シャーロック・ホームズ全集(下)

下巻目次

シャーロック・ホームズの回想
シャーロック・ホームズの生還
シャーロック・ホームズ最後の挨拶
シャーロック・ホームズの事件簿
解説
「回想」目次

「シルヴァ・ブレイズ」失踪事件
黄色い顔
株式仲買店員
グロリア・スコット号
マスグレイヴ家の儀式
ライゲイトの大地主
せむし男
入院患者
ギリシャ語通訳
海軍条約文書事件
最後の事件
「ホームズの回想」解説
「シルヴァ・ブレイズ」失踪事件

「ワトスン、僕は出かけなきゃならないらしいよ」
ある朝われわれが一緒に食卓についたとき、ホームズは言った。
「出かけるって! どこへ?」
「ダートムアへ……キングズ・パイランドだよ」
私は驚かなかった。実際、私は、この奇態な事件に、彼がまだ関係していなかったことが不思議に思えただけだった。イギリスじゅうでいたるところ、この事件の噂(うわさ)が話に出ないことはなかった。ひがな一日私の友は、うつむいたまま眉(まゆ)をしかめて部屋をうろつきまわるばかりで、いちばん強い黒タバコをつめかえ、つめかえ、どんな私の質問や言葉にも、まるで耳をかさなかった。各新聞の最新版が次々と取扱店から送られて来たが、ただざっと目を通しただけで、片隅にほうりなげてしまった。彼はだまってはいたが、じっと考えこんでいることがどんなことなのか、私にはわかっていた。今世間で、彼の分析力に挑戦しうる事件はただひとつ、ウェセクス杯レース人気馬の奇妙な失踪(しっそう)と、その調教師の悲惨な殺人事件がそれであった。だから、彼が突然に悲劇の現場へのりこんで行く意向をあきらかにしたのは、私が期待もし、望んでもいたことにすぎなかったのだ。
「邪魔にならないなら、君に同行したいもんだよ」と私は言った。
「ワトスン君、君が来てくれれば本当に助かるよ。それに僕は、君の時間を無駄(むだ)にさせることはないと思うよ。というのはね、この事件には、何か独特な事件になりそうな特徴があるんだ。ちょうどパディントン発の汽車に間に合うと思う。道みち、その事をもっと詳しく話そう。すまないが君のすばらしい双眼鏡をもって行ってくれないか」
そんなわけで、一時間ほど後には、エクセター〔イングランド南西部の都市〕に向かって進行中の一等車の片隅に私がいるという次第になったのである。
その間シャーロック・ホームズは耳たれの旅行帽子をかぶり、するどい熱心な顔で、パディントンで買ったひと束(たば)の最新版の新聞に、すばやくざっと目を通していた。レディングを過ぎてからかなりたって、彼は最後の新聞を座席の下になげこむと、私にタバコケースをさしだした。
「申し分なく走っているよ」と言い、車窓から外を見て、時計をちらとながめた。「今、時速五十三マイル半だ」
「僕は四分の一マイル標に気がつかなかったがね」私は言った。
「僕も気がつかなかったよ。しかしこの線の電柱は六十ヤード間隔だ。計算は簡単なことさ。君はジョン・ストレイカー殺しとシルヴァ・ブレイズの失踪という、この事件をもう調べてみたと思うが」
「テレグラフ紙とクロニクル紙がのせていることは見たよ」
「こいつはね、推理家の技術が、新しい証拠をつかむことよりも、細部を念入りに調べることに使われなくてはならないといった事件のひとつなんだよ。惨劇は非常に異例なものだし、完全だし、非常に多くの人たちに個人的な重大さをもっているのだから、おびただしい憶測(おくそく)やら仮説やらになやまされているんだ。むずかしいのは、さまざまな説をとなえる人間や、いろいろな情報をもちこんでくる人間の余計な言葉から、事実の……絶対的な、否定すべくもない事実の骨組をより分けていくことなんだ。この確固とした土台を踏まえてから、どんな結論がひきだせるか、事件全体がかかっているのは、どの点なのかを知るのがわれわれの仕事だね。火曜日の晩に、馬の所有者のロス大佐と事件を担当しているグレゴリー警部のふたりから、僕の協力を求める電報をうけとったよ」
「火曜日の晩だって!」私は大きな声を出した。「で、今日は木曜の朝にもなってるんだぜ。どうして昨日出かけなかったんだい」
「大失敗をやってしまったんだよ、ワトスン君、こんな失敗は、君の回想録でしか私を知っていない人が考えるより、ずっとありきたりのことなんだよ。実際はね、イギリスでもっとも有名な馬が長い間かくされたままでいられるはずがない、とくにダートムア北部のように人口の非常に希薄なところでは、と思ったのさ。昨日は、馬が見つかって、その誘拐者がジョン・ストレイカーの殺人犯人だという知らせがあるのを、今か今かと待っていたんだよ。しかし今朝になって、フィツロイ・シンプスン青年の逮捕以上になにも発展がないとわかってみると、僕は動き出す潮時(しおどき)だと思ったのだ。だが、ある点では昨日は無駄じゃなかったと思っているよ」
「見込みがついているんだね、それじゃ」
「少なくとも事件の根本的な事実はつかんでいるよ。並べあげて聞かせよう。他の人に話すほど事件をはっきりさせるものはないからね。もし僕たちがどこから手をつけたらよいのかいっておかなければ、君も協力しにくかろうからね」
私は煙草(たばこ)をくゆらしながら、クッションによりかかっていた。ホームズは身体を前にのりだして、急所急所で、長くて細い人差指で左手のたなごころをつつきながら、われわれが旅行する結果になった事件のあらましを伝えてくれた。
「シルヴァ・ブレイズはね」と彼は言った。「アイソノミイ系統の生まれでね。有名な彼の先祖と同じくらい輝かしい記録をもっているんだ。今、ちょうど五歳で、幸運な所有者であるロス大佐に、今まで次々と平場(ひらば)の賞金をもうけさせてきている。事件の起こったそのときまで、彼はウェセクス杯レース第一の人気馬だったのだ。賭金(かけきん)だって、ほかの馬と三対一だった。競馬界ではいつも人気第一の馬だったし、いままで人を失望させたことはなかった。だからどんなに勝ち目が少なくても、この馬に途方(とほう)もない金が賭けられたのだよ。そんなわけで、来週の火曜日発走のときにシルヴァ・ブレイズ号を出場不能にすれば、多くの人間がたしかに大きな利害関係をもってくるね。
このことはもちろんキングズ・パイランドでも十分考慮されていた。あそこには大佐のうまやがあるんだが、人気馬は手段をつくして守られていた。調教師のジョン・ストレイカーはもとは騎手なんだが、騎手として目方が重すぎるようになるまでは、ロス大佐の馬に乗っていたのだ。騎手として五年間、調教師として七年間大佐につくし、いつも熱心で正直な使用人だった。彼の下には若者が三人いてね。建物が小さいから馬は全部で四頭しかいなかった。毎晩若者のうちひとりがうまやに寝ずの番で、その間他のふたりは二階で寝ていたんだ。
三人ともいい人間でね。ジョン・ストレイカーには妻があり、うまやから二百ヤードほど離れた小さな家に住んでいた。子供はないし、小間使いの女をやとって快適な暮らしをしていた。周囲はとてもさびしいが、半マイルほど北には、病人やダートムアの清潔な空気を満喫したいと思う人々に貸すつもりで、タヴィストックの請負師(うけおいし)が建てたひと群れの別荘があるだけだ。そのタヴィストックも二マイル西にあり、一方、同じく荒地をこえて約二マイル向うにはケイプルトンの、ここよりは大きな調教場があり、バックウォーター卿の所有で、サイラス・ブラウンという男が管理している。あとはどの方向にも、まったく荒れはてた荒地がひろがり、ただ何人かの渡り鳥のジプシーが住んでいるだけだ。と、まあこんなのが、先週の月曜の夜の状況で、そのとき、惨劇が起こったのだ。
その夕方、常のごとくに馬は運動させられ、水があたえられ、九時にうまやは鍵(かぎ)がかけられた。二人の若者は調教師の家まで行って、台所で夕食をした。三人目のネッド・ハンターは残って見張りをしていた。九時五、六分すぎたころ、女中のイーディス・バクスターが彼の夕食をうまやに運んで行った。羊のカレー料理だったんだね。うまやには水道の蛇口(じゃぐち)がついているので、飲み物はなにも持って行かなかったし、それに勤務中はほかに何も飲んではいけない規則だった。ひどく暗い夜だったし、道は何もない荒地を通っているので、女中は角灯をさげて行った。
イーディス・バクスターがうまやから三十ヤードほどの所へ来たとき、暗闇の中から一人の男がぬっとあらわれて、彼女に、とまれ、と声をかけた。男が角灯の黄色い光りの輪の中に入って来たとき、彼女は男がグレイのツイードの服をきて、羅紗(ラシャ)のハンチングをかぶった紳士風の男だとわかった。彼はゲートルをつけ、握りのついた重いステッキをもっていた。だが、彼女がひどく印象づけられたのは、彼の顔が人並みはずれて青白いということと、態度がそわそわしていることであった。女中は、男の年が三十を越しているだろうとふんだ。
『ここはいったいどこなんでしょうね?』彼はたずねた。『もう荒地で寝てしまおうかと思っていたんですが、あなたのもっている光が見えたってわけなんですよ』
『キングズ・パイランドの調教場に近いところです』
『ああ、なるほどねえ。なんてまあ、運がいいんだろう』と彼は大声で言った。『馬番の若い衆は毎晩あそこに一人で寝るんでしたっけね。あなたが運んでるのは、その夕食なんですね。さてと、あなただって、新しい着物を作る金をもうけたいくらいは思うでしょうな』
彼はチョッキのポケットから折りたたんだ一枚の紙をとりだした。
『今晩こいつを馬番の若い衆に渡してくれませんか。そうすりゃあなたは、とびきりきれいな着物が買えるってことになる』
彼女は彼の態度が真剣なのにびっくりして、彼の横をかすめて逃げ、彼女が食事を手渡すことになっている窓の所へ行った。窓はすでに開いていた。ハンターは中の小さなテーブルに腰をおろしていた。彼女が今の出来事を話しだしたとき、その見知らぬ男がまた現われた。
『今晩は』と言って、彼は窓をのぞきこんだ。『君に少し話があるんだがね』
女中は、その男がしゃべっているとき、小さな紙片の端が、にぎりしめた手からはみだしていたといっている。
『ここになんの用があるのかい?』若者はたずねた。
『君のポケットがあたたかくなるような用事でさ』その男がいった。『ここにはウェセクス杯出場馬が二頭いるね? シルヴァ・ブレイズ号とベイアード号とさ。秘密な情報を教えてくれないか。決して損はしないぜ。ベイアードは重量からいって、シルヴァ・ブレイズを五ファロンで百ヤード〔約一ファロン〕もぬけるから、ここじゃベイアードに金をかけたというのはほんとうかね?』
『じゃ、てめえもあのけしからん予想屋のひとりなんだな!』若者は叫んだ。『キングス・パイランドじゃ、てめえのような奴を、どう扱うか見せてやる』
彼はさっと立ち上がって犬をはなそうと、うまやの中をかけ抜けた。女中は家へにげかえったが、走りながらふりむくと、その男がのぞきこんでいるのが見えた。けれど一分後に、ハンター青年が猟犬をつれてとびだして来たときにはいなくなっていた。彼はあちこちの建物の回りを走りまわったが、彼の綜跡(そうせき)は全然わからなかった。
「ちょっと待って!」私はたずねた。「馬番が犬をつれてとびだしたとき、ドアにカギをかけずにおいていたんだね」
「すごい、ワトスン君、すごいよ」友がつぶやいた。「その点が非常に重要だと僕も考えたので、そのことをはっきりさせておこうと、昨日ダートムアへ特別電報をうったのだよ。若者は、出る時には鍵をかけておいたのだ。窓といったところで、大の男がくぐりぬけられるほどには大きくなかった。ハンターは同僚が帰って来るのを待っていた。調教師の所へ伝言をやり、起こったことを知らせた。
ストレイカーは話をきいて興奮したが、その真の意味は、ほんとうにはわかっていないようだった。だがそれは彼をなんとなく不安にした。そしてストレイカー夫人が午前一時に目をさましたとき、彼が服をきこんでいるのを見た。彼女の問いに答えて、馬のことが心配で眠れないから、万事が無事かどうかを見に、うまやに行ってくるつもりだと言った。彼女は、雨の窓をたたく音が聞えるから家にいてくれとたのんだけれども、彼は大きな防水外套(ぼうすいがいとう)を着こんで出かけて行った。
ストレイカー夫人は、翌朝七時に目をさましたが、夫がまだもどって来ていないのを発見した。彼女は急いで着物をきて、女中を呼び、うまやに出かけた。
ドアは開いていて、中ではハンターが椅子にぐったりとまったく人事不省(じんじふせい)の状態におちこんでいたし、人気馬の所はもぬけのからで調教師の影も見えなかった。
馬具置場の二階のまぐさ切り場に寝ていた二人の若者はすぐに起こされた。彼らは、夜じゅう、何の物音もきかなかった。ふたりとも、ぐっすりねむるほうだったからね。ハンターはたしか、何か強力な薬をのまされたらしかった。そして正体もなく眠りこけているので、薬がさめるまでそのままにしておき、その間に二人の若者と二人の女は、失踪した調教師と馬とをさがしてかけだして行った。彼らはなおも、調教師が何かの理由で、馬を朝の運動に連れだしたのならよいがと思っていた。
だが、家の近くにある丘にのぼると、そこから付近一帯の荒地が見わたせたが、シルヴァ・ブレイズの影も形もみえなかったばかりか、彼らに何か悲劇が起こったのだと予感させるものがあった。
うまやから四分の一マイルほどの所に、ジョン・ストレイカーのオーバーが、ハリエニシダの茂みにかかっていた。そのすぐ向こうに椀型(わんがた)のくぼみがあり、くぼみの底に不幸な調教師の死体が発見された。彼の頭は、何か重い鈍器でめった打ちにされて砕かれ、腿(もも)には、たしかに何か非常に鋭利な刃物できられた、長いあざやかな傷があった。
しかし明らかにストレイカーは、加害者に対して激しく抵抗したらしい。彼は右手にナイフをにぎりしめ、その握りまで血がこびりついていたし、左手には、赤と白の絹ネクタイをにぎっていた。そいつは女中によって、前の晩うまやにやって来た見知らぬ男がしていたものとわかったがね。
麻痺(まひ)状態から回復したハンターも、ネクタイの所有者については、女中と同様に断言した。彼はまた、その男が窓の所に立っていたとき、羊のカレー料理に薬を入れ、自分を眠らせてしまったのだと言った。いなくなった馬については、運命のくぼみの底の、粘土(ねんど)にたくさんの足跡があったので、格闘の最中、馬がそこにいたことが判明した。しかしその朝からかいもく姿は見えない。莫大(ばくだい)な賞金がかけられ、ダートムアのジプシー全部が目を光らせているにもかかわらず、今もって何の知らせもないんだ。ついに分析の結果、うまや番の若者が食べのこした夕食にはアヘン粉末が、かなり多量に混入されていることがわかった。でも他の人たちが同じものを食べても何のさわりもなかったのだがね。こんなところが、まったく推理を加えずに、できるだけありのままに述べた事件のあらましだ。今度は警察のやったことを要点だけ言ってみよう。
この事件を担当しているグレゴリー警部はとても老練な人で、彼に想像力さえそなわっていたら、この道で非常に出世できると思う。現場へ到着するとすぐに、当然嫌疑(けんぎ)のかかるあのフィツロイ・シンプスンという男をみつけだして検挙した。
彼をさがしだすには少しも困難はなかった。というのは、あの男は近所ではとても名が通っていたからね。彼は家柄もよく教育もある男なんだが、競馬で財産をすってしまい、今はロンドンのスポーツクラブで、あまり目立たぬ、ささやかな賭けの元締(もとじめ)をやって暮らしを立てている。彼の賭け金帳を調べたら、シルヴァ・ブレイスの対抗馬に総額五千ポンドをかけているのがわかった。
検挙されたとき、彼はキングズ・パイランドの馬や、ケイプルトンでサイラス・ブラウンが管理している第二の人気馬デズブラについて何か情報を手に入れたくて、ダートムアへ出むいたと自供した。すでに話したような前の晩の行動については否認しようともしなかったが、よこしまな計画をしていたわけではなく、ただ、たしかな情報を得たいと思っていただけだ、と断言した。ネクタイをつきつけられて真っ青になり、なぜ被害者の手にそれがあったか、ということは全然説明できなかった。服がぬれていたので、彼が前夜嵐(あらし)のときに、野外にいたということがわかった。それに彼のステッキがピナン産の棕櫚(しゅろ)で、鉛(なまり)を入れて重みがつけてあり、何度もなぐれば、ちょうど調教師を殺したおそろしい傷をあたえるのにぴったりした凶器だった。
一方、ストレイカーのナイフの状態では、少なくとも加害者のひとりは傷をおっていなければならないはずだが、彼の身体には全然傷がなかった。さて、ざっとわかったろう、ワトスン君。何か意見を言ってくれれば、たいへんありがたいんだがね」
私は、ホームズが、彼独特の明快さで聞かしてくれた話に、非常な興味をもって聞いていた。
大部分の事は、すでに私も知ってはいたが、どれがどれだけ重大なのか、相互にどう関連しあってるのか、よくわからなかった。
「ストレイカーの腿(もも)の傷は、頭をやられた後、発作的にもがいたのが原因じゃないだろうか?」と私は言ってみた。
「たしかに、そうにも思えるんだ。ありそうなことなんだ」とホームズは言った。「そうなると被告にとっては大きな反証がひとつ消えるんだ」
「だがね」と私は言った。「今になっても僕には、警察がどんなふうに考えてるんだか、わからないんだがね」
「われわれがどんな意見をのべようと、警察の意見とはずいぶん違ってるよ」と友は答えた。「警察じゃ、フィツロイ・シンプスンがほんとうにシルヴァ・ブレイズをかっぱらうつもりで若者に一服(いっぷく)もり、どうにかして合鍵を手に入れて、うまやの戸をあけた、と考えているだろうさ。シルヴァ・ブレイズの馬勒(ばろく)がないんだ。だからシンプスンが馬につけたにちがいない。それから戸をあけたままで出て、荒地を通って馬をひっぱって行った。その途中調教師にばったり出あったか、追いつかれたかしたんだ。当然格闘が始まる。シンプスンは重いステッキで、調教師の頭をガンとやったが、ストレイカーが自己防衛に使った小さなナイフでは、少しも傷をうけなかった。馬は泥棒(どろぼう)がどこか秘密のかくれ家にひいて行ったか、あるいは格闘の最中に逃げて荒地にさまよい出ているか。こんなのが、警察で考えていることだろうな。そいつは本当とは思えないんだが、他のどんな解釈でももっと不自然さ。しかし僕は現場へ行ったら、すぐに調べてみるよ。だからそれまではわれわれが現在の段階よりさらに進めるかどうかは、実際わからないね」
われわれがタヴィストックの小さな町についたときには、すでに夜であった。その町は楯(たて)の中央の浮き彫りのように、広大な円型をなしているダートムア地方の真ん中に立っていた。
ふたりの紳士がわれわれを待っていた。ひとりは背の高い獅子(しし)のような頭髪とあごひげのある、するどく人を射すくめるような青色の目の、風采(ふうさい)のよい男で、も一人は小柄な敏捷(びんしょう)そうな男で、フロックコートにゲートルをつけた、こざっぱりとした服装をして、手入れのゆきとどいた、小さなほおひげをはやし、一眼鏡(いちがんきょう)をかけていた。この人が有名なスポーツマンのロス大佐であり、前者が急速にイギリス警察界でのして来ているグレゴリー警部であった。
「わざわざご出張くださって、ありがとう存じます、ホームズさん」と大佐は言った。「当地では警部さんに、可能と考えられるかぎりのことは全部やっていただきましたが、私は草の根をわけても、かわいそうなストレイカーの仇(あだ)をとってやり、私の馬も見つけだしたいと思っております」
「何か新事実がありましたか?」とホームズはたずねた。
「残念ですが、少しも進んでいないのですよ」と警部が言った。
「外に馬車が待たせてあります。日没前に現場をご覧になりたいでしょうから、行きながらでもお話できるでしょう」
一分後には、私たちはみな快適な馬車に乗りこんで、古びたデヴォンシャーの町のなかを走っていた。グレゴリー警部は事件で頭がいっぱいで、たえまなくしゃべりつづけていた。その間ホームズは、ときどき質問したり合づちをうったりしていた。
私はふたりの探偵の言葉のやりとりに興味をひかれて耳をかたむけていたが、ロス大佐は帽子を目深(まぶか)にかぶってじっと腕組みをしていた。グレゴリー警部は、彼の意見を系統だててしゃべっていたが、それはホームズが汽車の中で言ったことと、ほとんど変わりはなかった。
「フィツロイ・シンプスンは十重二十重(とえはたえ)に証拠でかためられています」と彼は言った。「ですから私は、彼が犯人だと信じています。しかし、これまでのところすべては情況証拠ですから、何か新しい事実が判明すれば、すぐにもくつがえる可能性はありますがね」
「ストレイカーのナイフについてはどうですか?」
「私どもは彼が倒れるとき、自分で傷つけたのだという結論に達しています」
「私の友人のワトスン君も、来る途中で同じ意見を言ってましたよ。もしそうだとしたら、このシンプスンという男には不利になるわけですね」
「その通りです。彼はナイフも持っていないし、少しも傷跡がない。彼に不利な証拠は非常に強力です。彼はシルヴァ・ブレイズの失踪には非常な利害関係を持っていた。うまや番に一服もったと疑われている。たしかに嵐のとき外に出ていたし、重いステッキをたずさえていた。彼のネクタイが死体の手の中に発見された。私はすぐに裁判にしてもよいと思いますよ、これじゃあね」
ホームズは首をふった。「賢明な弁護士なら、そんなことは全部粉砕(ふんさい)してしまうだろうよ」と彼は言った。
「なぜ彼はうまやから馬をつれださなければならなかったか? もし彼が馬をきずつけるつもりだったら、なぜ彼はその場でやらなかったのだろう? 彼の持物の中から合鍵が見つけだせたか? どこの薬局が彼に粉末アヘンを売ったか? とりわけ、この地方に不案内の彼が、どこに馬をかくせたか? こんな有名な馬をね。彼がうまや番の若者にわたしてくれと女中に頼んだ紙片に関して、彼は何と説明していますか?」
「十ポンドの紙幣だと言っています。それは彼の財布にありましたよ。あなたのあげた異議は、考えるほど強力ではないですよ。彼は土地不案内じゃないんです。彼は夏に二度もタヴィストックに泊っていたことがあります。アヘンはおそらくロンドンから持ちこんだものでしょうし、鍵は目的を果たしてから捨てられてしまったと思われます。馬はたぶん、荒地のくぼみか廃坑(はいこう)の中で殺されているかもしれませんね」
「ネクタイについては何と言っています?」
「自分のだとは認めていますが、なくしたのだと言いはっています。しかし、新しい事実があらわれましてね。それで彼が馬をひきだした説明がつくと思いますよ」
ホームズは聞き耳をたてた。
「月曜日の晩に、殺人が行われた所から一マイルと離れていない所に、ひと群れのジプシーがキャンプをした跡が見つかったのですよ。火曜日の晩には彼らは立ち去ってしまいました。さて、シンプスンとこのジプシーたちの間に何か了解がついていたと考えると、彼がジプシーたちの所へ馬をつれて行こうとしていたとき追いつかれた。だから今ジプシーたちが馬をつれているとは思えないでしょうか?」
「たしかにそうかもしれませんね」
「いま荒地中そのジプシーたちをさがしまわっていますよ。私もタヴィストックやぐるり十マイルの間のうまやといううまや、納屋という納屋は全部調べてまわりました」
「すぐ近くに、もう一つの調教場がありましたね?」
「ええ、そいつも見のがせないものなんですよ。その馬の名はデズブラといいますが、そいつは賭金が二番目に多いのです。だからそこの連中は、シルヴァ・ブレイズが失踪すれば利益があるわけですよ。調教師のサイラス・ブラウンは今度の勝負に莫大(ばくだい)な金をかけたそうですし、あの気の毒なストレイカーとは、決して仲がよくなかったのですよ。しかし、われわれは彼のうまやをしらべてみましたが、この事件に関係しているようなものは何もないのです」
「それで、このシンプスンという男が、ケイプルトンのうまやの利害と関係していることも全然ないのですか?」
「全然ないのです」
ホームズは座席の後ろにもたれかかり、話しはとぎれてしまった。数分後、車は軒のつきでた、赤煉瓦(れんが)の別荘風なつくりの、こざっぱりとした家についた。家は道路そばにあり、調教場をこして少し向こうに灰色の瓦(かわら)でふいた納屋があった。あとはどの方向にも、枯れた羊歯(しだ)でおおわれて、青銅色をした低いなだらかな荒地が、地平線のかなたまでひろがり、さえぎるものはただタヴィストックの町の尖塔(せんとう)と、はるか西の方に見える一群の人家だけであり、それがケイプルトンのうまやだということであった。
突然われわれはホームズがいないのにびっくりした。当の彼は、目前の大空にじっと目をすえて、席の背にもたれかかり、まったく思索(しさく)に没頭していた。私が腕にさわったのでぎくりとし、やっと身をおこして車からおりた。
「失礼いたしました」と彼はロス大佐に言った。大佐はちょっとびっくりしたようすで、彼をまじまじと見つめていたのであった。
白昼夢(はくちゅうむ)をみていましてね」
彼の両眼にはあるひらめきがあり、態度には興奮をおしころしているところがあった。私は彼の癖(くせ)にはなれていたので、そんなことから彼がどこで見出したかは想像もつかないが、とにかく解決の糸口をつかんだのだと確信した。
「ホームズさん、犯行の現場へいらっしゃるでしょうね?」とグレゴリー警部がたずねた。
「ちょっとここにいて、こまかいことをひとつふたつ、おたずねしたいと思っています。ストレイカーの死体はここに運ばれて来たんでしょうね?」
「ええ、そうしましたよ。二階に置いてあります。検屍(けんし)は明日になっています」
「永い間、あなたの所でつとめていたんでしたね、ロス大佐」
「ええ、いつも良く働いてくれた人間でした」
「ねえ警部、あなたは彼が死んだとき身につけていたものの目録はお作りになったでしょうね」
「もしご覧になりたいのでしたら、品物はまとめて居間においてありますよ」
「ぜひ拝見させて下さい」
私たちはみな、つぎつぎと、表に面した部屋に入り、真ん中のテーブルをかこんですわると、すぐに、警部は四角な錫(すず)の箱のカギをはずして、いろいろなものを私たちの前へならべて見せた。
マッチ箱や、二インチほどの脂(あぶら)ローソクや、A・D・P印のブライアーのパイプや、半オンスほどのきざみのながいキァヴァンディッシュ煙草を入れたあざらし皮の袋、金鎖(きんぐさり)つきの銀時計や、金貨五ソヴリン、アルミニウムの鉛筆入れ、四、五枚の紙片、「ロンドン・ヴァイス社製」と印のついた、非常に精密だが、しなわない刃をつけた象牙柄(つか)のナイフなどであった。
「これはとても珍しいナイフだ」とホームズはそれを持ちあげて、ちょっと調べてから言った。「血痕がついているところを見ると、死体が握っていたナイフなんですね、ワトスン君、このナイフはたしかに、君の専門の方だよ」
「そいつはわれわれ医者が白内障(しろそこひ)メスといってるやつだ」と私は言った。
「そう思ったよ。非常に精密な刃は、こまかい仕事のためにつくられているんだ。荒っぽい仕事に出かける人間にはおかしな物だね。とくにポケットにしまってなかったというのは」
「刃には丸いコルク盤をつけて保護してありましたよ。私たちが死体のそばで発見したんですが」と警部は言った。「ストレイカーの妻はそのナイフは数日間、化粧台の上においてあり、彼が部屋を出て行くとき持って行った、と言っています。貧弱な武器ですが、おそらくそのとき、手にしうる武器としては最上だったのでしょう」
「おそらくそんなことでしょう。この紙についてはどうですか?」
「三枚は乾草商人の勘定書。一枚はロス大佐からの命令の手紙。この一枚はボンド・ストリートの服飾店主ルスリエ夫人が、ウィリアム・ダーヴィシャーあてに出した、三十七ポンド十五シリングの勘定書。ストレイカー夫人は、このダーヴィシャーという男はストレイカーの友人で、ときどきここへダーヴィシャーにあてた手紙が来たという話をしていました」
「ダーヴィシャーという男のご夫人は、なかなかぜいたく好みな人なんだな」とホームズは勘定書を見ながら言った。「二十二ギニーという値段は、服一着にしてはちょっと高いね。さて、もう見るものもなさそうですね。じゃ、これから犯行の現場へ行ってみましょうか」
われわれが居間から出て来たとき、廊下で待っていたひとりの女が進みでて警部の袖口(そでぐち)をとらえた。顔はやつれてやせこけており、面上に最近うけた恐怖の表情をそのままに、真剣な表情をうかべていた。
「犯人はつかまりましたか? みつかりましたでしょうか?」と彼女は口早やに言った。
「まだですよ奥さん。でもここにいらっしゃるホームズ氏が、私たちを助けにロンドンから来て下さいましたから、できるかぎりのことはいたしましょう」
「奥さん。たしか、しばらく前にプリマスの園遊会でおめにかかりましたね?」とホームズは言った。
「いいえ、人ちがいですわ」
「おやおや! いいえ、たしかにあなたでしたよ。あのときあなたは鳩色の絹の服に、ダチョウの羽根かざりをつけていらしたじゃありませんか」
「私そんな服、持っていませんわ」
「ああ、それでわかりました」
彼はわびを言ってから、警部について外に出た。荒地をしばらく歩いて、われわれは死体の発見されたくぼみへ到着した。ふちにはハリエニシダの薮(やぶ)が茂り、その上にストレイカーのオーバーがひっかかっていたのだった。
「たしかあの晩、風はなかったですね?」とホームズはたずねた。
「ええ、だがひどい大雨でしたよ」
「それじゃオーバーは、ハリエニシダの薮にとばされたのではなく、かけておいたのですね?」
「ええ、そうです。上においてありましたよ」
「これはおもしろいことになった。土がひどく踏みつけられていますが、犯行当夜以来、たくさんの人間がここを踏んでるわけでしょうな」
「むしろ一枚ここの横の所にしいて、みんなその上に立つようにしてきたのです」
「それはいい」
「ストレイカーのはいた長靴と、フィツロイ・シンプスンの靴と、シルヴァ・ブレイズの落した馬蹄(ばてい)を片方ずつカバンに入れて持って来ましたよ」
「グレゴリー警部、そいつはすばらしい!」
ホームズはカバンを受け取って、くぼみの底におりると、むしろをもっと中央の方へおしやり、はらばいになって、あごに両手をあてて、目の前のふみつけられて固くなった泥を克明に調べはじめた。
「おや! これは何だ?」彼は突然に言った。それは燃えさしの蝋(ろう)マッチであった。しかしひどく泥にまみれていたので、最初は木の切れはしのように見えた。
「どうして見おとしたんだろうな?」と警部はまごついたような表情を浮かべた。
「わからないはずですよ。泥にうまっていたんですから。私はさがしていたから見つかっただけですよ」
「なんとおっしゃる! じゃ、あなたは見つかるはずだと思っていたのですか?」
「ありそうなものだと思っていたのですよ」彼はカバンから靴をとりだして、靴底と、土についた足跡とをひとつひとつくらべてみた。それがすむと、くぼみのへりまで登って来て、羊歯と茂みの中を、あちこちがさがさとはってまわった。
「それ以上手掛りはないんじゃないですか」と警部は言った。「ぐるり百ヤードは綿密にしらべてみたんですよ」
「なるほど」とホームズはおきあがって言った。「あなたがそうおっしゃる以上、私がまた調べるのも無作法でしょう。だが私は、日が暮れる前に荒地をちょっと散歩してみたいんですよ。明日調べるのにここがよくわかっているようにね。それから幸運が向くように、この馬蹄はポケットに入れて行きましょう」
ロス大佐は、私の友の落ちついた組織的な仕事の進め方に、少々いらいらしたようすをみせていたが、そのとき、時計をみて口をはさんだ。
「警部さん、あなたは私と一緒に帰宅していただけないでしょうか。二、三の点で、あなたのお知恵を拝借させていただきたいことがありますので。とくに、ウェセクス杯レースの名簿からシルヴァ・ブレイズの名を除くと公表しなくてもよいかどうかについて」
「もちろんしなくてもいいですとも」とホームズは、きっぱりと言った。「私は名前をのせておいたほうがいいと思いますね」
大佐は頭をさげた。「あなたのご意見をうかがえまして、たいへんうれしく存じます。私たちはストレイカーの家におりますから、ご散歩が終りましたら、いらっしゃって下さい。それからタヴィストックまでご同乗いたしましょう」
彼は警部と一緒に帰って行き、ホームズと私は荒地をゆっくりとあるいた。太陽はケイプルトン厩舎(きゅうしゃ)のかなたに沈みかけはじめていた。そして眼前の長くなだらかな野原は金色に染まり、枯れた羊歯(しだ)やいばらのある所は、夕暮の光を受けて茶色にと、色が深くなって行った。だがこの景色の壮麗さも、私の友には何の興味もひかなかった。友は深い物思いに沈んでいた。
「こんなふうだと思うんだ、ワトスン君」とうとう彼が口をきいた。
「しばらくはジョン・ストレイカーの殺人犯の問題をそのままにしておいて、馬がどうなっているか解決することに専念できると思う。さて、あいつが惨劇中かその後に逃げだしたとすると、どこへ逃げただろうかね? 馬というやつは非常に群居性の強い動物だ。もしほうりっぱなしにしておかれたら、彼は本能的にキングス・パイランドに帰ったか、ケイプルトンに行ったかしているはずだ。どうして荒地を無茶苦茶につっぱしったりするものか。そうすりゃすぐ人目についたに違いない。それに、どうしてジプシーがシルヴァ・ブレイズを誘拐しなきゃならないだろう? こういう連中は事件の噂でも聞こうものなら、さっさと立ちのいてしまうんだ。警察につきまとわれたくないからね。連中があんな有名な馬を売りたがるはずがないんだ。連中がシルヴァ・ブレイズを手に入れたって、危ない橋をわたるだけで得るところは何もないんだ。明瞭なことだよ」
「じゃ、馬はどこにいるんだろうね?」
「もう言ったろう。キングズ・パイランドかケイプルトンへ行ったにちがいないって。キングズ・パイランドにはいないんだから、ケイプルトンにいるのさ。それを基礎的仮説としてみて、それがどんな結果になるか、みてみようじゃないか。グレゴリー警部が言ったように、荒地でもこのあたりは非常に地盤が固くて乾燥している。しかし、ここからはケイプルトンに回って下り坂になっているから、ほら、ずっと向こうに長いくぼみがあるのが見えるだろう、あれは月曜の晩には、とても水が多かったにちがいない。もし僕の考えが正しければ、あの馬はあそこを渡ったのだ。だからあそこで足跡を調べてみなくちゃね」
こんな会話を続けながらわれわれは足早に歩いていたが、なお数分も歩いてから、問題のくぼみにたどりついた。ホームズの求めるままに私はそのへりを右にあゆみ、彼は左へと歩いて行った。だが五十歩と歩かないうちに、彼は大声で叫び、私に向かって手を振った。馬の足跡が、彼の前のやわらかい土に、はっきりと印されていた。その足跡は、彼がポケットからとりだした馬蹄とぴったり符合した。
「想像力の価値はごらんのとおりだ。グレゴリーに欠けているものの一つは、この才能なんだよ。われわれは起こったかもしれぬことを想像し、その仮定にもとづいて行動した。それでわれわれが正しいということがわかった。さあ前進しよう」
われわれは、じめじめした底部を横断し、四分の一マイルの乾いて固い芝地を通りこえた。すると、またもや土地は傾斜して、われわれは再び足跡を見いだした。それから半マイルほどまた見失われたが、再びすぐに、ケイプルトン厩舎(きゅうしゃ)のごく間近(まぢか)で発見したのであった。それを最初に見つけだしたのはホームズであった。彼は得意そうな表情を顔にうかべながら、立ったままそれを指さした。人間の足跡が馬の足跡のそばに見られたのだ。
「前には馬だけだったじゃないか!」と私は叫んだ。
「そうなんだ。初めは馬だけだったのだ。ねえ、おい! これはどんなわけなんだい?」
二重の足跡は、急に向きをかえて、キングズ・パイランドの方に向かっていた。われわれは足跡に従ってあるいていたが、ホームズは口笛をふいていた。彼は足跡から目をはなさなかったが、私がたまたま、ちょっとわき目をそらしたとき、おどろいたことには、同じ足跡が逆にもどって来ているのを発見した。
「でかした! ワトスン君」と私がそれを指さすと、ホームズが言った。「おかげでずいぶん無駄足をせずにすんだよ。ひっかえさなきゃならなかっただろうからね。もどってる方の足跡について行こうじゃないか」
たいして歩く必要もなく、足跡はアスファルト道路でつきていた。そして道路はケイプルトン厩舎の門に通じていた。われわれが近づいて行くと、ひとりの馬丁がとびだして来た。
「ここらへんをうろついてもらいたくないね」と彼は言った。
「なに、ひとつ聞きたいことがあるだけなんだよ」とホームズはチョッキのポケットに指を二本かけながら、「あしたの朝五時に、君の親方のサイラス・ブラウン氏を訪ねるとなると、はやすぎてだめかね?」
「あれあれ、あんた! だれだって会うつもりなら会えますさ。あの仁(じん)はいつだって、一番の朝おきだからね。だが、ほれ旦那が出て来ましたよ。あの人にじかにおききになりなせえ。いいや、だめですだ、旦那。あんたから金をうけとったりなんぞしたのを見られたら、くびですだ」
シャーロック・ホームズが、ポケットからとりだした半クラウン銀貨を、またポケットにもどしたとき、きつい顔をした年配の男が、手にした狩猟用のむちを振りながら、門から大股に出て来た。
「どうしたんだ、ダウスン?」と彼は叫んだ。「おしゃべりしてるんじゃない。仕事にとりかかれ! それから、おまえさん……いったい全体、ここに何の用事かね?」
「ああ、あなたと十分ばかり話がしたいんですが」
「おれはぶらぶらしてる奴と、いちいち話をしてるひまはねえんだ。知らねえ人間は、ここに来てもらいたくないね。行きな。さもなきゃ犬をけしかけるぜ」
ホームズは前こごみになって、調教師の耳に何事かささやいた。調教師は、ぎょっと身をすさらせ、こめかみまで真っ赤になった。
「うそだ! 途方もねえ大うそだ!」と彼はわめきたてた。
「それじゃよろしい。じゃ、ここで大っぴらに話をしましょうか? それともあなたの所の客間で話しましょうかね」
「いやいや、よろしかったら入って来て下さい」
ホームズは微笑した。
「五分と手間はかからないよ、ワトスン君。さて、ブラウンさん、あなたのお申し出どおりにいたしましょう」
しかし、たっぷり二十分くらいはかかったのである。そしてホームズと調教師が出て来たときには、真っ赤な夕焼けが鉛色に変わってしまっていた。私は、かくも短い間にサイラス・ブラウンの顔にあらわれたような変化を今までにみたことがなかった。顔の色は灰のように白くなり、あせのしずくが額に光っていた。彼の手はぶるぶるとふるえ、手にした狩猟用むちといったら、風にゆれる小枝のようであった。彼の恫喝(どうかつ)的な威圧的な態度も、やはりあとかたもなく、主人につき従う犬のようにすくみあがって、わが友のかたわらに立っていた。
「ご命令どおりにいたしましょう。その通りにいたしますから」と彼は言った。
「まちがいはありますまいね?」とホームズは彼をじろりとながめた。調教師はホームズの目に脅迫的なものを見てとってひるんだ。
「もちろんですとも。まちがいなくそういたしますとも。必ずつれて行きますよ。最初から変えておきましょうか? そうでないほうがいいですか?」
ホームズはちょっと考えていたが、すぐに大声で笑いだした。
「いや、そうしないほうがいい。私はそのことで手紙をかいてやるよ。もう何もごまかすなよ。もしごまかしでもしたら……」
「いいえ! もう絶対にいたしませんとも」
「君は当日、シルヴァ・ブレイズを自分のもののように面倒をみてくれなければいけないよ」
「どうぞ、私を信用して下さい」
「うん、信用しているよ。よろしい。では明日知らせるからね」
調教師がふるえながらさしだす手には目もくれずに、くびすをかえして、われわれはキングズ・パイランドに向けて帰途についた。
「サイラス・ブラウン親方ぐらい、いばりやで卑怯で、ずるい男にあったことはないね」
ふたりならんで、てくてく歩きなからホームズが言った。
「それじゃ、シルヴァ・ブレイズがいたんだね?」
「彼はそのことをおどしでごまかそうとしたんだ。だが僕が、その朝彼のとった行動を、そのとおりに言って見せたものだから、私が見ていたと信じこんだわけだ。もちろん君も足跡が妙に四角になっている爪先(つまさき)で、またそれが彼の長ぐつとぴったり合うのにも気がついていただろう。それにまた、使用人ならだれだって、そんな大それたことは、やる気にならなかったろうからね。私は、彼が習慣どおり一番はじめに起きだして来たとき、見なれぬ馬が荒地をうろうろしているのを見て、とひだして馬の方へ行った模様や、シルヴァ・ブレイズという名の由来であるその白い額から、それが、彼が金をかけている馬を破りうる唯一の馬であり、その馬がたまたま彼の意のままになるチャンスにめぐまれたおどろきようを話してやった。次に、彼がとっさにはシルヴァ・ブレイズをキングズ・パイランドにひいて行こうとしたが、レースが終るまで馬をかくしておけるじゃないかという悪心がめばえ、またひきかえして、うまやにかくしたことを話してやった。私が細かいところをひとつひとつ説明したら、彼も観念して、わが身大事と考えるようになったのさ」
「しかし、彼のうまやは調査ずみだったぜ」
「ああ、そのことなら、彼のようなしたたかな調教師には、いろいろ策はあるのさ」
「だがね。彼はシルヴァ・ブレイズを傷物にすればどうしたって得をするんだから、現在彼の手にゆだねておくのは不安じゃないかい?」
「いやいや君、彼は目に入れてもいたくないほど大事に扱うよ。彼もシルヴァ・ブレイズを無きずのままにしておくことだけが、罪をのがれる望みだぐらいは知ってるよ」
「ロス大佐はどんなときでも、大して慈悲(じひ)心なぞ持ちあわせているような人間には見えないがね」
「事はロス大佐の気持如何(いかん)じゃないさ。僕は僕流にやる。だから自分のお好み次第にしゃべるよ。そこは官吏でないおかげだね。ワトスン君、君はどうとったか知らないが、ロス大佐の態度は少しばかり僕に対して横柄(おうへい)だったよ。今度は彼の金で少し楽しんでみたいよ。シルヴァ・ブレイズのことは何もしゃべらないでくれたまえ」
「うん。君がいいというまで絶対に言わないよ」
「それからね、もちろんこいつは、ジョン・ストレイカーの殺人犯の問題にくらべたら、ごくつまらない事件だ」
「じゃ君は、そっちに専念するんだね?」
「その反対さ。われわれは夜汽車でロンドンへ帰るのさ」
私は友の言葉に仰天(ぎょうてん)してしまった。われわれはわずか数時間デヴォンシャーにいただけなのだ。それに、彼がかくも華々しく開始した調査をやめてしまうというのは、私にはまったく不可解であった。調教師の家に帰りつくまで、友はそれ以上、一言半句(いちごんはんく)もしゃべらなかった。大佐とグレゴリー警部は、客間で私たちを待っていた。
「われわれは、夜行でロンドンへ帰りますよ。美しいダートムアの空気を、しばらくですが、きもちよく楽しませていただきました」
警部は目を見はり、大佐はあざ笑うように口をゆがめた。
「それでは、あなたはかわいそうなストレイカーの殺人犯逮捕に、[さじ]をなげられたのですな」と彼は言った。ホームズは肩をすくめた。
「たしかに重大な困難が横たわっていますね。しかし来週火曜日に、あなたの馬が発走できることは、大体大丈夫でしょう。ですから騎手を支度させておいて下さるように。ストレイカー氏の写真をいただきたいのですが」
警部はポケットの封筒から、二枚の写真をとりだして彼に手渡した。
「グレゴリーさん。あなたは私のほしいものを、いつでも用意しておいてくれますね。ちょっとここで待っていてくれませんか。私は女中にたずねたいことがあるんですが」
「私はロンドンから来てもらった探偵には、いささかがっかりしてしまったね」
大佐は私の友が部屋から出て行ったとき、無愛想に言った。
「彼がやって来たときから事態が少しでも進展したとは思えないじゃないか」
「少なくともあなたは、シルヴァ・ブレイズが出場するだろうという保証を得たじゃありませんか」と私は言った。
「ええ、保証は得ましたがね」と大佐は肩をすくめながら言った。「私には馬がもどって来たほうがよいのですよ」
私が友の弁護に何か答えようとした、ちょうどそのとき、彼がすぐにもどって来た。
「さて皆さん、いつでもタヴィストックにお伴(とも)いたしますよ」
われわれが馬車に乗ろうとしたとき、うまや番の若者が車のドアをあけてくれた。突然ホームズは何事か思いついたらしく、身をかがめて若者のそでに手をかけた。
「調教場のすみに羊を飼っていますね。誰が面倒をみるんですか?」
「私がやりますよ、旦那」
「最近、羊がどこか具合が悪いのに気がつかなかった?」
「はあ、大したことじゃないんですが、三匹がびっこになりましてね」
私には、ホームズが非常に満足したのがわかった。彼はちょっと笑って、両手をこすり合わせていた。
「あやふやな推量だよ、ワトスン君。かなりあやふやな推量だったがね、これは!」
彼は私の腕をにぎって言った。
「グレゴリーさん、羊どものこのおかしな伝染病に注意して下さいよ。さ、行ってくれ、馭者(ぎょしゃ)君」
ロス大佐は、なおも私の友の才能をみくびっている表情をうかべていたが、私には警部の顔つきから、彼が強く注意をひかされたのがわかった。
「あなたは、それが重大だとお考えになりますか?」
「ええ、非常に重大だと思いますね」
「ほかに私が注意をむけた方がよいと思う点はございませんか?」
「当夜の犬のおかしな動きについてね」
「当夜、犬はなにもしませんでしたがね」
「それがおかしなことなんですよ」
それから四日後、ホームズと私は、ウェセクス杯レースを見るべく、再びウィンチェスター行の列車の人となった。ロス大佐は打ち合わせどおりに、駅の外でわれわれと一緒になり、われわれは彼の馬車で、町はずれの競馬場へと向かった。大佐はむずかしい顔つきをして、態度はひどく冷淡であった。
「私の馬の気配もありませんね」と彼は言った。
「馬をごらんになれば、シルヴァ・ブレイズだとおわかりになると思いますが?」とホームズは言った。大佐は色をなした。
「私は二十年も競馬場に出入りしてますが、そんな質問をうけたおぼえはありません。西も東もわからない子供だって、白い額と前脚の総まだらをみればシルヴァ・ブレイズとわかるでしょう」
賭(かけ)の方はどうなんですか?」
「ええ、そこがおかしいんですが……昨日なら十五対一にもなったでしょうが、差がますますなくなって、今じゃ三対一でもやっとのところです」
「ふーむ。だれかが何か、かぎつけたな。たしかにそうだ」
馬車が大観覧席のそばの構内にとまったとき、私は出場馬掲示表をちらっとみた。それは次のように書かれていた。


ウェセクス杯レース
各出場馬、金五十ソヴリンのステークス。出場権利四歳および五歳馬。一着には千ソヴリン付加賞。二着三百ポンド。三着二百ポンド。新コース〔一マイル五ファロン〕

一 ヒース・ニュートン氏 ニグロ号(赤帽、肉桂衣)
二 ウォードロー大佐 ピュージリスト号(紅帽、青黒衣)
三 バックウォーター卿 デズブラ号(黄帽、黄袖)
四 ロス大佐 シルヴァ・ブレイズ号(黒帽、赤衣)
五 バルモラル公 アイリス号(黄黒縞)
六 シングルフォード卿 ラスパー号(紫帽、黒袖)


「私どもは別の一頭は出さずに、あなたのお言葉に、すべての望みをかけているのですよ」と大佐はつげた。
「おお! これはどうしたんだ。私のシルヴァ・ブレイズがいるのか?」
「シルヴァ・ブレイズ号に五対四!」呼び声がかしましかった。
「デズブラ号に十五対五! 場内相場五対四!」
「数だけ全部ならぶぜ!」私が叫んだ。「全部で六頭だ!」
「全部で六頭だって! じゃ私のシルヴァ・ブレイズも走るんだ」大佐はひどく興奮して叫んだ。「私にはわからない! 私の騎手は通らなかった!」
「まだ五頭通過しただけですよ。これがそうにちがいない」私がこう言ったとき、たくましい栗毛(くりげ)の馬が計量所から走り出して来て、われわれの前を緩駆(ゆるが)けで通りすぎて行った。その背にはロス大佐の色として有名な黒帽赤シャツの騎手をのせていた。
「あれは私の馬じゃない!」と大佐は言った。
「あれには白い毛が全然ない。ホームズさん、あなたはいったい全体、何をなさったんですか?」
「いやいや。あの馬がどうやるか、みていようじゃないですか」
私の友は平然と言ってのけ、しばらくの間、シルヴァ・ブレイズを双眼鏡でじっと見ていた。
「すごい! すばらしいスタートだ!」彼は突然、叫び声をあげた。
「ほら! あそこだ。コーナーを曲がってくる!」
われわれは馬車から、彼らが直線走路を走ってくる、すばらしいながめを見ることができた。
六頭の馬は、じゅうたん一枚で覆(おお)いかくせるほどに、かたまって走っていた。そして半分ほど走ったとき、ケイプルトンの黄色がトップに出たが、われわれの前に来たときには、すでにデズブラの力走も及ばず、ロス大佐のシルヴァ・ブレイズは疾走して、決勝点を通過したときには、好敵手デズブラを、六馬身もひきはなしていた。バルモラル公のアイリスは、不運にも三着であった。
「いずれにしろこのレースは、私のものなんですが」と大佐は目をふきながら、息をきらして言った。
「正直なところ、私には何がなんだか全然わからないのですよ。ホームズさん、あなたはこの秘密をいつまでもあかさないおつもりじゃありますまいね」
「もちろんですとも大佐。逐一(ちくいち)ご説明いたしましょう。みんなで行って馬を見ることにしましょう。……ああ、ここにいますよ」とホームズは、私たちが計量所へ入って行くと馬を指さした。計量所へは所有者とその友人だけが入場できるのであった。
「この馬の顔と足を酒精(しゅせい)で洗いさえすればいいんです。そうすれば、これがもとどおりのシルヴァ・ブレイズだとわかりますよ」
「まったくおどろかされますね」
「私はあるペテン師の手に落ちていたのを発見して、自分の一存で、つれだされた時のまま走らせたんですよ」
「あなたはまったく、われわれの考えも及ばないことをなさった。シルヴァ・ブレイズはまったく好調でした。今までになく調子がよかったですよ。ほんとうに、あなたの手腕をうたがったりして、いくらおわびしてもたりません。ご尽力によって馬を戻していただきましたが、ジョン・ストレイカーの殺害犯人をもとらえていただければ、ほんとうにありがたいのですが」
「とらえておきましたよ」とホームズは言った。大佐も私も、びっくりして彼をみつめた。
「とらえてしまったのですって! で、どこに居るんですか、そいつは?」
「ここにいますよ」
「ここですって! どこですか?」
「現在われわれの中にですよ」
大佐は怒気(どき)満面にあふれた。
「ホームズさん、あなたのおかげをこうむっていることは、私も十分承知しておりますが、あなたの今おっしゃったお言葉は、たちのよくない冗談か侮辱(ぶじょく)としか考えられません」
シャーロック・ホームズは声を立てて笑った。
「大佐、私は何もあなたを犯人だと申し上げたのじゃありません。真犯人は、あなたのすぐ後ろに立っているんですよ」
彼はつかつかと歩みよって、純血種の馬のつややかな首に手をかけた。
「馬が!」大佐と私は同時に叫んだ。
「ええ、馬ですよ。そして馬は正当防衛のために彼を殺したのであり、ジョン・ストレイカーは、まったくあなたの信頼に価(あたい)しない人物だったと申し上げれば、この馬の罪も少しは軽くなることでしょう。しかしベルが鳴っています。私も今度のレースで少し勝てそうなんですよ。もっとよい時まで、詳しい説明は延ばすことにしましょう」

その晩ロンドンへ帰るときに、われわれは寝台車の一隅(いちぐう)に席をしめた。しかしその旅は私と同様、大佐にとっても短い旅だったろうと思う。というのは、われわれふたりはあの月曜日の晩、ダートムアの調教場で起こった事件と、その解決方法について、ホームズが語る話に耳をかたむけていたからである。
「実をいいますと、私が新聞記事から組み立てたいくつかの推理は、全然まちがっていたのですよ。しかしそういった記事の真に重要な所が、他のつまらないごたごたで粉飾されていなかったら、数々の暗示はあったのですがね。私はフィツロイ・シンプスンが真犯人だと思いこんで、デヴォンシャーに行きました。しかしもちろんのこと、彼を真犯人とする証拠が決して十分に完全でないとは知っていましたが。私が、羊のカレー料理が非常に重要なのだと気がついたのは、ちょうど調教師の家についたとき、まだ馬車に乗っていた間でした。私がうわの空で考えこんでいて、あなたがた全部がおりてしまってもすわっていたのを、おぼえておいででしょうね。私は、どうしてこんなはっきりした糸口を、見のがしていたんだろうと、われながら驚いていたんですよ」
「私には今になっても、どうしてそれが解決の糸口なのかわかりかねますが」大佐が言った。
「それが私の推量という鎖(くさり)の最初の手がかりになったのです。粉末アヘンは決して味のないものじゃありません。味は悪くはないけれど、ちゃんと感じられます。もし普通の料理に混入されていたら、それを食べたらまちがいなく気がついて、それ以上は食べますまい。カレーはまさしくこの味をごまかす媒介物だったのですよ。赤の他人であるフィツロイ・シンプスンが、その晩、調教師の家の者にカレーを食べさせるようにできるとはどうしたって考えられませんし、それにまた、アヘンの味を消すカレー料理がつくられたちょうどその晩に、彼がアヘン粉末を偶然にも持って来ていたとは、あまりに話が合いすぎて、これも考えられません。そんなことは考えられません。だからシンプスンはこの事件から除外される。
ですからわれわれの注意は、その晩の夜食に羊のカレー料理を選ぶことのできたふたりの人間、つまりストレイカーと彼の妻に集中するのです。アヘンは、料理がうまや番用にと分けられたあとで混入された。というのは、他の人間は同じ夜食を食べても何の悪い影響もなかったからです。ではふたりのうちどちらが女中に見られずにその皿に近づけたか?
……その問題を解決するより先に、私は犬が吠えなかった点に重要なところがあると考えました。というのは、ひとつの正しい結論は必ず他の結論に暗示をあたえるものですからね。シンプスンの事件で、私はうまやには犬が飼ってあることを知りましたが、なおまた、その犬が、だれかが中に入って馬をつれだしたにもかかわらず、二階にねている二人の若者をおこすほどには吠えなかったことにも気がつきました。たしかに深夜うまやに入ったものは、犬のよく知っていた人間だったわけです。
私はそこで、ジョン・ストレイカーが真夜中にうまやに入ってシルヴァ・ブレイズをつれだしたのだと確信いたしました。いや、おおよそ確信してしまったと申し上げましょうか。
それでは、どんなつもりでつれだしたのか? もちろん不正な目的のために。そうでなかったら、なんでうまや番に一服盛らなきゃならないでしょう? しかしその理由を知るについては、はたと当惑してしまいました。以前代理人をつかって自分の馬の対抗馬に賭け、ペテンによって故意にまけて大もうけをした調教師の事件はいくつもありました。ときには騎手に手加減をさせたり、ときにはもっとたしかな手のこんだ手段でした。この場合はどんな手段だったでしょう?
私は彼のポケットの中にあったものが、結論を下す助けになればと思いました。やはりそうだったのです。死体の手に握られていた、あのおかしなナイフをおぼえておいででしょうね。あのナイフはあたりまえの人間なら武器などにわざわざもちだしたりはしないでしょう。ワトスン博士もおっしゃったように、外科で知られている、もっともむずかしい手術に使われる型のナイフです。ですからあれはその晩、手のこんだ手術に使われることになっていたのです。
ロス大佐、あなたはお広い競馬のご経験から、全然なんの痕跡(こんせき)も残さないように皮膚の下で馬の腿の後部の腱(けん)にちょっと傷をつけることができるのをご存じにちがいない。馬がそれをやられると、ちょっとびっこをひきますが、練習で筋をちがえたか、ちょっとしたリューマチと思われて、不正手段だとは全然きづかれないのです」
悪者奴(わるものめ)が! あいつはそんな男だったか!」
「さて、なぜジョン・ストレイカーが馬を荒地につれだしたかはこれでわかります。馬は非常に元気な動物ですから、ナイフでちくりとやられれば、どんなにぐっすりねむっている人間でも起こしてしまうにちがいない。だからどうしても野外でやらなければならなかったわけですよ」
「私はめくらも同然だった!」と大佐は言った。「それで蝋燭(ろうそく)が入用だったり、マッチをすったりしたんですね」
「そうです。それに彼の持ち物を調べていて、私は運よく彼の犯罪方法ばかりでなく、その動機さえも発見してしまったのです。大佐、あなたは世故(せこ)にたけた方でいらっしゃる。だれでも自分のポケットに他人の勘定書なぞ入れて歩くもんじゃないことはご存じですね。まあ大体が私たちは自分の払いをするのに手一杯なのですから。他人の勘定書をみてすぐに私は、ストレイカーが二重生活を送っており、外にもう一軒家をかまえていると結論しました。勘定書の性質からして、この事件には女が関係している、その女は派手ごのみだとわかりました。いくらあなたが使用人に対して大まかだとしても、あなたの使用人が女のために二十二ギニーの外出着を買ってやれるとは考えられますまい。私はストレイカー夫人に真意をさとられぬように服のことをたずねてみましたところ、彼女はうけとっていないとのことで、私の考えも満足しました。私は服飾店の番地をかきとめ、ストレイカーの写真を持って行ったら、このわけのわからぬダーヴィシャー事件も簡単にかたづくなと思いました。
そのとき以来、何もかもはっきりしました。ストレイカーは馬をひきだして、彼のともす灯が見えないくぼみへつれて行きました。シムプスンは逃げる途中ネクタイを落しましたが、ストレイカーは何か考えがあってそれをひろっておきました。たぶん馬の足でもしばっておくつもりだったのでしょう。くぼみの中で彼はすぐに馬の後ろにまわるとマッチをすりました。ところが馬は、突然の光におどろいたのと、不思議な動物の本能から、なにか悪事がたくらまれているのを感じとったのとから、だっと飛びだしたのです。そのとき鉄の馬蹄が、ストレイカーの額を真っ向からガンとやったのですよ。彼は雨が降っていたにもかかわらず、むずかしい手術をするために、すでにオーバーをぬいでいました。だから彼が倒れたとき、ナイフが太腿(ふともも)をぐさりと刺したのです。はっきりいたしましたか?」
「すばらしい! まったく驚嘆すべき推理だ! あなたがその場にいらっしゃったようですよ」
「私の最後の推理は、まことに向こうみずとも申さねばなりません。私はふとストレイカーのような抜け目のない男が、少しも練習しないでこの厄介(やっかい)な手術をやるはずがないと思いつきました。彼は何で練習したでしょうか? 私は羊に目をつけました。羊のことをたずねてみましたところが、むしろ意外だったのですが、私の推理の正しかったことがわかりました」
「すっかりわかりましたよ、ホームズさん」
「ロンドンに帰ってから服飾店をたずねますと、ストレイカーが、ダーヴィシャーの名前でよいおとくいになっており、彼には、ぜいたくな服装に異常な好みを持っている派手な女があることがすぐにわかりました。うたがいもなくこの女が、彼を借金で首がまわらないようにしてしまい、その結果彼をこのみじめな悪事に走らせたんですね」
「あなたはすっかりご説明して下さいましたが、ただひとつ残していらっしゃる」と大佐は言った。「馬はどこにいたのですか?」
「ああ、馬は逃げだしてから、近所の人間に面倒をみてもらっていたのですよ。そういった面は大目にみてやらなければなりますまい。ここはたしかクラバム連絡駅ですね。十分たらずでヴィクトリア駅につきます。大佐、よろしかったら私どもの所で一服なさいませんか? あなたがご興味を持たれるような、他のいろいろな点についても、よろこんでお話しいたしましょう」
黄色い顔

わが友の非凡な才能によって私が聞き手ともなり、また時には私自身もたまたま奇妙な劇中の人物になったことのある数多くの事件を、こうした短い話として発表するに当って、私が友人ホームズの失敗よりも、成功した事件のほうを選ぼうとするのはむしろ当然のことだろう。これは決して彼の名声をあげるため言うわけではない。というのは彼の精力と多芸さは難局に立ち至ったときにこそ真面目(しんめんぼく)を発揮するのだから……。しかし彼が解決できなかった事件は何人(なんぴと)といえども解き得るはずもないわけで、それでは話も結末がないままに残されてしまう。ときに彼が失敗するようなことがあっても、真相は必ず解明されている。私はそうした事件を五つ六つ書きとめているが、その中では「第二の汚点」の事件と、これから私が話そうとしているものの二つが、最も興味深いものである。
シャーロック・ホームズは運動のための運動というのはめったにしない男だ。しかし彼以上の肉体的労働に耐えられる男は少ないだろうし、彼の重量級でなら私の知る限りもっとも優れたボクサーのひとりであることは疑いもないところだ。といっても彼は目的のない肉体運動は精力の浪費だと考えていたから、何か職業的な目的がなければ、めったに体を動かすことはしないのである。
だが彼は、たいした疲れ知らずで、怠(なま)けることもなかった。こんな生活でいて常に活動力を保っていることはたいしたもので、彼の食事にしてみても、平常ごく粗末で、日常生活も簡単で峻厳(しゅんげん)そのものだった。ときたまコカインを用いるのを徐けば彼は全く悪習もなく、そのコカインだって、事件もなく、新聞にもいっこう興味を呼ぶような記事がないときに、退屈しのぎにやるくらいのものだった。
春も浅いある日のことだが、彼が私といっしょに公園を散歩するくらいにくつろいでいることがあった。公園には楡(にれ)の木が緑の新芽をふきはじめ、ねばねばした槍(やり)の穂先のような胡桃(くるみ)の木の新芽も五葉に開きはじめている。われわれはお互いに気心のよくわかった者の常として、ほとんど口もきかずに二時間ほどぶらぶら歩いた。ベイカー街に帰って来たのは、もう五時近いころだった。
「あの……」ドアをあけた給仕が言った。「先ほどあなた様を訪ねていらした方がございました」
ホームズは私をとがめるように一瞥(いちべつ)して、「これだから午後の散歩はたくさんだって言うんだ」と彼は言った。
「それでお客様はもうお帰りになったのかい?」
「はい」
「お通ししなかったかね」
「いえ、お入りになったんですが……」
「どのくらい待っていた?」
「三十分くらい、とても気ぜわしい方でして、おいでになる間じゅう歩きまわったり、足を踏みならしたり、私はドアの外でお待ちしておりましたから、よく聞こえましたのですが……、で、とうとう廊下へ出てみえて叫ぶように言われるんです。『あの男はまだ帰って来ないのか』って、あの男なんておっしゃるんですよ。そこで私が『もう少しお待ちになったら』と言いますと、『気分が悪くなったからおもてに出て待ってみよう、またすぐ来てみるから』とお出になりました。いろいろ言ってお引きとめしたのですが、だめでございました」
「そう、そう、君が悪いわけじゃないからいいさ」
ホームズはわれわれの部屋に入りながら言った。「ワトスン君、僕はとても事件に飢えていたんだがね。こいつはお客様が相当いらいらしているところからみて重大な事件だぜ。ほら、このテーブルの上のパイプは君のじゃないな。お客様が忘れていったに違いない。こいつはすてきな古いブライヤーだ。煙草屋が琥珀(こはく)と言っている上等な長い吸口(すいくち)がついている。僕の考えじゃ本物の琥珀の吸口のついたのは、ロンドンじゅうでもそうはないはずだ。本物はその印として蝿(はえ)がはめこんであると思っている人がいるが、琥珀に蝿を入れてニセモノをつくるなんてわけのないことでね。ところでお客さん、明らかに大切にしているパイプを忘れていくなんて、よほど動転(どうてん)してるな」
「大切にしているなんてどうしてわかる?」私はきいた。
「そうさね。僕はこいつの値段を七シリング六ペンスとにらむね。さあちょっと見てごらん。こりゃ二度も修繕してあるぜ。一回は木の軸(じく)で、もう一度は琥珀の部分だ。どっちもご覧のとおり銀の細板で直してあるが、これはパイプの値段より金がかかっている。おそらく同じ金を出して新しいパイプを買うよりも、修繕してでも使いたいほど大切にしているんだよ」
「ほかになんかあるかい?」と私はきいた、というのはホームズがパイプをひねくりまわして、注意深く調べていたからだ。彼は骨格の講義をしている教授のように、細くて長い人さし指でパイプをたたいた。
「パイプというものは、ときとして非常に興味深いものなんだよ」彼は言った。「懐中時計や靴紐(くつひも)を除いたら、これはずいぶん持ち主の性格をあらわすものなんだ。しかしこの場合はたいした特徴も出てないがね。こいつの持ち主は体の丈夫な、左ききで、歯なみのしっかりした、無頓着(むとんちゃく)な性格で、金銭的に困らない男だ、という程度はわかるよ」
ホームズは非常になげやりな調子でこんなことをしゃべったが、彼の説明が私にわかっているかどうか探(さぐ)るように目だけは私をみつめていた。
「七シリングのパイプで煙草を吸うというなら、この男は金のある奴に違いないと言うんだろう」私は言った。
「これは一オンスが八ペンスのグロウヴナー・ミックスチァーだよ」
ホームズは掌(てのひら)に少量の煙草をたたき出しながら言った。「この半分の値段でちょっとした煙草が吸えるのにな。彼はだから金銭的な苦労はない男なんだよ」
「ほかになにか特徴はあるかい?」
「彼はランプかガスでパイプに火をつける癖があるな、片側だけが焦(こ)げているのがわかるだろう。マッチだったらもちろんこんなふうにはなりゃしないさ、マッチをパイプの横腹に持っていくやつもいないだろう。でもランプで火をつけるんなら焦がさざるを得んさ。それにこれは右側だけが焦げている。ゆえに僕はこの男は左利きだと判断するんだよ。君のパイプを右手でランプに近づけてごらんよ。左側が炎に当るのはいかにも当然のことだろう。もちろん、右利きだって左手で火をつけることなきにしもあらずさ、でもそうしょっちゅうはやりゃしない。いつもは右手でやるに決まってるよ。このパイプはいつも左手で持たれてたんだ。それにこの持主は、吸口の部分をよくかじっている。そんなことするやつは体格がよくて精力的で、しかも歯の丈夫なやつだというわけだよ。ところでお客さんが階段を上って来たようだぜ。パイプなんかよりもっと面白い勉強ができそうだ」
ややあってドアがあき、背の高い若い男が部屋に入って来た。上等だが地味な暗灰色の服を着ており、つば広の茶の帽子を持っている。私は彼を三十歳くらいと思ったが、実際にはもっとふけているらしかった。
「ご免なさい」彼はいくぶん困惑して言った。「ノックすべきでしたね、そう、もちろんノックすべきでした。実は私、少々とりみだしておりまして、どうかご容赦(ようしゃ)ください」
彼は放心した男のように額に手をやって、すわるというより、くずおれるように椅子にすわった。
「ふた晩ばかりおやすみになっていらっしゃらないようですね」ホームズはやさしく言った。「不眠は仕事や遊びほうけたより、もっと神経にこたえますからね。で、どんなご用件でしょうか?」
「私はあなたのご助言を頂きたいのです。私はどうしてよいかわからなくなりました。私の人生はこなごなになってしまいそうなのです」
「あなたは私を探偵として願いたいとお望みなのですか?」
「いや、そればかりじゃなく、あなたを判断の正しい方として、また世の中をよく知っていらっしゃる方として、ご意見をうかがいたいのです。これから私が何をしたらよいか、それを知りたいのです。あなただったらきっとご教示いただけると思いまして」
彼は小声だが鋭い、いらいらした激しい口調で話したが、その調子で言うだけでもひどく苦痛なのを意志の力で我慢しているのが私にはわかった。
「これはとてもデリケートなことなんです」彼は言った。「誰でも、知らぬ人に自分の家庭内の問題を話したがらないものです。ことに会ったこともない男と自分の妻との交渉について話すなんて恐ろしいことですし、私がそれをしなければならないとは、何とも嫌(いや)なことです。でも私の分別ではなんともいたしがたくなりましたので、ご助言をいただきたいのです」
「グラント・マンロウさん」とホームズは始めた。とたんに客が驚いて椅子から飛び上った。
「何ですって!」彼は叫んだ。「あなたは私の名前をご存じなんですか?」
「お名前を隠したいのなら」と、ホームズは笑いながら言った。「お帽子の内側にお名前を書かないか、さもなくば話し相手に帽子の山の方をむけている方がよいと思いますね、私はこの部屋でこの友人とともに多くの奇怪な秘密をきき、そして大勢の悩んでおいでの方々に平和をもたらすことができたことをお話ししたいのです。私たちはあなたにも同様に力を尽すつもりです。ですから時間は大切です。これ以上、手おくれにならぬうちに事件のあらましをお伝えいただけませんか」
客はそれがいかにもむずかしいことであるかのように、また額に手をやった。あらゆる動作表情から私は、彼が引っ込み思案(じあん)で、自制心、自尊心に富み、自分の傷はめったに人に見せない性分の男だと思った。
だが彼は急にすべてをさらけ出そうと決心したらしく、握っていた手を振って口を開いた。
「事件というのはこうなのです、ホームズさん」彼は言った。
「私は三年前に結婚した男です。三年の間私たち夫婦は世間の愛し合って結婚したものと同様に、深く愛しあい、幸福に暮らして来ました。私たち夫婦の間の考え方、言葉、行い、何ひとつ食い違いはありませんでした。ところが先週の日曜日以来、突然私たちの間に邪魔物が飛びこんだのです。妻の生活や考えの中に、まるで私が街でふと出あった女のように、まるで私の知らぬものが隠されていることがわかったのです。私たちの仲は冷たくなりました。そこで私はそれがどうしてだか知りたいのです。
しかしこれ以上お話しする前に、ひとつ強調しておきたいことがございます。エフィは私を愛しているということです、これだけは誤解のないようにしていただきたい。妻は全身をもって私を愛していますし、それは今も変わりありません。私はそれがよくわかるのです。このことについてはとやかく言いたくありません。男は女が自分を愛しているかどうかくらい、たやすくわかるものですからね。ところが私たちの間に秘密が横たわって、それが晴れなくては平然としておれないのです」
「どうか事実を話して下さいませんか、マンロウさん」ホームズはいくぶんいらいらして来て言った。
「それでは私の知る限りのエフィの過去について申し上げましょう。妻は私がはじめて会ったとき、まだ二十五歳の若さでしたが未亡人でした。ですから彼女の名はヘブロン夫人と言ったのです。ずっと若いころアメリカに渡り、アトランタの町に住んでいました。そこでこのヘブロンと結婚したのですが、この男は弁護士で相当成功しておったようです。
ふたりの間にはひとりの子供もあったのですが、その土地に悪性の黄熱病がはやって、夫と子供を奪ってしまったのです。私はその夫の死亡証明書を見たことがあります。それで妻はアメリカにあいそをつかし、帰国してミドルセックスのピナーに未婚の叔母といっしょに住むようになりました。それには死んだ夫が楽に暮らせるだけの遺産を残しておりましたし、約四千五百ポンドの金がうまく投資されていたので、年に七分の利子がかえって来ていました。私が彼女に会ったのは、彼女がピナーに住みはじめてやっと六週間になったころでした。
私たちは愛し合うようになり、数週間の後に結婚しました。私はホップ商で七、八百ポンドの収入があり、かなり裕福な生活です。ノーベリイに年八十ポンドの小じんまりした別荘を借りています。そこは市に近いのですが、少し上手の方に一軒の宿屋と住宅が二軒あります。私達の家の前の畑地の向こう側に、一軒小さい別荘があり、このほかは駅までの道の半ばまで家はございません。
私はある季節になりますと仕事の関係上ロンドンに出ますが、夏の間は仕事を休んでこの田舎(いなか)の家で望みどおりの幸福な生活を夫婦で過ごすわけです。この呪(のろ)わしい事件が起こるまでは、私たちの間には一点の影もなかったのです。
話を進める前にもうひとつ言っておかねばならぬことがあるようです。私たちが結婚したとき、妻はその財産を、私が反対したにもかかわらず、全部私の名義にしたのです。反対したのは私の仕事が失敗したとき困ることになるからなのですが、でも彼女はそうするんだと主張して、結局そうなってしまいました。六週間ばかり前のこと、妻がやって来て、
『ジャック、あなたに私のお金をおまかせしたとき、私が欲しいときはいつでもそうお言い、とおっしゃいましたわね』と言うのです。私は、
『ああそうだよ、もともとあれはお前のものなんだからね』と言いました。
『そう、それなら私、百ポンドばかしいるんですけど』と、妻は言いました。
私はこれには少々驚きました。着物や何か買うにしてはちょっと多すぎる金額ですからね。
『いったい何に使うんだね』私がききますと、妻はおどけた調子で、
『あら、あなたおっしゃったじゃないの、僕はただの銀行屋さんだからねって。銀行屋さんは、そんなこと聞かなくってよ』
『本当にいるんなら上げるけどさ』私は言いました。
『ええ、本当にいるのよ』
『だが、何にいるのか言わないのか』
『いつかね、そう、今ちょっと言えないのよ、ジャック』
そういうわけで私は承知させられてしまいましたが、これが私たちの間に秘密らしいもののできたはじまりでした。私は妻に小切手をやり、この問題はそれ以上考えないことにしました。これはこの後のことと関係ない事かもしれませんが、何か説明の役を果たすかと思いまして……。
さて先ほどもお話ししましたように、私たちの家からほど遠からぬところに一軒小さな別荘があります。その家との間に畑地があり、その家に行くには道路を通って小道に折れて行くわけです。その家のちょうど前には、きれいなスコットランド樅(もみ)の小さな森があり、私はそのあたりを散歩するのがたいへん好きなのです。樹というものは、いつでも親しみやすいものですからね……。
その家は[かずら]のからんでいる、古風な門のついた二階建てのきれいな家なのですが、残念なことに八か月も空家になっていたのです。私はよくその前に立ち止って、住心地のよい家なんだがなあと思っていました。
ところが先週月曜日の夕方、例によって私が散歩しておりますと、小道で[から]の荷車が登ってくるのに出会いました。そしてあの家の門のわきに、絨毯(じゅうたん)だの何だのが積み上げてあるのです。とうとう借り手がついたのだなとわかりましたので、私はいかにも暇人(ひまじん)をよそおって、通り過ぎてから立ちどまり、家をながめて隣人として住むようになったのは、どんな人たちだろうと思っていました。
私がながめていますと、急に私はある顔が二階の窓から私の方を見やっているのに気づいたのです。ホームズさん、私はその顔が別段どうというわけではないのですが、背筋が寒くなるような感じでした。ちょっと距離がありましたから、容貌(ようぼう)はわかりませんでしたが、何かこう不自然な、非人間的な感じがありました。そこでいったい誰が私を見ているのかつきとめてやろうと、そばに近よりました。
すると顔は急に見えなくなりました。アッという間だったので、私には部屋の闇の中に吸い込まれたように思えました。
私は五分ばかり立ちどまって考え込み、印象を分析しようとしました。第一、私にはそれが男だったのか女だったのかわからないのです。でもその顔色だけはとくに印象に残りました。死人みたいに黄色で、ギョッとするほど無気味さがあり、じっと私の方をみつめていたのです。私はひどく心が乱れたので、この家の新しい住人をもう少し見てやろうと心にきめました。
私は近づいてドアをたたきますと、すぐ背の高い、とげとげしいむずかしい顔をした女がドアをあけました。
『何かご用ですか?』北方なまりの言葉で女が言いました。
『あそこの、お隣りに住んでいるものですが』私は自分の家の方を頭でしゃくってみせながら言いました。『お引越しなさって来たばかりのごようすなので、何かお手伝いすることがおありかと思いまして……』
『いえ、必要なときにはお願いに上りますから』
女はそう言うと私の目の前で、ピシャリとドアをしめてしまいました。失礼千万な断り方に私は憤然(ふんぜん)として家に帰りました。
その晩は私はほかのことを考えようとしましたが、あの窓のお化けと女の失礼な態度にすっかり気をとられていました。
私の妻は神経質ですから、窓のお化けのことは何も言うまいと思いましたし、あの高慢な女のことも不愉快きわまる印象を妻にわけあたえる必要もないと思いました。それでも寝る前に、私は妻に、あの家に新しい住人が来たと言いましたが、彼女は何も言いませんでした。
私は平常とても眠りが深い性(たち)で、夜中に何があっても目をさまさない人だと家族の内でよく笑いものにされたものです。しかしその夜にかぎって、昼間のつまらぬ出来事で多少興奮していたのかどうか、いつもより眠りが浅かったようです。夢うつつの間に、私は部屋の中で何かが動いているのをぼんやり意識していました。そして徐々に妻が着物を着て、外套(がいとう)をはおり、帽子をかぶっているようすがわかりました。
この、ときならぬ外出の支度(したく)に驚き、とがめようとして、ねぼけた言葉をブツブツ口にしかけましたが、私のねぼけ眼(まなこ)が、ローソクの火に照らされた妻の顔をとらえたとき、ギョッとして言葉をのみこんでしまいました。妻は私が見たこともない形相をしていました。妻があんな顔をするとは思ってもみなかったことでした。死人のように青ざめ、息をはずませ、外套をしっかり身にまといながら、私を起こしはしないかとベッドの方に目を走らせているのです。
妻は私がよく眠っているとみてとったのか、静かに部屋からすべり出ました。間もなく、たしかに玄関の蝶番(ちょうつがい)がきしむ鋭い音が聞こえました。
私はベッドの上に起き直って、夢ではないかと拳骨(げんこつ)でベッドの縁をたたいてみたほどです。枕の下から時計を出してみると、もう午前三時でした。明方の三時にもなって、妻はこの田舎道で何をやっているんだろう。私は二十分ばかり考えこみ、何か適当な解決をつけようとしましたが、考えれば考えるほど、常軌(じょうき)を逸しており、不可解なばかりです。なおも思い沈んでいると、ドアが静かに閉まる音がして、妻の足音が階段を上って来ました。
『エフィ、お前どこへ行っていた?』
私は妻が入って来るなり言いました。
妻は私の声にひどく驚いて、あえぐような叫び声を上げました。その驚きようがますます私の心を痛めました。何か私に言えない、うしろめたいことがあるにきまっています。
妻は普段は明朗で、かくしだてのない性格なのに、自分の部屋に入るとき、夫が声をかけたからとて、叫び声を上げておどおどするのは、私にとって情けないことでした。
『起きていらしたの、ジャック』妻はヒステリックに笑いにごまかして言いました。『よく眠っておいでだと思いましたわ』
『どこへ行っていたんだ?』私はややきびしく言いました。
『何をそんな剣幕(けんまく)でいらっしゃるの』と、妻は言いましたが、その指先は外套を握れないくらいに震えているのです。
『今までこんなこと一度もありませんでしたわね。実はね、なんだかひどく息苦しくなったので、おもての新鮮な空気が吸いたくてたまらなくなったの。あのとき出ていかなかったら、気を失っていたわ。しばらくドアのところに立っていたら、このとおり元気になりましてよ』
こんなことを言うあいだじゅう、妻は一度も私の方を見ませんでしたし、その声も、いつもとは、似ても似つかぬものでした。嘘をついているのは明らかでした。私は返事もしないで壁の方をむいてしまいましたが、胸のうちはおそろしい疑惑でいっぱいでした。
妻が私にかくしているのは何だろう。出て行った間どこへ行っていたんだろう。それがわがるまでは気が安まらないのです。妻が嘘にせよ、まことしやかに説明している以上、もういちど問い返すこともありません。その夜じゅう、私は転々してあれこれ考えてみましたが、わからなくなるばかりです。
その日、私はまちへ出ましたが、頭が混乱していっこう仕事に気が乗りません。妻も私同様、気が落ちつかぬようすで、もの問いたげにチラチラと私の方をながめるのですが、そのようすには、私が妻の言ったことをまるきり信じていないことをよく知っており、どうしてよいか考えあぐねているのがよくわかりました。
私たちは朝ご飯のあいだ、ひと言も口をきかず、食事がすむと私は朝の新鮮な空気の中で、もういちど問題を考えてみようと散歩に出ました。クリスタル・パレスまで出かけて、芝生で一時間ばかり過ごしてから、一時ころにノーベリイにもどって来ました。例の家の前を通りかかったとき、私は前日私を見ていた、あの異様な顔をもういちど確かめてやろうと足をとめ、窓を方をうかがってみました。
ところがホームズさん。突然表のドアが開いて、妻が出て来たときの私の驚きを、まあご想像下さい。
私は驚きのあまり口もきけませんでした。しかし私たちの目があったときの妻の驚きように比べれば、まだしもでした。一瞬、妻はまた家の中へあとずさりするようなようすをみせましたが、隠しても無駄と思ったのか、青ざめた顔におびえた目を、口に浮かべた笑みでごまかしながら出て来ました。
『ジャック、私も新しいお隣りに何かお手伝いでもないかと思って来てみたの。どうしてそんなに私の顔ばかりみてるの、何をそんなに怒っていらっしゃるの』
『そうか。ゆうべ出かけたのもこの家なんだな』
『何なのよ!』妻は叫びました。
『たしかにお前はここへ来たんだ。あんな時間に訪ねるなんて、いったいだれがこの家にいるんだ?』
『私、前に来たことなんてありませんわ』
『嘘だとわかっていながら、なぜお前はそんなことを言う。声まで変わっているくせに。私が今までお前に隠しだてをしたことがあるか。よし、それならこの家に入って徹底的に調べてやる』
『いけません! ジャック、お願いだから』
妻はたまりかねたようにあえぎながら叫びました。私がドアに近づくと妻は私の袖口をつかまえて、恐ろしい力でひきもどしました。
『ジャック、お願いだからやめてちょうだい。いつかきっとみんなお話しするわ。今あなたがこの家に入ってしまったら、本当にみじめなことになるの』
妻はふり切って入ろうとする私を必死になってとめるのです。
『ジャック、私を信じて、一度だけでいいから私を信じてちょうだい。決して後悔しないわ。あなたのためでなかったら、私、決して秘密なんか持たないっておわかりでしょう。これは私たちの生活に関することなのよ。私と一緒におうちに帰ってくれれば助かるけど、どうしてもここへ入るとおっしゃるなら、私たちの生活もおしまいです!』
あまりに真剣で、妻の態度にも思いつめたものがありましたので、私もそれに打たれてドアのところまで行くまでにためらってしまいました。
『それじゃ条件つきでお前を信じよう』私は最後に言いました。『こんな秘密はこれだけでおしまいにするということだ。お前は自分なりの秘密を持つ自由はある。しかし夜中に出かけたり、まして私の知らぬ間にやるなんてことは決してしないと約束してもらわなきゃ困る。今後こういうことはしないと約束するなら、過ぎたこととして忘れもしようじゃないか』
『信じていただけると思いましたわ』妻は救われたように大きな溜息(ためいき)をついて言いました。
『お望みのようにしますわ。さあ行きましょう。おうちへ帰りましょう』と私の袖を引っぱって、妻はこの家から少しでも私をはなそうとするのでした。私は去りながら、ふと振りかえってみますと、二階の窓からあの黄色い顔が私たちの方を見つめているのです。あの化け物と妻との間にどんな関係があるのでしょう。また前の日に会った、あのにくたらしい女は妻とどんな関係があるのでしょう。
奇妙な謎ですが、私はそれが解けるまでは、心の平静を取り戻せないことがわかっていました。その後、私は二日ほど家にいました。妻も私の知る限りでは忠実に約束を守って家を出ることはないようでした。
それが三日目のことです。妻の厳粛な誓いも、夫や妻としての義務にそむかせようとする秘密の力にはうち勝てないのだという明白な証拠をつかんだのです。
その日、私はまちに出たのですが、いつも乗る三時三十六分の汽車でなく、二時四十分の汽車で帰って来ました。私が家に入ろうとすると女中があわてた顔つきで玄関に出て来ました。
『奥様はどうした?』とききますと、
『散歩にお出かけかと思います』女中は答えました。
私の心はまた疑いの念でいっぱいになりました。本当に妻は家にいないのかと思って二階にかけ上りましたが、ふと窓から表を見ますと、たった今私に話していた女中が、畑を横切って、例の家の方に走って行くのが見えました。それが何を意味しているか、私にはすぐわかりました。妻はまたあの家に行っており、私が帰って来たら呼びに来るように言いつけてあるのです。私は怒りに燃えて駆けおり、一度にきれいさっぱりこの問題にかたをつけてやろうと決心して飛び出しました。妻と女中が急いで小道をやって来るのが見えました。しかし私は立ち止って話そうともしませんでした。あの家に私の生活にかげを投げている秘密があるのだ。私はこれを秘密のままにしておいてなるものかと心にきめました。
家につくや私はノックもしないでハンドルをまわし、廊下に飛び込みました。階下は全く静かでした。台所では[やかん]がシャンシャン火の上で鳴っており、大きな黒猫が篭(かご)の中で丸くなっていました。それだけで、私が前に言った女は影も形もないのです。
私はべつな部屋におどり込みました。そこもからっぽでした。今度は二階に駆け上りました。二部屋とも人気(ひとけ)がありません。家じゅう誰もいないのです。家具や絵などはありきたりのものですが、私があの奇怪な顔を見た部屋だけは違っていました。その部屋は気持よく、上品にしつらえてあります。ところがマントルピースの上に私が三月ほどまえに撮らせた妻の全身の写真が飾ってあるのをみつけたとき、私の疑いは一時に火となって燃え上りました。
家じゅうまったく空(から)だと確かめれば長居(ながい)は無用です。私はかつてない心の重さを感じながら家を出ました。私がうちに帰りますと、妻が玄関まで出て来ましたが、私は傷つけられ、しゃくにもさわって、ものも言わず妻を押しのけて書斎に入りました。妻は私がドアを閉める前にあとから入って来ました。
『ジャック、お約束を破って申しわけありません。でもすべての事情がおわかりになったら、きっとお許し下さると思いますわ』
『洗いざらい話してみたらどうだ』私は言いました。
『いえ、できません! ジャック、それは言えないのです』
『お前があの家に誰が住んでいるか、あの写真をくれてやった相手は誰なのかを言うまでは、私たちの間には信頼もなにもありはしない』
私はそう言って、とめるのもきかず家を出てしまいました。それがホームズさん、昨日のことなんです。それきり妻に会ってもいなければ、この奇妙な事件について、いっこう見当もつかないのです。
私たち夫婦の間に影がさしたのは、これがはじめてのことですし、私はどうしたらよいかさっぱりわからないのです。今朝になって、急にあなたこそ私を助けて下さる方だと思いついて、万事あなたにおすがりしようと、こうして急いでやって来たわけなのです。ご不審な点がございましたら、どうかおたずね下さい。私はこんなみじめさに耐えられそうもありません。どうか一刻も早く、どうすべきか教えていただきたいのです」

ホームズと私は、彼が興奮して早口に、とぎれとぎれにしゃべった異様な物語を非常な興味をもってきいた。ホームズは頬杖(ほおづえ)をついたまま考えこんで、しばらく黙っていた。
「あなたが窓に見かけた顔は、はっきり男だとは言えませんか」ホームズは言った。
「いつも、ちょっと距離がありましたので、そうはっきりは言えません」
「しかし非常に不愉快な印象をうけたと言われましたね」
「とても不自然な色でしたし、顔も異様にこわばっていました。私が近づくとヒョイと見えなくなったのです」
「奥さんが百ポンド欲しいとおっしゃってから、どのくらいたちますか?」
「二か月ぐらいです」
「あなたは奥さんの最初の夫という方の写真をご覧になったことはございませんか?」
「いえ、彼が死んでからすぐアトランタに大火があって、妻が持っていた書類その他いっさい焼けてしまったのです」
「それでも死亡証明書だけは持っておいでなんですね。それはごらんになったとおっしゃいましたね」
「ええ、妻が火事のあと写してとっておいたのです」
「アメリカ時代の奥様をご存じの方に会ったことがおありですか?」
「ございません」
「またアメリカへ行ってみたいなどとおっしゃったことはありませんか?」
「それもありません」
「アメリカから手紙が来たことは?」
「私の知るかぎり、それもございません」
「ありがとうございました。少々この問題を考えてみようと思います。もしその家が空家になってしまったのでは問題はむずかしくなります。しかしそうでなくて、昨日あなたがやって来たのをみつけて、住人が逃げ出したのだとすれば、……このほうがありそうなことですが……もう彼らも帰って来ているでしょうし、簡単です。さて、あなたはもう一度ノーベリイに帰ってその窓を注意していただきたいのです。もしまだ誰か住んでいるという証拠があったら、あなたひとりで踏み込まないで、私たちに電報を打っていただきたいのです。そうしたら一時間以内にそちらに出かけて、たちどころに事件を解決できると思います」
「もしまだ家が空だったら?」
「そうしたら明日、私の方から出かけて、またご相談しましょう。じゃ、ご免ください。確実な証拠もないのに気をもむことはありません」
ホームズはマンロウ氏を送り出して帰って来ると私に言った。
「こいつはむずかしい事件だぜ、ワトスン君。君はどう思う?」
「いやな感じだねえ」私は答えた。
「うん。こりゃ間違いのないところ、恐喝(きょうかつ)事件だね」
「だが誰が恐喝しているんだい?」
「そうさね、例の家のひとつだけ気持よくしてある部屋にいて、マンロウ夫人の写真をマントルピースに飾っている男だろうな。それにね、ワトスン君、窓に見えたという土気色(つちけいろ)の顔に何かいわくがあるんだ。これだけは間違いないところだ」
「何か裏づけになるものがあるのかい?」
「あるさ、まあ仮定だがね、しかしそれが本当にならなかったら驚きだね、つまり夫人の最初の夫が例の家にいるんだよ」
「どうしてそう思うんだ?」
「そうでなきゃ、二度目の夫のマンロウ君を入らせまいとして、あんなに騒ぎ立てる理由が説明できないじゃないか。僕の考えた真相はこんなことだと思うね。この奥さんはアメリカで結婚している、前の夫は何かいまわしい性格か、あるいは病気……ライ病か白痴になった。そこで彼女はとうとう夫から逃げ出して、イギリスに帰って来た。そして名前を変えて新しい生活を始めた。結婚して三年もたつからもう大丈夫と思っていた。それに彼女が使っていた名前の、ある男の死亡証明書を二度目の夫に見せてもいたしね。
ところがだ、急に前の夫に、あるいはこの病人に同情したバカな女に今の住所をかぎつけられた。やつらは脅迫状を奥さんに送って、返答しなきゃあバラすぞとおどかしたんだ。
そこで奥さんは百ポンドを主人からもらって、やつらを買収しようとした。それにもかかわらず、やつらはやって来た。夫にお隣りに新しい住人が来たといわれたとき、追跡者がとうとうやって来たことを知った。主人が眠るのを待って、彼女は出かけていって、私たちの平和を乱さないでくれと懇願する。きき入れられないので翌朝も出かける。そこでさっき彼が話したように、出て来たところを主人とバッタリ顔を合わせてしまうというわけだ。
奥さんは二度と行かないと約束しながら、この恐ろしい隣人から逃れるために、要求された通り自分の写真を持って行き、けりをつけようとする。この話し合いの間に女中が飛び込んで来て、主人が帰って来たことを知らせる。そこで奥さんはすぐ主人がこっちにやって来るだろうと知って、住人たちを裏の戸口から、近くにある樅(もみ)の林の中に逃がしてしまう。こうして夫が踏み込んだときは、もぬけのからだったんだ。しかし、もし今晩彼がもう一度行ってみて、誰もいないとなりゃ僕も困るがね、どうだい僕の説明は?」
「みんな推測だな」
「でも、少なくとも事実には合うからね、この推測に合わないような新事実が出て来たら、また考え直すさ。今のところノーベリイから電報が来るのを待つほかないよ」
しかし、われわれはそう長く待つ必要はなかった。お茶をすませたころに、その電報が来たのだ。

アノ家ニハマダ人ガイル、窓ニアノ顔ガ見エタ。七時ノ汽車ニテ、オイデ請ウ、ソレマデ手ヲツケズニイル。

われわれがプラットフォームに降り立つと、もう彼は待っていた。駅のランプのあかりに、彼はいっそう青ざめてみえ、興奮して震えていた。
「やつらはまだいますよ、ホームズさん」彼はホームズの腕をとりながら言った。
「いま来るときも、家にあかりがついていました。さあ一度にやっつけてしまいましょう」
「ところであなたのご計画は?」
私たちが暗い並木道を歩きはじめたとき、ホームズは言った。
「私は無理にでもあの家に踏みこんで、誰がいるのか知りたいと思います。どうかおふたりで証人になって下さい」
「奥様から警告されてはいても、秘密はあばかなければいかんとお考えですか?」
「そうです。私は決心しています」
「そう、それがよろしいでしょう。不明確な疑いより、何かはっきりしたものの方がましですからね。それじゃすぐ行きましょう。もちろん法の上から言えば、悪いことをしようとしているわけですが、そんなこと言ってる暇はありませんからね」
その夜はとても暗い夜だった。私たちが大通りから、両側に生け垣があり、深い車輪の跡の残った小道に曲がるころには、しょぼしょぼと雨さえ降りはじめた。
グラント・マンロウ氏はもどかしげに先を急ぎ、私たちも負けじとあとに続いた。
「あれが私の家の明かりです」マンロウ氏は木の間にかがやくあかりを指さして言った。
「あそこが、これから行こうという家です」
彼の言ったように、小道を曲がるとかたわらに戸じまりした建物があった。黒々とした前庭に一本、黄色い筋があり、ドアがぴったり閉っていないことを示していた。そして二階のひと部屋の窓だけが皎々(こうこう)と明るかった。われわれが見上げると、窓かけを横切って黒い人影が動いていた。
「あの化物がいるんだ!」グラント・マンロウ氏は叫んだ。「そら、いるでしょう、さあ来てください。何やつだか、つきとめるんだ」
私たちがドアに近づくと突然ひとりの婦人が陰からランプの光の中に立ちはだかった。私は暗くてその顔はみえなかったが、哀願するように両腕をさしのべていた。
「ね、ジャック、お願いだからやめて。今夜はきっとおいでになるだろうと思いましたわ。考え直してちょうだい。もう一度だけ私を信じて、そうすれば決してあとに悔いを残すことはございませんわ」
「お前を信じるのはもうご免だ。エフィ」彼はきびしく叫んだ。「そこをおどき、どうしても通るんだ。この友人たちと、一度にこの事件をおしまいにしてしまうんだ」
彼は妻を押しのけたので私たちもあとに続いた。彼がドアを開けると、年かさの女が走り出て立ちふさがり、彼を通すまいとした。しかし彼はその女もつきとばした。私たちはすぐ階段をかけ上った。
グラント・マンロウ氏はとっつきのあかりのついた部屋におどりこんだ。私たちもすぐ続いて部屋に入った。その部屋は気持よく、りっぱな家具もととのっていて、二本のローソクがテーブルとマントルピースの上にともしてある。片すみの机にむかってかがみこんでいる少女らしい姿があった。
少女は、私たちが飛びこんだとき顔をそむけたが、赤い服をきて、白の長い手袋をはめているのはわかった。少女がふとふりむいたとき、私は思わず驚きと恐怖の叫び声を上げてしまった。
ふりむいた顔は異様な鉛色で、しかもその顔には全く表情がないのである。ややあって不思議は解かれた。ホームズが笑いながら子供の耳の後ろに手をやって、顔からお面をはずした。すると小さな真っ黒い少女の顔があらわれ、私たちの驚いた顔をおかしがりながら、白い歯をのぞかせて笑っているのであった。
私は少女がおかしがるのも無理がないと、思わず大声で笑い出してしまった。しかし、グラント・マンロウ氏はのどを手でつかんで、目をむいていた。
「いったい、こりゃどうしたというんだ?」彼は叫んだ。
「わけをお話ししましょう」落ちついてむしろ誇らしげに、部屋に入って来た夫人が言った。「あなたのおかげで、とうとう言わなければなりません。こうなった以上、私たちは最善をつくしましょう。私の前の夫はアトランタで死にました。でも私の子供は助かったのです」
「お前の子供だって!」
彼女は胸から大きな銀のロケットを取り出した。「あなたはこれがあくのをご存じないでしょう」
「僕はあくとは思わなかったよ」
夫人はバネを押して上ぶたをあけた。そこにはたいへん好男子で知性ありげなひとりの男の写真が入っていたが、その顔はアフリカ黒人の血をひいていることが明らかだった。
「これがアトランタのジョン・ヘブロンです。誰にも劣らぬりっぱな人です。私は人種なんて考えをふりすてて彼と結婚しましたが、夫の在世中いちどでも後悔したことはございません。ただ不幸といえば、ただひとりの子供が私よりも夫のほうの血筋を多くうけてしまったことなのです。こうした結婚では、これはよくあらわれることですが、ルーシーの場合、父親よりもっと黒いのです。でも黒くても白くてもルーシーは私のかわいい娘です。私の愛する子供なのです」
少女はその言葉に夫人に走りより、その着物にすがりついた。
「私が娘をアメリカに残して来たのは、そのころこの子は体が弱くて、変わった土地へ行くとさわるだろうと思ったからなのです。そこで前に使っていた信頼のおけるスコットランド生まれの女中に世話を頼んだのです。でも私は娘を手ばなすつもりは毛頭ありませんでした。ところがジャック、あなたと会って愛し合うようになってから、子供のことを言うのがこわくなったのです。神様お許し下さい。私はあなたに捨てられるのがこわくて言えなかったのです。あなたと子供とどちらかを選ぶ段になって、私は心弱くも娘にそむいてしまいました。
三年というもの、私は娘のあることをかくして来ました。でも乳母からの便りで、娘は元気で大きくなっていることは知っていました。そしてとうとう私はもういちど娘に会いたいという欲望に駆られ、ずいぶんその気持と争ったのですが、負けてしまいました。
私は危険は知っていましたが、数週間だけのつもりで娘を呼ぶことにしたのです。私は百ポンドを乳母に送り、この家のことを教えてやりました。そこで私とは何の関係もない隣人として娘は来ることができたのです。
私は昼間は子供を家の中におくこと、そしてたまたま窓からでも見た人が、あたりに黒人の子供がいるなんていいふらさないよう、顔や手をかくすようにできる限り注意しました。私はこんなに気をつかわなかった方がよかったのかもしれません。でもあなたに本当のことを知られるのがこわさに半狂乱だったのです。
この家に人が住むようになったとはじめにおっしゃったのはあなたでした。私は朝まで待つべきでしたが、興奮してしまって眠れず、とうとうあなたの眠りの深いのをよいことに、ぬけ出したのです。でもあなたは私の出かけるのを見つけてしまい、気苦労がはじまりました。
翌日、あなたは私の秘密を許して追求の手をゆるめて下さいました。しかし三日の後にはあなたが表口から飛び込んでおいでになったので、乳母と子供をやっとのことで裏口から逃げさせました。そして今晩あなたはとうとうすべてをお知りになりました。さあ私と娘はいったいどうしたらよろしいのでしょう」
夫人は手をにぎりあわせて夫の返答を待った。グラント・マンロウ氏が沈黙を破るまでの二分間は長い時間だった。そして彼が返答した言葉は今思い出しても快いものであった。彼は娘を抱き上げで接吻し、そして彼女を抱いたまま、一方の手を妻のほうにさしのべてドアの方に向かった。
「家でゆっくり話をしようよ」彼は言った。
「僕はあまりりっぱな男じゃなかったな、エフィ、でもお前が考えていたよりは少しはましな男かもしれない」
ホームズと私は彼らに従って小道を下って行った。そしてホームズは私の袖をつかまえて言うのだった。
「ノーベリイにはもう用はないさ。ロンドンへ帰ったほうがよさそうだぜ」
彼はこの事件についてその夜おそくまで何も言わなかったが、ローソクに火をともして、もう寝室に入ろうというときになって言った。
「ワトスン君、僕が何か自分の力を過信したり、何か事件に骨折りをおしむようなようすが見えたら[ノーベリイ]とささやいてくれないか、そうしてくれればたいへんありがたいよ」
株式仲買店員

結婚して間もなく、私はパディントン区で患者の縄(なわ)張(ば)りを買った。老ファークア氏から買いとったのだが、彼は一時は全科開業医として、はやっていた。だが、なにせ年も取り、持ち前の舞踏病がたたって、患者の数はめっきり減ってしまった。
世間の人というのは、むりもないのだが、他人をなおす者は、まず自分が無病でなければならぬという原則にこだわるもので、自分の病気を自分でなおせないような医者に不信の目を向けるのも、いたしかたないのだ。かくて、この老医師が病弱になってから、しだいに家業は傾き、私が買ったときは、年に千二百ポンドあった収入が、三百ポンド少々になってしまっていた。しかし、私は、自分の若さと精力に自信を持ち、数年のうちには、以前と同様の繁栄を取りもどせるものと信じていた。開業して三か月間、私は仕事にたいそう熱心で、わが友シャーロック・ホームズにはほとんど会わなかった。というのは、ベイカー街を訪問する暇などまったくなかったし、彼は彼で、職務上の仕事のほかはどこへも行かなかったからだ。それゆえ、六月のある朝、朝食後「英国医学雑誌」を読んでいたとき、呼鈴が鳴り、次いで甲高(かんだか)い、いくらかキイキイいうわがホームズの声に接して一驚(いっきょう)した。
「やあ、ワトスン君」部屋の中を大股で歩いて来ながら「君に会えてうれしい。奥さんが『四つの署名』事件で、多少興奮しておられたが、もういいのかい?」
「ありがとう。ふたりとも元気だよ」私は暖かく彼と握手した。
「この上は」と彼は揺り椅子にすわりながら、「医者の仕事にかかりきりになっちゃって、僕たちの推理問題に示した君の興味が消滅しないことを祈るばかりだね」
「どうしてどうして。ゆうべも僕の古いノートを調べて、これまでの業績を、いくつか分類したところなんだ」
「そのコレクションをおしまいにするというんじゃないだろうね」
「どういたしまして。そういった経験をまたしてみたいと思ってるんだよ」
「じゃ、たとえば今日なんかはどうかね」
「うん、君がよかったらね」
「バーミンガムまで行く気はあるかい」
「君が行くっていうなら、受け合うさ」
「お医者さんの方はどうする?」
「近所の医者が出かけるときは、僕がかわってやっているんだ。向うはいつでもその借りを支払わなきゃならんというわけさ」
「ほう、これはいとも好都合だね」ホームズは椅子によりかかり、半ば閉じたまぶたから、鋭く私を見て言った。「君は最近、体が悪かったんじゃないのか? 夏の風邪はちょっと苦しいものだ」
「先週三日ばかり、ひどい悪寒(おかん)がして、家にとじこもっていたんだ。でも今は少しもその形跡がなくなったね」
「そうだろうな。だいぶ健康のようだ」
「じゃ、どうして僕の病気がわかったんだい?」
「君は僕のやり方を知っているだろう」
「そいつを推理したというのか」
「そのとおりだ」
「じゃ、どういう点から?」
「君のスリッパだよ」
私は自分のはいている皮製のスリッパを一瞥(いちべつ)して、「いったい全体……」と始めると、ホームズは問いを待たずにこう答えた。
「君のスリッパは新しい。君は数週間前にはそいつを持っていなかったはずだ。君が現在、僕のほうへ見せている底を見ると、ちょっとばかり焦げているよ。瞬間、それがぬれたので、火でかわかすときに燃えたのかと思ったが、甲の近くに、商店のマークを書いた小さなまるい封緘紙(ふうかんし)がはってある。ぬれたのなら、むろんこれがはがれているはずだ。すると君は火のほうへ足を伸ばしてすわっていることになるが、普通の人ならば、健康なときに、いくらしめっぽいときとはいえ、六月にこんなことはしないだろう」
ホームズの推理は、どれもそうなのだが、いったん説明されてみると簡単なことだった。その気持を私の顔色から読み取ったのか、ちょっと苦笑いを浮かべて、
「僕というやつは、何かと説明しといちゃ、後になって損をしたという気がするんだ。原因を言わずに、結果だけを知らせるほうがずっと印象的なんだな。ところで君はバーミンガムへいつでも行けるんだね」
「うん。ところで事件と言うのはどんなのだい?」
「それは汽車の中で話すことにしよう。その依頼人が表の辻馬車の中にいるんだ。君はすぐ来れるかい?」
「ちょっと待ってくれ」
私は近所の医者に一筆走り書きして、急いで二階へ上って、妻にそのことを説明し、玄関に待っていたホームズのほうへ行った。
「隣りも医者なんだね」彼は真鍮(しんちゅう)の看板をあごでしゃくって言った。
「うん、彼も医院開業の株を買ったのだ」
「古い医院かい?」
「僕のところと同じくらいだ。両方とも、建ったときから医院なのだ」
「うん、それで君はいいほうを手に入れたんだね」
「僕もそう思う。でも、どうしてそれがわかるんだい?」
「階段だよ。君のほうは相手のより三インチばかり深くえぐれてるよ。さて、紹介しよう。馬車にいる方は、依頼人のホール・パイクロフトさんです。おい、馭者(ぎょしゃ)君、急がせてくれ、汽車の時間には、あとほんのちょっとしかないんだ」
私と向かい合った紳士は立派な体格の、率直で正直そうな顔立ちで、顔色もよく、縮れた黄色い口髭をちょりぴりはやしていた。よく光るシルクハットをかぶり、きちんとした、地味な黒服をきた、スマートな若い経済人だった……つまり、生粋(きっすい)のロンドンっ児(こ)で、義勇兵連隊を作ったり、この国のいかなる階級にも増して、りっぱな競技家や運動家を輩出している階級に属していた。
したがって彼のまるい赤らんだ顔は、しごく元気そうだったが、口の両端には、半ばおどけた、苦悩の表情が浮かんでいるように思われた。だが、一等車に乗り込み、バーミンガムへの旅に無事出発するまでは、シャーロック・ホームズの所へかけ込んだ彼の苦衷(くちゅう)なるものは、知り得なかった。
「ここからちょうど七十分はある。ホール・パイクロフトさん、あなたの興味ある経験談を、もういちど友人にしてやって下さい。できればもっと詳細にね。僕にとっても、重ねて聞くのは有益なんです。ワトスン君、この話はね、何かがそこで判明するかもしれぬし、あるいは全然なんでもないかもしれぬ事件なんだが、少なくも、異常な、常軌(じょうき)を逸した話なんだから、君にも面白いと思うよ。さあ、パイクロフトさん、もうお邪魔いたしませんからどうぞ」
この若い紳士は、私のほうへ目をしばたたかせて、次のような話をした。
「この話でいちばん残念なのは、私が途方もない馬鹿者になっていることなんです。もちろんいっさいはやがて判明するでしょうが、私としては、他にとるべき道があったとは思えないんです。でも仕事の口を失い、かわりの口も得られなくなると、つくづく自分に愛想をつかしたくなるものですね。ワトスン先生、私はあまり話がうまくないんですが、まあお話しいたしますと、こういうわけなんです。
私はドレイパース・ガーデンのコクソン・エンド・ウッドハウスに勤めていたのですが、ご承知のように、春早々、ベネズエラ公債の暴落(ぼうらく)にあい、会社は逆様(さかさま)の大墜落(ついらく)をやっちゃったのです。私はそこに五年勤めておりました。でもとうとう破産したとき、コクソン老人は、りっぱな推薦状を書いてくれました。でもわれわれ店員二十七名が、いっせいに失業してしまったのです。私はあちこちと職を探しましたが、他の連中も私と同じ仕事を探していたのだからたまりません。私は長いこと遊んでしまいました。
コクソンの店では、週に三ポンド取っていました。それで私は七十ポンドばかり貯金もできましたが、それも間もなくはたいてしまい、とうとう方策もつきてしまいました。募集広告に応募しようにも、切手や封筒を買う金すらありません。私の靴は、事務所の階段をのぼり降りするのですりへってしまい、それでも、勤め口を見つけるあては全くなかったのです。
でも、とうとう私はモースン・エンド・ウイリアムズ商会に欠員を見つけました。これはロンバード街の大きな株式仲買店です。ロンドンの東中部方面は、あまりご存じではないと思いますが、これはロンドンのいちばん資産のある店だと言われているんです。応募者は手紙に限るとありました。私は推薦状と願書とを送りました。でも勤めさせてもらえるなんて当ては、全然しておりませんでした。折りかえし返事が来て、きたる月曜日にご来店あれば、容貌に不満のない限りすぐに採用すると言って来ました。物事というのはどうなるものか、ほんとうにわからないと思いました。支配人が山と積んだ書類の中へ手をつっ込んで、出て来た最初のものを取るのだと言う人もあります。ともかく私の番が回って来たのです。これほどうれしかったことはありません。給料はコクソンの店より一ポンド多く、それで仕事は変わらないのです。
さて、これから奇妙なことに出くわすわけですが、私はハムステッドを出た所で下宿をしていました。ポッターズ・テラス十七番が住所です。職が決まったという晩に、私は煙草をふかしてすわっていました。そのとき下宿のおかみさんが『経理士アーサー・ピナー』とある名刺を持って来ました。聞いたこともない名前ですし、何の用事だか想像もつきません。でももちろんお通しするように言いました。
入って来た男は、中肉中背で黒髪黒眼で、あごひげもまっ黒で、鼻のあたりにちょっと光沢がありました。快活なふうで、時間の価値を知っている者のように[てきぱき]と話しました。
『ホール・パイクロフトさんでいらっしゃいますね』
『そうです』私は彼のほうへ椅子を進めました。
『最近までコクソン・エンド・ウッドハウスにお勤めでしたね?』
『そうです』
『そして今度は、モースンのほうへいらっしゃるんですってね』
『そのとおりです』
『あなたが経理上の手腕をたいそうお持ちであると聞いております』
もちろん私はこれを聞いて喜びました。事務所の中ではいつも抜け目なくやっておりました。でもこんなふうに世間の評判になっていようとは夢想だにしませんでした。
『あなたはたいへん記憶がよいとか』
『まあ大体』私は謙遜(けんそん)して答えました。
『あなたは失業中、市況をずっとご覧でしたか?』
『毎朝見ておりました』
『なるほど、これが本物の精励(せいれい)というものですな。成功の道でもあります。失礼ながら、ちょっと試させていただけませんかな。エアシャーはどのくらいですか?』
『百五ポンドから、百五ポンド四分の一です』
『ニュージランド整理公債は?』
『百四ポンドです』
『ブリティッシュ・ブロウクン・ヒルスは?』
『七ポンドから七ポンド六シリングです』
『これはすばらしい!』彼は両手をあげて叫びました。『これは全く聞いたとおりだ。あなたは全くモースンの店員だなんてもったいない話ですよ』
こう強く言われて見ると、私もびっくりしました。
『でも他の人たちは、あなたほど私のことを大事に思ってくれませんよ。ピナーさん。この口を見つけるのだって、ひどく苦労したもんですよ。不満など少しもありませんね』
『何をおっしゃる。あなたは決してそれで満足していい人ではありませんよ。あなたの地位としちゃ適当じゃありませんよ。そこでちょっと私の相談に乗っていただかなくちゃならないのですが。もっとも私の提案にしたところで、あなたの才能にとっては十分なものではないのです。でもモースン商会のと比べると、闇と光のちがいですよ。そこでと。モースン商会へはいつおいでですか?』
『月曜日です』
『はあはあ。私はちょっと賭けてもよろしいんですが、あなたはそこへは行かないことになりますよ』
『モースンへ行かないんですって?』
『ええ。その日あなたは仏英金物株式会社の営業部長になるからです。この会社はフランスの町村に百三十四か所の支店を持っていますし、またブリュッセルとサンレモにひとつずつ支店を持っています』
これにはちょっと息をつまらせました。『私はいままでそんな会社を聞いたことがありません』と申しました。
『ごもっともです。資本は全部内々で出されているので、事業は静穏裡(せいおんり)に運ばれているというわけですよ。それに公開するにはちょっともったいないくらいでしてね。私の兄のハリー・ピナーが発起人でして、株の配分が終りますと、専務取締役に就任します。兄は私がこっちの事情に通じているのを知っていますし、そこによい人がいたら世話してくれ、若くて、活発な生気のあふれた人がいいというんです。そこへパーカーがあなたのことを話してくれ、こうして今夜ここへ参ったのです。はじめは残念ながら五百ポンドしか出せませんが』
『年俸五百ポンドですって!』私は驚きました。
『初めのうちだけですよ。でもあなたは代理店でなされる仕事の一パーセントの手数料をもらえるはずですよ。このほうが月給よりずっと多くなることは請け合いますよ』
『でも私は、金物については何も知ってないんですが』
『なんの! あなたは計算に明るいじゃないですか』
私は混乱してしまい、じっと椅子にすわっていることができなくなりました。でも突然、激しい疑惑におそわれました。
『正直に申し上げますと、モースンの年俸は二百ポンドですが、でも確実です。私は実際にあなたの会社をほとんど知りませんし……』
『なるほど。なるほど』彼は感にたえぬように叫びました。『これでこそ、わが社の社員となるべき人だ。もうかれこれ言う必要はありますまい。ここに百ポンドの小切手があります。もしあなたが私たちと仕事をするおつもりでしたら、これを受け取って下さい』
『結構なお話です。で、いつから勤めたらいいのですか?』
『明日一時にバーミンガムへ来て下さい。ここに兄あての紹介状があります。コーポレーション街一二六Bで兄に会って下さい。そこは仮事務所になっているんです。兄はいちおう取り決めたことを確かめるでしょうが、話はもう私たちの間でついているんです』
『本当に、どう感謝してよいかわかりません』
『どういたしまして。あなたは当然の報いを得たに過ぎないんです。そこでひとつふたつ、ちょっとした形式的なことを取り決めなきゃならんのですが、そこに紙がございましょう。どうぞそれにこう書いていただきたいんです。[余は、最低年俸五百ポンドをもって、仏英金物株式会社の営業部長たることを承認する者なり]』
求められるままにそうしますと、彼はポケットの中にそれを入れました。
『もうひとつお聞きしたいことがあるんです。モースン商会のほうはどうしますか?』
私は喜びのあまりモースン商会のことをすっかり忘れていました。
『では、断りの手紙を書きましょう』
『それが困るんです。私はあなたのことで、モースンの支配人と喧嘩したんです。私はあなたのことを問い合わせてみようとしたんです。すると向こうはえらく立腹しましてね。あなたをすかして会社から引き抜くんだろうとか何とか言って非難するんです。とうとう私も機嫌をそこねました。役に立つ人物ならもっと高給をやったらいいじゃないかって言ったんです。するとあの男は、君のところで高い俸給をもらうよりは、安くたって俺のところで働きたがってるんだっていいます。こっちはこっちで、五ポンド賭けてもいいが、こっちの話を持ち出せば、君のところへなんかもう二度と顔を向けようとはしないよと言ったんです。すると向こうは、言ったな、俺たちはあいつをどん底から拾い上げたんだ。そう簡単に去りはしないよ。そう言うんです』
『失礼な、まだ会ってもいないのに、とにかくもう考慮の余地はありませんよ。あなたがその方がいいとおっしゃるなら、もう断りの手紙など書きません!』
『よろしい。じゃ約束しましたね』椅子から立ち上りながら、『さて、私は兄にこんないい人を紹介できてうれしい。これが百ポンドの手形と紹介状です。コーポレーション街一二六Bですから、宛名をひかえておいて下さい。そして、明日一時が約束の時間ですから。ではおやすみ。幸運をお祈りいたしますよ』というのが、私たちの話し合った内容です。
ワトスン先生。私がこんな幸運に接して、どんなに喜んだかお察し下さい。私はこの幸運を抱きしめて、夜半まですわっておりました。
翌日汽車でバーミンガムへ行きました。まだ約束の時間にはたっぷりありました。私は新市街のホテルに荷物をおろして、指定の場所へ出かけて行きました。
まだ時間までに十五分ありましたが、たいした差でもないと思って入って行きました。一二六Bというのは、二つの大きな店舖(てんぽ)の間の通路でして、そこを通って行くと、石の回り階段があります。その上に会社や商売人の事務所があるんです。居住者の名前は壁の裾(すそ)のほうに書いてあります。でも仏英金物株式会社の名前はありませんでした。これは一杯くわされたんじゃないかと、びくびくして立っていますと、ひとりの男がやって来て私に話しかけました。前の晩やって来た男と似ていて、声まで同じでしたが、鬚(ひげ)をすっかりそっていて髪の毛もいくらか薄いようでした。
『あなたがホール・パイクロフトさんですか?』
『そうです』
『お待ちしておりました。約束の時間にはちょっと早うございましたね。私は今朝、弟から手紙をもらいましてね、何だかあなたのことを大そうほめてありましたよ』
『今、お宅の事務所を探していたところなんです』
『先週借りたばかりなんで、まだ名前を掲げてないんですよ。さあご一緒にお話いたしましょう』
高い階段の上まで彼について行きました。入って見ると、スレートの屋根の下に小さな汚ならしい空部屋が二つあり、敷物もカーテンもございません。私はピカピカ光ったテーブルや、その上で社員がずらりと仕事をしている大きな事務所を想像していたのでした。粗末な椅子が二つ、小さな机ひとつ、それに帳簿が一冊と紙屑箱……家具といえばそれだけのものをじっと見つめていたのです。
私がぼうぜんとしておりますと、相手の男は、
『失望なさらないで下さい。パイクロフトさん。ローマは一日にして成らず、ですよ。事務所はたいして映(は)えませんが、後立(うしろだ)てには豊富な資金があるんです。どうぞおすわりになって。手紙を見せていただきましょう』
私は紹介の手紙を渡しました。すると彼はひどく注意深く見て、
『弟のやつ、あなたに相当魅力を感じたらしいですね。あれは、あれで相当鋭い目を持っているのですよ。弟はロンドンを信用しますが、私はバーミンガム党なんです。でも今度は、弟の忠告に従うことにしましょう。あなたを採用するのに確定しましたから、どうぞそのおつもりで』
『私の仕事というのは何ですか?』
『ゆくゆくは、パリの大倉庫を管理してもらいます。これはイギリス陶器をフランスの三十四の代理店に送りこむ仕事なんです。仕入れには一週間かかりますので、その間バーミンガムにいて、おおいに羽をのばして下さい』
『では、どうするんですか?』
これには答えずに彼は引き出しから、大きな赤い本を取り出しました。
『これがパリの人名簿です。名前の下に職業が書いてありますから、これを家に持って行って、金物商の住所を書き抜いていただきたい。これがあると大へん便利なんでして』
『たしか、職業別名簿というのがあるはずですが』
『それは信頼が置けないんでして、組織が僕らのと違うんでね。がんばって月曜の十二時に僕のところへ持って来て下さい。ではパイクロフトさん。まじめに知恵をしぼってやって下されば、会社だって黙っていませんからね』
私はその大きな本を小脇にかかえて、宿にもどりました。そして胸の中には矛盾した気持を持っていました。しかし一方、私は仕事にありついたわけですし、ポケットには百ポンド持っているんです。でもまた一方、事務所のようすや壁に名前の書いてなかったこと、実務家ならば誰でも気づくいろいろな点から、雇い主の地位に何かよからぬ印象を残したものです。だが、どんなことになろうと、私は金を握ったのだと思い、仕事に精を出しました。日曜日には仕事に没頭しましたが、月曜日になっても、まだHの部しかできません。私が雇い主のところへ行きますと、依然何もない部屋に彼がいました。今度は水曜日まで仕上げて来るように言いました。水曜日にもまだできませんでした。そこで私は金曜、すなわち昨日まで待ってもらって一所懸命にやりました。それができて、ようやくハリー・ピナー氏のところへ持って行きました。
『これはありがとう。こんなに苦労をかけるとは思いませんでした。これは至って便利なものでして』
『ちょっと手間どりました』
『さてと、今度は家具商の名簿を作っていただきたいんだが』
『承知しました』
『じゃ、明日の夜七時に来て、どのくらい進捗(しんちょく)しているか知らせていただけませんか。でもあまり無理なさってはいけませんよ。仕事の後なんかにデイのミュージック・ホールへ行って、夜の二時間やそこら楽しむのも結構なことですよ』
彼は話しながら笑っていました。そのとき、私は彼の左側の二番目の歯が、恰好(かっこう)悪く金が詰まっているのを見て、ドキッとしました」
シャーロック・ホームズは満足げに両手をもんでいた。私はわけがわからず、パイクロフトの方をじっと見つめていた。
「ワトスン先生が驚かれるのも無理ないんです。でもこれはこういうことなんです。ロンドンのピナーの弟と話したときですね。私がもうモースンの所へ行かないと言ったら、彼が笑ったんです。このとき見せた彼の歯が、これと同じ具合に詰まっていたんです。二度とも金のひらめきが見えたのです。声も姿も同じであること、あとは剃刀(かみそり)とかつらでごまかしているにすぎないと考えて見ますと、これは同一人物だと考えないわけにはゆきませんでした。
もちろん兄弟だから似ているとお思いでしょうが、似ているといっても同じ歯が同じ具合に詰めてあるなんて、考えられないことです。
私はお辞儀をして外に出ました。街路に出てから、どうしたものかと判断すらつかない始末でした。家にもどって洗面器に冷たい水をくんで、頭を冷やし、いろいろ考えて見ようといたしました。なぜ彼がロンドンからバーミンガムへ私を送ったのか。なぜ私に先回りして待ち受けていなければならなかったのか。なぜ自分から自分へ手紙を書いたのか。皆、手にあまる問題でした。まったく意味がつかめません。
そのとき突然、シャーロック・ホームズさんに頼めばはっきりしたことがわかるんじゃないかと思ったのです。私は夜行に間に合い、今朝ホームズさんにお会いして、こうしておふたりでバーミンガムまで行っていただくことになったのです」
株式仲買店員がその不思議な経験談を語り終ったあと、しばらく話がとぎれた。それからホームズはクッションによりかかって、彗星年(すいせいどし)の葡萄酒をひと口飲んだ鑑賞家のように、うれしそうな、批評的な顔でもってじろりと私のほうに目をくれた。
「ワトスン君、おもしろいじゃないか。僕にはうれしくてならない点がある。仏英金物株式会社でアーサー・ハリー・ピナー氏に会うっていうのは、僕らにとって愉快な経験になると思うがね」
「でも、どうやって会うんだい?」
「それは簡単ですよ」ホール・パイクロフトは気軽に言った。「あなたは私の友人で職を探していることにするんです。それで私がその専務取締役に紹介してあげることにしても、べつに不自然なことはありますまい」
「なるほど、無論そうです。その紳士に会って仕事がもらえるかどうか、頼んでみることだな。あなたの勤務を高く評価しているっていうのはどういうことから言っているのですか。それとも、これは何か……」
ホームズはそこまで言って爪をかみ、ぼんやり窓外に目をやっていたが、それからは新市街につくまで、彼からほとんど何の言葉も聞けなかった。
その晩七時に、私たち三人はコーポレーション街を会社のほうへ歩いて行った。
「時間前に行っても無駄ですよ。あの男はただ私に会うためにやって来るだけなんです。指定の時間までは、事務所はからですよ」パイクロフトは言った。
「うん、いわくがありそうだね」ホームズが言った。
「そら、私が言ったでしょう。あそこに歩いているのがそうですよ」
パイクロフトは向こう側の道路を急ぎ足で歩いている小柄な、白晢(はくせき)の、身なりのいい男を指さした。
私たちが見ていると、夕刊の最終版を呼び売りしている少年をみて、辻馬車や乗合馬車の間を走り抜けて一枚買った。それから夕刊を手にして、戸口のほうへ消えて行った。
「ああ、入って行きましたね。あの中に会社の事務所があるんです。さ、ご一緒に来て下さい。できるだけうまくやりますから」
彼のあとについて、五階まで上りました。すると目の前に半ば開いたドアがあって、パイクロフトはそれをノックした。中から「どうぞ」と言う声がした。
それで私たちは話に聞いたとおりの、何の備えつけもない部屋に入って行った。たったひとつのテーブルを前に、今街路で見かけた男が夕刊を広げてすわっていた。
入って来た私たちを見上げたとき、何かしら悲痛な面持……否(いな)、悲痛を通り越して、その生涯にめったに見られない恐怖の表情を見せていた。額は油汗で鈍く光り、頬は、魚の腹のように青く死んだようであり、目は物狂おしく大きく開かれていた。彼は初めパイクロフトを見ても誰だかわからなかったらしいが、パイクロフトのほうは、それを意外な感じで受け取ったようなので、いつもはこうではないのだと思った。
「お気分でも悪いのですか、ピナーさん」
「ええあまりよくないんです」ピナー氏は元気を取り戻そうと、乾いた唇をなめながら「あなたのつれていらしった方はどなたですか?」
「こちらはバーマンジのハリスさん、こちらはバーミンガムのプライスさんです」パイクロフトはよどみなく言った。「ふたりとも私の友人で、経験の豊富な人たちですが、ここしばらく失職しております。それで会社で何か使っていただけたらと思ったのですが」
「なるほどなるほど、何とかいたしましょう。で、あなたの特技とでも言うのは、ハリスさん」
「私は会計をやっておりました」ホームズが言った。
「ほう。ちょうどそういう人を欲しいと思っておりました。で、プライスさんのほうは?」
「私は事務です」とこれは私が答えた。
「何とか便宜(べんぎ)をはかるようにしましょう。決定しだいお知らせいたしましょう。でも今日はこれまでにして下さい。お願いだ。私はひとりきりになりたいのだ」
この最後の言葉は、あたかものしかかって来た圧迫にたえかねて、突然に爆発したように彼の口をついて出た。ホームズと私は互に顔を見合わせ、パイクロフトはテーブルのほうへ一歩進み出た。
「ピナーさん。あなたは忘れておられるようですが、私は約束どおりあなたから何か指示を受けに来たのですよ」
「そう、そうでした」ピナー氏は落ち着きを取り戻して「ちょっとここでお待ち下さい。お友だちにも待ってもらえぬはずはないでしょう。お願いできれば、三分ばかりちょっと失礼させて……」
彼は立ち上り、丁重にわれわれに一礼して部屋の隅のドアを押して行き、後ろをピタリとしめてしまった。
「どうしたのだ。僕らをまいたのかな?」ホームズはささやいた。
「それはできませんよ」パイクロフトは答えた。
「どうして?」
「あのドアは隣りの部屋に通じているだけですから」
「他に出口はないのですか?」
「ありません」
「家具やなんかは?」
「昨日はからっぽでした」
「じゃ、いったいどうしようというのかな。この点にわからないところがある。恐怖で三分(さんぶ)どおり顔が変になったというのは、あの男のことだが、なぜあんなに震えていたのだろう」
「われわれが探偵だと思ったのだろうよ」と私は言った。
「そうですよ」とパイクロフト。
だがホームズは首を振った。
「あの男は、われわれが入って[青くなった]のじゃない。すでに[青かった]のだ。すると、何だかこれは……」
そのとき隣りの部屋から急にドンドンと戸をたたく音がして、ホームズは口をつぐんだ。
「いったい自分の部屋をノックして、どうしようっていうんだ」パイクロフトは叫んだ。
ドアを叩く音はいっそう強くなってきた。私たちはそのとざされたドアのほうを、どうなることかとじっと見つめていた。ホームズのほうを見ると、彼の顔はかたくなり、ひどく興奮して、ずっと前のほうへのめる恰好(かっこう)になっていた。
突然、喉をゴロゴロ鳴らす音と木造部分を活発に打つ音とが聞こえてきた。ホームズは狂気のようにそのドアにぶつかっていった。中から鍵がかかっていた。彼にならって、われわれ三人は全力をあげてドアにぶつかった。初め蝶番(ちょうつがい)がひとつ折れ、ついでまたひとつ、ドアはパタリと倒れた。それを踏み越えて、次の部屋へ突進した。
部屋は空(から)であった。しかし、部屋の一隅に、私たちのいた部屋に近く第二のドアがあった。ホームズはそれにとびかかり、ぐっと引きあけた。
上衣とチョッキが床に落ちており、この仏英金物株式会社の専務取締役は首に自分のズボン吊りを巻いて、ドアの後ろの鈎(くぎ)に首をつっていた。膝を折り縮め、首を胸のほうへぐっと垂れ、ドアを自分の踵(かかと)で打ちつけていたのだが、それがさっき、私たちの会話を途切らせたものだったのだ。
すぐに私は彼の腰に手を回して抱き上げた。一方、ホームズとパイクロフトは、鉛色の皺(しわ)に食い込んだゴム入りのズボン吊りをはずした。それから私たちは彼を別室に運んだ。その顔は石板色を呈し、紫色の唇は、ひと息ごとにあえいでいる……これが五分前まではピンピン生きていた人間の痛ましい残骸(ざんがい)であった!
「ワトスン君、どうだろうか」とホームズがきいた。
私はしゃがんでしらべてみた。脈は弱く断続的であった。が、呼吸はだんだん長くなり、白く切れ目を見せていた瞼(まぶた)は少し震えていた。
「まさに一瞬のことだったが、もう大丈夫だろう。ちょっと窓をあけて、水さしを持って来てくれたまえ」
私は彼の襟元(えりもと)をひらいて、顔に冷たい水をあびせ、自然の長い呼吸をするまで、彼の腕を上げたり降ろしたりして人工呼吸をやった。
「もう時間の問題だ」私は彼のそばを離れた。
ホームズは手をポケットに深く入れ、顎(あご)を胸につけて、テーブルのそばに立っていた。
「こうなっては、巡査を呼んだほうがいいね。ただ僕からいっさいの事情を説明してやりたいんだが」
「私には、何とも不可解です」パイクロフトは頭をかきながら、「何のためにこんな所につれて来たのか、それに……」
「フフ、そんなことはわかっているんですよ。ただ最後の突然の動機が問題ですね」ホームズはじれったそうに言った。
「では他のことはわかっていらっしゃるんですか」
「はっきりそう言えると思います。ワトスン君。君はどうだい?」
「残念ながら理解できないんだ」私は肩をつぼめて言った。
「そうかね。初めっからの出来事を考慮に入れてみると、たったひとつの結論を示していると思うんだ」
「どういうふうにしてだい?」
「まずね。全体が二つの点にひっかかっているんだ。第一にパイクロフトさんに、このえらい会社に勤めますと宣言書を書かせたことだ。これがいかにも暗示的だと思わないかい?」
「その点がどうもわからないね」
「じゃ、なぜ彼らがパイクロフトさんに、そんなことを書かせようとしたんだい? こんな取りきめは口約束が普通で、とくにこの場合に限って例外だという理由などないはずだ。わかりませんか、パイクロフトさん。彼らはあなたの筆跡の見本をほしかったのですよ。ああやって取る他に道がなかったわけですよ」
「なぜ私の筆跡なんかをほしがったのでしょう?」
「そこですよ。なぜかということ。これに答えられれば、このささやかな問題を一段と解決に導くことになるんです。なぜでしょう。理由はひとつあるきりです。何者かが、あなたの筆跡をまねる必要があったのです。それにはまず見本が手に入らなくちゃならないんです。そこで今、第二の点を考えてみると、お互いに関連し合っていることがわかります。その第二の点と言うのは、あなたがモースンのほうへ辞職願を書くのを、ピナーがやめさせたこと、それで、モースンの支配人にホール・パイクロフトとかいう会ったこともない男が、月曜の朝事務所に来るものだと思い込ませたことです」
「そうだ。なんて僕は馬鹿だったんだ!」
「まず、筆跡のことを考えてみましょう。今誰かがあなたのかわりになってモースンへ行ったとしても、あなたが求人に応募したときの手紙の筆跡と違っていたら、もちろんすぐにばれてしまいますが、行く前にあなたの筆跡をまねておけば、その事務所であなたの顔を見た人とてないのですから、そのいかさま師は、パイクロフトと名乗ってもばれないですむわけです」
「そうです。誰も知っている人はいないんです」パイクロフトはうなった。
「そうでしょうね。むろんあなたにモースンのことをよく考えさせないこと、モースンの事務所にあなたのにせ者が働いていることを、あなたに知らすおそれのある人と交渉させないでおくこと、この二点がいちばん大切なわけだったのです。そこであなたの俸給(ほうきゅう)の前渡しを十分出して、彼らのからくりをばらせるおそれのあるロンドンへ行かせないようにしたわけです」
「でもなぜその男は、兄になったり弟になったりしたんでしょう?」
「うん、これもまた明らかなことです。この事件には二人の人間が関係しているのです。ピナー氏と、モースン商会であなたになりすましている男です。ピナー氏はあなたと契約したが、あなたを雇い主に会わせなくちゃならないし、だからといって、第三の男を自分の計画に入れることを好まなかった。そこで彼はできるだけうまく変装して、それをあなたに見分けられるといけないと思って、兄弟だから似ているのだと言い含めて、言い逃れしようとしたわけです。たまたま金の入れ歯というものがなければ、あなたは何も疑わずに終ったでしょう」
ホール・パイクロフトは握りこぶしを振って叫んだ。 「ああ、私がこんな馬鹿な目にあわされている間に、もう一人のホール・パイクロフトはモースンで何をしているんだろう。ホームズさん、これはどうしたらいいのでしょう。ねえ、どうしたらよいか教えて下さい」
「モースンへ電報を打たなきゃなりませんね」
「でも土曜日は半ドンですよ」
「大丈夫です。門番か宿直がいるでしょう」
「あ、そうです。保証金を保存してあるので、いつでも守衛がおります。そんな市中の噂話(うわさばなし)を聞いたことがあります」
「では、電報を打って、安全かどうか、あなたの名前で働いている店員がいるかどうか、問い合わせて見ましょう。この点、私の推測どおりだと思いますが、わからないのは、私たちを見るや否(いな)や、この男が急に部屋から飛び出してなぜ首をつったかということです」
そのとき背後にうめき声が聞かれた。
「新聞!」
見ると例の男が、すわっていて、幽霊のように青ざめているが、目は正気を取り戻して、喉(のど)のまわりの幅広く赤くはれたあとをなでていた。
「新聞! そうだ」ホームズは飛び上がって叫んだ。「なんと間抜けだったんだ。あの男に会うことにはあんなに頭を使いながら、新聞のことはちっとも気がつかなかった。確かに秘密はその新聞にあるんです」
彼はピナーの持っていた例の新聞をテーブルからとり上げると、勝ち誇った叫びをあげた。
「見たまえ、ワトスン君。これはロンドンの新聞で『イヴニング・スタンダード』の早版だよ。ここに事件が出ている。見出しを読んでみようか。……市の犯罪。モースン・エンド・ウイリアムズ商会の殺人。不敵の強盗捕わる。……ね、ワトスン君。皆このことを聞きたがっているんだから、大きな声でひとつ読んでくれないか」
それはトップ記事だったから、今日第一番のビッグニュースなのであった。その記事はこうである。


今日午後、市で凶悪な強盗が現われ、守衛ひとりを射殺したが捕えられた。著名な株式仲買店であるモースン・エンド・ウイリアムズ商会は、以前から総額百万ポンドを越す金額の保証金を保管していたが、責任者は、危機にそなえて、この大財産を守るため最新式構造の金庫を用い、武装した監視人を日夜警戒にあたらせていた。
先週、ホール・パイクロフトという新店員を会社に雇い入れたが、それは偽名で、実はベディントンといい、有名な偽造および強盗常習者であって、兄とともに懲役五年の刑を終えて、出所したばかりである。方法に不明な点があるが、偽名を用いて店員の地位を取得し、種々の鍵の型を手に入れ、金庫室や金庫の位置を調べるのに利用していた。土曜の午後はモースン商会は普通半ドンなのである。
市警察のツースン巡査部長は一時十二分にひとりの紳士が古風な手提げ鞄(かばん)を持って同商会から降りて来るのに不審をいだき、これを尾行し、ポロック巡査の応援を得て、大格闘の末、これを逮捕するのに成功した。取り調べの結果、大胆不敵の強盗犯人と判明した。十万ポンドに近いアメリカ鉄道会社の債券をはじめ、その他鉱山、諸会社の多額の株券が鞄の中から発見された。
同社構内を調べた結果、守衛の死体が二重になって、いちばん大きな金庫の中に投げ込まれていた。もしもツースン巡査部長の敏速な活動がなかったら、月曜の朝まで発見されなかったであろう。
守衛は頭蓋骨(ずがいこつ)を背後から鉄棒でなぐられていた。ベディントンは忘れ物をしたような格好で部屋に入り、守衛を殺してから、急いで大金庫を強奪して証券類を持って逃走をはかったものとみられる。ベディントンは兄と共に仕事をするのが普通である。当局はその所在を追及中だが目下のところ、兄のほうは、今回の犯行に関係ないものと確認されている。


「なるほど、その方面ではあるいは当局の手数をはぶけそうですね」
ホームズは窓ぎわにうずくまっている、やつれたピナー氏を見やって、「人間の本性というものは奇妙な混合物だね、ワトスン君。人殺しの凶悪漢でも、自分の兄弟が捕縛(ほばく)されたと知っただけで自殺しようという愛情を示し得るんだね。でもわれわれは、やるべきことをしなくちゃならない。ワトスン君と僕とはここで番をしているから、パイクロフトさん、あなたは巡査を呼んで来て下さい」
グロリア・スコット号

「こんな書類があるんだがね」
ある冬の夜、暖炉(だんろ)の火をはさんですわっているとき、ホームズが話しはじめた。「一見に価するもんだと思うよ、ワトスン君。グロリア・スコット号事件といってね、一風変わったやつの文書なんだよ。この手紙が、一読、治安判事のトリヴァを驚死(きょうし)せしめたという代物(しろもの)なんだ」
彼はひきだしから、黄色に変色した紙の巻いたのを取り出して、その紐をほどきながら何やら走り書きしてある灰色の紙の半片を私に差し出した。


万 一 不調なれば 事 業 しばらく 休、山猟の 獲物 全て ロンドンへ 送った。ハドスン 飼育の、雌雉(めすきじ)を ばらした。蝿取紙(はえとりがみ)の 受注 生命 がけで がんばったが、危い。主管理人 入金して 逃げよ と語る。


この謎みたいな文面から顔を上げると、ホームズは私の顔を見ながら、くすくす笑っているのだった。
「いささか当惑したようだね」彼が言った。
「どうしてまた、こんな手紙が恐怖を起こさせたのか、僕にはわからんね。ただ奇怪な手紙というだけのことじゃないか」
「そうさ、しかし事実は、これを読んだ老人は、りっぱな、しっかりした人物だったのに、まるでピストルの台尻でたたきのめされたように、すっかり参ってしまったんだ」
「何だかおもしろそうだね」私が言った。「だけど、とくにこの事件を僕が研究してみる価値があるといったが、どうしてだい?」
「それは、僕が初めて手がけた事件だからさ」
私は、私の友の心をはじめて犯罪の捜査に向けさせたものは何か、それを聞き出してやろうと、何度か試みてきたのだったが、いつも巧みな冗談にまぎらされて、成功しなかった。そして今、彼は肘掛椅子(ひじかけいす)にすわって、膝の上にその記録をひろげているのである。
それから、彼はパイプに火をつけて、しばらく煙を吹かしたり、書類をひっくり返したりしていたが、
「ヴィクター・トリヴァの話は、まだしてなかったかね?」ホームズがきいた。「ヴィクターは、僕がカレッジにいた二年間で得た、ただひとりの友だちなんだ。ワトスン君、元来僕は人づきあいの悪い男でね、そのころも、自分の部屋にくすぶって、独りよがりのつまらん思索にふけるのが好きだったんだ。だもんで、同学年の連中とほとんどつきあわなかったんだよ。フェンシングやボクシングなどの競技にも関心はなし、しかも、ほかの連中とは研究の方向がまるで違うし、全く接触する機会がなかったわけだ。知ってる男といえば、ヴィクターが唯一だったが、これとは奇妙な縁でね、ある朝、チャペルへ行くとき彼のブルテリヤが僕のくるぶしにかみついたということがもとでね。
友情をかわすには散文的な方法だったが、なかなか効果的だったよ。おかげで、十日間も床についていたが、その間、よく見舞にやって来てくれたよ。はじめは、二、三分しゃべっていくだけだったが、だんだん、それが長くなって来て、その学期の終りころには、僕らはもう親しい友だちになっていた。彼は気のいい、血の気の多い男で、全身これ意志と精力といったふうで、あらゆる点で僕と対照的だった。しかし、ふたりには共通な点もあることがわかっていた。そして、彼も僕と同様、友だちがないんだと知ってからは、それがふたりを結びつける絆(きずな)となったんだ。ついに彼はノーフォーク州のドニソープにあるおやじの家に私をよんでくれたので、僕は喜んで夏休みの一か月を彼の田舎でお世話になった。
トリヴァのおやじというのは、たしかに、相当な財産もあり、地位もある人で、治安判事の職につき、また地主でもあった。ドニソープというのは、ブローズ郡でも、ラングミアの真北にある小さな村なんだ。[しな]の木の並木道を通ってゆくと、家は古風で横にひろがった造りで、梁(はり)には樫(かし)材を使った煉瓦(れんが)建てだった。沼地にはすばらしい野鴨(のがも)の猟場があり、魚釣りに好適の釣り場もあり、たぶん、前の地主から引きついだと思われる、小規模ながらよくととのった図書室もあり、さらになかなかうまいコックもいて、ここで一か月愉快に過ごせないやつは、よっぽどの気むずかし屋だ。
トリヴァ老人は男やもめで、僕の友人はひとり息子だった。娘もいたそうだが、バーミンガムへ行ってて、ジフテリアにかかって亡くなったんだそうだ。この父親なる人物には僕も大いに興味を覚えた。教養はあまりないが、精神的にも肉体的にも、野性的な力は相当もっている人物だった。本のことなどあまり知らなくても、広く旅をしており、世情に通じ、いちど知ったことは、決して忘れなかった。身体つきは、ふとっていてがっちりした男で、半白の髪はもじゃもじゃはえており、風雨にさらされた顔には、青い鋭い目が獰猛(どうもう)なくらいに光っていた。それでもこの地方では寛大で、慈悲深い男として、評判がよく、判事として、その判決の寛大さは有名だった。
着いてから間もないある晩のこと、食後の葡萄酒を前にしてくつろいでいると、友のトリヴァが、もうそのころから本物らしく体系化していた僕の観察の習慣や推理癖のことを話しはじめたのだ。もちろん、これが僕の生涯にどんな役割を演ずるようになるかは、まだ僕にはわかってなかったんだがね。老人はむろん、僕が一、二度やってみせたつまらんことを、息子が大げさに話しているんだと思い込んでいたんだ。
『そいじゃホームズ君』と彼は上機嫌に笑いながら、『君の推理力を試すなら、わしは絶好の対象じゃ。やってみなさい』
『たいしたこともできないでしょうが』と、僕は応じて、『この十二か月くらいのあいだに、あなたは誰からか襲われはしないかと、びくびくしてらっしゃるようなことはありませんか?』
老人の口もとから、笑いは消えて、彼はびっくりしたように僕の顔を見つめるのだった。
『ふむ、たしかにそうですな。そうだな、ヴィクター』と、息子のほうを見やるのだ。『例の密猟者どもを追い散らしたとき、あいつらは、きっと刺し殺してやる、と凄味(すごみ)をきかせやがったんじゃ。事実、エドワード・ホウビーさんが襲われとるんでな。それからというものは、いつも用心しとるんじゃが、それが、どうしてあんたにわかったのか、わしには見当がつかんが……』
『たいへんりっぱなステッキをお持ちになっていらっしゃいますが』僕が答えた。『その彫刻を見ていますと、まだ一年とはたっていないようです。しかも、わざわざ頭に穴をあけて、鉛を溶かし込んであるのは、それを強力な武器とするためでしょう? なにか危害でも受ける怖れがなければ、そんな用心などしないもんだと思いました』
『それだけですかな?』微笑しながら、彼が言った。
『お若いときには、ボクシングを相当おやりになったですね』
『また、あたりましたな。どうしてわかりましたかな? なぐられて、わしの鼻が少々曲がってでもいるのかね?』
『いいえ、両方の耳です。ボクシングをやった人の耳は平べったくて、厚くなるものなんです』
『ほかにはありませんかな?』
『ずいぶん採掘(さいくつ)をなさったですね、そのたこでわかります』
『わしの財産は全部、採金場で得たもんじゃ』
『ニュージーランドにいらしたこともあります』
『また当りましたな』
『日本へもお出かけになった』
『そのとおり』
『イニシァルがJ・Aの人と親しくつきあっていらしたが、今では、まったく忘れてしまいたいと思っていらっしゃるはずです』
トリヴァ老人は大きな青い目で、不審げに、いや狂暴なくらいに僕を見すえたまま、ゆっくり椅子を立ち、テーブル掛けの上に散らかっている胡桃(くるみ)の殻の中に顔をうつ伏せてしまった。
ワトスン君、そのときの僕らふたりの驚きようは、君にもわかるだろう。しかし、彼はそう長い間、気を失ってたわけじゃないんだ。ふたりで彼のカラーをゆるめて食卓用の指洗い鉢の水を顔にふりかけてやると、二、三度息をついてから、身を起こした。
『ああ』老人は無理に笑顔をつくって、『びっくりしなくてもいいんだ。わしは丈夫そうに見えるが、妙に気が小さいところがあってな、くたばらせようとするなら、造作はない。ホームズ君はどうしてわかったのかしらんが、本職だって、小説に出てくる探偵だって、あんたにかかっちゃ、まるで子供同然だわ。あんたはこれで身を立てるんじゃ。いいかな、いくらか世の中を知っとる者の言うことじゃ、信用なさるがいい』
こうして、僕の才能を買いかぶって、ほめちぎってくれた言葉が、今まで単なる道楽としか考えていなかったこの仕事が、職業として成り立つことに気がつく最初の動機となったのだ。しかし、そのときはこの老人の急病に驚いたあまり、そんなことを考えつく暇もなかったのだ。
『僕の言ったことが、気にさわったんじゃないでしょうか?』僕が言った。
『そう、どうやら痛い所をやられたようじゃな。だが、どうして、おわかりか、どこまで見抜きなすったか、わしに聞かせて下さらんか?』
なかば冗談のようでもあったが、その目の奥には依然として恐怖の色がひそんでいた。
『わけもないことです』と僕は言った。『あの魚をボートにあげようとして、あなたは腕まくりなさったですね、あのとき、肘(ひじ)にJ・Aという文字の刺青(いれずみ)を見たんです。文字は読めましたが、それがぼやけていることといい、その回りの皮膚に[しみ]がついていることから推(お)して、刺青を消そうとなすった跡だと見てとりました。だからこの頭文字は、かつては親しかったが、その後で忘れようとなすった人のものだということが、はっきりわかります』
『なんと目のはやい人じゃろ?』と叫んで、彼はほっとひと息ついた。『まったくそのとおりじゃ。だがこの話は、もうやめにしよう。同じ亡霊のことでも、やはり、古いなじみの亡霊がいちばん悪いわ。玉突き場へでも行って、ゆっくり葉巻でもやりましょうや』
その日以来、トリヴァ老人の僕に対する親切さには、いつも何か僕に疑いを抱いている素振りが見られるのだった。息子でさえ、こんなことをいったくらいだ。
『君はおやじを変えてしまったようだね。君がどこまで知っているか、確かめるのを諦(あきら)めたようだよ』とね。
おやじさん自身は、そんな素振りなどしはしなかったが、内心、ただごとではないらしく、何かにつけて、それがあらわれてくるのだった。とうとう、僕のいることが彼に不安を与えるんだろうから、そろそろ引きあげた方がいいと考えはじめた。
ところが帰る前の日になって、事件が起きたんだ。これが結局は重大な意味をもっていたのだ。

僕ら三人は庭の芝生の上に椅子を持ち出し、日差しを浴びながら、遠くの湖沼地帯の景色を楽しんでいた。そこへ女中がやって来て、トリヴァ氏に会いたいという男が玄関に来ているとつげた。
『お名前は?』と主人がきいた。
『おっしゃらないんです』
『何用かね?』
『会えばわかる、ただちょっとお話ししたいことがある、とおっしゃいます』
『お通ししなさい』
まもなくそこに現われたのは、しなびたような小男で、卑屈な物腰で、ひょくひょく歩いて来た。前の開いたジャケットの袖口には、コールタールのしみがついている。下には赤と黒の縞(しま)のシャツをのぞかせ、厚地の粗(あら)い木綿のズボンに、ひどくいたんだドタ靴をはいていた。やせた、茶色の顔は狡猾(こうかつ)そうで、いつも笑っている口もとから、不揃(ふぞろ)いの黄色い歯がのぞいている。そして、しわだらけの手を握りしめているところは、水夫独特のものだ。その男が前かがみになって芝生をこっちへ歩いてくると、トリヴァ老人は、しゃっくりでもするような音を出して、そのままベンチを立って、家のなかへ走り込んだ。すぐ帰って来たが、近くへくると、プンとブランディーの強い匂いが僕の鼻についた。
『ところで、何用ですかな?』
水夫あがりの男は、立ったまま、目にしわをよせて老人を見つめた。口には薄笑いを浮べたままである。
『おれを忘れたんですかい?』男はいった。
『ああ、たしかにハドスンだな!』老人はひどく驚いたようだった。
『そうとも、ハドスンでさあ』と水夫がいった。『あれからもう三十年にもなるからな。ところで、お前さんは、ここに、でんとした家を構えているが、おれときた日にゃ、いまだに、塩物桶(おけ)から塩づけの肉を食ってる始末さね』
『これっ! わしはあのときのことを忘れてはおらん! いまにわかるがの、それが』
老人は水夫のそばに歩み寄って、今度は小声で何かいった。
『台所へ行ってみなされ』とまた大きな声になって、『飲むものも、食うものもあるじゃろう。そして、きっと職も見つけてやるからな』
『すんませんな』たれ下がっている髪に手をやりながら、水夫が言った。『八ノットの不定期船で二年の契約がきれて帰って来たところだ。何しろ人手不足だったもんで、おりゃ疲れてしまって、しばらく休みたいんだよ。それで、ベドウズ氏か、お前さんの所へ行けばどうにかなると思ってな』
『へえ、お前さんはベドウズ氏がどこにいるんか知っとるんかね?』
『気の毒ながら、昔の仲間なら、みんな居所ぐらい知ってまさあね』
そういって、薄気味悪い笑いを浮かべて、ひょこひょこ女中について台所のほうへ歩いていった。トリヴァ老人はそのあとで、あの男は自分が採掘場へ帰るときに同船した船員だと、はっきりしない口調で話してから、僕らを芝生に残したまま、ひとりで家のなかへ入ってしまった。
それから一時間ほどして、僕たちが家のなかに入ってみると、ハドスンは食堂のソファの上に死んだように酔っぱらって大の字に眠りこけていた。この事件は、僕の心に醜悪な印象しか与えなかった。だから、何も思い残すことなく、次の日にドニソープをあとにすることができた。僕がいたら、かえって迷惑になるだろうと思ったからだ。
これらのことは、みんな夏休みの最初のひと月の間に起こったんだ。僕はロンドンの自分の部屋に帰って、七週間のあいだ、有機化学の実験をやった。ところが秋もだいぶ深まって、長い休暇も終りに近づいたある日、友人のヴィクターから君の助言と尽力をお借りしたいから、もういちどドニソープヘ来てくれという哀願の電文を受け取った。もちろん僕は万事を放って、再度北のほうへ旅立ったのだ。
彼は二輪馬車で僕を駅まで出迎えてくれた。そのとき僕はひと目で、このふた月、彼がひどく悩んだのを見てとった。彼はやせこけて、やつれていた。かつては彼独特のものだった大仰(おおぎょう)で快活な態度は、もうなかった。
『おやじが死にそうなんだ』出会いがしらにこういうんだ。
『まさか!』と僕は叫んだ。『どうしたんだ、いったい?』
『卒中だよ。神経にガツンと来たんだよ。いつ死ぬかわからない。果たして臨終に間に合うかどうか』
察してくれたまえ、ワトスン君、全く予期しなかったしらせに、僕はびっくりしてしまったよ。
『原因は何だい!』
『ああ、そこなんだよ。とにかく乗れよ。馬車を走らせながらお話ししよう。君も覚えているだろう? あの、君が帰る前の晩ころがり込んで来た変な奴のことさ』
『もちろん忘れはせんさ』
『あの日、うちへ入れた人間はいったいなんだったと思う?』
『何だというんだ?』
『悪魔だったんだよ、ホームズ君!』彼は叫んだ。
僕はびっくりして、彼を見つめたままだった。
『そうなんだ。悪魔だったんだ。あれ以来、一時(いっとき)として、わが家に平和はなかった。全く一刻たりとも。あの晩以来、おやじは頭があがらない、とうとう生命までも取られることになってしまった。胸をかき破られる思いだったんだ。これもみな、あのハドスンの野郎のおかげだ!』
『で、彼はどんな力をもってるんだい?』
『ああ、わからんのだ、どうかしてそれが知りたいと思ってるんだ。人のいい、親切ないいおやじなのに、それがどうしてあんなならず者の魔手にかからなければならないんだ? ホームズ君、ともかくよく来てくれた。君の判断力と分別を信頼してるよ。また君が最善の忠告を与えてくれることを期待してるんだ』
馬車は、白い平坦(へいたん)な田舎道を走りつづけていた。前方には湖沼の一端がひらけて、折からの赤い夕日に光り輝いていた。左手に見える茂みの上に、高い煙突や旗竿(はたざお)など、判事の家の目じるしが見えはじめた。
『おやじはあいつを園丁にしたんだよ。でもそれじゃ気に入らないというんで、執事(しつじ)になってしまった。家中はあいつの思いのままで、ところ構わず歩き回っては、したいほうだい。女中たちは、酒癖が悪くて、言葉が下品だといってこぼす。だもんで、おやじはみんなの給料をあげて、目をつぶってもらった。あいつはおやじの一番いい猟銃を持ち出して、勝手にボートを使って、ひとりきりの狩猟会をきめこんだりするんだ。おまけに、あざけるような、下品で傲慢(ごうまん)な顔でやるんだよ。もしあいつが僕と同年配ぐらいだったら、二十ぺんも横っ面(つら)をなぐりとばしてやりたいところだ。ホームズ君、とにかく僕は、そのたびごとに我慢していなけりゃならないんだ。しかし今になってみると、もっときびしくやっていたほうが賢明じゃなかったかと思うんだがね。とにかく事態はますます悪化するばかりだ。ハドスンの野郎はいよいよ横暴になってきた。
とうとう、ある日のこと、ぼくのいる前で、おやじに対して、失礼きわまる口答えをしたから、奴の肩をつかまえて、外へ突き出してやったんだ。すると、あいつ、顔を土色にして、こそこそ逃げ出していったが、そのときの恨みがましい両の目は、どんなおどし文句よりも、脅迫的だったね。
その後、おやじと奴の間にどんなやりとりがあったか知らないが、翌日、おやじが僕の所へきて、ハドスンにあやまってくれ、という。もちろん、君はわかってくれるだろうが、僕はいやだ、といった。そして、なぜあんなやくざを家の中までのさばらせておくのか、とたずね返してやった。
すると、おやじがいうには……お前がそう言うのも無理はない。しかしお前は、わしがどんな立場に置かれているか、知らないのだ。でも、わかるときが来るだろう。わかるようにしてあげよう、どういうふうになるかわからんが。この年とった父さんが、どんなひどい痛手を受けたか、お前にはわからんじゃろうな、うん?……おやじはひどく興奮して一日じゅう書斎に閉じこもっていたが、窓から見ると、何やら忙しくペンを動かしていた。
その晩、ハドスンがこの家を出て行く、と言い出したので、われわれは肩の重荷を降ろしたように、ほっとした気持になれた。夕食が済んで、まだわれわれがテーブルについているとき、奴は食堂へやって来て、いささか酔のまわった[だみ]声で、仰々しくこんなふうに意向を発表するんだよ。
……もうノーフォークはたくさんだ。だから今度はハムプシャーのベドウズ氏のところへ行く。彼もまた、お前さんたち同様に、おれを歓迎してくれるだろう、と思う。
……気を悪くして、行くんじゃないだろうね、ハドスン?……その声のやさしさといったら、聞いてて、はらわたの煮(に)えくりかえる思いだった。
……おりゃ、まだわびごとを聞いちゃいねえな……と怒ったような面をして、僕の方をちらっと見るんだ。
……ヴィクター、お前はこの方に失礼な態度をとったとは思わんかな?……とおやじは僕の方を向いた。
……それどころか、僕たちは、あまり我慢しすぎたと思いますよ……と僕は答えたんだ。 ……こいつ! よくもぬかしやがったな、小僧め! ようし、覚えてろ……奴はどなりながら、よろよろ部屋を出ていったが、三十分ばかりして、おろおろしているおやじを残して、家を出ていったんだ。
それから毎晩、おやじの部屋から、こつこつ歩き回る音が聞えていたが、おやじもようやく自信をもち直し始めた、そのときに、とうとう今度のことで、がん、とやられたんだ』
『どんなふうに?』と僕が熱心にきいた。
『それが思いも及ばないような状態でね。きのうの夕方、フォーディンブリッジの消印が押してある手紙が一通、おやじ宛に舞い込んだんだ。おやじはそれを読むと、両手で頭をたたきながら、部屋のなかを、小さな輪をかいて歩き回り出したんだ。まるで気違いみたいにね。しようがないから、ソファの上に落ちつかせると、口とまぶたとを片方にひきつらせてしまった。こりぁ卒中(そっちゅう)だな、と思った。医師のフォーダム氏がすぐ駆けつけてくれて、ふたりでベッドに運び込んだが、麻痺(まひ)はひろがって、意識を回復するようすも見えない。僕たちが着いたら、もう息を引きとってた、なんていうんじゃないだろうか』
『おそろしい話だね、トリヴァ君。そんな怖しいことになるなんて、いったい手紙に何が書いてあったんだい?』と僕が大きな声を出した。
『何ってことはないんだよ。だから説明のしようがないんだ。ばかげた、つまらんことが書いてあるだけだ。ああ、神様、やっぱり思ってた通りだ!』
彼がこういったとき、馬車は曲がり角にさしかかったので、ヴィクターの家の鎧戸(よろいど)が全部おろされているのが、薄暗がりのなかに見えた。ふたりが玄関へ駆けつけると、中から黒い服を着た紳士が出て来た。友の顔は苦痛にひきつったように見える。
『先生、いつでしたか?』トリヴァがきいた。
『あなたが出かけるとすぐでした』
『その前に意識を回復しましたか?』
『ご臨終まえに、ほんのちょっと』
『僕に何か遺言はありませんでしたか?』
『書類は日本箪笥(たんす)の奥のひきだしにあるとだけおっしゃいました』
友は医者と一緒に父親の臨終の部屋へ上っていった。僕は書斎にのこって、事件のすべてを繰り返し考えては、憂鬱(ゆううつ)な気持になるばかりだった。このトリヴァという人物の過去とはどんなだろう? ボクサー、旅行家、それから金鉱採掘者。何でまた、あのしょっぱい顔をした水夫風情(ふぜい)の言うままになったんだろう? どうしてまた、半分消えかかった頭文字のことをちょっと言っただけで気を失ったりしたんだろう? しかもフォーディンブリッジからの手紙を読んで、恐怖のあまり文字どおり死んでしまうなんて?
そのとき、フォーディンブリッジというのはハンプシャー州にある村だということを思い出した。ハドスンが訪ねていった、いやおそらくゆすりに行ったベドウズ氏というのは、そこに住んでいるという話だった。すると、手紙はハドスンから、トリヴァ氏に旧悪でもあって、それをあばいて来たのか、あるいはベドウズから、昔の仲間に、そういう裏切りの危険があると知らせて来たのかもしれない。そこまでは確かだ。しかし、そうならば、なぜその手紙は息子の言うように、つまらぬものなんだろう。きっと彼には読みとれなかったに違いない。もしそうなら、これは、一見なにかべつの意味があると見せかけて、実は巧妙に仕組まれた暗号で書かれてるに違いない。よろしい、もしそれが隠された意味の暗号であるなら、それを解くくらいの自信はある。
まる一時間も暗がりのなかで、繰り返し考え込んでいたら、女中が泣きはらした目をして、ランプを持って来た。すぐ後から、ヴィクターが青ざめてはいるが、決心した面持ちでその手紙……いま僕の膝の上にあるこの手紙を握って入って来た。そして僕の向かいにすわり、ランプをテーブルの端に引きよせ、走り書きのメモを僕に渡した。
それが、ご覧のように、この灰色の紙さ。


