白痴(上)
ドストエフスキー/中山省三郎訳
目 次
第一編
第二編
[#改ページ]
第一編
十一月の末のことであった。かなりに暖かい朝の九時ごろ、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車は全速力でいよいよペテルブルグに近づいていた。あたりは湿っぽく、霧が深く、ようやくにして夜が明け放れたと思われるくらいであった。汽車の窓からは、線路の右も左も、十歩のそとは何ひとつ容易に見わけがつかなかった。旅客の中には外国帰りの人も交じっていたが、それよりはむしろ三等車のほうがずっと込んでいた。このほうの旅客はいずれもほど遠からぬところからやって来た小商人たちであった。例によって彼らはいずれも疲れきっていた。一晩のうちに眼は重くなり、からだは冷えきって、誰もの顔が霧の色にまぎれて薄黄いろくなっていた。
三等車のある一室に、夜明けごろから互いに向き合って坐《すわ》っている二人の旅客があった。二人とも青年で、いずれも身軽で、服装も贅《おご》ってはおらず、どちらもきわめて特徴のある顔をしており、二人とも、やがては話でも交わしたそうな様子をしていた。もしも彼らが互いに、特にこの場合にどんなところで自分たちがきわだっているのかを知り合っていたなら、彼らは必ずや自分たちが不思議な偶然によって、ペテルブルグ・ワルシャワ線の三等車に膝をつき合わして坐っていることにいまさらながら驚いたことであろう。
一人は背が高くはなく、年は二十七歳くらい、ほとんど黒いといってもよいほどの縮れた髪をして、灰色の、小さいながらも、燃えるような眼をしていた。鼻は低く、平ぺったく、顔は頬骨《ほおぼね》が尖って、薄い唇は絶えずなんとはなしに生意気らしい、あざけるような、意地悪そうにさえも見える微笑を浮かべていた。しかし、その額は高く秀で、よく整って、顔の卑しげにできている下半分の見つきをよくしていた。特に、この顔を見て眼につくのは、死人のように青ざめた顔色で、それがこの青年に、かなりにがっしりした体格をそなえているにもかかわらず、疲憊《ひはい》しきったような風貌をあたえていたが、それと同時に、ぶしつけな、人を人とも思わないような薄笑いや、鋭い、うぬぼれたような眼つきにまるで調和しない悩ましいまでに情熱的なあるものがあった。彼は温かそうに、ゆったりした黒い小羊の皮の外套を着こんでいるので、別に夜の寒さに冷えもしなかったが、隣りの客は湿りけの多い十一月のロシアの夜の爽《すず》しさを、ふるえる背に耐え忍ばねばならなかったのである。たしかに彼には、こんな夜寒は思いもかけなかったところであろう。彼は大きな頭巾のついた、だぶだぶの、厚みのあるマントを着けていたが、それは全く、どこか外国の遠いところで――スイスとか、北イタリアとかで、冬のころ、旅人がよく使うものとそっくりであった。もっとも、そうはいっても、オイドクーネンからペテルブルグへというような長い道中の場合は別である。それに、いくらイタリアで十分に役に立つ便利なしろものだからといっても、ロシアでそれほどの用をなさないことがあるものだ。頭巾のついたマントの持主も、やはり二十六、七の青年で、中背というよりはやや高く、かなりにつやのある亜麻色の房々した髪をし、落ちくぼんだ頬に、ほとんどまっ白な楔形《くさびがた》の、先の尖った顎髯《あごひげ》をほんのわずかばかり生やしている。眼は大きく、空色をし、じっと落ち着いていて、そのまなざしには静かな、しかも重々しい、何かしら実に奇怪な表情が含まれていた。ある人たちは、かような表情をちょっと見ただけで、早くもこれは癲癇《てんかん》だなと心のうちに悟るのである。それにしても青年の顔は、見ていて気持のよい顔であった。デリケートで、痩せてはいたが、色つやがなく、今は寒さに凍えて、すっかり青くさえもなっていた。彼は古びた色の褪《あ》せた薄絹の小さな風呂敷包みを手に揺すぶっていた。どうやら、この中には彼の旅行中の身上《しんしょう》が全部はいっているらしかった。足には底の厚い短靴にゲートルをつけて、――何から何までロシア式ではなかった。羊皮外套を着た、髪の黒い相客は、半ば退屈まぎれに、これらの物を残すところなく、しげしげと眺めていた。やがて、ついにはよく人の、傍《かたわら》の者の失敗を見て喜ぶときについうっかりと、ぶしつけに浮かべるような無作法な薄笑いを浮かべながら尋ねるのであった。
「寒いかえ?」そういって肩を軽く動かした。
「とても」と相手は実に無遠慮に答えた。「どうだね、これでもまだ雪解けの日なんだからな。これがもし凍《い》ての日だったらどんなもんだろう。僕はこっちがこんなに寒いとは夢にも思わなかった。向こうの癖がついちまって」
「外国から来たのかね?」
「そう、スイスから」
「ひゅう! まあ、この人って!……」
髪の黒い男は口を鳴らして、声高く笑いだした。
話はいよいよ始まった。スイス風のマントを着た髪のつやつやした青年が、顔の薄黒い相客に答えるそぶりは、不思議なほどなれなれしく、相手の質問がきわめて無造作で、ぶっきらぼうで、退屈まぎれなことを、てんで疑ってみようとする気もないのであった。返事をしているうちに、彼は実際、ロシアには四年あまりもいなかったこと、病気のために外国へやられていたことなどを物語った。病気というのは何かしら奇妙な神経病で、からだが震えて、痙攣《けいれん》をおこす癲癇か、あるいは、ヴィット氏舞踏病といったたぐいのものであった。相手の話を聞きながら顔の薄黒いほうの男は幾たびか薄笑いを浮かべたが、ことに彼が、「どうだね、なおしてもらったのかね?」と聞いたとき、亜麻色の髪をしたほうが「いいや、なおらなかった」と答えたときには、すっかり笑いだしてしまった。
「へえ! きっと、つまらなく金を使っちゃったんだろう。おれたちは、こっちで大切にしてるんだがな」と毒々しげに顔の薄黒い男が言った。
「全く、そりゃそうだ」と、わきに坐っていた粗末な服装をした一人の紳士がくちばしを入れた。年のころは四十ばかりで、がっしりした体格をし、赤い鼻をして、にきび顔をした、どうやら書記くらいで固まってしまった小役人らしい風情の男である。
「全くそのとおりでござんすよ。ロシアのありったけの力は、むざむざとあいつらに取られているんだから!」
「おお、あんたがたは、私の場合でいうと、とんでもない了簡ちがいをしていらっしゃる」とスイスの患者は静かな、なだめるような声でことばを引き取った、「むろん僕は何から何まで知っているわけではありませんから、議論するわけにはゆきませんが、僕の主治医はこちらへ帰る路銀《ろぎん》として、なけなしの金を分けてくれました。それに、あちらでおよそ二年間というものは自腹を切って置いてくれたんです」
「じゃあ、何かね、払ってくれる人がいなかったというのかね?」と薄黒い顔の男が尋ねた。
「さよう、あちらで養ってくれていたパヴリシチェフさんが二年前に亡くなったのです。それから僕はこちらにいるエパンチン将軍夫人といって遠縁にあたる人に手紙をやったのですが、返事は来なかったのです。そういったようなわけで帰って来たのでして」
「いったいどこへ帰って来たんだね」
「つまり、どこへ僕が泊るかっていうんでしょう……。そいつはまだわかりません、ほんとに……よく……」
「まだ決めちゃいないんだね?」
二人の聞き手はまたもや声高く笑いだした。
「そして、たぶん、その風呂敷包みの中に、おまえさんのありったけの身上がはいってるんだろうね?」薄黒い顔の男が聞いた。
「そりゃそのとおりでしょう、わたしは賭けをしてもいい」と、ひどく満足そうな顔つきをして鼻の赤い役人が口をはさんだ。
「それに、手荷物車の中にも遠くからの荷物はありませんよ、貧乏は傷じゃないっていいますけれど、やっぱりそれでも目につきますからね」
これもまた事実そのとおりであることがわかった。亜麻色の髪をした青年は、じきに非常に気せわしげな調子でこのことを打ち明けた。
「しかし、それにしても、あんたの風呂敷包みには若干意味がありそうですね」いやというほど連中が大笑いをした時に、役人はことばを続けた(注意すべきことは、風呂敷包みの持主もまたついには二人の様子を見て笑いだしたが、それが相手をいっそう陽気にしたことである)。「その中にナポレオン弗《ドル》とかフリードリッヒ弗とか、下ってはオランダのアラブとか、あちらの金貨の束がはいっていないことは正真正銘まちがいなしです。それは外国風の靴のうえにあるゲートルを見ただけでも察しがつくことです。しかし……もしもあんたのその風呂敷包みに、たとえばエパンチン将軍夫人のような御親戚をつけ加えると、あんたの風呂敷包みは若干べつの意味を持つことになりますね、もちろん、エパンチン将軍夫人が本当にあなたの御親戚で、あなたがついうっかりしていてまちがったりしていない場合に限ることですが……なにしろ、そんなことは話にでもよく、実によくあることでしてね、まあ、その……あんまり想像しすぎたりすると」
「おお、またあなたは当てちゃいましたね」と亜麻色の髪をした青年はことばを引きとって、「実際、ほとんど考え違いをしているんです。つまりその、ほとんど親戚とはいえない。だから、あちらで返事が来なかったときにも、実際に、とんと驚きもしなかったくらいで。そんなことは始めっから覚悟していたことなんです」
「お金をむざむざと郵便代に使ったというわけだね。ふむ……が、まあとにかく、一本気な、正直な御仁だ。それだけでも殊勝なもんだ! ふむ! エパンチン将軍といや、私も存じておりますよ、なにしろ将軍は錚々《そうそう》たる人物ですからね。それから、あんたがスイスにいらしたとき、仕送りをしていた亡くなったパヴリシチェフさんをも存じ上げておりましたが、もっとも、ニコライ・アンドレーヴィッチ・パヴリシチェフさんのほうですけれど。というのは、パヴリシチェフというのが従兄弟《いとこ》同志で二人いましたからね。一人は今でもクリミヤのほうにおられるが、亡くなったニコライ・アンドレーヴィッチさんのほうは社交界でも評判のいい人で、お盛んなときには四千人からの農奴をかかえていらしった……」
「そのとおりです、あのかたはニコライ・アンドレーヴィッチ・パヴリシチェフといいました」
青年は、こう答えて、じっと、物珍しそうに、物識り顔の先生のほうをかえり見た。こういったような物識り顔の先生には、時おり、というよりはむしろ実にしばしば、ある社会へ行くとお目にかかることができるものである。彼らはなんでもかんでも知っている。彼らのしばしの間も休むことのない物好きな才知や才能は一つの方面にのみ集注される、……いうまでもなく、現代の思想家が言うようないっそう重要な生活上の興味だとか見解だとかを欠いた方面へ向いているのである。それにしても、『なんでも知っている』ということばの意味は、かなりに限界をつけて考えねばならぬ。――誰それはどこに勤めていて、誰と知り合っているとか、財産はどれぐらいで、どこの県知事をしていたとか、誰と結婚して、持参金をいくらもらったとか、誰が彼の従兄弟にあたり、誰がまた従兄弟《いとこ》にあたるとか、等々、いずれも、こういったようなたぐいのことである。これらの世間師たちの大部分は肘《ひじ》をむき出しにして歩き、月に十七ルーブルの給料をもらっている。自分の秘密という秘密を知られている人たちのほうでは、この連中がどんな興味に動かされているのやら、むろん、見当はつくまいけれど、彼らの多くは一つの完全な学問にもなぞらうべきこの知識によって、たしかに慰められており、また自尊心をもち、さらにこのうえもない精神上の満足にさえも到達している。しかも、なかなかおもしろみのある学問ではある。私はこの学問のなかに、最上の融和と目的を見いだすことができ、明らかに、それのみによって出世した学者や、文士、詩人や政治家を見てきているのである。
この会話の間じゅう、顔の薄黒い青年はあくびをしたり、窓の外をあてもなく眺めたりして、旅路の終わるのを待ちこがれていた。彼はなんとはなしにぼんやりしていた。なんだか、ひどくぼんやりしていた。ほとんど心配でもしているらしく、なんとなく変になってさえもいたのである。ときには聞いていながら話が耳に入らず、見ていながら目に入らず、何かのはずみで笑っても、何がおかしくて笑ったのか、自分では全くわけがわからず、覚えてもおらなかった。
「ときに、失礼ですが、あんたはどなた様で……」と、にきび顔の男がいきなり亜麻色の髪をして、風呂敷包みを持っている青年に尋ねた。
「公爵レフ・ニコライヴィッチ・ムィシキンです」とこちらは待ってましたとばかりに即座に答えた。
「ムィシキン公爵? レフ・ニコライヴィッチ? 存じませんな。そんな名は聞いたこともないですね」と役人は物思わしげに答えた。「つまりその、お名前のことをいうんじゃありません。お名前は由緒のある名前で、カラムジンの歴史にもあるでしょう、きっと。私のいうのは人のことなんでござんすが、なんだかムィシキン公爵というのは、もう、どこにも見当たらないようですな、それに噂さえもなくなりましたよ」
「おお、むろんそうですとも!」と公爵はじきに答えた、「ムィシキン公爵家のものは今は僕のほかにどこにもいないはずです、僕が最後らしいです。先祖はどうかというと、僕の先祖は貧乏地主でした。もっとも、親父は軍隊にはいって士官候補生あがりの少尉でした。ところで、どういうわけでエパンチン将軍夫人がやはりムィシキン家の引っぱりになっていて、同様に一門中の最後の者になるのか、ちょっとも見当がつかないんでして……」
「へ! へ! へ! 一門中の|最後の者《ポスレードニイ》!〔「最後の者」という意味にもなれば「なれの果て」という意にもなる〕へ! へ! なんだってそんな変な言い方をなさるんです」と役人はひひひと笑いだした。
顔の薄黒い男もまたほくそえんだ。亜麻色の髪の男はうっかり地口を、それもまずい地口を言ってしまったことに、いささかあきれた。
「察してください、僕はてんで気がつかずに言ってしまったんですから」とついに彼は驚いて言いわけした。
「そりゃもうわかっとるです、わかっとるです」と役人は陽気そうにうなずいた。
「ところでどうだな、公爵、あんたはあちらで教授について学問をして来たのかね?」と不意に薄黒い顔のほうが尋ねかけた。
「ええ……勉強しましたよ……」
「だがおれはまだ何も習ったためしがない」
「なあに、僕にしたってほんのちょっとかじったばかりで」と公爵はほとんどわびるかのように付け足した、「僕は病気だったので、系統的な教育をうけるだけの能力がない者とされていたのです」
「ラゴージンを御存じかね?」と薄黒いほうが口早に尋ねた。
「いいえ、存じません、全く。僕はロシアには実に少ししか知人がないのでして。で、あんたがそのラゴージンですか?」
「そう、僕がラゴージン・パルフェンです」
「パルフェンって? じゃあ、それはあの例のラゴージン家の人では……」と役人は急にもったいぶった調子で言いかかった。
「そう、そう、あの例のだ」と薄黒い顔の男は性急に、あたりかまわずさえぎった。この男は一度も、にきび顔の役人のほうを向いたことがなく、初めから公爵にだけ話を持ちかけていたのである。
「うむ……いったいこれはどうしたってことなんだ?」と役人は茫然自失して、眼を飛び出さんばかりに驚いた。役人の顔はたちまちにして何かしらうやうやしい、卑屈な、また腰を抜かしたような表情をうかべてきた、「それじゃあ、あの二百五十万ルーブルの財産をのこしてふた月ほど前に亡くなられた親代々の名誉市民セミョーン・パルフェノヴィッチ・ラゴージンさんの?」
「君は親父が二百五十万ルーブルの財産をのこしたなんてどこから聞いたんだ?」と薄黒い顔の男が今度は役人のほうには眼もくれずにさえぎった、「まあなんてんだろう?(と公爵のほうを向いて目配せした)どんなつもりなんだろう、なんだって、こいつらはじきに腰ぎんちゃくみたいに付けまわるんだろう? なるほど、親父が死んだのは本当だ。それでおれはひと月もたってから、ほとんど裸はだしでプスコフから帰るとこなんだ。弟の畜生もおふくろも、金は送ってよこさねえし、知らせても来ねえ、――何ひとつ送っちゃくれねえ! まるで犬っころのつもりでいやがるんだ! プスコフにおれはまるひと月というもの熱病で寝たっきりでいたんだ!」
「だって、今じき一時にまるまる百万ルーブルという金が手にはいるんですからね、なにしろ、おお、豪勢なもんだ!」と役人は手を打った。
「だがこいつはいったい、何が欲しいんだろう、ねえ!」ラゴージンはまたもやいらだたしげに、憎らしそうに彼のほうを頤《あご》でしゃくって見せた、「なあに、てめえなんかに鐚一文《びたいちもん》くれてやるもんか、いくらここで、てめえがおれの前でさか立ちして歩いたって」
「さか立ちして歩きますよ、歩きますよ」
「こいつめ! たとい丸一週間踊ったからって、けっしてくれてはやらねえ、くれるもんか!」
「いいですともさ! それがわたしにゃ願ったり叶ったりだ、くださらねえで結構でさ! でも、わたしは踊りますぜ。女房子供をすてても、おめえさんの前で踊りますぜ。味のあることを言ってくだせえ、ねえ!」
「ちぇっ、てめえは!」と薄黒い顔の男が唾《つば》をはいた。「五週間前に、わしも、それこそあんたと同様に」と彼は公爵のほうをふり向いた、「風呂敷包みを一つかかえて、親もとをはなれてプスコフの叔母さんのとこへ逃げたんだ、ところがそこで熱病にかかって寝ついたもんだから、親父はおれの留守に死んじめえやがった。卒中に止めをさされたんだ。やすらかに憩《いこ》わせたまえ、――ところが、親父のやつ、おれを半殺しにしやがった! 本気にしなさるめえが、公爵、それは本当の話なんで! あの時、逃げ出さなかったら、見んごと殺《や》られてたはずだ」
「あんたは何かで怒らしたんでしょう?」と公爵はいくぶん、特殊な好奇心を持って、毛皮の外套を着た百万長者のほうを眺めながら応酬した。
ところで、百万ルーブルという大金にも、遺産相続ということにも、特別に何かしら刮目《かつもく》すべきものがあったのかもしれないが、公爵を驚かし公爵の興味をひくようなものが、まだほかにもあったのである。それにまたラゴージンのほうでも、どうしたわけか、ことさらに興味をもって、公爵を話し相手にしたのである。もっとも話し相手を欲しがったというのは、精神的なというよりは機械的な要求によったもののように思われる。一本気なためというよりは、むしろ、ぼんやりしていたせいらしく、不安な気持や興奮のあまり誰かをただ眺めていたい、どんな話でもいいからただ舌を動かしていたいというような気持かららしかった。彼は今まで熱病に、少なくとも悪寒に悩んでいたかのように見受けられた。例の役人はどうかというに、彼はラゴージンのほうへひどくかがみこんで、息をつくのをさえ控えがちに、まるでダイヤモンドでも捜すかのように、相手の一言一言をとり上げては慎重に考えてみるのであった。
「怒るのは怒ったが、そりゃあ、しかし、ひょっとすると怒られるだけのことはあったかもしれん」とラゴージンは答えた。「けれど弟の野郎がいちばんひどくおれを苦しめやがった。おふくろのこたあ言うがものはねえ。あれは老いぼれ婆で、聖者の伝記を読んだり、婆どもと坐っていたりして、センカのやつの言いなりになってるんだ。けれど、いったい、なんだっていいころあいにおれに知らしてくれなかったんだ! わけはわかってるんですよ! そりゃあ、その時おれが熱に浮かされて何も見境いがつかなかったことは事実だ。また、電報も打ったという話だ。が、電報は叔母んところへ行ったんだ。この叔母というのは三十年も後家を通してて、いつも朝から晩までキ印のようなやつとばかりいっしょにいる。別に尼さんなわけじゃないんだが、もっとひどく神様に凝ってるんだ。電報が来ると叔母はびっくりして、封を切らずに警察へ届けたそうだが、そこでとうとう今まで寝こんじゃって。やっとワシーリイ・ワシーリヴィッチ・カニョーフが救い出して、何もかも手紙で知らしてくれたんだ。弟のやつはある晩、親父の棺にかけてある金襴《きんらん》の掛布から金糸の房を切りとって、『こんなことでどんなに金がかかるんだろう』と言ったそうだ。このことだけでも、あいつはもしおれのほうでその気になりゃあ、シベリアへやれるんだ。なにしろ、そんなことは涜神罪《とくしんざい》だからな。おい、てめえ、豌豆畑《えんどうばたけ》の案山子《かかし》め!」と彼は役人のほうをふり向いた、「法律ではどういうことになるえ、涜神罪か?」
「涜神罪ですよ! 涜神罪ですとも!」とすぐに役人はうなずいた。
「それでシベリア行きになるかえ?」
「なりますとも、シベリア行きですよ! さっそくシベリア行きだ!」
「やつらはおれが病気でいるとまだ思っている」とラゴージンは公爵に向かってことばを続けた、「だが、おれは一言も言わずに、こっそりと、まだからだのあんばいは悪いのに、こうして汽車に乗ったんだ――それで今こうして行くところだ。『やい門をあけろ、セミョーン・セミョーヌィチ!』とどなりつけてやるんだ。あいつが亡くなった親父におれのことを悪く言ったのは、よく知っている。もっとも、おれがナスターシャ・フィリッポヴナのことで、実際にその時、親父の疳癪玉《かんしゃくだま》を破裂さしたのは、そりゃあ事実だ。もうおれひとりなんだ。悪いことをしちゃった」
「ナスターシャ・フィリッポヴナのことって?」役人は何かしら思いあたるかのような風をして、いかにも卑屈そうに、言いだした。
「てめえなんぞ知ったこっちゃねえよ!」とラゴージンはやむにやまれず、どなりつけた。
「ところが、ちゃあんと知っとるですよ」と役人は勝ち誇ったかのように答えた。
「あーれ! しかしナスターシャ・フィリッポヴナっていう名は少なくはねえからな! まあ、てめえはなんて生意気な野郎だ! まあ、こんな野郎はじきにこんなに人にぶらさがるとは思ってたが」と彼は公爵のほうを向いてことばをついだ。
「けれど、たぶん、存じ上げておりますよ」と役人はやり返した、「レーベジェフは知ってますよ! 旦那、あんたは私をお責めなさるが、ちゃんと私が証拠をあげたらどうなさります? しかも私の申すのはあんたの父親様が肝木《かんぼく》の笏杖《しゃくじょう》をもって説得されるもとになった、あのナスターシャ・フィリッポヴナですよ。ナスターシャ・フィリッポヴナ、名字はバラシュコワ、このおかたは名流婦人とさえもいってよく、また生まれからいえばやはり公爵令嬢と申してもいいおかたで、アファナシイ・イワーノヴィッチ・トーツキイとかいう、大地主で資本家で、いろんな会社や団体に関係があり、この方面のことでエパンチン将軍ときわめて親しい間がらにある人ともねんごろにしているおかたですよ……」
「へっ! なんだっていうんだ、てめえは!」とついには、実際にラゴージンも驚いた、「こん畜生、本当に知ってやがる」
「何もかも知ってますよ、レーベジェフはなんでも知っとるです! わたしは、旦那、リハチョフ・アレクサーシカと二か月も、やはり親父が亡くなってからのことですが、いたるところ、つまりあっちの隅からこっちの隅まで歩いて、どこからどこまで知っとりますよ、それでレーベジェフがいないとなりゃ一歩も先へ歩けないということになりましての、今でこそアレクサーシカも債務監獄にいるようなものの、そのころはアルマンスもカラーリヤも、ツァーツカヤ公爵夫人もナスターシャ・フィリッポヴナもよく見知る機会がありましたよ。それにまた、そのほかいろんなことを知る機会があったものです」
「ナスターシャ・フィリッポヴナを! まさか、あのひとがリハチョフと……」ラゴージンは憎々しげに役人のほうを眺めたが、唇までが青ざめて、震えだすのであった。
「な、な、な、なあに! な、な、な、なんでもありません! ほんとになんでもありませんよ!」役人はふと気がついて、急にあわてだした、「ど、どんなに、その、金を積んだところでリハチョフには追いつけませんでした! 全く、このかたはアルマンスともわけが違いますんで。トーツキイ一人だけですよ。よく晩に大劇場や、またはフランス劇場で買いきりの桟敷《さじき》に坐っておりますね。そうすると、てんでに話をしている士官が少なくない。しかし『それ、あれが、その、例のナスターシャ・フィリッポヴナだよ』とはっきり言いきれない。ただそれだけのことなんです。それから先のこととなると、なんにもできない! なぜといって、なんにもないからで」
「それはみんなそのとおりだ」とラゴージンが暗い顔をし、眉をしかめながら言った、「やっぱり同じことをあのときザリョジェフが聞かしてくれたっけ。僕はその時、ねえ、公爵、親父のお古の冬着を着こんで、ネフスキイ通りを横切っていたんだ。するとナスターシャが店の中から出て来て、馬車に乗るんだ。おれはすっかりからだじゅうが熱くなっちまった。そこへちょうどザリョジェフがやって来たが、こいつはおれなんかとは比較にゃなんねえ。まるで理髪店の番頭みたいなふうをして、片眼鏡なんかかけているんだ。こっちは部屋住まいの身分で、タールを塗ったぼろ長靴をはいて、食べる物ときたら精進のキャベツ汁という変わり方なんだからなあ。あいつの言いぐさだと、『あれはおまえ、おまえなんかの同類じゃないんだぞ、あれはな、公爵夫人で、お名前はナスターシャ・フィリッポヴナ、御名字はバラシュコワ、今はトーツキイと同居してるんだ。ところがトーツキイは、あの女からどうして離れたもんだかわからないでいる始末なんだ。というのは、全く、その、いい年をしているくせに、五十五にもなってペテルブルグ第一のすてきな美人といっしょになろうって了簡なんだ』って、こうなのさ。やつめ、おれをおだてやがって、『今日、大劇場へ行けばナスターシャ・フィリッポヴナが見られる。買いきりの桟敷でバレーを見物するはずだから』とこうぬかすんだ。まだ部屋住まいの身分で、バレーの見物なんかしてみろ、――たちまち仕置きをされちまう、殺されっちまうわ! けど、おれは一時間ばかり、こっそり脱け出して、ナスターシャをもう一度見て来たんだ。おかげでその晩は夜っぴて眠れなかった。次の朝、亡くなった親父は五分利付五千ルーブルの債券を二枚よこして、こいつを売りに行ってこい、そして七千五百ルーブルはアンドレーエフの事務所へ持ってって、支払をして、一万ルーブルからそれを引いたあとの残りは、どこへも寄らずに持って帰れ、待ってるからって、こう言うんだ。おれは債券を売って、金は受け取ったけれど、アンドレーエフの事務所へなんか寄りゃしねえ、一目散にイギリス人の店へ行って、ありったけの金を投げ出して、両方に一つずつ、およそ胡桃《くるみ》くらいの大きさのダイヤがついた耳環を一そろい選り出したんだ。まだ金が足りなくって、四百ルーブルは借りになったが、名前を言ったら信用してくれた。さて、耳環を持ってザリョジェフさんところへ行って実は、君、こうこういうわけなんだ、ナスターシャ・フィリッポヴナさんところへ行くんだが、つきあってくれと言って、いよいよ二人して出かけたのさ。その時のおれときたら、足の下に何があったやら、眼の前や両わきに何があったやら、そんなことは、さっぱり知らないし、覚えてもいないんだ。まず劇場へ行くと、広間の、あの人のいる方へずんずんはいって行った。すると向こうは向こうでこっちへ出て来たのさ、おれはね、その時、自分が当の本人だというような風はしなかったのさ、『パラフェン・ラゴージンからの使いで』とザリョジェフのやつが言ったのさ、『昨日、お眼にかかりました記念にとのことですから、どうかお納めくださいまし』って。すると、あの人はあけて中をのぞいて、にっこりしたのさ、『御親切なお心づくしにあずかりまして、まことにありがとう存じますと、お友だちのラゴージン様によろしくお礼をおっしゃってください』そう言ってお辞儀をしたかと思うと、行ってしまった。まあ、その場でおれはなんだってその時に死んじゃわなかったんだ! おまけに、わざわざ出かけて行ったのも、『どうせ生きちゃあ帰らねえぞ!』と思ったからなんだ。ところで、いちばんいまいましいと思ったのは、ザリョジェフの畜生めが、何から何までてめえ一人に都合のいいようにしてしまったことだ、おれときたら、背は小さいし、服装は下郎のようだし、ぼんやり突っ立って、口もきかずに女の顔をじっと見ているので、きまりが悪くてしようがない。ところが、あの野郎は何から何まで流行ずくめで、頭にポマードをつけて、髪を縮らせたりしていて血色はいいし、格子縞《こうしじま》のネクタイを結んで、お世辞を振りまくやら、さんざんおべっかを使うやらしているんだ。だから女のほうでは、あいつをおれだと思ったに相違ない。『おい、おまえはおれの前で妙なことをする気になったら承知しねえぞ、いいか?』とおれは表へ出たときに言ってやった。すると野郎、笑いやがって、『だがよ、おめえはいったい、親父さんのセミョーン・パルフェノヴィッチんところへ行って、なんて報告するんだ?』って言うんだ。おれは全く、そのときは家へは帰らねえで、身投げがしたかった、だが、また『どっちにしたって同じことじゃねえか』と考えたので、化け物みてえな顔をして家へ戻って来た」
「ええい、うーふ」と役人はしかめづらをして、身震いさえもしながら、「亡くなった人は一万ルーブルどころか、高が十ルーブルのことでさえも、一人の人間をあの世へやりかねない人でしたからね」と公爵にうなずいて見せた。
公爵は物好きそうにラゴージンをじろじろ眺めた。ラゴージンはこの時、いっそう青ざめたかのように思われた。
「あの世へやる」とラゴージンはくり返して言った。「何をてめえなんかが知るもんか? じきに」なおも彼は公爵のほうを向いて話し続けた、「みんな親父にばれちゃった。それにザリョジェフの野郎が会う人ごとにしゃべりやがって。親父はおれを引っつかまえて二階に閉じこめて、まる一時間もの説教だ、『さあ、これはな、なんの前じたくだ。いずれ夜になったらあらためて別れのことばを、言いに来てやるわ』と、こういう。さて、どうしたと思う? 胡麻塩《ごましお》の爺めがナスターシャんところへ、のこのこ出かけて行って地べたへ頭をすりつけて、泣き泣き頼んだじゃねえか。とうとう、あの人は箱を取り出して、たたきつけて、『さあ、髯《ひげ》の爺さん、渡してやる、おまえさんの耳環を。パルフェンさんが、そんなに冒険をして手に入れたのだと聞いたら、この耳環が急に十倍もありがたくなってきたわ。よろしく、パルフェン・セミョーヌィチさんにありがとうって言ってちょうだい』そう言ったそうだ。さあ、おれはおれで、その間に、おふくろが承知のうえで、セリョーシカ・プロトウシンから二十ルーブル借金して、汽車に乗ってプスコフへ向かったが、着いたときには悪寒を覚えた。お婆さん連が気づかってお経を読んでくれたが、おれは酔っぱらって坐っていた。それから財布《さいふ》をたたいて酒屋から酒屋と飲み歩いて、その晩は一晩じゅう、何がなんだか夢中で、往来に横になって明かしてしまった。いよいよ朝になると熱病ときた。おまけに夜中にごろ寝をしているときに犬が来て人を噛《か》み散らしやがって。やっとのことで眼がさめたというわけよ」
「いや、なあに、なあに、今じゃナスターシャ・フィリッポヴナはこっちへ来て音頭取りをしてくれるでしょうよ!」役人は手をもみながら、ひひひといやな笑い方をした。「今じゃ、旦那。耳環くらいはなんのその! 今度は、それはすばらしい耳環を贈りまさあね……」
「もしも、いいか、貴様がただの一度でもナスターシャのことを、かれこれ言ったら、それこそ貴様をほんとに、斬《き》ってやるぞ、いくら貴様がリハチョフと歩き回ったからって、そんなことはだめだ!」
ラゴージンはきっと相手の手をつかんで、どなりつけた。
「斬るっておっしゃるんなら、それでは追い立てないってことなんですね! ようがすとも、斬ってください! 斬ってくださりゃあ、それでまた、忘れられなくなりますからね、……おや、もう着きましたよ」
たしかに、汽車は停車場にはいっていた。ラゴージンは、こっそり立って来たようなことを言っていたが、何人かの人が待ちうけていた。彼らは叫んだり、彼のほうへ帽子を振ったりしていた。
「ちぇっ、ザリョジェフも来てる!」とラゴージンは勝ち誇ったような、おまけに毒々しげなほほえみをすら浮かべて、彼のほうを眺めながらつぶやいたが、やがて不意に公爵のほうを向いて、「公爵、なぜか知らんが、おれはおまえに惚《ほ》れちゃった。ひょっとするといいときに会ったからかもしれん。だが、おれは、こいつにも(そう言ってレーベジェフを指した)出会ったんだが、こいつにはいっこう、惚れ込みはしなかったんだからな。なあ、公爵、おれんところへ来いよ。そのゲートルを脱いで、貂《ひょう》の外套を着せてやる、すばらしいのをな。とびきり上等の燕尾服に、チョッキも白いのなり、また気に入ったなりつくらして、ポケットへはしこたま金を詰めてやるからな……そしていっしょにナスターシャ・フィリッポヴナんところへ行こうよ! 来るかえ? 来ないかえ?」
「そうれ、ムィシキン公爵!」と言いふくめるかのように、しかつめらしい口調で、レーベジェフが口を出した。「おう、いい時をのがしちゃだめですよ! いいですか、のがしちゃだめですよ!」
ムィシキン公爵は立ち上がって、丁寧にラゴージンに手を差し出し、愛想よく言うのであった。
「それはもう、喜び勇んでまいりますとも。そして、僕を愛してくだすったことに厚くお礼を申し上げます。ひょっとして、今日にでも、うまく都合がついたら、お伺いするかもわかりません。実は打ち明けて申しますと、僕もあんたが非常に好きになりましたんで、わけても、ダイヤの耳環のお話をなすったとき……。もっとも耳環の話が出ない前にでも、あんたは憂鬱そうな顔をしていらっしたんだけど、やっぱり気に入ったんですよ。それからまた、お約束してくだすった服や外套のことでも、お礼を申し上げます。実は、服も外套もすぐに必要なものですから。お金もまたただいまはほとんど一カペイカも持っておりません」
「金はじきできる、晩までにできる、やっておいでよ!」
「できるとも、できるとも」と役人は後を引きとった、「夕方、日の入る頃までにはできるよ!」
「だが、公爵、あんたはとてもの女好きなんだろう! 前に言っておいておくれよ」
「僕は、い、い、い、いや! だって、僕は……あんたはたぶん、御存じないかもしれませんが、僕ときたら、生まれつきの病気で、女なんか、てんで知りもしないんですよ」
「まあそれが本当なら」とラゴージンは叫んだ、「公爵、君は全くキ印じゃないかな、神様は、こんな人を可愛がってくださるんだ」
「神様はこんな人を可愛がってくださる」と役人がことばを継いだ。
「おい、てめえはな、おれのあとからついて来るんだぞ」ラゴージンはレーベジェフに言った。
一同は外へ出た。
結局、レーベジェフは自分の思いどおりになった。ほどなく、騒がしい一行はヴォズネセンスキイ通りをさして遠ざかって行った。公爵はリティナヤ通りへ曲がらなければならなかった。あたりは湿っぽくじめじめしていた。公爵は行き交う人に詳しく道を聞いてみたが、行く先までは三|露里《エルスター》もあるとのことであった。彼は辻馬車を雇うことにした。
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エパンチン将軍はリティナヤ通りから少しわきへそれて、「変容救世主寺」のほうへ寄った自分の家に暮らしていた。この《すばらしい》家――その六分の五は人に貸していたが、――のほかに、エパンチン将軍はサドーワヤ通りにもまた宏壮な邸宅をもっていて、これまた非常な収益をあげていた。この二軒の家のほかに、ペテルブルグ近郊に、きわめて有利な、目抜きの持ち村があるし、またペテルブルグ郡には何かの工場もあった。その昔、エパンチン将軍は、誰もが知るとおり、物産の一手販売に関係していたが、今では幾つかの内容の充実した株式会社に関係して、非常な権力をもっていた。彼は大金持で、たくさん仕事があり、交際の広い人物として評判されていた。場所によっては、本職のほうではいうまでもないが、どうしてもなくてはならない人となり得たのである。それとともに、イワン・フョードロヴィッチ・エパンチンは教養がなくて、兵卒の伜《せがれ》から成り上がったというようなことも、世間に知られていた。兵卒の伜ということはもちろん、彼にとってはただ名誉になるだけのことであった。しかも、将軍は聰明な人ではあったけれど、やはり小さな(かなりに無理もないようなものであったが)、弱点をもっていて、他人から明らさまにではなくともそんなことに触れられるのが嫌いであった。とはいえ、聰明で機敏な人であったことには間違いはないのである。彼は、たとえば、出る幕でないようなところには、主義としてけっして姿を現わさないことにしていた。だから多くの人は彼の淡白なところ、すなわち常に自分の位置を知っているということを高く買っていた。しかし、こんな判断のみが下されていたとするならば実によくおのれの分を知っていたエパンチン将軍の心のうちに、時おり、どんなことが起こっていたかということを見せてやりたいものである。たしかに彼は世の中のことにかけては、修練もあれば、経験もあり、また、かなりに注目すべき才能をもいくぶんはもっていたが、しかも彼は自分の頭の中に専制的な気持をもった人間としてよりは、むしろ他人の理想を実行する者「お世辞なしに他人に従順な」、あまつさえロシア人らしく人なつこい人間という風にさえも自分を見せかけるのが好きであった。この最後の点では、若干の滑稽な逸話さえも伝えられていた。けれど、将軍はたといかなりに滑稽な逸話が伝えられたときでさえも、けっしてしょげはしなかった。それにまたカルタをやっても、運がよかった。彼は実に莫大な金の賭け方をして遊んだが、カルタとなると眼がなくなる自分の癖を、押し隠そうとしないばかりではなく(もっともその癖は彼にとっては本質的なものであり、多くの場合に彼の役に立つものではあった)、わざわざ人に見せびらかすのであった。彼は社会にあっては、どっちつかずの人間であった、もちろん、多くの場合に「勢力家」ではあったが、しかし何もかもが手の届かないところにあった。それを長い間、しんぼうしてきた。いつも気長にしんぼうしてきた。そうして何もかもが、時と共に、順ぐりに回って来なければならぬはずであった。まさしく、エパンチン将軍は年のうえでは、まだまだいわゆる脂《あぶら》ぎった時代、すなわち五十六にして、なんといっても男盛り、これから本格的な、真の人生が始まろうという年になっていた。健康、顔の色つや、黒いとはいえ、しっかりした歯並み、ずんぐりした、肉づきのいい体格、毎朝、出勤したときの心配げな表情、夜が近づいてカルタに向かったとき、あるいは上官の前へ出たときの陽気そうな顔つき――何もかもが現在および未来の成功を助け、この閣下の生涯に薔薇《ばら》の花をまき散らしていたのである。将軍にはまた咲き誇る花のような家族があった。たしかに、何もかもが薔薇の花のようなものではなかったが、その代わり、この閣下がすでに久しい以前から、最も主要な希望や目的をまじめに衷心《ちゅうしん》から寄せていたものがかなり、たくさんあった。それにしても、親のもつ目的よりも重大な、また神聖なものがこの世にまたとあるだろうか? 家庭をよそにして、人は何に結びつけられるか? 将軍の家庭は、夫人と年ごろの三人の娘とから成り立っていた。将軍はずっと昔、まだ中尉時代に、ほとんど同い年の娘と結婚したのであった。この娘は、別にきりょうがいいというわけでもなければ教養があるというのでもなく、ただわずかに五十人の農奴が持参金代わりに付いているだけであった――事実、それが彼のずっと後々の運命の踏石となったのである。けれど、将軍は後にも、けっして自分が早婚であったことを悔いることもなく、一度として若気のあやまちとして後悔したこともなく、夫人を尊敬し、ときには畏れ、やがては愛しいと思ったくらいであった。夫人はムィシキン公爵家の出であった。家柄はたいして立派ではなかったが、いたって旧家であったから、夫人はそのために、かなりに自尊心が強かった。そのころの有力者で、保護者というべき一人の人物が(もっとも保護をするといっても何も金がかかるわけではない)、年の若い公爵令嬢の相談に乗ることを承諾してくれた。この人が若い士官に耳門をあけてくれて、あとから押しこんでくれたのである。とはいえ、若い士官にとっては、わざわざ押してなどもらわなくとも、ほんのちょっと眼くばせをしてもらうくらいで十分なのであった――眼くばせがむだになるようなことはなかったはずである! わずかな例外をのけたら、夫妻は長い間、琴瑟《きんしつ》相和して暮らしていた。まだ、ずっと年のゆかなかったころには、将軍夫人は公爵家の令嬢として、しかも一門のうちの最後の一人として――おそらくは生まれつきの性質にもよろうが、幾人かのきわめて身分の高い婦人の保護者をもっていた。後に財産ができ、主人の職務上の位置も進んでからは、こうした高貴な人たちの仲間入りをしても、いくぶんなれなれしくふるまうようにさえもなってきた。
この最近の何年かに、将軍の三人の娘たち――アレクサンドラ、アデライーダ、アグラーヤ――は、いずれも成人して、年ごろになっていた。実際、三人とも、単にエパンチンの娘というだけのものではあるが、母親の側からいえば公爵家の血筋をひいて、少なからず持参金をもち、やがて後には、おそらく高い位置にも昇ろうという大望をいだいている父をもっているうえに、これまたはなはだ大事なことであるが、――三人が三人とも美人で、今年はもう二十五になる長女のアレクサンドラも、その数にはもれなかった。中の娘は二十三になり、末の娘のアグラーヤはやっと二十になったばかりであった。この末の娘は申し分のない美人で、社交界に出ても非常な注目をひき始めていた。が、これだけいっただけでは三人のことをすっかり言い尽くしたとはいえない、すなわち三人が三人とも教育の点でも叡智の点でもまた才能の点でも、人並みすぐれていたのである。それにお互いが実によく愛し合って、互いに助け合っていることも、人のよく知るところであった。年上の二人の娘たちが、一家の偶像ともいうべき妹のために、どうやら犠牲になっているらしいというようなことまで噂に上っていた。娘たちは世間へ顔を出すのを好まなかったばかりか、極度に内気でさえもあった。もとより、誰ひとりとして傲慢《ごうまん》だとかおうへいだとかいってとがめ立てる者はいなかったが、それでも、娘たちが誇りをもち、気位の高いことはよく人に知られていた。長女は音楽が得意で、中の娘はかなりうまい画家であった。ところが、このことは長い間ほとんど誰にも知られずにいて、ごく最近に、ほんのちょっとしたことから表われたような次第であった。一口にいえば、娘たちについては賞讃すべきことが、数かぎりもなく伝えられているのである。しかし、反感をいだくものもないわけではなかった。娘たちがどれくらいたくさんの本を読んだかということが、驚異をもって喧伝されていた。娘たちは結婚をあせらなかった。世間のある階級の人たちを重んじているとはいうものの、それほどには崇めていない。そんなことは、誰もが父親の態度や性格、目的や希望を知っていると、いっそう意味が深いことになるのである。
公爵が将軍の家のベルを鳴らした時は、もう十一時に近くなっていた。将軍は二階に住んで、できるだけ控え目に、しかも自分の地位に釣り合うように自分の住まいをとっていた。公爵にドアをあけてくれたのは、お仕着せを着た下男であったが、最初からうさんくさげに客の身なりや、風呂敷包みを眺めまわしているこの男に、公爵は来意を説明するのに長いこと骨を折らなければならなかった。やがて、自分は実際にムィシキン公爵であって、のっぴきならぬ用件のために、どうしても将軍にお目にかからなければならないのだと何べんも同じことを、はっきりと言って聞かせたので、けげんそうな顔をしていた下男も、しょうことなしに、書斎の側の応接間の前にある小さな控え室へ公爵を導き、毎朝、控え室にいて訪問客のことを将軍に取り次ぐ別の下男の手に引き渡した。この下男は燕尾服を着ている四十を過ぎた男で、心配そうな顔つきをしており、閣下の居間の専任の召使でもあり、取り次ぎでもあったので、かなりにもったいぶっていた。
「応接間でお待ちください。包みはここへお置きなすって」と彼はゆっくりと重々しげに、自分の安楽椅子に腰をおろし、公爵が手に風呂敷包みを持ったまま、すぐわきの椅子に座を占めたのを見て、厳めしそうな驚きを浮かべながら、ふと言いだした。
「もし、さしつかえがなかったら」と公爵は言った、「僕は君といっしょにここに待っているほうがいいんだけれど、なにしろあんなところに一人ぽっちでいられたもんじゃないからね」
「でも、控え室においでになるって法はありません、あなたは訪問者、いいかえると、お客様なんですからね。あなたは直接に将軍に御用があるんですか?」
召使はどう考えてみても、こんな訪問者を入れるつもりにはなれなかったらしく、思いきって、もう一度聞いてみた。
「さよう、僕は用事があって……」と公爵は言いかかっていた。
「わたしはどんなご用だか、そんなことは聞いておりません。わたしの役目はただあなたがたをお取り次ぎ申すだけのことで。それもただいま申し上げましたように、秘書がおりませんと、じかにお取り次ぎするわけにはまいりませんので」
この下男の疑惑の念はいよいよ募っていくらしかった。公爵は毎日毎日会っている普通の訪問客とはまるで様子が変わりすぎていた。将軍とても実にしばしば、ほとんど毎日といってもよいくらいに、ある時刻になると、特に用事があって来る客にはそうであるが、ときには、はなはだ毛色の変わった客にも応対はしているのである。しかし、そういった習慣や、まことにおうようなさしずを忘れ果てて、侍僕は非常な疑念をいだいていた。侍僕はどうしても取り次ぐ前に秘書の意見をきいてみなければならないと考えていた。
「ですけども、本当にあなたは……外国からお帰りになったのですね?」と、ついには思いがけなく聞いたのであるが、じきにまごついてしまった。彼はおそらく、「ですけども、本当にあなたはムィシキン公爵様ですね?」と聞きたかったのであろう。
「さよう、たった今、汽車から降りたばかりです。けども、僕はね、君、僕がいったい本当にムィシキン公爵なのかどうか聞きたかったのに、遠慮して聞かなかったような気がしますよ」
「ふむ……」と、下男はびっくりした。
「僕は嘘なんか言わないから大丈夫。僕のことで君が迷惑するようなことはありませんよ。僕がこんな格好をして、風呂敷包みなんか持ってても、何も驚くことはありませんよ。目下の僕のふところぐあいが、あんまり香ばしくないもんですから」
「ふむ!……、わたしはそんなことは平気ですよ、あなた。お取り次ぎをするのが役目でして、もうすぐ秘書のかたが見えるでしょう、……それに、もしあなたが……。実はその、なんですが、その、失礼ですけれども、あなたはその、将軍のところへお金の御無心にいらしたのではございませんかしら?」
「おお、とんでもない、そんなことはいっさい心配御無用ですよ。僕は全く別の用件でまいったんで」
「どうぞ御免くださいまし。わたしはお様子を見て、ついお伺いしたわけなんでして、まあ秘書のかたがまいりますから、お待ちください。閣下はただいま、大佐殿と御用談がありまして、それが済みますれば秘書のかたもまいりましょう。……会社のほうのおかたで」
「それなら、もし長く待たなければならないようなら、ちょっとお願いいたしたいんですが。いかがでしょう、こちらにどこか、煙草をのめるところはないでしょうか? 僕はパイプも煙草も持ってるんですが」
「た―ば―こ―を―の―む?」侍僕は、自分の耳を信ずることができないかのように、さげすむようなけげんな様子をして、相手をちらと見た。「たばこをのむですって? ええ、こちらでは煙草はやれないことになってます。そんなことをお考えになるだけでも、御身の恥じゃございませんか? へえ……奇妙なこった!」
「おお! 僕はけっしてこの部屋でとお頼みしたわけじゃない、そりゃあ、僕だって心得てますよ。僕はどこか、君が教えてくれるところへ出て、やるつもりだったんですよ、なにしろ癖になってて、しかももう三時間ばかりものまなかったので。それはそうと、御都合のよろしいように。ねえ、郷に入っては……という諺もありますからね」
「さて、あなたみたいなおかたを、どういう風に取り次いだもんでしょう?」思わず侍僕はつぶやいた。「そもそも、あなたがこんなところにいらっしゃるのは間違ってることで、応接間にいらっしゃらなければならない、あなたは訪問者、言いかえると、お客様の御身分なんですからね。こんなところにおいでになると、私が困るまでです。……ときに、あなたはこちらへ御滞在のつもりでいらしったのでしょうか?」彼は公爵の風呂敷包みをもう一度、流し目に見て、こう付け加えた。明らかにこの包みは気にかかるらしかった。
「いいえ、考えてません。たとい引きとめられても、いないつもりです。僕はお近づきになろうと思ってまいったので、ただ、話はそれだけのことなんです」
「なんですって? お近づきに?」侍僕は、いよいよ怪しげな様子をして、驚いて尋ねた、「では、なんだって最初に、用事があって来たなんておっしゃったんですか?」
「おお、まあほとんど用事で来たともいえないことで! もしなんなら、そう言ってもいいんですが、実はただ一つ、ちょっと御相談にあずかりたくて。しかし、何はさておいて、自己紹介にまいったまでなんでして。というのは、僕はムィシキン公爵ですが、エパンチン将軍夫人もやっぱりムィシキン公爵家の最後の一人で、僕と夫人をのけたらムィシキン家の者は一人もいないというわけなんですよ」
「それでは、あなたは御親戚にも当たるわけですね」ほとんど完膚なきまでにやりこめられた下男は身ぶるいした。
「かろうじて、そうだといえるくらいのものです。もっとも、無理に穿鑿《せんさく》してみれば、親戚ということにはなるが、今ではそういえないくらいに縁が遠くなっています。僕はいつぞや、奥さんに宛てて外国からお手紙を差し上げたけれど、御返事がなかった。それでもやっぱり、国へ帰ったらぜひとも御交際を願おうと思っていました。こんなことをことさら君に打ち明けるのも、実は君が僕をいつまでも気にかけてることが、よく見え透いてるので、疑わないでくれるようにと思うからです。さ、公爵ムィシキンが来たと取り次いでください。名前を言ってくれただけで、僕の来意はおのずとわかるはずですから。会っていただければ結構だし、会ってもらえなかったら、それも、またたぶん、結構なことかもしれん。でも、会わないわけにはいくまいと思います。将軍夫人ももちろん、自分の本家のたった一人の代表者に会いたいでしょう。確かな筋から、僕が聞いたところによると、なんでも夫人は、家柄のことをかなり重んじておられるそうですからね」
公爵の話はきわめてつまらないものであったかもしれぬ。しかし、つまらないものであればあるほど、この場合にはばからしく思われて、世慣れた侍僕は、下男と下男の間では全くあたりまえのことではあるが、お客と下男の間ということになれば、全く不穏当な何ものかがあることを、しみじみと感じないわけにはゆかなかった。下男などというものは、普通に主人のほうで考えているよりは、ずっと賢いものなので、この場合にも、二つのことがふと頭に浮かんできた。公爵は金をせびりに来た一種の放蕩《ほうとう》者なのか、それともただのばか者で、野心なぞはもっていないやつなのか、なぜかというに、公爵が聰明で、野心をもっているならば、控え室などに坐りこんで、下男風情に自分の用向きなどを話すわけはなかろうし、したがって、いずれにしたって自分が迷惑をこうむる筋合いはあるまい、という風に考えた。
「ですけども、とにかく応接間のほうへいらしていただきたいもので」と彼はできるだけ執拗《しつよう》に注意をうながした。
「だって、もしも僕があちらにいたなら、君に何もかも打ちあけるわけにはいかなかったでしょうよ」と公爵は陽気そうに笑いだした。「そうすると、君はやっぱり僕のマントや風呂敷包みを見て、心配していなくてはならなかったでしょう。ところで、もう秘書を待っている必要もないでしょう、君自身で取り次いでくれてもいいでしょう」
「わたしは、あなたのようなおかたを、秘書に相談なしで取り次ぐわけにはいきません。しかも、つい先ほど、大佐殿がおられるうちは、どなたが来ても邪魔をせんようにと、閣下から申しつけられておりますので。ガヴリーラ・アルダリオヌィチ様は、お取り次ぎなしに、お通りになるおかたです」
「お役人なんですか?」
「ガヴリーラ・アルダリオヌィチ様ですか? いいえ、あのかたは会社のほうへお勤めです。まあ、風呂敷包みはこちらなりとお置きなすったら」
「僕もさっきから、そう思ってたんです。もしなんなら、このマントをとりましょうかしら?」
「むろんですとも、マントを着たままで、将軍の前へ出るわけにはいきませんもの」
公爵は立ち上がった。大急ぎでマントをぬいで、もうすっかり古びているが、かなりにきちんとした、立派な仕立の背広姿になった。チョッキには鋼鉄の鎖が見えていた。鎖にはジュネーヴ製の銀時計がついている。
公爵はおめでたい人だ――下男はもう、そう決めてしまっていた――それにしても、とにかく、将軍の侍僕は、もちろん、それも一風変わってはいたが、公爵が好きになったにもかかわらず、これ以上、来客と話を続けるのは礼儀ではないという風に考えた。好きになったとはいえ、別の見方からすれば、この公爵は、かなり思いきった、粗野な憤懣《ふんまん》を感じさせないわけにはいかなかった。
「ところで、夫人はいつ御面会なさるんですか?」と公爵は、また元の席に腰をかけながら聞くのであった。
「そんなことは私の知ったことじゃございません。人によって、まちまちなんですよ。裁縫屋はいつも十一時です。ガヴリーラ・アルダリオヌィチ様には、やはり誰よりも先にお会いになりますし。朝御飯の前にでもお通しなすったりして」
「ロシアへ来ると部屋の中は、冬でも外国よりはずっと暖かいですね」と公爵が言った、「その代わり、おもてはあちらのほうがずっと暖かい、しかし冬は家の中にいると、ロシア人なんかには、住み慣れないので、とても暮らせたもんじゃありません」
「ストーヴをたかないんですか?」
「そう。なにしろ家の建てぐあいが違うんで、つまりストーヴや窓のぐあいが」
「ふむ! ときに、あなたは長いこと御旅行なすったんですか?」
「四年ほど。とはいっても、僕はたいていいつも一つところにばかりいたんですよ、田舎《いなか》に」
「じゃ、こちらの習わしもぐあいが悪くおなりでしょうね?」
「そりゃ、そうですね。実際、僕はよくロシア語を忘れずに話せると思って、われながらびっくりしますよ。こうして君とお話しして、腹の中では『おれはよく話せるな』と思ってるんですよ。僕は、ひょっとしたら、それでこんなにおしゃべりをしてるんでしょうよ。全く、昨日からは、しょっちゅう、ロシア語で話したくってしようがないんですよ」
「ふむ! へえ! ペテルブルグには以前お暮らしになったことがおありなんですか?」(下男はどんなにおさえてみても、こんなに鄭重な、慇懃《いんぎん》な会話をしないわけにはいかなかった)
「ペテルブルグに? ほとんどありません。ほんの通りがかりに寄っただけでして。以前はこちらのことは何一つ知らなかったのですが、このごろ聞くところによると、新しいものが多くなって、前から知っている者でも新規まきなおしに習いなおしているそうですね。こちらでは目下、裁判の話が、たいへんだとか」
「ふむ……裁判。なるほど裁判、全く裁判ですね。ところで、あちらはいかがです、裁判はこちらより公平でしょうか、どうでしょう?」
「知りませんねえ。僕はこちらのことでも、だいぶん良い話を聞きましたよ。それ、ロシアには、死刑ってものがないでしょう」
「あちらではやるんでしょうか?」
「やりますとも、僕はフランスのリヨンで見ましたよ。シネイデルさんが連れてってくだすったんです」
「首を絞めるんですか?」
「いや、フランスではいつも首を切ってしまうんです」
「どうですね、わめき立てるでしょう?」
「どうして! ほんの一瞬間ですよ。罪人を据えると、こんな幅の広い庖丁が機械じかけで落ちてくるんですよ、それをギロチンといっていますが、重くて、がんじょうな……。すると首が、眼をぱちっとさせる暇もないうちに、ころがるんですよ。それまでのしたくは恐ろしいものです。宣告文が読まれると、いよいよ罪人に用意をさせて、それから縛り上げて、死刑台に上げるんですが、これがすごいんですよ! 人が集まる、女までがやって来る。もっとも、あちらでは女に見られることをきらってますが」
「女なんかが知ったことじゃないんですね」
「むろん、むろんです! あんなひどいことを!……私が見た罪人は、利口そうな、臆しない、力のありそうな中年の男で、名字はレグロというのでした。ところが、こいつは本気にされないかもしれませんが、その男が死刑台にのぼると、まるで紙みたいにまっ白い顔をして泣きだしちゃったのです。そんなわけってあるものでしょうか? 恐ろしいじゃありませんか? まあ、こわいからって泣くものがあるでしょうか? 僕は、それまで一度も泣いたこともない四十五にもなる大人が、子供じゃあるまいし、こわいからって泣くなんかということを、てんで、考えてもいませんでした。もっともその時、男の心中はどんな風だったでしょう、どんなに恐れわなないていたことでしょう! 死刑たるや魂の凌辱《りょうじょく》にほかならない、ただそれだけだ。『殺すべからず』と聖書には書かれています。それだのに、人が人を殺したからといって、その人を殺してもいいものでしょうか? 断じて、そんな法はない。僕は死刑の場を見てから一か月になるけれど、いまだにまざまざと眼に見えるようです。もう五度も夢みたほどです」
公爵は自分が話しているうちに活気づいてさえもきた。ことばづかいは、相変わらず静かではあったが、彼の青白い顔はほのかに紅潮を帯びてきた。侍僕は身をいれて、興味ふかく彼のことばに聞きいっていたので、どうやら話がとぎれるのを好まないらしかった。ひょっとすると、彼もまた想像力があって、思想的なものに心をひかれる男であったかもしれぬ。
「でも、まだ、首が飛ぶ時」と彼は言った、「あんまり苦しみがないのが取りえですね」
「まあ、よく?」と公爵は熱心に後を引きとった、「まあ、よくも、気がつきましたね。たしかに誰もが気づいてはいるんですよ。ギロチンなんかっていう機械が、そのために発明されたんですからね。ところが、その時、僕はそんなものが発明されたんでかえって悪いんじゃないかと、ふと考えついたんです。そりゃあ、君から見たらおかしいでしょう、またむちゃな考えだとも思えるでしょう。しかし、少々想像をめぐらしてみると、そんな考えも浮かぶのですよ。まあ考えてごらんなさい。たとえば拷問《ごうもん》だ、拷問を受けるものは、苦痛でもあるし、からだは傷つけられる。けれど苦痛とはいっても肉体の苦しみだから、そんなものはかえって精神上の苦痛を感じさせない。したがって、死んでしまうまで、受けるほうでは、ただ傷だけに苦しむばかりです。しかし、大きい最もひどい苦痛は、おそらく傷のいたみではないでしょう。もう一時間したら、十分したら、三十秒したら、それから今、すぐに――魂が肉体を飛び離れて、もう人間ではなくなるのだということを、はっきりと思いきることです。このはっきりということがいちばん大事なことです。それ、頭を庖丁の真下に置いて、その庖丁が頭の上に滑り落ちてくるのを聞くとき、その一秒の四分の一の間が、いちばん恐ろしいんですよ。これはね、僕だけの空想じゃなくて、実際に多くの人が言って聞かしたことなんで。僕はそれを本気にしているから、君にきっぱりと僕の意見を言ってみましょう。殺人のゆえをもって、人を殺すのは、最初の犯罪そのものよりも、比較にならないほど大きな刑罰です。宣告文を読んで人を殺すのは、強盗が人を殺すことよりも、もっと、比べものにもならないほど恐ろしいことです。夜、森の中かどこかで強盗に切りつけられる人は、それでも必ず救われるという希望をもっている。本人はもう咽喉を切られているのに、まだまだ希望をもっていて、逃げるなり、助けを呼ぶなりするという例はいくらでもあります。この最後の希望があれば十倍も気軽に死ねるものを、死刑といえば『はっきりと』奪い去ってしまうのですからね。宣告文が読み上げられる、すると、どうしたってもう逃げられっこはないのだと観念する。そこに恐るべき苦痛があるのです、この世にこんなに根づよい苦痛はありません。戦場に兵士をつれて来て、大砲のまん前に立たせて、狙い撃ちしてごらんなさい。それでも兵士は希望をもっているでしょう。ところがこの兵士に『はっきり』と死刑の宣告を読み上げてごらんなさい。兵士は気が狂うか、泣きだすかするでしょう。人間の本性は狂いもしないで、それを堪え忍ぶことができるなどと、誰が言えるでしょう? なんだって、こんな醜《みにく》い、不必要な、無益な嘲弄《ちょうろう》を浴びせかけるのでしょう? たぶん、宣告を読み上げられて、苦しまされて、それから『さあ行け、許してつかわす』といわれた人もいるでしょう。そんな人なら、たぶん、よく話してくれるでしょう。この苦痛、この恐怖についてはキリストもいっています。いや、人が人をそんな風に扱うことはできない!」
侍僕はこれらのことを公爵のように自分では言い表わせなかったであろうが、しかももちろん、全部が全部とはいえないまでも、要点だけは悟ったということが、感動した顔つきにさえもあらわれていた。
「もしもそんなにあなたが」と彼は言いだした、「煙草をおやりになりたいのでしたら、おやんなすっても結構です、ただ早くやってくださいまし。と申すのは、閣下がお呼びになった時、あんたがここにいらっしゃらないと困りますので。そら、そこの階段の下に、ドアがございましょう。そのドアをおはいりになると、右手に小ちゃな部屋がございますから、そこなら結構です。でも、特別のことなんですから、風抜きだけはあけてくださいまし」
しかし公爵は煙草をのみに行く余裕がなかった。不意に書類を手にした若い男が控え室にはいって来たのである。侍僕はその男の毛皮の外套を脱がせにかかった。青年は公爵を横目でちらと見た。
「このかたは、ガヴリーラ・アルダリオヌィチさん」と侍僕は相手を信頼しきっているかのように、ほとんど家の者と口をきいているような調子で口をきった、「ムィシキン公爵とおっしゃって、奥様の御親戚にあたり、外国から今しがた汽車でお帰りになられたそうで、風呂敷包みを手にして、ただ……」
侍僕はひそひそと耳うちし始めたので、それから先のことは公爵には聞こえなかった。ガヴリーラ・アルダリオヌィチは注意ぶかく耳を傾けながら、非常な好奇心をもって公爵を眺めたが、ついには聞くのをやめて、もどかしげに公爵のほうへ近づいて来た。
「あなた様がムィシキン公爵でいらっしゃいますか?」と彼はきわめて愛想よく、鄭重《ていちょう》に尋ねた。
この男もまた年は二十八くらいの、かなりの美男子で、中肉中背で、すらりとして、ブロンドの髪をして、ナポレオン流の小さな顎髯《あごひげ》をたくわえ、聰明らしい、まことに美しい顔をしていた。ただほほえみだけは、かなりに愛嬌《あいきょう》があるのにもかかわらず、なんとなくデリケート過ぎ、それにほほえむときにあらわれる歯並みが、まるで、真珠を並べたように味がなさ過ぎていた。まなざしは、かなりに陽気らしく、ちょっと見たところは無邪気らしかったが、よく見ると何かしらあまりに据わりすぎていて、人の腹をさぐり過ぎるように見受けられた。
「この人は、きっと、一人でいるときには、まるで違った顔つきをしているに違いない、たぶん、どんなことがあっても笑わないだろう」と、公爵にはなんとはなしに、そういうことが感ぜられた。
公爵はいっさいのことを手短にできるだけ説明してやった。ちょうど、今しがた侍僕に、さらにそれ以前にラゴージンに説明してやったのと同じことを言ったのであった。ガヴリーラはそのうちに何か思いおこしたらしかった。
「あなたじゃなかったかしら」と彼は聞いた、「一年ほど前に、あるいはもっと後だったかに、エリザヴィータ・プロコフィーヴナにお手紙をおよこしになったのは、たしかスイスからだったと思いますが?」
「たしかにそうです」
「そんならば、こちらではあなたのことをよく御存じですから、きっと覚えているでしょう。あなたは閣下のところへまいったのですか? それならすぐにお取り次ぎしましょう……閣下はすぐにお手すきになりましょうから。ただ、あなたは……その間、応接間のほうにいらっしゃればいいんですのに……こんなところに、なんだって、また?」と彼は厳めしい顔をして侍僕のほうをふり向いた。
「そう申し上げたのですけれど、いやだと申され……」
この時、いきなり書斎のドアがあいて、紙挾みをかかえた軍人らしい人が声高く話をし、会釈をしながら出て来た。
「君はそこにいたのかえ、ガーニャ〔ガヴリーラの愛称〕?」書斎の中から叫ぶ声が聞こえる。「こっちへ来ておくれ!」
ガヴリーラ・アルダリオヌィチは公爵に頭をさげて、そそくさと書斎へはいって行った。
二分ほどしてまた戸があいて、ガヴリーラ・アルダリオヌィチのよく徹る、優しい声が聞こえてきた。
「公爵、どうぞ!」
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イワン・フョードロヴィッチ・エパンチン将軍は書斎のまん中に立って、はいって来る公爵を、極度の好奇心に駆られながら眺めるのであった。あまつさえ、彼の方へ二歩ほども歩み寄った。公爵も進み寄って、名乗りをあげた。
「いかにも」と将軍は答えた、「ところで、いったい、どんな御用で?」
「べつに、のっぴきならぬ用事があるわけではないんです。実はただあなたとお近づきになりたいと存じまして、御面会日も、また御都合のほども存じませんので、御迷惑はかけたくなかったのですが……なにしろ、たった今、汽車を降りて来たばかりなんでして……スイスから着いたばかりで……」
将軍はもう少しのところでほほえむところであったが、ふと気がついたので、やめてしまった。それからもう一度、考えてみて、軽く眼を細めて、もう一度、お客の頭の先から足の先までしげしげと眺め、やがて手早く椅子をすすめて、自分はやや斜めに腰をおろし、やむにやまれぬ期待をいだきながら公爵のほうを向いた。ガーニャは書斎の隅の机のわきに立って、書類を整理していた。
「だいたい、わたしはお近づきになるような時間をたんともたないほうでして」と将軍は言った、「しかし、あなたは、もちろん、特別の目当てがおありなのでしょうから……」
「前から僕もそうは思っていました」と公爵はさえぎった、「僕がこちらへまいったのに、きっと何か特別の目当てでもあるようにお考えになるだろうとは。けれど、全くのところ、お近づきになってさえいただけたら、それだけで満足なんでして、別にほかには何も個人的な目当てなどないのでして」
「満足、むろん、それは私にとっても、このうえもない満足ですが、しかし、いつもいつも慰みというわけにもいきませんで、ときには用事もできてくるのでしてねえ。……おまけに、わたしは今までのところ、どうしてもわたしたち二人の間に共通な点、……いわば、近づきになるいわれを見つけることがどうしてもできないのですからね……」
「いわれは、むろん、ありません、またもちろん、共通な点も少ないことです。なぜと申して、かりに僕がムィシキン公爵で、あなたの奥様が、わたしどもの家から出なすったとしても、むろん、それがいわれになるはずはありません。それはよくわかっています。しかし、僕がこちらへおたずね申したのは、全く、これあるがためです。僕はもう四年も、もっとロシアにいなかったのです。それに、ロシアを出てゆきましたときの様子は、ほとんど気ちがい同様でした! だから、そのときは、なんにもわからなかった、それくらいですから今ではなおさらわからないのです。それで今、僕は好い人に会いたいと思っている次第です。なおまた、一つ、用件もあるのですけれど、どこへ行って、相談したらいいものやら、それもわからないのです。まだベルリンにいるときに考えてみました、『あの人たちは、親類といってもいいくらいなんだから、まずあの人たちから始めよう。たぶん、お互いにこちらは向こうへ、向こうはこちらへという風に、互いに役に立つこともあろう――もしもあの人たちが良い人たちならば』とこう考えたのです。ところで、あなたがたが、いい人たちだということを聞きましたので」
「そりゃあ、大きにありがとう」と、将軍はいまさらながら驚いた、「失礼ですけども、どちらへお泊りになりました」
「僕はまだどこへも宿はとりません」
「それじゃあ、なんですね、汽車からまっすぐにわたしのところへというわけですね? して……荷物もお持ちになって?」
「はあ、僕の持ってる荷物といっては、ただ、下着のはいってる風呂敷包み一つきりで、そのほかには何もありません。僕はいつも、それだけ持って歩いていますんでして。晩にでも宿はとれますし」
「それでは、やはり宿をとるおつもりですか?」
「おお、そうですとも、むろん」
「あなたのおことばで、わたしは、ただまっすぐに私を目当てにいらしったのかと思いましたよ」
「そういうことになるかもしれません。けど、そりゃあ、あなたの御招待にあずかった場合にかぎることです。また、正直のところ、かりに御招待にあずかったとしても、ここにはいないつもりです。なぜというわけもありませんけれど、……まあ、それも性質ですからね」
「はあ、してみると、わたしがあなたを御招待しなかったり、今もまた、していないのはいいあんばいでしたね。失礼ですけど、公爵、一気に何もかもわけのわかるようにしましょう。今も申し上げたとおり、私たちの親戚関係ということについては、もう言うがものはないでしょう、そりゃあ、むろん、結構な話ですが、そうなると、しぜん……」
「そうなると、しぜん、立っておいとまをしたらいいでしょうかね?」と言って公爵は立ち上がった。そうして、こちらの風向きが明らかに良くないのにもかかわらず、なんだか、さも楽しそうに笑いだしてさえもいた。「本当に、閣下、僕はこちらの習慣のことも、だいたいのこちらの人たちの暮らしぶりのことも、全く、実際的には何ひとつ知らんのですが、いずれ、こんなことには必ずなるだろうとは考えていましたよ。それも、おそらく、やむを得ないことでしょう、……それに、あの時だって、僕の手紙に返事もくださらなかったんですからね……じゃあ、さようなら、失礼しましてすみませんでした」
公爵のまなざしは、この瞬間に、かなりに優しく、そのほほえみにはいささかの不快な感じさえも見えなかったので、将軍は不意に立ち止まって、なんとはなしに違った見方で、ふとお客の様子を見なおしたほどであった。こうした見方の変化はほんのちょっとの間に起こったことであった。
「ですが、もし、公爵」と彼は全く別人のような声で言った、「とにかく私はあんたをよくは知らないけれど、ひょっとしたらね、リザヴィータ・プロコフィーヴナが同姓のあなたに会いたがってるかもしれませんから……もしおよろしかったら、ちょっとお待ちなすって、もし時間の都合がつきましたら」
「おお、時間の都合はつきますとも。時間はすっかり僕の自由ですから(と言って、公爵は、じきに自分の丸いソフトの帽子をテーブルの上に置いた)。僕は、正直に申しますと、必ずや、リザヴィータ・プロコフィーヴナは僕があげた手紙のことを思い出してくださるだろうと、それをかなりに当てにしていたのです。お宅のあちらで、僕がお待ちしていたときも、僕のことをお宅の下男が何か無心にでもまいったように疑っていましたが、僕はよく気がついていました。お宅では、きっと、この点については、厳格なおさしずがあるんでしょうね。けれど、僕は実際、そんなことでまいったんじゃありません。実際、ただ皆さんとお近づきになりたいばかりなんでして。ときにただ、少々お邪魔をしたと思うと、恐縮の至りなんですが」
「まあ公爵」将軍は楽しそうなほほえみを浮かべながら言った、「もしも、あなたが、実際において、お見かけどおりのおかたでしたら、お近づきになるのも愉快なことでしょうね。ただ、わたしはごらんのとおり、多忙なからだですから、すぐにまたテーブルに向かって、何かかんかに眼をとおして、署名をして、それから、閣下のところへ行って、また、それから役所へも行かにゃなりません。そんなわけだから、むろん、人に会うのは……いい人に会うのは楽しみなんだけれど、つまり……しかし……。それはそうと、僕はたしかにそうだと思うんですが、きっとあなたは立派な教育をうけ、それに……。ところで公爵、あなたは、おいくつになりますね?」
「二十六です」
「ほう! わたしは、ずっとお若いと思ってましたよ」
「そう、みんなが、僕の顔は若く見えるって言いますよ。僕は、これからあなたのお邪魔をしないようにつとめましょう、じきにわかってくるでしょう、なにしろ、僕は人の邪魔をするのが大きらいなんですから……それから、結局、あなたと僕とは、見たところは全く違うような気がするんですが……いろんな様子から見て。だから、あなたとわたしには、共通点なんかそんなにないように思うんです。でも、僕自身は、そんな考え方がいいとは思いません、なぜというのに、共通点がないという風に、しょっちゅう思っていると、案外、たくさんあるものですからね……人間というものをほんの見たところだけで、いろんな区別をつけ、それで何もかもいっしょくたにしてしまうのは、人間の無精なところからくるんですね……それはそうと、たぶん、こんなことを申して御退屈でしょうね? あなたは、なんだか……」
「ほんのふた言ばかり言わしてください。あなたはいくぶんなりと財産がおありでしょうね? それとも、たぶん、何かの職にでも就くおつもりがあるでしょうか? ごめんなさい、こんなことを言って……」
「とんでもない。僕はあなたの御質問を高く買って、よく了解しています。今のところ、財産はなんにもありませんし、まあ職業なんかもありません、必要なことなんでしょうけれど。いま他人のお金は持っています。それは、わたしを療治してくれ、また教育してくだすったスイスのシネイデル教授が、旅費にと言ってくれたものですが、きちきちにいただいたものですから、今のところ五、六カペイカくらいしか残っていないような始末です。ところで、本当に一つ用事がありまして、御相談にあずかりたいのですけれど……」
「いったいどんなことをして過ごすおつもりなんですか、何かもくろみでもあるんですか、いかがです?」と将軍はさえぎった。
「どうにかして働くつもりでした」
「おお、あんたは哲学者だ、しかし、それにしても……何か少しでも才能、能力がおありでしょうか、つまりその日その日のパンの種になるような? どうもまた失礼なことを申すようですが……」
将軍はまたもやさえぎって、事こまかに尋ね始めた。公爵はまた前に言った一部始終を物語った。やがて将軍が亡くなったパヴリシチェフの話を聞いたことがあり、おまけに面識もあることがわかってきた。なぜパヴリシチェフが彼の教育に力を注いだのかということは、公爵には自分から説明することができなかった、――とはいえ、おおかたは亡くなった父との旧交によってであろう。公爵は両親にわかれてからは、まだがんぜない幼な児として世に取り残された。そうして長らく村里に住んで、成長してきたのである。それは彼のからだのぐあいが、田舎の空気を吸わなければならなくなっていたからであった。パヴリシチェフはこの子を、自分と縁続きになるある年寄りの女地主に委託した。この子のために初めは女の家庭教師、次には男の教師が雇われた。彼は何もかも覚えてはいるけれど、その時分、多くのことを理解しなかったので、十分に子細を説明することができないと言った。彼は持病の発作がたびたび起こるのでほとんど白痴のようになってしまった(公爵が白痴だと自分から言ったのである)。彼はついにある時、ベルリンでパヴリシチェフがシネイデル教授に会ったこと、教授はスイス人で、こういう病気を専門に研究し、スイスのヴァレス県に病院をもち、独得の冷水療法、体操療法によって、白痴や精神錯乱を治療し、そのうえ、教育も施し、概して精神の発達に手をかけていたこと、およそ五年ほど前、パヴリシチェフは公爵をスイスなるこの人のもとへつかわしたが、自分では二年前に遺言もしないで、頓死してしまったこと、シネイデルがその後、二年の間、彼を膝もとに置いて治療に努めたこと、全快さしてはもらえなかったが、かなりによくしてもらったこと、そうして、結局、彼自身の希望によって、またある事情に遭遇したために、教授がロシアに帰国させることにしたというようなことを物語るのであった。
将軍は実に驚いた。
「すると、ロシアにはお友だちは一人も、全く一人もいないんですね?」と彼は尋ねた。
「今のところ一人もおりません……しかし、すぐできると思います……それに、僕は一つの手紙を受け取っています……」
「けど、それにしても」と将軍は手紙のことをよく聞きもしないでさえぎった、「あなたは何か勉強なすったのでしょう。けど、たとえば、むずかしくない役につき、どこかへお勤めになるとすると、御病気が邪魔になりはしませんか?」
「おお、けっして邪魔にはなりません。役のことでしたら、僕も大いに望んでいたところです。なにしろ、自分でも、いったいどんなことに自分が向くのか知りたいと思っていますので。まる四年の間、僕は絶えず勉強しました。もっとも正則的にというわけではありません。先生一流のシステムによったのですから。でもロシアの本もだいぶ読めました」
「ロシアの本を? それじゃあ、読み書きの心得もありなすって、間違いなしに文も作れるんですね?」
「おお、よくできますとも」
「それはたいしたもんだ。では書き方は?」
「書き方は立派なものです。きっとこのほうに僕は才能があるんでしょう。このほうにかけては、僕は能筆家でしょうね。なんなら、ここで何か試しに書いてみましょう」と公爵は熱をこめて言った。
「どうぞそうして。それはむしろ必要なことです、……また、僕はね、公爵、あなたのてきぱきしてるところが好きなんですよ、あなたは本当に可愛いかただ」
「お宅の文房具は立派ですねえ。そしてどれほど鉛筆やペンがあるんでしょう。またなんて丈夫な、いい紙でしょうね……それにお宅の書斎のすばらしいことは! 僕、この風景画を知ってます。これはスイスの風景です。僕は、これはきっと本物を写生したんだと思います。また、この場所は僕が見たところに相違ありません、これはウリィ州の……」
「きっとそうでしょうよ。こちらで買ったのですけど。おい、ガーニャ、公爵に紙を差し上げて。さあ、ここにペンと紙がありますよ、ここのテーブルへいらしてください。なんだね、これは?」とこの時、紙挾みから大型の人物写真を取り出して、将軍に差し出したガーニャのほうを向いた、「や! ナスターシャ・フィリッポヴナだ! これは、君に自分で送ってよこしたのかね、自分で?」彼は威勢よく、かなりの好奇心をいだきながらガーニャに尋ねた。
「わたしがお祝いにまいりましたらすぐにくだすったんです。かなり前にお頼みしといたものですから。ひょっとしたら、今日のような日に、空手で贈りものを持たずに行ったという、当てこすりかもわかりません」とガーニャは不愉快そうにほほえみながら付け足した。
「なあに、そうじゃないよ」と、確信ありげに将軍はさえぎった、「実際、きみの頭の調子は変だなあ! あれが当てこすりをするなんて……また、あれは欲ばりじゃないよ、それに、あれに君は何をやろうっていうのさ! やるとなれば、二千、三千といるじゃないか! それとも写真をやるつもりなのかね? ときに、どうだねあれは君にも写真をくれって言わなかったかえ?」
「いいえ、まだです、ほんとに、ことによったら、いつになっても言わないでしょうよ。ねえ、イワン・フョードロヴィッチさん、あなたはむろん今晩の会のことを覚えてらっしゃるでしょうね? あなたは特に招《よ》ばれた側なんですからね」
「覚えてるとも、むろん、覚えてるとも。そして行くつもりだよ。あたりまえよ、二十五の誕生日だもの! ふむ!……ねえ、ガーニャ、しかたがないから打ち明けるけれど、しっかりしろよ、あれはね、今夜、気があるかないか、はっきりした返答をするって、トーツキーと僕に約束したんだからな。だから、ほんとに気をつけろよ」
ガーニャは急に、顔がいくぶん、青ざめるほどどぎまぎした。
「ほんとにそう言ったんですか?」と聞いたが、その声は震えているようであった。
「おととい、約束したのさ。おれたち二人がうるさく付きまとって、しかたなくそう言わしたんだ。でも君にだけは、当分言ってくれるなって」
将軍はしげしげとガーニャを見つめた。ガーニャの困っている様子は、明らかに将軍のお気に召さぬらしかった。
「でも、イワン・フョードロヴィッチさん、あなたは覚えてらっしゃいますか」とガーニャは心配そうに、ためらいながら言った、「あれはこの一件を自分で決めるまでは、絶対に決定する自由を与えると言いましたよ、それに、いくらあの人が決めたからって、万事は私の意志ひとつなんですからね」
「じゃあ、君は……じゃあ、君は……」と将軍はたちまち驚いた。
「私はなんでもありません」
「冗談じゃないよ、君はいったい、僕たちをどうしようっていうんだ?」
「お断わりはしていないじゃありませんか。きっと、言い方が悪かったのかもしれませんが……」
「むろん、断わってたまるもんか!」と、将軍はいまいましげに、またそのいまいましさを押さえようともせずに言いだした、「いいか、君、もう君が断わらないってことは問題じゃないんだぜ。君があの人の約束に応ずる時の覚悟だとか、満足だとか、喜びだとかが問題なんだ……で、家のほうはどうなってるんだ?」
「家のほうって? 家のほうは万事わたしの意志ひとつです。ただ例によって親父がばかなまねばかりしてるんです。もっとも、親父は全くの道楽者になっちゃったんですから、もうあんなやつとは口もききません。でも手綱はちゃんと控えてますがね、実際、おふくろさえいなかったら、出てってもらうんです。母は、むろん、いつも泣いてばかりいるし、妹は疳癪《かんしゃく》をおこしてるんで。わたしは、とうとうあの人たちにじかに言ってやりましたよ、おれは自分の運命をになっている主人なんだから、家でもおれの……言うことを聞いてもらいたいもんだと。少なくとも妹には、母のいる前で、十分に言い含めてやりました」
「ところでね、君、僕は解《げ》せないんだけど」将軍はいくらか肩をすくめ、かすかに両手をひろげながら、物思わしそうに言った、「ニイナ・アレクサンドロヴナさんがね、覚えてるだろう、やはり先だってやって来られたとき、しきりにうなったりため息をついたりして、『どうしたんですか?』って聞いてみたのさ。すると、なんだか不名誉《ヽヽヽ》ででもあるように考えてるらしかった。何がいったい、不名誉なんだろう、え? 誰が、どんなことでナスターシャ・フィリッポヴナの悪口を言ったり、後ろ指をさしたりできるんだろう? トーツキイといっしょにいたのが悪いっていうのかしら? しかし、そんなことを言ったって、特にあんな事情がある際なんだから、何も意味のない話だ。『あなた、あんな女をお宅のお嬢さんのそばへは寄せつけないでしょうね?』だなんて。へん! なんていうことだ! ニイナ・アレクサンドロヴナも相当なもんだ! いったい、どうしてわからないんだろう、どうしてわからないのかなあ……」
「自分の身分をですか?」とガーニャはあとが言えなくなって困っている将軍に口添えした、「わかってはいるんですよ、どうぞ母に腹を立てないでください。でも、私はあの時に他人のことにくちばしを入れないようにって、ようく言い含めておきました。でも、家のほうでは、まだいよいよのところは決まらないでいる――ということにして家の者を押さえつけているんですが、嵐はきっとやって来ますよ、で、今日もし、このいよいよの話をしてしまえば、自然、万事を言ってしまうことになりましょう」
公爵は片隅に坐って、筆跡見本の文字を書きながら、この会話をすっかり聞いていた。字のほうが済むと、テーブルに近寄り、書いた手紙を差し出した。
「全く、これはナスターシャ・フィリッポヴナですか?」彼は熱心に、好奇心にもえながら写真を眺めて口を切った、「すばらしい美人だ!」と彼はすぐに熱のこもった調子で付け加えた。写真には、たしかになみなみならず美しい女の姿が写っていた。女はきわめて質素な、しかも優雅な当世風の黒絹の服を着て写っていた。髪は見たところは、暗い亜麻色らしく、家にいるときのように無造作に束ねられていた。眼は暗く、深みがあり、額は物思わしげに、顔の表情は情熱的で、なんとなく傲《おご》っているようなけはいが感ぜられた。彼女はいくらか細おもてで、ひょっとしたら青白そうにも思える……。ガーニャと将軍は驚異の眼をみはって、公爵を眺めた……。
「なに、ナスターシャ・フィリッポヴナ! ナスターシャ・フィリッポヴナをも、あなたはもう御存じなんですか?」将軍はこう尋ねた。
「ええ、まだロシアへ来てから、まる一日にしかならないのに、もう、こんな絶世の美人を知ってますよ」と公爵は答えて、ラゴージンと会ったことを話し、彼が物語ったことを余すところなく告げ口した。
「そうら、またニュースができた!」将軍はきわめて注意深げに公爵の物語を傾聴していたが、またもや不安になって、ガーニャの顔色をうかがうような眼をした。
「きっと、ただの乱痴気さわぎでしょうよ」やはりいくぶんうろたえたガーニャがささやいた。「商人《あきんど》のせがれが放蕩してるんですよ、わたしももう、そいつのことはなんだか聞いたことがあります」
「うん、僕も聞いてるよ」と将軍があとを引きとった、「あの耳環の話があったあとでナスターシャ・フィリッポヴナが変なことを一部始終話してくれたのさ。だが、今度の話は別じゃないかな。今度は、ひょっとすると、実際に百万ルーブルという大金が控えてるかもしれん……おまけに、情熱を、たとい醜い情熱でも、とにかく情熱というものをもってるような気がするよ、それにこんな先生たちは酔いにまかせてなんでもやっつける腕前があるんだし!……ふむ!……また何か変なことがおこらなければいいが!」と将軍は思案げにことばを結んだ。
「あなたは百万ルーブルがこわいんですか?」とガーニャはほくそえんだ。
「君はこわくないんだろうな、もちろん?」
「あなたにはどういう風に見えましたね、公爵」と、いきなりガーニャは彼のほうを向いた、「その人は何かまじめそうな人でしたか、それともただの道楽者でしたか? あなた自身の御意見は?」
ガーニャがこの質問をした時、彼の心のなかには何かしら特別な気持がおこった。たしかに新しい、特別な、ある一種の観念が脳裡にひらめいて、性急に眼のうちに輝きだしたのである。心から率直に心配していた将軍も、同じように公爵を流し目に見たが、そうかといって別に相手の返事に多くを期待しているようなけはいもなかった。
「さあ、なんて申し上げたらいいでしょうね」と公爵は答えた。「ただ、僕には、あの人が、はちきれるような情熱を、むしろ何かしら病的な情熱をもっているような気がしました。それに、あの人は自分がすでに、すっかり病身らしいんです。たぶん、ペテルブルグへ来て、さっそく、また寝つくでしょうよ、ことに、道楽でもしだしたら」
「そうですか? あなたはそういう気がしたんですね?」と将軍は公爵のことばに取りすがった。
「ええ、そうです」
「でも、そういったような変なことは五、六日のうちどころか、今日の日暮れまでにでも起こるかもしれませんよ、たぶん、何かがつきまとってくるでしょう」とガーニャは将軍に薄笑いをしてみせた。
「ふむ!……むろん……そんなことがあるかもしれん、その時にはもう、あの女がどんな気持になるかという、ただそれだけが問題なんだ」と将軍は言った。
「時に、あなたはあの人が時おりどんな風な女になるか御存じでしょうね?」
「って、つまり、どんな風にさ?」と非常に気をもんで、将軍はまたもや飛び上がらんばかりの気勢であった、「いいかえ、ガーニャ、君は今日頼むから、あの人にあんまりさからわないようにしてくれよ、そしてなるべく、なにさ、よく、つまり気に入るように……ふむ!……なんだってそんなに口をゆがめるんだ? あのね、ガヴリーラ・アルダリオヌィチ君、いいついでだ、ほんとにいいついでだから言うけど、なんだって僕たちは、こうしてやきもきしてるんだろう? いいかえ、この問題に含まれている僕一個の利益ということになると、僕はすでに保証されてるんだ。僕はとにもかくにも、自分の都合のいいように事が決められる。トーツキイもきっぱりと決心したことだ、したがって、僕も全く信頼しきっているんだ。だからこそ、今僕が何を望んでるかって言ったら、ただ一つ君の利益ということがあるばかりだ。おまけに、君は……たしかに、……なんだ……一言にして言えば、物わかりのいい人間だ、その君に僕は期待したのだ……で、それが、今の場合、それが……その……」
「それが大事なことなんでしょう」と、またもやあとの句がつげずに困っている将軍を助けて、ガーニャは口をはさんだが、彼は口をすぼめて、かなりに毒を含んだほほえみをもらし、しかももう、それを押しかくそうともしなかった。彼は熱しきった眸《ひとみ》を、将軍の方へまともに向けたが、まるでその様子は、眼つきを見て、こちらの思っていることをすっかり読みとってくれとでも、望んでいるかのようであった。
「うむ、そうだ、物わかりがいいということは大事なことだ!」と将軍は鋭くガーニャを見つめながら相づちをうった。「だが、君はまたおかしな人間だねえ、ガヴリーラ・アルダリオヌィチ君! 君はまるで、あの商人《あきんど》のことを、自分のいい逃げ道でも見つけたかのように喜んでるんじゃないかね。僕にはそう見えるんだ。たしかに、このことは、最初からはっきりと分別をつけてからかからなければならなかったんだ。つまり、はっきりと理解し合って……公明正大に双方から出なければ……その、互いに迷惑をかけないようにと、あらかじめ断わっておく必要があったのだ。まして、それには十分に時日もあったのだし。いや、今だって、十分に余裕はある(と将軍は意味ありげに眉を立てた)、たとい晩までに五、六時間しかないといっても……。君、わかったかえ? わかったのか? 実際のところ、気があるのか、ないのか? いやなら、いやと言ってくれ、どうぞだから。誰もあんたに、ガヴリーラ・アルダリオヌィチ君、強要しているわけじゃないし、誰も君をむりやりに罠《わな》にかけようっていう者はいないんだ、もし君が罠でも仕掛けてあるように思ってるんだったら」
「僕は気があるんです」とガーニャはかすかにではあったが、きっぱりとこう言って、眼を伏せ、暗い顔をして黙り込んでしまった。
将軍はいとも満足であった。将軍はいささか憤ったが、今はあまりに立ち入りすぎたことを後悔しているらしかった。彼は不意に公爵のほうを向いたが、公爵がそこにいた以上は、ともかくも話が彼の耳にはいっているはずだという不安な気持が彼の顔にふと浮かんだかのように思われた。しかし、彼はたちまちにして意を安んじた。ただ一目、公爵を見ただけで、すっかり意を安んずることができたのだ。
「おお!」と将軍は、公爵の差し出した筆跡の見本を見ながら声高く叫んだ、「これは、手本じゃないか、まるで! しかも珍重すべき手本だ。ちょっとごらんよ、ガーニャ、なんていう腕まえだろう!」
公爵は紗《さ》の織り目のついた厚い紙に、中世ロシアの書体で次の一句を認《したた》めていた。
僧院の長パフヌーチイみずからこれに署名す
「これはつまり」と公爵は非常な満足と生気に動かされて説明した、「これは僧院長パフヌーチイの自署で、十四世紀の写しから採ったものです。この国の僧院長とか大司教とかいう人はみんな立派な署名をしたものですが、それもときにはなんともいえない趣向をこらしていたり、力がこもっていたりして! 将軍、あなたのところには、せめてパゴージン版ぐらいのものはありませんか? それから、僕はね、ここへは別の書体で書いてみました。これは丸まった、太いフランス書体の前世紀のものです。ある字なんかは、まるで別なように書いてありますが、これは通俗的な書体で、民間の書家の書体なんです。僕はこれをそのころの手本から借りてきました(ちょうど、手本が一冊ありましたので)、さあ、どうです、品がないこともないでしょう。この丸まったdやaをごらんなさい。僕はフランスぶりをロシア文字に移したのですが、とてもむずかしいことでしたよ、まずうまくはできましたが。それから、これもまたきれいで奇抜な書体でしょう。この一句をごらんなさい。『努力はすべてに打ち勝つ』というのです。これはロシアの、書記の書体、あるいは陸軍書記の書体とでもいうべきものでしょうね。重だった人のところへやる公文書はこんな風に書くものです。これもやっぱり丸まった書体で、見事な、墨の色の濃い書体ですが、実に味わいがあるものです。能書家だったらこんな飾り文字、というよりはむしろ文字らしくしようとするやり方、ほら、つまり、この結びのぐあいを半分でよしているところなんかは気に食わないでしょうね、――でも、ごらんなさい――全体として見ると、これがかえって持ち味になるじゃありませんか。実際、よく見ると、ここに陸軍書記の精神がすっかり現われているんですね。才気が十分に発散しようとしているのですが、軍服の襟が窮屈にホックをかけていて、軍律というものが筆跡にもあらわれているわけです。すばらしいものです! 僕は一冊の手本に実におどかされましたよ、偶然に見つけたんですがね、いったい、どこだと思います? スイスでなんですよ! さてこちらのは素朴な、ありふれた純粋のイギリス書体なんですが、これは美の極致というべきものでしょう。どこをとって見ても、すばらしく、まるでガラス玉です、真珠です。それでいて完成されています。しかも、ここに変化《ヴァリエーション》というものがあるんですね、つまり、フランス風に変化さしてある。僕は田舎まわりのあるフランスの注文とりから習いました。前のと同じくイギリス風の書体ではありますが、黒い線が、ほんのちょっぴりイギリス風のものよりは黒くて太いでしょう。だから、空間の均斉《プロポーション》がこわされているのです。それに、ごらんなさい。この楕円形《オーヴァル》が変わってるでしょう、ほんのぽっちり、丸みが勝って、そのうえに飾り文字をも許していますが、飾り文字というやつは実に危険なものです! 飾り文字なるものはなみなみならぬ味わいが伴わなければなりません。しかし、手ぎわがうまくいって、均斉がとれた時には、この書体にはどんな書体も比べものにはなりませんからね、見ていて、たまらなくなるくらいですよ」
「おおう! まあ、あなたは実に微に入り細をうがってますね!」と将軍は笑った、「しかも、あんたはもう単に能書家というだけでなく、美術家ですねえ、え? どうだい、ガーニャ?」
「すてきですねえ?」とガーニャが言った、「それに自分の使命というものを自覚してもいらっしゃるんだし」と彼は、皮肉な笑いを浮かべながら付け足した。
「まあ、笑うがいい、笑うがいい、だが、ここに世の糸口があるんだ」と将軍は言った、「ねえ、公爵、今度は立派な人に宛てた書類を書いていただきましょう。あんたはすぐにでも初めから月三十五ルーブルはとれますよ、だが、もう十二時半だ」と彼は時計を見て、その話を結んだ、「では公爵、用件にかかりましょう。僕は急がなくちゃならんし、それに、ひょっとすると、今日はお目にかかれないかもしれないから! では、まあちょっとお坐んなさい。僕は先刻お話ししたとおり、そうそうたびたび、お目にもかかれませんからね。でも、ほんのちょっぴりでも、心から御助力したいとは思っています。むろん、ほんのちょっぴり、つまり、どうしてもこうしてもお助けしなければならんことがあった場合にです、そのほかの場合にはあんた御自身でおよろしいようになすってください。まず、どこか役所の口を捜してみましょう、あまり窮屈でないのを。しかし正確にやらなけりゃなりませんよ。それから、ずっと先へ行ってのことですが、家では、つまりガヴリーラ・イヴォルギンの家庭では、ここにいるのがその御当人で僕の若い友だちです。あなたもなにとぞお近づきになってください。で、この人の家庭ではお母さんと妹さんが、お家の道具付きの部屋を二つ三つ明けて、いい紹介のある人に、賄《まかな》いと召使をつけて貸しておられる。僕の紹介ならばきっとニイナ・アレクサンドロヴナさんも承知してくださるでしょう。公爵、この家は願ったり叶ったりですよ、なぜといって、ひとりぽっちでなくなって、いわゆる家庭のふところにはいることになりますからね。それに、僕の見るところでは、あなたはペテルブルグのような大都会には、最初からいきなり飛び込めそうにもありませんからね。ニイナ・アレクサンドロヴナさん――これはお母さん、それからワルワーラ・アルダリオノヴナさん――これは妹さん、――このお二人は、僕が非常に尊敬している御婦人がたです。ニイナ・アレクサンドロヴナさんは、僕が隊にはいったころの古い友だちで、今は退職なすっているアルダリオン・アレクサンドロヴィッチ将軍の奥様です。将軍とは今は僕は少しばかり事情があって交渉を絶っていますが、さればといって、ある意味での尊敬の念は今もなお失わずにいる次第です。こういうことを何もかもあなたに説明するのは、実はね、公爵、僕があなたを、いわば、個人的に紹介し、したがって、あなたの身の上を保証するという立場にあるということを、はっきりと了解しておいてもらいたいからです。下宿料は実に手ごろだしするから、間もなくあなたの月給だけで、十分に間に合うようになるだろうと思っています。たしかに人は、たといほんの幾らかでも、小遣銭《ポケット・マネー》が必要なものですが、まあ、怒らないでくださいよ、ぶしつけに言うと、あなたは小遣銭《ポケット・マネー》、いやだいたいがポケットへお金なんかを入れておかないほうがいいようです。あなたを一見して、そういうことを言うわけなんですが。しかし、さしあたり、財布《さいふ》が空だというのですから、万一のために、失礼ですけれども、この二十五ルーブルをお納めください。むろん、御都合のいい時で結構です。あなたが実際におことばでお察ししているような正直な、また誠実なおかただとすれば、何もやっかいなことが、起こる気づかいはないわけです。僕が、こんなにあなたのお世話をやくのは、あなたのことについて、僕がある目的ともいうべきものをもってるからなんですが、それはあとでよくおわかりになりましょう。ねえ、公爵、僕はあんたの前で本当にざっくばらんなんですよ、たぶん、ガーニャ、君は公爵が君の家へ下宿することに、別に異存はないだろうね?」
「おお、とんでもない! おっ母さんもきっと大喜びでしょう……」とガーニャは丁寧に親切そうに言った。
「君のところで塞《ふさ》がっているのは、ただ一間《ひとま》だけだろうね。あれは、なんてったけな、フェルド……フェル……」
「フェルデシチェンコ」
「うん、そうだ、おれはあの、君んところにいるフェルデシチェンコが気に食わないんだ。やけにだらしない、ふざけた野郎だな。なんだってナスターシャ・フィリッポヴナがあんなにおだてるのか、気が知れん。それに本当にあの人の親類になるのかえ?」
「いいえ、違います、みんな冗談ですよ! 親戚らしいけはいもないくらいです」
「まあ、あんなやつはどうでもいい! さあ、公爵、あなたはどうです、それで満足ですか、それとも?」
「ありがとう存じます、将軍、よくも私に親切にしてくださいました。別に僕のほうからお願いしたわけでもなかったのですから、いっそうかたじけないしだいです。僕はこんなことを自尊心によって言ってるわけではありません、本当に。僕はどこへ身を寄せたらいいのかわからなかったのです。ラゴージンが、さっき、僕に来いと言ったのは本当のことでしたけども」
「ラゴージン? いや、だめです。僕は親身の者として、と言って悪ければ、友だちとして忠告しますが、ラゴージンのことは忘れてしまいなさいよ。そして、だいたい、あなたは今度いらっしゃる家庭に親しまれるよう、お勧めしますよ」
「あんたがそんなに親切にしてくださるのでしたら」と公爵は言いだしていた、「僕は一つお頼みがあるんです。実はこういう知らせを受け取ったのですが……」
「まあ、御免なさい」と将軍はさえぎった、「もう一分間の余裕もありません。今すぐにあなたのことをリザヴィータ・プロコフィーヴナに言いましょう。もしあれが今あなたにお目にかかりたいようでしたら、(なるべくよろしきように紹介しますが)、そしたらこのいい機会を利用して、気に入るようにしたらいいでしょう。リザヴィータ・プロコフィーヴナは十分あなたの味方になってくれるでしょうからね。なにしろ同姓のよしみがありますから。またもし、会いたがらないようでしたら、無理にとおっしゃらないで、また今後の時になさるんですね。それから、ねえ、ガーニャ、ちょっとその間に、この勘定を見てくれないかえ。さっき、フェドセーエフと骨折ったんだけど。このほうも忘れずに勘定に入れといてくれ」
将軍は出て行った。公爵はこうして、ほとんど四たびも言いかかっていた用事を話せないでしまった。ガーニャは巻煙草をのみだして、公爵にも一本すすめた。公爵はそれを受け取ったが、邪魔をしてはいけないと考えて、話もせずに書斎を見まわし始めた。ところがガーニャは将軍から仰せつかった、数字のいっぱいに書いてある紙きれにはほとんど眼もくれなかった。彼はぼんやりしていた。二人きりになると、公爵の眼には、ガーニャのほほえみや、眼つきや、思案そうな様子がいっそう重苦しく感じられてきた。不意に彼は公爵のほうへ近づいた、公爵はその時、またもやナスターシャ・フィリッポヴナの写真のところへ立って、つくづくと写真を眺めていた。
「こんな女が、そんなにお好きなんですか、公爵?」と射るような眼つきで公爵を見ながら、彼はいきなりこう聞いた。彼はまさしく、並みたいていではない下心をもっているらしかった。
「すばらしい顔です!」と公爵は答えた、「きっとこの人の運命はあたりまえのものじゃないと思いますね。楽しそうな顔をしているけれど、ひどくこの人は苦労をしたんじゃないかしら、え? 眼を見ればわかりますよ。この眼の下の頬のうえにあるこの二つの小骨《こぼね》、この二つの点でわかりますよ。これは傲慢《ごうまん》な顔ですね、おそろしく傲慢な、しかし気立てのいい人かどうかはわかりませんが。ああ、もし善い人だったら! 何もかも救われるんだがなあ!」
「でも、あんただったらこんな女と結婚するかしら?」とガーニャは、燃えるような眼をじっと相手のほうに注ぎながら言い続けた。
「僕は誰とも結婚できないんです、からだが弱いもんですから」と公爵は答えた。
「では、ラゴージンなら結婚するでしょうか? どうお思いになります?」
「どうでしょうね、結婚ならば明日にもするだろうと思いますよ、でも結婚したら、おそらく一週間もしたら殺してしまうでしょうよ」
公爵がこう言いきったかと思うと、たちまちガーニャがひどく身ぶるいしたので、公爵は今にも叫びださんばかりであった。
「どうしたんです?」と彼はガーニャの手をつかまえながら言うのであった。
「公爵様! 奥様のところへおいでになるようにと閣下の仰せでございます」と侍僕が戸口にあらわれて、こう伝えた。
公爵は侍僕のあとをついて出て行った。
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エパンチンの娘は三人が三人とも健康で、今が花ざかりといってもよいように成育して、背が高く、立派な肩をし、張りきった胸に、男のようにたくましい手をしていた。もちろんのことではあるが、こうした体力や健康の結果として、ときには好んでよく食べ、しかもけっしてそれを隠そうとはしなかった。
母なる将軍夫人リザヴィータ・プロコフィーヴナは時おり娘たちの無遠慮な食欲を横目でにらみつけることもあったが、娘たちの母に対する態度が、上べはうやうやしそうにしていながら、その実、夫人の意見がある場合には娘たちの間に、もうかなり以前から、昔のような絶対的な権威というものを失い、あまつさえ、三人の娘たちが絶え間なくやっている共同の秘密会議が、これを圧倒しかかっていたので、ついに将軍夫人のほうでも自分の威厳を保つためには、しいて争わずに、妥協したほうがずっと都合がいいというように考えるようになった。もっとも、本来の性質というものが、いかに正しい分別によって決心をしても、これに承服のできないことが実にしばしばあることは、たしかな事実である。リザヴィータ・プロコフィーヴナも寄る年波につれて、いよいよ気まぐれになり、しんぼうが足りなくなって、今は一種の変屈者にさえもなっていた。しかもなおかなりにすなおな、世なれた将軍が手近にいるので、胸に積もった激しい感情は、たいていはこの人の頭に浴びせかけていた。すると家庭の調和はまた元どおりになって、何もかもが、このうえもないほどうまく納まってゆくのであった。
そうはいうものの、夫人自身も食い気をなくしているわけではなかった。たいてい十二時半には娘たちといっしょに、ほとんど昼食と同じように豊富な朝の食卓につくのである。娘たちはもっと前、ちょうど十時に眼をさますと、まず床の中でコーヒーを一杯ずつ飲んだ。それが娘たちの好みであったから、これはいつもの習わしということになってしまったのである。十二時半になれば、母の部屋に近い小さな食堂に食卓の用意がととのえられる。もしも時間の都合がつけば、将軍自身もまたこの家庭的な水入らずの朝食に加わる。お茶、コーヒー、チーズ、蜂蜜、バタ、夫人の大好きな、特別な揚げ物、カツレツなどのほかに濃厚な熱い羮《あつもの》までが並べられる。
この物語が始まった朝には、家じゅうのものが食堂に集まって、十二時半までに来ると約束した将軍を待ちうけていた。もしも将軍がたとい一分なりとも遅れたら、すぐにでも迎えに人をつかわしたであろう。ところが将軍は正確にやって来た。彼はあいさつかたがた、その手に接吻するために夫人のほうへ近づきながら、夫人の顔にこの時に限って、何かしら特別なもののあることを見とめた。もっとも前の晩から、今日はある|変なこと《アネクドート》が(これは彼の口癖であるが)起きて、こんなことになるだろうと予感して、昨夜は床についてからも、そのことを心配していたのであったが、いよいよとなるとやはりまた気おくれがするのであった。娘たちは彼のところへ来て接吻した。別に娘たちは怒っているわけではなかったが、しかし、そこにはやはり何かしら特別なものがあった。実際、将軍はいろんな事情のために、よけいなことにまで疑い深くなっていた。けれど酸いも甘いも知りつくした如才のない父であり、良人《おっと》でもあったから、彼はすぐに適当の手段を講じた。
ここで道草を食って、この物語の初めに出てくるエパンチン将軍一家がどういう関係にあり、どういう境遇にあるかということを直截《ちょくさい》に、かつきわめて明確に順序を立てて、わかりよく説明することにしても、たぶん、この物語の本筋をそれほど傷つけることにはならないであろう。前にもいったように、将軍自身はそれほど教育のある人ではなく、かえって、将軍のことばではないが、一介の独学者であった。しかもそれにしても彼は世なれた良人であり、如才のない父であった。それはそうと、彼は娘たちの結婚を急ぐまい、すなわち、『娘たちの心の中にまで立ち入るまい』、娘たちの幸福を思う親の情によってかえってつらい思いをさせないようにしようという方針をとっていた。こんなことは年ごろの娘が寄り集まっているきわめて思慮分別のある家庭においてさえも、絶えず、知らず識らずの間に、自然に起こる不幸なのである。彼はついにはリザヴィータ・プロコフィーヴナをもこの方針に傾かせるに至った。
もとより困難なことではあった。困難なことというのは、そもそもが不自然なことだからである。が、将軍の論法はまことに意味のあるもので、卑近な例に基づいていた。それに娘たちも、全く自由意志に任されているとなれば、ついにはやむなく、はっきりとした分別によって相手を選ばなければならなくなるであろう。気まぐれによけいな選り好みをして勝手なことをするからこそ問題というものが起こるのである。両親はただ油断をせずにできるだけ眼につかないように、何かしら変な選択や、あるいは不自然な忌避などをしないようにと眼をつけて、やがて、潮時を見はからって、一気にあらん限りの力を尽くして加勢し、ありたけの感化力をもって事を導いてやりさえすればよかったのである。最後にいま一つ、よいことには、年とともに一家の財産および世間的な地位が、等比級数のように成長していったことである。つまり、時がたてばたつほど、娘たちが、ただ単に花嫁候補者としてでもいっそう有利な立場に上ることができたのである。
ところが、こういったような厳然たる事実のうちにも、なお一つの事実が到来したというのは、忽然《こつぜん》として、全くほとんど思いがけない間に(よくあることではあるが)長女のアレクサンドラが二十五歳を越してしまったことである。ほとんど時を同じゅうして、アファナシイ・イワーノヴィッチ・トーツキイという非常な金満家で、上流社会の縁故のある上流人が結婚をしたいという昔からの希望を今また新たに発表した。この人は年は五十五ほどになる粋な性質の人で、なみなみならぬ洗練された趣味の持ち主であった。彼はきれいな人を妻として迎えたがっていた。彼は非常なきりょうごのみであった。いつごろからかエパンチン将軍とはなみなみならぬ誼《よし》みを結び、特に、いろんな金融事業に共に関係するに至っていっそう親密の度を加えていった。そんなことから彼は将軍に対して、胸中を打ち明けたのであった。いわば、親友としての忠言と指導を求め、彼の娘のうちの一人と結婚するつもりになってもいいものかどうかを尋ねたのである。エパンチン将軍の家庭生活の静かな美しい流れに、明らかに一つの変化がおこった。
家族のうちでの美人といえば、なんといっても、前に述べたように末の娘のアグラーヤであった。が、極度に利己的なトーツキイですらもが、アグラーヤに望みをかけるわけにはいかない、アグラーヤは自分の妻になる女ではないということをよく知っていた。ことによったら、姉たちのいくらか盲目的な愛情や、あまりにも熱烈な友愛の情が、事柄を誇張していたかもしれないが、アグラーヤの運命はすでに彼女たちの間に、最も真実な道をたどって単なる運命ではなく、実現しうべきこの世の楽園の理想になるように決まっていたのであった。アグラーヤの未来の良人は富貴については言わずもがな、あらゆる完璧とか成功とかの持ち主でなければならぬ。姉たちは口に出して仰々しくは言わなかったが、もしその必要があれば、アグラーヤのためには身をいけにえにしてもいいと考えていた。アグラーヤの持参金としては全く並みはずれな額が予定されていた。
親たちは二人の姉たちがいつも心を合わせていることを知っているので、トーツキイから相談をかけられたときも、二人の姉たちのどちらかが親の望みを必ず容れてくれるものとほとんど信じきっていた。おまけにアファナシイ・イワーノヴィッチ・トーツキイも持参金のことを、かれこれと言いはすまいと考えていた。トーツキイの申しいでを将軍自身は彼一流の処世観によって、初めからありがたがっていた。が、トーツキイ自身が、その間にも、いろんな特殊な事情によって、一歩一歩非常な用心をして様子を見ながら、探りを入れてばかりいるので、親たちも、かなり遠回しな臆測みたいな体裁で娘たちに相談をかけるばかりであった。これに対する返答として、娘たちのほうからも、やはり全然というわけではないが、相当に漠然とした、しかも少なくとも親たちの意を安める程度の言質がもらされた。それは長女のアレクサンドラがおそらく断わりはすまいということであった。この娘はしっかりした性質の娘であったが、気だてがよくて、物事がよくわかって、かなりに愛想がよかったから、トーツキイのところへもむしろ喜んで行くかもしれなかった。また、約束をしたからには、正直に履行もしたはずであった。派手なことがきらいで、めんどうなことや、急に心変わりする気づかいがないばかりではなく、良人の生活を愉快にし、安らかにすることもできたであろう。それほど印象的な女ではなかったが、かなりに立派な女であった。トーツキイにとってこれ以上、何を望むことがあろう?
