ホームズの回想(2)
コナン・ドイル作/鈴木幸夫訳
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目 次
せむし男
入院患者
ギリシャ語通訳
海軍条約文書事件
最後の事件
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せむし男
結婚後数か月たったある夏の夜、私は暖炉のそばの椅子に腰をかけ、寝る前のパイプをふかしながら小説をひろげ、その日の仕事がとても肩のこるものだったので、ついうとうとしていた。妻はもう寝室へあがっていたし、少し前に玄関の錠をかける音がしたので、召使いたちも床についたのだろうと思いながら、私はパイプの灰をたたいた。そのとき不意にベルの鳴る音がした。
時計を見ると十二時十五分前だ。こんなに夜遅く訪問客のあろうはずはない。たしかに患者に違いない、もしかしたら徹夜しなければならないかもしれないと顔をしかめながら、玄関に出てドアを開けた。
ところが驚いたことに、踏み段に立っているのは、シャーロック・ホームズだった。
「やあ、ワトスン君、迷惑じゃなかろうね」
「君だったのか。まあ中に入りたまえ」
「びっくりしただろう。むりもない。それに僕だったのでやれやれと思っただろう。ふん、相変わらず独身時代のアルカジヤ煙草《たばこ》をすっているんだな。上着の、綿みたいな灰でわかるよ。君が軍服を着なれていたことも簡単にわかるね、ワトスン。ハンカチを袖口に入れておく癖をやめないと、軍医あがりだとすぐ見破られてしまうぜ。ところで、今晩泊めてくれるかい?」
「いいとも」
「ひとり用の宿泊設備があると聞いていたし、それに帽子かけを見ると、今のところ男のお客もないらしいから」
「君が泊ってくれるとうれしいね」
「ありがとう。最近職人を入れて家のどこかを修繕したんだね。排水管じゃないのか……」
「いいや、ガス管だよ」
「ああ、その職人がちょうどあかりの届くリノリウムの上に、二つも靴の釘跡《くぎあと》を残している。いや、結構だ、夕食はウォータルーですませたから。しかし煙草なら喜んでおつきあいするがね」
私が煙草入れを渡すと、彼は私の真向かいに腰をおろし、しばらくは黙ったまま煙草をふかしていた。彼がこんな時刻にやって来るのは、きっと重大な用件があるからに違いないと思った。それで、辛抱《しんぼう》強く、相手が話しかけるのを待っていた。
「最近、仕事のほうはなかなか忙しいようだね」ちらと鋭い視線を走らせて彼は言った。
「うん、今日は忙しかった。こんなことを言うと君はおかしがるだろうが、どうしてそれがわかるのか見当がつかないね」
ホームズはくすりと笑った。「僕は都合の良いことに君の習慣を知っているからね。君は、回診がすぐすむときは歩いて行くが、長くかかるときは辻馬車に乗る。ところが君の靴は、これまではいているのにちっとも汚れていない。そこで僕は、君が現在、辻馬車に乗らなきゃならないほど忙しいと確信したのさ」
「すばらしい!」私は大声をあげた。
「なあに初歩的なことさ。推理家が、ひとをびっくりさせることができるのは、普通のひとが推理の根底になる小さな事柄を見落しているからだという例のひとつさ。君のちゃちな事件録のもつ効果についても、同じことが言える。あれはいやに派手なものだがね。しかし事件録があんな効果をもっているのは、君が問題の要点を手もとに握っていて、読者に知らせないからなんだ。ところが、僕は今その読者と同じ立場にいるんだ。人間の頭を困惑させる最も奇怪な事件のひとつにぶつかって、それを解く二、三の鍵は手に入れたんだが、まだ僕の理論を完結させるのに必要な一、二の鍵が手に入らないんだよ。しかし、僕は手に入れてみせるよ、ワトスン。きっと手に入れてやるぞ」
彼の目は輝き、やせた頬にかすかな血の気がのぼった。一瞬、彼の鋭い情熱のこもった天性が姿を現わした。が、それもほんの一瞬だった。
私がもう一度その顔をちらと見直したとき、もうインディアンを思わせる平静に返っていた。それは、しばしば彼を人間よりも機械に近いものに思わせるものだった。
「事件はとても興味あるものだ。ちょっと他に例のないほどのものと言ってもいいね。調査はもうすんだから、まもなく解決できると思う。その最後の一歩を一緒にやってくれると、大いに助かるんだがね」
「ぜひやらせてほしい」
「明日、オールダーショットまで行けるかい?」
「患者はジャクスンがきまって引き受けてくれる」
「それは好都合だ。十一時十分にウォータルーを出発するつもりだが」
「じゃあ、時間は十分ある」
「それじゃ、君がひどく眠くなければ、どんなことが起こったのか、これから何をしなければならないのか、簡単に話そう……」
「君が来る前は眠かったが、今はすっかり目がさめたよ」
「事件の核心になる事柄を、ぎりぎりまで要約して話そう。君も大体は新聞で知っていると思うが。僕が調べているのはね、オールダーショットの、ロイヤル・マロウズ連隊のバークレー大佐殺人事件だ」
「何も聞いていない」
「まだ、地方で騒がれているだけだからね。事件は二日前に起こったばかりだ。手短かに言うと、こうだ。
ロイヤル・マロウズ連隊は、君も知ってるように、英国陸軍で最も有名なアイルランド連隊のひとつだ。クリミヤ戦役でも、ベンガル兵部隊の反乱のときもすばらしい働きをしたし、それ以来、ことあるたびに名をあげてきたが、その連隊を、月曜日の夜まで、ジェイムズ・バークレー大佐が統率していた。バークレー大佐は、勇敢な熟練した軍人で、一兵卒から出発したんだが、ベンガル兵反乱のおりに示した勇猛さが買われて将校になってね、とうとう、かつて一兵卒として鉄砲をかついだ連隊を指揮するまでになったわけだ。
バークレー大佐は軍曹《ぐんそう》時代に結婚した。相手は娘時代ナンシー・ディヴォイといって、同じ隊で、もと軍旗係をしていた軍曹の娘だ。それで、この若夫婦が……ふたりはまだ若かったんだがね……結婚した当座に、周囲といくらか軋轢《あつれき》があったことは想像できる。けれどもふたりは急速に順応していったようだ。バークレー夫人は、夫が同僚に人気があったように、連隊の奥さん連中にいつも[うけ]がよかった。それになかなかの美人で、結婚後三十年もたつというのに、今でもまだ人目をひく容貌を持っている。
家庭生活はずっと幸福だったらしい。僕がいま知っている事実の大部分を提供してくれたマーフィー少佐は、この夫婦のいざこざはただの一度も聞いたことがないと言っていた。マーフィーの話だと、概して、夫人よりも大佐のほうがずっと深く愛していたらしいね。バークレーは、ほんの一日でも夫人のそばを離れると不安だったらしいが、夫人のほうは、献身的で貞淑ではあっても、大佐みたいに行き過ぎた愛情は持っていなかった。しかし、この夫婦は、連隊では中年夫婦の典型と見られていて、夫婦のあいだに、やがて起こる悲劇を予想させるものなんか、何ひとつなかったんだ。
バークレー大佐の性格には、どこか奇妙な特徴があったらしい。ふだんは颯爽《さっそう》とした陽気な人だが、どうかすると、かなり乱暴な、執念深い人になりかねない一面を見せることがあった。もっとも、夫人の前では一度もそんなことはなかった。それに、マーフィー少佐や、僕が話した士官五人のうち三人までが、大佐がときどき妙にふさぎこむのを変に思ったことがあるそうだ。小佐の表現を借りるとね、会食のにぎやかな浮き浮きした席に仲間入りしているときに、まるで見えない手で払いのけられるように、微笑が大佐の口もとから消えることがよくあったそうだ。そして気分がすぐれないと、そのまま何日も続いて深い憂鬱《ゆううつ》に沈んでいたりしたそうだ。
同僚士官の目についたことだが、もうひとつ、バークレー大佐の性格の異常な特徴に、迷信的なのがあってね、ひとりで置き去りにされるのをいやがって、それもとくに夕暮れがひどかったという。まったく男性的そのものの彼の性格に、こういう子供じみた面があるのは、しばしば陰口されたり、とやかく憶測されたりする原因になっていたらしい。
ロイヤル・マロウズ連隊の第一大隊は……つまりもとの一一七大隊だが……、数年来オールダーショットにおかれている。既婚の士官は兵舎を離れて住むことになっているから、大佐もずっと、北兵営から半マイルばかりのラシーヌという別荘に住んでいた。その家は広い庭に囲まれているが、西側は国道から三十ヤードも離れていない。夫婦のほかは、使用人は馭者《ぎょしゃ》と女中がふたりあったが、子供はないし、逗留《とうりゅう》客もめったになかった。
さて、事件はこの月曜日の夜九時から十時までの間にラシーヌで起こったんだが。バークレー夫人はカトリック教会の会員だったから、ワット街教会と連絡して、不要の衣類を貧しい人たちに供与する目的で発起したセント・ジョージ協会の設立に、非常な関心を持っていた。協会の会合が、その夜八時に開かれることになっていたので、夫人はこれに出席するために大急ぎで夕食をすませた。出がけに夫に声をかけて、すぐに帰りますからと言ったのを、馭者が聞いている。会合は四十分ばかりですんだ。夫人は隣りの門口でモリスン嬢と別れて、九時十五分に帰宅している。
ラシーヌには、朝の居間として使われる部屋があって、これは道路に面しているんだが、両開きの大きなガラス戸をあけると芝生に出られるようになっている。芝生は幅が三十ヤードばかりあって、その先は鉄の手すりのはいった低い塀《へい》が往来との境になっている。バークレー夫人が帰って来てまず入ったのはこの部屋だ。夜はめったに使わない部屋で、鎧戸《よろいど》はあいたままだったが、夫人はランプをつけベルを鳴らして、女中のジェイン・スチュアートにお茶を持って来るように言った。こいつは普段の夫人には珍しいことだった。
大佐は食堂にいたが、夫人が帰ったのを聞くと朝の居間にやって来た。馭者は、大佐が広間を横切ってその部屋に入るのを見たが、それが生きている大佐の見おさめだったんだ。
言いつけられたお茶を持って女中がやって来たのは、それから十分ばかり後のことだったが、彼女は、ドアに近づくと夫妻の激しいいさかいの声がしたので驚いた。ノックしてみたが返事がないので、ドアの取手を回そうとしたら、中から錠がおりていて開かなかった。全く当然のことだが、彼女はこのことを料理女に告げに階段をかけ降りた。そして馭者とふたりの女は広間に引っ返して、まだ激しい勢いで続いている口論に耳を傾けた。
三人とも、大佐と夫人の声しか聞こえなかったと言っている。大佐は、押し殺したけわしい声で、ほとんど聞きとれなかったそうだが、夫人はひどく激しい声で、『卑怯《ひきょう》もの』と何度も繰り返して叫んだのが、はっきり聞きとれた。
『今になってどうなるっていうの? 私の一生を返していただきたいわ。もうあなたと同じ空気なんか二度と呼吸するもんですか! 卑怯もの! 卑怯もの!』
夫人の切れぎれの言葉はざっとこんな調子だったが、いきなりガチャンという音がして、恐ろしい男の叫び声がしたと思うと、絹を裂く悲鳴に変わった。馭者は、何か悲劇が起こったにちがいないと思って、ドアにとびついてぶちこわそうとしたが、その間にもたえず悲鳴が続いていた。ドアはどうしても開かない。それにふたりの女中も恐ろしさに動転して、まったく役に立たなかった。
しかし馭者はふといい考えを思いついて、広間を走り出て大きなフランス窓のあいている芝生のほうにまわった。はたして一方の窓が開いていた。夏だから当然のことだがね。そこで彼は簡単に部屋に入った。夫人は叫ぶのをやめて、長椅子の上に気を失って倒れていた。大佐はと見ると、足を肘掛椅子《ひじかけいす》の横にぶら下げ、暖炉の灰止めの片隅に頭をおいている。この不幸な軍人は、血の海の中ですっかり息絶えていた。むろん馭者は、大佐がもう助けるすべのないのを知って、何より先にドアをあけようとした。
しかし、そこには思いもかけない奇怪なことがあった。鍵が鍵穴にさし込んでないばかりか、部屋のどこにも見当らないんだ。そこで彼は、また窓から出て巡査と医者を呼んで引っ返して来た。当然、夫人が最も有力な容疑者と見られたが、失神状態のまま、自分の部屋に移された。大佐の死体はソファの上に置かれ、厳重な現場検証が行なわれた。
不幸な老軍人の致命傷は、長さ二インチの、不揃《ふぞろ》いな後頭部の切傷で、明らかに鈍器の強打によるものだし、その凶器が何であるか、推定するのもむずかしいことじゃなかった。死体のそばの床の上に、骨の柄《え》のついた彫刻入りの堅い棍棒《こんぼう》が落ちていた。大佐は実戦に参加した際に、あらゆる国々から持ち帰った、雑多な武器の蒐集品を持っていたから、警察じゃ、この棍棒も彼の戦利品のひとつだと憶測している。召使いたちは、今まで一度も見たことがないと言っているけれども、この家の数えきれない珍しい品々の中には、万が一の見落しも十分考えられることだ。
警察は、この棍棒以外には、重要な物を何ひとつ部屋の中で見つけることができなかった。ただし、夫人の身体からも被害者の身体からも、また部屋のどこからも、例の鍵が見つからないという奇妙な事実は別としてだがね。ドアは結局、オールダーショットから錠前屋を呼んであけさせねばならなかった。
これが、火曜日の朝、マーフィー少佐の要請で、警察を助けにオールダーショットに出かけたときの状況だ。君も、これがどんなに興味ある事件かわかったと思うが、僕が調べてみると、最初に思っていたよりは、はるかに異常なものだとわかった。
部屋を調べる前にも召使いを訊問《じんもん》したが、いま言った事実のほかは、なにも聞き出すことができなかった。ただ、女中のジェイン・スチュアートが、おもしろいことを覚えていた。
君も覚えているだろう、彼女は言い争いの声を聞きつけて、料理場にかけおりて同僚を引っぱって来たんだが、その前ひとりでいたときに、声があんまり低いから何を言い争っているかは聞き取れなかったけれども、声の調子から、ふたりが喧嘩しているのがわかったと言う。ところがもっと追求してみるとね、夫人がデイヴィッドという言葉を二度ばかり口にしたのを覚えていた。これは、急にはじまった言い争いの原因を探るのに、非常に重大な手がかりなんだ。なぜって、大佐の名はジェイムズなんだからね。
またこの事件には、警察も召使いたちも異様に思っていることが、もうひとつある。大佐の顔がゆがんでいたことだ。話によると、人間の顔が、よくもまあ、こんなにゆがめられるものだと思うくらい、激しい不安と恐怖にひきつった表情をしていたそうだ。ひとりならず、そのあまりの恐ろしさに気を失った者があるほどだから。大佐は、自分の運命を知ってこんな表情をしたにちがいない。この点、警察当局の見解ともまったく一致しているんだが、もし大佐が、自分の妻が殺人的な一撃を加えるのを見たのなら、それも当然のことだ。後頭部に致命傷があることにしても、大佐が夫人の棍棒をさけようとして顔をそむけたとも考えられるから、この説明の致命的な欠陥にはならない。夫人は急性脳炎で一時的に発狂しているから、なんにも聞き出すことができない。
警察の話だと、その晩夫人と一緒だった例のモリスン嬢は、夫人がふきげんな気分で帰っていった原因については、何も知らないと言う。
これだけの事実を集めたから、僕は、事件に決定的な意味を持つものと、単なる付随的なものとを分類しようと考えながら、しばらく静かにパイプをふかした。いちばん明瞭で暗示的な点は、むろん、ドアの鍵の不思議な紛失だということには疑いの余地がない。だから、第三者が部屋に入ったのでなければならない。それも窓から入る以外にみちはない。そこで思ったんだが、綿密に部屋の中を調べたら、必ずこの奇怪な人物の証拠が発見できるはずだ。
ワトスン君、君は僕のやり方をよく知っているが、僕はありとあらゆる方面から調査を進めた。その結果、思ってもみなかった証拠を発見したよ。部屋の中に、ひとりの男がいたんだ。しかも道路から芝生を横切って入って来たんだ。
この男の鮮明な足跡が五つ見つかった。ひとつは道路で、男が低い塀をよじのぼったところ、ふたつは芝生の上、あとのふたつはごく薄いんだが、男が部屋に入った窓ぎわの汚れた板の上だ。指先のほうが踵《かかと》よりも深く跡を残しているから、芝生を走ったんだろうが、僕が驚いたのはそのことじゃなくて、その男の仲間だ」
「えッ、男の仲間だって?」
ホームズは、注意深くポケットから大きな薄葉紙を取り出して膝の上にひろげた。
「何だかわかるかい?」
紙面は、何か小さな動物の足跡でおおわれていた。五つのはっきりしるされた足の跡があり、長い爪の痕跡《こんせき》があり、全体の大きさは、まずデザート・スプーンぐらいだった。
「犬だろう」
「犬がカーテンを駆け上るなんて、聞いたことがあるかい? ところが、そいつが実際にそれをやったという証拠があるんだよ」
「じゃあ、猿か」
「猿でもないんだ」
「それじゃ、いったいなんだ」
「犬でもなし、猫でもなし、猿でもない。つまり、日ごろわれわれに馴染《なじみ》のある、いかなる動物でもない。僕は、寸法から逆に再構成してやろうと思った。ここに、その動物がじっと立ち止ったときの四つの足跡があるが、前足から後足まで、十五インチばかりある。首と頭を考えても二フィートしかない。尻尾があるならもっと長いだろうが。さて、次はべつの足跡だが、これをよく見たまえ。歩いているときのやつで、ひとまたぎの幅がわかるわけだが、どれを見ても三インチあまりしかない。だから、長い体に非常に小さな足のついた動物だということがわかると思う。あんまり思いやりのあるやつじゃなくて、あとに毛を落していってくれなかったんだがね、大体の外形はいま言ったようなものになるはずだ。それでカーテンを駆け上ることのできる肉食動物だ」
「どうして肉食なんだい?」
「カーテンを駆け上っているからね。窓にカナリヤの篭《かご》がつり下げてあったから、そいつを捕えようとしたんだろう」
「とすると、いったいどんな動物だ?」
「それがわかったら解決したも同然だってことになるんだが。まあいわば、イタチかテンの種類の何かだろうね。しかも、僕が今まで見たものよりは、ずっと大きな図体をしたものだ」
「それが犯罪にどんな役目をしたんだ?」
「それがまだはっきりしない。しかし、かなりいろんなことがわかっているのは、君も認めるにろう。ひとりの男が道路に立って、バークレー夫妻の言い争いを見ていた。鎧戸が開いていて、灯がついていたんだから。で、その男は、奇怪な動物と一緒に芝生を駆け抜けて部屋にはいった。そして大佐を打ち倒した、あるいは十分ありうることだが、大佐が男を見て驚きのあまり卒倒した、その拍子《ひょうし》に暖炉の火止めの角で頭を割った。それから実に奇妙なことだが、侵入者は立ち去るときに鍵を持っていった。こういうことが、僕らにはわかっているわけだ」
「君が発見したことは、事件をますます不可解なものにしてしまうね」
「たしかにそうだ。明らかに、この事件が初め考えていたよりはるかに複雑だという証拠だよ。僕はいろいろ考えたあげく、べつの面から調べるべきだという結論に達した。だがまったくのところ、こんなことをして、君が眠るのを邪魔しているようだねえ。じゃあ、あとは明日オールダーショットに行く途中で話すことにしよう」
「ありがとう、しかしそこまで話してやめるなんて……」
「これは確実なんだが、バークレー夫人が七時半に家を出るときは夫と仲違《なかたが》いなんかしていなかった。前にも言ったと思うが、夫人は、これみよがしの愛情は示さない人だが、馭者は夫人がそのときとても親しそうに大佐と話していたのを聞いている。ところが、帰って来るといきなり夫のめったにいそうにない部屋に入って、ヒステリー女みたいにあわててお茶を命じたり、夫がはいってくると口汚くののしっている。だから七時半から九時までの間に、夫人の大佐に対する感情をすっかり変えてしまう何事かが起こったのは確かだ。しかしモリスン嬢はその二時間半の間、ずっと夫人と一緒にいたんだから、本人がいくら否定したって、その出来事について必ず何か知っていなけりゃ、嘘だ。
僕は最初、この若い女と老軍人の間になにか秘密があって、それを夫人に告白したんじゃないだろうかと思った。それだと、夫人が怒って帰ったことも、モリスン嬢が何も起こらなかったと言ったことも納得できるし、ドアからもれ聞こえた夫人の言葉とも全く矛盾しないからね。ところが、夫人が口にしたデイヴィッドのことも考慮しなけりゃならない。またそういったことを予測するには、夫人に対する大佐の愛情はあまりにも深かったんだ。
もっとも、ふたりのいさかいとまったく無関係の第三者が侵入して来て悲惨な結果をもたらしたということだって考えられるしね、いずれにしても目鼻をつけるのは容易じゃない。けれどもまあ、僕としては、大佐とモリスン嬢との間に何かあるという考えを捨てて、そのかわりに、バークレー夫人が夫を憎むようになったわけを、彼女が知っているに違いないと信じ込むようになった。それで僕は、当然のことだが、彼女をたずねて、真相をご存じなのだと確信していると言い、また事件が解決しないと夫人は殺人の嫌疑を受けるようになるだろうと言ってやったんだ。
モリスン嬢は小柄でほっそりした、腺病質な感じの女で、髪の毛はブロンドで、臆病そうな目つきをしていた。如才《じょさい》がなくて、常識もなかなかしっかりしているようだった。
僕がそう言うとしばらくじっと考えていたが、やがて決心がついたらしく、元気よく僕のほうに振り返って驚くべき事実をぶちまけた。
その物語を手短かに話してあげよう。
『私は友だちのナンシーに、このことを口外しないと約束したんです。どんな約束だって、約束は約束ですわ。でもかわいそうに、病気でなんにも言うことができないっていうのに、そんな恐ろしい嫌疑を受けているんですもの、それを私が本当に救うことができるのでしたら……それなら、私、約束を破ってもいいと思いますわ。月曜日の夜どんなことが起こったか、正確にお話しいたします。
私たちは八時四十五分ころ、ワット街の教会から帰りました。途中ハドスン街を通らなきゃならないんですけれど、あそこは寂しい通りで、左がわにたったひとつ街灯があるっきりです。この街灯の近くまで来たときに、背中のひどく曲がった男が、なにか箱みたいなものを肩からぶら下げてやって来るのが見えました。頭をひどく低く下げて、膝を曲げて歩いていたのは、どうやら不具者のようでした。街灯の丸い光の輪の下ですれ違ったんですけれど、そのとき男は顔を上げてこちらを見ました。男は、とたんに立ち止っていきなり恐ろしい声を張り上げたんです。
[やあ、ありがたい、ナンシーじゃないか!]
