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東京ローズ
ドウス昌代
目 次
日系女性なるがゆえに――まえがき
一章 対敵宣伝放送のヒロイン
1 日本占領とスクープ競争
2 「東京ローズ」を捜し出せ
3 予期せぬ悲劇の始まり
4 「東京ローズ」を作った二人の記者
5 アイバ「ローズ」説をめぐる狂態
6 逮  捕
二章 アイバ戸栗ダキノを襲った悲運
1 日系二世に生まれて
2 日本への旅立ち
3 「日本は奇妙な国です」
4 日米開戦の下で
5 帰国の夢消えて
6 対敵宣伝放送の実情
7 「ゼロ・アワー」放送開始
8 アイバ、初めてマイクに向う
9 GIたちのアイドル
10 味をしめた「捕虜番組」
11 三人の「東京ローズ」候補
12 終  戦
三章 反逆者の汚名
1 巣鴨プリズン
2 反逆罪か軍法違反か
3 釈放後の悲劇
4 魔女狩りの第一声
5 非米活動へのみせしめ
6 帰国≠フ陥し穴
7 ミュージカル化の話まで
8 再 逮 捕
9 売国奴として故国の土を
10 「反逆罪」で起訴
11 三十一の宣誓供述書
12 日本からきた証人たち
四章 太平洋の孤児となって
1 「東京ローズ」裁判公判
2 一枚の一円札
3 恒石参謀中佐の証言
4 「太平洋の孤児さんたち……」
5 偽 証 ?
6 二人の決定的証言
7 物的証拠は「六枚のレコード」
8 検察側の手管
9 背後にFBIの圧力が……
10 ドイツ・アワー
11 もう一人の「東京ローズ」
12 アイバ、証言台に立つ
13 悲運の逆転判決
14 スケープ・ゴートにされて
特赦を乞うべきは誰か――エピローグ
文庫版のためのあとがき
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日系女性なるがゆえに――まえがき
すでに戦後三十年がたった。しかし、七年間にわたるアメリカ占領軍下での私たちの歴史には、未だに多くの秘められた事実が残されている。「東京ローズ」として知られた日系女性の反逆罪裁判も、その一つである。
東京ローズ――この名は、当時アメリカで聞かれた最も悪名高きものの一つであり、「東条」と並んでよく知られた日本名であったとさえいわれる。しかしこれが反逆罪裁判にまで持ち込まれたことを、日本で知る人は少ないと思う。裁判が実際に行なわれたのは、一九四九年、サンフランシスコ市においてである。だが、これはまぎれもなく、戦中戦後の日本を舞台に起こった事件であった。
私がこの事件に関心を持ちはじめたのは、今から十数年前、夫がアメリカ中部のセントルイス市の大学で日本近代政治史を教えていた頃である。当時、私たちはシカゴのある日本品輸入店を通して日本から本を取り寄せていた。その店は日本の食料雑貨も扱っていたので、私たちは三、四カ月ごとにシカゴに車を飛ばした。そこで食料品の買込みをした後、日本からの新刊書、雑誌の立ち読みをし、夜はシカゴ大学で教えていた友人と中華料理などを食べるのが、ささやかな楽しみだった。
書籍部にはいつも、店主らしい無口で落ち着いた感じの日系一世の老人が店番をしていた。しかしたった一度だけ、日系女性が本を包んでくれたことがあった。その日のことを珍しくよく覚えているのは、その人から受けた強烈な第一印象による。
テキパキと本を包みおえてこちらを向いた彼女と視線が合った時、私はわれになくたじろぎをおぼえた。それは決して人に物を売る人の目ではなかったことが、私を慌てさせた。人を寄せつけまいとするかのような強い拒絶の目だった。能面のような無表情さだった。暗い陰がある女《ひと》だ、と私は思った。
その夜、いつものように友人たちと賑やかに夕食をともにしながらも、その顔がたびたび目にちらついた。どんな過去を持つ人なのかと気にかかった。
それから一カ月ほどして、セントルイス・ディスパッチ紙に彼女の顔写真を見た時の驚きは大きかった。「反逆者のその後」という見出しの記事に、ヒス、ローゼンバーグ夫妻などの顔写真と並んで、彼女がいたのだ。それはずっと若い時の写真だったが、容易に見分けはついた。「現在シカゴで父親の店を手伝っているらしい」という一文によっても、シカゴで見た女性に間違いなかった。彼女の顔写真の下には、「東京ローズ」という思いもよらぬ名がついていた。
子供時代を占領下で過した世代の一人である私は、東京ローズの名はよく覚えていた。しかし、彼女が反逆者として裁判にかけられたことは、その時初めて知った。さっそく大学の図書館でこれに関する本をあさったが、二、三の興味本位の本などに、マタハリなどのスパイとともにセンセーショナルに扱われているのを捜し当てたのみで、詳しいことは一切わからずじまいだった。
私が本格的にこの反逆罪裁判を調べ始めたのは、それから七年ほどもたった四年前のことである。夫がサンフランシスコ市近くの大学に転職し、私たちは大学のすぐそばに居を構えた。しばらくして私は、かねてから関心のあった日系アメリカ人史の勉強のために、歩いて行ける距離にある大学図書館へ出入りしだした。
そんなある日、図書館でニューヨーク・タイムズ紙の各年索引を使って調べものをしていた時、ふと思い出して東京ローズの名をひいてみた。その結果、東京ローズ反逆罪裁判のあった地がサンフランシスコ市だったとわかると、私は再びこの事件への興味にかられた。各年ごとに、東京ローズに関する記事の載っているニューヨーク・タイムズ紙の日付を拾いあげ終ると、地下にある新聞資料室へかけ降りて行った。ここには数十年間の多数のアメリカ主要新聞、地元サンフランシスコの各紙がマイクロ・フィルムに収められている。
その後の数カ月、私は毎日のように、この地下の薄暗くひんやりしたマイクロ・フィルム室に通いつめた。そして、ニューヨーク・タイムズ紙をはじめ、裁判を徹底的にカバーしたサンフランシスコ・クロニクル紙、サンフランシスコ・エグザミナー紙その他の地元主要紙を読みすすむうち、心に大きな疑惑がわいてきた。
ますます裁判の真相を突きとめたいとのぞんだ私は、約五カ月間、サンフランシスコ郊外のサンブルノ国立文書保存所に通い、五十二冊におよぶ法廷記録及び多数の関係文書をくり返し読むうちに、私のような法律に素人の目にも、これが暗黒裁判とさえよべる不合理な裁判であったことが判然としてきた。
法廷記録を五、六時間読みつづけた後、車を走らせて帰路につく私の目には、カリフォルニア州が誇る国道二八○号線ぞいの果てしない緑の丘陵も美しくはなかった。アメリカ政府が原告であるこの裁判の背景に、背筋が寒くなる思いでハンドルを握っていた。この事件は戦中戦後という異常時であったとはいえ、一政府がその一市民になした残虐行為にちがいなかった。これが起きた背景、またそれがいつの時代でも起こりうる可能性が、私を戦慄させた。
東京ローズとは戦時中、ラジオ東京から聞こえてくる、日本の対米宣伝放送に従事した女性アナウンサーに、太平洋にいたアメリカのGIたちがつけたニックネームである。戦後アメリカ従軍記者たちにその名を押しつけられたアイバ(郁子)戸栗ダキノ夫人は、二世であったがために、反逆罪でアメリカ政府に訴えられた。
東京ローズ反逆罪裁判は、建国以来アメリカで起こった二十四の反逆罪裁判のうち、最も悪名高きものの一つといわれている。東京ローズとして起訴された被告ダキノ夫人は、現在にいたるまで終始一貫して強く無実を主張しつづけてきた。彼女を信じ、無報酬で弁護を引き受けた三人の弁護人は口をそろえて、「この裁判はアメリカ連邦法廷史における最も|ばかげた《ヽヽヽヽ》、最も恥ずべき誤審である」といいきってきた。
また、この裁判を当時AP記者として連日カバーしたK・ピンカム女史は、現在次のように語っている。「私の三十五年にわたる長いジャーナリズム経験で出あった裁判のうち、ダキノ夫人の反逆罪裁判の有罪判決は、最も悲劇的な誤審であったと思われてなりません」
東京ローズ裁判は他のすべての反逆罪裁判と同じく、単なる法的問題ではなく、非常に政治的問題がからむものであった。そのため、裁判の背景となった当時のアメリカの国民感情を無視して、この裁判を正しく理解することはできない。
裁判が行なわれた一九四九年のアメリカとは、国民が戦争のアフター・ショック的状態から抜けきっていない時期である。特に太平洋沿岸ではまだまだ対日感情が悪かった。太平洋戦争は決して遠い昔ではなかった。当時、戦争中の強制収容所から社会へ復帰しつつあった日系人たちは、暖かい目で迎えられていたわけではなかった。そのような時期に日系人を被告とするこの種の裁判で、公正な判決をのぞむのはむしろ不可能に近いといえる。しかもこれは、最も対日感情の悪かったカリフォルニア州でのことなのだ。
さらに、一九四〇年後半とは、いわゆる「冷たい戦争」時代のはじまりでもあった。中国革命の成功にショックをうけたアメリカ政府は、一段と共産主義に対する態度を硬化させ、マーシャル・プランなどを実行する一方、マッカーシー旋風なる「赤狩り」がはじまっていた。そのため、反逆者《ヽヽヽ》という言葉にすら、すでに強いアレルギー反応を示しだしていた。共産主義とは無関係な東京ローズ裁判の場合でも、反逆罪裁判と聞くだけで、国民の神経を刺激する時期だった。
この裁判で一番の問題点は、現実に東京ローズという生身の血のかよった女性がこの世に存在しなかったという事実だ。東京ローズとは、太平洋戦争が生んだ最も華やかで面白い伝説《ヽヽ》の女性であった。
ダキノ夫人は、このあまりにも有名になった伝説の女性の具現化として、黄色《イエロー》ジャーナリズムにデッチ上げられ、その一生をこの伝説の女性にとりつかれた。彼女が二世であったことがいっそう利用価値をたかめ、裁判前にすでに新聞、ラジオで、あることないことを盛んに報道された。彼女がサンフランシスコの法廷に立った時には、すでにこの「邪悪な魔女」東京ローズであるダキノ夫人の有罪は確定していた、とさえいえるだろう。
東京ローズ反逆罪裁判は、「戦争時の復讐」を願う当時のアメリカ国民感情を背景に、黄色ジャーナリズムが扇動し、アメリカ政府が大いに政治的に利用し、フレームアップした不正裁判であった。不幸にも、そのための犠牲となったダキノ夫人は、戦争の犠牲者であると同時に人種偏見の犠牲者でもある。
そして最も痛ましいことは、戦後三十年以上を経た現在でさえ、ダキノ夫人の「戦後」は続いているという重い現実である。判決後アメリカ市民権を失った彼女は現在、無国籍者であり、アメリカに住んではいるが、市民としてのすべての権利を否定されている。
私は本書を書くにあたり、その重点をサンブルノとワシントン国立文書保存所にある法廷記録及び関係諸文書においた。当時の資料で今日までに失われたものは少なくない。しかし反対に、司法省、FBI、SCAP(連合軍最高司令官)資料のうち、当時「極秘」だったもので、ごく最近解禁となって手に入った新資料も多い。そのことでは、特にクラーレンス・ケリーFBI長官の協力を明記し感謝したい。またスタンフォード大学フーバ図書館東亜部、カリフォルニア州立大学バークレー校図書館東亜部、アメリカ議会図書館、日本国会図書館、オーストラリア国立文書保存所、NHK放送博物館図書部などにお世話になった。
主任弁護士をはじめ関係者の多くは亡くなっている。が、健在なダキノ夫人をはじめとする多数の事件関係者と、裁判を連日取材した記者たちとのインタビューが、文書を補う貴重な資料となっている。決して楽しくない、というよりは三十年近く前の苦い過去をふり返らされる関係者の口は重かった。それでもあえて協力して下さった人びとに改めて感謝したい。
かれらの信用を得るまでに、私も半年、一年と待った。特に、人間不信、マスコミ嫌いをはっきり口にする被告ダキノ夫人の協力を得るのに、二年余りの月日が経っている。その後数回にわたるインタビューと、昼間は商売に忙しい彼女に、木曜日の夜十時半と約束して毎週のように電話で疑問点をぶつけた。決して過去をふり返らないことで生きのびてきたという彼女に、就床直前にその過去をふり返らせることにいつも心が痛んだ。
また、そのため毎月高額におよんだ長距離電話料を黙って支払い、四年間にわたって励ましつづけてくれた夫ピーター・ドウスに感謝する。この仕事の意義を認め、ダキノ夫人に私を引き合わせてくれたクリフォード・ウエダ全米日系市民協会アイバ戸栗委員会会長にも改めて感謝したい。かれら二人の励ましがこの仕事を可能にしたといえる。
裁判時の模様は関係者とのインタビュー、サンフランシスコ地元各紙及び日系人紙による。フィクションは一切ないのみならず、事実といわれてきたものも文書、インタビューなどで再度の確認につとめ、単なる噂にすぎないものはそのむねを明記した。
[#地付き](一九七六年十二月)
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一章 対敵宣伝放送のヒロイン
1 日本占領とスクープ競争
一九四五年八月三十日午後二時〇五分、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥《げんすい》は、神奈川県厚木飛行場へ降りたった。これに先立ち、同日早朝、沖縄よりアメリカ戦略空軍つき従軍記者が、数機のB17ですでに厚木に先着していた。
カーキ色の半袖シャツとズボンの軍服、ピストルを下げた彼らは一見普通の将兵と変りなく見えた。しかし、よく見ると胸にアメリカ従軍記者のバッジをつけており、なかにはカメラや撮影機を手にした者もいた。彼らはそれぞれに新聞、通信社、放送機関の特派員として、前線より命がけで数々の戦闘ニュースを送り続けてきた|つわもの《ヽヽヽヽ》たちであった。
なかでもINS(インターナショナル・ニューズ・サービス)のクラーク・リー記者はひときわ目立つ存在だった。六尺をゆうに越すすらりとした長身、日焼けした浅黒い顔に黒い髪、当時三十八歳のリーは、アジアとヨーロッパ戦線で種々の大スクープをものし、国際|花形《グラマー》記者として名を馳せていた。戦前、AP通信にいた頃、日本駐在の経験があり、その時の従軍記者たちのなかでは日本通の一人でもあった。
リーの隣席には、彼とは対照的に、小肥りで背の低い男が坐っていた。頭がつるりと禿《は》げあがり、酒焼けした赤ら顔に口髭だけは立派なこの男は、コスモポリタン誌特派員ハリー・ブランディッジ、四十八歳であった。ちなみにINSもコスモポリタン誌も黄色《イエロー》ジャーナリズムとして知られるハースト系に属する。この二人の間には、沖縄を出る前から、日本でのスクープを協力してやろうという約束ができていた。
いよいよ明朝日本入りと決った日の晩、ブランディッジによると、台風一過の沖縄で、二人は古い墓石を背に、月光を浴びて坐っていた。その時どちらからいい出すともなく、「厚木に着いたらすぐ東京へ乗り込もう。そして東京ローズをひっつかまえよう!」という約束を交したという。リーはすでに二日前、ニューヨークの本社より「東京ローズを捜し出せ」という電報を受け取っていた。
日本の無条件降伏に半信半疑で、厚木に着陸した時には皆殺しにあうのではと怯《おび》えながら彼らが日本へ第一歩をしるした時の様子を、後にリーは法廷で生き生きと述懐してみせた。彼の著書『ふり返り見て』(One Last Look Around)にも詳細に記されている。
「われわれは八月三十日、まだ暗い午前二時過ぎに沖縄を発ち、夜が明けきらぬ厚木へ着陸した」(リー証言、一九四九年七月十四日)
機上の記者たちは日本でのスクープを狙って興奮し、競争心をつのらせていた。しかし一方、捕虜になるぐらいなら死を選ぶ日本兵や神風特攻隊を厭《いや》というほど見てきた彼らには、二日前に先発隊が入ってある程度地ならしのできている厚木とはいえ、簡単に日本本土へ降りることが信じられず、疑惑と恐怖心で全員ずいぶん緊張もしていた。
「ところが驚いたことに、木造の食堂に入って行った時に、『ハロー、リーさん、また日本に戻られて嬉しいです』と白い制服のウェイターが私にいった。見れば、かつて世界で最高のレストランの一つに数えられた帝国ホテルのグリルで顔見知りのウェイターではないか。日本政府は、ホテル従業員なら英語がある程度わかるとふんで、この進駐に備えて狩り集め、アメリカ軍が厚木に着いた時の便をはかっていたのだ。どこから捜し出したのか、卵、トースト、バター、砂糖などを用意し、コーヒーまで沸かしてあった」(リー、前掲書)
日本政府が集めた通訳のなかには、二、三人の戦前からの顔馴染みもいて、リーたちは今まで日本を敵国として戦ってきたことが、一瞬信じ難い気さえしたという。
しかし、記者たちはこの朝食中もあまりくつろがなかった。彼らの幾人かは旧知の日本人をつかまえて、いち早く日本の現状を探ろうとしていた。大空襲で焼野原と化したという東京へ、誰もが一番乗りしたがっていた。
そこで、間もなく日本側が用意しておいた乗用車数台の奪い合いとなった。それらはそろって年季の入ったアメリカ製中古車だった。リーがいち早く確保した車は古いプリマスで、彼のほかにブランディッジともう二人の記者が乗った。彼らは、表情を強張《こわば》らせている日本人運転手に、まず横浜行きを命じた。
この時、第八軍本部からは、東京の様子がわからず、危険分子がどのような行動に出るか予断を許さぬので、東京には公式降伏まで入らぬ方がいいという警告があらかじめ出されていた。まさかの場合を考えて、厚木から横浜に入る道路も指定された。各所に日本兵が見張りに立ち、沿道の人びとはその時間には外へ出ない方がよいという命令が出ていた。記者たちは勝手に他の道を通ってはいけないことになっていた。だが、リーたちはこれを無視して、別の道を通り抜けて横浜入りした。そのため、アメリカ軍が通ることを予期せずに外に出ていた日本人たちを、垣間見ることができた。
「われわれを見て、女たちは顔を覆い背を向け、子供たちは怯えて逃げ出し、男たちは石のように無表情に立っていた。しかしそれから十時間ほどして同じ道を厚木へ引き返した時には、二、三人の子供は『ハロー!』を連発し、指でVサインを作って見せる者までおり、農婦は笑いを浮べていた」(リー、前掲書)
日本人にあまり危険を感じなかった上、横浜港からすでに上陸を開始していた連合軍兵士の姿を途中多く見て、記者たちはますます意を強くした。スクープのためには命を賭けることもいとわない無鉄砲な彼らだ。横浜ニューグランドホテルでビールを飲み、喉《のど》をうるおすや、ふたたび車に飛び乗り、東京めざして車を競った。
八月の炎天下、爆撃で穴だらけの第一京浜国道を走る中古車は、どれもが、途中でラジエターが過熱して動かなくなり、日本人運転手はバケツを持って水|汲《く》みに走った。そのたびに他社の連中を乗せた車がこれ見よがしにスピードを上げて走り過ぎ、故障車の連中は口惜しがって悪態をついたが、こんどは通り過ぎたはずの車が二、三町さきで動かなくなっているという始末だった。
彼らは焼けただれた沿道の町々にひどいショックを受けながらも、東京めざして、この少々コミカルなカー・レースを繰り返した。初めは渋い顔をしていた日本人運転手たちもしだいに調子に乗せられ、最後の頃には必死で車を競っていた。
東京へ入る六郷橋のたもとには鉄線のバリケードが張りめぐらされ、銃剣を持った日本軍歩哨の一団が固めていた。リーたちが記者証を見せて「同盟通信社へ行きたい」というと、英語のわかる兵が出て来て、公式の連合軍東京進駐までアメリカ人は入れないことに日米間で決めているといったが、記者だということで結局通してくれた。しかしリーたちは他の記者に一足遅れ、東京への一番乗りには失敗した。
その後、彼らはまず帝国ホテルへ直行した。ホテルは空襲で一部破壊されていたとはいえ、使える部屋がずいぶん残っていた。リーは一九四〇年までよく使った三一二号室を取った。ブランディッジは、やはり戦前にみやげとして持ち帰っていた三八四号室の鍵を胸ポケットから取り出してみせた。
リーは厚木飛行場着陸の四、五時間後には、多数の従軍記者が東京入りしていたと語っている。この話は、第二次世界大戦におけるアメリカ従軍記者間の激しい競争をよく物語っているといえよう。
当時アメリカの新聞、通信社の数は現在とは比較にならぬほど多く、種々の新聞が一日中入れ替りニュース・スタンドに見られた。当然の結果、各紙は人目を引くために競ってセンセーショナルな大見出しを使った。各社間はいうに及ばず、同じ社内でも競争は実に激しく、誰もがスクープを狙って緊張していた。従軍記者もその例外ではなかった。
GHQ(連合軍総司令部)発表によると、リーたちが厚木入りした八月三十日より九月二日のミズーリ号における降伏文書調印式までに日本入りした連合軍報道関係者は、少なくとも二百三十人以上いたといわれる。当時、東京でアメリカ軍関係が使えるホテルは帝国ホテルと第一ホテルのみだった。
そのうち第一ホテルが記者たちに当てがわれていたが、もちろん間に合わない(すでに他に家や部屋を借りていた記者もいたが)。GHQは報道人が多すぎるとして、一カ月後には、東京駐在の記者を七十六人にしぼり、他の記者を強制的に締め出したため、大問題になったほどだ。
2「東京ローズ」を捜し出せ
さて、これら従軍記者が危険をも顧みずにさきを競って東京入りし、スクープをめざしたもののトップ・リストはいったい何であったのか。
リーによると、まず第一に一九四二年四月のドーリトル空襲(米軍による初めての本土爆撃)に始まり、一九四四年末からの大空襲で焦土と化したといわれる東京へ一番乗りし、かつての敵国首都の荒廃ぶりを見ること。第二に、太平洋戦争の元凶と見なされていた東条英機首相の居所を突きとめ、独占インタビューすること。そして第三には、太平洋のGIたちのアイドルであった東京ローズを捜し当てることであったという。だが、このうちで東京ローズ捜しだけはかなり難しい、奇妙なものとなった。東京ローズという女性は実在しなかったからだ。彼女は伝説の女だった。
伝説といわれるものはすべて、たとえそれほど古い話でないとしても、それがいかにして始まったかをひもとくのは容易ではない。伝説・東京ローズもその例外ではなかった。終戦も押し迫った頃には、太平洋のGIのなかで東京ローズの名を知らぬ者はいなかったといわれるが、誰が、いつ頃から、誰のことをそう呼び始めたのか。またどうしてそれがサリーでもメアリーでもなく、ローズでなければならなかったのか。
後に東京ローズ裁判をカバーした法廷記者の一人であり、かつては従軍記者だったサンフランシスコ・クロニクル紙のスタントン・デラプレン記者は、「このように気のきいた名前は新聞記者がつけそうな名だ。多分太平洋に出ていたジャーナリストの一人がいい出したに違いない」という。真珠湾攻撃当時、アメリカでずいぶん歌われた歌の一つに「メキシカリ・ローズ」(メキシカリとはアメリカとメキシコの間の国境の町)があった。つくられたのは、一九二三年だが、その頃リバイバルし、大変流行していた。従軍記者の一人がこのメキシカリ・ローズにちなんで、ラジオ東京から聞えてくる女性アナを東京ローズと呼んだ可能性は強い。
また、ローズと愛称された女性たちと戦争とは切り離し難く結びついている。第一次世界大戦でも多くのローズ嬢が出現した。その頃前線でよく歌われた歌には、「ピイカデイ(北フランス地方)のローズ」「わがベルギー・ローズ」などがある。「モンマルトルのローズ」という歌に見られるように、売春婦、特に戦争中アメリカGIを相手にした夜の淑女たちのなかに、ローズと愛称された者が多くいたようだ。その後流行した歌にも「チリー・ローズ」「ボンベイ・ローズ」とローズは多い。だが、これらローズ嬢は決して洗練された都会の女性ではない。エキゾチックで肌の少々浅黒い、しかも異国の女たちであることが興味深い。
さて、いつ頃から太平洋で東京ローズの名が聞かれだしたのだろうか。「アメリカの軍艦がどこにいるか知っている? 教えてあげましょうか。それは真珠湾の底に沈んでいるわよ!」――東京ローズの名は真珠湾攻撃直後にすでに聞かれたという人もいる。
後に東京ローズ裁判の時、証人クラーク・リーは、一九四二年四月の日本軍のバターン半島総攻撃か、遅くとも八月のソロモン海戦頃にはその名を耳にしたという。元海軍上等兵ホウィトン(弁護側証人)は、一九四二年四月のミッドウェー海戦の頃であり、元陸軍少佐コックス(弁護側証人)は一九四三年一月ニューギニヤだ。アメリカ本土太平洋沿岸でラジオ東京を受信していたアマチュア・モニターのハーゲドーン(弁護側証人)は一九四三年七月二十五日付で、モニター日誌に東京ローズの名を記している。ニューヨーク・タイムズ紙一九四五年八月八日付によると、東京ローズの名が太平洋でよく聞かれるようになったのは、一九四三年夏以降であるという。
いずれにせよ、この名は「ロード・ホーホー(ホーホー卿=ラジオ・ベルリンで人気のあった英国人宣伝アナウンサー)」「アラビアのロレンス」「マタハリ」などのように、非常に語呂のよい、人にアピールする魔力を持つ名前であったことは確かだ。東京ローズはあっという間に、太平洋GIたちの間で最もよく知られる名前となっていった。
東京ローズは、扇動的な対米宣伝放送で、誘惑するかのようにGIに呼びかけるセクシーで魅力的なラジオ東京の女性アナウンサーだった。彼女は、殺伐な戦場でこれという娯楽もなく性に飢えたGIにとって、またとない話の種となった。GIのピンナップ・ガールだったベティ・ハットンやリタ・ヘイワースなどのハリウッドの女優よりも、もっと身近な「声のピンナップ・ガール」だったといえよう。声以外にローズ個人について具体的な事実が何一つわからないことが、彼らの興味をいっそうそそった。と同時に、噂に好都合な条件となっている。
太平洋の噂話はすべて東京ローズにつながるといっても過言ではない。GIの隠語で消すことのできない言葉が東京ローズであるとさえいわれた。彼女は遠い敵国東京から、本国に残してきた妻や恋人が何をしているかも知らずに太平洋の孤島で日本軍と戦っている「頓馬《とんま》な男」とGIを嘲笑い、好色で猥褻《わいせつ》な話を繰り返したとウワサされた。
東京ローズはまた、千里眼のような目を持つ|恐ろしい《ヽヽヽヽ》女でもあった。彼女はどのアメリカ軍がいつ、どこでいかに動くか的確に予告し、すべて見通すとウワサされた。これが本当なら、日本軍の情報はコンピューター的正確さだったことになるが……。彼女はまたある時は特定の一兵士を名指しで呼び、彼の故郷の話を詳しく語ったため、名指しされたGIのうちにはホームシックのあまり自殺した者さえいるとウワサされた。
この、ほとんどスーパーウーマンともいうべきラジオ・サイレンは、故郷を遠く離れて航海する水夫を、抵抗し難い美声で引きつけ溺死させたオデッセイのサイレン――半人半鳥の海の精――のように、太平洋諸島のGIに美しい音楽に乗せてセクシーな声で呼びかけ、罠《わな》にかけ、降伏か死かと迫る魔女だった。
伝説とは、噂と同様に、ほんのちょっとした事実に沢山の尾ヒレがついて誇張され、やがて事実との識別が困難になった話といえよう。往々にしてそれは事実に先走り、一人歩きしてしまうものだ。特に戦争下では、それが容易なこととなる。
GIは、聞こうと思えば日本の宣伝放送を毎日でも聞けた。そして、その日本放送のアナの多くは女性だった。いわゆる東京ローズ放送が戦争後半期におけるGIのお気に入りの娯楽となったのは、至極当然のことといえようか。
東京ローズに関する記事がニューヨーク・タイムズ紙上に現われたのは、一九四四年三月二十七日である。「東京ローズ――アメリカGIに大ヒット!」と題するその記事はエスピリト・サント島発である。
「もしここで戦っているGIたちの間でラジオ・アナウンサーの人気投票をするならば、驚くほど多数の票が東京ローズおよび他の日出ずる国≠謔闢太平洋前線に流されている番組に集まることだろう……」
それから二カ月後の同紙には、海外で戦っているGIが一番喜ぶものとして、一にハリウッド映画、二はラジオ放送であるという記事が見られる。このGIが喜ぶラジオ放送には敵国の数々の番組が含まれており、彼らに人気のあるアナウンサーとして、南太平洋、アラスカ方面で聞かれるマダム東条(このような名を使ったラジオ東京の女性アナはいなかった)と、アラスカ、アリューシャン方面で主として聞かれる東京ローズの名をあげている。
これらGIの総司令官だったマッカーサー元帥の回想録にも、東京ローズの名は見られる。一九四二年初め、彼がまだコレヒドールにいた頃、「夜ごと、敵は誘惑的な東京ローズを使って、アメリカの援助軍は他に(ヨーロッパに、の意)向けられており、フィリピンの運命は敗北と死であると、生傷を擦《さす》るように繰り返した」という。
以上の種々の例から臆測しても、GIが特定のアナウンサーを指して東京ローズと呼んでいたとはいい難い。むしろラジオ東京から聞えてくる女性アナウンサーは誰でもこの名に当てはまったといえるはずだ。
特定の女性アナの声を東京ローズと呼んだと主張するGIもいる。しかしその声はGIによって異なり、一定していない。また戦地のテントや船上で聞く短波放送の個々のアナウンサーの声を、そのつど聞き分けるのは容易なことではないとも思われる。
だからGIのいう東京ローズにはディスク・ジョッキーもいれば、ニュース・アナも、ニュース解説アナもいた。多分、東京ローズ放送といわれるものの中には、男性アナの読んだニュースも含まれていた可能性が強い。
すなわち、東京ローズとは戦場という異常な状態に置かれた男たちの極度の精神の緊張、不安、心配、ヒステリーから生まれた伝説の女であり、伝説と事実の区別がつき難い精神状態にある彼らのまたとない娯楽でもあったのだ。しかも東京ローズはまさしく彼らが抱く敵のイメージにぴったりである。日本人は腹黒く、残酷で油断がならないはずだった。日本兵は敵軍捕虜をサディスティックに拷問《ごうもん》する残忍なやからだ。東京ローズの噂話はそれをよく裏づけていた。そのため誰一人として、それが真実かどうかを本気で詮索する気にもならなかった。とにかく話は面白い。半信半疑で聞いても長い夜の時間つぶしにはもってこいであり、彼らは珍重した。
戦争の後半期には、東京ローズの名は太平洋GIたちだけでなく、アメリカ本土においてもよく聞かれる名となっていた。スーパーマンのマンガにさえ彼女は登場している。日本で日本製スーパーマンが作られているという話の中で、東洋人風につり上がった目をした東京ローズが、「アメリカのスーパーマン、気をつけた方がいいわよ。世界で自分一人がスーパーマンだと思っているらしいけど、有名な日本の科学者はお前の競争相手を作っているのよ。血の通った本物の日本製スーパーマンをね!」といかにもにくにくしげに放送している。
だが一方、これらの悪意に満ちた恐ろしい伝説《ヽヽ》東京ローズの噂とは逆に、太平洋のGIたちは実際にラジオ東京から聞こえてくる、彼らが総じて東京ローズと呼んだ現実の女性アナたちの放送を大いに|楽しんだ《ヽヽヽヽ》らしいのだ。その証拠に一九四五年八月七日、終戦直前にアメリカ海軍より「われわれを励ました功績」により東京ローズに感謝状が出ている。
「アメリカ軍が太平洋で日本軍艦を沈め、諸島を占領し、多くの日本兵を殺すのに多忙を極めていた時、東京ローズは熱心に彼らを元気づけ、塹壕《ざんごう》や船上での長い夜を、素晴らしいアメリカ音楽とユーモアや本国のニュースで励ましてくれた。これらの放送はわれわれが何のために戦っているのか、すなわちアメリカがわれわれに与えてくれる数々のことを思い出させ、一日も早くこの戦争を終らせて東京へ進駐し、われわれを励ましてくれた東京ローズにお礼を述べたいというわれわれの決意を、ますます堅くさせるのに役立った……」
海軍厚生課長のオブライアン大尉が新聞、ラジオを通して公表したこの感謝状はふざけ半分の皮肉なものであるが、なかなか真実をも伝えているとして、多くの太平洋GIの賛同を得ている。東京ローズは恐ろしい伝説の女であると同時に、実際にラジオ東京から聞くことのできる、軽口の女性アナでもあったわけだ。いずれにせよ、彼女が終戦頃には押しも押されもせぬ人気スターであったことは確かだ。だから、従軍記者たちは一種のお祭り騒ぎのような賑々しさで、東京入りと同時に東京ローズを追いかけることになる。
記者たちの間でも彼女に関しては多くの華やかな「ウワサ」が流れ、殺伐とした前線下での気晴らしですらあったといえる。東京ローズは来栖特派大使夫人らしい、いや東条の二号だそうだ、マウイ島出身のフラダンサーだ、オタワ市出身の二世だ、などの勝手な臆測がまことしやかに聞かれた。
なかでも、彼らの関心をひかずにおかなかったのは、東京ローズが一九三七年、太平洋に消えたアメリカ女性飛行士アメリア・エアハートではなかろうかという噂だった。
エアハート・ローズ説は、一九四二年頃よりすでに聞かれたようだ。一九二八年、女性として初めて大西洋を横断飛行し(この時は二人の男性と一緒で彼女は操縦していない)、その四年後に大西洋横断単独飛行を成しとげて名声を博し、女リンドバーグとうたわれたエアハートは、一九三七年七月一日、愛機「エレクトラ」で世界一周を試みての途中、太平洋マリアナ諸島付近で行方不明となっている。
当時、これは二十世紀十大ニュースの一つとさえいわれて騒がれている。ルーズベルト大統領はエアハート捜索のため数隻の軍艦を出しているほどだ。一説に、彼女はアメリカ政府の特別秘密指令を受けていたともいわれる。
エアハートが日本軍秘密基地であったサイパン島近くで撃ち落され、捕虜となり、強いられて対米謀略宣伝放送に参加しているのでは、という噂は、戦争中を通してかなり根強く聞かれた。彼女の夫はわざわざ太平洋の戦地に東京ローズ放送なるものを聞きに出かけているほどだ。
現在にいたるまで、この事件に関するはっきりした結論は出されていない。しかし彼女は日本軍による拷問の末、殺されたらしいという説が有力視されている。それはともかく、このエアハート・ローズ説が記者たちを大いに刺激した。彼女だったら「真珠湾奇襲以来の大ショック」(リー証言、一九四九・七・十四)と彼らは勢い込んでいた。
だが、その彼ら自身からして、東京ローズという血の通った一人の女性の実在を実際にどこまで信じていたかは、大いに疑問だ。終戦直前のニューヨーク・タイムズ紙には、東京ローズの実在を否定する記事が載っている。
「……東京ローズという人間は実在しない。これはGIたちが作り上げた名である。少なくともラジオ・ジャパンの二人の陽気な声の女性アナがこの名で呼ばれてきた。……一日二十四時間、外国短波放送を聴取している政府モニター機関では、日本がコントロールするすべての極東放送から、東京ローズの名を一度も聞いたことがないといっている……」(一九四五・八・八)
記者たち自身、半信半疑だったわけである。
それにしても、アメリカGIの人気者、東京ローズのニュース・バリューは大したものだった。もし万が一、彼女が東京に実在していたとしたら大スクープは間違いない。その万が一が彼らに取っては決してやすやすと見逃すことのできないものであった。彼らは万が一に賭けたのだ。
一九四五年八月三十日夕刻、内幸町にあったNHK(日本放送協会)放送局ビルの、戦後少数の者が居残っていた海外局へ、まず三、四人の記者、カメラマンが「東京ローズはどこだ! 東京ローズは誰だ!」と口々に叫んで駆け込んだ。まだ公式調印前に軍服にピストルを下げ、異常に興奮して飛び込んできた連合軍記者たちに、居合わせた者たちはびっくり仰天した。彼らはお互いに不安げに顔を見合わせた。
「……初めの一週間か十日ほど毎日幾人もの記者が、東京ローズは誰だといってやって来ました。しかし私たちは『知らない』をくり返し、『東京ローズとはいったい何者なのですか』などと反対に質問したりしてとぼけ、できる限り東京ローズに関することは答えないように努めました」(一九四九・七・十八)と後に政府側証人となったケネス沖健吉は証言している。
海外局員たちは、このように大勢の記者が押しかけてくる真意のほどがわからず、当惑していた。武藤義雄海外局長も「できるだけ愛想よくやろう。だが、すべて曖昧《あいまい》に答えて、誰の名前も出さない方がよい」といったので、のらりくらりと答えて逃げることにしたと沖はいう。
対米謀略宣伝放送に従事したアナウンサーのことだけに、NHKとしても十分用心してかかったようだ。事実、NHKには東京ローズの名を使った女性はいなかったのだ。彼らのいったことは決して嘘ではなかったのである。
3 予期せぬ悲劇の始まり
だが、実在しようとしなかろうと、東京ローズは最もホットなニュースだった。記者たちは何としても東京ローズ記事を書こうとした。九月一日付ニューヨーク・タイムズ紙には、次の記事がすでに見られる。
「東京ローズの正体、未だ謎!――八月三十一日横浜発AP――長い戦いの未やっとたどり着いた日本で、アメリカGIたちは未だに東京ローズを見つけることができずに焦っている。ローズとは果して宣伝戦が生み出した架空の女性だったのか――。
アメリカ人記者たちに横浜を案内して歩いた女性ガイドは、ローズは数人の女性英語アナであると語った。だが、その当の本人も英語を話し、日本側宣伝戦の元締めである同盟通信で働いていた。彼女は二十五歳、GIたちの夢を十分に満たせうる美人である。
『君もローズの一人では?』と聞くと、『私ではありませんが、少なくとも三人のローズに該当するラジオ東京の女性アナを知ってます』と答えた。……本当だろうか? フム……ガイドさん、君がローズじゃないの?」
同様の記事はAPおよびUP電で、同日アメリカ全土の主要新聞に見られる。UP電の記事はさらに詳しく、ガイドは二世の同盟通信タイピストであり、彼女は東京ローズ候補者としてロサンゼルス出身の二世トグリおよびハヤカワという二人の女性アナの名をあげたとある。トグリという名はこれとは別のところからもあがっていた。
帝国ホテルに宿を取ったリーとブランディッジは、偶然ホテルのロビーであったフィリピン傀儡《かいらい》政府日本駐在大使だったバルカスの息子を強いて案内に立たせ、大使とのインタビューに成功、日本での初仕事としている。その後、焼野原と化した東京を見て歩き、その第一印象を早速国へ送信しようと同盟通信へ出向いた。だが、そこでアメリカ軍の検閲が取れないとわかると、彼らは即刻厚木へ引き返すことに決めた。非常に新聞記事にうるさかったマッカーサーは、彼の指揮下にある地域では、すべての記事をまずマッカーサー司令部での検閲を通してから発信させていた。
リーによると、厚木へ車を引き返し始めた時、胸のポケットに入れていた、三日前に沖縄で受け取った本社からの東京ローズに関する電報を思い出したという。すぐ同盟通信へ戻った彼らは、そこのレスリー中島記者をつかまえると、「東京ローズは誰か」とたずねた。戦前、東京駐在UP記者をしていた中島はリーとは旧知の仲だった。しかしブランディッジとは初対面である。
中島は、東京ローズが誰か知らなかった。そこで彼を案内に立たせて、リーたちはNHKへ向かった。彼らは海外局で四、五人の二世と話し合った。リーは「皆そろって曖昧な受け答えをした。誰がローズか見当がついているらしいが、はっきりした名前は出したくないらしい」(リー証言、一九四九・七・十四)という印象を受けた。リーとブランディッジは他のニュース打電のため、その夜はいったん厚木へ戻った。
だが、その前に、ブランディッジは中島に、「ローズが誰か、至急心当りを調べてくれ。もし見つけられたら二百五十ドル以上の礼をする」と説きつけた。終戦直後、一ドルは十五円少々に換算されたとして、二百五十ドルは約三千七百五十円以上となる。当時一カ月を百円以内で暮していた一家はざらにあり、東京・中野付近の住宅地一坪が約四百円といわれた。二百五十ドルは日本人にとって大金といえた。
もっとも、中島はリーに協力したのはお金のためではなく、戦前、病気の彼の妻がリー夫人の世話になったりした義理のためだといっている。レスリー中島はハワイ出身の二世である。開戦後UP東京支社は閉鎖され、失職した彼は、一家を養うために同盟通信記者となっていた。
彼の宣誓供述書によると、中島は誰が東京ローズであるかを知らなかった。が、その名は戦時中、外信ニュースで聞いていた。リーたちから、ローズを捜し出したら大スクープだ、協力してくれ、と再三頼まれた彼は、翌三十一日の朝再びNHKへ出かけた。そこで彼は、以前から顔見知りの沖健吉をつかまえて、東京ローズは誰かとあらためて質問した。沖は初め、その名を使った女性アナはいなかったと他の局員同様に逃げたが、やがてGIに人気のあった番組「ゼロ・アワー」には五、六人の女性アナが出ていたと答えた。それら女性アナの名でも教えて欲しいと中島がさらに頼むと、沖はちょっと思案した後、たった一人の女性アナの名をあげた。アイバ戸栗(結婚名ダキノ)であった。
リーは厚木に一泊した後、三十一日早朝帝国ホテルに戻っていた。中島はさっそく彼に電話を入れた。「東京ローズの名を使った女性アナは実在しない。しかし該当しそうな女性アナは五、六人いるらしい、そのうち一人の名が判明した」とリーに伝えた。リーは、ローズが誰か分ったわけではなかったので落胆したらしく、考えてみるといっていったん電話を切った。だが、しばらくして電話してくると、「分った。彼女でいく、とにかくアイバ戸栗と至急連絡を取ってくれ。独占インタビューに応じるなら二千ドル払うといってくれ」といった。以上は中島の証言である。
リーの証言は少々異なっている。彼によると、三十一日午後中島は興奮してホテルのロビーに駆けつけ、「ローズが見つかった。彼女は自分と同じ同盟通信社員の妻だった!」と報告した。ブランディッジはさっそく中島に「もし彼女が独占インタビューに応じるなら、コスモポリタン誌が二千ドルで契約したいと伝えてくれ」といった。そして、できれば明朝九時半に連れて来て欲しいと頼んだ。
この二千ドルの契約金のことは、ブランディッジがコスモポリタン誌の特派員としてやったことであり、自分とは無関係だったとリーはいう。独占インタビューをリーがまず新聞記事として大まかに使った後、ブランディッジがコスモポリタン誌で詳しい記事にするというのが二人の約束であった。二千ドル(当時の約三万円)は、その頃の日本では目の玉の飛び出るような額であることはいうにおよばず、アメリカにおいてさえも、普通のサラリーマンが半年間は悠々と暮していける大金であった。
これを見ても、いかに東京ローズにニュース・バリューがあったか、わかるというものだ。しかも驚くべきことは、リーがこの時点で、すなわちインタビュー以前の段階で、東京ローズはアイバ戸栗でいくと決めてかかっていたという事実だ。まず電報で大見出しを入れた後、本文をテレタイプで送り、常に他の記者に一歩先んじることで名を馳せたリーは、その三十一日の夜、すでに以下の記事を送り込んでいる。
「プロパガンディスト(扇動家)東京ローズNo5、アメリカGIたちを下手くそな宣伝放送で楽しませた日本ラジオ・サイレンの一人はロサンゼルス出身のアイバ戸栗と昨日判明」
これは九月一日付ロサンゼルス・エグザミナー紙その他の全国ハースト系新聞を飾った。他の記者たちが同日、前記の「横浜ガイド」の記事でお茶を濁していた時、リーはすでにこのような早業をやっていたのだ。
リーの記事には、彼の電文を受け取った後、地元ロサンゼルスの記者が早速調べ上げたらしいアイバ戸栗に関するつけ足しが見られる。それによると、彼女はUCLA大(カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校)卒であった。そして大学で捜し当てたらしい彼女の大学卒業記念写真がのっていた。黒い角帽に黒いガウン、四角い顔に金縁のメガネをかけた彼女の写真は、いわゆるセクシーな東京ローズのイメージとは似ても似つかぬものである。
このリーの記事は、アイバ戸栗の名を東京ローズとしてはっきり指摘した最初のものである。しかしながらこの時には、さすがのリーもアイバを東京ローズに該当する数人の女性アナの一人、No5と書いており、東京ローズその人とは断定していない。
九月一日早朝、ダキノ夫妻が二部屋借りていた世田谷区の城戸宅に中島がやって来た。彼はまず二人に大勢の連合軍記者がGIたちの人気者東京ローズを捜しており、それが大スクープになるらしいと説明した。アイバ戸栗ダキノ(局では結婚後もアイバ戸栗で通っていた)は、「私は東京ローズではない。ゼロ・アワーには幾人もの女性アナが出ていた。私はその一人にすぎない」と答えた。しかし中島は、局で彼女の名だけがあがったので、今に大勢の記者たちが押しかけて来るであろうから、この際コスモポリタン誌に独占インタビューを与えてはどうだろうか。そうすれば他の記者はもはやスクープ成らずと追い回すことをあきらめるだろうし、その上二千ドルが手に入るのだ。一石二鳥の得策では、とすすめた。
まず夫のフィリップ・ダキノが「他の記者たちに追い回されなくてすむ」という点で相槌を打ち、渋っていたアイバを納得させた。中島は、早速ダキノ夫妻に仕度をさせると、リーたちが待っている帝国ホテルへ二人を案内した。
実際には東京ローズという女性アナが実在しなかった以上、それに一番該当する女性アナとして、アイバ戸栗の名があがるのは初めから時間の問題であったのかもしれない。
「GIたちが東京ローズと呼んでいるのはどうも夕食時の番組ゼロ・アワーの女性司会者を指していると思われる。その女性アナは少女のような声で陽気に小利口な話し方をする。……彼女は常に自分のことをラジオ東京のアニー≠ニか小さな孤児アン≠ネどと呼んだ」
この一九四五年八月八日付のニューヨーク・タイムズ紙で、すでにゼロ・アワーの孤児アンは東京ローズの最有力候補者とされていたのだ。そしてアイバ戸栗は、ゼロ・アワーの孤児アンをつとめた女性アナであった。しかし、戦時中日本の宣伝放送を一日も欠かさずモニターしていた政府モニター機関に問い合わせて書かれたこの記事は、孤児アンが「少女のような声」であったと表現している。これが軽視できぬ問題点であることは後に明らかになる。
こうして、八月三十日、誰の名も出さぬといったはずのNHKで、翌三十一日にはすでにアイバ戸栗の名が東京ローズ候補者としてあがっていた。だが局では、空襲で彼女の家は焼けたらしいのでどこに住んでいるかは知らぬと、住所は教えなかったらしい。そのため記者たちは「アイバ戸栗捜し」の競争に移っていた。
ヤンク誌記者のデール・クレマー軍曹が、最初に彼女の住所を捜し当てた記者であった。クレマーをアイバの家に案内して行ったのは、沖健吉である。しかし三十一日夕方、彼らがダキノ宅を訪れた時、アイバもフィリップも留守だった。他にも仕事があったクレマーは、彼女を待たずにすぐ引き上げてしまった。
「それが大失敗だった! ハースト系コスモポリタン誌が二千ドルという金の力を利用して、われわれを出し抜いたのだ!」(ヤンク誌、一九四五・十・十九)と彼は翌日じだんだを踏んでいる。しかしこれは、誰よりもアイバにとっての不幸だったのかもしれない。彼女を最初にインタビューした記者がハースト系記者ではなく、アメリカGI誌「ヤンク」の記者であったならば、彼女のその後の運命は違っていた可能性は強い。
約束の午前九時半、リー証言によると、彼がホテルの自室の窓から外を見ていると、若い男女をともなった中島がホテルに入ってくるのが見えた。間もなく三人は二階の彼の部屋に上がって来た。一足遅れてブランディッジが入って来た。
アイバ戸栗ダキノは、彼女のその後の運命を変えた二人のハースト系記者に、それとも知らず、いたって気軽に会った。その場の誰にも、この出会いが深刻な事件へと発展していく予感はない。リーたちはスクープのことだけが頭にあり、アイバ自身は突然自分の置かれた「人気者」としての立場にいささか当惑しながらも、久しぶりにアメリカ人とあえたことを喜んでいた。「楽しいとさえいえるその場の雰囲気だった」と彼女は後に述懐している。
これが、東京ローズ魔女狩りのプロローグである。それは、まだ公式降伏調印も終らぬ八月三十一日という、大半の日本人が飢えと必死に戦い、明日の自分の運命さえも予測できなかった敗戦後の大混乱期に、連合軍従軍記者たちのこのような狂騒によって悲劇の幕を上げた。
4「東京ローズ」を作った二人の記者
九月一日、アイバを独占インタビューした二人の記者は、生き馬の目を抜くジャーナリズム界でさえ、ひときわ目立つ凄腕の男たちだった。内容の深い記事を書くというよりは、他社を出し抜くスクープだけを追って、センセーショナルな記事に仕立て上げるタイプの記者である。彼らは「売れる記事」を書いた。
新聞記者を父母に持つクラーク・リーは、彼自身も大学でジャーナリズムを専攻後AP記者となり、トントン拍子に出世して、各地の支局長を歴任後、戦争前の東京、上海を回り、日本の中国侵略を二年にわたって日本軍について取材して歩いた。日米開戦後はまずマニラでマッカーサー詰めとなり、やがてコレヒドール陥落の際、元帥がオーストラリアに逃げのびた潜水艦に同乗していた。
その後、INS社に法外な条件で引き抜かれたリーは、ヨーロッパ戦線にまわり、数々の大ニュースをカバーした。彼は命を賭けて前線に飛び込み、塹壕の中でタイプライターを打ち続けたヒーロー的記者の一人で、第二次大戦で最も知られた従軍記者の一人である。
彼に比べると、ハリー・ブランディッジは二、三流の記者といえた。アル中だったという人がいるほどの酒好きで、昼からいつも酒臭かった。だが、彼にも一九二〇年代のアル・カポネ全盛時代のアメリカ中部で犯罪撲滅運動に一役買い、サツ回りの記者として大活躍した時代があった。ハバナ=ニューオリンズ間のルートを通った禁酒密輸船に密かに船乗りとして乗り込んで摘発したり、学生に化けてインチキ医学校をあばいたりなど、みずから映画のヒーローよろしく敵地に乗り込み、警察も顔負けの活躍の末、悪をあばくというセンセーショナルなギャング犯罪暴露記事シリーズでなかなか売れたらしい。
戦争中はコスモポリタン誌特派員として戦場ニュースをカバーしたが、その頃すでに彼は古いタイプのジャーナリストと見なされていた。彼の書いた記事を見ても大袈裟な、もったいぶった文章が目立ち、リーと比較して「書けない記者」であったことは一目瞭然だ。また彼の人格を疑う者も多く、同業者間でもあまり高く評価されていなかった。
日本入りした記者たちのトップ・リストにあげられた三つの事項のうち、リーとブランディッジは東京一番乗りだけは紙一重の差で逸した。とはいえ、東京ローズとのインタビューに成功したのみならず、東条英機とのインタビューをも物にしている。
従軍記者たちが東京ローズ捜しで見せた狂態ぶりを憂慮したCIC(対敵諜報機関)が、その直後彼らたちの東京入りを一時禁止した時、リーたちは占領軍MPの目が届かぬ国電で東京に入り、顔がよくきく帝国ホテルに陣取った。そして、元憲兵を買収して東条宅の住所を手に入れると早速押しかけ、強引に東条とのインタビューに成功した。
東条がピストル自殺をはかったのは、その翌日、九月十一日であった。その時もリーたちはピストルの音に続いて土足で飛び込んだ記者の一人であった。殺しには慣れたブランディッジは、弾丸が貫通していると素早く見抜き、MPがぐずぐずしている間に、東条が背にしていたクッションから弾丸を抜き取り、またとない記念品としてポケットに収めている。
リーは、その日あやうく大失敗するところだった。彼は、東条の自殺を見とどけた後、いち早く近所の木材工場の電話を使って、彼の得意手である電報で「米軍逮捕に先立ち東条ピストル自殺を図る!」と打っていた。その時通訳としてついて来ていた読売の記者が息せき切ってかけつけると、「東条は死んだ!」と伝えた。そのためリーは「間もなく死亡《ヽヽ》!」とさらに付けたして速報を打ってしまった。
だが、その後も東条の心臓はとまりはしなかった。すでに東条を死なせてしまったリーはあわてた。電報を打ち直したくとも、電話の前には他の記者が長い行列を作っていた。焦った彼はブランディッジの入れ知恵で、二人して東条を動かして大量出血させ、自分の打った速報を正当化しようとさえ試みた。
この一件でリーは冷汗をかいたが、幸いにもその後ホテルに帰って打った電報が締切りに間に合い、あやうく大恥をかかずにすんでいる。
要するに、アイバを|つかまえた《ヽヽヽヽヽ》リーとブランディッジは、大変な|やり手《ヽヽヽ》だった。彼らにとって、アイバは赤子の手をひねるよりもやさしい相手だったにちがいない。が、さすがの二人も初めて彼女を見た時は、いささかあわてたようだ。GIのアイドル、東京ローズはセクシーで魅惑的な女性のはずなのだ。ところが彼らの目の前にはいささか緊張した面持ちの、学生っぽいとさえいえるアイバが立っていた。彼女にいわせると、「エバー・ガードナーであるべきはずなのに、目の前にいたのは私《ヽ》だったのです」ということになる。
髪は三つ編、黄色っぽいブラウスに赤茶のチョッキ、紺のモンペをはいたアイバは五尺二寸ほどで、ずんぐりした感じを与えた。決して色白とはいえないアゴがきつく張った四角い顔に、利発そうな目がよく光る。特徴といえば、上唇のちょっと上に大きなホクロが目立った。見るからに頭がよく、意志の強そうな感じの女性だ。しかし、お世辞にも、セクシーとか女らしい美貌とはいえなかった。リーたちには二十歳前後と見えたらしいが、その時アイバは二十九歳であった。
ひと通り紹介がすみ、最初のショックから立ち直ると、ブランディッジは開口一番、「あなたが東京ローズか?」と聞いた。リー証言によると、その時アイバは堂々と「たった一人の東京ローズ」といい切ったとされている。法廷でもこの点が非常に問題になったが、リーはこの主張をかえなかった。しかし初対面で緊張しているアイバが開口一番「たった一人の……」といってのけたという言葉には、少々不自然さが感じられはしないか。アイバ自身の証言も、これとは大分ちがっている。
「ブランディッジさんにローズかと問われた時、私は『該当する女性アナは局に少なくとも五、六人はいた。私はその一人にすぎない』と答えたのです。すると彼は『君は局で女性アナウンサーだったのだね?』と聞きました。私がそうだというと、リーさんが『彼女でいけるよ』といい、中島さんに『ラジオ東京で彼女の名が出たのだね』と念を押した後、『彼女でいこう。ローズは彼女でいける! 要するにわれわれはスクープが欲しいのだ。それじゃさっそく話を聞かせてもらおうじゃないか』といったのです。ブランディッジさんが素早くドアに鍵をかけました」(証言、一九四九・九・九)
アイバの夫フィリップ・ダキノおよびレスリー中島の証言は、これと一致している。「ドアに鍵をかけた」というのは、インタビューの最中に他の記者が入ってこないための用心だった。そして契約を早く片づけてしまおうというブランディッジの提案で、まず契約書が作られた。
契約書 一九四五年九月一日、東京・日本
この契約は一九四五年九月一日、東京帝国ホテルにて、コスモポリタン誌と東京ローズとして知られるアイバ戸栗との間で、以下の条件のもとにのみ成立するものとする。
一、アイバ戸栗はラジオ東京より放送したたった一人の東京ローズであったこと。
一、彼女には女性アシスタントや代理がいなかったこと。
一、彼女の話は初めて語られる真実の話であり、決して他の人にそれをくり返してはならぬこと。コスモポリタン誌が記事の独占掲載権を有し、その後はINSがシンジケート権を持つ。
コスモポリタン誌代表としてハリー・ブランディッジは、アイバ戸栗に二千ドルの独占権を支払うことに同意する。また今後映画、リーダーズ・ダイジェストその他からの収入がある場合、それらすべてはアイバ戸栗に属することに同意する。
(サイン)  アイバ郁子戸栗
ハリー・ブランディッジ
(証人サイン)クラーク・リー(INS)
レスリー中島(同盟通信)
フィリップ・ダキノ(ラジオ東京)
これが、裁判で重要な証拠物件となった二千ドル契約書の内容である。
「私はローズではありません。その一人にすぎない」といった直後に、アイバはなぜこのような契約書にサインをしたのか。
「彼女が東京ローズと名乗りでたのは、彼女の虚栄心によると私は思う。すでに自分は多くのGIの間で国際的な人気をえているらしい。この記事が出れば、アメリカ中のあらゆる新聞雑誌に書き立てられ、自分の写真がのるのだと考えたに違いない」(前掲書)とリーは書いている。
この点を法廷でするどく検察側につかれた時、アイバは「独占インタビューを与えることによって他の記者たちを追い払えると思ったので契約した」とだけくり返した。もちろんそれも理由の一つではあろう。しかしクレマー軍曹は、アイバの言葉として次のように伝えている。
「私には、局の連中が私にすべての責任を押しつけようとしているのがわかった。……同盟通信記者が契約金の申し出を持ってやって来た時、私はインタビューを与えるのは時間の問題だと考え、それならさっさとやってしまおうと思った。そして誰かが大金をもらえるのなら、私がその|誰か《ヽヽ》になってやろうと思った」(ヤンク誌、一九四五・十・十九)
アナとしての彼女の給料は六・六ドル(百円)と報道された。二千ドルとは夢のような大金である。この金額に魅力があって当然だろう。貧乏のどん底にいたその頃の日本人なら誰しも、少々調子を狂わせずにはいられない額だ。
そのうえ、記者たちは人気スターを追いかけ回すかのように、彼女を追いかけた。東京ローズは人気者であり、アイバが一番それに該当する女性アナと局でも認めたのだ。しかし、「リーたちが自分をその人気者東京ローズに仕立て上げようというのなら、それもよい。私がそのラッキー・ガールになってやろう」とアイバが思ったとしても、果してどこまで彼女が本気《ヽヽ》であったかは大いに疑問である。
むしろ待ちに待った自国アメリカの勝利による終戦を迎え、アメリカの家族に再会する日もそう遠いことではないと心が弾んでいた時、このローズ騒ぎに巻き込まれ、それではと自分の方からも祭りの片棒をかつぐような軽い気持だったのではないだろうか。彼女の代理となる女性アナがいなかったなど、契約書に見られる明らかな嘘を無視して、彼女はサインしている。フィリップも、彼とは無関係だったラジオ東京の局員として証人サインをしている。どこかに遊びがあり、ことの重大さに気がついていないことだけは確実だ。
そのうえ、金が魅力だったのは確かなのに、契約直後二千ドルの一部を日本円で支払おうというブランディッジの申し出を、アイバはあっさり断っている。アイバのNHKでの同僚であり、やはりローズ候補としてその名があがったアナウンサーであるルース早川はこういっている。
「いくら東京ローズがGIの人気者だったとしても、それは対米宣伝放送に関係したアナウンサーのことです。アイバのように頭がよくてしっかりした女性が、どうしてそこのところを十分わきまえもせず、ローズとして名乗り出ていったのか、私には未だに理解できないのです」(著者とのインタビュー)
アイバが東京ローズとして契約書に十分注意も払わずサインしてしまったのは、明らかに彼女の軽率さに責任の一端がある。二千ドルという金の額に心が動き、また有名人となってアメリカの家族と再会するのも悪くないと思ったのかも知れない。それは、リーのいう虚栄心であり、彼女のナイーブさでもあったはずだ。
契約後、一同はお茶を飲んでひと息ついた。中島は三十分ほどいて引き上げて行った。リーがタイプライターを机に置き、アイバとフィリップはその前のベッドに腰掛けると、インタビューは始まった。
手慣れた様子でリーはアイバに質問しながら、同時にその会話をタイプで打ち取っていった。彼女の生立ち、日本へ来た経過、NHKへ入社した経緯など、話の内容に深入りはせず、アウトラインだけを聞き取っていくやり方だった。リーは「彼女はよどみなく、むしろ楽しそうに自ら進んで話してくれた」(証言、一九四九・七・十五)という。
インタビューは約四時間も続いた。この間、ブランディッジはリーに任せっきりで直接質問することはなく、部屋を出たり入ったりして、終始立ち会っていたわけではなかった。アイバの夫フィリップはほとんど口をきかず、たまに窓から外を眺めるほかはじっと彼女の側に坐っていた。
インタビューが終った時、リーは十七枚のタイプノートを打ち取っていた。そしてアイバは彼に乞われて、「一九四五年九月一日、帝国ホテルで私をインタビューしたクラーク・リーへ、たった一人の東京ローズ・アイバ戸栗より」とサインを与えた。「ごく軽い気持でした。軍服を着た彼らが友情のしるしにそのようにサインしてくれというので、サインしたまでです」(証言、一九四九・九・九)とアイバはいう。
後に、弁護側より宣誓供述書を取りに通訳として東京へ行った中村哲次郎(二世)に、フィリップはこの時点で不安を感じだしていたと語っている。彼は二人のタフな記者を見た時いやな予感がしたらしい。アイバが気軽に契約書にサインした時から不安がつのってきた。
当のアイバはむしろ陽気ですらあった。アイバのアメリカは勝った。そして彼女は、その勝利のために戦ったアメリカGIたちのアイドル「東京ローズ」に祭り上げられたのである。
5 アイバ「ローズ」説をめぐる狂態
九月一日夕方、アイバとのインタビューの直後、リーは厚木から次のような記事を送った。
「反逆者―東京ローズの給料―六・六六ドル(東京発)――ロサンゼルス出身の日系二世であるたった一人の東京ローズ≠ヘ、みずから進んでにがい薬を飲む=i愚行に対する罰を受ける)覚悟である。アイバ戸栗、三十歳(実際は二十九)、UCLA卒は当記者との独占インタビューで、アメリカ軍を望郷の念におとしいれようという目的の仕事をするに当って、それがアメリカへの反逆となることなど考えもおよばなかったと語った」
これはミズーリ号での降伏調印式の記事とならんで、九月三日付ロサンゼルス・エグザミナー紙第一面に、リーの署名入りで載った。GIのアイドルと呼ばれた東京ローズに「反逆者」のタイトルがつくのはこの時からである。リーは、インタビュー前にはこのような書き方をする気はなかった。が、話を聞いているうちに、「反逆者」という言葉がひらめいたという。それが大スクープを飾る最もカッコよい言葉だと思ってごく自然に使ったと、後にデラプレン記者に語っている。
一方、コスモポリタン誌には東京ローズの記事は使われなかった。九月一日夕、厚木にローズ記事を送電に行くリーに、ブランディッジは「反逆者東京ローズとの独占インタビュー成功」の電報をニューヨークのコスモポリタン誌本社に打つようことづけた。そしてリーが出て行くや、さっそくリーのタイプノートをもとに記事を書き始め、その夜は徹夜している。
だが、翌朝リーは浮かぬ顔をしてホテルに戻って来た。彼はブランディッジ宛のコスモポリタン誌からの返電をすでに手にしていた。同誌編集長フランシス・ホワイティング女史からのもので、同誌は「反逆者」の記事などに全く興味がなく、ましてや二千ドルもの大金を動かす気など皆目ない、いったいどんなつもりでそのような契約をしたのかさっそく説明せよ、というきついものだった(ナッシュビル・テネシアン紙、一九四八・五・二)。
これはブランディッジにとって、頭を一撃されたようなショックだった。そのうえ横浜では、二人に出し抜かれて口惜しがっていた二百数十人の他の記者たちが、この返電のコピーを張り出して大笑いしているという。ブランディッジは、これを生涯忘れえぬ侮辱と受け取った。その後何年間も彼が東京ローズ問題に見せた執拗さからも、それは十分にうかがえる。
なお、二千ドルの契約金は一銭もアイバには支払われなかった。彼女が二日後にヤンク誌のクレマーと話したことをたてに、ブランディッジは契約違反の口実とした。フィリップはその直後、彼が預っていた契約書コピーを引き裂いた。中島もまた一銭も受け取らなかったという。
翌九月二日、陸軍広報部員としてリーたちについて厚木入りしたチャールズ・セクストンが、もう一人の兵とともにアイバ宅を訪れた。後に弁護側証人となった彼によると、彼女はアメリカ兵である彼らを喜び迎えた。その時、彼女は幾人かいる東京ローズの一人だといったが、「私が東京ローズだ」とは決していわなかった。しかし頼んだら東京ローズのサインはしてくれたという。その夜遅くなった彼らは、アイバの好意に甘えて彼女のところに一泊している。
九月三日(二日はミズーリ号での調印で記者たちは忙しかった)、ヤンク誌のクレマー軍曹がアイバを再び訪れた。クレマーの証言によると、彼はまずNHKで沖健吉とあい、勤めていた同盟通信から帰宅しようとしているフィリップを紹介された。そして、すでに日本タイムス社の一角にオフィスを持っていた同じヤンク誌のジェームス・キーニー軍曹記者に車を頼みに行き、結局キーニーの運転で夕方六時頃、世田谷区のダキノ夫妻の借間に着いた。彼らには、アイバの海外局の同僚であり、フィリップとは学友として親しかった日向正三が同行した。
「小さな七輪で野菜を炒めていたアイバ戸栗に、われわれは初めて会った。彼女の夫で、まだ若く真面目そうなポルトガル人は、焦茶の国民帽を取ると靴をぬぎ、小さな畳の部屋に上がって、妻であるアイバをわれわれに紹介した……」(ヤンク誌、一九四五・十・十九)
クレマーたちは、ヤンク誌がアメリカGIの雑誌であり、そのGIたちに向ってアイバは放送していたのであるから、ハースト系のように金が支払える雑誌ではないが、ぜひインタビューさせて欲しいと頼んだ。リーたちと契約をかわしていたアイバは、最初これをことわった。しかし、前線であなたの放送を|楽しんだ《ヽヽヽヽ》GIたちの代表として頼んでいるのだと食い下がられて、行儀よく両手を膝の上にのせて目をふせていたアイバは、やがてそれを承知した。ここにも彼女が二千ドルにそれほど執着していない点が見られる。