それにしても、事は依然として手探りの形で進行していた。トーツキイと将軍との間は、打ちとけて、友だちらしく、ある時機が来るまではあらゆる形式的な取り返しのつかぬようなことはしないことにしてあった。そこで親たちでさえも、やはり娘たちとは何もかも明けすけに物を言おうとはしなかったのである。やがてなんとはなしに破調が起こりかかったかのように思われた。家庭の母であるエパンチン将軍夫人も、これというわけもなく、不機嫌になってきた。これは実にゆゆしいことであった。そこには、いっさいを妨げる一つの事情、一つの容易ならぬ、やっかいな偶然のこと、それがためには万事の調子が取り返しがつかぬまでに狂ってしまうほどのことがあったのである。
この容易ならぬ、やっかいな『偶然のこと』(これはトーツキイの言いぐさであるが)は、かなり昔、およそ七、八年も前に始まったことであった。中部地方の県にあるトーツキイのきわめて裕福なある領地と隣り合って、あるきわめて貧しい小地主が、かなり貧しい暮らしをしていた。これは絶え間なしに、風変わりな失敗を重ねているので有名な男であったが、もとは貴族の名門から出た退職の士官で、この点から見れば、トーツキイ以上で、その名をフィリップ・アレクサンドロヴィッチ・バラシコフといっていた。さんざん借金をこさえ、何から何まで質に入れていたが、ついに彼は非常につらい、ほとんど土百姓のような労役までして、やっとのことで、ささやかな財政を見事に建てなおすことができた。いともささやかなこの成功によって、彼はひとかたならず元気づけられた。元気づいて、希望にかがやく彼は、おもだった債権者の一人に会って、うまくいったらきれいさっぱり話をつけてしまおうと考えて、五、六日の間、郡役所のある町へ行っていた。町へ来てから三日目に、彼の村から、頬の焼けただれ、髯《ひげ》の焼けちぎれている名主が馬に乗ってやって来て、昨日の正午に、『あなたの親代々の家が焼けてしまい』その際、『奥様も焼死なされて、お子供衆だけが無事に生き残っておいでになる』と、報告するのであった。この事変には、さすがに『運命の苛酷な笞《むち》』に慣れているバラシコフも堪えられなかった。彼は気がちがって、一か月の後には熱を病んであの世の人となった。焼けた領地は、路頭に迷っている百姓もろとも、借財があったために人の手に渡された。バラシコフの六つと七つになる女の子二人はアファナシイ・イワーノヴィッチ・トーツキイの生まれながらの義侠心によって、彼が金を出して教育してやることになった。二人は退職官吏で、家族の多い、しかもドイツ人であるアファナシイ・イワーノヴィッチ家の支配人の子供たちといっしょに教育されることになった。ほどなく残るはナスチャ(ナスターシャの愛称)という女の子ばかりになった。幼いほうの子が百日咳で亡くなったからである。トーツキイは外国に暮らしていたので、たちまちのうちに全く二人の女の子のことなどは忘れてしまっていた。
五年ほどして、ある時、トーツキーは道すがら自分の領地をのぞいてみようと考えた。さて行ってみると、村の自分の家で、使っているドイツ人の家族にまじって、まことに美しい子供がいるのに気がついた。年は十二ばかりの、活発な、可愛らしい、利発な、大きくなったなら必ずなみなみならぬ美しい女になろうと思われる女の子であった。この道にかけてはトーツキーはけっして眼鏡に狂いのない通人であった。このとき、彼は五、六日しか領地にはいなかったが、いろんな処置をつけて行った。やがて、女の子の教育にいちじるしい変化が生じた。人から尊敬をうけている初老の婦人の家庭教師が招聘《しょうへい》された。女子の高等教育に経験のあるスイス人で、教養があり、フランス語のほかにいろんな学問をも教えている人であった。この女が田舎の家に移って、幼いナスターシャの教育ははなはだ大がかりになった。ちょうど、四年たって、この教育は終わりを告げ、家庭教師は出て行ったが、そのあとへは、やはり地主で、やはりトーツキイと領地を隣り合わしている(別の遠くの県でではあるが)、一人の婦人がやって来て、トーツキーからのさしずと委任とに従って、ナスチャを連れて帰った。この小さな領地にも、大きくはないが新しく建ったばかりの木造の家があった。その家は特に華やかな装飾を施され、また、村は村で、わざわざ付けたかのように、「安楽村」という名が付けられていた。女地主はまっすぐにナスチャをこの静かな家へ連れて来た。自分は子供のない孀《やもめ》で、今まで一|露里《エルスター》ほど離れたところに暮らしていたので、自分もここへ引き移ってナスチャといっしょに暮らすことになった。ナスチャのところへは年寄りの家政婦と、年若い世慣れた小間使がやって来た。また、家の中には、いろんな楽器、華やかな少女図書室、絵画、版画、鉛筆、絵筆、絵の具、見事な狆《ちん》などが置かれていた、二週間すると、トーツキーがみずからたずねて来た……。それからというもの、彼は何か妙にこの人里はなれた広野の村を愛して、毎年、夏になるとたずねて来て、ふた月、ときには三月も、居候になるのであった。こうして、かなり長い四年ほどの月日が過ぎていった。安らかに、幸福に、風流に、華やかに。
ある時、不意にこんなことが起こった、ある夏のことアファナシイ・イワーノヴィッチ・トーツキーが「安楽村」へ来て、今度という今度は、わずかに二週間そこそこで帰って行ったが、それから四月ばかりたった冬の初めごろ、トーツキーがペテルブルグで、金持の身分の高い、美しい人と結婚しようとしている、つまり、立派な派手な縁組をしかかっているという噂が広まった、というよりはむしろ、ナスターシャ・フィリッポヴナの耳にふとはいってきたのである。この噂は後になって、細かいところが全部が全部、正確なことばかりではないことがわかってきた。結婚はその時はまだ計画にすぎず、いっさいがまだきわめて取りとめのないことばかりであった。しかもなおナスターシャ・フィリッポヴナの運命にはこの時以来、非常な変化をきたした。彼女はたちまちなみなみならぬ決断力を示し、まことに思いもよらぬ性格を露わしたのである。じっとしばらく考えてもみずに、自分の田舎の家をあとにし、不意にただ一人ペテルブルグへ来て、わき目もふらずにトーツキイのところへ押しかけて行った。トーツキイは驚いて、口をききかかったが、急にほとんど最初のことばから、ことばづかいや声の調子、今まではこともなく口に上った愉快な洗練された会話の主題も論法も――何もかも、あらゆるものを今は全く変えなければならないことを悟ったのである。今、彼の前に腰をおろしているのは、全く別の女、今まで識っていてついこの七月に、「安楽村」に残して来たあの女とは、まるで似もつかぬ女であった。
この新しい女は、今にしてみれば、まず第一に非常に多くのことを知り、多くのことを識っている、――どこからこれほどの知識を得られたのか、かように正確な理解力をどうしてつくり上げたのかと、舌を巻くほど多くのことを識っている(はたして、あの少女図書室の中から得たのであろうか?)。そればかりではない。彼女は法律上のことまでも実におびただしく識っており、世間の知識とはいえないまでも、少なくとも世間である種の事柄がどういう風に行なわれているかということについて、的確な知識をもっている。第二には、昔とはまるで違った性格をもっていること、すなわち、昔のなんとなくおどおどしていて、女学生のように取りとめがなく、ときとして奇抜ないたずらをしたり、無邪気なしぐさをしてほれぼれさせるかと思うと、ときには物悲しげに、ふさぎこんで、驚いたり、疑い深くなったり、涙もろく、そわそわしていたりした面影は、あとかたもなく消え失せていることがわかるのであった。
そうだ。今彼の前には、夢想だもしなかった人並みはずれたしろものが、声高らかに笑って、毒を含んだいやみを並べ立てながら、波を打ちのめしているのだ、自分の心のうちには、彼に対して実に実に深い軽侮《けいぶ》の念、最初の驚きののちに、ただちに湧きおこった嘔《は》きけを催すほどの軽侮の念のほかには、何もないのだと臆する色もなく申し渡しながら、また、この新しい女は、男がいま勝手に誰と結婚しようとも、そんなことは正直のところ、全くおかまいなしではあるが、ただ、男にこの結婚をさせまい、恨みからでも結婚させまいと思ってやって来たのだ、それというのもそうしたいからのことで、つまりそうさせなければならないからなのだと、そうも言うのであった。『まあ、せめて気がすむまで、あなたのことを笑って上げようと思いましてね。なぜって、今になってみれば私だって笑いたくなりますものね』
少なくとも、彼女はこれだけのことは言いのけたのである。もっとも心に思っていたことを、すっかり言ってしまったとは言えないかもしれぬ。しかしアファナシイ・イワーノヴィッチ・トーツキーは新しいナスターシャ・フィリッポヴナが声高らかに笑いながら、こんなことを言っている間に、心の中では、この事件をあれやこれやと思いめぐらしながら、いくぶん、調子の狂った自分の考えを、できるだけまとめていたのであった。やがて、この熟慮はかなり長く続いていた。彼は専心これに没頭して、最後の決心がつくまでにはおよそ二週間もかかったが、ついに二週間たって、いよいよ決心がついたのであった。問題は、そのころトーツキーが五十歳に近く、かなり押しも押されもせぬ位置についているということであった。一般社会および社交界における地位も、とうの昔に、きわめて堅固な基礎の上に築かれている。そこで、相当の人物ならば至極当然のことではあるが、彼もまた自分というもの、身の平和とか安楽とかいうものを、何ものにもまして愛しもし、尊びもしていた。今までの全生涯を賭して築き上げ、こうした美しい形態をかち得たものが、たとえ僅かなりとも侵されたり、動揺させられたりすることは、黙視するに忍びないことであった。また一面からは、今までの経験や物に対する深い見方が、トーツキイに、かなり早く、また非常に正確に、今、自分が相手にしているのは全く並みたいていのしろものではなく、このしろものは、ただ単に口で脅やかすばかりでなく、必ず実行するかもしれぬ、それに大事なことは、徹底的に向こう見ずな女であり、かてて加えてこの世のものを徹底的に軽んじているので、利をもって誘惑するなどということは不可能なことだと、ひそかに教えてくれたのである。
ここには、たしかに今までとは違ったものがあった。何かしら精神的な情緒的な濁りがほのかに感ぜられる――誰に対し、また何ゆえにということはわからないが、一種の小説風な憤恚《ふんい》の念や、全く常軌を逸した、一種のいやしがたい軽侮の念に類する何ものかが――一言にして言えば、極度に滑稽なものであり、教養ある社会では許しがたく、相当な人間がそんなものに引っかかるのは天罰を招く、といったようなものが潜んでいたのである。もとより、トーツキイの富や門閥をもってすれば、不愉快なことを避けるために、ほんのちょっとした、全くたわいもない悪事くらいはすぐにでもやれたはずである。また一面からいえば、ナスターシャ・フィリッポヴナ自身にも、相手を傷つけるようなことは、たとえば法律的な意味ででも、ほとんど何ひとつできないことは明らかなことであった。まして表だった破廉恥なことなどはできようはずがない。なぜというのに、この女を掣肘《せいちゅう》するくらいのことは易々たることだからである。が、こんなことは、ナスターシャ・フィリッポヴナが、一般に、誰もがこういったような場合にするように、あまりに度はずれに、常軌を逸した行動をとらないと心を決めた場合にのみ限ることである。
それにしても、ここで、トーツキイの正しい物の見方が役に立った。つまり、ナスターシャ・フィリッポヴナが自分でも法律的な意味でも彼を傷つけることができないことを十分に心得ていること、しかも考えていることは全く別のことで、……炯々《けいけい》たる眼光のうちにも全く違ったものがあることを悟り得たのである。何ものをも尊しとせず、自分自身をすらも極端に軽んじていたナスターシャ・フィリッポヴナは(この場合に、彼女がかなり昔から自分自身を尊重しなくなったということを悟り、その気持の真剣さを信ずるには、彼のように、懐疑派であり、世俗的な犬儒派の徒である者には、なみなみならぬ叡智と洞察力がなければならぬ)、たとい命がなくなろうと、醜い方法をとろうと、シベリアへ行こうと懲役になろうと、自分自身をいさぎよく滅ぼしうるのである。ただただ苛酷な嫌悪を感じている男を罵倒《ばとう》してやりたいのだ。トーツキーは自分がいくぶん、臆病、というよりはむしろ極端に保守的であることを、常にけっして押し隠しはしなかった。もしも彼が、たとえば結婚式の席上で殺されるとか、何か、そういったようなことが起こることを知ったならば、彼はもちろん驚くであろう。しかし、そんな時でも、殺されたり血まみれに傷つけられたり、ないしは衆人環視の中で顔に唾《つば》をかけられるということ等々それ自身よりは、そんなことが、不自然な好ましくない形式をとって行なわれることが、彼には恐ろしいのである。ナスターシャ・フィリッポヴナがその事について口を緘《かん》して語らなかったとはいえ、彼に警告したのは実にこのことではなかったか。この女が十分に彼を理解もし研究もし、したがってどうしたら彼をやりこめることができるかをもよく心得ていることを、彼は十分に承知していた。そこで、彼の結婚ということが、実際においては、ただ単に計画にしかすぎなかったので、トーツキーはナスターシャ・フィリッポヴナと和解し、譲歩したのであった。
彼が意を決するに至ったについては、なおもう一つの事情があった。今にして見るナスターシャ・フィリッポヴナの容貌はどの程度に昔と違っているのか、想像もできないほどであった。以前は、ただ、かなりにきれいな女の子というだけであったものを、今は……。トーツキイは四年も見ていながら、心をとめて十分に見ていなかった自分を長いこと責めずにはいられなかった。たしかに、この二つの方面から見て、内面的に、突如として、かような変化がいつ起こったかということにも多くの意味が含まれていた。とはいえ、彼は、以前にも、時として、たとえば彼女の眼を見ているとき、妙な考えが浮かぶ刹那があったことを思い出した。そのとき、この眼のうちには、何かしら深い、神秘的な暗さが予感されたらしかった。この眼を向けられると、まるで謎をかけられたようになった。この二年の間、彼は幾たびかナスターシャの顔色の変わるのに驚かされた。彼女は恐ろしいほど青ざめて、――不思議にも――それがためにかえって美しく見えたりした。若いころに道楽をした紳士たちは誰でもそうであるが、トーツキイも初めのうちは、乙女心をやすやすと手に入れることができたことを、侮蔑《ぶべつ》の念をもって考えていたものであった。が、最近に至っては、こういったような物の見方にいささか疑いをもつようになった。いずれにしても、彼にはすでに去年の春ごろから、今のうちに立派に持参金をつけて、物わかりのいい相当の紳士で、他の県に勤めている人のところへナスターシャ・フィリッポヴナを嫁にやろうという決心がついていた(ああ、このことをナスターシャ・フィリッポヴナは、いかばかり恐ろしく、悪意をもって冷笑したことであろう!)。しかし今、初物ぐいのトーツキイは、この女を再びものにすることができるかもしれぬというようなことまで考えたのである。彼はナスターシャ・フィリッポヴナをペテルブルグに住まわせて、ぜいたく三昧《ざんまい》に暮らさせようと決心した。あの手がいけなければこの手と考えたのであった。ナスターシャ・フィリッポヴナならば、人の前に見せびらかすことも、さらに名声を獲ることもできるはずである。トーツキーという人は、この方面における名声というものを、かなりに尊重していたのである。
早くもペテルブルグ生活の五年は過ぎた。いうまでもなく、この間には、いろんなことがはっきりしてきた。トーツキーの境遇はあまり愉快なものではなかった。何よりもいけないことは、ひとたび気おくれがすると、それから先はどうにもこうにも気が落ち着かないことであった。彼は恐れをいだいていた、何を恐れているのかもわからなかった、が、単にナスターシャ・フィリッポヴナを恐れていたのである。始めの二年間に、時としては、ナスターシャ・フィリッポヴナは自分では彼と結婚したがっているのに、極度の虚栄心によって口をつぐみ、男のほうから申し込んで来るのを待っているのだと、疑いかけたこともあった。かなりに奇妙な考え方ではあったろうが、トーツキーは疑い深くなっていたのである。彼は顔をしかめて考え込んでいた。非常に、また(これは人情である!)不愉快な驚異に価することであったが、彼はある偶然のことから、たとい彼のほうから結婚を申し込んだところで、相手はけっして受けつけはしないということを確かめた。長い間、彼はその真意が呑み込めなかった。彼には『恥ずかしめられたファンタスティックな女』のプライドがすでに忘我の域に達して、永劫《えいごう》に自身の位置を決定し、容易に得られない栄達を、望むよりは、申し込みを拒絶して、ただ一度、おのれの侮蔑の念を示すことのほうが、むしろ愉快なことだというところにまで立ち至っているのだと説明することが、ただ一つなしうべき説明だという風に考えられた。
何よりもまずいけないことは、ナスターシャ・フィリッポヴナが恐ろしく上手《うわて》に出ることであった。利害関係などというものには、たとい非常に大きなことであっても、やはり屈服はしなかった。彼女に与えられる慰みを慰みとして受けながら、きわめてつましい暮らしをして、この五年の間に、ほとんど何一つたくわえもしなかった。トーツキーは自身の絆《きずな》を切るために、かなりに狡猾《こうかつ》な手段を用いていた。彼は気づかれぬように巧妙に、さまざまな理想的な誘惑の手をかりて、女を誘惑し始めた。けれども、かような理想の化身ともいうべき公爵とか、驃騎兵とか、大使館書記官とか、詩人とか、小説家とか、さては社会主義者というような者も、一人としてナスターシャ・フィリッポヴナにはなんらの感銘をも与えなかった。彼女には心の代わりに石があり、感情は乾からび、永久に枯死してしまったかのようであった。彼女はたいていは人を遠ざけて暮らし、本を読み、勉強をさえもして、音楽を愛していた。知り人は少なかった。いつも貧しい、滑稽な役人の妻君たちとのつきあい、それに二人のある女優とか、老婆とかを友だちにし、ある立派な教師の数多い家族を好み、またその家族のほうでも、彼女を愛して、喜び迎えるという風であった。晩になると実にしばしば、せいぜい五、六人の知合いが集まった。トーツキイも実に足しげく、時間をたがえずにやって来た。最近、エパンチン将軍も相当の苦労をしてナスターシャ・フィリッポヴナと近づきになった。それと時を同じゅうして、実に容易に、何の苦労もなしに近づきになった若い役人があった。名字をフェルデシチェンコという、たいへんぶしつけな、いやに悪どい、ふざけた男で、みずから陽気な風を気どる大酒のみであった。もう一人の若い妙な男も知合いであったが、姓をプチーツィンといって、これは謙遜《けんそん》で、きちょうめんで、洗練されているが、赤貧洗うがごとき家に生まれ、今では高利貸しをしている男であった。最後にガヴリーラ・アルダリオノヴィッチも近づきになった……。
やがて、ついにはナスターシャ・フィリッポヴナについて、奇妙な評判が立った。つまり、彼女の美貌は、周知のことであるが、ただそれだけのことだというのである。誰ひとり、どこをどうといって彼女を自慢することもできず、特に取りたてて、何も話すことはできなかった。こういう評判に加えて、彼女の教養とか、優雅な態度とか、機知とか、そういったあらゆるものが一つになって、ついには、かねてのプランを実行しようというトーツキーの心を強化したのであった。さて、エパンチン将軍がみずから、この話に積極的に、かなりに深い交渉をもつに至ったのは、実にこの時からのことであった。
トーツキイは将軍の娘一人を所望するにあたって、友人としての意見を求めるために、かなりに丁寧に父なる将軍に接したとき、きわめて気高い態度で、今までの事情を余すところなく、率直に打ち明けてしまった。彼は、みずからの自由を得るためには、いかなる方法をもあえて辞せざるの覚悟を決めていること、たとえナスターシャ・フィリッポヴナがこれからさき、けっして邪魔などはしないと彼に申し渡したところで、けっして安心などはしないつもりだということ、そういう口約束などは当てにはしていないということ、そうして、最も完全な保証が必要なのだということを打ち明けるのであった。
いろいろと話し合って、二人はいっしょに事をすることになった。最初には、いちばん穏当な手段をとって、いわゆる『女ごころの美しい糸』にだけ触れようということにした。二人はナスターシャ・フィリッポヴナのところへやって来た。トーツキイはひたすらに、自分の立場が堪えられぬまでに恐ろしいという話からやりだした。彼は何ごとにつけても自分自身に罪を着せるのであった。ただこの女に対する最初のやり方にだけは後悔する気になれない。それというのも、自分がよくよくの女たらしで、自分で自分がどうにもならないからであって、しかも、自分は今結婚をしたいのであるが、まことに身分相応な、上品なこの結婚をいたずらにするもしないも、いつにかかっておまえの掌中にあることである。一言にして言えば、自分は何もかもおまえの心次第であるというようなことを、包むところなく打ち明けた。次にはエパンチン将軍が父親として話しだしたが、その話しぶりは論理的で、感傷的なことばを避け、ただ単に、トーツキーの運命を決すべき彼女の権利を全く承認しているということだけを述べ、またあの娘ばかりでなく、ことによったら、ほかの二人の娘たちの運命も、今は彼女の決心ひとつでどうにでもなるのだと言って、彼は自分自身の謙譲ぶりを巧みに見せびらかした。
「ではいったい、どうしろっておっしゃるんです?」というナスターシャ・フィリッポヴナの質問に対して、トーツキイは相変わらず明けっ放しに、まっ正直に、自分は五年も前にひどくおどかされているので、ナスターシャ・フィリッポヴナが誰かのところへ嫁に行かない限りは、今でも全く安心するわけにはいかないと、心の底を打ち明けた。すぐにまた付け加えて、こんな頼みは、もしもこちらに、それについてなんらかの根拠がなかったならば、頼む者にとってはばからしいことに相違ないとも言った。年の若い男で、かなりにいい家柄の出で、まことに立派な家族の間に暮らしている男、すなわち彼女がよく知っていて、自分のところへも出入りをさせているあのガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ・イヴォルギンがあらゆる情熱の力を傾けて、はやくからこの女に思いを寄せ、ただただ女の同情をひきたいばかりに、もちろん、余生を放ってもいいくらいに思っているということを、彼はよく見抜いて、はっきりと承知もしていた。これはガヴリーラ・アルダリオノヴィッチが、かなり前に青年の純情から、心安く打ち明けたことであって、この青年を世話しているイワン・フョードロヴィッチもこのことについては、かなり前からすでに承知していたのである。結局、彼トーツキーの見方に間違いがなければ、この青年の愛する気持はとうの昔にナスターシャ・フィリッポヴナ自身にもわかっていたはずであるが、彼はこの愛情を、女が甘く見ているかのように考えていた。いうまでもなく、こんなことを口に出して言うのは何よりも彼にとってはつらいことである。しかし、もしもナスターシャ・フィリッポヴナが彼トーツキイの心のうちに、エゴイズムや、自分自身の運命を築き上げようという希望のほかに、いくらかでも彼女の幸福を願う気持のあることを認めるつもりになったならば、彼女の孤独の生活を見ることが、トーツキイにとって長い間どんなに妙なものであったか、それどころか、どんなに重苦しいことでさえあったかが、はっきりと呑みこめたはずである。つまり、孤独の生活にはただ一つの漠然とした闇や(愛と家庭生活によって彼女をいとも美しくよみがえらせ、そうして新しい目的を与えてくれるかもしれないような)、生活の革新に対する極度の懐疑があり、また才能(おそらくはすばらしいものかもしれないが)の死滅、自身の懈怠《けたい》に対する溺愛《できあい》のあること、一言にして言えば、ナスターシャ・フィリッポヴナがもっているほどの常識や高尚な情操にふさわしくない一種のロマンチシズムのあることが、はっきりとしたに相違ないのである。
『こんなことを言うのは自分にとっては他の人以上につらいのだが』と、もう一度くり返して、彼は、『どうしても自分の希望を曲げるわけにはいかない、けれども自分が彼女の将来の運命を保証しようという切なる望みを申し述べて、七万五千ルーブルの金額を提供しようと申し出たところで、ナスターシャ・フィリッポヴナは冷笑して、それには返事はすまい』と結んだ。さらにまた付け加えて、『この金額は、誰がなんと言っても、すでに遺言状のうちに指定してあることで、一言にして言えば、それはけっして報酬というような性質のものではない、……』と言い、ついには『どうかして良心の苛責《かしゃく》を軽くしようという人間的な望みをどうして容れてくれないのか、許してくれないのか』等々、こんな場合に誰もが言うようなことを、くどくどと説明した。アファナシイ・イワーノヴィッチは、この七万五千ルーブルについては今はじめて言いだしたことであって、このことはついここに坐っていらっしゃるイワン・フョードロヴィッチでさえも知らない、つまり誰一人として知るものがないのだときわめて興味のある事実を、いわゆる『話のついで』に付け加えた。
ナスターシャ・フィリッポヴナの返事は二人の親友をあきれさせた。
彼女には以前の冷笑、以前の敵意や憎悪、今までは、ただ思い出しただけでもトーツキイがぞっとさせられた以前のあの高笑いが、今は影をひそめているばかりではなく、むしろかえって、今は誰とでも打ち明けて、親しく話をすることのできるのを喜んでいるような様子があった。彼女は自分でも、かなり前から隔てのない意見を聞きたいと思っていたが、ただプライドがそれを許さなかったこと、しかもわだかまりがなくなった今となっては、それ以上いいことはないと告白した。始めのうちは物悲しげなほほえみを浮かべていたが、後には陽気そうにうきうきした笑いを含んで、こう白状した、――もう昔のような嵐はどんなことがあっても起こる気づかいはない、自分はもうとうから自分の物の見方をいくぶんなりとも改めている、胸の中は変わっていないにしても、とにもかくにも済んだことはたいていは許さなければならない破目に陥っている、できてしまったことはできてしまったこと、過ぎたことは過ぎたことなのだから、今トーツキーが相も変わらずびくびくしているのがむしろ不思議なくらいだ、とこう言った。ここで彼女はイワン・フョードロヴィッチのほうを向いて、深甚なる敬意を表しながら、彼の令嬢たちのことはとうからかなりにいろいろと聞かされて、とうから衷心からの深い尊敬を払い続けていたと説明した。たとい何事にもあれ令嬢たちのためになることができたならと考えることが、それがおそらく彼女の幸福となり誇りともなるべきものであろう。彼女が今、重苦しく憂鬱であることは事実である。トーツキーは彼女の空想していることを見抜いてしまった。彼女は新しい目的を自覚して、愛によって更生ができないならば、せめて家庭の人として更生したいと切望していた。ところが、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチのことについては、ほとんど返事のしようがないのである。彼がナスターシャを愛しているのは事実らしくもあった。もしも彼女が男の愛着の念の確かなことを信ずることができたならば、自分のほうでも恋する気持になったろうと、彼女のほうでも感じてはいた。しかるに、たとい衷心から愛しているといっても、男の年が若すぎるのである。このことが容易に決心をつけさせなかった。もっとも彼女は相手が自分で働いて、苦労をしながらただ一人で一家を支えているという事実を何よりも好ましいことだと思ってはいた。また彼が精力家で、プライドをもち、立身出世をして苦境を打開しようとしていることも耳にしていた。さらにガヴリーラ・アルダリオノヴィッチの母親にあたるニイナ・アレクサンドロヴナ・イヴォルギナが立派な人で、非常な尊敬を払われている婦人であること、妹のワルワーラ・アルダリオノヴナがかなりにしっかりした、精力的な娘であることも聞いていた。この娘のことはプチーツィンからいろんなことを聞かされていた。それに彼女たちが勇敢に不幸を堪え忍んでいることも聞いていて、どうかして近づきになりたいと切に望んでいたが、はたして先方が快く迎えてくれるかどうかが問題であった。だいたい、この結婚が不可能だとはけっして言っていないが、このことについては彼女はさらにさらに考えてみなければならないのである。そこで彼女はあんまりせかないようにと望んでいた。七万五千ルーブルのことについては――トーツキーもそんなに口を出すのを渋らなかった。彼女とても金の値打ちはよくわかっているので、もちろん、受け取るに相違なかった。彼女はアファナシイ・イワーノヴィッチが、このことをガヴリーラ・アルダリオノヴィッチにばかりではなしに、将軍にさえも話さなかったことに対して感謝の意を表したが、しかも、ガヴリーラにあらかじめなぜ知らさないのであろうか? とも思わぬではなかった。彼女が彼の家庭の人となるにあたって、この金をはずかしく思う必要は全くないのである。いずれにしても、彼女は誰にもあやまるつもりはなく、そのことをよく人に承知しておいてもらいたいと考えていた。ナスターシャには相手の家族にも、全く彼女について腹の底を何ももっていないことが確かめられるまでは、けっしてガヴリーラ・アルダリオノヴィッチに嫁ぐつもりはないのである。とにもかくにも彼女はいかなる点においても自分に罪があるとは思っていないので、丸五年というもの、自分がいかなる地位にあってペテルブルグに暮らしたか、トーツキーとはいかなる関係にあるか、また財産をたくさん残しているかどうかを、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチに知っておいてもらったほうがいいと考えている。それに最後に、彼女が今、これほどの資本を受け取るとしても、彼女に何の罪もないような処女の純潔を汚されたことに対してではなく、単にゆがめられた運命に対する賠償として受けるにすぎないのである。
彼女は、こんなことを(もっともきわめて自然なことではある)述べながら、あまりに感激して、興奮していたので、エパンチン将軍はすっかり満足して、話は済んだものと思い込んでしまったが、ひとたびおどしつけられたトーツキイは、今度もすっかり信用しきることができずに、甘い口の下に恐ろしいことが隠されているのではないかと長いこと気づかっていた。が、交渉は始まった。二人の友人の策略の根底となっているもの、すなわちナスターシャ・フィリッポヴナはガーニャに引きつけられるだろうということが、少しずつわかってきて、立証されるに及んで、トーツキイさえもがときには成功疑いなしと考えるようになってきた。
そのうちにナスターシャ・フィリッポヴナはガーニャと話し合った。口数は実に少なかったが、これはこの時、あまりにも純潔な彼女の気持にこの問題が苦痛だったからである。しかも彼女は男の愛を認めもし、許しもしたが、いかなることがあっても自分自身を束縛したくないと言い、いよいよ結婚するまでは(もしも結婚が成立するとすれば)、最後の時までも、「否」という権利を保有し、ガーニャにもまたやはりその権利を与えると根気づよく宣言した。間もなくガーニャは偶然の機会から確かな報道を耳にした。というのはガーニャの家の者がこぞって、この結婚に対しても、ナスターシャ・フィリッポヴナ個人に対しても快からぬ感情をいだいていて、そのために家の中で見苦しい騒ぎが起こるということがナスターシャ・フィリッポヴナに細大もらさず知れているということであった。そこで彼は毎日のように、今言いだすか今言いだすかと待っていたが、彼女はこのことについて、彼の前ではひと言も言いださなかった。
それにしても、この縁談を機縁として起こったさまざまな物語や事実を話すとすれば、もっと多く言わなければならないわけであるが、筆者はあまりに先を言いすぎているのである、さらに今までに述べた事実のあるものは、かなりに取りとめもない噂にも等しいものである。たとえば、ナスターシャ・フィリッポヴナがエパンチンの令嬢たちと、妙に取りとめのない、他人に隠れた交際を始めたということを、どこをどうしてか、トーツキイが嗅《か》ぎつけたというごときは、全く不確かな噂である。それはそうと、トーツキイはもう一つの噂は不本意ながら信じないではいられなかった。そして夜魘《やえん》のように恐れていた。それはこういうことであった。ガーニャはただ金に目がくれて結婚するのであり、ガーニャは腹が黒くて、貪欲《どんよく》で、気短で、ねたみやで、それに手がつけられないほどばかげたうぬぼれ屋だということをナスターシャ・フィリッポヴナはよくよく知りきっていること、ガーニャは元は実際に夢中になって、ナスターシャ・フィリッポヴナを自分のものにしようとあせっていたが、二人の友人が双方から湧き起こってきた情熱を利用することに決めて、ナスターシャ・フィリッポヴナを正妻にしてやって、ガーニャを買収することにしたとき、ガーニャがナスターシャを夜魘のように憎むに至ったという話を事実として彼は聞かされたのである。彼の心の中には情熱と憎悪とが、奇妙に入りみだれているかのようであった。やがて、ついにはいたいたしい動揺ののちに、この『けがらわしい女』と結婚することに承諾を与えたが、自分では心中ひそかに、後で『やりこめてやる』(なんでも自分でこう言ったらしい)と誓ったのであった。こういうことをナスターシャ・フィリッポヴナは何もかも承知していて、人知れず何かしら用意をしていたらしかった。トーツキイはもうすっかりおじけづいていたので、エパンチンにさえも心の不安を伝えなくなったが、いかにも弱者らしく、再び元気づいて、急にいきいきしてくることがあった。たとえば、ナスターシャ・フィリッポヴナがいよいよ二人の友人に向かって、誕生日の晩には、必ず否か応かの返答をすると誓ったときなど、非常に元気づいたものであった。
ところが最も尊敬すべきイワン・フョードロヴィッチに関するはなはだ奇怪な、信じられないほどの噂は悲しいかな! いよいよもって確かめられてきたのである。
それは一見したところでは、全く荒唐無稽なことだと思われた。なにしろ、イワン・フョードロヴィッチともあろう人が、人から崇められるほどのいい年をして、立派な思慮分別もあり、世の中の酸いも甘いも知り尽くしていて、いまさらそういう柄でもあるまいに、みずからナスターシャ・フィリッポヴナにうつつをぬかして、――しかも、その気まぐれがほとんど欲情そのものとなっているというに至っては、容易に信ぜられぬ沙汰であった。この場合に、何を彼が目当てにしているかということは、想像もつかないことである。おそらくはガーニャの協力をさえ望んでいたのであろう。トーツキイには少なくとも、何かしらそういったたぐいのものがありそうに思われ、また将軍とガーニャとの間に、相互の了解に基づいた何かしらほとんど黙契ともいうべきものがあるかのように考えられた。それにしても、情痴の中に泥《なず》みすぎた人間が、わけても年でも取っていると、すっかり盲目になって、何も希望のないところに希望がありそうに思いたがり、そればかりではなしに判断力を失って、どんなにすぐれた叡智をもっている人でも、まるで愚かな子供のようなことをすることは周知の事実である。
将軍がナスターシャ・フィリッポヴナの誕生日を迎えるにあたって、贈り物として莫大な価格に上る立派な真珠を用意し、ナスターシャ・フィリッポヴナが無欲な女だということをよく承知していながら、この贈り物に少なからぬ興味をもっていたということは、よく人に知られていた。ナスターシャ・フィリッポヴナの誕生日の前夜、彼は熱病にかかっていたらしいが、巧みに押しかくしていた。ところが、エパンチン将軍夫人は、まぎれもないこの真珠の話を聞いたのだ。リザヴィータ・プロコフィーヴナが亭主の移り気をかなり前から見せつけられて、いくぶん慣れてさえもいたことは事実であるが、今度という今度は黙認するわけにはいかなかった。真珠の噂は極度に夫人の関心をひいたのである。いちはやく将軍はこのことをかぎつけた。その前の日、変なことを少しばかり聞かされて、肝心な話を持ち出されるような予感がしたので、彼はそれを恐れていた。だからこそ、この物語の始まった朝、家族の団欒《だんらん》に加わって食事をすることをひどくいやがったのである。公爵がやって来るまでは、仕事を口実にして、避けていることに肚《はら》を決めていた。将軍のいう『避ける』ということは、時としてただ単に逃げ去るというだけの意味になっていた。彼は、せめてこの日一日だけでも、ことに今夜だけでも不愉快なことに煩わされずに、無事に過ごしたかった。ところへ忽然《こつぜん》として、ちょうどいいところへ公爵がやって来たのである。『まるで神様がおつかわしくだすったようなものだ!』将軍は夫人のところへ行きながら、心ひそかにこう考えた。
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将軍夫人は自分の家柄のこととなると躍起になる人であった。ところへ、すでに噂に聞いている一門のうちの最後の人たる公爵ムィシキンが、哀れむべき白痴というよりほかなく、ほとんど乞食《こじき》も同然の身で、施し物をも受けかねない状態にあると、明らさまに、いきなり聞かされた時、彼女はどんな気持であったろうか。将軍は一気に夫人の注意をひき、夫人の気持をいいかげんに他のほうへ向けさせて、このどさくさ粉れに真珠の問題を免れようとして、首尾よく図星《ずぼし》にあたった。
夫人は非常時となると、極度に眼をむき出して、いくらか体を後ろへ引いて、ひと言も物を言わずに前の方をあてもなく眺めるのが常であった。背の高い女で、年は良人《おっと》と同じく、黒っぽい髪はかなりに白髪がまじっているが、まだふさふさしており、鼻は心もち鉤鼻《かぎばな》というべく、顔は痩せていて、黄いろい、こけた頬をし、落ちこんだ薄い唇をしている。額は高いけれども狭く、灰色の、かなりに大きな眼はどうかすると、きわめて思いがけない表情をあらわす。かつては自分の眸《ひとみ》は非常に効果的だと信じたがる欠点をもっていたが、この信念は今もなお拭い去られずに残っている。
「応待しろって? あなたは今すぐに、そんな人に応待しろっておっしゃるんですか?」そう言って、将軍夫人は自分の前にもじもじしているイワン・フョードロヴィッチのほうへ精いっぱいに眼をむき出した。
「おお、そのことならば、何も遠慮会釈はいらないよ、ただおまえに、ね、会うつもりがあれば」と将軍は大急ぎに弁明した。「全くの子供でおまけにたいへんみじめなのさ。何か病気の発作があるって。いまスイスから帰って来て、汽車から降りたばかりで、身なりは妙な、ドイツ風らしい様子をしている。金は文字どおり一文なしで、今にも泣きださんばかりだ。ぼくは二十五ルーブルやったが、何かこちらで事務所の書記の口でも見つけてやろうと思う。ときに mesdames(お嬢さんたち)何か御馳走をしてやってくれ、お腹《なか》が空いてるようだから……」
「あなたはびっくりさせるわ、わたしを」と夫人は以前のような調子で続けた、「お腹が空いてるだの、発作だのと! どんな発作です?」
「おお、そんなにしょっちゅうあるわけじゃないのさ、それに、まるで子供みたいなんだからね、もっとも教育はあるけど。ぼくはね、mesdames(お嬢さんたち)」と彼はまたもや娘たちのほうを向いて、「おまえさんたちにあの人を試験してもらおうと思っていたんだが。どんな方面に才能があるか、とにかく、承知しておくと都合がいいから」
「し、け、ん、を、です、って?」と夫人は引っぱって、非常に驚いたらしく、またもや眼をむき出して、娘たちのほうから良人のほうへ向け、それからまたもとにかえした。
「ああ、これ、そんな意味にとっちゃ困るよ……、だがもちろんおまえの好きなように。僕はただ、あれをいたわって、みんなのところへ連れて来てやるつもりだったのさ、それはまずいいことだからね」
「みんなのところへ連れて来るですって? スイスから?」
「スイスだってかまわんじゃないか。もっとも、もう一度言うけど、好きなようにおし。僕はなにしろ、第一には、同姓の人で、ひょっとしたら親類にでもなる人かと思うし、第二には、どこへ身を置いていいものやら困っているところだから言うんだが。とにもかくにも同姓だということだけでも、おまえに若干の興味はあろうと、そうも思ったのさ」
「そうだわ、ママ、もしも遠慮なしにつきあえるものだったら。それに旅行帰りで、ひもじいっていうんでしょう、どこへ落ち着いたらいいのか途方に暮れてるっていうのに、なんだって御馳走してあげないの?」と長女のアレクサンドラが言った。
「おまけに全くの赤ちゃんなんだから、いっしょに目かくしをして遊んでもいいくらいさ」
「目かくし遊びですって? どんな風にして?」
「おお、ママ、そんなにもったいぶるのはよしてちょうだいよ」とアグラーヤがいまいましそうにさえぎった。
中の子のアデライーダは笑いん坊なので、たまりかねて笑いだした。
「パパ、呼んで来てちょうだいよ、ママがいいって言うのよ」アグラーヤは決めてしまった。
将軍はベルを鳴らして、公爵を呼んで来るようにと言いつけた。
「けれど断わっておきますが、テーブルにつくときは、必ず頸《くび》のところへナプキンをゆわえつけさせるんですよ」と夫人は主張した、「それからフョードルでも、マーヴルでもいいから呼んで来て、その人の食べるときには後ろへ立って気をつけさせるんですよ。その人はおとなしくしてるんでしょうか、発作が起こった時でも? 変なしぐさをしないかしら?」
「とんでもない、実にしつけがいいし、行儀作法も立派なもんだよ。どうかすると、ちょっと単純すぎるようだがな……ああ、この人がそうだよ! さあ、紹介しよう、一門の中の最後の人で、同姓の人でもあり、ひょっとすると親類になるかもしれないムィシキン公爵。朝の食事の用意もすぐにできるでしょうから、ねえ公爵、どうぞ召しあがってください……。僕は失礼ですが、かなり遅れましたから急いで行かなくちゃなりません」
「どこへお急ぎになるのかわかってますよ」と夫人は偉そうに言った。
「急ぐんだ、急ぐんだよ。おい、遅れちゃったよ! mesdames おまえさんたち、アルバムを出して、それへ何か書いていただきな。実に珍しい能筆家だよ。立派な腕前だ! さっきあちらで『僧院の長パフヌーチイみずからこれに署名す』と昔風の書体で書いてくだすったんだ、……じゃ、さようなら」
「パフヌーチイ? 僧院の長? まあお待ちなさい、お待ちなさい、どちらへいらっしゃるの? パフヌーチイってどんなかたですの?」夫人は執拗にいまいましい様子をして、ほとんどあわてているような調子で、逃げ腰の良人にわめき立てた。
「そう、そう、それはね、昔いた僧院長なのさ……、して、僕は伯爵のところへ行かにゃならん、待っておられるんだから、もうとうから。なにしろ先方で時間を切られたんだから遅れちゃ相済まん……公爵、またいずれ!」
将軍は急ぎ足で出て行った。
「どんな伯爵のところへだかわかってますよ!」と辛辣《しんらつ》にリザヴィータ・プロコフィーヴナは言い放って、いらだたしげに公爵のほうに眼を向けた、「なんでしたっけね!」と急に思い立ったように、いやらしく、いまいましげな調子で言いだした、「まあ、なんでしたかしら? ああ、そうだわ、僧院の長ってどんなかたですの?」
「ママ」とアレクサンドラが言いかけていた。アグラーヤは床を踏み鳴らしてさえいた。
「アレクサンドラ・イワーノヴナさん、わたしの邪魔をしないでくださいな」と夫人は妙に改まってさえぎった、「わたしだってやっぱり知りたいわ。さあ、公爵、そこへおかけなさい、それ、そこの安楽椅子へ、わたしのま向かいにある。いいえ、こちらよ、日のあたるほうへ、わたしに見えるように、なるべく明るいほうへいらしって。さあ、僧院の長ってどんなかたですの」
「僧院の長パフヌーチイです」と公爵は気をつけてまじめに返事した。
「パフヌーチイ? おもしろいですわね、まあ、いったいその人がどうしましたの?」
夫人は黙っていられないらしく、公爵を見つめたまま、早口に、鋭く問いかけた。そして公爵が答えると、ひとこと言うたびにいちいちうなずいていた。
「僧院の長パフヌーチイは十四世紀の人で」と公爵は言いだした、「今のコストロマ県のあるヴォルガ川の沿岸の僧院を管理していました。聖らかな暮らしをしていたことは周知のことで、ダッタン国へも出かけて行きました、また当時の公共事業の処理にも力をいたして、ある教書に署名をしていますが、わたしはこの署名の写しを見たのです。その筆跡が気に入りましたものですから、習ってみました。さきほど将軍が、どこか勤め口を見つけてやるから、筆跡を見せるようにとの御所望でしたので、いろんな書体で五、六句書いてみました。その中へ『僧院の長パフヌーチイみずからこれに署名す』というのを、パフヌーチイ自身の筆跡そのままに書いたわけなんです。それがたいへん将軍のお気に召して、それで今もそのことをおっしゃったのでした」
「アグラーヤ」と夫人が言った、「覚えておいで、パフヌーチイですよ、それとも書いといたほうがいいわ、でないと、私はいつも忘れてしまうから。でも、わたしはもっとおもしろいことかと思ったわ。どこにその署名があるのかしら?」
「たぶん、将軍の書斎のテーブルの上に置いてあるでしょう」
「じゃすぐに取りにやって」
「でも、もしなんなら、もう一度書いて差し上げたほうがいいでしょう」
「それがいいわ、ママ」とアレクサンドラが言う、「でも今はお食事をしたほうがいいわ、あたしたち、お腹が空いてるんですもの」
「そりゃあ、そうね」と、夫人は承知した、「さあ、まいりましょう、公爵。あなたたいへんお腹が空いてらして?」
「ええ、いま、空いてきました。本当にありがとう存じます」
「あなたは丁寧でいらっしゃるから、たいへん結構です、それにお見うけしたところ、他人様《ひとさま》がおっしゃるような、そんな……変人じゃけっしてありませんし。さあ、まいりましょう。ここへおかけください、ちょうどわたしのま向こうへ」と、一同が食堂へやって来たとき彼女は公爵を席につかせながら、何かと気を配っていた、「わたしはあなたを見ていたいんですからね。アレクサンドラ、アデライーダ、二人とも公爵に御馳走してあげて。ねえ、ほんとにこのかたは、そんな……病人じゃけっしてないわね? だからおおかたナプキンなんかもいらないわね……。公爵、あなたは食事の時にいつもナプキンをゆわえてもらっていたんですか?」
「昔、まだ七つぐらいのころにはゆわえてもらってたでしょうが、今では食事のときにはたいていナプキンを膝の上にのせて置きます」
「それはそうでしょうとも。それで発作は?」
「発作?」と公爵はいささか驚いて、「発作はごくたまにしか起きません。もっともよくわかりませんけれど。なんだか、こちらの気候は私には悪いそうですから」
「なかなかうまいことを言うわね、この人は」と夫人は娘たちのほうを向いて、絶えずひとこと言うごとにうなずきながら、こう言った、「わたしは思いもよらなかったくらいだよ。して見ると、みんなたわいもない嘘だったんだわ、いつものように。さあ、公爵、おあがんなさい。そして、聞かしてくださいな。どこで生まれて、どこで育てられたのか。わたしはあんたのことをすっかり知りたいんですから。あなたはほんとにおもしろいおかたですわ」
公爵は厚くお礼を言って、いかにも甘美《うま》そうに、食事をとりながら、今朝から一度ならず話したことを、すっかり、もう一度話しだした。夫人はいよいよ満足らしい様子をした。令嬢たちもかなりに注意深く耳を傾けた。話を聞いているうちに、公爵が実によく自分の家系を承知していることはわかったが、どんなに骨折って話をしてみても、彼と夫人との間にはほとんどなんらの姻戚関係も見いだすことができなかった。ただ双方の祖父母間に、遠い親族関係のあることが考えられるくらいのものであった。味もそっけもないこの問題は、かねて自分の家系について話をしたいと切望していながらも、いまだかつて一度としてそういう機会にめぐまれなかった将軍夫人に、ことのほか気に入って、やがて彼女は興奮のあまりテーブルから立ち上がった。
「さあ、みんなで会合室へ行きましょう」と彼女は言った、「コーヒーを持って来させますから。宅にはみんなが集まる部屋がございますの」公爵を案内しながら、ふり返って言うのであった、「つまり、なんのことはない、小さな客間なんでして、宅が留守の時などにみんなが集まって、めいめい自分の仕事をするところなんですの。アレクサンドラ、というのはこの子ですけど、これはいちばん上の娘で、ピアノをひいたり、本を読んだり、お裁縫をしたり、アデライーダは景色や肖像を描き(何も仕上げることはできないのですけど)、アグラーヤになると坐っているだけで。何もいたしませんの。私もやっぱり仕事がうまくはかどらないものですから、何も仕上がらないんですの。さあ、ここですの。公爵、こちらの暖炉のそばへおかけなすって、お話を聞かしてください。わたしはあなたがどんな風にお話をなさるか知りたいんですの。そしてあなたのことをすっかり承知しておいて、ベラコンスカヤ公爵のお婆さんにお会いしたら、あなたのことを何もかもお話しして上げたいんですの。わたしは、あの人たちがみんな、あなたに興味をもつように話をしてくださればいいと思いますわ。さ、お話ししてちょうだい」
「ママ、そんな風に話をするって、ずいぶん変じゃありませんか」とアデライーダは注意した、その間に自分の画架をなおして、画筆とパレットを取って、かなり前から手をかけている版画の風景の模写をやりだしていた。アレクサンドラとアグラーヤはいっしょに小さなソファに腰をおろして、両手を組みながら、話を聞こうと待ち構えていた。公爵は特別の注意が四方から自分のほうへ向けられていることに気がついた。
「あたし、あんなことを言われたら何も話しなんかしないわ」とアグラーヤが言った。
「なぜ? 何が変なのさ? なんだって、あの人がお話ししていけないの? 舌があるのに。わたしはね、公爵がどんな風に話ができるか知りたいんですよ。さあ、何かお話を。スイスはお気に召しましたの。はじめての印象はいかがでした。おまえたち、見てごらん、ほら、今お話を始めなさるから、立派にお始めになるから」
「印象は強いものでした……」と公爵は話しかかっていた。
「それ、それ」と気短なリザヴィータ・プロコフィーヴナは娘たちのほうを向きながら口をはさんだ、「お始めなすったよ」
「せめて、ママ、じゃまをしないでお話を続けていただきなさいよ」とアレクサンドラが制止した、「この公爵はひょっとすると大の悪党だわ、けっして白痴なんかじゃなくって」と彼女はアグラーヤに耳打ちした。
「きっとそうだわ、さっきから私もそう見ているの」とアグラーヤが答えた、「こんな芝居をするなんて、この人も卑劣だわね。こんなことをしていったい、なんの得をしようっていうんでしょう?」
「はじめての印象はとても強いものでした」と公爵はくり返した。「ロシアから連れて行かれて、いろんなドイツの町を通り過ぎたとき、僕は黙って眺めていました。今でも覚えていますが、何一つ聞いてもみませんでした。それは引き続いて、強い苦しい病気の発作があった後のことでした。僕はいつも、病気がひどくなって、発作が何度も続くと、すっかりぼんやりしてしまって、すっかり記憶力がなくなり、頭は働いているのですが、思想の論理的な秩序がとぎれてしまうのでした。二つないし三つ以上の観念を論理的に順序を追って結びつけることが僕にはできなかった。どうもそういう気がします。しかし発作がしずまると、また今のように健康になって、元気にもなりました。忘れもいたしませんが、そのころの心中の悲哀は堪えられないほどでした。むしろ僕は泣きだしたいくらいでした。いつも物に驚いたり、心配したり、それもつまりはあらゆるものが異なっているということが、ひどく僕に影響したのですね、そのことをはっきり了解しました。異なったものが僕を苦しめたのです。この闇から全く眼がさめたのは、今でも覚えていますが、スイスのバーゼルの町へ、日暮れにはいったときでした。町の市場にいた驢馬《ろば》の声が僕の眼をさましたのです。この驢馬がひどく私を驚かして、なぜかしら非常に僕の気に入ったのです。それと同時に、急に僕の頭の中は、雲が霽《は》れたようになりました」
「驢馬ですって? まあ、不思議ですこと」と夫人が言った、「もっとも、別に不思議なこともありませんね、うちの誰かさんは驢馬に惚《ほ》れ込んでいるんですからね」と夫人は笑っている娘たちを厳めしそうににらんだ、「それは神話にあったことですよ。さあ、続けてください、公爵」
「そのときから僕は驢馬が大好きになったんです。それは僕にとっては一種の同情でさえもあるのです。僕は驢馬のことをあれやこれやと聞き始めました、というのはそれまで見たこともなかったからです。そしてすぐに、これは実に有益な動物だ、よく働いて、力が強く、しんぼうもするし、値段も安くて、運ぶのにも便利だということがわかってきました。この驢馬がいたために急にスイス全体が好きになって、以前の憂鬱《ゆううつ》な気持はすっかり消し飛んでしまいました」
「みんなたいへん不思議なお話ばかりですね、驢馬のお話は、ぬきにしても結構ですから、今度は別のお話をしてください。おまえはなんだってそうそう笑ってばかりいるの、アグラーヤ? おまえもさ、アデライーダ? 公爵は驢馬のお話を立派になすったんだよ。御自分で御覧なすったんですよ、おまえは何を見ました? おまえなんか外国へ行ったこともないじゃありませんか?」
「あたし、驢馬なんか見たわよ、ママ」とアデライーダが言った。
「あたし、声だって聞いたわよ」とアグラーヤがあとを引きとった。
三人の娘たちはいっせいにまたもや笑い出した。公爵もいっしょに笑い出した。
「おまえたちは、ほんとにいけないよ。公爵、かんにんしてやってくださいね、気だてはいい連中なんですからね。わたしはしょっちゅう、言いあってばかりいますけれど、可愛がっていますの。この人たちは気ままで、分別がなくて、向こう見ずなんです」
「いったい、どうしてですか」と公爵は笑って、「僕だってお嬢さんたちの位置にいたら、やっぱり同じことでしょうよ。でもとにかく、僕は驢馬を擁護しますね。驢馬は善良で有益な生き物です」
「では、あなたも善良なんですか、公爵? わたしは物好きに聞いてみるんですけど」と夫人が聞いた。
一同はまたもや笑いだした。
「やっぱりまた、あのいやらしい驢馬の話にもどりましたね。わたし、そんな物のことは考えてもいませんでした」と夫人はわめき立てた、「本当なんですよ、公爵、私はちょっとも……」
「暗示ですか? おお、そうでしょう、ほんとに!」
公爵はやはり笑い続けていた。
「あなたが笑ってくださるのでたいへん嬉しい。お見うけしたところ、あなたというおかたは、実に気だてのいい青年ですね」と夫人は言った。
「時おりよくないことがありますよ」と公爵は答えた。
「でも、わたしは気だてのいい人間ですよ」と、いきなり夫人は口をはさんだ「こんなことを申していいなら、わたしはいつも善い人間ですよ、ところが、これが私のたった一つの欠点ですの、なぜって、いつも善い人間でいる必要はないのですからね。わたしは実によく、この人たちや、わけても宅のイワン・フョードロヴィッチなどには疳癪《かんしゃく》をおこしますけれど、疳癪をおこすときにいちばん善い人間になるのでいまいましくなります。さっきも、あなたがおいでになる前に、さんざん怒って、わざと、何が何やらさっぱりわからない、どうしても呑み込めないって駄々をこねたんですよ。こんなことは私によくあることですけど、まるで赤ん坊ですわね。それでアグラーヤが、いさめてくれたんですの。ありがとう、アグラーヤ。でも、こんなことはみんなばかげたことです。わたしは、自分で思ったり、娘たちが思っているほどのばかではありません。意地もあるし、そんなにはにかみやでもないし。でも、悪気があって言っているわけじゃありませんよ。アグラーヤ、こっちへおいで、接吻してちょうだい、そうそう……甘えすぎていけないわ」アグラーヤが情をこめて唇と手に接吻したとき、彼女はこう言った、「公爵、どうぞその先を。たぶん、なにか驢馬の話よりもおもしろいことを思い出しなさるでしょう」
「どうしてそんなにいきなり話というのができるのか、やっぱり、私にはわかりませんわ」とアデライーダがまた言った、「あたしだったら、どうしたって迷っちゃうわ」
「公爵は迷いはしませんよ、なにしろ公爵は非常に賢いかたで、少なくともおまえなんかよりは十倍も賢いかたなんだからね、ひょっとすると十二倍も。きっとおまえもあとでよく気がつくでしょうよ。公爵、どうぞ、あの子たちに証拠を見せてやってください。さあ、それから。でも、いよいよ本当に驢馬のことはやめてくだすっても結構ですわ。さあ、それで、驢馬のほかに何を外国でごらんになりましたの?」
「だって、驢馬のお話だってためになりましたわ」とアレクサンドラが言った、「公爵はたいへんおもしろく病気のときのお話をなさいましたわ、それにたった一つの外部的な衝動によって、何もかもお好きになられたということも。あたし、人が気がちがって、それからまたなおったというようなお話なら、いつもおもしろうございましたわ。わけても、そんなことが不意にそうなるんでしたらね」
「そお? ほんとに?」夫人は飛び上がらんばかりであった。「おまえも時には利口になるらしいね。さあ、もう、笑うのはたくさんよ! あなたはスイスの話をなすっていたようですよ、公爵、さあ!」
「僕たちはリュツェルへ着きました、そして、僕は湖水の上を連れて行かれたのです。湖水はいいなとは思いましたけれど、見たときには、ひどく憂鬱になっていました」と公爵は話しだした。
「なぜでしょうか?」とアレクサンドラが聞いた。
「わかりません。僕はああいう風景をはじめて見ると、いつも憂鬱な、不安な気持になるのです。いいなとは思っても不安になる。もっとも、そんなことはみんな病気中のことでした」
「まあ、けども、あたし行って見たくてなりませんわ」とアデライーダが言った、「でも、いつになったらあちらへ行けるかわかりませんわ。ほんとに、あたしはもう二年も絵の題材が見つからないでいるんですの。
東も南も描かれぬ、遠き昔に……
ねえ、公爵、題材を見つけてくださいな」
「そんなことは私にはさっぱりわかりません。僕なんかには見て描きさえすりゃいいような気がするんでしてね」
「だって、見ることができないんですもの」
「なんだって、あんたたちは謎みたいな話をしているんですの? 何が何やらさっぱりわからないわ」と夫人はさえぎった、「見ることができないって、どんなことなの? 眼があるんだもの見られるじゃないの。ここで見られないくらいなら、外国へ行ってもだめですよ。公爵、そんなことより、あなたが御自分でごらんになったことを聞かしてちょうだいな」
「それがいいわ」とアデライーダが口添えした、「公爵はあちらで物の見方を習っていらっしったんですもの」
「どうですかね。僕はただ、からだをなおしに行ったんですから、物の見方を習ったかどうかわかりませんよ。もっとも、僕はほとんど、いつもいつもといってもいいくらいに、実に幸福でした」
「幸福って? あなたは幸福になれるんですの?」とアグラーヤが叫んだ、「それなら物の見方を習わなかったなんて、どうしておっしゃるんですの? あたしたちを教えることだって、できるはずですわ」
「教えてくださいな、お願いですから」と、アデライーダは笑った。
「何もお教えすることなんかできませんよ」と公爵もまた笑って、「僕は外国にいるときはたいていはスイスの片田舎に暮らしていて、ほんのたまに、どこか遠くないところへ出かけるくらいのものでした。そんなわけですから、あなたがたに何をお教えできるでしょう? 初めのうちは、ただ退屈しないというだけのことでしたが、すぐにからだがよくなってきました。それからは、その日その日が貴重なものになって、日がたてばたつほど、貴重なものになってきて、それで僕もそれにようやく気がついてきました。夜は実に満足した気持で寝《やす》むのですが、朝になって起きるときは、ずっとずっと幸福でした、ところで、なぜそうだったか――というと、それは話すのが実にむずかしいことです」
「それでは何ですか、どこへも行きたいとお思いにならなかったんですね? そんな気持がお起きにならなかったんですね?」とアレクサンドラが聞いた。
「初めのうち、ごく最初は、そう、行きたいという気になりました、そして僕は非常に不安な気持になりました。どうして暮らそうかと思案に暮れたり、自分の運命を試してみたいと思ったりして、ある時には不安な気持になりました。そんな時があることは、おわかりでしょう、ことに一人きりでいる時などに。で、僕のいたところに滝があって、大きくはなかったのですが、高い山の上から、細い糸のようになってほとんど垂直に落ちていました、白い泡を立てて、ざわめきながら。高いところから落ちていたのですが、実に低い気がして、半|露里《エルスター》くらいのところにあるのですが、そこまで五十歩くらいしかないように見えるのでした。僕は夜ごとに滝の音を聞くのが好きでした。そんな時にどうかすると、非常な不安に陥るのでした。それから時として、真昼にどこか山の上に登って、たった一人で山の中に立っていますと、あたりには年老いた、大きな、樹脂の多い松があって、岩の上には中世紀の古いお城がくずれていて、はるか下のほうには僕のいる村がかすかに見え、太陽は明るく、空は青く、あたりは恐ろしいほどひっそりしている。そんな時にも非常に不安になるのでした。実にそんなところへ行っていると、どこかへ行きたくなって、もしもまっすぐに、どんどん、どんどん歩いて行って、あの空と地が一つになっている線の向こうまで行ったら、謎はすっかり解けてしまって、ここにいるよりは何千倍も力強く、にぎやかな、新しい生活が生まれてくるのだと、いつもそんな気がしていました。いつもナポリのような大きい町を心に描いていました。そこには宮殿やざわめきやかまびすしい物音や、あふれるような活気があるんだと……そういう風に……。実際、いろんなことを空想したものでしたよ! やがて後には、監獄の中ででも、立派な生活は見いだせるものだと、そんな気がしたのでした」
「おしまいにおっしゃったような立派なお考えは、あたし、十二のときに、本で読みましたわ」とアグラーヤが言った。
「みんなそれは哲学ですわね」とアデライーダが口を出した、「あなたは哲学者で、あたしたちを教えにいらしったんですわね」
「たぶんあなたがたがおっしゃるとおりでしょう」公爵はほほえんだ、「僕は、おそらく、本当に哲学者でしょう。そしてまた、たぶん、実際に教えようという気持ももっているのかもしれません……。全くそのとおりかもしれません。本当に、そうかもしれません」
「あなたの哲学は本当にエウラムピヤ・ニコライヴナさんのと同じようですわね」とまたアグラーヤがあとを引き取った、「そのおかたは官吏の後家さんなんですけれど、居候みたいに、よく家へやって来ますの。あの人の人生における問題というのは、ただもう安直というばかりですの、ただどうしたらもっと安く暮らせるかって、一カペイカ二カペイカのことばかり言ってるんですの。それなのに、どうでしょう、お金はあるんですよ。ぺてん師なんですわね。あなたのおっしゃる監獄の中の立派な生活というのも、ちょうどそれと同じようなものですわね。それに、ひょっとしたら田舎での四年間の幸福も。あなたはその幸福のためにナポリの町もお売りになって、たとえわずかなりとももうけなすったようですし」
「監獄の生活ということについては、まだ賛成できかねるところがあります」と公爵は言った、「僕は十二年も監獄にはいっていた人の話を聞いたことがあります。それは僕の先生の患者の一人で、治療をうけていた男です。癲癇《てんかん》もちで、時おり不安になって、泣いたり、ある時などは自殺を企てたりしました。その男の監獄生活は実に哀れなものでした、本当に、しかし、もちろん、けちけちしたものではありませんでした。馴染《なじ》みといえば、ただ蜘蛛《くも》と、それに窓の下に生えている小さな木ばかりでした……。もっとも、僕は去年、あの男と会ったことを話したほうがよさそうです。実に奇妙な出来事がありましたものですよ。奇妙だというのは、まずめったにないことだからです。この男はある時、ほかの連中といっしょに刑場に引き立てられました。政治犯だというので、銃刑の宣告が読み上げられました。それから二十分ほどたったころのことです。恩赦の勅命が読み上げられて、新たな判決が下されました。しかし、それにしてもこの二つの宣告の間の二十分、あるいは少なくとも十五分というものを、その男は何分かの後には自分が不意に死んでしまうものとばかり思い込んで過ごしたのでした。時おり、この人が当時の印象を話してくれましたが、僕はそんな時には聞き耳を立てたのでした。そして幾度も聞き返したものでした。その男はいっさいのことを珍しいほどはっきり覚えていて、その何分かの間の出来事は一生忘れないと言っていました。群集や兵隊がよってたかっている処刑台から、およそ二十歩ばかり離れたところに柱が三本つきさしてありました。犯人が幾人もいたからです。まず三人の者を柱のところへ連れて行って、柱に縛りつけ、死服(白くて長い夏着)を着せて、銃の見えないように夜帽を眼の上までかぶせました。それから柱ごとに、何人かの兵士で隊を組んで前に整列しました。僕の知っている人は八番目のところに立っていましたので、三度目に柱のところへ行くことになっていました。お坊さんがみんなのところを十字を切りながら回りました。さて、いよいよ生きているのも、あと五分ばかりのことで、それから先がないという時になりました。その男の話では、この五分間が果てもなく長い時間で、莫大な財産のように思えたそうです。またこの五分間に、最後の瞬間のことなど未練がましく思うがものもないような豊かな生活をすることができるような気がして、いろんな処置をとったそうです。まず時間を割りつけて、二分間ほど友だちとの告別に、さらに二分間をこれを最後に自分のことを考えるために、あとの残りはこれをこの世の見おさめに、あたりを眺めることにしました。この人はこういう風に三つの処置をとって、また、こんなぐあいに時間の割りつけをしたことを、実によく覚えていました。その人はからだが丈夫で力の強い人でしたが、二十七歳にして死ぬところだったのです。友だちに別れを告げながら、そのうちの一人にかなりのんびりした質問を発して、その答えをおもしろがったりさえもしたということを、よく覚えていました。やがて、友だちに別れを告げると、今度は自分のことを考えるために割りつけた二分がやってきました。どんなことを考えたらいいかということは、あらかじめわかっていたのでした。いったい、自分は今こうして生きているのに、三分間したら、もう何かになる、誰かになる、でなければ何かになる、誰かになるとすれば誰になるのか、そしていったいどこで?――つまりどうしてこんなことになるのかということをできるだけ早く、できるだけ明瞭に考えて見ようと思ったのです。こんなことを、すっかり、この二分間に解決してしまおうと思っていたのです! ほど遠からぬ所に教会堂があって、金色の本堂の屋根の頂きが明るい日ざしをうけて輝いていたといいます。この屋根と、そこに反射する光を恐ろしいほどじっと見つめていたことも覚えていました。どうしてもこの光を見ないわけにはいかなかった。なんでもこの光こそ自分の新しい自然であり、三分間したら自分はこの光とどうにかして融合できるのだと、そんな気がしたそうです。……やがて今にもやって来る新しいものに対する無常な気持と、嫌悪の念は恐ろしいものでした。しかし、当人の話では、その時、絶えず浮かんでくる気持、――『もし死ななかったらどうだろう! もし生き返ったらどうだろうか!……なんという限りない時であろう! それがみんな自分のものになるんだ! そうしたら一分一秒を百年に延ばして、何一つ失わないようにしたい。そして一分一秒が過ぎ去るごとにこれをいちいち清算して、けっしてむざむざといたずらには過ごしたくない!』そんな考えほどつらいものはなかったそうです。やがて、ついには、この考えはひどい敵愾心《てきがいしん》となって、一刻も早く射ち殺してもらいたいという気持になったと、そうも言っていました」
公爵は不意に口をつぐんだ。誰もが、彼が後を続けて何か締めくくりをするだろうと待ち構えていた。
「おしまいですの?」とアグラーヤが尋ねた。
「何? そう、おしまいですよ」と公爵はちょっとの間の物思いからわれに帰って、こう言った。
「けど、なんのためにそんなことをお話しなさいましたの?」
「そう……ちょっと思い出したもんですから……ほんの付けたしに……」
「あなたのお話はほんとに飛び飛びですね」とアレクサンドラが言った、「公爵、あなたは、ただの一瞬間でも粗末にはできない、時には五分間でも非常に貴いってことを、聞かせたかったんでしょうね。それはみんな立派なことですわ。けど、それにしても、あなた、そんなに恐ろしいお話をなすったそのお友だちは、どうなすったんでしょうね……、だって減刑されたんでしょう。つまり『限りない生活』をいただいたんでしょう。まあ、そののち、それほどの財産をどうなすったでしょうね? 一分一秒を清算しながら暮らしたでしょうか?」
「おお、違います、僕はそのことをとうに聞いていたのですが、その人は自分で言っていました、まるで違った生活をして、実におびただしい一分一秒を空費したって」
「まあ、してみると、あなたにとっては、いい経験でしたわね。つまり、『清算しながら』生活するってことは、実際にはできないことなんですね。なぜかしら、できないことなんですね」
「そうです、なぜだかしれないけれどもできないことなんです」公爵は同じことをくり返した、「僕自身にもそういう気がしました……でも、やっぱり、なんだか、そうとばかりも思えなくって……」
「では、あなたは誰よりも利口に暮らせると思っていらっしゃるんですね?」アグラーヤがそう言った。
「ええ、ときにはそんな気もしました」
「今でもそうですの?」
「今でも……そうです」公爵は相変わらず物しずかな、それでいて、おどおどさえしたようなほほえみを浮かべてアグラーヤのほうを見ながら答えるのであった、けれど、すぐにまた声を立てて笑って、陽気そうに彼女のほうを見た。
「内気ですわね?」アグラーヤは、さもいらいらしているかのように、こう言った。
「でもそれにしても、あなたがたは勇敢ですね、そんなにして笑ってらっしゃる。僕なんかは、その男の話を聞いて、ひどく打たれてしまって、あとで夢にまで見たほどでしたよ。つまりその五分間を見たのでした……」
彼は探るような眼で、まじめに、もう一度聞き手を見まわした。
「あなたたちは何かのことで、僕を怒ってらっしゃるんじゃないですか?」と、公爵はどぎまぎしているかのように、しかもじっと一同のほうを見ながら、だしぬけに尋ねた。
「何のことでですの?」三人の令嬢たちは驚いて口々に叫んだ。
「そりゃあ、つまり、僕が、しょっちゅう説教でもしてるように見えるから……」
一同は笑いだした。
「もし怒っていらっしゃるんでしたら、どうか怒らないでください」と彼は言った、「自分でもよくわかっているんですが、僕は他人よりも劣った生活をしてきて、世の中のことも人並みはずれて知らんのです。僕は、おそらく、とても妙なことを時おり言っているでしょう……」
こう言って彼はすっかり、うろたえてしまった。
「あなたが幸福だったとおっしゃるからには、人に劣った生活をしたことにはならないでしょう、かえって他人以上ですわ。なんだってあなたはもったいぶって、あやまったりなんかなさるんでしょう?」アグラーヤは厳めしそうに、とがめ立てるような調子でやりだした、「あなたが私たちに説教なすってるなんてことは、御心配には及びません。あなたに、すましたところなんかありませんものね。あなたのように隠遁《いんとん》主義のおかただったら、百年の生涯をも幸福でいっぱいになされるでしょう。あなたは死刑を見せられても、指一本見せられても、どちらの場合でも同じように、立派な御意見を思いつきなすって、しかも満足しておいでになれるおかたなのですからね。そんな風だったら長生きもできましょうよ」
「なんだっておまえは意地の悪いことを言うんだろう、私にはわからないわ」さっきから話している人たちの顔を見まもっていた夫人は後を引き取った、「そして、おまえさんたちの話していることからして、やっぱりわけがわからない。指って、どんな指なのさ。まあ、つまらないことを。公爵は立派なお話をなすってるんですよ。ただ少し憂鬱だけれど。おまえは何だって拍子ぬけさせるの? お話を始めなすったときには、公爵は笑ってらしったのに、今はすっかり気が抜けておしまいになって」
「かまやしないわよ、ママ、でも、公爵、死刑をごらんにならなかったのは惜しいですわね。あたし、一つお聞きしたいことがあるんですけど」
「僕は死刑を見ましたよ」と公爵は答えた。
「ごらんなすったって?」とアグラーヤが叫んだ、「まあ、気がつかなけりゃならなかったのに! それで何もかも、めでたし、めでたしですわ。でも、ごらんになったのなら、いつも幸福に暮らしたなんて、どうしておっしゃるんでしょうね? まあ、私の言ったこと間違ってるかしら?」
「でも、あなたのいらした村で死刑なんかがあるんですの?」とアデライーダが聞いた。
「僕はリヨンで見ました、シネイデル先生といっしょにそこへ行ったのです。先生が連れてってくだすったものですから。そこへ着くと、ちょうど、死刑にぶつかりましてね」
「いかがでしたの、お気に召しまして? 教訓になることがたくさんあったでしょう? ためになることが?」とアグラーヤが尋ねる。
「さっぱり気に入りませんでした。それを見たおかげで、あとで病気になりましたし。でも、白状しますと、僕は釘付けにされたように、じっと立って見ていたのです。どうしても眼をはなすことができませんでした」
「やっぱりあたしだって、眼をはなすことができなかったでしょうよ」とアグラーヤが言った。
「あちらでは女の人が見に行くのを、ひどくいやがります、見に行ったりすると、そんな女のことは新聞にまでも書き立てます」
「それはつまり、女の知ったことじゃないと考えて、だからこそ男の見るべきものだと言いたがるんですね(したがってあたりまえだと言いたがるのでしょう)。まあ、おめでたい論法《ロジック》だわ! それで、むろん、あなたもそういうお考えなんでしょう」
「死刑の話をしてくださいな」とアデライーダがさえぎった。
「僕は今、ひどく気が進まないんですが……」と、まごついて、公爵は何かしらいやそうな顔をした。
「あなたはお話なさるのが、きっと惜しいんでしょう」とアグラーヤがちくりと刺した。
「いいえ、なあに、もう、この死刑の話は先ほどしてしまったからです」
「どなたにお話なさいましたの?」
「お宅の小使さんに、お待ちしているときに……」
「どの小使ですの?」と四方から声がかかる。
「あの、控え室に坐っている、白髪まじりの、赤ら顔の人です、僕はイワン・フョードロヴィッチさんに中でお目にかかるのをお待ちして、控え室に坐ってたんです」
「それは不思議ですね」と夫人が口を出した。
「公爵は民衆的ですもの」とアグラーヤが話を中断させた、「さあ、アレクセイなんかにお話なすったくらいなら、あたしたちのほうを断わるなんて法はありませんわ」
「わたしは、どうしても聞かしていただきたいの」とアデライーダがくり返した。
「さっきは、実際」といくぶん、元気をとり戻して(公爵は見たところ、非常に早く、あっさりと元気づくらしかった)、アデライーダのほうを向いた、「実際、僕は、あなたが画題をとおっしゃった時、題材を差し上げるつもりがあったのです、それは、断頭機《ギロチン》が落ちて来る一分間前に、その板の上に横になろうとして、まだ刑場《しおきば》の上に立っている時の死刑囚の顔をお描きになるようにと」
「まあ、顔をですって? 顔だけを?」と、アデライーダが聞いた、「妙な題材になりましょうね。まあ、どんな絵ができるでしょう?」
「わかりません、なぜですか?」と公爵は熱心に固執した、「僕はつい先ごろ、バーゼルで一つの絵を見ました。そのお話がしたくてなりません……いつか、お話ししましょう……実にうたれましたよ」
「バーゼルの絵のことはあとでぜひとも聞かしてくださいな」とアデライーダが言った。「そして今は、その死刑の絵のことを、詳しく説明していただきたいものです。あなたが想像していらっしゃるとおりに、話していただけるでしょう? どういう風に、その顔を描いたらいいでしょうか? そして、顔だけでいいでしょうか? いったい、どんな顔でしょうか?」
「それはちょうど殺される一分前です」と、公爵は当時の思い出にふけって、ほかのことは何もかもたちまちにして忘れてしまったような風をして、実にすらすらと話しだした、「死刑囚が梯子《はしご》を登って、処刑台に足を踏み入れたその瞬間のことです。その男は僕のほうをちらと見ました。それで、僕もその顔を見て、何もかもがわかったのです……。それにしても、それをどんな風に話したらいいでしょうか! 僕はあなたでも、誰でもいい、そいつを描いてくれることを、とても、とても望んでいるのです! もしも、あなただったら、これに越したことはありません。僕は、その時、絵ができたらためになる絵になるだろうと思いました。もっとも、前にあったことを、すっかり表わす必要があります、何もかも。その男は監獄の中に暮らして、少なくとも、一週間くらいは間があるだろうと、死刑執行の日を待っていたのですが、書類はまだどこかへ回って、一週間もたったころようやくこちらへやって来るだろうというような、おきまりの手続をあてにしていた様子です。ところが、どうしたはずみか、事務が簡略にされたのです。朝の五時、その男はまだ眠っていました。七月の末のことで、朝の五時といっても、まだ寒くて、まっ暗です。典獄が、こっそりと看守を連れてはいって来て、用心しながら男の肩にさわりました。男はちょっと身を起こして、肘《ひじ》をつきました、――すると燈《あかり》が見える。『なんですか?』『九時すぎに死刑だ』男は寝ぼけているので本気にしないで、書類は一週間のうちに来るんだと喧嘩《けんか》を売りにかかったのですが、すっかり眼がさめてみると、喧嘩どころではないので、黙り込んでしまいました。やがて、その男は『とにかく、こんなに急では困ります……』と言って、また口をつぐんでしまいましたが、もう何も言う元気がなかったのです。それから三、四時間ほどはきまりきったことで過ぎてしまう、坊さんに会ったり朝飯を食べたり、それに酒やコーヒーや牛肉がつくのです(まあ、お笑いぐさじゃありませんか? どんなに残酷なものだか考えただけでもたくさんです、ところが、一方から見ると、嘘のような話ですが、あんな無邪気な人たちは、純な気持からすることで、これが博愛というものだと信じきっているんですからね)、それから身づくろい(あなたは囚人の身づくろいって、どんなものだか御存じですか?)、おしまいには、処刑台に上るまで町じゅうを引っぱり回されるのです……。やっぱりあの男には引っぱり回されているうちは、まだまだ生きていられる時が無限にあるような気がしただろうと思います。きっと、あの男は行く道々で、『まだ長いぞ、まだ三つの通りだけ命があるぞ。これを通り過ぎても、あとにはまだあの通りが残っている。その先にはまだ、右側にパン屋がある通りが残っている……パン屋のところまでたどりつくのは、いつのことやら!』と、そんなことを考えていたに相違ないという気がするのです。あたりには群集、叫び声、ざわめき、幾万の顔、幾万の眼、――これをすっかり、忍ばなければならない、がそんなことよりも、『ここに幾万という人間がいる、そして誰一人として死刑になる者はないのに、おれだけが死刑になるんだ!』という気持が起こってくるのです。まあ、こんなことはみな、死刑の前置きなんですね。処刑台には小さな梯子がかかっていました、その梯子の前へ来ると急に泣きだしました。もっともかなりに強い、男らしいやつだったんですが、大悪党だったと申します。いつも男の傍を、お坊さんが離れませんでした。馬車にまで相乗りして、しょっちゅう話をしていましたが――男の耳にははいらなかったようです。聞き始めたかと思うと、もう三|言《こと》目からはわからなくなるのです。それはそのはずでしょう。やがて、とうとう梯子を登り始めましたが、足を縛りつけられているものですから、小刻みに足を運ぶのです。坊さんは、たしかに利口だったとみえます、もう話をするのはよして、絶えず十字架へ接吻さしていました。梯子の下にいる時は、実に青ざめていましたが、処刑台に登って、立った時には、急にまっ白に、ちょうど、紙のように、それこそ、まるで、白い用箋のようになってしまいました。きっと両足に力がなくなって、棒のようになり、それに吐きけでも催したのでしょう、――なんだか咽喉《のど》を押さえつけられたような、それがために実際くすぐったいような、そんな気持をいつか、あなたたちは、びっくりしたあととか、非常に恐ろしい時とか、つまり、判断力はそっくり残っているのに、制御する力を少しももっていないというような時に、感じたことはありませんか。僕にはこういう気がするんです。たとえばもし、避けることのできない災難で、家があんたたちの上へ倒れかかってでも来たら、そこへ坐って、眼をつむって、どうにでもなれ! と、最後の時を待つつもりになるでしょう……。ちょうど、こんな弱気が起こってきた時に、お坊さんはこの時おそしとばかりに、大急ぎで、黙々と、男の口もとへいきなり十字架をあてがいました。小さい銀の粗末な十字架を――ひっきりなしにあてがうのでした。十字架が唇にさわったかと思うと、男は眼をあけて、また何秒かの間は元気づいたらしく、足もどんどん運べるのでした。十字架にむさぼるように接吻して、大急ぎに接吻して、まるで万一の場合の用意に何かを忘れずに、大急ぎにつかみ取るような風でした。もっとも、この場合に、何か宗教的なものを意識していたのかどうかはわかりませんね。まあ、こんなぐあいで、板のきわまでたどり着きました……。ところで、こんな|どたん《ヽヽヽ》場になっても、めったに卒倒なんかしないのは、不思議なものですね! そんなどころか、かえって頭がひどくいきいきしてきて、働きが活発になって、それこそ強く、強く、まるで回っている機械のように、強く働いているに相違ないんです。これは僕の想像なんですが、いろんな考えが、どれもこれも、まとまりのない、そしておそらく滑稽《こっけい》な、実に見当違いな、たとえば、『おや、あいつはおれを見ているぞ、――あいつの額には疣《いぼ》がある。あれっ、この執行人の下のボタンが一つ錆びてるぞ……』といったような気持が絶えず、ざわついていて、しかも何もかも知りぬいていて、何もかも覚えてるんですね。どうしても忘れられないっていうような点が一つあって、それがために、どうしても卒倒することもできずに、この点の回りを、あらゆるものが動いて、ぐるぐる回っているのです。まあ、考えてもごらんなさい。断頭台の上に頭を載せて、時の来るのを待ちうけながら、……命《めい》を|悟って《ヽヽヽ》、突如として、頭の上に鉄の刃の滑って来るのを耳にする。その最後の四分の一秒に及んでも、こんな調子なのですからね。滑って来る音は、必ず聞こえるはずです! 僕がもしも横になっているんだったら、僕はわざと、耳をすまして、ようく聞いてやるんだがなあ! おそらく、一秒の十分の一くらいの間しかないでしょうけれども、必ず聞こえるはずですからね! それにどうでしょう、今でもまだ議論していますよ。ひょっとしたら頭が飛んでしまっても、まだ一秒くらいは刎《は》ね飛ばされたことを知ってるだろうって、――まあ、なんていう考え方なんでしょうね! もしも五秒もたったら、どうでしょう!……描いてごらんなさいよ、処刑台を。ただ一ついちばん上の段が、はっきりと、間近に見えるように。罪人がそれに足をかけていて、首や、紙のように色気のない顔があって、坊さんが十字架を差し出して、相手が貪《むさぼ》るように青い唇をつき出して、じっと見つめて、何もかも|悟っている《ヽヽヽヽヽ》ところを。十字架と首――それはたしかに絵になりますよ。坊さんの顔だの、執行人だの、二人の手下だの、それから下のほうにいる何人かの人の首だの眼だの――そんなものはみんな、背景くらいのつもりで、ぼんやりと、点景として描いたらいいでしょう、……そうすればもう立派な絵ですよ」
公爵は黙りこんで、一座の者を見わたした。
「これじゃ、隠遁主義らしいところはないわ、ほんとに」とアレクサンドラがひとり言を言った。
「さあ、今度は恋物語を聞かしてちょうだいよ」とアデライーダが言った。
公爵はびっくりして、彼女を見つめた。
「あのね」とアデライーダはせきこんでいるらしかった、「あなたにはまだバーゼルの絵のお話を聞かしていただかなくちゃならないんですけれど、今はあなたの恋物語をお伺いしたいんですの。知らないなんておっしゃらないでくださいな。恋をなすったに相違ないんですもの。それにまた、そのお話をお始めになれば、じきに哲学者ではなくなるでしょうからね」
「あなたはお話がすむと、すぐにお話しなすったことをはずかしがるんですね」と、いきなりアグラーヤが口を出した、「どうしたわけなんでしょうね?」
「まあなんてばかなことを」と夫人は、腹立たしげにアグラーヤを見つめながらさえぎった。
「あんまり利口でもないわ」とアレクサンドラが相づちをうった。
「この子の言うことを真《ま》にうけないでくださいよ、公爵」と夫人は公爵のほうを向いた、「この子は何かしら悪意があって、わざとこんなことを言ってるんですからね。こんなばかにしつけたつもりはないんですけれど。この子たちが、あなたを困らしてるんだなどとお考えにならないでください。きっと何か、たくらんでいるんでしょうけれど、この子たちは、もうあなたを好いているのですよ。わたしは、この子たちの顔つきを、ちゃんと見抜いていますよ」
「僕も見抜いています」と公爵は、特にことばに力を入れて言った。
「どんなことなんですの?」とアデライーダは好奇心をもって尋ねた。
「あたしたちの顔つきを、どういうふうに見抜いてらっしゃるんですの?」と、あとの二人も知りたがった。
けれども公爵は黙りこんで、まじめくさっていた。一同は彼の返答を待ちうけていた。
「あとで申しましょう」と落ち着いて、まじめな調子で言った。
「あなたはむきになって、あたしたちの興味を釣ろうとしてらっしゃるんですわ」とアグラーヤが叫んだ、「それに、なんて、すまし方でしょうね!」
「まあ、いいわ」とアデライーダはまたせき込んで、「でも、あなたがそんなに顔を見る玄人《くろうと》なんでしたら、きっと、恋だってなすったに違いないわよ。つまり、私が当てたわけだわ。さあ、聞かしてくださいな」
「僕、恋におちたことなんかありませんよ」公爵は相変わらず、落ち着いて、まじめな調子で答えた、「僕は……別のことで幸福だったんですよ」
「まあ、どうしてですの、どんなことで?」
「よろしい、僕は聞かして差しあげましょう」と公爵はなんとはなしに深い物思いに沈んでいるかのような風をして、こう言った。
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「あなたがたはみんな」と公爵は話しだした、「僕をひどく好奇心をもって眺めてらっしゃる。ですから、僕がその好奇心を満足させなかったら、きっと腹を立てなさるでしょう。いや、なあに、これは僕の冗談ですよ」彼はほほえみながら、大急ぎに付け加えた、「あちらには……あちらには実にたくさんの子供がいました。それで、いつも僕は、あちらでは子供とばかり、ただ子供とばかりいっしょになっていました。それは、みんな僕のいた村の子供たちで、連中はいずれも小学校へ行っていました。僕が教えていたわけじゃないんです。違います。教えるのには、ちゃんと学校の先生でジュール・ティボーという人がついていました。もっとも、僕も教えることは教えたことになるかもしれませんが、どちらかというといっしょにいたというだけのものです。そうしてまる四年も過ごしたわけです。僕には、ほかのものは何もいりませんでした。僕は子供たちに何もかも話してやって、何一つ隠しだてはしませんでした。とうとうしまいには、僕がいなければ夜《よ》も日も明けないようになって、僕の周りに寄り集まるというので、親父さんたちや親類のものが僕に憤慨して、学校の先生はついには、僕の第一の仇敵《かたき》にまでなってしまったのです。ずいぶんあちらでは敵ができましたが、元をただせば、みんな子供のことからでした。シネイデル先生までが、僕に恥をかかせたのです。なんだってそんなにこわがったんでしょうね? 子供には、何事によらず話してやっていいものです、何事でも、僕はいつも父や母たちがたいていは子供のことを、自分の子供のことさえも、よくわかっていないのだと思うと、あきれるばかりでした。まだ小さいからとか、聞きわける年にはなっていないとかいう口実をつくって、何事によらず、子供に隠す必要はないことです。これこそ実に悲しむべき、不幸な物の考え方です! 子供は、親たちが自分たちをすっかり赤ん坊あつかいにして、なんにもわからないものと思い込んでいることを、実によく見抜いています。たいていの親たちは、子供というものは、非常にむずかしい事柄にでも、実に大事な忠告を与えることができるということを知らないのです。ああ! たしかに、あの可愛いい小鳥が、信頼しきっているように、楽しそうな眼をして、こちらを向いていると、どうしたって嘘をつくのがはずかしくなるじゃありませんか! 僕は子供のことを小鳥と言いましたが、それはこの世の中には小鳥にまさるものはないからです。もっとも、主として、ある偶然のことから村じゅうの者が僕に腹を立てたことがあります……ティボーなんかは、僕をただうらやましがっていたものです。先生は初めのうちは、子供たちが、僕の言うことだと何でもよく呑み込むのに、先生の言うことだとほとんど何も聞きわけのないのを、いつも頭を振りながら不思議がっていました。それが後になって、僕のほうから、われわれはお互いに何一つ子供に物を教えることはできないのに、子供たちは僕たちに物を教えてくれる――と言ってやりましたら、それから僕をあざわらうようになりました。自分で子供といっしょに暮らしているのに、どうして僕をあんなにうらやんだり中傷したりできるでしょう! 子供と暮らしていると、魂はなおるものです……あちらのシネイデル先生の病院に一人の患者がいましたが、ひどく不仕合わせな人でした。何が不仕合わせだといって、これほどの不仕合わせがあるかしらと思われるような極端なものでした。この人は精神錯乱をなおすために、病院へ入れられたのですが、僕の考えでは、精神錯乱ではなくて、ただ極度に苦しんだというだけのもので――それが病気の全部だったようです。ところで、僕の村の子供たちがついに、この男にどれくらい役に立ったか、わかっていただけるといいのですが……。しかし、この病人のことはあとでもっとよくお話ししましょう。今はまず一切の事がどうして起こったかということをお話ししましょう。子供たちは初めのうちは、僕を好きませんでした。なにしろ、こんなに年上だし、いつも気がきかないし、また、僕も知ってはいますが、不細工な顔をしているし、……おまけに、僕が外国人だということもありましてね。子供たちは初めのうちは、僕をからかっていましたが、やがて、僕がマリイに接吻しているのを見た時には、石まで投げつけるようになりました。マリイには、あとにも先にもたった一度しか接吻しなかったのですが、……いや、笑わないでください」と公爵はあわてて聞き手の薄笑いを押しとめた、「何も惚れた、はれたじゃなかったのでした。あなたたちだって、この女がどんなに不仕合わせな女だか御存じだったら、きっと僕のように気の毒だと思ったに相違ありません。この女は僕のいた村の生まれでした。母親は老いぼれのお婆さんで、小さなすっかり古ぼけたその家では、村長の許しを得て、一つの窓を二つに仕切り、その窓から紐や、糸や、煙草《たばこ》、石鹸《せっけん》などという、いずれも端金《はしたがね》で買えるような安物を売って、かろうじて身すぎをしていました。このお婆さんは病身で、両足とも脹れきっているので、いつもじっと坐ったきりでした。マリイはこの婆さんの娘で、二十歳《はたち》くらいの弱々しい、やせた子でした。かなり前から、肺を患っていましたが、毎日のようにあちらこちらの家へつらい日傭《ひやとい》稼ぎに出ていました、――床を洗ったり、洗濯をしたり、庭の掃除をしたり、家畜の世話をしたりしていたのです。ところが、ある通りがかりのフランス人の注文取りが、その子をたぶらかして、連れ出したものです、が、一週間ほどすると、たった一人、道のまん中へ置きざりにして、こっそり逃げて行ってしまいました。女は人にあわれみを乞いながら、すっかり身を穢《けが》されて、上から下まで、襤褸《ぼろ》をさげて、家へ帰って来ました。まる一週間もの間、歩き続けて、野原に寝たりしたので、ひどく風邪を引いて、足は傷だらけになり、手はむくんで、皸《ひび》がきれていました。もっとも、この子は以前にも、きれいな女ではありませんでした。眼だけが、おとなしそうで、気だてがよさそうで、無邪気に見えるというだけのことで、おそろしく黙り屋でした。以前に、いつか、仕事をしながら急に歌いだしたことがありました。僕は今でも覚えていますが、誰もがびっくりして、笑いだしたものです、『マリイが歌を歌いだしたぞ! なんだと? マリイが歌いだしたとよ!』そういう騒ぎに、当人はひどくどぎまぎして、それからは、永久に黙り込んでしまったのです。そのころは人にも可愛がられましたが、やがて病みついて、さんざんに悩ませられて帰って来ると、もう誰一人として、同情を寄せる者はなくなったのでした。こういうことになると、世間の人はなんて薄情なものでしょう! こんなことに対して、なんていう話せない考えをもっているのでしょう! 母親がまっ先に、憎悪と侮蔑《ぶべつ》の眼をもって娘を迎えました。『おまえはわたしの顔に泥を塗った』そうして母親がまっ先に他人の嘲罵《ちょうば》のまっただ中へ娘を放り出したのです。マリイが帰ったということが村に聞こえると、ほとんど村じゅうの者が小屋の婆さんのところへ駆けつけました。年寄も、子供も、女房も、娘も、みんなが、まるで餓鬼《がき》のように、大急ぎで寄り集まって来たのです。マリイは婆さんの足もとの床の上に、飢え果てて、襤褸を着たまま泣いていました。みんなが駆けつけた時には、振り乱した髪に身をかくして、床にひたとうつぶしに身をかがめていました。ぐるりを取り巻いている者はことごとく、汚らわしい物を見るようにマリイの姿を眺め、年寄たちは誹《そし》ったりののしったり、若い者は笑ったりして、女房たちも悪口を言ったり、罪を責めたりして、まるで蜘蛛《くも》か何かを眺めるように、侮蔑の眸《ひとみ》を投げるのでした。母親は他人のなすがままにし、自分は坐ったまま、うなずいて、調子を合わせてました。このころ、母親は病気が重くなって、ほとんど死にかかっていましたが、二た月の後には、間違いなく死んでしまいました。自分でも死ぬことはわかっていたのですが、それでも、いよいよの時まで娘と仲なおりする気にはならずに、ただの一言も物を言わず、寝るときには入口へ追いやって、ほとんど食べ物もやらない始末でした。しょっちゅう、腰湯を使わなければならなかったので、マリイは毎日、足を洗ってやったり、何かと看病してやりましたが、しかも母親は娘の介抱を物も言わずに受けるばかりで、ただのひと言も優しいことばはかけてやりませんでした。それをもマリイはしんぼうし抜いたのです。あとで、僕は知り合いになったときに、マリイが何もかも当然のことだと考えて、自分というものを、成れの果てだと考えているのに気がつきました。婆さんが、すっかり寝ついてしまった時、そこの習慣で、村の婆さんたちがかわるがわるに看病にやって来ました。その時、マリイは何一つ食べ物ももらえなくなって、村じゅうどこへ行っても追い払われ、誰一人として、元のように仕事をさしてやろうなどという親切気を出してくれる人もなくなりました。誰も彼もが唾《つば》を引っかけんばかりにして男たちは女の数にさえ入れてやらず、いつも汚らわしいことを言うばかりでした。時おり、実にたまさかのことではありましたが、日曜などに、酔っ払いが、冗談に端金《はしたがね》をいきなり地べたへ投げてやると、マリイは黙って拾うのでした。もうそのころには、血を吐き始めていました。とうとう、しまいには身につけていた襤褸が見る影もなくなって、村へ姿を見せるのも恥ずかしいほどになりました。見れば、帰って来たその時以来、いつも跣足《はだし》で歩いていたのです。それにまた、わけても、子供なんかが、組を作って――小学生が四十人あまりもいました――マリイをばかにしたり、きたない物までも投げたりするようになったのです。マリイは牛飼いのところへ行って、牛の番をさせてくれと頼みましたが、牛飼いは追っ払ってしまいました。そこで、今度は、許しも受けずに、自分でさっさと牛の群れをつれて、一日じゅう、家を出るようになりました。牛飼いにとってはたいへん都合がよかったので、牛飼いもこれに気づいて追い立てるようなことはせずに、時たま食べ残りのチーズやパンをくれてやりました。彼は自分では、これしきのことを、たいへんな親切をかけたように考えていました。母親が死んだときに、牧師は大ぜいのいる眼の前で、臆面もなくマリイを侮辱しました。マリイは、いつものように、襤褸を着て、棺の後ろに泣いていました。ところが、マリイが涙を流して、棺の後について行く姿を見ようというので、たいへんな人出でした。そのとき牧師は、――この男はまだ青年でしたが、立派な伝道師になろうというのが、この男の野心だったのです――一同のほうを向いて、マリイを指さしました。『これこそあの尊敬すべき婦人の死因となった女である』(これはでたらめなのです、なにしろ、母親は二年も病気をしていたのですからね)『今ここに皆さんの前に立っていながら、顔も上げられないでいる、なぜなれば、神様の御さしずによって、いくばくもない運命を定められたからであります。このとおり跣足で襤褸を着ておりますが――これはすなわち、徳を失った者に対する見せしめであります! この女はいったい、何者でありましょうや? これは故人の娘なのですぞ!』言々句々《げんげんくく》、いずれもこういった調子でした。そして、まあ、考えてもごらんなさい。この下劣なことばがほとんどすべての人の気に入ったのです。しかるに、……ここに刮目《かつもく》すべき事実が展開されました。そこへ子供たちが割り込んで来たのです。というのは、その時分には、子供たちはみんな、僕の味方になっていて、マリイを好きになりかけていたからです。それはつまり、こういうわけでした。僕は何かしらマリイのためになりたかった、マリイには、ぜひともお金をやらなければならないのですが、あちらでいつも僕は一文なしだったのです。そこへおりよく、僕は小さなダイヤのピンをもっていましたので、さっそく、それをある仲買人に売り払いました。その男は村々を渡り歩いて古着を商っていました。僕は八フランの金を受け取りましたが、実は四十フランの値打ちは確かにあったものです。さて、マリイと二人きりで会いたいものだと長いこと苦心して、とうとう村はずれの籬《まがき》のわきの、山にさしかかる傍径《わきみち》の木かげで会いました。そこで八フランの金をやって、僕にはもう一文のお金もできないのだから、しまっておくようにと言って、それから接吻をして、僕に何かよろしくない目あてがあるように思われては困る。僕が接吻をするのは惚れたからではなくって、非常に気の毒に思ったからだ。また、そもそもの最初の時から、僕はおまえを、悪い女だなどとは決して思わなかった、ただ不仕合わせな人だと思ったのだ……とこう言い含めました。そこで、僕は慰めもし、けっしておまえは誰の前へ出ても自分というものを卑しい女だと思ってはいけないよと、さとしてもやりたかったのですが、どうも、こちらの言うことがのみ込めなかったようです。マリイはずっとほとんど黙り続けて、伏し眼になって、ひどく恥ずかしがりながら、僕の前に立っていましたが、相手にわからなかったのだとは、すぐに僕も気がつきました。話がすむと、マリイは僕の手に接吻しましたので、僕もすぐに手をとって接吻しようとしましたが、今度はマリイがひょいと手を引っこめてしまいました。その時、不意に、子供たちの一隊がこちらをのぞき込んでしまったのです。あとで聞いてみると、子供たちは久しいこと、僕のあとをこっそり付け回っていたのでした。連中が口笛を吹くやら、手をたたくやら、笑うやらし始めたので、マリイはまっしぐらに逃げ出しました。僕は、なんとか言いたかったのですが、子供たちは僕に向かって石を投げるのです。ついに、その日のうちに村じゅうの者の知るところとなりました。そして何もかも悪いことは再びマリイに着せられて、彼女はいっそう嫌われるようになりました。刑の宣告を与えられようとしているというようなことまで耳にはしましたが、いいあんばいに、そのままお流れになりました。その代わり、子供たちは通せんぼをしたり、前よりよけいにひやかしたり、泥を投げつけたりしました。追いかけられると胸の悪いからだをせきたてて逃げるのですが、息切れがする、そこへ子供たちが追いかけて来て、わめくやら、悪口を言うやらするのでした。僕はある時、見るに見かねて、駆けつけて、喧嘩をしたことさえありました。それから、できるだけ、毎日のように、僕はせいぜい言って聞かせることにしました。すると、子供たちは、まだ悪口を言っていましたが、時おり立ち止まって耳を傾けるようになりました。どんなにマリイが不仕合わせな女かということを言って聞かせると、間もなく悪口を言うのもやめて、黙ってマリイのところをよけて行くようになりました。だんだんと、僕たちはことばを交わすようになりました。僕は何一つ隠し立てなどしないで、何もかも話して聞かせたのでした。連中はかなり物珍しそうに聞いていましたが、間もなくマリイを可哀そうに思うようになりました。中のある者はマリイに会うと、やさしく挨拶をしました。あちらの習慣ですと、互いに行き会った時には、知り合いであると否とにかかわらず、お辞儀をして、『今日は』と言うのです。マリイがどんなに驚いたか、想像できますね。ある時、二人の娘が食べ物を手に入れて、マリイの所へ持って行ってやりましたが、あとで僕のところへ来て話をしました。娘たちの話ですと、マリイがありがたがって泣いたので、彼女たちは大好きになったとのことです。まもなく、みんながマリイを愛《いとお》しがるようになりましたが、それと同時に僕をも急に好いてくれるようになりました。そして、僕のところへしょっちゅうやって来ては話を聞かしてくれとせがむのです。僕の話を聞くのを楽しみにしていたところをみると、どうやら僕は話がうまかったものとみえます。後には、僕はただ話をして聞かせようというだけのことで、勉強したり、本を読んだりしましたが、それからの丸三年間というもの、僕はこうして話を聞かして暮らしたものです。やがて、みんなが、――シネイデル先生もそうでしたが――なぜ子供と話をするのに、大人とするのと同じようにするのかとか、子供に何から何までぶちまけて話をするのかなどと僕をとがめると、僕は子供に嘘をつくのは恥ずべきことだ、大人がどんなに隠したところで、子供はなんでも承知している、それもひとり合点ならばとんでもないことになるだろうが、僕が話してやって合点するのだから、そんなこともあるまいと答えてやりました。誰でも、自分が子供だったころのことを、思い出してみる必要があるのでした。けれども、そんなことを言っても、誰も賛成はしませんでした……。僕がマリイに接吻をしたのは、母親が亡くなる二週前でした。牧師が説教をしたときには、子供たちはみんな、もう僕の味方になっていました。それで、僕がじきに牧師のやり口をよく話して、説明をして聞かせましたら、誰も彼も牧師に憤慨して、中にはガラス窓へ石を放って、こわす者さえも出て来たのです。僕は、なにしろそんなことは良くないことですから、よさせたのですが、じきに村じゅうに知れ渡って、今度は子供たちを悪い者にしたと言って、僕をとがめだてるのでした。それから、子供たちがマリイを好いているということがわかると、実にみんながびっくりしたものですが、もうそのころ、マリイは幸福になっていました。子供たちは、マリイに出会うことさえも戒められていましたが、こっそりと、かなりに遠い、およそ村から半|露里《エルスター》も離れている牧場へマリイに会いに駆けつけて、土産《みやげ》を持って行ってやったのですが、中のある者は、ただマリイに抱きついて、接吻をして、Je vous aime, Marie!(マリイ、僕はあんたが好きだよ)と言いたくって、わざわざ走って行って、それからまた、とんぼ返りに駆けもどって来たりしました。マリイは、こんな思いもよらない幸福に、ほとんど気も違わんばかりでした。こんなことは夢にさえも見なかったことですからね、そして、きまり悪がったり嬉しがったりしたのですが、もっと大事なことは、子供たちが、ことに女の子などが、僕がマリイを好いていてマリイの話をしょっちゅうしているということを知らせに、わざわざ好きこのんで、走って行ったことでした。子供たちはマリイに向かって、僕がおしゃべりしたことを何から何まで話してやって、みんながマリイを好いていて、気の毒がっていること、これから先もそうだろうということを言って聞かせるのでした。それから僕の所へ駆けて来て、実に嬉しそうなおせっかいらしい顔をして、今マリイに会って来たとか、マリイが僕によろしくと言っていたとか告げるのでした。毎晩、僕が滝のところへ行くと、そこには村のほうからちょっと見えない所がひとところあって、あたりにはポプラが生えていましたが、子供たちは毎晩、そこにいる僕のところへ集まって来て、中にはこっそりやって来る者もありました。僕のマリイに対する愛情がひどく子供たちの楽しみだったらしいのです。あちらに暮らしているとき、僕が彼らをだましたのは、ただこの一つのことだけでした。僕はちょっともマリイを好いていない、つまり惚れてはいない、僕はあの娘が不憫《ふびん》でならないのだなどと言いわけはしませんでした。彼らは自分たちが想像したり、自分たちの間で思い込んでいるとおりであればいいとしきりに望んでいるのだということは、いろんなことからよくわかっていました。だから僕も黙って、うまく当てられたというような様子を見せていました。この子供たちの小さな心がデリケートで優しいことは非常なものでした。なにしろ自分たちの大好きなレオン〔ロシア人の名のレフをフランス読みにするとレオンという〕がマリイをひどく可愛がっているのに、マリイはというと、ひどい着物をきて、靴もはけないということを、ありうべからざることのように考えていたのですからね。それでどうでしょう。子供たちはマリイに靴やら、靴下やら、シャツ、それに妙な服までも届けたのです。どうしてそんな工面をしたのやらわかりませんが、連中一同のやった仕事なのでした。僕が聞いてみましたら、ただ嬉しそうに笑って、女の子たちは手をたたいて、僕に接吻するばかりでした。やはり僕はこっそりと、マリイに会いに行きました。そのころはもう病気もひどくなって、ほとんど歩けなくなり、ついには牛飼いの手伝いも全くできなくなりましたが、それでもなお毎朝牛を引きつれて外へ出ていました。隅のほうに坐っているのですが、そこには、ほとんど垂直に切り立った岩のわきに突き出たところがあり、マリイは誰にも見えないその隅の石の上に腰をおろして、朝早くから牛の群れが牧場に帰るころまで、一日じゅう、ほとんど身じろぎさえもせずに坐っているのでした。肺病のためにひどく弱っていましたから、岩に頭をもたせて、たいていは眼をつむって坐っていましたが、苦しそうに息をしながら、まどろんでいることもありました。顔は骸骨のように痩せ衰え、額や|こめかみ《ヽヽヽヽ》には汗がにじんでいました。いつみてもそんなぐあいでした。僕はほんのちょっとの間しか会いませんでした。やはり、僕は他人に見られるのがいやだったのですね。僕が姿を見せるやいなや、マリイはじきに身ぶるいして、眼をあけて、まっしぐらに僕のところへやって来て、僕の手に接吻するのでした。僕はもう拒みはしませんでした、それがあの子にとっては幸福だったからです。僕が腰をかけている間じゅう、マリイは身を震わせて泣いていました、実際、いくたびか、物を言いかけたこともありましたが、なかなかこちらにはのみ込めませんでした。まるで気でも違ったかのように、おそろしく興奮して、感激していたものです。時おり子供たちが僕といっしょになりました。そんな時には、いつも子供たちは少し離れたところに立っていて、何かが来ないかしら、誰かが来ないかしらと二人をかばってくれましたが、それが子供たちにとってはまたとなく楽しかったのです。僕たちが離れると、マリイはまたひとりぽっちになって、相変わらず身じろぎもせずに、頭を岩にもたせていましたが、たぶん、何かを夢みていたのでしょう。ある日の朝、マリイはもう牛のいる所へは行けなくなって、何もない自分の家に寂しく残っていました。子供たちはすぐに聞きつけて、その日はほとんど全部の者がかわるがわる見舞いに行きましたが、マリイはたったひとりきりで床に臥《ふせ》っていたのです。二日の間はただ子供たちばかりが走って行って看護しましたが、やがてマリイが本当に死にかかっているということが村に知れ渡ると、村の婆さんたちがやって来て、看とりをするようになりました。村の人たちもマリイを気の毒に思うようになったものとみえて、少なくとも以前のように子供たちを止めたり、とがめたりはしなくなりました。マリイはいつも微睡《まどろ》んでいて、熟睡もできず、ひどく咳をしていました。お婆さんたちは子供たちを追いのけていましたが、子供のほうでは窓の下へ来て、時にはほんのちょっとの間、ただ Bonjour, notre bonne Marie(お早う、ぼくの大好きなマリイ)と言いたいばかりにやって来ることもありました。マリイは顔を見たり、その声を聞いたりしただけで、すっかり元気になり、すぐに、年寄りの言うことには耳も傾けず、無理に片肘をついて身をおこし、うなずいてお礼を言うのでした。子供たちは相変わらず、いろんなみやげを持って行ってやりましたが、ほとんど何も食べられませんでした。たしかに子供たちのおかげでマリイはまずまず幸福に死ぬことができたのです。子供たちがいたればこそ、自分のいたましい不幸を忘れることができたのです。つまり子供たちに罪を許してもらったようなものでした。なぜというのに死ぬ時まで自分を大罪人のように思い込んでいたのですからね。子供たちは小鳥のようにマリイの家の窓で羽ばたきをしながら Nous t' aimons, Marie(ぼくたちはあんたが好きだ、マリイ)と毎朝のように叫んだのでした。マリイはたちまちにしてあの世の人となりました。僕はまだまだ生きるだろうと思っていたのです。死の直前、夕日のかくれる前に僕は見舞いに立寄りました。すると、僕を見分けたらしかったので、これを最後と手を握りしめたのですが、なんというその手の痩せ方でしたろう! そうして次の朝になると、突然、人がやって来て、マリイが死んだと言うのです。その時には子供たちを止めることはできなかったのです。子供たちは棺をすっかり花で飾りつけて、マリイの頭には花環を被せてやりました。教会堂の牧師ももう死人に恥はかかせませんでしたが、会葬者はきわめて少なく、物好きにやって来た人たちが五、六人いただけでした。やがて棺を運ぶという段になると、子供たちは自分たちで持って行くといって、いっせいに飛びつきました。それでも、子供たちには持ち運ぶことができなかったので、手助けをしてもらい、一同、棺のあとについて走りながら誰も彼も涙を流しました。その時以来、マリイの墓は絶えず子供たちに崇められて、毎年、花で飾られたり、ぐるりに薔薇《ばら》などを植えつけられました。しかし、この葬式があってからというもの、子供のことから村を挙げて僕をひどく迫害するようになりました。おもなる張本人は、牧師と例の学校教師でした。子供たちは僕に会うことさえも禁ぜられ、シネイデル先生はその監督をするなどという役目を仰せつけられました。しかもなお、会ってはいたのです。遠くのほうから合図をして話をしていたのです。子供たちは、小さな可愛らしい手紙をよこしてくれました。後には丸く納まったのですが、そのころは実に痛快でした。この迫害があったために子供たちとはかえっていっそう親密になりました。あちらでの最後の年には、ティボーとも牧師ともほとんど仲直りするほどにまでになりました。シネイデル先生はいろんな話をして、僕の子供たちに対する有害な『システム』について僕と議論をしました。僕にいったいどんなシステムがあるんでしょうか! やがてついに、シネイデル先生はあるはなはだ奇妙な考えを述べられました。――それはちょうど、僕があちらを立つ間ぎわでした――先生いわく、君はよくよくの赤ん坊だ、つまり完全に赤ん坊だ、ただ身の丈や顔は大人に似ているが、発育とか、精神とか、性格とか、ひょっとしたら叡智の点でもけっして大人ではない。たとい君が六十歳まで生きたところでやっぱりそのとおりだろうと自分は固く信じている、云々《うんぬん》。僕はすっかり笑っちゃいました、むろん嘘八百ですもの、だって、とんでもない子供じゃありませんか? もっともただ一つ本当のことがあります。実際僕は世間の大人たちといっしょになるのが嫌いでした、――そのことは、かなり前から気づいていることなんですが、――好かないというのは、つまり、そんなことができないからのことです。そんなことを僕の前で話をしても、どんなに僕に対して気立てがよくってもとにもかくにも大人といると、いつもなんとはなしに重苦しい気がするのです。だから、そこを切り抜けて友だちのところへ一刻も早く行けたときは嬉しくてたまらないのです。友だちというのは子供に限っていましたが、それも僕が赤ん坊だからではなくって、ただ単に子供に気を引かれるからでした。村で暮らすようになったそもそもの初めごろ、――あの、たった一人で山をぶらついていたころです――一人でぶらぶらしているとき、時おり、ことに学校のひけるお午《ひる》ごろ、子供たちの一隊が袋をぶらさげて、石盤を持って、わめいたり笑ったり、ふざけたりしながら、がやがやと走って来るのに出会うと、僕の心はたちまちにして子供たちのほうへ矢のように走り出すのでした。なぜかわかりませんが、子供たちに会うごとに何かしら非常に強烈な、そして幸福な感じに満たされるのでした。僕は立ち止まって、うれしくなって笑いながら、子供たちの小さな、ちらちらする、絶えず走り回っている足や、いっしょになって走っている男の子や、女の子が、泣いたり笑ったりしているのを(多くの子供たちが、学校から家へ帰る途中で、もう喧嘩を始めて、泣いたりわめいたり、また仲なおりをしたり、ふざけたりするからです)眺めながら、そのうちに自分の憂鬱な気持なんかはすっかり忘れてしまうのでした。それから、丸三年の間は世間の人たちがなぜ、何のためにくよくよしているのか、さっぱり見当がつきませんでした。僕の運命は全く彼らのために捧げたものです。僕は一度としてその村を見すてようとは考えたこともなく、いつか、このロシアへ来ようなどとは夢にも思わなかったのです。いつまでも、そこにいられるものだとばかり思っていたのですが、ついに、シネイデル先生に僕のめんどうが見られなくなったことがわかって、そこに一つの事件が起こり、これが大事なこととみえて、シネイデル先生御自身が僕の帰国をせきたてて、わざわざここまでの旅費を負担してくれるようなことにもなったのです。僕はいったいどんなことなのか、それを見きわめ、誰かと相談しようと考えました。ことによったら、僕の運命はすっかり変わってしまうかもしれません。しかし、それは何もそれほど大事なことではありません。それよりも大事なことは、僕の生活が全く一変してしまっているということでした。僕はあちらへ、多くのものを、実におびただしいものを残して来ました。何もかも消え失せてしまいました。汽車に乗ってから、僕はこう考えました、『今僕は世間の人のところへ行くところだ。おそらく、僕は何一つ世間のことは知っていないかもしれん。けれども新しい生活がやって来たのだ』と。僕は自分の仕事を正直に、しっかりと成し遂げようと覚悟を決めました。世間の人といたら、おそらく、退屈で重苦しくもなるだろう。しかしまず何よりもすべての人に対して、丁寧に、ざっくばらんにしたいと思いました。それ以上のことを僕に望むのは無理というものですからね。ひょっとしたら、ここでも僕は赤ん坊あつかいされるかもしれませんが、――そんなことは、かまったことじゃありません! また、誰もがなぜかしら、僕のことを白痴だと言いますが、実際、僕も一時は、白痴同然なくらいに、からだのぐあいを悪くしたことはありました。それにしても、自分が白痴だと思われていることを、自分ではっきり承知しているなんてとんだ白痴もあったものですね。ここへはいって来て、僕は考えました、『ははあ、僕は白痴だと思われているな、けれどもとにかくおれは利口な人間だ、それがやつらにはのみ込めないんだ』と……。僕はよく、そういうことを考えています。ベルリンへ来て、子供たちが忘れずに書いてよこした可愛い手紙を受けとった時、僕はどんなにあの連中を可愛がっていたのか、それだけのことがしみじみとわかりました。最初の手紙を受けとるのは実につらいものです! 子供たちは、僕を見送りながら、どんなに悲しい思いをしたことでしょう! ひと月も前から、見送っていたのです、Leon s'en va, Leon s'en va pour toujours!(レオンが行ってしまう、レオンが行ってしまってもう帰らない)と言って。僕らは毎晩、以前のように滝のところへ集まって、別れる時の話ばかりしていました。時には元のように楽しいこともありましたが、いよいよ『おやすみなさい』を言って別れる時になるとしっかりと、きつく僕を抱きしめるのでした。こんなことは以前にはなかったことです。なかには、たった二人きり、みんなのいないところで、僕を抱きしめて接吻したいばかりに、一人でこっそりと走って来る者もありました。さて、いよいよ出発ということになると、子供たちは隊を組んで、駅まで見送ってくれました。汽車の駅は、村からまず一|露里《エルスター》くらいのところにありました。彼らは泣くまいと思って、こらえていたのですが、多くの者はこらえきれないで、声を立てて泣きましたが、女の子などはことにそうでした。僕たちは遅れまいとして、急いだのですが、なかのある者が不意に道のまん中で僕に飛びついて来て、小ちゃな手で僕に抱きついて、接吻しました、そのために、みんなが立ち止まったりしました。僕たちは急いでいたとはいうものの、みんな立ち止まって、その子が別れを告げてしまうまで、じっと待っていました。いよいよ汽車に乗って、汽車が動き出すと、子供たち一同は『ウラー!』を叫んで、すっかり汽車が見えなくなるまで、じっといつまでも立っていました。僕のほうでも子供たちのほうを見まもっていました……。そうそう、僕がさっきこちらへはいって来て、あなたたちの優しいお顔を見たとき、――僕はこのごろよく人の顔を眺めているのです――あなたがたの最初のおことばを聞くと、僕はあの時以来、はじめて心の中が軽くなったのでした。さっき、僕はもうこんなことを考えたのです。僕はことによったら、実際に幸福な人間の一人かもしれないって、僕は、ちょっと会っただけですぐ好きになれるような人にはめったに会えるものじゃないってことをよく知ってるんですからね。ところが汽車を降りて来るやいなや、あなたがたに会うことができました。自分の感情をみんなに話すのは恥ずかしいことだくらいは百も承知ですが、今こうしてお話ししていながらあなたたちを相手にしていて、ちょっとも僕は恥ずかしくはないのです。僕は人に会うのが嫌いですから、おそらく、ここしばらくの間は、お宅へもあがらないでしょう。と言ったからといって、悪意があるとは、お取りにならないでください。けっしてあなたがたを見下げていて、こんなことを言った訳ではないのですから。また何かで僕が腹を立てたように考えられても困ることです。ときに、さきほどあなたがたのお顔のことで、どんな観察をしたかというお尋ねがありましたね。僕は大喜びでお話しいたしましょう。アデライーダ・イワーノヴナさん、あなたは幸福そうなお顔、お三人の中でいちばん愛嬌のあるお顔をしていられますね。そればかりでなく、たいへんおきりょうがよくって、あなたのお顔を見ていると、『この人は大好きな妹のような顔をしている』と言いたいくらいです。あなたは何げなく、愉快そうに人に近づいていますが、相手の気心をすぐにのみ込む力をおもちです。それからあなたは、アレクサンドラ・イワーノヴナさん、やはりおきれいなたいへんお優しいお顔をしておられますが、たぶん、あなたは何かしら秘密な悲しみをおもちですね。お心はもちろん、きわめて善良なのですが、そんなに陽気じゃございません。ちょうどドレスデンにあるホルバインの聖母《マドンナ》のような、ある特殊なニュアンスがお顔に見えるのです。さあ、これがあなたの人相ですよ、僕はうまく当てたでしょう? あなたが御自分で、僕のことをよく当てる人だとおっしゃったのですからね。ところで、今度はあなたの人相ですよ。リザヴィータ・プロコフィーヴナさん(と、いきなり将軍夫人の方を向いて)、あなたのお顔のこととなると、僕にそんな気がするというばかりではなく、はっきりと信じて疑わないのです。あなたはなるほど、相当の御年輩ではありますけれど、何事につけても、良きにつけても、悪しきにつけても、何事につけても全くの赤ちゃんだと思いますよ。こんなことを申したからって、お怒りにはならないでしょうね。僕が子供というものをどんな風に考えているか、ようく御存じのはずですからね。それから、あなたたちのお顔のことを、僕が何心なく、こんな忌憚《きたん》なく申し上げたとお思いにならないでください。おお、違います、とんでもないことです! おそらく、僕は、僕なりで下心があったのでしょうよ」
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公爵が口をつぐんだ時、一同のものは(アデライーダまでが)楽しそうに公爵を眺めたが、リザヴィータ夫人はことにそうであった。
「まあ、試験されちゃいましたわ!」と夫人が叫んだ、「いかがです、淑女諸君、あなたがたは公爵をまるで哀れな子供みたいに、保護でもしてあげる気でいらっしたんですね、ところが公爵のほうで、あんたがたをやっと引き立ててくださったんですよ、おまけに、ほんの時たまにしか来られないという条件つきで。まあ、私たちは好いかげんにばかな目を見たわけになりますけれど、それでも私は嬉しいんですよ、いちばんばかを見たのはイワン・フョードロヴィッチですわ。すてきですわ、公爵、私たちはさっき、あなたを試験するようにいいつけられていたんですからね。それはそうと、私の顔についてあなたがおっしゃったことは、全くそのとおりでしたわ。私が赤ん坊だって、それは私もよく知ってますの。それはあなたがおっしゃる前から、わかっていたのですけれど、あなたは、私の考えていたことをただの一言で言いのけたのです。あなたの性質はそれこそ全く私とそっくりだと思いますの、まるで生き写しですわ。ただ、あなたは男ですけれど、私は女で、スイスへ行ったことがない、それだけが違っているだけです」
「そんなにあわてないでよ、ママ」とアグラーヤが叫んだ、「公爵がいろいろ打ち明けなすったのは下心があってのことで、何心なく言ったんじゃないって、御自分でおっしゃってるんですよ」
「そうだわ、そうだわ」と他の者も笑った。
「そんなにからかうもんじゃないよ。公爵はひょっとしたら、おまえたち三人をいっしょにしたよりも、もっともっとずるいおかたかもしれないからね。ええかい。けど、ねえ、公爵、あなたはいったいどうしてアグラーヤのことをなんともおっしゃらなかったんですの? アグラーヤも当てにしていますし、わたしも待っているんですよ」
「すぐにはなんにも申し上げられません。のちほど申し上げます」
「どうしてですの? この子は目立つように思うのですけれど」
「え、そう、目には立ちますね。アグラーヤ・イワーノヴナさん、あなたはすてきな美人です。あなたを見るのがこわいほどのきれいなおかたです」
「たったそれだけですの? 性質のほうは?」と夫人はせがんだ。
「美の批評はむずかしいことです。僕にはまだ用意ができておりません。美は謎です」
「それはつまり、アグラーヤに謎をかけたことになりますね」とアデライーダが言った、「解いてごらんよ、アグラーヤ。でもきれいでしょう。公爵、きれいでしょう?」
「実に!」と公爵は心をひかれてアグラーヤを見つめながら、熱のこもった調子で答えた、「お顔はすっかり違いますけれど、だいたいナスターシャ・フィリッポヴナと同じことです!……」
一同はびっくりして互いに顔を見合わせた。
「え、だれと、ですってえ?」夫人は長く引っぱった、「ナスターシャ・フィリッポヴナと? あなたはどこでナスターシャ・フィリッポヴナとお会いになりましたの? いったい、どのナスターシャ・フィリッポヴナですの?」
「さっきガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんがイワン・フョードロヴィッチさんに写真をお目にかけていたのです」
「なんですって? イワン・フョードロヴィッチのところへ写真を持って来たのですか?」
「そう、お目にかけに。ナスターシャ・フィリッポヴナが今日ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんに写真を進呈したんですって、それをお目にかけに持ってらしたんです」
「わたし見たいわ!」と、夫人が叫んだ、「その写真はどこにあるんでしょう? あの人に進呈したのなら、あの人んところにあるはずだわ。でも、あの人はむろんまだ書斎にいるでしょう。いつも木曜ごとに仕事をしにやって来て、けっして四時より早くは帰らないのだから。今すぐにガヴリーラ・アルダリオノヴィッチを呼びなさい! いいわ、よすわ、死ぬほど会いたいわけでもないから。ねえ、公爵、お願いですからね、書斎へ行ってちょうだいな。写真を借りて、ここへ持って来てくださいな。ちょっと見たいからっておっしゃってね。どうぞ」
「いい人だわ、でもお人好しすぎるわね」と公爵が出て行くとアデライーダが言った。
「そうね、なんだかすぎるわね」とアレクサンドラが尻馬に乗った、「だから少し滑稽なくらいだわ」
二人とも考えていることを、すっかり言わないらしかった。
「もっとも、わたしたちの顔のことでは、うまく言い抜けたわ」とアグラーヤが言った、「みんなにお世辞をつかって、ママまでにも」
「どうぞだから、洒落《しゃれ》は言わないで」と夫人は叫んだ、「あの人がお世辞をつかったわけじゃなくって、わたしがお世辞に乗せられたんですよ」
「あの人がうまく逃げたと思ってるの?」とアデライーダが聞いた。
「わたし、そんなにお人好しじゃないと思うわ」
「さあ、また始まった!」と夫人は怒りだした、「わたしから見ると、おまえたちのほうがずっと滑稽だわ。お人好しだけれど、腹は黒いわよ。むろん、これは、高尚な意味で、まるで私とそっくりだわ」
『僕が写真のことなどを言いだしたのは、もちろん間違っていた』と公爵は書斎に近づきながら、いくぶん良心の苛責《かしゃく》を覚えて、ひとり反省してみるのであった、『しかし……ことによったら、言いだしたことがかえって良かったかもしれない……』
胸の中にはある不思議な観念がひらめきだした。とはいっても、なお漠然としたところがあった。
ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチはまだ書斎に坐って、書類の整理に余念がなかった。実際、彼は会社からいたずらに給料をもらっているのではないらしかった。公爵から写真を頼まれ、連中が写真のことをいかにして知るに至ったかということを聞かされると、彼はひどくどぎまぎした。
「え、えっ! なんだって、あんたはそんなおしゃべりをする必要があったんです!」と彼は腹立たしげに叫んで、「何も知りもしないで……白痴!」と口の中でぶつぶつ言っていた。
「御免なさい。何の気なしに、ついうっかりしていて、話のついでに出てしまったのです。僕はアグラーヤさんが、ほとんどナスターシャ・フィリッポヴナさんと同じくらいにきれいだと言ってしまったんです」
ガーニャはもっと詳細にわたって話してくれと頼んだ。公爵は話して聞かせた。するとガーニャは再びあざけるかのように彼を見つめた。
「ナスターシャ・フィリッポヴナも偉い人に覚えられて、……」と彼はつぶやいて、言い終わらずに考え込んでしまった。彼は明らかに恐惶《きょうこう》を来たしていた。
公爵は写真のことをうながした。
「ねえ、公爵」とガーニャは思いもよらぬことに胸を打たれたかのように、不意に言うのであった、「僕はあんたにたいへんなお頼みがあるんですけれど……実際、わからないものですから……」
彼はどぎまぎして、話を途中で切ってしまった。何かしら覚悟を決めて、自分自身と闘っているらしかった。公爵は黙々として、待ち構えていた。ガーニャはもう一度、腹をさぐるような眼を据えて相手をじろじろ眺めた。
「公爵」とまたもや言いだした、「今、あの人たちは僕のことを……ある実に不思議な……そして滑稽な事情のために――しかも僕にはこの事では何のとがもないのに……いや、要するに、こんなことは言う必要はないのですが……あの人たちは僕のことを少々怒っている様子です、だから僕は呼ばれもしないのにあちらへ行く気はないのです。しかし、アグラーヤ・イワーノヴナさんと今ぜひともお話ししなければならない用事があるんですが。万一のためをおもんぱかって、ちょっと手紙を書いておきました(彼の手に小さく折り畳んだ紙きれが現われた)、――ところが、どうして渡したらいいものかわからないのです。どうか、公爵、これをお持ちなすって、アグラーヤ・イワーノヴナさんにさっそくお渡しくださいませんか。もっともアグラーヤ・イワーノヴナさんお一人だけ、つまり、その、ほかの人に見つけられないように、いいですか? これはけっして、内証事や何かじゃないのでして、何もそんなことは、……でも、……引き受けてくださるでしょうか?」
「そんなことをするのは僕はあんまり好い気持じゃありません」と公爵は答えた。
「ああ、公爵、僕にとっては、とてもせっぱつまった用事なんですが!」とガーニャは哀願し始めた。
「あの人も、たぶん、返事してくださるでしょう……お察しください、僕はただ押し迫っているので、非常に押し迫っているので、それで、お頼みをしたわけなんでして、……他に誰一人とどけてくださるかたもないんですからね。……これは実に大事なことでして、……僕にとっては非常に重大なことなんです……」
ガーニャは公爵が承諾してくれなかったらと、極度におじけづいて、おずおずと頼みながら公爵の眼の色をうかがっていた。
「そんなら、まず渡してあげましょう」
「ですけれど、ただ、誰にも気づかれないようにですよ」と、いい気持になって、ガーニャは念を押した、「それになんですね、公爵、けっしておっしゃったことに間違いはないだろうと存じますが、よろしゅうございますね?」
「誰にも僕は見せませんよ」と公爵は言った。
「この書面には封がしてありませんが、しかし……」と、ガーニャはすっかり、もじもじしながら、こう言いかけたが、急にまごついてやめてしまった。
「おお、けっして僕は読みやしませんよ」と公爵は至極あっさり答えて、写真を取ると、たちまち書斎の外へ出て行った。
ガーニャは、ひとりぽっちになると、頭をかかえた。
『あの人のただの一言で、おれは……おれは本当に縁切りにしてしまうかもしれないんだ!……』
公爵は物思いに沈みながら歩いて行った。頼まれたことを思い、ガーニャがアグラーヤにやる手紙のことを思うと、不愉快な気持がしてならなかった。しかし客間からまだ二つの部屋が残っているところで、彼は何事かを思い起こしたように、ふと立ち止まって、あたりを見回し、窓の光のさすほうへなるべく近く寄り添って、ナスターシャ・フィリッポヴナの写真を見つめ始めた。
この顔のうちに秘されていて、さっき自分の胸を打った何ものかの謎を解きたいような気がした。さっきの印象が、まだほとんど残っていたが、今は何ものかを再び確かめようとでも焦っているらしかった。美しいということばかりによってではなく、さらに何ものかによってもたぐいまれなるこの顔は今はいっそう力強い感銘を彼に与えた。この顔には、限りないプライドと、ほとんど憎悪に近い軽侮の念とが浮かんでいるように思われる。また、それと同時に、何かしら他人を信頼するようなもの、何かしら驚くばかりに天真爛漫なものがあり、この異なった二つのものの対照は、この面かげを見る者に、一種の憐憫《れんびん》の情をすらもひきおこすように思われる。このまばゆいほどの美しさ、青白い顔、ほとんど落ちくぼんだような頬、燃えるような眼の美しさはたまらないほどの魅力をもっている。まことに不思議な美しさであった! 公爵は一分間ばかり眺めていたが、やがて、ふとわれにかえって、あたりを見回し、急いで写真を唇に近づけて接吻した。一分間して、客間の中にはいった時、彼の顔は事もなげに静まりかえっていた。
しかし彼が食堂に足を踏み入れるやいなや(客間との間にはもう一つの部屋があった)、危うく向こうから出て来るアグラーヤに戸口のところで突き当たろうとした。彼女は一人きりであった。
「ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんが、これをあなたに渡してくれとのお頼みでした」と、公爵は書面を渡しながら言った。
アグラーヤは立ち止まって書面を受け取ると、なんとなく不思議そうに公爵を見た。その眸《ひとみ》にはいささかもうろたえたようなけはいがなく、ただいくぶん驚いたような様子が見えたが、しかもそれも、ただ単に公爵だけに関連したものらしかった。アグラーヤの眼は、たしかに――いかにして公爵がこの事件にガーニャと共に登場してきたのか?――と、これに対する報告を要求しているらしかった。しかも落ち着き払って、おうへいに要求しているのである。二人は二、三秒の間、互いに向き合って立っていたが、ついに何かしら皮肉めいた感じが彼女の顔に浮かんで、彼女は薄笑いを浮かべながら、傍を通り過ぎて行った。
将軍夫人はしばらくの間、口をつぐんだまま、別に気にもとめないような風をして、ナスターシャ・フィリッポヴナの写真を見つめていたが、夫人はその写真をひどく感心したように眼から遠ざけて、差し伸べた手に支えていた。
「そう、きれいだわね」とついに言いだした、「なかなかきれいだね、わたしは二度もこの人を見ている。もっとも遠くからだけれど。それで、あなた、こんな美しさをあなたは尊重してるんですね?」と、いきなり公爵のほうを向いた。
「ええ……こんな……」と公爵は、やっとのことで、こう答えた。
「つまり、ちょうどこんなのをですね?」
「ちょうどこんなのをです」
「どういうわけで?」
「この顔には……かなりの苦しみがあります……」公爵は、あたかもひとり言を言っているかのように、なんとはなしにわれ知らず語っているかのようにこう言ったが、それもけっして質問されたから答えるというような風はなかった。
「それにしても、ひょっとしたら、貴方は夢を見てるかもしれませんね」と夫人は断定して、ぎょうさんな身ぶりをして写真をテーブルの上に放り出した。
アレクサンドラは写真を拾い上げた。すると、アデライーダがそれに近づいて、二人は共に眺め始めた。ちょうどこの時アグラーヤがまた客間へ帰って来た。
「なんていう力でしょう!」とむさぼるように姉の肩越しに写真をのぞき込んでいたアデライーダが不意に叫んだ。
「どこにさ? どんな力なの?」とリザヴィータ・プロコフィーヴナが鋭く聞きかえした。
「こういう美しさは力ですわ」と熱心にアデライーダが言った、「こんな美しさをもっていたら、世界をひっくりかえすこともできるんだわ!」
彼女は物思わしげに画架の方へ後ずさりした。アグラーヤはほんのちょっと、写真をのぞいて、軽く眼を細くし、下唇をつき出して、側を離れ、両手を組んで脇のほうへ腰をかけた。
夫人はベルを鳴らした。
「ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんをここへ呼んで来ておくれ、あの方は書斎にいなさるはずだから」と、部屋へはいって来る召使いに言いつけた。
「ママ!」と意味ありげにアレクサンドラが叫んだ。
「あのかたに私はふた言ばかり言いたいの――ただそれだけでたくさんだわ」と夫人は娘の抗議を押さえながら、せき込んであとを言わせなかった。
彼女は明らかにいらだっていた。
「あのね、公爵、うちでは今、何もかも秘密なんですよ! 何もかも秘密! そのほうがいいんですとさ、一種の礼式ですって、ばかばかしい。それに、こんなことは何よりもざっくばらんに、はっきりと、正直に言ったほうがいいことなんですからね。今、縁談がきまりかけているんですけれど、私はこんな縁談は気に食わないんですの」
「ママ、何をおっしゃるの?」とまたもやアレクサンドラはあわてて母を食いとめた。
「なんだね、おまえは? おまえは自分では気に入ってるの? 公爵が聞いていらっしゃるからって、私たちはお友だちなんですよ。少なくとも私とは。神様はむろん、いい人たちを捜していらっしゃるから、悪い人だのうわ気者には御用がないんですよ。わけても、今日は一つのことを決めて置きながら、明日は違ったことを言うようなうわ気者には御用がないんですって。わかりましたかね、アレクサンドラさん? この人たちはね、公爵、わたしを変人だって言うんですけれど、私にだって物の区別くらいはつきますよ。情というものが大事ですからね、あとはみんなつまらないものです。知恵というものも、もちろん、必要ですわ……たぶん、知恵がいちばん大事かもしれません。笑うのはよして、アグラーヤ、私は自分でつじつまの合わないことなど言いやしないんですからね。情があって、知恵のないばか者は、知恵があって情のないばか者と同じように不仕合わせなばか者なんですからね。こんなことは昔からの真理ですよ。ところで私は情があって知恵がないばか者だし、おまえさんは知恵があって情がないばか者だし、してみると、どちらも不仕合わせで二人とも苦労するわけですよ」
「いったい、なんであなたは不仕合わせですの、ママ?」とアデライーダはたまらなくなって問いかけたが、彼女は一座のうちで、おそらくただ一人陽気な気持を失わなかったように思われた。
「第一に、学問のある娘たちがいるから」と夫人は言い返した、「もう、これ一つだけでもたくさんだから、よけいなおせっかいはしないことだわ。口数の多いのも、もう結構だわ。まあ、見てましょうよ、知恵があって、口数の多いおまえさんたちお二人が(アグラーヤは勘定に入れませんよ)、どんな風に切り抜けて行くか、そして、いちばん御立派なアレクサンドラさん、あなたが、あの大事なおかたといっしょになって、仕合わせだかどうだかを……ああ!……」と夫人は中へはいって来るガーニャを見ながら、こう叫んだ、「ここにもまた婚約の人が一人お見えになった、いらっしゃい!」彼女は(おかけなさい)とも言わずに、ガーニャのお辞儀に応えた。「あなたも結婚なさるんでしょう?」
「結婚?……え?……どんな結婚?……」とガヴリーラ・アルダリオノヴィッチはすっかりめんくらってこうつぶやいた。彼はひどくどぎまぎした。
「じゃ、家をおもちになるんでしょう?――もしそういう言い方をしたほうがいいんでしたら、そうお聞きしましょう?」
「いい、え……わたしは……い、い、え」とガヴリーラ・アルダリオノヴィッチは嘘をついたが、きまりが悪くて顔が赤くなった。
彼は脇のほうに腰をかけているアグラーヤをちらと見たが、すぐに眼をそらしてしまった。アグラーヤはひややかに落ち着き払って、眼を放さずに彼を見つめたが、彼女は彼の狼狽《ろうばい》している様子を見まもっていたのである。
「いいえって? あなたは『いいえ』とおっしゃいましたね?」と片意地な夫人は執念ぶかく追及した、「もういいわ、今日という今日、水曜の朝、わたしの問いに対して『いいえ』とあなたがおっしゃったことを、よく覚えておきましょうよ、今日は何曜、水曜?」
「きっと、そうでしょう、ママ」とアデライーダが答えた。
「いつも何日か知らない。今日は何日?」
「二十七日です」とガーニャが答えた。
「二十七日? ある意味で、それは結構ですわ。さようなら。あなたにはお仕事がどっさりおありでしょうね。私ももうしたくをして出なけりゃなりません。あなたの写真を持っていらっしゃい。あなたの不仕合わせなニイナさんによろしく。またお目にかかりましょうね? ときどき遊びにいらっしゃい。私はこれからあんたのことを話しに、ベラコンスカヤのお婆さんのところへ、わざわざ出かけるところです。それからねえ、公爵、わたしは神様が、とりもなおさず私のために、あなたをスイスからペテルブルグへ連れて来てくだすったのだと信じてますよ。たぶん、あなたにも他にいろんな用事ができてくるでしょうけれど、それもおもに私のためなんですよ。神様はそういうおつもりでいらしったはずですもの。さようなら、おまえたち、アレクサンドラ、ちょっとわたしの部屋へ来てちょうだい」
夫人は出て行った。ガーニャは心みだれ、消然として、いきどおろしく、テーブルから写真を取って、苦々しくゆがんだ微笑を浮かべながら、公爵をかえり見た。
「公爵、わたしはすぐに帰宅します。もしも、わたしの所へ下宿なさろうっていうおつもりに変わりがなかったら、お連れ申しましょう。さもないと、アドレスを御存じないでしょうから」
「公爵、ちょっとお待ちください」とアグラーヤが椅子から身を起こしながら、不意に言った、「あなたはまだ私のアルバムへ何か書いてくださらなきゃいけませんよ。パパがあなたを能書家だって申しましたから。すぐに、わたし、持ってまいりますわ」
彼女は部屋を出て行った。
「公爵、またいずれ、わたしもおいとまします」アデライーダが言った。彼女はしっかりと公爵の手を握って、やさしく愛想よくほほえみかけて、出て行った。
ガーニャには眼もくれなかった。
「あれはあなたが」と、みんなが出て行くやいなや、ガーニャは不意に公爵に食ってかかりながら、歯ぎしりし始めた、「わたしが家をもつなんて、あれはあんたがおしゃべりしたことだ!」と彼はすさまじい顔をして、恨めしげに眼を光らせながら、半ばささやくように早口につぶやいた、「あなたという人はずうずうしいおしゃべりだ!」
「あえて申しますが、それはあなたの思い違いです」と、冷静に、丁寧に公爵は答えるのであった、「僕はあなたが結婚なさるということは知りもしなかったのです」
「あなたはさっき、イワン・フョードロヴィッチさんが、今晩ナスターシャ・フィリッポヴナのところで万事が解決すると言っていたのをお聞きになって、それを告げ口なすったんです! 嘘を言って! あの人たちがどうして嗅《か》ぎつけられるもんですか? いまいましい、あんたのほかに誰が言いつける? あの婆め、わたしをあてこすったじゃありませんか?」
「あてこすられたとあなたが思うのなら、誰が告げ口したか、あなたのほうがよくおわかりでしょう。僕は一言だってそんなことは言いませんよ」
「書面を渡してくれたんですか? 返事は?」もえるような焦燥の念にかられながらガーニャは公爵のことばをさえぎった。
ところがちょうどこの時、アグラーヤが戻って来たので、公爵は言い返す暇もなかった。
「さあ、公爵」とテーブルの上にアルバムを置きながら、アグラーヤが言った、「どこかお好きなページへ、何か書いてちょうだい。これ、ペン、まだ新しいの。鋼鉄《てつ》のでかまいません? 能書家は鋼鉄のペンでは書かないって聞きましたけど」
公爵とことばを交えながら、彼女はガーニャがそこにいることに、気も留めぬかのごとくであった。しかし公爵がペンをなおし、ページを繰って、用意をしているひまに、ガーニャはアグラーヤが立っている暖炉のほうへ近づいて行った。そこはちょうど、公爵のすぐ右側に当たるところであった。そして、ふるえがちな、とぎれとぎれな声で、ほとんど耳打ちせんばかりにアグラーヤにことばをかけた。
「一言、たった一言聞かしていただけたら、それでわたしは救われるんです」
公爵はひょいとふり返って、二人を見た。ガーニャの顔には絶望そのものの色が浮かんでいた。彼はこれだけのことばを考えもせずに夢中で言ったらしかった。アグラーヤは二、三秒の間、さっき公爵を見た時と全く同じような、あの落ち着き払った驚きを見せて、彼を見つめていた。それにしても、あたかも相手の言ったことが何のことやら、さっぱりわからないといったような、この落ち着き払った驚き、この疑惑の色は、この瞬間のガーニャにとっては最も辛辣《しんらつ》な侮蔑《ぶべつ》よりもさらに恐ろしいものであった。
「いったい、何を書いたらいいでしょう?」と公爵は聞いた。
「今わたしが口で申します」とアグラーヤはふり返りながら言った、「よろしゅうございますか? 書いてくださいな、『わたしはせり売りには出されませぬ』こんどは月日を書いて下さい。見せてちょうだい」
「まあ、すばらしいわ! ほんとに立派に書いてくださいましたわね。なんてみごとな、お手並みでしょう! ありがとう存じます。では、公爵、またそのうち……。あ、ちょっと待ってください」彼女は急に何か思い出したように付け加えた、「あちらへまいりましょう、記念に何か差し上げたいんですの」
「これを読んでちょうだい」と彼女は公爵にガーニャの手紙を渡しながら言った。
公爵は手紙を受け取ったが、不審の念をうかべてアグラーヤを見つめた。
「わたし、知ってますわ、あなたが御覧にならなかったことも、あなたがあの人の子分にもなれないことを。まあ、読んでくださいな。わたしはあなたに読んでいただきたいんですから」
手紙には急《せ》き込んで書いたことがありありと見えていた。
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今日、私の運命は決せられようとしています。いかなる道をたどるかは、御承知のことでしょう。今日、私は二度とひるがえすことのできない固い約束をしなければなりません。今はあなたの御同情を乞うべきなんらの権利もなく、あえてなんらの期待をも持とうとはいたしません。けれど、いつぞや、あなたは一言、ただ一言おっしゃってくださいましたが、その一言が私の一生の暗澹たる夜を照らし、ついに私の燈台ともなったのでした。どうかいま一度、ただ一言、あのようなおことばをおかけくださいますよう、――そうして滅亡に瀕《ひん》している私を救ってくださいまし! どうか私に|何もかもやめてしまえ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と、それだけおっしゃってください。そうすれば私は今日にでも何もかもやめてしまいます。ああ、これくらいのことをおっしゃってくだすったとてなんでございましょう! この一言のうちに、私はあなたの私に対する同情と憐れみのしるしなりとも見いだしたいと願っております――ただ、それだけ、|それだけのことです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! それ以上は何もございません! 何もございません! 私はあえてなんらかの期待を持とうなどというつもりはさらにございません。そんな期待を持つほどの柄でもございませんから。けれど、あなたにただ一言おっしゃっていただけましたら、再び私は貧困に甘んじ、喜んでこの絶望の状態をも堪え忍ぶ者であります。闘いにも直面して、それを喜びとし、そのうちに新しい力を得て更生いたしましょう! どうぞ、同情の(誓って申しますが、|ただただ《ヽヽヽヽ》同情の)、おことばをお寄せくださいまし。絶望に瀕した者が絶望の淵よりおのれを救わんとして、あえて最後の努力をなしたことに対して、そのあつかましさをお叱りなきように切にお願い申し上げます。
G・I・
[#ここで字下げ終わり]
「この人はね」と公爵が読み終わった時、アグラーヤは鋭く言うのであった、「『何もかもやめてしまえ』ということばが私に累《るい》を及ぼしたり私を束縛したりしないとはっきり言っています。そして、自分から、御覧のとおり、証文としてこの手紙をよこしているのです。どうでしょう、子供みたいに、そそくさと二、三か所、傍へ線まで引いて念を押しているんですよ。でも、腹の底の気持がなんてぶざまに見え透いてることでしょう。もっともあのひとが、何もかもよして、それも自分ひとりで、わたしのことばなどあてにしないで、それに、こんなことをわざわざ言わずに、いっさいわたしなんかに頼らないんでしたら、わたしもあのひとに対する気持を改めて、あのひとのお友だちにもなったでしょう。そのくらいのことは、あのひとだって、ちゃんと承知しているはずです! それだのに、あんな腐れ根性をもってるんですからね。承知していながら、ぐずぐずしてるんです。承知してながら、やっぱり証拠を欲しがっているのです。あのひとは信用しようっていう覚悟がつかないんです。十万ルーブルの代わりに、わたしが期待をかけさせるようにと望んでいるんです。この手紙の中であのひとの一生を照らしたかのように言っている以前のわたしの一言って、これはずうずうしくあのひとが嘘をついてるんです。わたしはたった一度、可哀そうだって言っただけなんですからね。それを、あつかましい恥知らずなもんですから、すぐに当てにしてもいいような気になったのですね、そんなことはじきに悟りましたわ。それで、その時からわたしを釣りにかかったのです、今でも釣ってはいますけれど、でも、もう飽き飽きしましたわ。この手紙を持ってって、この家をお出なすったら、すぐに、むろんそれより早くちゃいけませんけど、返してやってくださいな」
「それじゃ返事はどう言います?」
「むろん、何も言いませんわ。これがいちばんいい返事ですからね。それじゃ、あなたは、あのひとの家へ下宿するおつもりですの?」
「さっき将軍が紹介してくだすったものですから」と公爵は言った。
「じゃ、前もって申し上げておきますけれど、あのひとを用心なさいまし。この手紙をお返しなすったら、もう今度はあなたを容赦しませんからね」
アグラーヤは軽く公爵の手を握って、出て行った。顔はまじめらしく、気むずかしげであった。彼女は、さよならのつもりで、公爵に向かってうなずいた時、ほほえみさえもしなかった。
「僕はちょっと風呂敷包みを取って来ます」と公爵はガーニャに言った、「それから出かけましょう」
ガーニャはたまらなくなって、足を踏み鳴らした。その顔は忿怒《ふんぬ》のあまり、黒ずんでさえもきた。やがてついに二人は通りへ出た。公爵は包みを両手にかかえていた。
「返事は? 返事は?」とガーニャは公爵に詰め寄った、「あの人はあんたになんて言いました? あの手紙を渡してくれましたかね?」
公爵は黙って手紙を返した。ガーニャは驚いて立ちすくんでしまった。
「え? わたしの手紙が!」彼は叫んだ、「こいつめ、渡してもくれなかったんだな! ああ、ついうっかりしていた。おお、この、ち、畜生……道理で、さっき、こっちの言うことがあの人にさっぱり呑み込めなかったはずだ! だがいったい、どう、どうして、どうしてあんたは渡してくれなかったんだ、ええ、この、ち、ち、畜生……」
「失礼ですが、とんでもないことです。僕はあんたが私におよこしになると、しかも、ぜひそうしてくれとおっしゃられたとおりに、お手紙を渡すことができたんです。それがまた僕の手へ返って来たのは、アグラーヤ・イワーノヴナさんがお返しなすったからです」
「いつ? いつですか?」
「ちょうど、僕がアルバムへ書き終えて、あのひとが僕をお呼びになった時です(あなたもお聞きになったでしょう?)。二人が食堂へはいると、あのひとは僕に手紙を渡して、読めとおっしゃって、それからあなたに返してくれって言いつけたのです」
