ホームズの回想(1)
コナン・ドイル作/鈴木幸夫訳
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目 次
「シルヴァ・ブレイズ」失踪事件
黄色い顔
株式仲買店員
グロリア・スコット号
マスグレイヴ家の儀式
ライゲイトの大地主
解説
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「シルヴァ・ブレイズ」失踪事件
「ワトスン、僕は出かけなきゃならないらしいよ」
ある朝われわれが一緒に食卓についたとき、ホームズは言った。
「出かけるって! どこへ?」
「ダートムアへ……キングズ・パイランドだよ」
私は驚かなかった。実際、私は、この奇態な事件に、彼がまだ関係していなかったことが不思議に思えただけだった。イギリスじゅうでいたるところ、この事件の噂《うわさ》が話に出ないことはなかった。ひがな一日私の友は、うつむいたまま眉《まゆ》をしかめて部屋をうろつきまわるばかりで、いちばん強い黒タバコをつめかえ、つめかえ、どんな私の質問や言葉にも、まるで耳をかさなかった。各新聞の最新版が次々と取扱店から送られて来たが、ただざっと目を通しただけで、片隅にほうりなげてしまった。彼はだまってはいたが、じっと考えこんでいることがどんなことなのか、私にはわかっていた。今世間で、彼の分析力に挑戦しうる事件はただひとつ、ウェセクス杯レース人気馬の奇妙な失踪《しっそう》と、その調教師の悲惨な殺人事件がそれであった。だから、彼が突然に悲劇の現場へのりこんで行く意向をあきらかにしたのは、私が期待もし、望んでもいたことにすぎなかったのだ。
「邪魔にならないなら、君に同行したいもんだよ」と私は言った。
「ワトスン君、君が来てくれれば本当に助かるよ。それに僕は、君の時間を無駄《むだ》にさせることはないと思うよ。というのはね、この事件には、何か独特な事件になりそうな特徴があるんだ。ちょうどパディントン発の汽車に間に合うと思う。道みち、その事をもっと詳しく話そう。すまないが君のすばらしい双眼鏡をもって行ってくれないか」
そんなわけで、一時間ほど後には、エクセター〔イングランド南西部の都市〕に向かって進行中の一等車の片隅に私がいるという次第になったのである。
その間シャーロック・ホームズは耳たれの旅行帽子をかぶり、するどい熱心な顔で、パディントンで買ったひと束《たば》の最新版の新聞に、すばやくざっと目を通していた。レディングを過ぎてからかなりたって、彼は最後の新聞を座席の下になげこむと、私にタバコケースをさしだした。
「申し分なく走っているよ」と言い、車窓から外を見て、時計をちらとながめた。「今、時速五十三マイル半だ」
「僕は四分の一マイル標に気がつかなかったがね」私は言った。
「僕も気がつかなかったよ。しかしこの線の電柱は六十ヤード間隔だ。計算は簡単なことさ。君はジョン・ストレイカー殺しとシルヴァ・ブレイズの失踪という、この事件をもう調べてみたと思うが」
「テレグラフ紙とクロニクル紙がのせていることは見たよ」
「こいつはね、推理家の技術が、新しい証拠をつかむことよりも、細部を念入りに調べることに使われなくてはならないといった事件のひとつなんだよ。惨劇は非常に異例なものだし、完全だし、非常に多くの人たちに個人的な重大さをもっているのだから、おびただしい憶測《おくそく》やら仮説やらになやまされているんだ。むずかしいのは、さまざまな説をとなえる人間や、いろいろな情報をもちこんでくる人間の余計な言葉から、事実の……絶対的な、否定すべくもない事実の骨組をより分けていくことなんだ。この確固とした土台を踏まえてから、どんな結論がひきだせるか、事件全体がかかっているのは、どの点なのかを知るのがわれわれの仕事だね。火曜日の晩に、馬の所有者のロス大佐と事件を担当しているグレゴリー警部のふたりから、僕の協力を求める電報をうけとったよ」
「火曜日の晩だって!」私は大きな声を出した。「で、今日は木曜の朝にもなってるんだぜ。どうして昨日出かけなかったんだい」
「大失敗をやってしまったんだよ、ワトスン君、こんな失敗は、君の回想録でしか私を知っていない人が考えるより、ずっとありきたりのことなんだよ。実際はね、イギリスでもっとも有名な馬が長い間かくされたままでいられるはずがない、とくにダートムア北部のように人口の非常に希薄なところでは、と思ったのさ。昨日は、馬が見つかって、その誘拐者がジョン・ストレイカーの殺人犯人だという知らせがあるのを、今か今かと待っていたんだよ。しかし今朝になって、フィツロイ・シンプスン青年の逮捕以上になにも発展がないとわかってみると、僕は動き出す潮時《しおどき》だと思ったのだ。だが、ある点では昨日は無駄じゃなかったと思っているよ」
「見込みがついているんだね、それじゃ」
「少なくとも事件の根本的な事実はつかんでいるよ。並べあげて聞かせよう。他の人に話すほど事件をはっきりさせるものはないからね。もし僕たちがどこから手をつけたらよいのかいっておかなければ、君も協力しにくかろうからね」
私は煙草《たばこ》をくゆらしながら、クッションによりかかっていた。ホームズは身体を前にのりだして、急所急所で、長くて細い人差指で左手のたなごころをつつきながら、われわれが旅行する結果になった事件のあらましを伝えてくれた。
「シルヴァ・ブレイズはね」と彼は言った。「アイソノミイ系統の生まれでね。有名な彼の先祖と同じくらい輝かしい記録をもっているんだ。今、ちょうど五歳で、幸運な所有者であるロス大佐に、今まで次々と平場《ひらば》の賞金をもうけさせてきている。事件の起こったそのときまで、彼はウェセクス杯レース第一の人気馬だったのだ。賭金《かけきん》だって、ほかの馬と三対一だった。競馬界ではいつも人気第一の馬だったし、いままで人を失望させたことはなかった。だからどんなに勝ち目が少なくても、この馬に途方《とほう》もない金が賭けられたのだよ。そんなわけで、来週の火曜日発走のときにシルヴァ・ブレイズ号を出場不能にすれば、多くの人間がたしかに大きな利害関係をもってくるね。
このことはもちろんキングズ・パイランドでも十分考慮されていた。あそこには大佐のうまやがあるんだが、人気馬は手段をつくして守られていた。調教師のジョン・ストレイカーはもとは騎手なんだが、騎手として目方が重すぎるようになるまでは、ロス大佐の馬に乗っていたのだ。騎手として五年間、調教師として七年間大佐につくし、いつも熱心で正直な使用人だった。彼の下には若者が三人いてね。建物が小さいから馬は全部で四頭しかいなかった。毎晩若者のうちひとりがうまやに寝ずの番で、その間他のふたりは二階で寝ていたんだ。
三人ともいい人間でね。ジョン・ストレイカーには妻があり、うまやから二百ヤードほど離れた小さな家に住んでいた。子供はないし、小間使いの女をやとって快適な暮らしをしていた。周囲はとてもさびしいが、半マイルほど北には、病人やダートムアの清潔な空気を満喫したいと思う人々に貸すつもりで、タヴィストックの請負師《うけおいし》が建てたひと群れの別荘があるだけだ。そのタヴィストックも二マイル西にあり、一方、同じく荒地をこえて約二マイル向うにはケイプルトンの、ここよりは大きな調教場があり、バックウォーター卿の所有で、サイラス・ブラウンという男が管理している。あとはどの方向にも、まったく荒れはてた荒地がひろがり、ただ何人かの渡り鳥のジプシーが住んでいるだけだ。と、まあこんなのが、先週の月曜の夜の状況で、そのとき、惨劇が起こったのだ。
その夕方、常のごとくに馬は運動させられ、水があたえられ、九時にうまやは鍵《かぎ》がかけられた。二人の若者は調教師の家まで行って、台所で夕食をした。三人目のネッド・ハンターは残って見張りをしていた。九時五、六分すぎたころ、女中のイーディス・バクスターが彼の夕食をうまやに運んで行った。羊のカレー料理だったんだね。うまやには水道の蛇口《じゃぐち》がついているので、飲み物はなにも持って行かなかったし、それに勤務中はほかに何も飲んではいけない規則だった。ひどく暗い夜だったし、道は何もない荒地を通っているので、女中は角灯をさげて行った。
イーディス・バクスターがうまやから三十ヤードほどの所へ来たとき、暗闇の中から一人の男がぬっとあらわれて、彼女に、とまれ、と声をかけた。男が角灯の黄色い光りの輪の中に入って来たとき、彼女は男がグレイのツイードの服をきて、羅紗《ラシャ》のハンチングをかぶった紳士風の男だとわかった。彼はゲートルをつけ、握りのついた重いステッキをもっていた。だが、彼女がひどく印象づけられたのは、彼の顔が人並みはずれて青白いということと、態度がそわそわしていることであった。女中は、男の年が三十を越しているだろうとふんだ。
『ここはいったいどこなんでしょうね?』彼はたずねた。『もう荒地で寝てしまおうかと思っていたんですが、あなたのもっている光が見えたってわけなんですよ』
『キングズ・パイランドの調教場に近いところです』
『ああ、なるほどねえ。なんてまあ、運がいいんだろう』と彼は大声で言った。『馬番の若い衆は毎晩あそこに一人で寝るんでしたっけね。あなたが運んでるのは、その夕食なんですね。さてと、あなただって、新しい着物を作る金をもうけたいくらいは思うでしょうな』
彼はチョッキのポケットから折りたたんだ一枚の紙をとりだした。
『今晩こいつを馬番の若い衆に渡してくれませんか。そうすりゃあなたは、とびきりきれいな着物が買えるってことになる』
彼女は彼の態度が真剣なのにびっくりして、彼の横をかすめて逃げ、彼女が食事を手渡すことになっている窓の所へ行った。窓はすでに開いていた。ハンターは中の小さなテーブルに腰をおろしていた。彼女が今の出来事を話しだしたとき、その見知らぬ男がまた現われた。
『今晩は』と言って、彼は窓をのぞきこんだ。『君に少し話があるんだがね』
女中は、その男がしゃべっているとき、小さな紙片の端が、にぎりしめた手からはみだしていたといっている。
『ここになんの用があるのかい?』若者はたずねた。
『君のポケットがあたたかくなるような用事でさ』その男がいった。『ここにはウェセクス杯出場馬が二頭いるね? シルヴァ・ブレイズ号とベイアード号とさ。秘密な情報を教えてくれないか。決して損はしないぜ。ベイアードは重量からいって、シルヴァ・ブレイズを五ファロンで百ヤード〔約一ファロン〕もぬけるから、ここじゃベイアードに金をかけたというのはほんとうかね?』
『じゃ、てめえもあのけしからん予想屋のひとりなんだな!』若者は叫んだ。『キングス・パイランドじゃ、てめえのような奴を、どう扱うか見せてやる』
彼はさっと立ち上がって犬をはなそうと、うまやの中をかけ抜けた。女中は家へにげかえったが、走りながらふりむくと、その男がのぞきこんでいるのが見えた。けれど一分後に、ハンター青年が猟犬をつれてとびだして来たときにはいなくなっていた。彼はあちこちの建物の回りを走りまわったが、彼の綜跡《そうせき》は全然わからなかった。
「ちょっと待って!」私はたずねた。「馬番が犬をつれてとびだしたとき、ドアにカギをかけずにおいていたんだね」
「すごい、ワトスン君、すごいよ」友がつぶやいた。「その点が非常に重要だと僕も考えたので、そのことをはっきりさせておこうと、昨日ダートムアへ特別電報をうったのだよ。若者は、出る時には鍵をかけておいたのだ。窓といったところで、大の男がくぐりぬけられるほどには大きくなかった。ハンターは同僚が帰って来るのを待っていた。調教師の所へ伝言をやり、起こったことを知らせた。
ストレイカーは話をきいて興奮したが、その真の意味は、ほんとうにはわかっていないようだった。だがそれは彼をなんとなく不安にした。そしてストレイカー夫人が午前一時に目をさましたとき、彼が服をきこんでいるのを見た。彼女の問いに答えて、馬のことが心配で眠れないから、万事が無事かどうかを見に、うまやに行ってくるつもりだと言った。彼女は、雨の窓をたたく音が聞えるから家にいてくれとたのんだけれども、彼は大きな防水外套《ぼうすいがいとう》を着こんで出かけて行った。
ストレイカー夫人は、翌朝七時に目をさましたが、夫がまだもどって来ていないのを発見した。彼女は急いで着物をきて、女中を呼び、うまやに出かけた。
ドアは開いていて、中ではハンターが椅子にぐったりとまったく人事不省《じんじふせい》の状態におちこんでいたし、人気馬の所はもぬけのからで調教師の影も見えなかった。
馬具置場の二階のまぐさ切り場に寝ていた二人の若者はすぐに起こされた。彼らは、夜じゅう、何の物音もきかなかった。ふたりとも、ぐっすりねむるほうだったからね。ハンターはたしか、何か強力な薬をのまされたらしかった。そして正体もなく眠りこけているので、薬がさめるまでそのままにしておき、その間に二人の若者と二人の女は、失踪した調教師と馬とをさがしてかけだして行った。彼らはなおも、調教師が何かの理由で、馬を朝の運動に連れだしたのならよいがと思っていた。
だが、家の近くにある丘にのぼると、そこから付近一帯の荒地が見わたせたが、シルヴァ・ブレイズの影も形もみえなかったばかりか、彼らに何か悲劇が起こったのだと予感させるものがあった。
うまやから四分の一マイルほどの所に、ジョン・ストレイカーのオーバーが、ハリエニシダの茂みにかかっていた。そのすぐ向こうに椀型《わんがた》のくぼみがあり、くぼみの底に不幸な調教師の死体が発見された。彼の頭は、何か重い鈍器でめった打ちにされて砕かれ、腿《もも》には、たしかに何か非常に鋭利な刃物できられた、長いあざやかな傷があった。
しかし明らかにストレイカーは、加害者に対して激しく抵抗したらしい。彼は右手にナイフをにぎりしめ、その握りまで血がこびりついていたし、左手には、赤と白の絹ネクタイをにぎっていた。そいつは女中によって、前の晩うまやにやって来た見知らぬ男がしていたものとわかったがね。
麻痺《まひ》状態から回復したハンターも、ネクタイの所有者については、女中と同様に断言した。彼はまた、その男が窓の所に立っていたとき、羊のカレー料理に薬を入れ、自分を眠らせてしまったのだと言った。いなくなった馬については、運命のくぼみの底の、粘土《ねんど》にたくさんの足跡があったので、格闘の最中、馬がそこにいたことが判明した。しかしその朝からかいもく姿は見えない。莫大《ばくだい》な賞金がかけられ、ダートムアのジプシー全部が目を光らせているにもかかわらず、今もって何の知らせもないんだ。ついに分析の結果、うまや番の若者が食べのこした夕食にはアヘン粉末が、かなり多量に混入されていることがわかった。でも他の人たちが同じものを食べても何のさわりもなかったのだがね。こんなところが、まったく推理を加えずに、できるだけありのままに述べた事件のあらましだ。今度は警察のやったことを要点だけ言ってみよう。
この事件を担当しているグレゴリー警部はとても老練な人で、彼に想像力さえそなわっていたら、この道で非常に出世できると思う。現場へ到着するとすぐに、当然|嫌疑《けんぎ》のかかるあのフィツロイ・シンプスンという男をみつけだして検挙した。
彼をさがしだすには少しも困難はなかった。というのは、あの男は近所ではとても名が通っていたからね。彼は家柄もよく教育もある男なんだが、競馬で財産をすってしまい、今はロンドンのスポーツクラブで、あまり目立たぬ、ささやかな賭けの元締《もとじめ》をやって暮らしを立てている。彼の賭け金帳を調べたら、シルヴァ・ブレイスの対抗馬に総額五千ポンドをかけているのがわかった。
検挙されたとき、彼はキングズ・パイランドの馬や、ケイプルトンでサイラス・ブラウンが管理している第二の人気馬デズブラについて何か情報を手に入れたくて、ダートムアへ出むいたと自供した。すでに話したような前の晩の行動については否認しようともしなかったが、よこしまな計画をしていたわけではなく、ただ、たしかな情報を得たいと思っていただけだ、と断言した。ネクタイをつきつけられて真っ青になり、なぜ被害者の手にそれがあったか、ということは全然説明できなかった。服がぬれていたので、彼が前夜|嵐《あらし》のときに、野外にいたということがわかった。それに彼のステッキがピナン産の棕櫚《しゅろ》で、鉛《なまり》を入れて重みがつけてあり、何度もなぐれば、ちょうど調教師を殺したおそろしい傷をあたえるのにぴったりした凶器だった。
一方、ストレイカーのナイフの状態では、少なくとも加害者のひとりは傷をおっていなければならないはずだが、彼の身体には全然傷がなかった。さて、ざっとわかったろう、ワトスン君。何か意見を言ってくれれば、たいへんありがたいんだがね」
私は、ホームズが、彼独特の明快さで聞かしてくれた話に、非常な興味をもって聞いていた。
大部分の事は、すでに私も知ってはいたが、どれがどれだけ重大なのか、相互にどう関連しあってるのか、よくわからなかった。
「ストレイカーの腿《もも》の傷は、頭をやられた後、発作的にもがいたのが原因じゃないだろうか?」と私は言ってみた。
「たしかに、そうにも思えるんだ。ありそうなことなんだ」とホームズは言った。「そうなると被告にとっては大きな反証がひとつ消えるんだ」
「だがね」と私は言った。「今になっても僕には、警察がどんなふうに考えてるんだか、わからないんだがね」
「われわれがどんな意見をのべようと、警察の意見とはずいぶん違ってるよ」と友は答えた。「警察じゃ、フィツロイ・シンプスンがほんとうにシルヴァ・ブレイズをかっぱらうつもりで若者に一服《いっぷく》もり、どうにかして合鍵を手に入れて、うまやの戸をあけた、と考えているだろうさ。シルヴァ・ブレイズの馬勒《ばろく》がないんだ。だからシンプスンが馬につけたにちがいない。それから戸をあけたままで出て、荒地を通って馬をひっぱって行った。その途中調教師にばったり出あったか、追いつかれたかしたんだ。当然格闘が始まる。シンプスンは重いステッキで、調教師の頭をガンとやったが、ストレイカーが自己防衛に使った小さなナイフでは、少しも傷をうけなかった。馬は泥棒《どろぼう》がどこか秘密のかくれ家にひいて行ったか、あるいは格闘の最中に逃げて荒地にさまよい出ているか。こんなのが、警察で考えていることだろうな。そいつは本当とは思えないんだが、他のどんな解釈でももっと不自然さ。しかし僕は現場へ行ったら、すぐに調べてみるよ。だからそれまではわれわれが現在の段階よりさらに進めるかどうかは、実際わからないね」
われわれがタヴィストックの小さな町についたときには、すでに夜であった。その町は楯《たて》の中央の浮き彫りのように、広大な円型をなしているダートムア地方の真ん中に立っていた。
ふたりの紳士がわれわれを待っていた。ひとりは背の高い獅子《しし》のような頭髪とあごひげのある、するどく人を射すくめるような青色の目の、風采《ふうさい》のよい男で、も一人は小柄な敏捷《びんしょう》そうな男で、フロックコートにゲートルをつけた、こざっぱりとした服装をして、手入れのゆきとどいた、小さなほおひげをはやし、一眼鏡《いちがんきょう》をかけていた。この人が有名なスポーツマンのロス大佐であり、前者が急速にイギリス警察界でのして来ているグレゴリー警部であった。
「わざわざご出張くださって、ありがとう存じます、ホームズさん」と大佐は言った。「当地では警部さんに、可能と考えられるかぎりのことは全部やっていただきましたが、私は草の根をわけても、かわいそうなストレイカーの仇《あだ》をとってやり、私の馬も見つけだしたいと思っております」
「何か新事実がありましたか?」とホームズはたずねた。
「残念ですが、少しも進んでいないのですよ」と警部が言った。
「外に馬車が待たせてあります。日没前に現場をご覧になりたいでしょうから、行きながらでもお話できるでしょう」
一分後には、私たちはみな快適な馬車に乗りこんで、古びたデヴォンシャーの町のなかを走っていた。グレゴリー警部は事件で頭がいっぱいで、たえまなくしゃべりつづけていた。その間ホームズは、ときどき質問したり合づちをうったりしていた。
私はふたりの探偵の言葉のやりとりに興味をひかれて耳をかたむけていたが、ロス大佐は帽子を目深《まぶか》にかぶってじっと腕組みをしていた。グレゴリー警部は、彼の意見を系統だててしゃべっていたが、それはホームズが汽車の中で言ったことと、ほとんど変わりはなかった。
「フィツロイ・シンプスンは十重二十重《とえはたえ》に証拠でかためられています」と彼は言った。「ですから私は、彼が犯人だと信じています。しかし、これまでのところすべては情況証拠ですから、何か新しい事実が判明すれば、すぐにもくつがえる可能性はありますがね」
「ストレイカーのナイフについてはどうですか?」
「私どもは彼が倒れるとき、自分で傷つけたのだという結論に達しています」
「私の友人のワトスン君も、来る途中で同じ意見を言ってましたよ。もしそうだとしたら、このシンプスンという男には不利になるわけですね」
「その通りです。彼はナイフも持っていないし、少しも傷跡がない。彼に不利な証拠は非常に強力です。彼はシルヴァ・ブレイズの失踪には非常な利害関係を持っていた。うまや番に一服もったと疑われている。たしかに嵐のとき外に出ていたし、重いステッキをたずさえていた。彼のネクタイが死体の手の中に発見された。私はすぐに裁判にしてもよいと思いますよ、これじゃあね」
ホームズは首をふった。「賢明な弁護士なら、そんなことは全部|粉砕《ふんさい》してしまうだろうよ」と彼は言った。
「なぜ彼はうまやから馬をつれださなければならなかったか? もし彼が馬をきずつけるつもりだったら、なぜ彼はその場でやらなかったのだろう? 彼の持物の中から合鍵が見つけだせたか? どこの薬局が彼に粉末アヘンを売ったか? とりわけ、この地方に不案内の彼が、どこに馬をかくせたか? こんな有名な馬をね。彼がうまや番の若者にわたしてくれと女中に頼んだ紙片に関して、彼は何と説明していますか?」
「十ポンドの紙幣だと言っています。それは彼の財布にありましたよ。あなたのあげた異議は、考えるほど強力ではないですよ。彼は土地不案内じゃないんです。彼は夏に二度もタヴィストックに泊っていたことがあります。アヘンはおそらくロンドンから持ちこんだものでしょうし、鍵は目的を果たしてから捨てられてしまったと思われます。馬はたぶん、荒地のくぼみか廃坑《はいこう》の中で殺されているかもしれませんね」
「ネクタイについては何と言っています?」
「自分のだとは認めていますが、なくしたのだと言いはっています。しかし、新しい事実があらわれましてね。それで彼が馬をひきだした説明がつくと思いますよ」
ホームズは聞き耳をたてた。
「月曜日の晩に、殺人が行われた所から一マイルと離れていない所に、ひと群れのジプシーがキャンプをした跡が見つかったのですよ。火曜日の晩には彼らは立ち去ってしまいました。さて、シンプスンとこのジプシーたちの間に何か了解がついていたと考えると、彼がジプシーたちの所へ馬をつれて行こうとしていたとき追いつかれた。だから今ジプシーたちが馬をつれているとは思えないでしょうか?」
「たしかにそうかもしれませんね」
「いま荒地中そのジプシーたちをさがしまわっていますよ。私もタヴィストックやぐるり十マイルの間のうまやといううまや、納屋という納屋は全部調べてまわりました」
「すぐ近くに、もう一つの調教場がありましたね?」
「ええ、そいつも見のがせないものなんですよ。その馬の名はデズブラといいますが、そいつは賭金が二番目に多いのです。だからそこの連中は、シルヴァ・ブレイズが失踪すれば利益があるわけですよ。調教師のサイラス・ブラウンは今度の勝負に莫大《ばくだい》な金をかけたそうですし、あの気の毒なストレイカーとは、決して仲がよくなかったのですよ。しかし、われわれは彼のうまやをしらべてみましたが、この事件に関係しているようなものは何もないのです」
「それで、このシンプスンという男が、ケイプルトンのうまやの利害と関係していることも全然ないのですか?」
「全然ないのです」
ホームズは座席の後ろにもたれかかり、話しはとぎれてしまった。数分後、車は軒のつきでた、赤|煉瓦《れんが》の別荘風なつくりの、こざっぱりとした家についた。家は道路そばにあり、調教場をこして少し向こうに灰色の瓦《かわら》でふいた納屋があった。あとはどの方向にも、枯れた羊歯《しだ》でおおわれて、青銅色をした低いなだらかな荒地が、地平線のかなたまでひろがり、さえぎるものはただタヴィストックの町の尖塔《せんとう》と、はるか西の方に見える一群の人家だけであり、それがケイプルトンのうまやだということであった。
突然われわれはホームズがいないのにびっくりした。当の彼は、目前の大空にじっと目をすえて、席の背にもたれかかり、まったく思索《しさく》に没頭していた。私が腕にさわったのでぎくりとし、やっと身をおこして車からおりた。
「失礼いたしました」と彼はロス大佐に言った。大佐はちょっとびっくりしたようすで、彼をまじまじと見つめていたのであった。
「白昼夢《はくちゅうむ》をみていましてね」
彼の両眼にはあるひらめきがあり、態度には興奮をおしころしているところがあった。私は彼の癖《くせ》にはなれていたので、そんなことから彼がどこで見出したかは想像もつかないが、とにかく解決の糸口をつかんだのだと確信した。
「ホームズさん、犯行の現場へいらっしゃるでしょうね?」とグレゴリー警部がたずねた。
「ちょっとここにいて、こまかいことをひとつふたつ、おたずねしたいと思っています。ストレイカーの死体はここに運ばれて来たんでしょうね?」
「ええ、そうしましたよ。二階に置いてあります。検屍《けんし》は明日になっています」
「永い間、あなたの所でつとめていたんでしたね、ロス大佐」
「ええ、いつも良く働いてくれた人間でした」
「ねえ警部、あなたは彼が死んだとき身につけていたものの目録はお作りになったでしょうね」
「もしご覧になりたいのでしたら、品物はまとめて居間においてありますよ」
「ぜひ拝見させて下さい」
私たちはみな、つぎつぎと、表に面した部屋に入り、真ん中のテーブルをかこんですわると、すぐに、警部は四角な錫《すず》の箱のカギをはずして、いろいろなものを私たちの前へならべて見せた。
マッチ箱や、二インチほどの脂《あぶら》ローソクや、A・D・P印のブライアーのパイプや、半オンスほどのきざみのながいキァヴァンディッシュ煙草を入れたあざらし皮の袋、金鎖《きんぐさり》つきの銀時計や、金貨五ソヴリン、アルミニウムの鉛筆入れ、四、五枚の紙片、「ロンドン・ヴァイス社製」と印のついた、非常に精密だが、しなわない刃をつけた象牙|柄《つか》のナイフなどであった。
「これはとても珍しいナイフだ」とホームズはそれを持ちあげて、ちょっと調べてから言った。「血痕がついているところを見ると、死体が握っていたナイフなんですね、ワトスン君、このナイフはたしかに、君の専門の方だよ」
「そいつはわれわれ医者が白内障《しろそこひ》メスといってるやつだ」と私は言った。
「そう思ったよ。非常に精密な刃は、こまかい仕事のためにつくられているんだ。荒っぽい仕事に出かける人間にはおかしな物だね。とくにポケットにしまってなかったというのは」
「刃には丸いコルク盤をつけて保護してありましたよ。私たちが死体のそばで発見したんですが」と警部は言った。「ストレイカーの妻はそのナイフは数日間、化粧台の上においてあり、彼が部屋を出て行くとき持って行った、と言っています。貧弱な武器ですが、おそらくそのとき、手にしうる武器としては最上だったのでしょう」
「おそらくそんなことでしょう。この紙についてはどうですか?」
「三枚は乾草商人の勘定書。一枚はロス大佐からの命令の手紙。この一枚はボンド・ストリートの服飾店主ルスリエ夫人が、ウィリアム・ダーヴィシャーあてに出した、三十七ポンド十五シリングの勘定書。ストレイカー夫人は、このダーヴィシャーという男はストレイカーの友人で、ときどきここへダーヴィシャーにあてた手紙が来たという話をしていました」
「ダーヴィシャーという男のご夫人は、なかなかぜいたく好みな人なんだな」とホームズは勘定書を見ながら言った。「二十二ギニーという値段は、服一着にしてはちょっと高いね。さて、もう見るものもなさそうですね。じゃ、これから犯行の現場へ行ってみましょうか」
われわれが居間から出て来たとき、廊下で待っていたひとりの女が進みでて警部の袖口《そでぐち》をとらえた。顔はやつれてやせこけており、面上に最近うけた恐怖の表情をそのままに、真剣な表情をうかべていた。
「犯人はつかまりましたか? みつかりましたでしょうか?」と彼女は口早やに言った。
「まだですよ奥さん。でもここにいらっしゃるホームズ氏が、私たちを助けにロンドンから来て下さいましたから、できるかぎりのことはいたしましょう」
「奥さん。たしか、しばらく前にプリマスの園遊会でおめにかかりましたね?」とホームズは言った。
「いいえ、人ちがいですわ」
「おやおや! いいえ、たしかにあなたでしたよ。あのときあなたは鳩色の絹の服に、ダチョウの羽根かざりをつけていらしたじゃありませんか」
「私そんな服、持っていませんわ」
「ああ、それでわかりました」
彼はわびを言ってから、警部について外に出た。荒地をしばらく歩いて、われわれは死体の発見されたくぼみへ到着した。ふちにはハリエニシダの薮《やぶ》が茂り、その上にストレイカーのオーバーがひっかかっていたのだった。
「たしかあの晩、風はなかったですね?」とホームズはたずねた。
「ええ、だがひどい大雨でしたよ」
「それじゃオーバーは、ハリエニシダの薮にとばされたのではなく、かけておいたのですね?」
「ええ、そうです。上においてありましたよ」
「これはおもしろいことになった。土がひどく踏みつけられていますが、犯行当夜以来、たくさんの人間がここを踏んでるわけでしょうな」
「むしろ一枚ここの横の所にしいて、みんなその上に立つようにしてきたのです」
「それはいい」
「ストレイカーのはいた長靴と、フィツロイ・シンプスンの靴と、シルヴァ・ブレイズの落した馬蹄《ばてい》を片方ずつカバンに入れて持って来ましたよ」
「グレゴリー警部、そいつはすばらしい!」
ホームズはカバンを受け取って、くぼみの底におりると、むしろをもっと中央の方へおしやり、はらばいになって、あごに両手をあてて、目の前のふみつけられて固くなった泥を克明に調べはじめた。
「おや! これは何だ?」彼は突然に言った。それは燃えさしの蝋《ろう》マッチであった。しかしひどく泥にまみれていたので、最初は木の切れはしのように見えた。
「どうして見おとしたんだろうな?」と警部はまごついたような表情を浮かべた。
「わからないはずですよ。泥にうまっていたんですから。私はさがしていたから見つかっただけですよ」
「なんとおっしゃる! じゃ、あなたは見つかるはずだと思っていたのですか?」
「ありそうなものだと思っていたのですよ」彼はカバンから靴をとりだして、靴底と、土についた足跡とをひとつひとつくらべてみた。それがすむと、くぼみのへりまで登って来て、羊歯と茂みの中を、あちこちがさがさとはってまわった。
「それ以上手掛りはないんじゃないですか」と警部は言った。「ぐるり百ヤードは綿密にしらべてみたんですよ」
「なるほど」とホームズはおきあがって言った。「あなたがそうおっしゃる以上、私がまた調べるのも無作法でしょう。だが私は、日が暮れる前に荒地をちょっと散歩してみたいんですよ。明日調べるのにここがよくわかっているようにね。それから幸運が向くように、この馬蹄はポケットに入れて行きましょう」
ロス大佐は、私の友の落ちついた組織的な仕事の進め方に、少々いらいらしたようすをみせていたが、そのとき、時計をみて口をはさんだ。
「警部さん、あなたは私と一緒に帰宅していただけないでしょうか。二、三の点で、あなたのお知恵を拝借させていただきたいことがありますので。とくに、ウェセクス杯レースの名簿からシルヴァ・ブレイズの名を除くと公表しなくてもよいかどうかについて」
「もちろんしなくてもいいですとも」とホームズは、きっぱりと言った。「私は名前をのせておいたほうがいいと思いますね」
大佐は頭をさげた。「あなたのご意見をうかがえまして、たいへんうれしく存じます。私たちはストレイカーの家におりますから、ご散歩が終りましたら、いらっしゃって下さい。それからタヴィストックまでご同乗いたしましょう」
彼は警部と一緒に帰って行き、ホームズと私は荒地をゆっくりとあるいた。太陽はケイプルトン厩舎《きゅうしゃ》のかなたに沈みかけはじめていた。そして眼前の長くなだらかな野原は金色に染まり、枯れた羊歯《しだ》やいばらのある所は、夕暮の光を受けて茶色にと、色が深くなって行った。だがこの景色の壮麗さも、私の友には何の興味もひかなかった。友は深い物思いに沈んでいた。
