、あの人は必ず、みんなに取り巻かれて、――われわれはあなたが大好きで、また尊敬もしています。どうか生きていてください――と言ってもらいたかったに相違ありません。あの人が誰よりもあなたを心にかけていたということは、大いにあり得べきことです。なぜって、あんなときにあなたのことを言いだしたりするんですからね。……もっとも、ことによると自分ではあなたを心にかけていることを知らなかったかもしれません」
「もう、その辺のことになると、わたしにはなんともわかりませんわ。心にかけて、心にかけていたことを知らなかったなんて。それにしても、わかるような気もしますの。ね、わたしだってまだ十三くらいの子供の時分に、何十ぺんとなしに毒を呑んで、両親に書きおきをしようと考えたものですわ、そして棺の中に寝るときのことや、みんなが私を可哀そうに思って涙を流したり、わたしに惨酷な目を見せたといって後悔をするときのことなど、やはり考えたものでしたわ。何をあなたはまた、にやにや笑うんでしょう?」と苦い顔をして、早口に付け足した。「あなたなんか一人で空想するときに、どんなことを考えてるんでしょうね? おおかた、御自分が元帥にでもなったようなつもりで、ナポレオンを征伐したところなど想像するんでしょうね?」
「ええ、そのとおり、ほんとに僕はそんなことを考えてますよ。わけても、うとうと眠りかけたとき」と公爵は笑いだした。「でも、僕はナポレオンじゃありません、いつもオーストリアばかり征伐するんです」
「私はちっともあなたと冗談なんか言いたかありませんよ、レフ・ニコライヴィッチさん。イッポリットにはわたし自分で会いますから、前もって知らせといてください。ところで、あなたの側になってみると、どうも実にけしからんことだと思いますわ。だって、今あなたがイッポリットを批評なさるように、人間の精神を見て、批評なさるのは、かなり無礼なことですものね、あなたには優しい心づかいというものがなくって、ただ真理の一点ばりで不公平、したがって、片手落ちになるのです」
公爵はじっと考え込んだ。
「あなたこそ僕に対して不公平だという気がしますよ」と彼は言った。「だって、あの人がそんな風に考えたことは、何も悪いことはないと思いますからね。なぜって、誰だってそういう物の考え方をする傾きがあるんですもの。おまけに、あの人はたぶん、そんなことはてんで考えもしないで、ただそうしたいと思っただけかもしれないんですからね……。あの人はこれまでとばかりに多くの人に出会って、みんなから尊敬されたり愛されたりしたいと思ったのでしょうよ。これはたいへんいい分別じゃありませんか。ただどういうわけか、何もかもまるで違った結果になってしまったのです。これは病気のせいでしょうけれど、何かほかにまだわけがあったのでしょう! それに、何をしてもうまい結果になる人と、とんでもないことになってしまう人があるものですからね……」
「きっとそれは御自分のことを付けたりにおっしゃったのでしょう?」とアグラーヤが言った。
「そう、自分のことです」公爵は質問のうちに含まれている皮肉な気持に少しも気がつかずに、答えるのであった。
「ただ、なんといっても、わたしがあなただったら、けっして眠ったりなんかしなかったでしょうよ。してみると、あなたはどこへおいでになっても、すぐにおやすみになるんですね。これはあなたの側になって見てもたいへん悪いことです」
「だって、僕は一晩じゅう、寝なかったんじゃありませんか。そのうえ、歩いて歩いて、歩きまわって、音楽を聞きに行ったりして」
「音楽ってどんな?」
「昨日、演奏があったところです。それからここへ来て腰をおろすと、いろんなことを考え考えしているうちに、つい寝込んでしまったのです」
「ああ、なるほどそうでしたね? それなら、局面はあなたに有利なように展開するでしょうよ……。それにしても、何のために音楽を聞きになんかいらっしったんでしょう?」
「わかりません、まあ……」
「いいわ、いいわ、あとでまた。あなたはいつも、まぜっかえしてしまうんだわ。あなたが音楽を聞きにいらしったことなんか、わたしの知ったことじゃありませんわね? あなた、どんな女のかたを夢に見なすったんですの?」
「それは……その……あなたもごらんになった……」
「わかりました、よくわかりました。あなたはあのひとをたいへん……あの人はどんな風に見えましたの、どんな風をして? といって、わたし、そんなことなんか何も知りたかないわ」いきなり、いまいましそうに、きめつけた。「わたしの話をまぜっかえさないでちょうだい……」
彼女はしばらくの間、元気をとり戻して、いまいましい気持を追いのけようとでもするかのように、時のたつのを待っていた。
「実はね、あなたをわたしが呼んだのは、こういうわけがあったからですの。わたしはあなたにお友だちになっていただきたいんです。なんだってあなたはそんなに急に、わたしを見つめなさるんです?」彼女はほとんど怒りをさえも浮かべながら付け足した。
公爵はこのとき、彼女がまたもやひどく顔を赤らめたのに気がついて、実際彼女をじろじろと見つめていたのであった。こういう場合に、赤くなればなるほど、彼女はいよいよ自分自身に腹が立つらしかった。それが炯々《けいけい》と輝く眼にありありとうかがわれた。そうかと思うと、いつも、一分間もするうちには、その腹立たしさを、話の相手のほうへ持って行って、相手に科《とが》があろうがあるまいが、そんなことはいっこうおかまいなく、たちまち喧嘩を始めるのが常であった。こういう無暴な、そのくせ内気な性分を彼女は悟りもし、感じてもいるので、ふだんはあまり人の話に立ち入らなかった。それに、二人の姉たちよりはずっと無口なほうで、どうかすると、かえって無口すぎるくらいであった。わけても、このような、ぜひとも口をきかなければならない、やっかいな場合には、非常に高慢な、まるで戦いでもいどむかのような調子で話しだす癖があって、彼女は顔を赤くし始めるとか、あるいは、赤くしようとしているときは、いつも前もってこれを予感するのであった。
「あなたはきっと、この申しいでを受け容れるのがおいやでしょうね」彼女はちょいちょい、高慢そうな公爵の顔色をうかがった。
「おお、とんでもない、受け容れますとも。もっとも、そんなことはまるで必要のないことでしょう……。つまり、僕は、そんな申し込みをなさる必要があろうとは、ちょっとも考えてませんでしたからね」と、公爵はまごついた。
「じゃいったい、どう考えてらしたんです? いったい、何のためにここへあなたをお呼びしたと思って? あなたの本心はどうなんですの? もっとも、ひょっとすると、あなたもわたしのことを、うちの人たちと同じように、たわいもないおばかさんだと思ってらっしゃるんでしょうね?」
「あなたがおばかさんだと思われるなんて、そんなことは僕、知りませんでした。僕……僕はそうは思いませんよ」
「お思いなさらないって? あなたにしては大出来ですね。特別うまい言い方でしたわね」
「僕のつもりでは、あなただって、おそらく、とても大出来なことがあると思いますよ。どうかすると」と公爵は続けた。「あなたはさっき不意に、とてもうまいことをおっしゃいましたね。僕のイッポリットについての意見のとき、あなたは、『ただ真理の一点ばりで、したがって、片手落ちになる』と、そうおっしゃいましたね。僕はこれを覚えていて、よくよく考えて見ましょう」
アグラーヤは嬉しくなって、にわかに顔を赤らめた。かような移り変わりは、いつも、彼女にあっては、きわめてむきだしに、非常に急激に起こるのであった。公爵もまた大喜びで、相手の顔を見ながら、嬉しまぎれに笑いだしたほどであった。
「あのね、あなた」彼女は言いだした。「わたし、何もかもあなたにお話ししようと思って、長いこと、お待ちしてましたの。あなたがあちらから手紙をおよこしになったときから、いえ、もっと前から、お待ちしてましたの、……半分は昨日、わたしからお耳に入れましたわね、もう。あなたをわたしは、あなたは非常に正直でまじめなかたで、誰よりも正直で、まじめな人だと思いますの。そして、もしも人があなたのことを頭が少し、つまりね、どうかすると頭のぐあいがお悪くなるなんと言うんでしたら、それは大間違いですわ。わたしそう決めて、人と喧嘩したこともありますわ、なぜって、たとい、あなたがほんとに頭のぐあいを悪くなすっておられるにしても(こう言ったからとて、むろん、あなたは気を悪くなさらないでしょうね。わたしはずっと高いところから見て、そう言ってるんですからね)、その代わり、あなたには大事な知恵のほうでは、どこの誰よりも、もっと御立派なのですわ。それこそ、ほかの人たちの夢にも見たことのないほどのものです。だって、知恵というものには、大事なものと、そうでないものと、ふた種類あるのですからね、そうでしょう? そうじゃないかしら?」
「ひょっとしたら、そうかもしれません」と、公爵はこれだけのことを、やっとのことで言った。彼の心臓はひどく震えて、激しく動悸をうつのであった。
「わたしも、あなたがおわかりになるだろうとは、承知してましたわ」と彼女はもったいぶってなおも続けた。「S公爵やエヴゲニイさんには、このふた種類の知恵のことが、さっぱりわからないんですの。アレクサンドラだってやはり同じことですし。ところがどうでしょう、ママにはわかったんですの」
「あなたはお母さんによく似てらっしゃいますね」
「どうしてですの? ほんとかしら?」とアグラーヤはびっくりした。
「ええ、本当ですとも」
「大きにありがとう」と彼女はちょっと考えてから言った。「ママに似てるなんて、わたし、とても嬉しいわ。してみると、あなたはママをかなりに尊敬していらっしゃるんですわね?」こんな質問の子供っぽいことにはまるで気がつかないで彼女はこう付け加えた。
「かなりですとも、かなりに。そして、あなたがそのことをいきなりわかってくだすったので、僕は嬉しいのです」
「わたしだって嬉しいわ。だって、時おり、ママが……笑い者になるのに気がついてましたから。でもね、大事なことを聞いてちょうだい、わたしは長いこと、考えてみて、とうとうあなたを選《よ》り出しましたの。わたし、家の人から嗤《わら》われたかありませんわ。たわいもないおばかさん扱いにされるなんて、いやです。人にばかにされたかありませんわ……わたしはこんなことは、すぐに見抜いてしまうので、エヴゲニイさんのことも、きっぱりと、断わってしまったんですの。なぜって、しょっちゅうみんながわたしを嫁にやりたがっているのがいやなんです! わたし、……わたし、……ね、わたしは、家を飛び出したいんです、そのあと押しをしていただこうと思って、それであなたを選り抜いたんです」
「家を飛び出すって!」と公爵は叫んだ。
「そう、そう、そうなの、家を飛び出すんだわ!」なみなみならぬ憤りに燃えながら、彼女はいきなりわめき立てた。「わたし、わたし、いつまでも、赤い顔をさせられたかありませんの。わたしはあの人たちの前で、S公爵やエヴゲニイさんの前でも、誰の前でも顔を赤くしたかありませんの。だからこそ、あなたを選り抜いたんです。あなたに、何もかも、すっかり打ち明けてしまいたいんです。いったんこうと思ったら、いちばん大事なことまでも、お話ししたいんです。ですから、あなたのほうでも、何ひとつわたしに隠しちゃいけませんよ。わたし、せめて一人でもいいから、自分自身に話をするように、何ごとによらず打ち明けた話のできる人が欲しいんです。みんなが不意にこんなことを言いだしたんですの、わたしがあなたを思って、待ち焦がれているなんて。それはあなたがまだお帰りにならない前のことでしたの。わたし、あの人たちにあなたのお手紙なんか見せもしないのに。そして、今になるともう、みんながそんなことを言ってるんです。わたしずうずうしくなって、何も恐れないようになりたい。わたし、あんな人たちの舞踏会なんかを歩き回りたかありません。わたしは役に立つ人になりたいんです。二十年もの間、みんなのところに閉じこめられて、いつも嫁にやることばかり考えられてるんですもの。わたし、まだ十四くらいの年に、家出をしようと思ってたんです、そのころはほんとにおばかさんでしたけれども、でも、今はもう何もかも清算してしまったので、あなたに外国のことを詳しくお聞きしようと思って、それでお待ちしてたんですわ。わたし、ゴシック風のお寺をまだ一つも見たことがありませんわ。ローマへも行きたいし、学者たちの研究室も見たいし、パリへ行って勉強もしたいし。この一年間、いろいろ下準備をして、勉強したんです、かなりたくさんの本も読みましたし。わたし、禁じられてる本をすっかり読んでしまいましたの。アレクサンドラやアデライーダは、好き勝手な本を読んで、それでいいんですけれど、わたしにだけは、全部読ましてくれないんです、わたしは監督をされるんです。けっして姉たちと喧嘩したくはありませんけど、父や母には、わたしはもう自分の社会的地位を、すっかり変えてしまいたいって、もうかなり前に断わってあるんです。わたしは教育に従事しようと決心して、あなたを頼りにしてたんです。なぜって、あなたは子供が好きだとおっしゃってましたものね。今すぐでなくっても、あとになって、わたしたちいっしょに教育に従事することができるでしょうかしら? いっしょに世の中の役に立つ人になりましょうよ。わたしは将軍の娘でいたかありません、ねえ……、あなたは大学者でしょう?」
「おお、全然そうじゃありません」
「それは残念です、でも、わたしはそうだとばかり思ってたんですの、……いったい、なんだってこんなことを考えたのかしら? でもあなたはやはりわたしを指導してくださるでしょう。だって、わざわざ、あなたを選り抜いたんですもの」
「それはばかげたことですよ、アグラーヤさん」
「わたし、わたし、どうしても家を飛び出したいんです!」と彼女は叫んだ。またしても、彼女の眼は輝きだした、「もしも、あなたが賛成してくださらないんでしたら、わたし、ガーニャさんのところへ嫁《ゆ》きます。わたしは、家の人からいやらしい女だと思われて、とんでもない罪をきせられたりするのは、いやです」
「あなたは正気で言ってるんですか?」公爵は危うく席から飛び上がるところであった。「どんな罪をです、誰がそんなことをするんです?」
「家の人みんなです、母も、姉も、父も、S公爵も、おまけに、あのいやらしい、あなたのコォリャまでが! たとい、明らさまに言わないにしても、心の中ではそう思ってるんです。わたし、あの人たちみんなに面と向かって、そう言ってやったわ、父にも母にも。そしたらママはその日一日、かげんを悪くしましたの。そしてあくる日にはアレクサンドラとパパが、わたしに向かって、わたしが自分でどんな途方もないことを言ってるのかわからないって、言うんですの。それで、わたし、いきなりきめつけてやったの、わたしはもうなんでもわかりますよって。もう赤ん坊じゃないんだし、もう二年も前に、いろんなことを知るために、わざわざポール・ド・コックの小説を二つも読みましたよって。ママはこれを聞くと、すんでのところで気絶するところでしたの」
公爵の脳裡には不意に妙な考えがちらついた。彼はじっとアグラーヤを見つめて、ほほえみをもらした。
彼には、自分の前に坐っている人が、いつの日かガーニャの手紙を大きな顔をして、偉そうに読んで聞かせた、あの実に傲慢な少女だったとは、かりそめにも信じられなかった。このおうへいで、峻厳な美人のなかから、あのような子供が、おそらく、実際には今でさえも全部のことばがわからないような子供が、どうしてあらわれて来るのか、想像さえもつかなかった。
「あなたはいつも家にばかりお暮らしになったんですね。アグラーヤさん?」と彼は聞いた。「つまり、僕が言いたいのはこういうことなんです、あなたはどこの何学校へもお通いになったことがないのかしら、また、どこかの研究所《インスチチウト》で勉強なすったことがないのかしらって」
「今まで一度として、どこへも通ったことがありませんの、しょっちゅう籠の鳥みたいに、閉じこめられて、家にばかりじっとしていましたの。そして、世間見ずのままに、いきなりお嫁に行かなくちゃならないんです。またあなたは何をお笑いになるんです? なんだか、わたし、あなたまでがやっぱりわたしをばかにしてらしって、あの人たちの肩を持つように見えますの」と彼女は脅やかすように苦い顔をして、付け足した。「わたしを怒らないでちょうだい。わたしは、それでなくったって自分がどうしているのかわからないんですからね、……あなたはきっと、わたしがあなたに惚れ込んで、あいびきに呼んだのだと、てっきりそう思い込んで、ここへいらしったに相違ないわ」と彼女はいらいらしながら、きめつけた。
「ほんとに僕は今日は、それが気にかかっていたのです」と公爵は率直につぶやいた(彼はひどくどぎまぎしていた)。「でも、今日はてっきり、あなたが……」
「なんですって!」とアグラーヤは叫んだ。下唇が急に震えだした。「気にかかっていたんですって、わたしが……って。よくまあそんなことを考えたものですね、わたしが……なんて。とんでもない! あなたはおおかた、わたしがあなたを網にかけて、それから二人でいるところを人に見られて、いやおうなしに私と結婚するようにしむけてもらうために、わざわざここへお呼び立てしたのだと疑ってらしって……」
「アグラーヤさん! よくまあきまりが悪くないこってすね? あなたの清らかな、無邪気な心に、どうしてそんな汚らわしい考えが湧いたでしょう? 僕は賭をしてもいいですけれど、あなたは自分でおっしゃっていることを、ひと言だって本気になさらないんですね、……あなたは自分でどんなことをおっしゃっているのか、おわかりにならないんです!」
アグラーヤは執拗《しつよう》に眼を伏せたまま坐っていたが、いまさらながら自分の言ったことに驚いているらしかった。
「わたし、ちょっともきまりなんか悪くないわ」と彼女はつぶやいた。「どうして、わたしの心が無邪気だってことがわかるんです? なんだって、あのときわたしに恋文なんかおよこしになったんです?」
「恋文? 僕の手紙が――恋文ですって? あれは非常にうやうやしい手紙で、あの手紙は僕の生涯のうちで、最も苦しい時に、僕の胸の中からほとばしり出たものなんです! あのとき、僕は何かの光のように、あなたのことを思い出したんです、僕は……」
「ま、いいわ、いいことよ」と彼女は不意にさえぎったが、もう調子は前とはまるで違って、すっかり後悔して、ほとんどおびえかかっていた。なおまともに彼の顔を見まいと絶えず心がけながら、彼のほうへもたれかかるようにさえもして、ついには、怒らないでくれと、切に切に哀願するかのように、彼の肩にさわろうとまでしていた。「いいわよ」と、彼女は恐ろしく恥じ入りながら付け足した。「わたしはなんだか、とてもばかげたことばづかいをしたようだわ、これはわたしが、そうして……あなたを試してみたかったからなの。ちょっとも言わなかったことにしてちょうだいな。お気にさわるようなことをしてたら許してちょうだい。どうぞですから、まともに、わたしの顔を見ないでくださいな、わきを向いてください、あなたはこれをたいへん汚らわしい考えだとおっしゃいましたね、あれはわたしが、あなたをじらしたくって、わざと言ったことなの。口がききたくなると、わたしはすぐに言ってしまうのが時おり心配になるんですの。今、あなたは、あの手紙をあなたの生涯のうちで、いちばん苦しい時間に書いたとおっしゃいましたね。どんな時にだかわたし、知ってますわ」またもや土を眺めながら、彼女は静かに言いだした。
「ああ! もしもあなたが何もかもわかっていたら!」
「何もかも、わたし、わかってます!」と彼女は新しい興奮にかられて叫んだ。「あのころ、あなたは丸ひと月も、駆け落ちをした、いやらしい女といっしょに、同じ部屋に暮らしてらしったんです……」
彼女はこう言いながら、今はもう顔を赤らめず、青ざめるばかりであった。そうして、まるでわれを忘れたかのように、いきなり席を立った。が、すぐまた気がついて、再び腰をおろした。唇はなおも長いこと、震え続けていた。一分間ほど、沈黙が続いた。公爵はこの思いもよらぬ言いがかりにひどくめんくらって、この始末をどうつけたらよいのか見当もつかなかった。
「わたしあなたのことなんか、てんで思っていないわ」といきなり彼女は、きめつけるかのように言った。
公爵は答えなかった。また一分間ほど二人は黙っていた。
「わたしはガーニャさんを思っているの……」と彼女はいっそう低くうなだれて、ほとんど聞きとれないくらいに早口に言った。
「それは嘘です」と、公爵は、これまたほとんどささやくような声で言った。
「してみると、わたしが嘘を言ってるとおっしゃるんですか? いいえ、これは本当です。わたしは一昨日《おととい》、ここの、このベンチの上で、あの人に誓いました」
公爵は驚いて、ちょっとのあいだ考え込んだ。
「それは嘘です」と彼はきっぱり断言した、「そんなことはみんなあなたが発明なすったことです」
「まあ、びっくりするほど御丁寧ですわね! あのね、あなた、あのかたはすっかり性根をいれかえましたの。そして、わたしのことを自分の命よりも可愛がってくださるんですの。あのかたは自分の命よりも可愛がっているという証拠に、わたしの前で自分の手を焼いて見せましたの」
「自分の手を焼いたんですか?」
「そう、自分の手を。本当になさろうとなさるまいと、――わたし、そんなことかまいませんわ」
公爵は黙ってしまった。アグラーヤのことばはふざけたところはなかった。彼女は怒っていた。
「じゃいったい、どうなんですか、もしそんなことが、ここであったとすると、あの人はここへ蝋燭を持って来たんですか? そうでもなかったら、僕には考えつきません」
「そう……蝋燭をね。それで何の不思議があるんですの?」
「ちゃんとしたのをですか、つまり、燭台に立てて?」
「え、そうなの、……違うわ、……蝋燭の半分……燃えさしなの……あ、違う……ちゃんとしたのよ――まあ、どっちだっていいわ、およしなさいよ! ……そしてもっとお聞きになりたいんなら、マッチを持って来たことも付け加えておきましょう。蝋燭をつけて、まる半時間も蝋燭に指をかざしていたのですよ。これでも、ありそうにもない話だっておっしゃるんですか?」
「僕は昨日あの人に会いましたけれど、指はどうにもなってませんでしたよ」
不意にアグラーヤは、おかしくなって、まるで子供のように吹き出してしまった。
「ね、今わたしがなんのために嘘を言ったかわかって?」ふっと、彼女は実に子供らしく無遠慮に、唇のあたりにほほえみを浮かべたまま、公爵のほうをふり向いた。「つまりね、嘘をつくときに、何か、あまり平凡でない、風変わりな……いいですか、何か、非常に類の少ないこととか、まるでありそうにもないこととかを、手ぎわよくはさむと、その嘘がずっとずっともっともらしくなるからなの! わたしそれに気がついていたの。でも、わたしがやってみたら、成績が悪かったわ、わたし、やり方をよく知らないんですもの……」
にわかに彼女はわれにかえったかのように、また苦い顔をした。
「あの時わたしが」と彼女は、まじめに、というよりはむしろ物思わしげに、公爵を見つめながら、ことばをかけた。「あの時わたしがあなたに『貧しい騎士』を読んでお聞かせしたのは、それはああして、同時にあなたのいいところを讃美したからなんですけれど、また、あんな仕打ちをしたあなたに恥をかかしてもあげたかったからです。それに、わたしが何もかも知り抜いていることを、あなたに見せてあげたかったので……」
「あなたは僕に対しても、……今あなたがあんな恐ろしい言い方をなすったあの不仕合わせな女に対しても、実に不公平ですよ、アグラーヤさん」
「だって、わたし、何もかも知り抜いてるんですもの、だからこそ、あんな言い方もしたんです、わたしは、半年前にあなたがみんなの前で、あのひとに結婚を申し込んだのを知ってますわ。横槍を入れないでちょうだい、このとおり、わたしは理屈ぬきでお話ししてるんですから。あれから、あの女はラゴージンといっしょに逃げたんです。そして、それからあなたはあの女と、どこかの村だか町だかに、同棲なすって、そうかと思うと、女は、あなたを見すてて誰やらのところへ逃げて行ったんです(アグラーヤはひどく赤くなった)。やがて、女はまるで……まるで気ちがいのようになって自分を可愛がってくれるラゴージンのところへ、舞い戻って来たのです。それからあなたもまた、たいへん頭がよくていらっしゃいますから、女がペテルブルグへ舞い戻ったことがわかると、今度はさっそく、あとを追ってこちらへ駆けつけて来たんです。昨夜は飛び出して来てあの女をおかばいなさるし、今は今であの女を夢にまでごらんになり……。ねえ、わたし、何もかも知ってるでしょう。あなたはわざわざ、あの女のために、あの女のためにここへおいでになったんじゃありませんか?」
「そう、あの女のために」と公爵は悲しそうに、物思わしげに首かしげて、どんなに眼を光らせてアグラーヤが自分を眺めているのか、そんなことは気にもとめずに、声低く答えるのであった、「あの女のためにです、実は知りたいことがあったもんですから……僕はあの女がラゴージンといっしょになって仕合わせになろうとは信じていません、もっとも、……なんです、あの女のためにどんなことをしてやれるか、どうしたら助けられるか、それはわからないんです、それでいて、とうとうやって来たわけです」
彼は身震いして、アグラーヤの顔色をうかがった。相手は憎悪の念をもって、彼のことばを聞いていた。
「何のためかわかりもしないでおいでになったっていうんでしたら、つまり、あなたはあの女に思いこがれているってことになりますね」彼女はついにはこう言った。
「いいえ」と公爵は答えた。「いいえ、ちょっとも愛しちゃおりません。ああ、あの女と同棲していたころを思い出して、僕がどんなにぞっとするか、もしもあなたにわかってもらえたらなあ!」
こう言いながら、彼のからだじゅうはぞくぞくするほどであった。
「すっかりおっしゃってちょうだい」
「何も、これについては、あなたに聞いていただけないようなことはないはずです。なぜあなたに、あなた一人だけに、あのことを何もかも打ち明けたくなったのか、それはわかりません。たぶん、あなたを本当に心から愛しているからでしょう。あの不仕合わせな女は、自分がこの世の中で誰よりも堕落して、汚れ果てた人間だと、深く思い込んでいるのです。ああ、あの人をはずかしめないでやってください。あの人は、それだけのこともないのにはずかしめられているという意識のために、あまりにもひどく自分を責めていたのです! けれど、いったい、どこに罪があるんでしょう、ああ、とんでもない、あの人はしょっちゅう憤慨しては、どうしても『自分に罪があるとは受けとれない、わたしはほかの人たちの犠牲なんだ、放埓《ほうらつ》な悪党めの犠牲なんだ』とわめいています。しかし、人にはどんなことを言おうとも、あの人はね、自分がまず第一に、自分というものを信じていないのです、そして、自分は……罪が深いのだと、本心から思い込んでいるのです。僕がこの心の闇を追い払おうとしたとき、あの人は苦痛の極に達して、そのために、僕の心はあの恐ろしいころのことを覚えている限りは、いつの日が来ても痛むばかりになったのです。あの人が僕のところを逃げ出したのは、何のためか御存じですか? とりもなおさず自分が卑しい女だということを、ただ僕に証明して見せるためだったのです。ところが、何より恐ろしいのは、あの人が自分でも、おそらく、そんな気でいるとは知らずに、『ほら、おまえはまた新しくあさましいことをして、してみると、おまえはなんといっても卑しいやつなのだ!』と自分で自分に言い聞かしたいために、わざわざあさましいことをしたというやむにやまれぬ心からの欲求によって、逃げ出したことです。ああ、アグラーヤ、こんなことは、おそらくあなたには呑み込めないでしょうね! わかるかしら、こうしてしょっちゅう自分のあさましいことを意識することは、おそらく、彼女の場合は一種の恐ろしい不自然な享楽があるんですよ、まるで誰かに復讐でもする時のような。僕は時おり、あの人を導いて、もう一度、周囲に明るい世界を見るくらいにまでしてやったんですが、すぐにまた手に負えなくなって、あげくの果ては僕がお高くとまっているといって(もいなかったんですが)、とてもひどく僕をとがめたものです。そして、しまいには僕の結婚申込みに対して、――わたしは高慢ちきな同情だの援助だの、『御自分と同じ身分にしてやろうなんていう大きなお世話』は、誰にもしてもらいたかありませんなんて、まっこうから言うようになりましてね。あなたは昨日、あの女をごらんになりましたね、はたしてあなたは、あんな連中といっしょになっていて仕合わせだと思いますか、あれがあの人にふさわしい仲間だと思いますか? あなたは御承知ないでしょうが、あの人はなかなかできていて、話もよくわかるんですよ! どうかすると、僕もびっくりさせられたものでしてね!」
「あちらでもあなたは、やはりそんな……お説教をあの女に聞かしていたんですか?」
「おお、とんでもない」と公爵は質問の調子には気がつかずに、物思わしげに答えた。「僕はほとんどいつも黙ってばかりいました。しょっちゅう話しをしたいとは思ったのですが、実は、時おりなんと言っていいかわからないことがあって。御承知のように、時と場合で、何も言わないほうがいいこともありますからね。ああ、僕はあの女を愛していました、かなり愛していた、……しかしあとになって……あとになって……あとになって、あの人は何もかも悟ってしまいました」
「何を悟ったんですか?」
「実は、あの人を僕がただ気の毒に思っているだけで、もう……愛してなんかいないってことです」
「どうしてそんなことがわかりますの、ことによったら、あの女は本当に、あの……いっしょに逃げた地主に参ったんでしょう?」
「いいえ、僕は何もかも知ってます、あの人は地主をただ嗤《わら》っているだけです」
「では、あなたのことはけっして嗤ったことなんかないんですね?」
「い、いえ、あの人は腹いせに嗤いました。ああ、あのころ、口惜しまぎれに、ひどく僕をこきおろして、――自分は自分で苦しんでいました! しかし……あとになって……ああ、もうこのことを思い出さないように、思い出ささないようにしてください!」
彼は両手で自分の顔を隠した。
「じゃ、あなたは御存じでしょうか、あの人がほとんど毎日のように、わたしに手紙をよこすのを?」
「してみると、あれは本当だ!」と、公爵は愕然《がくぜん》として叫んだ、「僕はちょっと聞いたんだけれど、それでもまだ、まさかと思っていたのです」
「誰から聞きましたの?」アグラーヤはおずおずと震え上がった。
「ラゴージンが僕に昨日そう言いました、全部はっきり言ったわけじゃありませんが」
「昨日ですって? 昨日の朝ですか? 昨日のいつごろ? 音楽の前ですか、あとですか?」
「あとです、晩の十二時前でした」
「あ、あ、なるほど、もしラゴージンが……で、あの女は私に、手紙でどんなことを言って来るか御存じなの?」
「僕はどんなことにも驚きはしません。あの女は気ちがいですもの」
「ほら、これがその手紙(アグラーヤはポケットから、封筒にはいった三つの手紙を取り出して、公爵の前へ放り出した)。もう今日でまる一週間というもの、あの女は、あなたと結婚するようにと、懇願したり、焚《た》きつけたり、かついだりして。あの女……はまあ、そうね、気ちがいかもしれないけれど、頭がいいわ、わたしよりずっと頭がいいって、あなたがおっしゃるのは本当だわ、……あの女はね、手紙に、――わたしはあなたに思いをかけています、せめて遠くからでもお顔を拝見する機会をと毎日毎日捜しています、――なんて書いていますよ。それに――公爵はあなたを愛していらっしゃる、それをわたしは知っています、かなり前から気づいておりました、わたしはあちらにいるころ、公爵とよくお噂をしていましたなんかとも書いてあります。あの女はあなたが幸福になられるのを見たいんですとさ。そして、あなたを幸福にするのは、ただわたしだけだって、固く信じているんですって。あの女の手紙はとても乱暴で……変なの……わたしはこの手紙を誰にも見せないで、あなたをお待ちしてましたの。どういう意味か御存じかしら? さっぱり見当がつきませんの?」
「それは気ちがいざたです、あの女が気ちがいだという証拠です」と公爵は言い放った、唇が震えだした。
「あなたはもう泣いているんじゃありませんの?」
「いいえ、アグラーヤ、いいえ泣いちゃいません」と公爵は彼女の顔色をうかがった。
「ここで、わたし、どうしたらいいんでしょう? あなたの御意見はどうなの? もうあたし、こんな手紙いただけないわ」
「おお、放っといてください、お願いです!」と公爵は叫んだ。「こんな闇の中で、あなたに何ができましょう。僕はあの人がもうあなたに手紙をよこさないように、全力を尽くしましょう」
「してみると、あなたはずいぶん情のないおかたね!」とアグラーヤが叫んだ。「あなたには、あの女がわたしに思いをかけるなんかじゃなくって、実はあなたを、ただあなただけを愛してるってことが、わからないんじゃありませんか! あの女の何もかもを見抜いてしまったというのに、あなたはこれくらいのことに気がつかないんですか? これはどんなことか、この手紙はどういう意味なのか御存じなの? これは嫉妬《しっと》なの、いいえ、もう嫉妬以上なの! あの女が……あの女がこの手紙に書いてあるように、本当にラゴージンのところへ、嫁《ゆ》くと思ってらっしゃるの、あなたは? あの女はわたしたちが結婚式をあげたら、もうあくる日には自殺してしまいます!」
公爵は思わずも身震いした。息の根も止まったかと思われた。しかも、驚きながらもアグラーヤを見つめていた。この子供が、もう、かなり前から、一人前の女になっているのを認めると、彼は妙な気持になった。
「アグラーヤ、僕は神様にでも誓います、あれを元のように落ち着かせて、仕合わせにしてやるためには、僕はいさぎよく命をも投げ出すつもりです。しかし……僕はもうあの女を愛することができないのです。あれも、そのことはよくわかっています!」
「それなら自分を犠牲になすったらいいでしょう、それはいかにもあなたらしくっていいわ! だって、あなたはそれほど偉い慈善家なんですものね。けども、わたしのことを『アグラーヤ』なんて言わないでちょうだい……あなたはさっきも、わたしのことをただ『アグラーヤ』なんて呼び捨てになさいましたね……まあ、あなたはどうしても、あの女を必ず復活さしてやらなくちゃなりませんわ、その心を安らかに、落ち着かせるためには、また駆け落ちをしなくちゃなりませんよ。だって、あなたはあの女を好いていらっしゃるんですものね!」
「僕は自分を犠牲にするわけにはいきません。もっとも、一度そうしたいと思ったことがあるし、……たぶん、今もそうは思ってるだろうけれど。しかし、あの女が僕といっしょになればだいなしになるってことは、|たしかに《ヽヽヽヽ》僕は承知しています。だからこそ、うっちゃっておくんです。僕は今日は七時に、あの女に会うはずだったけれど、もう、たいてい、行かないでしょう。あのくらいでは、もう僕の愛を許したりなどしませんよ、――そうして、僕たちは二人とも没落です! これは不自然なことですが、もう何から何まで不自然なんですから。あなたはあの女が僕を愛してるとおっしゃるけれど、いったい、これが愛なのかしら? あんなひどい仕打ちをされたのに、愛なんてものがあるのかしら! いやいや、これは別物だ。愛じゃない!」
「あなたはなんて青い顔になられたんでしょう!」と、不意にアグラーヤは驚いた。
「なんでもありません、あまり眠らなかったので、体が弱ったのでしょう、僕は……僕らはあのとき本当にあなたの噂をしてたんですよ、アグラーヤ……」
「それじゃ、あれは本当なんですか? あなたは本当に|あの女とわたしの噂をすることができたんですか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》? それに――それに、どうしてあなたはわたしを愛したりなんかできたんですの? あとにも先にもたった一度しか、わたしに会っていないころに」
「どうしてだか、僕にもわかりません。あのころの僕の闇のような心に空想されたのです……ひらめいたのです、おそらく新しいあけぼのが。僕はどうしてあなたのことをまっ先に考えたのかわかりません。あのころ、わからないと手紙に書いたのは、本当のことです。これはみんな、あのころの恐怖心から来た空想にすぎなかったのです……僕はその後、仕事を始めました。そして、三年間は、こちらへまいらないつもりでした。……」
「してみると、あの女のためにいらっしたんですね?」
と言ったアグラーヤの声のなかには、何かが震えだした。
「そう、あの女のために」
お互いに憂鬱な沈黙を続けて、二分ほどたった。アグラーヤは席を立った。
「もしもあなたのおっしゃるように」と彼女はしっかりしない声で言いだした。「もしあなたの信じていらっしゃるように、あの……あなたの女が……気ちがいだとしたら、わたし、そんな気ちがいの気まぐれなんかに用はありませんわ……。ね、レフ・ニコライヴィッチさん、お願いですから、この三つの手紙を持って行って、わたしからだと言ってあの女にたたきつけてちょうだい! そして、もしあの女が」とアグラーヤは急に金切り声を出して「もしあの女が、もう一度わたしのところへ、ずうずうしく、ただの一行でも書いてよこしたりしたら、父に言いつけて、懲治監へ入れてもらうって、あの女にそう言ってちょうだい……」
公爵は飛び上がって、胆をひやしながら、アグラーヤの思いがけない激昂ぶりを眺めていた。すると、不意に自分の前に霧でもかかったかのように思われた。……
「あなたには、そんなことは感じられませんよ、……それは嘘です!」と彼はつぶやいた。
「だって、本当なんです! 本当です!」ほとんどわれをも忘れて、アグラーヤはわめき立てた。
「本当ってなんなの? どんなに本当なの?」と二人のそばに、びっくりしたような声が聞こえてきた。
二人の前にはリザヴィータ夫人が立っていた。
「本当って言うのは、わたしがガーニャさんのところへお嫁に行くってことなの! わたしがガーニャさんに恋していて、明日になったらいっしょに家を飛び出そうってことなの!」とアグラーヤは母に食ってかかった、「聞こえたの? ママのおせっかいもそれで気が済んだでしょう? それで満足?」
と言ったかと思うと、彼女はわが家をさして駆け出した。
「だめです、もうあなたは、行かないでください、ね」夫人は公爵を引き止めた。「どうぞですから、家へいらしって、わけを聞かしてちょうだい……まあ、なんて苦痛なのかしら、わたしはこうして、夜どおし眠らないで……」
公爵は夫人のあとについて行った。
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九
自分の家へはいると、リザヴィータ夫人はまず最初の部屋に立ち止まった。すっかり疲れ果てて、これ以上、先へ進む勢いもなく、長椅子にどっと腰をおろしたが、もう公爵に席をすすめることさえも忘れ果てていた。そこはとても大きな広間で、まん中には丸いテーブルがあり、暖炉もついていて、窓のそばの装飾棚には、たくさんの花が置いてあり、後ろの壁のところには庭へ出る別のガラス戸がついていた。すぐにアデライーダとアレクサンドラが物問いたげに、いぶかしげな眼で公爵と母を眺めながらはいって来た。
令嬢たちは別荘では、たいてい朝は九時ごろに床を離れた。ただアグラーヤがこの二、三日、いつもよりちょっと早く起きる癖がついて、庭へ散歩に出るようになったが、早くなったとはいえやはり七時などではなく、八時か、かえって、それよりも遅いくらいであった。さまざまな不安のために、実際に昨夜まんじりともしなかった夫人は、もうアグラーヤが起きているだろうと考えて、娘と庭で出会うつもりで、わざわざ八時近くに起きたのであった。ところが、彼女は庭にも寝台にもいなかった。そこで夫人はすっかり驚いてしまって、姉たちを呼び起こした。女中に聞いてみると、アグラーヤはもう七時まえに公園へ出て行ったとのことであった。姉たちは気まぐれな妹の、新しい気まぐれを冷笑して、もしも公園へアグラーヤを捜しになど行ったら、おそらく、よけいに怒るだろうと、母に注意した。また、必ずや今ごろは、あの子が三日まえに話していた緑のべンチ、S公爵とそれがもとで危うく喧嘩しそうになった、あの緑色のべンチ(というのはS公爵がそのべンチのあたりの景色がちっとも珍しくもなんともないと言ったからである)、そこに本を持って腰をかけているだろうとも言った。二人のあいびきを見つけたうえに、娘たちの妙なことばを聞かされて、リザヴィータ夫人はいろんな理由から、ひどく驚かされた。しかし、今、公爵をいっしょに連れて来てみると、いよいよ自分が問題をひき起こしたことに、いまさらながらおじけづいた。『アグラーヤが公園で公爵に出会って、話しをしていたからといって、たとえば、それが前もって約束してあったあいびきであったにしろ、それがいけないという法がどこにあるのか?』
「ねえ、公爵」彼女はついに元気を出して、「わたしがあんたをここへ尋問するために引っぱって来たなんて思わないでちょうだいね、……わたしはね、昨日の晩のことがあったので、もうしばらくあんたにお目にかかりたくないと思っていたはずですからね……」
彼女はちょっとあとが続かなかった。
「けど、やっぱりあなたは、どうして僕が今日アグラーヤさんに会ったのか、聞いてみたくってしようがないんでしょう?」と公爵は泰然自若として、言い放った。
「まあ、そうですわ、聞きたかったわ!」と夫人はすぐにかっとした。「あけすけに言われたって、こわかありませんよ。なぜって、わたし、誰を侮辱するわけでもなし、また誰かを侮辱しようなんて思ったこともないんですからね……」
「とんでもない、侮辱するしないは別にしても、聞いてみたいのが人情です。あなたはお母さんでしょう。今日、僕がかっきり朝の七時に、緑色のベンチのわきでアグラーヤさんに会ったのは、昨日、あのかたから来いと言われたからです。あのかたはゆうべ僕に、ぜひ僕に会って、重大問題について話をしたいって、そういう便りをくだすったのです。それで、僕たちはお会いして、まる一時間も、主として、あのかただけに関するいろんなことをお話ししたんです。ただ、それだけのことです」
「もちろん、ねえ、あなた、疑いもなくそれっきりでしょうね」と夫人はしかつめらしく言うのであった。
「すてきだわ、公爵!」アグラーヤが不意に部屋の中へはいって来て、口を出した、「わたしのことを、ここで嘘をつくのを潔しとしない女だって、そう思ってくだすった、ほんとにありがとう。ママ、もうたくさんじゃないの、それとも、もっと何か尋問するつもり?」
「ねえ、おまえ、わたしは今までに、一度だっておまえの前で、顔を赤くしなくちゃならないようなことはなかったのですよ。……もっとも、ひょっとすると、おまえはわたしが顔を赤くしたら嬉しいんだろうけれど」夫人は諭《さと》すような調子で答えた、「さようなら、公爵、御迷惑かけて、御免なさいね。でも、どうぞわたしが相変わらず、あなたを尊敬していることを信じていてくださいな」
公爵はさっそく両方へ会釈して、黙々として出て行った。アレクサンドラとアデライーダは薄ら笑いをして、何やら二人でささやきかわしていた。リザヴィータ夫人はきつい眼をして二人をにらんだ。
「ママ、わたしたちはただ」とアデライーダが笑いだした。「公爵があんなに立派なおじぎをなすったからよ。どうかすると、てんで見られたさまじゃないのに、いきなり、まるで……まるで、エヴゲニイさんみたいに……」
「細かな心づかいや品位というものは、心そのものから授かるもので、ダンスの先生からじゃありませんよ」と夫人は修身の本に書いてあるようなことを言って、アグラーヤには眼もくれずに、二階の自分の部屋へ行ってしまった。
公爵が九時近くになって、わが家に帰ってみると、露台《テラス》には、ヴェーラ・ルキヤノヴナと女中がいた。二人はいっしょになって昨日の乱脈のあとをかたづけて、掃除をしていた。
「やれやれ、ちょうどお帰りになるまでにかたづいた!」とヴェーラが嬉しそうに言った。
「お早う、僕はちょっと目が回ってるんです。よく眠らなかったもんですから。ひと眠りしたいもんです」
「昨日のようにこの露台で? いいわ。わたし、起こさないように、みんなに言いますわ。パパはどっかへ出かけました」
女中が出て行った。ヴェーラはあとをついて行きかけたが、ふっとあと戻りして、心配そうに公爵のそばへ寄って行った。
「公爵、あの……不仕合わせな人をふびんがってやってください。あの人を今日、追い出さないでください」
「けっして追い出しなんかしません。あの人の好きなようにしてやります」
「今度はもう、何もいたしませんから……厳《きつ》くしないでください」
「おお、とんでもない、いったい、何のためにです?」
「それから……あの人をばかにしないでください、……これはいちばん大事なことです」
「おお、けっしてそんなことはしません!」
「あなたのようなおかたにこんなことを言うなんて、わたしばかですわね」とヴェーラは顔を赤らめた。「あなたはお疲れでいらっしゃいますけれど」と、彼女は出て行こうとして、半ば横をふり向きながら笑いだした、「でも、今あなたは、とてもすてきな眼をしてらっしゃいますわ……仕合わせそうな……」
「ほんとに仕合わせそうですか?」と公爵は、威勢よく尋ねて、嬉しそうに笑いだした。
しかし、いつも男の子のように率直で、遠慮のないヴェーラは、不意になんとなしにきまりが悪くなってきて、ひとしお顔を赤くしながら、いそいそと部屋を出て行ったが、相変わらず笑い続けていた。
(まあ、なんて……おもしろい子だろう……)と公爵は考えたが、すぐにまた娘のことは忘れてしまった。彼は、長椅子があって、その前に小さなテーブルのある露台の隅のほうへ行って、腰をおろすと、両手で顔を隠して、十分間ほど、じっとしていた。が、突然、せかせかと、心配そうに、横のポケットに手を入れて、三つの手紙を取り出した。
ところが、またもやドアがあいて、コォリャがはいって来た。公爵はいかにも嬉しそうであったが、実は手紙をまたポケットへしまい込んで、ちょっとの間、てれかくしをしなければならなかったのである。
「まあ、危なかったのですね!」と、コォリャは長椅子に腰をかけながら、この年ごろの連中は誰でもそうであるがいきなり本筋へはいって行った、「あなたは今イッポリットをどう見ていらっしゃるんです? 尊敬しませんか?」
「いったい、どうして、……けども、コォリャ、僕は疲れてるんです、……それに、あの話をまた持ち出すのは、あんまり陰惨だし……それにしても、あの人はどうですか?」
「眠ってます、あと二時間くらいは起きないでしょう。あなたが家でおやすみにならないで、公園を歩いていらしったのは、なぜだかよくわかります、……むろん興奮なさるのは、もちろんですよ!」
「どうして、僕が公園を歩いてて、家で寝なかったのを知ってるんです?」
「ヴェーラが今言ってました。僕にはいっちゃいけないって止めたんですけど、我慢ができなくなったもんですから、ちょっと。僕はこの二時間、べッドのわきに付いてて、今コスチャ・レーべジェフを代わりに坐らしたところです。ブルドフスキイは行ってしまいました。それじゃ、公爵、おやすみなさい……じゃあ、昼間だから、お眠りかな! でも、僕はね、びっくりしちゃいましたよ」
「むろん……あんな……」
「いいえ、公爵、違います。僕は『告白』でびっくりしたんですよ。何よりもあの、神のことや来世のことを言ってるあたりに、あそこには一つの、|どえらい《ヽヽヽヽ》思想がありますね!」
公爵はやさしい眼で、コォリャを眺めていた。コォリャはいうまでもなく、一刻も早くこのどえらい思想のことを話したくてわざわざやって来たのであった。
「だけど、大事なのは、大事なのは単に一つの思想ばかりじゃなくって、全体のしくみなんです! あれをヴォルテールや、ルッソォや、プルドンなんかが書いたら、僕は一読して注目はしますけど、あんなにまでは打たれませんね。しかし、もう十分間の寿命しかないことを、はっきり承知してる人が、こんなことを言ってるんですよ、――実に偉いじゃありませんか? 実に、これは個人的尊厳の最高の独立性を示すものではありませんか、これはつまり大胆不敵というものじゃありませんか、……いや、これはどえらい精神力です! ところが、それだのに、わざと雷管を入れなかったなんて主張するのは、――卑劣です、不自然です! ねえ、公爵、昨日、イッポリットは僕をだましたんでしょう、ずるいこと言って、僕は一度だってあれといっしょにサックをしまったことなんかないし、ピストルなんてもの、一度も見たことないんです。あれは自分でしまったんです。だからあの男に不意打ちされて参ったんです。ヴェーラの話だと、あなたはあれをここへ置いてくださるんですってね。大丈夫です、けっして危いことはありません。おまけに、僕らはそばを離れませんからね」
「ゆうべ、君たちのうちの誰があそこにいたんです?」
「僕、コスチャ・レーべジェフ、ブルドフスキイ、ケルレルはちょっといましたがすぐにレーべジェフのところへ寝に行きました、あそこに寝る所がないもんですから。フェルデシチェンコもやはりレーベジェフのところで寝て、七時に帰って行きました。将軍はいつもレーべジェフのところにいますが、今はやはり帰っています……レーべジェフはたぶんじきにあんたのところへ来るでしょう。なぜだか知りませんが、あなたを捜してましたよ、二度も聞いてました。あなたがおやすみになるんでしたら、ここへあの人を入れましょうか、どうしましょう? 僕もやっぱり、行って寝ましょうか、ああ、そう、ひとつあなたにお話ししたいことがあります。さっき御大将(父親たる将軍を指す)にびっくりさせられましてね、ブルドフスキイが番が来たと言って、六時過ぎ、ほとんどかっきり六時に僕を起こしたんですよ。それで、僕がちょっと外へ出て見ると、いきなり御大将に会いましたけど僕のことがわからないくらいに酔っ払って、ぼんやり僕の前に立っていたんです。そのうちに、気がついたと思うと、僕にとびついて、『病人はどうだえ? わしは病人のことを聞きに来たんだ』と、こう言うんです。僕は話してやりました。あれやこれやと。すると、『そいつは結構だ。だが、わしが起き出して来て、こうして歩いているのは、まずもって、おまえに言い聞かしておきたいことがあるからじゃ。わしはある理由によって、フェルデシチェンコ君のところでは、何も話すわけにはゆかず、……ほどよくしなければいかんと思うんじゃが』そう言いましてね。公爵、わかりますか?」
「ほんと? それにしても、……僕たちにはどうでもいいことです」
「ええ、そりゃそうです、どっちにしてもね、僕たちは懐疑主義者じゃありませんし! だから僕は御大将がこんなことで、わざわざ夜中に起こしに来たなんていうのに、驚いたくらいなんです」
「フェルデシチェンコは帰ったって、そう言いましたね?」
「そう、七時に。ついでに僕のところへ寄って行きました。そのとき僕は付き添っていましたから。それで、ヴィルキンのところへ行って、寝るんだって言ってました――実は、ヴィルキンていう酔っ払いがいるもんですからね。さあ、僕は行きます! おや、そこにレーべジェフさんがいる……公爵はお眠いそうですから、ね、回れい右!」
「公爵様、ほんのしばらくの間、わたしの眼から見まして、ある重大な問題についてまいりましたので」と、中にはいって来たレーベジェフはぎごちなく、妙に感激したような調子で声低く言って、もっともらしくお辞儀をした。
彼はいま、外から帰って来たばかりで、自分の所へも寄らなかったので、まだ帽子を手に持っていた。彼の顔は心配そうであったが、自分の威厳を示す一種特別ななみなみならぬ色合いを浮かべていた。公爵は、坐るようにと言った。
「あんたは二度も僕のことをお聞きになったそうですね? あなたはたぶん、昨日のことで相変わらず心配してらっしゃるんでしょう……」
「あの昨日の子供のことでございますかね、公爵? おお、違います、昨日は頭がごたごたしてましたけれど、……今日はもう何事によらず、あなたの御提議をコントレカルするつもりはございません」
「コントレカ……なんて言ったんですか?」
「実は、コントレカルと申しましたんで。これはロシア語の構成に加わりました他国のことばの大部分と同様、フランスのことばなんでございまして。が、特にこのことばを固執するわけでもございません」
「レーベジェフ君、なんだって、君は今日に限って、そんなもったいぶって、澄ましこんで、一字一字言うような口のきき方をするんです、……」と公爵は苦笑した。
「ニコライ・アルダリオノヴィッチさん!」とレーベジェフはコォリャに向かって、まるで感きわまったかのような声で言いだした。「実は公爵にある問題についてお知らせしようと存じまして、というのはおもに……」
「そりゃ、もちろん、もちろん、でも、僕の知ったことじゃない! さよなら、公爵!」と言うなり、さっそくコォリャは出て行った。
「あの子は物わかりがいいから、僕は好きです」とレーベジェフはあとを見送りながら言った。「ちょっとしつこいけれど、はしこい子供でしてね。さて、公爵様、わたしは、えらい災難にあいましたよ。昨夜か、今日の夜明けか、……はっきりした時刻を申し上げるのは躊躇《ちゅうちょ》いたしますが」
「どうしたんです?」
「公爵様、実は四百ルーブルという大金がわきのポケットからなくなりましてね。えらい目にあいました」レーベジェフは苦笑しながら付け足した。
「君は四百ルーブルなくしたんですか? それは残念でしたね」
「それも、自分で苦労して、気高く暮らしている貧乏な人間にとりましては、ことに」
「むろん、むろん、そうでしょうとも。けども、どういうわけで?」
「酒のためでございまして。私あなた様を神様と思ってまいりましたんで、公爵様。昨日の午後五時に、私はある債務者から銀五百ルーブルという大金を受け取りまして、汽車でこちらへ戻って来ました。紙入れはポケットへ入れておきました。略服をフロックにかえますときには、お金は自分の身につけておきたいと思って、フロックのほうへ入れかえておきました。実はある人から頼まれていましたので……代理人の来るのを待って、手渡ししようと思いまして」
「それはそうと、ルキヤン・チモフェーヴィッチさん、あんたが金銀類を下にとってお金を貸すって、新聞に広告なすったのは本当ですか?」
「代理人の手を通してです。所書きの下に自分の名は出していませんので。ろくな資本も持っておりませんし、家族もふえておりますから、まあ、お含みくださいまし、つまり正当な利子を……」
「まあ、いいです、いいです、僕はただちょっと聞いてみたもんですから。変なくちばしを容れまして済みませんでした」
「代理人はやって来ませんでした。そのうちに、あの不仕合わせな人が連れ込まれて来ました。もう私は食事を済まして、実にいい機嫌になっていました。そこへあのお客たちが来まして、大いに飲みまして、……お茶ですけれども。するうちに私は……身の破滅を招くほど、浮かれましてね。もう夜もふけてから、あのケルレルがはいって来まして、あなた様のお誕生日のことやら、シャンパンのしたくをするようにとのおさしずのことを知らせました時、わたしは、ねえ、公爵様、心というものをもっておりますから(それはもうたぶん、あなた様にもおわかりでしたろう、なにしろ、それだけのことはしておりますから)、心をもっている、と申しましても、けっして感情的なものでなく、私が自慢にしておりまする恩義心でございますが、――それで私はかねて準備してありますお出迎えをいっそう荘厳にするためと、また親しくお祝いを申し上げる用意のために、家に帰って、それまで着ていた七つさがりのぼろ服を、さきほど帰宅の際に脱ぎすてた礼服にかえようと思いまして、そのとおり実行したんでございます、これはたぶん、一晩じゅう礼服を着ていたのをごらんになってお気づきのことではございましょう。服を着かえるとき、フロックにはいっていた紙入れを忘れましたので。……いや、神様が罰を当てようとお思いになる時は、まず何はさておき、分別をお取り上げなさると申しますが、これは本当のことです。さて、やっと今日、七時半ごろにもなって、眼をさまし、まるで気ちがいのように飛び上がって、まず第一番に、フロックに手をかけてみたんですが、――ポケットは空じゃありませんか! 紙入れは影も形も見えないんです?」
「ああ、それは不愉快なことですね!」
「実際、不愉快ですよ。まあ、今あなた様はほんとに如才なく、名言を見つけ出しましたね」と、レーべジェフは少々ずるく、付け足した。
「もちろん、しかし、……」と公爵は物思いにふけりながら、不安の念にかられていた、「だって、あれはまじめな話じゃありませんか」
「全くまじめな話で、――もう一つ、あなた様は見つけなさいましたね、公爵、言い表わすのに……」
「ああ、もうたくさんです、レーべジェフさん、いったい、何を発見するんですか! 大事なことはことばにあるんじゃありませんよ……ことによったら酔っ払っていて、ポケットから落としたかもしれない、そんな気はしませんか?」
「そうかもしれません。あなた様が真ごころからおっしゃられたとおり、酔っ払っていては、どんなことにでもなりますからね、公爵様! しかし、お察し願いたいんでございます、もしも紙入れをフロックを着かえるとき、ポケットから落としたんでしたら、落とした品はそこの床《ゆか》の上になければならんはずです。ところが、いったい、その品はどこにございます?」
「どこかの箱か、テーブルへ、しまったんじゃありませんか?」
「せいぜい捜してみたんです。どこからどこまでひっくり返して見ました。おまけに、どこへも隠しませんし、どの箱もあけた覚えがないんです」
「じゃ、戸棚ん中は見ましたか?」
「はい、第一番に。おまけに、今日は何べんとなし、……ですけれど、どうして私が戸棚ん中になんか入れるはずがありましょう?」
「正直言いますと、僕はそれがひどく気にかかりますよ。してみると、誰かが床の上で見つけたってわけですか?」
「それとも、ポケットから掏《す》ったか! 二つのうちの一つでございますよ」
「僕はとても気になる。だって、はたして誰が……これが問題ですよ!」
「もちろん、それが第一の問題です。あなた様は実にすばらしくことばやお考えをはっきり見つけ出して、その場の状態というものを、ちゃんとお決めなさいますね、公爵様」
「ああ、レーべジェフさん、冗談はよしてください、ここで……」
「冗談ですって!」とレーべジェフは両手を打って叫んだ。
「ま、ま、ま、いいです、僕は怒ってなんかいないじゃありませんか、これじゃ、まるで別問題です……僕はほかの人たちのことが気がかりなんです。あんたは誰を疑ってるんです?」
「いや、はなはだむずかしい、……複雑きわまる問題ですなあ! 女中を疑うわけにはまいりません。あれは勝手にばかりいましたからね。うちの子供らも、やはり……」
「もちろん、そうですとも!」
「してみると、客の中の誰かでございます」
「しかし、そんなことがあってたまるもんですか?」
「全く、絶対にあり得ないことです。しかし、どうしたって、そうでなけりゃなりません。もっとも、かりに泥棒がいたとしても、それは昨晩、みんなが寄っていた時ではなくって、夜中か、夜明け方に、ここへ泊った人のうちの誰かがやったものと考えたいものです、それに相違ないとも思います」
「ああ、とんでもない!」
「当然、ブルドフスキイとコォリャは除外しますよ。二人とも私んところへはいって来なかったんでござんすから」
「もちろん、そうですとも、かりにはいったにしろ! あんたのところへ泊ったのは誰です?」
「私を入れて四人、隣り合わせの二つの部屋へ寝ました。私、将軍、ケルレル、それにフェルデシチェンコ君です。つまり、われわれ四人のうちの一人です」
「すなわち、三人のうちの一人ですね。けれど、いったい誰です?」
「私は公平を重んずるために、また順序として自分も勘定に入れたのです。しかしですね、公爵、私が自分のものを自分で盗むなんてことは、できようはずがないでしょう。もっとも、それに似たようなことはよく世間にありましたけれど……」
「ああ、レーべジェフ、退屈でしようがない!」と公爵はたまらなくなって叫んだ。「早く本筋へはいんなさい。何をだらだらやってる!……」
「してみると、残りは三人というわけです。まず第一にケルレル君はぐうたらな人間で、酔っ払いでして、時おりはリベラリスト、つまり、財布の点でございますが、そのほかのことになりますると、リべラルなどと申すよりは、いわば、古武士的な傾向をもっております。あの人は、最初はここで病人の部屋に泊っておりましたが、もう夜がふけてから、なんでも、床の上へじかではざらざらして眠れんとか申して、私どものほうへ引っ越して来ました」
「じゃ、あの人を疑ってるんですか?」
「疑っておりますよ。私は朝の七時過ぎに、気ちがいみたいに飛び起きて、額に手を当てると、すぐに子供のように、罪のない夢を見て眠っている将軍を起こしました。フェルデシチェンコの怪しい雲がくれを考慮に入れて、なにしろ、これ一つだけでもわれわれに疑いを起こさせるに十分なんですからね、さっそく、二人は、まるで……まるで、ほとんど釘みたいになって寝ているケルレルを、捜索することに決めましたんで。すっかり捜してはみましたけれど、ポケットには鐚一文《びたいちもん》もございません。それに一つとして穴のあいていないポケットはないくらい。ただ青い格子縞の木綿の鼻ふきがありましたが、これも見られたざまじゃございませんで。それから、また一つ、どこかの小間使いが、金をねだって、脅迫がましいことをいっている濡れ文と、それから、あなたも御承知の三面記事の切り抜きがありましてね。将軍は、無罪だと断定しました。なお十分な調査をとげるために、当人を無理にゆすぶって呼び起こしましたが、何のことやらとんと見当がつかないらしく、口をぽかんとあけて、いや、その酔っ払った格好ときたら、顔色を見ますと、間が抜けて、子供らしくって、ばかげてさえもいましてな――結局、あれじゃなかったんでございます!」
「ああ、よかった!」と、公爵は嬉しそうにため息をついた。「僕もあの人が心配でしたよ!」
「心配してらしったって? そうすると、何かそれ相当いわれがありましたんですか?」レーべジェフは眼を細くした。
「おお、違います、僕は全く」と公爵は口ごもった。「心配してたなんて、恐ろしくばかなことを言いました。お願いですから、レーべジェフ、誰にも言わないでください……」
「公爵、公爵! あなたのおことばは私の心のなかにしまっておきます……私の心の真底に! ここは墓場も同様ですから気づかいありません!」帽子を胸に押し当てながら、レーべジェフは感きわまったように言った。
「結構、結構!……してみると、フェルデシチェンコですか? つまり、僕はフェルデシチェンコを疑ってらっしゃるんですか、と、こう言うんです」
「いったい、ほかに誰がありましょう?」じっと公爵を見つめながら、レーべジェフは声低く言った。
「まあ、そうさな、むろん……ほかに誰を……つまり、やはりまた……何か証拠があるんですか?」
「証拠はございます。第一に七時に、いや、朝っぱらの七時まえに雲がくれしたっていうこと」
「わかってます、コォリャの話では、なんでもあの子んとこへ立ち寄って、人のところへ……誰だったか忘れましたが、友だちのところへひと眠りしに行くとか言ったそうです」
「ヴィルキンのところです。そうすると、ニコライ・アルダリオノヴィッチさんがもうあなたに話したのですね?」
「しかし、盗難のことはなんとも言ってませんでしたよ」
「あの子は知らないのです。わたしが当分、その一件を秘密にしていますので。ま、そういうわけで、ヴィルキンのところへ行ったんです。これには何も不思議なことはないように見えるでしょうね、酔っ払いが自分と同じように酔っ払いのところへ行くんですからね。たとい、夜明け前で、別にこれというわけがないにしても? しかしここにくさいところがあるんでしてね。あの男は出がけに行く先を言いおいて行きました……。ねえ、公爵、よくこの問題をつきつめて行ってごらんなさい。何のために所番地なんか言っておいたんでしょうか? ……何のためにわざわざ遠回りして、ニコライ・アルダリオノヴィッチさんの部屋へ寄って、『ヴィルキンのところへひと眠りに行く』なんて断わるんでしょう? あの男が出かけて行くのに、たといヴィルキンのところだろうとなんだろうと、そんなことを誰が気にとめるもんでしょう? それをなんだって報告なんかするんでしょう? いや、そこがつまり、達者なところです! これはすなわち、『わざわざ、おれは自分の行く先をくらまさないんだ、したがって、おれが泥棒になるはずもないじゃないか。はたして、自分の行く先を泥棒がことわるものだろうか?』という意味なんですよ。嫌疑を避けて、いわば、砂の上の足跡を消そうっていうよけいな苦労なんですよ、……今言ったことがおわかりになりましたか、公爵様?」
「わかりました、実によくわかりましたけども、それだけじゃ不十分じゃありませんか?」
「第二の証拠があるんでして。つまり、やり口が嘘だってことがわかったんです。言いおいて行った所番地が正確じゃなかったんです。一時間たって、つまり、八時に、私はヴィルキンの門をたたいてみました。家は五番町で、やはり私も知り合いなもんですから。ところで、フェルデシチェンコなんて、影も形も見えません。もっとも、まるでかなつんぼの女中から、やっとのことで、一時間まえに、たしかに、誰か戸をたたいた者があるが、しかもかなり猛烈だったので、べルまでこわれてしまったという話は聞きました。しかし、女中はヴィルキン氏を起こしたくなかったので、戸をあけてやらなかったそうです。ことによると、女中も起きたくなかったんでしょう。そんなことはよくあることでございましてね」
「じゃ、それで君の証拠はみんなですか? それでもまだ不十分ですね」
「公爵、しかし、それでは疑うべき人はないじゃありませんか、ようく考えてごらんなさいまし」とレーベジェフはしんみりした調子で結んで、しかも、彼の薄ら笑いに何かしらずるそうな感じが漂っていた。
「部屋の中や引出しをもう一度調べてみたらいいでしょう」と、公爵は、しばらく物思いに沈んでから、心配そうに言った。
「よく調べたんでございますよ!」なおいっそうしんみりと、レーべジェフは嘆息した。
「ふむ!……しかし、なんのために、なんのためにあんたはフロックを着かえる必要があったのです!」と公爵はいまいましげに、テーブルをたたいて叫んだ。
「昔の何かの喜劇にあるような御質問ですね。しかしですね、御親切な公爵様! あなた様は私の災難をあんまり気にかけすぎるようです! 私にはそれだけの値打ちがありません。つまり、なんです、私ひとりだけはその値打ちがないのです。ところが、あなた様は犯人のことを……あの取るにも足らないフェルデシチェンコ氏のことで気をもんでいらっしゃるんですね?」
「うむ、そう、そう、あんたは、実際、僕を心配させましたね」ぼんやりと、気にそわないらしく、公爵はさえぎった。「それで、いったい、どうしようっていうつもりなんです……もしもあんたがフェルデシチェンコに相違ないと、そんなに信じていられるんでしたら?」
「公爵、公爵様、ほかの人とすればいったい誰でございましょう?」とレーべジェフはいやがうえにもしんみりと、身をくねらせながら、「ほかにこれといって、思い当たる人がいない、いわば、全然フェルデシチェンコ氏以外の人を疑うことが不可能である。これははたして、フェルデシチェンコに対する証拠、すなわち、第三の証拠ではないでしょうか? なぜなら、もう一度申しますが、ほかの人とすればいったい、誰でございましょうか? ブルドフスキイ氏を怪しむわけにはいかないじゃございませんか、私には。へ、へ、へ!」
「ああ、また、なんてばかげた話だろう!」
「将軍でもありますまいしね。へ、へ、へ!」
「ばかばかしい!」たまらなくなって、公爵は、坐ったまま、横をふり向き、怒ってでもいるかのように、こう言った。
「むろんばかげた話です! へ、へ、へ! ところで、あの人、つまり、将軍は、私を笑わせましたよ! 私はあの人といっしょに、すぐにあとをつけてヴィルキンのところへ行きました、……ちょっとお断わりしなけりゃなりませんが、将軍は私が盗難を発見するやいなや、まず第一番に呼び起こしましたところ、わたしよりももっとびっくりして、顔色が変わったくらいで、赤くなったり、青くなったりしていましたが、やがて、いきなり、私もそれほどまでとは思いもよらなかったほど、ものすごく律義な憤慨をしましてね。いや、どうも、このうえなしの律義者です! もっとも、弱気なために、しょっちゅう嘘は言いますが、情にかけては見上げたものですよ。そのうえ、肚《はら》のない人で、無邪気なところで、人をすっかり信用させるのでして。これは前にも申し上げましたが、ね、公爵様、私はあの人にひけ目ばかりではなしに、愛情さえもっておりますので。さて将軍は急に往来のまん中に立ち止まってフロックをまくりあげて、胸をはだけるんじゃありませんか。『さあ、わたしを検査してくれ、君はケルレルを検査したのに、なぜわしを検査しないんじゃ? 公平を期せんがためには、当然必要のことじゃ!』と、こう言いましてね。御本人は手も足も震えて、おまけにまっさおになって、恐ろしいったらありません。わたしは笑いだしてこう言いました、『ねえ、将軍、もしも、ほかの誰かがおまえさんのことをそう言ったら、私はさっそくこの手で自分の首をはずして、それを大きな皿の上に載せて、疑ってる連中のところへ、自分で持ってってやりますよ。ほら、この首でもって、おまえさんを保証しますよ。首ばかりじゃなくって、火の中へでも飛び込みます。ほら、このとおり、おまえさんを保証する気でいるんですよ』と、こう言いました。すると、あの人は飛びついて、私に抱きつきましてね。やっぱりそれも往来のまん中じゃありませんか。はらはらと涙を流し、ぶるぶる震えながら、私をきつく自分の胸へしめつけましてね、私は咳もできないほどでした、『この逆境にあっても、わたしを見すてない親友は君一人だ!』と、こう言うんです。情にもろい人ですからね! さて、先生はもちろん、例の『逸話《アネクドート》』を、この時ぞとばかり話しましてね。なんでもまだ若かったころ、やはりあるとき、五万ルーブル盗難の嫌疑を受けたことがあったそうですが、そのあくる日に、燃えている家の火の中へ飛びこんで、自分に疑いをかけている伯爵と、まだそのころ生娘だったニイナ・アレクサンドロヴナさんとを火の中から引き出したんだそうです。伯爵はあの人を抱きしめて、そうして、あのニイナさんとの縁談が持ち上がったんだそうです。またその翌日になって、焼け跡から金箱が出て来て、見るとなくなっていた金がちゃんとはいっていたんですって、金箱は鉄で出来た英国式ので、秘密錠がかかっていたそうですが、どうかして床下にころがっていたのに、誰も気がつかないでいて、やっと火事があったため見つかったんだそうです。これはまるで根も葉もない嘘でございますよ。でも、ニイナさんのことを話しだしたときには、しくしく泣きだしましてね。そのニイナさんときたら、実に高尚なおかたですよ、私を怒ってらっしゃるんですけど」
「あんたは知り合いじゃないんですか?」
「ほとんど、そうじゃないといってもいいくらいです。しかし、真底からお近づきになりたいとは存じております。もっとも、それはただ、あのかたの前で、申し開きをしたいからでして。実は、ニイナさんは私が今お連れ合いを、飲んべえに堕落させてるかのように思いなすって、私を恨んでらっしゃるんですよ。ところが、堕落させるどころじゃない、むしろ、おとなくして上げてるのですよ。私はおそらく、あの人を害になる連中から、引き離してあげてるんでしょう。おまけに、わたしにとっては、親友なんですから、正直のところ、もう今はけっしてあの人を手放しやしません。つまり、こうなんでございますよ、あの人の行くところへは私も行くというわけでして。と申すのは、あの人ときたら、感情であやつるほかにないんでしてね。今ではもう、あの大尉夫人のところへは、ちっとも寄りつかなくなりました。もっとも内心は、行きたくって、行きたくって、しようがないんでしてね、おまけに、どうかすると、あの女のことを思って、わけても毎朝、床を出、靴をはくときなんか、ひどく悲しそうな声を出しましてね、なんだってこの時刻に限るのか、わけはわかりませんが。金は少しも持っていませんのです、そこが悲しいところで、なんせ、金を持たないでは、女のところへ行くわけにはいきませんからね。公爵、あなた様に金の無心を申しませんでしたか?」
「いいえ、しませんでした」
「きまりが悪いんですね。借りたがっていましたが。私にさえも、公爵に心配してもらいたいんだと白状していましたからね。しかし、きまりが悪いんですよ。ついせんだって、お借りしたばかりで、このうえ、貸してもくださるまいと思って。あの人は、親友として私に打ち明けました」
「じゃ君はあの人に金を貸さないんですか!」
「公爵、公爵様! 金ばかりじゃなしに、私はあの人のためなら、いわば、命さえも、……いや、それにしても、おおげさのことは言いたかありません、――命とは申しませんが、たとえば、熱病も、何かの腫《は》れ物も、それに咳さえも、必ずしんぼうする覚悟です、もっとも、それも非常な必要のあるときに限りますが。なにしろ、あの人を偉いとは思っていますが、落ちぶれた人なんですから! ま、こういうわけで、お金ばかりじゃないんでござんして!」
「してみると、金もやるんですね?」
「い、い、いいえ、金をやったことはございません。あの人もわたしがやらないってことは、自分でもよく承知しています。しかし、それもただ、あの人が身持ちをよくして、品行をなおしてくれるようにと思うからなんでして。今度もぜひともペテルブルグへ連れてってくれと、しきりに言いましてね、実は、私はすぐに、フェルデシチェンコ氏の跡を追って、ペテルブルグへ行くものですから、なんせ、あの男がもうあちらにいることは、たしかにわかっておりますから。で、将軍はもう夢中になってるんでございますよ。でも、ペテルブルグへ行ったら、私の目をくらまして、大尉夫人をたずねやしないかと疑ってるんでして。私は、正直に申しますと、わざとでも、あの人を突っ放してやりたいんで、もう、ペテルブルグへ行ったら、フェルデシチェンコ氏をつかまえるのに都合のいいように、着く早々、右と左に別れようって、約束をしましたんで。こうしてあの人を放しておいて、それから、藪《やぶ》から棒に、大尉夫人のところで、ばったり出くわしてやろうと思いますんで、――何はさておき、家庭のある人間として、また、普通の人間としても、とにかく、将軍をはずかしめてやりたいんです」
「ただ、あまり物騒なことはしないでくださいよ、レーべジェフ君。お願いだから、物騒なことはしないでください」と公爵はひどく心配しながら、低い声で言った。
「おお、けっして。ただあの人をはずかしめて、どんな顔をするか見たいだけです、――というのは、ねえ、公爵様、顔の色ひとつでいろんなことが汲めるもので、ことにあんな人はそうなんですからね。ああ、公爵! 私は自分の不仕合わせが並みたいていではないのに、今でもあの人のこと、あの人の品行をなおすことを、どうしても考えないではいられないのです。ところで、公爵様、一つたいへんなお願いがございますので、実は、そのために御邪魔にあがりましたんでございます。あなた様はあの家とお知り合いで、ごいっしょにお暮らしなすったこともございますから、もしも、あなた様がひたすら、将軍のために、あの人の幸福のために、このことに一はだ脱ごうとおっしゃいましたら……」
レーベジェフはお祈りでもする時のように、手まで合わせていた。
「いったい、なんです? どうして骨折るんです! ほんとに、僕は君の言うことを十分に了解したくてならんのですよ、レーべジェフ君」
「私は、ただもうこの信念をもって、こちらへ御邪魔にあがりましたので! ニイナさんに骨折っていただいたら、薬が効くのでございましょう、自分の家庭内で、将軍を監視、いわば、しょっちゅう閣下のあとをつけましてですね、ところが、私は不幸にして、奥方とは未知の間柄でございますんで……。おまけに、こちらにはあなた様を、いわゆる、青年の至情を傾けて、崇拝しておられまするニコライ・アルダリオノヴィッチさんというおかたもおられることですから、たぶん、手伝ってはくださるでしょう……」
「と、とんでもない! ニイナさんをこんな事件に引き入れるなんて、……まっぴらごめんです! それにコォリャ君まで、……僕はもっとも、まだ君の言うことが、よくわかってないのかもしれません、ねえ、レーべジェフ君」
「いや、なに、わかるもわからないもありませんよ!」とレーべジェフは、椅子から飛び上がりさえもした。「ただ、なんです、情と優しみ――これがあの病人に対する唯一の薬です。公爵、あなたはあの人を病人と見ることを許してくださいますか?」
「それはかえって、君の敏感さと頭のよさを証明するものです」
「問題をはっきりさせるために、実地から取って来た例を引いて御説明いたしましょう。将軍がどういう人間かということを見ていただきたいものです。あの人にはいま大尉夫人に対して、一つの弱みがありましてね、どうしてもお金を持たずには顔を出せないのです。この女のところで、実は今日、将軍を現場でおさえるつもりなんですが、これもあの人のためを思えばです。ところで、かりに、相手が大尉夫人ばかりでないとしますね、あの人が、本当の犯罪を、まあ、その、何かの非常な不名誉な間違いをしでかしたとしますね(もっとも、あの人に、そんなことをやるだけの腕前はてんでありませんが)、そんな時にでもやはり、高尚な、いわゆる優しみさえあれば、どんな風にでもあの人をもってゆけるのです。実に情にもろい人ですからね! 必ず、五日とはしんぼうができないで、自分のほうから言いだして、泣きながら何もかも白状してしまいますよ、――わけても、家族の手をかりて、あなたがたに監督、いわば、あの人の……一挙一動を監督してもらって、じょうずに高尚にさえやれば請合いです。おお、御親切な公爵様!」と、レーべジェフは妙に感激したような風までして、飛び上がった。「何も私はあの人が必ずその……なにしたと主張するわけじゃありません。私はあの人のためならば、なんです、その、ありたけの血を流す肚でいるのです。もっとも、ふしだらと、酒と、大尉夫人と、こういうものがいっしょになったら、どうにでもなるってことは、御承知願います」
「そんな目的なら、僕は、もちろん、いつでも一はだ脱ぎますよ」公爵は立ち上がりながら言った。「ただ、正直申しますと、ねえ、レーべジェフ君、僕はとても心配なんです。だって、君はやはり……つまり、フェルデシチェンコを疑っていると、自分でおっしゃるんですからね」
「しかし、ほかに誰を疑いましょう? ほかに誰を? 公爵様」とレーべジェフはいじらしくほほえみながら、しんみりと両手を合わせた。
公爵は眉をひそめて、席を立った。
「ねえ、レーべジェフさん、ここに間違われている恐ろしい問題がありますよ。あのフェルデシチェンコですね、……僕はあの人のことを悪くは言いたくないけれど……しかし、あのフェルデシチェンコが、……なんです、つまり、ひょっとしたら、あれかもしれませんよ! つまり僕はこう言いたいのです、おそらく、あの人こそ、実際にほかの……誰よりも、そんなことができそうなんですよ」
レーべジェフは眼を丸くして耳を立てた。
「いいですか」公爵は部屋の中をあちこちと歩きまわって、レーベジェフのほうを見ないようにして、いよいよ苦い顔をしながらことばにつかえるのであった。「僕は知らせてもらいました、……あのフェルデシチェンコ氏の前では、控え目にして、何も……よけいなことを言ってはならない、何はさておき、そんな人なんだからと、こう聞かされたんです――いいですか? 僕がこんなことを言うのは、ひょっとすると、あの人は、実際、ほかの誰よりもそんなことができそうだ……ということを裏書きするためなんです。そこが大事なところですよ、わかりましたか?」
「フェルデシチェンコ氏のことを、誰があなたに知らせたのです?」レーベジェフは食ってかかった。
「こっそり耳打ちされたんですよ、それにしても、僕自身はそんなことを真《ま》にうけてはいません……こんなことを知らせなければならなかったのは、実に僕にはいまいましいことです、本当に、僕はそんなことを真にうけてはいないのです、……実にくだらん話です……ちぇっ、僕はなんてばかなまねをしたんだろう!」
「ねえ、公爵」とレーベジェフは、すっかり身震いさえもして、「それは重大なことです、今という今、あまりにも重大なことです。つまり、フェルデシチェンコ氏に関してではなく、いかにして、それがあなたのお耳にはいったかという問題です(こう言いながら、レーべジェフは、公爵に歩調を合わせようとして、あとについて、あちらこちらと駆けまわっていた)。実は、公爵、私もこんなことをお知らせしたいんです。さっき将軍が私といっしょにあのヴィルキンのところへ行くとき、例の火事の話は済んでいましたが、そのあとで、かんかんになって、いきなり、フェルデシチェンコ氏のことで、やはり同じことをほのめかしたのです。しかし、その言い方がとりとめがなくて、不細工なものですから、わたしは何の気なしに少しばかり質問してみました。その結果、この話もただ、閣下の感激のほとばしりにすぎないことを、はっきり見抜いてしまったのです。ただこれは、いわば、気が大きいところから来たものです。なにしろ、あの人が嘘をつくのは、ただ感激を押さえることができない結果なのでしてね。ところで、お尋ね申したいのは、仮に、将軍が嘘をついて、私がそれを信用したとしても、いかにして、あなたがこれを御承知なすったかということです? ね、そうでしょう、公爵、だって、あれは将軍のほんの一時の感激じゃありませんか、――してみると、それをいったい、誰があなたに知らせたのでしょう? これが重大問題でございますよ、そして、……いわば……」
「僕はたった今コォリャ君から、またコォリャ君はさっきお父さんから聞いたのです。けさ六時か、六時過ぎに、何かの用であの子が外へ出たとき、軒の下でばったり会ったんだそうです」
そこで、公爵は何もかも詳しく話してやった。
「ははあ、なるほど、これが手がかりというものでございますね!」と、レーべジェフは手を軽くさすりながら、ひっそりと声もなく笑った。「私の思ったとおりでございますよ! してみると、こんなことになるんでございますよ。つまり、閣下は、愛《いと》しいわが子をたたき起こしてフェルデシチェンコ氏の部屋と隣り合わせるのは、はなはだもって、危険なことだということを知らせるために、わざわざ五時過ぎに、御自分の子供らしい、罪のない夢を破ったってわけなんでございますよ! これで見ても、フェルデシチェンコ氏は実にけんのんな人じゃありませんか、また、閣下の子を思う親心はたいしたもんじゃありませんか、へ、へ!」
「まあまあ、レーべジェフ君」と公爵はすっかりどぎまぎしてしまった。「どうか、穏便にしてください! 物騒なことはしないでくださいよ! お願いします、レーべジェフ君、後生ですから、……こんな場合ですから、僕も誓ってお手伝いはいたしましょう、ただし誰にも知られないように、誰にも知られないように、……」
「何を隠しましょう、公爵様、御前様」とレーべジェフはすっかり感きわまって叫んだ。「必ず、必ず、これは万事、私のこの高潔なる胸の中に葬ってしまいます! ごいっしょに、そっと抜き足で! そうっと、ごいっしょに! 私はからだじゅうの血までも、すっかり……。御前様、私は精神のさもしい野郎ではございますが、まあ、さもしいやつにばかりではなしに、どんな悪党にでも聞いてごらんなさい、――いったい、事をするのに自分と同じように悪党を相手にするのと、あなた様のような高潔無比な、誠心誠意のおかたを相手にするのと、どっちがいいか? って。すると、そいつは高潔無比なおかたを相手にしたいと、必ず答えるでしょう。そこがそれ、人徳の手柄というものでございますよ! では、公爵様、失礼をいたします! そっと抜き足で……抜き足で……はい、ごいっしょに」