「読めぇ、って!」とガーニャはほとんどあらん限りの声をしぼってわめき立てた。「読めって! それで貴方は読んだんですか?」
そこで彼はまた茫然自失して舗道《ほどう》のまん中へ立ちすくんでしまった。しかも、あいた口がふさがらないほど度胆をぬかれていたのである。
「え、読みました、すぐに」
「じゃあの人が自分から、自分からあんたに読ましたんですか? 自分から?」
「そうです、はっきり言いますけど、僕はあの人に勧められなかったら、けっして読まなかったはずです」
ガーニャは一分間ほど口をつぐんで、苦しい努力をして何か考え込んでいたが、いきなりわめきだした。
「そんなことがあるもんか! あの人が読めって言いつけるはずがあるもんか。あんたは嘘をいってるんだ! あんたが自分で読んだんだ!」
「僕は正直なことを言ってるんです」と公爵は相変わらず、すっかり落ち着き払った調子で答えた、「本気にしてください。このことがそれほどあなたに不愉快な気持をおこさせるかと思うと、たいへんお気の毒です」
「冗談じゃない、困った人だ、でもその時、何かあなたに言ったでしょう? なんとか返事したでしょう」
「そう、もちろん」
「そんなら聞かしてください、聞かしてくださいって、ああ、いまいましい!……」
こう言ってガーニャはオーバ・シューズをはいた右の足で舗道を二度ほど踏み鳴らした。
「僕が読み終わったかと思うと、あのかたは、あなたがあのひとの希望をあてにして、何も損をすることなしに十万ルーブルに対するもう一つの希望を台なしにするためには、ぜひとも希望をかけさせてもらいたいので、それで、あなたがあのひとを釣りたがってるんだって言いましたよ。もしも貴方が、あのひとに駆け引きなどしないで、こんなことをしたんだったら、それに、あのひとに前もって証拠をくれなんかと言わずに、自分からいっさいをよしてしまったんなら、その時はたぶんあなたのお友だちにもなったんだろうって、そうも言ってました。これだけだったと思います。そうだ、まだある。手紙を受け取ってから、返事はどう言いますか? って聞きましたら、返事のないのがいちばんいい返事だと申しました。たぶん、そうだったと思います。もし、僕がはっきりした言い方を忘れて、自分の呑み込みどおりにお伝えしているのでしたら、御免なさい」
ガーニャの身も心も量り知られぬ恨みに満たされていた。忿怒の情はとめどなく湧き出て来た。
「ああ! なるほど!」と彼は歯ぎしりした、「それじゃ、僕の手紙なんかは窓の外へ放っちまえばいいんだ! ああ! セリ売りには出されませんよ! だって。僕はせり売りに出されるんだ! まあ、見ていましょうよ! 僕を買うにはたくさん……まあ、見ていることだ!……鼻っ柱をくじいてやるから!……」
彼は顔をゆがめて、まっさおになり、泡を吹いていた。彼は拳を握りしめて、威張っていた。こうして二人は何歩か歩いて行った。公爵に対しては少なからず無遠慮にふるまい、あたかも自分の部屋にただ一人いるかのようであった。それというのも、彼をまるで虫けらか何かのように取るにも足らぬものと考えていたからである。
ところが不意に何か考え込んでわれにかえった。
「だが、どういうわけで」と彼は公爵のほうをふり向いた、「どういうわけであんたは(白痴が! と口の中で付け足して)、はじめて知り合ってから二時間ばかりのうちに、急にこんなに信頼されるようになったんです? いったい、どういうわけなんです?」
いろいろ今まで苦しい思いをしたが、まだ嫉妬《しっと》の念には事欠いていた。それが急に彼の心臓そのものを、ちくりと刺したのである。
「そんなことは僕には説明できませんね」と公爵は答えた。
ガーニャは恨めしそうに公爵を見た。
「いったい、あのひとがあんたに何か差し上げるなんかと言って、食堂へ呼んだのは信頼したからじゃないんですか? 事実あのひとはあんたに何か贈るつもりだったんでしょう?」
「まあ、まさしくそうだと思うよりほかはありませんね」
「けどもいったい、何のために、ええ、畜生! あすこで何をしたんです、あんたは? 何であの人たちに気に入られたんです? ねえ、君」と彼はひどく気をもむのであった(このとき、彼の気持はすっかり散り散りになって、ごった返しているように思われた。彼は考えをまとめることもできないほどであった)、「あのね、なんとかして、あそこで話したことを初めからすっかり思い返して、順序を立てて話すことはできないんですか? 何か気がついたことはなかったんですか、覚えていないんですか?」
「おお、それはできますよ」と公爵は答えた、「僕が部屋へはいって挨拶すると、すぐその場から、スイスの話を始めたのでした」
「ええ、スイスのことなんか糞《くそ》でも食らえだ」
「それから死刑の話を……」
「死刑の話って?」
「ええ、ちょっとしたことから……、それから僕が三年の間、あちらでどんな暮らしをしたかということだの、ある可哀そうな村娘との出来事だの……」
「ええ、可哀そうな村娘なんかどうでもいい! それから!」ガーニャはたまらなくなって、いきり立った。
「それから、シネイデル先生が僕の性質について自分の意見を述べ、僕を無理強いしたことを話したのです」
「シネイデルなんてくたばっちまえだ。そんな野郎の意見なんて屁《へ》とも思わん。それから、どうした!」
「それから、ちょっとしたことから、顔のこと、つまり、人相の話をして、アグラーヤさんはほとんどナスターシャ・フィリッポヴナと同じくらいにきれいだと言ったのです。僕が写真のことをうっかりしゃべっちゃったのはその時です……」
「しかし告げ口はしなかったんですか、さっき書斎で聞いて行ったことを告げ口はしなかったんですか? しなかった? しなかった?」
「くり返して言いますが、そんなことはしませんよ」
「してみると、どこからあん畜生め……ああ! アグラーヤさんは婆さんに手紙を見せなかったんですか?」
「見せなかったことは十分に僕が保証します。僕はずっとあそこにいたんですし、それにアグラーヤさんにそんな暇もなかったことです」
「うむ。だって、あんたは何か見そこなったかもしれんし……。ああ、こ、ま、った白痴野郎だ」と彼は全くわれを忘れて叫んだ、「何一つ話すこともできないやつなんだ!」
ひとたび悪口を言いだして、しかもさからいもされずに、ガーニャはだんだんと、ある種の人たちにありがちなように、抑制力を失っていった。もう少しそのままにしておいたら、おそらく唾をも吐きかねなかったであろう。彼はそれほどまでに憤激していたのである。しかも、この憤激に燃えていたればこそ、盲目にもなっていたのである。さもなくば、自分がかほどまでに冷遇しているこの『白痴』が、どうかすると早すぎるほど早く、敏感に、あらゆることを理解し、実に申し分がないほど立派に物事を他人に伝えることができるということに、とうから注意を払っていたはずなのである。
ところが不意に思いもよらぬ事が起こった。
「ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさん、僕は言っておかなけりゃなりませんが」と、だしぬけに公爵が言うのであった、「以前は僕もたしかに丈夫ではなくて、それで、実際に白痴に近かったものでした。けれども今はもうとっくにからだのぐあいもよくなっているのです、だもんですから眼の前で自分のことを白痴って言われるのは、あんまり気持のいいものでもありません。あんたの失敗をよくよく考えてみれば、とがめ立てするわけにもいきませんが、しかしあなたはいまいましがって、もう二度ほども僕のことを悪く言いなすった。こんなことは僕には好ましくないことでして、ことに、あんたみたいな人に初めっから、いきなりおっしゃられるのは、いやなんですよ。ちょうど、四つ角へ来ましたから、ここで僕たちはお別れしたほうがよくはないでしょうか。あなたは右へいらっしゃい、僕は左へです。僕は二十五ルーブルもっとりますから、必ずどこか下宿屋が見つかるでしょう」
ガーニャはだしぬけにやりこめられたのでひどく狼狽し、羞恥の念に顔を赤らめさえもした。
「御免なさい、公爵」と、にわかに口ぎたない調子を極度に丁寧な調子に変えながら、興奮して叫ぶのであった、「後生ですから御免なすってください! 僕がどんなに難儀しているか、あなたもよくおわかりでしょう。また、ほとんどなんにも御承知にならないわけですが、もしもいっさいのことを御承知くだすっていたら、いくぶんたりとも必ずお許しくださるだろうと存じます。むろん、私は申しわけがないんですけれども……」
「おお、僕はそんなにたいへんなおわびをしていただかなくとも結構です」と、公爵は急いで答えた。「僕はあなたがかなり不愉快でいらしって、それで悪口をおっしゃることも、よくわかります。じゃ、あなたのところへまいりましょう。僕は喜んで……」
『いや、もう、こんなやつを容赦することはできない』ガーニャは途中で恨めしそうに公爵を見つめながら、心の中で考えていた、『このぺてん師め、おれの肚《はら》ん中をすっかり探り出してから、不意に仮面をとりやがって……。これには何かいわくがあるんだ。だが、まあ見てよう! 万事が解決するんだから、万事が、何もかも! しかも今日!』
もう彼らは家のすぐ側に立っていた。
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ガーネチカは非常にきれいな明るい広い階段を上って行った三階に住んでいた。この家は六つか七つの大小の部屋から成り立っていた。部屋はきわめてありふれたものではあったが、どう見ても、月給三千ルーブルもとっている家族もちの役人でもふところぐあいがあまりよくあるまいと思われるような家であった。しかし、そもそもこの家は賄《まかない》と女中つきの下宿人を目あてに造られたものであって、ニイナ・アレクサンドロヴナとワルワーラ・アルダリオノヴナが、自分たちにできるだけの稼ぎをして家の収入をいくぶんなりともふやしてゆきたいと、たって望んだので、ガーニャにとっては非常に不快なことではあったが、ガーニャとその家族の者がかれこれ二か月前に借りうけたものであった。ガーニャは、いつも苦い顔をして、下宿人を置くなどということは不体裁だと言っていた。こうしたことが、ガーニャにはなんらか輝かしい前途を担った若者として、自分が常に出入りしている社会に対してなんとなく気はずかしく思われたのである。かかる運命に対するいっさいの譲歩、心をいらだたせるいっさいのせせこましさは、彼の精神上の深い傷手であった。いつのころからか、彼はちょっとしたことにも、見さかいもなくむやみに腹を立てるようになっていた。彼がしばしの間なりとも、譲歩し、心を押さえる気持になったとすれば、それは近くこうした状態を全く変更し、改造しようとの決心がついたからである。それにしても、彼が手をつけようとした改造、その方法は小さからぬ問題であり、今までのいっさいの心配ごとや、苦痛よりも、もっともっと困難なものであった。
玄関から始まっている廊下はまっすぐに住まいを二分していた。廊下の片方の側には、『特に紹介された』下宿人にあてられた部屋が三つあった。それ以外に、その側のいちばん端、台所のそばには、他の部屋よりも少し狭い第四の部屋があった。ここには一家の父であるイヴォルギン退職将軍が住まって、幅の広い長椅子の上に寝起きしていた。家に出入りするには必ず台所を通って、裏の階段を使うことに定められていた。この小部屋の中には、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチの弟で十三歳になる中学生のコォリャも住まっていた。彼もまた、ここで窮屈な思いをして勉強をし、古びた狭い短かな長椅子の上に、穴のあいた敷布を敷いてやすみ、また、これが大事なことであるが、もはやだんだん世話をする人がなくてはどうにもやってゆけなくなった父の世話をしたり、監視をしたりしなければならなかった。公爵には、三つの部屋のうち、まん中のものがあてられた。右手の第一の部屋は、フェルデシチェンコが使い、左手の第三の部屋はまだ空いていた。しかしガーニャは最初に公爵を家庭用の側に導いた。この部屋は、必要によっては食堂にもなる広間と、夜になればガーニャの書斎にも寝室にもなるもので、朝のうちだけは客間になっているものと、ニイナ・アレクサンドロヴナとワルワーラ・アルダリオノヴナが寝室にしているいつも閉めきってある狭くるしい第三の部屋から成り立っていた。つまり、この家の中ではいっさいのものが狭くるしく込み合っていたのである。ガーニャはただ考えては歯を食いしばるよりほかはなかった。彼は母に対してはうやうやしくしようとは思っていたが、一歩この家に足を踏み入れたものは、すぐに彼が家庭内ではなかなかの暴君であることに気がつくのであった。
客間にはニイナ・アレクサンドロヴナひとりではなかった。彼女といっしょにワルワーラ・アルダリオノヴナが腰をかけて二人とも何か編物をしながら客のイワン・ペトローヴィッチ・プチーツィンと話をしていた。ニイナ・アレクサンドロヴナは年は五十歳ばかりらしく、その顔は憔悴《しょうすい》し痩せこけていて、眼の下はかなりくろずんでいた。彼女の様子は病的でいたいたしくはあったが、顔と眸《ひとみ》はかなり気持のいいものであった。ちょっと口をきいただけでも謹厳な清らかな品位のあふれた性質が知られるのであった。いたいたしい表情にもかかわらず、しっかりしていること、というよりはむしろ、思いきりのよさが感ぜられるのであった。彼女の服装はきわめて質素で、なんだか黒っぽく、すっかり年寄りじみたものではあったが、人の応待、話しぶり、すべての物ごしから、この婦人が昔は上流社会を見てきた人であると想像ができるのであった。
ワルワーラ・アルダリオノヴナは年のころ二十三ばかりで、身丈は中ぐらいでかなり痩せた娘で、顔は非常に美しいとはいえないが、きりょうを別にしても、男の心をひきつけ、燃え立たせるようなものを秘めていた。彼女は母親にたいへんよく似ていて、お化粧しようなどとしないために服装までが母親にそっくりといいたいほどであった。双の眸は灰色で、ときにはかなり明るく優しくもなるが、たいていの場合、謹厳で物思わしげであり、どうかすると、あまりひどすぎると思われることもあった。ことに近ごろはとりわけそれがひどいのである。しっかりしているのと思いきりのいいのとは彼女の顔にも現われていたが、このしっかりした気象は母親よりもずっと激しく果敢なもののように思われた。ワルワーラ・アルダリオノヴナはかなり激しやすかったので、兄もときどきそれを恐れるほどであった。今ここにいっしょにいる客、イワン・ペトローヴィッチ・プチーツィンも彼女にびくびくしているのである。この男はかれこれ三十歳ばかりの、まだ若い男で、地味ではあるが凝った服装をしていた。物ごしは明るくはあったが、あまりにももったいぶったところがあった。黒ずんだ亜麻色の顎鬚《あごひげ》はこの男が役所勤めの男でないことを示していた。彼は気のきいたおもしろい話をすることもできるのであるが、たいていは黙りこくっていた。概して気持のいい印象を人に与えた。彼はワルワーラ・アルダリオノヴナに心をひかれているようであり、また自分でもその感情を押しかくそうとはしなかった。ワルワーラ・アルダリオノヴナはただ友だちとしてつきあっているのであった。しかし彼のある質問には気軽に返事をすることができなかった。それをいやがるくらいであった。しかしプチーツィンはそんなことではなかなか落胆などしない男であった。ニイナ・アレクサンドロヴナは、彼に対して親切で、近ごろでは何かにつけて彼を頼りにするほどになっていた。もっとも、彼が専門の仕事として、多少とも確実な担保で高利の金を貸しつけ、それをずんずんふやしていることは誰にもよく知られていることである。彼はガーニャにとってはなかなかの親友であった。
ガーニャが行きとどいた紹介を、とぎれとぎれに言ってしまうと(ガーニャは母にそっけない挨拶をしただけで、妹には一言の挨拶もせずに、さっそくプチーツィンを連れて部屋を出て行った)、ニイナ・アレクサンドロヴナは二言、三言、公爵にやさしいことばをかけ、そのとき戸口から顔をさし出したコォリャに公爵をまん中の部屋に案内するようにと言いつけた。コォリャは明るく非常に可愛い顔をして、人を信じやすそうなすなおな物ごしをした少年であった。
「あなたの荷物はどこです?」と公爵を部屋に案内しながら彼は尋ねた。
「包みだけなんですが、玄関へ置いて来ました」
「僕がすぐ取って来ましょう。女中はお勝手働きのマトリョーナきりいないもんですから、僕が手伝っているんです。ワーリヤ姉さんがさしずをしてるんだけれど、怒ってばかりいるんですよ。ガーニャが言っていましたが、あなた今日スイスからいらしたんですってね?」
「そうです」
「スイスはいいでしょうねえ?」
「とても」
「山があるんでしょう?」
「ありますよ」
「僕、ちょっと荷物を取って来ます」
ワルワーラ・アルダリオノヴナがはいって来た。
「今、マトリョーナが敷布をのべにまいります。あなた、鞄《かばん》お持ちなんですか?」
「いいえ、ちょっとした包みきりなんです。弟さんが取りにいらっしゃいました、玄関にあるんです」
「この小さな包みのほかに、何もありませんよ。どこに置かれたんです?」部屋に戻って来てコォリャがこう聞いた。
「でも、ほかには何もないんです」公爵は包みを受け取りながら教えた。
「あ、あ! フェルデシチェンコが持って行ったのかと思いましたよ」
「つまらないことを言うんじゃありません」とワーリヤが厳めしい声で言った。彼女は公爵に向かってもきわめてそっけなく、ただただ丁重にしているばかりであった。
「Chere Babette(ねえ、おばかちゃん)僕には少しくらい優しくしてくれたっていいじゃないか、僕はプチーツィンさんとは違うんだから」
「どうして、おまえなんかぶってやりたいくらいだよ、コォリャ、それくらいおまえはばかなんだもの。あの、何かおいりのものがございましたら、マトリョーナにそうおっしゃってくださいまし、食事は四時半でございますの、私どもとごいっしょでも、お部屋でお一人ででも、どちらでもおよろしいように。さあ、コォリャ、公爵のお邪魔をしないように行きましょう」
「行きましょう、いばりやさん!」
出て行こうとして、二人はガーニャにつきあたった。
「お父さん家かい?」とガーニャはコォリャに尋ねた。コォリャがそうだと返事すると、彼は何かひそひそと耳打ちをした。
コォリャはうなずくとワーリヤのあとから出て行った。
「公爵、実はあのような……事件で言い忘れていたのですが、ひと言お話ししておきたいことがあります。たいして御迷惑でないようでしたら、相すみませんが、さっき僕とアグラーヤの間に起こったことをここでお話しにならないように、それからここで御覧になることも、|あちら《ヽヽヽ》ではお話しくださらんようにお願いいたします。ここもなかなかみっともないことがございますので。ええ、まあどうだっていい……が、それにしても、まあ今日一日ぐらいは控えてください」
「僕ははっきり申しますが、あなたの考えているほど、いろんなことをしゃべったわけじゃありません」公爵はガーニャの非難をいまいましく思ってこう言った。二人の間の関係は明らかにいよいよ険悪になってきた。
「まあ、しかしあなたのおかげで私は今日かなりひどい目にあいましたよ。ともかく私はあなたにお願いしときますよ」
「それに、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさん、僕はさっきいったいどんな束縛をうけなきゃならなかったのです? どうして写真のことを言ってはならなかったのです? あなたは私に何もお頼みにはならなかったじゃありませんか」
「ふう、なんていやらしい部屋だろう」ガーニャはさげすむようにあたりを見まわしながらこう言った。「暗いうえに、窓が裏庭のほうに向いてる。いろんな点から見て、あなたがいらしたのは時機が悪かったんですねえ……だが、それだからっていずれ私のせいじゃありませんよ。私が下宿をやってるんじゃないですからね」
彼はまだ何か話したいような風であったが、言い出すのがはずかしいような様子でためらっていた、そして部屋の悪口を言ったのも、このばつの悪さを隠すためらしかった。ちょうどそこへプチーツィンが顔をのぞかせて彼を呼んだので、彼はさも忙しそうに部屋を出て行った。
公爵がやっと手水を使って、どうにか身じまいを整えたところへ、またドアがあいて、新しい人が現われた。
これは身丈もそれほど低くなく肩の張った、大きな頭に縮れた赤い毛をした年のころ三十歳ばかりの男であった。顔は肉づきがよく赤ら顔であった。唇は厚く、鼻は左右に広くて低く、小さくて肉で塞がっている眼は人をばかにしたような色を浮かべて、なんだか絶えずまばたきしているようであった。
全体として、こうしたいっさいの様子はかなりぶしつけなものに見える。服装は薄ぎたないものであった。
彼は初め首がちょうどはいるだけ扉をあけた。首を突き出したままで、五秒ばかりのあいだ部屋の中を見まわしてから、戸を少しずつあけて閾《しきい》の上に全身を現わした。しかしこの客はまだはいろうとはせず閾の上に立ったまま、眼を細めながら公爵をじろじろと眺めていた。しばらくそうしてから、やっと後ろ手に扉を閉めて、近づいてくると椅子に腰をおろして公爵の手を固く握りしめて、自分から斜めに長椅子の上に公爵を坐らせた。
「フェルデシチェンコです」と彼はいぶかしげにじっと公爵を見つめながら言った。
「それで、どうなんです?」公爵は危うく笑いだしそうになりながら答えた。
「下宿人なんです」フェルデシチェンコはまたも同じようにじっと見つめながらこう言った。
「近づきになりたいというのですか?」
「とんでもない!」客はこう言って髪の毛をかきむしって吐息をつき向かい側の片側を見つめ始めたが、
「あなたお金を持ってますか?」と突然公爵のほうを向いて尋ねた。
「少しばかり」
「いったいどれくらいですか?」
「二十五ルーブル」
「見せてくださいませんか」
公爵は胴衣のポケットから二十五ルーブルの紙幣を取り出してフェルデシチェンコに渡した。相手はそれをひろげて、眺めていたが、それから裏返しにして、明るいほうへかざして見た。
「とても変ですなあ」彼は深く考えにふけるような調子で言うのであった。「どうしてこんなに赤茶けるんでしょう? 二十五ルーブル紙幣はどうかすると恐ろしく赤茶けてきます。ときには全く色のさめてしまうのがありますよ。しまってください」
公爵は紙幣を受け取った。フェルデシチェンコは椅子から立ち上がった。
「私は前もってあなたに注意しておこうと思ってやって来たんです。まず、私に金を貸しちゃいけません。私はきっと金を借りに来ますからね」
「よろしいです」
「あなたはここに支払いをなさるお考えですか」
「払うつもりでいます」
「ところが私はそんなつもりがないんです。ありがとう、私はこの部屋から右手にあたる最初の部屋にいます。御覧になったでしょう? 僕のところへはあまりたびたびいらっしゃらないでください。私はあなたのところへ来ますが、御心配にならんように。将軍にお会いになりましたか?」
「いいえ」
「じゃ話にも聞きませんでしたか?」
「もちろん、聞きません」
「まあ、じゃ、そのうち見たり聞いたりなさるでしょうよ。それに将軍は僕のところにまで金を借りに来るんですよ! Avis au lecteur(これは前おきです)失敬しました。だがそもそもフェルデシチェンコなんて名前で暮らしてゆけるでしょうかねえ? え?」
「ゆけないことはないでしょうね?」
「さようなら」
こう言って彼は戸口の方へ進んだ。公爵はこの男が奇抜なのと陽気なのとで人をあっといわせるのを、まるで自分の義務ででもあるかのようにしているのだということを後になって知った。しかしうまくいったためしがないらしいのである。ある人々などにはかえって不愉快な印象を与えるので、そのために彼はしょげきってしまうのであった。それでも彼はなおおのが任務を放棄しようとはしなかった。彼は戸口のところで外からはいって来た一人の男にぶっつかって、はじめてあたりまえになったらしかった。公爵にとっては新しい未知の訪問客をこの部屋へやりすごしておいて、彼はその背後から警告するように二、三度目くばせした。しかも彼はこんなことはしながらもあくまで泰然たる態度を失わずに立ち去った。
新しくはいって来た紳士は、背の高い、五十五くらいかあるいはそれより少し老《ふ》けた年輩で、かなり肥っており、肉づきのいいたるんだ顔は紫がかった赤みを帯びて、その周りを灰色の濃い頬髯《ほおひげ》と鼻髭《はなひげ》が縁どっていた。眼は大きくて、かなり飛び出ていた。彼のからだにつきまとっている、だらりとした、磨り切れたような、そのうえよごれた何かがなかったら、彼の風采は実に堂々としたものであったろう。彼は旧式なフロックコートを着ていたが、その肘は今にも穴があかんばかりであった。肌着もまた油じみて――いずれもふだん着らしかった。傍へ近よるとウォートカの匂いが少しするが、そぶりは、おどしのきくほうで、わざとらしいところがないではなかったが、当人の望んでいるらしい堂々たる威容はたしかに感ぜられるのであった。その紳士はゆうゆうと公爵の傍へ近づいて来て、人なつこげなほほえみを浮かべて、口もきかずに公爵の手をとったが、そのまま、見おぼえのある容貌がやっとわかったというようにじっと見つめていた。
「あの人だ! あの人だ!」と小声ではあるが重々しい声で彼は言った。「まるで生き写しだ! 実は家の連中が、わしにとっては忘れることのできない親しい名を何度もくり返して話しているので、ふっと、返らぬ昔を思い出した次第……ムィシキン公爵でしたね?」
「ええ、そのとおりでございます」
「わしはイヴォルギン将軍、みじめな退職将軍です。失礼ながら、あなたのお名前と父称は?」
「レフ・ニコライヴィッチ」
「さよう、さよう! わしの竹馬の友ともいうべきニコライ・ペトローヴィッチの御子息ですね?」
「僕の父はニコライ・リヴォーヴィッチといいました」
「リヴォーヴィッチ」と将軍は言いなおした。しかし少しもあわてず、自分はけっして忘れたのではない、ただ思わず言い間違ったのだとでもいうように、全く自信に満ち満ちたような様子をしていた。彼はまず自分が坐ると、公爵の手をとって自分の傍に坐らせた。「わしはよくあんたを抱いて歩いたもんでございますよ」
「本当ですか?」と公爵は尋ねた。「父が亡くなってからもう二十年になります」
「そうですな、二十年と三か月になります。いっしょに勉強をしたもんですよ、わしはすぐに軍隊にはいったのじゃが……」
「ええ、父もやはり軍隊にはいりました、ワシリエフスキイ連隊の少尉でした」
「ベロミルスキイですよ。ベロミルスキイに転任されたのはほとんど亡くなられる直前でしたね。わしはそこに居合わせまして、お父さんに永遠の境へ祝福してあげました。あんたのお母さんは……」
将軍は悲しい思い出にたまらなくなったようにことばを切った。
「ええ、母も半年ばかりたってから風邪で亡くなりました」と公爵は言った。
「風邪じゃありません、風邪じゃありません。年寄りの言うことに間違いはありません。わしはその場に居合わせて葬式にも行きました。亡き公爵を思う悲しみのあまりです、風邪のためじゃありません。さよう、公爵夫人のことはよく覚えています! ああ若かったなあ! お母さんのことで竹馬の友たるわしと公爵が、危うく果たし合いをしようとしたことがありますよ」
公爵はいくらか疑いを懐いて聞き始めた。
「あなたのお母さんがまだ娘のころ、つまり私の親友の許婚《いいなずけ》であったころ、私はおっ母さんにひどく惚《ほ》れこんでしまいました。公爵はこれに気がついてひどく驚かれました。ある朝六時ごろやって来てわしを起こされるのです、わしはびっくりしてしたくをしました。両方とも沈黙です。わしにはいっさいのことが呑み込めた。すると公爵はポケットから拳銃を二挺取り出しました。ハンカチだけの距離を置いて射ち合おう。介添え人はつけまい。ということにしたのです。あと五分もすればお互い同志を永遠の境に送ろうとする時、介添え人などいるもんですか? 弾をこめ、ハンカチをひろげて、立ち上がり、拳銃をお互いの胸に押しあてて、顔と顔とを見合わせました。すると突然二人の眼から涙が霰《あられ》のようにこぼれて、手が震えてきました。二人ともですよ、二人とも同時になんです! さあ、それで二人は自然とそのまま抱き合ってどちらがおうようか競争を始めたのです。公爵は、君のものだ、と叫ぶし、私も、君のものだ、と叫ぶ。つまり……つまり……あなたは私どものところへ……下宿しにいらっしったんですね?」
「ええ、たぶん、ここしばらくの間」公爵は少しどもるような調子でこう言った。
「公爵、お母さんがちょっと来てくださいって」とコォリャが戸口からのぞきこんで叫んだ。公爵が立ち上がって行こうとすると、将軍は公爵の肩に右手の掌をのせて、親しげな様子を見せて、再び彼を長椅子に坐らしてしまった。
「あなたの亡き父上の真の友人として、わしはあんたに前もってお断わりしておきたいのです」と将軍は言った。「わしは御覧のとおり、ある悲劇的な災難のためにひどい打撃をうけました、それも、無実のことなんですよ! いわれもない事実のためにですよ! ニイナ・アレクサンドロヴナは――世にまれな女です! 娘のワルワーラ・アルダリオノヴナも珍しい娘です! 下宿は今の境遇ではやむを得ず始めたことなんですが、話にもないような落ちぶれ方じゃありませんか! わしはこれでも総督くらいにはなれたはずですからなあ! ……それはともかくとしてあなたが見えられたのはわれわれ一同には実にうれしい。ところが実は、この家に一つの悲劇があるんでしてねえ!」
公爵は強い好奇心をいだいて、問いたげな様子をして相手を眺めた。
「結婚話が持ち上がっているのですが、それが類の少ない結婚なのです。あいまいな女と、もしかしたら侍従武官にもなれようという青年との結婚でしてね。わしの家内や娘のいるこの家へその女を引き入れようっていうんです! じゃが、わしの息の通っている間は、あの女などを踏みこませるもんか! わしは閾の上に寝てやるから、入りこむつもりなら、わしをまたいで入るがいい! わしはガーニャとほとんど口をききません。顔を合わせるのも避けています。あなたにこう言って注意しておきます。わしどもんところでお暮らしなさる以上は、こんなことを言わなくっても、どっちみち御覧になられることでしょうが。しかしあんたはわしの親友の御子息だから、わしは権利としてあんたを頼りにするのです……」
「公爵、申しかねますが、客間までいらしてくださいませんか」とニイナ・アレクサンドロヴナがみずから戸口まで来てこう叫んだ。
「どうだい、おまえ」将軍は叫んだ。「わしが公爵をこの手に抱いてお守りしたことがわかったよ!」ニイナ・アレクサンドロヴナはとがめ立てるように夫を見、公爵にはもの問いたげな視線を向けたが、一言も口をきかなかった。公爵は彼女のあとから出て行った。しかし二人が客間にはいって腰をおろし、ニイナ・アレクサンドロヴナが気ぜわしく声をひそめて何やら公爵に話し始めたかと思うと、思いがけなくも、将軍自身が客間に姿をあらわした。ニイナ・アレクサンドロヴナはそのまま口をつぐんで、いかにもいまいましそうに、かがみこんで編み物を始めた。将軍もどうやら夫人のいまいましそうな様子に気がついたらしかったが、依然として上機嫌であった。
「親友の御子息!」とニイナ・アレクサンドロヴナのほうを向いて将軍は叫んだ。「全く思いがけないことだった! わしはもうずっと前から胸に描いてみることさえもやめていた。ところで、おまえ、亡くなったニコライ・リヴォーヴィッチを覚えているかえ? おまえ、お目にかかったろうが、……トヴェーリで?」
「わたしはニコライ・リヴォーヴィッチなんておかたは存じませんよ。あなたのお父様?」と彼女は公爵に尋ねた。
「ええ、しかし、亡くなったのはたぶんトヴェーリじゃなくてエリザヴェートグラードだったようです」おずおずと公爵は将軍に言った。「僕はパヴリシチェフさんに聞いたのですが……」
「トヴェーリです」と将軍はきっぱり言った。「トヴェーリに転任されたのは亡くなられるすぐ前で、というよりは、病気の昂ずる前でしたよ。あんたはまだごく小さかったので、転任のことも旅行のことも覚えておられないでしょう。パヴリシチェフ君だって間違うことがありますよ。もっともあの人もいい人だったが」
「パヴリシチェフさんも、御存じですか?」
「珍しい人でしたよ。だが、わしはちゃんとその場に居合わせたんですからね。臨終の床でお父さんを祝福してあげたんですからね……」
「だって、父は裁判の最中に亡くなったんじゃありませんか」と公爵は再び将軍に注意した。「どんなことでそうなったのか、よくはわからないんですけれど。病院で亡くなったんだそうです」
「おお、それはコルパコフという兵卒に関係した事件じゃったが。しかもたしかに公爵の身のあかしも立つとこだったのに」
「そうですか? あなたはたしかに御存じなんですか?」と公爵は強い好奇心に駆られて聞いた。
「もちろん!」と将軍は叫んだ。「裁判は何一つ決まらずに解散したのです。全くありうべからざる事件です! いや、神秘的な事件とさえ言えましょう。いいですか。中隊長のラリオノフ歩兵二等中尉が死んだので、しばらくのあいだ公爵が職務を執るように命ぜられたのです。これは結構なことです。ところが、コルパコフという兵卒が窃盗《せっとう》したんです、同僚の靴を盗んだのです、そしてそいつで酒を飲んだのです。これはいいとしましょう。公爵は――ちょっと注意していただきたいのは、これは軍曹や伍長のいるところでのことです――公爵はコルパコフをさんざん叱りつけてから笞刑にすると言って威かしなすった。これも実に立派なことです。コルパコフは兵営に帰って板床に横になったのですが、十五分ばかりたつと死んでいたのです。これはいいとしても、全く思いがけない、ちょっとありそうにも思われない出来事でした。それはそれとして、とにかくコルパコフの葬式も済んで、公爵は報告書を書き、間もなく兵卒コルパコフの名は名簿から除かれたのです。これでもうべつに申し分はないようでしょう? ところがそれから半年ばかりして、旅団検閲の時、ノーヴォゼムリャンスキイ連隊第二大隊第三中隊に、兵卒コルパコフがさりげない顔をして現われたのです。しかも、それが同じ旅団、同じ師団なんですよ!」
「なんですって?」公爵は驚いてわれを忘れて叫んだ。
「それはそうじゃないのです。まちがいです!」とニイナ・アレクサンドロヴナはほとんど悩ましそうに公爵を見て、いきなり彼に向かってこう言った。「Mon mari se trompe(宅のまちがいです)」
「しかし、おまえ、se trompe なんて言うのはやさしいことだ。そんならおまえが自分でこんな事件を解決してみるがいい! ところが、みんな動きがとれなくなっちまったのさ。わしだってこの話を聞いたらまっ先に qu' on se trompe(みんな勘違いをしてる)と言っただろうよ。しかし不幸にもわしは親しく目撃したし、委員会にも列席したんだからな。誰を対決させても、これは半年前に通常礼式に従って、太鼓を鳴らして埋葬したあの兵卒コルパコフその者に違いないと供述するんだからね。実に珍しい事件だしほとんど有りうべからざることだ、わしもそれは認めるよ、だが……」
「お父さん、お食事のしたくができました」ワルワーラが部屋にはいって来て知らせた。
「ああ、そいつは結構、ありがたい! わしはすっかり腹を空かしてしまったから……、だがそれは心理学的なとさえも言うべき事件ですよ……」
「また、スープが冷めてしまいますよ」ワーリヤはたまらなくなってこう言った。
「今ゆくよ、今」と将軍は小声で言って部屋を出て行った。「どんなに調査してみても」と、まだこういう声が廊下のほうに聞こえていた。
「あなた、私どものところに永くいらっしゃるようでしたら、アルダリオン・アレクサンドロヴィッチがいろいろと失礼いたしますでしょうが、悪く思わないでいただかねばなりません」とニイナ・アレクサンドロヴナは公爵に言った。「と申しましても、たいして御迷惑はかけないでしょう。食事も一人きりでいただきますので。お話し申すまでもないことですが、人間だれでも自分の欠点というもの、つまり自分の癖ってものをもってますからね。ことによったら、人にとやかく言われる人より、言う当人のほうがかえって欠点をよけいに持ってるかもしれません。ところでただ一つ、おりいってお願いしておきたいのは、もしかすると宅が宿料のことで、あなたに何か申し上げるかもしれませんが、そんなことがございましたら、もう私に渡したと言ってやってくださいまし。もっともアルダリオン・アレクサンドロヴィッチにお渡しくださいましても、勘定にははいりますけれど、私はただきちょうめんにしておきたいものですからお願い申すんでございます……ワーリヤ、それは何?」
部屋に引き返して来たワーリヤは、無言のまま母にナスターシャ・フィリッポヴナの写真をわたした。ニイナ・アレクサンドロヴナはぶるぶると身震いして、初めのうちは驚いたようにしていたが、やがて今度は、圧しつけられるように苦しみを覚えて、じっとしばらくの間は写真に見入っていた。そして最後には、もの問いたげにワーリヤのほうを見た。
「このひとから今日兄さんに贈物としてよこしたんです」ワーリヤは言った。「今夜になればいっさい何もかにも決まるんだって」
「今夜!」と夫人はがっかりしたように小声でくり返した。「どうしよう? もう何も疑うこともなければ、希望さえもなくなりました。この写真であの女はいっさいのことを知らして来たんです……それで、あれがおまえに自分で見せたの、え?」あきれたように彼女は付け足した。
「わたしたちが、もうずっとひと月も口をきかないのは御存じでしょう。プチーツィンさんが何もかも知らしてくだすったのです。写真はあそこのテーブルのわきの床にころがっていたので、私はそれを拾って来たんですわ」
「公爵」と、不意にニイナ・アレクサンドロヴナが公爵のほうを振り向いた。「わたしあなたにお伺いしたいのです(ここへおいでを願ったのもそのためなのですが)、あなたは家の息子をだいぶ前から御存じなんですか。あの子の話では、あなたはどちらからか今日お着きになったばかりですって?」
公爵は半分以上も省略して、自分のことを手短かに話した。ニイナ・アレクサンドロヴナとワーリヤは耳を傾けて公爵の話をすっかり聞いてしまった。
「わたしはあなたにいろんなことを伺って、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチのことを探り出そうなんかっていうのではけっしてございません」とニイナ・アレクサンドロヴナが断わった。
「どうかこのことは勘違いなさいませんように。もしあの子が自分の口で言えないようなことが何かあるのなら、私はあの子をさしおいて、探り出そうなどとはいたしません。私がこんなことを申しますのも、実は先ほど、ガーニャがあなたのことをお噂しましてね、それからあなたがあっちへいらしったあとで、私があなたのことを尋ねますと、『あの人は何もかもすっかり知っているから、いまさら何ももったいぶるものはない!』とこう申したからです。いったいこれはどんな意味でしょうね? で、つまり、私のお伺いしたいのは、どの程度まで……」
そこへ思いがけなく、ガーニャとプチーツィンがはいって来たので、ニイナ・アレクサンドロヴナはそのまま口をつぐんでしまった。公爵は彼女の傍の椅子にかけたままでいたが、ワーリヤはぷいと傍のほうに離れてしまった。ナスターシャ・フィリッポヴナの写真はニイナ・アレクサンドロヴナのすぐ前にある仕事机の上のいちばん眼につきやすいところに置いてあった。ガーニャは、それを見ると、苦い顔をして、いまいましそうにそれを取り上げ、部屋の片隅にある自分の文机の上に放り出した。
「今日だねえ、ガーニャ?」思いがけなくニイナ・アレクサンドロヴナがこう問いかけた。
「何が今日です?」と言ってガーニャはまごついていたが、不意に公爵のほうに向きなおって、「ああ、わかった、あなたはここでもまた、……まあ、なんていう病気なんだろう? 黙ってることはできないんですか? 実際、ちったあ考えてくださいよ、閣下……」
「それは僕のせいだ、ガーニャ、ほかの誰のせいでもないんだ」プチーツィンがさえぎった。
ガーニャはいぶかしげに彼を眺めた。
「だが、そのほうがいいじゃないかね、ガーニャ、それに一方から言えば、むしろ事件はかたづいてるんだからねえ」とプチーツィンはつぶやいて、傍のほうに離れてテーブルを前にして腰をおろし、ポケットから鉛筆で何やら書いた紙片を取り出して、それをじっと眺めかかった。
ガーニャは憂鬱な顔をして、突っ立ったまま、不安げに、家庭劇の一こまを待ち設けていた。公爵にわびを述べようなどとは考えもしなかった。
「話がかたづいたとすれば、そりゃもちろんプチーツィンさんのおっしゃるとおりです」ニイナ・アレクサンドロヴナが言った。「そんな気むずかしい顔はしないでおくれ、ね、お願いだから。怒らないでおくれ、なにも私はおまえの言いたくないことを、あれこれと聞こうとは思いません。私は本当にもうあきらめました。ね、お願いだから気にかけないでおくれ」
彼女は仕事から手を放さずに、これだけのことを言った。実際、気持は落ち着いているらしかった。ガーニャは驚いたが、用心深く口をつぐんだまま、母親がもう少しはっきり言ってくれるのを待ちながら、じっと母のほうを眺めていた。彼はずっと今までこの家庭劇にはなかなか高い価を払ってきた。ニイナ・アレクサンドロヴナは息子の慎重な態度に気がつくと、微苦笑をうかべて付け足した。
「おまえはまだ私を信用しないで疑っているんですね、気にかけなくともいいのよ。もうこれからは以前のように泣いたり頼んだりはしやしないから。少なくとも私のほうはね。私は、まだおまえが幸福でさえあればと願うばかりです。それはおまえだって知ってるはずだ。私は運まかせに、なるようになるつもりです。だけど、私たちが同じ家に住もうと、離れて暮らそうと、私の心だけはいつもおまえといっしょにいますよ。こう言っても、これは私だけのことですよ、おまえは妹にこれと同じことを要求するわけにはゆきません」
「ああ、また、あれが!」妹をあざけるように憎々しげに眺めながら彼は叫んだ。「お母さん! 前にあなたに約束したことですが、もう一度あらためて誓います。僕が生きているうちは、けっして誰にもあなたに対してばかなまねはさせません。誰のことを話すときでも、私はお母さんに対して十分の尊敬をいだいています。誰が閾をまたいではいって来ようとも……」
ガーニャはもうすっかりうれしくなって、仲なおりをするように、やさしく母を眺めるのであった。
「私は自分のために何も恐れはしなかったの。ね、ガーニャ、それはおまえにもわかるでしょう。私はずいぶん長い間、気をもんだり、苦しんだりして来ましたが、それも自分のためにしたことじゃありません。なんだか、おまえ、今日すっかり話が決まるってことですが、いったい、それは何が決まるの?」
「今晩、あの人が、自分の家で、承知か不承知かはっきり答えてくれるって約束したんです」とガーニャは答えた。
「わたしたちはもうかれこれ三週間というもの、この話に触れなかったけれど、それがかえってよかったんですね。今はもういっさいがかたづいたんですから、ただ一つ私に聞かしてください。あの女はおまえが愛してもいないのに、どうして承諾を与え、おまけにそのうえ写真まで贈るなんてことができたんだろう? 本当におまえは、あんな……あんな……」
「じゃ、すれっからしとでも言うのですか、え?」
「私はそんな風に言おうと思ったんじゃありません。だけど、おまえはそんなにあの女をたぶらかしてしまったのかえ?」
この問いの中には思いがけなくも、今にも破れそうな憤懣の響きがこもっていた。ガーニャはたたずんだまま一分間ほどじっと考えていたが、あざわらいを隠そうともせずに言いだした。
「お母さん、あなたはつい引きずり込まれて、またじっとしていることができなくなりましたね。ほんとに私たちのする話といったらいつでも初めはこんな風で、あとではだんだん激してくるのです。あなたはたった今おっしゃいましたね、うるさく尋ねもしない、責めもしないって、ところがもうそれが始まったじゃありませんか! しかし、もうよしたほうがいいでしょう。よすほうが間違いないでしょう。少なくともあなたは、その意向だったんですからね、……僕はどんなことがあろうとあなたを見すてはしません。他の男だったら、少なくともこんな妹のところから逃げ出してしまいますよ。ほら、また僕をあんな眼をして見ている! こんなことはよしましょう! 私はもう、とても嬉しがっていたんですからね、……それにあなたは、なんだって僕がナスターシャ・フィリッポヴナをだますなんて思うんでしょう? ワーリヤのこととなれば、それはどうなろうとあれの勝手です、それでもうたくさんです。あ、もう、これで全く十分です!」
ガーニャは自分のことばの一つ一つに興奮して、あてどもなく部屋の中を歩きまわった。かような会話はすぐに家族の者一同の痛い所に触れたのである。
「わたしは言っているじゃないの、もしあの女がここにはいって来るなら、私はここから出て行きます、わたしだっていったん言ったことは守りますよ」ワーリヤが言った。
「意地っ張りだからだ!」とガーニャは叫んだ。「意地っ張りだから結婚もしないんだ! 何が『ふん』だえ? なんだって鼻をふくらますんだえ? ワルワーラ・アルダリオノヴナさん、僕はそんなことなんかびくともしないよ。勝手にするがいいでしょう、今すぐにでもおまえさんの考えていることを実行なさるがいい。おまえさんにはうんざりしましたよ。どうしたんです? 公爵、とうとうあなたは私たちを放ったまま行ってしまおうってなさるんですね」と彼は公爵が席を立ったのを見て叫んだ。
人は憤怒がある点まで達すると、ほとんどその憤怒がきわめて楽しいものになって、どうなろうとかまいはしないというほどの気持になって、しだいに募ってゆく快感にさえも浸って、なんらの抑制もなしに、憤怒の情に身をまかせてしまう。ちょうど今、ガーニャの声にはこうしたものが感ぜられるのである。公爵は何か答えようとして戸口の所で踵《くびす》を返そうとしたが、無礼をあえてする相手の病的な顔の表情を見て、この先いたら何を言われるかわからないと思ったので、そのまま黙々として出て行った。数分たってから彼は客間から伝わってくる声によって、会話はますます喧《かしま》しく、露骨になったことを知った。
彼は廊下に出て、そこから自分の部屋に帰ろうとして、広間から玄関へ出た。入口の階段に通ずる扉の近くを通り過ぎようとした時、扉の向こうで誰かが一生懸命にベルを鳴らそうとしているのに気がついた。おおかたベルはどこかこわれたのであろう、ほんのちょっと震えるばかりで、音はしなかった。公爵は閂《かんぬき》をはずして扉をあけた。と、愕然《がくぜん》として身を引き、全身をぶるぶると震わしさえもした。眼の前にナスターシャ・フィリッポヴナが立っていたのである。彼は写真を見ていたので、すぐと見分けがついた。彼女は公爵の姿を眼にした瞬間、その眼は一時にいまいましさがあふれ出て、燃えるような光を放った。彼女は公爵を肩で押しのけて、すたすたと控え室へ通り、毛皮外套を脱ぎすてると、腹立たしそうに叫んだ。
「ベルをなおすのがめんどうくさいのなら、せめて、人が戸をたたくとき、控え室にでもじっと坐ってたらいいのに。おや、今度は外套をおっことした。間抜け!」
事実、外套は床の上に落ちていた。ナスターシャ・フィリッポヴナは、公爵が脱がせる間も待ちきれずに、自分で外套を脱ぐと、ろくに見もしないで後ろ向きになったままに放り出したのである。公爵はそれを受けとめる暇もなかった。
「おまえなんか追い出さなくちゃ、だめだ。さっさと取り次ぎな」
公爵は何か言いたかったが、すっかりあわててしまって、一言も物を言うことができなかった。床の上の外套を拾い上げるとそれを手に持ったまま客間にはいって行った。
「おや、今度は外套を持って歩いてるよ! なんだって外套なんか持って歩くの? は、は、は! おまえ、気でも狂ってるの、え?」
公爵は引き返して来て、彫像のようにじっと彼女を見つめた。彼女が、は、は! と笑いだしたとき彼もまたかすかに笑ったが、どうしても舌を動かすことができなかった。彼女のためにドアをあけた最初の瞬間、彼は青ざめていたのに、今度は急に彼の顔が赤らんできた。
「いったいなんて白痴だろう!」とナスターシャ・フィリッポヴナはいまいましそうに足を踏み鳴らしながらどなりつけた。
「おや、おまえ、どこへゆくの? まあ、おまえ、誰が来たと言って取り次ぐつもりなの?」
「ナスターシャ・フィリッポヴナ」と公爵は小声で言った。
「どうして私の名を知ってるの?」彼女は早口に尋ねた。「私はおまえに会ったことなんかありやしないよ! さっさと、取り次ぎな……あら、あの叫び声は?」
「喧嘩してるんです」と公爵は答えて客間へはいった。
公爵がはいった瞬間、部屋の空気はかなり険悪であった。ニイナ・アレクサンドロヴナは『何もかもあきらめた』とほんのさっき言ったことをもうほとんど忘れかけていた。彼女はやはりワーリヤをかばっていた。ワーリヤのそばにはプチーツィンが例の鉛筆で書きこんだ紙をうっちゃったまま、立っていた。ワーリヤ自身もけっしてびくびくなどはしていなかった。それどころか、こんなことでびくびくするような娘ではなかったのである。しかし兄の毒舌は一言ごとに醜く、聞くに堪えられないものになっていった。こうした場合には、ふだん彼女は口をきくのをよして、ひたすら沈黙を続けて、わき眼もふらずに、じっとあざけるように兄を見つめることにしていた。この術策には彼女がよく心得ていたように、彼に癇癪玉《かんしゃくだま》を破裂させるのにはかなりききめがあったのである。ちょうどこの時、公爵が部屋にはいって来て、注進に及んだ。
「ナスターシャ・フィリッポヴナさんがまいりました」
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一座は急にひそまり返った。人々はあたかも公爵の言うことがわからないかのように、またわかろうともしないかのように彼の顔を眺めた。ガーニャは驚きのあまり感覚を失ったようになった。
ナスターシャ・フィリッポヴナの来訪は特にこの瞬間、人々にとっては妙な、めんどうな思いもかけないことであった。ナスターシャ・フィリッポヴナがはじめてたずねて来たということだけでも人々がこのように驚いたのは当然なことであった。今までナスターシャ・フィリッポヴナはいやにおうへいに構えていて、ガーニャと話すときでも、彼の身うちのものと近づきになりたいという希望を述べたことはなく、それに近ごろでは、そんな人々はこの世にいないかのように、おくびにも出さなかった。ガーニャは自分にとってめんどうな話から遠ざかることをいくらか喜びはしたけれど、やはりこの女の傲慢《ごうまん》なことは心の中に畳みこんでいた。それはともかくとして、彼はむしろ自分の家族の者に対して嘲笑や皮肉を彼女に浴びせかけられるものと期待してはいても、訪問をうけようなぞとは思いも及ばなかったのである。彼の家庭の中で今度の結婚の話についてどんなことが起こっているか、また彼の家族の者たちがナスターシャ・フィリッポヴナをどんな目で見ているか、こうしたいっさいのことが彼女によくわかっていることはガーニャもよく呑み込んでいた。写真を贈ったあとであり、自分の誕生日でもあり、また彼女が彼の運命に解決を与えるという約束をした日でもある今日という今日、彼女の来訪はほとんど解決それ自身を意味しているともいえるのであった。
公爵を見つめていた人々が心にいだいた疑惑はあまり長くは続かなかった。ナスターシャ・フィリッポヴナはもう客間の戸口に姿を現わし、部屋にはいるときまたもや公爵を軽く押しのけた。
「やっとのことではいることができた……なんだってあなたはベルをくくり付けておおきになるの?」あわてふためいて彼女の傍に走りよったガーニャに手をさしのべて、陽気そうに彼女はこう言った。「どうしてそんなにあわてた顔をしていらっしゃるの。紹介してくださいな、どうぞ……」
ガーニャはすっかりめんくらって、最初にワーリヤを紹介した。と、二人の女性は互いに手をさしのべる前に奇妙な視線を交わした。それでもナスターシャ・フィリッポヴナのほうは、ほほえみを浮かべて、愉快そうな風をよそおった。しかしワーリヤは表情をつくろおうとはせずに、暗い顔つきをしてじっと相手を見つめた。ほんのちょっとした礼儀からでも、しなければならないほほえみの影すら浮かべなかった。ガーニャは気が気でなかった。今となって懇願するすべもなければまたその暇もないので、彼は威嚇《いかく》するようにワーリヤを眺めた。ワーリヤは兄のきつい視線によって、この瞬間が兄にとってどんな意味をもつものかを悟ったので、下手《したて》に出る気になって、ほんのかすかにナスターシャ・フィリッポヴナにほほえみかけた(家庭の内輪同志としてはまだ愛し合っていたのである)。すっかりあわててしまったガーニャは妹のあとで母を紹介したが、それも母のほうから先にナスターシャ・フィリッポヴナのそばに進ませたのである。ニイナ・アレクサンドロヴナはこの場の様子をいくぶんつくろってくれた。しかしニイナ・アレクサンドロヴナが自分の『非常な歓び』を言いだすか言いださないうちに、ナスターシャ・フィリッポヴナは話の中途で、急にガーニャのほうをふり向き(すすめられもしないのに)、部屋の隅の窓のわきにおかれている小さな長椅子に腰をおろして、大きな声で言い始めた。
「あなたの書斎どこなの?……それから下宿人はどこにいるの? あなたは下宿人を置いていらっしゃるはずでしたわね?」
ガーニャはひどく顔を赤らめて、何やらどもりながら返答しようとした。しかしナスターシャ・フィリッポヴナはすぐに付け足した。
「いったいどこへ下宿人をお置きになるの? あなたのところには書斎もないじゃありませんか。でももうけがありますの?」彼女は不意にニイナ・アレクサンドロヴナのほうを向いた。
「ちょっとめんどうでございます」と相手は答えかかっていた。「なんとしましても、もうけのございませんことには……しかし、私どもはほんのわずかばかりで……」
しかし今度もナスターシャはもう聞いてはいないのであった。彼女はじっとガーニャを見ていたが、やがて笑いながら大きな声で言いだした。
「あなたの顔はどうしたんです? ああ、私が来たっていうのになんて顔をなさるんです!」
しばらくこの笑いが続いた。すると実際ガーニャの顔が非常に醜くなってきた。棒のように、固くなった態度や、おずおずしてうろたえた滑稽な表情が急に消えて、顔はものすごいまでに青ざめてきた。唇は痙攣《けいれん》してゆがんで来た。彼は黙々として気味の悪い眼つきで、相変わらず笑い続けている客の顔を、またたきもせず見まもっていた。
そこにはもう一人の傍観者があった。彼はナスターシャ・フィリッポヴナを見るなり、まるで唖《おし》のようになって、戸口のそばにじっと『棒立ち』になっていたが、しかもガーニャの顔が青ざめてものすごい変化を起こしたのに気がついていた。この傍観者というのは公爵であった。彼は腰をぬかさんばかりになって、いきなり機械的に前へ進み出した。
「水をおあがんなさい」と彼はガーニャにささやいた。「それにそんな目つきをしちゃいけません」
公爵はなんのもくろみも、別にこれという考えもなく本能的にこう言ったものらしかった。しかし彼のことばは非常な影響を与えた。ガーニャの憤怒はことごとく公爵の上に降りそそがれたように思われた。彼は公爵の肩を引っつかんで、無言のまま、さも憎々しげに恨めしそうな眼つきで、口をきくことができないかのように、じっとにらみつけていた。一座にざわめきが起こった。ニイナ・アレクサンドロヴナはかすかながら叫び声をあげたほどであった。プチーツィンは心配そうに一歩前に踏み出した。戸口に現われたコォリャとフェルデシチェンコは驚いて立ち止まった。ひとりワーリヤばかりは相変わらず額越しに、しかも注意深く眺めていた。彼女は腰をおろしもせずに両手を胸に組んだまま母の傍近くによりそって、たたずんでいた。
しかしガーニャは、ほとんどこうした動作を始めたかと思うと同時に気がついて、神経質に大きな声で笑いだした。彼はすっかりわれにかえった。
「何をおっしゃるのです、公爵、あなたは医者だとでもいうのですか?」と彼はできるだけ快活にくだけた調子でこう言った。「ほんとに、びっくりするじゃありませんか。ナスターシャ・フィリッポヴナさん、御紹介いたします。これはとてもすばらしいしろものですよ。僕はやっと今朝ちかづきになったばかりです」
ナスターシャ・フィリッポヴナはいぶかしげに公爵をながめた。
「公爵ですって? このひとが公爵なの? まあ、わたし、さっき控え室でこのかたを召使かと思って、ここへ取次ぎによこしたのですよ! は、は、は!」
「大丈夫ですよ、大丈夫ですよ!」大急ぎで傍へ寄ってきたフェルデシチェンコは、ナスターシャが笑いだしたのが嬉しくて、こう言った。「大丈夫ですよ。Se non e vero……(それが本当でなければうまく発明したものだ)」
「ほんとに、あなたを叱りとばさないばかりでしたわね、公爵。どうぞ御免くださいね。フェルデシチェンコさん、どうしてあなたはまた今ごろこんな所に来ていらっしゃるの? わたしは、ね、せめて、あんただけには会いたくはなかったの。どなたですって? 何って公爵? ムィシキン?」と彼女はガーニャに聞き返した。ガーニャはまだ公爵の肩をつかんだまま、どうにかこうにか彼の紹介をすませた。
「宅に下宿していらっしゃるかたです」とガーニャはくり返した。
一同の者は公爵を、何か珍しい人(それにこの仮面をかぶっている状態から一同を救ってくれる人)として考えていたのは明らかであった。公爵は後の方で誰か、たぶんフェルデシチェンコであろう、小声で『白痴《ばか》』といってナスターシャ・フィリッポヴナに説明しているのをはっきり耳にした。
「ねえ、わたしがあんなにひどく……あなたを間違えた時、あなたはなぜ注意してくださらなかったんですの?」とナスターシャ・フィリッポヴナはぶしつけな態度で公爵を頭の先から爪先までじろじろ眺めながらことばを続けた。
彼女は公爵の答えが笑いださずにはいられないほど、きっとばかげたものに違いないと十分に信じきっているような風をして、じれったそうに待ちうけていた。
「実はあまり不意にお目にかかったもんですから驚いてしまったのです……」と公爵は声低くつぶやいた。
「ですけど、どうして私だってことがおわかりでした? 以前にどこかでわたしを御覧になったんですか? どうしたのかしら、わたし、どこかでこのかたにお目にかかったような気がするわ! 失礼ですけど、なぜあなたさっき立ちすくんでおしまいなすったの? わたしには何か人を立ちすくませるようなところがあるのかしら?」
「さあ、しっかりやった!」とフェルデシチェンコはいつまでもしかめ面をしながら、「しっかり! ああ、僕がこんなことを聞かれたんだったら、大いに言ってやるんだがなあ! さあ、しっかり……そんな風じゃ、公爵、これから薄野呂になっちまうぜ!」
「僕だって君の立場にいたら大いに言いますよ」と公爵はフェルデシチェンコに笑いかけて、今度は「さっき、あなたのお写真を見て打たれてしまったのです」とナスターシャ・フィリッポヴナに話しかけた。「それに、エパンチン家の人たちといっしょにあなたのことをお噂しましたし、……それから、今朝早くペテルブルグに着かない前に、汽車の中でパルフェン・ラゴージンさんからあなたのことをいろいろ承りましたし、……それにさっき戸をあけた時にも、あなたのことを考えていたところへ、いきなりあなたがはいって来られたのですからね」
「だって、どうしてわたしだってことがわかりましたの?」
「写真と、それから……」
「それから?……」
「それから、私はあなたをこんなおかただと想像していましたから、……あなたをどこかで見たような気もするのです」
「どこで? どこでですの?」
「僕はあなたの眼をたしかにどこかで見たことがあるような気がするんです……、でも、でもそんなことがある道理はありません! 実際、僕は……一度もこちらへまいったことがありませんから。もしかしたら夢にでも……」
「ようよう、公爵!」とフェルデシチェンコが叫んだ。「だめだ、僕がさっき言った、Se non e vero は取り消します。もっとも……もっとも、これはみんなこの人が無邪気だからです!」彼は残念そうに付け加えた。
公爵はこういう文句を幾度も幾度も息をつきながら、とぎれとぎれに、そわそわした声で話したのであった。からだ全体に激しい動揺が現われていた。ナスターシャ・フィリッポヴナは好奇心を浮かべて公爵をじっと眺めていたが、もう笑いはしなかった。この瞬間、公爵とナスターシャ・フィリッポヴナを取り囲む群集の中から、たちまち群集を右と左に押しわけるとでもいったように、新しい高い声が聞こえてきた。ナスターシャ・フィリッポヴナの前には一家の父たるイヴォルギン将軍その人が立っていたのである。彼はさっぱりしたチョッキの上に燕尾服をつけていた。髭は染めてあった。
これはもうガーニャには堪えられないことであった。
ガーニャは猜疑心《さいぎしん》が強くなって憂鬱症に陥るほど自尊心と虚栄心が強かったが、自分をいくぶんなりとも高尚な品格のある人間と見せかけてくれるような足場をせめて一点なりともつかみたいものと、この二か月の間捜し回ったあげく、しかも自分はこの選ばれた道には新参者であり、おそらくついてゆくことができないであろうと感ずるに至って、ついには絶望のあまり、自分が専制君主となっている自宅でだけは、できるだけ横暴にしてやろうと決心していた。しかし、冷酷なほど高飛車に出て、しょっちゅう彼をまごつかせているナスターシャ・フィリッポヴナの前では思いきってそんなこともできない彼であった。ナスターシャ・フィリッポヴナの言いぐさをもってすれば『気短かのお菰《こも》』(このことはすでに彼の耳にも聞こえていた)である彼は、きっとこの復讐はして見せると、あらゆるものにかけて誓っていたが、また同時に、万事をうまく始末していっさいの矛盾を融和させたいとときどき子供じみた空想にもふける彼であった。こうした彼が今またこの恐ろしい盃を飲みほさねばならないのだ。しかもそれがほかならぬこうした瞬間においてなのだ! もう一つ今まで気のつかなかった、しかも虚栄の強い人間にとっては恐るべき拷問――自分の肉親に対する羞恥の苦痛が、自分の家で自分の肩の上にふりかかってきた。
『しかしあの報酬がはたしてこれだけの価値をもっているだろうか!』という考えが彼の脳裡にひらめいた。
この二か月の間、夜な夜な、悪夢となって彼を脅やかし、恐怖となって胆を凍らせ、羞恥となって顔を赤らめさせたことが、この瞬間に事実となって現われた。父親とナスターシャ・フィリッポヴナとの家庭における会見がついに実現したのである。彼はときどき、自分で自分をからかってみたり、じらしたりする気持で、結婚式上の父将軍を心に描いてみようとしたが、そのたびにその光景を完成させるには力が足らず、途中で放棄してしまうのであった。もしかすると彼は自分の不幸を、あまりに誇張していたのかもしれないが、これは虚栄の強い人にありがちのことである。それはともかくとして、この二か月の間に彼はいろいろと考えたあげく、どんなことがあっても、またたとえほんのしばらくの間にしても、父を閉じこめるか、できるならば、ペテルブルグから追い出してしまおう、母の承知不承知はどうだってかまやしない、とこう決心した。十分前にナスターシャ・フィリッポヴナがはいって来た時、彼はびっくりして、あわてふためき、アルダリオン・アレクサンドロヴィッチがこの場に姿を見せるかもしれないということをすっかり忘れてしまって、それに対して何の方策をも講じていなかった。ところで、将軍はもうここへ、一同の前に出て来ているのだ。それに時もあろうに、ナスターシャ・フィリッポヴナが『ガーニャや彼の家族のものを嘲弄《ちょうろう》してやろうと機会をねらっている』(それは彼も確信していた)その時に、厳めしそうにしたくをして燕尾服を着てあらわれたのである。実際のところ彼女の来訪はこの目的でないとすれば、いったい、何であろう? 母や妹と親睦《しんぼく》をはかるために来たのか? それとも、侮辱するために来たのか? しかし、両方の座を占めている様子から見ても、そこにはもはや何の疑うべきところもないのである。母と妹は唾でもかけられたかのように、隅のほうに小さくなって坐っているが、ナスターシャ・フィリッポヴナのほうでは、自分がそんな人たちと同じ部屋にいることなどはとうに忘れてしまったような様子である……。しかも、こんな態度をとるからには、いうまでもなく彼女にはある目的があるはずである!
フェルデシチェンコは将軍をつかまえて引っぱってきた。
「アルダリオン・アレクサンドロヴィッチ・イヴォルギン」将軍は微笑しながら、ちょっと腰をかがめて、しかつめらしくこう言った。「年老いた不幸せな兵卒です、また、こんなに美しいおかたをお迎えすることを心から楽しみにして待ち設けていたこの家庭の父です……」
彼がまだ言いきらないうちに、フェルデシチェンコがすばやく後から椅子をすすめたので、昼食をすませたばかりで足もとのさだまらない将軍は椅子の上に倒れた、というよりは尻餅をついたのである。しかし彼は少しもあわてずに、ナスターシャ・フィリッポヴナのま向かいに坐って、心地よく顔をゆがめて、おもむろに、しかも、表情たっぷりに彼女のしなやかな指を唇のところへもっていった。だいたいが将軍を降参させるのは、かなりむずかしいことであった。彼の相貌はいくぶんしまりのないところをのぞけば、かなり上品なものであった。これは将軍も自分でよく心得ていた。彼も昔は優れた社交界にもしばしば出入りしていたが、それもこの二、三年前からすっかりのけものにされていた。その時以来、彼は恥も外聞もなく、ただ一途に自分のある弱点に耽溺《たんでき》するようになった。それにしても如才のない、気持のいい物ごしはいまだに残っているのであった。ナスターシャ・フィリッポヴナはアルダリオン・アレクサンドロヴィッチが現われたことを非常に喜んでいる様子であった。彼女は将軍のことはもちろん、噂に聞いていたのである。
「話によりますと倅《せがれ》が……」と将軍は話しだした。
「え、御子息! それにあなたも、お父様も立派なおかたですこと! なぜあなた、ちっとも私のところにお見えになりませんの? どうなんですの、お自分でおかくれになるのですの、それとも御子息があなたをおかくしになるのですの? あなたでしたらもう誰にもめんどうをかけずに、おいでになられましょうに」
「十九世紀の子供とその親たち……」将軍はまたもやこんなことを言いかかっていた。
「ナスターシャ・フィリッポヴナ! どうぞ、アルダリオン・アレクサンドロヴィッチをちょっと失礼さしてくださいまし、あちらで呼んでおりますから」とニイナ・アレクサンドロヴナが大きな声で言った。
「失礼さして! 冗談じゃありませんわ、いろいろお噂を承っておりましたので、かねがねお目にかかりたいと存じていたのですから! それにどんな御用がございますの? 退職なすっていらっしゃるんじゃありませんか? 私をおいてきぼりにしていらっしゃらないでしょうね、ねえ、将軍?」
「わたし、お約束しときますわ。宅はきっと自分でお伺いいたしますから、ですけど、今は休息をしなければなりませんので」
「アルダリオン・アレクサンドロヴィッチさん、あなたは休息なさらなきゃならないんですって!」とつまらなそうな、気むずかしげな顔をしてナスターシャ・フィリッポヴナが叫んだ。それはまるで玩具を人にとられる時のお転婆娘のようであった。
将軍はわざわざ自分の地位をいっそうばかばかしいものにしようとあせっているかのようであった。
「おいおい! こらおまえ!」彼は、妻のほうに向いてしかつめらしくとがめるようにこう言って、心臓のところに手をおいた。
「お母さん、あなたあちらにいらっしゃらなくって?」とワーリヤは大きな声で尋ねた。
「いいえ、ワーリヤ、わたしはおしまいまでここにいますよ」
ナスターシャ・フィリッポヴナはこの問答を聞かないわけにはいかなかったが、このために彼女はいっそう陽気になったように思われた。彼女はやつぎばやにさまざまの質問を浴びせかけた。それから五分もたつと、将軍はこのうえもなくもっとも得意な気持になって、周囲の者が声を立てて笑うのにもおかまいなく雄弁をふるっていた。
コォリャは公爵の上着の裾をひっぱった。
「ねえ、せめてあなたでも、お父さんをつれ出してくださいな! だめでしょうか? どうぞお願いですから!」哀れな少年の眼には憤りの涙さえも輝いていた。「ああ、ガーニャの畜生め!」彼はつぶやくように付け足した。
「実際、イワン・フヨードロヴィッチ・エパンチンとは非常な親友でしたよ」と将軍はナスターシャ・フィリッポヴナの問いにすらすらと答えた。「わたしと、あの人と亡くなったレフ・ニコライヴィッチ・ムィシキン公爵、そう、私は今日その公爵の息子さんを二十年ぶりで抱きましたがこの三人は片時も離れない仲でした、いわば騎士組《カワルカード》でしたよ。アトスとポルトスとアラミスといったふうにね。しかし、悲しいことには、一人は讒謗《ざんぼう》と弾丸に打ち倒されて墓の中にはいりました、もう一人はあなたの前にいて今もなお讒謗や弾丸と戦っています……」
「弾丸とですって?」ナスターシャ・フィリッポヴナは叫んだ。
「それはここにあります。私の胸に、カルスの戦いでうけた傷です、天気の悪い日には痛みましてね。私は、他のあらゆる点で哲学者として生活しています、ぶらついたり、仕事から身をひいたブルジョアみたいに、行きつけのカフェで将棋をさしたり、アンデパンダン(フランスの新聞)を読んだりしています。しかし、われらのポルトス、すなわちエパンチン将軍とは三年まえ汽車の中で起こった狆《ちん》の一件から、永久に交わりを絶ってしまいました」
「狆ですって! いったいそれはなんですの?」特別な好奇心をもって、ナスターシャ・フィリッポヴナは尋ねた。「狆のことですって? ちょっと失礼ですけど、しかも汽車の中でですって?……」
「おお、ばからしい話ですよ。いまさらお話にもなりません。ベラコンスカヤ公爵夫人のところの家庭教師ミセス・シュミットのことからなんです。しかし……いまさらお話にもなりません」
「でも、ぜひとも聞かしてください!」と面白そうにナスターシャ・フィリッポヴナが叫んだ。
「僕もまだ聞いてはいない!」とフェルデシチェンコが言った。「c'est du nouveau(これはニュースだ)」
「アルダリオン・アレクサンドロヴィッチ!」とニイナ・アレクサンドロヴナの哀願するような声がまたもや聞こえてきた。
「パパ、呼んでますよ!」とコォリャが叫んだ。
「たった一言で済んでしまうような、ばからしい話ですよ」将軍は得意然と話しだした。「二年前でしたよ、そう! 少し後でしたかな! 新……鉄道の開通早々のことでした。私は(もうその時分は文官になっていました)自分の非常に重大な用件、事務引き渡しに関する件で、一等の切符を買って、汽車に乗り込み、席をとって、葉巻を吹かしていました。つまり、相変わらず葉巻を吹かしていたのでして、もうずっと前から喫《の》み始めていたのでした。一等車には私一人だけでした。喫煙は禁ぜられてもいなければ、許可もされていない、まあ習慣によって半ば許可されているという形でした、まず、人によってというわけですね。窓はあいていました。ところが汽笛の鳴る間ぎわに、あわただしく二人の婦人の客が狆をつれてはいって来て、私のま向かいに席をとりました。やっとのことで発車に間に合ったんですね。一人は派手な淡い水色の着物を着ていましたが、もう一人のほうは肩掛けのついた少し地味な、黒い絹物を着ていました。二人とも醜い顔ではありませんが、実に人を食ったような眼つきをして、英語で話をしていました。もちろん、私は平気で、葉巻を喫《の》んでいました。もっとも気にとめないわけではなかったのですが、窓があいてるもんですから、窓の方を向いて、やはり相変わらず吹かしていたのです。狆は淡い水色の奥さんの膝でおとなしくしていました。私の握り拳くらいのやつです、全身がまっ黒で足の先だけが白いのです。ちょっと類の少ないやつでした。首環は銀で銘がはいっていました。やはり私は平気でした。だが、どうやら婦人たちは怒っているらしいんです。もちろん、葉巻のことでです。一人が鼈甲《べっこう》の柄のついた眼鏡を取り出して私をにらみつけるんです。それでも私はすましたものです。向こうで何も言わないんですからね! なんとか言ってちょっと注意するか、頼むとかすればいいじゃありませんかねえ。人間なみに舌があるんですもの。でもまだ黙っている。ところが、いきなり、何の前ぶれもなしに、淡い水色の婦人が、気違いにでもなったかのように、私の手から葉巻を引ったくって、窓の外へ捨ててしまったのです。汽車は走っています。私はばかみたいに茫然としたまま見ていました。野蛮な女です。ほんとに野蛮な女です。どうしたって、あの女は野蛮な階級から出て来た人間に違いありません。しかし、よく肥った女で、背の高い金髪の婦人で、頬は赤く(赤すぎるくらいでした)眼は光って私を見ていました。私は一言も物を言わずに、おそろしく慇懃《いんぎん》に、あくまでも慇懃に、いわばきわめて洗練された慇懃さをもって、二本の指を出して狆の側へ行って、その頸筋をやさしくつかんで、今しがた葉巻を投げたばかりの窓から放り出しました。狆はただ、きゃっと、ないたばかりでした! 汽車はどんどん走り続けている……」
「あなたは残酷ですね!」とナスターシャ・フィリッポヴナは声を立てて笑いながら子供のように手を打って叫んだ。
「|すてき《ブラーヴォ》、|すてき《ブラーヴォ》!」フェルデシチェンコが叫んだ。
将軍が姿を現わしたことを非常に不愉快に思っていたプチーツィンもほほえんだ。コォリャまでが笑いだして、同じようにブラーヴォと叫んだ。
「それに私は正当なんです、少しもやましいところはありません。あくまで正しいのです!」と得意になって将軍は一心にことばを続けた。「なぜかというに、汽車の中で煙草が禁ぜられているくらいなら、犬はなおさら禁ぜられておるべきはずですからね」
「|すてき《ブラーヴォ》、パパ!」とコォリャは有頂天になって叫んだ。「すばらしいなあ! 僕だってきっと、きっと、そうしますよ!」
「しかし、その婦人は?」と待ちかねるようにナスターシャが先をうながした。
「その婦人ですか? さよう、それが実に不愉快なんですよ!」と将軍は苦い顔をして続けた。
「何の挨拶もなく、いきなり私の頬っぺたをなぐったんです! 野蛮な女です、全く野蛮な階級の生まれに違いない!」
「それで、あなたは?」
将軍は眼を伏せ、眉を上げ、肩をそびやかして、唇をぐっと結んで、両手を広げたまま、しばらくの間、口を開かなかったが、だしぬけに言いだした。
「かっとしました!」
「そしてひどく? ひどく?」
「いいえ、けっしてひどくなんかしませんでした。ちょっといざこざが起こったんですが、ひどいんではありません。私はただ一度その手を払いのけたまでなんです。それもただ払いのけるためにばかりでした。しかし、どうにも手がつけられなかったんですね。淡い水色の婦人はベラコンスカヤ公爵夫人の家庭教師、いやむしろその親友ともいうべきイギリス人で、黒い着物の婦人はベラコンスキイ家の三十五ばかりになる老嬢で、長女だということがわかったのです。それからエパンチン公爵夫人がベラコンスキイ家とどんな関係にあるかは誰もが知っていることです。令嬢たちが気絶するやら、泣きだすやら、寵愛の狆の喪に服するやら、六人の公爵令嬢がわめき立てるやら、イギリス女がわめくやら、――いやはや世界がなくなるような騒ぎでした! それは、もちろん、私は慚愧《ざんき》にたえないといっておわびにも参上するし、手紙も書きました。しかし会ってもくれないし、手紙も受け取ってはくれないのです。それでエパンチン家とは縁が切れるし、のけものにされるし、追い立ては食うし!」
「ですけど失礼ですが、どうしたわけでしょうね?」ナスターシャ・フィリッポヴナが突然たずねた。「私はずっとアンデパンダンを読んでいますが、五、六日前のアンデパンダンに、まるでそれと同じことが出ていましたよ! それがほんとにそっくりそのままなんですわ! それはたしか、ライン地方の鉄道の客車の中で、あるフランス人と英国女の間に起こったことですの。葉巻をひったくったのもそのままだし、狆を放り捨てたのもそのままでしたし、事の成り行きもあなたのお話とそっくりでしたわ。淡い水色の着物までがそっくりなんですものね!」
将軍はひどく赤面した。コォリャも同じようにまっかになって、両手で自分の頭をかかえた。プチーツィンはすばやく側を向いてしまった。ただフェルデシチェンコだけがまだ高笑いを続けていた。ガーニャについては、いうがものはない、彼は絶えず、何か言いたいのをこらえている苦痛を忍びながらじっと立っていた。
「全く本当です」と将軍はつぶやいた。「私にもちょうどそれと同じことがあったのです……」
「本当はね、お父さんと、ベラコンスキイ家の家庭教師をしてるミス・シュミットの間にいやなことがあったのです」とコォリャが叫んだ。「僕は覚えてるよ」
「え? そっくりそのままに? ヨーロッパの両端で、細かいところまで、淡い水色の着物のことまでも、寸分も違わない事件が起こったんですかねえ!」ナスターシャ・フィリッポヴナは遠慮会釈もなく言い放った。「私、あなたにアンデパンダン・ベルジュをお送りしましょう!」
「しかし、いいですか」と将軍はまだ言い張った。「わたしの事件は二年前なのですよ」
「まあ、そうですかね!」
ナスターシャ・フィリッポヴナはヒステリックに声を立てて笑った。
「お父さん、ひと言話したいんですが表へ出てください」とガーニャは機械的に父の肩をつかんで、疲れはてたような震え声で言った。彼の眸の中には限りない憎悪が燃えていた。
ちょうどこの瞬間、玄関で、非常にけたたましいベルの音がした。ベルがこわれてしまいそうな激しいたたき方である。ただごとならぬ来訪であることが感ぜられた。コォリャはドアをあけるために駆け出した。
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玄関がにわかに非常に物騒がしくなって人のざわめきがしてきた。客間で聞いていると、何人かの人が庭からはいって来てまだ続々あとからはいって来るように思われた。幾人かが一斉にしゃべったり、どなったりしている、階段の上でもがやがや言ったり叫んだりしている者がある。階段から玄関へはいる戸も、耳をすましていると、閉まった様子がない。この来訪はきわめて異様なものであることがわかった。一座の人々は顔を見合わせた。ガーニャは広間へ駆け込んだが、そこには幾人かの人がはいっていた。
「ああ、この裏切り者!」公爵にとっては、聞き覚えのある声がこう叫んだ。「今日は、ガニカ、卑怯者!」
「この野郎だ、まぎれもねえ、この野郎だ!」とまた別の声が相づちをうった。
公爵にはもはや疑いようもなかった。最初のはラゴージンの声で、次のはレーベジェフの声に相違なかった。
ガーニャはまるでからだじゅうがしびれたように、閾の上にじっと無言のまま立って十人か十二人の総勢がパルフェン・ラゴージンの後にしたがって続々と広間にくりこんで来るのを眺めていた。
この連中はお互いに恐ろしく毛色がまちまちであった。そればかりでなく非常に不体裁な格好をしていた。通りを歩いているのと同じような気持で外套や毛皮外套を着けたままはいって来た者も何人かいた。しかしそれでも酔っ払った者は一人もいなかった。みなそろいもそろってはしゃぎきっていた。一同は皆、お互い同志の気勢を頼んではいって来たので、一人ではいって来る勇気はなく、銘々が互いに前に押し合うような格好をしてはいって来た。一同の頭株であるラゴージンまでが慎重な様子をしてはいって来た。しかも何か思うところがあるらしく、そのために陰気ないらいらした、何か心にかかる様子をしていた。他の者たちはほんのちんどん屋みたいなものであった、というよりはむしろ応援をするために集まった烏合の衆ともいうべきやからであった。この中にはレーベジェフのほかに、髪の毛をちぢらせたザリョージェフがいた。この男は控え室で毛皮の外套を脱いで、気取ったおうような歩きぶりをしてはいって来た。彼に似たところのある、ちょっと見ただけで小商人と知れるような者も二、三人はいた。半ば軍隊式の外套を着た男も、しょっちゅう笑っている恐ろしく肥満した背の低い男も、それから身の丈六尺あまりもありそうなたくましい体格をしたすばらしい大男もいた。この男は陰鬱な顔をして、口数は少ないが、自分の鉄拳には強い自信をいだいているような様子をしていた。医学生が一人いるかと思うと、いやにおべっかを使っているポーランド人もいた。中にはいりかねて、階段のところから玄関をのぞいている二人の女もいたが、コォリャはその鼻先でぱたんと戸をしめ、鍵までかけてしまった。
「御機嫌よう、ガンカ、この卑怯者! どうだ、まさかパルフェン・ラゴージンが来るとは思いがけなかったろう?」ラゴージンは客間まで来ると入口に立ち止まってガーニャに向かってくり返した。
しかしこの瞬間、彼は思いがけずも客間で自分の真正面に腰をかけているナスターシャ・フィリッポヴナの姿を眼にとめた。彼はここで彼女に会おうなどとは思いも及ばなかったに相違ない、彼女の姿はラゴージンにひとかたならぬ驚きをひき起こした。彼の顔色は青ざめて、唇までが紫いろに変わった。
「してみると、本当なんだなあ!」彼は全く途方に暮れて小声でひとりごとのようにつぶやいた。「もう最後だ!……さあ……こうなったからには貴様が相手だ!」と彼は憤怒の形相ものすごくガーニャをにらみつけて、不意に歯をきりきりと鳴らした。「さあ……よし!……」
彼は息を切らし、物を言うのさえも苦しそうであった。われを忘れて客間へはいりかけたが、ちらとニイナ・アレクサンドロヴナとワーリヤの姿を見た途端、あれほどまでに興奮していたものが、いくぶんどぎまぎして立ちすくんだ。彼に続いて、影のようにいつも彼に付き添っているレーベジェフが客間に通った。彼はもうひどく酔っ払っていた。その後から医学生、鉄拳氏、ザリョージェフが通った。ザリョージェフは通りながら如才なく左右に会釈をした。最後には背の低い肥っちょが通り抜けた。それでも婦人がその場に居合わせたので彼らはいくぶん遠慮していた。それが彼らにはかなり邪魔になるらしかった。とはいえそれはもちろん、ほんの口火を切るまで、何かどなりつけて婦人の邪魔も何もあったものではなかった。
「なんだい? 公爵、おまえもそこにいたのか?」公爵との思いがけない邂逅《かいこう》に多少びっくりしたラゴージンは、ついうっかりとこう言った。「まだゲートルをつけてる、え、えい!」彼はもう公爵のことは忘れて、ナスターシャ・フィリッポヴナのほうへ視線を移し、深く息を吸ってあたかも磁石にでも吸いよせられるかのように、いよいよ近くその方へ歩いて行った。
ナスターシャ・フィリッポヴナもまた、不安に満ちた好奇心をいだいて客を眺めていた。
ガーニャはやっとわれにかえった。
「しかし、これはいったいどうしたっていうんです?」と険悪な顔をして、はいって来た客を見まわし、主としてラゴージンのほうを向いて声高く叫んだ。「あなたがたもまさか厩《うまや》にはいって来たつもりじゃないんでしょう。ここには僕の母と妹がいるんですよ……」
「母親と妹がいるくらいはわかってるさ」とラゴージンは歯の間からはき出すように言った。
「これはどうやら母と妹らしいな」とレーベジェフが気勢をあげるために相づちをうった。
鉄拳氏は待ってましたとばかりに何やらぶつぶつうなりだした。
「だが、しかし!」にわかに途方もなく調子はずれの声をガーニャは張りあげた。「ともかく、まずここから広間のほうへ行ってくれたまえ。そのうえで、お伺いいたしたく……」
「とぼけるない、知らねえなんて!」とラゴージンは一歩たりともその場を動かず、憎々しげに激昂した。「ラゴージンを知らねえって?」
「まあ、かりに君にどこかでお眼にかかったにしても、しかし……」
「へえ、どこかでお眼にかかった! ほんの三か月前、カルタの賭《かけ》でおれの親父の金を二百ルーブルまき上げたじゃねいか。そのため老爺《おやじ》は死んだんだ。それを知らねえなんてぬかしやがって。貴様がおれを引きずり込んで、クニーフのやつがぺてんにかけやがったんだ。それでも知らねえのか? プチーツィンが証人だぞ! 貴様って野郎はルーブル銀貨三枚もポケットから出して見せりゃ、ワシーリェフスキイまで四つんばいになって歩く野郎だ。貴様ってそれくらいな野郎だ! 貴様の根性ってそんなもんだ! 今日だっておれは貴様をすっかり金で買うつもりで来たんだ。おれがこんな長靴をはいてるからって心配御無用さ。おい、おれん所には金はふんだんにあるんだから、貴様も、貴様のからだもすっかり買ってやらあ……その気にさえなりゃ、貴様ら束にして買ってやらあ! いっさいがっさいみんな買ってやらあ!」ラゴージンは無我夢中になっていた、ちょうど酒の酔いがぐんぐんまわってくるような様子であった。「おい!」と彼は叫んだ。
「ナスターシャ・フィリッポヴナさん! 追い出さないでおくれ、そして一言だけ言っておくんな。いったいあんた、この男といっしょになる気か、それともどうなんだい?」
ラゴージンのこの質問は、まるで途方にくれた人間が、神様に向かって言っているようであったが、しかし、一方また、その中にはもはや失うべき何物も持たない死刑囚の大胆さがこもっていた。彼は死なんばかりの苦痛のうちに返答を待ちかまえていた。
ナスターシャ・フィリッポヴナは嘲弄するような、高慢なまなざしで、彼の顔色をうかがい、ワーリヤとニイナ・アレクサンドロヴナに眼を向け、それからガーニャをながめて不意に調子を変えた。
「けっしてそんなことありません。あなたどうなすったの? どんなわけであなた、そんなことを聞こうなぞとお考えになったの?」と彼女はいくぶん驚いたように、物しずかにまじめな調子でこう答えた。
「ないって? ない!」うれしさのあまりわれを忘れんばかりになって、ラゴージンは叫んだ。「じゃ、本当にないんだね? あいつらがおれに言ったんだが……ああ! そう! ナスターシャ・フィリッポヴナさん! あいつらはあんたがガーニャと約束したなんてぬかしたんだ! こんなやつと? そんなことができるだろうか?(おれの言わないこっちゃない!)おれはこの男が手を引くように百ルーブルでこの男をすっかり買ってやる。千ルーブル、そうだ、三千ルーブルくれてやろう。そして婚礼の前の晩、逃げ出すように、花嫁をおれの手に残してゆくようにしてやるさ。そうじゃないか、ガーニャの卑怯者! 三千ルーブルとるか! そら、これだ、そら! おれは貴様からその受取り証をもらおうと思って、やって来たんだ。買うと言ったからにゃ、あくまで買うんだ!」
「さっさと出てゆけ、貴様は酔っ払っているんだ!」赤くなったり青くなったりしていたガーニャは叫んだ。
この叫び声に続いて、急に幾人かの声が爆発するように起こった。これは前から挑戦の機会を待ちうけていたラゴージンの一党であった。レーベジェフは非常に熱心に何やらラゴージンに耳うちした。
「うまいぞ、お役人!」とラゴージンは答えた。「うまいぞ、酔っ払い! ええい、やっちまえ! ナスターシャ・フィリッポヴナさん!」彼はおずおずしていたかと思うと急に大胆になって、ナスターシャを見て、半ば狂人のように叫んだ。「そら一万八千ルーブルだ!」彼は白い紙に包んで、紐で十文字にゆわえてある包みを、彼女の前のテーブルへ放り出した。「これだ! それに……まだ都合がつく!」
彼も言いたいことを思う存分に言う勇気がなかったのである。
「いけない、いけない!」とまたもやレーベジェフが、ひどく驚いたような顔をしてささやいた。思うに、彼はそのあまりにも莫大な金額に驚いて、比較にならぬほどわずかな金から試してみるように勧めたのであろう。
「いや、こういうことにかけちゃおまえはばかだ、おまえには、からっきしわからないのだ……だがおれにしてもお互いさまにばかかもしれないな」彼はナスターシャ・フィリッポヴナの光を放つ視線に会って一時にわれにかえって身震いをした。「ええい、おれはとんでもないことをしゃべったぞ、おまえの言うことなんぞ聞いたから」と彼は深く後悔したように言い足した。
ナスターシャ・フィリッポヴナはラゴージンの当惑したような顔を見ると、急に笑いだした。
「一万八千ルーブル、わたしに? とうとうお百姓の地金が出たわけね!」彼女は不意におうへいななれなれしい調子で言い足すと、長椅子から立ち上がって出て行こうとした。ガーニャは鼓動が止まりそうな気持で、この場のいっさいの情景を眺めていた。
「じゃ四万ルーブルだ、一万八千ルーブルはよした!」とラゴージンは叫んだ。「ワーニカ・プチーツィンとビスクープが七時までに四万ルーブル都合してくれるって約束したんだ。四万ルーブルだ! テーブルの上へすっかり並べて見せる!」
この場面はきわめて醜悪なものとなった。ナスターシャ・フィリッポヴナは、この場の光景を、わざわざ長く引き延ばそうとするかのように部屋を立ち去りもせず笑い続けていた。ニイナ・アレクサンドロヴナとワーリヤは二人とも席から立ち上がって、どこまでいったら終わるものかと、無言のまま、戦々兢々として待っていた。ワーリヤの眼は輝いていたが、ニイナ・アレクサンドロヴナにはこの場のいっさいの光景が病的に影響を与えた。彼女のからだは震えて、今にも気を失って倒れそうに見えた。
「えい、それなら――十万ルーブルだ! 今日じゅうにお眼にかける! プチーツィン、救ってくれ。おまえだって、どっさりもうかるんだぜ!」
「気でも狂ったんじゃないか!」プチーツィンはつかつかと彼のそばへ近づいて彼の手をとった。「おまえは酔っ払っているんだ。交番へつき出されるぞ。おまえはここをどこだと思う?」
「酔っ払ってでたらめを言ってるわ」ナスターシャ・フィリッポヴナはひやかすように言った。
「でたらめなんか言うもんか。もって来るぞ、夕方までにはもって来る。プチーツィン、救い出してくれ、高利貸し、利子は好きなだけとるがいい、夕方までに十万ルーブルこさえてくれ。こんなことで手を引かないってことを見せてやるんだ!」ラゴージンはにわかに興奮して、夢中になった。
「だが、いったいこれはなんとしたことだ?」思いがけなくも、アルダリオン・アレクサンドロヴィッチが、前後の見さかいもなくして、ラゴージンの方へ近づきながら、脅しつけるようにどなりつけた。
今までじっと黙々と控えていた老人の、かような思いがけないことばは、かなりに滑稽味をもっていた。笑い声が聞こえる。
「これはまたどこから飛び出したんだ?」とラゴージンは笑いだした。「おい、おじいさん、一杯飲みにゆこうぜ!」
「これはひどい!」とコォリャは叫んだが、はずかしいやら腹が立つやらですっかり泣いてしまった。
「この恥知らずの女をここから追い出す人が、あなたがたん中には本当に一人もいないんですか?」憤怒のあまり全身を打ち震わせてワーリヤはにわかに叫んだ。
「恥知らずの女ってわたしのことなんですか!」とワーリヤのことばは気にもかけないようなうわ気な調子でナスターシャ・フィリッポヴナが聞き流した。「わたし皆さんの晩餐の招待なんかに来たりなんかして、なんてばかだったんでしょう! ねえ、あなたのお妹さんは私にこんなあつかいをなさるんですよ、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさん!」
妹のこうした出方にまるで雷にでも打たれたかのように、ガーニャは無言のまま、しばらくじっと立っていたが、今という今、本当にナスターシャ・フィリッポヴナがこの場を立ち去ろうとするのを見ると彼はわれを忘れてワーリヤに飛びかかって、その手を力まかせにつかんだ。
「おまえは、なんていうことをしたんだ!」と彼はいきなりどなりつけて、この場で灰にしてしまいたいというように、妹をにらみつけた。
彼は全く夢中になって、なんの見さかいもつかなくなっていた。
「何をしたかって? 私をどこへ引っぱり出すんです? いったい、あの女があんたのお母さんをはずかしめ、あんたの家を汚したことに対して、わたしはあの女におわびでも申さなくちゃならないんですか? あんたはそんな下劣な人間ですの?」と勝ち誇ったようにまた挑戦的な態度で兄を眺めながら、ワーリヤは再びこう叫んだ。
しばらくの間、兄と妹は顔と顔とを向き合わせたまま立っていた。ガーニャはまだ彼女の手をつかんでいた。ワーリヤは力いっぱい自分の手を抜こうとした、しかし手は抜けなかった。するとにわかに、かっとなって兄の顔に唾を吐きかけた。
「まあ、とんだお嬢さんだわ!」とナスターシャ・フィリッポヴナが叫んだ。「おめでとう、プチーツィンさん、わたし、お祝い申しますわ!」
ガーニャは眼がくらんできた。そして彼は、すっかり前後を忘れ、妹に向かって全力をこめて手を振り上げた。拳はあわやワーリヤの顔にあたると思われた。ところが、不意に、一つの手がガーニャの手をうけとめた。
彼と妹との間には公爵が立っていた。
「およしなさい、もうたくさんです!」彼は断固とした調子でこう言ったが、全身は胸中のはげしい動揺のために打ち震えていた。
「おお、貴様はあくまでおれの邪魔をしようっていうんだな!」とワーリヤの手を放したガーニャは吼《ほ》えだし、公爵に握られた手を振りほどいて、力まかせに公爵の横面をはりとばした。
「あっ!」とコォリャは手を打ち鳴らした。「あ、たいへんだ!」
叫び声が四方から起こった。公爵の顔は青ざめた。不思議なとがめるようなまなざしで、じっとガーニャの眼を見つめた。唇は震えて、何か言おうとあせっていたが、取ってつけたような奇妙なほほえみが唇をゆがめるばかりであった。
「え、僕はどうされたってかまいません……けれど、このひとには……むちゃなまねはさせませんよ!」と彼はやっとの思いで小声にこう言った。それでもやはり、堪えきれなくなったのであろう、ガーニャを振りすてて、両手で顔をおおったまま、部屋の片隅に身を避けて、壁の方を向いたかと思うと、切れ切れな声で言いだした。
「おお、君は自分のしたことをどんなに後悔するだろう!」
ガーニャは全く生きた空もなく、たたずんでいた。コォリャは走り寄って公爵に抱きついて接吻した。それに続いてラゴージン、ワーリヤ、プチーツィン、ニイナ・アレクサンドロヴナ、それに老人のアルダリオン・アレクサンドロヴィッチまでが公爵の周囲に詰めかけた。
「なんでもないんです、なんでもないんです!」公爵は取ってつけたようなほほえみを浮かべたまま、周囲を見回しながらこう言った。
「後悔しなくていられるものか!」とラゴージンが叫んだ。「ガーニャ、はずかしくないのか、こんな……うぶなやつ(彼はこれ以外のことばを見いだすことができなかった)に恥をかかせやがって! 公爵、おまえは、いいやつだ、こんなやつらは放っておけ。唾でも吐きかけてやれ、行っちまおう! ラゴージンがどんなにおまえを好いてるか、きっとわかるよ!」
ナスターシャ・フィリッポヴナもまたガーニャの仕打ちと公爵の答えに深く心を打たれた。さっきの空々しいつくり笑いとは似てもつかない、日ごろの物思いに沈んだ青白い女の顔が、今や、明らかに一つの新しい感情に揺り動かされているように思われた。
「ほんとに、わたしはこの人の顔をどこかで見たことがある!」またもやさっきの疑問をふっと思い起こしたのか、彼女は思いがけず、まじめな様子でこう言った。
「あなたもはずかしくないのですか! あなたはいつもそんなかたなんですか。いいえ、そんなはずはありません!」と心の奥底から責めるように公爵はにわかに叫んだ。
ナスターシャ・フィリッポヴナはたじたじになってかすかな笑いをもらした。しかし、その笑いのかげに何かを秘めているかのように、いささかあわててガーニャにちらと眼を向けたが、そのまま客間を出て行ってしまった。ところが、まだ控え室まで行かないうちに、急に彼女は引き返して来て、すばやくニイナ・アレクサンドロヴナのそばに進んで、その手をとって自分の唇に押しあてた。
「わたしはね、あのかたのおっしゃったように本当はこんな女じゃございませんの」早口に熱した調子でこうささやいたが、にわかに顔じゅうを赤らめて、いきなり身を翻えして出て行った。それがあまりにすばやかったので誰ひとりとして、なんのために彼女が引き返して来たのか、思いめぐらす暇もなかった。人々が気づいたことは、ただニイナ・アレクサンドロヴナに何かささやいて、その手を接吻したようだというだけのことであった。が、ワーリヤだけは、すべてのことを見、すべてのことを聞きもしたので、驚いて彼女の去ってゆく姿を見送っていた。
ガーニャはわれにかえって、ナスターシャ・フィリッポヴナを見送るために駆け出したが、彼女はもう外へ出ていた。彼はやっと階段のところで追い着いた。
「お見送りなんか結構ですわ!」と彼女は叫んだ。「さようなら、今晩またね! きっとですよ。よござんすか!」
彼はどぎまぎして、物思わしげに引き返した。重苦しい謎が、彼の心を以前にもまして重く重く押さえつけるのであった。公爵のことが頭の中をかすめて行った……。物思いにわれを忘れていた彼は、その時はじめて、ラゴージンの一党がラゴージンの後から押し合いながら、われがちにそばを通り過ぎるのをも、ほとんど見わけがつかなかった。ある者は戸口のところで彼を突き飛ばしさえもした。彼らはみな何か声高らかに話し合っていた。当のラゴージンはプチーツィンと並んで歩きながら、なにか重大な、のっぴきならぬ要件があるのであろう、しつこく念を押していた。
「負けたな、ガーニカ!」と彼はわきを通るときこう叫んだ。
ガーニャは不安そうにその後ろ姿を見送った。
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十一
公爵は、客間を出て自分の部屋に閉じこもった。ところへすぐにコォリャが慰めに来た。この哀れな少年はもう今では彼から離れることができないといったように思われた。
「あなたは出てしまわれてよかったですよ」と彼は言った。「さっきあすこの騒ぎは、もっともっとひどくなるところでしたよ。ここじゃ毎日こんなぐあいなんですよ、それというのもみんなナスターシャ・フィリッポヴナさんのせいなんです」
「あなたのところでいろんな違った苦痛が高じてひどくなったんですね、コォリャ君」と公爵は言い含めるように言った。
「え、苦痛が高じたんです、僕たちのことは何も言うがものはありません。みんなそろって悪いんですから。あ、そうそう、僕に大の親友がいるんです、この人は僕らよりはもっともっと不幸なんです。お近づきになってやってくださいませんか?」
「え、どうぞどうぞ。君のお仲間ですか?」
「え、もう仲間と言ってもいいくらいです。このことはすっかりあとでお話ししましょう……あのナスターシャ・フィリッポヴナさんは美人ですねえ、あなたはどうお思いですか? 僕はね、今まで一度もあの人を見たことがなかったので、とても骨折っちゃいましたよ。もう本当に目がくらむようでした。もしガーニカが好きになって結婚するっていうんなら、僕すっかり許してやるんだけど……だけど、なんだって兄さんはお金なんかもらうんでしょう、それが困るんですよ」
「そうです、僕も君の兄さんはあんまり好きじゃありません」
「え、そりゃもちろんのことですよ。あなたはあんなことがあってから……ねえ、僕はなんのかのと威張ったことを言うのがやりきれないんですよ。どこかの気ちがいか、でなければばかか、それとも気ちがいのふりをする悪党が人の頬っぺたを打つとしますねえ、するともうその人間は一生のあいだ恥をかかされて、血で洗い落とすか、相手に膝をついてあやまらせるよりほかに道はないでしょう。僕の考えるところでは、こんなことは実にばからしい専制主義です。レルモントフの『仮面舞踏会《マスカラード》』って戯曲はここのところを言ってるんですが……、実にくだらないと、僕は思うんです。つまり、僕は不自然だと言いたいんですよ。もっともレルモントフがまだほんの少年時代に書いたもんですけれど」
「僕は君の姉さんがすっかり気にいりました」
「実際、痛快なほどガーニカに唾をひっかけたもんですねえ! ワーリヤは勇敢ですよ! だけど、あなたは唾なんかかけなかったですね、それだって僕はよく知ってます、あなたに勇気がなかったからじゃなくって。おや、やって来ましたよ、噂をすれば影がさすって。やって来るだろうとは思っていました。姉さんはいろんな欠点はありますけど、気高い人です」
「おまえなんか、ここに用はありませんよ」とまずワーリヤはコォリャに浴びせかけた。「お父さまのところへいらっしゃい。この子がさぞお邪魔することでしょうね、公爵?」
「いや、けっして。それどころじゃありません」
「ふん、また姉さん風を吹かせてら! ここのところが姉さんの悪いところですよ! あ、そうだ。僕はお父さんがラゴージンといっしょにきっと行っちまうかと思いました。今ではきっと後悔してるでしょう。実際、お父さんはどうしているか見て来よう」コォリャは部屋を出るとき付けたりを言った。
「え、まあいいぐあいに、私がお母さんをつれて行って寝かしつけてあげましたから、もうけっしてぶり返すようなことはなくなりましたわ。ガーニャはすっかりしょげきって考え込んでいますの。それがあたりまえですわ。いい見せしめでしたわ!……私あなたに御礼を申し上げ、そのついでに、ちょっとお伺いしたいと思って、またお邪魔にあがりましたの。あなた、今までナスターシャ・フィリッポヴナを御存じなかったんですの?」
「いいえ、存じませんでした」
「じゃ、どうしてあのひとに面と向かって、『そんな人じゃない』なんて、おっしゃったんでしょう。しかも、それが当たっているようですわ。実のところは、もしかしたらあんな人じゃないかもしれませんわ。だけど、それもどうやら知れたもんじゃありませんね。もちろん、人に恥をかかせに来たんですわ。それはわかりきっています! わたし、前にもあのひとのこと、ずいぶん変なこと聞きましたわ。でももしあのひとが本当に私たちを招待に来たのなら、なぜ、はじめにお母さんにあんな仕打ちをしたんでしょう? プチーツィンさんはあの人のことをずいぶんよく知っているんですけれど、さっきのあの人のことばかりはわからないって言ってましたわ。それにラゴージンと、あの様子ったらどうでしょう? もし自分を尊重する気があるのなら、あんな風に話をすることはできませんわね、しかも自分の……家じゃありませんか。お母さんもあなたのことをひどく心配していますの」
「なんでもありませんよ!」公爵はこう言って手を振った。
「それにどうしてあのひとはあなたの言うことを聞いたんでしょう……」
「私の言うこと聞いたって?」
「あなたがあのひとによくもはずかしくないですねとおっしゃったら、あの人は急に様子がすっかり変わりましたわ。あなたはあのひとを感化することができるんですわ、ねえ、公爵」ワーリヤはほんのわずかばかりほほえみを浮かべてこう言い添えた。
戸があいて、全く思いがけなく、ガーニャがはいって来た。
彼はワーリヤを見ても、ほんの少しもたじろぎはしなかった。ちょっとのあいだ、閾の上にたたずんでいたが、にわかに思いきって公爵に近づいた。
「公爵、私は実に卑劣なことをしました。どうぞ私を許してやってください。お願いですから」彼は一時に強い熱情をこめてこう言った。彼の顔の筋肉の一つ一つが激しい苦悩を漂わせていた。公爵はあっけにとられて見ていたが、すぐには返事ができなかった。
「どうぞ許してください、どうぞ許してください!」ガーニャはじっとしてはいられないといったように、しきりにくり返すのであった。「ね、許していただけるようでしたら、私は今すぐあなたの手に接吻します!」
公爵はひどく心を打たれていたが、無言のまま両手でガーニャを抱きしめた。二人は心の底から接吻したのであった。
「私はけっしてけっしてあなたがこんな人だとは思いませんでした!」公爵はやっとため息をつきながら、やっと言いだした。「僕は思っていましたよ、あなたは……できる人じゃないって」
「あやまることでしょう? ……僕またなんだって、さっきあんたを白痴《ばか》だなんて思ったんでしょう! あなたは他の人たちの気づかないことによく気のつく人です、あなたは共に語るに足る人です、しかしお話ししないほうがいいでしょう」
「ここにあなたがあやまらなければならない人がいます」公爵はワーリヤを指してこう言った。
「いいえ、それはみな私の敵です。公爵、本当に、いろいろやってみましたが、この家では心から人を許すことはしません!」とガーニャは一時に興奮して、ワーリヤから顔をそむけた。
「いいえ、私は許しますわ!」突然ワーリヤがこう言った。
「そんなら今晩、ナスターシャ・フィリッポヴナさんのところへ行くか!」
「行けと言うのなら、行きます。だけど、あなたは自分でよく考えたほうがいいと思うわ。今になって私があのひとのところにどうして行けるの?」
「しかし、あのひとはあんな女じゃない。あのひとは何かしらさまざまに謎をかけているんだよ! 手品をつかっているのさ!」と言ってガーニャは憎々しげに笑いだした。
「わたし自分で知っていますわ、あんな女でなく、手品をつかっていることも、それからいろんな手を使っていることも自分でよく知っていますわ。だけど、ガーニャ、あのひとがあなたをどんな風に見ているかを考えてごらんなさい。なるほど、あのひとはお母さんの手に接吻しました。それは何かの手品としても、しかし、あのひとはなんといってもあなたをはずかしめたじゃありませんか! こんなことじゃ七万五千ルーブルの値打ちなんかありませんわ、そうですとも、ね! あんたはもっと立派な感情をもてる人なんですわ、それだからこそ私はこんなことを言うんです、ね、行くのはおよしなさい! ね、気をつけなさいよ! うまく行きっこはありませんから!」
これだけ言ってしまうと、非常に興奮してワーリヤはさっと部屋を出てしまった。
「いつでもあんな調子ですよ!」かすかに苦笑を浮かべて、ガーニャは言った。「いったいみんなはそれくらいのことを知らないと思ってるのかしら? 僕はみんなよりはずっとよく知ってますよ」
これだけ言うと、ガーニャはしばらくここにいたそうな様子で、長椅子に腰をおろした。
「自分で御存じなら」と公爵はかなりびくびくしながら聞いた、「あのひとが実際のところ七万五千ルーブルの値打ちがないことを知っていながら、どうしてまたこんな苦しみを担おうとなさるのです?」
「私はそのことを言ってるのじゃありません」とガーニャはつぶやいた。「ところで、ちょっとお伺いしたいんですが、あなたはどうお考えです、私ははっきりあなたの御意見を伺いたいんです。この苦痛は七万五千ルーブルの値打ちがあるのでしょうか、いかがでしょう?」
「僕の考えるところでは、ありませんね」
「まあ、そうだろうと思っていました。で、この結婚はそんなに恥ずべきことでしょうか?」
「非常に恥ずべきことです」
「じゃ、御承知願いましょう、僕は結婚します、もう今はどうあろうとも結婚します。さっきまでは、ぐらついていましたが、今となってはけっしてそんなことはありません! もう結構です! あなたのおっしゃろうとすることはわかっています……」
「僕の思っていることは、あなたの考えておられるようなことじゃありません。が、あなたの並みはずれな自信には実に驚き入りますね……」
「どんなことで? どんな自信です?」
「え、ナスターシャ・フィリッポヴナさんがきっとあなたのところへ来るのも、いっさいの事はもう片がついてしまったものと思っていらっしゃるでしょう、それから第二には、あの人が来る以上は、七万五千ルーブルの金がまっすぐにあなたのポケットへはいって来るものと思っておられるでしょう。つまり、このことなんです。と言ってももちろん、僕はいろんなことを知りませんがね」
ガーニャは少しずつ、公爵のほうに迫って行った。
「もちろん、あなたはいっさいのことを知っておられない」と彼は言った。「それに何か目あてがなければ僕もこんな重荷を背負いこみませんよ」
「だって、世間によくあることだと思うんですが、金を目あてに結婚はしたが、金は細君の物になってしまうなんてことがね」
「い、いいえ、僕たちの間にそんなことはありません……そこには……そこには事情があるんです……」ガーニャは不安げな物思いにふけってつぶやいた。「あのひとの返答についてはもう疑いはありません」と彼は早口にこう言い足した。「あなたはあのひとが拒絶するなんてどこから考えつかれたんです?」
「僕は見たこと以外には何も知りません、それに、それ、ワルワーラ・アルダリオノヴナさんが今おっしゃったでしょう……」
「いやあ! あの連中はもう何を言ったらいいかわからないからです。あのひとはラゴージンをからかっていました。それはもう確かです、私がこの眼で見たんですから。それはもうすぐとわかることです。私は以前は恐れていましたが、今ではもうすっかりわかりました。それとも父や母やワーリヤにあんな態度をしたからですか?」
「それからあなたにも」
「たぶんそうかもしれません。しかし、それはありきたりの女の復讐ってやつですよ。それだけのことです。あのひとは恐ろしく癇癪もちの、疑い深い、おまけに自尊心の強い女です。昇進の遅れた役人みたいなもんですよ! 自分の意地を張って見せたいのです、だから家の連中に向かって……いや、僕に向かっても軽蔑してるって気持を見せたかったんです。それは本当です、僕も否定はしません……が、とにかく僕のところへは間違いなく来るはずです。人間の自尊心がどんな手品をするか、あなたなんかてんでおわかりないでしょう。あのひとはね、僕が公然と金のために、人の思っている女と結婚するのを理由にして、僕のことを卑劣な人間だと言ってはいますが、他の者ならもっと卑劣な方法であのひとを欺くかもしれないってことは少しも気がつかないんです。あのひとに誰か、しつこく付きまとってリベラルな進歩思想を頭からふりかけて、それにまた婦人問題でも二、三、持ち出してくれば、あのひとは、糸が針の耳を通るようにやすやすとその男の思いどおりになってしまいますよ。『自分があなたと結婚するのは、あなたの気高い心と不幸のためだ』と言って自尊心の強いばかな女をたぶらかして(これは至極容易なことです)やっぱり実のところは金を目あてに結婚するんですよ。僕があのひとの気に入らないのも、僕がそういった、いんちきをしないからです。それは必要なんですがね。ところであのひと自身だって何をしているでしょう? 同じようなものじゃありませんか? 何のために私を侮辱してあんなお芝居を打つんでしょう? わたしが兜《かぶと》を脱がずに、誇りを持っているためなんです。まあ、そのうちわかるでしょう!」
「ところであなたはこれまであのひとを愛したことがあるんですか?」
「最初のうちは愛しました。え、それもかなり熱烈に……恋人にはあつらえ向きで、それ以外には何の用にも立たない女ってものがあるものです。と言ったってあの女がなにも私の恋人だったっていうわけじゃありませんが。それはともかく、あの女がおとなしく暮らしたいって言うんなら、僕だっておとなしく暮らしますよ。しかし謀叛でも起こそうものなら、さっそくおっぽり出して、金は僕のほうへまきあげてしまいますよ。僕は人の笑い者にはなりたくないのです。何よりも笑い者にはなりたくないです」
「僕にはどうもこう思われるんですがね」と、公爵は慎重な態度で注意した。「ナスターシャ・フィリッポヴナは利口な人です。そんな苦痛を感づいていながら、わざわざ罠《わな》にかかりに来るはずはないでしょうよ。他の人と結婚することができるんですからね。ここが僕にはわからないんです」
「つまり、そこですよ、そこに打算があるんです! あなたはまだいっさいのことを御存じないから……そこに……またそれ以外に、あのひとは私が気ちがいになるほど自分を恋しているものとすっかり思い込んでいるのです。それは誓ってもいいことです。それからね、あのひとはあのひとらしい愛し方で僕をきっと愛していると思います。御存じでしょうね、『愛するがゆえにたたく』ってことわざを? あのひとは生涯、私をダイヤのジャックのように考えるでしょうよ(もしかしたら、これがあのひとに必要なのかもしれませんがね)、まあ、それにしても、とにかくあのひとらしい愛し方で愛してくれるでしょう。あのひとは今その用意をしているのです。性質なんだからもうしかたがありませんね。あのひとは極端にロシア型の女です。これはあなたに断言できます。わたしのほうでも贈物の方法はちゃんと用意しています。さっきのワーリヤとの一件は全く偶然の結果なんですが、これはかえって好都合でした。あのひとはあれを見て、きっと、私があのひとのためには肉親のきずなさえ断ち切ってしまうものと信じたに相違ありません。つまりなんですね、僕だってそんな間抜けじゃないってことです。これは確かな話です。ところで、公爵、あなたは私をたいへんなおしゃべりだと思っていらっしゃるんでしょう? ねえ公爵、僕がすっかりこんなことを打ち明けるのは実際、ばかげたことかもしれません。しかし、これというのも、ただ、あなたみたいな気高いかたにはじめて会ったので、いきなりあなたに『飛びついた』のです、といっても、この『飛びついた』ってことばは地口《じぐち》だとお考えになられては困ります。あなたはさっきのことではもう怒ってはいらっしゃらないでしょう、ね? この二年間というもの、僕は胸襟をひらいて話をするなんて、これがはじめてです。ここには正直な人が非常に少ないからです。プチーツィンより以上に正直な人間がいないんですからね。おや、あなたは笑っていらっしゃるようですね? そうじゃないんですか? 卑劣な人間は潔白な人間を好むって事実をあなたは御存じじゃないんですか? 僕なんかはもう……しかしどういう点で僕は卑劣な人間なのでしょう、どうか正直に聞かしてください。あのひとやみんなが僕のことを卑劣だというのはなぜでしょうね? ところが僕自身もまたそのまねをして自分のことを卑劣漢といっているんです! これこそ卑劣です。このうえもなく卑劣なことです!」
「僕はもう今後はあなたのことを卑劣だなんて思いません」と公爵が言った。「僕はさっきあなたを悪人だとまで考えましたが、今あなたは意外にも僕を喜ばしてくれました。全く立派なことでした。試してもみないで判断するなんて、いけないことですね。今やっとわかりました。あなたは悪人でないばかりか、そんなにひねくれた人とさえも言うことができないほどです。あなたは僕の考えるところでは、いたって平凡な人間です、いたって弱い人だというだけのことで少しも独創的なところがありません」
ガーニャは心の中で毒々しく薄ら笑いをもらしたが、口ではなんとも言わなかった。公爵は自分の批評が相手の気に入らないのを知ると、まごついて、そのままことばを切った。
「お父さんがあなたに金の無心をしませんでしたか?」と不意にガーニャが尋ねた。
「いいえ」
「今にしますよ。だけどけっして貸しちゃいけませんよ。僕はよく覚えていますが、あれでも昔はなかなか品のいい人間だったんですよ。身分のある人のところにも出入りしていた。あんな昔の品のいい人たちがみんな次から次へと滅んでゆくありさまはどうでしょう! 世間の様子がほんの少し変わってくると、もう昔の面影なんかなくなってしまうんですからね。火薬に火がついたようなものです、父は昔はあれほど嘘をつく男じゃなかったんです。昔はただ極端に感激しやすい人間だったのです。ところが今ではあのざまですからね! もちろん、酒のためです。父に妾《めかけ》があるのを御存じですか。今ではもうとりとめもない嘘をついているだけじゃないんです。母がじっと堪え忍んでいるのが不思議なほどです。父はカルス包囲の話をしませんでしたか? それとも灰色の側馬が口をきいたって話を? 父もそんなにまでひどくなってしまったのです」
やがてガーニャはにわかに腹をかかえて笑いだした。
「なんだって私の顔ばかり見ていらっしゃるんです?」とガーニャは不意に公爵に聞いた。
「僕にはねえ、あなたが腹の底から笑ったのが不思議なんです。あなたには本当に子供っぽい笑いが残っています。さっきも仲なおりにはいって来られておっしゃいましたね、『よろしかったら、僕はあなたの手に接吻します』って、あれは子供が仲なおりするときのにそっくりです。してみると、あなたはまだそういうことばを言ったり、そんなことをやったりすることができるんですね。しかもそうかと思うといきなりあんなうしろめたいことや、七万五千ルーブルの金のことなんかを講釈なさるんですからね。実際、あんなことはみんななんだかばかげていて真にうけられませんね」
「そんなことを言っていったいあなたは何をなさろうっていうんです?」
「ええ、それはあなたのなさることはあまり軽率じゃないかっていうんです。もっと注意して周囲を見なければならないと思うんですよ。ワルワーラ・アルダリオノヴナさんのおっしゃったことは、ことによったら本当のことかもしれませんね」
「身持ちのことなんですか! そりゃ僕がまだ小僧っ子だってことは自分でも知っています」熱心にガーニャはさえぎった。「あなたにこんな打ち明けた話をしたっていうことだけでも、僕はね、公爵、欲得ずくでこの結婚をしようっていうんじゃありません」自尊心をそこなわれた若者のように彼もまたよけいなことまでしゃべり出しながら続けるのであった。「欲得のほうではきっと失敗するでしょう。頭脳の点でも、人格の点でも僕はまだ未熟ですから。僕は情熱にうごかされ、執着にうごかされて歩いているのです、それというのも、私には大きな目的があるのです。あなたはおそらく、僕が七万五千ルーブルを手に入れると、箱馬車でも買うだろうと思ってるでしょう。そんなことはありませんです。僕はその金を手に入れても三年も着古したフロックコートを着て、クラブの連中なんか振りすててしまいます。いったいわが国には忍耐づよい人間が少ない。それなのにロシアの人間ってのはどいつもこいつも高利貸しばかりなんですけど。僕は忍耐しぬいてみたいんです。ここで大事なのは最後まで頑張り通すってことです。これが大事な問題です。プチーツィンは十七年の間、往来に寝て、ナイフなんか売って一カペイカから貯めてきたのです。あの男は今では六万ルーブルも財産をもっていますが、それもひどい試練を経た結果です。ところで、僕はあれの経て来たような試練はいっさい抜きにして、最初から資本家として活動します。十五年さきになったら、みんなから『そら、ユダヤ王イヴォルギンだ』と言われるようになってお目にかけましょう。あなたは、今、僕のことを力のない人間だとおっしゃいましたね。ねえ、公爵、よく考えて御覧なさい。現代の人間にとって、おまえは独創力もない、性格も弱い、これという才能もないって言われるほどの侮辱はありませんからねえ。あなたは僕を一人前の悪党の数へも入れてくださらなかったのです。実のところ僕はそのために、さっきあなたを取って食いたいような気がしました。あなたはエパンチンよりもひどく僕を侮辱しました。エパンチンは僕を(別にたくらみも、考えもない、ただ単純な気持から言ったまでのことですが)自分の女房をさえあの男に売ることのできる人間だなどと考えています。このことが前々から癪にさわっていたので、金でも取ってやれという気になったのです。金でももうけたら、僕もうんと独創的な人間になるでしょうよ。金が何よりも醜悪で汚らわしいのは人間に才能さえも与えるからです。この世の末まで与えてくれましょうよ。あなたはそんなことは子供じみたことだとか、歌みたいなものだっておっしゃるでしょうが――それにしたって僕にはいっそう楽しいんですからね。しかし、いずれにしても事は成就されるでしょうよ。しんぼうして最後まで頑張るんです。Rira bien qui rira le de nier(最後に笑うのがもっともじょうずな笑い方だ)です! エパンチンがなぜ僕を侮辱するか御存じですか? 悪意があってのことだとお思いになりますか? けっしてそんなことはありませんよ! ただ私があまりにろくでなしだからなんです。それでも、その時は……いや、もういいです。それにもう遅いですから、コォリャがさっきからもう二度も顔を出しましたよ。あなたに食事を知らせに来たんですよ。僕はちょっと外へ出ます。ときどきお邪魔に伺います。あなたは私どもの所へ来ても、たいしていやな気はなさらないでしょう。みんなでこれから親身のつもりでお世話いたしますから。裏切ったりなんかしちゃいけませんよ。私たち二人は親友でなければかたき同志になるような気がしますよ。もし、さっき僕があなたの手に接吻したら(心の底からあの時言ったように)、そのために僕はあなたの敵になったでしょうか、あなたはどうお考えですか?」
「きっとなったでしょうよ、それにしたって永久にではありません。間もなくたまらなくなって許してくださるでしょう」ちょっと考えていたが、ほほえみを浮かべて公爵は、はっきりこう言った。
「おやおや! これじゃあなたには油断がならない。こんなところにまで毒を注ぐのですから、驚きますよ! しかし、もしかするとあなたは僕の敵かもしれませんよ! ほんとにそうかもわかりませんよ! かえってそのほうがいいでしょうね。は、は、は! それに忘れていましたが、ナスターシャ・フィリッポヴナはずいぶんお気に召したようですね、そうじゃないですか、え?」
「ええ……気に入りました」
「惚れちゃったんじゃないんですか?」
「い、いいえ」
「でもまっかになって困っておいでですね。いや、なんでもありません、なんでもありません。もう笑いませんよ。さよなら。あ、そうだ、あの人はあれでなかなか品行の正しい女ですよ。本気にしませんか? あの人がトーツキイと暮らしているとお考えになりますか? とても、とても! それもずっと前からです。あの人はずいぶん、てれていたようじゃありませんか、さっき、ときどきあわててまごついていたでしょう、お気づきになりましたか? 本当ですよ。それ、あんな女がよく威張りたがるものですよ。じゃさよなら」
ガーニャははいって来た時よりはずっと打ちとけて、機嫌よく出て行った。公爵はじっとそのまま身じろぎもせずに十分間ばかり物思いにふけっていた。
コォリャが再び戸の間から顔を出した。
「コォリャ君、僕は何も食べたくありません、さっきエパンチンさんのお宅でどっさりいただいて来ましたから」
コォリャは中へはいって来て、手紙を公爵に渡した。それは将軍から来たもので、折り畳んで封がしてあった。コォリャの顔つきから、この紙片を渡すのが彼にとって非常に心苦しいものであることがわかるのであった。公爵は読み終わると、立ち上がって帽子を取った。
「すぐ近くですよ」とコォリャはてれくさそうに言いだした。「お父さんは今お酒をのんでいるんですよ。しかしどうして掛けで借りられたか誰にもわからないんですよ。ねえ、公爵、お願いですから、僕がこの手紙を取り次いだなんて、あとになって家の人に言わないでくださいね! もうこんな手紙は持ってなんか行かないって、何べんも言ったんですけれど、つい、可哀そうになるんですよ。あ、そうだ、それから、お父さんに遠慮なんかしないでください。ほんのちょっぴりやってくだすったらそれでかたがつくんです」
「コォリャ、僕は考えていることがあったんです。実は……ちょっとしたことで……お父さんにお会いしたかったんです。さあ、行きましょう……」
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十二
コォリャは公爵を、ほど遠からぬリティナヤ通りにある、カフェーつきの撞球《ビリヤード》場に案内した。この店は地階にあって、往来からすぐはいれるようになっていた。ここの右手の隅にある小さな別室に、古くからの常連といったような様子をしてアルダリオン・アルダリオノヴィッチが酒壜の置かれたテーブルを前に坐り込んでいた。実際、彼は『アンデパンダン・ベルジュ』を手にしていた。彼は公爵を待ちうけていた。公爵の姿が見えるやいなや、そそくさと新聞をわきへのけて、熱心にくどくどと申しわけを始めたが、何を言っているのやら、公爵にはとんと見当がつかなかった。というのは、将軍はもうかなり陶然としていたからである。
「十ルーブルってのは持ち合わしていません」と公爵は相手を押しとめた。「二十五ルーブル紙幣がここにありますから、両替して、おつりを十五ルーブルください、さもないと僕は一文なしになってしまいますから」
「おお、それはごもっとも、御心配には及びません、すぐに……」
「それに僕、一つお願いがあるんですが、将軍。あなたは一度もナスターシャ・フィリッポヴナさんのところへいらしったことはありませんか?」
「わしが? わしが行ったことはないかって? そんなことをわしにおっしゃるんですか? ちょいちょい行きましたよ、あなた、ちょいちょい!」さも満足そうな、勝ち誇ったような皮肉な気持に駆られて将軍は叫んだ。「しかし、わしはとうとう自分のほうから絶交しました。なぜって、不都合な結婚を奨励しようとは思わんですからなあ。あなた、御自分で見られたでしょう、今朝ほどのことをよく見なすったでしょう。わしは父親としてできるだけのことはしました、しかも謙譲にして温良な父親でしたよ。だが、もうこうなったからには、全く類の違った父親が登場しなけりゃならんです。その時になったら眼にものを見せてやる。戦功ある老兵が陰謀を粉砕するか、破廉恥の淫売婦が由緒ある家庭に乗り込むか」
「お願いっていうのはほかでもありません、あなたは知合いとして今晩、僕をナスターシャ・フィリッポヴナさんのところへ連れてってくださいませんか? ぜひとも今晩でなくてはならないんです。用事があるんです。だけど、僕はどんな風にしてはいって行ったらいいのか、まるで見当がつかないんです。僕はさっき紹介されるにはされたんですが、招待されていないもんですから。なにしろ今晩あすこで夜会があるんですからね。それで僕、少しぐらいは礼儀を飛び越す覚悟です。笑われたってなにもかまいやしません、なんとかして入り込みたいんです」
「あなたも全く、全くわしと意見が一致しましたね、公爵」と、将軍はひどく喜んで叫んだ。「わしはこんなくだらない用件であなたをお呼びしたのじゃない」と、彼は言いながらも、金をつかんでポケットに収めた。「わしがあんたをお呼びしたのはほかでもありません、ナスターシャ・フィリッポヴナに行く遠征隊、いや、むしろナスターシャ・フィリッポヴナを討伐する遠征隊の仲間に加わっていただきたいと思ってなんですよ。イヴォルギン将軍にムィシキン公爵! こういう風に行けば、あの女はどんな気がするでしょうな。わしは誕生日のお祝いのことばという名目のもとに、今日こそ自分の考えを十分に述べたい。それも搦手《からめて》のほうからやるんで、正面からやるわけではありませんがね。それでも正面からと同じようなことになりますよ。そうすれば、ガーニャも自分がどんな態度をとっていいかがわかるでしょう。名誉ある父親が……つまり……その……それともまた……しかし、起こるべきことはどうしても起こるですな! あなたのお考えはきっと効を奏しますよ。九時に行くことにしましょう、すると、まだ間がありますよ」
「あのひとはどこに住んでいますか?」
「ここから遠いんですよ。大劇場の近くのムィトフツォーワの家なんです。広場のほとんどすぐそばの二階なんですがね……、あの女の命名日といったって、たいして盛大な会でもありますまい、早く散会するでしょうよ……」
もうかなり前に日は暮れていた。公爵はやはり腰をかけたまま、際限なく逸話《アネクドート》を持ち出して、一つとして、しめくくりをつけない将軍の話を聞きながら待っていた。公爵が来てから、彼は新たに一本つけさせたが、かれこれ一時間くらいで飲み終わると、さらにまた一本つけさせた。やがてまたそれも飲み乾してしまった。将軍はその間に、自分の一生涯のことをすべて語り尽くしたかのように思われた。たまりかねて、ついに公爵は立ち上がって、もうこのうえ待つことはできないと言った。将軍は壜の最後の一滴まで飲み乾して、おもむろに腰を上げて、非常にふらふらな足どりで部屋を出た。公爵はがっかりしてしまった。こんな人間をかくまで愚かしく信用した自分の気持が自分ながらわからなかった。実際のところ、彼はけっして信用したわけではなかった。ひたすらナスターシャ・フィリッポヴナのところへ入り込もうとして少しくらいの不始末をしてもまあまあという気で将軍を当てにして待っていたのである。そうはいっても、あまりにひどい不始末までは考えおよばなかった。将軍はすっかり酔っ払ってしまって恐ろしく雄弁になり、胸は涙でいっぱいだといったように、情をこめて、のべつ幕なしに話し続けていた。家族のもの一同の恥ずべき行いのために、何もかもが破壊されてしまった、もうこんな状態はいいかげんに切りをつけなければならないなどと、息も切らずにしゃべり続けていた。やがて二人はリティナヤ通りに出た。まだ雪解けが続いて、陰鬱な、饐《す》えたような生温かい風が通りを吹いていた。馬車はぬかるみの中をざぶざぶとはいって|だく《ヽヽ》足の馬や駄馬が、舗道に音高く蹄鉄を鳴らしていた。歩いている人々は陰鬱な、じめじめした群れをなして人道をさまよっていた。酔いどれも歩いていた。
「あの灯のついた二階をごらんなさい」と将軍は言いだした。「あすこにはみんなわしの仲間が住んでいるんですよ。それに、わしは、いちばん長く勤めて、よけいに苦労を重ねてきた。わしは大劇場のほうへ向かってあさましい女のところへ、とぼとぼと歩いている! 胸の中に弾丸を十三も持った男……といってもほんとうになさらんでしょうが、一時はピラゴフ軍医が、ただわしのために、パリへ電報をうって包囲されたセワストーポリを一時放棄したんですよ。するとパリの侍医のネラトーンが科学のためにという名目で自由通過の運動をして、わしを診察するために包囲されたセワストーポリへ来たのですよ。これはずっと上のかたがたにも知られていましてね、『あ、それは弾丸を十三発もっている例のイヴォルギンか!』って、……つまりこんなふうに言われるんですよ! 公爵、そら、この家をごらんなさい。この二階にわしの旧友のサカローヴィッチ将軍がいるんですよ、家族は多いが、品のいい家庭です。このほかにまだネフスキイ通りに三軒、モルスカヤ通りに二軒、これが目下のわしの友人の全部です。もちろん、わし一人だけの知人ですよ。ニイナ・アレクサンドロヴナはもうずっと以前から今の境遇をあきらめていますが、わしは今もって思い出しますよ……それで、つまり、今日《こんにち》でも私を尊敬してくれる旧友や部下などの、教養ある仲間の間で休息しているわけです。このサカローヴィッチ将軍は(しかし、わしはだいぶん御無沙汰して、アンナ・フョードロヴナにも会いません)……ときに、ねえ、公爵、自分でも訪問客に接しないとつい、いつのまにやらよそをたずねることもしなくなりますよ。それはそうと……ふむ! あなたは本気になさらんようですね……だが親友の、それも幼な友だちの亡《わす》れかたみをこのうるわしい家庭に連れて来んわけには、どうしてもゆかんですな! イヴォルギン将軍とムィシキン公爵! ね、あなた、驚くべき令嬢が見られますよ、いや、一人きりじゃない、二人、いや三人もいますよ、都の花、社交界の花ですわい。器量といい、教育、趣味……婦人問題、詩、すべてが、さんらんとして入り乱れているのですからね。それに婦人問題、社会問題がどうであろうと、けっして悪かろうはずのない持参金のことは言わずと知れたことです。この持参金ってやつが、一人に現金で八万ルーブル……つまり、わしはどうあろうとも、ぜひあなたをお連れしなければならん、その義務があります。イヴォルギン将軍にムィシキン公爵、こりゃあ、どうしても……すばらしい効果があるわい!」
「すぐに? 今ですか? でも、あなたは忘れていらっしゃる……」と公爵が言いだした。
「なあに? なあに忘れやしません、行きましょう! ここです。この見事な階段を上がるんです。おや、どうして門番がいないんだろう、もっとも……祭日だから、それで門番も外出したわけですね。まだあの酔っ払いを追い出さんのだな。このサカローヴィッチの生活の幸福、勤めの幸運もみなわしのおかげなんですよ。ただ、わし一人のおかげですって。さて……もう来ましたよ」
公爵はもうこの訪問に反対しようとはせずに、将軍をいらだたせないように、将軍のあとについて行った。公爵はサカローヴィッチ将軍もその家庭のいっさいのことも、だんだんと蜃気楼《しんきろう》のように発散してしまって、実在しないものであることがわかって、二人ともゆうゆうと階段をおりて、引き返すことになるに相違ないと堅く信じていた。しかし、恐るべきことには、彼のこの期待ははずれてしまった。将軍は実際ここに知人がいるような様子で、公爵を階段の上へと導き、絶え間なく数学的正確さに満ちた伝記的な、風土記的な事実をこまごまと話し続けていた。ついに二人は二階へあがって、右側にある一つの豪奢《ごうしゃ》な部屋の扉の前に立ち止まった。やがて将軍がベルの把手をつかんだので、公爵は思いきって逃げ出そうかと思ったが、ある不思議なことがあって思わず足をとどめた。
「あなたは間違っていますよ、将軍」と彼は言った。「ドアにはクラコフと書いてありますよ、あなたはサカローヴィッチさんをおたずねじゃありませんか」
「クラコフ……クラコフなんかなんでもありません。これはサカローヴィッチの住まいです。僕はサカローヴィッチをたずねていますんです。クラコフなんか唾でもかけてやるがいいわ……そら、戸があきますよ」
ドアは実際に開かれた。従僕が顔を出して、「旦那様がたはお留守です」と告げた。
「実に残念だ、実に残念だ、わざとのようだ!」アルダリオン・アレクサンドロヴィッチはかえすがえすも残念だといったように、幾度もくり返した。「ねえ君、よろしく言ってくれたまえ、イヴォルギン将軍とムィシキン公爵が衷心よりの尊敬を払おうと思って来たのじゃが、かえすがえすも残念じゃった……と」
この瞬間にドアの間から一つの顔がのぞいた。見たところ、この家の家政婦か、あるいは家庭教師とさえ思われる四十がらみの黒い服を着た婦人であった。イヴォルギン将軍とムィシキン公爵という名を聞いて、不審の念と好奇心を起こして近づいて来たのである。
「マリヤ・アレクサンドロヴナはお留守でございます」ことに将軍をじろじろと眺めながら、彼女はこう言った。「お嬢様――アレクサンドラ・ミハイロヴナとごいっしょにお祖母様のところへいらしったのでございます」
「ではアレクサンドラ・ミハイロヴナもごいっしょに、ああ、なんて運が悪いんでしょう! あなた、お察しください、いつだってこんな不幸に見舞われるんですよ! どうかくれぐれもよろしくお伝えくださいますように。アレクサンドラ・ミハイロヴナには、……つまり、木曜の晩ショパンのバラードの聞こえているところで、私にお望みになったと同じことを私もまた衷心より希望していたとおっしゃってください。思い出されますよ……私が衷心より希望していましたって! イヴォルギン将軍とムィシキン公爵です!」
「必ずお伝え申し上げます」疑いが解けかけた婦人は、こう言って軽く頭を下げた。
階段を降りながら、将軍はまだ冷めやらぬ熱をもって、先方が不在なことや、そのために公爵が立派な知人に会えなかったことを残念がってくり返すのであった。
「ねえ、わしはいくぶん詩人肌の精神をもっているのですが、あなたはお気づきにならなかったですか? しかし……しかし、われわれは全く違ったところへ行ったらしい」と将軍は不意に全く思いがけなく、こう言いだした。
「わしは今になって思い出したが、サカローヴィッチは全く違った家に住んでいますよ。今はどうやらモスクワにいるらしい。そうだ、わしは少しばかり勘違いをしていました、けれども、そんなことは……なんでもありませんね」
「僕はただ一つのことだけお尋ねしたいんですが」と公爵はがっかりして言った。「僕はあなたを当てにするのを全くよして、一人で出かけなけりゃならないんでしょうか?」
「よすって! 当てにするのを! 一人で? しかし、これはわれわれの家庭の運命が大部分かかっているきわめて重大な事柄であるのに、なんだってそんなことができますかの? いや、君、あなたはイヴォルギンを誤解していらっしゃる。イヴォルギンは『壁』と同じだ、イヴォルギンに任しとけば、壁にもたれかかったのと同じことだ、とこう言われているのですぞ。はじめて奉職した騎兵中隊時分から。ところで、わしはほんの一分間、途中でわしの心の休み場所である一軒の家に寄りたいのですがね。もう数年の間、私に心配ごとや苦しいことがあった後には寄ることにしているんですが……」
「あなたは家にお帰りになりたいのですか?」
「いや! わしの寄りたいのは……以前わしの部下……むしろ友人だった……チェレンチェフ大尉の未亡人、つまりチェレンチェフ大尉夫人のところで……そこで、大尉夫人のところで、わしの心はよみがえるんです、そこへ生活のことや家庭内のことの悲しみを忘れに行くのです……それに、今日は大きな心の重荷を背負っているわけなので、で、わしは……」
「僕はそれでなくてさえ、さっきとんでもないばかなことをしたような気がするんです」と公爵はつぶやいた。「そのうえ今あなたは……じゃあ失礼します!」
「だが、わしはどうしても、今あなたを手放すことはできませんよ、あなた!」と将軍は叫んだ。「未亡人は家庭の母なんですよ、それに、わしの魂全体に響きわたるような琴線《きんせん》をその胸底から奏でてくれるんです。そこを訪問するといっても……五分間くらいのものです、そこでは少しも気がねをせずにほとんどわが家にいるような気持です。手水でも使って、ぜひ必要な身じまいでもして、そのうえで辻馬車に乗って大劇場へ行きましょう。……本当ですとも、その家です、もう来ましたよ……おや、コォリャ、おまえ、もうここへ来ていたのか? どうした、マルファ・ボリソヴナは家か、それともおまえは来たばかりなんかね?」
「おお、違いますよ」家の門の前で二人にばったり出会ったコォリャはこう叫んだ。「僕はずいぶん前に来たんです。それからイッポリットといっしょにいたんです。今日はずっと悪くって、朝からずっと寝ていますよ。僕はいまカルタを買いに店まで行こうと思っておりて来たんですよ。マルファ・ボリソヴナが待っていますよ。しかし、お父さん、あなたはなんという風です!」コォリャは将軍の歩く格好とからだつきを注意して見ていたがこう言った。「まあいいです、さ、行きましょう」
公爵はコォリャに出会ったので、このマルファ・ボリソヴナのところへ、ほんのちょっとの間だけ将軍と同行しようという気になった。公爵はコォリャに用事があったのであるが、どうしても将軍を振りすててしまわなければならないと決心した。そしてさっき、この将軍を当てにしたことが、自分ながらも気がとがめてしかたがなかった。三人は裏の梯子《はしご》を伝って、長いことかかって四階に昇って行った。
「公爵を紹介してあげるつもりですか?」途中でコォリャがこう尋ねた。
「ああ、そうなんだ、紹介してあげようと思ってね。イヴォルギン将軍にムィシキン公爵だ。ところで、どうだい……どうしてる……マルファ・ボリソヴナは……」
「ねえ、お父さん、あなたは行かないほうがいいですよ! 取って食われますよ! 今日でもう三日も、顔を見せないんでしょう! そしてね、あのひとはお金を待ちかまえているんですよ。あなたはなんだってお金の約束なんかなさったんです? いつだってそうなんだからな! 今度はもうのっぴきならないですよ」
四階に昇りついて彼らは見すぼらしい低いドアの前に立った。将軍はどうやら気おくれがしたらしく公爵を前へ押しやった。
「わしはここに残っていますよ」と彼はつぶやいた。「不意打ちを食らわそうと思いますから……」
コォリャが先に立って中にはいって行った。ひどくまっ白に塗りたてて頬紅をさし、髪を下げ髪に編んで裾の短い上着を着てスリッパをはいた四十ぐらいの女が戸の内側からこちらを見た。そこで将軍の不意打ちもたちまち水泡に帰した。女は彼の姿を見るなり、いきなりどなりだした。
「この野郎、卑怯者、蝮蛇《まむし》め、どうも虫が知らせたと思った!」
「さあ、はいりましょう、こりゃその」将軍は相変わらず罪のないほほえみを浮かべて公爵につぶやいた。
しかし『こりゃその』ではなかった。彼らが薄暗い天井の低い控え室を通って、六脚の籐椅子と二脚のカルタ机の置いてある狭い客室にはいるやいなや、彼女はなんだか取ってつけたような、涙っぽい、そのうえ癖になっているような声で、くどくどと並べ始めるのであった。
「よくもはずかしくないことだ、おまえさん、はずかしくないの? 野蛮人。私たちをいじめるろくでなし! 野蛮人、気ちがい! 何もかもかっさらって、汁まで吸ってしまって、それでも気がすまない。どこまでおまえさんのためにいじめられたらいいんです、この嘘つきの恥知らずめ!」
「マルファ・ボリソヴナ、マルファ・ボリソヴナ! これはムィシキン公爵だ。イヴォルギン将軍とムィシキン公爵だ」すっかり狼狽《ろうばい》して、びくびくしながら将軍はつぶやいた。
「ほんとに、あなた、聞いてくださいな」大尉夫人は不意に公爵のほうを向いた。「まあ、聞いてください、この恥知らずは父親のない私の子供たちを可哀そうだとも思わないんです! ありったけかっさらって、ありったけ運び出して、売ったり質に入れたりしたんです。なに一つ残っているものはありやしません! いったいおまえさんの借状が何になるんです? ずるの薄情もの! わからずや、返事をなさい、なんとかおっしゃい、ろくでなし、どうして私は、たよりない子供たちを養ってゆくんですか? そら、酔っ払って、足も立ちやしない……いったいどうして、私は神様のお怒りに触れたんだろう、きたならしい意地悪、なんとかおっしゃいってのに!」
だが将軍はそれどころではなかったのである。
「マルファ・ボリソヴナ、そら二十五ルーブルある……このあわれみ深い友人のお情けによるものだ! 公爵! わしは恐ろしく勘違いをしていました! 人生とは……かくのごときもの……しかし今は……ごめんなさい、私はどうも弱くって」将軍は部屋のまん中に立って、周囲にお辞儀をしながら言い続けた。「私は弱いもんですから! ごめんなさい! レーノチカ! 枕を……いい子だから!」
八つになるレーノチカはすぐに枕をとりに駆け出した。そしてそれを持って来て、はげかかった模造皮の固い長椅子の上に置いた。将軍はまだいろんなことを話すつもりでその上に坐ったが、からだが長椅子についたかと思うと、すぐに横になって、くるりと壁の方を向いて、律義者特有の寝方で眠ってしまった。マルファ・ボリソヴナは改まった態度で、悲しげにカルタ机の傍の椅子に公爵をさし招いて、自分もその向かいに腰をおろし片手で右の頬を支え、じっと眺めてことばもなくため息をついた。三人の小さな子供たちは、二人は女で、一人は男で、レーノチカがいちばん年かさであったが、机に近づいて来て、三人とも同じように手をその上にのせ、公爵を注意深く眺め始めた。隣りの部屋からコォリャが出て来た。
「コォリャ君、僕はここで君に会ってとてもうれしいんですよ」と言って公爵は彼のほうを向いた。「僕に力を貸してくれませんか? 僕はどうしてもナスターシャ・フィリッポヴナの所にゆかなくてはならないんです。僕はさっきアルダリオン・アレクサンドロヴィッチにお願いしたんですけれど、この人はこのとおり寝てしまったんです。街も知らないし、道もわからないんですから僕を連れて行ってくれませんか。所はわかっています、大劇場の近くで、ムィトフツォーワの家なんです」
「ナスターシャ・フィリッポヴナさんですか? いや、あのひとは大劇場の近くなんかにいたことはありませんよ。お父さんはナスターシャ・フィリッポヴナさんのところへ一度だって行ったことはありません。いったいあなたがお父さんを何か当てにするなんて、不思議ですね。あのひとはウラジミルスカヤ通りの近くの五角路のそばにいます。このほうがずっと近いんです。今すぐですか? 今は九時半です、それじゃお供しましょう」
公爵とコォリャはすぐに外へ出た。だが悲しいかな! 公爵は辻馬車を雇うには持ち合わせの金がなかった。そこで二人は歩いて行かなければならなかった。
「僕はあなたにイッポリットを紹介したいと思ってたんです」とコォリャが言った。「イッポリットはあの裾の短い上着を着ていた大尉夫人の長男なんですよ、今、となりの部屋にいたんですが、からだのぐあいが悪いので今日はずっと寝ていたのです。だけど妙な人なんで、とてもおこりっぽいんですよ。今あなたがあんな時いらっしゃったのではずかしいらしかったですよ。僕はそんなにはずかしくはないんです。そりゃ、僕のほうは父親だし、イッポリットのほうは母親だからですよ。どうしてもそこに違いがあるんでしょう。こんな時に、男性には不名誉ってものがないんですからね。でも、この場合、ひょっとすると、両性の見解については偏見があるかもしれません。イッポリットはえらいやつなんですけれど、やっぱり何かしら偏見の奴隷になっているところがありますよ」
「その人は肺病だって言いましたね」
「そうなんです、かえって早く死んだほうがいいんです。僕がああした境遇になったら死ぬことを望みますね。イッポリットはただ、弟や妹の小さい連中が可哀そうなんですって。もしできることなら、もしお金が手に入れば、僕たちは他に家を借りて家庭なんか離れてしまいたいのです。これが僕たちの空想なんです。あ、そうだった、さっきね、僕があなたのことを話したらおこりだして言ったんですよ、横っ面をなぐられて決闘を申し込まない男なんて卑怯だって。だいたいが恐ろしくおこりっぽい男なんですから、僕もこのごろではあの男と議論しないことにしています。ああ、じゃ、ナスターシャ・フィリッポヴナさんがあなたを招待したんですね」
「それがですよ、招待されていないんです」
「じゃあなたはなぜいらっしゃるんです?」とコォリャは叫んで、歩道のまん中で立ち止まりさえした、「それに……それにそんな服で……それに今日は招待された人だけの夜会ですよ」
「私はほんとに、どうしてはいったらいいかわからないんです。はいられたら……結構です。はいられなかったら……相手にされなかったというまでのことです。服のことはどうにもしかたがないんです!」
「何か用事がおありなんですか? それともまた、ただ立派な社交界で pour passer le temps(暇つぶしをするため)なんですか?」
「いいえ、僕はつまり……その、僕は用事で行くんです……どうもなんと言い表わしたらいいかむずかしいんですが、しかし……」
「そりゃ、何のために、いらっしゃったって、あなたの御随意ですが、僕はですね、僕が知りたいってのは、ほかでもありません、あなたがただ淫売婦だの将軍だの、高利貸しだののいる夜会へわざわざ行くわけじゃないってことを確かめたいんです。もしそうだったら、失礼ですが、公爵、僕はあなたを笑ってやります。そしてあなたを軽蔑します。ここには潔白な人は恐ろしく少なくって、尊敬すべき人は一人としていないんですよ。それで、不本意ながらこっちがお高くなるんです。すると彼らはみな無理に尊敬させるんです。ワーリヤがその第一です。それに公爵、あなたはお気づきでしょうが、現代の人間はみな山師ですね! しかもそれがほかならぬわがロシア、わが愛する祖国においてですからねえ。どうして皆がそんな風になったのかわかりません。以前は地道に歩いていたようですが、今はどうです? これは誰でもが言っています、あちこちで書かれています、暴露もされています。みんなが暴露しています。第一に親たちが退嬰《たいえい》的になって以前の自分たちのモラルを恥じています。現に、モスクワで、ある親がその息子に、金もうけのためには何ものをも避けてはいけないって言い聞かせたそうですよ、新聞に出ていたんです。僕のところの将軍をごらんなさい。まあ、なんという人間になったことでしょう? だけど、ねえ、公爵、僕のところの将軍は正直な人のように思います。きっと、そうです! ただ酒とだらしない生活のためなんです。え、それに違いないんです! 可哀そうにさえなります! 皆に笑われるのがいやさに僕は言わないんです。ほんとに可哀そうなんです。で、あの賢い人たちってのはいったいなんでしょう? みんな高利貸しです、一人のこらず! イッポリットは高利貸しもいいって言うんです。それも必要だ、経済的動揺だの、なんとかの高潮だの低潮だのって。くだらないことを言うんです。僕にはこれだけはあの男のことがいまいましいんです、ですけど、あの男のほうでも意地を張っているんです。ところで、どうです、考えてもごらんなさい、あれの母親の大尉夫人を。お父さんから金をもらっては、それを高利でお父さんに貸しているんですからね。なんて恥知らずでしょう! それなのにね、おっ母さんは、え、僕のおっ母さんです、将軍夫人、ニイナ・アレクサンドロヴナは、お金や着物やシャツやそのほかいろんなものをイッポリットにくれているんです、それに子供たちにまで大部分はイッポリットの手を通して贈っているんです。なぜって、あすこじゃ誰も子供たちのめんどうを見てやらないんですからね。ワーリヤ姉さんもそれをやっていますよ」
「それ、ごらんなさい、あなたは正直な人間も強い人間もいない、それに誰も彼もが高利貸しだって言ったでしょう、だけど、そのように、あなたのお母さんやワーリヤみたいな力強い人がいるじゃありませんか。ここで、こんな境遇の中にあって補助するなんてことは、道徳的な力がある証拠じゃありませんか?」
「ワーリヤは自尊心のためにしているんです。お母さんに負けまいとする虚栄心のためです。そりゃ、お母さんは実に……僕は尊敬しています。そうです、私はそのことを尊敬もすれば正しいこととも思っています。イッポリットでもそれを感じています。あの男はほとんど残酷なほどになっていました。はじめのうちはあざわらっていましたっけ。お母さんのやりかたが卑劣だといって。しかし今ではときどき感じています。ふむ! じゃあなたはこれを力だとおっしゃるんですね。僕もそれを認めます。ガーニャはこのことを知らないのですけれど、知ったら、|いんちき《ヽヽヽヽ》だって言うでしょう」
「ガーニャは知らないのですか? ガーニャはそのほかにもたくさん知らないことがあるらしい」公爵は物思いに沈んでつい口をすべらした。
「ねえ、公爵、僕、あなたがとても好きですよ。さっきの出来事が僕は忘れられないんです」
「え、僕も君が大好きですよ、コォリャ君」
「ね、あなたはここでお暮らしになるつもりなんですか? 僕はそのうちに仕事を見つけて少しでも稼ぎますから、置いてくれませんか、僕とあなたとイッポリット。三人で家を借りて。将軍は僕らのところに引きとりましょう」
「僕は大喜びで。だけど、まあ、そのときになったらね。僕はとても……とても頭の調子が狂っていますから。なに? もう着いたんですって、この家に……なかなか立派な玄関ですね……それに玄関番も。けども。コォリャ君、これからどうしたらいいのかわからないんですよ」
公爵はすっかり元気がなくなったかのようにたたずんでいた。
「明日、様子を聞かしてください! あんまりびくびくしちゃだめですよ。どうかうまくいくように。何事によらず僕はあなたと信念を同じゅうしているんですから。じゃ失礼します。僕はあすこへ戻って行って聞かしてやりましょう。それから通してくれることは請合いです。心配はいりませんよ! あのひとは恐ろしく風変わりな女ですから。その階段を昇っていちばんはじめての階ですよ、玄関番が案内してくれるでしょう」
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十三
公爵は階段を昇りながら非常な不安を覚え、自分を一生懸命に励ました。『もうたいていは』と彼は考えた。『通してくれはしないだろう、それに僕のことを何か悪く言うだろう、もしかして通してくれたにしても、面と向かって僕を嘲笑するだろう……え、どうにでもなれ!』しかし実際はこのことにさほどびくびくしているのではなかった。『あすこに通されたらどうしよう、それに僕はいったい何のためにあのひとのところへ行こうとするんだろう?』という問いを深く恐れていたのである。――この問いについてはどうしても彼は心の落ち着くような答えを見いだすことができなかったのである。もしなんとかして機会をとらえてナスターシャ・フィリッポヴナに『あの男と結婚しちゃいけません、自分を滅しちゃいけません、あの男はあなたを愛しているんじゃなくて、あなたの金を愛しているんです。あの男が自分で僕に言ったんです、それにアグラーヤ・エパンチンナさんも言っていました。それを僕はお伝えに来たのです』と言うことができるとしても、それがあらゆる点から見て正当なものであるかどうか?