「こんなふうだと思うんだ、ワトスン君」とうとう彼が口をきいた。
「しばらくはジョン・ストレイカーの殺人犯の問題をそのままにしておいて、馬がどうなっているか解決することに専念できると思う。さて、あいつが惨劇中かその後に逃げだしたとすると、どこへ逃げただろうかね? 馬というやつは非常に群居性の強い動物だ。もしほうりっぱなしにしておかれたら、彼は本能的にキングス・パイランドに帰ったか、ケイプルトンに行ったかしているはずだ。どうして荒地を無茶苦茶につっぱしったりするものか。そうすりゃすぐ人目についたに違いない。それに、どうしてジプシーがシルヴァ・ブレイズを誘拐しなきゃならないだろう? こういう連中は事件の噂でも聞こうものなら、さっさと立ちのいてしまうんだ。警察につきまとわれたくないからね。連中があんな有名な馬を売りたがるはずがないんだ。連中がシルヴァ・ブレイズを手に入れたって、危ない橋をわたるだけで得るところは何もないんだ。明瞭なことだよ」
「じゃ、馬はどこにいるんだろうね?」
「もう言ったろう。キングズ・パイランドかケイプルトンへ行ったにちがいないって。キングズ・パイランドにはいないんだから、ケイプルトンにいるのさ。それを基礎的仮説としてみて、それがどんな結果になるか、みてみようじゃないか。グレゴリー警部が言ったように、荒地でもこのあたりは非常に地盤が固くて乾燥している。しかし、ここからはケイプルトンに回って下り坂になっているから、ほら、ずっと向こうに長いくぼみがあるのが見えるだろう、あれは月曜の晩には、とても水が多かったにちがいない。もし僕の考えが正しければ、あの馬はあそこを渡ったのだ。だからあそこで足跡を調べてみなくちゃね」
こんな会話を続けながらわれわれは足早に歩いていたが、なお数分も歩いてから、問題のくぼみにたどりついた。ホームズの求めるままに私はそのへりを右にあゆみ、彼は左へと歩いて行った。だが五十歩と歩かないうちに、彼は大声で叫び、私に向かって手を振った。馬の足跡が、彼の前のやわらかい土に、はっきりと印されていた。その足跡は、彼がポケットからとりだした馬蹄とぴったり符合した。
「想像力の価値はごらんのとおりだ。グレゴリーに欠けているものの一つは、この才能なんだよ。われわれは起こったかもしれぬことを想像し、その仮定にもとづいて行動した。それでわれわれが正しいということがわかった。さあ前進しよう」
われわれは、じめじめした底部を横断し、四分の一マイルの乾いて固い芝地を通りこえた。すると、またもや土地は傾斜して、われわれは再び足跡を見いだした。それから半マイルほどまた見失われたが、再びすぐに、ケイプルトン厩舎《きゅうしゃ》のごく間近《まぢか》で発見したのであった。それを最初に見つけだしたのはホームズであった。彼は得意そうな表情を顔にうかべながら、立ったままそれを指さした。人間の足跡が馬の足跡のそばに見られたのだ。
「前には馬だけだったじゃないか!」と私は叫んだ。
「そうなんだ。初めは馬だけだったのだ。ねえ、おい! これはどんなわけなんだい?」
二重の足跡は、急に向きをかえて、キングズ・パイランドの方に向かっていた。われわれは足跡に従ってあるいていたが、ホームズは口笛をふいていた。彼は足跡から目をはなさなかったが、私がたまたま、ちょっとわき目をそらしたとき、おどろいたことには、同じ足跡が逆にもどって来ているのを発見した。
「でかした! ワトスン君」と私がそれを指さすと、ホームズが言った。「おかげでずいぶん無駄足をせずにすんだよ。ひっかえさなきゃならなかっただろうからね。もどってる方の足跡について行こうじゃないか」
たいして歩く必要もなく、足跡はアスファルト道路でつきていた。そして道路はケイプルトン厩舎の門に通じていた。われわれが近づいて行くと、ひとりの馬丁がとびだして来た。
「ここらへんをうろついてもらいたくないね」と彼は言った。
「なに、ひとつ聞きたいことがあるだけなんだよ」とホームズはチョッキのポケットに指を二本かけながら、「あしたの朝五時に、君の親方のサイラス・ブラウン氏を訪ねるとなると、はやすぎてだめかね?」
「あれあれ、あんた! だれだって会うつもりなら会えますさ。あの仁《じん》はいつだって、一番の朝おきだからね。だが、ほれ旦那が出て来ましたよ。あの人にじかにおききになりなせえ。いいや、だめですだ、旦那。あんたから金をうけとったりなんぞしたのを見られたら、くびですだ」
シャーロック・ホームズが、ポケットからとりだした半クラウン銀貨を、またポケットにもどしたとき、きつい顔をした年配の男が、手にした狩猟用のむちを振りながら、門から大股に出て来た。
「どうしたんだ、ダウスン?」と彼は叫んだ。「おしゃべりしてるんじゃない。仕事にとりかかれ! それから、おまえさん……いったい全体、ここに何の用事かね?」
「ああ、あなたと十分ばかり話がしたいんですが」
「おれはぶらぶらしてる奴と、いちいち話をしてるひまはねえんだ。知らねえ人間は、ここに来てもらいたくないね。行きな。さもなきゃ犬をけしかけるぜ」
ホームズは前こごみになって、調教師の耳に何事かささやいた。調教師は、ぎょっと身をすさらせ、こめかみまで真っ赤になった。
「うそだ! 途方もねえ大うそだ!」と彼はわめきたてた。
「それじゃよろしい。じゃ、ここで大っぴらに話をしましょうか? それともあなたの所の客間で話しましょうかね」
「いやいや、よろしかったら入って来て下さい」
ホームズは微笑した。
「五分と手間はかからないよ、ワトスン君。さて、ブラウンさん、あなたのお申し出どおりにいたしましょう」
しかし、たっぷり二十分くらいはかかったのである。そしてホームズと調教師が出て来たときには、真っ赤な夕焼けが鉛色に変わってしまっていた。私は、かくも短い間にサイラス・ブラウンの顔にあらわれたような変化を今までにみたことがなかった。顔の色は灰のように白くなり、あせのしずくが額に光っていた。彼の手はぶるぶるとふるえ、手にした狩猟用むちといったら、風にゆれる小枝のようであった。彼の恫喝《どうかつ》的な威圧的な態度も、やはりあとかたもなく、主人につき従う犬のようにすくみあがって、わが友のかたわらに立っていた。
「ご命令どおりにいたしましょう。その通りにいたしますから」と彼は言った。
「まちがいはありますまいね?」とホームズは彼をじろりとながめた。調教師はホームズの目に脅迫的なものを見てとってひるんだ。
「もちろんですとも。まちがいなくそういたしますとも。必ずつれて行きますよ。最初から変えておきましょうか? そうでないほうがいいですか?」
ホームズはちょっと考えていたが、すぐに大声で笑いだした。
「いや、そうしないほうがいい。私はそのことで手紙をかいてやるよ。もう何もごまかすなよ。もしごまかしでもしたら……」
「いいえ! もう絶対にいたしませんとも」
「君は当日、シルヴァ・ブレイズを自分のもののように面倒をみてくれなければいけないよ」
「どうぞ、私を信用して下さい」
「うん、信用しているよ。よろしい。では明日知らせるからね」
調教師がふるえながらさしだす手には目もくれずに、くびすをかえして、われわれはキングズ・パイランドに向けて帰途についた。
「サイラス・ブラウン親方ぐらい、いばりやで卑怯で、ずるい男にあったことはないね」
ふたりならんで、てくてく歩きなからホームズが言った。
「それじゃ、シルヴァ・ブレイズがいたんだね?」
「彼はそのことをおどしでごまかそうとしたんだ。だが僕が、その朝彼のとった行動を、そのとおりに言って見せたものだから、私が見ていたと信じこんだわけだ。もちろん君も足跡が妙に四角になっている爪先《つまさき》で、またそれが彼の長ぐつとぴったり合うのにも気がついていただろう。それにまた、使用人ならだれだって、そんな大それたことは、やる気にならなかったろうからね。私は、彼が習慣どおり一番はじめに起きだして来たとき、見なれぬ馬が荒地をうろうろしているのを見て、とひだして馬の方へ行った模様や、シルヴァ・ブレイズという名の由来であるその白い額から、それが、彼が金をかけている馬を破りうる唯一の馬であり、その馬がたまたま彼の意のままになるチャンスにめぐまれたおどろきようを話してやった。次に、彼がとっさにはシルヴァ・ブレイズをキングズ・パイランドにひいて行こうとしたが、レースが終るまで馬をかくしておけるじゃないかという悪心がめばえ、またひきかえして、うまやにかくしたことを話してやった。私が細かいところをひとつひとつ説明したら、彼も観念して、わが身大事と考えるようになったのさ」
「しかし、彼のうまやは調査ずみだったぜ」
「ああ、そのことなら、彼のようなしたたかな調教師には、いろいろ策はあるのさ」
「だがね。彼はシルヴァ・ブレイズを傷物にすればどうしたって得をするんだから、現在彼の手にゆだねておくのは不安じゃないかい?」
「いやいや君、彼は目に入れてもいたくないほど大事に扱うよ。彼もシルヴァ・ブレイズを無きずのままにしておくことだけが、罪をのがれる望みだぐらいは知ってるよ」
「ロス大佐はどんなときでも、大して慈悲《じひ》心なぞ持ちあわせているような人間には見えないがね」
「事はロス大佐の気持|如何《いかん》じゃないさ。僕は僕流にやる。だから自分のお好み次第にしゃべるよ。そこは官吏でないおかげだね。ワトスン君、君はどうとったか知らないが、ロス大佐の態度は少しばかり僕に対して横柄《おうへい》だったよ。今度は彼の金で少し楽しんでみたいよ。シルヴァ・ブレイズのことは何もしゃべらないでくれたまえ」
「うん。君がいいというまで絶対に言わないよ」
「それからね、もちろんこいつは、ジョン・ストレイカーの殺人犯の問題にくらべたら、ごくつまらない事件だ」
「じゃ君は、そっちに専念するんだね?」
「その反対さ。われわれは夜汽車でロンドンへ帰るのさ」
私は友の言葉に仰天《ぎょうてん》してしまった。われわれはわずか数時間デヴォンシャーにいただけなのだ。それに、彼がかくも華々しく開始した調査をやめてしまうというのは、私にはまったく不可解であった。調教師の家に帰りつくまで、友はそれ以上、一言半句《いちごんはんく》もしゃべらなかった。大佐とグレゴリー警部は、客間で私たちを待っていた。
「われわれは、夜行でロンドンへ帰りますよ。美しいダートムアの空気を、しばらくですが、きもちよく楽しませていただきました」
警部は目を見はり、大佐はあざ笑うように口をゆがめた。
「それでは、あなたはかわいそうなストレイカーの殺人犯逮捕に、[さじ]をなげられたのですな」と彼は言った。ホームズは肩をすくめた。
「たしかに重大な困難が横たわっていますね。しかし来週火曜日に、あなたの馬が発走できることは、大体大丈夫でしょう。ですから騎手を支度させておいて下さるように。ストレイカー氏の写真をいただきたいのですが」
警部はポケットの封筒から、二枚の写真をとりだして彼に手渡した。
「グレゴリーさん。あなたは私のほしいものを、いつでも用意しておいてくれますね。ちょっとここで待っていてくれませんか。私は女中にたずねたいことがあるんですが」
「私はロンドンから来てもらった探偵には、いささかがっかりしてしまったね」
大佐は私の友が部屋から出て行ったとき、無愛想に言った。
「彼がやって来たときから事態が少しでも進展したとは思えないじゃないか」
「少なくともあなたは、シルヴァ・ブレイズが出場するだろうという保証を得たじゃありませんか」と私は言った。
「ええ、保証は得ましたがね」と大佐は肩をすくめながら言った。「私には馬がもどって来たほうがよいのですよ」
私が友の弁護に何か答えようとした、ちょうどそのとき、彼がすぐにもどって来た。
「さて皆さん、いつでもタヴィストックにお伴《とも》いたしますよ」
われわれが馬車に乗ろうとしたとき、うまや番の若者が車のドアをあけてくれた。突然ホームズは何事か思いついたらしく、身をかがめて若者のそでに手をかけた。
「調教場のすみに羊を飼っていますね。誰が面倒をみるんですか?」
「私がやりますよ、旦那」
「最近、羊がどこか具合が悪いのに気がつかなかった?」
「はあ、大したことじゃないんですが、三匹がびっこになりましてね」
私には、ホームズが非常に満足したのがわかった。彼はちょっと笑って、両手をこすり合わせていた。
「あやふやな推量だよ、ワトスン君。かなりあやふやな推量だったがね、これは!」
彼は私の腕をにぎって言った。
「グレゴリーさん、羊どものこのおかしな伝染病に注意して下さいよ。さ、行ってくれ、馭者《ぎょしゃ》君」
ロス大佐は、なおも私の友の才能をみくびっている表情をうかべていたが、私には警部の顔つきから、彼が強く注意をひかされたのがわかった。
「あなたは、それが重大だとお考えになりますか?」
「ええ、非常に重大だと思いますね」
「ほかに私が注意をむけた方がよいと思う点はございませんか?」
「当夜の犬のおかしな動きについてね」
「当夜、犬はなにもしませんでしたがね」
「それがおかしなことなんですよ」
それから四日後、ホームズと私は、ウェセクス杯レースを見るべく、再びウィンチェスター行の列車の人となった。ロス大佐は打ち合わせどおりに、駅の外でわれわれと一緒になり、われわれは彼の馬車で、町はずれの競馬場へと向かった。大佐はむずかしい顔つきをして、態度はひどく冷淡であった。
「私の馬の気配もありませんね」と彼は言った。
「馬をごらんになれば、シルヴァ・ブレイズだとおわかりになると思いますが?」とホームズは言った。大佐は色をなした。
「私は二十年も競馬場に出入りしてますが、そんな質問をうけたおぼえはありません。西も東もわからない子供だって、白い額と前脚の総まだらをみればシルヴァ・ブレイズとわかるでしょう」
「賭《かけ》の方はどうなんですか?」
「ええ、そこがおかしいんですが……昨日なら十五対一にもなったでしょうが、差がますますなくなって、今じゃ三対一でもやっとのところです」
「ふーむ。だれかが何か、かぎつけたな。たしかにそうだ」
馬車が大観覧席のそばの構内にとまったとき、私は出場馬掲示表をちらっとみた。それは次のように書かれていた。
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ウェセクス杯レース
各出場馬、金五十ソヴリンのステークス。出場権利四歳および五歳馬。一着には千ソヴリン付加賞。二着三百ポンド。三着二百ポンド。新コース〔一マイル五ファロン〕
一 ヒース・ニュートン氏 ニグロ号(赤帽、肉桂衣)
二 ウォードロー大佐 ピュージリスト号(紅帽、青黒衣)
三 バックウォーター卿 デズブラ号(黄帽、黄袖)
四 ロス大佐 シルヴァ・ブレイズ号(黒帽、赤衣)
五 バルモラル公 アイリス号(黄黒縞)
六 シングルフォード卿 ラスパー号(紫帽、黒袖)
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「私どもは別の一頭は出さずに、あなたのお言葉に、すべての望みをかけているのですよ」と大佐はつげた。
「おお! これはどうしたんだ。私のシルヴァ・ブレイズがいるのか?」
「シルヴァ・ブレイズ号に五対四!」呼び声がかしましかった。
「デズブラ号に十五対五! 場内相場五対四!」
「数だけ全部ならぶぜ!」私が叫んだ。「全部で六頭だ!」
「全部で六頭だって! じゃ私のシルヴァ・ブレイズも走るんだ」大佐はひどく興奮して叫んだ。「私にはわからない! 私の騎手は通らなかった!」
「まだ五頭通過しただけですよ。これがそうにちがいない」私がこう言ったとき、たくましい栗毛《くりげ》の馬が計量所から走り出して来て、われわれの前を緩駆《ゆるが》けで通りすぎて行った。その背にはロス大佐の色として有名な黒帽赤シャツの騎手をのせていた。
「あれは私の馬じゃない!」と大佐は言った。
「あれには白い毛が全然ない。ホームズさん、あなたはいったい全体、何をなさったんですか?」
「いやいや。あの馬がどうやるか、みていようじゃないですか」
私の友は平然と言ってのけ、しばらくの間、シルヴァ・ブレイズを双眼鏡でじっと見ていた。
「すごい! すばらしいスタートだ!」彼は突然、叫び声をあげた。
「ほら! あそこだ。コーナーを曲がってくる!」
われわれは馬車から、彼らが直線走路を走ってくる、すばらしいながめを見ることができた。
六頭の馬は、じゅうたん一枚で覆《おお》いかくせるほどに、かたまって走っていた。そして半分ほど走ったとき、ケイプルトンの黄色がトップに出たが、われわれの前に来たときには、すでにデズブラの力走も及ばず、ロス大佐のシルヴァ・ブレイズは疾走して、決勝点を通過したときには、好敵手デズブラを、六馬身もひきはなしていた。バルモラル公のアイリスは、不運にも三着であった。
「いずれにしろこのレースは、私のものなんですが」と大佐は目をふきながら、息をきらして言った。
「正直なところ、私には何がなんだか全然わからないのですよ。ホームズさん、あなたはこの秘密をいつまでもあかさないおつもりじゃありますまいね」
「もちろんですとも大佐。逐一《ちくいち》ご説明いたしましょう。みんなで行って馬を見ることにしましょう。……ああ、ここにいますよ」とホームズは、私たちが計量所へ入って行くと馬を指さした。計量所へは所有者とその友人だけが入場できるのであった。
「この馬の顔と足を酒精《しゅせい》で洗いさえすればいいんです。そうすれば、これがもとどおりのシルヴァ・ブレイズだとわかりますよ」
「まったくおどろかされますね」
「私はあるペテン師の手に落ちていたのを発見して、自分の一存で、つれだされた時のまま走らせたんですよ」
「あなたはまったく、われわれの考えも及ばないことをなさった。シルヴァ・ブレイズはまったく好調でした。今までになく調子がよかったですよ。ほんとうに、あなたの手腕をうたがったりして、いくらおわびしてもたりません。ご尽力によって馬を戻していただきましたが、ジョン・ストレイカーの殺害犯人をもとらえていただければ、ほんとうにありがたいのですが」
「とらえておきましたよ」とホームズは言った。大佐も私も、びっくりして彼をみつめた。
「とらえてしまったのですって! で、どこに居るんですか、そいつは?」
「ここにいますよ」
「ここですって! どこですか?」
「現在われわれの中にですよ」
大佐は怒気《どき》満面にあふれた。
「ホームズさん、あなたのおかげをこうむっていることは、私も十分承知しておりますが、あなたの今おっしゃったお言葉は、たちのよくない冗談か侮辱《ぶじょく》としか考えられません」
シャーロック・ホームズは声を立てて笑った。
「大佐、私は何もあなたを犯人だと申し上げたのじゃありません。真犯人は、あなたのすぐ後ろに立っているんですよ」
彼はつかつかと歩みよって、純血種の馬のつややかな首に手をかけた。
「馬が!」大佐と私は同時に叫んだ。
「ええ、馬ですよ。そして馬は正当防衛のために彼を殺したのであり、ジョン・ストレイカーは、まったくあなたの信頼に価《あたい》しない人物だったと申し上げれば、この馬の罪も少しは軽くなることでしょう。しかしベルが鳴っています。私も今度のレースで少し勝てそうなんですよ。もっとよい時まで、詳しい説明は延ばすことにしましょう」
その晩ロンドンへ帰るときに、われわれは寝台車の一隅《いちぐう》に席をしめた。しかしその旅は私と同様、大佐にとっても短い旅だったろうと思う。というのは、われわれふたりはあの月曜日の晩、ダートムアの調教場で起こった事件と、その解決方法について、ホームズが語る話に耳をかたむけていたからである。
「実をいいますと、私が新聞記事から組み立てたいくつかの推理は、全然まちがっていたのですよ。しかしそういった記事の真に重要な所が、他のつまらないごたごたで粉飾されていなかったら、数々の暗示はあったのですがね。私はフィツロイ・シンプスンが真犯人だと思いこんで、デヴォンシャーに行きました。しかしもちろんのこと、彼を真犯人とする証拠が決して十分に完全でないとは知っていましたが。私が、羊のカレー料理が非常に重要なのだと気がついたのは、ちょうど調教師の家についたとき、まだ馬車に乗っていた間でした。私がうわの空で考えこんでいて、あなたがた全部がおりてしまってもすわっていたのを、おぼえておいででしょうね。私は、どうしてこんなはっきりした糸口を、見のがしていたんだろうと、われながら驚いていたんですよ」
「私には今になっても、どうしてそれが解決の糸口なのかわかりかねますが」大佐が言った。
「それが私の推量という鎖《くさり》の最初の手がかりになったのです。粉末アヘンは決して味のないものじゃありません。味は悪くはないけれど、ちゃんと感じられます。もし普通の料理に混入されていたら、それを食べたらまちがいなく気がついて、それ以上は食べますまい。カレーはまさしくこの味をごまかす媒介物だったのですよ。赤の他人であるフィツロイ・シンプスンが、その晩、調教師の家の者にカレーを食べさせるようにできるとはどうしたって考えられませんし、それにまた、アヘンの味を消すカレー料理がつくられたちょうどその晩に、彼がアヘン粉末を偶然にも持って来ていたとは、あまりに話が合いすぎて、これも考えられません。そんなことは考えられません。だからシンプスンはこの事件から除外される。
ですからわれわれの注意は、その晩の夜食に羊のカレー料理を選ぶことのできたふたりの人間、つまりストレイカーと彼の妻に集中するのです。アヘンは、料理がうまや番用にと分けられたあとで混入された。というのは、他の人間は同じ夜食を食べても何の悪い影響もなかったからです。ではふたりのうちどちらが女中に見られずにその皿に近づけたか?
……その問題を解決するより先に、私は犬が吠えなかった点に重要なところがあると考えました。というのは、ひとつの正しい結論は必ず他の結論に暗示をあたえるものですからね。シンプスンの事件で、私はうまやには犬が飼ってあることを知りましたが、なおまた、その犬が、だれかが中に入って馬をつれだしたにもかかわらず、二階にねている二人の若者をおこすほどには吠えなかったことにも気がつきました。たしかに深夜うまやに入ったものは、犬のよく知っていた人間だったわけです。
私はそこで、ジョン・ストレイカーが真夜中にうまやに入ってシルヴァ・ブレイズをつれだしたのだと確信いたしました。いや、おおよそ確信してしまったと申し上げましょうか。
それでは、どんなつもりでつれだしたのか? もちろん不正な目的のために。そうでなかったら、なんでうまや番に一服盛らなきゃならないでしょう? しかしその理由を知るについては、はたと当惑してしまいました。以前代理人をつかって自分の馬の対抗馬に賭け、ペテンによって故意にまけて大もうけをした調教師の事件はいくつもありました。ときには騎手に手加減をさせたり、ときにはもっとたしかな手のこんだ手段でした。この場合はどんな手段だったでしょう?
私は彼のポケットの中にあったものが、結論を下す助けになればと思いました。やはりそうだったのです。死体の手に握られていた、あのおかしなナイフをおぼえておいででしょうね。あのナイフはあたりまえの人間なら武器などにわざわざもちだしたりはしないでしょう。ワトスン博士もおっしゃったように、外科で知られている、もっともむずかしい手術に使われる型のナイフです。ですからあれはその晩、手のこんだ手術に使われることになっていたのです。
ロス大佐、あなたはお広い競馬のご経験から、全然なんの痕跡《こんせき》も残さないように皮膚の下で馬の腿の後部の腱《けん》にちょっと傷をつけることができるのをご存じにちがいない。馬がそれをやられると、ちょっとびっこをひきますが、練習で筋をちがえたか、ちょっとしたリューマチと思われて、不正手段だとは全然きづかれないのです」
「悪者奴《わるものめ》が! あいつはそんな男だったか!」
「さて、なぜジョン・ストレイカーが馬を荒地につれだしたかはこれでわかります。馬は非常に元気な動物ですから、ナイフでちくりとやられれば、どんなにぐっすりねむっている人間でも起こしてしまうにちがいない。だからどうしても野外でやらなければならなかったわけですよ」
「私はめくらも同然だった!」と大佐は言った。「それで蝋燭《ろうそく》が入用だったり、マッチをすったりしたんですね」
「そうです。それに彼の持ち物を調べていて、私は運よく彼の犯罪方法ばかりでなく、その動機さえも発見してしまったのです。大佐、あなたは世故《せこ》にたけた方でいらっしゃる。だれでも自分のポケットに他人の勘定書なぞ入れて歩くもんじゃないことはご存じですね。まあ大体が私たちは自分の払いをするのに手一杯なのですから。他人の勘定書をみてすぐに私は、ストレイカーが二重生活を送っており、外にもう一軒家をかまえていると結論しました。勘定書の性質からして、この事件には女が関係している、その女は派手ごのみだとわかりました。いくらあなたが使用人に対して大まかだとしても、あなたの使用人が女のために二十二ギニーの外出着を買ってやれるとは考えられますまい。私はストレイカー夫人に真意をさとられぬように服のことをたずねてみましたところ、彼女はうけとっていないとのことで、私の考えも満足しました。私は服飾店の番地をかきとめ、ストレイカーの写真を持って行ったら、このわけのわからぬダーヴィシャー事件も簡単にかたづくなと思いました。
そのとき以来、何もかもはっきりしました。ストレイカーは馬をひきだして、彼のともす灯が見えないくぼみへつれて行きました。シムプスンは逃げる途中ネクタイを落しましたが、ストレイカーは何か考えがあってそれをひろっておきました。たぶん馬の足でもしばっておくつもりだったのでしょう。くぼみの中で彼はすぐに馬の後ろにまわるとマッチをすりました。ところが馬は、突然の光におどろいたのと、不思議な動物の本能から、なにか悪事がたくらまれているのを感じとったのとから、だっと飛びだしたのです。そのとき鉄の馬蹄が、ストレイカーの額を真っ向からガンとやったのですよ。彼は雨が降っていたにもかかわらず、むずかしい手術をするために、すでにオーバーをぬいでいました。だから彼が倒れたとき、ナイフが太腿《ふともも》をぐさりと刺したのです。はっきりいたしましたか?」
「すばらしい! まったく驚嘆すべき推理だ! あなたがその場にいらっしゃったようですよ」
「私の最後の推理は、まことに向こうみずとも申さねばなりません。私はふとストレイカーのような抜け目のない男が、少しも練習しないでこの厄介《やっかい》な手術をやるはずがないと思いつきました。彼は何で練習したでしょうか? 私は羊に目をつけました。羊のことをたずねてみましたところが、むしろ意外だったのですが、私の推理の正しかったことがわかりました」
「すっかりわかりましたよ、ホームズさん」
「ロンドンに帰ってから服飾店をたずねますと、ストレイカーが、ダーヴィシャーの名前でよいおとくいになっており、彼には、ぜいたくな服装に異常な好みを持っている派手な女があることがすぐにわかりました。うたがいもなくこの女が、彼を借金で首がまわらないようにしてしまい、その結果彼をこのみじめな悪事に走らせたんですね」
「あなたはすっかりご説明して下さいましたが、ただひとつ残していらっしゃる」と大佐は言った。「馬はどこにいたのですか?」
「ああ、馬は逃げだしてから、近所の人間に面倒をみてもらっていたのですよ。そういった面は大目にみてやらなければなりますまい。ここはたしかクラバム連絡駅ですね。十分たらずでヴィクトリア駅につきます。大佐、よろしかったら私どもの所で一服なさいませんか? あなたがご興味を持たれるような、他のいろいろな点についても、よろこんでお話しいたしましょう」
[#改ページ]
黄色い顔
わが友の非凡な才能によって私が聞き手ともなり、また時には私自身もたまたま奇妙な劇中の人物になったことのある数多くの事件を、こうした短い話として発表するに当って、私が友人ホームズの失敗よりも、成功した事件のほうを選ぼうとするのはむしろ当然のことだろう。これは決して彼の名声をあげるため言うわけではない。というのは彼の精力と多芸さは難局に立ち至ったときにこそ真面目《しんめんぼく》を発揮するのだから……。しかし彼が解決できなかった事件は何人《なんぴと》といえども解き得るはずもないわけで、それでは話も結末がないままに残されてしまう。ときに彼が失敗するようなことがあっても、真相は必ず解明されている。私はそうした事件を五つ六つ書きとめているが、その中では「第二の汚点」の事件と、これから私が話そうとしているものの二つが、最も興味深いものである。
シャーロック・ホームズは運動のための運動というのはめったにしない男だ。しかし彼以上の肉体的労働に耐えられる男は少ないだろうし、彼の重量級でなら私の知る限りもっとも優れたボクサーのひとりであることは疑いもないところだ。といっても彼は目的のない肉体運動は精力の浪費だと考えていたから、何か職業的な目的がなければ、めったに体を動かすことはしないのである。
だが彼は、たいした疲れ知らずで、怠《なま》けることもなかった。こんな生活でいて常に活動力を保っていることはたいしたもので、彼の食事にしてみても、平常ごく粗末で、日常生活も簡単で峻厳《しゅんげん》そのものだった。ときたまコカインを用いるのを徐けば彼は全く悪習もなく、そのコカインだって、事件もなく、新聞にもいっこう興味を呼ぶような記事がないときに、退屈しのぎにやるくらいのものだった。
春も浅いある日のことだが、彼が私といっしょに公園を散歩するくらいにくつろいでいることがあった。公園には楡《にれ》の木が緑の新芽をふきはじめ、ねばねばした槍《やり》の穂先のような胡桃《くるみ》の木の新芽も五葉に開きはじめている。われわれはお互いに気心のよくわかった者の常として、ほとんど口もきかずに二時間ほどぶらぶら歩いた。ベイカー街に帰って来たのは、もう五時近いころだった。
「あの……」ドアをあけた給仕が言った。「先ほどあなた様を訪ねていらした方がございました」
ホームズは私をとがめるように一瞥《いちべつ》して、「これだから午後の散歩はたくさんだって言うんだ」と彼は言った。
「それでお客様はもうお帰りになったのかい?」
「はい」
「お通ししなかったかね」
「いえ、お入りになったんですが……」
「どのくらい待っていた?」
「三十分くらい、とても気ぜわしい方でして、おいでになる間じゅう歩きまわったり、足を踏みならしたり、私はドアの外でお待ちしておりましたから、よく聞こえましたのですが……、で、とうとう廊下へ出てみえて叫ぶように言われるんです。『あの男はまだ帰って来ないのか』って、あの男なんておっしゃるんですよ。そこで私が『もう少しお待ちになったら』と言いますと、『気分が悪くなったからおもてに出て待ってみよう、またすぐ来てみるから』とお出になりました。いろいろ言ってお引きとめしたのですが、だめでございました」
「そう、そう、君が悪いわけじゃないからいいさ」
ホームズはわれわれの部屋に入りながら言った。「ワトスン君、僕はとても事件に飢えていたんだがね。こいつはお客様が相当いらいらしているところからみて重大な事件だぜ。ほら、このテーブルの上のパイプは君のじゃないな。お客様が忘れていったに違いない。こいつはすてきな古いブライヤーだ。煙草屋が琥珀《こはく》と言っている上等な長い吸口《すいくち》がついている。僕の考えじゃ本物の琥珀の吸口のついたのは、ロンドンじゅうでもそうはないはずだ。本物はその印として蝿《はえ》がはめこんであると思っている人がいるが、琥珀に蝿を入れてニセモノをつくるなんてわけのないことでね。ところでお客さん、明らかに大切にしているパイプを忘れていくなんて、よほど動転《どうてん》してるな」
「大切にしているなんてどうしてわかる?」私はきいた。
「そうさね。僕はこいつの値段を七シリング六ペンスとにらむね。さあちょっと見てごらん。こりゃ二度も修繕してあるぜ。一回は木の軸《じく》で、もう一度は琥珀の部分だ。どっちもご覧のとおり銀の細板で直してあるが、これはパイプの値段より金がかかっている。おそらく同じ金を出して新しいパイプを買うよりも、修繕してでも使いたいほど大切にしているんだよ」
「ほかになんかあるかい?」と私はきいた、というのはホームズがパイプをひねくりまわして、注意深く調べていたからだ。彼は骨格の講義をしている教授のように、細くて長い人さし指でパイプをたたいた。