[#改ページ]
十
公爵には、今まで、この三通の手紙に触れるたびに、どうして寒けがしていたのか、また、どうして日の暮れぎわまでこの手紙を読むのを延ばし延ばししていたのかが、ようやくわかってきた、今朝がた、この三通のなかでどれをあけて見ようかしらと、相変わらず決めかねているうちにいつの間にか長椅子の上で、ぐっすり寝込んでしまったとき、彼はまた重苦しい夢を見たが、その時にもまたあの『罪の女』が彼のところへやって来た。女は今も、長い睫《まつげ》に涙を光らせて、じっと彼を見つめながら、あとからついて来いとさし招いた。彼は前と同じように、またしても悲痛な気持で女の顔を思い浮かべながら、眼がさめた。すぐにも女のところへ出かけたいとは思ったものの、そうはいかなかった。ついにほとんどあきらめて、彼は手紙をあけると、これを読み始めた。
この手紙もやはり夢のようなものであった。
どうかすると、人は奇妙な、有りそうもない、不自然な夢を見るものである。眼がさめてみて、その夢をはっきりと思いおこして、奇妙な事実に驚かされることもある。まず何よりも先に、夢を見ている間じゅう、理性の働きがやんでいないことを思いおこす。夢を見ている長い、長い間じゅう、たとえば人殺しに取り囲まれたとき、彼らが凶器を用意して、何かの合図を待っているくせに、狡猾なふるまいをし、殺意をひた隠しに隠して、いかにもなれなれしい態度を見せているとき、自分は非常に達者に、論理的に立ち回っていたということさえも思いおこす。ついには、自分がまんまと彼らをだまして、身を隠してしまう、そうかと思うと、彼には彼らがこちらの詭計《きけい》を万々承知でいながら、ただこちらがどこへ隠れたかを知っている風を見せないだけなのだということに気がつく。ところが、またもや、自分は策略をもって、だましてしまったと、こういうことを何もかもはっきりと思いおこす。しかるに、それと同時に、人の理性は、夢の中にひっきりなしにあふれている、かようなわかりきった矛盾や無理とどうして妥協することができるか? 今、その人殺しの一人が眼の前で女になる。また女から小さな、奸智《かんち》に長《た》けた、いやらしい一寸法師になる、――すると、かようなことを何もかも、人はすぐに、既成の事実として、ほとんどなんらの疑惑さえももたずに、容認してしまう、ところで、一方において、理性があくまでも緊張し、非常な力と、奸智と、洞察力と、論理とを示しているのは、実にこの時ではないのか? また、これと同様に、夢からさめて、全く現実の世界にはいりながらも、ほとんど常に、時としてはなみなみならぬ感銘をうけて、何かしら自分にとって解くことのできないものを夢と共に残しているかのように感ずることもある。人は自分の夢の愚かしさをわらい、と同時に、こういうことを感ずる、――すなわち、かような愚かしさの交錯したところに、一種の思想が含まれていて、しかもその思想が現実的なものであり、自分の現実生活に即したあるものであって、自分の心のなかに存在し、常に存在していたあるものであると感じ、夢によって自分は何かしら新しい、予言的なものを待ちうけていたことを聞かされたかのように感ずる。この印象は強い。これは喜ばしいものか、痛ましいものか、いずれにもせよ、この印象の核心はどこにあるのか、いったい、何を聞かされたのか――こんなことは全く理解することも回想することもできない。
この手紙を読んだあとの感じはほとんどこれと同じようなものであった。まだあけても見ないうちから、公爵にはこの手紙が存在し、存在し得るというその事実が、すでに悪夢にも等しいものと感ぜられた。日の暮れに一人でぶらつきながら(時とすると、自分で自分がどこを歩いているのか、気のつかないことがあった)、公爵は心の中で、どうして|あの女《ヽヽヽ》が彼女に手紙をやろうなどと決心したのか? と聞いてみるのであった。どうしてあの女に|あのこと《ヽヽヽヽ》が書けたのか、どうしてかような気ちがいじみた空想が、彼女の脳裡に生まれて来たのか? しかも、この空想は実現されていたのである。が、公爵にとって、何よりも驚きにたえなかったのは、彼がこれらの手紙を読んでいるとき、自分からこの空想の可能をほとんど信じきって、この空想の正当なことをすらも信じかかっていることであった。そうだ、いうまでもなく、これは夢なのだ、悪夢なのだ、狂気のさたなのだ。しかもここに、堪えられないほどになまなましく、痛々しいほどに真実な何ものかが潜んでいた、それが夢をも、悪夢をも、狂気のさたをも正当づけているのだ。何時間かの間、彼はあたかも自分が読んで、絶えずその断片を思いおこし、じっと心を向けては考えこんでいることに憑《つ》かれているかのようであった。こんなことは何もかもすでに予感し、予測していたことなのだと、ときにはひとり言を言いたいような気持になることさえもあった。あまつさえ、こんなことはみな、いつか、かなり遠い昔に読んだことばかりだと、そんな気になることもあった。あの時からというもの、みずからが思いわずらい、心を痛め、恐れてもいたものが、何もかもすでにかなり前に読んでしまっているこの三通の手紙の中に含まれていることも考えられた。
『この手紙を開封なさいます節は(最初のたよりはこういう書き出しであった)、まず最初に署名をごらんくださいまし。この署名があなたに何もかもお話をいたし、説明をいたすことでございましょう。それゆえわたしはあなた様の前に、何も申しわけや、説明をいたしません。もしも、わたしが多少なりと、あなた様と同等くらいの地位におりましたなら、あなた様はこういうずうずうしいことを申しますことに、いっそう腹をお立てなすったかもわかりません。けれど、わたしは何者でしょう、そしてあなたはどういうおかたでございましょうか? わたしたち二人は全く正反対でございますので、あなた様の前へまいりますと、わたしはもう、物の数でもございませんし、たとえわたしが望みましても、とうていあなた様を侮辱することなどはできたものではございません』
先へ行って、別なところで、彼女はこう書いていた。
『わたしのことばを頭のぐあいの悪い者の病める感激とおとりにならないでくださいまし。あなた様はわたしにとりましては――完全そのものでございます! わたしはあなた様を見ました、今も毎日、見ております。けれど、わたしはあなた様をとやかくは申しませぬ。理屈によって、あなた様が完全そのものであると決めるようになったのではございません。わたしはただ信仰したのでございます。けれど、わたしにはあなた様に対しまして、不都合なことがございます。つまり、わたしはあなた様を愛しているのでございます。完全と申すものは愛することのできないものでございましょう。ただ完全は完全として眺めるべきものでございましょう。そうではございませんかしら? それにしましても、わたしはあなた様に思いを懸《か》けたのでございます。愛は人を平等にするものではございましょうけれど、お気にかけないでくださいまし、わたしは人に見せない心の底にさえも、けっして、あなた様に自分をなぞらえたことなどはございません。今、わたしは「お気にかけないでくださいまし」と申しましたけれど、はたして、あなたのお気にかかるようなことができるものでございましょうか? ……もしできることでしたら、わたしはあなた様の足跡に接吻したことでございましょう。ああ、わたしはけっしてあなた様と肩を並べられる者ではございません。……どうか署名をごらんくださいまし、一刻も早く署名をごらんくださいまし!』
『それにしましても、わたしは気がついております(と彼女は別の手紙に書いている)、わたしは、いつもあなた様をあのかたに結びつけて考えておりますので、いまだ一度として、あなた様があのかたを愛していらっしゃるかしら? などと心に聞いたことさえないのでございます。あのかたはあなた様を見そめたのでした。そして、あなた様のことを、それこそ「光」ででもあるかのように思い起こしておりました。これはあのかた御自身のおことばでございます。わたしがあのかたから聞いたのでございます。けれど、あなた様があのかたにとって光でいらっしゃるということは、もうあのかたから言われなくとも、よくわかっておりました。わたしはまるひと月、あのかたのお傍に暮らしてみて、はじめてあなた様もあのかたを愛していらっしゃるということがわかったのでございます。あなた様もあのかたも、わたしにとりましては、一つのものでございます』
『あれはどうしたことでございましょうか?(と彼女はなおも書いている)昨日、わたしはあなた様のお傍を通りました、すると、あなた様は顔を赤くなすったようでございますね? そんなはずがないかもわかりません、けれど、わたしにはそう見えたのでございます。かりに、あなた様をこのうえもなく汚らわしい巣窟《そうくつ》へお連れ申して、むき出しに乱行をごらんに入れたとしましても、あなた様が赤い顔をなさるはずはございませんし、あなた様が侮辱を受けたとおぼしめして、御立腹なさろうはずはございません。ありとあらゆる汚らわしい、卑しい人をお憎みなさることはございましょう。けれど、それは御自分のためではなくて、ほかの、侮辱を受けた人のためでございましょう。あなた様を侮辱することは、誰にもせよできないさたでございます。あなたは、わたしにはあなた様が、わたしを愛してくださるようにさえも思われるのでございますけれど。あなた様はわたしにとりましても、あのかたの時と同じことで光の精なのでございます。けれど、天使には人を憎むことはできません、また人を愛しないでもいられません。ありとあらゆる人々を、ありとある隣人を愛するということはできますことでしょうか? しょっちゅう、わたしはこの問いをわたしは自分で自分にかけてみました。もとより、できないさたで、かえって不自然なくらいです。人類を愛しようという抽象的な気持をもっていても、人はほとんど常に自分ひとりを愛するものでございます。これはわたしたちにはできないことですけれど、あなた様は別問題でございます。あなた様は誰ともくらべようのないおかたですし、また、あらゆる侮辱やあらゆる個人的憤慨を超越していらっしゃるおかたですから、どうして誰かを愛せずにはおられましょうか? あなた様はエゴイズムというものをもたずに人を愛すことができ、御自分のためではなく、あなたの愛していらっしゃるそのかたのために、愛することのおできになるただ一人のおかたでございます。ああ、今あなた様が、わたしのために、きまりの悪い思いとか、腹立たしさをお感じなすっていられるとわかったら、わたしはどんなにつらい思いをいたしますことでしょう! もしも、そういうことになりましたら、もうあなた様はだいなしでございますよ、つまりあなた様は一挙にして、わたしと対等になるのでございますよ、……』
『昨日、あなたにお目にかかってから、家に帰りまして一つの絵を思いつきました。画かきはキリストを描くのに、いつも福音書の物語によっておりますけれど、わたしは違った描き方をしてみたいものです。つまり、わたしはただキリストだけを描きたいのです、――ときには弟子たちも師一人だけを置きざりにしたこともあったはずですものね。わたしはキリストを描いて、ただ一人の子供だけをお傍におくのでございます。子供はキリストの傍で遊んでいます。ことによったら何かしら、子供らしいことばで話しかけて、それをキリストがじっと聞いていたのかもわかりません。けれど、今は物思いにふけっているのです。その手は、ゆくりなくも、置き忘れたかのように、子供のうるわしい頭の上に載せられています。キリストははるか遠くの地平線を眺めて、その眸のなかには、全世界のように、偉大な思想が安らかに宿されています。顔も物悲しげに子供は黙りこんで、キリストの膝によりかかり、小さい手で頬杖をつきながら、首をあげて、物思わしげに、どうかすると子供も物思いにふけるものですが、ちょうどそのようにして、じっとキリストを見つめています。陽は沈んでゆく……これがわたしの絵なのでございます! あなた様は無邪気なおかたで、その無邪気なところに、あなた様の完全そのものが残りなくあらわれています。ああ、このことだけでも覚えていてくださいまし! あなた様を思うわたしの熱情などというものは、あなた様には物の数でもありますまい? けれど、あなた様はもうわたしのものでございます、わたしは一生涯あなた様のお傍におりましょう……わたしは間もなくあの世にゆく身なのでございます』
やがて、最後の手紙にはこう書いてあった。
『後生ですから、わたしの身の上は、けっしてお心にかけてくださいますな。また、わたしがこんなお手紙の書きようをして、わが身を卑しめているとか、たとい自負心からにもせよ、自分を卑しめて、それを潔しとするようなたぐいの女であるとか、どうかおとりになりませんように。いいえ、わたしにはわたしの慰みがございます。もっとも、これをあなた様に御説明することはむずかしいことですの。わたし自身にさえ、かなり苦心はいたしておりますものの、どうしてもはっきりと説明がつきかねる始末でございます。けれど、わたしには、自負心が急に湧いてくるようなことがありましても、自分を卑しめることなどできるものではないと、よくわかっておりますの。心の清らかなために自分を卑しめることも、わたしにはできない芸でございます。こういうわけですから、わたしはけっして自分を卑しめてなどはいないのでございます』
『わたしがあなた様を味方にしたいと存じておりますのは、なぜでございましょうか、あなたのためか、それとも、自分のためか? もとより、自分のためでございます。こうしてこそ、わたしのいっさいの問題が解決されるのでございます、かなり前に、わたしはたしかにそうと自分に言い聞かせたものでした。……承りますれば、姉様のアデライーダ様は、わたしの写真をごらんになられましたおり、このような美貌をもってすれば、世界をひっくり返すこともできるとかおっしゃいました由。けれど、わたしはもう世をあきらめてしまったのです。あなた様はレースやダイヤモンドを身につけて、酔いどれや与太者を引き連れているわたしにお出会いになったために、こんなことをわたしの口からお聞きなすったら、さぞかし、おかしくおぼしめすことでございましょう。けれど、どうかこのことには気をとめないでくださいまし、わたしはもうほとんどこの世のものではなく、それをよく承知しているものでございます。わたしの身のうちに、わたしに代わって何が住んでいるのか、これは知る由もございません。わたしは絶えずわたしを見つめている二つの恐ろしい眼のなかに、このことを毎日のように読み取っておりますがこの眼はわたしの前に見えない時ですら、常にわたしを見つめているのでございます。この眼は今は黙っております(いつも|黙って《ヽヽヽ》はいるのですけれど)、しかも、わたしはこの眼の秘密を存じております。あのかたの家は憂鬱で、退屈で、そこにもまた秘密をもっております。わたしは、あのかたが必ずやいつぞやのモスクワの人殺しのように、絹に包んだ剃刀《かみそり》を、箱の中に隠しているに相違ないと思いますの。あの人殺しもやはりある家に、母親といっしょに暮らしていましたが、やはり、ある女の咽喉《のど》を斬《き》るつもりで、剃刀を絹で巻いていたのでございます。あのかたがたの家に暮らしている間じゅう、わたしには床下のどこかに、ことによると、あのかたの父ぎみの隠した死体が、やはりあのモスクワの時のように油布におおわれていて、まわりにジダノフ液の罎が並べてあるような気がしておりました。わたしはその死体のある片隅を、ここだと言って、あなた様に、お教えすることさえできるような気がいたします。あのかたはいつも黙っております。けれどあのかたがわたしをひどく愛して、そのためにわたしを憎まずにはいられなかったということを、わたしはよく存じております。あなたがたの御結婚とわたしの結婚はごいっしょに――わたしはあのかたにそうするようにと申しました。わたしには、あのかたに隠しているようなことは少しもございません。わたしは恐ろしさのあまり、あのかたを殺すかもわかりません……。けれど、あのかたが先にわたしを殺すでしょう……あのかたはたったいま、笑いながら、わたしのことをたわごとを言っていると申しました。あのかたは、わたしがあなたにお手紙を書いているのを、よくよく承知しております』
この手紙の中には、たわごとめいたことが、まだたくさん書いてあった。そのうちの一通の第二の手紙は、大型の書簡箋二枚に、細かくいっぱいに書き尽くされていた。
公爵はついに昨日と同じように、長い間ぶらついたあげく、暗い公園を出た。明るい透き通ったような夜は、いつもよりはいっそう明るいように思われた。『まだそんなに早いのかしら?』と彼は考えた(時計を持ってくるのを忘れたのであった)。遠いどこかで音楽が聞こえるような気がした。『きっと停車場だろう』と彼はまた考えた。『むろん、今日はあの人たちも、あすこへは行かなかったろう』こんなことを想像しているうちに、気がついてみると、いつの間にか、自分はその人たちの別荘のきわに立っているのであった。結局、ここへどうしてもやって来なければならなかったのだとはよくよく承知はしていたが、ここへ来ると、息も止まるような思いで露台《テラス》を昇って行った。誰も出迎えてはくれなかった。露台には誰ひとりもいなかった。彼はしばらく待ってから、広間へ通ずるドアをあけた。『このドアはいつも閉めたことがないはずだが』という考えがちらとひらめいた。しかし、広間もがらんとしていて、中はほとんどまっくらであった。彼は狐につままれたように、部屋のまん中にたたずんでいた。いきなりドアがあいて、アレクサンドラ・イワーノヴナが蝋燭を持ってはいって来た。公爵を見ると、彼女はびっくりして、物問いたげな様子をして、彼の前に立ち止まった。明らかに、彼女は、こんなところで誰かに行きあたろうなどとは全く思いもかけずに、ただ一方のドアから別のほうへ抜けるために、この部屋を通りかかったにすぎなかった。
「どうしてあなたは、ここにいらっしゃるんですの?」と、ついに彼女は口をきった。
「僕……ちょっとお寄りして……」
「ママはちょっとかげんが悪いんですの。アグラーヤもやはりそうですの。アデライーダはいま寝《やす》むところです。わたしも今から行って寝むところです。わたしたちは今夜は一晩じゅう家でみんなぼんやりしていました。パパと公爵(Sを指す)はペテルブルグへ行って……」
「僕はやって来ました……皆さんのところへ……今……」
「あなた、いま何時か御存じ?」
「い、いいえ……」
「十二時半ですわ。うちではいつも一時に寝みますの」
「あ、僕は……九時半ごろと思ってたんです」
「かまいませんわ!」と彼女は笑いだした。「なぜさっきいらっしゃらなかったんですの? あなたを、ひょっとしたらお待ちしてたかもしれないんですよ」
「僕は……思ってたんですが……」彼は帰りかけて、おずおずと、口ごもった。
「さよなら! あした、みんなを笑わしてやりますわ」
彼は公園を取り巻いている道を通って、わが家のほうへと歩いて行った。胸は激しく動悸をうち、思いは乱れ、身のまわりのものは何もかも夢ではないかと思われた。すると、不意に、さきに二度が二度とも夢をさました同じ幻が今もまた彼の前に現われた。相も変わらぬ同じ女が公園の中から出て来て、あたかも、ここで待ちぶせでもしていたかのように、彼の前に立っていたのである。彼は身震いして、すくっと立ち止まった。女は彼の手を取って、固く握りしめた。『いやいや、これは幻ではないんだ!』
ここに、ついに彼女は一別以来はじめて、公爵の前に面と向かって、立っていたのである。彼女は何かしらことばをかけていたが、相手は黙々として女の顔を見つめていた。胸がいっぱいになって、あわれにも疼《うず》き始めたのであった。ああ、その後どうしても、彼はこの時のめぐりあいを忘れることができず、いつも同じ心の痛みを覚えながら思い返すばかりであった。女はわれをも忘れたかのように、即座に往来の上にひざまずいた。公爵は愕然としてあとずさりした。すると、女は接吻しようとして、彼の手を取った。さっきの夢の時と全く同じに、今も涙は長い睫《まつげ》の上に光っていた。
「立って! 立って!」と彼は女を立ち上がらせながら、おびえたような声でささやいた。「早く立って!」
「あなたは仕合わせなの? 仕合わせ?」と彼女は尋ねるのであった、「たったひと言聞かしてちょうだい、あなたはいま仕合わせなの? 今日、今? あの女のところにいらっして? あの女はなんて言ったの?」
彼女は立ち上がりはしなかった、相手の言うことには耳も傾けなかった。ただ、せわしげに問いかけて、気ぜわしく言い寄るばかりで、あたかも人に追われてでもいるかのようであった。
「あなたのおっしゃるとおり、明日ゆきますの。わたしはけっして……。もうあなたにお目にかかるのもこれが最後じゃないかしら、最後! 今度こそ本当の最後じゃないかしら!」
「気を落ち着けて、早く立って!」と公爵はやるせなげに言う。
女は男の手を取って、むさぼるように相手を見つめるのであった。
「さようなら!」こう言ったかと思うと、彼女はようやく立ち上がって、ほとんど走るようにして、すばやく彼の傍を離れて行った。と、不意にラゴージンが彼女の傍にあらわれて、その手を取って引き立てて行くのが、公爵の眼に映った。
「ちょっと待って、公爵」とラゴージンが叫んだ。「五分たったら、きっと帰って来る」
五分するとたしかに彼は戻って来た。公爵はやはり元のところに帰って来るのを待っていた。
「馬車に乗せておいたんだ。馬車は十時から、あそこの隅で待っていたんだ。彼女《あれ》はな、君が一晩じゅうあの子のところにいるくらいは、ちゃんと承知してたんだ。さっき君が書いてよこしたものは、たしかに彼女に渡した。あの子のところへ手紙をやるようなことは、彼女《あれ》ももうやるまい。約束をしたんだから。ここも君の望みどおり、明日は引きあげるって。君は断わったけれど、これを見おさめに顔が見たいって、それで、ここに二人で待ったわけなんだ。ほら、ちょっとあと戻りするとベンチがあるだろう、あそこにさ」
「あの人は自分で君を連れて来たのか?」
「ふん、なんだって?」とラゴージンは作り笑いをして、「それで今までのことがわかったよ。君、手紙はすっかり読んだろうな?」
「はたして君は本当にあの手紙を読んだのか?」公爵はこのことを思い出していまさらながら驚いて尋ねるのであった。
「もちろんだ。どんな手紙でも自分で見してくれたんだ。剃刀のことを覚えてるだろうな、へ! へ!」
「彼女《あれ》は気ちがいだ!」公爵は叫んだ、両手を握りしめて。
「そんなことはわかるもんか。ひょっとしたら、そうじゃないかもしれんよ」ひとり言のようにラゴージンは低い声でもらした。
公爵は答えなかった。
「じゃ、失敬」とラゴージンは言った、「僕も明日、立つんだ、悪く思うなよ! ところで、ちょっと」と彼はいきなりふり返って付け足した、「なんだって彼女になんとも返事してやらなかったんだ? あなたは仕合わせなの、どうなの? と聞かれたくせに」
「いや、いや、いや!」と公爵は言い知れぬ悲しみにうたれて叫ぶのであった。
「『うん』と言えないのがあたりまえよ!」と、ラゴージンは意地悪そうに笑って、行ってしまった、ふり返りもせずに。
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第四編
一
この小説の二人の人物が、緑色のベンチであいびきしてこのかた、一週間ほどたった。あるうららかな朝の十時半ごろ、知り合いの誰かのところへ訪問に出かけたワルワーラ・アルダリオノヴィッチ・プチーツィナは、ひどく悲しげに物思いに沈んで、家に帰って来た。
世には、一概に余すところなく、最も典型的で特色のあるところを、言いきることのむずかしい人たちがあるものである。これは普通に、『普通』人とか、『大多数』とか呼ばれていて、事実においてはあらゆる社会の絶対多数を成している人たちである。作家というものは概して、その小説や物語において、社会の典型をとらえて、それを生き生きと、芸術的に再現しようと努めるものである、――その典型を、全くそのままに、現実において見ることはきわめてまれである。にもかかわらず、それはほとんど現実そのものよりはずっと現実的なものである。ポドカリョーシン〔ゴーゴリの喜劇「結婚」の主人公〕はその典型的な点においては、おそらくは誇張でさえもあるかもしれぬ、しかしながら、けっして架空の人物ではないのである。いかばかり多くの聰明な人たちが、ゴーゴリによって、ポドカリョーシンのことを知るに及んで、自分たちの気だてのよい知り合いや友だちの何十人、何百人がポドカリョーシンに酷似していることに気づきだしたことであろう。彼らは、ゴーゴリ以前にすでに自分の友だちがポドカリョーシンのような人間であるとは、承知していたものの、こういう名前を持っていようとは、いまだに知らなかったのである。事実において、花婿が結婚式の前に、窓から飛び出すなどということは、めったにあるものではない。というのは、ほかのことはどうあろうとも、むしろやっかいなことだからである。それにしても、多くの花婿は、たとい立派な聰明な人たちであろうとも、結婚の間ぎわに肚《はら》のそこでは、潔くポドカリョーシンたることを自認していることであろう。また、あらゆる良人《おっと》がどこへ行っても、Tu las voulu Georges Dandin(君のお望みどおりだよ、ジョルジ・ダンダン〔モリエールの「ジョルジ・ダンダン」に出る〕)と叫ぶとは限らないであろう。ああ、しかし、蜜月ののちのこの心からの叫びは、全世界の良人によって何百万べん、何千万べんくり返されたことか、あるいは誰か知らん、蜜月の後どころか、結婚のあくる日にさえも。
さて、これ以上まじめな議論にわたるのを避けて、ここにはただ、――現実においては、人物の典型的な性質があたかも水で薄められているかのように、そうして、かようなジョルジ・ダンダンも、ポドカリョーシンもことごとく現実に存在してはいるが、いささか稀薄な状態にあるかのように思われる――ということを言っておきたい。結局、説明を完璧ならしめるために、モリエールが創ったそのままのジョルジ・ダンダンは、まれにではあるが、やはり現実の世界に見うけられるものであるということを断わっておいて、雑誌の評論めいてきたこの考察を終わることとしよう。それにしても、われわれの前に依然として、疑問は残っている、すなわち、小説家は平凡な、あくまでも『普通』の人たちを、どんな風に取り扱ったらよいか、また、いかにして、かような人たちをいささかなりとも興味のあるように読者の前に示して見せるか? という問題である。小説において、彼らをす通りしてしまうということは絶対に不可能なことである、というのは、平凡な人間は常に、たいていの場合に、浮世の出来事を引き出すとき、必要欠くべからざる絆《きずな》となるからである。したがって、彼らを見すてることは、|真実らしさ《ヽヽヽヽヽ》を失うことになる。小説を、典型的な性格や、あるいはまた単に興味のために、奇怪な、架空の人物のみによって満たすのは嘘らしくもなり、しかもおそらくは、おもしろくもなくなるであろう。われわれの見るところでは、作家にとっては平凡人の間にさえも、興味のある、教訓的なニュアンスを捜し求めることが必要である。たとえば、ある種の平凡な人物の本質が、日ごろの、相も変わらぬ凡庸性に含まれているときとか、さらに進んでは、このような人物がいかなる犠牲を払っても日常性や旧套《きゅうとう》を破ろうと異常な努力を傾注しているのにもかかわらず、しかもなお依然として相も変わらず元《もと》の木阿弥《もくあみ》になるというようなとき、かような人物は一種の独自な、典型的な性質を帯びてくる。つまり、これは、独自性をうるだけのいささかの素質もないのに、全く自分自身たることを欲せず、いかなることがあろうとも独自な、独創的なものたろうとする凡庸性に等しいものである。
かような『普通の』、すなわち、『平凡な』人間の部類に、今まで(正直にいうと)読者にあまりはっきりと説明はしていないこの小説の二、三の人物も属するものである。ワルワーラ・アルダリオノヴナ・プチーツィナ、その夫のプチーツィン氏、その兄のガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ・(イヴォルギン)らがすなわちそれである。
事実において、たとえば、裕福で、家柄も相当で、風采も悪くなく、教育も低くなく、ばかでもなく、むしろ気だての好いほうでありながら、全くなんらの才能もなく、これという特質もなく、奇行さえもなくただ一つの自身の思想もなく、全く『十人並み』の人間であるくらいいまいましいことはない。財産はある、しかし、ロスチャイルドの富には比ぶべくもない。家柄はきちんとしている、が、いまだかつて名をあげたような人は一人もいない。風采も相当なものではあるが、いたって表情に乏しい。教育もかなりにありながら、使い道がわからない。分別はあるが、|自分自身の思想《ヽヽヽヽヽヽヽ》をもっていない。情はあるが、おうようなところがない、等々、万事がこの調子である。こういう人たちは世間には、実におびただしく、むしろ想像しているよりははるかに多いのである。彼らはあらゆる人々と同じように主として二つの種類に大別される。一つは偏狭で、一つはこれよりは『ずっと聰明である』。前者は後者よりは幸福である。偏狭な平凡人にとっては、たとえば自分こそ非凡な独創的人間であると思いこんで、なんらの動揺もなしにそれを快しとするほど楽なことはない。この国の令嬢たちのある者は断髪をして、青い眼鏡をかけて、ニヒリストと名乗りさえすれば、すぐに自分自身の『信念』を得たと信ずることができるのである。またある者は、心の中に何か人類共通の善良な気持を、ほんの露ほどでも感ずれば、社会発展の先頭に立っているという感じは自分以外の人にはわかるまいと、すぐに思い込んでしまう。また、何かの思想をほんのちょっとでも聞きかじるとか、何かの本の一ページでもほんのちょっとめくって見るとかすれば、もうこれは『自分自身の思想』であって、まぎれもなく、自分自身の頭の中に生まれたのだとさっそく、信じてしまう。もしもこんなことが言えるものならば、無邪気のずうずうしさというものは、かような場合に、驚くべき程度に達する。こんなことはみな有りそうにもないことではあるが、絶えず目撃する事実である。この無邪気のずうずうしさ、この愚かしい人間の自己および自己の才能に対する思い過ごしは、ゴーゴリによって、ピローゴフ中尉〔ゴーゴリの「ネフスキイ通り」の中の人物〕なる驚嘆すべき典型のうちに見事に表現されている。ピローゴフは自分が天才であり、あらゆる天才より以上のものであると思い込んで、疑いさえもしなかった。そんなことがてんで問題にならないほど信じきっていた。もっとも、問題などというものは、彼にとっては全く存在していないのである。偉大なる作家はついに、読者の侮辱された道徳感情を満足せしむるために、彼をひどい目に合わせなければならなかったが、この偉大な人物がただ身震いをして、拷問《ごうもん》に疲れたからだに勢いをつけるためにパイをぺろりと平らげたのを見ると、ひどくあきれて、手をひろげたまま、読者の思いのままに任せたのであった。私はゴーゴリが偉大な人間ピローゴフをかような低い位置から取り上げたことを常に残念に思っている。というのは、ピローゴフはあくまでもうぬぼれの強い人間であって、彼には、自分が年とともに肩章の『筋』がふえて、偉くなり、たとえば元帥にでもなるくらいの身であるというように想像することは、いともたやすいことで、空想するだけではなく、将官に昇進する以上、元帥になれないという法があろうか? と、そんなことは疑いもしなかったはずだからである。こういう連中のいかばかり多くの者が後に戦場に臨んで、恐るべき失敗をなしていることであろう? また、こうしたピローゴフがこの国の文学者や学者や伝道師の間に、どんなに多くいたことであろう。私は『いた』と言ったが、しかも、もちろん、今もなお『いる』のである……
この小説の人物ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ・イヴォルギンは、今のとは違った種類に属している。彼は頭のてっぺんから爪先まで、独創的たらんとする希望に燃えているが、やはり、『ずっと聰明な』人間の部類にはいる。とはいえ、この部類は前にも述べたように、第一のほうよりははるかに不幸である。それはつまり、こういうわけである。|聰明な《ヽヽヽ》普通人は、たといちょっとの間(おそらくは一生涯をも)、自分を非常に独創的な、天分のある人間と想像するようなことがあろうとも、しかもなお、心の中に懐疑の虫がひそんでいて、それが、どうかすると、聰明な人間を絶望のどん底にまでも突き落とす。また、たとい、それをあきらめたとしても、心の奥に追い込まれている虚栄心に毒されてしまっている。それにしても、とにかく、私は極端な例を取りすぎたようである。この『聰明な』部類の大多数は、かような悲劇には会わないでしまう。せいぜい、死んでもいい年ごろになって、多少とも肝臓を悪くするくらいのものである。しかも、やはり、あきらめて、おとなしくなるまでには、かような人たちは非常に長いあいだ、若いときから相当の年輩に至るまで、時おり、実にばかなまねを続けたりするものである。が、それというのも、全く独創的たろうとする欲望から来るものである。また、奇妙な場合もある。なかには、独創を欲するために、潔白な人で、わざわざ下劣なことをあえてしようとする者がある。ところが、そんなことをする不幸な人のなかには、ただ単に正直なばかりではなく、善良でさえもあり、自分の家庭では神のように崇められ、自分の労苦によって、自分の家族ばかりではなく、他人の生活までも与えてやって、しかも、どうであろう、一生涯、心の安まる暇もない人がいる。本人にとっては、自分はよく人間としての義務を果たしているという考えが、全く安心にもならず、慰藉《いしゃ》にもならずに、かえってこの考えが心をいらいらさせたりするのである。そうして、『ああ、自分は、なんというつまらないことに一生をつまらなく過ごしたであろう! こんなことが足手まといになって、火薬の発見を妨げたのだ! これさえなかったなら、必ずや火薬か、アメリカを発見したのに相違ない、何をとは、はっきり言えないが、たしかに発見したのに相違ない!』と言う。こういう諸君にあって、最も著しい特徴は、いったい、何を発見しなくてはならないのか、また何を一生涯かかって発見しようとしているのか、――火薬かアメリカか、――それを一生涯のあいだに、どうしてもわからないというところにある。しかも、発見せらるべきものに対する悩みや、思慕の念は、コロンブスとかガリレオのそれにも劣らないほどのものである。
ガヴリーラもすなわち、かような道をたどり始めたのであった。しかし、ようやく始めたばかりなのである。もっともっと長いこと、これからもばかなことをしてゆかなくてはならない自分には才能がないという深刻な、絶ゆることのない自覚と、同時にまた、自分はきわめて独立的な人間なのだと信じようとする押さえがたい要求は、ほとんどまだ少年のころからひどく彼の心を痛めつけていた。彼は羨望《せんぼう》の念が強く、猛烈な欲望をもち、生まれながらにしていらいらした神経をもっているとさえも思われる青年であった。欲望の猛烈なのを、彼は欲望の力だと思い違えていた。人にぬきんでようという情熱的な欲望によって、彼はともすれば、無分別な飛躍をあえてしようと決心することがあった。ところが、いざ無分別な飛躍に及ぼうとすると、この主人公はいつもあまりにも聰明になりすぎて、ついに決心が鈍るのであった。それが彼を絶望におとしいれた。おそらく、彼もこの場合に、自分が空想していたことをいくぶんなりとも、実現しようとしては、極度に卑劣なことさえもあえてしようと決心したかもしれぬ。しかし、いよいよ最後の一線にまで及ぶと、常に、あまりにも潔白に過ぎて、極端に卑劣なことなどはできそうにもなくなるのであった(そのくせ、少しくらい卑劣なことならば、いつもやりかねないのであった)。自分の家の貧困と落魄《らくはく》を、彼は嫌悪と憎悪の情をもって眺めていた。母に対してすらも、自分の母の信望と性格とが、今のところ彼の栄達の主なる支柱を構成しているくらいのことは、自分でもよくよくわかっていながら、高慢に、侮蔑的な扱い方をしていた。
エパンチン家へはいると、彼はさっそく、『どうせ卑劣なことをするならば、よくよくのところまでやるべきだ、ただ自分が得をすることならば』とひとり言を言ったが、ほとんど一度として、あくまでも卑劣なことをやり通したためしがなかった。それにしても、どういうわけで、卑劣なことをぜひともやらなければならないと想像したものか? あの時のアグラーヤの一件で、あっさりと度胆を抜かれたが、これですっかり見切りをつけたわけではなく、一縷《いちる》の望みをかけて、相も変わらず、ずるずるにしていたのであった。さればといって、アグラーヤが自分のような身分の低い者のところへ来ようなどとは、いまだかつて本気になって考えたこともないのである。その後、ナスターシャ・フィリッポヴナと話があったころには、彼はたちまちに、|いっさい《ヽヽヽヽ》を獲得するものは――金の力によると想像したりした。
『どうせ卑劣なことをするならば、あくまでもやることだ』と。彼は得意になって、しかもいくぶんの恐怖を交えながら、毎日のように心の中でくり返していた。『どうせ卑劣のことをするのならば、よくよくのところまでやることだ』と絶えず自分に言い含めて、『こんなときに俗人どもはびくびくするが、おれたちはけっしてびくびくなどはしない!』
アグラーヤを失い、そのほかいろんな事情に打ちのめされて、彼はすっかり意気沮喪《いきそそう》して、あの気のちがった男が気のちがった女のところへ持って行って、その女があのとき自分の前へたたきつけた金を、本当に彼は公爵の手もとへ届けてやった。公爵にこの金を返したことを、あとになって彼は何百ぺんとなしに、後悔した。そのくせ彼はこのことを絶えず誇ってもいたのである。が、あのときペテルブルグに公爵が残っている間の三日間というもの、彼は本当に泣き通したが、しかもこの三日の間に、早くも公爵に対して憎悪の念をいだくようになっていた。というのは、あれだけの金を返すということは、『誰にも思いきってできるとは限らない』のに、それをあえてした彼を公爵があまりにも頼りなげに同情の眼をもって眺めすぎたからである。しかし、自分の心の憂えも要するに、絶えず蹂躪《じゅうりん》されている虚栄心にすぎないのだという、高尚な自省心が湧いて来て、ひどく彼を苦しめるのであった。それから長いことたって、よくよく吟味してみて、はじめて、アグラーヤのような無邪気な、風変わりな女とは、いくらでもまじめに話をつけることができたはずだのにと、はっきりと納得するに至った。後悔の念は彼の心に食い入った。そこで彼は職務をすてて、悲哀と憂鬱とに沈むばかりであった。
彼は父や母もいっしょにプチーツィンのところに居候をしていたがプチーツィンのことを明けすけに侮蔑していた。もっとも、彼は同時に、プチーツィンの忠言を聞き容れて、いつもほとんどこちらから忠言を求めるほど抜け目ない人間であった。ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチはたとえばプチーツィンがロスチャイルドのような金満家になろうとも心がけず、それを目的ともしていないというようなことにまで腹を立てていた。『どうせ高利貸しなのなら、最後まで行かなけりゃだめだ。世間のやつらをうんと搾《しぼ》って、やつらの膏血《こうけつ》で金を鋳造するがいい。せいぜい気骨を見せて、ユダヤの王様になることだ!』プチーツィンは内気な、物しずかな男で、ただほほえんでいるばかりであった。ところが、ある時、ガーニャにこのことを真剣に言って聞かせるのを必要なことだとまで考えて、彼はいくぶんの威厳さえも示して、実行したことがあった。ガーニャに向かって、彼は、自分はけっして不正なことはしていない、したがって、自分をユダヤ人などと言うのは、いわれのないことだ、また、金がそんなに貴重なものであろうとも、これは自分の知ったことではない、自分は正当に、正直に、ありのままに仕事をしているのであり、ただ、『かような』業務の手先になっているだけであると論証して、最後には、自分が業務のうえできちょうめんなために、一流の人たちにも、善い意味でよく知られ、自分の業務もいよいよ拡張しつつあると言った。「ロスチャイルドにはならない、なったってしかたがないから」と彼は笑いながら付け足した、「ただ、リテイナヤ通りに家を一軒、ひょっとしたら、二軒も手に入れて、それでおしまいにする」
「また、ことによったら、三軒買えるかもわからん!」と心の中では考えたが、けっしてこの空想を口に出して言うようなことはなく、ひた隠しに隠していた。自然はかような人々を心から愛撫するものである。自然は必ずや、プチーツィンに三軒ではなく、四軒の家をもって報いるであろう。すなわち、彼はいとけない子供のころから、けっしてロスチャイルドにはならないということをよく承知していたからである。そのかわり、四軒以上は自然が授けてはくれまい。これで、プチーツィンの立身出世も終わりであろう。
ワルワーラ・アルダリオノヴナは、これとはまるで異なった人間であった。彼女もやはり強い欲望は持っていたが、それは猛烈というよりは、かえって執拗なものであった。問題が瀬戸ぎわに及んだときにも、彼女にはかなりの常識が見られたが、この常識は、どたん場に至るまでも、失われないものであった。彼女もまた独創性というものを空想する『普通の』人間の数にもれなかったことは事実であるが、その代わり彼女はきわめて早く自身には自身の独創性というようなものが露ほどもないことを悟って、あまりこのことを苦にはしなかった。しかし、誰が知ろう、これさえも自分の一種のプライドから来ているかもしれないのである。プチーツィン氏と結婚するにあたって、彼女は非常な決断力をもって実際的な第一歩を踏み出した。しかも結婚するとき、『どうせ卑劣なことをするのならばよくよくのところまでやるべきだ。ただ自分の目的さえ通るのなら』などとは夢にさえも思わなかった(ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチならば、こんな場合に、けっしてこの文句を言い忘れるはずはなく、全く彼は兄として、彼女の決心に同意を表したとき、危うく彼女の前で、この文句を言おうとしたくらいであった)。全然、反対といってもよいくらいで、ワルワーラ・アルダリオノヴナは、未来の良人が遠慮がちな、気持のよい、まずまず教育があるともいえるほどの人間で、どんなことがあろうとも大それた卑劣なことなど、とてもやりそうにもないということを、根本的に確かめてから、ようやく結婚したのであった。少しくらいの卑劣なことは、ワルワーラも些細なこととして、取り上げはしなかった。これしきの『些細なこと』というものは、誰にもつきものだからである。理想にかなった人間は、けっして見あたるものではない! そのうえに、彼女は、嫁に行けば、それによって、父母兄弟に宿の工面もできるくらいのことはよく承知していた。彼女は兄の不幸を見るに忍びず、以前に家内の者が途方に暮れたことなどは棚へ上げて、兄を援助しようと思い立った。
プチーツィンはどうかすると、友だちらしく、ガーニャをせき立てた。もちろん、役につけというのである。「君はなんだな、将軍だの、将軍の位だのを軽蔑しているが」と彼はときおり冗談まじりに言っていた、「気をつけろよ、『世間の人たち』はみんな、そのうちに順番が来て、結局、将軍になる。待っててみろ、そのとおりになるから」「だって、僕が将軍だの、将軍の位だのを軽蔑してるなんて、どうしてそんなことになるだろう?」とガーニャは肚の中で、皮肉なことを考えていた。ワルワーラは兄を援《たす》けるために、自分の活動範囲を広めようと決心して、エパンチン家へもぐり込んだ。これには子供のころの思い出が、大いにあずかって力があった。彼女も、その兄も、まだ子供であったころ、エパンチン家の人たちといっしょに遊んだことがあるからである。ここで断わっておくが、もしも、ワルワーラ・アルダリオノヴナがエパンチン家を訪れるにあたって、何かなみなみならぬ空想を追っていたとしたら、おそらく彼女はみずから肩を並べていた連中のところから、一挙にして脱け出したと言えるであろう。しかし、彼女の追って行ったのは空想ではなかった。そこには、むしろ彼女としての、かなりに根本的な考慮があった。すなわち、彼女はこの家族の性質に基礎をおいたのである。アグラーヤの性質については、常に倦《う》むことなしに研究していた。兄とアグラーヤの二人の仲を元どおりにまとめるのが、彼女の役目であった。
たぶんは、彼女は事実において、なんらかの役目を果たしたであろう。また、おそらくは、当てにして、たとえば、あまりに兄を当てにして、兄がどんなにしても与えることのできないものを、彼に期待するような誤謬《ごびゅう》に陥っていたかもしれない。それにしても、なお彼女はエパンチン家では、かなりに巧妙に立ち回った。何週間もの間、兄のことはおくびにも出さずに、きわめて素朴な風をして、しかも品位を失わずに、いつも非常に誠摯《せいし》に、真摯な態度を保っていた。心の奥はどうかというに、省みてやましいところがなかったので、みずからをとがめなければならないようなことは少しもなかった。これは彼女に力を添えるものであった。ただ一つ、時として自分にも気のつくことは、彼女もまたおそらく、執念深く、心のなかに自負心と、ほとんど圧迫された虚栄心ともいうべきものとを、かなりに多くもっているということであった。わけても、時おり、エパンチン家からの帰りがけには、ほとんどいつものように、このことに気がつくのであった。
さて、彼女はいま、同家から帰って来たところで、前にも述べたように、ひどく悲しげに沈んでいた。この物悲しい表情のかげには、何かしら、苦々しい嘲笑的なものがのぞかれた。プチーツィンはパヴロフスクの、ほこりのひどい通りに面して立っている不格好な、しかも広々した木造の家に住んでいた。この家はまもなく彼の手にはいるはずになっていたので、彼はもう誰かに売り払う算段にかかっていた。玄関の階段を昇りながら、ワルワーラは二階でただごとならぬ騒がしい音のするのに耳をとめて、兄と父親とがわめいている声を聞き分けた。客間へはいって、兄が激怒のあまりまっさおになって、ほとんど自分の髪の毛を引きちぎらんばかりの勢いで、部屋の中をあちこち駆けまわっているのを見ると、彼女はかすかに苦い顔をして、疲れたような風をして、帽子もとらずに、長椅子へどっかと腰をおろした。もしも、一分間ほども黙っていて、どうしてそんなに走り回っているのかと聞いてやらなかったら、兄が必ず怒りだすに相違ないということをワルワーラは実によく呑み込んでいるので、ついに、彼女は質問の形で、大急ぎに口を出した。
「やっぱり相変わらずの?」
「何が相変わらずだ!」とガーニャは叫んだ、「相変わらずだって! 違う、今どんなことが起きてるかおまえらにゃわかるもんか! 相変わらずどころじゃないんだ! 爺は気ちがいのようになるし……お袋はがなるし。本当だよ、ワーリヤ、おまえはなんて思うか知らんけれど、おれは親父《おやじ》を追い出すか、……それとも、おれがここをおん出るかするんだ」他人の家から誰を追い出すこともできないのに気がついたとみえて、彼はこう付け足した。
「大目に見てやらなくちゃいけないわ」とワーリヤはつぶやいた。
「何のために大目に? 誰を?」とガーニャはいきなり立って、「親父の下劣な仕打ちをか? だめだ、おまえはどう思っても、おれにはとても、できない! だめだ、だめだ、だめだ! なんちゅうていたらくだ、てまえが悪いくせに、よけいに威張り返って。『門へはいるのがいやだから、垣をこわせ!……』なんて無理なことを言って……なんだっておまえはそんなにじっとしているんだ? いつもと違うじゃないか!」
「いつもと同じだわ」ワーリヤは不機嫌そうに答えた。
ガーニャはいっそう眼をこらして妹を見つめた。
「あすこへ行ったのか?」彼は不意に尋ねた。
「ええ」
「ちょっと、また何かどなってる! なんて恥っさらしだ。それにまた、こんな時に!」
ガーニャはさらに眼を見はって、妹をじろじろと眺めていた。
「何か探り出したか?」と彼は聞いた。
「ええ、でも、別に意外なことなんか何もないのよ。あれはみんな本当だってことがわかっただけなの。うちの人のほうがわたしたち二人よりは眼が確かだったわ。あの人が初めっから占ってたようになってしまったわ。どこにいるかしら、あの人は?」
「留守だよ、どうなったんだ?」
「公爵が正式のお婿さんなの、話はもうすっかり決まったんですよ。姉さんたちが聞かしてくれたの。アグラーヤさんも承知ですってさ。今じゃ隠しだてもしなくなったわ(だって今まであの家では、いつもいろんなことを秘密にしてたんですものね)。アデライーダさんの結婚式はね、二人の結婚式を一度におなじ日に挙げることになって、また延びるんですって。ほんとに詩的だわ! まるで詩のようだわね! そんなに用もないのに部屋を駆け回るよりは、結婚祝いの詩でも作ったほうがしゃれてるわよ。今晩、あすこへベラコンスカヤ夫人が来るって。おりよくやって来たものね。ほかにお客さんもあるんだって。公爵は前からの知り合いなんだそうだけど、あらためてベラコンスカヤにあの人を紹介するって、たぶん、公けに披露をするんでしょうよ。あの家の人たちはね、公爵がお客様のいる部屋へはいるとき、何か物を落として、こわすとか、自分でばったり倒れるとか、そんなことがなければいいがと、それだけを気づかっているの。やりかねないことだから」
ガーニャはかなりに注意ぶかく聞き終わった、しかし、彼にとって刮目《かつもく》すべきこのニュースが、少しも著しい効果を与えなかったらしいので、妹はいまさらながら驚いた。
「まあ、いいや、わかりきってたことなんだから」しばらく考えてから彼はこう言った。「つまり、これで幕というわけさ!」もう、ずっと静かにはなっていたが、相変わらず部屋の中をあちこち歩き回って、妹の顔を狡猾そうにのぞきながら、彼はなんとなしに妙な薄ら笑いを浮かべて、付け加えた。
「でも、兄さんがまるで哲学者のような気持で聞いてくださるからいいわ。ほんとに、わたし、喜んでるの」とワーリヤは言った。
「うん、肩の荷がおりた。とにかく、おまえだけでも」
「わたしは、とやかく言ったり、うるさい目をかけたりしないで、真ごころから兄さんのために尽くしたような気がするの。兄さんがアグラーヤさんから、どんな幸福を獲《え》たがっていたのか、そんなことは聞いたこともなかったわ、わたし」
「だって、いったい、おれが……アグラーヤさんから幸福なんて求めたかな?」
「まあ、どうぞですから、哲学めいたことはよしてちょうだい! むろん、そうだわ。むろん、わたしたち、これでもうたくさんだわ、二人ともばかだったんだから。正直に言うと、わたしは一度だって、このことをまじめにとれなかったの。ただ、『万一』を当てにして、あの人のおかしい性質を勘定に入れながら、手を着けただけなの。そして、何よりも、兄さんを慰めてやりたかったの……。でも、九分どおりだめだったんだわ。わたし、兄さんが何を得ようと骨折っていたのか、今もって、わからないの」
「今度はおまえたち夫婦は、おれをせきたてて、勤めに出そうとかかるんだな。堅忍不抜と意志の力だの、小さいことでもおろそかにするなだの、なんのかんのと、説教するんだろう。そんなことは、諳《そら》に覚えてるよ」
ガーニャは声を立てて笑いだした。
「この人は何か新しいことを考えてるわ」とワーリヤは心の中で考えた。
「いったい、あそこじゃ、どうなんだ、喜んでるのか、親たちが?」いきなりガーニャは問いかけた。
「い、いいえ、そうじゃないらしいの。もっとも、あなた御自分で察しがつくでしょう。旦那様は喜んでるの、でも、お母さんは心配してるわ。前から、あの人の婿としてはいやがったんですよ、お母さんは。知ってのとおり」
「おれは、そんなことはどうでもいい。婿としては無理で、考えるほうが間違ってるんだ、これはもうわかりきったことだ。おれは今のことを聞いてるんだ。今、あすこの連中はどうなんだ? 正式に承諾を与えたのか?」
「それはね、アグラーヤさんが今まで『否《いや》』と言わなかったって、――ただそれだけのことなの。でも、あの人としては、それよりほかにしかたがなかったのよ。あの人が今まで非常識なくらいに、内気で、はにかみやだったってことは兄さんだって承知してるでしょう。子供のころ、ただお客さんのところへ出たくないばっかりに、戸棚のなかへもぐりこんで、中に二時間もじっとしてたことがあるじゃありませんか。ところが、あんな|のっぽ《ヽヽヽ》になって、今でもそっくりそのままじゃないの。ねえ、わたし、どういうわけか、あの家にはほんとに何かしら大変なことがあるように思えるの。それも、あの人だけに限って。あの人はね、公爵がまるで天にでも昇ったように、いい機嫌でいるんだから、せめて毎日こっそりと何か物を言ってやればやれるものを、その気持を見せたくなくって、朝から晩まで一生懸命になって公爵のことを笑ってるんですって……。公爵はそりゃあ、とても滑稽なんですって。わたし、あの家の人から聞いたの。けど、わたしもやっぱり、あの姉さんたちから面と向かってばかにされてるような気がしたわ」
ガーニャはついに、苦い顔をしてきた。おそらく、ワーリヤは兄の本心を見抜こうとして、わざわざこの問題に深入りしたのであろう。ところが、またもや二階からわめく声が聞こえてきた。
「おれは親父を追い出すんだ!」鬱憤《うっぷん》の晴れるのを喜んででもいるように、ガーニャはほえたてた。
「そしたら、また昨日のように、行く先々でわたしたちに恥をかかせるようなことをするんですよ」
「何、昨日のようにって? どういうことなんだ、昨日のようにって? いったい……」と急にガーニャは愕然とした。
「あらまあ、兄さんは知らないの?」ワーリヤはふと気がついて言い換えた。
「何か……それじゃ、親父があすこへ行ったってのは本当なのか?」恥ずかしいのと腹立たしいのとで、すっかり赤くなって、ガーニャは大きな声で言った、「ああ、おまえはあすこから帰って来たんじゃないか! 何か嗅《か》ぎつけて来たのか? 爺はあすこへ行ったのか? 行ったのか、行かないのか?」
と言って、ガーニャは戸口の方へまっしぐらに駆けつけた。ワーリヤは飛びついて、両手で足をつかまえた。
「どうしたの? まあ、どこへ行くの?」と彼女は言った。「今、お父さんを放したら、あちこちへ行って、もっと悪いことをするわよ!……」
「あすこで何をしたんだ? 何を言ったんだ?」
「だって、あすこの人も自分から話すことはできなかったのよ、何のことだかわからなかったんでしょう。ただお父さんはみんなをびっくりさしただけなの。旦那様のところへ行ったけれど、留守だったもんだから、奥様を呼び出してね。初めのうちは、勤めに出たいから口を捜してくれるようにと頼んだのですって。そうかと思うと今度はわたしたちのことをくよくよし始めて、わたしのことだの、うちの人のことだの、わけても、兄さんのことをこぼしてたそうです、……ろくでもないことをさんざん並べて」
「それをようく探り出しては来られなかったのか?」ガーニャはヒステリカルに、身震いした。
「だって、そんなことがどうして! お父さんも自分では、何を話してたのか、ろくにわかってないらしいの。もっともことによったら、わたしに何もかも聞かしてくれなかったらしいの」
ガーニャは頭をかかえて、窓の方へ駆けて行った。ワーリヤは別の窓のきわに腰をおろした。
「アグラーヤさんて、おかしな人だわ」と、いきなり彼女は言いだした。「わたしを引きとめて、『御両親様に、特にわたくしからよろしくとおっしゃってくださいまし。わたくし、近いうちに、必ず、あなたのお父様にお目にかかるおりがあろうと存じますの』と、こう言うんです。その言い方がとてもまじめくさってるの。変に、ひどく……」
「ひやかしたんじゃないか? ひやかしてたんじゃないのか?」
「ところが、ほんとにそうじゃないの。だから変なの」
「あの人は爺のことを知ってるのか、知ってないのか、どう思う?」
「あの家の人が知らないってことは、わたしも間違いないと思うの。でも、兄さんの話を聞いてたら、――ひょっとするとアグラーヤさんが知ってるかもしれないって、そんな気がしてきたわ。あのひと一人だけ知ってるってつまりね、あの人がとてもまじめくさってお父さんによろしくって言ったときに、姉さんたちもびっくりしてたからなの。そして、ことさら、お父さんによろしくなんてどういうわけかしら? もし、あの人が知ってるとすれば、それは公爵が話したに相違ないわ」
「誰が話したか、そんなことはわけもなくわかることだ! 泥棒め! それだけなら、まだいいんだ。ところが、泥棒はこの家にいるんだ、しかも『一家の主《あるじ》』で!」
「まあ、ばかなことを!」と、ワーリヤはすっかり腹を立てて叫んだ、「酒のうえでのいたずらじゃないの、それだけのことだわ! それに誰がこんなことを考え出したのよ? レーベジェフや公爵じゃないの……あの人たちは自分はおめでたい人ですからね。なにしろ、たいへんなお利口者で。だから、わたし、そんなに当てにしないの」
「爺は泥棒で、酔っ払い」とガーニャは苦々しげに言い続けた、「おれは乞食で、妹の亭主は高利貸し――これだけあれば、アグラーヤさんにとっては願ったりかなったりだ! いや、申し分がない、立派なものだ!」
「その妹の亭主の高利貸しが、兄さんを……」
「養ってるっていうのか、え? 遠慮するなよ、どうぞですからね」
「兄さんは何をそんなに怒ってる?」とワーリヤはふと気がついて、ことばをあらため、「あなたは、なんにもわからないんだわ、まるで小学生みたいに。こんなことがあったからって、アグラーヤさんに見さげられるとでも思ってるの? あんたはあの人の性質を知らないんだわ。あの人は選《よ》りに選《よ》った花婿まで振りすてて、どこかの大学生のとこへ、喜び勇んで逃げて行って、屋根裏で餓え死にするくらいのことをやりかねない人なのよ、――これがあの人の夢なんだわ! しっかりと、プライドをもって、この境遇を耐え忍ぶことができたら、兄さんだって、あの人から話せる人だと思われたでしょうよ。それだけのことが、あなたにはどうしても呑み込めなかったのね。公爵があの人を釣ったのは、第一に、無理にわが物にしようとしなかったのと、第二に、公爵が誰の眼から見ても白痴《ばか》だったからなの。もう、あの人は公爵のことで、家じゅうの者を悩ましているだけでも楽しいんですからね。ああ、あんたって人には何も呑み込めないんだわ!」
「まあ、もう少し見ててくれ、呑み込めるか、呑み込めないか、わかるから」と、ガーニャは謎めいたことをつぶやいた、「とにかく、おれは爺のことだけは、アグラーヤさんに知られたくなかったんだ。公爵はじっとこらえて、しゃべりはしないだろうと思ってたんだが。なにしろ、公爵はレーベジェフにさえ口どめしていたんだ。おれが無理に頼んだ時にでも、すっかり言おうとはしなかったほどだ……」
「だからねえ、兄さん、公爵は別としても、話はすっかり知れてるんだわ。それにしても、今どうするつもりなの? 何を当てにしてるの? まだ何か当てがあったとしたら、それがあるために、兄さんはアグラーヤさんの眼から見ると、受難者のように見えるだけのことでしょうよ」
「しかし、いくらあの人がロマンチックだといっても、醜態を演ずるのは気がひけるだろうよ。何ごとにもある程度、誰にしろ、ある程度というものがあるんだ。おまえたちだってみんなそのとおりだ」
「アグラーヤさんが気おくれするんですって?」ワーリヤはさげすむかのように兄を見つめながら、激昂した。「けれど、あんたって人はあさましい根性をもってるんですね! あんたはなんの値打ちもない人だわ。かりに、あの人がおかしな変人だったとしても、その代わり、あの人は、わたしたちみんな合わせたよりも、ずっとずっと気高い人ですよ」
「まあ、いいよ、いいよ、そう怒るな」と得意そうにガーニャはまたつぶやいた。
「わたしはただお母さんが可哀そうなの」とワーリヤは続けて、「あのお父さんの一件が、お母さんに聞こえなけりゃいいがと、それが心配だわ! ああ、心配だわ」
「だって、もう必ず聞こえてるはずだ」とガーニャは言った。
ワーリヤは、二階にいる母のところへ行こうとして立ち上がりかかったが、ふと思いとどまって、しげしげと兄の顔を眺めた。
「だって、誰がそんなことを言ったかしら?」
「きっとイッポリットだろうよ。ここへ引っ越して来るなり、すぐに、お母さんに言いつけたと思う、何よりのみやげだくらいに考えて」
「じゃ、どうしてあの人が知ってるのか、聞かしてちょうだいな。公爵とレーベジェフが誰にも言わないことに決めているし、コォリャだって何も知らないのだし」
「イッポリットかえ? あれは自分で嗅ぎつけたんだ。あいつがどれくらいずるいやつだかとても想像もつくまい。あいつは、とてものおしゃべりで、悪いことだの、人聞きの悪いことなら、何ごとによらず、すぐに嗅ぎつける恐ろしい鼻をもってるんだ。まあ、おまえは本気にするかしないかわからんけれど、あいつはアグラーヤさんまで、まんまと丸めこんでしまったんだ! 丸めこんでいないとしたら、すぐに丸めこむだろう。ラゴージンもやはり、あいつに渡りをつけたんだ。それをどうして公爵は気がつかないんだろう? 今、あいつはおれをどれくらい探索したがってるかわからないんだ! あいつはおれを目のかたきにしてるけれどそれはもうかなり前からわかっているんだ。どうしてそうなんだろう死にかかってるくせに、――どうにも呑み込めない! しかし、おれはあいつをだましてみせる。いいか、あいつがおれを探索するんでなくって、あべこべにこっちからやってみせる」
「そんなに憎らしいんなら、どうして、あの人を引っぱり込んだの? それに、あの人を探索したってはじまらないじゃないの?」
「おまえが引っぱり込めって勧めたんじゃないか」
「あの人が役に立つと思ったからなの。けども、ね、あの人は今アグラーヤさんに惚れ込んで、手紙を出したんですよ。わたし、根掘り葉掘り聞かれたわ、あの人のことを……。だって、奥様にまで手紙をやりかねないくらいだったんですもの」
「そのほうにかけては大丈夫だ!」毒々しく笑いながら、ガーニャは言った。「もっとも、何か曖昧《あいまい》なことがきっとあるんだろう。あいつが惚れたってことは、ありそうなことだ。なにしろ、餓鬼だからな! しかし……あんな婆さんに匿名の手紙をやるなんて、そんなことはしないだろう。あいつは実に意地の悪い、一人よがりのぼんくらなんだ!……それは本当だと思う、よくおれは知ってる。あいつはあの人の前で、おれのことを腹黒だってぬかしやがった、それがあいつの手始めだったんだ。おれは白状するけど、初めは、まるでばかみたいに、いろんなことをあいつにぶちまけていたんだ。あいつが公爵に対する復讐からして、おれのためになってくれるだろうとそう思っていた。ところが、どうして、どうもとても、こすい野郎でな! 本当に。今になって、すっかりあいつの素姓を見抜いてしまった。あいつは、今度の泥棒の一件は、手めえのおふくろから、大尉夫人から聞いたんだ。うちの爺がそんなことをやる気になったとすれば、それは大尉夫人のためなんだ。あいつめ。何のきっかけもないのに、いきなり、『将軍』が手めえのおふくろに四百ルーブルくれる約束をしたって、全くなんでもない話のときに、遠慮会釈もなしに言いやがるんだ。それでおれは何もかも読めたんだ。そう言って、あいつも嬉しそうに、じいっとおれの顔をのぞきやがってな。うちのおっ母さんに告げ口をしたのもやっぱりおっ母さんに胸のはり裂けるような思いをさせるのがおもしろくってしたのに相違ない。いったい、あいつはなんだって死なないんだろう? ひとつおれに教えてくれないかな! だって、三週間たったら、必ず死ぬはずだったんじゃないか、それだのに、ここへ来てからよけい肥ってきた! 咳もしなくなったし、ゆうべは、自分でも、あくる日から喀血《かっけつ》をしなくなったって、そう言っていた」
「追い出してしまいなさい」
「おれはあいつを憎んじゃいない。が、軽蔑はしてるんだ」とガーニャは傲然と言い放った、「うん、そう、そう、憎んでてもいい、それでもいい!」いきなり彼は非常に激昂して叫んだ、「あいつが床《とこ》の上で死にかかってもいい、おれは面と向かって言ってやる! もしも、おまえがあいつの告白を読もうものなら、……ああ、ずうずうしい打ち明け話だ! あれはピローゴフ中尉だ、あれは目もあてられないノズドリョフ〔ゴーゴリ作「死せる魂」の人物〕だ、要するに餓鬼だよ! ああ、あのとき、あいつをいやというほどぶんなぐって、あいつの度胆を抜いてやったら、どんなに痛快だったろう。あのときうまくいかなかったから、今、あいつはみんなに復讐しているんだ……。ところで、あれはなんだ? また二階でがやがやしてる! ほんとに、なんだ、あれは? おれはもう我慢ができない」と彼は部屋へはいって来たプチーツィンに向かって叫んだ、「なんだっていうんだ、おれたちはしまいにどうなるんだ? あれは……あれは……」
しかし、騒ぎはたちまちに近づいて来て、いきなりドアが開いた。イヴォルギン老人が憤然として、顔をまっかにして、身をぶるぶる震わせながら、夢中になって、同じくプチーツィンに食ってかかった。老人のあとからは、ニイナ・アレクサンドロヴナ、コォリャ、最後にイッポリットがついてはいって来た。
[#改ページ]
二
イッポリットがプチーツィンの家に移って来てから、もう五日になっていた。これは、彼と公爵との間に何の話し合いも、軋轢《あつれき》もなしに、いかにも自然に運んだことであった。二人は喧嘩をしなかったばかりではなく、見たところでは、友だちらしく別れたかのようにさえも思われた。あの晩イッポリットに対してあれほどの敵意をいだいていたガヴリーラ・アルダリオノヴィッチが、自分のほうから見舞いに来た。もっとも、あの事件のうち三日目にではあったが、おそらく、何か急に思いついたことがあったからであろう。どうしたわけか、ラゴージンもまた同様に病人を見舞いに来るようになった。初めのうちは、公爵にもこの『哀れな少年』にとっては、ここを出て行ったほうが、かえってよいように思われた。しかし、引っ越しのときに、イッポリットは『親切にも、宿を貸してやる』というプチーツィンのところへ引っ越して行くと言った。しかも、ガーニャが自分の家へ引き取ると極力主張したにもかかわらず、ガーニャのところへ越して行くとは、何か含むところがあるかのように、ただ一度として言いださなかった。ガーニャはそのときすぐにそれに気づいて、いまいましいとは思いながらも、胸の中へ畳みこんだのであった。
彼が妹に向かって、病人がだいぶよくなったと言ったのは、そのとおりであった。事実、イッポリットは以前よりはだいぶよくなって、一目見たばかりでもわかるほどであった。彼は人をばかにしたような、人の悪いほほえみを浮かべながら、そろそろと、みんなのあとから部屋へはいって来た。ニイナ夫人は、すっかり度胆を抜かれてはいって来た(彼女はこの半年の間にかなり瘠せて、見違えるほどになってきた。娘を嫁にやって、娘のところへ引っ越して来てから、ほとんど表面的には子供たちのことには容喙《ようかい》しなくなった)。コォリャは気苦労をして、途方に暮れているらしかった。新しく家内に起こったこのごたごたの根本的な原因を知らなかったので、彼のいわゆる『将軍の気ちがいざた』についても、わからないことが多かった。しかし、父が絶え間なしに、いたるところで、ばかげたことばかりしていて、急に以前の父とは思われないほど、うって変わった人になってしまったということは、彼にもよくわかっていた。また老人がこの三日の間、ふっつりと酒をやめたということも、また彼には心配の種となった。彼は父がレーベジェフや公爵と仲たがいになって、喧嘩さえもしたことを承知していた。コォリャは自分の金で買ったウオートカの小罎を持って、たったいま帰って来たところであった。
「ほんとに、おっ母さん」彼はさきほど二階でニイナ夫人を口説くのであった。「ほんとに、飲ましてあげたほうがいいんですよ。もう三日も、手を出さないんですもの。きっと憂鬱なんですよ。ほんとに飲ましたほうがいいんです。僕は債務監獄《かんごく》にいるときにも、持ってってやりましたよ」
将軍はドアをあけ放して、憤慨のあまり身を震わせているらしく、閾《しきい》の上に立っていた。
「ねえ、君!」と彼は雷のような声で叫び立てた、「もしも、あんたが本当に、この青二才の無神論者のために、皇帝陛下の恩寵《おんちょう》をかたじけのうしたる名誉ある老人を、あんたの父親を、つまり、少なくともあんたの妻君の父親を犠牲にしようという決心をされたのならば、わしは今の今から、あんたの家に足踏みはしませんぞ。さあ、どっちか選びなさい、早く選びなさい、わしを選ぶか、それとも、この……螺旋釘《ねじくぎ》か! そうだ、螺旋釘だ! わしは何の気なしに言ったんじゃが、これは――螺旋釘じゃ! なぜというて、こいつはわしの胸を螺旋釘でえぐるんじゃから、それに全く相手の見さかいもなしに……螺旋釘のように……」
「栓抜きじゃありませんか?」とイッポリットが口を出した。
「いや、栓抜きじゃない。なんせ、わしは貴様に対して将軍でこそあれ、罎じゃないんじゃから! わしは勲章を持ってるんじゃ、勲章を……ところが、貴様は無一物じゃないか。こいつか、わしか! さあ、早く決めなさい、ね、今すぐに、さっそく!」と彼は夢中になって、プチーツィンに向かって叫んだ。
そこへコォリャが椅子をすすめたので、彼はほとんどぐったりしたように、それに腰を掛けた。
「ほんとに、あなたはお休みになったほうが……よろしいですよ」とプチーツィンはあっけにとられてつぶやいた。
「まだ威張り返ってやがる!」とガーニャは声低く妹にささやいた。
「休めと!」将軍は叫んで、「ねえ、わしは酔うてはおりませんのじゃ、あんたはわしを侮辱しなさる。わかりました」とまたもや立ち上がりながら、ことばを続けて、「よくわかりました、ここでみんながわしに敵対しておる、誰も彼もみんなで。もうたくさんだ! わしは出て行く……。じゃが、いいかの、あなた、いいかの……」
彼はしまいまで口をきかされずに、むりやりに腰を掛けさせられた。みんなは気を落ちつけるようにと懇願してかかった。ガーニャは憤然として、片隅へ立ちのいてしまった、ニイナ夫人は震えながら泣いていた。
「いったい、僕が何をしたんだろう? 何をこの人はぐずぐず言うんだろう?」とイッポリットは歯をむき出して叫んだ。
「じゃ、何もなさらなかったって言うんですね?」と不意にニイナ夫人が言いだした、「年寄りをいじめるなんて、ことにあなたにとっては恥ずかしいことですよ……情《つ》れないことだし、……あなたのような立場にあったらなおさら……」
「第一、僕の立場ってどんな何です、奥さん? 僕はかなり、あなたを尊敬しています、あなたを個人的に、しかし……」
「こいつは螺旋釘だ!」と将軍は叫んだ、「こいつはわしの心や魂を、螺旋釘でえぐるんじゃ! こいつはわしに無神論を信じさせたくてしようがないんじゃ! やい、青二才! 貴様なんぞが、生まれてもいない前に、わしはもう背負いきれぬほどの名誉をになっていたんだ。貴様は二つにぶっ切られた嫉妬《やきもち》の虫だ、……咳をしやがって、遺恨と不信心とで死にかかっている。……何のためにガーニャは貴様をここへ連れて来たんじゃろう? みんなでわしを、他人はじめ、現在のわが子に至るまで!」
「もうたくさんですよ、とんでもない愁嘆場になっちゃった!」とガーニャは叫んだ、「ただ町じゅうに、わたしたちの顔をつぶすようなことをして回ってくれなかったら、ましだったのに!」
「何、わしが貴様の顔をつぶす! 青二才め! 貴様の顔を? わしは貴様の顔をよくすることはできても、恥をかかすようなことはできないんじゃ!」
彼はどなり立てるばかりで、誰にももう押さえつけることはできなかった。が、ガーニャもどうやら、自分で自分が押さえきれなくなったらしい。
「今ごろ名誉をどうのこうのと!」彼は恨めしげに叫んだ。
「なんて言った?」将軍は青ざめて、彼のほうへ一歩を踏み出しながらどなりつけた。
「なあに、僕がちょっと口をあけさえすれば……」ガーニャはいきなりわめきだしたが、あとを切ってしまった。
二人は面と向かって突っ立った。二人とも度はずれに興奮していたが、特にガーニャははなはだしかった。
「ガーニャ、どうしたの?」ニイナ夫人は飛びかかって、息子を押さえながら叫んだ。
「四方八方、なんていうばかばかしいことばかりなんだろう!」とワーリヤはむっとして、辛辣《しんらつ》なことを言った。
「ただお母さんに免じて、黙っていますよ」とガーニャは悲痛な声で言った。
「言ってみろ!」と将軍はすっかり夢中になって怒号した、「言ってみろ、父親の呪《のろ》いを覚悟のうえで言ってみろ!」
「まあ、それじゃ、僕があなたの呪いに度胆を抜かれたっていうんですか! これで八日も、あなたが、まるで気ちがいみたいになってるからって、誰のせいでしょう? ねえ、もう八日目ですよ、僕はちゃんと勘定してるんですよ……。いいですか、どたんばまで言わせないほうがいいでしょう、いや、すっかり言ってしまいます……あなたはなんのために昨日エパンチン家へ、のこのこ出かけて行ったんです? 年寄りといわれる身分で、髪も白くなって、一家の父となっているくせに! 結構な御身分で!」
「およしよ、ガーニャ!」とコォリャが叫んだ、「およしよ、ばか!」
「いったい、どうして僕が、僕が何をして、この人を侮辱したんです?」とイッポリットは言い張ったが、しかも相変わらず、例の人をばかにしたような調子であった。「なんだって、この人は僕を螺旋釘だなんて言うんでしょう、皆さん、お聞きになったでしょう? 自分からうるさくくっついて来たくせに。今、僕のところへやって来て、エラペゴフ大尉とかいう人の話を持ち出したんです。僕はいっこうあなたのお仲間になんかはいりたくないんですよ、将軍、だから以前も避けていたんです、それはよく御自分でもわかってるでしょう。だって、エラペゴフ大尉なんて、僕に何の用があるんです、これはわかってくださるでしょう? 僕はね、エラペゴフ大尉のために、ここへ来たんではありませんよ。僕はただこの人に向かって、エラペゴフ大尉なんて、そんな人は、実際にいたこともないらしいって自分の意見をあからさまに言っただけなんですよ。そしたら、将軍は大さわぎをやりだしたんですよ」
「いたこともないに決まってる!」とガーニャは断言した。
しかし、将軍は呆然《ぼうぜん》としてたたずみながら、わけもなく、あたりを見回すばかりであった。息子のことばの思いきって露骨なのに、いまさらながら辟易《へきえき》したのである。最初の一瞬間は、なんと言ってよいのかさえもわからなかった。が、ついにイッポリットがガーニャの答えを聞いて、声を立てて笑いながら、『そうれ、ごらんなさい。やはり、あなたの現在の息子さんまでが、エラペゴフ大尉なんていう人は、てんでいたこともないっておっしゃってるじゃありませんか』と叫んだとき、やっと老人はつぶやいた、すっかりどぎまぎしてしまって。
「カピトン・エラペゴフだ、大尉《カピタン》じゃない……カピトンだ、予備中佐エラペゴフ……カピトンだ」
「カピトンもやっぱりいなかった!」ガーニャはもうすっかり腹を立てていた。
「だが……なぜいなかったんだ?」と将軍はつぶやいたが、さっと顔が赤くなった。
「もうたくさんですよ!」プチーツィンとワーリヤがなだめるのであった。
「およしよ、ガーニャ!」とまたもやコォリャが叫んだ。
しかし、この調停は将軍をいっそう夢中にしたらしかった。
「どうしていなかったんだ? なぜいなかったんだ?」と、彼は脅しつけるようにわが子に食ってかかった。
「いないからいないんです。ただそれだけのことですよ。また、てんで、そんな者のいようはずがありません! まあ、そういうわけです。ほんとに、もうよしたらいいでしょう」
「これでも息子なんだ……これが肉身の息子、おれが……ああ、いまいましい! エラペゴフ、エロシカ・エラペゴフがいなかったことは!」
「そうれ、見ろ、エロシカと言ったり、カピトンと言ったり!」イッポリットがくちばしを容れた。
「カピトンだぞ、君カピトンだ、エロシカじゃあない! カピトンだ、カピトン・アレクセイヴィッチだ、ええと、そうだ、カピトンだ、……少佐だ……予備のな、マリヤ……マリヤ……ペトローヴナ・ス……ス……あれは友だちで同僚じゃったが……スーゥゴーヴァと結婚した……見習士官のそもそもの初めからの友だちでの! わしはあれのために血を……いや、あれをかばってやったんだ、……だが、とうとう戦死しての。そのカピトン・エラペゴフ君がいなかったとは! この世に生きていなかったとは!」
将軍はすっかり興奮して叫んだが、しかも問題はただ一つのことに関しているのに、まるで見当違いのとんでもないことをわめき立てているらしい形勢であった。たしかに、これが他の場合であったならば、彼はもとより、何かカピトン・エラペゴフなる者が全くこの世にいなかったなどという話よりも、もっと癪《しゃく》にさわることさえも耐え忍んだことであろうし、またかりに、大声を立てて、ばかさわぎをして、夢中になったにしても、やはり、とどのつまりは二階の自分の部屋へ引き上げて、眠り込んだことであろう。ところが、今は、人間的な感情の非常に奇怪な反面があらわれて、エラペゴフに対する疑いと同様の、取るにも足らない侮辱が、彼をして憤激の極に達せしめる機縁とならなければならないようなことになったのである。老人は顔をまっかにし、両手を振り上げて叫ぶのであった。
「もうたくさんだ! わしのたたりを……この家を飛び出すんだ! コォリャ、わしの嚢《ふくろ》を持って来い、行くんだから……よそへ!」
彼は極度に憤慨して、あたふたと出て行った。あとからはニイナ夫人、コォリャ、プチーツィンが飛んで行った。
「まあ、あんたは今、なんていうことをしでかしたの!」とワーリヤは兄に向かって言った、「お父さんはきっとまた、あすこへのこのこと行くでしょうよ。まあ、つらよごしったらありやしない!」
「だから、泥棒なんぞするなっていうんだ!」とガーニャは憎悪のあまり、今にも咽喉《のど》がつまりそうになってわめき立てた。するうちに、彼の眼ははからずもイッポリットと出会った。ガーニャは身震いせんばかりであった。「ところで、ねえ、君」と彼は叫んだ、「君はともかくも、他人の家にいて……やっかいになっているということを覚えていて、たしかに気のちがっているあの年寄りを……じらさないようにするのがあたりまえだったんですよ……」
イッポリットもまた身震いしたらしかったが、たちまちにして自分を押さえた。
「あなたが、あなたのお父さんが気がちがっているというのには、僕は全然不賛成です」と落ち着き払って答えた、「僕には、その反対に、このごろ、あの人がかなり知恵を増されたようにさえも見えるのです。ええ、本当です。あなたは本気にはしませんか? あの人は用心深く、疑い深くなってきて、何から何まで探りを入れて、実にことばをつつしんでいますよ……。あのエラペゴフのことだって、目当てがあって言いだしたことじゃありませんか。まあ、どうでしょう、あの人は僕の気持を……ひきよせようとして……」
「ええ、親父がどんなことに君の気持をひきよせようとしたところで、そんなことは僕の知ったことじゃありませんよ! どうぞですから、僕を相手にいんちきをしたり、ごまかしたりしないでください」とガーニャはかん高い声で言うのであった、「もしも親父があんな状態に陥ったそもそもの原因を君もまた承知しているんなら(ところで、君はこの五日間に、とても僕を探ってるんですね、それは君もたしかに承知でしょう)、それなら、あの……運の悪い人をじらしたり、問題をおおげさにして母を苦しめたりしないのが当然なはずです。なにしろ、この問題は全くのナンセンスで、ほんの酒のうえでのいたずらなんですからね。それだけの話ですよ、おまけに、何の証拠もなかったことです。だから、僕はそんなことを、真《ま》に受けてはいないんです……しかも、君は毒舌をふるったり、スパイをやったりしなくちゃいられない。というのは、君が、……君が、……」
「螺旋釘《ねじくぎ》」イッポリットはせせら笑った。
「というのは、君がやくざ者で、あんな弾丸《たま》のはいってないピストルなんぞ射って、みんなをびっくりさせようと考えて、半時間も悩ましたからです。あんなピストルで、外聞の悪いまねをして、死にそこない、まるで二本足で歩く……癇癪玉だ。僕がお客様扱いにしてやったおかげで、君は肥ってもきたし、咳もぴったりやんだんだ。しかも、そのお礼には……」
「ほんのひと言だけ言わしてください。僕のいるのはワルワーラさんのところです、けっして、あなたのところじゃありません。あなたはちょっとも僕のやっかいなんか見てくだすったことはありません。僕のつもりでは、かえってあなた御自身こそプチーツィン氏のやっかいになっておられると思うんです。四日前に僕は母に頼んで、パヴロフスクに家を捜して、自分も越して来るようにと、書いてやりました。なにしろ、僕は実際、ここへ来て、ずっと気分がよくなったようですからね。けっして肥りもしなければ、咳もとまりませんけれど。ところで、ゆうべ来た母のたよりでは、家が見つかったそうですから、僕はあなたのお母さんとお妹さんにお礼を申して、そのほうへ今日にでも引っ越すつもりです。このことをとりあえずお知らせ申し上げます。これについてはもう昨晩、決心をしたことです。とにかく、お話し中に口を出しまして、まことに申しわけありません。たぶん、あなたはお話ししたいことがまだまだたくさんおありだったのでしょうね」
「おお、もしもそういうことなら……」ガーニャは震え声で言った。
「もしもそういうことなら、僕は御免をこうむって、腰をかけさしていただきましょう」将軍の坐っていた椅子に悠然と腰をおろしながら、イッポリットは付け加えた、「なにしろ、やはりからだのぐあいは悪いんでしてね。さあ、これであなたのおっしゃることを、せいぜいお伺いいたしましょう。まして、これが二人の最後の会話、ことによったら、最後の会見かもわからないんですからね」
ガーニャは急に恥ずかしくなった。
「ほんとにね、僕は君といろんなことの始末をつけるほど、落ちぶれたくはないんです」と彼は言った、「だから、もしも君が……」
「あなたがそんなお高くとまったってむだですよ」とイッポリットがさえぎった、「僕のほうだって、ここへ来たそもそも最初の日から、二人が別れるときには、何もかも、せいぜいざっくばらんに言ってしまって、気楽になろうと、心の中ではちゃんと覚悟をきめていたんですからね。僕はそれを今という今、実行するつもりです。もちろん、あなたのお話が済んでから」
「しかし、僕は君にこの部屋を出て行ってもらいたいんです」
「それにしても、話だけはしたほうがいいでしょう、さもないと、あのとき、話をすればよかったと、先になって後悔しますよ」
「およしなさい、イッポリットさん。そんなことは、とても恥ずかしいことじゃありませんか。後生ですから、よしてください」とワーリヤが言った。
「ただ、御婦人に免じてそうしましょうね」とイッポリットは立ち上がりながら笑った、「失礼ですけれど、ワルワーラさん、あなたのためにお話を簡単にしてもいいです。もっともただ簡単にするだけですよ。つまり、あなたの兄さんと僕との話し合いは、全く必要欠くべからざるものになったからです。僕は腑《ふ》に落ちないことをそのままにして、ここを出てゆくつもりはありません、どんなことがあっても」
「要するに、君はおしゃべりだよ」とガーニャは叫んだ、「だから、君はおしゃべりをしないで出て行くつもりになれないんだ」
「そうれ、ごらんなさい」とイッポリットは、落ち着き払って言った、「やっぱりしんぼうができなかったでしょう。ほんとに、話をすればよかったと、これからさき、後悔しますよ。さあ、もう一度あなたに先をゆずりましょう。僕はお待ちしています」