万 一 不調なれば 事 業 しばらく 休、山猟の 獲物 全て ロンドンへ 送った。ハドスン 飼育の、雌雉(めすきじ)を ばらした。蝿取紙(はえとりがみ)の 受注 生命 がけで がんばったが、危い。主管理人 入金して 逃げよ と語る。


僕も、この手紙を読んだときには、君がいましたのと同じように、当惑したような顔をしたんだろうと思うが、さらにもう一度注意して読んでみた。それは明らかに僕が考えていたとおりで、この奇妙なことばの組み合わせの奥に、何か別の意味が隠されているに違いないと見た。それともまた、蝿取紙とか、雌雉(めすきじ)という言葉には、前もって何かの意味がきめられているんだろうか? そうなると、どんな意味にしようと勝手なものであるから、こいつぁ解読なんかできそうにない。しかし、僕はそう信じたくはなかった。ハドスンということばがあることからして、この手紙の主題は、やはり僕の推理と一致するように思われ、差出人も、あの船乗りじゃなくて、ベドウズらしかった。
僕はそれを尻(けつ)のほうから読んでみたが、『語る逃げよ入金して……』じゃよくわからない。一字おきにやってみても、『万不調なれば業』としても『一事しばらく』でもさっぱりわからない。だがついに謎をとく鍵は僕の掌中に降りた。はじめから数えて三つ目、三つ目と読み進むと、あのトリヴァ老人を絶望に至らしめた謎の文句が出て来たのだ。
それはごく短かい、簡単な警告で、僕は友に読んでやったんだ。

……万 事 休す。全て ハドスンが ばらした。生命 危い、逃げよ。

ヴィクター・トリヴァは震える両手のなかに顔をうずめて、『そうだ、それに違いない。それは死よりも悪い、恥辱(ちじょく)だ。だが、この主管理人、とか、雌雉とかは何を意味するんだ?』
『それは内容には別段関係のないことだが、しかし、差出人がわかっていないんならもっと頭をひねったろうね。とにかくこれは、[……万 事 休す]というふうに間をあけておいて、後から、約束の暗号法にしたがって、間に二語ずついれていったわけだ。埋め言葉には、当然、最初に考えついた言葉を使うのが、まあ通例で、それが猟に関係したものが多いのは、その人がたいへんな猟好きか、鳥の飼育に興味をもった人物だということがわかるだろう。このベドウズという人はどんな人だか、君は何か知らないか?』
『何かって、君がいまいったとおりだよ』と彼が言う。『そういえば、僕のかわいそうなおやじは、毎年秋になると、きまって彼の猟場へ招待されて行ったもんだよ』
『すると、これが彼から来たものであることは、もう疑う余地がない。するとあとは、この富裕で名声のあるふたりの頭を押えつけるとは、あのハドスンなる水夫がいったいどんな秘密を握ってるか、それだけが残るわけだ』
『ああ、ホームズ君、それはきっと、罪深くて、恥辱に満ちたものなんだろうなあ!』友の声は哀れであった。『しかし、君には隠したって無駄なことだ。ここに、それを書いたものらしい書類がある。おやじが、ハドスンのために、破滅をまぬがれないと知って、書いたものなんだ。おやじの遺言によって、日本箪笥の中から見つけ出したんだ。ほら、君が読んでくれ、僕にはもう読む気力がない』

ワトスン君、そういって渡したのが、これなんだよ。その晩、あの古風な書斎で彼に読んでやったように、君にも今から読んであげよう。ほら、外側に書き込みがあるだろう。
『三檣帆船グロリア・スコット号が、一八五五年十月八日ファルマス出港より、十一月六日、北緯十五度二十九分、西緯二十五度十四分の海上にて難破するに至るまでの航海記録』
なかは手紙の形式になっている。こんな具合なんだ。

「愛する息子よ。いまや、ついに恥辱が近づき、父の晩年に暗い影を投げかけようとしている。父がいま断腸(だんちょう)の思いにあるのは、法のおきてを恐れるためでもなければ、また、この地方における自分の地位の失脚を憂(うれ)うるためでもなく、また、父を知っている人々の面前で没落して行くのを恐れるためでもない。ただ父を愛し、常に尊敬以外のものでは父に接したことのなかったお前が、この父のために恥を忍ばねばならぬかと思えばこそ、このように苦しむものであることを、誠心誠意、書きしるすことができる。
常に、父の身辺にかかっていた不幸が、父の頭上に落ちかかって来たいま、お前はこの一文を読んで、父がいかに咎(とが)むべき人間であったかを知ることであろう。これに反して、ことが無事に運んで……おお神よ、かくあらんことを!……偶然この文がお前の手に入るようなことになったとしても、お前が聖なりとする全てのものにかけて、愛する亡き母上の思い出にかけて、さらに、われらふたりの間にあった愛にかけて、これを火中に投じ、再び思い出すことのないように、父は切に願う。
もし、不幸にして事あったとき、お前がこの行あたりを読み進むころには、もう父は摘発(てきはつ)され、逮捕されているか、また、お前も知っての通り、父は心臓が弱いから、たぶん死の床にあって、永遠に口を閉じていることであろう。いずれにしても、内密にしておく時期は過ぎた。これから父の語る一言一句は、赤裸々な真実であることを、父は誓い、願うものである。
愛するわが子よ。父の姓はトリヴァではない。若いころ、父の名は、ジェイムズ・アーミティジであった。こう書けば、過日、お前の学友が「J・A」というイニシアルをわしの肘(ひじ)に見つけ、その秘密を察知したようなことを言ったとき、父が大きなショックを受けたことも了解されるだろう。父はアーミティジとしてロンドンの銀行に入り、アーミティジとして国法に触れ、流刑に処せられることとなった。息子よ。父を深く責めないでくれ。当時父は、いわゆる信用貸しの借金が若干(じゃっかん)あって、返済をせまられ、別口の入金の当てがあったので、行金を流用して、これにあてた。しかし、何という不幸のめぐり合わせか! 当然返ってくるはずの金は手に入らず、その上、帳簿の整理は予定より早く行なわれて、父の流用は発覚した。情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)の余地はあったが、三十年前の法律は今にくらべるとずいぶん苛酷なものであった。かくして父は二十三歳の誕生日を、重罪人として、三十七人の罪人と共に鎖につながれ、オーストラリア向けの三檣帆船グロリア・スコット号の甲板の下で迎えることとなったのである。
それは一八五五年、あたかもクリミヤ戦争の最中(さなか)のことであった。古い流刑用の船は、多く黒海で輸送船として使用され、政府はやむを得ず、小型の、不適当な船舶を代用していた。グロリア・スコット号はシナから茶を運ぶのに用いられていたもので、旧式で、船首は重く、幅のひろい船だったから、新式の快速船には、難なく追い越されてしまうのである。トン数五百、三十八人の囚人のほかに、船員二十六人、監視兵十八人、船長、高級船員三、医師、教誨師(きょうかいし)、それに看守が四人、総計約百人が乗り組んで、ファルマスを出帆した。
この船の独房間の仕切り板は、普通の囚人船のように厚い樫材(かしざい)ではなくて、薄くて、弱いものであった。父の独房から船尾寄りの房(ぼう)には、波止場に引き出されたとき以来、とくに父の目をひいた人物があった。賢そうな、無髯(むぜん)の青年で、鼻は高く、くるみ割りのようなとがったあごをしていた。いつも自信満々、さっそうと肩で風をきって歩いた。とくに背が高かったから、ひときわ目だち、誰ひとりとして彼の肩から頭が出るものはなかった。たしか六フィート半はあったろうと思うが、誰も彼もが悲嘆にくれて、生気のない顔つきをしている中でただひとり、元気百倍、自信満々の顔を見るのは真に不思議なことであった。父にとっては、それが吹雪(ふぶき)のなかで、焚火(たきび)を見るような気持がした。その男が隣の房だということを知ってさえ父は喜んだのに、ある夜、あたりの静けさの中に、父は耳もとでささやく声を聞いた。そして、この男がわれわれの仕切り板に穴をあけたのを知ったときの父の喜びは、いかばかりであったろう。
『よう、兄弟!』彼が言った。『名は何ていうんだい? 何でこんな所にはまり込んだんだ?』
父は答えて、彼にその名を問うた。
『ジャック・プレンダガストっていうんだ』と言う。『おれと仲間になったことを、きっと感謝するようになるぜ!』
父は彼の事件を思い出した。それは国じゅうに大センセーションをまき起こしたもので、父の逮捕前のことだった。彼は良家の出で、優秀な才能をもっていたが、どうにもならぬ悪癖があり、つい巧妙な詐欺(さぎ)手段を用いて、ロンドン一流の商店から莫大な金をまき上げたのである。
『ははあ、おれの事件を知ってるんだな?』彼は誇らしげに言った。
『ようく知ってるとも』
『じゃあ、事件に何かおかしなところがあったのに気づいたかい?』
『さあ、何だろう?』
『おれは二十五万ポンドばかり手に入れたんだったろう?』
『そういう評判だったが』
『だのに一文だって出てこなかった。ねえ?』
『そうだ』
『じゃあ、その金はどうなったんだろう?』
『わからんね』と答えた。
『細工は流々(りゅうりゅう)さ』つい彼は大きな声を出した。『いいかい、おれはおめえの髪の毛よりも多くの金を手に入れたんだぜ。これだけ金があって、これをいかに使い、散ずべきかを知ってる奴なら、何だってできるんだぜ! ところで、何だってできる男が、このじめじめした、鼠(ねずみ)にかじられ、虫くいだらけの、シナ航路船のかび臭い棺桶(かんおけ)のなかに押し込められて、だまってズボンの尻をすりへらしておれるかいってえんだ。どっこい、そうは行かねえ、そんな男は自分のことも片づけるが、仲間の面倒だって見てくれるもんだ。賭けてもいいぜ、そんな男にすがるんだよ。決して悪いようにはせんからな、聖書にキスして誓ってもいい』
彼の話しぶりは、ざっとこんな調子であった。はじめはたいして気にとめなかったが、しかし、しばらくして、全く真剣な態度で、父に宣誓させてから、彼はこの船をのっとる秘策のあることを話すのである。十二人の囚人たちは船にのせられる前から、すでにこれを策し、プレンダガストがその主謀者で、その金が原動力であるという。
『相棒があるんだ』と彼が言った。『こんな良い男は珍しいよ。もちろんおれの片腕さね。金はそいつが握っている。で、そいつはいまどこにいると思う? ははあ……教誨師(きょうかいし)なんだよ、この船の。牧師さまさまさ。黒の牧師服を身にまとい、信任状を持参し、船の底からマストまで、すべて買収できる金を、しこたまドル箱につめ込んで、ご乗船に及んだわけさ。船員どもは、もう手足同然、うんとこさ金を使って買収し、もう連判さしてあるんだぜ。看守もふたり抱き込んだし、二等運転手のマーサーも大丈夫。船長だって、為(ため)になるようだったら、やってしまうだろうよ』
『そんなことをして、いったいどうしようというのだい?』
『どうすると思う?』彼が言った。『兵隊どもの赤服を、仕立ておろしのときより真っ赤にしてやろうというわけさ』
『だって、敵は武装してるぜ』
『おれたちもするさ。仲間にゃ、ピストルが二挺ずつわたるはずだ。これだけの船員がおれたちの味方についてて、船が乗っとれないんなら、睾丸(きんたま)もぎ取って、女学校の寄宿舎入りでもするんだな。おめえ、今晩となりの奴に話してみろよ。信用できる奴かどうか試してみるんだ』
父はそのとおりやってみた。すると、隣の男も、わしと同じような境遇の若者で、罪名は偽造罪だった。名はエヴァンズといって、現在は父同様変名してイングランド南部地方で豊かに暮らしている男である。彼もすぐ陰謀に加わった。事実、これよりほかに、われわれの身を救う術はなかったのだ。
かくして、船が湾をすぎる頃には、この陰謀に加わらぬ囚人はただ二人となった。ひとりは小心者で頼みにならず、もうひとりは黄疸(おうだん)にかかっていて、役に立ちそうになかった。
最初から、われわれがこの船を占領するのに大きな支障は何もなかった。船員たちはこの目的のために選ばれたならず者の一団であり、偽教誨師は小冊子のいっぱいつまっていると思われる黒い鞄をもって、教誨(きょうかい)のために、われわれの独房へやって来た。しかもそれは一度ならず度重なって、三日目に早くも、一味はベッドの下にやすり一本、ピストル二挺、火薬一ポンドおよび二十発の弾丸をたくわえるに至った。看守のうち、ふたりはプレンダガストの取り次ぎ人であり、二等運転士はその片腕であった。船長、舵手二、看守二、マーチン中尉とその部下十八人、医師一、これがわれわれの敵のすべてであった。事態はこのように安全だと思えたが、さらに万全を期し、攻撃は夜間に行なうことに決めた。しかし、ことは予期したものより早く、やって来てしまった。さあ、先を急ごう。
出港後、約三週間たったある夜、囚人中に病人ができたため、医師が診察に降りて来た。その医師が、ベッドのふとんに手をついて、なかにピストルらしきものがあるのを感知した。もしそのとき、この男が平然として、この場を立ち去っていたならば、われわれの陰謀はすべて、失敗していたことであろう。幸か不幸か、この男は小心者であったから、驚いて叫び声をあげ、顔色をまっ青にした。囚人はすぐにことのしだいをさとり、医師を押えた。医師は叫び声で人を呼ぶこともできずに猿ぐつわをはめられ、ベッドに縛りつけられてしまった。彼は甲板に通ずる扉の鍵をあけたままで房に入ったので、われわれは、ただちにそこからおどり出た。二名の歩哨(ほしょう)はすぐ射殺され、つづいて駆けつけて来た伍長(ごちょう)も殺された。船室の入口にもうふたり哨兵が立っていたが、弾を装填(そうてん)していなかったものか、発砲せず、銃剣をつけようとするところを射殺した。
さらにわれわれが船長室に殺到して、扉を押しあけたとたん、中からピストルの音がして、船長は卓上にピン留めされた大西洋の海図の上に顔を伏せて倒れ、そばにあの偽牧師が硝煙(しょうえん)消えやらぬピストルを構えたまま立っていた。
ふたりの舵手はいずれも船員にとらえられ、さしもの事件も決着したかに見えた。
広間は船長室の隣にあり、われわれはそこに集合し、再び自由の身になった歓喜のあまりに、みんなで長椅子の上に寝そべり、おしゃべりをした。室の回りには鍵のかかった戸棚があり、偽教誨師のウィルスンが、そのひとつをうち破って、中から褐色のシェリー酒を一ダース取り出した。
みんなは、瓶の口をたたき割り大コップに注いで、一気に飲みほそうとした瞬間、轟然(ごうぜん)と小銃の響きがとどろき、サロンは煙に包まれ、テーブルの向かいさえ見えなかった。やがて硝煙が消えると、そこは屠殺場(とさつば)の観を呈した。ウィルスンはじめ八人の仲間は重なり合ってうめいていた。鮮血と褐色のシェリー酒はテーブルの上を流れた。その様を思い出すだけでも身震いがする。もしブレンダガストがいなかったなら、われわれはその有様におびえて、なすところを知らなかったろう。しかし、ブレンダガストは牡牛(おうし)のように怒号し、ただちに、残った味方を引きつれて戸口へ突進した。
われわれが甲板に走り出ると、最上後甲板には中尉と十九人の部下が控えていた。彼らはサロンのテーブル上の明かり窓の隙間から小銃をさし入れて、仲間を撃ったのだ。われわれは彼らがまた弾(たま)を装填(そうてん)しないうちに襲いかかった。彼らは勇ましく戦ったが、衆寡(しゅうか)敵せず、五分後には、すべて戦いは終った。
おお神よ、このような修羅場(しゅらば)がまたとありましょうか! 
ブレンダガストは怒り狂う悪魔のように、まるで子供を扱うように兵土たちを寄せ集め、死ぬも、生きるも、すべて舷側から海中へ投じた。そのうちひとり、ひどく傷ついた軍曹は、驚くほどに長く海上を泳ぎつづけていたが、誰かが憐れんだのであろうか、船上からその頭を撃ち抜いた。戦いはひとまず終った。残るは看守と舵手、医師だけであった。
しかし、われわれの間に大論争が起きたのは、彼らがためであった。われわれの多くは、自由を得たことに十分満足し、もはやこれ以上の殺人は望まなかった。小銃をかかえた兵士たちを撃ち倒すことと、無残にも人が殺されて行くのをじっと見ていることとは別事である。仲間のうち囚人五人と船員三名はそれを見るに忍びない、といった。しかしブレンダガストとその一味を動かすことはできなかった。彼は、われわれが絶対安全となるためには、将来証人台に立って、しゃべりまくるような人間は生かしておけない、と主張するのだった。
このようにして、われわれも他の囚人たちと運命を共にするのかと思われたが、ついに、希望するなら、われわれ八人はボートを降ろして、行ってもよい、と言った。われわれはこの提案にとびついた。ともかく、この残忍な行動はもう沢山であり、これからさらにひどい事が行われるかも知れないのだ。われわれは一様に水夫服を与えられ、飲料水ひと樽、塩漬け肉およびビスケットひと樽ずつ、さらにコンパス一個を与えられて、ボートに乗り込んだ。ブレンダガストはさらに海図を一枚投げ込んでくれ、北緯十五度、西経二十五度の海上で難破した船の乗組員だ、と言うんだぞ、といって舫索(もやいづな)を切った。
愛するわが子よ、物語はこれからさらに奇怪なものとなって来るのだ。反乱の間、水夫たちは前檣(ぜんしょう)下帆を逆帆にしていたのだが、われわれのボートが船を離れると、再びそれを戻し、折からの北東微風にのって船は静かにわれわれから遠ざかっていった。
われわれのボートはしばらく上下にゆれる長いうねりにのっていた。エヴァンズと父は、中でも最も教養があったので、並んですわり、現在の位置と、今後どの海岸へ向かうかについて研究した。これはなかなかの問題だった。北へ五百マイルのところにヴェルデ岬、東へ七百マイル行けばアフリカ海岸、という海上にいたからである。ただし風は北向きと定まったようだから、シェラ・レオーネこそ最上だと考えて、ボートをその方向にまわした。そのとき、バーク船はボートの右舷とおく、船檣のみを残していた。一同それをながめた瞬間、船からもうもうたる黒煙が立ち上り、そのさまは水平線上に逆だつ黒い怪木のようであった。一秒、二秒、三秒……つづいて雷鳴のごとき轟音(ごうおん)が耳をつんざいたかと思うと、煙は消えて、かのグロリア・スコット号の影はなかった。すぐさま、われわれはボートの向きをかえて、まだ余煙が立ちこめて、惨事の跡を物語っている海面めがけて、力いっぱいこいだ。
着くまでに幾時間を要したであろう? はじめはもう手遅れで、誰も救助できないものとあきらめた。ボートの破片や、積荷、帆桁(ほげた)の一部などが、波間に浮き沈みして、本船の遭難のあとを物語っていた。しかし、誰も生存者はあるまい。
絶望して、再びボートを回そうとしたとき、助けをもとめる声を聞いた。見ると、離れた水面に、船の木片の上に倒れている男があった。引き上げてみると、ハドスンという若い船員である。身にうけた火傷(やけど)はひどく、疲れ果てて、翌朝まで事の顛末(てんまつ)を語ることができなかった。
あとでハドスンの語るところでは、われわれが去った後、ブレンダガストとその一味は、残った五人をも射殺しようとした。まず看守ふたりが撃たれて、海へ投げ込まれた。さらに三等舵手も同じ運命だった。ついでブレンダガストは中甲板へ降りて行き、哀れな船医の咽喉(のど)を自らかき切った。残るは一等舵手のみ。彼は勇敢で機敏な男だったから、敵が血のしたたるナイフを持って近づくと見るや、かねてゆるめておいた縄を振りほどき、甲板を駆けおりて後部船艙(せんそう)に逃げ込んだ。
十二人の囚人たちがピストルを手に、彼を捜すべく船艙に入ったとき、彼はマッチ箱を手に、蓋(ふた)をあけた火薬のそばにすわり込んでいた。火薬は百樽あまりもある。そして、もしちょっとでも手出しをしたら、みんなを吹き飛ばしてやると叫んだ。すぐその後で爆発が起こったのだが、ハドスンの推定では、舵手が火をつけたのではなくて、一味の誰かが撃った弾がはずれて火薬に命中したんだろうということだ。原因がいずれであろうと、これがグロリア・スコット号の最後であり、同船を乗っとった囚人一味の最後でもあった。
愛する息子よ。これが要するに、お前の父がまき込まれた恐るべき事件の物語である。
翌日われわれはオーストラリア行きの二檣帆船ホットスパア号に救助された。船長はわれわれが難破して沈んだ客船の船員の生き残りであると、難なく信じ込んだ。海軍省も護送船グロリア・スコット号は航海中行方不明になったものとみなし、事件の真相はついに世に現われることがなかった。ホットスパア号は快適な航海ののち、われわれをシドニーに上陸させた。そこでエヴァンズと父は名を変えて、金鉱へと向かった。そこは、各国から集まってくる多様の人種がいて、われわれも以前の素性(すじょう)を隠すことは容易であった。
もはや、これ以上語る必要はあるまい。われわれはそこで財を成し、各地を旅行した後、富裕な植民地開拓者としてイングランドへ帰り、それぞれ土地を買い求めた。以後二十余年、われわれは平和な、有益な生活を営んできた。そして、過去は永遠に葬られんとした。そのとき、おお、あのとき、訪れた水夫の顔を見て、あの難破の場で助け上げた男だとわかったとき、父の胸中はどんなものであったか、わかってくれるであろう。彼は、われわれを踏み台にして何でもやれるであろう。われわれの恐怖を食って生きてゆくであろう。いかに父が彼と争わないように努めたか、そして父の恐怖のいくぶんでもお前はわかってくれることと思う。さて、彼は父のもとを去って、またひとりの犠牲者のところへおどし文句をたずさえていったのだ」

その次には、判読にも苦しむほど震えた筆跡で、
『ベドウズは暗号で、Hがすべてばらしたと言ってよこした。おお神よ。最悪の事態がやって来ませんように!』とある。

「これが、その晩トリヴァ青年に読んで聞かせた物語のすべてだ。ワトスン君、場合が場合だから、じつに劇的なもんだったよ。いい奴だったが、彼は悲嘆にうちくれ、学校をやめて、インドのテライ茶園へ行ってしまったが、そこでなかなか成功している、という話だ。水夫ハドスンとベドウズについては、あの手紙のきた日以来、消息が知れない。ふたりとも全く姿を消してしまったのだ。警察には別に何の密告も行なっていないところからすると、ベドウズは脅迫を本気にしたのにちがいない。ハドスンがあの辺をうろうろしていたということで、警察では、彼がベドウズを殺して逃げたと信じているようだ。しかし、僕はむしろ逆だと思うよ。つまり、ベドウズが絶望のあまり、裏切りを信じ込み、ハドスンに復讐(ふくしゅう)の刃(やいば)を加え、ありったけの金をかき集めて国外へ逃亡した、というほうが、どうもありそうに思えるね。
とにかくこれらが、この事件に関する証拠物件だ。ドクター、この物語が君の蒐集(しゅうしゅう)に何か役だつようだったら、喜んでお贈りするよ」
マスグレイヴ家の儀式

私の友人シャーロック・ホームズの性格でもっとも私をおどろかす異常な点は、その思考方法こそ、この世でもっとも整然たるものであり、組織的であり、同様に服装などもおちついた、きちんとした着こなしをするにもかかわらず、彼の個人的な癖(くせ)ときたら、もっともだらしないもので、彼ほど同宿者を困らせる男はいないだろう。
といっても、そういう点について、私自身が世間なみな人間だとは義理にも言えない。アフガニスタンでの無茶苦茶な仕事で、私の生来の無頓着(むとんちゃく)さがさらに進んで、だらしなくて医者の資格を疑われるようにもなった。しかし私には限度がある。石炭入れに葉巻をしまっておいたり、ペルシャ式スリッパのつま先のほうにタバコを入れておいたり、返事のだしていない手紙を、ジャックナイフで木製マントルピースの真ん中につきさしておいたりするような男を見ると、私も自分はきちんとしているんだというふりをしてみたくなる。
私はいつも、ピストルの練習はあきらかに戸外の遊戯であると思ってきた。そしてホームズが、なにかおかしな気分になって肘掛椅子(ひじかけいす)にすわって、彼の細身引金ピストルとボクサー弾の薬莢(やっきょう)を百発もって、向かい側の壁に愛国的にも、ヴィクトリア女王の頭文字を撃ちぬきはじめたとき、私は、そんなことをしてもこの部屋の雰囲気や見かけが良くなるわけでもないのにと、強く考えた。
われわれの部屋は、いつも薬品や犯罪の証拠品でいっぱいだった。それらは変な場所へまぎれこむ傾向があって、バター入れの中へ入ったり、もっと好ましくない所へ入ったりした。しかし彼の書類は私の悩みの種だった。彼はそういった書類をなくすことを非常に恐れていた。とくに彼が手がけた事件に関するものは、そのくせ一年か二年に一度ぐらいしか、それらに見出しをつけたり整理したりするために精力をふるいおこすことはないのである。というのも、この散漫な回想録のどこかで私が指摘したように、彼を有名にしためざましい事件を、爆発的な情熱で精力的に片づけた後には、その反動である無気力状態がやってくる。そうなると彼は、ヴァイオリンと本をもってねころんだまま、ほとんど身うごきもしないでいる。ソファからテーブルへ行くこともしない。こんなふうで毎月毎月、彼の書類はたまっていくのだ。そしてついには部屋の隅という隅は紙の束が積みかさなってしまう。しかもどれも焼いてはいけないものばかりだし、所有者以外には手をつけることができないものなのだ。
ある冬の夜、われわれが火にあたってすわっていたとき、私は勇(ゆう)を鼓(こ)して彼に、備忘録に抜き書きするのがすんだから、今度は二時間ばかり、この部屋をもう少し住みよくしてはくれまいかと言ってみた。私の要求がもっともなので断ることもできず、彼はまずそうな顔をすると寝室へ引っこみ、今度は大きなブリキ箱をひきずって出て来た。これを部屋の真ん中におくと、その前に腰掛を持ちだし、その上にすわりこんでふたをあけた。そこには、すでに三分の一ほども書類の山が赤いテープでしばって、別々に包まれてあった。
「このなかには、事件がいっぱいあるんだぜ、ワトスン君」と彼は言うと、いたずらっぽい目で私を見た。
「もしもこのなかに何があるか、全部君が知っていたら、ほかのものを中へ入れるどころか、いくつか出してくれ、と言うだろうよ」
「するとこれは君の初期の仕事なのかい?」と私はきいた。「初期の事件のノートをつくりたいといつも思ってたんだ」
「そうだね。だがそれはとっくの昔に、僕の伝記作者が、僕を栄光でかざりたてようとする前に、あつかったものなんだよ」
彼はひと束ひと束やさしく、愛撫(あいぶ)するように取り出した。
「みんながみんな成功というわけではなかったんだ、ワトスン君」と彼は言った。「しかしその中には、ちょっと面白い事件も入っているよ。これがタールトン殺人事件の記録、これが葡萄酒商のヴァムベリー事件、これがロシアの老婦人の冒険、これはアルミニウムの松葉杖(まつばづえ)事件、足の曲がったリコレッティといやらしいおかみさんの事件は全文あるよ。それから……ああ、こいつはちょっと凝(こ)ったものだ」
彼は箱の底へ腕をぐいと突っこみ、小さな木箱をとりだした。それは滑(すべ)り蓋(ふた)のついた、子供のおもちゃを入れるような箱だった。その中から、しわくちゃの紙切れと、古風な真鍮(しんちゅう)の鍵、糸の玉のついている木の釘、古い三枚の円盤型の金属、をとりだした。
「どうだい。これをなんだと思う?」と彼はたずね、私の表情を見てほほえんだ。
「じつに変なものを集めたもんだね」
「うん、じっさい変なものだ。ところがこれにまつわる話ときたら、もっと奇妙きてれつなものなんだぜ」
「するとこの遺物には歴史があるってわけか?」
「そうさね、まあそれ自体が歴史だといえるね」
「なんだって?」
シャーロック・ホームズは、それらをひとつひとつ、つまみあげると、テーブルのふちに並べた。そして椅子にかけなおすと、並べたものを、満足そうなまなざしでながめた。
「これはね」と彼は言った。「マスグレイヴ家の儀式のエピソードを思い出させる唯一の記念品なんだ」
この事件を彼が口にするのは、一度ならず聞いたことがある。しかし詳しくは聞くことができなかった。
「もしも」と私は言った。「その話をしてもらえたら、うれしいんだが」
「がらくたはこのままにしておいてかい?」と彼はいたずらそうに叫んだ。「つまるところ、君のきれい好きも、ほんの一時的なものなんだね。ワトスン君。しかし君の記録にこの事件を加えてくれることは実にうれしいよ。この事件はこの国の、いやこの国ばかりでなく、世界の犯罪史上においても、たしかにじつに特殊な事件なんだ。私のささやかな業績の全集に、この特殊な事件の話がのっていなかったら、実に不完全なものとしか言えないからね。グロリア・スコット号事件のことを覚えているだろう。それからあの不幸な男と私との対話と、その男の運命はきみに話したとおりなんだが、それが私の関心の向くところを変えてとうとう探偵が一生の仕事となってしまったのだ。そして今、私の名前は広く世間に知れわたり、世間からも警察からも、難事件の最後の解決者とみなされているわけだ。
君と初めて知りあったのは、君が『緋色(ひいろ)の研究』の名で記念にのこしてくれた事件のときだったが、そのときもすでに私は、さほどもうかりはしなかったが、かなりよい地位に達していた。だから君には、私が今の仕事でやって行けるようになるまで、どんなに長いこと待っていたか、ほとんど想像できないだろう。
私がはじめてロンドンに出て来たとき、私の部屋はモンタギュー・ストリートにあった。大英博物館の角を曲がってすぐの所だ。そこで私は待っていたのだ。ひますぎて困る時間を、わざとむずかしすぎて困るような、いろんな科学的問題の研究に費やしながらね。ときどき事件が来た。それらはおもに昔の学校友だちが紹介してくれたものだ。大学での最後の年には、私自身と私の推理方法は、ずいぶん皆のあいだで問題になったものだから、知り合いもふえていた。その第三番目の事件がマスグレイヴ家の儀式事件だったのだ。そして不思議な一連の事件が起こり、それが世間の興味をそそったり、そのあげく重大な危険が起こりそうなことがわかったり、というわけで、それがきっかけとなって、僕は今の地位に向かっての第一歩を踏みだしたのだ。
レジナルド・マスグレイヴは私と同じカレッジにいた。彼とはちょっと知りあっていた。彼は卒業組学生の間では一般に評判のよい方ではなかった。私には彼の高慢なるものは、生れつき極端に自信のないのをかくそうとする試みだというように思えた。外見からいえば、彼は非常に貴族的なタイプで、やせて鼻がたかく、目が大きく、きびきびしてはいないが、礼儀正しい態度だった。彼は事実この国でいちばん古い家柄の子孫で、十六世紀にノーザン・マスグレイヴ一家から分家して、西サセックスに移り、その地に建てたハールストンの館(やかた)は州の草分けといってもよいだろうが、ま、そういった家の息子だった。
その生れ故郷の何かが、いつも彼にまつわりついていたような気がして、彼の青白い鋭い顔や、頭の動かし方などを見ていると、どうしても灰色のアーチの門や縦仕切りのある窓とか、封建時代のいめかしい遺物を思い出してしまうのだった。
ときどきわれわれは長いおしゃべりを始めてしまうことがあったが、私の観察と発見の方法について、一度ならず彼が強い関心をしめしたことを覚えている。
四年間というもの、彼には全然あっていなかったが、ある朝、モンタギュー街の私の部屋に彼がやって来た。彼はほとんど変わっていなかった。流行の青年紳士らしい服装をして……彼はちょっとおしゃれなところがあった……相変わらず静かな、洗練された、特徴ある態度であった。
『その後どうですか、マスグレイヴ君』と私は心から握手を交わした後で、そうたずねた。
『ぼくの親父(おやじ)が死んだことはご存じでしょうね』と彼は言った。『二年ほど前に死にましてね、それ以来もちろん僕がハールストンの領地を管理してきました。それに郡の議会にも出なければならないし、とにかく忙しかったですよ。ところでホームズ君。君は、以前にわれわれを驚かせた能力を実地に応用しておられるそうですね』
『ええ、まあね』と僕は言った。『自分の腕で食べて行かなければならなくなったのでね』
『それはよかった。とにかく現在、君の助言が僕にとってはぜひ必要なんですよ。ハールストンで非常に奇妙なことがもちあがりましてね。警察でも、なんともわからないというわけです。実際、それは実に奇妙な、わけのわからない出来事なんですよ』
「ワトスン君、君にもわかるだろうが、僕は熱心に彼の言うことに耳をかたむけた。というのは長いこと何もしないで待っていた機会が、ついに手のとどくところにやってきた、と思ったからね。心中、他人が失敗したことでも私は成功する自信があり、それをためしてみる機会が来たのだと思った」
「くわしく話してくれないか?」と私は叫んだ。
「レジナルド・マスグレイヴは、私に向かいあって腰をおろし、私がすすめるタバコに火をつけた。
『ご存じでしょうが』と彼は言った。『僕はまだ独身ですが、ハールストンでやって行くためには、ずいぶん沢山の召使いたちが入用です。とにかく、だだっぴろい古い家ですからね。それに注意しなくてはならないところもあるし、遊ばせておかなくてはならない人間もあるのです。というのは、雉猟(きじりょう)の季節になると家でパーティを開くことになっていて、そのとき人手がたりなくなっても困りますからね。全部で八人の女中と、コック、執事、従僕ふたり、ボーイがひとりおります。それから庭番とうまや番も、もちろん、別におります。この中で一番ながくいるのがブラントンで、執事をやっています。
僕の親父がはじめて彼を拾いあげたとき、彼は若い学校の教師で失業中でした。彼は非常に精力家でもあり人格者でもあり、まもなく家になくてはならない人物になってしまいました。彼は育ちのよい美男子で、頭がすばらしく、われわれと二十年も暮らしているのに、まだ四十を越しておりません。彼の個性と、まれに見る才能をもって、というのは数か国語をしゃべり、ほとんどあらゆる種類の楽器を演奏できる彼が、そんなにながいあいだ執事の地位に満足しているのはじつに驚くべきことなのですが、僕はあれで結構満足して、ここから出ようとする元気など、もう彼にはなくなっているのだろうと思っていました。ハールストンの執事といえば、われわれの所を訪ねた人たちには忘れられないものなのです。ところがこの模範執事には、ひとつの欠点がありました。彼にはちょっと女たらしなところがあって、君にもご想像がつくと思いますが、彼のような男が、ああいった静かな田舎でそれをすることは、たいしてむずかしくはないことです。
結婚していたあいだはよかったのですが、奥さんをなくしてからは、いつも問題を起こしてばかりいるんです。二、三か月前には、彼がまた落ち着きそうになったと思ってわれわれはよろこんでいました。というのは、うちの二番女中のレイチェル・ハウエルズと婚約したのです。しかし彼は彼女を捨てて、今度は猟場番人頭の娘のジャネット・トレジェリスとねんごろになってしまいました。レイチェルはとてもよい娘なのですが、興奮しやすいウェールズ気質(かたぎ)で、それ以来頭がおかしくなり、うちのまわりを……以前にかわり、やつれきって影のように歩きまわっています。いや昨日まで、うろついていたのだといいましょうか。
これがハールストンでの第一の悲劇です。しかも第二の悲劇が起こって、レイチェルの件はわれわれの頭からぬぐい去られてしまいました。その前ぶれは執事ブラントンの失態と解雇(かいこ)なのです。
それはこういうわけです。この男は頭がよかったと申し上げましたが、この頭の良さが身の破滅をもたらしたのです。というのは、そのために彼は好奇心が旺盛で、どうにも手がつけられないほどになり、自分に関係のないものにまで、首をつっこむようになったのです。いつごろからそんなことに好奇心をもちだしたのか、僕には全然気がつかなかったのです。ところがあるほんのちょっとした事件が、僕の目を開いてくれました。
だだっぴろい家だと申し上げましたが、先週のある晩のこと……もっと正確に言えば木曜日の夜のことです……僕は眠れなくて、というのが、夕食のあと牛乳を入れずに濃いコーヒーを飲みすぎましてね、午前二時ごろまで寝返りばかりうっていましたが、もう寝られないと思って、ローソクをもって起きあがり、小説の続きでも読もうと思いました。ところが本を玉突き場に置きっぱなしにしてあったものですから、ナイト・ガウンをひっかけてとりに行きました。
玉突き場に行くには階段をおりて、書斎と銃器室へ通じる廊下を横切らなければなりません。廊下の向こうの書斎のドアが開いており、灯(あかり)がもれているのを見たとき、僕がどんなにびっくりしたか、ご想像下さい。僕は寝る前には自分で書斎の灯を消し、ドアもしめて来たはずでした。当然、僕は泥棒だろうと思いました。ハールストンの廊下の壁は昔の武器が飾ってありました。その中から大斧(おおおの)をひとつとると、ローソクを廊下において、ぬき足さし足、廊下を通って、開けはなしのドアから中をのぞいてみました。
執事のブラントンが書斎にいたのです。彼はちゃんと洋服を着て、安楽椅子(あんらくいす)にすわっていました。一枚の地図らしい紙をひざの上において、額に手をあてて深く考えこんでいました。僕は立ったまま、驚いて口もきけずに、暗がりから彼を見つめていました。テーブルのふちの小ローソクが弱い光を放っていましたが、それでも彼はちゃんと洋服をきていることは十分わかりました。
突然、僕がそうして見ていると、彼は椅子から立ち上って、そばの事務用タンスの所へ行き、そのひきだしのひとつを鍵であけ、一枚の紙をとりだして椅子にもどると、それをテーブルのふちのローソクのそばでひろげて、注意ぶかく調べはじめました、家族の書類を、このように平然と調査されたので、僕の怒りは爆発しました。僕は一歩ふみだしました。するとブラントンは見上げ、僕がドアの所に立っているのがわかると、彼はとびあがりました。顔色は恐れで鉛(なまり)色になり、はじめに調べていた地図らしい紙を内ポケットにすばやく入れました。
[おい]と僕は言いました。[これが、われわれのきみに対する信頼にこたえる方法か! 明日からくびだ!]
彼は完全にうちのめされた男のようにうなだれ、ひと言も言わずに私のそばをすりぬけました。小ローソクはまだテーブルの上においてあり、その光でブラントンがひきだしからとりだしたものを見ましたところ、驚いたことには、それは少しも重要な書類ではなかったのです。それはただ、昔からのしきたりで、マスグレイヴ家の儀式といわれている行事の、質問と答えからなる問答の写しに過ぎなかったのです。それはわれわれ一族に特有な一種の儀式で、何世紀ものあいだマスグレイヴの男子が成年に達すると行なって来た、まあ個人的にしか興味のない、それに僕の家の紋章と同じように、考古学者にはいくらか興味はあるかもしれないが、実際には何にも役に立たないものなのです』
『そのことについては後で教えて下さいませんか』と僕は言った。
『君が必要だとお考えになるならばね』と彼はいくぶんためらって言った。
『僕の話を続けましょう。僕はブラントンがおいていった鍵でひきだしをしめ、出て行こうとすると、驚いたことには、執事がまたもどって来て、僕の前に立っているじゃありませんか。
[マスグレイヴ様]と彼は感情でしわがれた声で言いました。[私には不名誉はたえられないのです。私はいつも私の地位を誇りにしてきました。不名誉のレッテルは私を殺すものです。もしもあなたが私を絶望にかりたてるなら、私はあなたに復讐したくも思うでしょう。すでにすんでしまった事件のために私をおいておくことができないとおっしゃるのでしたら、お願いですから、せめて一か月の猶予(ゆうよ)をいただけませんか。そうすれば私が自由意志でやめたように見えますから。それなら、マスグレイヴ様、なんとか身も立ちますが、どうか私のことを知っている人たちみんなの前に、私を放り出すようなことはなさらないで下さい]
[あまり大目にみてやることは出来ない、ブラントン]と僕は答えました。[おまえのやったことは実に恥ずべきことだ。しかし長いこと家にいたのだから、今度のことで公けに悪名がたつようなことはしたくない。それにしても一か月は長すぎる。一週間で出て行け。出て行く理由なんか何とでも言っておけ]
[たった一週間ですか]と彼は絶望的な声で叫んだ。[二週間……せめて二週間お願いします]
[一週間だ]と僕はくりかえしました。[それでも実に寛大な処置なんだぞ]
彼は顔を深くうなだれ、うちひしがれたように、はうようにして出て行ってしまいました。僕は灯をけして部屋へもどりました。
この後二日間、ブラントンは実に忠実に義務を果しました。僕は例のことはひと言も言わず、一種の好奇心をもって、彼がどのように失態をかくすか見ていました。だが三日目の朝、彼は現われませんでした。いつもなら、朝食の後でその日の仕事の指示を受けに私のところへ来るのが習慣になっていたのです。食堂を出たところで、女中のレイチェル・ハウエルズに出くわしました。彼女は先ほど申し上げましたように、まだ病気からなおったばかりでした。そして非常にみじめな青い顔をしていたので、仕事に出てはいけないとしかりつけました。
[おまえは寝ていなければいけないよ。もっと丈夫になってからにしなさい]
彼女は実に変な表情で僕を見つめたので、これは頭へ来たのかなと思いました。
[もう大丈夫です。マスグレイヴ様]と彼女は言いました。
[医者の言うことはきくものだ。仕事はやめにしなさい。それから下へ行ったらブラントンを呼んでくれ]
[執事さんは行ってしまいました]
[行ってしまった? どこへ行ったんだね?]
[いないんです。誰も知りません。部屋にもいません。ええ、ほんとに行ってしまったんです。……行っちゃったんですよ!]
彼女は金切り声で叫び、けたたましく笑うと壁に倒れかかりました。僕はこの突然のヒステリーの発作で恐ろしくなりましたが、かけつけてベルをならし、皆の助けをもとめました。女中は部屋につれて行かれましたが、僕がブラントンのことをたずねるあいだ、依然として、泣いたりわめいたりしていました。彼が姿を消したことは疑いありませんでした。彼のベッドは寝た形跡がなかったのです。
夕べ彼が自室へしりぞいてから誰も彼を見たものはなかった。にもかかわらず、彼がどのようにして家を抜けだしたかは、わかりませんでした。というのは、窓という窓、ドアというドアは、朝になってみても鍵がかかったままだったのですから。彼の洋服と、時計と、金(かね)までも部屋に残ったままでした。しかし彼がいつも着ていた黒い背広の上下とスリッパはありません。しかし靴はそのままおいてありました。するとブラントンは夜の間にどこへ行ってしまったのでしょうか? いま彼はどうなっているのでしょうか?
もちろん家じゅう、地下室から屋根裏までさがしましたが、どこにも彼の跡はありませんでした。前にも申し上げましたが、僕のところは、迷路のように古い屋敷なのです。とくに昔のままの建物のほうは、今はほとんど人の住まない所なのですが、とにかくあらゆる部屋と屋根裏を、すみからすみまでさがしましたが、彼の行方は全然わかりません。彼が財産をみな残したままどこかへ行ってしまうなんて、僕には信じられません。いったい彼はどこにいるんでしょう? 地方警察にも頼んでみたのですが、うまくいかないのです。前夜は雨でしたから、うちのまわりの芝生や小道は全部調べてみましたが無駄でした。こんな状態になったとき、あたらしく事件が進んで、われわれの注意を、この不思議な事件からも、そらせてしまいました。
二日間というもの、レイチェル・ハウエルズは病状が悪く、あるときはうわ言を言い、あるときはヒステリーになったので、看護婦がやとわれて、夜は枕元につきそっていました。ブラントンがいなくなってから三日目の晩、看護婦は病人がよく寝ているのを見て、肘掛椅子でひとねむりしました。朝早くおきてみるとベッドはもぬけのからで、窓が開いており、病人の姿がみえない。僕はすぐに起こされて、ふたりの従僕と一緒に、いなくなった少女をさがしはじめました。
彼女がどっちへ行ったかはすぐにわかりました。なぜなら、窓の下からはじまって、彼女の足跡が芝生をよこぎり池のふちまで続いているのを容易にたどることができたからです。足跡はそこで消えていました。それは庭から外へ行く砂利道のそばだったのです。池は深さ八フィートありましたが、あわれな気の狂った少女の足跡がそのふちで消えているのを見たときの、われわれの感情をご想像できるでしょう。
もちろん、われわれはすぐに探り錨(いかり)を入れて、死体をさがしはじめました。しかしそれらしきものは全然発見できませんでした。そのかわり、じつに予期もしなかった変なものをひきあげてしまいました。それはリンネルの袋で、中には、古い、さびて変色をした金属のかたまりがひとつと、数個の色あせた小石だかガラスだかのかけらがいくつか入っていました。この奇妙な発見がその池から得られた唯一のもので、そのほかにわれわれは手段をつくして昨日まで探したり調べたりしたのですが、レイチェル・ハウエルズの運命も、リチャード・ブラントンの運命も全然わかりません。田舎の警察では、もう手をあげてしまいました。それで僕は、最後の手段として君の所へやって来たのです』

「ワトスン君、僕がどんなに一生懸命になってこの一連の奇妙な事件の話をきいたか、それらをつなぎあわせて、それら全部をつなぐことのできる手がかりを見出そうとしたか、君にもわかるだろう。
執事がいなくなった。女中がいなくなった。女中は執事を愛していた。しかし後には、彼を憎むようになる理由がある。彼女はウェールズ系で、火のような情熱的なところがあった。彼女は彼が姿を消した直後、非常に興奮していた。彼女は池に変なものの入った袋を投げこんだ。こういったことは、全部考慮しなければならない要素だ。そのどれも、事件の中心点ではない。この一連の事件の出発点はどこにあるのか? そこにこの錯綜(さくそう)した筋をとく手がかりがある。
『あの紙をみなくちゃなりませんね、マスグレイヴ君』と私は言った。『君の執事は、それを一読する価値があると思ったわけです。執事の地位を失ってまでもね』
『とにかく変なものなんですよ。われわれの所の儀式というのは』と彼は答えた。『しかし少なくともそれは、古風なみやびやかさを残してはいますがね。その問答の写しをここに持ってますから、もしごらんになりたかったらどうぞ』
彼は僕に、僕が今ここに持っている紙を渡したよ。ワトスン君。そしてこれが、マスグレイヴ家の男子が一人前になったときに行なう不思議な問答なんだ。その問答をここに書いてあるままに読んでみるよ。


『そは何人に所属せしものなるや?』
『行き去りし人に』
『何人に渡すべきものなるや?』
『やがて来る人に』
『何月なりしか?』
『始めより六番目なり』
『太陽はいずこにありしや?』
樫(かし)木の上に』
『影はいずこにありしや?』
楡(にれ)の木の下に』
『いかにたどりしや?』
『北に十歩、また十歩。東に五歩、また五歩。
南に二歩、また二歩。西に一歩、また一歩。
しかる後その下に』
『そのために、われら何を与えるや?』
『われらの持つすべてを』
『何ゆえにわれら与うるや?』
『信義のために』


『原文には日付がありませんが、十七世紀中ごろの綴字で書かれています』とマスグレイヴは説明した。『しかし、そんなものはあなたがこの事件を解く上に何の役にも立たないでしょう』
『少なくとも』と私は言った。『これはわれわれに、もうひとつ謎を提供します。しかも最初のより、ずっとおもしろいやつをね。ひとつの謎を解くことが、もうひとつを解くことになりそうですよ、マスグレイヴ君。失礼ですが、お宅の執事は、じつに頭のよい男で、何代かの主人たちよりずっとすばらしい洞察(どうさつ)力をもっていますよ』
『おっしゃることがよく分りませんが』とマスグレイヴは言った。『この紙は実際には何も役に立ちそうにも思えないですがね』
『しかし僕には非常に役に立つように思われますよ。それに、ブラントンも同様に考えていたのでしょう。君が彼の現場をとらえた夜より以前に、彼はこの紙を見たことがあったに違いありません』
『あり得ることですね。べつに隠そうともしませんでしたから』
『僕は、彼はただ最後に念のためもう一度見て、記憶を新たにしておきたかったのだと思います。彼はなにか地図のようなものを持って、それとこの文書とを見くらべていて、それを君が現われたとたんに、内ポケットへあわててしまいこんだのでしたね?』
『そのとおりです。しかし彼はいったいこの古いわが家のしきたりで、何をしようと思ったのでしょう? それに、このたわごとみたいなものに、何か意味があるのでしょうか?』
『それが何だか知るのはたいしてむずかしくないと思いますよ』と僕は言った。『さしつかえなけれな、一番の列車でサセックスへ参りましょう。そして現場で、もっと深く事件を調べてみることにしましょう』
その日の午後、われわれ二人はハールストンに着いていた。たぶん君は写真や解説などで、その有名な館のことは知っているだろうから、それはL字型に建てられている、とだけ言っておこう。長い方が新しく建てたほうで短かい方が昔のもの、昔の建物をもとにして、もうひとつの方ができたわけだ。低くて、おもい[まぐさ]石が上にあるドアが、古い建物の真ん中についていて、ノミで一六〇七年という日付が入っているが、専門家たちはみな、梁(はり)や石造りの部分は、それよりもずっと古いということに意見が一致している。この部分の特別に厚い壁と小さな窓に閉口して、前世紀に居住者は新しい方の建物に移った。そして古い方は、今は使われるにしても倉庫か貯蔵所としてしか使われていない。りっぱな古い大木の茂ったすばらしい庭園が家を囲み、僕の依頼者が前に言ったとおり、池が並木道のそばに、家からおよそ二百ヤードほどはなれて横たわっている。
ワトスン君、すでに僕はこう確信していた。三つの不思議な事件はばらばらに存在しているのじゃなくて、ひとつなんだ。そして僕がマスグレイヴ家の儀式を正確に読みとることができれば、僕は執事ブラントンと女中ハウエルズ両方の行方不明を解く鍵を握ったことになる、とね。そういうわけで、全精力をそのために集中した。なぜ執事がこの昔の問答を暗記しようとあれほど気を使ったのだろうか? 明らかに彼はそこに、この何世代かにわたる郷士(ごうし)たちの目をのがれたもの、しかもそれは、何か彼自身の利益になるようなものが隠されていると期待したのだ。するとそれは何であり、どのように彼の運命を支配したのであろうか?
儀式文を一読して、あの数字はどこかの地点を示しているにちがいないことはまったく明らかだ。そして文書の他の文句は、その場所について何かを示しているのだ。だからその地点を見つけることができれば、昔のマスグレイヴ家の人々が、こんな奇妙な象徴的な言いかたで伝える必要があると思っていた秘密を知る、その第一歩を正しく踏みだすことができるはずだ。まず出発点として二つの手びきが与えられている。樫(かし)の木と楡(にれ)の木だ。樫の木は問題ない。家の正面の道の左手に、樫の王がそびえている。僕が生れて以来見た、もっともすばらしい樫の木のひとつだ。
『あれは例の儀式がはじまったころから、あそこにあったのですか?』とわれわれが馬車でそこを通りすぎたときに、僕はたずねた。
『あれはノルマン征服のころからあったらしいのです。どう考えてみても』と彼は答えた。『あのまわりは二十三フィートあります』
これで僕の三角点はひとつ確定した。
『古い楡の木はありますか?』
『すごく古いのがあそこにあったのですが、十年前に雷にやられましてね、残骸は切ってしまいましたよ』
『どこにあったか、分りますか?』
『ええ、もちろん分りますよ』
『ほかに楡の木はありませんか?』
『古いのはありませんが、[ぶな]なら沢山ありますよ』
『楡の木が生えていた所を見たいですね』
僕の依頼人は二輪馬車をかって、家へは入らずに、すぐに僕を、芝生の楡の木の立っていた切り株のところへとつれて行った。それはほとんど樫の木と家との中間あたりであった。僕の調査は順調に進んでいるように見えた。
『楡の木の高さを知ることはできないでしょうね?』と私はたずねた。
『それはわかってます。六十四フィートですよ』
『どうして知ってるのですか?』私は驚いてたずねた。
『僕の昔の家庭教師が三角法を教えるときには、きまって木の高さを測ったからです。ですから子供のときに地所じゅうの木と建物の高さは全部測ってしまいましたよ』
これは実におもいがけない幸運だった。僕の資料は予想したよりもずっと早く集まった。
『君の執事がこんな質問をしたことはありませんでしたか?』
レジナルド・マスグレイヴは驚いて私をみつめた。
『なるほど、思い出しました』と彼は答えた。『ブラントンは、たしか何か月か前に、僕に木の高さのことを聞きました。馬丁と少々議論したのでと言ってましたが』
これはすばらしい情報だったよ、ワトスン君。僕がまちがってないことが分ったからね。僕は太陽を見上げた。まだ低かったが僕は一時間たらずで古い樫の木の頂上にかかるだろうとふんだ。儀式に示されている一つの条件は、それで満たされたことになる。そして楡の木の影というのは、その影の先端を意味しているにちがいなかった。そうでないとしたら、意味が分からないからね。そこで僕は太陽がちょうど樫の木の頂上にかかったときに影の先端がどこに落ちるか知らなければならない」
「そいつはむずかしかったろう、ホームズ君。楡の木はもうなくなっていたんだから」
「いや、すくなくとも、ブラントンにできたのなら僕にもできると思っていたよ。それに実際にはむずかしくなかったよ。僕はマスグレイヴと一緒に書斎に行って、この木の釘をけずり、それに長い糸をしばりつけて、一ヤードごとに結び目をつけた。それから釣竿(つりざお)をふた竿、それでちょうど六フィートになるやつを持って、マスグレイヴと一緒に楡の木のあった所へ行った。太陽はちょうど樫の木の頂上をかすめたところだった。僕は竿を動かないようにしておいて、影の方向にしるしをつけた、それから影の長さを測った。ちょうど九フィートだった。
もちろん計算はもう簡単さ。六フィートの竿に九フィートの影だとしたら、六十四フィートの木は九十六フィートの影になるだろう。やり方はふたりとも変わりはない。僕は距離を測った。するとほとんど家の壁の所まで来た。僕は木の釘をそこにさした。僕の木の釘から二インチとはなれていない所の地面に円錐(えんすい)状のくぼみをみつけたとき、僕がどんなにうれしかったかわかるだろう、ワトスン君。それはブラントンが測ったときにつけた印だと知れた。だから僕は、まだ彼の跡をしっかりとつけていることになるのだ。
この出発点から、(はじめに磁石で方角を定めてから歩測しはじめたんだが)僕はまず北に二十歩あるいた。これは家の壁に平行な方角だ。そこでまた僕は木の釘で印をつけ、そこから注意ぶかく東へ十歩、南へ四歩かぞえた。そこは古いドアの敷居のところだった。そこから西へ二歩は、敷石の通路を二歩行くことになる。そしてそこが文書に示されている場所なのだ。
あのときほど凍(こお)るような落胆を感じたことはなかったね。ワトスン君。一瞬、僕の計算違いかと思った。沈みかけた日ざしが、通路の上に落ちて、古い、靴ですりへった灰色の敷き石が、しっかりとセメントで固められ、長いこと動かされたことのないのがわかった。ブラントンはここでは何もしなかったのだ。私は床をけってみたが、どこも同じ響きだった。そして裂け目や割れ目らしいものも全然なかった。ところが幸運にも、マスグレイヴが僕の行動の意味を解しはじめて僕と同様に興奮し始めていて、例の文書をとりだして僕の推定に水をさしてくれたのだ。
『そしてその下に』と彼は叫んだ。『[そしてその下に]というのを忘れていますよ!』
僕はそこを掘ることだと思っていた。しかし、もちろん間違いだということがわかった。
『この下に地下室でもあるんですか?』と僕は叫んだ。
『ええ、建物と同じくらい古いのがあるんですよ。すぐこの下にね。このドアを通って行くんです』
われわれはまがりくねった石の階段を降りた。僕の友はマッチをすって、片隅の樽の上にあった角灯に火をつけた。すぐに、われわれはついに文書の示しているその場所にたどりついたことがわかった。しかもそこへ最近やって来たのはわれわれだけではないこともわかった。
そこは薪(たきぎ)の貯蔵所になっていたが、以前はたしかに床じゅうにちらかっていたらしい薪が両がわにおしわけられて、真ん中に空きがつくられていた。そこには大きな重い敷き石があり、真ん中にさびた鉄の輪がとりつけられ、その輪には厚手の格子縞(こうしじま)のマフラーが結びつけてあった。
『たしかにそうです!』とマスグレイヴは言った。『これはブラントンのマフラーです。彼がこれを巻いているのを見たことがあります。間違いありません。あの悪党め、ここで何をしていたんだろう?』
僕の申し出で、二人の地方警察官が立ち会うことになった。僕はマフラーをひっぱって石をもちあげようとしたが、ほんの少し動いただけなので、もうひとり警察官の手を借りてようやく開けることができた。下に黒い穴がぽっかりと口をあけた。すぐにマスグレイヴがひざをついて角灯をさし入れ、われわれは皆のぞきこんだ。
深さ約七フィート、一辺四フィートばかりの小さな部屋だった。その部屋の隅には、ずんぐりした、真鍮(しんちゅう)装釘の木箱があった。蓋は蝶番(ちょうつがい)で上向きに開くようになっており、鍵穴には、今ここにあるこのおかしな古風な鍵がさしこんであった。外がわはほこりがひどくつもっていて、湿気を含み、虫がくっていたので、内側はさだめし、茸(きのこ)がいっぱいはえているだろうと思われた。あけてみると、箱の中には、昔の貨幣と思われる丸い金属のかけらが数枚……僕が今ここにもっているようなやつだが……散らばっていただけだった。
しかしその瞬間には、われわれは古い箱のことなどは考えていなかったのさ。われわれの目は、そのそばにうずくまっているものに釘づけにされていたからだ。それは人間だった。黒い服を着て、すわったまま箱にうつぶせになり、両がわに腕を投げだしていた。
そんな姿勢なので、汚れた血で顔が充血し、ゆがんだ胆汁色の顔からは、誰やら見分けがつかなかった。死体を上にひきあげてみると、背丈、洋服、髪の毛から、たしかに行方不明の執事であることがマスグレイヴにはわかった。彼は何日か前に死んでいたが、どうして死んだかを示すような傷跡は死体には見当たらなかった。彼の死体が地下室から運び去られた後でも、われわれは依然として、なにも分かっていなかった。
ワトスン君、じつは僕もほんとうにがっかりしてしまったのだよ。私の考えからすれば、儀式文にしめされた場所さえ見つければ事件は解決すると思っていた。だが、僕はその場にいるわけだが、先祖たちが、あれほど注意ぶかく隠したものが何物であったか、それさえわからずにいる。僕がブラントンの運命をあきらかにしたことはたしかだ。だが今度は、どうして彼はかかる末路をとげたのか、そして行方不明の女がどんな役割を演じたのか調べなくてはならない。僕は隅の小さな樽に腰かけて、すべての事柄をもういちど考え直してみた。
そういう場合の僕の方法は知ってるだろうね、ワトスン君。僕はその男の立場に自分を置いてみる。まず最初に彼の頭の良さを計ってみて、もしも僕がそういう状況におかれたら、どんなふうに行動するだろうかを考えてみる。この場合はブラントンの知能が第一級だったことで条件は簡単になった。天文学者が名づけているような個人誤差を全然考慮しなくてもよかったからね。彼は何か価値のあるものがかくされていることを知った。彼は場所をさぐりあてた。そこにかぶせてある石は、ひとりだけでは持ち上がらないほど重いことを知った。次には彼は何をするだろうか? 
外部から助けを求めることはできない。もし外部に信頼できる人間がいたとしても、ドアの鍵をあけたり、人目につく危険をおかさねばならない。それよりも、もしできれば家の中のものに手伝ってもらったほうがいい。だれに頼めるか? この少女は彼にすべてをささげていた。どんなにひどい仕打ちをしていても、男というものは女の愛を完全に失ってしまったということをなかなか理解しえないものだ。
そこで彼はハウエルズとなんとかして仲なおりして、手伝う約束をさせる。彼らは夜になって一緒に地下室にやってくる。二人の力をあわせれば石も持ち上がる。そこまでは目に見えるように、僕もたどることができた。
しかし二人のうち一人が女であっては、その石を持ちあげるのはたいへんな仕事だったにちがいない。たくましいサセックスの警官と私とでさえ、なまやさしいことではなかったのだから。彼らは補助として何を使ったか? 僕は立ち上がると、床に散らばっているいろいろな薪(たきぎ)を注意ぶかく調べて見た。すぐに僕は予期したものを見つけだした。ひとつは約三フィートの長さで、一方の端にひどくへこんだ跡がついていた。ほかの何本かは、何か非常な重みでおしつぶされたように、平べったくなっていた。明らかに、彼らが石をようやく持ち上げたときに、これらの薪を隙間にさしこんだにちがいない。そして最後に、ひとりがはって入れるほどに穴があいたとき、彼らは薪をたてかけて石をとめておいた。だから一方の端がひどくへこんでしまった。とにかく石の全重量がその下端にかかったのだから。そこまでは僕も確証をにぎっていた。
そこでだね。この深夜の劇的な情景をその先、どう再構成してみたらいいかというわけだ。たしかに穴の中へはひとりきりしか入れない。入ったのはブラントンだった。少女は上で待っていたのだろう。ブラントンは箱をあけて中味をとり出した。おそらく中味はあったのだろう……というのは今はないのだからね……そして……そして何が起こったか?
どんな復讐心が彼女の心中に燃えくすぶり、それがこの情熱的なケルト気質の女の魂に燃えうつったことか? 彼女をはずかしめた男は……おそらくそれはわれわれが想像するより彼女にとってはずっとひどい恥辱だったのだろう……その男が今や彼女の手中にある。それとも単に偶然に支えの薪がすべって、石がブラントンを墓場に閉じこめたか? 彼女はそれを黙っていただけの罪しかないのか? それとも突然彼女の手が、支えをとばして敷石をバタンとしめたのか? どっちだかよくわからないが、僕の目に浮かぶのは、その女が地中の宝をしっかりと握って、狂ったように曲がりくねった階段をかけのぼる姿だ。耳の中ではおそらく、閉じこめられた叫び声が追いかけて来る。彼女の浮気な恋人の生命を絶ったことになった石の蓋を、気違いのようにたたく音が太鼓のように耳にひびいてくる。
ここに次の朝、彼女の顔が真っ青で、ひどく興奮しており、発作的に笑ったりした秘密があったのだ。
しかし箱の中にあったものは何だろうか? 彼女はそれをどうしたのか? もちろんそれは、僕の依頼人が池から引き揚げた古い金属のかたまりと小石だったにちがいない。彼女は機会をとらえてすばやくそこへほうりこみ、犯罪の唯一の証拠を消そうとしたものだろう。
二十分間、僕はじっと動かずにすわったまま、事件を考えていた。マスグレイヴは立ったまま青い顔をして、角灯をふりまわして穴の中をのぞきこんだりしていた。
『これはチャールズ一世の貨幣ですよ』と彼は、箱の中に残っていたいくつかを手につまんで言った。『うちの儀式がいつから始まったか、推定の正しかったことがおわかりでしょう』
『チャールズ一世には、ほかにも問題がありますよ』と僕は叫んだ。儀式の最初の二つの問いの意味がわかりそうな気がしたからだ。『君が池から引き揚げたものが見たいですね』
われわれは書斎へ上がって行った。彼はその遺物を見せてくれたが、見たときすぐに彼がそれを重要視していないことがわかった。というのも、金属はほとんど真っ黒で、小石は光沢もなく、つまらなそうなものだったから。僕は石のひとつを袖(そで)でこすってみた。それから手のひらで暗くしてみると、きらきらとまばゆくきらめくではないか! 金属のほうは二重の輪のような型だったが、もとの型からずい分ゆがめられて変わっていた。
『こういうことを思いださなくてはいけませんよ』と私は言った。『王党派は王が殺された後でも英国で活躍していた。そして彼らが最後に逃げたときには、おそらく彼らの最も大切な財産は埋めて行ったことでしょう。もっと平和になって彼らが復帰して来るときにそなえてね』
『家の先祖のフィリップ・マスグレイヴは、有名な王党派でした。そしてチャールズ二世の亡命中は、王の右腕といわれていたくらいだったのです』
『ああ、なるほどねえ。それでいま、僕のほしい最後のつなぎ目が手に入りました。君にお祝いを言わなくてはなりませんね。ちょっと悲劇的な経過はたどりましたが、実に当然と言えば当然な、ですが歴史的に言えばそれ以上に重要な遺物が手に入ったのですよ』
『いったいなんですか? それは?』
『ほかでもない。古(いにしえ)の英国国王の王冠ですよ』
『えっ! 王冠ですって!』
『たしかにそうです。儀式文が何といっているか。こうでしょう。[それは誰のものであったか?][行ってしまった人のものだ]それはチャールズ一世の処刑の後だったのですよ。[誰に渡すべきものか?][やがて来る人に]これはチャールズ二世のことです。彼の復位はすでに予想されていたのですね。そんなわけで、僕は、このひしゃげて形もわからなくなっているものは疑いもなく、かつてスチュアート王朝歴代の王の額をかざっていた王冠なのだと思うわけです』
『それがどうして池の中にあったのでしょう?』
『ああ、それにお答えするには少し時間がかかるのですがね』と言って、僕は長い事件のつながりと、僕のつかんだ証拠のあらましを物語った。夕やみがたちこめてきて、私の物語が終らないうちに、月がきれいに輝きはじめていた。
『それなら、なぜチャールズ王が復位したとき、その冠をいただかなかったのでしょう?』
マスグレイヴはそうたずねると、その遺物をリンネルの袋にしまいこんだ。
『ええ、それは永久にわからないことでしょうね。こんなことも考えられます。この秘密を知っていたマスグレイヴは中途で死んでしまった。そして何かの手抜かりから、意味を説明しないまま、手引きとなる儀式文だけを子孫にのこした。その日以来、これは父親から世継ぎへと語りつたえられて来たが、ついにその秘密を知りうる男があらわれた。しかしその男はそれを実行して命を失った』
というわけで、これがマスグレイヴ家の儀式の物語なんだ、ワトスン君。王冠はハールストンに保存してあるよ。それを私有するについて、多少法律的ないざこざもあり、かなり金もはらわされたそうだが。僕の紹介だといえばきっと見せてもらえるよ。女中については何もわかっていないが、おそらく彼女は英国をはなれて、どこか海の向こうの国で、犯した罪の記憶をいだいて暮らしてでもいるんだろうよ」
ライゲイトの大地主

シャーロック・ホームズは一八八七年春、並々ならぬ奮闘の結果、過労のために健康をそこなっていたが、それがまだ回復しきらないころのことである。そのオランダ領スマトラ会社事件およびモーペルトィ男爵の大陰謀事件というのは、まだ人々の記憶になまなましく、とりわけ政界や財界方面にも少なからぬ関係があるので、この探偵録に記載するには不適当である。だが、それが妙な因縁から、またしても、生涯をかけて犯罪に闘いをいどむホームズの、新たな武器の真価を発揮させる複雑怪奇な新事件をみちびき出すことになった。
ノートを見ると、ホームズがリヨンのデュロン・ホテルで病床にふしている旨(むね)の電報を受け取ったのが、四月十四日のことである。一昼夜もたたないうちにホームズのもとについた私は、彼の病状が軽いのを知ってほっと安心したが、一日に十五時間以上も仕事をし、しかも、彼自身に言わせると五日間ぶっ続けに働いたことも一度ならずあったという、この二か月にわたる調査の疲れから、さしも強靭(きょうじん)な彼の身体も、すっかりいためつけられていた。調査はみごとな成績をおさめたのだったが、そのよろこびも、あの激しかった努力のあとの疲労には、うちかつことができなかった。彼の名声がヨーロッパ全土にひろがって、文字どおり踵(かかと)を没せんばかり、祝電が殺到しているときにも、ホームズは暗い憂鬱(ゆううつ)に身をまかせていた。自分が三か国の警察がさじをなげた事件をみごとに解決し、完全にヨーロッパ随一のペテン師の裏をかいたと知ってさえ、彼の神経衰弱は回復しそうにもなかったのだった。
三日後にホームズをつれてベイカー街に帰ってきたが、健康のためには何より転地がいいにちがいなかった。それに私にとっても、春に田舎で一週間ばかり暮らすというのは、考えただけで心が誘われるのだった。アフガニスタンにいたときに私の治療をうけたことのあるヘイター大佐が、サリー州ライゲイトの近くに住んでいて、何度も立ち寄るように私をさそっていたが、最近の便りで、ホームズが一緒に来るようだったら私同様に歓迎すると言って来ていた。少しばかり駆け引きがいったが、それでもホームズは、ヘイターが独身なので自由にふるまえると知ると、私の計画に同意した。そこでリヨンから帰って一週間後に、われわれはヘイター大佐の家に来た。大佐はりっぱな老軍人で、世の中の酸(す)いも甘いもかみわけた人だった。このぶんだとホームズと意気投合するだろうと思っていたが、果たしてそのとおりだった。
ライゲイトに着いたその夜、われわれは夕食をすませて銃器室の椅子に腰をおろしていた。ホームズはソファの上に長くなり、私は大佐と、彼のこの小さな兵器庫を見せてもらっていた。
「ところで」と不意に大佐が言った。「こっちも危くなったら、このピストルを一挺、二階に持って行っておきましょう」
「危いって、あなた」と私は言った。「いや、最近、この近くでちょっとしたことがありましてね。アクトン老人といって、やはりこの辺の豪家ですが、そこへ、ついこの月曜日に押し込んだ奴がいましてね。もっともたいした被害はなかったんですが、犯人はまだあがっていません」
「手がかりは?」とホームズが上目(うわめ)をつかった。
「今のところぜんぜんです。なあに、ちっぽけな事件ですよ。田舎にありがちなつまらない事件ですよ。ホームズさん。ああいう国際的な大事件をおやりになったあとじゃ、問題にもならんでしょう」
ホームズは手を振ってこのお世辞をはらいのけたが、それでもうれしかったとみえてほくそ笑(え)んでいた。
「なにかおもしろいところはなかったですか?」
「まずないと思いますね。書斎をひっかき回しているんですが、そのわりに獲物が少なかったようですね。ひきだしはぶちまけるわ、本棚はかきまわすわ、どこもかも、めちゃくちゃにひっくり返しておいて、なくなったものといったら、ポープ訳のホメロスの半端(はんぱ)もの一冊、メッキ燭台がふたつ、象牙の文鎮(ぶんちん)、樫の木で作った晴雨計の小さいやつ、それから麻の糸玉と、こんなものです」
「なんと奇妙な取り合わせですなあ!」私は思わず叫んだ。
「なに、手あたりしだいにかすめて行ったにちがいありません」
「州警察はいったいなにをしているんだ」ホームズがソファからぶつぶつ言った。「なんたって、はっきりしてるじゃないか、こいつは……」
私は指をあげてホームズに注意した。
「君はここへ休息するためにやって来たんだよ。神経がずたずたになっているくせに、新しい事件にとびこむなんて、どんなことがあったって、やっちゃいけないよ」
ホームズは、おどけた諦(あきら)めの眼差しを大佐にむけて、肩をすくめた。それから話題はもっと安全な方面に移っていった。
ところが、私が医者としていくら気をつけても無駄だということがわかった。というのは、翌朝になってこの事件が、無視することのできないかたちをとって、ふたりの間に割り込んで来たからである。この小旅行は意外な方面に展開してしまったのだ。
朝食をとっているときのこと、大佐の執事が、日ごろのたしなみをすっかり忘れてとび込んで来た。そしてあえぎながら、
「お聞きでございましょうか? カニンガム様のお宅で!」
「強盗か?」コーヒー茶碗(ちゃわん)を宙に迷わせて大佐が叫んだ。
「殺人でございます!」
大佐は口笛をならした。「なんてこった! 誰だ、殺されたのは。判事さんか、息子のほうか?」
「いえいえ。馭者(ぎょしゃ)のウィリアムでございます。心臓を一発やられて、そのままだったそうでございます」
「そうかい、誰がやったんだ?」
「強盗でございます。鉄砲玉のように逃げ出して行方をくらましてしまいましたそうで。食器室の窓を破って押し入ったのを、ウィリアムが見つけまして、カニンガム様の財産を守ろうとして、あんなことになったのでございます」
「いつだ?」
「昨晩でございます。十二時ごろとか」
「ああ、そうかい、すぐ現場へ行ってみよう」と大佐は冷静に朝食を続け始めたが、執事が立ち去ると、「ちょっと厄介な話です。カニンガムはこの地方の大地主でして、しごく懇意(こんい)な人物ですが、ウィリアムというのは長年仕えてきた男で、良い召使いでしたから、きっと心を痛めていることでしょう。確かにアクトンのときと同じ悪党のしわざですね」
「妙なものばっかり持って行ったやつですね」ホームズは考え深げに言った。
「ええ、ええ」
「ふむ、全く単純な事件かもしれんが、しかし同時に、一見ちょっと奇妙なところがあるようですね。田舎で働く強盗一味なら、現場を次々かえて行きそうなものです。わずか二、三日のうちに、同じ地方で二軒の家に押し込んだりしません。ゆうべあなたが用心にピストルを携帯するとおっしゃったとき、イングランド地方でもこの辺は、この一人だか何人組だかの泥棒がやって来るにしても、いちばん最後の場所になるんじゃないかと、ふっとそんなに思ったりしたんですがね。まだまだ私にも予想できないことが沢山あるようです」
「土地の泥棒のしわざじゃないですかねえ。とすれば、アクトンにしろカニンガムにしろ、当然やられそうな家だということになりますからね。二軒ともこの辺じゃ、とびぬけて大きな家ですよ」
「金もいちばんもっていると」
「ええ、まあ、そのはずじゃあるんですが。だいぶまえから訴訟事件でこのふたりが争ってましてね、その方に相当すいとられてるんじゃないかと思いますが。アクトン老がカニンガムの土地の半分に所有権を主張しておるわけですが、弁護士たちもかかりきりの有様ですから」
「土地の与太者(よたもの)なら、わけなくつかまるでしょう」ホームズはあくびをしながら言った。「わかってるよ、ワトスン君。首をつっこんだりしやしないからね」
ドアがさっと開くと、執事が姿を現わした。
「フォレスター警部さんでございます」
警部が入って来た。目から鼻へ抜けそうな、鋭い顔つきの若者である。
「お早うございます。お邪魔いたしまして申しわけございませんが、ベイカー街のホームズさんがご滞在中とうかがいまして」
大佐がホームズのほうに手を振ると、警部は頭をさげて挨拶した。
「実は、ちょっとお力を拝借させていただけたらと存じたもんでございますから」
「ワトスン君、運命の女神は君にさからっているね」とホームズは笑った。「いま、その事件のことを話していたところです。詳しいところを聞かせていただきましょうか」と、いつものように椅子にふんぞり返ったので、私はこの患者を見放すより手がなかった。
「アクトン事件では手掛りがまったくございませんが、今度はかなりつかんでおります。二つとも明らかに同じ者のしわざです。その男の目撃者があります」
「ほほう」
「はァ。ところがウィリアム・カーウァンに一発くわせておいて、脱兎(だっと)のごとくに逃走しております。カニンガム氏が寝室の窓から、またアレックさんが勝手口から目撃しておられます。事件の起こったのは十二時十五分前です。カニンガム氏はちょうどベッドに入ったところ、アレックさんは部屋着を着てパイプをふかしていたところだったそうです。二人とも馭者のウィリアムが救いを求める声を聞きまして、アレックさんが何だろうと思って駆けおりました。すると勝手口のドアが開いておりまして、庭で男がふたりもみあっているのが見えましたが、一方がピストルを撃つと相手がひっくりかえりました。犯人はそのまま駆け出して庭を横切ると、生け垣をとびこえて逃げてしまいました。カニンガム氏は寝室の窓から見ておられたわけですが、男が道路に達するのを目撃されました。その先は見えなかったそうです。アレックさんは倒れたウィリアムが助かるかどうか立ち止って見たものですから、その間に犯人は姿を消してしまいました。
特徴は中肉中背で黒っぽい服を着ておったということ以外わかっておりませんが、ただいま全力をあげて捜査中でありますから、よそ者ならじきあがると思っております」
「そのウィリアムは、そんなところでいったいなにをしていたんですかね。死ぬ前になにか言いましたか」
「ひとことも言っておりません。母親と番小屋に住んでおったわけですが、なかなか忠実な男だったもんで、おそらく屋敷の戸締りを見回るつもりで、本館のほうにやって来たんじゃないかと思います。なにしろアクトン事件で、みんな気をつけるようになっております。ちょうどドアをぶちあけたところへ……つまり錠がこわれておりますが……ウィリアムが通りかかったものとみえます」
「番小屋を出るまえに、母親になにか言っていませんか?」
「これが耄碌(もうろく)婆さんで耳が聞こえないもんで、なにも聞き出せませんでした。ショックでおかしくなっておりますが、どうも、もともと頭のいいほうじゃないように思われます。しかしここに非常に重要な材料がひとつあります。ご覧ください」
フォレスターは、ノートをちぎった小さな紙きれをとりだして膝の上にひろげた。
「これはウィリアムが指につまんで持っておったものですが、もすこし大きい紙の切端のように見うけられます。どうですか、ここに書いてある時間とウィリアムが殺された時間と一致しておりますでしょう。犯人がこの残りの部分をちぎって行ったか、それとも、ウィリアムがこれだけちぎったか、どちらかですね。いずれにしろ会見の約束のようです」
ホームズは紙きれをとりあげた。
「これが会見の約束だとしますと」警部はつづけた。「ウィリアムは正直と言われながら、強盗の一味だったということにもなりますね。とすると、庭でおちあって、ドアを破るのを手伝ったが、そのあとで仲間喧嘩したとでもいうところですか」
ホームズは異様に注意力を集中して紙きれを調べていたが、「実におもしろい紙きれだ。思ったよりはるかに複雑な事件だ」と両手に頭をかかえた。
フォレスターはこの事件が、ロンドンの有名な専門家に与えた影響を見てにっこり笑った。
「いまおっしゃったこと、つまり強盗と召使いが結託していること、この紙きれが誰かから誰かに渡された会見の約束だということ、これはみごとな推理だし、決してありえないことじゃありません。ただ、この紙きれを読んでみると……」
ホームズはまた頭をかかえこんで、しばらくじっと考えこんでいたが、やがて顔をあげたのを見ると、驚いたことに、彼の頬には血の気がさし、眼は病気の前のようにキラキラ輝いていた。彼は以前とおなじ調子で、元気いっぱいに立ち上がった。
「まあ聞いてください。ちょっと細部をあたってみようと思います。この事件は少しばかり、とくに興味をひくところがあります。そこで、ヘイターさんにはちょっと失礼して、警部さんと一緒に出かけたいと思いますから、ワトスン君とここに残っていただきます。ひとつふたつ頭に浮かんだことを調べてみたいと思いますので。半時間もしたら帰ってきます」
一時間半もしてから、フォレスター警部がひとりで帰ってきた。
「ホームズさんは外庭を歩きまわっておいでですが、四人一緒に本館に行ってみたいとおっしゃるもので」
「カニンガムさんの家に?」
「はあ」
「何をするんですかねえ」
フォレスターは肩をすくめた。「私には全く見当もつきませんね。ホームズさんは、まだ病気から完全に回復していらっしゃらないように思えるのですが。とにかく奇妙なふるまいをして、非常に興奮しておられるようでした」
「ご心配には及びません」私が言った。「ホームズの奇癖には、いつも一貫した目的がありますから」
「人が見たら、その目的が気ちがいじみていると噂することでしょうが。まあそれはともかく、ホームズさんは今にも乗り込みかねないようすでしたから、ご用意がよろしければ、すぐにお出かけ願えませんか」

ホームズは、顎(あご)を胸にうずめ、両手をズボンのポケットに突っ込んで外庭を歩きまわっていた。
「事件はますますおもしろくなってきたよ。ワトスン君。この小旅行は大成功だ。ほんとにすばらしい朝だったよ」
「現場を見ておいででしたね」ヘイター大佐が言った。
「ええ。フォレスターさんと二人で、ほんのちょっと捜索をやってみました」
「結果はどうです?」
「非常におもしろいものを二、三見つけましたが、まあ歩きながらお話ししましょう。最初ウィリアムの死体を見ましたが、話のとおり、ピストルで殺されています」
「すると、そんなことをお疑いだったんですか?」
「何ごともやってみるにこしたことはありません。捜査は無駄じゃありませんでした。それからカニンガム氏の子息さんに会ってみました。おふたりとも、犯人が逃走するときに生け垣をこわした場所を、正確に教えてくれましたが、実に興味あることです」
「なるほど」
「それから、ウィリアムの母親に会いました。年をとって衰弱していますから、目新しいことは、なにひとつ聞き出せませんでした」
「で、調査の結果は、どういうことでしたか?」
「この犯罪が非常に奇怪なものだという確信を得ましたね。これからもうすこし調べてみれば、もっとはっきりしてくると思います。警部さん、あなたも同じお考えと思いますが、死体が手に握っていたあの紙きれに、ウィリアムの死亡時刻が書かれていたのは、非常に重要なことですね」
「手がかりになると思います」
「思いますじゃない。誰があれを書いたにしても、とにかく書いた男が、あの時刻にウィリアムをベッドから誘い出した男です。しかし、あとの部分はどこにありますかな?」
「どっかに落ちていないかと思って、地面を探しまわしたんですが」
「あの紙きれは、犯人が死体の手から引きちぎったんです。なぜ犯人がそんなに気をもんだのか? 紙きれから真犯人がわかるからですよ。それを手に入れてからどうしたか、きっとまあ、ポケットに突っ込んだままで、角がちぎれて死体の手に残っているとは気がつかなかったんでしょう。もし、そのあとの部分が見つかったら、この事件は解決したも同然ですな」
「ははあ、しかし犯人がつかまらなきゃ、犯人のポケットから紙きれを手に入れるわけにもいかんでしょう」
「なるほど、そいつは考え落しましたかね。ただ、もうひとつ明白な点がある。つまり、あの手紙はウィリアムに渡されたものだということですが、書いた人間が自分の手で持って行ったわけはありません。なぜって、本人なら口で言えば良かったはずですからね。じゃ、誰があの手紙を持ってきたのか、……それとも郵便で送ったんでしょうかね」
「それはもう調査ずみです。ウィリアムは昨日午後の便で、手紙を一通受け取っております。封筒は本人が破りすてております」
「それは、それは!」とフォレスターの背中をたたきながらホームズは言った。「配達人に会いましたな。いや、あなたと仕事をするのは愉快です。さて、ヘイターさん、あれが番小屋です。何なら、犯罪現場をごらんになりますか?」
殺されたウィリアムの住んでいたという、こじんまりした小屋のまえを通って、われわれは柏(かしわ)の並木道を登り、ドアの上の梁(はり)にマルプラケ記念の日付を刻みこんだ古びて美しい、アン女王王朝風の家の方に歩いて行った。
ホームズとフォレスターは先に立って家のぐるりをまわり、庭園の一部が長くのびて道路沿いに低い生け垣がとぎれたところにある、横手の門に案内してくれた。巡査がひとり、台所の戸口で立ち番していた。
「ちょっとドアをあけてくれたまえ」とホームズが巡査に言った。そしてわれわれに、「あの階段の上からアレック君が、ちょうどいま立っているこの辺でふたりが格闘しているのを見たわけです。カニンガム氏のほうは、あの左手から二番目の窓からのぞいていて、犯人がそっちの繁みの左手に消えるのを見たそうです。アレック君もそう言っています。ふたりとも、その繁みがあるために、自信があるようです。アレック君は走り出て、傷ついたウィリアムのそばにしゃがみ込んだわけです。地面が乾き切っているから、足跡はひとつも残っていません」
ホームズがこう話していると、ふたりの男が建物の角を曲がって庭の小道をこちらへ近づいてきた。ひとりは、暗い目をした皺(しわ)の深い、強靭(きょうじん)な顔の初老の男だったが、もうひとりは颯爽(さっそう)とした青年で、その明るい、ほほえみかけるような表情や派手な服装は、われわれのやってきた用件とくらべて、およそ似つかわしくないものだった。
「まだやってらっしゃるんですか」と青年がホームズに声をかけた。「ロンドンのかたは決してドジを踏んだりなさらないものと思っていたんですが、それじゃあまり仕事のお早いほうじゃないようですね」
「いやあ、少しは時間をいただかないと」ホームズは人がよさそうに言った。
「そりゃ、そうでしょうとも」アレック・カニンガムは言う。「なにしろ手がかりがちっとも無いですからね」
「ひとつだけあります。それを発見しさえすれば……」とフォレスター警部が言いかけて、「おや、たいへんだ! ホームズさん、どうなさいました!」
突然、ホームズがものすごい表情になった。目がぎょろチとつり上がって、顔が苦痛にゆがんだとみると、押し殺されるようなうめき声を上げながら、ばったりと地面につんのめった。突然の激しい発作に驚いて、すぐに台所へかつぎ込んで大きな椅子におろしてやったが、ホームズはしばらく激しく息づいていた。やがて、失態をわびながら立ち上がって、
「ワトスン君に聞いていただければおわかりになりますが、重病から回復したばかりだもんで。どうもこうやって、不意に神経発作が起こりましてね」
「二輪馬車でお送りしましょうか」カニンガム氏が申し出た。
「いや、せっかく来ましたから、どうしても一点だけ確かめておきたいと思います。なに、すぐ調べがつきますから」
「どういうことですか?」
「ええ、殺されたウィリアムがここに入ったのは、強盗がはいる前じゃなくて、後だったと思うんです。ドアが押し破られているのに、あなた方は犯人が侵入していないのを何とも思っていらっしゃらないようですが」
「そいつは、はっきりしとると思いますがなあ」
カニンガム氏が重たい口をきいた。「息子はまだ寝室に行っちゃいなかったんだから、誰かが家の中をうろつきまわってりゃ、音が聞こえたでしょうからなあ」
「ご子息さんはどの部屋においででしたか?」
「僕は化粧室で煙草をすっていました」
「というと、どの窓にあたりますか?」
「左はしの窓です。おやじの部屋の隣です」
「むろん、どっちも灯はつけておいでだったわけですね」
「そうです」
「実に奇妙なことですね」とホームズは微笑をうかべた。「押し込み強盗が、しかもこれまでに経験のある押し込み強盗がですよ、灯がついていて家族がふたり起きているとわかっていながら侵入するなんてことが、いったい考えられますかね」
「よっぽどの心臓だったんでしょうな」とカニンガム氏が言った。
「これがありきたりの単純な事件なら、わざわざあなたに来てまでいただかなかったわけですよ」とアレックが言葉をはさんだ。「しかしウィリアムがつかみかかる前に、犯人が家の中に侵入していたというあなたの推理は不合理きわまるものですよ。家の中がかきまわされてるわけじゃなし、何かとられてなくなっているというわけでもありませんからね」
「何がとられたか、それが問題ですよ。相手は風変わりなやつですからね。やつらにはやつらの目的があるにちがいない。例えばアクトンさんの家でとられた物を考えてごらんなさい。奇妙なしろものばっかりじゃありませんか。糸玉だの、文鎮(ぶんちん)だの、それから何でしたっけね、ガラクタばっかり」
「いやはや、とにかくみんなおまかせしますよ」カニンガム氏が割って入った。「あなたなり、警部さんなり、おっしゃることは何でもよろこんでいたします」
「それじゃ先ず」とホームズが言った。「情報提供者に懸賞金を出していただけませんか。金額のほうは、どうぞあなたから直接おっしゃってください。こうしたことは当局のほうにまわすと手間どりますし、なにぶん手続きがスムースにいかないものですから。ここに私が書いた下書きの書式があります。これでよろしかったらご署名いただけますか。金額は五十ポンドで十分と思います」
治安判事カニンガム氏は、ホームズ氏が差し出した紙片と鉛筆を手にとった。
「五百ポンドでもかまいませんよ」と言って書類に目を通していたが、「だが、ちょっとここは違いやしませんか」
「あわてて書いたもんですから」
「こう書いていらっしゃる。『しかるところ、火曜日午前一時十五前、賊(ぞく)は……』云々。これは本当は十二時十五分前です」
私は心を痛めた。ホームズは元来こういった失策をひと一倍、気にするたちである。もともと事実を決してまちがえないのが彼の特色なのだが、最近の病気にすっかり痛めつけられているので、この小さな出来事は、まだ何といってもいつものホームズと違うのを、まざまざと感じさせた。
ホームズはちょっと困った表情をうかべたが、フォレスターがヒクヒクと眉毛(まゆげ)をあげると、同時にアレックが吹き出してしまった。もっとも、カニンガムは、間違いを訂正してホームズにかえした。
「これはできるだけ早く印刷にまわして下さい。懸賞金というのは、結構なお考えと思います」
ホームズは注意深くその紙片を紙入におさめて、
「さてと、こんどはどうです、皆さん、一緒に家の中を調べてみませんか。そして、その奇矯(ききょう)な押し込み泥棒が、結局何ひとつとっていないことを確かめてみませんか」
家に入る前にホームズは、押しこわされたドアを調べた。木の部分のえぐり取られた跡を見ると、ノミか大型ナイフを突き刺して、無理にこじあけたのに違いなかった。
「かんぬきはお使いにならないんですか?」
「今までそういう必要がなかったもんで」
「犬はいないんですね?」
「いやおりますが、表のほうに鎖でつないでありましてな」
「召使いたちが寝室に退くのは何時ころですか?」
「十時ころですな」
「ウィリアムもその時間には寝ていたでしょうね」
「そうです」
「とすると、月曜の晩にかぎってウィリアムが起きていたというのは、ちょっとおかしいですね。ところでカニンガムさん、家の中をひとわたり見せていただけませんか」
敷石をしきつめた廊下があって、いきなり二階へあがる木製の階段につづき、台所はそれから横手にのびた所にある。階段をのぼりきると、反対がわの、もうひとつのずっときらびやかな意匠をほどこした、玄関広間からの階段の踊り場に出た。応接室や、カニンガム氏とアレックの寝室などは、踊り場から直接はいれるようになっていた。
ホームズは家の構造を鋭く見つめながら、ゆっくり歩いていった。そのようすから、きっと彼が何か手がかりをつかんだのだと察せられるのだが、さてそれがどんなものかというと、さっぱり見当がつかなかった。
「ねえ、ホームズさん」とカニンガム氏がたまりかねたように言った。「こんなことをする必要がありますかね。この階段の突きあたりが私の寝室で、そのむこうがアレックの寝室ですよ。泥棒が私たちに気づかれずにここまで上がってこられるかどうか、簡単にわかりそうなもんじゃありませんか」
アレックも意地わるげな薄笑いをうかべて、「そうして探しまわっているうちに、何か手がかりがつかめるんでしょうよ」
「ところが、僕はもっともっとそんなふうに言われたいと思ってるんですよ。たとえば、寝室の窓から正面の庭がどのあたりまで見渡せるか、こんなことを調べたいんです。これがアレックさんのお部屋ですね」とホームズがドアをあけた。「それから、あれが、椅子にかけて煙草をすっておいでになった化粧室ですね。この窓からいったいどこが見えるんですか」彼は部屋を横切ると、向かいのドアをあけて別の部屋を見まわした。
「どうです。ご満足ですか」カニンガム氏はいらいらしてきた。
「いやどうも。望みのところはたいがい見せていただきました」
「そうですか、ご必要なら私の部屋もお目にかけますが」
「ご迷惑でなければお願いしましょうか」
治安判事カニンガムは肩をすくめると、質素な家具をしつらえた、平凡な部屋にわれわれを案内した。部屋を横切って窓のほうに向かったとき、ホームズはいちどもどって、いちばん後ろから歩いていた私のそばにやって来た。寝台の脚のそばに四角いテーブルがあって、オレンジを盛った皿と水差しがのっていたが、そのそばを通るときに、ホームズは私の前にのしかかるようにしながら、わざとテーブルをひっくり返したものである。私はあきれてしまった。水差しはこっぱみじんに砕け、オレンジは部屋のすみにごろごろころがっていった。
「何をやってるんだ、ワトスン君。絨毯(じゅうたん)が台なしじゃないか」
私は混乱のあまり思わず立ち止ったが、すぐに、何かあってホームズがこんな役目をふりあてたのだと気づいたので、オレンジを拾いはじめた。他の人達もオレンジを拾ったりテーブルをもとの位置にすえたりしてくれた。
「おや、あの人はどこだ?」フォレスター警部が声をあげた。ホームズの姿が消えている。
「ちょっと待ってらして下さい」アレックが言った。「あの人はどうもちょっと頭がへんですね。お父さん、どこへ行ったのか見てきましょう」
ふたりはあわただしく部屋を出て行った。あとに残された私、フォレスター、ヘイターの三人は、お互いに顔を見合わせた。
「じっさいどうも、アレックさんのおっしゃるとおりですな。ご病気のためでしょうが、しかしどうも私には……」
フォレスターの言葉は、不意に聞こえてきた「誰か来てくれ! 殺される」と言う叫び声に中断された。たしかにホームズの声だ。私は狂気のように踊り場に出た。われわれが最後に入った部屋からだ。叫び声はしわがれて、もぐもぐと次第に低くなっていく。私はあわてて手前の部屋を駆け抜けて、化粧室にとびこんだ。カニンガム親子がホームズを平蜘蛛(ひらぐも)のように押えつけている。アレックが両手でのどをしめつけ、カニンガム氏はどうやら腕をねじあげているらしい。いそいでわれわれ三人がカニンガム親子をもぎはなすと、ホームズは真っ青な顔をして、すっかり疲れきってよろめきながら立ち上った。そしてあえぎながら
「警部、そのふたりを逮捕するんだ」
「なんの嫌疑で?」
「馭者ウィリアム・カーウァン殺しの容疑者として」
フォレスターは当惑して、ただまじまじとホームズを見つめていたが、「さあ、しっかりなすって下さい、ホームズさん。まさか本気でそんなことを……」
「ちえっ、顔を見るがいい、ふたりの」ホームズは声を荒らげた。
見るとほんとうに、人間の顔がこれほど明白に罪状を告白しているのを見たことがなかった。カニンガムはひとくせありげな顔一面に陰気な表情をうかべて、茫然(ぼうぜん)自失(しつ)のていだった。一方アレックは、今まで彼の特徴だった颯爽(さっそう)たる態度がすっかり消えうせて、危険な野獣の残忍さが黒い目をぎょろつかせ、美しい顔をみにくくゆがめていた。フォレスターはひと言も口をきかなかったが、ドアに歩み寄ると、呼子をピリーと鳴らした。ふたりの巡査がそれにこたえて入ってきた。フォレスターは口をきった。
「カニンガムさん、どうも他にいたしかたございません。きっとこれはとんでもない間違いだと信じておりますが、ご存じのとおり……あッ、何です! はなしなさい!」
彼はサッと手ではたいた。アレックが連発ピストルの安全装置を外そうとしている。ピストルは床にころがった。
「取っておきなさい」ホームズが素早くそれを足でおさえた。「公判のおりに役に立つでしょう。ところで、いちばん欲しかったのはこれですね」と、しわくちゃになった小さな紙きれを取り出した。
「紙きれのあとの部分ですか?」フォレスターが叫んだ。
「そのとおり」
「どこにありましたか?」
「あるに違いないと思っていたところでみつけました。あとで事件の全貌(ぜんぼう)を話してあげますよ。それで、ヘイターさん、ワトスン君とひと足先に帰っていていただけませんか。せいぜ小一時間もしたら帰りますから。警部さんと、この二人にちょっとききたいことがあるんです。昼食にはきっと間に合いますからね」

約束どおり、シャーロック・ホームズは一時ごろヘイターの喫煙室に姿をあらわした。小柄な初老の紳士と一緒だったが、これが最初に押し込み強盗にはいられたアクトン老だと紹介された。
「アクトンさんにもご同席ねがって、真相をお話ししようと思いまして。というのは、アクトンさんもきっと深い興味をお感じになると思うんです。ただ、私のようにとかく騒動をまき起こしがちな男がライゲイトにやって来て、ヘイターさんがうるさがっていらっしゃりはしないかと思うんですが」
「とんでもないこってす」大佐は心温かく答えた。「ホームズさんのお仕事の方法というものが拝見できまして、もう光栄のいたりです。実を申しますと、お仕事ぶりがいちいち予想以上なんでして、ましてああいう結果になるとは思ってもみませんでしたが、いまだに手がかりの手の字もわからん始末でして」
「説明をきくとがっかりなさるかと思いますが、まあワトスン君にかぎらず、私のやり方に知的な興味をお持ちになった方なら、どなたにでも洗いざらいお聞かせすることにしておりましてね。ところでそのまえに、先ほど化粧室でさんざんなぐりつけられて、すこしまいっているもんで、恐縮ながらブランディをいっぱいいただけませんか。近ごろすこし体が弱っていましてね」
「あれからもう、あんな神経発作は起こらなかったでしょうね」
ホームズは愉快そうに笑った。「そのことはあとから申しますがね。それじゃ、ああいう結論を導いたいろんな要点をあげながら、順を追って真相をお話ししていきましょう。あいまいな点がおありでしたら、いつでも話の腰を折って下すって結構ですよ。
犯罪捜査をする上でいちばん大切なことは、多くの事実から、重要なものと、偶然的なものとを選び分ける能力です。そうしないことには、精力や注意力の浪費になってしまって、ちっとも集中しません。この事件では、最初から、真相の鍵は被害者の握っていた紙きれだということが、はっきりしていました。
その前にちょっと、次のことに注意しておいていただきましょう。つまり、アレックの証言が真実であって、犯人はウィリアムを射殺してからただちに逃走したのだとすると、犯人には被害者が握っていた紙片をもぎとって行く暇なんか無かったはずだということです。紙片をもぎとったのが犯人でないとすると、それはアレックだということになります。というのは、カニンガム氏がおりて来たときにはもう召使いたちが現場にとび出して来ていたんですからね。実に単純なことですが、警部ははじめから、豪家の人たちだから事件に関係するはずがないという先入観を持っているから、これを見のがしていたわけです。で、私は絶対に偏見のない態度で捜査して、事実の指向するままにそれを進めることにしているんですが、もう最初の段階からすでに、令息アレック・カニンガム君の演じた役割がちっとばかり怪しいと思っていたわけです。
そこで警部が持って来た紙片を厳密に調べた結果、ただちに、これはなにかたいへん注目すべき紙きれの一部分だとわかったんです。これです。どうですか皆さん、非常に暗示的なところがあるのに気がおつきになりませんか?」
「たいへん不規則な字面(じづら)ですね」とヘイターが言った。
「そこですよ! これは明らかに、ふたりの人間が一字ずつ交替で書いたものにちがいありません。よく注意して、at や to の強い t の字と、quarter や twelve の弱い t の字をくらべてごらんになったら、たちまちそのことがおわかりになります。この四語の簡単な分析から、さらに、この learn と maybe は強い字を書いた人物のもので、what は弱いのを書いた人間の字だということが、すぐおわかりになるでしょう」
「なあるほど、はっきりしてますなあ」とヘイターが叫んだ。「しかし、なんでまた一通の手紙をそんなことまでしてふたりで書いたんですかねえ」
「明らかに、あまり気の進む仕事じゃなかったんです。ふたりのうちのひとりが相手を信用せずに、何をするにも平等にやろうと決めたんでしょう。で、ふたりのうちで、強い字を書いたほうが主謀者です」
「それはまた、どうしてですかな」
「ふたりの筆跡をくらべただけでそう推定できますよ。しかしそれにはもっと確実な理由があります。念入りに調べてごらんなさい、強い字を書いたほうが最初に、一字ぶんずつ相手の書く場をあけて書いていったことがわかります。たまたま、あけようがたりなくて、次に書いたほうは、この at と to の間にずいぶんつめて quarter を書いていますね。やっぱりあとから書いているんでしょう。明らかに、はじめに書いたほうの男がこの事件を企てたにちがいありません」
「こいつは恐れ入りました」アクトンが叫んだ。
「いや、まだまだ上(うわ)っ面(つら)です。さて、ここで重要な点にふれますが、専門家にかかると、筆跡から書いた者の年齢が、大体まちがいなく推定できます。まあ普通の場合だと、何十代かというところまでは確実に推定できます。普通の場合と言ったのは、病気だとか身体の欠陥だとかで、若いのにまるで老人のような字を書くものがいたりするからです。この紙片を見ると、一方はごつごつして力強い筆跡です。もうひとつのほうは文字の肩がおちています。もっとも、そろそろ t の横棒を書かない癖がつきはじめていますが、読めないことはありません。つまり、前者が青年の書いたものであり、後者がまだ老衰していない老人の手になっていることがわかります」
「いやあすばらしい」またアクトンが叫んだ。
「それからもうひとつ、実におもしろいことがあるんです。この二つの筆跡が、どことなく似ているんですよ。血縁関係でつながれた者に特有のことですが、このギリシアふうの e なんか、とくによくわかりますね。同じような点が、あまり目立ちはしませんが、いたる所にあります。つまりこれは、同じ家族のもの同士が書いたにちがいないんです。さて、紙片の検討の結果は、おもな点だけお話ししたわけですが、その他にも専門家の興味をひく事柄が二、三ありました。それらを考え合わせて、これを書いたのがカニンガム親子だという確信を持ちました。
それだけのことが分りましたが、そこで次に打った手は、むろん、犯罪の明細を調査して、それがどんな意味を持つものであるかを調べることでした。フォレスターさんとあの家へ行って、見られるものはひとつ残らず見てまわりましたが、死体の傷は、四ヤード以上の距離から連発ピストルで撃ったものに、絶対まちがいないことがわかりました。服に火薬の焦げあとがついていなかったのです。つまりピストルが鳴ったとき、ふたりの男が格闘していたと言うアレックの証言は嘘だということです。また、ふたりが口をそろえて証言した犯人の逃走した場所ですが、たまたまそこに底がじめじめした、ちょっとした幅の溝(みぞ)があったんです。見ると足跡らしいものがひとつもありません。そこで、カニンガム親子の証言がこれもでたらめだったばかりか、もともとあの殺人現場には第三者が立ち入った事実が全然ないと知ったわけです。
さて、次にこの奇妙な犯罪の動機ですが、私はまず第一番に、最初のアクトン事件を解く鍵を探しました。ヘイターさんの話から、アクトンさん、あなたとカニンガム家とが訴訟あらそいをしていらっしゃることを知りました。むろんすぐに、彼らが訴訟の重要書類を盗み出そうとして、アクトンさんの書斎に押し込んだと察しがつきました」
「まったくそのとおりです」とアクトンが言った。「そういう目的だったに違いありません。私は彼らの地所の半分に正当な権利を主張しておるわけですが、運よく弁護士の金庫に保管してあったからよかったようなものの、あの書類が向こうの手に渡っていたら、訴訟は完全にしてやられていたところでした」
ホームズは微笑をうかべながら、
「そこんところです。無鉄砲なことをしたもんですが、どうやらそのへんに若いアレックの匂(にお)いが感じられるじゃありませんか。目的のものが見当らないもんだから、ふたりはただの物とりの仕業(しわざ)に見せて嫌疑をそらそうと、手当りしだいの物を持って行ったんでしょう。これではっきりしましたが、まだわからない点もかなりありました。何よりも欲しかったのは彼らが持って行った紙きれです。アレックが持って行ったのははっきりしていましたが、そのあとはまあ化粧着のポケットにでも突っこんだにちがいないと思いました。他におくところなんかなかったろうじゃありませんか。だから問題は、それがまだそこに入っているかどうかです。まあやってみるに越したことはないと思って、家の中にはいってみることにしたんです。
ご記憶のように、私たちは台所の戸口でカニンガムに会いましたが、この場合大切なことは、この紙きれのことを思い出させちゃいけないってことでした。でないと早速すててしまわれます。それを、フォレスターさんがあやうくしゃべりそうになったんですが、私が天の助けで発作にかかってひっくりかえったもんだから、話がうまくそれてしまいました」
「なんてことだ!」とヘイターが笑った。「みんなあなたの仮病(けびょう)にひっかかって、無駄な心配をさせられたってわけですか」
私は、いつも思いがけないずるさを発揮して私を煙に巻くホームズに、あいた口がふさがらなった。「医者が見ても本物と区別がつかなかったね」
「この芸はなかなか役に立ちましてね」とホームズはつづけた。「発作から回復すると、こんどは一計を案じて、まあかなり器用にやれたんですが、カニンガムに twelve と書かせて、紙きれの twelve とくらべてみたわけです」
「ああ、馬鹿だったなあ、僕は!」私は大声をあげてしまった。
「馬鹿をやったと思って、ずいぶん同情してくれたようだったがね」とホームズは笑った。「いろいろ心配をかけてすまないとは思ったけれども。それから二階へあがりましたね。ところが案のじょう、化粧着がドアのかげにぶら下っています。そこでテーブルをひっくりかえして、一瞬彼らの注意をそらしておいて、その間にポケットを調べにしのび出たんです。片方のポケットから、やっと目的の紙きれを手に入れたと思ったら、いきなりカニンガム親子に押えつけられてしまったんですが、みなさんがいち早く味方になって助けてくださらなかったら、きっとあの場で殺されてしまっていたでしょう。おかげさまで、今こうやって、アレックに首をしめつけられたのも、紙きれをとり返そうと思っておやじに腕をねじ上げられたのも、ちゃんと思い出しているわけです。私が真相をつかんだのを知って、いままで安心しきっていたのが、不意に絶望のどん底につきおとされたんでしょうね、あんなに無茶な振る舞いをしました。
あとでカニンガムと犯行の動機についてしばらく話をしました。息子は悪魔みたいなやつで、ピストルを持たせでもしたら、自分だろうが他人だろうが、見さかいなしに頭をぶちぬきかねないありさまでしたが、カニンガムはすっかりおとなしくなっていました。形勢利あらずと観念したんでしょう。まるっきりしょげこんで、すらすらと白状しました。どうやらウィリアムは、カニンガム親子がアクトンさんを襲った晩にそっとあとをつけていて、秘密を握ったもんだから、親子をおどして口止め料をゆすったらしいんです。しかし、アレックはこんなことでやすやすとたかられているような男じゃありません。この辺を震駭(しんがい)させている強盗事件が利用できる、と天才的なひらめきを感じたんですね。それこそこわい男を亡(な)き者にする絶好の機会です。さっそくウィリアムはまんまとおびき出されて、撃ち殺されてしまいました。あれで紙きれを全部とり戻してさえおれば、そうして細かいことをもっと気をつけていたら、嫌疑がかからずにすんだのかもしれません」
「で、その手紙というのは?」
こう私が催促すると、シャーロック・ホームズは、残りの紙きれをみんなの前にひろげて置いた。
「ほとんど私が思っていたとおりのものでした。むろんまだ、アレックとウィリアムとアニー・モリスンの三人の関係がどういうものだったかは、わかっていませんが。とにかく結果は、ウィリアムが見事に穽(わな)にかかったということです。どうです。この p や g など、遺伝の影響がはっきり感じられて、なかなかおもしろいでしょう。老人の i に点のないことなんかも、大きな特徴ですね。ワトスン君、この転地は大成功だったね。明日は、元気いっぱい、ベイカー街に戻るとしようか」
せむし男

結婚後数か月たったある夏の夜、私は暖炉のそばの椅子に腰をかけ、寝る前のパイプをふかしながら小説をひろげ、その日の仕事がとても肩のこるものだったので、ついうとうとしていた。妻はもう寝室へあがっていたし、少し前に玄関の錠をかける音がしたので、召使いたちも床についたのだろうと思いながら、私はパイプの灰をたたいた。そのとき不意にベルの鳴る音がした。
時計を見ると十二時十五分前だ。こんなに夜遅く訪問客のあろうはずはない。たしかに患者に違いない、もしかしたら徹夜しなければならないかもしれないと顔をしかめながら、玄関に出てドアを開けた。
ところが驚いたことに、踏み段に立っているのは、シャーロック・ホームズだった。
「やあ、ワトスン君、迷惑じゃなかろうね」
「君だったのか。まあ中に入りたまえ」
「びっくりしただろう。むりもない。それに僕だったのでやれやれと思っただろう。ふん、相変わらず独身時代のアルカジヤ煙草(たばこ)をすっているんだな。上着の、綿みたいな灰でわかるよ。君が軍服を着なれていたことも簡単にわかるね、ワトスン。ハンカチを袖口に入れておく癖をやめないと、軍医あがりだとすぐ見破られてしまうぜ。ところで、今晩泊めてくれるかい?」
「いいとも」
「ひとり用の宿泊設備があると聞いていたし、それに帽子かけを見ると、今のところ男のお客もないらしいから」
「君が泊ってくれるとうれしいね」
「ありがとう。最近職人を入れて家のどこかを修繕したんだね。排水管じゃないのか……」
「いいや、ガス管だよ」
「ああ、その職人がちょうどあかりの届くリノリウムの上に、二つも靴の釘跡(くぎあと)を残している。いや、結構だ、夕食はウォータルーですませたから。しかし煙草なら喜んでおつきあいするがね」
私が煙草入れを渡すと、彼は私の真向かいに腰をおろし、しばらくは黙ったまま煙草をふかしていた。彼がこんな時刻にやって来るのは、きっと重大な用件があるからに違いないと思った。それで、辛抱(しんぼう)強く、相手が話しかけるのを待っていた。
「最近、仕事のほうはなかなか忙しいようだね」ちらと鋭い視線を走らせて彼は言った。
「うん、今日は忙しかった。こんなことを言うと君はおかしがるだろうが、どうしてそれがわかるのか見当がつかないね」
ホームズはくすりと笑った。「僕は都合の良いことに君の習慣を知っているからね。君は、回診がすぐすむときは歩いて行くが、長くかかるときは辻馬車に乗る。ところが君の靴は、これまではいているのにちっとも汚れていない。そこで僕は、君が現在、辻馬車に乗らなきゃならないほど忙しいと確信したのさ」
「すばらしい!」私は大声をあげた。
「なあに初歩的なことさ。推理家が、ひとをびっくりさせることができるのは、普通のひとが推理の根底になる小さな事柄を見落しているからだという例のひとつさ。君のちゃちな事件録のもつ効果についても、同じことが言える。あれはいやに派手なものだがね。しかし事件録があんな効果をもっているのは、君が問題の要点を手もとに握っていて、読者に知らせないからなんだ。ところが、僕は今その読者と同じ立場にいるんだ。人間の頭を困惑させる最も奇怪な事件のひとつにぶつかって、それを解く二、三の鍵は手に入れたんだが、まだ僕の理論を完結させるのに必要な一、二の鍵が手に入らないんだよ。しかし、僕は手に入れてみせるよ、ワトスン。きっと手に入れてやるぞ」
彼の目は輝き、やせた頬にかすかな血の気がのぼった。一瞬、彼の鋭い情熱のこもった天性が姿を現わした。が、それもほんの一瞬だった。
私がもう一度その顔をちらと見直したとき、もうインディアンを思わせる平静に返っていた。それは、しばしば彼を人間よりも機械に近いものに思わせるものだった。
「事件はとても興味あるものだ。ちょっと他に例のないほどのものと言ってもいいね。調査はもうすんだから、まもなく解決できると思う。その最後の一歩を一緒にやってくれると、大いに助かるんだがね」
「ぜひやらせてほしい」
「明日、オールダーショットまで行けるかい?」
「患者はジャクスンがきまって引き受けてくれる」
「それは好都合だ。十一時十分にウォータルーを出発するつもりだが」
「じゃあ、時間は十分ある」
「それじゃ、君がひどく眠くなければ、どんなことが起こったのか、これから何をしなければならないのか、簡単に話そう……」
「君が来る前は眠かったが、今はすっかり目がさめたよ」
「事件の核心になる事柄を、ぎりぎりまで要約して話そう。君も大体は新聞で知っていると思うが。僕が調べているのはね、オールダーショットの、ロイヤル・マロウズ連隊のバークレー大佐殺人事件だ」
「何も聞いていない」
「まだ、地方で騒がれているだけだからね。事件は二日前に起こったばかりだ。手短かに言うと、こうだ。
ロイヤル・マロウズ連隊は、君も知ってるように、英国陸軍で最も有名なアイルランド連隊のひとつだ。クリミヤ戦役でも、ベンガル兵部隊の反乱のときもすばらしい働きをしたし、それ以来、ことあるたびに名をあげてきたが、その連隊を、月曜日の夜まで、ジェイムズ・バークレー大佐が統率していた。バークレー大佐は、勇敢な熟練した軍人で、一兵卒から出発したんだが、ベンガル兵反乱のおりに示した勇猛さが買われて将校になってね、とうとう、かつて一兵卒として鉄砲をかついだ連隊を指揮するまでになったわけだ。
バークレー大佐は軍曹(ぐんそう)時代に結婚した。相手は娘時代ナンシー・ディヴォイといって、同じ隊で、もと軍旗係をしていた軍曹の娘だ。それで、この若夫婦が……ふたりはまだ若かったんだがね……結婚した当座に、周囲といくらか軋轢(あつれき)があったことは想像できる。けれどもふたりは急速に順応していったようだ。バークレー夫人は、夫が同僚に人気があったように、連隊の奥さん連中にいつも[うけ]がよかった。それになかなかの美人で、結婚後三十年もたつというのに、今でもまだ人目をひく容貌を持っている。
家庭生活はずっと幸福だったらしい。僕がいま知っている事実の大部分を提供してくれたマーフィー少佐は、この夫婦のいざこざはただの一度も聞いたことがないと言っていた。マーフィーの話だと、概して、夫人よりも大佐のほうがずっと深く愛していたらしいね。バークレーは、ほんの一日でも夫人のそばを離れると不安だったらしいが、夫人のほうは、献身的で貞淑ではあっても、大佐みたいに行き過ぎた愛情は持っていなかった。しかし、この夫婦は、連隊では中年夫婦の典型と見られていて、夫婦のあいだに、やがて起こる悲劇を予想させるものなんか、何ひとつなかったんだ。
バークレー大佐の性格には、どこか奇妙な特徴があったらしい。ふだんは颯爽(さっそう)とした陽気な人だが、どうかすると、かなり乱暴な、執念深い人になりかねない一面を見せることがあった。もっとも、夫人の前では一度もそんなことはなかった。それに、マーフィー少佐や、僕が話した士官五人のうち三人までが、大佐がときどき妙にふさぎこむのを変に思ったことがあるそうだ。小佐の表現を借りるとね、会食のにぎやかな浮き浮きした席に仲間入りしているときに、まるで見えない手で払いのけられるように、微笑が大佐の口もとから消えることがよくあったそうだ。そして気分がすぐれないと、そのまま何日も続いて深い憂鬱(ゆううつ)に沈んでいたりしたそうだ。
同僚士官の目についたことだが、もうひとつ、バークレー大佐の性格の異常な特徴に、迷信的なのがあってね、ひとりで置き去りにされるのをいやがって、それもとくに夕暮れがひどかったという。まったく男性的そのものの彼の性格に、こういう子供じみた面があるのは、しばしば陰口されたり、とやかく憶測されたりする原因になっていたらしい。
ロイヤル・マロウズ連隊の第一大隊は……つまりもとの一一七大隊だが……、数年来オールダーショットにおかれている。既婚の士官は兵舎を離れて住むことになっているから、大佐もずっと、北兵営から半マイルばかりのラシーヌという別荘に住んでいた。その家は広い庭に囲まれているが、西側は国道から三十ヤードも離れていない。夫婦のほかは、使用人は馭者(ぎょしゃ)と女中がふたりあったが、子供はないし、逗留(とうりゅう)客もめったになかった。
さて、事件はこの月曜日の夜九時から十時までの間にラシーヌで起こったんだが。バークレー夫人はカトリック教会の会員だったから、ワット街教会と連絡して、不要の衣類を貧しい人たちに供与する目的で発起したセント・ジョージ協会の設立に、非常な関心を持っていた。協会の会合が、その夜八時に開かれることになっていたので、夫人はこれに出席するために大急ぎで夕食をすませた。出がけに夫に声をかけて、すぐに帰りますからと言ったのを、馭者が聞いている。会合は四十分ばかりですんだ。夫人は隣りの門口でモリスン嬢と別れて、九時十五分に帰宅している。
ラシーヌには、朝の居間として使われる部屋があって、これは道路に面しているんだが、両開きの大きなガラス戸をあけると芝生に出られるようになっている。芝生は幅が三十ヤードばかりあって、その先は鉄の手すりのはいった低い塀(へい)が往来との境になっている。バークレー夫人が帰って来てまず入ったのはこの部屋だ。夜はめったに使わない部屋で、鎧戸(よろいど)はあいたままだったが、夫人はランプをつけベルを鳴らして、女中のジェイン・スチュアートにお茶を持って来るように言った。こいつは普段の夫人には珍しいことだった。
大佐は食堂にいたが、夫人が帰ったのを聞くと朝の居間にやって来た。馭者は、大佐が広間を横切ってその部屋に入るのを見たが、それが生きている大佐の見おさめだったんだ。
言いつけられたお茶を持って女中がやって来たのは、それから十分ばかり後のことだったが、彼女は、ドアに近づくと夫妻の激しいいさかいの声がしたので驚いた。ノックしてみたが返事がないので、ドアの取手を回そうとしたら、中から錠がおりていて開かなかった。全く当然のことだが、彼女はこのことを料理女に告げに階段をかけ降りた。そして馭者とふたりの女は広間に引っ返して、まだ激しい勢いで続いている口論に耳を傾けた。
三人とも、大佐と夫人の声しか聞こえなかったと言っている。大佐は、押し殺したけわしい声で、ほとんど聞きとれなかったそうだが、夫人はひどく激しい声で、『卑怯(ひきょう)もの』と何度も繰り返して叫んだのが、はっきり聞きとれた。
『今になってどうなるっていうの? 私の一生を返していただきたいわ。もうあなたと同じ空気なんか二度と呼吸するもんですか! 卑怯もの! 卑怯もの!』
夫人の切れぎれの言葉はざっとこんな調子だったが、いきなりガチャンという音がして、恐ろしい男の叫び声がしたと思うと、絹を裂く悲鳴に変わった。馭者は、何か悲劇が起こったにちがいないと思って、ドアにとびついてぶちこわそうとしたが、その間にもたえず悲鳴が続いていた。ドアはどうしても開かない。それにふたりの女中も恐ろしさに動転して、まったく役に立たなかった。
しかし馭者はふといい考えを思いついて、広間を走り出て大きなフランス窓のあいている芝生のほうにまわった。はたして一方の窓が開いていた。夏だから当然のことだがね。そこで彼は簡単に部屋に入った。夫人は叫ぶのをやめて、長椅子の上に気を失って倒れていた。大佐はと見ると、足を肘掛椅子(ひじかけいす)の横にぶら下げ、暖炉の灰止めの片隅に頭をおいている。この不幸な軍人は、血の海の中ですっかり息絶えていた。むろん馭者は、大佐がもう助けるすべのないのを知って、何より先にドアをあけようとした。
しかし、そこには思いもかけない奇怪なことがあった。鍵が鍵穴にさし込んでないばかりか、部屋のどこにも見当らないんだ。そこで彼は、また窓から出て巡査と医者を呼んで引っ返して来た。当然、夫人が最も有力な容疑者と見られたが、失神状態のまま、自分の部屋に移された。大佐の死体はソファの上に置かれ、厳重な現場検証が行なわれた。
不幸な老軍人の致命傷は、長さ二インチの、不揃(ふぞろ)いな後頭部の切傷で、明らかに鈍器の強打によるものだし、その凶器が何であるか、推定するのもむずかしいことじゃなかった。死体のそばの床の上に、骨の柄(え)のついた彫刻入りの堅い棍棒(こんぼう)が落ちていた。大佐は実戦に参加した際に、あらゆる国々から持ち帰った、雑多な武器の蒐集品を持っていたから、警察じゃ、この棍棒も彼の戦利品のひとつだと憶測している。召使いたちは、今まで一度も見たことがないと言っているけれども、この家の数えきれない珍しい品々の中には、万が一の見落しも十分考えられることだ。
警察は、この棍棒以外には、重要な物を何ひとつ部屋の中で見つけることができなかった。ただし、夫人の身体からも被害者の身体からも、また部屋のどこからも、例の鍵が見つからないという奇妙な事実は別としてだがね。ドアは結局、オールダーショットから錠前屋を呼んであけさせねばならなかった。
これが、火曜日の朝、マーフィー少佐の要請で、警察を助けにオールダーショットに出かけたときの状況だ。君も、これがどんなに興味ある事件かわかったと思うが、僕が調べてみると、最初に思っていたよりは、はるかに異常なものだとわかった。
部屋を調べる前にも召使いを訊問(じんもん)したが、いま言った事実のほかは、なにも聞き出すことができなかった。ただ、女中のジェイン・スチュアートが、おもしろいことを覚えていた。
君も覚えているだろう、彼女は言い争いの声を聞きつけて、料理場にかけおりて同僚を引っぱって来たんだが、その前ひとりでいたときに、声があんまり低いから何を言い争っているかは聞き取れなかったけれども、声の調子から、ふたりが喧嘩しているのがわかったと言う。ところがもっと追求してみるとね、夫人がデイヴィッドという言葉を二度ばかり口にしたのを覚えていた。これは、急にはじまった言い争いの原因を探るのに、非常に重大な手がかりなんだ。なぜって、大佐の名はジェイムズなんだからね。
またこの事件には、警察も召使いたちも異様に思っていることが、もうひとつある。大佐の顔がゆがんでいたことだ。話によると、人間の顔が、よくもまあ、こんなにゆがめられるものだと思うくらい、激しい不安と恐怖にひきつった表情をしていたそうだ。ひとりならず、そのあまりの恐ろしさに気を失った者があるほどだから。大佐は、自分の運命を知ってこんな表情をしたにちがいない。この点、警察当局の見解ともまったく一致しているんだが、もし大佐が、自分の妻が殺人的な一撃を加えるのを見たのなら、それも当然のことだ。後頭部に致命傷があることにしても、大佐が夫人の棍棒をさけようとして顔をそむけたとも考えられるから、この説明の致命的な欠陥にはならない。夫人は急性脳炎で一時的に発狂しているから、なんにも聞き出すことができない。
警察の話だと、その晩夫人と一緒だった例のモリスン嬢は、夫人がふきげんな気分で帰っていった原因については、何も知らないと言う。
これだけの事実を集めたから、僕は、事件に決定的な意味を持つものと、単なる付随的なものとを分類しようと考えながら、しばらく静かにパイプをふかした。いちばん明瞭で暗示的な点は、むろん、ドアの鍵の不思議な紛失だということには疑いの余地がない。だから、第三者が部屋に入ったのでなければならない。それも窓から入る以外にみちはない。そこで思ったんだが、綿密に部屋の中を調べたら、必ずこの奇怪な人物の証拠が発見できるはずだ。
ワトスン君、君は僕のやり方をよく知っているが、僕はありとあらゆる方面から調査を進めた。その結果、思ってもみなかった証拠を発見したよ。部屋の中に、ひとりの男がいたんだ。しかも道路から芝生を横切って入って来たんだ。
この男の鮮明な足跡が五つ見つかった。ひとつは道路で、男が低い塀をよじのぼったところ、ふたつは芝生の上、あとのふたつはごく薄いんだが、男が部屋に入った窓ぎわの汚れた板の上だ。指先のほうが踵(かかと)よりも深く跡を残しているから、芝生を走ったんだろうが、僕が驚いたのはそのことじゃなくて、その男の仲間だ」
「えッ、男の仲間だって?」
ホームズは、注意深くポケットから大きな薄葉紙を取り出して膝の上にひろげた。
「何だかわかるかい?」
紙面は、何か小さな動物の足跡でおおわれていた。五つのはっきりしるされた足の跡があり、長い爪の痕(こん)跡(せき)があり、全体の大きさは、まずデザート・スプーンぐらいだった。
「犬だろう」
「犬がカーテンを駆け上るなんて、聞いたことがあるかい? ところが、そいつが実際にそれをやったという証拠があるんだよ」
「じゃあ、猿か」
「猿でもないんだ」
「それじゃ、いったいなんだ」
「犬でもなし、猫でもなし、猿でもない。つまり、日ごろわれわれに馴染(なじみ)のある、いかなる動物でもない。僕は、寸法から逆に再構成してやろうと思った。ここに、その動物がじっと立ち止ったときの四つの足跡があるが、前足から後足まで、十五インチばかりある。首と頭を考えても二フィートしかない。尻尾があるならもっと長いだろうが。さて、次はべつの足跡だが、これをよく見たまえ。歩いているときのやつで、ひとまたぎの幅がわかるわけだが、どれを見ても三インチあまりしかない。だから、長い体に非常に小さな足のついた動物だということがわかると思う。あんまり思いやりのあるやつじゃなくて、あとに毛を落していってくれなかったんだがね、大体の外形はいま言ったようなものになるはずだ。それでカーテンを駆け上ることのできる肉食動物だ」
「どうして肉食なんだい?」
「カーテンを駆け上っているからね。窓にカナリヤの篭(かご)がつり下げてあったから、そいつを捕えようとしたんだろう」
「とすると、いったいどんな動物だ?」
「それがわかったら解決したも同然だってことになるんだが。まあいわば、イタチかテンの種類の何かだろうね。しかも、僕が今まで見たものよりは、ずっと大きな図体をしたものだ」
「それが犯罪にどんな役目をしたんだ?」
「それがまだはっきりしない。しかし、かなりいろんなことがわかっているのは、君も認めるにろう。ひとりの男が道路に立って、バークレー夫妻の言い争いを見ていた。鎧戸が開いていて、灯がついていたんだから。で、その男は、奇怪な動物と一緒に芝生を駆け抜けて部屋にはいった。そして大佐を打ち倒した、あるいは十分ありうることだが、大佐が男を見て驚きのあまり卒倒した、その拍子(ひょうし)に暖炉の火止めの角で頭を割った。それから実に奇妙なことだが、侵入者は立ち去るときに鍵を持っていった。こういうことが、僕らにはわかっているわけだ」
「君が発見したことは、事件をますます不可解なものにしてしまうね」
「たしかにそうだ。明らかに、この事件が初め考えていたよりはるかに複雑だという証拠だよ。僕はいろいろ考えたあげく、べつの面から調べるべきだという結論に達した。だがまったくのところ、こんなことをして、君が眠るのを邪魔しているようだねえ。じゃあ、あとは明日オールダーショットに行く途中で話すことにしよう」
「ありがとう、しかしそこまで話してやめるなんて……」
「これは確実なんだが、バークレー夫人が七時半に家を出るときは夫と仲違(なかたが)いなんかしていなかった。前にも言ったと思うが、夫人は、これみよがしの愛情は示さない人だが、馭者は夫人がそのときとても親しそうに大佐と話していたのを聞いている。ところが、帰って来るといきなり夫のめったにいそうにない部屋に入って、ヒステリー女みたいにあわててお茶を命じたり、夫がはいってくると口汚くののしっている。だから七時半から九時までの間に、夫人の大佐に対する感情をすっかり変えてしまう何事かが起こったのは確かだ。しかしモリスン嬢はその二時間半の間、ずっと夫人と一緒にいたんだから、本人がいくら否定したって、その出来事について必ず何か知っていなけりゃ、嘘だ。
僕は最初、この若い女と老軍人の間になにか秘密があって、それを夫人に告白したんじゃないだろうかと思った。それだと、夫人が怒って帰ったことも、モリスン嬢が何も起こらなかったと言ったことも納得できるし、ドアからもれ聞こえた夫人の言葉とも全く矛盾しないからね。ところが、夫人が口にしたデイヴィッドのことも考慮しなけりゃならない。またそういったことを予測するには、夫人に対する大佐の愛情はあまりにも深かったんだ。
もっとも、ふたりのいさかいとまったく無関係の第三者が侵入して来て悲惨な結果をもたらしたということだって考えられるしね、いずれにしても目鼻をつけるのは容易じゃない。けれどもまあ、僕としては、大佐とモリスン嬢との間に何かあるという考えを捨てて、そのかわりに、バークレー夫人が夫を憎むようになったわけを、彼女が知っているに違いないと信じ込むようになった。それで僕は、当然のことだが、彼女をたずねて、真相をご存じなのだと確信していると言い、また事件が解決しないと夫人は殺人の嫌疑を受けるようになるだろうと言ってやったんだ。
モリスン嬢は小柄でほっそりした、腺病質な感じの女で、髪の毛はブロンドで、臆病そうな目つきをしていた。如才(じょさい)がなくて、常識もなかなかしっかりしているようだった。
僕がそう言うとしばらくじっと考えていたが、やがて決心がついたらしく、元気よく僕のほうに振り返って驚くべき事実をぶちまけた。
その物語を手短かに話してあげよう。
『私は友だちのナンシーに、このことを口外しないと約束したんです。どんな約束だって、約束は約束ですわ。でもかわいそうに、病気でなんにも言うことができないっていうのに、そんな恐ろしい嫌疑を受けているんですもの、それを私が本当に救うことができるのでしたら……それなら、私、約束を破ってもいいと思いますわ。月曜日の夜どんなことが起こったか、正確にお話しいたします。
私たちは八時四十五分ころ、ワット街の教会から帰りました。途中ハドスン街を通らなきゃならないんですけれど、あそこは寂しい通りで、左がわにたったひとつ街灯があるっきりです。この街灯の近くまで来たときに、背中のひどく曲がった男が、なにか箱みたいなものを肩からぶら下げてやって来るのが見えました。頭をひどく低く下げて、膝を曲げて歩いていたのは、どうやら不具者のようでした。街灯の丸い光の輪の下ですれ違ったんですけれど、そのとき男は顔を上げてこちらを見ました。男は、とたんに立ち止っていきなり恐ろしい声を張り上げたんです。
[やあ、ありがたい、ナンシーじゃないか!]
バークレー夫人は、死人みたいに真っ青になりました。男がつかまえなかったら、その場にあやうく卒倒するところでした。私、思わず巡査を呼ぼうとしたんですけれど、驚いたことに、彼女は親しそうにその男に話しかけるんですの。
[お前さんは三十年も前に死んだと思っていたのよ、ヘンリー]と震え声で言うんです。
[死んだのさ]と男が言ったその調子は、聞いただけでも恐ろしさがこみ上げるほどでした。暗い恐ろしい顔をして、目は夢にまで見るくらいギラギラ光っていました。髪の毛も頬髭(ほおひげ)もごましおで、顔といったら、しなびたリンゴみたいに皺(しわ)だらけなんです。
[ちょっと先に行っていらしてね。しばらくこの人と話があるの。ちっともこわくなんかないのよ]
彼女ははっきりこう言ったんですけれど、顔色はまだ青ざめて、唇の震えが止まらないもんで、言葉もよく聞きとれませんでした。ナンシーの言うとおりに、私は少し先まで歩いて行きました。ふたりはしばらく話しあっていたようですけれど、すこしして、彼女は目を妙にギラギラさせて追いついてきました。さっきの男はと見ると、まるで怒りに気が狂ったみたいに、街灯のそばに立って、握りしめた拳固(げんこ)を振りまわしていました。それから彼女は、私の玄関口までひと言も話しませんでした。別れしなに彼女は、手を握って、今夜のことは誰にも言わないでほしいって言いました。
[いまではおちぶれているけれど、あの人は私の古いお友だちですの]
私が他言しないって約束すると、彼女は接吻して帰って行きました。それ以来いちども会っておりません。さあ、これで真相をすっかりお話ししましたわ。警察の方にお話ししなかったのは、あの人に殺人の嫌疑がかかっているなんて、夢にも思わなかったものですから……、でもこうなったら、何もかもお話しすることが、あの人を救う唯一の道ですわ』
というのがモリスン嬢の話だ。ワトスン、おわかりだろうが、僕は闇夜(やみよ)に灯火を得たような気がしたよ。それまでつながりのなかった様々な事柄に、たちまち連絡がついたし、一連の事件がおぼろげながら、わかって来たんだから。そこで僕の次に打つ手は、バークレー夫人にそんなに激しい印象を与えた男を発見することだ。まだオールダーショットにいるのなら、それほどむずかしいことでもあるまい。あそこには軍人以外の人間はあまりいないし、不具者はとかく目につきやすいものだ。
そこで僕はまる一日かかって、とうとうその晩……つまり今晩その男を探しだしたよ。ヘンリー・ウッドといってね、彼女たちが会った同じハドスン街に下宿していた。オールダーショットには五日前に来たばかりの男だった。登記所員のふりをして、下宿のおかみさんからなかなかおもしろいことが聞けたよ。ウッドは、夜になると兵営の酒保(しゅほ)をまわって余興をやってみせる手品師だ。いつも動物を小さな箱に入れて持っているが、どんな動物なのか見たことがないと言って、おかみさんたちは恐ろしがっていたようだった。手品のたねに使うらしいと言っていたがね。おしゃべりでいろんなことを話してくれたよ。あんなに体がよじれていながら、よく生きていられるもんだとか、時々聞きなれないどこかの国の言葉でしゃべるとか、この前ふた晩続けてうめいたりすすり泣きしたりする声が聞こえたとかね。
金払いはなかなかいいそうだが、手つけ金に渡してくれた金が、偽(にせ)のフローリン銀みたいな気がすると言って、おかみさんが僕に見せるんだ。何のことはない、インドのルピー銀なのさ。
さてそこでだ、ワトスン君、僕らの現在の立場もわかったろうし、君の助力が必要な理由ものみこめたろう。ふたりの女と別れてから、ウッドはずっとあとをつけていた。そして窓ごしにバークレー夫妻のいさかいを見た。そこで中に飛び込んだ。そのとき彼の持っている例の動物が箱の中から逃げ出した。これは絶対にまちがいのないところだ。しかしそれから何があの部屋の中で行なわれたか、こいつを正確に話せるのはウッドだけなんだ」
「それでウッドにたずねるつもりなんだね」
「絶対にそうする。ただし証人を前にしてね」
「僕がその証人になるのかい?」
「承知してくれるならさ。で、もしウッドが真相を明かしてくれるといいんだが、拒絶したら逮捕命令を出してもらっても聞き出すつもりだ」
「しかしオールダーショットに引っ返して、果たしてウッドがそこにいるだろうか?」
「予防策は講じてあるから大丈夫だ。ベイカー街の少年隊のひとりを使って見張りをさせてある。ウッドがどこに行こうと、光の輪みたいにくっついて離れない。明日ハドスン街で必ず会えるはずだ。それよりか、これ以上君を寝させなかったら、それこそ僕が犯罪を犯すことになりそうだ……」

われわれが悲劇の現場に行ったのは、翌日の昼ごろだった。ホームズの案内で、ただちにハドスン街に向かった。めったに感情を外に出さないホームズが、珍しく、抑えきれない興奮を感じているようだった。私にしても、なかばスポーツをしているような、なかば知的な喜びに胸がときめく心地だった。
「これが例の通りだよ」質素な、煉瓦(れんが)造りの二階建ての家が並んだ短い通りだった。
「やあ、シンプスンが報告に来たよ」
「やつは家にいますよ、ホームズさん」われわれの方にかけよりながら、シンプスンが叫んだ。
「そりゃ好都合だ」ホームズはシンプスンの頭をなでた。「さあ、来たまえ、ワトスン、この家だよ」
彼は、出て来た取り次ぎに名刺を渡して、重大な用件でたずねたとことづけた。そしてほどなくわれわれは、目的の男と顔をつきあわせたのである。
ウッドは、夏だというのに暖炉の上にかがみこんでいて、部屋の中は天火を思わせる猛烈な暑さだった。その中で彼は、体をねじ曲げ、救いがたい不具者の悲惨さを感じさせる恰好をして、こちらに振り返った。浅黒い疲れきった顔をしていたが、以前は人目につくほどいい男ぶりだったにちがいないと思われた。黄色がかった意地悪い目で、うさんくさげに私たちをまじまじと見て、立ち上がりもせず、無言で椅子のほうに手を振った。
「最近までインドにおいでだった、ヘンリー・ウッドさんですね」ホームズは愛想よく話しかけた。「私たちは、バークレー大佐の死に関するちょっとした事件のことでお伺いしたんですが……」
「私が何か知ってると言うのですかい?」
「それを確かめに来たんですよ。たぶんご存じだと思いますがね。真相が明らかにされないと、あなたの古い友だちのバークレー夫人が、まちがいなく殺人容疑者として取り調べられますよ」
ウッドは驚いてとび上がり、「あなたはいったいどなたです!」と叫んだ。「どうしてそんなことがわかりますか。今おっしゃったのは本当ですか」
「どうしてお疑いですか。夫人の意識が回復して逮捕できるようになるのを、警察は首を長くして待っておるんですよ」
「えっ。あなたは警察の方ですか」
「ちがいます」
「じゃあ、何しに来なさった」
「正義が行なわれるのを助けるのは、すべての人の義務ですからね」
「彼女は無罪だ。間違いありません」
「じゃ、あなたがやったんですね」
「いやいや、私じゃないです」
「じゃあ、バークレー大佐を殺したのは誰です?」
「神の摂理でさ。まあ聞いて下さい。私は心の底から大佐の頭をぶち割ってやりたかったですが、たとえ私がそれを実行していたところで、それによってあの男に与える報いが十分だとは言えないですよ。罪悪感があの男を打ちのめさなかったら、きっと私があいつの息の根を止めていたに違いないです。あなたは真相を聞きたいのでしょう。そんなら、私は何も恥ずべきところはないんだから、遠慮なく話しましょう。
実はこういうわけなんで。今でこそ背中が駱駝(らくだ)みたいになっちまって、あばら骨もすっかりねじれちゃってますがね、ヘンリー・ウッド伍長(ごちょう)といや、一一七歩兵大隊きっての伊達男(だておとこ)で通った時代もあったんですよ。当時はインドに駐屯(ちゅうとん)してましたが、兵営のあったのは仮にまあブアティとしておきましょう。こんど死んだバークレーは、同じ中隊の軍曹でした。そのころ連隊の小町娘(こまちむすめ)と騒がれたのが、軍旗係軍曹の娘で、ナンシー・ディヴォイという子でした。たいした別嬪(べっぴん)でね、唇に生命の息吹(いぶき)が香っとったですよ。
ところが、ふたりの男が同時に恋してしまった。片ッ方を、彼女は愛しました。こうやって火の前にちぢこまっとる哀れな男を見とられるから、きっとまあ、お笑いなさるでしょうがね、その彼女の愛した男という相手こそ、美貌のウッド伍長だったんですよ。私は無鉄砲きわまる若者でしたが、バークレーは教育もあるし、剣術のうまいことは一流でした。だから、彼女の心をつかんだのは私だったが、父親のほうは、バークレーの嫁にするつもりだったんです。けどもナンシーは、いつも私に誠実を尽してくれました。それで、まもなく結婚できる見通しもつきはじめたのですが、ベンガル兵部隊の反乱が起きましてね。たちまち国じゅうにありとあらゆる不幸がひろがって行きました。
私らの連隊は、砲兵半個中隊、シーク歩兵中隊、その他大勢の非戦闘員や婦女子と一緒に、ブアティに包囲されちまいました。一万からの反乱軍が、捕鼠器(ほそき)のまわりにテリヤが群がったみたいに、いきり立って取り巻いとったです。二週間ばかりでとうとう水がなくなる。地方を進軍しておったニール将軍の縦隊と連絡できるかどうか、こいつは疑問だったですがね、大勢女子供を連れて脱出を闘い取ることはとうていできない相談ですから、まあ唯一の希望だったわけです。
そこで私は、脱出してニール将軍にわれわれの急を告げる役を、進んで志願しました。志願が許されたものですから、さっそく、当時連隊でいちばん地理に明るかったバークレー軍曹に相談に行きました。げんに、私が反乱軍の包囲網を破ろうという道筋も、バークレーが開いたもんだったですからね。私はその夜十時に出発しましたが、千人からの人間が救いの手を待っておるのに、城壁を飛び降りたときに思っていたのはただひとり、ナンシーのことだけでしたよ。
私は涸(か)れた水路を駆け降りて行きました。そうすれば敵の歩哨(ほしょう)の目がかすめられると思ったからです。ところが、はうようにして水路の角を曲がると、いきなり暗闇の中にしゃがんで待ち構えておった六人の歩哨のまっただ中にとび込んでしまった。たちまちなぐりつけられて気絶しました。手足も縛られてしまいました。しかし、頭をなぐられたことなんか、心の打撃にくらべたら物の数じゃありません。というのは、息を吹ッ返してから、彼らの話し声がどうにか聞こえましてね、私が道筋を相談したその当の男が、実はベンガル人の召使いを敵に内通させて、私をだましうちにしたんだということがわかったんですよ。
しかしまあ、こんな物語はくどくど話す必要もないでしょう。あなた方も、ジェイムズ・バークレーという奴がどんな悪賢い人間だったか、もう知っとられるでしょうからね。ブアティは、翌日になってニール将軍の手で救われました。ところが、退却するときに、反乱軍は私も一緒に連れてってしまったんですよ。
それからは、お話しにならないほど長い間、白人の顔を見ませんでした。何べんも拷問(ごうもん)にかけられ、何べんも逃亡を企てたのです。そのたびにつかまっちゃ、また拷問です。そいつがどんなにひどかったか、まあ、この姿をごらんになったらおわかりでしょう。
反乱軍の一部のものがネパールへ逃げたとき、私も道連れにされました。その後、ダージーリンを通って高地に登って行ったんですが、そこで私を捕えておった反乱軍が高地の土民に殺されましてね、逃亡に成功するまで、しばらく土民の奴隷でした。逃亡に成功してからも、南へは逃げられないから、北へ道をとってアフガニスタンに行くより仕方がありません。
アフガニスタンで長いこと放浪しましたが、それでもやっとの思いでパンジャブにたどり着きました。そこで私は土民の間にまじって、習い覚えた手品で生活しておったわけです。こんな醜い姿で故郷に帰ったって、また旧友らとつきあったって、それが何になりますか。バークレーに対する復讐の気持さえ、私を動かしゃしなかったぐらいです。ましてナンシーや旧友たちに、杖(つえ)にすがって、はうように歩く、チンパンジーみたいな姿をさらすよりか、ヘンリー・ウッドはあのときに死んでしまったと思わせておいたほうが、いくらましだか知れやしません。生きてるなんて夢にも思わんだろうし、こっちもそう思わしておきたかったですよ。
バークレーが、ナンシーと結婚して、連隊で着々と昇進していることも風の便りで聞きましたが、それでも、私はあのことを話す気は起こりませんでしたよ。
しかし、誰だって、年をとると故郷に郷愁みたいな気持を感じるもんです。長いあいだ私は故郷の明るい緑の野原や丘を夢みてきました。そして、とうとう死ぬまでに一度それを見ようと決心しまして、旅費を工面しました。そしてこの兵隊の駐屯しているオールダーショットにやってきたのです。兵隊の気心も扱い方もわかっていますから、ここだとどうにか暮らせるような気がしたもんでね」
「まことに興味あるお話しでした」とホームズが言った。「私はあなたがバークレー夫人と行き会って、お互いにそうだとお知りになったことは聞いています。それからあなたは夫人を家までつけて行って、そこで夫人が夫に過去の裏切り行為を責め、争いがはじまったのを窓ごしにのぞいたんでしょう? 見ているうちに、こみあげる憎悪にたまりかねて、芝生を横切ってふたりの間に飛び込んだんですね」
「ええ、そのとおりです。バークレーは、私を見るなり、今まで見たこともないような顔をして後ろへ倒れました。その拍子に、頭を暖炉の灰止めの角にぶっつけたんですよ。けれどバークレーは、倒れる前に死んでいたんです。私は、そこの暖炉の上の聖書を読むようにはっきりと、彼の顔に死相が浮かぶのを見ましたから。まるで私のこの赤裸々な姿が、鉄砲だまみたいに彼の心臓を貫いたようでした」
「それから?」
「それからナンシーが気絶しました。私はナンシーの手から鍵をもぎとると、ドアを開けて助けを呼ぼうと思いましたが、ふと、このまま放っておいて逃げたほうがいいような気がしました。というのは、嫌疑がかかった場合に事情がとても不利なようだったし、そんなことをしようものなら、秘密が明るみに出てしまうからです。急いでポケットに鍵を突っ込みましたが、テディーがカーテンを駆け上がったのを追いかけているうちに、杖を落してしまいました。どうやらテディーを箱の中に入れると、大急ぎで逃げ出したんです」
「テディーというのは、何ですか?」
男は前にかがみ込んで、部屋の片隅においてあった檻(おり)の前蓋(まえぶた)をひっぱりあげた。するといきなり、美しい赤褐色の毛並をした動物が飛び出した。体は細くしなやかで、テンを思わせる足と長ッ細い顔をしていた。その赤い目といったら、かつて見たこともないほどすばらしかった。
「マングースだ!」私は思わず叫んだ。
「そうですね、マングースとも呼びますが、また、猫イタチともいいます。私どもはスネイク・キャッチャー〔蛇を捕えるもの〕と言っています。テディーはコブラを捕えるのがとても上手でしてね。私は歯を抜いたコブラを一匹ここに持っていますが、テディーは毎晩それを捕えては、酒保の兵豚たちを楽しませてるんです。まだ、何か言い落した点があるでしょうか?」
「もしバークレー夫人に重大な嫌疑がかかるようだったら、もういちど助力を願うかもしれませんよ」
「そんな場合なら、よろこんでお役に立ちましょう」
「しかし、そうでなかったら、バークレー大佐の行ないがどんなに醜悪なものだったとしても、このスキャンダルを並べたてて死者を鞭(むち)打つ必要もありませんね。このために大佐が三十年の間、良心の苛責(かしゃく)に悩まされていたと知ったら、あなたも少しは心が安まるでしょうからねえ。おや、向こうの道を歩いているのはマーフィー少佐だ。じゃ、ウッドさん、これで失礼します。その後の経過をきいてみようと思いますから」
われわれはマーフィー少佐が角を曲がる前に追いついた。
「やあ、ホームズさん。たぶんご存じでしょうが、この騒ぎは、つまるところ何でもないことだとわかりましたよ」
「何ですって? じゃあどうなったんです」
「検死がたったいま終ったところですがね。解剖の結果、死因は卒中と決定したんですよ。結局、単純な事件でした」
「そうでしたか。そいつはまるで皮相な見方をしていたものですねえ」
ホームズは微笑を浮かべて言った。「行こうじゃないか、ワトスン君。これでもう、オールダーショットにも用はなくなったらしいから」
駅に向かいながら、私はホームズにきいてみた。
「ところで、ひとつわからないことがあるんだがえ。バークレーの名前がジェイムズで、ウッドがヘンリーだとすると、デイヴィッドというのは誰だろう」
「僕が君の好んで描く理想的な推理家だったら、その一語で事件の全貌を理解していたはずだった。デイヴィッドとは、夫を非難する言葉なのさ」
「非難するって?」
デイヴィッド(ダビデ)はよく不埒(ふらち)なことをした。ジェイムズ・バークレーと同じようなこともしたんだよ。ウリヤとバテシバの物語を知っているかい? 僕の聖書の知識ときたらいい加減なもんだが、それでもサムエル前書か後書かに、この物語があったのを覚えているね」
入院患者

私は友人シャーロック・ホームズの知力の特色を例示するために、あれこれと彼の思い出話を書きつづってきたが、いつも自分の目的にかなう例を見出すことのむずかしさに当惑してばかりいた。というのは、ホームズがあの分析的推理の腕の冴(さ)えを見せた事件、独特の調査方法の真価を遺憾(いかん)なく発揮した事件というのは、事件そのものが、とるにたりない、あるいは平凡なもので、わざわざ読者諸君のお目にかけるほどのものとも思われなかったりすることが多かったからである。
一方、たいそう変わった、劇的な性格を持った事件の捜査に関係しながら、その解決に果たした彼の役割が、彼の伝記を書く私にとって、満足できるほど大きくなかったというような例も、なかなか少なくないのである。「緋色の研究」や「グロリア・スコット号」事件などは、そうした、彼の伝記を書く者を永遠に悩ませる関門の好例なのである。これからお話しする事件なども、ホームズの演じた役柄(やくがら)は、どうもあまり大きかったとは言えない。ただ、これは事件の全体が非常に変わっているから、やはり割愛しないでお目にかけるべきものであろうと思うのである。

十月の、あるうっとうしい雨の日のこと。鎧戸(よろいど)を半開きにした部屋の中で、ホームズは長椅子の上に丸くなって寝ころがりながら、朝の便りで届いた一通の手紙を、読んでは読みかえししていた。筆者自身はというと、私はインド勤務中に寒さよりは暑さに強くなっていたので、華氏(かし)の九十度というのは苦になる温度ではなかった。ただ新聞がつまらなかった。議会も閉会だった。誰もが郊外へ出かける季節である。私もニュー・フォレストの林間地帯か、サウスシー海水浴場にでも行きたいところだった。銀行勘定の都合でやむなく休暇をのばしていたのだが、ホームズのほうは平気なもので、田舎にも海にもいっこう魅力がないらしい。彼はただ、何か未解決の事件はないかと、鋭敏な触覚をはりめぐらして、五百万市民の真っただ中に心地よく寝そべっていた。多才な彼に自然鑑賞の気持はわかぬとみえて、彼の唯一の気分転換といえば、町の悪者から気をうつして田舎の兄弟を追いかけてみることぐらいなものだった。
ホームズは手紙に熱中していて話相手にはならないとみたので、私はつまらない新聞をほうり出すと、椅子に背をもたせて黙想の世界にはいっていった。しきりに物を考えているところへ、不意にホームズの声が降ってきた。
「ほんとだよねえ、ワトスン君。あんな非常識な喧嘩のおさめ方ってあるもんか」
「まるっきり非常識さ!」と口をついて答えておいて、たちまち私は、自分が心の中で考えてたことを彼がそのまま口にしたと気がついて、身を起こして唖然(あぜん)としたまま彼を見つめてしまった。
「何だい、こりゃ。何のことだかわからないぜ、僕には」
彼は私の当惑に腹を抱えた。
「忘れたかい。いつだか、ポウの短篇を一節読んできかせたろう。ある綿密な推論者が、仲間の腹で思ったことをいちいち読み取った話だ。君は作者の単なるお話しだと言って片づけてしまったがね。そのとき、僕もよく同じようなことをするくせがあると言ったら、君は半信半疑だったろう」
「いや、うたぐりゃしなかったさ」
「口じゃそう言わなかったろうけれど、ワトスン君、きみの眉(まゆ)が語っていたさ。で、いま君が新聞をおっぽり出して、一連の考えごとをやりはじめたもんだから、もっけの幸いとばかりに君の考えごとをいちいち読ませてもらったのさ。しまいに君の考えごとに割りこんでみたら、僕の読心が正しかったのが証明されたわけだ」
しかし私はまだ納得できなかった。「あの話の場合は、推論者は、観察相手の動作から判断したろう? たしか、石の山にけつまずいたり、星を見上げたり、いろんなことをやったね。ところが、いま僕はじっと腰をおろしたまんまだったぜ。何を手がかりにしたんだい?」
「自分を見くびるもんじゃない。顔ってやつは、自分の感情を表現するためにあるもんだけれども、君の顔は、君の感情をじつに忠実に映し出すよ」
「じゃあなにかい、僕の考えていることを僕の顔から読みとったのかい?」
「顔、なかでも目からだな。君、いま、どういうふうに空想をはじめたか、思い出せるかい?」
「いや、駄目だ」
「じゃあ、教えてあげる。君はさっき新聞を投げたろう。その動作が僕の注意をひくことになったんだがね。それから三十秒ばかりは無念無想のていだった。それから君の目は、新しく額縁に入れたゴードン将軍の肖像の上にとまった。そこんところで顔に変化があらわれて、考えごとのはじまったのがわかった。でも、長続きしなかったな。君の目は、本棚のてっぺんの、ヘンリー・ウォード・ビーチャーの額縁なしの肖像のほうに向いた。それから壁をちょっと見た。こいつははっきりしている。額縁に入れたら、そいつをあのあいている壁にかけて、あっちのゴードン将軍のやつとつりあうようにしようと思ったね」
「おどろいたね、そのとおりだよ」
「そこまでは、やっとたどりついたがね。すると、こんどはまたもどってビーチャーのことを考えはじめたろう。じっと肖像を見て、どうやらビーチャーの顔の特徴を調べているみたいだった。ところが目のしわが消えた。でも、同じところを見たまんまで、ただ顔つきが考え深そうになってきた。ビーチャー伝の思い出がはじまったんだろう。きっと、彼が南北戦争で北軍に派遣されたことでも思い出していたんだろう。いつか君は、彼が帰還したときに、不穏な連中に迎えられたことをひどく憤慨(ふんがい)していたからね。そのときの印象が強かったから、君はいつもビーチャーのことを思い出すたびに、そのことを言っていたからね。
それからしばらくして、君の目は肖像からはなれてうろうろしていたけれども、あれは南北戦争の思い出だろう。それから口がひきしまって、目玉がキラキラしてきて、手をからみあわせたから、あの両軍の壮烈な激闘ぶりを思い出しているにちがいないと思った。しかし君の顔はもっと悲壮になってきた。かなしそうに頭をふっていたね。あの人命浪費を、しきりに悲しみおそれていたんだろう。そして、自分の古傷のほうに手を持っていくと、口がかすかにほころびた。だから、こういう国際問題の解決方法のばからしさが、君の心を占めたと読めた。そこで僕が、非常識だと言って調子を合わせてやったら、僕の推論が全部正しかったとわかったわけさ」
「あきれた! しかし実のところ、話をきくとますます狐(きつね)につままれたみたいだ」
「まだまだ、ほんの初歩なんだよ、ワトスン君、ほんとに。いつか君がうたぐらなかったら、こんな出すぎたまねはしなかったんだけれどね。ところで、夕方になったら風が吹いてきたじゃないか。どうだい、町を散歩してみないかい」
私は小さな居間にとじこもって退屈しているところだったので、よろこんで応じた。三時間というもの、フリート街からストランド街へと、とめどもなく変わってゆく人生の万華鏡(まんげきょう)をながめながら、ふたりして歩きまわった。微細な観察と精妙な推進力を通したホームズ独特の話が、いつまでも私を飽きさせなかった。
十時をすこしすぎてベイカー街にもどってみると、かどぐちに四輪馬車がとまっていた。
「ふむ、医者が来てるな。全科の開業医か」ホームズが言った。「開業したばっかりだ。しかし繁盛しているな。そうだ、相談に来たんだろう! いいところへ帰ってきた!」
もうなれたもので、私はホームズが、馬車の中のランプの下にかけてある柳のバスケットにはいった医療器具の種類や状態から、こうした素早い推理をしたことが、すぐにわかった。
二階のわれわれの部屋に灯(ひ)がともっているので、この夜ふけの訪問がわれわれに対してであることもわかった。こんな時間に何の用で同業者が訪ねて来たのか、私はいくらか好奇心を抱きながらホームズのあとから部屋に入って行った。
はいって行くと、炉端(ろばた)の椅子から、砂色の頬髭(ほおひげ)を生やした、青白い面長の男が立ち上がった。三十三か四より上とは見えなかったが、そのやつれた表情、不健康な顔色が、力を吸いつくし青春を奪っていった彼の半生を物語っていた。物腰はいらいらおどおどとして、感じやすい紳士を思わせ、立ち上がるときマントルピースにおいた細い白い手は、医者のそれと言うよりも、まるで芸術家の手のようだった。黒のフロックに黒っぽいズボン、ちょっぴりと色のあるネクタイをしめて、おっとりと地味な服装だった。
「よくいらっしゃいました、先生」ホームズが上機嫌に言った。「ほんの二、三分しかお待たせしないでよございました」
馭者(ぎょしゃ)と話をなさいましたか?」
「いやいや、教えてくれたのは、その側テーブルのローソクです。どうぞおかけになって、どういうご用件かお聞かせ下さい」
「私はパーシー・トリヴェリアンと申しまして、ブルック街四〇三番地で医者をいたしておる者でございます」
「とおっしゃると、朦朧(もうろう)性神経障碍(しょうがい)の論文をお書きになった方じゃございませんか?」と私がきいた。彼の青白い頬に、自分の著作を知られていたよろこびで、ぽっと血の気がさした。
「あの本はちっとも反響がありませんので、うもれてしまったと思っておりましたが。出版社のほうも、まるで売れ行きが悪いように申しますので、がっかりいたしております。するとあなたも、やはり、医学のほうでいらっしゃいますか?」
「退役の外科軍医ですよ」
「私はずっと神経科が道楽でして。それを専門に立ちたいと思ってはおりますが、どうにも、やれることからやるだけでもう精一杯でして。しかし、こんなことを申し上げている場合じゃございません。ホームズさんのお時間が貴重なことはよく存じております。実は、ちかごろブルック街の私の家に妙なことが続いて起こっておりまして、今夜はとうとう、一刻も早くあなたに相談して、ご助力を仰がなければというところまで来てしまったんでございます」
シャーロック・ホームズは腰をおろして、パイプに火をつけた。「よろこんで、おうかがいもお助けもいたしますよ。どうぞ、お悩みの事情をくわしくお話し下さい」
「中には、ほんのつまらないことで、申し上げるさえ恥かしいようなこともございます。しかし、合点(がてん)のゆかないことですし、最近はそれが実に手がこんできておりますので、何もかもお話しして、本質的なこととそうでないこととは、そちらで判断していただきたいと思います。
まず学生時代のことから申し上げなければなりません。私はロンドン大学の出身でして、自分の口からこんなことを申すもんじゃございませんが、教授たちから非常に将来を嘱目(しょくもく)された学生だったのでございます。決して駄法螺(だぼら)やなんかじゃございません。卒業後は、キングズ・カレッジの病院で下っぱの仕事をしながら、やはり研究を続けてまいりまして、幸いにして癲癇(てんかん)の病理の研究でかなりの注目をひいたり、またついに、ただ今こちらの方からお話のありました、神経障碍に関する論文で、ブルース・ピンカートン賞とメダルを獲得するところまでまいりました。当時まあ、前途は洋々たるものがあると、一般に思われていたと申し上げても、決して誇張ではございません。
しかしただひとつ、資金の欠如という大きな障碍(しょうがい)がございました。ご承知のように、専門医として成功しますには、カヴァンディッシュ・スクェア界隈の十二、三の通りのどこかで開業しなければなりません。それには、たいへんな額の家賃や設備費がかかります。そのうえ、数年間は無収入で食ってゆく準備がいりますし、体裁のいい馬車を一台雇っておかなければなりません。こんなことは、とても私にはできない相談で、十年ばかり倹約して貯えれば看板もあげられようかというのが、唯一の希望でございました。
ところが、思いもかけないことが起こって、突然に目の前がひらけてまいったわけです。
と申しますのは、ブレッシントンという、まるで知らない人がたずねてまいりました。ある朝のことですが、部屋へ入って来ると、いきなり用件をもち出しました。
『あなたがあの、著名な業績をあげて、近ごろはまたりっぱな賞を獲得しなさったというパーシー・トリヴェリアン先生ですか?』
私はそうですと会釈しました。
『ざっくばらんに願いましょう、そのほうがあなたにとっても得ですからな。あなたは頭の点からいうと、成功の素質はおありになる。世才のほうは、おありですか』
だしぬけにこんなことをきかれて、私は思わずにやにやしながら、
『人並みにちゃんとそなわっているつもりですがね』と言いました。
『悪いくせでもありますか。酒好きじゃないでしょうね、ええ?』
『とんでもない』
『結構結構。わかりました。いや、ちょっときいておかんことにはね。さて、これだけそなわっておって、なぜ開業しなさらん?』
私は肩をすくめました。
『やあやあ』彼は独特のがさつな言い方で申します。『例のやつさ。頭の中ほど財布がつまっとらんと、ね。そこで、私があなたをブルック街で開業させると言ったら、どうおっしゃる?』
突然のことに、ただ相手の顔をじっと見つめていますと、
『いや、これはあなたのためじゃない。私のためなんだ。何もかも、ざっくばらんに申し上げるが、あんたが都合がよけりゃ、私にとってもこれぐらい都合のいいことはない。実は二、三千ポンド何かに投資したいんだがね、そいつをあなたにつぎこもうというわけです』
『でもいったい全体』
『いやあ、他の投機とおんなじこってす。かえっていちばん安全だ』
『じゃ、私のすることは?』
『まあ、お聞きなさい。私が家を買う、設備もやる、女中も雇う、経営いっさいわたしの手でやります。あなたは診察室にすわってくれればよろしい。小づかいやなんか、すべて差し上げる。で、稼(かせ)ぎ高の四分の三だけ私によこしなさい。あんたは残りの四分の一をとっていただく』
こういうのが、ホームズさん、ブレッシントンの持ってきた話です。それからどういう掛けひきや取り決めがあったか、いちいち申し上げるとご退屈ですから省きますが、とにかく万端手筈(てはず)がととのって、私は次の御告(おつ)げ祭の日〔三月二十五日、四期支払日の一にあたる〕に引っ越してまいりました。条件はだいたい彼が持ってきたとおりのものです。
ブレッシントンも、入院患者ということにして同じ家に住み込みました。心臓が悪くて、しょっちゅう医者の世話がいるということです。彼は二階のいちばん良い部屋を二つとって、自分の居間と寝室にしつらえました。変わった癖のある男で、友だちも作らなければ、めったに外へも出ません。生活は不規則ですが、一点だけ実に規則正しいんです。毎晩、ある時刻になると必ず診察室にやって来て、帳薄を調べて、その日の収入のうち、一ギニーにつき五シリング三ペンスだけ私の手に残すと、あとをもって帰って自分の部屋の金庫にしまいこむのです。
彼が自分の投機を一度も悔いることがなかったのは確かだと思います。はじめっから大当りでした。二、三良い患者がついたのと、大学病院時代に評判をとっていたのとで、私はたちまち第一線に押しだされて、ここ一、二年のうちにすっかり私を金持ちにしてしまいました。私の経歴と、それから私とブレッシントンの関係は、だいたい以上のとおりです。
そこでいよいよ、今夜お伺いすることになった用件にとりかかることにいたします。
何週間まえでしたか、ブレッシントンがどうやらかなり興奮したようすで私の部屋にやって来ました。おなじウェスト・エンドに泥棒が押し込んだとか申しておりましたが、そのことを必要以上に心配していて、窓や戸にもっと丈夫なかんぬきをつけないと、一日も安心して過ごされないと言うんです。窓から外をのぞいてみたり、それにいつも夕食の前にその辺を散歩していたのもやめてしまって、それから一週間ばかりは、妙にびくびくしていました。それが、何が心配なのか誰がこわいのか、とにかく死ぬほどおびえているようすだもんで、私はおどろいていたんですが、そういうことを言い出すといやな顔をしますので、仕方なしに放っておきました。
日にちがたつにつれて、だんだん忘れたらしくてもとの毎日に戻っていたんですが、そこへこんどは新しく事件が起こって、今でも彼はかわいそうになるくらい意気消沈(いきしょうちん)しております。
事件というのは、こういうことです。二日前に、手紙が一通わたしのところに舞いこみました。今、お読みいたします。名前も日付けも書いてありません。