「私が東京ローズだというなら、私の話を一部始終聞いて下さい」といって、彼女は生立ちから話を始めたとクレマーは証言した。それは、リーとのインタビューのくり返しといえた。
その夜、二人のヤンク記者はアイバに連合軍記者たちとの記者会見を提案した。彼らは、この際うるさく記者たちにつきまとわれ、ひとりひとりにインタビューを与えるよりも、彼女の方から進んで出て行く方が簡単だ、自分たちもGI代表として付き添って行くとすすめた。しばらく考えてからアイバは同意した。クレマーたちはさっそく横浜GHQのハウエル陸軍中佐に連絡を入れ、早い方がよいとして、翌九月四日、横浜バンドホテルでの記者会見を取り決めた。
九月四日、アイバとフィリップはクレマーとキーニーに日本タイムスのオフィスで落ちあった。NHK海外局の沖、森山久、日向も来ていた。彼らは全員そろって車で第一ホテルへ向った。クレマーたちヤンク記者が日向をともなってホテルの中に入って行った時、沖が「君のワイフのかわりに僕の家内(やはり海外局の女性アナだった古屋美笑子)の名前を出せばよかったよ」と、今や人気スター並みのアイバをやっかむようなことを半分笑いにゴマ化していったのをよく覚えていると、フィリップは証言している(一九四九・九・六)。
その後、アイバ夫妻、クレマー、キーニー、日向の五人は国電で横浜に向った。沖、森山とは国電の駅で別れた。横浜駅にはすでにGHQより軍のジープがまわされていた。
その夕刻、バンドホテル大食堂で、アイバは百人以上といわれる連合軍記者たちとの記者会見にのぞんだ。「カーキ色の軍服を着た記者たちで身動きできない感じがするほど、部屋はびっしり詰っていた。私が入って行くと一瞬シーンとなった。けれども皆、興味津々という感じでこそあれ、敵意は感じられなかった」とアイバは述懐している。
アイバの生立ち、経歴について、やつぎばやの質問が続いた後、まずアメリカ報道通信社に属するオーストラリア人記者から、「あなたたちが故郷オーストラリアに残して来た妻や恋人たちは、オーストラリア駐屯中のアメリカ兵たちとよろしくやっているわよ」という放送をしたことがあったか、という質問が出た。アメリカGI向けに、彼らの妻たちは国に残って軍需工場で働く男や4F(軍隊の身体検査で不合格となった者)と浮気しているなど、似たような内容の放送についての質問も続いた。いわゆる東京ローズ放送といわれるもののなかでも、品のよい方に属するものだ。
聞いていてアイバは、ガク然とした。そのような放送を強く否定する彼女に、前記のオーストラリア人記者がまた質問した。「南太平洋で聞いた声と私の声が違うみたいなので、彼が太平洋でよく聞いた文句の一つを読んでみてくれといわれました。私が皆の前で読み上げた後、彼は、私の声は彼の聞いた声とは全然別の声だといったのです」(アイバ証言、一九四九・九・九)
記者会見にのぞんだ記者たちの大半は、アイバ・ローズ説に半信半疑だったようだ。オーストラリア人記者同様、アイバの声がいわゆる東京ローズの声ではないと感じた者は意外と多くいた。彼らはまた、誘惑的な東京ローズのイメージとはおよそかけ離れたアイバに少なからず失望もしていた。
会見後、キーニーはホテルの庭の一角にテーブルをしつらえてマイクを置き、アイバが放送しているかのごとくセットして彼女の写真を写した。各誌は後に、これをNHKで戦時中対米宣伝放送中の彼女として使っている。
その後スターズ・アンド・ストライプス紙のルーベン軍曹(記者)に連れられて、ダキノ夫妻は当時第八軍が使っていた横浜税関所に行った。CICのメリット・ページ軍曹がそこへやって来た。ページはCICのチーフであるソープ准将が二、三質問をしたいので同行して欲しいと、いたって丁重に告げた。ソープ准将は簡単な尋問をしたのち、「まだいろいろ聞きたいが、すでに八時を過ぎてしまった。今夜はニューグランドホテルに一泊し、明朝また尋問を続けさせてもらいたい」(同証言)といった。
その夜、ダキノ夫妻はホテルに一泊した。部屋の外には看守のMPが立ち、鍵がかけられた。後にコリンズ弁護人は、これを逮捕状なしの事実上の逮捕であるとして、第一回目の逮捕と呼んだ。だが、アイバによると、そのような深刻さは毛頭なく、ビッグ・ジョークとしてむしろ楽しんだという。
一九四六年五月六日付サンフランシスコ・クロニクル紙によると、第八軍がアイバ逮捕に踏み切ったのは、ブランディッジの密告によるともいう。アイバとの法外な契約を自分の一存で結んでしまった後、コスモポリタン誌編集長におもいがけなく拒絶されたブランディッジは、自分でそれを支払う羽目になってはとあわてた。だが幸いにも、アイバがヤンク誌記者にインタビューを与えたことによって、契約は無効になった。「さらに駄目押しするために、彼はソープ准将に電話を入れ、戸栗嬢を投獄するように説きつけた」と、当時のCICの内情に詳しいクロニクル紙の記者は東京から書いている。
翌九月五日朝、CICのターナー中佐は、アイバを同ホテル大広間に設置されていた第八軍本部内のCICに連れて行った。そこで彼女は、ページ軍曹に朝八時から午後二時半頃まで取調べられた。リーやクレマーたちとのインタビューと大差ない内容の質問が相ついだが、いたって気軽な調子で進められた。人気者東京ローズがCICに来ていると聞きつけたGIがひっきりなしに彼女のサインを求めて出入りして、ページの取調べはそのたびに中断された。カメラマンも数人出入りした。しかしページは彼らをとがめようとはしなかった。
当時第八軍司令官だったアイケルバーガー中将自身さえも、この尋問中にアイバを自分の部屋に呼びつけた。中将は戦時中、ローズにかけてもらおうとB29機でレコードの包みを降下させたが、一度もラジオ東京でそのレコードが聞かれなくて残念だったといった。アイバはそんなことは聞いたこともなかった。アイケルバーガーは「とにかく、いつも楽しい音楽を聞かせてくれてありがとう」といい、東京ローズとしてのアイバの肩に親しそうに手をかけると、並んで記念写真におさまった。アイバはこのあとすぐ釈放されている。
要するに、この時のCICの取調べは形だけのものであった。前述のように、ブランディッジが契約無効を確実なものとするためにアイバをCICに|売った《ヽヽヽ》という見方は真実味がある。しかし三流記者であるブランディッジの電話一本でソープ准将が動いたとは思われない。CICとしては、自分たちを出し抜いてのすさまじい記者たちの東京ローズ騒動に驚き、東京ローズと名乗る人物が堂々と記者会見にのぞむにおよんで、対米宣伝放送アナウンサーのことだけに黙視するわけにもいかず、一応アイバの身元だけでもはっきりさせたのだと思われる。
事実、CICは記者たちが東京ローズ捜しで見せた狂態ぶりはひどすぎるとして、その後何日か記者の東京入りを禁じたことはすでに述べた通りだ。その彼ら自身を含めた第八軍のスタッフからして、アイケルバーガー中将を先頭にこのお祭り騒ぎに一役かっていたことは以上からも明白といえよう。
九月六日、アメリカ各地の新聞に次のような記事が大きく掲げられた。
「横浜発九月五日UP 東京ローズは今日、横浜バンドホテルで米第八軍MPに逮捕される――戦争中その蜜のような声でGIたちに呼びかけた三つ編みのアイバ戸栗(29)―カリフォルニア生れの二世―は記者会見後MPに逮捕された。彼女が甘い音楽を流し、にがにがしい宣伝放送をしたことにより正式に告訴されるかどうかは現在のところ不明だ。まずその前に当局は彼女の市民権をはっきりさせる必要がある。戸栗嬢は自分は四人いるローズの一人であり、放送は『経験』のためやったのであり、アメリカを裏切るようなことはひとつもやっていないと語っている。……『戦争に関するかぎり、私は塀の向う側から見ていた、ただの傍観者に過ぎませんでした』と彼女は語り、単にバッハからジャイブまでの音楽を流しただけで、決して宣伝放送はしなかったと付け加えた。また彼女は恋人、妻という言葉は一度も使わなかったと力説した。……忘れられた兵≠ニいう言葉は一九三二年の大統領選挙戦で聞いたのを覚えているだけと彼女はやり返した。……彼女は他の東京ローズとしてルース早川という二世(彼女は実は日本人)とジューン須山というカナダ生れの女性の名前をあげた」(ニューヨーク・タイムズ紙、一九四五・九・六)
この記事には、すでにリーの記事で使われた角帽をかぶったアイバの卒業写真がのっている。シカゴにいるアイバの兄と妹がこのニュースに驚き、アイバとは戦争中音信不通であったという小さな記事も付け加えられていた。リーがアイバに反逆者のタイトルをつけた記事から三日目、アメリカ全土に流され、ラジオにも取り上げられたこの記事は、UCLA卒のアイバ戸栗の名前を東京ローズとして人びとの脳裏に焼きつけた。
九月十五日、第八軍所属通信隊ニュース班のジャック・カデソン軍曹がアイバを訪ねてきた。カデソンは、GI向けに東京ローズのニュース映画を撮りたいので、是非協力して欲しいと頼んだ。そして十月初旬、NHKのスタジオNo4(アイバが実際に戦時中使用したスタジオはNo5だった)を使用して、アイバの出演部分の撮影が行なわれた。カデソン自身が放送原稿を書いたこの映画は、インタビュアーがアイバに質問をする形式が取られ、それにあわせて随所にフラッシュ・バックの形で俳優が演じるアイバの生立ちや戦場のGIたちの様子が入れられたものらしい。アイバ自身が放送シーンをみずから演じた(彼女は一度もこの映画を見ていない)。
撮影中、東京ローズを一目見ようと集まったGIで、外の廊下は身動きできないほどに埋めつくされた。スタジオ内も、なにかの形で入れたラッキーなGIがアイバのサインを求め、撮影関係者と見学のGIは同じカーキ色の軍服で区別がつき難く、ごったがえしていた。
撮影に立ちあったフィリップは、演出を担当したピーター・キーン大尉がアイバに、「それが地声ですか。僕が南太平洋で聞いた東京ローズの声とは違うなあ」といったのをよく覚えている。フィリップはこの一カ月間に起った数々の出来事に唖然《あぜん》としていた。妻がただではすまないのではないかという不安はつのる一方だった。彼女が気安くサインを与えるのも気になったと証言している。
だが、アイバはこれをフィリップの取り越し苦労とみて、たいして気にかけなかった。宣伝放送に従事してはいたが何も悪いことをしていないという確固たる自信が彼女にはあった。また、もし逃げ隠れしたところで、軍がその気になれば隠れおおせるものではないということも知っていた。
そのうえGIたちは、ローズとしてのアイバに一目あいたがり、サインを求めて大騒ぎしていた。撮影後スタジオの外に出たアイバは大勢のGIに囲まれた。MPがさばききれず、フィリップの手をきつく握った彼女はどうなるのかと恐ろしくなったほどだという。
アイバは勝利に酔ったGIたちの、まさしくスターだった。アイバ自身がいうように、たとえ彼女がエバー・ガードナーのようなセクシーな女性でなくとも、GIたちはアイバを一目見ることに満足と興奮を示していた。
6 逮  捕
東京に進駐したマッカーサーのGHQが、着々と占領政策を実行に移していた頃、一カ月半にわたるローズ騒動に突然、終止符が打たれた。
十月十七日、洗い髪にブラシをあてていたアイバの借間へ、なんの予告もなく、ホルガン軍曹を初めとする三人のCICが現われた。
「午後三時半頃でした。横浜CICから二人(証言のママ)の将校が、軍曹だったと思います、私の自宅にやって来て、二、三また質問したいので一緒に横浜まできて欲しいといいました。そして出かけるまぎわに、もしも一晩泊まることになった時の用意に歯ブラシを持ってきた方がよいといったので、私はそうしました」(アイバ証言、一九四九・九・九)
フィリップはまだ帰宅していなかった。いわれるままにあわてて身じたくしたアイバは、気軽に彼らのジープに乗った。だが、連れていかれたのは、マッカーサー東京進駐後も横浜に残っていた第八軍司令部ではなかった。思いがけなくも、当時第八軍が使っていた横浜プリズン(刑務所)であった。
この第二の逮捕の時にも、逮捕状はなかった。後に検察側すなわち政府側は、占領軍下において疑わしいと思われる者を逮捕状なく拘禁するのは通例のこと、正常時とは場合が異なるとこれを説明している。しかし、この逮捕は政府側が主張するように軍の一存ではなく、ワシントンの司法省と無関係ではなかった。すでにその頃、東京ローズに対するアメリカの世論は穏やかではなくなっていたのだ。
それはまず、九月十三日、アイバの生まれたロサンゼルス市で始まっている。この日、ロサンゼルスより出ていた州検事チャールス・カーは「東京ローズとして知られるロサンゼルス出身のアイバ戸栗を反逆罪で起訴するため、当地に連行することを司法長官に願い出るつもりである」と記者会見で発表した。一九三六年から四〇年まで司法長官のアシスタントを務め、司法省と深いかかわりを持つカーは当時四十二歳の働き盛りだ。彼は一九六二年からロサンゼルス地方裁判所判事になっている。
法律のプロであり、州検事であるカーが新聞記事に扇動され、ことの真相も確かめず、このような行動に出た背景には、政治的野心に燃える彼のスタンド・プレーと、日系人に強い偏見を抱くカリフォルニアの大衆感情があったと思われる。カーの声明は翌九月十四日、ニューヨーク・タイムズを初めとする全国の新聞に報道された。この声明こそ、アイバ戸栗を反逆者・東京ローズとして公に糾弾した第一弾であった。司法省としても、公に反逆者と名指しされたものを野放しにしておけるはずがなかったのだ。
「ここでしばらく待っていて下さい」といわれた以外なんの収容理由も説明されず、気づいた時、アイバは牢の中にいた。トリプルA師団が管理していた横浜プリズンには、その十日ほど前まで二十二名の日本人戦犯がいたが、彼女が入れられた時には、かつての大森捕虜収容所に移されていた。
横浜プリズンでの第一夜、アイバは一睡もできなかった。東京ローズ逮捕をどこから聞きつけたのか、GIたちが、入口から幾つもの関門を通らなければならぬ彼女の房に、どのような許可を取ってくるのか、ひっきりなしに押し寄せた。
彼らのなかには一目でそれとわかる職業の日本人女性を連れた者も多かった。彼らの大半はなにか不思議なものでも見るようにじっとアイバの一挙一動を見守った。しつこくサインを求めるもの、下劣な捨てぜりふや罵倒を浴びせるものもいた。これが二、三日続いた。朝方|見学《ヽヽ》のGIたちが引き上げてからウトウトするだけのアイバは、毎朝十時の運動時間の散歩にも間に合わず、とうとうプリズンを管理していたハーディ大佐に訴えた。その結果、高級将校《ヽヽヽヽ》のみが東京ローズ見学を許されることになった。
その後行なわれたCICの尋問は、あっけに取られるような質問の連続だった。「東条と夕食をともにしたというのは本当か?」「日本政府へ宣伝戦のことで助言したそうだが?」「アメリカ機が落した伝単(宣伝ビラ)の反応はどうだったか?」という具合だ。
アイバは急に帝国日本軍の重要人物になってしまった自分に驚き、「私は一介のタイピストあがりのアナウンサーに過ぎなかった」と主張したが、彼らは信じなかった。取調べが進行するにつれ、アイバのいうことは、つまり否定することは、すべてデタラメとされていく。「ローズは口八丁の大嘘つき、したたか者」であり、日本の防諜活動にも関係したらしいのにシラを切っているとして、彼らはアイバを全然信用しなかった。開戦直前の一九四一年に日本に来たのも特別な理由があったはずだと、特にしつこく尋問した。
その時CICは、彼女がどこの国の国民なのかについてはっきりした結論を出せず、難渋していた。一応アイバ逮捕の際、「彼女が法的にアメリカ人であると確定した結果、逮捕に踏み切った」とCICは発表していた。しかし実際には、この時点でのアイバの市民権は確定していなかった。
プリズンの管理者たちも、彼女をアメリカ人として扱うべきか日本人として扱うべきかの判断が下せず、些細なことで毎日ゴタついた。アイバが「私は二十五歳まで一歩もアメリカの外に出たことのなかったアメリカ人です」といくら大声で主張しても、「ウソつき東京ローズ」には誰も耳をかさず、黄色の肌をした日本人に見えてアメリカ人と少しも変わらぬアメリカ英語を話す彼女を一体何国人とするか決めかねていた。彼らはアイバを布団に寝かせるべきか、べッドにすべきか、日本食かアメリカ食か、といちいち迷った。
外と連絡を取ることはいっさい許可されなかった。弁護士を付けて欲しいという要求も、夫フィリップへの連絡さえも許されなかった。歯ブラシ一本持っただけで家を出たアイバは、拘禁後の十日から二週間ほど、まさに着のみ着のままですごさねばならなかった。幸いにもその後、偶然プリズンで見かけた日本語学校時代のクラスメートだったスイス人の赤十字関係者と連絡が取れ、彼がフィリップから着替えその他の日用品を持って来てくれた。それまで、彼女は泣くに泣けないみじめさを味わった。
一方、帰宅してアイバが連行されたことを知ったフィリップは、すぐ横浜第八軍本部CICにかけつけた。しかし、自分の妻が横浜プリズンに拘禁されているのを告げられたのは数日後である。「彼女に面会しようといろいろ手をつくしました。でも訪問パスをもらうことができませんでした。プリズンの大佐(ハーディ)に断わられたのです」と彼は証言している(一九四九・九・六)。おとなしい性格の彼にとって、アイバが牢獄で味わったのに劣らぬ辛い日々だったに違いない。
占領軍にはWAC(陸軍婦人部隊)が加わっていたのに、プリズンの看守はすべて男たちだった。そのため女性であるアイバには不便なことも多かった。
ところで、この横浜プリズンには彼女の他にもう一人の女性がすでに入っていた。リリー・アベッグというドイツ系スイス女性である。彼女は戦前からファナティックなナチ・ドイツ紙フランクフルター・ツァイトゥングの特派員として長年日本に駐在し、極東におけるナチ・ドイツの重要人物の一人だった。
彼女はまた、戦時中ドイツ大使館がNHKスタジオを使ってやっていたドイツ宣伝放送に関係があった。アベッグは東京ローズの放送原稿を書いていたという嫌疑で、アイバより一カ月以上も前に捕まっていた。九月十一日に東条以下三十八名の戦犯逮捕指令がGHQより出たが、戦時中日本軍に協力した容疑で捕った日本人以外の者で、たった一人の女性がアベッグであった。
一九四五年九月十四日付のロサンゼルス・エグザミナー紙には次のような記事がのっている。
「スイス女性・東京ローズの仕掛人――東京ローズを陰で操っていた人物が今日判明した。……東京ローズとして放送した女性は幾人もいるが、彼女たちのいうことは、すべてある人物により指導され工夫されていた」
九月十二日付ニューヨーク・タイムズ紙にあげられた戦犯リストにはアベッグの名がみられ、「ドイツ人、たぶん本物《ヽヽ》の東京ローズ」と説明されている。GHQはどこからこのような情報を握り、アベッグの逮捕に踏み切ったのだろうか。
彼女はアイバの出ていた番組ゼロ・アワーと無関係だっただけではない。日本の宣伝放送自体とも全然関係のない人物だった。アイバとアベッグは横浜プリズンで初めて顔を合せている。だがCICはそれを信じなかった。アイバにはアベッグの書いた放送原稿を使って放送したのではないかと迫り、アベッグにはアイバの放送原稿を書いたであろうとくり返した。アベッグが東京ローズ事件関係者で捕まった二人のうちの一人であったことは、まったくCICの粗雑さを示している。
これはまた、いかにアメリカ大衆が東京ローズに関心を持っていたかを物語っているともいえよう。終戦後、東京ローズが幾人かの女性アナの総称であることが判明したにもかかわらず、アイバ一人がデッチあげられた。しかし納得できない点が多く残った。前節で述べたように、CICも取調べの結果、彼女を、留置するにはいたらなかった。軍当局は放送原稿をただマイクに向って読んだ女性アナよりも、原稿を書き、陰で指示した人物こそ問題があると気づき、その捜査に方向を変えた。それはよい。しかしその結果逮捕されたのが、こともあろうにゼロ・アワーとは無関係のアベッグであった。そしてその失敗に気づき、再びアイバの逮捕となった感がある。東京ローズの評判があまりにも高くなり、しかも反逆者のレッテルがはられ、世評を押える意味でも、誰か一人東京ローズ関係で引っぱる必要があったのだ。
この頃から新聞は|幾人か《ヽヽヽ》の東京ローズという言葉を使うのをやめている。アイバすなわち|たった一人《ヽヽヽヽヽ》の東京ローズとしていちように書き立て始めた。CICに足並みを揃えたわけだ。人びとは、アイバの名のみを東京ローズとして記憶に残していった。
投獄されて約一カ月の十一月十六日、また突然やって来たベスラー少佐と二人のMPに連れられて、アイバは救急車で巣鴨プリズンに移された。
彼女はそこで、やはり横浜から巣鴨に移って管理にあたっていたハーディ大佐に対して、拘禁の理由の説明、|迅速な公開裁判《スピーデイ・トライヤル》の要求(被疑者は事件後まだ当事者の記憶の新しいうちに公平にして迅速なる公開裁判を受ける権利を有する)、弁護人選任権の要求(弁護人をつけて欲しい)、夫フィリップに面会したいなどのアメリカ人である刑事被疑者が当然保障されている(アメリカ憲法修正第五、第六条)最低限の基本的人権要求を願い出た。彼女は同様の要求を、プリズンの管理にあたっていた将校たちにも再三繰り返した。
しかし、これらはすべて否定された。というより無視されたのだ。当時の日本人に、これらの人権擁護をとくに新憲法として押しつけようとしていたアメリカ政府が、自国民の基本的人権を完全に無視していたことになる。CICは公には「アイバは反逆罪の容疑で逮捕された」と発表していながら、アイバ自身にははっきりした逮捕理由さえ説明していなかった。夫との面会だけは十二月末にやっとかなえられている。手紙は日本人戦犯同様に、日本国内での文通だけは許可されたが、他のアメリカ人囚人に許可されていた本国との文通は許されなかった。アメリカ本国にいる家族との文通は禁じられた。
巣鴨に移されてからは、一カ月に二回ほどの割でCICによる尋問があった。どれも同じような簡単な取調べだった。事態に進展は見られず、アイバは気がせいた。彼女の単調な巣鴨での生活とは反対に、プリズンの外の世界は目まぐるしく変化し、揺れ動いていた。占領軍の政策は過去の一切を否定するかのような厳しさで日本に迫っていた。
戦犯逮捕が相つぎ、公職追放により、それまで日本の第一線で権力を握っていた軍国主義者たちは姿を消そうとしていた。アイバが逮捕状もなくCICに逮捕される約二週間ほど前、マッカーサー司令部は国防保安法・治安維持法を廃止し、政治犯を釈放し、民主主義を日本人に教えようとしていた。天皇や国家を批判する権利を与え、特高警察廃止の指令が出た。五大改革指令、農地解放、財閥解体と相ついだ。新憲法の草案は、マッカーサー司令部より翌年二月に日本政府に手渡されている。
占領軍が日本民主化に多忙を極めていた時、日本人は必死で飢餓との戦いをくり広げていた。誰もが自分の生活で精一杯だった。他人にかまっている余裕などなかった。アイバは、自分が牢の中で忘れられた存在になっていくのではないかと恐れずにはいられなかった。
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二章 アイバ戸栗ダキノを襲った悲運
1 日系二世に生まれて
アイバ(郁子)戸栗ダキノは、一九一六年七月四日、日本人である戸栗|遵《ジユン》、フミの長女としてロサンゼルスに生まれた。
後に反逆者の烙印《らくいん》を押された彼女の誕生日は、皮肉にもアメリカ最大の祭日である独立記念日である。戸栗遵夫妻にはすでに長男フレッド(六歳)がいたが、この記念すべき日に自分たちの長女がアメリカ人として生まれたことを、ことのほか喜んだ。彼ら自身は、他の大半の日系移民同様、アメリカ市民権が与えられていなかった。
山梨県出身の戸栗遵は、十七歳の時シアトルへ渡った。その時にアメリカ永住権は与えられたものの、数年たっても市民権は許可されず、七年後、カナダ国籍を取っている。彼はその翌年里帰りすると、東京生まれの飯室フミと横浜で結婚した。しかしフミがアメリカに渡ったのは、その後何回か日本に帰って来た遵との間に長男フレッドが生まれ、その子が三歳になった一九一三年、結婚六年目の時であった。したがって日本生まれのフレッドは、アメリカで生まれたアイバと違って、アメリカ市民権がなかった。
生後二カ月ほどたった九月、アイバは日本戸籍に登録された。しかし、二世に対する偏見は彼らが二重国籍を持つことが原因の一つだとして、除籍運動が盛んだった。一九三二年(アイバが十六歳の時)、父の手で再び除籍されている。以後、彼女はアメリカ市民権だけを持つ。
遵の仕事の関係上、戸栗一家は南カリフォルニア各地を転々とした。本当に落ち着いたのは、アイバが十一歳の時、再びロサンゼルスに戻ってからである。すでに彼女の下には妹が二人いた。遵が同市で始めた日本食品を主とする食品雑貨店が成功し、商売は年々栄えていった。
「私たちの家は典型的なアメリカ住宅街にあった。私は近所の小学校に通い、近所の教会へ行った。……両親はアメリカの慣習にできるだけそって私たちを育てようとした」(サンフランシスコへの連行後、弁護士を通して出したステートメント、一九四八・九)
フミが熱心なキリスト教徒(メソジスト派)だったため、アイバたちの社交活動の中心は教会であった。
アイバは妹たちとともに放課後よく父の店の店番をした。彼女は負けん気が強いが、しっかりして、親が頼りにできるような女の子だった。戸栗家は、アイバが度量のある人だったと尊敬する父・遵を中心に、仲のよい一家だった。唯一の気がかりといえば、病気がちのフミであった。アイバは幼い頃からこの病身の母の手足となって働いた。
しかし彼女は、ごく普通のスポーツ好きのアメリカの十代の女の子として、伸び伸びと育っていく。ガール・スカウトにも参加した。テニス部でも活躍した。当時人気のあったジェームス・スチュアートに熱を上げた時期もあった。ピアノは十歳から習いはじめ、高校の頃にはかなりの腕前になっている。商売上、日系人とのつき合いは避けられなかったが、遵は子供たちを狭い日系人だけの世界で育て上げることを嫌い、日系人の集りにもあまり顔を出さず、むしろ日系人とのつき合いを制限した。彼はいつも、日系人が固まっていない白人の多い住宅街に家を選んだ。したがって、その頃の日系人には珍しく、アイバの遊び友だちのほとんどが白人であった。
「私は学校で一度も人種差別というものを感じなかった。先生たちからも学友たちからも差別を感じたことがなかった」(同ステートメント)
アイバのこの人種差別・偏見を意識せずに育ったという発言は法廷でもくり返され、白人記者たちを驚かせている。しかしこれは、持って生まれた性格と育った環境にもとづく彼女自身の個人的体験であって、彼女が育った当時のカリフォルニア州に日系人差別がなかったということでは決してない。
むしろこれとは反対に、一八七〇年代から日本移民が入ったカリフォルニア州はアメリカで一番日系人口が多く(八〇%)、排日感情は非常に根強かった。人種的要素に加えて、低賃金で黙々と働く日系人労働者に対する白人労働者の恐れと抵抗という経済的な問題もからんでいた。
それは政治的にも利用され、日系一世の土地所有や借地の禁止(排日土地法、一九一三年)、日本語学園弾圧、写真結婚禁止、日本移民禁止(排日移民法、一九二四年)などの形で次々と現われている。アイバが育った時期は、日系一世が労働者時代から農業、商業の事業経営時代に移っていた時期であり、排日感情は急激に悪くなっている。
しかし日系一世たちは、このような厳しい条件の下でもあらゆる面で日系人社会の向上につとめ、他のアメリカ人の目には異常なほどの熱意で子供たちの教育に全力を注いだ。その結果、一九三〇年代には二世が社会に進出しだし、少しずつではあったが、社会的地位は向上しだす。とはいうものの、せっかく親が辛苦の果てに大学教育まで受けさせた二世でも、実社会に出るや人種偏見のため大学教育を生かす就職の道はなく、やむなく親がやっていたような雑労働につく者が少なくなかった。そのため、アメリカに見切りをつけて日本に渡った二世もいた。
大半の日系人は、狭い日系人社会のなかだけで行動していた。アイバのように白人の友だちを多く持ち、これという厭《いや》な思い出もなく育ったという二世は少ない。だが、彼女が偏見を知らずに育ったといい切ったのには、やはり無理が感じられはしまいか。
彼女を知る人は、いささか一人よがり的なところがあるほど自分に自信をもつ人だと評している。この強い性格が少しくらいの偏見などものともせずにはね返し、遵の教育方針とも相まって、日系人であることに少しの劣等感も抱かせなかったのだろうか。
一九三四年、アイバはUCLA(カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校)へ入学した。まもなく病気で二年ほど休学したが、その後は元気で大いに大学生活を楽しんだ。
専攻した動物学では、ラボラトリー・リサーチの他に多くの野外研究旅行が要求され、なかなか忙しかった。六、七人のグループにわかれた学生たちは一、二泊でよく出かけた。彼女の学生時代の思い出は、南カリフォルニアからアリゾナ州にいたるこれらの野外研究旅行につながる。
その頃彼女と同じグループでよく野外研究旅行にでたクラスメートの一人であるジョー・ゴーマンはこういっている。
「アイバは外向的な性格でいつも元気一杯だった。またユーモラスで、いつも冗談を飛ばしていたものだ。見るからにヤンキー娘という感じで、日本的な感じは一つも受けなかったばかりか、彼女自身、全然日本に興味を持っていないらしいという印象を受けた」(著者とのインタビュー)
また彼は、アイバと交した議論を思い出さずにはいられないともいう。当時、良心的参戦拒否者の立場を取っていた彼は、そのことでアイバと話し合った。「彼女は決して強い言葉を使わなかったが、『自分なら故国アメリカのために断固戦いに出る』という考えから一歩も引き下がらなかった」(同インタビュー)
アイバは彼に、「あなたは戦うべきだ」という言葉を使うかわりに、「私なら戦う」と繰り返し、彼は自分が非難されていると感ぜずにはいられなかった。この思い出のため、何十年もたった今日にいたるまで、彼はアイバのことをよく覚えているらしい。
あいかわらずスポーツ好きだったアイバは、いつも大学のフットボール試合の応援に出かけた。自分ではテニスのほかに、ライフル射撃を得意とした。またこの頃から父の手伝いをし、夏休みには彼についてアメリカ西部沿岸を運転してまわるのが常だった。一九四〇年末に大学を卒業。医者になる夢を持っていた彼女は大学院修士課程へと進む。
2 日本への旅立ち
ところが、それから半年ほど経った一九四一年七月五日、アイバは学業半ばにして、まったく突然、日本へ発つこととなった。
これは、その三週間ほど前に東京にいるフミの妹シズの夫、服部から届いた一通の手紙に始まる。シズは、フミの七人姉妹のうち、存命していたたった一人の妹である。服部の手紙は、シズが長年病んでいた糖尿病と高血圧が近年とみに悪化し、長い間逢えずにいるフミにとても逢いたがっているので、ぜひ元気なうちに一度日本に帰ってきてくれないか、と訴えていた。
しかし肝心のフミ自身もシズと同じ病気で、一年間ほど床についたままの状態だった。遵も、またすでに彼の片腕となって一緒に働いていたフレッドも、長期間商売を離れて日本に行くのは不可能だった。そこで大学もちょうど一区切りついて身軽なアイバが、とりあえず母の代理としてシズの見舞に行くのが一番よいということになった。だが、アイバが日本から送った手紙によると、彼女は叔母の見舞と合わせて、家族の代表として日本の現状を見てくるという目的もあったと見られる。
フミは日本が恋しく、妹に逢いたいのはもちろんのこと、あれも見たいこれも食べたいという思いがあったようだ。遵にも日本の親戚との間でかたづけておきたい問題があった。そのため、もし都合がつけば、翌春には遵も日本に短期間行き、アイバとともにアメリカへ戻ろうと話し合った。その際には、体の調子がよければフミも一緒に日本に行きたいといった。したがって、何年も日本に帰っていないため日本の現状が分らなくなっていた父母に代って、まずアイバが日本に行き、様子を知らせてくるのが最善の策だと彼らは考えたという。
アイバは、それまで特に日本に興味を持ったことがなかった。日本に行くについても自ら望んだわけではない。ただ父母の頼みに同意したまでだ。彼女が日本行きに大して乗り気でなかったことは、それからの数週間、彼女の日本行きのすべての準備をしたのが遵であったことにもうかがえる。
彼はまず、ワシントンの国務省に彼女の旅券を申請した。ところがいくら待っても、国務省からの返事は届かなかった。
一九三九年九月に勃発した第二次世界大戦は全ヨーロッパを戦火に包みこんでいた。アジアでは大東亜共栄圏の旗印のもとに日本の侵略が相ついだ。すでに雲行きがおかしかった日米関係は、その年(一九四一)一月の日米通商条約廃棄により悪化し、一部の両政府関係者は、すでに日米開戦は時間の問題であるとさえみていた。
そんな状態の時だったので、いつまで待っても国務省からはアイバの旅券は送られてこなかった。すでに七月五日にロサンゼルスをたつ大阪商船のあらびあ丸の乗船切符を買い、アイバのために旅行準備を終えていた遵は焦った。そこでロサンゼルス移民局とかけ合った結果、身分証明書で日本に渡り、日本のアメリカ大使館であらためて帰国の時のために旅券を申請すればよいだろうといわれた。
その指示にしたがってアイバが出国の時に持参した彼女の顔写真と指紋がついた身分証明書には、ロサンゼルス移民局検閲官のサインも見られる。しかしこれは移民局が発行した書類ではない。公証人によって作られたものにアイバがサインしたものである。彼女がアメリカを出国するという立証にしかすぎないと、後に移民局関係者は説明している。
出国の際、国務省からの旅券でなく、この単なる出国許可証ともいうべき身分証明書しか持たなかったことが、アイバにとって後に致命的になろうとは、遵もアイバも知るよしもなかった。そのうえ日本へのビザも取っていなかった。遵は彼自身の三十年前の経験にもとづいて、取らなくとも大丈夫と判断したからだった。
出発の前日、七月四日はアイバの二十五歳の誕生日であった。毎年華麗な仕掛花火が夜空を染めて幕となるその日は、独立祭に生まれた者の冥加《みようが》といえよう。これ以上願ってもないアメリカ人としての誕生日だった。送別会もかねたこの日は、アイバの渡日準備に多忙を極めた戸栗一家がやっと一息ついた夕食の時、彼らだけでなごやかに祝われた。
遵とフミは、初めて家族を離れて長旅する、しかも日本的行儀作法をまるで躾けずに育てた長女のことを今さらのように心配せずにはいられなかった。しかしアイバは、来年の誕生日はまたロサンゼルスの花火大会を見て過ごすことを少しも疑わず、呑気に妹たちとのおしゃべりを楽しんでいた。これが戸栗家全員揃った最後の宴となり、アイバにとっては母との永遠の別れとなることを、彼らの誰が想像しただろうか。
翌七月五日は快晴だった。あらびあ丸はその前日、ブエノスアイレス回りでロサンゼルスのサンペドロ港に着いている。アイバの旅行準備を一切やっていた遵は、彼女に持たせる荷物類をせっせと船に運び入れた。日本へのみやげとしては、カリフォルニア特産のフルーツが数箱、チョコレート、カリフォルニア米その他の食品類、毛糸、石鹸《せつけん》などに加えて、シズのためのインシュリンなどの薬品も多かった。アイバの従妹にはミシンをみやげとした。
遵はまた、他の子供たちとは違って日本食を嫌うアイバを心配して、これらのみやげ品とは別に、彼女用の食品も詰め込んでいる。砂糖、コーヒー、ココア、ジャム、肉の缶詰などの他に、米の嫌いな彼女が自分でパンを焼けるようにと小麦粉、ベーキング・パウダーまで用意した(結局アイバは、寄宿先の服部家にオーブンがなく、一度もパンを焼くことができなかった)。アイバ用のタイプライターも用意した。そのため、出港の際の所持品は大小三十個ほどにもなった。
埠頭《ふとう》では色とりどりの紙テープが飛び交された。洋裁の上手な妹ジューンがこの日のために縫ってくれた白いシャークスキンのスーツを着たアイバは、埠頭でテープの片端を握る妹たちと別れの挨拶をかわし合う。あらびあ丸は七月五日午後三時四十分、サンペドロ港を静かに離れ、太平洋へと乗り出して行った。
彼女はこの時、子供時代からの知り合いで、高校を出たばかりの十八歳の伊藤チエ子を同伴している。チエ子の親はアイバが日本に行くと知ると、チエ子も日本の親戚に遊びにやることにしたのだ。チエ子もアイバ同様、身分証明書だけを持っての出国である。
初めの一週間ほどは、一時的にせよ家族を離れるショックに加えて台風のために船酔が続き、二人は元気がなかった。アイバは、日本についてまったく乏しい知識しかないことがさすがに心配になっていた。
「日本についての知識は小学校の地理で勉強した程度のものであり、第一、日本について知りたいという興味がまるでなかった」(前掲ステートメント)。そんなアイバの心配をよそに、あらびあ丸は日一日と日本に近づきつつあった。彼女は、初めて見る父母の国への期待と不安に落ち着かなかった。
3「日本は奇妙な国です」
ロサンゼルスを発って十九日目の七月二十四日午後三時過ぎ、あらびあ丸は横浜に入港した。
しかし二重国籍でない、つまり日本国籍を持たないアメリカ人のアイバは、日米関係がさらに悪化していた当時、旅券もビザもなく簡単に日本上陸を許されるはずがなかった。ビザをもらうのにさんざんてこずらされ、やっと許可がおりたのは書類に必要な印紙を売るオフィスが閉った後だった。結局その晩はまた船中で一泊させられ、翌七月二十五日、下船となる。
日本での初経験は決して快いものではなかった。そのうえ初めて経験する日本の蒸し暑さは耐え難かった。横浜埠頭には叔父服部を初めとして従兄妹、又従兄妹まで大勢の、初めて見る親類が出迎えに出ていた。
アイバは多くの荷物を手に、初めて電車に乗ると世田谷区の服部宅へと向った。電車の中はやたら蒸し暑かった。自動車生活しか知らぬ身にとって、これはいささかきつい経験だった。それでも、さすがにどちらをむいても日本人の顔ばかりで、日本の初印象は「ああ、こんなに大勢の日本人がいる」という単純な驚きだったという。
叔母のシズは、当時の食糧難による食事制限が反対に作用して、思ったより元気だった。母に瓜二つだった。従兄妹たちのなかでは、一歳年下のリン子が背丈といい顔つきといいアイバに不思議なほどよく似ていて、すぐ仲良しとなった。服部は、幾人もの職人を使って洋服屋をやっていたが、遵とは違って引込み思案で静かなタイプだった。だが、気持の優しい人柄で、彼なりにアイバの頼りになろうと努めた。
「私には日本という国がとても奇妙に感じられた。すべての日常習慣が変わっているだけでなく、食べ物もぜんぜん違うし、着る物や家の使い方も違う上、人びとはかしこまっていて、とてもフォーマルに見えた」(前掲ステートメント)
ここではアイバの大学教育も無に等しく、すべて一からやり直しだった。シズとリン子はそんなアイバに、家にはきちんと靴をぬぎ揃えて上ることから、畳での坐り方、食事作法を一生懸命教え込もうとした。またアイバの日本語がほとんど役に立つものでなかったので、彼女が外出する時は必ず誰かついて出た。それを嫌って一人歩きくらいできるようになりたいとねがったアイバは、九月から芝・御成門にあった松宮日語文化学校へ午前中の二、三時間、日本語を習いに通いだした。
アイバは高校時代に週一度(土曜日に二、三時間)、近くの日本語学校に通ったが、成績が悪くて半年も続かずやめていた。遵は英語の読み書きが達者だったので、父とは英語で話した。母のフミも上手ではなかったが英語を使い、彼女が日本語を使う時でも子供たちは英語で受けこたえしている。そのため、アイバの日本語は他の二世と比較して実に下手だった。聞く方は多少分るが、話す方はまったくお粗末で、ましてや読み書きはまるでできなかった。アイバにとって日本が奇妙に見えた以上に、彼女を迎えた服部家の人びとにとって、彼女が「日本人のような顔つきはしているものの、中身はまるっきり異質の、とても奇妙な二十五歳の女性だったに違いない」と、彼女は語っている。
服部家の人びとは彼らなりにアイバの身を案じ、できるだけのことをしようとしてくれた。アイバの配給は九月より取れていたが、ご飯嫌いでほとんど手をつけない彼女を心配した服部が、当局とかけ合い、十月からアイバの分をパンに切り替えてもらって彼女を喜ばせた。従兄妹たちには同年輩の者も多く、彼女の友だちになろうと努めてくれた。しかしアメリカ育ちのアイバには、彼らがおかしいといって笑うユーモアとか、楽しいといってすることがぜんぜんピンとこないのだった。
彼女の日本での戸惑いは、見知らぬ外国へ行った誰もが経験する外国人としての困惑ではあるが、一九四一年の日米間の生活水準の違いは大きく、そのうえ重要なことは、彼女が来日した当時の日本がすでに戦争下にあり、しかもその状態が五年も続いていたという事実だ。その結果、一般大衆にすべての皺寄せがきていた。
この生活状態の悪さはショックだった。なかでも日本食嫌いの彼女が一番こたえたのは食事だった。
「この三カ月近く毎日同じような朝食を食べています。ご飯、味噌汁、お漬物、お茶で、馴れてきたといいたいとこですが、自分の家族と一緒にトーストと紅茶の簡単な朝食をとりたいと思い、一日たりとてみんなのことを思わぬ日はありません」
これはアイバが一九四一年十月十三日付でアメリカの家族に宛てた手紙である。彼女はこれをアメリカへ帰国する日本語学校の友人に託している。近くすべての海外向け郵便物は検閲になると聞いていた彼女は、その前に正直な日本の感想を家族に伝えておきたかった。特に彼女は、来春調子がよかったら日本に里帰りしたいといっていた病身の母へ、日本の現状を伝えておきたかった。
「暖房施設はなきにひとしく、日本に来ることを思いとどまらせる十分な理由になります。……お母さんが妹に逢いに来たいのはよくわかりますが、現状では絶対に来てはいけません。
……お父さんは何とかやっていけるでしょうから、短期間だけ、身の回りを片づけにくるのはよいと思います。しかし他のみんなには、日本がどんな国であり、どのような生活状態にあるか、半分も想像がつかないと思います。……離れてみて初めてアメリカのよさが身に滲《し》みてわかります。
フレッド兄さんは身を落ち着けて結婚し、商売に励み、その生活に満足し、決して日本にこようなどと思ってはいけません。妹たちも同じです。やがて結婚し、あんなに素晴らしい数々のものを私たちに与えてくれるアメリカで一生を終るべきです」
ところで、アイバが横浜上陸いらい気にかけているのが旅券のことだった。横浜でビザを取った時、係の役人に、彼女の身分証明書は六カ月以内にアメリカへ戻ることになっているので、それ以上の日本滞在は許可しないといわれていた。したがって滞在が一日でもオーバーした時のために旅券が必要だった上、アメリカへ帰る時の場合を考えても取っておいた方が安全だった。
アイバは来日早々の八月初旬、東京のアメリカ大使館へ赴き、旅券の申請をした。その時アイバは、一年以内にアメリカへ戻る予定で旅券の申請をしている。係の大使館員は、まずワシントンの国務省に身元照会をしなければ旅券は出せないので、しばらく時間がかかるだろうと告げた。しかしいくら待っても国務省からの返事はこなかった。
アイバはアメリカに帰りたかった。日本の新聞が読めない彼女に時々叔父たちが知らせる日米関係のニュースは曖昧で、はっきりしたことはよくわからなかったが、二世の知り合いのなかには今帰った方がよいと忠告する者が少なくなかった。それでなくとも日本にさしたる興味のない彼女は、これでますます里心がつき、日本での生活に腰が落ちつかなかった。
アイバが家族のことを恋しがり心配せずにいられなかったのは、家族との連絡がすでに難しくなってきていたことにもよる。日米関係は彼女が船中にいた七月、特に悪化し、あらびあ丸が横浜に入港した翌日の七月二十五日、アメリカは対日本資産凍結に踏み切っていた。それから幾日もたたぬ八月一日、アメリカは日本向けの石油輸出を全面的に禁止し、日米関係は一段と緊張度を増していた。
ワシントンにおける野村・ハル会談も大詰めに近づいた十一月二十五日、ついにアイバは我慢ができなくなり、伊藤チエ子の叔父宅からチエ子と二人してアメリカの自宅に電話を入れた。アイバは、現状では日米間にいつ何が起こるかわからず、とても不安なので、今のうちに帰りたいと遵に訴えた。遵は、日頃気丈なアイバからの突然の電話に驚いた。彼は、アメリカの新聞ではそんな危険は感じられないが、帰りたければ帰って来てよい、手はずをさっそくとると答えて安心させた。
その言葉通り、一週間もたたぬ十二月一日、アイバは二日前にロサンゼルス市ハンチングトン・パークより出された遵の電報を受け取った。「十二月二日出港予定の竜田丸に上船せよ。父」
十二月二日とは、こともあろうに翌日のことだった。しかも電報を受け取ったのは、十二月一日の午後もだいぶ過ぎた三時だ。あわてたアイバと服部家の人びとは直ちに行動を開始した。
「叔父はすぐ日本郵船に連絡を取り、十二月二日出港の竜田丸に乗船できるかを問い合わせてくれました。その結果、旅券かアメリカ領事館からの身分証明書がなければ切符は買えないと分り、私は(リン子にともなわれて)すぐ領事館に行き、これを証明書(物的証拠)として出してもらったのです」
「ついですぐに叔父に電話を入れると、私が通学していた日本語学校にいき、日本で一度も働いたことがなく、ずっとそこの生徒だったという証明をもらってくるように指示されました」(アイバ証言、一九四九・九・七)
これらの書類をそろえると、アイバは落ち合った服部に連れられて日本郵船に切符を買うために駆けつけた。ところが係員は、大蔵省の出国の許可書がなくては切符は売れないと告げた。アイバたちは閉まる直前の大蔵省に息せき切って駆け込んだ。
「大蔵省の許可書は次の理由で必要だったのです。私は横浜上陸の時、持ち金をすべて登録させられ、またその後毎月いくら何に使ったか、日本政府に詳しく報告せねばなりませんでした。そのため日本政府は、私の報告に間違いがないか、残金は正確かなどを調べる必要があったわけです。しかし、大蔵省の役人は証明を出すにはいろいろ調べなければならず、少なくとも三、四日はかかるといい、証明書申請手続きを受けつけようとさえしませんでした」(同証言)
あまりにもことが急だったとはいえ、その時アイバの帰国を拒んだのは、融通のきかない官僚的形式主義だったといえる。アイバの落胆ぶりは、服部家の人びとにとって見るに忍びないほどだった。チエ子も彼女と同様に切符が買えず、出国の機会を逸した。
アイバたちが乗り損じた日本郵船の誇る豪華客船竜田丸は、その翌日予定通り満員の船客を乗せて横浜を出港した。この竜田丸が航海途中で日米開戦となり、十二月十四日、再び横浜に引き返してくることになろうとは、もちろんアイバたちは知るはずもなかった。
4 日米開戦の下で
「私の下手な日本語では、日米開戦を伝えるラジオ放送を十分理解することができなかった。戦争という言葉は分っても、すでに開戦になったのかどうか皆目分らなかった。私は日本語新聞が読めなかった。英字新聞は東京で発行されてはいたが、叔父叔母から、たとえ政府公認の英字新聞といえど英字のものを人前で読むなと注意されていた。人前で英語を話すのも避け、すべてに十分用心しなければいけないと、叔父は繰り返した。私はその後の数日を茫然自失して過した」(前掲アイバ・ステートメント)
一九四一年十二月八日(アメリカ時間七日)、真珠湾攻撃によって日本とアメリカは太平洋戦争に突入した。叔父から開戦のニュースを知らされた時、アイバはそれを信じることを拒絶し、まるで何ごとも起こらなかったかのように振舞おうとした。今まで通りに日本語学校へも出かけて行った。
だが、アイバにとっても日米開戦の現実は翌九日、特高の訪問によって始まった。その日、世田谷区の特高外事課の藤原は私服で服部家を訪れると、身元調べはもとより、毎日なにをしているのか、いつ学校に行き、所持金はいくら持っているかなど、詳細な質問を長々とした。そして彼は、「アメリカ人のままでは今後が大変だ。この際日本の戸籍に入って日本人になる方が賢明だろう」(アイバ証言、一九四九・九・八)とすすめた。アイバは即座にそれを断わった。
藤原はそれからの二週間ほど、ほとんど一日おきにやって来ては同じような尋問を繰り返し、最後にきまって戸籍入りの話を持ち出した。しつこさに腹を立てたアイバは十二月中頃、「外人として抑留してくれませんか?」と自分の方から頼んだ。これにはさすがに彼も驚いたらしい。苦笑して、「日系人だし、女性だから大して危険なこともやらないだろう。抑留はしない」と受けつけなかった。
年が明けてからも藤原は週二度ほどの割でやってきて、毎度懲りもせず戸籍入りの話をくり返した。「戸籍入りの手続きは二十分もあれば済む」という彼に、アイバは「アメリカ人として生まれ育った者がそんなに簡単に、一枚の紙切れのために市民権を捨てられるものではない」(アイバ証言、一九四九・九・九)とさえいい返し、藤原が来るごとに通訳として間に入る叔父や叔母をはらはらさせた。
日米開戦によって日本に留まらざるをえなかったアイバのような日系アメリカ人は、約七千人から一万人いたといわれる。そのうち、戸籍入りしていなかった者すべてに対して、特高は戸籍入りを強いていた。そうすることにより日本政府は男子日系人に徴兵を課し、日本への忠誠を誓わせようとした。
容易にアメリカ市民権を放棄しない者には経済的・精神的圧力がかけられ、その結果ほとんどの者が開戦後間もなく戸籍入りした。しかしこれは終戦後、彼らが親兄弟のいるアメリカへ帰ることを非常に難しくし、いろいろ問題を起こすことになった。アイバはそれら日系人のなかにあって、最後までアメリカ市民権を守り通したごく少数の一人である。そのためこの戸籍入りの話は終戦までしつこく特高・憲兵によって繰り返され、彼女を苦しめ続けた。
彼女は開戦後間もなく、国際赤十字を通してアメリカの家族と連絡を取ろうとしている。だがこれは失敗に終った。アイバには本当に頼りになり、力になってくれる者は一人としていなかった。叔父たちはアメリカ人である彼女を抱えてびくびく暮していた。そんななかで、頼りにはならぬが同じ境遇にあるチエ子と逢ってぐちるのが、アイバのせめてもの慰めとなった。
来日以来、叔父宅に身を寄せていたチエ子は、その頃早稲田大学国際部へ日本語の勉強に通学していた。一九四二年二月頃から、アイバは授業を終えたチエ子とよく早稲田で落ち合い、二十分ほどかかって高田馬場駅まで一緒に歩くのを楽しみとした。この間だけ二人は、気がねなく英語でしゃべりまくった。時としてチエ子の同級生だったニュージャージー生まれの松永ヨネ子が加わった。彼女たちはお互いにまだ戸籍に入らず、アメリカ人のままであることがわかると意気投合した。
三人のなかで、特に日本嫌いをはっきり口に出したのはアイバだった。「彼女はどんなことがあってもアメリカ市民権を放棄しない、一晩で日本人になれるものでないとよくいってました」と後にチエ子は証言している。
二月中旬、アイバは英字新聞デイリー毎日で中立国スイス領事館がアメリカ人の引揚船申込み受付をしていることを知り、さっそくチエ子をともなって領事館へ申請に行った。ミッシェリー二等書記官は、アイバたちが旅券がなく移民局からの身分証明書しか持っていないとわかると、ジョゼフ・グルー駐日大使たちが乗る予定の第一次引揚船に乗船できる可能性は薄いと告げた。
アイバは来日の時、帰りの旅費として持参した金にまだほとんど手をつけていなかったので、旅費は持っていた。次の引揚船がいつ出るのか予想がつかないと聞いた彼女は、是が非でもその第一次引揚船に乗って帰りたかった。「私は二等書記官に、アメリカ国籍を立証するためにワシントンの国務省に電報を打ってくれ、電報代は私が払うと頼みこみました。数日後、ワシントンから入った返電は『貴殿の市民権に疑問点あり』というものでした」(アイバ証言、一九四九・九・七)
アメリカ国務省はどういうわけか、アメリカに生まれ育った一市民の市民権の確認を拒んだ。二十五歳まで一歩もアメリカ国外に出たことがなく、一度も法的なトラブルもなかったれっきとしたアメリカ市民の市民権に疑問があるとした。アイバは旅券を持っていなかったという理由で、第一次引揚船に乗りそこなった。
彼女は横浜で下船した時、帰りの旅費その他として約三百ドルを持参していた。みやげ用に持って来た毛糸や木綿のソックスを乞われて売り、数百円の思いがけない収入もあり、持参のドルには散カ月間手をつけずにすんでいた。しかしそれも、第一次引揚船への申込みを断わられた二月頃から少しずつ手をつけざるをえなくなっていく。
しばらくはアメリカへ帰れないと分ると、彼女はますます日本語の必要性を感じた。日本語学校だけは続けたいと願ったが、しだいに授業料の支払いも苦痛になってきた。
日語文化学校の授業料は一カ月三十円だった。アイバはいくらかでも授業料のたしにしたいと思い、松宮校長に頼みこんで、彼が英語で書いていた日本語文法の教科書の原稿をタイプさせてもらうことにした。また子供の頃からやっていたピアノを松宮の幼い息子や娘、その友だちにも教えさせてもらった。
彼女は来日以来毎月食費代として叔母に五十円入れていた。叔母たちの生活は決して楽ではなかったのだ。そのうえ足代がかかり、いくら節約しても持金は毎月少なくなっていった。帰りの旅費に手がついたことを心細く思った彼女は、ぜひともしっかりした仕事を見つけたいと思い、三月末から職探しを始める。翻訳関係の仕事は当時でも結構あった。しかし、日本語の読み書きがほとんどできない彼女には無理だった。そのうえアメリカ国籍だったので、かんたんに仕事は見つからなかった。一日足を棒にして歩き回る日が続いた。アイバは気が滅入った。
春になってもアメリカの家族との連絡は取れなかった。赤十字からのニュースで、アメリカの日系人たちが強制収容所へ送られているらしいことは聞き知った。しばらくして赤十字が発表したリストで、アイバは自分の家族の名をヒーラ・リバー(アリゾナ州)強制収容所のなかに見出した。だが、実際にそれがどういうことなのか、アメリカでいったい何が行なわれているのかを理解することはできなかった。それについて日本人たちがいうことは信じる気がしなかった。多分、日本政府の宣伝か特高の厭がらせに違いないとさえ思った。
その頃アイバは母が死んだ夢を見た。病身の母がもしそのような収容所に入れられたら、とても堪えてゆけまいと、アイバは母の身を案じていた。それにしても夢は生々しかった。彼女は今でもその夢をよく覚えているという。
特高は頻繁に、叔母宅の隣近所にアイバの交友関係などの聞き込みにまわっていた。それを嫌い、アメリカ人が近所にいることを迷惑と思った近所の人びとは隣組を通して叔母たちに文句をいい、圧力をかけ始めた。子供たちはアイバを見ると、「スパイ」「捕虜」などと罵《ののし》りながら付いて歩いた。石を投げる者もいた。
それでなくとも血圧が高く病身の叔母シズにとって、それはこたえた。シズの病状は悪化した。アイバはいたたまれなかった。話し合いの末、彼女は自分の方から服部宅を出て行くことを申し出た。
「叔母たちを悪く思ったことはありません。私が自分で決めて出たのであり、彼らもいろいろ大変だったのです」とアイバは語っている。しかし様子もよく分らぬ日本で、しかも敵国人としてたった一人で生きていかねばならなくなったことは、いくら気丈なアイバといえども心細く、寂しかったはずだ。
5 帰国の夢消えて
六月初旬、アイバは松宮校長の紹介で学校近くの芝・御成門にあった古屋夫人の経営する下宿に移った。それから十日ほどして臨時雇いではあったが、同盟通信社にモニターとして雇われた。これは同盟通信本社ではなく、当時、愛宕山にあった同盟の情報|受信部《モニター》での仕事だった。
戦争中、敵国の情報は中立国を通して入ってくる以外は通常ルートでは手に入らず、各国は競って敵国短波ラジオ放送を傍受し、情報集めに努めていた。日本もその例外ではなかった。同盟の他に外務省、陸軍、海軍なども同じようなモニター施設を持っていた。
アイバは愛宕山同盟モニター部で週五日働き始めた。勤務時間は一日約五時間五交代に分かれており、一日二十四時間、いつも誰かがモニターしているシステムになっていた。モニターはアメリカ連合軍短波放送(主としてアメリカ、オーストラリア)をレシーバーで聞き、同時に速記するかタイプライターで直接打ち取り、それをできるだけ正確に再びタイプで打ち直すと同盟通信本社へ送った。アイバは連合軍ニュースを主として聞き取った。
月給は百十円だったが、税金その他日本語のよく読めない彼女では見当のつかない諸費が差し引かれて、実際には八十二円ほどしか手元には残らなかった。しかし、三カ月ほど苦労した末にやっと得たこの仕事は、臨時雇いといえどありがたく、なんとか彼女の自活を可能にした。
アイバは毎日アメリカへ帰る日を夢みて暮していた。だから八月二十七日、スイス領事館から九月出港予定の第二次引揚船の通知を受け取った時、さっそくチエ子をともなってスイス領事館へ急いだ。
「領事館では、横浜からインドのアグラまでは無料で行けるが、そこからニューヨークまでは四百二十五ドル必要だといわれました。アグラを出る時か、またニューヨークに着いた時に現金でそれを支払わなければならないというのです。私は新聞でアメリカの家族が収容所に入れられたらしいときいてましたが、四百二十五ドルの旅費を彼らが支払えるかどうか問い合わせの連絡をとることはできませんでした。持っていたお金のすべてはそれまでに生活費として使ってしまい、第二次引揚船に乗ろうとした時には一ドルとてありませんでした。第一次引揚船の時には切符は買えたのです。しかし半年後、切符を買うお金はありませんでした。いたし方なく第二次引揚船への申し込みを取り消したのです」(アイバ証言、一九四九・九・七)
その時の口惜しさは今でも忘れられないとアイバは語る。その直後の九月二日、アイバが同盟から下宿に戻って来ると、古屋夫人の留守を預っていたその娘が青白い顔をして、彼女の部屋のほうを無言で指差した。急いで入って行った部屋のなかはトランクの蓋は開けられたままで、本があちこちに飛び散っていた。そのなかで三人の見知らぬ男がまだなにか夢中で捜しているさいちゅうだった。アイバを初めて訪れた私服の憲兵隊だった。彼らは恐怖でその場に棒立ちになっているアイバを認めると、英字の本があるかどうか捜査しているのだといった。
彼らはすでに、彼女が第二次引揚船への申請を取り消したことを知っていて、「もうこれで日本国籍にならぬ理由がなくなったはず、戸籍に入れ」と迫った。しかしアイバは承知せず、この時も反対に連合国人の抑留所に入れてもらえまいかといった。特高の藤原同様いささか拍子抜けした憲兵たちは「日系人まで抑留して食べさせていては莫大な経費につくというものだ。まあ、しばらく様子をみてみよう。その間よく考えておけ。英字のものはいっさい手元に置かぬこと」というと引き上げて行った。これと同様のことは翌年二月にも起こった。
アイバが容易に戸籍入りしようとしなかったため、特高の厭がらせは続いていた。六月に叔母宅を出て以来、警察は彼女の配給カードをなかなか出してくれなかった。やっとそれがもらえたのは九月に入ってからである。その間彼女は食べるのに苦労した。またなんとしても続けたいと願った日語文化学校は、その年(一九四二年)の暮、同盟での勤務時間が変るとどうしても時間が合わず、やめざるをえなかった。
同盟に入って一カ月ほどした頃である。彼女の将来の夫となったフィリップ・ダキノが、同じモニターとして入社して来た。中背でほっそりとした彼は、色白でハンサムな青年だった。物腰が柔らかく落ち着いた感じを与え、めったなことでは大声をあげないタイプだ。彼はその時二十一歳、アイバより五歳年下であった。
ポルトガル人だった祖父が、上海で日本人女性と結婚して生まれたのが彼の父である。フィリップはこの父と日本人を母として横浜に生まれた。したがって四分の一がポルトガル人の血である。彼は、英語を使用したセント・ジョセフ校へ小学校から短大まで通った。そのため日本語の読み書きが苦手だった。ポルトガル語は一言もできない。しかし、国籍は生まれた時から正式に登録されたポルトガル人である。
「私たちは二人とも外人として登録されていたので、特高に睨まれないようにいつも十分注意せねばならなかった。はっきりとはいえないが、多分このことが私たちを一層近づけたのではないかと思われる」とアイバは述べている(前掲ステートメント)。
フィリップはアメリカ派的意見を持っていた。彼は日本派の日系二世が大半を占めていた同盟モニター部の同僚の間で、つねにアメリカ派として意見をはっきりし過ぎるほど口に出すアイバのたった一人の味方となった。勝気ではあるが陽気でサバサバとしたアイバと、どちらかというと内気でおとなしい性格のフィリップとは互いにしだいに惹かれていった。
年が明けた翌一九四三年三月、その頃では親しさの増したフィリップが横浜の自宅を出て、アイバの下宿に移って来た。二人は愛宕山でモニターする連合軍側ニュースと大本営発表ニュースのくい違いについてよく語り合った。
アイバは突然の食事の変化とビタミンその他の栄養失調で、来日以来壊血病、脚気などの病気に悩まされていたが、とうとう脚気が悪化して、六月頃、以前からかかりつけの天野病院へ六週間ほど入院する羽目になった。アメリカで医学を修め、グルー大使の主治医でもあった天野医師はかなりよくアイバを知るようになった。
「彼女はとてもアメリカ派で、それを口にしてはいけない時に日本は負けるとはっきりいい切ってました。連合軍ニュースをよく知らせてくれました」(宣誓供述書、一九四九・九・二)
アイバはこの時、フィリップと下宿の古屋夫人に入院代を借金してしまった。これを気にした彼女は、退院して同盟に戻るとすぐ職捜しを始めた。同盟では一日五時間ほどしか働かなかったので、他にまたそれに似た仕事をして、一日も早く借金を返したいと思ったのである。
間もなく日本タイムス紙で、NHKの英語部門でタイピストを若干募集していると知ると、さっそくハガキで応募し、テストを受けた。二〜三週間たった八月二十三日、彼女は合格通知のハガキを受け取った。その日から、NHK海外局米州部業務班にパートのタイピストとして入社した。
6 対敵宣伝放送の実情
NHK海外局は、NHK放送局ビルの三階にあった。オフィスは、二百人ほどもいたといわれる部員がだだっ広い大部屋に各部ごとに机を寄せ集めて分かれているだけで、すべて一望できた。アイバが入った米州部もこの大部屋の一角にあり、上司は人事も扱っている高野重幾といった。
アイバは、朝九時から二時まで同盟で今まで通りモニターとして働き、その後三時から五、六時までの二、三時間をパートのタイピストとしてここで働き始めた。仕事は日本人ライターの書いた英文放送原稿の英語の誤りを訂正しながらタイプに打つことを主とした。
給料は百円で、税その他を引いて手取り七十〜八十円。同盟通信の給料と合わせると一人で十分生活してゆけた。
アイバが入った当時のNHKは、終戦時、情報局総裁であった下村宏を会長に、大きく総務局、業務局、海外局(初めは国際局と呼んだ)、技術局の四つにわかれていた。海外局は、北米・南米を扱う米州部、ヨーロッパ圈を扱う欧州部、アジア圈を扱う亜州部、そしてニュース・情報を扱う編成部と業務部の五部門より成った。
各部門はさらにいくつかの班にわかれる。米州部は編成(ニュース翻訳)、南米、放送(アナウンサー)、解説、演出、業務の各班から成っていた。
初め、対外宣伝は情報局や外務省が主体となってやり、NHK海外放送は情報局下にあった。陸軍と海軍はそれぞれの軍事宣伝を独自にやっていた。これら各省は横の関係をいっさい持たなかったばかりか、激しい競争心をのぞかせて単独に宣伝に携わったので、宣伝戦の足並みはそろわず、ちぐはぐな結果を生んでいた。
やがてこれは問題となり、各省協力して一本に絞った宣伝をやらねば効果ある宣伝はできないと反省された。その結果、陸軍、海軍、外務省、内閣情報部、大東亜省、情報局、内務省、逓信省などにNHKと同盟通信代表が加わった情報連絡協議会なるものが作られた。
各代表は毎朝九時、それぞれの情報を持ち寄り、各ニュースの取り扱いを決めた。NHKにはこの協議会が情報局を通して指令を出す形が取られた。
しかし陸軍、海軍、外務省は、今度は協議会における指導権をめぐって対立抗争を続けた。それは海外放送管理にも露骨に現われ、一応情報局を通してNHKへ指令するはずなのに、各省は勝手に直接局へ働きかけ、しかも形式上はいつの間にか情報局を通したことになっていた。
なんといっても陸軍の発言力はいちばん強かった。海外放送にも積極的に手を出した。陸軍の諜報謀略戦を担当したのは参謀本部第二部であった。そのうち「宣伝・謀略・暗号解読・傍受」を扱う機関は初め第四班といわれ、一九三八年頃までは諜報活動などは武士道精神に外れる卑劣行為と見なして重要視されていなかった。だが、やがて近代戦の重要な一面と認識され、おそまきながら陸軍も力を入れだし、第四班は第八課と昇格した。