「パイプというものは、ときとして非常に興味深いものなんだよ」彼は言った。「懐中時計や靴紐《くつひも》を除いたら、これはずいぶん持ち主の性格をあらわすものなんだ。しかしこの場合はたいした特徴も出てないがね。こいつの持ち主は体の丈夫な、左ききで、歯なみのしっかりした、無頓着《むとんちゃく》な性格で、金銭的に困らない男だ、という程度はわかるよ」
ホームズは非常になげやりな調子でこんなことをしゃべったが、彼の説明が私にわかっているかどうか探《さぐ》るように目だけは私をみつめていた。
「七シリングのパイプで煙草を吸うというなら、この男は金のある奴に違いないと言うんだろう」私は言った。
「これは一オンスが八ペンスのグロウヴナー・ミックスチァーだよ」
ホームズは掌《てのひら》に少量の煙草をたたき出しながら言った。「この半分の値段でちょっとした煙草が吸えるのにな。彼はだから金銭的な苦労はない男なんだよ」
「ほかになにか特徴はあるかい?」
「彼はランプかガスでパイプに火をつける癖があるな、片側だけが焦《こ》げているのがわかるだろう。マッチだったらもちろんこんなふうにはなりゃしないさ、マッチをパイプの横腹に持っていくやつもいないだろう。でもランプで火をつけるんなら焦がさざるを得んさ。それにこれは右側だけが焦げている。ゆえに僕はこの男は左利きだと判断するんだよ。君のパイプを右手でランプに近づけてごらんよ。左側が炎に当るのはいかにも当然のことだろう。もちろん、右利きだって左手で火をつけることなきにしもあらずさ、でもそうしょっちゅうはやりゃしない。いつもは右手でやるに決まってるよ。このパイプはいつも左手で持たれてたんだ。それにこの持主は、吸口の部分をよくかじっている。そんなことするやつは体格がよくて精力的で、しかも歯の丈夫なやつだというわけだよ。ところでお客さんが階段を上って来たようだぜ。パイプなんかよりもっと面白い勉強ができそうだ」
ややあってドアがあき、背の高い若い男が部屋に入って来た。上等だが地味な暗灰色の服を着ており、つば広の茶の帽子を持っている。私は彼を三十歳くらいと思ったが、実際にはもっとふけているらしかった。
「ご免なさい」彼はいくぶん困惑して言った。「ノックすべきでしたね、そう、もちろんノックすべきでした。実は私、少々とりみだしておりまして、どうかご容赦《ようしゃ》ください」
彼は放心した男のように額に手をやって、すわるというより、くずおれるように椅子にすわった。
「ふた晩ばかりおやすみになっていらっしゃらないようですね」ホームズはやさしく言った。「不眠は仕事や遊びほうけたより、もっと神経にこたえますからね。で、どんなご用件でしょうか?」
「私はあなたのご助言を頂きたいのです。私はどうしてよいかわからなくなりました。私の人生はこなごなになってしまいそうなのです」
「あなたは私を探偵として願いたいとお望みなのですか?」
「いや、そればかりじゃなく、あなたを判断の正しい方として、また世の中をよく知っていらっしゃる方として、ご意見をうかがいたいのです。これから私が何をしたらよいか、それを知りたいのです。あなただったらきっとご教示いただけると思いまして」
彼は小声だが鋭い、いらいらした激しい口調で話したが、その調子で言うだけでもひどく苦痛なのを意志の力で我慢しているのが私にはわかった。
「これはとてもデリケートなことなんです」彼は言った。「誰でも、知らぬ人に自分の家庭内の問題を話したがらないものです。ことに会ったこともない男と自分の妻との交渉について話すなんて恐ろしいことですし、私がそれをしなければならないとは、何とも嫌《いや》なことです。でも私の分別ではなんともいたしがたくなりましたので、ご助言をいただきたいのです」
「グラント・マンロウさん」とホームズは始めた。とたんに客が驚いて椅子から飛び上った。
「何ですって!」彼は叫んだ。「あなたは私の名前をご存じなんですか?」
「お名前を隠したいのなら」と、ホームズは笑いながら言った。「お帽子の内側にお名前を書かないか、さもなくば話し相手に帽子の山の方をむけている方がよいと思いますね、私はこの部屋でこの友人とともに多くの奇怪な秘密をきき、そして大勢の悩んでおいでの方々に平和をもたらすことができたことをお話ししたいのです。私たちはあなたにも同様に力を尽すつもりです。ですから時間は大切です。これ以上、手おくれにならぬうちに事件のあらましをお伝えいただけませんか」
客はそれがいかにもむずかしいことであるかのように、また額に手をやった。あらゆる動作表情から私は、彼が引っ込み思案《じあん》で、自制心、自尊心に富み、自分の傷はめったに人に見せない性分の男だと思った。
だが彼は急にすべてをさらけ出そうと決心したらしく、握っていた手を振って口を開いた。
「事件というのはこうなのです、ホームズさん」彼は言った。
「私は三年前に結婚した男です。三年の間私たち夫婦は世間の愛し合って結婚したものと同様に、深く愛しあい、幸福に暮らして来ました。私たち夫婦の間の考え方、言葉、行い、何ひとつ食い違いはありませんでした。ところが先週の日曜日以来、突然私たちの間に邪魔物が飛びこんだのです。妻の生活や考えの中に、まるで私が街でふと出あった女のように、まるで私の知らぬものが隠されていることがわかったのです。私たちの仲は冷たくなりました。そこで私はそれがどうしてだか知りたいのです。
しかしこれ以上お話しする前に、ひとつ強調しておきたいことがございます。エフィは私を愛しているということです、これだけは誤解のないようにしていただきたい。妻は全身をもって私を愛していますし、それは今も変わりありません。私はそれがよくわかるのです。このことについてはとやかく言いたくありません。男は女が自分を愛しているかどうかくらい、たやすくわかるものですからね。ところが私たちの間に秘密が横たわって、それが晴れなくては平然としておれないのです」
「どうか事実を話して下さいませんか、マンロウさん」ホームズはいくぶんいらいらして来て言った。
「それでは私の知る限りのエフィの過去について申し上げましょう。妻は私がはじめて会ったとき、まだ二十五歳の若さでしたが未亡人でした。ですから彼女の名はヘブロン夫人と言ったのです。ずっと若いころアメリカに渡り、アトランタの町に住んでいました。そこでこのヘブロンと結婚したのですが、この男は弁護士で相当成功しておったようです。
ふたりの間にはひとりの子供もあったのですが、その土地に悪性の黄熱病がはやって、夫と子供を奪ってしまったのです。私はその夫の死亡証明書を見たことがあります。それで妻はアメリカにあいそをつかし、帰国してミドルセックスのピナーに未婚の叔母といっしょに住むようになりました。それには死んだ夫が楽に暮らせるだけの遺産を残しておりましたし、約四千五百ポンドの金がうまく投資されていたので、年に七分の利子がかえって来ていました。私が彼女に会ったのは、彼女がピナーに住みはじめてやっと六週間になったころでした。
私たちは愛し合うようになり、数週間の後に結婚しました。私はホップ商で七、八百ポンドの収入があり、かなり裕福な生活です。ノーベリイに年八十ポンドの小じんまりした別荘を借りています。そこは市に近いのですが、少し上手の方に一軒の宿屋と住宅が二軒あります。私達の家の前の畑地の向こう側に、一軒小さい別荘があり、このほかは駅までの道の半ばまで家はございません。
私はある季節になりますと仕事の関係上ロンドンに出ますが、夏の間は仕事を休んでこの田舎《いなか》の家で望みどおりの幸福な生活を夫婦で過ごすわけです。この呪《のろ》わしい事件が起こるまでは、私たちの間には一点の影もなかったのです。
話を進める前にもうひとつ言っておかねばならぬことがあるようです。私たちが結婚したとき、妻はその財産を、私が反対したにもかかわらず、全部私の名義にしたのです。反対したのは私の仕事が失敗したとき困ることになるからなのですが、でも彼女はそうするんだと主張して、結局そうなってしまいました。六週間ばかり前のこと、妻がやって来て、
『ジャック、あなたに私のお金をおまかせしたとき、私が欲しいときはいつでもそうお言い、とおっしゃいましたわね』と言うのです。私は、
『ああそうだよ、もともとあれはお前のものなんだからね』と言いました。
『そう、それなら私、百ポンドばかしいるんですけど』と、妻は言いました。
私はこれには少々驚きました。着物や何か買うにしてはちょっと多すぎる金額ですからね。
『いったい何に使うんだね』私がききますと、妻はおどけた調子で、
『あら、あなたおっしゃったじゃないの、僕はただの銀行屋さんだからねって。銀行屋さんは、そんなこと聞かなくってよ』
『本当にいるんなら上げるけどさ』私は言いました。
『ええ、本当にいるのよ』
『だが、何にいるのか言わないのか』
『いつかね、そう、今ちょっと言えないのよ、ジャック』
そういうわけで私は承知させられてしまいましたが、これが私たちの間に秘密らしいもののできたはじまりでした。私は妻に小切手をやり、この問題はそれ以上考えないことにしました。これはこの後のことと関係ない事かもしれませんが、何か説明の役を果たすかと思いまして……。
さて先ほどもお話ししましたように、私たちの家からほど遠からぬところに一軒小さな別荘があります。その家との間に畑地があり、その家に行くには道路を通って小道に折れて行くわけです。その家のちょうど前には、きれいなスコットランド樅《もみ》の小さな森があり、私はそのあたりを散歩するのがたいへん好きなのです。樹というものは、いつでも親しみやすいものですからね……。
その家は[かずら]のからんでいる、古風な門のついた二階建てのきれいな家なのですが、残念なことに八か月も空家になっていたのです。私はよくその前に立ち止って、住心地のよい家なんだがなあと思っていました。
ところが先週月曜日の夕方、例によって私が散歩しておりますと、小道で[から]の荷車が登ってくるのに出会いました。そしてあの家の門のわきに、絨毯《じゅうたん》だの何だのが積み上げてあるのです。とうとう借り手がついたのだなとわかりましたので、私はいかにも暇人《ひまじん》をよそおって、通り過ぎてから立ちどまり、家をながめて隣人として住むようになったのは、どんな人たちだろうと思っていました。
私がながめていますと、急に私はある顔が二階の窓から私の方を見やっているのに気づいたのです。ホームズさん、私はその顔が別段どうというわけではないのですが、背筋が寒くなるような感じでした。ちょっと距離がありましたから、容貌《ようぼう》はわかりませんでしたが、何かこう不自然な、非人間的な感じがありました。そこでいったい誰が私を見ているのかつきとめてやろうと、そばに近よりました。
すると顔は急に見えなくなりました。アッという間だったので、私には部屋の闇の中に吸い込まれたように思えました。
私は五分ばかり立ちどまって考え込み、印象を分析しようとしました。第一、私にはそれが男だったのか女だったのかわからないのです。でもその顔色だけはとくに印象に残りました。死人みたいに黄色で、ギョッとするほど無気味さがあり、じっと私の方をみつめていたのです。私はひどく心が乱れたので、この家の新しい住人をもう少し見てやろうと心にきめました。
私は近づいてドアをたたきますと、すぐ背の高い、とげとげしいむずかしい顔をした女がドアをあけました。
『何かご用ですか?』北方なまりの言葉で女が言いました。
『あそこの、お隣りに住んでいるものですが』私は自分の家の方を頭でしゃくってみせながら言いました。『お引越しなさって来たばかりのごようすなので、何かお手伝いすることがおありかと思いまして……』
『いえ、必要なときにはお願いに上りますから』
女はそう言うと私の目の前で、ピシャリとドアをしめてしまいました。失礼千万な断り方に私は憤然《ふんぜん》として家に帰りました。
その晩は私はほかのことを考えようとしましたが、あの窓のお化けと女の失礼な態度にすっかり気をとられていました。
私の妻は神経質ですから、窓のお化けのことは何も言うまいと思いましたし、あの高慢な女のことも不愉快きわまる印象を妻にわけあたえる必要もないと思いました。それでも寝る前に、私は妻に、あの家に新しい住人が来たと言いましたが、彼女は何も言いませんでした。
私は平常とても眠りが深い性《たち》で、夜中に何があっても目をさまさない人だと家族の内でよく笑いものにされたものです。しかしその夜にかぎって、昼間のつまらぬ出来事で多少興奮していたのかどうか、いつもより眠りが浅かったようです。夢うつつの間に、私は部屋の中で何かが動いているのをぼんやり意識していました。そして徐々に妻が着物を着て、外套《がいとう》をはおり、帽子をかぶっているようすがわかりました。
この、ときならぬ外出の支度《したく》に驚き、とがめようとして、ねぼけた言葉をブツブツ口にしかけましたが、私のねぼけ眼《まなこ》が、ローソクの火に照らされた妻の顔をとらえたとき、ギョッとして言葉をのみこんでしまいました。妻は私が見たこともない形相をしていました。妻があんな顔をするとは思ってもみなかったことでした。死人のように青ざめ、息をはずませ、外套をしっかり身にまといながら、私を起こしはしないかとベッドの方に目を走らせているのです。
妻は私がよく眠っているとみてとったのか、静かに部屋からすべり出ました。間もなく、たしかに玄関の蝶番《ちょうつがい》がきしむ鋭い音が聞こえました。
私はベッドの上に起き直って、夢ではないかと拳骨《げんこつ》でベッドの縁をたたいてみたほどです。枕の下から時計を出してみると、もう午前三時でした。明方の三時にもなって、妻はこの田舎道で何をやっているんだろう。私は二十分ばかり考えこみ、何か適当な解決をつけようとしましたが、考えれば考えるほど、常軌《じょうき》を逸しており、不可解なばかりです。なおも思い沈んでいると、ドアが静かに閉まる音がして、妻の足音が階段を上って来ました。
『エフィ、お前どこへ行っていた?』
私は妻が入って来るなり言いました。
妻は私の声にひどく驚いて、あえぐような叫び声を上げました。その驚きようがますます私の心を痛めました。何か私に言えない、うしろめたいことがあるにきまっています。
妻は普段は明朗で、かくしだてのない性格なのに、自分の部屋に入るとき、夫が声をかけたからとて、叫び声を上げておどおどするのは、私にとって情けないことでした。
『起きていらしたの、ジャック』妻はヒステリックに笑いにごまかして言いました。『よく眠っておいでだと思いましたわ』
『どこへ行っていたんだ?』私はややきびしく言いました。
『何をそんな剣幕《けんまく》でいらっしゃるの』と、妻は言いましたが、その指先は外套を握れないくらいに震えているのです。
『今までこんなこと一度もありませんでしたわね。実はね、なんだかひどく息苦しくなったので、おもての新鮮な空気が吸いたくてたまらなくなったの。あのとき出ていかなかったら、気を失っていたわ。しばらくドアのところに立っていたら、このとおり元気になりましてよ』
こんなことを言うあいだじゅう、妻は一度も私の方を見ませんでしたし、その声も、いつもとは、似ても似つかぬものでした。嘘をついているのは明らかでした。私は返事もしないで壁の方をむいてしまいましたが、胸のうちはおそろしい疑惑でいっぱいでした。
妻が私にかくしているのは何だろう。出て行った間どこへ行っていたんだろう。それがわがるまでは気が安まらないのです。妻が嘘にせよ、まことしやかに説明している以上、もういちど問い返すこともありません。その夜じゅう、私は転々してあれこれ考えてみましたが、わからなくなるばかりです。
その日、私はまちへ出ましたが、頭が混乱していっこう仕事に気が乗りません。妻も私同様、気が落ちつかぬようすで、もの問いたげにチラチラと私の方をながめるのですが、そのようすには、私が妻の言ったことをまるきり信じていないことをよく知っており、どうしてよいか考えあぐねているのがよくわかりました。
私たちは朝ご飯のあいだ、ひと言も口をきかず、食事がすむと私は朝の新鮮な空気の中で、もういちど問題を考えてみようと散歩に出ました。クリスタル・パレスまで出かけて、芝生で一時間ばかり過ごしてから、一時ころにノーベリイにもどって来ました。例の家の前を通りかかったとき、私は前日私を見ていた、あの異様な顔をもういちど確かめてやろうと足をとめ、窓を方をうかがってみました。
ところがホームズさん。突然表のドアが開いて、妻が出て来たときの私の驚きを、まあご想像下さい。
私は驚きのあまり口もきけませんでした。しかし私たちの目があったときの妻の驚きように比べれば、まだしもでした。一瞬、妻はまた家の中へあとずさりするようなようすをみせましたが、隠しても無駄と思ったのか、青ざめた顔におびえた目を、口に浮かべた笑みでごまかしながら出て来ました。
『ジャック、私も新しいお隣りに何かお手伝いでもないかと思って来てみたの。どうしてそんなに私の顔ばかりみてるの、何をそんなに怒っていらっしゃるの』
『そうか。ゆうべ出かけたのもこの家なんだな』
『何なのよ!』妻は叫びました。
『たしかにお前はここへ来たんだ。あんな時間に訪ねるなんて、いったいだれがこの家にいるんだ?』
『私、前に来たことなんてありませんわ』
『嘘だとわかっていながら、なぜお前はそんなことを言う。声まで変わっているくせに。私が今までお前に隠しだてをしたことがあるか。よし、それならこの家に入って徹底的に調べてやる』
『いけません! ジャック、お願いだから』
妻はたまりかねたようにあえぎながら叫びました。私がドアに近づくと妻は私の袖口をつかまえて、恐ろしい力でひきもどしました。
『ジャック、お願いだからやめてちょうだい。いつかきっとみんなお話しするわ。今あなたがこの家に入ってしまったら、本当にみじめなことになるの』
妻はふり切って入ろうとする私を必死になってとめるのです。
『ジャック、私を信じて、一度だけでいいから私を信じてちょうだい。決して後悔しないわ。あなたのためでなかったら、私、決して秘密なんか持たないっておわかりでしょう。これは私たちの生活に関することなのよ。私と一緒におうちに帰ってくれれば助かるけど、どうしてもここへ入るとおっしゃるなら、私たちの生活もおしまいです!』
あまりに真剣で、妻の態度にも思いつめたものがありましたので、私もそれに打たれてドアのところまで行くまでにためらってしまいました。
『それじゃ条件つきでお前を信じよう』私は最後に言いました。『こんな秘密はこれだけでおしまいにするということだ。お前は自分なりの秘密を持つ自由はある。しかし夜中に出かけたり、まして私の知らぬ間にやるなんてことは決してしないと約束してもらわなきゃ困る。今後こういうことはしないと約束するなら、過ぎたこととして忘れもしようじゃないか』
『信じていただけると思いましたわ』妻は救われたように大きな溜息《ためいき》をついて言いました。
『お望みのようにしますわ。さあ行きましょう。おうちへ帰りましょう』と私の袖を引っぱって、妻はこの家から少しでも私をはなそうとするのでした。私は去りながら、ふと振りかえってみますと、二階の窓からあの黄色い顔が私たちの方を見つめているのです。あの化け物と妻との間にどんな関係があるのでしょう。また前の日に会った、あのにくたらしい女は妻とどんな関係があるのでしょう。
奇妙な謎ですが、私はそれが解けるまでは、心の平静を取り戻せないことがわかっていました。その後、私は二日ほど家にいました。妻も私の知る限りでは忠実に約束を守って家を出ることはないようでした。
それが三日目のことです。妻の厳粛な誓いも、夫や妻としての義務にそむかせようとする秘密の力にはうち勝てないのだという明白な証拠をつかんだのです。
その日、私はまちに出たのですが、いつも乗る三時三十六分の汽車でなく、二時四十分の汽車で帰って来ました。私が家に入ろうとすると女中があわてた顔つきで玄関に出て来ました。
『奥様はどうした?』とききますと、
『散歩にお出かけかと思います』女中は答えました。
私の心はまた疑いの念でいっぱいになりました。本当に妻は家にいないのかと思って二階にかけ上りましたが、ふと窓から表を見ますと、たった今私に話していた女中が、畑を横切って、例の家の方に走って行くのが見えました。それが何を意味しているか、私にはすぐわかりました。妻はまたあの家に行っており、私が帰って来たら呼びに来るように言いつけてあるのです。私は怒りに燃えて駆けおり、一度にきれいさっぱりこの問題にかたをつけてやろうと決心して飛び出しました。妻と女中が急いで小道をやって来るのが見えました。しかし私は立ち止って話そうともしませんでした。あの家に私の生活にかげを投げている秘密があるのだ。私はこれを秘密のままにしておいてなるものかと心にきめました。
家につくや私はノックもしないでハンドルをまわし、廊下に飛び込みました。階下は全く静かでした。台所では[やかん]がシャンシャン火の上で鳴っており、大きな黒猫が篭《かご》の中で丸くなっていました。それだけで、私が前に言った女は影も形もないのです。
私はべつな部屋におどり込みました。そこもからっぽでした。今度は二階に駆け上りました。二部屋とも人気《ひとけ》がありません。家じゅう誰もいないのです。家具や絵などはありきたりのものですが、私があの奇怪な顔を見た部屋だけは違っていました。その部屋は気持よく、上品にしつらえてあります。ところがマントルピースの上に私が三月ほどまえに撮らせた妻の全身の写真が飾ってあるのをみつけたとき、私の疑いは一時に火となって燃え上りました。
家じゅうまったく空《から》だと確かめれば長居《ながい》は無用です。私はかつてない心の重さを感じながら家を出ました。私がうちに帰りますと、妻が玄関まで出て来ましたが、私は傷つけられ、しゃくにもさわって、ものも言わず妻を押しのけて書斎に入りました。妻は私がドアを閉める前にあとから入って来ました。
『ジャック、お約束を破って申しわけありません。でもすべての事情がおわかりになったら、きっとお許し下さると思いますわ』
『洗いざらい話してみたらどうだ』私は言いました。
『いえ、できません! ジャック、それは言えないのです』
『お前があの家に誰が住んでいるか、あの写真をくれてやった相手は誰なのかを言うまでは、私たちの間には信頼もなにもありはしない』
私はそう言って、とめるのもきかず家を出てしまいました。それがホームズさん、昨日のことなんです。それきり妻に会ってもいなければ、この奇妙な事件について、いっこう見当もつかないのです。
私たち夫婦の間に影がさしたのは、これがはじめてのことですし、私はどうしたらよいかさっぱりわからないのです。今朝になって、急にあなたこそ私を助けて下さる方だと思いついて、万事あなたにおすがりしようと、こうして急いでやって来たわけなのです。ご不審な点がございましたら、どうかおたずね下さい。私はこんなみじめさに耐えられそうもありません。どうか一刻も早く、どうすべきか教えていただきたいのです」
ホームズと私は、彼が興奮して早口に、とぎれとぎれにしゃべった異様な物語を非常な興味をもってきいた。ホームズは頬杖《ほおづえ》をついたまま考えこんで、しばらく黙っていた。
「あなたが窓に見かけた顔は、はっきり男だとは言えませんか」ホームズは言った。
「いつも、ちょっと距離がありましたので、そうはっきりは言えません」
「しかし非常に不愉快な印象をうけたと言われましたね」
「とても不自然な色でしたし、顔も異様にこわばっていました。私が近づくとヒョイと見えなくなったのです」
「奥さんが百ポンド欲しいとおっしゃってから、どのくらいたちますか?」
「二か月ぐらいです」
「あなたは奥さんの最初の夫という方の写真をご覧になったことはございませんか?」
「いえ、彼が死んでからすぐアトランタに大火があって、妻が持っていた書類その他いっさい焼けてしまったのです」
「それでも死亡証明書だけは持っておいでなんですね。それはごらんになったとおっしゃいましたね」
「ええ、妻が火事のあと写してとっておいたのです」
「アメリカ時代の奥様をご存じの方に会ったことがおありですか?」
「ございません」
「またアメリカへ行ってみたいなどとおっしゃったことはありませんか?」
「それもありません」
「アメリカから手紙が来たことは?」
「私の知るかぎり、それもございません」
「ありがとうございました。少々この問題を考えてみようと思います。もしその家が空家になってしまったのでは問題はむずかしくなります。しかしそうでなくて、昨日あなたがやって来たのをみつけて、住人が逃げ出したのだとすれば、……このほうがありそうなことですが……もう彼らも帰って来ているでしょうし、簡単です。さて、あなたはもう一度ノーベリイに帰ってその窓を注意していただきたいのです。もしまだ誰か住んでいるという証拠があったら、あなたひとりで踏み込まないで、私たちに電報を打っていただきたいのです。そうしたら一時間以内にそちらに出かけて、たちどころに事件を解決できると思います」
「もしまだ家が空だったら?」
「そうしたら明日、私の方から出かけて、またご相談しましょう。じゃ、ご免ください。確実な証拠もないのに気をもむことはありません」
ホームズはマンロウ氏を送り出して帰って来ると私に言った。
「こいつはむずかしい事件だぜ、ワトスン君。君はどう思う?」
「いやな感じだねえ」私は答えた。
「うん。こりゃ間違いのないところ、恐喝《きょうかつ》事件だね」
「だが誰が恐喝しているんだい?」
「そうさね、例の家のひとつだけ気持よくしてある部屋にいて、マンロウ夫人の写真をマントルピースに飾っている男だろうな。それにね、ワトスン君、窓に見えたという土気色《つちけいろ》の顔に何かいわくがあるんだ。これだけは間違いないところだ」
「何か裏づけになるものがあるのかい?」
「あるさ、まあ仮定だがね、しかしそれが本当にならなかったら驚きだね、つまり夫人の最初の夫が例の家にいるんだよ」
「どうしてそう思うんだ?」
「そうでなきゃ、二度目の夫のマンロウ君を入らせまいとして、あんなに騒ぎ立てる理由が説明できないじゃないか。僕の考えた真相はこんなことだと思うね。この奥さんはアメリカで結婚している、前の夫は何かいまわしい性格か、あるいは病気……ライ病か白痴になった。そこで彼女はとうとう夫から逃げ出して、イギリスに帰って来た。そして名前を変えて新しい生活を始めた。結婚して三年もたつからもう大丈夫と思っていた。それに彼女が使っていた名前の、ある男の死亡証明書を二度目の夫に見せてもいたしね。
ところがだ、急に前の夫に、あるいはこの病人に同情したバカな女に今の住所をかぎつけられた。やつらは脅迫状を奥さんに送って、返答しなきゃあバラすぞとおどかしたんだ。
そこで奥さんは百ポンドを主人からもらって、やつらを買収しようとした。それにもかかわらず、やつらはやって来た。夫にお隣りに新しい住人が来たといわれたとき、追跡者がとうとうやって来たことを知った。主人が眠るのを待って、彼女は出かけていって、私たちの平和を乱さないでくれと懇願する。きき入れられないので翌朝も出かける。そこでさっき彼が話したように、出て来たところを主人とバッタリ顔を合わせてしまうというわけだ。
奥さんは二度と行かないと約束しながら、この恐ろしい隣人から逃れるために、要求された通り自分の写真を持って行き、けりをつけようとする。この話し合いの間に女中が飛び込んで来て、主人が帰って来たことを知らせる。そこで奥さんはすぐ主人がこっちにやって来るだろうと知って、住人たちを裏の戸口から、近くにある樅《もみ》の林の中に逃がしてしまう。こうして夫が踏み込んだときは、もぬけのからだったんだ。しかし、もし今晩彼がもう一度行ってみて、誰もいないとなりゃ僕も困るがね、どうだい僕の説明は?」
「みんな推測だな」
「でも、少なくとも事実には合うからね、この推測に合わないような新事実が出て来たら、また考え直すさ。今のところノーベリイから電報が来るのを待つほかないよ」
しかし、われわれはそう長く待つ必要はなかった。お茶をすませたころに、その電報が来たのだ。
アノ家ニハマダ人ガイル、窓ニアノ顔ガ見エタ。七時ノ汽車ニテ、オイデ請ウ、ソレマデ手ヲツケズニイル。
われわれがプラットフォームに降り立つと、もう彼は待っていた。駅のランプのあかりに、彼はいっそう青ざめてみえ、興奮して震えていた。
「やつらはまだいますよ、ホームズさん」彼はホームズの腕をとりながら言った。
「いま来るときも、家にあかりがついていました。さあ一度にやっつけてしまいましょう」
「ところであなたのご計画は?」
私たちが暗い並木道を歩きはじめたとき、ホームズは言った。
「私は無理にでもあの家に踏みこんで、誰がいるのか知りたいと思います。どうかおふたりで証人になって下さい」
「奥様から警告されてはいても、秘密はあばかなければいかんとお考えですか?」
「そうです。私は決心しています」
「そう、それがよろしいでしょう。不明確な疑いより、何かはっきりしたものの方がましですからね。それじゃすぐ行きましょう。もちろん法の上から言えば、悪いことをしようとしているわけですが、そんなこと言ってる暇はありませんからね」
その夜はとても暗い夜だった。私たちが大通りから、両側に生け垣があり、深い車輪の跡の残った小道に曲がるころには、しょぼしょぼと雨さえ降りはじめた。
グラント・マンロウ氏はもどかしげに先を急ぎ、私たちも負けじとあとに続いた。
「あれが私の家の明かりです」マンロウ氏は木の間にかがやくあかりを指さして言った。
「あそこが、これから行こうという家です」
彼の言ったように、小道を曲がるとかたわらに戸じまりした建物があった。黒々とした前庭に一本、黄色い筋があり、ドアがぴったり閉っていないことを示していた。そして二階のひと部屋の窓だけが皎々《こうこう》と明るかった。われわれが見上げると、窓かけを横切って黒い人影が動いていた。
「あの化物がいるんだ!」グラント・マンロウ氏は叫んだ。「そら、いるでしょう、さあ来てください。何やつだか、つきとめるんだ」
私たちがドアに近づくと突然ひとりの婦人が陰からランプの光の中に立ちはだかった。私は暗くてその顔はみえなかったが、哀願するように両腕をさしのべていた。
「ね、ジャック、お願いだからやめて。今夜はきっとおいでになるだろうと思いましたわ。考え直してちょうだい。もう一度だけ私を信じて、そうすれば決してあとに悔いを残すことはございませんわ」
「お前を信じるのはもうご免だ。エフィ」彼はきびしく叫んだ。「そこをおどき、どうしても通るんだ。この友人たちと、一度にこの事件をおしまいにしてしまうんだ」
彼は妻を押しのけたので私たちもあとに続いた。彼がドアを開けると、年かさの女が走り出て立ちふさがり、彼を通すまいとした。しかし彼はその女もつきとばした。私たちはすぐ階段をかけ上った。
グラント・マンロウ氏はとっつきのあかりのついた部屋におどりこんだ。私たちもすぐ続いて部屋に入った。その部屋は気持よく、りっぱな家具もととのっていて、二本のローソクがテーブルとマントルピースの上にともしてある。片すみの机にむかってかがみこんでいる少女らしい姿があった。
少女は、私たちが飛びこんだとき顔をそむけたが、赤い服をきて、白の長い手袋をはめているのはわかった。少女がふとふりむいたとき、私は思わず驚きと恐怖の叫び声を上げてしまった。
ふりむいた顔は異様な鉛色で、しかもその顔には全く表情がないのである。ややあって不思議は解かれた。ホームズが笑いながら子供の耳の後ろに手をやって、顔からお面をはずした。すると小さな真っ黒い少女の顔があらわれ、私たちの驚いた顔をおかしがりながら、白い歯をのぞかせて笑っているのであった。
私は少女がおかしがるのも無理がないと、思わず大声で笑い出してしまった。しかし、グラント・マンロウ氏はのどを手でつかんで、目をむいていた。
「いったい、こりゃどうしたというんだ?」彼は叫んだ。
「わけをお話ししましょう」落ちついてむしろ誇らしげに、部屋に入って来た夫人が言った。「あなたのおかげで、とうとう言わなければなりません。こうなった以上、私たちは最善をつくしましょう。私の前の夫はアトランタで死にました。でも私の子供は助かったのです」
「お前の子供だって!」
彼女は胸から大きな銀のロケットを取り出した。「あなたはこれがあくのをご存じないでしょう」
「僕はあくとは思わなかったよ」
夫人はバネを押して上ぶたをあけた。そこにはたいへん好男子で知性ありげなひとりの男の写真が入っていたが、その顔はアフリカ黒人の血をひいていることが明らかだった。