……イギリス滞在中のロシアの一貴族が、パーシー・トリヴェリアン先生のご診察を受けたいと申しております。数年来、癲癇(てんかん)の発作に悩んでおりますが、トリヴェリアン先生は、その方面で有名な大家とうけたまわります。明晩六時十五分ごろお伺いいたす所存ですが、ご在宅いただけますれば幸甚(こうじん)と存じます……


癲癇の研究でいちばんの難点は患者が少ないということでして、この手紙を見て私はひどく興味をそそられました。だもんですから、ご推察どおり、翌日指定の時間に受付の子供が案内してきたとき、私はちゃんと部屋で待っておりました。
見ると相手はかなりの年配で、やせっぽちで、しかつめらしい顔をして、平凡な感じです……こんなのがロシア貴族かと思うような男でした。それよりも、つれの男のほうにびっくりしてしまいました。背の高い青年ですが、浅黒く鋭い顔の、目のさめるようないい男で、大力無双のヘラクレスみたいな良い体つきをしています。入って来るとき老人に腕をかしていましたが、席につくときもおよそ見かけによらないやさしさですわらせてやります。
『勝手に入らせていただいて、失礼いたしました』青年は少し片言まじりに言いました。『これは父ですが、父の健康は私にとって何物にも代えがたい大事なものです』
私はこの親思いにいささか感動しました。『診察にお立ち会いになりたいですか?』
『とんでもない!』青年は恐ろしそうな身振りで大声をあげました。『口でいえないほどいたましいことです。万一あのおそろしい発作が起こったら、私もそのまま死んでしまいます。私の神経もとくべつ感じやすいのです。父を診ていただく間、私はお許しをいただいて待合室のほうにさがっていたいのです』
むろんこれには同意してやりましたから、青年はさがって行きました。そこで、さっそく患者に病状をたずねて、いちいちあますところなくノートをとりました。どうもたいして知識のあるほうじゃないらしく、返答もどうかすると曖昧(あいまい)になりましたが、これは英語をよく知らないせいだと思っておりました。ところが、ノートをとりながら質問を出していると、突然返事をしなくなりました。ひょいと見ると、驚いたことに、椅子の上にしゃちこばって、まるっきり無表情なこわばった顔で私を見すえているのです。むろん不思議な発作が起こったわけです。
私は第一番に、気の毒とも怖いとも思ったんですが、どうやらその次には、商売柄の満足を覚えてしまったようです。脈や熱をノートにとり、筋肉の硬直をためし、反射作用を検査しました。いずれもたいして変わったところがなくて、かねての経験とよく合致(がっち)しています。経験上、硝酸アルミの吸入をさせると良い結果が得られますので、こんどもその効果を実験してみようと思いました。その瓶(びん)が階下の研究室においてあったものですから、患者を椅子に残しておいて、それをとりに駆けおりました。瓶をみつけるのに少々手間どって……さあ、五分くらいかかったでしょうか……やっとみつけて帰ってまいりました。すると、部屋の中はからっぽで、患者は影も形もないではありませんか。
むろん、まず待合室に駆け込んでみました。ところが、息子のほうも姿を消しています。玄関の戸はしめてありましたが、鍵はかけてありませんでした。受付の子供は雇ったばかりですが、むろん目ざといほうではありません。いつも階下にいて、私が診察室のベルを鳴らすと、駆け上ってきて次の患者を案内するという寸法です。きいてみますと、音もしなかったと言いますので、どうやらまったく謎の事件になってしまいました。
しばらくして、ブレッシントンが散歩から帰ってきましたが、実は最近はできるだけ交渉をさけるようにしておりますので、そのことも、彼には何も申しませんでした。
で、このロシア人親子を二度と見かけようとは、思ってもみませんでしたから、今夜になって、昨晩と同じ時間に、ふたりが診察室に練(ね)りこんできたときの私の驚きようは、お察しのとおりです。
『どうも、ゆうべは突然に帰ってしまいまして、たいへん申し訳のないことをいたしました』
『いやあ、本当にびっくりしましたよ』
『はあ、実は、いつでも発作が起こったあとは、頭がぼんやりしちまって、その前に何をしていたか、まるっきり思い出せなくなりましてな。ゆうべも、ひょいと気がついてみると、どうやら見かけない部屋だというわけで、おるすの間に夢心地で外に出てしまっておったというわけです』
『私も』と青年が口をそえます。『父が待合室の前を通るのが見えましたから、てっきり診察が終ったものと思いこみまして。家に着いてから、やっと、ことの次第がわかったような始末でした』
『いやいや、ひどくびっくりしただけで、べつだん迷惑を受けたわけじゃありません』私も笑ってすませました。『それでは、あなたは待合室のほうへおねがいしましょうか。昨日の続きとまいりましょう。まだ診察の途中なんでしてね』
三十分ばかりかかって診察をすませ、それから処方を書いてやって、息子の腕にすがって帰って行くのを見送りました。
ブレッシントンが、いつもこの時間に散歩に出かけていたことは、申し上げたとおりです。ほどなく、その彼が帰ってきて、階段を上がってきました。と思ったら、いきなり駆けおりて行く音がしましたが、まるで気でも狂ったようにうろたえ騒ぎながら、診察室にとびこんできました。
『俺の部屋に入ったのは、誰だ!』
『誰も入りませんよ』
『嘘だッ。来てみろ』
こんな乱暴な口をきかれましたが、相手が気が転倒しているようすでしたから、とがめもしませんでした。ついて行ってみると、明るい色の敷物の上に足跡がいくつか残っていて、これを指さしながら、
『これが私の足跡だとでも言うんですかい』とわめきたてます。
たしかに、彼の足跡にしてははるかに大きすぎますし、また明らかに新しいものです。今日は昼から、あのとおり本降(ほんぶ)りになりましたから、患者の他にお客はおりませんでした。ですから、まあ、私が患者を見ている間に、待合室にいた人が、何かの目的で、ブレッシントンの部屋に上がってきたのだとしか考えられません。べつにさわったり取っていったりされたようすはありませんが、とにかく足跡があるから、誰かが入ってきたことだけは確かです。
むろん誰だって、そんなことをされれば変な気持になるには違いありませんが、それにしてもブレッシントンのあわてようは、どうにも大げさでした。肘掛椅子にすわって、本当に泣き出してしまいました。いくらなだめてもおろおろするばかりで、何を言っているかわかりません。こちらへまいったのも、実は彼の言い出したことでして、私は彼が言うほどたいへんなこととは思っておりませんが、それにしてもひどく変わった出来事ですから、一応すぐさま彼の言うとおりにしたわけです。
恐縮ながら、私どもの馬車でご一緒願えませんでしょうか、すぐにご解明いただける事件とは存じませんが、おいでをいただきさえすれば、とにかくあの人が安心いたしますので」
シャーロック・ホームズは、この長い物語を熱心に聞いていたが、どうやらひどく興味をそそられたらしかった。いつものとおりの何気ない顔はしていたが、まぶたがぼったりとたれていて、医者の話がおもしろいところへ来るたびに、パイプの煙がもくもくと立ちのぼるのだった。客が話しおわると、ホームズは口もきかずにさっと立ち上がった。そうしてテーブルの帽子を私にとってくれ、自分のをつまみ上げてトリヴェリアンに従った。
十五分ばかりで、われわれはブルック街の医者の家の前におり立った。ウェスト・エンドの医者というとすぐに思いつくような、くすんだ、正面の平べったい家そのままだった。受付の少年が出てきて戸をあけてくれ、われわれはそのまま、上等の敷物をしきつめた広い階段を上がってゆこうとした。
ところが、ここで妙なことが起こって、われわれは立ちすくんでしまった。不意に、階段の上のあかりが吹き消されて、まっ暗やみから、ふるえたかすれ声が叫びをあげた。
「ピストルがあるぞ! ひと足でも寄ってきたら撃つからな!」
「無茶なことをなすっちゃいけません、ブレッシントンさん」トリヴェリアンが叫びかえした。
「ああ、先生ですか」と、深い安堵(あんど)の溜息をつきながら、「だが、ほかの人たちは変装でもしてるんですか?」
われわれは暗闇から、じっと見つめている目を感じた。
「ああ、結構です。お上がりなさい。すみませんなどうも、私の用心にはまごつかれたでしょう」といいながら階段のガス灯をつけたので、異様な風貌をした男が眼前にあらわれた。彼の顔つきは声に劣らず、神経が錯乱(さくらん)していることを示していた。彼は非常に肥満しているが、ブラッドハウンド犬の頬のように、顔の皮膚が少したるんでいるから、以前にはもっと肥満していたのであろう。病人のような顔色で、うすい砂色の毛は、はげしい精神の動揺で逆(さか)立っている。ピストルを手にしていたが、われわれが進みよると、ポケットにすべりこませた。
「ホームズさん、今晩は、わざわざおいでいただきまして、ありがとう存じます。是(ぜ)が非(ひ)でも助けていただかなきゃならないんです。私の部屋に不法にも侵入した者のことは、トリヴェリアン先生からお聞き下すったでしょうか?」
「ええお聞きしました」とホームズが言った。「ブレッシントンさん、そのふたりの男というのは何者です? どうしてあなたを苦しめたがるのでしょうか?」
「それです! それですよ!」と入院患者はおちつかぬ素振りで答えた。「もちろんちょっといいにくいのですよ。私から聞きだそうったって駄目ですよ。ホームズさん」
「知らないとおっしゃるんですね?」
「どうぞお入り下さい。ちょっとお入りになって下さいませんか」
彼は先に立って寝室に案内したが、そこは大きく居心地のよい部屋であった。
「ご覧下さい」と彼は寝台の端にすえた、大きな黒い金庫を指さしながら言った。「ホームズさん、私は今までそうたいして金持だったわけではありませんし、トリヴェリアン先生が申し上げたと思いますが、たった一度しか投資したことはありません。だが私は銀行屋は信用していないのです。ホームズさん、銀行屋というものを信用したことは、いまだかつてないのですよ。ここだけの話、ほんのわずかですが私の持ってるものは、あの金庫の中にあるんです。ですから、見も知らぬ人間が私の部屋に押し入ったら、それがどんなことになるのか、おわかりでしょう」
ホームズは疑わしげにブレッシントンを見つめ、頭をふった。
「私をだまそうとなさるなら、ご援助できませんね」
「いいえ、私は逐一(ちくいち)申し上げましたよ」
ホームズはさも愛想をつかしたというように、くるりと向きをかえた。
「おやすみなさい。トリヴェリアン博士」
「じゃ、助けては下さらないのですね?」
「本当のことをお話ししなさいと申し上げたいですね」
一分後にはわれわれは表に出て、家に向かっていた。われわれがオックスフォード街をすぎ、ハーレー街を五分(ごぶ)どおり歩いたときになって、ようやく私の友が口を切った。
「こんな無駄仕事にひっぱり出してすまなかったね、ワトスン君。これも本当はおもしろい事件なんだがね」
「僕にはちっともわからないがね」と、私はありのままに答えた。
「いいかい。何かわけがあってこのブレッシントンという男を知っている人間がふたりいる。もっといるかもしれないが、少なくともふたりはいることはたしかなんだ。最初のときにも次のときにも、若いほうの男がブレッシントンの部屋へ入りこみ、その間、相棒が実に巧みな策略で、医者が妨害しないようにしていたことも疑いない」
「じゃ癲癇(てんかん)というのは!」
「仮病なんだよ、ワトスン君。トリヴェリアンには、教えてやろうとは思わなかったがね。そいつは一番つかいやすい仮病なんだよ。僕だってやったことがあるんだ」
「それからどうしたんだい?」
「まったく偶然だが、ブレッシントンは二回とも外出していた。連中が診察としちゃ実に不似合いな時間をえらんだのは、その時間から待合室にほかの患者がいないはずだからさ。ところがたまたま、その時間は、ブレッシントンが散歩する時間とかちあったわけだ。そんな所からして、連中はブレッシントンの日課をくわしくは知らないんだな。もちろん連中が物とりだけが目的だったら、少なくともそれをさがそうとしたはずだが、そんな形跡もない。それにね、人間がわが身にふりかかる災難におびえているときは、目を見ればわかるんだ。この男が、このふたりの連中のような執念深い敵があらわれても、それを知らずにいるとは考えられないよ。だから、たしかに彼はこのふたりが誰だか知っている。そして何かわけがあって、それを隠してるんだと思うね。明日になれば、腹をわって話をしなければならないようになるかもしれないよ」
「他のこんな考えはどうだろう」と私は言ってみた。「たしかすごくおかしいんだが、考えられないこともないだろう。癲癇(てんかん)をわずらってるロシア人とその息子の話は全部トリヴェリアン博士の作り話で、彼が何か目的があって、ブレッシントンの部屋に入ったのかもしれないよ?」
私にはガス灯の光で、ホームズが私の見事に的(まと)をはずれた考え方をきいて楽しそうに微笑したのが見えた。
「ねえ君、そいつはいちばん最初、僕が思いついた考えのひとつなんだよ。しかしすぐにトリヴェリアンの話を確証できたんだ。若いほうの男が階段のじゅうたんに足跡をのこしていったが、その足跡を見て、彼が部屋の中につけた足跡を見せてもらう必要が全然なくなってしまったんだ。彼の靴の爪先はブレッシントンのやつのようにとがってなくて角ばっているし、トリヴェリアンのよりも、一インチと三分の一は大きいのだから、彼が実在してることがわかるだろう。だがその問題は明日でいいさ。明日はたぶん午前中に、も少しくわしくブルック街から何か言ってよこすよ」
シャーロック・ホームズの予言はすぐに的中した。それも非常に劇的であった。翌朝七時半、まだようやく朝の光がさしそめたころ、彼が化粧着のまま私の枕元に立っていた。
「ワトスン君、四輪馬車が待っているよ」
「どうしたってんだい?」
「ブルック街の件だよ」
「なにか新しい報せがあったのか?」
「悲劇的な報せなんだが、内容はあいまいなんだ」と彼は日除(ひよ)けをあげながら言った。
「これを見たまえ。ノートを一枚破って、『すぐ来宅されんことを切望いたします。P・T』と鉛筆で走り書きしてある。お医者さんこれをかいたとき、非常に苦しい立場にあったんだね。一緒に来てくれたまえ。火急の呼び出しなんだからね」
十五分かそこらで医者の家についた。トリヴェリアンは、顔に恐怖の表情を浮かべて走り出て来た。
「ああ、なんて面倒なことがおきたんでしょう」と彼は両のこめかみに手をあてて叫んだ。
「どうしたんです?」
「ブレッシントンが自殺したのです!」
ホームズはぴゅうと口笛をならした。
「夜のうちに首をつってしまったんですよ」
われわれは中に入った。トリヴェリアンは、たしか待合室と思われる所にわれわれを案内した。
「実際何をしていいんだか、さっぱりわからないんですよ」と彼は言った。「警察の人はもう、二階に来ていますが、まったく恐ろしくて……」
「いつ発見なさったのですか?」
「彼は毎朝早く、お茶を持ってこさせる習慣なのです。七時ごろ女中が部屋に入って行ったら、彼があわれな姿で、部屋の真ん中にぶらさがっていたんです。彼は綱をいつもは重いランプのかかっていた鉤(かぎ)にかけ、昨日見せてくれたあの金庫からとびおりたんです」
ホームズはちょっと深い物思いに沈んでいたが、ついに口をきった。
「かまわないようでしたら、二階へあがって事件を調べてみたいですね」
われわれは階段をのぼったが、トリヴェリアンは後からついて上がって来た。部屋に入ったときわれわれの見たものは、身の毛のよだつような光景であった。私はまえに、このブレッシントンという男は、肉がだぶついているという感じだと言ったが、鉤からぶらさがっているので、ますますその感じが強くなり、ほとんど人間とは思われなかった。首が毛をむしられた鳥のようにだらりと伸びてしまい、それに比べると身体はますます不恰好で太っちょに見えた。彼は長めの寝間着をきているだけだったが、その下から、ふくれあがった両のくるぶしとぶざまな足がはみだしていた。そのそばに機敏そうな警部が立って、手帳に何か書きつけていた。
「ああ、ホームズさんですか」と、私の友人が部屋に入ると彼は声をかけた。「よく来て下さいました」
「おはよう、ラナ君。邪魔にはならないでしょうね。こんなことになった、いろいろないきさつ聞きましたか?」
「ええ、少しはね」
「何か考えをまとめてみましたか?」
「私にはこの男が恐怖で気が狂ってしまったんだと思われますね。ご覧のとおり、ベッドには寝たようです。ちゃんと彼の身体の跡がのこっていますからね。自殺は朝五時ころがいちばん多いらしいですが、この男が首をつったのも大体そのころでしょう。ずいぶん考えたあげくのことのようです」
「筋肉の硬直状態から推して、死後三時間ぐらいだと思いますね」と私は言った。
「部屋の中に、とくに気がつかれたものがありましたか?」とホームズがたずねた。
「洗面台の上に、ねじまわしと、ねじが数個ありました。それに夜中ひどく煙草をすったらしいですね。暖炉から、葉巻の吸いがらを四つ拾いましたよ」
「ウーム! 葉巻の吸口はありましたか?」
「いや、見ませんでした」
「じゃ、葉巻入れは?」
「そいつは上着のポケットにありましたよ」
ホームズはその葉巻入れをあけると一本しか入っていない葉巻をかいでみた。
「うむ、こいつはハヴァナだ。だがこの吸いがらのほうは、東インド植民地からオランダ人が持ちこんだ、ちょっと変わった奴だ。普通の麦藁(むぎわら)でくるんであって、ほかのやつより、長さの割には細目にできてる」
彼は四つの吸いがらをつまみあげると、携帯用拡大鏡で調べてみた。
「二本は吸口をつけてすってあるが、二本は吸口なしだ。二本はたいして切れないナイフで切ってあり、他の二本は丈夫な歯でかみきってある。ラナ君、これは自殺じゃありませんね。こいつは周到に計画された、実に非情な殺人ですよ」
「考えられん!」
「そりゃまたなぜです?」
「だれが首をくくらせるような不器用なやり方で人殺しをするでしょうか?」
「そこをわれわれが調べてみなくちゃならないんですよ」
「どうやって入って来たんでしょうね?」
「玄関からですよ」
「しかし朝見たときには、閂(かんぬき)がかけてありましたよ」
「じゃ犯人どもが出てしまってから、かけたんです」
「どうしておわかりです?」
「犯人どもの足跡を見たのです。ちょっと待って下さい。それについては、も少しくわしくご説明できると思いますから」
彼はドアの所へ行き、錠をまわして、あの秩序だったやり方でしらべていたが、次には部屋の中からさしこんであった鍵をぬいて、それも検査した。寝台、敷物、椅子、暖炉、死体、つな、を順々にしらべてから、やっとこれで十分だと言い、私と警部の手をかりて死体をひきおろし、敬虔(けいけん)な態度で横たえるとシーツをかぶせた。
「この綱はどこからもって来たんでしょうね?」と彼はたずねた。
「ここから切りとったんですよ」とトリヴェリアン博士は言って、ベッドの下から大きな綱束をひきだした。
「彼はおそろしく火事のことを気にかけてましてね。だもんですから、階段が燃えてる場合にも窓から避難できるように、この束をいつでも身辺においておきました」
「そいつは犯人の手数をはぶかしたにちがいない」とホームズは考え込みながら言った。「さて、事実ははっきりしている。午後までにはその理由も十分にお知らせできるつもりです。調査上便利ですから、暖炉の所にあるブレッシントンの写真はいただいて行きますよ」
「だがあなたは何も話して下さらないじゃないですか」とトリヴェリアンは叫んだ。
「ああ、事件のいきさつについては、まったく疑点はありません」とホームズは言った。「事件には三人の男が関係しています。青年と老人と第三番目の男です。三番目の男の身許には手がかりはありません。申すまでもありませんが、最初のふたりはロシアの伯爵と息子に化けた連中ですから、じゅうぶん人相も知っています。連中は共謀者の助けで、家の中に入りこみました。警部さん、書生を逮捕なさるようにご注意申し上げたい。たしかごく最近、勤めだしたばかりでしたね、先生」
「あいつめ、さがしても見当りませんよ」とトリヴェリアン博士は言った。「女中と料理人で、今の今までさがしていましたが」
ホームズは肩をすくめた。
「あいつはこの一幕じゃ、かなり重要な役を演じたのですよ。三人は階段をのぼった。連中は爪先(つまさき)立ちでのぼったんですが、年かさの男が先頭、青年が二番目、三番目の男は最後尾にくっついて……」
「おいおい、ホームズ君!」と私はたまりかねて叫んだ。
「足跡の重なりは、疑問の余地を残さないんだ。僕は具合のいいことには、昨夜、どれが誰の足跡か調べておいたからね。そこで彼らはブレッシントン氏の部屋までのぼって来たが、ドアの鍵がかかっていた。
しかし針金をうまく使って鍵をこじあけた。レンズがなくても鍵穴の中の突き出た所にひっかいた跡があるから、どこを強く押しつけたかわかるだろう。部屋へ侵入してから、彼らが真っ先にやったことは、ブレッシントン氏に猿ぐつわをはめることだったにちがいない。彼は寝ていたが、恐怖におののいて叫び声もあげられなかったのだろう。この部屋の壁はあついから、彼がわめきたてるひまがあったとしても、その声は外へは聞こえなかったということは考えられることです。
ブレッシントン氏を逃げられぬようにしてから、犯人たちは何か相談を始めた。たぶん彼をどう片づけるかといったようなことでしょう。相談はかなりかかった、というのは、この葉巻を、そのとき吸ったのですからね。年かさの男が籐椅子(とういす)にすわっていました。吸口をつかったのがその男です。青年のほうは向こうにすわって、ひきだしで灰をたたき落しています。三番目の男はあちこち歩きまわっていた。ブレッシントンは寝台におきあがってすわっていたと思うのですが、どうも確かではありません。さて、彼らはしまいに彼を天井からぶらさげることに決定しました。そのことは前もって打ち合わせてあったので、どんな滑車だかわかりませんが、とにかく絞首台として使えるようなものを持ってきていたと思われます。このネジまわしとねじは、滑車をとりつけるために持って来たのでしょう。ところが、鉤のあるのを見て、手数をはぶいたのです。仕事をすませると、ふたりは急いで逃亡し、共謀者の書生が、閂(かんぬき)をかけたのです」
われわれはその夜の出来事を彼が描きだしてきかせる言葉に、深く興をそそられて耳をかたむけた。その話をホームズはごくかすかな細かい徴候から引き出して来たので、われわれは、目の前にそれを示されながらも、ほとんど彼の推理のすじ道をたどりかねるのであった。
警部は即座に書生捜索のため大急ぎで出かけて行き、ホームズと私は、朝食をとりにベイカー街へと戻った。
「三時までにはもどって来るよ」と、食事がすむと彼は言った。「その時刻には警部もトリヴェリアンもここへ来るだろう。そのときまでには、まだ残っていると思われる不明な所は、どんな細かい所でもはっきりさせたいよ」
このふたりは打ち合わせた時間にはやって来たけれど、私の友人は四時十五分前になって、やっと姿をあらわした。だが、入って来たときの彼の表情から見て、万事が上々の首尾だったことがわかった。
「何かありましたか? 警部さん」
「小僧をつかまえましたよ」
「そいつはすばらしい。私は犯人どもをつかまえましたよ」
「つかまえたんですって!」われわれは異口同音に叫んだ。
「ええ。ま、少なくとも身許はつかみました。私の思ったとおり、このブレッシントンという男も、犯人どもも警視庁では有名な連中でした。犯人どもの名は、ビドル、ヘイワード、モファットというんですよ」
「ワーシンドン銀行ギャングじゃないですか!」と警部は叫んだ。
「そうなんですよ」
「じゃブレッシントンはサトンの奴なんですね?」
「そうです」
「ああ、それで何もかもはっきりしました」と警部は言った。しかしトリヴェリアンと私は当惑して顔を見合わせた。
「あのワーシンドン銀行の大事件を、きっとおぼえておいででしょう。あの事件には五人の男が関係していました。今の四人の連中と、五番目がカートライトという男です。守衛のトウビンが殺され、強盗どもは七千ポンドかかえこんでドロンしてしまいました。一八七五年のことでしたね。五人全部あがりましたが、決定的な証拠がありません。このブレッシントンとか言ったサトンの奴が、こいつは一味でいちばん悪い奴だったのですが、裏切って密告したので、その証拠でカートライトは死刑になり、他の三人は各人十五年ずつの刑をいいわたされました。刑期満了より何年か早く出獄したとき、彼らは裏切者を見つけて、彼のために命を落した昔の仲間の復讐をしようとし、二度おそいましたが失敗してしまいました。ところがご承知のとおり、三度目で成功したわけです。まだ何かご説明のいるところがございますか? トリヴェリアン先生」
「すっかりわかりました」と彼は言った。「彼がひどくそわそわしていた日がありましたが、あれは新聞で、三人の釈放記事を読んだからなのですね」
「ええ、そうなんです。彼は押込みのことをさかんに言っていたのは、ただ煙幕(えんまく)にすぎなかったのですよ」
「だがどうして彼は、あなたに話してしまわなかったのですか?」
「ええ、それはね、彼は古い仲間の執念ぶかさを知っていたから、できるかぎり誰にも身許をあかすまいとしていたのです。彼の秘密は恥ずべきものです。だからそれを打ちあける気になれなかったのです。しかし卑劣な奴ではあるけれども彼も英国の法律の保護の下に生活していたわけです。警部さん、あなたにもおわかりでしょうが、法律が防ぎえない場合でも、正義の刃(やいば)は必ず復讐するものですね」

こんなところが、ブルック街の医者とその入院患者についての奇妙な事件である。その夜から今にいたるも、三人の殺人犯は警察に発見されていない。ロンドン警視庁では、数年前ナポルトの北十四・五マイルのポルトガル沖合いで乗客全部をのせたまま行方不明となった、不運なノーラ・クライナ号の乗客の中に混じっていたのだろうと推定している。書生に対する処分は証拠不十分で破棄され、「ブルック街事件」、この事件はこうよばれていたのだが、今日まで一度も公刊物で扱われなかったのである。
ギリシャ語通訳

シャーロック・ホームズ君とはずいぶん長いこと親しくしていたけれども、彼は親類はおろか、自分の若いころのことまでも、決して口にしたことがなかったのである。こうして彼が自分のことを語らないものだから、私はだんだん彼がどうも非人情の人だという印象を深めていって、いつか彼のことを、ひとつの孤立した天才、頭脳だけで情(なさ)けのない男、知能はすぐれているが人情の欠けた男だと思うようになっていた。女ぎらいなところといい、友だちを作りたがらないところといい、彼の非情な性格の良いあらわれなのだが、そればかりか、自分の係累(けいるい)のことさえ、何ひとつ語ろうとしないのである。私は彼が親類縁者がひとりも生きていない孤児なのだと思っていた。ところがある日、まったくおどろいたことに、彼は兄のことを語りはじめたのである。
夏の夕方だったが、お茶のあとで、ゴルフのクラブの話から黄道の傾斜度変化の原因の話などと、とりとめもない雑談にふけっているうちに、話が隔世遺伝や遺伝的特性の問題に及んだ。ある人間の何かの才能というものが、どこまで祖先から受け継がれたもので、どこまでが生まれてからの訓練のせいであるか、という点を論じ合っていた。
「君の場合は、」と私は言った。「今まで君が語ってくれたところからすると、君の観察力とか、君独特の推理力とかいうものは、どうも君自身の組織だった訓練のせいらしいね」
「ある程度まではね」と、彼は考え深げに答えた。「僕の先祖は田舎の大地主でね。まるっきりそういう階級にふさわしい人物ぞろいだったようだ。しかし、僕のその才能は血統なんだ。たぶん祖母(ばあ)さんから来たものらしいが。ヴェルネというフランスの絵描きの妹でね。芸術家の血統には時どき変わった人間が出るものだ」
「でも遺伝とは限らないのじゃないのかい」
「僕の兄弟のマイクロフトが、その才能を僕よりもっと持っているからね」
寝耳に水だった。イギリスに、こういう独特の才能を持った人間が他にひとりいるというのに、警察も世間も聞いたことがないというのはいったいどうしたことだ。私は、彼が謙遜(けんそん)して自分の兄弟が自分よりすぐれていると言ったのだろうと、遠まわしにきいてみた。ホームズは私のほのめかしを笑った。
「ワトスン君」と彼が言う。「僕は謙譲を美徳のひとつに数える人には同意できない。理論家は物事を正確に、あるがままに見るのが肝心だし、だいいち自分を安く見積るのは、自分の力を誇張するのと同じくらい、真理から遠ざかることじゃないか。だから、僕がマイクロフトのほうが観察力がすぐれているというときは、厳密な真理だと思ってくれていいのさ」
「弟さんかい」
「七つちがいの兄だ」
「どうしてまた有名にならないのかねえ」
「いや、兄の仲間うちじゃ有名なもんだ」
「仲間というと?」
「まあ、ディオゲネス・クラブとかね」
ディオゲネス・クラブというのは聞いたこともなかったが、それが顔に出たとみえて、シャーロック・ホームズは懐中時計をひっぱり出して言った。
「ディオゲネス・クラブというのは、ロンドンじゅうでいちばん風変わりなクラブでね、マイクロフトもその変人仲間のひとりなのさ。毎日夕方の五時十五分前から七時四十分まで行っているよ。いま六時だから、もしうららかな夜の散歩に出てみる気があるなら、珍しい人物を二人ばかりご紹介するよ」
五分後に、われわれは通りに出てリージェント広場のほうへ歩いていた。
「君は、マイクロフトがああいう才能があってどうして探偵をやらないか、不思議に思うだろうがね。それが駄目ときている」
「だって君はさっき……」
「たしかに兄は観察も推理も僕よりすぐれている。安楽椅子にすわって推理だけやっていれば探偵がつとまるというのなら、兄は古今未曾有(みぞう)の大探偵になったろうがね。ところが、欲もなけりゃ精力もない。自分で謎を解いておいて、さて証明に出かけて行くのが厭(いや)だときている。めんどくさいことをして正しいのが証明されるより、放っておいて、間違っていると思わせておくほうがましだと言うんだ。僕もだいぶ問題を持ち込んで解いてもらったが、やっぱり後でキチンと合っていたからね。しかし実地の仕事となると、からっきし駄目なんだ。だから事件を裁判まで持っていくことができない」
「じゃあ、探偵はやっていないわけか」
「むろんそうさ。僕が食うためにやっていることも、兄にはたんなるディレッタントの趣味だ。兄は数字のほうで途方もない才能があってね、政府のある省で会計検査をやっている。家はペルメル街だ。毎朝毎晩、角を曲がってホワイトホール街の官庁に通っている。年がら年じゅう、他に運動はやらないし、どこへも出かけない。ディオゲネス・クラブが唯一の例外だ。そのクラブだって兄の住まいのまん前にあるのさ」
「聞いたことのない名前だな」
「そりゃそうだろう。ロンドンには、内気や人間嫌いで、人の仲間になりたくないような連中が多いだろう。それでもすわり心地の良い椅子とか新刊雑誌とかまで嫌いだというわけじゃない。ディオゲネス・クラブというのはそういう人間の便宜(べんぎ)を考えて作ったものだ。今じゃロンドンじゅうでいちばんつきあいの悪い、いちばんクラブの嫌いな人間が集まっているわけだ。会員たるもの、他の会員に関心を持つべからず。来客室以外では事情のいかんにかかわらず談話は禁止。三回違反して委員にわかったら、除名に処せらるべきものとするというしだいだ。兄は発起人のひとりだ。僕なんかもあそこに行くと、とても気持が静まるね」
話をしているうちにペルメル街にやって来た。セント・ジェイムズ寺院のほうからずっと歩いて行った。シャーロック・ホームズは、カールトンから少しばかり行った一軒の家の前で立ち止った。そうして私に口をきかないようにと注意してから、玄関に入って行った。ガラスの羽目を通して広い豪奢(ごうしゃ)な部屋がチラと見えた。そこにはかなりの人たちが、それぞれ自分の小さな隠れ家にすわり込んだ恰好で新聞を読んでいた。ホームズは、私をペルメル街のほうが見える小さな部屋に案内しておいて、しばらくしてから一見して兄弟と知れる人物を連れてもどって来た。
マイクロフト・ホームズは、シャーロックよりはるかに大柄で太った男だった。全くのデブだが、顔には、でかいなりに、どこか表情の鋭さがあった。これは弟のほうにも顕著(けんちょ)なことである。目は妙に明るい水色がかった灰色をしている。それがいつも、遠くを見ているような、内省的な目つきをしている。この目つきはシャーロックにもあるのだが、全力を集中したときに限っている。
「初めてお目にかかります」と言いながら、マイクロフトは海豹(あざらし)の鰭(ひれ)のように広くて平べったい手を差し出した。
「あなたがシャーロックのことをお書きになって以来、どこへ行っても彼の話が出ますよ。ところでシャーロック、先週はマナ・ハウス事件のことで君が相談に来るだろうと思っていたがね。少し無理じゃなかろうかと思って」
「いや、解いたよ」シャーロックはにっこり笑った。
「アダムズだったろう」
「そう、アダムズだった」
「はじめからわかっていたよ」兄弟は張り出し窓に並んで腰をおろした。「人間を研究するにゃ、ここに限る。みんな堂々たるタイプじゃないか。たとえば、こっちを向いて歩いて来るふたりを見たまえ」
「玉突きのゲーム取りともうひとりだね」
「そうそう。もうひとりのほうは何だと思う?」
そのふたりは窓の正面に立ち止ったところだった。私にとって、片方をゲーム取りと見るしるしはただひとつ、チョッキのポケットの上についている白墨(はくぼく)のあとだけだった。もうひとりは非常に小柄な色の黒い男で、帽子をあみだにかぶり、こわきに二つ三つ包みを抱えている。
「軍人あがりだな」シャーロックが言った。
「除隊したばかりだ」兄のほうが言った。
「勤務はインドだったな」
「下士官だ」
「兵科は砲兵かな」とシャーロック。
「やもめぐらしだ」
「ただし子供がひとり」
「ひとりじゃないよ、きみ、ひとりじゃない」
「やれやれ」と私が笑い出した。「こいつは何のことだか」
「いやいや」ホームズが答えた。「ああいう身のこなしで、威厳があって、日に焼けているんだから、軍人で、ただの兵卒(へいそつ)じゃなくて、それもインドから帰ったばかりだということがわけなくわかるのさ」
「退役して長くないということは靴でわかる。いわゆる[給与靴]をはいている」マイクロフトが言った。
「あの歩き方は騎兵じゃない。しかし額の片側が色が白いから、広縁帽を横かぶりにしていたわけだ。体重があるのは工兵でない証拠だ。つまり砲兵にいたことになるね」
「それから、むろん、正式の喪服だから、誰か近親者をなくしたばっかりだ。自分で買物をしているから、これは奥さんをなくしたわけだ。子供の物を買って来てるだろう。ガラガラなんかもある。これはごく小さい子がいるしるしだ。奥さんは産褥(さんじょく)で死んだかな。それから絵本を抱えているから、もうひとり子供がいるということが考えられるわけだ」
私はシャーロックが、彼より兄のほうが鋭い能力を持っていると言った意味がわかりかけて来た。シャーロックは私に目くばせしてニヤリと笑った。マイクロフトは鼈甲(べっこう)の小箱から嗅煙草(かぎたばこ)を嗅いで、大きな赤い絹のハンカチで上着にこぼれた煙草の粒を払った。
「ところでシャーロック」彼は言った。「君の望みどおりの事件があるぜ。ひどく変わった事件でね、僕に頼まれたんだが。僕にはいい加減なことしかできない。とても精力が続かない。もっともなかなかおもしろい推理問題にはなったよ。どうだいひとつ話を聞いてみる気があるなら……」
「兄さん、願ってもないことだね」
マイクロフトは、手帳の切れはしに手紙を走り書きして、ベルを鳴らし、給仕にわたした。
「メラズという人にちょっと来てくれるように言ったんだ。僕の上の部屋に住んでる人でね、ちっとばかり知り合いなもんだから、困ったことができたと言って来たわけさ。ギリシャ系でね、たしか。それがたいした語学者だ。裁判所の通訳をやる一方じゃ、ノーサンバランド・アヴェニュー界隈(かいわい)のホテルに泊るような、東洋人の金持を相手に案内人をやって、それで食ってる。その異常な経験談は、やっこさん自身の口から聞いてもらおう」
まもなく、背丈(せたけ)の低い太った男が席に加わった。オリーブ色の顔と漆黒の髪の毛が、南国の産であることを示していた。もっとも言葉は教養あるイギリス人と変わらない。彼はシャーロック・ホームズと熱のこもった握手をした。彼の黒い目は、この専門家が自分の話を聞きたがっていると知って、よろこびに輝いた。
「警察が信用しているとは思いません……本当に、思いません」彼はなげき声で言った。
「こんなことは聞いたことがないから、対処しようがないと彼らは考えるんですねえ。でも本当に、私はあの顔に絆創膏(ばんそうこう)をはられた男がどうなったか、それがわかるまで心が安まりません」
「よろしい、うかがいましょう」シャーロック・ホームズが言った。
「今夜は、水曜ですね。すると、じゃ、月曜の晩だ……ついおとといなんですよ……ことが起こったのは。私は、たぶんこの方からお聞きになったでしょうが、通訳をやっているんです。何語でもいっさい、まあ大(たい)概(がい)なら、通訳するんですが、生まれがギリシャですし、名前もギリシャ名前でして、仕事は主としてギリシャ語関係です。もうずっと、ロンドンじゃ随一のギリシャ語通訳ということになっていますから、旅館業の間じゃ知られた顔です。
時々、よくあるんですが、面倒を起こした外国人だの、遅く着いて私に仕事をしてもらいたい旅行者だのがいて、突飛な時間に呼ばれることがあるんです。ですから、月曜日の晩も驚きはしなかったんです。ラティマーという、ひどくハイカラな恰好をした若い男が、私の部屋にやって来まして、貸馬車に乗ってついて来てくれと言うんです。馬車は戸口に待っているとか。商売のことでギリシャ人の友人が来ているが、ギリシャ語しかできないから、どうしても通訳がいるという話です。家はケンジントンで、少しばかり遠いということで、玄関を出るときなんかも、せき立てて馬車に乗せたりして、ひどく急いでいるようすでした。
貸馬車と言いましたが、私はすぐ、自分の乗ったのは自家用馬車じゃないのかと思ったんです。たしかに、あのロンドンの恥になっている普通の四輪馬車より広いし、造作もボロくなってはいるけれども、金がかかっています。ラティマーは私の正面にすわりました。そして車はチャリング・クロスを通ってシャフツベリー・アヴェニューを北に行きました。オクスフォード・ストリートにやって来たときに、思いきって、ケンジントンなら回り道になるじゃないかと言ってみました。ところが、その途端に、この男はとんでもないことをやり始めました。
男はまず懐(ふところ)から針を仕込んだおっそろしくいかつい棍棒(こんぼう)を取り出して、その重みや強さをためすみたいに、そいつを前後に何べんも振りました。それから、なんにも言わないで、そいつを自分のそばに置きました。こうしておいてから、今度は両側の窓をひっぱり上げましたが、おどろいたことに、その窓は、私が外を見られないように紙がはってあるのです。
『外が見えなくなるが、悪(あ)しからず』男は言います。『行く先の場所をあんたに知らせるつもりがないと言うことです。あとでそこまでの道が知れると、当方にとって都合がよろしくないですから』
ご想像どおり、私はこんな口をきかれて、全くのところ、びっくり仰天してしまいました。相手は力の強そうな肩幅の広い若者ですし、私は手許に武器もなし、とっくみ合いをしたところで勝てる見込みはまるでありません。
『ラティマーさん、とんでもないことをなさる』私は口ごもりながら言いました。『あなたのなさることは全く不法行為じゃありませんか』
『ちっとばかり勝手な振舞いかもしれんですな、たしかに。しかし、ちゃんと補いはつけて差し上げます。ただし、ひと言申し上げておきますが、今夜じゅうは、助けを呼んだり、私の都合の悪いことをしたりなさらんほうがよろしい。大事なことになりますからね。あんたがどこにいるか誰も知っている人はいないし、この馬車の中だろうと私の家の中だろうと、同じ袋の中のねずみだということを覚えておいていただきます』
言葉づかいはおとなしいですが、いやァな言い方をしましてね、とても薄気味が悪いんです。いったい全体何のためにこんなことをして私をさらって行くのか、いぶかりながら黙ってすわっていました。しかしとにかく、さからってみたって仕方がないし、まあ何事が起こるのか待ってみるより仕様がありませんでした。
どこへ行くのか行先もわからないままで、ほとんど二時間ちかく乗っていました。石がガラガラいう音で砂利の土手道だとわかったり、音がしないからアスファルトだなと思ったりしましたけれど、そういう音の変化のほかには、どこをどう走っているのか、推察のつけようもありませんでした。窓にはった紙は光を通しません。前のガラス細工にも紺(こん)のカーテンが引いてあります。ペルメルを出たのは七時十五分すぎでしたが、やっと車が止まったときには、時計はもう九時十分前を指していました。男は窓をあけましたが、低い迫持造(せりもちづく)りの門があって、その上にランプがともっているのがチラッと見えました。
せき立てられて馬車をおりると、門の扉がすっと開いて、あっという間に家の中に連れこまれたのですが、そのとき、両側に芝生や木が生えていたことをうっすらと覚えています。でも、それが屋敷の中だったのか、それとも正真正銘の野ッ原だったかということになりますと、何とも申し上げかねるわけですが。
家の中には、色のついた火屋(ほや)のガス灯がともっていて、それがあんまり火を細くしてあるものですから、とっつきの廊下がかなり広かったことと、絵が何枚かかかっていたことぐらいしかわかりませんでした。それでも、そのぼんやりした灯で、扉をあけたのが小柄で品の悪い猫背(ねこぜ)の中年男だということが、どうにかわかりました。こっちを向いたときにキラキラ光るものがあったので、眼鏡をかけていることもわかりました。
『これがメラズさんかい、ハロルド』と、彼は言います。
『そうです』
『よしよし、よくやった。悪意は無しだよ、メラズさん。とにかくあんたがおらんことにゃ困るんだ。おとなしく仕事をしてくれりゃ、後悔するこたない。しかし、いらんことをすると、わしゃ知らんぞ』
いらいらと、ひきつるような話し方で、あいだにクックッと笑い声を入れるのですが、聞いていると、どういうものか、もうひとりのほうよりもこわいのです。
『私に何をしろとおっしゃるんです?』私はききました。
『ギリシャの紳士が来とるから、二つ三つ質問をして、わしらに答をきかせてもらうだけだ。ただし、こっちの言わんことをちっとでもしゃべったら』……ここでまた、あの神経質なクックッ笑いです……『生まれたことを後悔するぞ』
こういいながら、彼はドアをあけて、だいぶ金のかかった飾りつけのしてあるらしい部屋に私を連れて行きました。しかし、ここも明かりといえば、火を細くしたランプがひとつあるだけです。広い部屋でして、絨毯(じゅうたん)にのると、深々と足がもぐったことからも、金のかかっていることがわかります。椅子はビロードで、白大理石の大きなマントルピースがあって、そのそばには日本製の鎧(よろい)らしいものが一組おいてあるのが目に入りました。ランプの真下に椅子がひとつあって、中年男はそこに私をすわらせました。
若いほうはしばらくいませんでしたが、いきなり、もうひとつのドアから、だぶだぶの化粧着のようなものを着た紳士をひとり連れて、もどって来ました。紳士は私たちのほうへのろのろやって来ましたが、薄暗い光の輪の中に入って、もう少しはっきり見えるようになると、私はその顔を見て思わずゾッとしてしまいました。死人みたいに真っ青、こわいほどやせこけて、目だけが、まるで気迫が体力に追いつかなくなった人みたいに、とび出してギラギラ光っています。しかし、こういう体の弱ったようすなどより、顔に十文字に、絆創膏(ばんそうこう)がグロテスクにはりつけてあって、口の上にも大きいのが一枚はりついているのです。ギョッとしてしまいました。この奇妙な人物が、椅子にすわったというより、どさっと落ちこむと、中年男が言いました。
『石板は持って来たかい、ハロルド。手は動くようにしてあるな。よし、じゃあ石筆をかしてやりな。メラズさん、あんたが質問するとこの人が返事を書くわけだ。まずだいいちに、書類に署名する気になったか、きいてみなさい』
紳士の両の目がギラギラ光りました。
『なるものか』彼が石板にギリシャ語で書きます。
『どうしてもいやか』暴君が私に言わせます。
『彼女が、私の目の前で、私の知っているギリシャ人の神父によって結婚すればよし』
中年男は毒々しくクックッと笑いました。
『じゃ、あんたがどうなっても良いというんだな』
『私のことなど、どうでも良い』
こういうのが、私たちの奇妙な、半口頭(こうとう)、半筆頭の会話の一問一答の例です。何回も何回も、降参して書類にサインするかどうか質問させられました。そして、繰り返し繰り返し、同じ憤然(ふんぜん)とした返事です。
ところが、私はひょっとうまいことを思いついたのです。ひとつ質問するごとに、私自身の質問を加えて行くのです……はじめは、ためしに二人の男に知れないかどうか、何でもないことをきいてみて、それから、どうやら大丈夫らしいので、もうすこし危い橋を渡ってみたわけです。私たちの会話は、まあ大体こういった具合です。
『そんなに言い張っても、何にもなりゃせんぞ。[あなたはどなたです]』
『知ったことじゃない。[私はロンドンは初めての者です]』
『あんたの運命はあんたしだいだぞ。[いつおいででしたか]』
『それで良いじゃないか。[三週間まえです]』
『財産を取ってしまっても良いのか。[どんなことをして苦しめられたのですか]』
『悪党の手にわたすものか。[ものをたべさせません]』
『署名さえすりゃ帰してやるんだぞ。[これはどういう家ですか]』
『署名は決してしない。[知りません]』
『彼女にとってもためにならんのだぞ。[お名前は]』
『彼女がそう言うのを聞こう。[クラティデス]』
『署名すれば会わせてやるさ。[どちらからおいでですか]』
『じゃ決して会わない。[アテネです]』
ホームズさん、もう五分あれば、私はやつらのまん前で、真相を全部聞き出したところでした。あと一問で、事件が解決できるところだったのかもしれません。ところが、このときいきなりドアがあいて、ひとりの女が部屋に入って来たのです。はっきり見えなかったので、背の高い、上品な、黒い髪の女で、ゆったりしたガウンのようなものを着ていたことしか、わかりませんでしたが。
『ハロルド』彼女は言いました。英語ですが、調子はずれです。『もう我慢できなかったのよ。二階は寂しくて、たった……あッ、まあ、ポールじゃないの』
このおしまいの言葉はギリシャ語で、これと同時に、紳士のほうが、発作的な力で口の絆創膏(ばんそうこう)をひっぺがすと、『ソフィー! ソフィー!』と叫びながら彼女の腕に突進しました。
しかしふたりの抱擁(ほうよう)もほんの一瞬でした。若いほうの男が、女をつかまえて部屋から押し出して行ってしまうし、一方では中年男のほうが、やつれた犠牲者をやすやすと捕まえて、べつの扉から引きずり出してしまいました。一瞬、私は部屋にひとりきりになったので、連れて来られたのがどういう家なのか、どうにかして緒口(いとぐち)だけでもわかるかもしれない、という考えが漠然(ばくぜん)と起こって、椅子からとび上がりました。でも、足を踏み出さなくて幸いでした。ひょいと目を上げると、中年男が戸口に立って、私をじっと見ています。
『あれですんだよ、メラズさん』彼は口をひらきました。『お気づきだろうが、わしらはあんを見込んで、たいへんな秘密を打ち明けたわけだ。ギリシャ語しかできんあの友人との間で談判ごとが持ち上がったんだが、あれが急に東洋のほうに帰らなけりゃならんことになったりしたもんだから、あんたにわざわざ来てもらわにゃならんことになったんだ。誰かそういう役をやってくれんか、探しておったところだったが、幸いあんたという、できる人がみつかったわけだ』
私は会釈してやりました。
『ここに五ポンドあります』と私のほうに歩み寄りながら言いました。『これで、まあ、料金は十分じゃろう。ただしだ』私の肩をポンとたたいて、クックッと笑いながらつけ加えます。『この事を他の人間しゃべったら……いいかね、ひとりでもだぞ……さァね、神よお慈悲をということになるぜ』
このくだらない男のために覚えた胸くその悪さ、おそろしさを、どういうふうに申し上げたらいいでしょうか。そのときは、ランプが彼の頭の上にありましたから、よく見えました。やつれた、どす黒い顔で、少しばかりのとがった顎鬚(あごひげ)は糸みたいに細くて、ポサポサしていました。しゃべるときは顔を前に突き出し、唇とまぶたが、まるで舞踏病みたいにヒクヒク動きました。あの奇妙な、ひきつるようなクスクス笑いだって、何か神経病の徴候なんだろうと思ったりしました。しかし、顔のどこがおそろしいかというと、目です。鋼(はがね)みたいな灰色で、冷たくチカチカ光って、その底に、邪悪な、情け容赦(ようしゃ)のない残忍さが感じられました。
『しゃべったらじきにわかる』彼は言いました。『ちゃんと情報綱があるからな。さあ、馬車が待っとるて。わしの仲間がまたお伴しますぜ』
私はせき立てられて廊下を通り、そしてまた一瞬、チラチラと木立や庭を見ながら、馬車に乗せられました。ラティマーが、私のすぐあとにくっついて来て、何も言わずに私の正面の席にすわりました。無言のうちに、私たちは再び、いつはてるともない長い距離を、窓を閉ざして乗りまわしましたが、やがて、ちょうど真夜中すぎに馬車は止まりました。
『こちらでおりて頂きます、メラズさん』相手が言います。『お宅から遠い所でお降り願ってお気の毒ですが、仕方がないです。馬車のあとをつけようとなさっても、かえって怪我をなさるばかりです』
彼はそう言いながら扉を開きましたが、私が車からやっとおりたと思うと馭者が鞭(むち)を入れて、車はガタガタと走って行ってしまいました。おどろいてあたりを見回しました。私が立っていたのは、ヒースの生えた荒地で、そこここに、ハリエニシダのしげみが黒々と繁っています。ずっと遠くに家並があって、あちこち二階の窓に灯がついていました。反対のほうに、鉄道の赤いシグナルが見えました。
私をのせて来た馬車は、もう見えなくなっていました。あたりを見回しながら、いったい全体どこに来たのだろうと考えていると、誰か闇の中をこっちに向かってやって来るのが見えました。だんだん近づいてみると、鉄道の赤帽です。
『ここは、なんというところでしょうか』ときいてみました。
『ウォンズワース・コモンです』
『ロンドン行きの汽車がありますか』
『クラパム連絡駅まで一マイルばかりお歩きになれば、ヴィクトリア行きの終列車に、ちょうど間に合いますよ』
これで、ホームズさん、私の冒険は終りました。行った先も、話をした相手も、何もかも、申し上げたこと以外は、今もって何も知りません。ただ、悪事が行なわれていることはたしかなんで、できることなら、あの不幸な男を助けてやりたいと、こう思ったんです。あくる朝、お兄様にすべてを申し上げました。したがって警察にも通じたわけですが」

この異常な物語を聞き終ると、しばらくはすわったまま、誰も口をひらかなかった。それからシャーロックが兄のほうを見やった。
「手は打った?」彼はたずねた。
マイクロフトは、テーブルの上にあったデイリー・ニューズをとりあげた。
「『ギリシャ紳士、ポール・クラティデス、アテネより当地在、英語会話できず、所在につき情報ご提供の方、賞金呈上す。同様、ギリシャ婦人、呼び名ソフィー、情報下さる方賞金呈す。X二四七三』こういうのを、全日刊紙に出してある。だが、応答なしだ」
「ギリシャ大使館はどうです?」
「聞いてみた。なんにも知らない」
「じゃ、アテネの警察に電報してみたら?」
「こんな具合に、シャーロックは、ホームズ家のエネルギーを全部ひとりで引き継いでるんです」マイクロフトは私をふりかえって言った。「じゃ、是非(ぜひ)ともこの事件を引き継いでくれたまえ。それで、何か良いことがあったら知らせてもらおうか」
「いいとも」シャーロックは椅子から立ち上がった。「お知らせしよう。メラズさんにも。それまでは、メラズさん、僕ならきっと彼らを警戒するところですよ。この広告で、裏切ったことが当然知れていますからね」
帰る途中で、シャーロックは電報局に寄って、電報を何本か打った。
「ねえ、ワトスン君」彼は言う。「夜の散歩が無駄じゃなかったろう。こうやってマイクロフトから来た事件が、僕の扱ったいちばん面白い事件になったりするからね。いま聞いた問題だって、解決の余地はたったひとつとしても、なかなか面白そうじゃないか」
「解決の見とおしがあるのかい?」
「そうだね、あれだけのことがわかっていて、もし他に何もわからなかったとすりゃ、まるきりおかしな話だよ。君だって、いま聞いたいろんな事実に、何か解釈をつけてみたはずだと思うがねえ」
「そりゃ、漠然とならね」
「じゃあ、どういうふうに考えたかい」
「まず、このギリシャの娘は、明らかにハロルド・ラティマーというイギリス人によって誘拐(ゆうかい)されたのだ、と思う」
「どこから誘拐されて来た?」
「アテネだろう」
シャーロック・ホームズは首を横に振った。「この若者はギリシャ語を話せない。ギリシャの娘は英語がうまく話せた。彼女はイギリスに来てしばらくになるが、男はギリシャに行ったことはない、という推論が成り立つ」
「なるほど、じゃ、彼女は英国訪問者であり、それをこのハロルドが、一緒に逃げてくれと口説(くど)いたと仮定しよう」
「そのほうが事実に近いだろう」
「しかして、彼女の一兄弟が……つまり、あれは血族関係だという気がしたんだがね……ギリシャから妨害しにやって来た。彼は無謀にも若者とその年とった相棒の手中にとびこんだ。ふたりは彼をつかまえて、暴力で書類に署名させようとする。書類とは、娘の財産……兄がその管財人なんだろうな……、その財産の委譲(いじょう)証明書だろう。これを彼が拒否する。で、交渉するには通訳がいる。そこでメラズ氏が選ばれたわけだが、メラズ氏の前に誰かひとり使っているね。娘は、兄の来ていることを知らされていなかったが、ほんの偶然でそれを知る」
「すごいぞ、ワトスン君」ホームズが声をあげた。「きっとその辺が真相だろうと思うね。なにしろカードはちゃんと握ってあるんだから。あとはただ、彼らが裏で暴力行為をやりはしないかという心配だけだ。時間さえよこすなら、こっちのものさ」
「だけども、奴らの家っていうのはどこかねえ」
「うん、しかしわれわれの推理が正しいとすれば、娘の名前が過去ないし現在にソフィー・クラティデスだというのなら、娘を探す分には苦労はないはずだよ。それに望みは託されるわけだよ。兄のポールは、ロンドンははじめてなんだからね。このハロルドという男が、娘とそういう関係になってから、いくらか時間が……とにかく何週間かたっているわけだね。兄がギリシャでこの事を聞いて、こっちにやって来る時間があったわけだから。で、その間、娘とハロルドがひとつところにいたのだとすると、マイクロフトの広告に、何か手応えがあってよさそうなものだよ」
こうしてしゃべっているうちに、われわれはベイカー街のわが家に帰って来た。ホームズは先に立って階段を上がったが、部屋の扉をあけると、驚いてとび上がった。肩ごしに私ものぞき込んで、同じく驚いてしまった。彼の兄マイクロフトが、肘掛椅子にすわって煙草をふかしているのである。
「さあさあ、シャーロック、どうぞおはいり」
われわれの驚いた顔を見て、マイクロフトはにやりと笑った。「驚いたろう、こんなエネルギーがあろうとは。しかしこの事件はなんだかおもしろくてね」
「どうやって来たんだい?」
「辻馬車に乗って追い越したよ」
「何かいい話があったんだね」
「広告に返事があった」
「ああ!」
「うん、君たちが帰ってからすぐだ」
「で、何だって?」
マイクロフト・ホームズは一枚の紙をとり出した。
「これだ」彼は言う。「用筆はJペンで、紙はロイヤル版のクリーム・ペイパー、書き手は中年の男で虚弱体質。文面は、

『拝啓、本日付の新聞広告につき一筆申し上げ候(そうろう)。陳者(のぶれば)、小生、件(くだん)の若婦人についてはよく存じ居り候。もし小生宅までお越し下され候わば、彼女が苦労の段々、いろいろとお申し聞かせ候べく。なお、彼女は、ただ今ベックナム町、マートルズ荘に居住いたしおり候。敬具。J・ダヴンポート』

差出人の所は下(しも)ブリクストンだ。どうだ、これからひとつ、行ってこの話を聞いてみないか」
「しかしねえ、マイクロフト、今は娘の話より、兄の生命(いのち)のほうが大事だよ。僕の考えじゃ、これから、警視庁でグレグスン警部を呼び出して、それからまっすぐベックナムへ出かけるべきだな。なにしろ人間がひとり、殺されかかっていて、一刻も猶予(ゆうよ)がないんだからね」
「途中で、メラズさんを連れ出したほうがいいね」と私。「通訳がいるかもしれない」
「そうだッ!」シャーロックは言った。「ボーイに四輪馬車を呼ばせてくれないか。すぐ出発しなくちゃ」
こう言いながら、彼はテーブルのひきだしから、ピストルをポケットにすべりこませた。「うん」と私の視線に答えて「どうやら、今までの話だと、相手は物騒な連中らしいからね」
ペルメル街のメラズ氏の家に着いたときには、もう真っ暗だった。メラズ氏は、ひとりの紳士が訪ねて来て、出かけたということだった。
「行先はご存じですか?」マイクロフトが聞いた。
「存じません」
「紳士というのは、背が高くてハンサムな、髪の黒い男じゃなかったですか?」
「いいえいいえ、小男でございますよ。眼鏡をかけて、やせた顔の。でも、とっても愉快な方で、話してらっしゃる間、笑いどおしなんですよ」
「行こう」シャーロック・ホームズが、だしぬけに言った。そして、警視庁への道々こう言った。「たいへんなことになるぞ。やつらはまたメラズをつかまえたらしい。メラズは度胸がないし、そのことはやつらも前の経験でよくわかっている。やって来られただけで、苦もなくふるえ上がってしまったのさ。きっと通訳をやらせるつもりだろう。しかし仕事が済んだら、いわゆる裏切り行為の罰を与えるにちがいない」
われわれは、汽車に乗れば、メラズの乗った馬車が着くころ、あるいはそれより先に、ベックナムの悪党の家に着くだろうと思った。しかし、警視庁に着いてグレグスン警部を連れ出し、彼らの家に踏み込むための手続を済ませるのに、たっぷり一時間はかかってしまった。ロンドン・ブリッジ駅にやって来たのが十時十五分まえ。そしてベックナムの停車場におり立ったのは、もう十時半だった。馬車で半マイル走って、マートルズ荘に着いた。……宏壮な、暗い家が、屋敷の中の道路の奥に立っている。われわれは、ここで馬車をすてて、車寄せまで歩いて行った。
「窓はみんな灯(あかり)がついとりませんな」警部は言った。「誰もいないらしい」
「鳥は飛び立って巣は空っぽか」シャーロックが言った。
「どういう意味ですか?」
「ここ一時間の間に、荷物をどっさり積んだ馬車が一台出て行きました」
警部は笑い出した。「門灯のところに轍(わだち)のあとがたしかに見えたですが、しかしその馬車は、入って来てどこにいるわけですかな」
「同じ轍が別の方向に向いていたのをごらんだったでしょう。外に出て行った轍のほうが、はるかに深い。たしかに、馬車がかなり重かったと言えますよ」
「こいつは、あなたが一枚上だ」警部は肩をすくめた。「このドアは押し破るのもたいへんですな。しかし誰か出て来んとも限らんですからね」
警部はそう言っておいて、ノッカーを音高く鳴らしたり、ベルの紐(ひも)を引いてみたりした。しかしきき目がない。シャーロックは、どこかに消えていたが、やがてもどって来た。
「窓がひとつあいたよ」
「ホームズさん、あなた、警察側だからいいようなものの、そうでなかったらえらいことになりますぞ」
警部は、シャーロックが手際よくかけがねを外して来たことを見破った。「まァしかし、この際、案内を待たずに入ってもよろしいということにしておきましょう」
私たちは次々と部屋の中に入って行った。それは、明らかにメラズ氏が連れて来られたという部屋だった。警部が持って来た角灯に火を入れると、メラズが言っていたふたつの扉や、カーテンや、ランプや、日本の鎧(よろい)などが見えた。テーブルの上にグラスが二つ、空になったブランデーの瓶が一本、そして食事の食べかけが置いてあった。
「何だ、あれは」ホームズが突然言った。
皆は立ち止って聞き耳を立てた。低いうめき声が、どこか頭の上のほうから聞こえてくる。シャーロックは戸口に駆け出して廊下に出た。無気味な声は、二階から聞こえているのだ。彼が階段をかけ上がり、警部と私がこれについて上がり、そして、マイクロフトが、彼の肥満体をもってして能(あた)う限りの速さで続いた。
上がってみると、われわれに向かって三つのドアが並んでおり、その不吉な声は真ん中のドアから聞こえていた。低くつぶやくような鈍い声になるかとみると、高まって鋭い悲鳴になったりする。ドアは鍵がかかっていたが、鍵は外側に差し込んだままだった。シャーロックは、ドアをあけ放して駆けこんだが、たちまちのどを押えて飛び出して来た。
「木炭だ!」彼は叫んだ。「しばらく待とう。あけておけばいい」
のぞき込んでみると、部屋の中の明かりは、中央に置かれた小さな真鍮(しんちゅう)の鼎(かなえ)からチラチラともれる、ぼんやりとして青い炎だけだった。その炎が、床の上に、あやしげな鉛色の光の輪をなげかけており、その向こうの暗闇に、ふたつの人影が、壁にもたれてうずくまっているのがうっすらと見えた。ドアを開け放った入口から、おそろしい有毒な煙が出て来て、われわれは息をきらし、咳(せき)をした。シャーロックは階段のつきあたりの窓まで駆けて行って、新鮮な空気を吸ってから、部屋の中に突進し、窓を開け放ち、真鍮の鼎を庭にほうり出した。
「じき入れるようになる」彼はあえぎながらとび出して来た。「ろうそくはないか。もっともあの空気じゃマッチもつくまい。じゃ、兄さんに戸口で明かりをかかげていてもらおう、運び出して来るから。早く!」
われわれは、中毒した二人のところに突進して行き、階段の上のところまでひっぱり出して来た。二人とも唇は紫色になり、気を失い、顔ははれ上がって充血し、目がとび出している。しかも、顔がゆがんでしまっていて、その中のひとりが、黒い頬髯のあるデブでなければ、たった数時間前にディオゲネス・クラブで別れたばかりの、ギリシャ語通訳だということさえわからないほどだった。彼は手足をきつく縛られて、片方の目のまわりには、激しい一撃のあとがありありとしていた。
もうひとりは、やはり同じように縛られていたが、背が高く、衰弱の極に達していて、顔には絆創膏(ばんそうこう)が何枚かグロテスクにはりめぐらされていた。この男は、われわれが横たえてやったときには、もううめきを止めて、一見して、われわれの救助の手が、少なくとも彼にとっては遅きに失したことがわかった。しかしメラズ氏はまだ息があった。アンモニアやブランデーで介抱(かいほう)すると、小一時間して目を開いたので、かのすべての道が行きつく暗い谷間から、この手で彼を引きもどしたのだと、私は満足に思ったのである。
彼の話はしごく簡単で、われわれにとっては、推理の正しさに自信を深めるばかりだった。メラズの訪問者は、部屋に入ると袖(そで)の下から保身棒をひっぱり出して、メラズに、一瞬にして命はないぞという恐怖の念を与え、まんまと再び誘拐してしまった。まったくのところ、あのクツクツ笑いの悪党は、この哀れな語学者にほとんど催眠術的な効果をもたらしたと見えて、メラズはしゃべりながらどうしても手の震えが止まらず、頬は真っ青になったままだった。
さて、彼は手早くベックナムに連れて来られて、二回目の談判で通訳を勤めたわけである。それは最初の談判よりも劇的なものであって、あのふたりのイギリス人は、要求に従わなければ即刻、命を奪うぞとギリシャ人を脅迫した。
しかしついにギリシャ人が脅迫にも乗らないと見て、彼を再び監禁室にぶち込んでおいて、今度はメラズを相手に、新聞広告にあらわれた裏切りを責め立ててから、棍棒(こんぼう)の一撃で気絶させ、それからメラズは、われわれが上からのぞき込んでいるのに気づくまで、なんにも知らずにいた、というしだいである。
これがギリシャ語通訳の奇妙な一件である。それは未だに謎に包まれている。われわれは、広告に返事をくれた紳士と連絡をつけて、不幸な娘がギリシャのある金持の出であること、そしてイギリスの友だちを訪ねてやって来ていたのであることを知った。彼女は滞在中に、若者ハロルド・ラティマーと知り合ったが、ハロルドは彼女をわがものにして、ついになだめすかして彼とともに逐電(ちくでん)することを承知させた。彼女の友だちは事の重大さに驚いたが、アテネの兄のところに知らせたなりで、手を引いてしまった。
兄はイギリスに着くと、見境いもなく、ハロルドとその相棒の手中にとびこんでしまった。……相棒は、名をウィルスン・ケンプと言い、世にもけしからぬ素姓の男であった。このふたりの悪党は、彼が英語を知らないから捕えておけばどうにもなるまいと見て、残虐行為と飢餓(きが)とによって、彼に自分と妹の財産を手離す書類に署名させようと手をつくした。二人は、娘に知らせずに彼を監禁していたが、万一顔を合わせることがあっても彼女が気づかないように、彼の顔に絆創膏をはっておいた。
しかし、通訳の最初の訪問のとき、はじめて兄をひと目見ると、女の感の鋭さが、たちまちにしてこの詭計(きけい)を見破ってしまった。けれども、彼女もまた彼らのとりこだった。というのは、この家には、彼らの他に、馭者をつとめた男とその女房とがいたが、そのふたりも一味の手先だったからである。
秘密が露見し、兄も脅迫がきかぬと見てとると、ふたりの悪党は、借りていた家具つきの家をたった数時間の予告で返して、娘を連れて逐電したのであるが、その前にちゃんと、拒(こば)んだ男と密告した男とに仕返しをしておいたのだった。
数か月後に、われわれはブダペストから妙な新聞の切抜きを受け取った。それによると、ひとりの女を連れて旅行中のふたりのイギリス人が、悲惨な最期を遂げたという。ふたりとも刺し殺されているが、ハンガリーの警察は、ふたりが喧嘩(けんか)して、互に致命傷を与えたものらしいと見ているという。だが、思うにホームズは違った見方をしている。彼は今でも、あのギリシャの娘に会えば、彼女とその兄の損害がいかに復讐されたか、聞くことができると思っているにちがいないのだ。
海軍条約文書事件

結婚直後の七月は、興味ある事件が三つも起こり、幸いにも、シャーロック・ホームズと行動を共にする機会にめぐまれ、しかも彼の探偵法を研究することができたので、思い出深いものがある。その三つは「第二の汚点」「海軍条約事件」「疲れた船長の事件」という題目で、私の手帳に記録してある。しかし最初のやつは、重大な利害問題に関するものであり、かつイギリスの主要な家柄の多くにからまる事件であってみれば、ここのところ、しばらくは公表できまい。とはいうものの、ホームズが関係した事件のなかでも、これらの事件ほど、彼の分析的探偵法の真価を遺憾(いかん)なく発揮し、関係者に深い感銘を与えたものはなかったのである。
彼がパリ警察のデュビュック氏ならびに、ダンチッヒでこの道の専門家として高名なフリッツ・フォン・ヴァルトバウム氏を前にして、事件の真相を発表したときの報告を、私は一言一句まで書きとめている。このご両人はさんざん骨折ったが、結局は脇道にそれてあくせくしていたのである。しかし、新しい世紀にでもならなければ、安心してこの事件の内幕を発表することはできない。
ところで、私の手帳によると、第二の事件だが、これまた国家の一大事となるかと案じられた事件であり、しかも続発事件も起こってきたりして、全く特異なものとなってきたのだった。
学童時代、わたしはパーシー・フェルプスという子と親しかった。年は同じくらいなのに、向こうは、二年も上だった。大へんできる男で、学校から賞金が出るたびに、それを独占し、とうとう名誉ある奨学資金を得て、功業の最後をかざり、意気揚々(いきようよう)たる学歴を、ケンブリッジ大学でつづけることになったのである。彼はまた、親類(コネ)がたいへんよかったと思う。お互いまだ子供だったが、彼の母方の伯父が保守党の大政治家、ホールダースト卿だということを知っていた。こんなりっぱな親類も学校では何の役にもたたなかった。それどころか、われわれ仲間は運動場で彼を追い回しては、クリケットの棒でその向う脛(ずね)をひっぱたいて痛快がったものである。
だが、いったん社会に出ると、話はべつだ。彼は持ちまえのいい頭と、自由にできた勢力のおかげで、外務省で相当な地位についたと伝え聞いた。しかし、それっきり彼のことはすっかり忘れてしまっていたが、ひょっこり次のような手紙が来て、彼のことを思い出したのである。


ワトスン君……学校できみが三年のとき「おたまじゃくし」のフェルプスというのが五年にいたことをご記憶のことと思います。かつまた、伯父の[ひき]で外務省で相当の地位にあるということも、あるいはお聞き及びかも知れません。その名誉ある重要な地位にいた私の出世は、あるおそろしい不祥事件の突発によって台なしになろうとしているのです。
この恐るべき事件について、事細かに書いても始まりません。ただ君が私の願いを聞き入れて下さったときには、いずれ詳しくお話ししなければなりますまい。私は九週間にわたる脳炎から回復したばかりで、まだ衰弱がはげしいのです。ともあれ、君の友人のホームズ氏を私のところまでご同道下さるわけにはいきませんでしょうか? 警察のほうは打つべき手はすべて打ったといっていますが、私としては、同氏のご意見を伺いたいと思うのです。どうかお骨折り下さい、しかもできるだけ早く。
まったくどうなることかと、不安のなかに、その日を一日千秋の思いで待ちわびています。すぐに、同氏の助言を仰がなかったのは、氏の手腕を認めなかったのではなく、事件の打撃をうけて、なすべきところを知らなかったゆえであると、念を押しておいて下さい。幸いにも、だいぶ回復しましたが、しかし、またぶり返して来はしないかと心配して、この事件についてはあまり考えないことにしています。まだ体が弱っていて、ペンを取れませんので、ご覧のように、口述筆記させました、上述の願い、重ねてお頼みいたします。
ウォーキングのブライアブレー邸にて
あなたの旧友なるパーシー・フェルプス


この手紙をよんで心動かされるものがあった。ホームズをつれて来てくれとの繰り返しの嘆願は、ひとしお哀れである。私はひどく感動して、たとえどんなにむずかしい事件であろうとも、何とかしてやらねばなるまいと考えた。だがホームズはたいへんな仕事熱心で、依頼人が彼の助力を受けいれさえすれば、いつも喜んで援助の手を差しのべるような男であることを、私は十分に承知している。妻も賛成して、一刻も早く彼にことのあらましを知らせたほうがよいというので、朝食をすませて一時間もたたないうちに、私は再びベイカー街のなつかしい古巣〔ワトスンは結婚前、ホームズと同居していた〕をおとずれたのだった。
ホームズは部屋着をきて、テーブルに向かい、なにやら化学実験に夢中になっていた。ブンゼン灯の青い炎の上には、大きく曲がった蒸溜器(じょうりゅうき)が沸騰している。蒸溜液は二リットル枡(ます)のなかへ集められる。
はいっていったとき、見向きもしなかったので、私は、何か大事な実験をやっているんだろうと思い、肘掛椅子に腰をおろして、しばらく待つことにした。彼はピペットをあちこちの瓶に差し込んで、薬液を二、三滴ずつ集めていたが、最後に、溶液を入れた試験管をテーブルの上にもって来た。右の手には、リトマス試験紙を一枚もっている。
「えらいときにやって来たな、ワトスン君」彼は言った。「こいつが青いままだったら、それでいいんだが、もしも赤になったら、こいつぁ、人間一人の生命(いのち)にかかわるんだ」
彼は試験管の中にリトマス紙をひたした。それはたちまち、うすい、きたない紅色に変わった。
「ほ、ほう! そうだろうと思った! ワトスン君、今すぐご用を承(うけたまわ)るよ。ああ、煙草ならペルシァ靴の中にあるよ」
彼はデスクに向かって、電報用紙を二、三枚書きなぐり、ボーイを呼んで手渡した。それから私の向かいの椅子にどしんとすわり、膝を持ちあげて、長いやせた膝頭(ひざがしら)に手を回した。
「なあに、月なみな[殺人事件(ころし)]さ」と彼は言った。「君はもっとましな事件を持って来たんだろうと思うよ。ワトスン君、君ときたらまったく犯罪の災厄神みたいだからな。で、どんな事件だい?」
例の手紙を手渡すと、熱心に読んでから、「これじゃよくわからんが……どうだい?」と手紙を返した。
「僕にもさっぱり……」
「この字はおもしろいな」
「本人の字じゃないんだよ」
「そう、女のだ」
「いや、男だよ」私は大きな声を出した。
「いや、女の字だよ。しかも珍しい性格だな。ともかく手をつけるにあたって、依頼人の近くによかれ悪(あ)しかれ、一風変わった人物がいるとわかったのは、まあありがたいよ。ちょっとおもしろくなって来たな。君さえよけりゃ、さっそくウォーキングへ出かけて、いまいましい事件にひっかかった外交官と、この手紙を書き取ったご婦人に会ってみようじゃないか」
ウォータルー駅発の早朝の汽車に間に合えたのは幸運だった。そして一時間たらずで、われわれは、ウォーキングの樅(もみ)の林や野原を歩いていた。ブライヤブレー邸は、あたりに広い土地をもち、駅から二、三分のところにある一軒家だった。案内を乞うと、われわれは、優雅に装飾された居間に通された。しばらくすると、やや太った男が現われて、愛想よく応対した。その男の年齢は三十代というより、もう四十に近いといったほうがよいくらいだが、なかなか血色がよく、目つきも、うきうきして、まだ、太りすぎた腕白小僧みたいな感じを与えるのだった。
「ようこそおいで下さいました」彼は歓待の気持もあふれるばかりに握手をかわし、「朝から、あなたがたのことをきいてばかりいました。かわいそうに、藁(わら)にでもすがりたいのでしょう。彼の両親が私に、代わってお目にかかるようにと申しますので……ともかく、今度のことは、ただもう口にするのさえ苦しいらしいんです」
「まだ詳しいことは承っておりませんが」とホームズは言った。「お見受けしたところ、あなたはこちらのかたではありませんね」
その男は驚いたようだったが、ちょっと下をむいて、今度は笑いはじめた。
「はあ、私のロケットにJ・Hというイニシァルが書いてあるのをご覧になったんですね」という。「何かの魔術でもお使いになったのかと、と驚きましたよ……私はジョウゼフ・ハリスンと申します。妹のアニーがパーシーと婚約しておりますので、少なくともこれからは姻戚(いんせき)になるわけです。妹は彼の部屋にいるはずです。このふた月というものはまったく、つきっきりなんですよ。さっそく会ってやって下さい。パーシーはあなたがたを待ちわびているんですよ」
われわれが通された部屋は、居間と同じ階にあった。居間と寝室が兼用になっていて、隅々には花が美しくいけられていた。顔色の悪い、やつれた青年があけられた窓のそばのソファに横たわっている。窓から庭園の豊かな香りとさわやかな初夏のそよ風が入ってくる。われわれが入っていくと、パーシーのそばにすわっていた婦人は立ち上がって、「あたし、あちらに行っていましょうか、パーシー?」
青年はその手をとって引き止めた。「やあ、ワトスン君」その言葉は本当にうれしそうだった。「口ひげをのばしてるんで、ちょっとわかりませんよ。君だって、僕がよくわからないくらいでしょう。このかたが、あの有名なシャーロック・ホームズさんですね?」
私は簡単に紹介して、一緒に腰を下した。太った男は、もういなかったが、妹のほうは残って、病人に手を貸していた。彼女は素晴らしい美人で、ちょっと背が低くて、太り気味だが、オリーブの顔色は美しく、大きなイタリア人のような目をしていて、黒髪は豊かである。彼女の鮮やかな色彩に比べて、そばの病人の青白い顔は、いっそうやつれて見えるのだった。
「お手間をとらしては申し訳ありませんから」彼はソファから身を起こして、言った。
「これ以上、前置きなしに、事件のことを申し上げましょう。私は、幸運にめぐまれて、出世しました、ホームズさん。それが、いざ結婚という瀬戸際(せとぎわ)になって、突然、この恐ろしい不幸に見舞われて、前途の希望も破壊されようとしているのです。
もうワトスン君から、お聞き及びのことと思いますが、私は外務省につとめて、伯父のホールダースト卿の引き立てで、いち早く責任のある地位に昇進しました。その伯父が現内閣の外務大臣になってから、二、三の責任ある用務を申しつけられました。いずれもりっぱにやり遂げたので、彼は、ついに私の才腕に最も信を置くようになったのでした。
十週間ばかり前……正確に申しますと、五月の二十二日のことでしたが、伯父は、省の自分の部屋に私を呼んで、これまでの仕事ぶりをほめてくれた上、またひとつ大きな仕事があるが、これをお前にやってもらいたい、と言うのでした。
『これは』と言いながら、伯父はひきだしから巻いた灰色の公文書をとり出しました。『イギリスとイタリアとの間の秘密条約の原本なんだが、遺憾(いかん)ながら、もうこの噂が新聞にのったのだ。これ以上もれる事があってはまったく一大事だ。フランス並びにロシア大使館は、この文書の内容を知るためなら、莫大な金を出すだろう。それゆえ、これはわしのひきだしから出すべきもんじゃないんだが、是非とも写しをつくらねばならんようになったのだ。お前、役所に自分の机をもってるな?』
『はあ、もっております』
『では、この文書をもって行って、鍵をかけて置きなさい。そして他の者が帰ったあと、お前ひとり残っておれるように、取り計ってやるから、誰からも見られないように、折を見て写すがよい。写し終えたら原本と写しの両方ともひきだしに入れて鍵をかけておいて、あすの朝、じかにわしに手渡してもらいたい』
そこで、私は、その書類を受け取って……」
「ちょっとお待ち下さい」ホームズは聞いた。「そのときお二人の他に誰もいませんでしたか?」
「まったく二人きりでした」
「大きな部屋でしょう?」
「三十フィート四方です」
「その中央で?」
「ええ、真ん中あたりでした」
「しかも低い声で?」
「伯父の声は大体、とても低いんです。私のほうはほとんど何も言いませんでした」
「いや、どうも」目を閉じて、ホームズは言った。「どうぞ続けて下さい」
「私は伯父の指示どおりに、他の書記たちが帰るまで待っていました。その中で、チャールス・ゴローという男が残りの仕事があって居残りしていました。それで私は食事をしに外へ出ました。私が帰ったときには、もう彼はいませんでした。私は仕事を急いでいました。というのが、あのジョウゼフ、あなたがたが今お会いになったハリスンさんがやはりロンドンに来ていて、十一時の汽車でウォーキングに帰る予定だというので、できれば私もそれに乗りたいと思っていたのです。
さて、問題の文書に目を通しますと、これは非常に重要なもので、伯父の言葉もあながち誇張ではないことがわかりました。詳しいことは抜きにして、ともかくそれは、三国協定〔一八八二年、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国間で結ばれた協定〕に対する大英帝国の立場を決定するものなのです。もし万一、地中海において、フランス海軍がイタリアを圧して、その制海権を握るような場合に、わがイギリスの取るべき態度を予告するものでした。この文書では、問題は純粋に海軍だけに限られています。最後には、さる高官の署名がちゃんとしてありました。ひととおり目を通してから、筆写の仕事にかかりました。
全文二十六カ条のなかなか長いもので、しかもフランス語で書かれていました。できるだけ急いだのですが、九条終えたときには、もう九時になっており、とてもあの汽車には乗れそうに思えません。食事を先にしたのと、まる一日の仕事の疲れから、眠くもあり、だるいような気がしました。コーヒーでも飲んだらすっきりするかも知れない。小使いは終夜、階段の下の部屋にいて、居残りをする人のために、アルコール・ランプでコーヒーを沸かしてくれることになっています。私はベルを鳴らして、小使いを呼びました。
驚いたことに、ベルを聞いて上がって来たのは女でした。大柄な、下品な顔つきの年とった女で、エプロンをしていました。小使いの妻で、雑役をやっている、というので、私はその女にコーヒーを頼みました。
それから、あと二条写しましたが、前にもまして眠気がして来たので、椅子を立って部屋を歩き回り、足の運動をしました。コーヒーはまだ来ません。なんでこんなに遅いんだろうと不審に思い、見てこようと、ドアを開けて、廊下に出ました。私が仕事をしていた部屋から、まっすぐに薄暗い灯のついた廊下があり、それが唯一の出入口なのです。それから曲がった階段になり、降り切った所に小使室があります。その階段の中ほどに小さな踊り場があり、右手に、もうひとつの廊下があります。この廊下はすぐに階段となり、使用人用の裏口に通じるのですが、また、チャールズ街からやってくる役人たちの近道にもなります。これがその略図です」
「どうも。お話しはよくわかります」ホームズが言った。
「ここが、最も大切なところですから、十分ご注意ねがいます。階段を降りて廊下に来ますと、小使いは部屋でぐっすり眠り込んでいるんです。アルコール・ランプにかけた薬罐(やかん)はぐらぐら煮えたって、湯が床の上にふきこぼれているのも気づかないようすです。手をかけて、揺り起こしても、まだ眠りこけています。そのときです、小使いの頭の上でベルが激しく鳴りました。小使いはびっくりして目をさましました。
『フェルプスさんですか!』彼は私の顔を見つめたまま、まったく当惑したようすです。
『コーヒーができたかどうか見に来たんだよ』
『薬罐をかけたまま眠り込んでしまいまして、はい……』彼は私の顔を見て、それからまだ振動しているベルに目を移すと、その顔色はいよいよ驚きの色をあらわしてきました。
『あなた様はここにいらっしゃるのに、じゃ、誰があのベルをお鳴らしになったんで……?』と聞きました。
『ベルだって? いったい、何のベルだね?』
『あなた様がお仕事をなさってらした部屋のベルで……』
私は、冷たい手を、心臓にぴたりとあてられたような気がしました。では、あの貴重な文書が机の上に置いてあるあの部屋に誰かがいる。私は気違いのように階段をかけ上がり、廊下を走りました。廊下には誰もいませんでした、ホームズさん。部屋の中にも、いませんでした。部屋を出るときと、何も変わっていませんでしたが、ただ私に託された文書だけが、もとの場所から、姿を消しておりました。写しはそのまま、ただ原本はどこにもありません」
ホームズは居ずまいを正し、手をこすり合わせた。この事件がまったくお気に召したらしいようすである。

「で、それからどうなさいました?」ホームズはつぶやいた。
「その瞬間、泥棒は裏口から、階段を上がって来たのだと思いました。もちろん、ほかの口から入ったのなら、私に出くわしているはずです」
「そいつは、ずっと部屋に隠れていたとか、または、あなたがおっしゃった薄暗い廊下に潜(ひそ)んいたというようなことはないと確信なさるんですね」
「絶対にあり得ません。部屋にも廊下にも、鼠(ねずみ)だって隠れる所などありません。遮蔽物(しゃへいぶつ)がまったくないのです」
「いや、どうも、どうぞお先を」
「小使いは、私の顔色が青ざめたのを見て、何かおそろしいことが起きたのだと感じて、二階まで私について、駆け上がって来ました。それからわれわれは廊下を走りチャールズ街に出る急な階段を駆け降りました。出口のドアはしまっていましたが、鍵が下してありません。それを押しあけて、通りへ飛び出しました。そのとき、近くの教会の鐘が三つ鳴ったのを、はっきり覚えています。十時十五分前だったのです」
「そいつぁ、とても大切なことです」と言って、ホームズはシャツのカフスに何やら書きとめた。
「その晩はたいへん暗くて、細かい、暖かい雨が降っていました。チャールズ街には、人影ひとつありませんでしたが、ずっと向こうのホワイトホール街は、いつものようににぎやかでした。帽子もかぶってはいませんでしたが、われわれが鋪道を駆けて行くと、ずっと向うに、巡査が立っているのが見えました。
『泥棒が入った!』私はあえぎながら言いました。『とても貴重な書類が、外務省から盗まれたんです、誰かこの道を通りませんでしたか?』
『かれこれ十五分もここに立っていますが』巡査は言いました。『その間、たったひとり通っただけです。年とった女です、ペイズリ織りのショールを掛けていましたよ』
『ああ、そりゃ、わしの家内ですよ』小使いは大きな声を出した。『ほかに誰も通りませんでしたか?』
『ええ、誰も通りません』
『じゃ、泥棒はあっちへ逃げたに違いありませんよ』小使いは私の袖をひっぱりました。
しかし、私は合点(がてん)が行きません。しかも、袖をひっぱったりなんかするので、ますますあやしくなって来ました。
『で、その女はどっちに行きましたか?』私も大声になりました。
『さあ、わかりませんね。通ったのは見たんですが、何も特別に注意する理由もありませんので。しかし急いでたようですよ』
『どのくらい、前です?』
『そう、それほど前じゃありませんなあ』
『五分以内?』
『そう、五分とはたたないでしょう』
『時間が無駄です。今は一刻の猶予(ゆうよ)もなりません』小使いはせき立てました。『どうかわしの言うことを信じて下さい。うちの家内に限って、このことには、何も関係はありません。それより、反対のほうへ行って見ましょう、おいやなら、私が行きます』そういって、反対のほうへ駆け出しました。
私も、すぐ追いかけて、彼の袖をつかまえました。
『君、どこに住んでるんだい?』
『ブリクストン区のアイヴイ・レイン十六番地です』と答えました。『でも勘ちがいなすっちゃいけません、フェルプスさん。さあ、あっちの通りへ出て見ましょう、何か聞き出せるかも知れませんから』
小使いの意見に従ったところで、徒労にはなるまい。巡査も一緒になって、私たちは走りましたが、街は雑踏しておりました。人波は動いていましたが、それもこの雨の夜に、少しでもぬれないようにと、夢中になっているので、どんな人間が通ったかと、それをながめているような、のんきな散歩者などいるはずがありません。
それで、われわれはいったん役所に引き上げて、階段や廊下を探しましたが、無駄でした。事務所の前の廊下には、クリーム色のリノリュームが敷いてありますから、足跡があれば、すぐわかるのですが、よくよく調べて見ても、足跡らしいものは見つかりませんでした」
「その晩はずっと雨が降っていたのでしょう?」
「七時ころからずっとです」
「じゃあ、その女は九時ころ、部屋に上がって来たのに、泥靴のあとが残ってないのはどういうわけでしょう?」
「さすがは、いいところにお気づきですね、実は私もそのとき考えたのです。雑役の女たちは、小使い室で靴をぬいで、布スリッパをはくことになっているのです」
「それではっきりしました。だから、その夜、雨が降ってても、足跡は残らなかったわけですね。こうした事件の連鎖は、たしかに、特別の面白味がありますなあ。で、それから?」
「事務所の中も調べて見ましたが、隠し扉などあろうはずはなく、また窓も地上から三十フィートもあるんです。その窓ふたつとも、内から戸締りがしてありました。絨毯(じゅうたん)が敷きつめてあって、落し戸などの気づかいはなし、天井は普通の白亜ぬりです。ですから、書類を盗んだ奴は、あのドアから入って来たんだと、命にかけても証明します」
「壁炉のあたりはどうです?」
「そんなものはないんです、でも、ストーブはあります。それからベルの紐は、私の机の右手に上の針金から下っています。だから、鳴らした奴は、まっすぐ机の所にやって来て、やったに違いありません。でも泥棒が何でまたベルなんか鳴らしたのか、これはいくら考えてもわからない謎なんです」
「たしかに、この事件は一風変わってますな。で、次の処置は? この闖入者(ちんにゅうしゃ)が何か残して行きはしなかったか、部屋をお調べになったのでしょう?……たとえば葉巻のしっぽとか手袋の片方とか、ヘヤピンとか、こういったもの?」
「そうしたものは、何もありませんでした」
「何か匂いは残ってなかったですか?」
「はあ、そこまで気がつきませんでした」
「煙草の匂いなんか、犯人をかぎつけるときに大いに役立つんですがね」
「僕自身、煙草はやりませんので、もし煙草の匂いが残っておれば、気づいたと思うんです。ともかく、手掛りになるようなものは、何ひとつ残っていませんでした。ただ、はっきりしているのは、小使いの細君、タンゲイ夫人というんですが、これが急いで帰ったということだけです。小使いにきいても、いつも帰ってゆく時間だと言うだけで、それ以上、なにも言いません。それで巡査と僕は、まず、あの女が書類をもっているものと仮定して、それを処分してしまう前に、捕えたがよかろうということに相談がまとまりました。
そうするうちに、この報告(しらせ)は、警視庁にとどいて、刑事のフォーブス氏というのが駆けつけて来て、大馬力で捜査に当りました。われわれは辻馬車をやとって、三十分のうちに、小使いの家にかけつけたのです。タンゲイ家の長女というのが出て来て、母はまだ帰りません、といいます。われわれは正面の部屋に通されて、帰りを待つことにしました。
十分もすると、ドアをノックする音がしました。ここで、私たちはたいへんなへまを、やってしまったのです。それは私の責任なんです。自分たちがやればよかったのに、娘に戸を開けさせたのです。
『お母さん、男のひとがふたり、家に来て、お母さんが帰るのを待ってるのよ』という娘の声がしたかと思うと、ぱたぱたと廊下を走ってゆく足音をきいたんです。フォーブス刑事は、ドアを押しあけ、ふたりとも、表のほうの部屋、つまり台所へかけ込みましたが、女のほうが先にとびこんでいました。女は喧嘩腰(けんかごし)でわれわれをにらんでいましたが、ふと私を認めると、全く意外な、という顔をして、
『まあ! お役所のフェルプスさんじゃございませんか!』と叫びました。
『おいおい、いったい誰だと思って、こんな所に逃げて来たんだい?』刑事は、詰め寄りました。
『差し押えに来た人たちかと思ったんでございます。ちょっと商人とごたごたを起こしましたもんで』
『そんなことは理由にならん』刑事は答えます。
『お前が外務省から重要書類を盗み出したことの証拠はちゃんとあがっとるんだ。それを始末するために、ここに飛び込んだんだろう。取調べのため、本署まで連行する』
抗議しても、反抗しても無駄でした。馬車が呼ばれて、三人は乗り込み警視庁へ引き上げました。はじめに台所、とくに彼女が飛び込んで来てすぐに、書類を焼き捨てはしなかったかと、焚(た)き口はよく調べましたが、灰も紙くずもありませんでした。
警視庁に着くとすぐに、女は婦人調査官に渡されました。そこでどうなることかと、はらはらしながら調査官の報告があるのを待っていましたが、ついに書類は出て来ませんでした。
そのとき、はじめて、自分の立場のおそろしさを、ひしひしと感じたのです。それまで飛び回っていたので、あまり深く考えなかったのです。すぐに取り戻せると信じ切っていましたから、もし出てこなかったら、どうなるだろうなんて、考えもしなかったのです。しかし、もう、できるだけのことはしてみました。そして自分の立場を、はっきりと自覚する時間ができたわけです。身の毛もよだつ思いです。ワトスン君に、お話ししましたが、私は、学校では、感じやすい神経質な子だったんです。そして、今でもそうなんです。私の伯父や、その他、閣僚のことを思い、さらに、あの方たちに及ぼした恥辱、それから、私自身、私の関係している人たちに及ぼした不名誉のことを考えると……、私がこのとんでもない事件の犠牲者となることなど物の数ではありません。外交上の利益を危機に瀕(ひん)せしめた以上、どんな酌量(しゃくりょう)も許されません。破滅です。恥辱と絶望に満ちた身の破滅です。
それからは何をしたか、さっぱり覚えていません。定めし大騒ぎをしたんだろうと思います。仲間たちが私の回りに集まって来て、なだめすかしてくれたのを、ぼんやり覚えています。ひとりは、ウォータルー駅までつき添ってくれ、ウォーキング行きの汽車を見送ってくれました。この近くに住む、フェリア博士が、ちょうどその汽車に乗り合わせていなかったなら、きっと、その男は私をここまで送りとどけるつもりだったのでしょう。フェリア先生はよく面倒を見て下さって、それで助かったようなもんです。何しろ、駅では発作を起こし、家に帰りつくまで、まるで気違い沙汰だったんですから。
フェリア先生のベルで、家の者が目を覚まして、私のこんな有様を見たときの騒ぎをご想像下さい。このアニーと母は、悲嘆にくれておりました。フェリア先生は駅で、刑事からことの次第をきいておりましたので、あらましは説明してくれたのですが、何の慰めにもなりませんでした。家のものは、私が寝込んでしまい、回復はながびくものと思い、ジョウゼフをこの気持のいい寝室から追い出して、そのあとに私を入れてくれました。ホームズさん、寝込んでから、かれこれ九週間以上になります、意識がなく脳炎にうなされどおしでした。このアニーや、先生の手厚い看護がなかったら、こうして、あなたがたにお話しすることもできなかったでしょう。昼のあいだは、アニーがついていてくれますし、夜は看護婦がみてくれます。でないと、気違いじみた発作を起こして、何をしでかすかわからないんです。徐々に意識ははっきりして来ましたが、記憶がはっきりしだしたのは、この二、三日なんです。記憶なんか回復しないほうがよかったとさえ思うことがあります。
まず最初に、事件担当のフォーブズ刑事に電報を打ちました。彼はここまでやって来てくれ、でき得る限り手はつくしたが、何の手がかりも見つからないといいます。あの小使いと細君は、あらゆる角度から調べられたが、何も明るみに出なかったとのことです。
それから警察はあの若いゴロー、さっきお話しした居残りの男です、この男に嫌疑をかけました。残業とフランス系の名前、この二つだけが嫌疑のかかる点なのですが、しかし、事実彼が帰るまで、私は仕事を始めておりませんし、家系も、ユグノー教徒の血統だというだけで、気持も習慣も、われわれと同じように、全くイギリス人なのです。とにかく彼は全く無関係なことがわかり、捜査はひとまず挫折(ざせつ)したかたちになりました。ホームズさん、もはや、全く最後の頼みの綱として、あなたにおすがりしたいのです。もしあなたから見すてられたら、私は、名誉も地位も、永久に失ってしまうのです」
病人は、長い話に疲れて、ぐったりとクッションの上に倒れた。付添いのアニーは気つけ薬を一杯彼に飲ませた。ホームズは、頭を仰向けて口を閉じ、だまってすわっていた。この態度は、知らぬ人には、まるで無関心なように見えるが、しかしこれこそ、彼が全く余念もなく専心しているのだということが私にはよくわかるのだった。
「あなたのお話しはきわめて明確です」やっとホームズは話しはじめた。
「お聞きすることはほとんどないのですが、ただひとつきわめて大切なことがあります。で、あなたは重要な仕事をしなければならんと誰かにお話しになりましたか?」
「いいえ、誰にも」
「たとえば、このハリスン嬢にも?」
「もちろんですとも。命令を受けてやっている間、ずっとウォーキングには帰って来ていません」
「その間、偶然、知人に会うといったような事もありませんでしたか?」
「ありません」
「そういう人たちで役所のことをよく知ってらっしゃるかたがありますか?」
「ええ、みんなに案内して見せたことがあります」
「この条約文のことを誰にもお話しにならなかったのなら、もちろんこの質問は見当違いということになりますね」
「ほんとに何も言いませんでした」
「小使いについて、何かご存じのことはありませんか?」
「さあ、べつに……ただ昔軍人だったということだけで」
「何連隊です?」
近衛(このえ)コールドストリーム連隊だとか聞きましたが」
「ありがとう。詳しいことはフォーブズから聞き出せると思います。警察なんて、資料を集めるのはとてもうまいんですが、いつもそれを使いこなせないんですからね。……ばらの花って、きれいなもんですね」
彼は寝椅子のそばを通り抜けて、あけられた窓のところへ歩いて行き、緑と深紅の織りなす庭を見おろしながら、[こけばら]の垂れた茎(くき)に手をやった。これは彼の性格から見て、新しい一面だった。彼が自然の風物に対して、鋭い関心を寄せたのを、私は今まで見たことがなかったのである。
「宗教ほど推理を必要とするものはありません」鐙(よろい)戸(ど)に背をもたせて彼はいった。「宗教は推理家によって、精密科学にまでまとめ上げられます。神のめぐみの最高の保証は、花のなかにあると、私は思う。その他すべてのもの、われわれの力も、欲望も、食物も、われわれの生存のためには、まず第一に必要なものだけれども、このばらだけは余分なものです。その色と香は人生の飾りであり、その条件にはならないのです。その余分なものを与えるのが、[めぐみ]であり、だから重ねていうならば、われわれはもっと多くの希望を花から得たいものです」
パーシー・フェルプスと付添いのアニーは、ホームズが奇妙な論理をふり回すのを見ていたが、その顔には、驚きと深い失望の色が浮かんでいた。なおもホームズはばらを指にはさんだまま、瞑想(めいそう)にふけっていた。
それも二、三分だった。突然アニーが口を出した。
「ホームズさん、あなたには、この事件の謎をとく見込みがおありになるんですの?」と、やや邪険(じゃけん)な口ぶりで言った。
「ああ、事件の謎ねえ!」
はっとして現実の問題にかえり、彼は答えた。「まあ、この事件は難解で、厄介なものでないとはいえませんが、ともかく、よく調査しました上で、発見したことをお知らせするつもりです」
「なにか手掛りはありましたの?」
「お話しのなかに七つばかりありましたが、しかしよく調べた上でなければ、その価値について意見を申し上げることはできないのです」
「誰かを疑ってらっしゃいますの?」
「僕自身を……」
「何ですって?」
「いや、あまり早く結論に達したことですがね」
「ではロンドンへお帰りになって、結論をお確かめになって下さい」
「ごもっともなご注意です。ハリスンさん」
ホームズは立ち上がりながら言った。「ワトスン君、もうこれ以上することはないと思うよ。フェルプスさんも見当違いの期待をなすっちゃいけませんよ。この事件はとても複雑ですからね」
「こんどお出でになるまでに、また寝込むかも知れません」外交官は哀れな声でいった。
「なあに、またあした、同じ汽車でやって来ますよ。といって、どういう報告ができるか、あまり芳(かん)ばしくないものらしいんですがね」
「お約束下さって、有難うございます。とにかく、何か捜査が進んでいることだけで、生き返るような気持です。ところで、ホールダースト卿から手紙が来ましたよ」
「へえ、何といって来ました?」
「冷淡ですが、苛酷(かこく)ではありません。それも、僕の病気がひどいんで、遠慮したんでしょう。とにかく、事態ははなはだ重大であると繰り返し、僕が健康を回復し、この不祥事の償いをしない限り、僕の将来については何も面倒を見てやれない、といって来ました。その、つまり、僕の罷免(ひめん)のことですね」
「そうでしょう。それはもののわかった、思いやりのある言葉ですよ」ホームズが言った。「さあ、ワトスン君、ロンドンにはたっぷり一日分の仕事が待ってるよ」
ジョウゼフ・ハリスン氏が馬車で駅まで送って来てくれ、われわれはポーツマス線の列車に乗り込んだ。ホームズは瞑想にふけって、黙り込んでいたが、クラパム連絡駅をすぎるころになると、やっとしゃべりはじめた。
「こうして高架線でやって来て、家々を見おろすと、ロンドンもまた楽しいもんだね」
冗談いってるんだろうと思った。全く汚ならしいながめなんだから。しかし、彼はすぐ説明しはじめるのだった。
「ほら、屋根屋根の上にそびえているひとかたまりの大きなビルを見てみろよ。鉛の海に浮かんだ煉瓦の島みたいじゃないか」
「小学校だよ」
「灯台だ。未来を照らす灯台だ。あれは、つやつやした小さい種を包んだ莢(さや)だよ。あのなかから、より賢き、よりよきイギリスの未来がとび出してくるんだ。ところで、フェルプス君だが、ありゃ酒はやらんね」
「そうだろうね」
「そうだと思うなあ。しかし、われわれはあらゆる可能性を考慮に入れる必要がある。かわいそうに、あの男は苦境の淵(ふち)にはまり込んで、それをわれわれの手で岸へ助け上げられるかどうかが問題だね。で、あのハリスン嬢をどう思う?」
「なかなかのしっかり者だね」
「そう、でも根は善良なんだぜ、僕の目に狂いがなけりゃ。あの兄妹は北の方ノーサンバーランドあたりの鉄工場の子供なんだね。フェルプス君がこの冬、あっちのほうへ旅行したとき婚約して、家族に紹介するため、彼女をつれて帰ってきた。そのとき、兄も付添いで来たんだってね。それへもって今度の事件さ。妹のほうは恋人の看護のために留まるし、兄も存外居心地がいいんで居候(いそうろう)さ。ともかく、これまでは、ところどころ質問して来たが、今日は一日じゅうきいて回らなきゃなるまい」
「僕の本職のほうは……」私が言った。
「君の患者のほうが僕のやつよりおもしろいんなら……」ちょっと邪険にホームズが言った。
「いや、言おうとしたのは、今が一年のうちでも一等ひまな時節だから、一日二日は大丈夫だと……」
「そりゃいい」機嫌を直して、ホームズは言った。「じゃあ一緒に調べよう。まず手始めに、フォーブズに会うんだ。たぶん必要なことはみんな話してくれるだろう。それでどこから捜査をはじめるか、方針は立つと思うよ」
「君はさっき、手掛りがひとつあると言ったよ」
「そうさ、二、三あるさ。しかし、もっと探りを入れてみて、値打ちを確かめないとね。突き止のるのが最も厄介なのは、無目的の犯罪だよ。ところで、こいつあ無目的じゃない。この事件で得をするのは、誰だろう? フランス大使、ロシア大使、またそのいずれかに文書を売りつけようとする者、それからホールダースト卿というわけだね」
「ホールダースト卿だって?」
「そうさ、ああいった文書を、偶然らしくすてておいて、何でもないような顔をしている政治家もあるからね」
「まさか! ホールダースト卿のように名誉ある経歴をもつ政治家が、そんなことするなんて」
「いや、あり得ることだよ。そんなことだって無視するわけにはゆかないんだ。今日はその閣下に会って、話を聞いてみよう、何か聞き出せるかも知れん。ところで僕はもう捜査をはじめたよ」
「えっ! もうかい」
「そうさ、ウォーキング駅から、ロンドンじゅうの夕刊新聞に電報を打っておいたよ。この広告が、どの夕刊にも出るはずだ」
彼は手帳から紙を一枚裂きとって私に渡した。それには、鉛筆で次のように書きなぐってある。


賞金十ポンド……五月二十三日午後九時四十五分ごろ、チャールズ街外務省玄関前またはその付近にて客を下ろした馬車の番号をご記憶の方、乞通報。ベイカー街二二一B


「泥棒は馬車で来たと信じてるんだね?」
「そうでなくったって何も害はないさ。しかし、もし部屋にも廊下にも隠れ場所はないというフェルプス氏の言葉が正しいとすれば、賊はやはり外から入って来たということになる。あの雨の晩に外から入って来て、そのすぐあとに調べたのに、リノリュームの床に足跡らしいものは見つからないというんなら、馬車で来たとするのが最も妥当じゃないかい? そう考えても間違いじゃないと思うよ」
「一応もっともらしく聞こえるが……」
「これが、さっき僕が言った手掛りのひとつさ。これから何かわかってくるかもしれない。それから、いうまでもなく、あのベルさ。これがこの事件のなかで最もはっきりした特色だな。[何ゆえに]ベルは鳴ったか? 泥棒め、こけおどしにやったのか? それとも誰か泥棒と一緒に居合わせて、盗みをさせまいとして鳴らしたのか? あるいはまた、単なる偶然だろうか? それともまた……」
こう言いかけてホームズは、またじっと考え込んだ。しかし、彼の気分には慣れっこの私には、それが、新しい可能性にふと思いあたった証拠であるのがよくわかるのである。
終着駅ウォータルーに着いたのは三時二十分だった。構内食堂で昼食をかっ込み、われわれはロンドン警視庁へ急いだ。ホームズは前もってフォーブズ刑事に電報を打っておいたので、刑事はふたりを待ち構えていた。彼は小柄の狡猾(こうかつ)そうな男で、鋭いが、全く愛想のない顔つきをしていた。その態度はまったくよそよそしく、とくにわれわれの用向きを知ってからというものは、なおさらだった。
「ホームズさん、あなたのやり口は前から聞いていますよ」となかなか手厳しい。「あなたは警察が苦心して手に入れた資料を全部もち帰って、さて、それを使って事件を解決するんだから、たまりませんよ。おかげで、こっちの顔はつぶされるし」
「どっこい、それどころか」ホームズが応じた。「僕の扱った五十三の事件のうち、僕の名が出たのは、四度きり。あとの四十九回というものは、みな警視庁の手柄になってるんですよ。まだ、あんたは若くて慣れてないから、知らないのを責めはせんが、しかし、あんたがこの新しい仕事で成功したいんだったら、僕を敵に回さんほうが得ですよ」
「何かヒントでも下さるといいんですが……」態度を急に改めながら「この事件では、今まで男をあげるようなことは何ひとつやってないんです」
「どんな手をうちましたか?」
「小使いのタンゲイには尾行がつけてあります。彼は近衛(このえ)を除隊になったとき、りっぱな人物証明をもらってますし、何も反証があがらんのです。でも細君のほうは悪い奴らしいんです。何かもっと知っとるんじゃないかとにらんでるんですが」
「尾行は?」
「婦人警官をつけています。酒を飲むそうですよ。二度ばかり、[聞(きこ)し召し]てるときに、誘い水を入れたが、何もしゃべらなかったそうです」
「あの家に、差し押え人が出入りしてるそうですが……?」
「払いはすませたそうです」
「金はどうしたんでしょう?」
「その点、不審はないんです。ちょうど亭主の年金の受取日が来たので……もちろん、貯金なんかしてるふうはありませんがね」
「フェルプス氏がコーヒーのためにベルを鳴らしたとき、上がって行ったことについては、何といっていましたか?」
「亭主がひどく疲れていたんで、やすませてやりたいと思った、といってました」
「なるほど、ちょっとあとで、亭主が椅子の上で眠っていたのと話は合うわけですね。あの晩なぜ急いで帰ったか、そこをきいてみましたか? 急いでるのが巡査の目にとまったようでしたが」
「いつもより遅かったので、早く帰りたかったといっています」
「君とフェルプスさんは二十分もあとから出たのに、彼女より先についたことを突っ込んで聞いてみましたか?」
「乗合いと辻馬車のちがいだろうと言っています」
「家に帰るや否や、台所に駆け込んだわけをはっきり説明しましたか?」
「差し押え人に払う金がしまってあったそうです」
「何でも、一応返答は用意してますね。帰り路で誰かに会わなかったか、誰かチャールズ街をぶらぶらしているのを見かけなかったかきいてみました?」
「巡査のほかには誰も見なかったそうです」
「彼女のほうは徹底的に洗ってみたわけですね。他に何かやりましたか?」
「書記のゴローには、もう九週間ばかり尾行をつけています。しかし、何もあがりません。反証が何ひとつないんです」
「ほかには?」
「もうこれ以上、打つ手がないんです。どんな種類の証拠もありません」
「では、なぜベルが鳴ったかについて、私見をお持ちですか?」
「白状しますと、こればかりは手を焼いています。誰だか知らんが、盗みに入って、警告を発するなんて、図太い奴もいるもんです」
「そう、全く妙なことをやったもんですな。いや、いろいろとお話しありがとう。もし犯人を突き止めたら、お知らせしますよ。ワトスン君、さあ行こう」 「今度はどこへ行くんだい?」刑事室を出ながら、私がきいた。
「ホールダースト卿に面会を申し込むんだ。現内閣の一員であり、未来の総理大臣にね」
幸いにして、大臣はダウニング街の大臣室にいた。ホームズが案内を乞うと、すぐ通された。卿は、彼独特の古風な鄭重(ていちょう)さでふたりを迎えてくれ、壁炉の両側の豪華な安楽椅子をすすめるのだった。ふたりの間の敷物の上に立った彼の姿は、背はすらりと高く、輪郭のはっきりした、思慮深い顔つき、そのカールした髪は、もう白色に染まり、普通の人とは違って、いかにも本物の貴族の代表を思わせるのだった。
「ホームズさん、お名前はよく存じております」ほほえみを交えて語るのである。「そしてもちろん、あなたの用向きも存じていないとは申しません。役所で、あなたの注意をひくような事件が起こったのは、今度が始めてなのです。それで、あなたは誰のためにお調べになっておいでですか?」
「パーシー・フェルプスさんです」ホームズは答えた。
「ほんとに、甥(おい)も可哀そうです。かばってやろうにも、親類なので、かえってそれができないのです。この事件は彼の前途に、この上もない不幸の影を投げるだろうと思います」
「でも文書が見つかりましたら?」
「そうなれば、もちろん、はなしはべつでしょうが」
「大臣、おたずねしたいことが二、三あるんですが、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「私にできることなら、喜んでお答えしますよ」
「閣下が文書の筆写をお命じになったのは、この部屋だったのでしょうか?」
「そうです」
「では、盗み聞きされる心配はございませんでしょうね」
「言うまでもありません」
「写しをとるために、条約文書を取り出すご意向を誰かにおもらしになりませんでしたか?」
「いたしません」
「たしかにそう……」
「たしかにそうです」
「それでは、閣下もおもらしにならぬし、フェルプスさんもそうだといたしますと、このことは、誰にも知れていなかったわけです。すると賊があの部屋に入ったのはまったく偶然だったということになります。で、賊はそれを見つけると、もっけの幸いとばかり盗んでいったわけですね」
大臣は微笑して「そこまでくると、もうわたしの畑ではありませんよ」
ホームズはしばらく考え込んで、「これはごく大切なことですが、もうひとつ重ねておうかがいしたいと思います」と言った。「もしこの条約の細目が知れるとなりますれば、容易ならぬ事態が生ずると憂慮なさるわけですね」
大臣の表情に暗い影がさした。「まさにそのとおりです」
「もうそれが起こっておりますでしょうか?」
「まだ起こってはおりません」
「もしこの条約文が、たとえばフランスかロシアの大使館の手に渡ったとしますと、必ずその反応が現われるとお思いになりますか?」
「あると思います」ホールダースト卿は苦痛に顔をしかめた。
「あれからもう十週間も経過しておりますのに、何の反響もないというのは、何らかの理由で、まだそれが相手の手に入っていないと考える正当な裏づけとはならないでしょうか?」
卿は肩をすくめて、
「しかしホームズさん、泥棒は額(がく)に入れて飾るために、条約文を盗んだとは考えられませんよ」
「多分、値の出るのを待っているのでしょう」
「ところが、あとしばらくたつと、無価値なものになるのです。二、三か月中には、公表されるはずです」
「それはとても重要なことです」ホームズが言った。「もちろん、犯人が急病になるというようなこともあるわけですが……」
「たとえば、脳炎など?」大臣は相手に、ちらりと一瞥(いちべつ)をくれた。
「そういう意味で申し上げたんじゃございません」ホームズは動ずる色もなく、「ではお忙しいところ、貴重な時間をお邪魔いたしました。これでお暇(いとま)したいと思います」
「たとえ、犯人が何者であろうと、あなたの成功を祈ってやみません」
卿は答え、戸口で会釈をしてわれわれを送り出した。
「なかなかの人物だね」ホワイトホール街に出ると、ホームズが言った。「しかし、あれで、自分の地位をまもるために懸命なんだよ。彼は金持どころではなく、その上、いろいろと出費がかさむ。もちろん君も気づいたと思うが、彼の靴は底が打ち直してあったね。ところでワトスン君、今日はもう本職に帰ったほうがいいよ。僕も馬車の広告に返事でも来ない限り、今日はこれ以上することはない。でも、あした今朝のと同じ汽車で、ウォーキングまで一緒に行ってくれるとありがたいんだが」
そんなわけで、翌朝、彼と落ち合って、ウォーキングまで同道することになった。彼は、昨日の広告には返事がないし、事件には何も新しい筋は見つからない、と語るのだった。だいたいホームズという男は、何かあると、まるでアメリカ・インディアンみたいな無表情な顔になるので、はたして彼が、この事件の状態に満足してるのか、いないのか、その表情からは判断がつかないのである。そのとき彼は、ベルティヨンの個人鑑別法の話をしていたと思うが、なんでも、このフランスの碩学(せきがく)を盛んにほめたてていたようだ。
われわれが再度訪れた依頼人は、まだ付添人の献身的な看護をうけていたが、前日より、ずっと回復したようだった。われわれが入っていったときも、楽にソファから身を起こして挨拶した。
「何かわかりましたか?」とやっきとなって聞いた。
「私の報告といえば、やはり、あまり芳(かん)ばしいものじゃないんです」ホームズが言った。「フォーブズに会い、また伯父(おじ)上にもお目にかかりました。いまひとつふたつ、捜査のすじに手をつけていますから、順を追って進めてゆくつもりです」
「じゃあ、断念なさったわけではないんですね」
「いや決して」
「うれしいわ、そういって下さると!」アニーが叫んだ。「勇気をもって、辛抱強く続けてゆきさえすれば、きっと真相がわかると思いますわ」
「僕たちのほうからお話ししたいことが沢山あるんですよ」ソファの上にすわり直しながら、フェルプスが言った。
「何かあるだろうと期待してましたよ」
「ええ、実は昨夜また一事件ありましてね。考えてみると、重大な意味があるような気がするんです」
話しながら、彼の表情は真剣になり、目の色は恐怖めいた光を帯びてきた。
「僕は知らないうちに、おそるべき陰謀のなかにまき込まれようとしてるんだと思いはじめました。名誉はいうに及ばず、命までもねらわれているんです」
「ほう!」ホームズが言った。
「信じられないみたいです。とにかく、僕は世間に敵なんかもった覚えはありません。でも昨夜の経験からしますと、ほかに考えようがないんですよ」
「どうぞ話して下さい」
「昨夜はじめて、看護婦なしに寝ました。気分もだいぶいいんで、ひとりで寝ても大丈夫だと思ったんです。でも、夜間灯だけはつけっ放していました。たぶん、朝の二時ごろでしたか、うとうとと眠ったとき、突然コトッ、と音がして目が覚めました。鼠が板でもかじっているような音でしたから、そうだろうと思って、しばらく耳をすましていました。すると、その音はだんだん大きくなり、急に窓のあたりを刃物でやったような、カチッ、という鋭い音に僕はびっくりして起き直りました。何の音だか疑う余地はありません。はじめのコトッという音は、誰かが窓枠のすき間に何かをこじ入れた音で、あとのは、掛金を外した音です。
それから十分ばかり、物音で目を覚したかどうか、中のようすをうかがっているようで、物音ひとつしません。それからかすかに軋(きし)る音がして、窓が、すうっと開きました。ふだんと違って、神経の高ぶっているときですから、もう我慢することができません。ベッドから飛び出して、鎧戸を押し開きました。窓際にうずくまっていた男は、それとみて、まるで矢のように逃げて行きました。どんな男だったか見る暇もなかったんです。外套のようなものを着ていて、それで顔の下半分を隠していたような気がします。ただひとつ、凶器を手にしていたこと、これだけは確かです。長いナイフのようなもので、逃げ出すときに、きらり、と光ったのを、はっきりこの目で見たんです」
「そいつぁ、おもしろい話ですなあ」ホームズが言った。「で、それからどうしました?」
「元気な体だったら、その窓から飛び出して追いかけるんでしたが、何しろ、この体では仕方がありません。ベルを鳴らして、家のものを起こしました。ベルは台所についていて、召使いたちは二階に寝ているので、ちょっと暇がかかります。だから、どなり立てましたら、ジョウゼフがいちばんに起きてきて、他のものを起こしてくれました。ジョウゼフと馬丁が、窓の外の花壇に足跡を見つけ出しましたが、何しろ、近ごろの大気で乾ききっていますので、芝生の向こうまで足跡をたどることができなかったのです。しかし、道路と境になっている垣(かき)をのり越えたらしく、横木が一本折れているということです。まだ駐在所には何も知らせてありません。まず最初に、あなたのご意見を伺ってから、と思ったものですから」
フェルプスの話は、ホームズの異常な関心をかき立てたらしい。彼は興奮を抑えかねるかのごとく、椅子を立って部屋じゅうを歩き回った。
「不幸というものは、それひとつだけではやって来ないもんですね」フェルプスは苦笑しながら言った。昨夜の事件は相当こたえたらしい。
「いや、今度のやつは違うと思うんですがね」ホームズが言った。「僕と一緒に、家の回りをお歩きになれませんか?」
「ええ、少し陽(ひ)に当りたいと思いますから。ジョウゼフも一緒にくるでしょう」
「わたしもね」ハリスン嬢が言った。
「残念ですが」ホームズは頭をふって、「あなたには、そのまますわっていてもらいたいんです」
彼女は不満の態(てい)で、椅子に腰掛けていた。兄のほうは一緒について来た。われわれ四人は芝生を回って、この若い外交官の部屋の窓のところまで歩いて来た。そこの花壇には、話の通り足跡らしいものがあったが、残念ながら消えかかっていて、はっきりしないのである。ホームズはかがみ込んで見つめていたが、やがて腰をのばし、今度は肩をすくめた。
「これじゃ誰が見たって役に立ちませんな」と言った。「家をひと回りして、泥棒がなぜこの窓に目をつけたのか、そいつを調べてみましょう。客間や台所の大きな窓のほうが、ずっと目につきやすいはずですがね」
「あっちのほうが道路からよく見えますからね」ジョウゼフ・ハリスンが言った。
「なるほどそうですね。ここに泥棒が入りそうな扉がありますね。これは何の扉です?」
「勝手口です。もちろん夜には鍵をかけます」
「こういう騒ぎが以前にあったことがありますか?」
「ありません」フェルプスが言った。
「この家には、泥棒にねらわれるような金銀の食器とか、そういったものがありますか?」
「値打ちのあるものなんかないんですよ」
ホームズはポケットに手を入れて、家の回りをぶらぶら歩き回った。あまり見慣れない、無頓着な恰好である。
「ところで」とジョウゼフ・ハリスンに向かって「泥棒が垣を折った場所を見つけられたという話でしたが、ちょっと見せてくれませんか?」
垣のうえの横木が折れている場所へ彼は案内した。横木の頭のほうが折れてぶら下っている。ホームズは、それをむしり取ってしらべた。
「こいつあ、ゆうべ折れたんじゃないですね。折れ口が古いようです。そうじゃありませんか?」
「はあ、そうですねえ……」
「それに向こう側へ飛び下りた形跡もないようです。まあ、でも、これはたいして役に立ちそうにありません。寝室へ帰って、よく話し合いましょう」
パーシー・フェルプスは未来の義兄の腕によりかかって、ゆっくりと歩いてきた。ホームズは足早に芝生をつっ切って、私と共に、あとのふたりよりずっと早く寝室のあけ放った窓の外に立った。
「ハリスンさん」彼はまったく緊張しきったようすで部屋の中へ話しかけた。「あなたは一日じゅう、そこにじっとしていて下さい。どんなことがあっても、部屋を出ちゃいけません。一日じゅうそこにいるんですよ」
「いいですわ、たってとおっしゃるのでしたら」彼女はびっくりして答えた。
「自分の寝室にお下りになるときは、外からドアの鍵をかけて、鍵をもっていて下さい。必ずそうすると約束して下さい」
「でもパーシーはどうなりますの?」
「われわれと一緒にロンドンへ行くはずです」
「だのに、あたしだけ、ここに残るんですの?」
「あの人のためです。彼の役に立つんです。さあ、早く! 約束して下さい!」
承知したとばかりに、彼女がうなずいたとき、ちょうどあとの二人が歩いて来た。
「アニー、そんな所にすわってばかりいないで、日なたに出て来たらどうだい?」と、兄が叫んだ。
「いいえ、いいんですの、頭が痛いので、この部屋のほうが、涼しくて気持がいいわ」
「さて、次は何をしますか、ホームズさん?」フェルプスが言った。
「そうですね、小さい事ばかりに気をとられていると、問題の本筋を見失う恐れがあります。もしわれわれと一緒に、ロンドンまで来て下さると、はなはだたすかるんですがね」
「今すぐに?」
「そう、都合のつく限り、早いほうがいいんです。あと一時間くらいで、どうです?」
「だいぶ丈夫になりましたから、ほんとにお役に立つんでしたら」
「ええ、それは確かですよ」
「では、今晩は、あちらに泊ることになるんでしょう?」
「そうお願いしようかと思ってました」
「ゆうべのお客さん、今晩もやって来て、鴨(かも)がいないんでさぞがっかりすることでしょうね。ホームズさん、すべてあなたにおまかせしておりますから、なさりたいことは遠慮なくおっしゃって下さい。で、ジョウゼフも私の付き添いとして、一緒に来てもらったほうがいいでしょうね?」
「いや、いや、ワトスン君は医者ですから、あなたを見てくれると思います。ご迷惑でしょうが、こちらで昼食をいただいて、それからロンドンへ出かけることにしましょう」
すべてはホームズの思い通りに運んだ。ハリスン嬢は、ホームズの指示どおり、寝室から出たくないと言いわけしていた。だが、なぜ彼がこのような策を弄(ろう)するのか、私にはわからなかった。フェルプスから、この婦人を引き離そうというわけでもあるまいし。一方フェルプスは、元気になり、捜査にも加われるというので、いかにもうれしそうに、われわれと食事を共にするのだった。
ところがホームズは、またまたわれわれをびっくりさせたのである。つまり、駅までやって来て、二人を車内に送り込むと、自分だけはここに留まると、平気な顔をしていうのだった。
「ここを離れるまえに、二、三はっきりしておきたいこともあるので」と彼は言った。「それにはフェルプスさん、あなたがいないのが大いに役立つんです。ワトスン君、ロンドンに着いたら、お手数だが、このかたをベイカー街までお連れして、僕が帰るまで一緒にいてやってくれたまえ。君たちが古い学友なのは好都合だ。話もたんとあることだろうし、フェルプスさんには、もうひとつの寝台を用意してやってくれ。朝八時にウォータルー着という汽車があるから、朝食には間に合うと思うよ」
「でも、ロンドンでの捜査はどうなるんです?」あわれな声で、フェルプスが言った。
「あすという日がありますよ。それより、今日はこちらにもっと大切な仕事があるんです」
「じゃあ、あすの晩には帰るつもりだと、ブライアブレーのものにお伝え下さい」汽車がプラットホームを離れ出すと、フェルプスが言った。
「ブライアブレーには行かないと思いますよ」と答えて、ホームズは駅を離れてゆくふたりに向って、さも楽しそうに手を振るのだった。
途中フェルプスと私は、彼のおかしな行動についていろいろと話し合ったが、この新しい事態について、何ら満足な解答を出すことはできなかった。
「ゆうべの奴をただの泥棒だと見て、何かその手掛りになるものを捜し出そうとしてるんだと思いますが、しかし、僕にはただの泥棒だとは思えませんがね」
「じゃあ何だというんです?」
「きっと、君は僕の神経過敏のせいにするかもしれませんが、僕の周囲には、ある根強い政治的陰謀が企てられ、僕の頭ではよく理由はわからないが、ともかく、それで僕の命がねらわれたんだと思うんです。こういえば、被害妄想(ひがいもうそう)みたいに聞えるかもしれないが、しかし、事実を考えてごらんなさい! 目ぼしいものなどありそうにない寝室に、なぜ押し入ろうとしたんです? しかもなぜ、長いナイフなんか持ってたんです?」
「それは家に押し入るときに使う、[鉄(かな)てこ]じゃなかったんですか?」
「いや、違いますよ! ナイフでした。僕ははっきりこの目で、刃物がきらり、とするのを見たんです」
「しかし、何の恨みで、つけねらわれたりなんかするんです?」
「そこですよ。それがわかればねえ……」
「もし、ホームズも同じ意見なら、それで彼の行動の説明はつくわけですね。君の意見が正しいとして、もし彼が、昨晩君を襲った男を捕まえたならば、もう海軍条約を盗んだ奴をつかまえたようなもんですよ。君が泥棒と刺客のふたりにねらわれたなんて考えるのは、馬鹿げてますよ」
「しかしホームズさんは、ブライアブレーには行かないと言ってましたよ」
「彼ともずいぶん長いつきあいですが」私は言った。「どんなことをするにも、何かはっきりした目的がなけりゃ動く男じゃないことを、よく知ってますよ」
それからわれわれの話はほかのことに外れていった。
しかし、私にとっては憂鬱(ゆううつ)な半日だった。フェルプスは長い病気からまだ完全に回復してはいないし、しかも今度の不幸で、まったく愚痴っぽく、気むずかしかった。アフガニスタンの話、インドネシア問題、あるいは社会問題と、彼の気を外(そ)らすために、いろいろ持ち出してみたが、いつまでもくよくよ条約文のことばかり気にして、どうにもならなかった。またしても、紛失した文書に話は舞いもどって、ホームズは何をしてるんだろう、ホールダースト卿はどうするかな、あすはどんな報告が聞けるんだろうと、気をもんだり、臆測したり、まったく手のつけようがなかった。
夜のふけるにつれて、彼の興奮は、見るも痛ましいものであった。
「君はホームズさんを絶対に信頼してる?」
「お手並あざやかなところを、たびたび見せつけられましたからね」
「でも、今度のように、わけのわからぬものを解決したことはないんでしょう?」
「それどころか、もっと手掛りのないものを、さばきましたよ」
「しかし、これほど重大な利害関係が危機に瀕(ひん)したというようなものはなかったでしょう?」
「僕としては何とも言えませんが、ヨーロッパに君臨する三王室の安否にかかわる重大事を、見事にさばいたのを覚えていますよ」
「ワトスン君、君はあの人をよく知っているからいいが、僕には謎のような人物で、さて何と考えたらいいのか、さっぱりわかりませんよ。あの人は、今度の事件には、希望をもってるんでしょうか。勝算があると思いますか?」
「何ともいいませんでしたが」
「じゃあ、うまくいってないしるしですよ」
「ところが反対なんですよ。手掛りがないときは、ない、とはっきり言うんです。何かかぎつけて、いちおう間違っていないとわかっていても、十分確信できないようなとき、それですよ、黙り込んで何も言わないのは。ところでフェルプスさん、ここでいくらやきもきしても、無駄です。お願いだから、もう寝たらどうです? あすは新しい気持で、やってくるものを迎えようじゃありませんか?」
やっとのことで、床につかせはしたが、何しろあの興奮状態では、とても眠れはすまいと、わかっていた。事実、彼の憂欝は、私にも伝染したらしく、夜半すぎまで、いくども寝返りをうってはこの奇怪な事件を考え、数知れず推論を出してみるのだが、いずれも、ありそうにもないことに思われるのだった。
ホームズはなぜウォーキングに留まったんだろう? なぜアニーさんに、一日じゅう寝室にいるように頼んだんだろう? なんでまた、あれほど周到に、自分がウォーキングに残ることを、ブライアブレーの人たちに知らせまいとしたんだろう? 私はあれこれと、ない知恵をしぼったが、これらの事実のすべてを説明する名答も出ないうちに眠り込んでしまった。
目を覚ましたら七時だった。すぐフェルプスの部屋へ行ってみると、ほとんど眠れなかったらしく、やつれた顔をしていた。私の顔を見るなり、ホームズは帰ったか、と聞くのだった。
「約束した時刻には帰って来ますよ。きっかりその時間にね」私は言った。
私の言葉に違いはなかった。八時を少し過ぎると、二輪馬車がドアの外に止って、中からホームズが出て来た。窓際に立って二人が見ていると、彼は左手に白い包帯を巻いて、青ざめた、しかめっ面をしていた。家に入って来たのに、二階へ来るまで、ちょっと暇がかかった。
「やられて来たようですね」
ホームズの格好を見て、フェルプスの言葉に私もあえて反対できなかった。「結局、手掛りはロンドンにあるということになったんでしょう」
フェルプスはうめき声を出した。「どうだか、僕にはわかりませんが、僕はホームズさんの帰りに、あまり期待をかけすぎていたようです。でも、昨日は包帯なんかしてなかったのに、何かあったんでしょうか?」と言った。
怪我(けが)したんじゃないかい? ホームズ君」部屋に入って来たのを見て、私は聞いた。
「いや、ほんのかすり傷さ、ちょっとへまをやったんでね」おはようの会釈をして、ホームズが言った。「フェルプスさん、今度のやつは、わたしの手がけた事件のうちでも有数の難事件ですね」
「手に負えない、とおっしゃるんじゃないかと、びくびくしてるんです」
「まったくえらい経験でしたよ」
「手の包帯がそれを物語ってるよ」と私が言った。「何かあったんだろう、話してくれよ」
「ワトスン君、それは食事が済んでからにしてもらいたいね。とにかく今朝は、サレーの新鮮な空気を三十マイルも吸って来たんだからね。馬車の広告には返事はなかったろうね、いや、そういうもんだよ。いつもうまくゆくとは限らんからね」
食卓の用意はできていた。私がベルを鳴らそうとしたところへ、ハドスン夫人がお茶とコーヒーを持って入って来た。しばらくして、三人分の膳立てがされたので、われわれはテーブルについた。ホームズは、ガツガツしてるし、私は好奇心をそそられ、フェルプスは意気消沈(いきしょうちん)の態(てい)であった。
「ハドスン夫人は間に合わせの料理がうまいからね」ホームズはチキンカレーのふたを取りながら言った。「料理の数は限られているが、スコットランドの女のように、朝食にはなかなか趣向をこらすんでねえ。ワトスン君は何だい?」
「ハムエッグスだね」
「それはいいね、あなたは何を食べます? フェルプスさん、チキン・カレーですか? 卵ですか? それとも自分でおとりになりますか?」
「ありがとう、何も欲しくないんです」
「さあ、そのお皿のものだけでも」
「ありがとう、ほんとに食べたくないんです」
「そうですか」ホームズはいたずらっぽい目つきをして言った。「じゃあ、それを僕のほうへ、とって下さいませんか?」
フェルプスは蓋(ふた)をとったが、そのとたん、わっ、と声をたてて顔をまっ青にし、皿のなかを見つめていた。皿のまん中には、青灰色の小さな紙筒が入っていたのである。それをつまみ上げると、食い入るように見つめていたが、やがて胸に押しあてると、気でも狂ったかのように部屋の中を踊り回りながら、うれしさのあまりに頓狂(とんきょう)な声をあげるのだった。
しかし間もなく、自分の興奮に疲れ果て、ぐったりと、もとの椅子の上に倒れた。卒倒でもされたらことだと、われわれは無理にブランディを飲ませた。
「まあ、まあ」ホームズはなだめるようにその肩をたたいて、「あまり出しぬけにやったんで、悪いことをしましたね。しかし、ワトスン君は知っていますが、僕ときたら、芝居がかったことが好きで、それをやらずにはおれないんですよ」
フェルプスはホームズの手をとって、それにキッスしながら、「あなたに神の恵みあれ!」と叫んだ。「あなたによって、私の名誉は救われたんです!」
「いや、僕のも危(あやう)いところでしたよ」ホームズが言った。「あなたも仕事で失敗するのはお好きではないでしょうが、僕だって、自分の仕事でへまをやるのは嫌なことですからね」
フェルプスは、この貴重な書類を奥のポケットにしまい込んで、「これ以上、お食事の妨(さまた)げはしたくないんですが、どこで、どうしてこれを取り戻しになったのか、もう聞きたくてしょうがないんです」
シャーロック・ホームズはコーヒーを飲みほすと、今度はハムエッグスに手をつけた。やがて、やおら立ち上がると、パイプに火をつけ、自分の椅子にどっかと腰掛けた。
「はじめに、あれから何をしたかをお話しして、それから、どうしてそれを取りもどしたか、順を追って申し上げることにしましょう」と言う。
「駅でお別れしてから、僕はサレー州の愛すべき風景のなかを、リップレイという村まで歩いてゆきました。そこの宿屋で、コーヒーを飲み、水筒に飲みものを入れ、ポケットにサンドウィッチをひと包み用意して、夕方になるのを待って、ウォーキングへ向けて出発しました。ブライアブレーの近くの街道まで来たとき、ちょうど日が沈んだところでした。それから人通りがなくなるまで待って、といっても、大体あまり人の通らないところなんですね。それから、垣を越えて、庭に入りました」
「でも、門はまだあいていたでしょう?」突然フェルプスが口を入れた。
「ええ、でも僕はこういうことが好きなんでしてね。樅(もみ)の木が三本あるところを選んでのり越えたので、ちょうどかげになって家のほうからは見えません。それから潅木(かんぼく)のあいだを四つんばいになって進みました……このみっともないズボンの膝をご覧になれば、おわかりでしょう。そして、やっとのことであの寝室の前の石楠(しゃくなげ)のところまでたどりつき、そこにうずくまって、成り行きを待ちました。
鎧戸がしまってないので、アニーさんがテーブルに向かって本を読んでるのが見えます。十時十五分ごろになると、アニーさんは本を閉じ、鐙戸を閉めて寝にゆきました。扉に鍵をかける音が聞えたので、よくわかりました」
「鍵ですって?」フェルプスが、また大きな声を出した。
「そうです。寝にゆくとき、外から鍵をかけて、鍵をもっていて下さいと頼んでおいたんです。アニーさんは、僕の頼みを、そのまま実行してくれました。あのかたの協力がなかったら、あなたのポケットの中の書類は戻らなかったかも知れないんですよ。さて灯を消して、アニーさんは出てゆき、僕だけが石楠の陰に身を潜めていました。
美しい夜でしたが、寝ずの番は嫌でしたね。もちろん狩猟家が水辺に潜んでいて、大物が現われるのを待ってるような興奮はありましたがね。しかし、長かったですなあ。ワトスン君、ほら、あの[まだらの紐(ひも)]の事件のとき、死んだような部屋の暗闇のなかで、待ちあぐんだことがあったろう、今度のやつも、あれに劣らずさ。ウォーキングの村の教会の時計が十五分おきに打つでしょう。一度ならず、時計が鳴らなくなったんじゃないかと思いましたよ。しかし、とうとうやって来ました。朝の二時ころ、カチッ、と掛金を外す音を聞いたかと思うと、中から月光のなかに、ジョウゼフ・ハリスンが姿を現わしました」
「えっ! ジョウゼフが!」びっくりして、フェルプスが叫んだ。
「帽子はかぶっていませんでしたが、肩から黒い外套をひっかけ、いざというときには、いつでも顔を隠せるようにしていました。壁のかげに沿って、窓の下まで抜き足さし足でやって来ると、刃の長いナイフを出して窓枠の間にさし込み、掛金を外しました。窓を開けると、さらにナイフを鎧戸のすき間にさし入れ、横桟(よこさん)をつき上げると、これもさっと開きました。
僕が伏せていた場所から、部屋のようすも、彼の一挙一動に至るまで手にとるように見えるんです。彼はまず壁炉の上のローソクを二本点(とも)すと、扉のそばの敷物の隅をめくり上げました。すぐさま彼はかがみ込んで、鉛管工がガス管の接(つ)ぎ目を直せるようにこしらえてある四角な板を外しました。そこが台所へ行くガス管の丁字形の接ぎ目の蓋(ふた)なんですよ。この隠し場所から、例の巻き物一巻(いっかん)を取り出すと、元の通り蓋をしめて敷物を直し、ローソクを吹き消して、窓のところから、外で待っている僕の腕の中へまっすぐ飛び込んで来たわけです。
思ったより癖の悪い人でしたよ。ジョウゼフの奴(やっこ)さんは。ナイフを振って飛びかかって来ましてね。二度ばかりなぐり倒してやりましたが、おかげで指の関節をやられましてね。でもどうにか腕を押えました。格闘が終っても、やっと見える片方の目で、[殺してやる]といわんばかりでしたが、どうにか聞きわけてくれて、文書をこちらに渡しました。これをもらったので、離してやりましたが、けさ、いちおう事(こと)の次第をフォーブズ刑事に電報で知らせておきました。もし先手をうって、奴さんを捕えることができれば上出来でしょうが、行ってみたら、もぬけの殻(から)ってんじゃないでしょうかね。でもそのほうが、政府にもいいんじゃないでしょうか。ホールダースト卿にしても、パーシー・フェルプスさんにしても、警察沙汰にならんほうがいいんでしょう?」
「ああ!」フェルプスはあえぎながら言った。「十週間も悩み通した、その文書が、ずっと自分の部屋にあったなんて!」
「事実、そのとおり」
「それにしても、あのジョウゼフの奴は! ジョウゼフの悪党め! 泥棒野郎!」
「ふん、見かけによらずあの人は悪賢い危険な人物ですよ。けさ本人から聞いたところによると、株に手を出して、ひどく損をし、金になることなら何でもやる覚悟をしてたらしいんです。徹底した利己主義者で、妹さんの幸福や、あなたの名誉をも顧みず好機に乗じたんですね」
パーシー・フェルプスは椅子に深く沈んで、「ああ、頭ががんがんする。お話をきいて、茫然(ぼうぜん)としました」といった。
「今度の事件でおもな難点といえば」ホームズは教授然とした態度で、「それはあまり証拠が多すぎることにありました。それゆえに、決定的な証拠が、まるで無関係なものの陰になって隠れてしまったのです。提示された多くの事実のなかから、真に重要なものを引き出して来て、組み合わせ、この珍しい事件の本筋をつくり上げることが必要でした。あの晩、あなたがジョウゼフと一緒に帰るつもりだったと聞いてから、もう僕は彼を疑いはじめました。外務省のことをよく知っている彼のことですから、ちょっと誘いに寄ることも考えられたからです。そこへ、何者かが寝室へ侵入しようとしたと聞いてから、僕の嫌疑(けんぎ)は確信となりました。ジョウゼフよりほかに、あの部屋に物を隠す者などありませんし、しかも、前の話のように、医者と共にあなたが帰って来られたので、ジョウゼフはあの部屋を出なければならなかったのでしょう。それに、看護婦がいなくなった最初の晩に押し入ろうとするなんて、家の事情に明るい者以外にはないとにらんだのです」
「まったくぼんやりしていました!」
「私の調べたところでは、この事件は次のようになります……ジョウゼフ・ハリスンはチャールズ街側の通用口から入って来て、勝手は知ってるし、まっすぐあなたの部屋へ入ったんです。それはあなたが部屋を出た直後だったんです。誰もいないもんだから、彼はベルを鳴らします。鳴らしてからすぐ、机の上にひろげてある文書が目にとまりました。すぐポケットにしまい込んで、そこを立ち去ったのです。いいですか、寝ぼけていた小使いが、誰もいないはずなのにベルが鳴った、とあなたに注意するまで、少なくとも数分たっています。その間に泥棒は、まんまと逃げることができたのです。
駅まで駆けつけて、すぐ次の汽車でウォーキングへ行きます。獲物を調べてみると、莫大な価値のあるものだということがわかる。それで、ひとまず安全な場所に隠しておいて、一両日中にまた取り出して、フランス大使館なり、金を沢山くれそうな所へなり持ち込もうと思ったわけです。そこへ突然、あなたが帰ってくる。どうする暇もないうちに部屋を追いたてられ、それからというものは、少なくともあなたがた二人は部屋にいて、彼は宝物を取り戻すことができなかったのです。ずいぶん、やきもきしたことでしょうね。だがついにチャンスは来たと思い込み、部屋へ忍び込もうとしたが、よく眠ってなかったあなたに目を覚されて失敗しました。あの晩、いつもの薬を飲まなかったのを覚えておいででしょう?」
「覚えています」
「薬が効いて、ぐうぐう寝込んでると思ってやって来たんでしょうね。大丈夫だとみれば、何度でもやるだろうと思いました。まして、あなたがいなけりゃ思う壷(つぼ)ですよ。そこで先手を打たれないように、アニーさんに頼んで、ずっとあの部屋にいてもらったんです。それから邪魔者はいないと思い込ませておいて、さっきお話ししたように、僕が縄(なわ)を張ってたんです。あの文書はきっと部屋の中にあると、僕は信じていましたが、といって、板張りや羽目板をすっかりはぎ取って捜し出したくなかったのです。ですから、これは隠し場所から、本人に取らせておいて、手間を省きました。まだ何かほかにお話しすることがありますか?」
「最初のとき、どうして窓から忍び込もうとしたんだい?」私が聞いた。「扉からでも入れたろうに?」
「扉のところまで来るには七つも寝室の前を通らねばならないんだよ。芝生のほうなら難なく飛び出せる。ほかに何か?」
「ジョウゼフは僕に殺意をもってたんじゃないでしょうか?」フェルプスが聞いた。「ナイフは窓をあける道具にすぎなかったんですか?」
「さあ、そうかもしれません」ホームズは肩をすくめて、言った。「ジョウゼフ・ハリスンという男は、どんな事でもやりかねない男だということは、確かに申し上げられます」
最後の事件