初代の第八課長は中国通で知られた影佐禎昭大佐、開戦時には武田功大佐である。恒石重嗣少佐は日米開戦一カ月前にそれまでいた満州から呼び寄せられ、武田下の第八課へ参加した。
陸軍士官学校出の恒石はこれまで宣伝戦は手がけたことがなく、それに関してはまったくの素人といえた。しかし戦時中陸軍参謀本部第二部第八課で、実施面で宣伝戦の舵を取ったのは、この恒石であった。情報連絡協議会における陸軍代表も彼である。なお、日本軍は宣伝戦という言葉をその時でも嫌い、これを心理戦と呼んでいた。
第八課で心理戦の中心となった恒石は、まず伝単やアメリカのライフ誌を真似た写真雑誌「フロント(前線)」などに力を入れた。厭戦デマに主力をおいた伝単はセックスを扱った物を主とした。そしてこれらの伝単である程度の宣伝効果を得たとした恒石らは、もっと積極的な心理戦の手段として宣伝放送に目をむけた。
恒石はNHK局内に一部屋構えると、武藤義雄海外局長を通して各部門に指令を出し始めた。
戦争初期の海外放送は大東亜共栄圏の旗印の下に、日本の戦争目的は帝国主義的侵略ではなくアジア民族の独立を促進するものだとし、「アジア人のアジア」を強調した。宣伝の基調は、まず日本側が戦争に勝っていることを力説した上で、アメリカ連合軍のアジア侵略を非難し、オーストラリアに向けては大東亜共栄圏への参加を促した。
宣伝は適切にして真実以上のものでなくては成功しない。ところが大本営発表に基づいた宣伝放送にはその真実がまず欠けていた。日本は心理戦において完敗したといわれるのもここにある。負けているのに勝った勝ったという宣伝では、話にならない。現に、前線に出ていた連合軍将兵にとってウソの戦況ニュースほどばかばかしいものはない。
それに、日本の宣伝放送技術は連合軍諸国と比較して問題にならぬお粗末さだった。「行け八紘を家と成し、四海の人を導きて、正しき平和打ち建てん、理想は花と咲き薫る」の愛国行進曲をラジオ東京は、開戦以後のテーマ・ソングとした。恒石のアイデアで「神武時代より続く神の子天皇を戴く神兵たる日本兵は死をも恐れるものではない」と繰り返し、敵を嚇かすためと称して祝詞まで上げさせた。
他にラジオ東京からよく聞かれた言葉には「日本の聖戦」「神の意思により」などがあった。心理戦とうたいながらも、その聞き手である敵国人の慣習からくる考え方、心理をまったく無視した、幼稚で一本調子の宣伝放送は、外地から引き揚げて来る者や海外出先機関からの報告でも批判されたばかりか、当の海外局内からさえ批判がきかれた。
だが、なんといっても問題点はスタッフの貧弱さにあった。L・D・メオはその著書『オーストラリアに対する日本のラジオ戦』(Japan's Radio War on Australia)でそれを指摘している。
「多分、宣伝活動において最も重要なことは、有能なプロパガンディストを集めることであろう。この最も必要なる点が残念ながら東京放送には欠けていた」
たとえば、アナウンサーがすでにジャーナリズムの最先端をゆく職業だったアメリカでは、正規の放送教育を受けた者がしのぎを削った末に残った優秀な人材を集めていた。もっともNHKも人材集めを無視したわけではない。戦前に幾人もの二世や在米日本人を呼び寄せていた。しかしその場合でも、ただジャーナリズムまたは芸能界にいたというだけで招かれた者がほとんどだった。
当時、米州部放送班長(アナウンサー)だったのが平川唯一である。戦後に「カムカム エブリボディ」で始まる英語放送で名を知られたあの平川である。彼は、米州部の英語アナは単に英語が話せる二世を主とした素人の寄せ集めであり、一人として正規の放送教育や訓練を受けたプロといえる者がいないと嘆いたという。
そのなかで、女性英語アナのトップは戦前NHK入りした古参のジューン須山芳枝であった。須山は日本生まれであるが、幼年からカナダで育った。低くて非常に魅力的な声を持ち、放送もうまかった。局内では「南京の|鶯 《うぐいす》」と呼ばれてその才色兼備をうたわれ、女性アナの中ではずば抜けた存在だった。戦前彼女には世界中からファンレターが舞い込むほどだったという。
ルース早川寿美は日本で生まれたとはいえ、二歳の時からロサンゼルスで育ち、同市で短大まで出ている。彼女は須山とは異質の高く澄んだ少女《ヽヽ》のようなきれいな声の持主であった。マーガレット加藤弥恵子は日本で生まれて、ロンドンで育った。低音で、その英語は英国アクセントである。
アナウンサーとして雇われた正規の女性英語アナは以上の三人のみであった。他はすべて人手が足りなくて、米州部タイピストのなかから起用されてアナウンサーとなった者ばかりである。キャサリン師岡薫(二世)、古屋美笑子(二世)、石井メアリー(母が英国人)などすべてタイピストあがりである。男性アナも多数いた。平川、チャールズ吉井寿雄(二世)、スチュアート田浦(二世)などが中心となった。
男女のアナたちがアメリカと比較にならぬ素人の寄せ集めならば、彼らが読む放送原稿も話にならなかった。ニュースおよびニュース解説ライターにはアナにくらべて日本人が多かった。特に解説は日本人が手がけた。自然、彼らの書く原稿には英語に無理に置き直した日本語的表現が目立った。耳障りで、かつ滑稽なものが多かった。英語を得意とする二世がいながらおかしな英文が出来上がったのは、最終的にはアメリカ生まれの彼らを信用せず、アメリカ大学出の日本人たちに頼りすぎていたところにあるようだ。二世のライターは、主としてニュースのリライトや娯楽演芸番組企画を担当した。
そのニュース自体にも問題があった。当時海外局のニュースは同盟通信、陸軍、海軍、情報局およびドイツのDNB通信、イタリアのステファニイ通信から提供される資料と、外務省と放送局で直接傍受していた連合軍側ニュースであった。
これらのニュースを扱う海外局編成部は、英語その他の外国語で入るニュースをまず日本語のニュースおよびニュース解説原稿に翻訳した後、各地域部のニュース翻訳班に手渡し、あらためて各部が担当するそれぞれの国の言葉にその日本文を翻訳し直させた。そのため、原文からほど遠い結果になる場合が少なくなく、特に原文に引用句などある場合はぜんぜん違った文ができ上がったりした。
「勝った勝った」の戦況発表とともに、このへんにも対外放送の問題点があった。これを指摘し改正を促す局員もいないではなかったが、終戦まで改められていない。
戦時中、日本は東京からのNHK海外放送とはまったく別個に、いわゆる「南方」と呼ばれた東南アジア諸国の放送局からも宣伝放送をおこなっていた。表面に名こそ出していなかったが、これら諸国からの宣伝放送を陰で操っていたのも参謀本部の恒石である。
恒石は「放送管理局要員」という肩書のもとに約三百人以上のアナウンサー、放送技術者たちをエキスパートとしてこれら南方へ派遣した。また多数の放送経験のある現地人がそれら日本人の監督下で働いていた。
7「ゼロ・アワー」放送開始
日本が戦争に勝っていた戦争初期の宣伝放送は、いかにお粗末とはいえ大した苦労もなく、十分な効果を上げていた。ようするに、勝っている時期には連日の戦果を放送するだけで、世界の耳目は容易に集まったわけだ。
しかし、それは開戦後の六カ月ばかりにすぎない。戦局が逆転しだすとそういうわけにはいかなくなり、宣伝にも種々の工夫が必要となってきた。日本の対敵宣伝放送の弱点が問題化しだしたのはミッドウェー海戦後である。
それはまずNHK海外局の再拡張となって現われた。情報局発表によると、当時、ラジオ東京は二十二カ国語を使って放送していたことになる。だが、なんといっても英語放送は他と比較にならぬ放送時間を持ち、いちばん力が入れられた。米州部はこの時期に大きく拡張された。しかし拡張され、スタッフが増したからといって、必ずしも放送の質が上がったとか宣伝の効果が上がったというわけではない。
戦局が進むにつれ、すなわち負け込むにつれ、陸軍は海外放送にいっそう積極さを見せていった。西義顕大佐が第八課長の時、頼りにならぬスタッフで占められたNHKや情報局だけに任せておけないとして、彼の提案で連合軍捕虜の中から放送のプロを選び出し対米宣伝放送に使おうということになった。外地の出先機関に指令が飛び、その結果、三人の捕虜が東京に送られて、日本宣伝放送に参加することになった。
アイバは入社の翌八月二十四日、オフィスの片隅で米州部英語アナウンサーのルース早川と話をしていたとき、三人の異様な姿の男たちがオフィスに入って来るのを見た。カーキ色の薄汚い半袖シャツに半ズボン、古テニス靴をはき、痩せこけてみすぼらしい彼らは、二人が白人、一人はアジア人らしかった。
「誰か」と聞くアイバに、早川は小声で彼らが南方で捕まった連合軍捕虜であり、一年ほども前に放送のため日本に連れて来られたのだと教えた。アイバが即座に「話してみたい」というと、早川は「局には私服の憲兵が大勢入っているのだから、決してそんな言葉を口にしてはいけない。そんなことをいったばかりに、捕虜に同情したと、きつい取調べを受けた局員がいるのだ」(アイバ証言、一九四九・九・八)と注意した。
だがその翌日、早川はタイプした放送原稿を届けるという口実のもとに、二階にあった捕虜の部屋へ彼女を連れて行ってくれた。そこでアイバは、オーストラリア人チャールズ・カズンズ少佐、アメリカ人ウォーレス・インス大尉、フィリピン人ノーマン・レイズ少尉という三人の捕虜に紹介された。
カズンズと握手しながら「頑張ってください。これからはできる限り顔を見に来ます」(同証言)と親しみを満面に見せていうアイバに、三人の捕虜はいささかとまどい顔だった。
当時、局内では捕虜とみだりに言葉をかわさぬことという布令が出されていた。隔離する意味で彼らだけ入れられていた部屋には、ほとんどの局員がトラブルを恐れて近寄らなかった。それに彼らには常時一、二人の局員が監視としてついていた。三人は初対面から妙に親しみを示すアイバをまるで信用せず、憲兵隊の回し者ではないかとさえ疑った。
アイバは、がらがらに痩せて顔色が悪く、疲れて見える三人の捕虜が気の毒でたまらず、なんとかして元気づけてやりたいと思ったという。彼女が、苦境に立つ人を黙って見過せなかった父、遵の性格を受け継いでいたことは確かだ。敵国日本で特高、憲兵に脅かされながらも必死の思いでアメリカ市民権を守り、アメリカ人としての誇りに生きていたアイバは、やはり四面楚歌の中で生きている捕虜たちを目の前にして、自分が彼らの味方であることを告げずにはいられなかったのではなかろうか。彼女は疑われても物ともせず、人目を盗んで、彼らのところに出入りした。
三人の捕虜がそんなアイバを信用し出したのは、彼女が密かに連合軍側ニュースを伝えるようになってからである。日本では戦時中一般国民が外国短波放送を聞くことは固く禁じられていた。NHKでも短波受信機はあったが、アナウンサーたちが放送技術研究のためなどの目的で聞く場合にしか使用を許されなかった。しかもその時は、いちいち鍵を手渡されて受信機のある部屋に入る仕組みになっており、局内でも簡単に外国放送が聞けたわけではない。
だがアイバは、同盟でその一般国民には禁じられていた連合軍側短波放送を毎日聞くことを仕事としていた。当時の日本で、最も正確な戦況をキャッチできるごく少数の一人だったといえる。彼女は戦局が連合軍側に有利であると見抜いていた。
アイバが監視の目を盗んで、小声で早口に囁《ささや》いたり、小さな紙片に書いて知らせる太平洋およびヨーロッパ戦線における連合軍戦況ニュースは彼らの戦勝を伝えており、捕虜たちを励まさずにはいなかった。その上、彼らが四六時中飢えているらしいのを察した彼女は、九月に入る頃から少しずつ食物の差し入れを始めた。もちろんこれも監視の目を避けながらのことである。
その結果、捕虜たちは少しずつアイバを信用しはじめ、やがては「最も信頼できる味方」(カズンズ証言、一九四九・八・十五)「自分の命を預けられる」(レイズ証言、一九四九・八・二十二)ほどの信頼関係を築いていった。
アイバは三人の捕虜のうち、リーダー格であったカズンズ少佐に強い信頼感を寄せた。初対面の時、「いつまで局にいるのですか」と問う彼女に、彼は静かに、しかし堂々と「連合軍が勝つ日までです」(アイバ証言、一九四九・九・八)と答えた。それがとても印象的だった。彼女が彼らの力になりたいとねがった陰には、カズンズに対する敬慕の情があったと思われる。アイバは彼を敬愛した。彼を知るほどにますますその感を強くしていった。
六尺ほどの長身に立派な口髭を蓄え、眼鏡をかけて姿勢がよく、いかにも英国紳士然としたチャールズ・カズンズは当時四十歳、インド生まれである。彼は陸軍士官学校を卒業後、英国軍に入隊し、インドに数年駐在した。やがて除隊すると新生活を求めてオーストラリアへ渡り、二十七歳の時、シドニーのラジオ局へ入っている。
一九四〇年、三十七歳の時、その頃ではなかなか名の通った有能なチーフ・アナウンサーとして成功していたにもかかわらず、カズンズは志願してオーストラリア軍に入隊した。当時、日本のアジア侵略はますます勢いを増し、オーストラリアでも迫り来る日本の侵略を恐れる声があがっていた。
一九四二年二月十五日、カズンズが少佐に昇格した二日後、山下奉文中将指揮下の第二十五軍により、シンガポールが陥落し、英極東軍指揮官パーシバル中将は豪州兵、インド兵を含む約十三万の英軍を率いて無条件降伏した。カズンズはその一人だった。
捕虜となった彼は、アナウンサーと分って日本軍に利用されることを恐れ、極力それを隠そうとした。ところが彼の所属した豪州軍司令官から、日本軍捕虜となった豪州軍兵たちが元気でいることを伝える放送を本国向けにやってはくれまいかといって来た。日本軍の許可はすでにおりているという。彼は抵抗した。しかし結局、上官命令ということで、放送をやらざるをえなかった。
彼が有名なアナウンサーとわかった日本軍は、当時、捕虜たちの中から対敵宣伝放送に使うべき人材を捜していた東京の参謀本部にこれを知らせた。参謀本部はさっそくバタビアでなかなか評判のよい宣伝放送をやっていた松井翠声をシンガポールに送って確かめさせた後、カズンズを東京に呼んで使うことに決定した。
カズンズは一言のもとに拒絶したため、何回にもわたって独房に監禁されたり、重労役につかされたり、日本軍から圧力をかけられた。
豪州軍上官から東京行きを説得された彼は、一九四二年六月、奇しくもアイバが日本へ来る時乗って来たあらびあ丸に乗せられ、日本へ向った。
八月一日朝、カズンズは市ヶ谷にあった陸軍参謀本部第二部第八課で、対敵宣伝放送の総指揮を取っていた恒石重嗣少佐の前に連れていかれた。恒石は小柄ながら顔色がよく、手入れの行き届いた身なりで日本軍人然としていた。彼は、船中赤痢にかかってがらがらに痩《や》せた長身をふらつかせ、軍人としてのランクを示す記章をいっさいはぎ取られた汚いカーキ色の軍服を着たカズンズに、日本軍の命令により宣伝放送に従事することを命じた。
カズンズは「自分は捕虜のメッセージと赤十字への呼びかけをする命を上官より受けて来たが、他の放送はいっさいできぬ」と突っぱねた。恒石は「捕虜の身で日本軍命を聞けぬとあらば、生命の保障なし」と嚇《おど》しにかかった。すると、カズンズは「それではピストルと実弾を一発いただきたい。私にとっても貴殿にとってもその方が簡単にことが片づくというものだ」と通訳を通して堂々といい放ち、恒石を苦笑させた。
その後、NHKに連れて行かれたカズンズは同日夕六時の放送を命じられた。それはルーズベルト大統領を非難するものだったため、彼は即座に断わった。彼は「捕虜であるゆえ掃除夫でもなんでもするが、そんな放送だけはできない」と頑張った。
直接彼を扱うことになった米州部員たちは困り抜き、結局恒石が出向いてきて「死ぬかやるか」とばかりにカズンズを一喝した。これには居合わせた局員らも度胆を抜かれるほどだった。
その夜、涙を浮べてマイクに向ったカズンズの放送はあまりにも投げやりで、情報局から目つけ役として局へ派遣されて来ていた並河亮情報局員を激怒させた。
しかし、カズンズが非常に有能なラジオマンであると見抜いていた恒石は、彼を利用することを諦めなかった。嚇すよりは懐柔して自分から進んで放送させるようにしなければ効果ある放送はできないと見た彼は、カズンズを他の友邦国外人アナが使用していた第一ホテルに宿泊させ、食事もその食堂で取らせた。また女を与えるのも悪くないと考えて、並河にその世話を命じた。
並河は幾度か「ナイトクラブへ遊びに行こう」と誘ったが、カズンズはそのたびにきっぱりと断わった。だが恒石は納得せず、並河をせきたてた。困った並河に顔を立ててくれと反対に頼み込まれたカズンズは断わり切れなくなり、一度、横浜本牧街の芸者屋に案内されている。しかし彼はいっこうに面白い顔をせず、芸者の一人とダンスをした後、並河をせきたてて帰ってしまった、と並河は証言している(宣誓供述書、裁判時未使用)。
このように一筋通っていて、しかも礼儀正しい英国紳士然としたカズンズの人柄は、やがて多くの局員の認めるところとなった。
十月中旬(一九四二)、コレヒドール陥落(五月)の時捕虜となったインスとレイズが送られて来た。ウォーレス・インス大尉(三十歳)はウェーンライト少将下のコレヒドールで、かの有名な「自由の声」と呼ぶ対日宣伝放送を少数のフィリピン人を使って手がけ、彼自身もテッド・ウォーレスというアナウンサー名を使って放送していた。ノーマン・レイズ少尉はその時インスのもとで働いていたアナウンサーの一人である。まだ二十歳に満たない若さだった。
日本軍は二人が放送関係者とわかると、東京の恒石の命により病院船で東京へ連行した。二人は恒石が心配したほどのことはなく、カズンズのような抵抗も示さず、しぶしぶながらも命に従った。
レイズはフィリピン人を父にアメリカ人を母に持つ。放送の仕事がなによりも好きで、高校時代からその道に入っている。敵国日本の放送に携わるとはいえ、放送がまたできるということで局員たちの目には結構うれしそうにさえ映った。その後インスは「米人より米人へ」という米英軍への呼びかけ番組、レイズは「光は東方より」という同じような宣伝番組を担当させられた。
恒石の懐柔策は続いていた。インスとレイズは、やはり第一ホテルに一部屋ずつ与えられた。捕虜三人にはジュネーブ協定にしたがって、彼らと同ランクの日本軍人と同額の給与が支払われた。連合軍捕虜を他の友邦国人並みに第一ホテルに宿泊させていることは、やがて議会で問題になった。恒石は慌てて彼らを一九四三年三月、陸軍や憲兵隊が使っていた山王ホテルに移したといわれる。
捕虜たちが米州部の女性局員たちにもてたことも、局内で問題をかもした。タイピストのなかには、若くて他の二人とは違ってあまり事態を深刻に考えず、したがってわりに陽気にしているレイズに積極的に近づく者さえ出てきた。その結果、米州部内では警告が出され、みだりに捕虜に近づく者はきつい注意を受けた。
捕虜たちは監視つきで二階の小部屋をあてがわれた。それでも、しばらくすると女性たちのなかにはなにかと口実を作って捕虜の部屋に出入りしたがる者が出てきた。
カズンズは、各分野からの寄せ集めであった米州部スタッフを自分らと比較して「プロとアマチュアの相違があった」(証言、一九四九・八・十六)といいきっている。捕虜たちが放送する分の原稿は最初日本人スタッフが書いていたが、はなはだしい英語の間違いを直すよりはいっそ自分たちが初めから書いた方が楽だという彼らの提案が通って、彼ら自身が与えられたニュース資料を元にして書くようになった。
その結果、三人は容易に放送をサボタージュできたと証言している。第一ホテルで部屋続きに住んでいた彼らは、よく集まって密談をした。
しかし、日本側がそれほど不用心だったわけではない。放送原稿はいちいち検閲され、スタジオが丸見えのコントロール室には一、二人の局員が必ず捕虜たちの放送を監視しに入った。たいしたことはできなかったはずだ。カズンズがいうようにそれは「できる範囲」でのことであり、むしろちょっとした言葉を変えるなどの、日本側にとってはほとんど無害の行為でも、捕虜たちはそれを「戦い」とし、敵国にいる彼ら自身の心の支えとしたと考えた方が妥当と思われる。
それよりも、彼らがしたサボタージュで効果があったのは、インスとレイズが米州部スタッフの書く放送原稿の手直しをした時だ。彼らが故意に不自然に書く英文を真似しようとした日本人ライターたちは、まったく混乱してしまった。
そのため、改めてインスにニュース、ニュース解説の書き方を教えてもらおうという案が出た。それを神谷勝太郎解説班長がインスに依頼し、一九四三年春(四〜五月)セミナーが開かれた。数回続くはずのシリーズとして始まったが、インスはますますスタッフを煙に巻いて混乱させたので、第二回目をもって、あまり参考にならぬという理由で終っている。
一方、陸軍の恒石たちはアメリカ側が外国へ向けて出す対敵短波放送にだけ頼らず、アメリカの中波放送すなわち国内放送の傍受を思いつき、現在の東上線上福岡に特別の受信施設を作らせた。これは思ったよりもうまくいった。やがてアメリカが対外放送には出さない、ミシシッピー河の氾濫とか、カリフォルニア州での山火事、どこそこの大自動車事故などのローカル・ニュースの傍受が可能となった。
これらアメリカ前線GIもまだ聞いていない国内ニュースを組み込み、厭戦に主力をおいた番組を捕虜を使ってやろうではないか、という案を恒石たち第八課は考えついた。さっそく恒石から沢田進之丞米州部長に命が下り、それが具体化したのが「ゼロ・アワー(零時間)」番組である。海軍がうるさいので一応情報局を通してNHKに命令が出された形が取られたが、実際には以上のごとく陸軍独自のアイデアで直接NHKに命じて作らせた、いわば陸軍直轄番組であった。
一九四三年三月一日、ゼロ・アワーは南太平洋前線GI向け番組として放送を開始した。恒石がこの番組の事実上のプロデューサーのようなものであるが、局ではその頃まだ中元といっていたジョージ満潮《みつしお》英雄が直接の番組担当責任者となり、その下にケネス沖健吉がついた。
ゼロ・アワーという番組名は、突撃の瞬間を俗にゼロ・アワーと呼ぶこと、日本の戦闘機として名高かったゼロ戦、そして日の丸の旗のゼロなどを考え合わせて満潮が名づけた名である。また番組の目的はアメリカGIたちを厭戦、戦意喪失、望郷に陥れようとするところにあった。しかしまずその前に、GIたちに気に入られ、一人でも多くの聞き手を得る必要があった。
そこでアメリカン・ホット・ジャズのオーソリティだったレイズが起用された。放送時間は午後七時二十分頃(東京時間)からの十五分間、すなわち南太平洋のGIの夕食前後の憩いのひとときを狙った。内容はレイズが自分で選んだジャズ・レコードを流し、その音楽の合い間に、これも彼が毎日渡されるニュース資料を使って書き上げた放送原稿を読むというディスク・ジョッキー番組である。
レイズのゼロ・アワー(コリンズ弁護人はこれをオリジナル・ゼロ・アワーと呼んで区別)は今までのラジオ東京からの番組とまったく違い、よい音楽と気のきいたおしゃべりで外地でもすこぶる評判がよく、それはすぐ参謀本部にも伝わってきた。アメリカGIたちにもゼロ・アワーはすぐ人気がでた。放送開始四カ月後の六月二十九日、初めてゼロ・アワーに触れた記事がでている。
「ガダルカナル発――ラジオ東京と日本軍の空襲により、ここでの夜はさほど退屈なものではない。東京はゼロ・アワーと呼ぶ番組をラッセル島およびガダルカナル島付近に向って送信しているが、GIたちは彼らに同情し気の毒がってくれるこの放送を大いに気に入っている」(ニューヨーク・タイムズ紙、一九四三・六・二十九)
これに気をよくした恒石は、ゼロ・アワーをもっと拡張して前線のGIの耳をラジオ東京に向けさせる「えさ」番組にする線を打ち出してきた。その結果、八月第一週より四十五分番組(四十分という証言もある)に拡張されたゼロ・アワーには、カズンズとインスも加えられ、レイズとともに三人の捕虜たちによる番組となった。
内容は、念願かなったカズンズが捕虜のメッセージを読み、インスは例のアメリカ国内ニュースを担当、そしてレイズのオリジナル・ゼロ・アワーを組み合わせたものであった。
満潮、沖がニュース原稿を書くこともあったが、これは三人の捕虜たちがうまく切り回していた番組である。三人はGIをホームシックに陥らせるという日本側の目的とは反対に、彼らを元気づける陽気な番組にしようともくろむ。
ある程度宣伝を入れて日本側の要求を満たさなければならなかったとはいえ、三人は、気に入らないニュースは聞いているほうが理解できないような早口で読むことに努め、しかもふざけた調子にした。GIがゼロ・アワーの宣伝を反対に面白がり、大笑いしていたらしいことからすると、カズンズらの意図は成功したようだ。
恒石から「えさ」番組であることをいい含められていた局側はあまりうるさいことはいわず、三人にこの番組を任せているところがあった。放送原稿は厳しい検閲を通る規定にもかかわらず、実際には形ばかりで、その点ルーズだった。入れるべきニュースは常に遅れて入り(ぜんぜん入らぬことさえ一度ならずあった)、放送原稿が書き上がるのは放送直前ということも珍しくなかった。したがって、すでに放送ずみの原稿が検閲に回るのが常といってよかった。
下手で幼稚な他のラジオ東京番組のなかで、ゼロ・アワーは当時の諸外国の対外放送の水準に匹敵する唯一の日本側番組といわれる。当時局内では、捕虜たちが勝手なことをやっている完全な娯楽番組、と批評する者も少なくなかったが、大半の者はゼロ・アワーの水準の高さを認めていた。
ますますゼロ・アワーの重要性を感じた恒石は、カズンズたちが参加し出して三カ月後の十一月、再拡張の命を再び沢田にだした。沢田から恒石に示すべき再拡張プランを作るように命じられた満潮は、鉛筆書きのごく簡単なプランを作ると、それをまず捕虜たちに見せにきた。
ゼロ・アワーを陽気なGI向け娯楽番組にする計画が軌道に乗り、なかなかうまくいっていると思っていた三人は再拡張に反対した。再拡張プランにはあらたにスタッフを加えると同時に、もっと濃厚にホームシック調を出す線が示されていた。カズンズたちは「絶対やれない」と断わった。「しかし中元(満潮)は『これは軍命であり、選択の余地はないのだ。私自身の首と同時に君たちの首もかかっているのだ』というと、いつも局の連中がするように首を切る真似をして見せました」(カズンズ証言、一九四九・八・十五)
カズンズは仕方なく「なんとかわれわれで考えてみよう。しかし再拡張プランは私に一任してもらいたい」(同証言)というと、満潮を追い払った。
「われわれで考えてみようとは一体どういうことか、自分は絶対やらぬ」とその後もごねるインスをなだめながら、カズンズは、どうしても再拡張せねばならぬのなら自分たちのこれまでの線にできるだけ近いものにしたいとねがった。またスタッフを増やすのなら、自分たちの味方となる者で、しかも普通の女性アナとは違うタイプの女の声がよいと考えた。
その時、彼はタイピストだったアイバの起用を思いついた。
これには同じ捕虜のインスとレイズがまず驚き、彼女の悪声《ヽヽ》を問題にして大反対した。カズンズはこれを無視し、さっそく満潮に再拡張プランなるものを示すと同時に、それに必要な女性アナとしてアイバを指名した。女性タイピストをアナウンサーに起用するのは決して珍しいことではなかった。しかし、アイバ戸栗と聞いて満潮は耳を疑った。
彼は初め、カズンズがからかっているのかと思った。どうも本気らしいとわかると、「あんな声は使いものにならぬ」と断固反対にでた。カズンズは「お互いの首がかかっているというのなら、自分を信用して、とにかく一切まかせてほしい。悪いようにはしない」(同証言)と引き下がらなかった。
8 アイバ、初めてマイクに向う
一九四三年十一月十一日頃、米州部のオフィスでいつものようにアイバがタイプを打っていると、満潮がやって来た。
「中元さんは、軍からの命令で私が捕虜たちでやる新しい娯楽番組に出ることになった、といいました。……私はラジオのことも放送についても何一つとして知りませんでした。『アナウンサーをやる気はありません』というと、彼は『やりたい、やりたくないの問題ではない。軍から命令が出たのだ。軍命は軍命だ。詳しくは君の上司に聞きなさい』といいました。……彼は一時間後には声のテストをする予定だとつけ加えました。すでにその時は三時か三時半頃だったと思います」(アイバ証言、一九四九・九・八)
唖然《あぜん》としたアイバは、慌てて上司である高野のデスクに行くと、ことの次第を告げた。すると高野も、「きょう、君が出てきた時にいおうと思っていたのだが……捕虜たちの希望で君に彼らの番組に出るように軍からいってきたのだ」(同証言)と満潮と同じことをいった。
アイバはマイクがどんな形をしているのかも知らないし、アナになる気もないと答えた。高野はそれを聞くと、「君は外人であるのにNHKで仕事を得たことを忘れない方がよい。選択の余地はない。君は軍支配下の国に住んでいるのだ。軍の命には従うより他ない。もしそうしない時はどんな結果になるか、いう必要もあるまい」(同証言)と諭した。
その日四時半〜五時頃、捕虜の監視に当っていたジョージ野田がアイバをオフィスに迎えにくると、二階のスタジオの一つに連れて行った。そこにはすでにカズンズが来ていた。
「どうして私などをアナウンサーに選んだのか。ラジオのことはなにも知らない」というアイバに、カズンズは「心配するな。それなりの目的があって特に君を選んだのだ。気軽に声のテストを受けなさい。形だけのことなのだから」(同証言)と優しくいった。事実、声のテストはまったく形だけのもので、一、二分もかからなかった。
カズンズはさらに次のように小声でつけ加えた。
「これは完全なる娯楽番組だ。放送原稿は私が書き、私がなにをやるかすべて心得ているのだ。君は戦場で私の支配下にある一兵士になった覚悟で私に身柄を預けると思ってほしい。君が故国を裏切るようになることはいっさいさせない。私が原稿にはすべて目を通すのだから、それを保証できる」(カズンズ証言、一九四九・八・十五)
アイバの心は決った。日頃から尊敬するカズンズの思いがけなくも一緒に同志として戦ってくれという一言は、彼女の心に一番食い入る言葉であった。また他に多くいた女性アナをさしおいて、捕虜の密かな戦いの一闘士として、タイピストの自分が選ばれたことはアイバを喜ばせた。彼女は誇りにさえ感じた。もしその時、彼女に対米宣伝放送に参加することへの不安があったとしても、カズンズのこの一言で消し飛んだはずである。
この声のテストの一時間後、すなわちゼロ・アワーのアナウンサーとなる命が軍より出て二時間後の同夕六時、アイバはカズンズの選んだレコードと、やはり彼が書いた放送原稿により、生まれて初めてマイクに向った。一九四一年七月五日、サンペドロ港を出て以来、約二年半ぶりに彼女は懐かしい故国アメリカのために戦っているGIたちに、皮肉にも対米謀略宣伝放送を通じて呼びかけたのである。
9 GIたちのアイドル
アイバがゼロ・アワーの女性アナに起用されたことは、米州部内に大きな反響を呼んだ。スタッフは、なぜカズンズがアイバごとき|ずぶ《ヽヽ》の素人を選んだのか測りかねた。放送実績があり、ゼロ・アワーを軌道に乗せていたカズンズから「一任してほしい」といわれてアイバ起用を承知したものの、満潮たちは呆れ果てていた。
「いくらなんでもあの声はひどすぎる!」と誰もがいった。米州部には、「南京の鶯」須山を初めとして幾人かの良い声の女性アナがいた。彼女たちは皆、ベテランのカズンズの下で評判のゼロ・アワーに出ることを二つ返事で承知しただろう。それを、こともあろうに放送経験ゼロのタイピストで、しかも耳ざわりなガラガラ声のアイバがやるというのだ。女性アナウンサーたちは当惑し、陰口をきいた。
初めてマイクを通してアイバの声を聞いたインスとレイズは「ギーギーと金属を切る鋸のような」「いやな声」に当惑した。インスは「烏《からす》のような声」だとも評した。一人だけこの悪声《ヽヽ》に満足し、ほくそ笑んでいる者がいた。いうまでもなくカズンズその人であった。
彼は後にこういっている。
「私はその番組を完全なバーレスク化してやろうと心に決めていたので、アイバの声はまさしく私の求めていた声にぴったりでした。|荒い《ラフ》声――これは悪気でなくいうのですが――その後、私が酒荒れした≠ニ呼んだ声でした。荒く男っぽくさえあり、女らしい誘惑するような声とは間違ってもいえないものでした。しかし、その番組にぜひとも必要だった、コメディ風の声だったのです」(カズンズ証言、一九四九・八・十五)
アイバ自身は次のように供述している。
「カズンズ少佐は陽気なWAC(陸軍婦人部隊)のような感じの個性のあるヤンキー的な声を求めており、『毎日コーチして、その陽気さを君の声から引き出してみせる。心配しなさんな』といいました」(アイバ証言、一九四九・九・八)
事実、カズンズは言葉通りに、その日から毎日アイバに猛特訓をしだした。彼はまず放送原稿を自分で読んで聞かせると、今度は彼女にアクセントの置き方から抑揚のつけ方まで、すべて一語一句そっくりに真似させ、気に入るまで何度も繰り返させた。かなり早口で喋《しやべ》る癖のあった彼女は、ゆっくり、しかも大いに陽気に話すように毎日注意された。カズンズは彼女に、太平洋のGIたちのなかに身を置いて、彼らと冗談半分ふざけながら話をしているふうな感じに話すことを強調した。
スタッフの反対を押し切ってアイバに白羽の矢を当てた彼のコーチには熱が入った。一方「ひどい声」と皆に陰口をきかれ、馬鹿にされているのを知っていたアイバも、それに応えて一生懸命だった。カズンズのコーチは、彼がゼロ・アワーを下りる最後の日まで毎日欠かさず続けられた。アイバに教え込む彼の姿は、ゼロ・アワーのスタッフの脳裏に焼きついた。
その彼の意図と努力は報いられ、間もなくアイバは悪声変じてなかなか個性のあるコミカルで陽気な――多分サザエさんのような感じを出すようになった。
この反響は、何カ月もたたぬうちに南太平洋のGIたちからも出た。彼らは、それまでの綺麗ではあるがどこといって特徴のないラジオ東京の女性アナウンサーと違って、個性的で陽気なアイバの放送ぶりが大いに気に入った。アイバを加えたゼロ・アワーはますます好評を博し、人気を高めていった。
最初、彼女は本名のアイバを使うことを厭《いや》がったので、これというアナウンサー名を使わなかった。だが、不便だとして、初放送から約一カ月後の十二月、カズンズは彼女に「アン」というアナウンサー名をつけた。これは、NHKでは、普通、放送原稿でアナウンサーが放送する個所は Announcer を省略して Ann. と書かれているのを、名として使ったに過ぎない。
やがてカズンズは、アメリカ放送でも太平洋GIたちのことをふざけて「太平洋の孤児」と呼んでいるのを知ると、その太平洋の孤児たちの一人であるアンという意味で、アイバを「孤児アン」「孤児のアンちゃん」と呼ぶことにした。彼は昔はやった「小さな孤児アン」というコミカルな流行歌を思い出し、またインスからアメリカで戦前から人気のあったマンガに「孤児アン」というのがあると聞いて、その名が一層気に入った。
一応検閲を考えてはいる。まるっきり娯楽という印象を与えないために、カズンズはアイバに「間抜け」などの言葉でGIを呼ばせたが、その時は honorable などの敬語を頭につけ、しかもそれを|r《アール》の発音のできない日本人が honable と発音するのに真似させ、ふざけた調子を出させた。「あなたのお気入りの敵アン」もよく使われた言葉だ。
アイバが参加してからのゼロ・アワーは、フォーマットも今までとは変わったものになっている。
まず、放送時間は東京時間の午後六時から始まって七時十五分まで。これは一九四四年十二月頃からは六時〜七時に短縮された(マニラ時間四時半、シドニー時間六時半に当たる)。
(1) オープニング・テーマ音楽「Strike Up the Band(軍楽隊をやれ)」――アーサー・フィドラー指揮するボストン・ポップス演奏のレコード。
(2) 捕虜メッセージ(五〜十分)――連合軍捕虜が故国の家族に宛てて書いた約二十五語ほどのメッセージをいくつかカズンズが読んだ。
(3) 「孤児アン」のディスク・ジョッキー(十五〜二十分)――カズンズが「今度は音楽の時間です」とか「次はアンです」とアイバのアンを紹介、それを受けた彼女がカズンズの書いた自己紹介を読みあげた後、音楽レコードを紹介し、レコードをかけた。主としてセミ・クラシックかクラシックで、それに、少数のダンス音楽が加わった。
レコードは九インチので四枚、十二インチだと三枚ほど使った。音楽の合い間に入るレコード紹介のおしゃべりは全部で二、三分、すべてカズンズの書いた原稿からである。アイバがマイクに向って自発的にしゃべる、いわゆるアドリブは一度もなかった。またこれは大抵つぎにくるインスのニュースの前後に二部に分けて入る形が取られた。
(4) アメリカ国内ニュース(五〜十分)――例の陸軍がキャッチしていたアメリカ国内ニュースを満潮が軍からもらってきて編集し、彼かインスが放送原稿を書く。主としてインスが放送した。しかし時間ぎりぎり、またはぜんぜん間に合わなかったりして、時間潰しにレコードをかけることが少なくなかった。
(5) テッドの今夜のニュース・ハイライト(五〜十分)――外国短波ニュースをインスが編集して彼自身が放送。
(6) ジューク・ボックス(十五〜二十分)――レイズのオリジナル・ゼロ・アワー。ジャズとダンス音楽を主とした。
(7) 時としてチャールズ吉井のニュース解説がはいった。
(8) 軍歌・行進曲などを一曲。
(9) サイン・オフ――インスが担当。
これは、カズンズが出ていた間のゼロ・アワーの内容である。繰り返すが、アイバの読む放送原稿はすべて彼が書き、彼女の使うレコードも彼が選んだ。アイバはただカズンズの指示通りに放送していたに過ぎない。この事実は、当時のゼロ・アワー関係者の一致した証言である。
カズンズの書いたアン放送は非常に短縮された形の話し言葉や、俗語、しゃれが入っていて、英語を母国語としない者にはなかなか難しいものだった。二世は別としても、英語の達者な日本人局員でも理解できない部分が多く、しかもかなりのスピードで抑揚をつけて読まれたので、さらに難しくなった。
また、彼自身が力説しているように、彼が書いたアン原稿には、いわゆる宣伝は皆無だった。種々の証言からしても、これは断言できると思われる。
ゼロ・アワーは週七日の番組だったが、レイズを除く他のメンバーは日曜日は一度も担当していない。日曜日のゼロ・アワーは、レイズのオリジナル・ゼロ・アワー開始以来、日曜日を担当してきたルース早川がレイズ(常に出ていたわけではなく、その週の録音がよく使われた)とともに引き続きやっていた。彼女は「サンデー・コンサート」と称してクラシック、セミ・クラシック音楽を専門に扱ったディスク・ジョッキーをやった。
アイバは業務部からゼロ・アワーに貸している人間という形でアナウンサーとなった。その後もしばらく業務部でタイピストもやらされていたが、間もなくそちらの方を止めさせられると、新しく三人の捕虜たちに与えられた三階の一部屋に移ってきた。今まで捕虜たちが入っていた狭い部屋とは対照的にガランとした大きな部屋で、満潮、沖を加えたゼロ・アワーのスタッフだけが入っていた。陸軍直轄の捕虜番組ゼロ・アワーを手がけるスタッフが、他の局員から隔離されていた部屋といえた。
10 味をしめた「捕虜番組」
恒石たち第八課は、捕虜三人を使って実験的にやらせた番組ゼロ・アワーが、予想以上の成功を収めたのに味をしめた。そこで当時、南方各地に収容されていた約十七万人の捕虜のなかから放送に使えそうなのを選び出し、さらに幾つかの捕虜番組を作ることを思いついた。その結果選ばれた五十三人の捕虜は十一月、ひとまず大森捕虜収容所に送られてきた。
恒石は、これら対敵宣伝放送に従事する捕虜だけを密かに隔離収容したいと思い、自由主義教育をやったという理由で閉鎖処分を受けていた駿河台の文化学院を接収し、捕虜たちの宿舎兼宣伝放送のための作業場とすることを決めた。正式には陸軍参謀本部第二部第八課の駿河台分室と呼ばれ、この分室の存在はできるだけ人に知られないようにはかった。参謀本部でもその存在を知っている人は少なかった。正門には監視の兵が立ち、カモフラージュのため表札もたんに「駿河台技術研究所」となっていたので、普通の人にはなにをするところなのか、皆目見当がつかなかった。捕虜たちは俗に「文化キャンプ」と呼んだ。
まずその一角に、新たに各分野から集められた捕虜収容の民間事務および対敵謀略宣伝戦の企画にあたる民間人と第八課の軍人、監視の憲兵、その他三十人ほどのスタッフが入所し、態勢を整えた。そして十二月一日、大森で待機していた捕虜のうち、さらに恒石に吟味された十四人の捕虜が、第一陣として送り込まれてくる。入所直後、彼らは中庭に整列させられ、いわれた命令に従わない者は「生命の保障なし」と一喝された。これに似たスピーチはその後三カ月、捕虜たちを心理的にまいらせる意味をこめて、毎朝くり返された。
十二月十八日、カズンズとインスが山王ホテルから移ってきた。レイズは十一月にフィリピンに日本軍による傀儡《かいらい》政府が樹立された時、友邦国民として自由の身になっていた。しかしいくら頼んでもマニラには帰してもらえず、相変らずゼロ・アワーで使われていた。もっとも、彼の月給はそれまでの七十円ほどから一躍五百円以上にもなり(当時、総理大臣の月給八百円)、局内で大問題となっている。
カズンズは初めて文化キャンプの捕虜たちを見た時、いつも恐怖におののき、何事にもびくびくした負け犬のような様子に驚いた。彼らのうちで一番軍人としての地位が高く人望もあった彼は、一躍彼らのリーダーとなると、なんとかして彼らの意気を奮いたたせたいとねがった。
カズンズは、捕虜たちに放送を利用しての戦いを説いた。放送原稿に「二重の意味」を持たせ、本土と密かに連絡を取れと教えた。たとえば、GIたちが太平洋のある島で勝利を収めたというニュースを手に入れた時、放送原稿にその島に似た言葉を使って「よくやった」と伝えるというようなものだ。しかし文化キャンプで書かれる原稿は、一枚一枚、二世の宇野一麿が実に厳しい目で検閲し、放送中もスタジオの中で彼らの放送を監視するという念の入れようだった。実際には捕虜たちが勝手なことをやれるすきはほとんどなかった。だが、カズンズの説くこの戦いは、捕虜たちを励ます意味では効果があった。年が明けて翌一九四四年一月、さらに十二名の捕虜が入所してきた。
捕虜たちは、すでに幾つかの番組を手がけている。第一陣でやってきた連中は、その翌日より「日の丸アワー」という捕虜番組を開始した。午後一時〜一時半(後に一時半〜二時)放送のこの番組内容は、捕虜メッセージ、音楽、ニュース解説、特別企画演芸などで、ゼロ・アワーの焼直しともいえるが、かなり濃厚な宣伝が入っていた。しかし、二カ月ほどたった頃より、日本人ライターのあまりにも下手で押しつけがましい宣伝が入った放送原稿は棚上げされたも同然となる。ラジオ経験のある捕虜たち自身に書かせ、アナウンサーから進行係まで、すべて彼らにまかせた完全な捕虜番組となった。後に番組名は「ヒューマニティ・コール」と変更している。
その他の捕虜番組としては「戦争における戦争」「オーストラリア・アワー」「シビリアン・エア・プログラム」「ポストマン・コール」など、すべて「日の丸アワー」に似た内容を持つ番組である。
捕虜たちは、放送の仕事とは別にキャンプ内でのいろいろな仕事を割りあてられていた。食事係、掃除係、風呂係など。それらがよくできてないなどの理由で、よく彼らは監視の軍人に殴られた。しかし、それよりも一番辛かったのは、あまりにも粗末な食事だった。一日三食、コーリャンを薄い味噌汁で飲み下すだけの食事だった。皆ひどい栄養失調にかかり、重症の脚気、壊血病で寝たっきりになったものもいた。彼らはキャンプ内の樹木の若葉を食べたり、迷い込んできた犬猫を殺して食べたりさえした。
見かねて村山有(二世)その他数人の事務を担当した日本人たちが、密かに、ときおり差し入れしてやっていた。アイバも差し入れを続けた一人だ。彼女は用心しながらも毎日のように食べ物や薬を局へ運んだ。
彼女は休日に買出しにでかけたり、フィリップの厚木にいたおばあさんに頼んだりして差し入れに努めた。食糧が不足していた当時、自分の分以外の食料品を手に入れるのは容易なことではなかった。農家の人はお金より古着を喜んだので、彼女は自分の洋服をカズンズに届ける野菜類とよく交換した。自分がアメリカから持って来た分厚い純毛の毛布をもカズンズに手渡している。一九四四年二月頃、捕虜の一人クイリイが原因不明の高熱を出し、しきりに悪寒を訴えた。捕虜には真冬でも薄い上下のせんべい布団が一人一組与えられているだけだった。それでなくとも寒かった。見かねてカズンズがもう一枚掛布団を出してくれるようにかけ合ったが、聞き入れられなかった。
アイバは、その話を聞くと下宿の部屋のトランクの覆いとして使っていた自分の毛布をカズンズに手渡してやった。カズンズは冬でもオーバーを持っていなかったので、彼の代わりにインスがそれを体に巻きつけ、その上からレインコートを着てキャンプへ持ち帰ったという。アイバと同じ下宿にいたフィリップは、ある日突然なくなった毛布に気づいて彼女に問うと、やってしまったと無造作にいうので驚いてしまった。
当時の日本で、そのような良質の毛布は金にも勝る値打ちがあったのだ。彼女のように捕虜を助けた局員は他にも数人いた。しかしアイバほど引き続き差し入れしてくれた者はいなかったと、カズンズは証言している。
11 三人の「東京ローズ」候補
カズンズとインスが文化キャンプに移された頃、アイバはそれまで勤めていた同盟通信をやめた。それまでも日本派がほとんどを占めていた同僚二世モニターたちと、遠慮なくアメリカ派であることを押し通す彼女との間にはいざこざが絶えなかった。
日本国籍に入っていた二世の同僚たちは皆、大本営発表こそ正しいと主張した。しかしサンフランシスコからのニュース解説がいつもミッドウェーやコーラル海戦を一区切りとして話を進めており、これらの海戦を境として連合軍側は戦いに勝ってきているとみていたアイバは反論した。
とうとうある日、たった一人彼女の味方だったフィリップと同僚の一人が大議論の末、殴り合いになってしまった。これが直接の原因となり、アイバはいづらくなって同盟を辞職した。
アイバはそれにかわる仕事を捜した。間もなく日本タイムスの広告欄でデンマーク公使館がタイピスト兼事務員を募集していることを知ると、さっそく応募のハガキを出した。しかしラーズ・ペダソン・テリツァ公使との面接で、自分が多数の応募者のうち一番最後に応募したと知って、すっかり落胆した。それが思いがけず採用の通知を受け取って彼女は雀躍《こおど》りした。当時の日本で、それは彼女のような立場の者が得ることができる最良の仕事の一つであった。アイバは自分の幸運を喜んだ。
中立国デンマークは戦時中も東京に公使館を置き、公使は戦前より引き続きテリツァが務めていた。グルー駐日アメリカ大使と非常に親しかったテリツァは、とてもアメリカに興味を持っていて、いつか訪れてみたいとアイバに語ったりした。
「アイバとはとても親しくなりました。彼女はアメリカで教育を受け、すべてにアメリカ人でした。よく私に日本にきた頃生活に馴れず困った話をしたものです。アメリカに帰りたいと何度もくり返していってました。戦争についてもたびたび話し合ったのを覚えています。アメリカは勝つ、日本がアメリカに挑戦したのは気狂《きちが》い沙汰だと彼女はいってました。私は彼女がアメリカの勝利をねがっているといつもみていました」(テリツァ宣誓供述書、一九四九・九・二)
一九四四年一月六日より勤め始め、一九四五年五月デンマークと日本が国交断絶となり、公使館が閉鎖されるまでの一年数カ月、日曜を除く毎日九時から四時まで(土曜日正午まで)、アイバは熱心に通勤した。給料は百五十円(一九四四年六月より税込み百六十円)となかなかよかった。
公使館のたった一人の職員(女中は除く)だったアイバは、公使夫妻の信頼を得て、非常にかわいがられた。デンマーク公使夫妻との出会いは、日本での彼女の一番明るい思い出である。
彼女は公使館での仕事が終るとすぐその足で局へむかい、だいたい局へは五時頃着いた。だが、仕事が忙しく、時としては五時をずっと回って駆けつけることもたびたびとなる。そんなアイバを、満潮と沖は快く思わなかった。
アイバは、放送局での仕事をやめる気はなかった。カズンズの熱心なコーチのお蔭で、日一日と放送の仕事が面白くなっていた。彼のようなベテランに指導されて放送技術を身につけられるのは幸運だった。戦争が終ったら本格的に放送の仕事に進むのも悪くないと、彼女は考えた。
放送局の仕事は短時間のわりにはよい収入にもなった。一日二〜三時間しか局に出ないのに、一日中局で働く正規の局員と比較してもかなりよい給料を取っていた。基本給八十円に特別語学手当というのが二十円ついて一カ月百円(手取り八十円)ほど。女性アナの中で一番高給取りだった須山で百五十円(税込み)、加藤百二十円、早川百円、師岡、石井、古屋にいたっては八十円ほどだった。正規の局員にはパートのアイバと違って年二回のボーナスがでた。それにしてもアイバの給料は悪くはない。
だが、なんといっても彼女は、カズンズたちとともに放送を通じて戦っていることに誇りを感じ胸を張っていた。相変わらずしつこい特高や、デンマーク公使館まで押しかけて来る憲兵にも挫《くじ》けない心の張りを支えていたのは、彼らとの連帯感だった。
三、四月頃、米州部のスタッフは初めて東京ローズ≠フ名を耳にして沸き立つ。
満潮がスウェーデンまたはリスボン発のそのニュースのコピーを三階のゼロ・アワーの部屋に持って来た時、カズンズもアイバもいた。その記事はアン放送のことをいっているみたいなところもあるが、違うところも多いと彼らは思った。また東京ローズの放送が日曜日となっていたから、これは確かにアンではなく、多分南方からの放送だろうと結論したと証言している。しかし沖の証言はまったく違う。彼は記事にははっきりゼロ・アワーのアンをローズと指摘してあったので、東京ローズはアイバと決まり、その後他のスタッフは陰で彼女をローズと呼んだというのだ。沖はアイバがそれを内心喜んでいた風であったとさえ匂わせた。
一方、早川は、沖とその頃東京ローズについて話し合ったことをよく覚えている。
「ケン(沖)が外務省からきたとかいうニュース・コピーを見せてくれました。……そこで私が東京ローズとは誰のことかと聞くと、彼は君だよといったのです。私は日曜日の夕方に放送している上、優しい魅力的な声をしているが、アイバの声はまったく違うとケンはいってました」(宣誓供述書、一九四九・八・二十四)
米州部のスタッフが、南太平洋GIたちの人気者東京ローズ≠ニは誰かと大騒ぎしたその春、東京ローズの本命としてあがったのは、アイバ、須山、早川の三名であった。しかし結局のところ東京ローズは彼らにとっても謎だった。大半の者は、満潮やカズンズのように南方放送に出ている女性アナに違いないと結論するにとどまっている。
12 終  戦
四月頃、インスが突然ゼロ・アワーをおろされた。ゼロ・アワーの放送原稿のことで反抗したのが原因らしい。その時は死刑の噂さえ飛んだが、カズンズがインスの命乞いをして、なんとか文化キャンプにいられるようにしたといわれる。
以来、インスはゼロ・アワーとはまったく無関係になってしまった。彼はその後の数カ月、放送の仕事からはいっさい遠ざけられ、ふたたび局に顔を出したのは、その年の九月になってからである。その後、彼は終戦まで捕虜番組「ポストマン・コール」を担当する。
インスがやめたのをきっかけに、ゼロ・アワーのスタッフは少しずつ変わりだした。まず彼の後釜として若いケネス石井鎌一が加わった。日本人を父に英国人を母に持つ石井は、日本で生まれ育った後、文化キャンプとして使われた文化学院を卒業した。英国アクセントの英語を話す石井の声は、カズンズ自身が驚くほど彼の声に似ていた。
次いで翻訳兼タイピストだったロサンゼルス生まれの古屋美笑子(後に沖と結婚)が入り、ゼロ・アワーの雑事務をとる一方、アイバが休みの時の代理アナウンサーとなった。彼女はまた「土曜日の夜のパーティ・ガール・ベティ」の名で土曜日にはかかさず出るようになる。それまでは主として早川がアイバの代理にかり出されていた。
またインスのやめた頃から、満潮と沖がニュース原稿を書くだけでなく、放送にも時々でるようになっている。沖などはそれまでも、下手なくせに放送したがっていた。捕虜三人とアイバがやっていた頃のゼロ・アワーとは、少しずつ様子が変わってきた。
そして六月十七日、今度はカズンズの姿が突如ゼロ・アワーからも文化キャンプからも消えた。栄養失調でふらふらしていてもほとんど休むことなく局に出てきてアイバの放送原稿を書き(一〜二日休んだ時はインスが書いた)、毎日彼女に放送のコーチをし、力となってくれていたカズンズが消えた。アイバのショックは大きく、彼女は必死で消息を知ろうとする。
カズンズは心臓発作で倒れていた。長い捕虜生活の疲れが出たのか以前からも多少ノイローゼ気味だったという声もある。精神と肉体の過労から突然倒れたようである。
カズンズに絶対の信頼と尊敬を寄せ、彼とともに戦うことに意義を見出して局へ通っていたアイバは、完全に戦意を喪失していた。カズンズこそ彼女の司令官だった。彼女の演じる孤児アンは彼の創作である。彼女は彼にいわれる通りに、彼の書いた放送原稿を一語一句口真似していた人形に過ぎなかった。それは初放送より彼が倒れたその前日まで繰り返された。カズンズを失った彼女は、今やその名のごとく「孤児」のアンになってしまった。
彼のいないゼロ・アワーは、アイバにとって無意味だった。その上、彼女には放送原稿の書き方が皆目わからなかった。書きたくても自分の放送原稿を書くことができなかった。そこで満潮、沖そしてレイズが口を出し始めた。
カズンズが去ってからのゼロ・アワーは、完全に満潮、沖が采配をふるう番組になっていた。ゼロ・アワーの内容も大きく変化してきた。満潮たちは「アーチィとワタナベ」という、アメリカで戦前はやったコミックの二世の召使いフランク・ワタナベを中心とするシリーズの寸劇を、常時ゼロ・アワーでやり始める。主人公フランクは満潮自身がつとめた。スタッフはさらに増し、中村哲(カナダ二世・司会)、忍足《おしだり》信一(ライター)、小篠輝雄(二世・ライター)、森山久(二世・アナ)などが加わった。
アイバは放送局をやめたかった。満潮は彼女からそれを聞くと、陸軍が直接やっている番組に出ていて、個人の意思で勝手にやめたくなったからやめるということができるかどうか考えてみた方がよいと、問題にしなかった。皆の大反対を受けてアナに起用されたアイバは、今やラジオ東京の看板番組ゼロ・アワーの人気アナであったのだ。恒石が簡単に手離すはずがなかった。
どうせ簡単にやめられないのならと思ったのか、この頃アイバは満潮に昇給を願いでている。二カ月後、彼女の給料は一挙に八十円も昇給し、百八十円(税込み)となった。気持よく協力させようと思った恒石が金で釣ろうとしたのか、アイバは女性アナウンサー中一番の高給取りとなった。
アイバは五月頃、フィリップの薦めで御成門の下宿を出て、彼の母と祖母が疎開していた厚木の家へ移っていた。だが、厚木からの通勤は大変だった。
彼女はそれまで、局には番組が終了する七時十五分まで残っていた。厚木へ移ってからは持ち時間のアン放送が大体六時半頃終るとすぐスタジオを出るようになった。待っていたフィリップと二人でいつも駈け足で駅へ急いだが、それでも厚木で夕食にありつく頃は十時に近かった。フィリップの母へは下宿代(二食付)として六十円ほど納めていた。
厚木へ移ってから土曜日にはたびたび局を休むようになっていたアイバは、カズンズがいなくなってからは土曜日はまったく出てこなくなってしまった。満潮たちは初め文句をいっていたが、やがて諦めたのかなにもいわなくなった。局へ出てくる時間もますます遅くなっていた。そのうえ、自分の持ち番が終ると遠慮もなくさっさと引き上げて行く。満潮たちは渋い顔をして見ていた。
それまでも時々アイバは欠勤した。公使館に勤め始めた一月末、中耳炎を患って二〜三週間休んだのを始めに、五月に厚木へ引越した時も警察から通勤許可が下りるまでの十日間ほど休んでいる。そしてカズンズがいなくなったその夏から、彼女はますます大胆に病気などを口実に休むようになった。
まず七月四日の誕生日から二週間ほど病気を口実に休んだ。翌八月十八日からまた二週間テリツァ公使夫妻に招待されて軽井沢にあった別荘に行ってしまった。満潮や沖がよくこのことをぐちったので、米州部内でも「アイバの欠勤」は有名だった。
秋に入る頃、アイバとフィリップは長時間かかる厚木からの通勤にくたびれきってしまった。とてもこれでは体が持たないと再び東京へ戻ることを考え、下宿捜しを始めた。しかしアメリカ人の彼女に部屋を貸してもよいという人はなかなかいなかった。これに同情した伊藤チエ子の叔父の口ききで、世田谷区池尻町の城戸宅に下宿が決ったのは十月中旬になってからである。
軽井沢から戻って間もなく、カズンズが順天堂病院にいるとわかった。アイバは、さっそく彼を見舞った。久しぶりに見る彼は思ったよりは元気そうで、彼女がハンドバッグに隠し持っていったゆで卵を嬉しそうに食べた。
アイバは、カズンズがやめてから満潮たちが勝手にゼロ・アワーをやっていて自分の原稿にも手を出す、やめられるものならやめたいと弱音をはいた。カズンズは、今まで彼が書いた原稿をレコードだけ取り替えて辻つまを合わせて使い、満潮たちに書かせず、自分が復帰するまで頑張れ、その日は遠くないと励ました。
しかしその日は来なかった。彼は退院して文化キャンプに戻った後、そこで放送原稿を書かされていたが、局にもゼロ・アワーにも戻ることはなかった。アイバが再びカズンズに会う機会はなかった。
満潮やレイズの書く原稿をいやがったアイバは、カズンズの忠告に従って、なんとか自分で原稿を書こうとした。「レコードを変えるだけで、カズンズ少佐が書いた古い原稿を手本として使いました。レコードを変えるということは、歌手やオーケストラの名もそれに合わせて変えるわけです。私は放送の仕事についてまったくの素人で、特に放送原稿書きができなく、ディスク・ジョッキーのおしゃべりの部分は、ほとんど一語一句カズンズ少佐の書いたものを真似したのです」(アイバ証言、一九四九・九・八)
十一月頃、満潮がニュース解説班長となり、ゼロ・アワーの担当責任者は沖となった。そのちょっと前、ゼロ・アワーのスタッフは前線班《フロントライン》という独立した一班となっている。沖が前線班長となってからのゼロ・アワーはさらに変化した。
カズンズが意図したGIたちを元気づける陽気な番組の線はくずれ、かなり濃厚な宣伝が使われだした。かつてのゼロ・アワーのスマートさはなく、下劣で野暮ったい番組となった。その中でアイバのアン放送の部分だけが、以前のカズンズの原稿を使いながら昔のスタイルを守ろうとした。カズンズの指導を受けたアナである石井も徴兵されて、ゼロ・アワーから消えていた。
沖が音頭を取りだしてからのゼロ・アワーの評判は米州部内でもがた落ちだった。彼らが勝手なことをしているらしいという印象を局員は受けた。
それでなくとも、局内での沖の評判は良くなかった。要領がよすぎるというのだ。
しかし、当時の米州部自体にもデタラメが目立った。二世が多い部内は以前からも独特の雰囲気があった。身分の不安定な二世はそれぞれの日本人上司におべんちゃらを使い、部内で派閥を作っていた。二世は日本人とくらべてかなり安い給料で使われていたから、仕事とは別に翻訳料などの口実で余分の収入を得る意味でも日本人上司との繋《つな》がりが大切だった。彼らとしても生活がかかっていた。
部内に憲兵隊のスパイがいるという噂は常にきかれ、局員たちは腹の中ではお互いを疑っていた。
憲兵の目が光っているわりには、部内の風紀《ヽヽ》が乱れていた。相変わらず女性タイピストの中には文化キャンプの若い捕虜たちに熱をあげて、彼らが放送しているスタジオに近づきたがる者が多くいた。彼女たちの幾人かは密かに彼らに差し入れしていた。その頃、かつては捕虜だった若いレイズが、彼に熱をあげて積極的に近づいていたタイピストあがりのアナであるサンディエゴ出身の二世、キャサリン師岡と結婚して皆を驚かせた。彼らは十一月末、駐日フィリピン大使バルカス夫妻の媒酌で華やかに式を挙げている。
レイズと師岡、やがて結婚した沖・古屋の、当時の日本人の目には見なれない自由な男女交際ぶりに眉をひそめていた局員は多かった。それと同じことがアイバにもいえた。同じ下宿にいる上、いつもアイバに影のようについてくるフィリップと彼女の仲を局員たちはあれこれ噂していた。
アイバの局内での評判は決してよくない。ゼロ・アワーに欠かせないアナウンサーとして軍の恒石が認めているので、スタッフは黙認してはいたものの、遅くやってきて時間ぎりぎりにスタジオ入りし、持ち時間が終ると放送終了前にさっさと帰って行く彼女のわがままを、決してよくは思っていなかった。二世たちには高慢な態度で接して馴染もうとしないくせに、捕虜とは仲がよいと彼らはアイバを評した。
年が明ける頃、アイバとフィリップは正式に結婚を決意する。アイバはプロテスタントだったが、フィリップはカソリック教徒だった。そのため、自分も洗礼を受けてカソリックとなって結婚することをのぞんだ。
アイバは二月末より四月末まで局の方は無断欠勤して、公使館の仕事が終るとその足で上智大学教会のクラウス神父のもとへカソリックの教えを受けに通った。彼女としては無断欠勤というより、その頃から激しさを増してきた空襲にかこつけて、そのまま自然にやめてしまえるものなら局の方はやめてしまいたいと思っていた。フィリップも、結婚後は局の方はやめて、自分が仕事から戻る時間には家にいてほしいと再三アイバにいっていた。彼女は沖らのやっていることにうんざりしていた。やめることに異存はなかった。
一九四五年四月十八日、クラウス神父によって洗礼を受けてカソリックとなったアイバは、翌十九日、上智大教会でフィリップと結婚した。ダキノ家とは長い知合いだった駐日ポルトガル公使アバランチョス・ピント、伊藤チエ子、そしてフィリップの身内だけが出席した、ささやかだが心暖まる式であった。
「その日は空襲があり、一同慌てていったん防空壕に逃げ込んだ後、式を挙げ、そのさいちゅう心配した空襲がなくてとても嬉しかったのを覚えています」とやはり式に出席したデュモリン神父の証言にある(宣誓供述書、一九四九・九・二)。
結婚後もアイバは相変わらず局へは出ようとしなかった。三カ月ほども休んでいるのに局からは何もいってきていなかった。これで局とは手が切れたと思い、彼女はホッとしていた。
四月末、突然局より「出頭せよ」という短い文面のハガキが届いた。城戸夫人に読んでもらったアイバはそれを無視し、なおも局へ戻らなかった。
それから四、五日たった頃、米州部の男子局員が城戸宅を訪ねてきた。彼は、アイバが空襲にも遭わず元気でいるのを見届けると、上司の命として「元気ならば明日から出勤すること」と伝えた。
アイバが長期欠勤したその間、ゼロ・アワーで彼女の代理を務めたのは主として古屋美笑子であった。沖の証言では、古屋は彼との一九四五年三月の結婚準備のため四四年十二月一日をもって辞職したことになっている。しかし現在残っているNHKの記録によると、四五年五月二十三日まで古屋は出勤している。種々の証言からしても、古屋が、この間アイバの代理アナであったことに間違いなさそうだ。いったい彼女はアイバの代理アナとしてどんな放送をしたのだろうか。沖とレイズが手がけた彼女の放送原稿にはかなりの宣伝があった、という局員は決して少なくないのだが……。石井鎌一の妹でタイピストだった石井メアリーが、やはりアイバの代理アナとしてゼロ・アワーに加わったのは三月末である。
沖としては、彼の思い通りにならないアイバよりも古屋や石井の方が使いやすかったはずだ。しかし恒石はアイバのアン放送をのぞんでいた。上司の命ということは軍の命とわかっていたアイバは、しぶしぶ局へ戻った。だが、その後も大空襲が続いたため、彼女はしょっちゅう休み続けた。連合軍による空襲は全国各地で激化していたが、とくに東京がひどかった。
女子供も竹槍で本土決戦と叫ばれていた当時、米州部内でも間近に迫った終戦を予知している者は少なくなかった。
ゼロ・アワーでもレコード音楽が多くなり、宣伝は穏やかになってきて終戦待ちの感が強くなった。対米宣伝放送に従事してきただけに、米州部員たちは心配と不安で複雑な心境だった。
八月十五日、広島・長崎という悲劇をへて、日本政府はついにポツダム宣言を受け入れ、三年九カ月にわたった太平洋戦争は連合軍の勝利をもって終りを告げた。その日、敗戦を告げる天皇陛下の声に無念の涙を流した大半の日本人とは反対に、アイバは「この馬鹿げた戦争がやっと終った」という実感にフィリップと手を取りあって嬉し泣きしたという。