バークレー夫人は、死人みたいに真っ青になりました。男がつかまえなかったら、その場にあやうく卒倒するところでした。私、思わず巡査を呼ぼうとしたんですけれど、驚いたことに、彼女は親しそうにその男に話しかけるんですの。
[お前さんは三十年も前に死んだと思っていたのよ、ヘンリー]と震え声で言うんです。
[死んだのさ]と男が言ったその調子は、聞いただけでも恐ろしさがこみ上げるほどでした。暗い恐ろしい顔をして、目は夢にまで見るくらいギラギラ光っていました。髪の毛も頬髭《ほおひげ》もごましおで、顔といったら、しなびたリンゴみたいに皺《しわ》だらけなんです。
[ちょっと先に行っていらしてね。しばらくこの人と話があるの。ちっともこわくなんかないのよ]
彼女ははっきりこう言ったんですけれど、顔色はまだ青ざめて、唇の震えが止まらないもんで、言葉もよく聞きとれませんでした。ナンシーの言うとおりに、私は少し先まで歩いて行きました。ふたりはしばらく話しあっていたようですけれど、すこしして、彼女は目を妙にギラギラさせて追いついてきました。さっきの男はと見ると、まるで怒りに気が狂ったみたいに、街灯のそばに立って、握りしめた拳固《げんこ》を振りまわしていました。それから彼女は、私の玄関口までひと言も話しませんでした。別れしなに彼女は、手を握って、今夜のことは誰にも言わないでほしいって言いました。
[いまではおちぶれているけれど、あの人は私の古いお友だちですの]
私が他言しないって約束すると、彼女は接吻して帰って行きました。それ以来いちども会っておりません。さあ、これで真相をすっかりお話ししましたわ。警察の方にお話ししなかったのは、あの人に殺人の嫌疑がかかっているなんて、夢にも思わなかったものですから……、でもこうなったら、何もかもお話しすることが、あの人を救う唯一の道ですわ』
というのがモリスン嬢の話だ。ワトスン、おわかりだろうが、僕は闇夜《やみよ》に灯火を得たような気がしたよ。それまでつながりのなかった様々な事柄に、たちまち連絡がついたし、一連の事件がおぼろげながら、わかって来たんだから。そこで僕の次に打つ手は、バークレー夫人にそんなに激しい印象を与えた男を発見することだ。まだオールダーショットにいるのなら、それほどむずかしいことでもあるまい。あそこには軍人以外の人間はあまりいないし、不具者はとかく目につきやすいものだ。
そこで僕はまる一日かかって、とうとうその晩……つまり今晩その男を探しだしたよ。ヘンリー・ウッドといってね、彼女たちが会った同じハドスン街に下宿していた。オールダーショットには五日前に来たばかりの男だった。登記所員のふりをして、下宿のおかみさんからなかなかおもしろいことが聞けたよ。ウッドは、夜になると兵営の酒保《しゅほ》をまわって余興をやってみせる手品師だ。いつも動物を小さな箱に入れて持っているが、どんな動物なのか見たことがないと言って、おかみさんたちは恐ろしがっていたようだった。手品のたねに使うらしいと言っていたがね。おしゃべりでいろんなことを話してくれたよ。あんなに体がよじれていながら、よく生きていられるもんだとか、時々聞きなれないどこかの国の言葉でしゃべるとか、この前ふた晩続けてうめいたりすすり泣きしたりする声が聞こえたとかね。
金払いはなかなかいいそうだが、手つけ金に渡してくれた金が、偽《にせ》のフローリン銀みたいな気がすると言って、おかみさんが僕に見せるんだ。何のことはない、インドのルピー銀なのさ。
さてそこでだ、ワトスン君、僕らの現在の立場もわかったろうし、君の助力が必要な理由ものみこめたろう。ふたりの女と別れてから、ウッドはずっとあとをつけていた。そして窓ごしにバークレー夫妻のいさかいを見た。そこで中に飛び込んだ。そのとき彼の持っている例の動物が箱の中から逃げ出した。これは絶対にまちがいのないところだ。しかしそれから何があの部屋の中で行なわれたか、こいつを正確に話せるのはウッドだけなんだ」
「それでウッドにたずねるつもりなんだね」
「絶対にそうする。ただし証人を前にしてね」
「僕がその証人になるのかい?」
「承知してくれるならさ。で、もしウッドが真相を明かしてくれるといいんだが、拒絶したら逮捕命令を出してもらっても聞き出すつもりだ」
「しかしオールダーショットに引っ返して、果たしてウッドがそこにいるだろうか?」
「予防策は講じてあるから大丈夫だ。ベイカー街の少年隊のひとりを使って見張りをさせてある。ウッドがどこに行こうと、光の輪みたいにくっついて離れない。明日ハドスン街で必ず会えるはずだ。それよりか、これ以上君を寝させなかったら、それこそ僕が犯罪を犯すことになりそうだ……」
われわれが悲劇の現場に行ったのは、翌日の昼ごろだった。ホームズの案内で、ただちにハドスン街に向かった。めったに感情を外に出さないホームズが、珍しく、抑えきれない興奮を感じているようだった。私にしても、なかばスポーツをしているような、なかば知的な喜びに胸がときめく心地だった。
「これが例の通りだよ」質素な、煉瓦《れんが》造りの二階建ての家が並んだ短い通りだった。
「やあ、シンプスンが報告に来たよ」
「やつは家にいますよ、ホームズさん」われわれの方にかけよりながら、シンプスンが叫んだ。
「そりゃ好都合だ」ホームズはシンプスンの頭をなでた。「さあ、来たまえ、ワトスン、この家だよ」
彼は、出て来た取り次ぎに名刺を渡して、重大な用件でたずねたとことづけた。そしてほどなくわれわれは、目的の男と顔をつきあわせたのである。
ウッドは、夏だというのに暖炉の上にかがみこんでいて、部屋の中は天火を思わせる猛烈な暑さだった。その中で彼は、体をねじ曲げ、救いがたい不具者の悲惨さを感じさせる恰好をして、こちらに振り返った。浅黒い疲れきった顔をしていたが、以前は人目につくほどいい男ぶりだったにちがいないと思われた。黄色がかった意地悪い目で、うさんくさげに私たちをまじまじと見て、立ち上がりもせず、無言で椅子のほうに手を振った。
「最近までインドにおいでだった、ヘンリー・ウッドさんですね」ホームズは愛想よく話しかけた。「私たちは、バークレー大佐の死に関するちょっとした事件のことでお伺いしたんですが……」
「私が何か知ってると言うのですかい?」
「それを確かめに来たんですよ。たぶんご存じだと思いますがね。真相が明らかにされないと、あなたの古い友だちのバークレー夫人が、まちがいなく殺人容疑者として取り調べられますよ」
ウッドは驚いてとび上がり、「あなたはいったいどなたです!」と叫んだ。「どうしてそんなことがわかりますか。今おっしゃったのは本当ですか」
「どうしてお疑いですか。夫人の意識が回復して逮捕できるようになるのを、警察は首を長くして待っておるんですよ」
「えっ。あなたは警察の方ですか」
「ちがいます」
「じゃあ、何しに来なさった」
「正義が行なわれるのを助けるのは、すべての人の義務ですからね」
「彼女は無罪だ。間違いありません」
「じゃ、あなたがやったんですね」
「いやいや、私じゃないです」
「じゃあ、バークレー大佐を殺したのは誰です?」
「神の摂理でさ。まあ聞いて下さい。私は心の底から大佐の頭をぶち割ってやりたかったですが、たとえ私がそれを実行していたところで、それによってあの男に与える報いが十分だとは言えないですよ。罪悪感があの男を打ちのめさなかったら、きっと私があいつの息の根を止めていたに違いないです。あなたは真相を聞きたいのでしょう。そんなら、私は何も恥ずべきところはないんだから、遠慮なく話しましょう。
実はこういうわけなんで。今でこそ背中が駱駝《らくだ》みたいになっちまって、あばら骨もすっかりねじれちゃってますがね、ヘンリー・ウッド伍長《ごちょう》といや、一一七歩兵大隊きっての伊達男《だておとこ》で通った時代もあったんですよ。当時はインドに駐屯《ちゅうとん》してましたが、兵営のあったのは仮にまあブアティとしておきましょう。こんど死んだバークレーは、同じ中隊の軍曹でした。そのころ連隊の小町娘《こまちむすめ》と騒がれたのが、軍旗係軍曹の娘で、ナンシー・ディヴォイという子でした。たいした別嬪《べっぴん》でね、唇に生命の息吹《いぶき》が香っとったですよ。
ところが、ふたりの男が同時に恋してしまった。片ッ方を、彼女は愛しました。こうやって火の前にちぢこまっとる哀れな男を見とられるから、きっとまあ、お笑いなさるでしょうがね、その彼女の愛した男という相手こそ、美貌のウッド伍長だったんですよ。私は無鉄砲きわまる若者でしたが、バークレーは教育もあるし、剣術のうまいことは一流でした。だから、彼女の心をつかんだのは私だったが、父親のほうは、バークレーの嫁にするつもりだったんです。けどもナンシーは、いつも私に誠実を尽してくれました。それで、まもなく結婚できる見通しもつきはじめたのですが、ベンガル兵部隊の反乱が起きましてね。たちまち国じゅうにありとあらゆる不幸がひろがって行きました。
私らの連隊は、砲兵半個中隊、シーク歩兵中隊、その他大勢の非戦闘員や婦女子と一緒に、ブアティに包囲されちまいました。一万からの反乱軍が、捕鼠器《ほそき》のまわりにテリヤが群がったみたいに、いきり立って取り巻いとったです。二週間ばかりでとうとう水がなくなる。地方を進軍しておったニール将軍の縦隊と連絡できるかどうか、こいつは疑問だったですがね、大勢女子供を連れて脱出を闘い取ることはとうていできない相談ですから、まあ唯一の希望だったわけです。
そこで私は、脱出してニール将軍にわれわれの急を告げる役を、進んで志願しました。志願が許されたものですから、さっそく、当時連隊でいちばん地理に明るかったバークレー軍曹に相談に行きました。げんに、私が反乱軍の包囲網を破ろうという道筋も、バークレーが開いたもんだったですからね。私はその夜十時に出発しましたが、千人からの人間が救いの手を待っておるのに、城壁を飛び降りたときに思っていたのはただひとり、ナンシーのことだけでしたよ。
私は涸《か》れた水路を駆け降りて行きました。そうすれば敵の歩哨《ほしょう》の目がかすめられると思ったからです。ところが、はうようにして水路の角を曲がると、いきなり暗闇の中にしゃがんで待ち構えておった六人の歩哨のまっただ中にとび込んでしまった。たちまちなぐりつけられて気絶しました。手足も縛られてしまいました。しかし、頭をなぐられたことなんか、心の打撃にくらべたら物の数じゃありません。というのは、息を吹ッ返してから、彼らの話し声がどうにか聞こえましてね、私が道筋を相談したその当の男が、実はベンガル人の召使いを敵に内通させて、私をだましうちにしたんだということがわかったんですよ。
しかしまあ、こんな物語はくどくど話す必要もないでしょう。あなた方も、ジェイムズ・バークレーという奴がどんな悪賢い人間だったか、もう知っとられるでしょうからね。ブアティは、翌日になってニール将軍の手で救われました。ところが、退却するときに、反乱軍は私も一緒に連れてってしまったんですよ。
それからは、お話しにならないほど長い間、白人の顔を見ませんでした。何べんも拷問《ごうもん》にかけられ、何べんも逃亡を企てたのです。そのたびにつかまっちゃ、また拷問です。そいつがどんなにひどかったか、まあ、この姿をごらんになったらおわかりでしょう。
反乱軍の一部のものがネパールへ逃げたとき、私も道連れにされました。その後、ダージーリンを通って高地に登って行ったんですが、そこで私を捕えておった反乱軍が高地の土民に殺されましてね、逃亡に成功するまで、しばらく土民の奴隷でした。逃亡に成功してからも、南へは逃げられないから、北へ道をとってアフガニスタンに行くより仕方がありません。
アフガニスタンで長いこと放浪しましたが、それでもやっとの思いでパンジャブにたどり着きました。そこで私は土民の間にまじって、習い覚えた手品で生活しておったわけです。こんな醜い姿で故郷に帰ったって、また旧友らとつきあったって、それが何になりますか。バークレーに対する復讐の気持さえ、私を動かしゃしなかったぐらいです。ましてナンシーや旧友たちに、杖《つえ》にすがって、はうように歩く、チンパンジーみたいな姿をさらすよりか、ヘンリー・ウッドはあのときに死んでしまったと思わせておいたほうが、いくらましだか知れやしません。生きてるなんて夢にも思わんだろうし、こっちもそう思わしておきたかったですよ。
バークレーが、ナンシーと結婚して、連隊で着々と昇進していることも風の便りで聞きましたが、それでも、私はあのことを話す気は起こりませんでしたよ。
しかし、誰だって、年をとると故郷に郷愁みたいな気持を感じるもんです。長いあいだ私は故郷の明るい緑の野原や丘を夢みてきました。そして、とうとう死ぬまでに一度それを見ようと決心しまして、旅費を工面しました。そしてこの兵隊の駐屯しているオールダーショットにやってきたのです。兵隊の気心も扱い方もわかっていますから、ここだとどうにか暮らせるような気がしたもんでね」
「まことに興味あるお話しでした」とホームズが言った。「私はあなたがバークレー夫人と行き会って、お互いにそうだとお知りになったことは聞いています。それからあなたは夫人を家までつけて行って、そこで夫人が夫に過去の裏切り行為を責め、争いがはじまったのを窓ごしにのぞいたんでしょう? 見ているうちに、こみあげる憎悪にたまりかねて、芝生を横切ってふたりの間に飛び込んだんですね」
「ええ、そのとおりです。バークレーは、私を見るなり、今まで見たこともないような顔をして後ろへ倒れました。その拍子に、頭を暖炉の灰止めの角にぶっつけたんですよ。けれどバークレーは、倒れる前に死んでいたんです。私は、そこの暖炉の上の聖書を読むようにはっきりと、彼の顔に死相が浮かぶのを見ましたから。まるで私のこの赤裸々な姿が、鉄砲だまみたいに彼の心臓を貫いたようでした」
「それから?」
「それからナンシーが気絶しました。私はナンシーの手から鍵をもぎとると、ドアを開けて助けを呼ぼうと思いましたが、ふと、このまま放っておいて逃げたほうがいいような気がしました。というのは、嫌疑がかかった場合に事情がとても不利なようだったし、そんなことをしようものなら、秘密が明るみに出てしまうからです。急いでポケットに鍵を突っ込みましたが、テディーがカーテンを駆け上がったのを追いかけているうちに、杖を落してしまいました。どうやらテディーを箱の中に入れると、大急ぎで逃げ出したんです」
「テディーというのは、何ですか?」
男は前にかがみ込んで、部屋の片隅においてあった檻《おり》の前蓋《まえぶた》をひっぱりあげた。するといきなり、美しい赤褐色の毛並をした動物が飛び出した。体は細くしなやかで、テンを思わせる足と長ッ細い顔をしていた。その赤い目といったら、かつて見たこともないほどすばらしかった。
「マングースだ!」私は思わず叫んだ。
「そうですね、マングースとも呼びますが、また、猫イタチともいいます。私どもはスネイク・キャッチャー〔蛇を捕えるもの〕と言っています。テディーはコブラを捕えるのがとても上手でしてね。私は歯を抜いたコブラを一匹ここに持っていますが、テディーは毎晩それを捕えては、酒保の兵豚たちを楽しませてるんです。まだ、何か言い落した点があるでしょうか?」
「もしバークレー夫人に重大な嫌疑がかかるようだったら、もういちど助力を願うかもしれませんよ」
「そんな場合なら、よろこんでお役に立ちましょう」
「しかし、そうでなかったら、バークレー大佐の行ないがどんなに醜悪なものだったとしても、このスキャンダルを並べたてて死者を鞭《むち》打つ必要もありませんね。このために大佐が三十年の間、良心の苛責《かしゃく》に悩まされていたと知ったら、あなたも少しは心が安まるでしょうからねえ。おや、向こうの道を歩いているのはマーフィー少佐だ。じゃ、ウッドさん、これで失礼します。その後の経過をきいてみようと思いますから」
われわれはマーフィー少佐が角を曲がる前に追いついた。
「やあ、ホームズさん。たぶんご存じでしょうが、この騒ぎは、つまるところ何でもないことだとわかりましたよ」
「何ですって? じゃあどうなったんです」
「検死がたったいま終ったところですがね。解剖の結果、死因は卒中と決定したんですよ。結局、単純な事件でした」
「そうでしたか。そいつはまるで皮相な見方をしていたものですねえ」
ホームズは微笑を浮かべて言った。「行こうじゃないか、ワトスン君。これでもう、オールダーショットにも用はなくなったらしいから」
駅に向かいながら、私はホームズにきいてみた。
「ところで、ひとつわからないことがあるんだがえ。バークレーの名前がジェイムズで、ウッドがヘンリーだとすると、デイヴィッドというのは誰だろう」
「僕が君の好んで描く理想的な推理家だったら、その一語で事件の全貌を理解していたはずだった。デイヴィッドとは、夫を非難する言葉なのさ」
「非難するって?」
デイヴィッド(ダビデ)はよく不埒《ふらち》なことをした。ジェイムズ・バークレーと同じようなこともしたんだよ。ウリヤとバテシバの物語を知っているかい? 僕の聖書の知識ときたらいい加減なもんだが、それでもサムエル前書か後書かに、この物語があったのを覚えているね」
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入院患者
私は友人シャーロック・ホームズの知力の特色を例示するために、あれこれと彼の思い出話を書きつづってきたが、いつも自分の目的にかなう例を見出すことのむずかしさに当惑してばかりいた。というのは、ホームズがあの分析的推理の腕の冴《さ》えを見せた事件、独特の調査方法の真価を遺憾《いかん》なく発揮した事件というのは、事件そのものが、とるにたりない、あるいは平凡なもので、わざわざ読者諸君のお目にかけるほどのものとも思われなかったりすることが多かったからである。
一方、たいそう変わった、劇的な性格を持った事件の捜査に関係しながら、その解決に果たした彼の役割が、彼の伝記を書く私にとって、満足できるほど大きくなかったというような例も、なかなか少なくないのである。「緋色の研究」や「グロリア・スコット号」事件などは、そうした、彼の伝記を書く者を永遠に悩ませる関門の好例なのである。これからお話しする事件なども、ホームズの演じた役柄《やくがら》は、どうもあまり大きかったとは言えない。ただ、これは事件の全体が非常に変わっているから、やはり割愛しないでお目にかけるべきものであろうと思うのである。
十月の、あるうっとうしい雨の日のこと。鎧戸《よろいど》を半開きにした部屋の中で、ホームズは長椅子の上に丸くなって寝ころがりながら、朝の便りで届いた一通の手紙を、読んでは読みかえししていた。筆者自身はというと、私はインド勤務中に寒さよりは暑さに強くなっていたので、華氏《かし》の九十度というのは苦になる温度ではなかった。ただ新聞がつまらなかった。議会も閉会だった。誰もが郊外へ出かける季節である。私もニュー・フォレストの林間地帯か、サウスシー海水浴場にでも行きたいところだった。銀行勘定の都合でやむなく休暇をのばしていたのだが、ホームズのほうは平気なもので、田舎にも海にもいっこう魅力がないらしい。彼はただ、何か未解決の事件はないかと、鋭敏な触覚をはりめぐらして、五百万市民の真っただ中に心地よく寝そべっていた。多才な彼に自然鑑賞の気持はわかぬとみえて、彼の唯一の気分転換といえば、町の悪者から気をうつして田舎の兄弟を追いかけてみることぐらいなものだった。
ホームズは手紙に熱中していて話相手にはならないとみたので、私はつまらない新聞をほうり出すと、椅子に背をもたせて黙想の世界にはいっていった。しきりに物を考えているところへ、不意にホームズの声が降ってきた。
「ほんとだよねえ、ワトスン君。あんな非常識な喧嘩のおさめ方ってあるもんか」
「まるっきり非常識さ!」と口をついて答えておいて、たちまち私は、自分が心の中で考えてたことを彼がそのまま口にしたと気がついて、身を起こして唖然《あぜん》としたまま彼を見つめてしまった。
「何だい、こりゃ。何のことだかわからないぜ、僕には」
彼は私の当惑に腹を抱えた。
「忘れたかい。いつだか、ポウの短篇を一節読んできかせたろう。ある綿密な推論者が、仲間の腹で思ったことをいちいち読み取った話だ。君は作者の単なるお話しだと言って片づけてしまったがね。そのとき、僕もよく同じようなことをするくせがあると言ったら、君は半信半疑だったろう」
「いや、うたぐりゃしなかったさ」
「口じゃそう言わなかったろうけれど、ワトスン君、きみの眉《まゆ》が語っていたさ。で、いま君が新聞をおっぽり出して、一連の考えごとをやりはじめたもんだから、もっけの幸いとばかりに君の考えごとをいちいち読ませてもらったのさ。しまいに君の考えごとに割りこんでみたら、僕の読心が正しかったのが証明されたわけだ」
しかし私はまだ納得できなかった。「あの話の場合は、推論者は、観察相手の動作から判断したろう? たしか、石の山にけつまずいたり、星を見上げたり、いろんなことをやったね。ところが、いま僕はじっと腰をおろしたまんまだったぜ。何を手がかりにしたんだい?」
「自分を見くびるもんじゃない。顔ってやつは、自分の感情を表現するためにあるもんだけれども、君の顔は、君の感情をじつに忠実に映し出すよ」
「じゃあなにかい、僕の考えていることを僕の顔から読みとったのかい?」
「顔、なかでも目からだな。君、いま、どういうふうに空想をはじめたか、思い出せるかい?」
「いや、駄目だ」
「じゃあ、教えてあげる。君はさっき新聞を投げたろう。その動作が僕の注意をひくことになったんだがね。それから三十秒ばかりは無念無想のていだった。それから君の目は、新しく額縁に入れたゴードン将軍の肖像の上にとまった。そこんところで顔に変化があらわれて、考えごとのはじまったのがわかった。でも、長続きしなかったな。君の目は、本棚のてっぺんの、ヘンリー・ウォード・ビーチャーの額縁なしの肖像のほうに向いた。それから壁をちょっと見た。こいつははっきりしている。額縁に入れたら、そいつをあのあいている壁にかけて、あっちのゴードン将軍のやつとつりあうようにしようと思ったね」
「おどろいたね、そのとおりだよ」
「そこまでは、やっとたどりついたがね。すると、こんどはまたもどってビーチャーのことを考えはじめたろう。じっと肖像を見て、どうやらビーチャーの顔の特徴を調べているみたいだった。ところが目のしわが消えた。でも、同じところを見たまんまで、ただ顔つきが考え深そうになってきた。ビーチャー伝の思い出がはじまったんだろう。きっと、彼が南北戦争で北軍に派遣されたことでも思い出していたんだろう。いつか君は、彼が帰還したときに、不穏な連中に迎えられたことをひどく憤慨《ふんがい》していたからね。そのときの印象が強かったから、君はいつもビーチャーのことを思い出すたびに、そのことを言っていたからね。
それからしばらくして、君の目は肖像からはなれてうろうろしていたけれども、あれは南北戦争の思い出だろう。それから口がひきしまって、目玉がキラキラしてきて、手をからみあわせたから、あの両軍の壮烈な激闘ぶりを思い出しているにちがいないと思った。しかし君の顔はもっと悲壮になってきた。かなしそうに頭をふっていたね。あの人命浪費を、しきりに悲しみおそれていたんだろう。そして、自分の古傷のほうに手を持っていくと、口がかすかにほころびた。だから、こういう国際問題の解決方法のばからしさが、君の心を占めたと読めた。そこで僕が、非常識だと言って調子を合わせてやったら、僕の推論が全部正しかったとわかったわけさ」
「あきれた! しかし実のところ、話をきくとますます狐《きつね》につままれたみたいだ」
「まだまだ、ほんの初歩なんだよ、ワトスン君、ほんとに。いつか君がうたぐらなかったら、こんな出すぎたまねはしなかったんだけれどね。ところで、夕方になったら風が吹いてきたじゃないか。どうだい、町を散歩してみないかい」
私は小さな居間にとじこもって退屈しているところだったので、よろこんで応じた。三時間というもの、フリート街からストランド街へと、とめどもなく変わってゆく人生の万華鏡《まんげきょう》をながめながら、ふたりして歩きまわった。微細な観察と精妙な推進力を通したホームズ独特の話が、いつまでも私を飽きさせなかった。
十時をすこしすぎてベイカー街にもどってみると、かどぐちに四輪馬車がとまっていた。
「ふむ、医者が来てるな。全科の開業医か」ホームズが言った。「開業したばっかりだ。しかし繁盛しているな。そうだ、相談に来たんだろう! いいところへ帰ってきた!」
もうなれたもので、私はホームズが、馬車の中のランプの下にかけてある柳のバスケットにはいった医療器具の種類や状態から、こうした素早い推理をしたことが、すぐにわかった。
二階のわれわれの部屋に灯《ひ》がともっているので、この夜ふけの訪問がわれわれに対してであることもわかった。こんな時間に何の用で同業者が訪ねて来たのか、私はいくらか好奇心を抱きながらホームズのあとから部屋に入って行った。
はいって行くと、炉端《ろばた》の椅子から、砂色の頬髭《ほおひげ》を生やした、青白い面長の男が立ち上がった。三十三か四より上とは見えなかったが、そのやつれた表情、不健康な顔色が、力を吸いつくし青春を奪っていった彼の半生を物語っていた。物腰はいらいらおどおどとして、感じやすい紳士を思わせ、立ち上がるときマントルピースにおいた細い白い手は、医者のそれと言うよりも、まるで芸術家の手のようだった。黒のフロックに黒っぽいズボン、ちょっぴりと色のあるネクタイをしめて、おっとりと地味な服装だった。
「よくいらっしゃいました、先生」ホームズが上機嫌に言った。「ほんの二、三分しかお待たせしないでよございました」
「馭者《ぎょしゃ》と話をなさいましたか?」
「いやいや、教えてくれたのは、その側テーブルのローソクです。どうぞおかけになって、どういうご用件かお聞かせ下さい」
「私はパーシー・トリヴェリアンと申しまして、ブルック街四〇三番地で医者をいたしておる者でございます」
「とおっしゃると、朦朧《もうろう》性神経|障碍《しょうがい》の論文をお書きになった方じゃございませんか?」と私がきいた。彼の青白い頬に、自分の著作を知られていたよろこびで、ぽっと血の気がさした。
「あの本はちっとも反響がありませんので、うもれてしまったと思っておりましたが。出版社のほうも、まるで売れ行きが悪いように申しますので、がっかりいたしております。するとあなたも、やはり、医学のほうでいらっしゃいますか?」
「退役の外科軍医ですよ」
「私はずっと神経科が道楽でして。それを専門に立ちたいと思ってはおりますが、どうにも、やれることからやるだけでもう精一杯でして。しかし、こんなことを申し上げている場合じゃございません。ホームズさんのお時間が貴重なことはよく存じております。実は、ちかごろブルック街の私の家に妙なことが続いて起こっておりまして、今夜はとうとう、一刻も早くあなたに相談して、ご助力を仰がなければというところまで来てしまったんでございます」
シャーロック・ホームズは腰をおろして、パイプに火をつけた。「よろこんで、おうかがいもお助けもいたしますよ。どうぞ、お悩みの事情をくわしくお話し下さい」
「中には、ほんのつまらないことで、申し上げるさえ恥かしいようなこともございます。しかし、合点《がてん》のゆかないことですし、最近はそれが実に手がこんできておりますので、何もかもお話しして、本質的なこととそうでないこととは、そちらで判断していただきたいと思います。
まず学生時代のことから申し上げなければなりません。私はロンドン大学の出身でして、自分の口からこんなことを申すもんじゃございませんが、教授たちから非常に将来を嘱目《しょくもく》された学生だったのでございます。決して駄法螺《だぼら》やなんかじゃございません。卒業後は、キングズ・カレッジの病院で下っぱの仕事をしながら、やはり研究を続けてまいりまして、幸いにして癲癇《てんかん》の病理の研究でかなりの注目をひいたり、またついに、ただ今こちらの方からお話のありました、神経障碍に関する論文で、ブルース・ピンカートン賞とメダルを獲得するところまでまいりました。当時まあ、前途は洋々たるものがあると、一般に思われていたと申し上げても、決して誇張ではございません。
しかしただひとつ、資金の欠如という大きな障碍《しょうがい》がございました。ご承知のように、専門医として成功しますには、カヴァンディッシュ・スクェア界隈の十二、三の通りのどこかで開業しなければなりません。それには、たいへんな額の家賃や設備費がかかります。そのうえ、数年間は無収入で食ってゆく準備がいりますし、体裁のいい馬車を一台雇っておかなければなりません。こんなことは、とても私にはできない相談で、十年ばかり倹約して貯えれば看板もあげられようかというのが、唯一の希望でございました。
ところが、思いもかけないことが起こって、突然に目の前がひらけてまいったわけです。
と申しますのは、ブレッシントンという、まるで知らない人がたずねてまいりました。ある朝のことですが、部屋へ入って来ると、いきなり用件をもち出しました。
『あなたがあの、著名な業績をあげて、近ごろはまたりっぱな賞を獲得しなさったというパーシー・トリヴェリアン先生ですか?』
私はそうですと会釈しました。
『ざっくばらんに願いましょう、そのほうがあなたにとっても得ですからな。あなたは頭の点からいうと、成功の素質はおありになる。世才のほうは、おありですか』
だしぬけにこんなことをきかれて、私は思わずにやにやしながら、
『人並みにちゃんとそなわっているつもりですがね』と言いました。
『悪いくせでもありますか。酒好きじゃないでしょうね、ええ?』
『とんでもない』
『結構結構。わかりました。いや、ちょっときいておかんことにはね。さて、これだけそなわっておって、なぜ開業しなさらん?』
私は肩をすくめました。
『やあやあ』彼は独特のがさつな言い方で申します。『例のやつさ。頭の中ほど財布がつまっとらんと、ね。そこで、私があなたをブルック街で開業させると言ったら、どうおっしゃる?』
突然のことに、ただ相手の顔をじっと見つめていますと、
『いや、これはあなたのためじゃない。私のためなんだ。何もかも、ざっくばらんに申し上げるが、あんたが都合がよけりゃ、私にとってもこれぐらい都合のいいことはない。実は二、三千ポンド何かに投資したいんだがね、そいつをあなたにつぎこもうというわけです』
『でもいったい全体』
『いやあ、他の投機とおんなじこってす。かえっていちばん安全だ』
『じゃ、私のすることは?』
『まあ、お聞きなさい。私が家を買う、設備もやる、女中も雇う、経営いっさいわたしの手でやります。あなたは診察室にすわってくれればよろしい。小づかいやなんか、すべて差し上げる。で、稼《かせ》ぎ高の四分の三だけ私によこしなさい。あんたは残りの四分の一をとっていただく』