ガーニャは口をつぐんで、軽蔑的な眼で、相手を見つめていた。
「おいやなんですね。あくまでも我を張ろうというおつもりなんですね、――それならお好きなようになすったらいいでしょう。では、僕のほうから、できるだけ簡単に。僕は今日は、二度か三度、やっかい者だというおとがめを受けましたが、それは不公平ですよ。あなたこそ、僕をここへ招《よ》び寄せて、僕を係蹄《わな》にかけたじゃありませんか。そして、僕が公爵に恨みを晴らそうとでもしているようにお考えになったのです。おまけに、あなたは、アグラーヤさんが僕に同情の意を表して、僕の告白を読んだという噂を聞き込みなすったんですね。それで、どういうものか、きっと、僕が一生懸命になって、あなたの利害関係に携わるだろうとお考えになって、ことによったら、あと押しになるかもしれないと、それを当てになすったのです。もうこれ以上詳しい説明はよしましょう! 僕はあなたにも、白状をしろとか、明言をしろとかは言いませんよ。ただ、あなたに良心を思いおこさせておいて、別れて行くということと、それに、僕たちが、今お互いに実によく理解し合っているということだけで十分なんですからね」
「それにしても、あなたっていうおかたは、実にありふれたことから、とんでもないことをでっちあげるおかたですね!」とワーリヤは叫んだ。
「だから、僕がそう言ったじゃないか、『おしゃべりな餓鬼』だって」と、ガーニャは口を出した。
「失礼ですが、ワルワーラさん、僕はあとを続けますよ。僕にはもちろん、公爵を愛することも、尊敬することもできません。しかし、あの人は実に気だてのいい人ですよ。もっとも――ずいぶんおかしいところもありますが。しかし、僕には、あの人を憎むわけはちょっともありません。あなたのお兄さんが公爵に反抗するように僕をけしかけたときも、僕はそんなけはいは少しも見せませんでした。僕はつまり、おしまいになって、大いに笑ってやるつもりでいたのです。兄さんがうっかり、僕に口をきいて、たいへんな失敗をなさるってことは、承知してましたからね。ところが、はたして、そのとおりで……いま僕は兄さんを大目に見てあげるつもりですが、それも、あなたをね、ワルワーラさん、尊敬していればこそですよ。しかし、僕がそんななまやさしいことで囮《おとり》になるような人間でないということを説明しましたから、今度は、なぜ僕が兄さんにへまなことをさせたくなかったか、そのわけもお話ししましょう。いいですか、僕がこんなことを実行したのは、ざっくばらんに打ち明けると、憎しみのためなんですよ。今、死にかかっていて(だって、いくらあなたがたが肥ったとおっしゃっても、とにかく僕は死ぬんですからね)、死にかかっていて、僕はね、一生涯、僕をいじめ通して、こっちでもまた一生涯、憎んでいたあの無数の連中の代表者を、せめて一人だけでも愚弄《ぐろう》してやって、もっともっと落ち着いて、天国へ行きたいと、こう思いましたよ。しかも、浮彫のようにはっきりと、その連中を代表しているのは、まぎれもない、あなたのお兄様なんですよ。僕があなたを憎むわけはね、ガヴリーラさん、――こんなことを言ったら、あなたはびっくりなさるかもわかりませんが――|そのわけはただ《ヽヽヽヽヽヽヽ》、あなたが最もずうずうしい、最もうぬぼれの強い、最もいやらしい凡庸性の典型であり、化身であり、権化だからなのですよ! あなたは傲慢な凡庸性そのものです。自己を疑うことのない、泰然自若たる凡庸性そのものです。あなたは月並み中の月並みです! 自分自身の思想なんてものは、ほんのちょっぴりだって、あなたの頭や胸に形となってあらわれるものじゃないんです、どんなことがあっても。しかも、あなたは、よくよくのやっかみやですし。あなたは自分ほど偉い天才はないと信じていますけれども、やはり、どうかすると、憂鬱なときには、懐疑の念があなたを訪れて、人を恨んだり嫉《そね》んだりするのです。おお、あなたの地平線にはまだ斑点《しみ》がありますよ。近き将来に、あなたがすっかりばかになったら、その点も消えてしまうでしょうが、それでもやはり、あなたの前には、長い、変化の多い道が横たわっているのです。それも、愉快な道だとは言えませんね。僕にはそれがかえって痛快ですね。まず第一に、今から言っておきますが、例の人は、あなたのものにはなりませんよ」
「ええ、もう聞いちゃいられない!」とワーリヤが叫んだ、「もうあんたは、それでおしまいでしょう? いやなごうつくばりったら」
ガーニャは青ざめて、震えながら黙っていた。イッポリットはことばを切って、じっと、快げに彼を見つめていたが、やがて視線をワーリヤのほうに転じたかと思うと、薄ら笑いをして、お辞儀をし、そのままひと言も付け足さずに、出て行った。
ガーニャが、その運命と失敗とをかこったとすれば、それはきわめて当然なことであろう。しばらくの間、ワーリヤは兄に話しかける気にもなれなかった。彼が大股に自分の傍を通り過ぎたときも、ふり返って見ようとさえもしなかったのである。ついに、彼は窓のほうへ行って、妹に背を向けた。ワーリヤは『一利一害』というロシアのことわざのことを考えていた。二階からまたもや騒がしい物音が聞こえてきた。
「行くのかえ?」妹が席を立ったのを聞きつけて、ガーニャはふっと妹のほうをふり向いた、「ちょっと待って、これをごらん」
彼は妹のほうへ近づいて、ちょっとした置き手紙くらいの体裁に折ってある小さな紙きれを、妹の前のテーブルの上へ放り出した。
「あら、まあ!」と叫んで、ワーリヤは手を打った。
手紙はちょうど七行あった。
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ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ様! あなたがわたしに好意をよせてくださるものと信じて、わたしは自分にとって大事なある事について、あなたに相談に乗っていただこうと決心いたしました。わたしは明日の朝、正七時に、緑色のベンチでお目にかかりとう存じます。これはわたしどもの別荘から遠くないところにございます。ワルワーラ・アルダリオノヴナさまもぜひともごいっしょにお出かけをいただかなければなりません。あのかたはよく場所をご存じでいらっしゃいます。 A・E
[#ここで字下げ終わり]
「いらっしゃい、こうなった以上は、あの人とよく話をつけなさいね!」とワルワーラは両手をひろげて見せた。
ガーニャはこのとき、とんでもない大きいことを言おうとしたが、しかもなお、どうしても勝ち誇った色をあらわさずにはいられなかった。しかも、イッポリットがあれほど屈辱的な予言をしたあとであったから、なおさらのことであった。得意の微笑がなんのはばかるところもなく彼の顔に輝いた。ワーリヤまでが、嬉しさのあまり、すっかり晴れ晴れしい様子を見せていた。
「それに、ちょうどあの家で婚約の披露をするという当日なんですからね! いらっしゃいよ、こうなった以上は、あの人とよく話をつけなさいよ」
「おまえはどう思う、明日あの人は何を言うつもりなんだろう?」とガーニャは尋ねた。
「そんなこと、どうだっていいわよ。何はともあれ、六か月後にはじめて会いたいっていうんですからね。よくって、兄さん、あの家でどんなことがあったにしろ、また様子がどんな風に変わったにしろ、ほんとにこれは大事《ヽヽ》なことですよ! 大事すぎるくらいだわ! またよけいな大風呂敷をひろげて、失敗しないようにしてちょうだい、それにびくびくしちゃだめよ、よくって? あの人に、あすこへ半年のあいだわたしがなぜ通ったのか、わからないわけはないわ。それに、どうでしょう、今日あの人はわたしにはひと言も物を言わなかったの、それにそぶりだって見せなかったし。もっとも、わたしはあの家へこっそり寄ってたので、わたしがいることを、お婆さんは知らなかったの。さもなければ、きっとわたしを追い出したでしょうよ。わたしはどんなことがあっても、兄さんのためにぜひとも探り出そうと考えて、危険を冒して通ったの」
またしても叫び声と物音が二階から聞こえてきた。何人かの人が階段からおりて来た。
「もうなんと言ったって、こんなこと許しておいちゃいけないわ!」とワーリヤがおびえたように、あわてた調子で叫んだ。「こんな見っともないことは、もう影もないようにしなくちゃ! さあ、行っておわびをなさい」
しかし、一家の主人はもう往来に出ていた。コォリャがあとから嚢を引きずって行く。ニイナ夫人は玄関の階段に立って泣いていた。彼女は良人のあとを追って駆け出そうとしていたが、プチーツィンに引き止められてしまったのである。
「そんなことをなすったら、いっそう将軍に油をかけるようなものです」と彼はニイナ夫人に言った、「どこへも行くところがないんですから、半時間もしたらまた連れ戻されて来ますよ。わたしはもうコォリャによく話をしておいたんです。まあ、気ままにばかなまねをさしておいたらいいでしょう」
「何を威張ってるんです、どこへ行くんです!」とガーニャが窓から叫んだ。「行くところもないのに!」
「帰ってらっしゃいよ、パパ!」とワーリヤが叫んだ。「近所の人が聞いてるのに」
将軍は立ち止まって、ふり返り、片手を差しのべながら叫んだ。
「この家にはわしの罰があたるのじゃぞ!」
「おきまりの芝居口調が始まった!」と、ガーニャはぴしゃりと窓をしめながらつぶやいた。
近所の人たちはたしかに、聞き耳を立てていた。ワーリヤは部屋を駆け出した。
ワーリヤが外へ出たとき、ガーニャはテーブルの上の手紙を取り上げて、これに口づけし、ちょっと舌を鳴らして、頓狂な身ぶりをするのであった。
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三
将軍のばか騒ぎもほかのときならば、なんということもなくてけりがついたことであろう。以前にもこの種の気まぐれざたが勃発《ぼっぱつ》することがないではなかったが、それはきわめてまれなことであった。というのは、だいたいが彼は非常におとなしく、ほとんど善良といってもよいほどの性癖をもっていたからである。晩年に至って、病みつきになったふしだらと、おそらく、彼は百度も闘っていたであろう。彼は不意に、自分が『一家の主人』であるということを思い出しては、妻と仲なおりをし、衷心から涙を流したものであった。彼はニイナ・アレクサンドロヴナがたいていの場合は黙って自分を許してくれるばかりではなく、道化者のように、あさましい姿をさらしていてさえも、なお昔のように愛してくれるので、ほとんど崇拝ともいうべき尊敬を払っていた。しかし、このふしだらを克服しようとするおうような気持は、あまり長く続かないのが例であった。将軍もまた、種類を異にしながら、やはり『お調子に乗りすぎる』人間であった。彼は不断に、家庭内の悔いに満ちた安閑とした生活にやりきれなくなると、あげくの果ては謀反をしてしまうのであった。興奮するとおそらく同時に自分で自分を責めるのであろうが、やはり押しきることができなかった。喧嘩をしては、堂々と雄弁をふるい、法外な、無理な尊敬を要求し、とどのつまりは、家から姿を消してしまい、どうかすると、長いこと家を空《あ》けていることもあった。最近二年の間、彼は家庭内の問題については、ほんのだいたいのことを、聞きかじりに知っているくらいのもので、それ以上詳しく立ち入ることをよしてしまっていた。そんなことは、自分の役目ではないと感じていたからである。
しかし、今度という今度は、『将軍のばか騒ぎ』のなかに、何かしらなみたいていではないものがあった。誰も彼もが何かしらあるものについて承知をしているかのようであった。誰もがそれについて物を言うのを恐れているかのようにも見受けられた。将軍はつい三日まえに、『正式に』自分の家庭へ、つまりニイナ夫人のところへ姿をあらわしたばかりであった。しかし、今までのいつもの『出頭』のときのように、あきらめたり、後悔したりしている様子は見えず、それどころか、――なみなみならぬ焦燥の念をいだいていた。彼は口数が多く、落ち着きがなく、行き会う人ごとに熱情をこめて、あたかも食ってかかるかのような調子で話しかけたが、しかも、その話題たるや、いつもまちまちで、とっぴょうしもなく、したがって、何のためにそんなにそわそわしているのか、本当のところがどうしても呑み込めないくらいであった。時として陽気なこともあったが、たいていは物思いに沈んでいた。もっとも、何を考えているのか、自分でもよくはわからなかったのである。いきなり、何か――たとえば、エパンチン家のことや、公爵のことや、レーベジェフのことなど話し始めるかと思うと、不意に話をやめて、それきり全く口をきかなくなってしまう。遠回しに物を聞かれると、ただぼんやりとほほえむばかりであったが、しかも、実際は何を聞かれているのかさえもよくわからないで、ただほほえんでいるだけであった。
前の晩はため息をついたりうなったりして夜を過ごし、ニイナ夫人を悩ました。夫人は何のためか、一晩じゅう、彼に湿布を温めてやっていた。彼は夜明けごろになって、ふと眠りに落ちたが四時間ばかり眠ってから、猛烈な、しどけない憂鬱症《ヒポコンデリヤ》の発作に襲われて眼がさめた。この病気は、イッポリットとの喧嘩と、『この家に罰をあててやる』という文句でけりがついた。またこの三日間というもの、彼が絶えず極端な自負心に陥って、その結果、非常に怒りっぽくなったことも、みんなよく人に気づかれていた。コォリャは、母に向かって、こんなことはみんな酒が恋しいためか、または、ことによったら、このごろ変なくらいに仲よしになったレーベジェフが恋しくて、鬱《ふさ》いでいるのだと主張してやまなかった。しかし、三日まえに彼はこのレーベジェフともにわかに喧嘩をして、激怒の極に達して別れてしまった。のみならず、公爵とさえも、妙ないきさつがあった。コォリャは、公爵に説明をしてくれと頼んだが、ついには、公爵には何かしら彼に打ち明けたくないことがあるらしいと察するようになった。もしも、ガーニャが、あくまでも間違いないといって推定を下したように、母夫人とイッポリットとの間に何か特別な話があったとすれば、ガーニャがあれほどずけずけと、おしゃべりだといったあの悪党が、同じような方法で、コォリャに同じことを言い聞かせるのを遠慮したということは、はなはだ奇妙なことになる。この男が、前にガーニャが妹と話しているときに言ったような意地の悪い『餓鬼』ではなくて、意地が悪いといっても、何か別のたぐいのものだということも、大いにあり得べきことであろう。それにまたニイナ夫人に向かって、ただ『その胸をかきむしる』ために、自分の一種の観察を伝えたということも、怪しい話である。
ここで見のがしてはならないが、人間の動作の原因というものは、常にわれわれがあとになって説明するよりも、たいていははるかに複雑であり、多種多様なものであって、はっきりとして輪廓のわかることははなはだまれである。そこで、ときには、事件の単なる記述のみにとどめておくことが、説明者にとっては何よりも好都合な場合がある。そういうわけで、私は今の将軍の不幸な最後についてのこれから先の説明にあたっても、このたてまえで行きたいと思う。すなわち、どんなことがあろうとも、この小説の第二義的な人物に対して、今まで想像していたよりも、も少しよけいに注意を払い、も少し場所をとらなければならない破目に立ち至ったからである。
これらの事件は次のような経路をたどってあとからあとから起こったことであった。
レーべジェフは、フェルデシチェンコを捜索するためにペテルブルグへ出かけて、すぐにその日のうちに将軍といっしょに帰って来たが、別にこれというほどのことは公爵に伝えなかった。もし、公爵がそのとき、そんなに忙しくなく、自分自身にとって重要な他の印象などにかまけていなかったら、次の二日間に、レーべジェフが少しも打ち明けた話をしてくれないばかりではなく、かえって、公爵と顔を合わせるのをどういうわけか、避けてさえもいることに、すぐに気がついたはずである。公爵は、やっと、これに気がついて、この二日の間、ゆくりなくレーベジェフに会うたびごとに、何はともあれ、いたって上機嫌で、ほとんどいつも将軍といっしょだったことを思い起こしていまさらながらに驚いた。二人の友だちは、もう一刻たりとも離れなかった。公爵は時として、二階から彼の部屋に聞こえて来る声の高い、早口な話し声や、大きな声で笑いながら議論をしている声を耳にした。ある時などは、夜もふけてから、軍隊式の酒盛の歌が、いきなり、だしぬけに響いてきたが、彼はすぐに将軍のしわがれた低音《バス》に気がついた。しかし、歌はしまいまで行かないうちに、ぱったり聞こえなくなってしまった。それからおよそ一時間ばかりもの間、あらゆる様子から推して、酔っ払っていると覚しく、ひどく威勢のよい話し声が続いていた。やがて、二階で、騒いでいた友だちが抱き合って、ついには、どちらかが泣き出したということまで、察しがついた。それから急に激しい議論が聞こえたが、それもやはり、たちまちのうちにぴたりとやんでしまった。
この間じゅう、コォリャは何かしら特別な不安な気分に浸されていた。公爵はたいていは家をあけて、時おりは、かなりに夜おそく帰って来た。すると、彼はいつも、コォリャが一日じゅう公爵を捜しまわっていたということを聞かされるのであった。しかし、会ってみると、コォリャは別に変わったことを言うわけではなかった。ただ、将軍のことが実に『気に食わない』、将軍の今日このごろの品行がおもしろくないというだけのことであった。『二人でうろつき回って、ここからあんまり遠くもない居酒屋で呑んだくれて、往来で抱き合ったり、悪口を言い合ったり、お互いにおだて合ったりして、どうしても離れられないんです』それと同じようなことは以前にも、ほとんど毎日といってもいいくらいにあったことだと公爵が言って聞かせたとき、コォリャはそれに対してなんと返事をしたらよいのか、そして今の自分の不安がどこにあるのかをどういう風に説明したらいいのか、全くわからなかった。
酒盛りの歌と議論のあくる朝、十一時ごろに、公爵が家を出ようとしていると、だしぬけに彼の前に将軍があらわれた。何やら極度に興奮していて、ほとんど狼狽《ろうばい》しているといってもいいくらいであった。
「ムィシキン公爵様、わしはとうから、ずっとずっと前から、あなたにお目にかかる光栄と、機会とを求めておりました」実に固く、痛いほど固く、公爵の手を握りしめながら、将軍はつぶやいた。「ずっと、ずっと前から」
公爵は腰を掛けてくれと言った。
「いや、坐りません、おまけに、お出かけのところを引き止めておりまするで。わしは……またこの次に……。この際、わしは……心の願いのかないましたることについて、……あなたにお祝いを申してもよろしいように、思いまするがな」
「どんな心の願いです?」
公爵はどぎまぎした。彼はかような立場にある多くの人々と同じように、けっして誰にも見られもすまいし、察しもされまいし、悟りもされまいと考えていたのであった。
「御安心なさい、御安心なさい! あなたのきわめてデリケートな感情をかき乱すようなことはいたしませんから。自分でも味をなめて、よく覚えがありますよ。他人が……その、なんですね、……ことわざにもあるとおり、……頼まれもしないのにくちばしを容れるというのは……。これは、わしも、毎朝、味をなめていますよ。わしはほかの用事で来たのです。大事なことで。とても大事なことですよ、公爵」
公爵は席に着いてくれともう一度頼んで、自分でも腰をおろした。
「では、たった一秒間……実はあなたの御意見を伺いにまいったんですがね。わしはもちろん、実際的な目的というものをもたずに暮らしている者ですが、しかし、自分自身を尊敬し、……だいたいのロシア人が重んじていない実務的な手腕を尊敬して……自分自身や、女房子供をいい境遇に置いてやりたいと思いましての……要するにですな、公爵、わたしは相談に乗っていただきたいんでして」
公爵は熱心にその心がけをほめたたえた。
「いや、そんなことはみんなくだらん話です」と将軍は口早にさえぎった、「わしはともかく、こんなことでなく、別の、大事なことをお話しいたしたいんで。つまりですね、ムィシキン公爵、態度にまごころがこもって、感情の気高いことを信頼し得る人として、あなたに打ち明けようと思い立ったわけなんです、人として……。あなたはわしのことばにびっくりなすっているんじゃありませんか。公爵?」
公爵は特に驚くというほどではなかったかもしれないが、なみなみならぬ注意と好奇心とをもって、客の様子をじっと眺めていた。老人はいくぶん青い顔をして、唇は時おりかすかに震え、手は落ち着く所を知らないかのようであった。彼はほんの二、三分坐っている間に、もう二度までも何のためかだしぬけに椅子から飛び上がって、また急に腰をおろした。見たところ、自分のこうした駆け引きにはいささかの注意さえも払わないらしかった。テーブルの上には何冊かの本が載っていた。彼は話を続けながら、そのなかの一冊を取って、ちょっとひろげたページをのぞいて、すぐにまた閉じて、テーブルの上に置いた。今度は別な本を取り上げたが、もうあけようとはせずに、いつまでも、右手に持ったまま、絶えず宙にふり回していた。
「たくさんです!」と彼は急に叫んだ、「どうやら、わしはあなたをだいぶお邪魔したようです」
「いいえ、どういたしまして、とんでもない、どうぞ聞かしてください。僕はそれどころじゃありません、聞き耳を立てて、お話の意味を推し量ろうとしているのです……」
「公爵! わしは自分自身が他人《ひと》様に敬われるような身分になりたいとつくづく考えていますがの……また、自分自身と、それに……自分の権利をも尊重したいものです」
「かような希望をもった人は、その希望の一つだけに対しても、尊敬を受ける値打ちがあるものです」
公爵が習字のお手本にあるような文句をもってきたのは、それが立派な効き目があると堅く信じたからであった。何か、こういったような、内容のない、しかも人聞きのいい句を、しかるべき時に言ったら、かような人間、わけても将軍のような境遇にある人間の魂を、たちまちにして、克服し、和らげることもできるだろうと、どうやら本能的に考えついたらしいのである。とにもかくにも、かような客は心を和らげて、帰してやる必要があった。ここに宿題があったのである。
この句は将軍をそそのかして、感激させ、彼の心をひきつけた。将軍はたちまち感動して、やにわに調子を変えて、感激に満ちた長い打ち明け話をしにかかった。ところが、どんなに緊張して、耳を澄ましても、公爵には文字どおり何ひとつ悟ることができなかった。将軍は次から次へと押し寄せて来る思想をたちどころに述べることができないらしく、十分間ほども、むやみにせき込んで、早口にしゃべり立てていた。終わりごろには、眼の中に涙さえ輝きだした。しかもなお、それは初めもなければ終わりもない文句で、いきなりとぎれたり、不意に一飛び移って行ったりするとっぴょうしもないことばと思想にすぎなかった。
「たくさんです! あなたはわしのことばを呑み込んでくだすった。それでわしも安心しましたよ」だしぬけに立ち上がりながら、彼はこう結んだ、「あなたのような心の人に、苦しんでいる者の気持がわからないはずはないです。公爵、あなたは理想そのもののように高潔でいらっしゃる! あなたの前に出たら、ほかの連中なんか物の数ではありません! しかし、あなたはまだ、年が若い、だから、わしが祝福してあげますよ。さて、結局ですね、わしがお邪魔にあがったのは、大事なお話を聞いていただくのに、いつがよろしいか言っていただくためです。これがわしのおもなる望みなんでしてね。わしはただ友情と情けを求めているんですよ。公爵。わしはね、一度も、この心からの要求を物にしたためしがありませんのでな」
「しかし、どうして今おっしゃらないのです? 僕は喜んでお聞きしますよ……」
「だめです、公爵、だめです!」と将軍は熱くなってさえぎった、「今はだめです! 今というのはつまらん空想です! これはあまりにも、あまりにも大事なことです。あまりにも大事な! このお話をする時は、取り返しのつかない運命の決まる時です。これはわしの時になるのです。こういう神聖な時に、ひょっこりやって来た者、偶然に来合わした無礼者のために、二人の話がとぎれるということは、実にいやなことです。こういう無礼者は珍しくはありませんからね」と彼は不意に公爵のほうへかがみこんで、いかにも秘密らしく、ほとんど畏れをなしているような変な声でささやいた、「あなたの靴の……踵《かがと》ほどの値打ちもない無礼者はざらにいますからね、公爵! おお、わしは自分の靴とは申しませんよ! いいですか、わしは自分の靴のことは言わなかったのですよ。つまり、なんです、あまりに自分を尊敬しているので、わしにはそんなことを平気で口に出すことができないからです、もっとも、あなただけはおわかりになるでしょうが、こういう場合に、自分の踵をそっちのけにして、実は、自分の威厳というものを大いに誇っているかもしれませんね。こんなことは、あなたを除けたら、誰にもわかるものではありません。しかも、|あいつ《ヽヽヽ》はその中の親玉ですよ。|あいつ《ヽヽヽ》は何もわからないんですよ、公爵! わかるだけの能力がまるで、まるで、ないんですからね。情けがなくっては、わかるもんじゃありませんしね!」
終わりごろになると、公爵はほとんど度胆を抜かれて、将軍に向かって、明日の今ごろ会おうと言った。将軍はかなりに気をよくして、ともかくも安心して、威勢よく出て行った。夕方の六時過ぎに、公爵はレーベジェフにちょっと来てくれと使いを立てた。
レーベジェフは「まことに光栄と存じて」(彼がはいって来るなり、切り出したことばをもってすれば)、非常にあわててやって来た。
この三日の間、姿を消して、明らかに公爵と顔を合わせるのを避けていたのに、今はそんなけはいはどこにもないように見える。彼は椅子の端に腰をかけて、顔をしかめたり、ほほえみを浮かべたり、くすぐったそうな、様子を探るような眼つきをして、手をもんだりしながら、誰もがかなり前から臆測して、期待をかけている何かの大事件の知らせにもなぞらうべき何ごとかを必ず聞かされるだろうと、かなりに無邪気な期待をかけているらしい風であった。公爵はまたもや辟易した。急にみんなが自分に対して何かの期待をかけるようになって、まるでお祝いでも言いたそうに、謎をかけたり、忍び笑いをしたり、眼くばせをしたりしながら、自分を見まもっているのが、はっきりと彼にもわかってきた。ケルレルはもう三度ほども彼のところへ、ほんのちょっとの間、立ち寄ったが、やはりこれもお祝いを言いたそうな様子をありありと見せていた。彼は来るたびごとに、感激したような調子で、わけのわからないことを言いだしたが、いつも途中でよしてしまって、さっさと、いつの間にか姿を消してしまうのであった(彼はこのごろ、どこかで、とてもひどく酒を飲んで、ある撞球場《たまや》で蛮声をふるっていたという)。コォリャまでが、悲しみを忘れて、やはり、二度ばかりもわけのわからぬことを、公爵に話しかけたりした。
公爵はいきなり、いくぶんいらいらしながら、レーベジェフに向かって、将軍の今日このごろの調子をどう思うか、将軍があんなに落ち着かないのはどういうわけかと聞いた。すると彼は手短にさきほどの場面を物語った。
「誰にでも不安はあるものでございますよ、公爵、そして……ことに、現代のような変な、不安の多い時代におきましては。はい」とレーベジェフはいくぶんそっけなく答えて、腹立たしげに口をつぐんだが、まるで自分の期待をひどく裏切られた人のような様子をしていた。
「たいへんな哲学ですね!」と公爵は苦笑した。
「哲学は必要なものでございましての。ことに十九世紀におきましては、その実際的適用の点で必要なはずなんですが、おろそかにされていましての。本当に、はい。ところで、公爵様、わたくしはあなたも御承知のある点について、あなた様の御信任をいただいておりますが、それもただある程度まででございましての。つまり、この一つの点に関する事柄以上にはちょっとも出ておりませんので……。わたくしはよく呑み込んでおりますから、けっして愚痴なぞ申しません……」
「レーベジェフ君、君は何かのことで怒ってらっしゃるようですね?」
「どういたしまして、少しも、公爵様、けっして、少しも!」レーベジェフは胸に手をあてながら、ものものしく叫んだ、「とんでもないことでございまして。わたくしは、世間での位置においても、知や情の発達においても、富の蓄積においても、以前の品行においても、さてはまた、知識の点においても、――わたくしの希望などのとてもとても、及ばないあなた様の御信任を受けるほどの値打ちはございませんし、また何かのお役に立つことができるといたしましても、奴隷だとか、雇人だとかの役目をするだけのことだ、ただそれだけだと、すぐに悟りましたのでして……。けっして怒ったりなぞいたしません。ただ悲しい思いをいたしおるのでございますよ」
「レーベジェフ君、とんでもないことを!」
「ただそれだけのことですよ! 今もそうでした、つい今もそうでした。あなたにお目にかかったり、また肚《はら》の中であなたの様子を探っている時にも、いつもひとり言を言っていたのでした、『自分は親友として、信頼していただくほどの値打ちはないけれども、家主という小資格で、ことによったら、適当の時期に、こちらで当てにしている期日の来ないうちに、いわばその、予告といいますか、通知といいますか、ちかぢかは何かの変化が……おこるでしょうが、それについて、いろいろと承ることができるだろう』と」
こんなことを言いながら、レーベジェフは、驚いて自分のほうを眺めている公爵を、小さな鋭い眼で、穴のあくほどじっと見つめるのであった。彼はやはり、好奇心を満たすことができると、当てにしていたのであった。
「何が何やらさっぱりわかりません」公爵は今にも怒りだしそうにして、叫んだ、「が、……あんたはとても恐ろしい陰謀家ですね!」と言って、不意に本気になって吹き出してしまった。
レーベジェフも同時に笑いだしたが、急に晴れ晴れしてきた眸《ひとみ》には、自分が当てにしていたことが裏書きされて、さらにいっそう強まって来たことが、ありありとうかがわれた。
「何を僕が言うかわかってますか、レーベジェフさん? 僕のことを怒っちゃいけませんよ。僕は君のね、もっとも、君ばかりじゃありませんが、無邪気なのに驚いてるんですよ! 君は本当に無邪気に、僕が何か言うのを当てにしてるんですね、つまり、この場合に。ところが、僕には君の期待に副《そ》うようなことが何ひとつないので、君に対してきまりが悪く、恥ずかしいくらいですよ。誓って言いますが、本当に何もお話しすることがないんですよ、御想像がつきますか?」
公爵はまたしても笑いだした。
レーベジェフはたちまち気どってしまった。事実、彼は好奇心にかけては、時おり、あまりにも無邪気で、しつこいくらいであったが、しかし、それと同時に、彼はきわめてずるい、ひねくれた男で、どうかすると、あまりにも陰険に黙り込むのであった。そこで、公爵は、絶えず彼の頼みをはねつけて、ほとんど彼を敵にしてしまっていた。しかし、公爵がはねつけるのは軽蔑していたからではなく、彼の好奇心の対象があまりにデリケートだからであった。公爵はつい数日まえまで、自分のある種の空想をまるで罪悪のように見なしていた。が、レーベジェフは、公爵がはねつけたのは、ただ自分に対する個人的な嫌悪と、猜疑心《さいぎしん》によるのだと解釈して、いつも気をくさらして公爵のもとを去るのであった。そうして、公爵と親しい点で、単にコォリャやケルレルばかりではなく、現在のわが子のヴェーラをさえも、ねたましく思うのであった。この時でさえも、彼はおそらく、公爵にとってきわめて興味のあるニュースを一つくらいはまごころから伝えることもでき、またそれを望んでもいたことであろう、しかし、憂鬱そうに黙りこんで、とうとう何も言わずにしまった。
「公爵様、何の御用で。とにかく、あなた様が今わたしを……お呼びになったのでございますからね?」しばらく口をつぐんでいたがついに彼は口をきった。
「そう、実は特に将軍のことを聞こうと思って」やはり、ちょっとの間、物思いにふけっていた公爵は、あわてて答えた。「それに……いつぞや聞かしてくれた盗難の件も……」
「それは何のことでございますか?」
「まあ、それじゃ、僕の言うことがまるでわからないらしいね! ああ、君はいつでも芝居ばかりしてるんですね、レーベジェフ君! 金ですよ、金、あの時、紙入れへ入れたままなくしたっていう四百ルーブルですよ。朝、ペテルブルグへ行くとき、僕のところへ来て話したでしょう、――やっとわかったでしょう?」
「ああ、あの四百ルーブルのことだったんですか!」レーベジェフはやっと今になって思いついたらしく、ことばじりを引いた、「御親切に心配してくださいまして、ありがとう存じます、公爵わたくしにとりまして、もったいなさすぎることで。しかし、……あれは見つけましてございます。もうかなり前に」
「見つけましたって! ああ、よかった!」
「あなたとしては、その叫び声はまことに高潔なものです。なにしろ、四百ルーブルという金は、親のない児をどっさりかかえながら、つらい仕事をして、細々と生きている貧乏人にとっては、なかなかなみたいていなものではないんでしてね」
「しかし、僕の言うのはそのことじゃありませんよ! もちろん見つかったということは、嬉しいですが」公爵は急いで訂正した、「しかし、……いったい、どうして見つけたんです?」
「実にたわいもなくでございますよ。フロックを掛けておいた椅子の下にあったのです。してみると、紙入れがポケットから床の上へ滑り落ちたに相違ないんでして」
「どうして椅子の下になんか? そんなはずはない。だって、君はすみずみまで、くまなく捜したって、僕に言ってたじゃありませんか。いったい、どうしてこのいちばん大事な所を見落としたんです?」
「それがその、本当によく調べたんでございますよ! 調べたってことはようく、とてもよく覚えておりましてな! 椅子をよせて、四つんばいになって、自分の眼ばかり当てにしないで、ようくその場所を手がなでてみましたがの。しかし、何もないじゃありませんか。まるでわたしのこの掌のように、何もなく、すべすべしているんですよ。でも、とにかく、なで回しておりました。そんな気の弱いことは、人がぜひとも見つけ出そうと思っているとき、いつもよくやることでしてね、……大事な、気にかかる物をなくした時に。何もない空っぽの所だとはわかっていても、やはり何十ぺんでものぞいて見るものですよ」
「なるほど、かりにそうだとしても、いったいどうしたんでしょうね?……僕にはやっぱり呑み込めませんね」と公爵はどぎまぎしながらつぶやいた。「前にはなかったと言い、その場所を捜したというのに、そこへひょっこり出て来たんですかね?」
「ところが、本当に、ひょっこり出て来たんでございますよ」
公爵は妙な顔をして相手を見つめた。
「では、将軍は?」不意に彼は聞いた。
「と言いますと、なんでございますかね、将軍のことですか?」とレーベジェフはまた相手の言うことがわからなかった。
「ああ、いまいましい! 僕はね、君、君が椅子の下で紙入れを見つけたとき、将軍がなんと言ったかって、それを聞いてるんですよ。だって、前にいっしょに捜したんじゃありませんか?」
「前にはいっしょでございました。でも、今度は正直のところを申しますと、わたしが一人で紙入れを捜し出したのですが、このことは黙って、言わないでおいたほうがいいと思いましたんで」
「しかし、……いったい、どうしてです?……で、金はそっくり元のままでしたか?」
「紙入れをあけて見ました、が、すっかり元のままでございました。ただの一ルーブルさえも」
「せめて、僕にだけは、知らせに来てくれてもよかりそうなものを」と、公爵は物思わしげに言った。
「ですけれど、ねえ、公爵、あなたが個人的に、おそらく、大変な、いわば、感動を受けていらっしゃる際に、こんな私ごとで、よけいな御迷惑をかけてはと、ついそれを気にかけていたのみならず、わたくし自身も、何も見つけないようなふりをしておりましたんで。紙入れはあけて、中をよく調べて、それからまたちゃんと閉めて、また椅子の下へ置いときました」
「だって、何のために?」
「さ、さようでございます、これから先、どうなるかという、物好きからなんでございますよ」と、もみ手をしながら、レーベジェフは、忍び笑いをした。
「それじゃ、今でも紙入れは、一昨日《おととい》からずっとそこにあるんですね?」
「おお、違います、ただ一日一晩あったきりです。御承知のとおり、わたくしは将軍に見つけ出してもらいたいという気がいくぶんありましたんでございます。というのは、わたしが結局、見つけた以上将軍だって、いわば、目をひくように、椅子の下から突き出している品物に、気がつかんという話はございませんからね。わたしは何べんもその椅子を持ち上げて、置きかえましたので、紙入れはすっかり見えるようになってしまいました。けども、将軍はどうしても気がつかないのです。それがまる一昼夜続きました。どうも、あの人は、このごろは、とても杜漏《ずろう》になって、物の見さかいもつかない様子です。話をしたり、講釈をしたり、笑ったり、騒いだりしているかと思うと、いきなりわたしを怒ったりするのです。どういうわけか、わたしにはわからんのです。で、とうとう、二人で部屋を出かかったんですが、わたしは戸をわざとあけっ放しにしておきました。将軍はちょっと、ぐずぐずして、何か言いたそうにしていました。きっと、あんな大金のはいった紙入れを置いとくのが心配だったんでしょう。ところがです、突然、おそろしく怒りだして、もう何も言わんのです。二人で往来へ出てふた足と歩かないうちに、もう、わたしを置いてきぼりにして、さっさと別のほうへ行ってしまいました。で、その晩はただ酒場で落ち合ったばかりでした」
「しかし、結局は、やはり君が椅子の下から紙入れを取ったんでしょう?」
「違います、その晩に椅子の下から消えてなくなりましたんでございますよ」
「じゃ、いったいどこにあるんです、今は?」
「はい。ここにございます」レーベジェフはすっくと立ち上がって、快げに公爵を見ながら、急に笑いだした、「いつの間にか、気がついてみると、ここに、このわたしのフロックの裾にあったんですよ。そら、ごらんください、ちょっとつまんでみてください」
たしかに、フロックの左の前のほうの裾のよく眼につくところに、袋のようなものができて、ちょっとさわっただけで、すぐに、ほころびたポケットから落ちこんだ革の紙入れがあるということがはっきりとわかった。
「引き出して調べてみましたら、全部そっくりしていましたよ。それでまた、元の所へ入れて、こうして昨日の朝から、裾ん中へ入れたまま持ち歩いておりますが、足へぶつかったりしますよ」
「それで……君は気がつかないんですか!」
「え、気がつかないんです、へへ! で、公爵様、いかがなものでございましょう、もっとも、こんなことは特にあなた様の御注意をひくほどの値打ちはございませんが、いつも、わたしのポケットは、みんな、ちゃあんとしていたものが、不意に一晩のうちにこんな穴があくなんて! なお物好きによくよく調べてみましたら、誰かがペンナイフで切り抜いたような様子なんですね。まるで嘘のような話じゃございませんか?」
「それで……将軍は?」
「昨日も今日も、一日じゅう怒っておりました。恐ろしく不機嫌なのでございますよ。いい気になって、浮かれて、おべっかまで言うかと思うと、涙を流さんばかりにセンチメンタルになる。そうかと思うと、今度はいきなり怒りだして、そのけんまくときたら、こちらでは度胆を抜かれてしまいますよ。いや、本当でございます。わたしはね、公爵、とにかく、軍人ではございませんから、気が弱いのです。昨日、二人で酒場に腰を据えていましたら、偶然のように、この裾が山のようにふくれて、みんなの眼につくところへ出しゃばりました、すると将軍はわたしを横眼で見て、怒っているんです。もう長いこと、あの人がわたしの眼をまっすぐに見るということはなかったのですよ。ただひどく酔っ払った時とか、感きわまった時とかは別ですけれど。ところがです、昨日は二度ばかりも、きっと私をにらみつけましたので、もうわたしは、背中がぞくぞくしましてね。それにしても、明日は紙入れを捜し出すつもりです。が、明日まではまだあの人といっしょに晩方の散歩に出かけますよ」
「なんだって君はそんなにあの人をいじめるんです?」と公爵は叫んだ。
「いじめやしませんよ、公爵、いじめやしません!」レーベジェフは躍起になってやり返した、「わたしは真ごころからあの人を愛してるんでございますよ、そして……尊敬もしております。ところで、今ですね、あなたが本気になさろうと、なさるまいと、とにかく、あの人は以前よりはいっそう、わたしにとって大事な人になりました、わたしはなおいっそうあの人を重んずるようになりましたよ!」
レーベジェフが、あまりにまじめにむきになってこんなことを言ったので、公爵はとうとう憤慨さえもしてしまった。
「愛してるくせに、そんなにいじめるんですか! 冗談じゃありませんよ、あの人がなくした品を椅子の下や、君のフロックの中など、すぐにわかるところへ置いたということ一つだけで、それだけですでに、自分は君に対してけっしてずるいことをしたくない、そして正直にあやまるのだというところを見せているわけなんですよ! いいですか、あやまっているんですよ。つまりね、あの人は君の感情のデリケートなところを当てにしてるわけです。したがって、あの人に対する君の友情を信じきってるわけなんです。ところが君は、あんなまっ正直な人に……そんな侮辱を加えて!」
「まっ正直、なるほどね、公爵、まっ正直です!」とレーベジェフは眼を光らせながら相づちを打った、「そういう公平なことばを述べることのできるのは、とりもなおさず、ね、公爵様、あなた様お一人でございますよ! それだからこそ、わたしは、いろんな身のあやまちに心はくさっておりますが、崇拝といってもいいくらいに、あなた様に参っているんでございますよ! まず、話は決まりました! 紙入れは明日といわず、今すぐに捜し出しましょう。そら、あなたの眼の前で取り出しますよ。ほら、これでございます。ほれ、これが金です、全部、手つかずです。じゃあ、公爵様、おとりください、そして明日まで預ってくださいまし。明日か、明後日にちょうだいいたします。ところで、ねえ、公爵、これが盗まれた最初の晩には、うちの庭のどこか、石っころの下に、隠されていたらしいんですが、あなたはどうお思いになります?」
「気をつけなさいよ、あの人に紙入れが見つかったなんて、いきなり言うもんじゃありませんよ。ただあっさりと、服の裾にもう何もないことがわかって、一人で悟るようにしむけてやることです」
「そうでございましょうか? かえって、見つかったと言って、今まで気がつかなかったようなふりをしたほうがよくはないでしょうか?」
「い、いや」と公爵は考えてみて、「い、いや、今となっては遅いです、かえってけんのんです、本当に、言わないほうがいい! そして、あの人には優しくして上げなさい、しかし、……あまり眼につくようにしてはいけませんよ、それに、それに……わかってるでしょう……」
「わかってます、公爵、わかってますよ。つまり、たいてい、実行はできまいということがわかっています。なにしろ、そうするには、あなた様と同じような心をもっていなくてはなりませんからね。おまけに、御当人様が、気短で、むやみに怒る癖がありましてね、このごろは、どうかすると、あまりにひどく偉そうなあしらい方をするようになりましてね。すすり泣きをして、抱きついたり、そうかと思うと不意にわたしを頭ごなしにして、こきおろしたりしだすのです。まあ、そんな時には、裾をつかんで、わざと見せびらかしてやりましょう、へへ! では、公爵、いずれまた、なにしろ、お引き留めをして、いわば、その……たいへん乗り気なところをお邪魔しているに相違ございませんから……」
「けれども、お願いですから、前のように内証で!」
「抜き足でそうっと、抜き足しでそうっとでございますね」
しかし、事件はけりがついたとはいうものの、公爵は相も変わらず、前と同じように気が気ではなかった。彼は明日の将軍との会見を、しびれを切らして待ちわびていた。
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四
こちらで決めた時間は、十一時過ぎであったが、公爵は全く思いもよらない、遅刻をしてしまった。家へ帰ってみると、将軍は彼を待ちかねていた。一目見ただけで、彼は将軍が不機嫌でいるのに気がついた。おそらく、しばらく待たされたからであろう。失礼をわびて公爵はさっさと腰をおろしたが、なんだか妙にびくびくしていた。まるでお客が瀬戸物づくりで、それをこわしてはいけないと、絶えず気づかっているような風であった。前には一度として将軍の前に出ておじけづいたためしもなく、おじけづこうなどとは、夢にも思ったことがなかった。ほどなく公爵は、将軍が昨日とはすっかり別人のようになっているのに眼をとめた。あのどぎまぎしてとりとめもなかったのに引きかえて、今はなんとなくなみなみならず落ち着き払っている様子が見うけられる、そこで、これは何かしら断固たる決心をした人であろうという結論まで下された。それにしても、その落ち着きも実際のところは、見かけほどではなかった。が、ともかくも客はつつましやかな威厳をそなえてはいたが、しかも上品なくつろぎを見せていた。最初のうちから彼は、いくぶんへり下ったような様子を見せて、公爵と応対していた。――それはまぎれもなく、ある種の気位の高い、しかも、不当な侮辱を受けている人たちが、時として、上品なくつろぎを見せる時のような態度であった。声の調子に、なんとなく悲痛な感じがないではなかったが、それでも、優しい物の言い方をしていた。
「せんだって拝借しました書物を持って来ました」と彼は自分が持って来て、テーブルの上に置いた一冊の本を、ものものしく頤《あご》でさすのであった、「ありがとうございました」
「ああ、そう。あなたはこの文章をお読みになりましたか、将軍? お気に入りましたか、どうです? なかなかおもしろいじゃありませんか!」公爵は、こんなに早く、わき道へそれた話が切り出せたので、ひとかたならず喜んだ。
「おもしろいかもわかりませんが、乱暴な書き方ですよ、そして、もちろん、たわいもない話です。ひょっとすると、一つ一つ、みんな嘘かもしれませんぜ」
将軍は泰然自若として、いくらかことばじりまでも引きながら、こう言った。
「ああ、とんでもない、これは実は正直な話ですよ。フランス兵のモスクワ滞在を目撃したある老兵の実話なんですよ。ところどころ、ほれぼれするようなところがありましてね。それに、目撃者の記録というものは、どれを見ても貴重なものです、たとい、目撃者が誰であっても。ね、そうじゃありませんか?」
「わたしが編纂者の位置にいたら、こんなものは発表しませんね。ところで、概して目撃者の記録というものを見ると、尊敬すべき、相当の人物の話よりは、むしろ、ひょうきんな、しかも、乱暴な嘘つきのほうが信用されている形です。わしも十二年の役〔ナポレオンのモスクワ侵入をさす〕についての記録を若干知っていますが、それは……。ところで、公爵、実はわしは決心をして、この家を、――レーベジェフ君の家を出るつもりです」
将軍は意味ありげに公爵を眺めた。
「あなたは、パヴロフスクに御自分の宿がありますね、……お嬢さん……のところに……」なんと言っていいかわからないので、公爵はこんなことを言った。
彼は、将軍が自身の運命にかかわるような大問題について、彼のところに相談に来たのだということを思い出した。
「わしの家内のところです。言い換えると、自分のところにも、娘のところにもあるんです」
「済みませんでした、僕は……」
「わしがレーベジェフの家を出て行くのは、ねえ、公爵、実はあの男と絶交したからです。もっと早くすればよかったと後悔しながら、ゆうべ絶交しました。わしはね、公爵、尊敬を要求するのです。そして、わしが、いわば、自分の心さえも贈物にするような人たちからさえも、この尊敬を受けたいのです。公爵、わしはときおり自分の心を贈物にしますが、ほとんどいつもといってもいいくらいに、だまされてばかりいましてね。あの男もわしの贈物を受ける値打ちがなかったのです」
「あの人にはかなり、だらしないところがありますね」と公爵は遠慮しながら言った、「そして、性質には若干、……しかし、そのうちにも、情けがありますよ、狡猾ではあるが、しかし、どうかすると、なかなかおもしろい利口者ですよ」
公爵のじょうずなことばづかいと、うやうやしい調子は、たしかに将軍を籠絡《ろうらく》したらしかった。もっとも、彼はやはり、急に気がおけなくなったりして、時おり公爵の顔をのぞき込んだりした。しかし、公爵のことばの調子があまりにも自然で誠実なので、疑いをいれることはできなかった。
「あの男にもいい素質があるということは」と将軍が引き取った、「あの人間に情を与えたともいうべきこのわしが、最初に言明したことです。わしは自分の家族がありますから、あの家へ行って、あれのやっかいにならなくってもいいのです。何も、わしは自分の身の過ちを弁護したくはありません。わしは放埓な人間で、あの男といっしょによく酒を飲みましたが、今になって、泣いてるのはたぶん、そのことを思うからでしょう。しかし、ただいっしょに酒を飲むことだけで(どうか、公爵、このいらいらしている男の、ざっくばらんな、乱暴な言いぐさを許してやってください)、ただ酒を飲むことだけで、あの男とつきあったわけじゃないはずですが? つまり、今あなたのおっしゃる素質に惚れこんだのです。しかし、何によらず、ある程度までで、素質というやつもそのとおりです。もしも、あの男が、わしに、面と向かって、十二年の役の時、まだ子供で、ほんの赤ん坊のころ、自分の右の足をなくして、それをモスクワのワガンコフスキイ墓地に葬ったなどという、ずうずうしいことを言ったとすれば、それはつまり羽目をはずしたのであって、無礼をあらわし、ずうずうしさを見せることになります……」
「たぶん、それはおもしろおかしく人を笑わせるための、ほんの冗談だったんでしょう」
「心得ております。しかし、おもしろおかしく人を笑わせるための罪のない嘘は、たとえ無作法なものであっても、人の気持を傷つけはしないものです。なかには、いわば、話の相手に満足を与えるために、ただ単に友情によって、嘘をつく者もあります。しかし、もしそこに無礼な態度が透いて見える時には、もしまた、交際するのがつらいということを、同じような無礼な態度で示そうとする場合には、高潔な人はただその男に背を向けて、そんな無礼者に自分の本当の位置というものを思い知らして、絶交するよりほかに道がないのです」
将軍はこう言いながら顔を赤くさえもした。
「しかし、レーベジェフが十二年にモスクワへ行くはずはありませんね、それにしては、あんまり年が若すぎます。実に滑稽ですね」
「まあ、そうです。しかしかりにあのころ生まれたとしても、フランスの精兵《シャッセ》があいつに大砲の口を向けて、遊び半分に片足を撃ち落としたとか、その足をまたあいつが拾い上げて、家へ持って帰って、それからワガンコフスキイ墓地に埋葬したとか、そんなことを人の前でよく臆面もなく言えたものですよ。それに、その墓の上に記念碑を立てて、一方に、『ここに十等官レーベジェフの足を葬る』また一方に、『いとしき死灰よ、よろこびの朝まで安らかに眠れ』という銘を刻んだとか、毎年この足のために供養をするだとか(これすでに涜神罪《とくしんざい》であります)、このために毎年モスクワへ出かけるとか、そんな話をするのです。この話の証拠として、その墓や、クレームリにある、分捕った大砲までも見せるからモスクワへ行こうと誘うんですよ。なんでも、門から数えて十一番目の旧式のフランスの小鷹砲《ファルコネット》だと断言しましてね」
「それにしても、あの人の足は、両方ともちゃんとしてるじゃありませんか、眼前に!」公爵は笑いだした、「本当に、それは罪のない冗談ですよ。腹を立てなさんな」
「しかし、わしの言い分も聞いてください。足が眼前にあるということですが、あの男に言わせると、片方の足はチェルノスヴィートフ式の義足だそうですよ、全部が全部、嘘だとばかりもいえないでしょうよ……」
「ああ。そう、チェルノスヴィートフ式の義足なら、ダンスもできるって話ですよ」
「全くそのとおりです。チェルノスヴィートフが義足を発明したとき、まず第一番にわしのところへ見せに来たものです。しかし、本当のチェルノスヴィートフ式の義足が発明されたのは、ずっとずっとあとのことです、……ところが、あの男は、亡くなった細君さえ長い結婚生活をしている間じゅう、自分の亭主の足が木づくりだということを知らなかったと言うじゃありませんか。わしがそんなばかげたことってあるものかと注意してやったら、こう言うのです、『もし君が十二年戦争にナポレオンの小姓をしていたのなら、わしにだって自分の足を葬るくらいのことは許してもよかろう』って」
「しかし、あなたは本当に……」と言いかけて、公爵はまごついてしまった。
将軍は思いきりおうへいに公爵を見やった。
「公爵、途中でよさないでください」と特に流暢《りゅうちょう》に、彼はことばじりを引いて言った。「おしまいまでおっしゃって。わしは気が大きいから、おしまいまででも聞きますよ。自分の眼の前にいる人間が、本当に落ちぶれて……役にも立たないのを見ながら、同時にその人間が大きな事件の……目撃者であったということを聞くのが、あなたに滑稽な気がするというんでしたら、正直に白状してください。|あいつ《ヽヽヽ》はまだ何もあなたに……おしゃべりしませんでしたか?」
「いいえ、僕はレーベジェフからは何も聞きません。もしあなたがレーベジェフのことをおっしゃるんでしたら……」
「ふむ……わしはその反対かと思ってましたよ。実は昨晩のわれわれの間の話題は主として……『実録』の中の奇妙な文章のことに及んだのです。わしはあの文章の矛盾を指摘してやりました。なにしろ、わしは自分自身が目撃者でしたからね、……あなたは笑ってるんですね、公爵、あなたはわしの顔を見ていらっしゃる」
「い、いいえ、僕は……」
「わしは見かけは若いですが」と将軍はことばじりを引いた、「しかし、本当は、見かけよりも年とってるんですよ。十二年の役にわしは十か十一くらいでした。わしの年は自分でもはっきりはわからないんです。履歴書では減らしてあります。わしは自分の年を実際よりは減らす弱点がありましてね、これはずっと一生の間……」
「本当のところ、僕はあなたが十二年の役の時、モスクワにいらしったということを、ちょっとも変だとは思いません。ですから、もちろん、あなたはモスクワにいた誰もと同じように、……いろんなことをお話しになってもいいわけです。ある一人の自叙伝の筆者は、自分の本の書き出しに、十二年役の時、モスクワでフランスの兵士たちが、まだほんの赤ん坊であった筆者を、パンで養ってやったということを掲げています」
「そうれ、ごらんなさいまし」と、将軍は謙遜な態度で相づちをうった、「わしの話はもちろん、ありふれたこととは違っていますが、そうかといって、何も珍しいことがあるわけでもないのです。本当の話があり得べからざることのように見えるのは、実によくある例です。小姓! というと、もちろん妙に聞こえるでしょう。しかし、十歳になる子供の冒険は、おそらく、その年齢《とし》でもって説明できるかもしれません。もしも、十五の子供だったら、そんなことはなかったでしょう、どう考えても、そのはずです。つまり、もしも、わしが十五にもなっていたら、ナポレオンのモスクワ入りの日に、モスクワを逃げおくれて、恐ろしさにぶるぶる震えている母親を見すてて、旧バスマンナヤ通りにある木造の家を飛び出すようなことはしなかったでしょうからね。十五にもなっていたら、びくびくしてたでしょう。ところが、まだ十でしたから、わしは何一つこわいもの知らずでした。そして、ナポレオンが馬をおりようとしているとき、人ごみをかき分けて、宮城の玄関にまでも進んで行ったのです」
「全く、十の年なら、こわいもの知らずで行ける……というあなたの御意見は実にすばらしいですね」と、公爵は合いの手を入れたが、今にも顔が赤くなりはしないかと、びくびくしながら気をもんでいた。
「全く、そのとおりです。このことは何もかも、実際の場合と同じように、単純に、自然に起きて来たことです。もしこの問題を小説家が取り扱ったら、きっと架空なことを織り交ぜるでしょうよ」
「おお、確かにそのとおりです」と、公爵は叫んだ、「それは僕も大いに痛感したことです。しかも、つい近ごろ、僕は時計一つのために、人を殺したという実話を知っていますが、今ではもう新聞にも載っています。もしこんなことを小説家が考え出そうものなら、俗世間のことをよく知っている人や批評家たちはさっそく、そんなことってあるものかと叫ぶに相違ありません。しかし、これを新聞紙上で、事実として読んでいると、こういう事実からロシアの現実なるものを教えられるのだと、そういう感じがするのです。全くあなたはいい所にお気がつきましたね、将軍」公爵は、明らさまに顔を赤くしないで済んだことをひとかたならず喜んで、熱のこもった調子で言いきった。
「そうでしょうかしら? そうでしょうか?」と将軍は嬉しくなって、眼をさえも輝かしながら叫んだ、「危険というものを知らない子供は、金ぴかの軍服だの、お供の人だの、前からいろいろと話に聞いていた豪傑を見ようと思って、人ごみを押し分けて進みました。この豪傑を見ようというのは、五、六年まえからみんなが、この人のことばかり話していたからです。世界じゅうがこの人の名で持ちきりでしたからね。わしは、いわば、この名を乳といっしょに飲んでいたわけです。ナポレオンに二歩ほどの所を通りかかって、ふとわしが見ているのに気がつきました。わしは貴族の子供らしい服を着ていましてね、かなりぜいたくな身なりをしていたのです。つまり、それほどの人ごみの中で、ただ一人、わしだけがそういう風をしていたのです、おわかりでしょうね、……」
「それはむろん、ナポレオンをびっくりさして、誰も彼もが都落ちをしたわけではなく、貴族たちも子供といっしょに居残っていたということを証明したに相違ありません」
「そこです、そこです! 彼は貴族を味方にしたがっていました! ナポレオンが鷲のような視線を投げたとき、わしの眼はそれに答えて輝きだしたに違いありません。Voila un garcon bien eveille ! Qui est-tu ton pere ?(活溌ないい子がいるよ! おまえのお父さんは誰だ?)わしは興奮のために、まるで呼吸《いき》も止まりそうになって、さっそく答えました、『祖国の戦場で戦死をした将軍です』Le fils d'un boyard et d'un brave par-dessus le marche ! J'aime les boyards. M'aimes-tu petit ?(この子は貴族で、おまけに英雄だ。わしは貴族が好きだ、おまえはわしが好きかね?)この早口な質問に対して、わしも同じ早口に答えました。『ロシア人は祖国の敵の中にさえも、偉人を見分けることができます』いや、実際、このとおりの言い方をしたかどうか、よく覚えてはいませんが……なにしろ子供でしたからね……しかし意味はたしかにそうでしたよ! ナポレオンはびっくりして、ちょっと考えておりましたが、やがて、おつきの者に向かって、『わしはこの子のプライドが気に入った! しかし、ロシア人がことごとくこの子供のように考えているとしたら……』そのあとは言わずに、宮城の中へはいってしまいました。わしはすぐにお供の人たちに交じって、あとを追って行きました。お供の人たちは、わしに道をあけて、まるでお気に入りか何かのようにわしを眺めていました。しかし、そんなことは、ちらと眼についただけのことです……ただ一つ、今でも覚えていますが、最初の広間へはいると、皇帝は、ふとエカテリナ女王の肖像画の前に立ち止まって、長いこと物思いにふけりながらじっと見つめていましたが、やがて、『これは豪《えら》い女だった!』と言って傍を通り過ぎました。二日ほどのうちに、わしはもう宮城で、クレームリでみんなに知られて le petit boyard(小ちゃな貴族)と呼ばれるようになりました。ただ、夜だけは家へ帰って寝《やす》みました。家ではみんな気が狂わんばかりです。それからまた二日たって、ナポレオンの小姓のバロン・ド・バザンクールが、遠征に疲れて死んでしまいました。すると、ナポレオンはわしのことを思い出しました。みんなはわしをつかまえて、何のことやら説明もしないで、引っぱって行きました。そして、やっと十二になる子供だった故人の制服を、わしのからだに合わしてみるのです。やがて制服を着て御前へ連れ出され、皇帝がわしにちょっとうなずいて見せた時に、わしは自分が恩寵をこうむって、小姓の役を仰せつけられたことを聞かされました。実に嬉しかったですよ、実際、もうずっと前から、皇帝に対してかなりの好感を寄せていましたからね……まあ、そればかりではなく、御承知のように金ぴかの制服というやつは、子供にとってはたいへんなものですからね……。わしは細くて長い裾のついた地味な緑色の燕尾服を着ていました。金のボタン、金の縫取りのしてある赤い袖口、高く、ぴんと立って前が開いていて、金の刺繍《ししゅう》をした襟、裾の刺繍、ぴったりと足につく鹿革のズボン、白い絹のチョッキ、絹の靴下、尾錠《びじょう》のついた沓《くつ》……、そして皇帝が馬に乗って散歩をなさる時、もしもわしがお供の仲間にはいっていたら、深い長靴。戦況はあんまりかんばしくなく、それに非常な災難が予感されていたのですが、礼式はできるだけ守られていました。しかも、そういう災難が予感されればされるほど、いよいよ固苦しくなったくらいでした」
「そう、むろん……」と公爵はほとんど、途方にでも暮れたような風をしてつぶやいた、「そのあなたの記録があったら、……ずいぶんおもしろかったでしょうに」
将軍は、もちろん、昨日すでにレーベジェフに話したことをくり返すのであるから、その話しぶりもきわめて流暢なものであった、ところが、またもやうさんくさげに公爵をしり目にかけた。
「わしの日記が」と彼はなおいっそう得々として、言うのであった、「わしの記録を書いたらって? そんな気にはなりませんでしたよ、公爵? しかし、お望みなら、わしの日記はもう書いてあるんです、しかし……それはわしのデスクの中にしまってあるのです。わしが墓の中に眠るとき、その時には世に出してもいいものですし、もとより、他の国々のことばにも訳されるでしょう、しかし、文学的価値のためではないんで、わしがみずから目撃した莫大な事実を重んずるがためです。そのころ、わしはほんの子供だったんですが、そのためにいっそう値打ちが出て来るわけです。つまり、子供として、わしは奥の奥まで、いわば、あの『豪傑』の寝室にまではいりこんだのですからね。わしはこの『不幸に陥った偉人』のうめき声を、毎晩のように聞いたものです。彼は子供の前で、うめいたり泣いたりするのを恥ずかしいなどと思わなかったのです。もっとも、わしはすでに、彼の悩みの原因がアレクサンドル陛下の沈黙にある、ということを、悟っていました」
「なるほど、そしてナポレオンは手紙を書いたでしょう……和を乞うために……」と公爵はおずおずと相づちを打った。
「はたしてどんな申込みを書いたか、詳しいことはわれわれにはわかりませんが、しかし毎日、毎時間、次から次へと手紙を書いていました! 恐ろしく興奮しましてね。ある晩、わしは一人で、眼に涙をうかべて、彼にとびつきました(ああ、わしは彼を愛しておりました!)。そして、『アレクサンドル陛下におわびをなさい、おわびを!』と叫んだのです。つまり『アレクサンドル陛下と和睦をなさい!』と言わなければならないところだったのですが、子供のことですから、無邪気に、自分の考えていることを全部言ってしまった次第です。すると、彼は『おお、いい子だ!』と答えました、――彼は部屋の中をあちこち歩き回っていたのです、『おお、いい子だ!』彼はその当時わしの年が十だということに、気がつかなかったようで、わしと話をするのを好んでいたくらいでした。『おお、いい子だ! わしはアレクサンドル皇帝ならば潔く足に接吻もするけれども、その代わりプロシヤ王とか、オーストリヤの皇帝とか、ああ、あんなやつどもは、永久に憎まずにはおられぬ! また……しかし、結局、おまえには外交のことは、何もわからんので!』――こう言ったかと思うと、急に話の相手が誰だかということを思い出したらしく、口をつぐんでしまったのです、が、その眼はいつまでも、火のように光っておりました。まあ、こういった事実をすっかり書いてごらんなさい、――全くわしはこの最も偉大なる事実の証人だったのです、――もしも、今、それを出版してごらんなさい、あんな批評だとか、文学的虚栄心だとか、羨望だとか、または党派だとかはすっかり跡形もなくなって、――失礼いたし候、匆々頓首《そうそうとんしゅ》ということになりますよ!」
「党派のことについてあなたのおっしゃったことは、もちろん、公平な御意見です。僕はあなたに賛成です」と公爵はほんのちょっと黙っていてから、声低く言った、「僕もやはり、ついこの間シャルラスの『ワーテルローの役』を読んでみました。これは明らかにまじめな著書で、この本がなみなみならぬ知識をもって書かれたことは、専門家も保証しています。しかし一ページごとに、ナポレオンの没落を喜ぶ気持がうかがわれるのです。もしも、他の戦役においても、ナポレオンの才能の全貌をやりこめることができたら、シャルラスはひとかたならず喜んだことでしょう。これはこんなまじめな本にしては、よろしくないことです、というのは、これが一つの党派根性だからです。で、そのころ、あなたはお勤めが非常に忙しかったのですか……皇帝のところで……」
将軍は有頂天であった。公爵の説は、まじめで純朴であったから、今までどうしてもぬぐいきれなかった彼の疑惑をすっかり吹き散らしてしまった。
「シャルラス! おお、わし自身も憤慨していたのです! そのころあの人に手紙をやったものでした、しかし……いまはもうわしも確かなことは覚えておりません。……あなたは、わしの勤めが忙しかったかとお尋ねなさるんですね? いやいや、けっして! わしは小姓とは呼ばれていたものの、もうそのころ、それをまじめに考えてはいなかったのです。それに、ナポレオンはたちまちにして、ロシア人を近づけようという望みをすっかりなくしていたのです、もしも……もしも、――これは今になってあえて申しますが、個人としてわしを愛しておらなかったら、政略のために近づけたわしのことも、むろん、忘れてしまったはずです。向こうでも愛していたのですが、わしはまたわしで、心から彼に引き付けられたのです。勤めのほうは気楽なものでした。ただ時おり宮城へ伺候したり、……皇帝の散歩に騎馬でお供をすればよかったのです、ただそれだけのことです。わしは実によく馬に乗れましたからね。昼餐《おひる》まえに彼は乗り出しましたが、お供としてはふだんはダヴーと、わしと、奴隷兵のルゥスタンとが……」
「コンスタン」不意に、どうしたわけか、公爵は口をすべらした。
「い、いいや。コンスタンはそのころはいなかったのです。あの人はそのころは手紙を持って……ジョセフィン皇后のところへ行っていました。あの人の代わりに二人の伝令と、四、五人のポーランドの鎗騎兵がいました。まあ、それがお供の全体です、むろん、そのほかにナポレオンがいっしょに地形や軍の配置を視察したり、いろんな相談をしたりするために選び出した将軍や元帥などがいましたが、……いちばんよくお側についているのはダヴーで、いま覚えているところでは、大きな、肥った、冴《さ》えない男で、眼鏡をかけて、妙な眼つきをしました。この男を皇帝はいちばんよく相談相手にしておりました。この男の考えを皇帝はかなりに重んじていたのです。今でも覚えていますが、二人が何日も何日も相談していることがありました。ダヴーが朝に晩にやって来て、しょっちゅう議論さえもしていました。ついにはナポレオンも賛成しそうな様子でした。二人きりで私室にいたものですが、わしは第三者として、ほとんど二人に顧みられずにいたのでした。すると不意に、偶然にナポレオンの眼がわしのほうへ向くのです。不思議な考えがその眼をちらついている。やがて、『子供!』といきなりわしに言うじゃありませんか、『おまえはどう思う、もしわしが正教を採用して、おまえたちの国の奴隷を自由にしてやったら、ロシア人はわしに従うだろうか、どうだろう?』で、わしは『けっしてそんなことはありません!』と憤慨して叫んだのです。ナポレオンはびっくりして、こう言いました『愛国心に輝くこの子供の眼に、わしはロシア全国民の意見を読むことができた。たくさんだ、ダヴー! そんなことはみんな気まぐれだ! ほかの案を述べてくれ』」
「なるほど、しかし、その案は立派な理想でしたね!」公爵はこう言ったが、明らかに興味を感じているらしかった、「で、あなたはその案をダヴーのものとなさるのですね?」
「少なくとも、二人がいっしょに相談したものですよ。むろん、ナポレオン流の理想で、鷲が考えた理想です、しかしもう一つの案も、やはり立派な理想でした……。これはナポレオン自身がダヴーの献言を呼んで言ったとおり、きわめて有名なConseil de lion(獅子の献言)です。この意見は、全軍を率いてクレームリにたてこもり、バラックを建て、塹壕《ざんごう》を掘り、砲を配置して、できるだけたくさんの馬を屠《ほう》って、肉を塩漬けにし、できるだけ多量の穀類を買い入れたり、略奪したりして、春の来るまで冬ごもりをし、やがて春が来たら、ロシア軍を突破しようというところにあるのです。この案はひどくナポレオンの心をひきました。われわれは毎日クレームリの城壁をぐるぐると乗り回しましたが、彼はどこに構築するとか、どこに眼鏡|堡《とりで》をつくるとか、どこに半月堡を築くとか、どこに框舎《きょうしゃ》を建てるとか、そういうさしずをしましたが、――その慧眼《けいがん》で、機敏で、的確なことはたいへんなものでした。とうとう何もかも決まったので、ダヴーはいよいよの決定を迫りました。またもや二人きりになりました。わしは第三者です。またしてもナポレオンは腕組みをして、部屋の中を歩きだしました。わしはその顔から眼を放すことができませんでした。わしの胸はどきどきしている。『わたくしはまいります』とダヴーが言うと、『どこへ?』とナポレオンが尋ねました。『馬を塩漬けに』とダヴーが言いました。ナポレオンは身震いしました。運命は決まった。『子供よ、』と彼はいきなりわしに向かって言うのです、『おまえはわれわれの計画をなんと思う?』もちろん彼がこう聞いたのは、非常に偉い知恵をもった人が、どうかすると、どたんばになって、丁か半かを占うのと同じわけです、わしはナポレオンの代わりにダヴーに向かって、インスピレーションを受けたかのように、こう言いました。『将軍、もうお国へ逃げてお帰んなさい!』もうその案もだいなしになりました。ダヴーは肩を縮めながら出がけに小さい声で、Bah ! Il devient supersitieux !(おやおや、この人は御幣かつぎになったよ!)と言いました。さて、そのあくる日には、退却の命令が下ったのです」
「それは実におもしろい話ですね」と公爵はひどく静かな声で言った、「もしそれが全部そのとおりだったとしたら……いや、つまり、僕の言おうとするところは……」と彼はあわてて言いなおそうとした。
「おお、公爵!」と将軍は叫んだが、自分の物語にあまりにも夢中になっていたので、相手の無分別きわまることばにさえも、おそらく心をとめることができなかったのであろう、「あなたは『それが全部、あったことなら』とおっしゃるんですね。しかしそれより以上のことがあったのです、本当に、はるかにそれ以上のことがあったのです! そんなことはみんな、つまらない政治上の事実にすぎません。しかし、くり返して申しますが、わしはこの豪傑の夜の涙や、うめき声の目撃者だったのですよ。これはもう、わしよりほかに誰も見たものはありません! しまいごろにはもう涙を流して泣くようなことはなくなって、ただ時おりうめいているばかりでした。しかし、その顔はだんだんと、暗い闇のようなものにおおわれてきました。まるで、不滅の神が早くもその暗い翼で彼をおおってでもいたかのようでした。時として、われわれ二人は幾晩も二人きりで、物も言わずに夜明かしをすることがありました。――奴隷兵のルゥスタンはよく隣りの部屋で鼾《いびき》をかいていました。あれは実によくぐっすり寝る男でした。『その代わり、あれはわしに対しても、わが朝廷に対しても忠実な男だ』とナポレオンはこの男のことを言っていました。ある時、わしは実につらい思いをしていました、その時、ふっと彼は、わしの眼に涙がうかんでいるのに気がついて、やさしい眼でわしを見つめていましたが、『おまえはわしをあわれんでいるんだな!』と叫びました、『おお、子供よ、そちのほかに、おそらく、もう一人の別な子供が、わしをあわれんでくれるだろう。それはわしの息子の de roi de Rome(ローマ王)だ。他の者はみんなみんなわしを憎んでいる。同胞たちは第一番にこの不幸につけこんで、わしを売るだろう!』そこで、わしはしくしく泣きだして、彼にとびかかったのです。すると彼もたまらなくなって、二人は抱き合いました。二人の涙は入りまじった。『お手紙を、お手紙をジョセフィン皇后様にお書きなさいまし!』とわしはしゃくりあげながら言いました。ナポレオンは身震いして、ちょっと考えていましたが、『おまえはわしを愛してくれるもう一人の人を思い出させてくれた、ほんとにありがとう!』と言いました。すぐに彼は腰をおろして、ジョセフィン皇后に手紙を書きましたが、それはあくる日にコンスタンに持たせてやりました」
「あなたはあっぱれなことをなさいましたね」と公爵は言った、「悪い考えに浸っている人に、善良な気持をおこさせたんですからね」
「全くそのとおりです、公爵、あなたの解釈はなんて御立派でしょう、まあ、あなた御自身のお心にそっくりです!」と将軍は有頂天になって叫んだが、不思議にも、まぎれもない涙がその眼に輝き始めた。「そうです、公爵、そうです、じつに壮観でしたよ! ねえ、公爵、わしはもう少しのところで彼について、パリへ行くところでしたよ。そして、もうむろん、『暑苦しい幽閉の島』へも行を共にしたかもしれんのですが、しかし――悲しいかな! 運命はついに二人を引き離してしまった! われわれは別れ別れになった。彼は――はるばると『暑苦しい島』へ。そこで、せめて一度ぐらいは、悲痛な思いに沈むとき、モスクワで自分を抱きしめて、自分を許してくれたあの哀れな少年の涙を、おそらくは、思いおこしたことでしょう。ところで、わしは一にも二にも訓練で、友だちといえば乱暴な、幼年学校へやられました……ああ! 何もかも一片の煙となった! 『わしはおまえを母親の手から奪いたくはない、だからいっしょに連れて行くわけにはいかない!』と、彼は退却の日に言いました、『しかし、わしはおまえのために、何かしてやりたい』このとき彼はもう馬上の人となっていました。『わたくしの妹のアルバムに、何か記念のためにお書きくださいまし』と、わしはナポレオンがうろたえて、憂鬱な顔つきをしていましたから、おそるおそる言いました。すると、ふり返ってペンを言いつけて、アルバムを取りました。『おまえの妹は何歳になる?』と、その時はもうペンを持っていましたが、こういう御下問。わしは『三歳』と答えました。Petite fille alors(では、孫だな)と言って、アルバムへ次のように書きました。
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Ne mentez jamais
Napoleon, votre ami sincere
(ゆめゆめいつわりごとを言うなかれナポレオン 敬白)
[#ここで字下げ終わり]
こんな時にこんな忠告なんですよ、公爵、まあ、お察しください」
「そう、実に意味深長ですね」
「この紙切れは金縁の額に入れて、ガラスをあてて、妹の客間の、いちばん眼につく所にかかっていました、あれの一生涯、死ぬまでです、――妹はお産で亡くなりましたが、さて、今はどこにあるのやら――知りませんが……しかし……あっ、しまった! もう二時ですね! すっかりお引き留めしちゃいましたね、公爵! これはこれはふとどき千万」
将軍は椅子から立ち上がった。
「おお、とんでもない!」と公爵は口の中でもぐもぐ言った、「たいへん結構なお話を伺いました……全く……おもしろうございました。まことにありがとう存じます!」
「公爵!」と将軍はまたもや痛いほど手を握りしめて、光る眼でじっと公爵を見つめながら言いだした。不意にわれに返ったように、また、考えついて肝《きも》をつぶしたかのように見える。「公爵! あなたはとても気だてがよくて、無邪気なおかたです、それで時おりあなたが気の毒になるくらいですよ。わしはあなたを見つめていると、胸がいっぱいになるのです。おお、神様、この人に祝福《みめぐみ》を与えたまえ! そしてこの人の新しい生活が始まって、愛……のうちに花を咲かせるように。わしの生活はもうおしまいです! おお、許してください、許してください!」
彼は両手を顔に押し当てて、さっさと出て行った。公爵は彼の興奮が真ごころから出たことを疑うわけにいかなかった。彼にはまた老人が自分の成功に酔いながら出て行ったということも、はっきりわかっていた。それにしても、彼にはやはりこんな予感がするのであった。すなわち世の中には情欲といってもよいほど、夢中といってもよいほどに好んで嘘をつきながら、しかも、すっかり無我夢中になっている時でさえも、肚の中では、――自分は信用されていないのではないか、また、信用されるはずもないんだが、――と、やはりこんな疑いをいだく嘘つきがあるものであるが、将軍もまたかような仲間の一人であるという予感であった。今の場合においても、将軍はふとわれに返って、むやみに恥ずかしい思いをし、公爵が自分に限りない同情を寄せているのではないかと疑って、感情を害したかもしれなかった。『あの人をあんなに感激さしたのは、悪いことではなかったか?』と公爵は不安にもなったが、急に我慢がしきれなくなって、十分間ばかりの間、さんざんに声をあげて笑ったりした。そのあとでは、こんなに笑ったりなどする自分を責めようともしていたが、しかし、すぐに何も責めるがものはないと悟るのであった。というのは、彼には将軍が気の毒でならなかったからである。
彼の予感は的中した。日の暮れに彼は奇妙で、短くはあったが、思いきった手紙を受け取った。その中で将軍は――もう永久に彼と別れるつもりである、彼に尊敬の念をもち、感謝もしてはいるが、その公爵からさえも、『それでなくてさえも、すでに恵まれない人間の品位を』貶《おと》すような同情のしるしを受ける気にはなれない――と述べていた。老人がニイナ夫人のところに閉じこもったと聞かされたとき公爵は彼のためにほとんど安心したのであった。しかし、前にも言ったように、将軍はリザヴィータ夫人のところでも、一種のやっかい至極なことをしでかした。ここでは詳しいことを述べるわけにはいかないが、この会見の真相を手短に言ってみると、将軍はリザヴィータ夫人を驚かしたあげく、ガーニャに対する辛辣《しんらつ》な当てこすりを言って、夫人を憤慨さしてしまったのであった。彼は面目なくも、突き出されてしまった。つまり、このために、あのような一夜を明かし、あのような朝を過ごして、とうとう頭の調子が変になって、ほとんど気ちがいのような様子で、往来へ飛び出したのであった。
コォリャはやはりまだ事の真相がはっきりと呑み込めなかったので、きつい仕事をすれば正気に返らせることができるとさえも考えていた。
「まあ、どこへ行くんです、どういうつもりです、お父さん?」と彼は言った、「公爵のところはいやだとおっしゃるし、レーベジェフとは喧嘩をなすったし、お金も持ってないんでしょう。僕んところにはいつだってあったことがないし、もうすっかりわれわれは往来のまん中でだいなしになっちゃった」
「だいなしになるより、台といっしょにいたほうがいい気持だぞ」と将軍はつぶやいた、「この……洒落《しゃれ》で、わしはみんなを熱狂させたものだ……将校仲間でな……四十四……一千……八百……四十四年、そうだ……しかしよく覚えておらん……ああ、思い出させてくれるな、思い出させてくれるなよ!『わが青春は今いずこ、いずこにありや、わが生気!』なんという叫びだろう……これは誰が叫んだんだろう、コォリャ?」
「それはゴーゴリですよ、お父さん、『死せる魂』のなかで」とコォリャは答えて、おずおずと父を横眼に見た。
「死せる魂! さあ、そうだ、死せる魂だ! わしを葬るときは墓標へ、『死せる魂の墓!』と書いてくれよ。
『悪名はわれを追うなり!』
これは誰が言ったんだえ、コォリャ?」
「知りませんよ、お父さん」
「エラペゴフがいなかったって! エロシカ・エラペゴフが!」ふと往来に立ち止まって、将軍は夢中になって叫んだ、「しかもそれは息子の、血を分けた息子の言いぐさだ! エラペゴフは十一か月の間、わしのために、兄弟の代わりをしてくれたんだ。この男のためにわしは決闘を……ヴィゴレーツキイ公爵というわれわれの中隊長が、酒の席でこの男に向かって言ったんだ、『おい、グリーシャ、貴様はどこでアンナ章をもらったんだ、ひとつ聞かしてくれんか?』すると、『御国《みくに》の戦場でもらったんです』と言ったから、わしは、『でかしたぞ、グリーシャ!』とどなってやった。まあ、こうして決闘ざたになったんだ。やがて、後に……マリヤ・ペトローヴナ・スゥ……スゥトゥギナと結婚したが、とうとう戦死してしまったんだ……弾丸《たま》はわしの胸にかけていた勲章に当たって、撥《は》ね返って、エラペゴフの額に命中したんだ。『永久に忘れないぞ!』と叫んで、その場に倒れてしまった。わしは……わしは潔白に勤務したんだぞ、コォリャ。わしは立派に勤務して来たんだ。しかし悪名は――『悪名はわれを追うなり!』だ。おまえとニイナはわしの墓へ来てくれるだろうな……『可哀そうなニイナ』と、昔はわしもこう呼んでいたんだ。コォリャ、ずっと昔まだ若かったころのことだ、あれは本当にわしを愛してくれた……ニイナ、ニイナ! わしはおまえの一生をなんということにしてしまったのだろう! おお、何のためにおまえはわしを愛することができるのだ、しんぼうづよい女よ! コォリャ、おまえのお母さんの心は天使のようだ、いいかえ、天使のようだぞ!」
「それは僕だって知ってますよ、お父さん。ねえ、家へ帰って、お母さんのところへ行きましょう! お母さんは僕らのあとを追っかけてましたよ! おや、なんだって立ち止まってるんです? なんだか僕の言ってることがわからないみたいですね、……おや、なんで泣いてるんです?」
コォリャ自身も泣きながら、父の手に接吻した。
「おまえはわしの手に接吻しているんだな、わしの……」
「ええ、そうですよ、お父さんのです、お父さんのです。で、何か不思議なことでもあるんですか? ねえ、なんだって往来のまん中でほえてるんです。それで将軍だの軍人だのといわれるんですか。さあ、行きましょう!」
「神様、このいじらしい少年がふがいなき……さよう、ふがいなき親爺に敬意を払っていることに対して、……祝福《みめぐみ》を垂れたまえ、ああ、この子にもまた、……le roi de Rome(ローマ王)……のごとき子を授けたまえ、おお、『呪いあれ、呪いあれ、この家に』」
「だって、本気になってそんなことをここで言ったってしようがないじゃありませんか!」と、コォリャは急にかっとなった、「いったい何ごとが起こったんです? なぜ今うちへ帰るのがいやなんです? なんだって、そんなに気が違ったんです?」
「わけを聞かしてやる、おまえに聞かしてやる……おまえにすっかり話してやる、大きな声をするな、人に聞こえるから。……le roi de Rome(ローマ王)……おお、胸が悪い、憂鬱だ!