それはまさに、彼女が歯をくいしばって待ちに待った日であった。「英雄的とさえいえる」と裁判をカバーした記者たちにいわしめたほどの努力で戸籍入りを拒絶し、言葉もよく話せぬ敵国日本で、女一人、アメリカ国籍を守り通して生きのびたアイバにとって、胸を張って迎える勝利の終戦であった。
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三章 反逆者の汚名
1 巣鴨プリズン
有刺鉄線の柵がどこまでも張りめぐらされた巣鴨プリズンの|表 門《メイン・ゲート》には、「近寄るな!」の木札が人目をひいた。アメリカ星条旗と国連旗がひるがえる本館には、MPの他に武装警官そっくりの日本人警備員の姿も見られた。当時巣鴨は六つの棟にわかれており、上は東条を初めとするA級戦犯から、下は米兵を殴ったかどで引っぱられた下級兵士にいたるあらゆる日本人戦犯容疑者のほか、戦時中日本に協力した疑いのあるアメリカ人や各国の容疑者多数も収容されていた。
アイバが入っていたのは、|青 棟《ブルー・ブロック》と呼ばれる主として日本人外交官および女性戦犯の棟であった。要するにアメリカ人の棟ではなく、日本人の棟に入れられていたのだ。
三畳ほどの大きさの独房での一日は長く、アイバは午前と午後の各一時間の運動の時間以外は、自宅から取り寄せた祈祷書を読んだり日本語の勉強をして過した。風呂は三日に一度ほどのわりでシャワーが使えた。
シャワーといえば、彼女には忘れられない思い出がある。ある日、シャワーを浴びていた彼女は、湯気で曇った窓ガラスに押しつけられた幾つかの顔に気がついた。彼女のあげた悲鳴で飛んで来た看守長のマーチン・プレイ軍曹(MP)には、目前の様子が一瞬信じられなかった。シャワー室をのぞいていたのは占領下の日本視察に来て、たまたま巣鴨を訪れたアメリカ下院議員団十六、七名の一行だったのである。誰が教えたのか「悪名高き東京ローズ」がシャワーを浴びていることをかぎつけた彼らの幾人かが、こともあろうに|のぞき見《ヽヽヽヽ》に及んでいたのだ。
このあまりの非常識に憤慨したプレイ軍曹は、早速プリズンの責任者クレイ大佐(ハーディの後任)に抗議文を書いているほどである。
後に弁護側証人となった彼は、巣鴨で目撃したアイバに対する数々の人権無視に怒りを覚えずにはいられなかった。
「私は彼女が無罪か否かについてはなんともいえませんが、もしアメリカ人として逮捕されていたのだとすると、非常にひどい取り扱いを受けていたということはいえます。彼女は弁護人と連絡することも、外との文通も、両親との連絡さえ拒否されていました。
私はいかなる立場の市民といえども、その国の市民たる者が、基本的人権を無視されているのを見るに忍びませんでした。私は戸栗さんに、もし必要がある時は、いつでも彼女が巣鴨で受けたひどい仕打ちについて証言してあげようと約束したのです……」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・五・十七)
その頃アイバは気が滅入ってしかたがなかった。人一倍誇り高く、高慢と呼ぶ人さえいる彼女にとって、投獄という事実は許すべからざる恥辱だった。彼女はしつこい特高・憲兵の圧力にも屈せずアメリカに操《ヽ》を通した自分を、反逆者として疑っているらしいGHQの態度が解せなかった。すべてはなにかの間違いであり、悪い冗談に違いなかった。
東京ローズをGIたちの人気者とだけ誤解して、軽率にリーたちジャーナリストの手にのった自分自身の迂闊《うかつ》さを、アイバは悔みもし、反省もしていた。だが、この軽率といえる間違いを、すべて彼女のせいにすることはできないはずだ。大騒ぎして彼女をかつぎ出し、利用したのは従軍記者たちだった。
しかし、ジャーナリズムの東京ローズ騒ぎにアイバが巻き込まれる結果となったのは、彼女の自信過剰にあったともいえるのではないか。彼女には、こと放送に関する限り、アメリカに対して顔向けできないことは何一つしていないという断固たる自信があった。カズンズがいうように、彼らを助け、放送を通してGIたちを励ましたのだと確信していた。沖が担当するゼロ・アワーになってからも、自分の力の及ぶ限りでカズンズの意図したゼロ・アワーの線を守ったという自信があった。「私がいったい何をしたというのだ」と、傷ついた彼女の誇りは叫んだ。
巣鴨に移って間もなく、アメリカの家族と直接連絡を取ることが許されていなかった彼女にかわり、彼らの安否を確かめていたフィリップから、アイバは母の死を知らされた。戦時中見た母の夢は、やはり正夢だった。
彼女が日本側のデッチあげとして信じようとしなかったアメリカでの日系人強制隔離収容は、すべて本当だったのだ。一九四二年二月十九日、アメリカ政府は、大統領特令九〇六六号により約十一万二千人におよぶ日系人を集団強制隔離、収容した。現在では「アメリカ建国以来起きた最大の違憲行為」と、この事実を呼ぶ人もいる。しかし、当時は多数の政治家・政府高官の肝いりで政治的に利用され、大統領特令の名のもとに堂々と実行されたのである。
日系人の大半が居住していたアメリカ西海岸地域で、西部防衛総軍司令官だったジョン・ドウィット中将などは「ジャップはジャップだ。……彼らがアメリカで生まれたアメリカ市民であろうとなかろうと、変わりはない……日系人は一人として置くべきではない……彼らは危険分子だ」(ロサンゼルス・タイムズ、一九四三・四・十九)と暴言を吐いた。
この特令には「外国人、非外国人(アメリカ人のこと)を問わず」と指摘されており、収容されたものの大半は法的にアメリカ人であるアメリカ生まれの二世たちであった。戦時下のヒステリー現象としてのみ見すごせない問題を含んでいる。
日系人たちは日本人の血が流れているというだけで危険分子とされた。わずかの猶予期間をあたえられただけで、今まで移民の一世たちが血のにじむような努力で築き上げた家財を二束三文で始末させられ、少量の手荷物だけもって、競馬場の馬小屋などを急ごしらえで改造したバラックに仮集合させられた。アイバの母フミは、これら仮集合所の一つであるツウレア仮集合所で、入所後間もない一九四二年五月に死んでいた。病身の彼女には、突然放り込まれたバラックでの生活が、肉体的にも精神的にも堪えられなかったのである。五十四歳であった。
その直後、残された戸栗家の人びとは、アリゾナ州のヒーラ・リバー強制収容所に移された。砂ぼこりが舞い上がり、夏は四十三度をゆうに越す酷暑の砂漠の真ん中だ。有刺鉄線に囲まれた粗末なバラック群を見た時、彼らはフミがこれを見ずに亡くなったことは幸いだったとさえ思った。
一九四三年、アメリカ政府が、収容所の日系人にそのまま収容所に残るか、それとも日系人の固まっていない西部沿岸地域以外へ出て住むかの選択を許した時、遵はシカゴへ一家をつれて移った。そこで六十二歳の彼を中心に、彼らは文字通り一からのやり直しを強いられた。
一年後、小さいながらも日本食品雑貨店を開くと、がむしゃらに働いて終戦を待った。その終戦時、日本からの第一報を知らせる新聞で、案じていたアイバの名を、反逆者東京ローズとして見たのだ。そのショックは想像に難くない。
巣鴨に移されて一カ月ほどたった四五年十二月二十七日、アイバは初めてフィリップとの面会を許された。二重の金網越しに二カ月ぶりで再会した二人には、話しておかなければならないことが沢山あった。が、初めは言葉にならなかった。やがてアイバは、弁護士の依頼をフィリップに頼んだ。二十分の面会時間はあまりにも短かすぎた。
フィリップはその後、毎月一回二十分の面会を許され、そのたびに心づくしの差し入れを持って必ずやって来た。彼が奔走したにもかかわらず、アメリカ法に詳しい弁護士を捜すことは難しかった。また普通の日本人の弁護人に頼んだとしても、巣鴨当局はフィリップ以外のいかなる者との面会も、アイバに許可はしていなかった。
取調べの方は、その後二回、CICによる簡単なものがあっただけだ。すべてなにかの間違いに違いないと思いながらも、アイバは焦りを感じずにはいられなかった。
そんな時、FBI特別捜査官フレドリック・テールマンによる取調べが行なわれている。四月二十九日、三十日にわたる彼の取調べを、「正直にありのままを話せばわかってもらえる」と思っていたアイバは、期待し、むしろ喜んで迎えた。だが、それは甘かった。
ハリウッド映画に出てくるGメンのイメージがぴったりのテールマンは、筋金入りのFBI捜査官であった。かつてデリンジャー一味などのアメリカ犯罪史を飾るギャングたちを追い回し、FBI捜査官として叩き上げられた彼は、フィリピンが連合軍の手中に落ちるやさっそくマニラに送られ、戦時中日本軍に協力した連合国人およびフィリピン人の捜査に当たっていた。連合軍が正式に東京へ進駐した九月、今度は東京へ乗り込んで来た。
四月二十九日午前十時、アイバがMPにともなわれて、幾つかの小部屋にわかれていた面会室の一つに入って行くと、すでにブリーフケースとタイプライターを机の上に置いたテールマンが待っていた。その日彼は、翌日行なわれる本格的な取調べの予備知識を得るために、事件のアウトラインを簡単に尋問した。
翌三十日、午前九時半から午後の四時五分まで取調べは続行された。
「彼女は進んで答えようとしました。落ち着いて、神経質になっているようではありませんでした」(テールマン証言、一九四九・七・二十六)
取調べの初めの三十分は手書きしていたが、あまりすらすら進むので、すぐタイプに切り替えて直接打ち取った。
こうして取られたタイプノートは、一枚打ち上がるたびに机を隔てて坐っているアイバに読ませて間違いのないことを確認させ、さらに最後にまた全ページに目を通させた上で彼女のサインを取ったとテールマンは証言している。彼はこのアイバの十二ページにおよぶ供述書をとるにさいし、いかなる形の強制もなかったことを付け加えた。
法廷で、強力な証拠となったその供述書には、たとえばアイバの言葉で、「強制されて放送したのではない」という一文がある。「テールマン氏は、ピストルを突きつけられて放送したのか、それとも殴られて放送したのかと私に聞きました。ですから私はそういう事実はなかったと答えると、彼は『では強迫はなかったことになる』といったのです」(アイバ証言、一九四九・九・九)
テールマンはその時、フィリップが終戦直後CICに手渡していたアイバの放送原稿を幾枚かブリーフケースから取り出した。すると彼女は、三人の捕虜たちが原稿に二重の意味を隠していたことを告げた。
「そのことについては長時間話し合いました。私は、なにが二重の意味のある言葉か、それをいってみてくれと繰り返したのですが、彼女は思い出せませんでした。……私は彼女の夫が軍に届けていた原稿の中から、その意味を持つ言葉を指し示してみるようにとさえいいました。しかし彼女は指し示すことも、それらの原稿に二重の意味を持つ言葉がはたしてあるのかも答えられなかったのです」(一九四九・七・二十六)とテールマンは証言した。
アイバはこれに反発する。
「テールマン氏は、放送原稿の中から二重の意味を持った言葉を指し示せなどとは、ひとこともいいませんでした。ただ、私にそれらの原稿の各ページにイニシャルを打つようにと命じただけです。少々つけ加えさせていただけますか。私が彼に二重の意味があった語句の話をすると、彼は私を嘲笑《あざわら》い、馬鹿にしてさんざんからかったのです。その個所を示して見よなどとは一度もいわれませんでした」(アイバ証言、一九四九・九・九)
その一週間ほど前、ワシントンのFBI本部からの指令でアイバの取調べにやってきたテールマンは、別にこれという悪感情があって彼女と対面したのではなかった。彼にとっては命じられた仕事の一つに過ぎなかった。しかし、この取調べが裁判の有無を決めると知って自然勢いこんでいたアイバは、テールマンに「知ったかぶりばかりして利口ぶり、聞きもしないことまでぺらぺらしゃべる」という印象を与え、ベテラン捜査官の彼をいらいらさせてしまったらしい。実は彼女が非常に緊張して神経質になっていたことを、テールマンは見通せなかった。
アイバの方も、期待に反して自分のいうことをすべて疑ってかかるテールマンにがっかりしていた。彼の取調べ方は、典型的なFBIの尋問の進め方であったのかもしれない。しかし初めてそのような尋問を受けたアイバは、CICと違って、皮肉っぽくタフなテールマンの尋問に精根つきてしまう。最後には頭ががんがんして、いわれた通りになんにでもサインして、一刻も早くひとりになりたいとねがったほどだ。
六週間ほどしたら、取調べの結果、すなわち裁判の有無がわかるだろうといったテールマンの言葉を信じ、アイバは待った。が、その後なんの決定も聞けなかった。取調べもなく、事態に変化はみられなかった。
2 反逆罪か軍法違反か
その後の取調べがなかったのは当然だった。GHQはテールマン取調べ以前の段階で、すでにこの事件の結論を下していたのである。
まず一九四六年三月十四日、それまでアイバの取調べに当っていたCICは「戸栗郁子《ヽヽヽヽ》(アイバ)=東京ローズ」に関するレポートをまとめたものをG2(部長ウイロビー少将)に送った。その後これを他の部門では、CICメモと呼んでいる。
G2、正確にはその一部であるOCCIO(民間情報関係に関するオフィス)は四月三日、このCICメモをGHQの法機関たる法務局に回すと、この事件の処置、とくに(1)留置をこのまま続行すべきか、(2)起訴にもっていくに十分なデータの有無、の二点について意見を求めた。
四月十七日、それに対して法務局から以下のような返答がくる。すなわち戸栗《ヽヽ》は民間人《シビリアン》(軍人ではないの意)ではあるが、軍法(八一〜八二条)を犯したと認められる場合には軍事裁判にかける対象となりうる。しかし戸栗が、「これらの軍法を犯したという証拠はまったくない」。アメリカ連邦国憲法の反逆罪を犯した可能性はある|かも《ヽヽ》しれないので、違法行為の有無はアメリカ国内での裁判によって決めるべきである。よってワシントンの陸軍省を通して司法省に戸栗に関する資料を送り、彼らの意見を聞くべきである。起訴不起訴は、GHQが決めるべきことではないという結論であった(法務局よりG2へのメモ、一九四六・四・十七)。
法務局はアメリカ国内での反逆罪の可能性について論じてはいるものの、この文書では彼らが違法行為となる証拠の有無を大いに疑っているらしいことがうかがえる。
そこでG2は四月二十七日、CICメモを参謀長ミューラ少将のオフィスに回すと、この事件については、すでに調査を開始しているワシントンの司法省にすべての資料を送り、彼らにその処置を委ねること、および「戸栗郁子を巣鴨より即時釈放すること」に異存がないかどうか、うかがいを立てた。法務局も釈放に賛成しており、国際検事局はこの事件にいささかの関心もないといっていることをつけ加えた(G2より参謀長へのメモ、一九四六・四・二十七)。
GHQの体面を重んじる幹部たちは、十分に用心深かった。四月二十九日、参謀副長クラークソン少将は、司法省に事件の決断を委ねることには賛成であるが、戸栗の即時釈放には反対である、とG2に返答してくる。その理由は「釈放が世の人びとの注目を集めるだろうことは疑いなく、それは決して好ましいことではない」というものであった(参謀副長よりG2へのメモ、一九四六・四・二十九)。
要するに、反逆者東京ローズの釈放は、またまたジャーナリズムが大騒ぎするタネとなり、それはGHQにとって決してよくないというのだ。それゆえワシントンの陸軍省から指示がくるまでは、引き続き戸栗を拘禁すべきであるという意見だった。
巣鴨でテールマンの取調べが行なわれていた四月三十日、参謀長ミューラ少将がこれに賛同を与えた。五月一日、総司令官マッカーサーの名でCICメモおよび以上のような報告がワシントンの陸軍省へ送られ、アイバの釈放は見合わせとなった。
これからも考えられるように、GHQが逮捕状もなくアイバ逮捕に踏み切ったのは、東京ローズに対するジャーナリズムのあまりにも常軌を逸した騒ぎと、その後に続いたアメリカ一般民衆のヒステリックなリアクションを黙視できなかったことによることは確かだ。GHQとしては面子《めんつ》を重視した。だが、ジャーナリストの口車にまんまと乗せられて名乗り出てきた東京ローズこと戸栗郁子《ヽヽヽヽ》に、彼らはほとほと手を焼いていたというのが実情であった。
なにしろ彼女には、法を犯したという証拠がなかった。そればかりか彼女は、東京ローズでさえないらしい。「ゼロ・アワーで、彼女が東京ローズの名をかつて使った証拠はなく、当人も否定している。彼女が東京ローズの伝説や噂にあるような、アメリカ軍隊の師団名を呼び、駐屯地をあて、極秘とされていた軍の動きを予告したという証拠もまったくない。外国放送情報機関の特別報告には、東京ローズという名は異なる番組に出ていた少なくとも二人の女性アナに、GIたちが名づけた名であり、その一人がゼロ・アワーに出ていた女性アナであると結論している」(法務局よりG2あて文書、一九四六・四・十七)と法務当局も結論を下している。
しかしGHQ内での横の関係は、それほどよくなかったとみえる。この結論はGHQ内に徹底していなかったようだ。
GHQは占領後間もなく、「完全な敗北に初めて目覚めた日本国民」がGHQ民間情報教育局によせた戦争中の疑問に答えるという形で、NHKに「真相箱」なる番組を設け、毎日曜日の夜「全日本国民の質問に答えて」いる。
その中で、「東京のバラとは誰のことでしょうか」という質問に民間情報教育局は、「東京のバラ、トーキョー・ローズとは、トグリ・アイバという二世の婦人に、アメリカの兵隊がつけたあだなであります」と、法務局の結論に反して、いとも簡単にアイバを東京ローズとして認めている。
その放送内容は次のようなものだと説明されている。「彼女は、レコードの合い間にいろいろなおしゃべりをして、アメリカの兵隊の人気を得る計画でした。これがうまくあたって……兵隊たちは音楽や批評を喜びましたが、宣伝は笑って問題にしませんでした。これはかえってアメリカ兵を元気づけたのでした……」(真相箱)
ここでは、孤児アンと|甘い声《ヽヽヽ》の東京ローズ放送を混同しているところはあるが、アイバの放送がGIに喜ばれ、励ましとさえなったことをちゃんと認めている。これが大半のGHQ関係の意見だったと見て間違いない。彼らは、巣鴨にいる「GIを励ましたらしい東京ローズ」をもてあましていたのである。一九四六年五月六日のサンフランシスコ・クロニクル紙の記事は、ここらあたりを説明してあまりあるといえようか。
「……この事件の捜査にあたっている当局は、戸栗を釈放することによって世界中から非難を受けないという保証があるならば、彼らとしてはむしろ裁判にはもってゆきたくないように見うけられる。GHQの法関係者は、彼女を起訴するのはなかなか難しいと考えているらしい。なぜなら他の人が用意した宣伝を放送することは、戦争犯罪とは考えられないからだ……」
一方、GHQからのこの事件の結論を促す再三の催促にもかかわらず、ワシントンからの返答はいっこうに来なかった。遅滞の原因の一つは、司法省が意見を求めたロサンゼルスのジェームス・カーター州検事からの返答が遅れていることにあった。カーターは、それまで彼が補佐官をしていたチャールズ・カー州検事の後任として一九四六年、州検事となって以来、この事件を彼なりに調査していた。
しびれを切らしたセローン・カードル司法次官補から、九月十二日、カーター宛に「アイバ戸栗の反逆罪の件、陸軍省より事件の結論を促す催促が司法省犯罪部にきている。被疑者は目下拘禁中、貴下の結論をただちにうかがいたい」という電報が入った。同内容のものは八月二十七日にも出ている。
これに対してカーターは、翌九月十三日、「アイバ戸栗の件、さらに調査したが成果なし、証拠不十分につき反逆罪に持ちこむことをやめ、捜査打切りを勧告する」と返電して来た。
九月十九日、この事件を調査していたネイサン・エリッフ司法省犯罪部国内保安課長からも、次のようなメモがカードルに送られた。
「……種々の証拠は被疑者が疑いもなくアメリカ人であること、また生活のために日本側放送に従事していたことを証明している。しかしながら手元にある放送原稿および大半の証人の証言は、それらの放送が無害であり、敵に援助を与えたとは考えられないことを示している。……われわれは、現在のところこの事件の捜査は打ち切り、陸軍省にこれ以上の被疑者の拘禁は必要としない旨を通達することを勧告する」
これにもとづき、カードルは九月二十四日、クラーク司法長官宛に以下のように勧告した。
「……非常に詳細にわたる捜査の結果、戸栗を東京ローズとみなすのは間違いであるか、少なくとも彼女がやったことは選曲された音楽レコードの紹介に過ぎないと判明した。……数枚の彼女の放送レコードおよび多数の放送原稿、また連邦通信委員会がモニターしていたわずか二枚の彼女が出ていた番組のレコードは、すべて、彼女がただレコード紹介をしていたことを示しているに過ぎない。加うるに、東京ローズ≠ヘ戸栗がアナとなる以前《ヽヽ》から放送していたようである。
戸栗の活動、特にその無害な内容から見るに、反逆罪で逮捕状を出すには不適当というのが、私の結論である。ロサンゼルスの州検事も同一の意見である。もちろん、今後、新事実が出てきた場合に再考慮することは考えられるが、現在は捜査を打ち切り、陸軍省に拘禁をもはやのぞまぬ旨通達すべしと思われる」
同じ内容の結論は、十月一日、カードルより陸軍省へ送られた。十月四日、彼はそれ以前より独自にこの事件の捜査を進めていたFBIのエドガー・フーバー長官宛にも、結論を知らせるメモを送っている。
逮捕してから一年、テールマンの取調べから約半年後、やっと結論は下ったのである。十月六日、ワシントンの陸軍省からGHQのクラークソン参謀副長宛に、「司法省はもはやアイバ戸栗の拘禁をのぞまない。現在のところ起訴の考えなし」と打電してきた。これによりG2は、十月十七日法務局に異存のないことを再確認したのち、十月二十五日、アイバを突然釈放した。
その日午前十一時、アイバはスワンソン大佐より釈放を知らされた。だが、実際に釈放となるのはその日の午後七時である。異例に遅い時間が選ばれたのは、できるだけマスコミ報道陣を避けようという当局の配慮の結果だった。それは前代未聞の釈放となった。「無条件」の一語がついて釈放となったアイバは、贈られたコスモスの小さな花束を抱え、MPが敬礼するなかを、巣鴨プリズン司令官みずからに出口まで送られて出て来たのである。
すでに薄暗い門外には、当局の期待を裏切って、どこから嗅《か》ぎつけたのか東京ローズ釈放と知った報道陣がひしめいていた。彼らがいっせいにフラッシュをたくなかを、紺のプリーツのスカートに白いソックスの学生のようなアイバは怯《おび》えたように身を固くして、迎えに来ているはずの夫の姿を必死で捜し求めた。
やはりその日知らせを受けていたフィリップにかばわれるようにして、軍の用意していたジープに乗ると、二人のMPに護衛されて一年と八日ぶりで世田谷の借間へ帰って行った。
終戦から一年、アイバの受難はやっと終ったはずだった。一年以上も拘禁され、CICとFBIによる徹底的な取調べの結果、GHQおよびワシントンの司法省は反逆の証拠なしとして、無条件《ヽヽヽ》に釈放を認めたのだ。身のあかしは、りっぱに立った。やはりなにかの間違いだった。
彼女が東京ローズその人でないことは、はっきりと立証された。アイバは一人の平凡な主婦として、フィリップと二人だけの静かで平和な生活に戻るはずだった。すべては一時の悪夢と化すべきはずだった。
3 釈放後の悲劇
釈放されて一主婦に戻ったアイバは、約一年間におよぶ投獄中、世の中が大きく変化していたのに目を見張った。驚いたことに食糧事情は戦時中よりもさらに悪化していた。その上、物価は十倍近くもハネあがっていた。新聞に餓死した人の話を見ることも珍しくなく、全国で米よこせデモが続いていた。
同盟通信解散後、フィリップは新聞社のライノタイピスト(植字タイピスト)をしていたが、その給料では、食べてゆくのがやっとの生活だった。
アイバはアメリカに帰りたかった。いや、一日も早く帰らねばならないと思った。英語が日本語より得意なフィリップなら、心配なくアメリカで彼女と生活してゆくことができるだろう。アメリカの父からは頻繁に帰国を促す手紙がきていた。だが、フィリップは、釈放後間もない彼女がアメリカへの帰国申請をすることに賛成ではなかった。こんな騒ぎのあとでは、ことは慎重に運んだ方がよい。ほとぼりがさめて、完全に世間から忘れ去られてから、静かに誰にも気づかれず帰国した方がよい。またその方が帰国しやすいのではないか、と再三アイバに忠告した。
彼女は耳をかさなかった。第一、どうしてその必要があるというのだと彼女は思った。自分は十分な取調べの結果、無条件で釈放されたのだ。悪名高き伝説・東京ローズでないことは立証された。戦時中、苦労してアメリカ国籍を守り抜き、なにも悪いことをしていないと立証された自分が、自国アメリカに帰るのをどうして遠慮する必要があるのか。再び自信を取り戻したアイバは、ひとりよがりにそう思う。彼女は一九四八年を帰国の年と心に定めた。
釈放後一カ月少々たった十二月初旬、アイバは横浜にあったアメリカ領事館に帰国手続きの問合せに出かけた。ハリー・ファイファ副領事は彼女が持参した種々の書類に目を通した彼、「あなたは現在のところ無国籍だと思うので、帰国したいのならまずアメリカ市民権の再確立をすることだ」と告げた。アイバはまたもや国籍問題に突き当たった。
彼女自身も自分の国籍にいささか見当がつきかねた。もちろん彼女としてはアメリカこそ自分の国であり、自分はアメリカ人であると信じている。だが、法的な観点からはどうなるのか。戦時中アメリカ市民権を守り、アメリカ人であったがゆえに反逆罪の疑いで投獄されたはずなのに、巣鴨でのアイバの国籍はあやふやだった。ハーディ大佐にはアメリカ人だといわれた。にもかかわらず、彼女はアメリカ人に許されていたアメリカ本土との文通を否定され、日本人容疑者の棟に入れられていた。
取調べに当ったCICのページ軍曹たちは、ポルトガル人と結婚しているのでポルトガル国籍かもしれないといい、法学部出身で法に詳しいはずのFBIのテールマンは、多分アメリカとポルトガルの二重国籍であろうといった。問い合せたポルトガル領事館はフィリップとの結婚登録(一九四五年六月十八日)により、彼女は正式なポルトガル人と認められるという。巣鴨釈放後、GHQから発行された彼女の配給カードも、ポルトガル人用のBカードであった。ところがファイファは彼女を無国籍として、アメリカ市民権の再確立をすすめたのである。
アイバに異存はなかった。アメリカ市民権を再確立し、一日も早くアメリカへ帰りたかった。その再確立に必要な書類は十五、六もあり、そのうちのいくつかはアメリカから取り寄せなければならなかった。すべて手元にそろったのは、半年後の一九四七年五月末である。
五月二十六日、アイバは領事館にこれらの書類を提出すると、アメリカ市民権再確立の正式な申請をした。その時ファィファに、「どう思うか」と聞くと、彼は「今はなんともいえない。ワシントンの国務省に問い合せなければならない。普通二、三カ月で返答が来るが、あなたの場合は四〜六カ月かかるかもしれない」(アイバ証言、一九四九・九・九)と答えた。
国務省からの回答はいっこうに来なかった。当時、アイバのようにアメリカへの帰国を願い出ていた二世は、数千人にのぼっていた。国務省は多数の市民権再確立申請を抱え、多忙を極めていた。
戦争によって日本に留まらざるを得なかった二世のほとんどは、若者で、家族と一緒の者は少ない。父母の命で親類などに預けられ、二、三年の予定で日本に勉強に来ていた者である。一世たちはある程度生活に余裕ができると、競って祖国日本に子弟を送り、一定期間、日本人として教育を受けさせ、日本の親類との絆《きずな》を守りたがった。
これは、とりもなおさずアメリカでの成功を意味し、彼らのなかには、少々無理をしても子弟を日本に送ろうとする者さえいた。「息子は日本に勉強に行っております」といえるのが自慢だった。
これらの学生たちや、人種差別のためアメリカ国内で適当な仕事が見つからず日本にやって来た二世たちも皆、「二つの祖国である日本とアメリカの開戦」で心が凍りつくような一瞬を味わった。仕送りを断たれ、その日からの生活に困窮したものもいた。彼らの大半は戸籍入りしたが、日本人は彼らを決して信用せず、偏見の目を向け、常に特高・憲兵の目も光っていた。
終戦となると、大半のこれら二世はアメリカへの帰国をのぞんだ。その熱望は、アメリカにおける日系人強制収容や差別待遇を知っているアメリカ領事館の係員を驚かせるほどだった。すでに青春の数年を日本で日本人として暮し、日本人と結婚しているものまでもが帰国を希望した。
そして、彼らの半分以上は「帰国不可能」組だった。アメリカ(連邦憲)法ではアメリカ市民権を失う行為として、(1)外国軍に入隊、(2)外国で選挙に参加、(3)外国でその国民にのみ許されている仕事に従事、(4)外国籍へ入った、の四つがあげられている。
帰米権を失った大半の二世は、戸籍入りが問題となってのことだった。本人の知らない間に、子供のとき親によって戸籍入りしていた者でさえ難しい立場にいた。
帰米をのぞむ二世を扱っていた横浜・神戸の領事館員たちはずいぶん同情的であった。だが、決定を下すのはワシントンの国務省である。当時、東京に設置されていた全米日系市民協会支部も、この二世帰国問題解決に努力していたが、その後何年間も帰国できない者が多数に及ぶ。心の中はアメリカ人以上にアメリカ的でありながら、自分たちの無知と軽率、混乱、わけても官憲の圧力により、いやいやながら日本人となってしまい、家族のいるアメリカへ帰る道を断たれてしまった二世たちの悲劇は、あとをたたなかった。
アイバが再び反逆者ローズとして浮び上がるについて、その災いの発端は、皮肉なことに、どうしても愛する母国アメリカへ帰りたいという彼女の固い決心にあった。それは一九四七年八月一日付スターズ・アンド・ストライプス紙にのった次のような記事で始まっている。
「東京ローズとして広く知られるアイバ戸栗ダキノ夫人が、昨日、本紙記者に語ったところによると、彼女の戦争中の活動について書かれた多くの記事のでたらめをただすため、自叙伝を書くことを真剣に計画中であるという。……『私がたった二十分でアメリカ市民権を放棄すれば反逆罪から逃れられたのに、なぜそれをせずアメリカ市民権を守り続け、反逆的と呼ばれる放送をするにいたったか』の真相を述べたいと語っている」
肩までたらした長い髪にヘアバンドをしたアイバが、新聞を両手で広げてにっこり笑い、出窓の縁に坐っている写真入りのこの記事は、ただちにアメリカ全国の新聞にキャッチされた。そして彼女がアメリカへの帰国申請中であることも報道された。
フィリップの判断は正しかった。彼のいうように、アイバは静かに待つべきだったのだ。彼女には慎重にことを運び、辛抱して時期を待つ配慮が欠けていた。それどころか「無実は立証された」という自信のもとに堂々と再びマスコミの脚光を浴びた。終戦時のあの東京ローズ騒ぎを、甘く見ていたとしかいいようがない。
FBIのテールマンにいわせると、「金目当てでみずから名乗り出てき、やっと釈放されて、静かにじっと隠れていればよいものを、またみずからしゃしゃり出て行った。馬鹿にもほどがある。すべてのトラブルは彼女のその|馬鹿さ《ヽヽヽ》から出ているのだ。その馬鹿さが彼女に反逆者のラベルを押したのだ」(著者とのインタビュー)ということになる。
4 魔女狩りの第一声
フィリップの心配した通りだった。アメリカ大衆は反逆者東京ローズを忘れてはいなかった。というより、この時から、アメリカ大衆による本格的な東京ローズ魔女狩りは始まったといってよい。東京ローズが野放しであったばかりか、こともあろうにアメリカへ帰って来ようとしていることを知って、まずアメリカ在郷軍人会のオニール会長が第一声を放った。
十月二十四日、在郷軍人会本部は「東京ローズが帰国のための市民権を再確立する以前に、彼女を告訴すべき」ことを正式に司法省へ申し入れた。これに続き、全国の在郷軍人会各支部が十一月十一日の休戦記念日に同じような声明を発表した。なかでもアイバの出身地ロサンゼルス支部は積極的だった。
当時のアメリカは、まだ戦争のアフター・ショック的ヒステリーの状態からぬけきっていない時期である。戦争経験はまだ生々しい現実だった。「真珠湾を忘れるな!」を合言葉として、「ジャップ嫌い」は根強く国民の心に生きていた。特に太平洋沿岸ではそうだ。戦争中ほど表面的でなかったとはいえ、対日感情はまだまだ悪かった。現に、社会へ復帰しはじめていた日系人たちは、決して暖かい目で迎えられてはいない。
在郷軍人会に続いたのが、戦前からの長い排日運動の歴史を持つカリフォルニア右翼団体とでもいうべき「ゴールデン・ウェスト直系子息会」(ウィリアム・ランドルフ・ハースト、アール・ウォーレン、リチャード・ニクソンらを会員とする)であったのは驚くに足らない。十一月十三日、直系子息会の一部である「偉大なるアメリカ主義委員会長」エンドレッド・メーヤーは、その一年前にアイバの反逆罪告訴取消しを公式発表したカーター州検事に、以下のような強硬な抗議文を送っている。
「……ゴールデン・ウェスト直系子息会は、アメリカへの不忠誠を表示したいかなる者のアメリカへの帰国にも断固反対することをここに明らかにする。不忠義者が、その意思により簡単に国を出たり入ったりできるということは、なんとも我慢ならないことである」
同内容の抗議文は新聞に公表された。と同時に、カリフォルニア州出身のすべての上院および下院議員たちだけでなく、ジョージ・マーシャル国務長官、ディーン・アチソン国務次官、トム・クラーク司法長官、ウゴ・カルシ移民帰化局長官、そしてエドガー・フーバーFBI長官にも同日付で送られている。
追いうちをかけるように、十一月十一日付でUPがさらに次のようなアイバの帰国についてのニュースを流した。「アリゾナ州メサ発――東京ローズは、来春早々出産をひかえているという手紙を、戦時中、日本軍捕虜だったマーク・ストリーター(文化キャップ)に送ってきた。彼女はアメリカに帰りたい第一の理由を、『生まれて来る子をアメリカで生みたいためであり、日本は子供を育てられるような国ではない』と書いている」(スターズ・アンド・ストライプス紙、一九四七・十一・十一)
アイバは一月に出産をひかえていたのである。彼女は自分の子を、アメリカで、アメリカ人として生みたいと、切にのぞんでいた。三歳の時からアメリカで育ってはいても、アメリカで生まれなかったばかりに市民権のない兄のフレッドを見て彼女は育った。市民権を持って生まれた普通のアメリカ人なら当然のこととしてしか受け取らない市民権を持つ幸運を、身にしみて知っていたといえよう。
しかし、それはアメリカ大衆の東京ローズ狩りに拍車をかけこそすれ、決して同情を呼ぶものではなかった。反逆者東京ローズの子供などアメリカで生ませてたまるものか、と息まく母親たちさえいた。
その頃でも、まだ太平洋戦争戦死者の棺はつぎつぎと本国へ帰って来ていた。戦争は決して遠い過去ではなかった。これら戦死した息子にかわって金メダルをうける母親は、ゴールド・スター・マザーと呼ばれる。最愛の息子の死という生々しい傷もまだ癒《い》えぬ彼女たちにとって、反逆者東京ローズは格好なうっぷんのはけ口となった。
自分の息子たちが、お国のために戦って名誉の戦死を遂げ、二度と自分たちのもとに元気な顔を見せることもないというのに、アメリカで生まれ育ち大学教育《ヽヽヽヽ》(どの記事でもこれを強調)まで受けたアメリカ人でありながら、息子を殺した憎むべき敵日本に走った反逆者東京ローズが、元気で再びアメリカの土を踏むというのだ。母親たちは納得できなかった。彼女たちの幾人かは、さっそくウォルター・ウィンチェルに反逆者東京ローズ帰国問題を取り上げ、政府に抗議を促してほしいという一文を送った。
母親たちは、まさしくこの仕事に最適任者を選んだといえよう。ウィンチェルは当時ニューヨークを本拠に、ラジオニュース解説者およびハースト系新聞のトップ・コラムニストとして全国的に名を馳せていたジャーナリストである。ちなみに、ハースト系ジャーナリズムは、戦時中もっとも排日運動に熱心だった。
常に一般受けする材料をセンセーショナルに取り上げたウィンチェルは、インテリ層からは卑俗だとして軽べつされていた。しかし「二流のボードビリアン(寄席芸人)的」だと評された彼のスタイルは、いわゆる一般大衆、わけても保守派に大いに受けていた。
一九四〇年初期には、彼のシンジケート・コラムは七百万の読者をもち、彼の日曜の夕方のラジオ・ゴシップ放送は、二千万人の聴取者をもつといわれた(アメリカ国民六人に一人のわりで聞いていたことになる)。
彼の放送はとくに人気があった。「ミスター・アンド・ミセス・アメリカン、そして海上の皆さん、今晩は!」と特徴のある極度に緊張した高い声で始まる彼の放送は、一分間百九十七語という鉄砲玉のようなスピードでまくしたてられた。そのゴシップはハリウッドからパーク・アベニュー(ニューヨーク)、ワシントンまでもカバーした。彼のあとには大勢の忠実なファンが控えていたのである。
ウィンチェルは、それだけに多くの人びとに怖がられていた。政府高官・政治家たちも例外ではない。ルーズベルト大統領ですら、安易にウィンチェルを敵にまわしたりはせず、反対によくホワイトハウスに招いて彼の諸分野における意見《ヽヽ》を聞きさえした。しかし、同じニューヨーク出身の都会人であり、うまくウィンチェルを扱い利用したルーズベルトと、ミズーリ出身の中西部人の率直さで知られたトルーマンとは違っていた。大統領になって間もなく、ルーズベルト時代と同様ウィンチェルを味方につけておこうと側近たちが二人を引き合わせた時、口ばかり達者なウィンチェルをトルーマンは一目で嫌って問題としなかった。
ウィンチェルが、それを根に持たぬはずがなかった。彼は自分に指差した者を決して許さず、忘れなかった。彼は復讐心が異常に強かった。それがたとえ大統領であろうと敵は敵だ。ウィンチェルは、ことあるごとにトルーマン批判を忘れなかった。
また、フーバーFBI長官とウィンチェルの腐れ縁は、この事件でも無視できない。フーバーはウィンチェルさまさまであった。フーバーと、その|彼の《ヽヽ》FBIのイメージ作りにウィンチェルがはたした役割は、はかりしれなかった。
FBIが今日の組織と威力を持つにいたったのは、禁酒法時代の酒の密造・密輸とそれにともなう脱税防止・摘発、という一種の秘密警察機関として拡充していったのに始まっている。ウィンチェルこそ、当時まだ重要視されていなかったフーバーとFBIを、彼のコラムや放送を通じてアメリカのヒーローに祭りあげた人物である。
一九三〇年初期より、当時アメリカを闊歩し、酒の密造・密輸に一役買っていた民衆の敵ギャングたちを、安い給料で夜となく昼となく命をかけて追い続けるFBIを彼は賛美し、正義の味方「Gメン」という言葉をはやらせた。ウィンチェルが、彼のコラムで決して非難しなかったのは、ルーズベルトを除いてはフーバーだけとされている。
ウィンチェルはユダヤ人である。当然一九三〇年代、特に熱を入れて、ヒトラーおよび|ドイツ系アメリカ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》人を激しく非難した。一九三二年には早くも議会における戦争不参加支持者を非難し、戦争中も「デモクラシーの敵」の名の下に、多くの彼の敵すなわち反対意見の人びとを公に批判し、おとしいれてきた。
ゴールド・スター・マザーからの訴えは、その「デモクラシーの敵」運動の戦後版として、まさにぴったりの課題ではあった。彼は新聞コラムや放送を通して東京ローズ再入国反対運動に乗り出す。彼はトルーマン政府のこの事件への処理を非難し始めた。そしてそれは、一年前、アイバの反逆罪起訴取下げを決定した司法省関係者を非常な不安にかりたてた。
もし、大衆のヒステリックな反響や、ウィンチェルの口出しがなかったら、アイバは多分旅券を手に入れていただろう。
十月二十四日、司法省のヴィンセント・クイン司法次官補は、四日前に受け取った国務省旅券部長の手紙に答えて、「司法省としては、ダキノ夫人に反逆罪の逮捕状を出す意向はないと結論した。よって、司法省としてはダキノ夫人に旅券を発行することに異存はない」と返答していたからだ。アイバの帰国は今一歩というところまできていたのである。しかし思いがけない反響に驚いた司法省は、この結論を取り消そうとしていた。わけてもクラーク司法長官は、ウィンチェルを敵に回すことを極端に恐れていたようだ。
十二月四日、明らかにクラークの命を受けたカーター州検事は、二十世紀フォックス社長ジョセフ・シェンクにウィンチェルとの会見を依頼している。
その日の午後、カーターがシェンクのオフィスに入って行くと、そこには、一九四五年九月、アイバを反逆罪に起訴すべしと公に声明した最初の公人たるチャールズ・カーも同席していた。カーはシェンクならびにウィンチェルの友でもあったのだ。カーを含む彼らは、すぐウィンチェルのオフィスへ向った。
このウィンチェルとの会見を、カーターは次のようにクラークに報告している。
「私はラジオ東京からは六人ほどの女性アナが放送していたが、アメリカ人はたった一人、すなわち|ローズ戸栗《ヽヽヽヽヽ》であったと述べました。ウィンチェルはそれらの事実はすでに知っているといい、なかなか興味深い話を雄弁に長々と続けました。……その時私は、過去において貴下とウィンチェルの間に、なにか行き違いがあったのではないかという印象を受けたのです」(カーターよりクラーク宛書簡、一九四七・十二・五)
その時、ウィンチェルは、次のようなことをカーターに明らかにした。すなわち司法省は、東京ローズのような人物を「なんとかすべき」であり、むざむざ彼女を帰国させるようなことがあったとしたら、それはひとえにクラークの責任だというのだ。
ウィンチェルがクラークに腹を立てていたのは、まったく些細なことからだった。数年前、ウィンチェルとクラークは、二十世紀フォックス社主催の昼食会で一緒になったことがあった。コラムに使うべき話を捜していたウィンチェルは、クラークに次の司法長官に任命される可能性を打診した。クラークはその数日後に任命されたのにもかかわらず、はっきりとした答えをしなかった。「ウィンチェルは貴下が司法長官になれるよう大いに宣伝してやったのに、それに対するちゃんとした感謝の言葉はいっこうに聞かれなかったという意味のことをいいました」(同書簡)とカーターは書いている。
話がひと区切りついた時、カーターはワシントンで報道陣に公表した東京ローズに関する声明のコピーを取り出して、ウィンチェルに見せた。「彼は興昧深げに目を通したのち、東京ローズの帰国は許可されないと知って満足だと述べました」
カーターの書簡は続く。
「私は東京ローズの弁護をしようとしているのではないことを繰り返し、今後ますます国内および外国において、反愛国的または有害な行動に出るアメリカ人の摘発に活躍することを期待するが、法にたずさわる者として、十分な証拠がない限り起訴をすすめるわけにはいかないのだと説明しました」。すると「カー氏が、終戦時、彼が東京ローズ起訴要求の声明をしたのち、世界中のGIから、それを非難し、東京ローズは彼らの士気を低下させたのではなく、反対に|盛り上げ《ヽヽヽヽ》てくれたという多くの手紙を受け取ったことを話しました。ウィンチェルはこれに対して、多分彼らは|コミュニスト《ヽヽヽヽヽヽ》に違いないと返答しましたが、カー氏はその意見に賛同せず、かなりウィンチェルを動かしたようでした」
カーのあの時の声明は、アメリカ大衆の排日感情をあおり彼らには受けても、実際に戦時中ラジオ東京を聞き、被害を受けた犠牲者《ヽヽヽ》であるはずの当のGIたちの支持はなかったのである。
カーターは最後にもう一度、東京ローズの件を持ち出し、「十分な証拠もなく政府が起訴に持っていき、裁判の結果が公訴棄却、または無罪と出た場合には|まずい事態《ヽヽヽヽヽ》になる」ことを暗示した。ウィンチェルは「それは起訴に持ち込むよりまずい」と同意見だった。カーターによると、二人は親しみをこめて別れの挨拶をかわした。
カーターがこの時、ウィンチェルに見せた東京ローズに関する十二月四日の公募とは、次のようなものである。「反逆罪証人を求む――ワシントン発――アイバ戸栗郁子が東京ローズとして放送中のところを見た人または放送された声を覚えている人は、誰でも速やかにFBIに連絡して欲しいと本日FBIは声明した。FBIによると、アメリカ生まれのこの女性が東京ローズらしいと今までいわれてきたが、現在にいたるまで立証されてはいない。……しかしながら、FBIの調査は現在も進行中であり、できれば大陪審に持ってゆくつもりだとFBIは語っている。なお、ダキノ夫人の再入国は現在のところ許可されていない」(ニューヨーク・タイムズ紙、一九四七・十二・四)
この公募は、同日付で全国の主要紙を飾った。ここにいたって司法省はアイバの再入国に対する考えを変えたばかりではない。一年前にはっきり公に取り下げたはずの告訴の再考に入っていたのである。再度にわたる取調べの結果、東京ローズは少なくとも六人の女性アナの声の合成であり、アイバはその一人に過ぎなく、かつその放送内容はまったく無害だったと一年前に結論し、無条件で釈放した司法省がである。|新事実が出て来たからではなく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、大衆の声というよりは一部の排日家および極右派に押され、一コメンテイターたるウィンチェルを恐れて、その結論をくつがえしたのだ。その司法省の一機関であるFBIを通して裁判に持ち込む意向を示し、東京ローズ裁判の証人を公募したのである。
5 非米活動へのみせしめ
当時、司法省はなかなか微妙な立場にあった。というのは、トルーマン大統領率いる民主党は、翌一九四八年の大統領選挙をひかえて世論に敏感になっていたのだ。戦後の失業者対策などの大問題を抱えて、トルーマンの人気は急速に落ちていた。今度の選挙は、民主党にとって予断を許さぬものがあった。そんな時、「うるさい奴」であり、トルーマンを目の敵《かたき》としていたウィンチェルの政府批判、とりわけ反逆罪に関するものはまったくありがたくなかった。
当時は、いわゆる冷戦時代の始まりでもある。共和党右派の一部は、すでに非米活動調査委員会で「反逆者の処罰さえできないトルーマンの弱腰を叩く」構えをみせ、共和党選挙委員会は選挙キャンペーンの一つとして「トルーマンは反逆者に弱腰」という一条を強く打ち出そうとしているという噂が入った。ここでいう反逆者とはコミュニストを指しているわけだが、反逆者という言葉に変わりはなかった。いらだったトルーマン再選委員会から、トルーマンの旧友であり、彼が大統領着任後最初に指名した閣僚の一人、クラーク司法長官に圧力がかかった。トルーマン政府が、反逆者・東京ローズ裁判再考をさっそく司法省に命じたのも不思議ではない。
ところで、この事件の焦点に立っていた司法長官クラークとは、いったいどんな人物であったのか。クラークを司法長官に任命したトルーマンは、後に「クラークは司法長官としてまったくだめだった」と評し、彼が大統領として犯した間違いの中で、「トム・クラーク(司法長官任命)が私の最大の間違いだった。これは疑いの余地がない。……あんな任命をしたなどとは、われながらまったくどうかしていた。あれほど侮まれることはない」とさえいい切っている(メール・ミラー著、トルーマンの口述伝記より私の最大の過ち=j。
ここで見逃せないのは、トム・クラークが一九四二年の日系人強制隔離問題での立役者の一人であったという事実だ。ドウィット中将の民間人協力者だった彼は、ドウィットとともに収容所候補地を選んで歩いた一人だ。
当時、このクラーク率いる司法省は、東京ローズだけでなく、他の多くのヨーロッパ戦線を含む第二次世界大戦関係反逆者の再考に入っていた。ベスト、チャンドラー、カワキタ、ギラー、プロボーなどの反逆罪裁判は、そろって一九四八年に起訴または裁判に持ち込まれている。戦後三、四年後の偶然にしてはできすぎている。これから見ても、東京ローズその他の反逆罪裁判が大統領選挙に利用されたことは明らかであろう。そしてまた政府は、それと同時にこれら反逆罪裁判をコミュニスト、すなわち非米主義《ヽヽヽヽ》活動家への見せしめとし、ひいてはアメリカ国民に、反逆罪という|憎む《ヽヽ》べき大罪への観念を植えこもうとしたといえるのではなかろうか。
十二月八日、アイバの生まれたロサンゼルス市議会が、東京ローズ再入国反対運動に一役買い、「ロサンゼルス市議会は、断固として、戦時中、東京ローズ宣伝放送に従事したいかなる人物もの、この国への帰国に反対する」ことを議決した。この議決文は同日付で司法長官、国務長官、国防長官そしてカリフォルニア州出身の上院下院議員たちへ送られた。これらの議員は、やがてクラークに選挙民代表として再入国反対を伝える文書を、あいついで送っている。
カーターが受けた印象とは反対に、ウィンチェルはますますローズ問題に力を入れている。一九四八年一月八日付ロサンゼルス・ヘラルド・エキスプレス紙のウィンチェル欄によると、当時INSをやめてフリーライターとなっていたクラーク・リーが、FBIの証人公募を知ると、さっそくハースト系プレスの大先輩だったウィンチェルに連絡を取ってきた。
「リーによると、この公募はワシントンにいる天皇崇拝者《ヽヽヽヽヽ》と財閥の親友との皮肉なゴマ化しと考えられるという。約二年前に、彼が日本で東京ローズを捜し出した時に取った十八枚(実は十七枚)のタイプ用紙に納められた自白書《ヽヽヽ》の原文は、司法省に彼が手渡してあるという……。リーは、司法省が本気で裁判にもってゆく気があるなら難なく召喚できるはずの二人の証人の名がそれに出ているはずだという。それなのに司法省はどういうつもりか誰一人として証人はいないといい、OWIが彼女の放送録音の写しを取っていることも無視しているのだ」
クラーク司法長官および彼の指揮下の司法省の関係者が、ジャップ天皇の|シンパ《ヽヽヽ》と公に名ざしで呼ばれたわけである。関係者が東京ローズを告訴しないのは親日《ヽヽ》派だからだというのだ。
また一記者の取ったインタビュー・ノートが、ここではセンセーショナルに自白書なるものに変わっている。ウィンチェルおよびリーのジャーナリストとしての性格をあらわして余りある。
彼はさらにこれに追いうちをかけた。フーバーからそんな告白状はFBIに届いていないと聞いたウィンチェルは、再びリーに連絡を取ると、リーはそれは多分同業者のブランディッジがなくしてしまったのだといった。
終戦時二千ドルの金を出しても東京ローズの独占インタビューを取ろうとしたあのブランディッジが、再びこの事件にからんできた。
彼は東京ローズ独占インタビュー記事をコスモポリタン編集長に拒絶されたのを恨み、間もなくそこをやめるとテネシー州ナッシュビル市のナッシュビル・テネシアン紙に移っていた。彼が同紙に一九四八年五月に書いた記事が正しいとするならば、やはりFBIの証人公募を読んだ彼は、友人《ヽヽ》であった(彼は名の通った人物をよくこう呼んだらしい)FBIのフーバーにさっそく長い手紙を書き、東京ローズを発見《ヽヽ》した当人であり、最初からこの事件に深いかかわりを持つ自分が、証人捜しに喜んで日本に行こうではないかと申し出た。
そして十二月十日頃、用事でワシントンに行った彼は、フーバーに電話を入れたが留守だった。そのため、クレイン・ウエザフォード特別捜査官にメイフラワーホテルで逢い、知っていることをすべて話した。ところが、それに続いたウィンチェルの放送で、事はさらに複雑化した。
「その頃、私(ブランディッジ)はコラムニストや解説者、とくにウィンチェルに、くそみそにやられ始めた。ウィンチェルは、私とリーが東京ローズから取った十七枚の自白書を|盗まれた《ヽヽヽヽ》といい、『まったく恥ずべき無責任さ』だと私につめよった。しかし実際には、自白書は私のニューヨークのアパートに、ちゃんとファイルされてあった。私はメンフィスよりウィンチェルに、彼がまったく間違ったことをいっており、それはファイルされてある旨の電報を打った。
……私は夜九時半、FBI特別捜査官にニューヨークのアパートで自白書を手渡した。だが私は、さらにいじめられたのだ。自白書には当然のことながらローズのサインはなかった。それを取った時、彼女はその直前に『たった一人の東京ローズ』と契約書にサインしていたので、自白書にサイン|させる《ヽヽヽ》ことなどまるで考えてもみなかった。私は、ここにいたってひどく腹を立てていた……」(ナッシュビル・テネシアン紙、一九四八・五・二)
ブランディッジが、東京ローズ事件の結着に一役買おうとしたのには十分な理由があった。
戦後、大勢の仲間の従軍記者を出し抜いて、東京ローズの独占インタビューに成功したにもかかわらず、コスモポリタン誌編集長に拒絶され、皆の物笑いになった苦い記憶を彼は忘れてはいなかった。それを今度はジャーナリズム界の大御所であり、はかりしれない勢力を持つウィンチェルに、公然と「馬鹿者」呼ばわりされたのだ。彼自身のプライドもさることながら、ウィンチェルに睨《にら》まれるということは、彼のジャーナリストとしての生命もかかっているとさえいえた。ブランディッジは、なにがなんでもこの事件に黒白をつけて見せようと執念を燃やした。というよりは彼は必死だった。
ブランディッジは、クラークに東京行きを頼まれたといっている。しかし司法省の連中にいわせると、これはまったく逆であるという。司法省に関係のない三流記者のブランディッジに、そんな使命を長官みずからが頼むはずがないというのだ。
ブランディッジの東京行きが決ったのは、彼がテネシアン紙のエバンズ社長とともに、メンフィスの選挙立候補者に関するFBIのファイルをのぞかせてくれとクラークに頼みに行っていた時だった。クラークはこれを断わったらしい。だが、話の途中で東京ローズ問題が出た時、ブランディッジは自分を東京にやってくれれば、必ずこの事件を告訴に持ってゆける問題の自白書にアイバのサインを取って来て、クラークの頭痛の種となっている東京ローズ事件に結着をつけてみせると強く頼み込んだらしい。ブランディッジが、そのかわりに依頼しているファイルを見せてくれといったとしても驚くにはあたらない。
いずれにせよ、この問題で四方八方からの非難を一身に受けてうんざりしていたであろうクラークが、ブランディッジの東京行きに許可を与えたことは間違いない。というのは、間もなく彼は東京へ向ったからである。
6帰国≠フ陥し穴
一九四八年三月十二日、ブランディッジは軍用機で、アイバに東京ローズ自白書なるものにサインさせるべく東京へ向った。彼にはその時、司法省犯罪部国内保安課のジョン・ホーガンが同行している。数年FBIにいた後、司法省入りしたホーガンは、その当初よりこの事件を担当していた。
法廷でコリンズ弁護人に、司法省の人間でないブランディッジを同伴した理由を問われた時、ホーガンは「自分は詳しいことは一切知らない。司法長官に一緒に行けと命じられて行ったまで」(証言、一九四九・七・十五)と、しらを切っている。だが、一九四八年三月四日、クイン司法次官補がGHQに当てた手紙には、はっきりブランディッジを司法省の要員として彼の入国許可を求めている。ブランディッジは「司法省の特命を受けて」の一札入った旅券で、司法省が旅費を出し、滞在費はテネシアン紙が出して東京へ行ったのである。
ブランディッジとホーガンは、途中ホノルルのリーの持ち家に寄って、「九月一日、帝国ホテルで私をインタビューしたクラーク・リーへ、たった一人の東京ローズ<Aイバ戸栗より」という鉛筆書きのアイバのサインを見付け出した後、三月二十二日東京入りし、GHQ高官が占めていた第一ホテルに宿を取った。しかし彼らに対するGHQの態度は冷たかった。ホーガンがクインに宛てた手紙によると、G2は特にブランディッジに対して敵意さえ見せたという。彼らは終戦時、東京ローズ騒ぎに一役買ったブランディッジを決して忘れていなかった。「うさん臭い奴」が、今度は司法省の肩書きで再びやって来たことに、皆疑惑の目を向けた。
三月二十六日午後三時頃、その日はストライキで電車が動いていなかったため、車で迎えに来たG2の軍曹に連れられて、アイバは第一ビルにあったGHQの四階の一室に導き入れられると、しばらく待つようにいわれた。痩《や》せて青白い顔をした彼女は、そばにあったスターズ・アンド・ストライプス紙を取り上げるとけだるそうに目を通し始めた。
彼女は一月五日、それまで通っていた天野医院で出産した。彼女が自国アメリカで生みたいとあれほどのぞんだ子供は、死んで産まれた。男の子だった。彼女のショックは大きかった。「もしあの子が生きていたら、私の人生は大きく変わっていたはずと今でも考えます」(インタビュー)と、現在でもアイバはこのことを話す時、声を落す。
もしその子が元気で生まれていたとしたら、アメリカ政府も彼女を再入国させない程度で満足し、反逆罪までもっていかなかった可能性は強い。いくらなんでも乳呑み子を抱えた東京ローズでは、恰好もつかないというものであろう。
彼女は精神的にまいっていた。不安定な状態だった。その上、産後の肥立ちが悪く、関節炎をも併発し、ずっと寝込んでいた。
その日も、まだ微熱がとれず足元がふらついていた。
三十分もたった頃、ブランディッジとブリーフケースを下げたホーガンが入って来た。
ブランディッジはアイバと再会の挨拶をかわすと「『アメリカへ帰りたいかね、それとも一生この地獄のような日本で暮すつもりかね?』と聞きました。私は『帰国申請をしています。できるものなら帰りたいと思っています』と答えると、彼は『私はこの事件をホーガン氏とともに担当しているのだ。司法長官オフィスの捜査官の資格で仕事している。今日は君が帰国できるか、それとも一生、この地獄のような日本で暮さねばならぬかを決める日になりそうだよ』といったのです」(アイバ証言、一九四九・九・十二)
この時、それまで窓の外に目をやりながらも二人の会話に耳を傾けていたらしいホーガンが窓を離れると、持っていたブリーフケースを、黙ってブランディッジに手渡した。
ブランディッジは、ケースから書類を取りだすと、それが帝国ホテルでリーがとったインタビューかどうか、アイバに目を通して確かめるようにいった。
初めてそれを読むアイバが、間違いが多いので答えかねていると、「ホーガンさんが受付のところからブランディッジさんに、『それがインタビューの時とったノートかどうか聞いてくれ』と怒鳴りました。ブランディッジさんは私の方に身をかがめ、『もしこれがリーとのインタビューだと思うなら、サインした方がよい。アメリカへ帰るのに役立つ。君のためになる』といったのです。私はサインしました」(同証言)
この間、ホーガンは一度も直接アイバと話をしなかった。
その時、人身保護法で定められている弁護士と相談する権利、黙秘の権利、サインすることを拒絶する権利など、法を扱う当局が必ず被疑者に伝えねばならない人権については、いっさい忠告がなかったとアイバは主張している。それどころか、サインすることは不利になるかもしれないという忠告のかわりに、サインしたら有利だ、サインしさえすれば帰国できると繰り返されたという。
アイバのサインを首尾よく取り終ると、ホーガンが彼女の放送していたスタジオを見たいというので、三人は外へ出た。
ブランディッジが捜して来たタクシーで、三人はNHKへ向った。スタジオには鍵がかかっていたため、ホーガンが管理人の所へ鍵を取りにいった。アイバと二人っきりになった時、ブランディッジは急に親しみを見せて、「元気かね?」とあらためて話しかけてきた。彼はその時アイバに、一応反逆罪で告訴されてアメリカへ連れ戻されることになるかもしれないが、アメリカでは決して女の首は縛らないから、多分悪くて短期間の投獄、うまくいけば即時自由の身だ、どちらにしてももうすぐアメリカへ帰れると思うと語った。
ホーガンの証言によると、スタジオ行きも含めてアイバと一緒だったのは、四十〜四十五分ほどのものだったという。とすると、アイバが二人にあってサインをし終ったのは、どう見積っても三十分以内のことだ。彼女は十七枚のリーのノートの各ページに「I・DA」のイニシャルを打った上で、最後のページにサインさせられている。はたして十分各ページに目を通す時間があったのだろうか。
死産の後で精神的にまいっていた上、産後の肥立ちが悪くまだ足元がふらついていたという状態の彼女は、すべてに投げやりで、アメリカへ帰れるかもしれぬというブランディッジの一言で簡単にサインしたようである。当時の状態ではまともに待っていたら本当にいつ帰国できるか見当もつかなかった。アイバは帰りたい一念でブランディッジの言葉に賭けたのだろうか。
とにかく、彼女はサインしてしまった。十分警戒すべき人物とわかっていながら、またもやブランディッジの言葉を信じて、いや信じようとして彼女はサインしている。現在、彼女が「われながら迂闊《うかつ》だった。ことの重大さを知っていたら、弁護士もつけずにのこのこ出かけたりはしなかった」といっているように、法律に明るくない彼女が、その時、自分の行為の重大性を十分認識していなかったことだけは確かだ。
ホーガンとブランディッジは首尾よくアイバの自白書に彼女のサインを取った。日本へ来た目的は果された。司法省は、この事件を告訴に持ってゆくのに必要な重要証拠物件を手に入れたのである。
ブランディッジはそのまま東京を引き上げてはいない。彼はその後の彼女の裁判《ヽヽ》に備えて、手段を選ばぬやり方で証人捜しに奔走し、十二分の下準備をつけてから帰国したのである。
7 ミュージカル化の話まで
ブランディッジとの再会から半月たった四月十四日、アイバはもう一人の重要な人物に会っている。アール・キャロルだ。彼は、第一次大戦後のニューヨークで世界の美女を集めたといわれて大人気を博した「バニティズ」というレビュー・ミュージカル・ショーの生みの親である。
彼はショービジネスの天才といわれた。その後ハリウッドに進出し、サンセット通りにシアター・レストランを出すとともに数々のミュージカル映画を手がけて、ハリウッド・レビュー時代を築いた大プロデューサーとして知られる。
「一九四八年三月末(実際には四月十四日)、キャロル氏が話をしたいからといって、私はG2本部に呼ばれました。……彼は私に、『自分のことをかつて東京ローズと呼んだことがありますか』というたった一つの質問をしました。私は一度もその名を使ったことがなかった、と答えました。すると彼は、ウィロビー少将(G2部長)と私のことについて話し合った時、少将は『容疑は晴れている』といい、少将が考える限りではこの事件の結論は出ていると語ったといいました。容疑が晴れていたからこそ、キャロル氏は私とG2本部であう許可をえたのです」(裁判中のアイバよりコリンズ宛メモ)
キャロルは日本占領のドキュメンタリー・フィルムを取りに来ていたらしい。マッカーサーとは旧知の間柄だった。若き日のマッカーサーは、彼のニューヨークでの特別パーティの常連だったという人もいる。その関係で東京滞在中、キャロルは特別厚遇を受けていた。アイバに会いたいという彼の希望もG2を通して難なく聞き届けられた。彼は東京ローズをミュージカル化する計画を練っていたという。
彼はアイバがアメリカへ帰りたがっていることを知ると、帰国問題を難しくしているのはウィンチェルであり、彼がコラムで「君の顔に泥を塗っている」(同メモ)のだと語った。彼女にすべて今までに起こった出来事をウィンチェルに説明する手紙を書くことをすすめ、彼自身がみずから手渡してあげるといった。
「キャロル氏は、私が帰国できるように全力をあげてやってみようと約束してくれました」(同メモ)
その夜、ハワイに寄って帰国するキャロルに、アイバは四月十四日付の次のようなウィンチェル宛の手紙を託した。
「……いわゆる東京ローズ事件なるものは、すでに三年目を迎えており、このままでは永遠に続きそうな気配ですらあります。私は一九四五年十月十七日より一九四六年十月二十五日まで巣鴨プリズンに拘置されていました。東京ローズ事件をすべての角度から速やかに取調べるための拘置でした。釈放後、私は一主婦として生活しております。しかもその後もこの事件の取調べは続けられているらしく、私は未だにどちらに落ちるかわからずに塀の上に坐っているような状態です。
……東京ローズ騒ぎは、すべて私一人に集中されました。報道関係者および一般大衆の誤解にはそれなりの種々の理由があったことは確かです。これらの誤解を私は一方的に責めようとは思いません。
……私が一九四五年十月十七日逮捕されたのは、アメリカ国務省が東京に電話を入れて、私を正式にアメリカ人と認めてきたからであると聞いております。だから、私は一年も巣鴨に入れられていたのだと思います。それゆえ、私は一九四七年五月、横浜の領事館で帰国願いを提出したのです。私はアメリカ市民であるゆえに拘置されたのなら、釈放後もアメリカ市民であるはずだと思ったのです。しかし現在にいたるまで、その是非に関してなんの返事もございません。