さらにもう一つ解決のつかない問題があった。これは公爵にとっては考えるのさえも恐ろしいほど重大な問題であった。そうかといって公爵はこれを心に浮かべることさえできなかったし、またその勇気もなく、どんな風な形式をとったらいいのかもわからなかった。そして公爵は一つの考えがこれに触れるとき、顔を赤らめ身震いするのであった。しかしこうしたいっさいの不安や疑惑があったにもかかわらず、彼は最後に、やはりはいって行ってナスターシャ・フィリッポヴナに面会を求めたのである。
ナスターシャ・フィリッポヴナはたいして大きくないとはいえ、実に立派な住まいを借りていた。この五年間の彼女のペテルブルグの生活のうちで、アファナシイ・イワーノヴィッチ・トーツキイが、彼女のために特に金を惜しまずに尽くした時代があった。ぜいたくの習慣というものはきわめて拡大されやすく、そのぜいたくがしだいに必要に変化した時、それを抜け去るのがいかに困難であるかをよく知りぬいていた彼は、当時まだ彼女の愛に希望を繋いでいたので、おもにぜいたくと歓楽とで彼女を誘惑しようと考えていたのである。この場合トーツキイはいっさいのそうした打ち勝ちがたい力が感情に及ぼす影響を限りなく尊重して、なんらの改変をも施そうとはせず、かかる古い善良な伝統に安んじて信頼していたのであった。
ナスターシャ・フィリッポヴナはぜいたくを拒みはしなかった。むしろ好んでさえもいた。しかしきわめて妙なことに思われたのは――彼女はいつとしてぜいたくなんかしなくても自分は平気だという顔をしてけっしてそれに耽溺《たんでき》しようとしなかったことである。そして彼女はトーツキイにおもしろからぬ驚きをいだかせるようなことを幾度もおおっぴらに言うほどであった。それに、ナスターシャ・フィリッポヴナにはアファナシイ・イワーノヴィッチに不快な驚きを与えるようなこと(後に至っては軽蔑にさえなった)がかなりにたくさんあった。彼女がときどき、身近に近づける、したがって身辺に近づけがちの人々の下品なことはいうまでもなく、まだほかに実に奇妙な傾向が彼女に見られるのであった。相反せる二つの趣味が野鄙《やひ》な混合をしてあらわれ、繊細に育ってきた儀礼ある人間にとって存在することの許されそうもない物事や方法を取り扱って満足するという性向もあったのである。
実際に例をとって示せば、ナスターシャ・フィリッポヴナが思いがけなく、ちょっとした可愛げのある上品な無知、たとえば百姓女が彼女のつけているような精麻布の肌着をつけることはできないといった風な無知なことを言うと、アファナシイ・イワーノヴィッチは非常な満足を覚えるらしかった。トーツキイは最初ナスターシャ・フィリッポヴナをこうした結果に導くように計画して教育したのである。この男はこうしたことについては機微をよく心得ていた、しかし残念なるかな! 結果は奇妙なものとなった。それにしても、ナスターシャ・フィリッポヴナの性格にはまだあるものが残っていてそれがひとかたならぬ魅惑的な奇抜さ、一種の力となってアファナシイ・イワーノヴィッチ自身をさえ驚嘆せしめ、ときには、ナスターシャ・フィリッポヴナに対する以前の期待が根こそぎにさらわれてしまった現在でも彼を蠱惑《こわく》するのであった。
一人の小さな女の子が公爵を出迎えた(ナスターシャ・フィリッポヴナのところの召使はいつも女であった)。そして公爵が驚いたことには、なんらの怪しむ風もなく! 来意を最後まで聞いていた。よごれた長靴、鍔《つば》の広い帽子、袖のない外套、困惑しきった顔つきも、彼女には少しの疑惑をも感じさせなかった。彼女は外套を脱がせ、応接室に導くと、すぐさま取り次ぐために立ち去った。
ナスターシャ・フィリッポヴナのもとに集まった一座の人々は、きわめて平凡な、しょっちゅう顔を合わせているものばかりであった。以前のこうした客の集まりにくらべるとかなり小人数でさえあった。まず、おもだった人ではアファナシイ・イワーノヴィッチ・トーツキイとイワン・フョードロヴィッチ・エパンチンが出席していた。この両人とも愛想はよかったが、ガーニャのことについて、かねて約束の解決を待つおおいきれぬ気持のために、心の中でいくぶん不安を覚えていた。その他にはいうまでもなくガーニャが列席していたが、やはり非常に陰鬱になって、深く物思いにとらわれていて、全く『無愛想』で、少しわきのほうにたたずんだまま、黙りこんでいた。彼はどうしてもワーリヤを連れて来る気になれなかったが、ナスターシャ・フィリッポヴナもこのことには何も触れなかった。その代わりガーニャの挨拶がすむとすぐに、今朝ほど彼が公爵とひき起こした一場面のことを言いだした。まだそのことを聞いていない将軍は、心をひかれて事の経緯を尋ねだした。その時、ガーニャは気乗りのせぬ様子ではあったが、少しのかくしだてもなく今朝ほどの始終を、彼が公爵のところに謝罪に行ったことをもいっしょにして話したが、彼は、『人々が公爵のことを「白痴」と言っているが、自分にはそれが実に不思議でならない。自分はその考えには全然反対である。あのひとはなかなかしっかりした男である』と熱烈に自分の意見を披瀝した。ナスターシャ・フィリッポヴナはこの批評をなみなみならぬ注意を傾けて聞き終えて、ガーニャを珍しそうに眺めた。しかし一座の話はそのまま、この事件に重大な関係のあるラゴージンのことに移っていった。このことについてもアファナシイ・イワーノヴィッチとイワン・フョードロヴィッチはいろいろと聞き出した。その結果、この人間についての最も特異な情報を語りうる者は、今晩九時近くまで彼とさまざまな交渉を続けたプチーツィンだということになった。ラゴージンは今日じゅうにぜひとも十万ルーブルを都合してくれとくり返しくり返し言い張ったということがわかった。『事実、あの男は酔っ払っていました』とプチーツィンは付け加えた。『しかし十万ルーブルは、どんな困難なことがあろうとも、彼は調達するでしょう、今日じゅうであるか、全額を耳をそろえてであるかはわかりませんが、キンデルやトレパーロフやビスクープって連中が奔走していることです。また、利子は望み次第と言ってはいますが、これは酔っ払ったせいと、嬉しさのためです……』と言ってプチーツィンはことばを切った。
こうしたいっさいの報告は興味をもって迎えられたが、いくぶん陰鬱な興味であった。ナスターシャ・フィリッポヴナは、どうやら自分の胸中を人々に知られたくないような風で、沈黙を続けていた。ガーニャもまたそれと同じ様子であった。エパンチン将軍の胸中は誰にもまして不安に震えていた。もう、今朝のうちに贈った真珠が、あまりにひややかなお世辞と、それにあるなんとも知れぬ薄笑いとで受納されたからである。ひとりフェルデシチェンコのみは、一座の客の中ではしゃぎきったのんきな気分を表わし、わけもわからないのにときどき大きな声で笑った。それはただ自分から道化の役を買って出たがためにすぎないのであった。洗練された優雅な話し手として名が通っており、こうした夜会の席上では普通、会話の主導者となるアファナシイ・イワーノヴィッチ自身も明らかに機嫌を損っているらしく、この人にしては似てもつかないあわて方をしていた。残りの客、といっても、その数は多くはなかったが(何のためにここに招かれて来たのやらさっぱりわけのわからないような様子をした年老いた教師が一人いたが、これはもうすっかりおじけづいてしまって、少しも口を開こうとしない。どこの何者とも知れぬ青年、女優あがりの四十年輩の元気のいい女、それに恐ろしくぜいたくな服装をした非常に美しい、若い女がいた)、この連中はなんら会話に活気を与えることができないばかりでなく、どうかすると何を話したものかそれさえわからずに当惑しているのであった。
こうしたありさまであったので、公爵の訪れて来たことはむしろ時を得ていたわけであった。彼の来訪が伝えられると、人々は不審の念を起こした、そしてナスターシャ・フィリッポヴナの驚いたような顔つきから、彼女が公爵を招待しようとは少しも考えていなかったことを知った時、二、三の人々はある奇妙な薄笑いを浮かべた。しかし驚きの後でナスターシャ・フィリッポヴナは、多くの人たちがこの突然の思いがけない客を笑いながらはしゃいで迎えようという気になったほど、不意に大きな満足の意を表わしたのである。
「思うに、これはあの男の無邪気な性格から出たことらしい」とイワン・フョードロヴィッチ・エパンチンは断定した。「いずれにしても、こうした傾向を奨励することはかなり危険でありますが、今この場合、あの男がこんな奇抜な手段をとったにしても、ここへ来ようなどと考えついたのはむだなことじゃありませんね、おそらく私たちをおもしろがらしてくれるでしょう、少なくとも私の考える限りでは」
「いわんや、自身おしかけて来たにおいておやですね!」とすかさずフェルデシチェンコが口をはさんだ。
「それがどうしたと言うんだね?」フェルデシチェンコを憎んでいる将軍がそっけなくこう言った。
「え、入場料を払わなけりゃならんからです」と、相手は説明した。
「ふん、ムィシキン公爵はフェルデシチェンコじゃないからね。なんと言っても」将軍は今までフェルデシチェンコと対等の位置で座を同じゅうしていると思うと堪えられなくなって、こう言ったのである。
「これはこれは、将軍なにとぞ、お手やわらかに」相手は薄笑いを浮かべて答えた。「僕は特別の権利をもっているのですからねえ」
「どんな権利を君がもっているというのかねえ?」
「過日、このことについて詳細に、世論に訴えるの光栄を有しました。だが閣下のためにいま一度くり返すことにいたしましょう。ではお聞きください、閣下。すべての人は機知というものをもっています。ところが僕は機知をもっていないのです。その代償として僕は真実を語るべき許可を得ました。それは誰にでも知られていることですが、真実を語るべきものはただ機知なきもののみなり、ってことばがありますからね。おまけに僕は非常に執念深い人間です。これもまた機知がないからです。僕はいっさいの侮辱を甘んじて受けますが、それとてもただ相手が都合よくいっている間のことです、ひとたび相手がつまずくやいなや、その以前の仕打ちを思い出して復讐し蹴っとばしてやります。今までもちろん一度だって蹴っとばしたことのないプチーツィンの僕に対する批評です。閣下、クルイロフのあの『獅子と驢馬《ろば》』という寓意詩を御存じですか? え、その、これはまさにあなたと僕との二人のことを言っているんです」
「君はまたいいかげんなことを言う、フェルデシチェンコ」疳癪《かんしゃく》を起こして将軍はこう言った。
「まあ、どうしたんでございます、閣下?」フェルデシチェンコは相手のことばじりをとらえてますます自分のことばをくりひろげることができると考えて、すかさずこう言ったのである、「御心配くださいますな閣下、僕はおのれの分というものを心得ていますので、僕とあなたが寓意詩の獅子と驢馬だと申すのも、クルイロフがその中で言っていますように驢馬の役はもちろん、僕が引きうけるのでございます。閣下は獅子でございますよ。
雄々しき獅子よ、森のいかずち、
ちから失せしか、老いはてて。
さて僕はね、閣下、驢馬というわけでございますよ」
「その最後のことばには僕も同感じゃ」と、つい将軍は口をすべらした。
もちろんこうしたことはすべて粗暴で、前もってたくまれていたことではあった、しかし人々がフェルデシチェンコに道化の役を勤めさせるのはいつものことであった。
「僕に閉め出しを食わせずにここに入れてくれるのは」と、あるときフェルデシチェンコが叫んだことがある、「ただもうこんなぐあいに僕に物を言わせるためなんです。だいたい、僕のような男をこんなところへ、仲間入りさせるなんて、ありうべきことでしょうか。そりゃ僕だってこんなことくらいわかってます。それに、アファナシイ・イワーノヴィッチのような優雅な紳士と僕が同席するなんてことができるでしょうか? やむなく残る解釈がただ一つあります。すなわち想像することさえできないから坐らされるということです」
それも粗暴であるばかりではなく、いやになるほどしつこいこともあった。どうかするとそれが非常にいちじるしいことがあった、しかしこれがナスターシャ・フィリッポヴナの心にかなったように見うけられた。だからナスターシャ・フィリッポヴナのそばにどうしてもいたいと思う者はフェルデシチェンコを我慢するだけの覚悟が必要であった。本人もまた、自分がナスターシャ・フィリッポヴナから招かれるようになったのは、そもそもの初めからトーツキイにたまらなく嫌悪されたからであると、おそらくは真相をうがっていると思われる想像をしていた。ガーニャとしてもまた彼のために限りない苦痛を背負わされていた。この点でフェルデシチェンコはナスターシャ・フィリッポヴナのためになみなみならぬ役目を果たしていたわけである。
「私はまず最初に公爵に流行の恋唄を歌わしてお目にかけます」ナスターシャ・フィリッポヴナが何を言いだすかと気を配りながら、フェルデシチェンコはこう言って口を結んだ。
「どうですかね、フェルデシチェンコさん、お願いだから、熱くならないでちょうだい」と彼女はひややかに言った。
「あ! あ! あの男が特別の保護のもとにあるとなれば、私も少々遠慮しなくちゃ……」
しかし、ナスターシャ・フィリッポヴナはこのことばには耳もかさず立ち上がって、みずから公爵を出迎えに行った。
「わたし、さきほどはすっかりあわててたものですから」不意に公爵の前に出て、彼女は言った。「あなたをお招きすることを忘れてしまいまして、たいへん残念に存じていましたの。あなたが御自分でいらしてくだすって、わたしのために、あなたに御礼を申し上げたり、御決断のほどをおほめいたしたりする機会をつくってくだすったことを、心から嬉しく存じますわ」
こう言いながら彼女は、公爵のこうした行動の意味をいくぶんなりともうかがい知ろうと瞳《ひとみ》を凝らして、彼を見つめた。
公爵は彼女のこうした情のあふれたことばに何か返答しようとしているらしかった、しかし、ひと言も口がきけなかった。彼はナスターシャ・フィリッポヴナに眼を奪われ、心をとらえられていたのである。その様子を彼女は満足そうにながめた。この晩、彼女はできるだけ丹念に化粧を凝らしていたので、人々に強い印象を与えた。彼女は公爵の手をとって客のほうに導いた。客間に入ろうとした瞬間、公爵は突然立ち止まって、胸の動悸を高めながら、せきこんだ調子で彼女にささやいた。
「あなたの中にあるものはすべて完成されたものです、青白く痩せたところまで……それ以外のあなたを考えても見たくないほどです……僕、あなたのところに来たくてたまらなかったのです……僕ごめんください……」
「あやまったりなさらなくてもよござんす」と、ナスターシャ・フィリッポヴナは笑いだした。「そんなことじゃ、あなたの風変わりなところも独創的なところもすっかり台なしになってしまうじゃありませんの。すると、人があなたのことを奇妙なかただって言うのは本当なんですわね。だからこそ、あなたわたしを完成されたものとお考えになるのですわねえ、そうでしょう?」
「そうです」
「あなた、なかなかおじょうずな推量をなさいますが、それは推量違いでございますわ、今晩のうちにおわかりになりますわ……」
彼女は公爵を客の人々に引きあわせたが、その大半は彼と知合いのものであった。トーツキイはさっそく何かお愛想を言った。一座はいくらか活気づいて、人々は一斉に話したり笑ったりし始めた。ナスターシャ・フィリッポヴナは公爵に自分の傍の席をすすめた。
「だがしかし、公爵のいらっしゃったことは何も驚くべきことではありません」とフェルデシチェンコの声がひときわ高く響いた。「明瞭なことです、事柄自体が説明しています」
「あまりに明瞭な事柄で、事柄自体が実に明瞭に説明しています」今まで沈黙を続けていたガーニャがそのあとをうけてこう言った。「今朝ほど公爵がイワン・フョードロヴィッチの机の上でナスターシャ・フィリッポヴナの写真をはじめて見たその瞬間から、私はほとんど絶え間なく公爵を観察していました。私はその時あることを考えましたが、それをはっきり覚えています。そして、今やそれを私は堅く信ずるに至りました、ここでひと言申しておきますが、公爵御自身もそれを私に告白されましたのであります」
ガーニャはこのことばをすべてきわめてまじめな、いささかの冗談らしいところもない、むしろ不思議に思われるほど陰鬱な調子で、述べ終わった。
「僕、告白なんかしませんでした」公爵は、少し顔を赤らめてこう答えた。「僕はあなたの質問にお答えしたばかりです」
「万歳、万歳!」フェルデシチェンコが叫んだ。「少なくとも誠実です、狡猾《こうかつ》です、しかもまた誠実ですよ!」
一座の人々はどっとばかりに笑った。
「もう大きな声を出すのはよしなさい」フェルデシチェンコが嫌忌の情を表わして、小声に注意した。
「わしはこんな思いきったことがあんたにできようとは思いがけなかった」とエパンチン将軍が言いだした。「誰にだって、そうやすやすとできることじゃないからなあ。あんたを哲学者とばかり思っていましたよ! この若様はなかなか達者なものですなあ!」
「公爵が罪のない冗談を聞いて、まるでおぼこ娘のように顔を赤くなさるところから見ると、やっぱり、世間の高潔な若いかたがたのようになかなか見あげたお考えをいだいているようですな」
この時までひと言も物を言わずにおり、また一座の誰一人が、まさかこの人が今晩何かしゃべろうとは思いもかけていなかった七十歳の老教師が、突然、全く思いがけなくこう言った。というよりは歯のない口をもぐもぐさせながらつぶやいたのである。一同の人々はひとしおはげしく笑いだした。自分の思いつきのことばをおかしがって、一座の人々が笑うのだと思ったのであろう、老教師は周囲を見回して、またひとしきり笑いだそうとしたが、そのとたんに痛々しいほど咳《せ》き込んだ。こうした一風変わった老人や老婆や、それに憑《つ》かれた人間を、なぜかしらひとかたならず可愛がっていたナスターシャ・フィリッポヴナは、さっそく彼の肩を撫《な》でさすって、接吻してやり、もう一杯お茶を出してやるようにと言いつけた。彼女は部屋にはいって来た女中にマントを取り出させて、からだをつつみ、暖炉に薪を足すように命じた。今、何時になるという問いに答えて女中はもう十時半ですよ、と言った。
「皆さん、シャンパンはいかがでございます」とナスターシャ・フィリッポヴナが突然尋ねた。「わたし準備しておきましたわ。たぶんもっと皆さんがお賑やかになられると思いますわ。御遠慮なく、どうぞ」
酒を飲めという彼女のことば、特にこうした素直な気持で言うことは、ナスターシャ・フィリッポヴナとしては実に不思議なことであった。人々はこれまで彼女が催した夜会が、実に整然たる秩序のもとに行なわれていたことを、よく知っていたからである。夜会はだいたいにおいて陽気になっていったが、いつもとは調子が違っていた。しかし酒杯は遠慮なくあげられた、まず第一に将軍、第二に元気のいい夫人、老教師、フェルデシチェンコ、それに続いて一同の人々、トーツキイはこの場面に訪れようとしている新しい調子に合わせて、自分もできるだけ愛嬌《あいきょう》のある冗談らしい気持になろうとして、同じように酒杯をあげた。ただガーニャひとりは何も飲まなかった。ナスターシャ・フィリッポヴナもまた杯をとりあげ、今晩は三杯飲み乾すと言ったが、その奇妙な、ときどき非常に辛辣《しんらつ》に早口でしゃべることばや、つかみどころのないヒステリックな笑いをあげているかと思うと、ふいに口をつぐんで、気むずかしそうに、物思いに沈んだりする彼女の態度の中に、いかなる理由が秘められているのか、推しはかることは困難であった。熱が出たのじゃないかと、不審に思う人々もあったが、ついに、彼女が何か待ち設けているらしく、何度も何度も時計を見ては、待ちきれないといったように、そわそわし始めたのに気づいた。
「あなた、少し熱がおありじゃございませんか?」と、元気のいい夫人が尋ねた。
「とてもの熱です、少しどころじゃありません、だからマントにくるまったんです」と、答えたが実際彼女の顔色はいよいよ青ざめて、時おり、身うちのはげしい悪寒を押し堪えようとしているかのようであった。
人々は驚いてざわめき始めた。
「主《あるじ》にやすんでいただきましょうか?」イワン・フョードロヴィッチを見てトーツキイは自分の意見を述べた。
「みなさんけっして御心配なく! ぜひ皆さんにいていただきとう存じます。皆さんの御来席は、わけても今晩わたしに必要なんでございますから」ナスターシャ・フィリッポヴナは不意に、切に望むといった様子で意味ありげに言いだした。
ほとんどすべての人々が、今晩、きわめて重大な解答を与えるという約束になっていることを知っていたので、ナスターシャのこれらのことばは非常に強い響きをもっていた。将軍とトーツキイは、も一度顔を見あわせた。ガーニャはひきつったようにからだをぴくぴくと震わした。
「何かペチジョーの遊びでもしたいものですね」と、元気のいい夫人が言った。
「僕は新しいすてきなペチジョーを知っているんですがね」とフェルデシチェンコがすぐにあとを引き取った。「少なくとも、世界でただ一度、やってみたことがあるものなんです。そいつも失敗ではありましたけど」
「どんなんですの?」と、元気な夫人は尋ねた。
「あるとき僕たちの会合があったんです、え、そりゃもう、酒はやっていましたよ、すると突然、誰でしたか言いだしたんです。つまり一人一人がテーブルから立たずに自分に関したことを何か話そうというわけなんです。ところがその話も良心に照らして、自分のこれまでに犯した最も悪いと思う行為でなければならないというんです。それから真実でなけりゃならん、第一に真実でなけりゃいかん、嘘は絶対についてはいかんというのです」
「奇妙な思いつきだな」と将軍が言った。
「ところが奇妙なら奇妙なだけ、おもしろみも多いんですよ、閣下」
「滑稽な思いつきですね」とトーツキイが言った。「だけど、わかっていますよ。つまり一種の自慢です」
「たぶんそれが必要なのでしょう、アファナシイ・イワーノヴィッチ」
「そんなペチジョーなら、笑うより、泣くほうでしょうねえ」と、元気のいい夫人が口を出した。
「全くとんでもないばかげたことさ」とプチーツィンがくさした。
「ところで、うまくゆきましたの?」とナスターシャ・フィリッポヴナが尋ねた。
「と、ところがだめなんです、いまいましいぐあいになってしまいました。みなそれぞれ何やら話しました。本当のことを言ったものもたくさんいました。満足して話すものもいたのですよ。ところがしばらくすると、みんなはずかしくなってきたのです。堪えられなくなったんです! それにしても、概しておもしろかったですよ。つまり、ある意味でのおもしろみですな」
「それは本当におもしろいと思うわ!」ナスターシャ・フィリッポヴナは急に元気づいて、言いだした。「皆さん、本当にやってみましょうよ! ほんとに皆さんはひっそりしてしまったんですものね。わたしたち銘々が何か話したら……いまの話みたいに……もちろん、承諾を得たうえのことですわ、つまり、意志は自由ですからね、いかが? たぶん、わたしたちは持ちこたえられるでしょう? なんといったって、とても奇抜だわね……」
「奇抜な思いつきですよ!」と、フェルデシチェンコはすかさず相づちを打った。「もっとも、御婦人がたはあとまわしにして、男たちが始めます。僕らがやったときのように、順番は籤《くじ》で決めましょう! ぜひやりましょう、ぜひ! どうしてもいやだという人はもちろん、話さなくたっていいんです。しかし、それは非常に失礼なことですよ。皆さん、こちらへ、僕の帽子の中へ籤を入れてください。公爵が引かれますから。造作ないことですよ。これまでのいちばん悪い行為を話すのです。皆さん、ほんとにわけはないことです! とにかく、やってごらんなさいよ! お忘れになったかたは、僕がすぐに思い出させてあげますよ!」
この恐ろしく奇妙な思いつきは、ほとんど誰の気にもいらなかった。眉をひそめている者もあった。ずるそうなほほえみを浮かべている者もあった。また、抗議を申し立てる者もあったが、それも強硬ではなかった。たとえば、エパンチン将軍のごときは、この奇妙な思いつきに心を奪われているらしいナスターシャ・フィリッポヴナに、気づいていたのであるが、彼女の機嫌をそこなうことを恐れて、反対を思いとどまった。彼女はほかでもない、ただこの思いつきが奇抜で、ほとんど不可能なことだというのでただそれだけのことで夢中になっていたのである。ナスターシャ・フィリッポヴナは、それをひとたび口外した以上、たとえ自分の願望が気まぐれなものであり、自分にとって不利益なものであっても、がむしゃらになって、踏みとどまるところを知らなかった。
今もまた彼女はヒステリーのように騒ぎ立てて、発作を起こしてひきつったように笑いだし、トーツキイが驚きのあまり声をかけると、特にこの症状が激しくなるのであった。彼女の暗い眸《ひとみ》は炯々《けいけい》とかがやき、青ざめた頬には斑点が赤くにじみ出た。彼女の冷笑的な欲望は客がひそまりかえって忌まわしそうな眼で眺めていたため、ひときわ募ったかのように思われた。この思いつきが彼女のお気に召したのは、おそらくこれが皮肉で、冷酷なことであったからであろう。客の中には、彼女の胸中には何かもくろみがあるに違いないと信じきっているものさえあった。しかししばらくたつと、人々はこの思いつきを実行することに同意し始めた。いずれにしても、この思いつきが珍しいものであったため、多くの人々は好奇心をそそられたのである。フェルデシチェンコは誰よりも齷齪《あくせく》していた。
「もしも御婦人の前で……話すことのできないようなことでしたら」と今まで黙っていた青年が恐る恐る尋ねた。
「じゃ、そんなことは話さなくともいいですよ。それ以外に悪いことをしなかったわけじゃないでしょう」とフェルデシチェンコが答えた。「えい、なんです、若い人が!」
「あの、わたし自分のしたことの中でどれがいちばん悪いことかわかりませんのよ」と元気のいい夫人が傍から口を入れた。
「御婦人がたは話す義務を免除されています」と、フェルデシチェンコはくり返した。「しかし免除されているというだけですから、告白しようという気になられたかたはさしつかえありません、男のかたでも、どうしてもいやなかたは免除いたします」
「だが、僕が嘘を言わないということはいったいどうして証明するのかね?」とガーニャが尋ねた。「もし僕が嘘を言ったら、せっかくの思いつきもだめになるじゃないかね。ところが誰が嘘を言わずにおられるだろう? きっとみんな嘘を言うに違いない」
「だが、どんな風に嘘を言うかってことだけでも興味があるじゃないか。だがね。ガーネチカ、特に君は嘘をつくとかつかんとか心配することはないよ。言わなくったって君のいちばん悪い行為はもう知れ渡っているのだからね。ところで、皆さんも考えてください」と不意にフェルデシチェンコはまるで夢中になったように叫んだ。「ほんとに考えてごらんなさい、明日、つまり話をしたあくる日、われわれはお互いにどんな眼つきをして顔を見合わせるでしょう!」
「いったいこんなことができるのかね? いったい、これは本当にまじめなことなのかね、ナスターシャ・フィリッポヴナさん!」威厳を見せて、トーツキイはこう問いただした。
「狼が恐ろしかったら――森にはいらなければいいんですわ!」とナスターシャ・フィリッポヴナは冷笑を浮かべて言った。
「しかし失礼ですが、フェルデシチェンコ君、いったいそんな風にしてペチジョーができるもんなんですか?」だんだんと不安が募ってきたトーツキイはこうことばを続けた。「絶対にそんなことはうまくゆきません。あなた自身もすでに一度失敗したって言ったじゃありませんか」
「失敗したんですって? 僕はこの前のとき、一ルーブル銀貨三枚ぬすんだことを話しましたよ、え、いきなりぶちまけてしまいました」
「あるいはそうかもしれません。しかしあなただって、みんなが本当だと思うようには話せなかったでしょう? ほんのちょっと、ちょっとでも嘘があったら、この思いつきはだいなしになってしまうって、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチは言われましたが、それは全く本当です。本当のことを言うってのは、ただもう偶然なんですよ、その一種独特のきわめて粗野な調子を帯びた自慢をもって話す場合に、はじめてできることなんですよ。しかし、この席では思いもよらんことです、全くもって無作法なことです」
「けどもアファナシイ・イワーノヴィッチさん、あなたはなんて細かい神経をもたれたかたでしょう、すっかり驚いてしまいましたよ!」とフェルデシチェンコは叫んだ。「皆さん、まあ考えてごらんなさい、アファナシイ・イワーノヴィッチさんは僕が本当らしく話すことができないという観察のもとに、僕が実際、泥棒なんかできないときわめて婉曲《えんきょく》にほのめかしておいたのです(大きな声して話すのは無作法なんですから)。もっとも心の中ではフェルデシチェンコのやつ、泥棒ぐらいやりかねないぞと考えていられるかもしれませんがね! しかし、皆さん、当面の問題に、とりかかりましょう、籤も集まりました、それにあなたも、アファナシイ・イワーノヴィッチさん、お自分の分をお入れになりましたね。すると、どなたも異存はありませんね! 公爵、お引きください」
公爵は無言のまま帽子の中に手を入れ、籤を引いた。第一フェルデシチェンコ、第二プチーツィン、第三将軍、第四アファナシイ・イワーノヴィッチ、第五公爵自身、第六ガーニャ、等々。婦人たちは籤を入れなかった。
「まあ、なんて運が悪いんでしょう!」と、フェルデシチェンコが叫んだ。「僕は公爵が一番で、将軍が二番かと思っていましたよ。しかし、ありがたいことには、まあ、イワン・ペトローヴィッチが僕のあとに控えていられるから安心ですよ。ところで、皆さん、僕はもちろん立派な御手本を示さなきゃなりませんのですが、僕はこんなつまらない、何一つ特色もない人間であることがこの瞬間、かえすがえすも残念なのであります。官等の点でも僕は実に実に哀れな人間であります。だから、フェルデシチェンコが悪い行為をしたからといって何の興味がありましょう! それに、僕の最も悪い行為ってどれなんでしょうね? つまり embarras de richesse(富める者のなやみ)ってわけですよ。また例の泥棒一件を話すことにしますかね、泥棒でなくっても盗みはできるってことをアファナシイ・イワーノヴィッチさんによくわかっていただくために」
「よくわかりましたよ、フェルデシチェンコ君、おかげでよくわかりましたよ。人間ってものは、頼まれもしないのに自分の最も汚らわしい行為を話して、夢中になるほど満足を感ずるってことがね……いや……ごめんなさい、フェルデシチェンコ君」
「フェルデシチェンコさん、お始めなさい、あなたは恐ろしく、くだくだとよけいなことばかり言って、いつだっておしまいが、うやむやなんですもの!」といらいらして、もどかしそうにナスターシャ・フィリッポヴナは言いつけた。
一座の人々は、先に続いた発作的な笑いのあとで、彼女がにわかに気むずかしく怒りやすく、いらだたしくなったことに気がついた。それはそうとして、彼女は不可能な自分の気ままな欲望を執拗《しつよう》に、あたりかまわず主張し続けるのであった。アファナシイ・イワーノヴィッチ・トーツキイはひどく悩んでいた。将軍までが彼を怒らしたのである。将軍は事もなげにシャンパンをかたむけ、自分の番が回ってきたら何か話そうとでも待ち構えているようなふうをさえも見せていたからである。
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十四
「機知がないから、よけいな口もたたくんですよ。フィリッポヴナさん!」とフェルデシチェンコは自分の物語をするにあたってまず叫んだ。「僕にアファナシイ・イワーノヴィッチさんやイワン・ペトローヴィッチさんと同じように機知があったら、僕だってアファナシイ・イワーノヴィッチさんやイワン・ペトローヴィッチさんと同じように、今日もずっと黙って坐っていたでしょう。公爵、失礼ながら、お尋ねしますが、どうお考えですか、この世の中には泥棒のほうが泥棒でない人間よりはるかに多い、いやむしろ、一生の間に一度も何かしら盗みをしないような、そんな立派な正直な人間はいないと思うんですが。これが僕の考えなんです、もっとも、そうかといって、一人が一人残らず泥棒であるなんて結論をしようとは思いません、え、そりゃあ、時によりますと、どうしても、そんな風に結論したくなることがあるにはありますがね。あなたはどうお考えですか?」
「ふん、あなたはなんてばかなことをおっしゃるのです」と元気のいい夫人が応じた。「なんてくだらないことです、誰でもみんなが何か盗むなんてそんなことはありません、わたし、これまでに何一つ盗んだことなんかありませんよ」
「あなたは何一つ盗みをされたことなんかありませんよ、ダーリヤ・アレクサンドロヴナさん。しかしにわかに顔を赤くされた公爵はどうおっしゃるでしょうか?」
「僕はあなたのおっしゃることは本当だとは思いますが、でも、あまり誇張し過ぎているようです」どうしたことか本当に顔を赤くして公爵はこう言った。
「ところで公爵、あなた自身は何も盗みをなさったことはございませんか?」
「ふん、なんてばかなこった、気をつけたまえ、フェルデシチェンコ君」と将軍が注意した。
「ええ、もう眼に見えていますわ、自分が言わなくてはならないとなるとはずかしくなって公爵に言いがかりをつけるんです、公爵がおとなしくって、おやさしいもんだから」とダーリヤ・アレクサンドロヴナは遠慮なくこう言った。
「フェルデシチェンコ、お話しになるか、でなきゃ黙っててちょうだい。人のことなんか、どうでもいいじゃないの。わたしもうあなたに我慢ができなくなりました」ナスターシャ・フィリッポヴナは怒りだしてことば鋭くこう言った。
「今すぐ、ナスターシャ・フィリッポヴナさん、しかしですね、僕はどうしても公爵が告白されるものと思います。公爵がもし告白されたら、それにならって誰か他の人がいつかは本当のことを話そうっていう気になって、まあ、とてもすばらしいことを話してくださるでしょうよ。それに僕のことについては、もうこのうえ話すことなんかありませんよ、皆さん。至極あっけなくて、愚にもつかない、汚らわしいことです。しかし、僕はね、けっして泥棒じゃありませんよ。盗みはしましたけれど、どうしてそんなことをしたかわからないんです。これは三年前のある日曜日、セミョーン・イワーノヴィッチ・イシチェンコの別荘でのことです。客はこの家でお午《ひる》の御馳走になりました。食事が終わってから、男の人たちは酒を飲むので、席に残りました。僕はふと、この家のお嬢さんのマリヤ・イワーノヴナにひとつピアノで何か弾いてもらう気になりましたので、離れのほうの部屋を通りぬけようとしましたら、マリヤ・イワーノヴナの仕事テーブルの上に緑色の三ルーブルの紙幣がのっかっているんです。何かお勝手元の支払いでもするつもりで置いてあったのでしょう。部屋には誰もいないんです。僕は紙幣をとって、そのままポケットへしまい込みました。どうするつもりだったのか、自分でもわからないんです。ただ大急ぎに、僕は後へ戻って椅子に腰をおろしました。そして、じっと腰をかけたまま、かなりはげしく胸をはずませて、ひっきりなしにしゃべったり世間話をしたり笑ったりしていたのです。また婦人たちのほうへ行って、腰をおろしたりしました。三十分もたったころ、どうやら気がついたらしく、女中たちに聞き始めました。そして、ダーリヤという女中に疑いがかかりました。で、ダーリヤがすっかり途方に暮れてしまった時、今でもよく覚えていますが、僕はひとかたならぬ好奇心と同情をあらわして、マリヤ・イワーノヴナは情深い人だから大丈夫だよと首をかけて保証しながら、ダーリヤに自白するように諭《さと》しました。それも声をあげて、万座の中で言ったんですよ。みんな僕を見ていましたっけ、僕はこうやってしかつめらしく説教しているのに、紙幣はちゃんとポケットの中にはいっているんだと思うと、ただもう、すっかり満足してしまいました。その三ルーブルはその晩すぐに料理屋で飲み果たしてしまいました。はいってゆくと、すぐにラフィートを注文しました。僕はそれまでは、ほかに何もとらずに酒だけつけさしたことはなかったんです。つまり一刻も早く金を使ってしまいたかったんです。特に良心の苛責ってものはその時もその後も感じてはいません。しかしもう二度とこれから先そんなことはしません。皆さんが本当になさろうとなさるまいと、お勝手ですがね。さあ、これでおしまいです」
「しかし、むろん、それがあなたのなすったいちばん悪いことじゃありますまいよ」とダーリヤ・アレクサンドロヴナはいまいましそうな調子で言った。
「これは心理的偶然で、行為じゃない」とアファナシイ・イワーノヴィッチが指摘した。
「で、女中は?」と強い嫌悪の情を隠そうともせず、ナスターシャ・フィリッポヴナは尋ねた。
「もちろん女中は翌日ひまを出されました。なかなか厳格な家庭なんですから」
「それにあなたは手をこまぬいていたんですね!」
「これはどうでしょう! じゃ、僕がのこのこ出かけて行って僕がしましたって言わなくてはならないのですか?」とこう言ってフェルデシチェンコは卑屈な笑いをもらしたが、自分の話が人々にあまりに不快な感銘を与えたのにはかなり驚いていた。
「なんて汚らわしいことでしょう!」とナスターシャ・フィリッポヴナは叫んだ。
「ああ! ナスターシャ・フィリッポヴナさん、あなたは人から最も悪い行為を聞きたがっているくせに、それに華やかさを要求していらっしゃる! 最も悪い行為はいつでも非常にきたないものです、今に将軍のお話を聞けばわかります。それにうわべから見たら華々しく、見事に見えるものも世に少なくはありません、しかしこれはただ自家用の馬車を乗り回しているからにすぎないのです。自家用の馬車をもっている人間はざらにあります……それにどういうわけで……」
要するに、フェルデシチェンコはもう全く我慢ができなくなって、にわかにわれを忘れるまでに怒りだし、前後の見さかいもなくなったのである。彼の顔までがゆがんでいた。これは実に奇妙なことではある、とはいえ自分の物語が別種の成功をかちうると予期していた彼としては、また当然のことであった。こうした下劣な感情の『失錯』やトーツキイも言ったような『一種独特の自負心』はフェルデシチェンコのしばしば経験するところのものであり、いかにも彼の性格に似つかわしいものであった。
ナスターシャ・フィリッポヴナは忿怒《ふんぬ》のあまりからだまでぶるぶると震わせて、ものすごいほどフェルデシチェンコをにらみつけていた。こちらはたちまちおじけづいて、驚きのあまり慄然《りつぜん》として口をつぐんだ。あまり言い過ぎたからである。
「もうよしてしまったらどうでしょう?」とアファナシイ・イワーノヴィッチは抜け目なくこう尋ねた。
「僕の番ですが、与えられた権利に従って話はごめんをこうむります」とプチーツィンは思いきって言った。
「あなたは、おいやなんですか?」
「できないんです、ナスターシャ・フィリッポヴナさん、それに全体から見てもこのペチジョーは不可能であると思います」
「将軍、今度はあなたの番ですわね」ナスターシャ・フィリッポヴナは将軍のほうを向いてこう言った。「もしあなたが拒絶なされば、すっかりだめになってしまいますわ。だってわたしもいちばんおしまいに『私の一生』のある行為をお話ししようと心待ちしていたんですもの。もっとも、それはあなたとアファナシイ・イワーノヴィッチさんのお話のあとですけれど。なぜってお二人に勇気づけていただきたいって思ったからですわ」彼女はこう言い終わって笑った。
「おお、もしあなたがお約束なさるのなら」と将軍は熱した口調で叫んだ。「あなたに、僕の一生涯のことでも快くお話しいたしましょう。ところが、僕は順番を待っている間に、一つの逸話を用意しましたよ……」
「いやもう、それは閣下の御様子を拝見すれば、閣下がどれほどの文学的心血を注いで鏤心彫骨《るしんちょうこつ》の苦心をされたかがうかがわれますよ」まだいくぶんどぎまぎしていたフェルデシチェンコは毒々しい笑いを浮かべて思いきってこう言った。
ナスターシャ・フィリッポヴナはちらと将軍を見やって、自分もまた胸の中でほほえんだ。しかし彼女の胸の哀傷と焦燥の念はいよいよ募ってゆくように思われた。アファナシイ・イワーノヴィッチは彼女が物語をするという約束を聞いてまたもや愕然《がくぜん》としてしまった。
「皆さん、僕もみんなと同じように、僕の生涯においてきわめて下劣な行為をしたことがあるのです」と将軍が語りだした。「しかし、何よりも奇妙なのは、僕がこれからお話しする短い逸話を、一生涯の中で最も悪い行為と考えていることです。それも、かれこれ三十五年も昔のことです。僕はそれを回想するごとに、一種の、つまり、胸を掻きむしられるような気持をいかんともなし得ないのです。もっともばかげたくだらない事件ですがね。それは士官候補になりはじめで、毎日こつこつとおもしろくもない仕事を隊でやっていた時分のことです。ところで、御存じでもありましょうが、士官候補といえば、若い血は燃え立つけれど、ふところぐあいときたらぴいぴいです。そのとき私にはニキーロフという従卒がいましたが、これがまたとても細々《こまごま》と私の身のまわりいっさいのことに気をつけ、縫物から拭き掃除までしてくれ、それに所かまわず機会さえあれば泥棒までしてくるのです。つまり家の物が何でも多くなりさえすればいいというあんばいでしたよ。実直で正直なやつでした。もちろん、僕は厳格で不正なことなんかしませんでした。あるとき私は地方の小さな町に駐屯したことがありました。僕は町はずれに住んでいる退職中尉夫人の、しかも後家さんの家に宿舎を割り当てられました。その後家さんは年のころ八十か、少なく見ても八十に近い婆さんでした。その家というのが古いこわれかかった木造の家で、貧乏で女中もおけない始末なのです。しかしまあいちばんその中で変わっているのは、この婆さんに昔は大人数の家族や身内のものがあったということです。それが長い一生のうちに、ある者は亡くなり、ある者はゆくえ知れずになり、またある者はお婆さんのことなんか忘れてしまったのです。それから、夫が死んだのが四十五年も昔のことなんだそうです。四、五年前まではこの家に婆さんの姪《めい》が住んでいたってことでした。この姪というのがせむしで鬼婆のように悪いやつで、あるときなどは婆さんの指を噛《か》んだということです、その姪も死んでしまって、婆さんはもう三年ばかりの間、全くひとりぽっちで暮らしていたのです。私は家にいるのが退屈でしかたがなかったのです。それに婆さんが実にぽかんとして、実につまらないのです。気の紛れるようなことは何一つないのです。ついに、婆さんが私の鶏を盗みました。これは今もってはっきりしないんですが、しかし婆さんよりほかに盗むものはないのですからね。鶏のことから私たちはずいぶん猛烈に喧嘩をしました。するとそこへちょうど、ぐあいよく私はたった一度願い出たばかりだったのですけれど、別の宿舎に移転するように命ぜられたのです。今度の宿舎というのは、今までの宿舎の反対の側にあたる町はずれにありました。非常に大人数の家族をかかえた商人の家なのです。その商人は今でもよく記憶に残っていますが大きな髯を生やした男でした。私とニキーロフは婆さんを残してゆくのが痛快でたまらなかったのです。喜び勇んで引越しをしました。それから三日ばかりたって教練から帰って来ると、ニキーロフが『上官殿、われわれのところの皿を以前の家の婆さんのところへ残して来て損なことをなさいました。スープを入れて差し上げるものがないのであります』とこう報告するのです。もちろん、私は驚きました、『なんだと、どうしてわれわれのとこの皿を婆あのところに残して来たんじゃ?』と尋ねると、ニキーロフは驚いて報告を続けました。引越しのとき婆さんがどうしても皿を渡さずに、私が婆さんの皿をこわしたので、その代わり皿をとっているのだと言ったそうです。つまり婆さんの言うことでは私がこれを提議したことになっているんですね。この卑劣なやり方を聞いて、私はかっとなりました。士官候補の血はたぎって、飛び上がると、一散に駆け出しました。もう、そのすっかりわれを忘れてしまって婆さんのところへ駆けつけると、婆さんは玄関の片隅にしょんぼりと坐って、まるで太陽から姿をかくそうとしているようなぐあいに小さくなって坐っているんです。片手で頬杖をついて。私は、その、雷様のようなやつを頭からぶちまけたんです。『貴様はああ言った、こう言った』って、つまりロシア式にやってしまったんです。けれど、様子がどうも変なんです。婆さんはじっと坐ったまま、顔を私のほうに向けて眼をむき出し、ひと言も返事をしないんです。その眼つきといったら実に妙なんです。またからだはふらふら揺れているようなぐあいです。ついに私は気が落ち着いて、じっと様子を見ながら聞いてみるんですが、やっぱりうんともすんともないんです。こちらは途方に暮れてたたずんでいました。蠅《はえ》がそのあたりをぶんぶんうなりながら飛んでいましたし、陽はまさに沈もうとして、あたりはひそまりかえっているのです。私は内心、非常な不安を感じながら、そこを離れました。まだ家まで帰らないうちに、少佐のところに呼ばれ、それからまた中隊に行かねばならないことになって、家に帰ったのはすっかり暗くなった時分でした。帰ってゆくとニキーロフがまず最初に言うんです、『あのう、上官殿、あの婆さんが死にましたよ』『いつ?』『今日の夕方、一時間半ほど前であります』すると、ちょうど私が婆さんを責めている時分、死にかかっていたわけなのですよ。私はもうすっかり驚いてしまって、今にも気を失いそうになりました。それから後というものは、このことばかり思い出して、夜は夢にさえ見るようになったのです。もちろん、私は、迷信に囚われたわけじゃありませんが、三日後には葬式に列するために教会へ行きましたよ。つまり、時がたつにつれて思い出すことがひどくなったのです。別にとりとめて、これというのではないが、ときどき考えていると、いやな気分になるのです。ついに私は、そこで起こった重要なことは何であるかと考えるようになったのです。第一に女性――人間的な現代に人間的存在と称するところの一人の女が長い生活を続けて、あまりに長生きしすぎたということなんです。ひところは子供たち、夫、家族、親戚、こうしたものがすべて彼女を取り巻いていた、つまり、ぴったり身近くくっつき合って笑っていた、――ところが、にわかにそうしたものが消え失せて! 残ったのは彼女ただひとり、生まれ落ちるときから神の呪《のろ》いを負った蠅みたいに生き残った。そしてついに神様の許に呼び返されたわけですね。ものしずかな夏の夕方、日没と共に婆さんの魂も飛び去ったのです。もちろん、そこになんらか教訓的なものも考えられなくはありません。つまりその瞬間にですねえ、若い向こう見ずな士官候補が別れの涙をそそぎもしないで、両手を腰へあてて偉そうな格好をして、一方の腰をつき出し、ただ一枚の皿がなくなったということだけで、ロシア人特有の乱暴な罵倒《ばとう》のことばをあびせかけ、地上からこのお婆さんを追い払ったわけです。疑いもなく私に罪があるのです、今では遠い昔のことではあるし、私の性格も変わってきましたので、もうだいぶ前からこの私の行為が自分のしたことではないような気もしていはしますが、それでもやっぱり、可哀そうなことをしたものと哀れな気がするのです。だから、もう一度くり返して申しますが、かえって不思議な気さえするのです。なぜってそれは私にも罪があるにしても、何から何まで私が悪いわけじゃありませんからね。いったいどうしてお婆さんはちょうどそのとき死のうなんかと考えついたのでしょう? もちろん、そこに弁解の道があります。これがいくぶん心理的性質を帯びた行為であるということです。と言って私の気はやすまらないのです、それで十五年ほど前に、二人の始終病気になやまされている老婆を私は自分から費用を出して、人並みの暮らしをさして、地上における最後の日をいくぶんなりとも、なごやかに過ごさしてやりたいと思って、養老院に入れてやったのです。今でも私は財産の一部を永久に残る仕事にささげるよう遺言するつもりです。さあ、これでおしまいです。くり返して言いますが、おそらく私は一生の間、多くのことで罪を犯していることでしょう。しかし私は良心に照らして、この事件こそ一生における最も下劣な行為だと考えているのです」
「閣下は最も下劣な行為の代わりに、御自分の生涯における立派な行為の一つをお話しになられました。フェルデシチェンコは見事に、してやられたのであります!」とフェルデシチェンコはこう結論した。
「将軍、ほんとのところ、あなたにも、やはりそんなやさしい心がおありだと思いがけませんでしたわ。口惜しい気さえいたしますわ」とナスターシャ・フィリッポヴナがうつろな調子で言いだした。
「口惜しいですって? いったいどうしてです?」と将軍は愛想のいい笑いを浮かべて聞き返し、シャンパンを飲み乾したが、いくぶん満足げな様子であった。
さて、今度の順番は同じく用意のできていたアファナシイ・イワーノヴィッチに回ってきた。一座の人々は、彼もイワン・ペトローヴィッチと同じように拒絶はしないだろうと思っていた。しかも彼の話はある理由のために特別の好奇心をもって期待されていたのであった。それで人々はナスターシャ・フィリッポヴナの様子をそっとうかがった。アファナシイ・イワーノヴィッチは堂々たる風貌に似つかわしいなみなみならぬ威厳を示しながら、低くはあるが愛想のいい声で得意の『愛すべき物語』を語り始めた(この機会に言っておくが、彼は人の目をひくほど堂々たる外貌を備えて、身丈も高かった。頭は少しばかり禿げて、いくらか胡麻塩で、かなり肥っていた。頬は柔らかそうで、紅味を帯びて、いくぶんたるみぎみであった。口には入れ歯をして、ゆっくりした優雅な服装をしており、驚くほど立派な襯衣《シャツ》をつけていた。彼のふっくらした白い手は、いつまでもほれぼれと見ていたくなるほどであった。右の薬指にはダイヤ入りの高価な指環をはめていた)。ナスターシャ・フィリッポヴナは彼の話の間、ずっと袖口についたレースをじっと見つめ、左手の二本指でもてあそびながら、一度も話し手の顔を見なかった。
「この場合、何が私に課せられた問題を軽くしてくれるかというと」アファナシイ・イワーノヴィッチは話しだした、「僕の生涯中でいちばん悪い行為を、皆さんにお話しするということであります。もう今となっては逡巡《しゅんじゅん》することはないのです。私の良心と記憶とが、何を話すべきか助言してくれるのであります。悲痛な感情をいだいて私は告白しなければならない。私の生涯の無知であり、またおそらくは軽率な……浮薄な行為の中で、私の追憶にあまりにも重くのしかかってくる一つの事件があります。もうかれこれ二十年前のことであります。私はそのとき田舎《いなか》にいたプラトン・オルデンツェフのもとに出かけました。その男は地方の貴族団長に選挙されたばかりのときで、冬の祭日を過ごすために若い細君と共に田舎におもむいたのです。その時、ちょうど、アンフィーサ・アレクセーヴナの誕生日も近づいたので舞踏会が二つ催されることになりました。そのころデュマの美しい小説 La dame aux Camelias(椿姫)が上流社会にすばらしく流行していました。この叙事詩は私の考えるところでは、永劫不滅《えいごうふめつ》のものと思われるのです。少なくともこれを一度読んだ地方の婦人たちはみな、もうすっかり夢中になっていました。物語の美しいこと、主人公の境遇が奇抜なこと、微細な部分まで神経の行きわたったあの魅力に富んだ世界、そして、巻中随所にあふれる魅惑的な描写(たとえば白と薔薇《ばら》色の椿の花束をつぎつぎに出して来る場面の描写)、一言にして言うならば、こうしたすべての美わしい詳細な描写がいっしょになって、ほとんど天下を震撼《しんかん》せしめたものでした。椿の花はすばらしい流行となりました。誰も彼もが椿を求め、誰も彼もが椿を捜しました。しかしいったいどうでしょう、ある地方であらゆる人が舞踏会のために椿を求めているとき、やすやすとそれを得ることができるでしょうか? と言っても舞踏会がそう多くあったわけではありませんが。ペーチヤ・ウォルコフスコイは哀れにもアンフィーサ・アレクセーヴナを慕っていました。実のところ、私は二人の間に何かあったのか、それは知りません。その、つまり、男のほうに何か確かな希望があったかということをです。この可哀そうな男はアンフィーサ・アレクセーヴナのために夜会までに椿を手に入れようと気ちがいのようになっていました。それも県知事夫人のところのお客として、ペテルブルグから来る伯爵夫人のソーツカヤだの、ソフィヤ・ベスパーロワだのという人が、白の花束をもってやって来ることが、はっきりわかっていたからです。アンフィーサ・アレクセーヴナは、ある独特な効果を収めようと思って、赤い椿を欲しがっていたのです。それで可哀そうなプラトン氏を追い立てるようにして頼むのでした。そうなるとやっぱり――夫ですね。花束は手に入れてやると請け合ったのです。しかしそれがどうでしょう? 万事につけてアンフィーサ・アレクセーヴナの手強い競争者であり、斬り合いもしかねないようなただならぬ間柄にあるムィチシチェワ・カテリーナ・アレクサンドロヴナという女がその前夜になって椿をすっかり買い占めてしまったんですよ。もちろん、夫人はヒステリーを起こすやら、卒倒するような騒ぎになりました。プラトン氏はすっかり面目をつぶしたわけです。このきわどい際に、もしペーチヤが、どこからか花束を手に入れることができたら、彼の恋も大いに進展しただろうとは容易に考えられることです。こうした場合における女の感謝の情ってやつは、限りないものですからね。ペーチヤは燃えるような気持で駆けずり回りました。もともと不可能なことですから、なんともしようがありません。誕生日の前の晩、明日はオルデンツェフの近くにいるマリヤ・ペトローヴナ・ズブコーワの所で舞踏会があるというその前の晩の十一時ごろ、思いがけなくペーチヤに会いました。彼はうれしそうにしているので私は尋ねてみました。『君どうしたんだね?』『見つけましたぜ! エウリーカ(見つけました(ギリシア語))』『え、君、びっくりさせるね! どこで? どうしてさ?』『エクシャイスクに(そんな町が郡は別になってはいますが、二十|露里《エルスター》ほど離れたところにあったのです)トレパーロフって商人がいるんです、髯のたくさんある金持の爺さんで、婆さんと二人で暮らしているんです、子供はいないがカナリヤをどっさり飼っていましてね。その二人ともそろいもそろって花に夢中になっているんですよ、そこに椿もあるんです』『冗談じゃない、そんなことがあるもんか、またそれにしてもくれなかったら、どうするつもりだ?』『両膝ついて、地面をはいまわる、それまではけっして帰らない』『じゃいつ行くんだね?』『明日の夜明けの五時にゆく』『じゃうまくいくように』と言って私はペーチヤのために喜んでオルデンツェフのところへ帰りました。しかしどうしたことか、そのことがしきりに頭に浮かんで、とうとう二時過ぎまで寝られないのでした。それからいよいよ寝ようと思って床につこうとしたとき、ひょいと、とても変わったおもしろい考えが浮かんできました! それですぐさま台所へこっそり行って、御者のサヴェリヤを起こして、『三十分以内に馬車の用意をしてくれ!』と言って十五ルーブルやりました。もちろん、三十分の後には、馬車は門の傍に止まっていました。その晩、アンフィーサ・アレクセーヴナは、頭痛を起こすやら、熱を出すやら、うわごとを言うやら、たいへんな騒ぎだったそうです。私は馬車に乗って出発しました。そして四時過ぎには、エクシャイスクの旅館について、夜明けを待っていました。夜明けといっても、ほんの白みかけてくるころまでのことで、六時過ぎには早くもトレパーロフのところへ行っていたのです。『実はこういうわけですが、椿はございませんか? どうぞおじいさん、お助けください、救ってください、伏してお願い申し上げます』と言ったわけです。老人ってのは、身丈の高い、白髪の、厳めしい人――つまりおっかない様子をした老人だったのです。『いかん、いかん、承知するわけにはゆかん!』私はその足もとに身を投げ出しました! こんなぐあいにからだを伸ばして……『どうぞ、おじいさん、どうぞ、おじいさん!』ところが相手は驚いちまったらしいのです。『人間一人の生命にかかることです……』と爺さんに向かってどなりつけてやると、『そういうわけなら差し上げましょう、どうもいたし方がない』と言ってくれました。そこで私はすぐに赤い椿を切りました。そこの小さな温室の中に一面に咲き乱れて実に見事なものでした。老人はため息をついていました。私は百ルーブル出しました。『いや、あんた、そんなことをして、わしに恥をかかせるものじゃない』と言って老人は受け取らないのです。それで私は『じゃ、この土地の病院へ施設や食糧の改善費として寄付してください』と言ったのです。『そういうわけなら、話は別です。奇特なことだ、神様の御心にかなうことじゃの。あなたの、健康のために寄進しましょう』と言って金を納めてくれました。それで私はこのロシア風の老人がすっかり好きになりました。このロシア風の老人はつまりきっすいのロシア人なのですよ、de la vraie souche(まぎれもないきっすいの)ってわけでね。私は首尾よくいったので夢中になって、いま来た道を引き返しました。ペーチヤに途中で会わないように回り道をして、家に帰りつくとすぐにアンフィーサ・アレクセーヴナのお目ざめに花束を贈りました。夫人の喜び、感謝の情、感謝の涙がいかばかり大きなものであったかは、皆さんの御想像におまかせします! 昨夜いじめられ抜いたプラトンはすっかり死人のようになっていましたが、私の胸に顔をうずめて、うれし泣きに泣くのでした。悲しいかな、すべての夫というものは天地|開闢《かいびゃく》以来、こうしたものです……晴れの結婚式以来! これ以上あえて何も付け加えますまい。可哀そうなペーチヤの恋はこの插話と共にすっかりくずれてしまいました。私ははじめのうち、事情を知ってペーチヤが私を殺すに相違ないと考えていましたので、その時に対する覚悟をもきめていました。ところがです、信じられないようなことが起こったのです。彼は気を失って、夕方になると、うわごとを言い、朝になると熱が出て、そしてからだじゅうをぴくぴくと引きつらせて、子供のように泣くのでありました。ひと月たってどうにか健康が回復すると無理に願い出てコーカサスに遣ってもらったのです。とんだ小説が出来上がったものですよ! そしてその最後はクリミヤで殺されることになったのです。そのころは、彼の兄ステパン・ウォルコフスコイが連隊の指揮官として勲功を顕わしたのはその時分のことです。正直のところ、私はその後、長いこと良心の苛責に苦しめられたのです。私はいったい、何のために彼をそのように苦しめることをしたのでしょう? 私もそのとき夫人に恋していたというのなら、いくぶん救われもしましょうが? ところが、ただほんのふざけ半分にくだらない悪戯をしたのにすぎないのです。それ以外に何もわけはないのです。私がペーチヤから花束を横取りするようなことがなかったら、彼はずっと幸福に暮らし、輝かしい成功をとげて、トルコ人の手にかかって倒れようなどとは夢にも思わなかったでしょうに」
アファナシイ・イワーノヴィッチは話し始めた時と同じように、落ち着き払った威厳を示して、口をつぐんだ。一同はアファナシイ・イワーノヴィッチの話が終わったとき、ナスターシャ・フィリッポヴナの眼が異様に輝き、唇さえも震わせているのに気がついた。
「フェルデシチェンコをだましなすった! あんなだまし方をなさる! いいえ、だましなすったのに違いありません!」もう口を出してもいい、出さなければいけないと考えて、フェルデシチェンコは泣くような声で叫んだ。
「誰もあなたにそうはずかしがるように言いつけたわけじゃあるまいし。少しは賢い人を見習いなさるがよろしいですよ!」と、ほとんど勝ち誇ったような調子で、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ(トーツキイの古くからの親友でありその同類である)がこう言ってさえぎった。
「アファナシイ・イワーノヴィッチさんとあなたのおっしゃるとおりですわ、ペチジョーは退屈ですわ、早くおしまいにしましょう」とむとんじゃくな調子でナスターシャ・フィリッポヴナが口を出した。「さっきお約束したことは自分で話しますわ、それから皆さんとカルタをいたしましょう」
「しかし、お約束の逸話はまず一番に?」と将軍は言って熱心に賛成した。
「公爵」とナスターシャ・フィリッポヴナは身動きもせず、鋭い声で公爵に呼びかけた。「ここにいらっしゃる古いお友だち、将軍とアファナシイ・イワーノヴィッチは、しょっちゅう結婚せよとお勧めになるんですの。ねえ、公爵、あなた、どうお考えになります。わたし、結婚したものでしょうか、いかがでしょう? あなたのおっしゃるようにいたしますわ」
アファナシイ・イワーノヴィッチの顔はまっ青になり、将軍は棒立ちになった。一同は目をすえて首を前へ突き出した。ガーニャはからだを硬ばらせたまま、その場にたたずんでいた。
「だ……だれと?」公爵はうつろな声でこう尋ねた。
「ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ・イヴォルギン」とナスターシャ・フィリッポヴナは依然として鋭く強いはっきりとした声で言った。
沈黙の何秒かが過ぎた。公爵は何か言おうとしたが、あたかも重荷が胸を圧しているかのように、それを言いだすことができなかった。
「い、いけません……しちゃいけません!」やっとの思いでこうささやくと、彼は苦しげに息をついた。
「じゃ、そういたしましょう! ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさん!」と彼女は厳かに勝ち誇ったようにガーニャに呼びかけた。「あなた、公爵のおっしゃったことをお聞きになったでしょう? では、それが私の返事ですの。これでこの事は永久におしまいにいたしましょう!」
「ナスターシャ・フィリッポヴナさん!」とアファナシイ・イワーノヴィッチは震え声で言った。
「ナスターシャ・フィリッポヴナさん!」言いきかせるような、それでも不安のかくしきれないような声で将軍が呼びかけた。
一座の人々は心配して、ざわめき始めた。
「どうしたんです、皆さん?」彼女はびっくりしたように客を眺めながらことばを続けた。「何をそんなにびっくりなさいますの! 皆さん、なんて顔をなすっていらっしゃるんですの!」
「しかし……思い出してください、ナスターシャ・フィリッポヴナさん」とトーツキイがどもりながらつぶやいた。「あなたは……好意に満ちた約束をなさった、それに少しは可哀そうと思ってもいいでしょう……僕は困っています……それにもちろん、途方に暮れています、しかし……まあ、つまり今、こんな時に、それに……皆さんの前で、この良心と潔白を必要とするまじめな事件を。こんなペチジョーで決まるなんて……この事件の結果によって……」
「おっしゃることがわかりませんね、アファナシイ・イワーノヴィッチさん、あなたすっかりあわてていらっしゃいますね。第一に『皆さんの前』とはなんですの? 私たちは麗わしい親密なお友だちの間じゃありませんか? そしてまたなんでペチジョーなんかっておっしゃるんです? わたしはほんとに逸話を話したいと思ったから、え、それでこうして話したんですよ。おもしろくございませんの? これがなぜまじめでないのでしょう? あなたは私が公爵に言ったことをお聞きになられたでしょうね?『あなたのおっしゃるようにいたします』って言いましたんですのよ。あのかたが『諾《ダー》』とおっしゃれば私はすぐに承諾したことでしょう、しかしあのかたが『否《ニエト》』とおっしゃったから、私はお断わりしたんです。これがまじめじゃないんですの? 私の一生は一筋の髪の毛にかかっていたんです。これ以上まじめなことがありますか?」
「公爵が公爵がって言われるが、なんで公爵がそれほどいいんです? 公爵がいったい、なんです?」癪《しゃく》にさわる公爵の権威に対する憤懣を堪えかねて将軍はついにこうつぶやいた。
「公爵は衷心から私に服した人として私が今までにはじめて信用した、ただ一人のかたです。あのかたは一目わたしを見ただけでわたしを信用してくださいました。それでわたしも公爵を信用するのです」
「私に残されているのは、ナスターシャ・フィリッポヴナの私に示されたたいそう細やかなお心づくしに対して、ただただ感謝いたすことばかりです」とまっさおになったガーニャが唇をゆがめ、震える声でついにこう言いだした。「それはもちろんそうあるのが当然のことだったのです……しかし……公爵が……公爵がこの事件に……」
「それで、七万五千ルーブルを横取りするとでもおっしゃるんですか?」と不意にナスターシャ・フィリッポヴナがさえぎった。「あなたはそう言おうと思ってらしたんでしょう? ごまかさなくってもよござんすよ、きっとそう言おうとしていらしったんですわ! アファナシイ・イワーノヴィッチさん、わたし、申し忘れていましたわ、あの七万五千ルーブルはあなたお持ちくださいな、よござんすか、私あなたをただで自由にしてあげますから。もうたくさん! あなただって息をつかなきゃなりませんからね! 九年と三か月の間ですもの、明日から――やりなおし、今日はまだ私の誕生日ですから私の好きなことをしますわ、一生にただ一度です、将軍あなたもあの真珠を持ってお帰りになって、奥様に差し上げてください。はい、これです。明日は私もここを出て行きますから、もう夜会はありませんよ。皆さん!」
これだけ言ってしまうと、彼女は不意に立ち上がった、今にもすぐ出て行きそうな様子であった。
「ナスターシャ・フィリッポヴナさん! ナスターシャ・フィリッポヴナさん!」と四方からこう言う声が聞こえた。一同の人々は胸をはずませながら、席を立って彼女の周囲を取り囲んだ。人々は不安の念をいだいて、このとぎれとぎれの熱にうなされたような興奮したことばを聞いた。何かしら混乱したある物を感じたが、誰もその意味を理解することはできなかった。すべての人々がみな途方に暮れていたのである。この瞬間はげしくベルの鳴る音が響いてきた。それは今日ガーネチカの家で聞いた響きによく似ていた。
「あ! あ! これで幕だわ! とうとうこれでおしまい! ちょうど十一時半だわ!」とナスターシャ・フィリッポヴナが叫んだ。「皆さん、どうぞおかけください、これでおしまいですから!」
こう言って彼女は自分がまず腰をおろした。奇妙なほほえみが唇のうえに震えていた。彼女は熱のこもった期待をいだいて、ことばもなく腰をおろして戸口の方を見つめていた。
「ラゴージンだ、十万ルーブルだ、確かに」プチーツィンは口の中でつぶやいた。
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十五
小間使のカーチヤがひどくおびえた様子をしてはいって来た。
「ナスターシャ・フィリッポヴナ様、あすこにあの、なんでございますか、十人ばかりの男のかたがどやどやはいって来てるんでございます。みんな酔っ払っていますんで、ラゴージンとかいってあなた様がよく御存じだと申しているのでございます」
「そうなのだよ、カーチヤ、すぐみんなをお通しして」
「まあいいんでございますの……みんな通しても、ナスターシャ・フィリッポヴナ様? みんなだらしのない人でございますわ……いやらしい人たちですの!」
「みんな、みんな通しておくれ、カーチヤ、心配することはないよ、ひとり残らずみんな、それにおまえが案内しなくとも勝手にはいって来るよ。あ、今朝と同じような騒がしい音がする。皆さん、私が皆さんがたのいられるところにあんな人たちを通したりして、たぶん、皆さんはお腹立ちのことと存じます」と彼女は客のほうを向いて言った。「それは私も非常に残念なことに存じます、皆様におわび申します、しかしそうしなければならないのです。それから皆さんがこの最後の幕の証人となってくださるようにお願い申したいのでございます。もちろん、皆さんの御都合次第でございますけれど……」
客はみな、いつまでも驚いたり、ささやき合ったり、目を見交わしたりしていた。しかし、これは前もって計画され組み立てられたものであり、ナスターシャ・フィリッポヴナはもちろん気が狂っているのではあるが、彼女を今となっては説き伏せることはできないということがはっきりわかってきた。人々はひどく好奇心に胸をおどらせていた。それにたいして強く驚くような人はいなかった。婦人客は二人しかいなかった。その一人のダーリヤ・アレクセーヴナは、世間の苦労をさんざんなめてきた、そうそう物に動ずるようなことのない元気のいい夫人であった。いま一人は美しくはあるが、しょっちゅう沈黙している、まだ馴染《なじみ》のうすい女であった。この無口な女は、この場の様子をはっきり理解できたやらどうやら知れたものではなかった。彼女は最近やって来たばかりのドイツ女でロシア語はひと言も知らなかったし、そのうえ、その美しい顔と同じだけ頭のほうも足りないらしかったからである。この女は最近この地に来たばかりで珍しいので、ちょうど見世物を見に行くようなつもりで派手な着物をつけて、髪を美しくなでつけたところを、人々が方々の夜会へ招待して、よく、人が自分の夜会に使うため一夕だけ知人から絵や花瓶や彫像やついたてなどを借りて来るといった風に、ただその席上を飾り立てるためにまるで絵のようなつもりで席に据えて置くのが慣わしになっていた。
男のほうでは、たとえば、プチーツィンのごときはラゴージンとは友人であるし、フェルデシチェンコは水の中の魚のような関係にあった。ガーネチカはまだなかなか人心地はつかなかったが、それでもやはり曝台《さらしだい》のようなこの場に最後まで立ち続けなければならない押さえがたい要求をおぼろげながら感じていた。老教師はまだ何が起こったのやらよくわからないので、もう泣きださないばかりの様子で、周囲のただならぬ気配や、日ごろ自分の孫娘のように敬愛するナスターシャ・フィリッポヴナの様子を見て、恐怖のあまり文字どおりに震えおののいていた。しかしそれでも彼にとって彼女を見すてることは死ぬよりもつらいことであった。またトーツキイはどうかというに、こんな事件の中に残って危険に身をさらすことはできなかったが、それでもこの気ちがいじみた調子を帯びてきたこの場の情景がいかに成り行くか、立ち去るにはあまり興味深いものであった。それにナスターシャ・フィリッポヴナも彼にあてつけて二言三言皮肉を言ったので事件をはっきり見きわめなくては帰ることができなくなった。で、彼は全く一言も口をきかず沈黙を守って最後まで、純然たる傍観者として坐っていようと決心したのである。これはもちろん、彼の威厳の要求するところであった。しかしただ一人、さっき、自分の贈り物を無作法にひどく嘲笑的な態度で突き返されてはなはだしく侮辱を感じた将軍は、今またこうしたきわめて異常な出来事、たとえばさらにラゴージンの出現ということによって新たに、ひとしおはげしい恥辱を感ぜずにはいられなかった。それにまた彼のような男にとっては、プチーツィンやフェルデシチェンコと同席するということもなみなみならぬ屈辱であった。しかしいかなる情欲の力といえども、最後には義務の感情、職務官位の観念、および一般的な自尊心によって克服されなければならない。このゆえに、ラゴージンとその一党が閣下の面前に立ち現われるということはいずれにしても不可能のことであった。
「ああ、将軍」彼が彼女にこのことを言おうとして向きなおったとき、ナスターシャ・フィリッポヴナはすぐにこれをさえぎってこう言った。「わたしもすっかり忘れていましたわ! しかし、ねえ、私ほんとにあなたのことは前から心配していましたの。もしそんなにお腹立ちになられるのでしたら、この場合に特にあなたにいらしていただきたいのですけれど、無理におとどめはいたしません。いずれにしましてもこれまでいろいろお近づきにしてくださいましたうえに、いろいろと御配慮くださいましたことをほんとに御礼申し上げますわ、けれどもしも御心配のようでしたら……」
「どういたしまして、ナスターシャ・フィリッポヴナさん」と将軍は侠気肌《きょうきはだ》のおうような気持をにわかに感じて、こう叫んだ。「あなたは誰にそんなことを言われるんです? それじゃ、私はあなたを信頼している意味で、ここに残ることにしましょう、そしてもし何か危険なことが起こりましたら……そのうえ、正直のところ、私は非常な好奇心を感じていますので。私の懸念していることはただあの連中が絨毯《じゅうたん》をよごしたり、物を何かこわしたりしやせんかと……それにしても、私の考えではあんなやつらなんか通さないほうがいいと思うんですが、ナスターシャ・フィリッポヴナさん」
「や、ラゴージンだ!」とフェルデシチェンコが声を張り上げた。
「あなたはどうお考えです、アファナシイ・イワーノヴィッチさん」と将軍はすばやくささやいた。「あの女は気が狂ったのじゃないでしょうか? つまり譬喩《ひゆ》の意味でなしに、本当に医学的立場から見て、――え?」
「そりゃもう私が言ったでしょう、あの女は日ごろからこんな傾向があるって」アファナシイ・イワーノヴィッチはずるそうな様子でこうささやき返した。
「そのうえ熱を出しているようです……」
ラゴージン一党の顔ぶれは今朝ほどとほとんど同じであった。新たに加わったものは、以前、ある、いんちきなゆすり新聞の編集者をしていたことがあり、また、自分の金の入れ歯を|かた《ヽヽ》に置いて酒を飲んだ逸話をもっているだらしのない老人と、職分の点でも使命の点でも優に今朝ほどの鉄拳氏に匹敵する恐るべき競争者たり、敵手たる一人の退職中尉と、この二人であった。ラゴージンの一党の者で誰もこの退職中尉を知っているものはなかったのであるが、ネフスキイ通りの広小路の日向に立って、道をゆく人を引きとめ、『これでも全勢時代にはあまたの無心者に十五ルーブルずつくれてやったもんですよ』と人を小ばかにした口実のもとに、マルリンスキイのひとくさりを吟じながら無心をしていたのを拾われて来たのである。二人の競争者はさっそくお互いに敵視し始めた。今朝ほどの鉄拳氏はこの『無心者』が入党して以来というものは自分が侮辱すらされているように感じた、それに生まれつき口かずの少ない男であったから、熊のようにただうなるばかりで、世慣れた政略家のこの『無心者』がお追従《ついしょう》を言ったり、ふざけたりしているさまを深い侮辱の眼でながめているのであった。この少尉の態度から見ると、彼は腕力よりも巧妙機敏な手段によって『事』に当たろうとしているようであった、それに身丈も鉄拳氏よりは少し低かった。露骨な喧嘩を避けて婉曲《えんきょく》にではあるが、恐ろしく自信ありげな態度で英国式拳闘の偉力を幾度もほのめかした。つまりこの少尉は純粋の西欧派であったのだ。鉄拳氏はこの『拳闘《ボクシング》』ということばを聞くたびにひややかではあるが、しかも腹立たしいようなほほえみを浮かべるのであった。そして自分のほうから、こと改めて競争者と議論する価値はないといったようにときどき、無言のまま不意に、全く国産的しろもの――青筋のはいった隆々たるなんだか赤毛の一面に生えたたくましい拳骨を示した。というよりは、にゅっと突き出すのであった。それで、このすばらしい国産的しろものがねらい狂わず目的物に打ちおろされたならば、一撃のもとにつぶされてしまうであろうということが誰にもはっきりとわかった。
ナスターシャ・フィリッポヴナをたずねることに今日一日すっかり心を奪われてラゴージンが奔走していたため、彼らの間には徹底的に『覚悟をしている人間』は先刻と同じく一人としていなかった。ラゴージン自身も今はほとんど正気に返ってはいたが、その代わり、この汚らわしい、彼の一生のうちの何ものといえどもこれにたぐうべきものがないような、今日一日の間にうけたさまざまの印象のために、ほとんど気抜けがしたようになっていた。しかしただ一つのことだけが一秒ごとに、一分ごとに絶えず彼の視野と記憶と胸の中とにちらついていた。この一つのことのために、彼は五時から十一時までを無限の苦痛と焦燥に苦しみながら、これもまた気が狂わんばかりになって、彼の要求によって火のついたように飛び回ったキンデルとかビスクープとかを相手に過ごしたのであった。こういう風にして、ナスターシャ・フィリッポヴナがちょっとしたはずみに、ぼんやりとあざけるようにほのめかした十万ルーブルの金がともかくも調達されたのである。それにしても、この金はビスクープ自身ですら大声で話すのがはずかしくてキンデルとひそひそささやくように話し合ったほど利息の高いものであった。
先ほどの時と同じくラゴージンが先頭に立ってはいって来た。続いて他のものが自分たちの偉さを十分に自覚してはいるが、それでも少々はびくびくしながらはいって来た。ここでもっとも重大なことは、なぜかはわからないが、彼らがみなナスターシャ・フィリッポヴナを恐れていたことである。彼らの中には一同の者が即座に『階段から突き落とされはしないか』と心配して考える者もあった。こんな考えをいだいたものの中には、例の洒落男《しゃれおとこ》の女たらしのザリョージェフもいた。それにまた、他の者たち、特に、鉄拳氏などは口にこそ出さないが、心の中には強い軽蔑と、また憎悪を感じて、包囲攻撃するように彼女の方へ進んだ。しかし最初のふた間の絢爛《けんらん》たる装飾や、今まで聞いたことも見たこともない数々の品や、珍しい家具や絵画や、ヴィナスの大きな彫像、こうしたいっさいのものは彼らには打ち勝ちがたい尊敬とほとんど恐怖に近い感銘を与えた。
皆が皆というわけではないが、彼らの大部分の者はだんだんとぶしつけな好奇心のために恐怖を忘れ、ラゴージンのあとについてどやどやと客間にはいって来た。とは言っても鉄拳氏や『無心者』や、そのほか数名が、客の間にエパンチン将軍を見かけた時、最初の一瞬間はすっかり勇気を失い、じりじりとあとずさりして、隣りの室に退却したほどであった。ただレーベジェフだけは連中の中で最も胆力も確信もあったので、現金十万ルーブルと今手もとにある十万ルーブルとがいかなる意味をもっているかをよく理解して、ラゴージンと並んで進み出た。
それにしても、次のことは言っておかなければならない。この物知りのレーベジェフをも加えた一同の者は、事実、自分たちにはいっさいのことが許されているのかどうか、自分たちの威力がどの辺まで発揮できるか、またどの辺で食い止められるかということについてはいくぶん迷わざるを得なかった。レーベジェフはある瞬間には、すべてが許されていると誓いそうになったが、またある瞬間には万一のために、自分を激励し安心させるような条項を法規全書の中から思い起こすべき不安な要求を感じた。
ナスターシャ・フィリッポヴナの客間は当のラゴージンには、その一党のものに与えた印象と全然正反対の印象を与えた。部屋の入口の帳《とばり》をあげて、ナスターシャ・フィリッポヴナを見るやいなや、ラゴージンには他のものは何もかも、今朝と同じように、しかもそれよりはずっと強い度合で眼に見えなくなってしまった。彼は顔青ざめて、一瞬間、立ち止まった。胸の動悸が早くなりだしたのが想像できた。おずおずと放心したように、わき目もふらずにナスターシャ・フィリッポヴナを眺めた。と、たちまちすっかり理性の力を失ったように、よろよろとした足どりでテーブルに近づいた。その途中プチーツィンの椅子にぶつかり、泥だらけの長靴で黙りがちなドイツ女の見事な水色の着物についたレースを踏みつけたが、あやまりもせず、また気づきもしなかった。
テーブルに近よると、客間にはいるときからずっと両手にささげていた奇妙な品物をその上に置いた。それは高さ四寸三分、長さ六寸ほどの大きな紙包みで、しっかりと「財政新報知」で包み、砂糖の塊を縛るのに使うような紐で、四方からきつく二重に十文字に縛られてあった。そして、一言も発せずに、おのが刑の宣告を聞く人のように、両手をだらりと垂れたままたたずんでいた。彼の服装は、首に巻いているあざやかなみどりに赤のまじった新しい絹の襟巻と、甲虫を形どった大きなダイヤの留針と、右手のよごれた指にはめた大きなダイヤ入りの指環のほかは、今朝とすっかり同じであった。レーベジェフはテーブルの三歩前でとどまった。
他の連中はすでに述べたように、しだいにしだいに客間へはいって来た。ナスターシャ・フィリッポヴナの小間使のカーチヤとパーシヤもまた駆けつけて来て、上げられた帳《とばり》の蔭からはげしい驚きと恐れをいだきながらのぞいていた。
「あれはいったい何ですの?」ナスターシャ・フィリッポヴナは珍しそうにじっとラゴージンをながめながら『品物』を指さしてこう尋ねた。
「十万ルーブル!」と彼はほとんどささやくように答えた。
「じゃ、やっぱり約束を守ったわけですね、えらいわね! おかけなさい、どうぞ、さあ、ここへ、さあこの椅子に。わたしあとであなたになんとか言いますわ。いっしょのかた、どなた? みんな、さっきのかた? だったら、はいって坐ったらいいわよ。さあ、そこの長椅子に、さあ、長椅子はそこにもあるわよ。あすこには肘つき椅子が二つ……あの人たちどうしたの、いやなのじゃないかしら」
ある者たちはひどく狼狽し、次の部屋に引っこんで坐りながら待っていた。またある者は居残って、勧められるままに腰をおろしたが、できるだけテーブルから遠ざかるようにして多くのものは隅のほうにいた。こうした人々の中にもふたとおりあって、ある者はまだいくぶん、からだを隠すようにしていたし、またある者は遠ざかるだけ、なんだか不自然なほど早く元気になった。ラゴージンもまた勧められた椅子に腰をおろしたがそれも長くは続かなかった。彼はすぐ立ち上がって、もうそのまま腰をおろさなかった。だんだんと彼は見わけがつくようになって客を眺め始めた。ガーニャに気がつくと、彼は毒々しいほほえみを浮かべて、「なんでえ!」と口の中でつぶやいた。彼は将軍とアファナシイ・イワーノヴィッチを眺めたが、あわてもせず、特に珍しそうな様子もしなかった。
しかし、ナスターシャ・フィリッポヴナの傍にいた公爵に気づいたとき、非常に驚いて長い間彼から眼を放すことができなかった。それは、このめぐりあいをなんと解釈するかわからないといったような風であった。彼はときどき気が遠くなるのではないかと不審に思われた騒擾の中に過ごした今日一日の出来事のほかに、彼は昨夜、終夜、汽車に揺られたし、それにまたほとんど二日の間まんじりともしなかったのである。
「皆さん、これが十万ルーブルです」とナスターシャ・フィリッポヴナは熱に浮かされたようないらだたしげな挑戦的な態度で一同に向かってこう言った。「そら、このきたない包みの中にはいっているのです。先ほど、晩までに十万ルーブルわたしのところへ持って来ると気ちがいのようになって叫んだのです、それでわたしはこの人の来るのを待っていたのです。これでこの人はわたしをせり落としたんです。一万八千ルーブルから始めて、急に四万ルーブルに飛び上がり、そしてとうとうこの十万ルーブルになったのです。けれど約束を守りました。あら、この人はなんて青い顔色をしてるんでしょう!……このことはいっさい、今日ガーニャの所で起こったんです。わたしが、あの人のお母さんの所を、つまり私の未来の家庭を訪問しますと、あのかたの妹さんが私の目の前で『この恥知らずの女をここから追い出す人はいないんですか!』っておっしゃるんです、そしてガーネチカ、自分の兄さんの顔に唾をひっかけたのですの。なかなか気の強いお嬢さんですわ!」
「ナスターシャ・フィリッポヴナさん」と将軍はたしなめるように言った。彼は自己流の考え方で事件をいくぶん理解し始めたのである。
「なんでございますの、将軍? 礼儀を知らないとでもおっしゃるの? いいえ、取りすますのはもうたくさんですわ! フランス劇場の桟敷《さじき》で近よりがたいような慈善家顔して坐ったり、それに、五年の間わたしの尻を追い回す人たちから野育ち娘のように逃げて、わたしは清浄無垢な女よ、といったような風の顔をしたのは、みんなわたしの傲慢《ごうまん》な心のためです。それなのに今、清浄な五年が終わった今日という今日、この人が来て、あなたの前で、テーブルに十万ルーブルのせました、またきっとこの人たちはトロイカをもってきて、わたしを待っているんでしょう。十万ルーブルに私の値を踏んでくれたんですよ! ねえ、ガーネチカ、おまえさん、今日までほんとに私のことを怒ってはいなかったの? ほんとにわたしを、おまえさん、家に入れるつもりだったの? このわたしを、ラゴージンのわたしを! さっき公爵はなんとおっしゃって?」
「あなたがラゴージンのものだと言いはしませんでした、あなたはラゴージンのものじゃありません」と公爵は震え声で言いだした。
「ナスターシャ・フィリッポヴナさん、もうたくさんですよ、あなた、もうたくさんです」たまりかねてにわかにダーリヤ・アレクセーヴナはこう言った。「そんなにあの人たちがいやなら、見なけりゃいいじゃありませんの! それに、十万ルーブルのためだって、あの男といっしょについてゆくつもりですの? そりゃもう本当に十万ルーブルといえばねえ! だからね、十万ルーブルをとって、あの男を追っ払うといいわ、あんな男なんかそれでちょうどいいわ。ええ、わたしがあんただったら、あの連中をもう……本当にどうしたってんでしょう!」
ダーリヤ・アレクセーヴナは憤怒さえ覚えてきた。この人は善良なきわめて感じやすい女であった。
「ダーリヤ・アレクセーヴナさん、そんなに怒らなくったっていいわ」と言ってナスターシャ・フィリッポヴナはダーリヤに笑いかけた。「私だってあの男に怒らないで話したじゃありませんか。私あの男を叱りつけたかしら? なんだって立派な家庭にはいりたいなんてばかげたことを考えたのかしら、自分ながらさっぱりわからないわ。わたしあの人のお母さんに会って手に接吻しましたわ。ガーネチカ、先ほどわたしがあなたのところでからかったのは、お別れにわざとああしたかったのよ。あなたがどれくらい、我慢できるかってね? ところが、あんたにはわたしすっかり驚いちゃったの、本当に。わたしいろいろのことを期待してはいましたが、あれほどだとは思いがけなかったわ! え、ほとんど結婚の前夜ともいっていいような日にあの人がわたしにこんな真珠を贈ったのを知っていて、そのうえわたしがそれを受け取ったのを知っていながら、わたしと結婚しようってつもりだったの? それにラゴージンは? おまえさんのとこの家で、お母さんや妹さんの前であんなことをしたのに、それでもあんたは結婚するつもりでのめのめやって来るんですものねえ、それに妹まで連れて来かねないんですからね! ラゴージンがあんたのことを三ルーブルほしくって、ワシーリェフスキイまではいつくばって行くって言ったのはいったいほんとのことなんでしょうかね?」
「はってゆくとも」と不意にラゴージンが小声で言った。しかしその顔には強い確信があらわれていた。
「それにあなたが空腹で死にそうだっていうのならとにかく、噂によるとあんたはいい月給をとっているっていうじゃないの? そのうえ、屈辱も忘れて、憎んでいる女を家に入れようって!(なぜってあんたはわたしを憎んでいます、ええ、わたしはよく知っていますわ!)え、今こそ私にはわかりましたわ、こんな人間は金のためには人殺しでもします! 今じゃ誰も彼も金に飢えてあほうみたいになっているんです。和解するにも金なんです。みんなことばどおり醜くなっているんです。そら、あんな小僧っ子までがもう高利貸しをやっているんですからね! でなけりゃ剃刀《かみそり》に絹をまいて友人の後ろから忍び寄って羊っ子のように斬り殺すんです。え、近ごろの新聞に出ていましたわ。え、おまえさんは恥知らずです! わたしも恥知らずですけど、あんたって人はもっとひどいんです。わたしはあの花束屋のことはもう何も言いませんけれど……」
「あなたが、あなたがそんなことを、ナスターシャ・フィリッポヴナさん!」と将軍は心から悲しんで両手を打ちならした。「あんなにデリケートな、あんなにやさしい美しい心のあなたが、それにそんなことを! なんていう口でしょう、なんていうことばづかいでしょう!」
「わたし今、酔っ払っていますの、将軍」と言ってナスターシャ・フィリッポヴナはにわかに笑いだした。「わたし、はしゃぎたいんですわ! 今日はうれしい日、わたしの休み日、わたしの当たり日、わたしは長い間これを待っていましたの。ダーリヤ・アレクセーヴナさん、あんた、そらあの花束屋をごらんなさい、ほら、あの Monsieur aux cameliass(椿氏)ほら坐ったまま、あたしたちを笑っているわよ……」
「わたしは笑っちゃいませんよ、ナスターシャ・フィリッポヴナさん、非常に注意して聞いているだけですよ」とトーツキイは内心の動揺を隠してもったいらしくこう言った。
「あの、どうしてまる五年というものわたしからあのひとを離さずにいじめたんでしょう? そうされるだけのことがあるのかしら! あのひとはそうされなければならないようになっている人なの……それなのにあのひとはわたしがあのひとに、悪いことをしたように思っているんだわ。教育もしてくれました、伯爵夫人みたいな生活もさせてくれました。お金、お金はずいぶん使いましたわ。またあちらにいるときには立派な夫を捜してくれましたわ、ここではガーネチカをね。あなたはどうお考えか知らないけど、この五年間というものわたしはあのひとといっしょに暮らしはせずに、お金だけは取ったんでしょう、そしてそれでいいんだって考えていたんです。わたしは迷っていたんですわ! あなたはおっしゃいましたわね、いやなら、十万ルーブルだけ取って、追っ払ってしまえって。そりゃ本当にもういやだわ……わたし、しようと思えばとっくに結婚ぐらいできたんですわ、でもガーネチカとじゃなくってよ、だけどそれもまた、とてもいやになったの。またなんだってわたしこの五年の間そんなろくでもない気持で過ごしたんでしょう! あんた本気にするかどうか知らないけど、四年ほど前にはわたしときどき考えたのよ、いっそアファナシイ・イワーノヴィッチと結婚しようかってねえ。だけどわたしその時ただひねくれた気持からそう考えただけなの。まだほかにいろんなことをその時考えたわ。それは本当に無理にもそうさせることができたんですもの! 自分からずいぶん頼んだのよ、あなた本気にするかしら? ところが本当は嘘を言っていたのよ。それにひどい欲ばりやだから我慢できなかったんですよ。するとその後は、仕合わせなことには、わたし意地をはってみたところでそれだけの値打ちがあのひとにあるのかしら! って考えるようになったの、すると不意にあのひとがもうとてもいやになって、たとえあのひとが結婚を申し込んで来ても、けっして承諾すまいと思ったの。それでまる五年というもの、ずっとわたしはあんなに傲慢になってきたんです! もう、いや、いや、もういっそ街に出て野たれ死にでもするほうがましだわ! ラゴージンと騒ぎ回るか、明日にでも洗濯女になっちまおう! なぜって、わたし自分のものは何一つ持たないんだもの。ここを出るとなりゃ、何もかにもあの人にたたき返してしまいます。襤褸《ぼろ》ぎれ一枚だって持って行きゃしないわ。そしたらわたしを誰がひろってくれるでしょう? え、フェルデシチェンコだってひろってくれやしないわ!……」
「フェルデシチェンコはたぶんひろわないかもしれません、ナスターシャ・フィリッポヴナさん。僕は明けっ放しの男ですから」とフェルデシチェンコがさえぎった。「その代わり公爵がひろってくれますよ! あなたはそんなに坐ったまま泣いていらっしゃるが、公爵を見てごらんなさい。僕はさっきからずっと見ています」
ナスターシャ・フィリッポヴナは好奇心を起こして公爵のほうを向いた。
「本当に?」と彼女は尋ねた。
「本当です」と公爵はつぶやいた。
「このまま、無一物でもひろってくださる?」
「ひろいます、ナスターシャ・フィリッポヴナさん……」
「そら、また始まった!」と将軍はつぶやいた。「思わんこっちゃない!」
公爵は自分をじっと見続けているナスターシャ・フィリッポヴナを悲しそうではあるが、激しい刺すようなまなざしで見つめた。
「そら、もう一人いた!」再びダーリヤのほうを向いて彼女は不意にこう言った。「ただもう善良な心から言っているのよ、わたしはあの人がよくわかるわ。慈善家が見つかったわけだわ。それにしても、あの人のことをそれ……なんだとか人が言うのは本当かもしれないわね。ラゴージンの女を引き取ろうって言うほど惚れ込んじゃったの? 御自分の、公爵の夫人になさるの?……」
「僕は純潔なあなたを引き取るのです、ナスターシャ・フィリッポヴナさん、ラゴージンのものを引き取るんじゃありません」と公爵が言った。
「わたしが純潔ですって?」
「そうです」
「まあ、それは……小説の中のことですわ! ねえ、公爵、それは昔のたわごとよ、今じゃ世間がえらくなってきたので、そんなことは何の役にも立ちませんのよ! それにまだ御自分には乳母さんがいるのに、結婚なんかしてどうなさるの?」
公爵は立ち上がっておずおずとした震え声ではあるが、それと同時に確信に満ちた者の態度で言った。
「ナスターシャ・フィリッポヴナさん、僕は何も知りません、僕は何も見ません、あなたのおっしゃることに間違いはありません、しかし僕は……僕は僕があなたにではなく、あなたが僕に光栄を与えてくださるのだと考えています。僕はくだらない人間です。あなたは苦労なされました、そしてその地獄の中から純潔な人として出て来られたのです。それでもうたくさんです。何をはずかしがって、ラゴージンと行ってしまおうとなさるんです? それはただ熱病のためです……あなたはトーツキイさんに一万七千ルーブルを突き返して、ここにあるものをいっさいすてて出て行かれると言われました。ここにはそんなことのできる人は誰一人いません。僕はあなたを、ナスターシャ・フィリッポヴナさん、……愛していますよ。僕はあなたのためには死んでもかまいません、ナスターシャ・フィリッポヴナさん。僕はあなたのことを誰にだって、かれこれ言わせはしません、ナスターシャ・フィリッポヴナさん……もし僕たちが貧乏なら、僕は働いて稼ぎます、ナスターシャ・フィリッポヴナさん」
この最後の数言の話されているときフェルデシチェンコとレーベジェフのしのび笑いが聞こえた。将軍までが心外に堪えないといったように咽《のど》をごろごろ鳴らして、何やらつぶやいていた。プチーツィンとトーツキイは思わずほほえみをもらしたがすぐ元に返った。他の者はあっけにとられて茫然としていた。
「……けれど、僕たちはもしかすると貧乏しなくて大金持になるかもしれません、ナスターシャ・フィリッポヴナさん」と公爵はあの震え声で語り続けた。「と言っても僕は、はっきりしたことは知りません。それに残念ですけれど、今日一日、今まで何も知ることができなかったのです。しかし僕はスイスにいるときモスクワのサラズキンっていう人から手紙を受け取ったんです。それによると僕はとても莫大な遺産を受け取れそうなんです。さあ、これがその手紙です。……」
公爵はたしかにポケットから手紙を取り出した。
「あの男、夢かなんぞ見ているんじゃないかな?」と将軍がつぶやいた。「いや、本当の気ちがい病院じゃ!」
沈黙が一瞬続いた。
「公爵、あなたはサラズキンから手紙をもらったっておっしゃったようですね?」とプチーツィンが尋ねた、「それはあの仲間じゃ有名な男ですよ。いろいろ事件を周旋して回る有名な男です。だからその男から本当に知らせて来たのなら、きっと間違いはないでしょう。都合よく、僕がその男の筆跡を知っています、最近ある事件で手紙をもらったもんですから……私にちょっとお見せくだされば、たぶん、あなたになんとかお話ができるかもしれません」
公爵は無言のまま、震える手で彼のほうへ手紙を差し出した。
「いったいどうしたんです、どうしたんです」と半ば気を失ったように一同を眺めてから、将軍は気をとり戻したようにこう言った。「え、遺産ですか?」
一同の人々は手紙を読んでいるプチーツィンに眼をそそいだ。一座の好奇心は新しくなみなみならぬ衝動を受けた。フェルデシチェンコはもうじっと坐りこんではいられなくなった。ラゴージンは疑惑と恐ろしい不安を覚えて公爵とプチーツィンにかわるがわる眸《ひとみ》を移した。ダーリヤ・アレクセーヴナは針の上に坐っているような期待に悩まされていた。レーベジェフさえたまらなくなって、隅のほうから出て来て、プチーツィンの肩越しに、腰を折り曲げて今にもなぐりつけられはしないかと、びくびくしたような格好をして手紙をのぞきこんだ。
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十六
「本物です」手紙をたたんで公爵に渡しながらプチーツィンはついにこう言った。「あなたは伯母さんの確かな遺言によって、なんらの心配もなく、莫大な遺産を譲りうけられることになっています」
「そんなことがあるものか!」と将軍はまるで発砲でもするように叫んだ。
人々は再び唖然《あぜん》としてしまった。
プチーツィンは主としてイワン・フョードロヴィッチに向かって次のことを説明した。公爵が今まで会ったこともない伯母が五か月前に亡くなった。この伯母というのは公爵の母の肉親の姉で、破産して貧困のうちに亡くなったモスクワの三等組合の商人パプーシチンの娘であった。これまた最近亡くなったこのパプーシチンの兄は人には知られていないが富裕な商人であった。この富裕な商人パプーシチンには二人の男の子があったが、一年ほど前に、ほとんど同じ月に相次いで世を去り、老人は非常に力を落とし、しばらくたってから自分も病気になって死んでしまった。妻君のいなかったこの老人は、公爵の伯母以外には誰も相続人がなかった。しかしこのパプーシチンの血につながる姪はきわめて貧しい女で、他人の家にやっかいになっていた、そして遺産を譲りうけたころには水腫のため今にも死にそうな状態にあった。けれどさっそくサラズキンに依頼して公爵のゆくえを捜し始めて遺言状を作ったのであった。そしてどうも様子から察すると公爵も、公爵がスイスで世話になっていた医師も正式の報告を待ったり、照会したりすることをよして公爵自身がサラズキンの手紙を携えて出発することに決めたもののごとくである……。
「しかしあなたにこれだけは申しておくことができます」とプチーツィンは公爵に向かって、こう言ってことばを結んだ。「この事件は争う余地のない正確なことであります、また、サラズキンがこの一件を法律的に異論の余地ないものとあなたに報告している以上あなたのポケットに現金がはいっているものと考えても間違いありません。お祝い申し上げます、公爵! おそらくあなたもまた百五十万、もしくはそれ以上の金が手にはいるでしょう。パプーシチンはなかなか富裕な商人でしたものね」
「これは、これは、一門の最後の人ムィシキン公爵!」とフェルデシチェンコはわめき始めた。
「万歳!」とレーベジェフが酔っ払っただみ声をあげた。
「ところが私はさっきこの貧乏人さんに二十五ルーブル貸したんですよ。は、は、は! これはまるでもう幻燈みたいだ!」驚きのあまり呆然とした将軍はこう言った。「いや、おめでたいことだ、おめでたいこっちゃ!」こう言って将軍は席から立ち上がって公爵を抱くために彼のほうに近づいて行った。それに続いて、二、三人立ち上がって同じように公爵の傍によって行った。張《とばり》のうしろにかくれていた者までが客間に姿をあらわした。騒々しい話し声や叫び声や、シャンパンを呼ぶ声さえ起こった。すべてのものがからだをぶっつけたり、ざわめいたりしだし、しばしの間、人々はナスターシャ・フィリッポヴナを、しかも、またいずれにしろ彼女がこの夜会の主人であるということをほとんど忘れかけていた。しかししばらくたつうち、一同はほとんど一斉に、ほんの今、公爵が彼女に結婚の申し込みをしたのを思い出した。すると、事件は前より三倍もひどく狂気じみた異様なものになってきた。深い驚きに襲われたトーツキイは肩をすくめていた。席にじっとついているのはほとんど彼一人で、他の者たちはテーブルの周囲にひしめき合っていた。
ナスターシャ・フィリッポヴナの気がふれたのはこの時からだと後になって人々は主張した。彼女はやはり腰をおろしたまま、しばらくのあいだ何ごとが起こったかわからないので一心になってそれを知ろうとしているようになんだか奇妙に笑い、驚いたような眼つきをして人々を眺め回していた。やがて彼女は不意に公爵のほうを向いて、はげしく眉をしかめてじっと視線を凝らして彼を眺めた。しかしそれもただ一瞬のことであった。おそらく彼女には突然、この場の出来事のすべてが冗談か嘲弄と思われたのであろう。しかし公爵の表情から彼女はすぐにいっさいを了解したのである。彼女はちょっと考え込んだがすぐにほほえみを浮かべた。しかしなんで笑ったのやら自分でもわからないような様子であった……
「じゃ、もう公爵夫人だ!」と彼女は嘲笑するようにひとり言を言った、そして、ふとダーリヤ・アレクセーヴナが眼に入ると、急に笑いだした。「思いがけない大詰だわ……わたし……こんなことになろうと思いがけもしなかった……いったいどうなすったの、皆さん、突っ立ったりなんかして。お願いですから席についてください、公爵夫人にお祝いを言ってくださいな! 誰だかシャンパンを呼んでいらしたわねえ。フェルデシチェンコ、行って、そう言ってちょうだい。カーチヤ、パーシヤ」彼女は突然、戸の傍にいた小間使を眼にとめた。「こっちへいらっしゃい、わたしお嫁さんに行くの、聞いた? 公爵のところへ、あの人は百五十万のお金持なの。あのかたがムィシキン公爵で、私を引き取ってくださるって!」
「それに限るわ、あんた、今が潮時だわ! これを逃がしちゃならないわ!」この出来事にひどく心を乱されたダーリヤ・アレクセーヴナはこう叫んだ。
「さあ、あたしの傍にすわってちょうだい、公爵」とナスターシャ・フィリッポヴナはことばを続けて言った。「あ、そうなの、さあお酒が来ました、お祝いしてちょうだい、みなさん!」
「万歳!」と多くの者が叫んだ。多くの人たちが酒のほうにつめよせた、その中にはラゴージン一党のものがほとんどすべてはいっていた。しかし彼らは叫び声をあげたり、また叫び声をあげようとしている奇体な状態の中にありながらも、その多くの者はこの場の情景が一変したのを感じた。ある者たちは困惑して疑わしげにじっと成り行きを見ていた。だが多くの者たちはこんなことは至極、ありふれたことで、公爵などという人はたびたび、結婚したり、ジプシィの女を天幕の中から引き取ったりするのは珍しいことではないとお互いにささやき合っていた。ラゴージン自身はたたずんだまま、疑わしげな硬ばったほほえみに顔をゆがめて眺め入っていた。
「ねえ公爵、しっかりしなさい!」将軍は脇のほうから近づいて公爵の袖を引き、恐ろしそうな様子でこうささやいた。
ナスターシャ・フィリッポヴナはそれを見て、かん高い声で笑いだした。
「いいえ、将軍! わたしはもう公爵夫人よ、わかって、公爵はわたしに恥なんかかかしはなさらないわ! アファナシイ・イワーノヴィッチ、あなたこそわたしを祝ってくださらなくちゃ。わたし今じゃもうどこに行ったってあなたの奥様と肩を並べて坐れますわ。いかがです、こんな夫をもつのは得じゃございませんか? 百五十万ルーブル、それに公爵、そのうえ、おまけに白痴だそうですから、これに越したものはありませんわ! 今こそ本当の生活が始まるんです! ラゴージン、遅かったわね! その包みをおしまいなさい、わたしは公爵と結婚して、おまえさんよりずっとお金持になるんだわ!」
ラゴージンは事の真相を理解した。なんとも名づけがたい苦痛がその顔にあらわれた。彼は両手をたたき合わせて、胸の底から出るようなうめき声をもらした。
「行っちまえ!」と彼は公爵に叫びかけた。
周囲の者がどっと笑い声を投げかけた。
「行っちまうのはおまえさんだよ」とダーリヤ・アレクセーヴナは、すかさずこう言った。「とんでもない、お金をテーブルの上に放り出して、まるで百姓みたいだ! 公爵は奥様として引き取りなさるんだが、おまえさんは乱暴しに来たんだ!」
「おれだって引き取る! すぐに引き取る、すぐだ! 皆くれてやる……」
「なんですって、酒場から飛び出して来た酔っ払いめ、おまえさんなんか追ん出さなくっちゃ!」ダーリヤ・アレクセーヴナは憤然としてこうくり返した。
笑い声はひとしお高まった。
「あれを聞いて、公爵」とナスターシャ・フィリッポヴナは公爵のほうを向いてこう言った。
「そら、あの百姓が、あんたの花嫁さんに値をつけていますよ」
「あの人は酔っ払っているんです」と公爵は言った。
「あの人はあなたをたいへん愛しています」
「あんたあとで恥ずかしくなくって? あんたの花嫁がラゴージンと、すんでのことに駆落ちしようとしていたってのに」
「それはあなたが熱に浮かされていたからです。今でも熱に浮かされています。まるでうわごとを言っているようです」
「だけど後になって、おまえの細君はトーツキイの妾だったって言われてもはずかしくはないの」
「いいえ、はずかしくなんかありません……あなた、自分の意志でトーツキイさんの所にいたんじゃありませんから」
「じゃけっして責めませんね?」
「責めません」
「だって、いいの、一生涯の保証はいたしませんよ!」
「ナスターシャ・フィリッポヴナさん」とあわれむように低い声で公爵は言った。「僕は、あなたの承諾を光栄と思います、あなたが僕に光栄を与えてくださるんで、僕があなたに与えるんじゃないって、さっきあなたに言いました。ところがあなたはこのことばを冷笑なすった。周囲の人たちもまた笑ったようでした。おそらく僕の言い方が滑稽だったのかもしれません。それに僕自身も滑稽かもしれません。しかしどうしても僕は光栄がどこに存するか知っているような気がしますし、また、僕の言ったことが本当だと確信しています。あなたは今わざわざ自分の身を滅ぼそうとなさいました。しかしそんなことをしたら取り返しがつきません、なぜって、あなたは後になって、そんなことをした自分をけっして許すことができなくなるからです。しかしあなたに少しも悪いところがあるわけじゃありません。あなたの一生がすっかりだいなしになったなんて、そんなことは断じてありません。ラゴージンがあなたのところに来たことや、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチがあなたをだまそうとしたことがいったいなんでありましょう? あなたはなんだってしょっちゅうそんなことを言っているんです? あなたのなすったことは誰でも彼でもできることじゃありません。僕はこのことをくり返して言っときます。あなたがラゴージンといっしょに行ってしまおうとなされたことは、あなたの病的な発作のせいです。あなたは今もなお発作に襲われている。ですからあなたはここにいるよりか寝床にはいったほうがいいんです。あなたは明日にも洗濯女になられるかもしれません、しかしラゴージンといっしょにいることはできやしません。ナスターシャ・フィリッポヴナさん、あなたは矜恃《きょうじ》をもっていられる。しかしあなたはたぶん不幸のあまり実際に自分が悪いと思っていらっしゃるんでしょう。ナスターシャ・フィリッポヴナさん、あなたには親切にめんどう見てあげる人間が入用なのです。僕がめんどうを見ます。僕は先ほど、あなたの写真を見て、まるで僕の親しい人の顔に出会ったような気がしました。僕はその時すぐにあなたが僕を呼んでいられるような気がしました。……僕は……僕は一生あなたを尊敬します、ナスターシャ・フィリッポヴナさん」自分がどんな人たちの前で話しているかに気がつくと赤くなって、急にわれに返ったように公爵はぴたりと口をつぐんだ。
プチーツィンは気はずかしさのあまり頭を垂れ、下の方を眺めていたほどであった。トーツキイは胸の中で「白痴《ばか》だ、しかし、お追従《ついしょう》が何よりききめがあることは知っているわ、生まれつきだろう!」と考えた。公爵は部屋の一隅から彼を焼きつくすように見ているガーニャの輝く眼に気づいた。
「まあ、なんてやさしい人でしょう!」とすっかり感激してしまったダーリヤ・アレクセーヴナは声をあげた。
「教育はあるが、しかし救われない男だ!」と将軍は小声でつぶやいた。
トーツキイは帽子を手にして、そっと気づかれないように、この場を立ち去ろうと席を立つ心構えをしていた。彼はいっしょに出て行こうと将軍に目くばせをした。
「ありがとう、公爵、今日まで誰一人わたしにそう言ってくれる者はいなかったのよ」とナスターシャ・フィリッポヴナは言った。「誰も彼もわたしを売り買いしていたの、誰も、まともな人からわたし、お嫁の世話をしてもらったことはないわ。お聞きになって、アファナシイ・イワーノヴィッチ? 公爵のおっしゃったことをあなたはなんと思われて? とてもぶしつけなことだと思われたでしょうね……ラゴージン! 行くのは少しお待ち。どうせおまえさんにゃ行けはしないだろうがね。もしかしたらおまえさんといっしょに行くかもしれないわ。おまえさんどこへ連れて行くつもり?」
「エカテリンゴフです」とレーベジェフが片隅から声をあげた。ラゴージンは自分が信じられないように、身震いしただけで、眼を大きく見開いたまま眺めていた。彼はまるで恐るべき一撃を頭上にくらったようにすっかり知覚を失ってしまった。
「まあ、おまえさん、どうしたの、おまえさんどうしたの、あんた! ほんとに発作が起こったんじゃないの、気でも狂ったんじゃないの?」と仰天したダーリヤ・アレクセーヴナは叫んだ。
「まあ、あんた本気にしていたの?」かん高い笑い声をあげてナスターシャ・フィリッポヴナは長椅子から飛び上がった。「こんな赤ん坊をいじめるなんて? これはアファナシイ・イワーノヴィッチにはお似合いの仕事だわ、あの人は赤ん坊がとても好きなんだもの! ラゴージン、行きましょう! その包みを始末なさい! おまえさんが結婚する気だってかまやしないわ。だけど、とにかくお金はもらっとくわよ。もしかするとわたし、まだおまえさんといっしょにならないかもしれないんだから。おまえさんは自分が結婚したいと思ったら、包みは手もとに残るとでも考えていたの? とんでもない! わたしって人間は恥知らずですからね! わたしはトーツキイの妾だったんですからね……公爵! あんたにはナスターシャ・フィリッポヴナでなくて、アグラーヤ・エパンチンが必要なんですわ、でないと、そら……フェルデシチェンコに後ろ指をさされますわ! あんた、少しも恐れないけれど、わたしはあんたをすたれ者にしてあとで責められるのがこわいの! あんたは、わたしがあんたに光栄を与えるって言うけれど、そのことはトーツキイがよく知っていますわ。ガーネチカ、あんたはアグラーヤ・エパンチンを見そこなったわ。あんた、それを知っているの? あんたが商売気を出さなければ、あのひとは、きっとあんたといっしょになったのに! あんたはなんだってそんな風なのよ。浮わ気な女だろうと、まじめな女だろうと、女を相手にするからにゃ、一本気で行かなければだめだわよ! それでなければきっと迷っちまうわ……あら、将軍たら、口をぽかんとあけて……」
「こりゃソドムだ、ソドムだ!」将軍は両肩をゆすりあげて、こうくり返した。彼も長椅子から立ち上がった。一同の人々はいつの間にか再び立ち上がっていた。ナスターシャ・フィリッポヴナはわれを忘れているようであった。
「本当ですか!」と公爵は砕けよとばかり両手を握りしめてうめくように言った。
「こういうことにはならないと思ったの? わたしたぶん傲慢な女よ、言わなくたって恥知らずよ! あんたは先ほどわたしのことを完成されたものって言ったわね。意固地から、百万ルーブルと公爵の爵位を踏みにじって、洞穴《どうけつ》の中にはいって行くほど御立派な完成だわ! さ、こんなことじゃ、どうしてあんたの奥さんになれましょう? アファナシイ・イワーノヴィッチさん、わたしはこれで本当に百万ルーブルを窓から投げ捨てましたわ! わたしがガーネチカと、いえ、あなたの七万五千ルーブルと結婚するのを幸福と思うなんて、あなたはよくもそんなことが考えられましたわね? アファナシイ・イワーノヴィッチさん、七万五千ルーブルはお引きなすってちょうだい(十万ルーブルとまではいかなかったわね、ラゴージンのほうが気前がよかったんだわね)。それから、ガーネチカはわたしが自分で慰めてあげるわ、わたしに考えがあるの。あ、ところでわたしぶらぶら歩きたくなったわ。わたしゃ街の女だからねえ! わたしは十年の間、牢屋にはいっていたんだわ、今はじめて不幸にめぐりあえるんだ! おまえさんいったいどうしたの、ラゴージン? 用意なさい、出かけますわ!」
「行こう!」嬉しさのあまり、われを忘れんばかりになってラゴージンはわめくように言った。
「おいおまえたち……一同……酒だぞ! うふ!」
「お酒を準備しといてね、わたし飲むわ。それに音楽はあるの?」
「ああ、ある! 近よっちゃいかん!」とラゴージンはダーリヤ・アレクセーヴナがナスターシャ・フィリッポヴナのほうに近よって来るのを見ると、夢中になってわめき始めた。「おれのもんだ! おれの生命だ! 女王様だ! 万歳!」
彼は喜びのあまり、息をきらしていた。ナスターシャ・フィリッポヴナのまわりを回りながら人々に向かって、「近よっちゃいけない!」と叫んだ。ラゴージン一党の連中はもうすっかり無遠慮になって、客間に集まっていた。ある者は飲み、またある者はわめいたり大声に笑ったりして、すっかり興奮し破目をはずしていた。フェルデシチェンコは彼らの仲間にはいろうとしてくふうを凝らし始めた。ガーニャもまた帽子を手にしていたが、眼前に展開する光景からどうしても眼を放すことができないような様子で、黙々としてたたずんでいた。
「近よっちゃいけないぞ」とラゴージンはわめいていた。
「いったいおまえさんは何をほえているんです!」とナスターシャ・フィリッポヴナはラゴージンにかん高い笑い声を浴びせた。「わたしはまだここの主人だからね、しようと思えば、おまえさんを突き出すことができるんだよ。わたしまだおまえさんから金を受け取ってはいないんだよ。そら、あすこにころがってるわ。取ってちょうだい、包みごとみんな! この包みの中に十万ルーブルはいっているのね。ふむ、なんて、きたならしい! ダーリヤ・アレクセーヴナ、あんたどうしたの? じゃ、わたしがこの人をすたれ者にしなきゃいけないの?(彼女は公爵を指さした)。この人は自分に乳母さんがいるのに、どうして結婚するの? そら、将軍がこの人の乳母さんになられるわ、さあ、あすこであの人をなだめているわ、ごらんなさい、公爵、あんたの花嫁さんはお金を取ったわ、うわ気女だものだから。それなのにあんたはこんな女を奥様になさろうとされたのねえ! あら、なんだって泣いたりなんかなさるの? 悲しいとでもおっしゃるの? わたしみたいにお笑いなさいな(語り続けている、ナスターシャ・フィリッポヴナの頬にも大きな涙のしずくが光っていた)。時をお信じなさい――時がすべてを忘れさせてくれますわ! 後になってよりも今、あきらめておくほうがいいのよ……まあ、みんな、なんだって泣くのでしょう――あら、カーチヤまで泣いているのね! ねえ、カーチヤどうして泣くの? わたしおまえとパーシヤにどっさりいいものを置いて行くからね、もうちゃんと言いつけてあるのよ、だけど今はお別れね! おまえのようないい娘に、こんなわがままなじだらく女のめんどうをずいぶん見させたわね……このほうがいいのよ、公爵、ほんとにいいのよ、後になって私を軽蔑しだしたら、もう、あんたは幸福にはなれないのよ! 誓うのはおよしなさい、わたし本当にしやしないから! それにとてもばかげたことになるわよ! ……いいえ、いっそ気持よく別れましょう、でないとわたしも空想家だから、とんだことになるわ! そりゃわたしだってよくあんたのことを空想したわ。それはあんたの言うとおりなのよ、あの男の世話になって田舎にいたころ、五年の間、たった一人で、一人ぽっちで暮らしていたころ、よく空想したわ。考えに考え、いろいろの空想を追うことがあるでしょう、するとね、あんたのように善良で正直でやさしく、それにやっぱり少しばかみたいな人を想像するの、するとそんな人がやって来て『ナスターシャ・フィリッポヴナ、あなたに悪いところはないんです、僕はあなたを尊敬します』と言うのよ。そして、そんな空想をすると、わたしたまらなくなって気ちがいになりそうな気がしたのよ……すると、そんなところへあの男がやって来て、年にふた月ずつくらい泊って、きたならしい、はずかしい人を侮辱した淫《みだ》らなことをして、そのまま帰ってしまうの――わたし幾度も幾度も池へ身を投げて死んでしまおうかと思ったけれど、卑怯なために思いきれなかったのよ。さあ、もう……ラゴージン、用意はできたの」
「できた! 近よっちゃいけない!」
「用意はできているぞ」と幾人かのこう言う声が聞こえてきた。
「鈴をつけたトロイカが待っている」
ナスターシャ・フィリッポヴナは包みを手に取った。
「ガーニャ、私に思いついたことがあるのよ。おまえさんにお礼をしたいと思うの、なんにもかにもなくしてしまうのは可哀そうだから。ラゴージン、この人は三ルーブルほしさにワシーリェフスキイまではいつくばって行くんだわね?」
「はってゆくんさ」
「じゃ、いいかね、ガーニャ、お別れにおまえさんの性格を見たいと思うの。おまえさんは三か月の間というものわたしを苦しめたので、今度はわたしの番だわ。この包みをごらん。この中には十万ルーブルはいっているんですよ。いいの、わたし今この包みをこのまま煖炉の火の中に放りこみます。みなさんが証人です! この包みの全体に火が回ったらすぐ、袖をまくし上げといて素手で火の中からこの包みを引き上げなさい。引き上げたら、おまえさんのもの、十万ルーブル全部おまえさんのもの! 少しくらい、指に火傷はしましょう? ――だって十万ルーブルですもの、よく考えてごらん! つかみ出すのはほんのちょっとの間だわ! おまえさんがわたしのお金を取りに火の中に手を突っこむ様子が見たいの、おまえさんの性根を見たいの。みなさんが証人ですから包みはおまえさんのものになるわ! 手を突っ込まなければ、そのまま燃えてしまうんだわ。他の人は誰もゆるしません。脇へどいて! みなさん脇へどいてください! わたしの金だもの! わたしが一晩でラゴージンからとったお金だもの、わたしのお金じゃないかね、ラゴージン?」
「おまえさんのだ、私の女神! おまえさんのだ、女王様!」
「じゃ、みんな脇へどいてください! わたしは好きなようにするんだ! 邪魔しないでちょうだい! フェルデシチェンコ、火をよくしてください!」
「ナスターシャ・フィリッポヴナさん、手が動かないんです!」茫然としていたフェルデシチェンコはこう答えた。
「ええい!」とナスターシャ・フィリッポヴナは叫んで、炉鏝《ろごて》を取ってくすぶっていた二本の薪を掻きおこし、火が燃えだすやいなや、その上に包みを放りこんだ。
四方から叫び声が起こった。多くのものは十字を切りさえした。
「気が狂ったんだ! 気が狂ったんだ!」周囲に叫び声が起こった。
「し……し……しばらなくとも、いいのか、あの女を?」と将軍がプチーツィンにささやいた。「送らなくともいいのかね……気が狂っているじゃないか、気が狂っているじゃないか? 狂ってる?」
「いや、これは本物の気ちがいじゃないかもしれません」ハンカチのように蒼白となり、ぶるぶるぶる震えていたプチーツィンは、少しずつ火の回ってゆく包みを一心に見つめながら将軍にこうささやいた。
「気ちがいだね! 気ちがいに相違ないね?」と同意を求めるように将軍はトーツキイにこう言った。
「多彩な女だって言っといたじゃありませんか」と同じようにいくぶん顔色の青ざめたアファナシイ・イワーノヴィッチがつぶやいた。
「だが、それにしても十万ルーブルですよ」
「恐ろしいことだ、恐ろしいことだ!」とあたりにこんな声が聞こえた。一同は煖炉の周囲に群がり集まり、押し合いながら眺めていたが、みな一様に叫び声をあげた……頭越しに見ようと椅子に飛び上がるものもあった。ダーリヤ・アレクセーヴナは隣りの部屋に駆けこんで、カーチヤやパーシヤと何やら恐ろしそうにささやき合っていた。ドイツ美人は逃げ出してしまった。
「奥様! 女王様! 万能の女神様!」とレーベジェフはナスターシャ・フィリッポヴナの前にひざまずいて、煖炉の方に両手を広げ泣きたくなるような声で言った。「十万ルーブル! 十万ルーブル! 私がこの眼で見ました、私が包んだんです! 奥様! お情け深い奥様、煖炉に手を突きこむように言いつけてください! このからだではい込みます! この白髪頭をすっかり火の中につきこみます! 足のない病身の女房に、十三人の餓鬼がおります、みんなみなし児でございます、父親を先週、葬りましたんです。空腹をかかえて家に待っとるんでございます。ナスターシャ・フィリッポヴナさん!」こうわめきながら、煖炉の中にはいずり込もうとした。