友人シャーロック・ホームズの名を高からしめた、あの独特の天才の記録を書くのも、これが最後になると思うと、ペンをとるのも悲しい思いがするのである。私が「緋色の研究」のころに偶然彼と知り合うようになってから、彼が「海軍条約事件」を未然にもみ消すまで……たしかにその事件は、彼の力のおかげで重大な国際問題にならずにすんだと思うのだが……彼と行動を共にして得た風変わりな経験を、辻棲(つじつま)もあわない、まったくのところつたない筆をふるって、書きつづってきた。
私は、そこまでにして筆を折るつもりでいたのだ。私の人生に、二年たった今でも穴埋めのできない空白を作ってしまったあの事件について、私は口をとざしておるつもりでいたのだ。だが、やむを得ない。ジェイムズ・モリアーティ大佐が、死んだ弟の弁護をするああした手記を書いたので、私は、ありのままの事実を、正確に、人々にお知らせする必要に迫られるのである。その事件について、本当のことを知っているのは私だけであるが、それを伏せておいてはよくないときが、とうとうやって来たのだと思う。私の知る限りでは、今までそのことが公(おおやけ)に書かれたのは三度である。
最初は、一八九一年五月六日の「ジュルナル・ド・ジュネーヴ紙」であり、次は、翌日五月七日に、ロイター至急報がイギリスの各紙に掲載されて、最後が前述のモリアーティ大佐の手記である。最初のふたつはひどく簡潔な記事だったし、手記のほうは、これからお知らせするように、まったく事実をまげてしまっている。大佐の弟モリアーティ教授と、わがシャーロック・ホームズとの間に何が起こったか、真相をはじめて世に問うことは、私の義務であろう。
最初に申し上げておくが、私は結婚して間もなく開業したために、さしも親密だったホームズと私との関係も、その後はいくらかようすが違ったのである。調査に出かけるときにつれが欲しくなると、彼はよく私のところにやって来はしたのであるが、そういう機会もだんだんと少なくなって来て、一八九〇年には、私の記録にのっている事件は三つしかない。この年の冬から翌一八九一年の早春にかけて、私は、新聞で、彼がさる重要事件のことでフランス政府の仕事をしていることがわかっていたが、彼からも、ナルボンヌとニームで投函(とうかん)した手紙が届いたりして、彼のフランス滞在は長いものと思っていた。だから、四月二十四日の夕方だったが、彼がいきなり私の診察室に入って来たとき、私はずいぶんびっくりした。おまけに、彼が常にもまして青白くやせているのを見て、ただならぬものを感じたのである。
「うん、どうも体を使いすぎてしまったらしいよ」彼は、私にというよりも、私の目つきに答えて言った。「ちかごろ、少しばかり弱ったことがあるんだ。鎧戸(よろいど)をしめてもいいかい」
部屋の中の光というと、私が書見していたテーブルのランプだけなのだ。ホームズは横なりに壁ぎわをまわって行って、鎧戸をしめ、しっかりと閂(かんぬき)をした。
「何か気になることでもあるんだね」
「まあね」
「何だい」
「空気銃さ」
「おいおい、どうしたっていうんだい」
「ワトスン君、君は僕のことをよく知っているから、僕が神経質な男じゃないぐらいはわかっているだろう。同時にだ、危険が迫っているというのに、それを認めることを拒むというのは、勇敢というより、むしろ馬鹿だ。ちょっとマッチをくれないか」
彼は煙草の鎮静作用がありがたいとでもいうように、煙を吸い込んだ。
「こんなにおそくやって来てすまなかった。おまけに、もうじき裏庭の塀(へい)を乗り越えて帰ってもいいかいなんて、非常識なお願いをしなくちゃならん」
「だけど、いったいどうしたというんだい」私は聞いた。
彼は片方の握りこぶしを突き出して見せた。指の関節が二か所、皮が破けて血が出ている。
「そら、嘘じゃないだろう」と微笑した。「男が手の甲をすりむいたんだから、嘘どころじゃない。奥さんはいるのかい?」
「ちょっと知り合いに出かけて留守だ」
「しめた。じゃ、君ひとりだね」
「そう」
「そいつは話がしやすい。じつは、君、一週間ばかり大陸について来ないか」
「どこだい」
「どこって、君。僕にはどこだって同じことだよ」
はじめから、どうもおかしいところがあったのだ。ホームズは、目的なしに休暇をとるような男ではない。それに、青白くやつれた顔は、彼の神経が極度に緊張していることを、どこか物語っていた。彼は、私のいぶかしげな目つきを見てとると、両手の指先をあわせ、両肘(ひじ)を膝について、事情を説明しはじめた。
「君は、モリアーティ教授なんて聞いたことがないだろうね」
「ないねえ」
「ああァ、世の中は不可思議なところだよ」彼は声をあげる。「ロンドンじゅうをのさばる男を、誰も聞いたことがない。だからこそ犯罪史上最大のレコードもうちたてられるわけだ。ねえ、ワトスン君。まじめな話だよ。僕がもしこの男をうちのめして、社会を彼の悪業から解放することができたら、僕は自分の経歴もとうとう最高潮に達したと思うだろうし、また、もう少し平穏無事な生活に入ったっていいと思うよ。ここだけの話だがね、スカンジナヴィア王家とフランス共和国とをたすけて、ここしばらくいくつか事件を扱って来たおかげで、僕も、いちばん性に合った静かな生活をして、化学の研究に熱中してもおられるような結構な身分になったわけだ。
しかしねえ、ワトスン君、モリアーティ教授みたいな人間が、平気でロンドンじゅうをのし歩いているのかと思うと、安んじていられないんだよ、じっと腰を下していられないんだよ」
「どういうことをやったんだい、そいつは」
「異常な経歴を持った男だ。名門の生まれで、りっぱな教育も受けているし、おどろくべき数学の天才だ。二十一歳で、当時ヨーロッパじゅうにはやっていた二項定理について論文を書いた。そのおかげで、あるイギリスの小さな大学の数学教授の地位をかち得て、見たところ、洋々たる前途が開けたというわけだ。しかしこの男には、世にもまれな、極悪な性質の遺伝があった。血統的に犯罪者の血が流れていたわけだが、それは矯正(きょうせい)されるかわりに、異常な知能のためにますます増進して、この上もなく危険なものになってしまった。大学町では、暗い噂が彼の上に集まって来て、とうとう教授を辞職せざるを得なくなって、ロンドンにやって来た。そして軍人相手の家庭教師になった。というところまでは世間にも知られているんだがね、これから先は、僕が自分で探ってきたことだ。
わかっているだろうけれど、ワトスン君、僕ぐらいロンドンの高等な犯罪世界を知っている男はほかにいないよ。何年も以前から、僕は、悪事のかげに、いつも警察の邪魔をして犯人を保護してしまう、何か、深い組織力があると、しょっちゅう思っていた。何べんも何べんも……貨幣偽造事件だの、強盗だの、殺人だの……それこそあらゆる種類の事件のかげに、僕は、そういう力の存在を感じていた。そして、とくに依頼はされなかったが、そういう沢山の迷宮入り事件を推理してきた。何年もの間、そうやってそのからくりをおおっているヴェールを突き破ろうと苦労してきたんだが、とうとう糸を探り当ててたぐりよせるときがやってきて、さんざ紆余曲折(うよきょくせつ)したあげくに、やっと、この有名な元数学教授モリアーティに行き当ったという次第だ。
彼はまあ、犯罪のナポレオンだ。この大都会の悪事の半分と、そして迷宮入り事件のほとんどが、彼の手がけた仕事だ。天才だね。哲学者、理論的思索者、最高級の頭脳の持ち主だよ。巣にいる蜘蛛(くも)みたいにすわって動かない。ところがこの蜘蛛の巣は、千本も糸が張ってあって、一本ふるえてもすぐ彼にピンとくる。自分でやることはわずかなものだ。計画を立てるだけだ。しかし手先が山ほどいて、素晴らしく組織されている。ひとつ悪事を働こうということになるとする……たとえば書類をかすめて来るとか、強盗に押しかけるとか、男をひとり片づけるとかね……すると、教授にひとこと言えば、ことはちゃんと仕組まれて、さっそく実行に移される。手先がつかまることがある。そういう場合は、保釈金も弁護士料も面倒をみてやる。しかし、手先をあやつる中心人物は決してつかまりはしない。気(け)どられさえしない。こういう組織を、僕は推理してきたんだがね、ワトスン君。これをあばいて、追い散らしてしまおうと思って、僕は全精力をささげつくした。
だが、教授は非常に巧妙に工夫した護衛に取り巻かれていて、僕がどんなことをしてみても法廷で彼を有罪にできるだけの証拠が得られそうもない。ねえ、ワトスン君、君は僕の力を知っているだろう。ところが、三か月の苦労のあげくにやっと探りあてたのは、なんと、僕と同等の知能を持った対抗者じゃないか。あまりの巧妙さに舌を巻いて、彼の悪事がおそろしいと思わなくなったぐらいだ。しかし、とうとう彼はしっぽを出したよ。ほんの、ほんの少しばかりだがね……それでも、僕がこんなに彼の身辺に肉迫していたときだから、許されないつまずきだった。とうとうチャンスがやって来たのさ。そこを出発点として彼のまわりに網(あみ)を張りめぐらして、ついに今、その網を伏せる準備が完了した。三日したら、つまり今度の月曜日に、機が熟して、教授は一味の大どころと一緒に、一綱打尽(いちもうだじん)になることになっている。それから、今世紀最大の裁判がはじまって、四十以上もの迷宮事件が一挙に解決して、全員極刑だ。……だが一歩でも早まると、いいかね、彼らは最後の瞬間にでも、われわれの手の下からすり抜けてしまうかもしれないんだ。
ところで、僕はモリアーティ教授に気づかれずに仕事ができるとよかったんだがね。ところが相手もさるものだ。僕が網を張るためにとった処置をひとつひとつ見破っている。何度も何度も、懸命になって逃げてしまう。こっちはそのたびに先回りする。ねえ、君、もしこの静かなる闘いを詳細に記録することができたら、探偵史上かつてない、輝かしい、丁々発止(ちょうちょうはっし)の物語りができあがるだろうがねえ。こんどぐらい得意になったことはない。そして、こんどぐらい敵に追い詰められたこともない。深く切りつけられる。すると僕が、ほんの少しだけ深く切り返す。今朝、最後の手はずが整って、仕事を完成させるのに、もうあと三日だ。僕は部屋の中でこの事件についていろと考えていた。するとそのとき、ドアがあいて、モリアーティ教授が目の前に立っている。
ワトスン君、僕の神経は相当なものだがねえ、白状するけれど、今の今までずっと考えてきた、当の人物が戸口に立っているのだから、びっくりしたよ。彼の容貌(ようぼう)はよく知っていた。おっそろしく背の高いやせた男で、白い額が丸く突き出ていて、両の目はすっぽりとくぼんでいる。髭(ひげ)はいつもきれいにそってあり、色白で、禁欲的なようすがあって、面(おも)ざしを見ていると、大学教授らしいところが残っている。研究生活のせいで猫背(ねこぜ)になって、顔が前に突き出している。まるで爬(は)虫類(ちゅうるい)みたいに、体がいつも横にゆっくりと揺れている。彼はくしゃくしゃの目に、好奇心を満々と浮かべて僕をじっと見ていた。
『思ったより頭の悪い人ですねえ』こんなことを言うんだ。『部屋着のポケットの中で、弾丸(たま)をこめたピストルをいじくりまわすなんて、危険な習慣です』
じつは、彼が入って来たとたんに、僕は自分の体が極度の危険にさらされたことを悟った。彼に逃げ道があるとすれば、僕を黙らせること以外にない。とっさにひきだしのピストルをポケットにすべり込ませて、服の下から彼をねらっていたわけだ。そう言われて、僕はピストルを出し、打ち金を起こしたままテーブルの上に置いた。相手は相変わらずにこにこして目をぱちぱちやっていたが、その目には、ピストルがあって本当によかったと思わせるものがあったね。
『どうやら私というものをご存じないようです』と言うんだ。
『どういたしまして、よくわかっているからこそです。まァお掛けなさい。話がおありなら、五分間だけ割(さ)きましょう』
『何を言いに来たか、もうピンと来たでしょう』
『じゃ、僕の返事もピンと来たでしょう』
『あくまでやりますか』
断乎(だんこ)としてやります』
彼が手をサッとポケットに突っ込んだので、僕はテーブルのピストルをとった。しかし彼がとり出したのは、何か日付を書き込んだ手帳だった。
『一月の四日に、あなたは私の邪魔をなさった。二十三日にも迷惑なことをなさった。二月の中ごろ、ずいぶん不都合なことをなさった。三月の末に、私は計画をまったくはばまれてしまった。そして四月末の現在、あなたにうるさくつきまとわれて、ついに自由を奪われる危険が決定的になった、というところに追い込まれています。事態は今や困ったことになろうとしております』
『何か注文でもありますか』
『ホームズさん、手をお引きなさい』顔を振り立てて言うんだ。『まったくの話です、ねえ』
『月曜からさきならね』
『チェッ、チェッ。あなたぐらい物のわかる方なら、この結果がどういうことになるか、おわかりのはずだ。手を引かにゃならんのです。あんなふうになさったから、われわれとしては、頼むところはひとつしかない。あなたがこの事件と取ッ組んでいるのを見ると、なかなか知的な楽しみになりました。だから、率直にいいますが、やむなく非常手段に訴えるというのは、私も辛いのです。お笑いになるが、ほんとうですよ』
『危いのは、私にとって仕事のうちです』
『危いじゃありません。破滅は避けられないのです。あなたは、私という一個人の邪魔をしておられるだけではない。強力な組織があるのです。あなたの手際をもってしても、どれぐらい大きな組織か、まだわかっておいでにならない。身をお引きなさい、ホームズさん。さもないと踏みにじられますぞ』
『話にふけっていましたが、ほかに大事な用件がひかえておりますから』
こう言って立ち上がると、むこうも立ち上って、悲しげに首を振りながら、黙って僕を見つめていた。
『そうですか』とうとう口を開いた。『お気の毒なことです。しかし私はできるだけの事をしました。そちらのからくりは、いちいちわかっていますよ。月曜日まで手が出ますまい。ホームズさん、あなたと私の決闘でしたな。私を被告席に立たせたいでしょうが、私は決して被告席には立ちませんぞ。私を破滅させる頭がおありなら覚えておおきなさい、私だってあなたを破滅させてみせる』
『数々おほめにあずかって痛み入ります』僕は言ってやった。『こっちからもひと言お返ししておきますが、あなたをたしかに破滅させることができると思ったら、私は公衆の利益のために欣然(きんぜん)として死地にもおもむきます』
『片方は約束しますが、あとは知りません』彼はこうどなると、猫背をくるりとこっちに向けて、くしゃくしゃの目でジロジロ見まわしながら部屋を出て行った。
というのが、モリアーティ教授との奇妙な会見の顛(てん)末(まつ)だ。正直のところ、この会見のおかげで僕はずいぶん不愉快になった。猫なで声の、いやにはっきりした話しぶりで誠実な感じを与えるところなんか、ただの悪党にはできないわざだ。むろん君は、『警察に保護をたのめばいいじゃないか』と言うだろう。だが、一撃を加えに来るのが、彼じゃなくて彼の手下だということは確かだからね。たしかにそうだという、れっきとした証拠もあるよ」
「もう襲撃は始まっているんだね」
「ワトスン君、モリアーティ教授という奴は、仕事をなまけているような男じゃないよ。ひるごろ、仕事があってオクスフォード街に出かけた。ベンティンク通りからウェルベック通りに出る角を曲がったところへ、二頭立ての荷馬車が、風を切って角を曲がりざま、稲妻のような勢いで、猛然と僕を目がけて突進して来た。僕は歩道にとびのいて、間一髪で事なきを得た。荷馬車はそのまま突進して、マリルボーン小路から角を折れて、あッという間に消えてしまった。それから僕は歩道を歩くことにしたんだがね。
ところが、ヴィア通りを歩いていると、一軒の家の屋根から煉瓦が落ちて来て、僕の足許で粉徴塵(こなみじん)にくだけた。警官を呼んでその辺を調べさせたんだが、何かの修繕のために屋根の上にスレートや煉瓦が積んであるもので、警官は、風の加減か何かでくずれて落ちて来たのだと言ってきかない。むろん僕にはわかっていたんだが、証拠がない。
それが済むと、僕は辻馬車でペルメルの兄の部屋に行って、一日じゅうそこで過ごして来た。それからここへ来たんだがね、途中で、棍棒を持った暴漢に襲われた。こっちが殴り倒して警察に引き渡してやった。そいつの前歯でこのとおり拳固(げんこ)がすりむけたんだが、この先生と、今ごろ十マイルも先で黒板に向かって問題と取っ組んでいる数学の家庭教師との間に、何か関係があるなんて、絶対にわかりっこないんだよ。
僕がこの部屋に入って来て、いきなり鎧戸をしめたり、表口からでなくて、もっと目立たないところから出て行ってもいいかいなんて頼んだりしたことなんかも、なぜだか、わかってくれたろうね」
ホームズの度胸の良さに感心させられたのは毎度のことであるが、恐怖の一日であったに違いない一連の事件を、よくもこう穏かに話ができたものだと、私はいまさらのように舌を巻いたのである。
「今夜はここに泊って行くね」私は言った。
「いや、よしておこう。僕は危険な客人だよ。警察のほうは計画を立ててやったから、万事整っている。法廷では僕が必要だが、逮捕に関する限りでは、僕がわざわざいなくても良いようになっている。だから、警察が仕事をしやすいように、しばらくよそへ行っているにこしたことはないよ。そこで、君が一緒に大陸に来てくれると、これにこした喜びはないというわけなんだがね」
「診察のほうは暇だし、それに、近所に同業がいるんだ。よろこんでお供しよう」
「で、明日の朝発(た)てるかい?」
「ぜひとあればね」
「ああ、ぜひともだ。それじゃ、明日のことを言っておこう。ねえ、ワトスン君、なにしろヨーロッパじゅうでいちばんの悪党と強大な犯罪組織が相手なんだから、僕の言ったとおり、まちがいなく実行してくれなくちゃいけないよ。じゃ、いいかい。持って行く荷物は、今夜じゅうに、信用のおける使いに頼んで、無名で、ヴィクトリア駅に運んでおく。朝になったら辻馬車を呼びにやるが、ただし、最初に来た車と二番目には乗ってはいけない。つぎの馬車にとびのって、ラウザー・アーケイドのストランド街のほうに行く。行先は紙に書いて、すててしまわないように言って馭者(ぎょしゃ)に渡すんだ。車賃はあらかじめ用意しておいて、着いたらとびおりてアーケイドを駆け抜ける。反対側に出るのが九時十五分になるように加減したまえ。すると道端に、小さな四輪馬車が待っていて、襟(えり)を赤く縁どった、ごつい黒の外套を着た馭者が乗っている。これに乗ると、大陸連絡急行に、ちょうど間に合うように、ヴィクトリア駅まで送ってくれる」
「君とは、どこで会うんだい?」
「停車駅だ。前からふたつ目の一等車を借り切っておこう」
「じゃ、その車の中で待ち合わせるんだね?」
「そう」
今夜は泊って行けと、いくら言ってもホームズは承知しなかった。泊るとこの家に迷惑がかかるのを心配して、むりにも出て行ったにちがいないのだ。あくる朝のことをふた言(こと)み言、急いで言い足すと、彼は立ち上がって私と庭に出た。そして、モーティマー街に出られる塀を乗り越えると、口笛を吹いて辻馬車を呼び、それに乗って帰って行く音が聞こえた。
翌朝、私はホームズの指図に忠実に従った。辻馬車は、彼らがまわしておいたのがいるかもしれないから、用心深く最初のふたつを避けた。朝飯がすんだばかりのところを、わざわざラウジー・アーケイドに行き、ここを全速力で走り抜けた。
なるほど、四輪馬車が待っていて、黒い外套に体を包んだ、たいそう大柄な馭者が乗っていた。馭者は、私が乗り込むと見ると馬に鞭をくれて、ヴィクトリア駅へと驀進(ばくしん)した。着いて私が降りると、目もくれずに馬首をめぐらして走り去った。
ここまではうまくいった。荷物はすらすらと受け取ったし、ホームズが教えた一等車も難なくみつかった。「貸切」の札が下ったのは一台きりだったから、すぐにわかった。今やホームズの現われないことだけが心配のたねだった。駅の時計は、発車時間の七分前を指している。乗客や見送りの人混(ひとご)みを探してみたが、彼のしなやかな姿はみつからない。影も形もない。
このとき、年とったイタリア人の牧師が、赤帽をつかまえて、片言の英語で、荷物をパリまで通しでチッキにしてくれということをのみこませようと、骨を折っていたので、これを手伝って二、三分すごしてしまった。それから、もうひとまわり見渡して車室に帰ってみると、赤帽が貸切札も見ないで乗せてしまったらしく、さっきの老いぼれイタリア人が、私の旅の伴侶よろしくすわり込んでいる。彼の英語に劣らず、私のイタリア語もお粗末(そまつ)だったから、いくら違いますよと言ってみても、効き目がなかった。私はあきらめて肩をすくめ、はらはらしながら、ホームズの姿を求めて窓の外を見ていた。ふと、彼がやって来ないのは、ひょっとしてゆうべ襲われたのではないだろうかと思って、慄然(りつぜん)となった。ドアはもうみんなしまってしまった。とうとう笛が鳴った。このとき……。
「おい、ワトスン君」という声だ。「おはようも言わないんだからねえ、君は」
びっくり仰天して、私はふりむいた。老牧師が私に顔を向けている。一瞬、その顔の皺(しわ)が伸び、たれた鼻がピンと立ち、突き出た下唇がひっこんで口はモグモグをやめ、ものうい目に火がつき、曲がった背中がシャンとし、次の瞬間、すべては再びくずれ去って、現われたと同じはやさで、ホームズは消滅した。
「何だ! びっくりさせるじゃないか!」私は大声を上げた。
「まだまだ用心がいるぞ」と小声でホームズは言った。「たしかに彼らは、やっきになってあとを探しているぞ。ああ、モリアーティが来た」
汽車はもう動き出していた。チラとふりかえると、背の高い男が、物すごい勢いで群衆をかきわけながら汽車を止めてくれというように、手を振っているのが見えた。しかしもう間に合わはい。汽車はぐんぐん速度を増して、またたく間にプラットフォームを離れてしまった。
「あれだけ用心してもきわどいところだったねえ」ホームズは笑ってそう言うと、立ち上って、変装の黒い僧服と帽子を脱ぎすて、手提鞄(てさげかばん)の中に詰め込んだ。
「ワトスン君、朝刊を見たかい」
「いいや」
「じゃ、ベイカー街のことは知らないね?」
「ベイカー街?」
「ゆうべ奴らが僕の部屋に火をつけたのさ。たいした被害はなかったが」
「何だって、ホームズ! ひどいじゃないか」
棍棒(こんぼう)の男がつかまってから、僕の行方が完全にわからなくなったと見える。でなきゃ、僕が家に帰ってるなんて思いもよらなかったはずだ。しかし、彼らも用心深く君を張っていたわけだろう。モリアーティがヴィクトリア停車場に来たのはそれだよ。途中ぬかりなくやったろうね、君は」
「君の言ったとおりしたよ」
「四輪馬車はいたかい?」
「うん、待っていた」
「馭者の顔、気がついたかい?」
「いいや」
「兄のマイクロフトだよ。こういう場合だから、面倒でも、金銭ずくの馭者は信用しないほうがいいからね。しかし、差し当ってのところ、モリアーティのことをどうするか、考えなけりゃなるまい」
「この汽車は急行だし、船は連絡しているんだから、もう追っ払ってしまったのも同然じゃないのかな」
「ワトスン君、あの男が知力にかけては僕と全く同等だと言ったのが、まだわかっていないんだね、僕が追手だったら、まさかこのくらいのことで、くじけてしまうと思うのかい? そうだろう。彼を見くびっちゃいけない」
「じゃ、どう出るだろう」
「僕の考えるのと同じことさ」
「というと、どうする?」
「特別列車を仕立てるさ」
「だって、間に合うまい」
「ところが間に合う。この汽車はカンタベリーに停車する。それに、船がいつも十五分は遅れて出る。港で追いつくよ」
「まるでこっちが犯人みたいだね。彼が着いたところを逮捕してもらったらどうだ」
「それじゃ、三か月の苦心が水の泡(あわ)だ。大物はつかまっても、小物が網から逃げてしまう。月曜まで待てば、一網打尽のはずなんだからね。いけないよ、もってのほかだね」
「じゃ、どうする?」
「カンタベリーで降りよう」
「それから?」
「それから、山越えしてニューヘイヴンに出よう。そこからディエップ行きの船でフランスに渡る。モリアーティは、僕ならするということをやるわけだ。彼はそのままパリに直行して、停車場で僕らの荷物をマークして、二日間見張っているだろう。こっちはその間に、ルクセンブルグからバーゼルをまわって、ゆっくりスイスに着くとしよう。鞄(かばん)は田舎のものですませ、他の品も先々の田舎でしつらえる」
私は旅なれていたから、荷物をなくしてもたいして不便を感ずるようなことはなかったのであるが、正直のところ、モリアーティのような、言語に絶する破廉(はれん)恥漢(ちかん)のおたずね者に、逃げかくれしなければならないと思うと、ひどくむしゃくしゃしたのである。しかしホームズのほうが事態をよく見きわめていることは明らかだった。そこで、われわれはカンタベリーで汽車を降りたが、なんと、ニューヘイヴン行きには一時間もあると言う。
私の衣類を積んでぐんぐん遠ざかって行く列車を、うらめしい思いで見送っていると、ホームズが袖(そで)を引いて線路のかなたを指さした。
「ほら、もう来たよ」
はるか遠くの、ケント州独特の森の間に、煙がかすかに立っていた。と見ると、一台の客車をひっぱった機関車が見え出し、駅の手前のカーヴをとんで来た。あわてて荷物の山のかげに身をかくすと、列車は轟然(ごうぜん)として通過し、熱気が顔に吹きかかった。
「いたいた!」ポイントの上でガタガタグラグラ揺れ動く客車を見つめながら、ホームズが言った。「やっこさんの知恵も知れたものじゃないか。僕の推論どおりに推論して、そのとおりに行動していたら、それこそ大手柄だったろうにねえ」
「追いついたら、どんなことをしたろうね」
「僕を殺しにかかって来たろうことは、疑いの余地がない。なあに、その手で来るならこっちだって黙っているものか。ところで、さし当たって、少し早いがここで昼飯を食って行くか、それとも、ニューヘイヴンの食堂に着くまですき腹をかかえることにするか、どうしようね」

その夜われわれはブラッセルにおもむき、そこで二日を過ごし、三日目にはストラスブールまで来た。月曜の朝、ホームズはロンドン警視庁に電報を打ったが、夕方ホテルに帰って来たとき、返事が着いていた。ホームズは封を切って目を通すと、いまいましげに暖炉の中にたたきこんだ。
「わかったはずだったがなあ」彼はうなった。「彼は逃げた」
「モリアーティが!」
「一味は残らず捕えたが、彼だけ取り逃したそうだ。うまくまかれたらしい。むろん、僕がいなくなったから、誰も彼に太刀うちできなかったわけだが。しかし、ちゃんと勝ちを手中に授けて来てやったんだがなあ。ワトスン君、君はイギリスに帰ったほうがいいよ」
「どうして」
「こうなると、僕は物騒な道連れだからねえ。あの男は仕事はとりあげられてしまった。ロンドンに帰れば破滅だろう。僕の観察どおりの男なら、きっと彼は、全精力を集中して僕を復讐にくるよ。例の会見のときにもそう言っていたが、本気だろう。君は患者さんのところに帰ったほうがいい」
彼は、長い経験と長い友情の上に立って、いっかな私の請いをいれようとしなかった。ふたりでストラスブールの食堂に三十分もすわり込んで、この問題を論じあった。しかしその夜、われわれは再び旅にのぼり、元気にジュネーブへと向かった。
一週間のあいだ、ふたりは楽しくローヌ河をさかのぼってさまよい歩き、ロイクで横にそれて、まだ雪深いゲミ峠をこえ、インターラーケンを経てマイリンゲンにやって来た。楽しい旅路だった。下界は春の緑、頭上に冬の処女雪。だが、ホームズは心によぎる影を片時も忘れはしなかったのだ。ひとなつこいアルプスの村々を通るときも、人里離れた峠道を歩くときも、行きあう人ごとにあの素早い一瞥(いちべつ)をくれて、鋭い穿鑿(せんさく)を怠らなかった。どこにいても、犬のようにわれわれのあとをつけて来る危険から解放されることはできないと、固く信じていたにちがいない。
こういうこともあった。ゲミ峠をこえたとき、もの寂しいダウベン湖のほとりで、右手の峰から巨大な石がひとつ、ガラガラと落ちて来て、音を立てて背後の湖中に転げこんだ。とっさにホームズは峰にかけ上がって、そそり立つ頂上から八方に頚(くび)をのばした。彼は、案内人が、この辺は春になるとよく石が落ちて来るのだと、いくら説明しても承知しなかった。彼は何にも言わず、ただ、まるで期待したことが起こった満足を感じている人のように、僕をかえりみてほほえんだ。
しかもこんなに神経をとがらせてはいたが、元気を失うことは決してなかった。それどころか、彼があんなに元気横溢(おういつ)して見えたことはかつてないほどだった。そして、世の中がモリアーティから解放されることが確かならば、よろこんで死地にも赴(おもむ)くであろうと、繰り返し話してきかせた。
「ワトスン君、僕は自分の一生が、あながち役に立たなかったわけでもないと言っていいと思う。今夜で僕の一生が終りになるとしても、自若(じじゃく)として死んでいけるだろう。僕のおかげでロンドンの空気は清らかになっている。千以上もの事件を扱ってきたけれど、自分の力の誤った使い方をした覚えは一度もない。このごろ僕は、人工的な社会の状態のせいで起こっている表面的な事件よりは、造化がもたらす問題を解いてみたいと思うようになっている。あのヨーロッパ最大の険呑(けんのん)な犯罪者をつかまえるか、息の根を絶やすかして、僕の経歴が絶頂になったところで、君の回想録も終局を結ぶことになるだろう」
もう書きつづることもあまりなくなった。手短かに書こう、できるだけ正確に。心すすまぬわざではあるが、遺漏(いろう)なく事の次第を述べることは、私の双肩にかかった義務である。
マイリンゲンという小さな村に着いたのは、五月の三日のことであった。われわれが宿をとったのは「英国屋旅館」という宿屋で、亭主はピーター・シュタイラーと言った。発明な男で、ロンドンのグロヴナー・ホテルで二年ばかり給仕をつとめたことがあるそうだが、英語を上手にこなした。この男のすすめで、あくる四日の午後、山越えをしてローゼンラウイという村落に泊るつもりで出かけたが、途中で少し山手に回り道して、ライヘンバッハの滝を是(ぜ)が非(ひ)でも見て来なさいと言われた。
それはまったくおそろしいところだった。滝は雪どけ水で水かさが増して巨大な深淵になだれ込み、飛沫(ひまつ)が火事場の煙のようにもくもくと巻き上がっていた。ひとつの河が、輝く漆黒の岩の壮大な割(さ)け目を落下して狭(せば)まり、沸きかえり煮えかえる、はかり知れない深さの滝壷におどり込んでは、鋸(のこぎり)の歯のような滝壷の縁(ふち)からあふれ出て、矢のように流れて行くのだ。碧(あお)い水は轟然(ごうぜん)として永遠に流れおち、濃くたちこめた飛沫(ひまつ)のゆらめくカーテンは、颯々(さつさつ)として永遠に高く舞い上がって、そのやむことを知らぬ渦流(かりゅう)と叫喚(きょうかん)が、人をして目くるめく思いを催させるのだ。
われわれは、黒い岩を背にして断崖に立ちすくんで、はるか足下に、砕ける水のきらめきをのぞき込み、飛沫とともに深淵からうなりのぼって来る、人間の声にも似た怒号に聞き入った。
滝の全容が見られるように、滝をめぐって道が切り開かれていたが、中途で急に行きどまりになっていて、見物人はもと来た道をひき返すようになっていた。そこでわれわれは踵(かかと)をめぐらしたが、このとき、一通の手紙を手にしたスイス人の若者が駆け上がって来るのが見えた。便箋(びんせん)には、われわれが泊った宿屋のマークがついていて、亭主から私にあてた手紙だった。われわれがたつとすぐ、結核で見込みがなくなったイギリスの婦人が到着したようすで、ダヴォス・プラッツで冬を過ごして、ルツェルンの友人のところに向かう途中だったが、突然喀血(かっけつ)したというのである。どうせ数時間の命であろうが、せめて同郷の医者の見舞いを受ければ大いに慰められるだろうから、もしお戻りいただけるならば、云々(うんぬん)、という次第。善良なシュタイラーは、さらに追い書きをして、彼女がスイス人の医者はいやだと言い張っており、自分としても非常な責任を負わされたように感じざるを得ず、あなたが同意してくれればどんなにかありがたいのだが、と言っていた。これは放っておくことのできない哀願だった。異郷で死にかかっている同国人の頼みを断わるわけにはいかない。
ただ、私はホームズをおいていくことが気になった。結局、ホームズは、私がマイリンゲンに戻っているあいだ、スイスの若者に、案内人兼同伴者として残っていてもらうことに話が決まった。彼はもうしばらく滝のところにいてから、ゆっくりと山越えしてローゼンラウイに行くから、夜、そこで落ち合うことにしようと言った。ホームズは、腕組みして岩に背をもたせ、じっと滝を見下していた。これがこの世で彼の見おさめになってしまったのである。
坂道を下りきるところで、私はふり返ってみた。そこからは滝は見えなかったが、山の肩をぐるぐると登って滝に至る曲がり道が見えた。その道を、ひとりの男が非常な速さで登って行くのが見えた。この黒い人影は、向こうの山の緑を背にして、くっきりと浮かんで見えた。何というエネルギーだろうと思いながら、その登って行く人影を心にとめたのだったが、道を急ぐうちに、それきり忘れてしまっていた。
マイリンゲンまで、一時間あまりかかったと思う。シュタイラーは宿の入口のところに立っていた。
「どうですか、患者はおちついているでしょうね」急ぎ足で歩み寄りながら私は言った。
彼は、ヘエ? という顔をした。刹那(せつな)に、私は愕然(がくぜん)となった。
「君が書いたのじゃないのですか、これは」私はポケットの手紙をひっぱり出した。
「イギリス人の病人はいないんですね?」
「いませんとも」彼は叫んだ。「しかし便箋にうちのマークがついてますね。あ、そうか、あの背の高いイギリスの方ですよ。皆さんがお発ちになったすぐあとにお着きでした。なんでも……」
亭主の説明など聞いてはいなかった。心配で胸をときめかせながら、私はもう駆け出して村を去り、たった今下ったばかりの山道に向かった。下りに一時間かかった道である。全力を尽したが、二時間も余計にかかって、やっとライヘンバッハの滝にたどり着いた。別れたときの岩に、ホームズのアルペンストックが立てかけたままだった。しかし彼の姿はどこにもなく、どなってみたが答えはなく、ただ、まわりの絶壁に当って、自分の声がこだまするだけだった。
私を慄然(りつぜん)とさせ、胸ふたがらせたのは、目に入った、あのアルペンストックだった。すると、彼はローゼンラウイへは行かなかったのだ。あの三フィートの小道。片側は絶壁、他の側はけわしい谷になっているところにいたわけで、とうとう敵に追いつかれてしまったのだ。若いスイス人もいなくなっていた。おそらくモリアーティに金でも握らされて、二人を残していったのであろう。すれば、何が起こったろうか。そのときいかなることが起こったかは知る由(よし)もない。
私はしばらく立ちつくして心を静めた。ことの重大さに、茫然(ぼうぜん)としてしまっていたからだ。やがて私は、ホームズのやり方を思い出して、この悲劇の跡をたどる努力を始めた。悲しくも、それはたやすいことだった。私は彼と道の行きどまりまでは行かなかったし、アルペンストックが、ふたりで立っていた場所のしるしになった。黒っぽい道の土は、たえまなく漂う飛沫(ひまつ)によって永遠に柔かく、鳥がおり立っても足跡が残るにちがいなかった。そこに、ふた筋のはっきりした靴跡が、行きどまりまで続いていた。ふたつともここから先へ続いていて、いずれも引き返してはいなかった。そして、行きどまりの数ヤード手前のところで、土は踏み荒されて一面の泥田になり、かたわらの崖っぷちに生えた茨(いばら)と羊歯(しだ)が、ちぎれて泥まみれになっている。私は腹ばいになって、吹き上げる飛沫にぬれながらのぞきおろしてみた。村におりて行ったころからもう暗くなりはじめていたのだが、今はもう、そこここにしめってギラギラと光る黒い岩と、はるか下の滝壷に砕けてほの白く光る水とが見えるばかりだった。私は叫んでみた。けれども、耳にかえって来るのは、あの人間の声にも似た滝の音ばかりだった。
それでも結局、私は親友シャーロック・ホームズの最後の挨拶だけは、受けられる定めだったのだ。彼のアルペンストックが、道につき出た岩に立てかけられていたことは前述のとおりであるが、この岩の上に、何か光っているものが目についた。手をさしのべてみると、それは彼が愛用していた銀の煙草入れだった。とり上げてみると、その下に置いてあった小さな四角い紙きれが、ひらひらと地面に落ちてきた。手にとってひろげてみると、ノートをちぎって三ページ分に、私にあてて書いた手紙だった。彼にふさわしく、まるで書斎で書いたように、文句は詳細で、字もしっかりと、はっきり書かれてあった。


ワトスン君
モリアーティ氏の好意でこれを書いているそばで、彼は、われわれの間に横たわる問題について最後の討論をするために、僕の手があくのを待ってくれている。いま、彼がいかにしてイギリス官憲の目をさけ、またいかにして僕らの行動について情報を得て来たかを、教えてくれたところだ。やはり僕の評価どおり、彼が高度の知力を持っていたことがわかる。彼の存在によってこうむるこれ以上の迷惑から、社会を解放することができるのだと思うと、僕は満足を覚える。もっとも、その代償として、友人たち、ことに君に対して苦痛を与えるのではあるけれども。しかし君に言っておいたように、どのみち僕の経歴は来るところまで来たのだし、その幕を閉じるのに、これ以上僕の性に合った方法はあり得ない。
実際、ありていにいうと、僕はマイリンゲンからの手紙が偽物だということははっきりわかっていたし、君が行くことに同意したのも、こういうことになるのを固く信じたからこそだったのだ。パタースン警部に、一味の裁判に必要な書類はモリアーティと表書きした青封筒に入れて、分類棚のMの部に置いてあると伝えてくれたまえ。財産は、くにを出る前にすべて処理して、兄のマイクロフトにやってきた。では、奥さんにどうかよろしく。さようなら
シャーロック・ホームズ


あとは、残ったところを少しばかり付け加えればたりよう。その筋の調査によって、ふたりはこんなところでやればごく当り前なことだが、取っ組みあったまま、もんどりうってころげ落ちてその闘争の幕を閉じたもの、と見て間違いなかろうということになった。死体収容の望みは全く断たれてしまい、一世の犯罪王と破邪(はじゃ)の戦士とは、永遠に、その逆巻く水と沸き返る泡の恐ろしい大釜(おおがま)の底深く横たわることとなったのである。
スイス人の若者は二度と現われなかったが、モリアーティの数多い手下のひとりだったことは、疑いの余地がない。一味のことについては、ホームズの積みあげた証拠が、いかに完全に彼らの組織を白日の下にさらしたか、そして亡き彼の手が、彼らの頭上にいかに完璧な制裁をもたらしたか、世の記憶に新しいところであろう。裁判中、首魁(しゅかい)モリアーティについて世に明らかにされることが少なかったが、いま私があえて彼の閲歴(えつれき)を開陳(かいちん)するゆえんのものは、私の最も良き、最も賢明なる友人に対して攻撃を加え、もってモリアーティの記憶を深からしめんと努めるがごとき、愚かなる擁護者たちに応(こた)えんがためである。(完)
[翻訳 鈴木幸夫 (C)Yukio Suzuki]
「ホームズの回想」解説

一般の読者にとって、作中人物の名前のほうが作者の名前より親しみがあり、また有名であるということは、むしろ作者の名誉であるだろう。ロビンソン・クルーソー、ガリヴァーがそうであり、ドン・キホーテも、あるいはハムレットもそうであるかもしれない。シャーロック・ホームズに至っては、まさに作者のコナン・ドイルを圧倒して、あたかも作者以上に実在の人物と考えられてさえもいる。この架空の名探偵を実在の人物に仕立て上げて喜んでいる人々もあるくらいである。
シャーロック・ホームズは数ある英文学の中でも、最も有名な名前のひとつであり、ネルソン記念碑とかロンドン塔と同じように、この名前は新しい象徴として英語の永久的な一部を占めるであろう。
作者のアーサー・コナン・ドイルは一八五九年五月二十二日にエディンバラのピカーディ・プレイスに生まれた。父はチャールズといい、労働省の一小官吏であり、母はメアリといった。チャールズの父、つまりコナン・ドイルの祖父に当るジョン・ドイルは絵心があって、一八一五年にアイルランドの首都ダブリンからロンドンに出てきて、H・Bなる署名で政治的な風刺漫画を描いて名があった。チャールズの兄弟、リチャードも「パンチ」の表紙を描いたりしている。コナン・ドイルの父チャールズも芸術家的な血統を受けていたと見えて、小官吏としては芸術的で非実際的であり、年収二百四十ポンドを越えたことがなく、家族の養育はもっぱら妻と娘たちの手に頼っていたらしい。
ドイル家はもとアングロ・ノーマンの出で、熱心なカトリック信者であった。コナン・ドイルは九歳でホッダーなるカレッジへの予備校で、厳格なジェスイットの教育を受けた。この七年間、ランカシャーの大きなローマ・カトリックのパブリック・スクール、ストウニハーストで、主として幾何、代数、古典を学んだ。しかしドイルはやがて教会から離れてしまった。一か年オーストリアのフォラスルベルグ県にあるフェルトキルシュというジェスイットの学校にいて、のちエディンバラ大学の医学生となった。一八七六年のことである。
この医学生であったあいだ、ドイルの作中人物のモデルとなった人がふたりある。ひとりはラザフォード教授で「失われた世界」「毒ベルト」「霧の土地」に出てくるチャレンジャー教授のモデルとなり、いまひとりは、エディンバラ大学付属病院の外科医ジョウゼフ・ベルである。このベルこそ、わがシャーロック・ホームズのモデルとなった人であった。ベルをモデルにしたホームズという名は、当時の有名なクリケット選手と、アメリカの医学者であり文人であったオリヴァ・ウェンデル・ホームズの名前とを結びつけたものであったと言われている。
ドイルの文体に影響を与えたのはラテンの歴史家タキトゥス、イギリスでは『ガリヴァー旅行記』の作者スウィフト、詩人ポウプのホメロス訳、随筆家アディスンが創刊した雑誌「スペクテイター」のエッセイ等である。
一八八一年に大学を卒業、医学士となったが、アルバイトをしながらの苦学であって、捕鯨船に乗りこんだこともある。
卒業後船医として西アフリカへ航海したが、このときの経験は『スターグ・マンロウ書簡』とか『ポウルスター号の船長』などの作品に生かされている。
父が死んでから、ポーツマスに居をおいて開業医を始めたが、いっこうに繁盛しなかったらしく、このころからぼつぼつ小説、それも歴史小説の筆をとり始めている。歴史小説としては『マイカ・クラーク』『ホワイト・カンパニー』『ロドニー・ストーン』等、見るべきものがあるが、コナン・ドイルの名声を一躍高めたものは、言うまでもなくシャーロック・ホームズものであった。
しかし、ドイルの探偵小説はその初めから幸運であったというわけではない。最初の『緋色(ひいろ)の研究』はあちこちの出版社で相手にされず、ようやくウォード・ロック社が二十五ポンドで版権を買ってくれた。これが刊行されたのは一八八七年である。『四つの署名』はアメリカのリッピンコッツ・マガジンの注文で書かれ、八九年に単行本になった。
歴史小説で一応成功的に見えたものの、ドイルはなお医業を捨てるほど大胆になれず、ウィーンで眼科の研究を半年ばかりしてから、ロンドンに出て開業した。しかし依然、彼の医院は流行(はや)らなかった。患者を待つ暇々に、ドイルは短編探偵小説を書き、それが一八九一年七月号の「ストランド・マガシン」を最初として、つぎつぎに発表されていった。『シャーロック・ホームズの冒険』『回想』等の短編がそれである。同年の八月に至って、ドイルは医業を断念、小説に専念する喜びを感じたと言っている。
シャーロック・ホームズものの成功はここに改めて言う必要はない。フランスのガボリオーによってプロットを会得(えとく)、アメリカのポオによって、デュパン型の名探偵を教えられた。そのあざやかな推理的知力はまさしくデュパンの再生であるが、ドイルはワトスン博士という記述者を生み出している。
探偵小説の読者は、ワトスンの記述を通してホームズの活躍に胸おどらせるわけであるが、ドイルは読者を楽しませる探偵小説の鉄則を心得ていた。つまり、ワトスン博士の思考は読者のそれに劣ることによって、難解な事件を前にして、読者はワトスンに知的優越感を感じさせられる。そのあげく、ホームズという超人的名探偵の推理に、あざやかに驚嘆させられるという仕組みである。
第一短編集『シャーロック・ホームズの冒険』には十二編収められているのに、この『回想』では十一編となっている。はじめ十二編の予定であったが、うち一編が残酷な話を扱っているという理由で、単行本にまとめる際に削除されたのであった。しかしこの話は、「ボール箱」として、本来『回想』の第二話になるはずのものであったが、のちの短編集『最後の挨拶』に収載されている。
ドイルは一八八五年、ルイーザ・ホーキンズと結婚したが、彼の文名が高まるに反して、夫人の健康は思わしからず、胸を病んで、スイスに転地療養をするに至った。ドイルはこれに同伴したので、雑誌にホームズものの連載をいちおう打ち切る必要にせまられた。本書の最後の話、「最後の事件」は連載を中止するためにドイルが考えた事件で、ここでシャーロック・ホームズは行方不明になっている。明確に死んだとしていないのは、ドイルにのちにホームズ物語を書きつぐ意志があったからであるかもしれないが、事実、読者の要求にこたえて、ドイルは再びホームズ探偵譚(たん)を書きつぐことになった。第三短編集『シャーロック・ホームズの生還』の巻頭を飾る第一話は、ホームズの再生を遺憾(いかん)なく説明してくれるものである。
夫人の病気が快方に向ってからエジプトを旅行、このとき「ウェストミンスター・ガゼット」の従軍記者となってエジプトの動乱を報道している。一八九九年から一九〇二年に至るボーア戦争では軍医として功があり、一九〇二年にサーの称号を得るとともにサレーの副総督に任命された。
最初の夫人は一九〇六年に病没。翌七年にジェイン・レッキーと再婚。第一次大戦には政府の命でフランスおよびイタリア戦線を巡視。そのイギリス部隊の報告記録をものしている。この大戦で息子のキングズリーがソンムの激戦で負傷、肺炎で死んで以来、ドイルは心霊術に没頭、一九二〇年七月七日の死に至るまで、その弁護と宣伝とに敢闘していたのである。
コナン・ドイルにはSFの古典『失われた世界』の他、歴史小説等多くの著作がある。しかし、それらが失われても、シャーロック・ホームズ物語が存する限りはコナン・ドイルの名声は、ホームズとともに不朽であるだろう。事実、ドイルが死んでのち、息子のエイドリアン・コナン・ドイルと現在一流の探偵小説家であるジョン・ディクスン・カーとの合作によって、シャーロック・ホームズを主人公とする短編が書きつがれ、新生ホームズ第一短編集はやはり十二編を集めて、一九五四年、『シャーロック・ホームズの手柄』として出ているのを見ても、シャーロック・ホームズの人気が依然、衰えていないことがわかるであろう。(鈴木幸夫)

「生還」目次

空家の怪事
ノーウッドの土建屋
ひとり自転車を走らせる女
プライアリ学院
踊り人形
ブラック・ピーター殺し
奸賊ミルヴァートン
六個のナポレオン
三人の学生
金縁の鼻眼鏡
スリー・クォーターの失踪
アビ農場の屋敷
第二のしみ
「ホームズの生還」解説

空家の怪事

一八九四年の春のことだったが、ロナルド・アデア卿がまことに異様な不可解な殺され方をしたというので、ロンドンじゅうが興味にわきたち、社交界は大恐慌をきたしたものである。警察の捜査で明らかになった事件の詳細は、すでに世に知れわたっている。ただ、その際、検察側の言い分が圧倒的に強力で、事実がきわめて明白だったので、全事実の公表は不必要であるとして、かなりの部分が発表をおさえられたのだった。
以来十年近くにもなる今になって、ようやく私は、あの異常な事件の全貌を浮かび出させるのに必要な、秘められた事実の発表を許されたのである。確かにあれはもともと興味ある事件だった。けれど、その興味も私にとっては、続いて起こったあの信じがたい出来事に比べたら、何ほどのことでもないようなものであった。ずいぶん冒険的だった私の一生にも、あれほど思いがけない驚きを受けたことはまたとなかったのである。こんな長い年月を経たあとなのに、いま思い出してもわくわくしてきて、あの突然あふれて私の胸をひたしてしまった嬉しさと驚きといぶかしさとがよみがえるのを覚える。
あるきわめて非凡な人物の思想と行動に関して、ときおり私が書いてきた片影に、少しでも興味をよせて下さった方々にお断りしておくが、私があることを今まで皆さんにお知らせしなかったのを、どうか責めないでいただきたい。彼が私に固く口止めをしさえしなかったなら、何をおいてもお知らせしなければならないはずだったのであるから。なにしろ、口止めを解かれたのが、つい先月の三日のことなのである。
お察しでもあろうが、シャーロック・ホームズとの親交のおかげで、私は犯罪にひどく興味をもつようになって、彼が失踪(しっそう)してからも、世に明らかにされる様々な事件は、決して逃さず丹念に目を通していたし、無論いずれもうまくできたとは限らないが、ただ自分だけの満足のために、ホームズの方法をまねて問題を解いてみようとしたことも一度ならずあった。しかしその中でも、このロナルド・アデア卿の悲劇ほど、私の心をとらえた事件はなかった。審問(しんもん)では、ひとりか、あるいは数名の不明の人物による故殺(こさつ)という評決にゆきついたのだが、その証言を調べてみて、シャーロック・ホームズの死が社会にとってどれほど大きな損失だったかを、私はかつてなくはっきりと思い知らされたのだった。この不可解な事件には、きっとホームズの興味を大いにそそったと思われる点が、いくつもあった。そうなれば、あのヨーロッパ第一の私立探偵の訓練を積んだ観察力と鋭敏な頭脳は、警察の努力をおおいに補うところがあったに違いなかった。いや、おそらく、もっと先を越していたに違いない。
一日じゅう、患者を往診にまわりながら、私は事件のことばかり思いめぐらしていたのだが、自分でも納得できるような解釈には、ついに達することができなかった。語り古された話になるかも知れないが、とにかく、結審までに一般に知られただけの事実を、かいつまんでお話ししておこう。
ロナルド・アデア卿は、当時オーストラリア植民地のひとつで知事をしていたメイヌース伯爵(はくしゃく)の次男坊であった。アデアの母は《そこひ》の手術のために帰国中で、令息ドナルドおよび令嬢ヒルダとともに、パーク・レイン四二七番地に逗留(とうりゅう)していたわけである。そこで青年ロナルドは最上流の社交界に移ったのだが、知られている限りでは敵もなかったし、これといって不行跡をはたらいたこともなかった。カーステアズのイーディス・ウドリー嬢と婚約の間柄だったのだが、数か月前に双方の同意のもとに破談となっていた。しかし、これには別段深い感情問題が尾を引いている徴候はなかった。
ほかには、静かな人柄で、感情的な性質ではなかったから、交際は範囲も狭く、しごくありきたりなものだった。しかもこの呑気(のんき)な青年貴族の上に、思いがけない、不可解きわまる形で、死が訪れたのである。
それは一八九四年三月三十日の夜、十時から十一時二十分までの間のことであった。
ロナルド・アデア卿はトランプが好きで、たえまなしにやっていたのだが、自分の身にかかわるような賭(かけ)勝負は決してやらなかった。ボールドウイン、カヴァンディッシュ、バガテルと、三つのトランプのクラブの会員だったが、彼が殺された日にはバガテル・クラブで、夕食後にホイストの三番勝負をやったことがわかった。午後にもそこで勝負をしていた。相手をした人たち……マリ氏、ジョン・ハーディ卿、モーラン大佐の三人……が、ゲームはホイストで、勝負はほとんど互角(ごかく)だったと証言した。アデア卿は五ポンドばかり負けたかもしれないが、それ以上ではなかった。彼には相当な財産があったから、これくらいの負けで心にこたえることは少しもなかった。彼は毎日のように出かけて、三つのクラブのどこかでトランプをやっていたが、慎重な勝負をやったから、たいがい勝ち手にまわった。証言ではまた、数週間前に彼がモーラン大佐と組んで、ゴドフリー・ミルナーとバルモラル卿の組から、一席で四百二十ポンドも勝ったことがわかった。彼の事件直前の行動については、これだけのことが審問で明らかになった。
事件の当夜、彼はちょうど十時にクラブから帰宅した。彼の母と妹は外出して、さる親戚(しんせき)で一夕(いっせき)を過ごしていた。女中は、卿がふだん彼の居間にしていた三階正面の部屋に入って行くのが聞こえた、と証言した。彼女はその部屋の暖炉に火を入れておいたのだったが、くすぶったので窓を開けておいた。
十一時二十分にメイヌース夫人と令嬢が帰宅したが、それまで、その部屋からは何の物音も聞こえなかった。夫人はお休みを言おうと思って、令息の部屋に入ろうとした。ドアは内側から鍵がかかっていて、皆で大声で叫んだり叩いたりしてみたが、応答がなかった。助勢を得て、ドアを押しあけた。悲運の青年は、テーブルのかたわらに横たわっていた。拳銃弾で、頭部がおそろしく大きく砕(くだ)かれていたが、部屋の中には凶器らしいものはひとつも見当たらなかった。
テーブルの上には十ポンド紙幣が二枚と銀貨金貨とりまぜて十七ポンド十シリングだけ、いくつかの違った金額の小山に分けて置いてあった。紙が一枚、それに数字がいくつか書き込んであり、それらに対して、それぞれクラブ友だちの名がついていた。それで、彼が殺される前にゲームでの勝ち負けの金高を計算していたものと推定された。
状況を詳細に調べると、事件はますます複雑になるばかりだった。まず、青年がなぜドアに鍵をかけておいたのか、その理由がつかめなかった。犯人が鍵をかけておいて窓から逃走したと考えられないことはないが、飛びおりるとすれば三階は地面から二十フィートもあって、真下の花壇にはクロッカスの花が一面に咲いているのに、花も土もまるきり乱されていない。建物と道路を仕切っている細長い草地にも足跡はない。だから明らかに鍵をかけたのは被害者自身なのだ。
とすると、いったいどんなふうに死に直面したのだろう。誰かが痕跡(こんせき)を残さずに窓によじのぼったということは考えられない。すると窓ごしに射たれたのか。拳銃の一発で致命傷とは、たいした名人である。それに、パーク・レインという道は人通りが多いのだし、家から百ヤードと離れていないところに貸馬車のたまりがある。それなのに、誰も銃声を聞いていない。しかも、現(げん)に人が死んでおり、拳銃弾が出てきたのだ。ダムダム弾はそうなるのだが、弾の先が茸(きのこ)状にひしゃげて、大きな傷を負わせている。きっと即死だったに違いない。これがパーク・レインの怪死事件のあらましである。
すでに述べたように、この青年アデアには敵もなく、部屋の中の金や貴重品にも手をつけていないのだから、まったく動機がわからなくて、事件はますます複雑怪奇であった。
こうした事実を、私は一日じゅう、心に浮かべて思いめぐらしていた。何とかして、これらの事実のすべてにぴったりと適合する仮説が立てられないものか、また何とかして、亡友シャーロックがつねづね、あらゆる捜査の出発点であると言っていた、いわゆる最少抵抗の線が見出せないものか。
だが、正直に言って少しもはかどらなかった。
夕方になって、私はぶらぶらとハイド・パークを抜け、六時頃には、パーク・レインのオクスフォード街側のはずれまで来ていた。歩道に、一群の閑人(ひまじん)が立っていて、みながみな、あるひとつの窓を見上げているので、目ざす家がどれであるか、すぐにわかった。たしかに私服刑事だと思われる、色眼鏡をかけた痩(や)せぎすののっぽが、事件について私見を述べたてているのを、人々が取り囲んで聞き入っていた。私はできるだけ近寄ってみたが、話にもならない所見ばかりのようだった。
そこでいささか厭気(いやけ)がさして、そこを離れようとしたとき、後ろにいた不恰好(ぶかっこう)な老人にぶつかって、老人の手にしていた数冊の本を、はたき落してしまった。それを拾って返しながらふと見ると、そのうちの一冊が『樹木崇拝の起源』という本だったのを覚えている。そして私は、老人が貧乏な愛書家か何かで、商売か趣味か知らないが、稀覯本(きこうぼん)を蒐集しているのに違いないと思って驚いたのだった。私はしきりに不始末を詑(わ)びたのだが、運悪く私に虐待(ぎゃくたい)をうけたこれらの書籍は持ち主の老人にとってどうやらひどく貴重な品物であるらしかった。じゃけんに罵(ののし)りながら、踵(くびす)をめぐらして立ち去ってしまった。その曲がった背中と白い頬髯(ほおひげ)が人ごみの中に消えて行くのを、私は見送った。
私のパーク・レイン四二七番地の視察は、興味を抱いていたこの事件に、何ら解決の糸口をもたらさなかった。建物と往来の間は、手すりを入れて高さ五フィートを出ない低い塀(へい)で仕切られていた。だから、庭に入って行こうと思えば、誰でも易々(やすやす)と入ることができた。しかし件(くだん)の窓によじのぼるのは全く不可能だった。雨樋(あまどい)も何もなくて、よほどはしっこい人間でも、とっつきようがなかった。私はますますわからなくなって、ケンジントンの家にとって返した。
書斎に入って五分ばかりたった頃、女中が入って来て来客を告げた。驚いたことに、それはほかでもない、あの奇妙な老書籍蒐集家だった。抜け目のなさそうな、しなびた顔を白毛に囲まれた中からのぞかせ、右の腋(わき)の下にはおよそ一ダースもの貴重な書籍をぎっしりと抱えこんでいた。
「びっくりなさいましたな、私をご覧になって」
老人は妙なしゃがれた声を出した。私はそうだと答えた。
「いやあ、良心がとがめましてな。あなたの後ろからトコトコやって来たら、この家に入りなさるのを見かけたもんで、これはひとつ立ち寄って、あの親切なお方にご挨拶しておこうと思いましてね。先ほどは、どうも無愛想なことをしましたが、何も悪気があったわけじゃありません。それから、わざわざ本を拾って頂いたりして、ありがとうございました」
「なあに、あんなことをわざわざそんなに。それにしても、どうして私のことをご存知でしたか」
「それがあなた、無躾(ぶしつけ)ながら、私はこのご近所の人間でしてな。チャーチ通りの角で、ちっぽけな本屋をいたしておりますから。どうかひとつ、今後ともごひいきに願いたいもんで。こちらも蒐集なさっとられるようですな。これは『英国鳥類』ですな。これは『カタラス詩集』、これは『神聖戦争』……みな掘り出しものばっかりで。あと四、五冊あれば、二段目の棚のすきまはいっぱいになりますな。あれでは折角のものが映(は)えませんようで」
私は首をねじって後ろの飾り棚を見た。向き直ると、シャーロック・ホームズが机の向こうに立って、にやにやと私を見ていた。私は思わず立ち上がると、数秒間、茫然(ぼうぜん)と彼を見つめていたが、生まれてこのかた、後にも先にもたった一度の気絶をやらかしたらしい。たしかに灰色の靄(もや)のようなものが目の前をぐるぐる渦巻いていたのだが、それが消えてみると、カラーがゆるめてあり、口のあたりがブランデーの後味でひりひりしている。ホームズがブランデーの壜(びん)を手にして、椅子の上から私をのぞきこんでいた。
「いやあ、ワトスン君」
なつかしいホームズの声だ。「まったく済まなかった。こんなにショックを与えるとは思わなかったんだ」
私は彼の袖をつかんだ。
「ホームズ! ほんとうに君なのか。よくまあ生きていたねえ。いったい全体どうやって、あの恐ろしい谷底から登って来たんだい」
「まあ待ちたまえ。もう大丈夫、じっくり話ができるようになったかい。あんな芝居がかった現われ方をしたりなんかして、ひどくびっくりさせてしまったからね」
「いや、大丈夫だ。しかしまったくのところ、自分の目を疑うねえ、ホームズ君。実際、君が……人もあろうに君がだよ……僕の部屋に立っているなんて」
私はもういちど彼の袖をつかんで、服の上から細い筋肉質の腕をまさぐった。
「ああ、どうやら幽霊じゃないようだ。ねえ君、嬉しいよ、僕は。掛けてくれたまえ、そしてあの恐怖の断崖からどうやって生きて帰って来たか、聞かせてくれたまえ」
彼は私と向きあって腰をおろすと、昔どおりのさりげなさで巻き煙草に火をつけた。服はみすぼらしいフロックのままだが、彼を今まで古本屋に見せていたものは、もう、つけ毛の白い毛も古本も、机の上に山にして積んであった。ホームズは昔よりもさらに痩(や)せて明敏そうに見えたが、その鷲(わし)のような顔は、最近の彼の生活の不健康さを物語るように、青白かった。
「おかげでやっとのびのびできたよ。背が高いのに、何時間もぶっ続けに一フィートも体を縮めているなんて、なまやさしいことじゃないからね。ところで、こうしたわけというのも、今夜はこれから、むずかしくて、しかも危い仕事が控えているからなんで、できたら君にも手伝ってもらえないかと思ってね。話はすべて、それが終ってからにしたほうがいいと思うんだ」
「僕は聞きたくてうずうずしてるんだぜ。いま話してほしいな」
「今夜手伝ってくれるかい?」
「いつ、どこだろうと、お望みのままだ」
「そいつはまるっきり昔のままじゃないか。出かける時間までには食事をひと口やる暇もあるようだ。よかろう、あの岩の割れ目の話をしよう。あすこから出て来るのは何のこともなかった。なぜって、僕はあの滝に落ちこまなかったんだからね」
「落ちなかった?」
「そうだよ、ワトスン君。おっこちなかった。あのお別れの置き手紙は嘘でも冗談でもない。滝の上の安全なほうへ行く細道に、死んでしまったあのモリアーティ教授が立っている姿を見て、僕はなんだか不吉な予感がした。もう僕の一生も終わりだなと思った。彼の灰色の目を見て、情け容赦(ようしゃ)のないことをしに来たのがわかった。だから僕は話をして、君があとで受け取ったあの短い置き手紙を書く、仁義にかなった許しを得た。それを、シガレット・ケースやアルペンストックとひとところに残して、細道を歩いて行ったわけだ。モリアーティ教授は、すぐ後ろからついて来る。道のはずれで、僕は追いつめられた形で止むなく立ちむかった。武器を取り出すかと思ったら、彼は素手(すで)でとびかかって、長い腕でからみついてきた。自分は悪運尽き果てたとわかっているから、ただもう何とかして僕に復讐したかったのだ。ふたりの身体は滝の絶壁の縁(ふち)でよろめいた。
しかし、僕は日本の柔道を少しばかり知っていた。これのおかげで危いところを助かったことは一度や二度じゃなかったんだが、それを使って彼の腕をすり抜けると、奴(やっこ)さんは一瞬おそろしい悲鳴をあげながら、必死になって足をはね、両手で虚空(こくう)をかきむしった。しかし、とうとう身体の平衡(へいこう)を取り戻せないで、真っさかさまに落ちていった。崖っぷちからのぞきこむと、彼がはるか下まで落ちてゆくのが見えた。それから岩に当ってもんどりうつと、しぶきを上げて水に落ちた」
私はホームズが煙草の煙を吐き出しながら語ってくれた以上の説明を、ただただ驚きあきれて聞いていたが、「だって足跡が! ふたりとも落ちていって戻った跡がないのを、僕はこの目で確かめたんだぜ」と大声に言った。
「それはこういうわけだ。教授の姿が消えたとたんに、僕はふと思いついた。運命の女神は何という幸運を授けてくれたことだろう。僕の命をつけ狙(ねら)っている男は、決してモリアーティ一人じゃない。少くとも三人はいる。彼らは首領モリアーティが死んだと知ったからには、僕に対する復讐の念をかためるに違いない。みんなひどく物騒な連中だ。どいつかが、きっと僕をやるだろう。
ところがしかし、もし僕が死んだと世間に信じさせておけば、この男たちは勝手なことをやり始めるだろう。大っぴらにやるだろう。そうすれば、遅かれ早かれ僕は彼らを一網打尽(いちもうだじん)にできる。そのとき初めて、まだ生きているのだと打って出ればいいわけだ。僕がこれだけのことを一瞬のうちに思いついてから、モリアーティ教授はやっとライヘンバッハの滝壷の底に行きついたというわけだ。
それから僕は立ち上がって、背後にそそり立つ岩壁を調べてみた。あのことを書いた君の文章は、なかなか精彩があって、僕は数か月たってから興味深く拝見させてもらったんだが、あそこで君が岩壁がまっすぐ切り立っているように書いているのは、文字どおり正しいとは言えないね。ちっとは足掛りになるところもあったし、岩棚(いわだな)も見えていたよ。岩壁は高くて登りつめられないことがはっきりしていた。かといって、細道をとって返すとなると、地面が湿っているからどうしても足跡が残ってしまう。なるほど、靴跡をうしろ向きにつけて通る手がないではなかった。前にも同じようなことがあって、二、三度やったこともあるがね。しかし足跡が三人分同じ方向に向かっているのを見たら、きっとごまかしに感づくだろう。結局そこで、危険でも絶壁を登るのがいちばんいいだろうと思った。
楽しい仕事じゃなかったよ、君。滝は足下でごうごういっている。僕は決して空想家じゃないが、本当の話、モリアーティが深淵の底から僕に向かって絶叫しているのが聞こえるような気がした。ひとつ間違えばおしまいだ。つかんだ草の根が抜けてきたり、濡れた岩の小さな凹(へこ)みにかけた足がすべったりして、もう駄目だと思ったことは一度や二度じゃなかった。しかし僕は死物狂いで登っていって、とうとうひとつの岩棚にたどりついた。数フィートくぼんでいて、一面にやわらかい緑の苔(こけ)が生えていた。そこで僕は人目に隠れていい心地で横になることができた。
ワトスン君、君や加勢の連中が同情にたえない様子で、僕の死の状況をまるきりへたくそな調べ方をしているあいだ、僕はのうのうと手足をのばしていたわけだよ。君は当然、まるで誤った結論を下してホテルに帰っていった。
とうとう僕はひとりになった。僕のつもりじゃ、僕の冒険はそこでおしまいになるはずだった。ところが、まったく思いもかけない事件が起こって、まだまだ驚くべきことが控えているのがわかった。でっかい石が頭の上から落ちてくると、うなりを生じながら目の前をよぎって細道にぶつかり、はずみをくらって深淵にとびこんでいった。ほんの少しのあいだ、僕は偶然のしわざだと思った。すぐに気がついて上を見ると、暗い空を背にして、人間の頭がひとつ見えた。と、また石が落ちてきて、僕の寝ころんでいる岩棚に、しかも僕の頭から一フィートと離れていないところにガンと当たっていった。
これはもう、いうまでもなく明らかなことだ。モリアーティはひとりでやって来たんじゃなかった。教授が僕にかかってきているあいだ、共謀者がひとり……それもひと目でそれと知られる物騒な男が見張りに立っていたわけだ。遠方から僕の目をさけて、教授の死と僕の脱出を見届けていたんだ。しばらく時をやりすごしておいて、ぐるっとまわって絶壁の頂上にのぼって、失敗した仲間の仇を討ちに来たに違いない。
そう考えつくのに暇はかからなかったがね、ワトスン君。またあの不吉な顔が、絶壁の上からのぞいた。そこで、もひとつ石が落ちてくる前ぶれだなと思った。僕は細道に向かって這(は)い下りた。とても落ち着いてやれたとは思わない。登るときの百倍もむずかしいんだ。しかし危険をかえりみている暇はなかった。岩棚のふちに手をかけてぶら下ったときに、次の石が唸(うな)りながらすぐそばを落ちていったんだ。中途までずるずる滑ったけれども、神様のおかげで、すりむいて血だらけになりながらも、どうにか道に降り立つことができた。尻に帆をかけて、夜のうちに山道を十マイルも突っ走った。それから一週間後に、僕はフィレンツェに着いたが、世界じゅう誰ひとりとして、僕がどうなったか知っている者がいないのは確かだった。
僕はただひとりだけに打ち明けた。……兄のマイクロフトだ。ワトスン君、君にはいろいろ済まなかったと思っているんだけれど、世間に僕が死んだものと思いこませておくことが絶対に必要だったんだし、また君も、僕が本当に死んだと思いこんでいなかったなら、僕の哀れな末路(まつろ)をあんなふうに本当らしくは書けなかったに違いないものね。
この三年間、君に手紙を書こうと思ってペンをとったことは何度あったか知れやしない。しかし、君がやさしい心づかいから、つい僕の秘密が露見(ろけん)するような無分別を犯したりしてくれはしまいかと、いつもそれが心配で書けなかったんだ。さっき、君が僕の本をひっくり返したときに僕が離れてしまったのも、まさにそれが気にかかっていたからだ。あのとき、僕はあぶなかったんだ。ちょっとでも君が驚いたり感激したりしたら、気取られて、どんなに取り返しのつかない悲惨な結果になるかしれなかった。マイクロフトのほうは、金が必要だったから、しょうことなしに打ち明けたんだ。
ロンドンでは、万事なかなか思い通りに運ばなかったよ。なぜって、モリアーティの一党の裁判で、一味の中でいちばん危険な人物がふたりも野放しになってしまったんだ。ふたりとも僕の最も執念深い敵だ。
僕はそこで二年間チベットを旅行した。ラサを訪れて、ラマ教の教主に会って二、三日一緒に過ごしたり、面白かった。シーガスンというノルウェー人の書いた素敵な探検記を読んだことがあるだろうと思うがね、あれが実は君の友人のホームズの消息だとは思ってもみなかったろう。それから僕はペルシャを通ってメッカに立ち寄り、そうしてスーダンのハルツームで回教主のトルコ王にちょっと敬意を表してきたが、これも面白かった。外務省に報告を出しておいたよ。
それからフランスに戻ってね。南仏のモンペリエのある研究所に行って、二、三か月、コールタールの誘導体について研究してきた。これで思い通りの結果が出たし、わが敵も今やロンドンにひとりしか残っていないことがわかったから帰国しようと思っていたわけだが、そこへこの異常なパーク・レイン事件のニュースで、僕はにわかに慌(あわて)てだした。事件そのものが面白いだけじゃなくって、僕の個人的な関心事からしても非常に好都合な機会を与えてくれると思えたのだ。
大急ぎでロンドンにやって来ると、みずからベイカー街の下宿にのりこんで、ハドスンのおかみさんを狂喜乱舞させたが、兄のマイクロフトは、部屋も書類も、出て行ったときのままに保存しておいてくれたよ。
ワトスン君、まあこういった具合にして、今日の午後二時に、なつかしい自分の部屋の自分の椅子に腰をおろしたわけさ。ただなつかしい君が、いつも坐っていたもうひとつの椅子におさまっていないのが残念だった」
あの四月の宵(よい)、私はこの物語をただ驚きあきれながら聞いたことだった。あの、二度と見ることがないと思いこんでいた、すらりと高い彼の姿、そして鋭い熱のこもった顔を、げんに目の前にしているのでなかったら、私は到底その物語を信じることなど、できはしなかったろう。どうして知ったのか、彼は妻に死に別れた私の悲哀を聞きつけていて、言葉よりも様子で、しきりに同情を示してくれた。
「悲しみには仕事が最良の薬だよ、ワトスン君。今夜ひと仕事あるんだが、君とやろう。もしそれがうまくいったら、人間がこの地球上に生きている甲斐(かい)があろうというものだ」
私がその仕事のことを、もっと話してくれるようにいくら頼んでも無駄だった。
「今夜のうちに、たんと見聞きさせてあげるよ。話なら、たっぷり三年分つもった話があるじゃないか。九時半までそのつもった話をして、それから有名な空家の事件にとりかかるとしようじゃないか」
時間が来ると、ふところにピストルを忍ばせて、胸を前途の冒険にときめかせて、ホームズとふたり、二輪馬車に乗りこんだが、そうしているとまるで昔のままだった。ホームズは冷淡で、いかめしく、口もきかなかった。道すがら街灯がときどき彼のきびしい顔を照らし出すと、瞑想(めいそう)のために眉(まゆ)は垂れて、肉の薄い唇がきりっと閉じているのが見えた。ロンドンの犯罪のジャングルの闇の中から、どんな野獣を狩り出そうとしているのかは、知るよしもなかったが、私はこの名(めい)狩人(かりゅうど)の態度から、冒険がなまやさしいものでないことがよくわかった。とはいっても、彼が苦行者のような陰鬱(いんうつ)さを破って、ときおりもらすほくそ笑みは、たしかに今夜の獲物たるべき人物にとっては不吉な前兆を思わせるものだった。
目的地はベイカー街かと思ったが、ホームズはカヴァンディッシュ広場の角で馬車をとめさせた。おりるとき、彼は射るような眼差(まなざ)しを左右に配った。そして道の角に来るごとに、極端なほど気を使って、誰もつけて来るものがいないのを確かめた。ふたりの通る道筋はたしかに一風変わっていた。
ホームズがロンドンの抜け道に詳しいことは驚くほかないのだが、こんども、私が存在さえ知らなかった馬小屋の立ち並ぶ網の目のような路地を、自信ありげな足どりで、すたすたと通りぬけて行くのだった。やっとそこを抜けると、古びた陰気な小道に入り、それをずっと行くとマンチェスター街に出た。それからブランドフォド街、ここでホームズはサッと角を曲がって狭い抜け道に入り、とある木の門をくぐると、そこは人気(ひとけ)のたえた中庭だった。彼は合い鍵を使って裏口のドアを開けた。ふたりが中に入ると、彼はその入口を閉めた。
中は漆黒(しっこく)の闇、だが空家であることは確かだった。足もとはむき出しの床板で、歩くと、きいきい、ばりばりときしんで鳴った。そして手を差し出すと、ずたずたに裂けて垂れ下がった壁紙にさわった。ホームズは冷たい手で私の手首をつかんで、長い廊下を進んで行った。するとひとつの扉の上の明かり取りが、ぼんやりと光っているのが見えた。ホームズはここで不意に右に曲がると、広い四角な空き部屋へと導きこんだ。隅のほうは真の闇だが、部屋のまんなかは、窓ごしに街路の明かりがうっすらとさし込んでいる。近くにランプがあるわけではなく、窓ガラスは埃(ほこり)だらけだから、室内ではまず、お互いの姿がやっと見分けられるという程度である。ホームズは私の肩に手をかけて、口を耳許によせた。
「ここがどこかわかるかい?」
「うん、ベイカー街だな」私は汚れたガラスごしに外を見ながら答えた。
「そう。ここはカムデン・ハウスだ。僕たちの古巣の向かいの家だ」
「どうしてまた、こんなところへ来たんだい?」
「ここから見ると、絵のように美しい向かいの建物が、ほしいままに眺められるからね。ワトスン君、ご苦労だが、姿を見られないように、できるだけ注意して窓のほうに寄ってみてくれないか。そして僕たちのもとの部屋をちょっと眺めてみてくれたまえ……あんなに度々、ふたりの冒険の根城(ねじろ)になった部屋をね。三年も留守にしたおかげで、君はもう僕の力じゃ物に動じなくなってしまったかもしれないんだけれどね」
私は這うようにしてにじり出ると、向かいの見なれた窓に目をやった。目がそこに届いたとたんに、私は思わず息を呑んで驚きの声をあげた。日除(ひよ)けのカーテンが下がっていて、部屋の中にはランプが煌々(こうこう)と輝いている。中の椅子に腰をおろした男の影が、光を受けて白く明るい日除(ひよ)けの上にくっきりと黒く映っている。頭のかかげ方といい、肩のいかり方といい、面立ちの鋭さといい、一点の非のうちどころもない。顔は少し斜めを向いていて、ちょうど昔の人がよく額に入れて飾った黒いシルエット画のような恰好になっている。それは、ホームズの完璧な再現だった。
私は驚きのあまり、ホームズ自身がかたわらに居るかどうか、手をのばして確かめてみた。彼は声を殺して笑い悶(もだ)えていた。
「どうしたい」と彼が言った。
「なんてこった。驚いたなあ」
「われながら変幻自在、止まるところを知らずさ。年はとっても、どうやらまだまだ衰えちゃいないらしいな」と言う彼の声には、芸術家が自分の作品に対して抱く喜びと誇りとがあった。「まるっきり、そっくりじゃないか、え」
「いやあ、君そのものかと思ったよ」
栄(は)えある製作者は、グルノーブルのオスカール・ムニエ氏だ。塑造(そぞう)するのに何日か、かかった。半身像で材料は蝋(ろう)だ。あとは万事、今日昼から訪問したときに、自分で細工しておいた」
「何をしようってんだい?」
「それはね、僕が本当は居ないのに居ると、ある人物にどうしても思わせておきたいからなんだ」
「じゃあ君は、あの部屋を見張ってる奴がいると思うんだね」
「思うどころか、確かに見張っていたんだよ」
「誰が?」
「昔の敵さ。首領がライヘンバッハの滝の底に眠っている、あの連中さ。僕がまだ生きていることを知っているんだ、彼らだけが知っているんだ。遅かれ早かれ僕が古巣に帰ってくると信じている。たえず見張っていたんだね。今朝僕が着いたのも見られたよ」
「どうしてわかったい?」
「なぜって、ひょいと窓からのぞいたら、見覚えある奴が見張りに立っていたのさ。なあに、こわい奴じゃないよ。パーカーといってね、辻強盗が商売だが、ユダヤ琴をうまく弾くよ。あいつは心配ない。しかし、背後にはるかに手強(てごわ)い男がいるから、そいつは気をつけなくちゃ。モリアーティの親友だ。絶壁の上から石を落とした奴さ。今じゃロンドンでいちばん危険な悪漢だよ。ワトスン君、今夜僕をつけ狙っていたのもこいつなんだ。まさか、こっちが向こうをつけ狙っているとはご存知あるまいが」
ホームズの計画がだんだんはっきりしてきた。この恰好(かっこう)の隠れ場所から、見張りが見張られ、追う者がかえって追われているのだ。あの、向かいの家の痩(や)せこけた影絵で敵をおびき寄せようというのだ。
われわれは押しだまって闇の中に佇(たたず)み、窓の外を急ぎ足に行きかう人影を見張っていた。ホームズは無言で身じろぎもしなかった。しかし彼は、たしかに鋭く気を配って、通行人の流れを一心に見つめていた。空は荒れもようで、膚(はだえ)を刺す寒風が、往来をひゅうひゅうと吹きさらしていた。人通りはかなりあって、たいてい上衣や襟巻(えりまき)に首をうずめて歩いていた。一、二度、私は同じ人影を見かけたような気がしていたが、なかでも少しばかり北に離れた家の戸口に、風をよけているらしい二人の男が目についた。
私はホームズに知らせてみたが、彼はうるさげに、ちょっと声を出したまま、街路を見続けていた。一度ならず足をそわそわさせたり、せわしげに指で壁を叩いたりした。だんだん気になりだしたのに違いない。計画が思い通りに運ばないのだ。
十二時近くなって人通りが次第にたえてくると、とうとう彼は落ち着きを失って部屋の中を行ったり来たりしだした。何か言葉をかけてやろうと思って、明るい向かいの窓に目をやると、私はまたも、さっきに劣らない驚愕(きょうがく)を覚えた。私はホームズの腕にしがみついて上を指した。
「影が動いてる!」
影はもはや横顔ではなくて、背中のほうがこっちに向いているのだ。
自分より鈍い頭の働きに対して我慢のできない、あの無愛想な性質は、三年たっても和(やわ)らいでいなかった。
「そりゃ動いたろうさ。替玉(かえだま)人形をひと目でそれとわかるように突っ立たせておいて、それでヨーロッパ随一の頭の鋭い連中が易々(やすやす)だまされると思うほど、僕はヘマはやらないよ。僕たちがこの部屋に来てから二時間になるが、その間にハドスン夫人が八度も頭の向きを動かしてくれたのさ。十五分に一度だ。おかみさんは前のほうからやってくれるから、影は決して映らないのさ。ああッ!」
彼はハッと音をたてて興奮の息をのんだ。ほの暗い中で、彼が頭を前に突き出して、全身をこわばらせて身を傾けるのが見えた。さっきの二人はまだあの戸口にうずくまっているのかどうか、私にはもう見えなかった。あたりはまっくらに静まりかえって、ただひとつ、まんなかに黒い影がくっきりと映った向かいの窓の日除けだけが、黄色く輝いている。その沈黙のなかに、ホームズのおさえきれない激しい興奮の声が、再びかすかに響いた。
その刹那(せつな)、彼は私を部屋のいちばん暗い隅に引きずりこみ、その手を私の口に押しあてて声を封じた。私をひっつかんだ指は震えていた。彼がそれほど興奮したのは、かつてないことだった。しかも、街路は人っ子ひとり通らず、何の変化も見えないのだ。
ところが突然、彼の鋭い耳が聞きつけていたものに私も気づいた。何者かが、そっとうごめく音がするのだ。それもベイカー街のほうからではなくて、われわれがひそんでいる当の家の裏手からなのだ。戸が開いて閉まる音。それから廊下をそっと忍びよる足音……立てまいとしても、人気(ひとけ)のない家の中に響きわたってしまう足音だ。
ホームズは壁を背に身を縮めた。私もピストルを握りしめながらそれにならった。闇をすかして瞳(ひとみ)をこらしていると、やがて開いた暗い戸口に、それより黒い男の姿が漠然(ばくぜん)と浮かびでた。男は一瞬立ち止まっていたが、それから姿勢を低くしておびやかすように這い進んできた。この不吉な影が、ふたりのところから三ヤードばかりの近さにやって来たので、私はかかってきたら応じようと身がまえたが、相手はこっちの存在に気づいていないのだった。男は二人のすぐわきを通って窓に忍びよると、ごく静かに音をたてないで、窓を半フィートばかり押し上げた。
男が身を沈めて窓の開いたところまで顔を持ってきたので、街路の光が今は埃(ほこり)だらけのガラス越しにでなく、じかに男の顔にあたった。
彼自身も興奮していると見えて、目は星のようにキラキラと光り、顔じゅうがヒクヒクとひきつっていた。
肉の薄い鼻が高く突き出し、額ははげあがり、太い口髭(くちひげ)が白くなった中年の男だった。オペラ・ハットをぐいとあみだにかぶり、前をはだけたオーバーの下に、夜会用のシャツの胸が白く光っている。痩せた浅黒い顔には、深い皺(しわ)が刻み込まれて、凶悪な人相を形作っている。手にステッキのようなものを持っていたが、男が床に置くとカランと金属性の音をたてた。
それから彼は、オーバーのポケットから嵩(かさ)のあるものを取り出して、何かけんめいにやっていたが、ばねかボルトがまわるような鋭い音がガチッと大きく響いて終りになった。
そうしておいて、床にひざまずいたまま、前かがみになって全身の重みをかけ、力一杯に《てこ》のようなものを押すと、ギリギリという長い音がしたあげくに、またガチッと力のこもった音がした。今度は姿勢を直したので、彼の手にしたものが、一種の銃であることがわかった。ただ、台尻の形が奇妙である。彼は遊底(ゆうてい)を開いて何かを差しこみ、ふたたび閉じた。それからうずくまって、銃身の先を開けた窓の敷居の上にのせた。彼の長い鼻が銃床にしなだれかかり、照準をつける片目がキラキラと光った。台尻を抱えて肩にあてがい、銃先のかなたの驚くべき標的、つまり黄色い窓に映じた黒い人影を見やって、満足げに溜息(ためいき)をつくのが聞こえた。
急に彼はピタリと動かなくなった。そして引き金の指先に力をこめた。たちまちピュッと耳なれぬ音が風を切ったかと思うと、ガラスが割れてチャラチャラとひとしきり音をたてるのが聞こえた。その刹那(せつな)、ホームズが猛然と虎のように男の背に躍りかかり、うつ伏せに叩きのめした。男はたちまち起き上がり、死力をふりしぼってホームズの咽喉(のど)につかみかかった。が、私がピストルの尻で男の頭に一撃加えたので、彼はまた床の上にのびた。私がその上におそいかかってつかまえると、ホームズは鋭く呼子(よぶこ)を吹いた。歩道を駈けだす足音が聞え、ふたりの警官と私服がひとり、表戸からなだれ込んで部屋にかけつけた。
「レストレイド君ですね」
「そうですよ、ホームズさん。私が受け持ちました。よくロンドンに戻っておいででしたね」
「少しは市民の協力も必要かと思いましてね。一年に迷宮入りの殺人が三つもあったんじゃ、しょうがないでしょうが。しかし、モウルジー事件のご手腕はなかなかいつもと違って……いやなに、たいしたお手並でしたよ」
みんな立ち上がっていた。犯人はふたりの頑丈な警官にはさまれて、はげしく息づいていた。往来にはもう野次馬がたかり始めていた。ホームズは窓ぎわに歩み寄って窓を閉め、日除けをおろした。レストレイドがローソクを二本取り出し、ふたりの警官は角燈の覆(おお)いをはずしていた。とうとう、犯人の顔をつくづく眺めることができた。
彼は顔をぐいとこちらに向けていたが、それは途方もなく雄々(おお)しい、しかも邪悪な顔だった。哲学者の額(ひたい)と快楽主義者の顎(あご)をしたこの男は、善事につけ悪事につけ、大きな能力を発揮していたにちがいない。しかしその残忍な青い眼や、垂れ下がった冷笑的な瞼(まぶた)や、険(けわ)しい喧嘩ごしの鼻や、深い皺の刻みこまれた険悪な額には、ありありと造化(ぞうか)の危険信号が読みとられた。彼は誰にも目をくれず、ただ憎悪と驚異の等しくまじり合った表情のまま、ホームズを睨(にら)みつけて、繰り返し繰り返しつぶやいていた。
「この鬼めが。こざかしい悪魔め!」
「やあ、大佐」ホームズが皺(しわ)になったカラーをなおしながら言った。「『ほっつき歩くは好いた同志のめぐり合うまで』とは、シェイクスピアの《十二夜》の台詞(せりふ)だが、うまいことを言ったもんだね。ライヘンバッハの滝でご厄介(やっかい)になって以来、久しくお目にかからなかったが」
大佐は催眠術にでもかかったように、ホームズを見つめたままだった。「このこざかしい悪魔めが」
「まだ紹介してなかったね。こちらが、諸君、元インド方面派遣軍のセバスチャン・モーラン大佐、英領アジア植民地きっての猟銃の名手だ。大佐、たしかまだ君の虎射ちの記録を破ったものはいなかったね」
この険しい顔の老人は何も答えずに、ただホームズを睨(にら)みつけるばかりだった。凶悪な眼といい、毛の荒い口髭といい、この男は驚くほど虎に似ていた。
「あんな簡単な計略に、どうしてこんな老練な猟師がひっかかったのかねえ。よくやった手じゃないか。仔山羊(こやぎ)かなんか木につないでおいて、鉄砲片手に、おとりにかかる虎を待ったことぐらいあるだろうに。この空家がその木で、君がその虎さ。虎がたくさん来たり、万が一にも狙いがはずれたりしたときのために、予備の銃を持って行ったこともあるだろう。僕の予備の銃は」と皆を指さして、
「この人たちさ。そっくりな対比じゃないか」
モーラン大佐は、いきったって唸(うな)りながらとび出そうとしたが、警官に引き戻された。顔にあらわれたその憤怒(ふんぬ)は、見るも恐ろしいばかりだった。ホームズは続けて言った。
「白状するが、君のしたことはひとつだけ、ちょっと意外だったね。君までがこの家の、しかもこの恰好な表窓を使おうとは、思ってもみなかったよ。通りからやるんだろうと思っていたよ。だからレストレイド君と部下の諸君が待ちかまえていたんだがね。この例外を除けば、あとはみんな思い通りに運んだ」
モーラン大佐は刑事に向き直って口を開いた。
「わしを逮捕する理由はちゃんとあるかしらんが、少なくともこの男から、言いたい放題の悪口雑言(あっこうぞうごん)を浴びる理由はないはずだ。わしが法律の手に委ねられたのなら、すべて法律どおりにことを運んでくれ」
「うん、そいつはそうだ」レストレイドが言った。「じゃ、ホームズさん、もう参りますから、ほかにおっしゃることはありませんか」
ホームズは床から取り上げた強力な空気銃の仕掛けを調べているところだったが、
「驚くべき、独創的な武器です。無音で、しかも恐ろしく強力だ。僕はこれを作ったドイツの盲目の技師を知っています。フォン・ヘルダーといって、モリアーティ教授の注文に合わせてこれをこしらえたんです。ずっと前から、こんなものがあるのに気がついていました。手に持って見るのは初めてだけれども。レストレイド君、よく気をつけて預かって下さい、その弾のほうもね」
「たしかにお預かりしました、ご安心下さい」みんな戸口に進んで行った。「ほかに何も、……」
「たったひとつ、どういう容疑でひっぱりますかね」
「容疑ですか。そりゃ、無論、シャーロック・ホームズ氏に対する殺人未遂ですが……」
「まずいなあ。僕は事件に名を出したくない。君がやってのけた大金星は、君の、君だけのものですよ、そうです、おめでとう。いつもながら巧妙かつ大胆不敵な逮捕ぶりでした」
「逮捕って、誰をですか、ホームズさん」
「その筋が全力をあげて、なおかつ探しきれずにいた男ですよ。先月の三日、パーク・レイン四二七番地の二階の開いた表窓ごしに、空気銃のダムダム弾でロナルド・アデア卿を殺害した、セバスチャン・モーラン大佐のことです。レストレイド君、それが彼の容疑名です。ところでワトスン君、窓がこわれて風が入るのを辛抱してくれるなら、僕の書斎で葉巻でもふかしながら、半時間ばかり面白い話を聞かせてあげよう」

かつてホームズとふたりで住んでいた部屋は、兄マイクロフト・ホームズの管理と、ハドスン夫人手ずからの世話で、昔のまま、少しも変わったところがなかった。部屋にはいったとき、確かに見なれない小ぎれいさを感じはしたのだが、それでも何もかもが昔のままの場所に置いてあるのだった。片隅にはホームズの化学実験設備があり、酸で痛んだ樅(もみ)板ばりのテーブルがある。棚には市中のたくさんの敵どもが焼きすてたがっている恐るべきスクラップ・ブックや参考書が並んでいる。いろんな図表や、ヴァイオリンのケースや、パイプ架(かけ)や……それにあの煙草入れにしていたペルシャのスリッパまで……すべてが、ひとわたり見わたした私の目にとびこんできた。
部屋には二人の人間がいた。ひとりはハドスン夫人、われわれが入って行くと晴れやかにほほえみかけた。もうひとりは、つまりこの夜の冒険に重要な役割を果たした奇妙な人形である。これは蝋色の像で、ホームズの完全なる模写といっていい、すばらしいできばえだった。小さな台の上にのせてホームズの古い化粧着を着せかけ、かくして外からみると完全に騙(だま)されてしまうようにしてあった。
「ハドスンさん、注意はよく守って下さったでしょうね」
「おっしゃった通りに、近寄るのも膝で歩いていたしましたですよ」
「結構でした。非常によくやって下さいましたね。弾はどこに当たったか、ご覧でしたか」
「はい。こんな立派な胸像を台なしにしてしまったみたいですわ。頭を突き抜けてから壁に当たって、ペチャンコになりましたよ。敷物の上に落ちたのを拾っておきました。ほら、これ……」
ホームズは手にとって私に見せた。「ご覧の通り、ピストルのダムダム弾だよ、ワトスン君。ここんところが天才というんだね……空気銃でこんな弾を射つなんて、誰も考えなかったからねえ。じゃあ、ハドスンさん、どうもご苦労さまでした。ところで、ワトスン君、いつもの君の椅子に坐ってみせてくれないか。二、三いろいろと話し合いたいこともあるからね」
彼はみすぼらしいフロックを脱ぎすてて、人形に着せてあった鼠色の化粧着を身にまとい、今や昔のホームズにかえっていた。穴のあいた人形の額を調べていたが、「あの老練な狩人は、神経も目もまだまだしっかりしたもんだ」と笑いながら、「後頭部のまんなかに当って脳をまともにぶち抜いている。インドじゃ、きっての射手だったが、ロンドンでも右に出る者はそういまい。名前は聞いたことがあるかい?」
「いや、はじめて聞いたな」
「おやおや、名声なんてこんなはかないもんだ。しかし、今世紀最大の知恵者だったジェイムズ・モリアーティ教授の名前も、たしか君はあのときはじめて聞いたとか言ったね。ちょいと棚から僕のこしらえた身元便覧(びんらん)をとってくれないか」
彼は椅子にもたれて、葉巻の煙をもくもくと吐き出しながら、ものぐさそうにページを繰(く)った。
「僕の蒐集したMの項は大した顔ぶれになったねえ。モリアーティか、これなんざ、どの項に持って行ったって、それだけで大したものになる。毒殺屋のモーガンに、こいつはメリデューか、思い出してもぞっとするね。それからマシューズ、チャリング・クロス駅の待合室で僕の左の犬歯を折った奴だ。さておしまいが、今夜の立役者だ」
彼は綴じ込みを渡してよこした。私は読みあげた。

「セバスチャン・モーラン。陸軍大佐、無職。元ベンガル第一工兵先遣隊。一八四〇年ロンドンに生まれる。父は元駐ペルシャ公使、第三等バース勲章受賞者、オーガスタス・モーラン卿。イートン校およびオクスフォード出身。ジョワキ会戦、アフガン会戦に参加、その他チャラシアブ、シェルプール、カブール等に歴戦。著書、『西部ヒマラヤの猛獣狩り』(一八八一)、『ジャングルの三か月』(一八八四)。住所、コンデュイット街。所属クラブ、英領インド・クラブ、タンカヴィル・クラブ、バガテル・カード・クラブ」

余白にホームズ流の几帳面(きちょうめん)な字で「ロンドン第二の危険人物」と註を入れてある。
私は目録を彼に返しながら、「こいつは驚いた。あの男は名誉ある軍人なのか」
「そうなんだ」ホームズは答えた。「ある時期まではちゃんとした男だったんだがね。あいつの神経は鉄だよ。手負いの人喰い虎を追っかけて排水溝(はいすいこう)の中を這いまわった話は、今でも有名だ。ワトスン君、ある高さまで真っ直ぐにのびて、それから急に見た目もおかしな恰好に育つ木が時々あるだろう。人間にもよくあることだ。これは僕の説なんだが、人間の人生には、その人間の祖先の全過程があらわれるんで、こういう善人なり悪人なりへの急変というものは、かつて家系の中に入りこんだ何かの強い作用をあらわしているんだな。いわば、人間は一家の歴史の縮図になるわけだ」
「どうも空想的な説だね」
「まあ、固執(こしつ)するわけじゃないがね。原因は何であるにしろ、とにかくモーラン大佐は悪の道にふみこんだ。べつだん醜聞(しゅうぶん)が知れわたったというわけでもなかったけれども、どうもインドにはいたたまれなくなってしまった。そこで退役してロンドンに帰ると、ここでも悪名を得てしまった。このとき、モリアーティ教授に見出されて、一時は彼の参謀長格にもなっていた。モリアーティも、彼には金を気前よく与えておいて、普通の犯罪者じゃ手におえないような《高級な》仕事に、ほんの一度か二度だけ使った。一八八七年にローダーで起こったステュワート夫人の殺人事件のことはおぼえているかい。知らない? とにかく、あの事件なんかも実際はモーランの仕事らしい。ただし証拠は上がっていない。隠蔽(いんぺい)工作が巧みだったから、モリアーティの一味が一網打尽になったときにも、とうとう彼だけは断罪できなかった。
「最後の事件」のときに、僕が君の家に行って、空気銃がこわいと言って鎧戸(よろいど)をおろしたときのことを覚えているだろう。あのとき君は僕がくだらない心配をすると思ったようだけれど、あれはちゃんと考えがあってしたことだ。ああいう驚くべき空気銃のあることを知っていたし、世界有数の射手が銃をかまえているだろうということも心得ていたからだ。
君とスイスに行ったときにも、彼がモリアーティについて来ていたんだ。ライヘンバッハの滝の上の岩棚で五分間、僕に苦い目を見せたのがあの男だということは、まず間違いあるまい。
お察しだろうけれど、フランスに逗留しているあいだ、僕は何とかあの男をとっつかまえる機会がないものかと、気をつけて新聞を読んでいた。ロンドンであいつにのさばらせておいたのでは、僕の生きていることはまるで意味がない。夜も昼も、あいつの影がつきまとっている。いつかは向こうが機会をつかむにきまっている。どうすればいいか。見かけしだい、射ち殺すというわけにもいかない。そんなことをしたら、こっちが被告席に立たされてしまうじゃないか。訴え出たって仕方がない。どうせ当局は、根拠薄弱な疑いだと思って手を出しちゃくれまい。どうにもならない。だが僕は、いつかつかまえてやるぞと思って、犯罪ニュースに注意を怠らなかった。
そこへ、このロナルド・アデアの死だ。とうとう機会がめぐってきたんだ。あの件の下手人がモーラン大佐だということは、すぐにわかった。ロナルド青年とトランプをやったのに違いない。そして、青年がクラブから帰るあとをつけたのに違いないのだ。それから開いた窓ごしに、青年を射ち殺したんだ。疑いの余地はない。弾だけでも、モーランを絞首台に送る証拠に充分なる。
というわけで、僕は直(ただ)ちに帰ってきた。ところが、見張りに見られてしまった。見張りは大佐に、僕が帰ってきたことを知らせるにきまっている。大佐は僕の急な帰国を自分の犯行と結びつけて考えて、死ぬほど慌(あわ)てるだろう。彼はきっと僕を片づけようとするに違いない。それも直ちにだ。そしてそのためには、またまたあの恐ろしい武器を持ち出すにきまっている。
そこで僕は、大佐のために窓に素敵な標的をこしらえてやった。そしてあらかじめ、ひょっとすると手伝ってもらうからと警察に知らせて……ところでワトスン君、さっきは警察の連中があっちの戸口にいたのを、ちゃんと君は見つけたねえ、たいしたもんだよ……で、そうしておいて、監視するために場所を賢明に選んだつもりだったんだが、彼が同じ場所を攻撃に用いようとは夢にも思わなかった。と、こういう次第だ。さて、ワトスン君、まだ説明し残したところがあったかな」
「うん、モーラン大佐がなぜロナルド・アデア卿を殺したか、その動機をまだ言ってくれないぜ」
「いやあ、ねえワトスン君、そこまでくると推測の領域でねえ。いくら論理的に考えても、当っているとは限らないんだから。今まで上がっている証拠に基づいて仮説をたてるだけだから、誰が考えても当らずといえども遠からずさ、君が考えても僕が考えても似たりよったり、どっちが正しいとは言えない」
「じゃあ、もう君も考えてるんだろう」
「僕はどうも、その問題の説明はたいしてむずかしいことじゃないと思う。証言を読んでみると、モーラン大佐とロナルド青年が組んで、かなりの金額を勝ったことがあるという事実がある。でね、モーランがきっとインチキをやったんだと思うんだ。あいつなら、インチキをやってもおかしくはない。事件の日に、ロナルドが大佐のインチキを見破ったんじゃないかしらん。そして、きっとまあ、青年が大佐に、脱会しろとか、二度とトランプをやるなとか、内々にいろいろ強いことを言ったんだろう。青年はまだ若造だから、いきなり、あれだけ年上で、しかも有名な人物の秘密をあばきたてて、いやな醜聞をかきたてるようなことはやりたがるまい。だから、おそらくその辺だろう。モーランにとっちゃ、トランプの不当収入で食っているんだから、クラブから閉め出されたら身の破滅だ。だから青年を亡きものにしたんだね。殺されたとき、青年は、パートナーのインチキでもうけた金だからというので、返済しようと思って、その金額がいくらになるか、計算しているところだったんだろう。ドアに鍵をかけたのは、仕事の最中、不意に婦人たちに入ってこられて、人の名を書いたり金を並べたり、何をしているのかと、うるさく聞かれたりすると困るからだ。というところでどうだい?」
「ううむ、まさしくそれに違いあるまい」
「当たっているかどうか、裁判になればはっきりすることだ。ともあれ、もうモーラン大佐に悩まされることは二度とあるまいし、フォン・ヘルダーの有名な空気銃はロンドン警視庁の博物館を飾ることになるわけだ。おまけにシャーロック・ホームズ氏は、ふたたび一身を捧げつくして、この複雑なるロンドンの生活が豊富に提供してくれる興味ある小事件を、次々と調査していられることになったというものだよ」
ノーウッドの土建屋

「刑事専門家からすると、今は亡きモリアーティ教授が死んでから、ロンドンというところは妙に面白くない町になってしまった」とシャーロック・ホームズが言った。
慎(つつ)しみある市民なら、めったにそんな考えに同意しやしまいと思うよ」私は答えた。
「なるほど、僕が身勝手を言うことはないね」朝の食卓から椅子を後ろにずらしながら、彼は笑って言った。「たしかに社会は勝者になったんだし、敗者はただひとり、仕事がなくなった専門家だけだ。あの男が活躍していたころは、毎日の朝刊が無限の可能性をはらんでいた。たいがい、ほんのちょっぴりの痕跡(こんせき)、かすかな徴候でしかなかったがね、それでも僕には背後に凶悪きわまる智力のひそんでいるのがわかったもんだ。ちょうど、蜘蛛(くも)の巣の末端が少しでも震えるのを見て、真ん中に怪(け)しからぬ蜘蛛が身をひそめているのに気がつくのと同じことさ。こそどろ、気まぐれな腕力沙汰(ざた)、わけもない暴力行為……手がかりを握っている人間にとっちゃ、こんなものはみんな連絡のあるひとつのものにまとめあげられる。高等犯罪を科学的に研究している者にとって、当時はヨーロッパのどこにも、ロンドンぐらい面白い都会はなかったものだ。ところが今じゃ……」
彼は自分が大きな力になって築きあげた今の状態に、ユーモアたっぷりな非難をこめて、ひょいと肩をすくめた。
これは、ホームズが生きて還(かえ)ってきてから何か月か経(た)ったころのことで、私は彼に乞われて医者の仕事を人に譲り、ベイカー街のなつかしい下宿で彼と起居(ききょ)をともにするようになっていた。ヴァーナーという若い医者が、ケンジントン界隈(かいわい)の私の地盤を、こちらが言い出しかねるような最高値段で、しかもあきれるほど気前よく買い取ったのだった。……このわけは、数年後に、ヴァーナーがホームズの遠縁(とおえん)で、実際に金を出したのもホームズだということがわかって、すっかり明らかになった。
ふたたび彼と暮らすようになってからの数か月というものは、彼が言ったほど事件がないわけでは決してなかった。私のノートを繰(く)ってみても、この期間には、南米コロンビアの元大統領ムリーリョの書類事件があったし、また、すんでのことにわれわれ二人も命を落とすところだったオランダ汽船フリーズランド号の恐ろしい事件があった。しかしながら、彼はその冷たい自尊心から、大衆に喝采(かっさい)されることを極度に嫌(きら)っており、彼自身のことや、彼の方法や、さらにその成功について、もはや何も書いてくれるなと、強い言葉で禁じられてしまっていたのだ。前にも述べたことだが、その禁止が先ごろやっと解かれたところなのである。
シャーロック・ホームズは、気まぐれな不服を唱(とな)えてから椅子の背にもたれこみ、ゆったりとした姿勢で朝刊をひろげた。と、そのとき、呼鈴(よびりん)がけたたましく鳴りひびいたかと思うと、続いて誰かが玄関の戸をこぶしで叩いているらしく、ドンドンとうつろな音がして、二人ともそれに気を引かれた。戸が開くと、騒々しく廊下に駈けこんで、ガタガタと急ぎ足に階段を上がってくる気配(けはい)、たちまち、目を血走らせた青年が狂乱のていで部屋にとびこんできた。顔色は青ざめ、髪をふり乱して、波打たせている。われわれをかわるがわる見くらべてから、二人の不審な眼にあって、青年はこの無躾(ぶしつけ)な闖入(ちんにゅう)のいいわけをしなければならないことに気がついた。
「ごめんなさい、ホームズさん」大声で言った。「とがめないで下さい。気が狂いそうなんです。ホームズさん、私が不幸なジョン・ヘクター・マクファーレインなんです」
名前さえ言えば、この訪問の目的も、この態度のこともわかるはずだといわんばかりであった。しかしホームズの顔には何の反応もなく、彼もまた私と同様、何もわかっていないようだった。
「一服おつけなさい、マクファーレインさん」と、ホームズは煙草ケースを押しやった。
「そのご症候なら、こちらのワトスン博士が鎮静剤(ちんせいざい)の処方を書いて下さるでしょう。このところ二、三日、ずいぶん暖かい陽気が続きましたからねえ。さあ、少し落ち着いたら、どうぞそちらの椅子にお掛けになって、どういうお方か、何用でおいでになったか、ゆっくりと、静かにお聞かせ頂きましょうね。今あなたのお名前を僕が存じ上げているようなお口ぶりでしたが、あなたが独身の事務弁護士で、フリー・メイスンの会員で、ぜんそくにかかっておいでだという、はっきりした事実のほかには何も存じませんよ」
ホームズの方法にはもう馴(な)れっこだったけれども、私はなかなか彼の推論についていけなかった。青年の服装の不精(ぶしょう)なこと、法律の書類、時計の鎖(くさり)飾り、息づかいなどに目をつけて、そこから彼のような推論を引き出すのは、容易なことではない。しかし青年は目をみはって言った。
「そうです、おっしゃる通りの人間なんです、ホームズさん。そして、私は今ロンドンじゅうで一番不幸な人間でもあるんです。ホームズさん、お願いですから、どうか私を見棄てないで下さい。もし話し終わらないうちに警察が逮捕に来たら、彼らに待ってもらって下さい。真相を全部お話ししますから。あなたが外部で後楯(うしろだて)になっていて下さるのなら、私は安んじて監獄に行きます」
「逮捕ですって!」ホームズが言った。「これはまた、何ともうれし……いやなに、面白いことになってきました。しかし、どういう容疑で逮捕に来るとおっしゃるんです?」
「ロウアー・ノーウッドのジョーナス・オウルデイカーを殺したという容疑なんです」
ホームズの表情ゆたかな顔に同情の色が浮かんだが、どうやらそれには満足の色も混入しているようであった。
「これはこれは。たった今、朝飯を食べながら、近頃の新聞にはあっと思わせるような事件がなくなったと、こちらのワトスン博士に言ったところでしたよ」
青年は震える手を差しのべて、まだホームズの膝の上にのったままだったデイリー・テレグラフ紙を取り上げた。
「もしこれをご覧になっていらっしゃったら、私が朝っぱらから何の用でやって来たか、ひと目でおわかりになったと思うんです。自分の名前も、この不運な出来事も、世間に知れわたってしまっているような気がしていたんですけれど」と、新聞をめくって、中のページをひろげた。
「ここです。お許しを頂いて私が読みますから。よろしいですか、ホームズさん。見出しはこうなっています。
『ロウアー・ノーウッドに怪事件。知名の土建業者失踪(しっそう)す。殺して放火か。犯人の目星つく』
こんな目星をつけて、もう捜査を始めているんです。その目星が僕だということは絶対に確実です。さっきも、ロンドン・ブリッジ駅から尾行されました。すぐ来ないのは、きっと逮捕状の出るのを待っているだけなんです。母が聞いたらどんなに悲しむことか……ああ、死ぬほど悲しみます」
彼は不安にもだえて両手をにぎりしめ、椅子の中で身体を前後に揺り動かした。
私は重罪犯として追及されているというこの青年を、興味ぶかい思いで眺めた。髪は亜麻(あま)色、元気のない、消極型の美青年である。おどおどとしたその目は青く、髭(ひげ)はきれいに剃(そ)って、弱々しい感じやすい口元をしている。年は二十七くらいであったろうか。服装や物腰は紳士であった。薄い夏外套のポケットからはみ出した、裏書きのあるひと束(たば)の書類は、彼の職業を物語っていた。
「時間を有効に使いましょう」ホームズは言った。「ワトスン君、すまないが、その新聞を頂いて、問題の記事を読み上げてくれないか」
私は青年が読んで聞かせた、いかつい見出しの下の、次のような暗示的な記事を読み上げた。

『昨夜遅く、あるいは今(こん)未明、郊外のロウアー・ノーウッドで、暗に重大な犯罪を思わせる事件が起こった。ジョーナス・オウルデイカー氏は同地の名士で、多年土建業を営んでいたが、独身で、本年五十二歳、ディープ・ディーン荘に住む同氏は、交際を嫌って引きこもりがちの、奇行多い人として知られていた。事業では相当の産をなしたといわれるが、数年来、事業からは事実上、手を引いていた。しかし同家の裏手にはまだ材木置場があり、昨夜十二時ごろ、この一部から出火したものである。ただちに消防ポンプ数台がかけつけたが、乾燥した材木は激しく燃え上がって火勢を阻(はば)みえず、ついにその一部を完全に焼失した。
事件はここまでは単なる火災事故としか思われないが、重大な犯罪を思わせる徴候が生々(なまなま)しく残されている。すなわち驚くべきことに、同家の主人が火災現場に見えず、ただちに捜索した結果、氏はディープ・ディーン荘から失踪していることが明らかとなった。氏の居室を調べたところ、ベッドは寝たあとがなく、金庫が開け放たれており、多数の重要書類が室内に散乱し、さらに猛烈な格闘のあとがあって、室内から薄い血痕(けっこん)が発見されたが、置いてあった槲(かしわ)のステッキの把手(とって)にも血がついていた。
ジョーナス・オウルデイカー氏は、同夜、寝室で一人の客を迎えたことが知られており、発見されたステッキはその客の持ち物であることがわかった。この男はロンドン市イースト・セントラル局区内グレシャム・ビル四二六番のグレアム・アンド・マクファーレイン法律事務所の弟分、若い、ロンドン事務弁護士ジョン・ヘクター・マクファーレインであることが判明した。警察は明らかに同犯罪の動機となったと思われる証拠を握ったと語っており、総じてこの事件はセンセーショナルな展開を見せることは疑いの余地がない』
『追報……記事〆切(しめきり)後となって、ジョン・ヘクター・マクファーレインが、ジョーナス・オウルデイカー氏殺人の容疑で、すでに逮捕されたとの噂(うわさ)が伝わった。少くも逮捕状はすでに発行された模様である。ノーウッドの現場における捜査によって、事態はさらに不吉な展開を見せている。被害者の室内からは、前記の格闘のあとのほかに、同寝室(階下にある)のフランス窓があけ放たれていたこと、材木置場まで嵩(かさ)ばったものを引きずったらしい痕跡のあることなどが発見されたが、焼跡の灰の中から黒焦げになった遺体らしいものが発見されたとの説も伝わっている。警察の見解によれば、犯人は被害者を室内で撲殺(ぼくさつ)したのち、書類を荒らし、死体を引きずって材木置場に運び、犯行をくらますために火を放ったという、きわめてセンセーショナルな犯罪であるという。捜査の指揮はロンドン警視庁の老練警部レストレイド氏の手にゆだねられ、氏の精力的な敏腕は、すでに活躍を始めている』

シャーロック・ホームズは、この驚くべき記事に、目を閉じたまま、両手の指先をふれあわせてじっと聞き入っていたが、ものうげに口を開いた。
「たしかにこの事件は面白いところもあるね。それでは、マクファーレインさん、あなたを逮捕すべき正当な証拠が充分あがっているのに、まだそうやって自由の身でいらっしゃるのはどういうわけですか、まずそれからうかがいましょう」
「私はブラックヒースのトーリントン・ロッジに両親と住んでおりますが、昨晩はジョーナス・オウルデイカー氏の件で遅くなって、ノーウッドのあるホテルに泊ったのです。そして今朝はそこから出勤してきました。事件のことは、汽車の中で、今お読み下さった新聞を見るまで、何も知りませんでした。すぐに、自分の立場が恐ろしい危険にさらされているのを知って、そのままこちらにお願いに上がったわけです。ロンドンの事務所か家に顔を出していたら、そのまんま逮捕されていたに違いありません。ロンドン・ブリッジ駅からひとり尾行がついていましたので、もう、きっと……ああっ! あれは何でしょう」
呼鈴の音だったが、続いて直ちに階段を上がってくる重たい足音が聞こえた。と思うと、旧友のレストレイド警部が戸口に現われた。肩ごしにちらと、制服の巡査が二人ばかり立っているのが見えた。
「ジョン・ヘクター・マクファーレイン君ですな」レストレイドが言った。
哀れな青年は、蒼(あお)ざめた顔をして立ち上がった。
「ロウアー・ノーウッドのジョーナス・オウルデイカー氏に対する故殺(こさつ)の容疑で逮捕します」
マクファーレインは絶望の様子でこちらをふり返ったかと思うと、押しつぶされるようにへたへたとふたたび椅子に崩れ落ちた。
「ちょっと、レストレイド君」ホームズが言った。「君にとって半時間やそこらの違いはたいしたことじゃないでしょう。この紳士は今、こんどの極めて興味ある事件の話を聞かせてくれていたところなんですよ。きっと解決の助けになりますよ」
「解決なら何もむずかしいことはないと思いますがね」レストレイドは厳(げん)と構えていた。
「しかし、お許しを得て、この人の話を聞いてみたいものですがね」
「まあ、ホームズさんには一、二度協力していただいたことがあるんだし、警視庁としてもお世話になっているわけだから、何ごともあなたには厭(いや)とは言えませんがね。ただし、私は犯人のそばについております。それにこの男に注意しておかなくてはならないが、容疑者の申したてることは何事も証拠として採り上げられますよ」
「願ってもないことです」青年が言った。「話を聞いて、間違いのない事実を知っていただきさえすれば良いんです」
レストレイドは時計を見て言った。「半時間だけ時間をあげる」
「第一に」マクファーレインが語りはじめた。「僕はジョーナス・オウルデイカーという人を全然知りません。名前はよく聞いていました。というのは、ずっと以前に私の両親が彼と知り合いだったからですが、しかしその後はつきあっていません。そういうわけで、昨日の午後三時頃、ロンドンの事務所に彼が現われたときには、私はずいぶんびっくりしました。しかし訪問の目的を聞かされると、ますますびっくりしてしまいました。彼はノートの紙二、三枚に走り書きしたものを持っていまして……これがそれです……テーブルの上に置きました。
『こいつはわしの遺言です。マクファーレインさん、こいつを正式の遺言状に直してもらいたいんだ。ここに坐って待っとりますからね』
さっそく写しにかかったんですが、なんと驚いたことに、一部を除いてその全財産を私に遺贈(いぞう)すると書いてあるではありませんか。小柄で眉毛(まゆげ)の白い、《いたち》みたいな感じの妙な人でした。ひょいと見上げると、いかにも面白そうな顔をして、あの灰色の鋭い目で私を見つめていました。私は遺書の文句を読んで、われとわが目を疑いました。すると、彼が説明してくれましたが、自分はひとり者で親戚も生きていないが、若いころ私の両親と知り合いだったし、いつも私のことを頼もしい青年だと聞いていたから、私を選べば、値打ちのある人間に自分の財産をゆずることになるわけだと思う、と言うのです。 私は、申すまでもなく、礼を言うのもやっとの思いでした。
で、書類ができ上がって署名も済み、立会人の署名は、書記に頼みました。この青い紙がそれです。こっちの紙きれは、今申し上げたように下書きです。オウルデイカー氏は、それから、あちこちの借家証書とか、不動産権利証書とか、抵当証書とか、仮証書とか、そのほか私が見て胆(きも)におさめておかなければならない書類がたくさんあると言いました。そして、いっさいの片がついてしまわないと安心できないから、遺言状を持って今夜ぜひノーウッドの家まで来てくれないか、いろいろ取りきめることもあるから、と言います。
『いいかね、あんた、ご両親には万事整うまで、この件はひとことも喋(しゃべ)らんようにな。黙っておいて不意に喜ばせてあげようじゃないか』
彼はこの点をずいぶんとしつこく強調して、私に絶対に言わないと約束までさせました。
ホームズさん、お察し頂けるでしょうが、私は彼の言うことなら何ひとつとして断わる気になんかなれませんでした、恩人ですもの。どんなことでも彼の言う通りにしてやりたいと思いました。そこで、大事な用があって今夜は何時ごろ帰るかわからないと家に電報を打ちました。オウルデイカー氏は、晩餐(ばんさん)を共にしたいから九時に来るように、そしてそれまでは家にはいないから、と言いました。ところで家を探すのに骨を折って、ディープ・ディーン荘に着いたときには、三十分ちかくも遅刻していました。彼は……」
「ちょっと」とホームズが口をはさんだ。「玄関は誰があけましたか」
「中年の婦人です、家政婦じゃないでしょうか」
「で、先に向うから、あなたの名前を言いましたね」
「ええ、その通りです」
「どうぞ、その先を」
マクファーレインは汗ばんだ額を拭(ぬぐ)って話を続けた。
「この婦人に連れられて居間に通ると、質素な夜食が用意してありました。夜食が済むと、オウルデイカー氏は私を寝室につれて行きました。寝室には大きな金庫が据(す)えてありました。彼はこれを開けて、書類をひと山とり出し、二人で仕事にとりかかりました。終わったのは十一時半前後です。家政婦が目をさますからと言って、ずっとあけてあったフランス窓から私を送り出しました」
「日除けはおろしてありましたか」とホームズが聞いた。
「はっきり覚えていませんが、半分くらいしかおりていなかったように思います。そう、思い出しました。彼は窓を開け放つために、日除けをあげました。で、私はステッキが見つからなかったのですが、彼が、『心配しなさんな。これからはたびたび会えるんだから、ねえ。こんど取りに来なさるまで、預かっておいてあげよう』と言いますので、そのまま帰りました。金庫は開いたまま、書類はひと束にして机の上に置いたままでした。もう遅くて、とてもブラックヒースまでは帰れませんから、『アナリー・アームズ館』というホテルに泊まりました。そのあとのことは、今朝(けさ)の新聞でこの恐ろしい事件の記事を見るまで、なんにも知りませんでした」
「ホームズさん、ほかに何かご質問はありませんか」レストレイドが言った。彼はこの異常な物語に対して、一、二度、眉を上げただけだった。
「ブラックヒースに行ってみるまでは、何もありません」
「ノーウッドのことでしょう、おっしゃるのは」レストレイドが言った。
「ああ、そうね、そっちのほうでしたね」とホームズは、あの謎めいた微笑を浮かべた。レストレイドは経験豊富だったから、自分に不可解なことを、ホームズの剃刃(かみそり)のような頭脳がスパッと解くなどと認めたくはない。彼はホームズを物珍らしげに見やった。
「ホームズさん、ちょっとお話ししたいことがありますから。じゃ、マクファーレイン、お前は廊下に巡査がふたりいるからね、それから外で四輪馬車が待たせてある」
哀れな青年は立ち上がって、最後の嘆願をこめてこちらをふりむいてから出て行った。警官たちが、彼を車へ連れて行き、レストレイドはひとり残った。
ホームズは、遺言状の下書きだという紙片を取り上げ、面(おもて)に強い興味をあらわして眺めていた。
「レストレイド君、この書類はなかなか暗示的ですね」彼はそれを押しやりながら言った。
警部は妙な顔をして紙片を眺めていたが、「最初のあたりと二枚目のまん中へんと、それから終わりのあたりは一、二か所、字が読めます。活字みたいにはっきりしていますね。しかし、その他のところは読みにくい字で、まるで読めないところも三か所ばかりあります」
「どうお考えです」
「さあ。あなたこそ、いかがですか」
「汽車の中で書いたんですね。字のきれいなところは駅でしょう。きたないところは走っているときで、読めないところはポイントを通過するときでしょう。科学的な専門家なら、すぐと、近郊線で書いたことに気がつくでしょう。大都市のすぐ近くでないと、こんなにたびたびポイントを通過することはありません。かりに、乗ってから着くまでかかってこの遺言状を書いたものとすれば、その汽車はノーウッドからロンドン・ブリッジまでに一回しか止まらない、急行だったんでしょう」
レストレイドは笑いだした。
「どうも、あなたが推理をお始めになると、もてあましますな。それが事件とどういう関係がありますかねえ」
「つまり、青年の話の中で、ジョーナス・オウルデイカー氏が昨日、汽車の中でこの遺言状を書いたという点だけは確証されたわけじゃありませんか。おかしいですねえ、そう思いませんか、こんなに大事な書類を、そんなに、まるでいい加減に書いたりしますかしらん。とすると、オウルデイカー氏は本当はそれほど大事な書類を書いているつもりじゃなかったということになる。真に効力を生ずる遺言状のつもりで書くのでないなら、そんな書き方をしたかも知れませんがね」
「とにかく、氏は同時に自分の死刑執行令状を書いたようなもんです」レストレイドが言った。
「おや、そう思いますか」
「そうじゃありませんか」
「まあ、そうでないとは限らない。しかし僕には、事件はまだあいまいな点がある」
「あいまいですって。これがあいまいなら何をはっきりだとおっしゃるんですか。ここに一人の若者があって、ある年寄りが死んだら金持ちになれるということが突然わかる。若者は何をするか。人には喋らずにおいて、依頼人を訪問するという口実を作って、その夜ひそかに行動する。まずその家に行って、唯一の同居人たる家政婦が寝つくのを待つ。それから老人を誰もいない部屋で殺し、材木の中にほうり込んで火をつけておいて、近所のホテルに泊まる。室内に血痕が残り、ステッキにもついたが、非常に薄い。そこで無血の殺人に成功したと思いこんで、死体さえ片づければ、死因の痕跡がすっかり隠滅(いんめつ)できると思ったに違いない……痕跡があればひょっとして足がつくかも知れませんからね。さあ、これでもあいまいですかね」
「レストレイド君、どうもちっとばかりはっきりしすぎてやしませんか。君はたいした才能をお持ちだけれども、想像力が足りないようですね。この青年の立場になって考えてごらんなさい。犯行の時期を遺言状の書かれたその日に選ぶかどうか。遺言状と犯行の関係を、そんなに近づけてしまったら危険だぐらいのことはわかるでしょう。それにまた、家政婦に出迎えられたんだから、家の中にいることを知られているわけでしょう。それでもやってしまいますかね。最後に、死体を隠すのに苦労していながら、犯人は私でございといわんばかりに、ステッキを置いてきたりしますか。どうです、君、おかしいじゃないですか」
「ステッキの件はですね、ホームズさんもご存知でしょうが、犯人というものは慌(あわ)てているから、常人なら当然やらないようなことを、ついやってしまうんですよ。部屋に取りに戻るのが怖かったんじゃないかと思います。他にぴったりくるような推理があったら教えて頂きましょう」
「お安いご用、半ダースほどもありますよ。たとえばこんなのなんか、有り得ることだし、当たっているかも知れない。ただで教えましょう。老人が値打ちのありそうな書類を見せている。それを、通りかかったルンペンが窓ごしに見る。日除けが半分あいていましたからね。で、弁護士が出ていく。ルンペンが入って来る。そこにあったステッキをとってオウルデイカーを殺し、死体を焼いて逃走する」
「ルンペンがなぜ死体を焼きますか」
「そのことなら、マクファーレインはなぜでしょう」
「証拠をくらますためですね」
「ルンペンだって、自分の犯行をかくしたいと思いますよ」
「じゃ、ルンペンはなぜ一物も盗らずに逃げたんです?」
「持って行ったって金にできる書類じゃなかったからでしょう」
レストレイドは首を振ってみせたが、初めほど自信が強くなくなった様子に見えた。
「それではホームズさん、あなたはそのルンペンとやらを見つけて下さい。お探しになっていらっしゃるあいだ、私のほうはマクファーレインの線で頑張ります。どちらが正しいか、時間が解決してくれましょう。ただし、この点だけをお忘れないように……、今のところ書類は一枚もなくなっていない、そして青年は世界でただ一人、書類を持って行こうと思わない人間であること、なぜなら自分は相続人であって、どのみち自分のものになる書類ですからね」
これにはホームズも少しぐらついたらしかった。
「私はべつに証拠があなたの説にとって幾らか有利だということを、否定するわけではありません。他にも説のたてようがあると言いたかっただけですよ。おっしゃる通り、時間が解決してくれるでしょう。ごきげんよう。今日じゅうにノーウッドに寄って、お仕事ぶりを拝見させて頂くつもりです」
警部が出て行くと、ホームズは立ち上がって仕事の用意をはじめたが、性に合った仕事を得たというふうで、活気を見せていた。
「僕はねえ、ワトスン君」と、せわしくフロックに手を通しながら「やっぱりブラックヒースからにするよ」
「どうしてノーウッドからにしないんだい」
「どうしてって、この事件にはひとつの出来事の前に、関係の深い別の出来事があるんだよ。警察は、たまたま後で起こった出来事が犯罪を構成しているから、そっちに気を取られてしまっているが、間違いなんだ。僕は、この事件を論理的に調べてゆくには、明らかに最初の出来事……つまり、あんなに突然に書かれた、しかもまるっきり思いがけない相続人を選んだあの遺言状……そこから始めるべきだと思うんだよ。そうすれば、きっと第二の出来事が明白になってくるよ。いやいや、君には来てもらわなくてもすむと思う。危険はない見込みだからね。でなきゃ、君を連れずに出かけたりなんかするものか。夕方帰ってくるからね、そのときにはきっと、僕のふところにとびこんで来たあの青年のために、いささか得るところがあったと報告できるだろう」
ホームズは遅くなって帰って来た。気味悪いほどやつれた浮かぬ顔をしているのをひと目見て、私は彼が出がけに抱いていた希望を満たされないままに帰って来たことを悟った。乱れた心を鎮(しず)めようと、彼は一時間ばかりもヴァイオリンを鳴らしていたが、ようやくそれをほうり出して、失敗の巻を詳しく話してくれた。
「うまくいかないよ、ワトスン君、まるでうまくない。レストレイドに偉そうな口をきいたけれど、まったくのところ、今度ばかりはあっちが正しくて、こっちが見当をあやまっているようだ。僕のカンはあっちを向く、事実はみんな反対を向く。それに、わが英国の陪審員(ばいしんいん)は、まだまだレストレイドの持って来る事実より、僕の説のほうを重んじるほどの知能程度に達していないからねえ」
「ブラックヒースへは行ったのかい」
「うん、行ってみた。すぐにわかったんだが、殺されたオウルデイカーはかなりの悪党だったよ。青年の父親は息子を探しに出かけて留守だった。母親がいたよ、小柄な、うぶ毛の多い、青い目の人だがね、心配やら腹が立つやらで震えていた。むろん、そんな大それたことをする息子じゃないと言っていた。ところがオウルデイカーの殺されたことには、驚いてもいないし、気の毒とも言わない。それどころか、彼のこととなると、ずいぶん苦々(にがにが)しい口をきく。あれでは警察もかなり言い分が強くなるだろう。かねがね母親がそんな口をきいていたのなら、息子はだんだん彼を憎んで暴力をふるうようにもなりかねないからねえ。
『あの男ときたら、人間じゃなくて凶悪な、悪がしこい猿ですよ。昔から、若い時分からそうなんですよ』と、こうなんだ。
『若い時分からご存知なんですか』ときくと、
『ええ、ええ、存じてましたとも。ほんとは私に求婚したことだってあるんですからね。あんな男とそわないで、お金はなくとも、もっとましな人と結婚するだけ分別があって、ほんとによかったですわ。婚約までしたんですけれどね、ホームズさん、鳥飼い場の中に猫を放したなんて、厭な話を聞きましてねえ、あんまり残酷だから空恐ろしくなって、もうそんな人はお断りだと思ったんですの』
それから小箪笥(こだんす)の中をひっかきまわして女の写真を一枚とり出して見せたが、ナイフでけずったり切ったりして見るかげもない。
『私の写真ですのよ。そんなことして、呪いの文句までつけて、結婚式の朝、送ってよこしたんですよ』
『しかし、息子さんに全財産を遺贈したぐらいですから、もう貴女を許していたんでしょうよ』と言うと、
『ジョーナス・オウルデイカーが死のうが死ぬまいが、あんな男から私も息子もビタ一文だってもらいたかありませんですわ』と、むきになって言うのさ。『天には神様がいらっしゃいますからね、ホームズさん、あの悪者をこらしめなすった神様は、きっと私の息子の手が、あの男の血で汚れてなんかいないことをあかしてくださいますわ』
さそいをかけてもみたんだが、僕の説に有利なことは何も聞き出せなかった。かえって不利な点まで出てくる始末だ。とうとう諦(あきら)めてノーウッドのほうに行ってみた。この、ディープ・ディーン荘というのは、けばけばしい煉瓦(れんが)の、でかい新式の別荘で、敷地の奥に建っている。前庭には月桂樹(げっけいじゅ)を植え込んだ芝生がある。右手の、通路からちょっと奥まったところに、火事のあった材木置場がある。手帳にざっと見取図を書いておいた、これだ。左側のこの窓をあけると、オウルデイカーの部屋だ。道から見えるだろう、ね。それが本日唯一のなぐさみさ。レストレイドはいなかったが、部下の巡査部長が代理をつとめていた。それがちょうど、たいした宝物を掘りあてたところだったよ。
朝から焼けた材木の灰をかきまわしていたんだが、黒こげになった死体のそばで、色の変わった金属性のボタンを見つけ出したのさ。よく調べてみたが、明らかにズボンのボタンだ。おまけにその中に《ハイアムズ》と言う名前を彫ったのがある。オウルデイカーのいきつけの服屋だ。それから僕は、芝生に足跡か何かないかと思って、よく気をつけて調べたんだが、この日照り続きで、何もかも鉄みたいに固まっている。人間が、包みみたいなものを引きずって、材木置場にそった低い《いぼた》の木の生け垣をふみこえた跡のほかは、なにもわからなかった。むろん、みな警察の説と符合している。背中に八月の太陽を浴びながら、芝生の上を一時間も這いずりまわったが、結局なんの得るところもなしさ。
そっちが不首尾だから、今度は寝室に入って調べてみた。血痕はごく薄いもので、ちょいと《しみ》になって色がついている程度なんだが、新しいことには間違いない。ステッキはもう片づけてあったが、やはり血痕は薄いという。青年のステッキだということは問題がない。本人が認めたというんだから。青年と老人の足跡は絨毯(じゅうたん)の上から検出できたが、第三者のはひとつもない。これまた向こうの勝ちだ。向こうの得点はふえる一方、こっちは行き詰まりだ。
たったひとつだけ、かすかに希望があった。……しかしそれも結局駄目。金庫の中味を調べてみたんだよ。ほとんど取り出して机の上に置いたままだったんだが。書類はみな封筒に入れて封蝋(ふうろう)で封してあったんだが、二、三警察の手で開封したのがあった。たいがい、僕の見たところじゃ、たいした値打ちのものではなかったし、また銀行通帳を見ても、オウルデイカーがそんな金持ちだことは思われないような額しか記入してない。しかし僕には、書類があれで全部だとは思われなかった。何かほかに証文があるんじゃなかろうか……もっと値打ちのあるものが……しかし見つからない。もし明確な証拠でもあれば、レストレイドの考えを覆(くつが)えすことができるに違いない。いずれは相続するとわかっているものを、誰が盗(と)って行くものか、とか言ったからねえ。
ほかにもいろいろやってみて、なんにも得るところがなかったから、とうとう最後ののぞみを家政婦にかけてみた。レクシントンという、小柄な、色の浅黒い無口な女で、うさんくさそうに横目を使う。自分がその気になれば何か喋りそうだった……僕は確信があった。ところが、まるで封印したように口がかたい。
はい、マクファーレインさまは九時半にお通ししました。そうする前に手がなえてしまっていたら良かったんですわ、というわけさ。床についたのは十時半だそうだ。彼女の部屋は家の反対のはしっこにあるから、何が起こったのか、ちっとも知らなかったと言う。
マクファーレインさまは帽子とそれから確かステッキを、玄関の側に置いていきました。火事の声で初めて目がさめました。ご主人はお気の毒に、きっと殺されなすったんですよ、と言う。
敵はなかったかというと、そうですね、誰にでも敵はあるでしょうけれど、オウルデイカー様は仕事のほかでは人にお会いにならず、ほんとにこもりがちな方ですと言う。ボタンは見たけれど、彼がゆうべ着ていた服についていたものに相違ないと言った。
一か月も雨が降らなかったから、材木は乾ききっていて、《ほくち》のようによく燃えた。だから、彼女がかけつけたときは、もう一面火の海だった。彼女も消防夫も、その中で動物の肉の焼ける匂いをかいだ。彼女は書類のことは何も知らないし、オウルデイカーの私事についても何も知らなかった。これで、僕の失敗の報告は終りだ。しかし……しかしだ」
彼はこみ上げる確信に、両手をしっかと握った。「みんな間違いなんだ。直感でわかるんだ。表面に現われていないものがある。それを、あの家政婦は知っている。あの女はふてくされた反抗的な目をしていた。心にやましいところのある者に特有の目だ。でも、こんなことをつべこべ言っていたって仕方がないねえ。しかし、よほどの幸福にでも恵まれないかぎり、このノーウッド失踪事件は成功の部類に加えられまいぜ。いずれ君は事件記録を書いて世の読者諸君を悩ませるつもりだろうがね」
「きっと、あの青年の様子を見れば、どんな陪審員でもわかるさ」
「ワトスン君、そういう考え方をするのは危険だよ。パート・スティーヴンズという、おっかない人殺しを覚えているかい。一八八七年に、無実だから頼むと言って来た奴がいたろう。世にもおとなしい様子をして、まるで日曜学校にでも行きそうな青年だったじゃないか」
「それもそうだな」
「代わりの説明を見つけて確証してやらない限り、マクファーレインは助からないよ。今のところ警祭の言い分には、彼の有利になるような欠陥はなんにも見つからないだろう。いくら調べたって不利になるばっかりでさ。ところで、金庫の書類には、ちょっとわからない点がひとつだけあるんだ。ひょっとしたらこれが捜査の出発点になるのかもしれない。銀行通帳を調べていたら、預金高の少ないのは、去年コーニーリァスという人にあてて振り出された多額の小切手のせいだということがわかったんだ。事業をやめた土建屋とそんなに大きい取り引きをしたコーニーリァスとは、いったいどんな男か、実はそれが知りたいんだよ。事件に関係のある男なんだろうがね。
コーニーリャスってのはブローカーか何かだろうが、この多額の支払いに符合する受取証が、どこからも出てこないんだ。他の見込み点では失敗したんだから、こんどは銀行に行って、この小切手を現金にかえた男を探すことから始めなくちゃ。しかしねえ、どうやらこの事件は、レストレイドがあの青年を絞首台に送るという不名誉な結果になってしまいそうな気もするんだよ。警視庁は大喜びするに違いない」
シャーロック・ホームズがその夜、少しは眠ったかどうか、私はまるで知らなかったのだが、翌朝食事におりて行くと、彼は青白くやつれはてていた。ふちに隈(くま)ができて、ただでもギラギラ光っている目が、ますます光って見える。椅子のまわりの絨毯(じゅうたん)の上には、煙草のすいさしと早版の朝刊が散らかっている。机の上に電報がひろげてある。彼はそれを投げてよこした。
「これをどう思う、君」
ノーウッドの発信で、次のような文句だった。

『重要ナル新事実ヲツカム。マクファーレインノ犯行ウゴカズ。モハヤ手ヲ引カレヨ。レストレイド』

「えらいことになってきたようだぞ」私は言った。
「レストレイドの、けちな勝ちどきさ」ホームズは苦笑をもらした。「しかしまだ、手を引くのは早まっているかもしれない。重要なる新事実といったところで、どうせ両刃(もろは)の剣さ。ワトスン君、朝飯をやりたまえ。済んだら一緒に様子を見に行こう。今日は君について来てもらって、精神的援助を受ける必要がありそうだからね」
ホームズのほうは、何も食べなかった。彼には、緊張したときには絶食してしまうという妙な癖があった。一度は、鉄のような強さを頼りに絶食を続けて、とうとう飢餓(きが)のために失神してしまったことさえあった。私が医者として意見すると、「いま僕は、精力や神経を消化のためになんかさいていられない」と答えたものである。だから、この朝、彼が食事に手をつけないままでノーウッドに出発したときにも、私はべつだん驚きはしなかった。
ディープ・ディーン荘のまわりには、病的な見物がまだたかっていた。すでに書いた通りの、郊外の別荘である。門を入ると、レストレイドがいて、ふたりを出迎えた。得意満面、いかにも勝ち誇った態度だった。
「やあ、ホームズさんですか、われわれのほうの間違いは、もうご証明になりましたか。ルンペンは見つかりましたかね」
「僕はまだ何も結論は下していませんよ」ホームズは答えた。
「ところがこちらは、昨日下しましたよ。それが正しいという証明もできました。ですから今度は、どうやらこちらのほうが勝ったと、認めていただかなくちゃならんようです」
「何か、よっぽど珍しいことでも起こったような様子じゃないですか」
レストレイドは声高(こわだか)に笑った。「負けて口惜しいのは、ホームズさんも私どもと同様らしいですな。人間いつも自分の思い通りに行くとはかぎりませんからね。……でしょう、ワトスンさん。まあ、どうぞこちらへ。犯人はマクファーレインだと、今度こそ納得させて差しあげます」
彼は廊下を通って暗い広間に案内した。
「マクフアーレインは、犯行のあとでここに帽子をとりにやって来たというわけです。これを、ごらん下さい」と、彼はだしぬけに、芝居がかってマッチをすった。すると白い壁の上に血痕がひとつ照らし出された。彼がマッチを近づけると、それがただの血痕でないことがわかった。はっきり残った親指の指紋だった。
「拡大鏡を出してご覧下さい、ホームズさん」
「ああ、わかってます」
「ふたつ同じ指紋がないことはご存知ですな」
「そういうことを言いますね」
「それではひとつ、今朝マクファーレインの右の親指の指紋をとらせておきましたから、これとそれと比較して頂きましょう」
と、警部が、蝋(ろう)にとった指紋を、血痕の横にさし出したのを見ると、拡大鏡で見るまでもなく、同一人物の指紋であることは明らかだった。哀れな青年も、これでおしまいだと思われた。
「決定的ですな」レストレイドが言った。
「ああ、決定的ですね」私は進んでこう答えるほかなかった。
「決定的です」ホームズも言った。しかし彼の調子には、何か耳に残るものがあったので、私はふりむいて彼を見た。途方もない変化が顔にあらわれていた。内心の嬉しさでゆがんでいるのだ。両の眼は星のように輝いていた。爆笑が吹き出すのを、必死にこらえているように思われた。やっと口を開いた。
「これはこれは、何たることだ。いや、思いがけないもんですよ。外観ばかり見ていると、騙(だま)されるわけですねえ、まったく。あんなにおとなしそうな青年がねえ。自分の判断を信じちゃいけないという、いい勉強になりましたよ、ねえレストレイド君」
「そうです。われわれの中にも、なかなか自信家がいますからな」
レストレイドの横柄さは腹のたつほどだったが、怒ることもならなかった。
「あの青年が帽子掛から帽子を取ろうとして、こんなところに親指をつこうなんて、神の摂理ですねえ。考えてみたって、こいつは自然な動作ですよ」
ホームズは表面こそ冷静だったが、こう話しながら、身体全体が抑えきれぬ興奮でのたくっている感じだった。「ところで、レストレイド君、この驚くべき発見は誰の手柄ですか?」
「家政婦のレクシントン夫人です。不寝番に立っていた巡査に教えてくれました」
「不寝番はどこにいたんですか?」
「犯行の行なわれた寝室にいて、現場に誰も手をつけないように見張っていました」
「しかし、あなた方はなぜ昨日、この指紋をご覧にならなかったんです」
「なぜって、とくに広間を調べなくちゃならない理由はなかったんですからね。それに、ご覧の通り、あまり目だたない場所でもありますし」
「そうね、そりゃそうですね。で、指紋が昨日からあったのは確かなんでしょうね」
レストレイドはホームズをまじまじと見た。彼が発狂でもすると思ったらしい。実は私も、彼が愉快そうな態度で突飛(とっぴ)なことを言いだすのを見て、驚いたのである。
「マクファーレインが夜の夜中に監獄を抜け出して、自分に不利な証拠を残しにやって来たとでもおっしゃるんですかね」レストレイドが言った。「あれが彼の指紋かどうか、どこの専門家に鑑定してもらっても結構です」
「彼の指紋であることは問題ありません」
「じゃあそれで充分でしょう。ホームズさん、私は実際家ですからね。証拠が出れば結論を下すんです。まだ何かおっしゃることがおありでしたら、私は居間で報告書を書いていますからね」
ホームズは平静を取り戻していたが、しかし私は、まだ嬉しさに輝く表情をかすかに読み取ることができた。
「やれやれ、弱ったことになったじゃないか、ワトスン君。しかしどうもおかしいところがあるからね、青年に望みがなくなったというわけじゃない」
「そいつは嬉しいね」私は心から言った。「もう全然望みがないのかと思った」
「いや、まだそこまで言いきるほどには、いっていないよ。しかし実は、警部があんなに重要視しているこの証拠には、重大な欠陥があるんだよ」
「なんだって。どういうことだい」
「つまりね……昨日僕が調べたときには、あの指紋は無かったということさ。ところで、君、ちょっと日の当たるところをぶらついてこよう」
頭は混乱していたが、だんだん希望がよみがえって心温まる思いになりながら、私はホームズについて庭を歩きまわった。彼は建物を前後左右から眺めて、興味深げに調べていた。それが済むと中に入って、建物を地下室から屋根裏まで見てまわった。各部屋はたいがい家具がなかったが、それでもホームズは微に入り細をうがって調べた。最後に使っていない寝室が三つ並んだ最上階の廊下に来ると、彼はまた喜びの発作にとらわれてしまった。
「ワトスン君、この事件には実に独得なところがあるよ。そろそろレストレイド君に打ち明けてやってもいいだろう。さっきは僕たちを少し笑いものにしたが、僕の読みの正しさが証明できれは、今度は同じだけ返してやれるだろう。そうだ、そのやり方もわかったぞ」
ホームズが居間に入って行くと、ロンドン警視庁警部殿はまだ書きものをしていた。
「報告書を書いていらっしゃるんですね」
「そうですよ」
「少し早すぎると思いませんか。証拠固めが充分とは思われませんがね」
レストレイドはホームズをよく知っていたから、この言葉を聞き逃さなかった。彼はペンを置いて物珍しげにホームズを見た。
「どういうことですか、ホームズさん」
「君がまだ重要な証人に会っていらっしゃらないということですよ」
「連れて来られますか」
「来られますね」
「じゃあ、どうぞ」
「ではやってみましう。巡査は何人来ていますか」
「呼べば三人来ますよ」
「結構」ホームズは言った。「みなさん身体が大きくて、強くて、声が大きいですかしらん」
「その点は大丈夫ですが、声の大きいのがそれとどんな関係があるのですか」
「いまにおわかりになると思います、ほかのことも少しね。では、恐れ入りますがお呼び下さい、やってみますから」
五分後に三人の警官が下の広間にそろった。
「納屋に行くと麦わらがたくさんありますからね」ホームズが言った。「ふた束ばかり持って来て下さい。必要とする証人を呼ぶのにたいへん助けになりますから。やあ、どうもありがとう。ワトスン君、君、ポケットにマッチがあるだろう。さて、ではレストレイド君、みんな一緒に二階まで来てください」
前にも書いたように、二階には空いた寝室が三つ並んだ広い廊下があった。ホームズはこの廊下の端まで皆を引き連れて行った。巡査たちはニヤニヤしている。レストレイドは顔に不審と期待と嘲 笑(ちょうしょう)を交 錯(こうさく)させながら、ホームズを見つめている。ホームズは、手品を演ずる手品師よろしく皆の前に立った。
「レストレイド君、どなたか巡査の方に、水をバケツに二杯ばかり汲んで来て頂いて下さい。わらは壁から離してこの辺の床の上に置いて下さい。さて、どうやら用意はできました」
レストレイドの顔が、かっと赤くなってきた。
「われわれをからかうつもりですか、シャーロック・ホームズさん。何かご存じなら、こんな馬鹿な真似はやめて、言ってしまったらどうです」
「レストレイド君、これにはねえ、ちゃんと素敵な理由があるんですよ。先ほどは君に旗色が良くって、少しばかり僕をからかったでしょうが。だから今度は君が僕の派手にもったいぶるのを辛抱する番です。ワトスン君、その窓をあけて、それからマッチでわら束に火をつけてくれたまえ」
言われた通りにすると、もくもくと上る煙が風に吹かれて、廊下を渦巻きなから流れていき、わら束はパチパチとはぜながら燃え上がった。
「さあ、レストレイド君、証人を見つけて差し上げられるかどうか、ちょっとやってみましょう。皆さんで、『火事だ』と叫んで頂けませんか。いいですか、一、二、の三……」
「火事だあッ!」一同がわめいた。
「どうもありがとう。じゃ、もう一度やって下さい」
「火事だあッ!」
「もう一度だけ、すみませんがね、みんなで」
「火事だあッ!」叫び声はノーウッドの中にとどろきわたったに違いない。
この声が消えるか消えぬうちに、驚くべきことが起こった。廊下の向うの端の、一枚の壁と見えたところに、ドアがサッと開いたのだ。そして、まるで兎が穴から飛び出すように、小柄な、しなびた男がおどり出てきたのだ。
「やったぞ」ホームズが静かに言った。
「ワトスン君、わらに水を一杯かけてくれたまえ。それでいいだろう。レストレイド君、失踪中の重要証人ジョーナス・オウルデイカー氏を紹介いたします」
警部は事の意外に呆然として闖入者(ちんにゅうしゃ)を見つめるばかり。男のほうは急に廊下の明るみに出たので目をパチパチさせながら、皆と、いぶるわらとを見くらべるばかりだった。いやらしい顔だった……ずる賢い、よこしまな、悪意にみちた顔、薄灰色のうろんな眼、そして白い眉毛。
「どうしたんだ、おい!」レストレイドがとうとう口を開いた。「いままでお前は何をしていたんだ、ええ?」
オウルデイカーは、真赤に怒った警部の憤然たる顔にあって尻ごみしながら、窮屈に笑った。
「人に害はしませんよ」
「害はしない? 手をかえ品をかえて無実の青年を絞首台に追いやったじゃないか。この方がいなければ、お前は成功しなかったとも限らんぞ」
哀れな男は、しくしくやりはじめた。
「ほんの冗談のつもりでやったんです、本当です」
「へへえ、冗談ですかい。冗談でも、お前のほうで笑うわけにはいかないぞ。下へ連れて行って、見張っていてくれたまえ」
老人が巡査に引っ立てられて行くと、「ホームズさん、部下の手前があったもんですから。しかし、ワトスンさんの前ですが、これはホームズさんのお手柄の中でも、最も明敏なる例だと認めてはばかりません。無実の人間の生命をお救いになって、重大な醜聞(しゅうぶん)を未然に防止して下さいました。私は部内の評判をおとすところでした」
ホームズはほほえみながら、レストレイドの肩を叩いた。
「レストレイド君、おとすどころか、名声がぐんと増しますよ。あの書きかけの報告書を、ほんの二、三か所訂正すれば、みんなレストレイド警部の腕を鈍らせるのがどんなにむずかしいことか、わかるようになるでしょう」
「では、またお名前を出したくないとおっしゃるんですね」
「そうですよ。僕には仕事そのものが報酬です。いつかはこの熱心な記録作家が、原稿用紙をひろげるのを許すことになるでしょうが、それまで僕の名声は、お預けです。……ね、ワトスン君。ところであの鼠(ねずみ)はどんなところに隠れていたのか、見てみよう」
廊下のはずれから六フィートばかりのところに、木(こ)舞(まい)としっくいでできた仕切り壁があって、目につかぬように巧みにドアが切ってあった。中は、ひさしのすきまから光が入ってくる。家具が二つ三つに、食物の貯えと水が置いてあり、本や新聞もたくさんあった。
「土建屋の強みだね」出て来ながらホームズが言った。「誰にも秘密を明かさずに自分の隠れ場所をこしらえることができた……無論あの家政婦は別だがね。レストレイド君、早いところあの女も獲物に加えておきなさい」
「お言葉に従います。しかしまた、どうしてここがおわかりでしたか」
「僕はあの男が必ず家の中に隠れていると決めてかかったんです。この廊下の長さを計っていたら、下の廊下と比べて六フィートばかり短いのに気がつきました。もう居場所はわかったようなものです。で、あの男は火事の声を聞いて落ち着いていられる神経の持ち主じゃあるまいと思いましてね。むろん、入って行ってつかまえてもよかったんですけれども、自分で出て来させたほうが面白かろうと思って。それに、レストレイド君、朝のうちは、君もちょっとしたお芝居で僕をからかったじゃないですか」
「いやあ、ではこれでおあいこというところですな。でも、一体どういうわけで、彼が家の中にいることがおわかりだったんです」
「指紋ですよ。君はあれを決定的だと言いましたね。ところが、全然別の意味で決定的だったんですよ。昨日僕が調べたときには、たしかに無かった。僕は、ご承知でもあろうけれど、細かいところに注意を払います。それで、昨日壁を調べて壁には何もないと確かめておきました。だから指紋はゆうべつけたものですね」
「だって、どうやってつけます」
「簡単ですよ。あの書類の包みに封をしたとき、オウルデイカーがマクファーレインに、やわらかい蝋に親指を押させて、封蝋のひとつを閉じさせたんですね。手早く、しかもごく自然にやったかち、あるいは青年自身も記憶がないかもしれません。きっとほんの偶然で、オウルデイカーもそんな所に使うつもりでやったんじゃないかもしれません。隠れ場所で事件のことを思いめぐらすうちに、その指紋を使ってマクファーレインをおとしいれる、のっぴきならない証拠ができるじゃないかと、天外の妙案が浮かんだのでしょう。封蝋から蝋型で指紋をとって、どこかを針でつついて血を出してそれに塗る。そして夜のうちに壁にはんのように押しておく。しごく簡単なことです。自分でやったのか、家政婦がやったのか、どっちでしょうかね。あの男が隠れ場所に持ち込んでいる書類袋を調べてご覧なさい。指紋のついた封蝋が出てきますよ。賭けをしたっていい」
「驚きました」レストレイドが言った。「いや驚きました。お話をうかがってすっかり明白になりました。でも、こんな深いたくらみをはかって何をしようと思ったんでしょうかねえ、ホームズさん」
警部があの横柄な態度から、先生に物をきく生徒のような態度にがらりとうって変わったところは、まことに面白く思われた。
「さあ、それはたいして説明しにくい事じゃないと思いますね。あの階下で待っている老人は非常にさかしい、よこしまな、執念深い男です。彼が昔マクファーレインの母親に振られたことはご存知でしょうね。なに、ご存知ない! まずブラックヒースに行って、それからノーウッドに行くべきだとお教えしておいたでしょう。で、侮辱(ぶじょく)されたというわけで、もともと、たちの悪い腹黒な男ですから、ひどく怨(うら)みに思って、終生復讐の機会を狙っていたんでしょう。機会はめぐって来なかったようですがね。
彼はここ一、二年運が悪かったようです……多分秘密の投機か何かでしょう……だんだん左前になってくる。そこで債権者の目をかすめようとしたんです。このため彼はコーニーリァスなる人物に多額の小切手を振り出しました。きっと自分の偽名です。この小切手はまだつきとめてありませんが、ときどき二重生活をやっていた、どこかの田舎町の銀行に預けてあるんでしょう。名前を変え、金を振り出し、姿を隠して、どこか別の土地で別人になろうと思ったんでしょうね」
「そう、大いにありそうなことです」
「青年に殺されたように見せてやれば、姿を隠すにも追求の手を振り切ることができるんだし、同時に昔の恋人を思う存分、手ひどく復讐してやることができるわけだと思いついたんでしょう。その女の一人息子が自分を殺したと思わすことができれば何よりです。悪事の傑作です、しかも大家のようにやってのけました。誰が見たって青年の犯行と思う、遺言状といい、両親に秘密で青年を訪ねたことといい、ステッキを渡さなかったことといい、血痕といい、焼跡の無惨な死体やボタンといい、すべてあっぱれなものです。網が張りめぐらしてある。僕も数時間前までは、穴は見つかるまいと思っていました。しかし彼は芸術家の至高の天賦(てんぷ)に欠けていたんですね。筆を止めることを知らなかったんです。すでに完全であるものを改めようとした……しかして破滅した、というわけです。じゃ、下へ降りてみましょう、レストレイド君。ひとつふたつ、きいてみたいことがあるのです」
凶悪な老人は、両側から巡査に守られて、自分の居間に腰をおろしていた。
「冗談にしたことでしてな、他意のない冗談でしてな」
彼はしくしく泣き続けた。「まったくのところ、自分がいなくなったらどうなるか、それが見たかっただけのことなんでして。この私が、気の毒なマクファーレイン君に害を及ぼすようなことをしたなんて、ありようもない事をお考えにならんで下さい。お願いです」
「陪審員が決めることだ」レストレイドが言った。「とにかくわれわれは、殺人未遂とはいかんでも、陰謀罪の嫌疑でお前を拘留(こうりゅう)する」
「それから、あんたの債権者は、コーニーリァス氏の銀行預金を差し押えることになるでしょう」ホームズが言った。
オウルデイカーは、ぎょっとした様子で、その凶悪な眼をホームズに向けた。
「たんとお礼しなくちゃなりませんな。いずれこの借りはお返ししますぞ」
ホームズは寛大にほほえんだ。
「おそらく三、四年かそこらは、あんたもそんな暇はありますまいよ。ところでね、材木置場でも、ズボンといっしょに何をほうりこみましたか。犬の死んだやつですか、兎ですか、何です。言いたくない? おやおや、不親切な人だな。まあまあ、きっと兎二匹ということにでもすれば、血痕と黒こげ遺体の説明はつくというものだ。ワトスン君、いつか事件の記録を書くのなら、兎で間に合わせとけよ」
ひとり自転車を走らせる女

一八九四年から一九〇一年に至るまで、シャーロック・ホームズは誠に多忙だった。この八年間、公的な事件で、少しでもむずかしいものなら、みんな彼の意見が参考にされたものだし、また私的な事件も何百とあり、中には複雑怪奇なものもあったが、これにも彼は、才腕をふるったものだった。数多くの驚異的成功と、わずかの避けられなかった失敗とが、この長い年月にわたる、たゆまぬ努力の成果であった。
私はこれらの事件については、みんな詳細にノートをとっているが、私自身、その多くに関係しているのだから、さて、発表の段になると、どれを選んだらいいのか、なかなか生易しいことではないということは察していただけよう。しかしまあ、今までのルールに従って、犯罪の残忍性よりも、解決法の巧妙で劇的な性質で興味が引き出せそうな事件を取り上げることにしよう。
こういうわけで、いまここに、チャーリントンの孤独な自転車乗りのミス・ヴァイオレット・スミスに関する事実と、われわれが色々と奇怪な調査の糸をたぐっていくうちに、予期しなかった不幸な大団円となったという一幕を、ご披露におよびたい。こうして、私の友人を有名にしたあの才能の数々を目ざましい活躍の物語に書くことは、わけあって無条件には許されないのであるが、この事件には、私がこうしたささやかな物語を書くときに参照する大部の記録の中にあって、看過できないいくつかの点が含まれているのである。
私のノートによると、われわれがミス・ヴァイオレット・スミスのことを聞き知ったのは一八九五年の四月二十三日、土曜日となっている。たしか、彼女の訪問は、ホームズにとって迷惑千万なものだったと思う。ちょうどそのとき彼は、有名な煙 草 長 者(たばこちょうじゃ)のジョン・ヴィンセント・ハードンに対する特異な強迫事件の複雑な問題に没頭していたからだった。何よりも思考の正確と統一とを愛する男であるし、いま手掛けている問題から気をそらされるのにひどく腹をたてたのである。だが、むげに断わるということも、生まれつきできないような性格であるし、夜おそくベイカー街をおとずれて、彼の助言と援助を嘆願する若くて品位もあり、背も高い、美貌(びぼう)の婦人を前にしては断わるにも断わり切れなかったのである。この若い婦人とても、自分の話を必ず聞いてもらう決意をかためて来たのだから、彼の手がまったくふさがっているといったところで無駄なことでもあるし、またどう押してみたところで、彼女が言ってしまわない限りは、追い帰すのが不可能なことは明らかだった。仕方がないというふうに弱々しい微笑を浮かべると、ホームズはこの美しい侵入者に椅子をすすめ、その悩みというのがどんなことか、聞きましょう、と言った。
「少なくとも健康の問題じゃありませんね」鋭い視線を彼女に注いで、「自転車に熱心なお方なら、ぴんぴんしてらっしゃるはずですからね」と言った。
びっくりして彼女は足もとを見つめた。靴底の片側がペダルの端ですれて、幾分ざらざらになっているのを私も認めた。
「はい、よく乗ります。今夜こちらに伺いましたのも、それに関係のあることなんです」
ホームズは、彼女の手袋をはめていない手をとって、科学者が標本に向かっているときのように何らの感情も交えず、じっと注意深く調べるのだった。
「失礼しました。これが商売でしてね」と手を離した。「いやあ、もう少しでタイプライターと間違えるところでしたよ。もちろんこれは音楽です。わかるかい、ワトスン君、指先がヘラ状になってるだろう、どちらの職業にも共通してることだよ。しかし、この方の場合には、顔に何か精神的なものがある」と婦人の顔を丁寧にあかりの方に向けて、「これはタイピストにはないものだ。この婦人は音楽家だよ」
「はい、音楽の教師なんです」
田舎(いなか)ですね、たしか、その顔色では」
「ええそうでございます。サリー州はずれのファーナムの近くですの」
「あの一帯、きれいなところですね。面白い想い出がいっぱいあるんですよ。ねえ、ワトスン君。にせ金づくりのアーキー・スタムフォードを捕えたのは、あの近くだったね。ところでヴァイオレットさん、そのサリーのはずれのファーナム付近で何があったとおっしゃるんです」
若い婦人はたいへん落ち着いて、言葉もはっきりと、次のような奇妙な話をした。
「ホームズさん、父はもう亡くなりましたが、ジェイムズ・スミスといって、あのなじみの帝国劇場でオーケストラを指揮しておりました。あとに残された母と私は叔父のほかにはひとりの身寄りもなく、この叔父も、レイフ・スミスというのですが、もう二十五年も昔にアフリカへ行ったままで、以後たえて音信もありませんでした。父の死後、私どもはたいへん貧しい暮らしをしておりましたが、ある日、タイムズ紙に私どもの行方(ゆくえ)を探す広告が出ているのを聞きました。私どもがどれほど興奮しましたか、お察しいただけることと思います。誰か私どもに遺産を遺(のこ)してくれたものと思ったからです。すぐにふたりで新聞に出ていた弁護士を訪ねてみますと、そこで南アフリカから帰国して滞在中のカラザズさんとウッドリさんというふたりの紳士にお会いしました。おふたりのお話によると、おふたりとも叔父のお友だちで、叔父は数カ月前ヨハネスバーグで貧困のうちに死んでゆき、息をひきとるときに、自分の身寄りのものを探しあてて、不自由しないようにみてやってくれ、とおふたりに頼んだということです。生きている間は私どものことをかまいもしなかったのに、死に際になって面倒を見ることに気を使うなんて少し変だと思ったのですが、カラザズさんのお話では、叔父は父の死をその頃になってやっと知り、私どもの行く先について責任を感じたということだそうです」
「ちょっと待って下さい。で、お会いになったのはいつなんです?」ホームズが聞いた。
「昨年の十二月ですから、四か月前のことです」
「どうぞお先を」
「ウッドリさんて方はたいへんいやらしい感じがしました。絶えず私のほうをじろじろ見るんですの。しかも下品で、顔がむくんでいて赤鬚(あかひげ)を生やしているんです。頭にはこってり油をつけ、髪を左右になでつけてるんです。まったくいやらしいって感じでした……こんな人と知り合いになるのはシリルがきっといやがるだろうと思いましたの……」
「ははあ、いい人のお名前ですね、そのシリルさんというのは」ホームズは微笑した。
若い婦人も頬を染めて笑った。
「そうですわ、ホームズさん。シリル・モートンといって電気技師ですの。夏の終りごろには結婚しようと思っています。あら、どうしてあの人のことなんかお話ししたんでしょう。お話ししたいのは、ウッドリさんはまったくいやらしい人なんですけど、カラザズさんのほうはご年配で、ずっと感じのいい方なんです。頭髪の黒っぽい、浅黒い顔をきれいに剃って、口数の少ないほうで態度も丁寧で、感じのよい笑顔をなさるのです。父が亡くなってからのことをお尋ねになるので、非常に貧しいことをお伝えしますと、自分の家へ来て十歳になるひとり娘に音楽を教えるようにとおっしゃって下さいました。母を独りにしておきたくないと申しますと、週末には家に帰ったらよい、一年に百ポンド出すとおっしゃいました。これはたいへんよい俸給なんです。とうとうお引き受けすることになって、ファーナムから約六マイル離れたチルタン農場のお屋敷へ行くことになりました。
カラザズさんは男やもめで、ディクスン夫人という、ご年配の立派な家政婦さんが家事いっさいの面倒を見ていらっしゃいます。お子様もたいへん可愛くて、すべてがうまくいきそうに思えました。カラザズさんは親切で、その上たいへん音楽好きなんですの。夜などふたりでとても楽しく過ごしました。そして週末になるとロンドンの母のところに帰りました。
こうした私の幸福に、最初のひびが入りましたのは、あの赤鬚(あかひげ)のウッドリさんが来られたときなんです。一週間の滞在で見えたのに、私には、何と三か月もいらしたような気がしましたわ。とてもこわい方で、誰にでも威張(いば)り散らし、私にはまったくたまらないくらい、いやな人に思えました。自分の財産を鼻にかけて、いやったらしく私に言い寄り、結婚すればロンドンでいちばん立派なダイヤモンドを買ってやるなどとおっしゃるのです。私が知らん顔をしてるものですから、しまいにはある日、夕食後私を抱きとめて、……それがどうにもならぬほど恐しい力なんですの……そしてキスしなければ放してやらないなどとおっしゃるのです。 ちょうど、カラザズさんがお出でになって引き離して下さいましたが、今度はカラザズさんに向かっていき、打ち倒して、頭に怪我までさせてしまいました。それっきりで帰っておしまいになったことは申すまでもありません。次の日カラザズさんは私に詑(わ)びて、二度とこんな目に会わさせないからと約束して下さいました。それ以来、ウッドリさんにはお目にかかっておりません。
ところで、ホームズさん、これからなんです。とうとう奇妙な出来事に出会いまして、今日ご相談におうかがいしたのは……。私は毎週の土曜日に、十二時二十二分の汽車でロンドンへ帰るために自転車でファーナム駅まで参ります。チルタン農場からの道は淋(さび)しいところですが、なかでも一箇所、片方がチャーリントンの荒野で、もう一方がチャーリントンの地主邸をめぐる森になっているのが一マイル以上も続き、そこはとくに淋しい道なんです。こんなに淋しい所はほかにはないと思いますわ。だって、クルックスベリ丘に近い大通りに出るまで、荷馬車一台、お百姓ひとりだって会うことはないんですもの。
この二週間前、そこを通っていて、ふと肩越しに振り返りますと、二百ヤードばかり後ろから男がひとり、自転車で来るのが見えました。中年の男で、黒い短い顎鬚(あごひげ)が目につきました。ファーナムに着く前に、もういちど振り返りましたが、もういませんでしたので、べつに気にもとめなかったのですが……、でも月曜に帰ってゆきますと、また同じ人が同じくらいの間隔でついてくるのを見てびっくりしたんです。次の土曜も月曜もまったく同じことが起こったので、ますます変だと思いはじめました。一定の間隔をとっているし、べつに邪魔するわけでもないんですが、でも何だか気味が悪いことですわ。カラザズさんにお話ししますと、興味ありげに聞いていらしたんですが、これからは独りであんな淋しい道を通うことがないように馬と軽馬車を注文して下さいました。
馬車は今週中に間に合うはずでしたのに、どうしたわけかまだ参りませんので、また自転車を駅まで走らせねばならなかったのです。今朝のことなんです、チャーリントンの荒野まで来ますと、やはり振り返らないではいられないでしょう? するとやはり先々週、先週と同じにいるんですのよ。顔がはっきり見えないくらいに離れていますが、やはり誰か知らない人のようです。黒い服を着て、布のハンチングをかぶってるんです。顔ではっきりわかるのは黒い顎鬚(あごひげ)だけです。今日は怖しさよりも好奇心のほうが強かったものですから、いったい誰なのか、何をしようとするのか確かめてやろうと決心したのです。こちらが速度をゆるめると、相手もゆるめます。自転車を止めてしまうと、やはり止めるんです。それじゃ今度は罠(わな)にかけてやろうと思いました。少し先に急な曲がり角があるので、そこまで飛ばしていって曲がった所で待っていました。急いで曲がって来て、あっと思って通り過ぎるだろうと思ったんです。ところが来ないんです。引き返して、角を曲がってみますと、道は一マイルも続いているのに、その男はいないんです。不思議でならないのは、逃げ込む脇道なんかひとつもないんです」
ホームズは独りで悦(えつ)に入って揉(も)み手をした。
「この事件はたしかに独特の面白さがありますね。で、貴女が角を曲がってから、道路上に誰もいないのを確かめるまで、どれくらい経(た)っていましたか?」
「二、三分ですわ」
「それじゃ、引っ返すこともできないし、お説によれば脇道もないというわけですね」
「ありません」
「では、どちら側か、細い野道に入って行った……」
「ヒースの原のほうでしたら、そんなこと、あり得ません。私のほうから見えたはずです」
「そういう具合に消していきますと、とどのつまり、彼はチャーリントン地主邸のほうへ入りこんだという結論に達しますね。屋敷は道に沿った広い地所の中にあるんでしたね。ほかに何か」
「ほかにと申しまして、ただ途方に暮れてしまって、お目にかかって助言をいただけますならば安心できると思いまして」
ホームズはしばらく黙り込んでいた。
「婚約なさった方はどちらにおいでです」やっと口をきった。
「コヴェントリのミドランド電気会社に勤めております」
「ひょっくり訪ねて来て、びっくりさせるようなことはありませんでしょうね」
「まあ! ホームズさん! そんなこと。どういう人だか承知しておりますわ」
「ほかにあなたに心を寄せていたような方は」
「シリルを知る前には二、三ありましたが……」
「その後は」
「強いていえば、あの怖しいウッドリさんくらいです」
「ほかにはありませんね」
美貌の客は、ちょっと当惑したようだった。
「誰です」ホームズはせきたてた。
「でも、これは私の思い過ごしかもしれませんが、ご主人のカラザズさんが度を過ぎて私に関心をお持ちになっていらっしゃると思えることがありますの。私たち、あまり一緒になり過ぎると思うんです。夜など私が伴奏いたしますし……もちろん申し分のない紳士ですから何もおっしゃらないんですが、でも女はいつもわかるのです」
「ははあ」ホームズは真剣になった。「で、生活のほうは何をやってるんです」
「お金持ちですから……」
「それで馬車も馬もないという……」
「でもかなり裕福なんですのよ。一週に二、三度ロンドンのほうへおいでになります。南アフリカの金鉱株にはずいぶん関心をもっていらっしゃいます」
「スミスさん、何か新しいことでも起こりましたら、お知らせ下さい。今のところ、すごく忙しいんですが、時間を見つけて、この事件も調べて見ますから……その間、僕に断わりなしに、別に変わったことはしないで下さい、では、いい知らせの外はないように願ってますよ」
「きれいな婦人が後をつけられるということは、自然の理でもあるんだね」瞑想(めいそう)用のパイプを引き寄せながら、「でも、よりによって、あんな淋しい田舎道で自転車に乗るなんてことはしないほうがいいね。誰か彼女の知らない恋人があることはたしかだよ。しかしワトスン君、この事件には、奇妙な思わせぶりなところがあるね」
「変な男がきまった場所にしか現われないということかい?」
「その通りだ。まず最初に、チャーリントン地主邸に誰が住んでいるのか、それを調べなきゃならんね。それから、カラザズとウッドリだが、このまったく違うタイプの人間が、どういう関係にあるのか。さらに、このふたりとも、レイフ・スミスの遺族のことで、なぜこう夢中になるのか。もうひとつ、家庭教師に相場の二倍も払っていながら、駅から六マイルも離れているのに馬の一頭もおいてないなんて、一体この男の家計はどうなってるのか。変だよ、ワトスン君、まったくおかしいよ」
「出かけて行くんだろうね」
「それが行けないんだよ、ねえ。君が行ってくれよ。どうせつまらぬたくらみだろうが……こいつのために他の大事な調査を中断するわけにはいかないんだ。月曜の朝、早めにファーナムに着いて、チャーリントンの原に隠れるんだ。どんなふうになってるのか、自分で観察し、あとは自分の判断どおり臨機応変(りんきおうへん)にやるんだね。それから屋敷に住んでる奴について聞き込みをし、帰ったら僕に報告してくれ。ところで、ワトスン君、何かはっきりした踏石(ふみいし)が見つかって、事件の解決に渡りがつく目当てがあるまでは、こいつについて何も言わないことだ」
確かめたところによると、ミス・スミスは月曜日の朝ウォータルー発九時五十分の汽車に乗るということだったから、私は早めに発って、九時十三分の汽車に乗った。ファーナム駅から、チャーリントン荒野への道はすぐわかった。かの若い婦人が冒険を試みた場所を見あやまることはない、……一方にはヒースの原が続き、片方には、《いちい》の古い生け垣のなかに大きな木が茂っている庭園があり、その間を道は貫いているのである。屋敷には大きな入口があり、苔(こけ)むした石門の両側の柱には鋳物(いもの)の紋章がはめ込んである。しかしこの門のほかにも、生け垣にはいくつかの切れ目があり、小さい道がそれに続いているのである。屋敷の建物は道路からは見えず、まわりの庭のさまは陰鬱(いんうつ)と荒廃を物語っていた。
ヒースの原には一面ハリエニシダの花が黄金(こがね)色に咲き乱れ、明るい春の日差しにまばゆいばかりに輝やいていた。私は、草むらの恰好の位置に隠れて、屋敷の門口と長く続いている道の両方が見渡せるようにした。私が草むらに行ったときは道には人影もなかったのに、いま、私が来たのと反対の方向から、自転車が走ってくるのを見たのである。黒い服を着て、黒い鬚(ひげ)をつけているのが遠目に認められた。その男は、チャーリントンの地所の向こう端まで来ると自転車を降り、車を生け垣の切れ目に引き入れると見えなくなった。
五分もたったであろうか、一台の自転車が現われた。今度のは駅から乗って来たあの若い婦人である。彼女はチャーリントン邸の生け垣にかかるとあたりを見まわした。と、例の男が生け垣の隠れ場からするすると出て来て、自転車にまたがり、婦人の後を追いはじめた。この広々とした風景の中で、動くものは、ただ二人の姿だけである。……しとやかな婦人は自転車の上に、しゃんと背を伸ばし、後ろを行く男はハンドルの上に低く屈(かが)みこんで、動作のひとつひとつが妙に人目を忍ぶ様子であった。婦人は後ろを振り返ると、スピードを落とした。男もゆるめる。婦人が止まると男もすぐ二百ヤードの間隔を保ったまま止まる。
次の瞬間、婦人のとった行動は、まったく勇敢であり、意外なものであった。突然自転車をまわすと、その男に向かって突進して行ったではないか! しかし相手も劣らずすばしこかった。向きをかえると一目散に逃げ去ってしまった。婦人はふたたび道をもどってくる。昂然(こうぜん)と頭をあげ、あんな無言の追跡者などにはもう目もくれなかった。続いてまた例の男が同じく間隔を保ちながら引き返してきた。道がカーブにかかると二人の姿は見えなくなった。
私は、隠れ場所にじっとしていたが、我ながらうまい所に隠れたものである。例の男がまもなくゆっくり自転車を走らせてもどって来たのだ。彼は屋敷の門を入った所で、降りた。二、三分そこに立ち止まっているのが樹の間から見えたが、両手をあげてネクタイを直しているらしかった。ふたたび自転車に乗ると、屋敷へ向かって走らせた。私は走り出して、樹の間からのぞき込んだ。古びた灰色の建物にチューダー様式の煙突が突っ立っているのが、ちらと見えるだけで、園内の車路は深い茂みの中を通っているので、自転車の男の姿は見えなかった。
惜しいことをしたのだが、今朝は充分仕事をしたと思われ、意気揚々とファーナム駅へ引きあげた。それからここの家 屋 敷(いえやしき) 差配人のところへ行って、チャーリントン屋敷のことを尋ねたが、何もわからず、ただ、ロンドンのペル・メルにある有名な商会で聞いてくれとのことだった。帰りに立ち寄ってみると、代理人が鄭重(ていちょう)に迎えてくれたが、この夏、屋敷を借りるわけにはいかなかった。遅かりし何とやら、ひと月前に借り手があったという。契約者はウィリアムスンという人で、立派な年配の紳士である、ということだけで、お客のことはあまり立ち入ってお話しできないと恐縮するのだった。
その夜、ホームズはこうした私のながながしい報告を熱心に聞いていたが、私が期待していた例の素っ気ない讃辞を、おくびにも出さず、それどころかいつもより渋い顔をして、私のやったことにけちをつけ、観察がたりないと非難するのである。
「だいたい、隠れ場所からして、へまをやったね、ワトスン君。生け垣の向こうに隠れるべきだったよ。そしたら、注意人物をもっとよく見られたはずだ。数百ヤードも離れていちゃあ、ミス・スミスだけの報告もできやしないよ。彼女はその男を知らない人だと思っているが……いや、知ってる男だと僕は思うよ。だって、そうでなけりゃ、彼女が近よって顔を見られるのをやけに恐れるわけがないじゃないか。君はハンドルの上にかがみ込んでたといったね、やはり隠そうとしてるんだよ。君はまったくヘマをやったよ。その男は屋敷へ帰る、しかも君はその男が誰だか探しあてたいと思っている。そしてロンドンの差配人のところへ行ったりなんかする」
「じゃどうすればよかったというんだい」私は気色(けしき)ばんだ。
「近くの酒場へ行くのだ。田舎ではうわさの中心地だよ。土地の旦那方からおさんどんに至るまで、誰のことでも話してくれるだろうよ。ウィリアムスンなんて! そんな名前なんか何の役にもたちはしない。その男が相当の年配だというんだったら、若い婦人が力一杯追いかけてくるのに、逃げおおせるなんてできるもんじゃないよ。この男とは違うんだよ。いったい君はこの遠征で何を得たというんだい。あの婦人の話を確かめただけじゃないか。そうなら初めから疑ってなかったよ。その自転車乗りと屋敷とには何か関係があること、両方とも初めから疑ってなかった。屋敷を借りているのがウィリアムスンということ。そんなこと聞いたって、得をするのは誰だい。まあ、いい、ねえ君、そうしょげるなよ。土曜日までは何もできないさ。それまでに自分で少しばかり調べてみるよ」
翌朝、ミス・スミスから、一通の手紙を受け取った。私が前日見てきたことを、簡潔に、しかも正確に記してあったが、重要な箇所は、欠のような追記にあったのである。