「これがアトランタのジョン・ヘブロンです。誰にも劣らぬりっぱな人です。私は人種なんて考えをふりすてて彼と結婚しましたが、夫の在世中いちどでも後悔したことはございません。ただ不幸といえば、ただひとりの子供が私よりも夫のほうの血筋を多くうけてしまったことなのです。こうした結婚では、これはよくあらわれることですが、ルーシーの場合、父親よりもっと黒いのです。でも黒くても白くてもルーシーは私のかわいい娘です。私の愛する子供なのです」
少女はその言葉に夫人に走りより、その着物にすがりついた。
「私が娘をアメリカに残して来たのは、そのころこの子は体が弱くて、変わった土地へ行くとさわるだろうと思ったからなのです。そこで前に使っていた信頼のおけるスコットランド生まれの女中に世話を頼んだのです。でも私は娘を手ばなすつもりは毛頭ありませんでした。ところがジャック、あなたと会って愛し合うようになってから、子供のことを言うのがこわくなったのです。神様お許し下さい。私はあなたに捨てられるのがこわくて言えなかったのです。あなたと子供とどちらかを選ぶ段になって、私は心弱くも娘にそむいてしまいました。
三年というもの、私は娘のあることをかくして来ました。でも乳母からの便りで、娘は元気で大きくなっていることは知っていました。そしてとうとう私はもういちど娘に会いたいという欲望に駆られ、ずいぶんその気持と争ったのですが、負けてしまいました。
私は危険は知っていましたが、数週間だけのつもりで娘を呼ぶことにしたのです。私は百ポンドを乳母に送り、この家のことを教えてやりました。そこで私とは何の関係もない隣人として娘は来ることができたのです。
私は昼間は子供を家の中におくこと、そしてたまたま窓からでも見た人が、あたりに黒人の子供がいるなんていいふらさないよう、顔や手をかくすようにできる限り注意しました。私はこんなに気をつかわなかった方がよかったのかもしれません。でもあなたに本当のことを知られるのがこわさに半狂乱だったのです。
この家に人が住むようになったとはじめにおっしゃったのはあなたでした。私は朝まで待つべきでしたが、興奮してしまって眠れず、とうとうあなたの眠りの深いのをよいことに、ぬけ出したのです。でもあなたは私の出かけるのを見つけてしまい、気苦労がはじまりました。
翌日、あなたは私の秘密を許して追求の手をゆるめて下さいました。しかし三日の後にはあなたが表口から飛び込んでおいでになったので、乳母と子供をやっとのことで裏口から逃げさせました。そして今晩あなたはとうとうすべてをお知りになりました。さあ私と娘はいったいどうしたらよろしいのでしょう」
夫人は手をにぎりあわせて夫の返答を待った。グラント・マンロウ氏が沈黙を破るまでの二分間は長い時間だった。そして彼が返答した言葉は今思い出しても快いものであった。彼は娘を抱き上げで接吻し、そして彼女を抱いたまま、一方の手を妻のほうにさしのべてドアの方に向かった。
「家でゆっくり話をしようよ」彼は言った。
「僕はあまりりっぱな男じゃなかったな、エフィ、でもお前が考えていたよりは少しはましな男かもしれない」
ホームズと私は彼らに従って小道を下って行った。そしてホームズは私の袖をつかまえて言うのだった。
「ノーベリイにはもう用はないさ。ロンドンへ帰ったほうがよさそうだぜ」
彼はこの事件についてその夜おそくまで何も言わなかったが、ローソクに火をともして、もう寝室に入ろうというときになって言った。
「ワトスン君、僕が何か自分の力を過信したり、何か事件に骨折りをおしむようなようすが見えたら[ノーベリイ]とささやいてくれないか、そうしてくれればたいへんありがたいよ」
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株式仲買店員
結婚して間もなく、私はパディントン区で患者の縄張《なわば》りを買った。老ファークア氏から買いとったのだが、彼は一時は全科開業医として、はやっていた。だが、なにせ年も取り、持ち前の舞踏病がたたって、患者の数はめっきり減ってしまった。
世間の人というのは、むりもないのだが、他人をなおす者は、まず自分が無病でなければならぬという原則にこだわるもので、自分の病気を自分でなおせないような医者に不信の目を向けるのも、いたしかたないのだ。かくて、この老医師が病弱になってから、しだいに家業は傾き、私が買ったときは、年に千二百ポンドあった収入が、三百ポンド少々になってしまっていた。しかし、私は、自分の若さと精力に自信を持ち、数年のうちには、以前と同様の繁栄を取りもどせるものと信じていた。開業して三か月間、私は仕事にたいそう熱心で、わが友シャーロック・ホームズにはほとんど会わなかった。というのは、ベイカー街を訪問する暇などまったくなかったし、彼は彼で、職務上の仕事のほかはどこへも行かなかったからだ。それゆえ、六月のある朝、朝食後「英国医学雑誌」を読んでいたとき、呼鈴が鳴り、次いで甲高《かんだか》い、いくらかキイキイいうわがホームズの声に接して一驚《いっきょう》した。
「やあ、ワトスン君」部屋の中を大股で歩いて来ながら「君に会えてうれしい。奥さんが『四つの署名』事件で、多少興奮しておられたが、もういいのかい?」
「ありがとう。ふたりとも元気だよ」私は暖かく彼と握手した。
「この上は」と彼は揺り椅子にすわりながら、「医者の仕事にかかりきりになっちゃって、僕たちの推理問題に示した君の興味が消滅しないことを祈るばかりだね」
「どうしてどうして。ゆうべも僕の古いノートを調べて、これまでの業績を、いくつか分類したところなんだ」
「そのコレクションをおしまいにするというんじゃないだろうね」
「どういたしまして。そういった経験をまたしてみたいと思ってるんだよ」
「じゃ、たとえば今日なんかはどうかね」
「うん、君がよかったらね」
「バーミンガムまで行く気はあるかい」
「君が行くっていうなら、受け合うさ」
「お医者さんの方はどうする?」
「近所の医者が出かけるときは、僕がかわってやっているんだ。向うはいつでもその借りを支払わなきゃならんというわけさ」
「ほう、これはいとも好都合だね」ホームズは椅子によりかかり、半ば閉じたまぶたから、鋭く私を見て言った。「君は最近、体が悪かったんじゃないのか? 夏の風邪はちょっと苦しいものだ」
「先週三日ばかり、ひどい悪寒《おかん》がして、家にとじこもっていたんだ。でも今は少しもその形跡がなくなったね」
「そうだろうな。だいぶ健康のようだ」
「じゃ、どうして僕の病気がわかったんだい?」
「君は僕のやり方を知っているだろう」
「そいつを推理したというのか」
「そのとおりだ」
「じゃ、どういう点から?」
「君のスリッパだよ」
私は自分のはいている皮製のスリッパを一瞥《いちべつ》して、「いったい全体……」と始めると、ホームズは問いを待たずにこう答えた。
「君のスリッパは新しい。君は数週間前にはそいつを持っていなかったはずだ。君が現在、僕のほうへ見せている底を見ると、ちょっとばかり焦げているよ。瞬間、それがぬれたので、火でかわかすときに燃えたのかと思ったが、甲の近くに、商店のマークを書いた小さなまるい封緘紙《ふうかんし》がはってある。ぬれたのなら、むろんこれがはがれているはずだ。すると君は火のほうへ足を伸ばしてすわっていることになるが、普通の人ならば、健康なときに、いくらしめっぽいときとはいえ、六月にこんなことはしないだろう」
ホームズの推理は、どれもそうなのだが、いったん説明されてみると簡単なことだった。その気持を私の顔色から読み取ったのか、ちょっと苦笑いを浮かべて、
「僕というやつは、何かと説明しといちゃ、後になって損をしたという気がするんだ。原因を言わずに、結果だけを知らせるほうがずっと印象的なんだな。ところで君はバーミンガムへいつでも行けるんだね」
「うん。ところで事件と言うのはどんなのだい?」
「それは汽車の中で話すことにしよう。その依頼人が表の辻馬車の中にいるんだ。君はすぐ来れるかい?」
「ちょっと待ってくれ」
私は近所の医者に一筆走り書きして、急いで二階へ上って、妻にそのことを説明し、玄関に待っていたホームズのほうへ行った。
「隣りも医者なんだね」彼は真鍮《しんちゅう》の看板をあごでしゃくって言った。
「うん、彼も医院開業の株を買ったのだ」
「古い医院かい?」
「僕のところと同じくらいだ。両方とも、建ったときから医院なのだ」
「うん、それで君はいいほうを手に入れたんだね」
「僕もそう思う。でも、どうしてそれがわかるんだい?」
「階段だよ。君のほうは相手のより三インチばかり深くえぐれてるよ。さて、紹介しよう。馬車にいる方は、依頼人のホール・パイクロフトさんです。おい、馭者《ぎょしゃ》君、急がせてくれ、汽車の時間には、あとほんのちょっとしかないんだ」
私と向かい合った紳士は立派な体格の、率直で正直そうな顔立ちで、顔色もよく、縮れた黄色い口髭をちょりぴりはやしていた。よく光るシルクハットをかぶり、きちんとした、地味な黒服をきた、スマートな若い経済人だった……つまり、生粋《きっすい》のロンドンっ児《こ》で、義勇兵連隊を作ったり、この国のいかなる階級にも増して、りっぱな競技家や運動家を輩出している階級に属していた。
したがって彼のまるい赤らんだ顔は、しごく元気そうだったが、口の両端には、半ばおどけた、苦悩の表情が浮かんでいるように思われた。だが、一等車に乗り込み、バーミンガムへの旅に無事出発するまでは、シャーロック・ホームズの所へかけ込んだ彼の苦衷《くちゅう》なるものは、知り得なかった。
「ここからちょうど七十分はある。ホール・パイクロフトさん、あなたの興味ある経験談を、もういちど友人にしてやって下さい。できればもっと詳細にね。僕にとっても、重ねて聞くのは有益なんです。ワトスン君、この話はね、何かがそこで判明するかもしれぬし、あるいは全然なんでもないかもしれぬ事件なんだが、少なくも、異常な、常軌《じょうき》を逸した話なんだから、君にも面白いと思うよ。さあ、パイクロフトさん、もうお邪魔いたしませんからどうぞ」
この若い紳士は、私のほうへ目をしばたたかせて、次のような話をした。
「この話でいちばん残念なのは、私が途方もない馬鹿者になっていることなんです。もちろんいっさいはやがて判明するでしょうが、私としては、他にとるべき道があったとは思えないんです。でも仕事の口を失い、かわりの口も得られなくなると、つくづく自分に愛想をつかしたくなるものですね。ワトスン先生、私はあまり話がうまくないんですが、まあお話しいたしますと、こういうわけなんです。
私はドレイパース・ガーデンのコクソン・エンド・ウッドハウスに勤めていたのですが、ご承知のように、春早々、ベネズエラ公債の暴落《ぼうらく》にあい、会社は逆様《さかさま》の大|墜落《ついらく》をやっちゃったのです。私はそこに五年勤めておりました。でもとうとう破産したとき、コクソン老人は、りっぱな推薦状を書いてくれました。でもわれわれ店員二十七名が、いっせいに失業してしまったのです。私はあちこちと職を探しましたが、他の連中も私と同じ仕事を探していたのだからたまりません。私は長いこと遊んでしまいました。
コクソンの店では、週に三ポンド取っていました。それで私は七十ポンドばかり貯金もできましたが、それも間もなくはたいてしまい、とうとう方策もつきてしまいました。募集広告に応募しようにも、切手や封筒を買う金すらありません。私の靴は、事務所の階段をのぼり降りするのですりへってしまい、それでも、勤め口を見つけるあては全くなかったのです。
でも、とうとう私はモースン・エンド・ウイリアムズ商会に欠員を見つけました。これはロンバード街の大きな株式仲買店です。ロンドンの東中部方面は、あまりご存じではないと思いますが、これはロンドンのいちばん資産のある店だと言われているんです。応募者は手紙に限るとありました。私は推薦状と願書とを送りました。でも勤めさせてもらえるなんて当ては、全然しておりませんでした。折りかえし返事が来て、きたる月曜日にご来店あれば、容貌に不満のない限りすぐに採用すると言って来ました。物事というのはどうなるものか、ほんとうにわからないと思いました。支配人が山と積んだ書類の中へ手をつっ込んで、出て来た最初のものを取るのだと言う人もあります。ともかく私の番が回って来たのです。これほどうれしかったことはありません。給料はコクソンの店より一ポンド多く、それで仕事は変わらないのです。
さて、これから奇妙なことに出くわすわけですが、私はハムステッドを出た所で下宿をしていました。ポッターズ・テラス十七番が住所です。職が決まったという晩に、私は煙草をふかしてすわっていました。そのとき下宿のおかみさんが『経理士アーサー・ピナー』とある名刺を持って来ました。聞いたこともない名前ですし、何の用事だか想像もつきません。でももちろんお通しするように言いました。
入って来た男は、中肉中背で黒髪黒眼で、あごひげもまっ黒で、鼻のあたりにちょっと光沢がありました。快活なふうで、時間の価値を知っている者のように[てきぱき]と話しました。
『ホール・パイクロフトさんでいらっしゃいますね』
『そうです』私は彼のほうへ椅子を進めました。
『最近までコクソン・エンド・ウッドハウスにお勤めでしたね?』
『そうです』
『そして今度は、モースンのほうへいらっしゃるんですってね』
『そのとおりです』
『あなたが経理上の手腕をたいそうお持ちであると聞いております』
もちろん私はこれを聞いて喜びました。事務所の中ではいつも抜け目なくやっておりました。でもこんなふうに世間の評判になっていようとは夢想だにしませんでした。
『あなたはたいへん記憶がよいとか』
『まあ大体』私は謙遜《けんそん》して答えました。
『あなたは失業中、市況をずっとご覧でしたか?』
『毎朝見ておりました』
『なるほど、これが本物の精励《せいれい》というものですな。成功の道でもあります。失礼ながら、ちょっと試させていただけませんかな。エアシャーはどのくらいですか?』
『百五ポンドから、百五ポンド四分の一です』
『ニュージランド整理公債は?』
『百四ポンドです』
『ブリティッシュ・ブロウクン・ヒルスは?』
『七ポンドから七ポンド六シリングです』
『これはすばらしい!』彼は両手をあげて叫びました。『これは全く聞いたとおりだ。あなたは全くモースンの店員だなんてもったいない話ですよ』
こう強く言われて見ると、私もびっくりしました。
『でも他の人たちは、あなたほど私のことを大事に思ってくれませんよ。ピナーさん。この口を見つけるのだって、ひどく苦労したもんですよ。不満など少しもありませんね』
『何をおっしゃる。あなたは決してそれで満足していい人ではありませんよ。あなたの地位としちゃ適当じゃありませんよ。そこでちょっと私の相談に乗っていただかなくちゃならないのですが。もっとも私の提案にしたところで、あなたの才能にとっては十分なものではないのです。でもモースン商会のと比べると、闇と光のちがいですよ。そこでと。モースン商会へはいつおいでですか?』
『月曜日です』
『はあはあ。私はちょっと賭けてもよろしいんですが、あなたはそこへは行かないことになりますよ』
『モースンへ行かないんですって?』
『ええ。その日あなたは仏英金物株式会社の営業部長になるからです。この会社はフランスの町村に百三十四か所の支店を持っていますし、またブリュッセルとサンレモにひとつずつ支店を持っています』
これにはちょっと息をつまらせました。『私はいままでそんな会社を聞いたことがありません』と申しました。
『ごもっともです。資本は全部内々で出されているので、事業は静穏裡《せいおんり》に運ばれているというわけですよ。それに公開するにはちょっともったいないくらいでしてね。私の兄のハリー・ピナーが発起人でして、株の配分が終りますと、専務取締役に就任します。兄は私がこっちの事情に通じているのを知っていますし、そこによい人がいたら世話してくれ、若くて、活発な生気のあふれた人がいいというんです。そこへパーカーがあなたのことを話してくれ、こうして今夜ここへ参ったのです。はじめは残念ながら五百ポンドしか出せませんが』
『年俸五百ポンドですって!』私は驚きました。
『初めのうちだけですよ。でもあなたは代理店でなされる仕事の一パーセントの手数料をもらえるはずですよ。このほうが月給よりずっと多くなることは請け合いますよ』
『でも私は、金物については何も知ってないんですが』
『なんの! あなたは計算に明るいじゃないですか』
私は混乱してしまい、じっと椅子にすわっていることができなくなりました。でも突然、激しい疑惑におそわれました。
『正直に申し上げますと、モースンの年俸は二百ポンドですが、でも確実です。私は実際にあなたの会社をほとんど知りませんし……』
『なるほど。なるほど』彼は感にたえぬように叫びました。『これでこそ、わが社の社員となるべき人だ。もうかれこれ言う必要はありますまい。ここに百ポンドの小切手があります。もしあなたが私たちと仕事をするおつもりでしたら、これを受け取って下さい』
『結構なお話です。で、いつから勤めたらいいのですか?』
『明日一時にバーミンガムへ来て下さい。ここに兄あての紹介状があります。コーポレーション街一二六Bで兄に会って下さい。そこは仮事務所になっているんです。兄はいちおう取り決めたことを確かめるでしょうが、話はもう私たちの間でついているんです』
『本当に、どう感謝してよいかわかりません』
『どういたしまして。あなたは当然の報いを得たに過ぎないんです。そこでひとつふたつ、ちょっとした形式的なことを取り決めなきゃならんのですが、そこに紙がございましょう。どうぞそれにこう書いていただきたいんです。[余は、最低年俸五百ポンドをもって、仏英金物株式会社の営業部長たることを承認する者なり]』
求められるままにそうしますと、彼はポケットの中にそれを入れました。
『もうひとつお聞きしたいことがあるんです。モースン商会のほうはどうしますか?』
私は喜びのあまりモースン商会のことをすっかり忘れていました。
『では、断りの手紙を書きましょう』
『それが困るんです。私はあなたのことで、モースンの支配人と喧嘩したんです。私はあなたのことを問い合わせてみようとしたんです。すると向こうはえらく立腹しましてね。あなたをすかして会社から引き抜くんだろうとか何とか言って非難するんです。とうとう私も機嫌をそこねました。役に立つ人物ならもっと高給をやったらいいじゃないかって言ったんです。するとあの男は、君のところで高い俸給をもらうよりは、安くたって俺のところで働きたがってるんだっていいます。こっちはこっちで、五ポンド賭けてもいいが、こっちの話を持ち出せば、君のところへなんかもう二度と顔を向けようとはしないよと言ったんです。すると向こうは、言ったな、俺たちはあいつをどん底から拾い上げたんだ。そう簡単に去りはしないよ。そう言うんです』
『失礼な、まだ会ってもいないのに、とにかくもう考慮の余地はありませんよ。あなたがその方がいいとおっしゃるなら、もう断りの手紙など書きません!』
『よろしい。じゃ約束しましたね』椅子から立ち上りながら、『さて、私は兄にこんないい人を紹介できてうれしい。これが百ポンドの手形と紹介状です。コーポレーション街一二六Bですから、宛名をひかえておいて下さい。そして、明日一時が約束の時間ですから。ではおやすみ。幸運をお祈りいたしますよ』というのが、私たちの話し合った内容です。
ワトスン先生。私がこんな幸運に接して、どんなに喜んだかお察し下さい。私はこの幸運を抱きしめて、夜半まですわっておりました。
翌日汽車でバーミンガムへ行きました。まだ約束の時間にはたっぷりありました。私は新市街のホテルに荷物をおろして、指定の場所へ出かけて行きました。
まだ時間までに十五分ありましたが、たいした差でもないと思って入って行きました。一二六Bというのは、二つの大きな店舖《てんぽ》の間の通路でして、そこを通って行くと、石の回り階段があります。その上に会社や商売人の事務所があるんです。居住者の名前は壁の裾《すそ》のほうに書いてあります。でも仏英金物株式会社の名前はありませんでした。これは一杯くわされたんじゃないかと、びくびくして立っていますと、ひとりの男がやって来て私に話しかけました。前の晩やって来た男と似ていて、声まで同じでしたが、鬚《ひげ》をすっかりそっていて髪の毛もいくらか薄いようでした。
『あなたがホール・パイクロフトさんですか?』
『そうです』
『お待ちしておりました。約束の時間にはちょっと早うございましたね。私は今朝、弟から手紙をもらいましてね、何だかあなたのことを大そうほめてありましたよ』
『今、お宅の事務所を探していたところなんです』
『先週借りたばかりなんで、まだ名前を掲げてないんですよ。さあご一緒にお話いたしましょう』
高い階段の上まで彼について行きました。入って見ると、スレートの屋根の下に小さな汚ならしい空部屋が二つあり、敷物もカーテンもございません。私はピカピカ光ったテーブルや、その上で社員がずらりと仕事をしている大きな事務所を想像していたのでした。粗末な椅子が二つ、小さな机ひとつ、それに帳簿が一冊と紙屑箱……家具といえばそれだけのものをじっと見つめていたのです。
私がぼうぜんとしておりますと、相手の男は、
『失望なさらないで下さい。パイクロフトさん。ローマは一日にして成らず、ですよ。事務所はたいして映《は》えませんが、後立《うしろだ》てには豊富な資金があるんです。どうぞおすわりになって。手紙を見せていただきましょう』
私は紹介の手紙を渡しました。すると彼はひどく注意深く見て、
『弟のやつ、あなたに相当魅力を感じたらしいですね。あれは、あれで相当鋭い目を持っているのですよ。弟はロンドンを信用しますが、私はバーミンガム党なんです。でも今度は、弟の忠告に従うことにしましょう。あなたを採用するのに確定しましたから、どうぞそのおつもりで』
『私の仕事というのは何ですか?』
『ゆくゆくは、パリの大倉庫を管理してもらいます。これはイギリス陶器をフランスの三十四の代理店に送りこむ仕事なんです。仕入れには一週間かかりますので、その間バーミンガムにいて、おおいに羽をのばして下さい』
『では、どうするんですか?』
これには答えずに彼は引き出しから、大きな赤い本を取り出しました。
『これがパリの人名簿です。名前の下に職業が書いてありますから、これを家に持って行って、金物商の住所を書き抜いていただきたい。これがあると大へん便利なんでして』
『たしか、職業別名簿というのがあるはずですが』
『それは信頼が置けないんでして、組織が僕らのと違うんでね。がんばって月曜の十二時に僕のところへ持って来て下さい。ではパイクロフトさん。まじめに知恵をしぼってやって下されば、会社だって黙っていませんからね』
私はその大きな本を小脇にかかえて、宿にもどりました。そして胸の中には矛盾した気持を持っていました。しかし一方、私は仕事にありついたわけですし、ポケットには百ポンド持っているんです。でもまた一方、事務所のようすや壁に名前の書いてなかったこと、実務家ならば誰でも気づくいろいろな点から、雇い主の地位に何かよからぬ印象を残したものです。だが、どんなことになろうと、私は金を握ったのだと思い、仕事に精を出しました。日曜日には仕事に没頭しましたが、月曜日になっても、まだHの部しかできません。私が雇い主のところへ行きますと、依然何もない部屋に彼がいました。今度は水曜日まで仕上げて来るように言いました。水曜日にもまだできませんでした。そこで私は金曜、すなわち昨日まで待ってもらって一所懸命にやりました。それができて、ようやくハリー・ピナー氏のところへ持って行きました。
『これはありがとう。こんなに苦労をかけるとは思いませんでした。これは至って便利なものでして』
『ちょっと手間どりました』
『さてと、今度は家具商の名簿を作っていただきたいんだが』
『承知しました』
『じゃ、明日の夜七時に来て、どのくらい進捗《しんちょく》しているか知らせていただけませんか。でもあまり無理なさってはいけませんよ。仕事の後なんかにデイのミュージック・ホールへ行って、夜の二時間やそこら楽しむのも結構なことですよ』
彼は話しながら笑っていました。そのとき、私は彼の左側の二番目の歯が、恰好《かっこう》悪く金が詰まっているのを見て、ドキッとしました」
シャーロック・ホームズは満足げに両手をもんでいた。私はわけがわからず、パイクロフトの方をじっと見つめていた。
「ワトスン先生が驚かれるのも無理ないんです。でもこれはこういうことなんです。ロンドンのピナーの弟と話したときですね。私がもうモースンの所へ行かないと言ったら、彼が笑ったんです。このとき見せた彼の歯が、これと同じ具合に詰まっていたんです。二度とも金のひらめきが見えたのです。声も姿も同じであること、あとは剃刀《かみそり》とかつらでごまかしているにすぎないと考えて見ますと、これは同一人物だと考えないわけにはゆきませんでした。
もちろん兄弟だから似ているとお思いでしょうが、似ているといっても同じ歯が同じ具合に詰めてあるなんて、考えられないことです。
私はお辞儀をして外に出ました。街路に出てから、どうしたものかと判断すらつかない始末でした。家にもどって洗面器に冷たい水をくんで、頭を冷やし、いろいろ考えて見ようといたしました。なぜ彼がロンドンからバーミンガムへ私を送ったのか。なぜ私に先回りして待ち受けていなければならなかったのか。なぜ自分から自分へ手紙を書いたのか。皆、手にあまる問題でした。まったく意味がつかめません。
そのとき突然、シャーロック・ホームズさんに頼めばはっきりしたことがわかるんじゃないかと思ったのです。私は夜行に間に合い、今朝ホームズさんにお会いして、こうしておふたりでバーミンガムまで行っていただくことになったのです」
株式仲買店員がその不思議な経験談を語り終ったあと、しばらく話がとぎれた。それからホームズはクッションによりかかって、彗星年《すいせいどし》の葡萄酒をひと口飲んだ鑑賞家のように、うれしそうな、批評的な顔でもってじろりと私のほうに目をくれた。
「ワトスン君、おもしろいじゃないか。僕にはうれしくてならない点がある。仏英金物株式会社でアーサー・ハリー・ピナー氏に会うっていうのは、僕らにとって愉快な経験になると思うがね」
「でも、どうやって会うんだい?」
「それは簡単ですよ」ホール・パイクロフトは気軽に言った。「あなたは私の友人で職を探していることにするんです。それで私がその専務取締役に紹介してあげることにしても、べつに不自然なことはありますまい」
「なるほど、無論そうです。その紳士に会って仕事がもらえるかどうか、頼んでみることだな。あなたの勤務を高く評価しているっていうのはどういうことから言っているのですか。それとも、これは何か……」
ホームズはそこまで言って爪をかみ、ぼんやり窓外に目をやっていたが、それからは新市街につくまで、彼からほとんど何の言葉も聞けなかった。
その晩七時に、私たち三人はコーポレーション街を会社のほうへ歩いて行った。
「時間前に行っても無駄ですよ。あの男はただ私に会うためにやって来るだけなんです。指定の時間までは、事務所はからですよ」パイクロフトは言った。
「うん、いわくがありそうだね」ホームズが言った。
「そら、私が言ったでしょう。あそこに歩いているのがそうですよ」
パイクロフトは向こう側の道路を急ぎ足で歩いている小柄な、白晢《はくせき》の、身なりのいい男を指さした。
私たちが見ていると、夕刊の最終版を呼び売りしている少年をみて、辻馬車や乗合馬車の間を走り抜けて一枚買った。それから夕刊を手にして、戸口のほうへ消えて行った。
「ああ、入って行きましたね。あの中に会社の事務所があるんです。さ、ご一緒に来て下さい。できるだけうまくやりますから」
彼のあとについて、五階まで上りました。すると目の前に半ば開いたドアがあって、パイクロフトはそれをノックした。中から「どうぞ」と言う声がした。
それで私たちは話に聞いたとおりの、何の備えつけもない部屋に入って行った。たったひとつのテーブルを前に、今街路で見かけた男が夕刊を広げてすわっていた。
入って来た私たちを見上げたとき、何かしら悲痛な面持……否《いな》、悲痛を通り越して、その生涯にめったに見られない恐怖の表情を見せていた。額は油汗で鈍く光り、頬は、魚の腹のように青く死んだようであり、目は物狂おしく大きく開かれていた。彼は初めパイクロフトを見ても誰だかわからなかったらしいが、パイクロフトのほうは、それを意外な感じで受け取ったようなので、いつもはこうではないのだと思った。
「お気分でも悪いのですか、ピナーさん」
「ええあまりよくないんです」ピナー氏は元気を取り戻そうと、乾いた唇をなめながら「あなたのつれていらしった方はどなたですか?」
「こちらはバーマンジのハリスさん、こちらはバーミンガムのプライスさんです」パイクロフトはよどみなく言った。「ふたりとも私の友人で、経験の豊富な人たちですが、ここしばらく失職しております。それで会社で何か使っていただけたらと思ったのですが」
「なるほどなるほど、何とかいたしましょう。で、あなたの特技とでも言うのは、ハリスさん」
「私は会計をやっておりました」ホームズが言った。
「ほう。ちょうどそういう人を欲しいと思っておりました。で、プライスさんのほうは?」
「私は事務です」とこれは私が答えた。
「何とか便宜《べんぎ》をはかるようにしましょう。決定しだいお知らせいたしましょう。でも今日はこれまでにして下さい。お願いだ。私はひとりきりになりたいのだ」
この最後の言葉は、あたかものしかかって来た圧迫にたえかねて、突然に爆発したように彼の口をついて出た。ホームズと私は互に顔を見合わせ、パイクロフトはテーブルのほうへ一歩進み出た。
「ピナーさん。あなたは忘れておられるようですが、私は約束どおりあなたから何か指示を受けに来たのですよ」
「そう、そうでした」ピナー氏は落ち着きを取り戻して「ちょっとここでお待ち下さい。お友だちにも待ってもらえぬはずはないでしょう。お願いできれば、三分ばかりちょっと失礼させて……」
彼は立ち上り、丁重にわれわれに一礼して部屋の隅のドアを押して行き、後ろをピタリとしめてしまった。
「どうしたのだ。僕らをまいたのかな?」ホームズはささやいた。
「それはできませんよ」パイクロフトは答えた。
「どうして?」
「あのドアは隣りの部屋に通じているだけですから」
「他に出口はないのですか?」
「ありません」
「家具やなんかは?」
「昨日はからっぽでした」
「じゃ、いったいどうしようというのかな。この点にわからないところがある。恐怖で三分《さんぶ》どおり顔が変になったというのは、あの男のことだが、なぜあんなに震えていたのだろう」
「われわれが探偵だと思ったのだろうよ」と私は言った。
「そうですよ」とパイクロフト。
だがホームズは首を振った。
「あの男は、われわれが入って[青くなった]のじゃない。すでに[青かった]のだ。すると、何だかこれは……」
そのとき隣りの部屋から急にドンドンと戸をたたく音がして、ホームズは口をつぐんだ。
「いったい自分の部屋をノックして、どうしようっていうんだ」パイクロフトは叫んだ。
ドアを叩く音はいっそう強くなってきた。私たちはそのとざされたドアのほうを、どうなることかとじっと見つめていた。ホームズのほうを見ると、彼の顔はかたくなり、ひどく興奮して、ずっと前のほうへのめる恰好《かっこう》になっていた。
突然、喉をゴロゴロ鳴らす音と木造部分を活発に打つ音とが聞こえてきた。ホームズは狂気のようにそのドアにぶつかっていった。中から鍵がかかっていた。彼にならって、われわれ三人は全力をあげてドアにぶつかった。初め蝶番《ちょうつがい》がひとつ折れ、ついでまたひとつ、ドアはパタリと倒れた。それを踏み越えて、次の部屋へ突進した。
部屋は空《から》であった。しかし、部屋の一隅に、私たちのいた部屋に近く第二のドアがあった。ホームズはそれにとびかかり、ぐっと引きあけた。
上衣とチョッキが床に落ちており、この仏英金物株式会社の専務取締役は首に自分のズボン吊りを巻いて、ドアの後ろの鈎《くぎ》に首をつっていた。膝を折り縮め、首を胸のほうへぐっと垂れ、ドアを自分の踵《かかと》で打ちつけていたのだが、それがさっき、私たちの会話を途切らせたものだったのだ。
すぐに私は彼の腰に手を回して抱き上げた。一方、ホームズとパイクロフトは、鉛色の皺《しわ》に食い込んだゴム入りのズボン吊りをはずした。それから私たちは彼を別室に運んだ。その顔は石板色を呈し、紫色の唇は、ひと息ごとにあえいでいる……これが五分前まではピンピン生きていた人間の痛ましい残骸《ざんがい》であった!