こういうのが、ホームズさん、ブレッシントンの持ってきた話です。それからどういう掛けひきや取り決めがあったか、いちいち申し上げるとご退屈ですから省きますが、とにかく万端|手筈《てはず》がととのって、私は次の御告《おつ》げ祭の日〔三月二十五日、四期支払日の一にあたる〕に引っ越してまいりました。条件はだいたい彼が持ってきたとおりのものです。
ブレッシントンも、入院患者ということにして同じ家に住み込みました。心臓が悪くて、しょっちゅう医者の世話がいるということです。彼は二階のいちばん良い部屋を二つとって、自分の居間と寝室にしつらえました。変わった癖のある男で、友だちも作らなければ、めったに外へも出ません。生活は不規則ですが、一点だけ実に規則正しいんです。毎晩、ある時刻になると必ず診察室にやって来て、帳薄を調べて、その日の収入のうち、一ギニーにつき五シリング三ペンスだけ私の手に残すと、あとをもって帰って自分の部屋の金庫にしまいこむのです。
彼が自分の投機を一度も悔いることがなかったのは確かだと思います。はじめっから大当りでした。二、三良い患者がついたのと、大学病院時代に評判をとっていたのとで、私はたちまち第一線に押しだされて、ここ一、二年のうちにすっかり私を金持ちにしてしまいました。私の経歴と、それから私とブレッシントンの関係は、だいたい以上のとおりです。
そこでいよいよ、今夜お伺いすることになった用件にとりかかることにいたします。
何週間まえでしたか、ブレッシントンがどうやらかなり興奮したようすで私の部屋にやって来ました。おなじウェスト・エンドに泥棒が押し込んだとか申しておりましたが、そのことを必要以上に心配していて、窓や戸にもっと丈夫なかんぬきをつけないと、一日も安心して過ごされないと言うんです。窓から外をのぞいてみたり、それにいつも夕食の前にその辺を散歩していたのもやめてしまって、それから一週間ばかりは、妙にびくびくしていました。それが、何が心配なのか誰がこわいのか、とにかく死ぬほどおびえているようすだもんで、私はおどろいていたんですが、そういうことを言い出すといやな顔をしますので、仕方なしに放っておきました。
日にちがたつにつれて、だんだん忘れたらしくてもとの毎日に戻っていたんですが、そこへこんどは新しく事件が起こって、今でも彼はかわいそうになるくらい意気消沈《いきしょうちん》しております。
事件というのは、こういうことです。二日前に、手紙が一通わたしのところに舞いこみました。今、お読みいたします。名前も日付けも書いてありません。
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……イギリス滞在中のロシアの一貴族が、パーシー・トリヴェリアン先生のご診察を受けたいと申しております。数年来、癲癇《てんかん》の発作に悩んでおりますが、トリヴェリアン先生は、その方面で有名な大家とうけたまわります。明晩六時十五分ごろお伺いいたす所存ですが、ご在宅いただけますれば幸甚《こうじん》と存じます……
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癲癇の研究でいちばんの難点は患者が少ないということでして、この手紙を見て私はひどく興味をそそられました。だもんですから、ご推察どおり、翌日指定の時間に受付の子供が案内してきたとき、私はちゃんと部屋で待っておりました。
見ると相手はかなりの年配で、やせっぽちで、しかつめらしい顔をして、平凡な感じです……こんなのがロシア貴族かと思うような男でした。それよりも、つれの男のほうにびっくりしてしまいました。背の高い青年ですが、浅黒く鋭い顔の、目のさめるようないい男で、大力無双のヘラクレスみたいな良い体つきをしています。入って来るとき老人に腕をかしていましたが、席につくときもおよそ見かけによらないやさしさですわらせてやります。
『勝手に入らせていただいて、失礼いたしました』青年は少し片言まじりに言いました。『これは父ですが、父の健康は私にとって何物にも代えがたい大事なものです』
私はこの親思いにいささか感動しました。『診察にお立ち会いになりたいですか?』
『とんでもない!』青年は恐ろしそうな身振りで大声をあげました。『口でいえないほどいたましいことです。万一あのおそろしい発作が起こったら、私もそのまま死んでしまいます。私の神経もとくべつ感じやすいのです。父を診ていただく間、私はお許しをいただいて待合室のほうにさがっていたいのです』
むろんこれには同意してやりましたから、青年はさがって行きました。そこで、さっそく患者に病状をたずねて、いちいちあますところなくノートをとりました。どうもたいして知識のあるほうじゃないらしく、返答もどうかすると曖昧《あいまい》になりましたが、これは英語をよく知らないせいだと思っておりました。ところが、ノートをとりながら質問を出していると、突然返事をしなくなりました。ひょいと見ると、驚いたことに、椅子の上にしゃちこばって、まるっきり無表情なこわばった顔で私を見すえているのです。むろん不思議な発作が起こったわけです。
私は第一番に、気の毒とも怖いとも思ったんですが、どうやらその次には、商売柄の満足を覚えてしまったようです。脈や熱をノートにとり、筋肉の硬直をためし、反射作用を検査しました。いずれもたいして変わったところがなくて、かねての経験とよく合致《がっち》しています。経験上、硝酸アルミの吸入をさせると良い結果が得られますので、こんどもその効果を実験してみようと思いました。その瓶《びん》が階下の研究室においてあったものですから、患者を椅子に残しておいて、それをとりに駆けおりました。瓶をみつけるのに少々手間どって……さあ、五分くらいかかったでしょうか……やっとみつけて帰ってまいりました。すると、部屋の中はからっぽで、患者は影も形もないではありませんか。
むろん、まず待合室に駆け込んでみました。ところが、息子のほうも姿を消しています。玄関の戸はしめてありましたが、鍵はかけてありませんでした。受付の子供は雇ったばかりですが、むろん目ざといほうではありません。いつも階下にいて、私が診察室のベルを鳴らすと、駆け上ってきて次の患者を案内するという寸法です。きいてみますと、音もしなかったと言いますので、どうやらまったく謎の事件になってしまいました。
しばらくして、ブレッシントンが散歩から帰ってきましたが、実は最近はできるだけ交渉をさけるようにしておりますので、そのことも、彼には何も申しませんでした。
で、このロシア人親子を二度と見かけようとは、思ってもみませんでしたから、今夜になって、昨晩と同じ時間に、ふたりが診察室に練《ね》りこんできたときの私の驚きようは、お察しのとおりです。
『どうも、ゆうべは突然に帰ってしまいまして、たいへん申し訳のないことをいたしました』
『いやあ、本当にびっくりしましたよ』
『はあ、実は、いつでも発作が起こったあとは、頭がぼんやりしちまって、その前に何をしていたか、まるっきり思い出せなくなりましてな。ゆうべも、ひょいと気がついてみると、どうやら見かけない部屋だというわけで、おるすの間に夢心地で外に出てしまっておったというわけです』
『私も』と青年が口をそえます。『父が待合室の前を通るのが見えましたから、てっきり診察が終ったものと思いこみまして。家に着いてから、やっと、ことの次第がわかったような始末でした』
『いやいや、ひどくびっくりしただけで、べつだん迷惑を受けたわけじゃありません』私も笑ってすませました。『それでは、あなたは待合室のほうへおねがいしましょうか。昨日の続きとまいりましょう。まだ診察の途中なんでしてね』
三十分ばかりかかって診察をすませ、それから処方を書いてやって、息子の腕にすがって帰って行くのを見送りました。
ブレッシントンが、いつもこの時間に散歩に出かけていたことは、申し上げたとおりです。ほどなく、その彼が帰ってきて、階段を上がってきました。と思ったら、いきなり駆けおりて行く音がしましたが、まるで気でも狂ったようにうろたえ騒ぎながら、診察室にとびこんできました。
『俺の部屋に入ったのは、誰だ!』
『誰も入りませんよ』
『嘘だッ。来てみろ』
こんな乱暴な口をきかれましたが、相手が気が転倒しているようすでしたから、とがめもしませんでした。ついて行ってみると、明るい色の敷物の上に足跡がいくつか残っていて、これを指さしながら、
『これが私の足跡だとでも言うんですかい』とわめきたてます。
たしかに、彼の足跡にしてははるかに大きすぎますし、また明らかに新しいものです。今日は昼から、あのとおり本降《ほんぶ》りになりましたから、患者の他にお客はおりませんでした。ですから、まあ、私が患者を見ている間に、待合室にいた人が、何かの目的で、ブレッシントンの部屋に上がってきたのだとしか考えられません。べつにさわったり取っていったりされたようすはありませんが、とにかく足跡があるから、誰かが入ってきたことだけは確かです。
むろん誰だって、そんなことをされれば変な気持になるには違いありませんが、それにしてもブレッシントンのあわてようは、どうにも大げさでした。肘掛椅子にすわって、本当に泣き出してしまいました。いくらなだめてもおろおろするばかりで、何を言っているかわかりません。こちらへまいったのも、実は彼の言い出したことでして、私は彼が言うほどたいへんなこととは思っておりませんが、それにしてもひどく変わった出来事ですから、一応すぐさま彼の言うとおりにしたわけです。
恐縮ながら、私どもの馬車でご一緒願えませんでしょうか、すぐにご解明いただける事件とは存じませんが、おいでをいただきさえすれば、とにかくあの人が安心いたしますので」
シャーロック・ホームズは、この長い物語を熱心に聞いていたが、どうやらひどく興味をそそられたらしかった。いつものとおりの何気ない顔はしていたが、まぶたがぼったりとたれていて、医者の話がおもしろいところへ来るたびに、パイプの煙がもくもくと立ちのぼるのだった。客が話しおわると、ホームズは口もきかずにさっと立ち上がった。そうしてテーブルの帽子を私にとってくれ、自分のをつまみ上げてトリヴェリアンに従った。
十五分ばかりで、われわれはブルック街の医者の家の前におり立った。ウェスト・エンドの医者というとすぐに思いつくような、くすんだ、正面の平べったい家そのままだった。受付の少年が出てきて戸をあけてくれ、われわれはそのまま、上等の敷物をしきつめた広い階段を上がってゆこうとした。
ところが、ここで妙なことが起こって、われわれは立ちすくんでしまった。不意に、階段の上のあかりが吹き消されて、まっ暗やみから、ふるえたかすれ声が叫びをあげた。
「ピストルがあるぞ! ひと足でも寄ってきたら撃つからな!」
「無茶なことをなすっちゃいけません、ブレッシントンさん」トリヴェリアンが叫びかえした。
「ああ、先生ですか」と、深い安堵《あんど》の溜息をつきながら、「だが、ほかの人たちは変装でもしてるんですか?」
われわれは暗闇から、じっと見つめている目を感じた。
「ああ、結構です。お上がりなさい。すみませんなどうも、私の用心にはまごつかれたでしょう」といいながら階段のガス灯をつけたので、異様な風貌をした男が眼前にあらわれた。彼の顔つきは声に劣らず、神経が錯乱《さくらん》していることを示していた。彼は非常に肥満しているが、ブラッドハウンド犬の頬のように、顔の皮膚が少したるんでいるから、以前にはもっと肥満していたのであろう。病人のような顔色で、うすい砂色の毛は、はげしい精神の動揺で逆《さか》立っている。ピストルを手にしていたが、われわれが進みよると、ポケットにすべりこませた。
「ホームズさん、今晩は、わざわざおいでいただきまして、ありがとう存じます。是《ぜ》が非《ひ》でも助けていただかなきゃならないんです。私の部屋に不法にも侵入した者のことは、トリヴェリアン先生からお聞き下すったでしょうか?」
「ええお聞きしました」とホームズが言った。「ブレッシントンさん、そのふたりの男というのは何者です? どうしてあなたを苦しめたがるのでしょうか?」
「それです! それですよ!」と入院患者はおちつかぬ素振りで答えた。「もちろんちょっといいにくいのですよ。私から聞きだそうったって駄目ですよ。ホームズさん」
「知らないとおっしゃるんですね?」
「どうぞお入り下さい。ちょっとお入りになって下さいませんか」
彼は先に立って寝室に案内したが、そこは大きく居心地のよい部屋であった。
「ご覧下さい」と彼は寝台の端にすえた、大きな黒い金庫を指さしながら言った。「ホームズさん、私は今までそうたいして金持だったわけではありませんし、トリヴェリアン先生が申し上げたと思いますが、たった一度しか投資したことはありません。だが私は銀行屋は信用していないのです。ホームズさん、銀行屋というものを信用したことは、いまだかつてないのですよ。ここだけの話、ほんのわずかですが私の持ってるものは、あの金庫の中にあるんです。ですから、見も知らぬ人間が私の部屋に押し入ったら、それがどんなことになるのか、おわかりでしょう」
ホームズは疑わしげにブレッシントンを見つめ、頭をふった。
「私をだまそうとなさるなら、ご援助できませんね」
「いいえ、私は逐一《ちくいち》申し上げましたよ」
ホームズはさも愛想をつかしたというように、くるりと向きをかえた。
「おやすみなさい。トリヴェリアン博士」
「じゃ、助けては下さらないのですね?」
「本当のことをお話ししなさいと申し上げたいですね」
一分後にはわれわれは表に出て、家に向かっていた。われわれがオックスフォード街をすぎ、ハーレー街を五分《ごぶ》どおり歩いたときになって、ようやく私の友が口を切った。
「こんな無駄仕事にひっぱり出してすまなかったね、ワトスン君。これも本当はおもしろい事件なんだがね」
「僕にはちっともわからないがね」と、私はありのままに答えた。
「いいかい。何かわけがあってこのブレッシントンという男を知っている人間がふたりいる。もっといるかもしれないが、少なくともふたりはいることはたしかなんだ。最初のときにも次のときにも、若いほうの男がブレッシントンの部屋へ入りこみ、その間、相棒が実に巧みな策略で、医者が妨害しないようにしていたことも疑いない」
「じゃ癲癇《てんかん》というのは!」
「仮病なんだよ、ワトスン君。トリヴェリアンには、教えてやろうとは思わなかったがね。そいつは一番つかいやすい仮病なんだよ。僕だってやったことがあるんだ」
「それからどうしたんだい?」
「まったく偶然だが、ブレッシントンは二回とも外出していた。連中が診察としちゃ実に不似合いな時間をえらんだのは、その時間から待合室にほかの患者がいないはずだからさ。ところがたまたま、その時間は、ブレッシントンが散歩する時間とかちあったわけだ。そんな所からして、連中はブレッシントンの日課をくわしくは知らないんだな。もちろん連中が物とりだけが目的だったら、少なくともそれをさがそうとしたはずだが、そんな形跡もない。それにね、人間がわが身にふりかかる災難におびえているときは、目を見ればわかるんだ。この男が、このふたりの連中のような執念深い敵があらわれても、それを知らずにいるとは考えられないよ。だから、たしかに彼はこのふたりが誰だか知っている。そして何かわけがあって、それを隠してるんだと思うね。明日になれば、腹をわって話をしなければならないようになるかもしれないよ」
「他のこんな考えはどうだろう」と私は言ってみた。「たしかすごくおかしいんだが、考えられないこともないだろう。癲癇《てんかん》をわずらってるロシア人とその息子の話は全部トリヴェリアン博士の作り話で、彼が何か目的があって、ブレッシントンの部屋に入ったのかもしれないよ?」
私にはガス灯の光で、ホームズが私の見事に的《まと》をはずれた考え方をきいて楽しそうに微笑したのが見えた。
「ねえ君、そいつはいちばん最初、僕が思いついた考えのひとつなんだよ。しかしすぐにトリヴェリアンの話を確証できたんだ。若いほうの男が階段のじゅうたんに足跡をのこしていったが、その足跡を見て、彼が部屋の中につけた足跡を見せてもらう必要が全然なくなってしまったんだ。彼の靴の爪先はブレッシントンのやつのようにとがってなくて角ばっているし、トリヴェリアンのよりも、一インチと三分の一は大きいのだから、彼が実在してることがわかるだろう。だがその問題は明日でいいさ。明日はたぶん午前中に、も少しくわしくブルック街から何か言ってよこすよ」
シャーロック・ホームズの予言はすぐに的中した。それも非常に劇的であった。翌朝七時半、まだようやく朝の光がさしそめたころ、彼が化粧着のまま私の枕元に立っていた。
「ワトスン君、四輪馬車が待っているよ」
「どうしたってんだい?」
「ブルック街の件だよ」
「なにか新しい報せがあったのか?」
「悲劇的な報せなんだが、内容はあいまいなんだ」と彼は日除《ひよ》けをあげながら言った。
「これを見たまえ。ノートを一枚破って、『すぐ来宅されんことを切望いたします。P・T』と鉛筆で走り書きしてある。お医者さんこれをかいたとき、非常に苦しい立場にあったんだね。一緒に来てくれたまえ。火急の呼び出しなんだからね」
十五分かそこらで医者の家についた。トリヴェリアンは、顔に恐怖の表情を浮かべて走り出て来た。
「ああ、なんて面倒なことがおきたんでしょう」と彼は両のこめかみに手をあてて叫んだ。
「どうしたんです?」
「ブレッシントンが自殺したのです!」
ホームズはぴゅうと口笛をならした。
「夜のうちに首をつってしまったんですよ」
われわれは中に入った。トリヴェリアンは、たしか待合室と思われる所にわれわれを案内した。
「実際何をしていいんだか、さっぱりわからないんですよ」と彼は言った。「警察の人はもう、二階に来ていますが、まったく恐ろしくて……」
「いつ発見なさったのですか?」
「彼は毎朝早く、お茶を持ってこさせる習慣なのです。七時ごろ女中が部屋に入って行ったら、彼があわれな姿で、部屋の真ん中にぶらさがっていたんです。彼は綱をいつもは重いランプのかかっていた鉤《かぎ》にかけ、昨日見せてくれたあの金庫からとびおりたんです」
ホームズはちょっと深い物思いに沈んでいたが、ついに口をきった。
「かまわないようでしたら、二階へあがって事件を調べてみたいですね」
われわれは階段をのぼったが、トリヴェリアンは後からついて上がって来た。部屋に入ったときわれわれの見たものは、身の毛のよだつような光景であった。私はまえに、このブレッシントンという男は、肉がだぶついているという感じだと言ったが、鉤からぶらさがっているので、ますますその感じが強くなり、ほとんど人間とは思われなかった。首が毛をむしられた鳥のようにだらりと伸びてしまい、それに比べると身体はますます不恰好で太っちょに見えた。彼は長めの寝間着をきているだけだったが、その下から、ふくれあがった両のくるぶしとぶざまな足がはみだしていた。そのそばに機敏そうな警部が立って、手帳に何か書きつけていた。
「ああ、ホームズさんですか」と、私の友人が部屋に入ると彼は声をかけた。「よく来て下さいました」
「おはよう、ラナ君。邪魔にはならないでしょうね。こんなことになった、いろいろないきさつ聞きましたか?」
「ええ、少しはね」
「何か考えをまとめてみましたか?」
「私にはこの男が恐怖で気が狂ってしまったんだと思われますね。ご覧のとおり、ベッドには寝たようです。ちゃんと彼の身体の跡がのこっていますからね。自殺は朝五時ころがいちばん多いらしいですが、この男が首をつったのも大体そのころでしょう。ずいぶん考えたあげくのことのようです」
「筋肉の硬直状態から推して、死後三時間ぐらいだと思いますね」と私は言った。
「部屋の中に、とくに気がつかれたものがありましたか?」とホームズがたずねた。
「洗面台の上に、ねじまわしと、ねじが数個ありました。それに夜中ひどく煙草をすったらしいですね。暖炉から、葉巻の吸いがらを四つ拾いましたよ」
「ウーム! 葉巻の吸口はありましたか?」
「いや、見ませんでした」
「じゃ、葉巻入れは?」
「そいつは上着のポケットにありましたよ」
ホームズはその葉巻入れをあけると一本しか入っていない葉巻をかいでみた。
「うむ、こいつはハヴァナだ。だがこの吸いがらのほうは、東インド植民地からオランダ人が持ちこんだ、ちょっと変わった奴だ。普通の麦藁《むぎわら》でくるんであって、ほかのやつより、長さの割には細目にできてる」
彼は四つの吸いがらをつまみあげると、携帯用拡大鏡で調べてみた。
「二本は吸口をつけてすってあるが、二本は吸口なしだ。二本はたいして切れないナイフで切ってあり、他の二本は丈夫な歯でかみきってある。ラナ君、これは自殺じゃありませんね。こいつは周到に計画された、実に非情な殺人ですよ」
「考えられん!」
「そりゃまたなぜです?」
「だれが首をくくらせるような不器用なやり方で人殺しをするでしょうか?」
「そこをわれわれが調べてみなくちゃならないんですよ」
「どうやって入って来たんでしょうね?」
「玄関からですよ」
「しかし朝見たときには、閂《かんぬき》がかけてありましたよ」
「じゃ犯人どもが出てしまってから、かけたんです」
「どうしておわかりです?」
「犯人どもの足跡を見たのです。ちょっと待って下さい。それについては、も少しくわしくご説明できると思いますから」
彼はドアの所へ行き、錠をまわして、あの秩序だったやり方でしらべていたが、次には部屋の中からさしこんであった鍵をぬいて、それも検査した。寝台、敷物、椅子、暖炉、死体、つな、を順々にしらべてから、やっとこれで十分だと言い、私と警部の手をかりて死体をひきおろし、敬虔《けいけん》な態度で横たえるとシーツをかぶせた。
「この綱はどこからもって来たんでしょうね?」と彼はたずねた。
「ここから切りとったんですよ」とトリヴェリアン博士は言って、ベッドの下から大きな綱束をひきだした。
「彼はおそろしく火事のことを気にかけてましてね。だもんですから、階段が燃えてる場合にも窓から避難できるように、この束をいつでも身辺においておきました」
「そいつは犯人の手数をはぶかしたにちがいない」とホームズは考え込みながら言った。「さて、事実ははっきりしている。午後までにはその理由も十分にお知らせできるつもりです。調査上便利ですから、暖炉の所にあるブレッシントンの写真はいただいて行きますよ」
「だがあなたは何も話して下さらないじゃないですか」とトリヴェリアンは叫んだ。
「ああ、事件のいきさつについては、まったく疑点はありません」とホームズは言った。「事件には三人の男が関係しています。青年と老人と第三番目の男です。三番目の男の身許には手がかりはありません。申すまでもありませんが、最初のふたりはロシアの伯爵と息子に化けた連中ですから、じゅうぶん人相も知っています。連中は共謀者の助けで、家の中に入りこみました。警部さん、書生を逮捕なさるようにご注意申し上げたい。たしかごく最近、勤めだしたばかりでしたね、先生」
「あいつめ、さがしても見当りませんよ」とトリヴェリアン博士は言った。「女中と料理人で、今の今までさがしていましたが」
ホームズは肩をすくめた。
「あいつはこの一幕じゃ、かなり重要な役を演じたのですよ。三人は階段をのぼった。連中は爪先《つまさき》立ちでのぼったんですが、年かさの男が先頭、青年が二番目、三番目の男は最後尾にくっついて……」
「おいおい、ホームズ君!」と私はたまりかねて叫んだ。
「足跡の重なりは、疑問の余地を残さないんだ。僕は具合のいいことには、昨夜、どれが誰の足跡か調べておいたからね。そこで彼らはブレッシントン氏の部屋までのぼって来たが、ドアの鍵がかかっていた。
しかし針金をうまく使って鍵をこじあけた。レンズがなくても鍵穴の中の突き出た所にひっかいた跡があるから、どこを強く押しつけたかわかるだろう。部屋へ侵入してから、彼らが真っ先にやったことは、ブレッシントン氏に猿ぐつわをはめることだったにちがいない。彼は寝ていたが、恐怖におののいて叫び声もあげられなかったのだろう。この部屋の壁はあついから、彼がわめきたてるひまがあったとしても、その声は外へは聞こえなかったということは考えられることです。
ブレッシントン氏を逃げられぬようにしてから、犯人たちは何か相談を始めた。たぶん彼をどう片づけるかといったようなことでしょう。相談はかなりかかった、というのは、この葉巻を、そのとき吸ったのですからね。年かさの男が籐椅子《とういす》にすわっていました。吸口をつかったのがその男です。青年のほうは向こうにすわって、ひきだしで灰をたたき落しています。三番目の男はあちこち歩きまわっていた。ブレッシントンは寝台におきあがってすわっていたと思うのですが、どうも確かではありません。さて、彼らはしまいに彼を天井からぶらさげることに決定しました。そのことは前もって打ち合わせてあったので、どんな滑車だかわかりませんが、とにかく絞首台として使えるようなものを持ってきていたと思われます。このネジまわしとねじは、滑車をとりつけるために持って来たのでしょう。ところが、鉤のあるのを見て、手数をはぶいたのです。仕事をすませると、ふたりは急いで逃亡し、共謀者の書生が、閂《かんぬき》をかけたのです」
われわれはその夜の出来事を彼が描きだしてきかせる言葉に、深く興をそそられて耳をかたむけた。その話をホームズはごくかすかな細かい徴候から引き出して来たので、われわれは、目の前にそれを示されながらも、ほとんど彼の推理のすじ道をたどりかねるのであった。
警部は即座に書生捜索のため大急ぎで出かけて行き、ホームズと私は、朝食をとりにベイカー街へと戻った。
「三時までにはもどって来るよ」と、食事がすむと彼は言った。「その時刻には警部もトリヴェリアンもここへ来るだろう。そのときまでには、まだ残っていると思われる不明な所は、どんな細かい所でもはっきりさせたいよ」
このふたりは打ち合わせた時間にはやって来たけれど、私の友人は四時十五分前になって、やっと姿をあらわした。だが、入って来たときの彼の表情から見て、万事が上々の首尾だったことがわかった。
「何かありましたか? 警部さん」
「小僧をつかまえましたよ」
「そいつはすばらしい。私は犯人どもをつかまえましたよ」
「つかまえたんですって!」われわれは異口同音に叫んだ。
「ええ。ま、少なくとも身許はつかみました。私の思ったとおり、このブレッシントンという男も、犯人どもも警視庁では有名な連中でした。犯人どもの名は、ビドル、ヘイワード、モファットというんですよ」
「ワーシンドン銀行ギャングじゃないですか!」と警部は叫んだ。
「そうなんですよ」
「じゃブレッシントンはサトンの奴なんですね?」
「そうです」
「ああ、それで何もかもはっきりしました」と警部は言った。しかしトリヴェリアンと私は当惑して顔を見合わせた。
「あのワーシンドン銀行の大事件を、きっとおぼえておいででしょう。あの事件には五人の男が関係していました。今の四人の連中と、五番目がカートライトという男です。守衛のトウビンが殺され、強盗どもは七千ポンドかかえこんでドロンしてしまいました。一八七五年のことでしたね。五人全部あがりましたが、決定的な証拠がありません。このブレッシントンとか言ったサトンの奴が、こいつは一味でいちばん悪い奴だったのですが、裏切って密告したので、その証拠でカートライトは死刑になり、他の三人は各人十五年ずつの刑をいいわたされました。刑期満了より何年か早く出獄したとき、彼らは裏切者を見つけて、彼のために命を落した昔の仲間の復讐をしようとし、二度おそいましたが失敗してしまいました。ところがご承知のとおり、三度目で成功したわけです。まだ何かご説明のいるところがございますか? トリヴェリアン先生」
「すっかりわかりました」と彼は言った。「彼がひどくそわそわしていた日がありましたが、あれは新聞で、三人の釈放記事を読んだからなのですね」
「ええ、そうなんです。彼は押込みのことをさかんに言っていたのは、ただ煙幕《えんまく》にすぎなかったのですよ」
「だがどうして彼は、あなたに話してしまわなかったのですか?」
「ええ、それはね、彼は古い仲間の執念ぶかさを知っていたから、できるかぎり誰にも身許をあかすまいとしていたのです。彼の秘密は恥ずべきものです。だからそれを打ちあける気になれなかったのです。しかし卑劣な奴ではあるけれども彼も英国の法律の保護の下に生活していたわけです。警部さん、あなたにもおわかりでしょうが、法律が防ぎえない場合でも、正義の刃《やいば》は必ず復讐するものですね」
こんなところが、ブルック街の医者とその入院患者についての奇妙な事件である。その夜から今にいたるも、三人の殺人犯は警察に発見されていない。ロンドン警視庁では、数年前ナポルトの北十四・五マイルのポルトガル沖合いで乗客全部をのせたまま行方不明となった、不運なノーラ・クライナ号の乗客の中に混じっていたのだろうと推定している。書生に対する処分は証拠不十分で破棄され、「ブルック街事件」、この事件はこうよばれていたのだが、今日まで一度も公刊物で扱われなかったのである。
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ギリシャ語通訳
シャーロック・ホームズ君とはずいぶん長いこと親しくしていたけれども、彼は親類はおろか、自分の若いころのことまでも、決して口にしたことがなかったのである。こうして彼が自分のことを語らないものだから、私はだんだん彼がどうも非人情の人だという印象を深めていって、いつか彼のことを、ひとつの孤立した天才、頭脳だけで情《なさ》けのない男、知能はすぐれているが人情の欠けた男だと思うようになっていた。女ぎらいなところといい、友だちを作りたがらないところといい、彼の非情な性格の良いあらわれなのだが、そればかりか、自分の係累《けいるい》のことさえ、何ひとつ語ろうとしないのである。私は彼が親類縁者がひとりも生きていない孤児なのだと思っていた。ところがある日、まったくおどろいたことに、彼は兄のことを語りはじめたのである。
夏の夕方だったが、お茶のあとで、ゴルフのクラブの話から黄道の傾斜度変化の原因の話などと、とりとめもない雑談にふけっているうちに、話が隔世遺伝や遺伝的特性の問題に及んだ。ある人間の何かの才能というものが、どこまで祖先から受け継がれたもので、どこまでが生まれてからの訓練のせいであるか、という点を論じ合っていた。
「君の場合は、」と私は言った。「今まで君が語ってくれたところからすると、君の観察力とか、君独特の推理力とかいうものは、どうも君自身の組織だった訓練のせいらしいね」