『乳母《ばあや》よ、おまえのお墓はどこにある!』
これは誰が叫んだんだ、コォリャ?」
「知りません、誰が叫んだのか知りません! すぐ家へ行きましょう、すぐに! 僕はガーニャをぶんなぐってやります、もし必要があったら……。でも、またどこへ行くんです?」
しかし、将軍は近くのある家の踏み段のところへ、彼を引っぱって行った。
「どこへ行くのよう? これはよその家の上がり段だよ!」
将軍は上がり段に腰をおろして、相変わらずコォリャの手を引っぱっていた。
「しゃがめ、しゃがめ!」と彼はささやいた、「おまえにすっかり聞かしてやる……面目ない……しゃがめ……耳を、耳を、こっそり耳打ちしてやる」
「だって何ですか!」コォリャはひどく驚きながらも、耳を寄せるのであった。
「Le roi de Rome(ローマ王)……」と将軍はささやいたが、やはり、からだじゅうを震わしているらしかった。
「なんです?……どうしてそんなに le roi de Rome(ローマ王)のことばかりくどくど言ってるんです……どうしたんです?」
「わしは……わしは……」いよいよしっかりと『おのが少年』の肩にしがみつきながら、またもや将軍はささやいた、「わしは……聞かしてやりたい……おまえに……すっかり、マリヤ、マリヤ……ペトローヴナ・スゥ……スゥ……スゥ……」
コォリャは振りきって、今度は自分のほうから将軍の肩をつかんで、狂人のようになって、父を眺めていた。老人の顔はまっかになり、唇は青ざめ、かすかな痙攣《けいれん》はなおもその顔を走るのであった。不意に彼は前によろめいて、静かにコォリャの手へ倒れかかった。
「発作だ!」少年はついに事の真相に気がついて、町じゅうに聞こえるような声でわめき立てた。
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五
事実、ワルワーラ・アルダリオノヴナ(ワーリヤ)は兄と話をしたとき、公爵がアグラーヤに結婚を申し込んだという消息を、いささか誇張したのであった。ことによったら彼女は炯眼《けいがん》な女として、近き将来に当然おこるべきことを発見したのかもしれなかった、またおそらくは煙のように飛び散った空想(実際、自分でもそれを本気にはしていなかったが)を悲しんで、やはり一個の人間としては、不幸を誇張することによって、心から同情して愛してはいるというものの、親身の兄の心になおいっそうの毒を注ぎ込んで痛快がろうとする気持を振りすてることができなかったかもしれぬ。しかし、とにもかくにも、彼女は自身の友だちであるエパンチン家の令嬢たちから、それほど正確な消息を得ることができなかったのであった。ただほんのほのめかしだとか、中途半端なことばだとか、意味ありげな沈黙だとか、謎だとか、そういうものがあるばかりであった。もっとも、ひょっとしたらアグラーヤの姉たちもかえってワルワーラ・アルダリオノヴナのほうから探り出すつもりで、わざと何か口をすべらしたのかもしれない。二人の姉が友だちを――幼馴染《おさななじみ》のではあったが、――ちょっとからかってみたいという女らしい快感を、振りすてる気になれなかったということも、ありそうなことであった。つまり、彼女たちが、あれほどの長い間に、ワーリヤの意図をいささかなりとも、眼にとめないはずはなかったからである。
一方から見ると、レーベジェフに向かって、自分には何も珍しいことを知らせることができない、自分の身には取りたてて言うほどのことは何も起こらなかったといったときに全く正しかったはずの公爵もまた、ことによったら間違っていたのかもしれぬ。実際のところ、誰もの身の上に、何かしら非常に奇妙なことが起こったかのように見える。事実においては何ごとも起こらなかったのである。この後者の場合をワルワーラ・アルダリオノヴナは女らしいたしかな本能によって嗅《か》ぎつけた。
それにしても、いかにして、エパンチン家の誰も彼もが、アグラーヤの身の上にきわめて重大なことが起こって、彼女の運命が決せられんとしているなどと、急にみんながそろいもそろって考えるようになったのか?――筋道を立ててこのことを説明するのはきわめて困難である。しかし、この気持が一時に誰もの胸にひらめくやいなや、たちまち誰も彼も申し合わせたように――何もかもずっと前から見抜いていた、はっきりと見通しがついていた、何もかもすでに『貧しき騎士』のころから、あるいはそれ以前にさえも、はっきりしていたことで、ただあのころはそんなばかばかしい話を本気にするつもりがなかっただけだ――と主張するようになってきた。姉たちが言明したこともそのとおりであった。もとより、リザヴィータ・プロコフィーヴナも誰よりも先にすっかり見抜いてしまって、もうかなり前から『胸を痛めて』いた。が、彼女の知ったのがかなり前であろうとも、またそうでないにしても、――このごろになって公爵のことを考えると、急にひどく機嫌が悪くなるのであった。というのは、主として、公爵のことを考えると何が何やらわけがわからなくなるからであった。すぐにも解決しなければならない問題が眼の前にあるのに、その解決ができないばかりではなく、哀れな夫人には、どんなにもがいてみても、その問題をはっきりと見きわめることさえもできなかった。
この問題はむずかしかった、『公爵は好い相手か、どうか? このことは全体としてよいことか、よくないことか? もしよくないとすれば(きまりきったことではあるが)、どういうところがよくないか! またもし、ひょっとして、よいとすれば(これもまた有りうべきことである)、いったいどういうところがよいのか?』一家の主人であるイワン・フョードロヴィッチ自身ももちろん、誰よりも先にびっくりしたが、後になってから突然こんなことを白状した、『全くのところ、このごろしょっちゅう、何かそういったようなことを私はうすうす感づいていた。いやいや、そんなことはないと思いながら、ふいと心にうかんでくる!』
彼は妻からきつい眼でにらまれて、すぐに口をつぐむのであった。ところが、朝には口をつぐんだものの、晩になって妻と二人きりになると、またしても口をきく必要に迫られて、だしぬけに一種特別な勇気をふるうかのように、思いもよらない考えを少しばかり言いだした、「しかし、本当のところはいったいどうなんだろう?……(沈黙)。もし本当だとすれば、もちろん、これは不思議千万な話だ、これにわたしも異存はないが、……(再び沈黙)。しかし、もし別な方面から事件を正視したならば、公爵は全く、すばらしい青年だよ、そして……そして、そして――まあ、結局、家柄がね、家柄がうちと親戚関係にもなっているから、いわば、零落している親戚の名前を維持するという体裁にもなるから、……世間の眼から見て、つまり、その見地から見るとさ、つまり、なぜかというと、……もちろん、世間がだ、世間は世間だ。が、しかし、それにしても、公爵もたとい少しであっても、まるで財産がないというわけでもないんだし……。あの男はもっているんだ……そして……そして、そして……」(長い沈黙ののちついに全くことば絶える)。良人《おっと》のことばを聞いて、夫人はすっかり我慢がしきれなくなった。
彼女の意見によると、この出来事はことごとく、『許すべからざる、犯罪的とさえもいえるほどのナンセンスであり、一種のばかげた、お話にもならない夢物語であった』という。何よりまず、『この公爵様は病気もちの白痴であり、第二には世間も知らなければ、社会上の地位も持っていないばか者である。こんな人間を誰に見せられるものか、どこへ世話ができるものか! 一種の許すべからざる民主主義者で、おまけに位階もない。そして……そして……そして……ベラコンスカヤのお婆さんがなんと言うだろう? しかも、みんなで、あんな、あんな花婿を想像して、アグラーヤのために予定していたのかしら?』この最後の論拠は、いうまでもなく最も重要なものであった。母の胸はこれを考えるとき血と涙でいっぱいになった。もっとも、それと同時に胸の奥のほうでは、何かしらうごめいて、『さればといって、公爵のどんなところがおまえの要求に合わないのか?』とささやいていた。さて、こうした自分自身の心の反抗は、夫人にとって何よりもやっかいなものであった。
アグラーヤの姉たちにはどうしたわけか、公爵のことを考えることが好ましいこととなっていた。それほどおかしいことだとも思わなかった。要するに、たちまちにして二人はすっかり公爵の味方とさえもなっていたのである。が、二人とも黙っていることに覚悟を決めていた。この家庭で、常に気づかれることは、何かしら家族に共通した論点について、リザヴィータ夫人の反抗や反撥が執拗《しつよう》に、頑固になればなるほど、それがほかの誰もに対して、おそらく夫人がもう我を折っているだろうという証拠になることであった。しかし、アレクサンドラのほうはやはり全く黙り通すというわけにはいかなかった。すでにかなり前から、母は彼女を相談相手にしていたので、今度もしょっちゅう彼女を呼び出して、その意見を、――しかも、主として追憶を要求するのであった。つまり、「いったい、どうしてこんなことが起きたのか? あの時のいやらしい『貧しき騎士』というものはどんな意味だったのか? なんだって、自分ばかりが、あらゆることに気をつかったり、気をつけたり、先を見抜いたりしなければならない羽目に陥っているのか、そして、他の者がいっしょになって鴉《からす》の数をかぞえたりしていられるのは、どういうわけなのか?」等々。
アレクサンドラは最初のうちは用心して、ただ――エパンチン家の娘の一人に、ムィシキン公爵を良人として選ぶのは、世間体からいって悪くはないだろうと言った父親の意見が、かなりに正確な気がする――と言っただけであった。ところが、しだいしだいに熱してくると、彼女はこんなことさえも付け足した、――公爵はけっして、「ばか」ではない、一度だってそんな風を見せたこともない、ところで、職業という点になると、何年か後のわがロシアにおいて、相当な人物の使命がどこにあるか――これまでのような勤務のほうでの成功か、それともその他の事業か、そんなことは神様にしかわかりはしないではないか――などと言うのであった。これに対して母はさっそくアレクサンドラを、『自由思想だ、そんなことはあの連中のにくむべき婦人問題だ』と言ってやりこめた。それから半時間して、夫人は市内へ出かけた。それから、ベラコンスカヤのお婆さんに会いに岩島《カーメンヌイ・オーストロフ》へ行った。お婆さんは幸いにも偶然にペテルブルグへ来ていたからである。もっとも、すぐに帰ることにはなっていた。ベラコンスカヤはアグラーヤの教母であった。
ベラコンスカヤの「お婆さん」はリザヴィータ夫人の熱病やみのような、やけくそな告白をすっかり聞いてしまったが、途方に暮れた母親の涙に少しも心を動かさず、かえってあざけるように見つめていた。お婆さんは恐ろしい専制君主なので、他人とのつきあいに、それがたとい昔からのものであろうとも、対等ということにはどうにも我慢がならなかった。そこで、リザヴィータ夫人をも三十年の昔と同じように、全く自分の protegee(被後見者)扱いにして、夫人のはげしい独立的な気性に馴染むことができなかったのである。お婆さんはいろいろな意見のなかで、こんなことを言った、『どうもあんたがたはみないつもの癖で、あんまりお先走りをしすぎて、針を棒にしているらしい。わたしにはどんなに聞き耳を立てても、あなたの家で本当に何か大変なことが起こったとは、呑み込めない。いっそ本当に何か起こってくるまで待っていたほうがよくはないかしら。わたしの考えでは、公爵も相当の若者だ、病身で変人で、あまり世間へ出て眼につかなすぎるけれど。が、何より感心できないのは、明らさまに恋人を囲っておくことだ』
リザヴィータ夫人には、お婆さんが自分の紹介したエヴゲニイの失敗によって少しく腹を立てていることが、実によくわかっていた。彼女は出かけて行ったときよりも、よけいにいらいらした気持で、パヴロフスクの家に帰って来たが、すぐに、家の者に八つ当たりを始めた。おもなる理由は、――みんなが「気がちがってしまった、誰のところでだって、物事を全くこんな風に運んでいくところはありはしない、うちばかりだ、何をそんなにあわてるんです? 何事が起こったのです? わたしには、どんなに横から見ても縦から見ても、本当に何か変わったことが起きたとは、どうしても思われません! 本当に起こってくるまで、しばらく待ってらっしゃい! お父さんの頭にとんでもない考えがちらちらするのは、今に始まったことじゃありません、針のようなことを棒のようにするのはよしてちょうだい!」というようなことであった。
して見ると、気を落ち着けて、冷静に眼を据えて待っていたらよいということになる。しかし、――悲しいかな、落ち着きは十分間とは続かなかった。落ち着きの最初の打撃を与えるものは、夫人が岩島へ行った留守中の出来事についての消息であった(リザヴィータ夫人が上京したのは、公爵が九時過ぎに行くべきところを十二時過ぎに訪問したそのあくる朝であった)。二人の姉は、母親のじれったそうな質問に対して、詳細にわたって答えたが、まず第一に『お母さんの留守中には、けっしてなんにも起こりはしなかったらしい』と言い、公爵がやって来たこと、アグラーヤが長いこと、三十分ほども出て来なかったが、やがて出て来るやいなや、さっそく公爵に将棋を差そうと言ったこと、公爵が将棋の駒を動かすことも知らないので、たちまちアグラーヤに負かされてしまったということ、そうして彼女は非常に陽気になって、公爵の無能ぶりをこきおろして、恥ずかしい思いをさせ、ひどくからかったので、公爵は見る影もないぐらいになったというようなことを説明した。なんでも、それから彼女はカルタの『ばかあそび』の勝負を申し込んだという。ところが、今度はまるで反対の結果になった。公爵は『ばかあそび』のほうでは、ちょうど『先生ほどの腕まえ』があることがわかって、かなり達者な手を用いた。とうとうアグラーヤはずるいことを始めて、札をかえたり、公爵の眼の前でいんちきをしたりした、それでもやはり公爵は続けざまに、五度も、彼女に背負い投げを食わしてしまった。アグラーヤはひどく腹を立てて、すっかり前後を忘れてしまったほどであった。公爵に向かって、さんざんいやみを言ったり、失敬なことを言ったりしたので、公爵もついには笑わなくなってしまった。彼女が「あなたがいらっしゃる間は、この部屋に足ぶみしませんよ。|あんなことのあった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》あとで家へ出入りなさるのは、しかも、夜の十二時過ぎにいらっしゃるのは、あなたとしてあんまり向こう見ずじゃありませんか」と言ったときには、彼はすっかり血の気をなくしてしまった。そう言って彼女はぴしゃりと戸を閉めて出て行ってしまった。公爵は姉たちがどんなに慰めてやっても、まるで葬式からの帰りのように、悄然と帰って行った。公爵が去ってから十五分もたったころ、突然アグラーヤが二階から露台《テラス》へ駆けおりて来たが、あまりに急いだので、眼を拭く間もなかったくらいであった。彼女の眼は泣きぬれていた。彼女が駆けおりて来たのは、コォリャが針鼠を持って来たからであった、一同はその針鼠を眺め始めた。コォリャはみんなの質問に対して、この針鼠は自分のではないということ、自分はいま一人の友だちで、やはり中学生のコスチャ・レーベジェフといっしょに歩いているのだということを説明した。この友だちは手斧を携えているのが恥ずかしいと言って、中にはいらずに往来で待っているのだと言った。また、針鼠と手斧は、たったいま通りすがりの百姓から買ったのだとも言った。百姓はその針鼠を五十カペイカで売ったが、手斧のほうは二人の少年が、ついででもあり、かなりによい品であったので、無理に売ってくれとこちらからねだったのである。ところが、今度はアグラーヤが今すぐにその針鼠を売ってくれと、だしぬけにしつこくコォリャに付きまとって来て、われをも忘れてコォリャを「可愛い子だ」などとまで言いだした。コォリャはしばらく承知をしなかったが、とうとう降参して、コスチャ・レーベジェフを呼び入れた。コスチャはたしかに手斧を持ってはいって来たが、かなりにどぎまぎしていたが、すぐに、この針鼠は二人のものではなくて、ペトロフとかいうもう一人の第三の少年の持ち物であることがわかってきた。この少年は、また別な金に困っている第四の少年から、シュロッセルの『歴史』を安く買うつもりで、二人の少年に金を渡して依頼した。そこで二人はシュロッセルの『歴史』を買いに出かけたが、とうとうしんぼうがしきれなくなって、針鼠を買ったのであった。したがって、針鼠も手斧もこの第三の少年のもので、二人の少年は、『歴史』の代わりに、これらのものを持主のところへ持ってゆくところなのである。しかるに、アグラーヤがあまりうるさく付きまとうので、二人はとうとう針鼠を売ることにした。針鼠を手に入れるやいなや、アグラーヤはコォリャに手伝ってもらって、それを編籠に入れ、上からナプキンをかけて、コォリャに向かって、今からすぐどこへも寄らないで、針鼠を公爵に届けてもらいたい、自分の名を言って、『深い深い尊敬のしるし』として受け取ってもらってくれと頼みにかかった。コォリャは喜んで承知し、必ず届けますと、誓いまで立てたが、すぐに、「いったい針鼠のような贈り物に、どんな意味があるんです?」としつこく尋ねた。アグラーヤは、そんなことはあんたの知ったことじゃありませんと答えた。すると、彼は、きっと何かの諷喩《アレゴリイ》が含まれているのに相違ありませんと答えた。アグラーヤは怒りだして、あんたはまだ餓鬼です、それだけのことですと、辛辣なことを言った。コォリャはすぐに反駁《はんばく》して、もし僕があなたを婦人として尊敬しなかったら、そのうえ自分の信念を尊重しなかったらそんな侮辱に対する返事のしかたを知ってますから、それをさっそくお眼にかけましょうと言った。もっとも、結局のところ、やはりコォリャは喜び勇んで針鼠を持って行った。コスチャ・レーベジェフもそのあとから駆けて行った。アグラーヤは少年があまり籠を振り回すのを見て、たまらなくなって、露台から大きな声で、「頼みますからね、コォリャさん、落っことさないでちょうだいよ、いい子だから!」とまるで今しがた喧嘩したのは別の人とであったような調子で叫んだ。コォリャも立ち止まって、喧嘩などはしなかったかのように、非常な御機嫌で、「いいえ、落っことしませんよ、アグラーヤ・イワーノヴナさん、安心していらっしゃい!」と叫んで、また一目散に駆け出した。アグラーヤはそのあとで、ころげんばかりに、声を立てて笑いながら、大満足の体で、居間へ駆け込んだが、その日は一日じゅう、恐ろしく浮かれていた――。
こういったようなニュースは、全くリザヴィータ夫人を唖然《あぜん》たらしめた。どうしてそんなことになったのかとも考えられる。しかも明らかに、そういったような変な気分になっていたのである。夫人の不安はその極に達した。何よりも変なのは――針鼠である。『針鼠に何の意味があるんだろう? 何の約束があるんだろう? どんな下ごころがあるんだろう? いったいなんのしるしだろう? なんという電報であろう?』おまけに、可哀そうにも、たまたまその審議の場に居合わせたイワン・フョードロヴィッチが、とんでもない返答をして、問題をすっかりだいなしにしてしまったのである。彼の意見によると、何も電報なんかというものはありはしない、針鼠は――『要するに針鼠であって、それだけのことである。もっとも、そのほかに友誼《ゆうぎ》とか、侮辱を忘れて仲なおりをするとか、それくらいの意味はあるかもしれぬ。一言にして言えば、これはほんのいたずらである、しかも、とにかく、無邪気な、罪のないいたずらだ』と言う。
ここでついでに書きとめておくが、彼はすっかり本当のことを言い当てたのである。さんざんからかわれた末に、追い出されて、アグラーヤのところから帰って来た公爵は、暗澹《あんたん》たる絶望に浸って、半時間ばかりもじっと坐っていたが、そこへ忽然《こつぜん》として、コォリャが針鼠を持ってやって来たのだ。たちまちに空模様は明るくなって、公爵はまるで、死人がよみがえったかのようになった。コォリャにいろんなことを根掘り葉掘りして、その一言一句を耳にとめて、ひと言を十ぺんくらいも聞き返して、子供のように笑っては、絶えず自分のほうをほほえみながら、明るい眼つきで見つめている二人の少年の手を握りしめていた。問題の結果は、アグラーヤが彼を許すということになって、公爵は、今晩すぐにもまた彼女の家へ行ってかまわないことになり、これが彼にとってはただ単に重大なことであるばかりではなく、むしろ全部とさえもなるのであった。
「僕たちはまだほんとに子供ですね、コォリャ! そして……そして……僕たちが子供だってことは、本当に結構なことです!」ついに彼は夢中になって叫ぶのであった。
「話はとてもあっさりしたことです、あの人がね、あなたを恋してるんですよ。それだけのことです!」コォリャは一人前の顔をして、ひどく高飛車に答えた。
公爵は顔を赤くしたが、そのときにはひと言も物を言わなかった。コォリャはただ声を立てて笑いながら手をたたくばかりであった。しばらくして公爵も笑いだした。それから日が暮れて夜になるまで彼は五分ごと、もうよほどたっているだろうか、晩までにはまだかなり間があるだろうかと、しきりに時計を見ていた。
結局、リザヴィータ夫人は気分には勝てなかった。夫人はとうとうしんぼうがしきれなくなって、ヒステリイの発作に負かされてしまった。夫人は二人の娘たちがあれやこれやと言って引き留めたのにもかかわらず、すぐにアグラーヤを迎えにやった。アグラーヤにいよいよ最後の質問を発して、はっきりした最後の返答を得ようとしたのである。「こんなことは一時にすっかりかたづけてしまって、すっかり身軽になって、これからは二度と口に出さないようにしたい」「それがわからなければ、わたしは晩までも生きてはいられません!」と夫人は言った。
ここにおいて、ようやく、問題がお話にならないようなことになってしまったということを誰もが悟ったのであった。それにしても、わざとらしい驚きと笑いと、公爵および、その他、このことを云々《うんぬん》するあらゆる人々に対するあざけりと、――それ以外には何ひとつアグラーヤから聞き出すことができなかった。リザヴィータ夫人は床について、やっと公爵がたずねて来る間ぎわになって、茶のテーブルに出ただけであった。彼女はぶるぶる震えながら公爵を待ち構えていたが、やがて彼がやって来た時にはほとんどヒステリイにならんばかりのありさまであった。
さて、公爵自身もおずおずと、手探りでもするようにして、妙なほほえみをうかべながらはいって来た。何か質問でもするかのように一同の顔色をうかがっていたが、それはアグラーヤがまたもや部屋にいなかったので、はいって来るやいなやぎくりとしたからである。その晩は、他の人は一人も来ておらずに、一家水入らずであった。S公爵はエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの伯父の用件でまだペテルブルグへ行っていた。『せめてあの人でもいてくれたら、何とか言ってくれるだろうに』とリザヴィータ夫人はこの人のいないのを情けなく思っていた。イワン・フョードロヴィッチはひどく心配そうな顔をしてじっとしており、姉たちはまじめな顔をしてじっとしており、わざとらしく、黙り込んでいた。リザヴィータ夫人は何から切り出していいのやらわからなかった。とうとう、いきなり気色ばんで、鉄道を罵倒《ばとう》し、あくまでも挑戦的な態度で公爵を見つめるのであった。
ああ! アグラーヤは出て来なかったのだ。公爵は途方に暮れた。彼は茫然《ぼうぜん》として、やっとのことで呂律《ろれつ》をまわしながら、鉄道を修理することはきわめて有益なことであるという意見を述べかけたが、不意にアデライーダが笑いだしたので、公爵はまただいなしになってしまった。おりしもアグラーヤが静かにはいって来て、公爵に対してものものしく、うやうやしい会釈をしてから、丸テーブルのそばの最も眼につきやすい所へ厳かに腰をおろした。彼女は物問いたげに公爵を見やった。一同は、あらゆる疑惑の解決さるるべき時の到来したことを悟った。
「わたしの針鼠を受け取ってくだすって?」と彼女は、力強く、ほとんど腹立たしげに尋ねた。
「ええ」と公爵はまっかになって答えたが、もう生きた空もなかった。
「このことについてどうお考えですか、すぐここで説明してくださいな。これはお母さん初め、家じゅうの人を安心させるためにぜひとも必要なことですから」
「これ、アグラーヤ……」と将軍は急に心配し始めた。
「それは、それは途方もないことです!」リザヴィータ・プロコフィーヴナは急になぜかしら愕然として叫んだ。
「途方もへったもありやしないわ、この場合、ママ!」と娘は即座に厳めしく答えた。
「わたしは今日公爵に針鼠を贈りました、それで、公爵の御意見を伺いたいんです。いったい、どうなの、公爵?」
「というと、つまりどんな意見ですか、アグラーヤ・イワーノヴナさん」
「針鼠のこと」
「つまり、……アグラーヤ・イワーノヴナさん、してみると、あなたは僕がどんな風に……針鼠を……受け取ったかってことが知りたいんですね……いや、なんですね、僕がこの贈り物を……針鼠を……どんなに見たかと言ったほうがいいかもしれませんが。つまり、……僕の想像では、こういう場合に、……手っ取り早く言うと……」
彼は息がつまったので、黙り込んでしまった。
「まあ、少ししかおっしゃらないんですね」五秒ほど待ってから、アグラーヤはこう言った、「よござんすわ。針鼠はそれでよしにしても結構ですわ。でも、わたし、ほんとに嬉しいの、積もり積もった誤解を、やっと、きれいさっぱり、かたづけることができるんですものね。失礼ですけど、あなた御自身から、じかに聞かしてくださいな。あなたはわたしに結婚を申し込んでいらっしゃるの、どうなの?」
「まあ、なんだろう!」という叫び声がリザヴィータ・プロコフィーヴナの口をもれて出た。
公爵はぎょっとして、あとずさりした。イワン・フョードロヴィッチは棒立ちになり、姉たちは苦い顔をした。
「嘘を言わないでちょうだいな、公爵、本当のことを言ってちょうだい。あなたのおかげで、わたしは変なことばかりしつこく聞かれるんですからね、あんな質問にも何かいわくがあるのかしら? さあ!」
「僕はそんな申込みなんかしませんよ、アグラーヤさん」と公爵は急に元気づいて答えた。
「けれど……あなた御自身でも御存じのとおり、僕はあなたを愛し、また、信じてもいます……今でさえも……」
「あたしが聞いたのは、こういうことなんですよ、あなたはわたしと結婚したいんですか、そうでないんですか? って」
「したいです」公爵は生きた心地もなく答えた。
一座のはげしい動揺がこれに続いた。
「そんなことはみんな話が違いますよ、君」とイワン・フョードロヴィッチはひどく興奮しながら言いだした、「もしそうだとすれば、それは……それはほとんど無理な話だ……グラーシャ〔アグラーヤの愛称〕……御免なさい、公爵、御免なさい、ね!……ねえ、リザヴィータ!」と彼は助けを求めて妻のほうを向いた、「よく吟味を……する必要が……」
「わたしはお断わりします、お断わりします!」と夫人は両手を振った。
「ママ、わたしにも口をきかしてくださいな。だって、この問題では、本人のわたしだって、何かの引っかかりがありますものね。わたしの運のきまる大変な時ですものね(アグラーヤは実際にこういうことばづかいをしたのであった)。だから、わたしも自分でお聞きしたいんですの。そのうえ、みんなの前だから嬉しいわ……。ねえ、公爵、失礼ですけれど、もしあなたが『そういう御意向をもって』いらっしゃるのでしたら、どういう風にして、わたしを幸福にしてくださるおつもりですの、聞かしてくださいな?」
「僕はほんとに、なんとお答えしていいやらわからないんです。アグラーヤさん。今……今、なんと言ってお答えしたらいいのでしょう? それに……そんな必要があるでしょうか?」
「あなたはどうやら、まごついてしまって、息切れがするようですわ。少しお休みになって元気を回復なすったら。水でも召し上がってごらんなさい。もっとも、今すぐお茶が出ますけど」
「僕はあなたが好きなんです、アグラーヤさん、とても好きなんです、あなた一人が好きなんです、そして……からかわないでください。僕はとてもあなたが好きなんです」
「けど、これは大事なことですわ。わたしたちは子供ではありませんから、実際的に物事を見きわめなければなりません……ごめんどうでしょうけれど、今ここで説明してくださいな、いったいあなたの財産は何々でしょうかしら?」
「まあ、まあ、まあ、アグラーヤ? おまえはなんです? そんなことは別問題だ、そんなことは……」とイワン・フョードロヴィッチはあきれ果ててつぶやいた。
「不名誉だ!」と声高らかにリザヴィータ・プロコフィーヴナがつぶやいた。
「気がちがったんだわ!」とこれも大きな声でアレクサンドラがつぶやいた。
「財産……つまり、金ですか?」と公爵は驚いた。
「そうなの」
「僕は……僕はいま十三万五千ルーブルもっています」と公爵は顔を赤くしてささやいた。
「たったの?」とアグラーヤは赤い顔もせずに、大きな声で、遠慮会釈もなく、驚きの声をあげた。「もっとも、それだけでもかまわないわ。わけても、つましくやっていきましたらね……勤めでもなさるおつもり?」
「僕は家庭教師の試験を受ける気でいました……」
「たいへん好都合ですわ。むろん、うちの財産をふやすことにもなりますね。侍従武官になる気がありますか?」
「侍従武官? 僕は、そんなことはちょっとも想像したことはありません、けれど……」
ここで二人の姉はたまらなくなって、ぷっと吹き出してしまった。もうアデライーダはぴくぴくと動くアグラーヤの面差しに、一生懸命になって押えつけている笑いが、今にもこらえきれなくなって爆発しそうなのを、かなり前から眼に留めていた。アグラーヤはしきりに笑っている姉たちを厳めしそうににらんでいたが、自分でも一秒とは我慢ができなくなって、かなりに気ちがいじみた、ほとんどヒステリカルな高笑いをして、ついには、飛び上がって、部屋から駆け出してしまった。
「わたし、元から、冗談だけで、あとにはなんにもないこと、よくわかってたわ!」とアデライーダは叫んだ、「初めっから、針鼠の時から!」
「いいえ、もうこんなことは黙っておけません、黙っておけません!」と、リザヴィータ・プロコフィーヴナは、かんかんになって怒って、まっしぐらに娘のあとから追い駆けて行った。
そのあとからすぐに二人の姉も駆け出した。部屋の中は公爵とこの家の主人だけになった。
「これは、これは、……君は何か、こういったようなことを想像することができましたか、レフ・ニコライヴィッチ君?」将軍は自分でも何を言おうとしているのかわからずに、鋭い調子で叫んだ、「いや、まじめな、まじめな話だ!」
「アグラーヤ・イワーノヴナさんが僕をからかったんです。それは自分にもわかります」と公爵は物悲しげに答えた。
「待ってくれたまえ、君、わたしはちょっと行って来るから、君は待ってるんだよ、……なぜって……ねえ、レフ・ニコライヴィッチ君、せめて君でも、ようく説明してくれたまえ、せめて君でも。いったいどうしてこんなことが起こったんだろうね? 全体的に見て、いわば、総合して見てこれはいったい、どういう意味になるんだろう? いいかえ、君、わたしは――父親の身だ、とにもかくにも、父親じゃないかな。それだのに、何が何やら、とんとわからん。そんなわけだから、せめて君でも、ひとつ聞かしてくれたまえ!」
「僕はアグラーヤ・イワーノヴナさんが好きなんです。あの人はようく、それを承知しています。そして……ずっと前から知っているらしいです」
将軍は肩をすくめた。
「変だなあ、変だわい……で、大好きなのかね?」
「ええ」
「変だな、何もかもわたしには変な気がする。つまり、思いもよらん不意打ちで、……ねえ、君、わたしの言うのは財産のことじゃないよ(もっとも、もう少しよけいにあるんだろうと、当てにはしてたけども)。しかしだね……わたしにとって娘の幸福が、……結局、……君はできるのかね、いわば、その……幸福をだな? そして……そして……あれは何かね? あの子のほうでは、冗談なのか、本気なのか? つまり、君のほうではなく、あの子のほうではだな?」
ドアのかげから、アレクサンドラ・イワーノヴナの声が聞こえてきた。父を呼んでいる。
「ちょっと待ってくれたまえ、君、待ってくれたまえよ! 待っている間に、ようく考えてくれたまえ、わたしはすぐに……」彼はあわただしく、こう言って、まるで驚いてでもいるかのようにアレクサンドラの呼んでいるほうへ、矢のように飛んで行った。
行ってみると、妻と娘は互いに抱擁して、互いに涙にむせんでいた。それは幸福と、感激と、和解の涙であった。アグラーヤは母の手や、頬や、唇に接吻していた。二人は熱情をこめて、互いにしっかりと抱きしめていた。
「まあ、ほら、ちょっとこの子をごらんなさい、あなた、このとおりですの!」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは言った。
アグラーヤは、幸福そうな、涙に泣きぬれた顔を、母親の胸から放して、父親のほうを見て、高い声で笑いながら、その傍へ飛んで行って、しっかりと抱きしめて、幾たびとなく接吻した。それからまた母親のほうへ飛んで帰って、今度はもう誰にも見られないように、母親の胸にすっかり顔を隠したが、すぐにまた泣きだしてしまった。リザヴィータ・プロコフィーヴナは自分のショールの端で娘をおおってやった。
「まあ、いったい、おまえはわたしたちをどうしようというの、おまえは薄情な子ですね、こうなった以上、どうなのさ!」と夫人は言ったが、いかにも嬉しそうで、急にほっとしたかのようであった。
「薄情ですって? そう、薄情なの!」いきなりアグラーヤが引き取った、「やくざな! わがままほうだいな! お父さんにそう言ってちょうだい。ああ、そうそう、お父さんはそこにいらっしゃるじゃありませんか。お父さん、いらしって? 聞こえましたか?」と彼女は涙の間から笑いだした。
「おお、おまえはわしの秘蔵っ子だ!」と将軍は幸福に満面を輝かしながら、彼女の手に接吻した(アグラーヤはその手を引っこめなかった)。してみると、おまえはあの……青年を好いているのかな?……」
「い、い、いいえ? やりきれないわ……あんたがたの『青年』には……やりきれないわ!」と、アグラーヤは急に熱くなって、頭を上げた。「もしもね、お父さん、もう一度そんな勝手なことをおっしゃったら、……わたし、まじめに言うのよ、よくって、まじめに言ってるの?」
実際、彼女はまじめに言っているのであった。すっかり赤くさえもなって、眼まで光らせていた。父親は二の句がつげなくなって、あっけにとられていたが、夫人がアグラーヤのかげから合図をして見せたので、彼は『いろんなことを聞いてはいけない』という意味を読みとった。
「それならば、ね、自分の好きなようにおし、おまえの自由に。あの人はあそこで、一人で待っている、帰るようにと、手ぎわよく、におわしてやろうかな?」
「いいえ、いいえ、それはよけいなお世話だわ、『手ぎわよく』なんて、なおさらだわ。お父さん御自分であの人のところへ出てちょうだい、わたし、わたし、あとからすぐ行きますから。わたし、あの……『青年』におわびをしたいの。だって、あの人に恥をかかしたんですもの」
「それもひどい恥をかかしたの」とイワン・フョードロヴィッチはまじめに相づちを打った。
「まあ、それじゃあ、……いっそのこと、みんなここでじっとしててちょうだい、わたしが先に一人で行きますから、すぐにあとから出てちょうだい、そのほうがいいわ」
彼女はドアのところまで行ったが、たちまちあとに引き返して来た。
「わたし笑っちまうわ! 笑いころげちゃいそうなの!」といかにも悲しそうに訴えた。
が、やにわにくるりと向きを変えて、公爵のほうへ駆けて行った。
「まあ、いったいどうしたというんだろう? どう思う、おまえ?」と早口にイワン・フョードロヴィッチが尋ねた。
「口に出すのはどうかと思うわ」とリザヴィータ・プロコフィーヴナも同じように早口に答えた、「けど、わたしの考えでは、わかりきったことです」
「わたしの考えでもわかりきったことだ。火を見るよりも明らかなことだ。愛しているんだ」
「愛してるどころじゃありませんよ、首ったけですよ!」とアレクサンドラ・イワーノヴナが応じた、「でも、相手にもよりけりじゃありませんか?」
「ああ、神様、それが、あれの運命なのでしたら、祝福《みめぐみ》を与えてやってくださいますように!」リザヴィータ・プロコフィーヴナはつつしんで十字を切った。
「つまり、運命なんだ」と将軍が調子を合わせた、「運命はのがれるわけにはいかない」
かくて、一同は客間へ行った。すると、ここにもまた、思いがけないことが待っていた。
アグラーヤは、声を立てて笑いだしてはと気づかっていたらしく、公爵に近づきながら、笑いださなかったばかりではなく、ほとんどおずおずしたような風をさえ見せて、公爵にことばをかけた。
「知恵がなくて、ぶしつけで、わがままなこの娘をどうか許してやってください(彼女は公爵の手を取った)。そして、わたしたちがみんな限りなく、あなたを尊敬しておりますことを信じてくださいまし。わたしがあなたの美しい、……善良な純情をひやかしたりしておりましたら、ほんの子供のいたずらだとお思いになって許してやってくださいまし。もちろん、何の足しにもならないばかげたことを主張しまして、本当に申しわけがありません」
この最後の一句を、アグラーヤは特に力を入れて言った。
父も母も姉たちも客間へはいって来て、早くも、これらすべてのことを見たり、聞いたりすることができた。が、この『何の足しにもならないばかげたこと』には、誰しも少なからず驚かされた。しかも、それ以上に、この『ばかげたこと』ということばを述べたときのアグラーヤのまじめな調子は、いっそうみんなをあきれさせた。一同はいぶかしげに顔を見合わせた。しかし、公爵はこのことばの意味が呑み込めなかったらしく、まるで幸福の絶頂に立っているかのようであった。
「どうして、そんなことをおっしゃるんです」と彼はつぶやいた。「どういうわけであなたは……おわびなんか……なさるんです……」
彼はおわびなんか言ってもらえる柄ではないとさえ言いたかった。ことによったら彼も『何の足しにもならないばかげたこと』ということばの意味に気がついたかもしれない。しかも、変人であったから、かえってかようなことばを聞いて喜んだかもしれない。もとより彼にとっては、誰にも妨げられずに、アグラーヤのところへ遊びに来て、彼女と共にことばをかわしたり、席を同じゅうしたり、いっしょに散歩することまでを許してもらうという、そのことだけでもすでに幸福以上のものであったには相違ない。また、もしかしたら、ただそれだけで一生涯、満足していられたかもしれぬ!(この満足をリザヴィータ・プロコフィーヴナは心の中でひそかに恐れているらしかった。夫人には彼の人となりが、よくわかっていた。彼女は心の中でいろんなことを恐れてはいたが、それをみずから口に出すようなことはとてもできなかった)。
その晩、公爵がどの程度にいきいきと元気づいたかということは容易に想像することもできない。彼はひどく陽気になって、わきから見ただけでも、実に愉快そうであった――とあとでアグラーヤの姉たちが言った。彼はさかんにしゃべっていた。こんなことは半年前の、はじめてエパンチン家の人々と近づきになったあの朝以来、絶えてなかったことである。ペテルブルグへ帰って来ると、彼は目立って、いたずらに無口になった。つい近ごろのことであるが、彼はみんなのいる前で、S公爵に向かって、自分はぜひとも自分を押さえて、沈黙を守らなくてはならない、というのは、自分は思想を述べることによって、思想を卑しめるほどの柄ではないからだと言った。
この晩、彼は一晩じゅうほとんど一人でしゃべって、いろんな話をしていたが、みんなから物を聞かれると、はっきりと、大喜びで、詳しく返答をしていた。それにしても、愛想のいい話めいたことは、少しも彼のことばの中にうかがわれなかった。何を話しても、ひどくまじめで、どうかすると、難解な思想にまでも及んでいった。公爵は自分の見解や、自分の胸の中に深く秘めている観察までも披瀝《ひれき》したが、このほうになると、もしも、そのとき聞いていた人たちが後になって異口同音に言ったように、あれほどまでに『立派な述べ方』をしていたのでなかったら、かえって滑稽なものにさえなったかもしれぬ。将軍はまじめな話題を好んだが、彼もリザヴィータ夫人も、共に、心の中では『あんまり学問的でありすぎる』と考えて、そこで、しまいごろには、二人とも憂鬱にさえなっていた。とはいえ、公爵は、しまいごろには、五つ六つ、滑稽きわまる逸語《アネクドート》を物語るほどのいい機嫌になって、話をしながら自分がまず第一に笑いだすので、ほかの人たちは逸話そのものよりも、公爵の嬉しそうな笑い方がおかしいといってしきりに笑っていた。アグラーヤはどうかというに、彼女は一晩じゅう、ほとんど物をも言わなかった。その代わり、じっと公爵から眼を放さずに耳を傾けていたが、耳のほうは眼よりもむしろ、おろそかであった。
「あんなに見とれているんでしょう、眼も放さずに。あの人の言うことを一言一句、耳にとめて、あんなに一生懸命に聞き落とすまいとしているんです!」と、あとになってリザヴィータ・プロコフィーヴナは良人に言うのであった、「ところで、あれが恋をしてるなんかと言おうものなら、それこそ大騒ぎになりますよ!」
「しかたがない――運命だ!」と将軍はひょいと肩をすくめた。それから後もしばらく、このお気に入りのことばをくり返していた。ついでに付け加えておくが、将軍は事務家肌の人間として、こういったような現在の状態に非常に多くの気に食わないものをもっていた。それは主として――物ごとの曖昧《あいまい》なことであった。しかし、ある時期の来るまでは、黙って、……リザヴィータ・プロコフィーヴナの眼の色を見ていようと決心していた。
家族たちの楽しい気分はそう長くは続かなかった。アグラーヤはすぐそのあくる日に公爵と再び喧嘩をした、かくのごとくにして幾日も幾日も絶えずくり返されるのであった。彼女は何時間も、続けざまに公爵を手玉にとって、ほとんど道化扱いにせんばかりであった。事実、二人きりで、一時間も二時間も自分の家の庭にあるあずまやに腰かけていることもないではなかった。そういうとき、ほとんどいつものように公爵はアグラーヤに新聞だとか、何かの本などを読んで聞かしていた。
「あのね」と、あるときアグラーヤは新聞を読んでいる途中でことばをかけた、「わたしはね、あなたが、ひどく無教育なかただってことに気がついたの。誰が、何年に、どんな条約によって何をしたかというようなことをあなたに聞いても、何ひとつ満足な返事ができないんですからね。あなたってかたはお気の毒なかたね」
「僕はそんなに博学じゃないって、あなたに言ったはずです」と公爵は答えた。
「してみると、いったいあなたには何があるんでしょう? そんなことで、わたしはどうしてあなたを尊敬することができるんでしょう? まあ、あとを読んでちょうだい。けど、もういいわよ、よしてちょうだい」
その晩のうちに、何かしら、一同の者にとって、かなりに謎めいたものが、アグラーヤのそぶりのうちに、ちらと眼についた。
S公爵が帰って来たので、彼女はかなりに愛想よく、いろいろとエヴゲニイ・パーヴロヴィッチのことを尋ねた(ムィシキン公爵はまだ来ていなかった)。ふとS公爵はリザヴィータ・プロコフィーヴナが、うっかりして、二つの結婚式を同時に挙げるために、ひょっとすると、アデライーダの結婚式が延びることになるかもしれないと口をすべらしたのを、だしに使って、『やがてきたらんとしている新しい家庭内の変化』をほのめかした。アグラーヤが、いかばかり『こんなばかげた予想』に対して腹を立てたかは、想像に余りあるものであった。しかも、『わたしはまだ、誰の恋人の代わりを勤める気もありませんよ』ということばが彼女の口からもれたのであった。
このことばは一同の者、わけても両親をひとかたならず驚かした。リザヴィータ・プロコフィーヴナは良人と内々に相談して、ナスターシャ・フィリッポヴナの件について、公爵からきっぱりした釈明をしてもらおうと主張した。
イワン・フョードロヴィッチは、それはほんの『出まかせ』で、アグラーヤの『はにかみ』から出たことであり、もしもS公爵が結婚式のことなど言い出さなかったら、そんな出まかせも言わなかったに相違ない、なぜなれば、アグラーヤもそれが、悪人どもの言いがかりだということを、よく知っているからである、また、ナスターシャ・フィリッポヴナはラゴージンと結婚するはずで、公爵はそのことは何の関係もないはずで、あくまでも本当のところをいうと、ただ単に、情交がなかったというばかりではなく、今までにだって、そんなことはけっしてなかったはずだ――と夫人に誓うのであった。
ところで、公爵は相も変わらず何一つ動ずる色なく、依然として、おめでたい気持に浸っていた。ああ、いうまでもなく、彼とても、時として、アグラーヤの眸《ひとみ》のうちに、何かしら、暗い性急なものが潜んでいることには気がついていた。が、彼は別の何ものかを、より以上に信じていたので、暗い影もおのずからにして消えていったのであった。
一たびこうだと思い込んだら、彼はもうどんなことがあっても、動かされなかった。ことによると、あまりに落ち着きすぎていたかもしれなかった。少なくとも、あるとき、ゆくりなくも公園で公爵に出会ったときのイッポリットにはそういう気がするのであった。
「ねえ、あのとき僕があなたは恋をしていると言ったのは、本当だったじゃありませんか?」と、彼はみずから公爵のほうへ近づいて行って、公爵を引きとめて言いだした。相手は手を差しのばして、彼の『顔色がいい』のを、心から喜んでやった。
病人は肺病患者にありがちなように、急に元気づいたらしかった。
彼は、公爵の幸福そうな顔つきを見て、何か毒舌をふるってやろうというつもりで寄って来たのであるが、さっそく、先手をうたれてしまって、しかたなく自分のことを言いだした。彼は長々と、いろんなことをこぼし始めたが、ひどくとりとめのないものであった。
「あなたは、まさかとお思いになるでしょうが」と彼は結んだ、「あすこの連中はどいつもこいつも実に癇癪持ちで、こせこせして、エゴイストで、見え坊で、ぼんくらなんですよ。本気にはなさらんでしょうけれど、あの連中が僕を引き取ったのは、ほかでもない、僕が少しでも早く死ぬようにという条件づきなんですよ。ところがどうでしょう、死にそうにもなく、かえって前よりぐあいがよくなったもんですから、憤慨してるんですよ。まるで喜劇です! 賭けをしてもいいですが、あなたは僕の言うことを本気にしないんですね!」
公爵は反駁する気になれなかった。
「僕は時おり、あなたのところへまた引っ越そうかと思っているぐらいです」と、ぞんざいな調子でイッポリットは付け足した、「では、あなたはやっぱり、いくらあの連中だって、ぜひとも少しでも早く死んでくれなんかというつもりで、他人を引き取るようなあさましい人たちではないと、そう思ってらっしゃるんですね?」
「僕はあの人たちが君を呼んだのは、何かほかに当てがあってだと思ってました」
「へえ! あなたはなかなかどうして、人が言うように一すじ繩で行く人じゃありませんね! 今は時期が悪いんでしょうか、もしよかったら、僕はちょっとあなたに、ガーネチカのことだの、あの男の見込みのことだの、ぶちまけてあげたいんです。あなたは落し穴を掘られているんですよ、公爵、残酷に落し穴を……だから、そんなに落ち着き払っていられるのが、気の毒なくらいです。でも、しようがない!……あなたには、そうしているよりほか、できないんですからね!」
「まあ、たいへんなことで同情されましたね!」と公爵は笑いだした、「じゃ、いったい、君の考えでは、どうなんですか、僕がもう少し落ち着き払っていなかったら、いっそう幸福だろうというんですか?」
「幸福で、……ばかになって生きているよりは、かえって不幸でも、物ごとをよく知っていたほうがましですもの。あなたはちょっとも、競争者があるということを、本当になさらないようですね? しかも、……あの方面にですよ」
「競争者があるという君のことばは少々皮肉ですね。僕には残念ながら君にお答えするいわれはありません。ただ、ガヴリーラ君のことになると、まあ、自分で考えてみてください、あの人があれを失ったあとで、落ち着き払っていられるものかどうか? もし君が少しでもあの人の問題を知っているんだったら、……僕には、この見方から見ていったほうがかえっていいような気がするんです。あの人はまだ変化する余地があります。あの人はまだまだ前途があるんです。人生というものはなかなか味があるものですからね……もっとも……もっとも……」と公爵は急につまってしまった、「落し穴ということは……君の言うことがさっぱりわからないくらいですよ、いっそ、こんな話はやめにしようじゃありませんか、イッポリット君」
「まあ、時期が来るまでやめておきましょう。それに、あなたとしては、お上品に構えていなくてはならないんですからね。そうそう、公爵、二度とこんなことを信用しないようにするには、あなたが自分の指でさわってみる必要がありますよ、は! は! ところで、あなたはいま非常に僕を軽蔑していらっしゃるんでしょう、どういうおつもりです?」
「どうして? 君がわれわれ以上に今までも苦しんで、今も苦しんでいるからですか?」
「いいえ、この苦しみを受ける値打ちがないからです」
「より以上に苦しむことができた人は、当然、より以上に苦しみを受ける値打ちがあります。アグラーヤさんは君の告白を読んだとき、君に会いたがっていました、けども……」
「延ばしてるんでしょう……あの人にはできません、それはわかってます、よくわかってます……」イッポリットは少しでも早く話題を変えようと努めているかのようにさえぎった、「ついでですが、あなたは自分であのくだらない話をアグラーヤさんに読んで聞かしたそうですね。全くあれは熱に浮かされて書いたんです……こしらえたんです。だから、あの告白をもって僕を責めたり、またあれを僕に対する武器として使おうと思えば、――残酷にとは言いませんが(それは僕にとって侮辱になりますから)、極度に子供らしく見え坊で、執念深くならなくちゃなりません! 心配しないでください、僕はあなたのことを言ってるんじゃありませんから」
「しかし、君があの原稿をつまらないって言われるのは、惜しい気がしますね、イッポリット君、あれは全く真ごころがこもっていて、それにですね、最も滑稽なところでさえも、そんなところがずいぶんありましたが(イッポリットはひどく苦い顔をした)、そんなところでさえも、苦しみによって償われていました、なにしろ、あんなところまで告白するということは、やはり苦痛でもあり、……また、ひょっとしたら、男子の意気かもしれませんからね。見かけはどうあろうとも、君にあれを書かせた思想そのものには、必ず気高い根拠があったはずです。時がたてばたつほど、それが僕にはますますはっきりとわかってくるのです、本当に。僕は君を批判してるんじゃありません、心に思ってることを、すっかり打ち明けたいから言うだけのことです。あのとき黙っていたのが僕は残念でなりません……」
イッポリットはかっとなった。公爵がそらとぼけて、自分を手玉にとっているのだという考えがちらと彼の頭にひらめいたからであった。が、公爵の顔をじっと見つめているうちに、ついには公爵の誠意を信じないではいられなかった。彼の顔は明るくなってきた。
「でも、やっぱり死ななくてはなりません」と彼は言ったが、もう少しのところで、「僕のような人間はね!」と付け足すところであった、「そして、あのガーニャが僕をどんなにいじめているか想像してみてください。あの男は僕の原稿朗読を聞いた人たちのなかで、たぶん、三人か四人は、僕より先に死ぬかもしれないなんて、抗議みたいなことを思いついたんですよ! まあ、どうでしょうね! これが僕にとって慰めになるとでも思ってるんですよ、は! は! 第一にまだ誰も死なないし、たといみんな死んでしまったにしても、それが僕にとって何の気休めになるものでしょう、ね、そうじゃありませんか! あの男は自分を目安にして、物ごとを判断するんですよ。もっとも、ただそれだけではなくなって、今ではもうむやみに人の悪口を言って、こんな場合には、礼儀をわきまえている人間ならば、黙って死んでゆくものだ、おまえときたら、まるでエゴイズム一点張りだなんかと言うんですよ。どうでしょう! とんでもないことです。あの男のエゴイズムはどうでしょう! あの連中のエゴイズムの巧者なことは、というよりはむしろ、同時にひどく無作法なことはどうでしょう! それでいて、自分がそうだとはちょっとも気がつかないんですからね!……公爵、あなたは十八世紀のステパン・グレーボフという男の死ぬときの話を読んだことがありますか? 僕は偶然に昨日、読みましたが……」
「ステパン・グレーボフって誰です?」
「ピョートルの時代に杙《くい》にさされた人です……」
「ああ、そうですか、知ってますよ! ひどい寒さの中に十五時間も、外套一枚で、杙にさされて、従容自若《しょうようじじゃく》として息を引き取ったのですね。むろん、読みましたよ、……それがどうしたんです?」
「神様はほかの人たちには、あんな死に方をさせてくださるのに、われわれには、そうはしてくださらないのです! たぶん、あなたは、グレーボフのような死に方は僕にできないと思ってらっしゃるんでしょうね?」
「おお、どういたしまして」と公爵はどぎまぎした、「ただ、僕が言いたかったのは……君がつまり、……グレーボフに似ていないというわけではないが、しかし……君ならば、……君ならむしろあの時……」
「察しがつきますよ、グレーボフではなくって、オステルマンのようにというんでしょう、……その意味でしょう?」
「オステルマンって誰?」と公爵は驚いた。
「外交官のオステルマンです、ピョートル時代のオステルマンです」急に少しくうろたえて、イッポリットはつぶやいた。なんとなく当惑したような気持がこれに続いた。
「おお、ち、ち、違います! 僕が言おうとしたのは、そんなことじゃありません」と公爵は、しばらく黙っていたが、だしぬけにことばじりを引いて言いだした、「君は、けっしてオステルマンにはならないでしょう、僕にはそんな気がしますよ」
イッポリットは眉をひそめた。
「それにしても、僕がそんなことを断言するのは」と公爵は言いつくろおうとするかのように、だしぬけにあとを続けて、「つまり、あのころの人たちは(実際ですよ、これにはいつも僕は驚かされるんですが)、今のわれわれとは似てもつかない人たちで、現代の人間とはまるで人種が違っていて、全く別な種族だったからです、……あの時代の人たちは、ともかくも一つの共通の観念をもっていました。ところが今の人たちはずっと神経質で、もっと開けていて、感受性にも富み、同時に二つも三つもの観念をもっているくらいです……今の人間はもっと見識も広いし、……いや、事実、それがあの時代の人のように、裏も表もない人間になることを妨げるんです、……僕が、……僕があんなことを言ったのはただ、こういう考えからで、けっして……」
「わかってます。あなたは僕の無邪気なことばに賛成しなかった代わりに、今度は僕を慰めようと一生懸命になってらっしゃるんですね、は! は! あなたは全くの子供ですよ、公爵。それはそうと、よくわかってますよ、あなたがたはみんな僕をまるで、……まるで、こわれ物扱いにしているんです。でも、平気です、かまいやしません、僕は怒りませんよ。それはさておき、ずいぶんおかしな話になってしまいました。あなたは、時おり、全くの子供になりますね。もっとも、なんですね、僕もオステルマンよりは、なんとかして、ちょっとましな人間になりたいと思っていたかもしれませんよ。オステルマンのために、死んでからまたよみがえってこようたって始まりませんからね……そうは言っても、できるだけ早く死ななければならないことがわかっているんだし。さもなければ僕自身で……まあ、放っといてください。さようなら。ところで……まあ、いいでしょう、まあ、聞かしてください、まあ、あなたのおつもりを。僕は、どうしたらいちばんいい死に方ができるでしょうね?……つまり、できるだけ……徳にかなうような? さあ、教えてください!」
「われわれを黙殺してください、そして、われわれの幸福を許してください!」と公爵は低い声で言った。
「は、は、は! 僕もそうだろうと思った! きっと、そういうことになるだろうと思ってた! それはそうと、あなたがたは……あなたがたは……まあ、まあ! 口先のうまい御連中だ! さよなら、さよなら!」
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六
ベラコンスカヤ夫人を招待したエパンチン家の別荘の夜会のことをワルワーラ・アルダリオノヴナは、やはり寸分の間違いもなく伝えたのであった。たしかに、その晩、何人かの客が見えることになっていた。しかし、彼女はこのことについても、実際よりはいくぶん辛辣《しんらつ》な言い方をした。事実、このことはあまりにもあわただしく、いささかよけいな興奮までして、取り決められた。というのも、この家庭では、『何をするにも、よその家とは勝手が違っていた』からである。何もかも、『もうこれ以上に逡巡《しゅんじゅん》することを欲しない』リザヴィータ・プロコフィーヴナの気短かと、いとしい娘の幸福を思う切なる親ごころに帰することであった。おまけに、ベラコンスカヤ夫人は、話のとおり、ほどなくこちらを立つことになっていたからである。この老夫人の知遇というものが社交界において、まぎれもなく、多くの意義をもち、また、彼女が公爵に対して好意をもってくれるだろうという目当てがあったので、親たちは――アグラーヤの花婿を、『社交界』は必ずや、あの縦横自在に切り回す『お婆さん』の手からならば、すぐに喜んで迎えてくれるだろう、したがって、もしそこに何か変なことが起きても、あれほどの威光をもってすれば、わきから見ても、それほど変ではなくなるだろう、――と、それを当てにしたのであった。
親たちが、――この問題には変なところがあるだろうか、もしあるとしたら、どの程度にであろうか? それとも、絶無であろうか?――ということを解決できなかったところに、いっさいの問題が含まれていた。ことにアグラーヤのせいで、何一つはっきりと始末がついていない目下の場合にあっては、権威のある相当な人たちの打ちとけた、腹蔵のない意見がかなりに役立つはずであった。とにもかくにも、おそかれ早かれ、公爵を社交界へ出さなければならぬ。なにしろ、公爵は社交界というものには、とんと不案内だからである。要するに、親たちは、公爵を多くの人に『見せ』たい意向をもっていた。
もっとも夜会の手配は簡単であった。招待されたのは、ただ『家族の友だち』だけで、きわめて少数に限られていた。招待されたおもなる人といっては、ベラコンスカヤ夫人のほかに、一人の貴婦人――かなりに有力な地位にある高官の夫人だけであった。若い人のなかでは、やっとエヴゲニイ・パーヴロヴィッチがその数にはいるくらいであって、彼は『お婆さん』のお供をして、出席しなければならなかったのである。
ベラコンスカヤ夫人が来るということは公爵も会の三日ばかり前に聞いていた。夜会のことは、やっと前の晩に耳にしたばかりであった。もとより、彼は家族の人たちのあくせくしている様子に気がついて、かすかにほのめかすような心配らしい口ぶりから推して、家じゅうの者がお客に与える印象を気にかけているのを看破した。しかし、エパンチン家ではどういうものか、誰も彼もそろいもそろって、公爵という人はまことにおめでたい人で、自分の身の上をみんながこんなに心配しているのに、ちょっとも察しがつかないのだという概念を作り上げてしまっていた。そのために、彼を見ては、誰もが心ひそかに憂えていた。とはいえ、彼は実際においても、眼の前に迫っている事件に対しては、ほとんどなんらの影響をも与えてはいなかった。彼は全く別のことに気を取られていた。アグラーヤは時々刻々と、いよいよ気まぐれになり、憂鬱になっていった、――そのことが彼にはひどく気をもませるのであった。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチも招かれているということを知ったとき、彼はひとかたならず喜んで、とうからあの人に会いたいと思っていたと言った。なぜか、このことばはみんなの気に入らなかった。アグラーヤは腹立たしげに部屋を出て行って、やっと夜がふけて、公爵がいよいよ帰ろうとしている十二時ちかくになって、見送りに出て来て、たった二人きりになったのを、これ幸いと、少しばかり物を言った。
「わたし、あなたに明日は一日いらっしゃらないで、晩になって、あの……お客たちが集まってから、いらしていただきたいの。あなたは御存じでしょうね、お客様が来ることは?」
彼女はじれったそうに、ことさらに厳めしげに口をきった。彼女が『夜会』のことを言いだしたのはこれがはじめてであった。彼女にもお客のことを考えると、ほとんど堪えられないほどの思いがした。誰もが、このことには気がついていた。おそらく、彼女はこのことについて、両親と議論がしたくてたまらなかったであろう、ところが、プライドと内気とが物を言うことを許さなかった。公爵はすぐに、彼女が自分のことを気にかけている(彼女は、自分が気にかけていると白状する気にはならなかった)のを悟って、急にわれながら驚いた。
「そう、僕も招待されているんです」と彼は答えた。
彼女はどうやら、二の句がつげずに困っているらしかった。
「あなたを相手に、何かまじめな話なんか、できるんでしょうか? せめて一生に一度でも?」と彼女は何のためかもわからずに、自分を押さえつけることができずに、だしぬけに、ひどく腹を立てた。
「できますよ。僕はあなたのおっしゃることを聞きます。僕はとても嬉しいんです」と公爵はつぶやいた。
アグラーヤはまたしても一分間ほど口をつぐんでいたが、やがていかにもいやいやそうに言いだした。
「わたしはこのことで家の人と喧嘩したくなかったの。だって、どうかすると、あの人たちに物の道理を言って聞かせてもしようがないですからね。いつもわたし、時おりお母さんがふり回す理屈がいやでたまらないんです。お父さんのことはわたしは言いませんわ。あの人に物を聞いてもしかたないんですもの。お母さんだってむろん高尚《こうしょう》な女ですわ、ちょっと何か卑劣なことを申し出てごらんなさい、大変な目にあうから! まあ、それでいて、あの……やくざ者を崇拝しているんですからね! わたし、ベラコンスカヤのことだけを言ってるんじゃないのよ。よぼよぼの婆さんで、性質もやくざですけど――利口な人で、家の人をみんな丸めこんでるんですからね、――それだけでも見つけ物だわ! ああ、なんて卑劣なことでしょう! でも滑稽だわ。わたしたちはいつも、中流の、ほんとにこのうえなしの中流の人間ですからね、いったい、なんだってあんな上流社会へ、のこのこ出てゆく必要があるんでしょう? 姉さんたちはあんなところへ行きたがっているの。あれはS公爵がみんなをどぎまぎさせてしまったからだわ。どうしてあなたはエヴゲニイさんが来るのがそんなに嬉しいんですの?」
「あのね、アグラーヤさん」と公爵は言った、「あなたは僕が明日……大勢の前でやっつけられやしないかと、心配してらっしゃるようですね……」
「あなたのことを? 心配ですって?」とアグラーヤはまっかになった。「たとい、あなたが……たとい、あなたが赤恥をおかきになろうと、わたしが心配するわけなんかないじゃありませんか? わたしにとってそれが何でしょう? それにどうしてあなたはあんなことばが使えるんでしょう?『やっつけられる』って何のことですの? それはやくざなことばだわ、下品な」
「これは……小学生のことばです」
「まあ、そうだわ、小学生のことばよ! やくざなことば! あなたは明日もそんなことばばかり使ってお話をなさるおつもりなんでしょう、そうらしいわね。家へ帰って、御自分の辞書を引いて、そんなことばをもっとたくさんお捜しなさい。そしたらすばらしい効き目がありましょうよ! 残念なことに、あなたはじょうずに客間へはいる、はいり方を御存じらしいわね。どこでお習いなすったの? ほかの人がわざとあなたのほうを見てるとき、お行儀よく茶碗をとって、お茶を飲む方法を御存じ?」
「知ってるつもりです」
「それはお気の毒さま。でなかったら、笑ってあげるところでしたのに。でも、せめて、客間にある支那焼きの花瓶ぐらいこわしてちょうだい! かなり高いものですからね、どうぞこわしてちょうだいよ。よそからいただいたものなの。お母さんが気ちがいのようになって、みんなのいる前で泣きだすでしょうよ、――それほどお母さんは大事にしてるの。いつもなさるような変な身ぶりをして、たたきこわしてちょうだい。わざとすぐ傍へお坐んなさい」
「とんでもない、できるだけ離れて坐るようにします。御注意くだすってありがとう」
「してみると、あなたは大げさな身ぶりをしてはと、今から心配してらっしゃるんですね。わたし、賭けをしてもいいわ、きっとあなたは何かの『テーマ』を、何か、まじめな、学問的な、高尚なテーマを持ち出しなさるに決まってるわ。まあ、どんなに……お似合いでしょうね!」
「僕はばからしく聞こえるだろうと思います……もし、とんでもないときに持ち出したら」
「よござんすか、もうこれが言いおさめですよ」ととうとうアグラーヤはこらえかねて、「もしもあなたが、何か死刑だとか、ロシアの経済状態だとか、『美が世界を救う』だとか、そんな風なことをしゃべりだしたら、そしたら……わたしはもちろん、喜んで、さんざん笑ってあげますけど、しかし、前もって御注意しておきますが、今後はもうわたしの眼の前には出ないでくださいね! いいでしょう、わたしまじめに言ってるの! 今度こそまじめに言ってるんだわ!」
彼女は本当にまじめにこの脅し文句を言ったのである。だから、そのことばのなかには何かしらなみたいていではないものまでも感じられるのであった。また、その眸には、今まで公爵が、見たこともないような、すでに冗談らしいところもない妙な表情がうかがわれた。
「まあ、あなたは僕が必ず何か『しゃべりだして』、おまけにひょっとしたら……花瓶までこわすようにしむけてしまいましたね。ついさっきまで、僕は何ひとつ恐れなかったのに、今はもう何もかも恐ろしくなりました。僕はきっとやっつけられますよ」
「それじゃ黙ってらっしゃい。神妙に坐って黙ってらっしゃい」
「だめでしょう。僕はきっと、恐ろしさのあまり『しゃべりだして』、恐ろしさのあまり花瓶をこわすに相違ないと思います。たぶん、すべっこい床《ゆか》の上にころぶとか、何か、そういったようなことをしでかすでしょうよ。なにしろ、今までにもあったことですからね。きっと今夜は、僕は一晩じゅうそんなことばかり夢に見ますよ。なんだってあなたはそんなことを言いだしたんです?」
アグラーヤは憂鬱そうに彼を眺めた。
「ねえ、どうでしょう。僕はいっそ明日はまるきり行かないことにしましょうか。病気だと断わっておけば、それで事はすむはずです!」ついに彼は言いきった。
アグラーヤは足を踏み鳴らした。憤怒のあまり青ざめてさえしまった。
「まあ! そんな話って、どこにあるかしら! そのためにわざわざ催すところへ、当の御本人が来ないなんて!……ああ、いまいましい! あなたみたいな……悟りの悪い人を相手にするのは、いいお慰みだわ!」
「いや、まいります、まいります!」と公爵はあわててさえぎった、「そして、あなたに誓います、僕は一晩じゅう、ひと言も口をきかないで坐っています。必ず、そうします」
「見事にやってごらんなさい。ところで、あなたはいま『病気だと断わって』とおっしゃいましたね。ほんとにあなたはそんなことばづかいをどこから仕入れて来るんでしょう! わたしと話をするのに、そんなことばを使うなんて、どんなつもりなんでしょう! わたしをからかってるんでしょう、え?」
「済みません。これもやはり小学生のことばです。もうこれから気をつけます。あなたが……僕のことを気にかけてくださるのが、……僕にはよくわかります……(でも、怒らないでください!)僕はそれがとても嬉しいんです。あなたは本気になさらんでしょうが、僕は今ほんとにあなたのおことばがおっかないんです、……そして、ほんとに嬉しいんです。けども、誓って申しますが、そんなおじけはみんなつまらないことです。たわいもないことです。ほんとにです、アグラーヤ! そして、嬉しい気持だけが残るんです。僕はあなたがそんな子供なんで、そんな気だてのいい、可愛い子供なんで、嬉しくってしようがないんです! ああ、あなたはほんとに立派な人になれますよ! アグラーヤ!」
もちろん、アグラーヤはこんなことを言われて、腹を立てるのが当然であった。また、腹を立てようともしたのであるが、不意に、ある自分自身にとっても思いがけない感情が、一瞬にして彼女の心をつかんでしまった。
「あなたは今のわたしのぶしつけなことばを、おとがめにならないでしょうか……いつか……あとになって?」いきなり彼女はこう聞いた。
「あなたどうしたんです、どうしたんです! なんだってまた、かっとしたんです。そらまた陰気な眼つきをしていらっしゃる! あなたはどうかすると、恐ろしく陰気な眼つきをするようになりましたね。アグラーヤ、そんなことは以前はちょっともなかったのに。僕は知ってますよ、どうしてそんな……」
「黙っててちょうだい、黙ってて!」
「いや、言ったほうがいいです。僕はとうから言いたかったんです。もう、前にも言ったはずですが、あれだけでは……不十分です。だって、あなたは僕の言うことを本気になさらなかったんですからね。僕たち二人の間には、やっぱり、ある一人の人間が邪魔をしていて……」
「黙って、黙って、黙って、黙ってて!」とアグラーヤはしっかりと公爵の手を握りしめて、ほとんどおじけづいているように相手を見つめながら、いきなりさえぎった。
おりしも、彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。彼女はこれ幸いと喜ぶかのように、公爵をふり捨てて逃げて行った。
公爵はその晩一晩じゅう熱になやまされた。不思議なことに、彼はこのごろになって、夜になると必ず熱を出していた、その晩、半ば夢にうなされているとき、『もしも明日、みんなの前で発作が起こったらどうだろう?』という考えが胸に浮かんできた。今までにも、人のいる前でよく発作を起こしたのではなかったか? 彼はこのことを考えるとぞくぞくするのであった。一晩じゅう、彼は噂にさえも聞いたことのないような得体の知れない人たちの間にいる自分をしきりに心に描いていた。何よりも気にかかるのは、彼が『しゃべりだした』ことである。彼は、口をきいてはならないということを、よく承知していながら、しょっちゅう口を出して、何やら人々を説き伏せにかかっていた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチと、イッポリットもまた、来客の中に加わっていて、きわめて睦《むつ》まじげに見えていた。
彼は八時過ぎに眼をさましたが、頭が痛んで、考えはとりとめもなく、妙な印象が心に残っていた。どうしたわけか、彼は恐ろしくラゴージンに会いたくなった。会っていろんな話がしたかった。では、何を話すのか、それは自分にもわからなかった。それからまた何かの用で、イッポリットのところへも行こうと、すっかりその気になりかかっていた。胸のうちに何かしら晴れやらぬものがあって、ついには、この朝、ゆくりなくも身に降りかかってきたさまざまな出来事が、非常に強い、しかもなおなんとなく物足りない印象を与えるのであった。この出来事の一つは、レーベジェフの訪問であった。
レーベジェフはかなりに早く、九時を回ったばかりに、ほとんど酔いつぶれたようになって現われた。公爵は、このごろになって、目端《めはし》がきかなくはなっていたが、それでも、イヴォルギン将軍が引き払ってこのかた、すでに二、三日になるが、この間のレーベジェフの品行がひどく悪かったことを眼にとめないわけにはいかなかった。彼はなんだか急に油じみて、きたならしくなり、ネクタイは横のほうにねじくれて、フロックの襟はほころびていた。家でまで乱暴を働くようになり、その騒ぎが小さな庭ごしに聞こえてくるようになった。ある時などは、ヴェーラが涙ながらにやって来て、何やら訴えて行ったりした。
今朝は公爵のところへ現われて、自分の胸をたたきながら、なんだかひどく変妙な調子でしゃべりだして、どうしたわけか、済まなかったなどと言っていた。
「とられましたよ……とうとう、かたきをとられましたよ、裏切りをして卑劣なことをしたために……。横びんたを食らったんです!」ついに彼は悲愴な声でこう結んだ。
「横びんたを? 誰から?……しかも、こんなに朝っぱらから?」
「朝っぱらからですって?」レーベジェフは皮肉なほほえみを浮かべて、「今は時のことなんか問題じゃありません……たとえ体罰だったところで、……しかし、わたしが食らったのは精神的な……精神的な横びんたで、肉体的のじゃありません!」
彼は無遠慮にいきなりどっかと腰をおろして、くどくどと話しだした。彼の話しはひどく取りとめがなかったので、公爵は眉をひそめて、出て行こうとした。ところが、不意に話の一節が彼を愕然たらしめた。彼は驚愕のあまり、棒立ちになった。奇怪なことをレーベジェフ氏が物語ったからである。
最初の話は、見たところ、何かの手紙に関することらしかった。アグラーヤ・イワーノヴナという名前が挙げられた。やがて、だしぬけに、レーベジェフは当の公爵を痛烈に非難し始めた。彼が公爵に対して感情を害していることは察しがついた。彼の話によると、初めのうち公爵は例の『やつ』(ナスターシャ)の問題で、彼をすっかり信頼して、敬意を払っていたという。ところが、その後、すっかり交わりを断って、屈辱を与えて、自分のところから追い払ってしまい、あげくの果てには、『近く起こらんとしている一家内の変動についての罪のない質問』さえも邪慳《じゃけん》に突き放してしまうほどの無礼ぶりを発揮するに至ったという。レーベジェフは、血走った眼に涙を浮かべながら告白するのであった、「あれからというもの、わたしはどうしてもしんぼうができなかったのです。それも、いろんなことを知っていたので、なおさらです、……ラゴージンからも、ナスターシャ・フィリッポヴナさんからも、ナスターシャさんのお友だちからも、ワルワーラ・アルダリオノヴナさんからも……それから……それからあの御当人のアグラーヤさんからさえも、いろんなことを聞いていましたんで。それに、お察しのとおり、ヴェーラでございますね、あのわたしの可愛いい、一人娘の……さよう、……もっとも、たった一人ではございませんが、なにしろ、わたしには子どもが三人もありますんで、……まあ、とにかく、あのヴェーラを通しましたりして。ときに、リザヴィータ様に手紙をやって、たいへんな秘密までももらしたのは、どなたでございましょうね? へ、へ! あのおかたへの返事にナスターシャ・フィリッポヴナという人のいろんな関係筋のことや……動静を書いてやったのはどなたでしょうか、へ、へ、へ! どなたでしょう、この名なしの人はどなたでしょう! 失礼ながらお伺いしたいもんですよ」