……あの戦争中、一人で生きて行くということはいろいろ複雑なクモの巣をくぐり抜けるようなものだったのです。私は敵国にいてアメリカ人だった。つねに官憲の監視下にいながら、なんとか生きのびてきたのです。ほとんど捕虜と同じ条件で、私が生きのびるための手段はごく限られておりました。
……私はあなた様に泣きつこうというのではございません。もしそういう印象を与えたとしたらお許しくださいませ。私があなた様にお願いしたいことは、事件の裏表にもう一度目を通していただき、その上で結論に達していただきたいということなのです」
アメリカへ帰ったキャロルは、ニューヨークのウィンチェルにさっそくこの手紙を添えて四月二十日付で、彼がGHQで聞いてきた事態を説明する手紙を書いた。
五月二十七日付で、アイバはキャロルから次のような手紙を受け取った。
「親愛なるローズへ。すぐ返事しなかったのはウィンチェルからの返事を待っていたからです。彼から来たばかりの手紙を同封します。彼は公平なる裁判とかいっていますが、私にはまったく何のことか見当もつきません。東京のG2では君の『容疑は晴れた』といったのだから……。
私は六月第一週に東部に用事で行くので(彼のレビュー巡業の打合わせ)、その時もしウィンチェル氏に面会できたら、よくこのことについて話し合い、その結果をまた知らせます。敬具 アール・キャロル」
同封されていたのは五月十四日、ウィンチェルよりキャロルに宛てられた、たった六行の短い返事であった。
「親愛なるアール。君が戸栗嬢に手紙を書く時、私はアメリカの立法システムに十分信頼をよせており、彼女は公正なる裁判を受けられるだろうと伝えてくれたまえ。敬具 ウォルター」
簡単なこの文面にアイバはがっかりもし、不安も感じた。だが、直接話し合ってくれるというキャロルに期待を寄せて、彼女はただ待った。彼は短い対面にもかかわらず、彼女を信じて全面的に支援を買って出てくれた。彼としては東京ローズのミュージカルを作るためにもアイバの問題を解決しておきたかったのかもしれないが……。その道の大物で十分な影響力を持っていたキャロルとの出会いは、彼女にとって信じられないような幸運であるはずだった。
しかし、キャロルがウィンチェルに会うことはなかった。アイバが再びキャロルからの連絡を受け取ることもなかった。六月十七日、ウィンチェルに会いにゆくキャロルを乗せてニューヨーク・ラガーディア空港に向っていたユナイテッド航空機は、突如すさまじい勢いでペンシルバニア州マウント・カーメル地方の丘陵に激突した。その八分前に、すべて順調に飛行中の報告が入った直後の出来事だった。すべての遺体はちりぢりに飛び散り見分けもつかなかった。キャロルの遺体を確認するものは彼の財布のみであった。五十四歳だった。
キャロルの惨死をアイバが知ったのは、それからずいぶんたってからのことである。ウィンチェルの心を動かしえたかもしれないキャロルの死は、アイバの不運でもあった。
不運はそれだけではなかった。彼女に帰国を約束したもう一人の男ブランディッジは、これに先立つ五月二日、ナッシュビル・テネシアン紙第一面に、「東京ローズ逮捕間近! 裏切りを認めた自白書《ヽヽヽ》にサインする!」「ナッシュビル・テネシアン紙独占」というセンセーショナルな見出しの記事を署名入りで発表し、世論をあおっていたのだ。昔取ったきねづかで、犯罪撲滅運動の闘士は、再び立ち上がったとでもいうべきか。
「ナッシュビル・テネシアン紙は、今朝、クラーク司法長官が、東京ローズことアイバ戸栗ダキノ夫人の逮捕に踏み切ろうとしている事実を発表する。……東京ローズは反逆罪裁判のため多分日本から連れ戻されることになろう。
……本紙はここに|面白い裏話《ヽヽヽヽヽ》を打ち明けよう。……筆者はこの三月、日本へ行き、そこで司法長官特別補佐官のホーガン氏に出会った。彼は反逆罪事件の証人および証拠捜しに来ていたのだ。筆者はさっそく東京ローズ事件の助力を買って出た。まさにその助力の直接の結果として、司法長官はこの事件の再調査に踏み切ることができたといえよう。新しく出た証拠および証人たちについては、本紙がこの事件解決に一役買っているため、現在のところまだそれを打ち明けるわけにはいかない。
しかしながら司法長官は現在、東京ローズがみずからサインした自白書および、長年にわたって行方不明であったが、筆者がホノルルで発見した、アイバ戸栗がみずからの手書きで東京ローズと認めている重要文書を手に入れている。本紙が現在打ち明けられるのはそれだけだ……」(ナッシュビル・テネシアン紙、一九四八・五・二)
三ページにおよぶこの大記事には、アイバ、クラーク長官と並んで、「自白書サインの決定的瞬間を目撃した」(同紙)筆者ブランディッジのふてぶてしい面構えの写真が一面を飾っている。ウソの多い暴露記事であるばかりでない。司法省が正式に動き出さない前に、おこがましくもアイバ逮捕の「予告」をしたのである。
ブランディッジは引き続き、五月二十三日までに十回にわたるシリーズで、東京ローズ事件|裏話《ヽヽ》なる記事を同紙に書いた。彼がみずから進んでクラークに助力を買って出た裏には、自分の名誉回復のためと同時に、東京ローズの独占記事を手に入れて、ひと花咲かせたい野望があったことは明白だ。テネシアン紙も、彼の東京滞在費のもとを十分取ったわけだ。
このブランディッジのスタンド・プレーは、司法省の連中をいらだたせこそすれ喜ばせてはいない。というより一部の者を激怒さえさせた。
彼らは、ウィンチェル同様ブランディッジも十分注意して扱った方がよいことを心得ていた。もっとも、その理由はおおいに異なる。
「まったく、いかにしてハリー(ブランディッジ)の口とタイプライターに蓋をするかには弱ってしまう。もし電話をかければ、早速それをネタに書きまくり、かえって彼の話の真実味を添えることにもなりかねない……」(ホウィティへのメモ)。これは司法省渉外部の者より同じ部のホウィティに宛てたペン書きのメモである。
司法省犯罪部では、まだ証拠の検討中であり、決して告訴確定発表の段階ではなかったのだ。ブランディッジにへんにまた騒ぎ立てられるのは、彼らとしても迷惑千万だった。たまりかねた関係者に泣きつかれたクラーク司法長官は、友人でもあるテネシアン紙社長シリマン・エバンズに六月三日付で手紙を送った。
「親愛なるシリマン。ここの連中が東京ローズのことで少々動揺している。確定するまで論評を避けてもらえるとありがたい。その時はまたお知らせする。敬具 トム」
8 再 逮 捕
「ワシントン発八・十六――クラーク司法長官は、今日アイバ戸栗ダキノを即時逮捕し、サンフランシスコにおける大陪審のため一日も早く送還するようGHQに依頼した」
これは八月十七日付のニューヨーク・タイムズの記事だが、そのすぐ下に「反逆罪裁判はのぞむところ」という記事が東京発で続いている。
「UP発――青白く神経質そうなダキノ夫人は『現在のように何もかも不明のまま、だらだらと待たされているのは肉体的な拷問《ごうもん》よりつらい』ため、反逆罪裁判にかけられて黒白をはっきりつけるのは私の最ものぞむところ、と今日語った。
『この三年間、宙ぶらりんの形で自分がどうなるのか見当がつかなかったので、一日も早く結論を下したいのです。……今になって司法省がどんな新しい事実を発見したのか知りませんが、私はなにも反逆罪になるようなことをしていないという自信があります』と彼女は語った」
もちろん、司法省は新事実発見でアイバ再逮捕に踏みきったのではなかった。ホーガンが持ち帰ったサイン入りの自白書なるものが手に入ったに過ぎない。しかし断固この事件を裁判に持ち込む腹だった司法省は、これで逮捕理由十分としたらしい。
八月二十六日、アイバはCICに自宅で再逮捕された。その時初めて「第二次世界大戦中アメリカ合衆国に対して反逆的行為があった」と逮捕理由を指摘した正式の逮捕状を受け取った。フィリップと楽しみに待った子供が死産となり、もしやと帰国の期待をかけさせたキヤロルは惨死した。アイバは自分に運が向いていないのを感じずにはいられなかった。
実のところ、その時点では裁判は願ってもないことだと歓迎する気持ちになっていた。「私は反逆罪になるようなことはいっさいしていない」、彼女には良心のとがめるような放送をしなかったという確固たる自信があった。ブランディッジのいうように、それなら一層のことさっさと裁判にかかり、身のあかしが立った方が帰国への道というものだ、と彼女は信じた。アイバは堂々と裁判を受けて一日も早く「晴れの身」となりたかった。
当局はこれとは反対にアイバの自殺を最も恐れた。そのため再び巣鴨に入れられた彼女の牢の電気は、二十四時間つけっぱなしだった。
九日目の九月三日早朝、彼女は引き取りに来たWACのキャサリン・スタル大尉とMPのジョン・プロスナック大尉に護衛され、車で横浜に直行すると、その日サンフランシスコに向けてたつ軍輸送船ジェネラル・H・F・ホッジズ号へ、もう二人のWACに両側から腕を取られて乗船した。
司法省が最初予定した軍用機でなく、時間のかかる船旅をあえて選んだのにはそれなりの理由があった。アメリカ法では外国にいるアメリカ人を反逆罪裁判にかける場合、初めてその被疑者が足を踏んだアメリカの地が裁判地となると定められている。
そのため、裁判地選びには司法省もなかなか慎重を期したらしい。当時、飛行機を使うとすると、最初の地となるのはアラスカかハワイと見られた。だが、アラスカはへんぴで裁判には不便である。日系人が圧倒的に多いハワイは、有罪に持ってゆけなければ、「告訴しない方がまし」と考えていた政府側にとって、なにかと不利な点は目に見えていた。アイバの故郷であり、初めからこの事件に熱意を示したロサンゼルスは最有力候補地であった。しかし最終的にはサンフランシスコが選ばれた。
サンフランシスコは、カリフォルニアの中でもひときわ目立つ排日運動の歴史を持つ町である。当時収容所帰りの日系人たちは、その感情を再燃させないように十分注意を払って再出発していた。「東京ローズ裁判がサンフランシスコで行なわれるということは、アメリカ社会を形成している種々の人種間をできるだけ堅く結びつけなければならぬ最も重要時である時に、逆に人種間の緊張と憎悪を呼び起こすことになりかねない」(カリフォルニア市民統一同盟会長パッチェトよりクラークへ、一九四八・八・二十五)とカリフォルニア市民統一同盟も反対し、日系人の少ない、すなわち排日感情が強くない東部または中西部での裁判をクラークにのぞんでいるくらいであった。司法省は反対にそこのところを十分計算に入れたからこそサンフランシスコを選んだのである。そのためには船旅である必要があったわけだ。
ジェネラル・ホッジズ号は同日、多数のアメリカ帰還兵を乗せて横浜を出発した。アイバを見送る者は一人とてなかった。フィリップは巣鴨には三度ほど面会を許されてやって来た。だが、彼には、アイバがアメリカへ送還される日時の通知はなかった。彼が妻の出港を知ったのは、その一日後の新聞記事によってである。
沖縄那覇、そして朝鮮仁川三マイル沖で一時停泊した後、ジェネラル・ホッジズ号は一路サンフランシスコをめざして太平洋を突っ走った。
9 売国奴として故国の土を
一九四八年九月二十五日朝、アイバは再び|金 門 橋《ゴールデン・ゲート》を見た。その日サンフランシスコ港は霧もなく晴れわたり、町は目にしみるような美しさだった。金門橋を再び見る年を一九四八年ときめ、繰り返しフィリップに語って聞かせたアイバは、まさしくその願い通りの年に帰国した。しかし、彼女のそばにフィリップはいなかった。
ジェネラル・ホッジズ号は、サンフランシスコ港のフォート・メーソンへ帰着した。と同時に、テールマンその他四、五人のFBIがまず乗船して来た。アイバを巣鴨で取り調べた有能《ヽヽ》なFBI捜査官であるテールマンは、再びこの裁判のために狩り出され、サンフランシスコでいち早く待機していたのだ。
そこで一悶着が起こった。その頃アイバは戦時中かかった赤痢がぶりかえして痩せ細り、スカートが腰に下がって来てしまうので、ピンでウエストのところを止めていた。身体検査に当った女性FBI捜査官は、規則なのでそのピンの使用はならないという。髪を止めているボビイピンも取れといった。ピン一本で自殺は可能だという。自殺の気があるなら日本でやっていたと怒ったアイバは、スカートのピンを取られるならば自分の足で歩いて下船はしないと頑張った。スカートのピンだけは許してくれることになった。
再び無事に故国の土をヒーローとして踏む嬉しそうな帰還兵たちがどよめき、彼らを祝ってバンドが勇ましく「カリフォルニア・ヒア・アイ・カム」を演奏していた。そのなかを、午前十一時三十九分、へアバンドだけした髪を風に吹かれてぼうぼうとさせたアイバは、FBIに囲まれるようにして下船する。彼らは詰めかけた大勢の報道陣たちと帰還兵出迎えの群衆のなかを縫うようにして進むと、待たせてあったFBIの車に乗り込んだ。
その時初めて、自分が七年間恋しいと思い続けた故国の土を、罪人として、それも売国奴として踏んだ事実を身にしみてアイバは感じた。ガーンと一発殴られたように頭がしびれてしまったという。
彼女を乗せた車は正午、フォックス・コミッショナーのオフィスへ直行した。そこにはなつかしい顔がアイバを待っていた。シカゴより出てきた父遵と、今は結婚してロサンゼルスに住む妹ジューンだった。七年ぶりで見る父は一まわり小さく老いて見えた。父の方も青白くやせ細り、目を引っ込ませて立っているわが娘の姿にショックを受けていた。彼の覚えているアイバは丸々と肥って元気な娘だった。彼ら親子が万感の思いを胸に秘めて堅く抱き合っても決して人前で涙を見せなかったのを、そこに詰めかけていた報道陣は見逃さなかった。
彼らの目から見て、これはやはりたぶんに東洋的だった。ポーカーフェイスの東洋人はまったく理解に苦しむ。何年ぶりかで親子が再会したというのに、涙一つ流さない。彼らはいったい何を考えているのだろうか。これ以後の裁判を通して新聞は、アイバの感情を押し殺した東洋的《ヽヽヽ》な無表情さを常に報じている。
「娘よ、よく頑張って『縞』(アメリカ国旗の縞の意)を変えなかった。虎は縞を変えられないが、人は容易に変えられるものだ」(インタビュー)とのみ遵はいった。この父の言葉に、アイバはそれまでの苦労が消し飛ぶほど慰められたという。遵を初めとする戸栗一家が、終始一貫した態度で彼女を支持し続けたことは彼女の大きな慰めである。アイバは父と妹にひとこと「くたびれた」と答えた。
遵のそばには小柄でやせぎすの一人の男が立っていた。彼が依頼した弁護人ウェイン・コリンズであった。遵は娘に最も有能な弁護士をつけたいとねがって、最初、当時おおいに|売れていた《ヽヽヽヽヽ》ロサンゼルスの花形刑事専門弁護士ジェリー・ギスラーに弁護を頼みに行った。
ギスラーはセンセーショナルな犯罪事件を扱って名を成し、多くのハリウッド・スターを客に持ち、ビバリー・ヒルズでのうのうと暮していた。政府が断固有罪にもってゆく気構えを見せている金もない一日系人の反逆罪裁判などまるで問題にもしなかった。ギスラーばかりでなく他に遵が当った多数の弁護士たちは皆、この裁判にさわりたがらなかった。その中でコリンズは、あえてこの一日系反逆者の弁護を承知した、たった一人の弁護人であった。
コミッショナーの前で正式に拘置理由を開示されたのち、アイバはその後一年間彼女の家となった郡刑務所No3へ連れて行かれた。その間、質問攻めにする記者たちに彼女は沈黙を守っていた。「有罪と思うか」という質問にのみ、「ノー」とひとこと強く答えたのが記者たちの印象に残った。帰国第一日目はそのままでは終らなかった。
アイバが郡刑務所に入れられて間もない午後二時四分、依頼人たる彼女からこれまでの詳しい話を聞いておく必要のあったコリンズが再び姿を見せた。だが、話合いは三時半、突然中断された。やって来た女看守は、今、マーシャル(連邦執行官)のオフィスから電話が入り、取調べのためアイバは彼のオフィスに行かねばならないというのだ。
コリンズはおかしいと思った。アイバを牢から出す命令を出せるのはマーシャルだけである。だが、土曜日の午後はそのオフィスは開いておらず、正式に囚人を牢から出す手続きが取れるはずがなかった。その上、弁護人たる彼にその知らせもない。
彼はさっそく念のためマーシャルのオフィスに電話を入れてみた。案の定、誰も出ない。コミッショナーのオフィスに先刻顔を見せていたデウォルフ検察官のオフィスにも電話を入れたが、呼び出し音は鳴りっぱなしのままだった。彼は素早く三階の郡刑務所No3に戻ると、入口の廊下で副マーシャルを待ち伏せた。
三時五十五分、やって来たイーガン副マーシャルは、私服に着替えたアイバをせきたてるとエレベーターで下に降り、待たせてあった車に乗せた。その間、大声で抗議を申し立てながら彼らの後ろからついて来ていたコリンズも、素早くその車に押し乗ってしまった。
数時間前にコリンズは、コミッショナーの前で、居合せた政府側関係者にはっきりと、被疑者を代表する弁護士たる自分の承諾なしに以後彼女を勝手に取調べたりどこかに連れ出さないように大声で申し入れておいたばかりだった。それなのに弁護士たる彼を完全に無視し、アイバを勝手に連れ出して尋問しようなどとは彼女の人権無視もはなはだしい。この信じがたい出来事にコリンズは怒り狂っていた。
黒塗りのセダンの中には、FBI特別捜査官のジョン・ダンが乗っていた。それはFBIの車だったのだ。マーシャルのオフィスでの取調べなどではなかった。さほど遠くないFBIサンフランシスコ支部のある連邦局ビルの四階で、まず出てきた捜査官はアイバがFBIによる取調べのためにそこへ連れて来られたことを告げた。誰の許可をえて、誰の命令で連れて来られたのだと食い下がるコリンズに、口止めされているのでそれは答えられないという。コリンズは、それはアメリカ憲法修正第四、五、六条に違法の人権無視であると、誰にも聞こえるような大声で抗議し続ける。と同時に、五分間だけ尋問したいとして、次の部屋に連れて行かれるアイバにも、ひとことも答えるなと念を押した。彼が部屋について入ることは阻止された。
アイバが連れて行かれた部屋にはダンとテールマンが待っていた。コリンズに忠告されていたアイバはひとことも話すことを拒絶した。それまですべての取調官のいいなりに答え、サインしてきた彼女が、初めて法的に自分の人権を守ろうとしたわけだ。この間も別室では、コリンズが小柄の体のどこから出るのかと思うような大声でわめき続けている。不利と見たテールマンたちはあきらめた。三分ほどで出て来たアイバは、再びダンの車で郡刑務所に送り返された。
コリンズは九月二十七日、デウォルフを初めコミッショナー、その他多数の関係者および新聞関係者に、この違法行為を「FBIによる誘拐」として激しい抗議文を送った。
アイバは目を見張っていた。彼女は嬉しかった。終戦直後の投獄以来、のぞみ続けて得ることのなかった弁護士が初めてついたのだ。コリンズはアイバの人間《ヽヽ》としての権利を主張し、守ろうとしてくれた初めての人物であった。百万人の味方をえたように、目の前が明るくなった。
彼女の話を聞いて無実だと信じただけではない、政府がこれまでに彼女に取ってきた数々の人権無視に怒りを覚えずにはいられなかったとコリンズはいう。弁護士たる彼の目前で起こったこの日の出来事にも激怒していた。この正義感が、彼をしてこの日系反逆者の弁護に立ち上がらせたといえた。しかし、彼はそれまでも決して日系人にとって無縁の人ではなかった。
弁護士仲間が「敗者の味方」と賛辞をこめて評するコリンズは、当時四十九歳、アイルランド移民の子としてサクラメントに生まれた。やせぎすの彼は、すでに年に似合わぬグレーの髪をしていた。こめかみからアゴにかけては自動車事故による深い傷跡が見られ、不正を見逃さぬ闘士を思わせる鋭い二つの大きな目がよく光った。
サンフランシスコで法を修め、同市で開業した彼が、日系人に取ってまさに「正義の弁護士」となったのは一九四二年、コレマツ事件の弁護を引き受けた時に始まる。日系人強制隔離の大統領令が出された時、オークランドに住むフレッド・コレマツが白人の許嫁と別れて収容所へ入れられることをこばんで逮捕された時、強制収容は違憲であるとして反対に国を訴えた事件である。
この時、彼の弁護を引き受けて最高裁まで持っていったのが、以前より普通の弁護士がかえりみない種々のケースを引き受けて「一匹狼」的特異な存在であったコリンズである。
この時彼を支持したのは、彼も創立者の一人だったアメリカ公民権同盟北カリフォルニア支部のみである。同本部すら日系人問題にそっぽを向き、そのため北カリフォルニア支部は一九四二年本部より離別するにいたっている。
戦後、アメリカ国籍を放棄した日系人を、政府が全員日本へ送還しようとした時、その弁護を引き受けたのもコリンズである。
当時、収容所にいた日系人に、アメリカに忠誠を誓ってそのまま収容所に残るか、それとも日本に帰るか(その中の大半は日本を見たこともないアメリカ二世)という理解に苦しむようなばかばかしいアンケートを政府が迫ったことがある。長期の収容に希望を失い、収容所を出ても敵意に満ちたアメリカ社会に戻ることを恐れ、多くの日系人はアメリカ国籍放棄にサインしてしまった。だが、いざ送還というと、大半は放棄をキャンセルしてアメリカに残りたがった。
政府はこれを認めようとしなかった。コリンズは彼ら日系人約五千人のたった一人の弁護士として国を相手に訴訟をおこした。すべてのかたがついたのは一九六八年だったという。
この時も彼は「裏切り者ジャップ」たちの弁護をするのは気狂い沙汰だとなじられ、偏狭な友人や同業者からは、好ましからざる人物としていやがらせを受けた。
アメリカ日系人史のなかで、コリンズが果たした功績ははかりしれない。彼は日系人以外でも抑圧された人びとの勝利のために闘い、損得を無視して信念を貫く仕事のみをした。彼はこのタイプにありがちな、妥協をせず頑固でひとりよがりなところがあり、敵も多かった。
彼の毒舌は有名である。コリンズは全米日系市民協会を、強制収容に力を合せて政府に媚びる「腰抜け馬鹿野郎」として一生許さなかった。彼の日系人に対する貢献が、現在にいたるまであまり高く評価されていないのは、このへんに原因がありそうだ。
このような経歴を持つ彼が、アイバの弁護を引き受けたのはごく自然なことだったのかもしれない。シカゴでの商売が軌道に乗っていたとはいえ、このような大裁判の弁護を賄う財力など到底もっていなかった戸栗家の事情をのみこみ、無報酬で弁護を引き受けた。その後の裁判に関する諸々の経費も彼はかなり自腹を切っている。
コリンズは、この大裁判を控えて一人では手に余ると思い、それまでも一緒に多くの仕事を手がけていた同じサンフランシスコの弁護士セオドア・タンバと、ジョージ・オールスハウゼンの二人に手助けを求めた。
かかわりを恐れて全米日系市民協会さえ指一本動かそうとしなかった世相を背景に、タンバたちはその後何カ月もかかるであろうこの日系人反逆者の弁護を、コリンズ同様無報酬で引き受けた。彼ら二人も、アイバが三年間、アメリカ政府より受け続けた人権無視に驚かずにはいられなかった。同時にこの全国の注目を集めるであろう大裁判への参加に、プロとしての誇りをかけて挑戦したのである。
アイバは信念の人コリンズを初めとする彼らを味方として、どれほど力強く感じたかしれない。帰国後、適切な医療を受け、船中悪化していた赤痢が治りだすと、日一日と健康を回復し、同時に精神的にもずっと落ち着いてきた。毎日のように面会にくる遵が、いろいろなつかしい食べ物の差し入れをしてくれるのも嬉しかった。
10「反逆罪」で起訴
十月八日、アイバは大陪審で「一九四三年十一月一日より一九四五年八月十三日の間、日本ラジオ放送を通して、知りながら、その気で、違法にも故意に謀叛《むほん》の気十分に、反逆心をもって、帝国主義日本を支持し援助した」かどにより、正式に反逆罪で起訴された。提出された起訴状には、八項目の「歴然たる犯行」が以下のように列記されている。
(1) 一九四四年三月一日より五月一日までの間の一日、正確な日時不明、被告は東京NHKのオフィスにおいて、あるラジオ番組への参加についてある者と話し合った。
(2) 一九四四年三月一日より六月一日までの間の一日、正確な日時不明、被告は東京NHKのオフィスにおいて、他のNHK職員たちと特殊な放送計画のラジオ番組内容について討議した。
(3) 一九四四年三月一日より六月一日までの間の一日、正確な日時不明、被告は東京NHKのスタジオで戦争映画を取り扱う番組の紹介をマイクを通して行なった。
(4) 一九四四年八月一日より十二月一日までの間の一日、正確な日時不明、被告は東京NHKのスタジオで「日本の敵」に関する放送をマイクを通して行なった。
(5) 一九四四年十月のある日、正確な日時不明、被告は東京NHKのオフィスで次項の「船舶の損失」に関する放送原稿を用意した。
(6) 一九四四年十月のある日、正確な日時不明、被告は東京NHKのスタジオより、「船舶の損失」に関する放送をマイクを通して行なった。
(7) 一九四五年五月二十三日頃、正確な日時不明、被告は東京NHKのオフィスでその後の放送のための放送原稿を用意した。
(8) 一九四五年五月一日より七月三十一日までの間の一日、正確な日時不明、被告は東京NHKのスタジオで、あるNHK職員とマイクを通して娯楽的会話を交した。
大陪審より裁判をカバーしたデラプレン記者(サンフランシスコ・クロニクル紙)はこの起訴状を聞いた時、「アイバは単にNHKで働いていた」といっているだけではないかと、あっけにとられたという。
正確な日時は不明、出てくる人の名前も不明、放送原稿も放送も何一つとして具体的に指定されてはいない。他の宣伝放送関係の反逆罪の起訴状と比べても、これほど一般的で取りとめのない「歴然たる犯行」は見当らない。
この起訴状を不安げに聞いたアイバは、詰めかけた記者団に、「私は過去にも、現在にも、アメリカに反逆した覚えはまったくない」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四八・十・九)ときっぱりと否定した。
アメリカ法では、このように逮捕後まず大陪審で、少なくとも十六人、多くて二十三人による陪審員たちが起訴状を審議し、彼らが証拠十分と認めた時に起訴が決定する。この時の大陪審における二十三人の陪審員たちは、特にこの裁判のために召集されたのではなく、その数カ月前から他のもろもろの大陪審を引き受けて審議中の陪審員たちであった。その中の一人であったジョン・ギルダスリーブによると、二十一対二で簡単に起訴は決ったという。大陪審では全員可決の必要はない。
カリフォルニア大学出版部にいたギルダスリーブは、その時不起訴に投じた一人である。もう一人の方が、戦時中OWIの無線技術者として日本を含む敵国宣伝放送を専門に聞いていた者だったことは注目に値する。
その時、検察側、すなわち政府側は是非ともこれを起訴に持っていく意気込みを見せた。陪審員たちは無言の圧力すら感じた。しかも実に唯々諾々とした陪審員たちで、「あの時の状態では、どんな事件であれ、起訴に決ったであろう」と、ギルダスリーブはインタビューで語っている。
二日間の審議で五、六人の証人が立った。翌日一日休日を取って、第三日目の審議に入るとすぐ、デウォルフ検察官が「これで十分彼女が有罪であることがわかったはずだ。これ以上われわれには、あなたたちの時間を無駄にする気はない」(ギルダスリーブ、インタビュー)と、陪審員たちに語った。その時、陪審員の一人が「被告同様にラジオ東京の放送に従事した他のアメリカ人の処置はどうなっているのか」と質問した。するとデウォルフは「この大陪審で他の事件の心配をする必要はない」とにべもなく答え、「他の連中のことは後で処理することになっている」とつけ加えた。そのため陪審員たちは、これ以上尋問を続けるかどうかでまず票を取った後、十分だということになって正式な判決を決める票を取り、起訴に決定した。
それから数週間して、デウォルフは司法省に次のような驚くべきメモを送っている。
「戸栗事件に関する指示、了解した。報告のごとく二人の陪審員が不起訴に投じました。起訴に持ち込むために実際のところ、私は七月四日的《ヽヽヽヽヽ》スピーチ(七月四日はアメリカ建国記念日、とびきり愛国的の意)をせざるをえない羽目に陥った……」(デウォルフよりホウィティへ、一九四八・十一・十二)
彼はキャンベル司法次官補にも書いている。
「ふり返り見るに、私はみずから大陪審の陪審員たちに、かなり強い調子でダキノに対する証拠を挙げつらねました。私は彼らにラジオ東京でダキノの上司に当ったインス大佐(大尉の間違い)は近日中に告訴となるであろうと告げました……もし私がこのようにいわなかったならば、たぶん大陪審でダキノを起訴に持ち込むことは不可能だったと信じます」(デウォルフよりキャンベル宛書簡、一九四八・十一・十二)
実は、デウォルフ自身は、初めからこの事件を起訴に持ち込むことには反対だったのだ。彼は司法省犯罪部国内保安課の検事であった。当時、同課で第二次大戦関係反逆罪を専門に担当していた検事グループの中でも、最も鋭敏なる検事として、司法省内でも非常に評判が高かった。すでに彼はその年前半、ボストンでベスト、チャンドラー反逆罪を担当し、二人を終身刑に送っていた。反逆罪のベテランであるその彼が、数カ月前の五月二十五日、まだアイバの正式告訴を司法省が確定していなかった時点で、東京ローズ事件は「有利な裁判に持ち込むには証拠不十分である」(デウォルフよりホウィティへの書簡、一九四八・五・二十五)という意見書を司法省に出していたのである。
なお、大陪審の証人として呼ばれていた十二名のうち、恒石、沖、満潮、八木弘、石井(ケン)、石井(メアリー)、松田エミ(タイピスト)、池田の八名は、日本より来た証人たちである。アメリカ側からはレイズ、リー、ブランディッジ、テールマンが召喚された。日本から飛行機でやって来た八人は、約二週間滞在したのち、ホノルルに二泊ほどして十月二十四日帰国している。
十月十一日出されたアイバの保釈願いは、「反逆罪は死刑をも可能な極悪罪である。しかるに外国へ逃亡した場合、引き渡しの要求ができない」という理由で却下された。政府側はアイバが中南米へ逃亡する可能性を恐れたらしい。
総じて反逆罪裁判は、単なる法的問題でなく、非常に政治的問題がからむといえよう。
アメリカ法の反逆罪は、一三五一年、エドワード三世時代に王に逆らうことをもってして反逆と定義された英国法にもとづく。アメリカ憲法第三条第三項には、反逆罪を以下のごとく定義している。
「アメリカ合衆国に忠誠を誓った者で合衆国に反して戦争に加担し敵を支持し、合衆国内またはその他の場所で敵に援助と慰めを与えたる者は反逆罪を犯したとみなす」
このように反逆罪とは非常に広義に解釈できるものであり、いつの時代においてもその時いかなる権力の支配下にあったかによって、そのエレメントは変わりえ、権力を握る者のその時の主観によって定義づけられてきたといえよう。殺人罪などのように客観的に定義づけられるものとは質を異にしている。
アメリカで最も有名な反逆者には、植民地時代に英国側に走ったベネディクト・アーノルド、ジェファソンの副大統領でのちに中西部の独立を企てたアーロン・バー、奴隷解放運動家ジョン・ブラウン(アメリカでただ一人、反逆罪で死刑)などがいる。第二次大戦関係で反逆罪で訴えられたのは十二人ほどである。そのうち、敵国宣伝謀略放送に従事したことにより起訴されたものは八名にも上る。ラジオ放送がこの戦争で果した役割の大きさを示すといえよう。
アメリカで、日本側宣伝戦に従事して反逆罪にかけられたのは、東京ロ―ズとしてのアイバと、文化キャンプの捕虜だったジョン・プロボーの二人だけである。
ナチ宣伝戦に参加して、戦後アメリカに連れ戻され、反逆罪で裁かれたアメリカ人には、ロバート・ベスト(終身刑)、ダグラス・チャンドラー(終身刑)、マーチン・モンテ(二十五年禁固刑)、ヒューバート・バーグマン(六〜二十年禁固刑)、エドワード・デラニー、ミルドレッド・ギラーの六人がいる。このうち、デラニーだけが大陪審で不起訴になった。その時の検察官もデウォルフであった。
彼はその時「反逆罪での起訴は、二人の歴然たる行為の証人を必要とされるようになってから難しくなった」と声明している。この時の経験からしても、東京ローズの時の大陪審では強硬な態度に出たとみられる。
ナチ放送関係の紅一点であり、また一番よく知られたのは、「枢軸のサリー」ことミルドレッド・ギラーである。ギラーはアイバと同じ頃、アメリカに連れ戻されている。敵国宣伝放送に参加したこの二人の女反逆者の帰国を、新聞は「二人のサイレンの帰国」と報じ、その後も何かと比較している。
だが二人の反逆罪裁判の質はまったく異なっている。半年後のアイバの裁判と比較してみるとその点が明白だ。ギラーの裁判は、なんといっても政府側にとって非常に容易な裁判であった。
ギラーは当時四十八歳。すでに髪はグレーだった。大柄の彼女はメイン州出身で、東部女子名門校の一つであるハンター・カレッジを卒業後、舞台女優を志した。しかし数年たってもパッとせず、失望した彼女は、音楽の勉強のためと称して一九二九年ヨーロッパに渡り、一九四〇年からラジオ・ベルリンに参加している。
彼女は終戦直後、ベルリンの防空壕に隠れているところをアメリカ占領軍に逮捕されたが、間もなく釈放になっていた。それが三年後、アイバ同様、急にその意を変えた司法省によって再逮捕され、一九四八年八月二十一日、ワシントンへ連れ戻され、一九四九年一月二十五日より裁判が始まった。アイバと同じディスク・ジョッキーだが、ギラーの放送は調子の強い宣伝放送であった。特にアメリカ本土に送信された「ホーム・スイート・ホーム」番組はよく知られた。
もし連合軍がイギリス海峡を渡って侵略した時はどのようなことが起こるかを予告した「侵略の幻想」と題する放送を、ギラーは行なっている。一九四四年六月六日のノルマンディ攻略数週間前に放送されたこの番組は、ぞっとするような恐怖劇として悪名高い。ギラーが扮《ふん》するオハイオ州の一GIの母の夢の中に息子のGIが現われて、自分は侵略のためイギリス海峡を渡る船の中でドイツ軍に爆撃されてすでに死んだことを告げるという陰惨な放送である。バックに苦しみ悶え泣き叫ぶGIたちの声が頻繁に使われた。
アメリカ側で取られていたこの放送の録音レコードは、数回に及び法廷で聞かれ、そのたびに人びとは用意されたイヤホーンを耳に当てた。「ルーズベルトもチャーチルも地獄に落ちよ、この戦争を起こしたユダヤ野郎も地獄に落ちよ」という激しい調子の放送も、レコードで聞かれた。
六週間かかったこの裁判の最終証人として、ギラー自身が六日間証人台に上った。
終始ハンカチを握りしめ、彼女は涙を流し続けた。第一日目では反逆罪を否認し、ドイツ軍に強制されて放送したのであり、食べてゆくための手段だったが、内心ではつねにアメリカを愛していたと繰り返した。ところが第二日目、彼女は「自分は愛する人のためにやむなく反逆罪を犯した」とドラマティックにその話を逆転し、宣伝放送を認めた。
彼女が法廷で「私の運命の人」と呼んだマックス・コイシュウィッツは、ドイツ・ラジオ宣伝放送の指導者で、ギラーのハンター・カレッジの教授であった。人を催眠術にかけるような魔力を持った人物で、ギラーは彼にだまされてあやつり人形のように動いていたにすぎないと弁護側は主張している。だが、ギラーは、「私の愛する人」として彼の名が出てくるたびに涙ぐみ、一九四四年秋、彼が死去した時の話となると、人目をはばかることなくむせび泣いて尋問が続けられないほどだった。
そんなギラーを、サディスティックな反逆者とする検察側は一歩も譲らなかった。三月十日、陪審員(男七人、女五人)たちは、十七時間二十分間にわたる審議の後、歴然たる犯行(10)「侵略の幻想」をもって有罪と判決した。一週間後、十年から三十年の禁固刑がいい渡された。
ギラー裁判は、政府側にとってまったく心配のいらないものだった。まず、東京ローズと違って「枢軸のサリー」という名はギラーのアナウンサー名であった。この名に当てはまるのはギラーただ一人だった。さらに、ゲシュタポを恐れてといいながらも、「運命の人」への愛のためとして、彼女自身が暗に反逆行為のあったことを認めている。反逆罪で最も重要なのは意図《ヽヽ》があったか否かという点である。彼女の場合はその点がかなりはっきりしていた。生活のために強制されてといいながらも、一九四四年八月、連合軍がパリに入った時に「愛する人」と別れがたく、ドイツ軍について逃げおちている。
ギラーの給料は、コイシュウィッツに次いで高級の三千マルク=千二百ドルであった。当時、同じ放送にたずさわっていたドイツ局員は、その三分の一の四百ドルだったと証言しており、ベスト、チャンドラーと比べてもはるかに高給である。しかも有罪となった歴然たる犯行(10)の放送録音レコードが物的証拠として出ていた。
ギラー有罪が決った翌三月十一日付ニューヨーク・タイムズ社説には、「枢軸のサリー」と題する短文が見られる。
「……ギラー裁判の証拠は完全だったようだ。ギラー自身、アメリカ軍の戦意を喪失させ、彼らをホームシックにするのが目的の宣伝放送に参加したことを認めている。もし彼女が成功していたならば、戦争は長びき、もっと多くの戦死者を出したことだろう。これは彼女が主張するように、愛のためとか生活のためなどという事情で酌量できるような軽々しいものではない。
……この事件を忘れることによって、多くの人びとの命、そして命以上のものが失われる反逆そのものを忘れてはならない。
……処罰は復讐的であってはならない。だが、確実に罰せられるべきではある」
反逆罪は、実は殺人よりもはるかに憎むべき罪である。一人の人間の反逆・裏切りによって数知れぬ人びとが命を落すばかりか、戦争をも招き、社会システムそのものをもゆるがしかねない重罪である、と強調したこの社説は、当時のアメリカ国民の反逆罪に対する一般感情を表わしている。
時にアメリカは、マッカーシーの反コミュニズム旋風が勢いを増していた。すでにこの年コプラン(ソ連がからむスパイ事件)、ヒスなどのコミュニズム関係の裁判が行なわれている。アメリカ国民は「反逆者」という言葉に強いアレルギー反応を示し始めていた。枢軸のサリーにしろ、東京ローズにしろ、コミュニストとは無関係の反逆罪裁判の場合でも、反逆罪という言葉を聞くだけで、アメリカの裏切り者と感じるほど、人びとは神経をとがらせたのではないだろうか。そして政府は反逆者へは厳しすぎるほどの処置をとることによって、コミュニストへ加担する者へのみせしめとし、これらの反逆罪裁判をショーケースとして大いに利用したのだ。
11 三十一の宣誓供述書
日系人を被告とする東京ローズ裁判には、これとは別の意味の利用価値もあった。
アイバが帰国した頃、ロサンゼルスでは、太平洋戦争関係で日系人を初めて被告とする反逆罪裁判が、大詰めを迎えていた。被告トモヤ・カワキタ二十七歳は、アイバが子供時代の一時期を過したカレシコ出身である。一九三九年、高校卒業と同時に両親の希望で日本へ渡り、明治大学に通学中、開戦となった。他の二世学生同様、仕送りを断たれた彼は、やがてコネで神奈川県大江山にあった連合軍捕虜収容所の通訳となった。これは「自国民のみに許されている職」に該当するし、彼は、戸籍入りもしていたのに、終戦後、簡単に帰米を許されロサンゼルスに舞い戻っていた。アイバよりもっと帰米が難しい立場にあるはずのカワキタの再入国を、国務省は簡単に認めていたわけだ。
帰国したカワキタは何事もなくアメリカ市民として、元の生活に戻った。ところが、一九四七年のある日、ロサンゼルスのあるデパートで買物中の彼を、元大江山収容所の捕虜の一人ブルースが見つけたのだ。「ぐず」と捕虜たちにあだ名されたカワキタに、大江山でいじめられた一人としてそれを忘れがたく思っていたブルースは、彼が堂々と帰国していたことが初め信じられなかった。もし確かに「ぐず」だったら許されないとして、彼はカワキタのあとをつけ、車のナンバーを控えるとすぐ地元FBIに訴え出た。
捕まったカワキタは反逆罪で起訴され、一九四八年六月十八日より始まった裁判では、多数の元捕虜たちが証人台に立ち、世間の注目を集めていた。なお、この時の政府側主席検察官をつとめたのは、あのジェームス・カーター州検事である。
大江山時代、カワキタは普通の日本人以上に捕虜に対して残酷で、殴る蹴るの暴行は毎日のことだったと元捕虜たちは証言した。しかし二世であったカワキタの大江山での立場は、なかなかむずかしいものだったはずだ。彼の行動に行き過ぎがあったにせよ、カワキタも他の戦犯裁判と同じく、復讐心に燃える元捕虜たちのスケープ・ゴートに使われた感はまぬがれない。
日系人は皆スパイか危険分子として扱い、強制収容所に送りはしたものの、日系人によるスパイ事件もサボタージュも実際には一つとして起こらなかった。いささか格好のつかなかった排日派たちにとって、このカワキタ裁判、そして東京ローズ裁判は、政治的に十分利用価値があったといえる。前もって十分用心し、日系人を収容所に送ったのは正しかった。やはり彼らはポーカー・フェイスの下で何を考えているかわからず、油断がならない証拠だというわけだ。
この二つの太平洋戦争下で起こった日系人反逆罪裁判が、アメリカで起こった話ではなく、日本で起こった事件であったことは皮肉というものだ。カワキタ裁判は、八日間も難航したのち有罪となった。十月六日、死刑の判決がいい渡された。後にこれは無期懲役に減刑されている。
四九年三月一日、弁護側は、被告アイバが貧困のため、政府の経費で東京・オーストラリア諸国より被告の弁護に不可欠な四十三人の証人――マッカーサー元帥《げんすい》・ウィロビー少将を含む――の召喚を申請した。これらの証人を呼ぶことは公平な裁判をする上で是非とも必要であり、アメリカ憲法修正第六条にも「すべての刑事訴追において、被疑者は……自分側に有利な証人を召喚できる権利を持つ」と保障されている、というのが弁護側の強い主張だった。しかし、三月十四日これは却下された。
日本は外国なのでアメリカ法は及ばす、証人召喚状は出せない、というのが表向きの却下理由だ。それまで、日本はアメリカ占領下にあると主張してアイバの日本での逮捕および勾留を正当化していた検察側が、今度は日本が外国だと主張したのだ。
「占領下にある日本を、外国と呼んで却下を正当化するのはまったくの詭弁というものだ。……日本からの弁護側証人召喚を却下したのは、政府がそうのぞまないという理由によるのであり、そうできないためではない」とコリンズは指摘し(控訴上告書)、さらに裁判経費の有無で当然被告に認められるべき権利である証人召喚ができないような裁判は、初めから開かれるべきではないとさえいっている。
ギラー裁判の上告書には「告訴されている犯行があった場所より遠く離れたアメリカへ裁判のために不本意に送還された被告に、証人召喚を許可しないことで生じるであろう重大な憲法上の支障困難はここでは見られない」とあるように、ギラー裁判においてはアメリカ政府はドイツから五人の弁護側証人の召喚を認めていた。しかし、アイバの裁判では同じ条件下でありながら証人召喚を認められなかった。
外国からの弁護側証人召喚を却下した政府は、そのかわりに、日本にいる証人の宣誓供述書を政府の経費で弁護側が取りに行くことは認めた。ただし弁護人一人分の経費を認めただけで、弁護団が十分な調査を日本でするために必要な通訳兼調査員の派遣の要求は認めていない。
その結果、三月二十五日、日本に飛んだのはタンバ弁護人である。スイス系アメリカ人の彼はなかなかの日系人びいきだったと聞く。その時タンバには、コリンズのオフィスで助手をしていたサクラメント生まれの二世中村哲次郎が、通訳として同伴した。日本語がいっさいできないタンバが日本で宣誓供述書を取るには、どうしても被告側が信頼できる通訳が必要だった。彼の経費は戸栗遵が出した。
タンバと中村は、丸の内にあったホテル東京で同室した。中村によると、彼ら二人が事件関係者を当り始めた当初は、みんな非常に非協力的で、被告側と関係したがらず、ほとんどの者が会うのさえいやがったという。その上、東京の地理に不案内のため、調査はいっこうに進まず困り果ててしまった。その彼らを助けたのは、かつて文化キャンプにいた村山有だった。
戦後、日本タイムス記者となっていた村山は、幣原首相とGHQとの橋渡し役を果したりして、当時GHQに顔のきく存在になっていた。戦時中、彼はNHK海外部にも出入りしたこともあり、アイバの立場に同情して全面的な協力を買って出た。彼は忙しい身にもかかわらず、自《みずか》らタンバたちを連れて元二世たち事件関係者の説得に努めた。村山の尽力があったからこそ宣誓供述書を取ることができたのだと中村は語っている。
それにしても関係者たちは、なぜこうも非協力的だったのか。コリンズによると、弁護側が四十三名の証人召喚要求を出すとすぐ司法省は日本のGHQにテレタイプを送っていたという。
「そのため、FBIのテールマンは一、二名のMPをともなってこれら証人リストの大半の証人たちを訪れると、数々の虚偽の供述に強制的に署名させていたのだ」(コリンズ特赦嘆願書、一九六八・十一・四)
デウォルフはとても告訴にもってゆける代物《ヽヽ》でないと自分自身結論していたものの、裁判の担当を任命されるとすばやくテールマンと連絡を取った。テールマンは再び日本で仕事《ヽヽ》をしていたのだ。
戦時中、二世の多くは英語ができるという理由で日本宣伝戦に狩り出された。戦後は、その語学力が反対にGHQに買われて利用されていた。彼らの中には、それをかさにきて日本人の顰蹙《ひんしゆく》を買う行動に出る者や、GHQとの関係を利用してぼろ儲けした者もいた。しかし、彼らはGHQに睨まれてはならなかったのだ。
「宣誓供述書を取る時の検察側代表として、司法省のオフィスより送られて来ていたノエル・ストーリー氏と私は、これらの証人たちの人柄について話し合った。われわれはこんなにも不正直で誠実さに欠け、ウソを平気でつく者たちをかつて見たことがないという結論に達した。
……私もストーリー氏も、彼らはみな非常にわが占領軍を恐れているらしいという印象を受けた。大半の者はもしダキノ夫人に不利な証言をすれば、アメリカ政府は彼らを大目に見て反逆罪で彼ら自身が訴えられることなく、アメリカ市民としていつかアメリカへ帰国できると信じ込まされている風であった」(タンバ特赦嘆願書、一九五四・六・七)
タンバの証言によると、テールマンばかりでなく、CICも再び動き出して関係者を調べ歩いていたという。タンバらが日本で調査に乗り出した時には、これらのすべての人はすでにテールマン並びにCICに供述書を取られ、釘をさされた後だった。彼らが非協力的だったわけである。
GHQ自身もタンバたちに非協力的だった。それもそのはず、二月二十四日ワシントンからの極秘連絡を受けたG1(参謀第一部)から、タンバと中村の日本入国許可に関する問合わせを受けていた法務局は、入国許可を次のような但し書をつけて認めていたのだ。
「(a)占領軍はいっさい経費を持たぬ。(b)占領軍はタンバたちの派遣に対していっさいの特別の権利や支持・援助を与えない。(c)入国に際し正規のすべての規則に従うこと。(d)SCAPとくに法務局に随時報告を入れること」(法務局よりG1へ、一九四九・二・二十八)
テールマンには、つねに二人ほどのMPが同伴していたのとは雲泥の差である。
そのため、五月二日、コリンズは「GHQがタンバたちに非協力的であるばかりか、アイバが横浜および巣鴨拘禁時代に取られた供述書なども極秘と称して見せようとせず、日本での十分な調査が行なわれない」とロッシュ裁判官に正式に苦情を提出しているほどだ。
これに対する回答も、日本はアメリカ軍法下の占領地であり軍に関係文書を見せよという命を出すことはできないというものだった。しかしその時、タンバたちが捜していたアイバの放送原稿を初めとするすべての関係文書は、すでにテールマンを通してデウォルフの手元に渡っていたのである。
このようにタンバの宣誓供述書取りが難航し、時間がかかったため、初め五月十六日開廷を予定されていた公判は、結局七月五日へと延期された。タンバと中村は、予定を三十日も上回った六月七日、七十五日にわたる日本滞在のあいだ、種々のハンディキャップに苦労しながら取った三十一名の宣誓供述書を手に、サンフランシスコに帰って来た。
12 日本からきた証人たち
タンバたちに、コリンズは素晴らしいニュースを伝えた。オーストラリアから、元捕虜のカズンズが弁護側証人としてやってくるというのだ。一年ほど前、アイバが東京ローズとして反逆罪で起訴され、裁判になるという新聞の小さな記事を偶然読んでカズンズは驚愕《きようがく》した。彼は戦後、アイバが東京ローズとして騒がれたのは伝え聞いていた。だが、このような事件に発展しているとは想像もしていなかった。
彼はアイバをアナウンサーに仕立てあげた責任を感じた。さっそくシドニーのアメリカ領事館に連絡を取ると、弁護側証人として当時のことの成り行きを説明したいので、すぐワシントンの司法省に連絡してほしいと願い出た。
彼の手紙を添えた領事館からの連絡は、一九四八年十月十九日、ワシントンの国務省に入っていた。
しかし、コリンズがこの話を伝えられたのは一九四九年五月末である。検察側は半年以上も被告側にこのことを隠していたことになる。事情を知らぬコリンズたちは、このニュースに飛び上らんばかりに喜んだ。急に見通しが明るくなったのを感じた。カズンズこそ、孤児アンの育ての親なのだ。彼以上に、ことの成り行きを説明できる最適な人物はいないはずだった。彼と同じシドニー地方に住む元文化キャンプ捕虜ケネス・パーキンズも、アイバの弁護を買って出ているという。彼らの旅費・滞在費いっさいも戸栗遵が負担することになった。
ところで、カズンズの戦後も決してなまやさしいものではなかった。彼ら文化キャンプ捕虜たちは終戦の八月、大森収容所に移され、八月二十六日、連合軍海兵隊によって解放されている。だが、横浜で今度は連合軍側の取調べを受けた。その後送られたマニラでも尋問は続行した。敵国宣伝放送に従事した文化キャンプの捕虜たちを、連合軍側は十分に調べる必要があったのだ。待ちに待った自国軍勝利ののち、当然自由の身になれると思っていた捕虜たちのショックは大きかった。カズンズは、英国およびオーストラリア軍情報機関だけでなく、アメリカCICの尋問も受けた。
シドニーに帰ってからも取調べを続けられていたカズンズは、一九四六年七月、反逆罪で告発された。八月二十一日よりシドニーの中央警察裁判所で開始された予審には、検察側証人として、東京よりNHK海外部のライターだった最所フミと新野寛が証人に立っている。みずから五日間証人台に立った彼は、オーストラリア側でモニターしていた彼の放送といわれるものには、石井謙一の放送が含まれていることを指摘した。カズンズの家族ですら石井の声を間違って聞いていたらしい。ニュース・アナだった石井の放送には、激しい調子の宣伝が盛り込まれていた。
カズンズは法廷でアイバのことにも触れている。アグラス紙によると、「彼はアイバ戸栗(東京ローズ)とNHKで会った。……彼女は|まったく忠誠な《ヽヽヽヽヽヽヽ》アメリカ人だった。
カズンズは、戸栗を太平洋GI向け宣伝放送に使うことを提案した。なぜなら彼女は、異常に|荒っぽい《ヽヽヽヽ》声と武骨な話し方をしたからだという。マイクを通した彼女の声は彼が期待した通りであり、彼女を使えばもくろんでいたコミカルな番組が作れるとカズンズは思った。初放送ののち、コントロール室には重い沈黙が漂った。それに気づいた彼は戸栗をほめると、日本人関係者に向って放送装置の貧弱さをぐちってみせた」(アグラス紙、一九四六・八・二十六)
アイバが正式に起訴される二年も前に、彼はこのようにはっきりしたアイバに関する証言をしていたのだ。十一月七日、オーストラリア政府は告訴を取り下げた。その後カズンズは、前にいたシドニーの放送局へ戻って再びアナとなっている。なお、これはオーストラリアで初めての反逆罪裁判であった。
六月三十日、カズンズとパーキンズはサンフランシスコ国際空港に到着した。着くやいなや待ちかまえていた税関員の一人が彼らをせき立てて一室に招き入れた。そこにはデウォルフの差し金で、コリンズたちより一足先に彼ら二人を尋問しようと、FBIのダンとテールマンが待ちかまえていた。
おかしいと思ったカズンズたちは、弁護側としてやって来たのでコリンズとまず話し合いたいと、政府側に取調べられることを拒んだ。
FBIの二人は、「アメリカでは裁判の両方側に話してよいのだ、その方が被告のためになる」と、もっともらしく説明した。アメリカ法を知らないカズンズたちがそんなものかと質問に答え始めた時だった。部屋の外で誰かが大声で怒鳴りながら、鍵がかけられている戸を破らんばかりにたたき始めた。入って来たのは怒りで顔を真赤にさせたコリンズとタンバだった。
こんなことがないようにとコリンズたちは用心して空港に迎えに出ていたのに、いくら待ってもカズンズたちは税関から出てこない。おかしいと気づいて税関員の一人を問い詰めた結果がこれだった。
アイバがサンフランシスコ到着第一日目に弁護人である彼の許可もなく、明らかに検察側の差し金でFBIに不法連行された時、コリンズは強い調子で関係者に二度とそのようなことのないように抗議を申し入れていた。それなのにまたもや弁護側を無視して、FBIは被告側証人を不法尋問しようとしたのだ。
アイバは病で倒れたカズンズを順天堂病院に見舞って以来、終戦を通して一度も彼と会う機会がなかった。サンフランシスコのマーシャルのオフィスでカズンズと再会した時、父たちとあった時でさえ感情をこらえていたアイバが泣いた。彼こそすべてを説明できる人だった。ぜひ来てもらいすべてを証言してほしいとそれまでにも何度願ったかしれなかった。しかし、政府に外国からの証人召喚を否定され、あきらめていた時に彼はやって来たのだ。まったく夢のような再会だった。自分自身反逆罪で告発され、彼女の立場をよく理解していた彼の言葉は、アイバを大いに励ました。
その時、彼女の側にはフィリップが寄り添っている。彼は日本に住んでいても、アメリカ占領下の日本人でなくポルトガル国民である。妻の裁判の証人として出国することにGHQも文句がつけられなかったらしい。
タンバたちがまだ日本にいた間に、彼らに手はずしてもらって船出した彼は、六月四日シアトルに着いた。しかし彼は下船と同時に、移民局によって二日間留置され、六カ月以内に必ず出国するという一文とそのための保証金を、遵が積んで初めて釈放されている。アメリカ政府はいかなる結果が裁判で出ようと、フィリップがアイバのいるアメリカにいすわることがないように事前に用心したのだ。六月七日、サンフランシスコ入りしたフィリップは、約九カ月ぶりで牢獄のアイバと再会した。彼の旅費も遵が負担した。
弁護側証人として海外から来たのは、オーストラリア人のカズンズとパーキンズ、そしてポルトガル人のフィリップの三人のみである。しかも彼らのアメリカ入国に際しては、このような政府のいやがらせがあった。彼ら三人は、戸栗遵が莫大な借金をして可愛い娘の裁判のために呼び寄せたのである。
一方、外国からの証人召喚は、アメリカ法のおよばぬところだとして弁護側証人召喚を却下した政府は、外国と呼んだはずの占領国日本から、実に十九人という検察側すなわち政府側証人を呼び寄せていた。外国《ヽヽ》であるゆえ正式な召喚状は出されてはいない。彼らは皆GHQに依頼《ヽヽ》されて来たと、後に法廷でコリンズに答えている。
六月十九日、パンアメリカン機でサンフランシスコ入りした十九人(沖健吉・恒石重嗣・満潮英雄・石井鎌一・日向正三・五十嵐新次郎・百塚キワム・二井モトム・樋口メアリ・池田幸雄・岡本茂・田辺義敏・黒石義男・杉山ハリス・森山久・中村|哲《さとし》・忍足信一・渡辺チュジョー・山崎勇)の政府側証人たちは、大きく二種類に分けられる。七人は、かつてアイバと同じく日本宣伝放送に従事していた二世たち。戦時中、彼らは戸籍入りしていたが、臑《すね》に傷もつ身といえよう。いわゆる「腕を少々ひねられた組」である。宣伝放送に直接関係のない放送技術者を含む他の日本人たちは、「無料でアメリカ旅行ができる」という軽率な気持でやって来た「便乗組」だった。
もっとも腕をひねられた組とて、まったく選択の余地がなかったわけではない。それなりに便乗していたのである。同じような立場にいてGHQの依頼を断わった者もいるのだ。特に大陪審で一年ほど前にすでにサンフランシスコに来ていた沖と満潮は、テールマンに協力して他の連中に誘いをかけてさえいる。弁護側宣誓供述書証人であるリリー・ゲバニアンは沖に、「ただでアメリカに行く気はないか」(ゲバニアン宣誓供述書、一九四九・八・二十四)と政府側証人としてアメリカへ行くことを誘われている。
日本から来た彼ら政府側証人たちには、アイバに対する同情がほとんど見られなかった。金が目当てでブランディッジにみずから東京ローズとして名乗り出たのであり、今日のトラブルは自業自得だというのだ。特に「自分の妻の名を出せばよかった」(フィリップ証言、一九四九・九・六)とか、「東京ローズの印税《ヽヽ》(使用権ともいうべきか)は、当然半分は俺のものだ」(最所フミ宣誓供述書、一九四九・八・二十四)と語り、終戦時大金を手にするはずのアイバをやっかんだとさえいわれる沖は、アイバの「自業自得」を事件関係者間でその後も公言している。テールマンがいうように、沖もアイバを馬鹿な女というわけだ。
しかし彼らが、その馬鹿な女の受難を大いに利用したことだけは疑いの余地がない。馬鹿な女の牢獄での苦しみを代償に、彼らは当時の日本人たちにとっては夢のようなアメリカ旅行にやって来たのだ。彼らは当時の日本とは比較にならない生活水準のアメリカでの生活を、一時的にしろ楽しんだのである。
ホイットコム・ホテルに落ち着くや、二世たちは親類や友人たちとの久しぶりの再会に忙しかった。また初めてアメリカを訪れる日本人たちは、さっそく市内見学に出歩いたりして、滞在期間中の時間をフルに生かしている。
証人たちには一日十ドルの証人経費が手渡されていた。ギラー裁判の時の証人費は一日一人五ドル(経費三ドル+証人費二ドル)であり、それで宿泊費と食費を出すのは大変だという苦情が、証人たちから出された。それに比べて東京ローズ裁判では、アメリカ国内の証人で一日九ドルの経費に三ドルの証人費(交通費は別に出た)、計十二ドルと二倍以上であり、日本からの証人には(どういうわけか国内証人より二ドル少ない)宿泊費その他含めて一日十ドルが出ていた。ギラー裁判とは比較にならない金のかけ方である。まったく政府の気の入れ方が違っていたというものだ。
FBIが世話した安いホテルに泊まり、さらに安い下宿に移ったりした日本からの証人たちの中には、結構商売の元手になる金をためた者さえいて、一日十ドルの証人費が証人たちにとってとても魅力だったといわれる(たとえば一日一ドルためたとしても一カ月三十ドルにはなり、当時一ドル三百六十円、一万円以上だ。ちなみに当時大学卒の一カ月の平均給料は二千二百円ほどである。彼らのなかには三〜四カ月もいた者が少なくない。一日一ドル以上ためるのは難しくなかった)。
サンフランシスコで大きな日本食料店を経営する某氏は、当時彼の店にやって来た証人たちが、ためた証人費でいろいろのアメリカ製品を日本に持ち帰り、闇で売ると実によいお金になる、と語ったのを覚えていて、現在でも憤慨している。特に持ち運びの簡単で、しかもよい金になるサッカリンを、みんな持ち帰りたがった。
一歩間違えば彼ら自身アイバと同じ立場になりかねないこれら二世たちに、FBIおよびGHQがある程度の圧力をかけたこと、すなわちFBI流にいえば腕をひねったことは確かだ。そして、彼らを含む日本から来た証人たちが、この渡米の機会を十二分に利用したことも確かな事実である。
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四章 太平洋の孤児となって
1「東京ローズ」裁判公判
裁判の一週間ほど前から、地元各紙は連日競って東京ローズ裁判の前宣伝に努め、一般大衆の関心をあおっている。
「わが市初まって以来の反逆罪裁判……。これは歴史的情報に満ちた面白さと同時に、スパイ・スリラー小説的面白みにもあふれている。明日より連載される東京ローズ裁判をぜひご期待ください!」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・七・四)
ここにはアイバの名はどこにも見当らず、初めから終りまで東京ローズ一点ばりである。アイバも孤児アンの名もニュース・バリューはゼロだったのだ。これはまさしくアイバに姿を借りた伝説の女、東京ローズの華々しい舞台への登場の予告であったといえるだろう。
またこの裁判は、政府側が当時のお金で五十万ドルの訴訟費用を見込んでいる大裁判であることも注目を集めていた。その内訳は次のようになる。日本からの十九人の証人飛行機代(一等)計二万三千ドル、十九人の証人費一人十ドルとして計一日百九十ドル、七十一人の政府側国内証人の証人費一人一日十二ドルとして計一日八百五十二ドル、十四人の陪審員(二名補欠)一日十二ドル計百六十八ドル、弁護側の宣誓供述書取り経費計約三千ドル、判事・法廷書記・廷吏その他の経費一日約百ドル、ラジオ技術者たち一日十ドル・プラス謝礼、国内証人交通費一マイルにつき七セント、法廷のレコード聴聞設備その他など。
政府はこれらの経費を裁判が六〜八週間かかると予定して五十万ドルの線を出していた。実際には裁判はその倍の十三週間も続いた。そのため初めの五十万ドルの予定をはるかに越え、それまでのアメリカ裁判史上で最も高くついた裁判となっている。
もちろん、この経費には弁護側証人集めその他に、戸栗遵が負担した金額はいっさい含まれていない。彼はこの裁判で莫大な借金をかかえ込んだという。
初めの頃、各紙間の競争からくるセンセーショナルな言葉づかいがあったとはいえ、連日法廷に詰めかけて東京ローズ裁判を担当した十人の記者たちは、裁判の間、むしろ弁護側に同情的だったといえる。そのうちの三人は全国各地に記事を流したAP、UP、INSの特派員たち、二人は日系人紙記者、残りの五人が地元各紙の記者たちだった。
彼らの半分ほどが大陪審よりこの裁判をカバーしていたが、起訴状のあいまいさにそろって疑問を持ち、また大陪審における証人たちの質の悪さに唖然《あぜん》としたという。彼らの疑問と驚きは、裁判が進行するにしたがってますます強くなっていった。
アイバの三十三歳の誕生日の翌七月五日、東京ローズ裁判公判はサンフランシスコ連邦裁判所において、午前十時、陪審員選びをもって開廷した。ゴシック調の法廷内部は、キューピッドの飛びかう丸くカーブした天井がばかに高いのに比べ、床面積が狭く窮屈な感じさえ与えた。壁にはギリシャ人像の彫刻で飾られたコリント式の大理石の柱が目立ち、真紅のベルベットのカーテンが重々しくたれ下がり、日中も日除けがかかった室内は薄暗くさえ感じる。
事務机の一つにはサウンド機械が山積され、傍聴席以外の各席には、やがてこれらの機械から流れるであろう「東京ローズ」のレコードを聞くためのイヤホーンが設置されていた。それらは、古めかしい法廷とは不調和にきわ立ち、モダンな感じを与えた。
検察席と弁護人席は顔を突き合せる距離にコの字に並んだテーブルを囲んで置かれ、ないしょ話もうっかりできない感じだ。中央の一段と高くなった裁判官席の右側には星条旗を背にして証人席がある。その横二列に陪審員席が並んでいた。
そこに坐るべき十二人の陪審員たちは、百十名という異常に多数の陪審員候補者の中から選ばれた。その選択に当って弁護側は、(1)日系人とポルトガル人に偏見があるか、(2)ウィンチェルその他のこの事件に関する放送を聞いたことがあるか、またはその意見に左右されていないか、(3)太平洋戦争で肉親を失っていないか、(4)人種間の結婚に偏見はないかなど、十二の忌避質問を用意した。
これに対して検察側は明らかに|人種のみ《ヽヽヽヽ》に重点を置いた選択をしている。六人の黒人と一人の中国系という有色人種を、拒絶理由を述べる必要がなかったことをいいことにして、次から次へと全員拒絶し、六人の男性と六人の女性および二人の女性予備陪審員から成る「全員白人」の陪審員たちを選んだ。しかもそれは、アメリカ裁判史上でも珍しい二時間少々という異例の短時間に決定された。
同じ反逆罪裁判でも、ギラーの時は約五時間、それでさえ短時間の陪審員選びといわれている。日系人を被告とするこの裁判の陪審員選択は、数日から一週間はかかるのでは、という声も聞かれていたのだ。
政府がこのように強硬な態度に出たのは、一年前のカワキタ裁判で、陪審員たちの中に黒人一人、日系人一人、ユダヤ人一人がいたために判決まで長時間かかったとデウォルフが思っていたからだ。特に政府にとって容易でないと予想していたこの裁判である。彼は初めからなにがなんでも全員白人の陪審員で固める腹だったからだといわれる。
翌日の各紙も、こぞって「記録破りの短時間」の「全員白人」の陪審員選びに驚きを示し、サンフランシスコ・クロニクル紙のコラムニストであるハーブ・ケインのように、はっきり政府のこの裁判における人種差別を指摘している者さえいる(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・八・二)。