「ある程度まではね」と、彼は考え深げに答えた。「僕の先祖は田舎の大地主でね。まるっきりそういう階級にふさわしい人物ぞろいだったようだ。しかし、僕のその才能は血統なんだ。たぶん祖母《ばあ》さんから来たものらしいが。ヴェルネというフランスの絵描きの妹でね。芸術家の血統には時どき変わった人間が出るものだ」
「でも遺伝とは限らないのじゃないのかい」
「僕の兄弟のマイクロフトが、その才能を僕よりもっと持っているからね」
寝耳に水だった。イギリスに、こういう独特の才能を持った人間が他にひとりいるというのに、警察も世間も聞いたことがないというのはいったいどうしたことだ。私は、彼が謙遜《けんそん》して自分の兄弟が自分よりすぐれていると言ったのだろうと、遠まわしにきいてみた。ホームズは私のほのめかしを笑った。
「ワトスン君」と彼が言う。「僕は謙譲を美徳のひとつに数える人には同意できない。理論家は物事を正確に、あるがままに見るのが肝心だし、だいいち自分を安く見積るのは、自分の力を誇張するのと同じくらい、真理から遠ざかることじゃないか。だから、僕がマイクロフトのほうが観察力がすぐれているというときは、厳密な真理だと思ってくれていいのさ」
「弟さんかい」
「七つちがいの兄だ」
「どうしてまた有名にならないのかねえ」
「いや、兄の仲間うちじゃ有名なもんだ」
「仲間というと?」
「まあ、ディオゲネス・クラブとかね」
ディオゲネス・クラブというのは聞いたこともなかったが、それが顔に出たとみえて、シャーロック・ホームズは懐中時計をひっぱり出して言った。
「ディオゲネス・クラブというのは、ロンドンじゅうでいちばん風変わりなクラブでね、マイクロフトもその変人仲間のひとりなのさ。毎日夕方の五時十五分前から七時四十分まで行っているよ。いま六時だから、もしうららかな夜の散歩に出てみる気があるなら、珍しい人物を二人ばかりご紹介するよ」
五分後に、われわれは通りに出てリージェント広場のほうへ歩いていた。
「君は、マイクロフトがああいう才能があってどうして探偵をやらないか、不思議に思うだろうがね。それが駄目ときている」
「だって君はさっき……」
「たしかに兄は観察も推理も僕よりすぐれている。安楽椅子にすわって推理だけやっていれば探偵がつとまるというのなら、兄は古今|未曾有《みぞう》の大探偵になったろうがね。ところが、欲もなけりゃ精力もない。自分で謎を解いておいて、さて証明に出かけて行くのが厭《いや》だときている。めんどくさいことをして正しいのが証明されるより、放っておいて、間違っていると思わせておくほうがましだと言うんだ。僕もだいぶ問題を持ち込んで解いてもらったが、やっぱり後でキチンと合っていたからね。しかし実地の仕事となると、からっきし駄目なんだ。だから事件を裁判まで持っていくことができない」
「じゃあ、探偵はやっていないわけか」
「むろんそうさ。僕が食うためにやっていることも、兄にはたんなるディレッタントの趣味だ。兄は数字のほうで途方もない才能があってね、政府のある省で会計検査をやっている。家はペルメル街だ。毎朝毎晩、角を曲がってホワイトホール街の官庁に通っている。年がら年じゅう、他に運動はやらないし、どこへも出かけない。ディオゲネス・クラブが唯一の例外だ。そのクラブだって兄の住まいのまん前にあるのさ」
「聞いたことのない名前だな」
「そりゃそうだろう。ロンドンには、内気や人間嫌いで、人の仲間になりたくないような連中が多いだろう。それでもすわり心地の良い椅子とか新刊雑誌とかまで嫌いだというわけじゃない。ディオゲネス・クラブというのはそういう人間の便宜《べんぎ》を考えて作ったものだ。今じゃロンドンじゅうでいちばんつきあいの悪い、いちばんクラブの嫌いな人間が集まっているわけだ。会員たるもの、他の会員に関心を持つべからず。来客室以外では事情のいかんにかかわらず談話は禁止。三回違反して委員にわかったら、除名に処せらるべきものとするというしだいだ。兄は発起人のひとりだ。僕なんかもあそこに行くと、とても気持が静まるね」
話をしているうちにペルメル街にやって来た。セント・ジェイムズ寺院のほうからずっと歩いて行った。シャーロック・ホームズは、カールトンから少しばかり行った一軒の家の前で立ち止った。そうして私に口をきかないようにと注意してから、玄関に入って行った。ガラスの羽目を通して広い豪奢《ごうしゃ》な部屋がチラと見えた。そこにはかなりの人たちが、それぞれ自分の小さな隠れ家にすわり込んだ恰好で新聞を読んでいた。ホームズは、私をペルメル街のほうが見える小さな部屋に案内しておいて、しばらくしてから一見して兄弟と知れる人物を連れてもどって来た。
マイクロフト・ホームズは、シャーロックよりはるかに大柄で太った男だった。全くのデブだが、顔には、でかいなりに、どこか表情の鋭さがあった。これは弟のほうにも顕著《けんちょ》なことである。目は妙に明るい水色がかった灰色をしている。それがいつも、遠くを見ているような、内省的な目つきをしている。この目つきはシャーロックにもあるのだが、全力を集中したときに限っている。
「初めてお目にかかります」と言いながら、マイクロフトは海豹《あざらし》の鰭《ひれ》のように広くて平べったい手を差し出した。
「あなたがシャーロックのことをお書きになって以来、どこへ行っても彼の話が出ますよ。ところでシャーロック、先週はマナ・ハウス事件のことで君が相談に来るだろうと思っていたがね。少し無理じゃなかろうかと思って」
「いや、解いたよ」シャーロックはにっこり笑った。
「アダムズだったろう」
「そう、アダムズだった」
「はじめからわかっていたよ」兄弟は張り出し窓に並んで腰をおろした。「人間を研究するにゃ、ここに限る。みんな堂々たるタイプじゃないか。たとえば、こっちを向いて歩いて来るふたりを見たまえ」
「玉突きのゲーム取りともうひとりだね」
「そうそう。もうひとりのほうは何だと思う?」
そのふたりは窓の正面に立ち止ったところだった。私にとって、片方をゲーム取りと見るしるしはただひとつ、チョッキのポケットの上についている白墨《はくぼく》のあとだけだった。もうひとりは非常に小柄な色の黒い男で、帽子をあみだにかぶり、こわきに二つ三つ包みを抱えている。
「軍人あがりだな」シャーロックが言った。
「除隊したばかりだ」兄のほうが言った。
「勤務はインドだったな」
「下士官だ」
「兵科は砲兵かな」とシャーロック。
「やもめぐらしだ」
「ただし子供がひとり」
「ひとりじゃないよ、きみ、ひとりじゃない」
「やれやれ」と私が笑い出した。「こいつは何のことだか」
「いやいや」ホームズが答えた。「ああいう身のこなしで、威厳があって、日に焼けているんだから、軍人で、ただの兵卒《へいそつ》じゃなくて、それもインドから帰ったばかりだということがわけなくわかるのさ」
「退役して長くないということは靴でわかる。いわゆる[給与靴]をはいている」マイクロフトが言った。
「あの歩き方は騎兵じゃない。しかし額の片側が色が白いから、広縁帽を横かぶりにしていたわけだ。体重があるのは工兵でない証拠だ。つまり砲兵にいたことになるね」
「それから、むろん、正式の喪服だから、誰か近親者をなくしたばっかりだ。自分で買物をしているから、これは奥さんをなくしたわけだ。子供の物を買って来てるだろう。ガラガラなんかもある。これはごく小さい子がいるしるしだ。奥さんは産褥《さんじょく》で死んだかな。それから絵本を抱えているから、もうひとり子供がいるということが考えられるわけだ」
私はシャーロックが、彼より兄のほうが鋭い能力を持っていると言った意味がわかりかけて来た。シャーロックは私に目くばせしてニヤリと笑った。マイクロフトは鼈甲《べっこう》の小箱から嗅煙草《かぎたばこ》を嗅いで、大きな赤い絹のハンカチで上着にこぼれた煙草の粒を払った。
「ところでシャーロック」彼は言った。「君の望みどおりの事件があるぜ。ひどく変わった事件でね、僕に頼まれたんだが。僕にはいい加減なことしかできない。とても精力が続かない。もっともなかなかおもしろい推理問題にはなったよ。どうだいひとつ話を聞いてみる気があるなら……」
「兄さん、願ってもないことだね」
マイクロフトは、手帳の切れはしに手紙を走り書きして、ベルを鳴らし、給仕にわたした。
「メラズという人にちょっと来てくれるように言ったんだ。僕の上の部屋に住んでる人でね、ちっとばかり知り合いなもんだから、困ったことができたと言って来たわけさ。ギリシャ系でね、たしか。それがたいした語学者だ。裁判所の通訳をやる一方じゃ、ノーサンバランド・アヴェニュー界隈《かいわい》のホテルに泊るような、東洋人の金持を相手に案内人をやって、それで食ってる。その異常な経験談は、やっこさん自身の口から聞いてもらおう」
まもなく、背丈《せたけ》の低い太った男が席に加わった。オリーブ色の顔と漆黒の髪の毛が、南国の産であることを示していた。もっとも言葉は教養あるイギリス人と変わらない。彼はシャーロック・ホームズと熱のこもった握手をした。彼の黒い目は、この専門家が自分の話を聞きたがっていると知って、よろこびに輝いた。
「警察が信用しているとは思いません……本当に、思いません」彼はなげき声で言った。
「こんなことは聞いたことがないから、対処しようがないと彼らは考えるんですねえ。でも本当に、私はあの顔に絆創膏《ばんそうこう》をはられた男がどうなったか、それがわかるまで心が安まりません」
「よろしい、うかがいましょう」シャーロック・ホームズが言った。
「今夜は、水曜ですね。すると、じゃ、月曜の晩だ……ついおとといなんですよ……ことが起こったのは。私は、たぶんこの方からお聞きになったでしょうが、通訳をやっているんです。何語でもいっさい、まあ大概《たいがい》なら、通訳するんですが、生まれがギリシャですし、名前もギリシャ名前でして、仕事は主としてギリシャ語関係です。もうずっと、ロンドンじゃ随一のギリシャ語通訳ということになっていますから、旅館業の間じゃ知られた顔です。
時々、よくあるんですが、面倒を起こした外国人だの、遅く着いて私に仕事をしてもらいたい旅行者だのがいて、突飛な時間に呼ばれることがあるんです。ですから、月曜日の晩も驚きはしなかったんです。ラティマーという、ひどくハイカラな恰好をした若い男が、私の部屋にやって来まして、貸馬車に乗ってついて来てくれと言うんです。馬車は戸口に待っているとか。商売のことでギリシャ人の友人が来ているが、ギリシャ語しかできないから、どうしても通訳がいるという話です。家はケンジントンで、少しばかり遠いということで、玄関を出るときなんかも、せき立てて馬車に乗せたりして、ひどく急いでいるようすでした。
貸馬車と言いましたが、私はすぐ、自分の乗ったのは自家用馬車じゃないのかと思ったんです。たしかに、あのロンドンの恥になっている普通の四輪馬車より広いし、造作もボロくなってはいるけれども、金がかかっています。ラティマーは私の正面にすわりました。そして車はチャリング・クロスを通ってシャフツベリー・アヴェニューを北に行きました。オクスフォード・ストリートにやって来たときに、思いきって、ケンジントンなら回り道になるじゃないかと言ってみました。ところが、その途端に、この男はとんでもないことをやり始めました。
男はまず懐《ふところ》から針を仕込んだおっそろしくいかつい棍棒《こんぼう》を取り出して、その重みや強さをためすみたいに、そいつを前後に何べんも振りました。それから、なんにも言わないで、そいつを自分のそばに置きました。こうしておいてから、今度は両側の窓をひっぱり上げましたが、おどろいたことに、その窓は、私が外を見られないように紙がはってあるのです。
『外が見えなくなるが、悪《あ》しからず』男は言います。『行く先の場所をあんたに知らせるつもりがないと言うことです。あとでそこまでの道が知れると、当方にとって都合がよろしくないですから』
ご想像どおり、私はこんな口をきかれて、全くのところ、びっくり仰天してしまいました。相手は力の強そうな肩幅の広い若者ですし、私は手許に武器もなし、とっくみ合いをしたところで勝てる見込みはまるでありません。
『ラティマーさん、とんでもないことをなさる』私は口ごもりながら言いました。『あなたのなさることは全く不法行為じゃありませんか』
『ちっとばかり勝手な振舞いかもしれんですな、たしかに。しかし、ちゃんと補いはつけて差し上げます。ただし、ひと言申し上げておきますが、今夜じゅうは、助けを呼んだり、私の都合の悪いことをしたりなさらんほうがよろしい。大事なことになりますからね。あんたがどこにいるか誰も知っている人はいないし、この馬車の中だろうと私の家の中だろうと、同じ袋の中のねずみだということを覚えておいていただきます』
言葉づかいはおとなしいですが、いやァな言い方をしましてね、とても薄気味が悪いんです。いったい全体何のためにこんなことをして私をさらって行くのか、いぶかりながら黙ってすわっていました。しかしとにかく、さからってみたって仕方がないし、まあ何事が起こるのか待ってみるより仕様がありませんでした。
どこへ行くのか行先もわからないままで、ほとんど二時間ちかく乗っていました。石がガラガラいう音で砂利の土手道だとわかったり、音がしないからアスファルトだなと思ったりしましたけれど、そういう音の変化のほかには、どこをどう走っているのか、推察のつけようもありませんでした。窓にはった紙は光を通しません。前のガラス細工にも紺《こん》のカーテンが引いてあります。ペルメルを出たのは七時十五分すぎでしたが、やっと車が止まったときには、時計はもう九時十分前を指していました。男は窓をあけましたが、低い迫持造《せりもちづく》りの門があって、その上にランプがともっているのがチラッと見えました。
せき立てられて馬車をおりると、門の扉がすっと開いて、あっという間に家の中に連れこまれたのですが、そのとき、両側に芝生や木が生えていたことをうっすらと覚えています。でも、それが屋敷の中だったのか、それとも正真正銘の野ッ原だったかということになりますと、何とも申し上げかねるわけですが。
家の中には、色のついた火屋《ほや》のガス灯がともっていて、それがあんまり火を細くしてあるものですから、とっつきの廊下がかなり広かったことと、絵が何枚かかかっていたことぐらいしかわかりませんでした。それでも、そのぼんやりした灯で、扉をあけたのが小柄で品の悪い猫背《ねこぜ》の中年男だということが、どうにかわかりました。こっちを向いたときにキラキラ光るものがあったので、眼鏡をかけていることもわかりました。
『これがメラズさんかい、ハロルド』と、彼は言います。
『そうです』
『よしよし、よくやった。悪意は無しだよ、メラズさん。とにかくあんたがおらんことにゃ困るんだ。おとなしく仕事をしてくれりゃ、後悔するこたない。しかし、いらんことをすると、わしゃ知らんぞ』
いらいらと、ひきつるような話し方で、あいだにクックッと笑い声を入れるのですが、聞いていると、どういうものか、もうひとりのほうよりもこわいのです。
『私に何をしろとおっしゃるんです?』私はききました。
『ギリシャの紳士が来とるから、二つ三つ質問をして、わしらに答をきかせてもらうだけだ。ただし、こっちの言わんことをちっとでもしゃべったら』……ここでまた、あの神経質なクックッ笑いです……『生まれたことを後悔するぞ』
こういいながら、彼はドアをあけて、だいぶ金のかかった飾りつけのしてあるらしい部屋に私を連れて行きました。しかし、ここも明かりといえば、火を細くしたランプがひとつあるだけです。広い部屋でして、絨毯《じゅうたん》にのると、深々と足がもぐったことからも、金のかかっていることがわかります。椅子はビロードで、白大理石の大きなマントルピースがあって、そのそばには日本製の鎧《よろい》らしいものが一組おいてあるのが目に入りました。ランプの真下に椅子がひとつあって、中年男はそこに私をすわらせました。
若いほうはしばらくいませんでしたが、いきなり、もうひとつのドアから、だぶだぶの化粧着のようなものを着た紳士をひとり連れて、もどって来ました。紳士は私たちのほうへのろのろやって来ましたが、薄暗い光の輪の中に入って、もう少しはっきり見えるようになると、私はその顔を見て思わずゾッとしてしまいました。死人みたいに真っ青、こわいほどやせこけて、目だけが、まるで気迫が体力に追いつかなくなった人みたいに、とび出してギラギラ光っています。しかし、こういう体の弱ったようすなどより、顔に十文字に、絆創膏《ばんそうこう》がグロテスクにはりつけてあって、口の上にも大きいのが一枚はりついているのです。ギョッとしてしまいました。この奇妙な人物が、椅子にすわったというより、どさっと落ちこむと、中年男が言いました。
『石板は持って来たかい、ハロルド。手は動くようにしてあるな。よし、じゃあ石筆をかしてやりな。メラズさん、あんたが質問するとこの人が返事を書くわけだ。まずだいいちに、書類に署名する気になったか、きいてみなさい』
紳士の両の目がギラギラ光りました。
『なるものか』彼が石板にギリシャ語で書きます。
『どうしてもいやか』暴君が私に言わせます。
『彼女が、私の目の前で、私の知っているギリシャ人の神父によって結婚すればよし』
中年男は毒々しくクックッと笑いました。
『じゃ、あんたがどうなっても良いというんだな』
『私のことなど、どうでも良い』
こういうのが、私たちの奇妙な、半|口頭《こうとう》、半筆頭の会話の一問一答の例です。何回も何回も、降参して書類にサインするかどうか質問させられました。そして、繰り返し繰り返し、同じ憤然《ふんぜん》とした返事です。
ところが、私はひょっとうまいことを思いついたのです。ひとつ質問するごとに、私自身の質問を加えて行くのです……はじめは、ためしに二人の男に知れないかどうか、何でもないことをきいてみて、それから、どうやら大丈夫らしいので、もうすこし危い橋を渡ってみたわけです。私たちの会話は、まあ大体こういった具合です。
『そんなに言い張っても、何にもなりゃせんぞ。[あなたはどなたです]』
『知ったことじゃない。[私はロンドンは初めての者です]』
『あんたの運命はあんたしだいだぞ。[いつおいででしたか]』
『それで良いじゃないか。[三週間まえです]』
『財産を取ってしまっても良いのか。[どんなことをして苦しめられたのですか]』
『悪党の手にわたすものか。[ものをたべさせません]』
『署名さえすりゃ帰してやるんだぞ。[これはどういう家ですか]』
『署名は決してしない。[知りません]』
『彼女にとってもためにならんのだぞ。[お名前は]』
『彼女がそう言うのを聞こう。[クラティデス]』
『署名すれば会わせてやるさ。[どちらからおいでですか]』
『じゃ決して会わない。[アテネです]』
ホームズさん、もう五分あれば、私はやつらのまん前で、真相を全部聞き出したところでした。あと一問で、事件が解決できるところだったのかもしれません。ところが、このときいきなりドアがあいて、ひとりの女が部屋に入って来たのです。はっきり見えなかったので、背の高い、上品な、黒い髪の女で、ゆったりしたガウンのようなものを着ていたことしか、わかりませんでしたが。
『ハロルド』彼女は言いました。英語ですが、調子はずれです。『もう我慢できなかったのよ。二階は寂しくて、たった……あッ、まあ、ポールじゃないの』
このおしまいの言葉はギリシャ語で、これと同時に、紳士のほうが、発作的な力で口の絆創膏《ばんそうこう》をひっぺがすと、『ソフィー! ソフィー!』と叫びながら彼女の腕に突進しました。
しかしふたりの抱擁《ほうよう》もほんの一瞬でした。若いほうの男が、女をつかまえて部屋から押し出して行ってしまうし、一方では中年男のほうが、やつれた犠牲者をやすやすと捕まえて、べつの扉から引きずり出してしまいました。一瞬、私は部屋にひとりきりになったので、連れて来られたのがどういう家なのか、どうにかして緒口《いとぐち》だけでもわかるかもしれない、という考えが漠然《ばくぜん》と起こって、椅子からとび上がりました。でも、足を踏み出さなくて幸いでした。ひょいと目を上げると、中年男が戸口に立って、私をじっと見ています。
『あれですんだよ、メラズさん』彼は口をひらきました。『お気づきだろうが、わしらはあんを見込んで、たいへんな秘密を打ち明けたわけだ。ギリシャ語しかできんあの友人との間で談判ごとが持ち上がったんだが、あれが急に東洋のほうに帰らなけりゃならんことになったりしたもんだから、あんたにわざわざ来てもらわにゃならんことになったんだ。誰かそういう役をやってくれんか、探しておったところだったが、幸いあんたという、できる人がみつかったわけだ』
私は会釈してやりました。
『ここに五ポンドあります』と私のほうに歩み寄りながら言いました。『これで、まあ、料金は十分じゃろう。ただしだ』私の肩をポンとたたいて、クックッと笑いながらつけ加えます。『この事を他の人間しゃべったら……いいかね、ひとりでもだぞ……さァね、神よお慈悲をということになるぜ』
このくだらない男のために覚えた胸くその悪さ、おそろしさを、どういうふうに申し上げたらいいでしょうか。そのときは、ランプが彼の頭の上にありましたから、よく見えました。やつれた、どす黒い顔で、少しばかりのとがった顎鬚《あごひげ》は糸みたいに細くて、ポサポサしていました。しゃべるときは顔を前に突き出し、唇とまぶたが、まるで舞踏病みたいにヒクヒク動きました。あの奇妙な、ひきつるようなクスクス笑いだって、何か神経病の徴候なんだろうと思ったりしました。しかし、顔のどこがおそろしいかというと、目です。鋼《はがね》みたいな灰色で、冷たくチカチカ光って、その底に、邪悪な、情け容赦《ようしゃ》のない残忍さが感じられました。
『しゃべったらじきにわかる』彼は言いました。『ちゃんと情報綱があるからな。さあ、馬車が待っとるて。わしの仲間がまたお伴しますぜ』
私はせき立てられて廊下を通り、そしてまた一瞬、チラチラと木立や庭を見ながら、馬車に乗せられました。ラティマーが、私のすぐあとにくっついて来て、何も言わずに私の正面の席にすわりました。無言のうちに、私たちは再び、いつはてるともない長い距離を、窓を閉ざして乗りまわしましたが、やがて、ちょうど真夜中すぎに馬車は止まりました。
『こちらでおりて頂きます、メラズさん』相手が言います。『お宅から遠い所でお降り願ってお気の毒ですが、仕方がないです。馬車のあとをつけようとなさっても、かえって怪我をなさるばかりです』
彼はそう言いながら扉を開きましたが、私が車からやっとおりたと思うと馭者が鞭《むち》を入れて、車はガタガタと走って行ってしまいました。おどろいてあたりを見回しました。私が立っていたのは、ヒースの生えた荒地で、そこここに、ハリエニシダのしげみが黒々と繁っています。ずっと遠くに家並があって、あちこち二階の窓に灯がついていました。反対のほうに、鉄道の赤いシグナルが見えました。
私をのせて来た馬車は、もう見えなくなっていました。あたりを見回しながら、いったい全体どこに来たのだろうと考えていると、誰か闇の中をこっちに向かってやって来るのが見えました。だんだん近づいてみると、鉄道の赤帽です。
『ここは、なんというところでしょうか』ときいてみました。
『ウォンズワース・コモンです』
『ロンドン行きの汽車がありますか』
『クラパム連絡駅まで一マイルばかりお歩きになれば、ヴィクトリア行きの終列車に、ちょうど間に合いますよ』
これで、ホームズさん、私の冒険は終りました。行った先も、話をした相手も、何もかも、申し上げたこと以外は、今もって何も知りません。ただ、悪事が行なわれていることはたしかなんで、できることなら、あの不幸な男を助けてやりたいと、こう思ったんです。あくる朝、お兄様にすべてを申し上げました。したがって警察にも通じたわけですが」
この異常な物語を聞き終ると、しばらくはすわったまま、誰も口をひらかなかった。それからシャーロックが兄のほうを見やった。
「手は打った?」彼はたずねた。
マイクロフトは、テーブルの上にあったデイリー・ニューズをとりあげた。
「『ギリシャ紳士、ポール・クラティデス、アテネより当地在、英語会話できず、所在につき情報ご提供の方、賞金呈上す。同様、ギリシャ婦人、呼び名ソフィー、情報下さる方賞金呈す。X二四七三』こういうのを、全日刊紙に出してある。だが、応答なしだ」
「ギリシャ大使館はどうです?」
「聞いてみた。なんにも知らない」
「じゃ、アテネの警察に電報してみたら?」
「こんな具合に、シャーロックは、ホームズ家のエネルギーを全部ひとりで引き継いでるんです」マイクロフトは私をふりかえって言った。「じゃ、是非《ぜひ》ともこの事件を引き継いでくれたまえ。それで、何か良いことがあったら知らせてもらおうか」
「いいとも」シャーロックは椅子から立ち上がった。「お知らせしよう。メラズさんにも。それまでは、メラズさん、僕ならきっと彼らを警戒するところですよ。この広告で、裏切ったことが当然知れていますからね」
帰る途中で、シャーロックは電報局に寄って、電報を何本か打った。
「ねえ、ワトスン君」彼は言う。「夜の散歩が無駄じゃなかったろう。こうやってマイクロフトから来た事件が、僕の扱ったいちばん面白い事件になったりするからね。いま聞いた問題だって、解決の余地はたったひとつとしても、なかなか面白そうじゃないか」
「解決の見とおしがあるのかい?」
「そうだね、あれだけのことがわかっていて、もし他に何もわからなかったとすりゃ、まるきりおかしな話だよ。君だって、いま聞いたいろんな事実に、何か解釈をつけてみたはずだと思うがねえ」
「そりゃ、漠然とならね」
「じゃあ、どういうふうに考えたかい」
「まず、このギリシャの娘は、明らかにハロルド・ラティマーというイギリス人によって誘拐《ゆうかい》されたのだ、と思う」
「どこから誘拐されて来た?」
「アテネだろう」
シャーロック・ホームズは首を横に振った。「この若者はギリシャ語を話せない。ギリシャの娘は英語がうまく話せた。彼女はイギリスに来てしばらくになるが、男はギリシャに行ったことはない、という推論が成り立つ」
「なるほど、じゃ、彼女は英国訪問者であり、それをこのハロルドが、一緒に逃げてくれと口説《くど》いたと仮定しよう」
「そのほうが事実に近いだろう」
「しかして、彼女の一兄弟が……つまり、あれは血族関係だという気がしたんだがね……ギリシャから妨害しにやって来た。彼は無謀にも若者とその年とった相棒の手中にとびこんだ。ふたりは彼をつかまえて、暴力で書類に署名させようとする。書類とは、娘の財産……兄がその管財人なんだろうな……、その財産の委譲《いじょう》証明書だろう。これを彼が拒否する。で、交渉するには通訳がいる。そこでメラズ氏が選ばれたわけだが、メラズ氏の前に誰かひとり使っているね。娘は、兄の来ていることを知らされていなかったが、ほんの偶然でそれを知る」
「すごいぞ、ワトスン君」ホームズが声をあげた。「きっとその辺が真相だろうと思うね。なにしろカードはちゃんと握ってあるんだから。あとはただ、彼らが裏で暴力行為をやりはしないかという心配だけだ。時間さえよこすなら、こっちのものさ」
「だけども、奴らの家っていうのはどこかねえ」
「うん、しかしわれわれの推理が正しいとすれば、娘の名前が過去ないし現在にソフィー・クラティデスだというのなら、娘を探す分には苦労はないはずだよ。それに望みは託されるわけだよ。兄のポールは、ロンドンははじめてなんだからね。このハロルドという男が、娘とそういう関係になってから、いくらか時間が……とにかく何週間かたっているわけだね。兄がギリシャでこの事を聞いて、こっちにやって来る時間があったわけだから。で、その間、娘とハロルドがひとつところにいたのだとすると、マイクロフトの広告に、何か手応えがあってよさそうなものだよ」
こうしてしゃべっているうちに、われわれはベイカー街のわが家に帰って来た。ホームズは先に立って階段を上がったが、部屋の扉をあけると、驚いてとび上がった。肩ごしに私ものぞき込んで、同じく驚いてしまった。彼の兄マイクロフトが、肘掛椅子にすわって煙草をふかしているのである。
「さあさあ、シャーロック、どうぞおはいり」
われわれの驚いた顔を見て、マイクロフトはにやりと笑った。「驚いたろう、こんなエネルギーがあろうとは。しかしこの事件はなんだかおもしろくてね」
「どうやって来たんだい?」
「辻馬車に乗って追い越したよ」
「何かいい話があったんだね」
「広告に返事があった」
「ああ!」
「うん、君たちが帰ってからすぐだ」
「で、何だって?」
マイクロフト・ホームズは一枚の紙をとり出した。
「これだ」彼は言う。「用筆はJペンで、紙はロイヤル版のクリーム・ペイパー、書き手は中年の男で虚弱体質。文面は、
『拝啓、本日付の新聞広告につき一筆申し上げ候《そうろう》。陳者《のぶれば》、小生、件《くだん》の若婦人についてはよく存じ居り候。もし小生宅までお越し下され候わば、彼女が苦労の段々、いろいろとお申し聞かせ候べく。なお、彼女は、ただ今ベックナム町、マートルズ荘に居住いたしおり候。敬具。J・ダヴンポート』
差出人の所は下《しも》ブリクストンだ。どうだ、これからひとつ、行ってこの話を聞いてみないか」
「しかしねえ、マイクロフト、今は娘の話より、兄の生命《いのち》のほうが大事だよ。僕の考えじゃ、これから、警視庁でグレグスン警部を呼び出して、それからまっすぐベックナムへ出かけるべきだな。なにしろ人間がひとり、殺されかかっていて、一刻も猶予《ゆうよ》がないんだからね」
「途中で、メラズさんを連れ出したほうがいいね」と私。「通訳がいるかもしれない」
「そうだッ!」シャーロックは言った。「ボーイに四輪馬車を呼ばせてくれないか。すぐ出発しなくちゃ」
こう言いながら、彼はテーブルのひきだしから、ピストルをポケットにすべりこませた。「うん」と私の視線に答えて「どうやら、今までの話だと、相手は物騒な連中らしいからね」
ペルメル街のメラズ氏の家に着いたときには、もう真っ暗だった。メラズ氏は、ひとりの紳士が訪ねて来て、出かけたということだった。
「行先はご存じですか?」マイクロフトが聞いた。
「存じません」
「紳士というのは、背が高くてハンサムな、髪の黒い男じゃなかったですか?」
「いいえいいえ、小男でございますよ。眼鏡をかけて、やせた顔の。でも、とっても愉快な方で、話してらっしゃる間、笑いどおしなんですよ」
「行こう」シャーロック・ホームズが、だしぬけに言った。そして、警視庁への道々こう言った。「たいへんなことになるぞ。やつらはまたメラズをつかまえたらしい。メラズは度胸がないし、そのことはやつらも前の経験でよくわかっている。やって来られただけで、苦もなくふるえ上がってしまったのさ。きっと通訳をやらせるつもりだろう。しかし仕事が済んだら、いわゆる裏切り行為の罰を与えるにちがいない」