……ホームズ様。秘事は、堅くお守り下さいますことと信じております。今度ご主人から結婚の申し込みをうけましたことにより、ここでの私の立場はまったく苦しいものになって参りました。ご主人のお気持は深く、立派なものであることは、充分承知しているはずでございますが、私も、約束を交した人のある身でございます。はっきりとお断りしますと、まじめにとって下さったのですが、非常にお静かな態度でした。おわかりのことと思います。事態は緊迫して参ったのでございます。

「だいぶ苦しくなってきたようだね」手紙を読み終えると、彼は考え込みながら言った。「この事件は、最初考えていたよりも、面白くなってきたし、まだ進展する可能性もある。田舎で、静かで平和な一日を過ごすのも悪かあないから、昼から出かけていって、一、二考えていることを確かめてみるよ」
ホームズの静かな半日も妙な結末になってしまった。夕方になって、彼は唇を切り、額に青瘤(あおこぶ)をこしらえ、その上、警視庁のお尋ね者にふさわしいような呆(あき)れた風態(ふうてい)で、ベイカー街にご帰還になったのだ。しかも今日の冒険がたまらぬほどおかしいらしく、話をして聞かせながら笑いころげるのである。
「僕はふだんあんまり運動はしないから、たまにやると面白いねえ。君も知ってる通り、僕はイギリス古来のスポーツであるボクシングにかなり熟達しているつもりだ。たまにはこれが役だつね。今日がそれなんだ。これがなかったら、たいへんな恥さらしになるところだった」
いったい何があったんだ、と私は話を求めた。
「君にも注意しておいたが、さっそく居酒屋を探し出して、ひそかに調査を始めたんだ。酒場のところにいると、おしゃべりな亭主がいて、聞きたいことはなんでもしゃべってくれた。ウィリアムスンというのは白い顎鬚のある男で、四、五人の召使いをおいて、あの屋敷に独り暮らしをしてるそうだ。牧師だとか、以前そうだったとかいう噂もあるが、あの屋敷へ来ていくらもならないのに、一、二もめごとを起こしてるんだ。これがとても牧師のすることとは思えないんだよ。その前に、僧職斡旋所(あっせんじょ)へいって、調べてあったんだが、そんな名前でかつて聖職についていた者があったが、その経歴が妙にはっきりしない……という話だったんだよ。一方、亭主のほうは、話を続けて、週末、屋敷にはきまって『生(いき)のいいお客連』があるという。なかでも常連の赤鬚(あかひげ)氏ウッドリさんが横綱だそうだ。
と、ここまで話してたときに入って来たのが、そのご当人なんだよ。先生、奥の部屋でビールを飲んでいて、話をすっかり聞いたんだね……てめえは何者だ? 何をしようってんだ? 何だって他人の事を根ほり葉ほり聞くんだ? ここでべらべらまくしたて、相当勇ましい形容詞もつかったよ。そのあげくひどい悪罵(あくば)とともにすごい逆手(さかて)打ちを喰わせやがったんだ。かわしたんだが、うまくいかなかった。それからの二、三分が面白かったよ。打ってくる奴に僕の左のストレートがきまった。僕はご覧の通りのざまで帰ってくるし、ウッドリときたら、馬車に乗せられて帰る始末だ。かくて郊外のハイキングも終わったわけだが、白状すると、面白いには面白かったが、結局、君以上の効果はあがらなかったというわけさ」
木曜日にはふたたびミス・スミスから来信があった。

ホームズ様。このたびカラザズさんのお宅を辞めることになりました、と申し上げても、お驚きにはなるまいと思います。こんなにも高い俸給を頂きましても、今の立場の苦しさは、和げられないのです。土曜日ロンドンへ帰りましたら、もうこちらには参らないつもりです。カラザズさんが馬車を用意して下さいましたので、あの淋しい道での危険は……もし危険があるとしましても、もう心配しなくてもいいようになりました。私が辞めることに決心しました理由は、単にカラザズさんとの間が緊迫しましたばかりではなく、あのいやらしいウッドリさんがふたたび現われたからです。日ごろからいやな顔つきだったのが、ずっと恐ろしい様子なのです。何かあったのでしょうか。醜く、ゆがんでいるように思えます。しかし、ただ窓から見ただけで、会わなくて済んだのを、喜んでおります。
カラザズさんと、何か、長く話をしていたようですが、あとでご主人はたいへん興奮してらっしゃるように見うけられました。ウッドリさんはここに泊まらなかったのに、今朝はもう庭の潅木(かんぼく)のなかをこっそり歩いているのを見かけましたから、多分、どこかこの近所に住んでいるのだろうと思います。あんな野蛮なけだものは、一刻も早くこの土地から追っ払ってやりたいと思うのです。
私は、どれほどあの男を憎みおそれているか、とても書き尽すことはできません。カラザズさんがどうしてあんな男に我慢なさるのかわかりません。でも私の苦しみも、もう土曜までで、すべて終ってしまうのです。

「そうなってくれるといいんだがね、ワトスン君。まったくねえ」ホームズのことばは重々しかった。「可哀そうに、あの婦人のまわりには、何かただごとならぬ陰謀が企まれているんだよ、だから、彼女の最後の小さい旅行に間違いがないように護(まも)ってやるのが、われわれの務めでもあるわけだ。ねえ、ワトスン君、土曜日の朝は、時間をさいて出かけ、この奇妙な、要領を得ない事件が面倒なことにならないようにしてやらなきゃならんだろうね」
実をいうと、私はこの事件を危険なものというより、奇怪な事件だと思い、さして重大視していなかったのである。美人を待ち伏せしたり、後をつけたりすることは、別段珍しいことではないし、その男が彼女を呼び止めないばかりか、近づこうとしたら慌てて逃げたというような胆(きも)っ玉の小さい奴なら、たいして恐ろしい相手ではない。悪漢のウッドリは困った奴だが、悪いことをしたのは初めだけで、その後なにも邪魔だてするでなし、カラザズの家へやって来ても彼女の前に現われるということもなかったのだ。自転車乗りの男というのは、酒場のおやじのいう週末組のひとりに違いない。ただこの男が誰なのか、何を求めているのか、これはまったくわからない。
だがホームズの緊張した態度と、彼が部屋を出るときピストルをポケットに忍ばせたことから、この奇妙な一連の事件の裏に隠された悲劇が予想されるのかと、初めて緊張感を覚えたのだった。
一夜の雨は、すっかり晴れて朝を迎えた。ハリエニシダの群れ咲くヒースの原の田園風景は、ロンドンのスレート色と焦茶色に飽き飽きしたわれわれの目には、ひとしお美しいものだった。ホームズと私は、新鮮な朝の空気を胸一杯に吸い込み、小鳥の奏でる音楽や、春の新しい息吹とを楽しみながら広い田舎道を歩いていった。クルックスペリ丘(ヒル)にさしかかる道はのぼり坂となり、樫(かし)の老樹のなかに突っ立っている屋敷の不気味な姿が見えてきた。樫の木も老樹とはいえ、屋敷にくらべたら、まだ若いようだ。
ヒースの原の褐色と色づきはじめた新緑の森の間をまわりくねって走っている、赤味がかった黄色の長い路を、ホームズは指さした。遠く、黒い点となって、一台の乗物が、私たちのほうへ走ってくるのである。ホームズは我慢がならないような叫び声をあげた。
「三十分も余裕を見ておいたのに……、あれが彼女の馬車だとすると、いつもより早い汽車に乗るつもりなんだよ。ワトスン君、こいつぁ僕らが行き会う前にチャーリントンの屋敷を過ぎてしまいはしないかねえ……」
坂をのぼりきると、もう馬車は見えなかったが、あまり足を急がせたので、いつも坐って仕事をしている私には、これがこたえはじめた。私はおくれるばかりだった。だがホームズのほうは常に練習をつんでおり、汲めども尽きぬたくましい精力を蓄(たくわ)えていたのである。軽快な歩調を少しもゆるめなかったが、私を百ヤードばかり引き離したとき、突然立ち止って、失望と落胆を表わすように手を高くあげた。
そのとき、一台の空の二輪馬車が、手綱を引きずり、馬にひかれながら、角を曲がって現われ、こちらに向かって飛んでくるのが見えたのである。
「遅かった! ワトスン君、間に合わなかった」私が息を切らしてかけつけると、ホームズは、地団駄(じだんだ)をふみながら言った。
「しまった、もっと早い汽車に乗ることを思いつかないなんて、何てへまをやったんだろう! おい、誘拐だよ、誘拐されたんだ。殺されたかも知れないぞ!畜生、やられたんだ! 道をふさいで馬車を止めろ!よし、よし、さあ、これに乗って……この大失敗が取り返しのつくものかどうか、やってみようじゃないか」
馬車に飛び乗り、ホームズは馬をまわして、鋭いひと鞭(むち)をくれると、田舎道を矢のようにもとへ走らせた。カーブを曲がると、視界がひらけ、あの屋敷とヒースの原の間を走る一本道が見えてきた。私はホームズの腕をむんずとつかんで叫んだ。
「あいつだ!」
一台の自転車がこちらにやってくる。乗り手の男は頭を下げ、背中をまるめて、満身の力を、ペタルのひとこぎひとこぎにかけて疾走してくる。まるで競輪だ。そして突然、鬚のある顔をあげて、私たちを認めると、自転車をとめて、飛び下りた。まっ黒の鬚は、蒼白(そうはく)な顔と奇妙なコントラストを示している。その眼は熱でもあるかのように、ぎらついている。男は、私たちと馬車をじっと睨(にら)みつけた。彼の顔には驚きの色が現われてきた。
「おい、停めろ!」自転車で道をふさぐようにして、わめきたてた。「その馬車をどこで手に入れた? 停めんか!」脇ポケットからピストルを引き抜くと、「停めろ! こら、畜生! 停めないと馬を射つぞ!」
ホームズは手綱(たづな)を私の膝に投げると、馬車を飛び降りた。
「君に会いたいと思っていたんだ。ヴァイオレット・スミスさんはどこにいるんだ?」
ホームズは早口だったが、言葉ははっきりしていた。
「こっちこそ、それを聞きたいんだ。君たちは、彼女の馬車に乗ってたじゃないか。どこにいるか、知ってるはずだ」
「途中で馬車に出会ったんだ。そのときは誰も乗っていなかった。われわれは彼女を助けに引き返して来たんだ」
「しまった! たいへんな事になったぞ! どうしたらいいんだ」
その男の言葉は絶望の調子を帯びていた。「あいつらが……あのウッドリの野郎と、ごろつきの牧師が拐(かどわ)かしたんだ! さあ来て下さい。あなた方がほんとに彼女の友だちなら、手伝って下さい。たといチャーリントンの森に屍(しかばね)をさらそうとも、彼女を救わねばなりません」
気でも違ったかのようにピストルを手にして、その男は生け垣の切れ目に向かって走っていった。ホームズがそれに続き、私も道ばたで草を食っている馬を捨ておいて、かけ出した。
「ここです、奴らが逃げ込んだのは……」その男は泥の上についている、いくつかの足跡を指した。「おや? ちょっと待って下さい。草叢(くさむら)のなかに誰かいますよ」
コール天のズボンにゲートルを巻いて、馬丁ふうの身なりをした十七、八の青年が、膝をそろえて仰向けに倒れているのだ。頭にはひどい傷をうけているが、死んではいない。気絶したものらしい。ひと目で傷が骨まできていないことがわかった。
「ピーターです、馬丁の……」その男は大きな声を出した。「彼女を乗せて出たんです、あの畜生(ちくしょう)どもが引きずりおろして、なぐったんですよ、このまま横にしておきましょう。今はどうすることもできません。それよりあの婦人がどんな恐ろしい目にあっているのか……彼女を救い出したいものです」
木立の中を縫って走っている小路を、われわれは夢中で走った。建物を取り巻いている潅木(かんぼく)の茂みまで来たとき、ホームズは立ち止った。
「家の中に入っちゃいけないぞ。ほら左側に足跡がある。こちらの月桂樹(げっけいじゅ)の植込みの脇に……あっ、やっぱりその通りだ!」
そのとき、女の悲鳴が……恐怖に狂ったように震える悲鳴が、前方の茂みの中から響いてきた。しかもその声は、かん高く響いたかと思うと、息の根を止められたかのように、うっ、うっと喉声(のどごえ)になって止った。
「こっちだ! こっちだ! 球戯場にいるんです!」
自転車の男は叫びながら、茂みのなかへ走り込んだ。「畜生! さあ、私について……遅かった! 間に合わない! あん畜生!」
突然、目の前が開けて、老樹に囲まれた美しい芝生に出た。芝生の向こう、大きな樫の木の下に、三人の奇怪な組み合わせの男女が立っていた。ひとりは、わがミス・スミスで、ハンカチで猿ぐつわをはめられ、今にも絶え入りそうな姿だ。向かいあって立っているのは、下品で粗暴な顔に赤鬚のある若い男で、ゲートルをつけた両足をふんばって開き、片手を腰にあて、片手に乗馬用の鞭をふっていた。その様子は、まるで勝ち誇った態度にみえた。その二人の間に立っている、灰色の顎鬚のある年配の男は、薄いツイードの服の上に白の法衣をつけていて、どうみても、二人の結婚式を済ませたところとみえた。彼が祈祷書(きとうしょ)をポケットにしまいこみ、薄気味の悪い花婿(はなむこ)の肩を叩いて、景気のいい祝辞を述べているところへ、われわれが出くわしたのだ。
「もうふたりは結婚してしまったんだ!」私はあえいだ。
「さあ、早く、早く!」自転車の男は芝生を突っ切ってかけ出した。ホームズと私も後を追った。われわれの近づくのを見ると、スミス嬢はよろめいて木の幹に身をもたせかけた。元牧師のウィリアムスンは、馬鹿にしたような丁寧さで、われわれに頭を下げた。卑劣者のウッドリは動物みたいにわめき、大得意に笑い声をあげて歩み寄ってきた。
「おい、鬚(ひげ)なんか取っちまえよ、ボブ。ちゃんと知ってるんだよ。ところで君たち、ちょうどいいところへ来てくれたよ、さっそく、ウッドリ夫人を紹介できるというものだ」
自転車の男の返事は、一風変わっていた。物も言わず、変装の黒い顎鬚をもぎ取ると、芝生の上に投げすて、きれいに剃った長い、血色のよくない素顔を現わした。それからピストルをあげて、相手の胸へぴたりと狙いをつけた。向こうは鞭を手に、それをおどしに振りながら近づいてきていた。
「いかにも、俺はボブ・カラザズだ。たとえ絞首刑になっても、その婦人を救わずにはおくもんか。その婦人に手出しすると、どうなるかは、先刻承知のはずだ。伊達(だて)に啖呵(たんか)はきらないぞ!」
「遅かりし由良之介(ゆらのすけ)さ、もうこの女は俺の女房になったんだ」
「いいや、お前の後家(ごけ)だ!」
言うなり、轟音(ごうおん)一発、ウッドリのチョッキに血がほとばしった。悲鳴とともに、くるりとまわって、彼は仰向けに倒れた。獰猛(どうもう)な赤ら顔はみるみる青ざめ、恐ろしいまだらの蒼白(あおじろ)さに変わった。いっぽうの老人はというと、法衣をつけたまま、これまで聞いたこともないものすごい呪詛(じゅそ)の言葉を吐いて、自分のピストルを取り出した。だが構える暇(ひま)はなかった。目の前につきつけられたホームズの拳銃を、空しく見守るほかなかったのだ。
「いい加減にしろ!」ホームズは冷静だった。
「ピストルを捨てろ……ワトスン君、そいつを拾って、この男に狙いをつけてくれ、そう。ところで、カラザズ君、そのピストルをよこしたまえ、暴力はいかん、さあ、手く、渡したまえ!」
「いったい、あなたは誰です?」
「シャーロック・ホームズというものだ」
「えっ、あなたが!」
「名前は知っているとみえるね。警官が来るまで、僕が代理をつとめる、おーい……」
芝生の端までやって来て、怖気(おじけ)づいている馬丁を呼んだ。「こっちへ来い、これを持って大急ぎでファーナムまで馬を走らせてくれ」と、手帳をさいて何やら書きつけた。「警察へ行って、これを署長さんに渡すんだ……警察から人が来るまで諸君の身柄は私があずかるよ」
力強く、ゆるぎないホームズの人柄が、この悲劇的な場を支配し、他の者はまるで人形のように、彼の意志のままに動いた。
ウィリアムスンとカラザズの両人も、われ知らず二人で、傷ついたウッドリの身体を家の中へ運び込んだ。私も脅(おび)えているミス・スミスに腕を貸した。傷ついたウッドリは二階に寝かされていたので、ホームズの命により、私は彼を診察してきた。二人の捕えられた犯人を前にして、古いつづれ織りの壁掛のある食堂に腰を下しているホームズに、私は結果を報告した。
「命はとり止めるよ」
「何ですって!」カラザズは椅子から飛び上がった。
「二階へ行ってとどめを刺してきます。あの娘(こ)が……あの天使が、一生ジャック・ウッドリの野郎に縛(しば)りつけられるなんて……そんな馬鹿な!」
「そのことについちゃあ、心配ご無用」ホームズが抑えた。「どうあっても彼女がウッドリの妻にはならないという、立派な理由がふたつあります。第一はウィリアムスン氏が果たして結婚式を行なう資格があるかどうか、できませんよ、これは……」
「聖職を授けられてるんだ」老いぼれの悪漢がわめいた。
「だが、今は解任されている」
「いちど牧師になれば、一生涯牧師だよ」
「そうとは思いませんな、それに結婚許可証は?」
「持っていましたよ。ちゃんと取ってある、このポケットの中にね」
「じゃあ、ごまかして手に入れたんだな。とにかく、強制結婚は、結婚として認められない。それどころか、重罪犯になる。いずれ刑期を終える前にはわかることだろうがね。僕の見るところでは、君にはまず十年かそこいら、ゆっくりこの問題を考える時間があるよ。カラザズ君のほうは、ピストルなんかポケットから出さないほうがよかったね」
「今になって、そう思いますよ。しかしねえ、ホームズさん、あの人を守るために、どれほど用心をしていましたことか……私は彼女を愛してるんです、愛とはどんなものか、この年になって初めて知りました。南アフリカでも名うての悪漢の手にかけられ、自由にされるのかと思うと、もう気も狂わんばかりでした。あの男、ウッドリの名はキムバリーからヨハネスバーグにかけて、鬼よりこわいんです。ホームズさんは本気になさらないかもしれませんが、彼女が私の屋敷に来るようになってからというものは、一度だって近所をひとりで行かせたことはないんです。悪漢どもが、この家を窺(うかが)っていることを知っていましたから、間違いのないよう、必ず自転車で後をつけたんですよ。もちろん、彼女との間隔は常にとっていましたし、顎鬚(あごひげ)もつけていましたから、彼女にはわからなかったでしょう。何しろ賢くて、元気のいい娘さんですので、田舎道でこんなことをしていることがばれたら、すぐやめてしまうでしょうからね」
「なぜ危いことを本人に伝えなかったんですか?」
「でも、やはり……知らせれば、帰って行ってしまうでしょう? それが僕には耐えられなかったんです。たとえ彼女の愛は得られなくても、彼女が家にいてくれて、あの優美な姿を見たり、あの美しい声を聞くだけでも、僕にはどれほどの喜びだったかしれないんです」
「ねえ、カラザズ君。君はそれを愛というが、それは身勝手というもんだよ」私は言った。
「その両方だったでしょう。でも彼女を手離す気にはなれませんでした。こいつらの手もありますし、誰か、彼女の近くにいて守ってやる必要があったのです。そこへ海底電報が来て、この連中がきっと何か始めると思いました」
「何の電報です?」
カラザズはポケットから電報をとり出した。
「これです!」
それは簡潔きわまるものだった。

……老人死ス

「ふうむ、だいぶはっきりしてきた。お言葉どおり騒ぎ始めたでしょうね。どうせ待つ間があるわけだから、君からできるだけ説明を聞きたいですな」とホームズが言った。これを聞いて、白い法衣姿の老いぼれ悪漢は悪罵(あくば)を連発し始めた。
「くそっ! おいボブ・カラザズ、ひと言でも俺たちのことをしゃべってみろ! ジャック・ウッドリと同じ目にあわせてやるぞ! てめえが気のすむまで、あの娘っ子のことをさえずるのは結構だ、俺たちの知ったこっちゃねえ。だがな、もし仲間を売って、俺たちのことを、この私服の刑事(デカ)にばらしてみろ、おめえ、ひでえ目にあうぞ!」
「牧師さん、そう興奮することはないですよ」ホームズはゆくり煙草に火をつけた。「こいつぁ、明らかに君にとって不利だよ。こうやって聞いているのは、僕自身の好奇心から二、三の点が知りたいからだ。もし君たちのほうで話しにくいと言うんだったら、僕がお話ししよう。そうすれば、どこまで君たちが隠しおおせるものか、わかるだろうよ。まず第一に、君たち三人は……つまり君、ウィリアムスンとそちらのカラザズとウッドリの三人は、この仕事のために南アフリカから帰って来た」
「うその第一号だ」老いぼれが言った。「ふたりとは二か月前、知り合ったばかりだ。それに俺あアフリカなんぞ行ったことはないぞ。そんな寝言はお前のパイプにつめて、煙にしてしまえ、ええ、オセッカイ・ホームズさんよ」
「この男の言うのは本当です」カラザズが言った。
「よし、じゃあ、二人が帰って来た。牧師さんのほうは国産品というわけだ。で、君たちは南アフリカでレイフ・スミス氏を知っていた。しかも彼はもう老いさき短いこともわかっていた。彼が死ねば、姪(めい)が遺産を相続することを知った。どうです、ええ?」
カラザズはうなずき、ウィリアムスンはうなった。
「ミス・スミスが最近親(さいきんしん)で、老人が遺言状を書かないのもわかっていた」
「読み書きできなかったんです」カラザズがつけたした。
「だから、君たち二人は、はるばるやって来て、彼女を探した。二人のうち一人が彼女と結婚して、もひとりがその分け前をもらうというたくらみですね。何かの理由で、ウッドリが彼女の夫になると決まった。何でそう決まったんです?」
「船の中で、彼女を賭(か)けてトランプをやったんです。ウッドリが勝ちました」
「なるほど、で、君が彼女を雇い込んで、ウッドリが求婚することになったが、彼女は彼が酔っぱらいの恐ろしい男であると見抜いて、相手にしようとしなかった。一方、悪い仲間のご当人が彼女に惚れ込んでしまって、計画が台なしになろうとした。彼女を悪漢のものにされるなんて、耐えられなくなってきたんだね」
「もちろんですよ、どうしてあんな奴に……」
「そこで内輪もめがおきた。ウッドリは憤(おこ)って君のところを飛び出し、君なんかかまわずに、自分だけの計画をたて始めた」
「驚いたねウィリアムスン。僕らの話すことがなくなりそうだよ」カラザズは苦笑した。「そうです、言い争って、僕が殴り倒されたんです。これで僕らはあいこになったわけです。その後、彼の姿を見ませんでした。そのころ、この職あぶれ牧師様に出会ったんでしょう。二人が、彼女が駅へ行く道筋にあたるこの家で生活を始めたので、何かよからぬことを企んでいると思い、彼女から眼を離さなかったのです。彼らの動向が知りたかったもんですから、ときどき彼らと会っていました。二日前、ウッドリがこの海底電報を持って、僕の家へやって来ました。見るとレイフ・スミスが死んだとのしらせです。この取り引きにお前も一枚加われと言いますから、いやだと断わりました。すると、お前があの娘と結婚してもいいから、分け前だけはよこせと言うんです。そうしたいんだが、本人が承知しそうにないと答えたんですが……するとあいつはこう言うんです。
『ともかく、無理に結婚さしてしまおう、しばらくすりゃ、少しは気持も変わってくるだろう』って……私が暴力なんかいやだと答えますと、何か口ぎたなく罵(のの)しっていましたが、いつか俺のものにしてみせると、毒づいて帰りました。いっぽう彼女のほうは今週限りでやめることになりましたので、駅まで送りとどけるつもりで軽馬車をもとめました。でもまだ不安なので、自転車で後を追って来たのです。しかし馬車はずいぶん前を走っていましたので、僕が追いつく前にやられてしまったんです。あなたがたが彼女の馬車でやって来るのを見て、初めて、それと知ったわけです」
ホームズは腰をあげると、煙草の吸殻(すいがら)を暖炉のなかに投げ込んだ。「ワトスン君、僕もずいぶん鈍かったよ」と口をきった。「君の報告のなかで、自転車乗りの男が、茂みの中でネクタイを直したという、あのことだけですべて説明がついたのになあ。しかしまあ、この事件は奇妙なもので、ある点ではまったく特異なものだったから、それだけで満足すべきなんだろうね、管轄署(かんかつしょ)の連中がふたり、門を入って来たね。それに、結構なことにあの小さい馬丁君も元気に歩いて来るようだ。どうやら馬丁君も、興味ある花婿殿も、今朝の冒険で生命を失うこともなかったわけだ。
ところでワトスン君、君は医者として、スミスさんについていてくれないか、そして、充分回復したようだったら、お母さんの家までお供しますと伝えてくれ。もしまだよくなかったら、いまミッドランドの青年電気技師に電報を打ちに行くところだと、ほのめかして見ることだね。きっと効果てきめんだよ。それからカラザズさん、君は悪事に加わったとはいえ、償(つぐな)いのために努力されたものと思います。ここに僕の名刺を差し上げておきますから、裁判のとき、僕の証言が役だつようでしたら、自由に使って下さい」
絶えずわれわれも目まぐるしく活躍しているので、読者の中にはお気づきの方もあると思うが、この物語を手際よく仕上げたり、好奇心ある方に、満足いただける最後の細かい部分を完成させるのが困難なのである。個々の事件が、次の事件への前奏曲なのであるから、危機が去ると、登場人物もまた、われわれの多忙な生活から永久に忘れ去られてしまうのである。
しかし、この事件を扱っている記録の終りに、短い後書が残っている。それによると、ミス・ヴァイオレット・スミスは、事実巨額の遺産を相続し、現在は、有名なウェストミンスターの電気技師、モートン・アンド・ケニイデイ相互会社の兄分であるシリル・モートン氏夫人である。ウィリアムスンとウッドリは誘拐(ゆうかい)暴行罪で前者が七年、後者が十年の刑に服している。カラザズの運命についての記録はとってないが、ウッドリが凶悪漢の声が高かったから、彼の罪は法廷ではあまり重視されず、多分、法の要求を満たすために二、三か月の刑で済んだのではないかと思う。
プライアリ学院

われわれのささやかなベイカー街の舞台には、相当劇的な人物の登場や退場があったものだが、これから述べようとする、文学修士、哲学博士等々の肩書きをもつソーニクローフト・ハックスタブル教授が最初に現われたときほど、突然で度胆(どぎも)を抜かれたことは他に思い出せない。学者らしい肩書きが所狭しと並べたてられた名刺がまず通され、次いでご当人が堂々として威厳のある身体を現わしたが、それは沈着堅実の権化(ごんげ)ともいうべき姿であった。しかもその人物が部屋に入ってドアを後ろ手に閉めると、まずしたことといえば、テーブルによろめきかかり、足をすべらせ、炉前の熊皮の敷物に巨大な身体がへたへたと、伸びてしまったのである。
われわれは驚いて立ち上がったが、しばらくは呆然(ぼうぜん)として、かの人生の大洋の遠い沖合いで突如として起こった運命の嵐を思わせる、この巨大な難破物を見つめるばかりだった。しかし、はっとしてホームズはクッションをその頭にあてがい、私もブランディを口に含ませてやった。色白の陰気な顔には苦悩の皺(しわ)が幾筋も刻み込まれ、閉じた眼の下の皮膚のたるみは鉛(なまり)色になっており、だらしない口元が哀れに両すみへ垂れ、丸みを帯びた顎(あご)には不精髯(ぶしょうひげ)が生えていた。シャツとカラーは長い旅を物語るように垢(あか)に汚れ、形のよい頭には髪が乱れて逆立っていた。
このように、われわれの眼前に倒れているのは、痛ましくも打ちひしがれた、ひとりの男だったのである。
「どうしたんだろうね? ワトスン君」ホームズは不審顔だった。
「極度の疲労だね……多分空腹と疲労だと思うが……」こう言って私は脈をとったが、その生命の流れ、血液は薄くゆるく脈うつだけだった。
「北部イングランドのマックルトンで買った往復切符の復券をもってるよ」ホームズはその男の時計入れから切符を引き出した。「まだ十二時にならないんだね。この人はずいぶん早くむこうを発って来たんだよ」
皺(しわ)のある瞼(まぶた)がぴくぴく震えはじめたかと思うと、ふたつの灰色の眼がうつろにわれわれを見上げた。と、すぐに男はよじるように立ち上がり、恥ずかしそうに頬を真赤に染めた。
「これは失礼しました。少し過労気味なんです、ホームズさん。恐れ入りますが、ミルクとビスケットを少々頂けないでしょうか? そうすればきっと元気づくと思いますが……実は、私と一緒にご出張願いたいんです。電報を差し上げてみても、あの事件がこれほど緊迫してるとはわかって頂けないような気がしましたから、私自身、参上した次第です」
「あなたが元気を回復なすったら……」
「いや、もう大丈夫です。しかしまあ、どうしてこう弱くなったもんでしょうな。ホームズさん、さっそく次の汽車でマックルトンへおいで願いたいのです」
ホームズは首を振った。
「ここにいるワトスン博士に聞いて頂いてもわかりますが、われわれはいまとても忙がしいんです。フェランズ証書事件にも縛られていますし、アバゲニの殺人事件の公判も真近かなんです。よくよくの重大事件でない限り、ロンドンを離れるわけにはまいりません」
「よくよく、ですって!」この客は両手を上げた。「あなたはまだホールダネス公爵唯一のご子息誘拐事件をご存じないんですか!」
「えっ! あの前閣僚(かくりょう)の?」
「そうですよ。新聞社にもれないよう、ずいぶん注意したんですが、昨晩のグローヴ紙にその噂(うわさ)がちょっと出てしまったんですよ。もうお耳に入ってるのかと思ってましたが」
ホームズは細長い腕をのばして、人名辞典のHの巻を抜き取った。
「ホールダネス、六代目公爵、ガーター勲爵士(くんしゃくし)、枢(すう)密顧問官(みつこもんかん)……半分はアルファベットの肩書きが並んでいるばかりだ……ベヴァリ男爵とカーストン伯爵と……いやはや、なんという名簿だ!……一九〇〇年以来ハラムシャーの州知事、一八八八年、サー・チャールズ・アプルドーの息女イーディスと結婚。跡取りは唯一の男児ソールタイア卿。所領約二十五万エーカー。ランカシャーおよびウェールズに鉱山を所有。住所、カールトン・ハウス・テラス。ハラムシャーのホールダネス地主邸、ウェールズのバンゴーのカーストン城。一八七二年海軍大臣。国務大臣として在任……。なるほど、この人は皇室重臣のひとりだ!」
「最も重要な、おそらく最も富裕な重臣ですよ。ホームズさん、あなたがご自分の職業に関して、はっきりと高潔な態度を持(じ)しておいでで、しかも常に仕事のための仕事に励んでおられることはよく承知しておりますが、事実を申しますと、公爵閣下は、令息の所在を知らせた者には小切手で五千ポンド。誘拐した者の名を知らせてくれれば、さらに千ポンドの謝礼を出すと申されております」
「さすがは王者らしいお話ですね。ワトスン君、ハックスタブル博士と一緒にイングランドの北まで出かけてみるかね。で、ハックスタブルさん、ミルクを召し上がったら、どんなことが起こったのか、また、いつどんなふうにか、最後にマックルトンに近いプライアリ学院のソーニクローフト・ハックスタブル博士と何の関係があるのか、しかもなぜ事件発生後三日もたってから……あなたの髯ののび具合でわかるんですが……私ごとき者に調査を依頼になるのか、以上ご説明いただきたいのです」
客はミルクとビスケットを食べ終えていた。その眼は生き生きとし、顔色もよくなり、力強い声でよどみなく事の次第を説明できるほどになった。
「まず、申し上ぐべきことは、プライアリ学院というのは、貴賓(きひん)子弟の予備学寮で、不肖(ふしょう)私がその創立者であり、また校長であることです。『ハックスタブルのホラティウス私観』という書物の名をあげれば、私の名を思い出して下さるかと思いますが……。
そもそもプライアリ学院は、わが国でも第一流の予備学校であることは疑いを容(い)れません。リーヴァストーク卿、ブラックウォーター伯爵、サー・キァスカト・ソームズ……これらの方々がこの私にご子息をお託しになりました。しかしこの三週間ほど前、ホールダネス公爵が秘書のジェイムズ・ワイルダー氏をよこされて、閣下唯一のご子息で、また跡継ぎでもある当年十歳のソールタイア卿を託されるというご意向を伝えられたとき、わが校の名誉もその極に達したと感激したのです。これが、わが生涯を破滅に堕(おと)しいれる不運の前奏曲になろうとは夢にも思いませんでした。
五月一日、ご令息は学校に着かれました。その日から夏の学期が始まります。可愛らしい少年で、校風にもすぐ馴れました。ここで申し上げても……こんな場合、なまじっか隠しだてしてもまったく意味のないことですから、軽率のそしりは受けまいと思いますが、家庭での少年は必ずしも幸福ではなかったようです。
公爵の結婚生活が平和なものでなく、結局、合意により別居生活をされることになって、夫人のほうが南フランスに移られたことは、もう公然の秘密になっております。これはごく最近のことでして、少年の気持は強く夫人のほうへひかされたのだといわれます。夫人がホールダネスの屋敷を去られてからというものは、少年もふさぎ込んでしまい、それで公爵も私どもへ少年をお託しになったのです。
二週間もすると、少年はすっかりなじんでしまい、見かけたところまったく幸福そうでしたが……。
最後に見かけたのは五月十三日、つまり先週月曜日の夜です。部屋は三階で、別に二人の少年がいる大きな部屋を通って入るようになっています。二人とも、何も見なかったし、物音もしなかったと言ってますので、ソールタイア少年がここを通っていないことはたしかです。
一方、部屋の窓はあいているし、地面からは太い蔦(つた)が這(は)い上がっているのです。地面に足跡はなかったが、ここよりほかに出口があるとは考えられません。
失踪に気づいたのは翌火曜日の朝七時です。ベッドにはいったん入って寝た形跡があります。出かける前に、制服になっている黒いイートン式のジャケットと、濃い灰色のズボンをきちんと着込んでいます。誰かが部屋に侵入した形跡もないし、またそのことなら隣の部屋で寝ている年上のほうのコーンターというのがたいへん目ざとい子で、彼が叫び声も物音らしいものも聞かなかったと言ってますから確実だと申せましょう。
ソールタイア少年の失踪がわかると、私はただちに校内総点呼を行ないました。生徒、教師、小使いすべて集めてみると、いなくなったのはソールタイア少年だけではなかったのです。ハイデッガーというドイツ人教師もいません。彼の部屋も三階で、ソールタイア少年と同じ並びのいちばん奥にあります。ベッドも同様、一度入った跡がありましたが、ワイシャツと靴下が床に散らかっているから、充分身なりを整えないまま出ていったものと思われます。こちらは明らかに蔦(つた)を利用しています。窓の下の芝生に足跡が残っていたのです。ハイデッガー先生は芝生わきの小屋に自転車を置いていたはずですが、それもなくなっています。
この人が私の学校へ来てから二年になります。立派な推薦状がありましたが、だいたい無口で、気むずかしい性質ですから、教師や生徒の間では人気はあまりありません。火曜の朝以来、色々と手を尽しましたが、二人について何の手掛りも出ず、今日の木曜になっても皆目(かいもく)わからないのです。もちろん、ホールダネス公爵家へ問い合せは出してあります。学校から数マイルのところですし、急に家が恋しくなって帰ったのかとも思ってみましたが、そんなことはないとのこと。公爵もずいぶんご心痛になっておられ、私としましても不安と責任感で神経衰弱になっていることは、さきほどお恥ずかしいさまをお目にかけた通りです。ホームズさん、あなたがお仕事に全力をうち込まれるんでしたら、今こそそのときです。これほど価値ある事件は生涯にまたとはないだろうと思います」
ホームズはこの不幸な校長の物語を極度に緊張して聞いていた。引きよせた眉(まゆ)の間に刻まれた深い溝(みぞ)は、これ以上油をそそがれるまでもなく、彼がこの事件に熱中している証拠であり、それに含まれたすばらしい興味をべつとしても、物事の複雑性と異常性を好む彼の気持に直接訴えてきたのである。手帳を引き出すと何やら二、三メモをとった。
「もっと早く私のところへおいでにならなかったのは大きな怠慢でしたね」言葉は厳(きび)しかった。「それで、初めからたいへんなハンディキャップがつけられましたよ。たとえば蔦(つた)にしろ、芝生にしろ、老練な者にかかれば、何も役だたないなんて考えられませんよ」
「仕方がなかったのです。公爵は噂のたつのを極力避けたいご希望でした。家庭内の不和の風評がたつのを怖れられたんです。この種のことを深く嫌われておられます」
「でも警察の取り調べはあったんでしょう?」
「ええ、それは……でも落胆するだけでした。少年と若い男が、その日、早朝の汽車で近くの駅を発つのを見たというので、手掛りらしいものを得たと思ったのですが、昨晩になって、二人をリヴァプールまで追って取り調べた結果、まったく別人だったとのしらせが入りました。焦躁(しょうそう)と絶望に眠られぬ一夜を明かして、今朝いちばんでこちらに参った次第です」
「別人を追及しているあいだ、土地の警察は調査の手をゆるめていたわけでしょう?」
「まったく放擲(ほうてき)していました」
「そんなことで三日間も無駄にしたわけです。そんなへまなやり方が残念でなりませんね」
「そうです、同感です」
「でも最後の解決の可能性はあるはずですよ。よろしい、喜んでお引き受けしましょう。で、少年とドイツ人教師との間に何か関係が見つかりませんか?」
「まったくないんです」
「少年はその教師のクラスでしたか?」
「いいえ、私の知る限りでは、言葉を交したこともないようです」
「そいつぁ変ですね。少年は自転車を持っていましたか?」
「いいえ」
「ほかに自転車がなくなってませんでしたか?」
「なくなっていません」
「たしかでしょうね」
「たしかです」
「ははあ、でもあなたは真夜中にそのドイツ人が少年を小脇にかかえて自転車を走らせたなどとおっしゃりはしないでしょうね?」
「もちろんそんなこと……」
「じゃあ、あなたはどういう意見で?」
「自転車は一つの瞞着(まんちゃく)で、どこかにそれを隠しておいて、二人は歩いて逃げたんだろうと思いますが……」
「なるほど、しかし、ごまかしにしちゃ、少々馬鹿げてますね。そうじゃありませんか。小屋の中には他に自転車がありますか?」
「四、五台あります」
「自転車で逃げたように見せかけるんだったら、やはり二台持ち出して隠しそうなものですが」
「そうですね」
「もちろんそうしますよ。それで瞞着説は成立しません。しかし、これは捜査の出発点としては立派なもんですよ、自転車なんてものは、たやすく隠したり、壊したりできませんからね。もうひとつ、失踪の前日に、誰か少年に会いに来ませんでしたか?」
「来ません」
「じゃあ、手紙は?」
「一通ありました」
「誰からです?」
「公爵からです」
「それを開封しましたか?」
「しません」
「どうして公爵からだとわかりました?」
「封筒には紋章が入っていますし、宛名書きも公爵独特の堅い字でした。なお、公爵も手紙のことを思いだされましたよ」
「その前はいつ来ました?」
「四、五日来てないようです」
「フランスから便りはありましたか?」
「一度もありません」
「こうした質問の趣旨はおわかりでしょう。少年が暴力的に誘拐されたのか、または自発的にやったのか。後者とすれば、まだ年端(としは)もゆかない子供がこういう行為に出るのは、外部から糸を引いている者があったからだとみなければなりません。面会人がなかったとすれば、手紙でそれがなされたと思わねばなりません。だから手紙の相手をおききしてるんです」
「残念ながら、それも無駄なことなのです。私の知る限りでは、公爵からだけですから」
「その父上から失踪の前日に便りがあった。親子の仲はよかったのですか?」
「公爵は誰とでも、特別親しくしておられるということはありません。大きな社会問題に没頭しておられるし、普通の感情に動かされる、情にもろいといったことのないお人柄です。でもご令息には、公爵なりに優しかったようです」
「しかし、子供の気持は母親のほうに傾いていたんでしょう?」
「そうです」
「本人がそう言いましたか?」
「いいえ」
「じゃ公爵から?」
「まさか、そんなこと……」
「じゃ、どうしてわかるんです?」
「公爵秘書のジェイムズ・ワイルダー氏と親しく話をしたことがありますが……そのときソールタイア卿の気持を知り得たわけです」
「なるほど……ところで、その公爵からの手紙は少年のいなくなった部屋に残されていましたか?」
「いいえ、持って出たんですね。ところでホームズさん、そろそろユーストンへ行く時間ですが……」
「馬車を呼びましょう。準備に十五分ばかりお待ち下さい。それからハックスタブル先生、あちらに電報をお打ちになるようでしたら、まわりの人に捜査はリヴァプールあたりで行なわれてるとか、または、どこでもよろしいですからよそに餌(えさ)をまいて、そちらを匂わせておいて下さい。その間に私がこっそり調査することにしましょう。まだ匂いが消えてしまったわけではないから、このベイカー街のわれわれ老犬が二匹かかれば、何とか嗅ぎつけると思いますよ」

ハックスタブル校長の有名な学校が建っている山岳地帯の夜気は、肌寒いくらいに爽快(そうかい)だった。われわれの着いた頃には、もう夕闇が迫っていた。広間のテーブルの上には名刺が一枚置いてあり、執事が何か校長にささやくと彼は生気のない顔に不安の色を浮かべた。
「公爵がお見えになっています。ワイルダーさんと書斎のほうにおられるようですから、さあ、ご紹介しましょう」
この有名な政沿家の顔は、もちろん写真などで知ってはいたが、本人に会ってみると、写真とはだいぶ違うようだった。細面(ほそおもて)の顔に鼻が妙に長く曲がっている。顔色は死人のように青白くて、時計の鎖がきらきら光る純白のチョッキの上に垂れ下った長い鮮やかな赤い顎鬚(あごひげ)と驚くほど対照的である。ハックスタブル博士の書斎の炉前、絨毯(じゅうたん)の中央からじっとわれわれを見すえたのは、こういう顔の堂々たる人物であった。かたわらには、うら若い青年が控えていたが、秘書のワイルダー氏であろう。彼のほうは小柄で神経質だが利口そうな顔つきをしており、その青い眼は知的であった。さっそく、辛辣(しんらつ)な調子でおしつけがましく話しかけてきたのが、この青年である。
「ハックスタブル先生、ロンドン行きをおとめしようと思って、けさがた向ったんですが、遅かったようですね。シャーロック・ホームズ氏を招いて、この事件を処理なさるご意向のようですが、閣下も驚いていらっしゃいますよ、相談もしないで、そういう処置をとるなんて……」
「警察のほうが失敗したと知ったものですから……」
「しかし閣下は失敗したとは信じておられませんよ」
「でも、ワイルダーさんは……」
「先生、閣下が世評のたつのをひどく嫌っていらっしゃることは、よくご承知のはずじゃありませんか。秘密を明かす人はできるだけ少くしたいというのが閣下のお気持です」
「いや……これはまだ取り返しのつかないものでもありませんが……」博士はすっかりしょげてしまった。「シャーロック・ホームズさんには明朝の汽車でロンドンへ帰って頂きましょうか……」
「いや、それはちょっと……先生、待って下さい」ホームズは穏(おだ)やかな声で言った。「この北部の空気は爽快で気も晴れ晴れしますので、二、三日逗留(とうりゅう)させて頂いて、できる限り考えてみたいと思います。宿のほうは、お宅に置いて頂いても、村の宿屋でも結構ですから……」
見るも気の毒な博士は、どうしたものかと、おろおろしていたが、そのとき、赤鬚(あかひげ)公爵の食事を知らせる銅鑼(どら)のような深い大声に、ほっとした。
「ハックスレー博士(公爵の言いまちがい。有名な学者の名である)、私もワイルダー君に賛成ですよ。前もって相談してくれたほうが賢明でしたね。しかしまあ、ホームズ君に打ち明けてしまった以上、尽力(じんりょく)願わぬのも馬鹿げておりましょう。ホームズ君は、宿屋へなど行くことはありません。よろしければ、私の屋敷にお泊まりなさい」
「お言葉はありがとうございますが、調査の目的から申しまして、この不思議な現場に泊まりましたほうが賢明かと思いますので……」
「では、お好きなように……知りたいことがあれば、ワイルダー君も私もできるだけお知らせするから、自由になさって下さい」
「いずれお屋敷のほうへお伺いしなければなるまいと思いますが、ただひと言お尋ねしなければならないのは、ご令息の不可解な失踪について、閣下になにかお心当たりの理由でもおありでしょうか……」
「いや、まったくわかりません」
「失礼なことをお尋ねして、さぞご不興のことと存じますが、仕方がありませんので……ご夫人はこの事件に何かご関係がおありでしょうか?」
これには大政治家も明らかにたじろいだ。
「あるとは思えないが……」と、しばらくしてから答えた。
「でなければ、もうひとつすぐに考えられることは、身代金(みのしろきん)が目的で誘拐したということですが、……まだそんな要求をした者はございませんか?」
「ありませんね」
「失礼してもうひとつ、事件の起こった日に令息宛の手紙をお書きになったと聞いておりますが……」
「いや、書いたのは前の日です」
「そうです。しかしご今息が受け取られたのは当日ですね」
「そうです」
「そのお手紙の中にご令息を心配させたり、あんな行動をとらせたりするようなことが書いてなかったでしょうか?」
「そんなことはないはずです」
「ご自身で投函(とうかん)されましたか?」
そのとき、秘書がむっとしたように公爵の返事をさえぎった。「閣下はご自身で投函などなさいませんよ。その手紙なら他のと一緒に書斎の机の上にありましたから、僕が郵便袋の中に入れましたよ」
「たしかに、一緒にあったんですね」
「そうです。この目で見たんですからね」
「閣下はその日、何通ぐらいお書きになりましたか」
「二、三十通あったでしょうね。書くところが多いんでね。だがこんなことは少し筋が違うようだが……」
「必ずしもそうとは申せません」
「わたしとしては」公爵が言葉をつづけた。「南フランスのほうに注意を向けるように警察には言っておいたが……あの子の母親がこういう奇怪な行為を勧(すす)めたと思わぬのは、先ほど申し上げた通りです。ただ、子供のほうは不心得者で、ドイツ人にそそのかされて、母親のところへ逃げて行くようなこともやりかねないね、……ところでハックスタブル博士、われわれは屋敷へ引きあげますよ」
ホームズがもう少し聞きたいと思っているのは、私にもわかったのだが、いきなりこう出られては、話を打ち切るよりほかはない。どこまでも貴族的な公爵の性格として、こうして肉親の問題を他人と色々論じ合うのはまったく耐えがたいことであろうし、注意深くぼかしてある公爵家の過去の隅々に、一問また一問とより鋭くなる質問の光をあてられることを恐れたのはいうまでもない。公爵と秘書が引きあげると、ホームズはただちに彼独特の精力をもって調査にのり出した。
ソールタイア少年の部屋は注意深く調べられたが、少年が窓から抜け出したということが確実になっただけで、他に得るところもなかった。ドイツ人教師の部屋と持ち物からも手がかりは出ない。こちらの蔦(つた)は体重で傷ついていて、角燈でしらべた結果、芝生の上に足をついたときの踵(かかと)の跡が残っていた。短い芝生の上にしるされたひとつの足跡だけが、この不可解な夜の失踪事件のあとに残された唯一の有形証拠であった。
その夜、ホームズはひとりで出かけて行ったが、十一時すぎ、この付近の陸軍測量部地図をもって帰って来た。それを私の部屋に持ち込んでベッドの上に拡げて、ランプをうまく中央にのせた。そしてその上に屈(かが)みこみ、煙をはきかけながら、火のついている琥珀(こはく)色のパイプで、時々興味ある目標物を指し示していった。
「ワトスン君、だんだん面白くなってきたよ。すごく興味をひく点が二、三あるんだ。いまのうちにこの地形をよく覚えておいてほしいな。それが調査に関係してくるんだ。
ほら、ごらんよ。この黒い四角がプライアリ学院だ。ピンを立てておくよ。それからこの線が街道だ。学校の前を通って東西に走っているだろう。学校から一マイルばかりは両方とも脇道がない。もし例のふたりが路の上を通ったとすればこの道より他はない」
「まったくそうだ」
「ところがひょんな幸運で、問題の夜、この道を通ったものがあるかどうか、ある程度まで調べられるんだ。ほら、僕がいまパイプで指しているところ、ここに巡査がひとり、十二時から朝の六時まで立っていたというんだ。ご覧の通り、学校からこの道を東へ行くと、最初の曲がり角なんだ。この巡査は勤務中、一瞬たりとも持ち場を離れなかったと言っているし、また子供にしろ大人にしろ、人はひとりもこの道を通らなかったと確信してるんだ。さっき、その巡査に会ってきたが、充分信頼のおける人物だったよ。それで、こちらはおしまい……次は西側だ。
ここに《赤牛館》という宿屋がある。ここのおかみさんが病気で、マックルトンまで医者を呼びにやったが他へ往診に行っていて、翌朝まで来なかった。宿の人たちも今か今かと夜通し気を張っていたし、誰かひとりは絶えず街道に気を配っていたという。そして、みんな口をそろえて誰も通らなかったと断言するんだ。ねえ、もしこいつが本当なら、西のほうも大丈夫だ。従って二人は道を通らなかったとの結論に達するんだ」
「自転車だぜ!」私は異議をとなえた。
「そうだよ。またすぐに自転車のことに戻るんだが、まず先の話を続けよう。かりに二人が街道を通らなかったとすれば、学校の北か南か、野を横ぎっていったことになる。こいつはたしかだ。では北か南か、可能性を考えてみよう。
南はご覧の通り、大きな耕地が拡がっているが、なかは石の塀で小さく区切られた畑だ。これじゃ自転車は通れない。だから問題はないと……次は北側だ。
まず《疎林》と記された林があり、その先は《ロウアー・ギル荒地》というのが高低にうねりながら、十マイルも拡がり、次第に高くなる。この荒地の向うがホールダネス屋敷で、街道を廻れば十マイル、荒地を横切れば六マイルだ。ここはまったくの荒地で、ただ二、三の農夫がわずかの土地を持っていて、羊や牛を飼っている。それを除外すれば、チェスタフィールド街道へ出るまで、千鳥と《しぎ》のみがここに住んでいるだけだ。ほら、ここに教会があって家が二、三軒、宿屋が一軒だ。これから先、丘は険しくなっている。だからこの北側にこそ、われわれの調査は向けられるべきだ」
「だって自転車なんだよ」私はまだ固執した。
「そうだよ、わかってるよ」やりきれないといったふうに、「上手(じょうず)な奴なら、何も街道を通る必要はないよ。荒地には小さい道が入り乱れているし、月も明かるかったんだ。おや! 何だろう?」
ドアを烈(はげ)しく叩く者があった。ついで入って来たのはハックスタブル博士だった。手には《つば》に白い山形のしるしのついたクリケット帽を持っている。
「ついに手掛りが見つかりました。よかった! ほら……少年のあとをたどることができます。彼の帽子なんです!」
「どこで見つけました?」
「ジプシーの荷馬車の中です。荒地にキャンプして、火曜日にここを出ていったんですが、今日警察が後を追って、幌馬車(ほろばしゃ)のなかを探したら、これが出てきたんです」
「何と弁解しました?」
「嘘をついて、ごまかそうとするんですよ。火曜日の朝、荒地で拾ったとか、何とかね。鍵のかかる部屋に閉じ込めてありますから、法律の力か、公爵の金かできっと口を割らせることができますよ」
「まあ、それはそれとして……」やっと博士を送り出すと、「これで、少くともわれわれが成功を期待できるのは北側の《ロウアー・ギル荒地》だということがたしかになったわけだ。警察はただジプシーを捕えただけで、位置を確かめるには何の役にもたちゃしないじゃないか! ほら、ワトスン君、荒地には水が流れている。ここに書いてあるのがそれだ。水路が拡がって沼地になっているところも二、三ある。ホールダネス屋敷と学校の間がとくにそうだね。こんな乾き切った日が続いていては、他所(よそ)なら無駄だと思うが、この辺なら、なにか痕跡が残っている可能性はあるよ。あしたの朝ははやく起こすから、この事件に光をあてることができるかどうか、ひとつやってみようよ」

明け方、眼を覚ますと、私はもうホームズの長身を見たのである。ちゃんと服をつけているだけでなく、いちど外へ出てきたらしかった。
「芝生と自転車小屋を調べてきたよ。《疎林》も少し歩いてみた。さあ、ワトスン君、次の部屋にココアが用意してあるから、早く起きてくれよ。今日はすることがいっぱいあるんだ」
ホームズの目は輝き、仕事を前にした職人の親方のように頬を紅潮させている。この活動的で敏捷(びんしょう)な男の姿は、ベイカー街の内省的で青白い夢想家ホームズとはまったく違ったものなのだ。精神力の横溢(おういつ)した、しなやかな彼の姿を見上げて、私も今日の一日を張り切って過ごそうと決心したのである。
だが、あけて口惜(くや)しき……まったくの絶望状態である。初めは希望に満ちて、羊の通る道が縦横に入り組んでいる小豆(あずき)色の泥炭質の荒地を進んだ。すると、ホールダネス屋敷との間に、はっきり沼地とわかる広い緑地帯があった。もし少年が屋敷へ帰っていったのならば、必ずここを通ったに違いないのだが、しかし、そうだとすれば必ず跡を残しているはずだった。だが、二人が通った形跡はない。ホームズは沼のふちを大股に歩きながら、熱心に苔(こけ)の生えた泥炭質の地面を調べていた。だが、その表情は暗くなる一方である。羊の足跡が、そこここにおびただしく入り乱れ、数マイル下手には一か所、牛の足跡が残っている……ただそれだけである。何もない。
「まずは、第一巻の終りだ」ホームズは起伏のある荒地の一帯を浮かぬ顔で見渡した。「ここからくびれて、先のほうにもうひとつ沼があるねえ…… ほら! ほら! ありゃあ何だ!」
黒っぽい細径(ほそみち)に出てみると、その湿った土の上に自転車のわだちの跡がはっきりと残っていた。
「万歳! あったぞ!」私は夢中でどなった。
しかし、ホームズは首を横にふった。その表情はぬか喜びどころか、深刻で、何か期するところがありそうに見えた。
「たしかに自転車には違いないが、問題の自転車ではない。僕はタイヤの跡なら四十二種類知りつくしている。ご覧の通り、これはダンロップだ。表側のゴムに綴りがある。ハイデッガーのはパーマー・タイヤだから、縦の長い縞(しま)が残る。これはエイヴリングという数学の教師がはっきり覚えていた。だからこれはハイデッガーの自転車じゃないね」
「じゃ、少年のかい?」
「もし少年が自転車を持っていたとすればそうなるだろうが、しかし、こいつあわからんものね。でも、このわだちは学校のほうから来ているね」
「学校に向かったのかもしれないよ」
「いや違うよ、ワトスン君。うしろに体重がかかるから跡の深いほうが後ろだよ。ほら、この通り、前の浅い跡を消して通っているのがあるだろう、だから間違いないんだ。これがわれわれの調査と関係があるかどうかはまだわからないが、とにかく先へは行かないで、来た方向にこれをたどってみよう」
そうして二、三百ヤードもたどって行くと、荒地の湿地帯から出てしまい、わだちは消えた。さらにその径を進むと、小径を横切って泉がちょろちょろ湧き出している場所へ出た。そこにまた自転車の跡があった。そこは牛の足跡でほとんど踏み消されている。
そこから三度わだちは消えて、小径は学校と裏続きになっている疎林に入る。自転車はこの林のなかから走り出たに違いない。ホームズは丸石の上に腰をおろして、両手に顎をのせて考え込んだ。私が煙草を二本吸い終っても、まだ動こうとはしなかった。
「なるほど、そう……と」やっと口をきいた。「もちろん、悪知恵の働く奴なら、跡をごまかすためにタイヤを取り換えるぐらいのことはやりかねない。そのくらいの男なら、相手にとって不足はないね。とにかく、問題はこのままにしておいて、もういちど沼地へ引き返してみよう。まだ調べてないものがたくさんあるんだから……」
われわれは荒地の湿地帯の部分を、順を追って調べていった。やがて、その忍耐は見事に報いられたのである。沼地の低い部分に、一つの、とくにぬかった所があり、ホームズはそこに近づくと、やにわに歓声をあげた。電話線の束のようなわだちがくっきりと小径の中央に残っているのだ。パーマー・タイヤの跡だ!
「ハイデッガー先生だよ。間違いなし!」
ホームズは悦(えつ)に入って叫んだ。「僕の推理も、なかなかたいしたもんじゃないか、ワトスン君」
「お見事ですな」
「しかしまだ、道遠しだよ。すまないが、径を避けて歩いてくれ。さあ、このわだちをたどってみよう、遠くまで続いちゃいないだろうが……」
その辺は水気の多いところがあって、時々跡を見失いはしたが、続いて先をたどって行くことができた。
「わかるかい? ここいらではずいぶんスピードを出してるね、間違いないよ。ほう、この跡を見まえ。前後輪ともはっきり跡が出てるだろう。どちらも変わらないくらい深いね。自転車をとばしながら、ハンドルの上に屈(かが)みこんでる証拠だよ。おやっ?……ころんだな!」
そこら二、三ヤードは車の跡が不規則に乱れていた。続いて足跡が四つ五つ。それからまたタイヤの跡になっている。
「横すべりしたんだね」と私は註をつけた。
ホームズが花のついたハリエニシダの枝の踏みつぶされたのを持ち上げると、驚いたことに、その黄色の花は点々と紅に染められているのがわかった。径の上にも、いやヒースの中にも、赤褐色(あかかっしょく)に凝固した血が飛び散っていた。
「いけない!」ホームズが制した。「こいつぁいけない! ワトスン君、あまり近よらんように……不必要な足跡をつけるな! この筋をどう読むか? 転んで怪我をした、立つ、ふたたび乗る。そしてまた進んでいる。ほかに足跡らしいものはない。こっちの脇道に牛がいて、角で突き刺されたんではないか? いや、あり得ないことだ。ほかに跡がないんだ。ワトスン君、もう少し進んでみよう。血痕とわだちをたどっていけば、もう逃しっこないぞ!」
捜査は手間どらなかった。タイヤの跡は、濡れて光っている小径の上を狂ったように曲がりくねっている。と、前方を見ると、深いハリエニシダの茂みの中にキラリと光るものが私の目をとらえた、……そこから、われわれは自転車を引き出したのである。
パーマー・タイヤ……片方のペダルは曲がり、車の前面はべっとり血に汚れていた。茂みの反対側に、靴が突き出ている! 
飛んでいってみると、無残にも乗り手がたおれていた。背が高く、顎鬚(あごひげ)の濃い顔に、眼鏡をかけているが、片方のガラスはなくなっている。頭に一撃、頭蓋骨の一部を打ち砕かれたのが死因だ。これだけの傷をうけながらも、なお走り続けたのは、よほど元気のある男であろう。靴ははいているが、靴下はない。はだけた上衣の上から、寝間着が見えている……疑いもなくドイツ人教師だ。
ホームズは静かに死体をひっくり返して、じっと調べていたが、また、じっと考え込んだ。額(ひたい)に皺(しわ)を寄せているのは、この気味の悪い発見が彼の捜査に大きな進展をもたらすわけではないからだ、と私はみた。
「これからどうしたらいいのか、少々むずかしくなって来たね」やっと話しはじめた。「僕の気持としては、このまま調査を進めてゆきたいんだ。われわれの立ち遅れから、もうぐずぐずしてるわけには行かんからね。一方にはまた、この発見を警察に通知して、気の毒な死体を処置する義務があるしね」
「僕が報告をもってゆくよ」
「いや、君はここにいて手伝ってほしい。待てよ! あすこに泥炭を掘り出してる者がいるよ。あの男を連れてきてくれ。あれに警察を案内させよう……」
私が農夫を連れてくると、ホームズは怖気(おじけ)づいている彼に、ハックスタブル博士宛の手紙を持たせた。
「ところで、ワトスン君、今朝は手掛りをふたつ見つけたね。ひとつはパーマー・タイヤの自転車で、それが行き着いた所まで見てしまった。もうひとつは綴りのあるダンロップ・タイヤの跡だ。これを調べる前にわれわれにわかっているものが何と何か、もういちど考え直してみよう。そこから何かつかめるだろうし、また本質的なものと、偶発的なものとの区別もはっきりさせることができるだろう。
何よりもまず、少年が自由意志で学校を出たこと……これはほぼ確実だ。これを頭に入れておいてもらいたい。自分で窓から降りて、逃げた。一人だったか、連れがあったかは別としてもね。確実だよ、これは」
私も同意した。
「ところで、次にこの気の毒なドイツ人教師に移る。少年は身なりを整えて抜け出した……つまり計画的にやったんだが教師のほうは靴下もはかないで飛び出している。これはたしかに慌(あわ)てたことを意味しているよ」
「たしかにそうだね」
「ではなぜ彼は飛び出したか? つまり寝室の窓から少年の脱走を見たんだよ、追いついて、連れ戻そうと思ったんだね。だから、自転車をつかんで少年を追ったが、その途中で彼は死んでいる」
「そうだろうね」
「これからが僕の重大論証になる……大人が子供を追っかける場合、普通なら走ってゆくだろう、追いつけることがわかっているからね。しかし、このドイツ人はそうはしなかった。彼は自転車を持ち出した。非常に自転車がうまいということだからね。少年がきわめて速い逃亡の手段をとらない限り、彼とてこんなことはしなかっただろうよ」
「つまり、少年が自転車で……」
「もう少しまとめてみよう。学校から五マイルのところで彼は死んでいる……原因は銃弾ではない。いいかい? 銃器だったら、子供でも射てないことはないが、これはものすごい力で、一撃に殴り倒されているんだ。それで少年には連れがあったことになる。熟達した自転車乗りが、追いつくのに五マイルも走っているから、逃げるほうもずいぶん速かった。そこで、この悲劇の現場を調べてみて、われわれは何を発見したか? 牛の足跡が少しあるだけで、他に何もない。付近をひとわたり掃(は)くように広く探したが、十五マイル四方、他に小径もない。つまり、もう一台の自転車は、この殺人とは直接関係はない。にもかかわらず、付近には足跡がないのだ」
「ホームズ君」私は少々馬鹿馬鹿しくなってきた。「そんなこと、あり得ないよ」
「そうだ、うまい! なかなか見事だよ。いま言ったようなことは不可能なんだ。だから僕の説明には、どこか間違いがある。君はこれに気がついた。で、君は間違いを指摘できるかね?」
「転んだとき、頭蓋骨を砕(くだ)いたんじゃあるまいね」
「ええっ! あの沼地で……ワトスン君?」
「こうなると、もうわからないよ」
「ちえッ! もっとむずかしい奴だって解決してきたのになあ……これだけ材料があるんだ。要はこれを使いこなすことだよ。さあ、パーマー・タイヤのほうは調べつくしたから、綴りのあるダンロップ・タイヤが何かを提供してくれるかどうか、やってみよう」
ダンロップ・タイヤの跡をたどって、その進んだ方向に行くと、水路を離れて、荒地はヒースの茂るゆるやかな上り坂になった。タイヤの跡からは、これ以上期待はできないようだった。その跡が消えたあたりから、左手に進めば、ホールダネス屋敷の堂々たる塔が二、三マイル先に建っている。前方へ下ると、低い灰色の部落が横たわり、チェスタフィールド街道の位置をはっきりと示している。
われわれはなおも進んで、ドアの上に闘鶏(とうけい)の看板がかかっている、不気味で汚ならしい宿屋に近づいた。そのとき、ホームズは突然、あっと声をたてて私の肩をつかみ、倒れる身体を支えた。くるぶしの筋をひどく違えて、一歩も歩けないのだ。びっこをひきひき、やっとのことで戸口にたどり着くと、肥っちょで色黒の老人が黒い陶製のパイプをふかしていた。
「こんにちは、ルーベン・ヘイズさん」ホームズが声をかけた。
「どなたかね? どうしてまた、わしの名前を覚えてらっしゃるだかね」ずるそうな目でうさんくさそうに農夫は答えた。
「頭の上の看板にちゃんと書いてありますよ。一家のご主人となると、やはりひと目でわかりますなあ。お宅に何か馬車のようなものはありませんか」
「いいや、ねえだ」
「足が地につけられないくらい痛んで……」
「地につけねえこった」
「そしたら、歩けないよ」
「うん、なら、片足跳(と)びだね」
主人ルーベン・ヘイズの態度は、まったく愛想のないものであったが、ホームズは驚くほど上機嫌だった。
「見て下さいよ、この態(ざま)ったらありゃしない。いくらかかっても構(かま)わないんですがね」
「こっちだって、構わねえ」どこまでも気むずかしいおやじの答えだ。
「いやあ、非常に重要な用件でねえ、自転車を貸してもらえれば一ソヴリン出すがねえ」と聞いて、おやじは聞き耳をたてた。
「どこまで行きなさるだね?」
「ホールダネス屋敷まで」
御前(ごぜん)さまのお友だちかね?」おやじは皮肉な目で、泥に汚れたわれわれの服をじろりと見るが、ホームズはにっこり笑って、「とにかく、行けば喜んで下さるよ」
「どうしてだね?」
「いなくなった息子さんのことで知らせに行くんでね」
おやじは、はっきりそれとわかるほどびっくりした。
「何だって! 若様の居所を突き止めた?」
「リヴァプールにいらっしゃるとわかった。いまにもその知らせが来るはずだが」
ふたたび鈍重な鬚面(ひげづら)にすばやい変化が起こった。おやじの態度はうって変わって隠やかになった。
「あっしはね、他人より御前様をよく思うわけはねえだよ。というのはな、一度あそこの馬丁頭を勤めたことがありますだ。ひどい仕うちを受けましただよ。あのうそつき雑穀屋の言葉なんぞ信用してさね、人物証明書(前雇い主が使用人に与える)もくれねえでお払い箱でさ。だが若様がリヴァプールで見つかったと聞いてわしも嬉しいだよ。だから、お前さんがたがお屋敷へ知らせに行きなさるのを手伝ってあげますだ」
「そいつあ、どうも……まず何か食べさせてもらおう。それから自転車を貸して下さいよ」
「自転車なんかねえだよ」
ホームズはソヴリン金貨を出した。
「もってねえもんは、ねえだよ。だから屋敷まで馬を二頭貸しますだ」
「そうだね、じゃその話は何か食ってからにするか」
石の敷きつめられた台所に通され、ふたりきりになると、筋を違えたはずの、ホームズの踝(くるぶし)がすぐに直ってしまったのにはびっくりした。
外はそろそろ暮れかかっていた。ふたりは朝から何も食べていなかったので、食事のために幾らか時間を費やした。ホームズは考え込んでいた。二度ばかり窓のところまで歩いていっては、熱心に外をのぞいていた。窓の外は汚らしい中庭で、その向う端に鍛冶場(かじば)があって、煤(すす)に汚れた少年がひとり仕事をしている。その反対側には馬小屋がある。ホームズは窓から外を眺めては、また椅子に腰を下ろした。そのとき、彼は大きな声をあげて椅子から飛び上がった。
「そうだ! ワトスン君、わかりかけてきたよ。そうだ……そうだよ。それに違いない。君、今日、牛の足跡があったのを覚えているだろう?」
「だいぶあったね」
「どこだ?」
「そう…各所にあったよ。沼地にも、道の上にも、ハイデッガーが殺されたところにもあったよ」
「そうだね……ところで君、荒地で牛を何頭か見かけたかね?」
「いっこう、見かけた覚えがないがね」
「おかしいよ、ワトスン君。今日行く先々で足跡を見たのに、荒地のどこにも牛はいなかったろう? こいつぁ、おかしいよ、ねえ?」
「そうだ、変だね」
「ところで、よく考えてごらんよ。小径についてた牛の跡が思い出せるかい?」
「思い出せるよ」
「あそこでは、時々、こんなふうになってたろう、わかったかい?」と言いながら、パン屑をこのように並べた 。

「それから、またこんなんだったろう」

「こんなのもあったね」

「思い出せるかい?」
「いいや」
「僕は覚えているよ。たしかにそうだったよ。暇があったら、もう一度行って確かめてもいい。あそこで結論が引き出せなかったなんて、何という間抜けだ!」
「どんな結論だい?」
「並足で歩いたり、早足になったり、疾駆(ギャロップ)したりできるのは珍しい牛だということだけさ。おいおい、田舎の宿のおやじの頭では、こんなごまかしはできっこないよ。いまちょうどいい。鍛冶場には小僧だけしかいないようだ。抜け出して、できるだけ調べてみよう」
荒れ果てた馬小屋には、毛の粗い、手入れの悪い馬が二頭いた。その一頭の後脚を持ち上げてみて、ホームズが声高に笑った。
「なるほど、古い蹄鉄(ていてつ)を新しく打ちかえたんだな。古い蹄鉄に新しい釘か! これでこの事件も傑作の部に入るぞ。あっちへ行って、鍛冶場を見てみよう」
小僧は、われわれには無関心といったふうに仕事を続けていた。ホームズの眼は床の上に散らかっている鉄材や木材の上をすばやく動きまわった。と、そのとき、背後で足音がした……おやじである。太い眉(まゆ)と野蛮な眼玉をくっつけるようにして、われわれをにらんだ。浅黒い顔は怒りにひきつっている。
頭に金具をつけた短い杖(つえ)を手にして、おやじがものすごい剣幕(けんまく)で迫ってきたので、ポケットのピストルを上から押えてみて、やっと大丈大だと思ったくらいである。
「このこそ泥め! おめえたち、何してるんだっ!」
「おやおや、ルーベン・ヘイズさん」ホームズは落ち着き払っていた。「なにか悪いことをさぐられて怒ってるみたいだよ」
おやじはぐっとこらえ、気味の悪い口もとをゆるめて作り笑いをしたが、その顔のほうが、しかめっ面より怖いくらいだった。
「いや、まあ、おらの鍛冶場を見たけりゃ、いくらでも見るがええ。だがね旦那がた、俺あ、断りもしねえでひとの家の中をかきまわすご仁(じん)はあんまり好きでねえよ。だから、勘定をすませたら、なるべく早く出ていってもらったほうが、嬉しいだがね」
「いいよ、ヘイズさん。なにも悪気でやったわけじゃないんだ」ホームズが答えた。「ちょっと馬を見せてもらっただけだ。でも僕たち、やっぱり歩いてゆくよ。それほど遠くもなさそうだからね……」
「屋敷の入口まで二マイルたらずで、あっちの左側の道よ」
彼はわれわれが庭を出ていくまで、不機嫌な目つきでじっと見つめていた。
街道へ出ていくらも歩かなかった。角を曲がって、おやじから見えなくなると、すぐホームズが立ち止った。
「子供の遊びじゃないが、宿に着いたとき、僕らは《近い、近い》だったが、こうして歩いてくるにつれて、一歩ずつ《遠い、遠い》になるんだよ。どっこい、こいつぁ去るに及ばずだ」とホームズ。
「あのルーベン・ヘイズというおやじが、何もかも知ってると思うよ。見るからに悪党だ」
「うん、君もそう感じたかね、ええ? 馬あって、鍛冶場ありさ。そうだ、たしかにあの《闘鶏館》は面白いところだよ。見つからんように、もう一度行ってみよう」
背後には、ゆるい傾斜の丘が続き、灰色の石灰岩が点々と見える。街道を曲がると、二人は丘へ道をとった。ふと、ホールダネス屋敷のほうを見ると、自転車が一台街道を疾走してくる。
「ワトスン、しゃがむんだッ!」
ホームズはぐいと私の肩を抑えつけた。隠れたと思うまもなく、男を乗せた自転車は目の前を走りすぎた。捲(ま)きおこる砂煙の中に、青白い、興奮した男の顔を見た。口をあけ、物々しげに前方を見すえて、顔一面すべて恐怖という表情である。何だか昨夜会ったばかりの粋(いき)なジェイムズ・ワイルダーの漫画みたいに思えたが……。
「公爵の秘書だ。さあ、ワトスン君、何をやるのか見に行こう」
岩づたいに四、五分、虫みたいに這(は)ってゆくと、宿屋の戸口が見えてきた。ワイルダーの自転車が戸口の脇に立てかけてある。家のまわりりには人の動く気配はなく、窓にも人の姿がない。陽(ひ)はホールダネス屋敷の高い塔のうしろに浮かび、たそがれが静かに迫ってきた。その薄闇のなか、宿屋の馬小屋の引き窓に馬車の側燈が二つついた。するとやがてひづめの音がして、馬車は街道に引き出された。それはそのままチェスタフィールド目ざしてものすごい速さで疾走していった。
「あれ、何だと思う?」ホームズがささやいた。
「追われてるみたいだね」
「馬車には男がひとりのようだが、ワイルダーじゃないね、ほら、ご当人は戸口に立ってるよ」
戸口から闇の中に四角の黄色い光が流れ出た。その中に秘書の黒い影が立っている。顔を突き出して闇のなかをうかがっているのは、誰かを待っている様子だ。果たして足音が聞こえ、第二の人影が現われたが、ちらっと光を浴びただけで、ドアは閉まった。ふたたび外は暗闇になった。ものの五分もすると、二階の一室に灯がついた。
「《闘鶏館》には少々、不似合いの客らしいが……」とホームズ。
「飲むだけだったら、酒場は反対側だものね」
「そうだよ。あの連中はいわゆる特別客というやつだろうね。ところであのワイルダー、こんな時間にあの宿で何をしてるんだろう? 彼に会いに来た男はいったい誰か? さあ、ワトスン君、危険をおかしてでも、もっとよく調べてみる必要があるよ」
われわれはともに街道へおりて、宿屋の戸口まで這っていった。自転車はまだ壁に立てかけられたままである。ホームズはマッチをすってうしろの車輪をてらしていたが、綴りのあるダンロップだったので、嬉しそうに、くすくす笑った。頭の上には灯のついた窓がある。
「のぞいて見なけりゃならんがね。ウトスン君、ひとつ、壁につかまって馬になってくれないかなあ、あとは僕がうまくやるよ」
ホームズは私の肩にのったかと思うと、すぐ降りた。
「さあ、早く! 今日は朝からずいぶん働いたことだし、集められる限り集めたと思うよ。学校までだいぶ遠いから、急いだほうがいいね」
荒地を通って帰る途中、ホームズはほとんど口をきかなかった。学校に着いても門を入らず、電報を二、三通打ってくるといって、マックルトン駅のほうへ歩いていった。
その夜おそく、教師の不慮の死に打ちひしがれたハックスタブル博士を慰めている彼の声をきいたが、ややしばらくして私の部屋に入って来た彼は、今朝出かけるときと同じように元気で快活だった。
「万事うまくいってるよ。あすの夕方までには、誓ってこの不思議な事件も解決してみせるよ」
翌朝十一時、われわれは有名な《いちい》の並木道をホールダネス屋敷の玄関へ向かって歩いていた。ふたりは堂々としたエリザベス朝ふうの玄関を通り、公爵の書斎に案内された。ジェイムズ・ワイルダー氏は乙(おつ)に澄ました鄭重(ていちょう)さで二人を迎えた。彼の落ち着かない目つきや、時々ひきつる顔には、昨夜の物狂おしい恐怖の名残(なご)りが今もあるように見えた。
「閣下にご面会ですか? お気の毒ですが、閣下はお身体(からだ)の具合いが悪くて……あの悲しい知らせで打撃を受けられたのです。実は昨日午後、あなたがたの発見を知らせる電報が参ったものですから」
「ワイルダーさん、お目にかからねばならないんです」
「でも、部屋に引きこもっていられますから」
「ではお部屋まで参りましてでも」
「お寝(やす)みかと思います」
「とにかくお目にかかります」
ホームズの頑(がん)として動ぜぬ冷やかな態度に、秘書は争っても無駄だと思ったのであろう。
「承知しました、ホームズさん。お取り次ぎします」
三十分も待たせてから、公爵が出て来た。顔色はずっと蒼(あお)ざめて、死人のようであり、肩を下げ、昨日の朝から一日のうちにずっと老いこんだような姿だった。彼はゆっくりと丁寧に挨拶し、机に向かった。彼の顎(あご)から赤い鬚が机の上に垂れた。
「ホームズさん、何か……?」
聞かれても、ホームズの目はじっと公爵の側に立っている秘書にすえられたままである。
「ワイルダーさんがいらっしゃらないほうが話しやすいと思います」
秘書は心持ち蒼ざめて、ホームズに悪意ある目をなげた。「公爵がお望みとありますれば」
「そう、君は下がっていなさい……ところで、ホームズさん、何の話ですかな」
ホームズは秘書が戸をしめて出てゆくのを見送って、
「閣下、実を申しますと、友人のワトスン君と私は、この事件に懸賞金がついているとハックスタブル博士からうかがっておりますが、それを閣下の口から直接、確かめたいと思います」
「その通りです」
「ご令息の居場所を知らせたものに五千ポンドと聞いておりますが」
「そうです」
「監禁している者の名をお知らせすれば、さらに千ポンド」
「その通り」
「後者の場合、もちろん誘拐した者だけでなく、現に監禁している共謀者も含まれるわけでしょうか」
「もちろんそうです」公爵はいらいらしながら答えた。「シャーロック・ホームズさん、ちゃんと仕事さえしてくれれば、けちくさいなんて不腹は言わせませんよ」
質素でつつましい、いつものホームズを知っている私は、彼がいかにも欲深そうに細い手を揉(も)み合わせたのを見て、意外な気がした。
「閣下の机の上にありますのは、閣下の小切手帳だとお見受けします。恐れ入りますが六千ポンドの小切手を作っていただけましょうか? 横線(おうせん)にしていただければ結構です。私の取引銀行はキャピタル・エンド・カウンティーズ銀行のオックスフォード支店です」
公爵はきっとした顔になって、身体を起こした。そしてホームズをはっしと睨(にら)んだ。
「ご冗談でしょうな、ホームズさん。ここは遊びの場ではありませんぞ」
「それどころか、閣下、大真面目(おおまじめ)です」
「じゃ、どういう意味です?」
「懸賞金が頂きたいと申しているのです。ご令息の所在を存じておりますし、また誘拐監禁している者も、全部ではありませんが知っております」
公爵の蒼白い顔に対して赤鬚が常よりさらに、ひときわ赤く目立っていた。
「で、息子はどこにおりますかな?」声はあえいでいる。
「すくなくとも昨晩は、お屋敷の門から二マイルばかりの《闘鶏館》におられました」
公爵はぐったりと椅子の中に崩れた。
「で、犯人は誰だと?」
シャーロック・ホームズの答えこそ、まさに驚天動(きょうてんどう)地(ち)ともいうべきものであった。すばやく進み出て、公爵の肩に手を置くと、
「閣下を指名いたします」と言った。「では、お手数ながら、小切手をお願いいたします」
そのとき、椅子から飛び上がり、深淵に沈んでゆく人のように空(くう)をつかんだ公爵の姿を、私はどうにも忘れることができない。だが、やがて貴族特有の自制心で、やっと自分を仰えると、ふたたび腰を落ち着け、顔を両手に埋めてしまった。そして、しばらくはそのままだった。
「して、どのくらいご存じで……」やっと口を開いたが、まだ顔はあげなかった。
「昨晩、ご令息とご一緒のところを見ました」
「お二人のほかに誰が知ってます?」
「誰にも話してありません」
公爵はなおも震える手でペンをとり、小切手帳をあけた。
「約束は守りましょう。あなたのもたらした知らせが、いかにありがたくないものであっても、小切手は切りますよ。あなたが賞金のことを持ち出したときも、こんな結果になろうとは夢にも思いませんでした。でもお二人ともご分別ある方でしょうから……」
「お言葉の意味、解しかねますが」
「ホームズさん、はっきり申し上げて、あなたがた二人が事件の内幕を知ったからといって、それが世間に知れ渡る理由にはならないでしょうからね。一万二千ポンド支払えば済むんでしょうな、どうです?」
だがホームズは微笑して首を振った。
「閣下、そう簡単には参らぬかと思います。一教師の死ということが当然考えられねばなりますまい」
「でも、ジェイムズは何も知りませんよ。このことで、彼を責めてはいけません。不幸にしてあれが雇った悪党の仕業(しわざ)です」
「私の意見としましては、人がひとつの犯罪に関係した以上、派生的に起こった犯罪に対しても、道義上、責任はとらねばならないと思います」
「道義上……ね。まあそうでしょうが、法律の目からすれば違いますね。現場に居合わせなかった者に殺人の罪を負わせるのは酷(こく)でしょうよ。しかも君たち同様、その者自身がそれを呪(のろ)い嫌う者ならばね。ドイツ人が殺されたと聞いて、ジェイムズは私に一切を告白しました。恐怖と悔恨の涙を流しながらね。殺人を知って、すぐに犯人との関係を断ったんです。ホームズさん、彼を助けて下さい。お願いだから、助けてやって頂きたい」
いまや、やっと保っていた自制心を失ってしまい、公爵は顔をひきつらせ、拳(こぶし)を宙にふりまわしながら、部屋を歩きまわった。でも、やがて落ち着きを取り戻して、ふたたび机に向って腰をおろした。
「だが、誰にも話さず、ここへやって来て下さった君たちの行為には感謝いたします。少くとも、おそろしいスキャンダルをどの程度くいとめられるものか、話し合うことができましょうからね」
「おっしゃる通りです」ホームズも賛成した。「それはまったく隔(へだ)てのない率直な相談によってのみ、できると思います。私とても、できる限りご協力いたしたい考えでおりますが、それには、事件の内容を徹底的に知りつくす必要があると思います。ジェイムズ・ワイルダーさんに対する閣下のお言葉は充分わかりました。私とても、殺人犯人などとは考えておりません」
「そうですよ。犯人は逃亡しました」
シャーロック・ホームズは余裕ある笑みを浮かべた。
「閣下には、私の評判を少しもご存じないようですね。でなければ、そう簡単に逃亡できるとはお思いにならないでしょう。ルーベン・ヘイズは昨夜十一時、私からの通告により、チェスタフィールドで逮捕されました。その電報を今朝学校を出る前に、土地の警察署長から受け取ってきました」
公爵は椅子によりかかり、感嘆の目でホームズを見た。
「人間わざとは思えません。ルーベン・ヘイズが逮捕されましたか? そのためにジェイムズの身に破滅が落ちかかることさえなければ、わたしとしても嬉しいのですが」
「ほう……あなたの秘書の?」
「いいえ、わたしの息子です」
今度はホームズがびっくりする番だった。
「これは思いもよらぬことでした。詳しくお話し願えませんでしょうか」
「何も隠しだてしますまい。こうした苦しい立場におちいったのも、ジェイムズの愚かさと嫉妬(しっと)のゆえなのですが、それがいかに苦しいものでも、率直にお話しするのが最上の策と私も思います。ホームズさん、私も若い頃、一生一度の激しい恋をしました。もちろん私は結婚を申し込んだのですが、相手はその結婚が私の足枷(あしかせ)になるとの理由で、同意してくれませんでした。もしこの女性が生きてさえいてくれたら、私とても、他の女と結婚しなかったでしょう。彼女は一子を残して亡くなりました。私は彼女の想い出のために、この子をいつくしみ育てました。実の子なのに世間体(せけんてい)もあって父と名のることはできませんが、その代わりに最高の教育をうけさせ、成人になってからは、ずっと私のそばに置いてきました。
ところが彼は私の秘密を知ってしまったのです。それからというものは、この弱みにつけ込んで、私のいやがる秘密暴露(ばくろ)を武器にして、色々と不当な要求をするのです。私の結婚が不幸な結果になったのも、ある程度、彼あるゆえでした。とりわけ彼は、私の法定相続人なる息子に対して、初めから憎悪を持ちつづけていたのです。そういう事情なのに、どうしていつまでもジェイムズを側においておくのかと聞かれるかも知れないが、彼の顔には、母親の面影があるのです。彼女の想い出ゆえに、私は今日まで耐え続けて来ました。彼は母の特徴のすべてを備えています。そのすべてが、また彼女を想い出させるのです。しかし、彼がアーサーに対して……つまりソールタイア卿ですが……これに危害を加えることがあってはと思い、ハックスタブル博士に託することになったのです。
あのヘイズという男は、私の小作人で、ジェイムズはその管理人でした。あの男ははじめから悪党でしたが、どうしたものか、ジェイムズは親しくなったのです。あれは妙に下層階級のものと《うま》が合います。そこでジェイムズはソールタイア誘拐を思いつき、あの男を手先に利用したのです。あの前日、私がソールタイアに手紙を書いたことはご記憶でしょうが、それを彼が開封して、学校裏の《疎林》とよんでいる森へ会いに来るようにという手紙を入れて投函したのです。彼が母親の名を使ったので、子供は釣られて出て来ました。ジェイムズが自転車で出かけていって……こう話をするのも後になってジェイムズが告白したことなんですが……そこでアーサーに会い、母親が会いたがっていること、また荒地で待っていること、夜中にもう一度くれば、森の中で馬をもった男が待っているから、その男が連れていってくれるなどと話したのです。可哀そうにアーサーは罠(わな)にかかりました。
約束通りに行くと、ヘイズと赤い小馬が待っていた。アーサーはそれに乗って出かけた。すると、これはジェイムズも昨日になって知ったのですが、二人はあの先生に追跡されていたのです。ヘイズはこの追跡者を見つけると棒で殴り倒しました。その一撃であのドイツ人は死にました。ヘイズはアーサーを《闘鶏館》へ連れてきて、二階の部屋に閉じ込め、家内に監視させた。この女は優しい女なんですが、何しろ悪党の亭主に押さえられているんですからね。
ホームズさん、以上が二日前、あなたにお目にかかるまでの状態だったんですが、しかし、事実を知らないのはあなたがた同様だったのです。しからば、ジェイムズがこのような行為に出た動機は何であるかと聞かれるならば、彼がソールタイアに対して抱いている憎悪には不條理で狂的とも思えるものが多分にあった、ということになりましょう。それで彼自身、自分が全財産の相続者となるべきだと思い、それを許さぬ法律をひどく怨(うら)んだのです。それと同時にまた、はっきりした動機があった。つまり彼は私が財産世襲を廃止することを熱望し、また私にそうする力があると信じ込んで、私と取り引きしようと考えた。わたしが財産世襲をやめて、遺書により、彼に財産を残すようにできればアーサーを返すというわけですね。自分に対して警察の力を借りることなど絶対にしないと、こちらの腹を見すかしてのことでした。しかし彼がその気でいたというだけで、実際にその話を私にしたわけではない。事態があまり急速に進展したので、その計画を実行に移す暇がなかったわけですよ。
あれの悪企(わるだく)みを挫折(ざせつ)させたのは、お二人によるハイデッガーの死体発見です。それを知って、ジェイムズは恐怖にとらわれました。二人でこの部屋に坐っていたときに、ハックスタブル博士の電報が来たのです。あれがあまりに悲しんだり、騒ぎたてたりするので、前から消えなかった疑いが一足とびに確信となりました。そこで叱りつけてやると、自分からすべてを白状してしまいました。それから、あと三日間秘密を守ってくれるようにと嘆願します、つまり悪党の共犯者に命の助かるチャンスを与えようというのです。
仕方がありません。いつもの伝(でん)で、あれに泣きつかれて譲歩しました。ジェイムズはすぐ《闘鶏館》へ走ってヘイズに急を告げ、逃亡の手を授けたのです。さすが昼間は人の目がはばかられて行けず、夜になると私はすぐ可愛いアーサーに会いに行きました。子供は無事だったが、何しろ目のあたりに惨事を見せつけられて、その怯(おび)えかたといったら、表現のしようもありませんでした。約束だから、おおいに不満だけれども子供を三日間、ヘイズ夫人にあずけることに同意しました。警察に子供の居場所だけを知らせて、殺人犯のことは知らせないわけには参らぬし、また犯人が罰せられるのだけ見て、薄幸なジェイムズに身の破滅がこないようにもできず……。ホームズさん、まわりくどい言葉や言い抜けはやめて、すべてを明らかにしました。では今度は君が率直にお話し下さい」
「承知しました。まず第一に、法的にみて、閣下は非常に重大な立場に身を置かれたと言わねばなりません。閣下は重罪犯人を大目に見て、その逃亡を助けました。つまり、ジェイムズ・ワイルダー氏が犯人の逃亡を助けるために出した金は、閣下のお手もとから出たものと、私は信じております」
公爵は首を下げて同意を示した。
「これは実に容易ならぬ問題です。私にとって、さらに責むべきものと思われますのは、閣下のソールタイア卿に対する態度です。三日間もあの陋屋(ろうおく)に残しておかれました」
「何しろ、堅い約束が……」
「こんな連中たちとの約束が何でしょう? ご令息がふたたび誘拐されないという保証はございませんでしょうに。罪ある年長のご子息の機嫌を損(そこ)ねまいとして、閣下は年はのゆかぬ純真なソールタイア卿を不必要な危険にさらされたではありませんか。断じてゆるすべからざる行為です」
ホールダネスの栄(は)えある公爵が、自分の屋敷でこんなふうに詰腹(つめばら)を切らされたのは、初めてであったろう。一度はその広い額に血がのぼったが、良心は彼の口を閉ざしてしまったのである。
「尽力はいたしますが、ただし条件がひとつあります。それは、閣下が呼鈴(よびりん)を鳴らして召使を呼んで下さって、私が思うままの命令を与えることです」
口を閉ざしたまま、公爵が呼鈴のボタンを押すと、召使いが姿を見せた。
「君も喜んでくれるだろうが、ソールタイア卿が見つかったんだよ。すぐ馬車を《闘鶏館》へ走らせてお連れするようにと、閣下のご希望です」
「さて……」召使いが喜んで立ち去ると、「これで将来が保証されたのですから、過去については、もっと寛大であり得るわけです。私は官憲の立場にある者ではありませんから、正義の結末さえつきますれば、知っていることをすべて暴露する理由も見つかりません。ルーベン・ヘイズについては何も申しますまい。ただ絞首台が待っているばかりで、私としましても、その助命に手を貸す必要を認めません。彼がどんなことを暴露するかわかりませんが、閣下のお力で、口をつぐんでいたほうがためになると納得させることもできましょう。警察のほうでは、彼が身代金目あてでご令息を誘拐したとの解釈も成りたちましょう。もし警察がそれに気づかぬとしても、私が口を貸して見方を広めてやる必要もありません。ただ、この際あえてご忠告申し上げますが、この屋敷にこれ以上ジェイムズさんを引きとめておかれるのは、今後不幸を招くばかりだと思います」
「わかっています。彼も永久に私のもとを去って、オーストラリアへ自分の運をひらくために行くことにきまりました」
「ならば、ワイルダーさんの存在が閣下の結婚生活に不幸をもたらしたと申されましたが、奥様に対して、この埋め合わせをなさること、さらに不幸にして中断された以前のご関係をふたたびおはじめになるよう、私からもおすすめいたします」
「ホームズさん、そのことも手配しました。今朝、手紙を出したばかりです」
「それならば」とホームズは立ち上がった。「私とこの友人もともに、二人の北部小旅行が二、三の幸福な結果をもたらしたことを心から喜んでおります。さらにもうひとつ、ごく小さなことですが、はっきりしておきたいものがあります。あのヘイズが自分の馬に牛の足跡のつくひづめを打って、ごまかしておりますが、この巧妙きわまる細工は、ワイルダー氏から教わったのでしょうか」
公爵はびっくりした様子でしばらく考え込んでいたが、やがて扉をあけて、博物館ふうに飾りつけられた大きな部屋へ案内した。公爵は隅のガラス箱のほうへわれわれを導いて、次のような説明文を指さした。

『この蹄鉄(ていてつ)は、ホールダネス屋敷の外濠(そとぼり)から掘り出されたもので、馬に用いられたものである。裏面は分趾蹄(ぶんしてい)の形をなし、しばしば追跡者を誤らしめた。中世期において、掠奪(りゃくだつ)を事としたホールダネス卿が使用したものと推定される』

ホームズは箱をあけ、湿した指ですっと上をなでた。指先には、まだ新しい泥がうすく残った。
「どうもありがとうございました」ホームズはそう言って箱の蓋(ふた)をしめた。「こちらに参りましてから、最も興味あるものの第二でした」
「ほう……じゃ第一は?」
ホームズは小切手を折りたたんで、丁寧に手帳に挟(はさ)んだ。
「貧乏なものですから……」ホームズは大事そうにそれを叩いて、内ポケットの奥深くしまい込んだ。
踊り人形

ホームズは化学実験用の器の上に、ひょろ長い背中をまるめて屈(かが)みこみ、無言のまま何時間も坐り続けて、これはまたおそろしく悪臭鼻をつくものを調合していた。胸に首をうずめて、私のところから見ると、まるで、毛がくすんだ灰色で、黒い冠毛のある痩(や)せた奇鳥、といった恰好である。それが不意に口を開いた。
「じゃあ、ワトスン君、いよいよ南アフリカの株に投資するのは止めか」
私はびっくりした。ホームズの妙な才能には馴れていた私であるが、腹のいちばん奥底で考えていたことを、こうズバリと読み当てられたのでは、まったくわけがわからなかった。
「一体どうしてそれがわかるんだい?」
彼は煙のあがる試験管を持ったまま、くぼんだ眼を面白そうに輝やかせて、椅子をくるりと向きかえた。
「さあ白状したまえ、完全に驚いたろう」
「うん驚いた」
「じゃあ、その旨(むね)の証文を書いてもらおう」
「なぜ?」
「五分もたてば、君はなんだ、ばからしいと言うにきまっているんだからね」
「いや、決してそんなことは言わないよ」
「ねえ、ワトスン君」彼は試験管立てに管を立てて、教授先生の講義よろしく、説明を始めた。
「ひとつひとつの推論は簡単だし、すぐ前のと続いているんだから、一連の推論を組み立てるのはたいしてむずかしいことではないんだ。そうやって組み立てておいて、間の推論を全部うっちゃってしまって、出発点と結論だけ言ってやると、ちょいとキザかも知れないけれど、人をびっくりさせてやることができるのさ。で、君の左の人さし指と親指のくぼみを見れば、君が金鉱に小資本を投ずるつもりがないってことは難なくわかる」
「何も関係ないじゃないか」
「そうだろう。ところが僕には、密接な関係のあることがすぐわかる。簡単なんだが、抜けている鎖(くさり)はこういうところだ。第一に、ゆうべ君はクラブから帰ったとき、左の人さし指と親指にチョークをつまんだあとがあった。第二に、そのチョークは玉突きをやったときにキューの先に塗ったのがついたものだ。第三に、君の玉突きの相手はサーストンときまっている。第四に、君は四週間前に、サーストンがあと一か月で期限の切れる南アフリカのある資産の選択売買権を持っていて、君もひと口のれと言われたと話してきかせた。第五に、君の小切手帳は僕の引き出しに入っているのに、君は鍵をよこせと言わなかった。第六に、こんなふうに君は投資するつもりがない、とこういうわけだ」
「なあんだ、ばかばかしい」
「あたりまえさ」彼はむっとして言った。「どんなことだって、君に話してきかせると幼稚なことになってしまうんだ。ここにまだ説明のつかない問題がある。君もやってみるがいい」
彼は一枚の紙片をテーブルの上にほうり出すと、また向きをかえて化学の分析を始めた。見るとあきれたことに、紙の上には、他愛もない絵模様のようなものが書いてある。
「なんだい、子供の絵じゃないか」
「へえ、それが君の答えかい」
「じゃあ何だい」
「ノーフォーク州のリドリング・ソープ荘園のヒルトン・キュービットという人がそれを知りたがっているのさ。この小さな《判じもの》は今朝の便で着いたんだが、氏自身、次の汽車でやって来るそうだ。呼鈴が鳴ってるね。あれが彼でも驚くには当らない」
重い足音が階段を上がってきたかと思うと、背の高い赤ら顔をきれいに剃(そ)り上げた紳士が部屋の戸口に現われた。その澄んだ眼と血色の良い頬(ほお)は、霧深いベイカー街から遠く離れた土地の生活を物語っていた。彼が入ってくると、東部海岸の力強く新鮮でさわやかな空気が、さっとひと吹き、運びこまれたような心地がした。彼はふたりと握手をすませて腰をおろそうとしたとき、例の奇妙なしるしを書きつけた紙片に目をとめた。私が手に取って調べてから、テーブルの上に置いてあったものである。
「ところでホームズさん、これをどういう意味におとりになりますか?」
彼は大きな声を出した。「ホームズさんは不思議なものがお好きだという話ですが、これより不思議なものはご存知あるまいと思います。私が来る前にお調べ頂けるように、先に紙きれだけ送っておきました」
「たしかに奇妙な作品ですね。ちょっと見ると子供の落書きとも見えます。紙の上に小さな人間がずらりと並んで、おかしな踊りを踊っているだけのことです。こんな妙ちきりんなものを、どうしてそう重要視なさいますか」
「それは私じゃないんでして。ただ妻がね。妻がそれを死ぬほど怖がりましてね。別に何も申しませんが、目に恐怖が出ております。だもんで、徹底的に調べたいと思いますんで」
ホームズは紙片をとりあげて日光にあてて見た。手帳からちぎった紙の上に、鉛筆でこういう具合にしるしのようなものが書いてある。



ホームズはしばらくあらためていたが、やがて注意深く折りたたんで紙入れにしまいこんだ。
「これは非常に面白い、しかも異常な事件になりますよ。キュービットさん、お手紙でだいたい承(うけたまわ)っておりますが、こちらのワトスン博士のために、もういちど初めからお聞かせ願えませんか」
「どうも話上手なほうじゃありませんが」と、客は大きくがっしりした手を、いらいらと組み合わせたりほどいたりしながら語りはじめた。
「はっきりしないところは、どうか質問をお出しになって下さい。昨年私があれと夫婦になりましたときのことから始めますが、その前に、私はいま金持ちではありませんが、私どもの一族はおよそ五世紀ほどもリドリング・ソープに住みついておりまして、ノーフォーク州では第一の名家ということになっております。昨年、私は六十年祭(一八九七年のヴィクトリア女王即位六十年記念祭)のときにロンドンに出て来まして、ラッスル・スクェアの下宿屋に逗留(とうりゅう)いたしました。私たちの教区の牧師パーカーさんもそこにご逗留だったもんでしてね。で、そこにアメリカ人の若い女性が泊っておりました……エルシー・パトリックという名です。まあいろんなことから知り合いになって、とうとう私の一か月の滞在予定が終るころには、この人をこの上なく愛するようになっていました。結婚は登記所で内々に済ませておいて、夫婦になってノーフォークに帰って行きました。
名家の人間が、そんなふうにろくろく相手の過去も家柄も知らないままで結婚するのは、正気の沙汰(さた)じゃないとお考えでしょうが、しかし、いちど彼女をご覧下さればご納得いただけると思います。
エルシーはその点なかなか正直でした、まったく。もし気が進まなければいつでも結婚を思いとどまれるように仕向けてくれました。こう申します……
『私はとても厭(いや)な交際の思い出があります。何もかも忘れてしまいたいの。過去のことはいっさい申し上げたくありませんの、だって辛(つら)いんですもの。ねえヒルトン、私と結婚なさるなら、あなたの妻は個人的に何もやましいことのない女だと思って下さっていいのよ。でもそのことは私の言葉を信用して、私があなたのものになるまでにどんなことがあったか、いっさいお尋ねにならないで下さいね。この条件が無理でしたら、初めてお会いしたときのまんま、ひとりぼっちの私なんかうっちゃってノーフォークに帰っておしまいになって』
彼女がこう打ち明けたのは結婚の前日のことでした。私はその条件をいっさい承知して結婚するのだと言いきかせて、今日まで言った通りのその約束を守ってきました。
さて、結婚してからもう一年ですが、その間ずっと幸福な生活を送ってきました。ところが一か月ばかり前のこと、六月の末でしたが、初めて面倒なことが起こりそうになったのです。
ある日、妻はアメリカから手紙を受け取りました。アメリカの切手が見えたのです。彼女はまっ青になって、読んでしまうと火にくべてしまいました。以来、彼女はそれについて、ひと言もふれませんし、私も言い出しません。約束は約束です。ところが彼女は、そのときから少しも心安まる暇がないらしいのです。顔にはいつも不安の色が現われています。何事かを待っている顔、予期している顔です。私を信頼してくれたら良いのですのに。何よりの味方と思って相談してくれたらいいのです。しかし私は向こうから言い出すまで、何もきくことができません。
ねえ、ホームズさん、妻は本当のことを言うことのできる女です。過去にどんな面倒があったにせよ、あれの罪ではありません。私はノーフォークのしがない地主にすぎませんが、自分の家名を重んずることにかけてはイギリスじゅうの誰にも劣りません。妻はそれをよく知っておりますし、結婚する以前にもよく知っておりました。妻は決してそれに傷をつけるような女ではありません。決してないと信じます。
さて、ここから妙な話になってくるんですが。
一週間ばかり前のことでした……先週の火曜日です……窓の敷居の上に、人間が身振り手振りしているおかしな小さい絵がたくさん書いてあるのを発見しました。この紙きれにあるのと同じようなものです。チョークでなぐりがきに書いてありました。厩番(うまやばん)の若者が落書きしたんだろうと思ったんですが、この男は何も知らないと誓って言いました。とにかく前の晩、書いたものです。私は洗い落させて、妻には後になって話して聞かせるだけにしました。ところが妻は、驚いたことに、それを聞くと真顔になって、もしまた見つけたらぜひ教えてくれと頼むのです。
それから一週間は何もなかったのですが、昨日の朝になって、この紙きれが庭の日時計の上に置いてあるのを見つけました。エルシーに見せてやると、たちまち完全に気を失って倒れてしまったのです。
それ以来、彼女は目に恐怖の色をひそめて、夢を見るようになかば茫然(ぼうぜん)となってしまったきりです。ホームズさん、そういう次第であなたに手紙を差し上げたわけです。こんなことは警察に訴えることもできません。訴えたところで笑われるだけです。しかしあなたなら、どうすべきか教えて下さるでしょう。私は金持ちではありませんが、妻の身の上に危険がふりかかっているのなら、私は最後の一銭まではたいても彼女を守ってやりたいのです」
大きい真摯(しんし)な青い目をした、幅広い整った顔立ちのこの生粋(きっすい)のイギリス人は、単純率直にして上品な、立派な男だった。妻への愛と信頼とが、その顔を輝かせていた。ホームズは最大の注意を払ってじっと聞き入っていたが、とうとう口を開いた。
「ねえキュービットさん、最上の方法は奥さんに直接お話しになって、秘密を打ち明けるようにお頼みになることだとお思いになりませんか」
ヒルトン・キュービットは大きな頭を横に振った。
「約束は約束ですからねえ、ホームズさん。エルシーは話したくなれば話します。話したくないのなら強いて打ち明けさせるわけにはまいりません。しかし私が自分の方針通りにやるのはかまわないはずです。私はそういたします」
「それでは、私が心からご協力申し上げることにしましょう。では早速ですが、ご近所に誰か見なれぬ人物が来たという話はありませんか」
「ありません」
「察するところ非常に閑静(かんせい)なところでしょう。見かけぬ人間が来ると必らず人の噂にのぼるんじゃありませんか」
「ごく近所に来ればのぼりますね。しかし、あまり遠くないところに小さな湯治場(とうじば)がいくつもありましてね。おまけに農家が客を泊めたりしますから」
「この絵模様は明らかに何か意味があります。まるきり気まぐれな絵なら解読することはできません。もし反対に組織的なものなら、真底まで調べがつくはずです。ただ、この見本だけでは、あまり短いですからどうにもなりません。それにまた、お話し下さったことはあまりに茫漠(ぼうばく)としていて、調査の基礎になるところがありません。そこで、ノーフォークにお帰りになったら厳重に見張りをして、こんどまた踊り人形の絵が現われたら、正確な写しをおとりになるよう申し上げておきます。窓の敷居にチョークで書いてあったのをお写しにならなかったのは、何とも残念なことです。それから近所に見なれぬ人物が来ていないかどうかも、慎重に調べてみて下さい。何か新事実が現われたら、またおいでになって下さい。キュービットさん、これがいま私にできる最大の助言です。もし危急な展開がありましたら、私はすぐ駈けつけてノーフォークのお宅にお伺いできる用意をしておきますからね」
この会見以来、ホームズは考え込んでしまって、数日間は何度も紙入れからその紙片を取り出して、奇妙な踊り人形を長いあいだ熱心に眺め入るのだった。しかし、その事件について口に出しては何も言及しなかった。ところが、二週間ばかり経(た)ったある日の午後のこと、私が外出しようとするとホームズが呼びとめた。
「ワトスン君、今日は家にいたほうが良いよ」
「どうして」
「今朝ヒルトン・キュービット氏から電報が来たんだ……覚えてるだろ、例の踊り人形の紳士だ。一時二十分にリヴァプール街の駅に着くということだったから、もうじきやって来るだろう。電報の様子だと、どうも何か重要な新事態が発生したらしいよ」
われわれは、たいして待たなかった。ノーフォークの地主は、駅に着くとまっすぐ二輪馬車をとばして駈けつけたのだった。疲れた目をして額に皺(しわ)を寄せ、不安に心が沈みこんでいる様子だった。
「ホームズさん、憂鬱(ゆううつ)になりますよ、こいつは」と、彼は疲れはてた様子で椅子にどっかと沈みこんだ。「見たこともない赤の他人に取り巻かれて狙われていると思ったら、誰だっていい気持はしないでしょう。それも、何事か企(たくら)んでいる人間にですよ。ましてそれが自分の妻を、なしくずしに殺しているのだと知ったら、とても生身の人間には耐えきれません。妻はだんだん衰えてゆきます。……みすみす目の前で衰えてゆきます」
「奥さんはまだ何もおっしゃらないんですね」
「ええ、申しません。しかし、何度かあれは言いたいと思うこともあったようですが、それでもどうしても思い切りがつかないらしいのです。私が仕向けてもやったのですがねえ。きっと私が不器用なもんで、かえっておじけづいてしまったんでしょう。妻は、私の家柄のことだの、ノーフォークに聞こえた名声のことだの、けがれのない家名の誇りだの、そんなことを話題にしたりしますので、あのことを言いたいのだなと気がつくのですが、どうも話がそこへゆきつかないうちにそれてしまうのです」
「しかし、ご自分で何か発見なさったんでしょう」
「それはたんとあります。また新しく踊り人形の絵を発見しましたから、ご覧いただくために、写しをとっておきました。それに、もっと大事なことですが、私はその男を見たのです」
「何ですって! 絵を書いた男をですか」
「そうです、書いているところを見たのです。まあ、順を追ってお話ししましょう。この前おたずねした翌朝、起きぬけに踊り人形の新しい収穫がありました。道具小屋の黒い木の扉に、チョークで書いてありました。小屋は表窓からまる見えになる芝生の片隅にあります。正確な写しをとっておきました。これです」
彼は紙片をひろげて机の上に置いた。これがその絵模様の写しである。



「すばらしい」ホームズが言った。「こりゃすばらしい。それで?」
「写しをとると、私はそれを消し取っておきました。ところが、二日経ってまた新しく書いてあるのです。これがその写しです」



ホームズは手をこすり合わせて、嬉しげにくつくつ笑った。
「どんどん材料がふえてゆくぞ」
「それから三日経って、今度は紙に書いて小石を上にのせて日時計の上に置いてありました。これです。ご覧の通り、最後のものと少しも変わりありません。このことがあってから、私は待ち伏せすることにしました。そこでピストルを持ち出して、芝生と庭が見える書斎でひと晩じゅう起きていました。午前二時頃、外の月明かりのほかまっくらな中で、私が窓際に坐っていますと、背後に足音がします。見ると化粧着を着た妻です。どうぞもう寝てくれと言うのです。私はかくさずに、こんなバカな真似をするのはどんな奴か見たいのだと言いました。すると妻は、何も意味のないほんのいたずらなんだから、気にしてくれるなと言います。
『ねえ、ヒルトン、そんなにお厭なら旅行でもしましょうよ、二人で。そうすれば厄介(やっかい)払いができますわ』
『なんだって、ほんのいたずらのために家を追い出されるのかね。そんなことをしたら、国じゅうの笑いものになるよ』
『まあ今夜はお寝みなさって。お話は明日の朝いたしましょう』
妻がこう言ったとき、突然、月の光の中でも、妻の顔の色が青ざめるのがわかりました。そして、肩にかけた手に、ぐっと力が入りました。道具小屋の影で何か動いているのです。黒い人影が小屋の角をそっと這(は)うようにして曲がると、扉の前にしゃがみこみました。私がピストルをつかんで躍り出そうとしたとたん、妻が物凄い力でしがみつくのです。ふりほどこうとしても、必死にすがりつきます。やっとふり放してドアをあけ、小屋の前に駈けつけましたが、もう影も形もありません。それでも痕跡を残していったのです。前に二度も書いてあったのと同じものです。庭じゅう探してまわりましたが、ほかには、どこにも痕跡を残していません。しかも、あきれたことに、彼はずっと庭の中にいたらしいのです。朝になってもういちど小屋の扉を調べてみると、夜中に見た一列の人形の下に、走り書きがつけ加えてあるのです」
「その分の写しはお持ちでしょうか」
「持っています。短いのですが、写しておきました。これです」
彼はまた別の紙を取り出した。新しい踊りはこういう形である。



「キュービットさん」ホームズの眼には、ありありと激しい興奮の色が見えた。「これはさっきの分の追加ですか、それとも全然別のもののようでしたか」
「扉の別の羽目板に書いてありました」
「結構です。われわれの目的にとって、はるかに重要な意味を持っています。これで希望がもてます。では、キュービットさん、どうかその先をお聞かせください」
「もうほかに申し上げることはないのですが、ただ、私は曲者(くせもの)を捕えることができたところを妻に抱きとめられて、妻に腹をたてました。怪我でもするといけないと思ったからだと妻は言います。怪我でもするといけないと心配したのは、私のことではなくて、彼のことではなかろうか、彼女はこの男を知っているに違いないのだし、この変な記号みたいなものが何を意味するかも知っているに違いないのだから、と、そんな考えがふと心をよぎりました。しかしホームズさん、あれの声の調子にもまなざしにも、疑いを禁ずるものがあるのです。ですから私は、あれが心配したのは私の身の安全のほうだと信じています。以上が事件の全貌です。どうかホームズさん、どうしたらよろしいかお教え下さい。私は、農場の若者を五、六人茂みの中に隠しておいて、この男がふたたび現われたときに鞭(むち)でしたたか痛い目にあわせて、二度と私どもの平和を乱さないようにしてやったらどうかと思うのです」
「そんな簡単な方法では救いようのない、はるかにこみ入った事件のようですよ。ロンドンにはいつまでご滞在ですか」
「今日すぐ帰らなくちゃなりません。どんなことがあっても妻を夜ひとりで残してはおけません。あれは非常に神経質になって、ぜひ帰って来てくれとせがみます」
「それもそうでしょうな。しかし、もう一日二日お泊りになれるなら、ご一緒に参ることができるんですがね。それじゃ、この紙きれはみんなお預け下さい。近くお訪ねして事件に目鼻をつけることができると思います」
シャーロック・ホームズは、客が帰るまではいつもの冷静な職業的態度を保っていたが、彼をよく知っている私には、彼が大いに興奮しているのがたやすくわかった。ヒルトン・キュービットの幅広い背中がドアの向こうに消えてしまうと、ホームズはテーブルにとびついて、踊り人形の絵の写しとった紙片を全部目の前にひろげて、こみ入った念入りな計算を始めた。
二時間ものあいだ、何枚も紙を出しては、数字や文字を書きちらしていた。まるで夢中になって、側で見ている私の存在を忘れてしまっているようだった。ときには仕事がうまくはかどって、口笛を吹いたり歌い出したりした。またときには仕事が進まないで、眉をしかめ、うつろな目を見開いて坐りこんだまま、長いこと考えこんだりした。
とうとう彼は満足の叫びをあげて椅子からとび上がると、両手をこすり合わせながら部屋の中を行ったり来たりした。それから海底電信用の頼信紙(らいしんし)に長い電文をしたためた。
「ワトスン君、この返事が思い通りのものだったら、君の事件記録にはすてきな事例がひとつふえるわけだよ。明日にもノーフォークに出かけて、あの男の悩みの秘密に関して何か決定的な報告をしてやることができると思うよ」
実は私は好奇心で胸が一杯になっていたのだが、ホームズが、好きなときに好きなやり方で発表したがることを知っていたので、彼が勝手なときに打ち明けてくれるのを待つことにした。
しかし電報の返事は遅く、二日のあいだ、いらいらと待っていなければならなかった。ホームズは玄関で呼鈴が鳴るたびに耳をそばだてた。
二日目の夕刻になって、キュービット氏から手紙が来た。別に変わったこともないが、今朝日時計の台石の上に、踊り人形の長い行列が書いてあったからというのだった。写しを同封してあったが、次のようなものである。



ホームズは、のしかかるようにして、しばらくその奇怪な一連の絵模様をあらためていたが、突然ぴょんと立ち上がって、驚きうろたえた叫び声をあげた。心痛のあまり顔がやつれて見えた。
「放っているうちに、たいへんなことになってしまった。ノース・ウォルシャムまで、今夜まだ汽車はあるかい」
私は時間表をくってみた。最終列車が出たところだった。
「じゃあ、明日、朝飯を早く済ませて一番列車に乗ろう。緊急に行ってやらなくちゃ。ああ、待ちに待った海底電報が来たぞ。ハドスンさん、ちょっと待って……返事を出すかも知れませんから。いや、いいです。こいつはまるで思っていた通りだ。一刻も早くキュービット氏に情勢を知らせてやらなければならないんだが、この電報でますます愚図(ぐず)ついていられなくなった。あの単純なノーフォークの地主は、まれなる危険な網にからみつかれているんだ」
たしかにその通りだったのだ。初めはいっぷう変わった子供だましの事件にすぎまいと思っていたのだったが、あの暗い結末を思い浮かべると、私はあのときの驚愕(きょうがく)と恐怖にふたたびおののく思いがする。読者諸君にはもっと明るい結末をお伝えしたいのだが、これは事実の記録であるのだから、当時わが国の津々浦々(つつうらうら)までリドリング・ソープ荘園の名をとどろかせたこの一連の異常な事件のあとをたどって、暗い危機の場面まで書かなければならないのだ。
ノース・ウォルシャムの駅で汽車を降りて、目ざす家の名を口にするや否や、駅長がとんで来た。「ロンドンの刑事さん方ですね」
ホームズはふっと迷惑の色を浮かべた。
「どうしてそんなことをおっしゃいます」
「ノリッジ市のマーティン警部さんが、ついさっきお着きでしたからね。それとも病院のお方ですか? 奥さんはまだ息があるそうです……いや、今までのところ、そういう話です。まだ間に合うでしょう。どうせ助かったところで絞首台行きでしょうがね」
ホームズの額に不安のかげがさした。
「これからリドリング・ソープ荘園に行くところなんですが、われわれは事件のことは初耳なんです」
「いや、おっそろしい話ですよ」駅長は言った。「キュービットさんも奥さんも、ふたりとも射たれましてね。それも奥さんがご主人を射っておいて自分も射ったんですな……女中の話ですが。ご主人は死にましたが、奥さんのほうも望みなさそうですよ。なんともはや、ノーフォークで一番の旧家で、しかもきっての名門だというのにねえ」
ホームズは返事もせずに馬車のほうに急いだ。七マイルの長い道のりを揺られながら、彼はひと言も口をきかなかった。彼がああまでしょげ返るのは、滅多にないことだった。ロンドンからの車中でも、終始落ち着かず、心配そうに注意深く朝刊をひっくり返していたのだったが、こうして突然、恐れていた最悪の事態が現実に発生したと聞かされて、彼は完全に気が滅入ってしまったのだ。座席の背にもたれこんで、彼はぼんやりと暗い思索にふけっていた。しかも、あたりにはわれわれの心をとらえるものがたくさんあった。馬車はイギリスで最も風変わりな田園地帯を通っていたのだ。ところどころにたつ田舎家は今日の住民のさまを現わしていたが、一方では緑の平地のそこここに立ち並ぶ巨大な四角い塔のある教会が、かの東アングリア王国時代の栄光と繁栄を物語っていたのだ。
とうとう、ノーフォーク海岸の緑の岸辺のかなたに、紫色の北海が見えてきた。馭者が鞭をあげて、煉瓦と木で作った古い破風(はふ)がふたつ、木立に突き出て見えるのを指した。
「あれがリドリング・ソープ荘園です」
柱廊(ちゅうろう)造りの玄関に乗りつけて行くとき、私は玄関の前の芝生のテニス・コートのかたわらに、奇妙ななじみになった例の黒い道具小屋、それに台石にのった日時計なるものを見てとった。
背高の二輪馬車から、蝋固(ろうがた)めの口髭をたくわえて、身なりのきりっとした、動作の機敏な小男が降ったったところだった。彼は自己紹介してノーフォーク警察のマーティン警部と名乗ったが、相手がホームズと知って、かなり驚いた様子であった。
「おやおや、ホームズさん、犯行は今朝の三時に行なわれたばかりですよ。それをロンドンでお聞きになって、私と同時に現場にお着きになるとは、驚き入りました」
「予期していたもんですからね。未然に防止するつもりでやって来たんですが」
「それじゃ、さだめしわれわれが知らない重要な証拠をお持ちなんでしょうね。なにしろ、あの夫婦はめっぽう仲が良かったそうですからな」
「持って来た証拠品は踊り人形だけです。詳しいことは後ほどお話しいたします。それまでは、もうこの悲劇は防止することができないわけですから、正邪を明らかにするために、私の知っているだけのことを、せいぜいお役に立てようと思っているところです。あなたの調査に参加させて頂けますか、それとも私のほうはそちらと別にいたしますか?」
「ホームズさん、あなたとご一緒に働くのは光栄の至りです」警部は真剣に言った。
「そうですか、では余計なことでぐずぐずしていないで、さっそく証人調べや邸内の捜査にかかりましょう」
マーティン警部は物わかりの良い男で、ホームズに自分流に仕事をさせておき、自分はその結果を念入りにノートするだけで満足していた。
ちょうどそこへ、土地の外科医という白髪の老人が、エルシー夫人の部屋から下りてきて、夫人の傷は重いが生命に別条はあるまいと報告した。弾は前額部を貫通しており、意識を回復するにはかなり時間がかかるだろうということである。誰かに射たれたのか、それとも自分で射ったのかという問いには、はっきりした返事ができないと言った。弾がごく近くで発射されたことだけは確かだった。現場にピストルは一挺しか落ちておらず、薬莢(やっきょう)は二発分だけ空になっていた。キュービット氏のほうは、心臓を打ち抜かれていた。彼が夫人を射って、それから自分を射ったのか、それとも夫人が手を下したのか、どちらの考えも成り立つわけだった。ピストルは、倒れたふたりの中間に落ちていたのである。
「キュービット氏も動かしましたか?」
「いや、動かしたのは夫人だけです。息のある怪我人を床の上に放っておくわけにはゆきませんからね」
「何時ごろおいでになりましたか」
「四時でしたね」
「ほかにどなたか来ておいでですか」
「ええ、警察からひとり」
「何にも手をつけてはいらっしゃらないですね」
「ええ」
「いや、よく慎重にやって下さいました。ところで、お迎えに上がったのは誰でしたか?」
「女中さんの、ソーンダズという人です」
「その女中さんが急を知らせたんですか?」
「女中さんとコックのキング夫人だそうです」
「今どこにいるんでしょうね」
「台所でしょう、たしか」
「じゃ、さっそくその人たちの話を聞きましょう」
槲(かしわ)の腰板を張った、窓の高い旧式な玄関の広間が審問室というわけだった。ホームズは大きな昔風の椅子に腰をおろして、その面(おも)やつれした顔に仮借(かしゃく)のない眼をきらめかせた。それを見て、私は彼が、死なせてしまった依頼人の仇をとるまで、この事件と命がけで取り組む肚(はら)をきめているのがわかった。
彼のほかは、小粋(こいき)なマーティン警部、胡麻塩(ごましお)の頬髯(ほおひげ)を生やした田舎医師、私、それにもっさりとした村の巡査という奇妙なとりあわせだった。
ふたりの女は至極(しごく)はっきりと話して聞かせた。ふたりとも眠っていたが、銃声で目がさめた。一分ばかりしてまた一発聞こえた。ふたりの部屋は隣り合わせになって、キング夫人のほうがソーンダズの部屋にかけこんだ。二人して階段をおりた。書斎のドアは開いていて、テーブルにローソクがともっていた。主人のキュービット氏は部屋の真ん中にうつぶせに転がっていた。息はなかった。窓際に夫人がうずくまって、頭を壁にもたせていた。ひどい傷で、顔が半面血だらけだった。苦しく息づいていたが、口はきけなかった。
書斎にも廊下にも煙がたちこめて、硝煙(しょうえん)の臭いがしていた。窓はたしかに閉まって内側から鍵がかかっていた。女中もコックもその点は絶対に自信があるようだった。ふたりは直ちに医者と警官を呼びに行った。それから馬丁と厩番(うまやばん)に手伝わせて傷ついた夫人を寝室に移した。主人のベッドも夫人のベッドも寝た跡があった。夫人は普段の着物を着ていたが、主人は寝巻の上に化粧着をはおっていた。書斎の中は何も動かさなかった。二人の知っている限りでは、主人夫妻が喧嘩したことは一度もなかった。二人とも常々、たいそうむつまじい夫婦だと思っていた。
女中とコックの証言の要点は、あらまし以上の通りである。なおマーティン警部の質問に答えて、たしかに入口はみな内側から鍵がかかっていたから、誰かが家の中から逃げ出したことは考えられないと言った。またホームズに問われて、硝煙の臭いは、ふたりとも自分たちの部屋をとび出したときから気がついていたと答えた。
「この事実によく気をつけて考慮において下さい」ホームズは本職警部に向かって言った。「それではこれから書斎を詳細に調べてみることにしましょう」
書斎は小さな部屋だった。三方の壁際に本棚があって、庭を見下すありきたりの窓に向かって書き物机があった。まず目についたのは不運な地主の遺骸(なきがら)だった。彼の大きな身体は部屋の中ほどに長くのびていた。乱雑に着込んだ化粧着を見ると、彼があわてて目をさましたのがよくわかった。弾は彼の前面から射たれたもので、心臓を貫いたまま体内に残っていた。きっと即死で、苦痛はなかったに違いなかった。化粧着にも火薬のガスのあとはついていなかった。土地の外科医の話では、夫人のほうは、手にはないが顔にそのあとがあったという。
「手についていないのは何の証拠にもなりません。ついていればたいへんな証拠ですが。薬莢(やっきょう)の具合が悪くてガスが後ろに吹き出さない限り、何発射ってもあとが残らないんですよ。ところで、キュービット氏の死体はもう片づけていいでしょう。先生、夫人を傷つけた弾はまだ摘出していらっしゃいませんね」
「それには大手術が必要でしてな。しかしピストルにはまだ四発残っていますよ。すると発射したのが二発ですが、傷も二か所だから、どっちも説明がついてるじゃないですか」
「そうお思いになるかも知れませんがね。しかし先生は、窓の縁にあんなにはっきり命中している弾の説明はおつけになれないでしょう」
ホームズは不意に向きなおって、細長い指で、窓枠(まどわく)の下から一インチばかりのところを射ち抜いた穴を示した。
「おお、こいつはどうだ。一体どうしてお見つけでした」マーティン警部が大声を放った。
「僕は探していたんですよ」
「驚きました」土地の医者が言った。「たしかにおっしゃる通りですな。そうすると、発射されたのが三発だから、第三の人物がいたに違いない。しかし何者でしょうかなあ。それに、どうやって逃げたんでしょうね」
「そこを今われわれは解こうとしているわけです」ホームズは言った。「警部さん、あなたはさっき召使いたちが自室を出るときすでに硝煙の臭いがしたと証言したときに、私がその点をとくに重視してくれと言ったのをご記憶でしょう」
「はあ。しかし正直なところ、どういうことをおっしゃったんだか、まるで……」
「つまりピストルが発射されたときに、ドアも窓も開いていたんだろうと言ったんです。でなければ、火薬の煙がそんなに早く家の中にゆきわたるはずがありません。書斎を風が吹き抜けたに違いありません。もっとも、ドアと窓が開いていたのは、ごくわずかな時間でしょうね」
「それはまた、どうして」
「ローソクの蝋が垂れていません」
「なあるほど」警部が感心した。「お見事です」
「惨劇のときに窓が開いていたとすると、これは第三の人物が窓の外にいて、外から射ったということが考えられる。この人物を狙って射った弾が窓枠に当たるようなことがないとも限らない。こう考えて探してみたら、案の定(じょう)、ここに弾痕があったというわけです」
「しかし、窓がおりて、しかも掛け金がかかっていたというのは、どういうわけでしょう」
「夫人が本能的に、まず窓を閉めることを考えたのでしょう。おや、これは何だろう」
書斎の机の上にのっていたハンドバッグのことだった。鰐皮(わにがわ)で、銀の金具のついた粋な小型のハンドバッグである。ホームズが開いて中味を取り出した。イングランド銀行の五十ポンド紙幣が二十枚、輪ゴムをかけて束にしてあった。ほかには何も入っていなかった。
「これは保管しておかなくちゃ。公判でものを言いますよ」ホームズは中身を戻して警部に渡した。「それではこれから、第三の弾の究明にかからねばなりません。木の裂け具合から見て、これは明らかに室内から射ったものです。コックのキング夫人をもういちど呼んで下さい。……キングさん、さっきは、大きな発射音で目がさめたとお言いでしたね。それはつまり、二度目の発射音より大きい音だったという意味ですか」
「さあねえ、なにぶんその音で目がさめましたんですからねえ、どっちとも言えませんですわ。でも、とっても大きな音だったようですよ」
「じゃあ、最初の音は二発がほとんど同時に発射された音だとは考えられませんか」
「さあ、はっきり申し上げられませんですけれどねえ」
「きっとそれに違いない。警部さん、どうやらこの部屋の調べは全部済んだようですね。ではちょっとこちらについて来て下さいませんか。庭を調べてみたら何か証拠があるかも知れません」
書斎の窓の下までひろがっている花壇のところにやって来て、一同はいっせいに驚きの声をあげた。花は踏みにじられて、柔らかな土の上には一面に靴跡がついていた。大きい、男物の、奇妙に先が長くとがった靴跡である。
ホームズは、射落とした鳥を探して歩く猟犬のように、草葉のあいだを探しまわった。
やがて、満足げな声をあげながら、うつむいて真鍮(しんちゅう)製の小さな薬莢(やっきょう)をつまみ上げた。
「思った通りです。薬莢がとび出る仕掛けのピストルですね。これが第三の弾莢です。警部さん、これで証拠は出そろったも同然です」
ホームズの捜査のすばやい見事な腕前に、この地方警部の顔はありありと驚きを見せていた。初めは自分の意見を主張したそうであったのだが、今はもうすっかりホームズに驚嘆して、彼の導くままに唯々諾々(いいだくだく)と従うのだった。
「犯人は誰でしょう」
「そのことは後にしましょう。この事件ではまだあなたに説明して差し上げられなかった点がいくつかあります。これまでやったのですから、このままの線で進めてゆくのがいちばんいいと思います。そのうえで一切合財(いっさいがっさい)を解明することにしましょう」
「犯人さえ見つかるなら、お望み通りになすってください」
「わざと謎めかそうというのじゃありませんが、行動の最中にこみ入った長話をしてはいられませんからね。この事件の手掛りは全部つかんであります。万一夫人が意識を回復しないままこときれても、昨夜の出来事をたどって正邪のけじめをはっきりさせることはできます。最初に私が知りたいのは、この近くに『エルリッジ』という宿屋があるかということです」
召使いたちにしつこくきいてみたが、いずれもそんな名前は聞いたことがなかった。ただ厩番が、何マイルかイースト・ラストンのほうへ行ったところに、そういう名前の農家があることを思い出してくれた。
「ひとけの少ない場所かね」
「まるきりないところです」
「ゆうべの事件のことは、まだ聞いちゃいないだろうね」
「聞いてないと思います」
ホームズはしばらく考えていたが、妙な薄笑いを浮かべて、「君、馬を一頭用意したまえ。あとでエルリッジのところに手紙を届けに行ってもらうからね」
彼はポケットから踊り人形を書いた紙片をいろいろ取り出した。書斎机の上にこれを並べておいて何かやっていたが、やがて一通の手紙を厩番に渡して、名宛人に直接手渡すように、またとくに、何かきいても絶対に返事しないように言いつけた。封筒の宛名が見えたが、いつもの几帳面な字に似ず金釘(かなくぎ)流の不規則な字体だった。ノーフォーク州イースト・ラストン村エルリッジ様方、エイブ・スレイニー様、となっている。
「警部さん、電報で護送係をお呼びになったほうがいいですよ。私の見こみが当たっているならば、州刑務所に、特別危険な人物をひとり送りこむことになりますからね。電報は手紙を持って行く若者にお持たせになれば打ってくれるでしょう。ワトスン君、ロンドン行きの午後の列車があったらそれに乗って帰ろう。この事件の捜査もぐんぐん終わりに近づいて来た」
若者が手紙を持って出発すると、ホームズは召使いたちにいろんな指図を与えた。キュービット夫人を訪ねて来る者があったら、夫人の状態については何も教えないで、すぐに客間に通すこと。この点をホームズは、とくに力をこめて念を押していた。
それも済んで、彼はもうわれわれは手が空いたから、これからどんなことが待ち構えているか、待っている間できるだけ時間をうまく使おうと言って、先に立つと一同を客間にひきつれた。外科医は患者が待っているからと辞去していたので、残ったのはホームズと警部と私だけだった。
「一時間ばかり面白く有益に過ごさせて差し上げますよ」とホームズは椅子を机に引きよせて、おどけた踊り人形を書きとめた紙片をいろいろひろげた。
「ワトスン君、君には当然の好奇心を長いこと満たさせなかった償(つぐな)いをしなくちゃいけないね。警部さん、あなたにはこの事件全体が、ご専門のすばらしい研究対象になると思いますよ。まず第一に、キュービット氏がベイカー街に持ちこんだ相談事に関して、面白い事情をお聞かせしましょう」と前置きしてから、すでに述べた諸事実をかいつまんで話した。
そうしておいて、「さて、ここに奇妙な作品を並べてありますが、これを見たら誰だって、こんな恐ろしい悲劇の先ぶれだったとわかってみなければ、笑い出してしまうでしょう。私は暗号ならどんな形式のものでもよく知っています。それについては、つまらないものですが、論文を書いて百六十種の暗号を分折しておいたこともあるんですがね。ところが今度ぶつかったのはまったく初めてでした。この暗号を考え出した人間は、これが言葉を伝える文字であることを隠して、ただの子供のいたずら書きだと思いこませることを意図したに違いありません。
しかし、この絵が文字をあらわしているものだとわかってしまえば、あらゆる暗号の手引きになる法則を当てはめてみれば解読はしごく簡単です。最初に持ち込まれた通信文はあまり短くて、



がEらしいということ以外、何もわかりませんでした。ご存知でしょうが、Eは英語のアルファベットの中でいちばんよく出て来る字で、ごく短い文章の中でもいちばんたくさん出て来ると考えて良いくらい頻度が高いのです。第一の暗号文の十五の絵文字の中で四つが同じものですから、これがEだと考えて良いわけです。
また、手に旗を持ったのと、持っていないのとがありますが、これは分布の仕方から見て単語を区切るのに用いたのではないかと思いました。これは仮説として受け容れ、また、Eを現わしたのは、



だとしました。
ところが今度はどうしてもわからない。英語でEの次にどの字がよく出てくるか、はっきりした順序がありません。かりに一頁全体の文章の中で平均をとって順序をきめてみても、短いひとつの文章の場合には当てはまらず、かえって逆になることもあります。ざっと言って、T、A、O、I、N、S、H、R、D、Lというような順番になりますかね。
しかし、T、A、O、Iはほとんど互角ですし、意味のつかめるまであれこれ組み合わせてみたって際限がありません。そこでまた現われるのを待つことにしたのです。キュービットさんは二度目にやって来たとき、短い文章をふたつと、ひとつの単語らしい……旗がありませんでしたから……ごく短いのをひとつ見つけていてくれました。これですがね。
さて、このひとつの単語らしいものの五字のうち、二番目と四番目のふたつがEでした。 sever(断つ)か、lever(てこ)か、never(決して……ぬ)かですね。何か頼まれた返事とすれば明らかに never が当たっています。状況から推(お)して、それはどうも夫人が書いた返事らしかったのです。で、それが当っているとすれば、



はそれぞれN、V、Rだということになります。
それでもまだむずかしい。ところが、ふとうまい考えが浮かんで、他の字をいくつか、ものにすることができました。もしこれを書いたものが、予想通り夫人が若いころ親しかった人物だとすれば、両端がEで中が三字の組み合わせは、夫人の名前のELSIE(エルシー)であってもいいはずだと考えついたのです。調べてみると、三回くり返して現われたという通信文の終わりの単語がこの組み合わせになっています。『エルシー』に何か頼みこんだものに違いありません。
こうしてL、S、Iの三つの字が判読できました。しかし何を頼んだのか。『エルシー』のひとつ前の単語は四字で、終りがEですから、これはCOME(来い)に違いありません。他のEで終る四文字の単語をいろいろためしてみましたが、この場合にピッタリ当てはまりそうなのはありませんでした。
そこでC、O、M、の三字がわかったのですから、最初の通信文にもういちど当ってみました。単語を区切って、わからない字を* で示すと、こうなります。

*M *ERE **E SL*NE*

さて、こうして見ると、最初の字はA以外にあり得ません。この発見はなかなか役にたちました。この短文に三度も出てくるんだし、ふたつ目の単語の先頭は、もうHに違いありませんからね、こうなるでしょう。

AM HERE A*E SLANE*

この、名前のところを補うのはたやすいことです。

AM HERE ABE SLANEY(やって来た……エイブ・スレイニー)

こんなにたくさんわかりましたから、今度はかなり自信をもって次の暗号文に進んで、こうやってみました。

A* ELRI*ES

欠字はTとGで、あとのほうの単語はこれを書いた人物の泊っている家か宿屋の名前だと考えるほかありません。つまり、

AT ELRIGES(エルリッジ方にて)

というわけです」
マーティン警部も私も、この困難な事件をかくも見事な解決に導いたホームズの明快な経過説明に、最大の興味をもって聞きいっていた。
「それからどうなさいました」警部が先をうながした。
「このエイブという名は、エイブラハムのアメリカ式の略し方ですし、またこの事件の出発点になったのがアメリカから来た手紙ですから、エイブ・スレイニーなる人物がアメリカ人だということには確信をもっていました。また、事件の裏には犯罪の秘密がかくされていることも疑いの余地がありません。夫人が自分の過去について言った言葉や、夫に打ち明けようとしないことなどから、どうしてもそう考えざるを得ません。そこで私は、ニューヨーク警察にいる友人のウィルスン・ハーグリーヴに、電報を打ってきいてみました。ロンドンの犯罪事情について、たびたび教えてやったことがあるのです。で、私は、エイブ・スレイニーという男を知っているかときいてやったのです。返事はこれです。
「シカゴ随一ノ凶悪人物ナリ」
この返事が来た晩に、キュービットさんからスレイニーの最後の暗号文を送ってきました。判っている字を当てはめるとこうなりました。

ELSIE *RE*ARE TO MEET THY GO*

PとDを補ってみると、

ELSIE PREPARE TO MEET THY GOD
(エルシーよ、あの世に行く覚悟せよ)

となって、悪漢が口説(くど)くのを止めて脅迫を始めたことがわかりました。相手はシカゴの犯罪者のことですから、すばやく言葉を行動に移すに違いないと思いました。早速こちらのワトスン博士と一緒にノーフォークまで出かけて来たわけですが、悲しいかな、最悪の事態にたちいたった後だったという次第です」
「あなたと共同で事件捜査をやらせていただいて、光栄の至りです」警部はねんごろに言った。「ところで、まことに失礼ですが、実を申しますとですな、あなたはご自分の責任でやっていらっしゃるわけですが、私は上司に対して責任がありましてねえ。このエルリッジ方に居るエイブ・スレイニーという男が真犯人であって、しかも私がこうしてここに坐っている間に、逃走してしまったとなると、こいつはちと面倒なことになるわけですが」
「その心配はご無用です。逃げたりしはしません」
「どうしてですかね」
「逃げると罪を自白することになります」
「では逮捕にまいりましょう」
「おっつけここへやって来るはずなんですがね」
「それはまたどうして」
「手紙を書いて呼んだんですよ」
「ホームズさん、途方もない! あなたがお呼びになったって、来るわけはないでしょう。そんなことをしたら、感づいて逃げ出すにきまってるじゃありませんか」
「偽手紙の書き方ぐらい知っているつもりです。それにどうやら、ご本人が馬車道をやって来るところのようじゃありませんか」
ひとりの男が、玄関へ通じる小道を歩いて来るところだった。色は黒いが背の高い好男子で、灰色のフラノの背広を着こみ、パナマ帽をかぶっていた。黒く毛のこわい頬髯(ほおひげ)を生やし、大きな攻撃的な鷲鼻(わしばな)をしており、歩きながらステッキをふりまわしていた。自分の家に帰ってくるようにふんぞり返って歩いて来た。やがて度胸たっぷりに音高く呼鈴を鳴らすのが聞こえた。
「じゃ、みんなドアの陰に隠れたほうがいいでしょう」ホームズが言った。「こんな男が相手のときは、あらゆる用心が肝要です。警部さん、手錠を用意して下さい。話は私がやりますよ」
一同はしばらくじっと待っていた。私が決して忘れることのできない瞬間のひとつである。やがてドアが開いて、男が入って来た。たちまちホームズが男の頭にピストルをつきつけ、マーティン警部が両手首に手錠をかけてしまった。あまりすばやく巧妙だったので、男がやられたと気づいたときには、もう手の出しようもなくなっていた。男は黒い眼を燃え立たせて、われわれをかわるがわる睨(にら)みつけていたが、突然毒々しく笑いだした。
「ほほう、今度はうまく先廻りされましたな。こいつはどうやらひどいめにぶつかたらしいぞ。しかし私はヒルトン・キュービット夫人に手紙で呼ばれて来たんでさあ。まさか彼女が一役買ってるんじゃありますまいな。彼女がこの罠(わな)を手伝ったなんて、おっしゃっちゃ困りますぜ」
「キュービット夫人は重傷を負って、生死の境目だ」
たちまち男は悲しげな叫びをあげた。その声は家じゅうにガンガンと響きわたった。
「馬鹿を言え。怪我したのはご亭主だ、彼女のほうじゃねえぞ。誰がかわいいエルシーに怪我なんかさせるもんか。そりゃあ脅迫はやったか知れんぜ、悪いよ、だがね、俺あ、あのかわいい髪の毛一本にだって、手をつけようともしてやしねえんだ。取り消せ……おい。彼女が怪我なんかしてないと言え」
「夫人は死んだご主人の側に重傷を負って倒れていたよ」
男は深刻なうめき声をあげて長椅子にドシンと落ちこみ、手錠をかけられた両の手に顔をうずめた。五分ばかりも、彼は押し黙っていた。やおら顔をあげると、彼は絶えた望みに従容(しょうよう)として語りはじめた。
「なんにも隠しゃしません。こっちが、あの男を射ったのはたしかですが、向こうも射ってきたんですからね。殺人というわけじゃありません。しかし、もし私があの女を射ったとお思いになるんなら、あんた方は私や彼女のことをご存知ないというもんです。世の中に私が彼女を愛したぐらい女を愛した男はありません。私は彼女に権利があったんだ。何年も前から私と約束があるんだ。その間に割りこんだイギリス人というのは、いったい何者ですか。私は彼女に優先権があったんですよ。だから正当の権利を要求しただけなんですよ」
「彼女は君が何者かを知って君から離れていったんだのだよ」ホームズは手きびしく言った。「彼女は君をさけて、アメリカを逃げ出したのだ。そうしてイギリスで立派な紳士と結婚したのだよ。君はその彼女が愛し尊敬している良人をすてて、恐れ憎む君と一緒に逃げさせようとして、彼女を執拗(しつよう)につけまわし、彼女を不幸な生活におとしいれた。あげくのはてに気高い人物を死に到らしめ、その妻を自殺に追いやった。エイブ・スレイニー君、これが君の罪状だ。これに対して、君は法律的に責任をとらされるのだ」
「エルシーが死ぬぐらいなら、私はどうなったってかまやしません」
スレイニーはこう言ってから、握りしめていた片手を開いて、手の中でクシャクシャになった例の手紙を見た。「旦那、ちょっとお伺いしますがね」彼は疑わしげに目を光らせて大声に、「これを使って脅かそうなんてんじゃありますまいね。あの女がそんなにひどい怪我をしているんなら、この手紙を書いたのは、いったい誰ですかね」と言いざま、紙片をテーブルの上にぽいとほうり出した。
「君を呼ぶために私が書いたんだよ」
「あんたが書いた? 踊り人形の暗号を知っているのは仲間以外にゃ誰もいないはずですぜ。あんたが書いたとはどういう次第ですかね」
「考え出す者があれば、それを解き明かす者もあるさ。スレイニー君、君をノーリッジに連れて行く馬車が来るんだが、それまで暇があるから、君が与えた損害の万分の一でも償なっておきたまえ。キュービット夫人は良人殺しの重大な嫌疑を受けていて、もし私がやって来て詳しいことを話さなかったら、告発をまぬがれないところだったんだよ、知っているかね。少なくとも君は彼女のために、彼女が良人の死について直接にも間接にも責任がないということを、世間に向って明らかにしてやる義務がある」
「願ってもないことです。自分のためにも赤裸な事実を申し上げるのがいちばんいい方法でしょうからね」
「これは僕の義務だから、ひとこと注意しておくが、その話がお前に不利な供述になることもあるからね」とマーティン警部が、イギリス刑法の気高い公平さを示した。
スレイニーはひょいと肩をすくめた。
「そいつは運にまかせます。まず第一に皆さん方に知っていただきたいのは、私があの女を子供のころから知っているということです。私らのシカゴの一味は七人でしたが、その親分がエルシーの親爺(おやじ)でした。利口な老人でしたよ、パトリックのじいさんはね。例の暗号を考案したのも彼ですよ。今度はたまたま旦那に見破られましたが、たいがいなら子供の落書きで通っちゃいます。
で、エルシーは少しばかり仲間のやり口を見習いましたが、耐えきれなくて、素姓の正しい金をちっとばかし持っていましたから、仲間を出し抜いてロンドンに逃げたんです。彼女は私と婚約していました。もし私が他の商売にのりかえていたら、私と結婚する気だったんです。しかし不正なものにかかりあうのは厭だったんです。ようやく私が彼女の居所をつきとめたときは、このイギリス人と結婚したあとでした。手紙を書いたが返事がこない。そこで海を渡ってやって来て、手紙では《らち》があかないから、暗号文を彼女の目につきそうな所に残したんです。
さて、こちらに来てからもう一か月になります。あの農家に泊っていますが、部屋は階下にあるから、毎晩出入りしても誰も気がつきません。彼女は暗号文を読んでいたはずです。一度、私の書いたやつの下に返事を書いていますからね。それから私は我慢しきれなくなって、脅(おど)しにかかりました。すると彼女は手紙をよこして、夫に恥でもかかせたら、悲しくて死んでしまうから、どうか帰ってくれと泣きついてきました。そして、すぐに引きはらって彼女を二度と苦しめないと約束するなら、明方の三時に良人が寝ているすきに降りて来るから、いちばんはしの窓ごしに話をしようと書いてありました。彼女は言葉どおりに降りて来ましたが、金を持っていました。金で話をつけようというのです。私はかっとなって、彼女の手をつかんで窓から引きずり出そうとしました。
ところがこのとき、彼女の良人がピストルを持って部屋にかけ込んで来ました。エルシーは床の上に崩れ落ちたので、私は彼と面(つら)をつき合わせることになりました。私もピストルを持っていましたから、おどしておいて逃げ出すつもりで、ピストルをつき出しました。すると彼は発砲してきましたが、弾は当り損(そこ)ないました。ほとんど同時に私も引き金を引いたら、彼は倒れました。私は庭を横切って逃げましたが、うしろで窓を閉める音が聞えました。これが、正直いつわりのないところです。ひとことも間違いありません。それからあとのことは、あの若者が手紙を持って来るまで、なんにも知りませんでした。その手紙を見て、うすのろみたいにノコノコ入って来て、まんまと皆さんがたの罠(わな)にかかったわけです」
スレイニーが話している間に、馬車が一台着いていた。制服の警官がふたり乗りこんでいた。マーティン警部は立ち上がって、犯人の肩に手をおいた。
「そろそろ出発だ」
「その前に彼女に会えませんか」
「いけない。まだ意識も回復していない。ホームズさん、もしまた重大な事件でも起こりました際には、どうかよろしくご協力願いたいと存じます」
ホームズと私は窓際に立って、馬車が遠ざかって行くのを見ていた。ふと後ろをふり返ると、机の上にさっきスレイニーがほうり出した紙だまが目に入った。ホームズが彼をおびき出すのに使った手紙だった。
「どうだい、読めるかい、ワトスン君」
ホームズは微笑を浮かべた。字は書いてなくて、次のような踊り人形が一行したためてあるだけだった。



「さっき説明した暗号法を使ったら、じきに解けるよ。COME HERE AT ONCE(すぐ来い)と書いてあるんだ。それだけ書けば、きっと来ると思った。夫人以外にこの暗号を書ける者がいるとは夢にも思うまいからね。ワトスン君、これでやっと終わったね。今まで悪い手先に使われてばかりいた踊り人形の最後も飾ってやったし、君の事件録に異常な一件を加えると言った約束も果たしたわけだ。三時四十分の汽車に乗るから、今夜のご飯はベイカー街の家で食べられるだろう」

最後にひと言つけ加えておこう。アメリカ人エイブ・スレイニーは、ノーリッジの冬の巡回裁判で死刑を宣告された。しかし、キュービット氏は先に発砲したことが確かめられたことでもあるし、情状を酌量して、懲役刑に改められた。
キュービット夫人のほうは、その後全快したが、再縁もせず、もっぱら貧民救済と亡夫の遺産管理に余生を捧げていると、風の便りに聞いたことがある。
ブラック・ピーター殺し

一八九五年の一年間ほど、精神的にも肉体的にも、ホームズがこれほど快調であった年はないであろう。名声が上がるにつれて、限りない活躍が続き、言えば不謹慎(ふきんしん)のそしりを受けそうな、ほんの身許をほのめかす暗示さえも与えるわけにはいかない、ずいぶんと著名な人たちがベイカー街の陋屋(ろうおく)の敷居をまたいだものである。
ホームズとても、すべての大芸術家同様、自分の芸術のために生きている男であるから、あのホールダネス公爵の場合はべつとして、この上なく立派な仕事については、大きな報酬を要求したことはほとんどないと言っていい。まったく超俗的というか、気まぐれというか、事件そのものが気に入らぬと、相手がどんな有力者であろうと、財産家であろうと、助力を拒否することも珍しくなかったし、かと思うと、事件が異常にして劇的で、彼の空想力を刺激し、その精巧な推理に挑戦するならば、報酬など考えもせず、貧しい依頼者のために何週間もぶっ通しで解決に専心するというありさまだった。
一八九五年は忘れがたい年である。実に奇妙不条理な事件が相ついで、ホームズを忙殺したものだった。まずはじめに、枢機卿(すうききょう)トスカの急死に関する彼の有名な調査……これは法王の特志依頼によって進められたものである。下っては名うてのカナリヤ仕込み師ウィルスンの逮捕……これはロンドン東部下層民街の癌(ガン)を取り除くものであった。そしてまた、このふたつに踵(きびす)を接するようにして起こったのがウッドマンズ・リーの惨事だった。それはピーター・ケア船長の死をめぐる、何とも説明のつけがたい事件であった。ゆえに、この怪奇を極めた事件の記述なくしては、わがホームズの活躍記も決して完全なものとはならないのである。
七月の第一週、ホームズはひとりでしばしば長時間外出したので、さては、また何か手がけているな、と私は感じた。留守のあいだ、バジル船長はいるか、と人相のよくないのが数人訪ねて来たので、ホームズがまた自分の怖(おそ)るべき正体をいくつもある変装と変名のひとつにすりかえて、何かやっていると思っていた。彼はロンドンの各所に、少くとも五か所は穏れ家を持っており、そこで早変わりができるのである。彼は何も話してくれなかったが、私も強いて聞き出そうとしない習慣がついてしまっていた。ホームズが、いまやっている調査の方向を初めて明らかにした明確なしるしは、まったくおかしな事がらだった。
その日、彼は朝食前に出たから、私ひとり食卓に向かっていると、やがて、のそりとその長身を部屋に現わした。見ると、帽子をかぶり、先に鉤(かぎ)のついた大きな槍を、傘のようにかかえ込んでいた。
「何でまた君は、そんなものをもってロンドンじゅうを歩きまわっていたんだい」
「ちょいと、肉屋まで馬車で行って帰って来たのさ」
「肉屋?」
「そう、腹を空(す)かして帰ってきた。何といっても朝食前の運動はすばらしいね。だが僕の運動がどんなものだったか、君にはわかるまい? 賭けてもいいよ」
「ご免だね」
ホームズはコーヒーを注ぎながら、くすくす笑った。
「もし君が、今朝アラダイスの店の奥をのぞき込んでいたら、シャツ一枚の紳士が、天井の鉤(かぎ)から吊り下がった死んだ豚をせっせとこの槍で突き刺しているのが見られたのになあ。その精力たくましい男はこの僕で、一撃で豚を刺し通すことなどまったく朝飯前だとわかって、いや、満足したよ。どうだい、君もやってみないか?」
「ご免こうむりたいね、何でまた、そんな事をするんだい」
「ウッドマンズ・リー事件に間接的な関係があると思うからさ、……やあ、ホプキンズ君、電報は昨晩受け取ったよ。待っていたところだ。さあさ、一緒に食べないかい」
入って来たのは年のころ三十歳ばかり、きわめて敏捷そうな男で、地味なスコッチ服を着ているが、ちゃんと胸を張った物腰は、制服を着なれた人のそれである。私にはすぐ少壮警部スタンリー・ホプキンズだとわかった。この青年の将来には、ホームズもおおいに期待しているし、また本人もこの有名な素人(しろうと)探偵の捜査方法に、師事(しじ)せんばかりの強い尊敬と感嘆の念を抱いていたのである。その青年が渋い顔をし、まったくしょげきった様子で腰をおろした。
「ありがとうございますが、済ませて来ました。昨晩はロンドンにいたんです。報告するために昨日帰って来て」
「どんな報告を?」
「失敗です……徹底的敗北です」
「あれ以来進展しないというの?」
「全然駄目です」
「いやあ、そうかい、じゃひとつ調べてみんといかんな」
「ホームズさん、ほんとにお願いしますよ。私にとって、最初の大チャンスなのに、もう脳みそを使い果たしてしまったんです。お願いです、一緒に来て手を貸して下さい」
「よし、よし。都合のいいことに、手に入るかぎりの関係書類には目を通しているし、検屍(けんし)の結果にも注意していたからね。で、現場で発見された煙草入れをどう思う? 何か手がかりは見つからないかね?」
ホプキンズは意外、といった顔をした。「あれは被害者のものですよ。内側に頭文字が入ってます。しかも、アザラシ皮でしょう、あの男、昔はアザラシを取ってたんですから」
「しかしパイプは持ってなかったろう?」
「ええ、探しても見つかりません。だいたいあまり煙草を吸わないんでしょうね。それとも来る友だちのために煙草を用意してたのかもしれませんね」
「そりゃそうだ。もし僕がこの事件を手がけるんだったら、この点を出発点としただろうと思うから、ちょっと言ったまでだよ。ところで、このワトスン博士は何も知らないし、僕もひとわたり聞いておきたいから、要点だけ、かいつまんで話してくれませんか?」
スタンリー・ホプキンズはポケットから紙きれを一枚取り出した。
「これに控えてありますから、殺されたピーター・ケアリ船長の経歴を説明します。一八四五年生まれですから……今年五十五歳ですね。なかなか勇敢な、しかも成功した、アザラシおよび捕鯨の船乗りです。一八八三年、ダンディー港の《海の一角獣(シー・ユニコン)》というアザラシ船の船長になっています。それから相次いでの航海で成績をあげ、翌八四年、隠退しました。隠退してからは、数年間旅行を続け、最初にサセックス州のフォレスト・ロウに近いウッドマンズ・リーという小さい土地を買って住まっていました。ここで六年間、一週間前に死ぬまで暮らしていました。
この男の性格には、まったく奇怪といってよいようなところがありました。ふだんは口数の少ない陰気な性質の厳格なピューリタンでした。家族は妻と二十歳になる娘と女中が二人で、この女中はしょっちゅう変わっているんです。陽気だなんていえる家庭ではなし、ときとしてまったく我慢できないことがあったそうです。時々、大酒を飲んで、発作(ほっさ)的に悪魔さながらの乱行に及んだといいます。そうなると、真夜中に女房や娘を家から叩き出し、庭じゅう追いまわしては鞭(むち)でうつので、屋敷の外の村人は、みんなその悲鳴に目を覚ましたということです。
一度、土地の老牧師に暴行を加えたかどで召喚されています。牧師は彼の行ないに忠告を与えに行ったんですが。まあ要するに、めったにいない危険な人物だと言えます。しかも船長時代から、そうだったという話です。同業者の間では黒(ブラック)ピーターという名で知られていますが、その名は、彼の顔や顎鬚(あごひげ)が黒いというばかりでなく、まわりの者から怖れられていたその気質にもよるのです。近所の誰からも嫌われ、敬遠されていたことはいうまでもありませんが、今度の惨事に際して、悔(くや)みをのべる者ひとりない始末です。
ホームズさん、あなたはあの男の《船室》についての検死官の所見をお読みになったでしょうが、こちらの方はまだご存じないんでしょう? 彼は自分で母屋から二、三百ヤード離れた所に、離れ家を木造で建て、毎晩ここで寝泊りしていました。彼はいつもここを《船室(キャビン)》と呼んでいましたが……これは奥行き十六フィート、幅十フィートの小屋です、鍵はいつもポケットに入れ、寝台も自分で整えるし、掃除もやるし、誰にもこの小屋の敷居をまたぐことを許さなかったのです。小屋の両側にひとつずつ窓がありますが、カーテンを閉めたきりで、ついぞ開けたことがありません。その窓のひとつが街道のほうに向いていて、夜になってそこに灯(あかり)がつくと、村人たちはその窓をさして、黒(ブラック)ピーターはあの中で何してるんだろうと噂(うわさ)したものです。この窓ですよ、ホームズさん、審問のとき数少ない確証のひとつを与えてくれたものは。
覚えていられるでしょうが、事件の二日前、石工(いしく)のスレイターという男が、フォレスト・ロウからの帰り道、午前一時頃ここを通りかかり、木々の間に、窓から四角い明かりがもれているのを見て、ふと立ち止ったのです。カーテンの上にはっきりと男の横顔が映っていたが、それはよく知っているピーター・ケアリの影ではなかったと断言しています。その形にも顎鬚(あごひげ)はあったが、船長のやつとは全然違って、短く、前方に突き出たものだと言っています。しかし、この石工は、その前に二時間も酒場にいた上、窓から街路までの距離もだいぶあります。またこれは月曜のことで、事件が起こったのは水曜なんですから。
火曜日、ピーター・ケアリはまたもや険悪で、泥酔し、まるで野獣のように荒れまわっていたようです。家の周りをうろつき、家の者はその声を聞いて逃げていました。夜おそく彼は小屋へ帰って行きましたが、二時頃になって、窓を開けてやすんでいた娘が小屋の方向で怖(おそ)ろしいうめき声がするのを聞いたと言います。でも、酒を飲んだとき、どなったり、わめいたりするのは珍しいことではなし、気にもかけなかったようです。朝の七時に起きた女中のひとりが、小屋のドアが開けっ放しになっているのに気づきましたが、何しろ怖ろしい男なので、昼頃まで誰も見に行かなかったのです。でもやっと思いきって、その開いてる扉からのぞきこむと、あのありさまです。顔を真っ青にして、村へ知らせに来ました。一時間たらずで現場に到着して調査にのり出しました。
ホームズさん、僕も神経は図太いほうでしょう。それが今度ばかりは、この小屋に頭を突っ込んで、ぞっとしましたよ。金蝿(きんばえ)、青蝿(あおばえ)がわんわんいて、まるでオルガンの音みたいです。床も壁も、まるで屠殺場同然。ケアリはこれを船室と呼んでいましたが、なるほどそうです。そこに入ると、まるで船室にいるような気になります。一方には寝棚がある、船員用の大箱、地図、海図、シー・ユニコン号の絵。棚の上には航海日誌がひとならびしていて、船長室にありそうなものなら、なんでも揃(そろ)えてあるんです。その中央に船長自身が、永遠に地獄に堕ちて責め苦にあう人のように、顔をねじ曲げ、長い斑(ぶち)の顎鬚を苦悶にうち立てて死んでるんです。その幅ひろい胸のまん中を鋼鉄の銛(もり)が貫いて、なんと、うしろの羽目板に深く突きささっているではありませんか。まるでカードの上にピンで留められた甲虫(かぶとむし)みたいです。もちろん死んでいました。断末魔の悲鳴とともに、壁に刺し留められたままだったんです。
僕はあなたの方法を覚えこんで、実行してみました。まずいっさいのものに手をつけることを許さず、屋外から始めて床まで入念に調べましたが、足跡が残ってないんです」
「一つも目につかなかったということだね」
「そうなんです。ほんとに一つもありませんでした」
「ホプキンズ君、僕も犯罪を数多く見てきたが、足のない犯人なんて、お目にかかったことはないよ。犯人がちゃんと二本足で立ってた以上、科学的な調査をすれば、どこか凹(へこ)んだ所とか、かすれた所とか、物の置き場所がちょっと違っているとか、何かわかるはずだがね。その血だらけの部屋に、捜査の手掛りになる痕跡がひとつもないなんて、とても信じられないね。でも書類を見てみても、君が見落さなかったものもいくつかあったようだね」
この若い警部はホームズの皮肉な批評にたじろいだ。「すぐにお願いしなかったのは、まったく僕も馬鹿でした。でも過ぎたことは仕方がないでしょう。そうだ、部屋の中にはたしかに注意をひくものが二、三ありました。第一は凶行に用いられた銛(もり)です。それは壁の台から外しとられた一本で、他の二本は台の上に残っており、一本分だけ空いていました。柄(え)には《ダンディ港、シー・ユニコン号》と彫られています。これは一瞬、かっとなって犯人が手近な凶器として把(つか)み取ったことは確実です。殺人が行なわれたのは午前二時、しかもピーター・ケアリはちゃんと服を着ています。この事実からみて、犯人は約束があってピーターを訪れたものと思われます。それは、テーブルの上に汚いグラスとラム酒が一本あったことでも確実です」
「そう……その推論はふたつとも承認できるね。で、部屋にはラム酒のほかに酒はなかった?」
「ありました。船員箱の上にタンタラス・スタンド〔酒瓶台。口に仕掛けがあって、すぐに酒が出せる〕があり、ブランデーとウイスキーが入っていました。でも両方とも一杯入っていて、手がつけてなかったから重要ではありません」
「現場にあるもので重要でないものはひとつもないよ」一本釘をさしておいて、「でもまあ、君がこの事件に関係あると思ったものが他にあるだろうから、それを聞こうよ」
「テーブルの上に煙草入れがありました」
「テーブルのどの辺に?」
「真ん中です。粗い毛の立っているアザラシ皮製で、革紐(かわひも)で口をしめるようになっています。内ぶたにP・Cという頭文字があり、船員用の強い刻み煙草が半オンスばかり入っていました」
「そいつぁ、面白い! そして、それから?」
ホプキンズはポケットから茶色い表紙の手帳を取り出した。表紙は手ずれでざらざらになり、紙も黄色くなっている。最初のページに、J・H・Nの頭文字があり、一八八三年と日づけがうってある。ホームズはそれをテーブルの上に置いて、彼独特の精密な検査をはじめた。ホプキンズと私は肩ごしにのぞきこんだ。次の頁にはC・P・Rとあり、以下数ページにわたり、数字が書き込んである。またアルゼンチンとかコスタリカとかサン・パウロとか見出しがあり、それぞれの見出しの次は数ページ、記号や数字で埋められている。
「どう思う、これを?」とホームズ。
「株式取引所の証券の一覧表らしいんです。J・H・Nは仲買人の頭文字で、C・P・Rはお客のものかと思いますが……」
「カナダ太平洋鉄道(カナディアン・パシフィック・レイルウェー)とやってごらんよ」
スタンリー・ホプキンズはかすかにうなって、拳固(げんこ)でどんと太腿(ふともも)を叩いた。
「何て馬鹿なんだ、おれは……もちろんおっしゃる通りです。ではJ・H・Nさえわかればいいんです。古い株式所のリストを調べてみましたが、一八八三年のには、社員も外部の仲買人も、この頭文字に該当するものがありません。しかし、今のところ、こいつが最も有力な手掛りだという気がするんです。この頭文字が、その場に居合わせた第二の人物、すなわち殺人犯人のものだとする説にはホームズさんも賛成だろうと思いますが……と同時に、多額の有価証券に関係すると思われる文書が現れたということで、初めて犯罪の動機がかいま見えてきたように思うのです」
この新しい展開には、ホームズもまったく不意打ちを食ったような顔になった。
「うん、ふたつとも認めざるを得ないね。実をいうと、検屍のときに持ち出されなかったこの手帳が出て来たんで、今までまとまりかけていた僕の意見も修正が必要になったよ。これまでの説明では、この手帳の入る余地がない。で、君はここに書いてある証券をつきつめたかい?」
「署のほうで調査を進めています。でも、この南米関係の完全な株主名簿は南米でないと手に入らぬし、株券を洗ってみても、まず数週間はかかると思うんです」
ホームズは拡大鏡で手帳の表紙を調べていたが、
「しみがあるね……」
「ええ、血痕なんです。さっきお話ししたように、床から拾いあげたんですから」
「上からかい? それとも下、血がついたのは?」
「血のあるほうが下です」
「じゃ、犯行後、落ちたことになる」
「そうです。僕もそう思っています。慌てて逃亡する際に犯人が落としたものだと推論します。入口の近くに落ちてたんですから」
「ここに記入してある株券は被害者の財産にもなかったかい?」
「ありませんね」
「強盗と思われる筋は?」
「ないですね、何にも手をつけたふうはないんです」
「いやあ、そうかい。こいつはたしかに面白いよ。ナイフがあったね、なかったかい?」
鞘(さや)つきのやつで、鞘に入ったままでした。被害者の足もとにあり、ケアリ夫人が当人のものだと確認したんです」
ホームズは、しばらく黙考の態(てい)だったが、やがて、「ふむ、こりゃ出かけていって見てこなければならんだろうな」
ホプキンズは声を出して喜んだ。
「ありがとうございます。これで肩の荷がおりますよ」
ホームズは警部に向って突き出した指をぴくぴくさせて警告の所作(しょさ)をした。
「もう一週間早ければ、仕事は簡単だったろうに。しかし、今からでもまったく無駄足ではないだろう。……ワトスン君、もし暇があれば一緒に来てくれないか。ホプキンズ君、四輪馬車を呼んでくれ、フォレスト・ロウ行きの準備は十五分もあればできるから」