「ワトスン君、どうだろうか」とホームズがきいた。
私はしゃがんでしらべてみた。脈は弱く断続的であった。が、呼吸はだんだん長くなり、白く切れ目を見せていた瞼《まぶた》は少し震えていた。
「まさに一瞬のことだったが、もう大丈夫だろう。ちょっと窓をあけて、水さしを持って来てくれたまえ」
私は彼の襟元《えりもと》をひらいて、顔に冷たい水をあびせ、自然の長い呼吸をするまで、彼の腕を上げたり降ろしたりして人工呼吸をやった。
「もう時間の問題だ」私は彼のそばを離れた。
ホームズは手をポケットに深く入れ、顎《あご》を胸につけて、テーブルのそばに立っていた。
「こうなっては、巡査を呼んだほうがいいね。ただ僕からいっさいの事情を説明してやりたいんだが」
「私には、何とも不可解です」パイクロフトは頭をかきながら、「何のためにこんな所につれて来たのか、それに……」
「フフ、そんなことはわかっているんですよ。ただ最後の突然の動機が問題ですね」ホームズはじれったそうに言った。
「では他のことはわかっていらっしゃるんですか」
「はっきりそう言えると思います。ワトスン君。君はどうだい?」
「残念ながら理解できないんだ」私は肩をつぼめて言った。
「そうかね。初めっからの出来事を考慮に入れてみると、たったひとつの結論を示していると思うんだ」
「どういうふうにしてだい?」
「まずね。全体が二つの点にひっかかっているんだ。第一にパイクロフトさんに、このえらい会社に勤めますと宣言書を書かせたことだ。これがいかにも暗示的だと思わないかい?」
「その点がどうもわからないね」
「じゃ、なぜ彼らがパイクロフトさんに、そんなことを書かせようとしたんだい? こんな取りきめは口約束が普通で、とくにこの場合に限って例外だという理由などないはずだ。わかりませんか、パイクロフトさん。彼らはあなたの筆跡の見本をほしかったのですよ。ああやって取る他に道がなかったわけですよ」
「なぜ私の筆跡なんかをほしがったのでしょう?」
「そこですよ。なぜかということ。これに答えられれば、このささやかな問題を一段と解決に導くことになるんです。なぜでしょう。理由はひとつあるきりです。何者かが、あなたの筆跡をまねる必要があったのです。それにはまず見本が手に入らなくちゃならないんです。そこで今、第二の点を考えてみると、お互いに関連し合っていることがわかります。その第二の点と言うのは、あなたがモースンのほうへ辞職願を書くのを、ピナーがやめさせたこと、それで、モースンの支配人にホール・パイクロフトとかいう会ったこともない男が、月曜の朝事務所に来るものだと思い込ませたことです」
「そうだ。なんて僕は馬鹿だったんだ!」
「まず、筆跡のことを考えてみましょう。今誰かがあなたのかわりになってモースンへ行ったとしても、あなたが求人に応募したときの手紙の筆跡と違っていたら、もちろんすぐにばれてしまいますが、行く前にあなたの筆跡をまねておけば、その事務所であなたの顔を見た人とてないのですから、そのいかさま師は、パイクロフトと名乗ってもばれないですむわけです」
「そうです。誰も知っている人はいないんです」パイクロフトはうなった。
「そうでしょうね。むろんあなたにモースンのことをよく考えさせないこと、モースンの事務所にあなたのにせ者が働いていることを、あなたに知らすおそれのある人と交渉させないでおくこと、この二点がいちばん大切なわけだったのです。そこであなたの俸給《ほうきゅう》の前渡しを十分出して、彼らのからくりをばらせるおそれのあるロンドンへ行かせないようにしたわけです」
「でもなぜその男は、兄になったり弟になったりしたんでしょう?」
「うん、これもまた明らかなことです。この事件には二人の人間が関係しているのです。ピナー氏と、モースン商会であなたになりすましている男です。ピナー氏はあなたと契約したが、あなたを雇い主に会わせなくちゃならないし、だからといって、第三の男を自分の計画に入れることを好まなかった。そこで彼はできるだけうまく変装して、それをあなたに見分けられるといけないと思って、兄弟だから似ているのだと言い含めて、言い逃れしようとしたわけです。たまたま金の入れ歯というものがなければ、あなたは何も疑わずに終ったでしょう」
ホール・パイクロフトは握りこぶしを振って叫んだ。 「ああ、私がこんな馬鹿な目にあわされている間に、もう一人のホール・パイクロフトはモースンで何をしているんだろう。ホームズさん、これはどうしたらいいのでしょう。ねえ、どうしたらよいか教えて下さい」
「モースンへ電報を打たなきゃなりませんね」
「でも土曜日は半ドンですよ」
「大丈夫です。門番か宿直がいるでしょう」
「あ、そうです。保証金を保存してあるので、いつでも守衛がおります。そんな市中の噂話《うわさばなし》を聞いたことがあります」
「では、電報を打って、安全かどうか、あなたの名前で働いている店員がいるかどうか、問い合わせて見ましょう。この点、私の推測どおりだと思いますが、わからないのは、私たちを見るや否《いな》や、この男が急に部屋から飛び出してなぜ首をつったかということです」
そのとき背後にうめき声が聞かれた。
「新聞!」
見ると例の男が、すわっていて、幽霊のように青ざめているが、目は正気を取り戻して、喉《のど》のまわりの幅広く赤くはれたあとをなでていた。
「新聞! そうだ」ホームズは飛び上がって叫んだ。「なんと間抜けだったんだ。あの男に会うことにはあんなに頭を使いながら、新聞のことはちっとも気がつかなかった。確かに秘密はその新聞にあるんです」
彼はピナーの持っていた例の新聞をテーブルからとり上げると、勝ち誇った叫びをあげた。
「見たまえ、ワトスン君。これはロンドンの新聞で『イヴニング・スタンダード』の早版だよ。ここに事件が出ている。見出しを読んでみようか。……市の犯罪。モースン・エンド・ウイリアムズ商会の殺人。不敵の強盗捕わる。……ね、ワトスン君。皆このことを聞きたがっているんだから、大きな声でひとつ読んでくれないか」
それはトップ記事だったから、今日第一番のビッグニュースなのであった。その記事はこうである。
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今日午後、市で凶悪な強盗が現われ、守衛ひとりを射殺したが捕えられた。著名な株式仲買店であるモースン・エンド・ウイリアムズ商会は、以前から総額百万ポンドを越す金額の保証金を保管していたが、責任者は、危機にそなえて、この大財産を守るため最新式構造の金庫を用い、武装した監視人を日夜警戒にあたらせていた。
先週、ホール・パイクロフトという新店員を会社に雇い入れたが、それは偽名で、実はベディントンといい、有名な偽造および強盗常習者であって、兄とともに懲役五年の刑を終えて、出所したばかりである。方法に不明な点があるが、偽名を用いて店員の地位を取得し、種々の鍵の型を手に入れ、金庫室や金庫の位置を調べるのに利用していた。土曜の午後はモースン商会は普通半ドンなのである。
市警察のツースン巡査部長は一時十二分にひとりの紳士が古風な手提げ鞄《かばん》を持って同商会から降りて来るのに不審をいだき、これを尾行し、ポロック巡査の応援を得て、大格闘の末、これを逮捕するのに成功した。取り調べの結果、大胆不敵の強盗犯人と判明した。十万ポンドに近いアメリカ鉄道会社の債券をはじめ、その他鉱山、諸会社の多額の株券が鞄の中から発見された。
同社構内を調べた結果、守衛の死体が二重になって、いちばん大きな金庫の中に投げ込まれていた。もしもツースン巡査部長の敏速な活動がなかったら、月曜の朝まで発見されなかったであろう。
守衛は頭蓋骨《ずがいこつ》を背後から鉄棒でなぐられていた。ベディントンは忘れ物をしたような格好で部屋に入り、守衛を殺してから、急いで大金庫を強奪して証券類を持って逃走をはかったものとみられる。ベディントンは兄と共に仕事をするのが普通である。当局はその所在を追及中だが目下のところ、兄のほうは、今回の犯行に関係ないものと確認されている。
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「なるほど、その方面ではあるいは当局の手数をはぶけそうですね」
ホームズは窓ぎわにうずくまっている、やつれたピナー氏を見やって、「人間の本性というものは奇妙な混合物だね、ワトスン君。人殺しの凶悪漢でも、自分の兄弟が捕縛《ほばく》されたと知っただけで自殺しようという愛情を示し得るんだね。でもわれわれは、やるべきことをしなくちゃならない。ワトスン君と僕とはここで番をしているから、パイクロフトさん、あなたは巡査を呼んで来て下さい」
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グロリア・スコット号
「こんな書類があるんだがね」
ある冬の夜、暖炉《だんろ》の火をはさんですわっているとき、ホームズが話しはじめた。「一見に価するもんだと思うよ、ワトスン君。グロリア・スコット号事件といってね、一風変わったやつの文書なんだよ。この手紙が、一読、治安判事のトリヴァを驚死《きょうし》せしめたという代物《しろもの》なんだ」
彼はひきだしから、黄色に変色した紙の巻いたのを取り出して、その紐をほどきながら何やら走り書きしてある灰色の紙の半片を私に差し出した。
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万 一 不調なれば 事 業 しばらく 休、山猟の 獲物 全て ロンドンへ 送った。ハドスン 飼育の、雌雉《めすきじ》を ばらした。蝿取紙《はえとりがみ》の 受注 生命 がけで がんばったが、危い。主管理人 入金して 逃げよ と語る。
[#ここで字下げ終わり]
この謎みたいな文面から顔を上げると、ホームズは私の顔を見ながら、くすくす笑っているのだった。
「いささか当惑したようだね」彼が言った。
「どうしてまた、こんな手紙が恐怖を起こさせたのか、僕にはわからんね。ただ奇怪な手紙というだけのことじゃないか」
「そうさ、しかし事実は、これを読んだ老人は、りっぱな、しっかりした人物だったのに、まるでピストルの台尻でたたきのめされたように、すっかり参ってしまったんだ」
「何だかおもしろそうだね」私が言った。「だけど、とくにこの事件を僕が研究してみる価値があるといったが、どうしてだい?」
「それは、僕が初めて手がけた事件だからさ」
私は、私の友の心をはじめて犯罪の捜査に向けさせたものは何か、それを聞き出してやろうと、何度か試みてきたのだったが、いつも巧みな冗談にまぎらされて、成功しなかった。そして今、彼は肘掛椅子《ひじかけいす》にすわって、膝の上にその記録をひろげているのである。
それから、彼はパイプに火をつけて、しばらく煙を吹かしたり、書類をひっくり返したりしていたが、
「ヴィクター・トリヴァの話は、まだしてなかったかね?」ホームズがきいた。「ヴィクターは、僕がカレッジにいた二年間で得た、ただひとりの友だちなんだ。ワトスン君、元来僕は人づきあいの悪い男でね、そのころも、自分の部屋にくすぶって、独りよがりのつまらん思索にふけるのが好きだったんだ。だもんで、同学年の連中とほとんどつきあわなかったんだよ。フェンシングやボクシングなどの競技にも関心はなし、しかも、ほかの連中とは研究の方向がまるで違うし、全く接触する機会がなかったわけだ。知ってる男といえば、ヴィクターが唯一だったが、これとは奇妙な縁でね、ある朝、チャペルへ行くとき彼のブルテリヤが僕のくるぶしにかみついたということがもとでね。
友情をかわすには散文的な方法だったが、なかなか効果的だったよ。おかげで、十日間も床についていたが、その間、よく見舞にやって来てくれたよ。はじめは、二、三分しゃべっていくだけだったが、だんだん、それが長くなって来て、その学期の終りころには、僕らはもう親しい友だちになっていた。彼は気のいい、血の気の多い男で、全身これ意志と精力といったふうで、あらゆる点で僕と対照的だった。しかし、ふたりには共通な点もあることがわかっていた。そして、彼も僕と同様、友だちがないんだと知ってからは、それがふたりを結びつける絆《きずな》となったんだ。ついに彼はノーフォーク州のドニソープにあるおやじの家に私をよんでくれたので、僕は喜んで夏休みの一か月を彼の田舎でお世話になった。
トリヴァのおやじというのは、たしかに、相当な財産もあり、地位もある人で、治安判事の職につき、また地主でもあった。ドニソープというのは、ブローズ郡でも、ラングミアの真北にある小さな村なんだ。[しな]の木の並木道を通ってゆくと、家は古風で横にひろがった造りで、梁《はり》には樫《かし》材を使った煉瓦《れんが》建てだった。沼地にはすばらしい野鴨《のがも》の猟場があり、魚釣りに好適の釣り場もあり、たぶん、前の地主から引きついだと思われる、小規模ながらよくととのった図書室もあり、さらになかなかうまいコックもいて、ここで一か月愉快に過ごせないやつは、よっぽどの気むずかし屋だ。
トリヴァ老人は男やもめで、僕の友人はひとり息子だった。娘もいたそうだが、バーミンガムへ行ってて、ジフテリアにかかって亡くなったんだそうだ。この父親なる人物には僕も大いに興味を覚えた。教養はあまりないが、精神的にも肉体的にも、野性的な力は相当もっている人物だった。本のことなどあまり知らなくても、広く旅をしており、世情に通じ、いちど知ったことは、決して忘れなかった。身体つきは、ふとっていてがっちりした男で、半白の髪はもじゃもじゃはえており、風雨にさらされた顔には、青い鋭い目が獰猛《どうもう》なくらいに光っていた。それでもこの地方では寛大で、慈悲深い男として、評判がよく、判事として、その判決の寛大さは有名だった。
着いてから間もないある晩のこと、食後の葡萄酒を前にしてくつろいでいると、友のトリヴァが、もうそのころから本物らしく体系化していた僕の観察の習慣や推理癖のことを話しはじめたのだ。もちろん、これが僕の生涯にどんな役割を演ずるようになるかは、まだ僕にはわかってなかったんだがね。老人はむろん、僕が一、二度やってみせたつまらんことを、息子が大げさに話しているんだと思い込んでいたんだ。
『そいじゃホームズ君』と彼は上機嫌に笑いながら、『君の推理力を試すなら、わしは絶好の対象じゃ。やってみなさい』
『たいしたこともできないでしょうが』と、僕は応じて、『この十二か月くらいのあいだに、あなたは誰からか襲われはしないかと、びくびくしてらっしゃるようなことはありませんか?』
老人の口もとから、笑いは消えて、彼はびっくりしたように僕の顔を見つめるのだった。
『ふむ、たしかにそうですな。そうだな、ヴィクター』と、息子のほうを見やるのだ。『例の密猟者どもを追い散らしたとき、あいつらは、きっと刺し殺してやる、と凄味《すごみ》をきかせやがったんじゃ。事実、エドワード・ホウビーさんが襲われとるんでな。それからというものは、いつも用心しとるんじゃが、それが、どうしてあんたにわかったのか、わしには見当がつかんが……』
『たいへんりっぱなステッキをお持ちになっていらっしゃいますが』僕が答えた。『その彫刻を見ていますと、まだ一年とはたっていないようです。しかも、わざわざ頭に穴をあけて、鉛を溶かし込んであるのは、それを強力な武器とするためでしょう? なにか危害でも受ける怖れがなければ、そんな用心などしないもんだと思いました』
『それだけですかな?』微笑しながら、彼が言った。
『お若いときには、ボクシングを相当おやりになったですね』
『また、あたりましたな。どうしてわかりましたかな? なぐられて、わしの鼻が少々曲がってでもいるのかね?』
『いいえ、両方の耳です。ボクシングをやった人の耳は平べったくて、厚くなるものなんです』
『ほかにはありませんかな?』
『ずいぶん採掘《さいくつ》をなさったですね、そのたこでわかります』
『わしの財産は全部、採金場で得たもんじゃ』
『ニュージーランドにいらしたこともあります』
『また当りましたな』
『日本へもお出かけになった』
『そのとおり』
『イニシァルがJ・Aの人と親しくつきあっていらしたが、今では、まったく忘れてしまいたいと思っていらっしゃるはずです』
トリヴァ老人は大きな青い目で、不審げに、いや狂暴なくらいに僕を見すえたまま、ゆっくり椅子を立ち、テーブル掛けの上に散らかっている胡桃《くるみ》の殻の中に顔をうつ伏せてしまった。
ワトスン君、そのときの僕らふたりの驚きようは、君にもわかるだろう。しかし、彼はそう長い間、気を失ってたわけじゃないんだ。ふたりで彼のカラーをゆるめて食卓用の指洗い鉢の水を顔にふりかけてやると、二、三度息をついてから、身を起こした。
『ああ』老人は無理に笑顔をつくって、『びっくりしなくてもいいんだ。わしは丈夫そうに見えるが、妙に気が小さいところがあってな、くたばらせようとするなら、造作はない。ホームズ君はどうしてわかったのかしらんが、本職だって、小説に出てくる探偵だって、あんたにかかっちゃ、まるで子供同然だわ。あんたはこれで身を立てるんじゃ。いいかな、いくらか世の中を知っとる者の言うことじゃ、信用なさるがいい』
こうして、僕の才能を買いかぶって、ほめちぎってくれた言葉が、今まで単なる道楽としか考えていなかったこの仕事が、職業として成り立つことに気がつく最初の動機となったのだ。しかし、そのときはこの老人の急病に驚いたあまり、そんなことを考えつく暇もなかったのだ。
『僕の言ったことが、気にさわったんじゃないでしょうか?』僕が言った。
『そう、どうやら痛い所をやられたようじゃな。だが、どうして、おわかりか、どこまで見抜きなすったか、わしに聞かせて下さらんか?』
なかば冗談のようでもあったが、その目の奥には依然として恐怖の色がひそんでいた。
『わけもないことです』と僕は言った。『あの魚をボートにあげようとして、あなたは腕まくりなさったですね、あのとき、肘《ひじ》にJ・Aという文字の刺青《いれずみ》を見たんです。文字は読めましたが、それがぼやけていることといい、その回りの皮膚に[しみ]がついていることから推《お》して、刺青を消そうとなすった跡だと見てとりました。だからこの頭文字は、かつては親しかったが、その後で忘れようとなすった人のものだということが、はっきりわかります』
『なんと目のはやい人じゃろ?』と叫んで、彼はほっとひと息ついた。『まったくそのとおりじゃ。だがこの話は、もうやめにしよう。同じ亡霊のことでも、やはり、古いなじみの亡霊がいちばん悪いわ。玉突き場へでも行って、ゆっくり葉巻でもやりましょうや』
その日以来、トリヴァ老人の僕に対する親切さには、いつも何か僕に疑いを抱いている素振りが見られるのだった。息子でさえ、こんなことをいったくらいだ。
『君はおやじを変えてしまったようだね。君がどこまで知っているか、確かめるのを諦《あきら》めたようだよ』とね。
おやじさん自身は、そんな素振りなどしはしなかったが、内心、ただごとではないらしく、何かにつけて、それがあらわれてくるのだった。とうとう、僕のいることが彼に不安を与えるんだろうから、そろそろ引きあげた方がいいと考えはじめた。
ところが帰る前の日になって、事件が起きたんだ。これが結局は重大な意味をもっていたのだ。
僕ら三人は庭の芝生の上に椅子を持ち出し、日差しを浴びながら、遠くの湖沼地帯の景色を楽しんでいた。そこへ女中がやって来て、トリヴァ氏に会いたいという男が玄関に来ているとつげた。
『お名前は?』と主人がきいた。
『おっしゃらないんです』
『何用かね?』
『会えばわかる、ただちょっとお話ししたいことがある、とおっしゃいます』
『お通ししなさい』
まもなくそこに現われたのは、しなびたような小男で、卑屈な物腰で、ひょくひょく歩いて来た。前の開いたジャケットの袖口には、コールタールのしみがついている。下には赤と黒の縞《しま》のシャツをのぞかせ、厚地の粗《あら》い木綿のズボンに、ひどくいたんだドタ靴をはいていた。やせた、茶色の顔は狡猾《こうかつ》そうで、いつも笑っている口もとから、不揃《ふぞろ》いの黄色い歯がのぞいている。そして、しわだらけの手を握りしめているところは、水夫独特のものだ。その男が前かがみになって芝生をこっちへ歩いてくると、トリヴァ老人は、しゃっくりでもするような音を出して、そのままベンチを立って、家のなかへ走り込んだ。すぐ帰って来たが、近くへくると、プンとブランディーの強い匂いが僕の鼻についた。
『ところで、何用ですかな?』
水夫あがりの男は、立ったまま、目にしわをよせて老人を見つめた。口には薄笑いを浮べたままである。
『おれを忘れたんですかい?』男はいった。
『ああ、たしかにハドスンだな!』老人はひどく驚いたようだった。
『そうとも、ハドスンでさあ』と水夫がいった。『あれからもう三十年にもなるからな。ところで、お前さんは、ここに、でんとした家を構えているが、おれときた日にゃ、いまだに、塩物|桶《おけ》から塩づけの肉を食ってる始末さね』
『これっ! わしはあのときのことを忘れてはおらん! いまにわかるがの、それが』
老人は水夫のそばに歩み寄って、今度は小声で何かいった。
『台所へ行ってみなされ』とまた大きな声になって、『飲むものも、食うものもあるじゃろう。そして、きっと職も見つけてやるからな』
『すんませんな』たれ下がっている髪に手をやりながら、水夫が言った。『八ノットの不定期船で二年の契約がきれて帰って来たところだ。何しろ人手不足だったもんで、おりゃ疲れてしまって、しばらく休みたいんだよ。それで、ベドウズ氏か、お前さんの所へ行けばどうにかなると思ってな』
『へえ、お前さんはベドウズ氏がどこにいるんか知っとるんかね?』
『気の毒ながら、昔の仲間なら、みんな居所ぐらい知ってまさあね』
そういって、薄気味悪い笑いを浮かべて、ひょこひょこ女中について台所のほうへ歩いていった。トリヴァ老人はそのあとで、あの男は自分が採掘場へ帰るときに同船した船員だと、はっきりしない口調で話してから、僕らを芝生に残したまま、ひとりで家のなかへ入ってしまった。
それから一時間ほどして、僕たちが家のなかに入ってみると、ハドスンは食堂のソファの上に死んだように酔っぱらって大の字に眠りこけていた。この事件は、僕の心に醜悪な印象しか与えなかった。だから、何も思い残すことなく、次の日にドニソープをあとにすることができた。僕がいたら、かえって迷惑になるだろうと思ったからだ。
これらのことは、みんな夏休みの最初のひと月の間に起こったんだ。僕はロンドンの自分の部屋に帰って、七週間のあいだ、有機化学の実験をやった。ところが秋もだいぶ深まって、長い休暇も終りに近づいたある日、友人のヴィクターから君の助言と尽力をお借りしたいから、もういちどドニソープヘ来てくれという哀願の電文を受け取った。もちろん僕は万事を放って、再度北のほうへ旅立ったのだ。
彼は二輪馬車で僕を駅まで出迎えてくれた。そのとき僕はひと目で、このふた月、彼がひどく悩んだのを見てとった。彼はやせこけて、やつれていた。かつては彼独特のものだった大仰《おおぎょう》で快活な態度は、もうなかった。
『おやじが死にそうなんだ』出会いがしらにこういうんだ。
『まさか!』と僕は叫んだ。『どうしたんだ、いったい?』
『卒中だよ。神経にガツンと来たんだよ。いつ死ぬかわからない。果たして臨終に間に合うかどうか』
察してくれたまえ、ワトスン君、全く予期しなかったしらせに、僕はびっくりしてしまったよ。
『原因は何だい!』
『ああ、そこなんだよ。とにかく乗れよ。馬車を走らせながらお話ししよう。君も覚えているだろう? あの、君が帰る前の晩ころがり込んで来た変な奴のことさ』
『もちろん忘れはせんさ』
『あの日、うちへ入れた人間はいったいなんだったと思う?』
『何だというんだ?』
『悪魔だったんだよ、ホームズ君!』彼は叫んだ。
僕はびっくりして、彼を見つめたままだった。
『そうなんだ。悪魔だったんだ。あれ以来、一時《いっとき》として、わが家に平和はなかった。全く一刻たりとも。あの晩以来、おやじは頭があがらない、とうとう生命までも取られることになってしまった。胸をかき破られる思いだったんだ。これもみな、あのハドスンの野郎のおかげだ!』
『で、彼はどんな力をもってるんだい?』
『ああ、わからんのだ、どうかしてそれが知りたいと思ってるんだ。人のいい、親切ないいおやじなのに、それがどうしてあんなならず者の魔手にかからなければならないんだ? ホームズ君、ともかくよく来てくれた。君の判断力と分別を信頼してるよ。また君が最善の忠告を与えてくれることを期待してるんだ』
馬車は、白い平坦《へいたん》な田舎道を走りつづけていた。前方には湖沼の一端がひらけて、折からの赤い夕日に光り輝いていた。左手に見える茂みの上に、高い煙突や旗竿《はたざお》など、判事の家の目じるしが見えはじめた。
『おやじはあいつを園丁にしたんだよ。でもそれじゃ気に入らないというんで、執事《しつじ》になってしまった。家中はあいつの思いのままで、ところ構わず歩き回っては、したいほうだい。女中たちは、酒癖が悪くて、言葉が下品だといってこぼす。だもんで、おやじはみんなの給料をあげて、目をつぶってもらった。あいつはおやじの一番いい猟銃を持ち出して、勝手にボートを使って、ひとりきりの狩猟会をきめこんだりするんだ。おまけに、あざけるような、下品で傲慢《ごうまん》な顔でやるんだよ。もしあいつが僕と同年配ぐらいだったら、二十ぺんも横っ面《つら》をなぐりとばしてやりたいところだ。ホームズ君、とにかく僕は、そのたびごとに我慢していなけりゃならないんだ。しかし今になってみると、もっときびしくやっていたほうが賢明じゃなかったかと思うんだがね。とにかく事態はますます悪化するばかりだ。ハドスンの野郎はいよいよ横暴になってきた。
とうとう、ある日のこと、ぼくのいる前で、おやじに対して、失礼きわまる口答えをしたから、奴の肩をつかまえて、外へ突き出してやったんだ。すると、あいつ、顔を土色にして、こそこそ逃げ出していったが、そのときの恨みがましい両の目は、どんなおどし文句よりも、脅迫的だったね。
その後、おやじと奴の間にどんなやりとりがあったか知らないが、翌日、おやじが僕の所へきて、ハドスンにあやまってくれ、という。もちろん、君はわかってくれるだろうが、僕はいやだ、といった。そして、なぜあんなやくざを家の中までのさばらせておくのか、とたずね返してやった。
すると、おやじがいうには……お前がそう言うのも無理はない。しかしお前は、わしがどんな立場に置かれているか、知らないのだ。でも、わかるときが来るだろう。わかるようにしてあげよう、どういうふうになるかわからんが。この年とった父さんが、どんなひどい痛手を受けたか、お前にはわからんじゃろうな、うん?……おやじはひどく興奮して一日じゅう書斎に閉じこもっていたが、窓から見ると、何やら忙しくペンを動かしていた。
その晩、ハドスンがこの家を出て行く、と言い出したので、われわれは肩の重荷を降ろしたように、ほっとした気持になれた。夕食が済んで、まだわれわれがテーブルについているとき、奴は食堂へやって来て、いささか酔のまわった[だみ]声で、仰々しくこんなふうに意向を発表するんだよ。
……もうノーフォークはたくさんだ。だから今度はハムプシャーのベドウズ氏のところへ行く。彼もまた、お前さんたち同様に、おれを歓迎してくれるだろう、と思う。
……気を悪くして、行くんじゃないだろうね、ハドスン?……その声のやさしさといったら、聞いてて、はらわたの煮《に》えくりかえる思いだった。
……おりゃ、まだわびごとを聞いちゃいねえな……と怒ったような面をして、僕の方をちらっと見るんだ。
……ヴィクター、お前はこの方に失礼な態度をとったとは思わんかな?……とおやじは僕の方を向いた。
……それどころか、僕たちは、あまり我慢しすぎたと思いますよ……と僕は答えたんだ。 ……こいつ! よくもぬかしやがったな、小僧め! ようし、覚えてろ……奴はどなりながら、よろよろ部屋を出ていったが、三十分ばかりして、おろおろしているおやじを残して、家を出ていったんだ。
それから毎晩、おやじの部屋から、こつこつ歩き回る音が聞えていたが、おやじもようやく自信をもち直し始めた、そのときに、とうとう今度のことで、がん、とやられたんだ』
『どんなふうに?』と僕が熱心にきいた。
『それが思いも及ばないような状態でね。きのうの夕方、フォーディンブリッジの消印が押してある手紙が一通、おやじ宛に舞い込んだんだ。おやじはそれを読むと、両手で頭をたたきながら、部屋のなかを、小さな輪をかいて歩き回り出したんだ。まるで気違いみたいにね。しようがないから、ソファの上に落ちつかせると、口とまぶたとを片方にひきつらせてしまった。こりぁ卒中《そっちゅう》だな、と思った。医師のフォーダム氏がすぐ駆けつけてくれて、ふたりでベッドに運び込んだが、麻痺《まひ》はひろがって、意識を回復するようすも見えない。僕たちが着いたら、もう息を引きとってた、なんていうんじゃないだろうか』
『おそろしい話だね、トリヴァ君。そんな怖しいことになるなんて、いったい手紙に何が書いてあったんだい?』と僕が大きな声を出した。
『何ってことはないんだよ。だから説明のしようがないんだ。ばかげた、つまらんことが書いてあるだけだ。ああ、神様、やっぱり思ってた通りだ!』
彼がこういったとき、馬車は曲がり角にさしかかったので、ヴィクターの家の鎧戸《よろいど》が全部おろされているのが、薄暗がりのなかに見えた。ふたりが玄関へ駆けつけると、中から黒い服を着た紳士が出て来た。友の顔は苦痛にひきつったように見える。
『先生、いつでしたか?』トリヴァがきいた。
『あなたが出かけるとすぐでした』
『その前に意識を回復しましたか?』
『ご臨終まえに、ほんのちょっと』
『僕に何か遺言はありませんでしたか?』
『書類は日本|箪笥《たんす》の奥のひきだしにあるとだけおっしゃいました』
友は医者と一緒に父親の臨終の部屋へ上っていった。僕は書斎にのこって、事件のすべてを繰り返し考えては、憂鬱《ゆううつ》な気持になるばかりだった。このトリヴァという人物の過去とはどんなだろう? ボクサー、旅行家、それから金鉱採掘者。何でまた、あのしょっぱい顔をした水夫|風情《ふぜい》の言うままになったんだろう? どうしてまた、半分消えかかった頭文字のことをちょっと言っただけで気を失ったりしたんだろう? しかもフォーディンブリッジからの手紙を読んで、恐怖のあまり文字どおり死んでしまうなんて?
そのとき、フォーディンブリッジというのはハンプシャー州にある村だということを思い出した。ハドスンが訪ねていった、いやおそらくゆすりに行ったベドウズ氏というのは、そこに住んでいるという話だった。すると、手紙はハドスンから、トリヴァ氏に旧悪でもあって、それをあばいて来たのか、あるいはベドウズから、昔の仲間に、そういう裏切りの危険があると知らせて来たのかもしれない。そこまでは確かだ。しかし、そうならば、なぜその手紙は息子の言うように、つまらぬものなんだろう。きっと彼には読みとれなかったに違いない。もしそうなら、これは、一見なにかべつの意味があると見せかけて、実は巧妙に仕組まれた暗号で書かれてるに違いない。よろしい、もしそれが隠された意味の暗号であるなら、それを解くくらいの自信はある。
まる一時間も暗がりのなかで、繰り返し考え込んでいたら、女中が泣きはらした目をして、ランプを持って来た。すぐ後から、ヴィクターが青ざめてはいるが、決心した面持ちでその手紙……いま僕の膝の上にあるこの手紙を握って入って来た。そして僕の向かいにすわり、ランプをテーブルの端に引きよせ、走り書きのメモを僕に渡した。
それが、ご覧のように、この灰色の紙さ。
[#ここから1字下げ]
万 一 不調なれば 事 業 しばらく 休、山猟の 獲物 全て ロンドンへ 送った。ハドスン 飼育の、雌雉《めすきじ》を ばらした。蝿取紙《はえとりがみ》の 受注 生命 がけで がんばったが、危い。主管理人 入金して 逃げよ と語る。
[#ここで字下げ終わり]
僕も、この手紙を読んだときには、君がいましたのと同じように、当惑したような顔をしたんだろうと思うが、さらにもう一度注意して読んでみた。それは明らかに僕が考えていたとおりで、この奇妙なことばの組み合わせの奥に、何か別の意味が隠されているに違いないと見た。それともまた、蝿取紙とか、雌雉《めすきじ》という言葉には、前もって何かの意味がきめられているんだろうか? そうなると、どんな意味にしようと勝手なものであるから、こいつぁ解読なんかできそうにない。しかし、僕はそう信じたくはなかった。ハドスンということばがあることからして、この手紙の主題は、やはり僕の推理と一致するように思われ、差出人も、あの船乗りじゃなくて、ベドウズらしかった。
僕はそれを尻《けつ》のほうから読んでみたが、『語る逃げよ入金して……』じゃよくわからない。一字おきにやってみても、『万不調なれば業』としても『一事しばらく』でもさっぱりわからない。だがついに謎をとく鍵は僕の掌中に降りた。はじめから数えて三つ目、三つ目と読み進むと、あのトリヴァ老人を絶望に至らしめた謎の文句が出て来たのだ。
それはごく短かい、簡単な警告で、僕は友に読んでやったんだ。
……万 事 休す。全て ハドスンが ばらした。生命 危い、逃げよ。
ヴィクター・トリヴァは震える両手のなかに顔をうずめて、『そうだ、それに違いない。それは死よりも悪い、恥辱《ちじょく》だ。だが、この主管理人、とか、雌雉とかは何を意味するんだ?』
『それは内容には別段関係のないことだが、しかし、差出人がわかっていないんならもっと頭をひねったろうね。とにかくこれは、[……万 事 休す]というふうに間をあけておいて、後から、約束の暗号法にしたがって、間に二語ずついれていったわけだ。埋め言葉には、当然、最初に考えついた言葉を使うのが、まあ通例で、それが猟に関係したものが多いのは、その人がたいへんな猟好きか、鳥の飼育に興味をもった人物だということがわかるだろう。このベドウズという人はどんな人だか、君は何か知らないか?』
『何かって、君がいまいったとおりだよ』と彼が言う。『そういえば、僕のかわいそうなおやじは、毎年秋になると、きまって彼の猟場へ招待されて行ったもんだよ』
『すると、これが彼から来たものであることは、もう疑う余地がない。するとあとは、この富裕で名声のあるふたりの頭を押えつけるとは、あのハドスンなる水夫がいったいどんな秘密を握ってるか、それだけが残るわけだ』
『ああ、ホームズ君、それはきっと、罪深くて、恥辱に満ちたものなんだろうなあ!』友の声は哀れであった。『しかし、君には隠したって無駄なことだ。ここに、それを書いたものらしい書類がある。おやじが、ハドスンのために、破滅をまぬがれないと知って、書いたものなんだ。おやじの遺言によって、日本箪笥の中から見つけ出したんだ。ほら、君が読んでくれ、僕にはもう読む気力がない』
ワトスン君、そういって渡したのが、これなんだよ。その晩、あの古風な書斎で彼に読んでやったように、君にも今から読んであげよう。ほら、外側に書き込みがあるだろう。
『三檣帆船グロリア・スコット号が、一八五五年十月八日ファルマス出港より、十一月六日、北緯十五度二十九分、西緯二十五度十四分の海上にて難破するに至るまでの航海記録』
なかは手紙の形式になっている。こんな具合なんだ。
「愛する息子よ。いまや、ついに恥辱が近づき、父の晩年に暗い影を投げかけようとしている。父がいま断腸《だんちょう》の思いにあるのは、法のおきてを恐れるためでもなければ、また、この地方における自分の地位の失脚を憂《うれ》うるためでもなく、また、父を知っている人々の面前で没落して行くのを恐れるためでもない。ただ父を愛し、常に尊敬以外のものでは父に接したことのなかったお前が、この父のために恥を忍ばねばならぬかと思えばこそ、このように苦しむものであることを、誠心誠意、書きしるすことができる。
常に、父の身辺にかかっていた不幸が、父の頭上に落ちかかって来たいま、お前はこの一文を読んで、父がいかに咎《とが》むべき人間であったかを知ることであろう。これに反して、ことが無事に運んで……おお神よ、かくあらんことを!……偶然この文がお前の手に入るようなことになったとしても、お前が聖なりとする全てのものにかけて、愛する亡き母上の思い出にかけて、さらに、われらふたりの間にあった愛にかけて、これを火中に投じ、再び思い出すことのないように、父は切に願う。
もし、不幸にして事あったとき、お前がこの行あたりを読み進むころには、もう父は摘発《てきはつ》され、逮捕されているか、また、お前も知っての通り、父は心臓が弱いから、たぶん死の床にあって、永遠に口を閉じていることであろう。いずれにしても、内密にしておく時期は過ぎた。これから父の語る一言一句は、赤裸々な真実であることを、父は誓い、願うものである。
愛するわが子よ。父の姓はトリヴァではない。若いころ、父の名は、ジェイムズ・アーミティジであった。こう書けば、過日、お前の学友が「J・A」というイニシアルをわしの肘《ひじ》に見つけ、その秘密を察知したようなことを言ったとき、父が大きなショックを受けたことも了解されるだろう。父はアーミティジとしてロンドンの銀行に入り、アーミティジとして国法に触れ、流刑に処せられることとなった。息子よ。父を深く責めないでくれ。当時父は、いわゆる信用貸しの借金が若干《じゃっかん》あって、返済をせまられ、別口の入金の当てがあったので、行金を流用して、これにあてた。しかし、何という不幸のめぐり合わせか! 当然返ってくるはずの金は手に入らず、その上、帳簿の整理は予定より早く行なわれて、父の流用は発覚した。情状酌量《じょうじょうしゃくりょう》の余地はあったが、三十年前の法律は今にくらべるとずいぶん苛酷なものであった。かくして父は二十三歳の誕生日を、重罪人として、三十七人の罪人と共に鎖につながれ、オーストラリア向けの三檣帆船グロリア・スコット号の甲板の下で迎えることとなったのである。
それは一八五五年、あたかもクリミヤ戦争の最中《さなか》のことであった。古い流刑用の船は、多く黒海で輸送船として使用され、政府はやむを得ず、小型の、不適当な船舶を代用していた。グロリア・スコット号はシナから茶を運ぶのに用いられていたもので、旧式で、船首は重く、幅のひろい船だったから、新式の快速船には、難なく追い越されてしまうのである。トン数五百、三十八人の囚人のほかに、船員二十六人、監視兵十八人、船長、高級船員三、医師、教誨師《きょうかいし》、それに看守が四人、総計約百人が乗り組んで、ファルマスを出帆した。
この船の独房間の仕切り板は、普通の囚人船のように厚い樫材《かしざい》ではなくて、薄くて、弱いものであった。父の独房から船尾寄りの房《ぼう》には、波止場に引き出されたとき以来、とくに父の目をひいた人物があった。賢そうな、無髯《むぜん》の青年で、鼻は高く、くるみ割りのようなとがったあごをしていた。いつも自信満々、さっそうと肩で風をきって歩いた。とくに背が高かったから、ひときわ目だち、誰ひとりとして彼の肩から頭が出るものはなかった。たしか六フィート半はあったろうと思うが、誰も彼もが悲嘆にくれて、生気のない顔つきをしている中でただひとり、元気百倍、自信満々の顔を見るのは真に不思議なことであった。父にとっては、それが吹雪《ふぶき》のなかで、焚火《たきび》を見るような気持がした。その男が隣の房だということを知ってさえ父は喜んだのに、ある夜、あたりの静けさの中に、父は耳もとでささやく声を聞いた。そして、この男がわれわれの仕切り板に穴をあけたのを知ったときの父の喜びは、いかばかりであったろう。
『よう、兄弟!』彼が言った。『名は何ていうんだい? 何でこんな所にはまり込んだんだ?』
父は答えて、彼にその名を問うた。
『ジャック・プレンダガストっていうんだ』と言う。『おれと仲間になったことを、きっと感謝するようになるぜ!』
父は彼の事件を思い出した。それは国じゅうに大センセーションをまき起こしたもので、父の逮捕前のことだった。彼は良家の出で、優秀な才能をもっていたが、どうにもならぬ悪癖があり、つい巧妙な詐欺《さぎ》手段を用いて、ロンドン一流の商店から莫大な金をまき上げたのである。
『ははあ、おれの事件を知ってるんだな?』彼は誇らしげに言った。
『ようく知ってるとも』
『じゃあ、事件に何かおかしなところがあったのに気づいたかい?』
『さあ、何だろう?』
『おれは二十五万ポンドばかり手に入れたんだったろう?』
『そういう評判だったが』
『だのに一文だって出てこなかった。ねえ?』
『そうだ』
『じゃあ、その金はどうなったんだろう?』
『わからんね』と答えた。
『細工は流々《りゅうりゅう》さ』つい彼は大きな声を出した。『いいかい、おれはおめえの髪の毛よりも多くの金を手に入れたんだぜ。これだけ金があって、これをいかに使い、散ずべきかを知ってる奴なら、何だってできるんだぜ! ところで、何だってできる男が、このじめじめした、鼠《ねずみ》にかじられ、虫くいだらけの、シナ航路船のかび臭い棺桶《かんおけ》のなかに押し込められて、だまってズボンの尻をすりへらしておれるかいってえんだ。どっこい、そうは行かねえ、そんな男は自分のことも片づけるが、仲間の面倒だって見てくれるもんだ。賭けてもいいぜ、そんな男にすがるんだよ。決して悪いようにはせんからな、聖書にキスして誓ってもいい』
彼の話しぶりは、ざっとこんな調子であった。はじめはたいして気にとめなかったが、しかし、しばらくして、全く真剣な態度で、父に宣誓させてから、彼はこの船をのっとる秘策のあることを話すのである。十二人の囚人たちは船にのせられる前から、すでにこれを策し、プレンダガストがその主謀者で、その金が原動力であるという。
『相棒があるんだ』と彼が言った。『こんな良い男は珍しいよ。もちろんおれの片腕さね。金はそいつが握っている。で、そいつはいまどこにいると思う? ははあ……教誨師《きょうかいし》なんだよ、この船の。牧師さまさまさ。黒の牧師服を身にまとい、信任状を持参し、船の底からマストまで、すべて買収できる金を、しこたまドル箱につめ込んで、ご乗船に及んだわけさ。船員どもは、もう手足同然、うんとこさ金を使って買収し、もう連判さしてあるんだぜ。看守もふたり抱き込んだし、二等運転手のマーサーも大丈夫。船長だって、為《ため》になるようだったら、やってしまうだろうよ』
『そんなことをして、いったいどうしようというのだい?』
『どうすると思う?』彼が言った。『兵隊どもの赤服を、仕立ておろしのときより真っ赤にしてやろうというわけさ』
『だって、敵は武装してるぜ』
『おれたちもするさ。仲間にゃ、ピストルが二挺ずつわたるはずだ。これだけの船員がおれたちの味方についてて、船が乗っとれないんなら、睾丸《きんたま》もぎ取って、女学校の寄宿舎入りでもするんだな。おめえ、今晩となりの奴に話してみろよ。信用できる奴かどうか試してみるんだ』
父はそのとおりやってみた。すると、隣の男も、わしと同じような境遇の若者で、罪名は偽造罪だった。名はエヴァンズといって、現在は父同様変名してイングランド南部地方で豊かに暮らしている男である。彼もすぐ陰謀に加わった。事実、これよりほかに、われわれの身を救う術はなかったのだ。
かくして、船が湾をすぎる頃には、この陰謀に加わらぬ囚人はただ二人となった。ひとりは小心者で頼みにならず、もうひとりは黄疸《おうだん》にかかっていて、役に立ちそうになかった。
最初から、われわれがこの船を占領するのに大きな支障は何もなかった。船員たちはこの目的のために選ばれたならず者の一団であり、偽教誨師は小冊子のいっぱいつまっていると思われる黒い鞄をもって、教誨《きょうかい》のために、われわれの独房へやって来た。しかもそれは一度ならず度重なって、三日目に早くも、一味はベッドの下にやすり一本、ピストル二挺、火薬一ポンドおよび二十発の弾丸をたくわえるに至った。看守のうち、ふたりはプレンダガストの取り次ぎ人であり、二等運転士はその片腕であった。船長、舵手二、看守二、マーチン中尉とその部下十八人、医師一、これがわれわれの敵のすべてであった。事態はこのように安全だと思えたが、さらに万全を期し、攻撃は夜間に行なうことに決めた。しかし、ことは予期したものより早く、やって来てしまった。さあ、先を急ごう。
出港後、約三週間たったある夜、囚人中に病人ができたため、医師が診察に降りて来た。その医師が、ベッドのふとんに手をついて、なかにピストルらしきものがあるのを感知した。もしそのとき、この男が平然として、この場を立ち去っていたならば、われわれの陰謀はすべて、失敗していたことであろう。幸か不幸か、この男は小心者であったから、驚いて叫び声をあげ、顔色をまっ青にした。囚人はすぐにことのしだいをさとり、医師を押えた。医師は叫び声で人を呼ぶこともできずに猿ぐつわをはめられ、ベッドに縛りつけられてしまった。彼は甲板に通ずる扉の鍵をあけたままで房に入ったので、われわれは、ただちにそこからおどり出た。二名の歩哨《ほしょう》はすぐ射殺され、つづいて駆けつけて来た伍長《ごちょう》も殺された。船室の入口にもうふたり哨兵が立っていたが、弾を装填《そうてん》していなかったものか、発砲せず、銃剣をつけようとするところを射殺した。
さらにわれわれが船長室に殺到して、扉を押しあけたとたん、中からピストルの音がして、船長は卓上にピン留めされた大西洋の海図の上に顔を伏せて倒れ、そばにあの偽牧師が硝煙《しょうえん》消えやらぬピストルを構えたまま立っていた。
ふたりの舵手はいずれも船員にとらえられ、さしもの事件も決着したかに見えた。
広間は船長室の隣にあり、われわれはそこに集合し、再び自由の身になった歓喜のあまりに、みんなで長椅子の上に寝そべり、おしゃべりをした。室の回りには鍵のかかった戸棚があり、偽教誨師のウィルスンが、そのひとつをうち破って、中から褐色のシェリー酒を一ダース取り出した。
みんなは、瓶の口をたたき割り大コップに注いで、一気に飲みほそうとした瞬間、轟然《ごうぜん》と小銃の響きがとどろき、サロンは煙に包まれ、テーブルの向かいさえ見えなかった。やがて硝煙が消えると、そこは屠殺場《とさつば》の観を呈した。ウィルスンはじめ八人の仲間は重なり合ってうめいていた。鮮血と褐色のシェリー酒はテーブルの上を流れた。その様を思い出すだけでも身震いがする。もしブレンダガストがいなかったなら、われわれはその有様におびえて、なすところを知らなかったろう。しかし、ブレンダガストは牡牛《おうし》のように怒号し、ただちに、残った味方を引きつれて戸口へ突進した。
われわれが甲板に走り出ると、最上後甲板には中尉と十九人の部下が控えていた。彼らはサロンのテーブル上の明かり窓の隙間から小銃をさし入れて、仲間を撃ったのだ。われわれは彼らがまた弾《たま》を装填《そうてん》しないうちに襲いかかった。彼らは勇ましく戦ったが、衆寡《しゅうか》敵せず、五分後には、すべて戦いは終った。
おお神よ、このような修羅場《しゅらば》がまたとありましょうか!