われわれは、汽車に乗れば、メラズの乗った馬車が着くころ、あるいはそれより先に、ベックナムの悪党の家に着くだろうと思った。しかし、警視庁に着いてグレグスン警部を連れ出し、彼らの家に踏み込むための手続を済ませるのに、たっぷり一時間はかかってしまった。ロンドン・ブリッジ駅にやって来たのが十時十五分まえ。そしてベックナムの停車場におり立ったのは、もう十時半だった。馬車で半マイル走って、マートルズ荘に着いた。……宏壮な、暗い家が、屋敷の中の道路の奥に立っている。われわれは、ここで馬車をすてて、車寄せまで歩いて行った。
「窓はみんな灯《あかり》がついとりませんな」警部は言った。「誰もいないらしい」
「鳥は飛び立って巣は空っぽか」シャーロックが言った。
「どういう意味ですか?」
「ここ一時間の間に、荷物をどっさり積んだ馬車が一台出て行きました」
警部は笑い出した。「門灯のところに轍《わだち》のあとがたしかに見えたですが、しかしその馬車は、入って来てどこにいるわけですかな」
「同じ轍が別の方向に向いていたのをごらんだったでしょう。外に出て行った轍のほうが、はるかに深い。たしかに、馬車がかなり重かったと言えますよ」
「こいつは、あなたが一枚上だ」警部は肩をすくめた。「このドアは押し破るのもたいへんですな。しかし誰か出て来んとも限らんですからね」
警部はそう言っておいて、ノッカーを音高く鳴らしたり、ベルの紐《ひも》を引いてみたりした。しかしきき目がない。シャーロックは、どこかに消えていたが、やがてもどって来た。
「窓がひとつあいたよ」
「ホームズさん、あなた、警察側だからいいようなものの、そうでなかったらえらいことになりますぞ」
警部は、シャーロックが手際よくかけがねを外して来たことを見破った。「まァしかし、この際、案内を待たずに入ってもよろしいということにしておきましょう」
私たちは次々と部屋の中に入って行った。それは、明らかにメラズ氏が連れて来られたという部屋だった。警部が持って来た角灯に火を入れると、メラズが言っていたふたつの扉や、カーテンや、ランプや、日本の鎧《よろい》などが見えた。テーブルの上にグラスが二つ、空になったブランデーの瓶が一本、そして食事の食べかけが置いてあった。
「何だ、あれは」ホームズが突然言った。
皆は立ち止って聞き耳を立てた。低いうめき声が、どこか頭の上のほうから聞こえてくる。シャーロックは戸口に駆け出して廊下に出た。無気味な声は、二階から聞こえているのだ。彼が階段をかけ上がり、警部と私がこれについて上がり、そして、マイクロフトが、彼の肥満体をもってして能《あた》う限りの速さで続いた。
上がってみると、われわれに向かって三つのドアが並んでおり、その不吉な声は真ん中のドアから聞こえていた。低くつぶやくような鈍い声になるかとみると、高まって鋭い悲鳴になったりする。ドアは鍵がかかっていたが、鍵は外側に差し込んだままだった。シャーロックは、ドアをあけ放して駆けこんだが、たちまちのどを押えて飛び出して来た。
「木炭だ!」彼は叫んだ。「しばらく待とう。あけておけばいい」
のぞき込んでみると、部屋の中の明かりは、中央に置かれた小さな真鍮《しんちゅう》の鼎《かなえ》からチラチラともれる、ぼんやりとして青い炎だけだった。その炎が、床の上に、あやしげな鉛色の光の輪をなげかけており、その向こうの暗闇に、ふたつの人影が、壁にもたれてうずくまっているのがうっすらと見えた。ドアを開け放った入口から、おそろしい有毒な煙が出て来て、われわれは息をきらし、咳《せき》をした。シャーロックは階段のつきあたりの窓まで駆けて行って、新鮮な空気を吸ってから、部屋の中に突進し、窓を開け放ち、真鍮の鼎を庭にほうり出した。
「じき入れるようになる」彼はあえぎながらとび出して来た。「ろうそくはないか。もっともあの空気じゃマッチもつくまい。じゃ、兄さんに戸口で明かりをかかげていてもらおう、運び出して来るから。早く!」
われわれは、中毒した二人のところに突進して行き、階段の上のところまでひっぱり出して来た。二人とも唇は紫色になり、気を失い、顔ははれ上がって充血し、目がとび出している。しかも、顔がゆがんでしまっていて、その中のひとりが、黒い頬髯のあるデブでなければ、たった数時間前にディオゲネス・クラブで別れたばかりの、ギリシャ語通訳だということさえわからないほどだった。彼は手足をきつく縛られて、片方の目のまわりには、激しい一撃のあとがありありとしていた。
もうひとりは、やはり同じように縛られていたが、背が高く、衰弱の極に達していて、顔には絆創膏《ばんそうこう》が何枚かグロテスクにはりめぐらされていた。この男は、われわれが横たえてやったときには、もううめきを止めて、一見して、われわれの救助の手が、少なくとも彼にとっては遅きに失したことがわかった。しかしメラズ氏はまだ息があった。アンモニアやブランデーで介抱《かいほう》すると、小一時間して目を開いたので、かのすべての道が行きつく暗い谷間から、この手で彼を引きもどしたのだと、私は満足に思ったのである。
彼の話はしごく簡単で、われわれにとっては、推理の正しさに自信を深めるばかりだった。メラズの訪問者は、部屋に入ると袖《そで》の下から保身棒をひっぱり出して、メラズに、一瞬にして命はないぞという恐怖の念を与え、まんまと再び誘拐してしまった。まったくのところ、あのクツクツ笑いの悪党は、この哀れな語学者にほとんど催眠術的な効果をもたらしたと見えて、メラズはしゃべりながらどうしても手の震えが止まらず、頬は真っ青になったままだった。
さて、彼は手早くベックナムに連れて来られて、二回目の談判で通訳を勤めたわけである。それは最初の談判よりも劇的なものであって、あのふたりのイギリス人は、要求に従わなければ即刻、命を奪うぞとギリシャ人を脅迫した。
しかしついにギリシャ人が脅迫にも乗らないと見て、彼を再び監禁室にぶち込んでおいて、今度はメラズを相手に、新聞広告にあらわれた裏切りを責め立ててから、棍棒《こんぼう》の一撃で気絶させ、それからメラズは、われわれが上からのぞき込んでいるのに気づくまで、なんにも知らずにいた、というしだいである。
これがギリシャ語通訳の奇妙な一件である。それは未だに謎に包まれている。われわれは、広告に返事をくれた紳士と連絡をつけて、不幸な娘がギリシャのある金持の出であること、そしてイギリスの友だちを訪ねてやって来ていたのであることを知った。彼女は滞在中に、若者ハロルド・ラティマーと知り合ったが、ハロルドは彼女をわがものにして、ついになだめすかして彼とともに逐電《ちくでん》することを承知させた。彼女の友だちは事の重大さに驚いたが、アテネの兄のところに知らせたなりで、手を引いてしまった。
兄はイギリスに着くと、見境いもなく、ハロルドとその相棒の手中にとびこんでしまった。……相棒は、名をウィルスン・ケンプと言い、世にもけしからぬ素姓の男であった。このふたりの悪党は、彼が英語を知らないから捕えておけばどうにもなるまいと見て、残虐行為と飢餓《きが》とによって、彼に自分と妹の財産を手離す書類に署名させようと手をつくした。二人は、娘に知らせずに彼を監禁していたが、万一顔を合わせることがあっても彼女が気づかないように、彼の顔に絆創膏をはっておいた。
しかし、通訳の最初の訪問のとき、はじめて兄をひと目見ると、女の感の鋭さが、たちまちにしてこの詭計《きけい》を見破ってしまった。けれども、彼女もまた彼らのとりこだった。というのは、この家には、彼らの他に、馭者をつとめた男とその女房とがいたが、そのふたりも一味の手先だったからである。
秘密が露見し、兄も脅迫がきかぬと見てとると、ふたりの悪党は、借りていた家具つきの家をたった数時間の予告で返して、娘を連れて逐電したのであるが、その前にちゃんと、拒《こば》んだ男と密告した男とに仕返しをしておいたのだった。
数か月後に、われわれはブダペストから妙な新聞の切抜きを受け取った。それによると、ひとりの女を連れて旅行中のふたりのイギリス人が、悲惨な最期を遂げたという。ふたりとも刺し殺されているが、ハンガリーの警察は、ふたりが喧嘩《けんか》して、互に致命傷を与えたものらしいと見ているという。だが、思うにホームズは違った見方をしている。彼は今でも、あのギリシャの娘に会えば、彼女とその兄の損害がいかに復讐されたか、聞くことができると思っているにちがいないのだ。
[#改ページ]
海軍条約文書事件
結婚直後の七月は、興味ある事件が三つも起こり、幸いにも、シャーロック・ホームズと行動を共にする機会にめぐまれ、しかも彼の探偵法を研究することができたので、思い出深いものがある。その三つは「第二の汚点」「海軍条約事件」「疲れた船長の事件」という題目で、私の手帳に記録してある。しかし最初のやつは、重大な利害問題に関するものであり、かつイギリスの主要な家柄の多くにからまる事件であってみれば、ここのところ、しばらくは公表できまい。とはいうものの、ホームズが関係した事件のなかでも、これらの事件ほど、彼の分析的探偵法の真価を遺憾《いかん》なく発揮し、関係者に深い感銘を与えたものはなかったのである。
彼がパリ警察のデュビュック氏ならびに、ダンチッヒでこの道の専門家として高名なフリッツ・フォン・ヴァルトバウム氏を前にして、事件の真相を発表したときの報告を、私は一言一句まで書きとめている。このご両人はさんざん骨折ったが、結局は脇道にそれてあくせくしていたのである。しかし、新しい世紀にでもならなければ、安心してこの事件の内幕を発表することはできない。
ところで、私の手帳によると、第二の事件だが、これまた国家の一大事となるかと案じられた事件であり、しかも続発事件も起こってきたりして、全く特異なものとなってきたのだった。
学童時代、わたしはパーシー・フェルプスという子と親しかった。年は同じくらいなのに、向こうは、二年も上だった。大へんできる男で、学校から賞金が出るたびに、それを独占し、とうとう名誉ある奨学資金を得て、功業の最後をかざり、意気揚々《いきようよう》たる学歴を、ケンブリッジ大学でつづけることになったのである。彼はまた、親類《コネ》がたいへんよかったと思う。お互いまだ子供だったが、彼の母方の伯父が保守党の大政治家、ホールダースト卿だということを知っていた。こんなりっぱな親類も学校では何の役にもたたなかった。それどころか、われわれ仲間は運動場で彼を追い回しては、クリケットの棒でその向う脛《ずね》をひっぱたいて痛快がったものである。
だが、いったん社会に出ると、話はべつだ。彼は持ちまえのいい頭と、自由にできた勢力のおかげで、外務省で相当な地位についたと伝え聞いた。しかし、それっきり彼のことはすっかり忘れてしまっていたが、ひょっこり次のような手紙が来て、彼のことを思い出したのである。
[#ここから1字下げ]
ワトスン君……学校できみが三年のとき「おたまじゃくし」のフェルプスというのが五年にいたことをご記憶のことと思います。かつまた、伯父の[ひき]で外務省で相当の地位にあるということも、あるいはお聞き及びかも知れません。その名誉ある重要な地位にいた私の出世は、あるおそろしい不祥事件の突発によって台なしになろうとしているのです。
この恐るべき事件について、事細かに書いても始まりません。ただ君が私の願いを聞き入れて下さったときには、いずれ詳しくお話ししなければなりますまい。私は九週間にわたる脳炎から回復したばかりで、まだ衰弱がはげしいのです。ともあれ、君の友人のホームズ氏を私のところまでご同道下さるわけにはいきませんでしょうか? 警察のほうは打つべき手はすべて打ったといっていますが、私としては、同氏のご意見を伺いたいと思うのです。どうかお骨折り下さい、しかもできるだけ早く。
まったくどうなることかと、不安のなかに、その日を一日千秋の思いで待ちわびています。すぐに、同氏の助言を仰がなかったのは、氏の手腕を認めなかったのではなく、事件の打撃をうけて、なすべきところを知らなかったゆえであると、念を押しておいて下さい。幸いにも、だいぶ回復しましたが、しかし、またぶり返して来はしないかと心配して、この事件についてはあまり考えないことにしています。まだ体が弱っていて、ペンを取れませんので、ご覧のように、口述筆記させました、上述の願い、重ねてお頼みいたします。
ウォーキングのブライアブレー邸にて
あなたの旧友なるパーシー・フェルプス
[#ここで字下げ終わり]
この手紙をよんで心動かされるものがあった。ホームズをつれて来てくれとの繰り返しの嘆願は、ひとしお哀れである。私はひどく感動して、たとえどんなにむずかしい事件であろうとも、何とかしてやらねばなるまいと考えた。だがホームズはたいへんな仕事熱心で、依頼人が彼の助力を受けいれさえすれば、いつも喜んで援助の手を差しのべるような男であることを、私は十分に承知している。妻も賛成して、一刻も早く彼にことのあらましを知らせたほうがよいというので、朝食をすませて一時間もたたないうちに、私は再びベイカー街のなつかしい古巣〔ワトスンは結婚前、ホームズと同居していた〕をおとずれたのだった。
ホームズは部屋着をきて、テーブルに向かい、なにやら化学実験に夢中になっていた。ブンゼン灯の青い炎の上には、大きく曲がった蒸溜器《じょうりゅうき》が沸騰している。蒸溜液は二リットル枡《ます》のなかへ集められる。
はいっていったとき、見向きもしなかったので、私は、何か大事な実験をやっているんだろうと思い、肘掛椅子に腰をおろして、しばらく待つことにした。彼はピペットをあちこちの瓶に差し込んで、薬液を二、三滴ずつ集めていたが、最後に、溶液を入れた試験管をテーブルの上にもって来た。右の手には、リトマス試験紙を一枚もっている。
「えらいときにやって来たな、ワトスン君」彼は言った。「こいつが青いままだったら、それでいいんだが、もしも赤になったら、こいつぁ、人間一人の生命《いのち》にかかわるんだ」
彼は試験管の中にリトマス紙をひたした。それはたちまち、うすい、きたない紅色に変わった。
「ほ、ほう! そうだろうと思った! ワトスン君、今すぐご用を承《うけたまわ》るよ。ああ、煙草ならペルシァ靴の中にあるよ」
彼はデスクに向かって、電報用紙を二、三枚書きなぐり、ボーイを呼んで手渡した。それから私の向かいの椅子にどしんとすわり、膝を持ちあげて、長いやせた膝頭《ひざがしら》に手を回した。
「なあに、月なみな[殺人事件《ころし》]さ」と彼は言った。「君はもっとましな事件を持って来たんだろうと思うよ。ワトスン君、君ときたらまったく犯罪の災厄神みたいだからな。で、どんな事件だい?」
例の手紙を手渡すと、熱心に読んでから、「これじゃよくわからんが……どうだい?」と手紙を返した。
「僕にもさっぱり……」
「この字はおもしろいな」
「本人の字じゃないんだよ」
「そう、女のだ」
「いや、男だよ」私は大きな声を出した。
「いや、女の字だよ。しかも珍しい性格だな。ともかく手をつけるにあたって、依頼人の近くによかれ悪《あ》しかれ、一風変わった人物がいるとわかったのは、まあありがたいよ。ちょっとおもしろくなって来たな。君さえよけりゃ、さっそくウォーキングへ出かけて、いまいましい事件にひっかかった外交官と、この手紙を書き取ったご婦人に会ってみようじゃないか」
ウォータルー駅発の早朝の汽車に間に合えたのは幸運だった。そして一時間たらずで、われわれは、ウォーキングの樅《もみ》の林や野原を歩いていた。ブライヤブレー邸は、あたりに広い土地をもち、駅から二、三分のところにある一軒家だった。案内を乞うと、われわれは、優雅に装飾された居間に通された。しばらくすると、やや太った男が現われて、愛想よく応対した。その男の年齢は三十代というより、もう四十に近いといったほうがよいくらいだが、なかなか血色がよく、目つきも、うきうきして、まだ、太りすぎた腕白小僧みたいな感じを与えるのだった。
「ようこそおいで下さいました」彼は歓待の気持もあふれるばかりに握手をかわし、「朝から、あなたがたのことをきいてばかりいました。かわいそうに、藁《わら》にでもすがりたいのでしょう。彼の両親が私に、代わってお目にかかるようにと申しますので……ともかく、今度のことは、ただもう口にするのさえ苦しいらしいんです」
「まだ詳しいことは承っておりませんが」とホームズは言った。「お見受けしたところ、あなたはこちらのかたではありませんね」
その男は驚いたようだったが、ちょっと下をむいて、今度は笑いはじめた。
「はあ、私のロケットにJ・Hというイニシァルが書いてあるのをご覧になったんですね」という。「何かの魔術でもお使いになったのかと、と驚きましたよ……私はジョウゼフ・ハリスンと申します。妹のアニーがパーシーと婚約しておりますので、少なくともこれからは姻戚《いんせき》になるわけです。妹は彼の部屋にいるはずです。このふた月というものはまったく、つきっきりなんですよ。さっそく会ってやって下さい。パーシーはあなたがたを待ちわびているんですよ」
われわれが通された部屋は、居間と同じ階にあった。居間と寝室が兼用になっていて、隅々には花が美しくいけられていた。顔色の悪い、やつれた青年があけられた窓のそばのソファに横たわっている。窓から庭園の豊かな香りとさわやかな初夏のそよ風が入ってくる。われわれが入っていくと、パーシーのそばにすわっていた婦人は立ち上がって、「あたし、あちらに行っていましょうか、パーシー?」
青年はその手をとって引き止めた。「やあ、ワトスン君」その言葉は本当にうれしそうだった。「口ひげをのばしてるんで、ちょっとわかりませんよ。君だって、僕がよくわからないくらいでしょう。このかたが、あの有名なシャーロック・ホームズさんですね?」
私は簡単に紹介して、一緒に腰を下した。太った男は、もういなかったが、妹のほうは残って、病人に手を貸していた。彼女は素晴らしい美人で、ちょっと背が低くて、太り気味だが、オリーブの顔色は美しく、大きなイタリア人のような目をしていて、黒髪は豊かである。彼女の鮮やかな色彩に比べて、そばの病人の青白い顔は、いっそうやつれて見えるのだった。
「お手間をとらしては申し訳ありませんから」彼はソファから身を起こして、言った。
「これ以上、前置きなしに、事件のことを申し上げましょう。私は、幸運にめぐまれて、出世しました、ホームズさん。それが、いざ結婚という瀬戸際《せとぎわ》になって、突然、この恐ろしい不幸に見舞われて、前途の希望も破壊されようとしているのです。
もうワトスン君から、お聞き及びのことと思いますが、私は外務省につとめて、伯父のホールダースト卿の引き立てで、いち早く責任のある地位に昇進しました。その伯父が現内閣の外務大臣になってから、二、三の責任ある用務を申しつけられました。いずれもりっぱにやり遂げたので、彼は、ついに私の才腕に最も信を置くようになったのでした。
十週間ばかり前……正確に申しますと、五月の二十二日のことでしたが、伯父は、省の自分の部屋に私を呼んで、これまでの仕事ぶりをほめてくれた上、またひとつ大きな仕事があるが、これをお前にやってもらいたい、と言うのでした。
『これは』と言いながら、伯父はひきだしから巻いた灰色の公文書をとり出しました。『イギリスとイタリアとの間の秘密条約の原本なんだが、遺憾《いかん》ながら、もうこの噂が新聞にのったのだ。これ以上もれる事があってはまったく一大事だ。フランス並びにロシア大使館は、この文書の内容を知るためなら、莫大な金を出すだろう。それゆえ、これはわしのひきだしから出すべきもんじゃないんだが、是非とも写しをつくらねばならんようになったのだ。お前、役所に自分の机をもってるな?』
『はあ、もっております』
『では、この文書をもって行って、鍵をかけて置きなさい。そして他の者が帰ったあと、お前ひとり残っておれるように、取り計ってやるから、誰からも見られないように、折を見て写すがよい。写し終えたら原本と写しの両方ともひきだしに入れて鍵をかけておいて、あすの朝、じかにわしに手渡してもらいたい』
そこで、私は、その書類を受け取って……」
「ちょっとお待ち下さい」ホームズは聞いた。「そのときお二人の他に誰もいませんでしたか?」
「まったく二人きりでした」
「大きな部屋でしょう?」
「三十フィート四方です」
「その中央で?」
「ええ、真ん中あたりでした」
「しかも低い声で?」
「伯父の声は大体、とても低いんです。私のほうはほとんど何も言いませんでした」
「いや、どうも」目を閉じて、ホームズは言った。「どうぞ続けて下さい」
「私は伯父の指示どおりに、他の書記たちが帰るまで待っていました。その中で、チャールス・ゴローという男が残りの仕事があって居残りしていました。それで私は食事をしに外へ出ました。私が帰ったときには、もう彼はいませんでした。私は仕事を急いでいました。というのが、あのジョウゼフ、あなたがたが今お会いになったハリスンさんがやはりロンドンに来ていて、十一時の汽車でウォーキングに帰る予定だというので、できれば私もそれに乗りたいと思っていたのです。
さて、問題の文書に目を通しますと、これは非常に重要なもので、伯父の言葉もあながち誇張ではないことがわかりました。詳しいことは抜きにして、ともかくそれは、三国協定〔一八八二年、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国間で結ばれた協定〕に対する大英帝国の立場を決定するものなのです。もし万一、地中海において、フランス海軍がイタリアを圧して、その制海権を握るような場合に、わがイギリスの取るべき態度を予告するものでした。この文書では、問題は純粋に海軍だけに限られています。最後には、さる高官の署名がちゃんとしてありました。ひととおり目を通してから、筆写の仕事にかかりました。
全文二十六カ条のなかなか長いもので、しかもフランス語で書かれていました。できるだけ急いだのですが、九条終えたときには、もう九時になっており、とてもあの汽車には乗れそうに思えません。食事を先にしたのと、まる一日の仕事の疲れから、眠くもあり、だるいような気がしました。コーヒーでも飲んだらすっきりするかも知れない。小使いは終夜、階段の下の部屋にいて、居残りをする人のために、アルコール・ランプでコーヒーを沸かしてくれることになっています。私はベルを鳴らして、小使いを呼びました。
驚いたことに、ベルを聞いて上がって来たのは女でした。大柄な、下品な顔つきの年とった女で、エプロンをしていました。小使いの妻で、雑役をやっている、というので、私はその女にコーヒーを頼みました。
それから、あと二条写しましたが、前にもまして眠気がして来たので、椅子を立って部屋を歩き回り、足の運動をしました。コーヒーはまだ来ません。なんでこんなに遅いんだろうと不審に思い、見てこようと、ドアを開けて、廊下に出ました。私が仕事をしていた部屋から、まっすぐに薄暗い灯のついた廊下があり、それが唯一の出入口なのです。それから曲がった階段になり、降り切った所に小使室があります。その階段の中ほどに小さな踊り場があり、右手に、もうひとつの廊下があります。この廊下はすぐに階段となり、使用人用の裏口に通じるのですが、また、チャールズ街からやってくる役人たちの近道にもなります。これがその略図です」
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「どうも。お話しはよくわかります」ホームズが言った。
「ここが、最も大切なところですから、十分ご注意ねがいます。階段を降りて廊下に来ますと、小使いは部屋でぐっすり眠り込んでいるんです。アルコール・ランプにかけた薬罐《やかん》はぐらぐら煮えたって、湯が床の上にふきこぼれているのも気づかないようすです。手をかけて、揺り起こしても、まだ眠りこけています。そのときです、小使いの頭の上でベルが激しく鳴りました。小使いはびっくりして目をさましました。
『フェルプスさんですか!』彼は私の顔を見つめたまま、まったく当惑したようすです。
『コーヒーができたかどうか見に来たんだよ』
『薬罐をかけたまま眠り込んでしまいまして、はい……』彼は私の顔を見て、それからまだ振動しているベルに目を移すと、その顔色はいよいよ驚きの色をあらわしてきました。
『あなた様はここにいらっしゃるのに、じゃ、誰があのベルをお鳴らしになったんで……?』と聞きました。
『ベルだって? いったい、何のベルだね?』
『あなた様がお仕事をなさってらした部屋のベルで……』
私は、冷たい手を、心臓にぴたりとあてられたような気がしました。では、あの貴重な文書が机の上に置いてあるあの部屋に誰かがいる。私は気違いのように階段をかけ上がり、廊下を走りました。廊下には誰もいませんでした、ホームズさん。部屋の中にも、いませんでした。部屋を出るときと、何も変わっていませんでしたが、ただ私に託された文書だけが、もとの場所から、姿を消しておりました。写しはそのまま、ただ原本はどこにもありません」
ホームズは居ずまいを正し、手をこすり合わせた。この事件がまったくお気に召したらしいようすである。
「で、それからどうなさいました?」ホームズはつぶやいた。
「その瞬間、泥棒は裏口から、階段を上がって来たのだと思いました。もちろん、ほかの口から入ったのなら、私に出くわしているはずです」
「そいつは、ずっと部屋に隠れていたとか、または、あなたがおっしゃった薄暗い廊下に潜《ひそ》んいたというようなことはないと確信なさるんですね」
「絶対にあり得ません。部屋にも廊下にも、鼠《ねずみ》だって隠れる所などありません。遮蔽物《しゃへいぶつ》がまったくないのです」
「いや、どうも、どうぞお先を」
「小使いは、私の顔色が青ざめたのを見て、何かおそろしいことが起きたのだと感じて、二階まで私について、駆け上がって来ました。それからわれわれは廊下を走りチャールズ街に出る急な階段を駆け降りました。出口のドアはしまっていましたが、鍵が下してありません。それを押しあけて、通りへ飛び出しました。そのとき、近くの教会の鐘が三つ鳴ったのを、はっきり覚えています。十時十五分前だったのです」
「そいつぁ、とても大切なことです」と言って、ホームズはシャツのカフスに何やら書きとめた。
「その晩はたいへん暗くて、細かい、暖かい雨が降っていました。チャールズ街には、人影ひとつありませんでしたが、ずっと向こうのホワイトホール街は、いつものようににぎやかでした。帽子もかぶってはいませんでしたが、われわれが鋪道を駆けて行くと、ずっと向うに、巡査が立っているのが見えました。
『泥棒が入った!』私はあえぎながら言いました。『とても貴重な書類が、外務省から盗まれたんです、誰かこの道を通りませんでしたか?』
『かれこれ十五分もここに立っていますが』巡査は言いました。『その間、たったひとり通っただけです。年とった女です、ペイズリ織りのショールを掛けていましたよ』
『ああ、そりゃ、わしの家内ですよ』小使いは大きな声を出した。『ほかに誰も通りませんでしたか?』
『ええ、誰も通りません』
『じゃ、泥棒はあっちへ逃げたに違いありませんよ』小使いは私の袖をひっぱりました。
しかし、私は合点《がてん》が行きません。しかも、袖をひっぱったりなんかするので、ますますあやしくなって来ました。
『で、その女はどっちに行きましたか?』私も大声になりました。
『さあ、わかりませんね。通ったのは見たんですが、何も特別に注意する理由もありませんので。しかし急いでたようですよ』
『どのくらい、前です?』
『そう、それほど前じゃありませんなあ』
『五分以内?』
『そう、五分とはたたないでしょう』
『時間が無駄です。今は一刻の猶予《ゆうよ》もなりません』小使いはせき立てました。『どうかわしの言うことを信じて下さい。うちの家内に限って、このことには、何も関係はありません。それより、反対のほうへ行って見ましょう、おいやなら、私が行きます』そういって、反対のほうへ駆け出しました。
私も、すぐ追いかけて、彼の袖をつかまえました。
『君、どこに住んでるんだい?』
『ブリクストン区のアイヴイ・レイン十六番地です』と答えました。『でも勘ちがいなすっちゃいけません、フェルプスさん。さあ、あっちの通りへ出て見ましょう、何か聞き出せるかも知れませんから』
小使いの意見に従ったところで、徒労にはなるまい。巡査も一緒になって、私たちは走りましたが、街は雑踏しておりました。人波は動いていましたが、それもこの雨の夜に、少しでもぬれないようにと、夢中になっているので、どんな人間が通ったかと、それをながめているような、のんきな散歩者などいるはずがありません。
それで、われわれはいったん役所に引き上げて、階段や廊下を探しましたが、無駄でした。事務所の前の廊下には、クリーム色のリノリュームが敷いてありますから、足跡があれば、すぐわかるのですが、よくよく調べて見ても、足跡らしいものは見つかりませんでした」
「その晩はずっと雨が降っていたのでしょう?」
「七時ころからずっとです」
「じゃあ、その女は九時ころ、部屋に上がって来たのに、泥靴のあとが残ってないのはどういうわけでしょう?」
「さすがは、いいところにお気づきですね、実は私もそのとき考えたのです。雑役の女たちは、小使い室で靴をぬいで、布スリッパをはくことになっているのです」
「それではっきりしました。だから、その夜、雨が降ってても、足跡は残らなかったわけですね。こうした事件の連鎖は、たしかに、特別の面白味がありますなあ。で、それから?」
「事務所の中も調べて見ましたが、隠し扉などあろうはずはなく、また窓も地上から三十フィートもあるんです。その窓ふたつとも、内から戸締りがしてありました。絨毯《じゅうたん》が敷きつめてあって、落し戸などの気づかいはなし、天井は普通の白亜ぬりです。ですから、書類を盗んだ奴は、あのドアから入って来たんだと、命にかけても証明します」
「壁炉のあたりはどうです?」
「そんなものはないんです、でも、ストーブはあります。それからベルの紐は、私の机の右手に上の針金から下っています。だから、鳴らした奴は、まっすぐ机の所にやって来て、やったに違いありません。でも泥棒が何でまたベルなんか鳴らしたのか、これはいくら考えてもわからない謎なんです」
「たしかに、この事件は一風変わってますな。で、次の処置は? この闖入者《ちんにゅうしゃ》が何か残して行きはしなかったか、部屋をお調べになったのでしょう?……たとえば葉巻のしっぽとか手袋の片方とか、ヘヤピンとか、こういったもの?」
「そうしたものは、何もありませんでした」
「何か匂いは残ってなかったですか?」
「はあ、そこまで気がつきませんでした」
「煙草の匂いなんか、犯人をかぎつけるときに大いに役立つんですがね」