片田舎(かたいなか)の小駅に降りたつと、広くひろがる森の遺跡の間を数マイル馬車を走らせた。ここはその昔、サクソン侵入軍を食いとめた偉大な森の一部であり、ブリテンの砦(とりで)として、六十年の長きにわたって不抜を誇った《森林地帝》の跡である。その後、この地方最初の鉄工業の中心地となり、大森林は熔鉱用に伐採され、さしもの森林も、大半は消え去ってしまった。さらに北部の豊かな鉱産地帯が事業を吸収したので、荒廃した森林と、大地に残された巨大な採掘跡とが、ありし日の繁栄を物語るのみである。緑の丘の中腹に切り開かれた所があり、そこに低く高く長い石造りの家が見え、曲がりくねった車路が畑の中を通じている。近づくにつれて、三方を茂みで囲まれた、一軒の小さな離れ家が窓と戸をこちらに向けて立っていた。これが、あの殺人現場である。
スタンリー・ホプキンズは、われわれをまず母屋のほうへ案内し、やつれた白髪まじりの女に紹介した。被害者の女房だった。ふちの赤くなった目の奥には、おどおどした動きが見え、やせおとろえて皺(しわ)の深く刻まれた顔は、彼女が耐え忍んで来た長い年月にわたる苦難と虐待を物語っているのだ。彼女に付き添っている蒼白い金髪の娘は、われわれを反抗的な目つきでにらみ、父が死んでむしろ嬉しいくらいだった、父を殺してくれた人を祝福する、とさえいった。黒(ブラック)ピーターは何と怖しい家庭を築いたことであろう……われわれはふたたび太陽の中に出て、被害者の足に踏み慣らされた小径(こみち)づたいに小屋のほうへ歩いて行きながら、むしろ、ほっとした気持を味わったくらいである。
離れ家というのは実に簡単な建物で、まわりの壁は板ばり、屋根は一重(ひとえ)で、扉のそばに窓がひとつと反対側にひとつあるだけだった。ホプキンズはポケットから鍵を出して、鍵穴のほうに身を屈(かが)めたとたん、はっと驚いて手を止めた。
「誰かここをこじ開けようとした者があります!」
まさしくその通りだった。木の部分に切り込みがあり、ペンキの上にもそのときできた掻(か)き疵(きず)がいくつもある。ホームズは窓のほうをしらべていたが、
「こっちも、こじ開けようとしてるよ。誰にしろ、入れなかったのを見ると、よっぽどへまな泥棒君だね」
「こりゃあ、とんでもないことですよ。こんな疵(きず)は昨晩まではなかったんですから」警部がいった。
「たぶん、村の物好きな奴のしわざでしょう」と私が言うと、
「そんなのんきなこっちゃないですよ。よくよくの者でないと、庭へ足を踏み入れることさえしないのに、ましてここに入り込もうなんて……で、ホームズさんはどうお考えで?」
「いや、僕らはまったく運がよかったと思うよ」
「というと、この男がまたやってくるとでも?」
「可能性が多いですな。ドアが開いてる積りでやって来たが、閉まってたので、小さなペンナイフでこじ開けようとした。それがごらんの通り駄目だったから、次はどうしますかな?」
「次の夜を待って、もっと大きな道具で……」
「僕もそう思うね。待ち伏せしないなんて手はないよ。でも、ちょっと船室のなかを見せてもらいましょうかね」
惨事の跡始末はしてあったが、小屋の中の家具類は犯罪当日そっくりそのままだった。ホームズは延々二時間にわたって、綿密、細心に部屋の中を次々と調べていたが、その顔色から、調査がうまく進展していないのが読みとれる。ホームズはただ一度、その手を休めて、こうたずねた。
「ホプキンズ君、この棚から何か取り出したかね?」
「いいえ、何も動かしませんが」
「何かなくなっている。この隅のところだけ埃(ほこり)がうすいんだ。本がのせてあったのかな? それとも箱かねえ? いや、もうこれ以上することはない。ワトスン君、この美しい森を散歩して、しばらく小鳥や花の仲間になろうじゃないか。ホプキンズ君、またここで落ち合おう。そして、この夜の来訪者君と近づきになれるかどうか、やってみようよ」
三人が待機の場所についたのは、もう十一時すぎだった。ホプキンズは戸を開けておくつもりだったが、敵に疑念を抱かせてはとホームズが反対した。錠(じょう)はごく簡単なもので、ちょっと大きい刃物なら、すぐこじ開けられる。
また、ホームズは小屋の中で待伏せしないで、入口と反対側の窓を取り巻いている茂みの中に隠れようといった。そうすれば、敵が入って来て灯をつけると、何をしにやって来たものかよくわかるというのだ。
不寝番(ねずばん)は長ったらしく、憂鬱だった。一方では池の近くに潜んで、渇きを癒(いや)しにくる猛獣を待ちうける猟人にも似たスリルはあった。暗闇のなかから、ぬっと姿を現わすのは、いったいどんな曲者(くせもの)であろうか? きらめく牙や爪(つめ)と闘って、やっと取り押さえることのできる猛虎のごとき曲者か? それとも弱い、備えのない者だけに忍び寄る豺(やまいぬ)のごときものであろうか? 絶対無言、息を殺して、われわれは茂みのなかにうずくまり、果たして何が出てくるやら、と待ち続けたのである。
初めのうちは、遅く帰る村人の足音や、村から聞こえてくる人声などで気もまぎれていたが、やがて物音もひとつひとつ消えてゆき、まったくの静寂が訪れた。音といえば、ただ遠い教会の鐘だけが夜の更けてゆくことを告げ、われわれをおおっている茂みの葉をならして、かさかさと降る細い雨の音だけである。二時半の鐘が鳴り、夜明け前の、夜の最も更(ふ)けわたった時刻。とそのとき、門のほうでカチッと低い音がして、三人ともびくっとした。誰かが車路に入ったのか? それからまた静かになったので、僕は空耳かと思ったその瞬間、ひそやかな足音が小屋の向こうに聞こえ、次いでカチッとひっかくような金属性の音! 曲者が戸をこじ開けようとしているのだ! 今晩は、やり方がよかったのか、それとも道具が大きかったためか、パチッと音がして蝶番(ちょうつがい)がキーッと鳴る。ややあってマッチがすられ、ゆっくりゆらめくローソクの光が小屋の内部を照らした。三人の目は薄織りのカーテンを通して、小屋の内部にひきつけられた。
待ちに待った夜の来訪者は、まだ若い弱々しいやせっぽちだった。黒い口髭がそのまっ蒼(さお)な顔をさらに青くしている。まだ二十歳をいくらも出ていない。私はいまだかつて、これほど哀れに物怖(ものお)じしている男を見たことがない。歯をがたがたかみ鳴らし、手足ともに震えている。身なりは紳士らしきもので、腰にベルトのあるノーフォーク・ジャケットにニッカーズボンをはいて、ラシャ帽をかぶっている。じっと見ていると、怯(おび)えきった目つきであたりを見まわしている。
やがて短いローソクをテーブルの上におき、部屋の隅へ行ったのでわれわれには見えなくなった。だがまもなく大きな本を持って来た。棚の上に並んでいる航海日誌の一冊である。テーブルによりかかって日誌のページを慌(あわただ)しくめくっていたが、探している所を見つけたらしい。拳を固めて、怒ったような身振りをして本を閉じ、それを棚に返して灯を消した。そして小屋を出ようとした瞬間、ホプキンズに襟首(えりくび)を押えられた。
押えられたと知って、恐怖のあまり、うめき声ともつかぬ大きな叫び声をあげた。ふたたびローソクが灯されると、この曲者は警部に押えられ、小さくなって震えている。船員室に坐りこみ、われわれを絶望的な目で見まわした。
「おい、若いの」ホプキンズが口を切った。「誰だ、君は? 何しに来たんだ?」
男は気を鎮(しず)め、落ち着きを取り戻そうとしながら、われわれを見た。
「刑事さんでしょう。ピーター・ケアリ船長の死と僕を結びつけようとなさってるんでしょうが……ぼくは、絶対に、無関係です」
「いずれわかることだ。それよりまず、君の名前は」
「ジョン・ホプリー・ネリガンです」
ホームズとホプキンズはすばやく目くばせをした。
「何しに来たんだ?」
「内々お話ししたいんですが」
「いや駄目だ」
「どうして話さなきゃならないんです?」
「答えなければ裁判のとき不利になるぞ!」
若い男は怯(ひる)んだ。
「お話ししますよ。ええ、話したっていいですよ。ただ、旧悪をあばかれるのが嫌なだけです……ドースン・アンド・ネリガン商会というのをご存じでしょうか?」
ホプキンズはと見ると、知らないようだ。しかし、ホームズは強く心をひかれたらしい。
「西部地方の銀行家だろう。百万ポンドの支払不能に陥(おちい)って、コーンウォールの家庭の半数を零落(れいらく)させたあげく、ネリガンは逐電(ちくでん)しちまったんだよ」
「そうです。そのネリガンは僕の父です」
どうやら、否定しがたいものをわれわれは握ったようだが、でもまだ失踪(しっそう)した銀行家と、自分の銛(もり)で壁に釘づけにされたピーター・ケアリ船長との間には、だいぶ大きな溝(みぞ)があるようだ。
三人はこの男の話に耳を傾けた。
「実際に関係のあったのは父なんです、ドースンはもう引退していました。僕はそのとき十歳でしたが、そのことが恥であり、また怖しいものであると充分知っていました。株券をそっくり盗んで逐電したと言われていますが、事実じゃないんです。もう少し期日があり、証券を全部現金にしてさえいたら、きっと債務を果たせると信じていたのです。父は逮捕状が出る少し前に、小さなヨットでノルウェーに向いました。
最後の晩、父が母に別れを告げたときのことを僕は忘れません。父は自分のもっている証券の一覧表を残して、必ず名誉を回復して帰ってくること、さらに自分を信頼してくれる人に苦汁(くじゅう)はなめさせないことを誓ったのです。しかし、それっきり父から何の音沙汰(おとさた)もありませんでした、ヨットもろとも消え去ったのです。
母と私とは、父は持っていた証券もろとも海底に消え去ったのだと信じていました。ところが、私たちには信用のある友人の実業家があり、あるときこの人から父の持っていた証券の一部がロンドンの株式市場に現われたと聞いたのです。私たちはびっくりしました。何か月もかかって出所をつきとめようと、さんざん骨折ったかいがあって、やっとこの小屋の主人ピーター・ケアリ船長が売りに出したことがわかったんです。
当然、この船長の身元を洗ってみました。そしてこの男が捕鯨船の船長で、父がノルウェーに渡っているときに北氷洋からの帰路にあったことがわかりました。その年の秋は嵐があり、南から強風を吹きつづけ、父のヨットが北のほうへ吹きつけられ、ピーター・ケアリ船長の船と出会ったことも充分考えられます。もしそうだとすると、父はどうなったのでしょう?
いずれにしろ、そのピーター・ケアリに会って、どうしてこの証券が市場に出たかを聞きだせれば、父がこれを盗み出したものでもなく、また持って出たのも、決して私利のためではなかったこともはっきりしたと思うんです……。
それゆえ、船長に会うためサセックスまでやって来ましたが、折も折、この恐ろしい殺人事件が起こったのです。検屍の調書をよんで、この小屋のこと、航海日誌が残っていることなどを知り、一八八三年の八月、シー・ユニコン号で何があったかがわかれば、父の運命についての謎も解けるのではないかと思い込んだんです。ゆうべも航海日誌を見ようとやって来たんですが、戸が開きません。今晩やっと成功したところでした。でも肝心(かんじん)の八月のところは破り取られています。そのとき、僕はあなた方の腕の中に捕えられていたんです」
「それで全部か?」とホプキンズが聞いた。
「はい全部です」といって、男は視線をずらした。
「もう他に言うことはないね」
男はためらった。
「はい……ありません」
「ゆうべが初めてだと言うんだね」
「ええ」
「じゃあ、これはいったいどうしたんだ!」とホプキンズはのっぴきならぬ罪証の手帳を突き出した。
最初のページにJ・H・Nという男の頭文字、表紙には血痕が……。
男はいっぺんにへこんでしまった。両手に顔を埋め、身体じゅうがふるえた。
「どこにありました? ちっとも知らなかった。宿屋で失くしたと思ってたのに」と泣くように言った。
「それでたくさんだよ」ホプキンズは厳しい口調になった。「文句があるなら法廷で申し述べろ、警察まで一緒に来るんだ。じゃ、ホームズさん、色々とありがとうございました。そのお友だちの方も色々どうも、これならお出で願うには及ばなかった、僕ひとりでうまくやれましたよ。でも本当にありがとうございました。ブランブルタイ・ホテルに部屋をとってありますから、村まで一緒に歩いて行きましょう」

「ねえ、ワトスン君、あれをどう思う?」
翌朝、帰り途でホームズが言った。
「君は満足していないようだね」
「いや、まったく満足してるんだよ。しかし、ホプキンズのやり方には感心しないね。あの男には失望したよ。もっと取り柄(え)のある男かと思っていた。起こりうべき変化には常に備えておかねばねえ、これは犯罪捜査の第一課だよ」
「で、その変化って、何のことだい?」
「僕自身が追ってる筋だがね。失敗するかもしれん。それはわからんが、僕としては最後まで追ってみるつもりだ」
ベイカー街に着くと、手紙が四、五通、ホームズの帰りを待っていた。彼はその中の一通をとり上げて、開封すると、勝ち誇ったように爆笑した。
「しめたっ! さっきの変化が進展してきたぞ。頼信紙はあるかい? ちょいと二本書いてくれないか、一本はラトクリフ・ハイウェーのサムナ回漕(かいそう)店宛……
《アスアサ十時三人ヨコセ》バジル……

この方面ではこんな名前で通ってるんだ。もう一本はブリクストンのロード街四六、スタンリー・ホプキンズ宛……

『アスアサ九時半朝食ニコイ、重大事ニツキ差支エアレバヘンマツ』シャーロック・ホームズ……

ワトスン君、このいまいましい事件のやつ、十日間も僕につきまとって悩ましやがったが、どうやら完全に追っ払えそうだよ。明日はこの事件も最後が聞けると思うから、もうおさらばだ」
指定の時刻きっかりにスタンリー・ホプキンズが現われ、三人はハドスン夫人の料理する素晴らしい朝食にとりかかった。若い警部は昨晩の成功でご機嫌上々といったところである。
「君はほんとうに自分の解決法まちがいなし、と思ってるの?」とホームズが聞いた。
「これ以上完全なんて、考えられませんよ」
「僕には決定的だとは思えんがね」
「おどかさないで下さいよ。これ以上、どうしろと言うんです?」
「君の論で、すべての点が説明できるかね?」
「もちろんですよ。殺人の行なわれた当日、ネリガンはブランブルタイ・ホテルに泊まっているんです。ゴルフをしに来たと見せかけてますが、部屋が一階なもんですから、いつでも出かけられたんです。
あの晩、ウッドマンズ・リーへ出かけて、小屋でピーター・ケアリに会い、口論したあげく、銛(もり)で刺し殺してるんです。でもやはり、自分のしたことに驚いて、小屋を飛び出しましたが、そのとき、証券についてケアリに詰問するために持って来た手帳を落としました。ご覧になったでしょうが、ひかえてある証券のあるものにチェックがしてあって、大部分のものにはありません。しるしのあるのが、ロンドンの市場に出たものと彼がつきとめたやつで、他のにはついてないが、まだケアリの家にあると思い込み、父の債権者に返済のため取り戻したいと思っていた、と口述しています。一度逃げ出してからは、しばらく二度と近づかなかったんですが、やはりあの情報は必要で、ふたたび手に入れようと、今度の行動に出たんですよ。実に簡単明瞭でしょうが?」
ホームズは笑って頭をふった。
「ホプキンズ君、たったひとつ欠陥があるように思えるんだがね。しかも本質的にあり得ないようなことがね。君は動物の胴体なり、そんなものを銛で突き刺したことがあるかね? ない? いけないね。こういう細かい点にもっと注意を払うべきだよ。ワトスン君も知っての通り、僕はこれをやってみるために、ひと朝つぶしてしまったんだよ、これは生やさしいこっちゃない、相当の腕力と熟達を要するもんだ。この事件は銛の先が壁にめり込むほど、ものすごい一撃なんだよ。あんな貧血症の青年にこんな恐ろしい荒事(あらごと)ができるとでも思ってるのかね? あの夜、黒ピーターとラム酒をくみ交したのがこの青年だって? 凶行の二日前の晩、窓にうつったのが彼の横顔だって? いや、違うよ、ホプキンズ君、僕らが捜さねばならんのは、他のもっと恐ろしい男なんだよ」
警部の顔は、ホームズの話を聞いているうちに、だんだん寸がのびてきた。その希望と野心は、がらがらと崩(くず)れ去ったのである。しかし、彼は、すぐに尻尾を巻いてしまうような男ではない、最後までホームズに食い下がった。
「しかしですね。ネリガンが凶行当夜現場にいたことは否定できませんよ。ちゃんと手帳がありますからね。ホームズさん、あなたがいくらあら捜しなすったって、こっちには陪審員を承服させるだけの証拠があるんですからね。それに、こっちはちゃんと犯人をあげてるんですよ。して、あなたのおっしゃる恐ろしい男というのは、どうしました?」
「うん、階段のあたりにいるんじゃないかな」ホームズは落ち着き払っていた。「ワトスン君、ピストルは手の届くところに置いといたほうがいいよ」と言って立ち上がると、側テーブルの上に書類を置いて、「さあ、用意はできた」といった。
外のほうで二、三どら声が聞こえたかと思うと、ハドスン夫人がドアを入って来て、バジル船長をたずねて三人の男が来たと告げた。
「ひとりずつ通して下さい」
最初に入って来たのは赫(あか)ら顔で白い柔らかい頬鬚(ほおひげ)のある上等リンゴのような小男であった。ホームズはポケットから手帳を出して、
「名前は?」
「ジェイムズ・ランカスター」
「残念だがね、ランカスター君、もう満員なんだ。足代に半ソヴリン出すよ。ちょっとこの部屋へ入って待っててくれたまえ」
次に入って来たのは、背の高い、干上(ひあが)ったような男で、土色の顔に、頭髪は長く柔らかい。名前はヒュー・パティンズと言った。この男も不採用、半ソヴリンで待ち組。
第三の男は目につく容貌をしていた。髪も鬚ももじゃもじゃとしていて、精悍(せいかん)なブルドッグのような面(つら)がまえである。房のように濃くたれた眉の下から、不敵な目がぎらぎらと光る。挨拶をすると、船乗りふうに帽子を後ろ手にまわしながら、立っていた。
「名前は?」
「パトリック・ケアンズ」
「銛うちかね?」
「へえ、二十六航海でさあ」
「ダンディ港だね?」
「へえ」
「探検船だが、すぐ出られるかね?」
「へえ」
「給料は?」
「月八ポンドは頂きてえんで……」
「すぐ出発できるね」
「道具袋さえありゃ……」
「証明書があるかね?」
「ありまさあ」ポケットから汚れて脂染(あぶらじ)みた書類の一枚を取り出した。ホームズはちょっと目を通してから返した。
「君こそ探していた男だ。そっちのテーブルの上に契約書があるから、署名してくれ。それですべて決まるんだよ」
「ここへ署名するんですかい?」船乗りはのっそり歩いていって、ペンを取り上げた。
ホームズは船員のうしろから覆(おお)いかぶさるようにして、両手を頚(くび)のわきから差し込んだ。
「これでいい」
カチリという金属の音とともに、たけりたった闘牛のようなうめき声がした。次の瞬間、ホームズは船員とひとつになって床へころがった。怪力無双の男である。両手首には巧みに手錠がかけてあるにもかかわらず、ホプキンズと私が加勢しなかったら、またたく間にホームズを打ちのめしているところだった。私がピストルの冷たい銃口をこめかみに押しつけたので、やっと反抗しても無駄だと覚った。紐でこの男の両足をしばりつけ、立ち上がったとき、三人ともハアハア喘(あえ)いでいた。
「ホプキンズ君、君には申し訳ないことになってしまったよ。煎(い)り卵が冷えちまってね。でも、かえって朝食の残りを楽しめるかもしれんね。そうじゃないかね? 君はこの事件を勝利のうちに納めることになるんだから」
スタンリー・ホプキンズは驚きのあまり口もきけなかった。
「ホームズさん、その、何といったらいいか……」と顔を真っ赤にして、もそもそと言った。「はじめっから、馬鹿な真似ばかりして……今こそ悟りました。僕はまだ一年生で、あなたは大先生です。もう決して忘れません。でもまだ、あなたがなさったことを目の前にしながら、どうして、またどんな意味か、さっぱりわからないんです」
「まあ、いいよ」ホームズは上機嫌で、「何事も経験だよ。この事件で君が覚えたことは、すべての変化を見失ってはならないということだ。君はネリガン青年に夢中だったから、ピーター・ケアリ殺しの真犯人、パトリック・ケアンズのことに頭がまわらなかったんだよ」
「ちょいと旦那」とケアンズが割って入った。「あっしはね、こんな手荒い扱いをうけたって、不服は言わねえが、ちゃんとした物の言い方をしてもらいてえもんだ。ピーター・ケアリ殺しと言いなすったが、あっしはケアリをやっつけたと言いてえんだ。こりゃ、大きな違いですぜ! 俺の言うことは、旦那方にゃわからねえかもしれんが、ほら吹いてると思われるかも知れねえが」
「それどころか、君の話てえのを聞こうじゃないか」
「じゃあ、しますぜ、断っときますがね、俺の話にゃ、これっぽっちのうそもねえ。あっしゃ、黒(ブラック)ピーターと知り合いでさ、あいつがナイフを出したから、銛を打ち込んでやったまでさ。でなきゃ、あっしが殺されるんで……こうして奴は死んだが、旦那がたは人殺しと言いなさる。どっちみち、黒(ブラック)ピーターのナイフでやられるところを首に綱を巻かれて、キュッとやられるまでのことだがね」
「どうして、そんなことになったんだね?」
「しょっぱなから話しましょう。ちょいと起こして下さいよ、これじゃ話もできねえや。……そもそも事の起こりが一八八三年の八月でさ。ピーター・ケアリがシー・ユニコンの船長で、あっしが予備の銛打ちさ。北氷洋の氷山の間からの帰り途、一週間も南の向かい風をうけてね。そのとき南から吹き流されてくる小さい船を見つけたんでさあ。乗ってるなあ男がひとり、しかも陸(おか)の人間さ。乗組員は船が沈没すると見てとって、ボートでノルウェー海のほうへずらかった。もちろん奴らは助からなかったと思うね。だもんで、あっしらの船へ助けあげた。その男さね、船室で船長と長いあいだ話し込んでいたがね……こいつを荷物と一緒に引き上げた、といっても荷物はブリキ箱ひとつさ。あっしはその男の名も聞かなかったがね。ところが二日目の晩、まるでそんな男なんか、もとからいなかったみたいにすっと消えちまった。船から身を投げたか、時化(しけ)だったから船から足をすべらしたかという話だったが、どっこい、たったひとり事実を知ってる者がいた。かくいうあっしさ。ちゃんとこのふたつの目で、船長が闇夜の夜直のとき、男を倒して、デッキから海へほうり込むのを見とどけてるんだ。それがシェトランドの燈台を見る二日前……。
あっしゃあこれを胸にしまって、成りゆきを待ったがね。スコットランドへ帰りついても、うまく揉(も)み消したらしく、誰もきくものはいねえ。知らねえ奴がひょっくり死んで、今さら何のかんのと騒いでも始まらねえ。まもなくピーター・ケアリは船乗りをやめて、陸(おか)へ上がったまま、だいぶ探したが居所がわからなかった。あっしゃあ、箱の中味のためにあんな事をやらかしたと睨(にら)んだんだが、それならそれで、口止め料はたんと出せねえはずもないんだ。
ふとロンドンで出会った船員の口から奴の居場所を聞きつけて、早速しぼりに行ったのさ。最初の晩はいやに話せるふうで、あっしが船乗りの足を洗うだけのものは出してやると言ったんだ。翌晩、話をきめに行くてえと、もう少しでべろべろというまで酔っぱらってて、気が荒れえのさ。ふたりでまたやりながら昔話をやったんだが、あいつが酔ってくるにつれて、その面(つら)がますます気に食わねえ。見るてえと、壁に銛がかかっている。こいつあ話のすまねえうちに、こいつがいるかなと思ったが、果たして野郎、食ってかかってきた。わめきたてるやら毒づくやら、殺気をおびた目つきで、でっけえ折りこみナイフを手にとった。
仕方がねえ、鞘も払わせねえで、一発銛を射ち込んでやったさ。あのときのうめき声といったら! 奴の面が一日じゅう目の前をちらついてるんだあ! あっしゃあ、返り血を浴びたまま、しばらく突っ立っていたが、あたりはまったく静かなんだ。それで元気を取り戻したよ。部屋の中を見まわすと、あのブリキ箱が棚の上に乗ってる。奴と同じに俺だって権利があるんだから、こいつを失敬して小屋を出た。何てこった、テーブルの上に煙草入れを忘れたんだ!
いや、話はこれからさ、まったくおかしなことがあったんでさ……小屋を出たとたん、足音を聞きつけた。いけねえっ、てんで叢(くさむら)の中に隠れたんだ。どこの馬の骨だか知らねえが、こそこそやって来て、小屋に入った。と、まるでお化けでも見たように、ギャッと声をあげて一目散、全速力で消えちまった。どこの誰が何しに来たのか知らねえが、おったまげたにちげえねえ。あっしのほうは十マイル歩いて、タンブリッジ・ウェルズから汽車に乗り、ロンドンに帰ったが、誰にも見とがめられなかった。
ところで、その箱を調べてみるてえと、中にはびた一文入ってなくて、紙屑みたいな株券ばかりさ。売るわけにもいかねえ、頼みの綱のピーターは失うし、ロンドンで座礁(ざしょう)しちまって、飯の食いあげさ。こうなりゃ、この商売に帰るしかねえ。銛打ちをいい賃金で雇うという広告を見て、これ幸いと回漕屋へ行ってまわされて来たのがここってえわけだ。さあ、話は済んだ。もう一度言っておきますがね、あっしゃあ、ピーターをやっつけたんで、お上(かみ)からお礼を頂きてえくらいだ。麻縄一本分節約させてやったんだからね」
「いやあ、実にはっきりした話だ」ホームズは立ち上がって、パイプに火をつけた。「ホプキンス君、さっそくこの大将を安全な場所に移してもらいたいね。この部屋は監房には向かないんでね。しかも、パトリック・ケアンズ君に、こう、絨毯(じゅうたん)を占領されちゃどうにもならんからね」
「ホームズさん、何と言っていいか、お礼の言葉もありません。こうなってもまだ、どうしてあなたがこの結果を得られたのかわからないんです」
「運よく最初に正しい手掛りをつかんだだけだよ、僕だって、この手帳をもっと早く知ってたら、君と同じように考えを外(そ)らされていたかも知れないよ。しかし、僕が調べたものはすべてひとつの方向を示していた。驚くべき力、銛の使いこなしのうまさ、ラム酒と水、アザラシ皮の煙草入れに質の悪い煙草……これらはみんな船員、しかも捕鯨船員を示しているからね。P・Cという煙草入れの頭文字はピーター・ケアリにも一致するが、そうではないと信じていた。彼は煙草はやらかったし、しかも小屋にはパイプがなかった。君、覚えてる? 僕がラム酒のほかにウイスキーやブランデーがなかったかと聞いたのを……そしたらあったと言ったね。そういうのがそばにあるのに、ラム酒ばかり飲むような男は陸にはほとんどいないよ。だから僕は船員と断定した」
「では、どうしてこの男を探したんですか」
「こいつあ、君、いとも簡単だよ。船員だとすれば、考えられるのはシー・ユニコンの乗組員だけだ。調べのついた限りでは、ケアリは他の船には乗っていない。ダンディ港との電報のやりとりで三日かかったが、最後にあの年のシー・ユニコン号乗組員の名簿をつきとめた。そのなかに銛打ちパトリック・ケアンズの名を見つけたとき、僕の調査も、もう終わりだと思ったよ。この男は多分いまロンドンにいて、高飛びをねらってる、とにらんだ。だから二、三日、イースト・エンドに通い、北極探検という名目をつくって、すぐに飛びついてきそうな条件で銛打ちを募ったのさ、バジル船長の部下になるものということでね……結果はご覧の通りさ」
「すばらしい、実にうまい!」
「そんなこと言ってないで、できるだけ早くネリガン釈放の手続きを取りたまえ。ネリガンに謝罪しなければならんだろうが、あのブリキ箱を返してやるんだね、もちろん、ピーター・ケアリが売った分は永久に返らないがね。……馬車が来たようだ、じゃこの男を連行してくれ。もし裁判で僕の証言がいるようなら、僕とワトスン君の居所はノルウェーのどこかになるだろうが……くわしいことは、いずれ手紙でお知らせするよ」
奸賊ミルヴァートン

私がこれから述べようとする事件が起こってから数年にもなるけれども、どうも気おくれがしてならないのである。どんなに手加減を加え、話をはしょったところで、長いあいだ真相を公にすることなどできないことだったのであるが、今ではもう事件の主要人物はこの世を去り、もはや手の届かぬ所にいるのだから、適度にとどめておけば、人を傷つけることもなく話を進められるであろう。
それはシャーロック・ホームズと私自身ともどもの生涯でもまったく毛色の変わった経験の記録なのである。私が日付とか、ほかのなにか実際起こった事件がわかるような事実をかくしたとしても、それでお許し願えるであろう。
ホームズと私は例の夕方の散歩に出かけ、およそ六時頃に帰宅した。寒い霜のおりるような夕方であった。ホームズがランプの芯(しん)を長くしたとき、テーブルの上に一枚の名刺が照らし出された。彼はそれにちらと目を通すと、思わず嫌悪の声をあげて、床に投げ捨てた。私がそれをつまみあげると、
代理人
チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン
ハムステッド、アップルドー・タワーズ
と読めた。
「誰だい、この男は?」と私はたずねた。
「ロンドンでいちはん悪い奴だよ」とホームズは腰をおろすと暖炉の前に足をのばしながら答えた。「裏に何か書いてあるかね?」
私は裏をかえして読みあげた。
「六時二十分におうかがいします。C・A・M」
「ふん、じゃもうやってくるな。ワトスン君、君は動物園で蛇の前に立って、あの執念ぶかい目と、悪意のこもったひらべったい顔の、毒のあるぬるぬるした奴を見たら、ぞくっとふるえるような気分にならないかい? それなんだよ。ミルヴァートンが僕に与える印象がそれなんだ。僕は今にいたるまで五十人もの人殺しと縁があったわけなんだが、その中でいちばん凶悪な奴でも、僕がこいつから受けるような嫌悪を感じた奴はいなかった。だが彼との取り引きは避けるわけにはいかないよ。実のところ、僕が呼んだのだからね」
「だが、そいつは何者なんだい?」
「こうなんだよワトスン君、彼はたかりの王様なんだ。男や、まして女の、秘密だとか世間の取沙汰だとかが彼の耳に入ったら、もうどうしようもないんだ。にこにこしているくせに心は冷酷で、相手がからからになるまでしぼりぬくんだ。こいつはその道じゃ天才だ。その気になれば、なにかもっと《ましな》商売で名をあげただろうにね。彼のやり方はこんなふうなんだよ。裕福な人間とか地位のある人間の名誉を危くするような手紙を高く買いとる用意がある、という評判をたてておく。彼はこうしたものを不実な執事とか小間使いの女から買いとるだけでなく、相手に気をゆるした婦人の信頼と愛情をかちえているような家柄のよいならずものからも買い取るんだ。奴はけちな手はつかわない。たまたま僕は、彼が長さにしてわずか二行の手紙の代金として、召使いに七百ポンド支払ったのを知っている。結果はその貴族の没落さ。売物ならなんでもミルヴァートンの所へ流れこむし、この大都市に彼の名を聞いただけで顔色を変える人間が何百人といるのさ。彼の魔手がどこにかかるかは誰にもわからない。というのは、彼はとてつもなく金があって巧妙だから、材料をすぐに使うようなことはしないんだ。彼は勝負がいちばん歩のいいときに使うため、何年でも切り札はしまいこんでおくんだよ。ロンドンでいちばん悪い奴だって僕は言ったが、怒りにまかせて友人を棍棒(こんぼう)でなぐりつけるようなならずものと、こいつが比べものになるかどうかね。こいつはすでにふくらんでる財布をもっとふとらせるために、組織的に人の魂を苦しめ、神経を悩ますんだからね」
私の友がこれほど感情をこめて話すのは、めったに聞いたことがなかった。
「だがしかし、そいつだって法律にひっかかるにゃ違いなかろう」
「専門的にはたしかにそうなんだよ。しかし実際には違うね。たとえばね、ある女性が彼を数か月、豚箱(ぶたばこ)にほうりこんでも、そのすぐ後で自分が没落することうけあいだとしたら、何の得になるだろうかね。被害者たちは仕返しをする勇気はないさ。彼が潔白な人間を脅喝(きょうかつ)したら、そのときこそ捕まえられるわけだが、まるで悪魔のようにずる賢こいからね。いやいや、もっとべつなやり方で戦うことを考えなくちゃならないのさ」
「で、どうしてここに来るんだい?」
「ある有名な依頼者が、気の毒なその事件を僕の手にゆだねたからさ。その婦人てのは、去年の社交シーズンでデビューしたいちばんの美人イーヴァ・ブラックウェルなんだよ。彼女は二週間以内にドーヴァーコート伯爵と結婚することになっているんだが、彼女が軽率に書いた手紙を、この悪魔が数通手に入れてるんだ。……ねえワトスン君、軽率なんだよ。少しも悪くはないんだ。その手紙というのは、田舎の若い貧乏地主に書いて送ったものなんだが、それだけでも婚約解消には充分だからね。多額の金を支払わなければ、ミルヴァートンは伯爵にその手紙を送るだろう。僕は彼にあって、できる限りの好条件をとり結ぶことを頼まれたのさ」
そのとき、下の街路から、がたがたという馬車の音が聞こえてきた。見下すと堂々とした二頭立ての馬車が見え、立派な栗毛の馬のよく肥えた尻に灯(あかり)がきらきらとあたっていた。従僕が扉をあけると、ふさふさしたアストラカンの外套を着こんだ、小柄だががっしりした男が降りたった。そして一分後にはわれわれの部屋に入って来た。
チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンは五十がらみで、大きな知的な頭をもち、顔は丸くて肉づきがよく、すべすべしている。そしていつも微笑をたたえ、両眼は灰色で鋭く、大きな金縁眼鏡(めがね)の底からきらりと光っていた。彼の様子には何かピックウィック氏〔ディッケンズの小説中の人物〕の慈悲心といったようなものがあったが、絶えることのない不誠実な微笑と、きびしい光をたたえて休みなく動き、人を射通すような目だけでも、その様子は台無しになっていた。
彼は、さきほど伺(うか)がったが会えなくて残念だったとつぶやきながら、肉づきのよい小さな手を差し出して進みでた。その声は顔同様になめらかで感じのよいものであった。
ホームズは差し出された手を無視して表情を動かさず彼を見つめた。ミルヴァートンの微笑はいっそうにこやかになった。
彼は肩をすくめると外套をぬぎ、非常に丁寧にたたんで椅子の背にかけると、坐りこんだ。
「このお方は?」彼は私のほうに手をふって言った。「いいのですか?」
「ワトスン博士は私の友人であり協力者です」
「結構でしょう、ホームズさん。私が苦情を申したのは、ただあなたの依頼者の利益を考えているだけなのですから。ことはまったく微妙ですからね」
「ワトスン博士はすでに、そのことはご承知なんですよ」
「では仕事にかかれるわけですね。あなたはイーヴァ嬢の代理をつとめるとおっしゃるが、私の条件をみとめる権利もあなたは委託されていますか」
「条件は何です?」
「七千ポンドですよ」
「承認できないとなりますと?」
「ああ、これを論じ合うのは私にとってはたいへん苦しいんですが、十四日にお支払いいただかない場合には、十八日の結婚式は、間違いなくお流れですねえ」
癪(しゃく)にさわるそのうす笑いが、常にも増して満足そうに見えた。ホームズはしばし考えこんでいたが、とうとう口をきった。
「あなたは事件を、こうなるのがあたりまえと甘く考えてるんじゃないかな? もちろん私はその手紙の内容には詳しいんですよ。私の依頼者は間違いなく私の助言どおりやるでしょうよ。私は未来の良人に話を全部うちあけて、彼の寛大さを信じるよう彼女に相談してみましょう」
ミルヴァートンはくすりと笑った。
「あなたはたしかに伯爵の人物をご存じじゃありませんな」と彼は言ったが、ホームズの顔に当惑げな表情があらわれたところから見ると、明らかに彼の知らないのが読みとれた。
「手紙の中に、何かまずいことでもあるというんですか」
「面白いですよ。とても面白いですよ。彼女はなかなか魅力的な手紙を書く人ですね。しかしドーヴァーコート伯爵はもちろん、そんなよさは見抜けませんね。だがお考えも違うようですから、これで打ち切りにしようじゃありませんか。純粋に取り引きなんですからね。もしあなたが、この手紙が伯爵の手にわたることが依頼者にとっていちばんよいことだと思うのでしたら、それを取り戻すのにそんな多額の金を払うなんてまったく馬鹿らしいことですからね」
彼は立ち上がるとアストラカンの外套をつかんだ。ホームズは怒りと無念さで土気色(つちけいろ)になった。
「ちょっと待ちたまえ、あまり性急すぎる。問題は非常に微妙なものです。スキャングルを避けるために努力を払いたいものだと思いますがね」
ミルヴァートンはまた椅子にかけた。
「そんなふうにお考えになるだろうと信じていましたよ」と彼はのどをならした。
「同時にね、イーヴァ嬢は裕福な人ではないんですよ。確実なところ、二千ポンドでも彼女の財産にとっては大きな失費だろうし、あなたの指定した額なんてとても払いきれませんよ。だから要求額を下げて、私の言ったところで手紙を返して下さるようお願いします。実際それがあなたの手に入れられる最高額ですよ」
ミルヴァートンの微笑は深くなり、両眼は楽しげに輝いた。
「彼女の財産に関しては、あなたのおっしゃることが正しいのは知っています。が、それと同時に、彼女の結婚という機会は、友人や親戚が彼女のためにちょっと骨を折ってあげるには、とてもふさわしいときだということもおわかりでしょうね。その人たちは結婚の贈り物としてふさわしいのは、あれかこれかと思い惑っているでしょうが、このちっぽけな手紙の束のほうがロンドンじゅうの燭台やバタ皿なんかよりずっと彼女を喜ばしてあげられることを数えてさしあげたいもんですよ」
「それはできない相談です」
「おやおや、そいつは運の悪いことですね」とミルヴァートンは叫び、かさばった手紙を取りだした。「ご婦人方が尽力されないなんて、ずいぶん、無分別なことだと思わざるを得ませんね。ご覧なさい!」
彼は紋章入りの封筒に入った手紙を出してみせた。「この手紙は……そうでした。明日の朝まで名前を明かすのは公平じゃありませんな。しかしそのときにはもう手紙は良人の手に渡ってしまうんです。それというのも、彼女がダイヤモンドのいくつかをまがいものにすりかえてしまえば、一時間もすれば工面できる、わずかばかりの金を惜しむからなんですよ。まったく哀れなもんです。さて、あなたは高名な貴族であるマイルズ嬢とドーキング大佐の婚約が突然破れたことは覚えておいででしょう。結婚式のわずか二日前、モーニング・ポスト紙に取りやめの短い記事が出ていました。ほとんど信じられない話なんですが、これが千二百ポンドという馬鹿みたいな金額で全部かたがついたんですからね。気の毒じゃありませんか。それなのにです。依頼者の前途と名誉が危険にさらされているとき、物わかりのよいあなたが、条件にひるむんですからね、驚きましたよ、ホームズさん」
「私の言ったことは本当ですよ」とホームズは答えた。「金はできはしませんよ。確実な金額をとったほうが、この婦人の一生を台無しにするより、あなたにとっても有利に違いないと思いますがね。そんなことをしても、ちっとも得にはなりゃしませんよ」
「さ、それは違いますよ、ホームズさん。暴露(ばくろ)したってことは、私には間接に実に大きな利益なんですよ。同じように仕上がりかかっている件が八つか十ほどもあります。もし私がイーヴァ嬢の場合に、きびしい実例を見せたということが連中に知れわたれば、連中も、もっとずっと物わかりがよくなるんですからね。私の申し上げたいことはおわかりでしょうね?」
ホームズは椅子から、すっくと立ち上がった。
「ワトスン君! 後ろにまわれ! こいつを出すな。さて君、その手帳の中味を見せてくれたまえ」
ミルヴァートンは鼠(ねずみ)のように、すばやく部屋の片側に身をすべらせると壁を背にして立った。
「ホームズさん、ホームズさん」彼は上衣の前をはだけると内ポケットからはみだしている大型ピストルの床尾を見せて言った。「私はあなたがなにか目新しいことをおやりになると思っていましたが、これは使い古した手じゃありませんか。今までこの手でうまくいったことがありますか? 私は充分に武装してますし、法律は私に味方することは知っていますから、武器がすぐ使える心がまえはできてますよ。それに私が手帳に一件の手紙もはさんでいるだろうなどというお考えは間違ってますよ。私はそんな馬鹿な真似はしたくありませんね。さておふた方、私は今晩ひとつふたつ面会しなくちゃなりません。ハムステッドまでは、たっぷり車を走らせなくちゃなりませんからね」
彼は歩み出て外套をとると、片手をピストルにかけたままドアに向かった。私は椅子をつかんだが、ホームズが頭を振ったので、また下ろしてしまった。微笑を浮かべ、目をぱちくりしながらお辞儀をすると、ミルヴァートンは部屋を出て行った。二、三分たって馬車の扉ががちゃんとしまり、がらがらと車輪の音をさせなから彼は去って行った。ホームズはズボンのポケットに手を深くつっこみ、顎(あご)をぐっと引いて、あかあかと輝く燃えさしをじっと見つめながら、身じろぎもせず暖炉のそばに坐っていた。
三十分間も、彼は黙りこくって動かなかった。それから何か決心のついたときに誰もがやるように、すっと立ち上がると寝室に入って行った。しばらくすると山羊鬚(やぎひげ)をはやし、ステッキを持った粋な若い労働者が、外に出て行こうと、ランプで陶製パイプに火をつけて、「ワトスン君、しばらくしたら戻るよ」と言い残して夜の闇に消え去って行った。
私は彼が、チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンに挑戦を開始したのだとわかった。しかし私は、この挑戦が奇妙な形になり終る運命にあったことなど、夢想だにしなかったのである。
何日間か、ホームズはいつもこの《なり》で出入りしていた。だが彼がハムステッドで時間を過ごし、効果的に活動しているのだという以上には、彼が何をしているのかまったくわからなかった。しかしとうとう、ある荒れ模様の晩、風がひゅうひゅう音をたて窓をがたがたと鳴らしているとき、彼は最後の遠征から帰宅すると、変装をおとし暖炉の前に坐って例の静かな低い声で心から笑った。
「ワトスン君、君は僕が結婚を希望しているなどとは思わないだろうね?」
「もちろんだとも」
「僕が婚約したと言ったら興味があるだろうね」
「おいおい、そいつはお祝いを……」
「それがミルヴァートンのところの女中とさ」
「ええっ、ほんとうかい?」
「うん。情報がほしかったのさ、ワトスン君」
「じゃ、少しいきすぎだったんだね?」
「どうしても必要な段階だったのさ。僕は景気のいい鉛管工で、エスコットという名前なんだ。彼女と毎晩出歩いておしゃべりをしたのさ。たいへんなもんさ、あの話ときたら! しかし聞きたいことは全部手に入れたよ。今じゃミルヴァートンの家はたなごころをさすように承知してるよ」
「しかしホームズ君、その女の子は?」
彼は肩をすくめた。
「どうにもならんよ、ワトスン君。こんな一六(いちろく)勝負に手を出せば、切り札は最も有効に使わなきゃならんさ。だがね、嬉しいことには僕には恋敵(こいがたき)がいてね。そいつ、嫌われているんだが、間違いなく僕が手をひいたら、すぐに僕をおしのけてしまうさ。なんていい晩だろう!」
「こんな天気が好きなのかい?」
「僕の目的にふさわしいんだよ。ワトスン君、僕は今夜ミルヴァートンの家に押し入るつもりなんだ」
私は息を呑みこんだ。その言葉を聞いて全身総毛(そうけ)だってしまった。彼はそれをぎりぎりの決心といった調子でゆっくりと口にしたのだった。夜の稲妻(いなづま)のひらめきが、一瞬にして広漠たる光景の隈々(くまぐま)を浮かび上がらせるように、一見して私には、そんな行為から起こるだろう結果が、つまり名誉ある経歴がとりかえしのつかぬ失敗と不名誉で終止符をうたれ、ほかならぬ私の友が、あの憎むべきミルヴァートンの慈悲を乞わねばならなくなる……といった結果が、いちいち見えるように思われた。
「頼むからホームズ君。君のやろうとしてることを考え直してほしいね」
「ねえ君、僕はじゅうぶん検討したよ。この行動は決して無鉄砲じゃないんだ。それにね。ほかに何でも可能な手段があれば、僕だってこんなにも危険なたいへんな方法はとりゃしないよ。事柄を明確に正しく見ようじゃないか。君はこの行動が形式上では犯罪となるが道徳的には正しいと認めるだろう。彼の家に押し入るのは、是(ぜ)が非でもあの手紙を奪ってしまうことだけなんだよ。それには君だって僕に手を貸そうとしたじゃないか」
私はあれこれ考えたが、「うん、それはそうだ」と答えてしまった。「われわれのねらっているものが、不正な目的に使われるもののみに限られているからには道徳的には正しいんだ」
「まったくそうなんだ。道徳的に正しい限り、僕は身の危険という問題を考えさえすればいいわけだ。だが紳士なら誰でも、婦人が必死に援助を必要としているとき、身の危険などはあまり重きをおくべきじゃないね」
「君は心にもない立場におかれるんだぜ」
「うん、それも危険の中に入るのさ。あの手紙を手に入れるには他に手のほどこしようがないんだ。不幸な婦人は金を持っていない。それに彼女の周囲には信頼できる人間はひとりもいないのだ。明日で猶予(ゆうよ)期間はきれる。今晩手紙を手に入れてしまわなければ、あの悪者は言葉どおり彼女を破滅させるだろう。だから僕は依頼者を運命の手にゆだねるか、この最後の切り札を使うかしなけゃならないのさ。ここだけの話だがね、ワトスン君、こいつはミルヴァートンと僕の決闘なのだ。ご覧の通り、最初の試合じゃ、あいつが絶対勝っていたが、しかしね、僕は自尊心や名誉にかけて最後までたたかうよ」
「うん、僕はそういうことは好かないが、そうに違いあるまいね。で、いつ出かけようか」
「君は来ないほうがいいよ」
「それじゃ君も行くなよ。僕は面目にかけて約束する。……僕は今まで約束を破ったことはなかったね。……もしこの冒険に連れてってくれなければ、まっすぐに警察へ車を走らせて、訴えるよ」
「手助けにならないのだ」
「どうしてそんなことがわかるんだい? 何が起こるか君だってわからないじゃないか。どの道、僕は決めたよ。君以外の人間だって自尊心もあり、名声だってあるのさ」
ホームズは困っている様子だったが、すぐに顔を晴れやかにして、私の肩をぽんとたたいた。
「わかった、わかった。ねえおい、そうしようじゃないか。われわれは何年間か同室だったんだし、とどのつまりが同じ獄房だったなんてのも面白いだろうよ。ワトスン君、知っての通り、君になら、ぶちまけても一向かまわないんだが、僕はいつも、すばらしく有能な犯罪者になれたろうと思ってるよ。だから今度はそっちの方面で、生涯のチャンスなんだよ。見たまえ!」
彼は引き出オから小さくこぎれいな革製の箱を取り出してあけると、たくさんのぎらぎら光る器具を取り出してみせた。
「これは当世第一級の強盗用かばんなんだ。ニッケルメッキの鉄(かな)てこ、先にダイヤのついたガラス切り、万能鍵や、文明の進歩に応じて必要となった現代的な道具は何でもあるんだ。ここには龕燈(がんどう)があるよ。みんなそろってる。君は音のたたない靴をもってるかい?」
「ゴム底のテニス靴がある」
「そいつはいい。それからマスクは?」
「黒絹で二人分はつくれるさ」
「君はこういうことには、生まれつき非常にすぐれた才能があるんだね。そいつはいい。マスクをつくってくれるかい? 出かける前に、夜食に何か冷たいものをとろう。今九時半だが、十一時にチャーチ・ローまで車で行こう。そこからアップルドー・タワーズまでは歩いて十五分ほどだ。真夜中までには仕事にかかれるだろう。ミルヴァートンはぐっすり眠るたちだし、十時半には間違いなく寝室にひきとるんだ。うまくゆけば二時半までにはイーヴァ嬢の手紙を持ってもどってこられるだろうよ」
ホームズと私は劇場帰りの二人づれに見えるように外出着を着こんだ。オックスフォード街で二輪馬車をひろうと、ハムステッドの適当な番地を言って走らせた。そこで馬車をすてたが、ひどく寒く、風が身体をふき通してゆくように思われたので、厚地の外套のボタンを首まであげると、荒地のへりにそって歩いた。
「こいつは慎重にしなくちゃならん仕事なんだ」とホームズは言った。「例の手紙はあいつの書斎の金庫にしまいこまれている。書斎は彼の寝室のまむかいなんだ。ところでぜいたくな暮らしをしている小柄で頑丈な男どもによくあるように、あいつも睡眠過多のほうなんだ。アガサ……これが僕のいわゆる許嫁(いいなずけ)なんだがね……彼女が言ってる。使用人部屋の冗談に、寝ている主人は絶対におこせないってのがあるそうだ。あいつにはあいつの利益のことにかかりっきりの秘書がいてね。日がな一日、絶対に書斎から身動きしないんだ。われわれが夜行くのは、そんなわけからだ。それから獰猛(どうもう)な犬を飼っているよ。そいつが庭をうろついてる。僕はこのふた晩、夜遅くアガサに会ったんだが、彼女は僕が自由に出入りできるように、その畜生をとじこめといてくれるんだよ。これがやつの家だ。一戸建のでかい家だ。門を入ったら、右のほうの月桂樹(げっけいじゅ)の間に入ろう。ここらで覆面(ふくめん)したほうがいいね。そら、どの窓からも全然あかりはもれていない。なにもかもうまくいってるよ」
黒絹で顔をおおうと、ふたりはロンドンじゅうでもっとも獰猛(どうもう)な人間に身を変えて、ことりとも音のしない暗い家に忍びよった。家の一方にタイル張りのヴェランダらしいものがあり、その向こうにいくつかの窓とドアがふたつ並んでいた。
「あれが彼の寝室なんだよ」とホームズがささやいた。「このドアをあけるとまっすぐに書斎に通じてるんだ。それが一番おあつらえむきなんだが、がっちり掛け金がおろしてあるし鍵もかけてある。ここから入りこむにはでかい音をたてなくちゃならない。こっちに来たまえ。温室がわが客間に通じてるんだ」
そこは鍵がかけてあったが、ホームズはガラスを円く切りぬくと内側からはずしてしまい、すぐその後でドアをしめてしまった。で、われわれはここに法的見地からすれば重罪犯人になってしまったのである。
温室の重苦しい暖かい空気と異国の植物の豊潤(ほうじゅん)なむせかえるような芳香(ほうこう)が、われわれの喉を刺激した。彼は暗がりで私の手をとるとすばやく導いて、ひと群れの潅木(かんぼく)を通り越したが、枝がわれわれの顔にふれた。
ホームズは暗闇で物が見えるという、充分に鍛練された驚くべき能力をもっていた。彼は片手で私の手をつかんだままドアをあけた。すると私にも、おぼろげながらも大きな部屋に入りこんだこと、この部屋はつい先ほどまで誰かが葉巻を吸っていたということがわかった。彼は家具類の中を手さぐりで進み、もうひとつのドアをあけて、通りぬけ、また閉めてしまった。片手をつき出すと壁にかかっている数着の衣服に触れたので、廊下にいることが分った。廊下を進んで行くと、右手にドアがあった。ホームズはそろそろとそれをあけた。そのとたん、われわれめがけて何かがぱっととびだして来た。私はぎくりとしたが、猫だとわかると思わず笑いだしそうになった。
今度の部屋には暖炉が燃えており、やはり煙草の煙で空気は重苦しかった。ホームズは爪先立って入って行き、私が続くのを待って、静かにドアをしめた。そこはミルヴァートンの書斎で、反対側のドアが彼の寝室の入口になっているのだった。暖炉の火はかなり強く、それで部屋は明るくなっていた。だからドアの近くで、電気のスイッチがちらりと光っていたが、たとえ安全だとしても、電気をつける必要はなかった。暖炉の片側に分厚いカーテンがかかっており、それがわれわれが外から見た出窓のおおいになっているらしかった。反対側にはドアがついていて、それがヴェランダと通じていた。部屋の真ん中には、デスクがあり、光沢のある赤革張りの回転椅子が置かれていた。その真正面には大きな書棚があり、その上にアテネの大理石胸像が置かれていた。書棚の横の一隅に背の高い緑色の金庫が置かれ、正面についている磨きのかかった真鍮(しんちゅう)の把手(とって)から暖炉の光が反射していた。
ホームズは足音を忍ばせて部屋をよこぎり、金庫をじっと見ていたが、やがて寝室のドアに忍びより、首をかしげて熱心に聞き耳をたてた。室内からは何の物音もなかった。その間、私は外側のヴェランダへ通ずるドアから安全に逃げられるようにしておくことが賢明だと思いついたので、そのドアを調べてみた。驚いたことには、鍵もかけていなければ掛け金もおろしていなかった。ホームズの腕に触れると、彼は覆面した顔をその方向に向けた。私は彼がはっとなったのを見た。明らかに彼も私同様驚いたのである。
「うまくないぞ」彼は私の耳にぴったり口をよせてささやいた。「よくわからないが、いずれにせよ一刻も猶予はならないよ」
「何か手伝おうか」
「うん、ドアの所に立っててくれ。だれか来るのが聞こえたら、内鍵をおろしてくれ。そうすりゃ、またきのうのように逃げられる。べつのほうから来るとしたら仕事が終ってれば、そのドアから逃げられる。仕事が終ってなくても、カーテンの後ろには隠れられるよ。わかったかい」
私はうなずいてドアのそばに立った。最初感じた恐れは消えさり、今は、私が法律への挑戦者ではなく守護者であったときよりも、はるかに強い喜びに身をふるわせていた。われわれの任務の高い目的や、それが利己的でなく騎土道から生まれたものであるという意識や、わが敵の悪に満ちた人柄とかが、この冒険のスポーツ的興味をひとしお湧(わ)かしていた。罪悪感などさらさらなく、私はこの危険を楽しみ興奮していた。はげしい驚嘆の念をもって、私はホームズが複雑な手術をやっている外科医のような沈着な科学的正確さで、道具箱を開き道具を選んでいるのを見守っていた。
金庫をあけることが、ホームズには特別な道楽だということは知っていた。そして今その腹中に、多くの美しい婦人たちの名声を呑みこんでいるドラゴンのごとき緑と金色の怪物に立ち向かっているということが、彼にどれほど喜びを与えているかも私には理解できるのであった。
外套を椅子の上にのせ、礼服の袖口を折りかえすと、ホームズは錐(きり)を二本、鉄(かな)てこ一ちょう、合鍵をいくつか取り出した。私は真ん中のドアの所に立ち、まさかの用意に備えて両側をかわるがわる見守っていた。だが本当の話、もし邪魔が入ったらどうしたらよいかについては、何か漠然と考えていただけだった。三十分ほど、ホームズはひとつの道具をおくと次を取りあげ、熟練した機械工のような強靭(きょうじん)さと精密さで、ひとつひとつ扱いながら一心不乱に働いていたが、ついにカチッという音が聞こえると、大きな緑色の扉があけひろげられた。ざっと内部をのぞきこむと、おびただしい手紙の束がひとつひとつ紐でしばってたばねられ、封印されて、上書きされていた。ホームズはその一枚を取りあげたが、火がちらつくので読みとるのはむずかしかった。ミルヴァートンが隣室にいるので、電気をつけるのは危険きわまりなかったから、ホームズは小さな龕燈(がんどう)を取りだした。突然彼は手を休めると耳をすませ、即座に金庫の扉をしめると上衣をとりあげ、ポケットに道具をつっこんで私にも身ぶりでしらせながら、カーテンの背後にとびこんだ。私と彼とが一緒に隠れてから、彼の異常に鋭い感覚を驚かせた物音をようやく耳にしたのである。
どこかの室で物音がすると、遠くでドアがバタンとしまった。それからわけのわからぬ、にぶいつぶやきが聞こえ、それから規則的にどたばたという重い足音に変わって、すばやく近づいて来た。足音は、部屋の外の廊下だった。われわれのいる部屋の前で止り、ドアがあいた。鋭いカチッという音とともに電気がつき、ドアがしめられた。すると強い葉巻のひりひりするような煙がわれわれの鼻へ入りこんできた。続いてわれわれの数ヤード前方を足音は行きつ戻りつし続けた。それでも最後に椅子のきしる音がして足音ははたとやんだ。それからカチリと鍵がまわり、紙をさらさらめくる音が聞こえた。
そのときまで私はのぞいてみる勇気はなかったのだが、ここまで来ると目の前のカーテシの割れ目をそっとのけてのぞいてみた。するとホームズが肩をおしつけてきたので、彼ものぞこうとしているのがわかった。われわれの手がほとんど届きそうなほど近くに、大きな円いミルヴァートンの背中が見えた。われわれは明らかに彼の行動を誤算していたのである。たしかに彼は寝室などにいたのではなく、向こうの別棟にある喫煙室かビリヤード室にいたのである。その室の窓は外からは見えなかったのだ。ある箇所は禿(は)げて光っている彼のごましお頭が、われわれの真前に見えるのであった。
彼は赤革の椅子に深くもたれて両足を投げ出し、黒い葉巻を口から斜めに突き出していた。黒ビロードの襟(えり)のついた赤紫色の喫煙服を着こんでいたが、軍服のように見えた。手には長たらしい何か法律文書を持って、だらしない恰好で読んでいたが、読みながらも口からは煙草の煙を輪にして吐いていた。彼の落ちつきはらった態度や心地よさそうな様子から見ると、すぐ立って行く気配もなさそうだった。するとホームズの手が忍びより、大丈夫だよと私の手を握りしめた。それはちょうど、万事好調で安心してよいといっているようであった。ところが私の位置からは実によく見えること……つまり扉は完全にしめきってなく、ミルヴァートンがいつそれに気がつくかもしれないということを、ホームズが知っているかどうか、私は気がかりだった。心中私は、ミルヴァートンの目はこまかいから、間違いなくそれが目にとまるだろう。そしたらすぐに飛び出していって外套を頭にかぶせて羽交締(はがいじ)めにしてしまい、ホームズに逃げるすきをあたえようと決心していた。
だがミルヴァートンは少しも目をあげなかった。彼はぼんやりと手にした書類を見やり、弁護士の論告を追っていくように、次から次へとページをめくっていた。私は書類を読みおえ、葉巻をくゆらしてしまったら、部屋へひきとるだろうと思っていた。ところが、どちらも終らないうちに事態は急展開して、われわれの考えとはまるで違った方向に向かっていった。
私は何度かミルヴァートンが懐中時計を見て、いらいらした様子で立ち上がったり坐ったりするのを見た。しかし、こんな変な時刻に彼が面会の約束をしていようなどという考えは、ヴェランダからかすかな足音が聞こえてくるまで、さっぱり頭に浮かんではこなかった。ミルヴァートンは書類を持った手をさげると椅子に坐りなおした。足音が続いて聞こえてくると、やがて軽くドアをノックした。ミルヴァートンは立ち上がってドアをあけた。
「さて」と、彼はそっけなく言った。「三十分近くも遅れましたよ」
これこそドアに鍵が掛けられていず、ミルヴァートンが夜中まで起きていた理由だったのだ。さらさらという女の衣(きぬ)ずれが聞こえた。ミルヴァートンの顔がこっちを向いていたので、カーテンの割れ目をとじていたが、今度は充分気をつかい、もういちど思いきってあけてみた。彼はまだ横柄(おうへい)な様子でくわえた葉巻を口からつきだし、またぞろ椅子に腰かけていた。彼の前には電光を全身にあびて、マントを首まできっちり着て、ヴェールで顔をおおった背の高い、すらりとした黒髪の女性が立っていた。彼女の息づかいは次第に激しくなり、華奢(きゃしゃ)な身体が激情にふるえていた。
「そうですよ。あなたは私の夜の憩(いこい)を台なしにしてしまったんですよ。何かそれだけのことはして下さるんでしょうな。ほかのときに来られなかったのですかねえ」
女は首を振った。
「そうですか。できなきゃしょうがないな。公爵夫人がひどい主人なら、今こそ同じだけお返しのできるチャンスなんですよ、おやおや! どうしてふるえてるんですか? それでいいのです。しっかりしなさい。さて、それじゃあ仕事にとりかかりましょうか」
彼は机の引き出しから一枚の手紙を取りだした。
「アルバート公爵夫人を窮地(きゅうち)に陥(おとしい)れるような手紙を四通もっていらっしゃるという話ですが、あなたは売りたいし、私は買いたい。そこまではそれでいいんだが、あとは値段を決めるだけだ、もちろん私は手紙を調べてみたい。もしほんとにそいつがよいものだったら、……おや? あなたでしたか」
女はひと言も口をきかずヴェールをあげ、マントを顎(あご)から下げていた。ミルヴァートンの前に向かいあっているのは、浅黒い、美しい、整った顔だった。そった鼻に、眉は強く黒く、目はきびしくきらきらと輝き、真一文字に結んだ唇の薄い口にあやしい微笑を浮かべていた。
「そうです、私です。……その生涯をあなたに破滅させられた女です」
ミルヴァートンは大声で笑ったが、恐怖に声はふるえていた。「あなたは頑固(がんこ)すぎましたよ。どうして私にあんな極端なことをさせたんですかね? ほんとうに私は、自分では蝿(はえ)だって傷つけることもしないんですよ。しかし誰にでも自分の仕事があります。ですから、私がどうすればよかったというんですか。じゅうぶんあなたの払える範囲の値段にしときましたがね。あなたがお払いにならなかったんですよ」
「それであなたは夫に手紙を送りつけましたのね。この世に生存したことのある人間で、もっとも高貴な紳士であるあの夫、私がその靴の紐を結ぶ価値もないほど立派な夫は、気高い心を傷つけられて死んでしまいました。私があのドアを通ってここに来た最後の夜のことは覚えていらっしゃるでしょう。私はあなたに慈悲を乞(こ)いました。ところがあなたは鼻先であざ笑いました。あなたは今も、あのときのように笑おうとなさっています。でもあなたの臆病な心は、唇がふるえるのをとどめることができないではありませんか。そうです、あなたはここでふたたび私に会おうなどとは夢にも思わなかった。でもあの晩、私はどうしたらあなたにただひとり、面と向かえるのかを知ったのです。さあ、チャールズ・ミルヴァートン、何か言うことがおありですか」
「私をおどせるなどと考えなさるな」と、彼は立ち上がりながら言った。「私が声をあげさえすれば、召使いたちがとんで来て、あなたをつかまえることもできるのですからな。だがあなたの怒りも、もっともだ。来たときのように即刻ここを立ち去りなさい。そうすれば、私も言うことはない」
「私を破滅させたようなことをこれ以上させるもんですか、人の心を傷つけることも私だけでたくさんです。私は害毒をこの世から除いてあげるのです。お受け! この犬め! それ! それ! それ! それ!」
彼女はぎらりと光る小さなピストルを取り出していた。銃口を彼の胸元からわずか二フィートとは離さず、次から次へと彼の身体にうちこんだ。彼は尻ごみしたが、次にテーブルの上にうつぶせにたおれ、ぜいぜい息をきらしながら苦しさのあまり、散らばった書類の間をのたうちまわった。だがよろめき立つと、もう一弾をうけて、床にどっと転げおちた。
「やったな!」と叫んでそのまま動かなくなってしまった。女はじっと彼をみつめ、仰向きになったその顔を踵(かかと)で踏みにじった。もういちど彼を見たが、何の音も聞こえず、ことりとも動かなかった。はげしい衣ずれの音が聞こえ、あつい部屋に夜の空気が吹きこんでくると、復讐者は立ち去って行った。
止めだてしても、われわれはこの男を悲運から救うことはできなかったが、女がミルヴァートンのたじたじとなった身体に次々と弾をうちこんだとき、私はとっさにとびだそうとした。するとホームズが私の手首を冷たくしっかりとつかんでしまった。私はそのきつく、おしとどめるような彼の手の言おうとしていることがよくわかった。つまりそれは、われわれには関係ないことであり、正義が悪をやっつけたのである。われわれには見失ってはならぬ義務と目的があるということだったのだ。
しかし女が部屋から出て行くや否や、ホームズはすばやく足音を忍んで、ドアに鍵をおろしてしまった。ちょうどそのとき屋内には人声が聞こえだし、急いで来る足音が響きだした。ピストルの音が家人を起こしてしまったのだ。ホームズは落ち着きはらって金庫にすりよると手紙の束を両手一杯かかえて火中に投げこんだ。金庫が空になってしまうまで次々に投げこみ続けた。だれかが把手をまわしてドアの外側をたたいた。ホームズはすばやくあたりを見まわした。ミルヴァートンに死をもたらした手紙も、彼の血を点々と染めてテーブルの上にあった。ホームズはそれも火の中に投げこんだ。外側のドアの鍵をとって私を追いかけるように外に出ると、外から鍵をかけてしまった。
「こっちだ、ワトスン君。こっちからは塀によじのぼれるよ」
私にはこんなにも早く警報がひろがるとは信じられなかった。ふりかえると巨大な家全体がこうこうとあかりをともし、正面の扉は押しあけられ、人々が車道を門のほうへかけていく。庭じゅうは人で活気づいていた。われわれがヴェランダから出て懸命に逃げだしたとき、ひとりの男が「いたッ!」という叫び声をあげて、後ろから懸命に追っかけて来た。ホームズは地理を熟知しているらしかった。彼はすばやく潅木の植込みをぬって走った。私も彼にぴったりとくっついて走った。いちばん速い追跡者が後ろからあえぎながらついて来た。六フィートの塀がわれわれの行手をはばんでいたが、彼はてっぺんに飛び上がって越えてしまった。私が飛び上がったとき、誰かが私のくるぶしをつかんだが、私はけとばしてふりほどき、泥棒よけのガラスのはめこんであるてっぺんによじのぼり、飛び下りるとやぶに顔をつっこんでしまったが、ホームズがすぐに立たせてくれた。われわれふたりは広大なハムステッドの荒地をよこぎって逃げた。
二マイルも走りつづけたかと思う頃、ついにホームズは立ち止って、じっと聞き耳をたてたが、後はしんとして何の物音もしなかった。われわれは追跡者を振り切って無事に逃げおおせたのであった。

私がお知らせしためざましい経験の翌日、われわれは朝食を済ますと煙草をふかしていた。そこへロンドン警視庁の刑事レストレイド氏がひどくもったいぶった顔で、質素なわれわれの居間に入って来た。
「お早うございます、ホームズさん。今とってもお忙しいでしょうか?」
「いや、それほど忙しいわけじゃないから、どうぞ」
「もし何か特別なものを手がけていらっしゃるのでなければ、ひどく立派な事件があるんですが、ご協力願えませんか。そいつがまた昨晩ハムステッドでもちあがったばかりなんでしてね」
「ほう! 何ですか」
「殺人です。それがまったく劇的な立派な殺人事件でしてね。あなたがこうした事にはとても熱心だと知っているものですから、アップルドー・タワーズまでご足労ねがって、いろいろ忠告を与えて下されば幸せと存じますが。ちょっと変わった犯罪でしてね。われわれも殺されたミルヴァートン氏には何度か目をつけていましたがね。これは内輪話ですが、ちょっとした悪党なんですよ、いつも脅喝(きょうかつ)に使う書類を持っているので音にも聞こえていました。そうした書類は全部犯人に焼かれてしまったんです。価値のあるものは何も盗られていません。というわけで、たぶん犯人は上流階級の人間でしょう。その目的は社会的暴露をふせごうとしただけだったのでしょうね」
「犯人どもというと、じゃ二人いたんだね」
「そうです。二人だったのです。二人とも、もう少しで現場でつかまるところだったのです。彼らの足跡も人相もわかっています。十中八、九は捜索できると思います。最初の奴は少し元気がよすぎましたが、次の奴は庭師の手伝人がつかまえたんですが、もがいたあげくやっとこさ逃げて行きました。そいつは中背でがっしりした男です。顎が角ばり、首がふとく口髭をはやして覆面をしていました」
「ちょっとよくわからないですね。ああ、ちょうどワトスン君の人相のようなんでしょうね、そいつは」とホームズが言った。
「まったくそうですね」と警部はひどく面白がって言った。「ワトスンさんの人相によく似ていますね」
「そうかねえ。しかしお手伝いはどうもできかねますよ。レストレイドさん」とホームズが言った。「それはね、僕はこのミルヴァートンて奴を知っているし、ロンドンじゅうでいちばん危険な奴だと思っていた。それにね、法律が介入できない種類の犯罪もあるんじゃないだろうか。ある程度は私的な復讐も正しいのだと思いますね。いや、議論してもしょうがない。僕はきめたよ。被害者に同情するより加害者に同情しますよ。だから今度の事件には手を出しませんよ」

ホームズはわれわれの目撃した悲劇については、ひと言も話をしなかった。だが私は午前中ずっと、彼がとても考えこんでしまっているのを見ていたし、彼の目はぼんやりとして気もそぞろな様子から、何かを思いだそうとしているのだという印象をうけた。彼は昼食をとっている最中に、突然はっと立ち上がった。
「おい、ワトスン君。わかったよ! わかったよ!さあ帽子を持って一緒に来たまえ」
彼はできる限りせかせかとベイカー街を出て、オックスフォード街を通りぬけ、リージェント・サーカスのすぐ近くまで歩いて行った。左手に当時の有名人や美人の写真を飾ったウィンドウがあった。ホームズの目は、その中のひとつにじっとそそがれていた。彼の視線を追っていくと、宮廷服を着た、れっきとした美人が目にとまった。高貴な頭には高価なダイヤモンドの飾りをつけていた。私はすんなりと反(そ)った鼻や、目にたつ眉毛や、一文字に結んだ口や、その下の強い小さな顎などを見た。すると私は、あっとかたずをのんだ。偉大な貴族であり政治家でもあった人物の立派な称号を読み、彼女がその男の妻であったことを知ったからであった。私はホームズと顔を見合わせたが、彼は指を口にあててみせた。そのまま私たちはそのウィンドウから立ち去った。
六個のナポレオン

ロンドン警視庁のレストレイド氏が、夜分にわれわれをたずねて来ることはさほど珍しいことではなかった。それにホームズは彼の訪問を歓迎していた。というのはそれによって、彼は警察主脳部で続けられていることをすべて知っていられるからである。レストレイドが持ってくるニュースの返礼に、彼が手をつけている事件には、どんなものにも、ホームズはくわしく注意ぶかく耳を傾けようとしていたし、ときには、彼は実際に関係しなくても、広い知識や経験から引き出した暗示とか助言をすることもできたのである。
その晩に限って、レストレイドは天気や新聞のことを話題にし、それから黙りこんで物思いに葉巻をふかしていた。ホームズはじっと彼を見つめていたが、
「何か異様な事件をひかえていますね」
「ああ。いやいや、さほど格別なことでもありません」
「じゃ、すっかり話して下さいよ」
レストレイドは笑った。
「ええ、ホームズさん、気にかかってることがあるのは隠してもしょうがありません。しかし、まったく馬鹿らしいことなんでしてね。あなたを煩(わずら)わしてもと、ためらっていたんですよ。ところが一方ではつまらぬことですが、まあ確かに奇妙ではあるんです。それにあなたは異常なことなら、なんでもお好きだということを知っているものですからね。私の意見では、こいつはわれわれよりもむしろワトスン博士の領分に属することなんです」
「病気ですか?」
「どのみち気ちがいですよ、それがまたおかしな気ちがいでしてね。ナポレオン一世を異常に憎んでいて、彼の像なら目にとまればこわしてしまうといった人間が、今日(こんにち)いるなんてことは、ちょっと考えられないでしょう」
ホームズは椅子にどっかり背を沈めた。
「それは僕には用がないようだな」
「たしかにそうなんです。そう申し上げましたが。ところがその男が自分の持ち物でない像をこわすために押し込みをはたらいたとしたら、事件は医者の手をはなれて、警察に移ってきますよ」
ホームズはまた身を起こした。
「押し込みだって! それは面白くなった。もっとくわしく話して聞かせたまえ」
レストレイドは警察手帳を取り出すとページを繰りながら記憶を確かめた。
「最初の事件の報告は四日前でした。場所はケニントン通りで絵画や彫像を売っているモース・ハドスンの店でした。店員がちょっと店先を離れていると、すぐにガシャンという音が聞こえたので大急ぎで引っ返してみると、ほかのいくつかの美術品と一緒に並べておいた、石膏(せっこう)作りのナポレオンの胸像が粉微塵(こなみじん)に打ち砕かれているのを発見しました。彼は通りにとび出しましたところ、数人の通行人が、ひとりの男が店からかけだして行くのを見たと言ったにもかかわらず、誰の姿も見えず、ましてやその悪漢が誰かなど、知る手段がわかろうはずもありませんでした。それは時々よくある町の不良の心ない仕業(しわざ)と思われました。
で、パトロール中の警官には、そのように報告されました。こわされた石膏像は数シリングの値打ちしかありませんし、事件全体は何か特別に調査するには余りに子供っぽく思われました。ところが第二の事件は、もっと重大でもあり奇妙でもあったのです。昨夜起こったばかりなんですが。
モース・ハドスンの店から数百ヤードと離れていない、やはりケニントン通りに、バーニコット博士という有名な開業医があります。彼はテムズ河の南岸ではもっとも手広く開業しているのです。彼の住居と第一診察室はケニントン通りにあるのですが、分室の診察室と薬局は二マイル離れたロウア・ブリクストン通りにあります。この、バーニコット博士がナポレオンの気ちがいじみた崇拝者でして、彼の家は、このフランス皇帝に関する書物や絵画や遺品でいっぱいです。ちょっと前に彼はモース・ハドスンの店からフランスの彫刻家ドビーヌ作の有名なナポレオンの胸像を複製した石膏像をふたつ買い込みました。ひとつをケニントン通りにある家の玄関におき、もうひとつはロウア・ブリクストンの分室の暖炉の上におきました。
さて、バーニコット博士が今朝、階下におりて来ると、昨夜家に押し込みが入ったことを知って仰天(ぎょうてん)しました。ところが玄関の石膏以外には何ひとつとられていないのです。石膏像は持ち出されて乱暴に庭塀に叩きつけられていました。塀の下にばらばらになった破片がみつかりました」
ホームズは手をもみあわせながら、
「こいつはたしかに普通じゃないな」と言った。
「多分あなたは興味をお持ちになるだろうと思いましたが、話はまだあるのです。バーニコット時士は十二時に分室へ行くことになっていました。彼がそこへ行ったところが、窓は夜中に押し開かれ、もうひとつの胸像がこなごなに砕かれて部屋じゅうに散らばっているのを見たときの彼の驚きは、想像にあまりあるものです。それはその場で微塵(みじん)になっていました。しかし両方とも、犯人については何も手がかりになるものはありません。ホームズさん、こんなところが事件の全貌です」
「怪奇とは言えないまでも、おかしな事件ではありますね」とホームズは答えた。「バーニコット博士の部屋で割られた胸像はふたつとも、モース・ハドスンの店でこわされたのとまったく同じ複製品なんですか」
「そうなんです、同じ型でつくったんです」
「その犯人がナポレオンに対して憎悪をもっているのだという説は、この事実からもぐらつきますね。ロンドンには、この偉大な皇帝の胸像は幾百となくあることを考えると、たくさんありすぎるのだから、いくらなんでも、むちゃくちゃな偶像破壊者が、はからずも同じ型の胸像を三つこわすことから始めたなんて、そんな偶然の一致を想像することはちょっとできませんね」
「そうです。私も同感なのです」と、レストレイドは言った。「ところが一方、モース・ハドスンはロンドンのあの区域では一軒だけの大きな胸像販売店だし、ここ数年間で、店で売れたのはあの三つだけなのです。ですから、あなたのおっしゃったように、ロンドンには何百となく胸像はありますが、あの区域では多分この三つだけだったのでしょう。そんなわけで、この地域の居住者である偏執狂は、この三つをまず手がけたのではないでしょうか。ワトスン博士はどうお考えになります?」
「偏執狂の行動の可能性には限界がありませんからね」と私は答えた。「近代フランスの心理学者が《固定観念》と称している心理状態があるのです。それは性格においてはごく微々たるものであり、他の方面ではまったく健全なのですがね。ナポレオンの本を読みすぎたりナポレオン戦争で家族が何か危害を受け、それが遺伝的に受けつがれているような男なら、こんな固定観念を持ち、その影響で何か空想的な乱暴狼籍(ろうぜき)を働くことも考えられるかもしれませんね」
「それは説明にならないよ、ワトスン君」とホームズは首を横にふった。「なぜならね、いくら固定観念を積み重ねたって、君の言うこの興味ある偏執狂氏が、胸像のありかを知るようにはならないからね」
「では、君ならどう説明するんだい?」
「僕は説明しようとは思わない。僕はこの男のおかしな行為にはある種の法則があるってことを調べてみたいだけさ。たとえばね、バーニコット博士の玄関では、そこでこわしたら、物音で家人が起きてしまうから、こわす前に外に運びだしている。ところが分室では人に騒がれる危険がさほどないから、その場で叩きつけている。これは馬鹿げたつまらぬことに見えるけれどもね。だが僕の手がけた事件でもっとも代表的なもののいくつかは、ほとんどその初めでは何も有望な手がかりがなかったことを思いおこすと、僕はどんなものでもつまらんとは言わないんだよ。
ワトスン君、覚えているだろう。あの恐ろしいアバネッティ家の事件は、暑い日にバターにはまりこんだパセリの深さに気づいたのが始まりだったってことをね。だからね、このこわされた二つの胸像にも、君と一緒に笑ってはいられないんだよ。レストレイド君、この一連のおかしな事件に何か新しい進展がみられたら、どうか聞かせて下さいよ」
私の友人が求めていた事件の進展は、彼の予想以上に早く、まったく悲劇的な形で起こった。翌朝私がまだ寝室で服をつけている最中に、ドアをノックして、ホームズが手に電報を持って入って来た。彼は声を出してそれを読んだ。

ケンジントン区ピット街一三一ヘスグキタレ
……レストレイド

「なんだろうね」と私は尋ねた。
「わからないが……何かあったのだろう、胸像事件の続きだと思うよ。そうだとすれば偶像破壊者君はロンドンの他の地域でも行動を開始したんだ。テーブルの上にコーヒーがあるよ、ワトスン君。入口には馬車が来てるし」
三十分でわれわれはピット街に着いたが、そこはロンドン生活という流れの中で、最も活発なところのすぐそばにある、小さな静かな淀(よど)みといったような所であった。一三一番地は、平屋の見かけはいいが、まことに無風流な家並の一軒であった。われわれが馬車で乗りつけると、家の前垣には物見高いやじうまが、ずらりと並んでいるのが見えた。ホームズは口笛を鳴らして驚きを示した。
「おやおや! 少くとも、これは殺人未遂ぐらいだぜ。それほどでなかったらロンドンのメッセンジャー・ボーイが立ち止ったりするもんか。あの男が背をまるめているし、首をのばしているんだから、暴行事件があったことはたしかさ。おやワトスン君、これは何だろう? いちばん上の段は水に洗い流されているが、あとのところは乾いてるよ。どっちみち足跡はたくさんある! よしよし、レストレイド君が正面の窓の所にいるよ。すぐにすっかりわかるさ」
レストレイドは非常にむずかしい顔付きをしてわれわれを迎え、客間に招じ入れた。そこにはひどくだらしない恰好をして、興奮したかなり年配の男が、フランネルの化粧着を着て、あちこち歩きまわっていた。彼はこの家の主人で、中央同盟通信社のホレス・ハーカー氏だと紹介された。
「またナポレオン事件なんですよ」と、レストレイドは言った。「ホームズさん、あなたは昨夜たいへん興味をおもちになった様子なので、事件が重大な変化をとげた今、現場にお招きしたほうがよいと思ったんです」
「で、どんなふうに変わったのですか」
「殺人にですよ。ハーカーさん、この方たちに起こった事をありのままお話し下さいませんか」
化粧着をつけた男は、まったく憂鬱そうな顔をしてわれわれのほうを向いた。
「生まれてこのかた、私はずっと他人のニュースを集めてきました。ところが今度は実際のニュースが、面くらって二の句がつげないようなやり方で、わが身に起こるなんて、まったくおかしなこってす。もし私が新聞記者としてここにやって来たら、私は自分に面会して、夕刊紙に二段抜きで書いたでしょうよ。ところが実際には何人もの違った人に、くりかえし同じ話をしなくちゃならないので、貴重なタネが人手に渡っちまって、自分じゃ役に立たなくなってしまいますよ。だが、ホームズさん、あなたのお名前はうかがっておりました。だからもしあなたが、このおかしな事件を説明して下さりさえすれば、私が事件を話す煩わしさも報いられるというものです」
ホームズは腰を下ろして聞き入った。
「それは、私がこの部屋に飾ろうと、およそ四か月前に買ってきた、あのナポレオン像が中心になると思われます。ハイ・ストリート駅から二軒目のハーディング兄弟商会から安く買ってきたものです。新聞記者としての仕事はだいたい夜やるのですが、早朝までやっていることもちょいちょいあり、今日もそうなのでした。およそ二時頃でしたか、最上階の裏向きにある私の部屋で起きていると、たしか階下で何か物音がしたと思いました。耳をすましてみましたが、もう何も聞こえませんでした。ですから私はこの音は外でしたのだと思いました。ところが五分ほどたつと突然、まったく身の毛のよだつような絶叫が聞こえました。ホームズさん、それは今まで聞いた中でも、最も恐ろしい叫びでした。そいつは生きている限り私の耳でなり続けるでしょうよ。
私は一、二分間、恐怖に釘づけになっていました。それから火かき棒をとると階下に降りて行きました。私がこの部屋に入ると窓があけひろげられているのがわかり、暖炉から胸像が消え失せているのがすぐにわかりました。いったいどんな強盗が、なんのわけで、そんなものを持ち出すんだろうか、わかりません。と申しますのは、そいつはただの石膏像で実際にはちっとも価値なんかないのですからね。その窓をのり越えて出れば、誰でも大股にひとまたぎすると玄関の階段に行きつけます。たしかに強盗もそうしたのです、ですから私はまわってドアをあけました。暗闇に足を踏みだすとすぐに、私はそこに横たわっていた死人の上にあぶなく倒れるところでした。私は走って行ってランプを持って来ました。そこには哀れな男が倒れており、喉笛(のどぶえ)は深くかき切られ、あたりは血の海でした。男は膝を立て、恐ろしげに口をあけたまま、あおむけになっていました。たぶん夢に見ますよ。私はやっとのことで呼子笛を吹くと気が遠くなってしまったに違いありません。廊下で警官が私をのぞきこんで立っているのに気づくまで何もわかりませんでしたから」
「うーむ、で、殺された男は誰ですか?」とホームズは言った。
「誰だか身元のわかる物がなにもないんですよ」レストレイドが答えた。「死体は収容所に置いてありますからご覧になれますよ。しかし、今までのところ、何もわかっていません。背の高い日に焼けた、とても強そうな男ですが、三十を越してはいませんね。身なりはみすぼらしいんですが、労働者らしくありません。彼のそばの血だまりの中に角柄の折り込みナイフがありました。それが殺人の凶器に使われたのか、死人のものだったのかは、わかりません。上衣には名前はいれてありませんし、ポケットにはリンゴがひとつと糸が少々、ロンドンの一シリング地図、それから写真が一枚だけでした。これが写真です」
それは明らかに小さなカメラで早取りしたものだった。そこには敏捷(びんしょう)そうな、とがった顔をした猿のような男が写されていた。その男は眉が濃く、ヒヒの鼻面のように下半分が異常に突き出ていた。
「で、胸像はどうなりましたか」
この写真を注意ぶかく調べてからホームズが尋ねた。
「あなたのいらっしゃるちょっと前に知らせを受け取りました。カムデン・ハウス通りの空家の別庭でみつかったのです。ばらばらにこわされていました。それを見に行くつもりなんですが、いらっしゃいませんか」
「ええ、その前にちょっと、ひとわたりここを調べたいんです」
ホームズは絨毯(じゅうたん)や窓を調べた。「その男は足がとても長いか、敏捷な男かどちらかですね。地下の勝手口を越して窓枠に手をかけ窓をあけるなんて、並たいていの放れわざじゃありませんからね。引き返すことはさほどたいへんなことじゃありませんね。ハーカーさん、胸像の残骸を見にいらっしゃいますか」
憂鬱そうなその新聞記者は書き物テーブルに腰をおろした。
「私は何とか記事をものにしなければ。たしかにもう詳細を報道している夕刊の第一版は出てしまったでしょうがねえ。いつも運が悪いこった。ドンカスターでスタンドが落ちたことを覚えているでしょう? ええ、新聞記者でスタンドにいたのは私だけだったのですが、私の新聞にだけ記事がのらなかったんですよ。あまり私がびっくりしてしまって書けなかったもんですからね。それに今度は今度で、自分の家の戸口で起こった殺人も記事が遅すぎるんですからね」
われわれが部屋を出るとき、彼がフールスカップ紙にぎしぎしとペンを走らせる音が聞こえた。
胸像の破片が発見されたところは、数百ヤードしか離れていなかった。ここで初めて、われわれは未知の犯人の心にこれほど気ちがいじみた破壊的な憎悪を起こさせたと思われる、偉大なる皇帝の登場を目(ま)のあたりに見たわけである。それは草の上にばらばらの破片となってとび散っていた。ホームズはいくつか破片を拾いあげると、注意ぶかく調べた。彼のその熱心な顔つきと期するところありそうな様子から、とうとう何か手がかりをつかんだと私は思った。
「どうです?」と、レストレイドが尋ねた。
ホームズは肩をすくめた。
「道はほど遠いですね。それでもね、しかしね、それにもとづいて動かなくちゃならない暗示的事実はいくつかありますね。このつまらぬ胸像を所有することが、このおかしな犯人には人間の命より、もっと貴重に思えるんですね。これがひとつの事実です。それに、もしこわすだけが目的だとしたら、家の中でこわすか、家のすぐ外でこわすかしなかったってのは、おかしなことですしね」
「彼はもうひとりの男に会って泡(あわ)をくってうろたえていたんでしょう。自分が何をやってるんだか、ほとんど分らなかったのです」
「ええ、そのようにも思われますね。だが胸像をこわした庭のあるこの家の位置を、とくに注意して頂きたいのですよ」
レストレイドはあたりを見まわした。
「これは空家ですから、庭なら誰にもわずらわされないと知っていたのです」
「そうですね。しかし、彼がここへ来るとき通ったに相違ない空家が、もう一軒ずっと向こうにありますよ。どうしてそこでこわさなかったのでしょう? 胸像を持って歩く距離が長ければ長いほど、他人に会う危険は明らかに大きくなるわけですからね」
「お手あげです。わかりませんよ」と、レストレイドは言った。
ホームズは頭上の街燈を指さした。
「ここでなら彼は自分のやっていることが見えたのですよ。あすこじゃ見えませんからね。これがその理由ですよ」
「ありそうだ! それなんだ!」と、レストレイド探偵君は言った。「それで思いついた。そう言えばバーニコット氏の胸像は家の赤ランプのすぐ近くでこわされたんだ。さて、ホームズさん、この事実からわれわれはどうしたらいいでしょうね?」
「覚えておくこと、心に控えておくことですね。あとでそれと重大な関係を持つようなことに、出くわすかも知れませんからね。レストレイドさん、今度はどんな処置をとったらいいと思いますか」
「解決に近づくいちばん実際的な方法は、死人の身元を確かめることです。さほどたいへんなことじゃないでしょう。氏名がわかり、一味の者や何かがわかったら、その男が昨夜ピット街で何をしていたか、ホレス・ハーカー氏の戸口で彼に会い、彼を殺したのは誰なのか知るのに非常な便宜を得ることになるでしょう。そうじゃないですか」
「その通りですね。しかし私が核心に近づく方法は、またべつですね」
「では、どうなさるんです?」
「ああ、あなたはどんなことでも、私に動かされちゃいけません。あなたはあなたの方法でゆく、私は私で、ということにしようじゃありませんか。後でメモの比較もできますし、おたがいおぎなえますからね」
「たいへん結構です」と、レストレイドは言った。
「もしピット街にお帰りでしたら、ホレス・ハーカー氏にお会いになるでしょうが、僕からだと伝えて下さい。僕は完全に腹をきめた。ナポレオンについて妄想をもチた殺人狂が昨夜お宅に侵入したのだとね。彼の記事に役立つでしょうからね」
レストレイドは目を見張った。
「あなたは真面目に信じていらっしゃりはしないでしょうね」
「僕が? ええ、たぶん信じちゃいますまいね。だがたしかにそいつは、ホレス・ハーカー氏や中央同盟通信紙の読者の興味はひきますね。さあ、ワトスン君、われわれは今日、手間のかかるややこしい仕事をしなくちゃならないだろうぜ。レストレイドさん、今夜六時にベイカー街にいらしていただけたら、たいへん結構なんですがね。そのときまで死人のポケットから出てきた写真はお借りしたいと思います。もし僕の推理の鎖が正しいことがわかったら、たぶん今晩はちょっと遠出をしなくちゃならないんですが、あなたに同行してもらって手をかして頂かなくちゃならないかも知れませんよ。じゃ! それまで。さよなら、ご幸運を祈りますよ」
シャーロック・ホームズと私は、一緒にハイ・ストリートまで歩き、そこで彼はハーディング兄弟商会に足を停めた。問題の胸像はここで買われたのである。年若い店員が、ハーディング氏は、午後まで戻らないとわれわれに告げ、彼自身も新しく来たばかりなので、何もお話しできないと言った。
ホームズの顔には失望と困惑の表情が浮かんだ。しかし最後には、「いいんだ、いいんだ、ワトスン君。われわれの都合どおりに万事うまくいくなんて考えられないさ」と言った。「ハーディング氏が戻っていなくても午後にはまた来なくちゃならないよ。間違いなく君も察してはいるだろうが、胸像をその源までつきとめようとしているんだよ。それがなぜあんな異様な運命をたどるようになったのかを説明するような、特別なものがありはしないか知ろうと思ってね。さあ、ケンジントン通りのモース・ハドスン氏のところへ行って見ようじゃないか。そしてこの問題に光明を投げかけてくれるかどうかためしてみよう」
一時間ほど馬車を走らすと、われわれは絵画商の家に着いた。彼は小柄でがっしりした男であったが、赤ら顔で気は短かそうであった。
「ええ、そうですとも。まさしくこのカウンターの上でね」と彼は言った。「まったく、どんな悪漢にでも入って来られて、人の品物をたたっこわすことができるんだときた日には、何のために税金おさめてるんだかわかりませんよ。はあ? ええ、そうです、バーニコット博士に胸像を二つ売ったのはこのあたしですよ。まったく恥ずべきことですよ、こんなことは! あたしゃ、これは無政府主義者の陰謀だと思いますね。胸像をぶっこわして歩くなんて無政府主義者でなくて誰がやるもんですか。わたしゃ、連中のことを赤色共和主義者とよんでるんです。
あたしが誰から胸像を買ったかですって? それが事件と、どんな関係があるかわかりませんがね。でもあなた方が本当に知りたいんでしたら、しゃべりますがね、ゲルダー商会から買ったんですよ。ステップニーのチャーチ街にあるやつ。この商売じゃよく知られた店でしてね。ここ二十年もずっとやってますよ。いくつ買ったかって? 三つですよ。……二に一たせば三つさ。バーニコット博士に売った二つと、まっぴるまにこのカウンターでぶっこわされた一つと。その写真の男、知っているかって? いや、知りませんね。いやいや、知ってるかもしれないぞ。……なんだ、ベッポじゃないか。ベッポですよ。この男はイタリア人です。手間賃人夫みたいなもんでしたが、この店ではなかなか役に立ちましたよ。少しは彫刻もできたし、額縁の金塗りもできたし、ちょっとした仕事はやってのけました。先週、暇をとってゆきましたがね。それからは何の消息もありません。いいや、どこから来てどこへ行ったのか、私にはわかりません。ここにいる間、別に非難するようなこともなかったのですが、胸像がぶちこわされる前に暇をとって出て行きましたよ」
「さてと、われわれがモース・ハドスン氏から得られそうなものは、まあ、あれで全部だろうね」
店を出るとホームズは言った。「このベッポという男は、ケニントンとケンジントン双方に共通した要素であるわけだ。こいつは馬車を十マイル走らせただけの価値があるよ。さあ、ワトスン君、今度はステップニーのゲルダー商会に行ってみようじゃないか。胸像の源だからね。そこへ行けば、必ず何か手がかりがあるよ」
われわれはロンドンの流行街からホテル街、劇場街、商業街をすばやく通りぬけ、最後に海運街をぬけて、人口一万の川辺の町並みに到着した。
そこでは、ヨーロッパじゅうの浮浪者が寄り合い世帯の家々でうだりかえり、悪臭をぷんぷんとたてていた。ここの広い大通りの、かつて富裕な商人の住居であった所に、われわれのさがしていた彫刻工場があった。外側には記念碑の石造物がぎっしりと立ち並んでいる相当な置き場があった。内側には大きな部屋があり、五十人ほどの人間が彫刻をしたり土をこねて型を作ったりしていた。
支配人は大柄な金髪のドイツ人であったが、われわれを丁寧にむかえ、ホームズの質問にははっきりと返答した。帳簿を調べた結果、ドビーヌの大理石のナポレオンからは、何百となく複製が作られたことがわかった。だが、一年ほど前にモース・ハドスンの店に送られた三つは、六個同時に作ったものの半分で、残りの半分はハーディング兄弟商会に納められていた。この六つが他の胸像と異なっている理由など何もなかった。支配人も、その六つだけをこわしたがる男がいるのかなどという理由など、およそ考えつかなかったし、そんな考えを大声で笑った。卸(おろし)値段は六シリングだったが、小売商人は十三シリング、あるいはそれ以上とるのであろう。この石膏は、顔半分ずつになった型をふたつ合わせて、完全な胸像を作るのである。その仕事はわれわれの入った部屋で、イタリア人たちがいつもやっているのであった。それが終わると、胸像は廊下のテーブルの上で乾燥させ、その後で金庫にしまいこまれる。
彼の話は全部でこれだけだった。だが写真を見せると、その効果はてき面だった。彼の顔は怒りで真赤になり、青いチュートン的なその目の上でぎゅっと眉をしかめた。
「ああ、この悪漢が!」と彼は叫んだ。「いや、まったくのところ私はそいつをよく知っています、ここはずっと相当な工場でしてね。警官を入れたことといったら、こいつのことでいっぺんあっただけなんですよ。今からもう一年以上前になります。こいつが街頭でほかのイタリア人にナイフで切りつけ、警官におわれて、ここに駈けこんで来て、つかまってしまいました。ベッポって言いましたが、姓はわかりません。こんな顔の男を雇ったんですから当然の報いなんですが、それでもこの男はなかなかの働き手でしてね。いちばん働く一人だったんですよ」
「その男、どうなりましたか?」
「死刑にはなりませんでね。一年ほどくらいこみました。たしか今は出て来ていると思いますよ。しかしここへ顔を出す勇気はないんですね。その従弟(いとこ)がここで働いていますから、どこにいるかお話しできるでしょう」
「いやいや」とホームズが叫んだ。「従弟には何も言って下さらないように。これは非常に重大なことなんです、調べれば調べるほど重大になってくるんです。あなたが台帳で彫像の売り上げを調べていたとき、日付が去年の六月三日になっているのを見たんですが、ベッポがつかまった日がおわかりでしょうか」
「大ざっぱになら給金支払帳を見ればわかります」と支配人は答え、パラパラとページをめくってから、「最後に給金をうけとったのが五月二十日ですね」
「どうもありがとう。これ以上あなたにお手間をとらたせり、ご面倒をおかけすることもないと思います」
最後に、われわれの調査については何もしゃべらないように注意してから、われわれはふたたび西に向った。あるレストランで、急ぎながらも昼食がとれたときには、だいぶん午後も遅くなってしまっていた。入口の新聞売り子のビラには、「ケンジントンの暴行事件、狂人の殺人」と書かれ、新聞の中味を読むと、ホレス・ハーカー氏が結局、彼の集めた記事を印刷したということがわかった。全事件に関する、非常にセンセーショナルで派手な描写が二段を占めていた。ホームズはそれを薬品台に立てかけると、食べながら読んでいたが一、二度くすくすと忍び笑いをした。
「ワトスン君、こいつはまったくいいよ、聞きたまえ……《この事件に関して当局の最も老練なる探偵レストレイド氏ならびに、著名なる探偵シャーロック・ホームズ氏がともに、この悲劇的結果を生ぜし一連の事件は計画的犯罪にあらずして精神異常によって生じたるものと結論し、意見の一致をみるに到ったことを知るのは欣快(きんかい)の至りである。かかる事実は精神錯乱以外にはまったく説明のつかぬものである》
どうだいワトスン君、新聞てのはその利用法さえ知っていれば、いちばん価値のある公共物だよ、さあ、食べ終わったらケンジントンに戻って、ハーディング兄弟商会の支配人から事件のことをいろいろ聞こうじゃないか」
大商会の創立者は、小ぎれいな活発な小男で、頭も良く弁舌もさわやかな人物であることがわかった。
「ええ、私もすでに夕刊の記事を読みましたよ。ホレス・ハーカーさんはおとくいさんです。何か月か前に、いくつか彫像をお買い上げ頂きました。私どもは例の胸像三つを、ステップニーのゲルダー商会に注文しました。もうすっかり売れました。誰へですって?さあ、売上帳を見れば直ぐにわかりますとも。そう、ここに書きこんでありますよ。ひとつはチジックのレバーナム・ロッジに住んでいらっしゃるジョサイア・ブラウンさんに、ひとつは、レディングのロウア・グローブ街に住んでいらっしゃる、サンディフォードさんにお買い上げ頂きました。……いいえ、こんな顔など一度も見たことありませんね。一度見たら忘れられない顔ですがね。これより醜い顔は、そうざらにはぶつかりませんからねえ。雇い人の中にイタリア人がいますかって? ええ、おりますよ。労働者と掃除夫の中に何人かおります。もし見たければ、みんな、売上帳をのぞくことだってできるでしょうよ、それは。売上帳を見張ってなくちゃならない特別な事情もありませんからねえ。まったく変わったお仕事ですねえ。あなた方の調査で何かわかることでも出たら、お知らせ願いたいもんで」
ホームズはハーディング氏の証言の間じゅう、手帳に何かと書きこんでいたが、彼が、事実が進展していることに充分満足していることは私にもわかった。
だが、彼は、急がないとレストレイドとの約束に遅れるぞと言ったほかは、何も言わなかった。
案の定(じょう)、われわれがベイカー街に着いたときは、探偵君はすでに来ていて、待ち遠しげにおちつかず、あちこち歩きまわっていた。彼の物々しげな顔つきから、今日一日の仕事は無駄ではなかったのだなと知れた。
「どうでした、ホームズさん。うまくゆきましたか」
「ひどく忙がしかったけれどね。全然無駄ではなかったですよ。われわれ二人は小売商と卸商の両方をたずねたんだが、今じゃ胸像ひとつひとつ、その始めからの足取りがわかるよ」
「胸像ですって!」と、レストレイドは叫んだ。「まあまあ、シャーロック・ホームズさん、あなたにはあなたの行き方がありますから私が口をはさむのは筋ちがいですがね。しかし私のほうがもっと有効な仕事をしたように思えますね、死人の身元を確かめましたよ」
「これは、これは」
「それに犯罪の原因もね」
「そいつはすばらしい!」
「サフロン・ヒルとイタリア人街が専門の警部がひとりおりましてね。さて、死人は首にカトリック教徒の印をつけておりました。しかもその男の色を考えますと、彼が南方出だと思いました。ヒル警部はひと目見て、すぐに正体がわかりました。彼の名はピエトロ・ベヌッチといい、ナポリ出身です。それに彼はロンドンでも名うての人殺しのひとりです。彼はあなたもご存じの、殺人で規則を守っていく秘密政治結社マフィアにも関係しています。これで事件が解決し始めたことがおわかりでしょう。もうひとりのほうも、イタリア人でマフィアの一員だろうと思います。彼は何かで規則を破ったのです。ピエトロは彼をおいかけるように命令されました。たぶんポケットに入っていた写真は、今度の下手人でしょう、つまりピエトロが間違った男をやっつけてしまわないようにね。彼はその男をつけました。一軒の家に入って行くのを見て外で待っていました。ところが格闘の末、自分で致命傷を受けてしまったのです。シャーロック・ホームズさん、この考えはどうですか」
ホームズは賛成して手を叩いた。
「すばらしい! レストレイド君、すばらしいよ。だがあなたは胸像をこわした理由を説明しませんでしたね」
「胸像ですって? あなたは胸像のことが忘れられないんですね。つまるところ、それは何でもないんですよ。軽窃盗罪(けいせっとうざい)です。まあせいぜい六か月の判決です。われわれが実際に調査しているのは殺人です、事件解決の糸は全部、私の手中に集めているところまできたと申しあげましょう」
「で、次の手段は?」
「ごく簡単なものです。私はヒル警部と一緒にイタリア人街へ行き、われわれの持っている写真の男を見つけ、殺人罪の容疑で逮捕します。ご一緒にいらっしゃいますか」
「いや、やめておきましょう。もっと簡単な方法で解決がつけられると思いますよ。確実とは申し上げられませんがね。というのは、つまり、そう、われわれは全部を、われわれにはどうにもならない要素に依存しているのですからね。だが実際のところ、賭けはまったく、ふたつにひとつですが、あなたが今晩われわれと一緒に来て下されば、その場で捕まえられると、おおいに期待をかけているのですがね」
「イタリア人街ですか」
「いや、チジックのほうが、捕まえられそうな所だと思いますね。レストレイド君、あなたが今晩、一緒に来て下されば、明日は僕があなたのお伴をしてイタリア人街へ行くことをお約束しますよ。遅らせても何の害もないでしょうからね。さて、出かけるのは十一時すぎになるし、朝までは帰れそうもないから、二、三時間眠るほうがよさそうだよ。レストレイド君、一緒にご飯でも食べて、それから出かける時間まで、どうぞソファをお使い下さい。ワトスン君、その間に至急便のメッセンジャーを呼んでくれないか? 手紙を出さなくちゃならないんだよ。すぐ届くことが重要なんでね」
ホームズはその夜、古新聞の閉じこみをひっかきまわしてすごした。われわれの物置きのひとつは、新聞の閉じこみでいっぱいになっていたのである。とうとう彼は下りて来たが、彼の目は勝利に輝いていた。しかし彼は捜しものの結果についてはわれわれ二人に何も言わなかった。
私といえば、ホームズが、この複雑な事件のさまざまな屈折をたどっていく、そのやり方に一歩一歩とついていった。そして私にはまだ行きつく結論は見えはしなかったけれど、ホームズが、この奇怪な犯人は、残る二つの胸像をも襲うと考えていることは私にもわかっていた。その一つはチジックにあるのだ。たしかにわれわれの遠出の目的は、犯人を現場でとらえることであった。そして犯人が何のあとくされの心配もなく計画を続けられるように、夕刊に間違った手がかりを載せたホームズの巧妙さには感嘆せざるを得なかった。だから私は、ホームズがピストルを持って行くのをすすめてもいっこうに驚くことはなかった。彼は彼で鉛づめの狩猟用鞭(むち)を持ったが、それは彼の気に入りの武器だったのである。
十一時に四輪馬車が玄関に止まった。われわれはそれに乗ってハマースミス橋の対岸に渡り、ここで馭者を待たせておくことにした。少し歩くと閑静な道に出たが、両側にはそれぞれ地所つきの気持よい家々が立ち並んでいた。その一軒の門柱に「レバーナム・ロッジ」とあるのが、街燈の光で読めた。家の人々はひっこんで寝てしまっていた。というのは玄関の上の扇形の欄間(らんま)から漏れる光以外は、まっ暗だったからである。その光は、庭道にひとところぼんやりとした円い光をおとしていた。庭と道路とを隔てている板塀が庭に黒い影をおとしている。われわれはそこにうずくまった。
「どうも長く待たされそうだよ」とホームズがささやいた。「雨が降っていないめぐりあわせに感謝しなくちゃね。暇つぶしに煙草を吸うこともならないしね。だが、この苦労は二つに一つの公算で、何かいい報いがあるんだ」
だが夜明かしは、ホームズがわれわれを心配させたほど長くないということがわかった。まったく突然に、実に奇妙に終わったのである。不意に何の予告もなしに庭の門がさっと押し開けられ、猿のようにすばしこくて敏捷な、しなやかな黒い影が庭道にとびこんで来た。それは扉の上から射している光をさっと通りこすと、すばやく姿をかくし、まっ暗な家の影の中に見えなくなってしまった。
長いあいだ何の物音もせず、われわれは息を殺していた。それから非常にかすかな物のきしる音が聞こえ、窓が開かれた。すると音は止み、また長い静けさがその場をおおった。男は家の中に入ろうとしていた。
突然、龕燈(がんどう)の光がさっと部屋の中でひらめいた。彼の捜しているものはそこにはたしかになかったのだ。というのは、光が次々に他の部屋の鎧戸(よろいど)から漏れたからである。
「あの開いた窓のところへ行って、やつが出て来たら、すぐつかまえてやりましょう」と、レストレイドが言った。だがわれわれが移動するよりも早く、男がまた出て来た。彼が、あちこちに射している光にさらされるようなところまで来ると、脇の下に何か白い物をかかえているのが見えた。彼は人目をはばかるようにあたりを見まわした。人っ子ひとりいない道路の静けさが、彼を安心させた。われわれに背をむけると荷物を下におろしたが、次の瞬間はげしく物をたたく音がすると、ガシャンとこわれる音がつづいた。
男はあまり自分のやっていることに気をとられすぎて、われわれが草の上を忍びよって行く足音には少しも気がつかなかった。虎のように身をおどらせて、ホームズが彼の背にとびかかった。すぐにレストレイドと私は彼の両手をつかみ、手錠をかけてしまった。われわれのほうに向かせると、実にいやな黄ばんだ顔が怒りにゆがんでわれわれをにらみつけていた。その顔はまぎれもなくわれわれが手に入れた写真の男だった。
だがホームズが注意を向けていたのは、つかまえた犯人ではなかった。彼は入口の階段にしゃがみこむと、男が家から運びだしたものを、非常に注意ぶかく調べていた。それはわれわれが今朝みたのと同じナポレオンの胸像であり、やはり同じようにばらばらにこわされていた。ホームズは入念にこわれた破片をひとつひとつ拾いあげては、光をあてて見ていたが、どれもこれもいっこうに変わりばえのしない石膏(せっこう)であった。
彼がちょうど全部を調べ終ったとき、玄関のあかりがついて扉があくと、愉快なよく肥えた主人が、シャツとズボン姿であらわれた。
「ジョサイア・ブラウンさんですね?」とホームズは言った。
「そうです。あなたがたしか、ホームズさんですね。至急便のメッセンジャーにことづけて下さった手紙を受けとりまして、お言いつけどおりにしておきましたよ。扉は全部内側から鍵をかけて成り行きを待っていました。ああ、悪漢を捕まえなさったですね、結構でした。さあ、皆さん、お入りになって、おくつろぎ下さい」
しかし、レストレイドが犯人を留置所に連行したがったので、五分ほどで馬車をよび、四人になってロンドンに向った。曳(ひ)かれる男はひと言も口をきかず、もつれた髪の影をすかしてぎょろりとわれわれをねめつけた。そして一度、私の手が彼の間近にいったとたん、飢えた狼のように噛みつこうとした。われわれは長時間警察にいて、彼の衣服をしらべた結果は、数シリングと鞘(さや)におさまった長いナイフだけしか出てこなかったこと、そのナイフには新しい血がおびただしく付いていたことがわかった。
「万事上々です」と、別れるときにレストレイドが言った。「ヒル警部がこうした連中を詳しく知っていましてね。名前はすぐわかるでしょう。彼がマフィアの一員だという意見は結局正しいんだということがわかりますよ。しかしホームズさん、あなたが彼をつかまえた手際のよさにはまったく感謝いたしますよ。まだ私にゃ、よくのみこめないんですがね」
「説明するには時間も遅すぎるようですね。それにまた、仕上げの済まない、細かな点が一つ二つあるもんですからね。こいつはとことんまで解決しておく価値のある事件の一つなんですよ。明日六時にもういちど僕の部屋にやって来て下されば、この事件で今でもまだあなたが本当によくわかっていないことを説明してあげられますよ。こいつは犯罪史上でもまったく特異なものとなる特徴がいくつかあるんです。ワトスン君、もしまた僕のつまらない事件の記録を書いてもらうとすれば、この奇妙なナポレオン胸像事件の記録は、ページに精彩を加えること受け合いだよ」

翌晩、われわれがふたたび会ったとき、レストレイドはわれわれのつかまえた犯人に関して豊富な報告をもたらしたのである。彼の名はベッポといい、姓はわからなかった。彼はイタリア人街では名うてのならずものであった。かつては腕のいい彫刻家で地道に暮らしていたが、悪の道にふみこんですでに二度もくらいこんでいた。一度は《こそどろ》で、一度はすでに述べたように同国人を刺し殺した咎(とが)だった。英語は完全に話せた。彼が胸像をこわした理由はまだわからない。その問題に関してはどんな質問にも答えることを拒否している。しかし警察では、これらの胸像は彼がゲルダー商会の工場で働いている間に彼自身の手でつくられたものだということはわかっていた。その多くはわれわれもすでに知ってはいたのだが、報告のあいだじゅうホームズはおとなしく耳をかたむけていた。だが彼をよく知っている私は、彼の考えは別のことに向けられているのがよくわかった。そして彼のいつもの見せかけの仮面の下に、不安と期待との混じりあった表情を見た。
ついに彼は椅子から立ち上がったが、目が輝いていた。呼鈴が鳴っていたのである。一分もすると、階段をのぼる足音がきこえて、赤ら顔で長い白毛まじりの、頬鬚(ほおひげ)のある、かなり年配の男が案内されて来た。彼は右手に古風な旅行カバンを持っていたが、それをテーブルの上に置いた。
「シャーロック・ホームズさんはおられますか」
私の友は頭をさげて微笑した。「レディングにお住いのサンディフォードさんですね」
「そうです。少々遅くなりましたかしらん。汽車がまごまごしたもんでしてね。私の持っている胸像を持って来いというお手紙でしたが」
「その通りです」
「そのお手紙を持参しました。《私はドビーヌ作のナポレオン像の複製が欲しいのです。あなたの所有なされている胸像に十ポンドお支払いいたすつもりでおります》と書かれてありますが、本当ですか」
「本当ですとも」
「お手紙を見てびっくりしたのですよ。私がこんなものを持ってるってことをどうしてご存じなのかということでね」
「驚かれるのもごもっともです。ただ説明はしごく簡単なんですよ。ハーディング兄弟商会のハーディング氏が復製の最後のやつをあなたに売ったと言って、あなたの住所を教えてくれたのです」
「ああ、そうだったんですか。私がいくらで買ったか話しましたか」
「いいや、聞きませんでしたね」
「そうでしょうとも。私はあまり金持じゃありませんが、正直です。私はたった十五シリング払っただけなんですよ。だから十ポンドいただく前に、あなたにこれはお知らせしておかなくちゃならないと思いましてね」
「サンディフォードさん、立派なお心掛けですね。だが私はその金額を申し上げた。ですから値段どおりお支払いいたすつもりです」
「はて、ホームズさん、まったくきれいなお気持ですな。お求め通りに胸像は一緒に持参しました。ここにあります」
彼は鞄を開けて、それをテーブルの上に置いた。すでに一度ならず見てきた、かけらばかりのナポレオンの、あの胸像の完全な形をついにわれわれは見たのである。ホームズはポケットから一枚、紙片をとり出し、それから十ポンドの紙幣をテーブルの上に置いた。
「サンディフォードさん、このお二人が見ていらっしゃるところでこの紙に署名願えないでしょうか。これはただ、あなたが今まで胸像にもっていた権利を、どんなものでも今日私にひき渡すというだけのものなんです。私はきちょうめんな男でしてね。後でどんなことになるかもわかりませんからね。……どうもありがとう、サンディフォードさん。これがお代金です。ご機嫌よろしゅう」
訪問者がたち去るとシャーロック・ホームズの行動はまったくわれわれの注意をひきつけるものだった。まず初めに、彼は抽出しからきれいな白い布をとりだすとテーブルの上にひろげた。次に布の真ん中に手に入れたばかりの胸像をおいた。最後に愛用の狩猟用のむちをとりあげると、ナポレオンの頭のてっぺんをはっしと一撃した。像がばらばらに砕けると、ホームズはこなごなになった残骸の上に真剣に身をこごめた。次の瞬間、勝ち誇った叫びをあげて、一個の破片を拾いあげたが、その中にはプディングの中の乾ブドウのように、まるい黒いものがくっついていた。
「諸君!」と彼は叫んだ。「かの有名なるボルジア家の黒真珠をご紹介申し上げます!」
レストレイドと私は一瞬、物も言えずに坐りこんでいたが、ついで思わず衝動的に、二人とも芝居の緊張した山でするように突然声をあげた。ホームズの蒼白い頬にさっと赤味がさすと、観客の敬意をうける立(たて)作者よろしくわれわれに頭をさげた。彼がほんのしばらく推理機械でなくなり、賞賛と喝采(かっさい)を愛する人間味をもらすのはこんなときなのであった。人々の間に虚名が立つことを軽蔑して、それに背を向けるという奇妙な誇り高い内気な性格でも、友人にお世辞でなく驚嘆される場合には、心から動かされもしたのであった。
「そうです。諸君よ」と彼は言った。「これこそ現在この世に存在する最も有名な真珠であります。そして一連の帰納(きのう)推理によりまして、コロンナ公爵がデイカー・ホテルの寝室にて紛失いたしましたるものを、ステップニーのゲルダー商会が作製いたしました六つのナポレオンの最後の胸像の、これなる内部にて発見するに至るまでたどりえましたることは、私の幸運といたすところであります。レストレイド君。この高価な宝石が紛失したことでまき起こった騒ぎや、ロンドン警察が発見に努力したが無駄だったことをあなたは覚えているでしょう。私もその事件の相談はうけましたが、少しも手がかりを与えられませんでした。公爵夫人の女中に嫌疑がかかった。彼女はイタリア人で、ロンドンには兄がいることがわかった。だがわれわれはふたりの間の関係を探知しそこねた。女中の名前はルクレチア・ベヌッチといい、たしかに、ふた晩前に殺されたピエトロは兄に違いないのだ。私は古新聞のとじこみで日付を調べてみたら、真珠がなくなったのはベッポが何か暴行罪で逮捕された、きっかり二日前だったのです。ベッポの逮捕はゲルダー商会の工場で起こった事件ですよ。ちょうど六つの胸像がつくられていたときでしてね。
さて、あなたがたもはっきりと事件の順序がおわかりでしょう。もちろん、この事件が現われたのはこの順序と正反対ですがね。ベッポは真珠を自分のものとした。ピエトロから盗んだものか、ピエトロと共謀者だったか、ピエトロとその妹との橋渡しをしていたのか、どの結論が正しいにしても、われわれにとっては重要なことではありません。主要な事実は彼が真珠を手に入れたということです。そして彼がそれを身につけていたちょうどそのとき、彼は警官に追跡されたというわけです。彼は自分が働いている工場の裏に逃げて行きました。このとてつもなく高価な、価値のあるものを隠すのに二、三分しかない、そうしなければつかまったときに検査されて発見されてしまうということを知っていました。
ナポレオンの石膏像が六つ廊下にならんで乾かしてありました。そのひとつはまだやわらかだったのです。すぐに、熟練した労働者であるベッポはしめっている石膏に小さな穴をあけると真珠を落としこみ、ちょっとさわって、また穴をふさいでしまいました。それはすばらしい隠し場所だったわけです。とても、誰にも見つけられないでしょうからね。だがベッポは一年の懲役を宣告され、その間に六つの胸像はロンドンじゅうに散らばってしまったのです。彼にはどの中に宝物が入っているのかわかりませんでしたから、ただこわすだけがそれを知る方法でした。振ってみたところで彼にはわかりません。というのは石膏は湿っていましたから、たぶん真珠は密着してしまったのでしょうからね。実際そうなっていましたよ。
ベッポは望みを捨てませんでした。彼はたいへんな巧妙さと忍耐とで探索を行なったのです。ゲルダー商会で働いている従兄から胸像を売った小売商会を見つけだしました。彼はモース・ハドスン商会に首尾よく職を見けて、こんなことで胸像の三つを突き止めました。だが真珠はその三つの中にはなかったのです。それで、あるイタリア人の使用人の手を借りて、他の三つの胸像がどこへ渡ったかを見つけ出すことに成功しました。第一番目はハーカー氏の家にありました。そこで彼は真珠の紛失は彼のせいだと考えている共謀者に跡をつけられ、その後で起こった格闘で彼を刺し殺してしまったのです」
「共謀者だったらどうして彼の写真など持っていたんだろう」と私は尋ねた。
「誰でも第三者から彼のことを聞きたいと思ったら聞けるようにという、追跡の手段としてさ。はっきりした理由はそれなんだよ。さて、殺人を犯した後ではベッポは行動を遅らせるよりも、むしろ早めるだろうと私はふんだ。彼は警察が彼の秘密を覚(さと)るんじゃないかと心配したのだ。だから彼は警察に先を越されないうちにと急いだのさ。
もちろん僕も、ハーカー氏の胸像の中に真珠があったものかどうかはわからなかった。僕はそれが真珠だともはっきりと断定しなかった。しかし彼が何かを探しているのだということは明らかだった。彼は胸像をこわすために何軒もの家を通り過ぎて、わざわざそれが調べられるような光のある庭まで運んでいったのだからね。ハーカー氏の胸像が三つのうちのひとつなのだから、ここになければ真珠が中にある見込みは話した通り、まったく二つに一つなわけだ。残っている胸像は二つだ。初めにロンドン市中にあるものを探しに行くことは間違いなかった。だから僕は第二の悲劇を避けるために、その家の人々に注意しておいたのさ。それがこの最上の結果となったのだよ。もちろんそのときには、われわれのおっかけているのが、ボルジア家の真珠だということはたしかにわかっていた。死人の名前が一事件と他の事件とを結びつけてくれたのだ。そこで胸像が一つだけ残っている。レディングにあるやつだ。真珠はその中にあるに違いない。僕は君たちの前で持ち主からそれを買った。それがここにある」
ちょっとの間われわれは黙って坐っていた。
「なるほどねえ!」とレストレイドが言った。「あなたが非常に多くの事件を扱われるのを見てきましたが、これ以上に手際(てぎわ)のよいのを見たことがありません。ロンドン警視庁ではあなたをねたみはいたしません。いや、それどころか、あなたを非常な誇りといたします。もし明日おいでになれば、最古参の警部から最年少の巡査にいたるまで、喜んであなたと握手いたしましょう」
「ありがとう」とホームズは言った。「ありがとう」
そして彼は顔をそむけたが、私にはかつて彼に見なかったほど、優しい人間的感動を受けているように思われた。だが一瞬後には、彼はまた冷静で実際的な思索家にもどっていた。
「ワトスン君、真珠を金庫に入れてくれたまえ。それからコンクとシングルトンとの間の文書偽造事件の書類を出してほしい。レストレイド君、さようなら。何か小さな事件でも起こったら、喜んでその解決の手がかりに協力しますよ」
三人の学生

一八九五年という年に、いくつかの事件が起こり……それは話す必要もないのだが……シャーロック・ホームズ氏と私は、わが国の有名な大学町のひとつで数週間をすごすようなことになったが、私がこれからお話ししようとしている、小さいながらも教訓的な事件がわれわれの身にふりかかったのは、そのときのことだったのである。たしかに読者が大学と犯人の名前を見分けてしまうように、細かい点を話すことは無分別であるし、不愉快でもあろう。スキャンダルはひどく痛ましいものなのだから、そっとしておいて消えるにまかせるのがよかろう。しかし事件そのものは、相当の分別をもってすれば書いてもよいものと思われる。それが、私の友人ホームズを有名にしている、あの才能のいくつかを説明するに役だつからである。
私はお話しするにあたって、事件をある特定の場所に限ったり、関係している人々に関する手がかりを与えるような言い方を避けるよう努めるつもりである。
当時、シャーロック・ホームズは、古代イギリスの勅許(ちょっきょ)状について骨の折れる調査を続けていて、私たちはさる図書館のほど近くにある、家具つきの下宿に住んでいた。その調査は、まったくすばらしい結果になったので、私が将来書くつもりでいる主題のひとつになるかもしれない。
さて、ある晩、私たちはセント・ルーク学寮の指導教師兼講師である、知人のヒルトン・ソームズ氏の訪問をうけた。ソームズ氏は背の高いやせた人で、神経質な興奮しやすい性質(たち)であった。彼はいつもそわそわしていて態度に落ち着きがないのは知っていた。だが今日に限って彼はどうにもならないほど興奮していたので、なにかひどく異常なことが起こったということはたしかであった。
「ホームズさん、まことにおそれいりますが、私のために二、三時間おさきいただきたいのですが。セント・ルーク学寮で、まったく弱った事件が起こったのです。もし運よくあなたがこの町にご滞在でなかったら、どうしてよいか途方にくれていたところです」
「今はあいにく、とても忙しいんですよ。気を散らされたくないんですがね」と私の友は答えた。「警察にご相談なすってはいかがでしょう」
「いや、とんでもない、あなた。そんな方法がとれないんですよ。法律はひっぱり出したが最後、押えておくわけにはゆきませんからね。それに大学の信用のために絶対スキャンダルになっては困るような事件なんです。あなたの才能同様に、あなたの思慮深さも有名なものです。私を助けていただけるのは世界じゅうであなたをおいてありません。ホームズさん、お願いですから、なんとかやって下さいませんか」
私の友の機嫌は、ベイカー街の心にかなった環境から離れて以来よくなかった。切り抜き帳や化学薬品や気易い乱雑さが身のまわりにないと、彼は不機嫌な男なのだ。彼は肩をすくめて、いたしかたなく承諾したことを示した。すると、わが訪問者は非常に興奮した身振りでやつきばやに話をしだした。
「ホームズさん、お話ししなければならないことは、明日はフォーテスク奨学生試験の第一日目だということです。私は試験官の一人でして、試験科目はギリシア語です。試験用紙の一枚目はギリシア語英訳の長い問題で、それは受験生が見たこともない文章です。この文章は試験用紙に印刷されているのですが、受験生があらかじめ見て準備できれば当然、非常に有利になるわけです。ですから試験用紙は非常な注意をはらって極秘にしておくわけです。
今日三時ごろ、この用紙の校正刷りが印刷所から届けられました。問題はトゥキュディデスの一章の半分なのです。完全に本文が正しいように、私は注意して読み通さねばなりませんでした。四時半になってもまだ読み終りませんでした。しかし私は友人の部屋でお茶をのむことになっていたものですから、校正刷りを机の上に出しっ放しにしておき、一時間とほんの少しも留守にしていたでしょうか。お気づきでしょうが、私の大学のドアは二重になっていまして、緑の粗(あら)い羅(ら)紗(しゃ)をはったドアが内側にあり、外側には分厚い樫(かし)のドアがあります。
私が外側のドアの所に来ますと、鍵が差しこんであるのを見てびっくりしました。すぐに私は自分で差しこんでおいたのだろうと思いました。しかしポケットに手を触れてみて、鍵はちゃんとあるのがわかりました。私の知る限りでは合鍵を一つだけ召使いのバニスターが持っているだけでしたが、彼は十年間も私の部屋の面倒をみてきた男であり、その実直さはまったく疑いの余地はありませんでした。実際その鍵は彼のものだったのですが、彼は私がお茶をのむかどうかを聞こうとして部屋に入り、不注意にも出て行くときに忘れてしまったのだろうと思われました。私が出てから二、三分して部屋に入ったに違いありません。彼が鍵を忘れるうかつさなど、他の場合ならほとんど問題にはならなかったでしょうが、まったくこんな日のことですから、嘆かわしい結果を招いてしまったのです。
テーブルの上を見やった瞬間、だれかが試験用紙をかきまわしたということに気づきました。校正刷りは長い紙が三枚、私は全部一緒にしたままにしておいたのですが、そのときには一枚が床の上に落ちており、一枚は窓ぎわの側テーブルの上にあり、私の置いた所にあるのは三枚目だけでした」
ホームズはそのときになって初めて気持をひかれた。
「第一枚目が床に、二枚目が窓のところに、三枚目が元の位置だったのですね」
「そうです、ホームズさん。驚きましたね。どうしてそれがおわかりになるんです?」
「どうぞ、その興味津々(しんしん)たるお話を続けて下さい」
「ちょっとの間、私はバニスターが許しも得ないで試験用紙を見たのだろうと思いました。しかし彼は真顔で強く否定しました。私はその真実なことを信じました。他に考えられることは通りがかりのものが、ドアに鍵の差しこんであるのを見て私の不在を知り、試験用紙を見に入ったということです。莫大(ばくだい)な金額がかかっているのです。というのは奨学金は非常に多額なのですから、破廉恥(はれんち)な男なら仲間をだしぬくためには危険も冒すでしょうからね。
バニスターはこの事件ですっかり動転してしまいました。試験用紙がたしかにいじりまわされたとわかると、いまにも気絶してしまいそうでした。私はブランデーを少々与えて、椅子に坐らせたまま、綿密に部屋を調べてみました。すぐに私は、用紙がしわくちゃになっているほかにも、たしかに侵入者があったという形跡をみつけました。窓ぎわのテーブルには鉛筆をとがらせた削り屑がいくらかあり、芯(しん)のかけらもひとつあったのです。明らかに悪者は、問題を大急ぎで写しとったので鉛筆を折ってしまい、やむをえず新しい芯を出さねばならなかったのです」
「すばらしい!」とホームズは言った。彼は事件に興味をひかれてくるにしたがい、快活な気分を取り戻してきたのである。「あなたは運がよかったですよ」
「これだけじゃありません。まだ新しい、書き物用テーブルがありますが、その表面は立派な赤革が張ってあります。私もバニスターも断言できるのですが、表面はなめらかでよごれがついていませんでした。ところがそのときにはおよそ三インチほどの、はっきりした切り込みがあります。ただひっかいたなんてものではなく、明らかに切り込みなのです。そればかりでなく、テーブルの上には何か《おがくず》のような粒を含んだ、ねり粉か粘土の小さなかたまりまで見つかりました。私はこのような形跡は、用紙を調べまわした男が残したものだと確信しました。足跡はありませんし、その男の身元がわかるような証拠は、ほかに何もありませんでした。
私がどうにも考えあぐねてしまったとき、突然幸運にもあなたがこの町に滞在していらっしゃるのを思い浮かべ、お任せしたいものだとまっすぐにやって来たのです。ホームズさん、お助け下さい。私の苦しい状態はおわかりいただけると思います。その男を見つけださなくては、新しい試験問題が用意できるまで試験を延ばさなければなりません。延期については理由を説明しなくてはならないとなると、いまわしいスキャンダルが起こるでしょう。そうなれば学寮だけでなく大学全体のほうへも暗雲(あんうん)をなげかけます。とりわけ私は事件を穏便(おんびん)に賢明に解決したいと思っているのです」
「できるかぎり調査いたしましょう。喜んでお手伝いいたしますよ」ホームズは立ち上がり、外套を着た。「この事件はちょっと面白いですね。校正刷りが届いてから、あなたの部屋を訪ねた人はいませんでしたか」
「ああ、来ました。若いドーラット・ラースというインド人の学生ですが、同じ階に住んでいる学生で、試験のことでいくつか細かいことを尋ねに入って来ました」
「受験を申し込んでいるんですね」
「そうです」
「それで用紙はテーブルの上にあったのですか」
「記憶する限りでは、巻いてあったと思います」
「しかし校正刷りだとはわかりますね」
「たぶん、わかるでしょうね」
「ほかに入って来た人は?」
「ありませんでした」
「校正刷りがあなたの部屋にあるってことは、だれか知っていましたか」
「印刷所以外には知らなかったと思います」
「バニスターという男は知っていましたか」
「いやたぶん、知らなかったでしょう。だれも知らなかったですよ」
「バニスターは今どこにいます?」
「彼はひどく具合が悪いのです。まったく可哀そうな奴です。私は椅子にもたせたきりにしておきました。それほど大急ぎでこちらに伺(うかが)ったのですよ」
「ドアはあけたままで来ましたか」
「まず試験用紙をしまいこんで、鍵をおろして来ました」
「それじゃソームズさん、そのインド人の学生が、巻いてある紙を校正刷りだと知らなかったなら、用紙をいじりまわした男は、それがあるとは知らずにあなたの部屋に入り、偶然見つけたことになりますね?」
「そう考えられます」
ホームズは得体の知れぬ微笑をうかべた。
「では、出かけるとしようじゃありませんか。ワトスン君、これは君に関係なさそうだぜ。心理的なことで肉体的なことじゃない。……まあ、いい。来たければ来たまえ。さてソームズさん、お申し出どおりにいたしましょう」

わが依頼者の部屋は長くて低い格子窓がついていて、古い学寮の苔(こけ)むした中庭に面していた。ゴシックふうなアーチ型のドアを入ると、踏みへらした石造りの階段があった。一階にはソームズ氏の部屋があり、二階から上は各階ごとに一人ずつ、三人の学生がいた。われわれが事件の現場に着いたときには、すでにあたりはうす暗くなっていた。ホームズは立ち止まって熱心に窓を眺めた。次に窓に近づくと爪先立ち、首をのばして部屋をのぞきこんだ。
「その男はドアから入ったに違いない。窓はガラス一枚分の仕切りがあくだけですからね」案内の先生が言った。
「おやおや!」ホームズはソームズ氏の顔を見て奇妙な笑いをうかべた。「さて、ここで調べることがないようでしたら、中へ入りましょう」
ソームズ講師は外側のドアの鍵をはずすと、われわれを導き入れた。ホームズが絨毯(じゅうたん)を調べている間、私たちは入口に立って入らずにいた。
「どうも何の痕(あと)もないようだな。こんな乾燥する日にはなにも見つかりそうもないなあ、あなたの召使いはよくなったようですね。椅子に坐らせておいたままだというお話でしたが、どの椅子ですか」
「そこの窓ぎわにあるやつです」
「それですか。この小テーブルのそばのですね。どうぞお入り下さい。絨毯の調べは済みましたよ。まず小テーブルを調べてみようじゃありませんか。もちろん何が起こったかははっきりしている。その男は入って来て、中央のテーブルから一枚一枚試験用紙を取っていった。それを窓ぎわのテーブルに持っていった。そこからなら、あなたが中庭をよこぎって来れば見えるから逃げおおせられます」
「実際は逃げられなかったでしょうよ。私は横門から入って来たのですから」
「ああ、それはいい! まあいずれにせよ、それも考えていたでしょう。用紙を見せて下さい。指紋は全然ありませんね。そうです、彼はこの紙を最初にもっていった。たぶん略字をつかったでしょうが、それで写しとるにはどのくらい時間がかかるでしょう。まあ十五分はかかるでしょうね。それから最初のを払い落として次のをつかんだ。二枚目を写している最中にちょうどあなたが帰って来た。そこで大急ぎで退却しなければならなくなった。まったく慌てふためいてですね。何しろ、侵入したということがすぐにわかってしまうのに、紙をもとに戻しておく時間もなかったんですからね。あなたがお入りになったとき、階段を急いで昇っていく足音のようなものは聞かなかったですか」
「いいえ残念ながら」
「そうですか。彼は物すごい勢いで書いていたので鉛筆を折ってしまいました。ですからご承知のように、またとがらせなくてはならなかったのです。ワトスン君、これは面白いよ。普通の鉛筆じゃないんだ。大きさは普通だけれども芯(しん)が柔らかく、木の色は暗青色で製造所の名が銀文字で入れてある、あと一インチ半ほどしか残っていない。ソームズさん、そんな鉛筆をお捜し下さい。そうすれば犯人はつかまります。もっとお役にたつには、彼は大きな、なまくらナイフを持っていると申し上げましょう」
ソームズ氏はこの流れるようなホームズの説明にいささか気(け)おされたようだった。
「実のところ、長さの点は合点いたしかねます。ほかの点はよくわかるんですが」
ホームズはNNという文字の書き入れの部分が先についている削りくずを出してみせた。
「これでおわかりですか」
「いいえ、まだわかりませんが」
「ワトスン君、僕はいつも君を見そこなってばかりいたよ。他の人にも勘の悪い同類があるよ。このNNってなんだと思います? こいつは一語の語尾なんですよ。ジョーハン・フェイバーが最も有名な鉛筆製造者だってことはご存じですね。だから、ジョーハン(JOHANN)という字の下の部分の鉛筆の残りは、一インチ半ほどになるというのは明らかじゃありませんか」
彼は小テーブルを斜めにして光にかざした。「書いた紙が薄かったら、みがいた表面には何か痕跡が残るだろうと思っていたんですが、何もないですね。ここにはもう得るところはありませんね。さて今度は中央テーブルだ。あなたのおっしゃった黒いねり粉のようなかたまりってこれでしょう? ざっとピラミッド型をしていて外側がへこんでますね。おっしゃるとおり中におがくずの粒が見えますね。おやおや、こいつは面白いな。それから切り込みは……うん、かなりな深さですね。最初はうすいひっかきなのが、最後はぎざぎざの穴になってる。ソームズさん、この事件に私の興味をひいて下さって感謝しますよ。あのドアはどこに通じているんですか」
「私の寝室です」
「事件がおきてからそこへお入りになりましたか?」
「いいえ、あなたのところへすぐに伺いましたから」
「ちょっと見せていただきたいのですが。やあ、なかなか魅力に富んだ古風な寝室ですね。床を調べてしまうまでちょっとお待ち下さいませんか。……いや何も見えませんね。このカーテンはどうしたんですか。この後ろにあなたの洋服をかけたんですね、この部屋でどこかに隠れなければならないとしたら、ここに隠れるでしょうね。寝台は低すぎるし、衣裳箪笥は浅すぎるからね。そこには誰もいないでしょうね?」
ホームズがカーテンを引いたとき、彼の態度が少しきびしく油断なくなったのを見て、万一に備えたのだということがわかった。実際にはカーテンを引いても何も出てこず、一列に並んだ釘から三、四着の洋服がかかっていただけであった。ホームズはそこを離れると突然、床にかがみこんだ。
「おや? これは何だろう」
それはピラミッド型をした黒いパテ糊のようなもので、まったく書斎のテーブルの上にあったのと同じだった。ホームズは掌(てのひら)を開いて、その上に拾いあげると、電気の光にかざした。
「ソームズさん、あなたのご訪問者は居間と同じく寝室にも、跡を残していきましたよ」
「ここに何の用があったのでしょう?」
「はっきりしていますよ。あなたは彼が予期しなかった方向から戻っていらっしゃった。だから、あなたがドアのところに来るまで気がつかなかったのです。どうしたらいいですか。自分がわかってしまうようなものいっさいをひっつかんで、隠れるために寝室にとびこんだのですよ」
「しまった! じゃ、ホームズさん、この部屋で私がバニスターと話している間じゅう、もし知ってさえいたら、犯人をとらえられたんですね」
「そういったところです」
「ホームズさん、もうひとつの考え方もあると思います。あなたは寝室の窓をご覧になりましたか」
「ガラスに格子がはまっていて、枠(わく)は鉛、三つの窓は、離れていますね。一か所は蝶番(ちょうつがい)で動き、人ひとりが入るのに充分な大きさです」
「その通りです。それに少し斜めになって中庭に面しているものですから、中庭からは見えないところもあるんですよ。その男はそこから入りこみ、寝室を通過するときに手がかりを残してしまい、最後にドアがあいているのを見て逃げ去ったとは考えられませんか」
ホームズはいらだたしげに首を振った。
「もっと実際的にならなくちゃいけません。あなたはこの階段を使っている学生が三人いて、いつもあなたの部屋の前を通るとおっしゃいましたね」
「ええ」
「それで三人とも受験志願しているんですか」
「ええ」
「三人の中で、ほかの二人よりもこの男が疑わしいといったようなことは何かありませんか」
ソームズはためらったが、
「それは非常に微妙な問題です。なんの証拠もないのに疑いをはさみたくはありませんからね」
「その疑惑なんですが、その点について聞かせて下さい、証拠は私が集めましょう」
「それでは、この家屋に住んでいる三人の学生の性格をお話ししましょう。二階に住んでいるのはギルクリストといいます。素晴らしい勉強家でもあり運動家でもあります。ラグビー・チームのメンバーであり、大学のクリケット・チームにも入っています。ハードルと幅跳びは大学代表選手です。彼は素晴らしい、男らしい人間です。父親は有名なサー・ジェイベズ・ギルクリストです、競馬で破産しました。息子は非常な貧乏を背負ったわけですが、すごい努力家で勤勉ですから、おそらく出世するでしょう。
三階はドーラット・ラースというインド人が住んでいます。おとなしい得体の知れない男ですが、インド人はだいたいがそうですね。学科は相当できるほうなのですが、ギリシア語は不得手です。しっかりしていて几帳面(きちょうめん)です。
いちばん上の四階にはマイルズ・マクラーレンがおります。勉強しようという気になれば、まったくすばらしい男で、大学でもきっての秀才なのですが、きまぐれで道楽で節操がありません。彼は第一学年目にトランプでスキャンダルをおこし、あやうく放校されそうになりました。この学期はずっと怠け続けています。ですからきっと、びくびくして試験を待っているに違いありません」
「では、あなたは彼を疑っているのですね?」
「私は疑う勇気などありません。しかし三人の中ではたぶん彼がいちばん怪しいといえば言えます」
「そうですねえ。さてと、ソームズさん、あなたの召使いのバニスターに会ってみようじゃありませんか」
彼は五十がらみの、小柄な男で、顔は蒼白く、きれいに鬚(ひげ)を剃っていた。頭髪には白色がまじっていた。彼は日常生活のしきたりがかくのごとく突然に乱されてしまったことで、いまだに苦しんでいた。彼のまるまるした顔は神経質にひきつれ、指はぶるぶると震えていた。
「われわれはこの不幸な事件を調査しているんだよ、バニスター」と彼の主人は言った。
「さようでございますか、旦那様」
「君は鍵をドアに差しこんだままだったんだね」ホームズが言った。
「はあ、さようでございます」
「試験用紙が部屋にあるって日にこんなことをしたなんて、とてもおかしいことじゃないか」
「まったく運が悪かったのでございます。ですがほかのときにも、ときにはやったこともあるのでございます、はい」
「いつ部屋に入ったんだね?」
「四時半頃でございます、ソームズ様のお茶の時間でございますから」
「どのくらい部屋にいたのかね」
「ソームズ様がいらっしゃらないのがわかると、すぐひきさがりましたのです」
「この紙がテーブルの上にあったかね」
「いいえ、まったく存じませんでした」
「どうしてまた鍵を入れっぱなしにしておいたのだろうね?」
「片手にお盆を持っておりましたので、あとで取りに来るつもりでいたのですが、忘れてしまったのです」
「外側のドアは、ばね錠になっているのかね」
「いいえ、そうではございません」
「じゃ、ずっと開いていたわけだね」
「はい。さようでございます」
「じゃ、誰かが部屋にいたとすれば、いつでも出られたね」
「ええ」
「ソームズさんが帰って来て君を呼んだとき、ひどくうろたえたってね」
「ええ、そりゃもう。私がここにおりました永年の間、こんなことは起こったことがなかったのでございますから。私は気絶しかけてしまいました」
「そうか。わかった、わかった。気分が悪くなったとき、どこにいたかね」
「私がですか? ああ、ここにおりました。このドアの近くにおりました」
「そいつはおかしいな。君はあの隅のあたりにある椅子に坐ってたんじゃなかったのかね。移動するにしても、どうしてもっと手近にある椅子に腰をおろさなかったんだね」
「さあわかりません、旦那様。どこに坐るかなんてことは私にとっては問題ではなかったんです」
「ホームズさん、それについてはこの男も実際わからなかったでしょう。この男はまったく気分悪げでした。真蒼(まっさお)だったのですよ」
「君はご主人がいなくなってからも、ここにいたのかね」
「わずか一分かそこらでした。それで鍵をかけまして引きとりましたのです」
「君は誰が臭いと思うね」
「ああ、そんなことはとても申し上げられません。あんなことで利益をはかるような方がこの大学におられるなどとは信じられません。いいえ、決して信じはしません」
「どうもありがとう。もうそれで結構。……ああ、もうひとこと聞きたいんだが、君が世話をしている三人の学生に、なくなったものがあるなんて言いはしなかったろうね、誰にも」
「もちろん申しませんとも。ひとことも申しませんでした」
「誰とも会わなかったのだね」
「はあ、お会いしませんでした」
「それはよかった。さて、ソームズさん、よろしかったら中庭へ出てみましょう」
次第に濃くなるくらがりの中で、われわれの頭上には三つの窓に黄色の光が輝いていた。
「三羽の鳥はみな巣に入っていますね」とホームズは見上げながら言ったが、「おや! どうしたんだろう。あの一人はひどくそわそわしているが」
それはインド人であった。彼の黒い影が突然、鎧戸(よろいど)に現われた。彼は部屋じゅう足早にあちこちと歩きまわっていたのである。
「ひと部屋ひと部屋をちょっとのぞいてみたいですね。できましょうか?」
「おやすいことです。この棟は学寮でもいちばん古いものなんです。ですから訪問者がよく参観にみえます。おいで下さい。私がご案内いたしましょう」
「どうか名前は明かさないで下さい」ホームズはギルクリストのドアをノックするとき言った。
背が高くすらりとした、亜麻色(あまいろ)の髪の青年がドアをあけ、われわれの用事がわかると、気持よく招じ入れた。部屋には実際、中世の住宅建築物としておもしろい箇所があった。ホームズはある箇所に非常に心をひかれたので、手帳に写すと言いだしたが、鉛筆を折ってしまってギルクリストから一本借りる始末であった。それが最後にはナイフまで借りて芯をとがらしたのである。奇妙なことに、彼は同じことをインド人学生の部屋でもやってしまったのである。
インド人は小柄でもの静かな男で、かぎ鼻だったが、われわれを横目で眺め、ホームズの建築学的研究が終わったときには心から嬉しそうな顔をした。このふた部屋のいずれかで、求めている手がかりをホームズが手に入れたのかどうか私にはわからなかった。三番目の部屋だけは訪問しそこなってしまった。ノックしても外側のドアは開かず、向こう側からぽんぽん卑俗な言葉が聞こえてくるだけだった。
「誰だか知らんが地獄にでも落ちろ! 明日は試験なんだ。誰が来たってひっぱりだされるもんか」
「まったく失礼な奴だ」われわれの案内者は階段を降りながら、怒りに紅潮した顔で言った。「もちろんノックしたのが私だということは知らなかったんですが、それにしても、あの振舞いはまったく無作法です。それにこんなときですから、むしろ疑わしいですね」
ホームズの答えがまた奇妙だった。
「彼の正確な背丈がおわかりですか」
「ホームズさん、実のところ詳しくわかりませんね。インド人よりも大きく、ギルクリストほどはないでしょう。まあだいたい五フィート六インチというところですか」
「そこのところが大切なんですよ」とホームズは答え、「さて、それではソームズさん、おいとましましょう」
わが案内者は驚きと狼狽(ろうばい)に声をあげて叫んだ。
「ホームズさん、それは困ります! まさかこんな不意に私をほったらかすつもりじゃないでしょうね! あなたは事態をよくご承知になっていらっしゃらないようです。試験は明日なんですよ。私は今晩なにか明確な処置をとらなければならないんです。試験用紙の一枚がいじりまわされているとしたら、そのまま試験するわけにはいかないんです。まったく火急な事態なんですよ」
「今のままにしておかなくちゃいけませんよ、私は明朝早くやって来てお話ししますがね、そのときには処置の方針をお教えできるでしょう。その間、何も変えてはいけませんよ、絶対にいけません」
「よくわかりましたよ、ホームズさん」
「本当に安心していらっしゃい。間違いなく苦境を打開して差し上げますよ。黒粘土(くろねんど)と鉛筆の削り屑は持って行きますよ。さようなら」
われわれが真暗な中庭に出たとき、ふたたび学生たちのいる窓をふり仰いだ。インド人はまだゆっくりと同じ歩調で部屋を歩きまわっていたが、他の二人は見えなかった。
「さあ、ワトスン君、君はどう考える?」
われわれが大通りに出るとホームズは言った。「ちょっとした室内遊戯だよ。三枚のカードでする手品みたいなもんだ。ここに三人の男がいる。この中の一人が犯人に違いない。犯人を選ぶのですが、どれでしょう? とこんなふうじゃないかい」
「げすな言葉を使うのが四階にいるが、あれが、いちばん臭いね。だが、あのインド人もずるい奴だよ。どうしてずっと部屋を歩きまわってるんだろう」
「あれは何でもない。誰だって何か暗記しようとするときにはあれをするのさ」
「変な目でわれわれを見てたぜ」
「君だってもし次の日が試験で、準備に一刻でも貴重なとき、見知らぬ男どもがどやどやと部屋に入りこんで来れば、あんなふうにするよ。いや、ありゃ何でもないね。鉛筆もナイフもみな申し分はない。だがあの男が僕を悩ますんだよ」
「誰だい?」
「ああ、召使いのバニスターさ。この事件であいつはどんな役目をしてるんだろう」
「僕にはまったく正直な人間ととれたがね」
「僕にもそうとれたよ、そこが悩みの種なんだ。どうして本当に正直な人間が……まあいいよ。ここに大きな文房具屋がある。ここから捜査を始めよう」
その町には問題になるような文房具屋は四軒しかなかった。一軒一軒、ホームズは鉛筆の削り屑をだしては、それと同じものなら高く買ってもいいと言った。どの店でも注文ならとりよせるが、普通のサイズの鉛筆ではないから、在庫品がないんですと言った。私の友は失敗にがっかりした様子もみせず、肩をすくめてあきらめを示したが、半分ふざけているようであった。
「うまくいかないね、ワトスン君。この最良、しかも最後に残った手がかりも何にもならなくなったね。だが本当はこれがなくったって充分論理は組み立てられるよ。おいおい君、もう九時になるぜ。女将(おかみ)は夕食は七時半にグリンピースがなんとやら言ってたぜ。ワトスン君、君がひっきりなしに煙草をふかしたり、食事の時間が不規則だったりするから、おそらく立退(たちの)きを言い渡されるぜ。そうすりゃ、僕も転落のおすそわけにあずかるわけだろうさ。だがわれわれは、気の小さな指導教師とうかつな召使いと三人の野心的な学生の問題を片づけないわけにはゆかないね」