「おどき!」ナスターシャ・フィリッポヴナはこう叫んで彼を突き飛ばした。「みんな道をあけてください! ガーニャ、あんた、なんだってそこに立っているの? はずかしがることはありません! 突きこみなさい! あんたの幸運なのよ!」
しかし、ガーニャはこの日一日、昼間といいこの夜といい、あまりにも数々の苦悶を堪えてきたのではあったが、思いがけない最後のこの試練に対する覚悟はついていなかった。群集が二人の間に両方に道をあけたのでガーニャは三歩の間隔をおいて、ナスターシャ・フィリッポヴナと顔をつきあわせて立つことになった。彼女は煖炉のすぐ傍に立ったまま、燃えるような凝視を続けて待ちうけていた。ガーニャは燕尾服を着て手には帽子と手袋を持ち、両手を組み、火の方を眺めて答えもせず、無言のまま彼女の前に立っていた。狂人のようなほほえみがハンカチのように蒼白な彼の顔に浮かんだ。事実、彼は自分の眼を炎から、火がだんだんまわってゆく包みから離すことができなかった。しかし心の中に新しい何ものかが湧き起こったように見うけられた。彼の様子はこの試練を堪え通そうと誓っているもののようであった。彼はその場に立ったまま動こうとはしなかった。しばらくの間が過ぎる、その時になって人々ははじめて、彼が包みをとりには行かないし、行こうとも望んでいないことを、はっきりと悟ったのである。
「ええい、焼けてしまうじゃないの、人が笑うわよ」ナスターシャ・フィリッポヴナが彼に叫びかけた。「後になって首をくくるわよ、冗談じゃないことよ!」
最初二本の薪の間から勢いよく燃え上がった炎は、包みがその上に落ちかかって蓋をしたとき、しばらく消え入りそうであった。しかし小さい青い炎が下から一本、一本の薪に燃えついた。ついに、細長い炎の舌は包みをもなめ、さらに包みの縁を紙を伝って上のほうへと伝わって行った、と突然、包み全体が煖炉の中で勢いよく燃え立ち、あざやかな炎が上へ向かって立ち始めた。一同はあっとばかり驚愕の声をあげた。
「奥様!」とレーベジェフがまだ相変わらず泣き声を出して前へ出ようとするのを、ラゴージンが引き戻してまたもや突き飛ばした。
そのラゴージンのからだ全体は一つの微動だもしない凝視と化してしまった。彼はナスターシャ・フィリッポヴナから眼を離すことができなかった。彼はわれを忘れていた。彼は有頂天になっていた。
「これこそすばらしき女王様だ!」彼は周囲にいるものを誰れ彼のけじめなく振り向いて、ひっきりなくこうくり返すのであった。「これこそおれたちの手並みなんだ!」と彼は夢中になって叫ぶのであった。「やい、おまえら、こそ泥のどいつにこんなすばらしい離れわざができるかい――ええ?」
公爵は無言のまま愁わしげに眺めていた。
「僕はただ千ルーブルだけでも歯でくわえ出すぞ!」とフェルデシチェンコが言いかけた。
「歯でくわえ出すことくらい僕だってできる!」と言って強い絶望の発作におそわれて鉄拳氏は人々の後方から歯ぎしりをした。「畜生! 焼けやがる、みんな焼けやがる!」彼は炎を見て叫んだ。
「焼ける、焼ける!」一同はみな同じように暖炉のほうへからだを突き出して異口同音に叫んだ。
「ガーニャ、気取るのはおよし! わたしはもう言わないよ!」
「取れ!」フェルデシチェンコはわれを忘れてガーニャにとびかかり、その袖をひっつかんでうなり声をあげた。「取れ、この意地っぱりめ! 焼けてしまうじゃないか! おお、ち、ち、畜生!」
ガーニャは力一杯、フェルデシチェンコを突き飛ばして、そのまま踵をめぐらして戸口のほうに歩き出した。しかし、二歩と進まぬうちに、よろめいて床の上にぱったり倒れた。「気絶した!」という叫びが四方から起こった
「奥様、焼けてしまいます!」とレーベジェフが泣き声をあげた。
「むだに焼けてしまうんだ!」
「カーチヤ、パーシヤ、あのひとに水とアルコールを!」ナスターシャは声高く言いつけておいて炉鏝を手にして包みを取り出した。
包み紙はほとんど全部焼けていたが、中味には何の障りもないことがすぐわかった。紙幣は新聞紙で三重に包んであったので、少しのきずもなかった、それで人々はやっと安堵の胸をなでおろしたのである。
「ほんの千ルーブルくらいは、ひょっとしたら少しはきずがついたかもしれないが、あとはみな安全だ!」とレーベジェフは歓喜の声をあげた。
「これはみんなあの人のもの! 包みごとみんなあの人のもの! お聞きなさい、皆さん!」ナスターシャ・フィリッポヴナは包みをガーニャの傍に置いて宣言した。「ついに取りに行かなかった、我慢し通した! つまり自尊心が金に対する欲望より強かったのだわ。なに、大丈夫です、今に息を吹き返します! こんなことにならなければたぶんわたしを切りつけたでしょう……そら、もうどうやら気がついてきた。イワン・フョードロヴィッチさん、ダーリヤ・アレクセーヴナさん、カーチヤ、パーシヤ、ラゴージン、よございますか? あの人のものですよ、ガーニャのものですよ。わたしあの人に完全な所有権を御褒美として上げます……え、あの人のものとなった以上はどうなろうとかまいません! あの人にそう言ってちょうだい。そこに、あの人の傍に置いといてください……ラゴージン、進め! さよなら、公爵、この世ではじめて人間に会いましたわ! さよなら、アファナシイ・イワーノヴィッチさん、merci!」
ラゴージンの一党はがやがやと口々にしゃべったり叫声をあげたり、がたがたと物音をさせてラゴージンとナスターシャ・フィリッポヴナに続いて部屋を通り抜けて出口へ駆け出した。広間では小間使たちがナスターシャに毛皮外套を渡した。台所女中のムルファは台所から駆けつけてきた。ナスターシャは一同をかわるがわる接吻した。
「まあ奥様、あなた、わたしたちみんなを見すてて行っておしまいになるんでございますの? それもお誕生日という、こんなおめでたい日に!」と泣きぬれた小間使たちは、彼女の手を接吻しながら、尋ねるのであった。
「街へ行きます、カーチヤ、おまえ、聞いたろう、街がわたしの住む所なの、それでなければ洗濯女になります、アファナシイ・イワーノヴィッチといっしょにいるのはもうたくさんだわ! あのひとによろしく言っておくれ、それにわたしのことは悪く言わないでちょうだいね……」
公爵は一散に玄関口へ駆け出した。そこでは一同のものが鈴のついた四台のトロイカに分乗していた。将軍は階段の上で公爵に追いついた。
「冗談じゃない、公爵、しっかりするんだよ!」彼は公爵の一方の手を握ってこう言った。
「すてっちまうさ! あんな女じゃないか! 君の父親として言うが……」
公爵は彼の顔をちょっと見たが、一言も言わず振りきって下へ駆けおりた。
今し方、トロイカが滑り去ったばかりの玄関口に立ち現われた将軍は、公爵が最初に通りかかった辻馬車をつかまえて、「エカテリンゴフまで、いま行ったトロイカの跡を追うのだ」と御者に叫んでいる公爵の姿をじっとながめていた。しばらくして、将軍の灰色の駿馬が走り出して、新しい期待と策謀と、とにかく取って来ることを忘れなかった先ほどの真珠をのせて将軍を自宅へと運んで行った。そのさまざまな策謀に考えふける将軍の眼の前を、ナスターシャ・フィリッポヴナの魅惑にあふれた姿がちらりと二度ばかりかすめて通った。将軍は吐息をついた。
「惜しいことだ! なんと言っても惜しいことだ! だが所詮は滅びる女だ! 気の狂った女だ! ふむ、今となってはナスターシャ・フィリッポヴナは公爵には必要ではない……だからこういうぐあいに局面転回したことはかえっていいことだ」
これに似た教訓的な門出のことばが、しばしの間、徒歩で立ち去ることに相談のまとまったナスターシャ・フィリッポヴナの客の二人の間に交わされた。
「ねえアファナシイ・イワーノヴィッチさん、これと同じような話が日本人の間によくあるそうですよ」とイワン・イワーノヴィッチ・プチーツィンが言った。「日本では恥辱をうけた者は侮辱を加えた相手のところへ行って『おまえはおれに恥辱を加えた、その報いとしておれはおまえの面前において腹を切る』って言うそうですよ。そしてね、このことばと共に本当に恥辱を加えた相手の面前で腹切りをやるんですって、そしてこれだけのことで実際に仇を討ったような強い満足を感ずるらしいんですよ。世の中には奇妙な性質があるもんですね、アファナシイ・イワーノヴィッチさん!」
「じゃ、この事件の中にもそれに似たところがあったとお考えですね」とアファナシイ・イワーノヴィッチは答えた。「だけどあなたは皮肉な……変わった比較を提出されましたね……まあ、イワン・ペトローヴィッチさん、私ができるだけのことはしたことをあなたも認めてくださいますね! 僕にしたって力以上のことはできませんからね。だが、あの女はなかなかすぐれた点……つまり、輝かしい特徴を持っていることも一つお認め願いたいものですよ。僕があのソドムの連中の中にはいって行く気になったなら、あの時私もあの女に声をかけたかもしれません。あの女が私に注ぎかけたさまざまな非難に対する最もいい弁明はあの女自身なのですからね。あの女にかかっては誰だってときには理性の力も……何もかもすべてを失うほどあの女にうつつをぬかしますよ。ごらんなさい。あの百姓男のラゴージンが苦しい工面をして十万ルーブルという大金を持って来たじゃありませんか。また、仮りにですね、今さっきあすこで起こったいっさいの事が、今日一日のはかないロマンチックな、無作法なものであるとしても、その代わり色彩的です。その代わり独創的です。ね、そうでしょう。あれだけのすぐれた性格と、あれほどの美貌があれば、どんなことでもできますよ、あ、実に惜しいものです。あの女にはずいぶん力を尽くしました、教育も施しました、しかしこれも今となっては水の泡になってしまいました。磨かれないダイヤモンド――私は幾度かこの嘆きを漏らしたことでしょう……」
こう言ってアファナシイ・イワーノヴィッチ・トーツキイは大きな吐息をついた。
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第二編
この物語の第一篇の終わりとなっているナスターシャ・フィリッポヴナの夜会での奇妙な出来事ののち二日ばかりたって、ムィシキン公爵は、思いもかけなかった遺産を譲りうけるために、あわただしくモスクワへ出発した。公爵のこうしたあわただしい出発には、必ず他に何か子細があるに相違ないというのが、そのころに広まった噂であった。しかし、このことについては、ペテルブルグを離れてモスクワに滞在中の公爵の動静と同じように、あまり詳しい消息を伝えるわけにはいかない。公爵は丸六か月の間というもの、ペテルブルグを離れていたのであったが、その間に起こったことは、公爵の運命に当然、なんらかの興味をいだかなければならない理由《いわれ》のある人々でさえも、ほんの少ししか知らなかった。
もっとも、何かしらちょっとした噂を時おり耳にしないわけではなかったが、この噂にしたところで、大部分は奇妙なもので、ともすれば互いに矛盾を来たすものであった。誰よりも公爵に興味をいだいていたのは、エパンチン家の人々であったことは、もとより当然のことであるが、その人々のところへ、出発に際して公爵はいとまごいを言いにゆくことさえもできなかった。とはいえ、エパンチン自身は、そのとき二度三度と公爵に会い、ある重要な事柄について公爵と打ちあわせはしたのであるが、家族の者には、このことをおくびにも出さなかった。それというのも、公爵が出発してから、かれこれ一か月の間、エパンチン家では彼の話をしなかったからである。
ただひとり将軍夫人、リザヴィータ・プロコフィーヴナだけは、いちばん最初に『わたしは公爵に向かって、ずいぶんひどい思い違いをしていた』と、自分の胸中を打ち明けるのであった。しかし、それから二、三日たつと、もはや公爵とはっきり名を指さずに、誰ということもなく『わたしの一生のうちで最もいちじるしい特徴といえば、性懲りもなく人を見あやまってばかりいることだ』と言ったが、十日ほどたってから、とうとう癇癪《かんしゃく》を起こして、娘たちに当たり散らし、『間違いはもうたくさんだ! 今後そんな間違いをしてはいけない』と、判決めいた口調で結論した。
かなり前から、この一家に、そこはかとない不快な気分が漂っていることを、今は気づかないわけにはゆかなかった。なんということもない重苦しい、神経をいらいらさせる、そうかといって思う存分に出しえない、争いの基《もと》になりそうなあるものがわだかまっていて、誰も彼も面白くないような顔をしていた。将軍は仕事に追われて、夜も昼も忙しげであった。彼がこのように忙しそうにして、いかにも事務家らしく立ち回っているのは――ことに勤めのことで――あまり見かけないことであった。家の人でさえも、彼の姿を時たまにしか見られなかった。エパンチン家の令嬢たちはというと、もちろん、この人たちの口から、はっきりとしたことはなんにも聞けなかった。おそらく、この人たちだけの時にさえも口数は少なすぎるくらいであったろう。この令嬢たちは傲慢《ごうまん》なほどプライドの強い人々であったから、どうかするとお互いの間でさえも打ちとけないようなところがあった。もっとも、最初のひと言はおろか、最初のひと眼で、お互いの心の奥底までも理解し合うほどの仲であったから、あれこれとむだな口をきかなくとも十分に事足りたのであろう。
ところで、縁もゆかりもない人が局外からこれを観察したならば、いささかなりとも、以上に述べたすべてのことを総合して、『公爵はただの一度、それもほんのちょっとの間、顔を出したにすぎなかったにもかかわらず、とにもかくにも、特殊な印象をエパンチン家の人たちに残して去った』ということだけは、断言できたであろう。おそらくはこの感銘さえも、公爵の奇矯な挙動によってひき起こされた単に好奇心であったかもしれない。しかし、それはどうあろうとも、印象を残して行ったということは明白な事実であった。
町じゅうに広がったさまざまな噂も、しだいしだいに暗々裏に葬られていった。そうした噂というのは、事実、次のようなものであった。ある愚かしい公爵が(誰も正確にその名前を知っているものはなかった)思いがけなく莫大な遺産を譲りうけて、パリの花屋敷《シャトー・ド・フレール》の有名なカンカン踊りの踊り子で、目下わが国に在留中のフランス女と結婚したといわれ、またある者は、遺産を譲りうけたのは、さる将軍で、有名なカンカン踊りの踊り子のフランス女と結婚したのはロシアのたいへんな金持の商人であり、その男が結婚の席上で酔っ払ったあげく、ちょっとした見栄のために、丸々七十万ルーブルの近ごろの富籤《とみくじ》付公債を蝋燭の火で焼いてしまったとも言っていた。こうしたいっさいの風説はたちまちの間に消えてしまったが、これは大部分は当時の状況のしからしめたところである。
たとえば、今度の出来事について、多少のことを知っている者の多くいるラゴージンの子分たちは、エカテリンゴフ駅で、ナスターシャまでがいっしょになってひき起こした恐ろしいばか騒ぎののちちょうど一週間して、ラゴージン自身を頭に立て、一同こぞってモスクワへ出発し、また、この出来事に関心を寄せていた少数の人々のうちの誰彼は、さまざまの噂によって、ナスターシャ・フィリッポヴナがエカテリンゴフでばか騒ぎがあったあくる日、逃げ出して姿を隠したことも、その後モスクワめざして彼女が出発したことも突きとめていた。だから、ラゴージンがモスクワさして出発したことは、ある点でこの風説と符合しているかのように思われた。
仲間たちの間でかなりに名声のある、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ・イヴォルギンについても、また噂が立ちそうになったが、ある事情が生じたために、彼に関するいっさいのよからぬ噂は鎮まり、しばらくたつうちに、すっかりあとかたもなくなってしまった。というのは、彼がひどい病気にかかって、社交界はいうに及ばず、勤めのほうへ出ることができなくなったからである。ひと月ほど病気が続いてから、やっと回復したとはいうものの、どうしたわけか、彼は株式会社の勤めをきっぱりと断わったので、彼の椅子には他の人が代わって坐るようになった。彼はエパンチン将軍の家には一度も姿を見せなかったので、将軍のところにも他の官吏が出入りするようになった。ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチに敵意をもっている人たちは、あいつはおのが身に起こった例の出来事のために、すっかりしょげこんで、往来へ出るのさえもはずかしいのだろうなどと、勝手な想像にふけったかもしれない。しかし、実際のところ何かに思い患って憂鬱病《ヒポコンデリイ》にさえかかって、ふさぎ込んでいたかと思うと、癇癪を立てたりするのであった。ワルワーラ・アルダリオノヴナはこの冬プチーツィンのもとにかたづいた。二人を知っている人々は、この結婚は、ガーニャが再び職務に就いて、家族の者を養おうとしなくなったばかりではなく、かえって自分が他人の助力や看護を仰がなければならないような状態に立ち至ったからであると、無遠慮なことを言っていた。
余談にわたるかもしれないが、エパンチン家では一度としてガヴリーラ・アルダリオノヴィッチのことを口にしたことはなかった。まるで、そんな人間はエパンチン家にばかりではなく、この世にもいなかったかのようであった。ところが、この家の人々はみな(しかもきわめて早く)彼に関するあるきわめて注目すべき出来事を聞き知った。というのは、彼にとっては真に運命の別れ目ともいうべきあの夜、ナスターシャ・フィリッポヴナのところで起こった不快な出来事のあとで、ガーニャは家へ帰ってからも、床にはいらずに熱病やみのように、いらいらした気持で、公爵の帰りを待っていた。エカテリンゴフへ出向いた公爵は、朝の五時過ぎに、そこから帰って来た。その時、ガーニャは公爵の部屋にはいって、その前のテーブルに半焼けの紙包みを置いた。それは彼が気絶して倒れていたとき、ナスターシャが贈った十万ルーブルの金であった。彼はこの贈り物をできるだけ早く、ナスターシャ・フィリッポヴナに返してくれるようにと、くれぐれも公爵に頼むのであった。ガーニャは部屋にはいって来た時は、敵意に満ちたほとんど自暴自棄といってもいいような気持になっていた、けれど、二人の間に二、三のことばが取り交わされてから、ガーニャは公爵の側に二時間も坐り込んで、その間、しきりに声をあげて泣いていた。別れぎわには、二人はもう友情に満ちた親しい間柄になっていたという。
エパンチン家一家の人たちの耳へはいったこの風説は、後になって全く本当だということがわかった。こうしたたぐいの風説が、このように早く人に知れわたったのは、いうまでもなく不思議なことには相違なかった。たとえばナスターシャ・フィリッポヴナのところで起こったことのいっさいが、ほとんどあくる日のうちに、それもかなりに微細にわたってエパンチン家に知られてしまったことであった。ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチに関する報告は、ワルワーラ・アルダリオノヴナの手によって、エパンチン家へ運ばれたものと考えられる。彼女はなぜかしら急にエパンチン家の令嬢たちのところへしげしげと出入りするようになり、まもなくリザヴィータ・プロコフィーヴナが驚いたほど親密な間柄になった。しかし、何かの理由でエパンチン家の人たちと、このように親しくなるのを必要と考えていたにしても、自分の兄のことはけっして口に出そうとはしなかった。自分の兄を追い出さんばかりにとり扱った家と交際はしていても、彼女とても性根のある、かなりにプライドの強い女だったからである。その以前にもエパンチン家の令嬢たちを知らないわけではなかったが、顔を合わすことはきわめてまれであった。もっとも、今でさえ彼女はつかつかと客間にはいるのではなく、何かしらこそこそと逃げこむような風をして裏口からはいって来るのであった。リザヴィータ・プロコフィーヴナは、ワルワーラ・アルダリオノヴナの母ニイナ・アレクサンドロヴナを非常に尊敬はしていたが、今まで一度としてワルワーラを招待したためしがなく、今もって少しも気にはとめていなかった。彼女は驚いたり怒ったりして、ワーリヤと交際をしている娘たちの気まぐれと我の強いせいにして、『あの子たちはもう私に逆らうだけの思案がつかなくなったものですから……』と言っていた。しかし、ワルワーラ・アルダリオノヴナは、結婚する前と同じように、結婚の後も相変わらず令嬢たちを訪問することを続けていた。
ところで、公爵が出発してから一か月ばかりたったころ、エパンチン将軍夫人は『ベラコンスカヤのお婆さん』から一通の手紙を受け取った。年老いたベラコンスカヤ公爵夫人はその二週間ほど前に、某家に嫁いだ長女をたずねて、モスクワへ行ったのであった。この手紙は将軍夫人に強い感銘を与えたかのように思われた。この手紙のことは娘たちにも、イワン・フョードロヴィッチにも何一つ知らせはしなかったが、かなりに興奮していることは、多くの点から家の人たちには察しがついていた。彼女は娘たちをつかまえて、奇妙なとっぴもないことを話すようになった。彼女は何かしら打ち明けたくてならないのを、どうしたわけか、じっとこらえている様子であった。手紙を受け取った日、彼女は娘たちをいたわって、アグラーヤとアデライーダには接吻までしてやった。娘たちに対して何か後悔しているらしかったが、いったいそれが何のためであるかは、娘たちにもよくわからなかった。まるひと月もの間、手ひどく当たり散らしていたイワン・フョードロヴィッチにまでも彼女は急に控え目な態度を見せた。しかし、それももちろん、あくる日になれば、昨日自分があまりにも感傷的であったことをことのほか腹立たしく思い、昼食の前には、さんざんみんなと口喧嘩をしたりしていた。ところが、夕方になると、また空模様がよくなった。それはともかくとして、概して、この一週間ばかりというものを、彼女はここしばらくの間は見られなかったような珍しく晴れやかな気持で過ごしたのであった。
それから一週間して、また、第二の手紙が、ベラコンスカヤ夫人から届いたが、今度はもう将軍夫人も皆に打ち明けることにした。彼女はもったいぶった様子をして、『ベラコンスカヤのお婆さん』が(彼女は公爵夫人のことを陰で話す場合には、いつもこう呼ぶのであった)『ほら……変人の、例の公爵のことでたいへん安心のできるようなことを知らせて来た』とこう言った。お婆さんはモスクワであの人を捜し出し、いろんなことを調べて、あるきわめていいことを聞き出したのである。そして最後に、公爵が自分のほうからお婆さんの所へ出かけてたいへんいい印象を与えた。このことはお婆さんが、彼に毎日一時から二時までの間に遊びに来てくれるようにと招待していることを見ても明らかなことであった。『毎日毎日、あそこへ行ってるけれど、いまだに飽かれていないのだよ』と、こう結んでから、将軍夫人はさらに公爵は『お婆さん』の紹介で立派なお邸にも二、三度出入りするようになったと付け足した、『それに、いつまでも長居することもなく、ばか者にありがちなはずかしがりもしないのは結構なことだわ』
こうした報告を聞いた令嬢たちはすぐさま、母親がこの手紙のことでまだいろいろのことを隠しているに違いないと気がついた。あるいは、令嬢たちはこのことをワルワーラ・アルダリオノヴナから聞き出していたのかもしれない。ワルワーラにしてみれば公爵のこと並びにそのモスクワ滞在中の出来事についてプチーツィンの知っているだけはすっかり知ることもできるし、またむろん、実際にも知っていたからである。しかもプチーツィンは、誰よりもいちばん詳しく知っていなければならなかったのである。それに、彼は実務的交渉では恐ろしく口かずの少ない男ではあったが、ワーリヤにはきっとこのことを知らせていたに違いないのである。将軍夫人はこれを知ると、たちまち前にもましてワルワーラ・アルダリオノヴナを嫌うようになった。
しかし、いずれにしても氷は割れてしまったのであるから、急に大声に公爵の話をすることができるようになったのである。そのうえ、公爵がエパンチン家にひき起こしたまま立ち去った、異常な印象となみなみならぬ強い好奇心とが今やひときわあざやかに本体を現わしたのである。将軍夫人はモスクワから送られた報告が娘たちに深く感銘を及ぼしたのには驚いてしまった。また一方、令嬢たちのほうでも、母親の態度には驚かされた。なぜかというに将軍夫人は、『わたしの一生のいちばん目にたつ特徴といえば、人のことで性懲りもなく思い違いばかりしていることです』などともったいらしい口をきいておきながら、そのかげにまわってはモスクワに滞在中の公爵に気をつけてくれるように『権勢家』のベラコンスカヤ婆さんに頼みこんでいたことがわかったからである。しかもこの『お婆さん』というのが、どうかするとなかなかみ輿《こし》の重い人だから、この人にこんなことを依頼するにはよほど泣きおとすようにして頼みこまなければならないのである。
さて、いよいよ氷が割れて新しい風が吹き始めると、将軍も急に打ち明けた話をしたので、この人もまた非常な興味をもって事件の成り行きを見ていたことがはじめてわかった。しかし、彼が打ち明けたところはただ『事件の実際的方面』にすぎなかった。将軍の語ったところというのは、彼は公爵のためをおもんぱかって、公爵、特にその指導者サラズキンの行動を看視するようにモスクワのある方面でなかなか羽振りのいい勢力ある二人の人に依頼したのである。それで遺産に関する噂、つまり遺産の事実に関して取りざたされたことはいっさい本当のことであるが、よくよくしらべた結果、遺産そのものは最初、やいやい言われたほど莫大なものではないということがわかったのである。その財政状態は半ば粉糾していて、負債は発見されるし、甘い汁にありつこうとするような人間も出て来るような調子だった。ところが公爵は人々がなんと忠告しようとそれにはかまわず、きわめて非実務的な態度をとったのである。『まあ、これはいいさ』と『沈黙の氷』の割れた今となっては、『衷心から』将軍はこう言って喜んだ。それも『やっこさんは少しばかりあれなんだけれど、いいところがあるから』と思っていたからなのである。
しかし、なんといっても公爵はそのときばかなことをしでかしたのである。たとえば、故人の債権者の商人が係争中のものであると言って怪しい証書を持って来るし、またある者は公爵のことを|嗅ぎ《ヽヽ》つけてまるっきり証書も持たずにやって来たのであるが、それに向かってどんな態度をとったかというと、あんな連中、あんな債権者なんて少しも権利なんかありはしないと言う友人たちの忠告に耳もかさず、ほとんどたいていの者に満足を与えてやった。しかも、それは彼らの中のある者たちが実際に苦しんでいるということがわかったから満足させてやったにすぎないのである。
将軍夫人はこのことについて、ベラコンスカヤからも似よりの手紙を受け取り、『ばか、なんてばかなんだろう、手のつけられないばかだ』ときつい調子で言い足したが、むしろこのばかな行為を喜んでいる様子が彼女の顔つきからうかがい知られるのであった。こうした夫人の様子のいっさいから、彼女が公爵に対して、まるで生みの子に向けるような心くばりをしているのに将軍は気づいたのであった。そして夫人はどうしたのか恐ろしくアグラーヤを可愛がりだした。これを見た、イワン・フョードロヴィッチは当分の間恐ろしく事務的なよそよそしい態度をとっていた。
しかし、この愉快な気分もやはり長くは続かなかった。二週間ほど過ぎたころ、またしてもある変化が起こった。将軍夫人は顔をしかめ、将軍は二、三度肩を震わして再び『沈黙の氷』の中に身をとざした。その理由というのは次のようなことなのである。短いのではっきりしないところはあるが、しかも正確なある秘密の報告を二週間前に将軍は受け取った。それによると、最初モスクワで姿を隠し、すぐそのあとで同じくモスクワでラゴージンに捜し出されたかと思うと、またどこかへ行方を隠して、またまた彼に捜し出されたナスターシャ・フィリッポヴナが、ついに彼と結婚しようという固いことばを与えた。ところが、それからほんの二週間きりたたないうちに、ナスターシャ・フィリッポヴナが三度目に、ほとんど結婚の瀬戸際になって逃げ出し、今度はどこか地方の県下に行方をくらました。ところが、一方ムィシキン公爵も、自分の事務のいっさいをサラズキンの管理にまかせたまま、モスクワから姿を消したという報告がまたもや閣下のもとに届いた。『あの女といっしょか、その跡を追ったのか――そのへんのところははっきりしないが、何かいわくがありそうだ』と将軍はことばを結んだ。リザヴィータ・プロコフィーヴナも何かしら面白からぬ報告を受けていた。で結局、公爵が出発してから二か月の間に、ペテルブルグにおける彼の噂はいっさい消えてしまって、もはやエパンチン家の『沈黙の氷』はもう破られることがないのであった。とはいえ、ワルワーラ・アルダリオノヴナが令嬢たちのもとを訪れることには変わりはなかった。
こうした噂や報告などのいっさいにしめくくりをつけるため、次のことを言い添えておくことにしよう。春も近づいたころ、エパンチン家にはきわめて数々の変化が起こったので、自分のほうから便りをしなければ、またしようともしなかった公爵のことは自然と忘れられるようになった。ついに、夏が来たら外国へ行こうというもくろみが冬のうちにしだいしだいに根を広げていった。と言ってもこれはリザヴィータ・プロコフィーヴナと令嬢たちだけの話で、将軍はもちろんこうした『くだらない気晴らし』に暇つぶしをするようなことはできなかった。このように話が決まったのは、自分たちを外国へやらないのは両親ともそろって、いつもいつも自分たちの嫁入り話にばかり夢中になっているからだとすっかり信じていた令嬢たちの執拗な主張が通ったためであった。もしかすると両親のほうでもとうとう、婿《むこ》さがしのことは外国に行っていてもできるから、一夏くらい旅行しても嫁入り話の妨げにはならないくらいか、『かえってぐあいよく』なるかもしれないと考えなおしたのかもわからなかった。
ところでちょっと言っておくが、以前交渉中であったアファナシイ・イワーノヴィッチと、エパンチン家の総領娘との結婚はすっかり破談になってしまったのである。そこで彼の正式の申込みはしなくて事じまいになった。これは自然にそうなったのであって、取り立てて言うほどの相談もなく、少しの家庭内の争いも起こらずに済んだのであった。公爵の出発とともに双方から話がなくなってしまった。ところが、将軍夫人はその時、『やっとのことで、両手をひろげて十字を切りたいほどうれしい』と、言いはしたものの、この事情のいくぶんかはエパンチン家のその当時の重苦しい気分の原因となったのである。将軍は自分が悪かったと思って、不首尾をこぼしてはいたが、それでも長いこと怒っていた。彼はアファナシイ・イワーノヴィッチを『あのような財産、あんなに如才のない男を!』と惜しがっていた。
まもなく将軍は、アファナシイ・イワーノヴィッチが来朝中の上流のフランス夫人の王朝正統派の公爵夫人に釣り込まれて結婚式を挙げたうえ、ひとまずパリへ行き、それからブルターニュかどこかへ行くということを聞き出した。『ふん、フランス女めと道ゆきか』と将軍は言い放った。
そこで、エパンチン家では夏近くなれば出発することにして用意万端をととのえていた。と、思いがけなく、またいっさいのことをすっかり変更するような事情が生じたために、旅行はまたしても延期され、将軍と夫人を喜ばした。モスクワからペテルブルグへSという公爵がやって来たのである。この人は有名な、といってもきわめていい意味において有名な人であった。意識的に心の底から有益な事業に従事することを欲し、絶えず働き、いたるところに仕事を見いだすという幸福な珍しい性質をもち、謙譲にして清廉な、いわば現代的な活動家の一人であった。見栄を張ったり、政党的な冷酷な空論を避け、自分を一流の人物だなどと思いこむようなことのないこの公爵は、近ごろ世上に起こっている多くの事物に対して根本的な理解をもっていた。彼は初め官省に勤めたが、その後は引き続いて地方の事業に関係するようになった。それ以外に、彼はロシアの幾つかの学術団体の有力な通信員でもあった。また知り合いの技師と協力して、蒐集《しゅうしゅう》された報告や調査にもとづいて計画中の重要な鉄道の一つにいっそう正確な方針をつけることにも力を尽くした。年は三十五くらいであった。『上流社会中の上流人』であった彼は、そればかりでなく、ある重大な用件で、自分の長官にあたる伯爵のところをたずねた際に、彼と出会って知り合いになった将軍が批評したように、『立派な、しっかりした争うべからざる』財産家でもあった。公爵はロシアの『事務的な人たち』と近づきになることをのがさない自分独特の好奇心のために、将軍の家族の人々とも親しくなったのである。三人姉妹のうちで、まん中のアデライーダ・イワーノヴナが彼にかなり強い印象を与えた。春も近づいたころ、公爵はおのが心を打ち明けた。彼はアデライーダの心にかなっていたばかりでなく、またリザヴィータ・プロコフィーヴナ夫人の心にもかなっていた。自然、旅行は延期され、結婚は春と決められた。
しかし、旅行は別れたアデライーダを思う悲しみを忘れるために、リザヴィータ・プロコフィーヴナと、その二人の令嬢の一、二か月の散歩といった格好で、夏の半ばから終りへかけて実行されることになっていた。ところがまた、ほかにある新たな事情が生じたのである。もはや春も終り近いころであったが(アデライーダの結婚は少しばかり行き違いがあって夏の半ばまで延期されていた)、S公爵はエパンチン家へ、遠い親類の一人であるが、自分とはきわめて親しいエヴゲニイ・パーヴロヴィッチ・エルという男を伴って来た。この男はまだ若く二十八くらいで、侍従武官であり、名家の出であるし、絵に描かれたような美男子で、そのうえ『新しい』男ときているのである。将軍はこの財産ということにかけてはいつも慎重な態度をとった。そこで彼はさっそく取り調べをして、「どうもそうらしい、まだまだくわしく調べてみないことにはわからんが」と言った。この若くてそのうえ『将来のある』侍従武官はモスクワのベラコンスカヤお婆さんにはひとかたならず持ち上げられていた。ただ一つ、ちょっとばかりむずがゆいような世間の風評があった。つまり、関係のあった女性はかなりな数にのぼり、『不幸な心』を『征服』したこともあるというのであった。アグラーヤを見てからは、彼はエパンチン家にずいぶん長居をするようになった。実際のところ、何も口に出して言ったわけではなく、また何か謎めいたことを言ったのでもないが、この夏は外国旅行などのことを考えることはむだなように両親は思っていた。が、アグラーヤ自身には、あるいは他の違った意見があったのかもしれない。
これは、この物語の主人公が再び登場する、ほとんど直前に起こったことなのである。見たところでは当時ペテルブルグでは哀れなムィシキン公爵のことを、もうすっかり忘れてしまったかのごとくである。もし、彼が以前の知り合いのところへ姿を現わしたならば、あたかも天から降って来たように思われたことであろう。しかし、それはともかく、いま一つの事を読者に伝えて、それでこの前書きを終りたいと思う。
コォリャ・イヴォルギンは、公爵の出発後も、ずっと以前のままの生活を続けていた。つまり中学に通い、親友のイッポリットのところを訪れ、将軍の看《み》とりをし、ワーリヤの家事を手伝ったり、走り使いをしたりしていた。しかし下宿人はまもなくいなくなってしまった。フェルデシチェンコはナスターシャの事件があってから三日後に、どこかへ飛び出して行き、そのまま姿を見せなくなったので、彼の噂はすっかり消えてしまった。どこかで酒をくらっていたという人もいたが、確かなことはわからなかった。それに公爵もモスクワへ出発してしまったので、下宿人は皆いなくなったわけである。その後ワーリヤが嫁入りをした際、ニイナ・アレクサンドロヴナとガーニャはいっしょにイズマイロフ連隊の近くのプチーツィンのもとへ引き移って行った。
ところで、イヴォルギン将軍はどうかというに、これとほとんど時を同じゅうして全く思いがけない事件が起こって、彼は債務監獄に収容されたのである。将軍はこれまでたびたび、友人の大尉なる細君に額面二千ルーブルほどの証文を渡したことがあるが、これがもとで債務監獄に収容されるようになったのである。これは彼が夢にも見たことのないことであった、不仕合わせな将軍は『概して言うならば人間の高潔な心を一途に信じたがためにみじめな犠牲』となったのである。気軽な気持で借金証文や手形に署名する習慣のあった彼は、いつかはこうなるとはしょっちゅう考えてはいたが、それほどてきめんに効力を生じようとは思わなかった。ところが、そうではなかったのである。『こんなことのあったあとで、どうして人を信ずることができよう、貴い信頼の情を示すことなんかできるものか』と将軍は債務監獄で新しく友だちになった者といっしょに坐って、悲痛な調子で叫ぶかと思うと、酒壜を前に控えて、カルス包囲にまつわる逸話や蘇生した一兵士の話をするのであった。監獄の中にいるとはいっても、彼はのうのうとした気持で暮らしていたのである。プチーツィンとワーリヤは、そこが彼にとっていちばん似合いの場所であると言った。ガーニャも、それにすっかり同意した。しかし、ただひとり不仕合わせなニイナ・アレクサンドロヴナだけは、人知れず苦い涙をしぼっていた(このことは家の人にはかえって不思議に思われた)が、暇さえあれば、しげしげと債務監獄にいる夫のもとへ出向いてゆくのであった。
コォリャのいわゆる、『将軍の事件』以後、つまり姉の結婚以来というものは、コォリャは家の人々と交渉を絶って近ごろでは夜寝泊りに家に帰って来ることも珍しいのであった。聞くところによると、彼は新しくさまざまの人々と交際を結んだということである。それにまた債務監獄ではあまりに顔を知られすぎたほどであった。ニイナ・アレクサンドロヴナがそこへ行ったとき、彼がいなくてはどうにも方法がつかなかったからである。それでも家の人々は、ちょっとした物好きの気持からでも、彼にとやかく言ってうるさがられるようなことはしなかった。以前コォリャに口やかましく言っていたワーリヤも、いま弟が方々うろつき回っていることについて何もやかましくは言わなかった。家の人々には不思議でならなかったのは、ガーニャが例の憂鬱症にかかっているにもかかわらず、まるで友だちに対するような態度でコォリャと話をしたり、応待をしたりすることであった。こんな様子は今までに見られなかったことである。それというのも、これまで二十七歳のガーニャは、自然と年の違う十五歳の弟に少しも情愛のある注意を向けようとはせず、乱暴なふるまいをし、家の者にも厳格なことばかり要求して、事ごとに、『耳をひっぱるぞ』と脅やかすのであった。だからコォリャは『人間として我慢のできる最後の限界』を踏み越えてしまったのである。ところが今ではもうガーニャにとってコォリャはどうかすると、なくてはならぬものと思われた。あの時ガーニャが、金を突き返したということはいくぶんコォリャを驚かした。このためにコォリャは、たいがいのことは兄を許してやろうという気になったのであった。
公爵が出発してのち、三月たってからイヴォルギン家の人々は、コォリャが突然エパンチン家の人々と近づきになり、そのうえ令嬢たちからは、なかなか優遇されているという噂を耳にした。ワーリヤはすぐこのことに気がついた。つまり、コォリャはワーリヤを経て近づきになったのではなく、『自分の力』で近づきになったのである。彼はしだいしだいにエパンチン家で可愛がられるようになった。将軍夫人は最初の間、彼が出入りするのをかなり不快に思っていたが、やがて、コォリャが『率直で、おべっかを使わない』のを知るに及んで、彼を寵愛するようになった。コォリャがおべっかを使わないのは全く事実である。ときには夫人に新聞や雑誌を読んで聞かせることもあり、日ごろもよくからだを動かしはしたが、この家の中で十分対等の立場で応待するだけの気慨はもっていた。ところが二度ばかりリザヴィータ・プロコフィーヴナ夫人とひどく口論したことがある。そのときコォリャは、あなたは暴君だ、もうあなたの家になんか足踏みしやしないと宣告した。最初のときは『婦人問題』がもとで争論をひき起こし、二度目のときは鶸《ひわ》をとるには一年じゅうでいつがいちばんいいかという問題からであった。
嘘のように思われるかもしれないが、将軍夫人はそれから三日目に、ぜひ来てくれるようにと従僕に手紙を持たしてやった。コォリャはこれにとやかく言うこともなく、さっそく出向いて行った。どうしたことか、アグラーヤ一人だけはいつも彼にいい顔を見せず、お高くとまっているような態度を示した。ところがコォリャがいくぶん彼女を驚かすような運命を担っていたのである。あるとき、復活祭ちかくのことであった、コォリャは機会をねらってアグラーヤに一通の手紙を渡して、誰も人のいないときに渡してくれといって頼まれたのだと言った。アグラーヤはこわい目で『うぬぼれな小僧っ子め』とにらみつけた。しかし、コォリャはそのまま出て行った。彼女は手紙をひろげて、読み始めた。
『かつて、あなたは僕を深く信頼してくださいました。おそらくあなたは今ではいっさいをお忘れになられたかもしれません。なぜ僕があなたにお手紙をしたためる気持になったのでしょう? 僕にはわかりませんが、しかしあなたに、他の誰でもなくぜひあなたに僕のことを思い出していただきたいという希望が、押えても押えても私の心に起こってきたのです。あなたがたお三人は僕にとってはなくてはかなわぬ人です、僕は幾たび思ったことでしょう。ところが僕はお三人のうちでいつもあなたばかりを見ていたのであります。あなたは僕にとってはなくてはかなわないかたです。どんなことがあってもなくてはかなわないかたです。僕は自分のことについて別に何も書くこともなければ話すこともありません。私自身もそんなことをしようとは思いません。僕はただもう、あなたが幸福でいらっしゃればと望むばかりです。幸福にお暮らしですか? 僕の申し上げたいのはただこれだけです。
あなたの兄なる エル・ムィシキン公爵』
この短い、かなり無意味な手紙を読み終えると、アグラーヤは、にわかに顔を赤らめて考え込んでしまった。彼女の思想の流れを伝えるのは困難なことであろう。しかし、たしかに彼女は『誰かに見せようかしら?』と考えた、しかし、彼女はなんだかきまりが悪いような気がした。で、とうとうさげすむような変なほほえみを浮かべて、手紙を自分の小机の引出しへ放り込んだ。ところがあくる日になると、再び彼女はそれを引き出して、堅牢な背皮の装幀のしてある厚い本の間にはさんだ(彼女は自分の書類を必要に応じて、すぐ捜し出すことができるように、いつもこうするのであった)。一週間ばかりたって、ふと、ゆくりなくどんな本だったかのぞいて見ると、それは、『ラマンシュのドン・キホーテ』であった。アグラーヤはそれをみておそろしく笑いこけたが、なぜかわからなかった。
彼女が二人の姉のどちらかにこの獲物を見せたかどうかも、やはりわからないのである。
しかし、彼女はもう一度この手紙を読んだとき、不意に頭に浮かんだことがあった。いったい、あのうぬぼれ屋で威張りやの小僧を公爵が通信員などに、おそらくはこの土地での、頼りになるただ一人の通信員などに選ぶなんてことがあるものだろうか? とふと思い浮かべたのである。全くばかにしきったような表情を浮かべて、ともかく彼女はコォリャをとらえて聞いてみた。すると、いつもおこりっぽい『小僧』が、この時は彼女のばかにしきった表情には少しの注意も向けずに、きわめてさりげない様子で説明するのであった。公爵がペテルブルグを出発するに当たって、彼は自分の住所を公爵に知らせて、何か用事があったら知らせてくれるように言っておいたのである、そしてこの手紙を頼まれたのがはじめての使命であり、またはじめての手紙であると。そう言ってから、彼は自分の言ったことを証明するために、自分宛に来た手紙を出して見せた。アグラーヤは躊躇《ちゅうちょ》することなく手紙を読んだ。コォリャ宛の手紙には次のように書いてあった。
[#ここから1字下げ]
コォリャさん、どうか同封の手紙をアグラーヤ・イワーノヴナさんに渡してください。では、お大切に。
あなたを愛する 公爵エル・ムィシキン
[#ここで字下げ終わり]
「事もあろうに、こんな水腫れの小僧を信用するなんて滑稽だわ」アグラーヤは手紙をコォリャに返しながら、いまいましげにつぶやいて、侮蔑しきった顔をして彼のそばを通り過ぎて行った。
コォリャはもう我慢がならなかった。彼はわざわざこの時とばかりに、ガーニャにわけも話さずにむりやりにもらって来た、まだ真新しい緑色の首巻を巻いていたのであった。彼はひどく憤慨した。
[#改ページ]
六月もまだ初めのころであった。ペテルブルグには珍しく、もう一週間もずっと美しい天気が続いていた。エパンチン家ではパヴロフスクに豪奢な別荘をもっていた。リザヴィータ・プロコフィーヴナはにわかに思い出して、そわそわしながら、二日の間あれこれと騒ぎまわったあげく、パヴロフスクへ移って行った。
エパンチン家の人々が移って行ってから二、三日たって、モスクワ発の一番列車でレフ・ニコライヴィッチ・ムィシキン公爵がやって来た。彼を停車場に出迎えるものは誰もいなかったが、公爵が車を出たとき、その列車で到着した人々をとり囲む群衆の中で、思いがけなく誰かの焼けつくような異様な双の眸《ひとみ》がひらめいたように思われた。彼が注意を凝らして見つめたときには、もはやそこに何ものをも見つけ出すことができなかった。もちろん、ただちらりとひらめいただけではあるが、それは不愉快な印象となって残った。そんなことがなくても公爵は物悲しく考えこんで、何かしら心がかりな様子であった。
辻馬車は、リティナヤ通りからほど遠からぬ一軒の宿屋に彼を運んだ。宿屋は見すぼらしいものであった。公爵は粗末な道具のある、うすぐらい、さして大きくない部屋を二つ借りて、手水を使い、身じまいをととのえて何も注文せずに、あたかも時間をむだにするのが惜しいのか、あるいはたずねる先の人が不在になりはしないかと心配しているような様子で、大急ぎで表へ出た。
半年まえ公爵がはじめてペテルブルグにやって来たころの知り合いの人が誰か、公爵をいま見たならばあるいは彼の風采がずっと立派になったと言うであろう。しかし、それもどうだかはっきりしたところは疑わしいのである。ただ服装だけはすっかり変わっていた。服はモスクワの立派な洋服屋の仕立てたものであったが、やはり服にも欠点があった。というのはあまり流行にかない過ぎた仕立てなのである(律気ではあるが、あまりじょうずでない洋服屋のやりそうなことであるが)。それに服を着ける人が、流行などには少しも関心を持たない人なのであるから、よほどの物好きな人がよくよく公爵を眺めたら、あるいはどこかに笑いたくなるようなところを見つけ出すかもしれない。それにしても、世の中には滑稽なことというものはけっして少なくはないのである。
公爵は辻馬車を雇って、ペスキイへ走らせた。彼はまもなくロジェストヴェンスカヤ通りの一地点で、一軒のさして大きからぬ木造の家を捜し出した。公爵が驚いたことには、この家は見つきがきれいで、小ざっぱりしていて、草花を植えた小さな庭園がついており、なかなかきちんとしていた。通りに面した窓はあけ放たれて、その中からはなんだか大声で演説でもしているように、ほとんど叫ばんばかりの声が鋭く耳に聞こえてきた。その声は時おり幾たりかの人の高い笑い声にさえぎられた。公爵は庭へはいって階段を上り、レーベジェフ氏に面会を求めた。
「あれなんでございますよ」と袖《そで》を肘《ひじ》のあたりまでまくりあげた女中が戸をあけてから『客間』を指さした。
この『客間』は暗緑色の壁紙を張りめぐらし、小ざっぱりしてはいるが、装飾がいくぶんごたごたし過ぎていた。丸いテーブルや長椅子、鐘形のガラスでおおわれた青銅の置き時計、窓と窓との間の壁にかけられた細長い鏡や、天井から青銅の鎖で吊るされた、幾つものガラス玉で象嵌《ぞうがん》の施された、さして大きからぬ古風なシャンデリアなどが置かれていたのである。
その部屋の中央に、夏らしく上着なしで胴衣一枚のレーベジェフその人が、はいってくる公爵のほうに背中を向けて立っていた。そして自分の胸をたたきながら、どんな題目かはわからないが、声をはりあげて雄弁をふるっているのであった。聴き手は、書物を手にしている、快活で、かしこそうな十三歳ばかりの少年と、両腕に乳飲み児をかかえ、喪服につつまれた二十歳くらいの若い女と、やはり喪服を着て、口を大きくあけてしきりに笑っている十三くらいの女の子であった、ところが最後にいま一人、かなり奇妙な聴き手がいた、濃く長い髪をし、黒い大きな眼をして、ほんのおしるしばかりの頤髯《あごひげ》頬髯を生やした、顔色は浅黒くはあるが、かなり美しい二十歳前後の青年である。この青年は長椅子の上に寝そべっていた。この聴き手はレーベジェフの演説をしょっちゅうさえぎったりやじったりしているらしかった。きっと他の者たちが笑っていたのはこれがためであろう。
「ルキヤン・チモフェーヴィッチ、ルキヤン・チモフェーヴィッチ! まあ、なんてんでしょう! ちょっと、こっちをごらんなさい! ふん、つまらないったらありゃしない」
そう叫ぶと、女中は両手を一振りして、怒ってまっかになりながらその場を立ち去った。
レーベジェフは後を振り返って、公爵に気づくと雷に打たれたように、しばしの間、突っ立っていた。やがて卑屈な微笑を浮かべると、彼のほうに駆け出したが、感覚を失ったように閾《しきい》の上に立ち止まって、
「公爵、さ、さ、さま!」とだけかろうじて言った。
しかし、まだ落ち着いていることができなかったらしく、なんというわけもないのに、突然、喪服を着て両腕に乳飲み児を抱いている娘に飛びかかった。娘は不意をくらって、よろよろとよろめいた。すると、彼はもうそのほうはよして、すぐに今度は隣の部屋の閾の上に立ったまま、さっきの笑いの名残りをとどめている十三ばかりの女の子に襲いかかった。女の子は思わず悲鳴をあげて、そのまま台所へ逃げこんだ。レーベジェフはまだ脅かしてやろうと、逃げてゆく女の子の後ろで足を踏みならした。が、公爵の困りきったような視線に出会うと言いわけを始めた。
「敬意を……表するためで、へへへ!」
「あなた、そんなことをしたって……」と公爵がはじめてことばを出した。
「ほんのちょっと、ちょっとです、すぐです……竜巻のように!」
レーベジェフはこう言ってすばやく部屋から姿を消した。
公爵はびっくりして、娘や少年や、長椅子の上に寝そべっている青年を眺めた。すると誰もが笑いだしたので、公爵も笑った。
「燕尾服を着に行ったんです」と少年が言った。
「なんていまいましいことなんでしょう」と公爵が言いかけた。「僕はあの……ねえ、あの人は……」
「酔っ払っていると思われたんですか?」と長椅子から叫び声がした。「少しも! そうですなあ、杯に三つか四つくらい、まあ五つくらいですかな、だけど、そんなのあ、なんでもありませんよ――いつものことですよ」
公爵は長椅子の声の方を振り向こうとした。が、そのとき娘が可愛い顔にすなおな表情を浮かべて言いだした。
「あの人はあまりたくさんはいただきませんの。あなた、何か御用件でしたら、今おっしゃってください。いいおりですわ。夕方帰ってまいりますと、もう酔っ払っていますから。それに近ごろではたいてい夜は泣きながら寝る前に私たちに聖書を読んで聞かせますの。五週間前に母がなくなりましたので」
「あの人が逃げ出したのは、きっとあなたに返答するのがむずかしいと思ったからに違いありませんよ」と言って長椅子の上の青年は笑いだした。「あの人はあなたをごまかそうとして、今その計画を考えているのですよ、けっして間違いありません」
「まだ五週間にしかなりません! 五週間にしかなりません!」燕尾服を着込んで、眼をしょぼしょぼさせ、涙をふくためにポケットからハンカチを出しながら、レーベジェフは部屋に帰って来た。「親なし児です!」
「なんだってあなたはそんな穴だらけの服を着て来たんです」と娘が言った。「だって、あすこの戸の向こうに新しい燕尾服があるじゃありませんか、見えないんですか?」
「だまれ、せっかち!」レーベジェフはどなりつけた。「貴様というやつは!」彼は床を踏み鳴らしそうにした。だが娘はただ笑っているばかりであった。
「まあ何を威かしていらっしゃるの、私、ターニャじゃないから、逃げ出したりなんかしなくてよ。そら、リューボチカが眼を覚ますわよ、それに虫でも起こったらどうなさるのよ……大きな声なんか出したりして?」
「と、と、とんでもない! 舌が腫《は》れちゃうぞ……ばかな!」とレーベジェフは恐ろしく狼狽《ろうばい》して、娘の腕に抱かれて睡っている乳飲み児のそばに走りより、あわてた格好をして二、三度十字を切った。「神よ、守りたまえ。神よ守護をたれたまえ。これは私の実の赤ん坊でリューボーフィという娘でございます」と言ってから公爵のほうを向いて、「この間亡くなった――難産で死んだ妻のエレーナと法律上の正当な結婚で産まれた児でございます、この餓鬼は私の娘のヴェーラで、喪服を着せとくんです……ところで、これは、これは、お、こいつは……」
「どうしてしまいまで言わないんです?」と青年が叫んだ。「さあ次を、もじもじすることはない」
「旦那!」と何かしらにわかに胸をつかれたようにレーベジェフが叫んだ。「ジェマーリン一家の殺人事件を新聞でお読みになりましたか?」
「読みました」公爵はいささか驚いて言った。
「ところで、こいつがその下手人です、こいつなんです!」
「あなたは何を言うんです?」と公爵は言った。
「まあ譬喩的《アレゴリカル》に言えば、来たるべきジェマーリン家のその下手人です、この先こんなことがもう一度あるとすればですがね、こいつはそれを待ちかねているんですよ……」
一座の者はみな笑いだした。ことによったら、レーベジェフは公爵にいろんなことを聞かれはしないかと思って、それになんと答えたらいいかわからないものだから、どうして時を過ごそうかと、そのためにしかたなく変なことばかり言っているのではあるまいかと公爵はふとそんなことを考えた。
「謀反してるのです! たくらみを持っているのです!」とレーベジェフは、もう我慢してはいられないといったように叫んだ。「私はいったいこんな悪態つきを、こんな放蕩者のろくでなしを、肉親の甥《おい》と思わねばならんのでしょうか、死んだ妹アニーシヤのたった一人の息子と思わなけりゃならんのでしょうか?」
「もうよしなさい、おまえさんは酔っ払っているんだから! 公爵、まあ考えてごらんなさい、この男はねえ、弁護士稼業を始めて、訴訟事件をあさり歩こうと思い立ったんですよ。それで、もう美辞麗句に夢中になって、家の中で子供たちをつかまえては、しょっちゅうしかつめらしいことばばかり使っているんです。五日前に裁判官の前に立ってしゃべったんですが、いったい誰を弁護したと思いますか。身代かぎりの五百ルーブルの金を畜生みたいな高利貸しに奪い取られた婆さんが、この先生に拝んだり祝福したりして頼んだのですが、それには耳も藉《か》さず、報酬の五十ルーブルに眼がくらんで、相手のザイドレルとかなんとかいうユダヤ人の高利貸しのために、弁護したんですよ……」
「勝ったら五十ルーブルというんでして、負けたら、たった五ルーブルです」と今までわめいたことなんかないといったような、うって変わった声でこう説明した。
「いや、もちろん、とんだ恥さらしでしたよ、なにしろ法式ってのが昔とは違うんですからね。ただもう皆さんのお笑いを買ったばかりです。ところがこの人はすっかり満足している始末なんですよ。『一点の私心なき裁判官諸賢よ、高潔なる労働に基づいて生活せる足なしの同情すべき老人が、一片の最後のパンをまさに失わんとしつつある事実を思い出していただきたい。立法者の聰明なる一語「法廷ニ於テハ懇情ヲ旨トスベシ」を思い出していただきたい』ってやらかしたですよ。それに、どうでしょう。この人は毎朝この演説を法廷でやったときそのまま、わたしたちに聞かせるんですよ。今日で五度目です。あなたのいらっしゃった時までやっていたんです。それほど気に入っているんですよ。自分がやって自分で感心しているんですからね。それにまた誰だかを弁護しようとしているんです。あなたはムィシキン公爵のようでございますね? コォリャがあなたのことを言っていましたよ、世界じゅうであなたより賢い人には今まで出会ったことがないって……」
「ないとも! ないとも! 世界じゅうでこれより賢い人があるものか!」とレーベジェフが、すかさずそのことばじりをとって言った。
「だが、こいつは嘘だとしましょう。ある者はあなたが好きだし、またある者はあなたに取り入ろうとしているでしょう。だが私はけっして、あなたにおべっかを使おうなんて思いませんからね、これはとくと御承知おき願います。だが、あなたもまんざら分別のないかたじゃございません。ところでぜひ、この人と私を裁いていただきたいのですがね。そら、どうだい、公爵が私たちを裁いてくださろうとおっしゃるんだがな?」と彼は叔父に向かって言った。「公爵、あなたが都合よく来合わしてくだすったので、たいへん喜んでいますよ」
「賛成!」とレーベジェフはぎょうぎょうしく叫んだが、またつめかけて来た人々を思わずふり返って見た。
「あなたがたはいったいどうしたんです!」公爵は苦々しい顔をして言った。
彼は本当に頭痛がしてきた、それにレーベジェフが自分をだまそうとしており、事件に遠ざかってゆくのを喜んでいることがだんだんはっきりわかってきた。
「まず様子をはっきり述べておきますが、僕はこの人の甥です。この人はしょっちゅう嘘ばかり言っているんですが、これだけは本当のことを言っていますよ。僕は学校は卒業しなかったけれど、卒業したいと思っています、意地にだってこの一念を通すつもりです。しかし、生活のために当分の間二十五ルーブルで鉄道のある仕事をすることにしています。本当のことを言いますと、このほかに二、三度僕に補助してくれました。僕は金を二十ルーブル持っていましたが、カルタですっかり取られてしまいました! 公爵、なんということでしょう、僕はカルタですっかり取られてしまったような、やくざなろくでなしなんですよ」
「ごろつきにやられたんです、金を払ってやらなくともかまわないごろつきですよ」とレーベジェフが叫んだ。
「そうだ、ごろつきではあったが、払ってやらなきゃならなかった」と若者はことばを続けた。「あいつがごろつきだってことは僕が証明するよ。しかし、なにもおまえさんをなぐりつけたからっていうんじゃないよ。公爵、そいつは古手の士官、以前ラゴージンの一党に加わっていた退職中尉です、今は拳闘の教授をしています。ラゴージンに追っ払われてから、今じゃあの連中はみんなぶらぶらしていますよ。何よりもいちばんいけないことは、あいつがごろつきで悪党で、こそ泥だってことを万々承知していながら、あいつを相手にカルタをしたことです。それに最後の一ルーブルまで、賭けようって段になって(僕らはパルキイをやったんです)、負けちまえばルキヤン叔父貴のところへ行って泣きつこうと腹の中で考えたことですよ。これは実際下劣なことです、恐ろしく下劣なことです! これは全く意識的な卑屈な根性です!」
「これは全くひどい意識的な卑屈な根性です!」とレーベジェフが同じようにくり返した。
「ふう、そう喜びなさんな、ちょっと待って」と甥はいまいましげに叫んだ。「あいつめ、喜んでいる。公爵、僕はここへ来て、すっかりぶちまけてしまったんですよ。僕ははずかしいような態度はとらなかったんです、僕は自分を容赦しなかったんです。僕はこの男の前でできるだけ自分で自分を罵倒しました。ここにいる者がみな証人です。鉄道の仕事に出るについてはどうしてもなんとか身なりをととのえなきゃなりません。なんたって、こんな襤褸《ぼろ》ですからね、まあ、この長靴を見てごらんなさいよ! これじゃ仕事になんか出られませんよ、それに決められた時までに行かないと他のやつに仕事を取られちまいますからね。そうなると僕はまた一文なしで、当分の間、他の仕事を捜し回らなくちゃなりません。いまこの男に僕が無心しているのは、たったの十五ルーブルなんですよ。それに、今後はもう絶対に無心もしないし、この借金も三か月以内に一カペイカ残さずきれいに耳をそろえて返すと約束しているんですよ。僕だって約束は守ります。僕だって意地ってものがありますから、二、三か月そこいらぐらいはパンとクワスでやってゆきます。三か月の間には俸給が七十五ルーブルもらえるでしょう。以前の分と合わせて僕が借りる金は三十五ルーブルなんだから、返すのはわけはありませんよ。利息はいくらだって取るがいい、この野郎! この人にゃ僕ってものがわからないのかしらん? 公爵、この人に聞いてみてください、以前僕に都合した金を返さなかったかどうかって? いったいどうして今度はいやなのかといえば、僕があの中尉に払ったのをおもしろく思っていないんです。ほかに理由なんかありゃしないんです! こんな野郎なんですよ、とても手に負えない!」
「出て行こうともしないんです!」とレーベジェフが叫んだ。「ここに寝たっきりで出て行かないんです」
「それだから、僕がそう言ったじゃないかよ、貸してくれるまでは出て行かないって。公爵、何を笑っていらっしゃるんです? おおかた、僕が間違っているって言うんでしょう?」
「僕は笑ってなんかいませんが、僕には、ほんとのところ、あなたが少々まちがっているような気がします」公爵はしかたなくこう答えた。
「それじゃ、僕が全然まちがっていると、はっきり言ってください、ごまかしはよしてください。『少々』とは、なんのことです!」
「そう言われるんでしたら、全然まちがっています」
「そう言われるんでしたらって! とんだお笑いぐさですなあ! こんなことをするのは気がひける、それに金はこの男のものだし、意志もこの男のものだ、だから、僕のほうから言えばゆすりみたいなことをしているのだと僕が自分で知らないとでも、お考えなんですかね。しかし、ねえ、公爵、あなたは……世間ってものを知っていられないんですよ。こんなやつらは、うんとたたきこまなければ、何もわからないんです。教えてやらなくてはならんのです。僕の良心はきれいなもんです。僕は良心に誓って、この男に損はかけません。利子を添えて返してやります。この男はまた精神的賠償をうけているんです。なぜってこの男は自分の前で卑下した僕の姿を見ているんですからね。このうえいったい何が入用なんです? この男がどんな役に立ったことをしています、どんな利益をもたらしています? まあ、考えてもごらんなさい、この男がしていることは何ですか? この男が他人にどんな仕打ちをしているか、どんなだまし方をしているか、何で暮らし向きを立てているか聞いてごらんなさいよ。もしこの男があなたをだましたり、今後もどんな風にだまそうかと工夫をめぐらしていなかったら、僕は首を切ってあげますよ! あなたは笑っていますね、本気になさらないのですか?」
「やっぱり、僕、あなたのおっしゃることが全然あなたの柄に合わないような気がするんですがね!」と公爵が言った。
「僕はもう三日ここに寝ていますから何もかもよく見ているんです」と若者は公爵のことばには耳もかさずこう叫んだ。「まあ、どうでしょう、この男は、そら、この天使のような親なし娘の僕の従妹、自分の娘のところに、いい男《ひと》でもやって来はしないかって疑ぐって毎晩監視してるんです! それに、僕のいるところへもこっそりやって来てはこの長椅子の下まで探り始めるんです。疑いのあまり気ちがいにでもなったんでしょう、どこにもここにも、泥棒がいるような気がしているんですね。一晩じゅう、ひっきりなしに飛び起きちゃ窓がよく閉まっているかどうか見たり、戸口の閂《かんぬき》を調べたり、煖炉の中をのぞいて見たりするんです、一晩に七へんくらいずつこんなことをやるんですよ。法廷じゃ、|いんちき《ヽヽヽヽ》な弁護をやったくせに、夜になると三べんも起きてお祈りをやらかすんですよ。そらこの広間にひざまずいて三十分も額を床にすりつけ、相手かまわず思いつき次第に祈りをあげてやって、思いつき次第のお断わりを読んでやるんです。酔っ払った勢いでやるんでしょうね? また、デュバルリ伯爵夫人の魂の安息を祈ってるのを、僕はちゃんと、この耳で聞いたことがありますよ。コォリャも聞いたんです。全く気ちがいざたですよ!」
「見てください、聞いてやってください、こいつがわたしに恥をかかしています!」とレーベジェフは赤くなって、夢中になって叫んだ。「わたしはたぶん、酔っ払いで、ごろつきで、泥棒で悪党には違いござんすまい、しかしですね、人に恥をかかしているこいつをまだ小っちゃな赤ん坊の時分、わたしがお襁褓《むつ》でくるんだり盥《たらい》で洗ってやったり、乞食みたいな見すぼらしいやもめ暮らしをしていた妹のアニーシヤの所へ、これもまた乞食みたいな私が行って、毎晩、夜っぴてまんじりともせず、こいつら母子二人のために看病してやり、下の門番のところから薪を盗んで来たり、こいつに歌を唄って聞かせたり、指を鳴らしてみせたり、そんなぐあいにして空き腹をかかえて守《もり》をしてやったものです。それをこいつは忘れやがって、いまこの私をばかにしているのです。それにいつか、おれがデュバルリ伯爵夫人の魂の安息を額をついて祈ったからっておまえにそれが何のかかわりがあるんだ? 公爵、私は四日前にはじめてこの伯爵夫人の伝記を辞典で読んだのです。それじゃ貴様はこの御夫人が、デュバルリがどんなかただか知っていやがるのか? 知っているかどうか言ってみろ!」
「ふん、そりゃ、そんなことを知っているのはおまえさんきりだろうよ!」嘲笑的な態度ではあったが、あまり気のりしない声で青年はこう言った。
「このかたは卑しい家から出なすったかただが女王様に代わって政治をなすったような立派なかたなんだぞ。それからなあ、あるお偉い皇后様がこのかたにお送りになった御|親翰《しんかん》にはma cousine(私のいとこよ)って書かれてあるんだぞ。ローマ法皇の使節、カルディナールが御自分のほうから申し出て、レヴェ・デュ・ラアのために(貴様、このレヴェ・デュ・ラアってのが何だか知ってるかえ?)このかたの素足に絹の靴下をはかせたということだぞ。しかも使節はそれを非常な名誉と思ってなされたのだぞ。こんな風に気高い御威光のあられるおかたなんだ! 貴様はそれを知っているか? 貴様の面《つら》つきじゃ知っていそうもない! それに、夫人のお亡くなりなすったときの様子を知ってるか? 知ってるなら答えてみろ!」
「引っこんでろ! うるさい!」
「おかくれなすったのはこうなんだ。こうした名誉なことのあったあとで、一時は一国の政治までなすったこのおかたを何の罪もないのに、ただパリの弥次馬《やじうま》の気晴らしのためにサムソンという死刑執行人がギロチンに引っぱり出したんだ。このおかたは恐怖のあまり御自分がどうなっているのかもわからない。夫人は死刑執行人が自分の頸をつかまえて刃の方に押しながら足蹴りにしているのに気づかれると――これを見て他の見物人はどっと笑ったのだぞ―― Encore un moment, monsieur le bourreau, encore un moment!と叫ばれたんだ。つまり、このことばの意味は、『もう一分間お待ちください、首切りさん、ほんの一分間だけ!』というんだ。それはこの一分間の間に神様が御夫人を許してくださるからだぞ、なぜって人間の魂をそれ以上も残酷な目にあわせるなんて想像もできないことじゃないか。貴様は残酷ってことばの意味を知っているか? うん、こんな事こそ残酷というものなんだぞ。このもう一分間って言う夫人の叫びを本で読んだ時、おれの心臓はまるで火箸《ひばし》でさされたような気がした。それなのに、やい、蛆虫《うじむし》め、おれが夜、寝しなにこのおかた、この御立派な罪びとのことをお祈りをしたからって、それが貴様になんのかかりあいがあるんだ。それにおれがこのおかたのためお祈りしたのはなあ、おそらく今日までこのおかたのために誰ひとり十字を切った人間がないからなんだぞ。それに誰ひとりこんなことを考えてみたこともないだろう。あの世にいられる御夫人も、御自分と同じような罪びとが、ほんの一度だけでも自分のために地べたにぬかずいてお祈りしてくれたと知られたら、うれしく思ってくださるに違いないぞ。貴様、何を笑っていやがるんだ? 貴様にゃ信じられないんだな、不信仰ものめ。貴様にわかってたまるもんか! それに本当にぬすみ聞きしたのなら、貴様は嘘をついている。おれはな、デュバルリ伯爵夫人ひとりのためにお祈りをあげたんじゃないんだ、『気高き罪びと、デュバルリ伯爵夫人と、それに同じきあまたの罪びとの魂に安息を垂れたまえ』と言ってお祈りしたんだぞ。これとあれじゃ、すっかり事情が違うからなあ。なぜって、そんな風なえらい罪びとや、運命の手ひどい変化に会った人や、不幸に苦しみぬいてきた人などが数多くあの世で、いまうめいたりして安息を待ちのぞんでいるんだぞ。それに貴様は、おれがお祈りをしている時に、ぬすみ聞きしたのなら、おれは貴様にも貴様と同じようなろくでなしのためにも、また……」
「もうたくさんだ、結構だ、誰だろうと好きなやつのために祈るがいいや、この野郎、大きな声を立てやがって!」と甥はいまいましそうにさえぎった。「この男はわれわれの中じゃいちばんの物知りなんですよ、公爵、あなた、御存じなかったんですかい?」となんだかぎごちない冷笑を浮かべて言い添えた。「今でもしょっちゅう、いろんな本や記録を読んでいますよ」
「あなたの叔父《おじ》さんはけっして……思いやりのない人じゃありませんよ」と公爵は気のないような調子でこう言った。
公爵にはこの青年が非常にいやらしくなってきた。
「あなたは、なんだか家のこの男をいやに褒《ほ》めますね! よござんすか、こいつはねえ、胸に手を当てて口を一文字に結んでいるが、すぐに欲望が頭をもたげてくるんですよ。おそらく思いやりのない男じゃないでしょう、しかしぺてん師でしょうなあ、それが遺憾ですよ。それに飲んだくれでしてね、もう幾年も酒をくらっているやつにはよくあるんですが、この男もからだじゅうの螺旋《ねじ》がゆるんじまって、そのためどこもかしこも、ぎいぎい軋《きし》っている始末ですよ。この人は亡くなった叔母を本当に尊敬していたらしいんですが……僕までも愛してくれましてね、それにちゃんと遺言状に、本当です、僕に財産の一部を譲ると言っていますよ」
「な、なにを譲るもんか!」とレーベジェフはものすごい調子で叫んだ。
「いいですか、レーベジェフ」公爵は青年から顔をそらして、心に固く決するところがあるように言いだした。「僕は経験して知っていますが、あなたは実際的な人間です、ただその気になりさえすれば……僕はいま非常に忙しいのです、それで、もしあなたが……失礼ですが、あなたの名と父称はなんと言いますか? 僕、忘れたもんで」
「チ、チ、チモフェイ」
「そして?」
「ルキヤノヴィッチ」
部屋にいたものたちが、また大きな声で笑いだした。
「嘘つけ!」と甥がどなった。「また嘘つきやがった、――公爵、この男はけっしてチモフェイ・ルキヤノヴィッチというんじゃありません、ルキヤン・チモフェーヴィッチですよ。ふん、なんだっておまえは嘘をつくんだい? おい、ルキヤンだろうがチモフェイだろうが、おまえにはどっちだっていいじゃないかよ? そんなことをしたって、公爵になんのかかりあいもないじゃないか。嘘をつくのが、もうすっかり習慣になっているんですよ、ねえ、ほんとですよ!」
「いったい、本当なんですか?」たまらなくなって公爵はこう尋ねた。
「ルキヤン・チモフェーヴィッチです、ほんとのところ」とレーベジェフは本当のことを言って、きまり悪そうにして、おとなしく眼を伏せて再び手を胸の上に置いた。
「ほんとにあなたはなんだってそんなことを言うのです、なんてくだらないことを言う人でしょう!」
「自分を卑下しようと考えましたもので」だんだんおとなしく頭をたれながらレーベジェフがつぶやいた。
「ええ、いったいそれでどんな卑下ができようっていうのです! 僕はただコォリャがどこにいるか、ただもうそれがわかれば!」と公爵は言って、くるりと後ろ向きになると、そのまま出て行きそうにした。
「コォリャがどこにいるか、僕が教えてあげましょう」と青年が口を出した。
「と、と、とんでもない!」と言ってレーベジェフは飛び上がって急にあわてだした。
「コォリャは昨晩ここに泊ったんですが、朝になると、親父の将軍を捜しに出かけましたよ。公爵、いったいなんだって金なんか出して将軍を『監獄』からもらい下げたんです。将軍は昨晩ここに泊りに来ると言っていたのに、やって来ないんです。きっとここからたいして遠くない『|はかりや《ウエスイ》』って宿屋に泊ったんでしょう。だから、コォリャはそこか、パヴロフスクのエパンチン家ですよ。あいつ少々ばかり金を持っていましたから、ゆうべも行きたいって言いましたよ。だから、どうしても『|はかりや《ウエスイ》』でなければパヴロフスクですな」
「パヴロフスクですよ、パヴロフスクですよ!……だが一つ、われわれはあちらの庭へ行って……コーヒーでもやろうじゃありませんか」
こう言ってレーベジェフは公爵の手をとって誘いだした。二人は部屋を出て、小さなあき地を通って耳門の中へはいった。そこにはいたってささやかな可愛い庭があって、快晴続きのために、木立がもうすっかり青葉を見せていた。レーベジェフは地面に打ちこまれた緑色のテーブルに向かった緑色の木のベンチに公爵をかけさせた。レーベジェフはその向かいに席をとった。まもなくコーヒーも本当に運ばれて来た。公爵は辞退もしなかった。レーベジェフは卑屈な表情を浮かべてじっとむさぼるように公爵の眼の色をうかがっていた。
「あなたがこんな世帯を持っているとは僕は思いもかけなかったんですよ」公爵は全く他のことを考えている人のような調子でこう言った。
「み、みなし児が」とレーベジェフはからだを反らせながら言いかけたが、そのまま口をつぐんでしまった。公爵はぼんやりと自分の前のほうを眺めたが、もちろんもう自分が今し方、尋ねたことを忘れていた。また一分ほどたった。レーベジェフはやはりじっと公爵を見つめながら待っていた。
「ええと、なんでしたっけ?」ふいに気づいたように公爵はこう言った。「ああ、そうだ! ねえ、レーベジェフさん、あなたは僕の用件がなんだかよくわかっているでしょう。僕はあなたの手紙でやって来たんですよ。話してください」
レーベジェフはどぎまぎして何か言いそうにしたが、ちょっとどもるような声を出しただけで、ことばはひと言も出なかった。公爵はしばらく待っていたが、そのあとで愁わしげにほほえみをもらした。
「ルキヤン・チモフェーヴィッチさん、僕にはあなたの気持がよくわかるような気がします。きっと僕が来ようなどとは思いがけなかったでしょう。一度ぐらい知らせたってあんな辺鄙《へんぴ》なところから僕がのこのこ出向いて来るなどとは考えなかったでしょう。そして良心に対する言いわけのために手紙をくれたのでしょう。ところが、僕はこのとおりやって来ましたよ。さあ、もうたくさんですよ、だますのはおよしなさい。二君に仕えるのはもうたくさんですよ。ラゴージンがこの土地へ来て二週間になるってことは、僕も知っています。あなたはこの前のときのようにあのひとをラゴージンに売ったんですか、そうじゃないんですか? 本当のことを言ってください」
「あのごろつきめが自分で捜し出したんです、自分で」
「あの人の悪口はおよしなさい。そりゃ、もちろん、あの人もあなたに対してよくないことはしたでしょうが……」
「どやしつけやがったんです、どやしつけたんです!」と恐ろしく興奮してレーベジェフは公爵のことばじりをついだ。「モスクワじゅうの街という街には至る所に犬を放しやがったんです。牝の猟犬を。ものすごい犬でしたよ」
「レーベジェフさん、あなたは僕を子供扱いにするんですね。あのひとは今度もラゴージンをモスクワで棄てたんですね? まじめに話してください」
「まじめですよ、まじめですよ、やっぱり婚礼のまぎわだったんです。こっちじゃ一刻も早くと待ちかねているのに、あのひとはこのペテルブルグに、わたしの所にまっすぐにやって来たんです。『助けてちょうだい、かくまってください、ルキヤン。公爵にも言わないで』とこうおっしゃるもんで。公爵、あの人はあの男よりもあなたのほうをずっと恐れていますよ。それにここが……実にすばらしいひとでしてねえ!」
こう言って、レーベジェフはずるそうな様子をして指を額に当てて見せた。
「で、あなたは今度もまた二人を引き合わせたんですね?」
「公爵様、どうして……どうしてそうせずにいられますか!」
「いや、もうたくさんです、僕は自分ですべてのことを捜し出します、しかし、ただこれだけは言ってください、あのひとは今どこにいます? あの男の所にですか?」
「お、どういたしまして、いいや、いいや、あのひとはまだひとり身でいられます。わたしは自由だってあのひとはおっしゃっているんですよ、公爵、本当にあのひとはわたしは全く自由の身だって、しきりと言っていられるんですよ。手紙でお知らせしたとおり、ペテルブルグ区のうちの女房の妹ん所にいらっしゃいますよ」
「今でもそこですか?」
「そこでございます。そこにいらっしゃらないとしますと、こう天気がいいから、パヴロフスクのダーリヤ・アレクセーヴナの別荘でございましょう。あのひとは、わたしは全く自由だって申されるんでございますよ。きのうもまたニコライ・アルダリオノヴィッチをつかまえて御自分の自由なことをずいぶん御自慢なすっていられました。なんだか起こりそうな前兆ですよ!」
こう言ってレーベジェフは変な笑いを浮かべた。
「コォリャはよくあのひとのところに行くんですか?」
「どうも軽はずみで口の軽い、秘密の守れない人です」
「あなたはそこへ長らく行かないんですか?」
「毎日行きます、毎日」
「じゃ、昨日も行ったんですね!」
「い、いえ、先おとついです」
「レーベジェフさん、あなたは少しきこしめしているから、どうも残念ですね! でなければ、あなたにお尋ねしたいことがあるんですけれども」
「ちょっ、ちょっ、ちょっとも、これっぱかしもそんなことは!」
こう言ってレーベジェフは反り身になった。
「どうしてあのひとを見すてて来たんですか?」
「あなたが別れてくるとき、あの人はどんな様子でしたか聞かしてください」
「さ、さがしてる風で……」
「捜すって?」
「いつも何か捜していられるようなんです、何かなくなったという様子で。結婚が間近に迫っているって考えるだけでも気持が悪くなって腹が立つらしいのです。あの男なんか蜜柑《みかん》の皮ぐらいにしか思っていられんのです、ほんとに、それっきりのことですよ。いや、それっきりじゃない、恐ろしい恐ろしいという気はなかなか強うござんして、あの男の話をすることは禁ぜられています、どうしてもこうしても避けるわけにゃいかんという場合には、まあ話すこともありますがね……それにあの男もこれによくよく気がついています! 一騒動は免れんですよ……落ち着きのない、人をばかにしたような、二枚舌を使う、人に突っかかって行くような女ですからね……」
「二枚舌を使って飛びかかって行く女ですって?」
「突っかかって行くんですよ、この間もある話のことから危うくわたしの髪の毛を引っつかまないばかりのけんまくでしたよ。わたしは黙示録を読んで、なんとかその場をつくろいましたがね」
「なんでしたっけ?」聞き違えたと思って公爵はこう聞き返した。
「黙示録を読んだんですよ。あの御婦人は落ち着きのないことを空想するかたでしてね、へ、へ! それにまじめなわけあいのことなら、御自分に関係のないことにだってずいぶん熱心になられるってことは、ちゃんとこの眼で見ましたよ。好きなんですねえ、好きなんですよ、そして御自分じゃそれをずいぶん偉いもののように考えておられます。全くです。わたしも黙示録の講義にかけちゃ相当なもので、十五年も講義していますよ。われわれ人間ってものは第三の生物たる黒馬と、その上に秤《はかり》を持ってまたがった騎者といっしょに生活しているのですと、わたしが申しますと、あのひともこれに賛成してくれましてね。なぜって現代の世の中では、いっさいのものが秤と取引とで持ちきり、人間という人間がただもう権利を要求するのに血眼《ちまなこ》ではございませんか。『一ディナーリィ〔古ローマの銀貨〕に小麦一升、一ディナーリィに大麦三升』ってわけですよ……おまけに自由の精神だの、純潔な真心だの、健康な肉体だの、神様のありったけの賜物を保存しておこうっていうのだからたいへんなんですよ。しかし権利ばかりで、それをしまっておくわけにはいきませんので、そのあとからその名を死という青ざめた馬がやってくる、またそのあとから地獄……まあ、とにかくこんな風のことに意見が一致したのです、それに――かなりききめがありましたよ」
「あなた、自分でそう信じているんですか?」いぶかしげな眼をしてレーベジェフを見ながら公爵はこう尋ねた。
「信じていますからこそ講義もするのです。なぜって、わたしは無一物で赤裸で、人間|輪廻《りんね》の一元素にすぎないですからね。それに誰がレーベジェフなどを尊敬してくれますかい? どいつもこいつもわたしにきつくあたり、この男を足蹴《あしげ》にしかねないのです。だが、この講義によりますと、わたしも貴族も同じものです。なぜって知恵のおかげです! それにある貴族は叡智でもってそれを感じ……長椅子の上にかけられたまま震えだされたってことです。わたしが、まだ役所に勤めておりましたころ、あのニール・アレクセーヴィッチ閣下は三年前の復活祭の前週にわたしのことをお聞きになって、ピョートル・ザハリッチを通じて、当直室からわざわざ御自分の書斎にお呼びになって、二人きりになったとき差し向かいで『おまえは反キリストの教授だっていうが本当のことか?』とこう問われました。それで私はかくし立てもせずに『いかにもさようでございます』とお答え申し、事細かに子細を申し述べ、臆しもせずに意見を披瀝《ひれき》しました、またそのうえわざわざ諷刺画の巻物や数字まで出して見せたものです。すると閣下はほほえんで聞いておられましたが、諷刺画やなんかをごらんになると、身震いされて、もう本を閉じてあっちへ行けと申されましたよ。そして復活祭週間には私に褒美をやるって申されてはいましたが、そのすぐ前に魂を神様に返してしまわれました」
「レーベジェフ、あなた何を言っているんです?」
「ありのままをでございます。御飯をいただかれたそのあとで幌馬車からおっこちなされて……踏み台で|こめかみ《ヽヽヽヽ》を打たれて、そのまま子供のように、まるで子供のように、おかくれなすったんです。履歴書によりますと、このかたは七十三歳としてありますが、赤ら顔をされ、白髪で、からだじゅうに香水をふりまかれていらっしゃって、いつも微笑なされて、もうまるで子供みたいなかたでした。その当時、ピョートル・ザハリッチが思い出されては『おまえの予言のとおりじゃった』とよく言われていたものでしたよ」
公爵は立ち上がろうとした。レーベジェフは公爵が立ち上がっているのを見ると、驚いてあわて始めた。
「ばかに冷淡におなんなさいましたね、へ、へ!」と彼はあてつけらしく卑屈な調子で言った。
「本当に、僕、なんだかからだが変なんです。頭が重くって、旅の疲れかもしれませんが」公爵は渋い顔をしてこう答えた。
「別荘にでもいらしってはいかがでしょう?」とレーベジェフはおずおずと遠まわしにこう言った。
公爵はじっと考えこんだままたたずんでいた。
「その、私も三日ばかりたったら、家の者みんなをつれて別荘へ行こうと思っています。今度生まれた雛っ子のからだのためにもいいし、その間にこの家の手入れもできますから。私の別荘もやっぱりパヴロフスクにあるんですよ」
「あなたもやはりパヴロフスクへ?」と公爵はいきなり尋ねた。「いったいそれはどうしたんです、ここの人はみんなパヴロフスクへ行くんですか? それに、あなたも今言っていられましたね、御自分の別荘があるって?」
「みんながみんなパヴロフスクへ行くのじゃござんせんが、イワン・ペトローヴィッチ・プチーツィンが安い値段で手に入れた別荘の中の一つを私に譲ってくださいましたんで。それにあすこは気持のいいところですよ、高台にあって青葉につつまれ、物価は安くって、土地柄は上品で音楽的です、だもんですから誰も彼もパヴロフスクへと押しかけるんです。もっとも、私は離れのほうにはいって、別荘の母屋のほうは……」
「貸したんですか?」
「い、いいえ、全く貸して……しまったってわけじゃございません」
「僕に貸してください」突然、公爵はこう申し出た。
レーベジェフはただこれを目あてにして、こうしたほのめかすような態度に出たものらしい。この考えは三分ばかり前にちらと彼の頭の中に浮かんだものである。しかし、彼はどうしても借り手を求めなければならないというわけではなかった。もうすでに別荘を借りうけようという人がいて、「おそらく」別荘を借りるだろうと通知をよこしていたのである。レーベジェフは「おそらく」ではなく、きっと借りるだろうと確信していた。ところが今、以前の貸借希望者との約束がまだはっきり決まっているわけでないのを利用して、自分の計算から見て、非常に利益があると思われる公爵に別荘を貸してしまおうという考えがふと浮かんだのである。『いろんな衝突や局面展開があるぞ』と彼は心の中にふと想像してみた。公爵の申込みを彼は有頂天にならんばかりに喜んで承諾し、家賃に関する公爵のあけすけな問いには両手を振って耳もかさなかった。
「いや、それはもうあなたのお好きなように。私がすることです、けっして御損をかけるようなことはいたしません」
二人はもう庭を出かかっていた。
「私はあなたに……私はあなたに……お望みでしたら、公爵様、あなたに非常に興味のあることをお知らせ申しますが、あの一件に関することでございますが」うれしさに堪えかねて公爵の傍に身を擦り寄せるようにして、レーベジェフはささやいた。
公爵は立ち止まった。
「ダーリヤ・アレクセーヴナもパヴロフスクに別荘をもっておられますよ」
「で?」
「例のあのかたがこのひとと親友なのですから、どうやら、しょっちゅうパヴロフスクにいらっしゃる考えらしいですよ。何か目的があって」
「それで?」
「アグラーヤ・イワーノヴナさんは……」
「おお、もうたくさんです、レーベジェフさん!」公爵はまるで痛いところへさわられたように、不快な気持をあらわしてこうさえぎった。「そんなことはみんな……違っています。それよりか、いつ引越しするのです? 僕は少しでも早いほうがいいんです。なにしろ旅館に泊っているんですからね……」
話を交えながら、二人は庭を出て部屋にははいらずに、小さなあき地を横切って耳門に近づいた。
「じゃ、こうなすったほうがいいでしょう」ついにレーベジェフが考えついた、「あなたは今日すぐに宿屋からここに引き移っていらっしゃい、そうすれば明後日、私たちはいっしょにパヴロフスクにまいります」
「まあ、考えときましょう」公爵はちょっと考え込みながらこう言って、そのまま門から出て行った。
レーベジェフは公爵の後ろ姿を見送った。公爵が急に気が抜けたようになったのに驚いた。公爵は立ち去るにあたって『さよなら』を言うことも忘れ、首を振って会釈することさえしなかったので、公爵が日ごろ丁寧で注意深いことを知っているだけに、レーベジェフには不思議なことに思われた。
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もう十一時をまわっていた。今はもう市内のエパンチン家へ出向いたところで、ただ仕事に忙殺されている将軍に会えるだけで、それさえどうやら疑わしいということは公爵もよく知っていた。また、将軍ならたぶんすぐに自分に会ってくれて、パヴロフスクにつれて行ってくれるだろうとも考えたが、それまでにぜひ訪れたいと思っていた家が一軒あった。エパンチン家を訪問するのがおくれて、パヴロフスクに行くのが明日になってもしかたないというつもりで、公爵は行ってみたくなったある一軒の家を捜し出そうと決心した。
もっとも、この訪問は彼にとっては危険を帯びたものであったので、決心がつかずにしばらく躊躇《ちゅうちょ》した。この家については、ただサドーワヤ通りからほど遠からぬゴロホーワヤ通りにあるということを知っているだけであった。それで彼はその近くまで行けば、結局、なんとかはっきりした決心がつくであろうと思って、そのほうに向かって歩きだした。
ゴロホーワヤ通りとサドーワヤ通りの交叉点に近づいたとき、彼は非常に高まって来た胸の鼓動に自分ながらも驚いた。彼は心臓がこんなにはげしく打ち出そうとは思いもかけなかったのである。たぶん、ひときわ変わった外形のせいであろう、まだ遠くのほうから、一軒の家が注意をひき始めた。このことを公爵は後になってから思い出して、『これがきっと、その家に違いない』とひとり言のように言った。そして自分の予想が当たったかどうか確かめるため、なみなみならぬ強い好奇心をいだいて近づいて行った。彼は自分の予想が的中していたら、なぜか知らないが非常にいやな気持を覚えるであろうという気がした。この家は陰鬱な感じのする大きな三階建てで、いっさいの装飾というものがなく、一面くろずんだ緑色に塗られてあった。もっとも、前世紀の終りごろに建てられた、この種の家の数はあまり多くはなかったが、まだ何軒かはほとんど昔の姿を変えずにそのままペテルブルグの(変遷のはげしい)こうした街々に残っていた。これらの家の建て方は堅固なもので、壁は厚く、窓はきわめて少なく、一階の窓は時とすると格子《こうし》がはまっていた。それにいちばん下の階にはたいてい両替屋が住んでいて、その上には両替屋の世話になっているスコペッツ〔去勢禁欲をむねとする一派の人々〕が借りていた。外から見ても、内から見ても、なんだか荒寥《こうりょう》とした感じで、少しも潤いがなく、いっさいのものがなんだか姿を隠そうとしているような気がした。ただ家の外形を見ただけで、なぜそんな気がするのか、それは説明が困難である。もちろん、建築上の線の配合が独自の秘密を持っているからであろう。こうした家々に住んでいるのはもっぱら商人であった。門に近よって門標を見た公爵は、『世襲名誉市民ラゴージンの家』と読んだ。
胸の動悸を押ししずめて、ガラス戸をあけた。戸は彼の背後で騒がしい音を立ててぱたりと閉まった。彼は正面の階段を二階へ昇って行った。階段は暗く粗雑に石で組み立てられ、両側の壁は赤い染料で塗ってあった。ラゴージンは母と弟といっしょにこの人気のない、ひっそりした家の二階を全部使って暮らしていることを公爵は以前から知っていた。公爵のために扉を開いた下僕は取次ぎをせず、すぐそのまま先に立って、長いこと彼を導いて行った。二人は、壁は『大理石に似せて』塗られ、床は樫《かし》の嵌木細工《はめきざいく》になっており、二十年代風の荒削りな重そうな家具の配置されてあるものものしい客間を通り抜け、それから曲がりくねりながら小さな何とも知れない部屋を過ぎて、二段か三段の階段を幾たびか上がったりおりたりして、最後にある部屋の戸をたたいた。戸を開いたのはパルフェン・セミョーヌヴィッチその人であった。公爵の姿を眼にとめると彼はまっさおになって、その場に棒のようにたたずんだ。じっと身動きもせず、びっくりしたように視線をこらし、何かしら極度の疑惑にとらわれたように口もとをゆがめて微笑し、石の彫像のようにしばらくたたずんでいた。――まるで、公爵がたずねて来ようなどとは全く不可能なことであり、ほとんど奇跡といってもいいことだと思っているような様子であった。公爵はこれに類したことを何かしら前もって心の中に考えてはいたが、あまりに意外なこの様子には驚いた。
「パルフェン、僕はもしか悪い時に来たんじゃないかしら、僕帰るよ」と公爵はおどおどしながら、ついにこう言った。
「ちょうど好い時だ! ちょうどいいんだ」パルフェンは、はじめてわれに返ってこう言った。
二人はおれ、おまえと打ちとけたことばで語り合った。二人はモスクワではしばしば出会って、ときには長いこと語り合って、お互いの胸と胸の中に忘れることのできない印象を深く刻みこまれた瞬間も幾たびかあった。しかし、今はもう三か月以上も相会うことがなかったのである。
青白い顔の色と、あたかも細かく走るように起こる痙攣《けいれん》は、まだラゴージンの顔から消え去らなかった。彼は客を招き入れはしたが、激しく混乱した気持はまだ収まってはいなかった。彼が公爵を安楽椅子に導き、テーブルに向かってかけさせようとした時、こちらはなにげなく彼を見返って、なみなみならぬ奇妙な重苦しい視線に出会い胸をつかれてたたずんだ。何かしらあるものが公爵の胸を突き刺したかのようであったが、それと同時にまた何かしらあることが公爵の胸に思い浮かんだようであった。――それはさっきの重苦しい陰鬱な印象である。坐ろうともせずにじっと立ったまま、彼はしばらくの間ラゴージンの眼を食い入るように見つめていた。その両眼は最初の一瞬にひとしおはげしく輝いていたようであった。ついに、ラゴージンはほほえみを漏らした。しかし、まだいくぶん狼狽のあとが残っていて、なんだか落ち着かないような様子であった。
「なんだっておまえは、そんなにじろじろと見るんだい?」と、彼はつぶやいた。「掛けろよ!」
公爵は腰をおろした。
「パルフェン」と、彼は口を切った。「君、すなおな気持で言ってくれたまえ、僕が今日ペテルブルグに来ることを君は知っていたんだろう、そうだろう?」
「おまえが来るだろうとは考えていたさ、どうだい、間違いっこなかったろう」と、相手は毒々しい笑いを浮かべながら付け足した。「だが、おまえが今日来るってことが、どうしてわかるものか?」
この答えの中に含まれた鋭い発作的な調子と変にいらいらした疑問の調子は公爵をひとしお驚かした。
「だが、今日だと知っていたにしろ、なにもそんなに怒ることはないじゃないか?」公爵はどぎまぎしてこうつぶやいた。
「じゃ、おまえはなんだってあんなことを聞いたりなんぞするんだい?」
「さっき、汽車から降りたとき、今、君が後ろから僕を見ていた眼そっくりの二つの眼を見たんだよ」
「へえ! 誰のだろう、その眼ってのは?」と、ラゴージンはうさんくさそうにこう聞いた。公爵はラゴージンがこの時ぶるぶると身震いしたように思った。
「しかし、どうだかわからないよ。人ごみの中だったから。僕はただぼんやりとそんな気がしたのかもしれないよ。僕はなんだかよくぼんやりした気持になるんでね。ねえ、パルフェン、僕はね、このごろ発作の起こっていた五年前によくあったとほとんど同じような気持になるんだよ」
「なんだい、じゃ、ぼんやり、そんな気がしただけかもしれないな、おれは知らんよ……」と、パルフェンはつぶやいた。
彼は愛想のいいほほえみを浮かべたが、そのほほえみにはなんだかこわれたようなところがあって、パルフェンがどんなに一生懸命になって苦心しても貼り合わすことができないもののように、この場合の彼には全く似てもつかないものであった。
「どうだい、また外国に行くんじゃないか?」と、彼は尋ねたが、不意にまた付け足した。「おまえ覚えているかい。去年の秋、二人がいっしょにプスコフから汽車に乗って来たことを。おれはここに来るし、おまえは……マントにくるまって、ゲートルをはいていたっけな?」
こう言ってラゴージンは不意に笑いだしたが、今度はある憎悪の念をむき出しにして、あたかもそれをやっとのことで表に現わすことができたのを喜んでいるような様子であった。
「君はここにすっかり腰を据えることにしたんだね?」公爵は書斎を見まわしながらこうたずねた。
「うん、おれは自分の家にいるよ。ほかにおれのいるところがどこにあるんだ?」
「二人は長いこと会わなかったんだねえ。君のことについちゃ、まさか君がとは思えそうもないような噂をいろいろと聞いたよ」
「噂なんていろいろたつものさ」と、ラゴージンはぶっきらぼうにこう答えた。
「しかし、一党の連中を追っ払って、こうして親御さんの家に引きこもってるんだから、いたずらもできないね。だが、それも結構だよ。この家ってのは君のもの、それとも君たち共同のものなの?」
「おっ母さんの家だよ。廊下を越してこっちにいるよ、おっ母さんは」
「君の弟さんはどこにいるの?」
「弟のセミョーン・セミョーヌヴィッチは離れにいる」
「家族はあるの?」
「独身だ。おまえはなんの必要あってそんなことを聞くんだい?」
公爵はちらりと彼を眺めたが、何も答えなかった。彼は突然、考え込んでしまって相手の問いも聞こえないようであった。ラゴージンはそれ以上、問いただそうとはせずに、公爵の様子をうかがっていた。しばらく沈黙が続いた。
「僕はここに来る途中、百歩も向こうから君の家がわかったよ」と公爵が言いだした。
「どうしてそんなことが?」
「僕もさっぱりわからないんだよ。君の家が君の家族全体とラゴージン家の生活全体の外貌を持っているんだ。なぜそんな結論が下せるかって尋ねられても、僕にはなんとも説明ができないんだ。むろんこれはたわごとさ。僕はこんなことに自分が気をつかうなんて恐ろしいくらいだよ。以前は、君がこんな家に住んでいるなんて考えもしなかった、ところがこの家を見るとすぐに『あの男の家はこんなのに違いない!』と思ったんだよ」
「ちぇっ!」と言って公爵の漠然とした考えが少しも納得できなかったので、ラゴージンは当惑したような微笑を浮かべた。「この家は祖父の時代に建てたものだ」と彼は言った。「いつもスコペッツのフルジャーコフの一家が住んでいたんだ。それに今だって間借りしてるよ」
「なんて暗いんだろうねえ。君も陰気な様子をしているよ」公爵は書斎を見まわしてこう言った。
それは天井の高い薄暗い大きな部屋で、さまざまな家具類がごたごたと、あたり一面に並べてあった。大部分は大形の事務用のテーブルや仕事机や事務用の書箱や何かしら書類などのはいった戸棚であった。幅の広い赤いモロッコ革の長椅子は明らかにラゴージンの寝台に使われているものらしかった。公爵はラゴージンにすすめられて腰をおろした椅子の向かいのテーブルの上に二、三冊の本が置いてあるのに気がついた。その一冊はソロヴィヨフの歴史で、広げられた個所に栞《しおり》がはさんであった。周囲の壁にはくすんだ金縁の額の中に黒くすすけた油絵が幾つか掛かっていたが、その絵の形を見分けるのはきわめて困難であった。しかし、その中で全身の肖像画が一点、公爵の注意をひいた。肖像の主は五十歳ばかりの男で、ドイツ風のではあるが、裾の長い燕尾服を着こんで、首にはメダルを二つぶら下げ、白髪まじりの短い頤鬚《あごひげ》を生やし、顔は黄色くて皺が多く、疑り深そうな秘密をつつんだ眼はもの悲しく光っていた。
「これは君のお父さんじゃないかね?」と、公爵は尋ねた。
「そうなんだ」亡くなった父親についてすぐさま、何か無遠慮な冗談を口に出してやろうといった態度で、ラゴージンは不愉快な微笑を浮かべた。
「この人は旧教派じゃなかったのかね?」
「いいや、教会へ通っていたよ。実際には旧教派のほうが正しいとは言っていたがね。スコペッツ派もずいぶん尊敬していたよ。これは親父の書斎だったんだ。君、なんだってそんなことを聞くんだい、旧教派なのかい?」
「結婚はここでするつもり?」
「こ、ここさ」思いがけぬ質問にラゴージンは身震いせんばかりになってこう答えた。
「もう近々?」
「自分で知っているじゃないか、おれの一存でいくことじゃあるまいし」
「パルフェン、僕は君の敵じゃないから、何も君を邪魔しようとは思っていないよ。このことは以前ほとんどこれと同じような場合に一度はっきり言っておいたことだが、今またここでくり返して言っとくよ。モスクワで君の結婚の話が進んでいるとき、僕は何も邪魔などしなかったのは君も知っているじゃないか。最初あのひとは結婚のせとぎわになって、君から『救ってくれ』と言って僕の所に飛び込んできたんだ。僕はあのひとの言ったことばをそのままくり返しているんだよ、いいかね。そのあとで僕の所から逃げ出し、それからまた君が捜し出し結婚の話を進めていったんだろう、ところがまたしても君の所から逃げ出してここに来ているって言うことじゃないかね。こりゃ本当のことなんだね? レーベジェフが僕に知らせて寄越したんで、やって来たわけだがね。しかしここで君らの話はまたうまくいっているんだってねえ、これはつい昨日《きのう》、汽車の中で君の以前の友だちからはじめて聞いて知ったわけなんだよ。よけりゃ言うがね、ザリョージェフから聞いたのさ。僕がここに来たことについちゃ考えていることがあったからなんだよ。それってのはねえ、僕はどうしてもあのひとを説き伏せて保養のために外国へ行くようにしようと思ったのさ。あのひとはからだも精神も、とりわけ頭がとても乱れているからねえ。それで僕の考えでは、あのひとを非常に親切に介抱してやらなければならないと思うんだよ。僕は自分があのひとを外国につれて行こうなどとは思っていないよ、万事は僕が表に立たずに進めたいと思っている。僕は君に心の中から本当のことを言っているんだよ。もし君らの間がまたうまく運んでいるってのがすっかり本当のことなら、僕はあのひとの前に出やしない、また君の所にも今後けっして来やしないよ。君自身でよく知っているはずじゃないかね、僕はいつだって君に対して隠しだてなんかしないんだから、君をだますようなことはないって。この件について僕の考えていることを君に隠しだてなんかしやしないのだから、しょっちゅう言っているだろう、君といっしょになるのはあの人の破滅だって。君にとってもまた破滅なんだよ……もしかすると、あの人よりもっとひどいかもしれないんだ。もしまた君たちが別れるようになったら、僕はとてもうれしいんだ。しかし、君たちの話に邪魔を入れようの、掻き乱してやろうの、そんなことは毛頭考えてはいないんだよ。安心して、僕を疑うのはよしたまえ。それに君は、自分でよく知っているじゃないかね。僕はいつだって君の本当の競争相手になったことがあるかね、あのひとが僕の所へ逃げて来たときでさえ。おや、今君は笑ったね? なんで笑ったか知っているよ。それにあのとき二人は別々な町に別れて暮らしたんだ、そのことは君がはっきりしているはずだ。以前に君によく説明していたとおり、僕はあのひとを『恋で愛しているんじゃなくて憐憫《れんびん》の情から愛している』んだよ。僕はこのことばが実に適切に言い現わしていると思うんだ。あのとき君は僕のこのことばの意味が実によくわかるって言ったねえ、本当だったんだろう? わかったんだろう? おお、なんて憎々しそうな眼をしているんだろう。君は僕にとっては愛すべき人なんだから、僕は君を安心させようと思って来たんだよ。パルフェン、僕は君がとても好きなんだ。しかし、もう行こう、そしてもうけっして来ないよ。さようなら」
公爵は立ち上がった。
「ちょっと待ってくれ」パルフェンはその場を立たずに右手の掌で頭をささえながら、低い声でこう言った。「ずいぶん、おまえに会わなかったなあ」
公爵は腰をおろした。またしても二人は無言であった。
「レフ・ニコライヴィッチ、おれはな、おまえが目の前にいなくなるとすぐにおまえに憎悪を感じるんだ。おまえに別れてからのこの三か月というものは、しょっちゅうおまえが憎くってたまらなかった。本当のことだ。おまえを引っつかまえ何か毒でもくらわして殺してやりたかったんだ! そんなぐあいだったんだ。しかし、今はものの十五分とはいっしょにいないんだが、もう憎悪も何もすっかり、けし飛んじゃって、以前のようにやっぱりおまえが好きんなっちまったんだ。もう少しいっしょにいてくれ……」
「僕といっしょにいると、君は僕を信じてくれるんだが、僕がいなくなるとすぐさま信じられなくなって、また疑いだすんだねえ。君のお父さんに似ているんだねえ!」やさしい微笑を浮かべ、自分の感情を押しかくすようにしながら、公爵はこう答えた。
「おまえと向かい合っていると、おまえの声を信じてしまうんだ。おまえとおれとを一様に見るわけにゃゆかないってことはおれだってよくわきまえてはいるんだが……」
「なんだってそんなことまで言うの? また腹が立ってきたね」公爵はラゴージンの態度に驚いて、こう言った。
「だっておまえ、誰もおれたちの意見を聞いているわけじゃないじゃないか」とこちらは答えた。「おれたちのことはそっちのけでいっさい決めっちまうんだよ。そら、おれたちが惚れるんだって惚れ方が全然違うだろう、つまり何につけても相違ってもんがあるんだよ」彼はこう言ってちょっと口をつぐんだが、また続けて語りだした。「それ、おまえは憐憫の情から愛してるって言うだろう。ところがおれはあの女に憐憫なんて少しも感じないんだ。それにあの女は何よりもひどくおれを憎んでいるんだ。あの女は今じゃ毎晩おれの夢に出てくるんだよ。そしていつもあの女が他の男といっしょにおれを嘲笑しているんだ。なあおまえ、そりゃ実際のことだものなあ。おれと結婚すると言っておきながら、おれのことは念頭にないんだからなあ。まるで沓《くつ》でも取りかえるようなあんばいだ。おまえは本気にするかどうかは知らないが、おれは思いきって行く勇気が出ないんで、もう五日というものあの女に会わないんだよ。『何のご用でいらっしゃったの?』とやられると思うとなあ。あの女にはちょいちょい恥をかかされたからなあ……」
「恥をかかされたなんて? 何を君は言うんだい?」
「しらっばくれていやがる!『婚礼のまぎわ』になって、おれんところからおまえといっしょに逃げ出したって、たった今自分で言ったじゃないか」
「君は自分では……なんてことは本当に信じられないだろう」
「じゃ、あの女はモスクワでゼムチュージニコフって将校といっしょにおれに恥をかかせなかったかい? 恥をかかせやがったことはよくわかっているんだ。それも自分で婚礼の日どりを決めたすぐあとなんだぞ」
「そんなことはないよ!」と公爵は叫んだ。
「いやたしかにそうだ」と確信しているようにラゴージンは強く言った。「じゃなにかい、そんな女じゃないとでも言うのか? そりゃおまえ、そんな女でないことは言うまでもないさ。今言ったことはつまらない愚痴だよ。おまえといっしょにいるときはそんな女じゃないさ、むしろ自分じゃそんなことを見たら恐ろしがるだろう、ところがおれといっしょにいるときには徹頭徹尾そんな女なんだ。全くそうなんだぜ。おれを底なしの悪党だと思っているんだ。ケルレルのことだって、それ、あの拳闘をやらかす先生のことだって、おれにはよくわかっているんだ――ただおれを嘲弄したいためにばっかりあの女のこしらえたことなんだよ……まあおまえはあの女がモスクワでおれにどんな仕打ちをしたかまだ知らないんだよ! それから金だって、金はずいぶんつぎこんだものだぞ……」
「それに……君は今でもやっぱり結婚しようって言うんだねえ! いったいこの先はどんなことになるんだろう?」公爵は恐れながらこう尋ねた。
ラゴージンは重苦しい恐ろしい眼つきで公爵をながめたが、何も返事をしなかった。
「おれはもう五日というもの、あの女のところに行かない」しばらく口をつぐんでいたラゴージンはやがて話を続けた。「いつだっておれは恐れているんだ、追い立てられはしないかと思って。わたしはまだ自分の魂の主人だから、しようと思えば、どんなにしてでもおまえさんなんか追っ払って、自分で外国へ行くことができるんですよ、とこう言うのだぜ(外国へ行くんだってことは、あの女がおれに言ったんだよ、――と、彼は公爵を意味ありげな眼つきでながめながら、ちょうど、括弧《かっこ》にでも入れるような調子で言ったのである)。そうかと思えば、人をさんざんおどしつけて、しょっちゅう何かしら、おれをからかっているんだ。そしてまたどうかすると実際眉をしかめていやな顔をしてひと言もものを言わないんだ。おれはこいつがこわいんだ。で、近ごろふっと思いついたんだが、いつも手ぶらで来るからいけないんだとねえ、ところが初めのうち、あの女はただ笑ってばかりいたが、しまいには、そんなことされるのをひどく憎みだしたもんだ。それからなあ、あの女は以前はぜいたくな暮らしはしていたが、それにしてもこれまで見たことはあるまいと思われるようなすばらしい首巻を持っていた、ところがそいつを小間使のカーチヤにくれてやってしまったんだぜ。いつ結婚するかってことは、これっぱかしも言わないんだ。相手の女んところに出かけて行くのにただもうびくびくしているような、こんな許婚《いいなずけ》の男なんていつどこの世界にあっただろうか。こんな風にじっと坐っていても、たまらなくなると飛び出して行って、こっそりとあの女の家の近くを往ったり来たりするか、それでなきゃ物陰に隠れているんだよ。ひょっと気がつくと夜明け近くまで、門の近くで見はりしているんだ。そのときなんだかちらっと目にとまったものがあるんだ。するとあの女が窓から見ているんだ。そして『もしわたしがおまえさんをだましていることがわかったらいったい私をどうするつもり?』って聞くのさ。で、おれはたまりかねて『おまえさんが自分で知ってるはずだ』と言ってやった」
「何を知ってるって?」
「おれだってなんだか知るものか?」とラゴージンは憎々しげな微笑をもらした。「おれはあのときモスクワであの女の相手の男ってのを、ずいぶん長いこと捜したんだが、ついに見つけ出すことができなかった。で、おれはあのとき一度あの女をつかまえて尋ねたことがあるんだ。『おまえはもうじきおれと結婚してまじめな家庭にはいることになっているのに、今のざまはなんとしたことだ? おまえはなんていう女だ!』とこう言ってやったんだ」
「君、あの女《ひと》にそんなことを言ったの?」
「言ったさ」
「そしたら?」
「『わたしは今おまえさんを召使にだって使いたくない、ましておまえさんの奥さんになんかなるなんてとんでもないことだ』って言いやがるのさ。それでおれは言ってやった。『おれは出てゆきゃしない、落ち着く先はわかっているんだ』すると今度は『じゃ、わたし今すぐにケルレルを呼んでおまえさんを門の外へ放り出させてやるからいいよ』ってほざきやがるんだ。それであの女に飛びかかって血のむくむほど引っぱたいてやった」
「そんなことをするってあるものか!」と公爵が叫んだ。
「それがあったのさ」低い声ではあったがラゴージンは、眼をぎらぎらさせてこう言い放った。「それからまる一昼夜と半日っていうものは寝もせず、飲まず食わず部屋から一歩も外へ出ず、あいつの前にひざまずいて、『許してくれない間は一歩もここを出ないで、死んでしまう、人を呼んで引きずり出すようだったら水ん中へ飛びこんじまう。おまえと添えなきゃ生きているかいがないんだから』と言ったんだ。あいつはその日一日というものはまるで狂人《きちがい》のようだった、今泣いているかと思うと、今度は小刀でおれをさし殺そうとしたり、悪態をついたりするんだ。そして、ザリョージェフとかケルレルとかゼムチュージニコフとかいうやつらを呼んで、おれの方を指さしやがって嘲弄するんだぜ。『みなさん、今日はいっしょに芝居に行きましょう。この人はここから出たくないって言うんだからこのまま放っておくがいいわ。わたしこの人にひっぱられている訳はないんだから。パルフェン・セミョーヌヴィッチ、わたしがいなくてもお茶を出すように言っておきますよ。あんたはきっと今日はお腹《なか》がすいているでしょうからね』芝居からは一人で帰って来たが、『あの連中は臆病者で意気地なしだから、おまえさんを恐れているんだよ。そのくせ、あの様子じゃラゴージンは帰って行きそうもないし、もしかするとあなたを切り殺すかもしれないと言って私を脅かすのよ。わたしこれから寝室へ行くけれど、わざと戸締りなんかしませんよ。そらわたしは非常におまえさんを恐れているんですよ! これでよくわかるがいい! おまえさん、お茶は飲んだの?』って言うのだ。それでおれは『いいや、飲むものか』と答えた。すると『それはお立派なことかもしれないが、ちっともおまえさんに似つかわしくないわねえ』ってぬかしやがるのさ。そして言ったとおりに部屋の戸を閉めずに寝ちまったよ。あくる朝になったら、『おまえさん、気でも狂ったんじゃないの? そんなにしていたら飢え死にしてしまうじゃないの?』と言って笑うのだ。それでおれが『許してくれ』と言うと、『わたし許すのはいや、おまえさんとはいっしょにならないって言ったじゃないの。それにしても本当におまえさんはこの肘つき椅子にかけたまま一晩じゅうねむらなかったの』『ふん、寝なかったよ』とおれは言った。『まあ、なんて利口な人だろう? じゃ、やっぱりお茶ものみたくなきゃ御飯もたべたくないの?』『ほしくないって言ったじゃないか。――許してくれよう!』『おまえさんにそんなのは全く似つかわしくないわよ。まるで牝牛に靴を置いたようじゃなくって? それがわからないの、おまえさん、わたしを脅かそうって考えついたんじゃないの? おまえさんがそんな風にお腹《なか》をすかせて坐っているのを見て、わたしがなんて可哀そうなんだろうなんて言うと思ったの? とんでもない、人を驚かせるわねえ!』そう言って憤っているのだよ、しかし、それも長く続きはしないんだ、すぐにおれをからかいだすんだよ。が、そのとき、あの女がこれっぱかしもおれを憎んでいないってことには驚かされたよ。ところがあの女は執念深く憎悪をいだいている人間なんだ、長いこと執念深く人に憎悪をいだいている女なんだ! それでそのとき、ふと念頭に浮かんだことがあるよ、あの女は強い憎悪をおれに感ずることができないほどおれを甘く見ているんだ。これは間違いないことだよ。『おまえさん、ローマ法皇ってどんな人だか知っている?』と、あの女が言った。それで『聞いたことはある』っておれは言った。するとあの女は『パルフェン・セミョーヌヴィッチ、おまえさん万国史をちっとも習ったことないの?』って聞くんだ。で『おれは何も習ったことはない』と答えると、『じゃ、ここでわたしが教えてあげよう。一人の法皇がいて、ある皇帝に腹を立てたのよ。するとこちらはお許しがでるまで三日の間、法皇さんの門前に飲まず食わずにひざまずいて待っていたのよ。この皇帝が三日の間、ひざまずいて待っていた間に心の中でどんなことを考え、どんな誓いを立てていたか、おまえさんわかる? ……あ、ちょっと待ってちょうだい、これはわたしが自分でおまえさんに読んで聞かして上げるわ』とこう言って立ち上がって本を持って来た。『これは詩なのよ』と前おきして、この皇帝が三日間のうちにこの法皇に復讐せずにはおかぬと誓った詩を読んで聞かせてくれた。そして『パルフェン・セミョーヌヴィッチ、これはおまえさんの気に入って?』と聞いた。それでおれは『おまえさんの読んでくれたことは全く本当だ』と返事をした。『まあ、おまえさんが本当だなんて言うところを見ると、おまえさんもきっと、あいつがおれのところへ来たらその時こそいっさいのことを思い起こして、あいつに思う存分のことをしなくては、とかなんとか誓いを立てたんだわねえ』『わからない、もしかすればそんなことを考えているかもしれぬ』『どうしてわからないの?』『そんなことはわからない。今そんなことを考えようとは思わない』『じゃ、おまえさん、今何を考えているの?』『そらおまえさんが席を立って、おれの傍を通る、するとおれはおまえさんをながめ、後姿を見送る。おまえさんの衣触《きぬずれ》の音がすると、おれの心臓は下のほうに落ちてゆくような気がする。おまえさんが部屋を出てゆく、するとおれはおまえさんの言ったことばのひと言ひと言を心の中によび返してみ、またどんな声だったか、どんなことを言ったかを心の中で考えてみる。それに昨晩は何ごとも考えずに、ただおまえさんの寝息に耳をすまして聞き入り、また二度ばかり寝返りをした音も聞いた……』するとあの女は笑いだしながら言った、『じゃおまえさん、わたしをなぐったことなんか考え出しも思い出しもしなかったんだね?』『もしかすると考えているのかしれん、わからない』『じゃ、わたしがおまえさんを許さないで、いっしょにはどうしてもならないって言ったら?』『さきにもう言ったよ、水にはいって死ぬのだ』『たぶんその前に殺すだろうね』と、こうあの女は言って考えこんでいたが、しばらくするとぷりぷりして部屋を出て行った。それから一時間ほどたつと恐ろしく陰気な顔をしておれのところへやって来て、『パルフェン・セミョーヌヴィッチ、わたしは、おまえさんといっしょになります。こう言ったからっておまえさんがこわいからじゃないのよ、どっちみちわたしは滅びるからだなんだもの。どこへ行ったっていいことはあるものか? おかけなさい、おまえさんに今すぐご飯をあげるわよ。え、おまえさんといっしょになると言ったからには、わたしはおまえさんの貞淑な奥さんですよ。だからもうこのことは疑ったり心配したりしないでちょうだい』と言ったんだよ。そしてしばらく無言でいたが、また言いだした、『どうしたっておまえさんは召使じゃないんだものねえ。わたし以前、おまえさんをもってこいの下男だと考えていたの』まあこうしてとにかく式の日どりが決まったのだ。ところが一週間たつと、おれのところから、このレーベジェフのところに逃げ出して来たんだ。おれがここに来ると、あの女は『あたしはどうあってもおまえさんがいやだというんじゃないわ。だけど、わたしが心ゆくまで待っていてもらいたいのよ。だってわたしはまだ自分の心の主人なんですもの。わたしがおのぞみならおまえさんもお待ちなさいな』まあ、つまりこれが今の二人の状態なのさ……ところでレフ・ニコライヴィッチさん、おまえはこのことをどう考えるかい?」
「自分では君はどう考えているの?」公爵は、ラゴージンを愁わしげなまなざしでながめながら、こう問い返した。
「おれがいったい何を考えるっていうんだ?」こちらは、ひったくるような調子でこう言った。彼はまだ何か言い添えたいような様子であったが、口には出し得ない哀愁にとらわれて口をつぐんだ。
「僕はどうしたって君の邪魔はしないよ」あたかも自分の心の奥深く秘めた思いに答えるようにうち沈んだ調子で、小声に彼はこう言った。
「ところでねえ、おまえに言いたいことがあるんだ!」不意にラゴージンは活気づいてこう言った。彼のまなざしは輝きだした。「おまえはなんだってそんなにおれの下手に出ようってするんだい? おれには合点がいかん。すっかり恋がさめたとでもいうのかい? 以前おまえなんといったってさびしそうにしていたからなあ、おれはちゃんと見ていたよ。それじゃ今度なんのためにしゃにむにここへ駆けつけて来たんだい? 憐憫の情のためかえ?(こう言っている彼の顔は兇猛な嘲笑のためにゆがんで見えた)へ! へ!」
「僕が君をだましていると思っているのかね?」と、公爵は聞いた。
「いいや、おれはおまえを信じているんだ、しかし、それにしても少しも腑《ふ》に落ちないんだ。おまえの同情の心ってのは何よりもたしかだ。あるいはおれの恋よりも強いだろう!」
兇猛なそして今にも口をついて出さずにはいられないといった風のある表情が彼の顔にぱっと燃え上がった。
「だって、君の恋は憎悪と見分けがつかないんだものね」と、言って公爵はほほえんだ。「その恋が消えてしまったら、もっと不幸なことが起こるに違いないよ。ねえ、パルフェンさん、僕はこのことを君に言っておくよ……」
「おれが切り殺すとでもいうのだな?」
公爵はぶるぶると震えた。
「君は現在の恋のために、現在なめているいっさいの苦痛のために、あの女をひどく憎むようになるだろう。あの女が君といっしょになろうとまたしても考えるようになったのが、僕にとっては何よりも奇異に思われてならない。昨日そのことを聞いた時、僕はほとんど信ずることができなかった、そして非常に重苦しい気分になった。あのひとが二度も君を拒んで、式のまぎわに逃げ出したことは、つまり予感があったからなんだ!……いったいあの女はいま君の何を期待しているのだろう? 君の金だろうか? それは取るに足らぬばかげたことだ! それに金は君もおそらくずいぶんかけたことだろうからね。するとただ夫がほしいからだろうか? それならあの女は君以外に男を見いだすことができるはずだ。君以外の誰であろうとあの女にとっては君よりはましだからねえ。なぜなら、君はすぐにあの女を切り殺してしまうからだ。あの女も今ではおそらくこのことはよくよく感づいているに違いない。君はそんなに強くあの女を、どうして愛するのだろう? 実際、こうしたことは、全く……こうした恋を捜し求めている女があるってことは、僕も聞いている……しかしただ……」
公爵は口をつぐんでもの思いにふけった。
「なんだ、また親父の写真を見て笑ってるな?」公爵の顔にあらわれるあらゆる変化、あらゆる筋肉の動きを一つのがさずに異常な注意を集めて観察していたラゴージンはこう尋ねた。