「僕自身、煙草はやりませんので、もし煙草の匂いが残っておれば、気づいたと思うんです。ともかく、手掛りになるようなものは、何ひとつ残っていませんでした。ただ、はっきりしているのは、小使いの細君、タンゲイ夫人というんですが、これが急いで帰ったということだけです。小使いにきいても、いつも帰ってゆく時間だと言うだけで、それ以上、なにも言いません。それで巡査と僕は、まず、あの女が書類をもっているものと仮定して、それを処分してしまう前に、捕えたがよかろうということに相談がまとまりました。
そうするうちに、この報告《しらせ》は、警視庁にとどいて、刑事のフォーブス氏というのが駆けつけて来て、大馬力で捜査に当りました。われわれは辻馬車をやとって、三十分のうちに、小使いの家にかけつけたのです。タンゲイ家の長女というのが出て来て、母はまだ帰りません、といいます。われわれは正面の部屋に通されて、帰りを待つことにしました。
十分もすると、ドアをノックする音がしました。ここで、私たちはたいへんなへまを、やってしまったのです。それは私の責任なんです。自分たちがやればよかったのに、娘に戸を開けさせたのです。
『お母さん、男のひとがふたり、家に来て、お母さんが帰るのを待ってるのよ』という娘の声がしたかと思うと、ぱたぱたと廊下を走ってゆく足音をきいたんです。フォーブス刑事は、ドアを押しあけ、ふたりとも、表のほうの部屋、つまり台所へかけ込みましたが、女のほうが先にとびこんでいました。女は喧嘩腰《けんかごし》でわれわれをにらんでいましたが、ふと私を認めると、全く意外な、という顔をして、
『まあ! お役所のフェルプスさんじゃございませんか!』と叫びました。
『おいおい、いったい誰だと思って、こんな所に逃げて来たんだい?』刑事は、詰め寄りました。
『差し押えに来た人たちかと思ったんでございます。ちょっと商人とごたごたを起こしましたもんで』
『そんなことは理由にならん』刑事は答えます。
『お前が外務省から重要書類を盗み出したことの証拠はちゃんとあがっとるんだ。それを始末するために、ここに飛び込んだんだろう。取調べのため、本署まで連行する』
抗議しても、反抗しても無駄でした。馬車が呼ばれて、三人は乗り込み警視庁へ引き上げました。はじめに台所、とくに彼女が飛び込んで来てすぐに、書類を焼き捨てはしなかったかと、焚《た》き口はよく調べましたが、灰も紙くずもありませんでした。
警視庁に着くとすぐに、女は婦人調査官に渡されました。そこでどうなることかと、はらはらしながら調査官の報告があるのを待っていましたが、ついに書類は出て来ませんでした。
そのとき、はじめて、自分の立場のおそろしさを、ひしひしと感じたのです。それまで飛び回っていたので、あまり深く考えなかったのです。すぐに取り戻せると信じ切っていましたから、もし出てこなかったら、どうなるだろうなんて、考えもしなかったのです。しかし、もう、できるだけのことはしてみました。そして自分の立場を、はっきりと自覚する時間ができたわけです。身の毛もよだつ思いです。ワトスン君に、お話ししましたが、私は、学校では、感じやすい神経質な子だったんです。そして、今でもそうなんです。私の伯父や、その他、閣僚のことを思い、さらに、あの方たちに及ぼした恥辱、それから、私自身、私の関係している人たちに及ぼした不名誉のことを考えると……、私がこのとんでもない事件の犠牲者となることなど物の数ではありません。外交上の利益を危機に瀕《ひん》せしめた以上、どんな酌量《しゃくりょう》も許されません。破滅です。恥辱と絶望に満ちた身の破滅です。
それからは何をしたか、さっぱり覚えていません。定めし大騒ぎをしたんだろうと思います。仲間たちが私の回りに集まって来て、なだめすかしてくれたのを、ぼんやり覚えています。ひとりは、ウォータルー駅までつき添ってくれ、ウォーキング行きの汽車を見送ってくれました。この近くに住む、フェリア博士が、ちょうどその汽車に乗り合わせていなかったなら、きっと、その男は私をここまで送りとどけるつもりだったのでしょう。フェリア先生はよく面倒を見て下さって、それで助かったようなもんです。何しろ、駅では発作を起こし、家に帰りつくまで、まるで気違い沙汰だったんですから。
フェリア先生のベルで、家の者が目を覚まして、私のこんな有様を見たときの騒ぎをご想像下さい。このアニーと母は、悲嘆にくれておりました。フェリア先生は駅で、刑事からことの次第をきいておりましたので、あらましは説明してくれたのですが、何の慰めにもなりませんでした。家のものは、私が寝込んでしまい、回復はながびくものと思い、ジョウゼフをこの気持のいい寝室から追い出して、そのあとに私を入れてくれました。ホームズさん、寝込んでから、かれこれ九週間以上になります、意識がなく脳炎にうなされどおしでした。このアニーや、先生の手厚い看護がなかったら、こうして、あなたがたにお話しすることもできなかったでしょう。昼のあいだは、アニーがついていてくれますし、夜は看護婦がみてくれます。でないと、気違いじみた発作を起こして、何をしでかすかわからないんです。徐々に意識ははっきりして来ましたが、記憶がはっきりしだしたのは、この二、三日なんです。記憶なんか回復しないほうがよかったとさえ思うことがあります。
まず最初に、事件担当のフォーブズ刑事に電報を打ちました。彼はここまでやって来てくれ、でき得る限り手はつくしたが、何の手がかりも見つからないといいます。あの小使いと細君は、あらゆる角度から調べられたが、何も明るみに出なかったとのことです。
それから警察はあの若いゴロー、さっきお話しした居残りの男です、この男に嫌疑をかけました。残業とフランス系の名前、この二つだけが嫌疑のかかる点なのですが、しかし、事実彼が帰るまで、私は仕事を始めておりませんし、家系も、ユグノー教徒の血統だというだけで、気持も習慣も、われわれと同じように、全くイギリス人なのです。とにかく彼は全く無関係なことがわかり、捜査はひとまず挫折《ざせつ》したかたちになりました。ホームズさん、もはや、全く最後の頼みの綱として、あなたにおすがりしたいのです。もしあなたから見すてられたら、私は、名誉も地位も、永久に失ってしまうのです」
病人は、長い話に疲れて、ぐったりとクッションの上に倒れた。付添いのアニーは気つけ薬を一杯彼に飲ませた。ホームズは、頭を仰向けて口を閉じ、だまってすわっていた。この態度は、知らぬ人には、まるで無関心なように見えるが、しかしこれこそ、彼が全く余念もなく専心しているのだということが私にはよくわかるのだった。
「あなたのお話しはきわめて明確です」やっとホームズは話しはじめた。
「お聞きすることはほとんどないのですが、ただひとつきわめて大切なことがあります。で、あなたは重要な仕事をしなければならんと誰かにお話しになりましたか?」
「いいえ、誰にも」
「たとえば、このハリスン嬢にも?」
「もちろんですとも。命令を受けてやっている間、ずっとウォーキングには帰って来ていません」
「その間、偶然、知人に会うといったような事もありませんでしたか?」
「ありません」
「そういう人たちで役所のことをよく知ってらっしゃるかたがありますか?」
「ええ、みんなに案内して見せたことがあります」
「この条約文のことを誰にもお話しにならなかったのなら、もちろんこの質問は見当違いということになりますね」
「ほんとに何も言いませんでした」
「小使いについて、何かご存じのことはありませんか?」
「さあ、べつに……ただ昔軍人だったということだけで」
「何連隊です?」
「近衛《このえ》コールドストリーム連隊だとか聞きましたが」
「ありがとう。詳しいことはフォーブズから聞き出せると思います。警察なんて、資料を集めるのはとてもうまいんですが、いつもそれを使いこなせないんですからね。……ばらの花って、きれいなもんですね」
彼は寝椅子のそばを通り抜けて、あけられた窓のところへ歩いて行き、緑と深紅の織りなす庭を見おろしながら、[こけばら]の垂れた茎《くき》に手をやった。これは彼の性格から見て、新しい一面だった。彼が自然の風物に対して、鋭い関心を寄せたのを、私は今まで見たことがなかったのである。
「宗教ほど推理を必要とするものはありません」鐙戸《よろいど》に背をもたせて彼はいった。「宗教は推理家によって、精密科学にまでまとめ上げられます。神のめぐみの最高の保証は、花のなかにあると、私は思う。その他すべてのもの、われわれの力も、欲望も、食物も、われわれの生存のためには、まず第一に必要なものだけれども、このばらだけは余分なものです。その色と香は人生の飾りであり、その条件にはならないのです。その余分なものを与えるのが、[めぐみ]であり、だから重ねていうならば、われわれはもっと多くの希望を花から得たいものです」
パーシー・フェルプスと付添いのアニーは、ホームズが奇妙な論理をふり回すのを見ていたが、その顔には、驚きと深い失望の色が浮かんでいた。なおもホームズはばらを指にはさんだまま、瞑想《めいそう》にふけっていた。
それも二、三分だった。突然アニーが口を出した。
「ホームズさん、あなたには、この事件の謎をとく見込みがおありになるんですの?」と、やや邪険《じゃけん》な口ぶりで言った。
「ああ、事件の謎ねえ!」
はっとして現実の問題にかえり、彼は答えた。「まあ、この事件は難解で、厄介なものでないとはいえませんが、ともかく、よく調査しました上で、発見したことをお知らせするつもりです」
「なにか手掛りはありましたの?」
「お話しのなかに七つばかりありましたが、しかしよく調べた上でなければ、その価値について意見を申し上げることはできないのです」
「誰かを疑ってらっしゃいますの?」
「僕自身を……」
「何ですって?」
「いや、あまり早く結論に達したことですがね」
「ではロンドンへお帰りになって、結論をお確かめになって下さい」
「ごもっともなご注意です。ハリスンさん」
ホームズは立ち上がりながら言った。「ワトスン君、もうこれ以上することはないと思うよ。フェルプスさんも見当違いの期待をなすっちゃいけませんよ。この事件はとても複雑ですからね」
「こんどお出でになるまでに、また寝込むかも知れません」外交官は哀れな声でいった。
「なあに、またあした、同じ汽車でやって来ますよ。といって、どういう報告ができるか、あまり芳《かん》ばしくないものらしいんですがね」
「お約束下さって、有難うございます。とにかく、何か捜査が進んでいることだけで、生き返るような気持です。ところで、ホールダースト卿から手紙が来ましたよ」
「へえ、何といって来ました?」
「冷淡ですが、苛酷《かこく》ではありません。それも、僕の病気がひどいんで、遠慮したんでしょう。とにかく、事態ははなはだ重大であると繰り返し、僕が健康を回復し、この不祥事の償いをしない限り、僕の将来については何も面倒を見てやれない、といって来ました。その、つまり、僕の罷免《ひめん》のことですね」
「そうでしょう。それはもののわかった、思いやりのある言葉ですよ」ホームズが言った。「さあ、ワトスン君、ロンドンにはたっぷり一日分の仕事が待ってるよ」
ジョウゼフ・ハリスン氏が馬車で駅まで送って来てくれ、われわれはポーツマス線の列車に乗り込んだ。ホームズは瞑想にふけって、黙り込んでいたが、クラパム連絡駅をすぎるころになると、やっとしゃべりはじめた。
「こうして高架線でやって来て、家々を見おろすと、ロンドンもまた楽しいもんだね」
冗談いってるんだろうと思った。全く汚ならしいながめなんだから。しかし、彼はすぐ説明しはじめるのだった。
「ほら、屋根屋根の上にそびえているひとかたまりの大きなビルを見てみろよ。鉛の海に浮かんだ煉瓦の島みたいじゃないか」
「小学校だよ」
「灯台だ。未来を照らす灯台だ。あれは、つやつやした小さい種を包んだ莢《さや》だよ。あのなかから、より賢き、よりよきイギリスの未来がとび出してくるんだ。ところで、フェルプス君だが、ありゃ酒はやらんね」
「そうだろうね」
「そうだと思うなあ。しかし、われわれはあらゆる可能性を考慮に入れる必要がある。かわいそうに、あの男は苦境の淵《ふち》にはまり込んで、それをわれわれの手で岸へ助け上げられるかどうかが問題だね。で、あのハリスン嬢をどう思う?」
「なかなかのしっかり者だね」
「そう、でも根は善良なんだぜ、僕の目に狂いがなけりゃ。あの兄妹は北の方ノーサンバーランドあたりの鉄工場の子供なんだね。フェルプス君がこの冬、あっちのほうへ旅行したとき婚約して、家族に紹介するため、彼女をつれて帰ってきた。そのとき、兄も付添いで来たんだってね。それへもって今度の事件さ。妹のほうは恋人の看護のために留まるし、兄も存外居心地がいいんで居候《いそうろう》さ。ともかく、これまでは、ところどころ質問して来たが、今日は一日じゅうきいて回らなきゃなるまい」
「僕の本職のほうは……」私が言った。
「君の患者のほうが僕のやつよりおもしろいんなら……」ちょっと邪険にホームズが言った。
「いや、言おうとしたのは、今が一年のうちでも一等ひまな時節だから、一日二日は大丈夫だと……」
「そりゃいい」機嫌を直して、ホームズは言った。「じゃあ一緒に調べよう。まず手始めに、フォーブズに会うんだ。たぶん必要なことはみんな話してくれるだろう。それでどこから捜査をはじめるか、方針は立つと思うよ」
「君はさっき、手掛りがひとつあると言ったよ」
「そうさ、二、三あるさ。しかし、もっと探りを入れてみて、値打ちを確かめないとね。突き止のるのが最も厄介なのは、無目的の犯罪だよ。ところで、こいつあ無目的じゃない。この事件で得をするのは、誰だろう? フランス大使、ロシア大使、またそのいずれかに文書を売りつけようとする者、それからホールダースト卿というわけだね」
「ホールダースト卿だって?」
「そうさ、ああいった文書を、偶然らしくすてておいて、何でもないような顔をしている政治家もあるからね」
「まさか! ホールダースト卿のように名誉ある経歴をもつ政治家が、そんなことするなんて」
「いや、あり得ることだよ。そんなことだって無視するわけにはゆかないんだ。今日はその閣下に会って、話を聞いてみよう、何か聞き出せるかも知れん。ところで僕はもう捜査をはじめたよ」
「えっ! もうかい」
「そうさ、ウォーキング駅から、ロンドンじゅうの夕刊新聞に電報を打っておいたよ。この広告が、どの夕刊にも出るはずだ」
彼は手帳から紙を一枚裂きとって私に渡した。それには、鉛筆で次のように書きなぐってある。
[#ここから1字下げ]
賞金十ポンド……五月二十三日午後九時四十五分ごろ、チャールズ街外務省玄関前またはその付近にて客を下ろした馬車の番号をご記憶の方、乞通報。ベイカー街二二一B
[#ここで字下げ終わり]
「泥棒は馬車で来たと信じてるんだね?」
「そうでなくったって何も害はないさ。しかし、もし部屋にも廊下にも隠れ場所はないというフェルプス氏の言葉が正しいとすれば、賊はやはり外から入って来たということになる。あの雨の晩に外から入って来て、そのすぐあとに調べたのに、リノリュームの床に足跡らしいものは見つからないというんなら、馬車で来たとするのが最も妥当じゃないかい? そう考えても間違いじゃないと思うよ」
「一応もっともらしく聞こえるが……」
「これが、さっき僕が言った手掛りのひとつさ。これから何かわかってくるかもしれない。それから、いうまでもなく、あのベルさ。これがこの事件のなかで最もはっきりした特色だな。[何ゆえに]ベルは鳴ったか? 泥棒め、こけおどしにやったのか? それとも誰か泥棒と一緒に居合わせて、盗みをさせまいとして鳴らしたのか? あるいはまた、単なる偶然だろうか? それともまた……」
こう言いかけてホームズは、またじっと考え込んだ。しかし、彼の気分には慣れっこの私には、それが、新しい可能性にふと思いあたった証拠であるのがよくわかるのである。
終着駅ウォータルーに着いたのは三時二十分だった。構内食堂で昼食をかっ込み、われわれはロンドン警視庁へ急いだ。ホームズは前もってフォーブズ刑事に電報を打っておいたので、刑事はふたりを待ち構えていた。彼は小柄の狡猾《こうかつ》そうな男で、鋭いが、全く愛想のない顔つきをしていた。その態度はまったくよそよそしく、とくにわれわれの用向きを知ってからというものは、なおさらだった。
「ホームズさん、あなたのやり口は前から聞いていますよ」となかなか手厳しい。「あなたは警察が苦心して手に入れた資料を全部もち帰って、さて、それを使って事件を解決するんだから、たまりませんよ。おかげで、こっちの顔はつぶされるし」
「どっこい、それどころか」ホームズが応じた。「僕の扱った五十三の事件のうち、僕の名が出たのは、四度きり。あとの四十九回というものは、みな警視庁の手柄になってるんですよ。まだ、あんたは若くて慣れてないから、知らないのを責めはせんが、しかし、あんたがこの新しい仕事で成功したいんだったら、僕を敵に回さんほうが得ですよ」
「何かヒントでも下さるといいんですが……」態度を急に改めながら「この事件では、今まで男をあげるようなことは何ひとつやってないんです」
「どんな手をうちましたか?」
「小使いのタンゲイには尾行がつけてあります。彼は近衛《このえ》を除隊になったとき、りっぱな人物証明をもらってますし、何も反証があがらんのです。でも細君のほうは悪い奴らしいんです。何かもっと知っとるんじゃないかとにらんでるんですが」
「尾行は?」
「婦人警官をつけています。酒を飲むそうですよ。二度ばかり、[聞《きこ》し召し]てるときに、誘い水を入れたが、何もしゃべらなかったそうです」
「あの家に、差し押え人が出入りしてるそうですが……?」
「払いはすませたそうです」
「金はどうしたんでしょう?」
「その点、不審はないんです。ちょうど亭主の年金の受取日が来たので……もちろん、貯金なんかしてるふうはありませんがね」
「フェルプス氏がコーヒーのためにベルを鳴らしたとき、上がって行ったことについては、何といっていましたか?」
「亭主がひどく疲れていたんで、やすませてやりたいと思った、といってました」
「なるほど、ちょっとあとで、亭主が椅子の上で眠っていたのと話は合うわけですね。あの晩なぜ急いで帰ったか、そこをきいてみましたか? 急いでるのが巡査の目にとまったようでしたが」
「いつもより遅かったので、早く帰りたかったといっています」
「君とフェルプスさんは二十分もあとから出たのに、彼女より先についたことを突っ込んで聞いてみましたか?」
「乗合いと辻馬車のちがいだろうと言っています」
「家に帰るや否や、台所に駆け込んだわけをはっきり説明しましたか?」
「差し押え人に払う金がしまってあったそうです」
「何でも、一応返答は用意してますね。帰り路で誰かに会わなかったか、誰かチャールズ街をぶらぶらしているのを見かけなかったかきいてみました?」
「巡査のほかには誰も見なかったそうです」
「彼女のほうは徹底的に洗ってみたわけですね。他に何かやりましたか?」
「書記のゴローには、もう九週間ばかり尾行をつけています。しかし、何もあがりません。反証が何ひとつないんです」
「ほかには?」
「もうこれ以上、打つ手がないんです。どんな種類の証拠もありません」
「では、なぜベルが鳴ったかについて、私見をお持ちですか?」
「白状しますと、こればかりは手を焼いています。誰だか知らんが、盗みに入って、警告を発するなんて、図太い奴もいるもんです」
「そう、全く妙なことをやったもんですな。いや、いろいろとお話しありがとう。もし犯人を突き止めたら、お知らせしますよ。ワトスン君、さあ行こう」 「今度はどこへ行くんだい?」刑事室を出ながら、私がきいた。
「ホールダースト卿に面会を申し込むんだ。現内閣の一員であり、未来の総理大臣にね」
幸いにして、大臣はダウニング街の大臣室にいた。ホームズが案内を乞うと、すぐ通された。卿は、彼独特の古風な鄭重《ていちょう》さでふたりを迎えてくれ、壁炉の両側の豪華な安楽椅子をすすめるのだった。ふたりの間の敷物の上に立った彼の姿は、背はすらりと高く、輪郭のはっきりした、思慮深い顔つき、そのカールした髪は、もう白色に染まり、普通の人とは違って、いかにも本物の貴族の代表を思わせるのだった。
「ホームズさん、お名前はよく存じております」ほほえみを交えて語るのである。「そしてもちろん、あなたの用向きも存じていないとは申しません。役所で、あなたの注意をひくような事件が起こったのは、今度が始めてなのです。それで、あなたは誰のためにお調べになっておいでですか?」
「パーシー・フェルプスさんです」ホームズは答えた。
「ほんとに、甥《おい》も可哀そうです。かばってやろうにも、親類なので、かえってそれができないのです。この事件は彼の前途に、この上もない不幸の影を投げるだろうと思います」
「でも文書が見つかりましたら?」
「そうなれば、もちろん、はなしはべつでしょうが」
「大臣、おたずねしたいことが二、三あるんですが、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「私にできることなら、喜んでお答えしますよ」
「閣下が文書の筆写をお命じになったのは、この部屋だったのでしょうか?」
「そうです」
「では、盗み聞きされる心配はございませんでしょうね」
「言うまでもありません」
「写しをとるために、条約文書を取り出すご意向を誰かにおもらしになりませんでしたか?」
「いたしません」
「たしかにそう……」
「たしかにそうです」
「それでは、閣下もおもらしにならぬし、フェルプスさんもそうだといたしますと、このことは、誰にも知れていなかったわけです。すると賊があの部屋に入ったのはまったく偶然だったということになります。で、賊はそれを見つけると、もっけの幸いとばかり盗んでいったわけですね」
大臣は微笑して「そこまでくると、もうわたしの畑ではありませんよ」
ホームズはしばらく考え込んで、「これはごく大切なことですが、もうひとつ重ねておうかがいしたいと思います」と言った。「もしこの条約の細目が知れるとなりますれば、容易ならぬ事態が生ずると憂慮なさるわけですね」
大臣の表情に暗い影がさした。「まさにそのとおりです」
「もうそれが起こっておりますでしょうか?」
「まだ起こってはおりません」
「もしこの条約文が、たとえばフランスかロシアの大使館の手に渡ったとしますと、必ずその反応が現われるとお思いになりますか?」
「あると思います」ホールダースト卿は苦痛に顔をしかめた。
「あれからもう十週間も経過しておりますのに、何の反響もないというのは、何らかの理由で、まだそれが相手の手に入っていないと考える正当な裏づけとはならないでしょうか?」
卿は肩をすくめて、
「しかしホームズさん、泥棒は額《がく》に入れて飾るために、条約文を盗んだとは考えられませんよ」
「多分、値の出るのを待っているのでしょう」
「ところが、あとしばらくたつと、無価値なものになるのです。二、三か月中には、公表されるはずです」
「それはとても重要なことです」ホームズが言った。「もちろん、犯人が急病になるというようなこともあるわけですが……」
「たとえば、脳炎など?」大臣は相手に、ちらりと一瞥《いちべつ》をくれた。
「そういう意味で申し上げたんじゃございません」ホームズは動ずる色もなく、「ではお忙しいところ、貴重な時間をお邪魔いたしました。これでお暇《いとま》したいと思います」
「たとえ、犯人が何者であろうと、あなたの成功を祈ってやみません」
卿は答え、戸口で会釈をしてわれわれを送り出した。
「なかなかの人物だね」ホワイトホール街に出ると、ホームズが言った。「しかし、あれで、自分の地位をまもるために懸命なんだよ。彼は金持どころではなく、その上、いろいろと出費がかさむ。もちろん君も気づいたと思うが、彼の靴は底が打ち直してあったね。ところでワトスン君、今日はもう本職に帰ったほうがいいよ。僕も馬車の広告に返事でも来ない限り、今日はこれ以上することはない。でも、あした今朝のと同じ汽車で、ウォーキングまで一緒に行ってくれるとありがたいんだが」
そんなわけで、翌朝、彼と落ち合って、ウォーキングまで同道することになった。彼は、昨日の広告には返事がないし、事件には何も新しい筋は見つからない、と語るのだった。だいたいホームズという男は、何かあると、まるでアメリカ・インディアンみたいな無表情な顔になるので、はたして彼が、この事件の状態に満足してるのか、いないのか、その表情からは判断がつかないのである。そのとき彼は、ベルティヨンの個人鑑別法の話をしていたと思うが、なんでも、このフランスの碩学《せきがく》を盛んにほめたてていたようだ。
われわれが再度訪れた依頼人は、まだ付添人の献身的な看護をうけていたが、前日より、ずっと回復したようだった。われわれが入っていったときも、楽にソファから身を起こして挨拶した。
「何かわかりましたか?」とやっきとなって聞いた。
「私の報告といえば、やはり、あまり芳《かん》ばしいものじゃないんです」ホームズが言った。「フォーブズに会い、また伯父《おじ》上にもお目にかかりました。いまひとつふたつ、捜査のすじに手をつけていますから、順を追って進めてゆくつもりです」
「じゃあ、断念なさったわけではないんですね」
「いや決して」
「うれしいわ、そういって下さると!」アニーが叫んだ。「勇気をもって、辛抱強く続けてゆきさえすれば、きっと真相がわかると思いますわ」
「僕たちのほうからお話ししたいことが沢山あるんですよ」ソファの上にすわり直しながら、フェルプスが言った。
「何かあるだろうと期待してましたよ」
「ええ、実は昨夜また一事件ありましてね。考えてみると、重大な意味があるような気がするんです」
話しながら、彼の表情は真剣になり、目の色は恐怖めいた光を帯びてきた。
「僕は知らないうちに、おそるべき陰謀のなかにまき込まれようとしてるんだと思いはじめました。名誉はいうに及ばず、命までもねらわれているんです」
「ほう!」ホームズが言った。
「信じられないみたいです。とにかく、僕は世間に敵なんかもった覚えはありません。でも昨夜の経験からしますと、ほかに考えようがないんですよ」
「どうぞ話して下さい」
「昨夜はじめて、看護婦なしに寝ました。気分もだいぶいいんで、ひとりで寝ても大丈夫だと思ったんです。でも、夜間灯だけはつけっ放していました。たぶん、朝の二時ごろでしたか、うとうとと眠ったとき、突然コトッ、と音がして目が覚めました。鼠が板でもかじっているような音でしたから、そうだろうと思って、しばらく耳をすましていました。すると、その音はだんだん大きくなり、急に窓のあたりを刃物でやったような、カチッ、という鋭い音に僕はびっくりして起き直りました。何の音だか疑う余地はありません。はじめのコトッという音は、誰かが窓枠のすき間に何かをこじ入れた音で、あとのは、掛金を外した音です。
それから十分ばかり、物音で目を覚したかどうか、中のようすをうかがっているようで、物音ひとつしません。それからかすかに軋《きし》る音がして、窓が、すうっと開きました。ふだんと違って、神経の高ぶっているときですから、もう我慢することができません。ベッドから飛び出して、鎧戸を押し開きました。窓際にうずくまっていた男は、それとみて、まるで矢のように逃げて行きました。どんな男だったか見る暇もなかったんです。外套のようなものを着ていて、それで顔の下半分を隠していたような気がします。ただひとつ、凶器を手にしていたこと、これだけは確かです。長いナイフのようなもので、逃げ出すときに、きらり、と光ったのを、はっきりこの目で見たんです」
「そいつぁ、おもしろい話ですなあ」ホームズが言った。「で、それからどうしました?」
「元気な体だったら、その窓から飛び出して追いかけるんでしたが、何しろ、この体では仕方がありません。ベルを鳴らして、家のものを起こしました。ベルは台所についていて、召使いたちは二階に寝ているので、ちょっと暇がかかります。だから、どなり立てましたら、ジョウゼフがいちばんに起きてきて、他のものを起こしてくれました。ジョウゼフと馬丁が、窓の外の花壇に足跡を見つけ出しましたが、何しろ、近ごろの大気で乾ききっていますので、芝生の向こうまで足跡をたどることができなかったのです。しかし、道路と境になっている垣《かき》をのり越えたらしく、横木が一本折れているということです。まだ駐在所には何も知らせてありません。まず最初に、あなたのご意見を伺ってから、と思ったものですから」
フェルプスの話は、ホームズの異常な関心をかき立てたらしい。彼は興奮を抑えかねるかのごとく、椅子を立って部屋じゅうを歩き回った。
「不幸というものは、それひとつだけではやって来ないもんですね」フェルプスは苦笑しながら言った。昨夜の事件は相当こたえたらしい。
「いや、今度のやつは違うと思うんですがね」ホームズが言った。「僕と一緒に、家の回りをお歩きになれませんか?」
「ええ、少し陽《ひ》に当りたいと思いますから。ジョウゼフも一緒にくるでしょう」
「わたしもね」ハリスン嬢が言った。
「残念ですが」ホームズは頭をふって、「あなたには、そのまますわっていてもらいたいんです」
彼女は不満の態《てい》で、椅子に腰掛けていた。兄のほうは一緒について来た。われわれ四人は芝生を回って、この若い外交官の部屋の窓のところまで歩いて来た。そこの花壇には、話の通り足跡らしいものがあったが、残念ながら消えかかっていて、はっきりしないのである。ホームズはかがみ込んで見つめていたが、やがて腰をのばし、今度は肩をすくめた。
「これじゃ誰が見たって役に立ちませんな」と言った。「家をひと回りして、泥棒がなぜこの窓に目をつけたのか、そいつを調べてみましょう。客間や台所の大きな窓のほうが、ずっと目につきやすいはずですがね」
「あっちのほうが道路からよく見えますからね」ジョウゼフ・ハリスンが言った。
「なるほどそうですね。ここに泥棒が入りそうな扉がありますね。これは何の扉です?」
「勝手口です。もちろん夜には鍵をかけます」
「こういう騒ぎが以前にあったことがありますか?」
「ありません」フェルプスが言った。
「この家には、泥棒にねらわれるような金銀の食器とか、そういったものがありますか?」
「値打ちのあるものなんかないんですよ」
ホームズはポケットに手を入れて、家の回りをぶらぶら歩き回った。あまり見慣れない、無頓着な恰好である。
「ところで」とジョウゼフ・ハリスンに向かって「泥棒が垣を折った場所を見つけられたという話でしたが、ちょっと見せてくれませんか?」
垣のうえの横木が折れている場所へ彼は案内した。横木の頭のほうが折れてぶら下っている。ホームズは、それをむしり取ってしらべた。
「こいつあ、ゆうべ折れたんじゃないですね。折れ口が古いようです。そうじゃありませんか?」
「はあ、そうですねえ……」
「それに向こう側へ飛び下りた形跡もないようです。まあ、でも、これはたいして役に立ちそうにありません。寝室へ帰って、よく話し合いましょう」