その日、ホームズは事件については何もそれ以上ほのめかさなかった。彼は遅い夕食をとった後、長いあいだ坐ったまま考えにふけっていた。翌朝八時に、ちょうど私が身づくろいを終えたとき、彼が部屋に入って来た。
「さあ、ワトスン君、セント・ルーク大学へ行く時間だぜ。朝飯食べなくても大丈夫かい?」
「大丈夫だよ」
「ソームズはわれわれが何かはっきりしたことを言ってやるまでは、とてもおちおちしていられないだろうな」
「何かはっきりしたことが言えるのかい?」
「と思うね」
「じゃ、結論を出したのかい?」
「うんそうなんだよ。怪事件は解(と)きあかした」
「だが、どんな新しい証拠を手に入れたんだい?」
「あはは! 僕だって無駄に六時なんていう、ときならぬ時に起きてこやしないよ。二時間も大変な仕事をして、少なくとも五マイルは歩いたね。それで獲物として見せられるものが手に入ったよ。これを見たまえ!」
彼は手を突き出した。その手のひらにはピラミッド型の黒いねり粉のような粘土が三つあった。
「おや! ホームズ君。昨日は二つしか持ってなかったのに」
「もう一つ今朝手に入れたのさ。これは明確な推理だよ。つまり第三のものは第一と第二のものと同じ出どころからきたのだ。ええ、どうだい、ワトスン君。さあ行こう、そしてソームズ君を苦しみから解き放してやろう」
われわれが部屋に入っていったとき、言った通りに、不幸な指導教師はまったく気の毒なほどいらいらしていた。数時間後には試験が始まる。ところが彼はまだ事実を公表すべきか、犯人が貴重な奨学金を争うのを傍観するかという難題にぶつかっていたのである。彼はほとんどじっと立ってなどいられなかった。それほど心が動転してしまっていたのである。われわれが入って行くと、両の腕をぐっとつきだしてホームズに馳(か)けよって来た。
「ああ、来て下さってまったくありがたい! あなたは望みを捨てて、諦めてしまったのかと思ってました。どうしたらいいでしょうか? 試験をやってもいいのですか」
「結構です。ぜひおやりなすって下さい」
「しかし犯人は……?」
「いや犯人は受験しません」
「じゃ、わかったのですね?」
「ええ、そう思います。もしこの事件を表向きにしたくないのなら、われわれはある権限をもたなくてはならないんです。そしてわれわれで小さい私設軍法会議を構成するんです。どうぞソームズさんはそちらへ。ワトスン君、君はここへ、僕は真ん中の肘掛け椅子に坐る。これで罪人の胸にたっぷり恐怖の念を与えることになるでしょう。ベルを鳴らして下さい」
バニスターが入って来たが、われわれの裁判式な様子にはっきり驚きと恐れを見せてちぢみあがった。
「どうかドアをしめてくれたまえ」とホームズが言った。「さてバニスター、昨日の事件の真実を話してくれませんかね」
彼はさっと毛の根まで蒼白(そうはく)に変じた。
「旦那様。私はあなたに全部申し上げましたが」
「何かつけ加えることはないかね?」
「何もございません」
「よろしい。では、少し暗示を与えてやらなくちゃならないね。昨日君がその椅子に腰をおろしたとき、なにか、この部屋に誰がいたかがわかってしまうものを隠そうとして、そうしたのだね?」
バニスターの顔は死人のように蒼ざめてしまった。
「いいえ……いいえ、そうではございません」
「ただ思いつきにすぎないのだよ」と、ホームズは優しく言った。「率直な話、僕にもそれが証拠づけられないんだよ。しかし充分ありうることだからねえ、というのはソームズさんが出かけるとすぐ、君は寝室に隠れていた男を逃がしたのだからね」
バニスターは乾いた唇をなめた。
「誰もいなかったのです」
「ああ、バニスター、残念だよ。今まで君はずっと本当のことを言ってたんだろうが、いま嘘をついてしまったね」
バニスターの顔には不機嫌な反抗の色がうかんだ。
「誰もいなかったのです」
「ねえ、おい、バニスター」
「いいえ、だれもいなかったのです」
「じゃあ、これ以上、何も口を割ってくれないんだね。ここにいてくれたまえ、その寝室のドア近くに立っていたまえ。さて、ソームズさん、ギルクリスト青年の部屋に行って、ここまで来くれるように伝えていただけませんか」
指導教師はすぐに学生を連れて戻って来た。彼は容姿の美しい青年で、背が高くしなやかで敏活であり、足取りははずむように、快活で鷹揚(おうよう)な顔をしていた。彼は困惑した眼差しで、ちらちらとわれわれ一人一人に目をやったが、最後に呆然(ぼうぜん)と狼狽(ろうばい)の表情を浮かべて、向こうの隅に立っているバニスターに目をとめた。
「ドアをしめたまえ」ホームズは言って、「さて、ギルクリスト君、ここにはわれわれだけしかいません。われわれの取り交す言葉は、ひと言もほかにはもれないのです。お互が心から率直になれますね。ギルクリスト君、あなたのように名誉ある人が、どうして昨日のような行為を犯すようになったかが知りたいのです」
不幸な青年はよろめいて後ずさりしたが、恐怖と抗議に満ちた顔付きをバニスターに向けた。
「いいえ、いいえ、ギルクリスト様、私はひと言もしゃべりませんでした。ひと言だって」と、召使いは叫んだ。
「いいや、だが今、言ってしまったよ」とホームズは言った。「さて、今のバニスターの言葉で、あなたの立場はのがれる望みはないことや、救われるチャンスはただ率直に告白することだけだということがおわかりでしょう」
ちょっとのあいだギルクリストは、片手をあげたまま、顔のゆがみをなんとかおさえようとしていたが、次の瞬間、テーブルのそばに膝(ひざ)をつくと、両手に顔をうずめて、はげしくすすり泣きはじめた。
「さあさあ」と、ホームズは優しく言った。「あやまちは人間にありますよ。少なくとも君を厚顔な犯罪者などと責めるものはないんですからね。僕が話したほうがあなたも楽でしょうね。僕が間違っていれば、訂正できますからね。そうしましょうね? よろしい、よろしい、無理に答えようとしなくてもいいんですよ。さあ、聞いて下さいよ。君の人格を誤解したりはしませんからね。
ソームズさん、あなたの部屋に試験用紙があるってことは誰も、もちろんバニスターでさえも知らないんだと言ったそのときから、私の心には事件の明確な形が浮かんできました。もちろん印刷屋は除外できます。印刷屋なら自分のところで調べてみることができるでしょうからね。私はインド人学生も何の関係もないと思いました。もし紙が巻いてあったら、たぶん彼にはそれがなんだかわからなかったでしょうからね。ところで、一人の男が部屋に押し入って来たら、たまたまその日に試験紙がテーブルの上にあったなどということは、あまりに偶然の一致がすぎて考えられません。それも除外しました。入って来た人間は用紙がそこにあるのを知っていたのです。
じゃ、どうして彼は知っていたか? 部屋に近づいたとき、私は窓を調べてみました。あなたは向かい側の部屋から人が見ている白昼に犯人が窓から入りこむことができるかどうか、考えていられたらしいのでおかしくなりました。そんな考えはばかばかしいものです。私は真ん中のテーブルにどんな紙が置いてあるかを窓ぎわを通りながら見るのに、どの位、背があったらできるかをはかっていたのです。私は六フィートありますが、背のびしなくては見えません。六フィート以上なければ、そのチャンスはないでしょう。三人の中で人並みはずれた人はいないか、いればいちばん目をつけなければならない人間だと考えていいわけがあったのです。私は家に入ると、サイドテーブルが暗示していることをうちあけてお話ししました。あなたがギルクリストの人物を述べておられる際、彼が幅跳びの選手だとおっしゃるまでは、中央テーブルからは何もわかりませんでした。それで私にはすべてがわかったのです。私はただ確定的な証拠がほしいだけになったのです。それはすぐに手に入りました。
事件はこういう次第です。この青年は午後運動場ですごし、幅跳びの練習をしていました。彼は幅跳び用の靴を持って戻って来ましたが、ご存じのように、それは底に釘が打ってありました。あなたの部屋の窓ぎわを通るとき、並はずれて背が高い彼は、いかにも試験用紙らしいものがテーブルの上にあるのに目をとめました。しかし、もしあなたの召使いが鍵を不注意に差し込みっ放しにしておいてあるのに気づかなかったら、何の災(わざわい)も起きなかったでしょう。彼は突然に、それをのぞいて見てやろうという衝動におそわれました。しかしそれも、さほど危険な離れ業(わざ)というわけでもありませんでした。もしとがめられても、いつでも質問があって入ったふりをよそおえましたからね。
さてそこで、それが本当に試験用紙だということを知ったのですが、彼が誘惑にかかったのはそのときなのです。靴をテーブルの上に置きました。あなたが窓の近くの椅子に置いたものは何だったのですか」
「手袋です」と青年は答えた。
ホームズは勝ち誇ったようにバニスターを見た。
「彼は手袋を椅子の上に置きました。そして問題を写すために、一枚一枚とっていったのです。指導教師は正門から帰って来るのだから見えると思っておりました。ところがソームズさんは横門から帰って来たのです。突然先生がドアのところへ来たのを知りました。とっさには逃げられそうもなかったので、靴をつかんで寝室へかけこみましたが、手袋を忘れてしまいました。テーブルの上の掻き傷は片方が浅かったけれど、寝室に近いほうは深くなっているのをご存じでしたね。それだけでも靴が寝室のほうへひっぱられたということや、犯人がそこへ逃げこんだのだということがわかります。釘のまわりについていた土がテーブルの上に残りました。次のゆるくなった土は寝室に落ちました。私は今朝、運動場に出かけましたが、黒い粘土は幅跳びのピットに使われているのを知りました。そこで見本をひとつ持って来たのですが、粘土には良質のタン皮殻(ひかく)やおがくずが混じっていました。すべりを防ぐためにまき散らしたものなのですね。ギルクリストさん、間違いないでしょうね」
彼は真直ぐに身をおこした。
「そうです。それに違いありません」
「まったく驚いた! 君、何かつけ加えることはないかね」とソームズは言った。
「ええ、あるのです。しかしこの面目ない暴露(ばくろ)で、ひどくショックを受けたので、気持が乱れています。ソームズ先生、ここに手紙がございます。昨夜落ちつかぬままに、夜明けになってからあなた宛に書いておいたものです。これは私の罪があらわれる前に書いておいたものです。これです。ここに書いてありますが、《私は試験を受けないことに決めました。ローデシアの警察から警部の職で招かれているのです。すぐに南アフリカに出発するつもりです》」
「不正な便宜(べんぎ)を得て利用するつもりのなかったことを聞いて、とても嬉しいよ。しかし、どうして目的を変えたのだね?」ソームズが言った。
ギルクリストはバニスターを指さした。
「この男が、私を正道(せいどう)にもどしてくれたのです」
「では、バニスター」ホームズは言った。「彼を逃がしてやれるのは君だけなんだということは、僕が今言ったことからすぐにわかるだろう。君が部屋にいて、出るときに鍵をかけたのだからね。窓から逃げるなんてことはできない話だ。この不思議な事件で不明なところをはっきりさせて、なぜそんな行動をとったのか話してくれないか」
「おわかりになってしまえば、まったくあっけないことなんです。しかしあなたの全知能をもってしても、これだけはおわかりになりませんでした。私はこのお若い方のお父上にあたるサー・ジェイベズ・ギルクリストの執事を勤めたことがあるのです。あの方が破産なさったとき、私はこの学寮に召使いとしてやって参りました。しかし私は決して以前の主人を忘れはいたしませんでした。と申しますのは、あの方が零落(れいらく)なさってしまったからです。私は昔の恩義のため、できる限り、ご子息の面倒をみさせていただきました。
昨日ここにやって参りまして、何かおこったといわれましたとき、最初に目についたのは、ギルクリスト様の茶色の手袋が椅子の上にのっていることだったのです。私はその手袋をよく知っていましたし、それがそこにある意味も悟りました。ソームズ様がそれをご覧になれば万事休すです。私はその椅子の上に倒れました。私はソームズ様があなた様の所へお出かけになるまで、どんなことがあっても、そこから身動きいたしませんでした。それから気の毒な年若のご主人が出て来ました。あの方は私の膝にすがり、全てをうちあけて下さいました。旦那様、私があの方をお助けするのは当然ではございませんか? それにあの方の亡くなられたお父上がなさったようにお話しして、そんなことで利益を得ることはできないということをわかっていただこうとしたのも当然じゃございませんか? それでも私のとがめにはなりますまい」
「いや、どうして、どうして!」ホームズは心から言って立ち上がった。「さて、ソームズさん。これであなたの小さな問題も解決したようです。私どもも家では朝食がまっておりますから。さ、行こうよ、ワトスン君! ああ、それからあなたにはローデシアですばらしい未来がひらけるだろうと信じていますよ。一度は堕落なさったが、どうか今後、どんなに立派になられるか、私たちに見せて下さい」
金縁(きんぶち)の鼻眼鏡

一八九四年という年にわれわれがやった仕事を記録してある三冊の厖大(ぼうだい)な書類に目を通してみると、このたくさんな材料から、いったいどの事件を選べば最も興味があるか、また私の友の世に知られたあの特異な才能を示すことができるか、私は少なからず困惑を覚えるのである。ページをめくるにつれて、いやらしい赤蛭(あかひる)事件や、クロスビーという銀行家の惨死事件の記録が出てくる。さらにアドルトンの悲劇やイギリス古代の塚(つか)にまつわる奇妙な事件。有名なスミス・モーティマーの相続事件もこの年だし、ブールヴァールの暗殺者ユレーを追ってつかまえたのもそうだった。……この事件ではホームズはフランス大統領自筆の感謝状をもらい、レジオン・ド・ヌールを受ける名誉を得ている。これらの事件のどれでも充分に一篇の物語になるだろう。しかし、私はヨックスリーの古荘の話ほど奇怪で興味のあるものは他にあるまいと思う。
この事件では、若きウィロビー・スミスが哀れな死を遂げたばかりか、犯罪の原因に奇妙な光を注ぎかける進展が相次いで起こったからである。

十一月も終ろうとしている、あるひどい嵐の夜のことだった。ホームズと私はその夕方、黙りこくったまま坐っていた。彼は度の強いレンズで、羊皮紙の薄れた元の字を判読しようと一生懸命だし、私は最近の外科手術についての論文を読みふけっていた。戸外ではベイカー街を風が吹きまくり、雨ははげしく窓に降りそそいでいる。この十マイル四方もある人間のつくった街の真ん中にいながら、大自然の鉄のごとき掌握を感じ、巨大な自然の力にかかっては大ロンドン市ももぐら塚(づか)同然で、大地のちょっとした点にしかすぎない、などと私たちが今さら思うのは奇妙なことだった。
私は窓に歩みよって荒涼たる街を眺めた。ときおり、ひどくぬかった道や、雨にぬれて輝やく舗道をランプの光が照らしていた。馬車が一台、オックスフォード街のはずれから水しぶきをあげて来た。
「ねえ、ワトスン君、今夜は出かけなくてよかったじゃないか」ホームズはレンズをわきに置き、羊皮紙を巻きながら言った。
「じっと坐っているにしては、ちょっとした仕事をしたよ。でも目が疲れるね。しかし僕の発見した限りでは、十五世紀後半から書かれているお寺の記録ほど面白いものはないな。あれ! あれ! あれ! ありゃなんだい?」
たけり狂う風の中から馬の蹄(ひづめ)のパカパカという音と、ふち石にきしる馬車の音が聞こえてきた。私が先刻みた馬車がわれわれの家の前で止った。
「何しに来たんだろう?」一人の男が降りるのを見て、私は大声で言った。
「用事さ、僕らに用があるんだ。そしてワトスン君、僕らのほうも外套(がいとう)だの襟巻きだの雨靴だの、それに天候と戦うために人間が発明したいろんなものに用ができたんだよ。おっと待った。馬車が帰って行ったぞ! まだ望みはあるぞ。もし僕らを連れて行く気なら、とめておくはずだからな。君、すまないがちょっと階下へ行って玄関をあけてやってくれないか。善良な人間ならもうとっくに寝ているはずだからね」
広間のランプの光が深夜の客におちると、私は彼が誰であるかすぐわかった。それは将来を嘱目(しょくもく)されているスタンリー・ホプキンズ探偵で、ホームズはこれまで何度かにわたって彼に助力してやっていた。
「ホームズさん、いますか」彼はせっかちに言った。
「まあ上がれよ、君」上からホームズの声がした。「こんなひどい晩にはあまり面倒をかけないでほしいもんだね」
探偵は階段をのぼった。ランプの光が彼のぬれた防水具に光った。私がそれに手をかして脱がせている間に、ホームズは炉の火をかきたてた。
「さてと、ホプキンズ君、近寄って爪先を暖めたまえ」彼は言った。
「葉巻もここにあるし、先生がレモン入りの熱いやつを作ってくれるよ。こんな晩にはよく効く楽だ。ところでこんなひどい晩にやって来たっていうには重大事でもあるんだろうね」
「もちろんですよ、ホームズさん。今日の午後はまったく忙しかったですよ。夕刊の最終版でヨックスリー事件のことを何かお読みになりましたか」
「いや、今日は十五世紀以降のことは何も見てないんだ」
「いやね、ちっぽけな記事で、しかも間違いだらけなんだから見る必要もありませんがね。もっとも私は足が地につかぬほどでしたよ。ケント州の南でチャタムから七マイル、鉄道から三マイルばかり引っ込んだところです。三時十五分に電報で呼ばれてヨックスリーの古荘についたのが五時、一応捜査を済まして終列車でチャリング・クロス駅に帰って来て、馬車でまっすぐ伺ったというわけです」
「というと、その事件は君には手におえないというわけかね」
「全然、頭もシッポもつかめないんですよ。私の感じじゃあ、今まで扱った事件の中では難物ですね。ところが一見したところは間違えようもないくらい単純なんです。でもね、ホームズさん、動機がないんですよ。それがいちばん頭痛の種なんですが……動機が全然わからない。ひとりの男が死んでいる……それは疑いもない事実です……しかし私の調べた限りでは、彼に敵意を持つやつは一人もいないんです」
ホームズは葉巻をくわえて椅子にもたれた。
「まあ、内容をきかせてくれたまえ」彼は言った。
「事実はかなりはっきりわかりました」ホプキンズは言った。
「私が今知りたいのは、その事実がいったい何を意味しているか、なんです。私の調べた範囲では、話というのはこうなんです。何年か昔にこの田舎屋敷、ヨックスリー古荘にコーラム教授という老人が住みつきました。彼は病弱で一日の半分は床にふしており、あとはステッキをついて家のまわりをぶらぶらするか、車椅子を庭男に押させて庭を散歩するくらいです。近所の人で彼を訪ねた人は少ないのですが、みな彼によい感じを持っていますし、あのあたりじゃ、彼は学識のある人だということで聞こえています。家事をきりもりしているのは、年寄りの家政婦マーカー夫人と女中のスーザン・タールトン。この二人は教授が住みついて以来います。ともになかなか良い気質の女です。
教授は何か学問的なむずかしい物を書いており、一年ばかり前に秘書をおく必要を感じました。試みに最近雇った二人は駄目でしたが、三人目の大学を出たばかりのごく若いウィロビー・スミスという男がお眼鏡(めがね)にかないました。彼の仕事は午前中は教授の口述を書くことで、夜はたいてい翌日の仕事の足しになるような参考書を探したり文章を読んだりして過ごしていました。このウィロビー・スミスは少年時代アッピンガム校の生徒としても、長じてケンブリッジの学生としても恥ずかしからぬ青年です。私は彼の推薦状を見たのですが、それには彼は昔から上品で落ちついており、勤勉家だし、欠点は全然ないと書いてありました。それなのにこの青年が今朝がた、教授の書斎で殺されたとしか思えない死に方をしたのです」
風はますますたけり、窓をきしらせた。ホームズと私は、この青年探偵が彼独特の話しぶりでゆっくりと要点を追って話す間、炉のそばにかじりついていた。
「かりにあなたがイギリスじゅう探したとしても、あんなに外からの影響を受けないで自己流に自由にやっている家はみつかりますまい。何週間すぎようと誰ひとり庭の門をくぐるものはいません。教授はその仕事に没頭するために生きている。スミス青年は近隣の人ともまったく交渉がなく、主人とまったく同様の生活をしている。二人の女も家から出ない。庭男のモーティマーは車椅子を押している男ですが、軍人恩給を受けており、クリミア戦役で戦った立派な男です。彼はこの家には住んでおらず、庭の反対側の端の三間ばかり部屋のある小屋にいます。これでヨックスリー古荘の住人全部です。それから庭の門はロンドンからチャタムに通う公道から百ヤードほどのところで、掛け金さえはずせばすぐ開き、誰でも容易に入れます。
さて、では女中のスーザン・タールトンの証言をお聞かせしましょう。彼女だけがこの事件で積極的にものが言えるんです。昼近い頃、十一時から十二時の間です。彼女はそのとき二階の表の寝室にカーテンを吊っていたそうです。コーラム教授はまだベッドにいました、というのは天候の悪い日は昼前にはめったに起きない習慣だそうで。家政婦は家の裏手で何か忙しくやっていました。ウィロビー・スミスは居間として使っている彼の寝室にいました。しかし女中はそのとき、彼が廊下を通って女中の真下になる書斎に降りて行く音を聞きました。彼女はスミスを見てはいませんが、彼の早いしっかりした足音は間違いようがないと言っています。
女中は書斎のドアの閉まる音は聞きませんでしたが、一分かそこらすると恐ろしい叫び声が下の部屋から聞こえてきたのです。荒々しい、しわがれたような、奇妙で不自然な声で、男か女かわからなかったそうです。
次の瞬間、重いドサリという音がして家じゅうに響きわたりました。そしてそれきり静かになりました。女中は一瞬ギョッとして立ちすくみましたが、勇気を振い起こして階下へ駆けおりました。書斎のドアが閉まっており、彼女はそれをあけてみました。すると中にウィロビー・スミス青年が床に長々と倒れているのです。はじめ見たところ、どこにも傷はないようでしたが、抱き起こして見ると首の下から血が流れ出ていました。とても小さな傷でしたが、深く頚動脈(けいどうみゃく)を絶ち切っていました。兇器は彼のかたわらの絨毯の上にころがっていました。それは古風な、机の上などによくある、象牙の柄(え)のついた、刃のかたい小さな封蝋(ふうろう)用のナイフです。それはコーラム教授の卓上の備品のひとつでした。
最初、女中はスミス青年はもう死んでいると思ったのですが、水さしの水を額にたらすと、彼はちょっと目をあけて、《先生、あの女です》とつぶやきました。この言葉は誓って間違いないと女中は言っています。彼は力をしぼって何か言おうとし、右手を宙に動かしましたが、それきり彼は死にました。
一方、家政婦も部屋にとんで来ましたが、彼の最後の言葉を聞くにはひと足おくれました。スーザンを死体のそばにおいて、彼女は教授の部屋へ走りました。教授はあの叫び声を聞いて、てっきり恐ろしいことが起こったのだとベッドの上にひどく動転した様子で坐っていました。マーカー夫人も教授はたしかにまだ寝まきを着ていたと言っています。
実際、彼はモーティマーの助けがなければ着がえはできず、モーティマーは十二時に来るように言われておりました。教授はたしかに遠くで叫び声を聞いたが、それ以上何も知らないと言っています。彼は青年の最後の言葉、《先生……あの女です》については何も説明できませんでした。それは単なるうわ言ではないかと言っています。教授はウィロビー・スミスに敵があるとは信じられないし、この犯罪の理由もわからないと言います。教授はまず庭男のモーティマーを土地の警察へ走らせました。しばらくして警察署長から私に迎えが来たわけです。私が行ったときには何も動かされてはいませんでしたし、家に通じる道は誰も歩いてはいけないと厳重な命令が出されていました。シャーロック・ホームズさん、あなたの日頃の説を実行してみるには実に良い事件ですよ。欠けているものは何もありません」
「シャーロック・ホームズ氏がいないだけでね!」ホームズは幾分苦い笑みを浮かべながら言った。
「さて、それじゃ伺いましょうか、君がどんな捜査をしたか」
「その前にホームズさん、この略図を見て下さい。ご覧になれば教授の書斎と、この事件のいろいろな要点がわかりますし、これから私が話すことの参考にもなります」
彼は、いま私がここに書くような略図をひろげてホームズの膝の上においた。私は立ってホームズの背にまわり、彼の肩ごしにのぞき込んだ。
「もちろん、これは非常に簡単な図ですから、私が大切だと思った点しか書いてありません。あとはご自身でおいでになればわかります。さて、第一に犯人が家にしのび込んだとすると、どうやって彼、または彼女が入ったか? 疑いもなく庭の小道から裏口を通ってです。そこからは真直ぐ書斎に通じる廊下があります。ほかの道はどれももっと複雑ですからね。逃げ口も同じ径路でしょう。この書斎からのほかの二つの出口は、一つは階段をおりてくるスーザンにふさがれるし、もう一つは真直ぐ教授の寝室に通じています。そこで私は、直ちに庭の小道に着目しました。この道はこの雨でしめっていますから、たしかに足跡を残すはずです。
調べてみると、どうやら犯人は注意深く、場なれした奴だとわかりました。小道には全然足跡が見つからないのです。それでもたしかに小道に沿った草を歩いた形跡があり、それは足跡をくらますためにほかなりません。はっきり踏みつけられているのは見つかりませんでしたが、草は踏みしだかれており、疑いもなく誰か通ったのです。その日の朝は庭男も誰も通っておらず、雨は前夜から降っているのですから犯人以外にありません」
「ちょっと待った」ホームズがさえぎった。「その小道というのはどこに通じているのだね?」
「街道ですよ」
「どのくらい距離がある?」
「百ヤードくらいのものでしょうね」
「小道が門をくぐっているあたりには、足跡は見つからなかった?」
「残念ながら、その辺はタイルが張ってありましてねえ」
「ふむ、では街道には?」
「いえ、なにしろ街道は足跡がいっぱいで」
「チェッ! それじゃその草の上の跡は、来たのか出たのか、どっちに向っているの?」
「それもわかりません。輪郭がはっきりしていませんのでね」
「大きいの、小さいの?」
「こいつも見当がつきません」
ホームズはじれて舌うちをした。「それ以来ずっと雨が降って暴風なんだからな。こりゃ羊皮紙を読むより面倒だぞ。まあまあいいさ。ホプキンズ君、確実なものは何もないとわかってからどうしたんだい?」
「ホームズさん、僕はいろいろと確かめたつもりですよ。誰かが外から家に侵入したのは確実です。それで次に廊下を調べました。廊下は椰子表(やしおもて)の上敷がしいてあり、足跡はまったく残りません。この廊下から書斎に行きました。この部屋は家具のすくない部屋で、箪笥(たんす)つきの大きなデスクが主な家具です。この箪笥はまんなかに小さな戸棚をはさんで両側に抽出(ひきだ)しがあります。抽出しはあいていましたが、戸棚は鍵がかけてありました。抽出しのほうはいつもあいているようで、重要なものはしまってないようです。戸棚には重要書類が多少入っていますが、これはいじった形跡がありません。教授は何もなくなっていないと言っています。結局、泥棒を働いてはいないようです。
次に青年の死体を調べました。死体は箪笥の近くの左にあり、この図の通りです。傷は首の右側でうしろから前に刺されています。ですから自分で刺すのは不可能なわけですね」
「ナイフの上に倒れたんでなければね」ホームズは言った。
「そうです。僕もそのことは考えました。でもナイフは死体から数フィート離れて落ちていましたから、自分で刺したとは思えません。それに死ぬとき言った言葉もあることだし。それから最後にですが、死体が右手に握っていた重要な証拠品があります」
スタンリー・ホプキンズはポケットから小さな紙包みを取り出した。それを拡げると、二本の黒い絹の紐がついた金縁の鼻眼鏡が出てきた。
「ウィロビー・スミスは目の良い男なんです」ホプキンスはつけ加えた。「これはたしかに犯人の顔からもぎとったんですよ」
シャーロック・ホームズは眼鏡を手にとって、非常に注意深く、かつ興味ありげに調べた。彼は自分の鼻にその眼鏡をかけ、何か読もうとしたり、窓のところへ行って街を眺めようとした。そして今度はランプの光でとっくりと調べ、最後に薄笑いを浮かべて机に向かい、紙に数行なにか書いてスタンリー・ホプキンズに渡した。
「これが最善の援助だね。きっと何か役に立つよ」彼は言った。驚いた探偵は声を出してそれを読んだ。それは次のようなものである。

尋ね人。応待上手な貴夫人ふうな女。鼻がひどく厚く両眼は鼻に接近している。額に皺(しわ)あり凝視の癖がある。おそらく猫背。ここ数か月のうちに少なくとも二回、眼鏡屋に行った形跡あり。彼女の眼鏡は非常に度が強く、かつ眼鏡屋の数はそれほど多くないゆえ、彼女をつきとめるのはさして困難ではないはず。

ホームズはホプキンズの驚いた顔を見て笑った。私の顔にもホプキンズの驚きがうつっていたにちがいない。
「なに、僕の推理はごく簡単だよ」彼は言った。「眼鏡ほど推理に都合のいい物はまず無いのじゃないかねえ。ことにこの眼鏡は特徴があるからよい。これが女用だということは、華奢(きゃしゃ)なこととスミスの最後の言葉で推定できる。彼女が上品で良いものを着ているのは、ほら、メッキじゃなくて本物の金縁が見事にはめられているのでもわかる。こんな上等な眼鏡をしている女はほかの点でも貧相なはずはないよ。君の鼻には広すぎるだろう。ということはこのご婦人の鼻柱がとても厚い証拠だよ。こういう鼻は通例、低くて下品なもんだが、例外もずいぶんあるから、この際それまで断定したり主張するのは止めよう。僕の顔は細いほうだが、それにしてもこの眼鏡をかけると、僕の目はレンズの中心に合わない。これは婦人の目がひどく鼻のほうへ寄っているということだ。ワトスン君、見てごらん。これは近視用で、しかもひどい度の強さだ。長く近視でいるという女には肉体的な特徴ができるものだ。それは額や眼ぶたや肩にあらわれる」
「うん、君の言うことはわかったよ。しかし彼女が二度、眼鏡屋に行ったというのはわからんね」私は言った。
ホームズは眼鏡を取り上げた。
「見てごらん。止め金に鼻の圧迫を柔らげるために薄いコルクがついている。そのひとつは変色して幾分すり切れている。一方はまだ新しい。明らかに片方がとれたのでつけかえたのだ。しかし古いほうもまだ数か月もたっていないよ。このふたつは品が同じだし、そこで僕はこのご婦人は同じ店に二度行っていると判断するわけだ」
「なるほど、たいしたもんだ!」ホプキンズが感嘆して叫んだ。「僕はみんな証拠を持ちながら、それに気づかなかった。もっとも僕もロンドンじゅうの眼鏡屋を調べてはみるつもりでしたが」
「もちろん、やってみることだね。ところで事件についてまだ何か話すことがありますか」
「もうありません。ホームズさん。あなたは僕の知っていることはみな、いやそれ以上にご存じのようです。あの界隈(かいわい)の道や駅で見なれぬ人物を見かけなかったか、調べましたが、誰もないのです。犯罪の目的はいったい何か、それがわからないのが困りますよ。まったく動機がつかめませんからねえ」
「うん、それは僕にもわからないな。でも明日来てくれというわけなんでしょう」
「申し訳ありませんが、ホームズさん。六時にチャリング・クロスからチャタム行の汽車があります。八時から九時までにはヨックスリー古荘に着くでしょう」
「それに乗るとしよう。君の持ち込んだ事件はとても面白そうだ。喜んで首をつっこもうよ。さてと、もう一時だね。眠っておかなきゃいかん。炉の前のソファに君は休むといい。出発前にはアルコール・ランプでコーヒーを入れて上げるよ」

翌日は暴風もやんでいたが、旅をするにはいささかつらい朝であった。長い陰気なテムズ河の下流地帯と、じめじめした沼地に冷たい冬の陽(ひ)が上がった。こうした眺めは、われわれの共同生活のはじめの頃にアンダマン島人を追跡したことを思い出させた。長い退屈な旅の末、われわれはチャタムから数マイル離れた小さな駅に降り立った。田舎(いなか)宿屋で馬車の支度をしてくれる間に、われわれは大急ぎで朝食をとった。
ヨックスリーの古荘についたときには、われわれはすぐ仕事にかかれるだけの準備を終えていた。庭の門には警官が待っていた。
「やあ、ウィルスン、何かニュースはあったかい?」
「いえ、何もありません」
「見かけぬ奴を見たという報告は?」
「ありません。駅では、昨日は見知らぬ人の出入りはなかったそうです」
「宿屋は調べたかい?」
「はい、変な奴はひとりもおりませんでした」
「そうか、チャタムへ歩くという手もある。何者がとまるか、見つからずに汽車に乗るか知れたもんじゃないからね。ホームズさん、これが昨夜私の言った庭の道ですよ。昨日ここに足跡がなかったといったのは間違いありません」
「草の上に跡があったというのはどちら側かね」
「こっちです。この道と花壇との間の細い草の上です。今はもうわかりませんが、たしかにありました」
「そうですか。誰か通ったに違いない」ホームズは草の上にかがみ込んで言った。「例のご婦人は注意深く歩いたに違いない。でなけりゃ、一方は道に足跡が残るはずだし、片側は柔かい花壇だから、もっとはっきり跡が残るだろう」
「そうなんですよ。こいつは相当のしたたかものですぜ」
私はちらとホームズの顔をみた。
「君は、奴は逃げるときもここを通ったらしいと言ったね?」
「ええ、でなきゃ逃げようがありません」
「この狭い草地の上をね」
「もちろんですよ、ホームズさん」
「ふうむ! それは注目すべき行動だよ。非常に注目すべきだ。ところで道はこれで充分だから、先へ行ってみよう。この庭の戸はいつも開けっぱなしなんだね。それじゃこの訪問者は、中に入るのはわけなかったわけだな。彼女はきっと殺す下心はなかったんだよ。もし殺(や)るつもりなら、なにも机の上のナイフなんか使わずに、自分で凶器を持って来るはずだ。彼女は椰子の上敷があるから足跡を残さないで、この廊下を進んだ。いつの間にかこの書斎へやって来たと。どのくらいここにいたかは、判断の方法がない」
「ほんの数分ですよ。忘れてましたが、家政婦のマーカー夫人がその少し前……十五分前だと言ってますが……ここを片付けていたそうです」
「そう。それで限定できるね。ご婦人はこの部屋に入って何をしたか? 彼女は机に近づいた。何のために? 抽出しの中が目あてじゃない。盗む値打ちのあるものが入っていたなら、鍵がかかっていたはずだからね。いや、あの木製の戸棚の中のものが目あてだ。ほら! 表面に引っかいたあとがあるぞ。ワトスン君、マッチをつけてくれないか。ホプキンズ君、なぜこのことを言わなかったのだね」
彼が調べている引っかき傷は鍵穴の真鍮(しんちゅう)の右側からはじまって、四インチばかりニス塗りの表面を傷つけていた。
「気がついていましたよ、ホームズさん。でも鍵穴のまわりにはいつも傷があるものですからね」
「いや、これは新しい……ごく最近の傷だ。傷の部分の真鍮が光っているじゃないか。古い傷だったらほかの表面と同じ色のはずだ。このレンズで見てごらん。ニスがまだ両側に盛り上がっているよ。ところでマーカーさんはいませんか」
悲痛な顔つきの年とった婦人が部屋に入って来た。
「あなたは昨日の朝、この箪笥にはたきをかけましたか」
「はい」
「この傷にお気づきでしたか」
「いえ、気がつきませんでした」
「そうでしょうね。はたきをかけたら、ニスの粉なんか飛んでしまいますからね。箪笥の鍵はどなたがお持ちですか」
「旦那様が時計の鎖につけておいでです」
「普通の鍵でしょうか」
「いえ、チャブ鍵でございます」
「結構です。マーカーさん。お引きとり下さい。さあ、少し前進したぞ。ご婦人はこの部屋に入って箪笥をあけたか、あるいはあけようとした。彼女が箪笥に夢中になっている間に、ウィロビー・スミス青年が部屋に入って来た。彼女はあわてて鍵をひっこめようとして、戸に引っかき傷を作ってしまった。スミスが女をつかまえたので、女は手近にあったものをつかんでスミスの手から逃れようと彼を打った。それがたまたまナイフだったというわけだ。この一撃が彼の致命傷だったわけだ。スミスは倒れ、女は目あてのものを盗むか、失敗するかして逃げる。女中のスーザンさんはいますか? あなたが叫び声を聞いてその直後に、このドアから誰かが逃げ出すなんてこと、できますかね」
「いえ、できないはずです。階段を降りる前に上から見通しで、誰も見ませんでしたもの。第一、誰か逃げたならドアのあく音が聞こえたはずでございます」
「それじゃ逃げ口はこれだ。女は入って来たときと同じ出口から逃げたんだ。このもうひとつの廊下は教授の寝室に通じているのだったね。途中どこか出口があるかね」
「ございません」
「それじゃ行って教授にお目にかかろう。おっと、ホプキンズ君! これは重要だぞ。非常な手がかりだ。教授の部屋への廊下にも椰子表の上敷がしいてあるぜ」
「そうですよ。それがどうかしましたか」
「事件の手がかりになるとは思わないかね? うん、まあいいさ。あえて主張はしますまい。僕が間違っているとしよう。しかしこれは非常に興味をそそるね。さあ、行って教授に紹介してくれたまえ」
庭に通ずる廊下とちょうど同じくらいの長さの廊下をたどると、行きどまりに二、三段の階段があり、それを上がると、すぐ部屋になる。ホプキンズがノックして教授の寝室に通してくれた。それはずいぶんと広い部屋で、おびただしい書物が詰まり、棚からはみ出たのが隅々に積んであったり、棚の上に並べられてあったりしていた。部屋の中央にベッドがあり、枕に支えられて、この家の主人が起きていた。
私はいまだかつて、こんな奇妙な顔をした人を見たことがない。われわれのほうに振り向いた顔は、やせ衰えて鷲(わし)のようで、ふさふさした眉毛の奥深くの目は暗く、鋭かった。髪と髭(ひげ)は白かったが、おかしなことに口の周囲だけが黄色く汚れていた。巻き煙草の火が白いもじゃもじゃした髭のなかで赤く光っている。部屋の空気はよどんだ煙草の煙の匂いで満ちていた。彼はホームズに手をさしのべたが、その手もニコチンで黄色く染まっていた。
「ホームズさんとやら、煙草はおやりですかな」上品な英語だが、多少気どったおかしなアクセントで彼は言った。「どうぞ煙草をお取り下さい。あなたはいかがですか? この煙草はお進めできます。何しろアレクサンドリアのイオニデスに特別に注文したものですからね。一回千本ずつ送らせていますが、それが二週間ごとに新しく送らせなきゃ間にあわぬ始末でございましてね。毒だ、毒だと思いながら、老人には他に楽しみもありませんので。煙草と仕事……これだけですよ、私に残されているものは」
ホームズは煙草を取って、ちらちらと射るような目つきで部屋の様子を眺めた。
「煙草と仕事。しかし今となってはもう煙草だけですわい」老人は叫んだ。「何て情(なさけ)ないことだろう! こんな恐ろしい結末になろうとは、誰が想像できたでしょうか? 才のある青年だったのに! 二、三か月手ほどきしてやったら立派な助手になりましたですよ。ホームズさん、あなたはいったいこの事件をどうお思いなさる?」
「まだ考え中でしてねえ」
「このわけのわからない事件を、あなたが解決して下さったら本当に助かります。この哀れな病弱の老読書家には、この打撃はひどくこたえましたわい。ものを考える力さえなくなってしまった。しかしあなたは活躍家だし……こんなことには慣れておいでだ。むしろこんなことはあなたの生活では茶飯事でしょう。どんな危急のときでも落ちついておられる方だ。あなたのような方に来ていただいて本当にありがたい」
老教授がしゃべっているあいだ、ホームズは部屋の片側を行きつ戻りつしていた。彼はひどく急(せ)きこんで煙草をふかしていた。彼も主人同様、新着のアレクサンドリアの巻き煙草が気に入っているようだった。
「本当に手ひどい打撃ですよ」老人は言った。「あのサイドテーブルに積んであるのが私の著述です。シリアやエジプトのコプト人修道院で発見した記録を分析して、キリスト教やユダヤ教の根本理念を解明しようというわけです。しかし私は健康ではないし、助手もいなくなったとなれば、完成できるかどうかもわからん。ところでホームズさん、あんたは私より愛煙家とみえますよ」
ホームズは笑った。
彼は新しく四本目の煙草を箱からとって、吸い終えた吸いさしから火を移しながら言った。
「私は煙草の鑑定家でしてね。ところでコーラム先生、私は犯罪の行なわれた時刻には教授はベッドにおいでになって、何もご存じなかったということをもう知っておりますから、長い面倒な質問はいたしますまい。ただひとつ伺いたいのですが……あの可哀そうな青年がいまわのきわにいった言葉、《先生……あの女です》ということを、どうお思いでしょうか?」
教授は頭を振った。
「スーザンは田舎娘ですし、あの女の嘘みたいに薄ばかなのはおわかりでしょうがな。スミスはとりとめもない、うわ言を言ったのを、スーザンが伝言と聞きとったのと思いますがなあ」
「なるほど、で、あなたご自身はこの惨劇をどうお考えで?」
「おそらくは不慮の出来事でしょうな。ここだけの話だが、たぶん……自殺と思いますな。若い連中は人に知られぬ悩みを持っているもの……スミスもおそらくわれわれの知らぬ恋愛問題かなにかの悩みを持っていたんではないですかな。そのほうが殺されたと考えるより妥当のようですが」
「しかし、あの鼻眼鏡は?」
「ああ! 私はただの学究……夢想家です。人生のそうした実際的なものはとんと説明はできかねますわい。しかしな、あなた、色恋沙汰なんてものは変な形であらわれるものですて。まあまあ、もっと煙草をおとり下さい。この煙草をこんなに認めて下さるお方がいるとは愉快なことです。扇子か手袋か眼鏡か……死出の旅路に形見として何を持って行くか、そんなことはわかりませんわ。こちらのお方は草の上の足跡のことをお言いなさる。でもそんなものは見間違いやすいものです。ナイフはきっとスミスがひっくりかえるときに遠くに投げたに違いありますまい。子供のように他愛もないことを言うようですが、私にはウィロビー・スミスが、おのが手で命を縮めたとしか思えません」
ホームズはこの考え方に打たれたらしく、考えこんで次から次へと煙草を取りながら、しばらくのあいだ部屋の中を行きつ戻りつしていた。
とうとう彼は言った。
「コーラム先生、箪笥の戸棚の中には何が入っているのでしょうか」
「泥棒の欲しいようなものはありません。一家のいろいろな書類や死んだ妻の手紙、私の受けた大学の免状なんかでね。ここに鍵がありますからご覧になって下さい」
ホームズは鍵をつまんでしばらく調べていたが、またもとに戻した。
「いや結構です。たいして役に立ちそうもありません。それよりお庭でいろいろなことを頭の中で整理してみましょう。あなたのおっしゃった自殺説についても考えてみましょう。コーラム先生、お邪魔して申し訳ございませんでした。昼食後もういちどお邪魔いたします。二時頃に、それまでに何か起こったらご報告に参りましょう」
ホームズは妙にそわそわしていた。われわれは庭の小道をしばらくのあいだ黙って行ったり来たりした。たまりかねて私は口をきった。
「何か手がかりがつかめたかい?」
「僕のふかした煙草に解決の鍵がかかっているんだ。まったく当てが外れているかもしれないが、まあ煙草が何か教えてくれるだろう」
「ホームズ、いったいどうして……」
「まて、まて、今にわかるさ。だめだとしたってかまやしない。もちろん眼鏡に戻って手がかりをたどることもできるわけだが、思いついたので近道を選んでみたのさ。あ、マーカー夫人がいる。五分ばかりいろいろ聞いてみようじゃないか」
前にも述べたかもしれないが、ホームズはその気にさえなれば、女のご機嫌をとる手管(てくだ)を妙に心得ていて、簡単に女たちと気やすくなってしまうのである。彼の言った五分間の、その半分もせぬうちに、彼は家政婦とうちとけてしまい、十年の知己かなんぞのようにおしゃべりをはじめた。
「はい、ホームズさん、その通りなんですよ。先生は、それは驚くほど煙草をお飲みになります。一日じゅう、いえひと晩じゅう煙草をお飲みになっていることもございます。いつか朝方、お部屋にうかがったときも……そうでございますね、ロンドンの霧みたいで。お可哀そうなスミスさんも煙草は召し上がりましたが、先生ほどじゃありませんでしたわ。先生のご健康……そうですわね、煙草がお体によいか悪いか、それはわかりませんが」
「うん! でも食欲は減るもんだよ」とホームズは言った。
「はあ、どうですか私には」
「先生はほとんど何も召し上がらないだろう?」
「いえ、先生はとてもムラがございまして、そのこと、今度先生に申してみましょうか」
「先生は今朝は何も食べなかったし、あんなに煙草を吸っていらしたから、おそらく昼食もお上がりにならないよ。賭けてもいいぜ」
「ところがあなた、全然はずれました。先生は今朝はずいぶん召し上がりましたわ。あんなにたくさんお上がりになったなんて初めてですわ。そのうえ、お昼にはカツレツの大きいのをというご注文なんですよ。驚きますわ。私なんぞ昨日スミスさんが死んでおられるのを見てからは食べ物なんてぞっとします。でも世は様々でございますからね。先生はあれくらいのことで食欲がなくなるなんてことは、おありにならないようですわ」
われわれは午前中を庭で過ごした。スタンリー・ホプキンズは前の日の朝、チャタム街道で見なれぬ女をどこかの子供が見たそうだという噂を調べに村に出かけて行っていた。ホームズはといえは、日頃の精力はすっかりなくなってしまったふうであった。私は彼が事件に対面してこんな気のない様子をしているのを見たことがない。
ホプキンズが帰って来て、子供をつかまえて、ホームズが言った通りの鼻眼鏡か、普通の眼鏡をかけた女をたしかに見ているというニュースを伝えても、彼はとんと興のあるような様子を示さなかった。
昼食に給仕をしてくれたスーザンが、スミスさんは昨日の朝出かけて、惨劇の起こる三十分ばかり前にお帰りになったという話をしたときのほうが、まだ興のあるような顔だった。そのことがどんな関係があるか、私にはわからなかったが、ホームズが頭の中で作り上げている事件の骨組の中に、そのことも織りこんでいるらしいことはわかった。
突然、彼は椅子から飛び上がって時計を見た。
「二時だぞ、さあ、みんな教授のところへ行って話をつけなけりゃならん」彼は言った。
老人はちょうど昼食を終えたところで、彼の前にある、からになった皿は、家政婦がいったように、旺盛な食欲があることを証拠だてていた。白髪の頭を振り向けて、ぎらぎらした目でわれわれを眺める老教授の姿は鬼気せまるものがあった。口には、離したことのない煙草が煙を上げている。彼は着物を着て、炉のそばの肘掛け椅子に坐っていた。
「さあて、ホームズさん。謎は解けましたかな?」
彼はテーブルの上の、煙草の入っている大きなブリキの箱をホームズのほうに押しやった。同時にホームズは手をのばしたが、その瞬間、彼は箱をひっくり返してしまった。われわれはしばらく、とんでもないところまで散らばった煙草を膝をついて拾った。
立ち上がったとき、私はホームズの目が輝き、頬に赤味がさしているのに気がついた。これはいよいよ時が迫った、戦いのしるしだなと私は思った。
「ええ、解けましたよ」彼は言った。
スタンリー・ホプキンズと私はすっかり驚いてしまった。老教授のやせた額には冷笑に似たものが浮かんだ。
「ほう! 庭でですか」
「いいや、ここでですよ」
「ここで! いつです?」
「たった今」
「シャーロック・ホームズさん。冗談を言っては困りますな。そんな冗談にまぎらすには、あまりに重大な事件であることをご注意申し上げたい」
「私は鎖の一環一環を鍛(きた)え、試しているのですよ、コーラム教授。そしてこれは間違いなしなんです。どんな動機があなたにあったか、この怪事件にあなたがどんな役割を果たしたか、それはまだわかりません。しかしそれもこの数分以内に、あなたご自身の口から聞かして頂けるでしょう。それはさておき、よくおわかりになるように、今まで起こったことを系統だてて話してみましょう。そうすれば、私にまだわかってないことは何か、あなたにはおわかりでしょうから。
一人のご婦人が昨日、あなたの書斎に入られた。彼女はあなたの箪笥の中にある、ある書類を持ち出す目的で忍び込んだのです。彼女は自分で鍵を持っておりました。私は幸いあなたのお持ちになっている鍵を調べることができましたが、それには戸棚のニスに傷をこさえたような形跡はありませんでした。ですから、あなたが共犯ではないわけです。そこで女は私の証拠によれば、あなたにかくして盗みに入ったのです」
教授は口から煙を吐いた。
「これはまったく面白い。興味ある話ですな」彼は言った。「しかしそれだけですか? そこまで女の行動がおわかりなら、その後どうしたかもおわかりなんでしょうな」
「ぼつぼつと話しましょう。まず最初に、女はあなたの助手につかまえられた。逃げようとして彼を刺した。この惨劇は不幸な偶然事だと私は思っています。なぜなら、女はこのように恐ろしい危害を加えるつもりは毛頭(もうとう)なかったと思うのです。人殺しが目的なら凶器を持たずに来るはずはありません。女は自分のやってしまったことの恐ろしさに、惨劇の場から大あわてで逃げ出しました。ところが困ったことに、彼女は格闘の際に眼鏡をなくしてしまったのです。彼女はひどい近視だったので眼鏡がなくてはどうしようもありません。彼女は入って来た廊下だと間違えて、この廊下を走りました……どちらも椰子表の上敷がしいてありますしね……間違えたと気づいたときはもう遅く、逃げ場を失ってしまいました。どうしたらよいか? 今さら引っかえすわけにはいきません。なおさらここに留っていることもできません。とにかく逃げなくてはならないのです。彼女は前に進みました。階段を上がってドアをあけて、いつかあなたの寝室に入ってしまったのです」
老人はポカンと口を開けたまま、じっとホームズの顔をみつめていた。彼の動揺した顔には驚きと恐怖がありありと現われている。ややあって彼は、作意のある笑い声を肩をふるわせて響かせた。
「すばらしい推理だ。ホームズさん。しかしそのご立派な説にひとつ小さな傷がありますな。私はこの部屋におって、一日じゅう外へ出なかったんですよ」
「もちろんそれは知っております、コーラム先生」
「するとあなたは私がベッドに横になっておって、ご婦人が部屋に入って来たのに気づかなかったとおっしゃるのですかな」
「いえ、そうは言いません。あなたはお気づきになっていたのです。あなたは女と話してその女が誰であるかおわかりになった。そしてあなたは彼女の逃げるのを手伝われた」
ふたたび教授はかん高い笑い声をあげた。彼は立ち上がり、その目は燃えさしの木のように輝いていた。
「あんたはどうかしておる!」彼は叫んだ。「あんたはたわごとを言っておるのだ。私が女を逃がしたって? じゃ、いったい女はどこにおるのだ?」
「女はそこにいます」ホームズは言って、部屋の一隅にある本棚を指した。
老人は両手をふり上げた。醜い顔には恐ろしい痙攣(けいれん)が走り、そして椅子にくずれ落ちた。と同時に、ホームズが指さした書棚の 蝶 番(ちょうつがい) がはずれ開いて、一人の女が部屋に飛び出して来た。
「その通りです。その通りですわ! 私はここにいます」
女は外国なまりのある声で叫んだ。彼女は隠れ場の壁の埃(ほこり)や、くもの巣をかぶって汚れていた。その顔も埃にまみれていたが、そうでなくても決して美しいといえる顔立ちではなかった。なぜなら、さきにホームズが言った通りの肉体的な特徴が認められたし、そのうえ長くて、いかにも強情そうな顎(あご)をしていた。暗いところから急に明るいところに出たので、目がくらんだのであろう、女は立ったままわれわれがどの辺にいるか、確かめようとまばたきした。彼女は今言ったように不器量ではあったが、態度に気品があって、しゃくり顎や、しっかりあげた顔は非常に立派で、人をして思わず尊敬、感嘆の念を起こさせるようなところがあった。
スタンリー・ホプキンズは女の腕を捕えて、逮捕すると叫んだが、女は静かに彼をわきに押しやった。その命令的な威厳は人を服従させる強さがあった。老人は椅子にもたれかかり、顔の筋肉をぴくぴくさせ、血走った目で女をみつめていた。
「いかにも私は犯人です。私は隠れ場で一切(いっさい)を聞き、あなたは真実をご存じだとわかりました。すべてを申し上げましょう。青年を殺したのは私です。しかしそれは不慮(ふりょ)の出来事だったとおっしゃった方、あなたの言われた通りです。私は私がつかんだものがナイフだったとは露(つゆ)知りませんでした。私はただ彼の手から逃れようとテーブルにあったものを必死になってにぎり、彼を打ったのです。これは本当のことなのです」
「奥さん、私はそれが嘘だとは思いません。ただ、たいへんご気分がお悪い様子で気になりますが」ホームズは言った。
彼女はひどく蒼ざめ、顔が埃に汚れているので、いっそうものすごさを加えた。彼女はベッドに腰をおろして話しはじめた。
「もう時間があまりございません。ありのままを全部申し上げましょう。私はこの男の妻なのです。彼はイギリス人ではなくロシア人なのです。彼の名前は言わずにおきましょう」
初めて老人は狼狽(ろうばい)した。
「おお、アンナ! お前は何ということを!」
彼女は老人に軽蔑に満ちたまなざしを向けた。
「セルギウス、あなたはどうしてそんなあさましい生活にしがみついているのです」彼女は言った。「多くの人に害を与え、良いことはひとつもしてやしない……自分自身にだって。でも神がお召しになる前に、この老い朽ちた糸を私が切ることはできません。この呪われた家の敷居をまたいだときから、私はもう我慢ができない気持でした。でも話してしまわなければ、間に合わなくなりますわ。私はこの男の妻であることは申し上げました。私たちが結婚したときは彼は五十歳、私はまだ二十(はたち)の愚かな小娘でした。ロシアのある市……大学で……その場所も今は申し上げません」
「おお神よ、アンナに!」老人は再びつぶやいた。
「私たちは改革者……革命家……虚無主義者(アナーキスト)でした。彼も私も、そして多くの仲間がいました。ところが警官が殺されるという事件が起こって、たくさんの仲間が逮捕されたのですが、証拠不十分でした。するとこの私の夫は自分の命を助け、巨額の報酬が得られるのをあてに、私たちの仲間を裏切ったのです。彼の自白によって私たちはみな捕えられました。あるものは絞首台にのぼり、あるものはシベリアに流されました。私も流刑にされたのですが、終身刑ではありませんでした。私の夫は不正利得をもってイギリスに来て、ひっそりと生活していましたが、もし仲間にその居所がわかれば、一週間もせぬうちに、正義の剣が下されるだろうことは、よく知っているはずです」
老人は震える手をのばして煙草をとった。
「アンナ、私はお前の手の中にある。お前はいつも良い妻だったよ」
「私はまだ彼の徹底的な悪事は申しておりません。私たち結社の仲間に、ひとり私の心からの友だちがいました。彼は気品があり、無私で、愛情の深い人でした……私の夫とは正反対ですわ。彼は暴力を憎んでいました。暴力が罪だとするなら、私たち仲間は全部罪を犯したことになりますが、彼だけは違ったのです。彼はよく私たちに、そうした道に陥(おちい)らないように手紙をくれたものです。その手紙は彼の救いとなるはずでした。私のほうは日記を書きました。そして、そこに毎日、彼への私の感情と、お互に交わした意見などを書き込んだのです。それも彼の救いとなったはずのものです。ところが夫はそれらを隠してしまい、あまつさえ彼の命をも奪おうと企てたのです。夫はこれに失敗しました。しかし、アレキシスは罪人としてシベリアに流され、今でも、このたった今でも塩坑(えんこう)で働いているのです。考えてもごらん、この悪党、悪党め、アレキシスは……お前はその名を口にする値打ちもないのだ……奴隷のように働かされて生きている。それでも私はあんたの命を手中に収めながら、まだ生かしてやっているのじゃありませんか!」
「お前はいつも優しい女だったよ、アンナ」老人は煙草の煙を吐きながら言った。
彼女は立ち上がったが、苦痛の叫びをあげてまた倒れた。
「おしまいまで話さねばなりません。私の刑期が終わったとき、私は日記と手紙を奪いかえそうとしました。これをロシア政府に送りさえすれば、私の友だちを釈放させることができるのですから。私は夫がイギリスに来ていることを知っていました。何か月か探した末、とうとう夫の居所をつきとめました。私はいまだに夫が日記を持っていることがわかっていたのです。
というのは、私がまだシベリアにいた頃、夫は私を叱責した手紙をよこし、その中で私の日記の数行を引用していたからです。しかし夫はひねくれ根性の男ですから、素直に渡しっこないことはわかっていました。私は自分で奪うほかありません。この目的で私は私立探偵社から一人のスパイを雇い、これを秘書として夫の家に住み込ませました。……セルギウス、それがあなたの二度目の秘書、あのすぐにやめてしまった男なんですよ。彼は日記や手紙が戸棚にしまってあるのを見つけ、鍵の押し型まで取ってくれたのですが、それ以上のことはやろうとしませんでした。彼はこの家の見取り図を書いてくれ、午前中は秘書は主人の部屋に呼ばれて仕事をすることになっているから、書斎には誰もいないと教えてくれました。そこでついに私は勇気を鼓(こ)して、自分で日記類を奪いにやって来たのです。私は成功しました。しかし何とまあ、高価な代償がいったことでしょう!
私が日記と手紙を手にして、ふたたび戸棚に鍵を掛けているとき、あの青年が私をつかまえたのです。私はその朝、青年に会っていました。道で出会ったのです。私は彼が夫の秘書だとはつゆ知らず、コーラム教授の家はどこかと、尋ねてしまったのです」
「そうだ! まったくその通りだ!」ホームズは言った。「秘書は帰って来て主人に、その出会った女のことを話したんだ。そこで、いまわのときに彼は、あの女だ……先ほど先生にも話した女だ……と伝えようしたのだ」
「私に話させて下さい」夫人は命令するような声で言った。苦しいのか、その顔はゆがんでいた。「青年が倒れて、私は部屋から飛び出したのですが、ドアを間違えて、気がつくと私は夫のこの部屋に入っていたのでした。夫は私を警察に引き渡すと言いました。しかし私も、もしそんなことをすれば、私だって夫の生死を握っているのだと言ってやりました。もし夫が私を官憲に渡すなら、私は彼を仲間に渡すことができるのです。それは決してわが身かわいさのためではありません。私は私の目的を貫徹したいと思ったのです。夫は私が言ってやったことを私が本当にやる……そして自分の命も妻の運命にまきこまれている……ことを知りました。ただこれだけの理由で、夫は私をかくまったのです。夫は私をずっと、彼しか知らない、あの暗い場所に放り込みました。夫は自分の部屋に食事をとりよせ、その一部を私に与えました。警官がこの家を離れたら、夜陰に乗じて私は逃げ出し、ふたたび帰って来ないことにするということで、協定ができたのです。しかしどうしてか知りませんが、あなたがこの計画を見破りました」
夫人は服の胸から小さな包みを取り出した。
「これで私の話はおしまいです。ここにアレキシスを救う書類がございます。私はあなたの名誉と正義を愛するお気持を信じて、これをお預けします。どうかお取り下さい! これをロシア大使館に届けて下さい。これで私の務めは終りました、さて……」
「やめろ!」ホームズが叫び、一足とびに彼女に躍(おど)りかかって、その手から小さな薬瓶をもぎ取った。
「もう遅すぎます!」夫人はベッドに倒れこみながら言った。「もう遅いのです! 私は隠れ場を出る前に毒を飲みました。頭がふらふらする! もう駄目です! お願いします、この書類包みを忘れないで!」

「簡単な事件だったけれども、学ぶ点もあったよ」ホームズはロンドンへ帰る汽車の中で言った。「この事件は出発点から鼻眼鏡に鍵があったわけだ。もしあの死んだ青年が鼻眼鏡を握っていたという好運がなかったら、解決できたかどうかわからないからね。あの眼鏡の度の強さからおして、これをとられてしまったら、まったく盲人同然で、動きがとれないことは明らかだった。君も覚えているだろうが、君が細い草の帯に残っていた足跡が一歩もわきに踏みはずされていないと言ったら、僕はそれは注目すべき行動だと言っただろう。彼女がひかえの眼鏡でも持っていない限り、そんな歩き方はできないはずだと僕は思ったんだよ。
そこで僕は彼女がまだ家に留っていると仮定して、慎重に考えたわけだ。それから廊下が二つとも非常によく似ているのを見て、彼女が間違えるなんて、いともたやすいこと、もし間違えたなら彼女は必ずや教授の部屋にいるに違いないとみた。だから僕の立てた仮説の裏づけになるようなものはないかと極力注意し、あの教授の部屋にどこか隠れ場所になるようなところがないかと調べてみたんだ。絨毯は別段つなぎ目もないし、しっかり釘づけになっているから、床に落し戸でもないかという考えはまずだめになった。しかし本棚の後ろに場所があるかもしれない。
君も知っての通り古い図書館なんぞには、よくそんな具合になっているのがあるからね。そのうち床にはそこらじゅう本が積み重ねられてあって、一か所だけ本棚の前がからっぽになっているのに気がついた。こいつはきっとドアになってるに違いない。たしかにそうかはわからないけれども、調べるにはちょうど具合よく絨毯が焦茶色だ。そこで僕はあの上等な煙草を猛烈に吸って、灰を問題の本棚の前一面に落としておいた。これは簡単なトリックだが、みごと功を奏したよ。それから階下へ降りてね、ワトスン君、君もいっしょにいて僕の言ったことに気づかなかったようだが、コーラム教授の食欲が増進したということを聞いて……誰かに飯を分けてやっているんじゃないかと思った。ふたたび二階に上がって行って、僕は煙草の箱を引っくり返し、床の上を十分点検してみた。すると明らかに僕たちのいない間に隠れていた奴が出て来ている跡が、煙草の灰の上にあるんだね。さて、ホプキンズ君、チャリング・クロスに着いたよ。事件がうまく片づいてよかったね。君はもちろん警視庁へ行くんだろう。ワトスン君、僕らはロシア大使館へ行こうよ」
スリー・クォーターの失踪

われわれはベイカー街で妙な電報を受け取ることには慣れていたが、七、八年前の二月のある陰鬱(いんうつ)な朝に届いて、さすがのシャーロック・ホームズをも十五分ほど考えこませてしまった電報については、ちょっと変わった思い出がある。それはホームズにあてられたもので、つぎのような電文だった……

在宅乞ウ、オソロシイ不幸オキタ、ラグビー右翼ノスリー・クォーター行方不明、アスイナイト困ル、……オーヴァートン

「ストランドの消印で十時三十六分の発信だ」
ホームズは何度も読みかえしながら言った。「オーヴァートン氏め、この電報を打つときひどく興奮していたな。まったく支離滅裂じゃないか。まあいいさ。タイムズでも読み終える頃には、ご本人が来るだろう。そうしたら万事わかるよ。こう面白いことのないシケ続きじゃ、どんなつまらぬ事件でも歓迎する気になるよ」
まったく最近は万事がいっこうに面白くなかった。私はこういった沈滞の時期がかえってこわいことを知っていた。というのはホームズの頭脳は度はずれて活動的なのだが、これが頭を働かせる材料を失ったままにしておくと、たいへん危険であることを経験からして知っていたからだ。私は数年がかりで、彼の、人目を見はらせた経歴に汚点をつけるような麻薬愛好癖をやめさせはした。おかげで今では平常の状態ならば、彼はこの人工的な刺激を求めようとはしない。
しかしこの悪癖は完全に直ったわけではなく、ただ眠っているだけだということはわかっていた。しかも、その眠りは至って浅いもので、退屈なときに、ホームズの禁欲主義者みたいな顔や、くぼんで、何を考えているかいっこうにわからない曇った目をみると、悪癖が目をさますのも近いのではないかと考えるのである。オーヴァートン氏が何者であれ、その謎めいた電報が、この危険な平穏さを破ってくれるなら、たとえそれがどんなに波瀾万丈(はらんばんじょう)で危険を伴うなりゆきになっても、そのほうが大いにありがたいことであった。
予期した通りに、まもなく電報を追いかけて発信人がやって来た。ケンブリッジ大学、トリニティ・カレッジ、シリル・オーヴァートンと書かれた名刺が取りつがれ、すごく身体の大きな青年が入って来た。筋骨たくましく二百二十ポンドはありそうで、広い肩幅で戸口をふさがんばかりの恰好である。親しみやすい顔つきだが、心配でげっそりこけた表情で、われわれを見くらべた。
「シャーロック・ホームズさんは?」ホームズが頭を下げた。
「僕はいま警視庁へ行って来たところなんです。ホームズさん。スタンリー・ホプキンズ探偵にお目にかかりましたら、あなたのところへ行くようにと言われました。ホプキンズさんは、この事件は警察よりホームズさんに向いているようだからというのです」
「まあお掛けになって、ことのあらましをお話し下さいませんか」
「恐ろしいことです、ホームズさん。ただ恐ろしいのです! 髪が白くなりゃしないかと思うくらいです。ゴドフリー・スターントン……もちろん彼についてはご存じでしょうね? 僕らのチーム全体のかなめといった中心人物なんです。前衛から二人くらい控えさせても、ゴドフリーをスリー・クォーターに入れたいくらいです。パスでも、タックルでも、ドリブルでも彼にかなうものはいないし、頭が良いので、チーム全体をよくまとめてくれます。いったいどうしたらいいんでしょう? それをお伺(うかが)いに来たのです。ホームズさん。第一補欠にはムアハウスがいますけど、彼はハーフとして練習していますし、タッチ・ライン沿いに進むというより、スクラムの際、いつも右端で頑張るほうなんです。彼はプレース・キックは実にうまいけれども、判断が悪いし、足が遅い。あれじゃオックスフォードの足の速い、モートンやジョンスンなんかなら、まわりで跳びはねていても間に合いますよ。スティーヴンスンなら足は速いけど、二十五ヤード・ラインからのドロップ・キックができないし。スリー・クォーターでパントやドロップ・キックができないんじゃ、仕方ありませんからねえ。とにかくホームズさん、あなたにゴドフリー・スターントンをみつけていただかないことには、どうにもなりません」
ホームズは驚きはしたが、楽しそうに、この長広告を聞いていた。その話しぶりときたら、おそろしく精力的で熱心で、大切な個所に来るとたくましい手で膝を叩き、言葉を強めて語るのだった。
お客様がやっと静かになると、ホームズは手をのばし、備忘録のSの部をひっぱり出した。だが、このときばかりは無駄だった。
「アーサー・H・スターントンは若い、名うての偽造屋で、ヘンリー・スターントンは僕が手助けして絞首刑にしてやった奴だし、ゴドフリー・スターントンというのは、僕には初めての名前だな」ホームズは言った。
それを聞くとお客さんはたいへん驚いた様子で、「何ですって、ホームズさん。あなたは何でもよくご存じの方だと思っていたのに、ゴドフリー・スターントンをお知りじゃないのなら、シリル・オーヴァートンもご存じないというわけですね」
ホームズは面白そうな顔をして頭をふった。
「何たることだ!」この運動選手は叫んだ。「僕はウェールズとの試合にイングランド・チームの第一補欠だったんですよ。それにこの一年、大学の主将をつとめているし、それはどうでもよいとして、ゴドフリー・スターントンを知らない人が、このイギリスに一人でもいるとは思いませんでしたね。ケンブリッジ、ブラックヒース・クラブ、それに五回の国際試合にもスリー・クォーターで出場したばりばりなんですよ。なんとまあ! ホームズさん、あなたいったい今までどこで生活していらしたんです?」
ホームズはこの若い巨人の無邪気な驚きように笑いながら言った。
「オーヴァートン君、君は、僕とは全然ちがった気楽で健康な世界に住んでいる人なんですよ。僕はずいぶんたくさんの社会に首は突っ込みましたが、幸いにして、この国で最も健全で立派なアマチュア・スポーツの世界には縁がありませんでした。しかし思いもかけずあなたが今朝訪ねておいでになったということは、新鮮でフェア・プレイのこの世界にも、僕が出かけて何かせにゃならんことがあるというわけですね。さあ、それじゃお掛けになって、いったい何が起こって、僕に何をして欲しいか、ゆっくりと正確にお話しになっていただけませんか」
オーヴァートン青年は頭より筋肉のほうを使いなれている男らしく、困ったような顔をしたが、ぽつぽつと、同じことを何遍もしゃべったり……あいまいな点は私が話の本筋から除くとして……こんな奇妙な話をしたのである。
「こういうことなんです、ホームズさん。先ほど申しましたように、僕はケンブリッジ大学ラグビー・チームの主将で、ゴドフリー・スターントンはわがチームのぴか一なんです。明日はオックスフォードと対戦することになっています。昨日僕らは上京してベントリーのホテルに落ちつきました。きびしい練習と充分眠ることがチームをいいコンディションに保つのに必要だと考えていますので、僕は十時にみんな寝室にひきとったかどうか部屋を見てまわりました。
ゴドフリーとは彼が部屋に入る前にひとこと、ふたこと話しましたが、なんだか顔色が悪く、心配事でもあるように見えました。何があったか、と聞いたのですが、いや何ともない……ただちょっと頭が痛いんだと言うだけでしてね。僕はおやすみを言って彼と別れました。
半時間ほどたって門番がやって来て、鬚(ひげ)を生やして荒っぽい表情の男が、ゴドフリーに手紙を持って会いに来たと知らせて来ました。彼はまだ寝てはおらず、手紙を彼の部屋に持っていったそうです。ゴドフリーは手紙を読むと牛殺しの斧(おの)でなぐられでもしたように椅子の上にひっくりかえったそうで、門番は驚いて僕を呼びにこようとすると、ゴドフリーーはそれを止めて水を一杯飲み、どうにか落ちついたというのです。
それから彼は階下に降りて、広間で待っていた男と二、三言葉をかわし、そのまま二人で出ていきました。門番が最後に二人を見たときには、二人ともストランドのほうへ街を走って行ったということです。
今朝になってもゴドフリーの部屋は空っぽで、ベッドには寝た形跡もなく、彼の持ち物は昨夜の通り全部そのままでした。ちょっとの間に見知らぬ変な奴と出かけたまま、何も連絡がないわけで、僕にはもう帰って来るように思えません。ゴドフリーは骨の髄(ずい)までスポーツマンですから、よくよくの原因がなければ、練習をさぼったり、主将に迷惑かけたりなんぞしないはずです。なんだか彼はもう永久に帰っては来ず、二度と会えないような気がするのです」
シャーロック・ホームズは最大の注意をもって、この奇怪な話を聞いていた。
「それで君はどうしました?」ホームズは尋ねた。
「ケンブリッジへ電報を打って、あっちで彼について何か聞かないか問い合わせてみました。しかし誰も知らないという返事なんです」
「ケンブリッジに帰ろうと思えば帰れたのですか」
「ええ、十一時十五分という遅い汽車がありますから」
「しかし君の確かめた範囲では、その汽車には乗っていないんですね」
「ええ、誰も見かけたものはいないのです」
「それから君はどうしました?」
「マウント・ジェイムズ卿に電報を打ちました」
「マウント・ジェイムズ卿とはなぜです?」
「ゴドフリーは孤児でしてね。マウント・ジェイムズ卿がいちばん近い親戚になるんです。……たしか伯父さんにあたるんです」
「なるほど、それは新しい糸口だ。マウント・ジェイムズ卿といえば、イギリスでもたいした富豪だね」
「ゴドフリーはそんなこと言っていました」
「で、君の友だちと卿とは近しい間柄なんだね?」
「そうです。ゴドフリーは卿の相続人なんですよ。じいさんはもう八十近いし……おまけにひどい痛風なんです。指の関節で撞球(どうきゅう)のキューをこすってチョークを節約するくらいの男だとかいう話です。とにかくたいしたけちんぼで、ゴドフリーにはびた一文もくれないんだそうですよ。しかし死んじゃえば全部ゴドフリーのものになるわけですがね」
「マウント・ジェイムズ卿からは、返電がありましたか?」
「いいえ」
「君の友だちが、マウント・ジェイムズ卿のところへ行くような動機でもあるのですかね」
「そうですねえ、ゆうべは彼は何か思い悩んでいたし、もしそれが金に関係のあることなら、僕は彼が伯父さんから金をもらったという話は聞いたこともないけど、大金持でしかもいちばんの親戚なんだから、行くってこともあり得るんじゃないですか。ゴドフリーはじいさんを嫌っていましたし、なろうことなら行きゃしませんでしょうがねえ」
「うん、それはすぐわかりますよ。かりに君の友だちがその親戚のマウント・ジェイムズ卿のところへ行ったとするなら、次に、そんなに夜遅く荒っぽそうな顔つきの男が来たために彼がひどく動揺したことについて、説明していただきたいが」
シリル・オーヴァートンはもう手を頭にあてて、「そいつあ、僕にも全然わかりません」
「そうですか、今日は別段用もないから、喜んでこの事件を調べてみましょう」とホームズは言った。「君は友だちのことはさておいて、試合の準備をしたほうがよいと僕は思いますね。君も言ったように、そんなふうに彼がいなくなったというのは万止むを得ざる事情があったからでしょうし、同じ必要で彼は当分、行ったきりかもしれませんよ。一緒にホテルに行ってみましょう。門番が新しい手がかりを提供してくれるかもわかりませんからね」
シャーロック・ホームズは身分の低い証人でも、固くさせない術においては老練だった。彼はゴドフリー・スターントンがいなくなってしまった部屋で、あっというまに門番の知る限りのことを話させてしまった。
ゆうべ訪ねて来た男は紳士ふうではなかったが、といって労動者ふうでもなかった。その男は門番の表現によると「えたいの知れぬ奴」で、五十がらみの、鬚(ひげ)は半白で、顔色の悪い、じみな服を着た男だったという。門番は男が手紙をさし出した際、その手が震えているのを認めていた。
ゴドフリー・スターントンはその手紙をポケットにつっこんだ。スターントンはその男とは広間で握手はしなかった。二人はちょっと話し合っていたが、門番が聞きつけた言葉はただひとこと、「時間」ということだけだった。それから二人は前に述べたような様子で急いで出ていったのだ。広間の時計がちょうど十時半を指していた。
「ところでね」ホームズはスターントンのベッドに腰をおろしながら言った。
「君は昼間の門番さんだね、違う?」
「はい、十一時までなんです」
「夜勤の門番さんは何も知らないんだろうな?」
「はい、劇場からお帰りの遅いお客が一組ございましたが、ほかにはどなたも」
「昨日は君、一日じゅう働いていたの?」
「さようでございます」
「スターントンさんには、べつに手紙も来なかったかい?」
「一通、電報がまいりました」
「ほう! それは面白いぞ。何時頃だった?」
「六時頃でございました」
「受け取ったとき、スターントンさんはどこにいたかね?」
「あの方のお部屋でした」
「彼が電報を開いたとき、君はいたの?」
「もしやご返事でもお打ちになるかと思いまして」
「うん、それで?」
「ご返事をお書きになりました」
「それ、君が打ったのかい」
「いいえ、ご自分でお打ちになりました」
「でも彼は君のいる前で書いたんだろう?」
「はい、でも私はドアのところに立っておりましたし、あの方は机に背をむけてお書きでした。書き終えますと《いいよ、君、僕が打つから》とおっしゃいまして」
「彼は何で書いていた?」
「ペンでした、はあ」
「頼信紙はテーブルの上のあれだね」
「さようでございます、いちばん上の一枚を」
ホームズは立ち上がって頼信紙の綴りをとり上げ、窓のそばで表面を注意深く調べた。
「彼が鉛筆で書いてくれているとありがたかったんだが、まあ」ホームズはそう言って、がっかりしたように肩をすくめて頼信紙をほうり出した。
「ワトスン君、君もちょいちょい見たことがあると思うが、鉛筆の書きあとは下の紙まで通るものさ……それがために幸福な結婚が破談になったことさえあるぐらいだ。ところがこれには全然あとが残っていない。しかしありがたいことに、彼は先のふとい鵞(が)ペンで書いているから、きっとこの吸取紙には何かあとが残っているよ。ほら、あった、これだよ!」
彼は一枚の吸取紙を破ってわれわれにさし出した。それはわけのわからないものであった。
シリル・オーヴァートンは興奮して言った。
「鏡に写してみたら」
「それには及ばないですよ。この吸取紙は薄いから、裏返してみればわかるはずだ。ほら」ホームズはそう言って吸取紙を裏返した。
「これが、ゴドフリー・スターントンがいなくなる数時間前に打った電報のおしまいの部分だよ。おそらく、六語はこの前にあるね。しかしここに読みとれる Stand by us for God's sake!(ドオカ、私タチヲ オ守リ下サイ)……という文章をみると、ゴドフリー君は恐ろしい危険が迫っているのを知って、誰かに助けを求めているのがわかる、いいかね。《私タチ》というのは注意する必要があるよ! 誰かほかの人もいるらしい。顔色が悪くて、鬚を生やして、いらいらしていたというあの男じゃないかな? でもゴドフリー・スターントンと鬚の男とはどんな関係があるんだろう? また迫ってきた危険を訴えている相手の第三の人間て誰なんだろうな? 調査もここまで狭くなってきたわけだ」
「電報の宛先を探せばいいんだね」私は言った。
「そうだよ、ワトスン君。君は一生懸命考えたんだろうが、僕はとっくにそう思っていた。言っておくけどね、たとえ君が郵便局に行って、人の打った電報の控えを見せろと言ったって、めったに見せやしないよ。こうしたことは万事お役所方式だからね。でもちょっと気をきかして術策を使えば目的は達せられるさ。ところでオーヴァートン君、あなたのいるうちに机の上の書類を調べておきたいと思うのですがね」
机の上にはたくさんの手紙やら勘定書やらノートがあったが、ホームズはそれらを食い入るような目つきで手ばやく調べていった。
「何も変わったものはないようだね。ところで君の友だちは身体はとても丈夫で……別に悪いところはないんでしょう?」
「しごく頑健(がんけん)な奴です」
「彼が病気したなんてことありましたか」
「いいえ、ただの一度だって。膝を蹴られて寝こんだこと、いちど膝蓋骨(しつがいこつ)を脱臼(だっきゅう)したことはありましたが、それだってたいしたことじゃありませんでしたよ」
「でも君の思うほど、彼は丈夫じゃないのかもしれませんよ。僕は何か人に隠している患(わずら)いでもあるんじゃないかという気がするんだが、よろしかったら、これからの捜査に役立つかもしれませんから、二、三この書類をお預かりしたいのです」
「ちょっと待った!」怒りを含んだ声がしたので、振り向くと、おかしな小さな老人が戸口のところで顔をピクピク痙攣(けいれん)させていた。彼は色のあせた黒い服を着て、ひどくふちの広いシルクハットをかぶり、だらりとした白いネクタイをつけていた……そのすべてが、ひどく田舎じみた牧師か、さもなくば葬儀屋の雇いの参列人を想像させた。みなりはみすぼらしく、おかしくもあったが、声は鋭く、りんとしており、態度はどっしりしたところがあって注意をひいた。
「あなたはいったいどなたですかな、どういう権利があって人の書類に手をつけなさる?」老人は言った。
「私は私立探偵です。ある青年が失踪しましたので調査にあたっているのですが」
「ほう、あんたがね? で、誰に頼まれなすった?」
「このスターントン氏の友人の方が、警視庁に推薦されて私に依頼してこられたのです」
「それじゃ、あんたはどなたじゃな?」
「私はシリル・オーヴァートンと言います」
「すると電報をよこしたのはあんただね。わしはマウント・ジェイムズじゃ。とるものもとりあえずベイズヴォーターのバスでやって来たが、するとあんたが探偵さんをご依頼なさったわけじゃね?」
「ええ、そうですよ」
「支払いのほうは用意がおありかな?」
「それはゴドフリーを見つけ出しさえすれば、彼が払うと思いますが」
「して、彼が見つからなんだら、ええ? どうなさる!」
「その場合は家族が……」
「そんなバカな!」老人は叫んだ。
「わしは、一ペニーでもあてにしてくれては困る。……びた一文でも払いませんぞ! 探偵さん、よろしゅうございますかな! わしはゴドフリーのただひとりの親族じゃが、わしはいっさい責任は持ちません。あの子がいくらかでも遺産を受けつげるとしたら、それはわしが無駄な金を使わなんだからじゃ。いまさら無駄使いしようとは思いませんて。あんたが書類をお持ちになるのはご自由かもしらんが、万一その中に何か値打ちのあるものがあったら、ちゃんと責任をもって頂きたい」
「結構です」シャーロック・ホームズは言った。「ところであなたは、甥(おい)ごさんの失踪について何か思いあたることはございませんでしょうか」
「いんや、何もありません。奴も自分ひとりの世話ぐらいやける年頃じゃ。どこぞに迷いこんだとしたって、金をかけて探しまわるなんてことは、わしは絶対にご免じゃな」
「なるほどよくわかりました」ホームズはいたずらっぽそうに目を輝かせながら言った。
「でも私のほうの意見もおわかり頂きたい。ゴドフリー・スターントン君はお金持ではないようです。もし彼が誘拐されたとするなら、おそらく彼の財産目当てのことではありますまい。しかしマウント・ジェイムズ卿、あなたの財産のことは広く世間に知れている。とすれば、悪漢どもが甥ごさんの口から、あなたの邸や習慣や財宝について情報を得るということは充分考えられるのではありますまいか」
不愉快そうな老人の顔はさっと襟元(えりもと)のように白くなった。
「うーん、何という考えだ! そんな悪智恵まで考え及ばなんだ! 何という人でなしの悪漢がいるもんだ! でもゴドフリーは良い奴じゃ……信頼するにたる奴じゃから、この年老いた伯父をおとし入れるようなことはないと思うが。さっそく今夜のうち金銀製の食器類を銀行に運ばねばならん。ところで探偵さん、どうか骨惜しみせずに、ゴドフリーを草の根わけても無事な姿で探し出して下さらんか。金のことは五ポンド、いや十ポンドくらいのことなら、わしに言って下さい」
あいそがよくなりはしたものの、もともとこの守銭奴の貴族は甥の私生活は何も知らなかったので、役立つような情報は何も提供できなかった。こうなると唯一の手がかりは、あの電報のきれはしの文章だ。この電報の写しでホームズは鎖のふたつ目の環(わ)を探し出さねばならなかった。われわれはマウント・ジェイムズ卿とは握手して別れ、オーヴァートンはこのふりかかった災難についてチームのメンバーたちに相談しに出かけていった。電報局はホテルと目と鼻のところにあり、われわれはその前に立ち止まった。
「ワトスン君、当たってみる価値はあるぜ」ホームズは言った。
「もちろん正当な理由があれば頼信紙の綴りを見せろと言えるけれども、まだその段階まで進んでいないからね。こんな忙しい時間だから、顔を覚えられる気づかいもあるまい、ひとつ当ってみようじゃないか」
「ちょっとお邪魔しますが」ホームズは窓口にいた若い女に物柔らかな様子で言った。「昨日うった電報でちょっと間違ってしまって、まだ返事が来ないんです。おしまいにこっちの名を書くのを忘れちまったらしいんですよ。ちょっと見て頂けませんでしょうか」
若い女は頼信紙の綴りをめくって、
「何時頃でした?」と聞いた。
「六時少し過ぎたころでした」
「どなたあてなんですか」
ホームズは口に指をあてて、ちらと私を眺めて言った。
「最後の文句は《頼ムカラ》っていうんです」
彼はいかにも内緒ごとのように声を低めて言った。「返事が来ないもんで、心配しているんです」若い女は一枚の頼信紙をひきはがして窓口に差し出した。
「これですね、名前がありませんわ」
「ああ、やっぱりね、返事が来ないわけだ。なんて僕はあわて者なんだろう。どうもありがとうございました。おかげで納得がいきました」
ふたたび表に出ると、ホームズはくすくす笑いながらもみ手をした。
「それで?」私が聞くと、
「ワトスン君、一挙に前進したぞ。僕は電報を見るために七通りの計略を考えていたんだが、その第一回でうまくいくとは思わなかったよ」
「何がわかったんだい」
「捜査の出発点さ」ホームズは手をあげて辻馬車をとめた。
「キングズ・クロス駅まで」彼は言った。
「すると旅に出かけるのかい」
「そうだよ、どうやらケンブリッジに行かなきゃならないらしいよ。すべての徴候がその方向を指しているんだ」
「ねえ君」私はグレイズ・イン通りを走らせていく馬車の上で尋ねた。
「なにか、この失踪の原因について当たりがついたのかね? 今まで扱って来た事件のなかで、今度みたいに動機のはっきりしないのはなかったように思うんだが。金持の伯父の資産について情報を得ようとして誘拐したと、本当に考えているんじゃなかろうな?」
「いやたしかに、ワトスン君、たいして根拠のある説明だとは僕も思っていないさ。でもあの苦々(にがにが)しい老人には最も効果のある説明だと思ったからね」
「そりゃ、たしかにそうだったよ。しかし君は本当はべつに考えがあるんだろう」
「いく通りにもいえるけれどね。だいたい事件が大事な試合の前夜に起こって、しかもチームになくてはならぬ人間がその中心人物だというのは、君だって奇妙で、暗示的だとは思うだろう。もちろん、これは偶然かもしれない。それにしても興味あることだよ。アマチュア・スポーツでは賭けはないことになっているが、実はかなり多くの人が賭けているからね。だから競馬ゴロが騎手を買収するみたいに、選手を誘拐することも考え得ることだ。これが第一の説明だが、第二に、あの青年は今でこそ貧乏だが、莫大(ばくだい)な財産を相続するのがわかっているから、身代金目当てに仕組んだことだと考えることもできる」
「しかし、それじゃ電報の説明にはならんよ」
「その通りだよ、ワトスン君。あの電報こそがわれわれに与えられている唯一のものだ。だから当然あの電報を等閑視(とうかんし)してはならない。今こうしてケンブリッジに向かっているというのも、あの電報を打った目的を明らかにするためなんだ。現在の捜査段階では漠然としているが、夕方までに万事明らかになるか、数段前進するかしなければオヤオヤだよ」
古い大学町にわれわれがついたときはもう暗くなっていた。ホームズは駅で辻馬車を雇い、レズリー・アームストロング博士の宅へと命じた。
数分の後、馬車は繁華な通りに面した大邸宅の前にとまった。招じ入れられてから、だいぶん待たされて診察室に通された。博士が机の向こうに坐っていた。
私がレズリー・アームストロングの名前を知らなかったといえば、いかに私が本来の職業をおろそかにしているかがわかる。今は私は彼がケンブリッジの医学部の主任教授であるばかりでなく、科学の多くの分野にわたってヨーロッパじゅうに名の聞こえた人物だと知っている。しかしそうした立派な履歴は知らなくても、一瞥(いちべつ)して、その角ばった重々しい顔、太い眉の下の考え深そうな目、石のようにがっしりした不屈な頤(おとがい)を見れば、強い印象を受けない人はあるまい。深みのある人柄で、敏活な精神の持ち主、厳格で克己心(こっきしん)に富む……そのように私はレズリー・アームストロング博士を感じた。彼はホームズの名刺を手にして、あまりよいご機嫌ではなさそうな顔つきでわれわれを迎えた。
「お名前は存じております、シャーロック・ホームズさん。ご職業についても知っておりますが、私としてはあまり賛成しかねるものの一つですな」
「そのことについてなら、世のすべての犯罪人も先生と同意見ですね」ホームズは冷静に言った。
「あなたのご努力が犯罪を防ぐことに向けられる限り、一般の支持を受けられることは当然と思いますが、そうした目的なら公の組織で充分ではないかと思います。探偵というあなたの職業にしばしば批判の目が向けられる点は、探偵はとかく個人的な秘密の問題にまで口ばしを入れ、隠しておきたい家庭内の内緒ごとまでほじくり出すからです。あなた方はそうやって時間をつぶしていらっしゃるが、されるほうの身になってみれば、あなた方より忙しいのですよ。言ってみれば、この今にしたって、私はあなた方に会っているひまには論文を書いていたいのだ」
「たしかにお説の通りかもしれません、先生。しかし論文よりも私たちとの話のほうが重大なことであるかもしれません。ちょっと申し上げたいのですが、私たちは今、先生が非難なさったこととはまったく反対なことをやろうとしているのです。つまり警察沙汰になれば、当然一般にも知られてしまうような個人的な問題を、内輪で片づけようとしているのです。ですから先生は私どもを、正規軍の警察に先立って仕事を済ませてしまおうとする不正規の前線工兵とお考え下さるとよいのです。私はゴドフリー・スターントン君についてお尋ねしようとおうかがいしたわけです」
「彼のどんなことです?」
「先生は彼をご存じでいらっしゃいますね?」
「ごく親しい間柄です」
「行方不明になったことはご承知ですか」
「え、行方不明!」しかし博士の不愉快気な顔つきはいっこう変わらなかった。
「昨夜ホテルを出て、それきり行方がわかりません」
「いや、また帰って来るにきまってますよ」
「明日は大学のラグビーの試合があるわけなんですがね」
「私はそんな子供じみたゲームには全然関心がありません。私は彼をよく知っているし、好きな青年だから、行方不明になったことはおおいに心配だが、ラグビーの試合なんて私には何の興味もありませんね」
「スターントン君の行方捜査にご協力いただけませんか。どこにいるかご存じないでしょうか」
「そんなこと、もちろん知りませんよ」
「昨日からお会いになっていらっしゃいませんね」
「全然」
「スターントン君という人は身体は丈夫な人ですか」
「いたって丈夫ですね」
「病気をしたことはありませんでしたか」
「知らないですね」
ホームズは博士の眼前にひょいと一枚の紙をさし出して言った。
「それじゃこの受領証を説明して下さいませんか。先月ゴドフリー・スターントン君からケンブリッジのレズリー・アームストロング博士に十三ギニー払ったという、これはあなたの受領証です。ゴドフリー君の机の上の書類にあったんですがね」
博士は怒りに満面朱(しゅ)を注いだ。
「そんなことまであなたに説明しなければならぬ理由があるとは思えません。ホームズさん」
ホームズは受領証を再び手帳の間にしまいこんだ。
「公の場所で説明されたいというなら、いずれそのときがくるでしょう。先ほども申しましたように、ほかの人なら公表せざるを得ないことでも、私は隠すことができるのです。私に全幅の信頼をよせていただいたほうが賢明かと存じますが」
「私は何も知らんのだ」
「じゃ、ロンドンからスターントン君が何か言ってきましたか」
「そんなことも、もちろんない」
「おや、おや! するともういちど電報局へ逆戻りかな!」ホームズはげっそりしたように溜息(ためいき)をついた。
「昨日の夕方六時十五分にゴドフリー・スターントン君は、ロンドンからあなたあてに至急電報を打っているのですがねえ。この電報と彼の失踪は明らかに関連があるのだが、あなたは受け取っておらんとおっしゃる。これはけしからん話だ。私はここの局へ行って説明を求めてきます」
レズリー・アームストロング博士は机の向こうにすっくと立ち上がった。顔は怒りで真赤だった。
「この家から、どうかお引き取りいただきたい」彼は言った。「あなたを雇われたマウント・ジェイムズ卿にこう言って下さい。私は卿とも、その代理人ともいっさい用はない、とね。いや、もう何も言わなくて結構だ」彼はぐいとベルを鳴らした。
「ジョン、この方たちをお送りしなさい」
高慢ちきな執事が厳(いか)めしくわれわれを玄関へと導びいた。通りに出るとホームズは大声で笑い出した。
「レズリー・アームストロング博士というのはたしかに精力的で、傑物(けつぶつ)だよ。彼がその方面をやる気にさえなりゃあ、有名なモリアーティ博士の亡きあとのギャップを埋めるにはふさわしい人物だ。ところでワトスン君、知人もいないこんな不愛想な町におっぽり出されちゃったけど、捜査をやめて引き上げるわけにもいかんし、困ったな。アームストロング博士のお邸(やしき)のちょうど前に小さな宿屋があるというのは都合がいいじゃないか。君、通りに面した部屋をとって、今夜必要なものを揃(そろ)えておいてくれないか。僕はちょっと出かけて、二、三あたって来るよ」
二、三あたってみるなどと出かけたものの、思いのほか時間がかかって、九時近くまでホームズは帰って来なかった。帰って来た彼は青い顔をして、埃(ほこり)だらけで、空腹と疲れでしょんぼりしていた。テーブルに用意された冷たい食事で食欲を満たすと、ホームズはパイプに火をつけ、仕事の思うようにゆかぬときの常で、なかばおどけたような、それでいてまったくあきらめきった顔つきになった。
表で馬車のきしる音がして、彼は立ち上がって窓からのぞいた。葦毛(あしげ)の馬を二頭つけた四輪馬車が博士の家の前にガス燈の光を受けてとまっていた。
「三時間以上かかっているね。出かけたのが六時半だというのに、やっと今帰って来たんだ。十マイルか十二マイル先まで行っているはずだね。一日に一回、ときには二回もああやって出掛けているようだ」ホームズは言った。
「開業医なら当然のことじゃないかね」
「いや、アームストロングは開業医じゃないんだよ。彼は大学の講師と諮問(しもん)医師をやっているが、実際の診察はやっていない。診察なんかやると勉強する暇がなくなるというわけらしい。だというのに、なぜあんなに時間をかけて最も嫌いなはずの往診なんかやるのかねえ。いったい誰のところへ行っているんだろう?」
馭者(ぎょしゃ)に聞いてみれば……」
「ワトスン君、僕がそれを第一にやらなかったと思うかね? ところがねえ、生まれつき乱暴なのか、主人に言いつけられたのか知らないが、馭者の奴、僕に犬をけしかけるんだ。まあ僕のステッキを見て馭者も犬もそれ以上どうということなく、ことはおさまったが、にらみ合いでね、質問どころじゃなかったよ。僕はこの宿屋の庭で働いている土地の男にみんな聞いたんだけどね、博士の日常生活や例の往診のこともみな教えてくれたよ。その最中に彼の言葉どおりに迎えの馬車がやって来たんだ」
「あとをつけなかったのかい」
「それそれ、ワトスン君、今晩はばかに頭が働くな。僕もすぐそう思ってね、この宿屋の隣りに自転車屋があるだろう。大急ぎで駆け込んで一台借りて、馬車を見失わないうちに追いかけることができた。すぐ追いついたので慎重に百ヤードばかり距離をおいて、馬車の灯(ひ)をつけていったが、郊外に出てしまった。だいぶん行ってから田舎道で困ったことが起きてしまった。というのは、馬車がとまって、博士がおりて、やはりとまっている僕のところへやって来るんだ。博士の奴、皮肉な調子で言うのさ。
《どうも道が狭くて、お急ぎの様子のあなたの自転車を私の馬車が邪魔しているようで申し訳ない》とね。まったくうまい言い方で感心したよ。仕方がないから僕は馬車を追い越して本通りを二、三マイル行って適当な場所で馬車のやって来るのを待った。ところが待てど暮らせどやって来ない。途中いくつかあった道のどれかに曲がり込んだらしいのだ。僕も引っかえしてみたが、どこへ行ったかわからない。結局、僕よりおそく、今ごろ帰って来ているんだ。
もちろん最初は博士のお出かけが、ゴドフリー・スターントンの失踪と関係があると考える理由はなかった。ただアームストロング博士の動きに興味があるから、身のまわりを調べてやろうと思ったわけだ。しかし博士が出かけるに際して、尾行するものがいないかとあんなに神経をとがらしているのを見ると、事はもっと重大だよ。万事つきとめなきゃ承知できないね」
「明日もういちど尾行できないもんかね」
「できると思うかい? 君が思うほど簡単じゃないぜ。君、このケンブリッジ地方の地勢をよく知らないだろう? かくれるところなんか全然ないんだぜ。今夜僕が通ったあたりも掌(てのひら)みたいに平らだし、追いかける相手は今夜もわかった通り相当な奴だからね。一方僕はオーヴァートンに電報を打って、ロンドンで何か新しい進展があったら知らせるようにいってやったんだが、返電があるまではアームストロング博士に注意を集中しているほかない。ロンドンの電報局で女局員が見せてくれたスターントンの頼信紙はたしかアームストロング博士宛だったんだからね。博士は……誓っていうが、ゴドフリーの居所を知っているに違いない。彼が知っていて、僕らが知り得ないのは僕らの力が足りないからだ。今のところ、先方のほうが役者が一枚上手(うわて)みたいだがね、ワトスン君、決してこのままにはさせておかないさ」
しかし翌日になっても謎はいっこう解けそうになかった。朝食の後、一通の手紙が届けられた。ホームズが笑いながら私に渡した。

前略、小生の行動を追われても結局時間の無駄と確信する。昨夜でお気づきと思うが、小生の馬車には後方に窓あり、いくら尾行され、二十マイルも走られても、とどのつまりは出発点におると同様。
ところでいかに手をつくして小生のことを捜査されても、ゴドフリー・スターントン氏を助くるには利なく、むしろ彼への最上の助力はロンドンに帰られて、貴下の雇い主に、追求の不可能なることを報告することにあると信ずる次第。いくらケンブリッジにおられても、ただときの浪費のみ。 失敬
レスリー・アームストロング

「歯に衣(きぬ)をきせない、正直な奴だな、博士は」ホームズは言った。「よしきた。こうなりゃますます好奇心をあおられる。徹底的に調べずにおくものか」
「また馬車が玄関の前にとまってるぜ」私は言った。
「博士が乗りながら、こっちを見ているよ。今度は僕が自転車で追いかけてみようか」
「だめ、だめ、ワトスン君、あらゆる点であの先生にはかないっこないよ。僕はある程度、自力で調べれば目的を達し得るんじゃないかと思っている。われわれ二人がこの眠りこけたような田舎道でごそごそ物を聞いて歩いたりしたら、つまらぬ噂ばなしの種になって損だから、君は残っていて欲しいな。由緒ある町なんだから、あちこち見物してりゃ結構楽しめるよ。夕方までには朗報をもって帰れると思うから」
しかしながら、ホームズは一度ならず失望して帰らねばならぬ運命のようだった。夜になって、彼は疲れはて、得るところなく帰って来た。
「また一日、無駄にしたよ。ワトスン君。博士の出かけるだいたいの方向がわかったんで、ケンブリッジのあちら側の村々を一日じゅう歩いて、酒場だとか、土地の事情通にいろいろ聞いて来たんだがね。ずいぶん歩いたよ。チェスタトン、ヒストン、ウォタービーチ、オーキントンとみな調べたけど、失望するばかりさ。あんな《眠り谷》だから、二頭立ての馬車が見のがされるはずがないんだ。またもや博士に一本やられた。ところで電報は来ていないかい?」
「うん、来たよ。あけてみたら《トリニティ・カレッジのジェレミー・ディクスンからポンペイをかりよ》とあるんだが、何のことかわからない」
「なんだ、よくわかるじゃないか。オーヴァートンからの僕あての返電だよ。すぐジェレミー・ディクスン氏に手紙を出そう。そうすりゃ少しは運が向いてくるだろうよ。それはそうと、例の試合はどうなったろう?」
「うん、土地の夕刊の最終版にくわしく書いてある。オックスフォードが一ゴール、二トライの差で勝っているよ。記事の終わりのほうに《ケンブリッジ・チームの敗因は、国際試合の名手ゴドフリー・スターントンの不出場につきる。彼が出ていたらと、試合ちゅう常に感じられた。スリー・クォーターの連絡が欠け、ために攻撃、守備の両面で弱く、フォワードの必死の努力もむなしかった》」
「するとオーヴァートンの予想どおりというわけだな」ホームズが言った。「個人的には、僕はアームストロング博士同様ラグビーのことなんか、どうでもいいんだがね。ワトスン君、明日はいろいろあるだろうから、今夜は早く寝ようよ」

翌朝、起きてみると、まず私はホームズが小さな注射器を手にして、暖炉のそばに坐っているのに驚いた。これが彼の唯一の悪いくせなのだ。私は彼の手に注射器の光っているのを見ると、ぞっとしてしまう。
ところが私の困惑した表情を見て、彼は笑いながら注射器をテーブルにおいた。
「いや、いや、心配することはないよ。この場合これは悪魔の道具じゃなくて、事件の謎をとく鍵になるかもしれないんだ。この注射器に僕はすべての望みをかけているよ。今ちょっとした偵察から帰ったとこでね。万事うまくいったよ。さあ、ワトスン君、朝ご飯をたくさん食べたまえ。今日はアームストロング博士の足跡をつきとめるつもりだ。隠れ家まで追いつめるまでは休みなしに追いかけるから、飯を食うひまがないかもしれないからね」
「それじゃ朝飯は弁当にして持って行ったほうがよかろう。やっこさん、もう出かけるらしいよ。馬車が玄関についている」
「いや、心配することはないよ。行かしておけばいいさ。今度こそ追いつけないとしたら、奴はよほどお利口さんだ。食事が済んだら階下へ来いよ。今度のような事件には素晴らしい腕をもっている探偵さんに紹介するからね」
階下へおりると、ホームズは厩(うまや)のある中庭に私を案内した。彼は厩の戸をあけると、ずんぐりして耳のたれた、白と茶のぶちで、ビーグル種とフォックスハウンド種の中間みたいな犬をつれ出した。
「ポンペイ君をご紹介します。この地方きっての誇るべきドラッグハウンド(臭いをかいで獲物を追跡する犬)だよ。からだ恰好でわかるが、足はたいして速くないけれども、嗅覚はすごく鋭いのだ。おい、ポンペイ、お前の足がのろいといったって、中年のロンドン紳士よか速いだろうな。だから首輪に皮紐(かわひも)をつけさせて頂くよ。さあ行こう。腕のほどを見せてくれ」
ホームズはポンペイを博士の門前につれていった。犬はしばらくあたりを嗅ぎまわっていたが、興奮して鼻をふるわせ、紐を引っ張ってグングン通りを進みはじめた。三十分ほどして、町はずれに出て、田舎道を急いだ。
「いったい何をやったんだい、ホームズ?」私はたずねた。
「古くさいやり方だけど、時機に応じては効果てき面だ。けさ僕は博士邸の庭に忍びこんで注射器一杯の大茴香(アニス)の香料酒を馬車の後輪にかけて来たんだよ。ドラグハウンドなら香料酒のあとを追って、北のはしっこまでだって行くさ。ポンペイ君の追跡をのがれようと思ったら、アームストロング先生、キャム河(ケンブリッジ東のウーズ河支流)にでも馬車を乗り入れるより手はないぞ。あのずるい悪党め! 先夜はこうして見事まかれてしまったが」
犬は突然、本通りから草の茂った小道に曲がった。半マイルほどで小道は別の広い通りに出た。この道をいま出て来た町のほうに急に右に曲がった。道は町の南側にゆるく曲がって、われわれが出発した地点とちょうど反対側のほうへまわっていった。
「われわれを用心してこんなに迂回(うかい)したのかな」ホームズは言った。「これじゃあちこちの村で聞いてもわからなかったはずだよ。博士はなかなか用意周到に策を弄(ろう)したが、なぜこんな手のこんだことをやるのか知りたいものだね。右に見えるのがトランピントンの村らしいな。おっ、いけない、馬車が曲がって来るぞ、急いで、ワトスン君、見つかるぞ!」
ホームズはいやがる犬を引っ張って畑の門をくぐった。われわれが垣根に隠れたと同時に、馬車がごうごうと過ぎていった。私はアームストロング博士の乗っているのをチラと認めた。博士は肩を落とし、両手に頭を沈め、まるで心痛そのものの様子だった。ホームズもその様子に気づいたとみえ、いかめしい顔をした。
「どうやら暗い結末に到達しそうな気配だな。まもなくわかることだ。さあポンペイ! ああ、あの畑の中の小さな家らしいぞ」
とうとう今日の旅行の目的地についた。ポンペイは忙しく門のあたりを嗅いでまわった。あたりには馬車のあとが残っている。小道がこの一軒家に通じていた。ホームズは犬を垣根に縛りつけて、玄関へと急いだ。ホームズは小さな田舎じみたドアをノックしたが返事はない。しかし無人の家でないことは、低い音……たとえようもなく陰気な悲嘆絶望のうめきのような声が聞こえるのでもわかった。ホームズはちょっととまどって、ちらと今やって来た道のほうへ目を走らせた。見ると四輪馬車がまたやって来る。二頭の灰色の馬がついているので例の馬車に違いなかった。
「チェッ、また博士のやつ、引っ返して来たぞ!」ホームズは叫んだ。「こうなりゃ仕方がない。博士の来る前になかを調べてやろうじゃないか」
彼はドアをあけて、土間に入りこんだ。かすかだった人声は急に大きく耳に飛びこんで来た。それはたしかに深く、長い絶望的な泣き声だった。二階から聞こえてくる。ホームズは駆け上がった。私もあとを追った。半びらきになったドアを押すと、われわれは目の前の光景に肝(きも)をつぶした。
若い、美しい女が死んでベッドに横になっている。静かな、蒼(あお)い顔に、蒼い目が見開かれている。金髪の渦(うず)の中に仰向いているのだった。ベッドのすそには、なかば坐り、なかば腰をついたような恰好でひとりの青年が布に顔を埋めて、身をふるわせて泣いているのであった。あまりの悲嘆にくれている青年は、ホームズの手が肩にふれるまで顔を上げなかった。
「ゴドフリー・スターントン君ですね?」
「ええ、そうです……でも、もう間にあいません。彼女は死んでしまいました」
彼は気が転倒して、われわれを呼びにやった医者だと勘違いしているようであった。ホームズは言葉少なに慰めを言い、彼が突然失踪したので友人たちが驚いていると説明した。そこへ階段をのぼる足音がして、重々しく、きびしく、同時に不審げなアームストロング博士の顔がドアから現われた。
「とうとう目的を達しましたな。それもこんなときを選んで押しかけるとは。死者の前だから私はあえて口論しないが、もう少し私が若かったらあなた方のけしからぬ行動は、このままでは済まないと申し上げよう」
「アームストロング先生、たいへん失礼ですが、われわれはお互いに勘違いをしている点があるように思います」ホームズは威厳をもって言った。「よろしかったら、ちょっと階下へおりて、この悲惨な出来事について、お互にある程度、納得がいくようお話ししたいのですが」
一分の後、苦(にが)りきった博士とわれわれは、階下の居間で相対した。
「それで?」彼は言った。
「まずはじめにご理解いただきたいことは、私はマウント・ジェイムズ卿に雇われたのではないこと、今度の事件についてはまったくジェイムズ卿とは立場を異(こと)にしていることです。人が失踪すれば、その行方を探すのは私の務めです。しかし見つかれば、それで私の仕事はおしまいです。そこに何の犯罪もなければ、私は個人的な問題は公(おおやけ)にするよりも、そっとしておきたいと思います。私の見た限りでは、今度の事件にはなんら法律違反はないようですから、新聞ダネなどにならぬようにいたしたいと存じます。どうか私の分別と協力を信頼して頂きたいものです」
アームストロング博士は、つと進み出てホームズの手を握った。
「あなたは立派なお方だ。私は誤解しておりました。こんな哀れな状態にスターントンをひとり残しておくことに良心の苛責を感じて馬車を引っ返したことを、神に感謝しなければならない。おかげであなたという方を知ることができました。あなたのようによくご存じの方とあれば事情を説明するのも簡単です。
一年ほど前にゴドフリー・スターントンはロンドンにしばらく下宿していましたが、下宿の娘さんを熱烈に恋するようになり、結婚しました。このお嬢さんは美しく気だてもよく、才気のある人でした。誰でもこんな奥さんをもって人にかくすことはありますまい。しかしゴドフリーの場合、彼はあのよぼよぼ貴族の遺産相続人で、彼が結婚したことがばれたら相続できなくなるのです。私はあの青年をよく知っていますし、多くの優れた素質を持っておりますので愛していました。私は何とかうまくゆくようにできるだけ力を貸していました。とにかくこの事を人に知られぬようにすることです。ひとたびこんな噂が耳に入れば、一般に広がってしまいますからね。幸いこの一軒家がありましたし、彼の分別もよく、どうやら今まで成功してきました。この秘密は私と、いまトランピントンに人手を頼みに行った忠実な召使いを除いては、誰も知りませんでした。
ところが彼の妻が、たいへん危険な病気になってしまったのです。最も悪性の肺結核なのです。可哀そうな青年は悲しみに気も狂わんばかりでしたが、どうしても今度の試合でロンドンへ行かねばなりません。試合を休むためには理由を言わねばならず、そうすれば秘密もばれてしまいます。私は電報で彼を元気づけてやり、彼は私に最善を尽してくれるように哀願して返電をよこしました。あなたが何等かの方法でご覧になったという、その電報です。私は彼には危篤(きとく)だとは知らせてやりませんでした、というのは彼がここにいたとしたって、どうしようもないですからね。ただ私は、娘の父親にだけは本当のことを教えてやったのです。すると父親は愚かにもゴドフリーのところへ知らせにいってしまいました。その結果ゴドフリーは気狂いのようになって飛んで帰って来て、そのままの状態で今朝がた彼女が息をひきとるまでベッドの端にひざまずいていたのです。
ホームズさん、まあこんなわけなんです。どうかあなたとこちらのお友だちの方の思慮あるご判断をお願いしたい」
ホームズは博士の手を握りしめた。
「行こう、ワトスン君」彼は言った。そしてわれわれはこの悲しみに満ちた家から、冬の日の薄い陽ざしのなかへと出たのである。
アビ農場の屋敷

一八九七年の冬、霜のおりたごく寒い朝のこと、私の肩を強くゆする者があって起こされた。
ホームズだった。手にローソクを持ち、それがホームズのかがみ込んだ顔を鋭く照らして、一見して何事かただならぬ面持ちであった。
「来たまえ、ワトスン君。来たまえ。ゲームは進行中だよ。何にも言わずに。洋服に着がえて、さあさあ」
十分後、私たちは辻馬車に乗って、チャリング・クロス駅の方へ、静かな街路をガタゴトいわせて進んだ。最初のおぼろに白い冬の夜明けが現われはじめ、乳白色のロンドンの霧の中に、早出の労働者がにじんだように霞(かす)んで見えた。
ホームズは厚ぼったい外套の中にだまって首を縮めており、私も喜んでそれに見習った。ひどく冷たいし、二人とも、まだ朝食はとっていなかったからだ。駅で熱い紅茶を飲みほし、ケント行の汽車に乗りかえて初めてくつろいだ気持になって、彼は話し出し、私は聞き手になれた。ホームズはポケットから一枚の手紙を取り出し、次のように読みあげた。

ケント州マーシャム。アビ農場にて。午前三時半。
親愛なるホームズ様……きわめて注目すべき事件になる見込みのものが起こりましたので、貴下のじきじきのご援助を頂ければ幸甚(こうじん)に存じます。これは、あなたのご専門の方面と存じます。夫人を釈放しましたほかは、現場はそのまま保存しておきますが、でもサー・ユースタスまで留めることは至難のことゆえ、即刻お出で下さいますようお願いいたします。
敬具  スタンリー・ホプキンズ

「これでホプキンズには七回呼ばれたことになるが、いつでも頼むだけの理由があった。たしかこれらの事件は君の蒐集に収まっていたと思うよ。それはそうとワトスン君、僕は君の物語体には少なからず憤慨しているんだが、そいつを償(つぐな)っているのは、君の選択眼というやつだ。君のいちばんわるい癖は、万事を科学的鍛練(たんれん)として見ずに、物語の立場からすることだが、そいつが実地教示という、教訓的で古典的でさえあるものを駄目にしちゃっているんだ。君はセンセーショナルな枝葉(えだは)のことに目をつけすぎて、含蓄(がんちく)ある巧智とか微妙さとかいうものを軽く見過ごしている。これじゃ読者を刺激するだけで、教訓にはならないね」
「じゃあ、なぜ自分で書かないんだ?」私はちょっとムッとして言った。
「やるよ、ワトスン君。やりますよ。でも知ってのとおり、今は忙しいんでね。余生は探偵の全般的な技術を一冊にまとめることに捧げるつもりだよ。ところで今度の事件だが、殺人事件らしい」
「サー・ユースタスが死んだというのだね?」
「そうだろうね。ホプキンズの手紙は相当の動揺を示している。あれは感情的な男じゃないんだよ。暴力沙汰があって、死体は僕たちの検査がすむまで、そのままにしてあると思うんだ。ただの自殺だったら僕を呼ぶようなことはしないだろう。夫人を釈放したというのは、凶行中一室に閉じ込められていたと思われる。裕福な生活をのぞきに行くわけさ。ワトスン……このぱりぱりの紙といい、E・Bという頭文字や、紋章や、アビ農場という宛名といいね。ホプキンズも名声に恥じぬ行動をする人だし、今朝は面白いことになると思うね。凶行はゆうべの十二時間前だ」
「どうしてそう言える?」
「汽車の時刻表と時間を調べるとそうなるんだ。地方警察が呼ばれる、ロンドン警視庁が動く、それからホプキンズが来て僕を呼んだ。こうしたことはみんなたっぷり一夜はかかる仕事なんだ。さあ、ここはチズルハーストの駅だ。まもなく疑問は解決するよ」
狭い田舎道を二マイルも行くと、広い庭の門についた。年をとった門番が開けてくれたが、そのやつれた顔は何か大きな災難の影を留めているようであった。荘重(そうちょう)な庭の中に、並木路が走っており、両側には古い楡(にれ)の樹があって正面にはパラディオ〔イタリアの建築家〕ふうの石柱のある、低くて幅のひろい家があった。中心部は時代がかったもので、蔦(つた)でおおわれていた。しかし大きな窓を見ると、近代的な改築がなされたことがわかり、ひとつの棟(むね)はまったく新しく建てたようであった。スタンリー・ホプキンズ警部は、元気そうな、注意深い顔で私たちを迎えた。
「ホームズさん。よく来て下さいました。それからワトスン先生も。でも時間の余裕さえありましたら、あなたにお出でを願わなくてもよいような手はずを取ったのでしたが。と申しますのは、夫人は正気づきまして、はっきり事件の説明をされました。それでもう、私たちはなすべきものがないといった恰好なんです。あなたはルイシャムの強盗団をご記憶でしょう」
「おや、ランドル三人組ですか」
「そうです。父親と二人の息子でしたね。これは奴らの仕業(しわざ)なんですよ。疑問の余地はありません。二週間前にシドナムでひと仕事をやって、人相書を取られてますのに、まもなくこんな近くでまたやるなんて、少々ずうずうしいと思うんですが、文句なくあいつらの仕事です。しかし今度は絞首刑ですね」
「ではサー・ユースタスは殺されたんですね」
「そうです。頭を自分の家の火掻棒(ひかきぼう)で割られたのです」
「馭者はサー・ユースタス・ブラックンストールだと言ってましたが」
「そうです。ケント州の指折りの金持です。ブラックンストール夫人は朝の居間にいます。可哀そうに夫人は恐ろしい経験をしたのです。最初お会いしましたときは、半分死んだように見えました。詳しいことは直接お会いになって、お聞きになったほうがよいと思います。それからご一緒に食堂のほうを調べましょう」
ブラックンストール夫人は平凡な女性ではなかった。こんなに優雅で、女らしい、美しい夫人を見たことがない。白皙(はくせき)金髪碧眼(へきがん)の人で、こうした恐ろしい経験で顔はやつれ、ひきつってはいるが、いつもはおそらく完全な美貌を持っている人であろう。彼女の苦痛は精神的な面ばかりでなく肉体的にも痕(あと)をとどめていた。片方の目の上が赤く腫(は)れ上がっており、背の高い飾り気のない女中が、せっせと酢入りの水で冷やしていた。夫人は疲れた様子で寝椅子によりかかっていた。
だが私たちが部屋に入ったとき、敏捷なまなざしを向け、美しい顔に警戒するような表情を浮かべたので、彼女の才智も勇気も、あの恐ろしい経験によっても挫(くじ)かれていないことがわかった。彼女は青と銀のゆるやかな化粧着をきており、アクセサリーに黒い古代ヴェネティアのシークイン金貨をつけた夜会服が、背後の寝椅子の上にかけてあった。
「ホプキンズさん。あなたには事件のいっさいをお話ししたはずですわ。どうか私に代わってお話ししてあげてくださいません? そうね、でもどうしてもとおっしゃるなら、私からお話ししますけれど。こちらの方はもう食堂をご覧になったんですの?」夫人は疲れたように言った。
「まず奥さんのお話を伺うのがいちばんだと思いますが」
「ちゃんと事件を処理していただければ、こんなに嬉しいことはございませんの。まだあそこに夫が倒れていると思うと恐ろしくて……」夫人は身震いして一瞬両手で顔をおおったが、そのときゆるやかな化粧着の袖が垂れて、前腕があらわれた。ホームズはあっと言って、
「奥さん、そこにも傷を受けていらっしゃいますね。それはどうなすったのですか」
ふたつの鮮明な赤い斑点が、白い丸々とした腕についていた。彼女は急いでそれを隠した。
「何でもございませんの。昨夜の恐ろしい事件とは何の関係もありませんわ。さあ、お坐りになって下さいませ。できるだけのお話はいたしますわ。
私はサー・ユースタス・ブラックンストールの妻でございます。結婚してほぼ一年になります。私たちの結婚が幸福なものでなかったことは、隠しましても始まらないことでございましょう。否定したとて、近所の方たちが皆さんにおっしゃることでしょうから。罪は、あるいは私のほうにあるのかも知れません。
私は南オーストラリアの、あまり因襲にとらわれない自由な雰囲気の中で育ちまして、この堅苦しい、礼儀正しいイギリスの生活は性に合いませんの。でも主な理由はほかでもなく、夫の酒癖でございます。これはどなたもご存じのことです。このような男と一時間いっしょにいますのも不愉快でございます。感じやすい潔癖な女性が日も夜もそういう男に縛りつけられていなければならないなんて、どういう気持かおわかりになりますでしょうか。こんな結婚にまで義務を負わせるのは、冒涜(ぼうとく)、罪、悪行でさえあります。こんな奇怪な法律はこの国に呪いをもたらすものです。神様はこんな邪悪に我慢されませんでしょう」
彼女はちょっと身を起こした。両頬が紅潮し、額に受けた恐ろしい痕跡の下で、両眼は輝いた。そのとき謹厳(きんげん)な女中は、いたわるような手で、夫人の頭をクッションに抑えつけた。夫人の激怒は、激しいすすり泣きに変わった。
「昨夜のことを申し上げましょう。この家では、召使いはみな新館のほうで休むのをご存じでいらっしゃいましょう。この中央部の建物は居間ばかりで、うしろに台所、上は私たちの寝窒になっております。女中のタリーザは私の部屋の上で寝ております。他に誰ひとりおりません。物音がしても、離れにいる者は何もわかりません。強盗はこのことをよく知っていたに違いありません。でなければ、あんなことはしなかったでしょう。
夫は十時半頃にやすみました。召使いたちはみんな新館のほうへ下がっておりました。ただタリーザだけが、私が何か用を言いつけるかも知れませんので、上の部屋で起きておりました。私は十一時すぎまでこの部屋におりまして、本に夢中になっていました。でも、もう休もうと思いまして、家の中を見まわりに行きました。これは私の習慣なのです。
さっきも申しましたように、夫はあてになりませんので、私がこうするようになったのでございます。台所、食器室、銃器室、撞球室(どうきゅうしつ)、応接室、最後に食堂へ行きました。ここの窓は厚いカーテンがかかっていましたが、近づいて行きますと、顔にさッと風が当りましたので窓が開いているなと思いました。そこでカーテンを引きますと、肩幅の広い、年輩の男とばったり顔を合わせてしまいました。
窓は長いフランス式のものでございまして、すぐ芝生に出られますので、事実上ドアのようなものでございます。私は寝室用の燭台を手にしておりまして、その男のうしろに、もう二人が入ろうとしているのがわかりました。私は後すざりしましたが、その瞬間、男は私に向かってきました。まず手首をつかまれまして、それから喉(のど)をしめつけられました。私が声をたてようとしますと、目の上を強くこぶしで叩かれ、その場に倒れてしまいました。
私はしばらく気を失ってしまいました。我にかえったときは、ベルの紐をもぎとったもので、食堂の上座の槲(かしわ)の椅子にしっかり縛りつけられていました。身動きもできません。口はハンカチでふさがれておりますので、声をたてることもできません。
このとき、運悪く夫が入って参ったのでございます。夫は怪しい物音を聞きつけたのでしょう、一応の身支度をしておりました。シャツとズボンを着用しまして、手には愛用の鱗木(りんぼく)の杖を持っておりました。夫は一人の泥棒に飛びかかっていきましたが、今一人の年輩の男が、暖炉の火掻棒を取り上げまして、通りかかるところを、強い一撃を浴びせました。夫はひとことも声をたてずに倒れ、そのまま動かなくなってしまいました。私はそれを見てまた気を失いましたが、それはほんのしばらくの間でございました。
目を開きましたときは、泥棒は食器棚から銀器を集めまして、べつにワインを一本取り出しまして、テーブルに置きました。三人とも、グラスを手にしておりました。前に申し上げたかと思いますが、一人は年輩で頬髯(ほおひげ)がございますけれど、あとの二人はまだ若い少年でした。父親とその息子なのかも知れません。三人はこそこそ一緒に話をしておりました。それから私のほうへやって来まして、紐がゆるんでいるかどうかを確かめてから、窓から、あとをしめて出て行きました。
十五分ばかりかかって、口だけは自由にすることができましたから、声をたてますと、女中が助けに参りました。他の召使いたちもまもなく参りました。それからすぐ警察に知らせました。そちらから、ロンドン警視庁のほうへ連絡を取ったものでございましょう。これだけが私のお話しできます全部でございます。もう二度と、こんな苦しいお話を繰り返すことだけはお許し願いたいと思います」
「ホームズさん。何かご質問は?」ホプキンズが尋ねた。
「奥さまにはこれ以上苦しめたり、時間を取ったりしますことは差し控えたいと思います。ただ食堂を見せていただく前に、ひとつあなたからお話をうかがいたいと思います」ホームズは女中を見た。
「私は泥棒が入って来ます前に見かけたのでございます。寝室の窓の側に坐っておりますと、門の近くで三人が立っているのが、月明かりで見えましたけれども、そのときはべつに気にもなりませんでした。奥様の叫び声を聞いたのはそれから一時間以上たってからでございます。私は急いで駈け降りて行きました。奥様は、お話にもありましたように、手足を縛られていらっしゃいました。それに旦那様は部屋じゅう血だらけにして倒れていらっしゃいました。しばられて、服に旦那様の血を浴びていらっしゃれば、どんな女でも正気を失うものですが、奥様はアデレイド市のメアリ・フレイザーお嬢さま、アビ農場のブラックンストール夫人だけのことはありまして、勇気をお持ちでした。平常の態度をお崩しにならなかったのでございます。もうこれで奥様のお話は充分でございましょう。このタリーザがお部屋へお連れいたしたいと思います。奥様には休息が大切です」
母親のような優しさで、やせた女中は夫人に手をまわし、その部屋から連れ出した。
「あの女中は、これまでもずうっと夫人と一緒にいました」とホプキンズは言った。「夫人が赤ん坊のときからついていて、十八か月前、夫人がオーストラリアを去って、イギリスへ来るときも連れて来たそうです。名前はタリーザ・ライトというのですが、今どきあんな女中はちょっと見当たりませんね。ホームズさん、ではこちらへ」
ホームズの表情に富んだ顔から、はげしい興味が失って見えた。神秘ということに関する限り、この事件の魅力はことごとくなくなっていた。そこには逮捕という目的は果たさるべきだが、ホームズが手をつけるには何と平凡な悪漢どもではないか。深遠な学識ある専門医が、麻疹(はしか)の患者に呼ばれたとわかればむしろ迷惑に思うだろう、そういう気持を私はホームズの目に読んだのである。しかしアビ農場の食堂の光景は、彼の注意をひき、薄れてきた彼の興味を呼び戻すには充分な不思議さを備えていた。
それは天井の高い、大きな部屋で、彫刻つきの槲(かしわ)の天井、槲の羽目板があり、周囲の壁には、立派な鹿の頭や古代の武器がずらりと並んでいた。入口の向かい側に、問題のフランス式の窓があった。右手にはそれより小さな窓が三つあり、冷たい冬の日ざしが射しこんでいた。左手には大きな深い暖炉があって、どっしりした槲のマントルピースが張り出してあった。暖炉のそばに肘かけと、下に横棒のある重い槲の椅子があった。そこに濃紅色の紐が、下の横木に両端を結ばれながら、椅子の木細工の部分にからみついていた。夫人をとき放つ際に、こうなったのであろうが、その結び目はまだ残っていた。
もっとも、こうした細かい点は、後日にわれわれの注意を引いたのであって、今はもっぱら、暖炉の前の虎皮の上に横たわっている、戦慄(せんりつ)すべき死体の上に、吸い付けられていた。
死体は、四十歳くらいの背の高い、見かけのよい男であった。仰向けに倒れていて、短く刈った髭の間から、白い歯がむき出ていた。二つのこぶしは、頭の上に置かれており、近くに重い《さんざし》の杖がころがっていた。浅黒い、美しい鷲(わし)のような風貌は憎しみに歪んでいたが、それがいかにも恐ろしい鬼のような表情を示していた。叫び声を聞いたときは、明らかにベッドにいたものらしく、しゃれた、刺繍(ししゅう)のある夜のシャツを着て、ズボンから素足が出ていた。頭にはひどい傷を受けていた。部屋全体に、野蛮な残忍な暴力の痕跡があった。死体の側に、曲がった重い火掻棒がころがっていた。ホームズは、それと、それに打たれた頭の傷を調べた。
「父親のランドールはよっぽど力の強いやつだね」
「そうです。記録はいくつかありますが、手剛(てごわ)い奴ですよ」ホプキンズは言った。
「でも、逮捕するのは、さほど困難じゃあないね」
「ありませんとも。あの男には、これまでも警戒しておったのですが、アメリカに逃げて行ったという話もありました。でも、ここにいることがわかったからには逃がしはしません。各海港からの情報は入ることになっていますし、晩までには懸賞金のことも発表されるでしょう。でも夫人に人相を覚えられて、われわれに何者だかの判別がつきそうなのを知っていながら、どうしてあんなことをやったのでしょうね」
「そうだよ。普通なら奥さんのほうも一緒に黙らしちゃうものね」
「でも夫人が意識を回復したのがわからなかったのかも知れないね」と私が意見を挟んだ。
「あり得ることだね。無意識でいるものを、わざわざ命を取ることもなさそうだね。で、ホプキンズさん、この死んだ男について何か情報でも? 何か妙な話を聞いたことがあるように思うんですよ」
「この男は、素面(しらふ)のときは善人なんですけれど、飲んだときはまったくの別人になるんです。でも腹一杯にのむことはごく稀(まれ)なんでして、むしろ生酔いのときにやり出すんです。そんなときはまるで悪魔に取りつかれたみたいに、どんなことでもやります。聞くところによると、地位も財産もありながら、われわれの所へ厄介になろうとしたことも、一度や二度はあるそうです。一度などは犬に石油を浴びせて、それに火をつけたということがありました。悪いことに、それが夫人の犬でしたので、やっとのことで、もみ消しにしたそうです。それから女中のタリーザにワインの壜(びん)を投げつけたことがあって、それはだいぶん問題になったようです。要するに、ここだけの話ですが、この男がいないならこの家はもっと明るくなるでしょう。おや、あなたは何をそう見てらっしゃるのですか」
ホームズは膝をついて、夫人の縛られていた赤い紐の結び目を、いとも注意深く調べていた。それは、ベルの紐を泥棒がひきちぎったときのもので、その切れてほつれたところを、慎重に吟味していた。
「この紐を引けば、台所でカランカラン鳴りひびくだろうがね」ホームズは言った。
「誰にも聞こえませんよ。台所はちょうどこの裏手にあたるんですからね」
「誰にも聞こえないって、泥棒はどうして知ったのだろう? どうしてあんな向こう見ずなやり方で、ベルの紐をひきちぎったんだろう?」
「それですよ、ホームズさん。私も何度もそのことを考えてみたんです。あの連中は、家の様子や習慣を知っていたに違いありませんよ。召使いたちが割合早く寝てしまうことや、台所でベルが鳴っても、誰にも聞こえるわけがないってことをですね。だから、召使いの一人と内密なつながりを持っているに違いありません。たしかですよ。でも召使いは八人いますが、みな性質がいいんです」
「他のことがみな平等なら、主人に酒壜を投げつけられた女中がいちばん怪しくなるわけですね。しかしそうだと、今までこの女中が尽してきた夫人への裏切りということになる。でもまあ、その点は小さなことです。ランドールを捕えれば、共犯をあげるのにさして困難はないでしょう。夫人の話に確証が必要ならば、目の前にあるもので、確かめられるというものですよ」
ホームズはフランス式の窓のほうへ歩いて行って、開け放った。「ここには何の足跡もない。地面は鉄みたいに固いのだから、証拠の残りようがないわけだね。マントルピースの上のこのローソクは点(とも)っていたのでしょうね」
「そうです。泥棒はその明かりと夫人の寝室のローソクをたよりに、忍び寄ってきたのです」
「何を取っていったのですか」
「たいしたことはないのです。戸棚から銀皿を五、六枚取って行っただけです。夫人の考えるところでは、本当は連中は掠奪(りゃくだつ)するつもりだったのだけど、サー・ユースタスを殺してしまったので、おおいにあわてたと言うのです」
「それはそうでしょうね。でもワインを飲んで行ったということでしたね」
「気持を鎮(しず)めたんでしょう」
「なるほどね。戸棚の上の三つのグラスは、誰も手を触れてないでしょうね」
「そうです。壜(びん)もそのままです」
「それを見てみましょう。おやおや、これは何かな」
三つのグラスはひとまとめに集まっており、三つとも酒でよごれていたが、そのうちのひとつにはワインの《おり》が残っていた。壜はその側にあって三分の二ほど入っており、深いしみのついた長いコルクもころがっていた。壜の外見や、埃(ほこり)のつき具合などから推して、泥棒たちが味わったのは特別に上等なワインであることを示していた。
ホームズの態度は変わってきた。無関心なふうの表情は去って、ふたたび彼の鋭い窪(くぼ)んだ目に、用心深い光を読み取ったのである。彼はコルクを取り上げ、しばらくしらべていたが、「どうやって取ったのかな?」
ホプキンズは開きかかった抽出しを指し示した。その中に亜麻布のテーブルかけと、大きなコルク抜きがあった。
「夫人はコルク抜きを使ったと言いましたか?」
「いいえ、壜を開くときは、夫人は意識がなかったと言ってましたが」
「そうでしたね。実のところは、あのコルク抜きは使われなかったのですよ。これはポケット栓抜きの、おそらくナイフと一緒になっている、一インチ半くらいの短い奴で抜いたんですよ。コルクの頭をご覧になればわかりますよ、抜き取る前に二度も所を変えて打ち込まれていますよ。突き通せなかったんです。この長いコルク抜きなら、突き通って簡単にひょいと抜けたんでしょうがね。犯人を捕えたら、きっと組み合わせになったナイフを持ってますよ」
「さすがですね」ホプキンズは言った。
「しかしこのグラスは謎ですよ。三人が飲んでいるところを、夫人は実際に見たと言ってましたね」
「それは、はっきり言っています」
「そう言われれば、それまでです。これ以上、何も申し上げることもありません。しかしですね、この三つのグラスは、きわめて注目すべきですよ。おや、何でもないと見てらっしゃるのですかな。まあ、それはそうとして置きましょう。僕みたいに特殊な知識や能力をもつと、簡単な問題にも複雑な説明を求めようとするものですね。このグラスのことでも、ほんの偶然なのかもしれません。ではホプキンズさん、これで失礼します。僕がいても役にたてそうもないし、それに君はちゃんと解決できるものを持っておいでのようですからね。ランドールを捕まえたり、何か事件が発展するようでしたら知らせて下さい。首尾よく解決できますことを信じています。さあ、ワトスン君、行こう。そのほうがもっと有益に仕事に携われるというものですよ」
帰りの汽車の中で、ホームズは見て来たことについて、何か思い悩む様子であった。ときおり、漠然とした観念を、パッとはらいのけるように問題が解決できたのだといった調子で話し出すが、またまた疑念が胸におきて、眉をひそめ、目はポーッとなって、思いはいつしか深夜の惨劇の行なわれたアビ農場の大食堂へ帰って行くのであった。そのうちに、汽車がどたんという衝動に続いて、ある町はずれの駅を出た瞬間に、彼はにわかにプラットホームへ飛び降りて、私まで引きずり降してしまった。
「失礼だったね」カーブをまわって消えて行く汽車の後尾を見送りながらホームズは言った。「ちょっとした気まぐれに君までも犠牲にするのはすまないが、ただ僕はこの事件をこのままにしておくことは、どうしてもできないんだよ。あらゆる本能がそれに反対して叫び出すんだ。間違いがある。みな間違っているんだ。僕はそれを保証する。しかし夫人の話は完璧なものだし女中の確証もそろっている。こまかい点もみな符合している。それを僕がなぜ反対しなければならないのか。あの三つのグラス、それだけなんだ。
僕があの説明をそのまま受け取りさえしなかったなら……あらかじめ用意された話にごまかされることがなく、万事今までやってきたような注意深さで調べていたならば、何か確定的な拠(よ)り所が発見できただろうか。できたと思うよ。まあ、ワトスン君、チズルハースト行の汽車が到着するまで、このベンチに腰を下ろしていたまえ。君の前に証拠を並べたてよう。それには第一に、女主人や女中が語ったことが真実だときめてかかる態度はやめていただきたいとお願いする。夫人の魅力的な人品にわれわれの判断を歪(ゆが)ませてはいけないと思うよ。
冷静に聞けば、夫人の話の中には疑うべき点がいくつかあった。二週間前に、この泥棒たちはシドナムで相当派手なことをやった。その記事や人相は新聞に出たから、架空の泥棒を使って芝居をうとうとする場合、誰でも思いつきそうなものだよ。実際、泥棒がえらいもうけをしたなら、喜びのあまり、当分あぶない仕事にはのり出さないで、おとなしくそのもうけを楽しむものだよ。それに割と早い時間にひと仕事するっていうのも普通じゃないし、女に声をたてさせないために殴りつけるというのも普通じゃない。そんなことをすれば、かえって声をたてると思うね。それに数の上で男一人を始末できるくらいのことはわかっているのに、殺してしまうっていうのも普通じゃない。また手近な所にいくらもいいものがあるのに、あんなわずかなものを盗(と)って満足していることも普通じゃない。最後にあんな連中が、酒を半分しか飲まなかったということも普通じゃないと考えられる。こうしたことを、君はどう思う?」
「そう重ねて言われてみると、相当なものだと思うがね。しかしどれもがありそうなことだよ。ただ僕が不思議だと思うのは、夫人が椅子に縛りつけられていたということだよ」
「僕はそうは思わないよ。ワトスン君。というのは、泥棒が夫人を殺さないとしたなら、逃げたあとに夫人がすぐに警察に知らせることができないようにしておかなければならないのだからね。しかし、ともかく夫人の話の中には、どうもありそうにもない要素があるんだ。その最大のものはあのグラスの件だ」
「グラスがどうだというのかね」
「あのグラスを思い浮かべられるかい」
「はっきり思い出せる」
「三人の泥棒はそのグラスで飲んだという話だったね。君はそうだと思うかい」
「なぜだい。グラスはワインで汚れていたじゃないか」
「その通りだ。しかしワインの《おり》の入っていたのは一つだけだぜ。その点が注目すべきなんだ。これはどういうことだと思う?」
「最後についだグラスに《おり》が入ったのだろう」
「そんなことはない。ワインは壜に三分の二も残っていたのだ。初めのふたつに《おり》が出ないで、三番目のだけにうんと《おり》が出るなんてことは考えられないよ。これには二つの説明がつくと思う。それも二つだけだ。その一つは二つのグラスがつがれた後で、ひどく壜をゆすぶったので、三番目のグラスに《おり》が入ったという説だ。しかしこれは考えられないことだよ。この点は僕の説が正しいと思っている」
「じゃいったい、どうだと言うんだい?」
「使われたのは二つのグラスだけで、その二つから出た《おり》を、第三のグラスに開けて、そこに三人いたように見せかけたわけだよ。そう考えれば、《おり》が最後のグラスだけに残るということもありうる。そうだ。僕はその通りだと信じている。小さな現象だが、事実は僕の言った通りだとすれば、この一見平凡な事件もきわめて重大なものになってくるんだ。というのは、夫人や女中が故意に嘘を言ったことになるし、彼らの話は、一語として信じられないということになる。ひいては、何か真犯人をかばうための強い理由があってのことだということにもなるんだ。僕たちは、あの連中の助けをかりないで、独自の力で事件の解釈をつけねばならないんだ。これがわれわれの前途に課せられた使命だよ。さあ、ワトスン君。チズルハースト行の汽車が来たよ」
アビ農場の人々は、私たちが帰って来たのにひどくびっくりしていたが、ホームズはホプキンズが本部へ報告に出ているのを知って、食堂を占有し、中からドアの錠をかけ、二時間ものあいだ、精密な、骨の折れる調査に没頭した。それこそが、輝かしい推理の殿堂をうち建ててきた基礎をなすものなのだ。
私は一隅に腰を下ろして、教授の実物教示を研究する熱心な学生のように、その注目すべき研究をひとつひとつたどっていったのである。窓、カーテン、絨毯、椅子、紐、……ひとつひとつ詳しく調べては黙考していた。ユースタス准男爵の死体だけは片づけられていたが、他はみな、朝見たままであった。驚いたことにホームズは厚いマントルピースの上にのぼった。頭のずっと上方に、赤い紐が数インチ下がっており、それが、先の針金にくっついていた。長いこと、彼はそれを見上げていた。それから、もっと近くで見ようとして、壁に出ている木の腕木に膝をおいた。こうすると、あと数インチで、紐のちぎれた所に手がとどくところだった。しかし彼の注意をひいたのは、紐よりも腕木そのものであるらしかった。ついに彼は嬉しそうな声をあげて、飛び降りた。
「なるほど、これでわかったよ、ワトスン君。われわれの蒐集した中でも、顕著なもののひとつだよ。しかしなんて僕は間抜けだったんだろう。一代の大失策をやるところだったよ。さあ、もう少し欠けている連鎖を探し出せば、完全に解決されるんだ」
「犯人はわかったかい?」
「ワトスン君、それが一人なんだ。それも力の強い男でね。ライオンみたいな奴で。見たまえ、あの火掻棒を曲げるほどなんだぜ。背丈は六フィート三インチ、リスのように活動的で手先が器用だ。それに機智に富んでいる。この巧妙な話も、そいつの計画したものだ。そういうわけでワトスン君。僕たちは偉い人物の手細工にぶつかったわけだよ。あのベルの紐に手がかりがあるきりで、それがあるために、疑いが残ったのだよ」
「その手がかりとはどこにあるんだい?」
「君がベルの紐を引っ張ったとしたまえ。どこから切れると思う? そうさ、針金とくっついている所から切れるよ。それがあれみたいに、つぎ目から三インチの所で切れたのはなぜだろうか」
「そこがほつれていたのだろう」
「なるほど、この結び目は調べてみるとほつれている。だがこれは巧智にたけた男が、ナイフでそうしたのだ。これの相手になっているほうの端はほつれてないんだ。ここからじゃ見えないよ。マントルピースの上にのぼれば、何もほつれたような跡はなく、きれいに切ってあるのがわかると思う。まず男は紐が必要であった。ひきちぎればベルが鳴るから、これはできない。ではどうしたか。彼はマントルピースの上にあがった。でもとどかない。それで腕木に膝をかけた……埃の上にその跡が見られる……それからナイフを出して紐を切った。僕はあと三インチくらいでとどきそうなので、それから推してその男は、僕より少くも三インチは高いものと思う。あの槲(かしわ)の椅子の坐る部分の所を見たまえ。何だろう?」
「血だね」
「たしかに血だ。これだけでも夫人の話は取るにたらないものだよ。凶行中、夫人があの椅子に坐っておれば、そこに血がつくわけはない。夫が死んでから、そこへ坐らせられたのだ。僕は賭けてもいいが、夫人の黒いドレスにも、相当血がついていると思うね。でもね、ウォータールーはまだだ。今はマレンゴという所だ。つまり、最初は敗れ、最後には勝利を得るというわけだ。ちょっと、女中のタリーザと話をしたいんだが。もっと知りたいと思うことを聞き出したいなら、僕たちは今しばらく用意周到でなくちゃならないね」
このオーストラリア生まれの厳格な女中は、興味深い人物であった。無口で、疑い深く、愛嬌(あいきょう)がなく、ホームズが愉快な態度をもって、彼女の言うことを何でも素直に受け入れるふうな態度を示したので、やっとのことで、気持がうちとけたふうであった。
彼女は殺された雇い主への憎悪をかくそうともせず、こう話した。
「そうです。酒壜を投げつけになったのは本当でございます。奥様の悪口を言われるのを聞きましたものですから、もしも奥様のご兄弟がいらっしゃいますれば、そんなことはおっしゃいませんでしょうと申しましたら、ぶっつけられたのでございます。もしもあの美しい奥様を一人でおいておいたなら、一ダースくらい投げつけたかもしれません。これまでも奥様を虐待しておられました。
奥様は自尊心が高い方ですから、不平をおっしゃることはなかったのです。たいていのことは私にもおっしゃいませんでした。あなたが今朝ご覧になった腕の傷だって、何もお話しになりませんが、私はよく知っております、あれは帽子ピンで刺されたのでございます。あの悪賢い悪魔は……神様、亡くなった人のことを、こう言いますことをお許し下さい。あれはこの世におりましたときは悪魔でございました。
始めてお会いしましたときは、優しい方でございました。わずか十八か月前でございますのに、十八年も前のような気がいたします。奥様もその頃はロンドンへ初めていらしったばかりでございました。はい、それは最初の航海でして、それまでは家からお出になったことがございません。旦那様は、肩書と財産とロンドン仕込みのうまい社交で、奥様をものにしたのでございます。それが失敗であったとしましても、奥様はその償いをしておられます。何月に旦那様と会ったかとおっしゃるのですか。それは着きましてすぐでございまして、着きましたのは六月でございますから、七月でございました。そして昨年の一月に結婚なさったのでございます。はい、奥様は居間にいらっしゃいます。お会いになると思いますが、あんまりいろいろお尋ねにならないようになさって下さいませ。身も心もくたくたになっていらっしゃいます」
ブラックンストール夫人は同じ寝椅子に横になっていたが、前よりはよほど元気そうに見えた。女中は私たちと一緒に入って来て、女主人の額の打撲傷に罨法(あんぽう)を施していた。
「また私を尋問にいらっしゃったわけでは、ございませんでしょうね」
「いいえ」ホームズはいとも穏やかに言った。「奥様には、もう意味のない面倒をおかけいたしません。私の願いは、むしろ奥様を安心させておあげしたいということなのです。あなたはずいぶん苦労なさったとお察しするからです。私を友だちとして取り扱っていただき、また信頼していただけるならば、私がその信頼に相当する者であることがおわかりになると思います」
「私にどうしろとおっしゃるのですの?」
「本当のことをおっしゃって頂きたいのです」
「ホームズさん!」
「いえ、奥様。それは何の役にもたちません。私のことは、評判を少しくお聞きおよびでしょう。その事実にかけて申します。あなたのお話はまったくの作りごとです」
女主人も女中も蒼ざめ、目をまるくしてホームズを見つめた。
「ずいぶん厚かましい方ですわね。どうして奥様が嘘をついたとおっしゃるんですか?」
ホームズは椅子から立ち上がって、
「何もおっしゃることはないんですか」
「何もかもお話ししました」
「もう一度、考えてみて下さい。率直にお話し下さるほうが、よくはありませんか」
ほんのしばらく、彼女の美しい顔にためらいの色が見えたが、何か強い考えがあってか、マスクのように表情をこわばらせた。
「知っていますことはみな、お話ししました」
ホームズは帽子をとり、肩をすくめた。「残念です」
そう言っただけで、その部屋と家を出た。広い庭には池があって、ホームズはそのほうへ歩いて行った。すっかり凍っていたが、白鳥が一羽いるために、ひとつだけ穴が開けられていた。ホームズはそれを見つめ、それから門のほうへ行った。そこで彼は、スタンリー・ホプキンズに手紙を書いて門番に渡した。
「こいつが当るか当らぬかわからぬが、こうしてまた尋ねてきたことを弁明するために、ホプキンズに何か残しておくべきだろう。まだ僕の秘密などを打ちあける気はないけれどもね。僕たちの次の行動舞台は、たぶんペルメル街の端にある、アデレイド・サウサンプトン船会社になると思う。南オーストラリアとイギリスを結ぶ船会社はもうひとつあるが、まず大きなのから解く手をつけてゆこう」

ホームズの名刺を支配人に通じると、すぐに配慮してくれて、彼はまもなく必要なことはみな知ることができた。一八九五年の六月に豪州航路の汽船は一隻しか入港していなかった。それは「ジブラルタルの岩」という名で、社の持ち船中、最大最長の船であった。乗客名簿を参照してみると、アデレイドのフレイザー嬢とその女中は、それに乗っていたことがわかった。この船はいまオーストラリアへ航行中で、たぶん今頃はスエズ運河の南方を走っているはずであった。乗り組の高等船員はひとりだけ例外はあるが、一八九五年と同じである。すなわちその例外のひとり、一等航海士ジャック・クロッカー氏は船長に昇進、二日後にサウサンプトンから出航する「バス・ロック」号という新船に乗り組むことになっていた。彼はシドナムに住んでいるが、少し待つ気があれば、命令を受けるためにここへやって来ることになっていた。
だが、ホームズは、彼に会いたいという気持はなく、経歴や、性格を知りたがっていた。
彼の経歴はすばらしいものだった。彼に比肩するほどの船員はひとりもいなかった。性格は、義務については信頼できる人物であるが、ひとたび船を離れると、荒々しい無鉄砲な男で、性急で激しやすいが、忠実で、正直で、親切だということだった。
これがアデレイド・サウサンプトン船会社で知り得たことの要点である。そこから彼はロンドン警視庁へ馬車を駆(か)って行った。しかし、彼は、馬車が着いても、中へ入ろうとはせず、眉をしかめて、じっと考え込んでいた。が、とうとう、チャリング・クロス電報局へ馬車をまわし、電報を打って、それからベイカー街へ戻ったのであった。
「それができないんだよ、ワトスン君」部屋に入るなり、ホームズは言った。「逮捕状が出てしまえば、どうにも救いようがないんだからね。僕が犯人を発見したために、犯行による以上の、事実上の害悪を流したことが、一、二度あったんだ。だから今も注意しているんだよ。自分の良心をいつわるより、イギリスの法律を何とかごまかしたほうがよい。まあ、行動を起こすのは、もっとよく知ってからにしよう」
夕方前に、ホプキンズ警部がやって来た。あまりうまくいっていないようだった。
「ホームズさん、あなたはまったくの魔法使いですよ。ときどき人間業とは思えないような力を持っていらっしゃると思っているんです。いったい、盗まれた銀器が池の中にあるなんてどうしてわかったのですか」
「それはわかりませんでしたよ」
「でも調べるようにと、おっしゃったではありませんか」
「じゃ、あったのですか」
「ありましたよ」
「お役にたてたのは、何よりです」
「でも、役にたったということはないんです。そのために、事件はますます困難なものになりましたよ。銀器を盗んでいながら、いちばん近くの池へ投げ込むっていうのは、この泥棒、何者でしょうね」
「それはたしかに奇行ですね。盗んだ人は銀器を欲しくなかったんですね。ただ人の目をくらまそうとして取ったというだけなのですから、はやく厄介物を捨ててしまおうと思ったのですよ」
「どうしてそんなふうな考え方をなさったのですか」
「そういうこともあり得ると思ったのです。フランス式の窓から逃げて行こうとしたら、ちょうど目の前に池があった。そこの氷にちょうど一か所、小さな穴が開いている。こんな恰好な隠し場はないじゃないですか」
「ええ! 隠し場所ですって? これはうまい」ホプキンズは言った。「うむ、それでのみこめましたよ。まだ宵(よい)のうちだし、人通りもある、それで銀器を見られるのを恐れたのでしょう。ひとまず池の中に隠しておいて、あたりに人気がなくなったときに、取って帰ろうとしたのでしょう。これはあなたのごまかし説よりはいくらかよいでしょう」
「そうでしょうね。賞賛すべき説ですよ。私の考えは荒唐無稽(こうとうむけい)でした。でも、そのために銀器を発見できたということは認めねばなりませんよ」
「そうです。あれはあなたのおかげです。でも私はすっかり挫折してしまったのです」
「というと?」
「ホームズさん。ランドール三人組が今朝ニューヨークで捕まったのです」
「これはこれは。では昨夜、連中がケント州で殺人をやったというあなたの説は駄目になりますね」
「致命的ですよ。まったく。ランドールのほかに、まだ三人組のギャングがいたってことかもしれませんし、あるいは警察の知らない新しいギャングがいるのかもしれません」
「そうです、それは可能ですね。おや、お帰りですか?」
「ええ、徹底的に調べ上げるまでは、私には休息というものはありませんよ。何かヒントはありませんか」
「ひとつ言ったはずですよ」
「何でしたっけ?」
「ごまかし説です」
「おや、ホームズさん、どうしてまた……」
「もちろん、疑問はあります。でもあなたには、その考え方に着眼することを、おすすめいたしますね。そこに何かがある、ときっとお気づきになりますよ。こちらで、夕飯を食べませんか。そうですか、ではさようなら。何か進行をみせましたら、お知らせ下さい」
食事が終わって、テーブルが片づけられるとホームズはふたたびそれとなくその問題に言及した。パイプに火をつけて、スリッパをつっかけた足を、盛んに燃えている火のほうへのばしていた。ふと、時計を見て、
「ワトスン君。事件は発展するぜ」
何時(いつ)だい?」
「今だよ……この数分以内に。今のスタンリー・ホプキンズに対する僕の態度、よくなかったと思うだろう」
「君の判断にまかすよ」
「うまい返答だね。これはこう考えてもらいたいんだ。僕の知っていることは非公式だが、ホプキンズの知っていることは公式だ。僕には個人的判断の権利はあるが、彼はそうはいかない。彼は全部を公開しなければならない、でないと、職務を汚すことになる。こんな疑わしい事件で、ホプキンズを苦しい立場にたたせたくないんだ。そこで、僕自身の考えがはっきりするまで、教えることは差し控えてるんだよ」
「じゃ、いつになったら、はっきりするんだい?」
「そのときが来たんだ。今に君はちょっと変わった劇の最後の場面に立ち合うことになるんだよ」
階段に足音がして、やがてわれわれは男性の標本とも言いたいような立派な男を迎えた。かつてこんなよい男をこの部屋へ迎えたことはなかったのである。背が非常に高く、若い男で、金色の髭と青い目を持ち、皮膚は熱帯性の太陽にやけており、その弾力のある歩きぶりから見て、その大きな身体は、強いばかりではなく、活動的であることを示していた。彼はドアをしめると、両手を固く握り、胸をはって自分の烈しい感情を抑えていた。
「クロッカー船長、お掛け下さい。電報をご覧になりましたね」
客は肘掛椅子(ひじかけいす)に坐って、私たちふたりを問いただすような目で見ていた。
「電報を見ました。それでご指定の時間にやって来ました。あなたは会社のほうへもお出でになったと聞きました。あなたの手からは逃れられますまい。どんなことでもおっしゃって下さい。私をどうするおつもりですか。逮捕ですか。お話し下さい。そう、鼠(ねずみ)をとらえた猫みたいに、じっと坐って、私を翻弄(ほんろう)しないで下さい」
「葉巻をすすめてくれたまえ」ホームズは言った。「クロッカー船長、それを上がって、心を鎮(しず)めて下さい。あなたが普通の犯罪人なら、私もこうやって、あなたと煙草をやる気はありませんよ。そこは信じて下さい。率直に話して見て下さい、そのほうが、何かあなたのためにすることができると思います。私をおだましになるようなら、ひどい目に遭いますよ」
「では、どうしろとおっしゃるのですか」
「昨夜、アビ農場で起こったことの真相をお話し下さい。要(い)らないことをつけ加えたり、必要なことをはぶいたりせずに、どうぞ真相をお願いします。私は大部分のことは知っているんですから、真実から少しでも外れたら、窓から、この警笛(けいてき)を吹きます。そうすれば、事件は永久に私の手から離れるわけです」
しばらく考えていたが、大きな日やけした手で膝をたたいて、
「やってみましょう。あなたは約束を守る人、信頼できる方だと思いますから、みなお話しいたしましょう。でも初めに、ひとつだけ申し上げておきますが、私に関する限り、何も後悔はいたしませんし、怖(おそ)れもしません。私はもういちど繰り返す必要があるならそうするつもりです。やったことを誇りとするものです。あのけだものめ! あいつが猫みたいにたくさん命を持っていたとしても、みなこの私が奪ってやります。ただメアリ・フレイザー嬢のことですが……どうしてあの呪われた姓で呼べるものですか! あの優しいお顔にちょっとでも微笑を浮かべさすことができるなら、命を投げ出してもいいと思っている私が、あの方に面倒をおこしたと思うと、耐えられないことなのです。しかも私に、何もしないで見ておれましょうか? まあ、お話をすっかりいたしましょう、その上で、男対男の話として、私が何もしないで見ていられたかどうか、お尋ねいたしましょう。
話を少し前へ戻さなければなりません。あなたは何もかもご存じかと思いますが、私が、《ジブラルタルの岩》の一等船員、あの方が船客であったとき、私たちは知り合ったのです。会った最初の日から、彼女は私にとって、唯一の女性でした。航海中、日毎に彼女への思慕の念を持ち続けておりました。夜番の暗闇の中で私は何度ひざまずき、デッキにキッスしたことでしょう。それというのも、彼女のあの可愛い足が、そこを踏んだからというわけなのです。彼女は結婚の約束はしませんでした。彼女は私にも、他の人にも、公平に応対しました。それとて、私に不平はありません。私の片恋だけで、彼女はただ友人と考えていたのです。別れたときも、彼女の気持は自由でしたけれども、私は決してそうはいきませんでした。
次に私が航海から戻って来ましたとき、彼女が結婚したことを聞きました。彼女とて、好きな人ができたら、結婚すべきでありましょう。肩書と財産……彼女ほどそれにふさわしいものはありません。彼女は美しく、優しくあるために生まれてきたのです。私は彼女の結婚を悲しみませんでした。私はそれほど利己的な卑劣漢ではありません。むしろ、彼女が貧乏な船乗りに身を委(まか)せずに、幸運にめぐり合ったことを喜んでいたのです。それほど、メアリ・フレイザーを愛していたのです。
私はふたたび彼女に会えるとは思っていませんでした。私はこの前の航海で、昇進しました。しかし新しい船がまた進水しておりませんので、シドナムの家で二か月以上も待機していなければなりませんでした。
ある日、田舎道で、彼女の古くからの女中、タリーザ・ライトに会いました。タリーザは、彼女のこと、あの男のこと、その他何もかも話してくれました。その話を聞いて、私は気が狂いそうになりました。あの飲んだくれの卑劣漢は、彼女の靴をなめる価値すらないのに、彼女に手を上げるとは! 
その後またタリーザに会いました。それからメアリ自身にも会いました。二度ばかり会いましたが、それからは彼女はもう会おうとはしませんでした。でも先日、一週間以内に、航海へ出発するようにとの通告を受けましたので、その前にもう一度、彼女に会っておこうと決心しました。タリーザは常に私の友だちでした。と申しますのは、彼女もメアリを愛していましたし、あの人非人を私と同じほど憎んでいたからです。彼女から、その家の様子を教えてもらいました。メアリは階下の小さな寝室で、坐って本を読む習慣だそうです。
昨夜、私はそこへ忍びよって、外から窓をひっかくようにしました。最初、彼女は開けてくれませんでしたが、心の中では、私を愛してくれて、霜(しも)の降りた夜に、私を放って置くようなことはしない人でした。彼女は大きな正面の窓へまわって来るようにと囁(ささや)きました。行って見ると、そこの窓は開いていて、私は食堂に入ることができました。ふたたび彼女の口から、いろいろな事柄を聞いて、私の血は煮えかえりました。またまたこの野獣めが、愛する女性を手荒に扱ったことを、いたく呪いました。
さて、私が彼女と窓近く立っておりますと、そこに何のやましさもないのは、神様がしろしめしますが、あの男がまるで気狂いのように部屋の中へ躍り込んで来て、およそ男が女に用いる最も卑劣な言葉でののしり、手に持っていた杖で、顔を打ちました。私は火掻棒をとりあげました。これでふたりとも武器を持ったことになるんですから、公平な勝負です。ご覧なさい。これが彼の最初の一撃を受けた所です。こんどは私の番です。まるでくさったかぼちゃのように、やっつけてやりました。私が後悔していると思いますかって、どういたしまして! 殺されるのは、あいつか、私か、という事態だったのです。いやそれどころではない、あいつが死ぬか、彼女がやられるか、の問題だったのです。彼女に対してふりむけたあんな気ちがいの暴力を、何で私が放っておれましょう。
こうして私はあいつを殺しました。私は間違っていたでしょうか? ではもしあなたが私の立場にいなさったら、どうなさっていたでしょうか?
彼女があいつに打たれたとき、叫び声をあげましたので、タリーザが上の部屋から降りて来ました。戸棚の上にワインが一本ありましたから、抜いて、メアリの口を少しあけて注ぎました。彼女はショックでなかば死んだようになっていました。私も少量飲みました。タリーザは氷のように冷静でした。それからの計画は、私とタリーザとの合作なのです。まず、万事泥棒がやったように見せかけねばなりません。タリーザは女主人にその作り話を、繰り返して言って聞かせました。一方、私はよじ登って、ベルの紐を切りました。それから彼女を椅子に縛りつけ、紐の端を自然に切れたようにするために、ほつれさせました。そうしないと、泥棒はどうしてよじ登って切ったのかと不審がると思ったからです。それから、銀の皿や壷を持ち出して、掠奪(りゃくだつ)したように見せかけ、十五分たったら、騒ぎたてるようにと言い含めて、そこを出ました。私は銀器を池の中へ投じて、一生に一度の本当によい仕事をしたという気持で、シドナムへ急いで逃げました。以上お話ししましたことは、全部本当です。ホームズさん、私は自分の首にかけて誓います」
ホームズはしばらく黙って、煙草をふかしていた。それから、部屋をフラッと横切って、客の手を握った。
「私も、そう思っておりました。おっしゃったことはみな本当です。と申しますのは、私の知らなかったことは、ほとんどひとつもありませんでした。軽業師(かるわざし)か船員でなければ、誰も腕木からベルの紐までたどりつくことはできない相談です。また水夫でなくちゃ、椅子に結びつけたあんな結び目をこしらえられるものじゃありません。この夫人が船員で接触をもったのは、ただ一度で、それもイギリスへ来る航海中のことです。彼女が相手を熱心にかばおうと努めたり、彼を愛しているふうでもあるので、これは彼女と同じ階級の人物だなとわかります。私が正しい手がかりの上に出発してから、あなたへ手を指し向けることがいかに容易なものであったか、これでおわかりでしょう」
「警察はわれわれの詭計(きけい)を見破ることはできまいと思っていました」
「警察は見破らなかったんです。私の考えでは今後とて、たぶん駄目でしょう。さてクロッカー船長、あなたは誰にもありがちな、一時の極端な憤激のあまり、やったことだとは認めますけれど、これはたいへん重大な問題です。あなたの正当防衛が成立するかどうか、保証の限りではありません。それは、イギリスの国の陪審員が決定することです。ともかくも、あなたに多大の同情を持っていますので、もしあなたが二十四時間以内に姿をお隠しになれば、何人も、あなたを妨げにやって来はしないと、約束いたしましょう」
「では、そのあとで公にされるのですか」
「そうです。そうなります」
船長は怒りで顔を赤くした。
「男に何たる提案をなさるのです。これではメアリが共犯になるくらいのことは、私にだってわかります。私だけがこっそり逃げて、彼女は残って、そんな目に遭わせるとお思いですか。とんでもないことです。私はどんな処分でも受けます、でもどうぞホームズさん、後生ですから、メアリを法廷に立たせないような処置をお取り下さい」
ホームズはふたたび船長の手を握った。
「私は試しただけなんです。あなたは、いつでも正い人だということがわかりました。で、これは私の重大な責任なんですが、ホプキンズにいいヒントを与えちゃったのです。でも彼がそれを利用できますかどうか、私の知ったことではありません。では、いいですか、クロッカー船長。われわれはここで当然受けるべき法律上の手続きを取ることにしましょう。あなたは被告です。ワトスン君、君は陪審員だ。私はこれ以上に適当な陪審員を知りません。私は判事です。さて陪審員諸君、いま証言を聴取されました。被告は有罪ですか、無罪ですか」
「無罪です。裁判長」と私は言った。
「民の声は、神の声なり。クロッカー船長を放免します。べつの犠牲者が現われない限り、あなたは安全です。一年たったら、あの夫人の所へお帰りなさい、そして、彼女とあなたの将来が、今晩私たちの下した判定の正しかったことを証明してくれますように」
第二のしみ

「アビ農場の屋敷」をもって、シャーロック・ホームズ功名譚(こうみょうたん)は終りにするつもりであった。こう決心したのは、何も材料が欠乏したからではない。それどころか、まだまだ筆にしていない、幾百という事件のノートを持っている。では、この人物の特異な個性や独特の方法に、一部の読者が興味をなくしてきていはしまいか、という懸念(けねん)からきたかというと、そういうわけでもない。本当の理由は、ホームズが、自分の経験談をつぎつぎに公表してゆくことに嫌悪を感じ始めたからである。まだ現役にいたあいだは、彼の成功記録も実用価値はあった。だがロンドンから完全に引きさがって、サセックスの草原で研究と養蜂にうちこんで以来、世間の評判者になることが厭(いや)になって、この点では自分の希望が厳密に尊重されることを断乎(だんこ)として要求したのだった。
しかし「第二のしみ」は時機が熟すれば公表すると約束したことだし、この長い、一連の冒険談の結びとして、今までに依頼を受けたなかで最も重大な国際的事件を持ってくることは、当を得たものだと説き、ついに、発表の際は慎重を期するということで、彼の同意を得ることに成功したのである。それで、話の中に、細かい点で何か漠然としたものがあると思われても、その種の沈黙にはそれ相当の理由があることを了解していただきたいのである。