ブレンダガストは怒り狂う悪魔のように、まるで子供を扱うように兵土たちを寄せ集め、死ぬも、生きるも、すべて舷側から海中へ投じた。そのうちひとり、ひどく傷ついた軍曹は、驚くほどに長く海上を泳ぎつづけていたが、誰かが憐れんだのであろうか、船上からその頭を撃ち抜いた。戦いはひとまず終った。残るは看守と舵手、医師だけであった。
しかし、われわれの間に大論争が起きたのは、彼らがためであった。われわれの多くは、自由を得たことに十分満足し、もはやこれ以上の殺人は望まなかった。小銃をかかえた兵士たちを撃ち倒すことと、無残にも人が殺されて行くのをじっと見ていることとは別事である。仲間のうち囚人五人と船員三名はそれを見るに忍びない、といった。しかしブレンダガストとその一味を動かすことはできなかった。彼は、われわれが絶対安全となるためには、将来証人台に立って、しゃべりまくるような人間は生かしておけない、と主張するのだった。
このようにして、われわれも他の囚人たちと運命を共にするのかと思われたが、ついに、希望するなら、われわれ八人はボートを降ろして、行ってもよい、と言った。われわれはこの提案にとびついた。ともかく、この残忍な行動はもう沢山であり、これからさらにひどい事が行われるかも知れないのだ。われわれは一様に水夫服を与えられ、飲料水ひと樽、塩漬け肉およびビスケットひと樽ずつ、さらにコンパス一個を与えられて、ボートに乗り込んだ。ブレンダガストはさらに海図を一枚投げ込んでくれ、北緯十五度、西経二十五度の海上で難破した船の乗組員だ、と言うんだぞ、といって舫索《もやいづな》を切った。
愛するわが子よ、物語はこれからさらに奇怪なものとなって来るのだ。反乱の間、水夫たちは前檣《ぜんしょう》下帆を逆帆にしていたのだが、われわれのボートが船を離れると、再びそれを戻し、折からの北東微風にのって船は静かにわれわれから遠ざかっていった。
われわれのボートはしばらく上下にゆれる長いうねりにのっていた。エヴァンズと父は、中でも最も教養があったので、並んですわり、現在の位置と、今後どの海岸へ向かうかについて研究した。これはなかなかの問題だった。北へ五百マイルのところにヴェルデ岬、東へ七百マイル行けばアフリカ海岸、という海上にいたからである。ただし風は北向きと定まったようだから、シェラ・レオーネこそ最上だと考えて、ボートをその方向にまわした。そのとき、バーク船はボートの右舷とおく、船檣のみを残していた。一同それをながめた瞬間、船からもうもうたる黒煙が立ち上り、そのさまは水平線上に逆だつ黒い怪木のようであった。一秒、二秒、三秒……つづいて雷鳴のごとき轟音《ごうおん》が耳をつんざいたかと思うと、煙は消えて、かのグロリア・スコット号の影はなかった。すぐさま、われわれはボートの向きをかえて、まだ余煙が立ちこめて、惨事の跡を物語っている海面めがけて、力いっぱいこいだ。
着くまでに幾時間を要したであろう? はじめはもう手遅れで、誰も救助できないものとあきらめた。ボートの破片や、積荷、帆桁《ほげた》の一部などが、波間に浮き沈みして、本船の遭難のあとを物語っていた。しかし、誰も生存者はあるまい。
絶望して、再びボートを回そうとしたとき、助けをもとめる声を聞いた。見ると、離れた水面に、船の木片の上に倒れている男があった。引き上げてみると、ハドスンという若い船員である。身にうけた火傷《やけど》はひどく、疲れ果てて、翌朝まで事の顛末《てんまつ》を語ることができなかった。
あとでハドスンの語るところでは、われわれが去った後、ブレンダガストとその一味は、残った五人をも射殺しようとした。まず看守ふたりが撃たれて、海へ投げ込まれた。さらに三等舵手も同じ運命だった。ついでブレンダガストは中甲板へ降りて行き、哀れな船医の咽喉《のど》を自らかき切った。残るは一等舵手のみ。彼は勇敢で機敏な男だったから、敵が血のしたたるナイフを持って近づくと見るや、かねてゆるめておいた縄を振りほどき、甲板を駆けおりて後部|船艙《せんそう》に逃げ込んだ。
十二人の囚人たちがピストルを手に、彼を捜すべく船艙に入ったとき、彼はマッチ箱を手に、蓋《ふた》をあけた火薬のそばにすわり込んでいた。火薬は百樽あまりもある。そして、もしちょっとでも手出しをしたら、みんなを吹き飛ばしてやると叫んだ。すぐその後で爆発が起こったのだが、ハドスンの推定では、舵手が火をつけたのではなくて、一味の誰かが撃った弾がはずれて火薬に命中したんだろうということだ。原因がいずれであろうと、これがグロリア・スコット号の最後であり、同船を乗っとった囚人一味の最後でもあった。
愛する息子よ。これが要するに、お前の父がまき込まれた恐るべき事件の物語である。
翌日われわれはオーストラリア行きの二檣帆船ホットスパア号に救助された。船長はわれわれが難破して沈んだ客船の船員の生き残りであると、難なく信じ込んだ。海軍省も護送船グロリア・スコット号は航海中行方不明になったものとみなし、事件の真相はついに世に現われることがなかった。ホットスパア号は快適な航海ののち、われわれをシドニーに上陸させた。そこでエヴァンズと父は名を変えて、金鉱へと向かった。そこは、各国から集まってくる多様の人種がいて、われわれも以前の素性《すじょう》を隠すことは容易であった。
もはや、これ以上語る必要はあるまい。われわれはそこで財を成し、各地を旅行した後、富裕な植民地開拓者としてイングランドへ帰り、それぞれ土地を買い求めた。以後二十余年、われわれは平和な、有益な生活を営んできた。そして、過去は永遠に葬られんとした。そのとき、おお、あのとき、訪れた水夫の顔を見て、あの難破の場で助け上げた男だとわかったとき、父の胸中はどんなものであったか、わかってくれるであろう。彼は、われわれを踏み台にして何でもやれるであろう。われわれの恐怖を食って生きてゆくであろう。いかに父が彼と争わないように努めたか、そして父の恐怖のいくぶんでもお前はわかってくれることと思う。さて、彼は父のもとを去って、またひとりの犠牲者のところへおどし文句をたずさえていったのだ」
その次には、判読にも苦しむほど震えた筆跡で、
『ベドウズは暗号で、Hがすべてばらしたと言ってよこした。おお神よ。最悪の事態がやって来ませんように!』とある。
「これが、その晩トリヴァ青年に読んで聞かせた物語のすべてだ。ワトスン君、場合が場合だから、じつに劇的なもんだったよ。いい奴だったが、彼は悲嘆にうちくれ、学校をやめて、インドのテライ茶園へ行ってしまったが、そこでなかなか成功している、という話だ。水夫ハドスンとベドウズについては、あの手紙のきた日以来、消息が知れない。ふたりとも全く姿を消してしまったのだ。警察には別に何の密告も行なっていないところからすると、ベドウズは脅迫を本気にしたのにちがいない。ハドスンがあの辺をうろうろしていたということで、警察では、彼がベドウズを殺して逃げたと信じているようだ。しかし、僕はむしろ逆だと思うよ。つまり、ベドウズが絶望のあまり、裏切りを信じ込み、ハドスンに復讐《ふくしゅう》の刃《やいば》を加え、ありったけの金をかき集めて国外へ逃亡した、というほうが、どうもありそうに思えるね。
とにかくこれらが、この事件に関する証拠物件だ。ドクター、この物語が君の蒐集《しゅうしゅう》に何か役だつようだったら、喜んでお贈りするよ」
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マスグレイヴ家の儀式
私の友人シャーロック・ホームズの性格でもっとも私をおどろかす異常な点は、その思考方法こそ、この世でもっとも整然たるものであり、組織的であり、同様に服装などもおちついた、きちんとした着こなしをするにもかかわらず、彼の個人的な癖《くせ》ときたら、もっともだらしないもので、彼ほど同宿者を困らせる男はいないだろう。
といっても、そういう点について、私自身が世間なみな人間だとは義理にも言えない。アフガニスタンでの無茶苦茶な仕事で、私の生来の無頓着《むとんちゃく》さがさらに進んで、だらしなくて医者の資格を疑われるようにもなった。しかし私には限度がある。石炭入れに葉巻をしまっておいたり、ペルシャ式スリッパのつま先のほうにタバコを入れておいたり、返事のだしていない手紙を、ジャックナイフで木製マントルピースの真ん中につきさしておいたりするような男を見ると、私も自分はきちんとしているんだというふりをしてみたくなる。
私はいつも、ピストルの練習はあきらかに戸外の遊戯であると思ってきた。そしてホームズが、なにかおかしな気分になって肘掛椅子《ひじかけいす》にすわって、彼の細身引金ピストルとボクサー弾の薬莢《やっきょう》を百発もって、向かい側の壁に愛国的にも、ヴィクトリア女王の頭文字を撃ちぬきはじめたとき、私は、そんなことをしてもこの部屋の雰囲気や見かけが良くなるわけでもないのにと、強く考えた。
われわれの部屋は、いつも薬品や犯罪の証拠品でいっぱいだった。それらは変な場所へまぎれこむ傾向があって、バター入れの中へ入ったり、もっと好ましくない所へ入ったりした。しかし彼の書類は私の悩みの種だった。彼はそういった書類をなくすことを非常に恐れていた。とくに彼が手がけた事件に関するものは、そのくせ一年か二年に一度ぐらいしか、それらに見出しをつけたり整理したりするために精力をふるいおこすことはないのである。というのも、この散漫な回想録のどこかで私が指摘したように、彼を有名にしためざましい事件を、爆発的な情熱で精力的に片づけた後には、その反動である無気力状態がやってくる。そうなると彼は、ヴァイオリンと本をもってねころんだまま、ほとんど身うごきもしないでいる。ソファからテーブルへ行くこともしない。こんなふうで毎月毎月、彼の書類はたまっていくのだ。そしてついには部屋の隅という隅は紙の束が積みかさなってしまう。しかもどれも焼いてはいけないものばかりだし、所有者以外には手をつけることができないものなのだ。
ある冬の夜、われわれが火にあたってすわっていたとき、私は勇《ゆう》を鼓《こ》して彼に、備忘録に抜き書きするのがすんだから、今度は二時間ばかり、この部屋をもう少し住みよくしてはくれまいかと言ってみた。私の要求がもっともなので断ることもできず、彼はまずそうな顔をすると寝室へ引っこみ、今度は大きなブリキ箱をひきずって出て来た。これを部屋の真ん中におくと、その前に腰掛を持ちだし、その上にすわりこんでふたをあけた。そこには、すでに三分の一ほども書類の山が赤いテープでしばって、別々に包まれてあった。
「このなかには、事件がいっぱいあるんだぜ、ワトスン君」と彼は言うと、いたずらっぽい目で私を見た。
「もしもこのなかに何があるか、全部君が知っていたら、ほかのものを中へ入れるどころか、いくつか出してくれ、と言うだろうよ」
「するとこれは君の初期の仕事なのかい?」と私はきいた。「初期の事件のノートをつくりたいといつも思ってたんだ」
「そうだね。だがそれはとっくの昔に、僕の伝記作者が、僕を栄光でかざりたてようとする前に、あつかったものなんだよ」
彼はひと束ひと束やさしく、愛撫《あいぶ》するように取り出した。
「みんながみんな成功というわけではなかったんだ、ワトスン君」と彼は言った。「しかしその中には、ちょっと面白い事件も入っているよ。これがタールトン殺人事件の記録、これが葡萄酒商のヴァムベリー事件、これがロシアの老婦人の冒険、これはアルミニウムの松葉杖《まつばづえ》事件、足の曲がったリコレッティといやらしいおかみさんの事件は全文あるよ。それから……ああ、こいつはちょっと凝《こ》ったものだ」
彼は箱の底へ腕をぐいと突っこみ、小さな木箱をとりだした。それは滑《すべ》り蓋《ふた》のついた、子供のおもちゃを入れるような箱だった。その中から、しわくちゃの紙切れと、古風な真鍮《しんちゅう》の鍵、糸の玉のついている木の釘、古い三枚の円盤型の金属、をとりだした。
「どうだい。これをなんだと思う?」と彼はたずね、私の表情を見てほほえんだ。
「じつに変なものを集めたもんだね」
「うん、じっさい変なものだ。ところがこれにまつわる話ときたら、もっと奇妙きてれつなものなんだぜ」
「するとこの遺物には歴史があるってわけか?」
「そうさね、まあそれ自体が歴史だといえるね」
「なんだって?」
シャーロック・ホームズは、それらをひとつひとつ、つまみあげると、テーブルのふちに並べた。そして椅子にかけなおすと、並べたものを、満足そうなまなざしでながめた。
「これはね」と彼は言った。「マスグレイヴ家の儀式のエピソードを思い出させる唯一の記念品なんだ」
この事件を彼が口にするのは、一度ならず聞いたことがある。しかし詳しくは聞くことができなかった。
「もしも」と私は言った。「その話をしてもらえたら、うれしいんだが」
「がらくたはこのままにしておいてかい?」と彼はいたずらそうに叫んだ。「つまるところ、君のきれい好きも、ほんの一時的なものなんだね。ワトスン君。しかし君の記録にこの事件を加えてくれることは実にうれしいよ。この事件はこの国の、いやこの国ばかりでなく、世界の犯罪史上においても、たしかにじつに特殊な事件なんだ。私のささやかな業績の全集に、この特殊な事件の話がのっていなかったら、実に不完全なものとしか言えないからね。グロリア・スコット号事件のことを覚えているだろう。それからあの不幸な男と私との対話と、その男の運命はきみに話したとおりなんだが、それが私の関心の向くところを変えてとうとう探偵が一生の仕事となってしまったのだ。そして今、私の名前は広く世間に知れわたり、世間からも警察からも、難事件の最後の解決者とみなされているわけだ。
君と初めて知りあったのは、君が『緋色《ひいろ》の研究』の名で記念にのこしてくれた事件のときだったが、そのときもすでに私は、さほどもうかりはしなかったが、かなりよい地位に達していた。だから君には、私が今の仕事でやって行けるようになるまで、どんなに長いこと待っていたか、ほとんど想像できないだろう。
私がはじめてロンドンに出て来たとき、私の部屋はモンタギュー・ストリートにあった。大英博物館の角を曲がってすぐの所だ。そこで私は待っていたのだ。ひますぎて困る時間を、わざとむずかしすぎて困るような、いろんな科学的問題の研究に費やしながらね。ときどき事件が来た。それらはおもに昔の学校友だちが紹介してくれたものだ。大学での最後の年には、私自身と私の推理方法は、ずいぶん皆のあいだで問題になったものだから、知り合いもふえていた。その第三番目の事件がマスグレイヴ家の儀式事件だったのだ。そして不思議な一連の事件が起こり、それが世間の興味をそそったり、そのあげく重大な危険が起こりそうなことがわかったり、というわけで、それがきっかけとなって、僕は今の地位に向かっての第一歩を踏みだしたのだ。
レジナルド・マスグレイヴは私と同じカレッジにいた。彼とはちょっと知りあっていた。彼は卒業組学生の間では一般に評判のよい方ではなかった。私には彼の高慢なるものは、生れつき極端に自信のないのをかくそうとする試みだというように思えた。外見からいえば、彼は非常に貴族的なタイプで、やせて鼻がたかく、目が大きく、きびきびしてはいないが、礼儀正しい態度だった。彼は事実この国でいちばん古い家柄の子孫で、十六世紀にノーザン・マスグレイヴ一家から分家して、西サセックスに移り、その地に建てたハールストンの館《やかた》は州の草分けといってもよいだろうが、ま、そういった家の息子だった。
その生れ故郷の何かが、いつも彼にまつわりついていたような気がして、彼の青白い鋭い顔や、頭の動かし方などを見ていると、どうしても灰色のアーチの門や縦仕切りのある窓とか、封建時代のいめかしい遺物を思い出してしまうのだった。
ときどきわれわれは長いおしゃべりを始めてしまうことがあったが、私の観察と発見の方法について、一度ならず彼が強い関心をしめしたことを覚えている。
四年間というもの、彼には全然あっていなかったが、ある朝、モンタギュー街の私の部屋に彼がやって来た。彼はほとんど変わっていなかった。流行の青年紳士らしい服装をして……彼はちょっとおしゃれなところがあった……相変わらず静かな、洗練された、特徴ある態度であった。
『その後どうですか、マスグレイヴ君』と私は心から握手を交わした後で、そうたずねた。
『ぼくの親父《おやじ》が死んだことはご存じでしょうね』と彼は言った。『二年ほど前に死にましてね、それ以来もちろん僕がハールストンの領地を管理してきました。それに郡の議会にも出なければならないし、とにかく忙しかったですよ。ところでホームズ君。君は、以前にわれわれを驚かせた能力を実地に応用しておられるそうですね』
『ええ、まあね』と僕は言った。『自分の腕で食べて行かなければならなくなったのでね』
『それはよかった。とにかく現在、君の助言が僕にとってはぜひ必要なんですよ。ハールストンで非常に奇妙なことがもちあがりましてね。警察でも、なんともわからないというわけです。実際、それは実に奇妙な、わけのわからない出来事なんですよ』
「ワトスン君、君にもわかるだろうが、僕は熱心に彼の言うことに耳をかたむけた。というのは長いこと何もしないで待っていた機会が、ついに手のとどくところにやってきた、と思ったからね。心中、他人が失敗したことでも私は成功する自信があり、それをためしてみる機会が来たのだと思った」
「くわしく話してくれないか?」と私は叫んだ。
「レジナルド・マスグレイヴは、私に向かいあって腰をおろし、私がすすめるタバコに火をつけた。
『ご存じでしょうが』と彼は言った。『僕はまだ独身ですが、ハールストンでやって行くためには、ずいぶん沢山の召使いたちが入用です。とにかく、だだっぴろい古い家ですからね。それに注意しなくてはならないところもあるし、遊ばせておかなくてはならない人間もあるのです。というのは、雉猟《きじりょう》の季節になると家でパーティを開くことになっていて、そのとき人手がたりなくなっても困りますからね。全部で八人の女中と、コック、執事、従僕ふたり、ボーイがひとりおります。それから庭番とうまや番も、もちろん、別におります。この中で一番ながくいるのがブラントンで、執事をやっています。
僕の親父がはじめて彼を拾いあげたとき、彼は若い学校の教師で失業中でした。彼は非常に精力家でもあり人格者でもあり、まもなく家になくてはならない人物になってしまいました。彼は育ちのよい美男子で、頭がすばらしく、われわれと二十年も暮らしているのに、まだ四十を越しておりません。彼の個性と、まれに見る才能をもって、というのは数か国語をしゃべり、ほとんどあらゆる種類の楽器を演奏できる彼が、そんなにながいあいだ執事の地位に満足しているのはじつに驚くべきことなのですが、僕はあれで結構満足して、ここから出ようとする元気など、もう彼にはなくなっているのだろうと思っていました。ハールストンの執事といえば、われわれの所を訪ねた人たちには忘れられないものなのです。ところがこの模範執事には、ひとつの欠点がありました。彼にはちょっと女たらしなところがあって、君にもご想像がつくと思いますが、彼のような男が、ああいった静かな田舎でそれをすることは、たいしてむずかしくはないことです。
結婚していたあいだはよかったのですが、奥さんをなくしてからは、いつも問題を起こしてばかりいるんです。二、三か月前には、彼がまた落ち着きそうになったと思ってわれわれはよろこんでいました。というのは、うちの二番女中のレイチェル・ハウエルズと婚約したのです。しかし彼は彼女を捨てて、今度は猟場番人頭の娘のジャネット・トレジェリスとねんごろになってしまいました。レイチェルはとてもよい娘なのですが、興奮しやすいウェールズ気質《かたぎ》で、それ以来頭がおかしくなり、うちのまわりを……以前にかわり、やつれきって影のように歩きまわっています。いや昨日まで、うろついていたのだといいましょうか。
これがハールストンでの第一の悲劇です。しかも第二の悲劇が起こって、レイチェルの件はわれわれの頭からぬぐい去られてしまいました。その前ぶれは執事ブラントンの失態と解雇《かいこ》なのです。
それはこういうわけです。この男は頭がよかったと申し上げましたが、この頭の良さが身の破滅をもたらしたのです。というのは、そのために彼は好奇心が旺盛で、どうにも手がつけられないほどになり、自分に関係のないものにまで、首をつっこむようになったのです。いつごろからそんなことに好奇心をもちだしたのか、僕には全然気がつかなかったのです。ところがあるほんのちょっとした事件が、僕の目を開いてくれました。
だだっぴろい家だと申し上げましたが、先週のある晩のこと……もっと正確に言えば木曜日の夜のことです……僕は眠れなくて、というのが、夕食のあと牛乳を入れずに濃いコーヒーを飲みすぎましてね、午前二時ごろまで寝返りばかりうっていましたが、もう寝られないと思って、ローソクをもって起きあがり、小説の続きでも読もうと思いました。ところが本を玉突き場に置きっぱなしにしてあったものですから、ナイト・ガウンをひっかけてとりに行きました。
玉突き場に行くには階段をおりて、書斎と銃器室へ通じる廊下を横切らなければなりません。廊下の向こうの書斎のドアが開いており、灯《あかり》がもれているのを見たとき、僕がどんなにびっくりしたか、ご想像下さい。僕は寝る前には自分で書斎の灯を消し、ドアもしめて来たはずでした。当然、僕は泥棒だろうと思いました。ハールストンの廊下の壁は昔の武器が飾ってありました。その中から大斧《おおおの》をひとつとると、ローソクを廊下において、ぬき足さし足、廊下を通って、開けはなしのドアから中をのぞいてみました。
執事のブラントンが書斎にいたのです。彼はちゃんと洋服を着て、安楽椅子《あんらくいす》にすわっていました。一枚の地図らしい紙をひざの上において、額に手をあてて深く考えこんでいました。僕は立ったまま、驚いて口もきけずに、暗がりから彼を見つめていました。テーブルのふちの小ローソクが弱い光を放っていましたが、それでも彼はちゃんと洋服をきていることは十分わかりました。
突然、僕がそうして見ていると、彼は椅子から立ち上って、そばの事務用タンスの所へ行き、そのひきだしのひとつを鍵であけ、一枚の紙をとりだして椅子にもどると、それをテーブルのふちのローソクのそばでひろげて、注意ぶかく調べはじめました、家族の書類を、このように平然と調査されたので、僕の怒りは爆発しました。僕は一歩ふみだしました。するとブラントンは見上げ、僕がドアの所に立っているのがわかると、彼はとびあがりました。顔色は恐れで鉛《なまり》色になり、はじめに調べていた地図らしい紙を内ポケットにすばやく入れました。
[おい]と僕は言いました。[これが、われわれのきみに対する信頼にこたえる方法か! 明日からくびだ!]
彼は完全にうちのめされた男のようにうなだれ、ひと言も言わずに私のそばをすりぬけました。小ローソクはまだテーブルの上においてあり、その光でブラントンがひきだしからとりだしたものを見ましたところ、驚いたことには、それは少しも重要な書類ではなかったのです。それはただ、昔からのしきたりで、マスグレイヴ家の儀式といわれている行事の、質問と答えからなる問答の写しに過ぎなかったのです。それはわれわれ一族に特有な一種の儀式で、何世紀ものあいだマスグレイヴの男子が成年に達すると行なって来た、まあ個人的にしか興味のない、それに僕の家の紋章と同じように、考古学者にはいくらか興味はあるかもしれないが、実際には何にも役に立たないものなのです』
『そのことについては後で教えて下さいませんか』と僕は言った。
『君が必要だとお考えになるならばね』と彼はいくぶんためらって言った。
『僕の話を続けましょう。僕はブラントンがおいていった鍵でひきだしをしめ、出て行こうとすると、驚いたことには、執事がまたもどって来て、僕の前に立っているじゃありませんか。
[マスグレイヴ様]と彼は感情でしわがれた声で言いました。[私には不名誉はたえられないのです。私はいつも私の地位を誇りにしてきました。不名誉のレッテルは私を殺すものです。もしもあなたが私を絶望にかりたてるなら、私はあなたに復讐したくも思うでしょう。すでにすんでしまった事件のために私をおいておくことができないとおっしゃるのでしたら、お願いですから、せめて一か月の猶予《ゆうよ》をいただけませんか。そうすれば私が自由意志でやめたように見えますから。それなら、マスグレイヴ様、なんとか身も立ちますが、どうか私のことを知っている人たちみんなの前に、私を放り出すようなことはなさらないで下さい]
[あまり大目にみてやることは出来ない、ブラントン]と僕は答えました。[おまえのやったことは実に恥ずべきことだ。しかし長いこと家にいたのだから、今度のことで公けに悪名がたつようなことはしたくない。それにしても一か月は長すぎる。一週間で出て行け。出て行く理由なんか何とでも言っておけ]
[たった一週間ですか]と彼は絶望的な声で叫んだ。[二週間……せめて二週間お願いします]
[一週間だ]と僕はくりかえしました。[それでも実に寛大な処置なんだぞ]
彼は顔を深くうなだれ、うちひしがれたように、はうようにして出て行ってしまいました。僕は灯をけして部屋へもどりました。
この後二日間、ブラントンは実に忠実に義務を果しました。僕は例のことはひと言も言わず、一種の好奇心をもって、彼がどのように失態をかくすか見ていました。だが三日目の朝、彼は現われませんでした。いつもなら、朝食の後でその日の仕事の指示を受けに私のところへ来るのが習慣になっていたのです。食堂を出たところで、女中のレイチェル・ハウエルズに出くわしました。彼女は先ほど申し上げましたように、まだ病気からなおったばかりでした。そして非常にみじめな青い顔をしていたので、仕事に出てはいけないとしかりつけました。
[おまえは寝ていなければいけないよ。もっと丈夫になってからにしなさい]
彼女は実に変な表情で僕を見つめたので、これは頭へ来たのかなと思いました。
[もう大丈夫です。マスグレイヴ様]と彼女は言いました。
[医者の言うことはきくものだ。仕事はやめにしなさい。それから下へ行ったらブラントンを呼んでくれ]
[執事さんは行ってしまいました]
[行ってしまった? どこへ行ったんだね?]
[いないんです。誰も知りません。部屋にもいません。ええ、ほんとに行ってしまったんです。……行っちゃったんですよ!]
彼女は金切り声で叫び、けたたましく笑うと壁に倒れかかりました。僕はこの突然のヒステリーの発作で恐ろしくなりましたが、かけつけてベルをならし、皆の助けをもとめました。女中は部屋につれて行かれましたが、僕がブラントンのことをたずねるあいだ、依然として、泣いたりわめいたりしていました。彼が姿を消したことは疑いありませんでした。彼のベッドは寝た形跡がなかったのです。
夕べ彼が自室へしりぞいてから誰も彼を見たものはなかった。にもかかわらず、彼がどのようにして家を抜けだしたかは、わかりませんでした。というのは、窓という窓、ドアというドアは、朝になってみても鍵がかかったままだったのですから。彼の洋服と、時計と、金《かね》までも部屋に残ったままでした。しかし彼がいつも着ていた黒い背広の上下とスリッパはありません。しかし靴はそのままおいてありました。するとブラントンは夜の間にどこへ行ってしまったのでしょうか? いま彼はどうなっているのでしょうか?