「まさか君じゃないでしょう」と公爵は叫んだ。
「たしかに」と酔いどれは威厳をもって答えた、「今朝も八時半に、今からちょうど三十分前、いや、もう四十五分になりましょうが……母御様にある出来事を……たいへんな出来事をお知らせしたいと申し込みました。裏玄関から女中に頼んで、書面で。ところが、会ってくださいました」
「君がいまリザヴィータ夫人に会ったんですって?」と公爵はほとんど自分の耳を信じないかのようにして聞き返した。
「ただいまお目にかかって、横びんたを食らいましたんで、……精神的の……奥様は手紙を突き返されました。封も切らないやつをたたきつけたりなすって、……とんでもないやつだといって追い出されたんです、……でも、精神的にですからね、肉体的にじゃなかったんですよ、……もっとも、だいたいがその、肉体的といってもいいくらいでしてね、もうちょっとのところでしたよ」
「奥さんが、封を切らないでたたきつけなすったって、どんな手紙?」
「じゃ、本当は……へ、へ、へ! いったい、あなたにまだお話ししなかったんでしたかね! わたしはもうお話ししたものと思ってましたよ、……ときに、渡してくれと言って、ちょっとした手紙をことづかって来ていますがね、……」
「誰から? 誰に?」
しかし、レーベジェフの『説明』には、いったい何を言っているのか、少しでもわかってやろうと思うと、容易ならぬものが少なくはなかった。それにしても、公爵はせいぜいあれかこれかと考えてみて、この手紙はけさ早く、宛名の者に渡してくれるようにといって、女中を通してヴェーラ・レーベジェフのところへ届けられたものであると、やっと察しがついた。「前と同じように、……前と同じように、……例の|やつ《ヽヽ》に宛てて、例のおかたがおよこしになったもので……(つまり、わたしはあの二人のうち、一人を指すのに『おかた』、もう一人は卑しさを表わし、区別をするために、ただ『やつ』と言ってるんです。なにしろ、罪けがれがなくって、高貴な将軍令嬢と椿姫との間には、たいへんな相違がありますからね)、まあ、そういうわけで、手紙はAという頭字の『おかた』からのもので……」
「どうしてそんなはずが? ナスターシャ・フィリッポヴナさんに? 冗談じゃない!」と公爵は叫んだ。
「ありましたよ、あったんでございますよ。でも、あの女に宛てたんじゃなくって、ラゴージンにですよ。どっちにしても同じことですが、ラゴージンに宛てたものでございますよ。ある時などは、チェレンチェフ君(イッポリット)に宛てたものさえありましたよ、Aの字のつくおかたから、手渡しを頼んだのが」とレーベジェフは眼をまたたいて見せて、ほほえみをもらした。
この男はしょっちゅう、あれを話していたかと思うと、すぐにこちらへ飛んで来て、何から話しだしたのか、すっかり忘れてしまう癖があるので、公爵は種切れになるまで話をさせようと考えて、神妙に構えていた。が、それにしても、そんな手紙が彼の手を通って行ったものか、それともヴェーラの手を通って行ったものか、その辺のことは、やはり非常に曖昧であった。彼が自分から、『ラゴージンに宛てるのも、ナスターシャに宛てるのも、どっちにしても同じことだ』と断言している以上、たとい、そんな手紙があったにしても、彼の手を通って行ったものではないと見たほうがいっそう確かなわけである。それにしても、いかにして、この手紙がいま彼の手に落ちたか、ということは相変わらず、全く不明なのである。彼がどうにかこうにかして、ヴェーラのところからかすめとって、……こっそり、ちょろまかして、何かのつもりがあってリザヴィータ夫人のところへ持って行ったのだろうと仮定するのが最も正確らしかった。こう考えて、公爵はやっとのことで、呑み込むことができた。
「君は気が違ってるんです」彼はすっかり狼狽して、叫んだ。
「まんざらそうでもありませんよ、公爵様」とレーベジェフはいささか恨めしげに答えた、「実際、わたしは忠義を立てて、あなたに、お渡しいたそうという気になりかかったんですが、……しかし、いっそのこと、お母様に忠義を立てて、いっさいがっさいお話ししたほうがよろしいと考えましたんでね。つまりなんですよ、前にも一度、名なしの手紙で、お知らせしたことがあるんでしてね。で、さきほど、紙きれへ、八時二十分に御面談を願いたいと、前もってお都合を伺う手紙を書きましたときも、やはり、『あなた様の秘密通信員より』と署名しましたんでございますよ。すると、さっそく、無理に早くしてくだすったかのように、裏口から通してくださいましてね、……お母様のお部屋へ」
「それで?……」
「あちらへまいってからのことはもうわかりきったことでございますよ、もう少しのところで、たたかれるところでした。つまり、危機一髪というところで、いや、もう本当にたたかれたといってもよいぐらいでござんしてね。それで、手紙をたたきつけなすったんですよ。たしかに、御自分のお手もとへ残しておおきになろうとしかかっていたんですが、――それはわたしにもよくわかりましてね、ちゃんと気がつきましたよ、ところがです、また考えなおしなすって、たたきつけなすったわけです。『おまえのような者にことづけるぐらいならば、まあ、いいから、勝手に先様へ届けたらいいわ』と、こうおっしゃいましてね、……おまけに御立腹なすったんですよ。まあ、わたしのような者に、臆面もなく、そんなことをおっしゃる以上は、これはどうも御立腹なすったと見るのが至当でございましょうな。なにしろ、癇癪もちの質《たち》でしてね!」
「じゃ、いったい、その手紙は今どこにあるんです?」
「やはりわたしが持っております、これ」
と言って、ガーニャに宛てたアグラーヤの手紙を公爵に渡した。これは、この朝、ガーニャが二時間ばかりたってから、得々として妹に見せたものであった。
「この手紙は、君のところに取っておくべきものじゃありません」
「あなたに、あなたに上げましょう! あなたに進呈します」と、レーベジェフは熱心に後を引き取った、「これから、わたしはまた、あなたの家来です、すっかりあなたのものです、身も心も、ちょいと謀反気を起こしましたが、今度はもうあなたの家来です! あの英国の……トマス・モールス〔「ユートピア」の作者トマス・モア(Thomas More)のこと。ラテン風にモールス(Morus)ともいう〕の言いぐさじゃありませんが、……心をとがめて、身を許してくださいまし……。Mea culpa, mea culpa(わが罪なりわが罪なり)これはローマ上人の言ったことです、……つまり、それは――ローマ法王のことなんですが、わたしはローマ上人と言ってますんで」
「この手紙は今すぐ渡さなくてはなりません」と公爵は気にかかってきた、「僕が渡してあげましょう」
「でもいっそ、いっそ、ねえ、公爵様、いっそのこと、あの……あれしたほうがよかありませんか!」
レーベジェフは妙な、いじらしいしかめつらをした。まるで急に針ででも刺されたかのように、ひどくもじもじしだした。彼はずるそうに眼をぱちぱちさせて、両手で何かやって見せるのであった。
「なんですね?」と公爵は厳めしそうに聞いた。
「先回りをして、あけちゃったらどうでしょう!」しおらしそうに、いかにも秘密だというように、彼はささやいた。
公爵がひどく憤然として飛び上がったので、レーベジェフはまっしぐらに逃げ出しかかったほどであった。が、戸口まで行ったとき、ふっと、お許しが出るだろうと考えたので、立ち止まってしまった。
「ええっ、レーベジェフ君、君のような卑劣なことが、どうしたらできるんだろう、どうしたら?」と公爵は悲痛な叫び声をあげた。
レーベジェフの顔つきは晴れ晴れしくなってきた。
「卑劣なやつです、卑劣な!」と彼は眼に涙を浮かべながら、胸をたたいて、すぐに引き返して来た。
「実に下劣じゃないですか!」
「大きに下劣なことで。おことばのとおりです!」
「まあ、なんていう癖でしょうね、その癖は、……妙なことばかりして! だって君は……なんのことはない、体のいいスパイじゃありませんか! 君は何のために無名の手紙を書いて、気を使わしたんです……あんな立派な、善良至極な御婦人に? また、アグラーヤ・イワーノヴナさんが、自分の好きな人に、手紙を書いてやるのに、いけないっていう法がどこにあるんです? 君はそれじゃ、告げ口をするつもりで、今日わざわざあそこへ行ったんですか、え? 何かいいことがあると思ったんですか? なんだって、そんなあさましい了簡になったんです?」
「それはただ単に、のんきな好奇心と……やましいところのない親切気から出たことでして、はい!」とレーベジェフは口の中でつぶやいた、「今からは、もうすっかりあなた様のものです、また元どおりにすっかり! たとえ首を絞められようとも……」
「君は今のような、そんな格好をして、リザヴィータ・プロコフィーヴナさんのところへ出かけたんですか?」と、公爵は嫌悪の情を感じながら、ちょっとした物好きから聞いてみた。
「いいえ、……もっとみずみずしく、……もっと相当なといってもいいぐらいで。こんな格好になったのは……きめつけられてからのことでござんして」
「まあ、よろしい、僕にかまわないでください」
もっとも、このお客様がやっと思いきって出て行こうという気になるまでに、この請いを幾たびとなしにくり返さなければならなかった。もうすっかり戸をあけ放しておきながら、彼はまたもや引き返して来て、忍び足で部屋のまん中へやって来ては、手まねで手紙のあけ方を教えたりするのであった。しかし、口に出してまで、あけて見よと勧めるほどの勇気はさすがになかった。やがて、静かな愛想のいいほほえみを浮かべて、とうとう部屋を出て行った。
彼の話を耳にするのはたまらなく苦痛であった。いろんな話を聞いた中でただ一つ、重要であり、聞きずてならぬ事実があった。それは、アグラーヤがどうしたわけか(『嫉妬《しっと》のためだ』と公爵はひとり言を言ったが)、非常な不安と、なみなみならぬ逡巡と、激しい苦痛におそわれているという事実であった。また同様に、彼女がもちろん、質の悪い人たちに惑わされているということもわかってきたが、不思議でたまらないのは、彼女がそんな連中を、かほどまでに信用しているということであった。いうまでもなく、この世間に慣れない、熱情的な気位の高い頭脳のうちに、何か特別な計画が、ことによったら、熱しているのかもしれない、それも、身の破滅を招くような、……無鉄砲な計画かもしれない……。
公爵は極度におびえて、すっかり狼狽してしまって、どんな覚悟を決めたらよいのかわからなかった。ぜひとも、何か機先を制するようなことをしなければならないと、彼は痛切に感じていた。彼はもう一度、封をしたままの手紙の宛名を見た。ああ、そこには彼にとって、何の疑惑も不安もないのである、というのは彼がすっかり信じきっていたからであった。この手紙のなかで、彼に不安を感じさせたのはほかのことであった。彼はガヴリーラ・アルダリオノヴィッチを信用してはいないのである。
それにしても、彼はみずからこの手紙を彼に直接渡してやろうと決心しかかっていた、そうして、そのためにわざわざ家を出たのであったが、また途中で気が変わった。が、ほとんどプチーツィンの家のすぐそばのところで、まるでしめし合わしたかのように、コォリャにばったり出会ったので、公爵はアグラーヤから直接頼まれたような風をして、この手紙を兄に渡してくれと言ってコォリャに渡した。コォリャは何ひとつ尋ねるでもなく、すぐに兄の手へ渡したので、ガーニャはこの手紙がいろんな局を経由して来たとは、夢にも知らなかった。家へ帰ると、公爵はヴェーラを自分の部屋へ招《よ》んで、必要なことを話して、彼女を安心させた。彼女はそれまで一生懸命に手紙を捜したが、捜しあたらないので泣きだしていたからであった。手紙を父親が持って行ったと聞いて、彼女は慄然《りつぜん》とした(後になって、公爵はヴェーラから、彼女が一度ならず、ラゴージンとアグラーヤ・イワーノヴナのために、ひそかに後押しをしてやったということを聞かされた。これが公爵の邪魔になろうとは、彼女は思いもよらなかったのである)。……
ついに、公爵はすっかり頭が混乱してしまって、二時間ばかりたって、コォリャからの使いの者が駆けつけて来て、父の発病を知らせた時にさえも、最初のうちは、何のことやらほとんど合点がいかなかったほどであった。しかし、この出来事は彼の元気を引き立ててくれた。すっかりそのほうに気を奪ってしまったからである。彼はニイナ・アレクサンドロヴナのところに(病人はもちろん、ここへかつぎこまれたのである)、晩までほとんどずっと居通した。彼はほとんど何の役にも立たなかったが、苦痛なときにどうかすると、傍にいてくれるだけで、なんとはなしに、こちらに快い感じを与える人があるものである。コォリャはひどく驚いて、ヒステリカルに泣いていたが、それでもしょっちゅう走り使いに出ていた。医者を迎えに走って行って、三人もの医者を見つけて来たり、薬屋や理髪店へ駆けつけたり、なかなかたいへんであった。
将軍は息を吹き返したが、相変わらず意識不明であった。医者は「とにかくこの患者は危篤です」と言った。ワーリヤとニイナ夫人は、病人の側を離れなかった。ガーニャはすっかりどぎまぎして、おびえきっていたが、しかも二階へ上がろうともせず、病人の顔を見るのをさえも恐れていた。彼は非常なショックを受けて両手を固く握りしめていたが、公爵ととりとめもない話をしているうちに、ついうっかりと、「まあ、なんていう災難でしょう。しかも、わざとのように、こんな時に!」と口をすべらした。公爵には、彼のいう時というのは、どんな時なのか、よくわかるような気がした。公爵はプチーツィンの家に、もうイッポリットの姿を見ることができなかった。
夕方近くなって、レーベジェフが駆けつけて来た。彼は朝の『告白』がすんでから、今までぐっすり、一度も眼をさまさずに寝ていたのである。いま彼はほとんど酔いが醒めて、まるで親身の兄にでも対するように、病人の身の上を悲しんで、かりそめならぬ涙を流して泣いていた。彼は聞こえるようにわびを言っていたが、その子細を説明はしなかった。そして、ニイナ夫人にうるさく付きまとって、「これはわたしが因《もと》なんですよ、たしかにそうでござんす、ほかの誰でもござんせん、……元をただせば、これもただ単にのんきな好奇心から出たことなんでござんして。……『故人』は(彼はまだ生きている将軍をつかまえて、どうしたことか、執拗にこう呼ぶのであった)、実に天才ともいうべき人でした!」と、しっきりなしに口説いていた。彼はこの天才ということをことにまじめに主張した。あたかもこのことから、今の今、何か非常な利益が生じてでもくるかのようであった。ニイナ夫人も、ついにはその真ごころからの涙を見て、少しも不平がましいことは言わずに、むしろ優しさをさえも見せるくらいにして、「まあ、大丈夫ですから、泣かないでくださいね、ほんとに、神様があなたを許してくださいますよ!」と言った。レーベジェフはこのことばとその調子に、すっかり感激してしまって、一晩じゅうニイナ夫人の傍を離れようともしなかった(次の日もその次の日も、将軍の死ぬ時まで、彼はほとんど朝から晩まで、この家で時を送っていた)。
この一日のうちにリザヴィータ夫人の使いが二度も将軍の容態を聞きに来た。公爵はその晩の九時ごろ、もう客でいっぱいになったエパンチン家の客間へ現われると、さっそくリザヴィータ夫人は病人のことを根掘り葉掘り、こまごまと熱心に尋ね始めた。そして、「いったい、病人というのは誰のことです、またニイナ・アレクサンドロヴナというのはどんな人です?」というベラコンスカヤ夫人の問いに対して、しかつめらしく返答をした。公爵にはこれがひどく気に入った。彼自身もリザヴィータ夫人に説明をしているとき、あとでアグラーヤの姉たちの言ったことばでいうと、『すばらしい』話し方をした。『よけいなことばを使わないで、身ぶりも入れず、品位を保って、つつましやかに、静かに話をして、はいって来る時もすばらしかったし、身なりもすてきだった』という。前の日に心配したように、『なめらかな床でころびもし』なかったばかりか、明らかに、快い印象をさえも与えたという。
公爵はまた公爵で、座について、あたりを見まわしたとき、ここに集まっている人たちが、誰ひとりとして、昨日アグラーヤがおどしつけたような、幻にも、昨夜、夢に見た夢魔にも、ちょっとも似ていないということを、すぐに見て取った。彼は生まれてはじめて、『社交界』という恐ろしい名で呼ばれているものの一端を見たのであった。彼は二、三の特別なもくろみと想像とあこがれとによって、この魔法の国のような仲間へはいりこむことを、久しい前から渇望していたので、第一印象に、ひとかたならぬ興味を覚えた。この第一印象は、魅力にさえも富んでいた。なんとはなしに、これらの人々は、こうしていっしょになるために、生まれて来たのではないかしらと、すぐにそういう気がするのであった。エパンチン家に、別に夜会などというものがなくて、この夜会に、招待された客もなく、ここにいる人たちは全く『うちの人』で、彼自身もずっと前から、これらの人々の親友であり、ほんのしばらく別れていて、今その仲間へ帰って来たのだというような気持もするのであった。
スマートなそぶりや、あっさりした様子や、純情らしい感じの魅力はほとんど魔術めくほどのものであった。彼の脳裡には、こうした純情らしい感じも、品のよい態度も、機知に富んだ話しぶりも、堂々たる風采も、単なる技巧的な見せかけにすぎないものであるという考えなどはさらに浮かばないのであった。お客の大部分は、人に尊敬の念を起こさせるような風貌を備えているのにもかかわらず、むしろ頭の足りない、たわいもない人たちばかりであった。もっとも、彼ら自身も、うぬぼれをもっているので、自分たちのもっているすぐれたものが――単なる見せかけにすぎないことを知らないでいたのである。それに、かような見せかけも彼ら自身の知ったことではなかったのだ。なぜというのに、それは無意識の間に生じ、親代々のものだからである。
公爵は第一印象の美しさに魅惑されて、そんなことを気にとめて見ようともしなかった。彼には、たとえば、年輩からいえば、彼の祖父にあたるぐらいのこの老人、重要な位置にある高官が、こんな世慣れない青年のことばを聞くために、わざわざ自分の話しをやめてしまって、ただ聞いているだけではなく、いかにも彼の意見を尊重しているらしい様子で、彼に対しても愛想がよく、真ごころから好意を示しているのだというように思われた。しかも、二人はここにはじめて顔を合わしたばかりの見ず知らずの他人ではないのかとも考えた。おそらく、公爵の鋭敏な感受性には、何よりもこの洗練された懇《ねんご》ろな態度が強い効果を与えたのであろう。ことによると、彼が初めからあまりにおもわくをしすぎて、幸福な印象を受け入れるような気分に、前もってなりきっていたのかもしれぬ。
それにしても、これらの人たちは――もとより、『この家にとっても、またお互い同志の間でも、親友』ではあったに相違ないが、――しかも、これらの人々に引き合わされて、紹介をされるやいなや、公爵がすぐに愛着を感じてしまったほど、この家にとっても、お互い同志の間でも、それほど親しい間柄ではなかった。そこには、エパンチン家の人々を、ほんの表向きにでも自分と対等のものと認めていない人たちもあった。また、お互いに心の底から憎み合っているような人たちもあった。ベラコンスカヤのお婆さんは、一生涯、『年寄りの高官』の夫人をさげすんでおり、またその夫人のほうは、リザヴィータ・プロコフィーヴナをあまり好いてはいなかった。彼女の良人たる『高官』はどうしたわけかエパンチン将軍夫妻が若い時分からの保護者で、今夜一座の音頭取《おんどと》りになっていた。この人はイワン・フョードロヴィッチの眼から見ると、非常に重要な人物なので、彼はこの人の前へ出ると敬虔の念と恐怖よりほかには、なんらの感じも覚えないほどであった。もしも、彼がほんの一分間たりとも、この人をオリンピアのジュピタ神のようにあがめずに、自分と対等の人間だなどと考えるようなことがあったならば、それこそ彼は心から自分を侮蔑せずにはいられなかったであろう。
そこにはまた、もう幾年も顔を合わせたことがないので、お互いに、たとい嫌悪の念ではないにしても、無関心な冷淡な気持よりほかには、なんらの感じももっていないのに、まるでつい昨日あたり、かなりに打ち解けた気持のいい会合で、顔を合わせたばかりのような風をしている人たちもあった。とはいえ、この集いは、それほど多人数ではなかった。ベラコンスカヤ夫人と、事実において重要な人物である『年寄りの高官』と、その夫人を別として、第一番に指を折られる人には、男爵か伯爵かで、ドイツ名前を持った、しっかりした陸軍の将軍がいた。この人は、人並みはずれて無口な人であるが、行政方面のことに驚くべき知識をもっているので評判な人で、むしろ博学をもって評判なくらいの人であった、――『おそらくロシアそのものに関する以外』のことならば、なんでも知らないものはあるまいというほどの、オリンピアの神々にもなぞらうべき為政者の一人であり、『その深刻なる点において、まことに刮目《かつもく》すべき』警句を五年に一度、吐いて聞かせる人であった。しかも、その警句たるや、一たび発せられると、必ず格言となって、畏《かしこ》きあたりにまでも知られるのであった。この人は普通に、ひとかたならず長い年月にわたる(むしろ奇妙なほどに)奉職ののちに、これというほどのたいした勲功をも立てずに、かえって、勲功などというものに、いくぶんの敵意をさえも持ちながらも、高い官等と、立派な地位と、非常な金をもたらして、あの世の人となってゆくありふれたお上《かみ》の役人の一人なのであった。
この将軍は勤めのほうで、エパンチン・フョードロヴィッチの直属長官にあたっているので、エパンチンは持ち前の熱烈な、感じやすい性質のうえに、うぬぼれまでが手伝って、この将軍をもやはり恩人扱いにしていた。ところが、相手のほうではけっして自分のことを、エパンチン・フョードロヴィッチの恩人だとも思っていないので、全くすましこんで、ほどよくあしらっていた。エパンチン将軍の示してくれるさまざまな好意を、喜んで受けていたとはいうものの、もしも、そうしたいという気持が起こってきたら、たとい取るにも足らない気持であろうとも、いささかも仮借するところなく、今にでもイワン・フョードロヴィッチの椅子に、ほかの官吏を坐らせるかもしれないのである。
そこにはもう一人、相当の年輩の偉そうな紳士がいた。この人は、リザヴィータ夫人の親戚でもあるかのように考えられているが、それは全く見当違いなことであった。この人は位階も勲等も立派な人で、財産もあり、門閥も高い人で、肉づきがよく、体格もかなりにがんじょうで、非常に能弁家であった。それに、世間では不平家だとか(それも非常に穏当な意味においてではあったが)、癇癪もちだとか(しかも、この人にあっては、気持のよいことである)いう評判さえも立てられていた。この人の習慣はイギリスの習慣で、趣味もイギリス風であった(まず言ってみれば、血のたれるようなローストビーフだとか、馬具だとか、侍僕の服装だとか、そんな風のことで)。
彼は『高官』とは大の仲よしで、いつも彼の機嫌をとっていた。それは別として、リザヴィータ夫人はどういうわけか、この中年の紳士が(この人はいくぶんうわ気で、若干、女好きであった)、ふっと、アレクサンドラに結婚を申し込んで、幸福を授ける気になるかもしれないという、妙な考えをいだいていた。
この最上流に位する、重みのある連中の下には、同じく身分の点ではひけはとらないが、もっと年の若い連中が控えていた。S公爵とエヴゲニイを除いて、この階級に属する人に、有名な、色男のN公爵があった。これはヨーロッパじゅうの女を悩殺するほどの人で、また女ごころの征服者でもあった。もう今では四十五くらいの年輩になるが、相も変わらず風采は美しく、話しぶりも巧妙で、いくぶん家政が紊乱《びんらん》しているとはいうものの、かなりの財産家で、習慣のうえから、いずれかといえば、外国に多く暮らしていた。
そこにはまた、第三の階級ともいうべきものを形づくっている人たちがいた。この人たちは、本来ならば『限られた社会』には属しないものであるが、エパンチン家の人たちと同様に、どうかすると、どうしたわけか、この『限られた社会』に見受けることのできる連中であった。これらの人々が原則としている一種の気転によって、エパンチン家の人たちはまれにお客を招待して催す夜会のときに、上流の人々と、ややその下につく人々、すなわち『中流階級』の選り抜きの代表者とを好んでつきまぜるのであった。エパンチン家の人たちは、このことによって賞め讃えられ、あの人たちは自分の位置というものをよく知っているとか、気転のきく人だとかいう噂を立てられていたので、彼らもこういう意見を誇りにしていた。この晩の『中流社会』の代表者は、さる工兵の大佐であったが、この人はまじめな人物で、S公爵とはかなりの親しい間柄なので、彼によってエパンチン家へ紹介されたのであった。もっとも、この連中のうちでは無口で、右手の人さし指に、おそらく御下賜品であろうが、大きな、よく眼につく指環をはめていた。
またそこにはもう一人、文学者で詩人である人さえもいた。元はドイツ人の出であるが、今では立派なロシアの詩人で、そのうえ、きわめて礼儀正しいので、立派な席へ案内してもなんら危ぶむことはなかった。彼は立派な風采をしていたが、どういうわけか、それは妙にいやらしいものであった。年は三十八くらいで、申し分のない服装をしていた。極度にブルジョアくさい、しかも極度に尊敬されているドイツ人の家庭に属してはいたが、よく種々の機会を利用して、身分の高い人の援助を受け、その恩顧をこうむることがあった。いつぞや、さるすぐれたるドイツ詩人の名作を、韻文の形でロシア語に訳した時は、ある人にその翻訳を献呈するほどの器用なことをし、ある有名な、しかも今は故人となっているロシアの詩人と親交のあったことを自慢したりすることも心得ていた(偉大な、しかも、今はこの世にいない作家と親交があったことを、麗々しく発表するのを好んでいる作家は捨てるほどある)。この詩人はつい近ごろ、『年寄りの高官』の夫人によって、エパンチン家へ紹介されたばかりであった。
この夫人は作家や学者のパトロンとして評判されていたが、実際に、彼女と因縁のある知名の士たちの助力をえて、一人ないしは二人の作家に奨励金を与えてもいたのである。たしかに、夫人はそれにはそれだけの因縁をもっていた。彼女は、年ごろは四十五ほどであった(してみると、良人として、こんなに年老いた人をもっているのには、きわめて若いわけである)、もとはなかなかの美人であったが、今は四十五ぐらいの貴夫人にありがちな凝《こ》り性の病いで、ひどくけばけばしい風をするのが好きになっていた。あまり頭のいい人ではなく、文学の知識の点でも、きわめて怪しいものがあった。しかし、文学者を援助することはこの夫人にとっては、派手な服装をするのと同じたぐいの病癖《マニア》であった。作品や翻訳の、夫人に献呈されたものは、かなりに多かった。二、三の作家は夫人の許しを得て、はなはだ重大な事柄についての夫人宛の手紙を、公けに発表した……。
さて、公爵はこうした一座の人々を、まごう方なき金貨のように、少しも混ぜ物のない金無垢《きんむく》のように考えたのであった。もっとも、これらの人々もまた、まるでしめし合わせたかのように、この晩は非常に上機嫌で、それぞれにかなりの満足を覚えていた。いずれも、そろいもそろって、自分たちはエパンチン家を訪問して、同家に大きな名誉を与えたのだと考えていた。しかし、悲しいかな、公爵にはそんなデリケートなことは想像もつかなかった。たとえば、彼には、エパンチン夫妻が、娘の運命を決すべき重大な処置をとろうとしているとき、自分たち一家の擁護者である年寄りの高官に、彼、レフ・ニコライヴィッチ公爵を引き合わせることを忘れ果てて、平気でいるなどということができようはずはないのに、それすら察しがつかなかったのである。ところで、年寄りの高官のほうはどうかというに、彼はエパンチン家に降りかかって来た最も恐るべき不幸の報知をすらも、平然と落ち着き払って聞きかねないほどでありながら、ここにもしエパンチン夫妻が彼に相談せずに、いわば、勝手気ままに、娘を婚約させたりなどしようものなら、必ず感情を害するに相違ないのである。
N公爵、この愛嬌のある、たしかに機知に富んで、磊落《らいらく》な人は、自分こそはこよいエパンチン家の客間にさし昇った太陽にもなぞらうべきものだとあくまでも信じきっていた。彼はこの家の人たちを自分よりもはるかにはるかに身分の低いものと見なしていたので、こうした純情な、気高い考えが、このエパンチン夫妻に対する、驚くばかりに打ちとけた、優しい、ねんごろな気持をよび起こさせたのであった。
彼はこの晩ぜひとも、一座の人たちを魅了するような話をしなければならないことを、よくよく承知していて、一種のインスピレーションをさえも感じながら、その心構えをしていた。やがて後に、N公爵の物語を聞いたムィシキン公爵は、このN公爵のようなドン・ジュアン〔ここでは、道楽者で口のうまい人という意味〕の口から出たすばらしいユーモアや、驚くべきまでに陽気な調子や、ほとんど感動おくあたわざらしむるといってもよいほどの素朴なことばづきに比すべきものは、いまだかつて一度として聞いたことがないと、しみじみ考えるのであった。それにしても、この物語が、いかばかり陳腐なものであり、言い古されたものであるか、いかばかり諳《そら》で覚えられるほど人に知られているものか、いかばかりすり切れているか、どこの客間へ行ってもいかばかり飽き飽きされているか、やっと無邪気なエパンチン家にあらわれて、いかにも新しい話のように思われて、立派な、美男子の胸に思いがけなく浮かんできた、真ごころからの華やかな思い出話でもあるかのように考えられたのだ、――というくらいのことでも、公爵が知っていたならよいものを!
さて、例のドイツ系の詩人は、非常に愛想よく、つつましやかにふるまってはいたが、しかも、ほとんど自分の訪問によって、この家に対して名誉でも与えたかのようなつもりになっていた。ところが、公爵はこうした裏面の事情には、全く気がつかなかったのである。
この醜態に対してはアグラーヤにも先見の明がなかった。彼女自身は、この晩は、すばらしくきれいであった。三人の令嬢はみなそれほど派手ではなかったが、粋《いき》な身なりをして、髪の結い方はなんとはなしに、いつもとは違っていた。アグラーヤは、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチの傍に腰をかけて、かなりに親しげに話し合ったり、冗談を言ったりしていた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチもまた、おそらくは名士たちに対する敬意からであろうが、ほかの時よりは、いくぶんどっしりと構えていた。もっとも、彼は社交界ではすでにはやくから人に知られて、年こそ若かったが、もう何の気がねもなくなっていた。この晩、彼は帽子に喪章をつけてやって来たので、ベラコンスカヤ夫人は、亡き叔父に対する礼儀を賞め讃えて、ほかの社交人であったら、こんな場合に、甥としてあのような叔父のために、おそらく喪章などは付けなかったろうと言った。リザヴィータ夫人も、やはり、これには満足していたが、概して、なぜかしら、ひどく心配げな様子を見せていた。公爵は、アグラーヤが二度ばかりも、自分のほうを、しげしげと見つめていたのに気がついていたが、どうやら、アグラーヤが今もなお公爵に満足しているらしく思われた。だんだんと彼は自分を幸福だと感ずるようになってきた。さきほどの『気まぐれ』な考えや危惧の念(レーベジェフと話をしたあとでの)は、ゆくりなくも、幾たびとはなしに心に浮かんできたが、今はとうていこの世にありうべからざる、むしろ滑稽なくらいの夢にすぎないものと思われた! それは別としても、無意識にではあったが、さきほど、というよりも、この一日じゅう、最も大きな念願となっていたものは、――どうかしてこの夢を信じないようにしようということであった。
彼はあまり口をきかなかった。それも、ただ質問に答えるだけのことであった。ついには、すっかり口をつぐんで、じっとしたまま、他人の話に耳を傾けるばかりであった。が、楽しい感じにふけっているのだとは明らかに看取された。彼自身のうちにも、しだいしだいに、よいおりさえあれば燃えあがろうとしている一種の感興が湧いてきた……。彼ははからずも口を出した。これまた、質問に答えてではあったが、全くなんら特別な下ごころもなく、うっかり口をすべらしたかのようであった……。
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七
彼がいい気になって、N公爵やエヴゲニイ・パーヴロヴィッチとことばを交えているアグラーヤを見まもっている間に、今まで一方の隅で、高官のお相手をして、元気よく何か話を聞かしていた中年の紳士、英国狂《アングロマン》が、不意にニコライ・アンドレーヴィッチ・パヴリシチェフという名を口にした。公爵は、ひょいと、そのほうをふり向いて、耳をすまし始めた。
話題は……県の地主領に対する現行の制度のことや、何かの騒ぎのことであった。ついに年寄りの高官が、話相手の気むずかしい激越な調子を笑いだしたところをみると、英国狂の話には、何かおもしろいところがあったに相違ない。英国狂は母音に柔らかな力点をつけ、なんだか気短らしく、ことばじりを引きながら、現行制度の直接の影響をこうむって、……県におけるすばらしい所有地を、特に金が困ったというわけでもないのに、ほとんど半値で売ってしまい、しかも同時に、不利益な、訴訟問題がからまっている荒廃した土地を、金まで払いながら、手に持っていなければならなくなった理由を、流暢《りゅうちょう》に物語っていた。
「パヴリシチェフ家の領地と訴訟でも起こしたら大変だと考えて、あの人たちのところを逃げて来ました。あんな親ゆずりの土地がもう一つか、二つもあったら、それこそわたしは破産していたはずです。もっとも、わたしはあそこで立派な土地を、三千町ばかり手に入れましたよ!」
「それ、あの……イワン・ペトローヴィッチは亡くなったニコライ・アンドレーヴィッチ・パヴリシチェフさんの親類なんですよ、……君はなんだか、親類の人を捜しておったようだが」と、イワン・フョードロヴィッチは、不意に公爵のところへ来て、彼が二人の話になみなみならぬ注意を払っているのに気がついたので、小さな声でささやいた。それまで、将軍は自分の長官のお相手をしていたのであるが、もうかなり前から、レフ・ニコライヴィッチが全く一人ぼっちになっているのに気がついて、心配しだしたのであった。彼はある程度まで、公爵を話の仲間へ入れて、そうして、もう一度、『上流の人たちに』引き合わせ、紹介をしようという気になった。
「レフ・ニコライヴィッチ君は両親をなくして以来、ニコライ・アンドレーヴィッチ・パヴリシチェフさんに育てられた人です」と彼はイワン・ペトローヴィッチ(英国狂のこと)の視線を迎えて、くちばしを容《い》れた。
「いやぁ、実に愉快ですなぁ」と相手は言った、「ようく覚えていますよ。さっきイワン・フョードロヴィッチさんが御紹介くだすった時に、すぐに気がつきましたよ、顔さえ覚えていますよ。あなたは実際、あんまりお変わりになりませんねえ、わたしがあなたを見たのは、まだあなたが子供で、十か十一ぐらいでしたのに。いや、なんとなくお顔に、昔を思い起こさせるところがありますね……」
「あなたは僕が子供のころにお目にかかったんですか?」公爵はなんとなくひとかたならぬ驚きをいだいて尋ねるのであった。
「おお、もうかなり昔のことですよ」とイワン・ペトローヴィッチはことばを続けた、「なんでも、あなたが、金梢村《ズラトゥエルホーヴォ》のわたしの従姉《いとこ》たちのところにいらしったころですよ。わたしは昔は、しょっちゅう、金梢村へ出向いていましたが、――わたしを覚えていらっしゃらないでしょうね? 覚えていらっしゃらないのがあたりまえですよ……、あなたはあのころ、……何か病気をしていらっしゃいましたね、で、一度などは、あなたを見てびっくりしたものでしたよ……」
「ちょっとも覚えておりません……」公爵は熱心に念を押した。
それからなお、イワン・ペトローヴィッチのほうは極度に落ち着き払い、公爵のほうはびっくりするほど興奮して、とにかく、互いに話をしてみると、公爵が養育方を託された亡きパヴリシチェフの親類にあたり、金梢村に住んでいた中年のオールド・ミス二人は、同時にまた、イワン・ペトローヴィッチの従姉にあたることがわかってきた。イワン・ペトローヴィッチも世間の誰彼と同様に、どういう子細があってパヴリシチェフが、いとけない公爵の身の上をあんなに心配したのか、説明することができなかった。
「それにあのころ、そんなことに物好き心を起こすのを忘れていましたからね」と言ったが、それにしても、この人がかなりに記憶のよいことがわかった。というのは、彼はマルファ・ニキーチシナという年上のほうの従姉が、幼い子供に対して、どんなに厳重であったかということまで、思い起こさせたからである。
「ですから、一度なぞはあなたの教育方針のことで、その従姉と口ぎたなく喧嘩したことさえもありましたよ。なにしろ、病身の子供を仕込むのに、明けても暮れても鞭棒《べんぼう》という始末で、――いや、そんなことは……御承知でしょうが……」ところが、これに反して、年下のほうのナタリヤ・ニキーチシナが、病身の子供に対して、どんなに優しかったかということも話してくれた。「二人とも今は(と彼は先から先へと説明した)、……県に住んでいます(もっとも、今なお生きているかどうかは知りません)。その県には、パヴリシチェフが二人の従姉に残した実に実に整然とした小さな領地がありましてね。マルファ・ニキーチシナは、修道院へはいりたがっていたようです。もっとも、これは断定の限りではありません。ひょっとしたら、誰かほかの人の噂だったかもしれません、……そう、これはついせんだって、お医者さんの妻君の話を聞いたので、……」
公爵は歓喜と感激とに眼を輝かせながらこの話を聞いていた。今度は彼のほうから、この六か月の間、内部のあちこちの県を旅行しながら、もとの養育院を捜し出して、訪問する機会をとらえなかったことを、常に済まないと思っていると、非常な熱をこめて告げるのであった。
「毎日のように出かけたいとは思いながら、やはりいろんな事情に妨げられたのです。しかし、今度こそは必ず、……是が非でも、……たとい、……県でもかまいません、行って来ます……では、あなたはナタリヤ・ニキーチシナさんを御存じなんですね!(なんという美しい、なんという聖い心のおかたでしょう!)けれど、マルファ・ニキーチシナさんは、……いや、御免なさい、あなたはマルファ・ニキーチシナさんを勘違いしていらっしゃるようですね! あのかたは厳しいおかたではありました。けれど、……あのころの僕のような……白痴《ばか》には、やりきれなかったんじゃありませんか(ひ、ひ!)。だって、僕はあのころ全く白痴《ばか》でしたからね、あなたは本当にはなさらないでしょうが(は! は!)。もっとも、……もっとも、あなたはあのころの僕とお目にかかっていらしったんですね、……してみると、いったい、どうして僕はあなたを覚えていないんでしょう。どういう訳ですか、聞かしてくださいませんか? じゃ、あなたは……ああ、いまいましい、それでは、本当にあなたはニコライ・アンドレーヴィッチ・パヴリシチェフさんの御親類なんですね?」
「たぁしかに、そぉです」とイワン・ペトローヴィッチは、公爵をじろじろ見まわしながらほほえんだ。
「おお、僕はけっして……うたぐったがために、そんなことを申したわけじゃありません。それに、まあこれがいったい疑われるようなことでしょうか(へ! へ!)、……たとい少しばかりでも? 全くほんの少しばかりでも!(へ! へ!)僕があんなことを言いだしたのは、つまり、亡くなったニコライ・アンドレーヴィッチ・パヴリシチェフさんが、実に立派な人だったからです! 全くおうような人でしたねえ、本当に、正直のところ!」
公爵は息切れがしたというわけではなかったが、いわば、『美しい愛情のために咽《む》せかえった』のであった。これはあくる朝、アデライーダが、未来の良人であるS公爵との会話の中で言ったことであるが。
「ああ、これはどうも!」とイワン・ペトローヴィッチは笑いだした、「いったい、どうして、わたしは、おうような人の親戚になる資格がないんでしょうね?」
「ああ、とんでもない!」公爵はしだいしだいに興奮しながら、あわてて、どぎまぎしながら叫んだ、「僕は……僕はまたばかなことを言ってしまいました、しかし、それが当然な話です、なぜって、僕は……僕は……それにしても、僕はまた、とんでもないことを言ってしまって! それに、こんなおもしろい話があるのに、……こんなすばらしくおもしろい話がたくさんあるのに、……僕のことなんか話して何になりましょう! それに、そんなおうような人にくらべると、僕は……、だって、全くあのかたはおうような人でしたものね、そうじゃありませんか? そうじゃありませんか?」
公爵はからだじゅうをぶるぶる震わせてさえもいた。なぜ彼がこれというわけもないのに、急にこんなに小躍りして喜んだのか、しかも、話題とはまるで調子が合わないと思われるほど感激したのか、――ということになると、容易に解答がつきかねるのである。とにかく、こうした気分になってしまっていたので、ほとんど彼はこの瞬間に、誰かに対して、何かの理由で、非常に熱烈な、感傷的な感謝の念をさえも感じていたのである、――おそらく、この感謝の念はイワン・ペトローヴィッチにさえも、ないしは客全体にも向けられていたであろう。彼はもうすっかり『嬉しくてたまらなかった』のである。
イワン・ペトローヴィッチはついに、じっと眼を据えて、彼を眺め始めた。『高官』も、しげしげと彼を見つめていた。ベラコンスカヤ夫人は、彼のほうへ腹立たしそうな視線を注いで、唇をかみしめていた。N公爵、エヴゲニイ、S公爵、令嬢たちも、話をやめて聞き耳を立てていた。アグラーヤは、愕然としたらしかった。リザヴィータ・プロコフィーヴナはただただおじけづいていた。この母と娘は変な人たちであった。自分たちで勝手に、公爵は一晩じゅう黙って坐っていたほうがよかろうと決めておきながら、公爵が片隅に全く一人ぼっちになって、自分の境遇に満足しきっているのを見るやいなや、もうすぐに気がかりになってきた。アレクサンドラはもう、そっと気をつけて向こうの隅の彼のところへ行って、仲間に、つまり、ベラコンスカヤ夫人のわきにいるN公爵の仲間に加えてやろうと考えていた。ところが、公爵が自分のほうから話しだすと、母と娘はいっそうはなはだしく気をもみだしたのである。
「立派な人だったということは、あなたのおっしゃるとおりです」と、押しつけるように、もう微笑もみせずに、イワン・ペトローヴィッチが言った、「そう、そう、……あれはすばらしい人でした! すばらしい、そして、値打ちのある人でした」しばらく口をつぐんだが、またこう付け足した、「それどころか、あらゆる尊敬を受くべき価値のある人、といってもいいくらいでした」と、彼は三たび沈黙ののち押しつけがましく付け加えた、「しかし、……しかし、かえって非常に愉快です、あなたがそんなに……」
「そのパヴリシチェフ氏じゃないですか、何か……妙な話があったのは……カトリックの僧院長について、……カトリックの僧院長、どんな坊さんだったか……忘れてしまったけれど、あの当時みんなが何か言ってたようですが」と、ふと思い出したかのように『高官』が言った。
「あれはジェズイト派の僧院長グゥロォです」とイワン・ペトローヴィッチは思い起こして、「そうでした、あれは、わが国でも珍しい立派な、尊敬すべきおかたでした! とにかく、門閥はよし、財産はあり、ずっと続けて勤めていたら、侍従くらいにはなれた人だったのですからね。……それが、どうでしょう、不意に勤務も何もすっかり放り出してしまって、カトリックに改宗して、ジェズイト派になるなんて、しかもほとんど大っぴらで、一種の感激までもっているなんて。実際、いい時に死んだものですよ、……全く。あの時はたいへんな噂でしたね、……」
公爵はわれを忘れてしまった。
「パヴリシチェフさんが……パヴリシチェフさんがカトリックに改宗したんですって? そんなはずってあるもんでしょうか!」と彼は慄然《りつぜん》として叫んだ。
「え、『そんなはずってあるものか』ですって!」とイワン・ペトローヴィッチはどっしりとした態度で言った、「それは言いすぎですよ、御自分でもおわかりでしょうが、……しかし、あなたは非常に故人を尊敬しておいでのようですから……実際、あの人は善良至極な人でしたよ。つまり、そういうところがあるために、グゥロォという山師につけこまれたんだと僕は考えています。しかし、その後このグゥロォの一件について、わたしがどれほど骨折って奔走したか、全くお聞かせしたいくらいです。いかがでしょう」と彼は不意に高官のほうを向いた、「その連中ですがね、遺産についての要求まで持ち出そうとしたのですよ。そこで、わたしは思い知らせるために、やむを得ず、最も、その強硬なる手段に訴えるようなことにまでなったのです、……なにしろ、あいつらは、したたか者ですからね! 驚き入るほどの! しかし、いいあんばいに、この事件はモスクワで起こったものですから、わたしはすぐ伯爵のところへ駆けつけて、いっしょになって、あいつらに思い知らしてやりましたよ……」
「こんなことを申しても本当にはなさらないでしょうが、僕はあなたのためにすっかり悲観してしまいましたよ、そして、びっくりしてしまって!」と公爵はまたもや叫んだ。
「それはお気の毒さま。しかし、実際のところ、はっきり言うと、この事件は実につまらない話で、いつもおきまりで、あっけなく終わるはずだったんですよ。わたしはそう信じています。昨年の夏」と再び高官のほうを向いて、「K伯爵夫人もやはり、外国のあるカトリックの修道院へはいったという噂です。どうもロシア人はあの……山師にかかったとき、じっと持ちこたえることができないようですね……ことに外国にいる人は、その傾向が著しいものがありますね」
「それはつまり、ロシア人の倦怠から来るんだと……と思う」と年寄りの高官はしかつめらしく、もぐもぐ言った、「まあ、それにあの連中の説教のやり方が……一流の派手なもので、……脅かしがうまいので、わしも三十二年(一八三二)はウィンナで脅かされてね、実際。もっとも、降参しないで、逃げ出してしまったよ。は、は! 本当に逃げ出したんだよ」
「わたしの聞いた話では、あなたはきれいなリヴィツキイ伯爵夫人といっしょに、任務をすてて、ウィンナからパリへ『逃げ出し』たそうじゃありませんか、ジェズイト派から逃げ出したんではなく」と不意にベラコンスカヤ夫人が口をいれた。
「まあ、しかし、それもやはり、ジェズイト派からのがれたということになりますよ、ジェズイト派から!」年寄りの高官は楽しい思い出に笑いながら、ことばを返して、今度は「君はどうやら、今どきの青年に珍しく、かなりに宗教的なほうらしいですね」と口をあけて、相変わらず呆然《ぼうぜん》と、耳を傾けているレフ・ニコライヴィッチ公爵に向かって、彼は愛想よくことばをかけた。老高官はいっそう詳しく公爵の人となりを嗅《か》ぎ出そうと考えた。彼は少々子細があって、公爵に少なからぬ興味を感じ始めたのである。
「パヴリシチェフさんは頭脳明晰な人で、キリスト教徒でした、本当のキリスト教徒でした」と、にわかに公爵は言った、「ですから、あの人が……キリスト教に合わない宗旨に屈服するはずはありません! カトリックは異教と同じことです!」急に彼は眼を輝かして、一座の者をあまねく見わたすように、前のほうを見ながら、付け足した。
「まあ、これはひどすぎる」と高官はつぶやいて、驚きの眼を見はってイワン・フョードロヴィッチのほうを見た。
「どうしてカトリックが異教徒だというのかね?」とイワン・ペトローヴィッチは椅子に腰をかけたまま公爵のほうをふり向いた、「いったい、どういう宗旨なんです?」
「第一はキリストに合わない宗旨です!」公爵はなみなみならぬ興奮に動かされて、途方もなく鋭い調子で、またもや話しだした、「これが第一です。第二には、ローマカトリックは無神論よりもっと悪いくらいのものです、これが僕の意見です! そうです、これが僕の意見です! 無神論は単に無を説くばかりですが、カトリックはそれ以上のところまで進んでいます。つまり、歪曲《わいきょく》されたキリストを、彼らみずからが讒誣《ざんぷ》し、中傷したキリストを説いているのです、まるで正反対のキリストです! 反キリストを説いているのです、僕は誓って申しますが、全くです! これは僕自身のかねてからの信念で、この信念のために僕自身も悩まされたものでした……。ローマカトリックは全世界に及ぼす国家的権力なしには、地上に教会を確立することができないと信じて Non possumus(われらなすあたわず)と叫んでいます。僕の見るところでは、ローマカトリックは信仰でさえもなくて、全く西ローマ帝国の継続です。カトリックにおいては信仰を初めとして、ありとあらゆるものが、この思想に支配されています。法王は世界を掌握し、地上の王座を得て、剣を取りました。それからというもの、常に何もかもが、かような道をたどって、ただ剣のほかに付け加わったものは、虚言と詐欺と、偽瞞《ぎまん》と狂信と、迷信と罪悪だけであった。最も神聖で、誠実で、単純で、熱烈な民衆の感情はもてあそばれ、何もかも、何もかもが、金と変わり、卑しい地上の権力と化したのです。しかも、これでも反キリストの教義ではなかったのでしょうか? こんなものの中から、どうして無神論が出ずにいられましょうか? 無神論は、この中から出て来たものです、ローマカトリックそのものの中から出て来たものです! 無神論は何はともあれ、そこから始まったものです。カトリック教徒が、どうして自分を信ずることができましょうか? 無神論は彼らの自己嫌悪に基礎を固めたのです。無神論は彼らの虚偽と精神的無力との産物です! ああ、無神論! わが国において神を信じないものは、ただ特殊の階級ばかりです、先日エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんのおっしゃったすばらしいことばを藉《か》りると、『根っこをなくした』人たちばかりです。ところが、あちらでは、西ヨーロッパでは、民衆そのものの最大多数が、信仰を失いかけています、――それも昔は暗黒と虚偽のためでしたが、今では狂信の結果です、教会およびキリスト教に対する憎悪からきているのです」
公爵はここで、ほっと一休みした。彼の話しぶりはおそろしく早口であった。彼は青ざめて、息切れがしていた。一同は顔を見合わせていたが、ついに、老高官が無遠慮に笑いだした。N公爵は柄付眼鏡《ロールネット》を取り出して、眼も放さずにじっと公爵を見つめていた。ドイツ系の詩人は片隅からはい出して、縁起の悪い笑いを浮かべながら、テーブルのほうへそろそろと寄って来た。
「あなたは非常にぃ誇張をしてぇいますね」とイワン・ペトローヴィッチはいくぶん退屈そうに、何かしら気恥ずかしげに、ことばじりを引きながら言いだした、「あちらの教会にも、やはり民衆の尊敬を受けるに値する、徳のたかぁい代表者がいまぁすよ……」
「僕はけっして教会の個々の代表者のことを言ったわけではありません。僕はローマカトリックの実体を論じたのです。僕はローマの話をしたのです。はたして、教会はまったくあとかたもなく消滅するなんて、そんなことがあり得るでしょうか? 僕はそんなことを言ったためしはありません!」
「ごもっともです、しかし、そんなことは知れきったことで、むしろ、――不必要なことです、それに……神学に属することでもあり……」
「おお、違います! おお、違います! けっして神学のみに属することじゃありません、全く、違います! これはあなたがたのお考えになるより、はるかに、われわれに接近している問題です。これがただの神学上の問題でないということを、われわれが知らないでいるところに、われわれの誤謬《ごびゅう》があるのです! 社会主義というものは、やはりカトリック教と、カトリック思想の産物じゃありませんか! これは兄弟分の無神論と同じように、絶望から出発したものです。道徳的の意味でカトリック教に反対して、みずから失われた宗教の道徳的権力に代わって、飢えたる人類の精神的饑渇をいやし、キリストの代わりに、やはり暴力によって人類を救おうとするものです! これもまた、暴力を通しての自由です、これもまた、剣と血を通しての結合です『けっして神を信ずるな、財産を所有するな、個性をもつな、Fraternite ou la mort(死を賭しても同胞として相提携せよ)二百万の民衆よ!』と叫んでいます。それは彼らのすることを見ればわかります! そんなことはわれわれにとって、無邪気な遊びごとで、たいして恐ろしくないなどと思ったら、大変です。おお、われわれは支柱が必要なのです。一刻も早く、できるだけ早く! われわれが維持してきたわれわれのキリストを――彼らの今まで知らなかったわれわれのキリストを、西欧文明に対抗して輝かさなくてはなりません! 唯々諾々《いいだくだく》とジェズイト教徒の罠《わな》にかかることなく、ロシアの文明を彼らにもたらしながら、われわれはいま彼らの前に立たなければなりません。そして、いまどなたかおっしゃったように、あの連中の説教のやり方が派手だなどと、われわれの間で、言わないようにしたいものです……」
「しかし、失礼ですが、失礼ですが」イワン・ペトローヴィッチはあたりを見まわしながら、おじけづきさえもして、不安になり、「あなたのお考えは、もちろん、賞讃に値するもので、愛国心に満ちています。しかし、全く、極度に誇張されたものです。かえって、この問題は、あとまわしにしたほうがよろしいとさえ思います……」
「いいえ、誇張されてはいません、むしろ、控え目にしたくらいです。たしかに控え目にしてあります。なぜといって、僕にはうまく言い表わす力がないからです。しかし……」
「しつぅれいですが!」
と言われて、公爵は黙り込んでしまった。彼は椅子の上にそり返って、じっとしたまま、燃えるような眼つきでイワン・ペトローヴィッチを見つめていた。
「君はどうも、君の恩人の一件にあんまり驚きすぎたようですよ」と高官は相変わらず落ち着きを失わずに、愛想よく言った、「君は、ひょっとしたら、……孤独だったために、熱しやすくなったかもしれませんね。もう少し、世間へ出て、多くの人とつきあったら、立派な青年だといって、きっと歓迎されるでしょう、そうしたら、むろん、そんな興奮も静まって、こんなことはずっとずっと簡単なことだということがおわかりになるでしょうよ……それに、わしの眼から見ると、あんな珍しい出来事も、一部分はわれわれが、いろんなことに飽きているところから、一部分は……退屈のために生ずることだと思いますがな……」
「そうです、たしかに、そうです」と公爵は叫んだ。「それは実にすばらしい御意見です。全く退屈のためです、われわれが退屈しているためです。しかし、飽きているからではありません、むしろその反対に渇《かつ》えているからです、……けっして飽いているからではありません。この点ではあなたは勘違いをなすっておられます! それも、単に渇えているためのみでなく、むしろ、炎症のためといっていいぐらいです、熱病のような渇望の結果です! それも、……それも、ただ笑って済まされるような些細《ささい》な程度だと思われては困ります。失礼な言い分ですけれど、こんなことは予感ができません! ロシア人は岸へ泳ぎ着いて、これが岸だなと思い込むと、もう大喜びで、すぐに決勝点まで行き着いてしまう、これはいったいどういうわけでしょうか? あなたがたは、パヴリシチェフさんのことにびっくりなすって、その原因を同氏の気ちがいざたや、気だてのよい性質に帰しておしまいになりましたが、あれは、とんでもないことです! 全くそういう場合には、単にわれわればかりでなく、ヨーロッパ全体が、われわれロシア人の情熱にびっくりするのです。われわれロシア人がカトリックにはいるときは、必ずジェズイト派になってしまいます、しかも、いちばん堕落したジェズイト派にはいるのですからね。もしも無神論者になるとすると、必ず暴力をもって、――したがって、剣をもって、神に対する信仰の根絶を要求するようになるのです。これはどういうわけでしょう? こんなに一挙にして夢中になるのはどういうわけでしょう? あなたがたには、おわかりになりませんか? それはこういうわけですよ。つまり、彼はここで見落とした祖国を、かしこに発見して、大喜びをしたのです。岸を見つけ、陸を見つけて接吻したのです! ロシアの無神論者やジェズイト派は、単にみえからばかりではなく、見苦しい虚栄心に富んだ感情によってばかりではなく、精神的な苦しみ、精神的な渇望から生まれてくるのです。より高き問題、堅固な岸、生みの故郷、――こういうものに対するあこがれから出て来るものです。ロシア人は生みの故郷を信じなくなりましたが、それというのも、いまだかつて、自分の国というものを、よく知らなかったからです。無神論者になることは、世界じゅうのどこの国民よりもロシア人にとっては容易なことです! ロシア人は単に無神論者になるばかりではなく、まるで新しい宗教かなんぞのように必然的に無神論を信仰《ヽヽ》するのです。しかも、自分が無を信仰しているのだということには、とんと気がつかないのです。われわれロシア人の渇望というものはこういうあんばいです!『自分の足下に地盤をもたない者は、神をもっていない』これは僕のことばじゃありません。僕が旅行中に出会った旧派に属する商人のことばです。実のところ、言い方はこのとおりではありませんでした。この商人は、『自分の生まれた国を見すてるものは、自分の神をも見すてることになる』と言ったのです。ロシアで最上の教育を受けた人たちまでが、鞭打教〔第十三、四世紀ごろ、ヨーロッパの中部および南部に行なわれた狂熱派の一派。罪障の消滅を祈って、みずから裸体となって、みずからを鞭打ったりした〕に馳せ参じたことを考えてもごらんなさい……。それにしても、この場合に、鞭打派はいかなる点において、虚無主義や、ジェズイト派や、無神論などに劣るものでしょうか? ことによったら、こんなものよりはずっと深みさえあるかもしれません! しかし、とにかく、あこがれがこんな程度にまで達したのです!……渇望に燃えるコロンブスの道づれに『新世界』の岸を見せてやってください、ロシア人にロシアの『世界』を見せてやってください。ロシア人にこの地上において、隠されているこの黄金を、この宝を発見させてやってください! 将来はロシア人に全人類の刷新と復活とを示してやってください。それは、ひたすらにロシア思想と、ロシアの神と、キリストのみによって、成し遂げられるものかもしれませんが。そうしたならば、力の強い、誠実な、知恵のある、心のやさしい巨人が、唖然《あぜん》たる世界の前に、唖然として辟易《へきえき》せる世界の前にあらわれるのを見ることができるでしょう。なぜというのに、われわれロシア人から期待されているものは、ただ剣のみ、剣と暴力のみだからです。彼らには、自分のほうのことから推して考えるために、野蛮でないロシア人を想像することができないからです。これは今までもずっとそうでした。時がたてばたつほど、この傾向はいよいよ盛んになるばかりです! そして……」
ところが、ここに、不意に一つの事件が起こって、公爵の熱弁は全く思いがけずに中断されるのやむなきに至った。
この熱のこもった長広舌、情熱的な、落ち着きのないことばと、統一もなく狂熱的な、あたかも入り乱れてぶつかり合いながら、互いに先を争って飛躍しつつあるような思想の奔流は、見たところは、これという原因もないらしいのに、にわかに興奮してきた青年の気持の中に、何かしら危険な、何かしら特殊なものがあらわれたことを暗示していた。客間に居合わす人々のうちでも、公爵を知っているすべての人は、彼のいつもの臆病でさえもある控え目な性質や、ある場合にまれにあらわれる独自な交際術や、上流社会の礼儀作法に対する本能的な敏感などと、全く似てもつかない今の狂気じみた言動に不安の念をうかべて(ある者は羞恥《しゅうち》の念をすらもうかべて)、仰天するばかりであった。どうしてこんなことになったのか、彼らはどうしても呑み込むことができなかった。パヴリシチェフ氏のことを聞かされたのが、原因になったわけでもなかったろう。
婦人席のほうでは、気のちがった人でも見るような眼で彼を眺めていた。ベラコンスカヤ夫人はあとになってから、『もう一分もしたら、もうわたしは逃げ出そうと思っていた』と告白した。老人たちは最初に度胆を抜かれて、ほとんどぼんやりしてしまっていた。ドイツ系の詩人は顔色まで変えたが、それでもなお他の人たちにどういう反響があるかと、そのほうを眺めながら、例の作り笑いをしていた。もっとも、こうしたことも、この『醜態』も、ことごとくおそらく、もう一分もすれば、きわめてありふれた自然な道をたどって、全くけりがつくべきものであったろう。極度に驚いていたイワン・フョードロヴィッチは誰よりも先にわれに返って、幾たびも公爵に話をやめさせようとしていた。ところが、どうにもうまくいかないので、今度は固く意を決して、公爵のほうへ客の間を縫って近づいて行った。もう一分しても、効果があがらなかったら、病気を楯にとって、きわめて打ちとけた態度で、公爵を部屋から連れて出すくらいの覚悟をきめていたのであろう。病気というのはおそらく全く正しい事実かもしれなかったが、イワン・フョードロヴィッチは心の中で、たしかにそれに違いないと信じきっていたのである……。しかも、事態は全く別なほうへ変わっていった。
最初に、公爵は客間へはいるやいなや、アグラーヤにおどしつけられた支那焼きの花瓶から、できるだけ遠く離れたところに腰をかけた。ほとんど嘘のような話ではあるが、昨日アグラーヤにあんなことを言われてからは、どんなにその花瓶から遠ざかっても、どんなに災いを避けようとしても、必ず明日は花瓶をこわすに相違ないだろうという一種の消しがたい信念、一種の驚くべき、ありうべからざる予感が、彼の心に乗り移ったのであった! ところが、実際にそのとおりになってしまったのである。夜がふけていくにつれて、例の強い、しかも明るい印象が、彼の心を満たし始めた。このことはすでに言っておいたことである。そうして、彼はついに予感を忘れてしまったのである。彼はパヴリシチェフという名を耳にしたとき、イワン・フョードロヴィッチが公爵をイワン・ペトローヴィッチのところへ連れて行って、あらためて紹介したが、このとき、公爵はテーブルにいっそう近いところへ寄って行って、いきなり安楽椅子に腰をおろした。その傍には美しい支那焼きの大花瓶が花台の上に立っていて、ほとんど彼の肘とすれすれになって、ほんの少し彼の後ろのほうになっていた。
最後のことばを述べたとき、彼は不意に席を立って、なんとなく肩を動かす拍子に、ついうっかりして手を振った、……と、一座の人たちがあっと叫んだ! 花瓶は、最初は、老人たちのうちの誰かの頭の上に倒れようかと、意を決しかねているらしく、ふらふらと揺れたが、不意に反対側の、肝《きも》を冷やして今まさに飛びのこうとした詩人のほうへ傾いて、床の上にくずれ落ちた。
とどろき、叫び声、絨毯《じゅうたん》の上に散りこぼれた貴重な破片、恐れ、驚き、――ああ、公爵の心中やいかに? 今は名状すべからざるものであり、しかし、その必要もないことである! それにしても、この一刹那《ヽヽヽ》に、彼の心を打った一つの奇妙な感覚、その他の漠然とした恐るべき感覚のうえに不意に、はっきりと浮かんできた一つの感覚については、ここに述べないわけにはいかない。彼を驚かしたのは羞恥の念でもなく、醜態を演じたという気持でもなく、恐怖でもなければ、あまりに不意であったという感じでもなく、何よりもまず、予感が的中したということであった! しからば、彼を驚かせた、かような考えのうちに、何か彼を牽制《けんせい》するものがあったであろうか? 彼はこれを心の中で説明することができなかったはずである。彼はただ、心の底まで驚かされたという感じを得たばかりで、ほとんど神秘的ともいうべき恐怖をいだきながらたたずんでいるのであった。次の刹那になると、何もかも眼の前にあるものがぱっと開けたように思われた。今は恐怖に代わるに、光と、喜びと歓喜の念があるばかりである。息がつまりかかってきた、また、……しかし、その一刹那も過ぎた。やれやれ、これは本当のことではなかったのだ! 彼はほっと息をついて、あたりを見まわした。
彼はあたりに湧き返る混乱を、長いこと悟りかねていたらしかった。つまり、全く悟りもし、いっさいを見てとってはいたのであるが、まるでこの出来事に少しも関係のない人のように、ぼんやりとたたずんでいたのである。お伽噺《とぎばなし》の中にある姿の見えない人のように、こっそりと部屋に忍び込んで来て、何の縁故もないとはいえ、かなりに自分にとって興味のある人たちを眺めている人のようでもあった。彼はみんなが破片を取りかたづけているのを見、みんなが早口に話をしているのを耳にした。また、顔色を変えて、不思議な、あまりにも不思議な顔つきをして、自分を眺めているアグラーヤを見た。その眼の中にはいささかの憎悪の色もなく、いささかの憤怒の色もなかった。彼女はおびえきった、しかも、同情のある眸《ひとみ》で、公爵を眺めていた、……ほかの人たちを見る眸は妙に輝いていた。……彼の胸は不意に快い痛みを覚えてきた。
彼はついに、一同があたかも何ごともなかったかのように、席に着いて、笑ってさえもいるのを見て、不思議な驚きを覚えた! 一分の後には、笑い声はいっそう高まった。やがて、感覚がなくなったかのように棒立ちになっている彼をみながら笑いだした。しかも、いかにも打ちとけた、楽しげな笑い方をしているのであった、多くの人たちは彼に向かってことばをかけたが、その話しぶりは、きわめて愛想がよく、リザヴィータ夫人に至ってはことさらなものがあった。彼女は笑いながら、何かしら、かなりに、かなりに親切なことばをかけた。不意に、彼はイワン・フョードロヴィッチが、まるで友だちのように、自分の肩をたたくのに気がついた。イワン・ペトローヴィッチもやはり笑っていた。が、それよりも、いっそう親切で、魅力のある、同情的な態度を示したのは老高官であった。この人は公爵の手を取って、軽く握りしめ、一方の掌で軽くその手をたたきながら、まるでおびえている小さな子供を相手にするように、気をしっかりしなさいと言って聞かせるのであった。これが非常に公爵の気に入った。やがて、ついには公爵を自分と並んで坐らせた。公爵は楽しそうに、相手の顔を見つめていたが、それでもまだ、どうしたわけか、口をきくだけの元気が出て来なかった。彼は息がつまっていたのである。老高官の顔はひどく彼の気に入った。
「え?」と、彼はようやくのことで、つぶやいた。「本当にお許しくださいますか? そして、……リザヴィータ・プロコフィーヴナさん、あなたも?」
笑い声はいっそう高まった。公爵の眼には涙が浮かんできた。彼はわれとわが身を信ずることができずに、まるで魔法にかかったかのようであった。
「もちろん、花瓶はすばらしいものでした。……あたしがこちらではじめて見てから、もう十五……そう……十五年にもなりますよ」とイワン・ペトローヴィッチが言いかけた。
「まあ、ほんとに、とんだ災難でしたわ! 一人の人間が滅びるかもしれないんですよ。しかも、瀬戸物の壺のことから!」とリザヴィータ夫人は声高らかに言った、「本当に、そんなにびっくりなすったの、レフ・ニコライヴィッチさん?」危惧の念をさえもいだきながら、夫人は付け加えた、「たくさんですよ、あんた、もうたくさん。本当にびっくりするじゃありませんか」
「|何もかも《ヽヽヽヽ》お許しくださいますか? 花瓶のほかのことも、いっさい?」公爵はいきなり席を立とうとした。ところが、老高官はすぐにまた彼の手を引っぱった。彼は公爵を放したくなかったのである。
「C'est ters cnrieux et c'est serieux !(これは実に奇妙なことだ、これは重大なことだ!)」と、彼はテーブル越しにイワン・ペトローヴィッチにささやいた。しかも、かなりに高い声であったから、あるいは公爵にも聞こえたかもしれない。
「では、僕は皆さんのどなたにも、お気にさわるようなことはしなかったんですね? あなたがたは本当になさらんでしょうけれど、僕はこう思うと実に嬉しいんです。でも、それが当然なんです! はたして、ここで、どなたかにお気にさわるようなことをするなんて。そんなことが僕にできるものでしょうか? もしも、そんなことを考えたら、それだけでもまた、御迷惑をかけることになります」
「気を落ち着けなさいよ、君、それは誇張です。それに、君がそんなに感謝するいわれなんか、少しもありませんよ。その感情は美しいけれど、誇張されています」
「僕はあなたがたに感謝なんかしていませんよ、ただ僕は、……あなたがたに見とれているだけです。僕はあなたがたを眺めていると、ほんとに楽しいんです。ひょっとすると、僕の言うことはばかげてるかもしれませんが、しかし――僕は話をしなくてはなりません、説明しなくてはなりません、――ほんの自分自身に対する尊敬の念からでも」
彼のなすこと、することは、いっさいが発作的で混乱していて、熱にでも浮かされているようであった。彼の発することばが、彼の言わんと欲するところと、しばしば違っているということも、大いにありうべきことである。彼は眸によって、『話をしてもいいでしょうか?』と尋ねるかのようであった。
さて、彼の視線はベラコンスカヤ夫人のうえに落ちた。
「かまいませんよ、あなた、あとを続けなさい、あとを、ただ、息を切らさないようにしなさいよ」と夫人は注意した、「おまえさんはさっき息を切らしながら話を始めたもんだから、とうとうあんなことになったんですよ。けれども、口をきくのをこわがることはありません。ここにいる皆様は、おまえさんよりもっと奇妙な人を、しょっちゅう見てらっしゃるから、おまえさんなんかには、びくともしないわ。それにおまえさんなんかまだ、たかが知れてますよ。ほんの、花瓶をこわして、ちょっとびっくりさせたぐらいなんだから」
公爵はほほえみながら、お婆さんのことばを謹聴していた。
「ところで、あれはあなたじゃありませんか」彼はいきなり老高官のほうを向いた、「あのポドクーモフという大学生と、シワーブリンという役人を、三|月《つき》まえに流刑から救っておやりになったのは?」
老高官はちょっと顔まで赤らめて、気を落ち着けるがいいとつぶやいた。
「それから、僕が聞いたあの噂はあなたのことでしょう」彼はすぐにイワン・ペトローヴィッチのほうをふり向いた、「××県で、とうに自由になって、あなたにさんざんやっかいをかけた百姓たちが、焼け出されたとき、家を建てなおすために、無料《ただ》で森をおやりになったそうですね?」
「いや、そりゃぁ、誇張ですよぅ」とイワン・ペトローヴィッチはつぶやいたが、それでもいい気持になって、ぐっと反り身になった。しかし、この場合に、『それは誇張ですよ』と言った彼のことばは、全く事実であった。それはただ、公爵の耳にはいった流言にすぎなかったからである。
「ところで、公爵夫人、あなたは」と、いきなり公爵は朗らかなほほえみを浮かべながら、ベラコンスカヤ夫人のほうを向いた、「あなたは半年まえに、モスクワで、リザヴィータ・プロコフィーヴナさんのお手紙をごらんになって、まるで親身の息子かなんぞのように、僕をもてなしてくださいましたね。そして、それこそ本当の親身の息子に対するような、御親切な忠告を与えてくださいましたね、僕はけっしてあの御忠告を忘れません。覚えていらっしゃいますか?」
「なんだっておまえさんはそんなに躍気になってるんです?」とベラコンスカヤ夫人はいまいましげに言った、「おまえさんはいい人だけれど、おかしいですよ。銅貨の二つももらったくらいで、まるで命でも助けてもらったようにお礼を言うんですからね。おまえさんは、それを賞むべきことだと思ってるんだろうけれど、いやらしいことです」
夫人はもうすっかり腹を立ててしまうところであったが、急に笑いだした。しかも、今度は善良な笑い方であった。リザヴィータ・プロコフィーヴナの顔も明るくなった。イワン・フョードロヴィッチの顔も晴れ晴れしてきた。
「わたしも言ったことですが、レフ・ニコライヴィッチさんという人は、……なんですね、……つまり、いま公爵夫人がおっしゃったとおり、息を切らしたりなんかしなければいいんですが、……」将軍はベラコンスカヤ夫人のことばに感激して、同じことを、有頂天になってつぶやいた。
ただひとり、アグラーヤだけは、なんとなく沈み込んでいた。しかし、その顔には、おそらく、憤慨のためではあろうが、紅らみが残っていた。
「あの男は実際、可愛いい男だよ」とまたもや老高官はイワン・ペトローヴィッチにささやいた。
「僕は心に痛みを覚えながら、ここへはいって来ました」しだいしだいに狼狽しながら、公爵はいよいよ早口に、いよいよ妙な、興奮した調子で語り続けた、「僕は……僕はあなたがたを恐れました。自分自身をも恐れました。何よりもひどく、自分を恐れました。このペテルブルグへ帰って来るとき、僕は是が非でもわが国の第一流のかたがたにお目にかかろう、家柄の古い、遠い昔から続いている名家の人たちにお目にかかろうと心に誓いました。なにしろ、僕自身もこういう人々の仲間ですし、家柄からいっても、第一流のわけですから。だって、僕はいま自分と同じような公爵たちと、席を同じゅうしているんじゃありませんか、そうじゃありませんか? 僕はあなたがたを知りたかったのです。それは必要なことでした、実に実に必要な!……僕はいつも、あなたがたのお噂は、あんまり悪いことばかり聞いていました、よいことよりもよけいに。やれ、あなたがたの趣味がちっぽけで、片寄っているだとか、時世おくれだとか、教育が低いとか、習慣が滑稽だとか、なんのかんのと。――おお、だって、今あなたがたのことはずいぶんあちこちで書き立てられたり、噂に上ったりしてるじゃありませんか! 今日、僕はこちらへ好奇心をいだいてやって来ました、びくびくしながら。僕がみずから見て、直接にはっきりと見きわめたかったのは、――事実において、このロシアの上流階級は、何の役にも立たないものだろうか、黄金時代を過ごして、今は遠い昔からの生活によって干乾らびてしまい、死を待つばかりとなって、しかもなお、自分たちの死にかかっていることには気がつかずに、……相も変わらず、未来の……人たちとささやかな嫉《そね》み半分の戦いを続けて彼らの邪魔をしているのだろうか?――という問題だったのです。僕は以前にも、こんな意見をすっかり信じはしなかったのです。なぜというのに、わが国には、制服によって区別されたり、……偶然なことによって区別されたりする宮内官を除くほか、上流階級というものがいまだかつてなかったからです。しかも、今では宮仕えの階級も全く消滅してしまいました。ね、そうじゃないでしょうか、どうでしょう!」
「まあ、とんでもないことです」とイワン・ペトローヴィッチは毒々しく笑った。
「おや、またテーブルをたたいた!」ベラコンスカヤ夫人はたまりかねて言いだした。