しかしこの裁判で政府側が示した人種差別は、これだけではない。証人たちは、その肌の色に応じた証人控室に入れられている。白人用の控室と日本人およびフィリピン人その他の有色人種用控室とは、はっきり別になっていた。
選ばれた陪審員の大半は、いわゆる中産階級に属する人びとであった。男性はガラス会社の会計士、紙会社役員、塗料工場員から退職者に至り、女性は一人の秘書を除いては、歯科医の妻、銀行員の妻、電気技師の妻などの主婦である。予備の二人の女性は、技師の妻と家具修理業の女性だったが、公判三日目、秘書の女性が病気になり、その後任に家具修理業の女性が入った。
裁判を治めるマイケル・ロッシュ裁判官は当時七十一歳、北カリフォルニア地方連邦首席判事の地位にあった。貧しいアイルランド移民として、幼くして両親とともにアメリカに渡り、苦労をしながら独力で大学を出て弁護士となった人である。
彼は移民の成功者であり出世頭だった。それだけに自分にその機会を与えてくれたアメリカという国に深い感謝の心を抱き、愛国者でもあった。
彼は種々の地方犯罪を扱ってそれまでも敏腕として評判がよかったが、なんといっても地方色が濃く、国際情勢にはうとかった。田舎者といわないまでも地方人である。国際的視野がなかったこの判事が、国際的視野を最も必要とするこの裁判の背景を、正しく理解していなかったことは後に明らかになる。
政府がこの裁判の難しさを十分承知していたのは、検察団をみても一目瞭然である。「恐るべき顔ぶれ」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・七・六)と呼ばれた彼らの首席検事は、地元サンフランシスコから出ている有能な州検事フランク・ヘネシーであった。初め司法省は、このヘネシーにいっさいを任せるつもりだったが、裁判担当に決った彼は事件の概要を調べた結果、デウォルフ同様、証拠不十分により、クラーク司法長官に起訴取り下げを勧告した。この事実は何十年もこの裁判所詰め記者をして、ヘネシーやロッシュと親しかったキャサリン・ピンカムAP記者に、ヘネシー自身が後に語っている。
しかし司法省はヘネシーの意見を完全に無視した。司法長官オフィス付特別検察官の肩書を付けてデウォルフを派遣してくる。ヘネシーは一応首席検事として残ってはいても、名を連ねているだけの感がある。実際に検察側から、この裁判を動かしたのはデウォルフである。
初め、司法省はデウォルフをギラー裁判に使う予定だった。だが急に予定を変更すると、第二次大戦関係反逆罪裁判で最も難しいと司法省内でも予想されていた東京ローズ裁判の担当を彼に命じた。前記のようにこの事件は起訴に持ち込むには証拠が不十分すぎると見ていたデウォルフは、乗り気ではなかった。
だが、上司の命でこの裁判を担当することにいったん決まると、デウォルフはひたすら勝つことを考えた。精密な計画を立てて|手段を選ばなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。自分の仕事に野望を持っていた彼は、プロの誇りにかけても|勝つ《ヽヽ》仕事をする必要があった。
デラプレンを初めとする法廷記者たちは、デウォルフには司法省から「よい結果を見せてくれ」すなわち「有罪に持ってゆけ」という強い圧力がかかっているという印象を受けたという。
検察側には、ブランディッジとともにアイバのサインを取りに東京へ行ったジョン・ホーガンと、ジェームス・クノップの司法省犯罪部国内保安課の検事たちが顔を連ねていた。この二人と、FBIのダンはベスト、チャンドラー裁判の時もデウォルフの下で働いている。ベスト、チャンドラー反逆罪裁判で勝利を収めたデウォルフのグループが、再びそろって東京ローズ裁判を担当していたのである。
この「恐るべき顔ぶれ」に対する弁護団は、前記のように、アイバの無罪を信じ、政府がそれまで彼女にとってきた人権を無視した横暴な態度に義憤を感じ、無報酬で彼女の弁護に立ち上がったコリンズ、タンバ、オールスハウゼンというほとんど無名といってよい地味な三人の地元弁護士たちであった。
彼ら三人も、全国の注目を浴びたこの大裁判を手がけるにあたり、プロとしての闘志を燃やしていた。それは弁護士として一生に一度の檜舞台《ひのきぶたい》といってよかった。彼らの信念にかけても、「アメリカの正義」のためにも、勝たねばならぬ裁判であると彼らは固く信じていた。
被告アイバは三人の弁護士に囲まれるようにして坐った。日本に行く時持って行き、サンフランシスコに帰って来た時も着ていた流行遅れのグレンチェックのスーツに白いブラウスを着て、黒い髪を肩の長さにきれいにボブの内巻きに巻いていた。彼女が裁判の最終日まで、毎日この同じスーツを着て現われたのが、今でも強烈な印象として残っていると、同じ女性であるピンカムは語っている。しかし閉廷後、毎晩きちんとアイロンをかけると見えて、朝現われる時には、スカートにしわ一つ見えなかったという。
法廷で、アイバは終始うつむき加減だった。青白い顔をして、弁護人たちが使っていると同じ黄色い紙に鉛筆でメモを書き続けた。彼女が、セクシーで美貌であるはずの東京ローズのイメージから程遠く、「魅力のない」「ギスギスした」「無表情で」「釣りあがった目」の「溌剌《はつらつ》とした東京ローズの面影が全然ない」女性であると各紙はその印象を書きたてている。
アイバから手の届く距離の傍聴席第一列には父遵、妹ジューンとその夫ホリの緊張した顔が見られた。当時、全米日系市民協会を初めとし、日系人たちはこの事件の成り行きに非常に冷淡だった。サンフランシスコ在住の日系人たちも、戸栗一家に対して同情を示さなかった。
しかし、これら日系人たちを一方的に責めるのは酷だろう。彼らは収容所から出て三、四年しかたっていない。再び無同然から身を起こし、依然として続く偏見の中で生活を支え、再びアメリカ人として認められるために歯をくいしばり、精一杯の努力をしている時だった。
彼らは東京ローズ裁判が、再び排日感情に火をつけるのではと恐れていた。当時の大半のアメリカ一般国民同様、政府のいうことに疑いをはさまなかった。そのアメリカ政府に反逆者として訴えられているアイバのような人間は、まったく日系人の恥《ヽ》であり、迷惑《ヽヽ》であった。
彼らは極力かかわりを恐れた。アイバは日系人でないとさえいい切る日系紙さえあった。その上、彼女の弁護士は、強制収容にむしろ協力したとして常日頃、歯に衣《きぬ》着せず全米日系市民協会を非難してきたコリンズときている。全米日系市民協会が、いっさいこの事件に手を貸さぬといい切った経緯はここにもあった。戸栗一家が弁護資金|捻出《ねんしゆつ》で苦しんでいる時も、日系人たちの間から、カンパの声ひとつ聞かれなかった。
2 一枚の一円札
当時、アメリカ東部で注目を集めていたヒス裁判(国務省の高官だったヒスが、極秘書類をソ連の手先であった共産主義者に手渡さなかったと非米活動調査委員会で証言した後、偽証罪で起訴された)に劣らぬ注目を東京ローズ反逆罪裁判は西沿岸で集めていた。傍聴席は、最終日まで連日超満員となる。十時からの開廷に七時半頃より人がならんだ。あぶれた人びとは万が一の空席を狙って毎日法廷外の廊下に、多い時では五、六十人ほども集まっていた。
公判第二日目、デウォルフは九十分にわたる検察側冒頭陳述を行なった。司法省に入って二十二年のベテランである彼は四十六歳、小柄で痩《や》せたコリンズとは対照的に長身である。頭部は左右に少々のグレーの髪を残すだけに禿《は》げあがり、眼鏡の下の鋭い目と上唇の薄い口元にタフさが感じられた。「時に舌足らずに言葉をすべらしながらゆっくりしゃべる」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・七・七)。西北沿岸で生まれ育ってはいるが、バージニア大学で法を修めた彼の言葉には、かすかな南部なまりが感じられた。終始あまり声を高めることもなく、一言一言に重すぎるほどの重きをおいて話し始めた。一言一句がよく計画されたものであり、一つの無駄もなかった。彼は冒頭陳述を次のように始めている。
「もちろんアメリカ合衆国が原告であり、被告がダキノ夫人です。……どちらが真実を語っているのかを決めるのがあなたたちです」と政府こそがアイバを訴えているという事実を、まず明白に陪審員たちの胸に刻み込んだ。そして反逆罪を「極悪な大罪であり、憎むべき犯罪です。……反逆罪はわれわれの建国者たちが、憲法ではっきり定義づけるべきであると感じた唯一の犯罪なのです」と力説した。
アメリカで生まれ育ったアイバが、真珠湾後「みずから進んで」彼女の祖先の国日本に留まり、「いかなる強迫・強制も受けずに」「十分その放送目的を理解した上で」「帝国主義日本の謀略対敵宣伝放送に専心参加し」、そしてその仕事を「魅力ある仕事」で「よい給料」になり「いろいろな新しい人びとにあって」「面白い仕事」と思っていたことを、デウォルフは立証してみせると陪審員たちに約束した。
彼は、そのアイバの放送は初め「聞き手を得る|えさ《ヽヽ》」であったが、やがて「アメリカ本土にいる恋人たちや妻たちが誠実でなく貞操感がないことや、彼女たちが4Fや造船所工員たちとふざけあっている……」などとGIたちに語り、「どうせ日本が勝つのだから抵抗せず……戦いをやめるように呼びかけた」。また、どこそこで恋人とダンスをしたのを覚えているかなどと、よく人に知られている本国の地名を使って厭戦《えんせん》気分におちいらせようとし、GIたちを「間抜け」「うすのろ」などと馬鹿にし、その放送は悪意に満ちたものだったと述べ立てた。これらがいわゆる東京ローズ放送といわれるものであることに注目されたい。
この同じデウォルフが、その一年ちょっと前、ホウィティへのメモで「……法的に見て政府には勝ち目がない、なぜなら、すべての証拠資料は、被疑者が敵を支持したことがなく、また不忠誠な気持を持っていなかったことを証明しているからである」(デウォルフよりホウィティへ、一九四八・五・二十五)とし、「被疑者には、反逆罪に必要な裏切りの意思《ヽヽ》がまったくなかった」との結論を下していたことは、まったくショッキングでさえあるといえるだろう。
デウォルフの言葉を被告席のアイバは無表情に目を伏せて聞きながら、手だけは忙しく動かして一言も漏《も》らすまいと書き留めていた。
その後、検察側は、アイバが大きく目を開けて、みずから進んでトラブルに足をつっこんだアメリカ市民である証拠として、出生証明書その他の種々の文書を提出した。
だが、コリンズによると、アイバは結婚により正式に登録されたポルトガル人であり、東京のポルトガル領事館もこれを認めていた。デウォルフはこれに反論して、アメリカ市民権は正式な法的手続きを取って放棄せねばならず、ただ他の国の国籍に登録するだけでは放棄したとは認められない、と主張していた。
彼によると、アイバがアメリカ人かどうかは|アメリカ政府が決めるべきことである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。また、歴然たる犯行があった時点で、彼女はまだ結婚しておらず、まぎれもなくアメリカ人だったというのだ。このアイバの市民権問題は、大陪審時から最大の問題点となっていた。もしコリンズのいい分が正しければ、アメリカ政府はポルトガル人たるアイバを裁く権利はないわけなのだ。
政府側が用意した七十一人の証人第一号は、アイバが横浜プリズンに拘禁されていた時の看守だったリチャード・アイゼンハアト伍長である。彼は「アイバ戸栗、東京ローズ」とサインされた古い一枚の一円札についての証人であった。
「プリズンの仕事をしていた頃、われわれGIたちはみやげ捜し≠ノ夢中でした」とアイゼンハアトは証言を始めた。ぜひ有名な東京ローズのサインがほしいと彼も思った。直接彼女の牢の係でなかったので、係の看守に頼み込み、「彼と牢に行き、彼がサインを頼み、私はそのサインするところをこの目で見たのです」。彼は優しく頼み、アイバは得意気にサインしたというのだ。
アイバによると、話はずいぶん異なる。彼女が投獄されて間もなく、他の二人の看守とともにやって来たアイゼンハアトは、しつこくサインをねだり、彼女が断わると、「どうしてだい、大袈裟に考えることはないよ。ただみやげがほしいといっているだけなのに」といった。それでも応じない彼女に「二、三日したら君だって気が変わるだろうよ」というと引きあげた。一週間ほどして再び彼らがやって来た時、その通り彼女の気は変わっていた。
「私は六日間一睡もしていませんでした。……彼ら看守たちがその間、一晩も欠かさず私の牢の電気をつけたり消したりし続けたのです」(以上アイバ証言、一九四九・九・九)
政府側は、アイバがみずから東京ローズとして認めた証拠として、この他にも同じようなサインのある放送原稿を数枚持ち出している。この一円札はかなり陪審員に影響を与えたらしい。
アイバは、終戦直後の東京ローズ騒ぎの時に、これらを含めて約三、四十ほどのサインを与えたことを認めている。
3 恒石参謀中佐の証言
元帝国陸軍参謀本部の恒石重嗣(四十歳)は、最も注目を集めた日本人証人であった。恒石は彼の直前に証人台に立ち「歯ミガキの宣伝みたいな笑い」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・七・八)といわれるほど、終始歯を見せたNHK人事部長の池田とは、まったく対照的だった。細くつり上がった目、薄い|へ《ヽ》の字に引いた口、五フィート四インチ(約一六二センチ)と小柄ながら、昔、剣道できたえた引き締った体をぴんと張った姿勢のよさは、筋金入りの旧帝国軍人の面影を十分に残していた。
今や元敵国アメリカの法廷に立つ日本対敵謀略宣伝戦のボスたる恒石に、法廷の人びとは好奇心を働かせていた。その上、彼はその前日(七月七日)、元文化キャンプ捕虜の一人であったマーク・ストリーターに、「最も残酷な戦犯の一人」として訴えられていたのだ。
弁護側証人の一人としてアイダホ州からやって来ていたストリーター(五十歳)は、新聞に載った恒石の写真を見てびっくりした。彼は当然、恒石が戦犯として牢獄にいるとばかり思っていたのだ。彼は恒石自身に軍刀で殴られたことがあった。毎日のように捕虜をなぐり、少しずつ餓死状態に追いやった文化キャンプの残忍な責任者として、即刻、恒石逮捕を要求した。当局はこれを無視したので、憤慨した彼はクロニクル紙にかけ込み、この話は翌日の第一面を飾った。
この時、ストリーターは同じ捕虜だったインスの逮捕も要求している。戦争中、ストリーターはウェーク島で建設業に従事していて捕虜となった。熱心な共和党派だったから、そのルーズベルト嫌いは捕虜たちの間でも知られていた。彼はアメリカ人としては熱心すぎるほどの熱意を込めて反ルーズベルト放送をしたとして、終戦後、文化キャンプ釈放と同時に反逆罪容疑で一年間、アイバと同じ巣鴨に入れられていたのだ。
文化キャンプ捕虜関係で、終戦時捕まったのは彼とプロボーの二人のみである。そしてこの二人の逮捕を求めたのがインスであった。戦時中、文化キャンプの捕虜たちは敵国にあってみんな仲よくとはいかなかったらしい。捕虜間の勢力争いは、キャンプの管理に当っていた日本人を巻き込むほどだった。インスとストリーター、プロボーたちは最後まで反目し合った。それを戦後も根に持ったインスの訴えで、やっと文化キャンプから釈放され自国に帰れると思った矢先に、プロボーとストリーターは、今度は自国の軍により拘禁されたのである。
この裁判の裏には、戦争中の生傷が未だにうずいていたといえる。このようなエピソードを背景に、恒石は五日間、時間にすると十四時間証人台に立った。そのうちの十二時間は、コリンズの反対尋問に費されている。
通訳と並んで坐った恒石は、まずデウォルフの主尋問で、現在はお茶の商売をやっている一商人であると答えた。「商人として満足していますか」と重ねて聞くデウォルフに、恒石は表情一つ動かさず「別に満足しているわけではないが、私は現在商人だといっているのです」とにべもなく返答した。タフで堂々とした彼の態度には、商人を感じさせるものはなにもなく、いまだに軍人という方がふさわしかった。彼は法廷で終始「中佐」(終戦直前昇進していた)の名で呼ばれ通す。
恒石は、日本対敵宣伝戦を取締り、ゼロ・アワーの|プロデューサー《ヽヽヽヽヽヽヽ》であったとみずから認めた。デウォルフに答えて「ゼロ・アワーの放送目的は、アメリカ軍に望郷の念を起こさせ、厭戦気分におとしいれることにあった」(一九四九・七・十一)と証言した。しかし反対尋問に立ったコリンズは、ポーカーフェイスでしぶしぶ答える恒石に驚くべき忍耐を示す。日本側はその意図したゼロ・アワー放送目的を達せずに終ったという重要な恒石の一言を取ることに成功した。
「自分が思うには、戦争が思ったよりも早く終了したため、GIたちを厭戦気分におとしいれるという放送目的は、遺憾ながら十分に達することができなかった。しかし、対敵宣伝の第一目標である敵の興味をそそるという点では成功だったと思っている」(同証言、七・十二)。恒石は、ゼロ・アワーがGIたちにとって娯楽番組であったことをはっきり認めたことになる。さらに次のように続けた。
「十分な時間がないうちに、終戦となってしまったからです。また、アメリカ側がすでに戦争に勝っている時、負けている側からの宣伝は当然あまり効果があるはずがないということです」
ゼロ・アワーは有害な番組どころか、反対にGIたちを慰め励ました娯楽番組であり、アイバの放送はまったく無邪気なものだった、というのがコリンズの主張である。ゼロ・アワーの総責任者たる恒石がそれを肯定し、ゼロ・アワーが単なる聞き手の興味をそそる「えさ」番組であったと認めたのだ。
これはアイバの放送を「最も悪意ある」宣伝放送として起訴している政府側にとっては、まったく衝撃的な証言となった。しかも恒石は、政府側の証人なのである。ヘネシー首席検事はその日の休憩時、「宣伝効果のいかんが犯行の軽減とかかわりないことは、いうに及ばない」と、すでにこの裁判に疑問を示し始めた記者たちに、苦しいいいわけをしてみせた。
「まるで頑固なカキの口を開けるのに等しい難業」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・七・十四)といわれた恒石から、その後もコリンズは長時間かけての尋問でさらにいくつかの「真珠を吐き出させる」のに成功した。彼は恒石の口から、アイバと同じようにNHKに関係した十三人の女性アナの名を次々と引き出した。ルース早川、ジューン須山から古屋美笑子にいたる名を、陪審員たちは初めて耳にしたわけだ。いいかえれば、アイバと同じくらいに東京ローズに当てはまる条件をそろえた十三人の女性の名があがったのである。
だが、アイバは反逆の意思《ヽヽ》がまったくなく、反対に強迫されていやいやながら宣伝放送に参加したと主張するコリンズが、その彼女の強迫《ヽヽ》と直接関係のある文化キャンプ捕虜の強迫《ヽヽ》に触れるや、責任者であった恒石は、自分が戦犯に問われる危険性のある事項だけに非常に慎重になった。口を再び貝のように固く閉じてしまった。彼の記憶は急に薄れてしまい「知らない」「憶えがない」を繰り返した。
恒石は、カズンズたち捕虜には決して強迫して命令して放送させたのではなく、依頼して放送に参加してもらったのであり、彼らは捕虜という立場上それを承知したまでだと、立場《ヽヽ》上と依頼《ヽヽ》とを連発した。彼によると、捕虜たちは日本でお客なみの結構な生活を楽しんでいたことになった。
コリンズが、さらにしつこく捕虜について尋問すると、「詳しいことは部下に任せていた」「捕虜たちは軍からNHKに貸していた人間なので、NHKがその待遇のいっさいを取りしきっていた」として、「知らない」をまた繰り返した。
通訳を通して返答する恒石は、十分考える時間があり、有利な立場にあった。文化キャンプの捕虜強迫の件は、この裁判とは無関係だとして、アイバと捕虜たちの間に一線を引こうとする検察側はこの恒石を支持し、文化捕虜のことになると「異議あり」を連発した。だが、コリンズはこの強迫こそ裁判の最も重要なる点とした。簡単には引き下がらず、異議が続くと他の尋問に移り、デウォルフのいやがる「参謀本部」「大本営」「宣伝」などの日本語を連発し、頃合いをみはからって文化捕虜の件に戻った。十二時間の反対尋問中、約三時間をこれに費している。
ロッシュ裁判官が「いつこの証人尋問は終るのか。君のためを思っての忠告だが、随分寛容に時間を許していることを忘れないでほしい」と促しているほどだ。裁判官のこの忠告は、公判を通して頻繁に繰り返されてゆく。
恒石はその春、裁判のことで会った小平利勝に、「カズンズの反逆罪裁判の調査に来たオーストラリアの捜査官に、真実を一言もいわなかったことをとても後悔している」と語っていた。つまり彼は、自分が命令してカズンズに放送させたとはいわなかったのだ。上司だった有末精三中将、永井八津次少将が戦犯にかかることをおそれたらしい。
文化キャンプの責任者だった恒石は、黒竜会のメンバーの疑いで、戦後CICに二十回以上も厳しい取調べを受けてもいた。彼はこの裁判の証人として、GHQに命じられてではなく頼まれて出て来たといいながらも、「占領国民という立場上《ヽヽヽ》」協力していることをつけ加えた。彼としては、上司の身もさることながら、彼自身の戦犯容疑を心配する必要があったわけである。
彼のような立場の日本人が、GHQの依頼に弱かったのは理解できないことではない。しかしカズンズの一件で良心の呵責《かしやく》を感じたという恒石は、アイバの一件でも「戦争下の日本で軍直轄番組に出ていて軍の命に逆らうことはできなかった」という、当時の日本を知る人なら容易に判断がつく一言を、やはり口にしてはいない。
この頃より、コリンズが、長期戦に持ち込もうとしていることは、日一日と明白になってきた。弁護側反証の時がくるまで、詳細にわたる反対尋問で、弁護側に有利な情報をできるだけしぼり取り、政府側を疲れ果てさせようという戦法だ。それが証人および検察側だけでなく、陪審員たちをも疲れさせ、特に老齢でくたびれやすく、そのうえ一日裁判がのびるたびに政府の予算、すなわち国民の税金を無駄にすると見ていたロッシュをいらだたせていったことは見逃せない。
4「太平洋の孤児さんたち……」
七月十四日、クラーク・リーが証人席に坐ると法廷は軽い興奮に包まれた。四十二歳のリーは昔よりは肉がついたとはいうものの、まだなかなかのハンサムで、この裁判証人中の唯一の有名人でもあった。陪審員を初め、法廷の人びとは好意ある目でこの花形証人を見つめた。
デウォルフは三十分ほどの短い主尋問で、アイバの自白書と、彼女がリーに与えたサインを認めさせた。ちなみにデウォルフは、この自白書なるものをホウィティへのメモで次のように評している。
「被疑者が、リーとブランディッジという新聞記者たちに語ったいわゆる自白書といわれているものは、二人が独占インタビュー代として二千ドルの申し出をした後に取られたものである……。もちろんリーとブランディッジは、司法省の人間としてこれを取ったわけではない……。普通の人間が何かでつって取った自白書は、正式に自白書を取れる地位にある当局の人間が取ったものと同じように受け入れられはしない……」(デウォルフよりホウィティへ、一九四八・五・二十五)
しかし法廷で、彼はこれとは正反対に、自白書なるリーのタイプノートに大きな重点を置いてみせた。リーはそれを取った時のインタビューは、主としてアイバの生立ちについてであったが、宣伝放送についてアイバ自身次のように述べたと語った。
「彼女は、日本側が台湾沖で多数の連合軍艦隊を撃滅させたと発表していた一九四四年の秋頃、参謀本部から少佐がやって来て、彼女に次のように放送せよと事務的に命じたといってました。『太平洋の孤児さんたち、いまや本当の孤児になったのね。船が全滅してしまったのに、いったいどうやって国に帰るつもりなの?』」(リー証言、一九四九・七・十四)
これは歴然たる犯行第六項目の放送についてである。この証言を、彼が九月一日アイバとのインタビューで直接打ち取った、すなわち自白書なる政府側の物的証拠、タイプノートの部分と比較してみよう。
「……時々戦況ニュース。典型的なドイツ流で敗北を認める。十分に計算された敗北というわけ……。
台湾沖でアメリカ船舶の損失、参謀本部から来た少佐はアメリカ船舶を全滅させ大勝利とまくし立てたがる。私は内密のニュースを手に入れる。日本側は沈没させたという船舶の数を水増しし、アメリカ側はしない。真実をいうのは自殺行為。……本部は事務的に『乗る船が一隻もないあなたたち、どうやって帰るの』『太平洋の孤児さんたち、いまや本当の孤児なのね』と入れるように示唆する……」(リーのタイプノート)
ニュアンスが少々違うのである。たとえば参謀本部の少佐がアイバにこれらの言葉の挿入を命じたとか、それをアイバが放送したという言葉はどこにもない。これはむしろ参謀本部からくるニュース内容を陰で馬鹿にしていたといっているのではないのか。参謀本部からくる少佐とは恒石以外にいないが、その恒石はアイバのような下位のスタッフとは一度も直接口を聞いたことがなかった、とみずから認めてもいるのだ。
コリンズの反対尋問は、リーが二年前に出版した『ふり返り見て』を法廷に持ち出して始まった。その本の第七章には、アイバの東京ローズ事件が『しばり首の輪縄に首を突っ込んだ女』というセンセーショナルな題で書かれているのだ。リーとしては、面白く読ませるため自分の文には多少の誇張がありましたとはいえない立場にあった。コリンズはそこのところを十分承知で詳細な尋問をした。「確かに」「まさにその通り」という癖のあるリーの答えは、それほど確かとはいえなかった。
コリンズはまた、リーの本の中にある、終戦時東京で再会した旧知のフレッド・マンソン大佐が「東京ローズはカナダ生まれの二世だ」と語った事実を認めさせた。アイバは東京ローズの一人《ヽヽ》にすぎないという弁護側にとって、これは重要な証言といえる。カナダ英語とカリフォルニア英語では明白な違いがあるのだ。しかし東京ローズがカナダ人だというこの無視できない証言を、ロッシュは「風聞」とし、コリンズにそれ以上尋問のチャンスを与えなかった。
コリンズは突然話を変えて、八木弘を知っているか、とリーに切り出した。八木は大陪審の証人の一人である。
コリンズはこの大陪審の後の十月二十五日、同じく大陪審証人として来ていたブランディッジとリーから電話をもらい、セント・フランシス・ホテルで昼食をともにした時の話に移った。その時彼らは三時十五分までいろいろ話し合ったという。そしてコリンズが突然爆弾宣言をした。「ブランディッジと君が電話をして来て私とホテルであったのは、ブランディッジが一九四八年日本に行った時、八木弘に大陪審の証人に出てウソの証言をするようにすすめた事実を、私が知っているかどうか確かめるためだったのではありませんか」(コリンズ、一九四九・七・十四)
これはリー以上にデウォルフが恐れていた事実だった。彼はコリンズが質問をいい終る前に大声で異議を申し立てていた。
「まったくナンセンスなことをいっていると君自身わかっているだろう」
「ナンセンスかどうか、法廷で明らかにして見せようというのだ」
「そんなことはさせない」
「やってみせる」
「いつも大ボラばかり吹くな」
などの激しいやりとりが二人の間でかわされた後、ロッシュは「この尋問は考慮に入れないように」と陪審員たちに忠告を与え、デウォルフの異議申し立てを認めた。
「もしこのような裁判になることがわかっていたら、リーの書いた記事はもっと違ったものになっていたはずだ」とデラプレンがいうように、自分の書いた文章にがんじがらめにされ、すべての責任を取らざるをえなかったリーの立場はつらかったはずだ。しかも彼はブランディッジが当然受けるべき攻撃を、彼の身代りに受けてもいた。
デウォルフは傷ついたリーの名誉をとりつくろうかのように、再主尋問で彼のジャーナリストとしての過去の輝かしい経歴を述べさせた。しかしこの心配は無用だった。陪審員たちはコリンズの厳しい尋問を受けるリーに、終始同情の目を注ぎ続けたのである。リーは陪審員たちに最も影響を与えた証人といわれる。
5 偽 証 ?
政府側証人として召喚されていたブランディッジは、大陪審における八木偽証を「まったくばかばかしい」(サンフランシスコ・クロニクル紙、七・十五)と記者たちに否定してみせた。にもかかわらず、この裁判の内輪話を独占して書けるとほくそ笑んでいたはずの彼が、その後いつの間にかサンフランシスコから姿を消している。自分が捕えたと公言した東京ローズ裁判の証人席に、彼が坐ることはなかった。
コリンズはデウォルフがいうように大ボラを吹いていたわけではなかった。八木が賄賂《わいろ》を受け取って大陪審で偽証したことが間違いのない事実であることは、七月二十七日、証人席に上った政府側証人テールマンがまず認めている。
この時も、コリンズが「あなたは一九四四年秋、八木が賄賂を受け取ってサンフランシスコの大陪審で偽証したことを告白した、とタンバ氏にいったのではありませんか」というと、デウォルフは「絨毯《じゆうたん》を止める画鋲《がびよう》が、同時にたくさん足の裏に突き刺さったかのように椅子から飛び上がり」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・七・二十八)、異議あり、と叫んでいた。
だが、コリンズも、今度はリーの時のように簡単に引き下がってはいない。「この質問は、もし答えがイエスならば、被告の人権に関する公然たる隠れもなき不法行為であり、加うるにこの裁判における公明正大さへの妨害にかかわることなのであります」(コリンズ、一九四九・七・二十七)と訴えた。
ロッシュに答えるように促されたテールマンは、まさに「イエス」と一言、コリンズのいう不法行為を認めたのである。
これは起訴不起訴を決めるべき大陪審で偽証があったという重大問題点であった。にもかかわらず、デウォルフはまたしても激しく異議をとなえた。ロッシュはそれを認めた。コリンズにこれ以上続けさせなかった。
驚くべきことは、このあるまじき不正事件を、司法長官を初めとする司法省関係者たちが、その大陪審の直後からすでに知っていたという事実だ。
「この春(一九四八年)、ブデンディッジが日本で捜し出して来た証人・八木が、戸栗裁判の大陪審で偽証したことは明白のようです。八木はブランディッジにたきつけられて、放送を聞いた時、他の証人がいたとウソをついたと、日本でCICに告白しました」
一九四八年十二月二日、キャンベル司法次官補よりクラーク司法長官に当てられたメモである。
八木弘に名前を利用された小平利勝の宣誓供述書には、そのあたりのことが詳しい。当時、AP通信社にいた小平は、八木とは戦前からの知り合いだった。
ブランディッジがアイバのサインを取りに東京に来ていた一九四八年四月、小平のオフィスに八木が突然電話をかけて来た。「トシ、アメリカ旅行する気はないか」(小平宣誓供述書、一九四九・九・一)と切り出した。驚いた小平はすぐ返事ができず、とにかく会って話し合うことにした。
セント・ポールズ・クラブで再会すると、八木は、家族ぐるみで昔から親しいブランディッジが司法省に依頼されて東京ローズ裁判の証人捜しに日本に来ていることを説明した。八木は日本交通公社に勤めており、戦前ブランディッジを北京に案内していた。以来、かなり親しく付き合っていたようだ。
翌朝十時、小平は八木にともなわれてブランディッジに会いに第一ホテルに出かけた。入口から八木が電話を入れると、ブランディッジはさっそく降りて来て愛想よく二人を自室に案内した。当時、GHQが使っていた第一ホテルには、普通の日本人は連合国人の付き添いなしに勝手に入ることができなかったのだ。ブランディッジは、まず二人にウィスキーをすすめた。小平と八木は二杯ほど飲んだ。
初対面の固苦しさが取れて来たところで「ブランディッジ氏は『君と八木は東京ローズが放送しているところを見て聞いた』と証言するように提案したのです」(同供述書)。「彼は、日時は三月大空襲のすぐ後と提案しました。……彼は私たち二人が『兵隊さんたち、あなたたちの奥さんは軍需工場の男たちと遊んでいるわよ』と東京ローズがいうのを聞いたことにしよう、ともいいました」
ことの深刻さに驚いた小平は即答できず、一晩考えさせてくれとブランディッジに頼んだ。ブランディッジはそれを承諾し、帰りがけに半分残っていたウィスキー瓶を小平にくれた。小平は子供時代の一時期を過したアメリカを、再び訪れて見たい誘惑を感じた。が、翌朝同じ時刻に、ブランディッジをホテルに訪ねた時、彼はこの話を断わろうとした。
ブランディッジは、棚から黒表祇のリーの本を取り上げ、「私が東京ローズです」とアイバが名乗ったという一文を読んできかせ、彼女自身が認めているのだといった。「アメリカでは決して女性の首を縛りはしない。判決後、彼女は永遠にアメリカで暮せるのだ」(同供述書)とつけ加えた。
ブランディッジは自分の古い三つ揃いを小平に無理に押しつけると、「君たち二人でもう一度よく考えてみなさい」(同供述書)といって送り出した。
コリンズは、一九三九年にブランディッジが作らせた、チョッキにネームの縫取りのあるスーツ一組を、証拠品として法廷に持ち出した。骨董品でも扱うようにうやうやしく箱を開けると、幾重にも重なった茶色の紙の中から、しわだらけのスーツを取り出して陪審員たちに披露した。
当時、日本はウールの背広など容易に手に入らない、物のない時代である。小平はそれを妻に小さく詰めさせて着ていたが、お礼に古い掛軸を送ったので義理は果たしたといっている。八木には小平以上のものがブランディッジより手渡されていたことは間違いなかった。
小平は牧師の息子として育っている。やはりウソはつけないとして、次の日ブランディッジに正式にその話を断わった。ブランディッジはただうなずき「OK、君次第だ」(同供述書)といった。そして、この話はこの場だけのこととして、決して口外しないことを固く約束させた。
帰り道、八木と近くのコーヒー店に入った小平は、一人の女性の命にも関わる裁判での偽証が、いかに重大な罪かを八木に説いた。黙ってそれを聞いていた八木は自分も行かないことにすると答えた。
ブランディッジと一緒に東京に行っていたホーガンは、ブランディッジが自分のホテルに証人|候補者《ヽヽヽ》を呼びつけているのを知っていた。彼はG2のオフィスでちゃんとやった方がよいのではとブランディッジに提案してみた。
しかし彼自身G2のオフィスがけむたかったブランディッジは、そうすると候補者たちが気楽になれないからホテルの方がよいと答えた。が、ホーガンはどれほどブランディッジが彼らと気楽《ヽヽ》な話をしていたかは知らなかったという。彼が司法省の人間でもないブランディッジに、証人捜しをある程度任せていたことだけは確かだ。
八木は小平との約束に反してサンフランシスコへ行った。そして次のように証言した。
「戦争中のある日、彼がラジオ東京の近くを歩いていると一人の友人に出会った。彼はその友人に宣伝放送を聞かせてくれと頼んだ。
友人は、彼をラジオ東京に連れて行き、ダキノ夫人が音楽レコードを放送中の一部屋に案内した。友人はドアを開けて、コントロール室に彼を招き入れた。そこで彼は、ダキノ夫人と一人の日本男性が放送しているのを見た。
ダキノ夫人が『兵隊さん、水兵さん、あなたたちの奥さんや恋人たちは、あなたたちがジャングルで戦っている間に、よい給料を取って本国の軍需工場で働いている男たちとよろしくやっているわよ!』と放送しているのを聞いた」(タンバ特赦嘆願書、一九六八・十・二十四)
八木はその友人の名を、彼がとてもかかわりを恐れているので明かせないとして、大陪審でもとうとう口にしなかった。
八木の証言の曖昧さにまず疑問を持ったのは、FBIのテールマンである。彼はその直後、サンフランシスコで数回にわたり八木を取調べた。そして八木はブランディッジと相談した末に、その友人として小平の名を遂に口にした。
デウォルフは、日本から証人たちの送り迎えに同行して来たCICのジェームス・ウッドに、来たるべき裁判の証人として出るように小平を説得することを依頼した。東京に帰ったウッドからその話をされた小平は、彼が連れていき一緒にアイバの放送を聞いたという八木の証言はウソであると強く否定した。ウッドはことの重大さに気づくと、すぐCICの彼のオフィスに八木を呼んで問い詰めた。八木は初め頑としてそれを認めず、小平こそウソをついていると主張していたが、十一月五日、遂に偽証の事実を認めた。ウッドは次のように報告している。
「八木の取調べは約三時十五分頃まで続行された。八木は前に述べた以上に心配そうに見えた。私が二人の申し立てがまったく相反するので、八木と小平を対決させてどちらが正しいかあらためて決めるつもりだというと、八木は『いまから本当のことをいうから』そうしないでくれと懇願した。
その後八木は、『私の友人であるハリー・ブランディッジが一九四八年三〜四月に日本にやって来た時、戸栗裁判の政府側証人としてアメリカに行かないかと持ちかけました。私が、戸栗の放送は一度も見たことはなかったというと、彼はもしホーガンに見たといったら、君はアメリカ旅行ができるのだ。一緒にむこうで楽しい時が過せるのだ≠ニいったのです』と白状した……」(キャンベルよりクラークへ、一九四八・十二・二)
ことを重視したワシントンのキャンベル司法次官補(並びに犯罪部長)は事情聴取のため、一九四九年一月五日、ブランディッジを彼のオフィスに呼びつけた。ブランディッジは、「どうして今頃になって八木がそんなことをいうのか、さっぱりわからない。おそらく、日本に帰国してから彼はなにかを恐れだしたのかもしれない、とは考えられる」(キャンベルよりクラークへ、一九四九・一・五)として、八木のいっていることはすべてデタラメだと否定してみせた。
キャンベルは真相を突きとめる必要を感じた。さっそく、この事件及びプロボー、インスの事件の再調査のために十二月二十八日東京に発っていたテールマンに、この件の捜査をあらためて命じた。テールマンは八木、小平を長時間取調べた。彼らの供述書を添えて、「ブランディッジに偽証を奨《すす》められたという二人の話は真実と認められる」という結論を下してきた。
テールマンは、東京に宣誓供述書を取りに来ているタンバがこの事実をすでに嗅《か》ぎつけており、多分、裁判でこのことを弁護側が持ち出すであろうこともつけ加えている。司法省の関係者にとっては、まったく頭の痛い話であった。彼らは自分たちにそんなトラブルを押しつけていながら、さらにしらを切るブランディッジに激怒した。
「ブランディッジを偽証によって起訴する可能性に関してですが、ダキノの訴訟が完了する前の時点でそのような訴訟を持ち出すことは|ダキノの判決を有罪に持っていく可能性を全滅させる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とさえ考えられます。さらに、ブランディッジを起訴することは、特にカリフォルニアのような州で、|二人の日本人の証言で白人を有罪に持っていくチャンスは非常に薄い《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という点から考えても賢明とは思われません」(キャンベルよりクラークへ、一九四九・六・八)としてブランディッジの偽証を見過ごし、公判で弁護側がこれに触れた時は「知らない」の一点ばりで押し通すことに決定したのである。
「ダキノ夫人の起訴が、八木の偽証にもとづいていたという事実は考えるだにショッキングなことだ。しかも、残念ながらこの事件におけるブランディッジのあさましい行為を、裁判官の裁定により公とすることができなかった」(特赦嘆願書)とタンバが憤慨するように、小平のこの偽証事件に関する宣誓供述書の答えは、あい続くデウォルフの異議により、ほとんどすべて(一三一の質問中、一〇三の答えは却下された)陪審員の耳には達しなかったのである。
モントレーのリー宅に身を寄せていたブランディッジは、記者たちに答えて、初めから知り合いに贈るつもりで、四着の古スーツを東京へ持参したこと、そのうちの一着は八木にしつこく乞われて与えたのだととぼけてみせた。ここで気にかかるのは、ブランディッジがこのようにしてアプローチした証人は、はたして八木と小平だけだったのかという点である。彼がアイバの放送を見聞きした日時から、放送内容まで提案し、その彼の提案を鵜呑みにしてそのまま受け入れ、アメリカへ無料ご招待旅行と一日十ドルの証人費に目のくらんだ証人が、他には一人もいなかったのだろうか。
6 二人の決定的証言
反逆罪の歴然たる犯行には二人以上の証人を必要とする。沖、満潮の二人の元ゼロ・アワー担当責任者は、その法律上の条件を満たすために、不可欠な証人であった。いいかえれば、二人こそアイバの反逆罪を成立させうる証人たちであった。
デウォルフは、これらの最も重要な証言をできるだけ手早く短時間のうちにすませようとした。これに対して二人は、「訪ねて来た親類の前で、一本調子でなにかを暗唱して聞かせる小学生のよう」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・七・二十)だった。リハーサルでもしたかのごとく一言一句ほとんど同じ言葉をオウムのように繰り返して、法廷の人びとを唖然とさせた。いつもは下を向いて忙しくメモを取り続けているアイバが頭を上げて、そんな二人をじっと正視していた。
彼らが挙げた歴然たる犯行の事実を次に述べる。
歴然たる犯行(1)について。一九四四年三月一日頃、前線班ができて、ゼロ・アワーのスタッフ全員が集まった初会合の席上、「レイズは自分がホットジャズを担当し、戸栗がスイート・ソフトジャズを担当することを提案しました。戸栗は同意し、スイート音楽を担当するといいました」(沖証言、一九四九・七・十八)。沖は、その時確かに同席した人として満潮の名をあげ、満潮も同様の答えをした後、同席した人として沖の名をあげた。
レイズは、このような会合らしきものがあったのは、早くても一九四四年八月から十二月の間であり、カズンズたちのいる間に前線班はできていなかったと証言した。アイバも、前線班という名を聞いたのは十二月末頃としているが、彼女はその会合に出た覚えがない。満潮と沖はそろって、カズンズたちがゼロ・アワーから下りた時期を一九四三年十二月頃と半年以上間違っている。もしこのような会合があったとしても、その日時には半年間の間違いがありそうだ。
歴然たる犯行(2)について。「一九四四年三〜六月頃、参謀本部が前線班のスタッフ全員を映画『風と共に去りぬ』に招待しました。……その七〜十日ほど後、われわれはこの映画から取った録音レコードを使った番組を作りました。放送の日、私はできあがった原稿を戸栗に渡し、放送前に読んでおくようにいいました。それを読んだのち彼女は原稿が気に入らないといい出したのです。ばかばかしく陳腐だというのです。私が修正している時間がないというと、彼女はいつもの孤児アン放送をやると主張しました……」(同証言)
この沖とアイバの会話を、満潮が傍に立って一部始終聞いていたと二人は認め合った。
日本軍がマニラで連合軍より略奪してきた映画『風と共に去りぬ』のサウンド・トラックを幾枚かのレコードに取って、クラーク・ゲーブル、ヴィヴィアン・リーなどの声はそれぞれの役として使いながら、ナレーターが物語を紹介してゆくという縮小版『風と共に去りぬ』をゼロ・アワーで放送した時のことである。アイバが陳腐と評したというその時の放送原稿は、忍足信一が書いた。
ということは、一九四四年春であるはずがない。忍足はその頃、まだゼロ・アワーのスタッフには加わっていない。レイズもそれは彼が結婚した十一月末だと覚えている。文化キャンプで密かに日記を隠しつけていた捕虜ジョージ・ヘンショー海軍少尉の証言によると、文化キャンプに映写室なるものができたのは一九四四年九月十七日である。まず参謀本部から恒石たちがやって来て、捕虜のフランク・フジタ軍曹が映写して見せた。ゼロ・アワーのスタッフが見に来たのは十一月頃となっている。この日時も半年ずれているわけだ。
歴然たる犯行(3)について。「その夜六時頃より戸栗はゼロ・アワーでその放送をしました」(同証言)。二人によると、使用したサウンド・トラックには「恐ろしい戦争の場面がありました」(同証言)。「傷ついて動けない兵士たちが炎天下に駅の前に横たわっている場面とか、傷ついた兵士が病院で悶え泣いている場面がありました」(満潮証言、一九四九・七・二十)
レイズはこれを完全に否定した。「病院場面はなかったのです。映画から取ったサウンド・トラックのその場面が、あまりにもお粗末でほとんど聞きとれず、放送には使えなかったのです」(レイズ証言、一九四九・八・十九)。アイバも「実際のところ、六時半には皆すべて放っぽり出してしまい、レイズと私で七時までレコードをかけて時間をつぶしました。……サウンド・トラックも放送原稿もひどかった」(アイバ証言、一九四九・九・九)と証言している。
歴然たる犯行(4)について。沖と満潮によると、沖と結婚するため古屋美笑子が、一九四四年十二月一日付で海外局を辞職するちょっと前、多分、十一月のある日、ゼロ・アワーのスタッフが、彼女のための送別会を放送終了後の七時から約一時間ほどやった。その時常に持ち時間が終るとすぐ帰るアイバが、珍しく居残ってパーティに出席した。そして彼女はその日の放送で、「『こちらはあなたのお気入りの敵、孤児アンです』とか、『南太平洋のお馬鹿さん』とかいい、GIたちを『間抜け』と呼びました」(沖証言、一九四九・七・十八)
前出のNHKの記録によると、古屋は一九四五年五月二十三日まで出局している。五月にやめた古屋の送別会を、半年前の十一月にやったというのだろうか。
アイバは、「私が覚えている限りでは、古屋の結婚前に彼女のためのパーティがあったことなどありません。私は彼らが結婚したことを知らず、後でそれを聞いた時はとても驚いたほどです」(アイバ証言、一九四九・九・十四)という。
歴然たる犯行(5)について。「私は戸栗に大本営発表のレイテ島沖海戦戦果ニュースが入ったと告げ、そのアメリカ船舶沈没ニュースを彼女の原稿に挿入するように命じました」(満潮証言、一九四九・七・二十)。アイバはそれを承知して原稿を用意した。
「『あなたたちの船はすべて沈んでしまったわ。いまやあなたたちは本当に太平洋の孤児なのね。いったいどうやってお国に帰るつもりなの?』という意味の言葉でした」(沖証言、一九四九・七・十八)。沖と満潮は、彼女がこの文をタイプするところを一緒に見たと証言した。
一九四四年六月頃、船舶沈没についてなにか放送に使われたかもしれないが、レイテ島沖海戦でなかったことは確かだとレイズはいう。いずれにせよ、彼はそれをアイバの原稿に使ったとはいっていない。
アイバは「満潮さんから、放送にこれを使えというような指示を受けたことは一度もありませんでした」(アイバ証言、一九四九・九・十四)として、この船舶沈没に関する原稿を書いたことを否定した。
しかし彼女は、カズンズが出てこなくなった直後、一九四四年六〜七月のある日、オフィスに出ていくと、沖とレイズが、参謀本部から来た人と台湾沖海戦とかについて話していたのを覚えている。
「……私は部屋の反対側の隅でタイプを打っていました。すでに放送時間が迫っていました。沖が『これを使おうじゃないか』といい、『太平洋の孤児たち』とかいってました。『あなたたちの船は皆沈んでしまった。どうして国に帰るつもりだい? これを今日の原稿に入れようじゃないか』と、レイズに話してました。私に向って話したのではありません」(同証言)
クラーク・リーのタイプノートにあった船舶沈没の話とは、この時のことである。そしてレイズがいっている船舶沈没の話も、このことであったのではなかろうか。アイバの原稿ではなく、ゼロ・アワーの他の部分、特にニュースに船舶沈没の話があったとして不思議ではない。
というのは、この「太平洋の孤児」および「船舶沈没」という言葉は戦時中、最も頻繁にラジオ東京から聞かされた言葉の一つなのである。特にニュースや解説でよく使われた。わけてもオーストラリア軍を「太平洋の孤児」と呼んだ表現は、早くから聞かれた。
すでに一九四二年には、「オーストラリアは、いまや本当に太平洋の孤児です」というニュース放送の一部がオーストラリアで受信されている。
歴然たる犯行(6)について。沖と満潮は、アイバがスタジオでマイクに向って(5)の放送をするのを聞いた。その時お互いに沖は満潮を、満潮は沖を同席者としてあげたことはいうまでもない。アイバは固くこの放送を否定している。
歴然たる犯行(7)について。沖によると、すでに入隊していた石井鎌一が、一九四五年五月二十三日、局に久々に遊びに来た。
「その夜、大空襲があったので日時を覚えているのです」(沖証言、一九四九・七・十八)。これは、古屋が局を辞職した日であるはずだが、彼はそれには触れていない。この言葉は、ブランディッジが小平に「日時は三月大空襲の後にしよう」と提案したことを、いやが上でも思い出させはしまいか。なおあの時、ブランディッジは小平に、「沖を知っているか」と聞いている。
沖はその日、アイバが石井とちょっと話してからタイプを打ち終ると、原稿を持ってスタジオに降り、レコードをかけて放送するのを見た。この(7)に関する満潮の証言はない。後に石井が沖と同じことを証言している。しかし、アイバがいったい何をその日放送したのかという放送内容の説明は、なにもない。
歴然たる犯行(8)について。満潮とアイバは次のような会話を放送したという。
「彼女が『この新しい帽子をどう思う?』ときき、私がそれを受けて『どの帽子さ?』と聞き返す。彼女が『あら、あなたのところから見えないはずよね。私は|こちら《ヽヽヽ》側にかぶっているんですもの』と答えて放送しました」(満潮証言、一九四九・七・二十)。沖もスタジオで同席し、同じ内容の彼らの会話を聞いたという。
アイバは、このような会話放送の覚えがまったくないと否定した。しかしデウォルフは、一九四五年六月二十日、ハワイでモニターしたゼロ・アワーのアン放送に似た会話があったとして、その録音レコードの|写し《ヽヽ》を提出している。だが、これをアイバが放送したという声の証拠――レコードそのもの――はどういうわけか出されていない。ということは、その時のアン放送がアイバでなく他の代理アナによって放送された可能性もあるということである。
孤児アンの放送名を使ったのはアイバ一人であったというのが政府側の主張だ。しかしアイバは欠勤した次の日、局で見たゼロ・アワーの原稿で、他の女アナウンサーがアンの名を使った印象を受けたことがあったといっているのだが……。
「政府は昨日、かようにばかげた話をラジオ東京宣伝放送から選び出してきた。政府側によると、これはつまらないかもしれぬが、確かに反逆的であるという」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・七・十六)
歴然たる犯行とされた放送内容が、すべてばかばかしく、取るに足らないものであることに気づくのに時間はかかっていない。しかもデウォルフは沖と満潮に、それらの放送の証拠となるべき放送原稿および録音レコードが終戦時焼却されて、一つも残っていないことを、各「歴然たる犯行」のたびにくどいほど繰り返させている。
大陪審以前に沖と満潮がFBIに与えた供述書がある。それを見るに、起訴状の「歴然たる犯行」が、彼ら二人の供述書にもとづいてでき上がったことに疑問の余地はない。
だが、いかにうさん臭い記憶を持つ証人とはいえ、反逆罪成立に必要な二人の証人であった。彼らの証言により、どの一つの歴然たる行為によっても有罪となる可能性が出たのだ。
二人の証人を信じるか否かは、陪審員たちにまかされることになった。しかし法廷の人びとの満潮たちに向ける目は、決して好意的ではなかった。
ケネス沖健吉(三十六歳)はサクラメントで生まれ育った。なかなかのスポーツマンだった彼は、ニューヨーク大ではフットボール部で活躍している。その面影を十分残すがっちりした体つきの彼を、ハムエッグと同じくらい一〇〇パーセント、アメリカ青年として育ったと書いている新聞もある。彼は一九三九年、日本へ渡り、翌年、杉並区役所で戸籍入りし、同年、NHK海外局へ入社している。
でっぷり肥った丸顔に縁なしの眼鏡をかけたジョージ満潮英雄(四十四歳)は、サンフランシスコに生まれた。五歳の時、実父を失い、やがて再婚した母に従ってフレスノ地方(カリフォルニア州中部)に移る。義父の姓・中元を名乗って育った。カリフォルニア州立大学バークレー校へ一年ほど行った後、コロンビア大へ転校した。そこも卒業しないままロサンゼルスへ出て、日系紙「羅府新報」の記者などをしている。
東京へ渡っているのが一九三八年。同盟に入ったが、一九四〇年、NHK海外局ニュースおよびニュース解説班へ移った。
彼は開戦四カ月後の一九四二年四月、東京の区役所で戸籍入りし、一九四四年、亡父の里に家名を継ぐべき男子がいなかったことから、その姓を継いだ。以来、彼は満潮である。
沖と満潮はアイバ同様アメリカに生まれ育ちながら、開戦となるや生活の便宜上さっそく戸籍入りした。正式なNHK職員として自分の意思で対米宣伝放送に取り組んだ二世たちと見なされる。アイバにいわせれば、二十分で事が済むという戸籍入りをしていたおかげで、反逆者の印を紙一重の差で押されずに済んだ二世たちである。
アイバは結婚後、正式にポルトガル国籍に登録され、ポルトガル国が認めるポルトガル人であった。しかしその登録の際、正式《ヽヽ》にアメリカ市民権放棄手続きを取っていないため、アメリカは未だ彼女をアメリカ市民として反逆罪で起訴できる、というのがデウォルフのいい分だった。それを正しいとしたアメリカ政府が、ここでは沖たち二人を日本人として扱っている。彼らも戸籍に登録した時、正式なアメリカ市民権放棄手続きなど踏んでいなかった。
この不条理を見極めるのは難しいことではない。しかし見方によっては、沖と満潮もアメリカ人種差別の犠牲者だったとはいえる。
一〇〇パーセント、アメリカ人として育ち大学教育まで受けた彼らを、アメリカ社会はその偏見によって受けつけなかった。二人は決して喜んで自分たちの生まれ育ったアメリカを後にしたわけではない。この点をもし理解した人が法廷にいたとしても、彼らに同情を寄せる者はいなかった。
「みずからはアメリカ市民権を放棄し、日本人となっているのに、ダキノ夫人に反逆者のレッテルを押す手助けになんら躊躇《ちゆうちよ》をみせなかった」(サンフランシスコ・コール・ブルテン紙、一九四九・七・十八)彼らこそ、生活のためと称して自国を売った裏切り者ではなかったのか。同じ二世であり彼らの部下の一人にすぎなかったアイバを今度は|売った《ヽヽヽ》のだ。この不道徳さに法廷の人びとは不愉快さを感じた。そして、政府側はそこのところを十分理解していればこそ、逆に弱い立場の二人を利用したといえる。
いかに無理をしても、彼らの証言が政府側にはどうしても必要だった。この裁判をカバーした記者たちが、はっきりアイバに同情を示しだしたのはこの時からだといえる。
「いったいどこからあんなお粗末な証人を連れて来たのだ」と、ロッシュがヘネシーに苦情をいったとさえ聞く。ロッシュは二人を、やはりアメリカの裏切り者と見ていたようだ。デウォルフの異議をほとんど無視した。獲物に飛びつく禿鷹《はげたか》のごとく二人に食い下がるコリンズに、珍しく十分に寛容《ヽヽ》なる時間を与えた。この機会に二人を罰せんかのごとくですらあった。
コリンズは五、六年前の放送をよく記憶していて細部にわたって歴然たる犯行を説明した沖に、まず記憶テストとでもいうべき尋問を、三時間の長さに及んで行なった。
特に歴然たる犯行(5)(6)の、船舶沈没放送のあった日の、沖の記憶を確かめたがった。
「その日の朝食はなんでしたか? 夕食はなに? 被告のその日の服装は? 放送に使ったレコード音楽は? 他にどんなニュースがあったか? 天気はどうだったか? 曇っていた? 晴れていた? 雨だった?……」
相変らず無表情ながら、沖は額に汗を浮べ、なに一つとしてはっきり答えられなかった。「多分そうだった」「いつもはそうだった」という曖昧な答えばかりを苦しそうに口にした。
にもかかわらず、沖はその日、大本営よりレイテ島沖でアメリカ軍艦が沈んだニュース発表があり、アイバがそれを挿入した原稿をタイプし、「太平洋の孤児たち……」の放送をしたことだけは、はっきり覚えていると意固地なほどに固執した。「それじゃ、朝食には多分お米を食べたことと大本営のレイテ島沖海戦発表があったことだけが、その日に関するあなたの確かな記憶なのですね」(コリンズ、一九四九・七・十九)とコリンズは皮肉たっぷりだ。
なお、東京で沖をインタビューしたタンバは、船舶沈没の放送は局の正規のアナウンサーがしたと沖が語ったと証言している。
ちなみに、「比島東方海面の一大艦隊決戦/海上部隊の真価発揮/神算鬼謀敵の意表を衝《つ》く」とうたわれたレイテ島沖海戦の大本営発表は、十月二十五、二十六、二十七日の三回にわたって行なわれている。この海戦が日本艦隊にとって、その能力を根こそぎ失わせる海戦史上まれに見る大敗戦であったにもかかわらず、大本営発表の戦果と損害はまったく逆であった――日本側空母1〔4〕、戦艦1〔3〕、巡洋艦2〔10〕、潜水艦0〔5〕、駆逐艦2〔11〕、輸送船0〔17〕、飛行機126〔215〕、米側空母8〔3〕、巡洋艦4〔1〕、駆逐艦4〔3〕、輸送船4〔0〕、飛行機500〔125〕(「大本営発表の真相史」より。〔 〕内損害実数)。
政府側がGIたちの戦意低下に影響したとする歴然たる犯行(5)(6)のレイテ島沖海戦とは、アメリカ連合軍が記録的な大勝利を収めた戦いなのである。
満潮に対する反対尋問の時、コリンズはさらに手厳しさを加えた。彼は満潮たちこそアイバの代りに被告席に坐るべきではないかという意向をはっきりとみせる。満潮がアイバ同様アメリカ生まれのアメリカ育ちであることを明白にしてみせた。
「かつてアメリカに『恭順の誓い』をしたことがありますか」
「小学校でやったことがある」
「中元さん、ひとつその小学校でやったという恭順の誓いをやってみてください」
コリンズは、満潮がアメリカで育った時は義父の姓「中元」を名乗っていたことを考慮に入れて、法廷では終始彼を中元と呼んだ。
デウォルフがあわてて異議を申し入れたが、ロッシュは簡単にそれを退けると、その恭順の誓いを聞きたがった。満潮は法廷の人びとの前で、小学校やボーイスカウトで教わったその誓いをする羽目に追いやられる。
「私はここにアメリカ国旗と……」顔を真赤にし、額に汗をにじませた彼は、低い声で半分ほどつぶやいたが後が思い出せない。法廷の人びとは、息をひそめてそんな彼を見詰めている。と、ロッシュが小さな乾いた声で「……すべての人びとに自由と公正を……」と続きをいい終えた。
コリンズは戸籍入りとアメリカ市民権放棄にも触れた。満潮が一九四二年戸籍入りした時、アメリカ領事館の代理を務めていたスイス領事館に行って正式にアメリカ市民権放棄をしなかったことを確かめた。このような場合には、未だアメリカ人として認められるとアイバの場合に主張したデウォルフの説に従うと、満潮はその時、立派にアメリカ人だったのである。この事実をコリンズは法廷の人びとの頭にいやというほど叩き込んだ。
最後に満潮は、サンフランシスコ到着後、すぐ検察側より起訴状を手渡され、またデウォルフたち検察官およびFBIのテールマン、ダンと毎日のように話し合いを続けていたことも認めた。
「まったく一つも言葉を変えず、一言一句同じように(歴然たる犯行の証言を)繰り返してみせた後では、これは彼の証言を傷つける自認であった」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・七・二十二)
7 物的証拠は「六枚のレコード」
他に七名の日本からの証人が呼ばれて、いずれも沖たちと同じように、アイバが孤児アンとして対米宣伝放送をするところを、直接NHKのスタジオで見たと証言した。
生き残りの日本兵・石井鎌一、ハワイ生まれの二井、混血児のメアリ樋口、サンフランシスコ生まれの森山久、カナダ二世の中村|哲《さとし》、英国人を父とするフレッド・ハリス杉山などである。
彼らの証言はどれも曖昧でいいかげんなものだ。なかでもアイバが船舶沈没に関する放送をしたと証言した五十嵐新次郎の証言などは、お粗末至極であった。五十嵐は日本で生まれ育ち戦後は大学の英語講師をしていた。ちなみに彼は後のテレビの英会話番組で、羽織・袴に、ヒゲの講師として知られている。
五十嵐は、コリンズに問いつめられて、俗語をふんだんに取り入れて早いテンポで進むゼロ・アワーの英語は、正直なところ彼の能力以上であったこと、アイバの放送内容は「心の中で簡単に翻訳してみると」「大体」(五十嵐証言、一九四九・八・十)そんなことをいったのでは、という程度に理解していたにすぎないと、認めるにいたっている。
五十嵐は、東京でタンバにアイバが一度も船舶沈没に関する放送をしなかったと語ったことも、「その時の私の記憶は混乱していた」(同証言)として認めた。
アイバを知っているといいながら、あとでは、「ハロー」といったことがある程度と、証言をかえてもいる。アイバの方は、彼のことを全然知らないという。
「顔も見たことがないのに、自分を知っているといって出てくる証人たちに唖然としました」と彼女は語っている。
樋口はタイピストである。ゼロ・アワーのスタジオには決して入れなかったはずなのに、放送中のアイバをスタジオで見たと証言した。彼女はまた、サンフランシスコで再会した元捕虜のパーキンズに、アメリカ旅行がしたくてやってきたと語っている。石井はといえば、その時カリフォルニア州立大学バークレー校にすでに入学していた。コリンズは、政府がこれを「えさ」につったと責めている。
しかし、ゼロ・アワーのメンバーであり、またフィリップの友人であった日向正三の場合は、いささか話が違った。彼は政府側証人としてサンフランシスコに来ていたのに、証人席に上らなかったのだ。タンバは、次のようにこのあたりのことを語っている。
「ある日、日向がわれわれの後を追いかけて来た。それは公廷中のランチ休廷の時だった。……彼は満潮と沖の二人が証人席から暗唱してみせた話はナンセンスであり、彼らがいったことは現実に起こったことではなく、明らかな偽証であると告げた。……日向は、彼が証人台に立ったら反対尋問で|ある《ヽヽ》質問をしてくれ、そうしたら、政府側の脆《もろ》い証拠はなんなく崩れるであろうと語った」(パシフィック・シティズン紙、一九七三・十・二十三)
日向は、政府が日本からの弁護側証人召喚を拒絶するのなら、政府側証人として法廷に立ち、真実をぶちまけようという腹で来たらしい。しかし、彼の行動は、自分たちの証人といえども十分目を光らせていた検察側の目にとまった。
この一件のあった直後、彼は日本へ連れ帰されてしまった(なお政府側の証人たちのホテルに、盗聴機が隠されていたときいている記者が数人いる)。
政府側は、海をへだてた太平洋の各地で実際に孤児アン放送を聞いたという元GI証人を用意していた。
一九四七年十二月四日のFBIの東京ローズ裁判証人公募には、全国数百人の元GIたちが応じていた。その中から選び抜かれた九人である。彼らの証言は大きく三つに分けられる。
(1) アメリカ軍の行動を予告した放送――「この番組は第九十砲兵連隊に捧げられており、十二月二十一日ニューギニアのドボドゥラに移動するのを知っているといい、その時歓迎部隊を用意しておくと約束しました」(ホール証言、一九四九・八・十二)
(2) 本国の妻や恋人たちの浮気に関するものや性に関する放送――「皆さんこれで失礼します。今夜は私の愛の夜なのよ。あなたはいかが?」(スーター証言、一九四九・八・二)
(3) アイスクリームやビーフステーキ、そしてダンス音楽でホームシックな気分におとしいれようという放送――「かどのドラグストアに行ってアイスクリームソーダを食べたいような夜だわね」(シェルダン証言、一九四九・八・一)
コリンズは反対尋問で、彼らのいっている孤児アン放送なるものが、実は噂の東京ローズ放送であったことを容易にさらけ出してみせた。放送時間一つとっても、彼らの証言はまったくいいかげんなものだった。
「政府側が新聞広告によって募集した元GI証人たちの質はまちまちで、一、二人はみずから『サンフランシスコ無料旅行』の機会を喜んでいると、われわれ記者に打ち明けさえした。だが、彼らのある者はなかなか話上手だった。アメリカGIに厭戦《えんせん》気分をおこさせた東京ローズ放送なるものを語る彼らは、かなり印象的だった。彼らの証言は新聞の大見出しに使われ、かっこうな読みものとなった……」(ピンカム特赦嘆願書)。ピンカムの指摘にもあるように、彼ら元GI証人は、いいかげんな証人ではあったが、容易に無視できない証人たちであった。
その中で特に注目されるのは、ロサンゼルスで精肉業にたずさわる元海兵隊所属パトロール船の掌帆長マーシャル・ホート(四十九歳)である。彼はギルバート諸島沖をパトロール中の船上で、次のようなアン放送を聞いたと語った。