もちろん家じゅう、地下室から屋根裏までさがしましたが、どこにも彼の跡はありませんでした。前にも申し上げましたが、僕のところは、迷路のように古い屋敷なのです。とくに昔のままの建物のほうは、今はほとんど人の住まない所なのですが、とにかくあらゆる部屋と屋根裏を、すみからすみまでさがしましたが、彼の行方は全然わかりません。彼が財産をみな残したままどこかへ行ってしまうなんて、僕には信じられません。いったい彼はどこにいるんでしょう? 地方警察にも頼んでみたのですが、うまくいかないのです。前夜は雨でしたから、うちのまわりの芝生や小道は全部調べてみましたが無駄でした。こんな状態になったとき、あたらしく事件が進んで、われわれの注意を、この不思議な事件からも、そらせてしまいました。
二日間というもの、レイチェル・ハウエルズは病状が悪く、あるときはうわ言を言い、あるときはヒステリーになったので、看護婦がやとわれて、夜は枕元につきそっていました。ブラントンがいなくなってから三日目の晩、看護婦は病人がよく寝ているのを見て、肘掛椅子でひとねむりしました。朝早くおきてみるとベッドはもぬけのからで、窓が開いており、病人の姿がみえない。僕はすぐに起こされて、ふたりの従僕と一緒に、いなくなった少女をさがしはじめました。
彼女がどっちへ行ったかはすぐにわかりました。なぜなら、窓の下からはじまって、彼女の足跡が芝生をよこぎり池のふちまで続いているのを容易にたどることができたからです。足跡はそこで消えていました。それは庭から外へ行く砂利道のそばだったのです。池は深さ八フィートありましたが、あわれな気の狂った少女の足跡がそのふちで消えているのを見たときの、われわれの感情をご想像できるでしょう。
もちろん、われわれはすぐに探り錨《いかり》を入れて、死体をさがしはじめました。しかしそれらしきものは全然発見できませんでした。そのかわり、じつに予期もしなかった変なものをひきあげてしまいました。それはリンネルの袋で、中には、古い、さびて変色をした金属のかたまりがひとつと、数個の色あせた小石だかガラスだかのかけらがいくつか入っていました。この奇妙な発見がその池から得られた唯一のもので、そのほかにわれわれは手段をつくして昨日まで探したり調べたりしたのですが、レイチェル・ハウエルズの運命も、リチャード・ブラントンの運命も全然わかりません。田舎の警察では、もう手をあげてしまいました。それで僕は、最後の手段として君の所へやって来たのです』
「ワトスン君、僕がどんなに一生懸命になってこの一連の奇妙な事件の話をきいたか、それらをつなぎあわせて、それら全部をつなぐことのできる手がかりを見出そうとしたか、君にもわかるだろう。
執事がいなくなった。女中がいなくなった。女中は執事を愛していた。しかし後には、彼を憎むようになる理由がある。彼女はウェールズ系で、火のような情熱的なところがあった。彼女は彼が姿を消した直後、非常に興奮していた。彼女は池に変なものの入った袋を投げこんだ。こういったことは、全部考慮しなければならない要素だ。そのどれも、事件の中心点ではない。この一連の事件の出発点はどこにあるのか? そこにこの錯綜《さくそう》した筋をとく手がかりがある。
『あの紙をみなくちゃなりませんね、マスグレイヴ君』と私は言った。『君の執事は、それを一読する価値があると思ったわけです。執事の地位を失ってまでもね』
『とにかく変なものなんですよ。われわれの所の儀式というのは』と彼は答えた。『しかし少なくともそれは、古風なみやびやかさを残してはいますがね。その問答の写しをここに持ってますから、もしごらんになりたかったらどうぞ』
彼は僕に、僕が今ここに持っている紙を渡したよ。ワトスン君。そしてこれが、マスグレイヴ家の男子が一人前になったときに行なう不思議な問答なんだ。その問答をここに書いてあるままに読んでみるよ。
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『そは何人に所属せしものなるや?』
『行き去りし人に』
『何人に渡すべきものなるや?』
『やがて来る人に』
『何月なりしか?』
『始めより六番目なり』
『太陽はいずこにありしや?』
『樫《かし》木の上に』
『影はいずこにありしや?』
『楡《にれ》の木の下に』
『いかにたどりしや?』
『北に十歩、また十歩。東に五歩、また五歩。
南に二歩、また二歩。西に一歩、また一歩。
しかる後その下に』
『そのために、われら何を与えるや?』
『われらの持つすべてを』
『何ゆえにわれら与うるや?』
『信義のために』
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『原文には日付がありませんが、十七世紀中ごろの綴字で書かれています』とマスグレイヴは説明した。『しかし、そんなものはあなたがこの事件を解く上に何の役にも立たないでしょう』
『少なくとも』と私は言った。『これはわれわれに、もうひとつ謎を提供します。しかも最初のより、ずっとおもしろいやつをね。ひとつの謎を解くことが、もうひとつを解くことになりそうですよ、マスグレイヴ君。失礼ですが、お宅の執事は、じつに頭のよい男で、何代かの主人たちよりずっとすばらしい洞察《どうさつ》力をもっていますよ』
『おっしゃることがよく分りませんが』とマスグレイヴは言った。『この紙は実際には何も役に立ちそうにも思えないですがね』
『しかし僕には非常に役に立つように思われますよ。それに、ブラントンも同様に考えていたのでしょう。君が彼の現場をとらえた夜より以前に、彼はこの紙を見たことがあったに違いありません』
『あり得ることですね。べつに隠そうともしませんでしたから』
『僕は、彼はただ最後に念のためもう一度見て、記憶を新たにしておきたかったのだと思います。彼はなにか地図のようなものを持って、それとこの文書とを見くらべていて、それを君が現われたとたんに、内ポケットへあわててしまいこんだのでしたね?』
『そのとおりです。しかし彼はいったいこの古いわが家のしきたりで、何をしようと思ったのでしょう? それに、このたわごとみたいなものに、何か意味があるのでしょうか?』
『それが何だか知るのはたいしてむずかしくないと思いますよ』と僕は言った。『さしつかえなけれな、一番の列車でサセックスへ参りましょう。そして現場で、もっと深く事件を調べてみることにしましょう』
その日の午後、われわれ二人はハールストンに着いていた。たぶん君は写真や解説などで、その有名な館のことは知っているだろうから、それはL字型に建てられている、とだけ言っておこう。長い方が新しく建てたほうで短かい方が昔のもの、昔の建物をもとにして、もうひとつの方ができたわけだ。低くて、おもい[まぐさ]石が上にあるドアが、古い建物の真ん中についていて、ノミで一六〇七年という日付が入っているが、専門家たちはみな、梁《はり》や石造りの部分は、それよりもずっと古いということに意見が一致している。この部分の特別に厚い壁と小さな窓に閉口して、前世紀に居住者は新しい方の建物に移った。そして古い方は、今は使われるにしても倉庫か貯蔵所としてしか使われていない。りっぱな古い大木の茂ったすばらしい庭園が家を囲み、僕の依頼者が前に言ったとおり、池が並木道のそばに、家からおよそ二百ヤードほどはなれて横たわっている。
ワトスン君、すでに僕はこう確信していた。三つの不思議な事件はばらばらに存在しているのじゃなくて、ひとつなんだ。そして僕がマスグレイヴ家の儀式を正確に読みとることができれば、僕は執事ブラントンと女中ハウエルズ両方の行方不明を解く鍵を握ったことになる、とね。そういうわけで、全精力をそのために集中した。なぜ執事がこの昔の問答を暗記しようとあれほど気を使ったのだろうか? 明らかに彼はそこに、この何世代かにわたる郷士《ごうし》たちの目をのがれたもの、しかもそれは、何か彼自身の利益になるようなものが隠されていると期待したのだ。するとそれは何であり、どのように彼の運命を支配したのであろうか?
儀式文を一読して、あの数字はどこかの地点を示しているにちがいないことはまったく明らかだ。そして文書の他の文句は、その場所について何かを示しているのだ。だからその地点を見つけることができれば、昔のマスグレイヴ家の人々が、こんな奇妙な象徴的な言いかたで伝える必要があると思っていた秘密を知る、その第一歩を正しく踏みだすことができるはずだ。まず出発点として二つの手びきが与えられている。樫《かし》の木と楡《にれ》の木だ。樫の木は問題ない。家の正面の道の左手に、樫の王がそびえている。僕が生れて以来見た、もっともすばらしい樫の木のひとつだ。
『あれは例の儀式がはじまったころから、あそこにあったのですか?』とわれわれが馬車でそこを通りすぎたときに、僕はたずねた。
『あれはノルマン征服のころからあったらしいのです。どう考えてみても』と彼は答えた。『あのまわりは二十三フィートあります』
これで僕の三角点はひとつ確定した。
『古い楡の木はありますか?』
『すごく古いのがあそこにあったのですが、十年前に雷にやられましてね、残骸は切ってしまいましたよ』
『どこにあったか、分りますか?』
『ええ、もちろん分りますよ』
『ほかに楡の木はありませんか?』
『古いのはありませんが、[ぶな]なら沢山ありますよ』
『楡の木が生えていた所を見たいですね』
僕の依頼人は二輪馬車をかって、家へは入らずに、すぐに僕を、芝生の楡の木の立っていた切り株のところへとつれて行った。それはほとんど樫の木と家との中間あたりであった。僕の調査は順調に進んでいるように見えた。
『楡の木の高さを知ることはできないでしょうね?』と私はたずねた。
『それはわかってます。六十四フィートですよ』
『どうして知ってるのですか?』私は驚いてたずねた。
『僕の昔の家庭教師が三角法を教えるときには、きまって木の高さを測ったからです。ですから子供のときに地所じゅうの木と建物の高さは全部測ってしまいましたよ』
これは実におもいがけない幸運だった。僕の資料は予想したよりもずっと早く集まった。
『君の執事がこんな質問をしたことはありませんでしたか?』
レジナルド・マスグレイヴは驚いて私をみつめた。
『なるほど、思い出しました』と彼は答えた。『ブラントンは、たしか何か月か前に、僕に木の高さのことを聞きました。馬丁と少々議論したのでと言ってましたが』
これはすばらしい情報だったよ、ワトスン君。僕がまちがってないことが分ったからね。僕は太陽を見上げた。まだ低かったが僕は一時間たらずで古い樫の木の頂上にかかるだろうとふんだ。儀式に示されている一つの条件は、それで満たされたことになる。そして楡の木の影というのは、その影の先端を意味しているにちがいなかった。そうでないとしたら、意味が分からないからね。そこで僕は太陽がちょうど樫の木の頂上にかかったときに影の先端がどこに落ちるか知らなければならない」
「そいつはむずかしかったろう、ホームズ君。楡の木はもうなくなっていたんだから」
「いや、すくなくとも、ブラントンにできたのなら僕にもできると思っていたよ。それに実際にはむずかしくなかったよ。僕はマスグレイヴと一緒に書斎に行って、この木の釘をけずり、それに長い糸をしばりつけて、一ヤードごとに結び目をつけた。それから釣竿《つりざお》をふた竿、それでちょうど六フィートになるやつを持って、マスグレイヴと一緒に楡の木のあった所へ行った。太陽はちょうど樫の木の頂上をかすめたところだった。僕は竿を動かないようにしておいて、影の方向にしるしをつけた、それから影の長さを測った。ちょうど九フィートだった。
もちろん計算はもう簡単さ。六フィートの竿に九フィートの影だとしたら、六十四フィートの木は九十六フィートの影になるだろう。やり方はふたりとも変わりはない。僕は距離を測った。するとほとんど家の壁の所まで来た。僕は木の釘をそこにさした。僕の木の釘から二インチとはなれていない所の地面に円錐《えんすい》状のくぼみをみつけたとき、僕がどんなにうれしかったかわかるだろう、ワトスン君。それはブラントンが測ったときにつけた印だと知れた。だから僕は、まだ彼の跡をしっかりとつけていることになるのだ。
この出発点から、(はじめに磁石で方角を定めてから歩測しはじめたんだが)僕はまず北に二十歩あるいた。これは家の壁に平行な方角だ。そこでまた僕は木の釘で印をつけ、そこから注意ぶかく東へ十歩、南へ四歩かぞえた。そこは古いドアの敷居のところだった。そこから西へ二歩は、敷石の通路を二歩行くことになる。そしてそこが文書に示されている場所なのだ。
あのときほど凍《こお》るような落胆を感じたことはなかったね。ワトスン君。一瞬、僕の計算違いかと思った。沈みかけた日ざしが、通路の上に落ちて、古い、靴ですりへった灰色の敷き石が、しっかりとセメントで固められ、長いこと動かされたことのないのがわかった。ブラントンはここでは何もしなかったのだ。私は床をけってみたが、どこも同じ響きだった。そして裂け目や割れ目らしいものも全然なかった。ところが幸運にも、マスグレイヴが僕の行動の意味を解しはじめて僕と同様に興奮し始めていて、例の文書をとりだして僕の推定に水をさしてくれたのだ。
『そしてその下に』と彼は叫んだ。『[そしてその下に]というのを忘れていますよ!』
僕はそこを掘ることだと思っていた。しかし、もちろん間違いだということがわかった。
『この下に地下室でもあるんですか?』と僕は叫んだ。
『ええ、建物と同じくらい古いのがあるんですよ。すぐこの下にね。このドアを通って行くんです』
われわれはまがりくねった石の階段を降りた。僕の友はマッチをすって、片隅の樽の上にあった角灯に火をつけた。すぐに、われわれはついに文書の示しているその場所にたどりついたことがわかった。しかもそこへ最近やって来たのはわれわれだけではないこともわかった。
そこは薪《たきぎ》の貯蔵所になっていたが、以前はたしかに床じゅうにちらかっていたらしい薪が両がわにおしわけられて、真ん中に空きがつくられていた。そこには大きな重い敷き石があり、真ん中にさびた鉄の輪がとりつけられ、その輪には厚手の格子縞《こうしじま》のマフラーが結びつけてあった。
『たしかにそうです!』とマスグレイヴは言った。『これはブラントンのマフラーです。彼がこれを巻いているのを見たことがあります。間違いありません。あの悪党め、ここで何をしていたんだろう?』
僕の申し出で、二人の地方警察官が立ち会うことになった。僕はマフラーをひっぱって石をもちあげようとしたが、ほんの少し動いただけなので、もうひとり警察官の手を借りてようやく開けることができた。下に黒い穴がぽっかりと口をあけた。すぐにマスグレイヴがひざをついて角灯をさし入れ、われわれは皆のぞきこんだ。
深さ約七フィート、一辺四フィートばかりの小さな部屋だった。その部屋の隅には、ずんぐりした、真鍮《しんちゅう》装釘の木箱があった。蓋は蝶番《ちょうつがい》で上向きに開くようになっており、鍵穴には、今ここにあるこのおかしな古風な鍵がさしこんであった。外がわはほこりがひどくつもっていて、湿気を含み、虫がくっていたので、内側はさだめし、茸《きのこ》がいっぱいはえているだろうと思われた。あけてみると、箱の中には、昔の貨幣と思われる丸い金属のかけらが数枚……僕が今ここにもっているようなやつだが……散らばっていただけだった。
しかしその瞬間には、われわれは古い箱のことなどは考えていなかったのさ。われわれの目は、そのそばにうずくまっているものに釘づけにされていたからだ。それは人間だった。黒い服を着て、すわったまま箱にうつぶせになり、両がわに腕を投げだしていた。
そんな姿勢なので、汚れた血で顔が充血し、ゆがんだ胆汁色の顔からは、誰やら見分けがつかなかった。死体を上にひきあげてみると、背丈、洋服、髪の毛から、たしかに行方不明の執事であることがマスグレイヴにはわかった。彼は何日か前に死んでいたが、どうして死んだかを示すような傷跡は死体には見当たらなかった。彼の死体が地下室から運び去られた後でも、われわれは依然として、なにも分かっていなかった。
ワトスン君、じつは僕もほんとうにがっかりしてしまったのだよ。私の考えからすれば、儀式文にしめされた場所さえ見つければ事件は解決すると思っていた。だが、僕はその場にいるわけだが、先祖たちが、あれほど注意ぶかく隠したものが何物であったか、それさえわからずにいる。僕がブラントンの運命をあきらかにしたことはたしかだ。だが今度は、どうして彼はかかる末路をとげたのか、そして行方不明の女がどんな役割を演じたのか調べなくてはならない。僕は隅の小さな樽に腰かけて、すべての事柄をもういちど考え直してみた。
そういう場合の僕の方法は知ってるだろうね、ワトスン君。僕はその男の立場に自分を置いてみる。まず最初に彼の頭の良さを計ってみて、もしも僕がそういう状況におかれたら、どんなふうに行動するだろうかを考えてみる。この場合はブラントンの知能が第一級だったことで条件は簡単になった。天文学者が名づけているような個人誤差を全然考慮しなくてもよかったからね。彼は何か価値のあるものがかくされていることを知った。彼は場所をさぐりあてた。そこにかぶせてある石は、ひとりだけでは持ち上がらないほど重いことを知った。次には彼は何をするだろうか?
外部から助けを求めることはできない。もし外部に信頼できる人間がいたとしても、ドアの鍵をあけたり、人目につく危険をおかさねばならない。それよりも、もしできれば家の中のものに手伝ってもらったほうがいい。だれに頼めるか? この少女は彼にすべてをささげていた。どんなにひどい仕打ちをしていても、男というものは女の愛を完全に失ってしまったということをなかなか理解しえないものだ。
そこで彼はハウエルズとなんとかして仲なおりして、手伝う約束をさせる。彼らは夜になって一緒に地下室にやってくる。二人の力をあわせれば石も持ち上がる。そこまでは目に見えるように、僕もたどることができた。
しかし二人のうち一人が女であっては、その石を持ちあげるのはたいへんな仕事だったにちがいない。たくましいサセックスの警官と私とでさえ、なまやさしいことではなかったのだから。彼らは補助として何を使ったか? 僕は立ち上がると、床に散らばっているいろいろな薪《たきぎ》を注意ぶかく調べて見た。すぐに僕は予期したものを見つけだした。ひとつは約三フィートの長さで、一方の端にひどくへこんだ跡がついていた。ほかの何本かは、何か非常な重みでおしつぶされたように、平べったくなっていた。明らかに、彼らが石をようやく持ち上げたときに、これらの薪を隙間にさしこんだにちがいない。そして最後に、ひとりがはって入れるほどに穴があいたとき、彼らは薪をたてかけて石をとめておいた。だから一方の端がひどくへこんでしまった。とにかく石の全重量がその下端にかかったのだから。そこまでは僕も確証をにぎっていた。
そこでだね。この深夜の劇的な情景をその先、どう再構成してみたらいいかというわけだ。たしかに穴の中へはひとりきりしか入れない。入ったのはブラントンだった。少女は上で待っていたのだろう。ブラントンは箱をあけて中味をとり出した。おそらく中味はあったのだろう……というのは今はないのだからね……そして……そして何が起こったか?
どんな復讐心が彼女の心中に燃えくすぶり、それがこの情熱的なケルト気質の女の魂に燃えうつったことか? 彼女をはずかしめた男は……おそらくそれはわれわれが想像するより彼女にとってはずっとひどい恥辱だったのだろう……その男が今や彼女の手中にある。それとも単に偶然に支えの薪がすべって、石がブラントンを墓場に閉じこめたか? 彼女はそれを黙っていただけの罪しかないのか? それとも突然彼女の手が、支えをとばして敷石をバタンとしめたのか? どっちだかよくわからないが、僕の目に浮かぶのは、その女が地中の宝をしっかりと握って、狂ったように曲がりくねった階段をかけのぼる姿だ。耳の中ではおそらく、閉じこめられた叫び声が追いかけて来る。彼女の浮気な恋人の生命を絶ったことになった石の蓋を、気違いのようにたたく音が太鼓のように耳にひびいてくる。
ここに次の朝、彼女の顔が真っ青で、ひどく興奮しており、発作的に笑ったりした秘密があったのだ。
しかし箱の中にあったものは何だろうか? 彼女はそれをどうしたのか? もちろんそれは、僕の依頼人が池から引き揚げた古い金属のかたまりと小石だったにちがいない。彼女は機会をとらえてすばやくそこへほうりこみ、犯罪の唯一の証拠を消そうとしたものだろう。
二十分間、僕はじっと動かずにすわったまま、事件を考えていた。マスグレイヴは立ったまま青い顔をして、角灯をふりまわして穴の中をのぞきこんだりしていた。
『これはチャールズ一世の貨幣ですよ』と彼は、箱の中に残っていたいくつかを手につまんで言った。『うちの儀式がいつから始まったか、推定の正しかったことがおわかりでしょう』
『チャールズ一世には、ほかにも問題がありますよ』と僕は叫んだ。儀式の最初の二つの問いの意味がわかりそうな気がしたからだ。『君が池から引き揚げたものが見たいですね』
われわれは書斎へ上がって行った。彼はその遺物を見せてくれたが、見たときすぐに彼がそれを重要視していないことがわかった。というのも、金属はほとんど真っ黒で、小石は光沢もなく、つまらなそうなものだったから。僕は石のひとつを袖《そで》でこすってみた。それから手のひらで暗くしてみると、きらきらとまばゆくきらめくではないか! 金属のほうは二重の輪のような型だったが、もとの型からずい分ゆがめられて変わっていた。
『こういうことを思いださなくてはいけませんよ』と私は言った。『王党派は王が殺された後でも英国で活躍していた。そして彼らが最後に逃げたときには、おそらく彼らの最も大切な財産は埋めて行ったことでしょう。もっと平和になって彼らが復帰して来るときにそなえてね』
『家の先祖のフィリップ・マスグレイヴは、有名な王党派でした。そしてチャールズ二世の亡命中は、王の右腕といわれていたくらいだったのです』
『ああ、なるほどねえ。それでいま、僕のほしい最後のつなぎ目が手に入りました。君にお祝いを言わなくてはなりませんね。ちょっと悲劇的な経過はたどりましたが、実に当然と言えば当然な、ですが歴史的に言えばそれ以上に重要な遺物が手に入ったのですよ』
『いったいなんですか? それは?』
『ほかでもない。古《いにしえ》の英国国王の王冠ですよ』
『えっ! 王冠ですって!』
『たしかにそうです。儀式文が何といっているか。こうでしょう。[それは誰のものであったか?][行ってしまった人のものだ]それはチャールズ一世の処刑の後だったのですよ。[誰に渡すべきものか?][やがて来る人に]これはチャールズ二世のことです。彼の復位はすでに予想されていたのですね。そんなわけで、僕は、このひしゃげて形もわからなくなっているものは疑いもなく、かつてスチュアート王朝歴代の王の額をかざっていた王冠なのだと思うわけです』
『それがどうして池の中にあったのでしょう?』
『ああ、それにお答えするには少し時間がかかるのですがね』と言って、僕は長い事件のつながりと、僕のつかんだ証拠のあらましを物語った。夕やみがたちこめてきて、私の物語が終らないうちに、月がきれいに輝きはじめていた。
『それなら、なぜチャールズ王が復位したとき、その冠をいただかなかったのでしょう?』
マスグレイヴはそうたずねると、その遺物をリンネルの袋にしまいこんだ。
『ええ、それは永久にわからないことでしょうね。こんなことも考えられます。この秘密を知っていたマスグレイヴは中途で死んでしまった。そして何かの手抜かりから、意味を説明しないまま、手引きとなる儀式文だけを子孫にのこした。その日以来、これは父親から世継ぎへと語りつたえられて来たが、ついにその秘密を知りうる男があらわれた。しかしその男はそれを実行して命を失った』
というわけで、これがマスグレイヴ家の儀式の物語なんだ、ワトスン君。王冠はハールストンに保存してあるよ。それを私有するについて、多少法律的ないざこざもあり、かなり金もはらわされたそうだが。僕の紹介だといえばきっと見せてもらえるよ。女中については何もわかっていないが、おそらく彼女は英国をはなれて、どこか海の向こうの国で、犯した罪の記憶をいだいて暮らしてでもいるんだろうよ」
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ライゲイトの大地主
シャーロック・ホームズは一八八七年春、並々ならぬ奮闘の結果、過労のために健康をそこなっていたが、それがまだ回復しきらないころのことである。そのオランダ領スマトラ会社事件およびモーペルトィ男爵の大陰謀事件というのは、まだ人々の記憶になまなましく、とりわけ政界や財界方面にも少なからぬ関係があるので、この探偵録に記載するには不適当である。だが、それが妙な因縁から、またしても、生涯をかけて犯罪に闘いをいどむホームズの、新たな武器の真価を発揮させる複雑怪奇な新事件をみちびき出すことになった。
ノートを見ると、ホームズがリヨンのデュロン・ホテルで病床にふしている旨《むね》の電報を受け取ったのが、四月十四日のことである。一昼夜もたたないうちにホームズのもとについた私は、彼の病状が軽いのを知ってほっと安心したが、一日に十五時間以上も仕事をし、しかも、彼自身に言わせると五日間ぶっ続けに働いたことも一度ならずあったという、この二か月にわたる調査の疲れから、さしも強靭《きょうじん》な彼の身体も、すっかりいためつけられていた。調査はみごとな成績をおさめたのだったが、そのよろこびも、あの激しかった努力のあとの疲労には、うちかつことができなかった。彼の名声がヨーロッパ全土にひろがって、文字どおり踵《かかと》を没せんばかり、祝電が殺到しているときにも、ホームズは暗い憂鬱《ゆううつ》に身をまかせていた。自分が三か国の警察がさじをなげた事件をみごとに解決し、完全にヨーロッパ随一のペテン師の裏をかいたと知ってさえ、彼の神経衰弱は回復しそうにもなかったのだった。
三日後にホームズをつれてベイカー街に帰ってきたが、健康のためには何より転地がいいにちがいなかった。それに私にとっても、春に田舎で一週間ばかり暮らすというのは、考えただけで心が誘われるのだった。アフガニスタンにいたときに私の治療をうけたことのあるヘイター大佐が、サリー州ライゲイトの近くに住んでいて、何度も立ち寄るように私をさそっていたが、最近の便りで、ホームズが一緒に来るようだったら私同様に歓迎すると言って来ていた。少しばかり駆け引きがいったが、それでもホームズは、ヘイターが独身なので自由にふるまえると知ると、私の計画に同意した。そこでリヨンから帰って一週間後に、われわれはヘイター大佐の家に来た。大佐はりっぱな老軍人で、世の中の酸《す》いも甘いもかみわけた人だった。このぶんだとホームズと意気投合するだろうと思っていたが、果たしてそのとおりだった。
ライゲイトに着いたその夜、われわれは夕食をすませて銃器室の椅子に腰をおろしていた。ホームズはソファの上に長くなり、私は大佐と、彼のこの小さな兵器庫を見せてもらっていた。
「ところで」と不意に大佐が言った。「こっちも危くなったら、このピストルを一挺、二階に持って行っておきましょう」
「危いって、あなた」と私は言った。「いや、最近、この近くでちょっとしたことがありましてね。アクトン老人といって、やはりこの辺の豪家ですが、そこへ、ついこの月曜日に押し込んだ奴がいましてね。もっともたいした被害はなかったんですが、犯人はまだあがっていません」
「手がかりは?」とホームズが上目《うわめ》をつかった。
「今のところぜんぜんです。なあに、ちっぽけな事件ですよ。田舎にありがちなつまらない事件ですよ。ホームズさん。ああいう国際的な大事件をおやりになったあとじゃ、問題にもならんでしょう」
ホームズは手を振ってこのお世辞をはらいのけたが、それでもうれしかったとみえてほくそ笑《え》んでいた。
「なにかおもしろいところはなかったですか?」
「まずないと思いますね。書斎をひっかき回しているんですが、そのわりに獲物が少なかったようですね。ひきだしはぶちまけるわ、本棚はかきまわすわ、どこもかも、めちゃくちゃにひっくり返しておいて、なくなったものといったら、ポープ訳のホメロスの半端《はんぱ》もの一冊、メッキ燭台がふたつ、象牙の文鎮《ぶんちん》、樫の木で作った晴雨計の小さいやつ、それから麻の糸玉と、こんなものです」
「なんと奇妙な取り合わせですなあ!」私は思わず叫んだ。
「なに、手あたりしだいにかすめて行ったにちがいありません」
「州警察はいったいなにをしているんだ」ホームズがソファからぶつぶつ言った。「なんたって、はっきりしてるじゃないか、こいつは……」
私は指をあげてホームズに注意した。
「君はここへ休息するためにやって来たんだよ。神経がずたずたになっているくせに、新しい事件にとびこむなんて、どんなことがあったって、やっちゃいけないよ」
ホームズは、おどけた諦《あきら》めの眼差しを大佐にむけて、肩をすくめた。それから話題はもっと安全な方面に移っていった。
ところが、私が医者としていくら気をつけても無駄だということがわかった。というのは、翌朝になってこの事件が、無視することのできないかたちをとって、ふたりの間に割り込んで来たからである。この小旅行は意外な方面に展開してしまったのだ。
朝食をとっているときのこと、大佐の執事が、日ごろのたしなみをすっかり忘れてとび込んで来た。そしてあえぎながら、
「お聞きでございましょうか? カニンガム様のお宅で!」
「強盗か?」コーヒー茶碗《ちゃわん》を宙に迷わせて大佐が叫んだ。
「殺人でございます!」
大佐は口笛をならした。「なんてこった! 誰だ、殺されたのは。判事さんか、息子のほうか?」
「いえいえ。馭者《ぎょしゃ》のウィリアムでございます。心臓を一発やられて、そのままだったそうでございます」
「そうかい、誰がやったんだ?」
「強盗でございます。鉄砲玉のように逃げ出して行方をくらましてしまいましたそうで。食器室の窓を破って押し入ったのを、ウィリアムが見つけまして、カニンガム様の財産を守ろうとして、あんなことになったのでございます」
「いつだ?」
「昨晩でございます。十二時ごろとか」
「ああ、そうかい、すぐ現場へ行ってみよう」と大佐は冷静に朝食を続け始めたが、執事が立ち去ると、「ちょっと厄介な話です。カニンガムはこの地方の大地主でして、しごく懇意《こんい》な人物ですが、ウィリアムというのは長年仕えてきた男で、良い召使いでしたから、きっと心を痛めていることでしょう。確かにアクトンのときと同じ悪党のしわざですね」
「妙なものばっかり持って行ったやつですね」ホームズは考え深げに言った。
「ええ、ええ」
「ふむ、全く単純な事件かもしれんが、しかし同時に、一見ちょっと奇妙なところがあるようですね。田舎で働く強盗一味なら、現場を次々かえて行きそうなものです。わずか二、三日のうちに、同じ地方で二軒の家に押し込んだりしません。ゆうべあなたが用心にピストルを携帯するとおっしゃったとき、イングランド地方でもこの辺は、この一人だか何人組だかの泥棒がやって来るにしても、いちばん最後の場所になるんじゃないかと、ふっとそんなに思ったりしたんですがね。まだまだ私にも予想できないことが沢山あるようです」
「土地の泥棒のしわざじゃないですかねえ。とすれば、アクトンにしろカニンガムにしろ、当然やられそうな家だということになりますからね。二軒ともこの辺じゃ、とびぬけて大きな家ですよ」
「金もいちばんもっていると」
「ええ、まあ、そのはずじゃあるんですが。だいぶまえから訴訟事件でこのふたりが争ってましてね、その方に相当すいとられてるんじゃないかと思いますが。アクトン老がカニンガムの土地の半分に所有権を主張しておるわけですが、弁護士たちもかかりきりの有様ですから」
「土地の与太者《よたもの》なら、わけなくつかまるでしょう」ホームズはあくびをしながら言った。「わかってるよ、ワトスン君。首をつっこんだりしやしないからね」
ドアがさっと開くと、執事が姿を現わした。
「フォレスター警部さんでございます」
警部が入って来た。目から鼻へ抜けそうな、鋭い顔つきの若者である。
「お早うございます。お邪魔いたしまして申しわけございませんが、ベイカー街のホームズさんがご滞在中とうかがいまして」
大佐がホームズのほうに手を振ると、警部は頭をさげて挨拶した。
「実は、ちょっとお力を拝借させていただけたらと存じたもんでございますから」
「ワトスン君、運命の女神は君にさからっているね」とホームズは笑った。「いま、その事件のことを話していたところです。詳しいところを聞かせていただきましょうか」と、いつものように椅子にふんぞり返ったので、私はこの患者を見放すより手がなかった。
「アクトン事件では手掛りがまったくございませんが、今度はかなりつかんでおります。二つとも明らかに同じ者のしわざです。その男の目撃者があります」
「ほほう」
「はァ。ところがウィリアム・カーウァンに一発くわせておいて、脱兎《だっと》のごとくに逃走しております。カニンガム氏が寝室の窓から、またアレックさんが勝手口から目撃しておられます。事件の起こったのは十二時十五分前です。カニンガム氏はちょうどベッドに入ったところ、アレックさんは部屋着を着てパイプをふかしていたところだったそうです。二人とも馭者のウィリアムが救いを求める声を聞きまして、アレックさんが何だろうと思って駆けおりました。すると勝手口のドアが開いておりまして、庭で男がふたりもみあっているのが見えましたが、一方がピストルを撃つと相手がひっくりかえりました。犯人はそのまま駆け出して庭を横切ると、生け垣をとびこえて逃げてしまいました。カニンガム氏は寝室の窓から見ておられたわけですが、男が道路に達するのを目撃されました。その先は見えなかったそうです。アレックさんは倒れたウィリアムが助かるかどうか立ち止って見たものですから、その間に犯人は姿を消してしまいました。
特徴は中肉中背で黒っぽい服を着ておったということ以外わかっておりませんが、ただいま全力をあげて捜査中でありますから、よそ者ならじきあがると思っております」
「そのウィリアムは、そんなところでいったいなにをしていたんですかね。死ぬ前になにか言いましたか」
「ひとことも言っておりません。母親と番小屋に住んでおったわけですが、なかなか忠実な男だったもんで、おそらく屋敷の戸締りを見回るつもりで、本館のほうにやって来たんじゃないかと思います。なにしろアクトン事件で、みんな気をつけるようになっております。ちょうどドアをぶちあけたところへ……つまり錠がこわれておりますが……ウィリアムが通りかかったものとみえます」
「番小屋を出るまえに、母親になにか言っていませんか?」
「これが耄碌《もうろく》婆さんで耳が聞こえないもんで、なにも聞き出せませんでした。ショックでおかしくなっておりますが、どうも、もともと頭のいいほうじゃないように思われます。しかしここに非常に重要な材料がひとつあります。ご覧ください」
フォレスターは、ノートをちぎった小さな紙きれをとりだして膝の上にひろげた。
「これはウィリアムが指につまんで持っておったものですが、もすこし大きい紙の切端のように見うけられます。どうですか、ここに書いてある時間とウィリアムが殺された時間と一致しておりますでしょう。犯人がこの残りの部分をちぎって行ったか、それとも、ウィリアムがこれだけちぎったか、どちらかですね。いずれにしろ会見の約束のようです」
ホームズは紙きれをとりあげた。
「これが会見の約束だとしますと」警部はつづけた。「ウィリアムは正直と言われながら、強盗の一味だったということにもなりますね。とすると、庭でおちあって、ドアを破るのを手伝ったが、そのあとで仲間喧嘩したとでもいうところですか」
ホームズは異様に注意力を集中して紙きれを調べていたが、「実におもしろい紙きれだ。思ったよりはるかに複雑な事件だ」と両手に頭をかかえた。
フォレスターはこの事件が、ロンドンの有名な専門家に与えた影響を見てにっこり笑った。
「いまおっしゃったこと、つまり強盗と召使いが結託していること、この紙きれが誰かから誰かに渡された会見の約束だということ、これはみごとな推理だし、決してありえないことじゃありません。ただ、この紙きれを読んでみると……」
ホームズはまた頭をかかえこんで、しばらくじっと考えこんでいたが、やがて顔をあげたのを見ると、驚いたことに、彼の頬には血の気がさし、眼は病気の前のようにキラキラ輝いていた。彼は以前とおなじ調子で、元気いっぱいに立ち上がった。
「まあ聞いてください。ちょっと細部をあたってみようと思います。この事件は少しばかり、とくに興味をひくところがあります。そこで、ヘイターさんにはちょっと失礼して、警部さんと一緒に出かけたいと思いますから、ワトスン君とここに残っていただきます。ひとつふたつ頭に浮かんだことを調べてみたいと思いますので。半時間もしたら帰ってきます」
一時間半もしてから、フォレスター警部がひとりで帰ってきた。
「ホームズさんは外庭を歩きまわっておいでですが、四人一緒に本館に行ってみたいとおっしゃるもので」
「カニンガムさんの家に?」