「Laissez le dire(勝手に言わしておきなさい)からだじゅう震えてまでいる」と老高官はまたもや低い声で警告した。
公爵はすっかり夢中になっていた。
「ところが、どうでしょう? 僕は粋《いき》で、純朴で、賢明な人たちを見たのです。僕のような子供を可愛がって、その話を聞いてくださる御老人に会ったのです。よく理解をして、快く許してくださるかたがた、僕があちらで会った人々とほとんど同じような、ほとんど負けず劣らずの気だてのいい、やさしいロシア人を見たのです。僕がどんなに嬉しい驚きを感じたか、お察しを願います! おお、どうかすっかり言わしてください! 僕はいろんなことを聞いてたものですから、社交界は、作法一点張りで、何から何まで、やくざな形式万能で、真実というものが、全くひからびているんだと、てっきりそうだとばかり思い込んでいました。しかし、今という今、そんなことがわが国にありようはずがないことが、ようくわかりました。それはどこかほかの国のことで、けっしてロシアのことじゃありません。はたして、あなたがたが今、みんなジェズイト派で、嘘つきだなんてことがありうるものでしょうか? さっき、N公爵のお話を聞きましたが、はたして、あれは純朴な、思いつきのユーモアじゃなかったんでしょうか、はたして、あれは真ごころからの親切じゃなかったんでしょうか? はたして、あんなことばが、情も才能も涸《か》れてしまった死んだ……人の口から、出るはずのものでしょうか? はたして、皆さんが僕に対して取られたような態度を、死人が取るはずのものでしょうか? はたして、これは未来に対する、希望に対する材料ではないでしょうか? はたして、こういう人たちが理解をせずに、取り残されるなんて話があるものでしょうか?」
「もう一度お願いしますが、ねえ、君、気を落ち着けてくださいよ。そんな話はまた今度のときにしましょう、わたしも喜んで、……」と老高官は薄ら笑いをもらした。
イワン・ペトローヴィッチは喉《のど》を鳴らして、安楽椅子に腰をかけたまま、向きを変えた。イワン・フョードロヴィッチは身動きを始めた。長官の将軍〔これは英語の general であるが、必ずしも軍人とは限らず、ロシアにおいては、一等ないし四等文官をも「ゲネラル」といっていた〕は、もはや公爵にはいささかの注意も払わずに、高官の夫人とことばをかわしていた。とはいえ、夫人のほうは、しょっちゅう聞き耳を立てたり、わき見をしたりしていた。
「いいえ、ねえ、もう、話をしたほうがいいですよ!」と、公爵は特に相手を信頼するような、あまつさえ秘密をもらすような風までして、老高官のほうを向きながら、熱病やみのような新しい激情をもってことばを続けていった、「昨日、アグラーヤさんが僕に物を言うなとおっしゃって、どんなことを話してならないか、その題目さえもおっしゃいました。そんなことに話が移ると、僕が滑稽になるということを、よく、あのかたは承知していらっしゃるんです! 僕は二十七にもなりますが、まるで子供みたいだってことは、自分でもよく承知しています。僕は自分の思想を語る資格がありません、これは、ずっと前にも申したことです。僕はただモスクワで、ラゴージンにだけは打ち明けた話をしました、……僕らはプゥシキンを読みました、すっかり読みました。あの男は何一つ、プゥシキンの名さえも知らなかったんです、……僕はいつも滑稽な様子をして、自分の思想《ヽヽ》や|大事な観念《ヽヽヽヽヽ》を、傷つけたら大変だとびくびくしているんです。僕には身ぶりというものがありません。僕の身ぶりは、いつもとんでもない結果になるもんですから、物笑いになって、自分の観念を卑しいものに考えられてしまうのです。また感情の釣合いがとれません、これは大事なことです、これは最も大事なことでさえもあります、……僕は黙って坐ってたほうがいいということは、よく承知しています。隅のほうに引っ込んで、黙っていると、かえって非常に分別がありそうな気がします。それに、いろんなことをよく考えることもできますし。しかし、今は話をしたほうがいいです。僕がいま話をしだしたのは、あなたがたがそんなに美しい眼つきをして、僕をごらんになるからです。あなたがたはきれいな顔をしていらっしゃいますね! 昨日、僕は、明日は一晩じゅう黙っていましょうと、アグラーヤさんに約束したんです」
「Vraiment ?(ほんとですか)」老高官はほほえんだ。
「けれど、僕は時おり自分は勘違いをしてるんじゃないかと思うことがあります。まじめだということは身ぶりなんかより大事なものじゃないかと思うんですが、そうじゃないでしょうか、……そうじゃないでしょうか?」
「時と場合でね」
「僕はすっかり説明してしまいたいんです、すっかり、すっかり、すっかり! おお、そうです! あなたがたは僕を理想家《ユートピアン》だとお思いですか? 理屈屋《イデオローグ》だとお思いですか? おお、けっしてそうじゃありません。僕の考えはみんな実に単純なものばかりです、……あなたがたは本当になさいませんか? あなたがたは笑ってらっしゃいますね? でもね、僕はどうかすると、下種《げす》根性になるんですよ。なぜって言うのに、信仰をなくすからです。さっきも、ここへ来る道で、こんなことを考えました。『さあ、あの人たちの前でどんなぐあいに話を切り出したもんだろう? どんなことばから始めたら、あの人たちがせめて少しでも理解してくれるだろう?』って。どんなに僕は気がかりだったでしょう、けれども、自分のことよりも何よりもあなたがたのことを、びくびくしていました。ひどく、ひどく! それにしても、どうしておじけづいたりすることができたんでしょう? おじけづいたりしてきまりが悪くなかったんでしょうか? 一人の進歩した人間に対して、時勢おくれの不良な人間が無数にいるからって、それがなんだというんでしょう? もっとも、無数なんかって言うべきものではなく、何もかも生きた材料だと、確信していますから、僕はかえって嬉しいんです! われわれが滑稽だからといって、じたばたするものはありません、そうじゃありませんか? これはほんとにそのとおりじゃありませんか、われわれは滑稽で、軽薄で、癖が悪くって、退屈して、物をよく見る眼がなくって、理解することもできないでいる、みんなみんなそんな人間じゃありませんか、みんな、あなたがたも、僕も、あの人たちも! ほら、僕が面と向かって、あなたがたは滑稽ですと言っても、あなたがたは気を悪くなさらないじゃありませんか。してみると、あなたは材料《ヽヽ》じゃないでしょうか? 僕の考えではね、滑稽に見えるということは、時として結構なくらいなんですよ、かえっていっそういいくらいなんですよ。お互いに一刻も早く許し合って、早く仲なおりができますからね。だって、一時に全部が全部、呑み込むことはできませんし、また、最初から、いきなり完全なものになれるわけのものじゃありませんからね! 完全なところに達するためには、いろんなことを知らずに始めることが必要です! あまり早く、物がわかりすぎると、あるいは、早呑み込みをしないとも限りませんからね。僕はあなたがたにこんなことを言うのは、あなたがたがもういろんなことをよくおわかりになって、しかも……おわかりにならないでしまったからです。もう僕は今、あなたがたのことをこわいとは思いません。だって、あなたがたは、こんな子供がこんなことを言っているのに、とがめなさらんじゃありませんか? むろん、腹を立てなさらんでしょう! おお! あなたがたは、あなたがたの感情を害した者をも、害しない者をも、お忘れになって、許すことのできるかたがたです。なぜって、感情を害しない者を許すってことは、何よりむずかしいことですからね、なにしろ、感情を害し|ない《ヽヽ》、したがって、あなたがたの愚痴に、なんらの根拠がないということになりますからね。つまり、僕はこういうことを上流の人たちから期待していたのです、そして、こちらへ来て、それを言おうとあせったのですが、どう言っていいかわからなかったのです……あなたは笑ってらっしゃるんですね、イワン・ペトローヴィッチさん? あなたは僕が、あの人たち〔一般の民衆〕のことを気にかけていたとお思いですか? 僕があの人たちの味方で、民主主義者《デモクラト》で、平等論者だとお思いですか?」と彼はヒステリックに笑いだした(彼は絶えず、感激しては、ふっと笑いだして、すぐにやめてしまうのであった)。「僕はあなたがたのことを気にかけています。あなたがたみんな、僕たち全体のことを気にかけているのです。だって、僕自身も遠い昔からの古い家柄の公爵で、多くの公爵たちと席を同じゅうしているんですものね。僕は、われわれ一同を救おうとして、こんなことを言うのです。この階級が、何ひとつ悟りもしないのに、何かにつけて、喧嘩ばかりしながら、あらゆるものを失って闇から闇へ、いたずらに消えてゆかないようにしたいから、言うのです。進歩的な、指導者として、踏みとどまっていられるのに、闇に消えてしまって、ほかの連中に席をゆずるいわれが、どこにありましょう? 進歩的な人間になりましょう、そしてまた、指導者にもなりましょう。指導者になるために、召使になりましょう」
彼は安楽椅子から立ち上がろうとしかかったが、老高官はいよいよ募りゆく不安をいだいて彼を見つめながらも、やはり彼を押さえつけていた。
「皆さん! 僕も話をしてはいけないことはよく知っています。まあ、いっそのこと、単に実例を示したほうがいいでしょう。あっさり始めたほうがいいでしょう、……僕はもう始めていました。……そして、実際において、不幸になるはずはないじゃありませんか? おお、もし僕が幸福になれるものならば、今のこの悲しみや災難なぞは物の数でもないでしょう? ねえ、皆さん、僕は見たい見たいと思っていた木のわきを通り過ぎて、その木を見ながら、どうして人が嬉しい気持になれないのか、わからないんです。会いたいと思っていた人と話をして、その人を愛していながら、幸福を感じないというわけがあるものでしょうか! おお、これは、僕にうまく言い表わせないだけのことなんですが、……しかし、すっかり途方に暮れてしまった人でさえもが、美しさを感ずるような美しいものはいたるところに、どんなにたくさんあるでしょう! 赤ん坊をごらんなさい、こうごうしい朝の光をごらんなさい、草をごらんなさい、どんなに成長してゆくかごらんなさい、あなたがたを見つめ、あなたがたを愛する眼をごらんなさい……」
彼は話をしながら、もうしばらく立ち上がっていた。老高官も今は愕然として彼を見つめるばかりであった。リザヴィータ・プロコフィーヴナはまっ先に気がついて、『ああ、大変!』と叫んで、手をたたいた。
アグラーヤは、まっしぐらに駆けつけて来て、恐怖の念にうたれ苦痛に顔をゆがめながら、彼を危ういところで抱きとめたが、めぐまれぬ人の心を『かき乱して、投げつけた妖怪《ようかい》』の荒々しい叫びを耳にした。病める者は絨毯の上に横たわっていた。誰かがすばやく頭の下に枕をあてがってやった。
これは何びとも予期しないところであった。十五分して、N公爵、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチ、老高官など、夜会に再び活気をつけようと試みた人もあったが、そののち三十分とたたないうちに、一同はもう散会してしまった。
いろいろと同情のことばや、さまざまな愚痴や、また二、三の意見なども述べられた。なかでも、イワン・ペトローヴィッチは、『この青年は、スラァヴゥ主義者か、ないしは、そういったぁたぐいのものです。しかしぃ、けっして危険なものじゃぁありません』と言った。老高官は何一つ口を出さなかった。それにしても、そののち、あくる日や翌々日に、誰もが少しく腹を立てたことは事実であった。イワン・ペトローヴィッチは感情を害しさえもしたが、それもたいしたことはなかった。長官の将軍はしばらくイワン・フョードロヴィッチに対して、いささか冷淡な態度を示していた。この一家の『擁護者』である高官もまた、やはり『一家の主人』に向かって、何やら諭《さと》すようなことをぶつぶつ言ったが、そのとき、アグラーヤの運命に対して、かなりな、かなりな興味をいだいていると、お世辞たっぷりなことを述べた。彼は事実において、いくぶん好人物であったが、夜会の席で、彼が公爵に対していだいた好奇心の動機をなしたものには、いつぞやのナスターシャ・フィリッポヴナと公爵との一件も含まれていた。この事件について、彼は何かしら噂にも聞いていたので、かなりの興味をさえも寄せて、いろいろと根掘り葉掘り聞いてもみたかったのであろう。
ベラコンスカヤ夫人は夜会から帰りしなに、リザヴィータ・プロコフィーヴナに言うのであった。
「まあ、お人よしでもあるし、人の悪いところもある。もしわたしの意見を知りたいとあれば、悪いほうがよけいですよ。あんたも自分で見て、どんな人だかわかってるでしょうが、病人ですよ!」
リザヴィータ・プロコフィーヴナもついに心の中で、婿にしては『無理』だと、すっかり決めてしまった。そして、その晩のうちに、『わたしが生きている間は、公爵を家のアグラーヤの婿にするわけにいかない』と、ひそかに誓うのであった。あくる朝、彼女はこの決心をもって、起床した。ところが、その朝のうちに、十二時過ぎに食事のときに、彼女は驚くべき自家撞着《じかどうちゃく》に陥った。
姉たちの一つのきわめて用心深い質問に対して、アグラーヤは急に冷淡な、しかも、高慢な、まるで断ち切るような調子で答えるのであった。
「わたしはあの人に、約束なんかした覚えはないわ。生まれてから一度だって、わたし、あの人を未来の良人だなんて、考えたことはないわよ。あの人は、世間の人と同じように、赤の他人なの」
これを聞いて、リザヴィータ・プロコフィーヴナは急にかっとなった。
「そんなことを、おまえの口から聞こうとは思わなかった」と夫人は悲しそうに言った、「婿にして無理だということは、わたしも承知しています。そして、幸いに、あんなことになってしまったけれど、よもや、そんなことばをおまえの口から聞こうとは、思いがけなかった! おまえには、もっと別なことを当てにしていました。わたしは昨日の連中をみんな追い出してしまっても、あの人だけは残しておきたいんです。あの人をわたしは、それくらいにまで考えているんですよ!」
ここで彼女は、われながら自分の言ったことに驚いて、不意に口をつぐんでしまった。が、もしも夫人が、このとき娘に対して、いかに不公平であったかということを知っていたならば? もはやアグラーヤの頭のなかでは、いっさいのことが決まっていたのである。彼女もまた同じように、いっさいを解決すべきおのれの時の至るのを待ち受けていたのであった。そうして、ほのめかすようなことばや、問題の核心についうっかりと触れることばを聞くごとに、彼女の心は深く痛められて、張りさけるような思いがするのであった。
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八
公爵にとってもまた、この朝は重苦しい予感に圧《お》しつけられて明けはなれた。この予感は、彼の病的な状態によって説明ができたであろう。しかし、彼はあまりにも、とりとめのない悲しみに浸っていたのである。このことは彼にとって何よりもつらいことであった。たしかに、彼の眼の前には、いくつかの重苦しい、峻烈《しゅんれつ》な事実がまざまざと現われていた。しかも、彼の悲しみは、彼が思い起こしたり、心に描いたりしていることとは、およそかけ離れていた。彼はみずからの力をもってして、心のいこいを得ることのできないことを自覚した。心のうちには、今日という今日、自分の身に、何かしら特殊な、最後の運命を決すべきほどの事が起こるであろうという期待が、だんだんと根を張っていた。昨夜のあの発作は、彼としては軽いものであった。意気沮喪《いきそそう》と、少しく頭が重いのと、手足の痛むのとを除いたら、別にどこが悪いという感じもなかった。気力は弱っていたが、頭はかなりに明瞭にはたらいていた。
彼はだいぶおそく起きたが、起きるなりすぐに昨夜のことをはっきりと思い出した。全く明瞭にというわけではなかったが、それでも、発作ののち半時間して家へ連れ戻されたことまで思い出した。聞いてみると、もうエパンチン家から容態を聞きに使いの者がやって来たとのことであった。十時半には、また別の使いがやって来た。これは、彼には嬉しいことであった。最初に来てくれた人のうちで、ヴェーラ・レーベジェワは見舞いかたがた、用足しにやって来た。彼女は公爵を見るやいなや、急に泣きだした。が、公爵になだめられてまた、笑いだした。公爵は何がなし、この娘の熱い同情の念に心をうたれて、彼女の手をとって接吻した。ヴェーラはさっと顔を赤らめた。
「まあ、あなたはなんですの、なんですの?」と彼女はすばやく自分の手を引いて、愕然として叫んだ。
彼女はほどなく、一種の妙な当惑を感じて、出て行ってしまった。
それにしても、出て行く前に、彼女は父がまだ夜の明けない先に、『故人』――父のレーベジェフはイヴォルギン将軍のことをこう言っていた――のところへ、『故人が』昨夜のうちに死にはしなかったかどうか、見るためにあわただしく出て行ったことや、将軍が間違いなく死ぬだろうという噂があるなどということを物語って行った。十一時過ぎに、当のレーベジェフが家に帰って来て、公爵のところへ現われた。しかも、それはただ、『ほんの一分間ばかり、大事な、大事なおからだの様子を伺いに』だとかなんとか言って、それに、ちょっと『戸棚』の中を見るためにやって来たまでのことであった。彼はただ、『ああ』だとか、『おお』だとか、ため息をついたり、うなったりするばかりなので、公爵はすぐに部屋から引きさがらせた。それでも相手は昨夜の発作のことを、うるさく尋ねにかかっていた。そのくせ、詳細にわたって、このことを承知していることが、ありありと見えるのであった。
彼のあとから、コォリャが、これも同様にほんの一分間と言って駆け込んで来た。コォリャは実際に、あわてて、ひどく暗い不安におそわれていた。彼はいきなり、しつこく、みんなが彼に隠しているいっさいのことをわかりよく聞かしてくれるようにと公爵に頼むのであった。昨日、ほとんど全部のことを聞いたのだとも言った。彼はひどく、心の底まで感動していたのである。
公爵ができるだけの同情をあらわして、きわめて正確な事実を挙げながら、いっさいの事情を物語ると、哀れな少年は、雷に打たれたように心を打たれた。彼はひと言も物を言うことができずに、声もなく泣きだしてしまった。公爵は、――このことは少年の心に永劫に痕《あと》を残して、若き日の危機ともなるほどの印象の一つである――と感ずるのであった。彼は急いでこの事件に対する自己の見解を述べ、さらに付け加えて、彼の見るところでは、おそらく、老人の死は、主としてあの自分自身の過失によって身に覚えた恐怖のためによび起こされたものであろうと言い、こういう気持は誰にでもわかるとは限らないと言った。コォリャの眼は、公爵のことばを聞き終わると、輝きだした。
「ガンカも、ワーリヤも、プチーツィンも、やくざ者だ! 僕はあんな人たちを相手に喧嘩をしたくはありません。でも、今から、僕らの行くべき道はわかれわかれです! ああ、公爵、僕は昨日から、とてもたくさんの新しい感情を経験しました。これは僕の勉強になりました! 僕はお母さんをも、やっぱり自分で背負ってるつもりなんです。お母さんは、今はワーリヤのやっかいになっていますが、そんなことは別のことです……」
コォリャは、家の人が待っていることを思い出して、ひょいと飛び上がって、そそくさと公爵の容体を尋ねた。返事を聞いてしまうと、急にあわただしく付け足した。
「ほかに何か、変わったことはありませんか? 僕ちょっと聞いたんですが、昨日……(でも、僕はそんなことを言う資格はありません)、しかし、もしもいつか、何かのことで、まめな召使が必要でしたら、召使はあなたの前にいますよ。なんだか、二人とも、そんなに幸福じゃないようですね、そうじゃありませんか? けど、……僕は細かいことはお聞きしません、けっして聞きません……」
彼が立ち去ると、公爵はいっそう深く物思いに沈んだ。誰も彼も不幸を予言しているのだ。誰も彼もがすでに結論を下したのだ。誰も彼もが、何かを知っていて自分の知らないようなことまで知っているらしい眼つきで自分を見ているのだ。レーベジェフは何か嗅ぎ出そうとし、ヴェーラは泣く。ついに、彼はいまいましくなって手を振る。『呪《のろ》うべき病的な邪推だ!』と考える。
二時近くに、『ほんの一分間』の見舞いにはいって来たエパンチン家の人たちを見たとき、彼の顔は晴れ晴れしくなった。この人たちはたしかに、『一分間』のつもりで立ち寄ったのであった。
これよりさき、リザヴィータ・プロコフィーヴナは朝の食事が終わって立ち上がると、これからすぐみんなでいっしょに散歩に出ようと言いだした。このお達しは命令のような形で、何の説明もなく、ぶっきらぼうに、味もそっけもなく発せられた。一同、すなわち、母親と令嬢たち、それにS公爵は打ちそろって出かけた。リザヴィータ夫人は、毎日歩いてゆく方角とはまるで反対の方へ、さっさと歩きだした。一同には、そのいわれがわかったので、母夫人の気をいらだたせることを恐れて、何一つ言わなかった。夫人はほかの者の非難や抗議から身を隠すかのように、後をふり向きもせずに、先頭に立ってどんどん歩いて行った。ついに、アデライーダは、――散歩のときに何も駆け出すがものはありませんよ、とてもお母さんのあとからついて行けやしない、――と注意した。
「ちょっと」とリザヴィータ夫人は不意に後ろを向いて、「ちょうど今、あの人の家の前へさしかかりました。どんなことをアグラーヤが考えていようとも、またあとでどんなことが起ころうとも、あの人はわたしたちにとって赤の他人ではありませんよ。おまけに今、不仕合わせな身になって病気までしてるんですからね、せめて、わたしだけでも、見舞いに寄りましょう。いっしょに来たい人はいらっしゃい、いやな人は通り過ぎて行くことにして。道に障害物はありませんから」
いうまでもなく、一同うちつれて中へはいった。公爵は当然のことながら、もう一度、あらためて昨日の花瓶のことと、……不始末のことを、急いでわびを言った。
「いいえ、あんなことはなんでもありません」とリザヴィータ夫人は答えた、「花瓶は惜しかありませんよ、ただ気の毒なのはあんたです。してみると、あんたも今になって、不始末だったと、はじめて気がついたんですね。ほら、『何ごともあくる朝』というのはこのことだわ、……けど、そんなことはなんでもありません。だって、あんたを責めるがものはないってことは、誰でももう承知してるんですからね。じゃ、とにかく、さようなら。元気が出たら、少し散歩をして、またおやすみなさい、――これはわたしの忠告です。もし気が向いたら、元どおり遊びにいらっしゃい。それはそうと、これだけは信じてくださいね、たとい、どんなことが起ころうとも、どんなことになろうとも、あんたはやはりいつまでもうちのお友だちなんですよ。少なくとも、わたしの。少なくとも、自分のことばに対しては責任が持てますからね……」
一同は、このいどむようなことばに対して、母親と同じ気持をもっていると言った。やがて一同は立ち去った。優しい、元気をつけるようなことを言おうとする純情な気短さのうちに、多くの残忍性がひそんでいたが、それにはリザヴィータ夫人も気がつかなかった。『元どおりに遊びにいらっしゃい』ということばや、『少なくとも、わたしのお友だちですよ』ということばの中には、またしても何か予言めいたものが感じられた。公爵はアグラーヤのことを思い起こし始めた。たしかにはいるときと出るときに、彼女は不思議なほほえみをもらしたが、しかも一同が友情を誓ったときですらも、彼女はひと言も口をきかなかった。ただ、二度ほど、しげしげと公爵を見つめただけであった。彼女の顔は、一晩じゅう満足には寝なかったものとみえて、いつもよりはずっと青白かった。日が暮れたら、ぜひとも『元どおり』遊びに行こうと公爵は決心して、熱にでも浮かされたかのように、時計をのぞき込んだ。
ヴェーラがはいって来た。ちょうど一行が立ち去って三分のちであった。
「レフ・ニコライヴィッチ様、たった今アグラーヤ・イワーノヴナ様から、こっそりと、ひと言あなた様へお言づてがありました」
公爵はゆくりなくも、ぞっとした。
「手紙ですか?」
「いいえ、お言づてです。それもやっと間に合ったくらいですの。今日は、晩の七時か、せいぜい九時ごろまで、ほんのちょっとでも表へ出ないでくださいっておっしゃいました。はっきりとは聞き分けられませんでしたけれど」
「しかし、……いったい、何のためなんだろう? どういう意味かしら?」
「そんなことはちょっとも存じませんの。ただ間違いなく伝えるようにとのおことばでしたの」
「じゃ、『間違いなくって』おっしゃったんですね?」
「いいえ、そうはっきりおっしゃったわけではございませんの。ちょっと後ろをふり向きなすって、ちょっとそれだけおっしゃっただけですの。いいあんばいに私がお傍へ走って行きましたので。でも、もうお顔色を見ただけで、『間違いなく』っておっしゃったかどうかわかりますわ。わたしをじっとごらんになりましたので、わたし、息が止まりそうでしたわ……」
さらにあれこれと尋ねてみたが、公爵はもうそのうえのことは何事も聞き出せずに、ただいっそう不安になるばかりであった。たった一人になって、彼は長椅子に横たわると、またもやいろんなことを考え始めた。『ことによったら、あすこには九時ごろまで、誰か来ているかもしれない。そして、あのひとはまた、僕がお客様の前で、何かばかなことをしやしないかと心配しているんだろう』と、ついに考えついた。そうしてまた、彼は日の暮れるのを待ちかねて、時計を眺めるのであった。しかし、この謎はまだまだ日の暮れない先に解決がついてしまった。この解決はやはり新しい来客によってもたらされたが、それも要するに、新しい苦痛を伴う謎の形をなしていた。
エパンチン家の人たちが立ち去ってから、ちょうど半時間たったとき、イッポリットがやって来たが、彼はすっかり疲れて、へとへとになって、はいって来ても、物も言えないほどであった。まるで正気を失ったもののように、安楽椅子に、文字どおり、どっかと倒れて、すぐに堪えきれないように咳きこんだ。彼は咳が止まらずに、ついには血まで吐いてしまった。その眼は気味悪く輝き、頬には赤い斑点がにじんできた。公爵は何やらつぶやいたが、相手は答えなかった。さらに長いこと返事もせずに、ただ片方の手を振りながら、しばらく放っておいてくれという合図をするだけであった。
「帰る!」ついに彼はしわがれた声で、やっとの思いでこう言った。
「なんなら、僕は送ってって上げましょう」と、公爵は席を立って言ったが、さっき、表へ出てはならないと足止めされたことを思い出して、不意にことばをつまらせた。
イッポリットは笑いだした。
「僕はここから帰ると言ったんじゃありません」と、絶えず息切れがしたり、喉《のど》がかわいたりしているのに、彼はことばを続けた、「僕は、それどころじゃなくって、必要があってここへ来たんですよ、用事があって、……さもなかったら、こんなに迷惑をかけるはずじゃなかったんです。僕はね、|あの世《ヽヽヽ》へ帰るって言うんですよ。今度はまじめらしいですよ。いよいよこれで、おさらばだ! しかし、僕は同情してもらうためにわざわざ来たんじゃありませんよ、本当に、……僕は、|その《ヽヽ》ときが来るまではけっして起きないつもりで、今日は十時ごろ床につきました。でも、ちょっと考えなおしたもんですから、起き出してここへ来たんです、……つまり、必要があるからです」
「君を見てると、可哀そうな気がしますよ。自分ひとりでつらい目をするぐらいなら、ちょっと僕を呼んでくれたらよかったのに」
「いいえ、もうたくさんです。よくふびんがってくださいましたね、しかし、社交的な儀礼のためなら、たくさんですよ、……あ、そうだ、忘れていた、あなたのおかげんは、いかがですか?」
「すっかりいいです。昨晩はちょっと……たいしたことはありませんでしたが」
「聞きました、聞きました。支那焼きの花瓶こそ、ひどい目にあいましたね。僕がいなかったのは残念でした! 僕は用事で来たんです。第一に、僕は今日、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ君(ガーニャ)が緑色のベンチのわきでアグラーヤ・イワーノヴナさんとあいびきしてるところを見せつけられてたいへん結構でした。人間はどれほどまでにばかげた顔ができるものかと、驚いてしまいましたよ。僕はガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ君が帰ってから、アグラーヤさんにそう言ってやりました……。ときに、あなたはちょっともびっくりなさらないようですね、公爵」と彼は公爵の落ち着き払った顔を、腑《ふ》に落ちないかのように眺めながら付け足した、「どんなことがあっても驚かないのは、大賢のしるしだそうですね、しかし、僕の眼から見ると、それは同じ寸法でいって、大愚のしるしにもなりますよ、……もっとも、僕はあなたに当てこすりを言うわけじゃありませんが。済みません、……今日は僕はことばづかいで不都合ばかりしてます」
「僕はもう昨日から知ってました、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ君が……」
公爵はどぎまぎしたらしく、ことばがつまってしまった。いっぽう、イッポリットのほうでは、どうして公爵がびっくりしないのかと、いまいましく思っていた。
「知ってたんですか! いや、これはニュースだぞ! それにしても、そっとして、話さないでおいたほうがいいでしょう。……ところで、今日のあいびきの現場はごらんにならなかったでしょうね?」
「君がその場にいたのなら、僕がそこにいなかったことはわかってるでしょう」
「だって、ひょっとしたら、どこか繁みの陰にでもしゃがんでおられたかもわかりません。でも、とにかく、いうまでもないことですが、僕はあなたのために嬉しいんです。だって、僕はいよいよガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ君が――ごひいきにあずかったんだなと思いましたからね!」
「お願いだから、僕の前でそんなことを言わないでください、イッポリット君、しかも、そんな言い方で」
「ましてや、あなたがすっかりもう御存じとあれば」
「それは君の勘違いですよ。僕はほとんどなんにも知りませんし、アグラーヤさんだって、僕がなんにも知らないということは、たしかに御存じのはずです。僕はそのあいびきのことさえ、まるで何も知らなかったんですからね、……君はあいびきって言うんですね? いや、それもいいですよ、でも、もう、この話はやめましょう……」
「まあ、どうしたんです、知ってると言ってみたり、知らないと言ってみたり? あなたは『いいですよ、でも、もうこの話はやめましょう』とおっしゃるんですね? まあ、とんでもない、そんなに気を許すもんじゃありませんよ。なんにも御存じないんなら、なおのことです。あなたが、人に気を許したりするのは、なんにも御存じないからですよ。ところで、あの二人の人間、あの兄と妹との間に、どんなもくろみがあるか御存じなんですか? それぐらいのことは、おそらく、お察しがつくでしょうね?……いいです、いいです、僕はやめましょう」公爵のいらいらしているような身ぶりに気がついて、彼は付け加えるのであった、「しかし、僕は自分の用事があって来たんですから、このことについて……話をつけたいのです。ああ、いまいましい、僕はこの話をつけないでは、どうしても死ねない。全く僕は実によく告白をしますね。聞いてくださいますか?」
「さあ、聞かしてください、僕は聞いてますよ」
「それにしても、僕はまた考えを変えて、やはりガーニャのことから話を始めましょう。あなたには想像もつかないでしょうが、僕も今日、やはり、緑色のベンチのところへ来るようにとおさしずを受けたんですよ。お察しがつかないでしょうけど、僕は嘘は言いたかありません。僕は自分から、ぜひともお会いしたいと言ったのです。お願いをして、秘密を暴露する約束をしたんです。僕の来るのがあんまり早すぎたかどうかわかりませんが(たしかに早く来たような気がします)、しかし、僕がアグラーヤ・イワーノヴナさんのわきに腰をかけたと思うと、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ君とワルワーラ・アルダリオノヴナ(ワーリヤ)とが手をつなぎ合って、まるで散歩でもしてるようにあらわれたじゃありませんか。二人とも僕にひょっこり会ったので、びっくりしてたようです。そんなことは全く思いがけなかったので、どぎまぎさえしてたようです。アグラーヤ・イワーノヴナさんは顔を赤くなさって、これは本気になさるかどうかわかりませんが、少しあわてたぐらいなんですよ。それは、僕がいたからか、それともただ、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ君の姿を見つけたからか、それはわかりません。なにしろ、彼氏の風采があんまり良すぎましたからね。とにかく、すっかり赤くなって、一秒間に問題をかたづけてしまったんです。とても滑稽に。つまり、こうなんですよ。ちょっと立ち上がって、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ君のお辞儀と、ワルワーラ・アルダリオノヴナのふざけたようなほほえみに答えると、いきなり、断ち切るように、『わたしはただ、あなたがたの真ごころからの友情に対して、直接にお礼を申したいと思って、来たまでです、もし、あなたがたの友情をわたしが必要とすることがありましたら、そのときは必ず……』と言い放って……。そこで、さよならをしたので、二人は行ってしまいました。いっぱい食わされて行ったか、勝ち誇って行ったか、そのところはわかりません。むろん、ガーニャはいっぱい食わされたんですよ。ガーニャは何が何やらさっぱりわからないで、蝦《えび》みたいにまっかになっていました。どうかすると、あの人はすばらしい顔つきをしますよ! しかしワルワーラ・アルダリオノヴナは、少しでも早くこの場を逃げるに限る、いくらアグラーヤ・イワーノヴナさんでも、これはあんまりひどすぎると悟ったらしく、兄貴をぐんぐん引っぱって行きましたよ。あの女は兄貴よりは利口ですから、今ごろはきっと得意になってるでしょう。ところで、僕がアグラーヤ・イワーノヴナさんのところへ行ったのは、ナスターシャ・フィリッポヴナさんと会うことについて、相談するためだったのです」
「ナスターシャ・フィリッポヴナさん!」と、公爵は叫んだ。
「ははあ! やっと、あなたは知らぬ顔でなくなって、びっくりしだしたようですね。あなたが一人前の人間らしくなろうという気になられたので、僕もうれしいです。それに免じて、気晴らしをさして上げましょうね。ところで、気位の高い若い御令嬢にサーヴィスするのも、なかなかたいへんなものですね。僕は今日、あの人から横びんたを一つちょうだいしました」
「せ……せいしん的のですか?」ついうっかりと公爵はこんなことを聞いてしまった。
「そう、肉体的のじゃありません。どんな人だって、僕のような人間に、手を振り上げるようなことはしないでしょう。そういう気がしますよ。今は女だって僕をなぐりやしません。ガーニャでさえもなぐりやしません! 昨日はふっと、あの男が僕にとびかかりやしないかと、考えたんですけど。……賭けをしてもいいですが、僕は今あなたが、どんなことを考えてらっしゃるか、ちゃんとわかってますよ。あなたは、『かりに、この男をなぐる必要はないとしても、その代わり、枕か濡れ雑巾でもって、眠ってるところを絞め殺すことはできる。――それどころか、そうすべき義務さえある』と、そう考えてらっしゃるんでしょう……、あなたの顔に、現に今、そう考えていると、ちゃんと書いてありますよ」
「そんなことを考えた覚えはありません!」と公爵は嫌悪の色を浮かべて言い放った。
「わかりませんね、だって、僕はゆうべ、濡れ雑巾で絞め殺された夢を見たんですよ……ある一人の男に……まあ、誰だか言いましょうか、想像してごらんなさい、――ラゴージンなんですよ! あなたはどう思います、人間を濡れ雑巾で絞め殺せるでしょうか!」
「どうですかね」
「できるそうですよ。でも、まあいいです、よしましょう。では、いったい、どういうわけで、僕がおしゃべりなんですか? なんだって今日、あの女《ひと》は僕のことを、おしゃべりだなんて罵倒《ばとう》したんでしょう? それも、僕の言うことを最後の一句までも聞いてしまって、なんのかんのと聞き返したりしたあげくなんですからね、……まあ、女って、そんなもんですね! しかし、僕はあの人のために、ラゴージンという、おもしろい男に渡りをつけたんです。あの人の利害のために、ナスターシャ・フィリッポヴナさんとの直接会見をとり持ってやったんです。僕が、『あなたはナスターシャ・フィリッポヴナさんの食べ残りをおいしくちょうだいしている』なんて当てこすりを言って、あの人の自尊心を傷つけたからでしょうか? しかし、このことは、しょっちゅうあの人のためを思って、説明してやったんですよ。僕は、そうでないとは言いません。それで、こういったような手紙を二通も書きました。で、今日ので三度目です。そのうえ、こうしてお目にかかって。……僕はさっき、あの人に会うなり、これはあなたとして、顔をつぶすことですって言ってやりました、……おまけに、『食べ残り』というようなことばは、けっして僕が言ったんじゃありません、ほかの人の言ったことです。少なくとも、ガーニャのところでは、家じゅうの者がみんなそう言ってましたからね。それに、あの人だって、自分でそれを承認してたんですよ。まあ、そういうわけですから、あの人から僕はおしゃべりだなんて言われるはずがないじゃありませんか? わかりますわかります。今、あなたは僕を見ながら、おかしくっておかしくって、しようがないんでしょう。賭けをしてもいいけど、あなたはあの
かくて、おそらくは、わが悲しき落日に
かがやきいでむ、愛のわかれのほほえみ、
というばかげた詩を僕に当てはめているんですね、……は、は、は!」不意に彼はヒステリックに大声をあげて笑いだし、また咳をし始めた、「ところでね」と彼は咳をしながら、しわがれた声を出した、「ガーニャってなんていうやつでしょう。人のことを『食い残りだ』なんて言ってるくせに、今では自分でそれをせしめようとしてるんですからね!」
公爵はしばらく黙り込んでいた。彼はおじけていたのである。
「君はナスターシャ・フィリッポヴナさんとの会見の話をしてましたね?」ついに彼はつぶやいた。
「え、じゃ、あなたは本当に、今日アグラーヤ・イワーノヴナさんと、ナスターシャ・フィリッポヴナさんの会見があることを御存じないんですね。そのためにナスターシャ・フィリッポヴナさんは、ラゴージンの手を通して、アグラーヤ・イワーノヴナさんから招かれたのに応じて、わざわざペテルブルグから呼び出されたんですよ、僕の骨折りがいがありましてね。あの人は今ラゴージンといっしょに、ここからごく近い以前の家にいるんです。あのダーリヤという……得体の知れない友だちのところに。そして今日、そこへ、その得体の知れない家へアグラーヤ・イワーノヴナさんは出向いて行かれるのです。ナスターシャ・フィリッポヴナさんと打ちとけた話をして、いろんな問題を解決するんですって。二人とも算術の勉強をしたがっているんですよ。あなたは御存じなかったんですか? ほんとですか?」
「それはどうも怪しい!」
「怪しいって言うんなら、それでも結構です。もっとも、あなたに知れるわけもないでしょう? ここでは、蠅が一ぴき飛んで来ると、――もうみんなにわかっちまいますね、こんなちっぽけな所ですから! しかし、それにしても、このことは前もってお知らせするんですから、あなたは僕に感謝してくれるでしょうね。じゃ、いずれまた、――今度はたぶん、あの世で。ああ、そうだ、もう一つ話があったんだ、いくら僕があなたに卑劣なことをしたからって、そのために……僕がすべてを失わなくてはならないってわけがどこにあるでしょう、どうか考えてみてください? それが、あなたのためになるんでしょうかね? 僕はあの女に『告白』を捧げました(このことは御存じなかったでしょう?)。ところが、あの受け取りようたら、どうでしょう! へ、へ! けども、あの人に対しては、僕は卑劣なまねはしませんでしたよ。あの人に対しては、何一つ悪いことはしませんでしょ。それだのに、あの人は僕を侮辱して頭ごなしにして、……でも、それにしても、僕はあなたに対しても、何一つ悪いことなんかしませんよ。たとい、『食べ残り』とかなんとか、そういったようなことを言ったにしろ、その代わり、今、会見の日も、時間も、場所もちゃんとお知らせしたでしょう、この|ままごと《ヽヽヽヽ》をすっかりぶちまけてしまったでしょう、……これはむろん、いまいましくってしようがないからで、度量が大きいためじゃありません。さよなら、僕はまるでどもりか、肺病やみのように、ほんとにおしゃべりですね。気をつけなさいよ、もし、あなたが、人間と言われる値打ちがあるんなら、一刻も早くしかるべき手はずをきめなさい、……会見は今日の夕方です。それは確かです」
イッポリットは戸口のほうへ歩きだしたが、公爵が大きい声で呼びかけたので、戸口のところで立ち止まった。
「してみると、君の話では、今日アグラーヤ・イワーノヴナさんは、自分でナスターシャ・フィリッポヴナさんのところへ行くっていうんですね?」と公爵は聞いた。
赤い斑点が彼の頬にも額にも現われた。
「たしかなことはわかりませんが、きっと、そうでしょう」半ばふり返りながら、イッポリットは答えた、「だって、他にやりようがないはずですからね。ナスターシャ・フィリッポヴナさんの方からあの人のところへ行く訳はないでしょう? またガーニャのところでもだめでしょう。あの男の家には、ほとんど死人同様の人がいますからね。いったい、将軍はどうなってるでしょうか?」
「そのことから考えても、無理な話ですよ!」と公爵はあとを引きとった、「いくら、あの人が出たいと思ったからって、いったい、どんな風にして出るんでしょう? 君は知らないんですね、……あの家の習慣を。あの人は一人でナスターシャ・フィリッポヴナさんのところへ行けないんですよ。そんな話はナンセンスですよ!」
「しかし、ねえ、公爵。窓を飛び越える人なんかありませんよ。ところが、火事になってごらんなさい、そうしたらたぶん、第一流の紳士でも、第一流の貴婦人でも窓を飛び越えるでしょう。もしも必要だとなれば、やむを得ませんからね。われわれの御令嬢もナスターシャ・フィリッポヴナさんのところへお出かけなさる。じゃ、あの家では、どこへも表へ出してもらえないんですか、あなたの御令嬢は?」
「いや、僕はそんなことを言ってるんじゃありません……」
「そんなことでないとしたら、あの人はただ表の段々をおりて、まっすぐに出かけて行けばいいんですよ。出てさえ行けば、もう家へ帰らなくたっていいですからね。時と場合で、自分の船を焼いてしまって、二度と家へ帰らなくてもいいことがありますよ。人生というものは、朝飯だの、昼飯だの、S公爵だのばかりによってできてるものじゃありませんよ。どうやら、あなたはアグラーヤさんを、ただのお嬢さんか、女学生か何かのように思ってらっしゃるようですね。僕はもうこのことをあの女《ひと》に話しましたが、あの人も賛成してたらしいですよ。では、七時か八時ごろを待っていらっしゃい、……僕がもしあなただったら、あの家へ見張りの者をやって、ちょうどあの人が表の段々をおりるところをつかまえさせますね。まあまあ、コォリャでもおやんなさい。あの子だったら、喜んでスパイになるでしょうよ、ほんとにね、これはあなたのためなんですよ、つまり、……みんなあなたに関係があるんですからね……は、は!」
イッポリットは出て行った。公爵にとって、誰かにスパイになってもらうということは、たとい彼にそんなことができるにしても、何のいわれもないことであった。家にいるようにというアグラーヤのさしずも、今になってほとんどわけがわかってきた。おそらく、彼女は公爵を連れ出しに寄るつもりだったかもしれない。実際、ことによったら、公爵が自分の家へやって来るのをいやがって、そのために家にじっとしているようにと命令したのかもしれぬ。これもあり得べきことである。彼はめまいがしてきた。部屋全体がぐるぐる回っているかのようであった。彼は長椅子に横たわって、眼を閉じた。
いずれにしたところで、この問題は最後の運命を決すべきほどのものであった。
けっして公爵はアグラーヤをただのお嬢さんだの、女学生だのと思ってはいなかった。自分は、ずっと以前から、何かこういったようなことがあってはと恐れていたのだと、今になって彼は痛切に感ずるのであった。しかし、何のために彼女はあの女に会いたがっているのか? 公爵のからだじゅうを悪感が走り回った。再び彼は熱を出した。
けっして彼はアグラーヤを子供あつかいにしてはいなかった! 最近になって、どうかすると、彼女の眼つきやことばに慄然とすることがあった。時として、彼女があまりにもしっかりしてきて、自分をあまりにも押さえすぎるように思われて、恐怖の念をすら覚えたこともいまさらのように思い出した。事実、彼はこの幾日というもの、こんなことを考えまいと絶えず努力して、こういう重苦しい考えを追い払っていたのである。しかるに、この魂のうちには何が潜んでいたのか? この魂を信じてはいながらも、かなり前からのこの疑問が彼をさいなんでいた。ところが、今日という今日、これらいっさいのことが解決され、暴露されるはずなのだ。思うだに恐ろしい! それにまた、――『あの女が』! あの女が最後の時に現われて、彼の運命を、まるで朽ちた糸くずか何かのように、ちぎってしまうだろう、――と、どうして、いつもいつもそんな気持になるのか? 彼は半ば人事不省に陥っていたが、いつも、そんな気がしていたということだけは今ここに誓ってもいいとさえ考えた。もしも、彼が最近になって、|この女《ヽヽヽ》のことを忘れようと努めたとすれば、それはひとえに、この女を恐れたがためであった。いったい、どうなるのか、自分はこの女を愛していたのか? 彼はこの質問を、今日は一度として心に浮かべなかった。この点に至っては、彼の心は澄みきっていた。自分が誰を愛しているかということを、彼はよく知っていた……。彼はけっして、二人の女の会見をも、その会見の奇怪なことをも、はっきりとわからない原因をも、解決(どんなことによってであろうとも)をも、それほど恐れてはいなかった、――彼はナスターシャ・フィリッポヴナその人を恐れていたのである。
この熱にうかされている何時間かの間、ほとんど絶え間なく、彼女の眼、彼女の眸がちらついて、彼女のことば――何かしら奇妙なことばが耳に聞こえていたのを、後に四、五日もしてから彼は思い出すのであった。もっとも、熱にうかされている悩ましい何時間かが過ぎてしまうと、そうしたものは、それほど記憶に残ってはいなかった。彼は、たとえば、ヴェーラが食事を運んで来たことも、自分で食事を取ったことも、食事のあとに眠ったかどうかも、かすかにしか覚えていなかった。この晩、自分が全く明瞭に、あらゆるものを区別することができるようになったのは、不意にアグラーヤが、彼のところの露台《テラス》へ上がって来たその瞬間からで、自分は長椅子から飛び上がって、彼女を迎えるために部屋のまん中へ出て来たが、その時は七時十五分であった、ということだけは承知していた。アグラーヤはたった一人きりで、身なりは、いかにも急いだらしく、あっさりしていて、頭巾つきの軽い外套を着ていた。顔はさっきと同じように青白かったが、眼はみずみずしいところのない、強い光りを放っていた。公爵はいまだかつて彼女のこんな眼つきを見たためしがなかった。彼女は注意深く公爵を見まわした。
「あなたはすっかりしたくをなすってるのね」彼女は静かに、落ち着き払っているらしく言うのであった、「着物も召していらっしゃるし、帽子まで手に持って。してみると、あなたは前もって聞かされていたのね。誰だか知ってますよ、イッポリットでしょう?」
「ええ、あの人が言ったんですが、……」半ば死人のような公爵はつぶやいた。
「じゃ、まいりましょう。あのね、あなたは必ずいっしょについていらっしゃらなくてはなりませんよ。あなたは外へ出るぐらいの元気はおありなんでしょう、わたし、そう思うわ?」
「ええ、元気はあります、しかし、……そんなことがあるべきはずのものでしょうか?」
彼は一瞬にしてことばを切ったが、もう何一つ、それ以上言いだすことはできなかった。これは半ば狂っている娘を引き留めようとする唯一の試みであった。やがて、彼はみずから囚人のように、彼女について歩きだした。彼の考えがどんなに混沌としていたにしても、彼女はやはり――アグラーヤは自分がついて行かなくとも|あすこ《ヽヽヽ》へ行くだろう、してみると、どうあってもいっしょについて行かなければならぬ――ということは悟っていた。アグラーヤの決心がどんなに強いか、推量することができたのである。この野性的な衝動を止めることは、彼の手に負えないことであった。二人は黙りがちに、途中ほとんど一言も口をきかずに歩いて行った。公爵はただ、彼女がよく道を知っているのに気がついた。一つ手前の道が、あまりに人通りが少ないので、横丁を一つだけ迂回《うかい》しようと考えて、彼がそれをアグラーヤにすすめたとき、彼女は一心に注意力を集中させるようにして聞き終わると、「どっちにしろ、おんなじだわ!」とぶっきらぼうに答えた。
二人がダーリヤ・アレクセイヴナの家(大きな古い木造の)のすぐ傍まで来たとき、表の段々から、一人のけばけばしい服装をした婦人が、若い娘をつれておりて来た。二人は、大きな声で笑ったり話したりしながら、階段の傍に待っていた気のきいた幌馬車に乗ったが、近づいて来る二人には一度も眼もくれず、気がつかないらしかった。幌馬車が出てゆくやいなや、すぐにドアがあいて、待ち受けていたラゴージンが公爵とアグラーヤを中に入れて、すぐにその後から戸を閉めてしまった。
「家じゅうに誰もいないんだ、僕たち四人のほかは」と、彼は大きな声で言って、妙な眼つきで公爵を見た。
とっつきの部屋にはナスターシャ・フィリッポヴナが、やはりきわめてあっさりした服装をして待ち受けていた。彼女は黒ずくめであった。出迎えのために立ち上がったが、彼女はほほえみもしないばかりか、公爵に手を差し出そうとさえもしなかった。
またたきもしない、不安に満ちた彼女の眸は、いらだたしげにアグラーヤの上に注がれた。二人は互いに少し離れて座を占めた。アグラーヤは片隅の長椅子に、ナスターシャは窓ぎわに。公爵とラゴージンは坐らなかった。二人に坐れと言う者もなかったのである。公爵はいぶかしげに、何かしら苦痛の色をも浮かべているらしく、またもやラゴージンを見つめた。しかし、相手はやはり前と同じように薄笑いを浮かべているばかりであった。沈黙はなおも何秒か続いた。
一種の不吉な感じが、ナスターシャ・フィリッポヴナの顔をかすめていった。彼女の眸は執拗に、動ずる色もなく、ほとんど憎悪の念さえも浮かべて、しばしの間も客の顔から離れはしなかった。アグラーヤはどぎまぎしたらしかったが、おじけづいてはいなかった。はいって来るとき、ちらと相手の顔に一瞥《いちべつ》を与えたが、今は物思いにふけっているらしく、絶えず伏し目になって、じっとしていた。二度ばかり、ゆくりなくも彼女は部屋の中を見まわしたが、嫌悪の色がその顔に描かれた。まるで、こんなところにいて身が汚れてはと、恐れてでもいるかのようであった。彼女は機械的に自分の着物をなおしていたが、一度は不安げに席を変えて、長椅子の片隅に身を寄せたほどであった。しかも、こうした自分の動作をほとんど意識してはいないらしかった。が、この無意識ということは、さらにいっそうお客たちの感情を害するものであった。ついに彼女はナスターシャ・フィリッポヴナの顔を、まともに、思いきって見つめた。と、すぐに、恋がたきの憤怒に燃える眸のうちに輝いているあらゆるものを、はっきりと読み取った、女が女を理解したのである。アグラーヤはぞっと身震いした。
「あなたはむろん、御存じでしょうね、何のためにわたしがあなたをお招きしたか」とうとう、彼女はこう言いだした。しかも、かなりに声が低く、こんな短い句の中で、二度までもことばを切ったほどであった。
「いいえ、なんにも存じません」とナスターシャ・フィリッポヴナは味もそっけもなく、ぶっきらぼうに答えた。
アグラーヤは顔を赤らめた。おそらく、彼女には不意に、『この女』の家で、今この女と座を共にして、この女の返答を自分が求めているのだということが、ひどく不思議な、あり得べからざることのように思われたのであろう。ナスターシャ・フィリッポヴナの声の最初のひびきが耳に伝わったとき、戦慄が彼女のからだじゅうを走ったかのように感じられた。もちろん、こうしたことは、何もかも、『この女』にはあまりにもよく気づかれていた。
「あなたは何もかもおわかりのくせに……わざとわからないふりをしてらっしゃるんです」とアグラーヤは気むずかしげに床を見つめながら、ほとんどささやくように言った。
「そんなことをして何になりましょう?」ナスターシャ・フィリッポヴナはかすかに笑った。
「あなたは、わたしの位置を利用しようと思ってらっしゃるんです、……わたしがあなたの家にいるのをいいことにして」滑稽に、無器用に、アグラーヤは続けた。
「その位置はあなたのせいでしょう、わたしの知ったことじゃありませんよ!」急にナスターシャ・フィリッポヴナはかっとなった、「あなたがわたしに招かれたのじゃなくって、わたしがあなたに招かれたんでしょう。それも、何のためなのか、今もってわたしは知らないんですよ」
アグラーヤは誇らかに首をあげた。
「その舌をお控えなさい。わたしはそんな武器を相手に、あなたと戦うために来たんじゃありませんよ……」
「ああ! してみると、あなたはやはり、『戦う』ためにいらしったんですね? まあ、どうでしょう、わたしはやはり、あなたというおかたは……も少し利口なおかたかと思ってましたわ……」
二人はお互いに憎悪の念を隠さずに、にらみ合っていた。二人の中の一人は、ついこの間まで、もう一人に、あのような手紙を書いていたその当人なのである。ところが、最初に会って、最初にことばを発するとともに、何もかもが散り散りになってしまった。いったい、これはどうしたというのか? この瞬間に、この部屋に居合わす四人の者は、誰一人として、こうした事実を不思議とも思わない様子であった。つい昨日まで、こんなことは夢に見ることさえできない、と信じていた公爵も、今はかなり前々からこれを予感していたかのように、ぼんやりとたたずんだまま、二人の顔を見くらべながら聞いていた。異様な夢が今やたちまちにして、きわめてなまなましい、まぎれもない現実と化したのである。このとき、一人は、一人をひどく軽蔑していて、それをずけずけと遠慮会釈もなく言ってやりたくてたまらなかったので(ことによったら、ラゴージンがあくる日に言ったように、ただそれだけのためにやって来たのかもしれない)、相手のほうもかなり変わった女ではあったが、頭の調子が狂い、心も病的になっているので、今までもっていたような考えでは、自分の恋がたきの毒々しい純然たる女性的な侮蔑を、食いとめることができなかったろうと思われる。公爵はナスターシャ・フィリッポヴナが自分のほうから、あの手紙のことを言いだしはすまいと信じきっていた。あの手紙が今、彼女にとってどれだけの価値があるか、それはぎらぎら輝く眼つきを見れば、察することができる。公爵はアグラーヤに、あの手紙のことを言わせまいとして、余生をなげうってもいいくらいの気持であった。
しかしアグラーヤは、急にしっかりと落ち着いてきたらしかった。
「それはあなたの勘違いですよ」と彼女は言った、「わたしは、あなたを好きませんけれど……喧嘩したくて来たのじゃありません。わたしが……こちらへまいったのは……人間らしいお話がしたいからです。お招きするとき、わたしはもうあなたにお話することを、すっかり決めていました。たといあなたが、わたしの本当の気持をまるきりわかってくださらないにしても、もうその決心はどうしてもひるがえしません。そんなことをすればあなたのおためにならないでしょうよ、わたしはどうでもいいとしても。わたしはあなたのお手紙に御返事しよう、直接お目にかかって、御返事しようと思ったのです。なにしろ、そのほうがあなたにとって、いっそう好都合だろうと思いましたので。あなたのお手紙に対するわたしの返事を聞いてくださいな。わたしは公爵とはじめてお目にかかり、その後、あなたの夜会で起こったことをすっかり聞かされたその日から、レフ・ニコライヴィッチさんというおかたが可哀そうになったのです。なぜ可哀そうになったかと言いますと、公爵はほんとに純なおかたで、ほんとにお人よしなので、……そういう……性格の女と……いっしょになって、幸福になれると、すっかり、信じておしまいになったからです。わたしが気づかっていたことが実現してしまいました。あなたは公爵を愛することができなくって、憂き目を見せたうえに、すてておしまいになったのです。あなたが公爵を愛することができなかったのは、あまりあなたが高慢だからです……いいえ、高慢なのじゃありません、わたしの言い間違いです。つまり、あなたが見え坊だからです。いえ、これでもまだ違います。あなたはまるで正気のさたといえないほど、……うぬぼれが強いのです。わたしにくだすった手紙はその何よりの証拠です。あなたはこんな純な人を愛することができずに、心のなかではばかにして笑ってらっしたのです。あなたには自分の汚名だけしか愛することができなかったのです。自分は汚されている、自分ははずかしめられているという考えだけしか、愛することができなかったのです。もしあなたの汚名がもっと少ないか、それとも全然なかったとしたら、あなたはもっと不仕合わせだったでしょう……」
アグラーヤは、あまりにもすらすらとほとばしり出る、しかも、もうかなり前から――今の会見を夢にも思いがけなかったころから、すでに準備され、考え考えされていたこれらのことばを痛快げに述べて、自分のことばの効果を、恨めしげな眸をあげて、ナスターシャ・フィリッポヴナの興奮のためゆがんだ顔のうえにうかがっていた。
「覚えてらっしゃるでしょう」と彼女は続けた、「あのころ、公爵はわたしに手紙をくださいました。公爵のお話では、あなたはこの手紙のことを御存じなんですってね。それにお読みになったことさえあるそうですね? この手紙を拝見して、わたしは何もかもわかりました。はっきりわかりました。ついせんだって公爵が御自身でそれを確かめてくださいました。つまり、わたしが今あなたに言ってることですの。しかもひと言、ひと言、そっくりそのままといってもいいぐらいです。手紙を読んでから、わたしは、お待ちするようになりました。つまり、あなたがこちらへきっといらっしゃるだろうと察したのです。だって、あなたはペテルブルグなしではやってゆけないかたなんですからね。あなたはまだあまり若くっておきれいですから田舎にはもったいないおかたですわ……もっとも、これはやはりわたしの言ったことじゃありませんよ」と彼女はひどく赤くなって、付け足した。この時から最後のことばの切れるまで、彼女は顔を赤くしたままであった。「それから二度目に公爵を見たとき、わたしはあの人のために恐ろしいほど苦しく腹が立ってきました。笑わないでくださいな。もしあなたがお笑いになれば、それはあなたにこの気持を了解する資格がないということになりますからね……」
「ごらんのとおりわたしは笑ってなんかいません」とナスターシャは憂鬱そうに厳然と言った。
「それにしても、わたしはどうだってかまいません、御勝手に笑ってください。で、わたしが自分の口からあの人に尋ねるようになってから、公爵はこう言いましたの。『わたしはもう以前からあの女を愛してなんかいません。あの人を思い出すだけで、苦しいくらいです。ただ、あの女が可哀そうです。あの女のことを思い出すと、まるで永久に胸をつき通されたような気がします』って。ところで、わたしは当然あなたに、もうひと言言わなくてはなりません。わたしは生まれてからまだ一度も、高潔な純情という点で、また、他人に対する限りのない信頼という点で、公爵に比べられるような人を見たためしがありません。わたしは公爵の話を聞いたあとで、すぐに悟りました。どんな人でもその気にさえなれば、わけなくこの人をだますことさえできます。しかも、公爵はそのだまし手が誰であろうとも、後になれば、みんな許しておしまいになりますって。つまり、この性質のために、わたしは公爵が好きになったのです……」
アグラーヤは自分で自分に驚いたかのように、こんなことばを口にすることができるなどとは、自分でも信ずることができないらしく、ちょっとのあいだ口をつぐんだ。けれども、それと同時に、ほとんど量りも知れぬほどのプライドがその眸のなかに輝きだした。今は思わずもほとばしり出たこの公言を『この女』が笑おうと、笑うまいと、どうでもいいらしかった。
「わたしはあなたに何もかも申し上げました。ですから、むろん、あなたもわたしが何を望んでいるかお察《わ》かりなすったでしょう?」
「たぶん、わかったでしょうよ。けれど、御自分で言ってごらんなさい」ナスターシャ・フィリッポヴナは低い声で答えた。
憤怒の色がアグラーヤの顔に燃えあがった。
「わたしはお聞きしたかったんですよ」しっかりした声で、歯切れよく彼女はきり出した、「あなたはどんな権利があって、わたしに対する公爵の感情に干渉なさるんですの? どんな権利があって、おこがましくも、わたしに手紙をくだすったんですの? どんな権利があって、あなたがこの人を愛してるってことを、わたしやこの人にしょっちゅう広告なさるんです? しかも、自分でこの人をすてて……あんな侮辱と……汚名を浴びながら、逃げ出したあとまでも!」
「わたしが公爵を愛してるなんて、御本人にもあなたにも広告したなど覚えはありません」やっとのことでナスターシャはこう言った、「もっとも、わたしがこの人をすてて逃げ出したのは、……あなたのおっしゃるとおりですわ……」やっと聞こえるぐらいの声で付け足した。
「御本人にもわたしにも広告した覚えがないなんて、よくもまあ」とアグラーヤは叫んだ、「では、いったい、あなたの手紙はなんですの? 誰があなたにわたしたちの仲人になってくれと頼んだんですの、この人と結婚しろと誰がわたしに勧めたんですの? これでも広告でないんですか? なんだって、わたしたちの中へ出しゃばるんです? わたしは最初のうちは反対に、『あの女はあんな干渉をして、公爵に対する嫌悪の種を蒔《ま》いて、公爵をすてさせようというのじゃあるまいか』と、こう考えたのです。ところが、あとになって、そのわけがわかりました。あなたはそのいやらしいやり口でもって、何かたいへんな手柄でもしているような気がしたんでしょう、……ところで、それほど自分の虚栄心を愛してらっしゃるあなたに、公爵を愛することができましたか? あんなおかしな手紙を書くひまに、なぜきれいにここを立ってしまわなかったのです? あんなにまであなたを思って、あなたに求婚をするほどの敬意を払った気高い青年と、どうして結婚しようとなさらないんです? その理由はあまりにはっきりしています。もし、ラゴージンさんと結婚すれば、何も愚痴を言わなくてもすむからです。かえってあなたの得る名誉が多すぎるからです! あなたのことをエヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんがそう言いました――あなたはあまりたくさん詩を読みすぎたものだから、あなたの……身分としてはあまり教養がありすぎる、あなたは本学問の世事にうとい人で、有閑婦人ですって。これにあなたの虚栄心を加えると、理由がすっかりそろいますよ、……」
「じゃ、あなたは有閑婦人じゃないんですね」
事件はあまりにも急激に、あまりにも露骨に、思いがけないところまで行き着いてしまった。実際、思いがけないことであった。というのは、ナスターシャがこのパヴロフスクへ来る道すがら(むろん、いいことより、むしろ悪いことを予想していたが)、それでもまだ何か別なことを空想していたからである。アグラーヤに至っては、もう一瞬の間に全く激情の発作に襲われて、まるで断崖から転り落ちるように、恐ろしい復讐の快感の前に、自分を押さえることができなかった。ナスターシャにとって、こうしたアグラーヤを見るのは、むしろ不思議なことであった。彼女は相手を見つめながらも、自分の眼を信ずることができないらしかった。最初の一瞬間、彼女は全く途方に暮れていた。彼女は、あるいはエヴゲニイが推定したように、多くの詩を読んだ女かもしれない。けれども、とにかくこの女は(時として、あのような皮肉で高慢な態度をとることもあるが)、実際において人々が結論を下すよりも、はるかに、はにかみやで、優しい、信じやすい女であった。いうまでもなく、彼女には世事にうとく、空想的で、ひとりよがりで、気まぐれなところが多分にあった。しかし、その代わり、力強く、深いところもあるのである、……公爵はそれを了解していた。苦痛の表情が彼の顔に浮かんできた。アグラーヤはそれに気がついて、憎悪の念に身を震わした。
「あなたはわたしに向かって、よくもまあ、そんな口がきけますね!」名状すべからざる高慢な態度で、彼女はナスターシャのことばに答えた。
「それはあなたの聞き違いでしょう」とナスターシャは驚いて、「わたしがあなたにどんな口をききました?」
「もしも、あなたが純な婦人になりたかったら、なぜ、あのとき自分を誘惑したトーツキイを、あっさりと……お芝居がかったことをせずに、すててしまわなかったのです?」突然アグラーヤはとんでもないことを言った。
「そんな失礼な批評をなさるについて、どれだけあなたはわたしの境遇を知ってらっしゃるんです?」ナスターシャはひどく青くなって身震いした。
「ええ、知ってますよ、あなたが労働につかないで、堕《お》ちたる天使ぶりたいために、金持のラゴージンと逃げ出したくらいのことは知ってますよ。トーツキイが堕ちたる天使をのがれるために、ピストルで自殺をしようとしたと聞いても、驚きやしませんよ!」
「およしなさい!」ナスターシャは嫌悪の色を浮かべ、痛みを忍ぶように言った、「あなたはまるで……ついこのあいだ自分の許婚《いいなずけ》といっしょに治安判事の判決を受けた、ダーリヤさんの小間使と同じような眼で見てらっしゃいますね。かえって、小間使のほうがあなたよりよくわかっていますよ……」
「それはきっと純な娘さんでしょう、自分の労働で生活してる人でしょう。なぜあなたは小間使に対して、そんな軽蔑した態度をおとりになさるんです?」
「わたしは労働に対して、軽蔑の態度をとるわけじゃありません。労働を口になさるあなたに対してです」
「わたしは純な女になりたかったら、洗濯女にでもなりますよ」
二人は立ち上がって、まっさおな顔をして、互いににらみ合っていた。
「アグラーヤ、およしなさい! だって不公平じゃありませんか」と公爵は気が転倒したらしく、こう叫んだ。
ラゴージンはもう薄ら笑いをやめて、唇を食いしばり、腕を組んでじっと聞いていた。
「まあ、ごらんなさい」とナスターシャは憤怒のために、身を震わせながら、こう言った、「このお嬢さんを。今までわたしはこの人を天使のつもりでいたんですよ! ねえ、アグラーヤさん、あなたは家庭教師を連れないで、わたしのところへお出かけくだすったんですか? もしお望みなら……お望みならわたし今すぐ、忌憚《きたん》なく申しますわ。……なぜあなたはわたしのところへいらしたんでしょう? つまり、おじけがついたんでしょう、それでいらしたんでしょう」
「わたしがあなたを恐れるですって?」この女がよくまあ自分に向いて、こんな口がきけたものだという、純真な、向こう見ずな驚きのためにわれを忘れて、アグラーヤは叫んだ。
「むろん、わたしをね! わたしのところへ来ようと決心なすった以上、わたしを恐れてらっしゃるんですよ。自分の恐れている人は軽蔑できないものですよ。けれど、考えてみると、わたしはたった今さっきまで、あなたを尊敬してたんですからね! けれど、ねえ、あなた、どういうわけであなたがわたしを恐れてらっしゃるんだか、まああなたのおもな目的がどういうところにあるのか、御存じですの? あなたは、この人がわたしをあなたよりよけいに愛してらっしゃるかどうか、それを自分の眼ではっきりと確かめたかったのです。だって、あなたは恐ろしい嫉《そね》みやですからね……」
「この人はわたしにそう言いました、あなたを憎んでるって……」アグラーヤはやっとの思いで口ごもった。
「たぶん、たぶん、大きにそうかもしれません。わたしにはこの人の愛を受ける資格がありませんわ。けれど……けれど、あなたは嘘をおつきになりましたね、わたし、そう思うわ! この人がわたしを憎むはずなんかありません、そんな言い方をするわけはありません! もっとも、わたしは潔よく、あなたを大目に見ておきましょう……あなたの情状を酌量《しゃくりょう》しましてね……でも、とにかく、わたしはあなたという人をもっとよく考えてましたわ。もっとお利口で、も少しお器量のいいかたと思ってましたわ、ほんとですの!……さあ、可愛いい人を連れてらっしゃい……ほら、ごらんなさい、この人はあなたを一生懸命に見つめて、どうしても正気になれないんですよ。さあ、早くこの人を連れてってください。ただし条件つきですよ――すぐに出て行ってもらいましょう! さあ、今すぐに!……」
彼女は安楽椅子に倒れて、さめざめと泣きだした。しかし、急に何かしら新しいものが、眼の中に輝きだした。彼女は穴のあくほど、執念深くアグラーヤを見つめていたが、ふと席を立って、
「だけど、もしお望みならば、わたし、今すぐにでも……めい、れいするわ、よくって? もっとも、公爵にめい、れいするのよ。そしたら、この人はさっそくおまえさんを見すてて、わたしの傍に永久に居残るわ。そしてわたしと結婚するわ。おまえさんは一人で家へ走って帰るんです、いいでしょう? いいでしょう?」と狂気のように叫んだ。おそらく、自分でもこんなことばを発し得ようとは、ほとんど信じていなかったに相違ない。
アグラーヤは愕然として戸口のほうへ駆け出そうとしたが、釘づけにでもされたかのように、戸口のあたりに立ち止まって、聞いていた。
「よくって、わたしがラゴージンを追い出しても? いったいおまえさんは、あんたをわたしが喜ばすために、ラゴージンと結婚したとでも思ったの? ところが、わたしはね、今おまえさんの眼の前で言ってやるわ、『出て行け、ラゴージン!』そして、公爵には、『あんたはわたしに約束したことを覚えてるでしょう?』とこう言ってやるわ。ああ、しまった! いったいわたしは何のためにこの人たちの前で、あんなに自分を卑下していたのでしょう? ねえ、公爵、あれは全体あんたじゃなかったの、『おまえさんの身の上に、どんなことが起ころうとも、必ずあとについて行く、けっしてすてやしない、わしは心から愛してやる、おまえさんのすることはなんでも許してあげる、そしておまえさんをそ……そんけ……』ええ、そうだわ、あんたがそう言ったのよ! それだのにわたしは、あんたを自由にして上げたい一心で、いったんあんたの傍から逃げ出したの。けども、もう今となってはいやです! あの娘はなんだってわたしを、自堕落者扱いにしたんだろう? わたしが自堕落者かどうか、ラゴージンに聞いてごらんなさい、あの人が証明するから! けれど、今はあの娘が、あんたの眼の前でわたしの顔に泥を塗ったから、あんたもたぶんわたしに後足で砂をかけて、あの娘の手を引いて帰るんじゃなくって? もしそうなら、わたしがあんた一人だけ信じていたのに対しても、あんたは罰があたりますよ。さあ、出て行け、ラゴージン、もうおまえになんか用はない!」
彼女は顔をゆがめ、乾ききった唇から、やっとことばを絞り出すようにしながら、ほとんど前後を忘れてこう叫んだ。明らかに、彼女はこうした自分のから威張りを、少しも信じていないらしく、同時にせめて一秒間でも、自分で自分を欺いていたいと考えているらしかった。興奮があまりに激しかったので、ことによったらこのまま死んでしまいはしないかと、思われるほどであった。少なくとも公爵にはそういう気がするのであった。
「ほら、ごらんなさい、そこに大事な人がいますよ!」彼女はついに公爵のほうを指しながら、アグラーヤに向かって叫んだ、「もしこの人が今すぐわたしの傍へ寄って、この手を取りもせず、そしておまえさんをすてもしなかったら、そのときはこの人をお取んなさい、譲って上げるわ、こんな人に用はないわ……」
彼女もアグラーヤも、待ち受けるかのように立ち止まって、二人とも気ちがいのように公爵を見つめた。しかし、おそらく、この挑戦的なことばが今どれほど力をもっているか、彼にはよくわからなかったであろう。いや、たしかに、そうだとも断定しうるであろう。彼はただ自分の眼に、やけくそになった狂人のような顔を見たばかりであった。それはかつてアグラーヤに口走ったように、見ていると、『永久に胸をつき通された』ような気になる顔であった。彼はもうこのうえ我慢がならなかった、哀願と非難の色を浮かべて、彼はナスターシャを指し示しながら、アグラーヤに向かって言うのであった。
「こんなことがあってもいいものでしょうか! だって、あの女は……こんなに不仕合わせな身の上じゃありませんか!」
それにしても、公爵はアグラーヤの恐ろしい視線の下に、身をしびらせながらこれだけのことしか言うことができなかった。彼女の眸のうちには量り知られぬ苦痛と、同時に限りない憎悪が現われた。公爵は思わず両手をうって、叫び声をあげながら、彼女のほうへ飛んで行った。が、すでに時おそく、彼女は公爵の躊躇《ちゅうちょ》の一瞬間をも、堪え忍ぶことができなかった。両手で顔をかくしながら、「ああ、くやしい!」と叫ぶやいなや、部屋の外へ躍り出てしまった。そのあとからラゴージンが往来へ抜ける戸の閂《かんぬき》をはずすために駆け出した。
公爵も駆け出そうとしていた。ところが、閾《しきい》の上で手で抱き止められてしまった。ナスターシャの絶望にゆがんだ顔が、じっと彼を見つめていたのである。やがて、紫色になった唇が動いて、ことばをかけた。
「あの女につくの? あの女につくの?」
彼女は感覚を失って、公爵の手に倒れかかった。彼はそれを抱き起こして、部屋の中へ引き入れ、安楽椅子の上にねかした。そして、かすかな期待をいだきながら、その傍にじっと立っていた。小机の上には、水のはいったコップが置いてあった。やがて引き返して来たラゴージンは、それを取って彼女の顔に水をふりかけた。彼女は眼を見開いたが、一分間ほどは、何一つわからなかった。が、ふっとあたりを見まわして、身を震わすと、叫び声とともに公爵にとびかかった。
「わたしのものだ! わたしのものだ!」と彼女は叫んで、「あの高慢ちきなお嬢さんは行っちゃったの? はははは!」とヒステリイの発作に笑いだした。「ははは! わたしはすんでのところで、この人をあの女に渡すところだった! 何のために? どういうわけで? ふん、気ちがいだわ! 気ちがいだ!……ラゴージン、さっさと出て行きな、ははは!」