一九四四年一月三日頃、「本国の人たちは今頃なにをしているかしらね。最近お便りありましたか。国に帰って来てといってきたんじゃあないの?」「間抜けさん、起きなさいよ。司令官にあいに行って、国に帰してもらうようにどうしてかけあわないの? こんな酷《むご》い蚊だらけのジャングルなどにいて、他の誰かにガールフレンドを取られたりしないことね!」(ホート証言、一九四九・八・二)
ホートの乗っていたパトロール船にはラジオ技師を含む四人ほどの乗組員たちがいた。ゼロ・アワーを聞いたのは、間違いなく船上の夕食がすんで一息入れてくつろいでいた六時から七時であったという。
東京からゼロ・アワーが放送されたのは確かに六時から七時であった。ところが、これは東京時間である。ホートがゼロ・アワーを聞いたというギルバート諸島は、東京時間より三時間早い。いいかえれば、ギルバート島の午後六時は東京時間の午後三時に当たる。ホートのいう放送時間が確かだとすれば、彼の聞いた放送がゼロ・アワーであったはずがない。デウォルフとしたことが、時差を考慮しなかったのか。
これはホートの証言を削除するに足る重大なミステークだ。にもかかわらず、彼が裁判官および陪審員たちに与えた影響は大きかった。
どうしてそれほど確かにアン放送の日時を覚えているのか、と問うコリンズに答えて、彼は胸ポケットより薄い一枚のグリーンの紙を取り出した。それは彼がロサンゼルスの妻あてに一九四四年一月二日から始まって六日まで鉛筆で書き続け、六日付で送った手紙であった。
「……われわれはラジオを持っており、東京ローズが一番よく聞こえます。……アメリカをくさす日系《ヽヽ》アメリカ娘が出ていて、東京ローズという名です。この女性アナは、戦況は日本側に有利だとかいってわれわれを大いに冷笑してみせるのです。
カレンダーの一月二日のところにマークをつけておいて下さい。そしてその日何が起こったか聞くのを忘れないで下さい。……きょう僕は、少々年を取った気がする。多分また白髪がふえたはずだ」(ホートの手紙)。彼によると海軍爆撃中隊長ペリーがギルバート諸島のアパママ環礁に到着したのが十二月二十九日頃だ。二、三時間後、東京ローズが放送したという。
「安全な上陸おめでとうといって、中隊長の名をはっきり名ざしました。すぐ離陸しないと残念なことになるというのです。だから私は数日後の一月二日を正確に覚えているのです。
なぜならその日、われわれにとってまったく残念なことが起こったのです。……その夜われわれはアパママ環礁で物資供給のため停舶していました。十人ほどの海兵隊員と十人ほどの水夫たちが働いていました。と突然、日本機が高度から急降下してきて、われわれを襲ったのです。………ジャングルのなかに逃げ込もうとしましたが、私の三人の部下は殺されました。水夫は何人殺されたか覚えていません……」(ホート証言、一九四九・八・三)。ホートがこれと少々異なる証言を、ペイン・ニッカボッカ記者(オークランド・トリビューン紙)にしたと聞いていたコリンズが、実際にはそんな襲撃はなかったのではないかと問うと、ホートは「なんですって? 私が知らないはずがないじゃありませんか。私はこの手で死んだ部下を葬ったのですからね」といってのけた。しかし、彼が約半年前の一九四九年三月九日、ロサンゼルスのFBIに与えた詳細な供述には「島にいた海兵隊員および水夫が殺された」となっているだけで、部下《ヽヽ》が殺された話なぞ皆目ない。
ちなみにギルバート諸島には、ガルバニック電撃作戦によってタラワ占領と同時に十一月二十五日より連合軍海兵隊が上陸開始し、ホートの話の一カ月前の十二月四日には完全に占領終了していた。同島に残っていた日本兵の二十人ほどは、自決し全滅している。
検察側は、この裁判とは関係のない手紙の部分も読みあげている。そしてそれはあまりにも親密な、個人的なものだったために、より強力なものとなった。「酒を買いだめといて下さい。もう長いことなにも飲んでません」。この個所では陪審員の微笑を誘った。しかし、「私の可愛いベビーちゃんたち(娘と妻の意)、きょうはこれまでにします。一日中、君たちのことを考えているように今夜は君たちの夢が見たいものです。なんでもよいからすぐお便りください。愛してます。ダディ」と、ホートの手紙をホーガンが読み終ると、陪審員の女性たちは皆ハンカチで涙を拭《ぬぐ》っていた。
「この手紙には、すべての要素が含まれていた。検察側はこれ以上に効果的なものを夢見ることはできないはずだ」(サンフランシスコ・エグザミナー紙、一九四九・八・三)。まったくその通りといえた。そしてホートはゼロ・アワーは娯楽で聞いたのではなく、目的があって聞いたと、最後にまたもや爆弾宣言をした。一九四三年末に海軍情報部より、孤児アンと東京ローズは同一人物であり、アン放送は十分注意して聞くようにという通達があったため、次の攻撃予告にそなえて注意を払って毎晩聞いたというのだ。
しかし前出のFBIの供述書には、重大な事実について一言も触れられていない。ホートは、公判前に急にこの事実を思い出したというのだろうか。
それにしてもこの供述書で彼は「私や仲間がこの番組をよく聞いた主な目的は、当時、他では聞けなかった流行の音楽が聞けたからなのです」(FBI捜査官ソテルへのホート供述書、一九四九・三・九)と述べ、「この女性アナは、つねにアンとか孤児アンとか名乗ったが、一度も東京ローズとはいわなかったと思う。けれども、一度『太平洋の聴取者の皆さんは、私を東京のバラ≠ニ呼んでるそうですね』といったのを覚えている」となっているのはどういうわけか。
アイバが東京ローズとか東京のバラとかいう名や言葉を一度も口にしなかったのは、放送局の同僚たちの一致した証言である。
大いに信憑性《しんぴようせい》には欠けるとはいえ、陪審員たちの感情に訴えるという点で、ホートの証言は今までにない政府側の得点となった。
ホートの直前に証人台に立った元アメリカ軍通信中尉のジュールス・スーターは、一九四四年八、九月頃、サイパン島で「サイパンには爆弾が仕掛けられています。四十八時間以内に島から引き上げないと空高く吹き飛ばされてしまうわよ」(スーター証言、一九四九・八・二)とゼロ・アワーの孤児アンが放送するのを確かに聞いたと証言した。
ところが、一九四七年十二月に取られたFBI報告によると、「彼はこれをいったのがアンであったか、それとも彼女の直前にゼロ・アワーに出たニュースまたはニュース解説アンだったか、よく覚えてない……」とあり、その女性アナの声はやわらかい声だったとして、「小さな孤児アンという名も、先週(FBIの公募の時の記事)地元新聞に出ていた発表で読んで、そういう名のアナだったと思っているのかもしれないことを認めた」(FBI報告、一九四八・九・一)となっている。
一年半ほどの間に、スーターの五年前の記憶も鮮やかに蘇《よみがえ》ったというのか。
「元GIたちの幾人かは、自分自身でその証言を信じられないものとした。その一人は具体的に放送の内容をきかれて、進んで『ええと、彼女はこちらは東京ローズです≠ニいって開始すると……』と述べた。記者席では素早く不信の目がかわされた。その後法廷外で、FBIの幾人かにこれら証人の質について評すると、彼らは笑って『僕たちが|断わった《ヽヽヽヽ》他の募集者たちを見せたかったね』といいさえした」(ピンカム特赦嘆願書)とピンカムは、裁判裏を語っている。
五、六年前に、太平洋諸島の前線のテントの中や船上で聞いたというこれら元GIたちの記憶《ヽヽ》の中のアン放送は、はなはだ信憑性に欠けた。FBIの文書からしても、彼らがアン放送と噂の東京ローズ放送にけじめをつけていなかったことは明白だ。
ゼロ・アワーのスタッフだった森山、中村らの政府側証人も、これら元GIたちが聞いたという三十三ほどの孤児アン放送なるものを、驚いた表情で「知らない」「覚えがない」と否定している。アイバのアン放送原稿を書いたカズンズ、インス、レイズが強くこれらを否定したことはいうまでもない。
その後、法廷の人びとが実際にイヤホーンで聞いたアン放送にも、それらしいものは一つもなかった。それどころか、それは正反対の質の放送だったといえた。連邦通信委員会情報部門に属するハワイとオレゴン州(ポートランド)外国短波放送受信部では、戦時中、ゼロ・アワーの全番組を毎日録音レコードに取り、保存していた。
アイバは巣鴨時代、CIC捜査官から、当時でも約三百四十枚のレコードが残っていると聞いている。しかし検察側が法廷で提出したのはアン放送原稿四十枚ほど(これはアイバ自身が持っていたものが大半である)、レコードとなるとたったの六枚であった。しかもこれらレコードは、すべて起訴状の放送内容とは無関係で、デウォルフもアイバが孤児アンとして放送したという声の確認のためだけの証拠だといいわけしている。
元GI証人を含めた政府側証人たちがそうらしいと認めただけで、レコードの女性の声が、アイバだという確実な証拠はなにもない。
しかも、法廷で自分たちが太平洋諸島で聞いた孤児アンの声は確かにこの声だったとレコードの声を確認した元GI証人の大半は、半年〜一年前のFBIでの取調べの時、同じレコードの声を聞いて、「レコードNo1の声はそのようだが、No2のは違うようだ」とまったく曖昧なのである。事実、物的証拠として出された六枚のレコードには、少なくとも二人の異なった声のアンがいるように思われる。
さて七月三十日(公判二十日目)、傍聴者を除く法廷の人びとが、イヤホーンで聞いた五年前の孤児アン放送とはどういうものだったのか。
「太平洋で戦う孤児さんたち、お元気? こちらは労働組合勤務時間に戻ったアンです。よく聞こえて? OK? そうでなくちゃね。今夜はリクェスト放送の夜なんです。とても素敵な放送を私の可愛い家族の皆さん――太平洋のさまよえる間抜けちゃんたちに用意してあるのよ。第一曲目のリクエストは誰あろう、ボスその人からです。ボニー・ベーカーの『マイ・レジスタンス・イズ・ロー』ですってよ。なんていう趣味かしらね、って彼女がいっているんじゃない?」(一九四四・八・十四、放送)
六枚のレコードのアン放送は、すべてこの調子のおしゃべりが軽音楽からクラシックにおよぶレコード音楽の合間に短く挿入されているに過ぎない。大半のレコードは、ザーザーという騒音が入って聞きづらかった(これらのレコードは、現在もサンブルノ国立文書保存所にある)。
陪審員たちの中には、音楽に合わせて遠慮しながらも指でトントン調子を取ったり足を動かしたりしている者もいて、なかなか楽しそうですらあった。
この前に出されたアン放送原稿というのも、似たり寄ったりの内容である。
「今度は、かの有名なさまよえる合唱隊――南太平洋の孤児さんたちが○○と○○グループの援助で歌うフォスター作曲の素晴らしい音楽を聞きましょうよ……」(一九四四・三・九)
「何年にもわたり、採集者たちは、かの有名な羽のない鳴禽《めいきん》『間抜けな歌い虫』の標本作りをめざして、南太平洋のジャングルや環礁島を歩き回っているのです……」(一九四四・三・二十四)
「さあ、ニューギニアのナイチンゲールさんたちや他の太平洋孤児合唱隊の皆さんたち、もっと声をそろえてやってみてちょうだい。危険な敵の宣伝ですよ。よく気をつけてね……」(一九四四・五・十二)
「(アメリカ国内ニュースの後に)ありがとう、ありがとう、ありがとう、さてまた聞くにたえる音楽を聞きましょうね。スウィング音楽はゼロ・アワー(レイズの部分の意)で聞かせてあげるわ。今は、私の小さな孤児たち、ママちゃんのいうことを聞いてよね。『インデアン・ラブ・コール』をクライスラーの演奏でどうぞ」(一九四四・五・十二)等々……。
これらが「反逆的で悪意に満ちた」対米宣伝放送として、政府が選びに選び抜いたというアン放送の内容なのである。
政府がアイバが放送したと主張する妻や恋人の浮気放送、船舶沈没放送、連合軍の行動予告放送を、レコードとしても放送原稿としても、検察側は一つとして提出することができなかったのである。
毎日ゼロ・アワーを必ずモニターし、録音し、レコードに取っていたはずのアメリカ受信部門で、誰かが不注意にもこれら証拠となるべきものを紛失したということなのだろうか。それとも最初からそのようなアイバの放送はなかったということか。
その約一年前、デウォルフはホウィティへのメモで「……彼女の放送原稿はまったく無害であり、むしろ娯楽的価値があったといえるかもしれない」(一九四八・五・二十五)と述べている。
ギラー裁判の時、出された証拠のレコードと比較しても、これらがいかに非政治的な他愛ないものであったかは一目瞭然だ。無邪気でなかなかユーモアがあるとさえいえる放送は、政府側証人であり、かつて日本宣伝放送のボスであった恒石の「残念ながら宣伝を差し入れる時は遂に訪れなかった」という言葉を裏書きしていた。「いいかえれば、東京ローズは日本製ピストルを握らされたものの、引き金を引く命令は遂に出なかったといえる。問題はそれでも彼女が反逆罪を犯したといえるかどうかだ。政府はイエスといっている」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・八・二)。
すなわち、実際に引き金を引かなくとも、銃口を向けただけで有罪だというのが政府側の見方だ。しかし彼女が銃を手にしたのは、みずからの意思ではなく、強いられて銃を握らされたのだと弁護側は主張する。「被疑者に裏切りの意思《ヽヽ》と目的があったことが立証されねば反逆罪は成立しない」(デウォルフよりホウィティへ、一九四八・五・二十五)とホウィティには書いたはずのデウォルフが、ここではこの反逆罪成立に一番重要な意図《ヽヽ》を無視し、強迫を証明する事実を拒絶した。
デウォルフは、アイバが自分の意思か否かにかかわらず、マイクの前に坐ったことをして反逆的というわけだ。
八月四日から四日間、アイバの赤痢がぶり返して一時休廷となった。コリンズによれば、「牢では四時半に夕食だが、公判のためアイバはいつも間に合わず、残飯を食べていた。それが何日も続き、われわれの頭痛の種でした」(ニューヨーク・タイムズ紙、一九四九・八・五)
八月十二日(公判二十六日目)、政府側は七十一人用意した証人のうちの四十六人(後にもう四人が立っている)を証人席に送り、その立証を終えた。デウォルフはこれらの証人たちの証言と種々の物的証拠により、政府側は十分にアイバが「計画して、その気十分に」アメリカに反逆したことを立証できたとした。
8 検察側の手管
八月十三日、弁護側はタンバの四十分に及ぶ冒頭陳述で幕を開けた。
彼は「反逆罪を成立させるには、被告がある行為をする意思《ヽヽ》があったというだけでなく、その行為をすることによって、自国を裏切る意図《ヽヽ》があったのでなくてはならぬ」として、反逆の意図の有無、なかでも強迫の一点を力説した。
そして、チャールズ・カズンズを第一証人としてドラマティックに反証を開始した。
堂々として立派な容貌のカズンズは、軍人出身をしのばせる歩き方で証人台につくと、十分な自信と誠意をみなぎらせてコリンズの主尋問に答え始めた。
「……彼のいうことは明瞭で確かだった。アイバがいかにこの洗練された人物に感銘を受け影響されたかを理解するのは容易であった。カズンズの登場は気力も希望も失っていた捕虜たちにダイナミックな衝撃を与えたと、文化キャンプと関係のあった人びとから法廷外でわれわれは聞いていた。映画『戦場に架ける橋』に出てくる人物のように、彼は全員無言の一致でリーダー格となり、規律と秩序を徐々に吹きこみ、次第にその士気を盛り上げていったという……」(ピンカム特赦嘆願書)
コリンズは、カズンズの生立ちから始めて、シンガポール陥落後、日本軍捕虜となった経過へ尋問を進めた。アナとして聞こえ高いその声と明瞭な「英国英語」でカズンズは正確に答えた。彼は、日本軍側にラジオアナウンサーだったことが知られ、何回か独房に入れられた後、ビルマに重労役のため送られる船に乗る時の話をしていた。その時、シンガポール埠頭《ふとう》には、ビルマ、スマトラ方面に送られて行く約三千人ほどの捕虜たちがいた。
「われわれは前線部隊よりも、もっと残忍な新しい日本軍の大隊が到着したと聞いていました。それが憲兵隊でした(これはシンガポール陥落後、大量の華僑を残酷に処刑した第二野戦憲兵隊主力および第五、第十八近衛師団から抽出した約二中隊の補助憲兵たちのことである)」
「夜でした。電灯がついていました。私は悲鳴を聞いてそっちの方を見ました。看守小屋の方で、ふんどし一つの裸の日本兵たちが中国人|苦力《クーリー》を殴りつけていました。空腹にたまりかねて缶詰を一個盗んだのだそうです。
……三人の日本兵が彼を押えつけ、水道の蛇口の下に顔を持ってゆきました。悲鳴を上げるたびに水が肺に入るわけです。さらに殴りつけては蛇口の下に顔をつけることを繰り返しました。歯を堅く食いしばっていたとみえ、日本兵たちが蛇口に苦力の口を押しつけると、とうとう歯が折れ口が裂けて、顔中血だらけになって溺死すると、その死体をほうりだしました」
「それからなにが起こったのですか」とコリンズが質問した。
「憲兵隊が連合軍兵を殺害するのを目撃しました。オーストラリア兵でした。殴り殺されたのです」というと、それまで落ち着いて静かに答えていたカズンズの声が詰った。
唇が小刻みに震え、必死に涙をこらえていた。両手で顔を覆った彼はイスの中で縮んだように見えた。彼は泣いていた。七年間、忘れようと努め、胸に秘めてきたこの残酷な思い出が急に蘇《よみがえ》ってきたかのようだった。自分と同じオーストラリア兵が、虫けらのごとく殺されるのをどうすることもできなかった自分の無力と、惨めな敗北の屈辱に泣いていた。死んだ兵をしのんで泣いていた。
法廷の人びとはこの彼の急変に度胆《どぎも》を抜かれた。それはあまりにもいたましい光景だった。だが、元GIホートが妻に当てて戦場での寂しさを訴えた手紙に涙を流しても、カズンズの悲惨な思い出に涙を流す者はいなかった。彼らはあわてて目をそらすと、居心地悪そうにした。
不幸にもカズンズは捕虜だった。彼の敗北の恥辱は彼らの連合国の恥辱でもあった。元捕虜に同情はしても、素直に貰い泣きしてはいない。その中で、アイバ一人が泣いていた。公判開廷以来、一度も感情を表に現わさず、無表情に鉛筆でメモを取り続けていた彼女が、白いハンカチを顔に当てて忍び泣いているのが人々の印象に残った。
カズンズは廷吏が運んだ水を一杯飲んで落着きを取り戻した。その玉ねぎの缶詰一個を盗んだオーストラリア兵が、二人の日本兵に両側から押えつけられ、もう一人の兵に木刀で死ぬまで叩きつけられた経過を続けて語った。
検察側はことがあまりにも脱線しているとして、カズンズのこのような経験は被告とは無関係だと強く異議を申し立てた。だが弁護側は、カズンズたち捕虜の経験こそ被告の強迫につながり、彼女に対する精神的暗黙の威嚇となったとして、さらに詳細にカズンズがラジオ東京で働くにいたった経過を語らせた。
「われわれはアイバに兵士が飢餓死に追いやられ、殴打され拷問《ごうもん》されたことについて話しました。……戦争中のことをいっているのですが、日本人はとうてい文明人とは思えない行動をしたのです。彼らのいう通りにするか、それとも死ぬかの二つの道しかなかったのです」
弁護側は、第一日目より反証の基点をこの死をも暗示した強迫に置くことを、すなわちアイバが捕虜たち同様、強迫下に放送に従事したという線を明白に押し出してみせた。
三日にわたる尋問で、カズンズは次の点を明らかにした。アイバは彼の依頼によって日本軍命令下に彼の下で一兵士としてゼロ・アワーに参加したこと、彼女には日本軍の命令を断わる選択がなかったこと、また彼女の声は、彼がもくろんでいたゼロ・アワー娯楽番組化に、まさしくぴったりのコミカルな声だったこと、彼女の孤児アン放送の原稿はすべて彼が書き、それらの原稿には二重の意味が多く盛り込まれていたことなどである。
「私は彼女に、自分がこの番組の原稿を書くのは日本軍の放送目的を失敗させ、厭戦気分の代りに兵たちの戦意昂揚を図るためだと説明しました」「私は彼女に音楽は兵たちが一緒に口ずさめるような明るく楽しいものを選ぶといいました。私は戦意昂揚娯楽番組の第一目標を、兵たちに合唱させることに置いたのです」
カズンズは、言葉というものはいい方次第でニュアンスが大きく異なってくるとして、コリンズの要望に応えて、アイバにコーチしたという原稿の読み方を法廷で実演してみせさえした。放送用語でいうワイプ(拭う)についても説明した。
「……もし番組にコマーシャルが入った場合、その直後の放送をテンポの早いものなどにすると、スポンサーが意図するものとはまったく違うイメージになります。聞き手の心が今聞いたばかりのものから逸れてしまうからです。いわゆるワイプという効果が出るのです。この理由で、私は彼女にニュースの後に出る時はその直後に間髪入れず『ありがとう、ありがとう、ありがとう』と早口で何度もくり返してみせることをコーチしました……」。彼は自分がアナに起用したアイバの孤児アン放送の責任をいっさい自分で背負おうとしていた。
デウォルフはカズンズの反対尋問には立たなかった。代ったクノップの尋問は、短時間ながら辛辣《しんらつ》なカズンズへの個人攻撃《ヽヽヽヽ》に終始している。被告アイバや放送に関するものは一つもなく、検察側自身がそれまでこの裁判の本筋とは無関係として反対し続けてきた文化キャンプのことに関するものばかりであった。クノップはカズンズが第一ホテルに泊って|豪華な《ヽヽヽ》食事をしていた証拠として、第一ホテルの食券を持ち出し、豪勢《ヽヽ》な捕虜生活のイメージ作りに懸命だった。横浜本牧浜街の芸者屋の話まで持ち出している。被告側花形証人カズンズの人格に傷をつけようというのが、検察側の唯一の反対尋問における目的であったのだ。
検察側はこの種のやり方をインスの場合にも用いている。デウォルフは、インスが戦前フィリピンでスペイン系白人女性と結婚して二児をもうけたのを十分承知していた。にもかかわらず、レイズに、インスが彼と同じ頃|日本で《ヽヽヽ》「フィリピン女性と結婚したのを知っているだろう」という質問で、あたかもインスが捕虜の身でありながら、有色人種《ヽヽヽヽ》フィリピン人と結婚したような印象を与えようとした。人種差別を感じさせるデウォルフの質問の一つである。
「これはまったくの虚偽であり、デウォルフ氏はこの事実をよく知っていた。にもかかわらずなされた、このようなわざと誤まった質問は、法廷の人びとを誤解させ、陪審員たちに偏見を持たせることを意図している。法をあずかる者として、デウォルフ氏は、公廷で宣誓にかけて公式にこれを撤回すべきである」(ザポリ声明)と、インスの弁護人A・J・ザポリも激しく非難している。
9 背後にFBIの圧力が……
実は、ウォーレス・インスとノーマン・レイズは、大陪審後、検察側が最も重要な政府側証人《ヽヽヽヽヽ》として予告していた二人だった。デウォルフも「もし大陪審で起訴となった時は、カズンズ、インス、レイズは政府側にとって是非とも必要な証人たちである……」(デウォルフよりホウィティへのメモ、一九四八・五・二十五)と、強く彼らを政府側証人として要望していた。
しかし、公判開廷直前に、二人はデウォルフの期待に背き、弁護側証人リストに名を連ねた。それだけに「寝返った」二人に対する政府側の圧力は、容易ならぬものがあった。しかも二人は、対米宣伝放送に従事した捕虜という微妙な立場にある。
デウォルフは例のメモで「……彼ら三人は、疑わしいという点では彼女と大差はない」として、アイバが彼ら捕虜と似たような条件下で宣伝放送に従事したことを認めている。政府は特に同じアメリカ人であるインスについては、目下取調べ続行中であることを発表していた。
弁護側につくということは、二人自身の立場をあやうくする可能性を十分含んでいた。土壇場になって自分の信念を貫いた二人の行為は、カズンズの励ましと説得があったとはいえ、勇気を必要とするものであった。
そのため、法廷に現われたインス(三十七歳)には、彼自身の弁護士ザポリが同伴している。終戦で釈放の時、百二十八ポンドに痩《や》せ細っていたというインスは、もとの百七十五ポンドに戻っていた。立派な体格を軍服に包み、口髭をたくわえ、胸に数々の勲章を飾って証人席についた。彼は終戦後、少佐に昇格、サンフランシスコのプレシディオ軍用地に住んでいた。同じアメリカ人として対米宣伝放送に従事したにもかかわらず、民間人であったアイバが反逆罪で起訴され、一般民間人とはずいぶん立場が違う軍人の彼が、起訴どころか反対に昇格していたこの矛盾に疑問を抱いた者は少なくなかった。
インスはカズンズ同様に、アイバが終戦にいたるまで、看守の目を盗んで彼ら捕虜たちに闇市で苦労して手に入れたり、自分の少ない配給から工面した食べ物や薬の差し入れを続けてくれたことを語った。
彼らがゼロ・アワーと無関係になってからも、廊下やレコード保存室で彼女が差し入れを手渡してくれたという。また連合軍ニュースも知らせてくれた。特にフィリピンが連合軍側の手に落ちた時、当地に家族を残して来た彼に、いちはやく知らせてくれたと語った。
反対尋問におけるインスの立場は微妙だった。公判以前に彼はFBIにこの事件に関する供述書を取られていた。その一部はかなり政府側に有利なものだった。
たとえば、彼はその供述書の自分の言葉にしたがって、カズンズが放送原稿に二重の意味を持たせたことを「私の知っている限りでは、ありませんでした」(インス証言、一九四九・八・十八)と否定せざるをえなかった。カズンズの同志だった彼の証言である。弁護側にとっては打撃だった。政府側は、さらに彼が行なった種々の宣伝放送に触れ、決してただではすまないであろうことを暗示してみせた。
テールマンが宇野一麿から取った供述書には、詳細にわたるインスの放送内容が語られている。宇野はインスが日本がまだ負け込んでいなかった時、すなわちどちら側が戦争に勝つかまだはっきりしなかった時点において、日本側に協力的だったと批判している。だが実際には、インスは依怙地《いこじ》で決して上手《ヽヽ》でなかった。文化キャンプで最も日本人看守たちにいびられた一人である。
再主尋問でコリンズは、文化キャンプでの待遇について再び尋問していた。「文化で殴られたことがありますか」と彼は聞いた。「あります。日本軍の浜本軍曹にです。……われわれは殴られ、飢えさせられ、侮辱され続けました」といい終るや、インスは両手で顔を覆った。
一瞬、法廷の人びとには何が起こったのかわけがわからなかった。ちょっと間を置いて顔を上げた彼の頬に涙が光っていた時、人々は愕然《がくぜん》とした。
それまでインスは、みずから進んでドラマティックに証言するカズンズとは対照的に、言葉少なく聞かれたことにのみ最低限の返事を、乾いた抑揚のない声で答える証人だった。無表情で、冷淡にすら見えた。それだけに彼の突然の変化は、カズンズの時以上のショックを人びとに与えた。
「……取り乱して申しわけありません。死と残虐行為について淡々と語るのは、容易なことではありません」とインスがいうと、クノップが「真相を語るべきだ」と異議を入れた。これを聞くとインスは怒りで体を硬直させ「本当のことをいっているのだ」と叫んでいた。
その後さらに「生命を日本人に強迫されたことがあったか」と問うコリンズに、インスは自分の命を強迫した人として、日本軍の浜本、恒石、宇野などの名をあげつらねはじめた。まだ答え終えていないと、かつての屈辱の日々の恨みに燃える目でさらに続けようとするインスに、コリンズはその質問の撤回を申し出て再主尋問を終えたほどである。
だが、現役アメリカ軍人であるインスに検察側が手加減を加えていたことは、次のレイズの時にはっきりする。
終戦後、単身マニラに帰ったレイズは父をマニラに残したまま、一九四七年秋、母と弟妹とともにアメリカに渡り、テネシー州ナッシュビルのバンダビルト大学で英語を専攻する一方、地元の放送局でアナとして働いていた。裁判当時、彼は師岡と別居しており、やがて離別している。
ラジオ東京の女性タイピストたちを騒がせたこともある、やはり背が高くてハンサムな二十七歳のレイズは雄弁に語り始めた。彼はコレヒドールでインスとともに捕虜となった。フォート・サンチャゴ監獄で二人の友人が、日本軍のために殺害されるのを目撃した後、「日本に行くか、それとも斬首か」と迫られて、宣伝放送のために日本へ送られた経過を、静かに語った。
先の二人と違い、レイズは初放送から終戦まで、アイバの放送にはほとんど必ず立ち会ったという。カズンズがいなくなってから「私が彼女の原稿を責任持ってみることになりました」(レイズ証言、一九四九・八・十九)と彼は語った。時々、参謀本部から挿入せよと送られてくるニュース資料は、「原稿の書き方が分らないアイバに代って、私が挿入しました」ともいう。そしてアイバの放送には、ひとつも宣伝らしきものがなかったと、いい切った。
インスが「そんなことは知らない」といったのとは違い、アイバが強迫下に放送していたとレイズは証言した。
「彼女は幾度もやめたいといっていました。はっきりそのことで記憶しているのは、一九四四年十二月十九日、私の妻の誕生日に目黒のわれわれの借家にアイバがフィリップと一緒に遊びに来て話をした時のことです。
私は空襲がもっと激しくなることを予想して、妻とともに疎開することを考えており、アイバにもそうした方がよいとすすめました。すると彼女は自分もそうしたいが、そうなると局をやめることになり、軍になにをされるかわからないので恐ろしいといってました」(同証言、一九四九・八・十九)
主尋問でのレイズの証言は、弁護側に大きな得点をもたらした。
カズンズ、インスの時はクノップに任せっぱなしだったデウォルフが、レイズの反対尋問には再び立ち上がった。
「この法廷で真実を話したのかね?」「私の質問の意味が分るか?」「すべてここで証言したことは真実だね?」「確かに、すべてだね、ノーマン?」「本当のことを語ったかどうかは、君自身が一番よく知っているはずだね?」このような質問で始まった彼の尋問は、四日間の長きにわたり「本当のことをいっているのか?」の一線で、レイズをこれでもかといわんばかりにしめ上げた。
レイズも公判前に検察側と弁護側両方の召喚状を受け取っていた。大陪審の時も証人として出た。一九四八年四月ナッシュビルのFBIに、さらに十月大陪審前後にサンフランシスコでFBIのダンとテールマンに、計三通もの供述書を取られていた彼を、検察側は確実に自分たちの証人として安心しきっていた。ところが、公判数日前の六月三十日、サンフランシスコの連邦ビルにある検察側本部に出向いて来たレイズは、開口一番弁護側証人として立つことを宣言したのだ。デウォルフは、この裏切り者の若造を八つ裂きにする気迫を見せていた。
それまでは、どの証人に対しても「さん」づけで呼んでいたのに、レイズに対しては「ノーマン」「レイズ」と、その名を終始|居丈高《いたけだか》に呼び捨て続けた。そしてレイズが未だフィリピン国籍であること、彼の父がフィリピン人、母がアメリカ人であり、妻は日系人であることに何度も触れてみせた。デウォルフは、これらの人種混合を陪審員たちの頭にはっきり刻み込もうとするかのようだった。
「東京ローズ裁判の傍聴席では、日系人をはじめとする証人へのデウォルフの人種差別主義者的傾向を非難する声が聞かれた」(パシフィック・シティズン紙、一九四九・九・十七)。特にこの傾向はレイズの反対尋問に明瞭である。
デウォルフの武器は、レイズの三通の供述書であった。彼はそれを十二分に利用してみせる。「私はアイバを放送活動に従事させるためのいかなる強迫も強制も知りません。……私は、彼女がラジオ東京に参加したのは、収入を増したかったのと、ラジオアナになるという考えが悪くないと考えたからだと思います。……私は彼女が日本派だという印象を受けていたので、彼女を信用していませんでした」(レイズのFBIへの供述書)
主尋問でレイズは「彼女に自分の生命を預けられるほど信用していました」と強く証言していた。
デウォルフは、これらレイズの主尋問における証言とは真っ向うから反するFBIへの供述書を、声高に読み続けた。
「デウォルフはレイズに、彼の法廷における証言をのむか、それともそれと相反する昨年FBIに与えた供述書をのむのかと激しく迫った」(サンフランシスコ・エグザミナー紙、一九四九・八・二十)
まる二日間、容赦なく続いたサディスティックで侮辱に満ちたデウォルフの尋問に、若いレイズは驚くべき冷静さを守ったが、ついに供述書には不真実があることを認めるにいたっている。
「『ノーマン、ラジオ東京で働くのを止めたら、死や拷問の強迫を受けると思ったことはなかったね?』『ありました』『レイズ、この供述書で君はラジオ東京の放送をやめたら死や拷問の強迫を受けるという印象は一つも受けなかったといっているじゃないか。それではこれは虚偽だというのだね?』『そうです』」(レイズ証言、一九四九・八・二十二)
この瞬間こそ、デウォルフが手ぐすね引いて待っていたものだ。「ウソをついたのだね?」「ウソというのだね?」デウォルフはこのウソという言葉を何度もくり返した。彼はレイズを公に|ウソつき《ヽヽヽヽ》と名ざし、|ウソつき《ヽヽヽヽ》の烙印《らくいん》を押すことによって、願わくばレイズの前に出た二人の弁護側証人たちの証言も事実上疑わしいものとしようと企てていた。彼の意図は当ったといえる。翌日の各紙は、第一面に最大限の活字でデカデカと「東京ローズ裁判の証人ウソを認める」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・八・二十三)とその見出しを飾ったのである。
「レイズの証言は弁護側にとって非常にマイナスだった。コリンズたちにとってレイズの供述書はとてもショックだった。もし証言と正反対の供述書が政府側の手元にあると知っていたら、レイズを証人台に上げなかったと思う」(インタビュー)と中村哲次郎はいう。レイズはどんな内容の供述書をFBIに取られているかを、はっきりコリンズに説明していなかったらしい。中村以外にも、レイズ証言が弁護側に与えた損害ははかり知れないという人は多い。レイズ自身、現在にいたるまで「自分のナイーブさ」が弁護側に及ぼした影響を気にしている。しかし彼の証言がマイナスだったとばかりは一概にいえないのではないか。
レイズは、FBIのダンとテールマンに四日もしぼられた末に供述書を取られていた。「FBIは、インスもカズンズも、アイバもお前のことなどかまいはしない。お前は非常に疑わしい立場にいるのだ、といったのです」(レイズ証言、一九四九・八・二十三、以下同じ)。特にダンは人前では使えないような下品な言葉を連発し、「もし反対側に回るというのなら、それでもよい。お前についてはいろいろ調べてあるのだ。フィリピンのCICにいる友人に通知するだけだ。そうなったらうまくないだろうなあ」と学生ビザで外国人としてアメリカにいる、やはり対米宣伝放送に参加したレイズをおどしたという。
「私には頼れる人はひとりもいませんでした。……私は自分の目の前で歴然たる犯行なるものが作られていくのを見るにおよんで、もし反逆罪成立に必要なのがこれらの歴然たる犯行だけだとするならば、私もアイバ同様に有罪だと思ったのです」
一つ質問に答えるたびに、でたらめだろうと議論が続いた。その末に、FBIがレイズの言葉として作り上げていくものは、まったく政府側に有利なニュアンスの言葉に変わっていた。レイズは恐怖にかられた。
「私はなんにでもサインして、一刻も早く彼らから解放されたかった。まったく、もう沢山だと思いました。私には、二人のFBIが、またその場の雰囲気が恐ろしかった。自分の置かれている立場が心配でたまりませんでした」
レイズの証言は、人権を無視したFBIの越権行為を明白に人びとに印象づけたはずだ。弱い立場にあるレイズをおどして彼らが供述書を取ったことに疑いの余地はない。FBIの取調べの行き過ぎは否定できない。これから見ても、FBIが政府側に有利な証言をさせるために日本から来た同じく微妙な立場の幾人かの証人に、どのような圧力を用いたかは推して知るべしだ。
しかしそれに屈した彼らと違い、レイズは彼自身の供述書とあえて対決した。彼はそのためウソつきと公に名ざしにされ、生涯忘れえぬ屈辱を受けた。それを一人飲みこんで証人台を下りた若いレイズの行為は、やはり勇気のいるものではなかったろうか。
10 ドイツ・アワー
弁護側も、かつて太平洋の各地で孤児アン放送を聞いたという八名の元GI証人を出している。
彼らはみずから弁護側に協力を申し出ている。かつての孤児アン放送のファンたちであった。孤児アン放送には間抜けなどの言葉を使ってはいても、少しも悪意とか毒々しさがなく、むしろ非常に楽しい放送であったと力説した。
元海軍のサム・スタンレーはアドミラルティ島で毎日のようにアン放送を聞いたという。アン放送を聞きに集まったGIたちは、ラジオのあるテントに入りきれず、雨の中でも濡れながら耳をかたむけるほどの人気だったと語った。
彼はデウォルフに「私が本当に聞きたかったのはその音楽なのです。私も、才気縦横で猥《わい》せつな話をするという東京ローズの放送を、まだ聞いたことがなかった他の多くのGIたちと同様、一度でよいから聞いてみたいものだと思ってはいました。でも残念ながら一度もそんな放送を聞いたことがありません」(スタンレー証言、一九四九・八・三十)とアン放送と東京ローズを区別している。
海兵隊情報部員でサイパンにいたロバート・スピード(現在弁護士)は、仕事として毎晩孤児アン放送に注意したが、「他の番組では宣伝を聞いても、ゼロ・アワーに宣伝はなかった」(スピード証言、一九四九・八・三十)と結論したという。彼は、情報部員である。だが、ホートが証言したような海軍情報部からの孤児アン放送についての警告を全然聞いたこともないと証言した。
元海軍下士官ジェームス・ホウィトンは、スーターの「サイパン島は爆弾が……」の放送に対して次のように証言している。「ナノミア島でそれより九カ月ほど前にこれと同じような恐ろしい話を聞きました。次の満月までには、ナノミア島には一人の海兵隊も生存していないだろうというような話です。太平洋地域のGIの間でこのような話はよく聞かれたのです」(ホウィトン証言、一九四九・八・二十九)。だが、彼はラジオ東京からそんな話を聞いたことは一度もなかった。
彼らの中で最も重要な証言をしたのは「黒い肌の証人」と新聞に書かれたインド系アメリカ人カミニ・グプタである。
彼は陸軍上級准尉としてアラスカ・アンカレッジの陸軍法務部門にいた。戦時中を通して何回もアラスカ防衛本部の幹部将校間に、アラスカ情報部より次のような孤児アンに関する極秘のブルテン(回覧)が回って来たと証言した。
「ラジオ東京の孤児アン、またはゼロ・アワーの東京ローズは、アラスカ領域におけるGIたちの戦意を鼓舞する強力な要素である」(コリンズ、一九四九・八・三十一)
孤児アンは、政府側が主張するようなGIたちを厭戦気分に陥れた悪意ある宣伝放送であるどころか、反対にGIの戦意を奮い立たせるよい放送であると、アメリカ軍が認めていたというのだ。これは終戦時、海軍が東京ローズに出した感謝状の主旨と相通じるものがある。
この重大な証言に対し、デウォルフはなぜか猛烈に激しい異議申し立てをしている。コリンズが質問の中に取り入れたこれらの言葉に、グプタが「その通りです」と答えるのがやっとのありさまであった。
コリンズは、この極秘ブルテンを手に入れようと躍気になったらしい。しかし政府側は「そんなものは見当らぬ」と一蹴した。現在弁護士をしているグプタは、「私は当時法務部でいろいろなGIによる犯罪事件を扱っていた。ブルテンの中では、特にGIたちの士気に関するものに注目していた。その頃、アラスカ、アリューシャン方面のGIの娯楽といったらラジオくらいのものでした。男ばかりの中で、GIたちは気が立っていた。だから彼らをリラックスさせる番組として、アン放送は推奨されたのです。ゼロ・アワーのような番組があったのはアメリカ側にとってありがたかった。同じ内容のブルテンが何度もまわってきたので、よく覚えてます」(インタビュー)と語っている。
これら弁護側元GI証人たちに対するデウォルフの態度は注目に値する。彼の反対尋問は、彼らがそのために証人席に上っているアイバのアン放送についてではない。彼らの政府側への態度についてであった。
かつて自国のために勇敢に戦った彼らが、その彼らの国を代表するFBIや検察側に協力せず、反対に反逆罪で彼らのアメリカ政府が起訴している日系女性を支持するとは、どういうことなのか、という非難がデウォルフの言葉にははっきり含まれている。なおこれらの証人たちは弁護側証人リストに名を連ねるや、ただちにFBIの訪問を受けていた。
この種の政府側の嫌がらせを受けたのは元GI証人たちだけとは限らなかった。弁護側証人全員が、なんらかの形でFBIの干渉を受けている。九月一日証人台に立った「美しい二世女性」ルース・ヨネコ・カンザキ(二十四歳)もその一人である。FBIは公判前にニューヨークの彼女のアパートにやって来ると、彼女が|つわり《ヽヽヽ》で苦しんでいるのにしつこく粘り、ついに供述書を取っている。
カンザキは妊婦服を着て一週間前から証人控室に入っていた。だが、その名前が聞きなれなかったためか記者たちはそれほど注意を払っていなかった。
ところがカンザキは、結婚前の名を松永といい、早稲田でアイバや伊藤チエ子とともにアメリカの勝利を予告した三人娘の一人だった。しかも彼女はその後、「ドイツ・アワー」という番組の女性アナウンサーをしていたのである。
カンザキはフェリス女学院に通っていて動員され、午前中は軍需工場で働かされた。午後はドイツ大使館がやっていた「ドイツ・アワー」の英語アナウンサーとして使われた。この番組はドイツ大使館の直轄下にあった。スタッフは大使館内にオフィスを持ち、NHKとも日本軍とも完全に無関係だったが、NHKのスタジオを使って放送していた。ドイツ大使館が、この放送に必要な英語を話す若い女性を日本政府に依頼した結果、カンザキが徴集されたのである。
ドイツ・アワーはベルリンでやっていた対敵放送をそっくり真似た、どぎつい宣伝放送であった。中心的存在は、上海のドイツ放送で活躍した後、東京へ呼ばれたレジナルド・ホーリングワースである。例のリリー・アベッグも時に放送原稿を書いた。
カンザキが語るこの番組の彼女の役割は、驚くほど孤児アンに似た構成のディスク・ジョッキーであった。使ったレコード音楽もNHKのレコード室で選ばれている。アイバが使ったものと同じものが多い。アイバが使用済みのレコードを一度ならず彼女は借りにさえ行っていた。だが、レコードの合い間に入るおしゃべりは、まったく異質のものだった。
ホーリングワースの書くカンザキのおしゃべりには、激しい宣伝放送が盛り込まれていたという。
彼女の放送の前後には、ミス・クレマー(後にホーリングワース夫人)の、息子を失って泣き叫ぶ母や恋人の放送もあった。これらがベルリンのギラー放送を参考にして作られたことは間違いがない。カンザキ自身、ドイツ大使館でよくギラーの放送を勉強のために聞かされたと語った。
この番組は、カンザキが出だした頃から捕虜番組ヒューマニティ・コールが終った後の午後一時半、スタジオNo4を使って放送された。それまでは午後五時半、ゼロ・アワーの直前に同じスタジオNo5を使って放送されている。またゼロ・アワー同様、南太平洋方面にも送られている。カンザキ並びにミス・クレマーたちドイツ・アワーのスタッフは、アイバより一層強力な東京ローズ候補者だったわけである。
NHKに通い出したカンザキとアイバは、時々廊下ですれちがう時など、簡単な挨拶を交していた。しかし二人はほとんど話らしい話はできなかった。「捕虜番組ゼロ・アワーのスタッフは日本《ヽヽ》の敵だから、決して彼らと口を聞いてはいけないと強く申し渡されていたのです」(カンザキ証言、一九四九・九・一)
11 もう一人の「東京ローズ」
タンバが三井ビルで、司法省のストーニーとともに取った宣誓供述書のうち、十九人の供述書が法廷で読みあげられた。しかし短く限られた尋問である。その答えすら、たびたびのデウォルフの異議で陪審員の耳にはほとんど届かなかった。弁護側はこのような最低限に限られた手段によってしか、アイバの元NHK同僚の証言を取ることができなかった。まったく不利な立場にあったといえよう。
その中で、「彼女の放送でアメリカを傷つけるようなことを私は聞いたことがなかった」(早川宣誓供述書、一九四九・八・二十四)という、日曜版ゼロ・アワーおよびアイバの代理を務めたルース早川の証言と、米州部のタイピストとしてよくアイバの放送原稿を検閲用にタイプしたリリー・ゲバニアンの「アイバの原稿で、妻や恋人の浮気とか、船舶沈没および軍行動予告、その他一切タイプしたことがなかった」(ゲバニアン宣誓供述書、一九四九・八・二十四)という証言は重要視される。
だが、一番注目された供述書は、ニューヨーク生まれで、戦時中、同盟記者だった村山謙の証言である。彼は直接アイバを知らない。村山は同盟マニラ支社に送られて、マニラで日本軍がやっていた対敵宣伝に関与した。「マニラ・ローズ」とうたわれたメートル・リプトンの放送に直接関係した一人であった。
東京ローズ放送といわれるものは孤児アン放送ではなく、ドイツ・アワーを含めた他の番組、および他の日本軍コントロールのアジア各地からの放送であったのでは、と弁護側は一貫して主張してきた。
たしかに戦時中、東京ローズの名を初めて聞いた時、NHK米州局員たちは南方《ヽヽ》からの放送ではと疑った。村山はその南方放送で名高いリプトンの放送原稿を書いたという。「彼女の放送原稿は南太平洋で戦っているGIたちの間に望郷の念を起こさせることをもくろんで書かれました。彼らに国で過ごした楽しい時を思い出させようという調子のものでした」(村山宣誓供述書、一九四九・九・六)
「南太平洋地方でGIたちが戦っている間に、恋人や奥さんが他の男たちと遊んでいるという放送原稿がありました」「マラリヤとかジャングルの悪疾とか、正確な文章は覚えていませんが、南方に流行する病気に関することも原稿に書かれたのは確かです」(同供述書)
GIに奨められていたマラリヤ予防薬は、彼らを不能にするという放送を東京ローズがしたと伝えられていた。いわゆる東京ローズ放送といわれるものだ。
その上、リプトンは非常にセクシーな声を持っていたという。「放送によい声でした。かなり低く、ハスキーな声です。とてもよくマイクに乗り、番組の趣旨によく合った声でした」(同供述書)。村山はリプトンの声をトーチ・シンガー、すなわち、失恋などを主としたセンチメンタルなブルースをむせび泣くように歌う歌手にたとえている。
短い村山の供述書は、以上のようにリプトンの放送が東京ローズ放送に近いものであったことを認めるに留まっており、タンバもそれ以上突っ込んでいない。しかしこのリプトン放送こそ、東京ローズ事件の鍵を握るものであったのかもしれない。
「彼女は二十二歳、アメリカ人との混血で(父がアメリカ人)、濃い茶色の瞳に黒い髪、皮膚はこんがりと小麦色、五フィート四インチ(約一六二センチ)くらいで、素晴らしいその足から始まって、すべて若手女優のようだった」(ヤンク誌、一九四五・六・二十九)
リプトンの魅力に魅せられたのは、連合軍がマニラ占領後、マニラ郊外にフィリピン人の母と妹とともに住んでいた彼女をインタビューしたヤンク誌の記者ばかりではなかった。村山を初めとしてリプトンを知る人びとは、こぞって彼女のまれに見る美しい姿態に強く魅せられたようだ。
リプトンはマニラに生まれ育った。マニラ市の女子短大にちょっと行った後、アメリカ海兵隊について上海に行き、一年ほどいた。そこで一体なにをしていたかははっきりしないが、その時、彼女がほとんどアメリカ人と聞き違えるほどのアメリカ英語を身につけたことは確かなようだ。
その後、彼女は再びマニラに戻った。一九四四年三月、ラジオ・マニラに勤めていた友人から、日本軍が南太平洋向け宣伝放送に使うアメリカ英語を話す女性を求めていると聞くと、早速テストを受け、採用される。ラジオ・マニラを取りしきっていた日本陸軍報道部の大村は、リプトンの声以上に彼女の美貌が気に入ったらしい。その時リプトンは十九歳である。
彼女の担当した番組は「メロディーの小路」と名づけられている。午後五時半から六時までの三十分音楽番組だった。二つの周波数を使って、主としてニューギニア方面へ流されている。リプトンは初め本名を使うのを嫌がって、メアリーという放送名を使うことにしたが、初放送の時、自分ですっかりそれを忘れてしまい、本名のメートルで放送を終了してしまった。大村はその方が実感があるとして気に入り、以後メートルを放送名とした。
常に「蛍の光」で始まり、リプトンのアロハという挨拶で終了するこの番組は、彼女の単独番組である。彼女はディスク・ジョッキーとして、一九四一年以前の音楽レコードを七、八枚かけ、全部で四、五分ほどのおしゃべりを入れた。アイバの孤児アン放送とまったく同じ構成の放送だったわけである。
「大村は時々メートルに|東京ローズ《ヽヽヽヽヽ》放送を聞かせ、その真似をするようにいった。ローズのテクニックはとてもGIに受けるのだ≠ニ大村はいった」(同誌)。大村がいったというローズ放送とは、ラジオ東京からのどれかの番組を指す。果たしてそれはアン放送だったのだろうか。それともドイツ・アワーだったのか。
「アメリカ生まれのジャップ、バディ宇野が書いた原稿には『デュポンで働いていた4Fと結婚してしまったベティと過ごした昔のよき日や、セントラル・パークの月の夜の思い出』などのばかばかしい話がふんだんに使われた」(同誌)
リプトンの放送原稿は、英語がうまくない大村に代って、村山とともに文化キャンプから左遷されて来ていた宇野一麿が担当していたのだ。
「あの故郷での爽やかな午後のフットボール試合……フォードの新車に乗ったジムとアン……アンはジムがもう帰ってこないと思って結局ジョージと結婚したそうね……」(同誌)
タンバは宇野の宣誓供述書を取った時、彼がリプトンのことになると立て板に水のごとくいきいきと語ったのが印象的だったという。「彼女の放送は素晴らしかった。パンチがあったしセクシーだった。実にうまかった。彼女は心も魂も打ち込んで放送した。GIたちに受ける感じの|流 暢《りゆうちよう》な英語を話しました」「彼女は恐ろしいジャングルの光景とか空襲について、塹壕の様子などを描写してみせると、その直後に『自分たちがなんの目的で戦っているのかも知らず、ジャングルで死なねばならないなんて、あなたたちは本当に可哀そうね』などといって、故郷での『よき日の思い出』を語って聞かせました。彼女は実に自然にうまく話したのです」(宇野、未使用宣誓供述書)
宇野はまた、リプトンが使った音楽をゼロ・アワーの音楽と比較している。「ゼロ・アワーでは常にいきいきとしてテンポの速い音楽を使い、日曜日はクラシックが主だった」「マニラではよき昔を思い出させる望郷の一点にしぼって、スローテンポでノスタルジックな音楽が多く、クラシックはめったに使わなかった」(同供述書)という。
一九四四年十月末、レイテ島沖海戦頃から、リプトンはそれまでの単独番組をやめている。ニュースその他で構成されている一時間番組の中で、マージー(宇野はサディともいったという)の名で、ほとんどアドリブのディスク・ジョッキーをやるようになった。
宇野は東京にいた時、ゼロ・アワーをよく見聞きし、そのスタイルに通じていた。彼が担当したリプトン放送が、ゼロ・アワーに似たスタイルの番組であったことに間違いはない。連合軍捕虜であり、日本軍の望郷作戦を挫《くじ》こうともくろんだカズンズと違い、宇野は二世といえども日本軍属として、日本の勝利を望む日本人《ヽヽヽ》であった。彼が十二分にどぎつい宣伝を、リプトン放送に盛り込むのになんの遠慮もいらなかったはずだ。
「私は日本派でもアメリカ派でもない、フィリピン派なのよ」(ヤンク誌、一九四五・六・二十九)というリプトンは、浴びるようによく酒を飲んだ。彼女は日本宣伝放送に参加しているということで、他のフィリピン人からは日本派として白眼視されている。一方、アメリカとの温血である彼女を日本人が信用するはずがなく、定期的に憲兵隊に取調べられていた。彼女は生活のため放送を続けたという。それでも二度ほど放送を止めたいと申し出て、そのたびに首につながる問題だとおどかされたらしい。
「彼女は時々かなり酩酊して放送開始直前にスタジオ入りしました。『大丈夫よ』といいながら、そこにいる謙(村山)などから放送原稿を受けとると、マイクに向い、プロのアナのように放送し始めたものです。と、急に酔いがまわったのか、まったく原稿にないことを勝手にしゃべり出すのです。でも、少しも心配はいりませんでした。酔っている彼女の放送がまたそれなりに非常に効果的だったのです」(宇野、未使用宣誓供述書)と宇野のリプトン賛辞は続く。
リプトンについて最もはっきりした証言のあるこの宇野の供述書を、コリンズは法廷で使用しなかった。供述書の反対尋問で、宇野がアイバ放送とリプトン放送を混同していることを、指摘した個所がある。それが使わなかった理由といわれる。しかしそれは宇野の記憶違いであったことがはっきり認められている。
明らかに最も強力な東京ローズ候補であり、またアイバのアン放送と混同された可能性が強いこのリプトン放送を、弁護側はもっと突っ込む必要があったのではなかろうか。それにしても、これらの証言を宣誓供述書でしか取ることができなかった弁護側は不利の一言につきる。
ヤンク誌記者が写真を取りに再びリプトン宅を訪れた時、彼女は忽然《こつぜん》と消えていた。やはり彼女は宣伝放送に従事したことを気にしていたのだ。
リプトンの話はこれで終りではない。現在サンフランシスコで弁護士をしているニコラス・アラガは、一九四五年マニラ占領と同時に、テールマンとともにワシントンよりマニラに送られたFBIの一人だった。彼は、テールマンが東京に移った後もマニラに残って、マニラ駐在第八軍G2の民間問題担当という形で、戦時中日本軍に協力したフィリピン人の調査に当っていた。ある日の昼食後、CIC将校の一人より電話を受けた。反逆罪の疑いがかかっていた若い女性の取調べに立ち会うように依頼された。
「私が取調べ室に入って行くと、一人の美しい女性を囲むようにして、CICの大佐、少佐、中尉の三人が坐っていました。取調べはすでにかなり進行していたようで、皆とても楽しそうにさえ見えたのですが、私が入って行ったために座が白けた感じになりました」(アラガ、著者とのインタビュー)
大佐はほとんど何もいわずに机の向こうに坐っており、中尉がノートを見ながら彼女に質問し、それを少佐が机の上でノートに取っていた。その若い女性、すなわちリプトンは落ち着いて質問に答え、実に美しく、それを彼女自身が一番よく知っている風だった。しばらくして取調べが一段落ついた時、中尉が「ニック、なにか彼女に尋ねたいことがあるか」とアラガに聞いた。
「そこで私は、以前手に入れた日本軍協力者リストの中にリプトンの名があったことを覚えていたので、彼女の放送に関するごく形式的な質問を二、三しだしたのです。特にどうという質問でもなかったのに、十分もしないうちに、今までと違って緊張し、目をきっとさせていたリプトンが、どもりながら泣き出してしまったのです」(インタビュー)
アラガは驚いてしまった。誰かが急いで持ってきたコップの水を飲んでしばらくすると、リプトンは落着きを取り戻したようだった。また二、三の質問をすると、彼女は再び泣き出した。その時、大佐が不機嫌そうに「彼女は一日中取調べが続いてくたびれているから、次の機会にしよう」といいだした。アラガはそれを承知してすぐ引きあげた。
その後、アラガはリプトンに関するなんの連絡もCICから受けなかった。六〜八週間も後、CICのファイル保存室で調べ物をしていた彼は、偶然目についたリプトンのファイルに目を通してみた。その中の、彼が立ち会った日付の十二枚ほどの取調べ報告書には、「FBI捜査官ニコラス・アラガが調査打切りに賛同した」という一条をもってリプトンの取調べを打ち切る、となっていたのである。
FBI捜査官は原則として、事件の結論を下したりはしないことになっている。驚いたアラガは早速自分のオフィスに戻ると、ワシントンのフーバーFBI長官に、FBIを利用したこのCICのでたらめな調査報告について一報した。しかし彼はフーバーから、それについてなんの連絡も受け取らなかった。またフーバーがマニラの第八軍G2に抗議を申し入れたかどうかも知らないという。
しばらくして、アラガは使っていたフィリピン人|密告者《インフオーマー》から、実はリプトンはあの時立ち会った大佐の女で、一緒に住んでいるのだと知らされた。彼女は幾人かの高級将校間でたらい回しされているらしいという話だった。その後、リプトンは死んだと噂された。いやそれは反逆罪逃れに流された噂であり、実は彼女はアメリカ軍人と結婚してアメリカへ渡ったのだという説もある。問い合わせたワシントン国立文書保存所のフィリピン駐在第八軍CICのファイルには、リプトンに関するファイルは何も残ってないという返答だ。まったく不思議な話である。
12 アイバ、証言台に立つ
さて、九月六日と七日の二日間、アイバの夫フィリップ・ダキノが証人台に立ったあと、コリンズが静かな低い声で、「アイバ、証人席へどうぞ」といった。それは法廷の人びとが予期していなかった「驚くべきドラマティックな弁護側の動き」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・九・七)ではあった。
相変わらずグレンチェックのスーツに白いブラウスを着たアイバは、ちょっと頭をかしげて、平べったい靴でぎこちなく証人台の方へ歩みよると、宣誓のため右手を挙げた。時に午後二時十五分、公判第四十六日目であった。傍聴席第一列には目をふせた父の遵、頭をちょっと斜めに傾けた妹ジューン、そして心配そうに妻を見つめるフィリップの姿が見られた。
「私はこう思ったのです。証人席に上って、ただ真実のみをいおう、真実こそ勝つのだと。私の家族は私が証人席に坐るのをとても心配していました。でも、私はそれほど心配ではなかった。私はアメリカを裏切ったという気がこれっぽっちもなかったのです。もし少しでもそんな気があったら、あの法廷に立っているはずがなかった。リスボンへでもどこへでも逃げていたはずです。そのチャンスはあったのです」(インタビュー)
事実、彼女が再逮捕される直前に、ポルトガル領事ノゲイラは、リスボンに逃げることをアイバに奨《すす》めてくれた。彼は、ポルトガル領マカオ回りの切符の手続きさえ取ってくれた。領事は、アメリカ政府がこれほどの力を入れている事件で、日系人たるアイバが勝つ見込みは薄いと見ていた。彼女は、この彼の好意を断わった。自国の法廷で真実を語れば、分ってもらえるに違いないと一途に信じて疑わなかった。
苦労人である遵は、陪審員たちに娘の本当の気持がどれほど通じるか危惧《きぐ》していた。結局、アイバが日本で置かれていた立場・状態を、どこまで陪審員たちに理解させられるかにすべてはかかっていると思えた。それなのに、検察側はその状態を弁護側に説明させまいと異議をとなえ続けてきた。裁判官もそれを支持し、事件の背景を無視した。
憲兵隊、特高に関することも、文化キャンプ捕虜の状態も、捕虜へのアイバの差し入れもすべて無視された。また一年に及ぶ巣鴨での拘置に関する事柄も無視された。「裏切り者を甘やかすな」、それが政府側の一貫した態度であり、「裏切り者をかばう奴も裏切り者」、それが政府側が弁護側証人に取ってきた態度であった。
アイバが「すべての真実、真実以外の何ものでもない真実を語ると誓うか」と問われて、「誓います」と答えた時、法廷は水を打ったように物音一つ聞かれなかった。しかしすぐ囁《ささや》き声がみなぎる。記者たちは一斉に電話を入れるためにドアの方へ散った。廷吏が手で注意を促し、やがて再び静かになると、コリンズの主尋問が始まった。
ロッシュはその前日、判事に任命されて満十四年目を迎えていた。アメリカ星条旗を背にして証人席に浅く腰かけたこの「悪名高き被告」を、彼は興味深そうにじっと見詰めた。
アイバの青い顔は十週間にわたった長い裁判のやつれを見せていた。神経質になっていたが、彼女はそれを声に出さなかった。「アイバ・郁子・戸栗・ダキノ」、現住所を世田谷区池尻町三九六と答える彼女の肉声を、法廷の人びとは聞いた。政府側は「優しく魅力あふれる」声といい、弁護側が「酒荒れしたような」と主張するその|名高き《ヽヽヽ》声を、彼らは初めて聞いたのだ。果たしてそれは男心を溶かすようなセクシーで誘惑的な声だったのであろうか。
「堅い声」「冷たく、金属的な、ほとんど男っぽい」「耳ざわりで、がさがさした」と各紙は彼女の声を表現している。それはお世辞にも政府側がいうように優しくてセクシーな声ではなかったのだ。「この声が本当に太平洋のGIたちを魅惑したという東京ローズの声なのか」という疑問を持った法廷の人びとは少なくなかった。疑問を率直に投げかけた新聞もある。人びとは大いに失望したのである。
しかしアイバは法廷の隅々にまでとおる大きな声で、はきはきとコリンズの尋問に答え始めた。これまでも両側証人たちによって、断片的にではあるが何度となく繰り返され、法廷の人びとにはすでになじみとなった身の上話を、彼女はしっかりとした語調で話していった。彼女がかすかに微笑を浮べながら、ブロークンな英語を話した日本人の亡き母の記憶に触れた時、妹のジューンはそっと涙を流し、遵はハンカチで鼻をかんだ。
翌九月八日、アイバは前日にもまして、自分を制しきれないかのように語り続けた。日本への出港、無駄に終った帰国への努力、そして真珠湾攻撃、ゼロ・アワーのアナウンサーとなるまでの過程を、彼女は話し続けた。時には、コリンズの質問が終る前に話し始めていることさえあった。
「大きな声を出す小さな女性は大袈裟《おおげさ》に、早口で喋《しやべ》りまくった。……いかにしてゼロ・アワーのアナとして選抜されたかを語る彼女の黒い瞳は光り、薄い唇はますます横に広がり、真っ黒くてまっすぐな髪は硬直してゆくかのようだった」(サンフランシスコ・エグザミナー、一九四九・九・九)とハースト系紙であるエグザミナー紙は書いている。これでも分るように、彼女を好意的な目ばかりが見ていたわけではない。
主尋問第三日目の九月九日、証人席に上ったアイバには別人のような変化が見られた。前日までの力強い、しっかりした声とは違い、彼女の声には元気がなかった。時としては囁くような小声になり、どもりさえした。手にはハンカチを神経質そうに握りしめ、二、三度ならず唇をぎゅっと噛《か》んで、明らかに感情を制しようと努めていた。何度か涙が流れそうになると、素早く指でさっと気丈に拭き取った。
前日法廷を退いてから、どんな心境の変化が起こったのだろうか、と人びとは疑った。彼女は次第に疲労してきたのだろうか。それとも間近に迫った検察側の尋問に、神経質になっているのか。
コリンズの尋問も前日までのように順を追わず、あちこちと飛び回って、すべてを押し込めようとするかのようだった。彼は再び強迫について触れていた。ゼロ・アワーを辞めたら一体どうなるかという恐怖がアイバにあったのだろうか。あったと彼女は答えた。それを直接、日向からいわれたことさえあったという。
「一九四四年九月、日向は私が参謀本部に協力するという口約束を取りにきました。彼は同じような口約束をすでに古屋、沖その他のゼロ・アワーのスタッフから取りつけており、私が最後の一人だといいました」(アイバ証言、一九四九・九・九)
日向は恒石とゼロ・アワーのスタッフの連絡役のような仕事をしていた。スタジオへ入る前の小さな部屋でアイバをつかまえると、彼女の答えを迫った。放送開始直前の時だった。
「私は、そんなことをするくらいなら即座に辞めて、結果を甘んじて受けるといってやりました」(同証言)
フィリップの友で、アイバも日頃から気安くしていた日向に、彼女はかなり安心してものがいえたとみえる。日向は、ますます情勢は悪化しているので、素直に口約束した方がよいと、日頃になく強い調子で繰り返した。「私はたった一つの目的のためにゼロ・アワーにいるのだ、私はすべて終りになるまで捕虜とともに行動するだけだといったのです」(同証言)
彼女はそれ以上続けられなかった。その時のせっぱつまった気持を思い出したのだろうか。それとも、そうまでして捕虜と行動をともにと願った自分が、アメリカへの反逆罪の被告として証人席に坐っている皮肉に堪えられなかったのか。彼女の目には涙があふれた。ちょっと沈黙が続いた後、ぎゅっと唇を噛んで、アイバは上を向いた。
「彼は一体、恒石になんといったらよいのだと聞くので、私は好きなようにいったらいい、私は今日で局を辞めるといいました。彼はそんな風にはいえないとぶつぶついっていました」(同証言)
結局、日向は適当に取り繕ったらしく、アイバはその後それについてなんの制裁も受けなかった。
彼女は戦時中、あらゆる意味での日本軍への協力を極力避け通したとも語った。すすめられたにもかかわらず戦時公債を一度も買わなかった。日本赤十字への寄付も断わり、軍が古着金属宝石類を毎日のように募って歩いた時にも、一度も協力しなかった。反対に古着などは、農家で捕虜へ差し入れる食べ物との交換に使った。日本語が分らないという理由で、防空訓練にも参加したことがなかった。宮城の方を向いて礼をしろといわれるのがいやで、市電を途中下車したことすらあった。