「僕が何か笑ったって? もしもこうした不幸が君を見舞わなかったら、このような恋が起こらなかったら、君はおそらく、君のお父さんそっくりの人になっただろう。それもごく最近のうちに、と、こう僕は考えていただけなのさ。ここのこの家でおとなしい口数の少ない奥さんと二人で坐って、ときどき口を出ることばも紋切り型で、だれ一人信用せず、またその必要を少しも感ぜずに、無言のまま、陰気な顔をして、ただひたすら金を貯《た》めていることだろうね。そして時たま古い本を取り出してはしきりと感心し、また二本指で十字を切ることに興味をいだくようになるんだ。といってもこれはずっと年を取ってからだがね……」
「せいぜいからかうがいいさ。しかし、それ、全く同じことをあの女も近ごろ言ったよ、やっぱりこの肖像を眺めながらね。おまえたちは何もかもすっかり一致するなんて不思議だなあ」
「じゃ、あのひとは君のところへ来たことがあるの?」公爵は好奇心に誘われてこう聞いた。
「来たよ。長いあいだ肖像をながめ、亡くなった人のことをいろいろ聞いていた。そして『おまえさんはこの人そっくりになるはずだったわねえ』としまいにはおれにかすかに笑いかけながら言ったよ。『パルフェン・セミョーヌヴィッチさん、おまえさんには優れた謙譲の心があるからよかったようなものの、それがなかったら、おまえさんは激しい欲情を持っているのだから、きっとシベリアに流刑されたに違いないわ』とこう言ったんだよ(あの女がこう言ったんだよ、おまえに信じられるかどうか知らないが? あいつがこんなことを言うのははじめて聞いたよ!)。それから『おまえさんが今してるような悪ふざけをいっさいよしてしまったら、おまえさんみたいにちっとも教育のない人間はすぐにお金を貯め始め、お父さんのようにスコペッツ派の連中に取り巻かれてこの家の中に坐っていることでしょうねえ。それからもしかしたら、しまいにはあの連中のほうへ宗旨変えしたかもしれないわ。お金はとても好きになって二百万はおろか、どうかすると千万くらいは貯めこんで、その金袋に取り巻かれて飢え死にするでしょうよ。なぜって、おまえさんは万事につけて欲情が激しくって、どんづまりまで行かなきゃおさまらないんだから』と、こうも言った。実際これそっくりの話し振りだった、ことばだってそのままと言ってもいいくらいだ。それまで一度だっておれにこんなことを話したことはなかった! あの女はいつでも取るにも足らないばかげたことを言っているか、でなければ人をからかってばかりいたんだ。それにその時だってはじめは笑っていたんだが、後になると恐ろしく気むずかしくなってきた。それからこの家をずっと見て回ったんだが、何かにおどおどしているような様子だった。『この家をすっかり改築して気持よくしよう、でなければ、式に間に合うように他の家を買おう』とおれが言うと、あの女は『いえ、いえ。何も改めることなんかないわ。このままで暮らしましょう、あんたの奥さんになったら、わたしあんたのお母さんの傍で暮らしたいのよ』と言ってくれたぜ。それからあの女をおふくろのところへつれて行ってやったが、おふくろに対して肉親の娘がするように親切なんだよ。おふくろは以前から、もう二年というもの半分ばかみたいになってじっと坐っているんだ(病気なんだよ)、そして親父が死んでからこっちはすっかり赤ん坊みたいになって話もできず足も立たず坐ったまんまで人さえ見れば誰かまわずにその場からお辞儀ばっかりしている始末なのさ。飯をたべさせなくったって三日ぐらいは気がつかないでいるそうだよ。おれはおふくろの右手を取ってあの女の手にのっけてやった。『祝福しておくれ、お母さんおれのお嫁さんになる人だよ』とおれが言うと、あの女は情をこめておふくろの手に接吻してから言ったよ、『きっと、おまえさんのお母さんはいろいろな苦しみを堪え通して来たかただわ』そこらの本をなあ、あの女が目にとめて、『これはどうしたの、ロシア歴史を読み始めたの?』と言った(モスクワにいるとき、いつだったか一度あの女が言ったことがあるんだよ。『おまえさん、ソロヴィョーフのロシア歴史を読むなりなんなりして自分を教育するといいわ。おまえさんたら何一つ知らないんだから』)。『これはいいことだわ、こうしてお読みなさいよ。わたしはおまえさんが初歩にどんな本を読まなきゃならないか、目録をこしらえてあげるわ。ほしい? ほしくない?』あの女がおれにこんなことばをかけたことはそれまでに一度もなかったので、おれはむしろ驚いた。それでその時はじめて人間らしい気持になってほっと息をついたよ」
「僕は、それを聞いてとても嬉しいよ、パルフェンさん」と、公爵は心の底からこう言った。「たいへんうれしいよ、もしかしたら神様が二人の間をうまくまとめてくださるかもしれないよ」
「断然そんなことはない!」とラゴージンは性急に叫んだ。
「いいかい、パルフェンさん、もし君があの女《ひと》を愛しているのなら、いったいどうしてあのひとに尊敬されたいとは思わないのかい? もしそう思っているのなら、そんなにやけを起こすことはないよ。そら、さっき僕が言ったろう、あの女《ひと》がどうして君と結婚しようとしているかということが僕には驚くべき問題なんだ。僕にはそれを解くことはできない、しかし、そこにはきっと十分に考えぬかれた、ある理由があるに違いないということはどうしても疑い得ない。あのひとは君の愛を十分信じているし、また君のもっている美点も間違いなく認めている。これは確かなことだ! 君が今言ったことがそれを裏書きしている。あの女がそれまでの態度や話しぶりと打って変わったことばで君に語ったということを君が自分でちゃんと言ったじゃないか。君は猜疑心《さいぎしん》が強く、嫉妬《しっと》深いから、何事でも悪いほうのことばかりに気がついてそれを誇張するのだよ。それにもちろんあのひとは君が言うほど君のことを悪く思っちゃいないよ。だって、それでなかったら、あの女が君といっしょになろうとするのは意識的に水に飛びこむのか、刃の下にもぐりこむのと同じことじゃないか。そんなことがどうしてあるものか。誰がいったい、好きこのんで水の中に飛びこんだり刃の下をかいくぐったりするものか?」
パルフェンは苦っぽいほほえみを浮かべながら、公爵の熱しきったことばを最後まで聞き終えた。彼の信念はもはや微動だにしないほどしっかりと決まったもののようであった。
「なんだって君はそんな不愉快な眼つきをして人を見るの?」と公爵は圧迫されるような感じをうけてかろうじてこう言った。
「水の中か刃の下か!」と、こちらはやっとのことでことばを吐いた。「へえ! だから、あの女がおれんところへ来るのは、まぎれもなくおれの後に刃が控えているからだ! 公爵、本当かい、おまえ、今まで事の経緯《いきさつ》を知らなかったのかい?」
「僕は君の言うことがわからないよ」
「それもそうかなあ、だが本当にわからないとは、へへ! おまえのことを他人が|あれ《ヽヽ》だって言うが……あの女は他のやつに惚れているんだよ。そら、どうだい! おれが今あの女に惚れているのと全く同じくらいあの女は今ほかのやつに惚れているのだ。ほかのやつってのを、おまえ誰だか知っているかい? それは、おまえなんだ! なあんだ、知らなかったのかい?」
「僕?」
「おまえさ。あの女はあの誕生日のあの時からおまえにまいっちまったんだ。しかし、あの女はおまえといっしょになることはできないことだと思いこんでいるんだ。なぜって、そうなりゃ、あの女がおまえを汚し、おまえの一生を不幸にすることになるからな。『わたしがどんな女だかわかりきっているじゃないの』ってよく言ったよ。このことは今までくり返し言っている。このことはみんなあの女が自分の口からおれに面と向かって言ったんだ。おまえを汚し不幸にすることはどうしても許されないが、おれなんぞは、どうだっていい、だからいっしょになってやれ――と、こんな風におれを見ているのさ、こいつも承知しといてもらおうぜ!」
「じゃなんだってあの女《ひと》は君の所から僕の所へ逃げて来たんだろう、また……僕のもとから……」
「おまえのところからおれのところへ! へえ! 不意にあの女がそんなことを思いつくのは珍しいことじゃないや! あの女は今はまるっきりもう熱病みたいになっているんだ。ともすると『水の中へ飛びこむ覚悟でおまえさんといっしょになるんだよ。一刻も早く結婚しましょう!』って叫び立てるんだ。そして自分からせき立てて、式の日取りを決めるんだ、ところがその日が近づくと――こわくなるのか、違った考えでも浮かぶのか、そこんとこはなんともわからないが、おまえも知っているように、泣くは、笑うは、熱病みたいに暴れ回るって始末さ。だから、おまえの所から逃げ出したなんてことは少しも不思議じゃないや。あの女があの時おまえの所から逃げ出したのは、どんなに強くおまえを愛しているかってことを自分で気がついたからなんだよ。おまえのところにいたたまらなくなったんだ。おれがモスクワで捜し出したって、おまえはさっき言ったねえ。ところが嘘なのさ――自分でおまえの所からおれの所へ駆けつけて、『日取りを決めてちょうだい、わたし覚悟をしたのよ! シャンパンをお出し! ジプシイ女のところへ行きましょう!』と叫び立てたんだ!……だから、おれがいなかったら、あの女はとっくに水ん中に飛びこんでいるよ。こりゃ確かなことだ。身を投げないのは、たぶんおれが水よりもっとこわいからなんだろう。意地からおれといっしょになろうっていうんだよ……いっしょになるようにでもなったら。それこそ、意地からすることなんだ」
「君はまたなんていうことを……なんてことを……」と公爵は叫びはしたが、ことばが続かなかった。彼は恐ろしそうにラゴージンを見まもった。
「なんだって終《しま》いまで言わないんだ」とこちらは笑いながら口を出した。「おのぞみなら言ってやろうか、おまえは今心の中で『そうだ、今となっちゃ、どうしてあのひとをこいつといっしょにさせられよう? どうしてあの女《ひと》にそんなことがさせられよう?』と考えているんだ。わかりきってらあ、おまえの考えていることなんか……」
「僕はそんなことでここへ来たんじゃない、パルフェンさん、嘘じゃないよ、そんなことは考えてもいなかった……」
「たぶん、そんなことで来たんでもなければ、考えもしなかっただろうさ、ところが、たった今、間違いもなく、そうなったのだよ、へ、へ! いや、もう結構だよ! なんだってそんなにびっくりするんだい? だが、本当に少しもそれを知らなかったのかい? 驚かせるなよ!」
「それはみな嫉妬のせいだよ。パルフェンさん、全く病気のためだよ、それはみな君が途方もなく誇張して考えるからなのだよ……」公爵は心中に激しい動揺を覚えながら、低い声でこう言った。「どうしたの、君は?」
「捨てろよ」とラゴージンは、こう言って、卓上の本の脇から公爵がなにげなく取り上げたナイフをひったくって元の場所へ置いた。
「僕は、ペテルブルグにいるころから、なんだかわかっていたようだし、なんだか予感があるようだった……」と公爵は語り続けた。「僕はここへ来たくなかったんだよ! 僕はここであったことをすっかり忘れてしまいたかった、心臓から引き抜いてしまいたかった! じゃ、さようなら……どうしたんだい、君は!」
こう言いながら、公爵は放心したように、またしても例のナイフを卓上から取り上げた。すると再びラゴージンがそれを取り上げて卓上に放り出した。それは至極ありふれた形の鹿の角の柄がついた折りたたみのできないナイフで、刃渡りは五寸足らず、幅もそれにふさわしいものであった。
このナイフを二度までも、ひったくられたことに、公爵が特別の注意を払っているのに気がついたラゴージンは、憎々しげな憤りの色を浮かべて、ナイフを引っつかむと本の間にはさんで、本といっしょに他のテーブルに投げ出した。
「君はそれで本のページでも切るのかね?」と公爵は尋ねたが、その様子はどことなくぼんやりしていて、まだもの思いから十分にさめきらないもののようであった。
「そうだ、ページを……」
「それは庭園用のナイフなんだろう?」
「うん、庭園用のだ。庭園用のナイフでページを切っちゃいけないというのかい?」
「だけど、それは……真新《まっさら》らしいんだよ」
「うん、真新らしいのがどうしたっていうんだい? おれが現在、新しいナイフを買える御身分じゃないっていうのかい?」ついに、どうしたことかわれを忘れて、一語ごとに疳癪《かんしゃく》を募らせながらラゴージンはこう叫んだ。
公爵はぶるぶるっと身震いして、眼をすえてラゴージンをみつめた。
「おれたちは、まあ!」すっかりわれに返った公爵は、こう言ってにわかに笑いだした。「君、ごめんよ、おれひどく頭が重くなると、今みたいになるんだよ。そしてあの病気が……おれはまるっきり、まるっきりあんなぼんやりしたばかげた気持になるんだよ。おれは全くあんなことを聞こうって気はなかったんだ……何もおぼえていないのだよ。さようなら……」
「こっちじゃない」とラゴージンが言った。
「忘れちゃった」
「こっちだ、こっちだ、おれが連れて行ってやろう」
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公爵がさっき通って来た部屋を二人は通り抜けて行った。ラゴージンが少し先に進み、公爵がその後に続いた。大きな客間にはいった。ここの周囲の壁には幾つかの絵がかけてあった。それらは僧正の肖像画と風景画であったが、見分けがつかないほど古びていた。次の部屋に通ずる扉の上のほうには、縦が五尺五寸ほどあるのに、横は八寸と少しくらいしかない恐ろしく奇妙な形をした絵が一点かかっていた。これには十字架からおろされたばかりの救世主が描かれてあった。公爵はこの絵をちらりと見て、何か思い出したようであったが、立ち止まろうとはせず、そのまま戸口を通り抜けようとした。彼は非常に気分が重いので一刻も早くこの家を出てしまいたいと思っていた。ところがラゴージンは突然この絵の前に立ち止まったのである。
「そら、ここにある絵はみな」と彼は口を切った。「みな、一ルーブルか二ルーブル出して、亡くなった親父が糶売《せり》で買って来たものなんだよ。親父は絵が好きだったからなあ。ここにある絵をある目ききの男が見て、どれもこれもがらくただって言ったが、そら、これは――扉の上のやつさ、これはがらくたじゃないって言っていたよ。これだって二ルーブルで買ったもんだけれどなあ。まだ親父の生きているころ、こいつを三百五十ルーブルで譲ってくれって言う者があった、その人間てのは非常に絵の好きなサヴェーリエフ・イワン・ドミートリヴィッチという商人なんだ、そして四百ルーブルまでせり上げたものだった。ところがまた先週のことだが、弟のセミョーン・セミョーノヴィッチに五百ルーブル出そうと申し込んで来た者があるんだ。それは自分がとって置きたかったから断わったよ」
「あ、これは……ハンス・ホルバインの模写だよ」やっとこの絵を見分けた公爵がこう言った。「僕はたいして目ききじゃないけれどすばらしい模写のようだねえ。僕はこの絵をあちらで見たことがあるんだが、忘れられないよ。だけど……どうして君は……」
ラゴージンはにわかに絵を見すてて、今までの道を先に歩み出した。もちろん、不意にラゴージンの様子に現われた気抜けのしたような態度や、異様ないらいらした気分が、たぶんこの突拍子もないふるまいを説明してはいるだろう、しかし、それにしても、ラゴージンが自分のほうから切り出した話を突然うち切って、公爵に返事もしないのが公爵にはなぜかしら不思議に思われたのである。
「なあ、レフ・ニコライヴィッチ、とうからおまえに聞きたいと思っていたんだが、おまえは神を信じているのかい、信じていないのかい?」数歩進んだとき、またいきなりラゴージンはこう切り出した。
「なんだって君は奇妙なことを聞くんだい、それに……その眼つきといったら?」公爵は思わずこう言った。
「あの絵を見るのが大好きだ」しばらく黙っていたラゴージンは、またもや自分の問いかけたことは忘れたように、口の中でつぶやいた。
「あの絵を!」はっと胸に浮かんだ考えにつられて、公爵は不意にこう叫んだ。「あの絵を! そうだ、あの絵を見ていると信仰を失う人さえあるに違いない!」
「そりゃ失ってしまうとも」思いがけなくもラゴージンが不意にこう言い切った。
二人はその時、出口のすぐ傍《そば》に来ていた。「なんだって」と言って公爵は急に立ち止まった。「なんてことを君は! おれは冗談のつもりで言ったのに、そんなに真剣になって! それに君はなんだって聞いたの、おれが神を信ずるかどうかなんて?」
「そりゃなんでもないんだよ。あの、おれは前々から聞いてみたいと思っていたんだ。どうだ、本当だろうか(おまえは外国で生活したんだからなあ)――おれになあ、ある男が酔っ払って言ったことがあるんだよ、わがロシアにはね、神を信じない人間が、世界のどの国よりも多いんだって。そいつは『わが国ではよその国よりそれがやさしい、われわれはよその国より前に進んでいるのだから』って、そう言ったぜ……」
ラゴージンはばかにしたようなほほえみを浮かべた。自分の言うことだけ言ってしまうと、いきなり彼は扉をあけて、ハンドルをつかんで、公爵が出て行くのを待ちうけた。公爵はびっくりしたが、そのまま扉の外へ出た。こちらはその後ろから階段の上の上り口に出て後手のまま扉を閉めた。二人とも自分たちはどこへ来たのか、またさしずめ何をしたらいいのか忘れてしまったような顔つきで、面と向かい合いながらたたずんでいた。
「じゃ、さよなら」と公爵は手を差し出しながら言った。
「さようなら」と言ってラゴージンは、さし出された手を固くただ機械的に握った。
公爵は階段を一段おりてから後をふり返った。
「あの信仰のことなんだが」と彼はほほえみをたたえ、そのうえ、ふいとあることを思い出したため元気づいて(明らかにラゴージンとこんな気持で別れたくなかったので)語り始めた。「信仰のことなんだがね、僕は先週は二日の間に四人の毛色の変わった人にあったんだよ。朝は新設の鉄道に乗っていて、列車の中でCという人と四時間ばかり話し込んで、すっかり近づきになっちまったよ。僕はそれまでにもその人のことはずいぶんいろいろ聞いていた、とりわけ、無神論者ってことはよく聞いていたんだよ。その人は実際とても学識のある人なんだ、それで僕は本当の学者と話ができると思ってたいへんうれしかったねえ。そのうえ、その人が珍しく人間のできた人だったんで、僕に対しても認識や概念の程度を同じゅうしたものとして十分に話してくださったよ。その人は神を信じないんだよ。しかし、その人はその間ずっともう、まるで神を信じない人じゃないような話をなすったんだよ。これには僕すっかり驚いてしまったよ。なぜって、その前にも僕はかなり不信心者の人々にも会ったし、その方面の本も読んだんだけれど、その連中の言うことや、その方面の本に書いてあることは表面はいかにももっともらしいが、真実のところは全然それと違ったもののように思われたからなんだよ。僕はその時、その人にこのことを言ったんだ、しかし、たぶん僕の言うことがはっきりしなかったのか、それとも言い方がまずかったのか、その人には僕の言うことが何が何やらわからなかったんだよ……そして夕方に僕はある郡の宿屋について一晩泊ることにしたんだが、その宿屋で前の晩に人殺しがあったばかりなんだよ、それでもう誰も彼もその噂で持ちきりだった。酒を飲んでいたわけでもなく、お互いに長年つきあった、友人でもあったいい年をした百姓二人の間に起こったこと〔これは実際の出来事で、モスクワ地方裁判所で判決があった〕なんだよ。それは、この二人がいっしょにお茶を飲んでから、同じ部屋で床にはいろうとしたんだ。ところが、この事件の起こる前二日ばかりの間に、一人のほうが連れの持っている黄色いガラス玉の糸につないだ銀時計に気づいていたんだ。それまではそれをちょっとも知らなかった様子だ。この男は泥棒じゃないんだ、むしろ正直なくらいで、暮らし向きも百姓としてはけっして貧しいほうじゃなかったということだ。しかしもういかにも我慢できなくなるほどこの時計が気に入って、迷い込んでしまったんだな。それでナイフを取り出して、相手が向こうを向いた時、そっと後ろから忍び寄って、狙いを定めておいて、天に眼を向け、十字を切りながら、心の中で悲痛な祈りを捧げたってことだ。そして『神よ、キリストのために許しを垂れたまえ!』と、羊でも殺すように、ただ一刀のもとに友人を切り殺しておいて、時計を引き出したんだよ」
ラゴージンは腹をかかえて笑った。彼はまるで何か発作でも起こったように大きな声で笑った。さきほどまで非常に陰鬱な気分に閉じこめられていた者がいきなりこんな調子で笑いだしたのを見ると、なんだか無気味な感じさえした。
「いや、おれはそんなのが大好きなんだ! そいつは何よりすばらしいや!」と彼は今にも息がつまりはせぬかと思われるほど声をひきつらせながらどなり立てるのであった。「一方のやつは神なんか少しも信じないんだし、も一方のやつは人を切り殺すのにもお祈りを捧げるほど信仰深いんだろう。実際これは、なあ、公爵、思いつこうたって思いつける話じゃないぜ! は、は、は! 全く、こいつは何よりすばらしいや!……」
「朝になって、僕は町に散歩に出た」ラゴージンの唇の上にはまだ笑いの影がひきつったように発作的に震えてはいたが、彼の大笑いがいくらか静まると、たちまち、公爵はこう言ってまた語り始めた。「ふと、気がつくと、すっかりぼろぼろの服装をした酔っ払いの兵隊が、木を敷いた歩道を千鳥足で歩いているんだ。ところがその兵隊が僕の傍に近づいて来て、『買ってください、旦那、銀の十字架を、たった二十カペイカ銀貨一枚で差し上げます。銀の十字架ですよ!』と言うんだ。その手を見ると、たぶんたった今、頸からはずしたばかりらしい十字架が、ひどく垢《あか》まみれの空色のリボンについたままのっかっていたんだ、しかし、それは一目みただけで正真正銘の錫《すず》製だとわかる、一面にビザンチン風の模様のはいった大形の八つとんがりの十字架だった。僕は二十カペイカ銀貨を取り出して、その男にくれてやり、その場で自分の頸《くび》にかけた。――ところが、その男の顔つきから、ばかな旦那をだまして満足だと思っていることがよくわかった。それでその兵隊は十字架でやっとありついた金でさっそく飲みに出かけた。これは本当のことだよ。ねえ君、僕はその時、僕がロシアに帰って来て以来、いつの間にか自分の心に忍び込んでいたさまざまのことが非常に強い印象となって胸の中にこみ上げて来たんだ。以前はロシアの国がまるで物言わぬスフィンクスのように少しもわからなかったんだ。外国で暮らしていた五年というもの、僕はこの国のことについてはなんとなし幻想的に心の中に描いていたもんだ。そこで、僕は途中歩きながら考えたよ、いや、このキリストを売った男を非難するのはしばらく控えよう。こんな酔っ払いの弱い心の中に何が含まれているかは、知れたことじゃないんだ。一時間たってから宿に帰って来る途中で、乳飲み児を抱いた見すぼらしい女に出会った。これはまだ若い女だったし、乳飲み児も生後六週間くらいだった。この女はその赤ん坊が生まれてはじめて自分に笑顔を見せたのに気がついたんだ。僕が見ていると、この女は実に敬虔な様子をして不意に十字を切ったんだよ。僕が『お嫁さん、あんたどうしたんです?』(僕はその時、いろんなことを聞いてみたもんだよ)。すると女は『まあ、あの、はじめて赤ん坊の笑顔を見た母親の喜びと申しますものは、罪人が真情こめてお祈りするようになったのを天上からごらんなされる神様のお喜びそっくりでございます』その女がこう言ったんだよ、ことばもほとんどこれそのままだった。これこそ実に深くて繊細な真の意味における宗教思想なんだ。この中にキリスト教の全本質が一気にして喝破されている。つまりキリスト教の最も重要な思想――生みの親としての神、並びに子を思う親と同様の神の人間に対する愛の理解がこの中に表現されているのだ。無学な一人の女が言ったことだよ! 本当に、母親というものは……それに、あるいはこの女があの兵隊の細君であるかもしれないよ。いいかい、パルフェン、君はさっき僕に尋ねたが、これが僕の返答だ。宗教的感情の本質というものは、いかなる議論、いかなる過失および犯罪、いかなる無神論によってもうかがい知ることはできないのだ。こうしたものには何かしら的はずれなところがある。いつまでたっても的をはずれているだろう。それは無神論などがすべって永久に的はずれな口舌を弄《ろう》するようなものだ。しかし、何よりも大切なのはこれがロシア人の心臓にいちばん容易にはっきりと見いだされることなのだ。これが僕の結論だ! これこそわがロシアからつかみ出し得た僕の最も尊い信念の一つだ。パルフェンよ、なすべきことはある! わがロシアの国にいてなすべきことはある! 僕のことばを信じてくれ! 思い出してくれ、モスクワで二人がしばしば落ち合って相語らった時分のことを……それに今度も僕はここへ帰ってくる気は少しもなかった! それにこうしたぐあいで君に会おうとは夢にも思わなかった! しかしまあいいさ!……失敬するよ、さようなら! 御機嫌よう!」
彼は踵をめぐらすと、そのまま階段をおりて行った。
「レフ・ニコライヴィッチ!」公爵が、最初の上り口までおりたとき、パルフェンは上から呼びかけた。「兵隊から買った十字架は今持っているかい?」
「あ、かけているよ」
こう言って公爵は再び立ち止まった。
「見せてくれよ」
またしても奇妙な場面になった! 彼はちょっと考えてから上へあがって来て、頸にかけたまま自分の十字架を見せた。
「おれにおくれよ」とラゴージンは言った。
「どうして? 君はあの……」
公爵はこの十字架と別れたくなかった。
「おれがかけるんだ。おれのをおまえにやるから、かけろよ」
「十字架を交換したいの? そんならいいよ。パルフェン、僕は嬉しいよ。これで兄弟になれるんだね!」
公爵は錫の十字架をはずし、パルフェンは黄金の十字架をはずし、二人は交換した。パルフェンは黙っていた。以前の疑惑の色や、以前の苦々しいほとんど嘲笑的なほほえみのあとがいまだに消え去らず、どうかすると激しくあらわれるのを見て、公爵は重苦しい驚きを覚えた。しばらくして、ラゴージンは無言のまま公爵の手を取ったが、まだ何事か決心がつきかねる風で、じっと立っていた。ついに、いきなり公爵を引きよせるようにして、やっと聞こえるような声で「行こう」と言った。二階の上り口を通りぬけて、先ほど二人が出て来た扉の向かいの戸口に立って、ラゴージンは鈴を鳴らした。戸はすぐに開かれた。黒い着物をつけ、頭には布を巻いた、腰のすっかりかがんだ老女が無言のままうやうやしくラゴージンに頭を下げた。こちらは何か口早く彼女に尋ねたが、立ち止まって返事を聞こうともせず、そのまま公爵を導いて次々に部屋を通って行った。その部屋部屋もまた薄暗く、何かしら非常に冷たい感じがするほど取りかたづけられていて、白い清潔なおおいをかけた古風な家具類がいかめしく冷然と並べてあった。ラゴージンは取次ぎも頼まず、すぐ公爵を客間らしいあまり大きからぬ部屋に導いた。部屋は艶《つや》のいいマホガニー造りの両はしに戸のある仕切りで区切られていた。その向こう側はたぶん寝室にでもなっているのであろう。
客間の片隅の煖炉近くの安楽椅子に一人の小柄な老婆が腰かけていた。彼女は一見したところ、まださほど老いぼれていず、むしろかなり元気そうな、気持のいい丸顔をしていた、しかし頭はすっかりまっ白で、全く子供の気持にかえっている様子であった(一目ですぐそうだとわかった)。彼女は黒い毛糸の着物を着て、黒い大きな布を頸に巻き、黒いリボンのついた白い頭巾をかぶっていた。彼女の両脚は小さな腰かけにもたせかけてあった。彼女の傍近くには彼女よりいくぶん年をとった一人の小ぎれいな老婆がいた。これもまた喪服をつけ白い頭巾をかむっていたが、どうやら食客であるらしい。黙って靴下を編んでいた。この二人はおそらくいつもこうして黙っているのであろう。安楽椅子にかけているほうの老婆は、ラゴージンと公爵を見ると、笑顔を見せて満足のしるしに幾度となく頭を下げた。
「お母さん」とラゴージンは彼女の手に接吻しながら言った。「これはおれの友だちのレフ・ニコライヴィッチ・ムィシキン公爵。二人は十字架を交換したんだよ。この人はモスクワでは生みの兄弟みたいにいろいろおれにつくしてくれたんだよ。お母さん、この人を本当の子供とおんなじように祝福しておくれ。ちょっと待って、お母さん、そら、おれが手を組んであげるから……」
しかし、老婆はパルフェンが手をとるよりも前に、自分の右手をあげて指を三本合わせてうやうやしく公爵に十字を切り、それからもう一度やさしく親しげにうなずいてみせた。
「じゃ、行こう、レフ・ニコライヴィッチ」とパルフェンは言った。「おれはただこれだけのことでおまえをつれて来たんだ……」
二人が再び階段の上に来たとき、彼は言い添えた。
「あの、おふくろはなあ、人の話は何もわからないんだぜ、だからおれの言ったことも何もわかりゃしなかったんだけど、君のために祝福したんだよ。つまり自分で望んだんだ……じゃ、さいなら、それにおれも君も、別れるにはいい潮時だ」
こう言い終えると彼は自分の部屋の戸をあけた。
「そんなら、お別れに抱かしてくれたっていいだろう、変な人だね!」公爵は優しさのあふれた非難の眼で彼を眺めて、こう叫びかけて、抱きつこうとした。だがパルフェンは両腕を上げたかと思うと、またすぐに、おろしてしまった。彼は決心がつきかねたのである。公爵を見まいと顔をそむける。彼は公爵を抱きたくなかったのである。
「大丈夫だよ! おれはおまえの十字架をとったからには、時計が欲しさに君を殺したりなんかしないさ!」とぼんやりした調子で彼は言って、ふとなんとも知れない奇妙な笑みをもらした。すると、不意に彼の顔の様子が一変した。恐ろしく青白くなって唇は震え、眼は燃えだした、彼は両腕をあげて固く公爵を抱きしめ、息を切らしながら言った。
「そうした運命なら、あの女はおまえがとるがいい! おまえのもんだ! おまえにくれてやる!……ラゴージンを忘れないでくれ!」
と言ってしまうと、彼は公爵を振りすてて、後をも見ずに、急ぎ自分の部屋にはいり、後ろざまにぱたりと戸を閉めた。
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もうかなりに晩《おそ》くなっていた。かれこれ二時半近くになっていて、公爵が行ってみるとエパンチンは留守であった。そこで、彼は名刺を置いて、『はかりや』旅館に出かけて、コォリャに会って聞こうと考えた。もしもコォリャがいなかったら、置き手紙をして来ることにして。
さて『はかりや』へ行くと、宿では「ニコライ・アルダリオノヴィッチさんは朝のうちにお出かけのままでございますよ。お出かけの時、もしもたずねて来た人があったら、三時ごろまでには帰って来るとことづてするようにと申されましてね。もしも三時になっても帰って来ないときは、汽車に乗ってパヴロフスクに出かけてエパンチン将軍様の奥様の別荘でお食事をなさるものと思ってくれとのお話で」と言っている。公爵はしかたがないので、そこに腰を据えて待つことにし、ついでに自分も昼食をとることにした。
三時半になっても、四時になってもコォリャはやって来ない。公爵は表へ出て、足の向くままに、人心地もせずに歩き回っていた。夏の初めのペテルブルグには、時としてうららかで、明るく、生暑く、物静かな日が訪れる。まるで、わざとのように、この日もこのような珍しい天気の日であった。しばらくの間、公爵はあてどもなく、あたりをぶらついた。町の様子はそんなによくわかっていなかった。時おりあちこちの他人の家の前の十字路や、広場や、橋の上に立ち止まった。一度はまた、とある菓子屋の中へはいって行って一休みしたりした。またある時は、いかにも物珍しそうに道行く人をしげしげと眺めかかったりした。しかし、たいていは通行人の顔も眼に入らず、いったいどこを自分が歩いているのかも気にとまらなかったのである。彼は苦しいほどに張りつめた気持になり、不安にもなっていたが、同時にたった一人になりたいという要求をも強く感じていた。孤独になって、この張りつめきっている苦しい気持に、いささかの息抜きも求めずに、全く受身になって浸りたいと考えていた。心のうち、魂のうちに流れ寄る問題をいやいやながら解決しよういう気持などにはなれなかった。『まあしかたがないだろう、やっぱり自分が何もかも悪いんだ?』彼は自分の言っていることにはほとんど気がつかずにひとり言を言っていた。
六時近くになって、彼はツァルスコエ線のプラットフォームにやって来た。孤独ということがたちまちに堪えがたいものになってきた。新しい熱情が胸に湧いてきて、今まで魂を痛めつけていた闇が一瞬にして輝かしい光に照らされた。パヴロフスク行きの切符を買って、彼はたまらないほどの気持で出発をあせるのであった。しかし、もちろんそれにはそれで何ものかがつきまとっていた。それは現実そのものであって、なるべくそうあって欲しいと考えていたかもしれないような夢ではなかった。
客車の中で席に着いたか着かないうちに、いきなり彼はたったいま手にとったばかりの切符を床へ投げ捨てたかと思うと、困り果てて、物思わしげな顔をしながら再び停車場の前へ出てしまった。しばらくしてから、彼は通りで何か急に思い出して、何か感づいたような風であった。実に奇妙な、今まで長い間彼を不安ならしめていたことを胸に浮かべたらしかった。そういえば、彼はもうかなり長いこと続いているのに、いまといういままでいっこう気のつかなかったことにかかわっていたことを、不意に悟ったのである。もう何時間も前から、まだ『はかりや』にいるときから、あるいはその前からかもしれないが、彼は自分の周囲にふいと何かを捜しかかっていたらしかった。長い間、半時間も忘れ果てていて、急にまたもや心配げにあたりを見わたして、何かを捜しているのである。
しかし、久しいこと自分をとらえていながら、全く今まで気のつかなかった病的な動作に気がつくやいなや、忽然として彼の眼の前にある追憶がひらめいて、非常な興味をそそるのであった。自分は今、何かしら周囲に捜し求めているのだなと悟ってみると、その瞬間に、彼はある店の窓のほとりの舗道に立ち止まって、かなりの好奇心を寄せながら、窓に並んでいる商品を眺めていることに気がついた。自分が今、せいぜい五分間くらい前からこの商店の窓の前に立っていたのは現実のことであったろうか、ぼんやりとそんな気がしただけではなかったろうか、それとも何かと混同していたのではなかろうか、彼はいま是が非でもこのことをはっきり突きとめたいような気がした。この店とこの品物は本当に存在しているものだろうか? だって、実際に彼は今日はわけても病的な気持になっているのを感じているのではないか。まるで以前に例の病気の発作が起こる前に感じた気持とそっくりなのだ。彼はこのような病気の発作の来る前にはひどくぼんやりしてしまって、特に気をひき緊めてみないと、人の顔と物とを混同することさえありがちであったことを、よくよく心得ていたのである。それにしても、店の前に立っているのやらどうなのやら、その時、それをはっきりと突きとめたかったについては、特別にまたいわくのあることであった。実は店の飾り窓に並べてある品物の中には、よくよく眺めて、銀六十カペイカと値ぶみまでした品があったのである。こんなにぼんやりして、不安でたまらない気持でいるのに、そのことだけは覚えていた。だから、もしもこの店が現に存在して、この商品がまた実際に他の品物の中に陳列してあるとしたら、彼はただこの品物一つのために、わざわざ立ち止まっていたことになるのだ。つまり、この品物は、停車場から出て来たばかりで、ひとかたならず心が動揺している時にさえも、彼の注意をよぶほど力づよい魅力をもっていたということになるのである。彼はほとんど憂いに沈んでいるかのように、右手を見ながら歩いていた。いても立ってもいられぬような不安を感じて、心臓の鼓動は高まっていた。ところが、その店があるではないか、とうとう彼は店を見つけ出した。引き返そうと思いついた時、彼はもう五百歩ほど店から離れていた。たしかに六十カペイカの商品がある。『むろん、六十カペイカより高いはずはないんだ!』と彼はいま心の中でくり返して笑いだした。が、その笑いだし方はヒステリックであった。彼はひどく重苦しくなってきた。彼はあそこの窓の前にたたずんで、つい先ほどラゴージンが眼をふり向けているのを眺めたとき不意にふり返ったことを、まざまざと思い出した。たしかに勘違いでなかったのだと信じて(もっとも、どうしたはずみか、よく調べる前にも確信しきっていた)、彼は店を後にして大急ぎで遠ざかって行った。このことは何もかも、急速に、ぜひとも考えてみる必要がある。今になって、はっきりしてきたのであるが、停車場でのことも夢の中で見たことではなく、自分に起こったことも何かしら現実的なことで、以前からの不安も必ずやこれに関係しているに相違ないのだ。しかし、なんとなく押さえることのできない心の中の嫌悪の情がまたもや募ってきた。彼はもう何ごとをも深く考えようとは思わなかった。彼は熟慮することなどはよしてしまって、全く別のことを考え込んだ。
わけても、こんなことが物思いの種になっていた。彼の癲癇《てんかん》の症状には、今にも発作が起ころうというまぎわに(ただし、眼が覚めていて発作に見舞われる時に限る)、次のような一つの徴候があらわれる。哀愁、憂鬱、意気沮喪《いきそそう》のまっただ中に、たちまち彼の脳髄はあたかも炎のように勢いづいて、あらん限りの生命力が実にものすごく一時に張りつめてくる。すると、この瞬間に生命の感じや自意識はほとんど十倍の力を増してくる。かと思うと、稲妻のように消えてゆく。消えないうちは、叡智も感情も強烈な光に照らされる。いっさいの動揺、いっさいの不安は一挙にして和らぎ、あの朗らかな、何不足のない喜びや希望にあふれ、理性とすぐれた悟性に満ちた一種のいとも崇高な静寂境に融けてゆくようにみえる。しかし、この瞬間も、このしばしのひらめきも、発作そのものがいざ始まろうという時のきわどい最後の一秒(いつも一秒より上になることはない)の予感にすぎない。もとより、この一秒は堪えがたいものであった。あとで健康状態にかえってから、この一瞬をつくづくと考えながら、よく彼はひとり言を言っていた。いと高い純粋自覚と自意識、従って『至高の人間的存在』の稲妻もひらめきも、すべてが病気にほかならないものではないのか、あたりまえの状態が破壊されたことにはならないのか。もしもそうだとすれば、これはちょっとも『至高の人間的存在』なんかではなく、それどころか、最も下劣な部類にはいるのが当然なんだ。
それにしても、彼はやはりついにはきわめて逆説的な結論に到達した、『なあに、こいつが病気にしろかまうものか?』とうとう、こんなひとり合点をしてしまう、『もしも、結果それ自体が、――もしも健康の状態に在っても、まざまざと思い浮かべて吟味のできるあの一刹那の感覚が、最高度の調和であり、美であることがわかって、充実、節度の感じ、人生の最高の総合との和解、胸さわぎして祈る時の気持にも比すべき融合の感じ、今まで聞いたことも、夢に見たこともなかったような、それほどの感じを与えるものとすれば、いかにこれが異常な緊張であろうとも、そんなことは何も取り立てて言うがものはないではないか?』かような曖昧《あいまい》な言い分は、今なおあまりにも頼りないものであったのに、彼自身にはかなり筋道の通ったあたりまえのことのように考えられた。これこそ真に『美と祈祷』であり、これこそ真に『人生の最高の総合』であると信じて疑う力もなく、しかも、疑いをさしはさむこともできなかったのである。彼はこの瞬間に、ハシッシュ〔インド産の大麻の種子から採る麻酔剤〕や阿片《アヘン》や酒など、およそ人の判断力を台なしにし、人間一匹を片輪にしてしまう変態的な、途方もない妙な幻影を夢みていたのではなかったか? このことは彼にも病的な状態が終わるにつれて、立派に判断がついた。もしもこの刹那、つまり、発作の起こる前に今なお意識のある最後の瞬間に、『そうだとも。この刹那のためならば、自分は一生涯をすててもかまわない!』と彼がはっきりと意識的に自分で自分に言い聞かせる余裕があったとしたら、この一刹那はもとよりそれ自身、彼の一生涯を賭するに値するのである。もっとも、彼は自分の結論の弁証法的な部分を固執したのではなかった。こうした『至高の刹那』の明白な結果として、彼の前には愚昧、精神的暗黒、白痴の感じが突き立っていたのだ。いうまでもなく、彼がこんなことを、大まじめになって論議したわけではあるまい。ところで、この結論、すなわち、この刹那の評価には、疑うまでもなく、誤謬《ごびゅう》が含まれていたのである。とはいえ、やはりこの感覚の現実的なことが彼をいささか当惑させていた。本当に現実の場合になってみれば、どうにも手がつけられないのではないのか? このことは、まぎれもなく実際にあったことではないのか。自分は今のこの一刹那に、心の底から感じている限りも知れぬ幸福のためには、一生涯を捧げても惜しくないのだと、今の今わが身に言い含める余裕を彼はもっていたのではなかったか。『この瞬間に』モスクワにいて、よく落ち合っていた時分、彼はラゴージンに言ったことがある、『この瞬間には、光陰再び至らずという格言が、なんとはなしにわかってくるものだよ。きっと』、そのとき彼はほほえみながら付け加えるのであった、『あの癲癇もちのマホメットは水差しを引っくり返して、その水が流れて出る間もないうちにアラーの住み家を見きわめてしまったというが、ちょうどこの一刹那のことだろうよ』そうだ、モスクワにいるときはよくラゴージンと顔を合わして、このことだけではなく他のことも話し合っていたのだ。『ラゴージンはさっき、「おまえはあの時分は兄弟分だったな」と言ったが、それは今日になってはじめて口にしたことだ』と公爵は心ひそかに考えた。
彼はレェトニイ・サァドのひともとの樹かげにあるベンチに腰をおろして、このことを考えていた。もう七時ごろになっていた。公園には人影もなかった。何かしら暗い影がしばしの間沈みゆく夕日をかすめて通り過ぎた。息苦しい夕べであった。なんとなく夕立の来る遠い前じらせのような気はいであった。彼は現在の観照的な心境に一種の魅惑を覚えた。世界のあらゆる事物に対して、彼は思い出と記憶をたどって心を寄せていったが、それがまた楽しいことであった。彼は絶えず当面のこと、現在のことをそれとなしに忘れてしまいたいような気になったが、あたりを見回すやいなや、たちまちに、心から振り放したいと願っている暗澹《あんたん》たる考えが、またしても思い浮かぶのであった。さきほど飲食店で食事をとりながら給仕と話をして最近の人騒がせな、噂に噂を生んだ奇々怪々たる殺人事件のことが思い返された。ところがそれを思い出すと同時に、彼の身の上にはまたもや何かしら特別なことが起こってきた。
なみなみならぬ押さえきれない、ほとんど誘惑ともいうべきほどの欲望がにわかに彼の意志を麻痺させてしまったのである。彼はベンチから立ち上がると、公園を出てまっすぐにペテルブルグスカヤ区をさして歩きだした。さっき、彼はネワの河岸通りで、どこかの通りがかりの人をつかまえて、ペテルブルグスカヤ区はネワ河の向こうのどの辺にあたるかと尋ねた。そこで方角を教えてもらったのであるが、その時はそこへは行かなかった。それにまた、なにも今日わざわざぜひとも行かなければならぬというわけでもなかった。その辺のことは彼もよく承知していた。アドレスはずいぶん前から持っていた。したがって、レーベジェフの身寄りのいる家を捜し出すくらいは容易なことであった。が、彼はどうせたずねて行ったところで留守に相違ないと、ほとんど思い込んでいたのである。『てっきりパヴロフスクへ行ったんだろう。さもなければ、コォリャが「はかりや」へなんとかことづけをして行かんはずはないわけだ』してみると、彼が今そこへ出かけたにしても、むろん、その女に会うためではなかった。別の、暗い悩ましい好奇心が彼をたぶらかしていたのである。一つの思いもよらない新しい考えが彼の脳裡に浮かんできた……
しかし、彼にとっては、自分がこちらへ出向いて来たということ、自分の行く先がわかっているということ、ただそれだけでももう嬉しくてならなかった。一分間の後に、再び歩いてはいたが、自分の向かっている道にはほとんど気もつかなかった。『思いもよらない考え』について何かと思いめぐらすことが、たちまちにしてひどくいやな、ほとんどたまらないことになってきた。彼は痛々しいほど気を引きしめて、眼にうつるあらゆるものに眼をこらした。空を仰ぎ、ネワ河を見た。彼は行きずりの子供にさえも話を持ちかけていた。もしかしたら、癲癇の症状がいよいよ募っていたのかもしれぬ。夕立は徐々にではあったが、実際に近づいて来つつあるかのように思われた。はるかに遠く雷の音も聞こえ始めていた。ひどくむんむんしてきた……
どうしたわけか、さきほど会ったレーベジェフの甥のことがしきりに今になって思い返された。まるで、ばからしいほど退屈な音楽のモチーフが何かのはずみに、しつこく心に浮かんでくるかのようであった。不思議なことには、さきほど甥を紹介しながらレーベジェフが彼に物語ったあの殺人事件の当の下手人の姿が、その甥の姿とぴったり符合して思い返されるのであった。そういえば、この殺人犯についての記事を読んだのは、まだつい最近のことである。ロシアへ帰って以来、幾つとなしに、こうした事件についての風説は読みもし、耳にもしていた。彼はこんなことになると、いつも一生懸命に根掘り葉掘り探っていた。で、さきほども例のジェマーリン家の殺人事件のことを並みはずれなくらいの興味をもって給仕と話していたのである。給仕は彼の言ったことに相づちをうっていたが、彼は今そのことを思い出した。給仕の顔が心に浮かんでくる。あの男はそんなに抜けた青年ではなく、堅気で用心深い人間であった。『といっても、あの男だって、どんな人間だかしれたもんじゃないよ。新しい土地で、新顔の人の心を見抜くのはたいへんなことだ』と彼は考えるのである。それにしても、彼はロシア精神というものを熱烈に信じ始めていた。ああ、この六か月の間に、彼はいかばかり多くの全く新奇な、想像したこともなければ、聞いたこともなく、そしてまた思いもよらないような出来事に遭って来たことであろう! ところが、他人の心に至っては見当がつかないのだ、――ロシア精神なるものも曖昧模糊たるものなのだ。現に彼はラゴージンと長い間の交際で、兄弟のように親しく交わってはいるが、――はたしてラゴージンの心の奥まで彼は見抜いていたのだろうか? しかも、どうかすると、こういったようないっさいのことにはなはだしい渾沌《こんとん》、はなはだしい荒唐無稽、はなはだしい醜猥《しゅうわい》があるのだ! ところで、さっきのレーベジェフの甥はなんていやらしい、うぬぼれの強い|にきび《ヽヽヽ》野郎なんだろう! それはそうと、僕はいったいどうしたっていうんだろう?(公爵はこんな風に空想を続けてゆく)いったい、あの男が例の六人殺しの下手人だとでもいうのかしらん? 僕はどうもこんぐらかっているらしい……、なんて不思議なことだろう! なんだかぐるぐる回るようだ……。さて、あのレーベジェフの上の娘、うん、そうだ、あの赤ん坊を抱いて立っていた娘さ、あの子はなんて人なつこい、可愛いい顔をしているんだろう。ほんとにあどけない、まるで子供みたいな顔つきをして、子供のように笑って! その顔をほとんど忘れていたのに、今になってやっと思い出したのも妙な話だ。子供たちに向かってレーベジェフは足を踏み鳴らしていたが、きっとみんなありがたがっているのに相違あるまい。しかし、何はさておいても、二二が四というほど明瞭なことは、レーベジェフがあの甥のことをも神様あつかいにしていることである! それにしても、今日になってはじめて訪問したばかりの彼が、こんな思いきった判断を下すのはどうしたものだろう、いったい、どうして彼はこんな裁断を下せるのだろう? しかるに、今日はレーベジェフのほうから問題を出したのではないか。よもやレーベジェフがこんな男だろうとは思いもかけなかった。以前から知っていたレーベジェフは、けっしてこんな男ではなかったはずだ。レーベジェフとデューバルラ夫人――いやはやたいした取り合わせだ! それはそうと、もしもラゴージンが人を殺傷するとしたら、まず少なくともあんな殺し方はしないだろう。あんなに眼もあてられないような修羅場を展開するようなことはあるまい。図面つきで注文した兇器と、前後不覚になった六人の者! ラゴージンがいったい、図面つきであつらえた兇器なんかを持っているだろうか? ……あの男が……しかし、……いったいラゴージンが人殺しをすると決まっているのか? ――こう考えてくると、公爵は不意に身震いした。
『僕ともあろう者が、こんな皮肉にも露骨な妄想をたくましゅうするのは罪悪ではないのか、卑劣なことではないのか!』彼はこう叫んで、羞恥のあまり、さっと顔を赤らめた。彼は愕然《がくぜん》として、道に釘づけにされたようにじっとたたずんだ。一時にいろんなことを思い出した――先ほどのパヴロフスクへ行く方の停車場、先ほどのニコライェフスキイ停車場、それにラゴージンに面と向かい合ってした眼のことについての質問、いま自分の胸にかけているラゴージンの十字架、ラゴージンが自分で連れて行って受けさせた彼の母の祝福、先ほど階段の上でラゴージンがしてくれた最後の発作的な抱擁と最後の断念、――おまけに、こうしたさまざまなことのあったあげくの果てに絶えず何ものかを周囲に捜し求めている自分、あの商店、それにあの商品、――なんていうあさましいことだ! そういういろんなことのあったあとで、自分は今『ある特別な目的』、『思いもよらない考え』を胸にいだいて、ある所へ向かっているのだ! 絶望と苦悩とが胸にあふれる。公爵はすぐに宿屋へ引き返そうと考えて、くるりと踵をめぐらし、歩きだしさえもしたが、ほんの一分間もたったかと思うと、つと立ち止まって、思案に暮れ、ついにはまたもや元の道へ向きなおって歩きだした。
こうして彼はもうペテルブルグスカヤ区へやって来て、その家に近づいてはいたが、今ではもう以前の目的、『特別な考え』をいだいて歩いているわけではなかった! どうしてそんなことがあるものか! そうだ、彼の病気がまた起こりかかっていたのだ。これはもう確かな話である。ことによったら、今日じゅうに必ず発作が襲って来るかもしれない。この暗澹たる気持もその発作のせいなら、あの『考え』も発作のせいであろう! しかし、今やすでに、闇は吹き払われ、悪魔は追いのけられ、疑惑は去って、彼の胸には歓喜が満ちあふれているのだ! それにまた――ずいぶん久しいこと、『あの女』に会わない、どうしても会わなければならない、……そうだ、今、ラゴージンと出会って、その手をとって二人で会いに行きたい、……彼の胸は澄みきっている。彼はけっしてラゴージンの競争者ではない。彼は明日になったら自分でラゴージンのところへ出かけて行って、女に会ったことを告げるであろう。彼がここへ飛んで来たのは、さっきもラゴージンが話したように、会いたさ見たさの一念からであった! たぶん、あの女は家にいるはずだ、パヴロフスクへ行っているというのは、それほどはっきりしたことではないのだから!
そうだ、今こそいっさいのことをはっきりとさせなければならない。皆の者がお互いにお互いの心をはっきりと了解できるようにしなければならない。さきほどラゴージンが叫んだような陰惨な、苦痛に満ちた絶望の念をすっかりなくしてしまわなければならない。それにこうしたことはすべて心おきなく……明るい気持で成し遂げなければならない。まさかラゴージンに明るい気持が欠けているというわけでもあるまい。あの男は、あの女を愛してはいるが、同情ももたなければ、『いささかの憐憫《れんびん》の情も』いだいていない、と言っている。そうだ、あの男はそう言ったあとで、『君の憐憫の情のほうが俺の恋よりも強いかもしれない』と、そうも言っている。――だが、あの男は、われとわが身をさげすんでいるのに違いない。ふむ……ラゴージンが本を読むって、――それこそ『憐れみ』の証拠ではないか、『憐れみ』の心が湧いてきたのではないか。その本が彼の手もとにあるということがすでに、彼女に対する自分の立場を十分に自覚しているという立派な証拠になってはいないか? それにしても、さきほどの彼の話はなんだというのだろう? いや、単なる情欲というよりは、ずっと深いものが確かにあったはずだ。いったい、あの女の顔が、単に男の情欲をあおり立てるばかりのものだろうか? それに、いったい、あの顔で男の情欲を今どきあおることができるものであろうか? いや、あの顔は苦悩の念を催させ、人の魂を強くとらえるものだ。あれこそ、……すると、灼《や》けつくような傷ましい記憶が不意に公爵の心にひらめいた。
そうだ、傷ましい記憶。はじめて女の発狂の徴候を発見したとき、彼はどんなに自分が苦しみ悩んだか、そのことを思い出した。そのとき彼はほとんど絶望的な気持を味わった。それなのに、あの女が自分のところからラゴージンのもとへ奔《はし》ったとき、どうしてあの女を打っちゃっておいたのか? うかうかと知らせなどを待っていないで、自分であとを追ってゆくのがあたりまえのはずなのに。だが、……ラゴージンは今もなおあの女の発狂に気がつかないでいるのかしら? ふむ!……ラゴージンはいっさいのことについて他の理由、情欲的な理由のみを見ているのだ! それにあの狂気じみた嫉妬の恐ろしさ! さっきあんな申し出をしようとしたのは、どういう了簡なんだろう?(公爵はたちまちに顔を赤くした。そして胸の中で何かぎくりとしたような気がした)
ところが、どうしてこんなことを思い出さなければならないのか? これではまるで両方とも狂人じみているではないか。自分があの女を情欲のために愛するということ、……それはほとんど考えられないさたである。残忍な、不人情なことだ。そうだ、そうだとも! たしかに、ラゴージンは自分で自分を中傷しているんだ。あの男は実は大まかな気持をもっていて、苦悩をなめることもあわれみを寄せることもできるのだ。事の真相を一から十まで承知して、あの傷つけられている半狂乱の女が、どんなに可哀そうな人間であるかを見きわめたならば、その時こそはあの男も必ずや、以前のあらゆる出来事、自分自身のこうむったいっさいの苦痛も忘れて許してやるに相違ない。おそらくは彼女の下僕となり、兄弟となり、親友となり、道しるべとなるに相違ない。同情はラゴージン自身の生涯に意義を与え、彼を教えるところがあるに相違ない。同情というものこそ、全人類の生活に対する最も重大な、おそらくは唯一無二の規範であろう。ああ、自分はラゴージンに対してなんという許しがたい卑劣な罪を犯しているのか! そうだ、あのような恐ろしい想像をめぐらしていたからには、曖昧模糊たるものは『ロシア精神』ではなく、自分の魂にほかならないのだ。モスクワでほんの二言三言、熱意のこもった、切実なことばを交わしたということだけで、もうこちらを自分の兄弟だと呼んでいるではないか。それだのに自分は、……しかし、あれは病気のせいなんだ、迷妄なのだ! それはすっかり解決がつくだろう!……ラゴージンは先ほど、なんていう陰鬱な顔をして、『僕は信仰をなくしかけている』と言ったことだろう! あの男は大きな苦悩をうけるように生まれついているのだ。『この絵を見るのが大好きだ』などと言っていたけれど、あれは好きなのでなくて、つまり、欲求を感じてのことなのだ。ラゴージンは決して単なる情欲の走狗《そうく》ではない。やはり、なんといっても闘士なのだ。あの男はしゃにむに、失われた自分の信仰を取り戻そうとしているのだ……いま彼には苦しいほど信仰が必要なのだ……そうだ! なんでもいいから信仰するものが欲しいのだ! それにしても、あのホルバインの絵はなんていう奇妙なものか、……あ、いよいよこの街だ! そら、きっとあの家だ、やっぱりそうだ、十六番地『十等官フィリーソワ夫人の家』。ここだ! 公爵は鈴を鳴らして、ナスターシャ・フィリッポヴナに面会を求めた。
すると、この家の女主人が自分から出て来て、ナスターシャ・フィリッポヴナは朝からパヴロフスクのダーリヤ・アレクサンドロヴナのところへ出かけ、『もしかしたら、五、六日あちらに滞在するかもしれません』と答えた。フィリーソワは小柄で、眼の鋭い、顔の尖った、四十歳がらみの婦人であったが、ずるそうな眼つきでこちらをじろじろと眺めた。名前を尋ねた彼女の質問の態度には、いかにも子細ありげな秘密な様子がほのめかされていた。そこで公爵は初めのうちは返答をする気がしなかったが、それでもすぐに気を変えて、自分の名前をナスターシャ・フィリッポヴナによく伝えてくれるようにと、くれぐれも念を押して頼んだ。フィリーソワはそのしつこいほどの念の入れ方に注意を凝らして、ひどく秘密のありそうな顔つきで聞いていたが、明らかに、その顔つきから推して、『御心配には及びませんよ、よく心得ておりますからね』とでもいうようなことを含めたがっているらしかった。公爵の名前が彼女の心になみなみならぬ強い印象を与えたことは明らかであった。公爵はぼんやりと彼女を眺めていたが、踵をめぐらすとそのまま自分の宿のほうへと歩きだした。ところが、彼がそこを出て行った時の様子は、さっきフィリーソワの家の鈴を鳴らした時とはすっかり変わっていた。彼の心のうちには一瞬間のことのようではあったが、再び異常な変化が起こったのである。彼はまたしても青白い顔になって、いかにも弱々しく、苦悩にあえぎ、心も転倒している人のような歩きぶりであった。膝頭《ひざがしら》がわなわなと震え、なんともかともいえないような、途方にくれたようなほほえみが、紫色になっている唇のうえに漂っていた。彼の『思いがけない考え』がたちまちにして立証され、実証されたのだ。そして、――再び彼は自分の悪魔を信ずるに至った。
しかし、はたして立証せられたのであろうか? はたして実証せられたのであろうか。またしても、この戦慄《せんりつ》と、この冷汗と、この心の暗さと寒さとは、いったい、どうしたことであろう? 今しがた、『あの眼』を見たからであっただろうか? ところで、レェトニイ・サァドからやって来たのは、ただ『あの眼』が見たさの一念からではなかったのか! 例の『思いがけない考え』とは、そのことだったのだ!『さっきの眼』を見たい、そうすれば、『あそこ』の、あの家の傍へ行けば、きっとあの『眼』に出会えるという確信が得られるのだと、彼はそう考えたのではなかったか。それはほんの一時的な気まぐれであったはずなのに、今その眼を実際に見たからとて、なにもこのように度胆をぬかれたり、びっくりしたりするがものはないではないか? これではまるで思いもかけなかったようなぐあいではないのか? そうだ、これこそ、今朝ニコライェフスキイ停車場で汽車から降りた時、群集の間から彼に向かってひらめいた『あの眼』なのだ(まさしく『その眼』であることは、今やいささかの疑念をさしはさむ余地もないことだ!)。また、さきほどラゴージンの家で椅子に腰をかけようとした時、肩越しに感じたのも同じまなざしであった(てっきりそれに違いないのだ!)。さっきラゴージンはこれを否定して、ゆがんだ、氷のようにひややかなほほえみを浮かべながら、『誰の眼だったろうな』と言ったけれど。それから、まだほんの今さっき、ツァルスコエ・セロの停車場で、アグラーヤのところへ行こうとして列車に乗りこんだ時、またしてもあの眼に出遭っていた。これでその日はもう三度目になっていた、――ラゴージンの傍へ近づいて行って『あれは誰の眼だったろう?』と言ってやりたい。しかし、彼は停車場から飛び出して、刃物屋の前まで来たかと思うと、ちょっと立ち止まって、鹿の柄《つか》のついたある品物に六十カペイカと値踏みした。例の奇怪な恐るべき悪魔は、すっかり彼にとり憑《つ》いていて、もはや彼を手離そうともしなかった。彼がレェトニイ・サァドの菩提樹《ぼだいじゅ》の樹かげにあるベンチの上にわれを忘れて坐っていたとき、この悪魔は彼の耳にささやいた。もしもラゴージンがこうして朝から彼のあとをつけて、一挙一動をうかがう必要を感じているのならば、あの男にパヴロフスクへおまえが行かないことがわかれば(そのことが知れると否やとはラゴージンにとってはもちろん、一身の浮き沈みに関することなのだ)、さっそく、必ずや『あそこ』の、ペテルブルグスカヤ区のあの家へ行って、ほんのまだ今朝、『けっしてあの女には会わない』とか、『そんなことでペテルブルグへやって来たんじゃない』などと、体裁のいいことを言ったおまえの見張りをするに相違ないぞ、と。そこで公爵はあの家へ駆けつけて、実際にそこでラゴージンを見たのであったが、いったい、それがどうしたというのか? 彼はただ、陰鬱でこそあれ、十分に理解してやることのできる心をもった不仕合わせな一人の男を見たにすぎなかった。今では、この不仕合わせな男は逃げも隠れもしようとはしなかった。そうだ、ラゴージンはさっきは否定して嘘を言ったが、ツァルスコエ・セロ停車場では別に姿を隠そうともせずに突っ立っていた。むしろ隠れようとしたのは公爵であり、ラゴージンではなかった。今はまた今で、あの家から五十歩ほど離れた筋向かいの歩道に立って、腕組みをしながら待っていた。もうすっかり姿を現わして、わざと見せびらかそうとしているかのようだ。彼はまるで告訴人か裁判官のように突っ立っていて、けっして|それ《ヽヽ》らしいところはなかった、……ときに、|それ《ヽヽ》とはいったい、何のことなのか?
さて、どういうわけか公爵は今も自分のほうから彼の傍へ進み寄ろうとはせず、二人の眼と眼とが出遭ったにもかかわらず、何も気がつかなかったような振りをして顔をそむけてしまった(そうだ、二人の眼と眼とが出会って、互いに彼らは顔を見合わせたのだ)。彼はさっきラゴージンの手をとって、いっしょに『あそこへ』行きたいと思ったのではなかったか? 自分のほうからラゴージンのところへ行って、あの女のところを訪問したことを話そうと思ったのではなかったか? そこへ行く途中で、歓喜の念が不意に心を満たし、例の悪魔を払い落としたのではなかったか? それともラゴージンの中に、つまりこの男の『今日』のことば、動作、視線など、すべてこうしたものの総和のなかに、公爵の恐ろしい予感や、彼の心をかき乱した悪魔のささやきを実証するようなあるものがあったのではなかったか? そのあるものというのは、ただ自然にそう思われるだけで、分析することも口に出して語ることもむずかしく、十分に理由をあげて証明することもできかねる。しかも、そうした困難と不可能があるにもかかわらず、そのあるものは十分にはっきりとした、打ち破ることのできない印象を刻みつけ、無意識のうちに強い確信となっていくのであった……
『それは何に対する確信であろうか?(おお、この確信、『その卑劣な予感』の奇《あや》しさ、屈辱が、いかばかり公爵を苦しめたことであろう、そうして彼が、いかばかりわが身を責めたことであろう!)言えるものならば言ってみろ、なんの確信であるのか!』と彼は絶えず非難し、挑戦するような態度で自分で自分に言うのであった、『自分の考えていることに、はっきりと、正確に、逡巡《しゅんじゅん》することなく、堂々と形式を与えて言い現わしてみるがいい! おお、おれはなんていう恥知らずなんだ!』彼は憤怒に駆られ顔を赤らめながら、くり返して言った、『自分はこれからさき一生涯の間、どんな眼をしてあの男を見ようというんだ! おお、何という日だろう! おお、なんというみじめなことだろう!』
ペテルブルグスカヤ区からの、この長い、心苦しい道の終わろうとするころ、じきにラゴージンのところへ行って、彼の帰りを待ち受け、羞恥の念と涙とをもって彼を抱いて、いっさいのことを物語り、何もかも一時に解決してしまおうという押さえきれない欲望が、ちらりと公爵の心をとらえた。しかし、すでに彼は自分の宿屋の傍へ来ていた……さっきは実に、この宿屋も、この廊下も、この家全体も、自分の部屋も、ちらっと見ただけでも気にくわなかった。ここへ帰って来なければならないのだと思いおこしては、この日一日、幾たび、なんともいえないいやな気持になったことであろう……。『それにしても、なんだって自分は、まるで病気にかかっている女みたいに、今日という今日、なんでもかんでも予感なんてものを信ずるのだろう!』彼は門のところに立ち止まったまま、いらいらするようなあざわらいを浮かべて、こんなことを考えてみた。ほとんど絶望に近いような堪えがたい羞恥の念が新たに潮のように押し寄せて来て、彼をたたずんでいる門の入口に釘づけにしてしまった。彼は一瞬間、立ち止まった。人間にはこういうことがよくあるものである。にわかに心に浮かんでくる堪えがたい思い出、ことに羞恥の情を伴った思い出は、たいていは人間を一瞬の間、その場へ立ち止まらせる。『そうだ、おれは不人情な人間で、卑劣者なのだ!』陰鬱な口調で言ったかと思うと、彼はいきなり、さっさと動きだしたが、またしても立ち止まった。
この門の中はいつも暗かったが、この時はまた、わけても暗かった。じりじりと押し迫って来た夕立雲が夕陽の光を呑みつくして、ちょうど、公爵がその家へ近づいた時、にわかに雲は空一面に流れて広がった。一瞬立ち止まっていた所から急に動きだしたとき、彼は門のすぐ下の通りに面した入口にいた。おりから、ふっと彼は門の奥の、薄暗がりの、ちょうど階段の上り口のところに一人の男の姿をみとめた。その男は何かを待ちうけてでもいるような様子であったが、ちらと見えただけで、たちまちのうちに姿を消してしまった。その男をはっきり見きわめる暇がなかったので、もちろん、公爵はその男が何者であったかはっきりと言うことはできなかったはずである。かてて加えて、ここは旅館のこととて、絶えず多くの人々が出入りして、廊下をあちこちと足早に往来していた。しかし、彼はたしかにその男を見きわめて、間違いなくそれがラゴージンであったという否定することのできない十分な確信をとっさのうちにつかみ得たように感じた。ほんのちょっとしてから、公爵はその男のあとを追って階段へ駆けつけた。息の根が、はたと止まってしまった。『今こそいっさいが解決するのだ!』と、奇怪な信念をもって彼は口の中でつぶやいた。
公爵が門から駆け上がった階段は、一階と二階の廊下に通じていて、その廊下の両側に客室が並んでいた。その階段は、たいていの古い建物にありがちな、石づくりで、薄暗く、幅が狭くて、大きな石の柱をぐるぐる回りながら上へ昇るようになっていた。最初の小広い中段のところにあるこの柱の中には幅が一歩そこそこで、奥行きが半歩ぐらいの、壁の引っこみに似たくぼみがあった。それでもどうにか人一人はいれるぐらいゆとりはあった。かなり暗かったが、その中段まで駆け上がって来た公爵は、どうしたわけかすぐにその引っこみの中に人が隠れているのに気がついた。とっさの間に公爵は右手を見ずにそこをさっさと通り越してしまおうと考えた。すでに彼は一歩を踏み出したが、どうにも我慢がならなくなって、ふいとふり返った。
さきほどの二つの眼、『まぎれもないあの眼』が不意に彼の視線とぶつかった。引っこみの中に隠れていた男のほうも、早くも一歩を踏み出していた。一瞬間、二人はほとんど鼻をつき合わせるようにして向き合っていた。公爵はいきなり相手の肩をつかんで、光の射す所に近い階段のほうへねじ向けるようにした。彼ははっきりと相手の顔が見たかったのだ。
ラゴージンの眼はぎらぎらと輝き始め、狂暴なほほえみのために顔は醜くゆがんできた。相手の右手が振り上げられ、その手の中にぴかりとひらめいたものがあった。公爵はその手をさえぎろうとは思わなかった。彼はただ、「パルフェン、まさかと思うよ!……」と自分が叫んだらしいのを覚えているだけであった。
それから、忽然として、何かしら彼の眼の前に展開した。異常な『内部の』光が彼の魂を照らしたのである。そうした瞬間がおそらく半秒くらいも続いたであろう。が、彼は、いかなる力をもっても押しとどめることができずに、ひとりでに胸の奥底からほとばしり出た、あの恐ろしい自分の悲鳴の最初の響きをはっきりと、意識的に記憶している。それから、彼の意識はたちまちのうち朦朧《もうろう》として、まっ暗がりになってしまった。
かなり長いこと訪れなかった癲癇《てんかん》の発作が彼を襲って来た。誰でも知っているように、癲癇の発作、ことに『ひきつけ』の最高潮というものはつかの間に襲来するものである。その瞬間には、にわかに顔面が、特に眼つきが激しくゆがんでくる。痙攣《けいれん》と麻痺《まひ》が全身と顔面の全筋肉を支配する。恐ろしい、想像もつかないような、なんともかともたとえようもない悲鳴が胸の底からほとばしる。その悲鳴の中には人間らしいところはみじんもなく、はたで見ている者には、それがこの当の本人の口から出る叫び声であろうとは、どうしても考えられないのだ。少なくともそう考えることは非常にむずかしいのである。それはまるでその本人のからだのうちに誰か別の人間が隠れていて、その人間が叫んででもいるかのようにすら思われる。少なくとも、多くの人は、癲癇の発作に襲われている人の様子を見て、どことはなしに、神秘的なところさえもあり、生きた空もなく、堪えがたい恐怖を感じたと、その印象を物語っている。このような突発的な恐怖の印象が、その瞬間あらゆる他の恐ろしい印象を伴って――ラゴージンをその場に立ちすくませてしまったればこそ、あわや頭上に下らんとしていた避くべからざる白刃の下から公爵を救ったものと考えるのが至当である。で、ラゴージンはさすが発作ということには思いもよらず、公爵がよろよろと傍を離れ、いきなり仰向けに倒れたかと思うと、頸をひどく石の階段に打ちつけながら、まっさかさまに階段をころがり落ちるのを見て、いちもくさんに下へ駆けおり、倒れている相手を避けるようにして、無我夢中で旅館を飛び出してしまった。
麻痺と身もだえと痙攣のために、病人のからだは十五段近くもある踏段を一気に下までころげ落ちた。すぐに、ものの五分間ともたたないうちに、人々が倒れている公爵を見つけて、たちまちどやどやと群れをなして集まって来た。頭の辺に流れているおびただしい血潮を見て、人々は怪訝《けげん》の念にかられた。この男は自分で間違って怪我をしたんだろうか、それとも何か犯罪が行なわれたのではあるまいかと。しかし、まもなく誰言うとなしに癲癇ということがわかって、泊り客の一人が、公爵をさきほどの客だと認定した。結局、この騒ぎはある好都合な事情によって無事に解決した。
四時までには『はかりや』へ帰ると言っておきながら、そのままパヴロフスクへ出向いたコォリャ・イヴォルギンは、不意に思い返して、エパンチン将軍夫人のところで、『会食する』ことを断わり、ペテルブルグへ引き返すなり、急遽《きゅうきょ》『はかりや』へ立ち帰った。彼がそこへ姿を現わしたのは、晩の七時前後であった。そして残してあった置き手紙を見て、公爵がこの町へ来ていることがわかると、手紙に記されてあるアドレスをたよりに大急ぎでそこへ駆けつけた。ところが、宿で公爵が外出していると聞かされたので、彼はそのまま下の食堂へ行って、お茶を飲み、オルガンを聞きながら、公爵の帰りを待つことにした。しかるに、はからずも、誰かが発作を起こして倒れたという話を小耳にはさんだので、彼はなんとなく虫が知らせる気がして、その場へ駆けつけた。すると、はたしてそこに公爵の姿を見いだしたのである。すぐに応急の手当てが施された。公爵は、部屋に運びこまれると、やがて意識を取り戻したが、すっかり正気に返るのには、かなり長いことかかった。頭部の傷の診察のために迎えられた医者は、傷口を洗ってから、傷のために別に危険になるようなことはないと言った。一時間ばかりたってから、公爵に周囲の様子がかなりはっきりわかるようになると、コォリャは公爵を馬車に乗せて、旅館からレーベジェフのところへ連れて行った。レーベジェフはぺこぺこお辞儀をしながら、熱意をこめて、病人を迎えた。そして公爵のために別荘ゆきの日を早めて、三日目には早くもパヴロフスクへ引き移っていた。
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レーベジェフの別荘はさして大きいわけではなかったが、かなり居心地もよく、きれいでさえもあった。他人に貸すことに決めてある一画は特に手入れが行き届いていた。通りから部屋への入口にはかなり広々とした露台があって、香橙《くねんぼ》やレモンやジャスミンなどを植えた緑色の大きな桶がいくつも並んでいた。レーベジェフのつもりでは、こうしておけば何よりも借り手の眼をひくに相違ないとの趣向であった。これらの木のうちの何本かは、別荘と共に手に入れたものであるが、彼はこれらの木が露台の眺めをよくする効果に惚れ込んで、なお一段の生彩を加えようとし、ちょうどいいおりがあったら、競売に出る同じような桶植えの樹木を買い占めようと決心していたほどであった。ついに木が手にはいって、すっかり別荘へ運び込まれ、うまく配置されたときにはレーベジェフは幾たびとなしに露台の階段から通りへ駆けおりて、通りから自分の家に見とれては、そのたびごとに、やがて来るべき借家人に要求する金額を心の中で増していった。
元気がなくなり、愁いにとざされて、からだまでも傷めつけられていた公爵にはこの別荘がひどく気に入った。もっとも、パヴロフスクに着いた日、つまり、発作の起こった日から三日目に、公爵は胸の中では今なおなおりきらないように感じていたが、見たところの様子では健康人とほとんど変わりがなくなっていた。この三日の間に身のまわりに来てくれた人は誰もが彼を喜ばせた。ほとんど傍を離れずにいてくれたコォリャがうれしかった。レーベジェフ一家の人たちも(甥はどこかへ姿を消して家をあけていた)うれしく、主人のレーベジェフも慕わしかった。まだペテルブルグの町にいたときに見舞いに来てくれたイヴォルギン将軍にも、大喜びで応待した。
夕方近くにここへ着いたその日にも、露台にいる彼の周囲に実にたくさんの人が集まった。最初に来たのはガーニャであったが、公爵にはちょっと見わけがつかなかった、――会わずにいるうちに痩せてしまって、見違えるようになっていたからである。それから、やはりパヴロフスクの別荘へ来ているワーリヤとプチーツィンが姿を現わした。イヴォルギン将軍もレーベジェフのところへほとんど絶え間なしに来ていたので、まるでいっしょに引っ越して来たかのようにさえ思われた。レーベジェフはイヴォルギン将軍を公爵のほうへやりたくなかったので、いつも自分の傍へ引きよせていた。彼はもう将軍と友だち同志のように応待していた。見たところではとうの昔からの知り合いのようであった。二人はこの二、三日の間に、どうかすると長いこと話しこんだり、時おり大声を立てて議論したりして、それがまた学問上のことらしかったりして、どうやらレーベジェフがそうした議論を得意がっている様子を、公爵ははっきりと見てとっていた。レーベジェフは将軍をなくてならない人間にしきっているとさえも考えられた。
しかし、公爵に対すると同じように、レーベジェフは家族に対しても、別荘に引っ越して来たその日から、非常な警戒をし始めた。公爵に迷惑をかけないようにとの口実のもとに、誰ひとり彼の傍へ近づけずに、赤ん坊を抱いているヴェーラであろうが、誰であろうが、もしも娘たちが公爵のいる露台へ行きそうなけはいを見せると、地団太を踏んで、まっしぐらに飛びかかり、駆けつけて、公爵が追っ払ったりなんかはしないでくれと、どんなに頼んでも、さんざんに追いまくるのであった。
「まず第一ですよ。あいつらをかりそめにも甘やかすようなことがあると、尊敬の気持はてんでなくなってしまいますよ。それにまた、失礼なことでもありますしね……」公爵が開きなおって詰問をすると、ついに彼はこう言って弁解した。
「いったい、どうしたってんだろう?」と公爵はたしなめた、「実際、あなたはなんのかんのと監視をしたり見張りをしてくださるけれど、かえってこっちが苦しむだけですよ。もう何度となしに言ったように、僕はたった一人でいると退屈でしょうがない。そこへもってきて、手を振ったり、爪先歩きをされたりしては、かえってよけいに気が腐っちゃいますよ」
公爵の言ったのは次のようなことのあてこすりであった。病人には絶対安静が必要だなどと、勝手な熱を吹いて家じゅうの者を追っ払っておきながら、当のレーベジェフはこの三日間というもの、ほとんど絶え間なしに公爵の部屋へはいって来て、いつも最初はドアをあけて首をつき入れ、まるで、『いるかしら? 逃げてはいないかしら?』と、はっきり確かめようとでもしているらしく、部屋の中をひとわたり見回して、今度は爪先を立てて、忍び足して、ゆっくりと安楽椅子のほうへ近づく。そのために、この下宿人はゆくりなくもおどかされる。しょっちゅう何か用はないかと伺いを立て、しまいには公爵がたまりかねて、そっとしておいてくださいよと注意をうながしにかかると、おとなしく言うことをきいて踵をめぐらし、戸口のほうへ爪先立ちして引きさがる。しかも、ぬき足で歩いている間じゅう、『わたしは一言もものを言いませんよ。そうら、このとおり出てわかっているでしょう。もう二度とまいりませんよ』とでもほのめかすように、両手をしきりに振っている。ところが、ものの十分、せいぜい十五分ともたたないうちに、またもややって来るのである。コォリャは公爵のところへ自由に出入りができるので、このことがレーベジェフにははなはだしく癪《しゃく》にさわり、ひどく侮辱されたような不満を感ずるのであった。コォリャはレーベジェフが半時間もドアのかげにたたずんで、二人の話を盗み聞きしているのに気がついた。むろん、このことを公爵に注進に及ばぬはずはない。
「あなたはまるで僕を座敷牢へ入れて、手玉に取ってるみたいですね」と公爵は抗議を申し込んだ、「少なくとも、別荘へ来たからには、そんなことはやめてもらいたいものです。僕は誰にでも会いたい人に会い、また行きたい所も行きますから、そう思っててください」
「そりゃあ、大きにごもっとも」と言ってレーベジェフは両手を振った。
公爵は頭の先から爪先まで、しげしげと眺めた。
「ときにどうかな、ルキヤン・チモフェーヴィッチさん、あんたの寝台の枕もとのところに釣ってあった小さい戸棚。ここへ持って来ましたか?」
「いいえ、持ってまいりませんでした」
「じゃ、あすこへ置いて来たんですか?」
「とても持ってはまいれません。なにしろ、壁からもぎ取らにゃなりませんので……いや、とてもしっかりしていて」
「そう。じゃ、たぶんここにもあんなのがあるんでしょう?」
「かえってあれよりは上等の、ずっといいのがありますとも! この別荘も、それといっしょに買いましたんで」
「ははあ! ところで、誰ですか、さっき、あなたが僕んところへよこさなかったのは? 一時間ほど前に」
「あれは……あれは将軍でございましての。ほんとによこしませんでしたよ。別にあなたに御用もありませんしな。私はあの人を心から尊敬いたしておりますよ。公爵、あのおかたは……あれは偉いおかたでございますよ。あれがとお思いになるでしょうがな? いや、今におわかりになりますよ。でも、やっぱり……その、公爵様、あの人にはお会いなさらんほうがよろしゅうございますよ」
「けども、どうしてそうなんです、お伺いしたいものですが? それに、どうしてレーベジェフさん、あなたはなんだってそんなに爪先立ちをしてるんです? それに、いつも僕の傍へ寄って来る時といえば、まるで内密話でもしたそうな格好をして?」
「あさましい、あさましい、自分でもそうは感じますよ」とレーベジェフはいかにももっともだというように胸をたたきながら、思いがけない返答をした、「でも、あなた様に対して将軍はあんまりもてなしがよすぎることになりませんかな?」
「もてなしがよすぎるって?」
「へえ、そうでございますよ」
「第一に、あの人は手前どものところへ住み込もうっていうつもりもあるんですよ。それはまあいいといたしましても、あの人は物に躍起になるたちでしてね、すぐに親類の押し売りをいたしますんで。もう何べん私どもは親類の約束をしたかわかりません。あのかたの奥さんと手前どもの女房が姉妹で、われわれは義理の兄弟とかいうことでしたよ。あなたもまた、母方の又甥《またおい》になるそうですよ、昨日わたしに話して聞かせたばかりなんですよ。かりにもあなたが甥御さんというのでしたら、公爵様、自然わたしとあなたも親類ということになりますね。まあ、こんなことはたいしたことでもございません。まず、玉に瑕《きず》というところですね。ところが、たった今、私に言って聞かせるじゃありませんか。あの人の一生涯、つまり、少尉補のころから昨年の六月十一日までの間に、あの人のところへやって来て食事をする人の数が、毎日二百人を下ったことがなかったんですって。あげくの果てには、席を立ちあがる暇もなく、一昼夜の間に十五時間もぶっ続けでお午餐《ひる》から夕食、それにお茶というわけで、テーブル・クロスを取りかえる暇もあるかなしの時が三十年の間、ほんの少しの休みもなしに続いたそうですよ。一人が席を立って帰ると、また別の一人がやって来る。そして休みの日とか皇室のお祝いの日には客が三百人にもなったそうです。それがまた、ロシア建国一千年の記念日には無慮七百人というじゃありませんか。いやはや、全くもって恐ろしい。どうもこんな消息は、はなはだよろしくない徴候でございましてね。こんな客あしらいのいい人を、事もあろうに自分のところへ招ぶなんて空恐ろしいことですよ。ですから私も考えちゃいました、『こんな人はあなたにとりましても、私にとりましても、あんまりもてなしがよすぎはせんか』と」
「でも、あなたはあの人とだいぶいい仲らしいじゃありませんか?」
「兄弟みたいなつもりで、私もそんな話は冗談だと思って聞いてるんです。まあ、義兄弟ならそれでもよし。私にしては、――たいへんな名誉でございますからね。まあ、あの二百人という大ぜい様のことやロシア建国一千年前のお話を承《うけたまわ》っただけでも、あのおかたが実に御立派なおかただということは、ようわかりますし。いや、本気で言ってるんでございますよ。ねえ、公爵、あなたはいま内密話ってことをおっしゃいましたね。何か、私がその、あなたのお傍へまいる時、いかにも内密話をしたそうな格好をしてるとか。ところがその、内密話たるや、まるでわざとこしらえたようにあるんでしてね。実は御存じ様がただいま、あなた様と内密でぜひともお目にかかりたいというお便りがありましたので」
「いったい、どうして内密になんか? ちょっともそんな心配はないのに。僕は自分であの人のところへ行きますよ、今日にでも!」
「そうですとも、そうそう、そんな心配はいりませんとも」と、レーベジェフは手を振った、「それに、あなた様が考えてらっしゃるようなことは、あのかたには恐ろしくもなんともございませんでしょう。ついでに申し上げますが、例の悪党めがたいてい毎日のように、あなたのおかげんをどうだこうだと尋ねに来るんですけど、御承知でございましょうね?」
「よくまあ、あなたは何かというと、あの男を悪党呼ばわりなさる。どうも僕には不思議でなりませんよ」
「別に不思議がるものはございませんよ、別に」と大急ぎでレーベジェフは話題をそらしてしまった、「私はただ、その、例の御存じ様の恐れていなさるのは、あいつではなくって、全く別の、まるで別の人だと、それをお聞かせしたかったのでして」
「まあ、いったい、なんですって、早く聞かしてください」と公爵はじれったそうに、レーベジェフのいかにも秘密らしくとりすました顔を眺めながら追及した。
「そこがそれ、秘密なんですよ」
こう言ってレーベジェフは薄ら笑いをした。
「誰の秘密です?」
「あなた様の秘密でございますよ。御自分であなた様が、『僕のそばで言ってはならん』と、おとめになったじゃございませんか……」とつぶやいたレーベジェフは聞き手の好奇心を、病的にいらいらするほどあおり立てたことに興味を感じて、いきなりこう結んだ、「アグラーヤ・イワーノヴナさんを恐れていらっしゃる」
公爵は少々苦い顔をして黙っていたが、
「ほんとにレーベジェフさん、僕はここを出て行きますよ」不意に彼はこう言った、「ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチとプチーツィン御夫婦はどこにおられるんです? あなたのところ? あなたはあの人たちまで誘惑したんですねえ」
「みなさんがいらっしゃいますよ、ほら、そこへ、それに将軍まで後からついて来ますよ。戸をすっかりあけてしまって、娘たちもみんな呼んで来ます、今すぐです、すぐです」レーベジェフは両手を振って向こうの戸から、こっちの戸へと飛び歩きながら、びっくりしたように、こうささやいた。
この時、コォリャが通りから露台へ上がって来て、あとからお客にリザヴィータ・プロコフィーヴナと三人の令嬢がやって来ることを知らせた。
「プチーツィン夫婦とガヴリーラ・アルダリオノヴィッチを通したものでしょうか、どうでしょうか、どうします?」と知らせにおどろいたレーベジェフが駆け寄ってこう叫んだ。
「なぜ、いけないんです? 来たい人は誰だってかまいません! いいですか、レーベジェフさん、あなたは初めから僕たちの関係をなんだか誤解しているんですねえ、あなたって人は、しょっちゅう、なんだか勘違いばかりしているんですよ。わたしには人から逃げかくれするような理由は少しもありません」こう言って公爵は笑いだしてしまった。
レーベジェフは公爵の顔を見て、自分も笑うのが義務だと考えた。レーベジェフは、心ではなみなみならぬ不安におびえていたが、表面はさりげなくいかにも満足そうにしていた。
コォリャのもたらした知らせに間違いはなかった。彼は二人に報告するためにエパンチン家の人々にほんの数歩先んじて来たのであった。客人たちはにわかに両方から現われた。露台からはエパンチン家の人々、次の部屋からはプチーツィン夫婦にガーニャにイヴォルギン将軍。
エパンチン家の人々は、公爵の病気のことも、彼がパヴロフスクに来ていることも、ほんの今し方コォリャから聞いてはじめて知ったような始末であった。それまでというものは、重苦しい疑惑に包まれていた。というのは、将軍が家族の人々に宛てて公爵の名刺を送ってよこしてからすでに三日たっていたからである。この名刺を見たリザヴィータ・プロコフィーヴナは、この名刺のあとを追うようにしてすぐにも自分たちに会うため、公爵がパヴロフスクに来るに違いないと堅く信じてしまった。令嬢たちは、半年も手紙一本よこさない人が今じぶんになってそんなに急いで来ることなんかありはしない、それにあの人はペテルブルグにもいろいろ仕事があるのかもしれない、人のことなぞどうしてわかるものか、と言って将軍夫人を説き伏せようとしたが、それもむだであった。かえって、リザヴィータ・プロコフィーヴナはそうしたなだめにすっかり腹を立て、『明日公爵は間違いなく来ます、それだって本当からいえば遅すぎるのだけど』と言って賭でもせんばかりのけんまくであった。
その翌日は午前中ずっと待ちもうけていた。昼食にも待っていた。夕方もなお心待ちにしていた。ついに暗くなってしまった時、リザヴィータ・プロコフィーヴナはなんでもかでもやたらに当たり散らすようになって、家のものには誰彼なしに喧嘩を吹っかけるのであったが、もちろん、喧嘩の動機が公爵にあるのだとは一言も口にしなかった。この三日目には朝から公爵のことは一言も語られなかったのであるが、中食のときアグラーヤがひょいと口をすべらして、ママが怒るのは公爵が来ないからだと言った時、即座に将軍が『それはあの男の知ったことじゃない』と口を出すと、リザヴィータ・プロコフィーヴナは怒って席を離れるなりそのまま行ってしまった。ついに、夕方になってコォリャが姿を現わし、自分の知っている限りの報知や公爵|危禍《きか》の顛末《てんまつ》をつぶさに物語った。
かくて最後にリザヴィータ・プロコフィーヴナに旗があがったのであるが、どのみちコォリャは彼女から手ひどい小言を食わなければならなかった。『毎日毎日、この辺をうろうろしてるくせに、しでかすことといったらろくでもない。自分で来るのがいやだったら、なんとか知らせてでもくれればいいのに』コォリャはこの『ろくでもない』と言うことばが癪にさわって、怒り出しそうになったが、じっと胸を鎮めて、この次の機会まで取っておくことにした。それにこのことばがこれほど人を侮辱したものでなかったら、おそらく少しも腹を立てることはなかったと思われるほど、コォリャはリザヴィータ・プロコフィーヴナが公爵の病気を知って、心配したり、あわてたりするのが嬉しかったのである。リザヴィータ・プロコフィーヴナはぜひとも即刻、ペテルブルグに人をやり、誰か一流の医学界の大家を招いて、明日の一番列車でここへ連れて来るようにしなければならないと長いこと言い言いしていたが、とうとう令嬢たちのことばで思いとどまった。間もなく夫人が病人の見舞いに行くしたくをしたときには、令嬢たちもさすがにママに後れを取ろうとはしなかった。
「あの人はもう危いんだそうだよ」リザヴィータ・プロコフィーヴナは立ち騒ぎながらおろおろ声でこう言った、「だのに、おまえさんがたは礼儀がどうのこうのと言っていたりして! あの人は家のお友だちじゃありませんか?」
「だって、深浅を知らずして水に入るなかれって、ことがありますわ」と、アグラーヤが突っこみかけた。
「ふん、じゃ、いらっしゃらないで、そのほうがかえっていいかもしれませんよ。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんがいらっしたら、お相手する人がございませんからね」
アグラーヤはこういうことばを聞かされても、もちろんみんなのあとについて行った。もともと言われなくとも行くつもりではいたのである。S公爵もちょうど来合わせていてアデライーダと話をしていたが、彼女の求めに応じて、即刻、婦人たちに同伴することを承諾した。彼はもう以前から、エパンチン一家と近づきになった当初から、公爵の話を聞いて非常に興味を覚えていたのである。それに彼と公爵とは知り合いの間柄でもあった。二人は最近ある所で近づきとなり、二週間ばかり、いっしょにある町で過ごしたことがあったからである。それは三か月ほど前のことであった。S公爵は公爵のことについてさまざまなことを話して聞かせなどして、全体としてきわめて同情のある見方をしていた。こういう次第であるから、今、近づきの人をたずねるについて心からの満足を覚えていたのである。イワン・フョードロヴィッチ将軍はこの日は家にいなかったし、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチもまだたずねて来なかった。
エパンチン家の別荘からレーベジェフの別荘までの道のりは三百歩くらいであった。リザヴィータ・プロコフィーヴナが公爵のところでうけた不愉快な第一印象は、客の中に彼女の非常に忌み嫌っている人が二、三いたということは言わずもがな、公爵の周囲にあまりに多勢の客がいたことである。第二として、――驚いたことには、重態の病床にあるものだとばかり信じていた青年が、全く思いもかけぬ健康な顔つきに笑みをたたえ、しゃれた服装をして自分たちを迎えに出て来たことである。彼女は驚きのあまりその場に立ち止まったほどである。コォリャはそれを見ると有頂天になって喜んだ。彼は夫人が別荘から出かけないうちに、死にかかっている人なんか誰もいません、臨終の床なんて何もありはしません、と、はっきり言っておくべきはずなのに、いたずら気を出してそれをわざと話さなかった。それは自分の親友である公爵の健康な姿に接した時、夫人がきっと怒りだすに違いないと考え、その時の様子がどんなに滑稽なものであろうかと前もって想像していたからである。そこでコォリャは、自分とは親愛な感情で結ばれているにもかかわらず、絶え間なく冗談の言い合いをし、ともすれば恐ろしく辛辣な皮肉をも応酬する間柄になっているリザヴィータ・プロコフィーヴナをこの際、どこまでもからかって怒らせようと、自分のその想像をぶしつけ至極にも口に出してしまったのである。
「まあ、せかせかしないで控えていらっしゃいよ、いい子だから、せっかくのお得意の鼻が折れてしまいますよ!」リザヴィータ・プロコフィーヴナは公爵のすすめる安楽椅子にかけながら、こう応酬した。
レーベジェフとプチーツィンとイヴォルギン将軍は駆けよって令嬢たちに椅子をすすめた。アグラーヤには将軍がすすめた。レーベジェフはS公爵にも椅子をすすめたが、その際も、いともうやうやしく腰を折り曲げて敬意の情を表わした。ワーリヤは、いつものように、嬉しくってたまらないとでもいった様子で、低い声で令嬢がたに御挨拶をしているのであった。
「これは本当のことなんですよ、わたしはあんたがもうきっと病床についていることだと思っていました。びっくりしておおげさに考えていたんだわ。何も嘘を言うことはないから言いますが、あんたの嬉しそうな顔を見たとき、いまいましい気さえしたのですよ、誓って言っときますが、それはほんの一分間のことで。すぐに気がつきました。わたしは考えさえ取り戻せば、いつも賢いことをしたり言ったりしますからね。きっと、あんたも、そうでしょう。わたしには本当の息子があってこんな風に病気がなおったとしても、あんたがなおったほどには嬉しくないでしょう。あんたがわたしのことばを信用しないから、それはあんたの恥で、わたしの恥じゃありませんからね。この意地悪の小僧っ子ときたら、そんなことどころじゃありません、とても人を食った駄洒落《だじゃれ》なんかぬけぬけと言うのですよ。だけど、あんたはこの小僧っ子のひいきをしているらしいわね。わたしは前もって言っときますがね、よござんすか、わたしはそのうち、こんな者と交際するのは断わってしまいますよ、嘘じゃありません」
「だって、どうして僕が悪いんです?」とコォリャは叫んだ、「あの、僕は公爵はもうほとんど元気だって幾度も言ったじゃありませんか。それなのにあなたは、公爵が臨終の床にいられるほうがずっとおもしろいもんだから、僕の言うことを信じようとなさらなかったのじゃありませんか」
「永くここにいらっしゃるつもり?」リザヴィータ・プロコフィーヴナは公爵のほうを向いて尋ねた。
「夏じゅうか、都合によったら、もっと長く」
「あんた、やっぱりひとりなの? 奥さんはいらっしゃらないの?」
「ええ、ひとりです」と、夫人の鋭鋒の無邪気さにほほえみながら、公爵はこう言った。
「何も笑うことはありません。普通のことです。わたしは別荘でのことを言っているのですよ。どうしてわたしどもの所へいらっしゃらなかったの? 家の傍屋《はなれ》があいているのに。だけど、まあ好きなように! これはあの人の家ですか? あの人の?」と彼女はレーベジェフを頤《あご》で示しながら、付け加えた、「どうして、あの人はいつもおどけた格好をしているんですの?」
この時、いつものように赤ん坊を抱いたヴェーラが部屋から露台へ出て来た。この時までレーベジェフは椅子の間をあちこちとうろうろしながら、身の置き場所に困っていながら、そうかといって出て行くのもかなりいやだというような様子をしていたが、ヴェーラを認めると、いきなり飛びかかって、われを忘れて足を踏みならし、両手を振って、露台から追い出そうとした。
「あの男は気ちがい?」突然、将軍夫人はこう言い足した。
「いいえ、あの……」
「じゃ、たぶん、酔っ払っているんでしょうね? あんたのお仲間はどうもかんばしくありませんね」と無愛想な調子で言うと、彼女は、ほかの客をひとわたりじろりと眺めた、「だけど、なんて可愛い子なんでしょう! あれは誰なの?」
「ヴェーラ・ルキヤノヴナって、あのレーベジェフの娘さんです」
「あ!……とても可愛い娘《こ》ね。わたし、あの娘《こ》とお友だちになりたいわ」
ところが、リザヴィータ・プロコフィーヴナの称讃のことばを耳にはさんだレーベジェフはさっそく、紹介するつもりで自分から娘を引きつれて来た。
「親なし子でございます、母のない子でございます」そばに近よると、恍惚《こうこつ》とした気持になって彼はこう言った、「これが抱いている赤ん坊も――母のない子供でございます、これの妹で、娘のリュヴォフイでございます。亡くなった女房のエレーナと正式の法律上の結婚でできた子でございます。女房は産後の肥立ちが悪くって、六週間前に亡くなりました、神様のおぼしめしで亡くなったのでございます……それでございますから……ほんの姉というに過ぎませんが、母代わりに……ただそれだけのことで、はい、ただそれきりのことで……」
「でも、おまえさんったら、ねえお父さん、ばかみたいに、ただそれっきりだなんて。あ、失礼、もうたくさんだわ、おまえさん自分でよくわかっているのでしょう」リザヴィータ・プロコフィーヴナは極度の不満に駆られながら、急にそう言い放った。
「全くさようでございます!」と言ってレーベジェフは、いともうやうやしく頭を下げた。
「ちょいと、レーベジェフさん、あんたが黙示録の講義をなさるって、本当のこと?」とアグラーヤが尋ねた。
「はい、全くのことでございます……もう十五年前から」
「わたし、あんたのこと聞きましたわ。あんたのこと、新聞に出てたような気がするわ」
「いや、あれは別の講師のことでございますよ。その人は亡くなりまして、その代わりに私が残ったようなわけです」と、むしょうに嬉しそうにレーベジェフが一気に答えた。
「お願いだから、二、三日うちにいつか講義をしてくださらないこと、御近所のよしみでね。わたし黙示録のことがさっぱりわからないのですよ」
「差し出がましいことを言うようですが、アグラーヤ・イワーノヴナさん、そんなことはみんな、その男の駄法螺《だぼら》ですよ」なんとかして話を始めようとしていらいらしながら待ちかまえていたイヴォルギン将軍が不意に早口にことばをはさんだ。彼はアグラーヤ・イワーノヴナと並んで腰をおろした。
「もちろん、別荘には別荘なみの権利があります」と彼は語を続けた、「別荘には別荘特有のおもしろみもあります、それにこうした僣越至極《せんえつしごく》の男を黙示録の講義のためにお招きになることもいわゆる妙案と称するものでしょう、いや、むしろその思いつきの点において、抜群の妙案とさえ言いうるでしょう。しかし、私は……。あなたは驚いたようにわたしを見ていらっしゃるようですね? イヴォルギン将軍です、御面接を得まして非常に光栄に存じます。アグラーヤ・イワーノヴナさん、わたしはこの手であなたをお抱きしたことがありますよ」
「たいへん嬉しゅうございますわ。わたし、ワルワーラ・アルダリオノヴナさんともニイナ・アレクサンドロヴナさんともお近づきでございますわ」アグラーヤは吹き出しそうになるのを一生懸命に押しこらえながらどもるように言った。
リザヴィータ・プロコフィーヴナは、かっとなった。彼女の胸にだいぶ前から何かしらたまっていたものが一時に、はけ口を見いだしたのであった。彼女はずっと古い昔の、ひところの知り合いにすぎないイヴォルギン将軍にどうしても我慢がならなかった。
「あんたは、相変わらず嘘を言いますね。あんたがあの子を抱いてくだすったことなんか一度だってありませんわ」彼女は憤然として言い放った。
「ママ、あなた忘れていらっしゃるのよ。本当に抱いてくだすったんだわ、トヴェーリで」と不意にアグラーヤが将軍のことばを承認した、「あのころ、あたしたち、トヴェーリにいましたわね。わたし、あのころたしか六つぐらいでしたわ。このかたが弓と矢を作って、射ることを教えてくださいましたわ。わたしあのとき、鳩を一羽射落としましたわよ。覚えていらして、いっしょに鳩を射ったでしょう、ね?」
「それから、わたしにはあの時、厚紙の兜《かぶと》と木剣を持って来てくだすったわ、わたしもよく覚えていますわよ!」とアデライーダが叫んだ。
「わたしもそれを覚えています」アレクサンドラが相づちを打った、「あんたがたが傷ついた鳩のことで喧嘩をして部屋の隅と隅に立たせられましたわね。アデライーダは兜をかむって、木刀をつけたまま立っていましたわ」
将軍がアグラーヤに、あなたをこの手に抱いたことがあると言ったのは、ただ会話の糸口を見つけるために言ったので、若い人々と知り合いになる必要があると考えた場合にはたいていこんなぐあいに話を持ちかけるからにすぎなかったのである。しかし、今度だけは、まるでわざとのように本当のことを言い、またまるでわざとのように、それが本当のことであるのを忘れていたのである。ところが、今アグラーヤが突然、あなたといっしょに鳩を射ったことがあると言いだした時、彼の記憶は一時によみがえって来た。そしてよく高齢の人が何か古い昔のことを思い出すときのように、事の枝葉末節に至るまで細々《こまごま》と思い出したのであった。不幸な、そしていつも少々酒気を帯びているこの将軍に、この思い出のいかなる点がつよく作用したのか、それはちょっと言いにくいが、彼はいきなり非常に感激してしまったのである。
「覚えていますとも、何もかも覚えていますよ!」と彼は叫んだ、「あのころ、わたしは歩兵二等大尉だったのです。あなたは可愛いほんのねんねさんでしたよ。ニイナ・アレクサンドロヴナさん……ガーニャ……あなたがたの所へ……よくお伺いしたものでしたなあ、イワン・フョードロヴィッチさん……」
「それなのに、今はなんてことですの!」と将軍夫人が彼のことばを受けた。「しかし、そんなに感激なされるところを見ると、まだ御自分の高潔な感情をすっかり酒に飲み乾しておしまいになったわけじゃないのね。奥さんに苦労をさせてさ、子供さんのしつけもしなければならないのに、債務監獄に入れられたりなんかして。さあ、あんた、ここを出ていらっしゃい。どこか隅っこの戸の陰にでも立って、泣きながら、罪のなかった昔のことを思い出しなさい。神様もそうしたら許してくださるでしょうよ。さ、行くんですよ。わたしは真剣に言ってるんですよ。以前のことを悔悟して思い出すことほど罪滅しはありませんよ」
しかし、真剣に言っているのだとくり返して言う必要はなかった。将軍は、しょっちゅう酒気を帯びている人の常として、非常に感激しやすかったし、またどん底まで酒に身を持ちくずした人々と同じく、幸福だった過去の思い出を、じっと堪え忍ぶことができなかった。彼は立ち上がると、おとなしく戸のほうへ歩きだしたので、リザヴィータ・プロコフィーヴナはすぐに彼が可哀そうになってきた。
「おまえさん、アルダリオン・アレクサンドロヴィッチ!」と彼女は後ろから声をかけた、「ちょっとお待ちなさい。わたしたちは誰でも罪のある身です。あなたも良心の苦しみが少なくなったと思ったら、わたしのところへいらっしゃい、しんみり昔のことでもお話ししましょう。わたしだって、あなたより五十倍も罪深いからだかもしれませんものね。さあ、今は向こうへいらっしゃい、ここにいらっしゃることはありませんよ……」将軍が引き返して来たので彼女は驚いてこう言った。
「しばらく放っておくほうがいいでしょう」父のあとを追って行こうとしたコォリャを、こう言って公爵がとどめた。「でないとすぐに腹を立てて、せっかくのいい機会がだめになってしまいますから」
「本当です、放っておきなさい。三十分もしたらまたいらっしゃい」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは決めつけるように言った。
「一生にただの一度でも本当のことを言うと、こんなもんですかね、涙を流さんばかりですよ!」レーベジェフが思いきってこう言った。
「ふん、私の聞いていることが本当なら、あんたも、きっと立派な人間だよ」とリザヴィータ・プロコフィーヴナがすかさず決めつけた。
公爵のところに集まった相互の関係はおいおいに決まってきた。公爵はもちろんこの場の様子から、将軍夫人や令嬢たちの自分に対する同情の深さをはかることができたし、それをありがたくも思ったので、あなたがたの来られる前に、時間はだいぶ遅くはあったが病気をおしても今日は自分のほうから訪問するつもりであったのだと衷心から述べた。そこで、リザヴィータ・プロコフィーヴナは客をひとわたり見回してから、それは今すぐに実行できることだと答えた。プチーツィンは、社交的な至極気のつく人であったから、すぐ席を立って、レーベジェフの傍屋《はなれ》に退いた。彼はその際、ぜひレーベジェフにもいっしょに行こうと誘ったけど、こちらは今すぐ行きますと言ったばかりで立とうとはしなかった。ワーリヤはそのとき令嬢たちと話をしていたのであとに残った。彼女もガーニャも、将軍がいなくなったのでたいへん喜んだが、そのガーニャ自身もまた、まもなくプチーツィンのあとを追って立ち去った。彼は露台でエパンチン家の人々と同席していた数分の間、つつましやかな態度をとり、けっして自分の品位をおとすようなことはなく、二度までも頭のてっぺんから足の爪先まで、じろじろと見つめるリザヴィータ・プロコフィーヴナのいかつい視線に少しもたじろぐようなことはなかった。事実、以前の彼を知っていた人々は彼が非常に変わったことに気づいた。それがひどくアグラーヤの気に入った。
「今、出て行ったのガヴリーラ・アルダリオノヴィッチでしょう?」彼女はときどき好んでするように、他人の話を妨げるように、誰にともなく突然大声でこう尋ねるのであった。
「そうです」と公爵が答えた。
「すっかり見違えるところだったわ。あのかたもずいぶんお変わりになったわね、それも……ずっといいほうに」
「僕もあの人のために、とても喜んでいるのです」と公爵が言った。
「あの人はとても病気がひどかったんですよ」とワーリヤが同情を面に表わして嬉しそうに言い添えた。
「どうしてあの人がいいほうに変わったの?」と不満そうに怒ったような調子で、驚かんばかりにリザヴィータ・プロコフィーヴナが尋ねた、「どこを押せばそんなことが言えるの? いいところなんか少しもありはしないよ。おまえさんはいったいどこがよく見えるの?」
「『貧しき騎士』よりいいものはありませんからね!」ずっとリザヴィータ・プロコフィーヴナの椅子の傍に立ち続けていたコォリャがにわかに大声でこう言った。
「わたしも同感ですよ」S公爵がこう言って笑った。
「わたしも全く同意見よ」とアデライーダが元気よく叫んだ。
「『貧しき騎士』ってなんです?」と言って将軍夫人はいぶかしげに、またいまいましそうに、大声をあげた人々を見回したが、アグラーヤが、さっと顔を赤らめたのに気づくと、急にかっとなって言い足した、「どうせろくでもないことなんでしょう! その『貧しき騎士』っていうのは何者です?」
「あなたのペットのこの坊主が人のことばをはき違えるのは、いまさらのことじゃございますまいし?」
傲慢《ごうまん》な怒りに駆られてアグラーヤはこう答えた。
アグラーヤの怒った時の動作の中には(それに彼女は非常に腹を立てやすかった)そのまじめな気むずかしそうな顔つきにもかかわらず、たいていいつも、なんだか子供っぽい、まるで弱虫の小学生のような、それに隠し損なったような何ものかが姿をのぞけるので、それを見た人はときどき笑い出さずにいられなくなるのであった。それがまた、アグラーヤには口惜しくてならなかった。何をそんなに人が笑うのか、自分にはわからなかった。そこで『どうしてそんなことができるのだろう、なんて失礼な人たちだろう、笑ったりなんかして』とこう思うのであった。今もやはり姉たちとS公爵が笑いだしたのである。公爵レフ・ニコライヴィッチまでが、どうしたのか顔を赤くしながら笑っている。コォリャはまたおもしろくてたまらないといったように大きな声で笑った。アグラーヤはもういよいよ本気になって怒りだしたが、それがまた一段と美しさを添えるのであった。彼女のとり乱した姿と、そうした自分自身に対する忿怒の様子が彼女にはきわめて似合わしかった。
「この子はお母さんのことばさえずいぶん勘違いしてるじゃありませんか」と彼女は付け足した。
「僕はあなた御自身の詠嘆のことばを根拠としているんですよ!」とコォリャが叫んだ、「あなたはひと月ほど前に『ドン・キホーテ』のページをめくりながら『貧しき騎士』よりいいものはないって感嘆の叫びをあげられたじゃありませんか。その時いったい誰のことをおっしゃったのか僕にはわかりません、ドン・キホーテのことなのか、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチのことか、それともまたいま一人のかたのことなのか、それは知りません。しかし、誰かのことをおっしゃったのには相違ありません。そして長いことお話ししたじゃございませんか」
「おまえさん、そりゃ得手勝手な当て推量をするのは生意気ですよ」リザヴィータ・プロコフィーヴナがコォリャをやりこめた。
「だって、それは僕ひとりじゃないんですもの」コォリャはたまらなかった、「みんなで、その時、話したんですよ。今でも話しています。そら、さっき、S公爵やアデライーダ・イワーノヴナやみんなが『貧しき騎士』に賛成だっておっしゃったじゃありませんか、だから『貧しき騎士』は存在しているんです、たしかにいるんです。僕の考えでは、アデライーダ・イワーノヴナさえ承知してくだすったら、『貧しき騎士』が誰だか僕たちみんなにわかったんですけれど」
「わたしが、どうしていけないんです」と言ってアデライーダが笑いだした。
「肖像を描いてくださらなかったでしょう――それがいけないんですよ! アグラーヤ・イワーノヴナが、あの時あなたに『貧しき騎士』の肖像を描いてくれっておっしゃって、御自分で考えだされた主題をすっかり話されたでしょう。あの主題を覚えていらっしゃるでしょう? あなたはそれをいやだっておっしゃったのです……」
「だって、誰をどんな風に描けばよかったんですの? あの主題では『貧しき騎士』は
兜の眉庇《ひさし》を人まえに、
上ぐることすら絶えてなく
どんな顔ですか? 何を描くんです、兜の眉庇? 匿名?」
「何もわかりゃしない、その兜の眉庇というのはいったい何です?」将軍夫人はこの『貧しき騎士』という呼び名で(たしかにだいぶ前から呼ばれているらしい)誰の意味になるのかがよくわかり始めたのでいらいらしてきた。
ところが、レフ・ニコライヴィッチ公爵もまた、もじもじして、ついにはまるで十くらいの子供みたいにはにかみだしたので、彼女はすっかり怒りだしてしまった。
「なんです、そんなばかな話をやめますか、やめないんですか? わたしにその『貧しき騎士』のわけを聞かしてくれるのか、くれないんですか? 近よることのできないような何か恐ろしい秘密なんですか?」
しかし、一座の人々はただ笑い続けているばかりであった。
「いや、ほんのくだらないことで。ある奇妙なロシアの詩があって」と、明らかに、この話をもみ消して、話題を変えようとし、S公爵が話の中へ割りこんで来た、「それが『貧しき騎士』のことを言っているんです。初めも終わりもない断片ですよ。一か月ばかり前のこと、中食の後でみんながふざけながら、例のとおり、アデライーダ・イワーノヴナの今度の画題を捜していたんですよ。御存じのとおり、アデライーダ・イワーノヴナの画題を見つけるのが、もうだいぶ前からお宅さんの総がかりの仕事になっているのですから。そこでこの『貧しき騎士』に話が触れたわけなのです。誰が持ち出したのか覚えていませんが……」
「アグラーヤ・イワーノヴナです!」とコォリャが叫んだ。
「おおかたそうでしたろう、わたしはすっかり忘れましたが」と公爵は話を続けた、「ある人はこの画題をすっかり冗談にして認めませんでしたが、ほかの人たちはこれ以上のものはないと主張するのでした。しかしそれはどっちにしても、この『貧しき騎士』を表現するにはモデルがいるということになりました。それで知った人の顔をいろいろと物色し始めたのですが、一つとしてこれはと思うのがなかったので、この点が問題になったわけです。ただこれだけのことです。しかし、どうしたわけでニコライ・アルダリオノヴィッチがこんなことを思い出されて、引用されたのか僕にはわかりませんね。以前にその場のおもしろさがあったことも、今となっては少しもおもしろくありません」
「それは何か新しく毒のあるいやなばからしい意味を含ませたからです」とリザヴィータ・プロコフィーヴナがさえぎった。
「深い尊敬の念以外には、そんなばかな意味は少しだってありません」さっきの狼狽した気持を払いのけて、すっかり冷静に立ち返っていたアグラーヤが、人々の思いもかけぬ重々しいまじめな声でこう言った。
そればかりではない、その態度にあらわれた種々の点から察するのに、彼女は今ではこの冗談がだんだんと深みに落ちて行くことを喜んでいるかと思われた。彼女の心にこうした変化が起こったのは、公爵の困惑の状態がしだいしだいに募って、ついにはその頂点に達したことが、はっきりとわかるようになったその瞬間からであった。
「まるで火がついたように笑いこけているかと思うと、今度はいきなり恐ろしく深い尊敬が出て来るんだね! まるで気ちがいみたいだよ! 何が尊敬なのかい? さあおっしゃい、ああだ、こうだと言ってるかと思うと、今度はなんだって、そういきなり深い尊敬が出て来るんだえ?」
「深い尊敬といいますのはね」母のほとんど毒々しいほど針を含んだ問いに対し、アグラーヤは依然として重々しいまじめな様子を続けながら答えた、「それは、この詩の中に、理想をいだくことのできる人間が偽りなく描かれているからです。第二には、この人はいったん自分の理想を定めたからには、あくまでもそれを信じ、そのためにはすべてを忘れて自分の一生を捧げるのです。今の世にこんな人はそうたんとはいませんのよ。この『貧しき騎士』の特別の理想が何か、それはこの詩の中には言ってありませんが、何か輝かしい姿、『清純な美の姿』らしいんですの。それから、この姿に恋い慕った騎士は首巻の代わりに、珠数なんかを首に巻いていたんだそうです。それからまだなんだかはっきりしない言いさしにしたような銘、そう、A・N・Bっていう字がありましたわ、それを騎士は楯の上に彫りつけてたんですのよ……」
「A・N・Dです」とコォリャが訂正した。
「でも、わたしはA・N・Bと言っているのですよ、わたしはそう言いたいの」といまいましそうにアグラーヤがさえぎった、「ま、あれはどちらでもいいとして、明瞭にわかっているのは、この『貧しき騎士』は自分の姫君が誰であろうと、どんなことをしようと、そんなことはもう少しもとんじゃくしないのです。自分が姫を選び出して、彼女の清純なる美を信じたうえは、もう永久にその前にひざまずくだけで十分だっていうのです。つまり、後になって彼女がたとい泥棒であるとわかったにしても、自分は変わることなく彼女を信頼し、その清純な美のために槍を折ることこそ自分の使命であるというわけなの。詩人は清廉高潔な騎士のいだいていた中世紀の騎士のプラトニックな恋の大きな概念を、一つのこの異常な形の中に盛り込もうと思ったのらしいわ。もちろん、これはみんな理想です。『貧しき騎士』の中では、この感情が極端に禁欲主義にまで到達しているのです。しかし、こうした感情をいだき得るということは多くの意味を示しているし、こうした感情そのものが深い意味をもっており、また一面からいえばきわめて賞讃すべきことであるということは否定することができません。これはあえて『ドン・キホーテ』にまつまでもありません、『貧しき騎士』はドン・キホーテと同じような人物ですが、ただまじめであって、滑稽な部分のないところだけが違うのです。初めわたしはわからないので笑いましたけれど、今では『貧しき騎士』を愛しています。むしろその勲功を尊敬しています」
こうして、アグラーヤの話は終わったが、その顔を見ると、それはまじめに言っているのか、冗談に言っているのかちょっと見当がつかなかった。
「ふん、そんなものはどこかのばかだよ、その男も、その勲功とかいうものもさ!」と将軍夫人は言い放った。
「それにおまえさんもずいぶん大演説をおやりだったのね。どうもおまえさんの柄ではないようだよ。とにかくこんなことはいけません。で、いったいどんな詩なの? 読んでちょうだい、きっと知ってるんでしょう! わたしはぜひその詩が知りたいんですから。わたしは一生涯、詩というものには我慢がならなかったのさ、まるで予感でもしていたようね。後生だから、しんぼうなさいよ。どうやらわたしも、あんたもしんぼうしなければならないようですから」
夫人は非常に腹を立てていた。
レフ・ニコライヴィッチ公爵は何やら言おうとしたが、先刻から打ち続いた困惑のために、一口も物が言えなかった。ただひとり例の『演説』で思うことを遠慮なく言ってのけたアグラーヤだけは、少しも臆する色なく、むしろ喜んでいるように見うけられた。彼女は相変わらずまじめな重々しい態度を続けたまままもなく立ち上がって、もう前から心待ちにしながら、ただすすめられるのを待っていたというような顔つきをして露台のまん中へ進み出て、ずっと安楽椅子にかけ続けていた公爵の前に突っ立った。一同はいくらか驚いて彼女を眺めていた。ほとんどすべての人々――公爵、二人の姉、母親――は不愉快な気持になって、てっきり辛辣な、そのうえ前もって用意されてあったらしいその新しいいたずらを眺め始めた。しかし、アグラーヤはいかにもこれから詩を朗読しますといったこの改まった自分の格好がすっかり気に入ったようであった。リザヴィータ・プロコフィーヴナはアグラーヤが詩の朗読をまさに始めようとした刹那、今にもアグラーヤをもとの席に追い返そうとしていたが、ちょうどそこへ二人の新しい客が声高に話しながら通りから露台へ上がって来た。それは、イワン・フョードロヴィッチ・エパンチン将軍と、その後ろに続く一人の若い男であった。一座に小さなざわめきが起こった。
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将軍について来た青年は、年のころは二十八くらいの、背の高い、すらりとした男で、きれいな、はしこそうな顔をして、大きな、黒い眸《ひとみ》の輝きにユーモラスな、人を食ったような様子が十分にうかがわれた。アグラーヤはその男のほうをふり返ろうともしないで、相も変わらずもったいぶって、ただ公爵のほうばかりを見、公爵のほうばかりを向きながら、詩の朗読を続けていた。こんなことは何もかもが、ある特別な胸算用があってやっているのだとは公爵にもはっきりわかってきた。しかし、少なくとも、新しい客たちは彼のこそばゆい気持をなおしてくれた。連中を見つけると、彼は、つと立ち上がって、愛想よく、遠くのほうから将軍にうなずいて、朗読の邪魔をしないようにとの合図をして、さて、自分は安楽椅子の後ろに引き退がり、椅子の背に左の手で頬杖をつきながら、やはり譚詩《バラッド》に耳を傾けていたが、もう安楽椅子に腰をかけている時よりはずっとぐあいもよく、そんなに「おかしい」格好もしていなかった。
リザヴィータ・プロコフィーヴナはというと、これは命令をするような科《しな》をつくって、そこに立ち止まっていてくれるようにと二度も手を振った。しかし、公爵は将軍について来た新しい客に、非常な興味を覚えていた。これはたしかに今までたびたび、噂にも聞き、一度ならず考えてもいたエヴゲニイ・パーヴロヴィッチ・ラドムスキイに相違あるまいと推察した。ただ彼の文官の服にはめんくらった。エヴゲニイが武官だとかねて噂に聞いていたからである。詩を朗読している間、すでに自分も『貧しき騎士』のことはなんだか聞いたことがあるといったような風をして、新しい客はその唇にたえずあざけるような微笑を漂わせていた。
『ことによったら、この人が自分で工夫したのかもしれない』と公爵はひそかに考えた。
しかし、アグラーヤの方はまるで別であった。詩を朗読しようとして進み出た時の、あの最初の気取った様子や不遜な態度は、今は真摯《しんし》な態度と詩の精神と意義とに徹しようとする気持によっておおい尽くされてしまった。彼女は詩の一言一句に意味を含めて発音し、非常に質朴な調子で読んでいったので、朗読が終わるころには一座の人々の注意を集注させたばかりではなく、譚詩《たんし》の高邁《こうまい》な精神を伝えることによって、最初にすまし込んで露台《テラス》のまん中に出て来た時の、あのわざとらしい気取ったもったいぶりをもいくぶんは当然のこととして容認させた形であった。このもったいぶりのうちに今はただ彼女があえて人に伝えようとしたものに対する彼女の深い尊敬の気持、あるいは無邪気だとさえもいえるような気持のみが見られるのであった。眼は光を放ち、その美しい顔には、霊感と感激との軽い、ほとんど見えるか見えないほどのおののきが、二度ほども通り過ぎて行った。
彼女は朗読するのであった。
世に貧しく、ことば少なく、
飾り気もなき騎士のいて、
見るからに快々《おうおう》として、青ざめたれど、
こころ雄々しく、はばかる色なく。
思い知られぬ、
一つのゆめをいだき、
夢の思いは深く、
こころに刻まれ。
その時このかた、よき人に思いこがれて、
女《め》を見ることもはばかりて、
世を終わるまで女《め》の前に、
口をひらかむこころなく。
おのれが頸に珠数をかけ、
肩掛すらもまとわずに、
兜の眉庇《ひさし》を人まえに、
上ぐることすら絶えてなく、
清き恋情《おもい》にみたされて、
たのしき夢をひたすらに。
楯に血をもて記せしか、
A・M・Dと鮮やかに。
またパレスチナ、荒れ野にて、
荒武者たちが岩づたい、
声高らかに、おのれが女《きみ》の名を呼びて、
戦《いくさ》のにわに馳するとき。
いとあららかに、ものすごく、騎士は叫びぬ、
Lumen coeli, santa Rosa!(みそらの光り聖きばら!)