ラゴージンは二人をじっと眺めていたが、一言も物を言わずに、自分の帽子を取って出て行った。十分して、公爵はナスターシャの傍に坐って、少しも眼を放さずに彼女を見つめながら、まるで小さな子供をあやすように、両手で頭や顔をなでさするのであった。彼は女の笑いにつれて笑い、その涙につまされて泣かないばかりであった。彼は何も言わなかったが、断続的な、歓びにあふれたとりとめのない片ことに、一心に耳を傾けていた。何か悟りえたかどうかは怪しいが、ただ静かにほほえんで、少しでもナスターシャが悲しんだり、泣いたり、とがめたり、訴えたりし始めたと見ると、すぐにまたその頭をなでたり、やさしく両手で頬をさすったりして、幼児を相手にするかのように慰めたり、なだめたりするのであった。
[#改ページ]
九
前の章に物語った出来事から二週間は過ぎた。この小説に出てくる人たちの境遇もかなりに変わった。したがって、特殊な説明を加えずに続きにとりかかるのは、非常に困難なこととなった。それにしても、なるべく特殊な説明を省いて、事実の単なる記述にとどめておかねばなるまいと思う。しかも、それはきわめて簡単な理由による。つまり、わたくし自身が、多くの場合に事件の説明に苦しんでいるからである。自分のほうから、かような断わりをするのは、読者の眼にはきわめて、奇怪な、曖昧《あいまい》なことと見えるに相違ない。すなわち明瞭な概念も、独自の意見ももってないことを、どうして他人に語ることができるのか、という疑問が生ずるからである。これより以上おぼつかない立場に陥らないために、むしろ実例を挙げて、説明をするように努めたほうがいいようである。そうしたならば好意ある読者は、おそらくわたくしが、どういうことに苦しんでいるかということを悟ってくれるであろう。ことにこの実例というのが、逃げ道ではなしに、直接に物語の続きとなっているから、なおさらのことである。
二週間の後(といえば、すでに七月の初めである)さらにこの二週間のあいだに、わが主人公の物語、わけてもこの物語の最後の出来事は、奇怪な、きわめて愉快な、ほとんど信じえないほどの、また同時にわかりのいい世間話と変わり、レーベジェフ、プチーツィン、ダーリヤ、エパンチンなどの別荘に近い町全体、もっと簡単にいえば、ほとんど町じゅう、および郊外にまでも、しだいしだいに広がっていった。ほとんど町じゅうの人が、――土地の者も、別荘の人も、楽隊を聞きにやって来る人も――同じ話に尾鰭《おひれ》をつけて、一人の公爵が、ある家柄の正しい名家で、醜態を演じて、もう結婚の約束までできているその家の令嬢をもふりすてて、有名なはすっぱ女に夢中になり、元からの交遊を元から全く絶ってしまい、人々の威嚇《いかく》も、公衆の憤慨も、何もかもかえり見ずに、近いうちにこのパヴロフスクの町で、公けに、人目をはばかることなく、意気揚々と、汚れ果てた女と結婚するつもりでいるという噂を立て始めた。
その話はついにはいろんな醜聞にいろどられ、その中にまた知名の士がかなりに巻きこまれて、さまざまな空想的な謎めいた陰影まで付け加えられていた。しかも、一方から見れば、否定することのできない、明白な事実に基づいているので、誰もがもっていた好奇心もゴシップも、もちろん、大目に見なければならなかったのである。その中でも最もデリケートな、奸智《かんち》にたけた、それと同時に、いかにももっともらしい説明は、少数のなみなみならぬゴシップ屋のしわざなのであった。これらの人々は、分別のある階級の人で、どんな社会にあっても常に誰よりも先に新しい出来事を、他人に説明して聞かせようとあせり、そのことを自分の使命と考え、往々にして、慰みとさえ心得ている連中である。
彼らの説明によると、この青年は名門の出で、公爵で、まず金持のほうで、ばか者ではあるが、ツルゲェネフ氏によって暴露された現代の、虚無主義に夢中になっている民主主義者《デモクラート》で、ほとんどロシア語も話せない男で、エパンチン将軍の令嬢に思いをかけて、ついに同家へ花婿の候補者として出入りするまでに漕ぎつけたという。それはまさしく、ついせんだって新聞に逸話が載ったばかりの、フランスの神学生に似ている。この神学生というのはわざわざ身を僧職にゆだねようと決心して、自分で採用方を哀願し、跪拝《きはい》、接吻、誓言など、いっさいの儀式を行なっておきながら、すぐそのあくる日に主教に公開状を書いて、自分は神を信じていないのに、民衆を瞞着《まんちゃく》するのは、破廉恥だと思うから、きのういただいた位階は自分で剥奪《はくだつ》します、といったようなことを二、三の自由主義の新聞に掲載したのであった――ちょうどこの無神論者と同じように、公爵は自己流の芝居を打ったのである。彼はことさらに花嫁の家で催された盛大な夜会を待ち構えていた。という噂で(ここで彼はきわめて多数の名士に紹介された)、それはただ単に一同の前で麗々しく自分の思想を披瀝して、尊敬すべき名士を罵倒し、自分の花嫁を公衆の面前で侮辱して、縁談を拒絶しようがためであり、その際に彼は、自分を引っぱり出そうとする侍僕らに抵抗して、見事に支那焼きの花瓶をこわしたという。人々は、さらにまた当世気質の特徴だといって、おまけをつけた、――このわからずやの公爵は実際のところは、自分の花嫁、将軍令嬢を愛していたのであったが、その縁談を断わったのは、ただ虚無主義《ニヒリズム》から出たことで、今度の醜事件を目安においたのである。すなわち、世間を向こうへまわして、堕落した女と結婚するという満足をふり切りたくなかったからである。つまり、この行為によって、『自分の心には、堕落した女も、貞淑な令嬢もない、ただ自由な女があるばかりである、自分は古い世間的な区別を信じない、ただ、一個の「婦人問題」を信ずるだけだ』ということを証明したかったのである、それどころか、彼の眼から見ると、堕落した女は堕落しない女より、少し優れているようにさえ映じたのであると。
この説明はこのうえもなくもっともらしく思われたので、別荘暮らしの大多数の人たちにそのまま承認された。わけても、毎日の出来事がこれを裏書きするのであった。とはいえ、詳細事情は、相変わらず未解決のままであった。たとえば、ある者は、哀れな令嬢は心の底から婚約をした男(ある人に言わせると『誘惑者』)を愛していたので、絶交を言い渡されたあくる日には、男が情婦と差し向かいでいるところへ駆け込んだと言い、またある者はその反対に、令嬢はことさら自分から男に誘われて、情婦のところに行ったのである、しかも、それはただの虚無主義から出たことであって、汚名と侮蔑を与えたいためである、と言った。いずれにしても、その事件の興味は日ごとに増していった。まして、実際に汚らわしい結婚式が挙げられるという事実には、いささかの疑惑をさしはさむ余地もないので、なおさらのことであった。
もしも、ここで私にこの事件の説明を求める人があったら――それは事件の虚無主義的色彩に関してではない、全くそうではない。ただ今度の結婚がどの程度まで、公爵の本当の要求を満足させているか? またその要求とは今のところ、どんなものであろうか? 目下の公爵の心境をどういう風に断定したらよいか? といったような説明を求める人があったならば、作者は、正直にいうと、非常に答えに窮するであろう。作者がいま知っていることは、わずかに、本当に結婚が成立して、公爵が教会や家事向きの面倒は、いっさいレーベジェフとケルレルと、それにこのたび公爵に紹介されたレーベジェフの知人と、この三人にすっかり委任してしまったということ、金に糸目をつけるなという命令の出ていること、結婚を主張して、それを急がせたのはナスターシャ・フィリッポヴナであるということ、公爵の介添えとしては、ケルレルの切なる頼みによって指定されたこと、ナスターシャ・フィリッポヴナつきとしてはブルドフスキイが、歓びの声をあげて依頼したこと、また、式は七月の初めと決まったこと――まず、だいたいにおいてこれぐらいのことである。
とはいえ、このようなきわめて正確な事実のほかに、まるで作者をとまどいさせるような、二、三の噂が耳にはいっている。つまり、前に述べたような事実と矛盾をきたすような噂である。たとえば、レーベジェフやその他の者にやっかいなことを全部おしつけておきながら、公爵自身は儀式執行係や、結婚の介添え人のあることも、自分が結婚しようとしていることも、さっそくその日のうちに忘れたとのことである。彼が大急ぎで、万端の世話を他人にまかせてしまったというのも、単に自分でこのことを考えないため、あるいはことによったら少しでも早くこのことを忘れてしまいたいためかもしれない。もしも、そうだとすればだ、彼自身は何を考えているのであろう? 何を思い出そうとしているのであろう? 何に向かって急いでいるのであろう? また、彼に対して、何びとの(たとえばナスターシャ・フィリッポヴナなどの)強制もなかったということは、これまた疑うべき余地のないことである。全くナスターシャ・フィリッポヴナは、ぜひにといって結婚を取り急ぎ、自分からこのことを考え出したのであって、けっして公爵から持ち出したのではないが、しかし公爵は全く自由意志をもって承諾したのである。かえって、何かごくありふれたものでもねだられたように、そわそわした手軽な態度で承諾したくらいである。このような奇怪な事実はわれわれの前にはたくさんにある。こんなことはどんなに引き合いに出したところで、少しも事の真相を明らかにしないばかりか、われわれの考えによると、かえって問題の説明を不明瞭にしてしまうくらいである。それにしても、もう一つの例を引いてみよう。
次のような事実もまた全く知れ渡っていることである。つまり、この二週間のあいだ、公爵が幾日も幾晩も、ナスターシャ・フィリッポヴナといっしょに時を過ごしたこと、彼女がよく公爵を散歩へ誘ったり、音楽を聞きに連れ出したりしたこと、また公爵は毎日彼女といっしょになって、あっちこっちを幌馬車で乗りまわして、たった一時間でも彼女の姿が見えないとなると、公爵はもうすぐに心配を始めるということ(したがって、すべての様子から推察して、公爵が彼女を心の底から愛していたことがわかる)、公爵が幾時間も幾時間も続けさまに、おだやかな、つつましい笑いを浮かべながら、自分のほうからほとんど口をきかないで、彼女の話でさえあればどんなことでも、じっと耳を傾けて聞いていたということなど。
しかも、われわれはそれと同じように、次の事実をも知っている。それはほかでもない、この数日のあいだ彼は幾度も、というよりほとんどしょっちゅう、いきなりエパンチン家へ出かけたのであった。けれど、それをナスターシャに隠そうとはしないで、彼女はそのたびごとに、ほとんど絶望の極に達した。また、エパンチン家ではパヴロフスク滞在中、けっして公爵を上へはあげず、アグラーヤ・イワーノヴナに会わせてくれという彼の願いは、いつもはねつけられて、彼は一語も発しないで立ち去ったが、すぐあくる日になると、きのう断わられたことは、けろりと忘れてしまったように、またまた将軍家を訪れて、むろんまたもや拒絶の憂き目を見たというような話も知っている。
また同じようにこういうことも知れている――アグラーヤ・イワーノヴナがナスターシャ・フィリッポヴナのもとを走り出してから一時間ののち(あるいはもう少し早かったかもしれない)、公爵はもうエパンチン家に姿を現わした。むろんここでアグラーヤに会えるものだと信じながら。……ところが彼の出現はそのとき同家に非常な恐惶《きょうこう》と、騒ぎをひき起こした。というのは、そのときアグラーヤはまだ帰宅していなかったうえに、同家では娘が彼といっしょにナスターシャ・フィリッポヴナの家におもむいたことを、公爵からはじめて聞いたからである。噂によると、リザヴィータ・プロコフィーヴナも姉たちも――おまけにS公爵までが、そのとき公爵に冷淡な敵意に満ちた態度をとり、即座にはげしいことばを使って、知合いとして、また友だちとしてのつきあいを断わった。わけても、不意にそこへワルワーラ・アルダリオノヴナがはいって来て、リザヴィータ・プロコフィーヴナに、アグラーヤ・イワーノヴナはもう一時間ばかり前から自分の家に来ていて、恐ろしい状態に陥っている、そして自分の家へは帰りたくないような風であると知らせたとき、ひとしおその態度が露骨になった。
この最後の報告は、何よりもひどくリザヴィータ夫人を驚かした。しかも、それは全く事実だったのである。ナスターシャ・フィリッポヴナのところから出たとき、アグラーヤはいまさら家の人に顔を合わせるよりは、いっそのこと、死んでしまったほうがましだと思って、いっさんにニイナ・アレクサンドロヴナのところに駆け込んだのである。ワルワーラは今すぐに一刻の猶予もなく、このことをすっかりリザヴィータ・プロコフィーヴナに報告する必要があると感じた。母と二人の姉を初めとして、一同の者はすぐにニイナ・アレクサンドロヴナのもとに駆けつけた。たった今、帰宅したばかりのイワン・フョードロヴィッチ――一家の主人も皆のあとに続いた。またそのあとからムィシキン公爵も、人々が荒々しいことばで追い払うのもかまわずに、たどたどしい足取りで駆け出した。しかし、ワルワーラの取り計らいで、彼はここでもアグラーヤの傍へ通してもらえなかった。アグラーヤは、母や姉たちが自分に同情して泣きながら、少しもとがめだてしないのを見て、いきなりみんなに飛びかかって抱き合った。そして、すぐに一同と共に家に帰ったので、これで事件はひとまずけりがついた。
もっとも、あまり確かな噂ではないが、こんなことも人々の語りぐさとなった。――ガーニャがここでもさんざんな目に合ったと言い、ワルワーラがリザヴィータ夫人のもとへ走って行った隙をねらって、彼はアグラーヤに面と向かって、自分の恋を打ち明ける気になったとのことで、そのことばを聞くやいなや、アグラーヤは自分の悲しみも涙もすっかり忘れて、急に声をたてて笑いだしたという。そして不意に奇妙な質問を持ち出した。それは、どれだけ思っているかという証明のために、今すぐ指を蝋燭の火で焼くことができるかというのであった。ガーニャはその要求に度胆を抜かれて、なんと答えていいのかわからないので、たとえようもない不思議そうな表情を顔に浮かべたので、アグラーヤはヒステリイにかかっているように高笑いをしながら、二階にいるニイナ夫人のところへ走って行った。そこで彼女は自分の両親に会ったという。
この逸話はあくる日イッポリットを経て、公爵の耳にはいった。イッポリットはもう床から起きられなかったので、このことを知らせるために、わざわざ公爵に使いをやった。どうしてこの噂がイッポリットの耳にはいったのか、それはわからないが、公爵は蝋燭と指の話を聞いたときに、イッポリットさえもびっくりするほどに笑いだした。が、急にぶるぶると震えだして、さめざめと涙を流した、……いったいに彼はこの数日間、非常な不安と非常な困惑に陥っていた。それはそこはかとない悩ましいものであった。イッポリットは、公爵のことを頭が変だと断定したが、それはまだどうしても、はっきりしたことは言えない。
こうした事実を挙げて、しかもその説明を拒みながら、けっしてわれわれはこの小説の主人公を読者の眼の前で、弁護しようと望んでいるわけではない。それどころか、公爵が親友の間にさえも呼びおこした憤懣《ふんまん》そのものを分かつことすらも、あえて辞しないつもりである。ヴェーラでさえもしばらくの間は、公爵の行為に憤慨していた。またコォリャさえも、そうであった。ケルレルすら、介添え人に選ばれるまでは、腹を立てていた。レーベジェフのことはいうまでもない。彼もやはり、憤慨のあまりに、公爵に対して奸策《かんさく》をさえめぐらし始めた。きわめて真摯《しんし》なものといっていいぐらいの。しかしこのことはあとで言おう。いったいにわれわれはエヴゲニイのことば、――心理的に深刻でかつ強烈なことばに、全く同意を表するものである。それは、ナスターシャの家で起こった出来事の後六日か七日目に、彼が公爵との打ちとけた話のときに、無遠慮に述べたことばであった。
ついでに断わっておくが、エパンチン家の人々ばかりではなく、直接になり間接になり同家に属している人は、誰も彼も、公爵との関係をすべてなくしてしまう必要を認めていた。たとえば、S公爵などは、公爵に出会うと、横を向いてしまって、会釈さえしようとしなかった。しかし、エヴゲニイは、自分の立場を傷つけることをなんとも思わないで(また毎日のようにエパンチン家へ出入りを始め、前にも増した歓待を受けるようになったにもかかわらず)、公爵を訪問した。それはエパンチン一家が、パヴロフスクを去ってあくる日であった。ここへ来るときも、彼は町じゅうに広がった噂を、すっかり知っているばかりではなく、ことによったら、自分でも少しぐらいその手伝いをしたかもしれない。公爵は非常に彼の来訪を喜んで、すぐさまエパンチン家のことを言いだした。こうした純真で、率直なきっかけに、エヴゲニイはすっかりうちとけて、回りくどいことを省いて、いきなり、要件に取りかかった。
公爵はまだエパンチン一家の出立を知らずにいた。それを聞いて彼は驚いてまっさおになった。しかし、しばらくたつと、当惑したような考え深い様子で、首を振りながら『そうあるべきはずだったのです』と告白した。それから落ち着かない調子で、『いったい、どこへ行かれたのでしょう?』と尋ねた。
エヴゲニイはそのあいだ、じっと公爵を観察していた。早口な質問、その質問の調子の無邪気さ、うろたえた、それと同時になんだか妙に露骨な態度、不安そうな興奮した様子――かようなあらゆるものが、少なからず彼を驚かした。けれども彼は愛想のいい調子で、詳しく一部始終を公爵に報告した。相手はいろんな事実をまだ知らなかった。これは将軍家から出たはじめてのたよりであった。彼はアグラーヤが本当に病気をして、一週間ばかり続けて熱に悩まされ、夜もほとんど眠らなかったが、今はかなりよくなって、心配なことは少しもないが、神経的なヒステリックな状態にあるという噂は確かなことだと言った。……「けれど、家の中がすっかり穏かになったから、それでも結構なんですよ! 過ぎ去ったことは、アグラーヤさんの前だけでなく、お互い同志の間でも、ほのめかさないようにしています。御両親は秋になって、アデライーダさんの結婚がすみ次第、外国旅行をすることに相談を決められました。アグラーヤさんははじめてこの話を持ちかけられたときも、ただ黙って聞いておられました」
彼エヴゲニイ・パーヴロヴィッチも、やはり外国へ出かけるかもしれない。S公爵さえも、もし事情が許すならば、アデライーダといっしょに二月《ふたつき》ばかりの予定で、行って来たいと言っている。将軍自身はこちらに居残るはずである。このたび、一同が引き移ったのは、コルミノ村といって、ペテルブルグから二十|露里《エルスター》ばかり離れた同家の領地で、そこにはゆとりのある地主の館がある。ベラコンスカヤ夫人はまだモスクワへ帰らないが、どうやら、わざと踏みとどまっているらしい。リザヴィータ夫人はあんな出来事のあったあとで、パヴロフスクに居残るのは、できない相談だと主張した。それはエヴゲニイが、毎日のように町じゅうの噂を夫人に伝えたからである。エラーギン島の別荘に暮らすのも、やはりできないことであった。
「ねえ、まあ本当に」と、エヴゲニイは付け足した、「考えてもごらんなさい、我慢ができるでしょうか……わけても、あなたの家で、ねえ、公爵、絶えず運んでいる話を聞かされたうえに、どんなに断わっても、|あなた《ヽヽヽ》が毎日あすこを訪問なさるんですものね……」
「そうです、そうです、そうです、おっしゃるとおりです。僕はアグラーヤさんに会いたかったものですから」と彼は再び首を振った。
「ああ、公爵」急にエヴゲニイは、元気よく、しかも物悲しそうに叫んだ、「あなたはどうしてあのとき……あんな出来事をうっちゃっておいたのです? もちろん、もちろん、あんなことはあなたにとって、実に意外でしたろうね、……僕も、あなたが度を失ってしまったのは、当然だと認めます。それに、あの気ちがいじみた娘さんを引き止めることは、あなたにできなかったでしょう、全くあなたの手に負えませんからね! しかし、あの娘さんがどの程度まで、まじめにまた熱心に……あなたを思っていたかを、あなたが理解するのはあたりまえだったでしょうよ。あの女はほかの女と愛を分かつのがいやだったのです。しかも、あなたは……あなたはよくもあれほどの宝をなげうって、こわしてしまいましたね!」
「そう、そう、おっしゃるとおりです、僕が悪かったのです」と公爵はまた恐ろしい哀愁に沈みながら言いだした、「それにねえ、ナスターシャさんに対してあんな見方をしたのは、あの女一人、アグラーヤさん一人じゃありませんか……ほかの人は誰でもあんな見方はしませんでした」
「おまけにこの事件全体が言語道断なのは、真剣なところがすこしもなかったからですよ!」エヴゲニイはすっかり夢中になって叫んだ、「失礼ですけれど、公爵、僕は……僕はこのことについて考えたのです、いろいろに考えてみたのです。僕は以前のことをすっかり承知しています。半年まえのことをすっかり承知しています。――あれはけっして真剣ではなかったのです! あれはすべて単なる理性だけの熱中だったのです、絵です、幻想です、煙です。あれを何か真剣なことのように考えることのできるのは、全く無経験な少女のおじけづいた嫉妬《しっと》です!……」
ここでエヴゲニイはもうすっかり遠慮会釈なしに、自分の忿懣《ふんまん》をもらしてしまった。筋道を立てて、明瞭に、さらにまたくり返して言うが、異常な心理解剖さえ試みながら、彼は公爵とナスターシャの以前の関係をことごとく、絵のようにさまざま公爵の前に広げて見せた。エヴゲニイはいつもことばの才能を与えられていたが、今はもう雄弁の域にさえも達していた。
「そもそもの初めから」と彼は声を励まして言った、「あなたがたの関係は虚偽で始まりました。虚偽で始まったものはまた虚偽に終わるのが当然です、それが自然の法則というものです。僕は人があなたを――いや、まあ、誰にもせよ――白痴《ばか》だと言っても、同意することができません。憤慨したくなるぐらいです。あなたはそんなことを言われるには、あまりに聰明です。しかし、あなたは、普通の人と違うと言われてもしかたがないほど、変なところがあります、ねえ、そうでしょう。僕の断定では、過去のあらゆる事件の基礎は、第一にあなたの、……いわば、生まれつきの無経験と(この『生まれつき』ということばに気をつけてください、公爵)、それから、あなたのひとかたならぬ純情と、適度という感情の極端な欠乏と(あなたが御自分でも幾度か告白なすったように)、それから頭の中で作りあげた信念の雑然たる累積と、こういうものから成り立っているのです。あなたは今の今まで御自分の廉潔な性質から推して、これらの信念を偽りのない、きっすいのものだと、信じていらっしゃるのです! ねえ、公爵、そうじゃありませんか、あなたのナスターシャさんに対する関係には、最初っからその紋切り型の民主主義的(これは簡単な言い方をしようと思って言ったのです)とでもいうようなものが潜んでいました。なお簡単に言うと『婦人問題』の崇拝ですよ。僕は、ラゴージンが十万ルーブルの金を持って来たときの、不体裁きわまる、奇怪千万な、ナスターシャさんの夜会の場面を、すっかり正確に知っています。お望みなら、まるで掌をさすように、あなた自身を解剖して見せましょう。まるで鏡に映して見せるように、あなた自身をお目にかけますよ。それくらいに、僕は正確に事の真相と、どうして引っくり返ったかという理由を知っているのです! 青春の血に燃えるあなたは、スイスに住んで、父祖の国にあこがれていました。まだ見たことのないカナンの地かなんぞのように、まっしぐらにロシアに帰っていらっしたのです。あなたはあちらでロシアに関する本を、たくさんお読みになったでしょう。その本はすぐれたものだったかもしれませんけれど、あなたにとっては有害なものだったのです。とにかく、あなたは若々しい熱情に満ちた実行欲をいだいて、われわれの中へ現われて来ました。そして、いきなり実行にとりかかったのです! ちょうど、到着の日に、あなたはさっそく悲しい胸をおどらすような話――はずかしめられた婦人の話を聞かされたのです。相手はあなたという童貞の騎士《ナイト》、話題は女のこと。その日のうちにあなたはその婦人に会って、その美貌に心を奪われました――幻想的な悪魔的な美に心を奪われました(全く僕はあの女が美人であるということを承認しますよ)。それにあなたの神経と、あなたの持病と、そして人の神経をかき乱さないではおかない、わがペテルブルグの雪どけの気候を加えてごらんなさい。あなたにとっていくぶん幻想的な未知の町における、この一日を加えてごらんなさい。幾多の邂逅《かいこう》や、芝居めいた場面や、思いがけない知合いに会う日や、意外な現実を見る一日や、エパンチン家の三人の美人(その中にはアグラーヤさんもはいっていますよ)との一日を加えてごらんなさい。疲れとめまいを加えてごらんなさい。ナスターシャさんの客間と、客間の様子を加えてごらんなさい……こういう瞬間に、あなたは自分がどうなると思いますか?」
「ええ、ええ、そうです、そうです」と公爵は、しだいに顔を赤らめながら、首を振った、「ええ、それはほとんどそのとおりです。それに、僕は前の晩もその前の晩も汽車の中だったので、本当に少しも寝なかったのです。それですっかり頭の調子が狂って……」
「ええ、そうですとも、もちろんですよ。僕もそのほうへ議論を運んでるんです」とエヴゲニイは熱くなって、ことばを続けた、「わかりきった話ですね。あなたはいわゆる歓喜に酔うて、自分は親代々の公爵だ、潔白な人間だという立派な感情を、大ぜいの前で発表することのできる最初の機会に飛びかかったのです。つまり、自分の罪ではなく、いやらしい上流社会の道楽者の罪のために涜《けが》された女は、けっして堕落したものと思わない、こういうことが知らせたかったのです。おお、わかりきった話です! しかし、それは問題じゃありませんね。ねえ、公爵、問題はあなたの感情に真実があったか、真理があったかということです。それは単に、あなたの頭の中だけの歓びではなかったか、ということです。公爵、あなたはなんとお考えになります、――ああいう種類の婦人が、教会で許されたことはありますが、しかし、その婦人に、おまえのしていることは立派だ、あらゆる尊敬を受ける価値があるとは誰も言いやしなかったじゃありませんか。だから三か月たったのち、常識があなた自身に、事の真相を教えてくれたのじゃありませんか。今あの女が無垢《むく》なら無垢でいいです。僕は無理に争おうとはしません。そんなことはいやですからね。しかし、はたしてあの女の行為が、あのお話にならない悪魔のように傲慢な態度や、あのずうずうしい、あの飽くことを知らないエゴイズムを弁護し得るでしょうか? まあ、ごらんなさい、公爵、僕は夢中になったもんですから、しかし……」
「そうですね、それはみんなそうかもしれませんね。たぶんあなたのおっしゃるとおりかもしれませんよ……」と再び公爵はつぶやいた、「あの女はほんとにひどくいらいらしていました、むろん、おっしゃるとおりです。けれど……」
「同情を受ける価値はあるでしょう? そうおっしゃるおつもりでしょう、ね、公爵? しかし、単なる同情のために、あの女の満足のために、いま一方の高潔な令嬢を汚してもいいものでしょうか? あの高慢ちきな、あの恨めしげな眼の前で、その令嬢をはずかしめてもいいものですか? そんなことを言ったら、同情というやつはどこまで行くかわかりませんよ! それはあり得べからざる誇張ですよ! あなた自身、公明正大な申込みをして、しかも真底から愛している令嬢を、競争者の前であんなにまではずかしめたうえに、恋がたきの見ているところでその女に鞍がえするなんて、いったい、できることでしょうか? あなたは全くアグラーヤさんに申込みをしたのでしょう、両親や姉さんたちの前で立派におっしゃったんでしょう? これでもまだ、あなたは潔白な人なんでしょうか? 公爵、失礼ですが、伺いたいですね。それでも……それでも、あなたは神様のような娘に向かって、『わたしはあなたを愛しています』と言ったのが、嘘を言ったことにならないんでしょうか?」
「そうです、そうです、おっしゃるとおりです、ああ、僕はしみじみ自分が悪かったと思います!」公爵は名状すべからざる憂愁にとざされて言いだした。
「いったいそれで満足なんですか?」エヴゲニイは憤激して叫んだ、「はたして、『ああ、自分が悪かった!』と叫んだら、それだけで、ことはすむものでしょうか? 悪かったと言いながら、やはり強情を通してるじゃありませんか! いったい、あなたの心は、『キリスト教的』の心はどこにあったのです? あのときのアグラーヤさんの顔をごらんになったでしょう? いったい|あの人は《ヽヽヽヽ》、二人の仲を引き裂いた|もう一人《ヽヽヽヽ》のほうより苦しみ方が少なかったとでもいうんですか? どうしてあなたははっきりと見ていながら、放ったらかしておいたんですか、え?」
「けど……僕は放ったらかしておいたわけじゃないんです……」と哀れにも公爵はつぶやいた。
「どうして放ったらかしておかないってことになるんです?」
「けっして放ったらかしはしなかったのです。どうしてあんなことになったのか、僕はいまだにわかりません……僕は……僕はアグラーヤさんのあとを追って駆け出したのです。ところが、ナスターシャさんが卒倒したもんだから、……その後ずっと今まで、アグラーヤさんに会わしてもらえないんです」
「どっちにしろ同じことですよ! ナスターシャさんが卒倒したにしろ、あなたはやはりアグラーヤさんのあとを追って行くべきだったのです!」
「ええ……ええ、僕は行くべきはずだったのです……、だって、死んでしまったかもしれないんですからね! あなたはあの女を御存じですが、きっと自殺したに相違ありません。それに……いや、どっちみち、あとで僕、アグラーヤさんにすっかり話します、そして……ねえ、エヴゲニイさん、お見受けしたところ、あなたは一部始終をよく御存じないようですね。いったいなんだって、僕をアグラーヤさんに会わしてくれないんでしょう。僕はあの人にすっかり説明したいんですけれど。全く二人ともあのとき見当違いのことばかり言ってたのです。すっかり見当違いのことでした。だから、あんなことになってしまったのです、……僕はどうしてもあなたにこのことが説明できません、けれど、アグラーヤさんにはうまく説明できるかもしれません、……ああ、いまいましい! いまいましい! あなたは、あの女が駆け出した瞬間の顔と言いましたね……ああ、口惜しい! 僕おぼえています、行きましょう、さあ、行きましょう?」急に彼は落ち着かない調子で椅子から飛び上がりながら、エヴゲニイの袖を引っぱった。
「どこへ?」
「アグラーヤさんのところへ行きましょう、今すぐ!」
「だって、もうパヴロフスクにいないと言ったじゃありませんか、それに、何のために行くんです?」
「あの人はわかってくれます、あの人はわかってくれます!」公爵は祈るように手を組みながら言った、「あの人は、何もかもすっかり違っている、まるで別な事情だったということをわかってくれますよ!」
「どうして、まるで別なんです? あなたはやっぱり、結婚しようとしてるじゃありませんか。してみると、強情を通していらっしゃるんです……結婚なさるんですか、なさらないんですか?」
「ええ、そう……結婚します、ええ、しますよ!」
「じゃ、どうして別なんです?」
「おお、別ですとも、別です、別です! 僕が結婚しようとすまいと、それは、それはどっちにしろ同じことです、なんでもありません!」
「どうして同じことなんです、どうしてなんでもないんです? だって、これは冗談じゃありませんよ。あなたは好きな人と結婚して、その女に幸福を与えようとしてらっしやる。ところが、アグラーヤさんはそれをようく見て、知ってるんですよ。してみると、どうして同じことなんでしょう?」
「幸福ですって? おお、違います! 僕はただなんということなしに結婚するのです。あの女の望みですから。それに、僕が結婚するということが、いったい、何でしょう。僕は……いや、これもやはりどっちにしたって同じことです! ただ、あのままにしておいたら、きっと死んだはずです! 僕はラゴージンとのあの結婚が気ちがいざただってことは承知しています。僕は今以前にわからなかったことまで、すっかりわかります。あのとき二人が顔と顔を突き合わして立ったとき、僕はナスターシャさんの顔を見るにたえなかったのです。あなたは御存じないでしょうね(と秘密でも打ち明けるように声をおとして)、これは今まで誰にも、アグラーヤさんにも言わなかったのですが、僕はいつもナスターシャの顔を見るとたまらないんです、……あなたがさっきナスターシャの夜会についておっしゃったことは、まったくそのとおりでした。しかし、たった一つ、言い残されたことがあります。つまり、御存じないからです。僕は|あれ《ヽヽ》の顔を見つめていたのですよ! もうあの朝、写真で見たときから、たまらなかったのです。……ほら、あのヴェーラ・レーベジェワなんかの眼は、まるっきり違うじゃありませんか。僕は……僕はあれの顔が恐ろしいのです!」彼はなみなみならぬ恐怖にとらえられて付け足した。
「恐ろしいですって?」
「ええ、あれは――気が違ってるんです!」と彼は青い顔をしながらささやいた。
「あなたは確かに知っておいでなんですか?」エヴゲニイはひとかたならぬ好奇心を寄せて、尋ねた。
「ええ、確かに、今はもう確かにこの節――この四、五日のあいだに、もう確かに突きとめました!」
「まあ、あなたは自分をどうしようとしてるんです?」とエヴゲニイは愕然として叫んだ、「してみると、あなたは何かが恐ろしくって結婚されるんですね? どうも何が何やら、さっぱりわけがわからない……愛情もないのに、たぶん?」
「おお、違います。僕は心の底からあの人を愛しています! だって、あれは……まるで子供ですものね。今は子供ですよ。まるで子供です! おお、あなたはまるで御存じないんです!」
「それだのに、あなたはアグラーヤさんに愛を誓ったんですか?」
「おお、そうです、そうです!」
「いったい、何です? それじゃ、両方とも愛したいんですか?」
「おお、そうです、そうです!」
「冗談じゃありませんよ、公爵、何をおっしゃるんです、しっかりなさい!」
「僕、アグラーヤさんがなくては……僕はどうしてもあの人に会わなくてはなりません! 僕は……僕はまもなく、寝ている間に死んでしまいます。僕は今夜にも、寝ている間に死ぬだろうと思いました。ああ、アグラーヤさんが知ってくれたらなあ、いっさいのことを……本当にいっさいのことを知ってくれたなら。だって、この場合いっさいを知ることが必要なんです。それが第一のことです! 僕らは他人に罪がある場合、その他人に関する|いっさい《ヽヽヽヽ》のことを知る必要があるのに、どうしてそれができないんでしょう!……それはそうと僕自身でも何を言ってるのかわかりません、あなたがあまり僕をびっくりさせたものですから……ところで、はたしてあの人は今でも、あの部屋を駆け出したときのような顔をしていますか? おお、そうだ、僕が悪かったです! すべて僕が悪い、というのがいちばん確かです。はたして何が悪かったのか、それはまだわかりませんが、とにかく僕が悪いのです……この事件には何かしら、ねえ、エヴゲニイさん、あなたに説明できないようなものが、説明のことばのないようなものがあります、しかし……アグラーヤさんはわかってくれます。おお、僕はいつも信じていました。あの人はわかってくれます」
「いや、公爵、わかりやしませんよ! アグラーヤさんは女として、人間として、恋をしたので、けっして……抽象的な精霊として恋したんじゃありませんよ。ねえ、公爵、あなたはどちらも愛したことがないと言ったほうが、最も確かじゃないでしょうか?」
「僕にはわかりません。……そうかもしれません、たぶん、そうかもしれません。いろんなことで、あなたのおっしゃることは本当ですからね、エヴゲニイさん。あなたは非常に賢いおかたです。ああ、僕はまた頭が痛みだした。さあ、あの人のところへ行きましょう! 後生ですから、どうぞ!」
「だって、言ってるじゃありませんか、あの人はパヴロフスクにはいなくって、コルミノ村にいるって」
「じゃ、コルミノ村へ行きましょう、さあ、すぐ!」
「それは、だ、め、です!」エヴゲニイは立ち上がりながら、ことばじりを引いて言った。
「それじゃ、手紙を書きますから届けてください」
「だめです、公爵、だめです! そんなお頼みは御免をこうむります、できません!」
二人は別れた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは奇妙な確信を得て立ち去った。彼の考えによると、公爵は少しばかり、気がちがっているということになった。『あの男があんなに恐れて、しかも愛している|あの顔《ヽヽヽ》というのは、いったい何のことだろう? それはそうと、あの男はアグラーヤさんがいなかったら、本当に死んでしまうかもしれない。そしたらアグラーヤさんも、あの男があれほどまでに自分を愛しているということを、知らないでしまうかもしれない! はは! ところで、二人を同時に愛するなんて、どうなんだろう? 別々な二つの愛情でかな?……これはおもしろいぞ、……可哀そうな白痴《ばか》だなあ! あの男はどうなるんだろう、今度は?』
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十
それにしても、公爵はエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが予言したように、結婚式の日までは、『夢のうち』にも、現《うつつ》のうちにも死ななかったのである。おそらく実際にはよく眠れないで、悪い夢を見ていたことであろう。しかし、昼の間、人の前に出ると、気だてがよくて、満足しているらしくさえも見えた。どうかすると、ただ恐ろしく沈んでいることもあったが、それはただ一人でいる時だけであった。式は取り急がれて、エヴゲニイの来訪後、およそ一週間ということになった。このように急いでいるので、最も親しい友人さえも(もしもそういう人たちがいたとすれば)、この不仕合わせな狂気じみた男を『救おう』と骨を折ってみたところで、幻滅を感じなければならなかったであろう。
エヴゲニイが来訪するに至った責任のいくぶんはイワン・フョードロヴィッチ将軍、およびその夫人のリザヴィータ・プロコフィーヴナが負うているという噂があった。しかし、たとい彼ら二人が量り知れないほど善良な気持から、滅亡せんとしつつある哀れな狂人を救おうと望んだとしても、もちろん、この頼りない一つの試み以上に、一歩も踏み出しえなかったに相違ない。二人の地位も、また、おそらくは性癖も、これ以上に真剣な努力を許さなかったのである(それはきわめて自然なことである)。
前にも述べたように、公爵を取り巻いている人たちさえも、いくぶんは彼に背を向けていた。もっともヴェーラは人目を忍んで涙をこぼしたり、多く自分の部屋に引きこもって、公爵のところへ以前のように顔出しをしなかったり、それくらいのところにとどまっていた。コォリャはこのころ父の葬式のことで忙しかった。老将軍は最初の発作の八日のちに、第二の発作で斃《たお》れたのであった。公爵は一家の悲しみに深甚なる同情を寄せて、初めの幾日かは、ニイナ夫人のもとで毎日のように、五、六時間も過ごしたほどであった。葬式のときには教会へも行った。教会に居合わせた群衆が、公爵の行き帰りに、心ならずも何ごとかをささやいていたことに、多くの者は気がついていた。それと同じことが往来でも、公園でもくり返された。公爵が徒歩にしろ、馬車にしろ、通りかかるたびに、わいわいと話し声が聞こえて、彼の名を呼んだり、指さしたり、ナスターシャ・フィリッポヴナの名までが聞こえたりした。人々は葬式のとき、ナスターシャの姿を捜していたが、葬式には彼女は来ていなかった。例の大尉夫人も葬式には来ていなかった。それはレーベジェフが前もって、首尾よく食い止めたからである。
この葬式は公爵に強く、痛々しい感銘を与えた。彼はまだ教会にいるとき、レーベジェフに何かを聞かれたのに答えて、自分が正教の葬式に列するのは、これが最初で、子供のころ、どこかの村の教会で行なわれた葬式を一つ覚えているだけだとささやいた。
「さようでございますよ、覚えてらっしゃるでしょうが、わたしたちが、ついこのあいだ議長に選挙した、あの御当人が、棺の中にはいってるとは思えませんよ」とレーベジェフは公爵にささやいた、「あなたは、どなたをお捜しで?」
「いや、なに。ちょっとそんな気がしたので……」
「ラゴージンじゃありませんか?」
「いったいあの人がここにいるんですか?」
「はい、教会の中に」
「ははあ、道理で、あの人の眼がちらついたと思った」と公爵はどぎまぎしてつぶやいた、「しかし、なんだってあれが?……招《よ》ばれたんですか?」
「あの人のことなんぞ、誰も考えてやしません。まるで誰も知らんじゃありませんか。ここにはどんな人だっていますよ、この人だかりですからね。ところで、何をそんなにびっくりなさるんです? わたしはこのごろ、よくあの男に出会いますよ。はい、もう先週は四度ばかり、このパヴロフスクで出っくわしました」
「僕は一度も会いません……あのとき以来……」と公爵はつぶやいた。
ナスターシャも『あのとき以来』ラゴージンに会ったなどという話を一度もしなかったので、公爵は今では、ラゴージンが何かいわくがあってことさらに顔を見せないのだと、一人で決めていた。この日は一日、彼はひどく考え込んでいた。ところが、ナスターシャはその日は昼も夜も、ひどく陽気であった。
父の亡くなる前に、公爵と仲なおりをしたコォリャは、ケルレルとブルドフスキイを結婚式の介添え人に頼めと勧めた(それは目前に迫った急務であった)。彼はケルレルならば礼儀正しくやってのけるだろう、ことによったら、適任者かもしれないと請け合った。ブルドフスキイについては何も言うがものはなかった。静かな、おとなしい人間だからである。ニイナ夫人とレーベジェフは公爵に注意して、――たとい結婚が決まったにしても、何の必要があってパヴロフスクで、しかも、人の集まる避暑季節に、大げさなことをするのかと言い、それぐらいならペテルブルグで、かえって内輪にやったほうがよくはないかと言った。
こうした杞憂《きゆう》が何を意味するかは、公爵にとってあまりにも明瞭なことであった。しかし、彼はあっさりとナスターシャの望みだからと答えた。
あくる日、介添え人に選ばれたという報知を受けたケルレルが、公爵のところへやって来た。はいる前に、彼はちょっと戸口で立ち止まった。そして、公爵の姿が目にはいるやいなや、人差し指を立てながら、右手を高くさし上げて、誓いでもするように叫んだ。
「けっして飲みません!」
やがて公爵に近づいて、両の手をしっかりと握りしめながら一振りして、「最初にあなたの結婚のことを聞いたころは、むろん、わしはあなたの敵でした。これは、玉突き屋で宣言したとおりです。しかし、これというのも、もっぱら、あなたのためをおもんぱかって、一日も早くプリンセス・ド・ローガンか、少なくともド・シャボォくらいの人を、あなたの御夫人としてみたいと、毎日毎日、親友としての焦燥をもって待ち焦がれていたからです。しかし今は、あなたが少なくともわれわれ全部を束《たば》にしたより、十層倍も高尚な考えを持っておいでになることを悟りました! なんとなれば、あなたは栄華も、富も、また名誉すらも必要となさらないで、ただ真実のみを求めていられるからです。高尚な人の同情に篤《あつ》いことは、わかりきった話です。ところが、あなたは高尚な人になるまいとしても、教育があまりに高すぎるのです。全体から見ましてです! しかし、烏合《うごう》の衆《しゅう》たる野次馬連中は、また別な考え方をしています。町じゅうの者が家の中でも、集会の席でも、別荘でも、音楽堂でも、酒場でも、玉突きでも、今度の式のことばかり話したり、わめいたりしています。なんでも窓の下で大騒ぎをしたがっているという噂です。しかも、それが、いわゆる初夜なんですからねえ! 公爵、もし潔白な人間のピストルが必要でしたら、わしはあなたが翌朝『蜜の床《とこ》』からお起きにならない先に正義の弾の半ダースやそこらは射つ覚悟です」と言った。なおまた教会を出るとき、新郎新婦を見たがる連中がどっと押し寄せる場合を気づかって、表に火消しの水管を用意するようにと勧めた。しかし、これはレーベジェフが反対した、「水管なんか持ち出したら、家を木っぱにして持って行かれますよ」
「あのレーベジェフは、あなたに対して陰謀を企てています、ええ、本当です! あの連中は、あなたを禁治産あつかいにしようと思ってるんです、しかも、どうでしょう、自由意志も、財産も、何もかもですよ。つまり、お互いを四つ足と区別するこの二つの大事な物を、奪おうというんですよ! わしは聞きました、確かに聞きました、正真正銘の事実です!」
公爵は自分でも、何か、こんなたぐいの話を聞いたことがあったような気がした。が、その時はもちろん、何の注意も払わなかった。彼は今もただ笑ったばかりで、すぐにまた忘れてしまった。レーベジェフは全くしばらくのあいだ、やきもきしていたのである。この男のもくろみはいつも感激といったようなものから生まれるが、あまりに熱中しすぎるため、こみ入ってきて、あちこちへ枝葉にわかれて、最初の出発点からすっかり離れてしまうのである。つまりこれが、彼の生涯でたいした成功を見ないゆえんであった。その後ほとんど結婚の当日になって、彼が悔悟の念を表わすために、公爵のところへやって来たとき(彼はいつも公爵に対して陰謀を企てるたびに、悔悟の念を表するため公爵のところへやって来る癖があった、主として陰謀が成功しなかった時に)、自分はタレイラン〔フランスの名外交家。ウィン会議に活躍した。一七五四〜一八三八〕として生まれたのに、どういう風の吹き回しか、ただのレーベジェフでまごまごしているのだ、と前置きして、自分のたくらみの一条をすっかり暴露して見せるので、公爵はそのことに非常な興味を寄せるのであった。彼のことばによると、彼はまず小手しらべとして、必要の際たよりになるような名士の保護を求めて、イワン将軍のところへおもむいたという。すると、将軍は合点がゆかないらしく、自分は心から公爵のためよかれと祈っていると言い、『助けてやりたいのは山々であるが、ここでそんなことをするのは、どうも感心しない』と言ったそうである。リザヴィータ夫人は彼に会うのも、話を聞くのもいやだと言った。エヴゲニイも、S公爵も、ただ困りきったように両手をひろげただけであった。
しかし、彼レーベジェフはしょげずに、如才のない法律家と相談した。これは立派な老人で、彼にとっては大の親友、というよりほとんど恩人なのであった。この人の結論によると、それはできない相談ではないが、相当な人が公爵の知能錯乱と、完全な発狂の証明さえすればよい、しかし、そのほかの名士の保証というのが肝腎だとのことであった。レーベジェフはけっして落胆はしなかった。それどころか、一度は公爵のところへ医者を連れて来たことさえある。これもやはり立派な老人で、アンナ勲章を首に掛けている別荘暮らしの人であった。この人が来たのはただ、いわば、この辺の地勢を見て、公爵と近づきになり、ついでに公式にでなしに親友として、自分の診断を告げるためであった。
公爵はこの医師の来訪を覚えている。その前の晩レーベジェフは、彼の健康がすぐれないと言って、うるさく付きまとい、公爵が断固として医薬をしりぞけたとき、彼は突然こうして医師をつれて来たのである。その口実はつい今しがた二人して、非常に容体の悪くなったチェレンチェフ氏(イッポリット)を訪問して来たので、医師の口から、公爵に病人の容体を知らせるために来訪したというのであった。公爵は、レーベジェフの思いつきを褒めて、非常に医師を歓待した。すぐにイッポリットの話が始まった。医師は、あの自殺当時の光景を、詳しく聞きたいと頼んだ。そして公爵の話や説明ぶりに、すっかり聞きとれてしまった。それからペテルブルグの気候や、公爵自身の病気や、スイスや、シュネイデルのことなどに話が移った。シュネイデルの治療法の説明や、その他いろんな話に、医師はすっかり興味をひかれて、二時間ばかりも尻を据えたほどであった。その間に、彼は公爵の上等の葉巻をふかし、レーベジェフはレーベジェフで、ヴェーラの持って来た芳醇《ほうじゅん》なリキュールをふるまった。このとき妻もあれば家族もある医師が、一種特別なお世辞をヴェーラにふりまいたので、彼女はすっかり憤慨してしまった。二人は親友として別れた。
公爵のもとを辞した医師はレーベジェフに向かって、もしあんな人を禁治産にするなら、いったい誰を後見人にしようというのかと言った。レーベジェフが目前に迫っている出来事を、悲愴な面持で述べたのに対して、医師はずるそうな様子で頭を振っていたが、とうとうしまいに、「結婚しないでしまう男なんてめったにあるもんじゃありませんよ。しかし、それはしばらく措《お》いても、少なくともわたしの聞いたところでは、あの魅力に富んだ婦人は、一世に絶した美貌のほかに(それ一つだけでも、優に身分ある男をひき付けるに足りますが)、そのほかにトーツキイや、ラゴージンからもらった財産をもっています。真珠とか金剛石《ダイヤモンド》とか、襟巻《ショール》とか、家具類とかいったものをね。だから今度の結婚は公爵として、いわば、さして目立つほどの愚昧《ぐまい》をあらわさないばかりか、かえってずるくて細《こま》かい、世慣れた勘定だかい頭を証明していますよ。してみると、全く正反対の、公爵にとって有利な結論をうながすわけになるじゃありませんか……」と言った。この意見はレーベジェフの心を打ったので、彼もそのまま手をひいてしまった。そこで、いま公爵に向かって、「もう今度こそは、血を流してもいとわないほどの信服の念のほか、何ものもわたしにはございません。そのためにやってまいりましたので」と付け足した。
この四、五日の間、イッポリットも公爵の心を紛らしてくれた。彼はうるさいほどしばしば使の者をよこすのであった。彼の家族は、ほど遠からぬ小さな家に住んでいた。小さい子供ら――イッポリットの弟と妹は、病人を避けて庭へ出られるというだけでも、別荘住いが嬉しかった。が、可哀そうな大尉夫人は、相変わらず彼の言うがままになって、まるで彼の犠牲になっていた。公爵は毎日親子の愛をわかったり、仲なおりをさせたりしなければならなかった。そこで、病人はいつも彼のことを自分の『お守』と呼んでいたが、しかもその仲裁役を軽蔑せずにいられないらしかった。病人はひどくコォリャに会いたがっていた。それはこの少年が最初は瀕死《ひんし》の父、のちには孀《やもめ》となった母の傍に付き添って、ほとんど顔を見せなかったからである。ついに彼は、目前に迫った公爵とナスターシャの結婚を、冷笑の対象に選んだが、結局は、公爵を侮辱して怒らしてしまった。公爵はぱったり来なくなった。二日たった朝、大尉夫人がとぼとぼとやって来て、涙ながら公爵においでを願いたいと頼んだ、『でないと、わたしはあれに咬《か》み殺されてしまいます』それから、息《むすこ》が公爵に大きな秘密を打ち明けたがっていると付け足した。そこで、公爵は行ってみた。
イッポリットは和睦《わぼく》を求めて、泣きだした。泣きやんでから、いっそう腹を立てたのは、もちろんであるが、ただその怒りを外へ出すのを恐れていた。彼の容体は非常に悪く、もう今度はまもなく死ぬということは、すべての様子から十分にうかがわれた。秘密などは少しもなかった。ただ興奮のために(それもあるいはこしらえごとかもしれない)恐ろしく息を切らしながら、「ラゴージンを警戒なさい」と頼んだくらいのものであった。「あの男はけっして我を折るようなやつじゃありませんよ。公爵、あれはわれわれの仲間じゃないですよ。あの男はいったんこうしようと思ったら、もうびくともしないんですからね……」などと、そんなことを言った。公爵は何かと詳しく尋ねてみて、何か事実を嗅ぎ出そうとしたが、イッポリットの個人としての感じと印象のほか、何の事実も伏在してはいなかった。イッポリットはとどのつまり公爵をびっくりさせたので、それをむしょうに喜んで、それきり話をやめてしまった。初め公爵は、彼の二、三の特殊な質問に答えたくなかったので、『せめて外国へでもお逃げなさい。ロシアの坊さんはどこにでもいますから、向こうでだって結婚することはできますよ』という忠告に対しても、ただほほえむばかりであった。しかし、イッポリットは次のような考えを述べて、きりをつけた。「僕はアグラーヤさんの身の上を心配するんです。あなたがあのお嬢さんを恋してるのを、ラゴージンはよく知っていますから、恋に報ゆるに恋をもってするということになりますよ。あなたがあの男からナスターシャさんを奪ったから、今度はあの男はアグラーヤさんを殺すでしょう。もっとも、アグラーヤさんは今はあなたのものではないですけれど、それでもやはりあなたは苦しいでしょう、そうじゃありませんか?」彼はついに目的を達した。公爵は人心地もなく彼のところを立ち去った。
ラゴージンに関するこの警戒は、もう結婚の前日に当たっていた。この晩、公爵がナスターシャに会ったのは、結婚前における最後の会見であった。しかし、ナスターシャは、彼を慰めることができなかった。そればかりか、このごろではいよいよ彼の不安を増すばかりであった。以前、といっても四、五日まえまで、彼女は公爵と会うたびごとに、全力を尽くして彼の気を紛らそうとした。公爵の沈んだ様子を見るのが恐ろしかったので、ときには歌をうたって聞かせることさえあった。しかしたいていは思い出せる限りの滑稽な話を、公爵に話して聞かせることが多かった。公爵はいつも笑うようなふりをして見せたが、ときには本当に笑うこともあった――それは、彼女が夢中になって話すときの、すばらしい頓智《とんち》と明るい感情につり込まれるのであった。しかも、彼女はしょっちゅう夢中になった。公爵の笑顔を見、自分が公爵に与えた感銘を見ると、有頂天になって自慢するのであった。が、このごろ彼女の憂愁と物思いは、ほとんど一時間ごとに募っていった。
公爵のナスターシャに関する意見は、ちゃんと決まっていた。それでなかったら、もちろん、彼女のもっているあらゆるものが、今は謎めいた、不可解なものに見えたに相違ない。しかしナスターシャはまだよみがえることができるものと、彼は衷心から信じていた。彼がエヴゲニイに向かって、真ごころから彼女を愛していると言ったのは、全く事実であった。彼の愛のなかには、たしかに、何かしら哀れな、病身な子供に寄せる愛着に似たようなものが潜んでいた。そんな子供の勝手に任せておくのは、情において忍びがたいような、不可能でさえもあるような気がするのであった。彼は彼女に対する気持を、けっして人に打ち明けなかった。そういう話を避けられないような場合でさえ、口にすることを好まなかった。当のナスターシャとは、自分たちの『気持』を一度も話し合ったことがない。まるで二人とも、そんな誓いでも立てているかのようであった。二人のいつもの陽気な、威勢のよい話には、誰でも仲間入りができた。ダーリヤはのちになって、『あの当時の二人を眺めていると、ひとりでに嬉しくなって、ほれぼれするくらいでした』と話していた。
しかし、ナスターシャの精神および理性の状態に関する彼のこうした見方は、そのほかのさまざまな疑惑を避けるのに、いくぶん力があった。今のナスターシャは、三か月ばかり前に知っていたころとは、まるで別人のようになっている。彼は今はもう、『あのとき自分との結婚をいとって、涙と呪《のろ》いと非難とともに逃げ出した女が、どうして今度はかえって自分のほうから、結婚を主張するようになったのか?』などと考え込まなくなった。『つまり、もうあのときのように、この結婚が僕の不幸になるということを、心配しなくなったのだ』と公爵は考えた。急激に生じたかような自信は、どうしても自然なものであるはずがない、と彼の眼には感じられた。アグラーヤに対する憎しみばかりが、こんな自信を生むべきわけがない。ナスターシャはも少し深い直感をもっている。ラゴージンとのくされ縁に対する恐怖のためでもあるまい。要するに、これらの原因が、いろんな他の事情といっしょになっているのだ。けれど何より明瞭なのは、彼が以前から疑っている事実――哀れな病める心に堪えられないような事実が、この間に伏在しているということである。
かような考えは、実際いろいろの疑惑からある意味で彼を救い出してはくれた。が、この数日間、彼に安心も休息も与えることができなかった。ときには、彼は何も考えまいと努めた。事実、彼はこの結婚を、些細な儀礼かなんぞのように見ているらしかった。自分の運命も、あまりに安く評価しているのであった。エヴゲニイとの会話に類するような話や、その他いろいろの抗議に対しては、全く返答ができなかったはずで、またみずからその資格があるとは思えなかった。だからこそ、こういったたぐいの話を避けていたのである。
それにしても、アグラーヤが公爵にとって、どんな意味をもっているかということを、ナスターシャはあまりによく知り、かつ了解しているということに彼は気がついた。彼女は口にこそ出して言わないが、まだ初めのうち、時として公爵が、エパンチン家へ出かけようとしているのを見つけたとき、彼は彼女の『顔』を見た。将軍一家が出発したとき、彼女はまるで喜びに輝き渡るようであった。公爵はかなりに気のつかない、察しの悪いほうではあったが、ナスターシャが自分の恋がたきをパヴロフスクから追い出すために、何か世間体の悪いことをしでかしそうだという考えは、急に彼の心を騒がし始めた。結婚に関する別荘じゅうの騒がしい噂も、もちろんナスターシャが恋がたきをいらだたせるために、引き続いて種を供給したのである。
エパンチン一家の人に会うのがむずかしかったので、ナスターシャはあるとき自分の馬車に公爵を乗せて、相乗りで将軍家の窓ぎわを通るように言いつけた。それは公爵にとって、思いもよらぬ驚きであった。彼はいつもの癖で、もう取り返しのつかない時になって――もう馬車が窓ぎわを通っている時に、はじめて気がついた。彼は何も言わなかったが、その後二日ばかり引き続いて病気した。ナスターシャも、もうかような小手調べをくり返さなかった。
結婚の二、三日まえから、彼女はひどく考え込むようになった。いつもついには憂鬱を消し飛ばして、また陽気になるのが常であったが、そのはしゃぎ方が以前よりも静かで、あれほど騒々しくもなければ、あれほど幸福らしい快活さもなかった。公爵はいっそうの注意を加えた。ナスターシャが、一度もラゴージンのことを口にしないのも、変に思われた。ただ一度結婚の五日ばかり前に、急にダーリヤから、ナスターシャが非常に悪いからすぐ来るように、との使いがあった。行って見ると、まるで気ちがいのようなありさまである。彼女は悲鳴をあげたり、震えたりしながら、ラゴージンが家の庭に隠れている。たったいま自分で見た、夜になったら、あの男がわたしを殺す……刃物で斬る! と叫ぶのであった。まる一日彼女は気が鎮まらなかった。しかしその晩、公爵がちょっとイッポリットのところへ立ち寄った時、今日用向きでペテルブルグへ行って、たったいま帰ったばかりの大尉夫人が、今日あちらの家へラゴージンが寄って、パヴロフスクのことをいろいろ尋ねた、という話をした。それはちょうどいつごろかという公爵の問いに対して、大尉夫人の答えた時刻は、ナスターシャが今日自分の家で、ラゴージンを見たという時刻にほとんど合っていた。が、それはほんの錯覚だということで、謎が解けた。ナスターシャはなお自分で詳しく聞くために、大尉夫人のところへ行って、すっかり安心した。
結婚の前夜、公爵と別れたときのナスターシャは、珍しく元気づいていた。ペテルブルグの衣裳屋から明日の衣裳――式服、髪飾り、その他さまざまなものが届いた。公爵は、彼女がそれほどまで衣裳のことで騒ごうとは、思いがけていなかった。が、彼は自分でも、いっさいの品物を褒めそやした。その褒めことばを聞いて、彼女はなおいっそういい機嫌になった。ところが、彼女はちょっとよけいな口をすべらした。彼女は町の人がこの結婚を憤慨していることも、五、六人の暴れ者がわざわざ作った諷刺詩に音楽までつけて、家の傍で一騒ぎをしようとたくらんでいることも、またそのたくらみが、町民の応援を受けないばかりのありさまだなどということも聞き込んでいたので、今はなおさらこの連中の前で意気揚々と、自分の衣裳のぜいたくさと、その趣向で皆をあっといわせてやろうという気になったのである。
『もしできるなら、怒るなと、口笛を吹くなとしてみるがいい!』こう思っただけで、彼女の眼は光りだすのであった。
彼女はもう一つ秘密な空想をもっていたが、口に出しては言わなかった。つまりアグラーヤか、さもなくば、そのまわし者が、わからないように群集に交じって、教会へ自分を見に来るに相違ない、という風に空想されたのである。そこで、彼女は心の中でその覚悟をしていた。こういう考えにすっかり心を奪われて、夜の十一時ごろ彼女は公爵と別れた。しかし、まだ十二時も打たないうちに、公爵の所へダーリヤの使いが走って来て、「非常に悪いから来てください」と告げた。行って見ると、花嫁は寝室に閉じこもって、ヒステリイの発作に絶望の涙を流していた。彼女はみんなが鍵のかかった扉ごしに言うことを、長いあいだ聞こうともしなかったが、ついに戸をあけて、公爵一人だけ中へ入れると、すぐその後から戸を閉めてしまって、公爵の前にひざまずいた(少なくとも、ダーリヤはそう言っていた。彼女はちらと隙見したのである)。
「わたしはなんていうことをしてるんでしょう! なんていうことを! あなたの身をどうしようと思ってるんでしょう!」彼女は痙攣《けいれん》的に公爵の両足を抱きながら、叫んだ。
公爵はまる一時間、彼女と坐っていた。二人がどんな話をしたかは、知らない。ただダーリヤの話によると、二人は一時間の後すっかり穏かな、幸福らしい様子で別れたとのことである。公爵はこの晩もう一度使いをやって様子を尋ねたが、ナスターシャはもう寝入っていた。あくる朝、まだ彼女の起きない先に、もう二人の使いが公爵のところから、ダーリヤの家へやって来た。三度目の使いはこんなことづけをもたらした。『今ナスターシャのまわりには、ペテルブルグから来た衣裳屋や、髪結いが一小隊ほど集まって、昨夜のことはそのけはいもない、ただあれほどの美人の結婚前にしか見られないような勢いで、化粧に夢中になっている。ちょうどいま、どのダイヤモンドをつけようか、またどんな風につけようかというので、非常な評議が行なわれているところだ』で公爵はすっかり安心してしまった。
この結婚についての最後の逸話《アネクドート》は、事情に通じた人たちによって、次のように語られているが、それは正確な話らしく思われる。
式は午後八時ということになっている。ナスターシャ・フィリッポヴナは、もう七時にはすっかりしたくができていた。もう六時ごろから、しだいしだいに物見高い人々の群れがレーベジェフの別荘、わけてもダーリヤの家の周囲に集まりだした。七時ごろからは教会も人で埋まってきた。ヴェーラとコォリャは、公爵の身の上をひどく心配していた。とはいえ、二人とも家の用事がかなりたくさんあった。公爵の下宿で受付や、接待のさしずをしていたのである。もっとも式のあとでは、招待らしい招待をしないことになっていた。式に列するために必要な人々をのけると、プチーツィン夫妻、ガーニャ、アンナ勲章を首に掛けた医師、それからダーリヤ、こんな人がレーベジェフから招待を受けたくらいのものである。公爵が、なぜほとんど他人同様の医師を呼ぶ気になったかと尋ねたとき、レーベジェフは得意然として答えた、『首に勲章をかけた立派な人でございますから、体裁のために……』と言って公爵を笑わした。燕尾服に手袋をつけたケルレルとブルドフスキイも、かなりに体裁よく見えた。ただケルレルは、宿の周りに集まっている物見高い連中を、恐ろしくすごい目つきでにらみつけながら、喧嘩ならいつでも来いという様子が、ありありと見えるので、公爵はじめその他の頼み手を当惑させた。
ついに七時半に、公爵は箱馬車に乗って、教会へおもむいた。ついでに言っておくが、公爵自身も従来のしきたりや風習を、一つも略したくないと特に決めたので、すべてのことが公然と明らさまに、『型《かた》のごとく』取り行なわれた。教会では、絶え間ない群集のささやきや、叫び声のなかを縫いながら、左右へじろじろと恐ろしい視線を投げるケルレルに手を引かれて、公爵はしばらく祭壇の中へ隠れた。ケルレルはナスターシャを迎えに行った。見ると、ダーリヤの玄関先に集まった群集は、公爵の家より二倍も三倍も多いばかりでなく、二倍も三倍も生意気でさえもあった。階段を昇っていると、とても我慢できないような叫び声が耳にはいったので、ケルレルはもうしかるべきことばを返してやるつもりで、公爵のほうをふり向いた。ところが、幸いにブルドフスキイと、玄関から飛び出したダーリヤがおしとどめて、むりやりにつかまえて中へ引っぱり込んでしまった。ケルレルはいらいらして、あわてていた。ナスターシャは立ち上がって、もう一度、鏡を見ながら、『ゆがんだような』微笑を浮かべて(これはあとでケルレルが言ったことである)『まるで死人のように青ざめている』と言った。それからうやうやしく聖像を拝んで、玄関口へ出た。彼女が現われると、わっというどよめきが起こった。最初の一瞬間、笑い声や、拍手や、口笛すらも聞こえたのは事実であるが、すぐにもう別な声が響き渡った。
「なんて別嬪《べっぴん》だろう!」という叫びが群集の中で聞こえた。
「なあに、そりゃ何もこの女一人っきりじゃないさ!」
「あの女は婚礼で何もかもごまかそうっていうんだ、間抜けめ!」
「いや、ひとつあんな別嬪を見つけてみろ。わーい!」すぐ傍にいた連中が叫んだ。
「よう、公爵夫人! こういう美人のためなら、からだを売っても惜しかない!」とどこかの事務員らしいのが叫んだ。「『命をすててもわが一夜を……』〔プゥシキンの小説「エジプトの夜」に出る〕!」
ナスターシャはたしかにハンカチのように青い顔をして出て来た。しかし、その黒い目は熾《おこ》っている炭火のように、群集に向かって輝いた。この視線に群集は我慢がならなかった。憤慨は歓呼の声と変わった。もう馬車の戸が開いて、ケルレルが花嫁に手を差し伸べていた、おりしも彼女は一声高く叫んで、いきなり階段から群集の中へ飛び込んだ。付き添いの人々は誰も彼も驚きのあまり、しびれたようになった。群集は彼女の前にさっと道を開いた。と、階段から五、六歩のところに、突然ラゴージンが姿を現わした。この男の眼を、ナスターシャは群集の中にとらえたのである。彼女は気ちがいのように彼の傍へ駆け寄って、その両手をひしとつかんだ。
「助けてちょうだい! 連れて逃げて! どこでも好きなところへ、今すぐ!」
ラゴージンは、彼女をほとんど両手にかかえ込んで、かつぎ込むように馬車の中へ入れた。やがて、一瞬の間に財布の中から百ルーブル紙幣を抜き出して、御者に差し出した。
「停車場へやれ。もし汽車に間に合ったら、もう百ルーブルだ!」
こう言って、自分もナスターシャのあとから馬車に飛び込み、ばたりと戸を閉めた。御者はしばしも躊躇《ちゅうちょ》することなく馬に鞭をあてた。あとでケルレルは、責任を事の唐突なのに転嫁した。「もう一秒ひまがあったら、追いついて、あんなまねをさせるんじゃなかったんですがなあ!」と彼はその時の出来事を説明して言った。彼はブルドフスキイと共に、別の馬車に飛び乗って追いかけたが、途中でまた考えを変えた。「もうとにかく遅い! 力づくじゃ取り戻せない!」
「だって、公爵もそれを望まれないだろう!」慄然《りつぜん》として、ブルドフスキイはこう言った。
ラゴージンとナスターシャは、首尾よく時間内に停車場へ駆けつけた。馬車を出たラゴージンは、もう汽車に乗ろうとする間ぎわに、通りかかった一人の娘を引きとめた。娘は中古ではあるが、見苦しからぬ、地味なマントを着て、薄絹の頭巾を頭に被っていた。
「あなたのマントを五十ルーブルではいかがです!」彼はいきなり娘に金をつきつけた。
相手がまだ合点がいかないで、あっけにとられているうちに、彼はもう手に五十ルーブルを押し込んで、外套と頭巾をひったくった。そして、ナスターシャの肩と頭に、すっぽり着せてしまった。あまりに華麗な彼女の衣裳が目立って、車中の注目をひきやすいからである。娘はなぜこの人たちが、何の値打ちもない自分の古着を、あんな法外な値段で買い取ったか、ずっと後になってそのわけを悟った。
意外な変事に関する騒ぎは、非常な速度で教会に達した。ケルレルが公爵のほうをさして進んでいる途中、まるで近づきのない人が、大ぜい彼のところへ飛んで来て、根掘り葉掘り尋ねるのであった。騒々しい話し声がやまなかった。意味ありげに首を振る者や、無遠慮に笑う者さえあった。誰ひとり教会を出ようとしないで、花婿がこの報知を受け取る様子を見ようと待ち構えていた。彼はまっさおになったが、聞きとれないくらいの声で、「僕も心配してたんですよ。しかしまさかこんなことになろうとは思わなかった」と言っただけで、静かに知らせを受けた。やがてしばらく無言の後、こう付け足した、「それにしても……あれの境遇になってみたら……当然すぎることかもしれません」この注釈は、ケルレルが後に、『無類の哲学』と評したほどのものである。公爵は見たところ落ち着き払って、元気よく教会を出た。少なくとも、多くの人がそう観察して、あとで話していた。彼は家へ帰って、少しも早く一人きりになりたかったのであろう。しかし、側の者がそうはさせなかった。
彼のあとに続いて、招待客の誰彼が部屋へはいって来た。その中にはプチーツィンと、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチがいた。それから例の医師もいっしょであった。この人も帰って行くつもりはなかった。それに家全体が、閑人の群れによって文字どおり包囲されていた。まだ公爵が露台《テラス》へ上がったばかりなのに、ケルレルとレーベジェフとが、幾人かのまるで見知らぬ人たちと、激しく口論している声が聞こえた。その相手の人たちは、見受けたところ、役人らしかったが、どうしても露台へ上がりたいと言って、きかなかった。公爵は口論をしていた人たちのところへ近づいて事情をただした。そして、ねんごろにレーベジェフとケルレルを押しのけながら、露台の階段に立った仲間の頭《かしら》らしい、もう白髪になった、肉づきのいい紳士のほうにつつましやかに向きなおって、どうか来訪の栄を得たいと、慇懃《いんぎん》に招じ入れた。紳士は面くらったが、それでもやはりはいって来た。続いて、二人三人と上がって来た。結局、群集の中から七、八人の訪問志望者が現われて、同様に中へはいったが、彼らはできるだけ打ちとけた態度をとろうと努めていた。しかし、もうそれ以上の物好きは出て来なかった。まもなく群集の中から、出しゃばり者を非難する声が聞こえてきた。
はいって来た連中は、席を与えられて話を始め、茶の饗応にあずかった――しかも、それがひどく礼儀正しく、つつましく行なわれるので、はいって来た連中は、いささか面くらった。いうまでもなく会話を浮き立たせ、『しかるべき』話題に話を向けようとする試みも、少しはあった。またぶしつけな質問も、『威勢のいい』注意も、少しは出た。しかし、公爵はそれに対して、きわめて淡白に愛想よく、しかもそれと同時に、客の身分に対する信用を表わしながら、自分の品格をも落とさないように応対したので、ぶしつけな質問も自然と消えてしまった。しだいしだいに、会話はまじめな調子を帯びていった。一人の客はふとしたことばをとらえて、いきなり極度に憤慨して、自分はどんなことがあろうとも領地を売らない、それどころか、時の至るのを待つことにする、「事業は金銭にまさるものです」「これがあなた、わたしの経済方針ですよ、ちょっとお知らせしておきます」と弁じた。このことばは公爵に向けて発せられたので、公爵はレーベジェフが耳もとに口を寄せて、あの人は家も邸も持ってはいません、領地なんぞがあってたまるもんですか、とささやくのを相手にしないで、熱心にその考えを賞讃した。
もうほとんど一時間ばかりたった。茶も飲みつくした。茶が済んでみると、客人たちはもうこのうえ長居するのが、ぐあい悪くなってきた。医師と白髪の紳士は熱意をこめて公爵に別れを告げた。一同も熱心に騒々しく挨拶し始めた。『落胆なさることはありません。あるいはこれがかえって幸いだったかもしれません、云々《うんぬん》』といった風の意見や希望も吐かれた。シャンペンをねだろうとする試みもあるにはあったが、これは客の中の目上の者が若い連中を押さえた。一同が散り散りになった時、ケルレルはレーベジェフのほうへかがみ込んで、こう言った、
「君や僕だったら、大きな声を出したり、なぐり合ったり、いいかげん恥さらしなまねをして、警察のごやっかいになるところだったよ。ところが、公爵はあのとおり、新しい友だちをこしらえたじゃないか、しかも立派な友だちだ。おれはあの人たちをよく知ってる!」
もうかなりに『御機嫌』になっているレーベジェフは、ため息をついて言った、「賢く知恵ある者に隠して、幼児《おさなご》に示したまう――おれはずっと以前に、あのかたのことをこう言ったが、今度はこうつけ足すよ――神はかの幼児を守りて、深き淵《ふち》より救いたまいぬ。神とそのすべての使徒《みつかい》よ!」
ついに、十時半ごろになって、公爵は一人きりになった。頭が痛い。最も遅く帰ったのは、式服をふだん着に換える手伝いをしたコォリャであった。二人はねんごろに別れた。コォリャは今日の出来事をくどくどしく言わずに、明日は早い目に来ると約束した。後になって、彼は――最後の別れの時にさえ、公爵がなんにも打ち明けてくれなかったところを見ると、公爵は自分にさえあの決心を隠していたのだと言った。まもなく家じゅうに、ほとんど誰一人いなくなった。ブルドフスキイはイッポリットの家へ行ってしまい、ケルレルとレーベジェフもどこかへ出かけて行った。ただヴェーラ一人がしばらく部屋の中に居残って、お祭りらしい飾りつけを、ふだんの体裁に手早くかたづけていた。出がけに彼女はちょっと公爵の部屋をのぞいた。彼はテーブルに両肘ついて、頭をかかえながら、じっと腰をかけていた。彼女はそっと近づいて、公爵の肩にさわった。公爵はいぶかしげに彼女を眺めたが、一分間ほどは、気がつかないらしかった。やっと気がついて、いっさいのことを思い合わせて、急にひどく興奮した。それにしても、結局、あすの朝の一番列車の間に合うように、七時に部屋の戸をたたいてくれと、ひとかたならず熱心に依頼しただけであった。ヴェーラは承知をした。
公爵は、誰にもこのことを言わないでくれと、一生懸命に頼みだした。彼女はそれをも承知して、やがて出かけようと戸をあけたとき、公爵は三たび彼女を呼び止めて、両手をとって接吻した。それから、いきなり額を接吻して、何か『なみなみならぬ』様子をしながら、「では、明日また!」と言った。これは、少なくとも、後になってヴェーラが言ったことである。彼女は極度に公爵の身の上を恐れながら立ち去った。あくる朝約束どおりに、七時過ぎに公爵の部屋の戸をたたいて、ペテルブルグ行きの汽車はもう十五分しかないと知らせたとき、公爵がすっかり元気づいて、ほほえみすら浮かべながら、戸をあけたように思われたので、彼女は少し安心した。公爵はほとんど昨夜着換えをしなかったが、しかし寝るには寝たのである。彼の考えでは、その日のうちに帰れるはずであった。してみると、たしかに、公爵はペテルブルグへ出かけることを、この時ヴェーラにだけは知らせることができる、またそうするのが当然だと考えたのであろう。