パーシー・フェルプスは未来の義兄の腕によりかかって、ゆっくりと歩いてきた。ホームズは足早に芝生をつっ切って、私と共に、あとのふたりよりずっと早く寝室のあけ放った窓の外に立った。
「ハリスンさん」彼はまったく緊張しきったようすで部屋の中へ話しかけた。「あなたは一日じゅう、そこにじっとしていて下さい。どんなことがあっても、部屋を出ちゃいけません。一日じゅうそこにいるんですよ」
「いいですわ、たってとおっしゃるのでしたら」彼女はびっくりして答えた。
「自分の寝室にお下りになるときは、外からドアの鍵をかけて、鍵をもっていて下さい。必ずそうすると約束して下さい」
「でもパーシーはどうなりますの?」
「われわれと一緒にロンドンへ行くはずです」
「だのに、あたしだけ、ここに残るんですの?」
「あの人のためです。彼の役に立つんです。さあ、早く! 約束して下さい!」
承知したとばかりに、彼女がうなずいたとき、ちょうどあとの二人が歩いて来た。
「アニー、そんな所にすわってばかりいないで、日なたに出て来たらどうだい?」と、兄が叫んだ。
「いいえ、いいんですの、頭が痛いので、この部屋のほうが、涼しくて気持がいいわ」
「さて、次は何をしますか、ホームズさん?」フェルプスが言った。
「そうですね、小さい事ばかりに気をとられていると、問題の本筋を見失う恐れがあります。もしわれわれと一緒に、ロンドンまで来て下さると、はなはだたすかるんですがね」
「今すぐに?」
「そう、都合のつく限り、早いほうがいいんです。あと一時間くらいで、どうです?」
「だいぶ丈夫になりましたから、ほんとにお役に立つんでしたら」
「ええ、それは確かですよ」
「では、今晩は、あちらに泊ることになるんでしょう?」
「そうお願いしようかと思ってました」
「ゆうべのお客さん、今晩もやって来て、鴨《かも》がいないんでさぞがっかりすることでしょうね。ホームズさん、すべてあなたにおまかせしておりますから、なさりたいことは遠慮なくおっしゃって下さい。で、ジョウゼフも私の付き添いとして、一緒に来てもらったほうがいいでしょうね?」
「いや、いや、ワトスン君は医者ですから、あなたを見てくれると思います。ご迷惑でしょうが、こちらで昼食をいただいて、それからロンドンへ出かけることにしましょう」
すべてはホームズの思い通りに運んだ。ハリスン嬢は、ホームズの指示どおり、寝室から出たくないと言いわけしていた。だが、なぜ彼がこのような策を弄《ろう》するのか、私にはわからなかった。フェルプスから、この婦人を引き離そうというわけでもあるまいし。一方フェルプスは、元気になり、捜査にも加われるというので、いかにもうれしそうに、われわれと食事を共にするのだった。
ところがホームズは、またまたわれわれをびっくりさせたのである。つまり、駅までやって来て、二人を車内に送り込むと、自分だけはここに留まると、平気な顔をしていうのだった。
「ここを離れるまえに、二、三はっきりしておきたいこともあるので」と彼は言った。「それにはフェルプスさん、あなたがいないのが大いに役立つんです。ワトスン君、ロンドンに着いたら、お手数だが、このかたをベイカー街までお連れして、僕が帰るまで一緒にいてやってくれたまえ。君たちが古い学友なのは好都合だ。話もたんとあることだろうし、フェルプスさんには、もうひとつの寝台を用意してやってくれ。朝八時にウォータルー着という汽車があるから、朝食には間に合うと思うよ」
「でも、ロンドンでの捜査はどうなるんです?」あわれな声で、フェルプスが言った。
「あすという日がありますよ。それより、今日はこちらにもっと大切な仕事があるんです」
「じゃあ、あすの晩には帰るつもりだと、ブライアブレーのものにお伝え下さい」汽車がプラットホームを離れ出すと、フェルプスが言った。
「ブライアブレーには行かないと思いますよ」と答えて、ホームズは駅を離れてゆくふたりに向って、さも楽しそうに手を振るのだった。
途中フェルプスと私は、彼のおかしな行動についていろいろと話し合ったが、この新しい事態について、何ら満足な解答を出すことはできなかった。
「ゆうべの奴をただの泥棒だと見て、何かその手掛りになるものを捜し出そうとしてるんだと思いますが、しかし、僕にはただの泥棒だとは思えませんがね」
「じゃあ何だというんです?」
「きっと、君は僕の神経過敏のせいにするかもしれませんが、僕の周囲には、ある根強い政治的陰謀が企てられ、僕の頭ではよく理由はわからないが、ともかく、それで僕の命がねらわれたんだと思うんです。こういえば、被害妄想《ひがいもうそう》みたいに聞えるかもしれないが、しかし、事実を考えてごらんなさい! 目ぼしいものなどありそうにない寝室に、なぜ押し入ろうとしたんです? しかもなぜ、長いナイフなんか持ってたんです?」
「それは家に押し入るときに使う、[鉄《かな》てこ]じゃなかったんですか?」
「いや、違いますよ! ナイフでした。僕ははっきりこの目で、刃物がきらり、とするのを見たんです」
「しかし、何の恨みで、つけねらわれたりなんかするんです?」
「そこですよ。それがわかればねえ……」
「もし、ホームズも同じ意見なら、それで彼の行動の説明はつくわけですね。君の意見が正しいとして、もし彼が、昨晩君を襲った男を捕まえたならば、もう海軍条約を盗んだ奴をつかまえたようなもんですよ。君が泥棒と刺客のふたりにねらわれたなんて考えるのは、馬鹿げてますよ」
「しかしホームズさんは、ブライアブレーには行かないと言ってましたよ」
「彼ともずいぶん長いつきあいですが」私は言った。「どんなことをするにも、何かはっきりした目的がなけりゃ動く男じゃないことを、よく知ってますよ」
それからわれわれの話はほかのことに外れていった。
しかし、私にとっては憂鬱《ゆううつ》な半日だった。フェルプスは長い病気からまだ完全に回復してはいないし、しかも今度の不幸で、まったく愚痴っぽく、気むずかしかった。アフガニスタンの話、インドネシア問題、あるいは社会問題と、彼の気を外《そ》らすために、いろいろ持ち出してみたが、いつまでもくよくよ条約文のことばかり気にして、どうにもならなかった。またしても、紛失した文書に話は舞いもどって、ホームズは何をしてるんだろう、ホールダースト卿はどうするかな、あすはどんな報告が聞けるんだろうと、気をもんだり、臆測したり、まったく手のつけようがなかった。
夜のふけるにつれて、彼の興奮は、見るも痛ましいものであった。
「君はホームズさんを絶対に信頼してる?」
「お手並あざやかなところを、たびたび見せつけられましたからね」
「でも、今度のように、わけのわからぬものを解決したことはないんでしょう?」
「それどころか、もっと手掛りのないものを、さばきましたよ」
「しかし、これほど重大な利害関係が危機に瀕《ひん》したというようなものはなかったでしょう?」
「僕としては何とも言えませんが、ヨーロッパに君臨する三王室の安否にかかわる重大事を、見事にさばいたのを覚えていますよ」
「ワトスン君、君はあの人をよく知っているからいいが、僕には謎のような人物で、さて何と考えたらいいのか、さっぱりわかりませんよ。あの人は、今度の事件には、希望をもってるんでしょうか。勝算があると思いますか?」
「何ともいいませんでしたが」
「じゃあ、うまくいってないしるしですよ」
「ところが反対なんですよ。手掛りがないときは、ない、とはっきり言うんです。何かかぎつけて、いちおう間違っていないとわかっていても、十分確信できないようなとき、それですよ、黙り込んで何も言わないのは。ところでフェルプスさん、ここでいくらやきもきしても、無駄です。お願いだから、もう寝たらどうです? あすは新しい気持で、やってくるものを迎えようじゃありませんか?」
やっとのことで、床につかせはしたが、何しろあの興奮状態では、とても眠れはすまいと、わかっていた。事実、彼の憂欝は、私にも伝染したらしく、夜半すぎまで、いくども寝返りをうってはこの奇怪な事件を考え、数知れず推論を出してみるのだが、いずれも、ありそうにもないことに思われるのだった。
ホームズはなぜウォーキングに留まったんだろう? なぜアニーさんに、一日じゅう寝室にいるように頼んだんだろう? なんでまた、あれほど周到に、自分がウォーキングに残ることを、ブライアブレーの人たちに知らせまいとしたんだろう? 私はあれこれと、ない知恵をしぼったが、これらの事実のすべてを説明する名答も出ないうちに眠り込んでしまった。
目を覚ましたら七時だった。すぐフェルプスの部屋へ行ってみると、ほとんど眠れなかったらしく、やつれた顔をしていた。私の顔を見るなり、ホームズは帰ったか、と聞くのだった。
「約束した時刻には帰って来ますよ。きっかりその時間にね」私は言った。
私の言葉に違いはなかった。八時を少し過ぎると、二輪馬車がドアの外に止って、中からホームズが出て来た。窓際に立って二人が見ていると、彼は左手に白い包帯を巻いて、青ざめた、しかめっ面をしていた。家に入って来たのに、二階へ来るまで、ちょっと暇がかかった。
「やられて来たようですね」
ホームズの格好を見て、フェルプスの言葉に私もあえて反対できなかった。「結局、手掛りはロンドンにあるということになったんでしょう」
フェルプスはうめき声を出した。「どうだか、僕にはわかりませんが、僕はホームズさんの帰りに、あまり期待をかけすぎていたようです。でも、昨日は包帯なんかしてなかったのに、何かあったんでしょうか?」と言った。
「怪我《けが》したんじゃないかい? ホームズ君」部屋に入って来たのを見て、私は聞いた。
「いや、ほんのかすり傷さ、ちょっとへまをやったんでね」おはようの会釈をして、ホームズが言った。「フェルプスさん、今度のやつは、わたしの手がけた事件のうちでも有数の難事件ですね」
「手に負えない、とおっしゃるんじゃないかと、びくびくしてるんです」
「まったくえらい経験でしたよ」
「手の包帯がそれを物語ってるよ」と私が言った。「何かあったんだろう、話してくれよ」
「ワトスン君、それは食事が済んでからにしてもらいたいね。とにかく今朝は、サレーの新鮮な空気を三十マイルも吸って来たんだからね。馬車の広告には返事はなかったろうね、いや、そういうもんだよ。いつもうまくゆくとは限らんからね」
食卓の用意はできていた。私がベルを鳴らそうとしたところへ、ハドスン夫人がお茶とコーヒーを持って入って来た。しばらくして、三人分の膳立てがされたので、われわれはテーブルについた。ホームズは、ガツガツしてるし、私は好奇心をそそられ、フェルプスは意気消沈《いきしょうちん》の態《てい》であった。
「ハドスン夫人は間に合わせの料理がうまいからね」ホームズはチキンカレーのふたを取りながら言った。「料理の数は限られているが、スコットランドの女のように、朝食にはなかなか趣向をこらすんでねえ。ワトスン君は何だい?」
「ハムエッグスだね」
「それはいいね、あなたは何を食べます? フェルプスさん、チキン・カレーですか? 卵ですか? それとも自分でおとりになりますか?」
「ありがとう、何も欲しくないんです」
「さあ、そのお皿のものだけでも」
「ありがとう、ほんとに食べたくないんです」
「そうですか」ホームズはいたずらっぽい目つきをして言った。「じゃあ、それを僕のほうへ、とって下さいませんか?」
フェルプスは蓋《ふた》をとったが、そのとたん、わっ、と声をたてて顔をまっ青にし、皿のなかを見つめていた。皿のまん中には、青灰色の小さな紙筒が入っていたのである。それをつまみ上げると、食い入るように見つめていたが、やがて胸に押しあてると、気でも狂ったかのように部屋の中を踊り回りながら、うれしさのあまりに頓狂《とんきょう》な声をあげるのだった。
しかし間もなく、自分の興奮に疲れ果て、ぐったりと、もとの椅子の上に倒れた。卒倒でもされたらことだと、われわれは無理にブランディを飲ませた。
「まあ、まあ」ホームズはなだめるようにその肩をたたいて、「あまり出しぬけにやったんで、悪いことをしましたね。しかし、ワトスン君は知っていますが、僕ときたら、芝居がかったことが好きで、それをやらずにはおれないんですよ」
フェルプスはホームズの手をとって、それにキッスしながら、「あなたに神の恵みあれ!」と叫んだ。「あなたによって、私の名誉は救われたんです!」
「いや、僕のも危《あやう》いところでしたよ」ホームズが言った。「あなたも仕事で失敗するのはお好きではないでしょうが、僕だって、自分の仕事でへまをやるのは嫌なことですからね」
フェルプスは、この貴重な書類を奥のポケットにしまい込んで、「これ以上、お食事の妨《さまた》げはしたくないんですが、どこで、どうしてこれを取り戻しになったのか、もう聞きたくてしょうがないんです」
シャーロック・ホームズはコーヒーを飲みほすと、今度はハムエッグスに手をつけた。やがて、やおら立ち上がると、パイプに火をつけ、自分の椅子にどっかと腰掛けた。
「はじめに、あれから何をしたかをお話しして、それから、どうしてそれを取りもどしたか、順を追って申し上げることにしましょう」と言う。
「駅でお別れしてから、僕はサレー州の愛すべき風景のなかを、リップレイという村まで歩いてゆきました。そこの宿屋で、コーヒーを飲み、水筒に飲みものを入れ、ポケットにサンドウィッチをひと包み用意して、夕方になるのを待って、ウォーキングへ向けて出発しました。ブライアブレーの近くの街道まで来たとき、ちょうど日が沈んだところでした。それから人通りがなくなるまで待って、といっても、大体あまり人の通らないところなんですね。それから、垣を越えて、庭に入りました」
「でも、門はまだあいていたでしょう?」突然フェルプスが口を入れた。
「ええ、でも僕はこういうことが好きなんでしてね。樅《もみ》の木が三本あるところを選んでのり越えたので、ちょうどかげになって家のほうからは見えません。それから潅木《かんぼく》のあいだを四つんばいになって進みました……このみっともないズボンの膝をご覧になれば、おわかりでしょう。そして、やっとのことであの寝室の前の石楠《しゃくなげ》のところまでたどりつき、そこにうずくまって、成り行きを待ちました。
鎧戸がしまってないので、アニーさんがテーブルに向かって本を読んでるのが見えます。十時十五分ごろになると、アニーさんは本を閉じ、鐙戸を閉めて寝にゆきました。扉に鍵をかける音が聞えたので、よくわかりました」
「鍵ですって?」フェルプスが、また大きな声を出した。
「そうです。寝にゆくとき、外から鍵をかけて、鍵をもっていて下さいと頼んでおいたんです。アニーさんは、僕の頼みを、そのまま実行してくれました。あのかたの協力がなかったら、あなたのポケットの中の書類は戻らなかったかも知れないんですよ。さて灯を消して、アニーさんは出てゆき、僕だけが石楠の陰に身を潜めていました。
美しい夜でしたが、寝ずの番は嫌でしたね。もちろん狩猟家が水辺に潜んでいて、大物が現われるのを待ってるような興奮はありましたがね。しかし、長かったですなあ。ワトスン君、ほら、あの[まだらの紐《ひも》]の事件のとき、死んだような部屋の暗闇のなかで、待ちあぐんだことがあったろう、今度のやつも、あれに劣らずさ。ウォーキングの村の教会の時計が十五分おきに打つでしょう。一度ならず、時計が鳴らなくなったんじゃないかと思いましたよ。しかし、とうとうやって来ました。朝の二時ころ、カチッ、と掛金を外す音を聞いたかと思うと、中から月光のなかに、ジョウゼフ・ハリスンが姿を現わしました」
「えっ! ジョウゼフが!」びっくりして、フェルプスが叫んだ。
「帽子はかぶっていませんでしたが、肩から黒い外套をひっかけ、いざというときには、いつでも顔を隠せるようにしていました。壁のかげに沿って、窓の下まで抜き足さし足でやって来ると、刃の長いナイフを出して窓枠の間にさし込み、掛金を外しました。窓を開けると、さらにナイフを鎧戸のすき間にさし入れ、横桟《よこさん》をつき上げると、これもさっと開きました。
僕が伏せていた場所から、部屋のようすも、彼の一挙一動に至るまで手にとるように見えるんです。彼はまず壁炉の上のローソクを二本|点《とも》すと、扉のそばの敷物の隅をめくり上げました。すぐさま彼はかがみ込んで、鉛管工がガス管の接《つ》ぎ目を直せるようにこしらえてある四角な板を外しました。そこが台所へ行くガス管の丁字形の接ぎ目の蓋《ふた》なんですよ。この隠し場所から、例の巻き物|一巻《いっかん》を取り出すと、元の通り蓋をしめて敷物を直し、ローソクを吹き消して、窓のところから、外で待っている僕の腕の中へまっすぐ飛び込んで来たわけです。
思ったより癖の悪い人でしたよ。ジョウゼフの奴《やっこ》さんは。ナイフを振って飛びかかって来ましてね。二度ばかりなぐり倒してやりましたが、おかげで指の関節をやられましてね。でもどうにか腕を押えました。格闘が終っても、やっと見える片方の目で、[殺してやる]といわんばかりでしたが、どうにか聞きわけてくれて、文書をこちらに渡しました。これをもらったので、離してやりましたが、けさ、いちおう事《こと》の次第をフォーブズ刑事に電報で知らせておきました。もし先手をうって、奴さんを捕えることができれば上出来でしょうが、行ってみたら、もぬけの殻《から》ってんじゃないでしょうかね。でもそのほうが、政府にもいいんじゃないでしょうか。ホールダースト卿にしても、パーシー・フェルプスさんにしても、警察沙汰にならんほうがいいんでしょう?」
「ああ!」フェルプスはあえぎながら言った。「十週間も悩み通した、その文書が、ずっと自分の部屋にあったなんて!」
「事実、そのとおり」
「それにしても、あのジョウゼフの奴は! ジョウゼフの悪党め! 泥棒野郎!」
「ふん、見かけによらずあの人は悪賢い危険な人物ですよ。けさ本人から聞いたところによると、株に手を出して、ひどく損をし、金になることなら何でもやる覚悟をしてたらしいんです。徹底した利己主義者で、妹さんの幸福や、あなたの名誉をも顧みず好機に乗じたんですね」
パーシー・フェルプスは椅子に深く沈んで、「ああ、頭ががんがんする。お話をきいて、茫然《ぼうぜん》としました」といった。
「今度の事件でおもな難点といえば」ホームズは教授然とした態度で、「それはあまり証拠が多すぎることにありました。それゆえに、決定的な証拠が、まるで無関係なものの陰になって隠れてしまったのです。提示された多くの事実のなかから、真に重要なものを引き出して来て、組み合わせ、この珍しい事件の本筋をつくり上げることが必要でした。あの晩、あなたがジョウゼフと一緒に帰るつもりだったと聞いてから、もう僕は彼を疑いはじめました。外務省のことをよく知っている彼のことですから、ちょっと誘いに寄ることも考えられたからです。そこへ、何者かが寝室へ侵入しようとしたと聞いてから、僕の嫌疑《けんぎ》は確信となりました。ジョウゼフよりほかに、あの部屋に物を隠す者などありませんし、しかも、前の話のように、医者と共にあなたが帰って来られたので、ジョウゼフはあの部屋を出なければならなかったのでしょう。それに、看護婦がいなくなった最初の晩に押し入ろうとするなんて、家の事情に明るい者以外にはないとにらんだのです」
「まったくぼんやりしていました!」
「私の調べたところでは、この事件は次のようになります……ジョウゼフ・ハリスンはチャールズ街側の通用口から入って来て、勝手は知ってるし、まっすぐあなたの部屋へ入ったんです。それはあなたが部屋を出た直後だったんです。誰もいないもんだから、彼はベルを鳴らします。鳴らしてからすぐ、机の上にひろげてある文書が目にとまりました。すぐポケットにしまい込んで、そこを立ち去ったのです。いいですか、寝ぼけていた小使いが、誰もいないはずなのにベルが鳴った、とあなたに注意するまで、少なくとも数分たっています。その間に泥棒は、まんまと逃げることができたのです。
駅まで駆けつけて、すぐ次の汽車でウォーキングへ行きます。獲物を調べてみると、莫大な価値のあるものだということがわかる。それで、ひとまず安全な場所に隠しておいて、一両日中にまた取り出して、フランス大使館なり、金を沢山くれそうな所へなり持ち込もうと思ったわけです。そこへ突然、あなたが帰ってくる。どうする暇もないうちに部屋を追いたてられ、それからというものは、少なくともあなたがた二人は部屋にいて、彼は宝物を取り戻すことができなかったのです。ずいぶん、やきもきしたことでしょうね。だがついにチャンスは来たと思い込み、部屋へ忍び込もうとしたが、よく眠ってなかったあなたに目を覚されて失敗しました。あの晩、いつもの薬を飲まなかったのを覚えておいででしょう?」
「覚えています」
「薬が効いて、ぐうぐう寝込んでると思ってやって来たんでしょうね。大丈夫だとみれば、何度でもやるだろうと思いました。まして、あなたがいなけりゃ思う壷《つぼ》ですよ。そこで先手を打たれないように、アニーさんに頼んで、ずっとあの部屋にいてもらったんです。それから邪魔者はいないと思い込ませておいて、さっきお話ししたように、僕が縄《なわ》を張ってたんです。あの文書はきっと部屋の中にあると、僕は信じていましたが、といって、板張りや羽目板をすっかりはぎ取って捜し出したくなかったのです。ですから、これは隠し場所から、本人に取らせておいて、手間を省きました。まだ何かほかにお話しすることがありますか?」
「最初のとき、どうして窓から忍び込もうとしたんだい?」私が聞いた。「扉からでも入れたろうに?」
「扉のところまで来るには七つも寝室の前を通らねばならないんだよ。芝生のほうなら難なく飛び出せる。ほかに何か?」
「ジョウゼフは僕に殺意をもってたんじゃないでしょうか?」フェルプスが聞いた。「ナイフは窓をあける道具にすぎなかったんですか?」
「さあ、そうかもしれません」ホームズは肩をすくめて、言った。「ジョウゼフ・ハリスンという男は、どんな事でもやりかねない男だということは、確かに申し上げられます」
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最後の事件
友人シャーロック・ホームズの名を高からしめた、あの独特の天才の記録を書くのも、これが最後になると思うと、ペンをとるのも悲しい思いがするのである。私が「緋色の研究」のころに偶然彼と知り合うようになってから、彼が「海軍条約事件」を未然にもみ消すまで……たしかにその事件は、彼の力のおかげで重大な国際問題にならずにすんだと思うのだが……彼と行動を共にして得た風変わりな経験を、辻棲《つじつま》もあわない、まったくのところつたない筆をふるって、書きつづってきた。
私は、そこまでにして筆を折るつもりでいたのだ。私の人生に、二年たった今でも穴埋めのできない空白を作ってしまったあの事件について、私は口をとざしておるつもりでいたのだ。だが、やむを得ない。ジェイムズ・モリアーティ大佐が、死んだ弟の弁護をするああした手記を書いたので、私は、ありのままの事実を、正確に、人々にお知らせする必要に迫られるのである。その事件について、本当のことを知っているのは私だけであるが、それを伏せておいてはよくないときが、とうとうやって来たのだと思う。私の知る限りでは、今までそのことが公《おおやけ》に書かれたのは三度である。
最初は、一八九一年五月六日の「ジュルナル・ド・ジュネーヴ紙」であり、次は、翌日五月七日に、ロイター至急報がイギリスの各紙に掲載されて、最後が前述のモリアーティ大佐の手記である。最初のふたつはひどく簡潔な記事だったし、手記のほうは、これからお知らせするように、まったく事実をまげてしまっている。大佐の弟モリアーティ教授と、わがシャーロック・ホームズとの間に何が起こったか、真相をはじめて世に問うことは、私の義務であろう。
最初に申し上げておくが、私は結婚して間もなく開業したために、さしも親密だったホームズと私との関係も、その後はいくらかようすが違ったのである。調査に出かけるときにつれが欲しくなると、彼はよく私のところにやって来はしたのであるが、そういう機会もだんだんと少なくなって来て、一八九〇年には、私の記録にのっている事件は三つしかない。この年の冬から翌一八九一年の早春にかけて、私は、新聞で、彼がさる重要事件のことでフランス政府の仕事をしていることがわかっていたが、彼からも、ナルボンヌとニームで投函《とうかん》した手紙が届いたりして、彼のフランス滞在は長いものと思っていた。だから、四月二十四日の夕方だったが、彼がいきなり私の診察室に入って来たとき、私はずいぶんびっくりした。おまけに、彼が常にもまして青白くやせているのを見て、ただならぬものを感じたのである。
「うん、どうも体を使いすぎてしまったらしいよ」彼は、私にというよりも、私の目つきに答えて言った。「ちかごろ、少しばかり弱ったことがあるんだ。鎧戸《よろいど》をしめてもいいかい」
部屋の中の光というと、私が書見していたテーブルのランプだけなのだ。ホームズは横なりに壁ぎわをまわって行って、鎧戸をしめ、しっかりと閂《かんぬき》をした。
「何か気になることでもあるんだね」
「まあね」
「何だい」
「空気銃さ」
「おいおい、どうしたっていうんだい」
「ワトスン君、君は僕のことをよく知っているから、僕が神経質な男じゃないぐらいはわかっているだろう。同時にだ、危険が迫っているというのに、それを認めることを拒むというのは、勇敢というより、むしろ馬鹿だ。ちょっとマッチをくれないか」
彼は煙草の鎮静作用がありがたいとでもいうように、煙を吸い込んだ。
「こんなにおそくやって来てすまなかった。おまけに、もうじき裏庭の塀《へい》を乗り越えて帰ってもいいかいなんて、非常識なお願いをしなくちゃならん」
「だけど、いったいどうしたというんだい」私は聞いた。
彼は片方の握りこぶしを突き出して見せた。指の関節が二か所、皮が破けて血が出ている。
「そら、嘘じゃないだろう」と微笑した。「男が手の甲をすりむいたんだから、嘘どころじゃない。奥さんはいるのかい?」
「ちょっと知り合いに出かけて留守だ」
「しめた。じゃ、君ひとりだね」
「そう」
「そいつは話がしやすい。じつは、君、一週間ばかり大陸について来ないか」
「どこだい」
「どこって、君。僕にはどこだって同じことだよ」
はじめから、どうもおかしいところがあったのだ。ホームズは、目的なしに休暇をとるような男ではない。それに、青白くやつれた顔は、彼の神経が極度に緊張していることを、どこか物語っていた。彼は、私のいぶかしげな目つきを見てとると、両手の指先をあわせ、両|肘《ひじ》を膝について、事情を説明しはじめた。
「君は、モリアーティ教授なんて聞いたことがないだろうね」
「ないねえ」
「ああァ、世の中は不可思議なところだよ」彼は声をあげる。「ロンドンじゅうをのさばる男を、誰も聞いたことがない。だからこそ犯罪史上最大のレコードもうちたてられるわけだ。ねえ、ワトスン君。まじめな話だよ。僕がもしこの男をうちのめして、社会を彼の悪業から解放することができたら、僕は自分の経歴もとうとう最高潮に達したと思うだろうし、また、もう少し平穏無事な生活に入ったっていいと思うよ。ここだけの話だがね、スカンジナヴィア王家とフランス共和国とをたすけて、ここしばらくいくつか事件を扱って来たおかげで、僕も、いちばん性に合った静かな生活をして、化学の研究に熱中してもおられるような結構な身分になったわけだ。
しかしねえ、ワトスン君、モリアーティ教授みたいな人間が、平気でロンドンじゅうをのし歩いているのかと思うと、安んじていられないんだよ、じっと腰を下していられないんだよ」
「どういうことをやったんだい、そいつは」
「異常な経歴を持った男だ。名門の生まれで、りっぱな教育も受けているし、おどろくべき数学の天才だ。二十一歳で、当時ヨーロッパじゅうにはやっていた二項定理について論文を書いた。そのおかげで、あるイギリスの小さな大学の数学教授の地位をかち得て、見たところ、洋々たる前途が開けたというわけだ。しかしこの男には、世にもまれな、極悪な性質の遺伝があった。血統的に犯罪者の血が流れていたわけだが、それは矯正《きょうせい》されるかわりに、異常な知能のためにますます増進して、この上もなく危険なものになってしまった。大学町では、暗い噂が彼の上に集まって来て、とうとう教授を辞職せざるを得なくなって、ロンドンにやって来た。そして軍人相手の家庭教師になった。というところまでは世間にも知られているんだがね、これから先は、僕が自分で探ってきたことだ。
わかっているだろうけれど、ワトスン君、僕ぐらいロンドンの高等な犯罪世界を知っている男はほかにいないよ。何年も以前から、僕は、悪事のかげに、いつも警察の邪魔をして犯人を保護してしまう、何か、深い組織力があると、しょっちゅう思っていた。何べんも何べんも……貨幣偽造事件だの、強盗だの、殺人だの……それこそあらゆる種類の事件のかげに、僕は、そういう力の存在を感じていた。そして、とくに依頼はされなかったが、そういう沢山の迷宮入り事件を推理してきた。何年もの間、そうやってそのからくりをおおっているヴェールを突き破ろうと苦労してきたんだが、とうとう糸を探り当ててたぐりよせるときがやってきて、さんざ紆余曲折《うよきょくせつ》したあげくに、やっと、この有名な元数学教授モリアーティに行き当ったという次第だ。
彼はまあ、犯罪のナポレオンだ。この大都会の悪事の半分と、そして迷宮入り事件のほとんどが、彼の手がけた仕事だ。天才だね。哲学者、理論的思索者、最高級の頭脳の持ち主だよ。巣にいる蜘蛛《くも》みたいにすわって動かない。ところがこの蜘蛛の巣は、千本も糸が張ってあって、一本ふるえてもすぐ彼にピンとくる。自分でやることはわずかなものだ。計画を立てるだけだ。しかし手先が山ほどいて、素晴らしく組織されている。ひとつ悪事を働こうということになるとする……たとえば書類をかすめて来るとか、強盗に押しかけるとか、男をひとり片づけるとかね……すると、教授にひとこと言えば、ことはちゃんと仕組まれて、さっそく実行に移される。手先がつかまることがある。そういう場合は、保釈金も弁護士料も面倒をみてやる。しかし、手先をあやつる中心人物は決してつかまりはしない。気《け》どられさえしない。こういう組織を、僕は推理してきたんだがね、ワトスン君。これをあばいて、追い散らしてしまおうと思って、僕は全精力をささげつくした。