異教徒たちは驚きぬ、
この声高き雄さけびに。
はるかに遠きわが城にかえり来れば
戸をば鎖してひとり暮らしぬ、
語ることばも絶えてなく、ただ悲しみにかき暮れて、
狂えるごとく世を去りぬ。
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そののち、この時のことを思い起こして、ムィシキンは自分にとってはどうにも解決のつかないある疑問のために、長いこと極度の昏迷に悩まされるのであった。それは、あれほど真実のこもった、美しい感情に、あれほど眼に見えて意地の悪いあざわらいを、どうして結びつけることができたのか? ということであった。あざわらいの気持があったということ、そのことは公爵も十分に認めていた。公爵ははっきりとそのことを悟って、そう考えなければならない理由をもっていた。というのはアグラーヤが朗読の時、|A《アー》・|M《エム》・|D《デー》という文字を、勝手に|N《エヌ》・|F《エフ》・|B《ベー》〔ナスターシャ・フィリッポヴナ・バラシコフの頭字〕という文字に代えたことである。そこには思い違いや聞き違えなどはなかった――ということも彼は信じて疑わなかった(実際にそうであったことが後に証明された)
とにもかくにも、アグラーヤの乱暴なしぐさは――もちろん、冗談ではあったが、冗談にしてはあまりに辛辣な、軽率な冗談である――前もって手はずを決めておいたものであった。『貧しき騎士』のことは、誰もが、すでに一か月も前から話していたことである(そして『笑って』もいたのだ)
それにしても、その後、公爵がどんなに思い出してみても、こう思われるのであった。アグラーヤはあの文字を発音したとき、冗談めいた様子とか、何か嘲笑めいた風とかは少しもなく、また、内にかくれている意味をいっそう明瞭に感じさせようとして、特にこれらの文字に力を入れたというようなことさえもなく、むしろ反対に、こんな文字は譚詩《バラッド》の中にたしかにあったもので、本の中にもそういう風に印刷されてあったものだろうと思われるほど、相変わらずの真摯な態度と無邪気な、きわめて自然な素朴な態度をもってしたとしか思えなかった。何かしら、重苦しい、不愉快なものがあたかも公爵の心をちくりと刺したように思われた。
リザヴィータ・プロコフィーヴナは、もちろん、文字が変わっていたことも、当てこすりであったことも悟りはしなかった。イワン・フョードロヴィッチ将軍にわかったのは、詩を読んだということだけであった。あとの人たちの大部分は、これを悟って、アグラーヤの大胆なしぐさや、これだけのことを企てたことに驚嘆したが、かたく口をつぐんでそぶりにさえも見せまいと努めていた。ところが、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは(公爵はこのことならば賭をしてもいいとさえも思っていた)、ただ悟ったというばかりではなしに、悟ったことをそぶりに表わそうとさえも努めていた。さればこそ、あまりに人を食ったようなあざわらいを浮かべたのである。
「まあ、なんていいんでしょう!」と夫人は朗読が終わるやいなや、すっかり有頂天になって叫んだ、「誰の詩なの?」
「プゥシキンのよ、ママ、あたしたちに恥をかかせないでちょうだい、ほんとにはずかしいわ!」とアデライーダが叫んだ。
「まあ、おまえさんたちといると、もっともっと、これよりばかになりますよ」とリザヴィータ・プロコフィーヴナ夫人は苦々しそうに答えて、「ほんとに恥だわ! 家へ帰ったら、すぐにそのプゥシキンの詩集を見せておくれ」
「だって、プゥシキンのなんかなさそうですよ」
「いつのころからですか、しれませんけれど」アレクサンドラが付け足した、「なんだかほどけた本が二冊ころがっていますよ」
「じきにフョードルかアレクセイを一番汽車で町へ買いにやりましょう。――アレクセイのほうがいいわ。こっちへおいで、アグラーヤ! あ、接吻して。おまえ、ほんとにうまく朗読したわね。でも、おまえが本気で読んだんなら」と、ほとんどささやくような低い声で付け足した、「わたし、おまえが可哀そうだわ。もしもひやかすつもりで読んだんなら、おまえの気持をもっともだとは思いませんよ。だから、とにもかくにも、ちょっとも読まなかったほうがよかったんだわ。わかって? さ、いらっしゃい、お嬢さん、またいっしょに話しましょう。でもずいぶんここに長居《ながい》をしてしまったね」
その間に公爵はイワン・フョードロヴィッチ将軍に挨拶をした。やがて将軍は彼にエヴゲニイ・パーヴロヴィッチ・ラドムスキイを引き合わせた。
「途中でつかまえて来たんです。この人は汽車で来たばかりなんでしてね。彼もこちらへ来るし、うちの者もみんなこっちにいることを知ったものですから……」
「また、あなたもこちらにおいでだったと聞きましたもんですから」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが口を出した、「わたしは、ずっと前からもうあなたのお近づきというばかりでなく、御厚誼をいただきたいと絶えず考えておりましたものですから、このいい機会をはずしたくないと存じまして。おかげんがお悪いんですって? ただいま、お伺いしたんですけれど……」
「え、すっかり良くなりました、あなたにお目にかかれて何よりです。お噂はたびたび伺っておりまして、また自分でもS公爵とお噂をしたりしたものでした」とレフ・ニコライヴィッチは手を差しのべながら答えた。
お互いの挨拶が済み、二人は互いに握手して、互いにじっと眼と眼を見合わせた。たちまちのうちに二人の会話は一同の視聴を集めた。エヴゲニイの文官服は一座の者に何か非常に強い驚異の念をひき起こして、そのほかの印象は一時全く忘れられて打ち消されたほどであった。公爵はこのことを見て取り(彼は今あらゆることをすばやく、むさぼるような眼で見て取った、あまつさえ、全くありもしなかったことまでも見て取ったかもしれないのである)、それにこの服装の変化に何かことさらに重大なものが秘められているようにも考えられた。アデライーダとアレクサンドラはいぶかしげになんのかんのとエヴゲニイ・パーヴロヴィッチに聞いていた。親戚のS公爵はかなりの不安をすらもっていた。将軍はほとんど興奮でもしているかのように話をしていた。ただ一人アグラーヤばかりはさも物珍しそうに、しかも落ち着き払って、軍服と文官服とでは、どちらがよく彼の顔に映《うつ》るかを比べてでも見ようとしているかのように、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチをちょっと見ていたが、間もなく、くるりと向きを変えて、もうそれっきり彼のほうはふり返りもしなかった。リザヴィータ・プロコフィーヴナも、いくぶんは不安になっていたのかもしれないが、やはり何一つ聞いてみようとはしなかった。公爵には、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチが夫人のお覚えがめでたくないように思われた。
「驚きましたよ、まったくびっくりしましたよ」とイワン・フョードロヴィッチは一同の質問に答えてこう言った。「僕はさっきペテルブルグで会ったその時から、本気にしようとは思いませんでしたよ。なんだってあんなに不意にこんなことをなすったのか、それが問題ですよ。会ったかと思うと、まず第一に、大きな声で、『役所の椅子をこわさなくたっていい』と、こうなんですからね」
そのとき話題に上ったいろんなことから、次のようなことがわかってきた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはずいぶん前からこの退職のことをふれ回っていた。しかも、いつもその話しぶりが、あまりまじめでなかったので、どうにも真《ま》にうけることはできなかった。おまけに、まじめな話の時にも、かなりふざけた顔つきをしていたので、嘘か真《まこと》か区別がつかなかった、わけても自分のほうから相手にその区別がつかないようにと考えているときにははなはだしかった。
「なあに、僕はね、ほんのちょっとの間、三、四か月、せいぜい長くて一年くらい休職になっていようと思うんです」とラドムスキイは笑っていた。
「だって少なくとも僕の考えるところでは、なにもそんなことをしなくってもいいと思うんですけれど」と将軍はなおも憤然とした。
「ですけど、領地めぐりはいかがでしょうか? あなた御自分からお勧めになったことですし、それに加えて、外国へもまいりたいし……」
それにしても、話題はたちまち変わってしまった。けれど、公爵の傍からみての考えでは、あまりにも特殊な今なお続いている不安の念は、なおも加わるばかりであった。そこにはたしかに何か特殊なものがあったのである。
「ではつまり、『貧しき騎士』がまた舞台へ上がったんですか?」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチはアグラーヤに近づきながら聞いていた。
ところが、公爵の驚いたことには、アグラーヤはいぶかしそうに、腑《ふ》に落ちないかのように、まるで、『貧しき騎士』のことなんか、あなたと話す話題ではなく、あなたのお尋ねなさることはよく呑み込めもしないと言って聞かせたそうなふうをしていた。
「でも遅いですよ。今ごろプゥシキンの本を買いに町へおやりになるのは遅いですよ、遅い!」とコォリャは一生懸命になってリザヴィータ・プロコフィーヴナと言い合っていた。「何度くり返して言っても、もう遅いですよ」
「そう、ほんとに、今から町へ使いにやるのは遅いですね」と早くもアグラーヤを思いきったエヴゲニイ・パーヴロヴィッチがそこへ口を出した、「僕はペテルブルグの店はもう閉まっていると思いますね、八時過ぎですよ」彼は時計を取り出して、確かめた。
「今まで、こんなに長いこと気がつかずに待っていたんですもの、明日までくらいしんぼうができるわ」とアデライーダが仲にはいった。
「それに不体裁です」コォリャが付け足した、「上流社会の人が文学なんかをそんなにおもしろがるなんて。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチに聞いてごらんなさい。そんなことより赤い車輪《くるま》のついた黄色い馬車《シャラバン》の道楽のほうがずっと体裁がいいですよ」
「また本から引っ張って来ましたね、コォリャさん」とアデライーダが言った。
「でも、この人は本から引っ張り出して来なかったら、話しのしようがないんです」とエヴゲニイがあとを引き取った、「批評集の長い文句を、すっかりそのまま引っ張って来て言うんですからね。僕はとうから、ニコライ・アルダリオノヴィッチさんのお話を拝承しておりますが、今のは本から引いて来たことばじゃありませんね。ニコライ・アルダリオノヴィッチさんは明らかに、赤い車輪《くるま》のついた、僕の馬車《シャラバン》を当てこすったんです。もっとも僕はあれを取り換えちゃいましたよ。だから、あんたは申し遅れたわけですね」
公爵はラドムスキイの話を傾聴していた……。そして彼が立派に、控え目に、朗らかに身を持しているような気がして、自分に突きかかって来るコォリャと話すのに、彼が全く同輩のような気持で親しそうにしているのが彼にはひとしお嬉しかった。
「それ、なんなの?」と、リザヴィータ・プロコフィーヴナはレーベジェフの娘のヴェーラのほうを向いた。この娘は夫人の前に、何冊かの大型のすばらしい装幀の、ほとんど真新しい本を手にして立っていたのであった。
「プゥシキンです」とヴェーラは答えた、「うちのプゥシキンですの。お父ちゃんが奥様に持ってって上げるようにって言いましたので」
「どうしてそんなことが? そんなことってあるものかね?」とリザヴィータ・プロコフィーヴナはびっくりした。
「お上げするんじゃございません、贈り物ではございません! わざわざ、そんな失礼なことはいたしません!」と娘の肩のかげからレーベジェフが飛び出した、「へえ、相当のお値段で。これは手前どもの、家庭用のプゥシキンでして、アンネンコフ版でして、今日|日《び》はなかなか手にはいらないんでございますよ。へえ、相当のお値段で、お譲り申し上げたいと存じましてつつしんで持参いたしましたようなわけで、それでもって、こちらの奥様のまことに高尚な文学的感情のもったいない御待ち遠しさをいやしたいと存じ上げまして」
「そう、譲ってくださるの、そんならありがとう。それで損するようなことはないでしょう、たぶん。でも、そんなふざけたまねをするのはよしてよ、ね。わたし、おまえさんのことは、かなり学識が博《ひろ》いっていう噂を聞いてましたよ、おりがあったら話をしましょうね。どう、おまえさん自分で、うちへ持って来てくれるの?」
「はい、つつしんで……うやうやしく!」と、非常にいい機嫌になって、レーベジェフは娘の手から書物を引ったくりながら、妙な身ぶりをした。
「さあ、それでなくさないように気をつけて、そんなにうやうやしくでなくてもいいから持って来てちょうだいよ、けど、条件つきですよ」と夫人はじっと彼を見つめながら付け加えた、「閾《しきい》のところまでは来させるけれど、それから上へ上げるつもりはないからね。その代わり娘のヴェーラさんを今すぐにでもよこしなさい。あの子はすっかり気に入った」
「なんであの人たちのことを言わないの?」とヴェーラはたまらなくなって父親に話しかけた、「そんなにしてたら、勝手にはいって来るわよ、もう騒ぎだしてるんだから。レフ・ニコライヴィッチ様」今度は自分の帽子を取っていた公爵のほうを向いて、こう話しかけた、「あちらへ、あなたにお目にかかりたいって四人ほどの人がお見えになって、わたしどものところで待っています、悪口を言いながら。お父ちゃんはあなたのところへ通しちゃならないって言うんですけれど」
「どんなお客様?」と公爵が聞いた。
「用事でまいられたそうですけれど、今もしこちらへ通さなかったら、待ちぶせでもしそうな人たちです。レフ・ニコライヴィッチ様、お通しなすったほうがよろしゅうございますよ、それから追い返してやったほうが。あちらでガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんやプチーツィンさんが言って聞かしていらっしゃるんですけれど、言うことを、どうしても、どうしても聞かないんです」
「パヴリシチェフの倅《せがれ》です! パヴリシチェフの倅です! そんなことさせるがものはありませんよ、全く!」とレーベジェフは両手を振った、「あんなやつらの話なんか聞くがものはござんせん。公爵様、あんなやつらのことで心配なさるのは、みっともないですよ。全くでござんす。あいつらには、そんなことをしてやる価値がありません……」
「パヴリシチェフさんの息《むすこ》! おやおや」と公爵は極度にどぎまぎしてこう叫んだ、「僕は知ってます……だけど僕はね……僕はこの事件はガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんに委任したんですからねえ……。ただいまもガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんがおっしゃっていました……」
ところが、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチは部屋を出てもう露台へ出て来ていた。そのあとからプチーツィンがやって来た。
すぐそばの部屋からは何人かの人の話し声を圧倒しようとでもしているかのような、イヴォルギン将軍の大音声と騒がしい物音が聞こえてきた。コォリャはすぐに物音のするほうへ駆け出した。
「これは実におもしろい!」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが聞こえるように言った。
『してみると、あいつは事件を知ってるんだな!』と公爵は考えた。
「パヴリシチェフさんのどの息です? それに、パヴリシチェフさんの息なんて、どんな息もないじゃありませんか?」とイワン・フョードロヴィッチ将軍は物珍しそうに一同の顔を見回し、自分だけがこの新しい話を知らないのだと気がついて驚きながら、いぶかしそうな顔をして尋ねるのであった。
誰も彼もが興奮して、事の起こるのを待っていたことは事実であった。
公爵はかような全く個人的な問題が、今ここにかくまで大きな関心を一同の者にいだかせるのに至ったことに、心から驚異の念を覚えた。
「もしもあなたが今すぐに、|自分で《ヽヽヽ》、この事件をおかたづけになったら、それこそ、ほんとに立派なものでしょうね」アグラーヤは何か妙にまじめな様子をして公爵のほうへ歩み寄りながら、こう言った、「そして私たちはみんな、あなたの証人にならしていただきますわ。あなたの顔に、ねえ、公爵、泥を塗りたがってるんですから、あなたは堂々と自分の身のあかしを立てる必要がありますわ。私たちは前もって、あなたのために心からお喜びしていますわ」
「わたしもまたこんな汚らわしい強請《ゆすり》が結局、かたがついてくれればいいと思いますよ」と将軍夫人が叫んだ、「そんなやつなら、うんとひどい目に会わしてやんなさいよ、公爵、手かげんなんかなさんな! わたしはこのことはもう耳が痛くなるほど聞かされて、あなたのためにずいぶん気骨《きぼね》を折りましたよ。もっとも、そんなやつらの顔を見るのもおもしろいわ。ここへ呼んでおいで、私たちはじっとしていましょう。アグラーヤはうまいことを考えついた。公爵、何か、このことをお聞きになりまして?」と、彼女はS公爵のほうをふり向いた。
「もちろん、聞きました、それもお宅で。それはそうと、私もその若い連中の顔が見たいですね」とS公爵は答えた。
「いったい、それは虚無主義者《ニヒリスト》っていう仲間なんですか、え?」
「そうじゃございません、あいつらは虚無主義者《ニヒリスト》っていうのとは違うんです」とレーベジェフは前へ進み出たが、これもやはり興奮のあまり、今にも震えださんばかりであった、「へい、あれは違うんでござんして、一風変わってるんでございますよ。私の甥っ子の話では、あいつらは虚無主義者《ニヒリスト》よりはひどいんだそうです。あなた様はお顔をお見せになって、それでもってやつらをどぎまぎさしてやろうっていうような御了簡でしたら、とんでもないこと。あいつらはけっして、それしきのことで、どぎまぎなんかいたしませんのでござんす。虚無主義者《ニヒリスト》もやはりどうかすると、物のわかった、それに学問まである連中もあるにはあるんですけれど、こっちのやつらときたら、もっと上手《うわて》なんでござんす。なにせ、まず第一に実務家なんでござんすから。このほうはおもに虚無主義《ニヒリズム》の結果というようなものでしょうが、しかも一本道を通って来たんではなくって、耳学問で片っ面《つら》を通って来て、何かの雑誌へ論文を書いて意見を述べるなんかってことはしないで、すぐにもう実行するんでして。まあ、たとえば、プゥシキンなんかってものは無意味だの、ロシアは当然いくつかに分裂しなくてはならんのだと、そんなことは、てんで問題にならんです、実際。けれど、もし何かしでかそうと思うと、たとい、それがために八人の人をやっつけなければならないようなことになっても、万難を排してなし遂げるのは当然のことであると、こう思ってるのです。ときに、公爵、どうも私はやはりお勧めいたしたくはないんでございますが……」
しかし、ムィシキン公爵はもう来客を迎えるために戸をあけようと歩きだしていた。
「あなたは中傷なすってるんですね、レーベジェフさん」と、彼はほほえみながら言いだした、「あんたの甥御さんはだいぶあんたを焚《た》きつけたもんですね。リザヴィータ・プロコフィーヴナさん、この人の言うことを本気にしないでください。はっきり申しますと、ゴルスキイやダニーニロフのような人物が出たのは、ほんの偶然のことで……しかも、こんな人たちもただ……思い違いをしているだけのことで……。ただ僕はここで皆さんの前で会いたくはありません。失礼ですけれど、リザヴィータ・プロコフィーヴナさん、もしあの連中がはいって来たら、僕はお眼にかけて、それから連れ出したいと存じますが。さあ、どうぞ、皆さん!」
彼はむしろ別の、彼にとってはまことにつらい考えに心を痛めつけられていた。彼の胸には夢のようにぼんやりと次のようなことが浮かんでくるのであった。この事件は今、ちょうど、この時刻に、ころ合いを見はからって、こうした証人のいる前で、しかもおそらくは、彼を勝たせるのではなく、大恥をかかせるのを予期して、誰かがうまく仕組んだのではなかろうか? と。が、彼はまた自分の『変態的な、意地の悪い疑い深さ』を省みて、あまりにも悲しかった。もしも自分の心の中に、かような気持をいだいていることを誰かに知られていたら、たぶん、彼は死んでしまっていたであろう。やがて、新しいお客たちがはいって来たちょうどその時、彼は道徳的な意味で、自分の周囲にいる人たちの誰よりも、自分ははるかに下等なのだと、心から考えようとしていた。
五人の男がはいって来た。四人は新顔で、あとからついて来た五人目はイヴォルギン将軍であった。将軍はひどく憤慨し、興奮して、燃えるような熱弁をふるっていた。『この人は必ず僕をかばってくれるだろう!』と公爵は薄笑いを浮かべながら考えた。コォリャも皆といっしょに滑り込んで、来客の一人であるイッポリットと熱心に話をしていた。イッポリットは耳を傾けて、にやにや笑っていた。
公爵はお客たちに腰をかけさせた。彼らはいずれも年の若い、まだ一人前になってさえもいない連中なので、偶然にこの連中がやって来たことも、この連中のためにわざわざ格式ばるようになったことも、驚異に価するほどであった。たとえば、この『新しい事件』についてはなんら知るところもなく、理解するところもないイワン・フョードロヴィッチ・エパンチンは、連中があまりにも若いのを見て、憤慨し始め、もしも夫人の公爵一個人の利害関係に対する、良人《おっと》には不思議なほどの熱意が彼を牽制《けんせい》しなかったならば、必ずや反抗したに相違ないと思われるのである。もっとも、彼は半ばは好奇心、半ばは人がよかったので、何か助太刀もし、とにかく自己の権威をもって役に立ちたいとさえも考えながら、その場に踏みとどまっていた。ところが中へはいって来たイヴォルギン将軍が遠くのほうから会釈をすると、またもやいまいましくなるのであった。そこで、苦々しい顔をして、今度はもう絶対に口をきくまいと決心した。
さて、四人の若い来客のうちには、ただ一人三十歳ぐらいの男がいて、これはもとは『ラゴージン組の退職中尉で、拳闘家であり、希望者には十五銀ルーブルで拳闘を教えていた』男である。察するに、彼は心からの友だちとして、ほかの連中に勇気をつけ、いざという場合には護衛するつもりでついて来たものらしかった。そのほかの連中の中で頭株になっているのは、自分ではアンチープ・ブルドフスキイと名乗りを上げたが、仲間の間では『パヴリシチェフの息』という名で通っている男であった。この男は貧乏らしく、いかにも無精なしたくをしている青年で、両肘のところが鏡のように光るほど脂でよごれたフロックに、上までボタンをかけた、これも脂じみているチョッキを着け、ワイシャツの行方もわからないほどの着方をし、極端に油がにじみ出てよれよれになった黒絹のショールを着け、洗いもしない手に、ひどく面皰《にきび》の出た顔をし、ブロンドの髪に、もしもこんなことが言えるものなら『罪がなくて恥知らず』な眼つきをしていた。彼は背は低くなく、痩せていて、年は二十二くらい。その顔にはいささかの皮肉めいた影も、みずからを省みるけはいも感ぜられなかった。それどころか、自己の権利なるものに対する、全くの、愚鈍な心酔と、それと同時に、絶えず自分は踏みつけにされて、そういう風に自分を感じようとする不思議な、不断の欲求ともいうべき妙なものの影が浮かんでいた。彼は興奮して、なんだか、語尾を濁しながら話してでもいるかのように、せき込んで、どもりながら話しているので、どもりなのか、それとも外国人なのかと思われた。その実はきっすいのロシア生まれなのである。
まず彼の後からまっ先にやって来たのは、すでに読者に知られているレーベジェフの甥で、その次はイッポリットであった。イッポリットはいたって年の若い男で、十七か、せいぜい十八くらいの若い衆で、知恵がありそうで、しかも常にいらいらした顔つきをして、その顔には恐ろしい病気の痕跡が残っていた。まるで骸骨のように痩せ衰えて、青白みがかった黄色い色つやをし、眼は輝き、両方の頬には二つの赤い斑点が燃えるように鮮やかに見うけられた。彼はひっきりなしに咳《せき》をしているので、ひと言言うごとに、ほとんど、ひと呼吸《いき》ごとに息せききってしわがれた声が混じるのであった。彼が極度の肺結核にかかっていることは、ちょっと見ただけでも明瞭であった。もうせいぜい、二、三週間の寿命であろうと思われた。彼は非常に疲れていたので、誰よりも先にぐったりと椅子に腰をおろした。ほかの連中は、はいって来るときに、いくぶん固くなって、多少まごついていた。しかももったいぶってあたりを眺め、どうかしたはずみに威厳をなくすることを恐れている風がありありと見えていた。この威厳なるものは、何の役にも立たない世俗のありとあらゆる些細《ささい》なこと、偏見だとか、ないしは自分自身の利害関係を除いた俗世間のほとんどあらゆるものを否定している者の声価に比べるとき、妙にそぐわないものであった。
「アンチープ・ブルドフスキイです」と、せかせかとどもりながら『パヴリシチェフの息《むすこ》』が名乗りを上げた。
「ウラジミル・ドクトレンコです」と、澄んだ声で、きっぱりと、まるで自分がドクトレンコであることを自慢でもするかのように自己紹介をしたのはレーベジェフの甥であった。
「ケルレルです」と退職中尉がつぶやいた。
「イッポリット・テレンチェフです」と、最後の男が、いきなり、かん高い声でわめき立てた。
一同の者はついに公爵と向き合って、一列に腰をかけ、ただちに自己紹介をすると、渋い顔をして、元気をつけるために、それぞれ、一方の手から一方の手へ帽子を置きかえた。誰も彼も今にも話を始めようとする身構えはしていたが、挑戦的な顔つきをして何かを待ちうけながら黙り込んでいた。その顔つきには、『いや、兄弟《きょうだい》、冗談じゃねえ、かつがれてたまるもんか!』といったような調子が読まれるのであった。なかで誰か一人、まずきっかけをつくるためにただのひと言でも言いだしたら、たちまちいっせいに、われ先にと互いに邪魔をしながらも話しだしたに相違ない気がした。
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「皆さん、僕は一人もおいでになるとは思っていませんでした」と公爵は話しだした、「今日の日まで僕は病気をしていたんですけれど、お話のことは(と彼はアンチープ・ブルドフスキイのほうを向いて)もう一か月もガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ・イヴォルギンさんに委任しておきました。そのことについては、あなたのほうへも御通知申し上げておいたはずです。もっとも、僕はけっして僕個人としての弁明を避けるわけではありませんが、ただお含みをいただきたいのは、時刻が時刻ですから……もしそんなにお暇をとらないのでしたら、いっしょに別の部屋へいらしていただきたいのです……。なにしろこちらにはただいま、僕の友人諸君がおられるものですから、どうかその辺は……」
「友人諸君……それは幾たりでも……お好きなだけ……しかし、失礼ですが」と、まだそれほど大きな声は立てなかったが、不意にレーベジェフの甥が、まるで訓戒でも与えるような調子でさえぎった、「失礼ですけれど、こっちには文句があるんです、あなたはもっと丁寧に扱ってくれてもよかりそうなもんですね、二時間も下男の部屋に待たせるなんてことをしないで……」
「そして、もちろん、……僕だって……でもこれは公爵流っていうもんですよ! そして、これは……あなたは、してみると、将軍なんですね! でも僕はあんたの下男じゃありませんよ! そして僕は、僕は……」と、アンチープ・ブルドフスキイは極度に興奮して、いきなり早口で言いだしたが、唇を震わし、非常な屈辱を受けたかのように声を震わし、口角泡を飛ばして、まるで自分が破裂したか、あるいは八つ裂きにでもされたかのようであった。しかし、あまり不意にあせりだしたので、十|言《こと》目くらいからは、もう何が何やらわけがわからなかった。
「あれが公爵流ってやつさ!」とかん高い、われ鐘のような声でイッポリットが叫んだ。
「もしおれがこんな扱いを受けたのなら」と拳闘家がぶつぶつ言いだした、「つまり、直接に相当の地位にあるおれ自身に関したことであったのなら、またブルドフスキイの位置に置かれていたのなら……おれは……」
「皆さん、たった今、僕はあなたたちのいらしたことを知ったんです、本当に」公爵はまたもやくり返した。
「僕らは、公爵、あんたのお友だちが誰だろうと、そんなことは平気ですよ、僕らは当然の権利があるんだから」またもやレーベジェフの甥が言い放った。
「しかし、失礼ながら、お尋ねしますが、あなたいかなる権利があって」とイッポリットはまた金切り声を出したが、今度はひどく憤慨していた、「ブルドフスキイの事件をあなたの友だち連中に審判させようっていうんですか? けれども、僕たちはあんたの友だちに審判してもらおうってつもりはないんですよ。あんたの友だちの審判なんか、どの程度のものかくらいは、わかりすぎるくらいわかっていますからね」
「けども、ブルドフスキイさん、ここでお話しするのがいやでしたら」と、相手のこういった切り出し方に非常に驚かされていた公爵は、やっとのことで口を入れることができた、「さっきも申し上げたことですが、すぐに別の部屋へまいろうじゃありませんか。あんたたちのことは、もう一度くり返して申し上げますが、たった今、聞いたばかりで……」
「だって、あんたにそんな権利はありませんよ、そんな権利は、そんな権利はありませんよ! ……あんたの友だちの……全く!」と、粗野な、用心深い眼で、あたりを見回しながら、いきなりブルドフスキイはつぶやきだしたが、他人を信用せず忌避すればするほど、いよいよ疳癪が起きるのであった、「あなたにそんな権利はないんだ!」こう言ったかと思うと、ぷっつり断ち切ったように口をつぐんで、黙々として、赤いきわ立った血筋の見える、ひどく飛び出た近視眼を突き出し、全身を前にかがめて、いぶかしげに公爵のほうを見おろした。これには公爵もすっかり驚いてしまって、自分も口をつぐんで、眼を丸くして、ひと言も物を言わずに、相手を眺めていた。
「レフ・ニコライヴィッチさん!」と、にわかにリザヴィータ・プロコフィーヴナが呼びかけた、「さあ、これをいますぐ読んでごらん、これは直接にあんたの事件に触れていますよ」
彼女はあわててある週刊のユーモア新聞を差し出して記事のところを指さした。レーベジェフはお客がはいって来たときに横のほうから駆け出して来て、ひと言も物を言わずにこの新聞をわきのポケットから引っぱり出し、しるしのしてある段のところを指さしながら夫人の眼の前へ突き出したのであった。レーベジェフは、前から将軍夫人の御機嫌とりに奔走していたのである。リザヴィータ・プロコフィーヴナはざっと眼を通して見て、少なからず驚き、ひどく心をかき乱された。
「けども、声を出して読まないほうがよかありませんか」と公爵はかなりどぎまぎして、つぶやいた、「僕は一人で読みましょう……あとで……」
「じゃ、いっそ、おまえが読んでごらん、じきに、声を出して! 声を出してね!」リザヴィータ・プロコフィーヴナはたまりかねて、公爵がやっと手をかけたばかりの新聞を引ったくって、コォリャのほうを向いた、「大きな声で、誰にもようく聞こえるように」
リザヴィータ・プロコフィーヴナは熱しやすく、夢中になる婦人であったから、ときには、ゆっくり考えもしないうちに、いきなり、空もようを調べもしないで、錨《いかり》を全部ひき上げ、外海《そとうみ》へ乗り出すようなこともするのであった。イワン・フョードロヴィッチは不安げにもじもじしていた。しかし、誰も彼も一分間ほどの間は、ゆくりなくも口をつぐんだまま、けげんそうに待ち設けていた。コォリャは新聞をひろげて、駆けつけて来たレーベジェフが教えてくれたところから、声を立てて読み始めた。
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無産者と貴族の末裔《まつえい》、白昼日ごとに行なわれる強盗のエピソード! 進歩! 改革! 正義! 奇怪なる事件はわが、いわゆる神聖なるロシアに勃発《ぼっぱつ》しつつある。しかも改革と会社経営の盛んなる時代、民族性を云々《うんぬん》し、年々数億の正貨が外国に流出する時代、工業を奨励し、労働者が手を空しゅうするこの時代、等々、枚挙にいとまなき現代においてである。諸君、まず当問題の核心にはいろう。
ここに生ぜる奇々怪々なるアネクドートなるものは、すでに哀微せるところのわが国の地主階級(de Profundis! どん底から出てきた!)の末裔の一人に関するものである。しかも、かかる末裔なるものは、すでに祖父たちは、ルーレットによって身代を磨《す》り、父たちはやむなく軍隊にはいって、見習士官ないしは中尉となり、例によって罪なき官金費消のごときものによって、軍法会議に付せられて獄死し、その子に至っては、この物語の主人公のごとく白痴として成長し、あるいは刑事上の問題にさえも関係しながら、かかる事件に対しては教訓または矯正《きょうせい》に重きを置いて、陪審員が大いに弁明するのであるが、さもなくば、結局、民衆をして唖然《あぜん》たらしめ、たださえも悪化せる現代をさらに汚辱するごとき醜行をあえてして身を終わる始末である。
ときにこの物語の主人公たる末裔氏は半年ほど前に、外国風のゲートルをつけ裏も付かざる外套をまとって震えながら白痴《イデオチズム》の治療を受けていたスイスより冬のロシアに帰って来たものである。ここに正直にいえば、この男は幸運児であった。されば彼は、すでにスイスにおいて治療せし興味ある病気(それにしても白痴は治療しうるものであろうか、想像してみたまえ!)については言わずもがな、『ある階級の人種は――幸福なり!』とのロシアのことわざの真理たることを身をもって証明し得るであろう。静かに考えてもみたまえ、父の死せる際には、――噂によれば父は陸軍中尉であり、全中隊の金をたちまちのうちにカルタによって費消したためか、あるいは部下に対して極度の体罰を与えたためか(諸君、昔日を思い起こされよ!)、軍法会議に回されているうちに死んだのである――この公爵は未だ乳飲み児であったために、さるロシアのきわめて富裕なる地主の好意によって引き取られ養育されることになった。このロシアの地主は――かりに|P《ベー》と呼ぶことにしよう――以前の黄金時代には四千人の農奴隷の所有者であったが(農奴隷! 諸君かような言い方がおわかりだろうか? 僕にはわからない。大辞典ででも調べなければならぬ。『この口碑《はなし》はなま新しいが、なかなか本気にはいたしかねる!』というたぐいのものだ)、察するに外国に閑日月を送り、夏は温泉に暮らし冬はパリの花屋敷《シャトー・ド・フレール》に暮らして、そんなところに莫大な金をおとすというようなロシアののらくら者や油虫の一人であったらしい。少なくとも昔の農奴からあがって来る小作料の三分の一はパリの花屋敷《シャトー・ド・フレール》の経営者のポケットへ収まったということだけは明言できるのである(かの経営者こそはなんという果報者であったろう!)。それはさておき、何不自由のない|P《ベー》氏は親のない男爵様をまるで公爵のように育てて、自分がついでにパリから連れて来た男女の家庭教師(むろん、相当の)をつけておいた。しかし、一門のうちの最後の、華族の末裔は白痴であった、花屋敷《シャトー・ド・フレール》から連れて来た家庭教師はなんの役にも立たなかった。この教え子は二十歳《はたち》になるまで、ロシア語をも含めて、どこの国のことばをもただ単に話すことさえも習わなかった。もっとも、ロシア語は恕《ゆる》すべきである。やがてついに、ロシアの農奴所有者の脳裡にスイスへやれば白痴に知恵をつけることができるという一つの空想が浮かんできた――もっとも、この空想は論理的なものであった。のらくら者の大地主が、金さえ出せば、市場で知恵が買えるのだ、ましてやスイスへ行けば……と想像したのは無理もない話である。スイスへ行ってある教授のところで療養しているうちに五年は過ぎた。何千という金が費やされた。もとより白痴は利口にはならなかった、しかし、人の話では、むろん、やくざ者には相違なかったが、どうやら人間らしくなってきたとのことであった。ところが、忽然《こつぜん》とP氏が亡くなった。もとより遺言はなかった。あとのことは、例によってちょっとも整頓されてはいなかった。欲にからまる相続人は山ほどいたが、こんな手合いには、お情けで生まれつきの白痴《ばか》をなおしてもらいにスイス三界まで行っている一門中の最後の末裔のことなどは、ちょっともかまってはいられなかった。この末裔は白痴には相違ないが、聞くところによれば、それでも教授をだまかして、二年の間、恩人の亡くなったことを押しかくして、うまく無料《ただ》で治療をしてもらったという。しかるに、この教授その者がかなりの食わせ者で、やがてついには金のないのに恐れをなし、というよりも、二十五歳の油虫の食い意地に恐れをなして自分の古いゲートルをはかせ、着古しの外套を与え、お情けに三等車に乗せて nach Russland(ロシアへ向けて)――スイスから追い出してしまったのだ。さて、ここでこの主人公は運が尽きたように見えるかもしれぬ。ところが、それは全く見当違いなのだ。飢饉《ききん》によって、いくつかの県の人たちを全く餓死せしめた運命の女神は、乾ききった野原の上を駛《はし》り過ぎて、大洋の上にこぼれ落ちたクルィロフの「黒雲」のように、あらゆる贈り物を一時にこの貴族にふりかけた。ほとんど、彼がスイスからペテルブルグへ姿を現わしたのと時を同じゅうして、モスクワでは、彼の母方(もちろん、商家である)の身うちの者が死んでしまった。この人は年をとった、子供のないひとり暮らしの商人で、髯だらけの分離派の教徒であったが、まぎれもない、手の切れるような現金で、何百万という遺産を(諸君、これがわれわれに残されたのだったら申し分がないんだが!)、これを全部、末裔氏に、スイスで白痴《ばか》の治療をしてもらっていたこの公爵の手へやすやすと遺《のこ》して行ったのだ。さあ、こうなると、もう万事の調子が変わってしまった。ある美人の妾の尻を追いまわそうとしていた公爵の周囲には、たちまちにして友人や知己が雲のごとくに集まって、親戚でさえも顔を見せたが、何よりもはなはだしいのは名家の令嬢たちが、正式結婚を渇望して、蟻のごとくに群がって来たことである。何が結構だといって、こんなに結構なことはあるまい。貴族、百万長者、白痴――こんな立派な資格をことごとく一身にそなえている御亭主は、提灯《ちょうちん》をつけて捜しまわっても見当たらないであろう。注文されてもできないであろう……
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「それは……それはもう呑み込めない、僕には!」とイワン・フョードロヴィッチは極度に憤慨して、不意に叫んだ。
「よしなさい、コォリャ!」と公爵は哀願するような声で叫んだ。わめき声が四方から聞こえる。
「読むんですよ、どんなことがあっても読みなさい!」とリザヴィータ・プロコフィーヴナがさえぎったが、明らかに自分自身を一生懸命に押さえようとするけはいが見えていた。
こう言われては二進《にっち》も三進《さっち》も行かなかった。コォリャは熱くなって、顔を赤くし、興奮しながら、困ったような声を出して読み続け始めた。
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ところがにわか成金が、いわゆる最高天上界《エムパイリアン》に昇ったように有頂天になっている間に、一方には全く思いもよらぬ出来事が起こったのである。あるうららかな朝、彼のところへ一人の訪問客がやって来た。この人は落ち着き払った厳めしい顔をして、話しぶりは、いかにも丁寧で、しかも威厳があり、服装は質素であるが気品があり、どことなく進歩的な思想の持主らしい感じであった。やがて彼は手短かに来意を告げた。聞いてみると彼は有名な弁護士で、ある青年に一つの事件を委任され、その代理としてやって来たとのことである。この青年というのは名字こそ違っていたが今は亡きP氏の息《むすこ》にほかならなかった。道楽者のP氏は、家に使っている女の中で、正直な、貧しい一人の娘で、しかもヨーロッパ風の教育をうけた(もっとも、それはもちろん、農奴制が栄えていたころの旦那様の権利に乗じたものであるが)、女の子を誘惑して、やがてこの関係が近き将来において避くべからざる結果を生むことを知って、大急ぎで、この娘をある職人で、勤めをさえ持っている男にかたづけてしまった。この男はすでに久しい前からこの娘に思いをかけていた者で、高潔な性質の持主であった。初めのうちはP氏も新婚の夫婦を援助していたが、彼の亭主は高潔な性質の持主として、これをいさぎよしとせず、間もなく彼の援助を拒絶してしまった。しばらくするうちに、P氏はしだいしだいにその娘のことも、娘に産ませた息のことも、すっかり忘れ果てて、やがて御承知のようにわが子に対するあと始末もせずに死んで行った。そのうちに、正式結婚をした夫婦の間に生まれた息は、他姓を名乗って成長し、生母の夫にあたる人の高潔な性質によって、養子ということにしてもらったが、しかもこの養父は壮年にしてあの世の人となったので、ささやかな財産と、足腰のたたない病身の母をかかえて、都離れた遠い田舎に寂しく残されてしまった。やがてみずから都に出て、商人の家に教師をして、高潔なる日ごとの労苦によって金をもうけ、それによって最初は中学に入り、やがて、遠大なる志望をもって、さらに有用な講義の聴講生となり、とにかく生計を立てて行ったのである。しかるに、ロシアの商人に一時間十カペイカくらいで物を教えたところで、そんなにたくさんの金がはいるものではあるまい? それに足腰のたたない病身の母をかかえているのである(結局、遠い田舎で死んでくれても、ほとんど彼には肩の重荷をおろしてくれたことにはならないのである)。ここにおいて問題が起きる。かの末裔氏は正義公道のうえからいかなる判断を下すべきであったか? 読者諸君、諸君はもとより彼氏が次のごときひとり言を言ったとお考えになるであろう。
おれは一生の間、P氏から賦与されたものを厚く享《う》けたのだ。おれの教育費、家庭教師の給料、白痴の治療費に何万という金がスイスでなくなった。ところで今、おれは数百万の資産を擁《よう》しているが、P氏の息は、軽薄にも、自分を忘れ去った父親のふるまいに対して、自身は何の罪|とが《ヽヽ》もないのに、人に物を教えたりして高潔な性質をだいなしにしている。おれのために費消されたものはことごとく正義公道のうえからいって、当然あの息の手に行かなければならない。おれのために浪費されたあの莫大な金は事実おれのものではないのだ。これはひとえに運命の女神の盲目的過失であって、あの金は息が受くべきものであった。この息のために用いらるべきものであって、断じておれのために使われるべきものではなかった、――それがこんなことになったのは、軽薄な、忘れっぽいP氏の空想的な所産にほかならないのだ。もしも、おれが、全く高潔で、デリケートで、公平な人間だったら、おれは彼の息に全財産の半分をやるべきだろう。しかし、おれは何よりもまず勘定高いし、あまりにもよくこの問題が法律的な問題でないことを知り過ぎているので、おれの何百万の財産を二等分してやるようなことはしないのだ。けれどもP氏が、おのれの白痴の治療代に出してくれた何万という金をこの息に返してやらないとなれば、これは少なくとも、おれにとってはあまりにも卑怯な、破廉恥ということになるだろう(末裔氏は「あまりに勘定高いということにもなるだろう」と付け足すのを忘れていた)。ここにはただ良心と正義公道なるものがあるばかりだ。もしもP氏がおれを引き取って養育してくれずに、おれの代わりに自分の息のことを心配したとしたら、おれはどうなったかわからないからである。
ところが、話はまるで別なのだ! わが末裔氏は、そういう物の考え方はしないのだ。この青年の弁護士が、実はこの人は単に友誼のために、青年のほうではほとんど気が進まないのに、無理押しつけに、みずから進んで彼のために奔走するに至ったのであるが、この弁護士がどんなに彼の前で、名誉、廉潔、正義公道、さらに単なる利害関係のうえからも、彼がいかなる義務を負うべきかを言い聞かせても、スイス仕込みの彼氏はちょっともなびかないのである、なんたることであろうぞ? まずこれまでのところはまずやむを得ないとしても、ここに、実に許しがたく、またいかなる奇妙きてれつなる病気を口実としても許しがたい事実があるのだ。すなわち、やっと自分の教授にもらったゲートルをぬいだばかりの百万長者は教師をしてみずから刻苦勉励しつつある高潔なる青年がけっして施しや補助金をくれというのではなく、たとえ法律的ではないにしても、自己の当然の権利を要求し、しかも自分が頼んでいるわけではなく、友人が代わって斡旋《あっせん》の労をとりつつあるにすぎぬという事実をさえも了解し得なかったことである。実におうような顔をして、幾百万かの金によって無辜《むこ》の民を屈服せしむることができるようになったことに陶酔して、この末裔氏はわずか五十ルーブルの紙幣をとり出して、ぶしつけにも施しをしてくれるような顔をして、かの高潔なる青年に送ったのである。諸君よ、諸君は|まさか《ヽヽヽ》と思われるであろう? 諸君は憤慨し、諸君は恥辱を感じ、忿怒《ふんぬ》の叫びをあげられることであろう、しかるに彼はかかることをあえてしたのである。金をただちに返したのはもちろんである。いわゆる、「竹箆返《しっぺいがえ》し」に顔へたたきつけたのである。さて、この問題はもはやいかなる方法をもって解決されるであろうか! 問題は法律的なものではなく、ただ単に公開して世に問うあるのみである。われわれはこのアネクドートを、その正確なるを保証し、もって世論へ訴えようとしている。聞くところによれば、さる錚々《そうそう》たるユーモリストは、この問題を一読三嘆すべき寸鉄詩《エピーグラム》に詠じたる由にて、こは単に地方のみならず、都会新聞の三面においても特種となすべき価値があるとのことである。すなわち、
レフ〔末裔氏の名〕はシネイデルの外套を
五年の間、もてあそび
寝ても覚めても、ひたすらに
いつもつまらぬ長談議、
巻いたゲートル窮屈に
帰れば形見の百万両。
やれ嬉しやとロシア語で
神に祈りをしたものを、
書生の金を巻き上げて。
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コォリャは読み終えると、大急ぎで公爵に新聞を渡し、一言も物を言わずに、隅の方へ駆けて行って、隅のところへぴったりと身をおしつけて、両手で顔を隠した。彼にはこんなことがたまらなくはずかしかったのである。未だ初々《ういうい》しく、こうした濁ったことに慣れきらない彼の感じやすい心は、極度にといってもよいほどかき乱されていた。彼には何かしら異常な、たちまちにしてあらゆるものを破壊してしまうようなことが起こったような気がし、しかも声をあげて、これを朗読したという、ただそれだけのことによって、自分がその原因となっているような気がするのであった。
が、誰も彼もが、やはりそういったようなことを感じたようにも思われた。
令嬢たちにとっては、実にこそばゆいはずかしいことであった。リザヴィータ・プロコフィーヴナは極度の忿激を押さえていたが、やはり、おそらくはこの問題に容喙《ようかい》したことを、痛々しく後悔していたことであろう。もうすっかり黙ってしまっていた。公爵はどうかといえば、こういう場合に内気過ぎる人々がよくこういう場合に受けるのと同じような気持を感じていた。彼は他人のふるまいをわがことのように恥じ、自分の客たちに気恥ずかしい思いをして、最初はその人たちの顔を見るのさえも恐れたほどであった。プチーツィン、ワーリヤ、ガーニャそれにレーベジェフさえもが――皆なんとはなしに困りきったような様子をしていた。最も奇妙なのはイッポリットと『パヴリシチェフの息』が、やはり何かにあきれたような風をし、レーベジェフの甥がまた何やら不足そうにしていたことである。ただひとり拳闘家だけは全く落ち着き払って、口髭などをひねりながら、もっともらしい顔をして坐りこんでいた。いくらか伏し目がちであったが、それも、どぎまぎしたからではなく、かえって品《ひん》のいいつつしみ深さや、こちらが勝つということがあまりにもよく見透しがついていたためらしかった。この記事が極度に彼の気に入っているということは、あらゆる点から見てきわめて明瞭であった。
「いったい、これはなんだっていうんだ」とイワン・フョードロヴィッチは声低くつぶやいた、「まるで五十人もの下男が集まって作ったようなもんだ」
「閣下、失礼ですが、ちょっとお伺いします、あなたはそんなつもりでいて、われわれを侮辱しようっていうんですか?」イッポリットはそう言ったかと思うと、からだじゅうを震わした。
「それは、それは、それは立派な紳士として……ね、そうでしょう、閣下、かりそめにも立派な紳士たる以上は、こんなことは無礼じゃありませんか!」と拳闘家は不意になぜかしら身震いして、口髭をひねって、肩から胴まで伸ばしながら、がみがみ言いだした。
「第一、僕は君に『閣下』なんて言われる覚えはない。第二に、僕は君なんかになんら弁明するつもりはない」と恐ろしく憤慨したイワン・フョードロヴィッチは辛辣《しんらつ》に答え、席を立って、一言も物を言わずに、露台の出口まで引き退がったが、やがて一同に背を向けて階段のいちばん上のところに立ち止まった、――彼はリザヴィータ・プロコフィーヴナが席を立とうとさえも考えていないのを少なからず腹立たしく思っていた。
「皆さん、皆さん、失礼ですが、皆さん、どうか僕にひと言言わしてください」と心悲しく興奮して公爵が叫びだした、「そして、どうぞ、ですからお互いに、了解のいくように話をしたいものです。僕はね、皆さん、新聞記事のことはなんでもありません、平気です。ですけれども、ただね、皆さん、記事の中に書いてあることは、まるで根も葉もないことです。これは皆さん御自身、よく御存じのことですから申し上げることです。はずかしいくらいですよ。ですから、これが貴方たちのうちのどなたかお書きになったのだとしたら、僕はただ驚くばかりです」
「僕は今の今までこんな記事のことはちょっとも知らなかった」とイッポリットは明言した、「僕はこの記事をあたりまえだとは思いません」
「僕あ、書いてあったのは知ってましたが、しかし……やはり発表しろとは勧めませんでしたよ。なにせ時期が早いんだし」とレーベジェフの甥が付け足した。
「僕も知ってたんですが、僕には権利があります……僕には……」と『パヴリシチェフの息』が含み声で言いだした。
「なんですって! じゃ、あんたが御自分で作ったんですか?」と公爵は好奇心をもって、ブルドフスキイを見ながら尋ねた、「いったい、そんな記事ってあるもんでしょうか!」
「だって、そんなことを聞く権利があなたにあるとは思いませんね!」レーベジェフの甥が口を出した。
「だって、ブルドフスキイさんに、こんな芸当ができるなんて、驚くほかはないじゃありませんか。……いや……僕が言いたいのは、あなたたちがこの問題を世論に訴えたというのに、なぜさっき僕が友人たちのいる前でこの問題のことを言いだした時に、あんなにすぐに腹を立てたのかということです?」
「結局そこですよ!」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは腹立たしげに言いだした。
「ねえ、公爵、お忘れなすったんですね」見るに見かねたレーベジェフは、まるで熱病にでもかかったように、いきなり椅子と椅子の間を分けて前へやって来た。「ようく呑み込んでてくださいよ。あいつらをここへ通して、話を聞いておやりになったのは、ただあなた様のお優しいお気性と、全く御立派なお情けによることです、そしてこんなことをしていただく権利なんて、あいつらにはちょっともあるもんじゃござんせん。おまけに、この一件はガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんにお任せになったものですし、しかも、こうなすったのはあなた様のなみなみならぬ御好意によることなんでございますもの。それにただいまねえ、公爵様、せっかくいいお客様がいらしっているのに、あなた様はこんな連中のためにせっかくのお集まりのかたを犠牲になすって、つまり、こいつらをさっさと通りへつまみ出さないって法はありませんよ。ですから私はこの家の主として、それこそ大喜びで……」
「全く、それに相違ないぞ!」と部屋の奥のほうからイヴォルギン将軍の雷のような声が聞こえて来た。
「もうたくさんですよ、レーベジェフさん、結構、結構!」と公爵はやりだしかかっていたが、憤激の叫びが彼のことばを押し消してしまった。
「いや、公爵、失礼ですが、今はこれぐらいでたくさんじゃありませんよ」とレーベジェフの甥の声はほとんど一座の者を圧倒してしまった、「この際に、この問題をはっきりと、たしかめておかなくちゃならん、どうもまだ、よくわかってもらえないようですからね。この問題には法律的なごまかし方《かた》はないのです、それをいいことにして、僕たちをたたき出そうと脅かしなさる! 公爵、いったいあなたは、この問題が法律的なものではなく、もしも法律的に調べたら、合法的にあなたにただの一ルーブルでも請求する権利はないというくらいのことが呑み込めないほどの頓馬だと思ってるんですか? ところがね、ちゃあんと、呑み込んでいますよ。法律的な権利がないにしても、その代わりには、人道的な、自然の権利があるんですからね、常識の権利と良心の声っていうやつがあるんですからね。この権利は人間のつくった腐った法典なんかには、どこを捜したって載っちゃいないでしょうが、清廉潔白な人、言い換えると、常識のある人は法典に載っていないような点にまでも、常に常に清廉潔白な人であることを義務としているのです。僕たちが通りへつまみ出されるのも(ただいま、そう言って脅かされましたが)、それも恐れずに、また、こんなに遅くなってからおたずねするのはぶしつけなことだとは承知しながら(もっとも遅くなってから来たわけではありません、あなたが下男の部屋に待たしておいたから遅くなったのです)、こちらへまいったのは、ただ|おねだり《ヽヽヽヽ》をしているのではなくって、当然のことを要求しているだけのことだからです。もう一度申しますが、何も恐れずにまいったのは、あなたを常識のある人、つまり、節操と良心のある人だと思ったからなのです。全く、これは本当のことです、だからこそ、あなたんところにいる居候だの、無心をする連中なんかのように、腰を低くしてはいっては来なかったのです。全く束縛されない自由の人として、昂然と、おねだりに来たのではなくって、自由な、どこへ出してもはずかしくない要求を持って来たのです(いいですか、お願いではなくって、要求をもって来たのですよ、ようく覚えててください!)。僕たちは威厳をもって明らさまに質問を提出しますよ。あなたはブルドフスキイのことについて、御自分を正当だと思いますか、不当だと思いますか? あなたはパヴリシチェフ氏に恩を受けた、あるいはおそらく、死ぬところを助けてもらった、とお思いになりますか? もしそうお思いになるとすれば(わかりきったことですが)、何百万という財産をもらった手前、今はブルドフスキイと名乗ってはいるが、その実はパヴリシチェフの息たる者が困っていると聞いて御恩返しをしようというつもりはありませんか、ないしは良心に照らして当然のことだとは思いませんか。承知か、不承知か? もし承知ならば――すなわち、別のことばで言うと、あなたがたのことばで節操といい、良心といい、僕たちが常識といういっそう正確な名称を充《あ》てているものを、あなたがもっておいでだったら、僕たちの言い分を聞いてください。そうすれば問題はけりがつくことです。こちらから頼まれたり、お礼を言われたりして承知するようなことはしないこと、そんなものは当てにしないでください。というのは、あなたがそうするのはけっして僕たちのためではなくって、正義公道のためなのですからね。もしも不承知だというのなら、つまり|だめだ《ヽヽヽ》とおっしゃるのでしたら、じきに僕たちは帰りますし、もう文句はありません。ただ、面と向かって、みんなのいる前で、あなたという人は粗笨《そほん》な頭脳をもち、低級な発達をした人だと言ってやるだけです。そうしてこれから先、あなたは節操と良心のある人間だとみずから名乗ることもできないし、言う権利もないと言ってやりましょう。それから、あなたっていう人は、この権利をあまりにも安直《あんちょく》に買い入れようとしているのだと言ってやりますよ。僕の言うことはこれでおしまいです。質問を出しましたからね。もしできたら、さっさと今のうちに追い出しなさい。あなたには、これくらいのことはできるはずです、あなたは勢力家ですもの。ただし、僕たちはとにもかくにも要求をしているのであって、おねだりをしているのではないということを、ようく覚えててください。要求はする、しかし、ねだってはいませんよ!」
レーベジェフの甥はかなりに熱くなって、ことばを切ってしまった。
「要求する、要求する、要求するんです、おねだりじゃありません……」とブルドフスキイはぶうぶう言って、蝦《えび》のようにまっかになった。
レーベジェフの甥がひとくさりやってしまうと、一同はなんとはなしに動揺してきて、ぶつぶつ言う声さえも聞こえてきた。もっとも、一座の者は誰も彼もが、明らかにこの問題にかかわり合うのを避けていた。避けないものはただ一人、熱病にかかっているようなレーベジェフだけであったろう(妙な話ではあるが、レーベジェフは明らかに公爵の味方なのにもかかわらず、自分の甥の話を聞くと、同族の楽しい誇りといったようなものを感じていたらしかった。少なくとも、彼は満足そうな一種特別な顔をして、一同を見回したのであった)。
「僕の考えでは」と公爵はきわめて静かに語りだした、「ドクトレンコさん、僕の考えでは、あなたが今おっしゃったことの半分くらいは全く本当のことです、いや、大半は事実だと認めてもいいくらいです。そこで、もしあんたのお話に何か言い抜かしたことがなかったら、僕は全く同感なのでした。さて、いったい、何を言い抜かしたのかということになると、はっきり口に出して言い表わすことができません。しかし、あなたのことばがあくまでも真実だというには、もちろん、何かが欠けています。けども、いっそ例の問題にとりかかるほうがいいでしょう。皆さんにお尋ねしたいのですが、なんのいわれがあって、こんな記事を発表なすったのですか? だって、この記事の片言隻句に至るまで、誹謗《ひぼう》ならぬはないじゃありませんか。だから、僕に言わせると、あんたたちは卑劣なことをしたということになるのです」
「ちょっと待って下さい!……」
「旦那様!」
「それは……それは……それは……」興奮している客のほうから一時にそんな声が聞こえてきた。
「その記事については」とイッポリットがかん高い声で口を入れた、「その記事については僕もほかの者も賛成しないって、さっき申し上げたはずです! それを書いたのは、この男ですよ(と、並んで坐っている拳闘家を指さした)。それはぶしつけな書き方で、無学らしく、いかにもこの男と同じ程度の退職軍人が書きそうな文句をいれて書いてあります。この男がばかでおまけに職人風情だったことは、僕も本当だと思います。これは毎日、面《つら》をつかんで言ってやることですけれども、しかしとにかく、この男にも半分は権利があるのです。世論に訴えるということは、何びとにも与えられた、したがってブルドフスキイにも与えられた合法的な当然の権利なのです。愚にもつかないことを書きたてたことに対しては、この男に責任を帯びさせたらいいんです。それから僕が一同を代表して、あなたの御友人が席にいることに反対した、その件については、皆さんがたに、ぜひとも説明しなけりゃならんと思います。だいたい、僕が異議を申し立てたのは、僕たちの権利を主張するためであって、実を申せば、僕たちは証人のいることを望んでさえもいるのであって、さっき、まだここへはいって来ない先から、四人が四人とも、それは賛成してたのです。あなたの証人がどなたであろうと、たといお友だちであろうとも、ブルドフスキイの権利を認めずには済まされないでしょうから(なにしろ、数学的に明らかなことですからね)、あなたの証人がお友だちとあれば、なおさら好都合です。そうなれば事件の真相はいよいよ明瞭になりましょうからね」
「それに違いありません、僕らはそう決めてたんです」と、レーベジェフの甥が言い放った。
「それなら、そういうおつもりでいたんでしたら、なぜさっき、話の初まりから、あんなにどなったり、騒いだりしたんです!」と公爵はいまさらながらあきれてしまった。
「あの記事については、ねえ公爵」と、ぜひともひとこと言おうとしていた拳闘家は、愉快そうに元気づいて、喙《くちばし》を容れた(婦人たちが同席していたのがたしかによくきいたのではないかとも疑われた)。「あの記事について申すと、正直のところ、あれは僕がその筆者です。いつも弱っているのに免じてやっている病身の友人が、今、あの記事をこっぴどくやっつけましたけど。しかし、あれは自分で書いて、心から親しい友人のやっている雑誌へ通信という形で発表したものです。ただ詩だけは実際に僕が書いたものではなく、事実、有名なユーモリストの筆にかかるものです。ブルドフスキイにはひととおり読んで聞かせただけですが、しかも全部じゃありませんでした。そしてすぐに発表することに賛成してくれたんですが、僕は賛成を得なくっとも発表することはできたということを御承知なすってください。世論に訴えるということは何びとにも与えられた、貴重な、有益な権利です。ねえ、公爵、願わくばあなた御自身もこれを否定しないくらいに開けた人であって欲しいものです……」
「なにも否定なんかいたしません、けれどどうです、あなたの書かれた記事の内容は……」
「辛辣だとおっしゃりたいんでしょう? けれども、あれはいわゆる公益のために書いたもんじゃありませんか。だからこんな好い機会を逃がすって話はなかったんですよ? 悪いことをするのはもってのほかには相違ありませんが、何よりもまず公益のためということになるんですからね。あの記事に若干不正確なところがある、つまり誇張したところがあるというのでしたら、何より先に根本の動機が主要なものであって、何よりもまず目的や主題に重きを置いていることを認めてください。重要なのは有益な引例であって、細かいことはあとで調べることにしたいのです。それに文章の調子というものもあるし、また、いわゆるユーモラスに書こうという考えもあるし、結局、誰が書いてもこんな風に書くものじゃありませんかね! は、は!」
「そう、しかし全く間違っていますよ、方法が! 皆さん、僕ははっきり申しますが」と公爵は叫んだ、「あなたがたは、どんなことがあっても僕という者がブルドフスキイの要求を容れるのを肯《がえ》んじないという仮定のもとに、あの記事を発表なすったのですね。したがって、それによって僕を脅やかし、恨みを晴らそうっていうんですね。けれども、どうして前もってわかるのです、僕は、ひょっとしたら、ブルドフスキイ君の要求を容れる気になってるかもしれないじゃありませんか? 今、僕は皆さんのいる前で公然と言いますけれども、要求は容れるつもりです……」
「ああ、それでこそ、思慮分別のある高潔な人の、よく物のわかった立派なことばです!」と拳闘家が宣言した。
「まあ!」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは思わず叫んだ。
「もうたまらん!」と将軍がつぶやいた。
「ちょっと、皆さん、ちょっと待ってください、僕は詳しくお話しします」と公爵は哀願した、「五週間ほど前に僕がZにいた時、こちらのブルドフスキイ君から一切を任されているチェバーロフという人がたずねて来ました。ケルレル君、あなたは、あの記事の中で、あの人のことをたいへん賞めて書いてましたが」と、にわかに笑いだしながら、公爵は拳闘家をかえり見た、「しかし、僕はあの男がちょっとも気に入りませんでした。僕は最初の時から、このチェバーロフという男が問題の核心をつかまえていて、明けすけな言い方ではありますが、この人がブルドフスキイ君の純情なのを利用して、こんなことを始めるように焚《た》きつけたのかもしれないと、こう見て取ったのです」
「そんなことを言う権利はあなたにありませんよ、……僕は……純情じゃありません……それは……」とブルドフスキイは興奮してつぶやきだした。
「そんなことを臆測する権利はあなたにありませんよ」と説諭でもするような口調でレーベジェフが口を入れた。
「これは実に失敬きわまる!」とイッポリットが金切り声を出した、「失礼な、あてはずれな臆測だ、ちょっとも本筋に触れてない!」
「御免なさい、皆さん、御免なさい」と公爵はうろたえてあやまった、「どうか、勘忍してください。これはつまり、互いに胸襟《きょうきん》をひらいたほうがよろしくはないかと思ったからのことなのですが、その辺はお察しに任せます。僕はチェバーロフに対して、自分はペテルブルグにいないのだから、さっそく、友だちにこの問題の処理を頼むようにしましょうと言いました。それで、ブルドフスキイ君、それについてはここでお知らせいたしましょう。正直に申しますとね、皆さん、僕はこの問題はきわめて詐欺めいたものに見えたのです。というのは、その時チェバーロフが……。ああ、そんなに腹を立てないでください、皆さん! 後生ですから腹を立てないでください!」と公爵は、またもやブルドフスキイに憤激の色があらわれ、仲間の人たちも興奮して、まぜかえそうとしているのを見て、驚いてこう叫んだ、「この問題を詐欺めいたもののように考えたと僕が言ったからとて、なにも皆さんに個人的な関係を及ぼすはずのものじゃありません! そのころ、皆さんのうちのどなたにも、個人的にお目にかかったこともなく、それにお名前さえも僕は知らなかったんじゃありませんか。僕はただチェバーロフに会っただけで、そういう判断を下したのですからね。僕はだいたいのことを言ってるんです……なぜって、皆さんは御存じないかもしれませんが、あの遺産を譲ってもらってからというもの、ずいぶん僕は人にだまされてきたからなんです!」
「公爵、あなたは実に初心《うぶ》なんですね」とレーベジェフの甥があざけるように指摘した。
「おまけに、公爵で百万長者ときている! あなたは、たぶん、本当に気立てが善良でばか正直なのかもしれませんけれど、やっぱり『世間に通用している法則』を免れることは、もちろんできやしませんよ!」とイッポリットは宣言した。
「たぶんそうでしょうとも、皆さん、たぶん、そりゃ」と公爵はあわてて、「もっとも、お話の『世間に通用している法則』というものが、いったいどんなものなのかは、よく呑み込めませんが。しかしまあ、さっきの続きを申します。ただやたらに腹を立てないでください。誓って申しますけれど、僕はあんたたちに恥をかかそうなんて了簡はさらに有《も》っておりません。それだのに、皆さんは実際はどうなんでしょう。誠心誠意をもってお話なんかできないじゃありませんか、言ったが最後、すぐに腹をお立てになる! それにしても、第一に僕が非常に驚いたのは、『パヴリシチェフの息《むすこ》』っていう者がこの世にいるということ、チェバーロフの説明によると、実にみじめな境遇にいるということです。パヴリシチェフさんは僕の恩人であり、親父の友人でもあります(ああ、ケルレル君、君はなんだって、あの記事の中で僕の親父のことを、あんなにでたらめに書き立てたんです? 中隊の金を費い込んだだの、部下の者に侮辱を与えたのと、そんなことは断じてないことです――これは僕が信じて疑わないところです、よくもまあ、あんな誣言《ふげん》を書く気になれたもんですね?)。しかし、パヴリシチェフさんについて書かれた記事に至っては全く言語道断です。君は実に高潔な人を、淫蕩的で軽薄な人だなどと、まるで実際に君が真実なことでも語っているかのように、思いきって大胆に、きっぱりと断言していますね、ところがあのかたはこの世にまたとないほどの純潔なかただったのですよ! それにまた実に立派な学者でもあったのです。また科学界における多くの尊敬すべき人たちと通信を交わし、たくさんの金を科学の進歩のために注ぎ込んだのでした。また彼の愛情や美徳に至っては、おお、もちろん、君の書いたのは公平な見方です、そのころ僕はほとんど白痴同然で、なんにもわからなかったのですが(もっともロシア語はとにかく、話しましたし、また相手が何を言っているのかくらいはわかりましたよ)。しかし、今ここで思い起こしていることは、全部その真価がわかります……」
「ちょっと失礼ですが」とイッポリットは黄色い声を出して、「あなたのお話は、あんまりセンチメンタルすぎませんか? 僕らは子供じゃありませんよ。あんたは話の本筋へさっさと取りかかるつもりだったんでしょう。もう追っつけ十時になりますよ、それを承知してください」
「そう、そう、皆さん、御免なさい」と公爵はすぐに同意した、「初めは疑ってみたのですが、そのあとでは、自分だって勘違いをしていないとも限らない、パヴリシチェフさんには、たしかに息《むすこ》さんがあったかもしれないと、そういう気持になりました。しかし、ひどく驚いたのは、その息さんが、こんなにやすやすと、つまり、公然と自分の素姓を暴露して、それに大事なことですが、自分の母の顔へ泥を塗ったということです。それというのも、チェバーロフがすでにその時に、世論に訴えるといって脅やかしたからで」
「そんなばかなことを!」とレーベジェフの甥がどなりだした。
「あんたにはそんなことを言う権利がない、……そんなことを言う権利はないんですよ!」とブルドフスキイも叫んだ。
「息は父がふらちなことをしたってその責任を負うはずのものではなし、また母親にも罪はないはずです」とイッポリットは熱くなって金切り声を立てた。
「それならば、なおさらあわれむべきだという気がしますが、……」とびくびくしながら公爵は言いだした。
「あなたはね、公爵、初心《うぶ》っていうばかりではなく、ひょっとしたら、それ以上かもしれませんね」と、レーベジェフの甥が意地悪そうに、せせら笑った。
「いったい、あなたはどんな権利があったんです!……」とイッポリットはきわめて不自然な、黄色い声を張りあげた。
「なにも、けっして、そんなものはありませんでした!」と、公爵はあわててさえぎった、「これはあなたのおっしゃる通りです、よくわかります、でも、これはついうっかりしてたもんですから。で、僕はその時すぐに自分に言って聞かせました。自分の個人的な感情が問題に影響を与えるようなことがあってはならない、なぜかというに、もしも自分がパヴリシチェフに対する感情のために、ブルドフスキイ君の要求を容れることが自分の義務だと考えたならば、たとえどんな場合にでも、すなわちブルドフスキイ氏を自分が尊敬していようと、いまいと、必ず要求を容れなければならないと心ひそかに考えたのです。皆さん、こんなことを僕が言いだしたのは、実はただ、あの息が母の秘密を世間の人に曝露するということが、とにかく、僕には不自然に思えたからなのです。……要するに、あのチェバーロフは悪党に相違あるまい、ブルドフスキイ君を、まんまとだまして、こんな詐欺をするようにけしかけたんだろうと、こう思い込んだのがそもそもの始まりでした」
「しかし、もう聞いちゃおられん!」という声がお客たちのほうから起こった。なかには椅子から飛び上がった者さえもあった。
「皆さん! そして僕がそういう肚《はら》を決めるに至ったのは、実は不仕合わせなブルドフスキイ君はきっと正直な、頼るべきところもない、まんまと|ぺてん師《ヽヽヽヽ》の手にかかるような優しい人に相違ない、してみれば、なおさらこの人を『パヴリシチェフの令息』として援助する義務があるわけだ――まず第一にチェバーロフに対抗し、第二には誠意と友情とをもって、令息を善導するように努めていこう、第三には自分の胸算用でパヴリシチェフ氏が僕のために費やしたと思う金の全部、すなわち一万ルーブルのお金をお渡しすることにして、それによって援助をしようと考えたのでした」
「まあ! たった一万ルーブル」とイッポリットがどなりだした。
「ねえ、公爵、あなたは算術があんまりお得意でないのか、それともお得意すぎるかでしょうね。見かけは、おめでたそうな風をしていらっしゃるけれど」とレーベジェフの甥が叫んだ。
「僕は、一万ルーブルじゃいやだ」とブルドフスキイが言った。
「アンチープ! 承知したまえ!」と、拳闘家はイッポリットの椅子の背ごしに、身をかがめて、早口に、わきへ聞こえるくらいの声でささやいた、「承知したまえよ、あとになれば気がつくよ!」
「ま、お聞きなされ、ムィシキンさん!」とイッポリットは金切り声を出した、「ようござんすか、僕らはね、ばかじゃないんですよ。おそらく、そこにおいでのお客様や、僕らを見て憤慨しながら、せせら笑いをしてなさる御婦人がたや、わけても、そちらの、もちろんお近づきになる光栄を僕はもっていませんが、何かお噂を聞いたような気もする、そちらの旦那様などが(と言って彼はエヴゲニイ・パーヴロヴィッチを指さした)、みんなで思っていらっしゃるような、そんな下衆《げす》なばかどもじゃないんですよ、僕らは……」
「ちょっと、ちょっと、皆さん、また、あんたたちは勘違いなすって!」と興奮して公爵は彼らに呼びかけた、「第一にケルレル君、あなたはあの記事の中で、僕の財産を実に、実に不正確に書いておいでですね。僕はけっして何百万なんて金を譲り受けはしませんでしたよ。おそらく僕の持ってるのは、あんたが予想されたののせいぜい八分の一か、十分の一くらいのものでしょう。第二に、僕のために何万て金を費ったなんてことはありませんよ。シュネーデル先生は年に六百ルーブルずつ受け取ってましたが、しかも、それも初めの三年きりですし、それにパヴリシチェフさんはいい家庭教師を見つけにパリへなんか行ったことは一度もありませんでした。これまた誣言というものです。僕のつもりでは、僕のために費やされた金はとても一万ルーブルには達しないのですけれど、それでも僕は一万ルーブルと決めたのです。ここで御承知いただきたいのは、当然の義務として、かりにブルドフスキイ君を熱愛しているとしても、これ以上は差し上げられないということ、ただ単にデリカシイの感情のうえからいっても差し上げられないということです。というのはほかでもありません、つまり、これは要するに御恩返しのためであって、けっして贈り物を差し上げるのではないからです。皆さん、どうして皆さんにこのことがおわかりにならないのか、僕には見当がつきません! それにしても後には不仕合わせなブルドフスキイ君に、友情をもって報いようと思ったのでした。たしかにブルドフスキイ君はだまされていたのです。なぜというのに、もしもだまされているのでなかったら、たとえば今日ケルレル君があの記事の中であえてしたような母親の秘密の曝露なんかっていう、あんな下衆《げす》なことに自分から承諾を与えることができるわけはありません……それにしても、皆さん、あんたたちはなんだってそう腹を立てなさるんです! こんなことでは、結局、お互いに了解し合うことができないじゃありませんか! ああ、僕が考えたとおりになっちゃったのか! 今にして僕は、僕の臆測の正しかったことが、はっきりと眼に見えてわかってきた」公爵は相手の興奮を鎮めようとし、しかもそれがかえって興奮を増すばかりだということには気がつかずに、夢中になって口説いていた。
「何? 何がわかってきた?」と、人々はほとんど憤激の極に達して彼に迫った。
「とんでもない、第一に、僕はブルドフスキイ君という人を自分で、はっきりと見て来たのです。だから、どんな人だかということは今よくわかるのです。……この人は純な、しかも、みんなにだまされている人です! 頼るところのない人です……だから僕は大目に見てやらなければなりません、また第二に、僕がこの問題を委任したガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんからは、僕が旅行をしていて、ペテルブルグへ行ってからは病気などしていたので、何のたよりもありませんでしたが、この人に今、ちょうど一時間前にはじめてお目にかかりましたら、いきなり、チェバーロフの策略はすっかり見すかしてしまった、それにはその証拠を握っていると、言って聞かされたのです。それにまた、あの人の話ではチェバーロフというやつは、僕が予想していたのと全く同じ人間でした。僕はね、皆さん、みんなが僕のことを白痴《ばか》だと言っていることも、チェバーロフが僕ってやつがやすやすと金を出すやつだという世間の評判を聞いて、まんまとだましてやろうと考え、しかもパヴリシチェフさんに対する僕の気持を利用したらわけはないと考えていたのだぐらいのことは、よくわかっています。しかし、いちばん大事なことは、――まあ、聞いてください、皆さん、おしまいまで! ――大事なことは、今、にわかにブルドフスキイ君がけっしてパヴリシチェフの息《むすこ》なんかじゃないってことが、はっきりわかったことです! たった今、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんが僕に知らしてくれて、確かな証拠が手にはいったと断言なすったのです。さあ、皆さんはどうお思いになります。今までなすったことが、結局本当とは思えないじゃありませんか! まあ、お聞きなさい、確かな証拠があるっていうんですよ! 僕はまだ本気にはなれません。自分では本気には、どうしても。僕はまだ疑っています。ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんが未だ詳しいことは全然、聞かしてくださらないので。けども、チェバーロフが食わせ者だということ、それはもう疑う余地がありません! あの男は、不仕合わせなブルドフスキイ君や、こうして健気《けなげ》にも友人を(たしかにブルドフスキイ君は皆さんの支持を必要としている様子です。それは僕にだってよくわかってます!)心から支持しようとしてお出かけくだすった皆さんをも、すっかり口車に乗せてしまって、一人のこらず、こんな詐欺事件に巻き込んでしまったのです。だって、これは事実において、|いんちき《ヽヽヽヽ》な詐欺じゃありませんか!」
「どうして詐欺なんだ!……どうして『パヴリシチェフの息』じゃないんだ? ……どうしてそんなことがあるもんか!」と、口々に叫ぶ声が聞こえる。
ブルドフスキイの一派は名状すべからざる恐惶《きょうこう》を来たしていた。
「ええ、もちろん、詐欺です! だって、もしもブルドフスキイ君が今、『パヴリシチェフの息』でないことが判明すれば、その場合に、ブルドフスキイ君の要求は、そのまま詐欺行為ということになるでしょう(つまり、むろん、これは同君が事情を知っていたと仮定してのことですが!)、ところが、ブルドフスキイ君がだまされたのだということ、そこに問題があるのです。だからこそ、僕は同君の立場を明らかにしようとして頑張っているのです。僕は、だからこそ、同君は、その純情なる点において憐憫《れんびん》に値するのだと言い、また同君は支持されなかったら、やっていけないのだと言うのです。もしそうでなかったとなれば、ブルドフスキイ君はやはり、この事件によって、|ぺてん師《ヽヽヽヽ》ということになってしまうのです! もっとも僕は、同君は何も知らないと、すでによく信じきってはいます! やはり僕自身もスイスへ行くまでは、同じような状態にいたものです。やはり取りとめもないことをつぶやいていたのでした――思っていることを口に出して言い表わそうと思っても、それがどうしてもできない……。そういう気持はよく僕にはわかっています。僕は大いに同情します、なにしろ、僕自身がやはりほとんど同じだったからです、だからこんなことを言ってもさしつかえがないわけです! ところで、やはり僕は、たとえこの際、『パヴリシチェフの息』がいないにしても、また、いっさいのことが、|いんちき《ヽヽヽヽ》だとわかったにしても、やはり自分が決めた方針を変えずに、パヴリシチェフさんの記念として、一万ルーブルをお返しするつもりです。僕はブルドフスキイ君のことが起こるまでは、パヴリシチェフさんの記念として、この一万ルーブルの金を学校の基本金にするつもりでいたのでした。しかし今となっては、学校のほうへ使うのも、ブルドフスキイ君に差し上げるのも、同じわけになるでしょう。ブルドフスキイ君が、かりに『パヴリシチェフさんの息さん』でなくっともやはり『パヴリシチェフさんの息さん』とほとんど同じようなものだからです。同君自身も意地悪くだまされていたのですからね。自分では本当にパヴリシチェフの息だと心から思い込んでいたのです! 皆さん、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんのお話を聞いてください。そしてこの話をおしまいにしましょう。そんなに怒らないでください。そんなに興奮なさらんで、まあ、お坐りください! ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんはすぐにも何もかも説明してくださるでしょう。正直に申しますと、僕自身も詳しいことを、全部聞きたくってしようがないんです。あの人の話ではね、ブルドフスキイ君、あの人はわざわざプスコフにいるあんたのおっ母さんをたずねて行かれたそうですけれど、あんたがあの記事の中でむりやりに書かせられたように、けっして死にかかってなんかはいなかったそうですよ。……さ、どうぞ、皆さん、お掛けください、お掛けなすって!」
公爵はみずから腰をおろして、席から飛び上がろうとするブルドフスキイの一行を、再び元の席に着かせることができた。
最後の十分間ないしは二十分間というもの、彼は夢中になって、声を高く張りあげ、気短かに、一座の人たちを声で圧倒しようとでもするかのように、早口にしゃべり続けていた。しかしあとでは、ついうっかりと口から出て来た二、三のことばや臆測に、ひどく後悔せずにはいられなかった。もしも、われをも忘れるほどに興奮したり、夢中になったりしなかったら、こんなに露骨に、せかせかと、人の前でひとりよがりな思わくや、言う必要もないあけすけなことを平気で言ったりなどはしなかったであろう。ところが自分が席に着くやいなやたちまちに痛々しいほどはげしい悔悟の念が胸をつくのであった。自分がスイスへ行って治療をしてもらったと同じ病気が相手にもあるかのような口ぶりを公然ともらして、ブルドフスキイを「侮辱した」点を除いても学校へやるはずの一万ルーブルを、彼のつもりではまるで贈り物をやるかのように、ぶしつけに不用意に、しかもみんなのいる前で他人にも聞こえるように提供すると申し出たことを許すにしても、さきの病気のことは、実にただならぬことであった。『明日まで待って、相対《あいたい》の時に申し出たほうがよかった』と公爵はすぐに思いなおした、『しかし、今となっては、もう訂正のしようもあるまい! そうだおれは白痴《ばか》だった、まぎれもない白痴なんだ!』と、慚愧《ざんき》の念にうたれ、極度に悲観して、彼はひとりでこう決めてしまった。
とかくするうちに、今までわきのほうにたたずんで、頑として口を開かなかったガヴリーラ・アルダリオノヴィッチが、公爵に招かれて、前のほうに出て来て、彼のわきに立って、公爵に委任されていた問題に関する報告を、落ち着いて、はっきりと、やりだした。またたくうちに一同の話し声は聞こえなくなった。誰もが、わけてもブルドフスキイの一行は、非常な好奇心を寄せて耳を傾けた。
[#改ページ]
「君はもちろん、こんな事実を否定なさらんでしょうね」とガヴリーラ・アルダリオノヴィッチはブルドフスキイに向かっていきなりこう切り出した。相手はびっくりして、眼をむいて、彼の言うことを一生懸命に聞いていたのであるが、どう見ても、ひどく狼狽《ろうばい》しているらしかった。
「否定なさらんでしょうね。いや、むしろまじめな気持なら、むろん、否定なんかはしたくないでしょうね。というのは、君のお母さんが、十等官ブルドフスキイ氏、つまり君のお父さんと正式に結婚されてから二年たって、君が生まれたという事実です。君の生年月日を実際的に証明するのは、きわめてわけもないことです。したがって、君に対しても、お母さんに対しても、あまりにも失礼にあたるケルレル君の文章の中のこの事実の捏造《ねつぞう》は、ただ単にケルレルの例のふざけきった空想のしわざだというように説明するよりほかありません。ケルレル君はこんなことをして、君に明らかに権利があることを認めさせ、また君の利益をもっと増してやろうと考えていたのでしょう。ケルレル君の言いぐさだと、君に前もって、この記事を、全部ではなかったけれども、とにもかくにも、読んで聞かしたということですが……いまさら疑うまでもなく、同君はこの辺のところまでは、読んで聞かせなかったに相違ありません……」
「たしかに、そうでした」と拳闘家はさえぎった、「けれども、この事実はみんな、この事実に精通している人から僕は聞かされたものです。そこで僕は……」
「御免なさい、ケルレル君」とガヴリーラ・アルダリオノヴィッチは彼を押しとどめた、「僕に言わしてください。間違いなく僕は順序を追って君の記事のことに及ぶはずですから、そのときに説明してもらいましょう。今は順序にしたがって、あとを続けたほうがいいでしょう。さて、全く偶然に妹のワルワーラ・アルダリオノヴナ・プチーツィンの骨折りで、僕はあれの友だちで、未亡人の地主、ヴェーラ・アレクセーヴナ・ズブコーワから、亡くなられたニコライ・アンドレーヴィッチ・パヴリシチェフさんの手紙を一つ手に入れました。これは今から二十四年前、故人が外国から未亡人に宛てたものでした。ヴェーラ・アレクセーヴナさんと近づきになってから、僕はこの人に教えてもらって、チモフェー・フョードロヴィッチ・ヴィャゾフキンという退職大佐のところへ行きましたが、この人はパヴリシチェフさんとは遠い縁続きになる人で、若いころは非常に仲がよかったそうです。この人を通じて、やはり外国からニコライ・アンドレーヴィッチさんがよこした手紙をさらに二つ手に入れることができました。この三つの手紙、その日付、その中に書いてある事実から推して、ニコライ・アンドレーヴィッチさんはブルドフスキイ君の生まれるちょうど一年半前に外国へお立ちになった(そのまま三年間あちらにいらした)、ということが反駁《はんばく》することはおろか、疑いをさしはさむ余地もないほど、はっきりと数学的に証明されるのです。君もよく御承知のように、君のおっ母さんはただの一度もロシアを離れたことはなかったのです……。それにしても、今は手紙を読むことは控えておきましょう。もう夜もふけていますから、とにかく、事実だけを発表しておきましょう。ですから、ブルドフスキイ君、もし気が向いたら、明朝にでも僕のところでお眼にかかりますから、なんでもお好きなだけの証人なり、筆跡鑑定の玄人《くろうと》なりを連れていらしてください。そうすれば、今、発表しました事実が明々白々たる事実だということを、どうしても認めないわけにはいかなくなるでしょう。僕は信じて疑いません。もしそうだとすれば、この事件はもちろん、何もかもが自然に消滅して、それでおしまいということになるでしょう」
またしても一座にざわめきと激しい動揺が起こった。当のブルドフスキイはいきなり椅子から立ち上がった。
「もしそうだとすれば、僕はだまされたんだ、だまされたんです。しかし、チェバーロフじゃないんです。以前から、ずっと以前からだまされていたのです。鑑定家なんか欲しかありません、面会もしたかありません、僕はあなたを信じますから、これであきらめることにします……一万ルーブルもお断わりします……さようなら……」
彼は帽子をつかむと、椅子を押しやって、出て行こうとした。
「ブルドフスキイさん、よろしかったら」とガヴリーラ・アルダリオノヴィッチは静かにやさしく彼を呼びとめた。「ほんの五分間で結構ですから、お待ちくださいませんか。この事件に関連してきわめて重大な、とにもかくにも特に君にとっては、非常に興味のある二、三の事実が判明したのです。僕の考えるところでは、あなたもこれを黙認するわけにはゆくまいと思います。まあ、あなた御自身にしても、事件がすっかり明白になれば、おそらく愉快になられることと思います……」
ブルドフスキイは深く物思いに沈んでいるかのように、うなだれたまま黙って席に着いた。彼といっしょに出ようとしたレーベジェフの甥も、同じように席に着いた。この男はなかなか当惑したり、ずうずうしさをなくしたりする男ではなかったが、それでも、かなりにまいらされたというような様子をしていた。イッポリットは眉をしかめて、寂しそうな顔をしていたが、これもまたいかにも驚いたらしい顔つきをしていた。
ところが、ちょうどこの時、彼は激しく咳き入って、ハンカチを血でよごしてしまった。拳闘家はほとんど気を失わんばかりに驚いた。
「ええい、アンチープ!」と彼は悲痛な声で叫んだ、「僕があの時、言わないこっちゃないじゃないか……おとつい。君は、ことによったら、本当にパヴリシチェフの息じゃないかもしれんて!」
押しかくしたような笑い声が起こったが、そのうちの二、三人がいっそう高い声で笑いだした。
「ケルレル君、君がただいまおっしゃった事実は」とガヴリーラ・アルダリオノヴィッチがあとを引き取った。「なかなか貴重なもんでしたよ。ともかく、僕はきわめて正確な材料に基づいて、次のことを断言してはばからんのです。もちろん、ブルドフスキイ君にしても、自分の生年月日はよくよく知っておられたのですが、しかし、パヴリシチェフさんがそのころ、外国に滞在なすっておられたという事情を全く御存じなかったのです。パヴリシチェフさんは生涯の大部分を外国でお暮らしなすって、ロシアに帰っておられたのは、ほんのわずかの間だったそうです。そのうえ、当時旅行なすっていたというこの事実も、二十年以上もたった今日まで記憶されるほど、それほどたいしたことではなかったので、パヴリシチェフさんときわめて親しかった人々さえも、よく覚えていないくらいですから、そのころ生まれてもいなかったブルドフスキイ君の知ろうはずはないじゃありませんか。もちろん、証拠をお見せすることはできないことではありません、しかし僕は正直のところを言いますと、僕の手にはいった証拠なるものも全く偶然に手に入れたもので、どちらかというと、手にはいらないほうがよかったのかもしれません。こんなわけですから、ブルドフスキイ君にしろ、またチェバーロフにしたところで、かりにこの二人がこの証拠を提供しようと考えたにしても、それはほとんど絶望だったのでしょう。もっとも、そんなことは考えもつかなかったかもしれませんが……」
「失礼ですが、イヴォルギンさん」と不意にイッポリットがいらいらしているような声でさえぎった、「僣越《せんえつ》なようですが、なんだってあなたは、そんな御託を並べるんです? 事件はもはや明々白々たるもので、僕たちもだいたいの事実は快く信用することを躊躇《ちゅうちょ》しないつもりです。なんだって、そんな重っ苦しい、人をばかにしたようなむだ口をだらだらと引っぱり回すんです? たぶん、あなたは御自分の探偵のお手並みを自慢なさりたいんでしょう、自分はなんていう腕ききの探偵だろう、判事だろうと、僕たちや公爵の前で見せびらかしたいんでしょう? それとも、あいつは何も知らずにこの事件に関連したのだと言って、ブルドフスキイ君のために謝罪や弁護を引き受けてやろうっていうおつもりなんですか? が、それはあんまりずうずうしいですよ、あなた! ブルドフスキイ君があんたに謝罪してもらおうの、弁護をしてもらおうのと思っていないことは、とうに御承知のはずだとばかり思っていましたよ! この人は侮辱されたと思って、いまいましがっているんですからね。それでなくってさえ、今は重苦しい気持で、きまりが悪い立場にあるんですから、あんたはそれを察してやるのが当然じゃありませんか、それを察してやるのが……」
「もう結構です、イッポリット君、もう結構ですよ」と、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチはかろうじて隙を見つけて口を入れた。「気を落ち着けてください、そういきり立つもんじゃありません、あなたはかなりぐあいが悪いようですね? お気の毒です。そんなわけならば僕はここらでよしましょう。けれども、どちらかといえば余分のことはさしおいて、皆さんにこれだけは十分に詳細にわたって御承知おき願ったほうがよろしいと思う事実を二、三、ごく手短にお話ししようと思うのです」じれったいと言ったように、いくぶんざわめき立ってきた一座のけはいに気がついて、彼はこう付け加えた。「僕はこの事件に関心をもっていらっしゃる皆さんに証拠を挙げてお話ししようと思うだけです。さて、ブルドフスキイ君、君のお母さんがパヴリシチェフさんにいろいろめんどうを見ていただいたのは、実はお母さんが、パヴリシチェフさんのかなり若かったころに恋せられた小間使の妹だったからです。そして、パヴリシチェフさんは、相手が急病でなくなるようなことがなかったら、きっと結婚していたに相違ないと思われるほど激しい惚れかたをしていたのです。このあくまでも正確な家庭内の出来事を知る人はきわめて少なく、ほとんど忘れられていたくらいです。僕はこの点について確かな証拠をもっています。さらにその後の事情をお話ししましょう。君のお母さんはまだ十くらいの子供のころ、親代わりに、パヴリシチェフ氏に引き取られて、養育され、持参金をどっさり分けてもらったりしたので、こうした心尽くしがかえって多くの親戚間に非常に不安な取りざたを生むようになりました、なかには同氏が自分の育てた娘と結婚するのじゃないかなんぞと考える人さえもあったのです。しかし、結局のところ、お母さんは御自分の希望で(これも実に正確なやり方で証明ができます)、測量官ブルドフスキイ氏のところへお嫁入りなすった。それは二十歳のころのことです。で、僕のところにはブルドフスキイ君のお父さんがどんなかたであったかを証明すべき幾つかの事実が集まっています。これによりますと、お父さんは全く非実務的な人で、お母さんの持参金の一万五千ルーブルを受け取られると、すぐに官を辞せられ、ある取引事業のほうに手を出されましたが、人にだまされて、すっかり資本をなくされてしまったのです。その傷手に堪えられないで酒に親しまれるようになり、そのために病気にかかって、とうとう、あなたのお母さんと結婚されてから八年目に若死にされたのです。その後のことはお母さんの口から親しくお聞きしましたところによりますと、お母さんは着のみ着のまま投げ出された形で、パヴリシチェフ氏の昔に変わらぬおうような手助けがなかったら、とうの昔に死んでしまっていたはずでした。パヴリシチェフ氏は年に六百ルーブルまでの扶助をなすったのでした。また同氏がまだ赤ん坊だったあんたを非常に可愛がられたということも数えきれないほどの証拠があるのです。これらの証拠や、またもあなたのお母さんを引き合いに出すようですが、お母さんのおことばから考え合わしてみますと、あなたを可愛がられたのは、主として、あなたが幼少のおりに、どもりか、不具者か、とにかく、そういったような見るも哀れな不仕合わせな子供だったからだろうと思います(ここでちょっとひと言言っておきますが、僕が知り得たきわめて正確な証拠によって考えますと、パヴリシチェフ氏は一生涯の間、造化の神にしいたげられ、はずかしめられた者、特に子供にはある種のきわめてやさしい同情をそそいでいたのでした。――この事実は今度の事件のうえにもきわめて重大な意味があると僕は確信しています)。さて、最後に僕は、もう一つの重大な事実について、精密な調査を成しとげたことを自慢してもいいと思います。パヴリシチェフ氏の君に対するこのひとかたならぬ愛情は(氏の心尽くしで君は中学校にはいって、特別な保護のもとに勉強することができたのです)、やがてついにはしだいしだいに、親戚やパヴリシチェフ家の内輪の人たちの間に、君はパヴリシチェフ氏の息《むすこ》であって、君のお父さんは同氏のためにすっかりだまし込まれているのではないかしらという疑いをひき起こしました。この疑いが根強く人々の胸に植えつけられて、誰もがそれに相違ないと思うようになったのは同氏の晩年のことで、誰もが遺言に度胆を抜かれていたころのことです。また、そのころには、最初の事情なんかはすっかり忘れられて、それを調べてみることもできなくなっていたのです。ブルドフスキイ君、ここに疑うまでもなく、こういったような噂が君にも伝わり、君もすっかりそれに気をとられていたに相違ありません。僕は親しく君のお母さんにお眼にかかりました。お母さんは、こんな噂はすっかり御承知だったのですが、さすがに自分の息のあんたが、この噂に悩まされていようとは今もってなお夢にも御存じないのです(僕もやはりこのことは隠していました)。ねえ、ブルドフスキイ君、僕があんたのお母様に、プスコフでお目にかかったときには、お母様は病気と、このうえもないよくよくの貧乏に悩まされていらしったのです。パヴリシチェフ氏が亡くなられてから、お母さんはそういった境遇に陥られたのです。お母さんは感謝の涙にむせびながら、今はただあんたのおかげでその日その日を過ごしていっている、そしてあなたの将来を楽しみに暮らしていると僕におっしゃったのです。お母さんはあんたの将来を非常に期待して、来たるべき日の出世を心から信じていらっしゃるんですよ……」
「もう、我慢ができない!」とレーベジェフの甥がいらいらして、不意に大きな声で叫んだ。「そんな小説もどきのお話が何になるんです?」
「なんて、けがらわしいことだ、無礼な話だ!」とイッポリットは激しく身を打ち震わせてこう言った。しかも、ブルドフスキイはひと言も口をきかず、身じろぎさえもしなかった。
「何になるですって? なぜですって?」実に驚いたといったような顔をして、心の中では自分の結論を述べようと意地悪く待ち構えながら、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチはこう言った。「まず第一に、ブルドフスキイ君はすでに、パヴリシチェフ氏が自分を可愛がってくれたのは博愛のためであって、けっして息として愛したのではないということを、おそらく十二分に納得されたことでしょう。ブルドフスキイ君はケルレル君があの記事を読んで聞かした時、是認もし、保証もされたそうですから、この事実はどうしても知っておかなければならないことだったのです。あなたを潔白な人間と考えればこそ、僕はこういうことを言うのです、ねえ、ブルドフスキイ君。第二に、この事件に関しては、チェバーロフでさえもちょっとも、いかさまや騙《かた》りの気持を持っていなかった、ということが判明しました。これは僕にとってもはなはだ重大な点です。というのは、僕までが公爵と同じように、この不幸な事件をいかさまな詐欺事件と考えているように、さきほど、憤慨のあまり公爵が申しておられたからです。ところが、事実はまるっきり反対です。この事件は、どこからどこまで確固たる信念によって満たされているのです。もっとも、チェバーロフは実際のところ大山師であるかもしれませんが、事実、この件に関する限りは、彼は一介の三百代言にしかすぎません。彼は弁護人として、しこたまもうけようとしただけで、その胸算用は微細で巧妙であったばかりでなく、きわめて正確なものでさえもあったのです。彼は公爵がたやすく人に金をお渡しになることや、公爵の亡きパヴリシチェフに対する感激や尊敬の念、すでに世間周知の名誉や良心の義務に関して公爵のもっておられる騎士的な見識(これが何より大事なのです)、こういうものに基づいて事件に手を着けたのです。ところで、ブルドフスキイ君については、次のように言ってもよろしかろうと思います。この人はかねていだいておられた信念のために、チェバーロフは取巻きの連中におだてられて、利害関係よりはむしろ、真理、進歩、人類に対する奉仕として、この事件を起こされたものと思います。今や、これだけの事実を報告した以上は、ブルドフスキイ君が見かけによらず、きわめて潔白なかたであるということは誰にもよくおわかりのことと存じます。そして公爵も今では前よりはいっそう快く、親友としての助力、並びにさきほど学校とかパヴリシチェフとかの話が出ました時におっしゃったような実際上の援助も引き受けてくださることと存じます」
「よしてください、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさん、よしてください!」と公爵はひどく狼狽して叫んだが、しかしもう間に合わなかった。
「僕は言ったじゃありませんか、もう三度も言ったじゃありませんか」とブルドフスキイはいらだたしげに叫んだ。「僕はお金なんか欲しかありません。受け取りゃしません……なんだって……。欲しかありません……けがらわしい!……」
こう言ったかと思うと、彼はそのまま露台から駆けおりようとした。すると、レーベジェフの甥がその手をつかまえて、何か耳打ちをした。すると相手はいきなり取って返して、ポケットから封のしていない、大形の封筒を取り出して、公爵の立っている傍のテーブルの上に放り出した。
「さあ、金です! あんたはよくもいけずうずうしく! よくもずうずうしく! 金なんか!」
「あんたが失敬にも贈り物という名目でチェバーロフの手を経てよこされた二百五十ルーブルです」とドクトレンコが説明した。
「あの記事には五十ルーブルとしてありましたよ!」とコォリャが叫んだ。
「すみませんでした!」と公爵はブルドフスキイに近づきながら言った。「僕はあんたに、実に申しわけのないことをしました、ブルドフスキイ君。しかしあの金は贈り物として差し上げたのじゃありません、全く。僕は今も申しわけのないことを言いました……さきほども悪いことを言いました(公爵はすっかり調子が狂って、顔つきも疲れきったように弱々しかった、またそのことばもとりとめのないものであった)。僕はさっき|ぺてん師《ヽヽヽヽ》だと言いましたが、……あれはあなたのことじゃありません、僕の勘違いでした。僕は、あなたが……僕と同じように……病人だと言いました。しかも、あなたは僕なんかのような人間じゃありません……家庭教師をして、お母さんを養っていらっしゃる。僕はあんたがお母さんに恥をかかせたと言いましたが、あなたはお母さんを愛していらっしゃる。お母さんが御自分の口からそうおっしゃったんですよ……僕は知らなかったんです……ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんがさきほどおしまいまで話してくださらなかったものですから……。すみませんでした。僕はあつかましくも、あなたに一万ルーブルを差し上げるなんかと言いましたが、あれは僕が悪かったんです。あんな風にして言うべきことじゃなかったのです。しかし、今となっては……もうしかたがありません。あなたは僕を軽蔑していらっしゃるのですから……」
「あ、これは全く精神病院だ!」と、リザヴィータ・プロコフィーヴナが叫んだ。
「もちろん、気ちがい病院だわ」アグラーヤは我慢しきれず、こう言ったが、そのことばは一座のざわめきの中に掻き消されていった。みんなは大きな声で話したり、議論めいたことを言っていた。口論している者も、笑っている者もあった。イワン・フョードロヴィッチは極度の憤懣《ふんまん》に達して、自分の権威を傷つけられたような顔つきをして、リザヴィータ・プロコフィーヴナを待ちうけていた。レーベジェフの甥はよくよくのことを言いだした。
「ねえ、公爵、あなたには帽子《しゃっぽ》を脱ぎましたよ、つまり、あんたは、御自分の……その、病気(まあ、遠慮してこう言っときましょうね)のですな、とにかく利用のしかたを御存じですからね。あんたが友情だの、金だのを提供なさるやり口があんまり鮮やかなもんですから、潔白な人間はどうしてもそいつを受け取るわけにはゆかないんじゃありませんか。あんまり無邪気すぎるのか、あんまりやり口がうますぎるのか、どっちかですね……、もっとも、御自分じゃ誰よりもよく御存じなんでしょう」
「ちょっと御免なさい、皆さん」いっぽう、金の包みをあけていたガヴリーラ・アルダリオノヴィッチはこう叫んだ。「この中には二百五十ルーブルなんかありませんよ、みんなで、たったの百ルーブルしか。公爵、実は僕は何か腑《ふ》に落ちないことでもあっちゃいけないと思ったもんですから」
「ほっといてください、ほっといてください」と公爵はガヴリーラ・アルダリオノヴィッチに向かって両手を振った。
「いや、『ほっとく』なんてことはできません!」とレーベジェフの甥はたちまち突っかかって来た。「公爵、あんたが『ほっといてください』なんて言うのは僕らに対する侮辱です。僕らは逃げも隠れもしません、何もかもざっくばらんに言います。実は、その中にはたったの百ルーブルきりで、二百五十ルーブルなんかありません、しかし、それにしたところで同じことじゃないですか……」
「い、いや、同じことじゃありません」と、変だなあと子供みたいな顔つきをしてガヴリーラ・アルダリオノヴィッチは相手の隙を見て、口を出した。
「話の邪魔をしないでください、僕たちは、あんたが考えているようなばかじゃありませんよ、弁護士さん」とレーベジェフの甥は憎々しげな口調で叫んだ。「もちろん、百ルーブルは二百五十ルーブルじゃありませんし、同じものでもありません。しかしですね、この場合、大事なのは主義主張ですよ、主旨が大切なんですよ、百五十ルーブル足りないなんてのは、ほんのちっぽけな問題です。大事なのはブルドフスキイ君があなたの贈り物を受け取らなかったことですよ、あなた。あの男があんたの顔に金をたたきつけたことなんですよ、この意味からしたら、百ルーブルであろうが、二百五十ルーブルであろうが同じことじゃありませんか。ブルドフスキイが一万ルーブル受け取らなかったことは、あんたもよくごらんなすったでしょう。あの男が恥知らずだったら、この百ルーブルも持っては来なかったでしょうよ! その百五十ルーブルってのは、チェバーロフが公爵のところへ出かけて行った費用に使ってしまったんです。むしろ、あんたがたは僕らの無器用さかげんや、事を運ぶ手つきのぎこちないのを勝手に笑ってください。あんたがたはそれでなくってさえ一生懸命、僕らを笑いものにしてやろうとしてるんですからね。しかし、僕らを恥知らずだなんかとは言わせませんよ。あの百五十ルーブルはね、あんた、僕らがいっしょになって公爵にお返しします。たとい一ルーブルずつであろうともお返しします。利息をつけてお返しします。ブルドフスキイは貧乏で、百万の財産家でもなし、おまけに、チェバーロフは旅行から帰って来るなり勘定書を突きつけるし。僕らは裁判には勝つのをあてにしたんだけれど……誰だってあの男の立場に置かれたら、ほかにやりようがあるもんか?」
「誰とはなんです?」とS公爵が叫んだ。
「わたしはもう気が狂いそうだ!」とリザヴィータ・プロコフィーヴナが叫んだ。
「これはまるで」と今まで長いことじっと立って傍観していたエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが笑いだした。「この間から騒がれていた弁護士の弁論みたいだなあ。その弁護士がですねえ、強盗の目的で一時に六人の人間を殺した被告の貧困状態を説明しているうち、突然、次のような結論をしたんですよ。『被告が貧困に迫られてこの六人殺しを決行するに至ったことは、きわめて自然なことである。また加害者の立場に置かれたら、誰だってかくのごとき計画を念頭に思い浮かべないものはないだろう?』って、まあ、こういう風なことを言ったそうですが、なかなかおもしろいもんですよ」
「もうたくさんです!」憤怒のあまり今にも身を震わさんばかりになって、突然、リザヴィータ・プロコフィーヴナがこう言いだした。「もう、こんなばか話の切りをつけてもいい時分でしょう!」
彼女は恐ろしく興奮していた。厳めしそうに頭をうしろにそらして、おうへいな、憤《いきどお》ろしい、じれったそうな態度で、夫人は輝かしい眸《ひとみ》を一座の人々の上に注ぎかけた。この瞬間、彼女は敵も味方も見さかいがつかなくなっている様子であった。それは、一刻も早く闘おうという気持、一刻も早く誰かに飛びかかってやりたいという気持が、大きな衝動となって来た時、今までじっとこらえていた憤怒が、ついに爆発しようとする危機一髪の気持であった。リザヴィータ・プロコフィーヴナをよく知っている人たちは、彼女の心中に何かしら、特別なものが現われたことを感じていた。イワン・フョードロヴィッチはあくる日、S公爵に向かって、「あれは、よくあんなことがありますよ、しかし、昨日みたいに激しいのは、まあ三年に一度くらいのもので、けっしてそれより多いことはありません! けっしてそれより多いことはありませんがの!」と、きっぱり断わった。
「もうたくさんです! イワン・フョードロヴィッチ! 放っておいてください!」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは叫んだ。「なんだってわたしのほうへ、そんなに手を差し出していらっしゃるんです? あなたは、さっき私を連れ出すことができなかったんじゃございませんの? あなたはわたしの夫で一家の頭《かしら》じゃございませんか? わたしがあなたの言うことを聞かないで、出て行かなかったら、わたしを、このばか者を耳をつかんで引きずり出すのがあたりまえじゃございませんか? それがおできにならなければ、せめて娘たちのことくらい心配して上げてもよさそうなものですね! けど、もうあなたのお世話にならなくっても、わたしは自分でなんとか方法をつけて行きますよ、こんなはずかしい思いは何年たったからって忘れやしません……ちょっと待ってください、わたしはまだ公爵にお礼を申していませんから!……公爵、ありがとう、どうもいろいろ御馳走様! 若い人たちのお話を聞いているうちに、つい長居をしてしまいました……あれは、なんていうだらしのないことでしょう、なんて見苦しいことでしょう! 今のは、めちゃくちゃです、汚らわしい。あんなことは夢にだって見られやしないわ! え、あんな手合いって、そうそう世間にざらにいるもんじゃない!……お黙り、アグラーヤ! お黙り、アレクサンドラ! おまえさんたちなんかの知ったことじゃないよ、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさん、わたしのそばをうろうろなさらないでちょうだい、なんだってわたしの傍をうろうろなさるんです! もうあんたなんかにはうんざりしました!……それであんたはあの連中のところへおわびに行くんでしょうね」と彼女は再び公爵のほうを向いて突きかかった。「『すみませんでした。あつかましくもあなたにお金を差し上げるなんかと言いまして、……』などとなんだってあなたは言うのです、あんたはなんだって笑うんです、空威張りやさん!」
彼女は不意にレーベジェフの甥に食ってかかった。「『僕らはそんな金なんか、お断わりします、僕らは要求するのであって、無心するのではありません』なんて、よくも言いましたね! きっとこのお白痴《ばか》さんが明日にでも、あの連中のところへ、のこのこ出かけて行って、また、友情やら、お金やら持ち出すのをよく見ぬいてしたことだわ! あんたは行くんでしょう、あんた、行きませんか?」
「行きます」ともの静かな、やさしい声で公爵は言った。
「聞いてたでしょう! だから、おまえさんなんかはそれを当てにしてるんだろう」彼女はまたしてもドクトレンコのほうを向いて、「もうお金はちゃんとポケットの中へはいったも同じだと考えて、それで威張り散らすんだろう、人を煙にまいたようなことを言うんだろう……さあ、おまえさんはお利口だから、よそのばかを見つけるがいい、わたしはね、ちゃんとおまえさんのやり口を見抜いているわ、……おまえさんのからくりは、ちゃんと見抜いてますよ!」
「リザヴィータ・プロコフィーヴナさん!」と公爵は叫んだ。
「もう出かけましょう、奥さん、もうずいぶん遅くなりましたよ。それに公爵もお連れしましょう」できるだけもの静かに、ほほえみながら、S公爵はこう言った。令嬢たちはほとんどあきれかえって、横のほうに立っていた。将軍はもうすっかりあきれかえっていた。ほかの人たちも同じようにあっけにとられていた。少し離れたところに立っていた幾人かの人は、忍び笑いをしながら、ささやき合っていた。レーベジェフは、うっとりとしてわれを忘れたような顔をしていた。
「めちゃくちゃでね、汚らわしいものなんか、ざらにありますよ、奥さん」とレーベジェフの甥は表情たっぷりな様子をしてこう言ったが、かなりしょげたような声であった。
「それにしても、あんなのってありませんよ! 今、あんたたちがしたような、あんなのってあるものじゃありません」と、ヒステリーにでもかかったような憎々しげな笑いを浮かべて、リザヴィータ・プロコフィーヴナはさっそく相手のことばをとらえた。
「どうか、かまわないでくださいよ」と彼女は自分をなだめようとする人々にこう叫んだ。「ねえ、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさん、あんたはさっきおっしゃったわね、弁護士が法廷で、貧困のために人を殺すほど自然なことはないって言ったってね。それが本当だとすると、世もいよいよ終わりが来たんだわ。わたしまだ、そんなこと聞いたこともない。今になって、わたしは何もかもすっかりわかりましたわ! ほら、このどもりやさん、どうしてこの男が人殺しをしないって言えましょう?(彼女はいぶかしげな顔をして自分のほうを眺めているブルドフスキイを指さした)。え、誓ってもいいわ、きっと人を殺します! この人はたぶん、あんたのお金一万ルーブルは受け取らないでしょうよ。たぶん、良心にとがめて受け取らないでしょう。だけど、夜になったら、やって来てあんたを殺して、お金箱の中からお金を引き出すに違いありません。良心にとがめられて、引き出すでしょうよ! それも、この人にとってははずかしいことじゃないんでしょうよ!『高潔な絶望の発作』だとか、『否定』だとかなんとかわけのわからない御託を並べるんでしょうよ……ちぇっ! 何もかも世の中のことはさかしまになってしまったんです。何もかもが足を上に向けてしまったんです。箱入り娘が、いきなり往来のまん中で馬車に飛び乗って、『ママ、わたしつい二、三日前にカルルヴィッチとか、イワーヌヴィッチとかいう人と結婚しましたのよ、さようなら!』なんかと言うようなことが、おまえさんがたにとっては立派な行ないなんでしょうかね? 尊敬に値する、自然なことなのかしら? 婦人問題なんですかね? ほら、この坊主も(と彼女はコォリャを指した)、ついこの間は議論をして、こんなのをこそ『婦人問題』だって言う始末なんですよ。いいかね、たとい母親はばかであろうと、せめて人間らしくつき合うがいいわ!……え、なんだってさっきおまえさんがたは、首をそらしてはいって来たんだろう? まるで『傍へ寄っちゃならん、おれ様たちのお通りだ。私たちにありったけの権利をよこせ、だが、貴様たちは眼の前で一言もしゃべっちゃならんぞ。おれたちにありったけのこの世にないような尊敬を払え。おまえたちは最下等の下男の取扱いをしてやるから!』ってでも言った格好だったじゃないの。やれ真理を追究するだの、権利に基づいてだのと言っているくせに、自分は回々《フイフイ》教徒みたいに、新聞でこの人をまるで取って食いそうなことを言ったじゃないの。『要求するんです、無心じゃありません。僕らはあなたに一言もお礼なんか言いません、御自分の良心を満足させるためですからね』などと、よくも言えたものですね。変な道徳があればあるものさ。いいかえ、おまえさんがたが公爵に一言もお礼を言わなければ、公爵だっておまえさんに『僕はパヴリシチェフさんに少しだって感謝の念をもっていない、パヴリシチェフさんが慈善を施したのは御自分の良心を満足させるためだったのだから』って返答するかもしれないんですよ。ところがおまえさんてば、公爵がパヴリシチェフさんに対してもっている感謝の念ばかりが目当てじゃないの。それに考えてもみるがいい、この人はおまえに借金があるんじゃないのよ、おまえさんに恩義があるわけじゃないですよ、だから、この人の感謝の念をのけたら食い物にするものが何があるんです? よくも自分で、お礼は言わないなんてことが言えたものだわ? 気ちがいざたじゃないの! 世間が誘惑された娘をはずかしめると、人はその世間を野蛮な情け知らずと考えるものです。そのように世間を情け知らずだと考えたら、こんな世の中に生きてゆく娘はさぞかしつらいことだろうと考えてやるのがあたりまえなのに。ところが、する事もあろうに、おまえはその娘をわざわざ新聞でそうした世間の前に引きずり出して、苦しいなどと言ってはならぬと無理なことを言う! まるで気ちがいのすることだわ! 見え坊だわ! 神様を信じない人たちだ、キリスト様を信じない人間だ! おまえさんがたは、とどのつまりは共食いしなきゃ収まらないほど、見え坊で、うぬぼれ根性が沁みこんでいるんだわ。わたしがあらかじめ言っときます。これが騙《かた》りでないのかしら、これがめちゃくちゃでないのかしら、これが陋劣《ろうれつ》なことでないのかしら? ところがこんなことがあったあとでも、この恥知らずは、おめおめと、あの連中のところへおわびに行くんだとさ! おまえさんたちみたいな人がどこにあるものか! 何を笑ってるの? わたしがおまえたちを相手にして自分の面《つら》よごしをしてるからなの? え、それはもうよごしてしまったあとだから、どうともしようがないわ!……ねえ、笑うのはやめておくれ! このへっぽこめ!(彼女はいきなりイッポリットに食ってかかった)。自分じゃやっと息をついてるくせして、他人を堕落さしたりなんぞして。おまえがわたしの子を堕落さしたんだよ(彼女は再びコォリャを指した)。この子はおまえのことを寝言にまで言ってるんだよ。おまえはこの子に無神論をよくも教え込んでくれましたね。おまえは神様を信じないんだね。おまえのような人は、うんととっちめてやってもいいんだよ、ね、とっとと消えておしまい! レフ・ニコライヴィッチ公爵、じゃあんなやつらんところへ明日お出かけなさるんですね?」と彼女は息を切らしながら、またしても公爵にこう尋ねた。
「出かけます」
「もう、おまえさんなんか見たくもない!」と言って、彼女はすばやく身を翻して出て行こうとしたが、不意にまた引き返して来て、「それからこの無神論者のところへも行くんだね」と、イッポリットを指さした。「なんだって、おまえはわたしを見て笑うの!」イッポリットの辛辣《しんらつ》なあざわらいに堪えきれなくなって、彼女はどことなく不自然な調子でこう叫ぶと、彼に飛びかかった。
「リザヴィータ・プロコフィーヴナ! リザヴィータ・プロコフィーヴナ! リザヴィータ・プロコフィーヴナ!」と四方から一時に叫び声が起こった。
「ママ、なんてはずかしいことをなさるの!」アグラーヤは大きな声で叫んだ。