コリンズは、政府側元GI証人のアン放送なるものをひとつひとつ読みあげていった。アイバは「ノー」または「ネバー」と全身の力をその言葉に込めてそれらを強く否定した。軍の予告も、妻や恋人たちの浮気も、4Fも、特定の島の名も、月の夜のダンスも、彼女はそれらに似たようなことすら放送しなかったという。宙を睨《にら》み、「ネバー」と激しく否定するアイバの声は、法廷の人びとの耳に深く残った。
次にコリンズが読みあげた起訴状の八つの歴然たる犯行となった放送も、彼女は前と同じ強い調子ですべて否定する。特に船舶沈没に関する歴然たる犯行(5)(6)を強く否定した。コリンズは九月十二日、四日間に及ぶ詳細な尋問を以下のように結んだ。
「ダキノ夫人、一九四三年十一月より一九四五年八月十五日の間、あなたはわれわれの敵、帝国日本政府をかつて一度でも支持したことがありましたか」「……アメリカの敵に、どんな形でにしろ助力を与えたことがありましたか」「……アメリカ軍の士気を低下させ、望郷の念を起こさせる気がありましたか」「……アメリカを裏切る気がありましたか」
すべての質問を「ネバー」と否定してゆくアイバの声は感情にふるえていた。コリンズはかすかに頭を下げて、「そちらの番です」とデウォルフを見た。
九月十二日午前十一時三十分、デウォルフは市民権問題に始まり市民権問題で終った三日間に及ぶ反対尋問に移る。アイバは、全身の神経を集中させてデウォルフに相対した。彼の尋問はレイズに「ウソつき」のレッテルを押したあの鋭さ以上の冴《さ》えを見せている。
「あなたは子供の時、日本戸籍に入っていましたね?」「ラジオ東京の人びとには、アメリカ人といっていましたね?」「あなたは日本警察にたかが一枚の紙きれのために市民権は変えられないといったそうですね?」「そして結婚以来、ポルトガル人だというのですか?」「しかし一九四七年にはポルトガル市民じゃないといったのではありませんか?」「私の質問を理解するのが難しいですか?」「何年学校には行きましたか?」「あなたはアメリカに帰りたかった時はポルトガル人でないといったのに、こちらで宣誓供述書を出した時にはポルトガル人だと反対の主張をしていますね。一体どっちなのです?」
一九四七年五月二十六日、アイバがアメリカへの帰国願いに際してサインしたポルトガル人になったことがないという供述書と、それとは反する一九四九年五月四日公判前に出したポルトガル人を主張している宣誓供述書の二つを持ち出して、デウォルフはどっちが本当なのかとアイバにしつこく迫った。
アイバはレイズのようにデウォルフの仕掛けた罠に簡単に落ちはしなかった。「私自身、はっきり分らないのです。法的な観点からのことは分らないのです」と彼女は自分の市民権に関する真実の声を放った。「両方ともそれをサインした時には真実でした。……アメリカ領事館でサインした時には弁護士がいませんでした。……自分が結婚登録により正式なポルトガル人とわかったのは後での話なのです。アメリカ領事館で旅券の申請をした時にはそれを知りませんでした」「これらをサインした時点では、両方とも正しかったのです」とたじろがなかった。
弁護側が一番問題にする強迫について、デウォルフは次のような尋問をしている。「ダキノ夫人、あなたは放送するに及び、肉体的な強迫を受けたのではありませんね?」「日本警察によって牢獄に入れられたことが一度もありませんでしたね?」「また、暴力を加えられる、殴られる、むち打たれるなどの精神的拷問と区別される肉体的制裁を受けたことも、一度もありませんでしたね?」
要するに、彼は精神的強迫を一切無視し、強迫という概念を肉体的な面のみにしぼっている。精神的な圧迫、恐怖感などは全然問題にしなかったのだ。
彼自身がホウィティへのメモで法的証拠として価値がないと認めている、自白書なるリーのタイプノートを、たびたび引き合いに出しているのも問題だ。
「ここにあるいろんな表現は、リーさんが自分で勝手に作ったものなのです」とアイバは抵抗した。しかしデウォルフは、ブランディッジとホーガンの前で彼女がサインしてしまったその自白書《ヽヽヽ》を、アイバに飲み込めと激しく迫った。九月十三日、デウォルフのきつい尋問を再び受けるアイバの目の回りは、明らかな過労と寝不足でくろずんでいた。痛々しいほどだった。その日、傍聴席に入り切れなかった人びとは、万が一の空席を狙うためか、法廷外の廊下に大勢たむろしていた。
九月十四日、アイバの目の回りはさらにくろずんでいた。市民権に関する尋問をイエスかノーかのどちらかではっきり答えよとデウォルフは繰り返し迫った。それらは簡単にイエス、ノーと正確に答えることが難しい質問である。デウォルフは「まずイエスかノーで答え、その後で、もし説明したければ説明を加えてよい」といいながら、実際にはなかなかその説明をアイバにさせようとはしていない。
尋問は堂々めぐりしていた。九月の残暑で法廷内は結構暑い。長い裁判のつかれが出たのか、老齢のロッシュが時々居眠りするのを目ざとい記者たちが目に止めている。
皮肉たっぷりで巧妙なデウォルフの尋問にアイバは、涙一つ見せなかった。気性の激しさを見せて頑張り通す。一歩も譲らず、彼女は無罪を主張し続けた。
再主尋問でコリンズは、法的にはポルトガル人であることを主張してはいても、その心は一途にアメリカのみを見詰めているアイバに、最後に静かに尋ねた。「ダキノ夫人、現在でも、あなたはまだアメリカ人でありたいと願ってますか」
アイバは深く息を吸う。「そうですとも。私はいつも……」彼女は言葉を詰まらせた。「だからこそ、自分がアメリカ人かどうなのかはっきりさせたくて、それらの申請もしたのです……。でも、残念ながら、自分が一体どこの国の人間なのか、未だにはっきりしないのです」
九月十五日、アイバは七日間にわたる証言を終えて被告席に戻った。弱々しく椅子に腰掛けると、両手で頭をかかえた。固く目を閉じ、指で額を強く押した。頬はげっそりこけていた。
13 悲運の逆転判決
九月十九日、約十二週間の長きにわたった立証と反証は終了した。
その間、政府側証人五十人、弁護側証人四十五人(うち十九人は宣誓供述書)によって、約百万語におよぶ厖大《ぼうだい》な裁判記録が残された。初め、五十万ドルと予想された裁判経費は、遙《はる》かにそれを上回っている。翌九月二十日より四日間にわたり、検察側と弁護側は陪審員たちに向って激しい最後の呼びかけを行なった。
まず九月二十日、二時間に及ぶ論告をしたヘネシーは、アイバはアメリカ政府がはっきり認めたアメリカ人であると力説した。彼女は日本軍の強迫下に放送したのではなく、捕虜たちとの放送サボタージュがあったとも認められないと主張した。
彼の論告で一番気になるのは、「この裁判において東京ローズという名は重要ではない」という一点である。「ここでわれわれが問題とすべきなのは、東京ローズではない。孤児アンについてである。ダキノ夫人はたった一人の孤児アンであった」
これが公判開始時の言葉であったとしたら筋は通る。しかし、ここにいたってのこの主張は、まさしく詭弁《きべん》といえよう。東京ローズ裁判であったことは、政府側が一番よく知っていたはずだ。アイバ戸栗も孤児アンも利用価値のない無名の名にすぎない。名高き伝説東京ローズ裁判であったからこそ、政府は惜しげもなく国民の大金をつぎ込んだのだ。検察側は冒頭陳述より東京ローズの放送をアイバに押しつけ、堂々とそれらを口にする多くの証人を立ててきた。検察側の立証は、東京ローズで始まり東京ローズで終ったといってよい。
報道関係者もそれを受けて、終始一貫して東京ローズの名でこの裁判を報じてきた。たとえばアイバが証人台に立った第一日目の地元各紙にしても、その第一面に大見出しで「東京ローズ、法廷で身の上話を語る」(サンフランシスコ・エグザミナー紙)、「国に帰ろうと努力しました/東京ローズ陪審員に語る」(サンフランシスコ・クロニクル紙)という具合である。
それが弁護側の反証で、アイバが決して唯一の東京ローズでなかったことがはっきりしすぎるほどはっきりすると、今度はこれが東京ローズとは関係のない裁判であり、孤児アンのみを考慮に入れるべしと、政府側は話を都合よく切り換えたわけだ。これが詭弁でなくてなんであろうか。
オールスハウゼンは、その後の二日間、六時間にわたり、まるで学者のような口調で静かに被告の無実を訴えた。
彼の前のテーブルには、何十冊という裁判記録が山積みにされている。それらの証言を引用しながら、彼は少なくとも以下の三つの主要点を政府側が明確にできない場合、反逆罪は成立しないと訴える。(1)被告が確かにアメリカ人であること、(2)一つ以上の歴然たる犯行を、被告が明らかに敵を援助して犯したということ、(3)その際、アメリカに反逆する意図がはっきり被告にあり、その行為をしたということである。「この三つの事項のいずれか一つに疑いがあっても、政府側の訴えは成立しない」と彼は力説した。
彼は数々の政府側証言の矛盾を指摘してもいるが、特に問題としたのは歴然たる犯行の証人たる沖・満潮の証言だった。「彼らは自分たちのいっていることが真実でないことをよく知っているはずだ。……二人はそれが被告を罪に陥れることを十分に承知していながら偽証した。……彼らは占領軍を喜ばせるためにはなんでもした。……ちょうど犬がその飼い主に尻尾を振って媚《こ》びるがごとく」と鋭く弾劾している。
さらに、元GI証人のアン放送に関する記憶は「まったくのアマチュアの記憶であり、彼らは、ラジオで実際に聞いたことと、噂で聞いたことを、どちらがどちらだったかはっきり覚えていない」とした。政府側が提出したアン放送のレコードにも、放送原稿にも、GIたちのいっていることに似たことすらなかったことも指摘した。
「これは本当は反逆罪裁判などではない。映画では見るが実際の生活では起こり得ない陰謀《ヽヽ》の話なのだ」とオールスハウゼンは断言した。アイバは悪女どころか、ヒロインであり、「事実上、彼女は前戦で戦っていたといえる。彼女はGIたちを楽しませる放送をし、捕虜たちに薬、タバコ、食べ物を差し入れていた」といいきった。
最後に、オールスハウゼンはちらりとアイバに目をやったあと、陪審員に向って次のように陳述を結んだ。「彼女は非常によくアメリカに尽したと思う。……その苦労の代償が一年間の投獄だった。……われわれがせいぜいここでできることは、彼女を無罪にすることだと思われる。それが唯一の公正な判決といえるだろう」
相変わらず目の回りに隈をみせて、アイバは魅せられたようにオールスハウゼンの弁論を聞いていた。だが、デウォルフが最終論告に立つと、神経質そうに再び目をふせて鉛筆を取った。
デウォルフはオールスハウゼンとは対照的に、感情をこめて話し出した。時として彼は陪審員たちに向って芝居がかったと思えるほどオーバーに声に抑揚をつけてさえみせる。自分が嘘つきのレッテルをはったレイズの供述書を、たびたび引合いに出して、アイバを「小利口でずる賢く、敵についてまでも自分の利益をもくろむ野心家」と罵《ののし》った。彼女は「故国を裏切った女」であり、「故国が一番必要とする時にその政府を売った日本人《ヽヽヽ》売国奴、女ベネディクト・アーノルド」と激しく罵倒した。
アイバが捕虜たちと同じように強迫下にいたとする弁護側の主張を|お上手《ヽヽヽ》と嘲笑し、日本軍に協力した捕虜たちも、アイバ同様の裏切り者ときめつけた。「反逆罪の判決は、他の者への見せしめのためにも、軽々しいものであっては絶対にならない」。六時間にわたり、デウォルフはアイバの有罪を、彼流にいえば「七月四日」的に、強く陪審員たちに訴えたのである。
九月二十六日、ロッシュ裁判官は十二人の陪審員たちに、一時間五十分にわたり「法と反逆の意味」と題する「指示《ヽヽ》」を与えた。
ロッシュはまず、陪審員たちは起訴状にある期間中、被告がアメリカ人であったと認めなければならないと述べた。アメリカ法では、同時に一国以上の国民であることは認められておらず、また「公然にして明白な行為でアメリカ国籍を放棄し、他の国籍とならない限り、アメリカに忠誠を誓うべき者とみなす」、すなわち、被告がポルトガル人と結婚したというだけでは正式にアメリカ国籍を放棄したとはいえない以上、彼女はアメリカ人とみなされると説いた。
被告がアメリカ人と認められた場合には、彼女が「忠誠を誓うべき国に対して不忠義な心と気持を持っていたか、敵を支持して自国を裏切る気があったか」という意図《ヽヽ》の問題となり、「いかなる犯罪《ヽヽ》においても、犯意《ヽヽ》は本質的要素である」と述べた。
「意図と動機を決して混同してはならない」として、ロッシュは次のような例を挙げた。――貧乏な人びとに食べ物を与える慈善団体に属している者が、食べ物を運ぶべき車を持っていなかったとする。彼はそのために近所の車を盗んだ。彼の犯行の動機は尊くとも、その意図《ヽヽ》は別ものである。要するに、いくらよい動機でも、盗むという意図は窃盗罪に値する。
「敵を援助支持するということは、ただ自国を裏切るという意図を持っているとか、不忠誠な心理状態のみでは成立しない。気持の上で敵を支持するとか、敵に同情するだけでは反逆罪は成立しない。反逆罪は一つ以上の歴然たる犯行を犯したのでなければ成立しない」――そのため元GI証人、FBIの供述書、その他を十分考慮に入れるべきだが、わけても二人の歴然たる犯行の証人、沖・満潮の証言を重要視すべきである、とロッシュは指摘している。
また彼は、敵を援助支持するという行為は、行為の効果《ヽヽ》とは無関係であると付け加えた。「兵士、水兵、海兵隊員が一人でも、敵の宣伝または被告の放送に影響されたか否かは、被告の有罪を決定する上で必要ではない」。すなわち、アイバの放送を太平洋のGIたちが楽しんだか、逆に望郷の念にかられたか、ここではその放送効果は問題とならないというのだ。
さらにロッシュは、最も長時間かけて強迫《ヽヽ》についての指示を与えた。
「強迫、強制を犯行の弁解とするには、その者がその場において死または容易ならぬ肉体的傷害が差し迫っていると理解したために行動したのでなくてはならない。ただ自分の財産や肉体に傷害を与えられるのではと恐れたからだけでは、犯行の弁解にはならない。上司に命じられたから従ったということでは、犯行の弁解にはならないのだ。……被告が日本軍に定期的に報告しなければならなかったとしても、それは十分な弁解理由にはならない。被告が憲兵隊の監視を受けていたとしても十分ではない。……収容所に送られるかもしれないとか、配給を奪い取られるかもと、被告が|思った《ヽヽヽ》だけでは十分ではない。もし彼女が他の人びとになされた強迫を知っていたとしても、知っていただけでは十分な理由ではないのだ」
午前十一時四十五分、熱心にロッシュの指示を聞き終った陪審員たちは、陪審員控室へ判決審議のため引きあげていった。公判第一日目から一日も欠かさず陪審員席に坐り続けていた予備のマクナマラ夫人は、この時ロッシュより義務の免除をいいわたされ、残念そうに傍聴席に入った。
アイバは虚脱したように椅子に坐っていた。頭を殴られたようなショックを彼女は受けていた。わが耳を疑い、聞いているロッシュの言葉が信じられなかった。ロッシュはその指示で、弁護側が裁判を通して主張し続けて来た主要点をすべて否定していたのだ。アイバがポルトガル人であるという主張も、捕虜たちとの放送サボタージュも、そして何よりも強迫《ヽヽ》を否定していた。
彼女は身動き一つせず、肩をがっくりと落して深く椅子に坐っていた。公判中、毎日彼女の護衛に当っていた副マーシャルのコールは彼女に近づくと、記者たちが写真を撮るために法廷外で待っていると告げた。
アイバはきつく唇を噛むと椅子から立ち上がろうとした。しかし立ち上がれず、さらに深く椅子に沈むかのようだった。五分ほどして、きっと顎を引くと、アイバは立ち上がる。そして目を床に落し、体を引きずるようにして、すでに法廷の人びとにはなじみの、特徴のある不器用な歩き方で法廷を出ていった。と同時に、廊下でいっせいにフラッシュがたかれた。
その後、彼女はコールに腕を取られて、判決を待つ間、階下のマーシャルのオフィスへ下りていく。百人ほどの傍聴人たちや記者たちは、法廷の高い天井を見上げたり、廊下をぶらついたり、大理石の階段に二、三人かたまって坐り、小声で話しながら判決を待っていた。彼らの多くは、アイバ同様に裁判官の指示にショックを受けている。記者席の大沼道記者(二世、日系紙パシフィック・シティズン紙)のように、「それを聞いた時、心の中でアッと叫んだ」者は決して少なくなかった。
陪審員たちは二人の副マーシャルに伴われて一時間のランチに出掛けて行った。その昼休み、父、妹、夫と一緒になったアイバは泣いていた。
二時四十一分、陪審員長に選ばれた小柄で温和そうなジョン・マン(会計士)が、裁判官の指示及び全裁判記録を要求した。ロッシュは指示は手渡したが、法廷記録は特定の証人の証言をはっきり指定せねばならないとして手渡さなかった。
陪審員たちが法廷に出て種々の要求をする時、被告のアイバは必ず法廷に出席していなければならない。法廷に現われるごとに目に見えて彼女は元気を失っていく。彼女はコリンズから、判決が早ければ無罪の可能性大であり、長引くのはよくないと聞かされていた。
法廷での時間はのろのろと過ぎた。だが、傍聴人たちは立去りもせず、ただ待っていた。彼らの大半は、公判第一日目より詰めかけた常連たちだった。そしてほとんどの者が、アイバの無罪を信じていた。それをはっきり口に出す者さえいた。一人の女性はタンバに近づくと、「彼女はどうしてますか。私は彼女の味方です」と感情をこめて語った。ある者は、「熱いコーヒー」をアイバに届けるように注文した。毎日、彼女の送り迎えをしているうちに、その人柄が気に入り、その頃では娘に抱くような温かい感情を見せていたコールや、やはりアイバに好意を寄せていた他の副マーシャルたちは、彼女の気をそらそうと、階下のオフィスで、ペーパー・クリップを賭けてのトランプに誘ったりしている。
六時半、陪審員たちは再び副マーシャルに伴われて夕食に出かけた。もうすぐ長い裁判の判決を下し、それぞれの家族のもとに帰れるという気持で、食事中も楽しそうに和気あいあいとしていた。八時、彼らは再びカンヅメとなった。十一時十分、陪審員たちは法廷に出てくると、今夜はこれで引きあげたいとマンがロッシュに申し出た。彼らは政府側証人たちが泊っていたホイットコム・ホテルに引きあげることとなった。誰一人として泊る用意がなかったため、ロッシュは彼らに家族との電話連絡の許可を与えた。
四十人ほどの傍聴人がそんな夜更けまで居残っていた。その一人、ある中年の黒人女性は「今夜、彼女のために祈ります」と誰にいうともなくいうと、静かに法廷を出て行った。
翌九月二十七日、陪審員たちは午前九時から審議に入った。午前十一時四十二分、リー・沖・満潮の歴然たる犯行(5)(6)、すなわち船舶沈没に関する証言の裁判記録を要求した。ということは、彼らがアイバをポルトガル人ではなくアメリカ人と認めて、そのアメリカ人たる彼女が敵を支持したか否かの審議に移っていることを伝えていた。アイバは、明らかに過労の色を濃く表わしてふらつきながら法廷に入り、無表情に陪審員たちを見詰めていた。その後、証拠No15、すなわち自白書といわれたリーのタイプノートが要求された。この日、記者席よりタバコ一箱が階下のオフィスのアイバに差し入れられている。
傍聴席はその日も満員だった。その中で注目されたのは、昨日まで陪審員No13として陪審員席に坐っていたマクナマラ夫人の姿だった。彼女も傍聴席でじっと待ち続けていた。
夕食時、陪審員たちは昨日の楽しそうな様子とは裏腹に、皆むっつりと無愛想に見えた。午後十時四分、彼らは皆くたびれた顔をして再び法廷に現われると、マンが「全員一致で判決に達せず」として「行詰り」を宣告した。瞬間、コリンズの目が光った。これは弁護側にとっては悪くないニュースだ。コリンズは陪審員たちの「責任解除」を要求するつもりだった。結果は弁護側の勝利のはずだ。もしそうなったら多分政府側は再裁判にかける気がないだろうと幾人かの政府側関係者がいっていたのだ。
だが、ロッシュは「行詰り」を認めなかった。
「これは重大な裁判です。この裁判は検察側にとっても弁護側にとっても長く、また|高く《ヽヽ》ついたものだった。もしあなたたちが判決に達せられないとするならば、これは未決定のまま残される。……あらたな裁判が、また双方にとって同じように長く、高い経費がかからないとは思えない」
彼は、再裁判で選ばれるであろう陪審員たちが、彼らより賢く優れ、判決に達せられるという保証もないとして、今夜はこれまでにして休み、明朝あらためて審議を続けるように促した。
アイバは血の気が引く思いだった。裁判官は陪審員たちに向って、いかにこの裁判が彼ら国民の税金を使ったものであったかと語っていたのだ。コリンズたちは、あまりのことに唖然として言葉も出なかった。記者たちは、無言でお互いの顔を見合せている。十時半、陪審員たちは再びホテルへ引きあげて行った。
九月二十八日、その朝も九時から審議に入っていた陪審員たちが、午後五時二十分、早川・ゲバニアンらの宣誓供述書を要求するために現われた時、ロッシュは、今日はこれでホテルに引きあげてのんびり休息するように提案した。それを聞くと、今日中に判決に持っていきたいと語っていた陪審員の数人かは、くたびれてげんなりした顔をしていたのに、不承知を示して激しく頭を振った。
彼らの一人が、自分たちでそのことについて相談したいと申し出た。五分後、そのまま審議を続ける旨のノートをロッシュに送ると、彼らは夕食も取らず閉じこもった。八時、彼らはロッシュの言葉を受け入れることに気を変えた。全員くたびれて不機嫌そうに、お互いに言葉も交さずホテルへ引き取った。審議が難行していることは、誰の目にも明らかだった。
九月二十九日、長い一日も終りに近づいていた午後五時三十八分、陪審員たちはさらに疲労した顔を法廷に見せた。ロッシュの指示の中にある「明らかに有罪と思われる歴然たる犯行でも、それを他の関連ある出来事と照し合わせて判断してみると、敵を援助していない行為であることもある」の中の「関連ある出来事」という意味についてロッシュの説明を求めた。
ロッシュはこれには直接答えを与えなかった。「私の指示《ヽヽ》にある特定の一個所のみを考慮せず、全体として考えるように注意したはずだ」とのみ答えたのである。そして「もう夕食の時間です。私も夕食にしたいと思う」といい、「一生懸命審議して疲労しているだろうから、今夜はもうこれで止めたらどうか」と、そのことを皆で決定するように奨めた。
それから三十分後の六時○四分、陪審員たちは再び法廷に現われた。その日、詰めかけていた百人ほどの傍聴人たちは、夕食に入ると予想して、四十人ほどしか残っていなかった。記者たちも同じく夕食に入るとばかり思って、法廷の一番後席に浅く腰掛けていた。彼ら記者の間で、非公式に取った判決は、九対一で無罪と出ていた。有罪に投じたのは、サンフランシスコ・エグザミナー紙のフランシス・オガラ記者一人だった。頑固で妙に宗教的な彼は、日頃から記者間で孤立していたことが、この票に出たようである。
「判決に達したか」と形式的に聞くロッシュに、実に思いがけなくマン陪審員長は「イエス」と答えたのだった。
四日間、七十八時間二十分(実際の審議時間三十六時間)にわたる審議の結論は出ていたのだ。アイバを初めとする法廷の人びとは息を呑んだ。マンから文書を手渡された書記官は、それを素早くロッシュに手渡す。ロッシュは表情も変えずに注意深く目を通した後、再び書記官に返した。
書記官はちょっと声を詰らせながら、一声、
「有罪」
と叫んでいた。
14 スケープ・ゴートにされて
居残っていた四十人ほどの傍聴人から、「オー」という明らかに驚きと失望を現わす声があがった。幾人かの女性が泣き出し、マクナマラ夫人は「そんな馬鹿なことが……」と思わず叫んでいる。アイバの父、妹、夫は一瞬凍ったようだった。
陪審員たちは、八つの歴然たる行為のうち、No(6)だけをよりどころに「有罪」と判決している。「太平洋の孤児さんたち、今や本当の孤児になったのね。船が全滅してしまったのに、一体どうやって国に帰るつもりなの?」。アメリカ軍の大勝利に終ったレイテ島沖海戦に関するこの放送で、彼らはアイバに反逆者の烙印《らくいん》を押した。
大陪審における賄賂偽証事件に始まり、不法連行監禁その他種々の驚くべき不法行為があったにもかかわらず、彼らは政府側を正しいと認めた。起訴状の放送が確実にアイバの放送だったといえる証拠のレコード一枚提出できなかった政府側を、彼らは認めた。政府側が有力な決め手と呼ぶ、一記者たるリーが終戦のどさくさで取ったインタビュー・ノートと、プリズンの看守が無理じいで手に入れた一円札のサインを認め、曖昧で不確実な風聞を口にする証人たちを信じた。
わけても、彼らが結局は自分を信ぜず、反対に沖・満潮の証言を信じたということが、アイバを茫然《ぼうぜん》とさせた。彼女は床に目を落したまま無表情にじっと立っていた。「真実は勝つ」という彼女の信念は、無残にも破られたのだった。自由の身で大手を振って法廷を出てゆけると信じていた彼女は、今や最低で五年、最高で死刑の宣告を待つ身となった。サン・クェンティン牢獄のガス室で、カリフォルニアで第三番目の女性として死刑にあう可能性もありと早速報じた新聞すらあった。
ロッシュは陪審員たちの長い間の労苦をねぎらった後、一週間後の十月六日を刑の宣告の日とすると申し渡し、それまでのアメリカ史上最も長くして、最も高くついた反逆罪裁判を閉廷した。
コリンズは、非常に驚いており、「これは証拠のない有罪だ」と述べた後、「アイバはまったく信じられないでいる」と記者団に語った。「アメリカ政府は、この判決が辛抱強い審議の末の正しい判決であると信じる」として、デウォルフは満足の意を現わした。一年前、ボストンでベスト、チャンドラーの二人を終身刑に送った恐るべきデウォルフ・グループは、またもや勝利を政府にもたらしたのである。
だが、デウォルフは内心では一体どんな気持でこの判決を受けとめていたのか。彼はホウィティへのメモで、「去年成功したボストンでの反逆罪の場合には、被告たちがドイツ派であり、ベルリンからのドイツ放送を通して反アメリカ的言葉をはき、アメリカ国民の戦争への支持を阻止させようとし、連合軍船舶の沈没や軍の行動を予告放送し、明らかにアメリカ人の士気を低下させ、アメリカ国の戦闘を阻止することを意図し、よく計算した放送をしたという、反逆罪にもってゆける確実な証拠があった。しかるに、この被疑者に対する手元の証拠の内容は、前記のボストン訴訟の時の証拠と、すべてがまったく正反対のものである」(一九四八・五・二十五)と述べているのである。ともかくも、彼は政府の期待に見事応えた。難題だった義務を果したわけである。
そしてヘネシーは、この判決により、すなわち反逆者となったことにより、アイバは機械的にアメリカ法によって市民権を失い、無国籍者となると発表した。アイバをアメリカ人と認めて反逆罪で起訴したアメリカ政府は、彼女が反逆者ときまると、今度は反対にそれをもってしてアメリカ人とは認められないといい出したのだ。
ジョン・マンは、陪審員たちの間で審議経過について話さない約束ができていると、くたびれた顔でいいながらも、記者団が九対一で無罪に投じたと聞くと、「それと大差ない線をいっていた」と答えた。「無罪と考えた時はあったか」という記者の質問に答えて、「もし裁判官の指示下にそれが可能であったなら、われわれはそうできたはずだ」(サンフランシスコ・クロニクル紙、一九四九・九・三十)と、裁判官の指示が彼らの決定に重大な影響を与えたことを、におわせている。
四日間の間に票は何回も取られた。第一日目の朝の最初に取られた票は十対二で無罪と出た。だが、初めから有罪に投じた男一人女一人の陪審員二人は、彼らの中で最も雄弁な者たちだったのだ。
アイバが捕虜を助けたこと、戦時中を通してアメリカ市民権を守り続け、アメリカへ帰ろうと努力したことでは、陪審員たちは全員意見が一致していた。最後に、反逆の主要点、果たして彼女が放送を通してアメリカを裏切る意図があったのかということに焦点は絞られた。六対六の票が続き、第二日夜十時、くたびれ果てた末の票が九対三で有罪と出た。ここで彼らは再裁判を願っている。ところが裁判官はそれを認めなかった。反対に裁判がいかに高くついたかを説きつけた。
陪審員たちは感情を差しはさまないことを初めに約束して審議を続行していた。だが、意識的にそうしたことでかえって感情と直面することになったようだ。無罪に投じていた六人は、皆、温和なタイプである。最初から有罪に投じていた二人が、その彼らに感情をぶつけてきた。彼ら二人は、何千マイルも離れた小島で船が沈んだ放送を聞いたら、どんな気がするかとさえいい出した。一人、二人と押し切られ、マンと、歯科医の妻フローラ・コーベル、漆喰業のアール・ドーケットの三人だけが最後に残った。
陪審員たちはくたびれ切っていた。裁判はあまりにも長すぎた。一刻も早く解放され、各自の家族のもとに戻りたいと誰もが願っていた。雄弁家の二人は、それを阻止している三人に感情まる出しにまくし立ててくる。陪審員控室には険悪な空気が漂い始めた。最後に無罪側の三人を陥れたものは「裏切り者を支持するのか」という居心地悪い感情だったと、マンは後にピンカムに語っている。
マンは最後の試みとして、裁判官に指示の一部の説明を求めることでなんとか皆を納得させた。だが、驚いたことに、ロッシュはそれに答えなかった。
ここにいたってマンたち三人は、これ以上主張し続けて、他の九人をさらに引きずってゆく気力を失ったのである。数分後、取られた票は全員一致で有罪となった。その後の三十分は、単なる事務上の手続きに費されたに過ぎない。
裁判を第一日目よりつぶさに観察してきた記者たちの大半は、判決にショックを受けていた。彼らは戦時中アメリカ市民権を女の身で守り通したアイバを、むしろ愛国的《ヽヽヽ》とさえ見ていた。今日、彼女が法廷に立たされているのは、まさに彼女がその市民権を守り通したためではないか。しかも有罪と決ると、政府はその市民権をもぎ取って、今度は無国籍の反逆者だと主張する。彼らには、ことがすっきり納得できなかった。
その夜、記者たち五、六人は一緒に近くのバーに行き、ヤケ酒を飲んだという。特に、後に弁護士になったサンフランシスコ・ニューズ紙のフィル・ハンレー記者が感情を制しきれず、その月の月給を一晩で全部飲んでやると、浴びるように飲み続けたという。
十月六日、ロッシュは禁固十年、罰金一万ドルという、一般に予想されていた以上に重い刑の宣告をした。アイバは無表情にそれを聞いていた。その日、ランチに一口も手をつけず泣き続けていた姿を、そんな彼女からは想像もできなかった。最後に屈して有罪に投じて以来、眠れぬ夜の続いていたマンは、想像以上に重い刑に呆然とした。
「私の良心は潔白です。政府側証人たちの良心も私同様に疚《やま》しいことがないであろうといえないのが残念です」と、その後、アイバはコリンズを通して語った。
コリンズは裁判官の指示が陪審員に偏見を与えたとして早速上告する旨を発表した。それに先立つ十月一日、サンフランシスコ近郊の地方紙アラメダ・タイムズ・スターには、当時としては画期的なほどはっきりとこの裁判官の偏見を突いた社説が載せられている。
「……裁判官は陪審員たちが自分たちのみで考慮したならば決して達しなかったであろう判決に導くよう、彼らに賄賂を使ったといえるのではなかろうか。彼は、その経費を問題にすることによりそうしたのだ。それを指摘することにより、もしも判決に達しなければ、政府および国民を失望させるのではなかろうかと思わせた」
ロッシュ裁判官と親しかったピンカムは、ロッシュが最初からこの裁判に偏見を持っていたという事実を指摘している。彼女は二度ほど、明らかに彼がそれを見せたことを覚えている。「一度はまだ裁判中でした。ある劇場ロビーで会った時、太平洋戦争に出ていた彼の息子やその友人たちが東京ローズに対して一つも憎悪を持っていず、反対にただ面白がっていたというのが理解できないと、漏らしていたことです」(ピンカム特赦嘆願書)
「もう一度は裁判から何年も経ったある日、ある人を紹介するために訪れた時でした。訪問客との話が終った後、ロッシュは私の方に向き直ると、秘密を話す調子で、声をおとしていったのです。『あの女(アイバ)があんな時期に日本へ行ったのは変だと私はいつも思っていたのだよ。なにかもくろみがあったに違いないんだ』」(同嘆願書)。ロッシュは、さらにGI証人ホートが妻への手紙を取り出した時の証言で、アイバの有罪を確信《ヽヽ》していたとさえ語った。
ロッシュはアメリカの権力と知恵の象徴たるワシントンが反逆罪で起訴するならば、それは正当化されねばならないと感じ、それを自分の義務としたのではないか、とピンカムは感じたという。公判中、記者席では一度ならず、彼が外国を背景とするこの事件を果たしてどこまで理解しているかという疑問の声があがっている。また、弁護側がもっと感情的に陪審員たちにぶつかった方がよかったのではなかったかという声も聞かれた。特に女性記者にその意見が多い。要するにこのような裁判では、陪審員の感情に迫ることは必要な重点だというのだ。
だが、アイバは終始陪審員たちの前では気丈にきっと唇をかんでいた。彼女が弱々しく泣いたのは彼らが控室に入っている間だけだった。また弁護人三人はそろって学者的な法の知識を持ってはいたが、正論を振りかざし過ぎたきらいがある。ということは、正論だけでは勝てないということなのか。
どうみてもこれは初めから弁護側に勝ち目のない裁判ともいえた。
デラプレンが「アメリカ政府が打った大芝居だった」というように、この裁判は間違いなく政治的に利用されたものである。大衆感情が日本および日本国民に対してまだ燻《くすぶ》っていた当時、政府が原告である裁判で、邪悪な東京ローズたるアイバの有罪は証拠いかんにかかわらず、決っていたといえるのかもしれない。
十月八日付パシフィック・シティズン紙は、その社説で「裁判官はダキノ夫人に十年と一万ドルの罰金を申し渡すことにより、陪審員たちの前に立っている血の通った一人の人間をではなく、『伝説』の女を罰しているかのようだ」として、これが東京ローズの裁判以外の何ものでもなかった点を突いている。検察側がいかに繕おうとも、これはまさしく伝説の魔女東京ローズ≠フ裁判だったのである。
要するに、アメリカ政府が音頭を取った東京ローズという名の魔女狩りであった。中世キリスト教全盛期、人間に姿を借りて人間に危害を加える悪魔の手先たる魔女の存在は固く信じられていた。世俗的権力を広げていた教会は、自己の権威を高めるために、魔女の存在を強調し、社会もまたその迫害に熱中した。
これら魔女裁判を過去の過誤と簡単に片づけることはできまい。形こそ変わっても、この種の魔女裁判は今にいたるまで続いているのではないか。ナチのユダヤ人虐殺がよい例だ。人びとの無知と偏見に基づき、政治的におおいに利用されうるこの種の魔女狩りは、現在のアメリカにおける人種差別にも当てはまるものがある。
東京ローズ裁判は当時まだ見られた「戦争時の復讐」を願うヒステリックな国民感情を背景に、黄色《イエロー》ジャーナリズムがデッチあげ、扇動し、それに政府が意気地なくも呼応し、政治的に利用し、フレームアップした魔女裁判であった。不幸にも東京ローズのレッテルをはられたアイバは、そのための犠牲《いけにえ》であり、スケープ・ゴートだった。彼女は戦争が生んだ犠牲者であると同時にアメリカ人種差別主義の犠牲でもある。
彼女の悲劇は二世であるがゆえの悲劇ともいえよう。日本人の姿をしたアメリカ人である二世は、戦時中アメリカでは何を考えているかわからぬポーカーフェイスの外人《ヽヽ》として抑留され、日本ではいつもスパイと陰口をたたかれた。日本人として決して信用されることがなかった。アイバはアメリカ人としての自覚のみを持ち続けたとはいえ、これは二国の重みを背負う二世ゆえの悲劇であった。
コリンズが、この事件で有罪なのはアメリカ政府であると指摘しているのは、まさに核心をついた言葉だ。「……国務省こそこの女性が敵国に留まらざるを得なかったすべての責任を取るべきだ。種々の証言は、はっきり国務省が彼女が帰国に必要な旅券をわざと遅らせたことを示している。彼女がアメリカ政府を棄てたのではなく、アメリカ政府こそ彼女を捨て、彼女の権利を裏切ったのである……」(コリンズ減刑弁論、一九四九・十・六)
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特赦を乞うべきは誰か――エピローグ
十一月十五日、ウェストバージニア州にあるアンダーソン女囚刑務所で服役するため、アイバはオークランド駅より汽車で発った。その日、父と妹が見送りに出ていたが、フィリップの姿はなかった。彼は、滞在期限が切れ、一カ月ほど前にすでに船で日本へかえらねばならなかったのである。
フィリップはその途中、ハワイで乗り込んで来た移民官に、どういうわけか、決して再びアメリカの土地を踏まないという一条に強制的にサインさせられたという。アメリカ政府はアイバに反逆罪の烙印を押すことで飽き足らず、この結婚をも永遠に叩きつぶそうとしたことになる。そして彼らは事実上それに成功した。カソリックであるダキノ夫妻は正式に離婚はしていない。だが、その後再会することはなく、現在は音信不通となっている。
一方、日本からの政府側証人の大半は裁判後も居残っていた。その直後タイミングよく起訴された元文化キャンプ捕虜、ジョン・プロボー反逆罪裁判の証人として、早速ニューヨークに回されている。政府側は十分にこれらの証人の利用価値を知っていたといえる。元捕虜への同情など証人たちにはまるでなかった。
文化キャンプ関係では、たった一人反逆罪で起訴されたプロボーの裁判は、同じ宣伝放送関係とはいえ、アメリカ捕虜斬首事件がその焦点となり、かなり異質のものである。プロボーは戦前より仏教にこり、日本に留学したこともあった。捕虜となるや頭を剃り僧衣を着込んで、通訳となり、連合軍捕虜を酷使し、日本軍に協力しなかったアメリカ陸軍大尉を告げ口して斬首させたとして訴えられている。彼がホモだったという政府側が流した噂で、この裁判は注目を浴びてもいる。
しかし、プロボーが精神病院を出たり入ったりしたため、実際に公判となったのはそれから三年後の一九五二年である。その時あらたに日本から約二十名の証人が来ている。やはりこの裁判でも強迫が一番の問題点となった。
翌一九五三年二月、彼は七つの歴然たる犯行のうちの四つをもって有罪となり、終身刑と一万ドルの罰金を宣告された。
その後控訴していたプロボーは、二年後の一九五五年、控訴審で無罪となった。トンプソン控訴院裁判官は、「被告はアメリカ憲法修正第六条で保障されている『迅速なる裁判』権を否定され、かつ起訴および裁判にいたるまでに不必要にして計画された遅滞があった」というのがその理由であり、「その上、検察側は最も悪質なる犯行で訴えられている者といえども保障されている公正なる基本的人権を犯した」と政府側の態度を非難した。最高裁もこれを認め、その年の十月、すなわちアイバが釈放となる以前にプロボーは自由の身となっている。
とすれば、アイバもプロボーと同じく第六条の人権を犯されたことになる。だが、獄中からの再三の上告はすべて却下されている。
第九区巡回控訴院も最高裁も、第一審における判決を正しいとした。そして判決時、三年半で仮釈放と予測されたアイバが、実際に「服役成績良好」で仮釈放となったのは、六年二カ月後の一九五六年一月二十八日である。
刑務所の年月は平穏で、意外と早く過ぎ去った。彼女はかつて学んだ医学を生かして医療助手となり、模範囚として関係者に評判がよかった。ここでの囚人仲間にはギラーがいる。
アイバは獄中で、東京ローズはすでに忘れ去られたと信じていた、もう人びとが東京ローズで大騒ぎするはずがないと。出所後は父のシカゴの店を手伝って、静かに目立たず暮したいと彼女は夢見た。しかし、東京ローズの魔力は死んではいなかった。アイバが服役中、冬眠していたに過ぎない。
東京ローズは、アイバの出所と同時にまた彼女にぴったりと寄り添ってその魔力をふるい出す。まず一月五日、月末にアイバ出所予定と刑務所当局が発表すると、各紙が「東京ローズ釈放」予定を報じ始める。ジャーナリズムは再び東京ローズの虜《とりこ》となった。アイバでも孤児アンでもない。まさしくアイバの姿を借りた魔女、東京ローズの再登場だった。一月八日のニューヨーク・タイムズ紙の社説には再び「誘惑的な女性アナ・東京ローズ」という表現がみられる。一月二十四日、ウェストバージニア州の一地方局が、アイバにアナとして働かないかと仕事を申し出たことでさらに注目を浴びた。
東京ローズ出所で、またもや記者たちは激しい争奪戦を演じている。辺鄙《へんぴ》なアンダーソン刑務所付近で電話があるのは、近所の農家だけだった。UPは早期の出所を予測して農家の寝室を借りる。一足遅れたINSは仕方なく台所を借りて一泊した。ところで、電話があったのはその台所だった。当然INSはUP記者が電話を使うのを封じたという具合だ。
アイバ仮釈放の前日である一月二十七日、ワシントンの移民および帰化局は、反逆罪で有罪となった時に無国籍となったアイバは「好ましからざる外人」なので、出所と同時に国外追放すると発表した。その通知は一月二十八日朝、出所と同時に正式に彼女に手渡されている。釈放と同時に彼女が直面したのが、またしても市民権問題であった。東京ローズ魔女狩りは続いていたのだ。
その朝、六時十五分という異例に早い時間を当局がわざわざ選んだにもかかわらず、大勢の記者たちが詰めかけた。グレーのコートを着たアイバは「私が望むのは、多少の更生のチャンスだけです」と短く答えると、シカゴから迎えに来ていた父、兄フレッド、妹インネッドと車に乗り込み、シカゴめざして立ち去った。
「放送したことに後悔の念を一つも見せない東京ローズ」とアイバの出所を報じた新聞の、たぶん彼女は日本の夫のもとに戻るのではという予測を裏切り、アイバは翌三十日、シカゴの父の家に落ち着くと、フレッドを通して「アメリカ人としてアメリカに留まるために最後まで戦う」と声明した。結局、市民権のために反逆者となった彼女が、何年かかっても市民権を得るために断固戦う意思を明示したのだ。そこには市民権に対する彼女の怒りと執念が感じられる。
それを受けた形で、シカゴ移民局は三月十三日、正式に一カ月以内に自分から国外に出ない限り、国外追放となる命令を出した。サンフランシスコのコリンズは、政府のやり方を激しく非難すると、あらゆる手段で戦う旨を声明した。そしてこの戦いを彼のいるサンフランシスコに移す許可が四月二十六日に下りると、アイバはサンフランシスコのコリンズ宅に居を移した。
この追放の片がつくまでに、優に二年の月日がかかっている。
一九五八年七月十日、政府は「彼女はポルトガル人でも日本人でもないので、追放する国がない」という理由で国外追放を取り下げた。その頃、最高裁で似たようなケースがあったことに基づき決まっている。判決で有罪と決まる前に、政府は被告をアメリカ人と認めているので追放はできないという理由が、アイバにも当てはまったのである。しかし国外追放を免れたということは、アイバがアメリカ市民権を取り戻したということではない。彼女はやはり無国籍とされたのである。
その後も、アメリカ政府は決してアイバを、というよりは東京ローズを忘れなかった。それから十年経った一九六八年、忘れていた頃に、政府は彼女がまだ一万ドルの罰金を支払ってないとして、遵が彼女のためにかけてくれていた四千七百四十五ドルの生命保険を取り押えた。残金は一九七一年に要求され、翌七二年に支払い終えた。
アメリカ国民も決して東京ローズを忘れはしなかった。
君はアメリカにナイフを刺した
カリフォルニア大で学んだことを忘れた君は
今頃それを後悔しているだろうね
東京ローズ……
日出ずる国に走ったことを
君は後悔しているだろうね!
一九五五年、風刺作詞・作曲家アベ・バローが書いて結構はやった歌である。現在にいたるまで時々東京ローズに関する記事が載るごとに、アイバにスポット・ライトがあてられ、その結果は「私の息子を殺したのはお前だ」というGIの母からの手紙や、「裏切り者ジャップ」の罵りとなってはねかえってくるという。そのため、彼女に対する日系アメリカ人の風当たりは強かった。彼らは、いわゆる二世部隊の輝かしい戦功に泥を塗るような東京ローズを忌み嫌った。
一九五六年、アイバが出所した頃、ニューズウィーク誌にリンカーン・ヤマモトという署名で、次のような手紙が載った。「私は東京ローズの有罪は不正義と偏見によると思う。……どこに生まれようとわれわれは慣習的に日本人と見なされ、よって、日本に忠誠を誓うものである。われわれ二世はアイバを誇りと思い、ヒロインを歓迎する」
この少々的を外れた手紙には、まずアイバが最初に不賛成を示しそうだ。これは、思いがけない反響を同じ二世仲間からも呼んだ。「ヤマモトの手紙は日系二世の汚名だ」(全米日系市民協会シンシナティ支部)に始まって、「私はアメリカ以外のどの国にも忠誠を誓う者ではない。われわれ二世は第二次世界大戦中、わが国に仕えることによって世界中にその忠誠を明示した」など、全米日系市民協会各地方支部を初めとする多数の投書が寄せられたほどである。
その全米日系市民協会が一九七四年、初めてこの裁判に関心を示した。裁判後二十五年を経て、アメリカ社会は変化し、アメリカ国民の政府に対する態度は以前のような単純な信頼《ヽヽ》ではなくなってきていた。日系人のアメリカ社会における社会的地位の向上により、彼らにも余裕が生まれていた。この事件を戦後の大衆ヒステリー下で行なわれた不正裁判と結論すると、戸栗一家に長年支持を与えず無視してきたことで正式に謝罪を表明し、今後全面的にアイバを支持することを申し入れた。
現在、全米日系市民協会アイバ戸栗委員会会長クリフォード・ウエダ医師が中心となり、大統領特赦運動をおこし、全国的な関心を呼んでいる。この特赦願いは、すでに二度(一九五四年アイゼンハワー大統領、一九六八年ジョンソン大統領)出されたが、二度とも梨のつぶてだった。だが今回は、全国的組織を持つ同協会が後押しし、さらに戦後三十年以上たった世相を反映して一般の反響はまるで当時の逆をゆくようだ。ことが東京ローズだけに、再びジャーナリズムも大騒ぎしだした。彼らは今回そろってアイバの無罪《ヽヽ》を叫ぶのに忙しい。
そんななかで、これまでインタビューを断わり続けてきた「歴然たる犯行」の二人の証人が一九七六年三月、シカゴ・トリビューン紙記者に、東京ローズ裁判における彼らの偽証をみずから認めた。大陪審の八木の偽証に加え、公判で政府側から用意した二人の不可欠な証人の証言は、やはり偽証だった。まさにこの二人の偽証により、アイバの反逆罪は成立している。アメリカ政府はそれを十分知っていたのだ、というより政府に偽証を強いられたと二人は主張する。
彼らによると、政府側証人はアメリカ当局に賄賂で買収され、アイバに不利な証言をするように指示されたという。公判中、彼らは毎朝FBIに二時間ほども、どのような証言をするかについての指示を受けたともいう。
「もし協力しなかったら、アンクル・サム(アメリカ政府の俗称)がわれわれの裁判の用意をするかもしれないといわれた。……われわれは、アメリカのような巨大な国が一人の日系アメリカ人を磔《はりつけ》にするのがいかに簡単なことかよく分っていた。アイバがよい例だった」(シカゴ・トリビューン紙、一九七六・三・二十二)と彼らはいう。
「アイバは運が悪かった。彼女はフレームアップされたのだ」(同紙)。これが彼らの偽証のいいわけである。そして二人は、FBIや検察側の圧力で偽証する以外に選択の余地がなかったと口をそろえる。
本当に選択の余地はなかったのだろうか? 引退して現在カリフォルニアに住むテールマンは、これを一笑に付した。「三十年近く経った今頃、あの時嘘をつきましたというような人間の言葉を信じるのかね」(インタビュー)と、彼は否定も肯定もしていない。
そのテールマンが、プロボー裁判の時、政府側の圧力にもめげず本当でないことは証言できないと断わり即座に一人日本に送り返された二世の証人を根性があると後で褒《ほ》めていたのを、同じ証人だったルース早川は覚えている。
早川は今頃になってからの二人の言葉を、卑怯ないい逃れだと見る。彼女は当時、東京ローズの有力候補者の一人として、当局から同じような圧力を受けていた。二人に選択の余地はあったと早川はいい切る。
そのいい例がレイズである。あの時、彼にかけられていた圧力は二人が受けた以上のものである。しかし彼は最後に自分の信じる選択をし、弁護側証人に立った。そのため公に嘘つきと呼ばれ罵られた。その時の傷は現在も癒えたとはいいがたい。彼がその後アメリカ政府から受けた嫌がらせも数知れないほどだ。裁判後数年経ってからでさえ、FBIのダンの理由のない威圧的な訪問を受けている。
もちろん、二人のような立場の証人を使って偽証を強いたアメリカ政府のやり方は、改めていうまでもあるまい。しかし、二人が検察側やFBIの圧力を持ちだして、自分たちの嘘が一人の人間を牢獄に送ったいいわけとするならば、アイバは救われない。もし彼らがそろって真実を語ったならば、それはアイバをこの邪悪な裁判から救っただけではない。彼ら自身の立場をもはっきり確立させることになったはずなのだから。
コリンズは「彼らの貪欲さが、政府側が望むようになんでも進んで証言させるのに役立った」(コリンズ特赦嘆願書、一九六八・十一・四)と指摘する。
三十年近く経った今になって二人は「今こそ、アイバが無実だったといえる。彼女はいかなる反逆的放送もしなかった」(シカゴ・トリビューン紙)と述べ、「会って話せばアイバもきっとわかってくれる」(同紙)とさえいう。彼らの偽証で反逆者となり、一生をめちゃめちゃにされた当のアイバは、今さらという感を禁じえない。「そのため私の人生は暗く孤独だった。私の人生の一番大切な時期は奪われた」(インタビュー)とのみ彼女は語る。
「すべてを苦々しいと思わないといったら嘘になる」。だが、彼女は意識して暗い過去を忘れ、先を見つめて暮すようにのみ努力してきた。それが唯一の今日まで正常でいられた道だったのです、と苦笑する。それだからこそ、アメリカ二百年祭に当たる今年、そのアメリカの誕生日に六十歳を迎えた彼女は、一切泣きごとをいわない。驚くほど前向きの姿勢をもちつづけている。
だが、過去の傷跡は、彼女がみせる人間不信にもっとも鋭く示されている。彼女自身がはっきりと、裁判後、この世で信用し続けたのは父と三人の弁護人だけだと語っている。そのうちの三人はすでにこの世の人ではない。
彼女がこよなく愛し尊敬した父遵は、初代シカゴ日系人会長を務めるなどで活躍し、また戦時中の功績により日本政府から勲四等瑞宝章を授与されたりもした後、一九七二年、九十歳の高齢で他界した。彼女を終始変わることなく支持し続けたコリンズは、一九七四年、香港から商用の帰路、ホノルルからサンフランシスコに向う飛行機上で心臓麻痺により死亡した。七十四歳であった。タンバはその前年同じく心臓麻痺で亡くなっている。残る一人のオールスハウゼンは、現在ユーゴスラビアで多年にわたるアメリカ奴隷史の研究をまとめており、健在である。
裁判の後、アイバの特赦願いの時には協力すると約束したデウォルフは、一九五九年、シアトルのホテルで拳銃自殺を遂げたという。彼はその三年前に、二十九年間勤め、輝かしい功績を残して司法省を退いていたが、健康を害していたようだ。五十六歳であった。ロッシュは一九六四年に八十六歳で、ヘネシー、ホーガンは一九五八年、他界している。
またアイバを東京ローズとして発見したはずのブランディッジも、一九六一年に老人ホームで死亡している。リーはそれよりずっと早く、四十六歳で亡くなっていた。
「私は自分の信念を貫いた。後悔はない。人も恨まない」というアイバは、強い女性である。だが、彼女の中の何かが過去の中で死んだ。
いくら見まいと努めても、それは大きな空洞となって彼女の中に残っている。そしてもはや人を心から信じられない彼女の人生は孤独だ。彼女の唯一の望みは、再びアメリカ市民権を手にすることだという。彼女は未だに無国籍なのだ(ちなみに、同じ宣伝放送アナだった古屋美笑子〔沖夫人〕、キャサリン師岡レイズ、ルース早川寿美などは皆、一九五〇年代にアメリカ市民権を得て、現在アメリカ人である)。
現在それを手に入れる一番手取り早い方法が大統領特赦だと、コリンズ亡きあと彼女の弁護士となっているコリンズの息子、コリンズ・ジュニアは説明する。だが、この事件に関する証拠が出そろった現在、特赦という言葉に抵抗を感じずにはいられない。
「特赦には大賛成だ。あの女は十分罪の償いをした。もう許してよい」(インタビュー)というテールマンの言葉を聞くにつけ、ますますその感が強くなる。特赦を願うのは一体どちら側なのかと。
[#地付き]〈了〉
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文庫版のためのあとがき
この本の初版は一九七六年十二月末にサイマル出版会より刊行された。それから一カ月も経たない一九七七年一月十九日、アメリカ司法省は「フォード大統領がアイバ・トグリ・ダキノに大統領特赦を与えた」と発表した。
そのためもあってだろうが、出版後の反響は大きかった。「天声人語」等で取り上げられたのを初め、多くのマスコミ関係者からの取材が相次いだ。出版の時期としては願ってもないタイミングだったといえる。
しかし、それは私にとっては全く偶然のことに過ぎなかった。私はただ、四年という月日をかけた仕事を、ようやくの思いで締め括っただけであった。
東京ローズ反逆罪裁判について私の言いたかったことは、本という形ですべて吐き出したつもりだった。そのときの私は、いわば蝉の脱け殻同然だったといえる。活字によって世に物を問うことが初めての経験であったこともあり、出版後のアフター・ケア的一連の出来事は私にとっては途惑い以外の何ものでもなかった。
特赦後の「東京ローズ騒動」とも言えそうなマスコミの関心の示し方は、伝説の女・東京ローズの今にして衰えないニュース・バリューを再認識させてくれた。と同時に、人を惹きつけずにはおかないその名の持つ奇《あや》しい魅力に薄気味悪ささえ覚えた。魔女・東京ローズがアイバに代って私に取り付き始めたような被害妄想にさえ、時としておそわれたりもした。
私を更にくたびれさせたのは、再び始まった東京ローズ騒ぎに乗じて、ここぞとばかりにマスコミで発言したがる人が出てきたことだ。それに関する文章も出た。断わりもなく、だが明らかに本書からの引用を使ったものもあった。この本の出版に当たり、私が堅く心に銘じていたのはアイバを初めとして現存する関係者に出来る限り迷惑をかけたくないということであった。少なくとも老境に入った彼らを私の都合で再び晒し者にはしたくなかった。
本書の書き方もことごとく反逆罪裁判そのものに焦点を当てての問題提起とし、現在に至る身辺については敢えて触れなかったのもそのためである。個々の人々を指差すことは本書の目的ではなかった。当時の日本人や日系人の置かれていた立場を考えれば、彼らを責めることは容易すぎると思われた。
それにも拘らず、かえってその点を突いて、関係者たちの現在の立場での発言を記事にしたものもあった。今の時点で自分たちに都合のよい見方からのみ裁判を語っていた。
その後もノンフィクションを手がけていて思うのだが、長い歳月のあいだに人はそう信じたいと思っていることを本当に信じてしまっている例が珍しくない。錯覚というよりも、人はそれぞれ忘れたいと思っている人生の部分をどこかに抱えているということではないだろうか。東京ローズ裁判は、アイバ一人だけでなくどの関係者にとっても決して愉快とはいえない過去に関わるものだけに、特にその感が深かった。
ところで大統領特赦だが、この決定には時代の動きを感ぜずにはいられなかった。「東京ローズ」と呼ばれた日系二世の特赦を可能にしたのは三十余年の歳月もさることながら、同じ日系人自らのアメリカ人としての自信と主張であったと思われる。
三回目の特赦請求で、これまで無関心を装ってきた全国日系市民協会(JACL)が初めて全面的なバックアップを申し出たことは本文でも触れた通りである。同協会は全国的な組織だけに、根回しも行き届いたものだった。
かつてサンフランシスコ州立大学の総長であったS・I・ハヤカワ氏が、カリフォルニア州から初めての日系上院議員としてその年選出されたこともラッキーだった。彼はその父がアイバの父・戸栗遵と同郷の山梨県人だったことから戸栗家を知っており、特赦運動にも早くから関心を示した一人だった。私は当時、一年間の予定で東京に住んでいたので、一切は特赦後にJACLのウエダ氏から伺ったのだが、ハヤカワ議員は上院議員選出後、初めてホワイト・ハウスに招かれた折、同じ共和党のフォード大統領に特赦の件を頼み込んだという。
フォード大統領が特赦にサインをしたのは一月十九日、新しく選出された民主党のカーター新大統領と交替する前日のことであった。フォードは大統領としての最後の仕事として、アイバ・トグリ・ダキノに「無条件の特赦」を与えたのであった。当時、特赦に反対する声はまだ根強く聞かれており、それを素早くかわした感がある。
それはともかく、特赦は当然の動きであった。戦後三十二年を経たことを思えば、余りに遅過ぎたとさえ言える。「こんなに長い歳月の後では、単純に嬉しいとは言い難い」と、特赦のニュースに喜びの涙を流しながらも、アイバは語っている。
東京で特赦についての感想を聞かれた私は、アイバとはまた違った意味で複雑な思いだった。それまでJACLの関係者が問い合わせてくる度に、手持ちの資料を提供するという形で私に出来うる協力はしてきていた。しかし、敢えて言えば、特赦などという言葉でこの裁判の最後の一ページを飾ってほしくはなかった。むしろ、再裁判要求という当然の権利の主張でこそ、この反逆罪裁判にはっきりと黒白をつけるべきだと思った。
だが、被告たるアイバはすでにこう言っていた。「もうくたびれた。あの長くて辛い裁判のプロセスに再び耐える気力も若さもない。特赦という形でもすべてにピリオドが打てるのならそれにこしたことはない」。それでもなお闘えと彼女に迫れる人はいないはずだ。私にもその言葉はない。ないだけに無念でもあった。
本書のアメリカでの出版は、JACL関係者の強い薦めもあり、早くから私の念頭にあった。アメリカ日系人史においてだけでなく、アメリカの市民運動から見ても象徴的な事件と思われるこの裁判に関する書物は、当時はまったくといっていいほど見当たらなかった。英語版を出す気になった理由もそこにあった。
幾つかの出版社が興味を示し、結局、ニューヨークのある大手出版社に決まった。ところが、本のカバーのデザインまで出来上ったところで「待った」がかかった。
「待った」をかけたのはその出版社の顧問弁護士であった。文章や文脈その他についてはすでにそれ専門の編集者が手を入れていたし、更に専門の弁護士も目を通してすべてO・Kのはずであった。それが、たまたま顧問弁護士の目にとまったところで「待った」となったわけである。
アメリカでノンフィクションを出版する場合、まず考えねばならないのが訴訟問題である。アメリカではやたらに訴訟に持ち込む人が少なくないからだ。訴訟となれば結論が出るまでに数年はかかる。その上、勝っても負けてもその間弁護士に支払う費用だけで莫大なものになる。従って、妥協出来るところは妥協して出来るだけトラブルを避けるのが賢明ということになる。
私も弁護士が指摘した法律上のテクニカルな面での問題点についてはすべて納得したつもりだった。しかし、顧問弁護士の「待った」には、どうしても飲み込み難い部分が多く残った。ニューヨークとの電話でのやり取りが続き、その度に石の壁に頭をぶつけるようなやり切れなさを味わった。とうとうニューヨークに出向いて顧問弁護士と直接話し合うことにした。
その弁護士はすでにかなりの年齢で、マンハッタンの目抜き通りのオフィスの壁にはルーズベルト大統領と握手する写真が飾られていた。フーバーFBI長官を個人的に知っていたと自慢げに語ったりもした。彼は本書を明らかに反米《ヽヽ》という目でのみ見ていた。
しかし、話し合っているうちに彼は以前とは打って変わった物分りの良さを示し、私を一旦ホッとさせた。ところが最後になってこう付け加えた。「アイバ・トグリ・ダキノ自身が決して訴訟いたしませんとサインさえしたら、この出版に問題はない」
その口調は明らかに、「東京ローズ」のようなノトリアスな性の悪い女はどんなことで何を言い出すか知れない、というものだった。彼が問題としているのが、アイバではなく伝説の女・東京ローズであることはこの一言に余りにも明らかであった。残念ながら、それがいまだに続く一部のアメリカでの反応であり、この弁護士も決して例外ではないということだ。それだからこそ、この本の書き手たる私にとってその一言は納得とか妥協以前の問題ともいえるものだった。
その出版社はその時点で十件以上の訴訟を抱えていた。それだけに、老いた弁護士の一言には社主をも動かす力があった。担当編集者は彼の出来得る最大の誠意を示してくれた。そのままではいつ出版にこぎつけられるか見当もつかない状態になったので、速やかに出版契約を解く方向へ話を進めてくれたのである。
間もなく出版はニューヨークの講談社インターナショナルに決まった。出版及び販売はハーバー&ロウ社を通してである。因みにハーバー&ロウ社では二人の弁護士が目を通して、何の問題もなくO・Kしたことを付け加えておきたい。
英語での出版は前述の理由から日本語版よりは三年も遅れたが、エドウィン・ライシャワー先生の「今日の人種差別及び真の法のあり方をもアメリカ人に強く問うてくる」との序を得て、一九七九年に出版された。アメリカ公民権連合の創立者ロジャー・ボールドウィン氏も推薦の言葉を寄せてくれた。
幸い反響は良く、全米各地とカナダで書評が続いて出た。中でも印象的だったのは、アイバ・トグリ・ダキノが現在も住む地元のシカゴ・トリビューン紙のものだった。その一文は次のような言葉で結ばれていた。「最終的には特赦になったからといって、我が国の歴史におけるこの恥ずべき一章が報いられたということでは決してない」(一九七九・六・三)
思いがけなかったのは、南部での反応が最も早く、かつ熱がこもっていたことである。ここでは一番最初に書評が出たテキサス州エルパソ市のエルパソ・ヘラルド・ポスト紙の記事を引用しておきたい。
「この非現実的とさえ言える物語を決して繰り返してはならないとただ願うのみである。だが、似たような非現実的な状況下では、このような悲劇が起こり得る可能性は今日でも十分にある。裁判における政治的介入は余りにもたびたび見られることだからである。それとも、裁判とは政治そのものなのだろうか」(一九七九・四・二十一)
残念ながら、アメリカだけではなく、どこの国においてもこれが現実だといえるはずだ。だからこそ、東京ローズ反逆罪裁判等の実例を通して、その危険をわれわれはわれわれ自身に常に戒めていく必要があるのではないだろうか。
本書は私にとって初めての本というだけではなく、アメリカに暮す日本人という自分自身の立場からも、身を削る思いの仕事となった。現存する人々の話であるだけに一つの読み違えも許されないと英文の裁判記録に取り組んでいた頃の、頭が割れるような日々はいま思い出すさえ辛い。そのため、英語版の仕事を終えてから更に三年、この文庫版の出版まで本書を手にする気にもならなかった。
このたび読み返して見て、今なら違う書き方をしたのではないかと思われる部分もある。裁判での証言記録に神経質なほどこだわっていたことは、随所に見られる英文そのままの翻訳的な文章にも如実である。だが、今回の文庫化にあたっては字句の修正にとどめ、本筋については敢えてそのままに留めおくことにした。そこにはあの時点での私の物書きとしてのナイーブともいえる諸々の|青さ《ヽヽ》が、良きにつけ悪しきにつけ息づいていると思われるからだ。本書はあの時の私のナイーブさが書かせたとさえいえる。
ナイーブという言葉は、アメリカでも決して褒める響きを持たない。だが、私は自分のナイーブさを開き直ってでも大切にしたい。ナイーブさと好奇心こそ私をしてノンフィクションの分野へと導いた原動力である。
自分の目と足で調べ抜き、それを今度は徹底的に足枷としながら書く、というノンフィクションの世界の魅力はつきない。歴史と化した自分たちの過去への底知れない可能性を秘めた旅。身に余る素材を抱えて愕然とする時、私は常にもはや引き返せない路上にいる。
「東京ローズ」は私にとってノンフィクションの旅の、まさに出発点にある作品である。
英語版「東京ローズ」を私は息子に捧げている。この一日系アメリカ人の話を、息子と同じ年代である若いアメリカ人にこそ読んでもらいたかったからである。ここに文庫にするに当たり、一人でも多くの新しい世代の日本人にこの物語が読まれることを願ってやまない。
一九八二年八月上旬 東京・広尾の仮居にて
[#地付き]ドウス昌代
初出誌 一九七七年十二月 サイマル出版会より刊行
〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年十一月二十五日刊