だが、教授は非常に巧妙に工夫した護衛に取り巻かれていて、僕がどんなことをしてみても法廷で彼を有罪にできるだけの証拠が得られそうもない。ねえ、ワトスン君、君は僕の力を知っているだろう。ところが、三か月の苦労のあげくにやっと探りあてたのは、なんと、僕と同等の知能を持った対抗者じゃないか。あまりの巧妙さに舌を巻いて、彼の悪事がおそろしいと思わなくなったぐらいだ。しかし、とうとう彼はしっぽを出したよ。ほんの、ほんの少しばかりだがね……それでも、僕がこんなに彼の身辺に肉迫していたときだから、許されないつまずきだった。とうとうチャンスがやって来たのさ。そこを出発点として彼のまわりに網《あみ》を張りめぐらして、ついに今、その網を伏せる準備が完了した。三日したら、つまり今度の月曜日に、機が熟して、教授は一味の大どころと一緒に、一綱打尽《いちもうだじん》になることになっている。それから、今世紀最大の裁判がはじまって、四十以上もの迷宮事件が一挙に解決して、全員極刑だ。……だが一歩でも早まると、いいかね、彼らは最後の瞬間にでも、われわれの手の下からすり抜けてしまうかもしれないんだ。
ところで、僕はモリアーティ教授に気づかれずに仕事ができるとよかったんだがね。ところが相手もさるものだ。僕が網を張るためにとった処置をひとつひとつ見破っている。何度も何度も、懸命になって逃げてしまう。こっちはそのたびに先回りする。ねえ、君、もしこの静かなる闘いを詳細に記録することができたら、探偵史上かつてない、輝かしい、丁々発止《ちょうちょうはっし》の物語りができあがるだろうがねえ。こんどぐらい得意になったことはない。そして、こんどぐらい敵に追い詰められたこともない。深く切りつけられる。すると僕が、ほんの少しだけ深く切り返す。今朝、最後の手はずが整って、仕事を完成させるのに、もうあと三日だ。僕は部屋の中でこの事件についていろと考えていた。するとそのとき、ドアがあいて、モリアーティ教授が目の前に立っている。
ワトスン君、僕の神経は相当なものだがねえ、白状するけれど、今の今までずっと考えてきた、当の人物が戸口に立っているのだから、びっくりしたよ。彼の容貌《ようぼう》はよく知っていた。おっそろしく背の高いやせた男で、白い額が丸く突き出ていて、両の目はすっぽりとくぼんでいる。髭《ひげ》はいつもきれいにそってあり、色白で、禁欲的なようすがあって、面《おも》ざしを見ていると、大学教授らしいところが残っている。研究生活のせいで猫背《ねこぜ》になって、顔が前に突き出している。まるで爬《は》虫類《ちゅうるい》みたいに、体がいつも横にゆっくりと揺れている。彼はくしゃくしゃの目に、好奇心を満々と浮かべて僕をじっと見ていた。
『思ったより頭の悪い人ですねえ』こんなことを言うんだ。『部屋着のポケットの中で、弾丸《たま》をこめたピストルをいじくりまわすなんて、危険な習慣です』
じつは、彼が入って来たとたんに、僕は自分の体が極度の危険にさらされたことを悟った。彼に逃げ道があるとすれば、僕を黙らせること以外にない。とっさにひきだしのピストルをポケットにすべり込ませて、服の下から彼をねらっていたわけだ。そう言われて、僕はピストルを出し、打ち金を起こしたままテーブルの上に置いた。相手は相変わらずにこにこして目をぱちぱちやっていたが、その目には、ピストルがあって本当によかったと思わせるものがあったね。
『どうやら私というものをご存じないようです』と言うんだ。
『どういたしまして、よくわかっているからこそです。まァお掛けなさい。話がおありなら、五分間だけ割《さ》きましょう』
『何を言いに来たか、もうピンと来たでしょう』
『じゃ、僕の返事もピンと来たでしょう』
『あくまでやりますか』
『断乎《だんこ》としてやります』
彼が手をサッとポケットに突っ込んだので、僕はテーブルのピストルをとった。しかし彼がとり出したのは、何か日付を書き込んだ手帳だった。
『一月の四日に、あなたは私の邪魔をなさった。二十三日にも迷惑なことをなさった。二月の中ごろ、ずいぶん不都合なことをなさった。三月の末に、私は計画をまったくはばまれてしまった。そして四月末の現在、あなたにうるさくつきまとわれて、ついに自由を奪われる危険が決定的になった、というところに追い込まれています。事態は今や困ったことになろうとしております』
『何か注文でもありますか』
『ホームズさん、手をお引きなさい』顔を振り立てて言うんだ。『まったくの話です、ねえ』
『月曜からさきならね』
『チェッ、チェッ。あなたぐらい物のわかる方なら、この結果がどういうことになるか、おわかりのはずだ。手を引かにゃならんのです。あんなふうになさったから、われわれとしては、頼むところはひとつしかない。あなたがこの事件と取ッ組んでいるのを見ると、なかなか知的な楽しみになりました。だから、率直にいいますが、やむなく非常手段に訴えるというのは、私も辛いのです。お笑いになるが、ほんとうですよ』
『危いのは、私にとって仕事のうちです』
『危いじゃありません。破滅は避けられないのです。あなたは、私という一個人の邪魔をしておられるだけではない。強力な組織があるのです。あなたの手際をもってしても、どれぐらい大きな組織か、まだわかっておいでにならない。身をお引きなさい、ホームズさん。さもないと踏みにじられますぞ』
『話にふけっていましたが、ほかに大事な用件がひかえておりますから』
こう言って立ち上がると、むこうも立ち上って、悲しげに首を振りながら、黙って僕を見つめていた。
『そうですか』とうとう口を開いた。『お気の毒なことです。しかし私はできるだけの事をしました。そちらのからくりは、いちいちわかっていますよ。月曜日まで手が出ますまい。ホームズさん、あなたと私の決闘でしたな。私を被告席に立たせたいでしょうが、私は決して被告席には立ちませんぞ。私を破滅させる頭がおありなら覚えておおきなさい、私だってあなたを破滅させてみせる』
『数々おほめにあずかって痛み入ります』僕は言ってやった。『こっちからもひと言お返ししておきますが、あなたをたしかに破滅させることができると思ったら、私は公衆の利益のために欣然《きんぜん》として死地にもおもむきます』
『片方は約束しますが、あとは知りません』彼はこうどなると、猫背をくるりとこっちに向けて、くしゃくしゃの目でジロジロ見まわしながら部屋を出て行った。
というのが、モリアーティ教授との奇妙な会見の顛末《てんまつ》だ。正直のところ、この会見のおかげで僕はずいぶん不愉快になった。猫なで声の、いやにはっきりした話しぶりで誠実な感じを与えるところなんか、ただの悪党にはできないわざだ。むろん君は、『警察に保護をたのめばいいじゃないか』と言うだろう。だが、一撃を加えに来るのが、彼じゃなくて彼の手下だということは確かだからね。たしかにそうだという、れっきとした証拠もあるよ」
「もう襲撃は始まっているんだね」
「ワトスン君、モリアーティ教授という奴は、仕事をなまけているような男じゃないよ。ひるごろ、仕事があってオクスフォード街に出かけた。ベンティンク通りからウェルベック通りに出る角を曲がったところへ、二頭立ての荷馬車が、風を切って角を曲がりざま、稲妻のような勢いで、猛然と僕を目がけて突進して来た。僕は歩道にとびのいて、間一髪で事なきを得た。荷馬車はそのまま突進して、マリルボーン小路から角を折れて、あッという間に消えてしまった。それから僕は歩道を歩くことにしたんだがね。
ところが、ヴィア通りを歩いていると、一軒の家の屋根から煉瓦が落ちて来て、僕の足許で粉徴塵《こなみじん》にくだけた。警官を呼んでその辺を調べさせたんだが、何かの修繕のために屋根の上にスレートや煉瓦が積んであるもので、警官は、風の加減か何かでくずれて落ちて来たのだと言ってきかない。むろん僕にはわかっていたんだが、証拠がない。
それが済むと、僕は辻馬車でペルメルの兄の部屋に行って、一日じゅうそこで過ごして来た。それからここへ来たんだがね、途中で、棍棒を持った暴漢に襲われた。こっちが殴り倒して警察に引き渡してやった。そいつの前歯でこのとおり拳固《げんこ》がすりむけたんだが、この先生と、今ごろ十マイルも先で黒板に向かって問題と取っ組んでいる数学の家庭教師との間に、何か関係があるなんて、絶対にわかりっこないんだよ。
僕がこの部屋に入って来て、いきなり鎧戸をしめたり、表口からでなくて、もっと目立たないところから出て行ってもいいかいなんて頼んだりしたことなんかも、なぜだか、わかってくれたろうね」
ホームズの度胸の良さに感心させられたのは毎度のことであるが、恐怖の一日であったに違いない一連の事件を、よくもこう穏かに話ができたものだと、私はいまさらのように舌を巻いたのである。
「今夜はここに泊って行くね」私は言った。
「いや、よしておこう。僕は危険な客人だよ。警察のほうは計画を立ててやったから、万事整っている。法廷では僕が必要だが、逮捕に関する限りでは、僕がわざわざいなくても良いようになっている。だから、警察が仕事をしやすいように、しばらくよそへ行っているにこしたことはないよ。そこで、君が一緒に大陸に来てくれると、これにこした喜びはないというわけなんだがね」
「診察のほうは暇だし、それに、近所に同業がいるんだ。よろこんでお供しよう」
「で、明日の朝|発《た》てるかい?」
「ぜひとあればね」
「ああ、ぜひともだ。それじゃ、明日のことを言っておこう。ねえ、ワトスン君、なにしろヨーロッパじゅうでいちばんの悪党と強大な犯罪組織が相手なんだから、僕の言ったとおり、まちがいなく実行してくれなくちゃいけないよ。じゃ、いいかい。持って行く荷物は、今夜じゅうに、信用のおける使いに頼んで、無名で、ヴィクトリア駅に運んでおく。朝になったら辻馬車を呼びにやるが、ただし、最初に来た車と二番目には乗ってはいけない。つぎの馬車にとびのって、ラウザー・アーケイドのストランド街のほうに行く。行先は紙に書いて、すててしまわないように言って馭者《ぎょしゃ》に渡すんだ。車賃はあらかじめ用意しておいて、着いたらとびおりてアーケイドを駆け抜ける。反対側に出るのが九時十五分になるように加減したまえ。すると道端に、小さな四輪馬車が待っていて、襟《えり》を赤く縁どった、ごつい黒の外套を着た馭者が乗っている。これに乗ると、大陸連絡急行に、ちょうど間に合うように、ヴィクトリア駅まで送ってくれる」
「君とは、どこで会うんだい?」
「停車駅だ。前からふたつ目の一等車を借り切っておこう」
「じゃ、その車の中で待ち合わせるんだね?」
「そう」
今夜は泊って行けと、いくら言ってもホームズは承知しなかった。泊るとこの家に迷惑がかかるのを心配して、むりにも出て行ったにちがいないのだ。あくる朝のことをふた言《こと》み言、急いで言い足すと、彼は立ち上がって私と庭に出た。そして、モーティマー街に出られる塀を乗り越えると、口笛を吹いて辻馬車を呼び、それに乗って帰って行く音が聞こえた。
翌朝、私はホームズの指図に忠実に従った。辻馬車は、彼らがまわしておいたのがいるかもしれないから、用心深く最初のふたつを避けた。朝飯がすんだばかりのところを、わざわざラウジー・アーケイドに行き、ここを全速力で走り抜けた。
なるほど、四輪馬車が待っていて、黒い外套に体を包んだ、たいそう大柄な馭者が乗っていた。馭者は、私が乗り込むと見ると馬に鞭をくれて、ヴィクトリア駅へと驀進《ばくしん》した。着いて私が降りると、目もくれずに馬首をめぐらして走り去った。
ここまではうまくいった。荷物はすらすらと受け取ったし、ホームズが教えた一等車も難なくみつかった。「貸切」の札が下ったのは一台きりだったから、すぐにわかった。今やホームズの現われないことだけが心配のたねだった。駅の時計は、発車時間の七分前を指している。乗客や見送りの人混《ひとご》みを探してみたが、彼のしなやかな姿はみつからない。影も形もない。
このとき、年とったイタリア人の牧師が、赤帽をつかまえて、片言の英語で、荷物をパリまで通しでチッキにしてくれということをのみこませようと、骨を折っていたので、これを手伝って二、三分すごしてしまった。それから、もうひとまわり見渡して車室に帰ってみると、赤帽が貸切札も見ないで乗せてしまったらしく、さっきの老いぼれイタリア人が、私の旅の伴侶よろしくすわり込んでいる。彼の英語に劣らず、私のイタリア語もお粗末《そまつ》だったから、いくら違いますよと言ってみても、効き目がなかった。私はあきらめて肩をすくめ、はらはらしながら、ホームズの姿を求めて窓の外を見ていた。ふと、彼がやって来ないのは、ひょっとしてゆうべ襲われたのではないだろうかと思って、慄然《りつぜん》となった。ドアはもうみんなしまってしまった。とうとう笛が鳴った。このとき……。
「おい、ワトスン君」という声だ。「おはようも言わないんだからねえ、君は」
びっくり仰天して、私はふりむいた。老牧師が私に顔を向けている。一瞬、その顔の皺《しわ》が伸び、たれた鼻がピンと立ち、突き出た下唇がひっこんで口はモグモグをやめ、ものうい目に火がつき、曲がった背中がシャンとし、次の瞬間、すべては再びくずれ去って、現われたと同じはやさで、ホームズは消滅した。
「何だ! びっくりさせるじゃないか!」私は大声を上げた。
「まだまだ用心がいるぞ」と小声でホームズは言った。「たしかに彼らは、やっきになってあとを探しているぞ。ああ、モリアーティが来た」
汽車はもう動き出していた。チラとふりかえると、背の高い男が、物すごい勢いで群衆をかきわけながら汽車を止めてくれというように、手を振っているのが見えた。しかしもう間に合わはい。汽車はぐんぐん速度を増して、またたく間にプラットフォームを離れてしまった。
「あれだけ用心してもきわどいところだったねえ」ホームズは笑ってそう言うと、立ち上って、変装の黒い僧服と帽子を脱ぎすて、手提鞄《てさげかばん》の中に詰め込んだ。
「ワトスン君、朝刊を見たかい」
「いいや」
「じゃ、ベイカー街のことは知らないね?」
「ベイカー街?」
「ゆうべ奴らが僕の部屋に火をつけたのさ。たいした被害はなかったが」
「何だって、ホームズ! ひどいじゃないか」
「棍棒《こんぼう》の男がつかまってから、僕の行方が完全にわからなくなったと見える。でなきゃ、僕が家に帰ってるなんて思いもよらなかったはずだ。しかし、彼らも用心深く君を張っていたわけだろう。モリアーティがヴィクトリア停車場に来たのはそれだよ。途中ぬかりなくやったろうね、君は」
「君の言ったとおりしたよ」
「四輪馬車はいたかい?」
「うん、待っていた」
「馭者の顔、気がついたかい?」
「いいや」
「兄のマイクロフトだよ。こういう場合だから、面倒でも、金銭ずくの馭者は信用しないほうがいいからね。しかし、差し当ってのところ、モリアーティのことをどうするか、考えなけりゃなるまい」
「この汽車は急行だし、船は連絡しているんだから、もう追っ払ってしまったのも同然じゃないのかな」
「ワトスン君、あの男が知力にかけては僕と全く同等だと言ったのが、まだわかっていないんだね、僕が追手だったら、まさかこのくらいのことで、くじけてしまうと思うのかい? そうだろう。彼を見くびっちゃいけない」
「じゃ、どう出るだろう」
「僕の考えるのと同じことさ」
「というと、どうする?」
「特別列車を仕立てるさ」
「だって、間に合うまい」
「ところが間に合う。この汽車はカンタベリーに停車する。それに、船がいつも十五分は遅れて出る。港で追いつくよ」
「まるでこっちが犯人みたいだね。彼が着いたところを逮捕してもらったらどうだ」
「それじゃ、三か月の苦心が水の泡《あわ》だ。大物はつかまっても、小物が網から逃げてしまう。月曜まで待てば、一網打尽のはずなんだからね。いけないよ、もってのほかだね」
「じゃ、どうする?」
「カンタベリーで降りよう」
「それから?」
「それから、山越えしてニューヘイヴンに出よう。そこからディエップ行きの船でフランスに渡る。モリアーティは、僕ならするということをやるわけだ。彼はそのままパリに直行して、停車場で僕らの荷物をマークして、二日間見張っているだろう。こっちはその間に、ルクセンブルグからバーゼルをまわって、ゆっくりスイスに着くとしよう。鞄《かばん》は田舎のものですませ、他の品も先々の田舎でしつらえる」
私は旅なれていたから、荷物をなくしてもたいして不便を感ずるようなことはなかったのであるが、正直のところ、モリアーティのような、言語に絶する破廉《はれん》恥漢《ちかん》のおたずね者に、逃げかくれしなければならないと思うと、ひどくむしゃくしゃしたのである。しかしホームズのほうが事態をよく見きわめていることは明らかだった。そこで、われわれはカンタベリーで汽車を降りたが、なんと、ニューヘイヴン行きには一時間もあると言う。
私の衣類を積んでぐんぐん遠ざかって行く列車を、うらめしい思いで見送っていると、ホームズが袖《そで》を引いて線路のかなたを指さした。
「ほら、もう来たよ」
はるか遠くの、ケント州独特の森の間に、煙がかすかに立っていた。と見ると、一台の客車をひっぱった機関車が見え出し、駅の手前のカーヴをとんで来た。あわてて荷物の山のかげに身をかくすと、列車は轟然《ごうぜん》として通過し、熱気が顔に吹きかかった。
「いたいた!」ポイントの上でガタガタグラグラ揺れ動く客車を見つめながら、ホームズが言った。「やっこさんの知恵も知れたものじゃないか。僕の推論どおりに推論して、そのとおりに行動していたら、それこそ大手柄だったろうにねえ」
「追いついたら、どんなことをしたろうね」
「僕を殺しにかかって来たろうことは、疑いの余地がない。なあに、その手で来るならこっちだって黙っているものか。ところで、さし当たって、少し早いがここで昼飯を食って行くか、それとも、ニューヘイヴンの食堂に着くまですき腹をかかえることにするか、どうしようね」
その夜われわれはブラッセルにおもむき、そこで二日を過ごし、三日目にはストラスブールまで来た。月曜の朝、ホームズはロンドン警視庁に電報を打ったが、夕方ホテルに帰って来たとき、返事が着いていた。ホームズは封を切って目を通すと、いまいましげに暖炉の中にたたきこんだ。
「わかったはずだったがなあ」彼はうなった。「彼は逃げた」
「モリアーティが!」
「一味は残らず捕えたが、彼だけ取り逃したそうだ。うまくまかれたらしい。むろん、僕がいなくなったから、誰も彼に太刀うちできなかったわけだが。しかし、ちゃんと勝ちを手中に授けて来てやったんだがなあ。ワトスン君、君はイギリスに帰ったほうがいいよ」
「どうして」
「こうなると、僕は物騒な道連れだからねえ。あの男は仕事はとりあげられてしまった。ロンドンに帰れば破滅だろう。僕の観察どおりの男なら、きっと彼は、全精力を集中して僕を復讐にくるよ。例の会見のときにもそう言っていたが、本気だろう。君は患者さんのところに帰ったほうがいい」
彼は、長い経験と長い友情の上に立って、いっかな私の請いをいれようとしなかった。ふたりでストラスブールの食堂に三十分もすわり込んで、この問題を論じあった。しかしその夜、われわれは再び旅にのぼり、元気にジュネーブへと向かった。
一週間のあいだ、ふたりは楽しくローヌ河をさかのぼってさまよい歩き、ロイクで横にそれて、まだ雪深いゲミ峠をこえ、インターラーケンを経てマイリンゲンにやって来た。楽しい旅路だった。下界は春の緑、頭上に冬の処女雪。だが、ホームズは心によぎる影を片時も忘れはしなかったのだ。ひとなつこいアルプスの村々を通るときも、人里離れた峠道を歩くときも、行きあう人ごとにあの素早い一瞥《いちべつ》をくれて、鋭い穿鑿《せんさく》を怠らなかった。どこにいても、犬のようにわれわれのあとをつけて来る危険から解放されることはできないと、固く信じていたにちがいない。
こういうこともあった。ゲミ峠をこえたとき、もの寂しいダウベン湖のほとりで、右手の峰から巨大な石がひとつ、ガラガラと落ちて来て、音を立てて背後の湖中に転げこんだ。とっさにホームズは峰にかけ上がって、そそり立つ頂上から八方に頚《くび》をのばした。彼は、案内人が、この辺は春になるとよく石が落ちて来るのだと、いくら説明しても承知しなかった。彼は何にも言わず、ただ、まるで期待したことが起こった満足を感じている人のように、僕をかえりみてほほえんだ。
しかもこんなに神経をとがらせてはいたが、元気を失うことは決してなかった。それどころか、彼があんなに元気|横溢《おういつ》して見えたことはかつてないほどだった。そして、世の中がモリアーティから解放されることが確かならば、よろこんで死地にも赴《おもむ》くであろうと、繰り返し話してきかせた。
「ワトスン君、僕は自分の一生が、あながち役に立たなかったわけでもないと言っていいと思う。今夜で僕の一生が終りになるとしても、自若《じじゃく》として死んでいけるだろう。僕のおかげでロンドンの空気は清らかになっている。千以上もの事件を扱ってきたけれど、自分の力の誤った使い方をした覚えは一度もない。このごろ僕は、人工的な社会の状態のせいで起こっている表面的な事件よりは、造化がもたらす問題を解いてみたいと思うようになっている。あのヨーロッパ最大の険呑《けんのん》な犯罪者をつかまえるか、息の根を絶やすかして、僕の経歴が絶頂になったところで、君の回想録も終局を結ぶことになるだろう」
もう書きつづることもあまりなくなった。手短かに書こう、できるだけ正確に。心すすまぬわざではあるが、遺漏《いろう》なく事の次第を述べることは、私の双肩にかかった義務である。
マイリンゲンという小さな村に着いたのは、五月の三日のことであった。われわれが宿をとったのは「英国屋旅館」という宿屋で、亭主はピーター・シュタイラーと言った。発明な男で、ロンドンのグロヴナー・ホテルで二年ばかり給仕をつとめたことがあるそうだが、英語を上手にこなした。この男のすすめで、あくる四日の午後、山越えをしてローゼンラウイという村落に泊るつもりで出かけたが、途中で少し山手に回り道して、ライヘンバッハの滝を是《ぜ》が非《ひ》でも見て来なさいと言われた。
それはまったくおそろしいところだった。滝は雪どけ水で水かさが増して巨大な深淵になだれ込み、飛沫《ひまつ》が火事場の煙のようにもくもくと巻き上がっていた。ひとつの河が、輝く漆黒の岩の壮大な割《さ》け目を落下して狭《せば》まり、沸きかえり煮えかえる、はかり知れない深さの滝壷におどり込んでは、鋸《のこぎり》の歯のような滝壷の縁《ふち》からあふれ出て、矢のように流れて行くのだ。碧《あお》い水は轟然《ごうぜん》として永遠に流れおち、濃くたちこめた飛沫《ひまつ》のゆらめくカーテンは、颯々《さつさつ》として永遠に高く舞い上がって、そのやむことを知らぬ渦流《かりゅう》と叫喚《きょうかん》が、人をして目くるめく思いを催させるのだ。
われわれは、黒い岩を背にして断崖に立ちすくんで、はるか足下に、砕ける水のきらめきをのぞき込み、飛沫とともに深淵からうなりのぼって来る、人間の声にも似た怒号に聞き入った。
滝の全容が見られるように、滝をめぐって道が切り開かれていたが、中途で急に行きどまりになっていて、見物人はもと来た道をひき返すようになっていた。そこでわれわれは踵《かかと》をめぐらしたが、このとき、一通の手紙を手にしたスイス人の若者が駆け上がって来るのが見えた。便箋《びんせん》には、われわれが泊った宿屋のマークがついていて、亭主から私にあてた手紙だった。われわれがたつとすぐ、結核で見込みがなくなったイギリスの婦人が到着したようすで、ダヴォス・プラッツで冬を過ごして、ルツェルンの友人のところに向かう途中だったが、突然|喀血《かっけつ》したというのである。どうせ数時間の命であろうが、せめて同郷の医者の見舞いを受ければ大いに慰められるだろうから、もしお戻りいただけるならば、云々《うんぬん》、という次第。善良なシュタイラーは、さらに追い書きをして、彼女がスイス人の医者はいやだと言い張っており、自分としても非常な責任を負わされたように感じざるを得ず、あなたが同意してくれればどんなにかありがたいのだが、と言っていた。これは放っておくことのできない哀願だった。異郷で死にかかっている同国人の頼みを断わるわけにはいかない。
ただ、私はホームズをおいていくことが気になった。結局、ホームズは、私がマイリンゲンに戻っているあいだ、スイスの若者に、案内人兼同伴者として残っていてもらうことに話が決まった。彼はもうしばらく滝のところにいてから、ゆっくりと山越えしてローゼンラウイに行くから、夜、そこで落ち合うことにしようと言った。ホームズは、腕組みして岩に背をもたせ、じっと滝を見下していた。これがこの世で彼の見おさめになってしまったのである。
坂道を下りきるところで、私はふり返ってみた。そこからは滝は見えなかったが、山の肩をぐるぐると登って滝に至る曲がり道が見えた。その道を、ひとりの男が非常な速さで登って行くのが見えた。この黒い人影は、向こうの山の緑を背にして、くっきりと浮かんで見えた。何というエネルギーだろうと思いながら、その登って行く人影を心にとめたのだったが、道を急ぐうちに、それきり忘れてしまっていた。
マイリンゲンまで、一時間あまりかかったと思う。シュタイラーは宿の入口のところに立っていた。
「どうですか、患者はおちついているでしょうね」急ぎ足で歩み寄りながら私は言った。
彼は、ヘエ? という顔をした。刹那《せつな》に、私は愕然《がくぜん》となった。
「君が書いたのじゃないのですか、これは」私はポケットの手紙をひっぱり出した。
「イギリス人の病人はいないんですね?」
「いませんとも」彼は叫んだ。「しかし便箋にうちのマークがついてますね。あ、そうか、あの背の高いイギリスの方ですよ。皆さんがお発ちになったすぐあとにお着きでした。なんでも……」
亭主の説明など聞いてはいなかった。心配で胸をときめかせながら、私はもう駆け出して村を去り、たった今下ったばかりの山道に向かった。下りに一時間かかった道である。全力を尽したが、二時間も余計にかかって、やっとライヘンバッハの滝にたどり着いた。別れたときの岩に、ホームズのアルペンストックが立てかけたままだった。しかし彼の姿はどこにもなく、どなってみたが答えはなく、ただ、まわりの絶壁に当って、自分の声がこだまするだけだった。
私を慄然《りつぜん》とさせ、胸ふたがらせたのは、目に入った、あのアルペンストックだった。すると、彼はローゼンラウイへは行かなかったのだ。あの三フィートの小道。片側は絶壁、他の側はけわしい谷になっているところにいたわけで、とうとう敵に追いつかれてしまったのだ。若いスイス人もいなくなっていた。おそらくモリアーティに金でも握らされて、二人を残していったのであろう。すれば、何が起こったろうか。そのときいかなることが起こったかは知る由《よし》もない。
私はしばらく立ちつくして心を静めた。ことの重大さに、茫然《ぼうぜん》としてしまっていたからだ。やがて私は、ホームズのやり方を思い出して、この悲劇の跡をたどる努力を始めた。悲しくも、それはたやすいことだった。私は彼と道の行きどまりまでは行かなかったし、アルペンストックが、ふたりで立っていた場所のしるしになった。黒っぽい道の土は、たえまなく漂う飛沫《ひまつ》によって永遠に柔かく、鳥がおり立っても足跡が残るにちがいなかった。そこに、ふた筋のはっきりした靴跡が、行きどまりまで続いていた。ふたつともここから先へ続いていて、いずれも引き返してはいなかった。そして、行きどまりの数ヤード手前のところで、土は踏み荒されて一面の泥田になり、かたわらの崖っぷちに生えた茨《いばら》と羊歯《しだ》が、ちぎれて泥まみれになっている。私は腹ばいになって、吹き上げる飛沫にぬれながらのぞきおろしてみた。村におりて行ったころからもう暗くなりはじめていたのだが、今はもう、そこここにしめってギラギラと光る黒い岩と、はるか下の滝壷に砕けてほの白く光る水とが見えるばかりだった。私は叫んでみた。けれども、耳にかえって来るのは、あの人間の声にも似た滝の音ばかりだった。
それでも結局、私は親友シャーロック・ホームズの最後の挨拶だけは、受けられる定めだったのだ。彼のアルペンストックが、道につき出た岩に立てかけられていたことは前述のとおりであるが、この岩の上に、何か光っているものが目についた。手をさしのべてみると、それは彼が愛用していた銀の煙草入れだった。とり上げてみると、その下に置いてあった小さな四角い紙きれが、ひらひらと地面に落ちてきた。手にとってひろげてみると、ノートをちぎって三ページ分に、私にあてて書いた手紙だった。彼にふさわしく、まるで書斎で書いたように、文句は詳細で、字もしっかりと、はっきり書かれてあった。
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ワトスン君
モリアーティ氏の好意でこれを書いているそばで、彼は、われわれの間に横たわる問題について最後の討論をするために、僕の手があくのを待ってくれている。いま、彼がいかにしてイギリス官憲の目をさけ、またいかにして僕らの行動について情報を得て来たかを、教えてくれたところだ。やはり僕の評価どおり、彼が高度の知力を持っていたことがわかる。彼の存在によってこうむるこれ以上の迷惑から、社会を解放することができるのだと思うと、僕は満足を覚える。もっとも、その代償として、友人たち、ことに君に対して苦痛を与えるのではあるけれども。しかし君に言っておいたように、どのみち僕の経歴は来るところまで来たのだし、その幕を閉じるのに、これ以上僕の性に合った方法はあり得ない。
実際、ありていにいうと、僕はマイリンゲンからの手紙が偽物だということははっきりわかっていたし、君が行くことに同意したのも、こういうことになるのを固く信じたからこそだったのだ。パタースン警部に、一味の裁判に必要な書類はモリアーティと表書きした青封筒に入れて、分類棚のMの部に置いてあると伝えてくれたまえ。財産は、くにを出る前にすべて処理して、兄のマイクロフトにやってきた。では、奥さんにどうかよろしく。さようなら
シャーロック・ホームズ
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あとは、残ったところを少しばかり付け加えればたりよう。その筋の調査によって、ふたりはこんなところでやればごく当り前なことだが、取っ組みあったまま、もんどりうってころげ落ちてその闘争の幕を閉じたもの、と見て間違いなかろうということになった。死体収容の望みは全く断たれてしまい、一世の犯罪王と破邪《はじゃ》の戦士とは、永遠に、その逆巻く水と沸き返る泡の恐ろしい大釜《おおがま》の底深く横たわることとなったのである。
スイス人の若者は二度と現われなかったが、モリアーティの数多い手下のひとりだったことは、疑いの余地がない。一味のことについては、ホームズの積みあげた証拠が、いかに完全に彼らの組織を白日の下にさらしたか、そして亡き彼の手が、彼らの頭上にいかに完璧な制裁をもたらしたか、世の記憶に新しいところであろう。裁判中、首魁《しゅかい》モリアーティについて世に明らかにされることが少なかったが、いま私があえて彼の閲歴《えつれき》を開陳《かいちん》するゆえんのものは、私の最も良き、最も賢明なる友人に対して攻撃を加え、もってモリアーティの記憶を深からしめんと努めるがごとき、愚かなる擁護者たちに応《こた》えんがためである。(完)