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十一
一時間の後には、公爵はもうペテルブルグへ来て、九時過ぎには、ラゴージンの家の入り口でベルを鳴らしていた。彼は表の玄関からはいったのであるが、誰も長いことドアをあけてくれなかった。やがて、ついにラゴージンの老母の住居のドアが開いて、小ぎれいな年増の女中があらわれた。
「パルフェン・セミョーノヴィッチ様はお留守でございます」と彼女はドアの中から知らせた、「どなたに御用で?」
「パルフェン・セミョーノヴィッチさんです」
「お留守でございますよ」
女中は人慣れぬ物珍しそうな様子で、公爵を眺めた。
「それじゃ、とにかく、教えてくれませんか、昨晩うちでおやすみになったでしょうか? そして……昨日はお一人でお帰りでしたか!」
女中は相も変わらず相手を見つめながら、返事もしなかった。
「では、あの人といっしょじゃなかったですか、昨日、こちらに……晩方……ナスターシャ・フィリッポヴナさんは?」
「失礼でございますけど、あなたはどなた様でいらっしゃいます?」
「レフ・ニコライヴィッチ・ムィシキン公爵です、僕らはごく懇意なんでして」
「お留守でございます」
女中は目を伏せた。
「じゃ、ナスターシャ・フィリッポヴナさんは?」
「わたくし、そんなことちょっとも存じませんわ」
「ちょっと待ってください、ちょっと、いつごろ帰りますか?」
「そんなこと、存じませんので」
ドアが閉まった。
公爵は、もう一時間して来ることに決めた。庭のほうをのぞいたら、門番の姿が見えた。
「パルフェン・セミョーノヴィッチさんは家《うち》かね?」
「はい」
「いったい、どうしていま留守だなんて言ったんだろう?」
「旦那のほうで、そう言いましたか?」
「いや、お母さんのほうの女中だ、パルフェン・セミョーノヴィッチさんのほうで呼び鈴をならしたけど、――誰もあけてくれなかった」
「ひょっとしたら、お出かけかもしれませんよ」と門番は一人で決めた、「だって、出先をおっしゃらないんですからね。どうかすると、鍵まで持って出ておいでになるので、三日も部屋をしめっきりなことがありますよ」
「昨日、家におられたのを、君はたしかに知ってるんだろうね?」
「え、おいででしたよ。時たま、表からおはいりになっても、見かけないこともありますよ」
「ナスターシャ・フィリッポヴナさんは、昨日あの人といっしょじゃなかったろうか?」
「それは存じませんな。あまりしょっちゅうお見えになるわけでもありませんからね。もしお見えになったんならわかりそうなもんですよ」
公爵は外へ出て、しばらく物思いに沈みながら、鋪道を歩いていた。ラゴージンの住んでいる部屋の窓は、すっかり閉めてあった。老母のいるほうの窓は、ほとんど全部が開いていた。それはよく晴れた暑い日であった。公爵は往来を横切って反対の鋪道に出て、ふと立ち止まって、もう一度、窓を見上げた。窓はすっかり閉まっているばかりか、ほとんどどれもこれも白いカーテンをおろしていた。
彼は一分間ほど立っていた。と――不思議にも、不意に一つのカーテンの端が持ち上がって、ラゴージンの顔がちらついたような気がした。が、ちらついたと思うと、すぐにまた消えてしまった。彼はほんの少しのあいだ待った後、また出かけて行って、ベルを鳴らしてみようかとも思ったが、また考えなおして、一時間ほど延ばすことにした。『ことによったら、あれはただ虫のせいかもしれないから……』
こういう気持になったのは主として、ついせんだってまでナスターシャ・フィリッポヴナが間借りをしていた家のあるイズマイロフ連隊跡へ、急いで行ってみる気になったからである。彼女が公爵の頼みによって、三週間まえに、パヴロフスクから、もとの気だてのよい知り合いをたどって、イズマイロフ連隊跡へ移って来たことを、彼は知っていた。知り合いというのは孀《やもめ》になった教師夫人で、家族もあり、尊敬すべき婦人であったが、立派な道具つきの部屋を貸間にして、ほとんどそれによって暮らしを立てていた。
ナスターシャ・フィリッポヴナが再びパヴロフスクへ移るとき、下宿を借りたままにして行ったということは、大いにありうべきことである。少なくとも、彼女が――もちろん、昨夜ラゴージンがここへ連れ込んで一夜を明かしたということもありうべきことである。公爵は辻馬車を雇った。彼女が夜まっすぐに、ラゴージンの家へ乗りつけるはずはないから、まずここから取りかかるべきである――と、公爵は行く道すがら、ふと思いついた。『ナスターシャさんはあまりしょっちゅうお見えになるわけでもありません』という門番のことばも、胸に浮かんできた。もし、そんなにしょっちゅうでないとすると、今度のような時に、ラゴージンの家へ泊るいわれはないではないか? こういう気休めにみずからを励ましながら、公爵はついに生きた空もなく、イズマイロフ連隊跡に着いた。
すっかり驚いたことには、教師夫人のところでは、昨日も今日も、ナスターシャ・フィリッポヴナのことを聞いたこともないと言い、公爵自身の来訪を、まるで奇跡か何かのように迎えた。夫人の家の多人数の家族――いずれも女の子、十五から七つまで、年子《としご》ばかり、――は、母親のあとからぞろぞろと出て来て、口をあけたまま、彼を取り巻いた。そのあとからは、瘠せた黄色い顔の叔母さんが黒い頭巾をかぶって出て来て、最後には、年をとった祖母さんが眼鏡をかけて出て来た。教師夫人が、中へはいって遊んで行くようにと、しきりにすすめるので、公爵もそのとおりにした。
公爵にはすぐに察しがついた。つまり、この家の人たちに、彼の身分や、きのう結婚式が挙げられたはずだということはよくわかっていて、結婚のことや、今ごろ彼といっしょにパヴロフスクにいるべきはずのナスターシャのことを、かえってこちらから尋ねるという不思議な話をこの人たちは根掘り葉掘り聞きたくてたまらないのに、そんなぶしつけなことのできないデリケートな気持をもっているのだと推察したのである。彼は簡単に、だいたいの筋を物語って、結婚についての一同の好奇心を満足させた。すると、驚愕の声や、嘆息や、叫び声がおこったので、彼はやむを得ず、言い残したほとんど全部のことを、もとより、大まかにではあったが、話してやらなければならなかった。
ついに、興奮している賢明な婦人たちが相談の結果、まずぜひとも第一にラゴージンの所へ行って、あけてくれるまで戸をたたいて、彼から一部始終をはっきりと聞き取ることが必要だと決まった。もし彼が不在か(これもはっきり突き止めなければならぬ)、あるいは家にいても話してくれる気がなかったら、母親と二人でセミョーノフ連隊跡に暮らしている、ナスターシャ・フィリッポヴナの知り合いのあるドイツ婦人の所へ行ってみること、ことによったら、ナスターシャは興奮に駆られて、身を隠そうとして、この婦人の所に泊まったかもしれないからという話であった。
公爵は、すっかり途方に暮れて、立ち上がった。ここの女たちは後になってすっかり『まっさおになりました』と言った。事実、彼は足もとがたよりなかった。やっと、彼は、女たちの早口なかん高い声の間から、彼女たちが行動を共にしようと申し合わせて、彼に市内のアドレスを教えてくれるようにというのを聞き分けた。そう言われても、アドレスなどというものがないことがわかった。そこで婦人たちは、どこかの旅館に落ち着くようにとすすめた。公爵はちょっと考えてから、以前の宿屋の番地を教えた。そこは五週間ほど前に発作がおこったところであった。
やがて彼は、再びラゴージンの家をさして出かけた。ところが、今度はラゴージンのほうのドアをあけてくれなかったばかりでなく、老母のほうのドアさえもあけてはもらえなかった。公爵は門番を捜しに行って、やっと庭で捜しあてた。門番は何か忙しそうにしていて、返事もろくにしてくれず、ふり向いてもくれなかった。しかし、とにもかくにも、パルフェン・セミョーノヴィッチは、『朝早く家を出て、パヴロフスクへ出かけ、今日は家へは帰るまい』とのはっきりしたことを聞くことができた。
「じゃ、お待ちしよう。たぶん、夕方になったら帰るでしょう?」
「ところが、ことによったら、一週間もお帰りにならんかもしれませんよ。なにしろ、あのかたのことですもの」
「してみると、やっぱり昨晩はここで寝《やす》んだんだね」
「寝むのは寝んだんですが、……」
こんなわけで、何もかもが怪しく、気味が悪かった。門番があの合間に、もう新しい命令を受けたということも大いにありうべきことだ。さっきは、おしゃべりなぐらいであったのに、今はただ背を向けているのだ。それにしても、公爵は二時間ばかりしたら、もう一度、来てみて、必要があれば、張り番をしてもいいとまで決したが、まだドイツ婦人のところに一縷《いちる》の望みが残っているので、セミョーノフ連隊跡へ車を飛ばした。
ところが、ドイツ婦人はこちらの言うことをわかってもくれなかった。口をすべらした二、三のことばによって、この美しいドイツ婦人が二週間ばかり前に、ナスターシャと喧嘩をしたので、このごろでは彼女の噂など何一つ聞かなくなり、今は一生懸命になって、『たとい、あの女が世界じゅうの公爵をみんなお婿さんに持った』と聞かされてもおもしろくもなんともないという気持を相手に知らせようとしているのだと察しがついた。公爵は大急ぎで出て行った。そのとき、ふっと、――彼女は、ことによったら、またあの時のように、モスクワへ逃げて行って、ラゴージンもむろん、そのあとを追って行ったに相違ない、あるいはいっしょかもしれないという考えが胸にうかんで来た。『せめて、何かの手がかりを見つけたいものだ!』
それにしても、宿に落ち着かなければならないことを思い出して、彼はリテイナヤ通りへと急いだ。宿ではすぐ部屋をとってくれた。給仕が何か召し上がりますかと聞いたとき、彼はうっかりして、食べたいと答えたが、すぐに気がついて、食事にまたよけいな三十分を割《さ》かなければならないのだと、ひどく自分で自分に腹を立てた。やっとあとになって、持って来たものを食べないからといって、何も束縛されるわけはないと気がついた。この薄暗く、息苦しい廊下にいると、奇妙な感じに満たされた。何かまとまった考えを形づくろうとして痛々しい努力をする感じであった。しかも、望みをかけている新しい考えというものがはたして何であるかは、やはり洞察することはできなかった。ついに彼は生きた心地もなく宿を出た。めまいがする、とはいえ、――どこへ行ったらよいのか? 彼はまたもやラゴージンの家をさして、馬車を駆った。
ラゴージンは帰ってはいなかった。ベルを鳴らしても、ドアは開かなかった。老母のほうへ行って、ベルを鳴らす。すると、あけるにはあけたが、やはり、パルフェン・セミョーノヴィッチは留守で、たぶん、三日くらいは帰るまいとのことであった。公爵は相変わらず人慣れぬ好奇心を寄せて、じろじろと見られるので、どぎまぎしてしまった。門番は、今度は全く姿を見せなかった。彼はさっきと同じように反対側の鋪道へ出て、窓のほうを見上げながら、悩ましい苦熱のなかを、半時間ほども行ったり来たりした。あるいは、もっと歩いていたかもしれぬ、今度は何一つ動くものもなく、窓も開かなかった。白いカーテンも、さゆらぎだにもしなかった。ついに彼の脳裡に、さっきのはただ虫のせいだったのだ、窓にしたところで、どう見てもあんなに曇りきっていて、長いこと洗った様子もないから、たとい本当に誰かがガラス越しにのぞいたとしても、見分けることはむずかしいはずだ――という考えが浮かんできた。こう考えてほっとしたので、彼はまたイズマイロフ連隊跡へ出かけた。
そこではみんなが、彼を待ち受けていた。教師夫人はもう三、四か所も回って、ラゴージンの家へまで寄って来たが、声もなければ、そのけはいもなかった――と言った。公爵は黙々として聞き終わると、部屋へはいって、長椅子に腰をおろし、何を相手が言っているのか呑みこめない様子で、一同を見つめだした。不思議なことに、彼は非常によく気がつくかと思うと、また急に嘘かと思うほど、ぼんやりしてしまうのであった。家じゅうの者があとになって、『あの日一日、あの人は、あきれてしまうほど妙だったわ。やっぱり、あのころからもうその気味があったのよ』と断言したほどであった。
彼はとうとう立ち上がって、ナスターシャ・フィリッポヴナの部屋を見せてくれと頼んだ。それは大きな、明るい、天井の高い二つの部屋で、かなり立派な道具も並んでいて、少なからず金もかかっているらしかった。あとになって、婦人たちの物語ったところによると、公爵は部屋の中のものを一つ一つ検分していたが、ふとテーブルのうえに、図書館から借り出した本――フランスの小説『ボヴァリー夫人』が開いてあるのに目をとめて、あけてあったページをちょっと折ったと思うと、持って行きたいから貸してくれるようにと頼んだ。その本は図書館のだからと断わったのに、よくも聞かないで、ポケットへ入れてしまったという。
やがて、あけ放した窓のそばに腰をおろして、白墨でいっぱい書き散らしてあるカルタのテーブルに眼をつけて、誰がカルタをやったのか? と尋ねた。家の人たちは、ナスターシャは毎晩ラゴージンを相手に、『ばか』『糶《せ》り札』『粉屋』『点とり』『君の札』など、あらゆる方法で勝負をしていた、カルタが始まったのはごく最近のことで、パヴロフスクからペテルブルグへ移って後のことであり、いつもナスターシャが退屈を訴えて、『あんたは毎晩じっと坐っているばかりで、何の話もできやしない』と、不平を言ってしょっちゅう泣いたので、そのあくる晩ラゴージンがいきなりポケットからカルタを取り出したところ、ナスターシャが、笑いだして、そこで勝負が始まったのだ――と話した。公爵は、どこに使った札がありますか? と聞いた。が、カルタは出て来なかった。カルタはラゴージン自身がポケットに入れて、いつも持って来て、しかも毎日、一組ずつ新しいのを持って来て、勝負がすむと、また持って帰ってしまうのであった。
婦人たちは、もう一度ラゴージンのところへ行って、もう一度、少しはげしく戸をたたいてみるように、それもすぐにではなく、夕方にすること、『たぶん、何かわかるでしょうよ』と公爵にすすめた。そのうちに、教師夫人自身は晩までに、何かわかっているかもしれないから、パヴロフスクのダーリヤのところへ行って来ると申し出た。公爵に向かっては、明日は相談をしたいから、とにかく、晩の十時ごろに来てくれと頼んだ。
みんなに慰められたり、希望を与えられたりしたのにもかかわらず、彼は全くの絶望にとらえられた。彼は言い知れぬ悩みをいだきながら、とぼとぼと歩いて宿にたどり着いた。夏のほこりっぽく息苦しいペテルブルグは、まるで搾《し》め木《ぎ》にかけるように、彼を押さえつけた。彼はむずかしい顔をした人や、酔っ払いの群れの間を押し分けながら、何のあてどもなく人々の顔をのぞきこんだ。おそらく、必要以上の道を歩いたことであろう。自分の部屋へはいったときは、もうほとんど日は暮れ果てていた。彼は少し休んでから、すすめられたように、また、ラゴージンのところへ行こうと決心して、長椅子に腰をおろし、テーブルに両肘ついて、物思いにふけった。
はたして、どれほどの時間が経ったのか、何を考えていたのか、知る由もない。彼はいろんなことを恐れ、自分がひどい恐怖に襲われているのを、胸が疼《うず》くほど痛切に感ずるのであった。ヴェーラ・レーベジェワのおもかげが頭に浮かんだ。やがて、たぶんレーベジェフはこの問題について、何かしら知っているだろう、たとい知らないにしても、自分より早く楽に探り出せるだろうという気がした。それから、イッポリットのこと、イッポリットのところへラゴージンが往復することなどを思い出した。さらにまた当のラゴージンのこと、――せんだって葬式のときのラゴージン、それから公園で会った時のラゴージン、それから今度は不意にその廊下の片隅にかくれて、刃物を手に待ち伏せしたときのラゴージンが胸に浮かんできた。彼の眼、あのとき、闇の中で自分を見ていた眼が思い返された。公爵は身震いした。ついさきほど出よう出ようとしていた考えが、今や忽然《こつぜん》として脳裡に浮かんだのである。
それはだいたいこんなことであった、――もしもラゴージンがペテルブルグにいるとすれば、たとえ一時身を隠そうとも、ついには必ず公爵のところへやって来るに相違ない。善いもくろみをもって来るか、悪い目当てがあって来るか、それはわからないが、あの時のようにして出て来るに相違ない。少なくも、もしも、ラゴージンが何かのはずみで、公爵のところへ来る必要がおこれば、この宿屋よりほかに来るところはないのだ。彼はアドレスを知らないはずだ、したがって公爵は以前の宿屋に泊っているだろうと、考えるにきまっている。少なくとも、ここへたずねて来るに相違ない……もし、非常な必要があるとすれば。はたして、非常な必要があるかもしれない、その辺のところは知る由もないのである。
彼はこういう風に考えていたのである。そうして、この考えが、どうしたわけか、全くあり得べきことのように思われた。彼がも少し深くこの考えをつきつめていって、『なぜ自分が急にラゴージンにとって必要になるのか? またなぜ自分たちがとどのつまり、意気相投合するわけにゆかないのか?』というようなことになると、彼にはどうしても、はっきりした説明がつかなかったであろう。しかも、この考えは重苦しいものであった。『もしも、あの男がいい気持でいられたらやって来ないだろう』と公爵は考え続けた。『が、もし、ぐあいが悪かったら、すぐやって来るだろう。ところで、あの男はきっとぐあいがよくないに相違ない……』
もちろん、こう考えた以上は、自分の部屋でラゴージンを待つのが当然であった。しかし、彼はこの新しい考えに堪えられなかったらしく、いきなり飛び上がって、帽子をつかんで、表へ駆け出した。廊下はもうほとんどすっかり暗くなっていた。『もしも、あの男が今そこの隅から急に出て来て、階段のところで呼び止めたらどうだろう?』例の所へ近づいたとき、ちらとこんなことがひらめいた。が、誰ひとり出ては来なかった。彼は門のほうへおりて行って、鋪道へ出たが、日の入りとともに往来へ吐き出された恐ろしい人の群れに驚いた(夏休みのころのペテルブルグではいつものことである)。やがて、ガローホワヤ通りをさして歩きだした。宿から五十歩ばかりの四辻へ来たとき、人込みの中で誰かがいきなり彼の肘にさわって、耳もとでささやいた。
「レフ・ニコライヴィッチ君、あとからついて来たまえ、話があるんだ」
これはラゴージンであった。
奇妙なことに、公爵は急にうれしさのあまり、舌もつれしながら、ほとんど一つのことばをさえもしまいまで言いきらないくらいにして、いま、宿屋の廊下でどんなに待っていたかということを話しだした。
「おれはあすこにいたんだ」思いがけなくラゴージンが答えた、「さあ、行こう」
公爵はこの答えに驚いたが、彼の驚いたのは、少なくとも二分ばかりして、いろんなことを思い合わせた時のことであった。この答えを、よく考えてみると、彼は愕然として、ラゴージンをのぞき込みだした。相手はほとんど半歩ほど先へ出て、自分の前のほうばかり見つめて、機械的に用心深く、人々に道を譲りながら、行き合う人の顔さえも見ずに歩いて行った。
「いったい、君はどうして宿で僕の部屋を聞いてくれなかったんだ……あすこにいたのなら?」いきなり公爵は尋ねた。
ラゴージンは立ち止まって、相手を眺め、ちょっと考えたが、何を聞かれたのか呑み込めなかったらしく、
「おいレフ・ニコライヴィッチ君、君はここをまっすぐ歩いて、家まで行くんだ、いいかえ? おれは別のほうを通って行く。だが、気をつけて、いっしょに行くようにするんだ……」
こう言って、彼は往来を横切って、向こう側の鋪道へ行って、公爵が歩いてるかどうかとふり返ったが、彼がぼんやりたたずんで、眼を皿のようにして自分のほうを眺めているのを見ると、ガローホワヤ通りのほうへ手を振って、歩きだした。絶えず公爵をふり返って見て、ついて来いと手招きした。公爵がこちらの言うことを悟って、反対側から渡って来ないのを見ると、いかにも元気づいているらしかった。――ラゴージンは誰かを偵察して、途中でおとすまいとしている。だから向こう側へ渡って行ったのだ――という考えが公爵の頭に浮かんだ。『しかし誰に眼をつけているのか、なぜ言わないんだろう?』こうして二人が五十歩ばかり歩いたとき、公爵は急にどうしたことか急に震えだした。ラゴージンは前ほどではないが、やはり振り返って見るのをやめなかった。公爵はとうとうしんぼうしきれなくなって、彼を手でさし招いた。相手はすぐに往来を横切って、彼のほうへ寄って来た。
「ナスターシャ・フィリッポヴナは君の家にいるのかえ?」
「いるよ」
「さっきカーテンのかげから僕を見たのは、君かえ?」
「うむ……」
「いったい、どうして君が……」
しかし、公爵は、この先どう聞いていいのか、どんな風に質問のけりをつけたらいいのかわからなかった。そのうえ動悸がはげしくて、物を言うのもむずかしかった。ラゴージンもやはり黙り込んで、以前と同じように、つまり、物思わしげな風で、彼を見つめていた。
「じゃ、おれは行くよ」急にまた渡って行くようなけはいを見せて、彼はこう言った。「君は勝手に歩いてゆけよ。おれたちは往来を別々に行くことにしよう、……そのほうがいいからな……別々の側を通ってだ……いいだろう」
ついに二人が、別々の鋪道からガローホワヤ通りに折れて、ラゴージンの家に近づきかかったとき、またしても公爵の足はふらふらしだして、ほとんど歩くことさえむずかしくなった。もう晩の十時ごろであった。老母のほうの窓は、さっきと同じように開いていたが、ラゴージンのほうのは閉めたままで、薄ら明かりに、白いカーテンがいっそうくっきりと浮き立つかのように見えた。公爵は反対側の鋪道から家に近づいた。ラゴージンは向こう側の歩道から、表の段々へあがって、彼を手招きしていた。公爵は通りを越えて彼のいる段々のほうへやって来た。
「おれのことはいま門番さえ知らないんだよ。帰って来たってことをな。おれはさっきパヴロフスクへ行くって言ったのさ。おっ母さんにもそう言っといた」と彼はずるそうな、ほとんど満足らしいほほえみを浮かべてささやいた、「おれたちがはいっても、誰も聞きつけやしないよ」
彼の手の中にはもう鍵があった。階段を上がりながら、彼は後ろをふり返って、そっと歩くようにと公爵を脅やかすまねをして、静かに自分の部屋へ通ずるドアをあけて、公爵を中に入れて、その後から用心深くはいって、戸締りをし、鍵をポケットの中へしまい込んだ。
「さあ、行こう」と彼は小さな声でささやいた。
彼はまだリテイナヤ通りを歩いているころから、小さな声で話をしていた。表面はいかにも落ち着き払っているが、何か心の中には深い不安をいだいているらしかった。書斎のすぐ手前の広間へはいったとき、彼は窓に近づいて、秘密らしく公爵をさし招いた。
「さっき君がベルを鳴らしたとき、おれはすぐにてっきり君だろうと思ったよ。それで、爪立ちしてドアの傍へ寄って聞いてみたら、君がパフヌーチェヴナと、しきりに話してるじゃないか。ところが、おれはもう夜の明けないうちに、言いつけておいたんだよ、もし君か、または君の使いが、誰にもしろここへたずねて来たら、どんなことがあっても言ってはいけないと。もし君が自分で来たら、なおさら気をつけろって、名前まで教えといたんだ。それから、君が出て行ったあとでふっと考えたんだ、もしまだ表に立って、こちらを見たり、往来から見張りでもしていたらと、おれはこの窓の傍へ寄って、そうっとカーテンをめくって見ると、君がそこに立っていて、まともにおれのほうを見てるじゃないか……まあ、こういうわけだったんだ」
「いったい、どこに……ナスターシャ・フィリッポヴナさん?」と公爵は息を切らしながら言った。
「あれは……ここにいるよ」いささか答えをためらうかのように、ラゴージンはゆっくりと答えた。
「いったい、どこに?」
ラゴージンは眼を上げて、じっと公爵を見つめた。
「さあ、行こう……」
彼は相変わらずささやくような声で、依然として妙に物思わしげに、急がずに、ゆっくり口をきいた。カーテンのことを話した時でさえも、話は全くむき出しであったが、その話によって、別なことを言おうとしているらしかった。
二人は書斎へはいった。この部屋には、さきに公爵が訪れたとき以来、いくぶんの変化が生じていた。部屋全体を横切って、緑色の絹のカーテンが引かれて、その両端が出入り口になり、これがラゴージンの寝台が置いてある部屋と、書斎との仕切りになっていた。重々しいカーテンはすっかりおろされて、出入り口もふさがっていた。
部屋の中はひどく暗かった。ペテルブルグの夏の『白夜』は、暗くなりかかっていた。もしも、満月の夜でなかったら、窓かけをおろしたラゴージンの暗い部屋では、物の見分けも容易につかなかったであろう。しかし、十分に、はっきりとはいかないまでも、どうやら顔ぐらいは見分けられた。ラゴージンの顔は、いつものように青白かった。じっと公爵を見ている眼は強い光を帯びているが、なんとなく、じっと据わっていた。
「蝋燭をつけたら?」公爵は言った。
「いや、いらん」とラゴージンは答えて、公爵の手を取って、テーブルのほうへ引き寄せ、自分も公爵と差し向かいに坐って、ほとんど膝が触れ合うほどに、椅子を引き寄せた。二人の間には小さな丸テーブルが、少しわきへ寄って、置かれていた。
「坐りたまえ、ちょっとここにいよう!」無理に坐らせようとするかのように、彼は言った。一分間ほど、二人とも黙っていた。「おれは、君があの宿屋に落ち着くだろうとはわかっていた」どうかすると大事な話にはいる前に、直接の問題に関係のない、わき道へそれた細かな話から切り出す人がよくあるが、彼の切り出し方も、そのとおりであった。「おれは廊下へはいったとき、ひょっとすると、君もおれと同じように、今おれをじっと待ってるかもしれないと、ふっと思ったよ。教師夫人のところへ行ったかえ?」
「うむ」公爵は胸の動悸がはげしく、やっとの思いでこれだけのことを言った。
「おれはそのことも考えたよ。まだいろいろ話があるだろうと、そう思ったよ。それから、こんなことも考えた、公爵をここへ引っぱって来て泊めてやろう、今夜いっしょにいるように……」
「ラゴージン! ナスターシャ・フィリッポヴナさんはどこにいるんだえ?」不意に公爵はささやいて、手足を震わせながら立ち上がった。
ラゴージンも席を立った。
「あすこだ」とカーテンのほうを頤《あご》でしゃくって、ささやいた。
「眠ってるの?」と公爵がささやいた。
またもやラゴージンは、さっきと同じように、しげしげと公爵を見つめた。
「じゃ、もう行って見よう!……ただし、君は……いや、まあ行こう」
彼はカーテンを持ち上げて、立ち止まり、またしても公爵のほうをふり向いた。
「はいって!」彼は、さきに行くようにとカーテンの向こうを頤でしゃくって見せた。
公爵ははいって行った。
「ここは暗い」と彼は言った。
「見えるよ!」ラゴージンがつぶやいた。
「僕はろくに見えないが……あれは寝台だな」
「もっと近くへ行って見な」とラゴージンは低い声ですすめた。
公爵は前へ一歩、また一歩、そして立ち止まった。彼はじっと立ったまま、一、二分のあいだ、中をうかがった。二人はそのあいだ、寝台のそばにたたずんで、何一つ言わなかった。公爵の胸ははげしく動悸をうって、死んだような室内の静寂のうちに、聞こえるかとさえも思われた。しかしようよう闇に慣れて、寝台がすっかり見分けられるようになった。寝台の上には誰かが眠っている、静かな眠りについている。かすかな衣ずれの音も、かすかな呼吸《いき》づかいも聞こえぬ。眠っている人は、頭から白い敷布をかぶっているが、手足はどうにもぼんやりして見分けがつかない。ただ寝台の上が高くなっているので、人が身をのばして寝ているということだけしかわからない。
あたり一面、寝台の上にも、足もとにも、寝台のすぐわきの安楽椅子にも、床の上にさえも、ぬぎすてた衣裳、ぜいたくな白絹の服や、造花やリボンなどが、乱雑に散らばっている。枕もとの小机には、はずしたまま、投げ散らしたダイヤモンドが、きらきら光っている。足もとには何かレースらしいものが一かたまりにしてかきまぜられているが、その白く浮いているレースの上には、敷布の下からのぞいているあらわな足の先が見分けられた。公爵はじっと見つめていたが、見つめれば見つめるほど、部屋の中がいよいよ死んだように、いよいよ静かになるのを感じた。ふっと、眼をさました一匹の蠅が、うなりを立てて、寝台の上を飛びすぎると、そのまま枕もとのところで、ひっそりしてしまった。公爵は身震いした。
「出よう」彼の手にラゴージンがさわった。
二人はそこを出て、またもとの椅子に差し向かいで腰をおろした。公爵はしだいに激しく身を震わせながら、物問いたげな眼を、ラゴージンの顔から放さなかった。
「君はなんだな、そんなに震えてるんだな」ついにラゴージンが言いだした、「まるで、ひどくからだのかげんを悪くしたときのようだ、覚えてるだろう、あのモスクワでさ? でなけりゃ、あの発作の前かな。本当にそうなったら、君をどうしたらいいのか、わからないな……」
公爵はそのことばの意味を悟ろうとして、一生懸命になってやはり物問いたげな眼で、耳を傾けた。
「あれは君かえ?」頤でカーテンのほうをしゃくりながら、やっと彼は言った。
「うん……そうだ……」とラゴージンはささやいて、眼を伏せた。
二人は五分間ほど口をつぐんでいた。
「だから」ラゴージンはことばの切れていたことに、気がつかないらしく、だしぬけに話を続けた、「だからな、もし病気がな、発作が起こって、どなり立てたら、往来のほうからか、家のほうから、誰かが聞きつけて、ここに人が泊ってるってことを察するだろう。そして、戸をたたいてはいって来る、……だって、みんながおれは留守だと思っているんだから。だから、おれは往来からも、家からも気がつかないように、蝋燭もつけなかったんだ。それにおれが留守のときは、自分で鍵を持って出るもんだから、三日も四日も部屋をかたづけにはいる者もいないんだ。これがおれのところのきまりなんだ、だから、今も、おれたちが泊るってことを知られないように……」
「ちょっと待ってくれ」と公爵は言った、「さっき僕は門番にも女中にも、ナスターシャさんが泊らなかったかと聞いてみたんだよ。してみると、みんな知ってるんだね」
「君が聞いてたのは知ってるよ。おれはパフヌーチェヴナにそう言ったんだ。昨日ナスターシャ・フィリッポヴナさんがちょっと寄ったけれど、すぐその日のうちにパヴロフスクへ立ってしまって、おれのところには十分間しかいなかったって。泊ったってことは知らないんだ、――誰も知らない。昨日、おれたちは、いま君といっしょにはいったと同じように、そうっとはいったんだ。あれはそうっとはいるのをいやがるだろう、と来る道で肚ん中では思ったんだよ、――とても、とても! 小さな声で話をする、爪立ちをして歩く、音がしないように着物の裾をつまんで持ち上げる。梯子段《はしごだん》では、あれのほうがかえって指を立てて、おれを脅やかすまねをするじゃないか――それは君を恐れていたからだ。汽車の中では、まるで気ちがいのようだった。やっぱり恐ろしいからだ。ここへは、自分で望んで泊りに来たんだ。初め、おれは教師夫人のところへ連れて行こうと思ったんだが――とてもとても!『あそこへ行けば、公爵が夜の明けないうちに捜し出すから、おまえさんにかくまってもらおう。明日は夜の明けないうちにモスクワへ出かけて、それからオリョール市のほうへ行くから……』って言うんだ。床にはいってからも、しきりにオリョールへ行きたいと言ってたよ……」
「ちょっと待ってくれ、パルフェン君はいまどうするつもりなんだえ?」
「そんなに、震えてばかりいては面くらってしまうよ。今夜は二人でいっしょにここへ寝よう。寝台はあれよりほかにないから、おれはこう考えたんだ、両方の長椅子からクッションをとって、そこのな、カーテンのそばに、いっしょに寝るように、君の分とを並べて敷こうって。だって、もし人がはいって来て、捜しだしたら、あれはすぐに見つかって、運び出される。おれは調べられて、おれだと言う。そうしたら、すぐに引っぱって行かれるんだ。だからな。今はまずあれをそこへ寝かしておこう。おれともおまえと二人のわきへ……」
「そうだ、そうだ!」と公爵は熱心に相づちをうった。
「つまり、自首しないんだ、あれをかつぎ出させないんだ」
「ど、ど、どうあっても!」と公爵は決めてしまった、「ど、ど、どう!」
「そんなら、おれも覚悟をきめたよ、君。どうあっても、誰にも渡しやしない! 静かに夜を明かそうよ。おれは今日、朝のあいだ、ちょっと一時間ほど外へ出たっきりで、いつも傍についていたんだ。でも、それから晩方に君を迎えに行ったがな。も一つ、暑苦しくって、臭いが出やしないかと心配なんだがな。君に臭いがするかえ?」
「たぶん、するんだろうけど、僕にはわからない。朝になったら、きっとするだろう」
「おれは油布で、アメリカ製の上等の桐油布であれを包んで、その上から敷布をかけたんだ。栓を抜いたジタノフ液(防腐剤)の壜も四本並べといた。今でもあすこに立ってる」
「じゃあ、まるで、あそこ……モスクワのとそっくりだね?」
「だって、君、臭いがするんだもの。ところで、あれはじっと横になっている……明け方になって、明るくなってきてから、よく見ろよ。どうした、立てないのかえ?」公爵が立ち上がれないほど、激しく震えているのを見て、ラゴージンはおずおずと、驚きの色を浮かべて尋ねた。
「足がいうことを聞かないんだよ」と公爵はつぶやいた。「つまり、恐ろしいからだ、それは僕も知っている、……こわいのがやんだら立つよ……」
「じゃ、おれが二人の床をとるから、ちょっと待ってて。そして、君も寝るといい……おれも君といっしょに寝るから、……そして聞きたいもんだ……なにしろ、君、おれはまだ知らないんだからな、……おれはな、まだすっかりは知らないんだから。ひとつおまえにあらかじめ言っておくよ。おまえがこのことを前もって、すっかり心得ておくようにな!」
こんな曖昧《あいまい》なことをつぶやきながら、ラゴージンは床を伸べにかかった。明らかに、この床はもう朝のうちから肚の中で考えていたらしかった。前の晩は長椅子の上で寝たのであるが、長椅子の上には二人で並んで寝るわけにはいかない。しかも、彼は今どうしても並んで寝たいと思っていたのである。そこで、彼はいま一生懸命に、二つの長椅子から大きさとりどりのクッションをとって、部屋の端から端へと横切って、カーテンの入り口のすぐ傍まで引きずって来た。どうかこうかして、寝床ができた。彼は公爵に近づいて、歓喜にあふれた様子で、優しくその手を取り、立ち上がらせて、寝床のほうへ連れて行った。しかし、公爵は、自分で歩けるということがわかってきた。つまり、『恐ろしいのがやんだ』のであった。それにしても、彼は相も変わらず震えていた。
「なんだな、おまえ」公爵を左側のいいクッションのほうへ寝かして、自分は右側のほうへ着換えもしないで長くなって、頭を両手でささえながら、不意にラゴージンは言いだした、「今夜はずいぶん暑いから、においがするに決まってる……。窓をあけるのはこわいし……ところが、おっ母さんのほうに花をさしてある花瓶があるんだ。たくさん花がさしてあって、とてもよいにおいがするんだ。だからおれはそいつを持って来ようかと思ったんだが、パフヌーチェヴナに気づかれそうなんだよ……あの女はずいぶん物好きなやつだからな」
「そう、物好きな女だね」と公爵は賛成した。
「買って来るかな、花束や花であれのからだをすっかり埋めてやろうかな? でも、可哀そうになるような気がするんだ、花の中なんかで!」
「ね……」と公爵は聞いたが、何を聞くはずだったか、どう考えてみても、すぐに度忘れしてしまうように、「ね、一つ聞きたいことがあるんだ、君はなんであれを?……ナイフでか? あの例の?」
「うん、そうだ……」
「ちょっと待ってくれ! 僕は一つ君に聞きたいことがあるんだ、……僕はいろんなこと聞かしてもらいたいんだ、一部始終、だがねえ、君、いっそのこと、最初から、ずっと最初から話してくれないかな。君は僕の結婚まぎわに、式のまぎわに、教会の入口で小刀でもって、殺すつもりだったのかえ?……そんなつもりだったのかえ、どうだえ?」
「そんなつもりだったか、どうだか知らない……」とラゴージンはいささかこの問いに驚いて、その意味が合点のゆかないような顔をして、そっけなく答えた。
「パヴロフスクへナイフを持って来たことは、一度もないのかね?」
「一度もない。このナイフのことで君に話せるのは、これぐらいのものだよ、レフ・ニコライヴィッチ君」しばらく口をつぐんでから、彼はこう付け足した、「おれは今朝こいつを、鍵のかかった引出しの中から出したんだ。なにしろ事のおこりは、朝の三時過ぎだったからな。こいつはやっぱり、おれの本の中にはさんであったんだ、……で……で……で、おれの不思議でたまらないのはな、ナイフがまるで……七センチ……九センチぐらい……左の乳の下に突き通ったのに……血はみんなで、そうだな……小匙半分ぐらい肌着にこぼれたきりで、それっきり出ないんだ……」
「それは、それは、それは」公爵は急に恐ろしく興奮しながら、立ち上がった。「それは、それは僕知ってる、それは僕は読んだことがある……それはね、内部出血っていうんだよ……時によると、一滴も出ないことがあるそうだ。それがもしまっすぐに心臓に当たったら……」
「ちょっと、聞こえるかい?」と急にラゴージンはさえぎって、おびえたかのように床の上に中腰になった、「聞こえるかい?」
「いや!」と公爵は相手の顔を見ながら、やはり早口に、おびえたように言いだした。
「歩いてる! 聞こえるかえ? 広間を……」
二人は耳を澄まし始めた。
「聞こえる」と公爵はしっかりとささやいた。
「歩いてるだろう?」
「うん」
「戸を閉めようか。どうしようか?」
「閉めな……」
戸は閉められた。二人はまたもや横になった。長いこと口をつぐんでいた。
「ああ、そうだ!」またもやある一つの考えをとらえたらしく、またそれをなくしては大変だというように、床の上に起き上がりさえもして、公爵は以前のように興奮して、急にせかせかした声でささやいた、「そうだ……僕は聞きたいと思ってたんだが……あのカルタは! カルタは……君はあれとカルタをして遊んだじゃないか?」
「うん」しばらくの沈黙ののち、ラゴージンはこう言った。
「どこにあるの……カルタは?」
「ここにあるよ、……」前よりもっとしばらく黙っていたがやがてラゴージンは口をきった、「これだよ……」
彼は前に使ったカルタを紙に包んだのを、ポケットから取り出して、公爵のほうへ差し出した。公爵はそれを受け取ったが、いかにも腑《ふ》に落ちないらしかった。新しい、物悲しくわびしい感情が、彼の胸を圧《お》しつけた。彼は急に自分がこの瞬間、いや、それよりもずっと前に、言わなくてはならないことを言わず、しなくてはならないことをしないでいるのを痛感した。それにまた、自分が手に持って、非常に喜んでいる、このカルタ、これも今は全く何の役にも立たないのだと悟った。彼は立ち上がって両手を打った。ラゴージンは身動きもせずに横になったまま、相手のことばも聞かず、動作をも見ていないらしかった。しかも、その眼は闇のうちに輝いて、大きく見開いたまま、ぼんやりとすわっている。三十分ほどたった。すると、いきなり、ラゴージンは、大きな声でぶっきらぼうに叫んで、声を立てて笑いだしたが、さっき小声で話さねばならぬと言ったことを、すっかり忘れ果てているらしかった。
「あの士官を、あの士官を……覚えてるかい、いつかあれが音楽堂で士官をなぐったろう、覚えてるかい、ははは! それから候補生が……候補生が……飛び出したっけな……」
公爵はいまさらのように驚いて、椅子から飛び上がった。ラゴージンが静かになったとき(彼は急に静かになったのである)、公爵はそっとかがみこんで、そのわきに並んで腰をおろし、ひどく胸をわななかせて、重苦しげに、息をつきながら、しげしげと彼を見まわし始めた。ラゴージンはそのほうへ首も向けずに、まるで彼のことなどすっかり忘れてしまったかのようにも見えた。公爵はじっと見つめながら、待っていた。
時は過ぎて、夜が白みかかった。ラゴージンは時おりだしぬけに、声高らかに、鋭い調子で、とりとめもないことを口走りだして、叫び声を立てたり、笑ったりし始めた。そんなとき公爵は震える手をさしのべて、そっと彼の髪にさわったり、頭や頬をなでたりした。……それよりほか、彼をどうすることもできなかったのである! 彼自身もまた、震えだして、まるで急に足を取られたかのようであった。何かしら全く新しい感じが、限りも知れぬ哀愁をもって、彼の心を締めつけるのであった。やがて、夜はすっかり明け放たれた。ついに彼は、あたかも全く力が尽きて、絶望の極に達したかのように、クッションの上に横になって、青白く、じっと動かぬラゴージンの顔に、自分の顔を押しつけた。彼の眼からはラゴージンの頬へ涙が落ちるのであった。しかも、公爵はおそらく、もうそのときには自分の涙を感ずるほどの力もなく、そんなことには全く気がつきもしなかったであろう……
少なくとも、それからかなりに時間がたってのち、戸があいて、大ぜいの人がはいって来たとき、人殺しは全く人事不省に陥り、熱病の状態になっていたのである。公爵は床の上にじっと坐って、傍近く寄り添いながら、病人が叫び声やうわごとを発するたびごとに、大急ぎで震える手を差しのばして、あたかも彼を愛撫《あいぶ》しなだめるかのように静かに頭や頬をなでていた。しかも、彼はすでに何を聞かれてもわからずに、自分の周囲にいる人たちさえも見分けがつかなかった。もしもシュネイデル自身がいまスイスから出て来て、もと自分の生徒であり、患者であったこの人を見たならば、スイスにおける治療の最初の年に、どうかすると公爵が陥ることのあった状態を思い起こして、あの時と同じように手を振って、こう言ったに相違ない『白痴《イジオート》だ!』
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十二 終局
教師夫人はパヴロフスクへ駆けつけると、ただちに昨日からすっかりからだの調子をこわしているダーリヤ・アレクセイヴナのところへ現われて、自分の知っていることを何もかも物語って、彼女を徹底的に愕然《がくぜん》たらしめた。二人の女はとりあえず、レーベジェフに渡りをつけることにした。彼もまた下宿人の友だちとして、また家主として、やきもきしていたのであった。ヴェーラ・レーベジェワは知れる限りのことを報告した。三人はレーベジェフの勧めに従って、『起こるべき可能性の十分にある』ことを、一刻も早く未然に防ごうとして、いっしょにペテルブルグへ出かけることに決めた。
かくのごとくにして、あくる朝の十一時ごろ、ラゴージンの寓居《ぐうきょ》は、警察官とレーベジェフと、二人の女、離れに暮らしているラゴージンの弟のセミョーン・ラゴージンなど立ち会いのうえで開かれることになったのである。この一件の成功に最もあずかって力があったのは、昨日の夕方、パルフェン・セミョーノヴィッチ(ラゴージン)がいかにもこっそりらしくはいるところを見たという門番の注進であった。この注進があったので、法規に従ってあけ得なかったドアを、人々はもう疑念に惑わされることなく、たたきこわしたのであった。
ラゴージンは二か月というもの、脳膜炎にかかって弱りきっていたが、それがなおるやいなや、ただちに予審にかけられた。彼はいっさいのことを、直截に、的確に、全く満足に申し立てた。その結果として、公爵は最初から免訴となった。ラゴージンは裁判の間じゅう、黙りがちであった。このたびの犯罪はすでに犯罪のかなり前から、数えきれぬほどの悲しみのために起こった脳膜炎のもたらしたものであると、明瞭に、論理的に論証した敏腕で雄弁な弁護士に対しても、彼はけっして異議を申し立てなかった。しかも、かような意見を裏書きするようなことを自分から付け足すようなことも全然なく、以前のように、はっきりと、正確に、犯罪に関係のあるきわめて細かな事情までも思い起こして、これを確認するばかりであった。彼は情状を酌量されて、十五年のシベリア流刑を申し渡されたが、彼はものすごい顔をして、ことばもなく、『物思わしげに』、判決をしまいまで聞いていた。
彼の莫大な財産は、初めの道楽に使った比較的わずかな額を除いて、そのまま弟のセミョーン・セミョーヌィチのものとなり、弟は大満足の体であった。ラゴージンの老いたる母親は相変わらずこの世に生きていて、時おりは愛《いと》し子のパルフェンを思い起こしているらしいが、その辺のところは、はっきりしていない。幸いにも、彼女は悲愴なわが家を訪れた恐怖を身に覚えずに済んだのであった。
レーベジェフ、ケルレル、ガーニャ、プチーツィン、そのほかこの小説に出て来た多くの人物は、やはり元どおりの暮らしをして、あまり変わったこともなかったので、ここに伝えるべきほどのことはほとんどないのである。イッポリットは自分で予期していたよりも少し早く、ナスターシャ・フィリッポヴナの死後二週間して、恐るべき興奮のうちにあの世の人となった。コォリャは、あの事件によって非常な感動を受け、ついに母親にいっそう接近することとなった。ニイナ・アレクサンドロヴナは、この子が年に似合わず、瞑想《めいそう》にふけりがちなのを気づかっている。彼はおそらく、実務的な手腕のある人間となるであろう。
それにしても、公爵の後々の生活が保証されたのは、いくぶんは彼の努力に負っている。コォリャは最近になって知り合った人たちの中で、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチ・ラドムスキイをかなりに前から、ちょっと毛色の変わった人と見なしていたので、まず最初に彼のところへ行って、今度の事件について知っているだけの詳しい話を打ち明けて、公爵の現状を訴えた。彼の狙いに狂いはなかった。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは不幸なる『白痴』の運命にきわめて暖かい同情を寄せた。そうして、彼の骨折りと心尽くしによって、公爵は再びスイスのシュネイデル療養所に収容される身となった。エヴゲニイ自身も外国へ旅に出て、ずっと長くヨーロッパで暮らすつもりで、みずからを公然と『ロシアにおいては全くよけいな人間』であると称していたが、――実にしばしば、少なくとも数か月に一度くらいは、シュネイデルのもとにいる病友を見舞っている。しかし、シュネイデルは行くたびごとに、いよいよ眉をしかめて、首を振っては、知能の組織が全く痛んでいることをほのめかすのであった。まだ、はっきりと、快癒の見込みがないと言っているわけではないが、きわめて悲観すべき暗示を口外するのをはばかってもいない。
エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは、これを聞いてひどく心を痛めた。彼には、すでにコォリャから時おり手紙をもらって、時おり返事をやっていることでも十分にうかがい知られるような、情にもろい本当の心《ヽ》があったからである。しかも、そのほかに、彼の性質の奇妙な一面までもわかってきた。この一面というのは、善い方面のものであるから、ここにとりあえず紹介しておこう。シュネイデル療養所を訪れて帰って来ると、そのたびごとにエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは、コォリャにばかりではなく、なお一通の手紙を、もう一人のペテルブルグの人に宛てて書き送るのであった。その手紙には、いつも、その時の公爵の容体が、きわめて詳細に、惻隠《そくいん》の情をこめて記されていた。また、献心的な態度をかなりにつつましやかなことばで述べているほかに、これらの手紙に、時とすると(いよいよ頻繁に)、自分の所見や、理解ないしは感情を、忌憚《きたん》なく述べているところが見えるようになってきた。――一言にして言えば、親しい友情に似た何ものかが現われ始めたのである。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチと手紙をやりとりして(とはいっても、やはりきわめてまれに)、かくまでも彼の注意と尊敬をかち得た人は、ほかならぬヴェーラ・レーベジェワであった。
いかにして、このような交渉が結ばれるに至ったかということは、的確にはどうしてもわからなかった。もちろん、ヴェーラ・レーベジェワが公爵の一件によって、悲しみにうたれて、病気までした時に結ばれたのであろう。しかも、どういう詳しい子細があって、近づきになり、さらに友情にまで進んだのかやはりわからない。
ここに、かような手紙のことに言い及んだのは、主として、この手紙のいくつかに、エパンチン家について、特にアグラーヤ・イワーノヴナ・エパンチナについての消息が含まれているからである。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはアグラーヤのことを、パリから出したきわめてとりとめのない一通の手紙の中に報じているが、それによると、アグラーヤはある亡命のポーランドの伯爵に優しい、なみなみならぬ恋慕の情を寄せていたが、やがてまもなく、不意にこの男のもとにかたづいたとのことである。それも両親の意志にそむいてのことであって、ついに後に両親が承諾を与えたのは、もし承諾を与えない場合には何か非常な醜態を演ずるおそれがあったからだという。
それからほとんど半年ばかり音信が途絶えてから、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはやはり長い詳しい手紙をよこして、彼が最近、スイスのシュネイデル教授のところへ行った時、そこでエパンチン家の人たち(もちろん、仕事のためにペテルブルグに残っているイワン・フョードロヴィッチを除いて)およびS公爵にめぐり合ったことを知らせて来た。
――その邂逅《かいこう》は妙なものであった。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは一同の者に、一種の歓びをもって迎えられた。アデライーダとアレクサンドラはどうしたわけか、『不仕合わせな公爵の身の上に注ぐ天使のような心づくし』に対して、感激にたえないとまで言った。リザヴィータ・プロコフィーヴナは病みほうけて、見る影もない公爵の姿を見て、心の底からよよとばかりに泣きくずれた。見たところ、公爵はすでに何もかも許されているらしかった。S公爵はこのとき、適切で、聰明な正しい意見を述べるところがあった。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチの見たところでは、まだS公爵とアデライーダとは互いに、全然しっくりしてはいないらしかった。が、将来は必ず、熱しいやすい性質のアデライーダは、物わかりがよく、世の中にも慣れているS公爵に、心から潔く導かれるようになるだろうと思われた。
さらにまた、一家の者の受けた教訓、ことに最近のアグラーヤと亡命伯爵との一件は、彼女に恐るべき印象を与えたのである。家族の者がアグラーヤをこの伯爵に譲るときに懸念したいっさいのことは、すでに半年のうちに事実となって現われていた。しかも、誰ひとり、考えもしなかったような驚くべき事実までも加えて。やがて、この伯爵は伯爵どころの騒ぎでなく、たとい事実において亡命客であったにしても、そこには何か、後ろめたい、曖昧な経歴のあることがわかってきた。彼は憂国の情に悶々《もんもん》たるまれに見る高潔なる精神をだしにして、アグラーヤを誘惑したのである。誘惑されたあげく、アグラーヤは結婚しない先から、ポーランド復古海外委員会とやらの会員になり、おまけに、夢中になるほど彼女の心を左右していたカトリックの有名な僧正の懺悔室《ざんげしつ》にまで出入りするようになった。この良人がリザヴィータ・プロコフィーヴナとS公爵に、ほとんど論争の余地もないほど明々白々な証拠を見せた莫大な財産は全く根も葉もない作り事だということもわかってきた。のみならず、結婚してから半年もたたないうちに、亡命伯爵とその友人たる有名な僧正は、巧みにアグラーヤをして家族の者と喧嘩をさせたために、こちらではもう何か月も彼女の姿を見ないのである……。
要するに語るべきことは多々あるが、リザヴィータ・プロコフィーヴナも、令嬢たちも、あまつさえS公爵までが、すでに、かような、|terreur《テルール》(戦慄すべきやり方)にすっかり困憊《こんぱい》して、今ではエヴゲニイ・パーヴロヴィッチとの話においても、あることになると口に出すのをさえも恐れるようになっていた。もっとも、誰しも、――エヴゲニイは、自分たちが黙っていても、すでにアグラーヤ・イワーノヴナの懸想一件については、よくよく承知をしているのだ――ということは、呑み込んでいた。不仕合わせなリザヴィータ・プロコフィーヴナは、ロシアへ帰りたがっていた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチの証明によると、夫人は気むずかしく、執念深く、外国のあらゆるものを、非難していたという。『上等のパンをつくる人がどこにもいない。冬はまるで穴蔵《あなぐら》の中の二十日鼠《はつかねずみ》のように凍えている』と彼女は言うのであった、『まあ、少なくとも、ここで、この不仕合わせな人の身の上を、ロシア語で嘆いたのが、せめてもの心やりだったわ』やがて、全く夫人の見分けさえもつかなかった公爵を、興奮に震える手で指しながら、付け加えて、『もう、うわ気をするのもたくさんだわ。分別がついてもいいころです。こんなものはみんな、こんな外国の暮らしや、あなたがたのヨーロッパは、みんな一つの幻影《ファンタジア》です。外国にいるわたしたちも、みんな一つの幻影《ファンタジア》です……わたしのことばを覚えてらしてください。御自分で今におわかりになりましょう!』夫人はエヴゲニイ・パーヴロヴィッチと別れるとき、ほとんど憤激の体でこう結んだという。 一八六九年一月十七日 (完)
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解説
ドストエフスキー――人と作品
[幼少年時代]
フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーは一八二一年十月三十日(新暦十一月十一日)、モスクワに生まれた。父、ミハイル・アンドレーヴィッチは元軍医で、マリンスキーー慈善病院の医師であった。母、マリア・フョードロヴナ・(ネチャーエワ)は、商家の出であった。彼と同じくのちに文学の道に進み、終生彼のよき協力者であった兄のミハイルは彼より一歳年長であった。貧民街の中の病院の傍屋《ぼうおく》の住居、天井の低い暗い部屋、気むずかしく、厳格でおこりっぽい父親のきびしいしつけ、これがこの幼い兄弟たちのおいたちを取り巻いている雰囲気であった。父からはラテン語を教わり、詩や小説を好んで読んでいた母親からは文字を覚えるために新・旧約聖書の物語集を教え聞かされたという。こういう家庭教育ののち、十三歳になるとチェルマーク経営の私塾へ兄と共に入れられ、独仏語その他の科目を学んだ。一八三六年、十六歳の時、母が死ぬと、父は兄弟を陸車工兵学校入学準備のため、ペテルブルグへ連れて行きコストマーロフの寄宿学校へ入れた。そして父は病院を退職し、トゥーラ県の小領地ダロヴォエへ引きこもった。一八三七年、彼は陸軍工兵学校へ入学したが、兄ミハイルは身体検査で不合格となった。
[青年期]
一八三八年から四三年まで、かくて陸軍工兵学校で過ごすこととなるが、そこでの五年間の生活は彼には耐えがたいものであった。厳格な軍律への反発、病気がちな体質、それに幼時からつちかわれた文学的な嗜好《しこう》から、彼はこの生活の中で、ひそかに自分を守ろうとする戦いを始める。そして暇を見つけては、ひとり部屋に閉じこもり、プーシキン、ゴーゴリ、シラー、スコット、バルザック、ジョルジュ・サンド等の小説を読みふけった。
この間、三九年には、医者をやめて、田舎へ引きこもっていた父が、農民に対する残酷なしうちで恨みを買い、惨殺されるという事件が起こる(これはのちに「カラマゾフの兄弟」の素材の一つとなる)。
一八四三年、学校を卒業すると、陸軍省工務局製図部勤務となるが、職務に身が入らず、翌四四年の秋には依願退職となる。この時から彼は自分の天分に従い、作家として立つこととなる。時に、年は満二十三歳。
[作家としてのデビュー]
彼はこのころ、バルザックの「ウージェニー・グランデ」、ジョルジュ・サンドの作品の翻訳をしたが、このことが自分にも小説が書けるという自信を得させたという。そして四四年一月、|ネワ河の幻影《ヽヽヽヽヽヽ》と呼んだある心的体験を得たことから、自分の主人公と、自分の思想に応じる新しい芸術形式を発見し、初めての創作に着手する。これが処女作「貧しき人々」である。
十か月かかって成った「貧しき人々」は、工兵学校時代の同窓の友人で、彼と同居し、すでに作家としてデビューしていたグリゴローヴィチを感動させ、彼は当時ネクラーソフが文集の刊行を計画していたのを知っていたので、見てもらうことをすすめた。グリゴローヴィチは原稿をたずさえてネクラーソフを訪れ、二人で一晩のうちに一気に読みあげ、熱狂したネクラーソフは、作者にすぐにも会いたいと言いだし、二人は翌朝未明にドストエフスキーに会い、この無名作家の前途を祝福した。ネクラーソフはその足で原稿をたずさえ批評家ベリンスキーに会い、「新しいゴーゴリ」の出現を知らせた。ベリンスキーもまた一気にこれを読み通し、深い感動をうけた。
この中篇小説は翌四五年一月、ネクラーソフ監修の「ペテルブルグ文集」に収められて出版、読書界に大きなセンセーションを巻きおこした。この処女作の成功で、彼はツルゲーネフをはじめ、すでに著名な作家たちをも知るようになった。しかし一面、彼はその成功に酔い、自負心をかきたてられ、文学サロンで盛んに議論を吹っかけて作家仲間から眉をひそめられ、またその処女作を激賞してくれた批評家ベリンスキーとも意見の相違から、関係をまずくし、出版社から前借した金で賭博をしたりして、生活も乱れがちになった。しかも、つづいて発表された「分身」「プロハルチン氏」「主婦」「白夜」「ネートチカ・ネズワーノワ」等の諸作品は概して読者にも批評家たちにも不評であった。
[ペトラシェフスキー事件]
以上のような事情が重なり、一八四八年ごろから、彼は自然に文学仲間から遠ざかることとなり、青年の思想団体に近づくようになった。それはペトラシェフスキーを首班とする、サン・シモン、フーリエ等のユートピア的社会主義を研究し、宣伝する団体であったが、この会の動きは官憲に細大漏らさず探知されていて、一八四九年の四月、ついに全員が逮捕され、ペトロパヴロフスク要塞監獄に投獄されることとなった。数か月の独房生活の後、裁判に付され、ドストエフスキーをふくむ十五名の者が死刑を宣告された。しかし、十二月下旬、処刑の寸前、皇帝の使者が馬車で駆けつけ、減刑の達しが伝えられ、政治犯として四年間のシベリア流刑、その後軍務に服するということになった。
[シベリアでの生活]
かくて、一八五九年まで十年近くシベリアでの生活がつづくことになるが、シベリアのオムスク監獄での特異な生活体験は、帰還後発表された「死の家の記録」(一八六一〜六二)にうかがうことができる。獄内で読むことを許された書物は新約聖書一冊だったが、極悪な罪を犯した罪人たちに取りまかれて、彼は人間心理への洞察《どうさつ》を深める機会を与えられた。こうして出獄するや、彼はもはや思いあがった革命家ではなく、宗教に救いを見いだし、皇帝と国家秩序に忠実な人間になっていた。
出獄後、彼はセミパラチンスク守備隊に一兵卒として勤務し、やがて友人の尽力で士官に昇進し、かなり自由な生活もできるようになった。ここではまた彼は激しい恋愛をする。相手はマリア・イサーエワという女で、夫もあり、子供もあったが、その夫が死んだのち、現われた若い教師の競争相手に勝って、正式に結婚することができた。しかし、この最初の結婚生活は、まもなく妻が肺を患《わずら》い、その看病に当たらねばならず、生活費にも困るようになって、決して幸福であったとはいえなかった。ほぼ同じような状態は彼女の死ぬ一八六四年までつづく(このマリア・イサーエワはのちに「罪と罰」のマルメラードフの妻のモデルとなる)。
[帰還と『時代《ヴレーミヤ》』の創刊]
一八五九年、退役となり、本国帰還の許可が出て、約十年にわたったシベリア生活を切り上げ、七月、トヴェーリへ移り住み、年末には首都居住の許可も出て、ペテルブルグへ出てきた。首都は当時改革(農奴解放令発布)の期待にわき立っており、そういう空気の中での文壇に復帰した彼の活躍はめざましかった。
一八六一年、兄ミハイルとの協力で、かねてから計画していた雑誌『時代《ヴレーミヤ》』を創刊することとなる。そして、帰還後の長篇第一作「しいたげられた人々」(一八六一)、またそれまで他の雑誌に連載されていた「死の家の記録」(一八六一〜六二)が連載された。前者は処女作「貧しき人々」と同じ人道主義的な傾向の強い作品である。また後者は先にも述べたようにシベリア在獄中の異常な体験を基に書かれたもので、ツルゲーネフが「ダンテの地獄篇」に比すべき作品と評した獄中の凄惨な生活描写と、犯罪者心理への深い洞察に貫かれているが、検閲への考慮もあって、作者の善悪の判断は押えられ、客観的描写に終始している。このころ、彼はアポリナーリヤ・スースロワという美貌の娘と知り合ったが、生来、異常な情熱に支配されがちな彼はこの女に魅せられ、ちょうど六三年五月、ポーランド問題を扱ったストラーホフの論文が載せられたことから『時代《ヴレーミヤ》』が発行停止になったのを機に、先に国外旅行に出ていた彼女の後を追って、ドイツ、フランス、イタリアの旅に出る。この旅行の途中、ヴィスバーデンでルーレットに熱中する。九月、スースロワとイタリアを旅行するが、「賭博者」(一八六七)の構想が得られたのもこのころで、自負心のつよい気性のはげしい女スースロワは、この作のポーリナ、また「白痴」(一八六八)のナスターシャ・フィリッポヴナのモデルだといわれている。
十月、ロシアへ帰国すると、妻は死にかけていた。翌六四年には、『時代《ヴレーミヤ》』に代わる新雑誌『世紀《エポーハ》』を出すこととなるが、妻マリアは四月に死に、ついで七月には兄のミハイルも死ぬ。兄の残した多額の借財、その一家の扶養、そして生活の処理にかけては全く無能力だったドストエフスキーは、苦しまぎれにステロフスキーという出版者ときわめて不利な条件で契約を結んで借金し、もう一度外国への旅へ出かける。そしてスースロワに会い、結婚の申し込みをするが断わられ、そのあげく賭博で無一文となり、友人からの送金で、やっとロシアへ帰ることができた。
[思想的転換]
一八六〇年代の初め、農奴解放令発布、――これはちょうどドストエフスキーがシベリアから本国へ帰り、『時代《ヴレーミヤ》』『世紀《エポーハ》』によって活動した時期に当たっているが、このころロシア社会の思想的な動きをふり返ってみると、この改革期を機に、それまで自由主義的であった陣営は、しだいに後退ないし保守的な色彩をつよめ、民主主義的陣営は、急進的な青年層を集めて、いよいよ左傾への方向をたどるようになっている。一言で言えば、ドストエフスキーのそれは前者に属している。彼は、兄と協同で創刊した『時代』『世紀』に芸術的諸創作を発表すると同時に、社会、文芸評論をも多数発表している。そして彼の新しい社会、政治に対する考え方は、そのころとくに親近していた批評家アポロン・グリゴーリエフ、哲学者で批評家だったストラーホフの影響に負うところが多かった。『時代』の創刊に当たっては、「土地主義《ポーチヴェンニチストヴォ》」に近い新しい文学傾向が宣言され、ロシア文化層と民衆の潜在力との総合がロシアを救うという考えが謳《うた》われてあった。これは明らかに右よりの傾向、すなわちスラヴ主義への傾きを示している。美学に関する問題では、「……ボフ氏と芸術の問題」という論文で、民主主義的陣営の批評家ドブロリューボフの「功利主義的美学」を攻撃し、またチェルヌイシェフスキイの小説「何をなすべきか」に対する反論として書かれた「地下生活者の手記」(一八六四)では、人類の進歩に対する楽天的な信念や、合理主義的な社会主義への激しく鋭い反発が見られる。西欧旅行での直接の西欧文明の見聞からの印象、そこに見られた社会の華やかな表面と陰鬱な裏面の矛盾、また外国へ亡命していたロシアの進歩主義者たちとの接触からの帰結、それらが彼に「ロシアを救う者はロシアの土壌である」との確信を深く抱かせ、その方途を探究させる道に向かわせたのである。「地下生活者の手記」では、人間の自意識に対する鋭い分析が試みられ、人間は非理性的な存在であり、むしろ「破壊や混沌」を愛し、自分の自由意志で自分にとって不利な行動をとることもある、ということが、皮肉をこめて強調されている。この人間の本性にひそむ非合理性の問題が、彼の後期の大作「罪と罰」「カラマゾフの兄弟」で、より深く追求されることになる。
[新しい恋愛と結婚]
「罪と罰」の構想は一八五九年ころから作者にあったというが、長いあいだ作者の胸に暖められ、それが着手されたのは一八六五年、外国滞在中であった。その年の十一月に帰国し、翌六六年の一月から雑誌『ロシア報知』に連載され、十二月に完結した。この間、ステロフスキーと結んだ契約に迫られて苦境におちいり、友人の助言を得て、腹案中の「賭博者」を女の速記者アンナ・グリゴーリエヴナをやとい、口述筆記することによって無事に完成することができた。このことは思わぬ結果を生んだ。すなわち、彼はその速記者に求婚して、翌六七年にめでたく彼女と結婚することができたのである。この利口で誠実で、しかも経理の才に恵まれていた二度目の妻のおかげで、彼は、それまでの嵐のような生活からのがれて、比較的安定した、平和な晩年を送ることになる。
[晩年の十年]
アンナ・グリゴーリエヴナとの結婚後、先妻の連れ子のパーヴェル、亡兄遺族などとのいざこざや、債権者の手を逃れるため、二人は外国旅行へ出ることとなる。彼にとって三度目のこの外国旅行は一八七一年まで、つまり四年間つづく。この旅も、最初は決して楽しいものではなかった。彼は賭博癖から、相変わらず有り金をすっかり賭博ですってしまう。六八年、ジュネーヴで長女ソフィヤが生まれたが、病気にかかってすぐに死んでしまう。秋フィレンツェに移り、ここで「カラマゾフの兄弟」の原案「無神論者」の想を練る。この間、「白痴」(一八六七)が『ロシア報知』に連載される。六九年には、イタリアを去りドレスデンに移り、次女のリュボーフィが生まれ、「永遠の夫」を脱稿する。七〇年には「悪霊」の執筆に没頭する。そして執筆の途中、七一年七月、帰国する。
「白痴」はあまり好評をうけなかったが、「罪と罰」は好評を得た。また「悪霊」は、ネチャーエフ事件(一八六七)から直接のヒントを得て書かれた急進的革命家攻撃の小説だといわれ、いろいろ激しい論争をひき起こしたが、比較的好評であった。この「悪霊」を一八七三年、自費出版、その後この方法で出版するようになり、一家の財政は安定するにいたった。こうして、一八七六年には「未成年」を完成、七九年には彼の最後の大作「カラマゾフの兄弟」を書きあげ、一八八一年一月二十八日(新暦二月九日)ペテルブルグで、喀血して永眠したのである。
「白痴」について
ドストエフスキーは一八六六年に長篇「罪と罰」を一年にわたり「ロシア報知」に連載、十二月に完結した。この小説は好評を博した。つづいて同じ年の秋に「賭博者」を書きあげたが、この小説は出版者ステロフスキーとの契約期限に迫まられ、せっぱつまり、友人のすすめで女速記者アンナ・グリゴーリエヴナ・スニートキナを雇い、口述筆記で書きあげられた。そしてその縁で翌六七年二月、彼女と結婚することとなった。ドストエフスキーは再婚で、四十六歳、彼女は二十一歳であった。結婚後二か月の四月、「ロシア報知」の編集者から前借して、新妻とともに、彼にとっては四度目の外国への旅に出た。この外遊は、雑誌「エポーハ」の無惨な失敗、兄ミハイルの死、つづいて起こった家庭内の軋轢という精神的にも経済的にも曲折した経緯を経て決行されたものであった。かくて、小説「白痴」はその年の秋からノートを取りはじめ、旅先のジュネーヴ、フィレンツェ、ドレスデンで休みなしに書きすすめられ、翌六八年一月から「ロシア報知」に連載、六九年二月、第四篇第八――第十二章が同誌の付録のかたちで発行、完成したのであった。
この間の数年にわたる彼の生活上の痛苦にもまして驚くべきは、この小説の様々な、実にこみ入ったプランの移り変わりである(「白痴」にかんする創作ノート、アポロン・マイコフあての手紙その他)。彼の頭に、いわば人間の理想像を描きたいという気持ちの生じたのは、遠くシベリアの監獄から出獄後まもないころにさかのぼることができるといわれる。「罪と罰」を書いた後、彼はこの多年頭にあったものを「白痴」において実行しようと試みたのだ。したがって、この小説の主人公レフ・ニコライヴィッチ・ムィシキン公爵の形象は、いわばこの絶え間ないプランの変更の奔流に投げこまれた小さな板切れにも似ているといえる。そしてそれは幾多の浮沈をくり返しつつ、最後に、作者のいわゆる「肯定的な美」の岸辺に美事に打ちあげられたのであった。一八六八年一月一日付で、彼は姪のソフィヤ・アレクサンドロヴナに次のような手紙を書いている。「この長篇の主要な思想は、しんじつ美しい人間を描くことです。すべて作家は、たんにわが国だけでなく、総じてヨーロッパの作家たちでさえも、しんじつ美しい人物を描こうとした人は常に失敗しています。なぜなら、それは量り知れぬほど大きな仕事だからです。……この世にもしんじつ美しい人がただ一人います――キリストです。というわけで、この量り知れず、限りなく美しい人物の出現は、もう勿論《もちろん》、永遠の奇跡です……」
霧ふかいある冬の朝、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車が、ひどく疲れきったという態《てい》でこの物語を運んでくる。列車の三等車の座席に腰をおろしている三人の男。窓ぎわに向かい合って坐《すわ》っているのは、貧弱な、古くさい、色あせた包み一つをかかえてスイスから帰国途中のムィシキン公爵と、ナスターシャ・フィリッポヴナの件で「あやうく父親に殺されかかった」熱病やみの男――その父親が死に、着のみ着のままでプスコフからわが家へ帰るラゴージン、もう一人、ぶざまな服を着、赤鼻の、吹き出物だらけの男は、どこから何のために列車に乗っているのか見当もつかぬが、こんな妙な場面には必ず顔を出さずにはおかない、やくざな、抜け目のないレーベジェフ。物語の列車は間もなくペテルブルグ駅に着き、その日のうちに主人公はほとんどすべての登場人物と会う。…… ムィシキン家の出であるエリザヴェータ・エパンチナ、その夫のエパンチン将軍、三人のその娘たち、イヴォルギン将軍とその夫人のニーナ・アレクサンドロヴナ、その息子でエパンチン公爵の秘書をしている打算家のガーニャ、ワルワーラ、少年コォリャ、高利貸のプチーツィン、地主のトーツキイ、ラゴージンの取り巻き、ブルドフスキイと、あわれな自称ニヒリストたち、悲痛なイッポリット・チェレンチェフ、数えあげれば枚挙にいとまがない。彼らは何か何時もヒステリックで、わめくかと思えばため息《いき》をつき、哄笑《こうしょう》し、嘘《うそ》と出鱈目《でたらめ》を並べたて、痙攣《けいれん》と発作で顔をひきつらせ、はては涙を流して告白にまで及ぶ。露骨なまでの憎悪と愛が異常な興奮の高まりの中で絡《から》み合い、揚句のはて音たてて爆発する。
ラ・マンチャの郷士ドン・キホーテの末裔《まつえい》たるわがムィシキンは、この人間ドラマの渦中に飛びこむ前に、すでにガーニャに贈られたナスターシャ・フィリッポヴナの写真との運命的な出会いを体験する。この絶世の美女は貧しい地主の娘で、早くから孤児となり、金持ちの実業家トーツキイに引きとられて育ち、のちに彼の慰みものとなったが、賢明で、才能があり、意志つよく、トーツキイの専横と侮辱に反抗し、復讐心の強い女である。彼女はいま、エパンチンの秘書ガーニャのもとに嫁にやられようとしている。敏感で感受性の鋭いムィシキンは、たちまちこの女のきらびやかな顔に、秘められた内心の苦悩のあらわれを見てとる。ナスターシャの眼に名状しがたい苦悩を読みとるその眼で、ムィシキンはまた、駅や、街路や人混みの中や白いカーテンの陰に、素朴で、直情的で、かっとなり易いラゴージンの眼をも感じ取る。このような純真な子供のような眼をもつムィシキンを、ひとは「白痴」よばわりするのだが、公爵は公爵で常にその空色の曇りのない大きな眼に微笑をたたえているのである。地上に降り立ったドストエフスキーのキリストが何故選りによって「白痴」でなければならないのかというよりむしろ注目しなければならないのは、この眼の中に輝く「大きな愛の抱擁力」であろう。彼はエパンチン家の誇り高い末娘アグラーヤをも愛することとなる。
ムィシキンをめぐってアグラーヤとナスターシャ、ナスターシャをめぐってムィシキンとラゴージンの愛の葛藤が主要テーマとなってこの物語は展開する。
「おまえの同情の心ってのは何よりもたしかだ。あるいはおれの恋よりも強いだろう!」(第二篇第三章)というラゴージンは肉欲以外の愛も、ムィシキンの気持ちもまだ理解できない。ラゴージンの場合、愛情と憎悪との区別のない愛なのだ。
「たったひと言聞かしてちょうだい、あなたはいま仕合わせなの? 今日、今? あの女《ひと》のところへいらっして? あの女《ひと》はなんて言ったの?……もうあなたにお目にかかるのもこれが最後じゃないかしら、最後! 今度こそ本当の最後じゃないかしら!……さようなら!」(第三篇第十章)ナスターシャはそう云ってムィシキンに別れを告げ、ラゴージンに手をひかれて去って行く。ナスターシャには、「貧しい騎士」(プーシキンの詩、第二篇第七章)ムィシキンの清らかな面影を傷つけるにしのびず、そのため、婚礼の場からラゴージンのもとへ走るのである。
次々と語り出される事件そのものが、まるで様々なエピソードを満載して進む列車にも似ている。やがてそれは悲劇の終着駅へと突っこんで行く。
悲劇はナスターシャ・フィリッポヴナがラゴージンの兇刃にたおれる時に大詰をむかえる。ムィシキンは、またもとの「白痴」になってスイスへ。ラゴージンはシベリアへ。アグラーヤは出鱈目なポーランドの亡命者に騙《だま》されて、その後の消息を絶ったまま……。
これが真実の愛の抱擁力を眼のあたりに見た主人公たちのたどりついた悲劇への道であった。
小説「白痴」は発表当時は不評であった。しかし、現在ではドストエフスキーの作品の中で、最も多く愛読されているという。
ドストエフスキーは、彼の言う「肯定的な美」を代表するムィシキン公爵を、浮き彫りにするために、一八六〇年代の頽廃した貴族社会だけでなく、あらゆる階層の下劣な連中を描いて、彼に対置した。堕落したイヴォルギン将軍、官吏のレーベジェフ、いかがわしいフェルデシチェンコ、高利貸しのプチーツィン、実証主義者のブルドフスキイとその一党、ラゴージンの取り巻きの愚連隊。これらの一つ一つについて解説することはやめるが、作者は、これらの下劣な連中に取り巻かれた清純で孤独な人間の運命について、自分の根本的な考えをこの作で存分に示しえたことは確かである。(横田瑞穂)