「はあ」
「何をするんですかねえ」
フォレスターは肩をすくめた。「私には全く見当もつきませんね。ホームズさんは、まだ病気から完全に回復していらっしゃらないように思えるのですが。とにかく奇妙なふるまいをして、非常に興奮しておられるようでした」
「ご心配には及びません」私が言った。「ホームズの奇癖には、いつも一貫した目的がありますから」
「人が見たら、その目的が気ちがいじみていると噂することでしょうが。まあそれはともかく、ホームズさんは今にも乗り込みかねないようすでしたから、ご用意がよろしければ、すぐにお出かけ願えませんか」
ホームズは、顎《あご》を胸にうずめ、両手をズボンのポケットに突っ込んで外庭を歩きまわっていた。
「事件はますますおもしろくなってきたよ。ワトスン君。この小旅行は大成功だ。ほんとにすばらしい朝だったよ」
「現場を見ておいででしたね」ヘイター大佐が言った。
「ええ。フォレスターさんと二人で、ほんのちょっと捜索をやってみました」
「結果はどうです?」
「非常におもしろいものを二、三見つけましたが、まあ歩きながらお話ししましょう。最初ウィリアムの死体を見ましたが、話のとおり、ピストルで殺されています」
「すると、そんなことをお疑いだったんですか?」
「何ごともやってみるにこしたことはありません。捜査は無駄じゃありませんでした。それからカニンガム氏の子息さんに会ってみました。おふたりとも、犯人が逃走するときに生け垣をこわした場所を、正確に教えてくれましたが、実に興味あることです」
「なるほど」
「それから、ウィリアムの母親に会いました。年をとって衰弱していますから、目新しいことは、なにひとつ聞き出せませんでした」
「で、調査の結果は、どういうことでしたか?」
「この犯罪が非常に奇怪なものだという確信を得ましたね。これからもうすこし調べてみれば、もっとはっきりしてくると思います。警部さん、あなたも同じお考えと思いますが、死体が手に握っていたあの紙きれに、ウィリアムの死亡時刻が書かれていたのは、非常に重要なことですね」
「手がかりになると思います」
「思いますじゃない。誰があれを書いたにしても、とにかく書いた男が、あの時刻にウィリアムをベッドから誘い出した男です。しかし、あとの部分はどこにありますかな?」
「どっかに落ちていないかと思って、地面を探しまわしたんですが」
「あの紙きれは、犯人が死体の手から引きちぎったんです。なぜ犯人がそんなに気をもんだのか? 紙きれから真犯人がわかるからですよ。それを手に入れてからどうしたか、きっとまあ、ポケットに突っ込んだままで、角がちぎれて死体の手に残っているとは気がつかなかったんでしょう。もし、そのあとの部分が見つかったら、この事件は解決したも同然ですな」
「ははあ、しかし犯人がつかまらなきゃ、犯人のポケットから紙きれを手に入れるわけにもいかんでしょう」
「なるほど、そいつは考え落しましたかね。ただ、もうひとつ明白な点がある。つまり、あの手紙はウィリアムに渡されたものだということですが、書いた人間が自分の手で持って行ったわけはありません。なぜって、本人なら口で言えば良かったはずですからね。じゃ、誰があの手紙を持ってきたのか、……それとも郵便で送ったんでしょうかね」
「それはもう調査ずみです。ウィリアムは昨日午後の便で、手紙を一通受け取っております。封筒は本人が破りすてております」
「それは、それは!」とフォレスターの背中をたたきながらホームズは言った。「配達人に会いましたな。いや、あなたと仕事をするのは愉快です。さて、ヘイターさん、あれが番小屋です。何なら、犯罪現場をごらんになりますか?」
殺されたウィリアムの住んでいたという、こじんまりした小屋のまえを通って、われわれは柏《かしわ》の並木道を登り、ドアの上の梁《はり》にマルプラケ記念の日付を刻みこんだ古びて美しい、アン女王王朝風の家の方に歩いて行った。
ホームズとフォレスターは先に立って家のぐるりをまわり、庭園の一部が長くのびて道路沿いに低い生け垣がとぎれたところにある、横手の門に案内してくれた。巡査がひとり、台所の戸口で立ち番していた。
「ちょっとドアをあけてくれたまえ」とホームズが巡査に言った。そしてわれわれに、「あの階段の上からアレック君が、ちょうどいま立っているこの辺でふたりが格闘しているのを見たわけです。カニンガム氏のほうは、あの左手から二番目の窓からのぞいていて、犯人がそっちの繁みの左手に消えるのを見たそうです。アレック君もそう言っています。ふたりとも、その繁みがあるために、自信があるようです。アレック君は走り出て、傷ついたウィリアムのそばにしゃがみ込んだわけです。地面が乾き切っているから、足跡はひとつも残っていません」
ホームズがこう話していると、ふたりの男が建物の角を曲がって庭の小道をこちらへ近づいてきた。ひとりは、暗い目をした皺《しわ》の深い、強靭《きょうじん》な顔の初老の男だったが、もうひとりは颯爽《さっそう》とした青年で、その明るい、ほほえみかけるような表情や派手な服装は、われわれのやってきた用件とくらべて、およそ似つかわしくないものだった。
「まだやってらっしゃるんですか」と青年がホームズに声をかけた。「ロンドンのかたは決してドジを踏んだりなさらないものと思っていたんですが、それじゃあまり仕事のお早いほうじゃないようですね」
「いやあ、少しは時間をいただかないと」ホームズは人がよさそうに言った。
「そりゃ、そうでしょうとも」アレック・カニンガムは言う。「なにしろ手がかりがちっとも無いですからね」
「ひとつだけあります。それを発見しさえすれば……」とフォレスター警部が言いかけて、「おや、たいへんだ! ホームズさん、どうなさいました!」
突然、ホームズがものすごい表情になった。目がぎょろチとつり上がって、顔が苦痛にゆがんだとみると、押し殺されるようなうめき声を上げながら、ばったりと地面につんのめった。突然の激しい発作に驚いて、すぐに台所へかつぎ込んで大きな椅子におろしてやったが、ホームズはしばらく激しく息づいていた。やがて、失態をわびながら立ち上がって、
「ワトスン君に聞いていただければおわかりになりますが、重病から回復したばかりだもんで。どうもこうやって、不意に神経発作が起こりましてね」
「二輪馬車でお送りしましょうか」カニンガム氏が申し出た。
「いや、せっかく来ましたから、どうしても一点だけ確かめておきたいと思います。なに、すぐ調べがつきますから」
「どういうことですか?」
「ええ、殺されたウィリアムがここに入ったのは、強盗がはいる前じゃなくて、後だったと思うんです。ドアが押し破られているのに、あなた方は犯人が侵入していないのを何とも思っていらっしゃらないようですが」
「そいつは、はっきりしとると思いますがなあ」
カニンガム氏が重たい口をきいた。「息子はまだ寝室に行っちゃいなかったんだから、誰かが家の中をうろつきまわってりゃ、音が聞こえたでしょうからなあ」
「ご子息さんはどの部屋においででしたか?」
「僕は化粧室で煙草をすっていました」
「というと、どの窓にあたりますか?」
「左はしの窓です。おやじの部屋の隣です」
「むろん、どっちも灯はつけておいでだったわけですね」
「そうです」
「実に奇妙なことですね」とホームズは微笑をうかべた。「押し込み強盗が、しかもこれまでに経験のある押し込み強盗がですよ、灯がついていて家族がふたり起きているとわかっていながら侵入するなんてことが、いったい考えられますかね」
「よっぽどの心臓だったんでしょうな」とカニンガム氏が言った。
「これがありきたりの単純な事件なら、わざわざあなたに来てまでいただかなかったわけですよ」とアレックが言葉をはさんだ。「しかしウィリアムがつかみかかる前に、犯人が家の中に侵入していたというあなたの推理は不合理きわまるものですよ。家の中がかきまわされてるわけじゃなし、何かとられてなくなっているというわけでもありませんからね」
「何がとられたか、それが問題ですよ。相手は風変わりなやつですからね。やつらにはやつらの目的があるにちがいない。例えばアクトンさんの家でとられた物を考えてごらんなさい。奇妙なしろものばっかりじゃありませんか。糸玉だの、文鎮《ぶんちん》だの、それから何でしたっけね、ガラクタばっかり」
「いやはや、とにかくみんなおまかせしますよ」カニンガム氏が割って入った。「あなたなり、警部さんなり、おっしゃることは何でもよろこんでいたします」
「それじゃ先ず」とホームズが言った。「情報提供者に懸賞金を出していただけませんか。金額のほうは、どうぞあなたから直接おっしゃってください。こうしたことは当局のほうにまわすと手間どりますし、なにぶん手続きがスムースにいかないものですから。ここに私が書いた下書きの書式があります。これでよろしかったらご署名いただけますか。金額は五十ポンドで十分と思います」
治安判事カニンガム氏は、ホームズ氏が差し出した紙片と鉛筆を手にとった。
「五百ポンドでもかまいませんよ」と言って書類に目を通していたが、「だが、ちょっとここは違いやしませんか」
「あわてて書いたもんですから」
「こう書いていらっしゃる。『しかるところ、火曜日午前一時十五前、賊《ぞく》は……』云々。これは本当は十二時十五分前です」
私は心を痛めた。ホームズは元来こういった失策をひと一倍、気にするたちである。もともと事実を決してまちがえないのが彼の特色なのだが、最近の病気にすっかり痛めつけられているので、この小さな出来事は、まだ何といってもいつものホームズと違うのを、まざまざと感じさせた。
ホームズはちょっと困った表情をうかべたが、フォレスターがヒクヒクと眉毛《まゆげ》をあげると、同時にアレックが吹き出してしまった。もっとも、カニンガムは、間違いを訂正してホームズにかえした。
「これはできるだけ早く印刷にまわして下さい。懸賞金というのは、結構なお考えと思います」
ホームズは注意深くその紙片を紙入におさめて、
「さてと、こんどはどうです、皆さん、一緒に家の中を調べてみませんか。そして、その奇矯《ききょう》な押し込み泥棒が、結局何ひとつとっていないことを確かめてみませんか」
家に入る前にホームズは、押しこわされたドアを調べた。木の部分のえぐり取られた跡を見ると、ノミか大型ナイフを突き刺して、無理にこじあけたのに違いなかった。
「かんぬきはお使いにならないんですか?」
「今までそういう必要がなかったもんで」
「犬はいないんですね?」
「いやおりますが、表のほうに鎖でつないでありましてな」
「召使いたちが寝室に退くのは何時ころですか?」
「十時ころですな」
「ウィリアムもその時間には寝ていたでしょうね」
「そうです」
「とすると、月曜の晩にかぎってウィリアムが起きていたというのは、ちょっとおかしいですね。ところでカニンガムさん、家の中をひとわたり見せていただけませんか」
敷石をしきつめた廊下があって、いきなり二階へあがる木製の階段につづき、台所はそれから横手にのびた所にある。階段をのぼりきると、反対がわの、もうひとつのずっときらびやかな意匠をほどこした、玄関広間からの階段の踊り場に出た。応接室や、カニンガム氏とアレックの寝室などは、踊り場から直接はいれるようになっていた。
ホームズは家の構造を鋭く見つめながら、ゆっくり歩いていった。そのようすから、きっと彼が何か手がかりをつかんだのだと察せられるのだが、さてそれがどんなものかというと、さっぱり見当がつかなかった。
「ねえ、ホームズさん」とカニンガム氏がたまりかねたように言った。「こんなことをする必要がありますかね。この階段の突きあたりが私の寝室で、そのむこうがアレックの寝室ですよ。泥棒が私たちに気づかれずにここまで上がってこられるかどうか、簡単にわかりそうなもんじゃありませんか」
アレックも意地わるげな薄笑いをうかべて、「そうして探しまわっているうちに、何か手がかりがつかめるんでしょうよ」
「ところが、僕はもっともっとそんなふうに言われたいと思ってるんですよ。たとえば、寝室の窓から正面の庭がどのあたりまで見渡せるか、こんなことを調べたいんです。これがアレックさんのお部屋ですね」とホームズがドアをあけた。「それから、あれが、椅子にかけて煙草をすっておいでになった化粧室ですね。この窓からいったいどこが見えるんですか」彼は部屋を横切ると、向かいのドアをあけて別の部屋を見まわした。
「どうです。ご満足ですか」カニンガム氏はいらいらしてきた。
「いやどうも。望みのところはたいがい見せていただきました」
「そうですか、ご必要なら私の部屋もお目にかけますが」
「ご迷惑でなければお願いしましょうか」
治安判事カニンガムは肩をすくめると、質素な家具をしつらえた、平凡な部屋にわれわれを案内した。部屋を横切って窓のほうに向かったとき、ホームズはいちどもどって、いちばん後ろから歩いていた私のそばにやって来た。寝台の脚のそばに四角いテーブルがあって、オレンジを盛った皿と水差しがのっていたが、そのそばを通るときに、ホームズは私の前にのしかかるようにしながら、わざとテーブルをひっくり返したものである。私はあきれてしまった。水差しはこっぱみじんに砕け、オレンジは部屋のすみにごろごろころがっていった。
「何をやってるんだ、ワトスン君。絨毯《じゅうたん》が台なしじゃないか」
私は混乱のあまり思わず立ち止ったが、すぐに、何かあってホームズがこんな役目をふりあてたのだと気づいたので、オレンジを拾いはじめた。他の人達もオレンジを拾ったりテーブルをもとの位置にすえたりしてくれた。
「おや、あの人はどこだ?」フォレスター警部が声をあげた。ホームズの姿が消えている。
「ちょっと待ってらして下さい」アレックが言った。「あの人はどうもちょっと頭がへんですね。お父さん、どこへ行ったのか見てきましょう」
ふたりはあわただしく部屋を出て行った。あとに残された私、フォレスター、ヘイターの三人は、お互いに顔を見合わせた。
「じっさいどうも、アレックさんのおっしゃるとおりですな。ご病気のためでしょうが、しかしどうも私には……」
フォレスターの言葉は、不意に聞こえてきた「誰か来てくれ! 殺される」と言う叫び声に中断された。たしかにホームズの声だ。私は狂気のように踊り場に出た。われわれが最後に入った部屋からだ。叫び声はしわがれて、もぐもぐと次第に低くなっていく。私はあわてて手前の部屋を駆け抜けて、化粧室にとびこんだ。カニンガム親子がホームズを平蜘蛛《ひらぐも》のように押えつけている。アレックが両手でのどをしめつけ、カニンガム氏はどうやら腕をねじあげているらしい。いそいでわれわれ三人がカニンガム親子をもぎはなすと、ホームズは真っ青な顔をして、すっかり疲れきってよろめきながら立ち上った。そしてあえぎながら
「警部、そのふたりを逮捕するんだ」
「なんの嫌疑で?」
「馭者ウィリアム・カーウァン殺しの容疑者として」
フォレスターは当惑して、ただまじまじとホームズを見つめていたが、「さあ、しっかりなすって下さい、ホームズさん。まさか本気でそんなことを……」
「ちえっ、顔を見るがいい、ふたりの」ホームズは声を荒らげた。
見るとほんとうに、人間の顔がこれほど明白に罪状を告白しているのを見たことがなかった。カニンガムはひとくせありげな顔一面に陰気な表情をうかべて、茫然《ぼうぜん》自失《しつ》のていだった。一方アレックは、今まで彼の特徴だった颯爽《さっそう》たる態度がすっかり消えうせて、危険な野獣の残忍さが黒い目をぎょろつかせ、美しい顔をみにくくゆがめていた。フォレスターはひと言も口をきかなかったが、ドアに歩み寄ると、呼子をピリーと鳴らした。ふたりの巡査がそれにこたえて入ってきた。フォレスターは口をきった。
「カニンガムさん、どうも他にいたしかたございません。きっとこれはとんでもない間違いだと信じておりますが、ご存じのとおり……あッ、何です! はなしなさい!」
彼はサッと手ではたいた。アレックが連発ピストルの安全装置を外そうとしている。ピストルは床にころがった。
「取っておきなさい」ホームズが素早くそれを足でおさえた。「公判のおりに役に立つでしょう。ところで、いちばん欲しかったのはこれですね」と、しわくちゃになった小さな紙きれを取り出した。
「紙きれのあとの部分ですか?」フォレスターが叫んだ。
「そのとおり」
「どこにありましたか?」
「あるに違いないと思っていたところでみつけました。あとで事件の全貌《ぜんぼう》を話してあげますよ。それで、ヘイターさん、ワトスン君とひと足先に帰っていていただけませんか。せいぜ小一時間もしたら帰りますから。警部さんと、この二人にちょっとききたいことがあるんです。昼食にはきっと間に合いますからね」
約束どおり、シャーロック・ホームズは一時ごろヘイターの喫煙室に姿をあらわした。小柄な初老の紳士と一緒だったが、これが最初に押し込み強盗にはいられたアクトン老だと紹介された。
「アクトンさんにもご同席ねがって、真相をお話ししようと思いまして。というのは、アクトンさんもきっと深い興味をお感じになると思うんです。ただ、私のようにとかく騒動をまき起こしがちな男がライゲイトにやって来て、ヘイターさんがうるさがっていらっしゃりはしないかと思うんですが」
「とんでもないこってす」大佐は心温かく答えた。「ホームズさんのお仕事の方法というものが拝見できまして、もう光栄のいたりです。実を申しますと、お仕事ぶりがいちいち予想以上なんでして、ましてああいう結果になるとは思ってもみませんでしたが、いまだに手がかりの手の字もわからん始末でして」
「説明をきくとがっかりなさるかと思いますが、まあワトスン君にかぎらず、私のやり方に知的な興味をお持ちになった方なら、どなたにでも洗いざらいお聞かせすることにしておりましてね。ところでそのまえに、先ほど化粧室でさんざんなぐりつけられて、すこしまいっているもんで、恐縮ながらブランディをいっぱいいただけませんか。近ごろすこし体が弱っていましてね」
「あれからもう、あんな神経発作は起こらなかったでしょうね」
ホームズは愉快そうに笑った。「そのことはあとから申しますがね。それじゃ、ああいう結論を導いたいろんな要点をあげながら、順を追って真相をお話ししていきましょう。あいまいな点がおありでしたら、いつでも話の腰を折って下すって結構ですよ。
犯罪捜査をする上でいちばん大切なことは、多くの事実から、重要なものと、偶然的なものとを選び分ける能力です。そうしないことには、精力や注意力の浪費になってしまって、ちっとも集中しません。この事件では、最初から、真相の鍵は被害者の握っていた紙きれだということが、はっきりしていました。
その前にちょっと、次のことに注意しておいていただきましょう。つまり、アレックの証言が真実であって、犯人はウィリアムを射殺してからただちに逃走したのだとすると、犯人には被害者が握っていた紙片をもぎとって行く暇なんか無かったはずだということです。紙片をもぎとったのが犯人でないとすると、それはアレックだということになります。というのは、カニンガム氏がおりて来たときにはもう召使いたちが現場にとび出して来ていたんですからね。実に単純なことですが、警部ははじめから、豪家の人たちだから事件に関係するはずがないという先入観を持っているから、これを見のがしていたわけです。で、私は絶対に偏見のない態度で捜査して、事実の指向するままにそれを進めることにしているんですが、もう最初の段階からすでに、令息アレック・カニンガム君の演じた役割がちっとばかり怪しいと思っていたわけです。
そこで警部が持って来た紙片を厳密に調べた結果、ただちに、これはなにかたいへん注目すべき紙きれの一部分だとわかったんです。これです。どうですか皆さん、非常に暗示的なところがあるのに気がおつきになりませんか?」
「たいへん不規則な字面《じづら》ですね」とヘイターが言った。
「そこですよ! これは明らかに、ふたりの人間が一字ずつ交替で書いたものにちがいありません。よく注意して、at や to の強い t の字と、quarter や twelve の弱い t の字をくらべてごらんになったら、たちまちそのことがおわかりになります。この四語の簡単な分析から、さらに、この learn と maybe は強い字を書いた人物のもので、what は弱いのを書いた人間の字だということが、すぐおわかりになるでしょう」
「なあるほど、はっきりしてますなあ」とヘイターが叫んだ。「しかし、なんでまた一通の手紙をそんなことまでしてふたりで書いたんですかねえ」
「明らかに、あまり気の進む仕事じゃなかったんです。ふたりのうちのひとりが相手を信用せずに、何をするにも平等にやろうと決めたんでしょう。で、ふたりのうちで、強い字を書いたほうが主謀者です」
「それはまた、どうしてですかな」
「ふたりの筆跡をくらべただけでそう推定できますよ。しかしそれにはもっと確実な理由があります。念入りに調べてごらんなさい、強い字を書いたほうが最初に、一字ぶんずつ相手の書く場をあけて書いていったことがわかります。たまたま、あけようがたりなくて、次に書いたほうは、この at と to の間にずいぶんつめて quarter を書いていますね。やっぱりあとから書いているんでしょう。明らかに、はじめに書いたほうの男がこの事件を企てたにちがいありません」
「こいつは恐れ入りました」アクトンが叫んだ。
「いや、まだまだ上《うわ》っ面《つら》です。さて、ここで重要な点にふれますが、専門家にかかると、筆跡から書いた者の年齢が、大体まちがいなく推定できます。まあ普通の場合だと、何十代かというところまでは確実に推定できます。普通の場合と言ったのは、病気だとか身体の欠陥だとかで、若いのにまるで老人のような字を書くものがいたりするからです。この紙片を見ると、一方はごつごつして力強い筆跡です。もうひとつのほうは文字の肩がおちています。もっとも、そろそろ t の横棒を書かない癖がつきはじめていますが、読めないことはありません。つまり、前者が青年の書いたものであり、後者がまだ老衰していない老人の手になっていることがわかります」
「いやあすばらしい」またアクトンが叫んだ。
「それからもうひとつ、実におもしろいことがあるんです。この二つの筆跡が、どことなく似ているんですよ。血縁関係でつながれた者に特有のことですが、このギリシアふうの e なんか、とくによくわかりますね。同じような点が、あまり目立ちはしませんが、いたる所にあります。つまりこれは、同じ家族のもの同士が書いたにちがいないんです。さて、紙片の検討の結果は、おもな点だけお話ししたわけですが、その他にも専門家の興味をひく事柄が二、三ありました。それらを考え合わせて、これを書いたのがカニンガム親子だという確信を持ちました。
それだけのことが分りましたが、そこで次に打った手は、むろん、犯罪の明細を調査して、それがどんな意味を持つものであるかを調べることでした。フォレスターさんとあの家へ行って、見られるものはひとつ残らず見てまわりましたが、死体の傷は、四ヤード以上の距離から連発ピストルで撃ったものに、絶対まちがいないことがわかりました。服に火薬の焦げあとがついていなかったのです。つまりピストルが鳴ったとき、ふたりの男が格闘していたと言うアレックの証言は嘘だということです。また、ふたりが口をそろえて証言した犯人の逃走した場所ですが、たまたまそこに底がじめじめした、ちょっとした幅の溝《みぞ》があったんです。見ると足跡らしいものがひとつもありません。そこで、カニンガム親子の証言がこれもでたらめだったばかりか、もともとあの殺人現場には第三者が立ち入った事実が全然ないと知ったわけです。
さて、次にこの奇妙な犯罪の動機ですが、私はまず第一番に、最初のアクトン事件を解く鍵を探しました。ヘイターさんの話から、アクトンさん、あなたとカニンガム家とが訴訟あらそいをしていらっしゃることを知りました。むろんすぐに、彼らが訴訟の重要書類を盗み出そうとして、アクトンさんの書斎に押し込んだと察しがつきました」
「まったくそのとおりです」とアクトンが言った。「そういう目的だったに違いありません。私は彼らの地所の半分に正当な権利を主張しておるわけですが、運よく弁護士の金庫に保管してあったからよかったようなものの、あの書類が向こうの手に渡っていたら、訴訟は完全にしてやられていたところでした」
ホームズは微笑をうかべながら、
「そこんところです。無鉄砲なことをしたもんですが、どうやらそのへんに若いアレックの匂《にお》いが感じられるじゃありませんか。目的のものが見当らないもんだから、ふたりはただの物とりの仕業《しわざ》に見せて嫌疑をそらそうと、手当りしだいの物を持って行ったんでしょう。これではっきりしましたが、まだわからない点もかなりありました。何よりも欲しかったのは彼らが持って行った紙きれです。アレックが持って行ったのははっきりしていましたが、そのあとはまあ化粧着のポケットにでも突っこんだにちがいないと思いました。他におくところなんかなかったろうじゃありませんか。だから問題は、それがまだそこに入っているかどうかです。まあやってみるに越したことはないと思って、家の中にはいってみることにしたんです。
ご記憶のように、私たちは台所の戸口でカニンガムに会いましたが、この場合大切なことは、この紙きれのことを思い出させちゃいけないってことでした。でないと早速すててしまわれます。それを、フォレスターさんがあやうくしゃべりそうになったんですが、私が天の助けで発作にかかってひっくりかえったもんだから、話がうまくそれてしまいました」
「なんてことだ!」とヘイターが笑った。「みんなあなたの仮病《けびょう》にひっかかって、無駄な心配をさせられたってわけですか」
私は、いつも思いがけないずるさを発揮して私を煙に巻くホームズに、あいた口がふさがらなった。「医者が見ても本物と区別がつかなかったね」
「この芸はなかなか役に立ちましてね」とホームズはつづけた。「発作から回復すると、こんどは一計を案じて、まあかなり器用にやれたんですが、カニンガムに twelve と書かせて、紙きれの twelve とくらべてみたわけです」
「ああ、馬鹿だったなあ、僕は!」私は大声をあげてしまった。
「馬鹿をやったと思って、ずいぶん同情してくれたようだったがね」とホームズは笑った。「いろいろ心配をかけてすまないとは思ったけれども。それから二階へあがりましたね。ところが案のじょう、化粧着がドアのかげにぶら下っています。そこでテーブルをひっくりかえして、一瞬彼らの注意をそらしておいて、その間にポケットを調べにしのび出たんです。片方のポケットから、やっと目的の紙きれを手に入れたと思ったら、いきなりカニンガム親子に押えつけられてしまったんですが、みなさんがいち早く味方になって助けてくださらなかったら、きっとあの場で殺されてしまっていたでしょう。おかげさまで、今こうやって、アレックに首をしめつけられたのも、紙きれをとり返そうと思っておやじに腕をねじ上げられたのも、ちゃんと思い出しているわけです。私が真相をつかんだのを知って、いままで安心しきっていたのが、不意に絶望のどん底につきおとされたんでしょうね、あんなに無茶な振る舞いをしました。
あとでカニンガムと犯行の動機についてしばらく話をしました。息子は悪魔みたいなやつで、ピストルを持たせでもしたら、自分だろうが他人だろうが、見さかいなしに頭をぶちぬきかねないありさまでしたが、カニンガムはすっかりおとなしくなっていました。形勢利あらずと観念したんでしょう。まるっきりしょげこんで、すらすらと白状しました。どうやらウィリアムは、カニンガム親子がアクトンさんを襲った晩にそっとあとをつけていて、秘密を握ったもんだから、親子をおどして口止め料をゆすったらしいんです。しかし、アレックはこんなことでやすやすとたかられているような男じゃありません。この辺を震駭《しんがい》させている強盗事件が利用できる、と天才的なひらめきを感じたんですね。それこそこわい男を亡《な》き者にする絶好の機会です。さっそくウィリアムはまんまとおびき出されて、撃ち殺されてしまいました。あれで紙きれを全部とり戻してさえおれば、そうして細かいことをもっと気をつけていたら、嫌疑がかからずにすんだのかもしれません」
「で、その手紙というのは?」
こう私が催促すると、シャーロック・ホームズは、残りの紙きれをみんなの前にひろげて置いた。
「ほとんど私が思っていたとおりのものでした。むろんまだ、アレックとウィリアムとアニー・モリスンの三人の関係がどういうものだったかは、わかっていませんが。とにかく結果は、ウィリアムが見事に穽《わな》にかかったということです。どうです。この p や g など、遺伝の影響がはっきり感じられて、なかなかおもしろいでしょう。老人の i に点のないことなんかも、大きな特徴ですね。ワトスン君、この転地は大成功だったね。明日は、元気いっぱい、ベイカー街に戻るとしようか」
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解説
一般の読者にとって、作中人物の名前のほうが作者の名前より親しみがあり、また有名であるということは、むしろ作者の名誉であるだろう。ロビンソン・クルーソー、ガリヴァーがそうであり、ドン・キホーテも、あるいはハムレットもそうであるかもしれない。シャーロック・ホームズに至っては、まさに作者のコナン・ドイルを圧倒して、あたかも作者以上に実在の人物と考えられてさえもいる。この架空の名探偵を実在の人物に仕立て上げて喜んでいる人々もあるくらいである。
シャーロック・ホームズは数ある英文学の中でも、最も有名な名前のひとつであり、ネルソン記念碑とかロンドン塔と同じように、この名前は新しい象徴として英語の永久的な一部を占めるであろう。
作者のアーサー・コナン・ドイルは一八五九年五月二十二日にエディンバラのピカーディ・プレイスに生まれた。父はチャールズといい、労働省の一小官吏であり、母はメアリといった。チャールズの父、つまりコナン・ドイルの祖父に当るジョン・ドイルは絵心があって、一八一五年にアイルランドの首都ダブリンからロンドンに出てきて、H・Bなる署名で政治的な風刺漫画を描いて名があった。チャールズの兄弟、リチャードも「パンチ」の表紙を描いたりしている。コナン・ドイルの父チャールズも芸術家的な血統を受けていたと見えて、小官吏としては芸術的で非実際的であり、年収二百四十ポンドを越えたことがなく、家族の養育はもっぱら妻と娘たちの手に頼っていたらしい。
ドイル家はもとアングロ・ノーマンの出で、熱心なカトリック信者であった。コナン・ドイルは九歳でホッダーなるカレッジへの予備校で、厳格なジェスイットの教育を受けた。この七年間、ランカシャーの大きなローマ・カトリックのパブリック・スクール、ストウニハーストで、主として幾何、代数、古典を学んだ。しかしドイルはやがて教会から離れてしまった。一か年オーストリアのフォラスルベルグ県にあるフェルトキルシュというジェスイットの学校にいて、のちエディンバラ大学の医学生となった。一八七六年のことである。
この医学生であったあいだ、ドイルの作中人物のモデルとなった人がふたりある。ひとりはラザフォード教授で「失われた世界」「毒ベルト」「霧の土地」に出てくるチャレンジャー教授のモデルとなり、いまひとりは、エディンバラ大学付属病院の外科医ジョウゼフ・ベルである。このベルこそ、わがシャーロック・ホームズのモデルとなった人であった。ベルをモデルにしたホームズという名は、当時の有名なクリケット選手と、アメリカの医学者であり文人であったオリヴァ・ウェンデル・ホームズの名前とを結びつけたものであったと言われている。
ドイルの文体に影響を与えたのはラテンの歴史家タキトゥス、イギリスでは『ガリヴァー旅行記』の作者スウィフト、詩人ポウプのホメロス訳、随筆家アディスンが創刊した雑誌「スペクテイター」のエッセイ等である。
一八八一年に大学を卒業、医学士となったが、アルバイトをしながらの苦学であって、捕鯨船に乗りこんだこともある。
卒業後船医として西アフリカへ航海したが、このときの経験は『スターグ・マンロウ書簡』とか『ポウルスター号の船長』などの作品に生かされている。
父が死んでから、ポーツマスに居をおいて開業医を始めたが、いっこうに繁盛しなかったらしく、このころからぼつぼつ小説、それも歴史小説の筆をとり始めている。歴史小説としては『マイカ・クラーク』『ホワイト・カンパニー』『ロドニー・ストーン』等、見るべきものがあるが、コナン・ドイルの名声を一躍高めたものは、言うまでもなくシャーロック・ホームズものであった。
しかし、ドイルの探偵小説はその初めから幸運であったというわけではない。最初の『緋色《ひいろ》の研究』はあちこちの出版社で相手にされず、ようやくウォード・ロック社が二十五ポンドで版権を買ってくれた。これが刊行されたのは一八八七年である。『四つの署名』はアメリカのリッピンコッツ・マガジンの注文で書かれ、八九年に単行本になった。
歴史小説で一応成功的に見えたものの、ドイルはなお医業を捨てるほど大胆になれず、ウィーンで眼科の研究を半年ばかりしてから、ロンドンに出て開業した。しかし依然、彼の医院は流行《はや》らなかった。患者を待つ暇々に、ドイルは短編探偵小説を書き、それが一八九一年七月号の「ストランド・マガシン」を最初として、つぎつぎに発表されていった。『シャーロック・ホームズの冒険』『回想』等の短編がそれである。同年の八月に至って、ドイルは医業を断念、小説に専念する喜びを感じたと言っている。
シャーロック・ホームズものの成功はここに改めて言う必要はない。フランスのガボリオーによってプロットを会得《えとく》、アメリカのポオによって、デュパン型の名探偵を教えられた。そのあざやかな推理的知力はまさしくデュパンの再生であるが、ドイルはワトスン博士という記述者を生み出している。
探偵小説の読者は、ワトスンの記述を通してホームズの活躍に胸おどらせるわけであるが、ドイルは読者を楽しませる探偵小説の鉄則を心得ていた。つまり、ワトスン博士の思考は読者のそれに劣ることによって、難解な事件を前にして、読者はワトスンに知的優越感を感じさせられる。そのあげく、ホームズという超人的名探偵の推理に、あざやかに驚嘆させられるという仕組みである。
第一短編集『シャーロック・ホームズの冒険』には十二編収められているのに、この『回想』では十一編となっている。はじめ十二編の予定であったが、うち一編が残酷な話を扱っているという理由で、単行本にまとめる際に削除されたのであった。しかしこの話は、「ボール箱」として、本来『回想』の第二話になるはずのものであったが、のちの短編集『最後の挨拶』に収載されている。
ドイルは一八八五年、ルイーザ・ホーキンズと結婚したが、彼の文名が高まるに反して、夫人の健康は思わしからず、胸を病んで、スイスに転地療養をするに至った。ドイルはこれに同伴したので、雑誌にホームズものの連載をいちおう打ち切る必要にせまられた。本書の最後の話、「最後の事件」は連載を中止するためにドイルが考えた事件で、ここでシャーロック・ホームズは行方不明になっている。明確に死んだとしていないのは、ドイルにのちにホームズ物語を書きつぐ意志があったからであるかもしれないが、事実、読者の要求にこたえて、ドイルは再びホームズ探偵|譚《たん》を書きつぐことになった。第三短編集『シャーロック・ホームズの生還』の巻頭を飾る第一話は、ホームズの再生を遺憾《いかん》なく説明してくれるものである。
夫人の病気が快方に向ってからエジプトを旅行、このとき「ウェストミンスター・ガゼット」の従軍記者となってエジプトの動乱を報道している。一八九九年から一九〇二年に至るボーア戦争では軍医として功があり、一九〇二年にサーの称号を得るとともにサレーの副総督に任命された。
最初の夫人は一九〇六年に病没。翌七年にジェイン・レッキーと再婚。第一次大戦には政府の命でフランスおよびイタリア戦線を巡視。そのイギリス部隊の報告記録をものしている。この大戦で息子のキングズリーがソンムの激戦で負傷、肺炎で死んで以来、ドイルは心霊術に没頭、一九二〇年七月七日の死に至るまで、その弁護と宣伝とに敢闘していたのである。
コナン・ドイルには『失われた世界』の他、歴史小説等多くの著作がある。しかし、それらが失われても、シャーロック・ホームズ物語が存する限りはコナン・ドイルの名声は、ホームズとともに不朽であるだろう。事実、ドイルが死んでのち、息子のエイドリアン・コナン・ドイルと現在一流の探偵小説家であるジョン・ディクスン・カーとの合作によって、シャーロック・ホームズを主人公とする短編が書きつがれ、新生ホームズ第一短編集はやはり十二編を集めて、一九五四年、『シャーロック・ホームズの手柄』として出ているのを見ても、シャーロック・ホームズの人気が依然、衰えていないことがわかるであろう。(鈴木幸夫)
〔訳者紹介〕
鈴木幸夫[すずき ゆきお]
一九一二年大阪生れ。元早稲田大学教授。著書「現代イギリス文学作家論」「アメリカ文学主潮」他。翻訳にV・ウルフ「波」、J・ロンドン「白い牙」、ドイル「シャーロック・ホームズの冒険」「シャーロック・ホームズの回想」「シャーロック・ホームズの生還」など。