「気にかけないでください、アグラーヤ・イワーノヴナさん」とイッポリットは穏やかな調子で言った。リザヴィータ・プロコフィーヴナは彼に飛びかかったが、なぜかしらその手を堅くつかんでいた。彼女は彼の前に立ったまま、物狂わしい眸《ひとみ》を据えてじっと彼を見つめていた。「心配しないでください、あなたのママはこんなくたばりそこないを打つわけにはゆかないってことに、すぐにお気づきになるでしょうから……。僕がなぜ笑ったかは説明いたします……聞いていただければたいへん嬉しゅうございます……」と、彼はいきなり激しく咳きいって、一分間ほどは咳を止めることができなかった。
「今にも死にそうになっているくせに、まだ大きな口をきいている!」と言って、リザヴィータ・プロコフィーヴナは彼から手を離し、その唇から血を拭き取る様子を、ほとんど恐怖ともいうべき顔をして眺めながら、また「まあ、話どころじゃないじゃないの! おまえさんはすぐに行ってやすまなくちゃ……」と叫んだ。「そうしましょう」とイッポリットは低い、ほとんどささやくようなしわがれ声でこう言った。「僕は今日、家へ帰ったら、すぐやすみます……二週間たったら、僕は死ぬことはわかってるんです……先週、Bが僕に説明してくれたのです……ですから、許していただけるようでしたら、僕はお別れにたったひと言あなたにお話しいたしたいんです……」
「まあ、おまえさん、気でも狂ったんじゃないの? 変なことばかり言って! 手当てしなければならないのに、話なんかどうだっていいんですよ! さあ、あっちへ行って横におなり!」リザヴィータ・プロコフィーヴナは、びっくりしてこう叫んだ。
「横になったら、もう死ぬまで起きられないのです」とほほえみながら、イッポリットは言った。「僕は昨日も、そんな風に寝てしまおうかと思っていたのです。もう死ぬまで起きないようにと。だけど明後日《あさって》まで延期したのです、足の立てる間だけはと思って、……その連中といっしょにここへ来たかったもんですから……だが、もうすっかりくたびれちゃいました……」
「さあ、お坐り、お坐んなさい、どうして立ってるの! さあ椅子を」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは飛び上がって、自分から椅子をすすめた。
「ありがとう存じます」とイッポリットは低い声でことばを続けた。「では、向き合ってお坐りください、そして、少しお話ししましょう……ぜひとも二人でお話ししましょう、リザヴィータ・プロコフィーヴナさん、僕は今度このことを頑張りますよ……」と彼は再び彼女に笑いかけた。「まあ考えてください、僕がこのようにおもての空気の中でみんなといっしょにいられるのは、今日が最後ですよ。二週間たったら間違いなく土の中にはいってるはずですからね。つまり、これが人間や自然に対するお別れみたいなものですね。僕はそんなに情にもろくはありませんが、それでもやっぱり、こんな事件がパヴロフスクで起こったことがたいへん嬉しいんです。何はともあれ、青葉の繁った木立でも見てましょう」
「まあ、今度は妙な話になったもんだね」リザヴィータ・プロコフィーヴナはなおいっそう驚いてこう言った。「おまえさんはすっかり熱に浮かされているんだね。さっきは金切り声を出したり、ぴいぴい声を出したりしてたかと思うと、今度はやっとのことで息をつきながら、すっかり息切れしてるじゃないの!」
「僕はすぐにやすみます。なんだってあなたは僕の最後のお頼みを聞いてくださらないんです?……あのね、奥さん、僕はずっと以前からあなたにお近づきになりたいと思っていたのですよ。あなたのお噂をいろいろ聞いていました。……コォリャから。僕を見すてないでくれるのは、コォリャ一人だけだと言ってもいいくらいです、……あなたなかなか風変わりなおかたですね、奇抜なおかたですね、僕はいま親しくお目にかかってよくわかりました。……僕はねえ、あなたが少し好きになってきましたよ」
「まあ、それなのにわたしは、本当にすんでのところで、この人を打つところだったわ」
「アグラーヤ・イワーノヴナがあなたをお止めになったのです。どうです僕の見当に狂いはないでしょう。このかたがお嬢さんのアグラーヤ・イワーノヴナさんですね。なんて美しいかたでしょう、僕、さっき一目見たときすぐわかりましたよ、今まで一度もお目にかかったことはなかったのですけれど。この世の見おさめに美しいかたなりとも見さしてください」とイッポリットはなんとなく気はずかしいような、ゆがんだ微笑を浮かべた。「さあ、そこには公爵も、あなたの御主人も、皆さんも大ぜいいらっしゃる。それなのに、どうして僕の最後のお頼みをかなえてくださらないのです?」
「椅子を!」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは叫んだが、自分で引きよせ、イッポリットの真向かいに腰をおろし、「コォリャ」と呼んで彼女は言いつけた。「すぐにこの人といっしょに行ってちょうだい、この人を送り届けてちょうだい、明日わたしが、きっと自分で……」
「まことに失礼ではございますが、僕にお茶を一杯いただけませんでしょうか……すっかり疲れてしまったものですから。どうでしょう、リザヴィータ・プロコフィーヴナさん、あなたは公爵をお茶にお招きのようでしたが、ここにお残りになって、いっしょにいてくださいませんでしょうか。公爵はきっと皆さんにお茶を御馳走なさると思いますから、僕の勝手な言い分はお許しください……。しかし、僕はあなたをよくわかっています、あなたは親切なかたです、公爵も同様です……僕たちはみんなおかしいくらいいい人間ばかりです……」
公爵はびっくりしてしまった。レーベジェフは大急ぎで駆け出して行った。それに続いてヴェーラも出て行った。
「それもそうだわね」と将軍夫人がきっぱりと言った。「じゃ、お話しなさい、なるべく落ち着いてですよ、夢中になっちゃだめよ。おまえさんの泣き落としには負けました。……公爵! わたしはおまえさんの所でお茶を飲む理由はないのだけれど、こういうありさまだから、ここにじっとしていましょう。だけど、わたしは誰にもおわびなんかしませんよ! ええ、誰にだって! ばからしい!……でも、わたしがおまえさんに悪態でもついたというんなら、勘忍しといてもらいましょう。いやならいやでしかたがないけど。しかし、わたしは誰もここへ引き止めているんじゃありませんよ」と、夫人はいきなり、ひどく怒ったような顔つきをして夫と娘たちのほうをふり向いた。その態度はまるで夫や娘たちが、夫人に対してたいへん悪いことでもしたかのようであった。「わたしは一人だって家へは帰れますからね……」
しかし、彼女は言うだけのことをすっかり言わされなかった。一同は彼女に近づいて、その周囲を取り巻き、ちやほやし始めた。公爵は、すぐさま一同に向かって、居残って茶を飲むようにと言い、今までこれに気づかなかったことをわびた。将軍までが非常に上機嫌になって、「それにしても露台《テラス》じゃ冷えやしないかね?」などとリザヴィータ・プロコフィーヴナに向かってなだめるように愛想よく言った。彼はイッポリットに向かってさえも「もうだいぶ前から大学へ通ってますか?」と危く問いかけようとしたが、これはさすがに遠慮した。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチと公爵はにわかに非常に愛想がよくなり、愉快になってきた。アデライーダとアレクサンドラの顔にはさっきのなごりをとどめている驚きの表情のかげから満足らしい色が浮かんできた。要するに、誰も彼もがリザヴィータ・プロコフィーヴナの危機が過ぎたことを明らかに喜んでいたのである。ただ一人、アグラーヤのみは苦い顔をして、少し離れたところに黙々と腰をおろした。その他の人々もみな居残って、唯一人出て行こうとするものはなかった。イヴォルギン将軍までが出て行こうとはしなかった。もっとも将軍はレーベジェフが通りすがりに何やら小さな声でささやくと、どうやらそのことばがあまりおもしろくなかったのであろう、そのままどこかの隅へ姿を隠してしまった。公爵はブルドフスキイとその一味の者にも、それぞれ近づいてすすめて回った。しかし、彼らは、さも緊張しているといった顔つきをして、イッポリットの帰りを待つ旨を声低く答えて、そのまま露台《テラス》のいちばん離れた片隅に引っ込んで、またしてもその場所に一列に並んで腰をおろした。まもなく茶が運び出されたところを見ると、たぶん、茶はレーベジェフが自分のためにあらかじめ準備していたのであろう。
時計が十一時を打った。
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イッポリットはヴェーラ・レーベジェフのすすめるお茶に唇を潤《うるお》して茶碗をテーブルの上に置いたが、急に気はずかしくなってきて、ほとんどどぎまぎしているような風をして、あたりを見まわした。
「リザヴィータ・プロコフィーヴナさん、この茶碗をごらんなさい」と彼はなんだか妙にそわそわして、「この磁器の茶碗は、この見事な磁器の茶碗は、いつもレーベジェフのところのガラスの蓋のついた箱の中にしまってあって、一度も出したことがないんですよ……どこの家にもよくあるように、これは細君の嫁入り道具なんでして、……こんなに出したところをみると、……それはもちろん、あなたに敬意を表してですね、それほど喜んでいるわけですよ……」
彼はもっと何か言いたかったのであるが、何を言っていいのかわからなかった。
「それにしても、やっぱり気はずかしくなったんですね、おおかたそんなことだろうと思っていましたよ!」と、不意にエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが公爵の耳に口を寄せてささやいた。「これは、あぶないんじゃありませんかね? あの様子だと今口惜しまぎれに何か、リザヴィータ・プロコフィーヴナもたまらないような、とんでもないことをやらかすにきまってますよ」
公爵はいぶかしげに相手の顔を眺めた。
「あなたはとっぴなことなんか平気でしょう?」と、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは言い足した。「わたしもそうなんです。かえって望んでいるくらいです。つまり、わが親愛なるリザヴィータ・プロコフィーヴナに今日てきめんに罰《ばち》が当たればいいと、ひたすら望んでいるんです。それを見なくちゃ帰れませんよ。あんた、熱があるようですね?」
「後でお話ししましょう、邪魔しないようにしてください。え、僕はぐあいが悪いんです」そわそわしているというよりは、むしろいらだたしげな調子で、公爵はこう答えた。彼は自分の名前を言っているのを耳にした。イッポリットが自分の噂をしていたのである。
「あなたは本気にしないんですか?」とイッポリットはヒステリックに笑った。「そりゃそのはずです。しかし、公爵はいきなり本気にして、少しも驚いたりなんかしないでしょうよ」
「公爵、聞いてるの?」と言ってリザヴィータ・プロコフィーヴナは彼のほうをふり向いた。「聞こえてるの?」
あたりにいた人は笑いだした。レーベジェフは忙しそうに、前のほうへ突き出て来て、リザヴィータ・プロコフィーヴナのすぐ前をうろうろし始めた。
「この人の話ではね、そら、その変な格好をした男、おまえさんの家主がさ……そこにいる旦那に頼まれて、おまえさんにあてつけてさっき読んだ新聞記事をなおしたんだってさ」
公爵はあっけにとられてレーベジェフを眺めた。
「いったい、なんだってあんたは黙っているの?」じれったそうに足を踏み鳴らしさえもして、リザヴィータ・プロコフィーヴナはこう言った。
「しかたありませんよ」レーベジェフから眼を離さずに公爵はこうつぶやいた。「この人がなおしたことはよくわかってます」
「本当?」と、リザヴィータ・プロコフィーヴナはすばやくレーベジェフのほうをふり向いた。
「全く本当のことでござんす、閣下!」レーベジェフは片手を胸に当てて、いささかの揺るぎもない落ち着いた態度でこう答えた。
「まるで威張ってるようよ!」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは飛び上がらんばかりになって、こう叫んだ。
「ふつつかでして、全くふつつかな!」とレーベジェフはつぶやいて、自分の胸をたたきながらしだいに頭を下げた。
「おまえがふつつか者だって、わたしの知ったことじゃないよ! この男は『ふつつか者』だとでも言えば、それで済むと思ってる。それに公爵、あんたはこんな連中と交際していて、もう一度言っておきますが、はずかしくはないの? もうけっして許しませんよ!」
「公爵はわたしを許してくださいます」レーベジェフは確信と感動とをこめてこう言った。
「ひたすら高潔な気持から」不意に駆け寄って来たケルレルはリザヴィータ・プロコフィーヴナに面と向かって響き渡るような大声をあげてこう言った。「奥さん、苦境に陥った友人を裏切るまいとして、ひたすら高潔な気持のために、あなたが御自分でもお聞きになったように、僕は、この男が僕らを階段から突き落とすなんかと言ったにもかかわらず、さっきはこの訂正の事実を隠していたのです。しかし、本当のことを明らかにするために申しますが、僕は六ルーブルでこの男に頼んだのです。しかし、それもけっして文章をなおすためではなく、主として僕の知らない事実を教えてもらわんがためです。そのほうの事情に通じている人間として、この男に頼んだ次第です。ゲートルのことについても、スイスの先生のところでの大食のことについても、二百五十ルーブルの代わりに五十ルーブルとしたことも、要するに、そうした組合せはみんなこの男が六ルーブルでやったことです。文章はなおしやしなかったんです」
「わたしは注意しとかなきゃなりません」としだいしだいに笑い声が昂じてゆく中で、熱病やみのようにいらいらして、どことなく、のろのろした声でレーベジェフは彼をさえぎった。「わたしがなおしたのは、ただ前半だけで、まん中ごろまで来た時、ある点で意見が合わないで口論をして、わたしはあとの半分はなおさなかったんです、だから、あの中の成ってない所は(あの文章は全く成っちゃおらんなあ!)けっしてわたしの責任じゃござんせん……」
「この人がやきもきするのは、それくらいのところだよ!」と、リザヴィータ・プロコフィーヴナは叫んだ。
「ちょっとお尋ねしますが」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチがケルレルのほうを向いて言った。「記事を訂正したのはいつですか?」
「昨日の朝でした」と、ケルレルが報告した。「僕らはその時、互いに堅く秘密を守るという約束をしたんでした」
「じゃ、この男があんたの前にはいつくばって、何事によらず、あんたの言うことを聞くって誓っていた時分ですよ! ええ、なんていう人たちだろう! おまえのプゥシキンもいらなきゃ、おまえの娘も来てもらうのはよします!」
リザヴィータ・プロコフィーヴナは立ち上がろうとしたが、不意にいらいらしたようにプチーツィンのほうをふり向いた。
「おまえさんは、なんだってわたしを笑い者にしようとしてここへ引き止めたの!」
「とんでもない」とイッポリットはゆがんだような、薄笑いを浮かべた。「しかし、リザヴィータ・プロコフィーヴナさん、僕は何よりもあなたの恐ろしく突拍子もないのには驚いてしまいました。僕は実のところ、レーベジェフのことがあなたにどれくらい、ききめがあるか知りたいと思って、わざとあなたを引き止めたんですよ、あなた一人が目当てですよ。なぜって、公爵はきっと許してくださると思ったからです。どうです、公爵は本当に許してくだすったでしょう、……もしかしたら、言いわけのことばまで考えていらっしゃるかもしれませんよ、ねえ公爵、そうでしょう?」
彼は息を切らしていた。その奇怪な興奮はひと言ごとに高まっていった。
「それで? ……」彼の調子に驚きながらも、リザヴィータ・プロコフィーヴナは腹立たしそうにこう言った。「それで?」
「僕はあなたのお噂をいろいろ聞きました、これに似たようなことを……たいへん愉快に……あなたを御尊敬するようになりました」とイッポリットは語り続けた。
彼は、こうは言っているものの、これらのことばで、全く別な意味を表わそうとしているかのようであった。彼のことばには嘲笑的な調子がこもっていたが、同時にそれとは似てもつかないような疑い深いまなざしで周囲を見回し、うろたえてことばをつまらせる様子がいちじるしく目についた。すべてこうしたことは、その肺病患者らしい顔つきと、異様なほどにぎらぎらと輝く、まるで前後を見失ったようなまなざしと共に思わず人々の注意を彼のうえにじっと引きつけるのであった。
「もっとも、僕は世間知らずではありますが(これは白状します)、それでもずいぶんびっくりさせられましたよ。あんたが大胆にも僕らの仲間に居残られて、しかもこんな……お嬢さんたちまでもいっしょに残られて、こんな醜聞までもお耳に入れるんですからねえ、もっとも、お嬢さんがたは小説のほうでこんなことはとっくに御承知かもしれませんがね。それにしても僕にはわからないかもしれませんが……なぜって、僕は少々あわててますからね、……しかし、それはまずどっちにしたって、いったい、あなたのほかに誰があるでしょう……こんな子供(え、僕は子供に違いありません、またこのことも白状しておきますよ)の願いを聞き容れて、いっしょに表で夜を過ごされたり、何かと……世話をなすったり……何かと……そして、あくる日にははずかしい思いをするような人は……(もっとも、僕も自分の言い方が間違ってることは認めますがね)。こうしたことを何もかも僕は非常に賞讃し、尊敬しています。だが、閣下の、あなたの御主人のお顔には、こういうことはするもんじゃないとはっきり書いてございます……ひ、ひ!」彼はすっかり狼狽して、卑屈な笑い方をしたが、にわかに咳きこんでしまって、二分間ばかりはことばを続けることができなかった。
「息までつまったよ!」リザヴィータ・プロコフィーヴナは、峻厳な好奇心をいだいて彼を見ながら、ひややかな鋭い調子でこう言った。「さあ、いい子だから、もうおしまいにおし、遅くなったから!」
「君、失礼ながら、わたしのほうからも一言、御注意しておきます」とついに我慢しかねて、イワン・フョードロヴィッチはいらいらした調子で、いきなりこう言いだした。「家内がこうしてここにいるのは、レフ・ニコライヴィッチ公爵が、われわれ一同の親友であり、お近所のかたであるからです。それにまた、いずれにしたところで、君のような若造が、リザヴィータ・プロコフィーヴナのすることなすことをかれこれ批評したり、わしの顔に書いてあることを、面と向かってとやかく言うのは生意気だ。全く。それに家内がここに居残ったのは」とひと言ひと言に憤激を新たにしながら、将軍は語り続けた。「君、手っとり早く言うと、驚いたのと、奇妙な若い連中を見ようっていう誰にもよくわかるきわめて現代的な好奇心からなんです。わしが居残ったのは、ときどき往来に立ち止まることがあるのと同じ気持からです、つまり、何かちょっと目につくものがあるとき、その……その……その……」
「珍しいものでしょう」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが口を入れた。
「いや全くそのとおり」と、少々|譬喩《ひゆ》のことばに困っていた閣下は大いに喜んだ。「全く、その珍しいものを見るようなもんですよ。しかし、文法的にこう言いうるならば、わしには何よりも驚くべきことで悲しむべきことであったのです。リザヴィータ・プロコフィーヴナがここに居残ったのは君が病気で――もし君が死にかかっているというのが実際のことであるならば――つまり、君のあわれっぽいことばに同情したからだということが、君みたいな若い人が気づかれなかったこと、それがとにかく、わしには何よりも驚くべきことで悲しむべきことであったのです。またどんなことがあろうとも、妻の名誉、性質、品格に汚名をきせることは絶対にできないことです……リザヴィータ・プロコフィーヴナ」将軍は顔をまっかにしてこうことばを結んだ。「おまえが出かけるのだったら、公爵さんにおいとまをなさい、そして……」
「御教訓を感謝いたします、将軍」イッポリットは物思わしげに彼を眺めながら、思いがけなくもまじめな調子でこう言った。
「行きましょうよ、ママ、まだなかなか暇がとれそうだわ!……」とアグラーヤは椅子から立ち上がりながら、いらだたしげに、腹立たしげにこう言った。
「あなた、イワン・フョードロヴィッチ、お願いですから、もう二分ほど待ってください」とリザヴィータ・プロコフィーヴナはいかめしい態度で夫のほうをふり向いた。「なんだかこの人はすっかり熱に浮かされて、うわごとを言っているようです。あの眼を見ればわかります。このままうっちゃっておくわけにはいきません。レフ・ニコライヴィッチ! この人をあなたのところに泊めていただけますか? 今晩ペテルブルクへ連れて行くわけにはゆきませんからね。Cher Prince(ねえ、公爵)あなた、お退屈じゃありませんか?」と夫人はどうしたことか、いきなり公爵のほうを振り向いた。「アレクサンドラ、ここへいらっしゃい、髪をなおさなくちゃいけませんからね、さあ」
彼女はなおすところなどは少しもない娘の髪をなおしてから、接吻をしてやった。ただこのために彼女は娘を呼んだのである。
「僕はまだまだあなたは伸びられるかただと思いましたよ……」とイッポリットは物思いから覚めて再びこう言いだした。「そうだ! 僕はこういうことを言うつもりだったんです」不意に何か思い出したように彼は喜ばしそうに叫んだ。「そら、ブルドフスキイは心の底から母親をかばおうとしたが、結局は母親をはずかしめることになったでしょう。それに公爵も清い心からして、ブルドフスキイに優しい友情と、莫大な金を提供されようと望まれたのです。われわれのうちの誰一人として、公爵に嫌悪の念をいだいているものはありません。それなのに、この二人は真実の敵味方のような立場に立ってしまいました……は、は、は! あなたがたはブルドフスキイが自分の母親を汚し恥をかかすようなことをするなんてお考えになって、あの男を憎んでいらっしゃる、ね、そうでしょう? そうでしょう? そうなんでしょう? あなたがたは恐ろしくきれい事とか、優雅な形式とかを好んでいらっしゃるじゃありませんか。そればかりを主張していらっしゃるじゃありませんか。それに違いないでしょう?(僕はずっと前からそれだけだと思っていましたよ)。え、皆さんのうちの誰だっておそらくブルドフスキイほど自分の母親を愛する人はないでしょう! 公爵、僕は知ってますよ。あなたは、こっそりガーネチカの手からブルドフスキイのお母さんにお金を贈られたでしょう。ところで、僕は誓って言いますが、今度はブルドフスキイが、形式の繊細さがないとか、母親に対する尊敬がないとか言って、あなたにきっと食ってかかりますよ、ええ、もちろんですとも、はははは!」
彼はまたもや息を切らして咳きこんだ。
「それでおしまいなの? もうみんな言ってしまったの? そう、行っておやすみなさい、おまえさんは熱にうなされているんだから」彼から心配そうな眼を離そうともせず、リザヴィータ・プロコフィーヴナはいらだたしげにこう言ってさえぎった。「まあ、どうしたことです! おまえさんはまだしゃべってる!」
「あなたは笑ってらっしゃるようですね? どうして、僕を笑うんです? 僕にはちゃんとわかってますよ、あなたは僕のことを笑っていらっしゃるんです!」彼は不安な、いらだたしそうな態度で、不意にエヴゲニイ・パーヴロヴィッチのほうを向いてこう言った。
こちらは実際に笑っていたのである。
「僕はただ君にお尋ねしたいと思ったまでなんですよ。……イッポリット君……失礼しました、僕はあんたの名字を忘れちゃいました」
「チェレンチェフ君です」と公爵が言った。
「あ、チェレンチェフでしたか、公爵、ありがとう。さっき聞いたんですけれど、つい笊《ざる》ぬけになってしまって……チェレンチェフ君、僕は君にお尋ねしたいんですが、実は僕が聞いたところでは、君が十五分ばかり窓のところで群集と話をしたら、みんなは何もかも賛成して、さっそく君のあとからついてゆくと言ったとかいう御意見のようでしたが、あれは本当ですか?」
「そう言ったでしょう、大いにそうかもしれません……」とイッポリットは何か思い出したようにこう答えた。「え、きっと言ったに相違ありません!」と彼は再び元気づいてエヴゲニイ・パーヴロヴィッチをきっと見つめながら不意にこう言った。「いったいそれがどうしたというんです?」
「いや、別になんでもありません。僕はただ念のために知っておきたいと思っただけです」
エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは口をつぐんだが、イッポリットはじれったそうに待ちうけながら、やはりじっと相手を見つめていた。
「さあ、どうしたの、済みましたか?」とリザヴィータ・プロコフィーヴナはエヴゲニイ・パーヴロヴィッチのほうをかえり見た。「あなた、早く済ましておしまいなさい、この人はもうやすまなきゃならない時分です! それとも二の句がつげないの?」
彼女は恐ろしく気短かになっていた。
「僕は実に付け加えたくってしようがないんです」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは笑いながら続けた、「チェレンチェフ君、君の友人諸君から聞かされたこと、それから君が今あんなに弁舌あざやかに述べられたこと全部を総合して考えると、僕の見たところでは、一つの権利謳歌《けんりおうか》の理論に帰着するようですね。しかも何もかもさし置いて、何もかもよそに見て、何もかもそのほかのものは除外してまで、さらにことによったら権利そのものがどこに存在するかの研究もあとにして……ひょっとすると僕の勘違いでしょうか?」
「もちろん勘違いですよ、僕にはあなたのおっしゃることが呑みこめないくらいです……それから?」
隅のほうでも不平を漏らす声が起こった。レーベジェフの甥は何やら低い声でつぶやいた。
「もうそれ以上言うことはほとんどありません」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが語をついだ、「僕が言っておきたいのはただこういうことです。このことがじきに力の権利、つまり、ただ単なる鉄拳や個人的欲求の権利にいきなり飛躍するかもしれないってことです。もっとも、世の中のことはたいていこれでかたづくんですけどね。プルードンも力の権利を主張していましたからね。アメリカ戦争のときでも、最も進歩的な多くのリベラリストが移民の権益保護のために、黒人は黒人で、白人よりは下に立つべきものだ、したがって力の権利は白人のものだ……と、こんな意味のことを宣言しましたからね」
「それで?」
「つまり、それだから君は力の権利を否定しないのでしょうね?」
「それから?」
「君もなかなかの理屈屋ですね。僕が言いたいのは力の権利っていうものは虎や鰐《わに》の権利、ダニイロフやゴルスキイの権利とさえもあまり縁が遠くないってことです」
イッポリットはエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの言うことをほとんど聞いていなかった。『それで』とか『それから』とか言っているのは、むしろ会話の場合に古くから慣れきった習慣のためであって、けっして好奇心をもっていたり、注意を向けているからではないらしかった。
「もうその先は何もありません……これでおしまいです」
「しかし、僕はあなたを怒ってるわけじゃありませんよ」と全く思いがけなく不意にイッポリットは断言して、ほほえみさえも浮かべて、ほとんど無意識に手を差し出した。
エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは初めはちょっとびっくりしたが、きわめてまじめな態度で自分のほうへ差し出した手にさわった、まるでわびを聞き届けるときのような風をして。
「僕はもう一つ付け加えずにはいられません」相も変わらず瞹昧《あいまい》な、しかもうやうやしげな調子で彼はこう言った、「君が僕の話を最後まで聞いてくださったその御注意のほどを感謝いたします。というのは、僕が幾たびとなしに観察した経験に徴しますと、我が国のリベラリストという輩《やから》は誰かが何か独自の信念を持っていると、それを大目に見ることができず、さっそく、自分の論敵に悪罵《あくば》をもって応酬し、あるいは何かもっと卑劣な手段で報いないでは済まさないからです……」
「なるほど、それは全く君のおっしゃるとおりです」とイワン・フョードロヴィッチ将軍が言った。そして両手を後ろに組み合わせると、実に退屈でたまらないというような顔をして露台《テラス》の出口の方へ身を引いて、いまいましそうにあくびをした。
「さあ、もうあんたの話はたくさんです」いきなりリザヴィータ・プロコフィーヴナは頭ごなしにこう言った。「あんたの話にはうんざりしました……」
「もう遅くなった!」とイッポリットは心配そうに、ほとんど驚いたかのようにこう言って、にわかに立ち上がったが、気が気でないらしくあたりを見回し、「あなたがたをお引き止めしてしまいましたね。実は何もかも申し上げたかったのです……僕は思っていたのです。あなたがた皆さんが……これを最後として……しかし、それも僕の幻想《ファンタジヤ》でした」
どうやら、彼は発作的に元気づき、ほんのちょっとの間、本物の幻覚のような状態から、意識を完全に呼び返して、さまざまのことを不意に思い出しては語っているようであった。もっともその話はたいてい断片的なもので、それもおそらくは、ただひとり病床にあって、寝つかれぬ夜長のつれづれなるままに、かなり前から思いついて、ついに諳《そらん》じていたものらしかった。
「では、さようなら!」と彼は不意に鋭い声で言った。「あなたがたは、僕にすらすらとわけもなくさようならが言えるとお思いですか? は、は!」と言って彼は自分の|不器用な《ヽヽヽヽ》質問をいまいましげに嘲笑するのであった。そうかと思うと不意に、言いたいことがどうしてもうまく出て来ないのに業《ごう》を煮やしたように、いらだたしげに声高く言いだすのであった。「閣下! 僕にそれだけの価値があるとお思いでしたら、まことにおこがましい次第ですが、僕の葬式に立ち会っていただけませんでしょうか、……ねえ、皆さん、あなたがたも将軍に続いて!……」
彼はまたもや笑いだした。しかしこれはもう狂人の笑いであった。リザヴィータ・プロコフィーヴナはびっくりしながら彼のほうへ近づいて、その手をつかんだ。イッポリットはやはりその笑顔のまま、じっと彼女を見つめていた。しかもその笑いは前から続いているのではなくて、顔に凍りついたまま残っているもののようであった。
「あのね、僕がここへ来たのは、樹木を見るためなんですよ。それ、あれです……(彼は公園の木立ちを指さした)おかしいじゃありませんか? 何もおかしいことはありませんか?」彼はまじめな調子でリザヴィータ・プロコフィーヴナに尋ねたが、急に、考え込んでしまった。やがて一分もたつと頭をあげて、一心にきょろきょろと一同の中を捜し始めた。
彼は右手のすぐそばの以前の場所に立っているエヴゲニイ・パーヴロヴィッチを捜していたのである。彼はそれを忘れてあたりを捜しているのであった。「あ、あなたはまだいたんですか!」と彼はついに捜し出した。「あなたはさっき、僕が窓のところで十五分ばかりしゃべろうとしていたのを、しきりに笑っていましたね……あのね、僕は十八の子供じゃないんですよ、僕は長いこと枕の上に寝続けて、永い間その窓の外を眺めて、長いこと考えていたのです……あらゆることを……あの……。死人には年がないってことを、あなたは御存じでしょうね。僕は先週、夜中にふと眼がさめたとき、そんなことを考えたのです……。あなたは何を最も恐れているのか、御自分でおわかりですか? あなたは僕らを軽蔑していらっしゃるけれど、僕らの誠実なのを何よりもいちばん恐れていらっしゃるんですよ! 僕はそのこともやはりその晩、寝ていて考えたのです……ねえ、リザヴィータ・プロコフィーヴナさん、僕がさっきあなたのことを笑おうとしたなんて、そんなことを考えていらっしゃるんですか? いいえ、僕はあなたのことを笑ったりなんかしません、ただあなたを讃美しようと思ったのです……コォリャが言っていましたが、公爵があなたを子供だっておっしゃったそうですね……それは大出来です……そうだ、ええと、僕はどうしたんだろう……まだ何か言いたいことがあったんだけど……」彼は両手で顔をおおって考え込んだ。
「あ、そうだ、さっき、あなたが、さようならっておっしゃったとき、ああ、ここにこんな人たちがいるが、みんなやがては亡くなってしまう、永久に亡くなってしまう! こんなことを僕は不意に考えたのです。それからこの木立ちもやはり同じことだ、――あとには煉瓦《れんが》の壁が……僕の窓のま向かいにある……マイエルの家の赤い壁ばかり、……さあ、あの連中にこんなことをすっかり言ってみろ……試しに言ってみろ。ほら、美人がいる……それなのに、おまえは死人じゃないか、死人だと言って自己紹介をしろ、『死人はなんでも言えるんだ』ってそう言ってみろ……公爵夫人マリヤ・アレクセーヴナはとがめはなさるまいって、そう言え、は、は!……あなたがたは笑っているんじゃありませんか?」彼はいぶかしげに周囲を見回した。「あのね、寝ていると、いろんな考えが浮かぶんですよ……それで、僕は自然は皮肉なものだと確信したのです……あなたは先刻、僕のことを無神論者だとおっしゃいましたねえ、ところがこの自然は……なんだってあなたがたはまた笑うんです? あなたがたは恐ろしく残酷ですねえ!」と彼は周囲を見回しながら、突然、悲しそうな憤りの声をあげた。「僕はコォリャを堕落させはしなかったですよ」不意に思い出したように、今までと全く違ったまじめな自信ありげな調子で彼はことばを結んだ。
「誰一人、ここでおまえさんを笑ってる人はいないんだから、気を落ち着けなさい!」とリザヴィータ・プロコフィーヴナはほとんど悩ましそうに言った。「明日は新しいお医者さんが来ますよ。前の医者は診察を誤ってたのです。さあ、かけなさい、足もとがふらふらしてるじゃないの! うわごとばかり言ってて……ああ、この人をいったいどうしたらいいんでしょう!」と彼女は、はらはらしながら彼を安楽椅子に坐らせた。
彼女の頬にはかすかな涙が光った。
イッポリットは胸を打たれたように立ち止まって、片手をおずおずと差し伸ばし、この涙にさわった。彼はどことなく子供らしいほほえみを浮かべた。
「僕は……あなたのことを……」と彼は嬉しそうに言いだした。「あなたはおわかりにはなりますまいが、どれほど僕があなたのことを……この人はいつも僕にあなたのことを夢中になって話して聞かせたんです、ほら、この人、コォリャです……僕はこの人が夢中になるのが好きでたまらないんです。僕はこの人を堕落なんかさせやしませんでした……僕はこの人をあとに残して行かなければなりません……僕はみんなを打っちゃって行こうと思っていました、――けれど、そんな人は一人もいませんでした、誰もいなかったのです……僕は事業家になりたいと思いました。僕はその権利をもっていました……ああ、僕はなんていろんなことを望んだのでしょう! 僕は今ではもう何も望みません、何も望もうとは思いません、僕はもう何も望まないと自分の心に誓ったのです。僕なんかいなくたって、他の人が真理を探求してくれるでしょう! それにしても、自然は皮肉なものだ! なんだって自然は」彼は急に興奮してことばをついだ、「なんだって自然はあとになって冷笑を浴びせかけるつもりで、最も優れたものを創り出すのでしょうね? 自然はこの世において完全なものと認められる唯一の人間をつくった……そういう人間を人に示しておきながら、流血の惨事をひき起こすようなことを必ず口にするようにその人間を運命づけているのです。しかも、もしその血が一時にほとばしり流れたならば、人々はきっとむせびかえることでしょう! ああ、僕が死ぬのはいいことなんだ! 僕もまた生きていたら、おそらく何か恐ろしい嘘を言うに違いありません、自然がそんな風にしむけるでしょう!……僕は誰も堕落なんかさせやしませんでした……僕はただあらゆる人の幸福のために、真理の発見と普及のために生きていたかったのです……僕は窓からマイエルの壁を眺め、ほんの十五分間ばかり話をして、あらゆる人を説き伏せようと考えました。そして一生にただ一度、共鳴しました……それもあらゆる人とではなく、あなたとでした! いったい、何の得るところがあったか? 何もありません! ただあなたに軽蔑されることになっただけです! つまり、僕はばかなんです、つまり、よけい者です、つまり、潮時が来たわけです! しかも何一つ思い出となるようなことも残すことができなかった! 音もなく、足跡もなく、何一つ成しとげた事もなく、何か一つの信念を普及することもなく!……このばか者を笑わないでください! 忘れてください! 何もかも忘れてください……後生ですから忘れてください、そんなに残酷にならないでください! 実はねえ、僕はこんな肺病患者にならなかったら、自殺でもしていたはずですよ……」
彼はもっといろんなことが言いたそうであったが、言いきらずに安楽椅子にどっかと身を投げ出し、両手で顔をおおったまま、小さな子供のように声を立てて泣きだした。
「まあ、いったい、この人をどうしろっておっしゃるんですか!」リザヴィータ・プロコフィーヴナはこう叫んで、彼の傍に駆け寄り、頭に手をかけて、しっかりと自分の胸に抱きしめた。彼はしゃくりあげてすすり泣くのであった。「さあ、さあ! もう泣くのはおよし、もうたくさんだよ、おまえさんは本当にいい子なんだよ、神様もお許しになりますよ。おまえさんは無学なんだから。さあ、結構、男らしくなさい、……それにおまえさんはずかしくなりますよ……」
「僕はあそこにね」とイッポリットは一生懸命に頭をもたげようとしながら言いだした。「弟と妹たちがいるんです、まだ小っちゃくって、可哀そうな、無邪気な子供たちです……あの女《ひと》がこの子たちを堕落させるんです! 聖母《マドンナ》のようなあなたは……御自分がまだ子供なんですから、――あの子たちを救ってやってください! あの……あの女《ひと》の手からひったくってやってください……あの女《ひと》は……はずかしい……ああ、あの子たちを助けてください、助けてやってください、神様が百倍にして御恩は返してくださるでしょう、お願いですから、後生ですから!……」
「もうなんとかおっしゃってください、イワン・フョードロヴィッチ、いったいどうしたらいいんです!」と、たまりかねたようにリザヴィータ・プロコフィーヴナは叫んだ。「後生ですから、そのしかつめらしい沈黙《だんまり》はよしてください! あなたがなんとか決めてくださらなければ、わたしはここで夜を明かしますから、それは承知してください、あなたはずいぶん得手勝手な権力をふり回してわたしをひどい目にあわせました!」
リザヴィータ・プロコフィーヴナは興奮して夢中になり、待ったなしの返事を待ち設けていた。しかし、こうした場合(よし人数は多くとも)、その場に居合わす者は、かかり合いになることを恐れて、たいていは、沈黙と逃げ腰の好奇心をもって応酬しておいて、あとになってからはじめて自分の考えを述べるものである。この場に居合わせた人たちの中には、ひと言も口をきかずに、朝まででも、じっとそのまま坐り込んでいそうな連中もあった。たとえば、ワルワーラ・アルダリオノヴナである。彼女はこの晩、少し離れたところに坐り続けたまま、ずっと沈黙を守って、異常な好奇心をいだきながら、ただひたすらに耳を傾けていた。しかし、それにもおそらく何か因縁があるのかもしれない。
「おお、僕の意見はだな」と将軍は口を切った。「今さしあたって必要なことといえば、われわれが騒ぎ立てることではなくて、いわばむしろ看護人なんだがな。それも気のつく落ち着いた人が泊っててくれるとありがたいんだが。それにしてもともかく、公爵と相談して……さっそく安静にしてやらなければ……。明日になったら、またなんとかお話に乗ってもいいだろう」
「あ、もう十二時だ、さあ出かけよう。イッポリットは僕らといっしょに行くんですか、あなたの所へ残るんですか?」ドクトレンコは気短かに、いらだたしそうに公爵のほうを向いた。
「よろしかったら、あなたがたも残ってはいかがです」と公爵は言った。「場所はありますから」
「閣下!」思いがけなくもケルレル君がこう言って、感激したように将軍の傍へ駆け寄って来た。「今晩の看病に適当な人間が必要でございましたら、僕は友人のためにいさぎよく犠牲になりましょう……あの男は実に気だてのいいやつです! 閣下、僕はかなり前からあの男を傑《えら》い人間だと思って尊敬しております! もちろん、僕は教養の点では浅い人間です。しかし、この男のほうは何か批評でもさしたら、まさに真珠です。一言一句これみな真珠のこぼれ散る感があります、閣下!……」
将軍はがっかりしたように顔をそむけた。
「どうしたって汽車に乗れるわけはありませんから、あの人に泊っていただけるのはたいへん嬉しいです」リザヴィータ・プロコフィーヴナのいらだたしい問いに答えて公爵はこう説明した。
「まあ、おまえさんは居眠りでもしているんじゃないの? あんたがいやだって言うのなら、公爵はわたしが家へ連れてゆきますよ! まあ、この人までが倒れそうになってる! あんたはあんばいでも悪いの?」
リザヴィータ・プロコフィーヴナはさっき公爵が瀕死の病床に臥《ふ》していないのを見た時、その顔つきから察して、公爵の健康をあまりよいほうへ誇張して考え過ぎたのである。しかし、ついさきほどまでの病気、それにつきまとう重苦しい回想、今宵の数々の気苦労から来た疲労、『パヴリシチェフの息《むすこ》』事件、今のイッポリットの事件、――こうしたすべてのことがいっしょになって、病的な公爵の感受性を、ほとんど熱病的な状態にまで駆り立てたのである。しかも、そのうえに、今、公爵の眸《ひとみ》の中にはまだ何か別な懸念、むしろ危惧の念ともいうべきものが浮かんでいた。公爵はイッポリットが何かやりだしはしないかと恐れるように、おずおずと彼を眺めた。
にわかにイッポリットは立ち上がった。その顔はゆがんで、ものすごいほどに青ざめ、絶望に近い羞恥の色が漂っていた。これは主として、憎々しげに臆病そうに一座の人々を眺める眸と、わなわな震える唇のうえをはい回る弱々しいゆがんだ微笑に現われるのであった。彼はすぐに伏し目になって、ほほえみを浮かべたまま、露台《テラス》の出口のわきに立っているブルドフスキイとドクトレンコのほうへふらふらと近づいて行った。彼はこの人たちといっしょに帰るつもりなのである。
「あ、これだ、僕が危ぶんでいたのは!」公爵は叫んだ。「てっきりこんなことだろうと思って!」
イッポリットは狂気じみた憎悪を浮かべていきなり彼のほうをふり返った。その顔の筋肉がことごとく震えながら物を言っているように思われた。
「ああ、あんたはこれを危ぶんでいたんですって! あんたが『てっきりこんなことだろうと思った』んですって! 実はね、僕がここで誰かを憎んでいるとすれば」と彼は口角泡を飛ばして声をからしながら金切り声でわめき立てた。「(僕はあなたがたをみんな憎んでるけれど)、それは、あんたなんですよ。面かぶりの、口先のうまい人間、白痴《ばか》の、百万長者の慈善家のあんたを、世界じゅうの誰よりも最も憎んでるんです! 僕はあんたの噂を聞いていた時分から、ちゃんとあんたって人間がわかっていたんです。そして憎んでいたんですよ。心の中のありったけの憎悪を傾けて憎んでいたんです。……今夜のことも、あんたのたくらんだことです! あんたが僕に発作が起きるほどにしたんです! あんたは死にかかっている人間に恥をかかした! 僕のさっきのばかげたふるまいも、あんたの罪です! 僕が死なないで生きているのだったら、あなたを殺してやる! あんたのお慈悲なんぞ、欲しくもありません。そんなものは誰からももらいやしません。いいですか、誰からも何一つもらいはしませんよ! 僕はさっきは熱で夢中になっていたんだから、あんたがたは今になって威張ることなんぞはできないんですよ!……僕はあんたがたを、永久に呪《のろ》ってやります!」
ここまで来ると、彼はすっかり息が切れてしまった。
「泣いたのがはずかしくなったんですよ!」とレーベジェフはリザヴィータ・プロコフィーヴナにささやいた。「『てっきりこんなことだろうと思った』なんて、これはこれは公爵、なかなかの慧眼《けいがん》ですね……」
しかし、リザヴィータ・プロコフィーヴナは彼に一瞥《いちべつ》さえも与えなかった。彼女は突っ立ったまま、傲然《ごうぜん》と身をそらして、頭を後にぐっと引いて、軽蔑を含んだ物好きそうなまなざしで、『この連中』を眺めていた。イッポリットのことばが切れた時、将軍はちょっと両肩を揺り上げたが、彼女は腹立たしげに、いったい、そのしぐさはなんということです? ととがめ立てるような風をして、将軍の頭の先から足の先までじろりとにらめまわした。が、すぐに彼女は公爵のほうに開きなおって、
「公爵、家《うち》の風変わりな仲よしさん、結構な一晩を過ごさしてくだすって、どうもありがとう。たぶん、わたしたちを、うまうまと、こんなばか騒ぎに引きずり込んでやったと思って、とても嬉しいでしょうね……だけど、もうたくさんよ、どうもありがとう、せめて、わたしに自分というものをよく見さしてくだすったことだけでもかたじけない次第ですわ!……」
言い終わると、彼女はぷりぷりしながら、自分の小さなマントをなおし始めた。『あの連中』の帰ってしまうのを待っていたのである。間もなく、十五分ばかり前に、ドクトレンコがレーベジェフの倅《せがれ》の中学生を呼びにやっておいた辻馬車が、『連中』のところへやって来た。将軍も夫人のあとをうけて、さっそく、くちばしを容れた。
「公爵、僕は実際、全く思いもよらなかったですよ……なにしろ、ああして親密な御交際を願っていたあとですからねえ……それに、とうとう、リザヴィータ・プロコフィーヴナも……」
「まあ、どうして、まあ、こんなことになったんでしょうね!」と叫んで、アデライーダはすばやく公爵に近づいて、握手を求めた。
公爵は途方に暮れたように彼女にほほえみかけた。とたんに炎のように性急な、早口なささやきが彼の耳を焼きつけたような気がした。
「もし今すぐにでも、あなたがこの汚らわしい連中を振りすててしまわなければ、わたしは生涯、一生涯、あなた一人を憎み続けます!」アグラーヤのささやきであった。
彼女はわれを忘れているようであったが、公爵に顔を見る暇も与えず、すばやく身を翻してしまった。しかし、病人のイッポリットはどうにかこうにかしてみんなが辻馬車に乗せ込んでしまったので、公爵にとってはいまさら振りすてる人もいなければ、振りすてる物もなかった。
「どうでしょう、イワン・フョードロヴィッチ、まだこんなことが長く続くんでしょうか? あなたはどうお考えですの? まだこの先長く、あんな憎たらしい小僧どもにやきもきさせられるんでしょうか?」
「いや、おまえ、……もちろん、わしも覚悟はしているし……公爵だって……」
イワン・フョードロヴィッチも公爵に手を差し出したが、握る暇もなく、ぷんぷんしながら騒々しい物音を立ててテラスを下って行ったリザヴィータ・プロコフィーヴナのあとを追って駆け出した。アデライーダとその婚約の男、それにアレクサンドラなどは、愛嬌を見せて心から公爵に別れを告げた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチもその中の一人であった。彼は一人で愉快そうにしていた。
「筋書どおりでしたね! ただあなたまでが可哀そうに、つらい目に会ったのはお気の毒でした」と彼は実に愛くるしい微笑を浮かべてささやいた。
アグラーヤは別れも告げずに帰って行った。
しかし、この夜の出来事はこれだけでは済まなかった。リザヴィータ・プロコフィーヴナはさらに一人、全く思いがけない人と邂逅《かいこう》して、苦しい思いを忍ばなければならなかった。
彼女がまだ階段をおりて往来(公園の周囲を取り巻いている)へおりきらぬうちに、二頭の白馬に引かせたまばゆいばかりにすばらしい馬車――幌馬車《ほろばしゃ》が不意に公爵の別荘の傍を駆け抜けた。馬車の中には二人のあでやかな貴婦人が坐っていた。しかし、十歩とも駆け抜けないうちに、馬車はぴたりと止まった。婦人の一人はまさしく、どうしても見過ごしならぬ人の姿を眼にとめたかのようにすばやく後ろをふり返った。
「エヴゲニイ・パーヴロヴィッチ! あんただったの?」と不意に透き通るような美しい声が響いた。この声を聞いて身震いしたのは公爵のほかにもう一人あったらしい。「まあ、わたしすっかり嬉しくなっちゃったわ、とうとう捜し当てた! わたしあんたのためにわざわざ町に使いをやったのよ、二人! 一日じゅうあんたを捜していたんだわ!」
エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは雷に打たれたように、階段の中途に立ち止まってしまった。リザヴィータ・プロコフィーヴナもその場にじっとたたずんでいたが、それはエヴゲニイ・パーヴロヴィッチのように恐ろしさに茫然としたのではなかった。彼女は五分間前、『あの連中』をにらみつけたときと同じように、傲然としてひややかな軽蔑の眼で、この傍若無人な女を見つめたが、たちまちその落ち着き払った眸をエヴゲニイのほうへ移した。
「ずいぶんお久しぶりだわね!」と透き通るような声が続いた。「クプフェロフの手形のことは安心していらっしゃい。わたしが説き伏せてラゴージンに三万ルーブルで買わせましたから。三か月の間は安心できてよ。それからビスクープやらそのほかのやくざ者のほうは、知り合いの間柄だからきっとうまくゆくでしょうよ! まあ、ざっとこんな風に万事がうまくいったの! じゃ、御機嫌よう。明日また!」
幌馬車は動きだし、間もなく消えうせた。
「あれは気ちがいだ!」憤りのあまり顔を赤くして、いぶかしげに周囲を見回しながら、やっとのことでエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは叫んだ。「あの女の言うことは少しもわからない! 手形って何だろう! いったい、あの女は何者だろう!」
リザヴィータ・プロコフィーヴナはまだ二秒ばかりじっと彼を見つめていたが、急に身を翻して自分の別荘のほうへ歩きだした。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは、ちょうど一分してから、ひどく興奮の態《てい》で、公爵の立っているテラスへ引き返して来た。
「公爵、あなたは本当に、今のは何のことだかおわかりになりませんか?」
「さっぱりわかりません」と公爵は答えたが、自分の心もなみなみならぬ病的な緊張を続けていた。
「ほんと?」
「ええ」
「僕もわからないのです」と言ってエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは不意に笑いだした。
「ほんとに、あの手形とかなんとかには少しも関係がないんです、ええ、けっして嘘じゃありません!……あ、あなたはどうなさいました、気でも狂いそうじゃありませんか?」
「おお、いや、いや、大丈夫です、けっして……」
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十一
ようやく三日目になって、エパンチン家の人々の機嫌がなおった。
公爵はいつものように多くの点で自分を責め、罰せられることは心の底から覚悟をしていた。それにしても初めはリザヴィータ・プロコフィーヴナが本当に腹を立てはしない、むしろ彼女は自分で自分に腹を立てたのだと堅く信じていた。このように確執の期間が長びいたので、三日目になると公爵はきわめて陰鬱な袋小路にでも踏み込んでしまったかのような気持になった。それは種々の事情のためではあろうが、わけても一つのことがおもなる原因となったのである。それがこの三日間に公爵の猜疑心《さいぎしん》のうちにだんだんと枝を広げていった(公爵は、ついこの間から、二つの相反した性癖のために、自分をとがめていた。それは人並みはずれた『お話にならないほど執拗な』信頼心と、またそれと同時に、『暗鬱で愚劣な』猜疑心とであった)。要するに、幌馬車の中からエヴゲニイ・パーヴロヴィッチに話しかけた、あの奇矯な婦人の件が三日目ごろになって気味の悪い謎のように、彼の心の中に広がっていったのである。この事件の他の方面にはまず触れないことにして、この謎の本体は、この新たな『奇妙な出来事』について自分にたしかに罪があるのであろうか、あるいはただ単に……という公爵自身にとっての痛ましい疑問であった。公爵は自分以外の誰がこの事件に罪があるのか、言いきらなかった。N・F・Bの文字については、あれはただ無邪気ないたずら、というよりはむしろ、子供らしいいたずらでこれについて何かと考えめぐらすのははずかしいことである、むしろある点から見ればほとんど恥知らずのすることである、と公爵は考えていたのである。
とはいえ、自分が主なる『原因』となって乱痴気さわぎをひき起こした汚らわしい『晩』のあくる朝、公爵はS公爵とアデライーダとの来訪に接した。二人は『|主として《ヽヽヽヽ》公爵のからだの調子を聞くために』二人きりの散歩のついでに立ち寄ったのである。その前にアデライーダは公園で一本の樹を見つけた。長い曲がりくねった枝がこんもりと茂って、新緑に燃え、幹には洞《ほこら》や裂け目のある、珍らしい老樹であった。彼女はぜひともそれを描いてみようと考えた! ほとんどこの話だけで訪問のまる半時間ばかりを過ごしてしまった。S公爵は、いつものように愛想よく優しく公爵に以前のことを尋ねたり、二人がはじめて近づきになった当時を思い出したりした。こういうぐあいで、昨晩のことはひと言も話題にのぼらなかった。しかし、ついにアデライーダはたまりかねて、ほほえみながら、実は二人とも incognito《こっそりと》 来たのだと告白した。告白はそれだけで終わったが、しかし incognito《こっそりと》 来たということから察しても両親、ことにリザヴィータ・プロコフィーヴナが、何かしら特に不機嫌でいることがわかった。
夫人のことはもちろん、アグラーヤのことも、将軍のことさえも、アデライーダとS公爵はここへ来て一言も話さなかった。そしてまた散歩に出かけて行く時にも、公爵にいっしょに行こうとは言わなかった。自分の家に来るようになどとほのめかしさえもしなかった。このことについては、アデライーダがきわめて異色のある一言をもらした。自作のある水彩画のことに話が及んだ時、彼女はいきなりそれを公爵に見せたいと言いだした。『どうしたら早くお目にかけられるでしょうね? ああ、そうだわ! コォリャがもし今日やって来ましたら、持たせてよこしましょう、でなければ、明日またわたしがS公爵とお散歩に出るとき、持ってまいりましょう』と彼女は決めたが、今までの危惧の念を誰にも都合のいいように、うまく解決ができたのを喜んでいた。たいへん嬉しそうであった。最後に、別れの挨拶もほとんど済んだ時になってS公爵はふと思い出して、「あ、そうだった」と聞いた。「ねえ、レフ・ニコライヴィッチさん、ゆうべ馬車の中からエヴゲニイ・パーヴロヴィッチに声をかけた婦人は誰だか御存じありませんか?」
「あれは、ナスターシャ・フィリッポヴナです」と公爵は言った。「いったい、あなたは今まで、あの人が誰だか御存じなかったんですか? しかし、いっしょに乗っていたのは誰だか存じません」
「噂で知っています!」と、公爵は相手のことばを受けて、「しかし、あの女《ひと》がどなったことは何の意味でしょう。正直のところを言いますと、あれは私にとっても、他の人たちにとっても大きな謎なんですよ」
S公爵は眼に見えるほど激しく驚いている様子であった。
「あの女《ひと》は何かエヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんが出したあの手形のことを言っていたんです」と公爵はきわめて簡単に答えた。「それがどこかの高利貸しの手にはいっていたのを、ラゴージンがあの女《ひと》に頼まれて引き取って、エヴゲニイさんのために延期してやることになったと言ったのでしょう」
「ねえ、公爵、それは聞きましたよ、それは聞きましたがね、しかし、いったいそんなことってあるものでしょうか? エヴゲニイ・パーヴロヴィッチが手形なんか出すはずはないじゃありませんか! あれだけの財産家なんですからね……以前のうわ気のせいで、そんなことになって、私が引き取ってやったこともあります……しかし、あれだけの財産家なのに、高利貸しに手形を渡して、それがために心配しなければならないなんて――ありようはずがありません。それにあの男がナスターシャ・フィリッポヴナさんと、『あんた』なんかっていう口をきき合うほど親しい間柄にあるということもあり得ないことです。――まあ謎っていうのは主としてこのことです。あの男はさっぱりわけがわからないと言っていますが、私はそれを信じます。ところで公爵、私があなたにお尋ねしたいのは、このことで何かお耳にはいったことはないでしょうか? つまり何かの風の吹きまわしで、せめて、あなたのところへでも、噂が伝わってやしないかと思ったのです」
「いいえ、何も存じません、本当に、僕はこのことにはなんの関係もないのですよ」
「ああ、公爵、あなたはどうなすったんです! 今日はなんだかいつもと違った人のようですね。あなたがこんな事件に関係があるなんてはたして、そんなことを僕が想像できるもんですか?……まあ、今日はおかげんが悪いんですね」と言って彼は公爵を抱いて接吻した。
「つまり、『こんな』事件に関係があるって、いったいどんな事件なんです? 僕には『こんな』事件なんてものは、少しもさっぱりわかりません」
「たしかに、あの婦人は、他人のいる前で、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチの持ってもいないし、また持つこともできないような性質を押しつけて、何かあの男の妨害をしようと思ったのに違いありません」とS公爵はかなり無愛想に言った。
レフ・ニコライヴィッチ公爵はどぎまぎした。しかしそのまま、いぶかしげに相手の顔を眺めていた。が、相手もまた黙りこんでしまった。
「でも、あれはただ手形だけのことじゃないでしょうか? ゆうべのことは、文字どおりに考えていいんじゃないでしょうか?」公爵はついに、なんだかたまらなくなったというような様子でこうつぶやいた。
「だから私が言ってるじゃありませんか、お自分でよく考えてごらんなさい。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチと……あの女と、そのうえラゴージンとの間に、いったい、どんな関係があるものですか? ようござんすか、も一度言っておきますが、あの男の財産はすばらしいものですよ。私にはよくわかっています。まだそのほかに伯父さんからも別に財産を譲りうけることになってますしね。ただナスターシャ・フィリッポヴナが……」
S公爵は不意に再び黙りこんでしまった。彼は明らかに、公爵に向かってナスターシャ・フィリッポヴナのことを話すのがいやだかららしかった。
「してみると、いずれにしても、あの人はエヴゲニイさんの知り合いというわけですね」ほんの一分間ばかり口をつぐんでいたムィシキン公爵は不意にこう尋ねた。
「それはどうもそうらしいんです、なにしろうわ気な男ですからね! しかし、それが実際だとしたら、かなり以前のことでしょう、まだあの以前、つまり、二、三年も前のことでしょう。あの男はトーツキイとも知り合いの仲なんですからね。それにしても現在あんなようなことはけっしてあるわけはないんです。『あんた』なんかって呼ぶわけはないはずです! あなたも御存じのとおり、あの女はずっと、こちらにはいなかったんです。どこにもいなかったんですよ。またあの女が姿を現わしたってことは、たいていの人がまだ知らないはずです。私があの馬車に気がついたのは三日ほど前のことで、けっしてそれより前のことじゃありません」
「見事な馬車ですわね!」とアデライーダが言った。
「ええ、見事な馬車です」
二人は立ち去ったが、しかも二人はレフ・ニコライヴィッチ公爵に対しては、きわめて親しい、打ちとけた、好意ともいうべきものを寄せていた。
この小説の主人公にとって、この訪問は非常に高価なともいえる何ものかを含んでいた。公爵が昨夜以来(あるいはもっと以前からかもしれないが)いろんな疑惑を重ねたと仮定しても、この訪問をうけるまでは自分の懸念を肯定する気にはなれなかったのである。しかし今はあらゆることがはっきりしてきた。もちろん、S公爵はこの事件の解釈を誤ってはいるが、それでもやはり事実の周囲をうろつきまわって、とにもかくにも、術策《ヽヽ》のあることを悟っているのである(『もっとも、心の中でははっきりと悟っているのかもしれないが、ただそれをはっきりと言いたくないために、強いて間違った解釈をくだしたのかもしれない』と公爵は考えた)。しかし、ここで何よりもはっきりしているのは、あの連中が(とりもなおさずS公爵が)何か事実をつきとめようとの下心で、自分のところへやって来たということである。まさしくそうだとすれば、きっと自分はたしかに共謀者だと認められているに相違ない。そのうえ、もしこれがそんな重大な事実であるとすれば、|あの女《ヽヽヽ》には恐れるべき目的があるに違いない。とすれば、どんな目的であろうか? 戦慄《せんりつ》すべきことだ!『それなら、どうして|あの女《ヽヽヽ》を思いとどまらせたらいいのであろう? |あの女《ヽヽヽ》が自分の狙いを定めたとなると、どうしても思いとどまらせることは不可能だ!』それはもう公爵が今までの経験でよく知っていることである。『まるで気ちがいだ! 気ちがいだ!』
しかし、この朝は、このほかにもさまざまな解決のつかないことがあまりに、あまりにも簇々《そうそう》と起こってきて、それがほとんど同時に、即決を迫るので、公爵はかなり憂鬱になっていた。多少とも気を紛らわしてくれたのはヴェーラ・レーベジェフであった。彼女は赤ん坊のリューボチカを抱いて来て、笑いながら長いこと何かしら話して行った。それと入れ代わりに妹が口をあけてやって来た、続いてレーベジェフの息《むすこ》の中学生が遊びに来て、父の講釈では、黙示録にある、この世の水上に隕《お》ちた『苦蓬星《にがよもぎぼし》』は、ヨーロッパじゅうに散布している鉄道網なのだそうだ、とこんなことを言っていった。公爵にはレーベジェフが、そんな講釈をするとは受けとれなかったので、今度いいおりを見て当人に会ってはっきり聞いてみようと考えた。ヴェーラ・レーベジェフから公爵が聞いたところでは、ケルレルが昨夜以来この家にはいり込んで、いろんな様子から見るのに、どうも当分は出て行きそうもないとのことであった。それはここにいい相棒を見つけたからで、将軍とはかなり親密な間柄になった。もっとも彼の言いぐさでは、自分の教養の補いをするために、ここに留まっているのだという。だいたいにおいてレーベジェフの子供たちはだんだんと日ごとに、公爵の気に入ってきた。コォリャは一日じゅう、家をあけていた。彼は朝早くからペテルブルグに出かけていたのである(レーベジェフもまた何か自分の用で出かけた)。しかし公爵は、今日必ず自分のところへ来なければならないことになっているガーニャの来訪を待ちこがれていた。
彼は午後六時過ぎ、食事を終えるとすぐにたずねて来た。公爵は彼を一目見て、この人は少なくとも事件の内容を正確に知っているに相違ない、それに、この人にはワルワーラ・アルダリオノヴナや、その亭主のプチーツィンのような立派な助手がついているのだから、どうしたって知らないはずはないと、そういう気がした、しかし、公爵とガーニャの関係は、いつも一種特別なものであった。たとえば、公爵は、彼にブルドフスキイの事件の処置を委任し、特にわざわざ彼に懇願したほどであった。ところが、これほど信頼を傾け、また以前の関係もあったのにもかかわらず、お互いに何も口にすまいと決めてでもいるような点が二、三、いつも二人の間に残っていたのである。しかし、公爵には時として、もしかしたらガーニャは自分のほうから進んで、最も打ちとけた友人としての真情を披瀝《ひれき》したいと望んでいるのではないかと、そう思われることもあった。たとえば、今も彼がはいって来るやいなや、今こそあらゆる点において、二人の間に張っている氷を打ち砕くべき時が来たのだとガーニャがきわめて強い信念をいだいているように思われるのであった(しかし、ガーニャはせかせかしていた。それは妹のワーリヤがレーベジェフのところに彼を待っていたからである。二人とも何かの用事で気がせいていた)。
それにしても、ガーニャが、公爵の性急な質問やふっと思わず口をついて出てくる報告や友情の吐露、そうしたものを期待していたとすれば、これはもちろん、彼の大きな思い違いである。この二十分の訪問の間、公爵はずっと深い物思いにさえも沈んでほとんど茫然としていた。したがってガーニャが待ちに待っていたかずかずの質問、というよりはむしろある重大な質問も、とても出ては来なかったのである。そこで、ガーニャはせいぜいしんぼうしてしゃべって行こうと決心した。そうしてこの二十分間というものは、彼は口を休める暇もなく、ほほえみを浮かべながら、きわめてあっさりした、たわいもないことを早口にしゃべり続けて、ついに肝腎かなめのことには触れずにしまった。
ガーニャは、話をしているうちに、ナスターシャ・フィリッポヴナはパヴロフスクに来てからまだ四日にしかならないのに、もうみんなから注目されているという話をした。彼女は、マトロフスカヤ通りにあるダーリヤ・アレクセーヴナのきわめて見すぼらしい小さな家に暮らしているが、彼女のもっている馬車はパヴロフスク一といってもいいくらい見事なものであった。彼女の周囲には、早くもあとをつけ回す老年青年が群れをなして集まり、ときには彼女の乗っている馬車に馬に乗ってお供をしている人もあるという。ナスターシャ・フィリッポヴナは以前のように、好き嫌いがはげしくて、よくよく選んだうえでなければ自分の傍へ近づけないことにしている、しかもそれでも彼女の周囲にはすでに一小隊くらいの人が集まっていて、いざという場合には十分その人たちで間に合うとのことであった。別荘暮らしの人の中で、もう正式の婚約ができているというある男は、ナスターシャのことがもとで、早くも自分の許嫁《いいなずけ》の娘と口論したとか、また、ある老将軍は自分の息子に向かって呪いのことばを浴びせかけんばかりのけんまくになったとか、噂はとりどりであった。彼女はよく一人の美しい、やっと十六になったくらいの少女といっしょに馬車を乗り回していた。この少女はダーリヤ・アレクセーヴナの遠縁の娘で、非常に唄がじょうずなので、この小さな家は毎晩、おもてを通る人が聞き耳を立てるという。それはそうと、ナスターシャ・フィリッポヴナはきわめてつつましやかに身を持して、衣裳も派手ごのみではなく、というよりはきわめて優れた趣味が現われているので、貴婦人たちは彼女の『趣味、美貌、幌馬車』を羨望《せんぼう》してやまないという。
「昨日の突拍子もないいざこざは」と、ガーニャは言った、「もちろん、前々からたくらんでいたことで、そのことは考慮に容れるわけにはゆきません。あの女に何か言いがかりをつけるには、強いて、あらを捜すか、それとも中傷するかしなければなりません。しかし、それもぐずぐずしていてはだめです」と言ってガーニャはことばを結んだ。彼は公爵がきっと、『どうして昨日のいざこざを前々からたくらんだことだなどと言うか、またなぜぐずぐずしていてはいけないのか?』と尋ねるだろうと当てにしていたのである。
しかも公爵はそのことについて何も聞かなかった。
エヴゲニイ・パーヴロヴィッチのことについては、ガーニャは別に何も尋ねられないのに長々と説明した。それもなんというきっかけもないのに、不意に言いだしたので、かなりに妙であった。ガーニャの意見では、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはナスターシャ・フィリッポヴナを以前も知らなかったし、今も彼女の顔をはっきり覚えているかどうかすこぶる怪しいとのことである。なぜというのに、四日ほど前、散歩に出かけたとき、ある人から彼女を紹介されて、連れといっしょにほんの一度その家へ立ち寄ったことがあるにすぎないからである。またあの手形のこともやはりありようはずのないことである(ガーニャはこのことをはっきり知っていた)。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチの財産が莫大なものであることはもちろんのことである。『もっとも領地のほうの多少の仕事が、事実、いくぶんか乱脈になってはいるが』と言って、この好奇心をあおる話題をガーニャは打ち切ってしまった。ナスターシャ・フィリッポヴナのことについては、前に少し述べたこと以外はひと言も口にはしなかった。やがて、ガーニャに続いてワルワーラ・アルダリオノヴナがはいって来た。彼女は一分間ばかり腰をおろしている間に(やはり尋ねられもしないのに)、こんなことを述べた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは今日か、あるいはことによったら明日のうちにペテルブルグへ行くはずで、自分の夫(イワン・ペトローヴィッチ・プチーツィン)も同じくエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの用件でペテルブルグへ行くはずである。実際、何か事件が起こったらしい、とこう言った。また彼女が帰りぎわに言い足したところによると、リザヴィータ・プロコフィーヴナは今日は非常に機嫌が悪く、何より不思議なことには、アグラーヤが家じゅうの人と口論したとのことである。それも父親や母親とばかりではなく、二人の姉たちとさえも口喧嘩をしたという。『これは全くよろしくないことですね』とワルワーラは言った。ほんの何気なく言った風に、この最後の事実(公爵にとってはきわめて意味深長な事実)を報告すると、この兄と妹は帰って行った。『パヴリシチェフの息』の件についてもまた、ガーネチカは一言も口をきかなかった。たぶん、表面だけの遠慮のためか、あるいは『公爵の胸中を不憫《ふびん》に思った』からであろうが。公爵はとにもかくにも彼の尽力によって事件がかたづいたことを改めて礼を述べたのであった。
やっとこれで一人きりにしてもらえたと、公爵は嬉しくてたまらなかった。彼は露台《テラス》をおりて通りを横切り、公園にはいった。いかにして最初の一歩を踏み出すべきか、ということをゆっくり考えて、決めたいと思ったからである。しかし、この『一歩』はとくと考えるべきものではなく、あっさりと決行すべきたぐいのものであった。彼はにわかに、こんなことを何もかも、振り切って、もとの道を引き返し、どこか遠い所へ行ってしまいたい、辺鄙《へんぴ》な片田舎へでも行ってしまいたい、誰にいとまごいするでもなく、今すぐにでも飛び出してしまいたいと激しい欲望に駆られた。わずか二、三日でもここにじっとしていたら、きっと抜き差しならぬように必ずこの世界へ永久に引きずりこまれてしまって、この世界が自分の将来にふりかかって来るだろう、とこう彼は予感した。しかし、ものの十分とも考えないうちに、彼は逃げ出すのは『不可能』だ、これはまずもって自分が小心なためだ、自分の眼の前に問題が控えているのに、それを解決しないのは、少なくとも、その解決のために全力を尽くそうとしないのは、今の自分のなすべきことではないと決めてしまった。こうした考えをいだいて彼は家に帰って来たが、十五分とも散歩はしていなかったのである。この時、彼は全く不幸な人間であった。
レーベジェフはまだ家に帰っていなかったので、夕方近くになってケルレルは首尾よく公爵のところへ闖入《ちんにゅう》して来た。彼は酔っ払ってはいなかったが、胸襟をひらいて告白を始めた。彼は公爵に向かって、明らさまに自分は自分の今までの経歴をすっかり公爵に物語るために来たので、パヴロフスクに残ったのもそれがためだと言った。この男を追い出すことはとても叶わぬことであった。どんなことがあろうとも出て行きそうにはなかった。ケルレルはあれやこれやと実に長々と、とりとめもなく話したそうであったが、やっと一言か二言言ったかと思うと、いきなり、結論へ一足飛びに飛んでしまって、自分は『あらゆる道徳の影』を見失って(これは一に上帝に対する不信心に基づいたことであるが)、果ては泥棒をさえもするようになったと告白した。
「こんなことは、あなたに想像がつくでしょう!」
「ねえ、ケルレル君、僕があんたの立場にいたら、むしろ特に必要もないのにそんな告白はしませんがね」と公爵は言いだしていた。「もっとも、あんたはことによったら強いて自分を中傷していられるのかもしれませんね」
「いや、このことは、あなたただ一人にだけですよ、ただ自分の発展を助けるためにと思って言うのです! 他人には言うべきことじゃありません。死ねばこの秘密は経帷子《きょうかたびら》の下に包んでゆきます! しかし、公爵、あなた御存じないでしょうが、とても御存じないでしょうが、現代において金をもうけることは非常にむずかしいですね! どこで金が手にはいるんです、失礼ですがお教え願いたいですねえ。いつも返事はただ一つです。『金かダイヤモンドを持って来い、それを抵当《かた》に金を貸してやろう』って。つまり、僕の持っていないものばかりです! あなたに、これが想像つきましょうか? 僕はついには腹が立って、いつまでもいつまでもじっと、立ってました。『エメラルドを抵当に貸してくれますか?』と聞くと、『エメラルドなら貸してやろう』『あ、そいつは結構だ』と言って、僕は帽子をかむって外へ出ました。ちぇっ、畜生あいつらは悪党だ! ええ、全く!」
「あなたはいったいエメラルドを持ってらっしゃったんですか?」
「どんなエメラルドを僕がもっているとおっしゃるんです! ああ、公爵、あなたはまだ明るく無邪気に、いわば田舎風に人生を見ていらっしゃる!」
ここに至って、公爵は、哀れというよりは、むしろ自分がはずかしくなってきた。彼の心に『誰かの立派な感化力によって、この人間を何かに育てあげることはできないかしら?』という考えが、ちらとひらめいた。しかし、自分の感化はある理由によってきわめて不適当だと考えた。――これは謙譲の念からではなくて、物に対する特別な見方によるのである。いよいよ二人の話は調子づいて来て、別れるのがいやなくらいになった。ケルレルはきわめて穏やかな気持で、こんなことがどうして話せるのか、想像さえもつかないようなことを告白した。新しい物語に移るたびに、彼は胸の中は『涙でいっぱいになっている』と強く念を押すのであった。それなのに彼の話しぶりは、自分のしたことを自慢でもしているような風で、それと同時にどうかすると、二人が気ちがいのように声をあげて笑いださずにはいられないほどおかしい話をした。
「あなたは何かしら子供のように人を信じやすい性質と、非常に誠実なところがありますが、それは大事ですよ」と公爵は最後に言った。「いいですか、あなたは、これだけでも実にたくさんの償いができるのですよ」
「僕は気高い、気高い、騎士のように気高いんです!」とケルレルは夢中になって相づちをうった。「しかし、ねえ、公爵、こんなことは、いっさい、心のなかで考えているだけのことで、つまり空威張りにすぎません。実際問題となるとけっしてこうはいかない! どうしてこうなんでしょう? わけがわからない」
「そう失望したもんじゃありません。今、あなたは自分の秘密をすっかり僕に打ち明けてくだすったと、はっきり断言できますね、少なくとも僕には、あなたが今お話しになったことへ、このうえもう付け加えることはできないようです。そうじゃありませんか?」
「できない?」どことなくあわれむような声でケルレルが叫んだ。「おお、公爵あなたはそんなにまで、いわば、スイス流に人間というものを理解なさるんですか」
「じゃ、まだ何か付け加えることがあるとでも言うんですか?」おずおずとした顔つきをして、公爵は驚いたようにこう言った。「それでは、君はいったい、僕から何を期待してたんですか、どうぞおっしゃってください。それから何のために僕のところに来て告白なんかなすったんです?」
「あなたから? 何を期待してたかって? まず第一に、あなたの淳朴な気持に接するだけでも楽しいのです。あなたと膝を交えて語るのは愉快です。少なくとも、今、僕の前にいるのは最も善良な人だってことがよくわかりますからね……それから第二には、……第二には……」
彼はことばに窮してしまった。
「たぶん、金を借りたいと思ったんでしょう?」と、公爵は非常にまじめで素朴な、いくぶん、臆病そうな調子でささやいた。
ケルレルは思わずぎくりとした。彼は以前のような驚きの様子を見せて、ちらりと公爵の眼をまともに眺めたが、すぐに拳でテーブルを強くたたいた。
「ああ、これだな、こんなぐあいに、あなたは人をどぎまぎさせるんですね! でも公爵、冗談じゃありませんよ、黄金時代にも聞いたことのないような、あんな淳朴な無邪気な様子をなさっているかと思うと、いきなりこんな深刻な心理観察の矢でもって人の心を突き通されるんですからねえ。だが、失礼ながら、これは説明を要します。すなわち、僕は……僕は……すっかり降参しました! もちろん、僕の目的は帰するところ金を借りることなんです。しかし、あなたが金のことを尋ねられた態度は、まるで、こんなことはとがむべきじゃない、それが当然のことだというような風でしたね」
「そう……あなたにしては、それが当然でしょう」
「憤慨なすってはいないんですか?」
「ええ……いったいどうして?」
「ねえ、公爵、僕が昨晩からここに居残っているのは、第一にフランスのブルダルゥ大僧正に深甚なる敬意を表するためなんです(レーベジェフのところで三時まで栓《せん》を抜きましたよ)。第二に(僕の言うことが嘘偽りのないってことは、あらゆる十字架にかけて誓います!)僕がここに残ったのは、あなたに心の底からすっかり告白して、自己の発展に役立たせようと考えたからです。僕はこうしたことを考えながら、涙を流して三時過ぎに眠りにつきました。僕がその時、このうえもなく高潔な気持だったことは信じてくださるでしょうね、心の奥底から、内面的にも、また外面的にも僕が涙に暮れながら(とうとうたまりかねて、僕は声をあげて泣いてしまったんです、僕ははっきり覚えていますよ!)、いよいよ寝つこうとした、その瞬間に、『ひとつ、あの男から金を借りることはできんだろうか、告白をしたあとで』という悪魔のような考えが浮かんできたのです。こんなわけで、僕は、いわば何かの『愁嘆場《しゅうたんば》』みたいに、告白の手はずを決めてしまったのです。つまり、涙で路を滑りよくしておいて、あなたに同情の念が動きだしたころあいに、百五十ルーブルほどせしめようと思ったのです。あなたのお考えではふつつかなことになりませんかね?」
「だって、それはきっと本当のことじゃないんでしょう、それは別のものと偶然にいっしょになったんでしょう。二つの考えがいっしょになる、それはよくあることです。僕はそれがしょっちゅうあるんです。それにしても、そんなことはよろしくないと思いますね。それに、ねえ、ケルレル君、僕は何よりこの点で自分を責めてるんですよ。あなたは、ちょうど、僕自身のことを話したみたいですね。僕は、どうかすると、こんなことを考えることさえあるんですよ」と、公爵は深い興味を覚えたかのように、非常にまじめに熱心な態度で語り続けた。「人間は誰でもみなそうなんだといって、自分の行為を是認しかかったりするんです。というのは、この二重《ヽヽ》な考えと闘うのは恐ろしく困難なのですからね。僕には経験がありますよ。こいつがどこからやって来るか、どうして生まれるのかさっぱりわかりません。しかしあなたは卑劣だときっぱり言われる! そう言われると僕もまた、この二重な考えが恐ろしくなってくる。だが、いずれにしても僕はあなたの裁判官じゃありませんよ。僕の考えるところでは、これをふつつかなことだと一言のもとに片付けるわけにはいきません。あなたはどう考えます? あなたは涙で金を引き出そうなどと奸計《かんけい》をめぐらした、しかし、それにしても君の告白の中にはほかに高潔な、金銭以外のものがあったと、あなたは現に自分の口で誓ったでしょう。さて、お金のことですが、道楽にいるんでしょう、え? それならば、あんな告白をしたあなたとしてはいうまでもなく、あさはかな考えですよ。しばらく道楽から身を退いてはどうです? これもだめですか。いったいどうしたらいいんでしょう。もうあなた自身の良心に任せる以外に方法はありませんね。あなたはどう考えます?」
公爵はなみなみならぬ好奇心をいだいてケルレルを眺めた。その様子から見ると、二重の考えの問題はかなり以前から彼の心をとらえていたものらしい。
「こんなあなたみたいな人を、どうして白痴《ばか》だなんて言うんだろう、さっぱりわからない!」と、ケルレルは叫んだ。
公爵は、かすかに顔を赤らめた。
「ブルダルゥ大僧正にしたところが、こんなやつを許しはしなかったでしょう。それなのに、あなたは僕を許して、人間的に裁いてくださった! 僕は自分に対する罰として、ならびに僕が感動したしるしとして百五十ルーブルはいりませんから、ただ二十五ルーブルだけください、それで十分です! それだけあれば、僕にとって少なくとも二週間は大丈夫です。二週間しないうちは、けっしてお金の無心になんぞ来ません。アガーシカの御機嫌をとろうと思ったんですが、あの女にそれだけの資格はありません。ああ、親愛なる公爵様、神よ、爾《おんみ》に祝福を与えさせたまえ!」
つい今、外から帰って来たばかりのレーベジェフが、とうとうはいって来た。そしてケルレルの握っている二十五ルーブル紙幣を見つけると、ちょっといやな顔をした。ところが、金を手に入れたケルレルは、そそくさと逃げ出して、まもなく姿を消した。レーベジェフはさっそく、彼のことを誹謗し始めた。
「あなたのおっしゃることは公平じゃありません。あの人は心から後悔しました」たまりかねて公爵はこう注意した。
「それにしても、そんな後悔なんかなんです? 昨晩、わたしが申しましたんと、まるで同じでございますよ!『ふつつか者だ、ふつつか者だ』と言ってても、それはほんの口先のことです!」
「じゃ、あなたが、あのように言ったのは、口先だけのことですか、僕はまた……」
「それでは、あなたお一人にだけほんとのことを申しましょう。あなたは人の心の底を見透しなさいますからね。ことばも、実行も、嘘も真実《まこと》も、私の心の中ではみんないっしょになっていて、みんな本当なんです。真実《まこと》と行為《おこない》は、心から後悔したときに出て来るものでござんす。本気になさろうとなさるまいと、それはかまいませんが、わたしはけっして嘘は申しませんよ。だが、嘘と口先は、なんとかして人をだましてやろう、後悔の涙で泣き落としてやろうと、まるで悪魔のような(誰にでもよくあることでござんすが)、考えを起こしたときに出て来るものです。いや、全くのところ、そういったようなぐあいなんですよ! 他の人間にはけっして言うことじゃなかったんです。言えば、笑うか唾《つば》を吐きかけるかするに決まっていますからね。だけども、公爵は人間的に裁いてくださいますんで……」
「これはまあ、あの人も、たった今、それとそっくりのことを言いましたよ」公爵は叫んだ。「それに、あなたがたは二人ともまるで自慢でもなさるような格好ですね! あなたがたには驚き入りますよ、あの人のほうがあなたよりずっと実直です。あなたのはすっかり商売みたいになってますからね。いや、もう結構、レーベジェフ君、そんな苦い顔をするのはおよしなさい。手を心臓のところへ当てるのはおよしなさい。何か僕に言いたいことがあるんじゃありませんか? わけもないのに来るはずもなし……」
レーベジェフは顔をゆがめて、からだをすくめた。
「僕は一つあなたに尋ねたいことがあって、一日じゅう、あなたの帰りを待っていたんですよ。ね、一生にたった一度のつもりで、最初から本当のことを言ってください。あなたは昨晩の馬車の一件に多少、関係があるんでしょう、それとも?」
レーベジェフはまたしても顔をゆがめて、ひひひと笑い声をもらして、手をもんだり、はてはくしゃみまでして見せたが、それでもまだなかなか口を切ろうとはしなかった。
「僕は関係があったとにらんでますよ」
「しかし、ほんの間接に、全くちょっと間接にかかり合っているだけで。わたしは実際、本当のことを申しておりますので。わたしが関係したというのが、つまり、ただわたくしの所へ今このような集まりがあって、その中には、これこれの人がおられますと、機会を見はからって、あのかたにお知らせしただけのことで」
「僕は、あなたが息子さんを『あそこ』へ使いにやったのを知っていますよ。ちゃんと本人からさっき聞いたんですから。しかしまあ、なんていう術策だろう!」と、公爵はたまりかねて叫んだ。
「それはわたくしの術策じゃござんせん、違います」と言って、レーベジェフは両手を振った。「ほかの人たちです、ほかの人たちです。それに、これは術策と申すよりは、むしろいわば幻想《ファンタジヤ》とでもいいますものなんで」
「だが、いったい、本当はどういうことなんです。お願いだから、説明してください。このことが僕に直接関係があるってことがあなたにはわからないんですか。それに、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんの顔へ泥を塗ってるじゃありませんか」
「公爵! 公爵様!」と言ってレーベジェフはまたもやからだをちぢめた。「あなたが本当のことをすっかり言わしてくださらないんじゃありませんか。実のところ、あなたに本当のことを申し上げようとしたのは一度や二度のことじゃございませんよ。それなのに、あなたはわたしの話をしまいまでお聞きにならなかったのです……」
公爵はしばらく口をつぐんで考え込んでいた。
「ではよろしい、本当のことを言ってください」と重々しい調子で言いだしたが、それまでに心の中ではかなりのいざこざがあったらしく見える。
「アグラーヤ・イワーノヴナさんが……」レーベジェフはさっそくやりだした。
「お黙んなさい、お黙んなさい!」と公爵は狂おしげな声で叫んだが、その顔は憤慨のためか、あるいは羞恥のためであろうか、まっかになった。「そんなことがあるわけはない。それはみんな出まかせです! それはみんなあんたが、さもなければあんたのような気ちがいが考え出したことです。僕はもうこれからけっして、あなたからそんなことは聞きませんから、そのつもりでいてください!」
その晩おそくなってから、もう十一時に近いころ、コォリャが新しいニュースをどっさり持って来た。このニュースにはペテルブルグに関するものと、パヴロフスクに関するものと二通りあった。コォリャはペテルブルグに関する話は、いずれあとでゆっくり話すことにして、大急ぎに概略だけを話した(これは主としてイッポリットと昨夜の事件についてであった)。それから続いて話はパヴロフスクのほうへ移っていった。彼は三時間ほど前にパヴロフスクへ帰り着いたのであるが、公爵の所へは寄らずに、そのままエパンチン家を訪れたのである。『ところがそこは恐ろしくごたついている』のであった。そのおもなる原因は、もちろん、昨晩の幌馬車であったが、そのほかに、まだ彼にも公爵にもわからないことが、何か起こったのに相違ないらしかった。『僕はもちろん、スパイじゃないんですから、誰にも探りを入れようなんてしなかったんです。しかし、僕が行ったらね、とても歓待してくれましたよ。本当に思いがけないくらい歓待してくれたんです。だけど、公爵、あなたの話はこれっぱかしも出ませんでしたよ』とコォリャは報告した。しかし、何より不思議で、また大事なことは、さっき、アグラーヤがガーニャの肩を持って、一家の人々と口論したことである。詳細な点は知ることもできないが、ガーニャの肩を持ったということだけは確かな事実であった(まあ、なんとしたことでしょう! とコォリャは言った)。それに、その口論もかなり激しかったのだから、何か大変なわけがあるに違いない。将軍は遅れて、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチといっしょにやって来た。将軍は不機嫌らしく苦い顔をしていたが、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはみんなから非常に歓待されて、恐ろしく陽気で愛想がよかった。最も価値のあるニュースはリザヴィータ・プロコフィーヴナがワルワーラ・アルダリオノヴナを追い出したということである。夫人は、令嬢たちのところに坐って話し込んでいるワルワーラを自分のそばに招いて、きわめて丁寧なことばづかいで、永久にこの家に足を踏み入れないようにと言い渡した。――『僕はワーリヤの口から聞いたんです』とコォリャは言った。しかもワーリヤがリザヴィータ・プロコフィーヴナのそばを離れて、令嬢たちに別れを告げた時、令嬢たちは、彼女が永久にこの家へ来てはならないと断わられていることも、これが最後のお別れだということも知らなかったのである。
「それにしても、ワルワーラ・アルダリオノヴナは七時ごろ僕のところへ来ていらしたんですがね?」と、公爵は驚いて尋ねた。
「だけど姉さんが追い出されたのは七時過ぎか八時ごろなんです。僕はワーリヤがとても可哀そうなんです、ガーニャも可哀そうです……二人は、いつもきっと、何か悪企みをしているに違いないんです。そんなことでもしなくちゃいられないんです。しかし、何を企んでいるんだかちっともわからない、またわかりたくもありません。だけど、公爵、僕は誓って言いますが、ガーニャには良心があります。あの人はもちろん、いろんな点から見て零落した人間ですけど、また多くの点で、捜したり見つけたりしてやるに足りる好い性質をもっています。僕は以前あの人がよく呑み込めなかったんですが、これは一生涯の恨みだと思っています、……つい今、ワーリヤのことをお話ししたあとで、僕がこの先を話し続けてもいいでしょうか、僕にはよくわかりません。実際、僕は初めから全く独立した立場にいるんですが、そうかといって考えないわけにはいきませんからね」
「君がそんなに兄さんを可哀そうがったって、どうにもならないじゃありませんか」と公爵は注意した。「事件がそんなにまでなっているのなら、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんはリザヴィータ・プロコフィーヴナさんの眼にもけんのんだと思われているんでしょう。だから、あの人の例の期待は是認されるわけになります」
「え、どんな期待です?」と、コォリャはびっくりして叫んだ。「あなたは、考えていらっしゃるんじゃありませんか、アグラーヤさんが……、そんなことはありようはずがありません!」
公爵は黙っていた。
「あなたはひどい懐疑派ですね、公爵」二分間ばかりしてコォリャはこう付け足した。「いつごろからですか、あなたがずいぶんひどい懐疑派になったような気がしてなりません。あなたは何もかも信じないで、いつも予想ばかりをするようになりましたね……けど、僕がこの場合『懐疑派』ってことばを使ったのは当たってるでしょうか?」
「当たってると思います。でも本当のところは自分でもわからないんですが」
「しかし、僕は自分のほうから『懐疑派』ってことばは取り消します。その代わり新しい説明を見つけました」とコォリャがいきなり叫んだ。「あなたは懐疑派でなくって、吝気屋《りんきや》です! あなたはあの偉そうなお嬢さんのことで、ガーニャのことを恐ろしく焼いていらっしゃる!」
こう言ったかと思うと、コォリャは飛び上がって、今までおそらくこんな笑い声は出たこともあるまいと思われるほど大きな声で笑いだした。公爵がまっかになったのを見ると、コォリャはいっそう大きな声を立てて笑いだした。公爵がアグラーヤのことで嫉妬しているという考えが、ひどくコォリャの気に入ったのである。しかし、公爵が心から悩んでいるのに気がつくと、彼はぴたりと笑いやめた。それから二人はきわめてまじめに、心配らしい様子で、一時間か一時間半ぐらい話し続けた。
あくる日、公爵は手放せない用件があって、午前中をペテルブルグに過ごした。パヴロフスクに帰って来たのは午後の四時過ぎであったが、途中の駅でイワン・フョードロヴィッチに出会った。こちらはいきなり、公爵の手を取って、戦々兢々としているらしく、あたりを見まわしてから、いっしょに帰ろうと言って、公爵を一等車へのほうへ引っぱって行った。彼はある重大な件についてよく相談をしたい、という希望に燃えていた。
「ねえ、公爵、まず第一に、僕を怒らないでくれたまえ。もし僕が何か悪いことでも言ったりしたら、そいつはきれいさっぱり忘れてくれたまえ。僕は昨晩、君のところをおたずねしようと思ったんだけれど、このことについてリザヴィータ・プロコフィーヴナが……どんな風だかわからなかったもんだから、……僕んとこは……まさに地獄さ。なんだか謎みたいなスフィンクスの住み家になってね。僕はうろうろして、何がなんだか、さっぱりわからないのさ。君のことについては、僕の考えでは、われわれの誰よりも君が最も罪が軽い。そりゃもちろん、君のことから、いろんな騒ぎも起こりはしたけれどね。どうだね、公爵、博愛家たることも愉快ではあろうが、しかしたいして愉快とも言えんね。実は僕自身も、もしかしたら、禁断の木の実を食べたほうかもしれないよ。僕はむろん、品位というものを好むから、したがってリザヴィータ・プロコフィーヴナさんをも尊敬しているわけなんだが、しかし……」
イワン将軍は、まだそれから長い間、こんな調子で話し続けていた。が、そのことばはあきれ返るほどとりとめのないことばかりであった。極端に不可解な何ものかのために動揺し、混乱している様子がありありと見えていた。
「君がこの一件になんのかかり合いもないことは僕の信じて疑わないところだ」と彼はやっとのことで、どうやら前より少し明瞭に語りだした。「しかし当分の間、僕の家をたずねないでくれたまえ、このさき風向きが変わるまではね、僕は打ち明けてお願いする。が、さて、あの、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチのことについては」と、彼はひとかたならぬ熱をこめて叫んだ。「あれは何の意味もない中傷だ、中傷も中傷、ひどい中傷だ! 讒謗《ざんぼう》だ、何か悪企みがあるんだ。何もかも打ちこわしてわれわれを喧嘩させるためにしたことだ。実はね、公爵、これは君にだけの話だがね、われわれとエヴゲニイ・パーヴロヴィッチとの間にはまだひとことも話は進んでいないんだよ、いいかね? われわれは何ものにも束縛されてはいない――しかし、このひと言は今に切り出されるかもしれない、もう近いうちに。こういうわけで、これを邪魔しようっていう計画なんだ! だが何のために、どうして――ということになると僕には呑み込めない。恐るべき女だ、何をしでかすやらわからんとっぴな女だ、僕は夜もろくろく眠れないほどあの女がこわい。それからあの馬車はどうだろう、白い馬、実にショックだ、実際あれこそフランス語で言うシックってやつだね。誰があの女に買ってやったんだろう。本当のことを言うとね、悪いことをしちゃったんだ、一昨日、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチに疑いをかけたのさ。しかし、そんなことのありようはずがないってことがわかった。もしもそんなことがないはずだとなると、何のためにあの女はこんな邪魔をするんだろう。ね、そうだったろう、まるで謎じゃないかね! あの女は自分の傍にエヴゲニイ・パーヴロヴィッチを引き寄せておきたいからな。しかし、もう一度くり返して言うけど、断じてエヴゲニイはあの女と知り合いじゃないんだ。それから、手形のことなんか――あれは全くのでたらめだ! よくあんなに往来ごしに『あんた』なんかってよくもずうずうしく言えたもんだ! 純然たる策謀だ! わかりきったことさ。軽蔑をもって否定すべきことであって、また、いっそうエヴゲニイを、尊敬させることになる。ばかげたことだ。僕はリザヴィータ・プロコフィーヴナにもそう言っておいた。さあ、今度は、僕のごく内々の気持を話してあげよう。僕の深く信ずるところでは、あの女はだね、以前の僕の行為に対して、個人的な復讐をしているんじゃあるまいかと思うんだよ。と言っても、あの女に対して悪いことをした覚えはないんだが、ただある一つのことを思い出して赤面しているところだ。さて、今になってまたあの女が姿を現わした。僕はもうすっかり消えてしまったものと思っていたのに。それはそうと、あのラゴージンはどこにいるんだね? 僕は|あの女《ヽヽヽ》はもうずっと前にラゴージン夫人になっているものとばかり思っていたんだが」
要するに、この人はひどく迷っていたのである。そして途中一時間ばかり彼はほとんど一人で話し続けて、いろんな質問を持ち出しては、自分でそれを解決し、ひっきりなしに公爵の手を握り締めた。そしてどんな事件であろうと、かりそめにも公爵に疑いをかけようなどとは思わないと、少なくともそのことについてばかり一心に公爵に誓うのであった。これは公爵にとっては重大なことであった。やがて最後には、将軍はペテルブルグのある役所の長官をしているエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの親身の伯父の話をした。「立派な地位にある人で、年は七十ほどになるが、あの道にかけてはなかなか達者なもので、食い道楽で、相当な苦労人なのさ……は、は! 僕はよく知ってるけど、この人がね、ナスターシャ・フィリッポヴナの噂を耳にして、釣ってやろうとずいぶん骨折ったものさ。さっき、ちょっと立ち寄ってみたが、気分が悪いとかということで面会できなかったが、ともかく金持ちだよ、すばらしく金持ちだよ、そのうえ、権威もあるし……まあ、どうか丈夫で長生きなされるように、いずれそのうちにはエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの手にはいるわけさ……しかし、やっぱり僕はこわいね! なんだかわからないがこわい……なんだか空中を翔《かけ》っているような気がする、なんだか蝙蝠《こうもり》みたいなものが、災難が飛んでいるみたいに、恐ろしい、恐ろしい!……」
かくてついに、すでに前にも述べておいたように、ようやく三日目にエパンチン家とレフ・ニコライヴィッチとの間に正式の和解が遂げられたのである。
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十二
午後の七時ごろ、公爵は公園へ出かけようとしている。そこへ突然、リザヴィータ・プロコフィーヴナが一人でテラスへはいって来た。
「|まず最初に《ヽヽヽヽヽ》言っておきますけれど」と、彼女は言いだした。「わたしがおわびに来たなんて、そんなずうずうしい考えはおこさないでちょうだい。冗談じゃないわ! 何もかも、あんたが悪いんですよ」
公爵は黙っていた。
「悪いでしょう、それとも悪くないの?」
「あなたとちょうどおんなじくらいに。もっとも、僕だって、あんただって、わざと悪いことをしたわけじゃありません。僕は一昨日《おとつい》は、自分が悪いんだと思っていましたが、今では、そんなことはないと考えるようになりました」
「ははあ、なるほどね! そんなら、ようござんす。話してあげますからお掛けなさい。わたしはここに突っ立っている気じゃありませんからね」
二人は腰をおろした。
「それから|第二には《ヽヽヽヽ》、あの意地悪の小僧っ子たちのことはひと言も口にしてはいけませんよ! わたしは十分間だけ坐って、あんたとお話しします。わたしは、あんたに聞きたいことがあって来たんですよ(いったいあんたはなんだと思って?)、それで、あの意地悪の小僧っ子たちのことをひと言でも言ったら、わたしはすぐに出て行きますからね、そしたら、もうきっぱり、あんたとは絶交です」
「いいです」と公爵は答えた。
「じゃ、伺いますけどね。あんたはふた月かふた月半くらい前、復活祭《バスハ》のころ、アグラーヤに手紙をやりまして?」
「ええ、やりました」
「何の目的があって? 手紙にはどんなことが書いてあって? 手紙を見してちょうだいな!」
リザヴィータ・プロコフィーヴナの眼は燃え輝やき、全身はいらだたしさのあまりほとんど身もだえせんばかりであった。
「僕んとこには手紙はありません」びっくりして、かなりにおじけづいて、公爵はこう答えた。「もし、しまってあるとすれば、アグラーヤさんのとこにあるはずです」
「お茶を濁すもんじゃありません! 何を書いたんです」
「僕は濁してなんかいませんし、何も恐れてはいません。僕が手紙を出してはならないっていう理由はないと思いますよ……」
「お黙んなさい! そんなことはあとでおっしゃい。手紙には何を書いてありました? なんだって赤くなるんです、そんなに?」
公爵はちょっと考え込んだ。
「リザヴィータ・プロコフィーヴナさん、僕にはあなたの思っていらっしゃることがわかりません。この手紙がたいへんあなたのお気にさわったことだけはわかりますけど。ようござんすか、僕はそんな質問にはお答えするのを御免こうむってもいいと思うんです。しかし、あの手紙のことを恐れてもいなければ、書いたことを後悔してもいないし、けっしてそのために赤くなったんでもないってことを証明するために(この時公爵は前よりもいっそう赤くなった)、僕はあなたにその手紙を読んで差し上げましょう。僕はたぶん、暗記してると思いますから」
こう言って、公爵は以前に書いた文面とほとんど一字一句も違わずにくり返した。
「なんてばかげた話だろう! あんたは、そんなばかげたことに何か意味でもあると思ってるんですか?」なみなみならぬ注意を傾けて聞き終えたリザヴィータ・プロコフィーヴナは、ことば鋭くこう聞いた。
「自分でもはっきりしたことはわかりませんが、僕の気持がまじめなものだということだけはわかります、あちらにいた時分、ふっとあふれるような生命力となみなみならぬ希望とを感ずるような時がありました」
「どんな希望です?」
「説明するのはむずかしいんですけれど、あなたが今、考えていられるのはたしかに違うでしょう。希望ってのは……そうですね、つまり、未来への希望で、自分も『あちら』ではまんざら他人でもなく、通りすがりの人間でもないだろうっていう嬉しい気持なんです。すると、僕は不意に、この故郷が好きになりました。あるまばゆいほど陽のさしている朝、僕はペンをとってアグラーヤさんに宛てて手紙を書いたのです。どうしてあのかたに宛てたのか――それは自分でもわかりません。どうかすると、人はそばに友だちがいてくれたらと思うことがあるでしょう。そんな風に僕も友だちが欲しくなったものとみえます……」しばらく黙ってていたあとで、彼はこう言い添えた。
「あんたは惚れたんじゃないの?」
「い、いいえ。僕は……僕は妹に宛てるような気持で書いたのです。だから、僕も兄よりと署名しておきました」
「ふむ、わざとなんでしょう。ちゃんとわかっていますよ」
「僕はそんなお尋ねにお答えするのは迷惑ですね、奥さん」
「迷惑なのはわかってます、ですけど、あなたが迷惑だろうがどうだろうが、そんなことは私の知ったことじゃありませんよ。よござんすか、神様の前に出たつもりで、本当のことを聞かしなさい。あんたは嘘を言ってるんですか、言ってないんですか?」
「嘘は言ってやしません」
「惚れていないっていうのは、本当のことですか?」
「ええ、本当みたいです」
「そら、あんたは『みたいです』なんて言うじゃありませんか! あの小僧っ子があれに手紙を渡したんですか?」
「僕はニコライ・アルダリオノヴィッチさんに頼みました……」
「小僧っ子ですよ! 小僧っ子ですとも!」と、リザヴィータ・プロコフィーヴナは、じれったそうに言い足した。「わたしはニコライ・アルダリオノヴィッチなんて、いったいどんな人間か、てんで知りません! 小僧っ子ですよ!」
「ニコライ・アルダリオノヴィッチですよ……」
「わたしは小僧っ子だって言ってるじゃありませんか!」
「いいえ、小僧っ子じゃありません、ニコライ・アルダリオノヴィッチです」かなり低い声ではあるが、厳然たる調子で、ついに公爵はこう答えた。
「え、ようござんすよ、あんた、ようござんすよ! 覚えてらっしゃい」
ちょっとの間、彼女は興奮を押さえてため息をついた。
「では、『貧しき騎士』ってのは何です?」
「いっこうに存じません、これは僕の知ったことじゃありません。何かの冗談でしょうよ」
「これは、案外おもしろいことを聞きますね! けど、本当にあの子はあんたに心をひかれたのかしら? だって、あの子は口で、あんたのことを『片輪』だの『白痴《ばか》』だのって自分で言ってたんですものね」
「僕にそんなことを聞かしてくださらなくってもいいのに」公爵はとがめるようではあるが、ほとんどつぶやくような声で、こう言った。
「怒っちゃいやよ、あの子は甘やかされてきたもんだから、わがままで気ちがいみたいなところがあるんです――気に入ったとなると、きっと大きな声で悪口を言ったり、面と向かい合っていやみを言ったりするんですよ。私も娘のころはちょうどあれと同じでした。ただ、お願いですから得意にならないでちょうだいね。あんたのものじゃないんだから。私はそんなことを本気にしたくもなければ、この先だって本気になんかしたかありません! 私はあんたがなんとか処置をつけるようにと思って言うんです。ね、ほんとに、あんたは、|あの女《ヽヽヽ》と結婚してはいないのだね」
「奥さん、何をとんでもないことをおっしゃるんです!」公爵は驚きのあまり椅子から飛び上がらんばかりであった。
「でも、結婚しないばかりの様子だったじゃないの?」
「ええ、そうです」と、公爵はつぶやいて、うなだれた。
「じゃ、どうしたんです、そんな様子から見ると、あの女に惚れているんでしょう? 今度も、|あの女《ヽヽヽ》のために来たんでしょう? それ、|あの《ヽヽ》?」
「僕は結婚のためになぞ来たんじゃありません」と、公爵は答えた。
「この世に何か、あんたにとって神聖なものがありますか?」
「あります」
「じゃ、お誓いなさい、|あの女《ヽヽヽ》と結婚するためじゃないってことを」
「何でもお好きなものに誓います!」
「あんたのことばを信じます。わたしに接吻してちょうだい。やれやれ、やっと、これで安心して、息がつけますよ。しかし、よござんすか、アグラーヤはおまえさんを愛してはいませんよ、だから自分の処置をおつけなさい。わたしの息《いき》の通ってる間は、アグラーヤをあんたにやりはしませんよ! ようござんすか?」
「ええ」
公爵はまっかになって、リザヴィータ・プロコフィーヴナの顔をまともに見ることができなかった。
「耳をほじくって聞いていらっしゃい。わたしはあんたをまるで神様のように待っていました(ところが、あんたはね、それだけの価値のない人でした!)。わたしは毎晩、涙で枕を濡らしましたよ――あんたのことを思ってじゃないんだから心配なさんな。わたしには別ないつも絶えることのない同じ悲しみがあるんです。わたしがあんたをそんなに待ちこがれていたのは、神様があんたを親友か、肉親の弟としてわたしに授けてくだすったんだと今も変わらず信じているからです。わたしの親しい人としてはベラコンスカヤのお婆さんのほか誰一人いないし、それも遠くへ逃げてしまって、おまけに年のせいで羊のようなばかになっているんですからね。ところで、今度は、『はい』とか『いいえ』とか簡単に返事をしてちょうだい。一昨日《おとつい》、|あの女《ヽヽヽ》がどうして馬車の中から呼びかけたか知ってますか?」
「本当に、僕はあれに何の関係もなければ、知りもしないんです!」
「それでもう結構です、あんたを信じます。今はわたしの考えも違ってきました、しかし、昨日の朝なんか、みんなエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの罪にしていたんですよ。一昨日の晩と昨日とまる一昼夜の間。今となってはむろん、あの人たちの言うことを認めないわけにはゆきません。あの人があのとき、ばかにされてからかわれたってことは、はっきりしています。しかし、どうしてやら、何のためやら、どんな考えがあってしたことやらわかりはしない(もうこのことだけでも怪しいんです! それにみっともないことです!)。――それはいずれにしても、あの人にはアグラーヤをあげるわけにはゆきません、あんたにちゃんと言っておきますよ! あの人がいい人であろうとも、これに変わりはありません。わたしも以前は迷っていましたが、今度こそはきっぱりと決心がつきました。『まあ、わたしを棺に入れて土の中に埋めたうえで、娘をやってください』って、こう、わたしはイワン・フョードロヴィッチに今日きっぱり言っておきました。さあ、わたしがすっかりあなたを信用していることがわかるでしょう?」
「よくわかっています」
リザヴィータ・プロコフィーヴナは射るような眼で公爵を眺めた。あるいは、彼女はエヴゲニイ・パーヴロヴィッチに関するこの報告が、公爵にどんな感銘を与えるか、はっきり知りたかったのかもしれぬ。
「ガヴリーラ・イヴォルギンのことを何も知りませんか?」
「え……いろいろ、知っています」
「じゃ、あの人がアグラーヤと関係があるってことを知っていますか、どうです?」
「少しも知りませんでした」と、公爵は驚いて身震いした。「なんですって、ガヴリーラがアグラーヤさんと関係があるっておっしゃるんですか? そんなはずはありません!」
「つい近ごろのことです。それには妹がこの冬じゅう、鼠のようにこそこそと立ちまわって、道をつけたんですよ」
「僕には信じられません」公爵は動揺してしばらく考え込んでいたあとで、きっぱり、こう言った。「もしそんなことがあったのなら、僕はもうはっきりと知っているはずです!」
「たぶん、あの男が自分であんたのところへやって来て、あんたの胸に泣き伏して、告白でもすると考えているんでしょう! まあ、あんたはなんていう間抜けなんでしょう、本当に間抜けなんだねえ! みんなが、あんたをだましている、あんなに……あんなに……それなのに、あの男をすっかり信じきっているなんてはずかしくないのかしら? いったい、あんたの眼にははいらないんですか、あの男は何事につけても、あんたをだましているんですよ」
「あの人が、ときどき僕をだますのはよく知っています」と、公爵は気が進まないような様子で、小声に言った。「それに、僕がそれを知っているってことを、あの人も承知しているんです」と、彼は付け足したが、しまいまで言いきらなかった。
「知ってて、信用するんですって! まあ、御念の入ったことだわねえ! もっとも、あんたにしてみれば当然のことかもしれないんですからね。こんなこと驚くがものはなかったんだわ。いつだってあんたはこんなぐあいなんだから。ちぇっ! あ、そうだ、このガーニカ、でなければ、ワーリカがあの子をナスターシャ・フィリッポヴナに結びつけたんでしょう?」
「誰をです?」と、公爵は叫んだ。
「アグラーヤを」
「受けとれません! そんなはずはありません! いったい、何の目当てがあってです?」
公爵は椅子から飛び上がった。
「わたしにも信じられません、証拠はあるんだけれど。全くわがままな、気まぐれな気ちがいみたいな娘です! 意地悪な娘です、意地悪な、意地悪な! 千年も万年を意地悪を続けるんです! わたしはこうきっぱり言います。家《うち》の子はそろいもそろってあんな風になってしまいました。あのびしょ濡れの牝鶏みたいなアレクサンドラまでが、でもあのアグラーヤはもう手のつけようがありません。わたしもそんなことは本当にはできません! しかし、本当にしたくないと思うから本当にしないのかもしれない」と、彼女はつぶやくように付け足した。「なぜ、あんたは家《うち》へやって来なかったんです?」と不意に彼女は公爵のほうをふり向いて、「この三日の間、ずっとどうして家《うち》へ来なかったんです?」と、彼女はじれったそうに浴びせ掛けるのであった。
公爵はそのわけを話しかけたが、彼女はまたしてもそれをさえぎった。
「みんなが、あんたをばか者扱いにして、だましているんですよ! 昨日、市内へ行ったそうですが、きっと膝をついて、あの悪党に一万ルーブル受け取ってくれって頼んだんでしょう!」
「けっしてそんなことはありません、考えもしませんでした。僕はあの人に会いませんでした。それに、あの人は悪党じゃありません、僕はあの人から手紙をもらいました」
「じゃ、見してちょうだい!」
公爵は紙挾みから手紙を取り出して、リザヴィータ・プロコフィーヴナに渡した。手紙には次のように書いてあった。
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拝啓。小生は他人様の眼より見れば、勿論《もちろん》、自尊心などもつべき柄には無之候《これなくそうろう》。他人様の意見に依《よ》れば、小生はかかることをなすには、余りにもつまらぬ人間に有之候《これありそうろう》。しかも、これは他人様の意見にて、貴君の御意見には無之候。公爵よ、小生は貴君がおそらく他の何人よりも優れたる人物なりと確信|致《いた》し居《お》り候。小生、この確信あるがために、ドクトレンコと意気投合せず、遂《つい》に絶交致せし次第に有之候。小生は貴君より一カペイカたりとも断じて頂戴いたすまじく候。然《しか》るに、貴君は愚母を御援助下され、これに対しては、生来の意志薄弱によるとは申せ、深く感謝いたすを当然の義務と心得居り候。ともかく、目下の小生が貴君を見るの眼は以前とは全く変わり居り候えば、この由《よし》を貴君にお伝え申すを必要と認め申し候。ただし今後、貴君と小生との間には、何らの関係もあるまじきものと愚考いたし居り候。
アンチープ・ブルドフスキイ
二伸 例の二百ルーブルに満たざる金額はそのうち必ず返却|仕《つかまつ》るべく候』
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「まるででたらめだわ!」とリザヴィータ・プロコフィーヴナは手紙を放り出し、思いきってこう言った。「読むだけの値打ちもなかったわ。なんだって、あんたは、にやにや笑ってるの?」
「だって、あなただって、その手紙を読んでうれしかったでしょう」
「なんですって! こんな虚栄心に食い荒らされたようなくだらない話が! あんたにはわからないんですか、あの連中ったら、傲慢と虚栄心が高じて気ちがいになっているんですよ」
「それはそうでしょうが、この人は謝罪して、ドクトレンコと別れたんですよ。この人が虚栄心が強ければ強いだけ、このことはその虚栄心にとっていっそう貴重なものだったに相違ありません。おお、あなたはなんて小っちゃな赤ん坊でしょう、奥さん!」
「まあ、あんたは横面でもなぐってもらいたいの?」
「いいえ、けっしてそんな考えはありません。ただあなたが手紙を読んで喜んでいらっしゃるのに、それを隠されるからです。どうしてあなたは御自分の気持をはずかしがられるんでしょう。何事につけてもあなたはそうなんですよ」
「もう一歩たりとも、わたしのほうに近寄っちゃなりません」忿怒のあまり顔をまっさおにして、リザヴィータ夫人は躍り上がった。「もう今後はわたしんところへ、顔なんか見せないでください!」
「だけど、三日たったら、ここへいらして、家へ来てくれっておっしゃるに相違ありませんよ……どうしてまあ、あなたははずかしくないんでしょうね? それはあなたの立派な気持じゃありませんか、何をはずかしがることがあるもんですか! あなたは全く自分で自分を苦しめていらっしゃる」
「死んでも――あんたを呼んだりなんかしません! あんたの名前なんか忘れてしまう! 忘れてしまいます!」
彼女は公爵の傍から飛び離れた。
「僕はあなたのおことばがなくても、お宅へあがることを止められています!」と、公爵はそのあとからすぐ叫んだ。
「なんですってえ? 誰が止めました?」
彼女はまるで針ででも刺されたようにいきなりこちらをふり向いた。公爵は答えるのにまごついた。思いがけないことながらとんでもない失言をしてしまった、と思ったのである。
「あんたを止めたのは誰です?」と、リザヴィータ・プロコフィーヴナはいきり立って叫びかけるのであった。
「アグラーヤさんが止めたのです……」
「いつ、さあ、言って、ごらん!」
「今朝、僕にけっしてお宅へ行ってはならない、と言ってよこされました」
リザヴィータ・プロコフィーヴナは棒のように突っ立っていたが、あれやこれやと考えていた。
「何をよこしたの? 誰をよこしたの? あの子供に頼んで?」と、またしても不意に叫んだ。
「手紙をいただきました」と、公爵は言った。
「どこにあるんです? お見せなさい! 今すぐに!」
公爵はちょっと考えたが、やがて、チョッキのポケットから無造作にたたんだ紙きれを取り出した。それには次のようなことが書いてあった。
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レフ・ニコライヴィッチ公爵、あのような事件のあったあとで、もしあなたがわたしどもの別荘をお訪ねくだすって、驚かそうってお考えになっていらっしゃるのでしたら、けっしてわたしはあなたを歓待する仲間にははいりませんから、さよう御承知ください。
アグラーヤ・エパンチン
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リザヴィータ・プロコフィーヴナは、ちょっとの間、考えていたが、不意に公爵のほうを向いて、その手を取り引っぱった。
「今すぐに! いらっしゃい! どうしても今、今すぐに」彼女は非常な興奮と焦燥の発作に駆られてこう叫んだ。
「だって、あなたは僕をわざわざ……」
「何を言うんです? ほんとに無邪気なお人好しだこと! 少しも男らしいところなんかありゃしない! さあ、今度こそ、わたしがこの眼ですっかり見てあげる……」
「せめて帽子くらいは取らしてください……」
「それ、これがあんたの汚らわしい帽子、さあ行きましょう! 流行物《はやりもの》さえ、気のきいた見立てができなかったのね!……これはあの子が……これはあの子がさっきのことがあったので……熱に浮かされて」ほんのちょっとの間も手を放さず、公爵を引っぱりながら、リザヴィータ・プロコフィーヴナはつぶやいた。「さっき、わたしがあんたをかばって、あの人は、ばかだ、だからやっては来ないよ、と言ったからだ……でなければ、こんなでたらめな手紙を書くわけがありません! こんな無作法な手紙を。実に無作法な手紙です、身分の高い、教養のある、はしこい、はしこい令嬢として!……ふむ!」と、彼女はなおも続けた。「しかし、それとも、……それとも、……ことによったら、あんたが来ないのに腹が立ってしたことかもしれない。白痴にこんな手紙をやれば、文字どおりにとるかもしれないってことを気にとめなかったのかしら。ところがやっぱりそのとおりだったわ。あんたは何を盗み聞きしているの?」彼女は思わず口をすべらしたのに気づいて、こう叫んだ。「あの子はあんたみたいな道化者が欲しいのよ、久しく、あんたに会わなかったから、それでこんな頼みようをするんです。あの子が今こんなにあんたをからかうのが、わたし嬉しい、嬉しい、とても嬉しい! あんたはこんなことをされる値打ちがあるんです。あの子はやり方を知ってる、ああ、実によく心得たもんだ!……」(つづく)