それはある年のこと、何十年代ともちょっと言えないことで、ともかく、その年の秋の火曜の朝のこと、ベイカー街のわれわれの貧しい家の中に、ヨーロッパでも有名な二人の訪問客を迎えた。ひとりは飾り気のない、鼻高で鷲鼻の、威圧的な感じの、二度までイギリスの総理大臣をつとめた、あの有名なベリンガー卿であった。他のひとりは浅黒く、輪郭の整った、中年前の優雅な物腰のトリローニー・ホープ閣下で、ヨーロッパ省の大臣・政治家として、やはり著名であった。ふたりは新聞の散乱している長椅子に並んで腰をかけたが、疲れた、心配気な顔から判断して、なにか差し迫った重大なことがあってやってきたことは明らかであった。総理はやせた、血管の青く走っている手で、しっかりと傘の象矛の柄(え)を握っていた。やせた苦行者のような顔が、陰気そうにホームズと私を見くらべた。ヨーロッパ大臣のほうは、神経質に口髭をひっぱってみたり、時計の鎖についた印章をいじってみたり、そわそわしていた。
「紛失に気がついたのは今朝の八時ですが、私はすぐに総理に報告しました。こうして二人で参ったのも、総理の入れ知恵です」
「警察にお知らせになりましたか?」
「いいえ」総理は、あの有名な、気早い決然たる調子で言った。「知らしていませんし、知らせる気持もございません。警察に知らせることは、結局世間に知らせるようなものです。これはとくに公表を避けたいのです」
「なぜでございましょう、閣下」
「問題の文書はいたって重要なもので、それを公表しますことは、ヨーロッパを最高度の紛糾(ふんきゅう)に落としこむおそれがある……いや、ほとんど確実だと申し上げてよいと思います。戦争か平和かが、この問題にかかっていると申しても過言ではありません。それが極秘のうちに取り返されないならば、取り返さなくてもよいと思っているくらいです」
「わかりました。でトリローニー・ホープさん、文書紛失当時の状況を、正確にお話し願いたいのですが」
「ホームズさん、それは簡単なのです。問題の手紙は、ある外国君主からのもので、六日前に受け取りました。重要なものですから、金庫にしまっておくわけにもいきませんので、毎晩、ホワイト・ホール・テラスの自宅に持ち帰りました。そして私の寝室の、錠のかかる文箱に入れておきました。昨晩はそこにございました。それは確実です。私は実際に晩餐(ばんさん)の着替えをしながら、その箱を開いて、手紙が中に入っているのを見たのでございます。それが今朝なくなっていたのです。文箱は、晩はずっと化粧台の鏡のそばに置いてありました。私も妻も目ざといほうでして、夜中に誰も部屋に入るものはなかったと断言できます。しかも、手紙は紛失しているんです」
「何時に食事をなさいましたか」
「七時半です」
「それから寝室へ行くまで、どのくらいたっていますか」
「妻が芝居に行きましたので、私は起きて待っていました。二人が寝室へ入ったのは十一時半でした」
「それでは、四時間ものあいだ、文箱は看視されていなかったことになりますね」
「朝に女中が来るのと、執事と妻の侍女のほかは誰も入ってはいけないことになっているのです。みな、長くつとめている忠実な召使いです。そのうえ、文箱の中に普通の役所の書類以上の価値あるものが入っていると知っている者はありません」
「そこに手紙のあることを知っているのは、誰と誰ですか」
「家の者は誰も知りませんでした」
「あなたの奥さんもですか」
「知りません。今朝、その手紙が紛失するまで、妻には何もしゃべりませんでした」
総理は是認するようにうなずきながら、「僕は君の公務における義務観念をずっと評価してきた。この重大な秘密の場合には、もっとも親密な家庭的な絆(きずな)よりも優先するものと信じます」
ヨーロッパ大臣はお辞儀をして、「過分のおほめの言葉をありがとうございます。今朝に至るまで、この問題に関して、妻にひとこともしゃべっていません」
「推測しておわかりになったのではございませんか」
「いいえ、妻にせよ、誰にせよ、推測などできるものではありませんよ」
「以前に、何か文書でも紛失したことはございませんか」
「いいえ」
「この手紙があることを知っている者は、イギリスに誰がおりますか」
「閣僚には昨日知らせました。閣議に秘密の誓約はつきものですが、昨日はとくに総理から厳重な警告がございました。それが数時間後に、私自身が紛失するとは!」
彼の美しい顔は、発作的な絶望の表情にゆがみ、両手で髪の毛をかきむしった。一瞬、衝動的で、感じやすい自然児を瞥見(べっけん)した感じだった。だがすぐに貴族的な風貌にかえって、穏やかな声で言った。
「閣僚のほかに、二人や三人、その手紙のことを知っている局員がおります。でもイギリスにはほかに誰もおりません」
「でも、外国にいるのですか」
「それを書いた人のほか、誰も見たものはないと信じます。大臣といえどもです。これは、普通の事務手続きの経路を通ってきたものではないのですから」
ホームズはしばらく考えていたが、
「では、この手紙の内容が何であったかということ、その紛失が、なぜさほどの重大な結果をひき起こすものであるかを、お尋ねいたしましょう」
ふたりの政治家はすばやい一瞥(いちべつ)を交換した。総理は、毛深い眉をひそめて、
「ホームズさん、封筒は薄青い色で、長くて、薄いものです。ライオンがうずくまった画のある、赤い封蝋(ふうろう)がしてありました。宛名は太い筆蹟のもので……」
「恐縮ですが、そうした細かい点も、面白くて重要ですが、私のお聞きしたいことは、もっと根本的なことです。手紙の内容は何でございましたか」
「それは最も重要な国家の機密です。残念ですが、申し上げるわけにはまいりませんし、それに必要だとも思いませんが。あなたは優れた力を持っていらっしゃると聞いておりますが、その助けを借りて、私が先ほど申し上げましたような封筒を発見していただければ、国家に貢献することになりますし、われわれの力でできます限りの礼金を差し上げたいと思います」
シャーロック・ホームズは、にっこりとして立ち上がった。
「あなた方お二人とも、この国で最もお忙しい方ですし、私とて、小さいながら、訪問客が多いのです。残念ですが、この問題であなたのお手伝いをすることはできません。これ以上お会いしても、時間の空費かと思います」
総理は、あの内閣の面々がちぢみ上がるといわれるほどの深く落ちくぼんだ眼を、ギラリと光らせて、「それはまたどうして……」とやり出したが、すぐに怒りを抑えて、席についた。一分やそこら、われわれはしんと静まりかえって坐っていた。だが、やがてこの老政治家は肩をすくめて、
「ホームズさん、あなたの条件を受け入れましょう。もちろん、あなたは正しい。あなたのことを充分信頼しないような態度で、やってもらおうということは不当だったと思います」
「私もそう思います」とホームズは言った。
「では、あなたと友人であられるワトスン先生の節操に信頼して、申し上げましょう。そしてまた、この事件が発覚すれば、これ以上の大きな不幸は想像もできないのですから、とりわけあなたたちの愛国心に訴えたいのです」
「大丈夫、信頼していただいて結構です」
「手紙は、この国の、いくつかの植民地の最近の発展にいらだった、ある外国の君主からのものです。それはまったく君主自身の責任において、急いで書かれたものです。調査の結果、彼の国の大臣もそのことを知らなかったことがわかりました。ある文句などは挑発的な性格を持っておりますので、公表しますと、わが国の国民感情をいたく刺激するものと思います。そのように人心が激昂して参りますと、公表後一週間以内に、大戦争にまきこまれると申しても、差しつかえないと思います」
ホームズは紙片にある人物の名前を書いて、総理に渡した。
「そうです。その男です。そしてこの男の手紙が……十億ポンドの経費と十万の生命に価(あたい)するこの手紙が、不思議な紛失の仕方をしてしまったのです」
「あなたは差し出し人に知らせましたか」
「はい、暗号電報を打ちました」
「たぶん、先方では公表を望んでいることでしょう」
「そうじゃないんです。自分でも、無分別な激情的なやり方をしたことを認めていると信ずべき有力な理由があるのです。もしも発表されたら、われわれよりも、君主やその国が大きな打撃を受けるのです」
「そうしますと、手紙を受けることによって、誰が利益を受けるのでしょう。なぜにそれを盗んだり、公(おおやけ)にしたりしたがるのでしょう」
「そこは、ホームズさん、高等な国際政治の見地から説明しなければなりません。でもヨーロッパの事態を考えてみますれば、その動機をつかむのはわけはないはずです。ヨーロッパ全体が武装陣営です。それが二つの同盟に別れて、軍事力の均衡を保っているわけです。大英帝国は中立を維持しています。もしもイギリスがある同盟国と戦争をするようなことになれば、いま一方の同盟は、戦争に参加すると否とを問わず、有利な立場になるわけです。納得できましたかね」
「よくわかりました。それでは、君主国とわが国とを仲違いさせるために、この君主の敵さんが、手紙を手に入れて、公表する。そうすれば有利になるというわけですね」
「そうです」
「手紙が、敵側の手に入ったら、どこへ送るつもりなんでしょう」
「ヨーロッパのどこの大使館でも結構でしょう。現に蒸気機関のなし得る限りの速さで、そちらに向かっているでしょうね」
トリローニー・ホープ氏は、頭を垂れて、大きくうめいた。総理は優しくその肩に手を置いた。
「これは、不運というものですよ。誰も非難できるものじゃない。君だって警戒の手を省いたわけじゃない。さて、ホームズさん、あなたには何もかも申しましたが、あなたでしたらどういう方針をお取りになるでしょうか」
ホームズは、悲しそうに首を振って、
「この文書が取り返せないなら、戦争になるとお考えになりますか」
「おおいに、あり得ることだと思います」
「では、戦争の準備をすることですね」
「それはひどいお言葉です」
「事実をお考え下さい。取ったのは夜の十一時半以後だとは考えられません。なぜならホープ氏も奥さんも、その時間から紛失に気がつくまで、寝室においでだったということですからね。そうしますと、取ったのは昨晩の七時半から十一時半まで、それも七時半のほうの時間に近かったと考えられます。取った者は、それがそこにあることを知って忍んで来て、できるだけ早く、取りたかったろうと思うのです。もしその時間に取ったとしますと、手紙はどこにあるのでしょうか。抱えておくわけがありません。それを必要とする者に、急速に渡されているはずです。そうすれば、取り戻したり、または行方を尋ねたりすることさえできないのではないでしょうか。私たちの力のおよびがたい所です」
総理は長椅子から立ち上がって、
「おっしゃることはみな、ごもっともです。この問題は、本当に、手の下しようがない」
「議論のための仮定として、手紙を取ったのは、女中か、執事としてみましょうか……」
「ふたりとも古くからいる、試験ずみの召使いです」
「さっきのお話ですと、あなたの部屋は三階にあって、外部からは入れない。内部から上がって行くときは、必ず見つけられるということでしたね。それでは、取った者は、家の中にいる誰かということになります。では、誰に渡したのか。国際的なスパイや秘密探偵の一人に渡したものと思われます。その人たちの名前は、かなり私には、覚えのあるものなのです。その中の頭(かしら)と目(もく)される人物が三人ございます。まずその人たちを見まわしていって、現に活躍しておるかどうかを、調査してみましょう。中に行方の知れないのがいて……それも昨夜来、いなくなったというのでしたら、その手紙がどこへ行ったかという、ある種の徴候はわかると思います」
「なぜ姿を消すのでしょう」とヨーロッパ大臣は尋ねた。「たぶん、ロンドンの大使館に持ちこむのじゃないでしょうか」
「私はそうは思いません。スパイたちは、各々(おのおの)独立して仕事をやっているわけでして、大使館とは、お互いに反目し合うことがしばしばあるのです」
総理は黙ってうなずいて、「ホームズさん、おっしゃる通りです。こんな価値のある獲物でしたら、自分の手で、本部へ持ちこみたくなるものですよ。あなたのやり方は優秀なものと思いますよ。ところでホープ君、この災難のために、僕たちの他の任務をおろそかにしてはいけないよ。何か新しい発展でもありましたら、その日のうちに、ホームズさんに連絡しましょう。あなたのほうでも調査の結果をお知らせ下さい」
二人の政治家はお辞儀をして、重々しく帰っていった。この著名な客が帰った後、ホームズは静かにパイプに火をつけて、しばらく腰を下ろして、深い瞑想(めいそう)にふけった。私は朝刊をひろげて前夜ロンドンで起こったセンセーショナルな犯罪記事に没頭した。そのとき、ホームズは何か叫んだかと思うと、立ち上がり、マントルピースの上にパイプを置きながら、
「うん、これよりうまい方法は、ほかにない。事態は絶望的だが、でも全然駄目ということでもない。今からでも、誰が取ったか、わかりさえすれば、まだ渡されずに、そいつの手に残っている可能性は考えられる。結局、連中は金が問題なのだ。僕には背後にイギリスの大蔵省がついている。まだ取り引き先がないのなら僕が買おう。……そのため所得税が増すことになろうともね。盗んだ奴は、先方へ売りつける前に、こちらがいくら値をつけるか見るために、じっと態度を留保していることは考えられることだ。そういう大胆なゲームをやれるものは、三人しかいない。オーバースタイン、ラ・ロティエール、エデュアルド・ルーカスだ。三人にそれぞれ会ってみよう」
「ゴードルフィン街の、エデュアルド・ルーカスかい?」私は朝刊を見ていった。
「そうさ」
「彼には会えないよ」
「なぜ」
「夕べ、自宅で殺されたんだ」
これまでの事件の過程で、しばしば私はびっくりさせられてばかりいたから、今度ホームズを完全におどかしてやったのは、快心事であった。彼はびっくりして見つめていたが、やがて私の手から新聞をひったくった。彼が椅子から立ち上がったとき、私が読みふけっていた記事は次の通りである。

ウェストミンスターの殺人

昨夜、不思議な殺人が、ゴードルフィン街十六番、十八世紀の古びて、閑静な家並の一軒で行なわれた。そこは、テムズ河とウェストミンスター寺院の間にあって、その地点はほとんど議事堂の高い塔の影になっていた。小さいながら、選(え)り抜きのこの館には、数年前から、エデュアルド・ルーカス氏が住んでいた。彼は、魅力的な個性と、わが国屈指(くっし)のテノール歌手として有名なところから、社交界に広く知られていた。氏は独身で、三十四歳、他にこの家には老家政婦のプリングル夫人と執事のミトンがいた。プリングル夫人のほうは早々にさがって、最上階の部屋で寝た。執事のほうはハマースミスの友人宅を訪れて、昨夜不在だった。
十時以後に、ルーカス氏はひとりで家にいたことになるが、その間なにが起こったかは、未だ知られていない。だが、バレット巡査がゴードルフィン街を巡回中、十六番の戸口がなかば開いてあったのを見た。彼はノックしたが返事はなかった。正面の間に明かりが見えるので、巡査はそこの通路を通って、またノックしてみたが返答がない。そこでドアを開けて、中に入った。部屋はひどく取り乱してあって、家具は一方の側にかためられており、中央に椅子が一つひっくりかえっていた。この側に、椅子の一脚をつかんだまま、この家の不幸な主人が倒れていた。
彼は心臓を突き刺されており、即死だと考えられる。凶器は壁に飾ってあった東洋の戦利品から引き抜いたインドの懐剣である。室内の貴重品が物色されていない点からみて、物盗りが犯行の動機ではないと思われる。
エデュアルド・ルーカス氏は知名の士で人気のあることから、同氏が非業な、不可思議な死をとげたことは、広い友人仲間の間で、傷ましい関心と深い同情を引き起こすことであろう。

「ねえ、ワトスン君、これをどう思う」ホームズは、しばらくたってからたずねた。
「おどろくべき暗合だね」
「暗合だって! この劇の役者だと思われる人物としてあげた三人の中の一人がここにいて、その劇が演じられておるちょうどその時刻に、非業(ひごう)の死に会ってるんだ。それを暗合とはちょっと考えられないね。絶対にそうは考えられない。ワトスン君、このふたつの事件は関連があるんだよ。関連がなくちゃならないんだ。われわれがその関連を発見しなくてはならないんだ」
「今頃は警察がみな調べているに違いないよ」
「どういたしまして。ゴードルフィン街で起こったことはそれは調べているさ。でも、ホワイト・ホール・テラスのほうは何も知らないし、これからも知らないんだよ。われわれだけが両方を知っていて、その間の関係をたどることができるんだ。それにとにかく、僕はルーカスに疑惑を向ける、ひとつの明白な理由があるんだ。ウェストミンスターのゴードルフィン街は、ホワイト・ホール・テラスから、歩いて数分しかかからない。前に名前をあげた後の二人のスパイは、ウェスト・エンドのはずれに住んでいるんだ。だからルーカスが他のふたりよりも、ヨーロッパ大臣の一家の者と関係を結んだり、通信を受けたりすることがずっと容易なわけだ。……これは小さなことだが、事件は短時間内に相次いで起こっているのだから、そこが重要なところだということになる。おや、また何かあったかな」
ハドスン夫人が盆に婦人の名刺をのせて入ってきた。ホームズは一瞥(いちべつ)して、目を見張り、それを私に渡しながら、
「ヒルダ・トリローニー・ホープ夫人に、どうぞお上がり下さい伝えて下さい」
この朝、すでに大政治家を迎える光栄に浴しているわれわれのつつましい部屋に、今度はロンドンで最も美しい女性の来訪を受けることになった。私はかねてベルミンスター公爵の末娘の美しさを聞いていたが、いくら説明を聞いたり、色のない写真を眺めたりしても、あの微妙な実物の、名状しがたい魅力と美しい品格とは別種のものと思わざるを得なかった。しかしこの秋の朝、私たちが見たものは、観察者を真っ先に印象づけるような、飛び切り上等な美しさを発揮していはなかった。頬は愛らしかったが、感動で青ざめ、目には輝きがあるが、それは熱を帯びた輝きであった。鋭敏な口もとは自制心の努力もあって、固く結ばれ、ゆがんでいた。この美しい訪問客が一瞬、戸口の所で立ちすくんだとき、まずわれわれの目に入ったのは、美しさではなく恐怖であった。
「夫がこちらに参ったのでございましょうか」
「はい、お目えになりました」
「ホームズさん、どうぞ私がこちらに伺いましたことを夫にお知らせにならないようお願いいたします」
ホームズは冷やかにお辞儀をして、手真似で椅子をすすめた。
「あなたのような方からそう言われますと、たいへんむずかしいご注文と申さねばなりません。どうぞお坐りになって、どんなご希望ですかお伺いいたしましょう。でも私として無条件の約束はいたしかねますことをご了承ください」
彼女は部屋をずっと入って来て、窓を背にして坐った。それは威厳のある態度であった……背が高く、優雅で、しかもきわめて女らしさがあった。
「ホームズさん」彼女は白い手袋をはめた手を握ったり開いたりしながら話し出した。
「こちらが率直にお話しいたしましたら、あなたもそうして頂けると思いまして。実は私と夫の間には、一つのことを除きましては他は何事でも信頼し合って、かくしてはおりません。その一つのこととは政治でございます。このことになりますと、堅く口を閉ざしてしまいます。何ひとつ私に申しません。さて、昨夜、私の家にたいへん悲しいことが起こりました。ある書類が紛失したのです。でもそのことが政治的なことなので、夫は何も打ちあけてくれません。私としましては、そのことを完全に理解しますことが重要なのです。政治家のほかに、真相を知っているはあなただけでございます。それでホームズさん、本当のことを、そしてそれがどういうことになりますのか、どうぞおっしゃって頂きとうございます。ホームズさん、どうかみなおっしゃって下さい。夫が黙っているようにと申したとしても、どうぞ気にかけないで下さい。私としましては、秘密を完全に知りますことが、最も夫の利益に役だつことと信じています。盗まれた書類は、何なのでございましょうか」
「奥さん、おたずねの件は、私には不可能なのです」
彼女はうめき、両手で顔をおおった。
「どうしてできないかは、奥さんも了解してもらわねばなりません。ご主人がこの問題であなたに打ちあけないのが適当だと思っているものを、職業上、秘密の約束で知り得たにすぎない私が、真相を教えることができるものでしょうか。私におたずねになるのは、無理というものです。ご主人にお聞きなさい」
「主人にはもうたずねました。私は最後の頼みとして、あなたの所へ参ったのでございます。何も明確にはおっしゃれないのでしたら、せめて一つのことだけ教えて頂ければ幸いでございます」
「とおっしゃると?」
「この事件のために、夫の政治生活が打撃を受けることになりましょうか」
「そうですね、うまく収まりませんと、たいへん不幸な結果が生まれてくるでしょうね」
「ああ!」疑惑が明らかになったとでもいうように、深く息を吸い込んで、
「もうひとつだけ、ホームズさんお願いします。この災難の最初のショックで夫が見せました表情から判断いたしまして、この書類が紛失しますと、世間に何か重大な影響を及ぼすのでしょうか」
「ご主人がそうおっしゃったのなら、否定はいたしません」
「その影響とは、どんな性質のものなのでしょうか」
「いや、奥さん。あなたはまたまた私のお答えできないことをおたずねになっていらっしゃる」
「では、もうこれ以上ご迷惑はおかけいたしません。あなたがもっと自由なお気持でお話し下さらなかったと申して、決しておとがめはいたしません。あなたのほうでも、私が夫の意志に反してまで、夫の心配を分ちたいと思っておりますことを、どうぞ悪く思わないで下さいまし。重ねてお願いいたしますが、ここへ参りましたことは、どうかご内聞(ないぶん)にして下さいますよう」
夫人は戸口の所で振りかえったので、私はあの美しい悩ましげな顔、ハッとした眼ざし、一文字に結んだ口元などを、もういちど見ることができた。彼女はそれから出て行った。
ドアがしまって、夫人の衣(きぬ)ずれの音が聞こえなくなると、ホームズは微笑を浮かべて、
「ねえ、ワトスン君、女性は君の専門だ。あの美しい夫人のもくろみは何だと思う? 彼女は何が実際に欲しかったのだろう」
「言うことははっきりしていたし、彼女の心配もこれは当然だろう」
「ふん。あの様子や、態度や、かみ殺したような興奮や、落ちつきのなさや、質問するときの粘り強さなんかを考えてみたまえ。それに軽率には感情を表わさない家柄の生まれなんだよ」
「たしかに相当、動揺していたね」
「また、自分がすべてを知ることが、夫にとっていちばんいいんだと言ったときの、あの妙な真剣さを憶(おぼ)えているだろう。あれはどういうつもりなんだろう。それに見ていたろうが、光線を背にして立っている、如才(じょさい)ない手を使っていたろう。あれは表情を読みとれないようにしたのだよ」
「そうだ。そういう椅子を選んだね」
「しかし女の動機というのは測りがたいものでね。同じ理由から僕が疑った《マーゲットの女》のことを憶えているだろう。鼻の上にお白粉(しろい)をつけていないこと……それが正解だとわかったね。そんな流砂みたいなものの上に家が建てられるものかい。あんな些末(さまつ)な活動が、案外大きな意味を持つことがあるし、そうかといって、えらく異常な行動がヘヤピン一本次第だったり、カールごてのためだったりする。ではまた、ワトスン君」
「おや、もう行くのかい」
「うん、朝の間にゴードルフィン街へ行って、警視庁の連中とぶらぶら時間をつぶそう。われわれの問題の解決がエデュアルド・ルーカスにかかっているのだ。もっとも、それがどういう形でかかっているかについては、いささかも感づいてはいないのだがね。事実に先立って理論を組み立てるのは、ひどい間違いを起こすものだよ。ワトスン君、留守を頼むよ、誰か訪問客があったら、よろしく。できれば昼食には戻ってくる」

その日と次の日とその次の日と、ホームズは友だちから見ればむっつりとして見えようし、そうでないものが見れば気むずかしい人に見えたであろう。急いで出て行ったり、帰って来たり、ひっきりなしに煙草を吸ったり、ヴァイオリンをかき鳴らしてみたり、物思いに沈んだり、とんでもないときにサンドイッチをむさぼり食ったり、ときたま、何かたずねてみても、ろくに返事もしなかった。彼がうまく問題を解決できないでいるのは明らかだった。
もっとも事件のことは何も言わなかった。死んだルーカスの執事が捕まったが、すぐ釈放されたことなど、こまごまとした取調べの内容は、私はすべて新聞で知ったのである。検屍陪審員は《故意の殺人》であるという明白な判決を下しただけで、犯人は前と同様わからなかった。動機が何かもつかめなかった。部屋には貴重品がたくさんあったのに、何も取られていないのである。殺された男の書類にも手をつけていなかった。
書類を注意深く調べてみると、ルーカスは国際政治の熱心な研究家で、飽くなき雑談家であり、すぐれた語学者であり、そして疲れを知らずによく手紙を書く人であることがわかった。彼は数か国の指導的政治家と親密な関係を持っていた。しかし、抽出しいっぱいの書類の中から、何も大騒ぎするほどのものは発見されなかった。女性関係はごたごたしていたが、深いものはないらしかった。彼は知り合いの者は多かったが、友だちはほとんどなく、彼が愛した女などはなかった。規則正しい習慣をもち、日常の行動も目立たないものであった。彼の死はまったくの神秘で、おそらく未解決で残るのかもしれなかった。
執事のジョン・ミトンの逮捕については、警察が何も行動をおこさないことの申しわけとして、無理矢理に意図したものに過ぎなかった。しかし、この訴訟事実は確認されなかった。あの晩、彼はハンマースミスに友人を訪ねていたのであるから、アリバイは完全である。犯罪の行なわれる時刻の前に、ウェストミンスターに帰りつけるはずの時刻に友人の家を出たのは事実だけれども、彼が途中の一部を歩いて帰ったので遅くなったという彼自身の説明も、その夜がすっきりした、天気のよい夜であったのだから、充分考えられることだと思った。実際、彼は十二時に帰った。そしてこの思いがけぬ悲劇に圧倒されたようであった。彼は常に主人とは仲が良かったが、故人の持ち物のいくつかが……とくに、小さな剃刀(かみそり)の箱が……執事の箱の中から出てきた。しかし、それはルーカスからの贈り物だと言い、家政婦もそのことを証言した。
ミトンは三年間ルーカスに雇われていた。その間ルーカスは一度も彼を大陸に連れて行かなかったというのは、注目すべきである。ときには彼は三か月、引き続いてパリに旅行することがあったが、ミトンはゴードルフィン街の家に留守番に残された。家政婦については、その夜は、何ひとつ物音を聞かなかった。もし訪問客があったとすれば、主人が自ら入れたものと思うという。
私が新聞で読みとった限りでは、三日間というものは、事件の不可思議さは依然(いぜん)、残されたままであった。ホームズがもっと多くを知っていたとしても、彼は自分の意見を秘めて語らなかった。しかし、レストレイド警部が捜査の秘密を自分に打ちあけたとホームズが語ったとき、彼が事件の発展に密接な関係を持っていることを知ったのである。四日目にパリから長い電報がきたが、それによって、問題がすっかり解決してしまったように思われた。

「デイリー・テレグラフ」は次のように報じている。
ウェストミンスターのゴードルフィン街で、月曜の晩、惨殺されたエデュアルド・ルーカス氏の悲劇的最期につきまとう秘密のヴェールをはぎとるような発見が、パリ警察によってなされた。
読者は記憶されているだろうが、同氏は自室で刺し殺され、嫌疑(けんぎ)はその執事にかかったが、アリバイがあったため、釈放されたのである。
ところが昨日、パリのオーステルリッツ街の小さな別荘に住むアンリ・フールネイ夫人といわれる一婦人が発狂したと、召使いの者から当局へ報告があった。調べてみると、彼女は危険な不治の狂人であることがわかった。また警察の調べによると、同人はこの火曜日にロンドン旅行から帰って来たばかりで、ウェストミンスターの殺人と彼女とは関係のあることが明らかとなった。
すなわち写真の比較の結果、アンリ・フールネイ氏とエデュアルド・ルーカス氏は実際は同一人物であり、同氏は理由があってか、ロンドンとパリで二重生活を送っていたのである。
フールネイ夫人については、アメリカ生まれの黒人の血をひき、極端に興奮しやすい性質で、過去において、嫉妬のあまり逆上したこともあった。ロンドンでセンセーションをまき起こした犯罪も、その点で彼女がやったと推察されるわけである。
彼女の月曜の夜の足どりは不明であるが、火曜日の朝、チャリング・クロス駅で、彼女の人相に符合するような一婦人が、だらしのない恰好や、挙動が乱暴なために人目を引いたということもある。それゆえ、同人が発狂時に犯行がなされたともいえるし、犯行によって発狂したとも考えられる。
目下、彼女は過去の筋道の通った説明はできない状態であり、回復の望みはないと医師は言っている。また月曜の夜、ゴードルフィン街の家を数時間見守っていた一婦人があったという証言もあり、これがフールネイ夫人だったかも知れないのである。

「これをどう思う、ホームズ君」彼が朝食をすます間に、私はこの記事を声高に読んでやった。
「ワトスン君」とホームズはテーブルを離れ、歩調正しく、部屋を行きつ戻りつしながら、
「君はずいぶん辛抱しただろうが、この三日間、君に何も話さなかったのは言うことがなかったからなんだよ。今でもパリからこんな電報が来ても、たいして役にたたないしね」
「でも、あの男の死に関することだけは決定的なものがあるよ」
「あの男の死なんか、この文書を発見して、ヨーロッパを破局から救うというわれわれの真の仕事と比べたら、単なる出来事……些末(さまつ)なエピソードに過ぎないのだよ。この三日間にひとつ重要なことが起こったといえば、それは何も起こらなかったということだ。僕はほとんど一時間おきに政府から報告を受けているが、ヨーロッパのどこにでも、トラブルの起こりそうな徴候はない。
さて、もしこの手紙が紛失したのなら……いや、紛失などするわけはないんだ……紛失したのでないとすれば、どこにあるのだろう。誰が持っているのだろう。なぜ、抑えているのだろう。僕の頭の中を、ハンマーのように打ち鳴らしているのは、この問題なのだ。ルーカスが、手紙が紛失した晩に殺されたというのは、まったくの偶然なのだろうか。彼が手紙を手に入れたのだろうか。もしそうなら、なぜ彼の書類の中になかったのだろう。あの気ちがいの奥さんが持って行ったのだろうか。とすれば、パリの彼女の家にあるのだろうか。フランス警察に疑念をおこさせないで、彼女の家を捜索することができないだろうか。これは、ワトスン君、犯罪よりも法律のほうがわれわれには怖しい例だよ。あらゆる人間の手が僕らに逆らっている。しかし、一か八(ばち)かの賭でやる利益は莫大なんだ。もし僕が首尾よい結末をつけることができれば、わが生涯に無上の光栄を浴びせられることになるんだ。おや、最前線から最新の情報が来た」
彼は届けられた短い手紙に急いで目を通して、「やあ、レストレイド警部が面白い情報を持ってきたよ。ワトスン君、帽子をかぶりたまえ。一緒にウェストミンスターへ行ってみよう」
犯罪の現場を見るのは、私は初めてであった。……高く煤(すす)けた幅の狭い家で、あたかも建てられた世紀にふさわしく、固苦しく取りすました形をしていた。レストレイドのブルドッグ面(づら)が、正面の窓から私たちを見ていたが、大柄の警官がドアを開けて中に入れたとき、暖かく迎えてくれた。
通された部屋が凶行現場であったが、絨毯の上に不規則な醜い《しみ》があるほか、何の形跡もなかった。この絨毯は部屋の中央にあって、小さな正方形のインド製の粗製絨毯であった。その周りにはよく磨かれた正方形のブロックを組み合わせた、古風な美しい木の床が幅広く出ていた。
暖炉の上方にすばらしい戦利品の武器があって、そのひとつが凶行の際に用いられたのである。窓の所には高価な書き物机があり、その他、室内にあるこまごまとしたもの、絵、敷物、壁掛けなどはみな、柔弱に見えるまでに豪奢(ごうしゃ)をきわめていた。
「パリ電報を見ましたか」レストレイドがたずねた。
ホームズはうなずいた。
「今度はフランスの連中が手早くやったようですな。実際、彼らの言う通りですよ。彼女がドアをノックする……二重生活は完璧なものと彼は思っていたのだから、この不意の訪問に驚く。彼は彼女を中に入れる……まさか道路に立たしておくこともできないですしね。彼女はどうやって、彼をつきとめたかを話して、責める。彼は次から次へと小言を頂戴して、ついには手近のあの懐剣でやられてしまう。でも一遍にやり遂げたわけではない。椅子は向こうのほうへ片づけられているし、彼はそれで彼女を払いのけようとして、椅子をつかんでいました。これでみな、見てきたようにはっきりしてきましたよ」
ホームズは眉をあげた。
「それなのに、私を呼んだのですか」
「そうです。別の問題があるんです……つまらないことですがね、でもあなたが興味をお持ちになると思って。奇妙なんですよ、とんきょうだと言われるかも知れませんがね。本筋とは関係がない……見たところ、あり得ないことなのです」
「何なのでしょう」
「この種の犯罪の後には、現場保存には注意を払っていますから、何ひとつ動かしてありません。係員がここへ来て、昼も夜も管理に当っています。今朝、死体も埋葬しましたし、この部屋に関するかぎり調査も終りましたので、少し片づけようと思っていました。ところがこの絨毯! そこにおいてあるだけでとめていないのです。何かのきっかけでそれを上げようとしましたら……」
「何かを発見したのですか」ホームズの顔は緊張した。
「僕たちの発見した物は、いくらあなただって、百年考えても推測できませんよ。絨毯に《しみ》がございましょう。多量の出血があったと思われませんか」
「もちろん、そうに違いありません」
「でも、絨毯の《しみ》に相当する部分の白い木の床には、《しみ》はないのですよ」
「《しみ》がない! しかしそんなはずは……」
「そうです。そうおっしゃるでしょう。ところが事実はないのです」
レストレイドは、絨毯の隅をつまみあげ、それをひっくり返して自分の言ったことを実証して見せた。「でも、絨毯の裏は、表と同じように《しみ》があるでしょう。これならば、床にも《しみ》がつくはずですよ」
レストレイドは、有名な探偵家を困らしたのが嬉しいらしく、含み笑いをした。
「では、私が説明してみましょう。床に第二の《しみ》はあるのですが、上の絨毯のやつと一致しないのです。ご自分でご覧なさい」
彼は言いながら、絨毯の他の隅をめくった。たしかに、四角い白い木の面飾りのある古風な床に、深紅(しんく)の血のあとが、大きく残っていた。
「ホームズさん、これをどうお考えになります」
「それは簡単ですよ。ふたつの血痕は一致していたのですが、絨毯のほうをぐるっとまわしたのですよ。四角形で、床に何もとめてないのですから、簡単にできたわけです」
「絨毯をまわしたくらいのことで、わざわざ、あなたにご足労を願ったのではないのです。まわしてみれば、お互いに《しみ》が一致しているのですから、これは明らかなことです。でも私の知りたいことは、誰が置き換えたかということ、そして、なぜそうしたかということなのです」
ホームズが内心の興奮に動揺しているのは、そのこわばった顔から見てわかった。
「レストレイドさん、廊下のあの巡査は、ずーっと見張りをしていたのですか」
「そうです」
「では、僕の忠告を聞き入れてくれたまえ。その巡査を、詳しく調べてみるのです。僕たちの前では駄目だ。僕らはここで待ってますよ。あなたは奥の部屋に、彼を連れて行くんです。そのほうが、告白はしやすいでしょうからね。なんだって人を中に入れて、そいつをひとりっきりにして置いたのだと詰問するんです。入れたのか、入れないのか、なんていう尋ね方じゃいけませんよ。もちろんやったんだという態度で聞くんです。誰か入ったことは知ってるぞ。そう言って押しまくるんです。正直に告白することが、寛大な処置をうける唯一の機会だと言ってやるんです。僕が言った通りのことをやってご覧なさい」
「あれが知ってるんでしたら、誓って、みな吐き出させてやりますよ」とレストレイドは叫んで、ホールのほうへ跳(と)んで行った。数分たって、彼の暴れ者のような声が、奥の部屋から聞こえてきた。
「ワトスン君、今だ!」
ホームズは狂気のように叫んだ。この無関心な態度の背後に、悪魔に憑(つ)かれたような精力がかくされていて、それが発作的に激しく爆発した。
彼は床から絨毯をめくると、四つん這(ば)いになって、そこに敷きつめてある四角な寄木のひとつひとつを爪で引っ掻いてみた。その中で、隅のほうをひくと横にずれるのがひとつあった。
それは箱の蓋(ふた)のように蝶番(ちょうつがい)がしてあって、その下に小さな暗い凹みがあった。ホームズは勇躍して手を突っ込んだが、結果は怒気と失望の色を苦々しく見せた。中は空(から)だったのだ。
「ワトスン君、早く早く。もとに戻して置かなくちゃ!」
木の蓋をもと通りにして、絨毯を真っ直ぐに直し終えたところへ、レストレイドの声が廊下から聞こえてきた。そのときはホームズは、マントルピースに元気なくよりかかって、諦めたような辛抱強さで、抑え切れないあくびをかくそうと努めたふうをしているのだった。
「お待たせしてすみませんでした、ホームズさん。あなたもこんなうるさい事件にうんざりしたことでしょう。奴さん、すっかり白状しましたよ。マクファースン、こっちに来たまえ。この方たちに、君の赦(ゆる)すことのできない行為をお話しするんだ」
大柄の巡査は、悔悟(かいご)の色を浮かべ、赤くなって部屋の中へにじり寄った。
「まったく悪意はなかったんでして。昨晩、若い女の人が戸口の所へやって来まして……その人は家を間違えたんです。それでちょっと一緒に話を交わしたんです。一日じゅうここにいてさびしかったですからね」
「それで何が起こったのだ」
「女は犯罪の行なわれた場所を見たいと言いましてね……自分でその記事を読んだと言ってました。彼女は賎(いや)しからぬ、言葉づかいも洗練されており、のぞかせるくらいなら何も悪いことはしないだろうと思ったんです。でも、絨毯のあの血痕を見たら、卒倒してしまって、まるで死んだみたいになりました。私は奥のほうへ走って行って、水を持って参りましたが、正気づかせることはできません。それで私は、角をまわって、《アイヴィ・プラント》まで行き、そこでブランデーを少しもらって来ました。ところが戻って来ましたら、もう彼女は恢復(かいふく)したらしく、そこに居ないんです。たぶんそんな自分のことが恥しくなって、私に顔見せできなかったんでしょう」
「あの絨毯を動かしたことはどうなんだ」
「たしか、帰って来ましたとき、少し皺(しわ)になっていました。彼女がそこへ倒れたのですし、床は磨かれてありまして、ちゃんととめるような物は何もなかったので、そうなったのです。私が後で真直ぐにいたしておいたのです」
「マクファースン君、これで俺をだませないってことがわかったろう」レストレイドは威厳をこめて言った。「務めを怠っても、わかりはしないだろうと考えてたんだろうが、あの絨毯をひと目見ただけで、部屋に誰かが入ったってことがわかったんだ。何も取られてないのがせめてもの幸運だが、さもなければ、今頃はただじゃすまないんだぞ。ホームズさん、つまらぬことでお出でを願ってすみませんでした、でも第二の《しみ》が第一のしみと符合しない点が面白いのじゃないかと思ったものですから」
「いや、本当に面白かったですよ。巡査君、その女性はいちど来たきりですか」
「ええ、たった一度です」
「どなたですか」
「名前は知りません。タイプライターの仕事の広告に応募して来たのですが、家の番号を間違えたのです。たいへん快活で、上品な若い婦人でした」
「背の高い人で美人ですか」
「そうです。発育のいい若い婦人でした。美しいと申してもよく、いや人によっては非常な美人だと言うでしょう。《あら、お巡りさん、私にちょっとのぞかせて》と言いましたっけ。それが、ご機嫌とりの、調子のいいものだったので、私も戸口から、頭をちょっと入れるくらいは悪くないだろうと思ってしまったのが……」
「女はどんな服装でしたか」
慎(つつま)しやかな……足まであるような長いマントを着ていました」
「何時頃でしたか」
「ちょうど暮れかかった頃でして。私がブランデーを持って戻って来ましたときは家々に、燈火がともっておりました」
「結構でした。ワトスン君、来たまえ。他の所でまだ重要な仕事があるようだからね」
その家を出たとき、レストレイドは表側の部屋に残っていたが、悔悟の気持を持った巡査は、ドアを開いて、われわれを見送った。ホームズは石段の所で振りかえり、手の中に持っていたものを見せた。巡査は熱心に見つめていたが、
「おや、これは……」と驚きあきれて叫んだ。ホームズは唇に指を当てて、片手を胸ポケットに入れた。そして街路に出ると、爆笑した。「うまく行った!」とホームズは叫んで、「来たまえ、ワトスン君、最後の場の幕があくんだ。戦争にはならないし、トリローニー・ホープ閣下の輝かしい政治生活は何らの挫折も受けないし、不謹慎な君主はその不謹慎の行為のために罰を受けることもなくなり、総理大臣は、ヨーロッパの紛糾を処理する必要もなくなり、ほんのちょっと、われわれの機智を働かせれば、えらく悪性の事件ともなったかも知れぬ問題を、誰もたいして気にかけずにすますことになるんだ、と聞けば、君も心が安まろうというものだよ」
私はこの尋常ならざる男に改めて驚嘆した。
「解決したと言うのだね」
「まだまだ、ワトスン君。前と同じくわからない点はいくつかあるんだよ。でも多くのことがわかっているんだから、残っている部分がわからなければ、こっちの責任だよ。これから、ホワイト・ホール・テラスに真っ直ぐに行って、この問題を片づけてしまおう」
ヨーロッパ大臣の官邸に着くと、シャーロック・ホームズが、面会を求めたのは、ヒルダ夫人であった。私たちは居間に通された。
「ホームズさん!」と夫人は憤慨して、赤くなった。「あなたは卑劣な、不正直な方ですのね。私がお訪ねしたことは秘密にして下さるようお願いしたではありませんか。こうして来られるんでしたら、主人の事件に私が出しゃばったって、すぐ思われてしまいますわ。あなたがいらっしゃると、私困ってしまうんです。何か仕事のことで、私とあなたの間に関係があったのではないかっていうふうに取られますもの」
「残念ですが、ほかに取るべき道がなかったのです。私はきわめて重要な文書を取り戻すよう委任されております。それで、奥さん、どうぞ私の手に、それを渡して頂かねばなりません」
夫人はいたく驚いて、その美しい顔からさっと血の気がひいた。目は光沢を失い、よろめいた。気絶するなと思っていると、非常な努力で、衝撃から立ち戻ると、限りない驚愕(きょうがく)と憤激で顔いっぱいにしながら、
「あ、あなたは侮辱なさいますのね」
「さあ、さあ、奥さん、そうおっしゃっても無益なことです。お手紙をお出し下さい」
彼女は呼鈴のほうへ跳んで行った。
「執事に送らせましょう」
「ベルを鳴らすのはお止しなさい。そうしませんと、スキャンダルを起こさせまいとする私のせっかくの努力も、おじゃんになってしまいます。手紙をお出しなさい。そうすれば万事うまくゆくのです。私の申した通りになさいますと、万事うまく収めることができますが、反対なさいますと、あなたのことをあばかねばなりません」
彼女は堂々と挑戦的に立ちつくし、その姿は威厳をみせ、目はホームズの心を読みとろうとするかのように凝視(ぎょうし)していた。手は呼鈴の上においているが、鳴らすのを控えていた。
「あなたはおどかそうとなさいますのね。ここへ参って、女をおどかそうとなさるのは、あまり男らしいことじゃございませんわ。何か知ってらっしゃるようなことをおっしゃいますけれど、それはどんなことでございますか」
「まあ、お坐りになって下さい。そんな所でお倒れになったら、怪我をなさいますよ。お坐りになるまではお話しいたしません。そう、ありがとう」
「ホームズさん、五分間だけ猶予(ゆうよ)いたします」
「一分で結構です、奥さん、あなたがエデュアルド・ルーカス氏宅をお訪ねになったことや、この文書を、彼に渡したことを存じております。また昨夜、あなたが巧妙なやり方でその部屋に行かれたことや、絨毯の下の隠し場所から、手紙をお取りになったことも存じております」
彼女は蒼白な顔で彼を見つめ、何か言おうとして、二度まで唾(つば)をのんで、ようやく、
「あなたは気ちがいです! ホームズさん、あなたは気ちがいです」と彼女は叫んだ。
彼はポケットから、一枚の小さな厚紙をとり出した。それは女の肖像を顔だけ切りとったものであった。
「これが必要になるかもしれないと思って、持ち歩いていたのですが、巡査に見せたら、この人だと言ってましたよ」
彼女は息切れがして、頭を椅子の背にもたせた。
「さあ、ヒルダさん。あなたは手紙を持っていらっしゃいます。問題はまだ収拾できるんです。私はあなたにご迷惑をかける気持はありません。私の義務は、紛失した手紙をご主人の手許に帰すことで終るのです。どうぞ私の言うことをきいて、素直な気持になって下さい。それがあなたの唯一の好機なのです」
彼女の勇気はたいしたものだった。今に及んでもなお自分の敗北を認めなかった。
「もういちど申し上げますが、あなたは何か勘違いをしておられるのじゃないでしょうか」
ホームズは椅子から立ち上がった。「ヒルダさん、お気の毒です。私もあなたのために全力を尽しました。でもそれはみな無駄だということがわかりました」
彼は呼鈴を鳴らした。執事が入って来た。
「トリローニー・ホープさんはご在宅ですか」
「一時十五分前にお帰りの予定です」
ホームズは時計を見た。
「もう十五分ですね。よろしい、待ちましょう」
執事が部屋を出るや否や、ヒルダ夫人はホームズの足許にひざまずいて、両手をのばした。仰向いた美しい顔は、涙で濡れていた。
「許して下さい、ホームズさん、許して下さい」彼女は熱狂的な哀願をして、「どうぞ主人にはおっしゃらないで! あの人を愛しております。夫の生活にひとつでも暗い影を投げたくございません。これを知りましたら、夫の気品の高い心をどんなに傷めることでございましょう」
ホームズは夫人を立たせた。
「この最後の瞬間に、あなたが迷いをさまして下さったのはありがたいことです。さ、時間がございません。手紙はどこにあるのでしょう」
彼女は書き物机のほうへ走り寄って、鍵をはずし、長い青い封筒を取り出した。
「ここにございます。あ、こんなものが目につかなければよろしかったのですが」
「はて、どうやって返しましょうかね。早く何とか方法を考えなくちゃ! 文箱はどこにありますか」
「まだ夫の寝室にございます」
「何と幸運なめぐり合わせ! 早く奥さんここへ持って来て下さい」
すぐに彼女は手に赤い平たい箱を持って現われた。
「前にどうやって開けましたか。合い鍵をお持ちですね。そう、もちろん持っておられるはずです。お開け下さい」
胸の奥からヒルダ夫人は小さな鍵を取り出した。箱は開かれた。中には書類がぎっしり詰められていた。ホームズはその中の奥のほうへその青い封筒を押しこんで、中をしめ、鍵をかけ、主人の寝室へ持ち帰った。
「さあ、もう準備ができました。まだ十分あります。あなたのことはかばってあげましょう。そのお返しに、残りの時間は異常な事件の真相を率直にお話しして頂きたいのです」
「ホームズさん、何もかもお話しいたしましょう。私は夫を少しでも悲しい気持にさせるくらいなら、右手を切り落したほうがよいと思っているくらいなのです。ロンドンじゅうで私ほど夫を愛した女はございますまい。でも夫が私のしました行ないを……止むなくしました行ないを知りましたら、許してはくれませんでしょう。名誉というものをたいそう重んじる人なので、忘れもしませんし、心得ちがいも許してくれません。ホームズさん、お許しください。私の幸福や、夫の幸福や、私たちの生活がかけられているのです」
「早くおっしゃって下さい。時間がないのです」
「ホームズさん、私が結婚前に書きました軽率な手紙……甘い女の、一時の衝動で書きました手紙がございます。悪いことは何も書いてなかったつもりですが、夫は罪悪だと思うかもしれないのです。もし夫が読みましたら、信頼は永久に失われます。書きましてから数年は経ております。そのことはみな忘れられたことだと思っておりましたのに、このルーカスという男から、お前の手紙を手に入れたから、これを夫に見せるつもりだと言ってよこすのです。
私は慈悲を嘆願しました。あの男は、私が、夫の文箱に入っている、これこれの文書を渡せば、私の手紙を返してやるというのです。そこにあることを、役所におりますスパイから聞いて、知っていたのでございます。渡しても、夫に何の迷惑を与えることはないと言います。ホームズさん、私の立場になってお考え下さい。どういたせばよかったでしょう」
「ご主人に打ちあけるべきでしたね」
「できません! それはできないことですわ。こちらとすれば破滅はたしかなこと、またあちらとすれば、夫の書類に手をつけるなんて、恐しいことのようですけれど、政治のことは、その重大さは理解できません。でも愛と信頼の問題は、私には……重大さはわかり過ぎるくらいにわかっておりますの。私が取った道は後の道でございます。まず夫の鍵の型をとりました。私はそれで文箱をあけて、書類を取りまして、ゴードルフィン街へ運びました」
「そこで何が起こりましたか」
「約束どおりにドアを軽く叩きますと、ルーカスが開けに参りました。私はあとについて部屋へ入って行きましたが、ホールの戸を少し開けておきました。あんな男と二人きりになるのは心配でございますもの。入って行きましたとき、表に女の人がひとり立っていたのを覚えております。私たちの取り引きはすぐに終わりました。私の手紙は机に置いてありました。私は書類を渡しますと、向こうも手紙を寄こしました。
このとき、入口のほうに音がしました。次いで廊下に足音が聞こえてまいります。ルーカスはすばやく絨毯をめくりますと、書類をその下の隠し場所に入れて、また絨毯を元通りにしました。
それから後のことは、何か恐ろしい悪夢のような気がします。浅黒い、血迷った女の顔と声が映じます。その声はフランス語で叫んでいました。
《待ったのも無駄ではなかったわ。とうとう、とうとう女と一緒のところを見つけてやった!》
格闘になりまして、ルーカスは椅子をふりあげ、彼女の手にはナイフがきらめいていました。私は急いで、その恐ろしい場面から逃げだし、家へ帰ってしまいました。
翌朝、新聞でその恐ろしい結末を知りました。でもその晩は、手紙は取り戻しましたし、この先どうなりますのか、何もわかりませんので幸福な気持ちでございました。
翌朝になって初めて私は、災難をまた一つの災難と交換したに過ぎないと知ることになりました。手紙の紛失を知りましての夫の苦悶は、私の心につきささりました。私はその場ですぐに、自分のしましたことを、夫の足元にひざまずいて、打ち明けなくてはなりませんでした。でもそれでは、過去の出来事を告白しなければなりません。その朝、私は自分の罪の大きさを知りたくて、あなたの所へ参りました。私はそのことがわかりました瞬間から、夫の書類を戻そうということばかりに心を向けました。ルーカスが隠したのは、あの恐ろしい女が部屋に入る前なのですから、まだその置いた場所にあるに違いありません。あの女が入って来なければ、私はあの隠し場所はわからなかったでしょう。ではどうしたら、あの部屋へ入れましょう。二日間、そこを見張っておりましたけれど、ドアを開け放したことは一度もございません。
そこで昨晩、最後の試みをやってみたのでした。私がどうやって成功しましたかは、もうご存じのはずです。もどした書類は、夫に罪を告白しませんことには返す方法がありませんので、焼き捨てようと思っておりました。おや! 階段に足音がします」
ヨーロッパ大臣は興奮して部屋に入って来た。
「何か情報が入りましたか、ホームズさん」
「望みはいくらかありますね」
「これはありがたい!」彼の顔は喜びに輝いた。「総理とは今日、昼食をともにすることになっているのです。総理にもそのお話をしてあげて頂けませんか。あの人は《はがね》のような神経を持っているんですが、あんなことがあってからは、ほとんど眠れない様子です。ジェイコブズ、総理にお通り下さるように言ってくれ。ヒルダ、これは政治の話だから、食堂で待っていなさい。二、三分たったら行きます」
総理の態度は静かではあったが、眼の光や、骨ばった手をひきつったりする様子からホープ氏同様、動揺していることはわかった。
「何か報告するものがおありだとのことですが」
「今までのところでは、控え目なものですが、ありそうな場所はことごとく調べてみました。それで心配するほどの危険はまずないと思われます」
「でも、それだけでは充分ではありませんね。そんな火山の上で、いつまでも安んじておられませんよ。決定的なものが欲しいのです」
「それは期待してもよいと思われます。そのために、こうして伺ったのですからね。私はそのことを考えれば考えるほど、手紙はこの家から離れていないと確信するんですがね」
「ホームズさん、これはまた……」
「外へ出ていれば、今頃は確実に公にされていますよ」
「家の中へ置いておくんでしたら、なぜ取ったりなんかするんでしょう」
「誰も取ってはいないと確信しますね」
「では、どうして文箱から消えていったのでしょう」
「文箱にあると思います」
「ホームズさん、そんな冗談は時をわきまえないものですよ。文箱からはなくなっていると申したはずですよ」
「あなたは火曜日の朝以後、箱をお調べになりましたか」
「いいえ。そんな必要はありません」
「見逃しということも考えられますよ」
「あり得ないことです」
「でも私はそれでは納得がいきません。前にもこんなことがあったのです。その中には、他の書類もあることと思いますし、紛れ込んだのかもしれません」
「いちばん上に置いておいたのです」
「誰かが箱を振ったために、位置が変わっているのかもしれません」
「いやいや。みな出して調べました」
「ホープ君、そんなことはすぐにわかることだよ。その文箱を取りよせたまえ」総理は言った。
大臣は呼鈴を鳴らした。
「ジェイコブズ、僕の文箱を持って来てくれたまえ。これは茶番めいた時間の空費ですが、ホームズさんがどうあっても満足できないと言われれば、そうするより仕方がございません。ありがとう。そこへ置いてくれたまえ。いつも鍵は時計の鎖につけて持っているのです。ここには書類が色々あります。メロウ卿からの手紙、サー・チャールズ・ハーディの報告、ベルグレイドの覚え書、露独穀物税の記録、マドリッドからの手紙、フラワーズ卿の覚え書……おや、これは何だ。ベリンガー卿! おおベリンガー卿!」
総理大臣はその手から青い封筒をひったくった。
「そうだ、これだ。あの手紙そのままだ。ホープ君、おめでとう」
「ありがとう、ありがとう。これで、重荷がとれました! でも考えられないこと……あり得ないことです! ホームズさん、あなたは魔法使いです、奇術師です。でもここにあるってどうしてわかったのですか」
「他の場所にはないとわかったからです」
「自分の目を疑いたくなります!」大臣は戸口へ走りより、「妻はどこにいる。万事、納まったことを知らせてやらなくちゃ。ヒルダ、ヒルダ!」
私たちは彼の声を階段の所で聞いていた。総理大臣は、まばたきしてホームズを見やった。
「ねえ、ホームズさん、これは目に見るだけのことではなくて、いわくがあるのでしょう。その手紙はどうして文箱に戻ったのですか」
ホームズは、この鋭く吟味するような、不思議そうな眼を、笑ってかわした。
「私にも外交上の秘密がございましてね」
彼はそう言って、帽子を取ると、ドアのほうへと向きをかえた。(完)
[翻訳 鈴木幸夫 (C)Yukio Suzuki]
「ホームズの生還」解説

この第三短篇集『シャーロック・ホームズの生還』におさめられている十三の短篇は、「ストランド誌」の一九〇三年十月号から翌四年九月までに十二篇、さらに二か月おいて十二月号に、最後の一篇が発表されたものである。十三という数字は奇妙に聞こえるが、作者のコナン・ドイルははじめ十二篇で一冊にまとめるはずであったらしい。それが読者からの要求に突き上げられて、さらに一篇が書き加えられたのである。
『生還』に先だつ短篇集『シャーロック・ホームズの回想』では、「ストランド誌」一八九二年十一月号から翌九三年十二月号にかけて十二篇の短篇が掲載されたが、これらを単行本にする際に、第二の話「ボール箱」が話の内容が残虐であるという世評をおもんぱかって削除され、都合十一篇になっている。しかしこの削除された物語は、のちの短篇集『最後の挨拶』にふくまれている。
ところで、第二短篇集『回想』から第三短篇集『生還』が書かれるまでの間に、十年にわたる年月のひらきがあることを注意しなければならない。
作者のドイルは一八八五年にルイーザ・ホーキングと結婚したが、不幸にも妻の健康がすぐれず、スイスに転地療養をするに当たって、ドイルもこれに同伴することになり、ホームズ物語もいちおう筆を打ち切る必要に迫られたのであった。しかし、実のところは、「最後の事件」をなかほどまで書き進んでいた頃には、ドイルの興味をとらえたものが、他に二つほどあった。講演旅行と、劇作の魅力である。ドイルはすでに、この有名な主人公シャーロック・ホームズを消失させるつもりでいたし、もう二度と立ち戻らせるつもりはなかったらしい。作者自身、ホームズの名にあきあきしていたことが手紙に見え、スイス行きで自ら聞いたライヘンバッハの滝の音を作品の背景に利用した。
そこでドイルは、読者をも自分をもなっとくさせるつもりで、『回想』の結末の一篇「最後の事件」で、わがシャーロック・ホームズを死んだものと思わせることにしたのである。この物語では、ホームズは凶悪きわまりない天才犯罪者モリアーティ教授を追って、ブリュッセル、ストラスブール、さらにジュネーブを目ざして、ローダ河をさかのぼり、雪深いゲミ峠を越え、インターラーケンを経てマイリンゲンにたどり着く。ここでライヘンバッハの滝を見物することになり、はからずもモリアーティ教授の奇計におちて、ふたりは取っ組んだまま、絶壁から滝壷へ転落して消息を絶ってしまう。ホームズはすでにこのことに気づき、生きて帰れる望みを捨てたと見え、路傍の岩に残されていたのは彼のアルペンストックと銀の煙草入れと、ワトスンにあてられた一通の遺書であった。
ホームズの死は、読者を驚愕(きょうがく)させるに充分であった。イギリスを離れていたドイルにはその騒ぎは分らなかったが、彼のもとへは、怒りと抗議と罵倒(ばとう)の手紙がおびただしく送られ、中には帽子に喪章をつけて行き来するロンドン市民も少なくなかったと言われている。
『回想』から『生還』に至る間に、ドイルは傑作長篇『バスカーヴィル家の犬』を書いているが、やはりホームズ短篇物語には執着があったと見えて、「まる十年、ホームズ物語を書かなかったが、自分の執筆能力が衰えているとは思われない。もういちど、短篇を書きついでもいいのではないか」という、自信と能力を口にしている。十年持続した読者の要望と期待と、作者ドイルの自信と情熱とが合体結晶しただけあって、この第三短篇集『シャーロック・ホームズの生還』は『回想』にひきつづいて、ホームズ短篇物語の最も円熟した興味と完成を示している。そして『生還』の最後の物語では、ホームズは現役を去ってロンドンを離れ、サセックスに引退して、養蜂と研究生活に日を送ることになっている。つまり、この『生還』にふくまれる十三篇の物語は、ホームズの名声をいよいよその頂点に至らせた、最も興味ある時期の物語となっているわけである。
内容から言えば、ホームズがモリアーティ教授と格闘の末、あい抱いてライヘンバッハの滝へ、絶壁を転落したのが一八九一年五月四日のことになっており、『生還』の第一話「空家の怪事」で、ホームズが再出現するのが一八九四年始めのことになっている。ホームズは三年ばかり失踪していたわけである。

近代の探偵小説が、エドガー・アラン・ポオの純粋推理の理論的小説からさらに平明化し、ガボリオの扇情(せんじょう)的情緒小説からいっそう高尚、健全になったのは、いうまでもなくコナン・ドイルの優れた功績であった。さすがイギリスの教養ある作家であっただけに、ホームズ物語は低級な通俗におちいらず、卑劣な言動に顔をおおうことなく、推理の抽象的な難解さもなく、それでいて卓越した知的な推理の輝かしさ、温和な気品、誰の秘密をも口外しない紳士的寛容、人間的温かさといったもので、まことに尊重すべき探偵小説の王座を占めるものとなったのである。
探偵小説には、犯罪とその推理的解決とがなければならない。その意味では、探偵小説的な要素は遠く古い物語にまでさかのぼることができる。人間の謎と秘密、それを解こうとする興味と本能とはエジプトのスフィンクスの謎よりも古い。世界最古の探偵的物語として史家がよく挙げる例は、旧約聖書『列王紀略・上』第三章にあるソロモン王の名裁判、外典中のバビロンの名判官ダニエルのふたつの探偵談、ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネーイス』第八巻中のヘラクレスとカーカスの知恵くらべの挿話などがある。
ソロモン王の裁きは、一人の子供をわがものと争う二人の母親を前にして、この子を二つに切り、その各々を与えよと言ったところ、一人が、わがものでなくてもよいから、その子を殺さずにおいてくれと頼んだほうを母と見抜く話で、これはわが大岡さばきにも伝えられている。ダニエルの話の一つは、ベル神の供物が無くなるのを、この偶像が食べるのではなくて、僧侶たちの盗みによるものであることを、神殿の周囲にまいた灰によって知るし、今ひとつは、貞女スザンナが、恋のかなわぬ元老二人に姦通の訴えをされたのを、ダニエルが現場の証言の食いちがいから、その訴えの虚偽を見抜いてスザンナを救う話である。
その他、ギリシア神話では、兄アポロの羊五十頭を盗んだメルクリウス(マーキュリー)が自分の足跡をごまかすために靴を脱いで、代わりに柳の枝を足にくくりつける証拠いんめつの話があり、ギリシアの歴史家ヘロドトスの風物記中に「ラムプシニタス王の宝庫」なる挿話があって、これはその宝を盗んだ犯人と王との知恵くらべで、のち犯人はその才智を買われて王姫のむこに迎えられる。
これらの犯罪と解決に寄せられる推理的興味はイギリス十八世紀末の、ウォルポールの『オトラント城奇譚』、ベックフォードの『ヴァセック』、ラドクリフ夫人の『ユドルフォーの怪事』、ルイスの『修道僧アンブロジオ』、マチューリンの『放浪者メルモス』、シェリー夫人の『フランケンシュタイン』等のいわゆる「ゴシックロマンス」の怪奇的ロマン性を傍流に、十九世紀中頃に至って、エドガー・アラン・ポオの推理小説に近代的創造を見ることになる。
ポオの数ある傑作短篇小説の中で、今日の推理小説と考えられるのは、『モルグ街の殺人』『マリー・ロジェーの怪事件』『盗まれた手紙』の、オーギュスト・デュパンが超人的名探偵として登場する三篇。これらには記述者として「私」なる人物が添っており、この探偵小説構成の原型は、デュパンをホームズ、記述者「私」をワトスン博士に置きかえて、ドイルのホームズ物語に受けつがれることになる。『モルグ街の殺人』は密室殺人の初めではあるが、最も完璧な典型、『マリー・ロジェーの怪事件』は実際ニューヨークに起こった売子娘殺害事件をモデルに、新聞切り抜きを縦横に批判して犯人を指摘しようとしたもの、『盗まれた手紙』では犯人との知恵くらべで、いずれも警察の盲点をついてデュパンの才能の勝利を示している。他に『黄金虫』は暗号解読の創始、『お前が犯人だ』では殺人偽証を心理的に探偵しようとしたものであるが、これにはいち早く探偵即犯人の型が扱われている。
なおフランスでは、ヴィドックが『回想録』を書いて小説的形式に探偵生活の実録を公にしており、長篇小説としてはエミール・ガボリオの『ルルージュ事件』が長も早かった。短篇小説がポオによってアメリカから、長編がガボリオによってフランスから生まれたことは興味がある。ガボリオはルコック探偵を創造し、ボアゴベーの通俗探偵小説を経て、フランス探偵小説はガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』をもってその絶頂をきわめる。通俗的な意味ではルブランのアルセーヌ・ルパン物語も犯人探偵の興味はあり、最近のジョルジュ・シムノンの文学的作品に至るフランス探偵小説の系統も注目に価する。
イギリスでも探偵ものが十九世紀中ごろから数多くあったなかで、チャールズ・ディケンズの『エドウィン・ドルードの怪事件』は作者の死によって惜しくも未完に終ったが、これは本格推理小説と考えてよく、ウィルキー・コリンズの小説もまた多くの犯罪と解決を扱い、『白衣の女』『月長石(ムーンストーン)』はとくに有名である。怪奇小説ではアイルランドのル・ファニュに『墓畔の家』『死妖姫』等があり、オーストラリア作家ファーガス・ヒュームの『二輪馬車の怪事』は探偵小説として紙価を高めた評判作であった。
アメリカでは、アンナ・グリーンの『リーヴェンワス事件』がポオの後継者としての伝統を辱(はずかし)めていない。

これらの探偵小説の小川が、突如その流れを大きくしたのは、一八八七年『緋色の研究』によって読者を探偵小説に注目させたコナン・ドイルの出現であった。そのあと、『四つの署名』(一八九〇)、『シャーロック・ホームズの冒険』(一八九二)、『シャーロック・ホームズの回想』(一八九四)、『バスカーヴィル家の犬』(一九〇二)とつづいて、ホームズ探偵小説は文字通り近代的典型を形づくる。『シャーロック・ホームズの生還』に至って、愛される名探偵ホームズの活躍はその絶頂に達している。
コナン・ドイル以後今日まで、探偵小説は様々な型を派生するようになってきている。謎と論理的な推理による解決をめざして、したがってトリックに創意を置くものが本格探偵小説であり、ホームズものは、いうまでもなく、ポオの伝統に立って、クリスティ、セイアーズ、クロフツ、ヴァン・ダイン、クィーン、カー、マイクル・イネス、ブレイク、ポストゲイト、アリンガム、マーシュ、ワイルドなどの後代作家を生む本格派の源流であった。本格探偵小説の裏返しは、始めから犯人を登場させて、探偵がそれをいかにつきつめて行くかの、経路の面白さに重点を置く倒叙探偵小説であり、フリーマンの短篇、アイルズ、クロフツなどの長篇に見られる。心理的スリラーにはアイリッシュの佳作があるが、モーム、アンブラー、グリーン、モーリア等純文学作家たちが好んで扱う主題でもある。最近のアメリカでは行動的な動きの多い物語として、ハメット、チャンドラー、スピレーン等の、推理をさして第一義に置かない、いわゆるハード・ボイルドが読まれている。なお怪奇小説まで、探偵小説と考える習慣があるが、本来、何ら推理的探究の行なわれないスリラー、スパイ物や密偵物語、冒険談、幽霊物語などは決して探偵小説ではあり得ないのである。
本格探偵小説では、作者は読者を相手に推理的な知力くらべをするわけで、そのためには作者と読者との間に紳士協定があるのが普通である。たとえば、実際に存在しないような凶器や毒物や偶発的事件といったものは、そんなものがあり得ることを合理的に説明され得なければ使用してはならないのである。しかし、人物の性格、特殊な暗号用の物品などは、いかにも真実めかしく描くことは作者の自由であり得る。犯人が最初の犯罪をかくすために、第二、第三と、連続犯行を行なうことも許される。しかしまた逆に、第二、第三の犯行が、最初の犯人によってなされるとは限らない。読者を満足させるためには、あらゆる手がかりが置かれていなければならない。その解決には、読者をなるほどと肯かせる要素が必ずいるのである。しかし、作者は読者をまごつかせるために、的(まと)外れな手がかりを故意にいくつ置こうとも自由である。それは自由であるが、作中の陳述が矛盾したり、故意に偽りであったり、誤解させるようなものであってはならない。もっとも、悪漢なり、すでに明白に信頼できないと示されている人物がする陳述ならば許されよう。薬品、法律、または物語の部分を形づくる特別な行為において、故意になされる間違いでなければ、いかなる誤りも犯してはならない。
以上は本格探偵小説作者の鉄則といってもいいものであるが、ホームズ物語ではこれらが充分に守られていることは賞讃されていい。そのフェア・プレーゆえにこそ、読者は安心してワトスンの記述を追い、自分の推理をはたらかせ、ホームズと同じ結論に達して喜びの声をあげるか、あるいは完全に背負い投げをくわされて、あざやかに驚嘆させられ、次の挑戦に及ぶということになるのである。

ここに、この短篇集『シャーロック・ホームズの生還』にふくまれている作品について、気づいたところを書いておこう。
巻頭の「空家の怪事」は、ホームズの生還を祝福する一篇である。ここでホームズが奇蹟的にライヘンバッハの滝の断崖から助かった様子が説明され、新しく発生した殺人事件を主題として、モリアーティ教授の残党との戦い、虚々実々のトリックの応酬、謎の数字等をおりまぜて、ドイルが自信を持ったにふさわしいホームズの復活ぶりである。この作品の最後の一節で、ホームズは複雑なロンドン生活がかもし出す興味ある問題の研究に乗り出そうという、新しい決意と情熱とを見せる。十年後に書きつがれたホームズ短篇連載への意気は、じゅうぶん読者の期待と希望に応じるものであった。
「ノーウッドの土建屋」では殺人放火、指紋のトリック、秘密のかくれ場所、ホームズの奇智による犯人の誘導と、読者の推理が目まぐるしく翻弄される。火事の叫び声をホームズが利用するのは第一短篇集『シャーロック・ホームズの冒険』の冒頭の作品「ボヘミア王家の色沙汰」にも出てくる。
「ひとり自転車を走らせる女」にはあとをつける今ひとつの自転車の秘密と、ここにも純真な恋愛の勝利がある。ホームズものが単に推理的興味だけでなく、健全な家庭読物としての要素を持っていたことは、この探偵小説がおおくの読者に歓迎されたひとつの原因でもあった。
「プライアリ学院」は生徒の誘かい事件にまつわる殺人もあり、一見奇怪な事件の展開を見せるが、ここでドイルが書いた自転車のタイヤのトリックに錯覚がある。うしろに重たい荷物を乗せた自転車のタイヤの跡を見て、その自転車進行方向を推理するのであるが、タイヤの模様がこの作品の場合のように左右同形であると、推理の決め手にはならない。こうしたトリックの錯覚は、ときどき探偵小説にはありがちで、それが気になる読者は左右均衡でなかったものとして読み進めればいいであろう。
「ブラック・ピーター殺し」でホームズが船員に着目するところは、やはりポオの『モルグ街の殺人」の着想を思わせる。
「奸賊ミルヴァートン」のゆすりは、知られたくない手紙を利用するという点で、やはりポオの『盗まれた手紙』の原型から出発しているところがある。ただここにもホームズの人情的な一面が濃く出てくるのは、ポオの傑作とちがった肌合いを感じさせる特質である。
「六個のナポレオン」「三人の学生」「金縁の鼻眼鏡」の三篇は、この短篇集中、最も有名な作品である。ナポレオン像が一見無意味につぎつぎと壊されてゆくスリルは、のちのクリスティの『ABC殺人事件』に通じるかもしれない。なんの関係もないと思われる偶発事件が、実はひとつの目的によって貫かれている環を見出してゆく推理の興味は、たくみにスリルを織り交ぜて巧妙である。「三人の学生」はどこの学校にでも発生しそうな、試験問題のカンニング事件である。結末で犯人が校則を傷つけずに別の道に生き得るのは、やはりドイル的解決の健全な楽しさである。
「金縁の鼻眼鏡」はこの短篇集の中で最も本格的な作品と言われよう。殺人、犯人への暗示、侵入口と脱出口、教授の食欲など、その謎の組み立ては完璧をきわめており、探偵小説の犯罪、謎、解決の手がかりが借しみなく投げ出されている。
「スリー・クォーターの失踪」には悲恋の裏づけが、温い同情にまとわれて哀愁をただよわせ、「アビ農場の屋敷」の殺人は、これも恋愛の悲劇的結末、ベルの紐のトリックと、推理的興味が人情小説的興味と結びついて、かなり長い物語をよく緊張させている。

最後の「第二のしみ」は読者の要望にこたえて、ドイルがつけ加えた作品で、これまでと異なり、大きく国際的事件をとり上げている。秘密文書の紛失と殺人事件とをないまぜ、夫婦生活の愛情をまもる倫理的な薬味もうまくきかせてある。『生還』の最後をかざる一篇としては申し分なかろう。ただここで、ドイルはふたたび、ホームズ物語を打ち切ろうとする様子が見えている。ホームズはその経験を公表することを嫌がり出しており、そのうえ、ロンドンを去って現役を引退、サセックスに余生を楽しむことになっている。しかし、実際には、これからのちもホームズ物語は続々と書きつづけられているので、読者は失望するに当たらない。
ホームズ探偵小説の受けた理由はさまざまある。もちろん、その知的な推理的興味が中心ではあるが、この私立探偵には調査の対象になる人々へのデリカシーがある。他人の秘密を自己の秘密とする礼節がある。恋愛への同情、夫婦生活への機微にふれる温かい解決等と、ドイルの探偵小説はおびただしい読者を吸収する要素を持っていた。ホームズは万人に愛される探偵であったわけである。ホームズは稀に見る知的天才のヒューマニストであった。

最後に、作者ドイルの経歴について、その学校教育の時代がやや精(くわ)しく分ったので書き添えておこう。
アーサー・コナン・ドイルの教育にはなはだしく熱心であったのは大伯父のマイクルであった。マルクル伯父は絵本などをドイルに与え、ドイルは五歳にして作文ができたと言われている。この伯父のすすめで、ドイルはホッダーという予備校に入った。この予備校はランカシャーにある大きなカトリック系のパブリック・スクール、ストーニーハースト・カレッジへの予備校である。一八六九年に、ドイルは初めての夏休みを迎えているから、入学したのは前年、九歳のとき、六八年の九月であったと思われる。イギリスでは学校は九月に新学期が始まるのである。
この予備校に一、二年いて、ストーニーハースト・カレッジに入学した。カレッジ卒業は七五年六月、予備校を通じて七年間、カトリックの教育を受けたわけであるが、ドイルはやがて教会を離れてしまった。教授のすすめで、その年の九月、オーストリアのフォラルルベルグ県フェルトキルヒ市のジェスイットの学校に入って、さらに宗教教育に一か年をすごし、イギリスに帰って、一八七六年秋にエディンバラ大学の医学部に入った。ここを卒業して医学士になったのが一八八一年である。(鈴木幸夫)
「最後の挨拶」目次


ウィスタリア荘
ボール箱
赤い輪
ブルース・パーティントン設計書
瀕死の探偵
フランシス・カーファクス姫の失踪
悪魔の足
最後の挨拶

ウィスタリア荘

一 ジョン・スコット・エクルズ氏の奇妙な体験

覚え書をみると、それは一八九二年の三月も終りに近い、風の吹くうすら寒い日だったと記されている。私たちが昼食の席についている間に、一通の電報が届き、ホームズは返事を手早く書いた。その件について彼は何ひとついわなかったが、気にはとめていたらしく、食事のあとで、考え込んだ顔つきで暖炉の前に立ったまま、パイプ煙草を喫っては、ときおり電文に眼を走らせていた。それから突然私を振りかえり、いたずらっぽく眼を輝かせた。
「ワトスン、文学者としてのきみに訊かなくちゃならないんだがね」と彼はいった。「怪奇(グロテスク)という言語をどう定義づけるかね?」
不可思議(ストレインジ)とか異常(リマーカブル)とか」と私はいった。彼は頭を振って、私の定義を否定した。
「それ以上の意味があるんだ。悲劇的なものや恐怖すべきものを暗示する何かが根底にあるよ。世の大衆を長いこと悩ませてきたきみのいろんな物語のどれかを思い返してみれば、怪奇なものが昂(こう)じて犯罪に転じた例がいかに多いかがわかるだろう。赤毛の男の事件(「ホームズの冒険」編の中の「赤毛連盟」参照)を考えてみたまえ。はじめは確かに怪奇だったが、結局は無謀な強盗事件となってしまった。あるいはまた、五粒のオレンジの種というひどく怪奇な事件(「ホームズの冒険」参照)も、ただちに殺人をともなう陰謀事件を引き起こしたよ。ぼくは怪奇という言葉があると頭が働きだすんだ」
「その電報に怪奇という語があるのかい?」
彼は電報を声を出して読んだ。


信ジガクキ怪奇ナ体験ヲシタ。助言願イタシ。
チャリング・クロス局止メ
スコット・エクルズ

「男かい、女かい?」
「もちろん男さ。女なら返信料つきの電報なんてよこさないで、自分で訪ねてくるよ」
「会ってみるつもりかい?」
「ワトスン、カルザース大佐を拘禁(こうきん)してからというもの、今日まで、ぼくがどんなに退屈しているかわかっているはずだ。ぼくの精神は空(から)まわりする発動機のように、破裂してばらばらになりそうだよ。そのために作動するようにできている肝心の仕事にありつかないんだからね。人生は平凡だ。新聞もつまらない。犯罪の世界から大胆不敵さとか空想めいた冒険も、永遠にあとを断ったらしいね。それなのにきみはぼくに新たな問題と取り組む用意があるかだなんて、わかりきったことを訊くのかい? たとえそれがどんなにとるに足りない事件だとしてもだよ。だが、ぼくの推察に誤りがなければ、依頼人がやってきたらしいよ」
階段を昇る規則正しい足音がきこえ、すぐあとで部屋へ通されたのは、がっしりとして背が高く、しらが混じりの頬ひげをはやした、風采(ふうさい)はいかめしいほど立派なひとりの人物であった。まじめくさった顔つきともったいぶった態度が、この紳士のあゆんだ人生を物語っていた。靴に近いスパッツから金縁の眼鏡にいたるまで、この男は典型的な保守派で、国教の信者であり、どこまでもありきたりな伝統を固く守る善良な市民である。だが何かびっくりするような体験のために、生まれついての平静さをかき乱されたらしく、もつれた髪の毛や怒りに赤らんだ頬、あわてふためいている態度に、その形跡が認められた。彼はいきなり用件を切りだした。
「わたしはどうにも奇妙で不快な体験をしたのです。ホームズさん、あんな状況にぶつかったのは生まれて初めてです。なんとも不都合で……無礼きわまる。これはぜひとも説明してもらわねばなりません」彼は怒りに胸をふくらませていた。
「どうかおかけになって下さい、スコット・エクルズさん」と、ホームズはなだめすかすような声でいった。「まず第一におたずねじますが、どういう理由で、このぼくのところへおいでになったのです?」
「警察に届けるような事件ではあるまいと、まあこう思ったのですがね。ところが事実を知れば、そのまま放っておくわけにもいかないことが、あなたにもわかるはずです。私立探偵なんて、わたしにとっては絶対に賛成できない人種ですが、それでもあなたの名前は聞き及んでいたもので……」
「ごもっともです。第二におたずねしますが、どうしてただちにここへおいでにならなかったのです?」
「どういう意味ですか?」
ホームズは懐中時計をちらと見た。
「いま二時十五分です。電報を打ったのは一時ごろですね。しかし、あなたのその髪や衣服の着こなしをみれば、誰の眼にも、目醒めた瞬間から、あなたの混乱状態が始っているのがわかりますよ」
依頼人はブラシのかかってない頭髪をなでおろし、剃刀(かみそり)をあてていないあごにさわった。
「なるほど、そのとおりです、ホームズさん。身づくろいなど考えもしなかった。あんな家から早く逃げ出したい、ただそれだけを思ってましたからね。だけどここへうかがうまえに、あちこち問い合わせにとび歩いていたんです。家屋周旋(しゅうせん)人のところへもいきました。するとどうです、ガルシア氏は家賃をきちんと支払っているから、ウィスタリア荘にはなにも不都合はないというのです」
「まあまあ」と、ホームズは苦笑しながらいった。「あなたはぼくの友人の、このワトスン君みたいなかたですね。この人は話の前後におかまいなしという悪い癖(くせ)がありましてね。どうかお考えをまとあて、順序にしたがってお話し下さい。髪にブラシも櫛(くし)もかけず、靴は礼装用をはき、チョッキのボタンをかけちがえているといったお姿で、相談と助力を求めてかけつけるような事件とはいったいどんなことだったのですか?」
依頼人は、もの悲しげな顔で、習慣から外れている自分の格好を見おろした。
「なるほど、これはひどい風采ですな、ホームズさん。わたしはいまだかつて、あんな事が起ころうなんて思いもしなかったんです。あの奇妙な出来事を残らずお話しすれば、あなたもおそらく、それもやむをえなかったと納得されるでしょう」
ところが彼の体験談は続きを断たれた。部屋の外が騒々しくなって、ハドスン夫人が扉を開いて、ふたりの屈強そうな、警官らしい人物を案内してきた。ひとりは私たちにはおなじみのロンドン警視庁のグレグスン警部という、精力にみちあふれた勇ましい男で、むろん限界はあるが有能な警官だった。彼はホームズと握手をして、つれの男をサリー州警察のベインズ警部だと紹介した。
「われわれは連携して捜査中です。追跡の方向がこちらなものですから」彼は先客のほうにブルドッグのような眼を向けた。「あなたはリー町ポッパム荘のジョン・スコット・エクルズさんですね?」
「そうです」
「朝からずっと追跡していたんです」
「すると電報で足どりを突きとめたわけだ」とホームズがいった。
「そのとおりです、ホームズさん。チャリング・クロス局で嗅(か)ぎつけて、こちらにやってきました」
「でも、どうしてわたしを追跡されるのですか? 何の用です?」
「スコット・エクルズさん、エシャ近郊のウィスタリア荘のアロイシャス・ガルシア氏の昨夜の死亡事件に関して、あなたの供述をとりたいのです」
依頼人は目を丸くして立ち上がったが、その顔は驚きのため血の気を失っていた。
「死んだ? 死んだとおっしゃいましたね?」
「そうです、死んだのです」
「しかし、どうして? 事故ですか?」
「殺人です。まぎれもなく」
「なんと! 恐ろしいことを! まさか……まさかわたしに嫌疑がかかっているとおっしゃるんじゃないでしょうね?」
「死んだ男のポケットに、あなたからの手紙が発見され、それによるとあなたは、昨夜あの男の家に宿泊の予定があった」
「そうです。泊まりました」
「やっぱり泊まったのですな?」
警部はここで警察手帳を取りだした。
「ちょっと待って下さい、グレグスン君」とシャーロック・ホームズがいった。「きみの得たいものは、単なる供述だけなのですか?」
「スコット・エクルズ氏に職務上忠告しておきます。その供述は後日あなたには不利な材料となるかもしれませんよ」
「エクルズさんがその話をしようとしたところヘ、きみたちがはいってきたんです。ワトスン君、ソーダ水で割ったブランデーを一杯、エクルズさんに飲んでもらったらいい。さあエクルズさん、聞き手がふえたことなど気にしないで、さっきの話が中断されなかったものとして、話を正確に進めて下さい」
客がブランデーを一気に飲みほすと、その顔に生色が蘇(よみが)えった。警察手帳をけげんな眼差しでちらと見て、いきなり驚くべき供述をはじめた。
「わたしは独身です。それに社交好きな性質ときている。ですから友人が多勢います。その中にケンジントンのアルベマール・マンションに住む、もと醸造(じょうぞう)家で今は隠退している、メルヴィルという家族がいます。わたしは数週間まえに、この人に食事に招かれて、そこでガルシアという名の若い男と出会いました。この男はスペイン系で、大使館とつながりがあるらしいのです。英語を完璧(かんぺき)にこなして話をするし、態度は気持いいし、それにこれまで見たことのないほどの美男でした。どういうわけか、この男とわたしはすっかり意気投合することになったのです。初対面からわたしを好きになったらしく、会って二日もたたぬうちに、あの男はリーの私の家に遊びにきました。物事はひとつがうまくいくと次々にほかのこともうまくいくもので、とうとうエシャとオクスショットの中間にあるウィスタリア荘という彼の家に、二、三日滞在してみないかと招待を受けるまでになりました。昨夜はこの約束を果たすべく、わたしはエシャヘ出かけたのです。
わたしは行くまえから、家中の者のことを彼から聞かされていました。彼は忠実な召使いを使って暮していたのです。召使いも同郷の出身で、主人のガルシアの世話はすべてこの男がしています。英語が話せるうえに、主人にかわって家事を司(つかさ)どっています。それに、すばらしい料理人がいるらしいのです。彼が旅先で見つけた混血の男で、すてきな料理が作れるとのことです。
思えば、サリー州の中心部にこんな一家があるなんて何ともおかしいだろうという彼の言葉に、わたしも同感だと答えましたが、じっさいに訪ねてみますと、想像したよりはるかに奇妙なものでしたよ。
馬車で乗りつけたのですが、その場所はエシャから南約二マイルのところでした。屋敷はかなり広大で、道路から引っこんだところに建っていて、曲がった馬車道の両側に高い常緑樹の植込みが続いていました。建物は修繕もしないので、古く、荒れはてておりました。二輪馬車が、雨風にさらされて色あせたしみだらけの玄関の扉の前の、雑草のおい茂る車道にとまったとき、少しばかり知っているだけの男を訪問するなんてと、自分の思慮分別を疑ったものでした。ところが、ガルシアは自分から玄関に出迎えて、うやうやしいほど好意的にあいさつの言葉をかけてくれました。
そのあとわたしは下男に引き継がれ、寝室に案内されました。わたしの荷物を運んだこの下男も陰うつで、色の浅黒い、がっしりした男でした。家中の何もかもが陰気でした。夕食の席は二人きりで、主人役のガルシアは最上のもてなしにつとめているのですが、頭のなかは終始どこかをさまよっているらしく、話がとてもあいまいで、しかも昂(たか)ぶった様子なので、わたしにはさっぱり要領を得ません。しきりに指でテーブルをたたいたり、爪をかんでみたり、ほかにも苛立(いらだ)って落ちつきのないしぐさを見せるのです。食事そのものが、給仕はへた、料理はまずい、そのうえあの陰気で無口な召使いがいては、わたしの心も明るくなるはずがありません。正直なところ、何かうまい口実を作ってリーの自宅に帰りたいと、その夜のうちになん度思ったことか。
あなたがたお二人が捜査している事柄に関係のありそうな、あることを思い出しましたよ。そのときは別になんとも思わなかったのですが。食事の終りごろ、召使いが一通の書付(かきつけ)を手渡しました。それを読んだあとで、ガルシアが前よりもなおひどく、放心した奇妙な様子を見せていることに気づきました。もう会話をかわしているふりをすることもすっかり諦め、やたらに煙草をふかしては、もの思いにふけっていました。それでいて、書付の内容には何ひとつふれません。十一時ごろ、わたしは寝室に引きとって、ほっと息がつけたのです。しばらくして、ガルシアがドアからのぞきこみ……そのとき部屋はあかりが消えていました。……ベルを鳴らしたかとたずねますので、いや鳴らさなかったと答えました。すると彼は、もうじき一時になる、こんな夜遅くじゃまして悪かったといいました。それっきりわたしは眠りに落ちて、朝まで熟睡していました。
いよいよこれからが、わたしの話も驚くべきところにさしかかるのです。わたしが眼をさましたときは、白昼のような明るさで、時間を見ると九時近くです。八時に起こしてくれとよくよく頼んでおいたのに、それを軽く忘れられたことに、たいへん驚きました。とび起きてベルを鳴らして下男を呼びました。何の応答もありません。続けて何回もベルを押しましたが、結果は同じです。そこで、これはベルが故障しているのだと思い、いそいで服を着ると、内心ひどく腹を立てて、湯をもらいに階段をかけおりたのです。そのときのわたしの驚きといったらどういえばいいのか……階下にはひと一人いないのです。ホールで声高かに叫んでみました。返答がありません。それから部屋を次々に調べてまわりました。どこにも人のいる気配がありません。前夜ガルシアから、彼の寝室を教わっていましたので、その部屋のドアを叩きました。応答なしです。把手(とって)をまわして中にはいりました。部屋は空っぽで、ベッドに人の寝た形跡さえもない。ガルシアは他の者と一緒にいなくなったのです。外国人の主人、外国人の下男、外国人の料理人、これらのすべてが一夜のうちに、すっかり消えてしまったのです! これがわたしのウィスタリア荘訪問の顛末(てんまつ)です」
シャーロック・ホームズは、自分の風変わりなエピソード集に、またひとつ奇怪な小事件を加えたことで、手をこすり合わせながら満足げな微笑をもらした。
「あなたの体験談は、ぼくの知るかぎり類例がありません。そこで、そのあと、どうなさいました?」
「わたしは腹立たしくなりました。最初に思い浮かんだことは、これは何か悪質ないたずらの餌食(えじき)にされたということです。自分の荷物をつめこむと、玄関のドアをがたんと閉め、カバンを手にもって、エシャのほうに歩き出しました。村でも有数の土地周旋人のアラン兄弟商会を訪ねましたが、ウィスタリア荘を貸しているのはこの商会だとわかりました。そのとき思いついたのは、あんな奇妙なやり方は、わたしをからかうのがねらいなのではなく、むしろ主要な目的は家賃を踏み倒すことにあったに違いないということです。三月も終りに近く、 支払い日(家賃は年四回の四季払いになっている)も迫っている。ところがこの推測も外れました。差配人はご注意はかたじけないが、家賃は前もって支払いずみですというのです。そこでわたしはロンドンヘ出向き、スペイン大使館を訪問しました。ところがここでも、そんな男は知らないというのです。このあとわたしはメルヴィルを訪ねていきました。ガルシアと初めて会ったのは彼の家でしたから。しかし彼はガルシアについてはわたしよりももっと知らないのです。そこで最終的には、あなたから電報の返事をもらいましたので、こちらにうかがったわけです。なにしろ、あなたは危急の場合に、相談に乗って下さるかただと聞いていたものですからね。ところで警部さん、さっきのお話から推察して、あなたがたにもお話があるご様子ですが、なにか惨劇が発生したらしいですね。はっきりいっておきますが、いままでわたしの話した内容にはなにひとつ偽(いつわ)りはなく、それ以外には、あの男の身の安否について、わたしは絶対に何も知りません。わたしはただ、いかなる方法であれ、法律のお役に立ちたいと願うばかりです」
「そうですとも、スコット・エクルズさん。よおくわかります」グレグスン警部が愛想のいい口調でいった。「あなたのいわれたことはどれもが、こちらの調べた事実とぴたりと合致しているといえます。たとえば、夕食の最中に届いたあの書付(かきつけ)です。あの書付がどうなったか、あなたは気をつけて見ましたか?」
「ええ、知っております。ガルシアが丸めて火の中に投げこみました」
「ベインズ君、この件はどうかね?」
いなか警部は頑健で、肥った、赤ら顔の男である。額(ひたい)と頬の間にできた深いしわの奥に、ほとんど隠れるようについている二つの目が異常に輝いていて、それでかろうじて愚鈍な印象から救われている男である。ゆったりと微笑を浮かべながら、ポケットから折りたたんだ、汚れた一枚の紙きれを取りだした。
炉格子(ろごうし)のおかげです、ホームズさん。ガルシアは遠くまで放りすぎたのですな。向こう側で焼けずに残っていたので拾ったのです」
ホームズは微笑して警部の努力を称(たた)えた。
「紙きれ一枚も見落さないとは、注意のいきとどいた捜査でしたな」
「そうですよ、ホームズさん。これがわたしの流儀でしてね。読みますか、グレグスン君?」
ロンドンの警部はうなずいた。
「紙の質は、すかしのない、普通のクリーム色の用紙です。大きさは四つ切り判、小さなはさみで二箇所切ってあります。三回折って紫のろうで封をしてますが、ろうはあわててつけたものらしく、その上を何か卵形の平らなもので押えつけてあります。宛名はウィスタリア荘、ガルシア様となっていて、文面は次の通りです。
『われらの色は緑と白。緑は開、白は閉。正面階段。最初の廊下。右七番目。緑の掛布。成功を祈る。Dより』
女性の筆跡です。文面は先の鋭いペンで書かれています。宛名は別のペンか、別の誰かが書いたもので、ごらんのように肉太の字体です」
「たいへん珍らしい書付ですな」とホームズはちらと見ていった。「ベインズさん、細部まで注意して点検されたことに、敬服しましたよ。細かい点を二、三補足すれば、卵形の封印は平らなカフスボタンであることに間違いありません……ほかにそんな形のものがあるでしょうか? はさみは刃の曲った爪切りですよ。切り口は短いが、二つとも同じように少し曲っていることがはっきり見分けられます」
いなか警部はくすくす笑った。
「残らず調べあげたつもりでしたか、いささか見落しがありましたな。この書付に関してわたしのわかることといえば、何事かをたくらんでおること、そしてその背後に例によって女がいることだけですな」
スコット・エクルズ氏は、話の間じゅう、席に落ちついていられなかった。
「その書付を見つけていただいてありがたいです。わたしが話したことの確かな証明になりますからね。でも、あえて言わせていただければ、ガルシア氏に何が起こり、あの家のものがどうなったか、まだお聞きしていないのですが」
「ガルシアのことは、」と、グレグスンがいった。「答えるのは簡単です。自宅から約一マイル離れたオクスショット共有地で、けさ死体で見つかりました。頭部が砂袋か何かで強打されて、ぐしゃぐしゃに壊(こわ)れています。外傷を受けたというよりも、押しつぶされたのです。現場は人里離れた場所で、そこから四分の一マイル以内に家は一軒もありません。最初は背後から襲われて倒れたようですが、襲撃者は彼が死んだあとも長時間なぐりつづけたらしいです。ずいふん狂暴なことをしたものです。足跡も、犯人を解く手がかりになるものもまったくありません」
「強盗ですか?」
「いえ、強盗を働いた形跡はありません」
「痛ましい……たいへん痛ましい。ひどいことです」とスコット・エクルズ氏はぐちっぽい声でいった。「だが、わたしもとんでもない困った立場になったものだ。ガルシアが夜間そとへ出ていって、そんな悲しい最期を遂(と)げたにしても、わたしはそれに何も関係していないのです。わたしはどうしてこの事件にかかわりあいになったのでしょう?」
「理由は単純です」と、ベインズ警部が答えた。「死人のポケットから発見された証拠書類はあなたからの手紙だけです。それには殺人のあった夜、あなたが彼の家に泊まると書かれていました。死んだ男の住所氏名が判明したのも、この手紙の封筒からなのです。わたしが被害者の家に着いたのは、けさの九時すぎでしたが、家の中には、あなたもほかの者もだれもいませんでした。わたしは電報でグレグスン君に、ロンドンでのあなたの行方を追跡してくれるように頼み、わたしはウィスタリア荘を調査しました。そのあとロンドンでグレグスン君と合流し、そろってこちらへうかがったわけです」
「こうなっては」と、グレグスンが席を立ちながらいった。「この事件は公式の文書にまとめたほうがよいようですな。スコット・エクルズさん、署までご同行ねがいます。あなたの供述を文書にしますから」
「いいですとも。すぐにもまいりますよ。それにしてもホームズさん、あなたに依頼した仕事は続けて下さい。真実を解明するまでは、費用もご苦労も惜しまないように願います」
ホームズはいなか警部のほうを向いた。
「ぼくが提携して調査することに異存はないですか、ベインズさん?」
「たいへん光栄です」
「あなたのこれまでの処置は、たしかに、非常に敏速で能率的ですね。ところで、その男が殺された正確な時間を知る手がかりはあるのですか?」
「被害者は一時から現場にいたようです。その時刻に雨が降りました。雨の降るまえに、死んだことはたしかです」
「いや、ぜったいにそんなはずはない、ベインズさん」と、依頼人が叫んだ。「まちがいなくガルシアの声です。ちょうどその時刻、わたしの寝室にきて声をかけたのはあの男だと証言できます」
「驚くべきことだ。しかしけっして不可解じゃありませんな」とホームズが微笑していった。
「なにかの手がかりをつかんでおられるのですね?」と、グレグスンがたずねた。
「見かけは、とくに複雑な事件ではありません。たしかに風変わりで興味をひく特徴がありますがね。ここで最終的に決定的な意見を述べるよりも、そのまえにもっと深く事実を知ることが必要です。ところでベインズさん、あの家を調査して、この書付以外にめぼしいものは見つかりませんでしたか?」
警部はけげんそうにホームズの顔をみた。
「ありましたよ。ひとつふたつ、とっても珍らしいものですがね。署のほうの仕事をすましたら、お出かけをねがって、あなたのご意見を聞かせてもらいたいですな」
「お役に立つことであれば、何なりといたしましょう」と、ホームズはベルを押しながらいった。「みなさんをお見送りして、ハドスンさん。それから、この電報を給仕に打たせてください。返信料を五シリングつけてね」
客の帰ったあと、しばらく私たちは黙って坐っていた。ホームズはやたらと煙草をふかし、鋭い目のうえの眉(まゆ)を寄せて、この男独得の、頭を前に突きだす格好をしていた。
「ところで、ワトスン」と、いきなり私を振り向いてたずねた。「きみはこの問題をどう考える?」
「スコット・エクルズのあの話は、人を惑わすような内容で、ちっともわけがわからん」
「しかし現実に犯罪が起こっているのは?」
「被害者の仲間が姿を消したところをみると、彼らもなんらかの形で人殺しに関係していて、処罰を免れるべく逃げたのだと思う」
「それもたしかに一理はある。しかしちょっと考えたって、ふたりの召使いが主人を殺そうとたくらみ、客のいる夜を選んで襲うなんて奇妙だとは思わないか。主人がひとりでいる夜は他にもいくらでもあるのに」
「それでは、やつらはどうして逃げたのだろう?」
「きみのいうとおりだ。なぜやつらは逃げたのか? それが重大な事実だ。もうひとつの重大な事実は依頼人スコット・エクルズの奇妙な体験だ。ねえ、ワトスン、この二つの重大な事実に納得のいく説明を見つけだすことは、人間の能力を超えたことだろうか? もしそれが、あの妙ちきりんな文句が書いてあった書付の謎をも解明しうるだけの説明だとすれば、その説明は一時的な仮説として、尊重しうるんじゃないかな。いずれはわかる新たな事実が、すべて事件の枠組にぴたりと合致するとすれば、その仮説はそのまましだいに解答となっていくだろう」
「しかし、その仮説とは何なのかね?」
ホームズは半分目をとじて、椅子の背にもたれた。
「ワトスン、これをいたずらだとする考えはもちろん論外だ。結果の示すように、ゆゆしい事件が進行していたのだ。スコット・エクルズをうまくウィスタリア荘に誘い出したことと、そのこととは何らかの関連があるよ」
「しかし、どんな関連が考えられるね?」
「つながりをひとつずつ解明していこう。表面だけ見れば、若いスペイン人とスコット・エクルズが初対面で親交を結んだことには、どこか不自然なところがある。むりに接近を早めたのはガルシアのほうだ。彼はエクルズに初めて出会ったその翌日には、ロンドンの反対側のはずれの彼の家を訪問し、その後も親密な接触を重ねたあげく、ついにはエクルズをエシャに呼びよせている。それじゃ、彼はエクルズから何を得ようとしたのか? またエクルズは彼に何を提供しえたか? ぼくはエクルズという男に何らの魅力も感じないよ。とくに聡明というのでもない……目から鼻にぬけるようなラテン系の男とは趣味の合いそうな男じゃないよ。それならばガルシアが出会った多勢の人の中から、とくに目的にかなう人物として、エクルズを選び出した理由は何なのか? なにか格別の適性があるのか? ぼくはあると思う。あの男はごくありきたりの英国風の重厚さを備えた人物として、まさにその類型だよ。証人としては、他の英国人によい印象を与えるにはうってつけの男だ。きみもじかに見たろう。警部はふたりともエクルズの供述を、あれほど不可解な話だったのに、疑がわしいなどとは夢にも思っていなかったじゃないか」
「だけど彼は、何の証人にさせられる予定だったのだろう?」
「事態がこういう結果になっては、何にもなってはいないが、もし別の方向に展開していれば、きっと重要な証人になりえただろう。ぼくはこの問題をそう解釈するがね」
「わかった。ガルシアの不在証明(アリバイ)をさせられたのかもしれない」
「そのとおりさ、ワトスン、彼はガルシアのアリバイを証明することはできたのだ。議論を進めるため、いまかりに、ウィスタリア荘に住むものが共同して何かの陰謀をめぐらしていたとしよう。その企てが何であれ、ともかく一時前に事を起こす予定だったと仮定しよう。掛け時計を少し操作してスコット・エクルズをだまし、本当の時間より早く彼を眠りにつかせるぐらいのことはわけもない。だがいずれにせよ、ガルシアがもう一時だと告げにきたときは、本当の時刻はまだ十二時にもなっていなかったようだ。ガルシアが何事か仕事をし終えて、その時刻までに帰宅しておれば、どう告訴されても強く対抗しうるわけだ。その場合は申し分のない英国人がいて、この男ならどんな法廷でも進んで証言してくれる。被告はずっと家の中にいましたとね。それは最悪の場合の保証になりうるよ」
「そうだ、そうだ、よくわかるよ。でも、ほかの連中が姿を消したわけは?」
「まだ全部の事実を握っているわけじゃないが、べつに克服しがたい困難があるとは思わないね。でも、材料(データ)があるのにとやかく論議するのは間違いだよ。自分でも知らないうちに理論に合うように材料をひねくりまわすことになるからね」
「それにあの通信文をどう思う?」
「どんな文句だったかね? 『われらの色は緑と白』競馬(けいば)の用語みたいだな。『緑は開、白は閉』か。これは明らかに合い言葉だ。『正面階段。最初の廊下。右七番目。緑の掛布』とあるね。これは密会の場所を指定したものだ。おおかたこの件の裏には嫉妬ぶかい夫がいるのだろう。危ない冒険だよね。そうでなければ『成功を祈る』なんて書きはしない。『D』……これは案内人の略名だ」
「ガルシアはスペイン人だったね。『D』はスペインではありふれた女の名前の、 Dolores(ドロレス) の略号じゃないかな」
「結構だ。ワトスン、たいへん結構だ……だけど、とうてい承服できないね。スペイン人がスペイン人に出す手紙なら、スペイン語で書くはずだ。あの書付は英国人が書いたものだよ。こうなったら、あの腕利きの警部が呼びにくるまで、我慢して待つほかないね。そのあいだに、怠惰(たいだ)につきまとうあの耐えがたい疲れから、ほんのひとときでも救ってくれた幸運に感謝しておこう」

サリー州の警部が戻ってくるまえに、ホームズの電報への返信がとどいた。ホームズは読むと手帳のあいだにあやうくしまいそうになって、ふと読みたそうな私の顔を見やると、笑いながらぽんと投げてよこした。
「われわれは身分の高い人たちのほうへ移りつつあるらしいよ」と、彼はいった。
電報は人名と住所の一覧表だった。

ハリングビイ卿、ディングル荘。
ジョージ・フォリオット卿、オクスショット塔(タワー)。
治安判事ハインズ・ハインズ氏、パーディー屋敷(プレイス)。
ジェイムズ・べーカー・ウィリアムズ氏、フォートン旧邸(オールドホール)。
へンダースン氏、ハイ・ゲーブル荘。
ジョシア・ストーン師、ネザ・ウォルスリング館。

「これはわれわれの行動区域をきわめて明確に限定するやりかたさ」と、ホームズはいった。
「計画的な頭をもつベインズも、似たような案を採用しているはずだ」
「ぼくにはさっぱりわからないね」
「いいかね、ガルシアが夕食のとき受けとった書付は、会合の約束ないしは密会の指定であるという結論がすでに出ているんだよ。だから、文句をそのまますなおに解読して正しいとすれば、この約束を果たそうとする者は、正面階段を昇り、廊下の七番目のドアを捜さねばならないことになるから、その家はかなり大きいことが、完全に明らかになる。そして、この家がオクスショットから、一、二マイル以内にあることもまた確実だ。なぜなら、ガルシアはその方向に徒歩でいく途中だったのであり、事実のとおり解釈すれば、自分でアリバイを作るためには、その時間、一時という確固たる時間までにはウィスタリア荘に戻りたかったからだ。オクスショットに近くて、しかも大きな家となると、その数は限られてくるから、スコット・エクルズのいっていた周旋人に電報を打って、その種の邸宅の一覧表を入手するという、わかりきった方法をとったのさ。それがこの電報の内容だよ。もつれた糸を解く、もうひとつのいとぐちはこの表の中にあるはずなんだ」
私たちがベインズ警部を道連れにして、サリー州の美しい村エシャに到着したのは、六時近くだった。ホームズと私は宿泊する用意をしていき、ブルという旅館に快適な部屋を見つけた。そしていよいよ、警部と一緒にウィスタリア荘を訪れるために出かけていった。寒く暗い三月の夜、冷たい風と小粒の雨まで顔に吹きつけてきて、踏みこえていく荒涼とした共有地と、辿(たど)り着くことになる悲劇的な場所とかに、舞台のお膳立てとしてはふさわしいものであった。

二 サン・ペドロの虎

寒くて憂鬱な気分で二マイルほど歩いていくと、高い、木造の門のところへ出た。そこからさきは、鬱蒼(うっそう)とした栗(くり)並木がつづいていた。薄暗がりの、曲った馬車道をいくと、灰色の空を背景に、軒の低い家が黒々とした輪郭を描いていた。玄関の左の表窓から、弱いあかりがちらちら洩(も)れていた。
「巡査を一名おいてあります。窓をたたいてみましょう」ベインズは芝生を踏んで窓ぎわに歩みより、ガラスをたたいた。曇(くも)ったガラス越しに、一人の男が暖炉のそばの椅子から立ちあがるのがぼんやりと見え、部屋の中から鋭い叫び声が聞こえた。一瞬おくれて、顔色をまっ青にして、息をはずました巡査が玄関のドアを開けたが、ふるえる手にもったローソクがゆらめいていた。
「何かあったのか、ウォルターズ?」と、ベインズ警部がするどく問いかけた。
巡査はハンカチで額の汗をぬぐい、ほっとして大きなため息をついた。
「来ていただいて安心しました。今夜ばかりは時間のたつのが遅くて。いつもと違って、神経がたかぶっていまして」
「神経かたかぶるだって、ウォルターズ? きみのそのからだに物に動ずるような神経があるなんて思えないがね」
「なにせ、こんなさびしい、物音ひとつしない家だし、台所には妙なものまであるのですからね。それで、警部どのが窓をたたかれたときは、また出たかと思ったのです」
「また出たって、何が出たのだ?」
「悪魔です、あれはどうみても。窓のところに出たんです」
「どんなものが、いつ出たんだ?」
「二時間ほど前でした。あかりがちょうど消えかけたときです。わたしは椅子にかけて本を読んでいたんです。ふと顔を上げると、下の窓ガラスごしに、こっちをのぞいている顔が見えたんで。その顔といったら、なんていったらいいか! 夢でうなされそうだ」
「ちえっ、ウォルターズ、警察官らしくもない口のききかたじゃないか」
「わかっております。わかってはいるのですよ。ですが、そのときの驚きといったら、動揺しなかったなんて嘘をいってもはじまりません。黒くもなければ白くもなくて、どんな色というか、まるで粘土(ねんど)にミルクをぶっかけたようなとでもいうしかない、奇妙な色合いなんです。それにその大きさ……警部どのの顔の二倍はあります。そしてその顔つきは……大きな目玉をぎょろっと見開いて、飢えた獣みたいに白い歯が並んでいて。正直いって、そいつが不意に消えるまで、わたしは指一本動かせず、息さえつけないでいました。外へ駆け出して、植え込みの中を捜したのですが、さいわいなことに、誰もいなかった」
「きみがふだんはしっかりした男だってことを知らなかったら、ウォルターズ、こんなことじゃ黒星をつけることになるよ。いくらほんとの悪魔だったとしても、勤務中の巡査たるものがそいつをつかまえられなかったことをさいわいだなんて思っちゃならんのだ。きみの話はまさか、幻覚や異常神経のせいじゃあるまいね?」
「それは少くとも、簡単に決着がつきますよ」と、ホームズは小さな懐中用ランプに火をつけながらいった。それから芝生をちょっと調べてから報告した。「やはり、十二番の靴だ。からだのほかの部分も足と同じように大きければ、この男はたしかに並みはずれた大男に違いないな」
「その男はどうなったんでしよう?」
「植え込みを踏みこえて、道路のほうへ抜けたらしい」
「まあいいとしましょう」といって、警部はきわめてまじめな、考えこんだ顔をし、「たとえそいつが何者であろうと、また何の目的でやってきたにしても、もう逃げちまったあとなんです。われわれにはもっと差しせまった仕事がひかえていますよ。さあ、ホームズさん、よろしかったら家の中をご案内しましょう」
さまざまな寝室や居間を入念に調べてまわったが、注意をひくに足るものは何ひとつ出てこなかった。見たところ借家人は、ほとんど、あるいは何も、自分たちのものを持ちこんではおらず、こまごました道具まで家具はすべて、家つきのものを借りうけて使っていたらしい。ロンドンのハイ・ホルボーン商会の商標のついた衣類がたくさん残っていた。この商会に関しては、すでに電報照会の返事がとどいていたが、商会では支払いのよい客という以外には、何もわからないということであった。はんぱもの、パイプ数本、小説本二、三冊、そのうちスペイン語のもの二冊、旧式の打針装置つきのピストル一丁、それにギター一個などが、私物のなかに混じっていた。
「こんなものには何の意味もありゃしない」とベインズはいうと、ローソクを手にして、もったいぶった足どりで部屋から部屋を歩きまわった。「では、ホームズさん、台所をよく見ていただくことにしましょう」
台所はその家の裏手にある、薄暗く、天井の高い部屋で、隅にわらが敷いてあるのは、料理人の寝床に使われていたのだろう。食卓のうえには、前夜の夕食の残りの、食べかけの深皿や汚れた平皿が積み重なっていた。
「これを見て下さい。何だと思います?」と、警部はたずねた。彼は食器だなの奥に立てかけてある、奇妙な物体のまえに、ローソクを高くかかげた。それは、しわが寄り、ちぢんでひからびているので、もとは何であったのか、いい当てるのは困難であった。ひとつだけいえることは、それは黒くて皮のような表面をしており、形はどこか人間のこびとに似たところがあった。最初見たときは、ミイラになった黒ん坊の赤ん坊かと思ったが、よく見ると顔のゆがんだ年老いた猿(さる)にみえてきて、最後はもう動物か人間かわからないままだった。そのまん中には、白い貝殻をつないだ帯状のものが二重に巻きつけてあった。
「おもしろい……非常におもしろいね」と、ホームズはこの気味の悪い遺物をのぞきこみながらいった。「もっとほかにはありませんか?」
ベインズは無言のまま先にたって流し台のほうへ案内し、ローソクを前にさしだした。そこには、残酷にも羽根のついたまま引きちぎられた、大きな白い鳥の足と胴体が一面に散らばっていた。ホームズはちぎれた頭部についている垂れ肉を指さした。
「白い雄鶏(おんどり)だ。とてもおもしろい! これはまったく珍妙な事件だ」
しかし、ベインズ警部はこの気味の悪い展示物を残らずとり出して並べてみせた。流し台の下からバケツを引っぱり出したが、それには大量の血が溜っていた。そのあと、食卓から大皿を持ってきたが、それには黒こげになった骨の小片が盛ってあった。
「なにかが殺され、なにかが焼かれたんですな。これはみな火のなかからかきだしたものですよ。けさは医者も来ていました。医者がいうには、これは人間のものじゃないとのことです」
ホームズは微笑を浮かべて両手をこすった。
「警部さん、あなたがこんなに特異で有益な事件を扱われることを、祝福しなければなりませんね。失礼ながら、あなたの優れた才能を発揮しようにも、今まではその機会に恵まれなかったようですから」
ベインズ警部の小さな眼は喜びに輝いた。
「そうなんです、ホームズさん。われわれは田舎にくすぶっている状態です。この種の事件こそ自分の能力を試す好機なんで、わたしはこれに賭(か)けてみたいのです。ところでこの骨をどう考えます?」
「子ひつじでしょう。それとも子やぎかな」
「では白い雄鶏は?」
「珍妙です、ベインズさん、たいへん珍妙なものです。ちょっと類がないですな」
「そうです。この家には、奇妙なことをやらかす奇妙な連中がいたに違いありません。そのうちの一人が死んでいます。仲間どもがあとを追いかけて殺したのでしょうか? もしそうだったら、きっとつかまえてみせますよ。どこの港にも監視の眼が光ってますからね。ですけど、わたしの見方は違う。そうです、わたしはまったく違った見解をもっています」
「それではあなたなりの推論がおありなのですね?」
「ですから、自分でこの仕事を仕上げるつもりです。そうすれば、自分の手柄になりますからね。あなたはすでに名声を確立しておられるが、わたしはまだこれからなのです。あとになって、あなたの支援を受けずに自分の力で解決したといえれば、これほど嬉しいことはありませんからね」
ホームズは機嫌よく笑った。
「いいですとも、警部さん。あなたはあなたの道をいき、わたしはわたしの道をいくんです。ぼくの調べた成果は、必要があれば、いつでもよろこんで提供しますよ。この家で見たいものはすべて見てしまったと思いますから、どこかほかで時間を使ったほうが有益のようです。では再会を楽しみに。幸運を祈ります」
ほかの人なら見逃すところだが、私にだけわかるいろんな微妙な徴候から、ホームズが目指す獲物の匂いを早くも嗅ぎつけたなと感じとれた。なに気なく見れば、いつもと変わらぬ無表情だが、輝きを増した眼や、より活気づいた動作には、内心のはげしい熱意と興奮を抑(おさ)えている様子がうかがわれ、やはり獲物を追跡中だと思わせるものがあった。彼は彼の習慣にしたがって何もいわなかったし、私も私の習慣にしたがって何もたずねはしなかった。私にとっては、狩猟に参加して、獲物を捕えるのにいささかの手伝いができれば、それでもう満足すべきであって、思考力を集中している頭脳を、いらざる口出しでじゃまをすることはないのだ。いずれ時がくれば、私にもすべてがわかるようになるのだ。
だから私は待った……だが待ったかいもなく、いたずらに失望だけが深まるばかりだった。日は一日一日と過ぎていったが、ホームズは一歩も踏みだしはしなかった。ある朝を彼はロンドンで過ごしたが、あとでふともらした言葉から大英博物館に行ってきたのだと知れた。この時ただ一度外出したきり、あとはながいこと、幾度かひとりで散歩したり、知りあいになった村のたくさんのおしゃべり屋たちとむだ話をしたりして日を送っていた。
「ワトスン、こうして田舎で一週間すごすのは、きみにとって貴重だよ」と、あるときホームズがいった。「生垣に新緑の芽ぶくのや、榛(はしばみ)の木に垂れて咲く花をここでまた見られるなんて、とても楽しいよ。小さなシャベルと胴乱(植物採集に用いる円筒状の器)と植物学の初歩的な本があれば毎日を有益にすごせるよ」
彼は自分でそういう道具をかかえて、どこかをうろつきまわったが、夕刻持ち帰ったものといえば、わずかばかり採集した植物だけだった。
一緒にぶらぶら歩いている時に、ベインズ警部と行き合う機会がたびたびあった。ホームズにあいさつするとき、警部の肥った赤ら顔は微笑をたたえ、小さな目を輝かせた。事件について言及することはほとんどなかったが、そのわずかな言葉から、彼が捜査の成り行きに不満のないことが推察された。しかしながら、事件後五日ほどして、朝刊をひろげて次のような大見出しを見つけた時は、正直なところ私は少なからず驚かされてしまったのである。


オクスショット事件解決さる
……殺害容疑者逮捕

私が見出しを読みあげたとき、ホームズは何かに刺されでもしたように、椅子から飛び立った。
「まさか!」と、彼は叫んだ。「あのベインズが逮捕したというんじゃなかろうね?」
「それがどうもそうらしいんだ」と私は答えて、次のような記事を読み進めた。

オクスショット殺人事件の容疑者がついに逮捕されたという報告が昨夜遅く伝えられると、エシャおよびその近郊の住民の間に、どっと興奮の声があがった。われわれの記憶に生々しいこの事件は、ウィスタリア荘のガルシア氏がオクスショット共有地で死体となって発見され、死体にむごたらしい暴力の跡があり、そして同夜彼の下男と料理人が逃亡したことであるが、この事実は両名の者が犯行に関与したことを示すものとみられていた。犯行の動機は、被害者が同家に貴重品を所蔵していたので、それを盗み出すためとみられているが、まだ確証は得られてはいない。事件担当のベインズ警部は、逃亡者の隠れ場所を突きとめるべく、あらゆる捜査を試みた結果、容疑者は遠くへは逃げておらず、前もって用意してあった隠れ家に潜伏中であるとの自信を固めるに到った。もっとも、この捜査は、はじめから犯人の正体は看破(かんぱ)されており、成功裡に終ることは確実視されていた。容疑者のうちの一人である料理人は、窓越しにちらと見た二、三の商人の証言によれば、外見にきわめて顕著な特徴のある男……非常に醜い混血の大男で、顔の色は、まぎれもなく黒人系の黄褐色である。この男は犯行後も姿をあらわしている。すなわち犯行の起きた翌日の夜、大胆にもウィスタリア荘に立ち戻ったところを、ウォルターズ巡査に発見され追跡をうけている。ペインズ警部は、これは何か目的をもって立ち戻ったと考え、したがって再度姿を現わすことは確実と思い、同荘の警戒を解いて植え込みに一名の巡査を配置して待ち伏せした。男はまんまと罠(わな)にかかり、格闘のすえ昨夜逮捕された。格闘の際ダウニング巡査は、男に噛みつかれ重傷を負った。犯人の身柄を治安判事に引き渡す時期がきても、警察が身柄の再拘留を申請することは確実とみられる。いずれにしてもこの逮捕を契機に、事件の捜査は急速に進展するものと期待される。

「すぐベインズに会わなきゃなるまい」と、ホームズは帽子を手にしながら叫んだ。「彼が出かける前に、なんとしてもつかまえて会わなくては」
村の街道を先を急いで駆けつけていくと、はたして警部は宿舎を出発するところであった。
「新聞をごらんになりましたか、ホームズさん?」と、彼は新聞をわれわれのほうへ差し出した。
「見ましたよ、ベインズさん。ここでぼくは友人としてひとことご忠告したいが、どうかそれを出すぎた真似(まね)と思わんで下さい」
「忠告ですって、ホームズさん?」
「ぼくはこの事件をすこし丹念に調べてきたんですが、どうみてもあなたの方針はまちがっていると思うのです。確信がないかぎり、深追いは避けたほうがいいです」
「ご親切なご忠告ですな、ホームズさん」
「あなたのためを思っていっているのです」
ベインズ氏の小さな目の片方に、一瞬ウインクみたいな影が走ったかに見えた。
「われわれはめいめいが独自な方針でやると約束しましたね。それにしたがって、わたしはやっているのですよ」
「それは結構ですよ」ホームズはいった。「どうか気を悪くなさらんで下さい」
「とんでもない。あなたのご好意はよくわかっているつもりです。しかし各人各様の仕事のやりかたがあるんです、ホームズさん。あなたにはあなたのやりかた、わたしにはわたしなりの」
「その話はもうやめましょう」
「わたしの情報ならいつでも喜んで提供します。この男はたいへんな野蛮人です。力の強さといったら馬車馬なみだし、猛々(たけだけ)しさときたら悪魔みたいですよ。ダウニングの親指を危うく噛み切るところを、やっととり押えたんです。英語はぜんぜん話せず、唸(うな)っているばかりで、何ひとつ自白を引き出せません」
「それで、その男が主人を殺害したという証拠があるんですか?」
「そんなことをいった覚えはありません、ホームズさん。わたしはそうは言っていないんです。人それぞれに何かとやり方はあるもんですよ。あなたはあなたなりに、わたしはわたしなりにやってみる。それが約束でしたね」
警部と別れて歩き出してから、ホームズは肩をすくめた。「どうもあの男はわからん。向こうみずなことをやってるようだな。まあここは、彼のいうとおり、それぞれの方針で事を運んでみて、結果を見るほかはないね。それにしても、ベインズ警部の頭の中には、ぼくにはよくわからない何かがあるらしいね」
プル旅館の部屋に戻りついたとき、シャーロック・ホームズはこういった。
「ちょっとその椅子にかけたまえ、ワトスン。今夜は君の手助けを必要とするかもしれないから、ひと通り状況を説明しておきたい。この事件の展開の経路を、ぼくが検討しえたかぎりにおいて教えておこう。事件の推移は、その主要な特徴だけみれば、たしかに単純といえる。しかし、犯人の逮捕にいたるまでは、驚くほどの困難が立ちふさがっているんだ。目標に到るまでの距離をまだこれから詰(つ)めていく必要がある。
まず、ガルシアが死んだ夜、彼に渡された書付に戻って考えてみよう。ガルシアの召使いたちがこの事件に関係しているとするベインズの考えは、この際考慮の外におこう。その理由を立証するものは、スコット・エクルズを来るように仕向けたのは、ほかならぬガルシアだという事実であって、その狙いはただひとつ、自分のアリバイを作るところにある。それで、あの夜、何か計画的な行動、それもどうも犯罪的な行動を企てたのはガルシアであり、彼はそれを実行している途中で殺されたことになる。あえて犯罪的といったのは、自分のアリバイを作る必要のある者は、犯行の動機をもつ者にかぎられるからだ。では彼の生命を葬(ほうむ)った者として、もっとも高い可能性をもっているのは誰か? 犯罪的な行動をさし向けられた当の相手かたの人物であることは確かだ。ここまでは、ぼくの推理に誤りはないと思う。
それでは次に、ガルシアの下男たちが姿を消した理由を検討してみよう。彼らはそろってこの正体不明の犯罪計画の共謀者なのだ。計画がうまくいってガルシアが帰ってきたら、あの英国人エクルズの証言があるから、どんな疑惑の鋒(ほこ)先もかわすことができ、万事好都合に運ぶはずだった。ところがこの計画そのものがきわめて危険なものであって、一定の時刻までにガルシアが帰ってこない場合は、彼が殺されたという公算が大である。そこでそういう場合には、二人の使用人はあらかじめ決めてあった場所に移り、捜査の手をのがれて、後日あらためて計画を再開するという手はずになっていたんだ。これでじゅうぶん事実を説明したといえるんじゃないかな?」
説明しがたい事件の謎も、これですっかり解きほぐされたように思えた。いつもながら、なぜ私には今までこれがわからなかったのか。
「それにしてもどうして、召使いの一人だけが戻ってきたのだろう?」
「逃亡のときに混乱して、何か大切なもの、手離すには惜しいものを、置き忘れていったということが考えられる。これで、あの男がしつこく立ち戻った理由の説明がつくと思う」
「なるほど。で、次の問題は何かね?」
「次は、ガルシアが夕食の時受けとった書付だ。あの書付は向こうの端に共謀者がいることを暗示していて、そこはある大きな家でなければならないが、その数が限られていることは前に話したとおりだ。ぼくはこの村にきた当初は、しょっちゅう散歩ばかりしていたが、植物採集のあいまに、大きな家を残らず捜索してまわり、そこに住んでる人々の来歴を調べた。その中の一軒の家が、その一軒だけがぼくの注意をひきつけた。それは『ハイ・ゲーブル荘』という名の、古くて有名な、ジェイムズ朝時代の農場つきの邸宅で、オクスショットから向こうへ一マイル、悲劇の起きた現場から半マイル以内のところにある。ほかの大きな家の住人は、ありきたりの律気な人たちで、およそロマンスとは縁遠い暮しをしている。ところが、ハイ・ゲーブル荘のへンダースン氏は、どう見てもおかしな人物で、奇妙な事件がその身に振りかかりそうな男なのだ。そこで、ぼくは彼とその一家の者に注意を傾けた。
変な連中ばかりだよ、ワトスン……その中でいちばん変なのが、主人その人なんだ。もっともらしい口実をこしらえて、なんとか彼に会うことができたが、その黒く落ちくぼんだ冥想(めいそう)的な眼をみて、ぼくの本当の用件を完全に見抜いているなと察したよ。彼は五十がらみの、頑健で行動的で、髪は灰色、眉は黒くて太く、歩きかたは鹿のように軽快で、その態度はまるで皇帝とでも形容しようか……猛々(たけだけ)しく威圧的な男であって、その羊皮紙みたいな顔の背後に、灼熱の炎のような精神を隠しているんだ。彼は外国人か、あるいは熱帯地方で長く暮した人間だろう。顔色は黄いろくてひからびているが、鞭(むち)の皮のように強靭(きょうじん)なところからそれとわかるんだ。彼の友人で秘書のルーカス氏は疑いもなく外国人で、チョコレート色の皮膚をしており、ずる賢くて愛想がよく、猫みたいな男で、言葉づかいはおだやかだが毒を含んでいる。いいかねワトスン、われわれはこれで二組の外国人に出会ったことになる……一組はウィスタリア荘で、あとの一組がハイ・ゲーブル荘だ。これでだんだん距離がちぢまってくるわけだ。
この二人……ヘンダースンとルーカス……は親密に通じあった友人で、一家の中心をなしている。ところが他にもう一人の人間がいて、これが当面ずっと重要な人物らしい。ヘンダースンには二人の子供……十一歳と十三歳の娘がいる。その家庭教師として、バーネットという、四十前後の独身の英国婦人がいるんだ。そのほかに信望の厚い下男がひとりいる。真の意味で家族構成といえるのは、この連中だけだ。この連中はいっしょに旅行するし、おまけにへンダースンは大の旅行好きで、たえず動きまわっている。彼が一年ぶりにハイ・ゲーブル荘に帰ってきたのは、ついこの二、三週間まえのことだ。そのうえに、彼は並みはずれた金持ちで、自分のどんな気まぐれな欲望も、わけなく満たすことができる。そのほか家の中には、執事とか下僕とか女中とか、イギリスのいなかの大邸宅にはつきもののなまけ者が多勢いる。
これだけのことを、ぼくは村の人との雑談と自分の観察とから知りえたんだ。解雇(かいこ)されて不平をいだいている召使いほど、情報を得るのに便利なものはないが、運よくそういう人間をひとり見つけたんだ。運よくといったが、こちらが捜したからこそ、見つかったんだ。ベインズのいうように、人はそれぞれ自分の方法をもっている。ジョン・ウォーナーという、ハイ・ゲーブル荘のもと庭師で、尊大な主人から腹立ちまぎれに解雇された男を発見できたのは、ぼくの方法の成果だよ。彼は彼で、内働きの召使いたちの中に多勢の仲間をもっていて、彼らは主人を恐れ、いみ嫌うという点で結びついている。これでぼくは、あの一家の秘密をつかむための鍵を手にいれたというわけだ。
奇妙な連中なんだ、ワトスン! 何もかも知りつくしたなんていうつもりはないがね、とにかく奇妙な連中なんだよ。家は左右両翼に分かれていて、片方には召使いたちが住み、あとの片方に家族たちが住んでいる。両側のあいだを結びつけるものは、家族の食事の給仕をする、へンダースン直属の下男がいるだけで、他には何もない。すべての物は決められた戸口まで運ばれ、そこだけが唯一の連絡口になっている。家庭教師と子供たちは、庭に出るほかは、ほとんど外に顔を出さない。へンダースンは、どんな場合でも決してひとり歩きはしない。いつも顔の色の黒い秘書が影のようにつきそっている。召使いたちの噂(うわさ)話によると、主人は何事かをひどく怖れているということだ。ウォーナーの言葉によれば、『金と引きかえに魂を悪魔に売っちまったんでさあ。だから、こんどは悪魔が品物を受け取りに現われやせんかとびくびくしてるんでさあ』ということだ。彼ら家族がどこからやってきたのか、どんな素性の人間なのか、知っている者はひとりもいない。彼らの性格は凶暴だ。へンダースンは二度も犬のむちで人を打ったことがある。それも金に余裕があって補償金をたっぷり出したんで、あやうく告訴を免がれたんだ。
さてワトスン、この新しい情報をもとにして、これから状況判断をやってみよう。あの書付はこの奇妙な一家の者が出したもので、以前から計画していた企てを実行するよう勧告したものであると考えていいだろう。あの書付を書いたものは誰か? この堅固な砦の中の誰かだ……そしてそれは女性だ。とすれば、あの家庭教師のバーネットの他に誰がいる? どう推理を働らかせても、落ちつく先はそこだ。ともかくも、これを仮説とみなして、そこから必然的にどんな結論が出てくるか見てみよう。もうひと言補足すれば、バーネットの年齢と性格から推察して、この事件に恋愛ざたが介在しているとしたぼくの最初の発想が、的(まと)外れだったことは確かだ。
彼女があの書付を書いたと仮定すれば、彼女はおそらくガルシアの味方であり、共謀者だろう。それならば、彼の死んだことを知って、そのあとどんな態度をとるだろうね? ガルシアがある邪悪な企てを遂行中に、意に反して殺されたとすれば、彼女はがんとして口をとざすだろう。それでも内心では、彼を殺害した者たちに対して、遺恨と憎悪の念をいだきつづけ、いつか復警しようと、力のおよぶかぎりその手助けをするつもりではないだろうか。では彼女に会い、しかも彼女を利用することはできないものか? ぼくがまず最初に考えついたのは、これだった。ところがここで、気味の悪い事実にぶつかるのだ。あの殺人のあった夜以来、誰ひとりとして、バーネットを目撃した者がいないのだ。あの夜以来、彼女の姿はすっかり消えうせてしまった。生きているのだろうか? 自分が招きよせたガルシアと同じように、あの夜に殺されたのであろうか? それともただ監禁されているだけなのか? この点はまだいずれとも決めかねるところだ。
状況がどれほど困難であるか、これできみにもよくわかったろう、ワトスン。逮捕状を申請できる材料が何もないのだ。われわれの推理の見取り図を、治安判事のまえに提出してみても、とりとめもない空想にしか見えないだろう。女のゆくえが知れないということだけでは、何の理由にもならない。あんな風変わりな一家なんだから、家の中の誰かが一週間ぐらい姿をみせないなんて、べつに珍らしいことじゃないからね。それでも、彼女の生命が今の今危険にさらされているかもしれない。ぼくにできることといえば、あの家を監視し、ぼくの密偵となったウォーナーに門の見張りをさせることだ。こんな状態をいつまでも放っておくわけにはいかない。法律が役に立たないとなれば、われわれが自分で危険をおかす行動をとらなければなるまい」
「何をしようというのだね?」
「彼女の部屋のある場所を、ぼくは知っている。離れ家の屋根からなら侵入できる。今夜は、ぼくと君があの家に忍びこみ、ふたりであの家の秘密の核心をつきとめられるかどうかやってみようというわけだ」
正直なところ、それはあんまり心をそそられる誘いではなかった。殺人事件の余韻をとどめる古い家、奇怪で不気味な住人たち、近づけばどんな危険が待ちかまえているかしれないうえに、しかも自分から法律的に不利な行動をとろうとしている事実など、これらすべてがひとつに結びついて、私の熱意をくじくのだった。しかし、氷のように透徹(とうてつ)したホームズの推理には、彼がすすめるならどんな冒険でも怯(ひる)んではいられないという気にさせるものがあった。虎穴に入らずんば虎児を得ずだ。私は彼の手を強く握りしめ、かくして骰(さ)子(い)は投げられたのであった。
しかしわれわれの調査は、冒険的な結末をむかえることなく終る運命をたどった。三月の夕暮れの影のしのびよる五時ごろ、一人の興奮したいなか者が部屋のなかへ駆けこんできた。
「連中は行っちまいましたぜ、ホームズさん。最終列車に乗りこんじまった。女先生が逃げ出したんで、おれが馬車に乗せて階下まで連れてきましたぜ」
「上出来だ、ウォーナー!」と、ホームズは不意に立ち上がって叫んだ。「ワトスン、これで急速に距離が縮まってくるよ」
馬車の中にはひとりの婦人が、神経の極度の疲労からくる、いまにも崩折(くずお)れそうな姿で坐っていた。鷲鼻(わしばな)のやせ衰えた顔には、つい最近に、ある悲劇が起きたことを示す痕跡をとどめていた。頭を胸のところまで重そうに垂れていたが、その頭を起こし、どんよりした眼をこちらに向けたとき、瞳孔が灰色の大きな虹彩(こうさい)のまん中で、黒い小さな点になっているのが見えた。阿片(あへん)を飲まされたのだ。
「あんたのいいつけどおりに、おれは門のところで見張ってましたよ、ホームズさん」解雇された庭師であり、われわれの密偵でもあるウォーナーがいった。「馬車が出てきたんで、あとをつけて駅までいったんです。彼女はまるで夢遊病者のような歩きぶりでしたが、あいつらが汽車に乗せようとしたら、正気にかえって暴れだしたんでさあ。連中はむりやり客車に押し込もうとする。彼女はまた暴れて出てくる。おれは彼女に味方して、馬車に乗せて、ここまで運んできたんです。彼女を連れ出すとき、汽車の窓からこっちをにらんでたあの顔は忘れられやしないね。あいつの思いどおりなら、こっちの命はなくなってましたぜ……黒い目をした、しかめっ面(つら)の黄色い悪魔め」
私たちは彼女を二階へ運び、ソファに寝かせて、特に濃いコーヒーを二杯ほど飲ませた。ほどなく麻薬のために霧がかかっていた彼女の頭もはっきりしてきた。ホームズはベインズを呼んで、さっそく状況を説明した。
「これは弱りましたねえ。あなたはわたしが手に入れたかった証拠を、先につかんでしまわれた」と、警部はホームズと握手しなから、熱っぽい口調でいった。「わたしも最初から、あなたと同じ獲物を追跡していたんですよ」
「なんと! きみもへンダースンを追いかけてたんですか?」
「それもホームズさん。あなたがハイ・ゲーブル荘の植え込みの中を這(は)うように歩いていらしたとき、わたしは農場の木に登って、あなたを下にながめていたんですよ。まさにどちらが先に証拠を手に人れるかという勝負でしたな」
「それなら、どうしてあの混血の黒人なんかを逮捕したんですか?」
ペインズはくすくす笑った。
「ヘンダースン……あの男は自分でそう名乗ってますが……やつは自分に嫌疑がかかってることに気づいてるに違いないんで、危険だと思っているあいだは、身をひそめて動こうとすまいと思ったんですよ。そこでわたしはわざと見当ちがいな男を逮捕して、警察の目があの男から離れたと信じこませようとしたんです。そうすれば、こんどはやつは逃げ出そうとするでしょうし、その時がバーネットさんを手に入れる好機になると思ったんです」
ホームズは警部の肩に手をおいた。
「きみは警察畑で出世しますよ。きみには優れた素質と直観力が備わってます」
ベインズは喜びに顔を赤らめた。
「このところ連日、私服を駅に張りこませておきました。ハイ・ゲーブル荘の連中がどこへいこうと、あとをつける手はずになってました。それにしても、バーネットさんに逃げられたときは、私服のやつもさぞ大弱りだったでしょう。ところが、あなたの手先が彼女をつかまえてくれたんで、万事上首尾でした。彼女の証言がなければ逮捕できませんから、供述を早くとれれば、それだけ好都合なわけです」
「だんだん元気を回復してきましたね」と、ホームズは家庭教師をちらと見ていった。
「ところで、ベインズさん。あのヘンダースンという男は何者ですか?」
「へンダースンは」と警部が答えた。「かつてサン・ペドロの虎という異名をとった、ドン・ムリロですよ」
サン・ペドロの虎! この男の全経歴が、一瞬のうちに私の記憶によみがえった。文明国の資格ありと自任する国々を支配した者のなかでも、いまだかつてこの男ほど、淫蕩(いんとう)にして残虐な暴君として、名高い人物はいないのだ。強くて大胆不敵、しかも精力的な男で、その見事なまでの悪らつな手腕を発揮して、十年あるいは十二年の間、民衆のおびえにつけこんで、惜むべき悪行を重ねてきたのだ。この男の名は中央アメリカの全域で恐怖の的(まと)であった。ようやくその勢力も衰えたころ、民衆がこぞって彼に対して反抗を起こした。しかし彼は残酷であるとともに狡猾(こうかつ)でもあったから、騒動の噂を耳にすると、すぐさま秘かに財宝を船に積み、忠実な部下を乗りこませた。翌日には反抗する群集が宮殿を襲ったが、あとの祭りであった。独裁者も、二人の子供も、腹心の秘書も、それに財宝も、すべて手の届かないところに消えてしまっていた。その時以来、彼は世間から消息を絶ち、彼を見たとか見ないとかといった噂がヨーロッパの新聞をしばしばにぎわす材料になっていた。
「そうです。サン・ペドロの虎、あのドン・ムリロなんです」とベインズはいった。「調べればおわかりになりますが、サン・ペドロの国旗はあの書付にあるとおり緑と白ですよ、ホームズさん。あの男、自分でへンダースンと名乗っていますけれど、彼の足どりを逆にたどっていくと、パリ、ローマ、マドリッド、そしてバルセロナにいたりますが、そこに彼の乗った船が入港したのは一八八六年です。復讐を誓った人々はその時以末ずっと彼の行方を探してきたんですが、最近になってやっと彼を探しあてたんです」
「探しあてたのは一年まえでした」いつのまにか坐りなおして、これまでの会話を熱心に聞いていたバーネットが口をはさんだ。「以前にも一度、あの男の生命を奪おうとしたことがありました。でも、悪魔のような力があの男を守ったんです。こんど、また、あの立派で勇敢なガルシアさんが殺され、あの大悪党は助かりました。しかし、同志がつぎからつぎに現われ、いつかは必ず正義の処罰が下されるでしょう。それは明日も太陽が昇るのと同じくらいに確実です」
彼女はやせた手を固く握りしめ、やつれた顔は烈しい憎悪のため蒼白だった。
「それにしても、どうしてこの事件に加わるようになったんです、バーネットさん? こんな殺人事件に英国婦人がどうして介入してるんです?」とホームズはたずねた。
「ほかに正義の処罰を下す道がないからです。数年まえのサン・ベドロでのおびただしい流血の惨事、あるいはあの男が盗み出した船積みの財宝に対して、イギリスの法律が何をしてくれましょう? あなたがたにとって、こんな事件はどこか他の遊星で起きた犯罪と同然です。でも、わたしたちは知っています。悲しく辛(つら)い体験から、真実をつかんでいます。わたしたちにとって、ドン・ムリロは地獄の悪魔以上の存在です。あの男によって犠牲になった人たちの復讐を求める叫びが聞こえるかぎり、心安らかな人生はありません」
「たしかに」と、ホームズがいった。「あの男はおっしゃる通りの男です。ぼくも極悪(ごくあく)非道な男だということは噂にききました。だけど、あなたはどんな苦しみを蒙(こうむ)ったのです?」
「何もかも打ち明けます。あの悪党のやりくちは、いつかは自分の恐ろしい好敵手になるおそれのある男を、何かと口実を作っては、次々に殺していくことです。わたしの夫は……わたしの名は正式にはヴィクトル・デュランド夫人と申しまして……サン・ペドロ国のロンドン駐在の公使でした。わたしたちはロンドンで知りあい、結婚したのです。あれほど立派な男をわたしは知りません。でも、不幸なことに、ムリロは夫が際(きわ)立って優秀な男だと聞き知って、口実を設けて本国に呼びかえし、射殺してしまいました。そうなる運命を予知した夫は、わたしを本国に連れてはいきませんでした。彼の財産は没収され、わたしに残されたものは、わずかなお金と悲嘆にくれる心だけでした。
やがて暴君の没落の時がきました。ご存知のように、彼は逃亡しました。けれどもムリロのために人生を滅ぼされた人々、近親者や最愛の者が彼によって拷問(ごうもん)されたり殺されたりした人々、その多くの人々が決してこのままにしておくはずはありません。彼らは自らひとつの結社のもとに結束し、目的を果たすまでは決して離反しないことを誓いました。没落した暴君がへンダースンになりすましていることに気づいて以来、わたしの役割は彼の家族に接近し、彼の動静をさぐって同志に連絡することでした。彼の家庭に入りこみ家庭教師の地位を得ることによって、わたしはこの役割を果たすことができました。食事時にいつも顔をあわす女が、自分がほんの一時間しか予告をあたえずに処刑した男の妻であろうとは、彼も少しも気づきませんでした。わたしは彼ににこやかな微笑をなげかけ、子供たちへの務めをはたし、そして好機の到来を待ちました。パリで一度暗殺が企てられましたが、失敗に終ってしまいました。わたしたちはヨーロッパ中を、あちこちすばやくジグザグに移動しては、追跡者を振りきって、最後にこの家に戻ってきました。この家は彼がはじめてイギリスに逃れてきたとき手に人れておいたものです。
しかしここにも、正義の使いが待ちかまえていました。ムリロがここへ戻ってくることを知って、サン・ペドロの元高官の子息のガルシアは、身分は低くとも信頼しうる二人の仲間とともに、復讐の一念に燃えて待ちかまえておりました。ガルシアは昼間は何も手出しができませんでした。というのはムリロは用心のうえにも用心を重ねていて、外出する時は必ず従者のルーカスを、つまり全盛時にはロペスという名であった男を連れて歩くのです。しかし夜間はひとりで寝ますから、復讐する者には好機です。ある晩、かねてからの手はずどおり、わたしはガルシアに最後の通報を送りました。ムリロは常に警戒をおこたらず、たえず自分のいる部屋を変えるからです。わたしは、扉が開いているかどうかを確かめ、馬車道に面した窓から緑か白かの光で合図を出すことで、その夜決行してもさしつかえないか、それとも決行は延期したほうがいいかを、知らせる手はずになっておりました。
でも結果はすべて裏目に出ました。どうしたわけか、わたしは秘書のロペスに怪しいと感づかれていたのです。彼は背後に忍びよって、わたしが書付を書き終えたとたん、飛びかかってきました。彼とムリロはわたしを部屋に引きずっていき、裏切者の判定を下しました。彼らはすぐその場でわたしを刺し殺したかったのですが、そのあとの始末をどうつけるか判断できかねるようでした。さんざん議論したあげく、とうとうわたしを殺すのはかえって危険だと断定しました。しかしガルシアを永遠に葬ってやろうと決めたのです。彼らはわたしにさるぐつわをはめ、ムリロがわたしの腕をねじあげて、ガルシアの住所を白状させました。その結果ガルシアがどういう目にあうかわかっておれば、たとえ腕をもぎとられたって、白状すべきでなかったのですが。
ロペスはわたしの書いた手紙に宛名を書きいれ、自分のカフスボタンで封印を押し、下男のホセに持たせてやりました。どうやって彼らがガルシアを殺したのか、わたしは知りませんが、ただ、ロペスは残ってわたしの見張りをしていましたから、じっさいに手を下したのがムリロであることは確かです。彼はハリエニシダの茂みの中で待ちぶせていて、曲がりくねった小道づたいに歩いてくるガルシアを、通りすがりに襲ったに違いないのです。彼らははじめは家の中にガルシアをおびき寄せて殺し、泥棒を見つけたから殺したことにするつもりでした。しかしそうなれば、かえって警察の尋問を受けるはめになり、自分たちの身元がたちどころに世間の明るみに出てしまい、これまで以上に襲撃を受けやすくなるといって議論していました。ガルシアを殺せば、その結果他のものも怖れてしりごみするだろうから、追跡はやむだろう、これが彼らの考えだったのです。
彼らのしたことを知っているわたしさえいなければ、彼らにとって万事好都合に運んだでしょう。自分の生命がどうなるかわからないという危険が、わたしに何度も訪れたのはもちろんです。わたしは一室に閉じこめられて、このうえなく怖ろしい脅迫におびやかされ、心くじけんばかりに残酷に虐待されたのです……見てください。この肩にできた突き傷を。両腕にもいたるところ打撲傷があります……そのうえ、窓から声を出して助けを呼ぼうとしたときなんか、さるぐつわまではめられました。五日間もこの残酷な監禁が続き、食物は辛うじて生命をつなぐだけのものしか与えられませんでした。今日の午後になってちゃんとした食事が出ましたが、食べ終ったとたん麻薬がはいっていたことに気づきました。夢うつつの状態で、なかば引ったてられ、なかばかかえこまれるように馬車に乗せられ、同じ状態のまま、汽車に移されたのです。車輪が動きだす寸前になってようやく、逃げるならこの時だと、とつぜんわたしは気づいたのです。わたしが外に飛び出しますと、彼らは汽車の中にわたしを引きもどそうとしました。その時この親切な人が助けてくれて、馬車に乗せてくれなかったら、わたしは彼らから逃げることができなかったでしょう。ありがたいことに、今のわたしは永久に彼らの手の届かないところにいます」
この驚くべき陳述に、私たちはみな一心に耳を傾けていた。最初に沈黙を破ったのはホームズだった。「われわれの困難な仕事はまだ終ったわけではない」と、彼は首を振りながらいった。
「われわれの警察官的な仕事は終ったが、法律的な仕事はこれから始まるんだ」
「そうなのだ」と私はいった。「このまま裁判にかけても、巧妙な弁護士ならもっともらしい理由をつけて、ムリロの行為は正当防衛で片づけられてしまう。背後に百の犯罪があっても、裁判で問題になるのは、ガルシア殺しの一件だけだからね」
「まあまあ待ちなさい」と、ベインズが陽気な口調でいった。「法律というものはもっとましなものだと思いますよ。正当防衛という解釈もあるにはあります。しかし、冷酷にも殺害を目的として人をおびき出すのは、たとえ相手からどのような危険を感じていたにしても、明らかにそれとは別のことです。まあ、ともかく、こんどのギルフォードの巡回裁判の法廷にハイ・ゲーブル荘の連中が立てば、こっちの見解の正しさがすべて立証されるでしょう」
しかし、今では歴史に記録された事柄になっているが、サン・ペドロの虎が罪の当然の報いを受けるには、まだしばらくの時間がかかった。策略にたけて、しかも大胆な彼とその仲間は追跡者の目をかいくぐって、エドモントン街の宿泊所にはいり、裏口からカーゾン・スクェアへ抜けて行方をくらませた。その日以来、彼らはイギリスから姿を消した。それから六力月ほどたって、モンタルヴァ侯爵とその秘書ルリ氏と名のる両名がマドリッドのエスキュリアル・ホテルの一室で殺害された。犯行は虚無主義者のしわざとされ、犯人はついに逮捕されぬままに終った。ベインズ警部がべーカー街を訪れ、ふたりの顔写真を見せてくれたが、それには秘書のロペスの黒い顔と、主人のムリロの、尊大な顔つきと魅力ある黒い眼と太い眉が写っていた。すこし遅すぎたきらいはあったか、それでも最後に正義の処罰が下されたことは疑いなかった。
混沌(こんとん)とした事件だったな、ワトスン」と、ある晩、パイプをふかしなからホームズがいった。「きみのお気に召している、例の簡潔な形式で、この事件を一篇の話にまとめるのは無理だろうね。事件は二つの大陸にまたがり、二組もの謎めいた人物たちに関係し、そのうえ、かの尊敬すべきわれらの友人スコット・エクルズ氏の出現で、いっそう複雑な様相を呈している。スコット・エクルズ氏までからませたところをみると、亡くなったガルシアという男が、いかに計画的な頭脳をもち、自己保存の本能が発達していたかがわかるよ。この事件の特異なところは、ただひとつ、つぎの事実にある。すなわち、可能性としてはどんな誤った方向にも迷いこむおそれのある密林(ジャングル)のまっただ中にあって、警部という立派な協力者をえて、本質的なものをしっかりと堅持しながら、その導くところにしたがって、曲りくねった小道をたどってきたということだよ。まだ何かはっきりしない点があるかね?」
「混血の黒人の料理人が立ち戻った目的は?」
「あの台所にあった奇妙なものが目的だったと思う。あの男はサン・ペドロの奥地から出てきた原始的な野蛮人で、あれはあの男にとって迷信的な崇拝の対象だったんだ。仲間とともに、どこかあらかじめきめてあった隠れ家……もちろんすでに共謀者のいる……そこへ逃げる際に、そんな人目につきやすい厄介なしろものはおいていけと、仲間に説得されたんだ。ところが混血の男は心残りがあって、次の日たまらなくなって立ち戻ったが、窓ごしに様子をうかがってみると、ウォルターズ巡査が落ちつきはらってそこにいるではないか。それから三日も待ったが、やはり信心と迷信の力は強く、憑(つ)かれたようにもう一度やってみようということになった。ベインズ警部は日ごろの抜けめなさを発揮して、その件をぼくの前では軽視してみせたが、内心では重視していて、わなをしかけておいたところ、あの男はまんまとそれにかかったんだ。ほかに何があるかい、ワトスン」
「引き裂かれた鳥、血の溜(たま)ったバケツ、黒焦げの骨など、こうしたものがあの気味の悪い台所にあった謎は?」
ホームズは、手帳の記載事項のある頁をめくりながら、微笑を浮かべた。
「ぼくは半日かけて大英博物館で、その点やほかのことも読んできたんだ。これはエッカーマンの『ブードゥー教と黒人の宗教』の一節を引用したものだ。

ブードゥー教を真に崇拝する者は、何か重大なことを企てる場合には、かならず悪霊をなだめるために生(いけ)贄(にえ)を捧げる。極端な場合には、この儀式は生きた人間を生贄に捧げ、つづいてその人肉を嗜食(ししょく)するという形をとる。ごく普通の生贄としては、白い雄鶏または黒い山羊が用いられ、雄鶏の場合は生きたまま八つ裂きにされ、山羊の場合はその咽喉(のど)を切り、胴体を焼くのである。

だからあの野蛮な男は、儀式の伝統に忠実だったわけだ。それにしても怪奇(グロテスク)だね、ワトスン」と、手帳をゆっくり閉じながらホームズはさらにこうつけ加えた。「だが、いつかもいったことだけどね、怪奇(グロテスク)なものから残酷(ホリブル)なものへはほんの一歩にすぎないよ」
ボール箱

わが友シャーロック・ホームズの並みはずれた知的卓越性を明らかにするいくつかの典型的な実例を選ぶにあたって、私はできるかぎり、人騒がせな要素を最小限にし、しかも公平に判断して彼の才能を発揮する舞台となった事件を選択するように努めてきた。しかし、あいにくなことに、人騒がせなものと犯罪的なものとを切りはなすことは全く不可能なので、記録作家としては、欠くことのできない要素である細部を割愛してまがいの印象を与えるか、あるいは自ら選んだものでなくたまたま提供された材料を用いるかといった、板ばさみの状態におちいる。こう簡単に前置きして、私は覚え書をめくり、のちに異常でしかも格別に恐ろしい事件となった一連の出来事を語るとしよう。

八月の陽光きらめく暑いある日のことだった。べーカー街はまるで天然の炉のごとき状態であった。通りを隔(へだ)てた向かいの家の黄色いレンガに照りつける日光の輝きが、目に痛いほどだった。これが冬の霧のなかからあれほど陰うつな姿をのぞかせていた同じ壁とは信じられないくらいだった。日よけを半分おろして、ホームズはソファに身を丸めて横たわりながら、朝の配達で届いた一通の手紙を何度も読みかえしていた。私のほうは、インドで軍務に服していたおかげで、寒さよりも暑さのほうがしのぎやすく、華氏九十度ぐらいの気温はいっこう苦にならなかった。だが、新聞はつまらなかった。議会はもう閉会していたし、だれもが都会をはなれていた。私はニュー・フォレストの林間地域か、サウスシーの小石の浜べでも行ってみたいところだった。銀行預金が底をついたために、残念ながら休暇を延期してしまったのだ。ところがホームズのほうは、田舎にも海にも少しも魅力を感じていなかった。彼はロンドンの五百万市民のまん中にいて、ちょっとでも未解決の犯罪らしきものがあれば、すぐに反応する触手をのばして、あさりまわるのが好きなのだ。彼はたくさんの才能に恵まれた男だが、自然を鑑賞する能力だけは欠如していた。彼がどこかへ転地するとすれば、ロンドンの悪人から目をそらして、田舎にいるその同類を追跡しようとする場合だけだ。
ホームズが手紙にすっかり夢中になっていて話相手にはなりそうもないので、私はおもしろくもない新聞を放りだし、椅子にもたれてぼんやり物思いにふけりはじめた。突然、私の空想の世界ヘホームズの声がとびこんできた。
「そのとおりだよ、ワトスン。まったく、ああいう紛争の解決法はじつにばかげてるね」
「まったくばかげてるよ!」と、私は叫んだ。だが、すぐに、自分の心の奥底で考えていたことがホームズの口から出たのに気づくと、はっとして椅子の上で姿勢をただし、あきれかえって彼を見つめた。
「どういうことなんだ、ホームズ?」と、私は叫んだ。「ぼくにはまるで見当もつかないぞ」
彼は私が当惑しているのを見て、心からおかしそうに笑った。「ほら、きみ、おぼえているだろう」と彼はいった。「この前いつだったか、ぼくがポーの短編の、的確な推理をする人間が友人の心中の考えを読みとるという一節を読んで聞かせたことがあったね。あのとき、きみは作者のつくり話として片づけたがっていた。そしてぼくが自分もしばしば同じようなことをやっているというと、きみは疑うような様子だったね」
「いや、そんなことはないさ!」
「いやいや、ワトスン、口ではいわなかったかもしれないが、きみの眉のあたりにはっきりそう書いてあったよ。とにかくそんなわけで、きみがさっき新聞をほうり出して、物思いにふけりはじめると、これはいいチャンスだと思って、きみの考えを読みとり、最後にきみの心中に割りこんで、ぼくの考えがぴったり当っていたことを証明したのさ」
しかし、私はまだとても納得できなかった。「きみが読んでくれた話の場合は」と私はいった。「推理する人間は、観察する相手の動作から判断を引きだしたんじゃないか。たしか、その相手は石の山につまずいたり、星を見あげたり、いろいろやったはずだよ。だが、ぼくはさっきからこの椅子におとなしくすわっていたんだぜ。何も手がかりなんか与えなかったはずだ」
「きみは自分自身を誤解しているよ。人間に顔というものがあるのは、感情を表現させるためなんだ。きみの顔も忠実にその役目をはたしているよ」
「すると、ぼくが考えてることを顔から読みとったというのかい?」
「そう、きみの顔……とくに目からだね。きみは最初どんなふうに空想にふけりはじめたか、もう思い出せないんじゃないか?」
「うん、思い出せないな」
「じゃ、ぼくが教えてやるよ。まず、きみは新聞を投げ出した……その動作につられてぼくはきみに注意を向けた。そのあと三十秒ほど、きみはぽかんとした顔つきだった。それから、きみの目は最近額(がく)に入れたゴードン将軍(英国軍人。中国で太平天国の乱を鎮定。のちにエジプトで土民軍に襲われて戦死。一八三三〜八五)の肖像にじっとそそがれた。その顔にあらわれた変化によって、物思いにふけりはじめたのがわかった。だが、それはたいして発展しなかった。きみの視線は部屋の向う側へ移って、本棚の一番上においてあるヘンリー・ウォード・ビーチャー(アメリカの組合教会派の牧師。奴隷制度に反対した説教で有名。英国へも講演旅行をした。一八一三〜八七)の額に入れてない肖像にそそがれた。それから、あの壁をちらっと見あげた。その意味はもちろん明白だった。この肖像を額に入れれば、あの壁のあいているところを埋めて、あっちのゴードンの肖像とうまく調和するだろうと考えていたんだ」
「すばらしい! よくわかったなあ!」と、私は叫んだ。
「ここまでは、ほとんど迷わずにわかった。だが、次にきみはふたたびビーチャーのことを考えはじめた。部屋の向う側を熱心に見つめて、まるでビーチャーの顔の特色を研究しているような様子だった。それから、目を細めるのをやめたが、相変わらず部屋の向う側をながめながら、考えこむような顔つきになった。きみはビーチャーの生涯のいろいろな出来事に思いをはせていたんだ。
ところで、きみがビーチャーを思い起こすときには、彼が南北戦争のとき北部諸州のためにはたした使命を考えるにきまっているのを、ぼくはよく知っているんだ。いつだったか、きみはビーチャーがわが国の乱暴な連中から受けた仕打ちをひどく憤慨していたからさ。きみがそのことにえらく熱心だったので、ビーチャーを考えるたびに、かならずそのことも思い出すはずだと、ぼくは推察したのだ。それからしばらくして、きみの目は肖像画からはなれてさまよいだした。今度は南北戦争について考えはじめたらしいな、とぼくは思った。そして、きみの口もとが引きしまり、眼が輝き、両手が固く握りしめられているのを見ると、まちがいなく、あの必死の激戦のさなかで南北両軍が示した勇敢な戦いぶりを考えているなとぼくは確信した。ところが、やがてきみは悲しげな顔つきをして、頭をふった。戦争の悲哀や恐怖、むなしい人命の浪費を考えていたのだ。きみは片手をそっと自分の古傷のほうにのばし、口もとにちょっと微笑を浮かべた。それを見て、戦争などという方法で国際間の問題を解決するなんてばからしいことだという思いが、きみの心に大きく浮かびあがったことがわかった。そこで、ぼくはきみに同意して、ばかげてるといい、自分の推理がすべて的中したのを知って喜んだという次第さ」
「まさにそのとおりだ!」と、私はいった。「しかし、種明かしをしてもらっても、こっちはやっぱり、あきれるばかりだね」
「なあに、ワトスン、こんなことは、まったく表面的なことさ。このあいだきみが疑い深そうな様子を見せなかったら、こんな押しつけがましいまねはしなかったんだがね。ところで、いま実際にちょっとした問題をかかえこんだんだが、こっちのほうが、ぼくの読心術のささやかな試みよりも解決が難かしそうだよ。けさの新聞に短い記事が出ていたからきみも読んだろうか、クロイドン市のクロス街に住むカッシング嬢あてに、へんなものがはいった郵便小包が届いたとあったね?」
「いや、読んでないんだ」
「ああ! それじゃきっと見落したんだよ。その新聞を投げてくれたまえ。ここだ、経済欄の下に出ているよ。よかったら声を出して読んでくれないか」
私は彼が投げかえした新聞をひろって、指示された記事を読んだ。見出しは「気味の悪い小包」と題してあった。


クロイドン市のクロス街に住むスーザン・カッシング嬢ははなはだ不快な悪戯(いたずら)の被害をこうむったが、この出来事にはあるいはもっと邪悪な意味が隠されているかもしれない。昨日午後二時、同嬢のもとへ茶色の紙で包装された郵便小包が届けられた。中身はボール箱で、精製してない塩が詰められていた。塩を取りのぞいてみると、驚ろいたことに、なかから切りとられたばかりの生々しい人間の耳が二つ現われた。箱は前日の午前に、ベルファストから小包郵便で発送されたもので、差出人の氏名は記されていない。
カッシング嬢は五十歳の未婚婦人で、ほぼ世間から退いた生活をしており、交際や文通をかわす知人も少なく、郵便物を受けとることもめったにないため、ますます謎を深めている。しかし数年前、同嬢がペンジ市に居住していた頃、三人の若い医学生に部屋を貸していたことがあり、彼らが騒がしく、生活が不規則であるため、やむなく追い出したことがある。警察の見解では、この三人の青年がこれを恨んで、解剖室の死体の耳を送りつけて同嬢をおどかそうとして、かかる無礼な行為を企てたのであろうという。
この説を有力に裏付ける事実として、前記学生たちのひとりがアイルランド北部の出であり、しかもカッシング嬢の信じているところによれば、ベルファストの出身だったことが挙げられている。いずれにせよ事件の捜査は活発な展開をみせており、警視庁の敏腕警部のひとり、レストレード警部が本件を担当している。


「デイリー・クロニクルはそれくらいにして」とホームズは、私が読み終るといった。「ところで、レストレードくんだがね。けさ彼から手紙をもらったんだが、それにはこう書いてあるよ」


「本件はあなたの得意の領分と思われます。われわれとしては事件を解決しうる見込みはじゅうぶんあるのですが、手がかりを得るのにいささかてこずっております。もちろんベルファスト局に照会してみましたが、当日は小包の取扱い数が多く、したがって該当の小包を確認できず、また差出人も記憶していないとのことです。ボール箱は甘露(ハニデュー)タバコの半ポンド入りの箱で、これだけでは捜査の役にたちません。医学生説が私にはいぜんとして最もぴったりしているように思えます。ところでもしお時間をさいていただければ、ぜひあなたのご来訪をお願いしたいと存じます。私は今日中はクロイドンの同家または署にいる予定です」


「どうだね、ワトスン? この暑さをものともしないで一緒にクロイドンまで出かければ、きみの事件簿にいいネタを仕入れるチャンスになるかもしれないよ」
「何かやる仕事がないかとうずうずしてたところだよ」
「じゃあ、ちょうどいいや。ベルを鳴らして靴を持ってこさせ、馬車を呼ぶようにいってくれよ。ぼくはこのガウンを着がえて、タバコ入れをいっぱいにして、じきにここへ戻ってくるから」
汽車の中で夕立に降られたので、クロイドンに着いてみると、暑さはロンドンよりずっとしのぎよかった。ホームズが電報を打っておいたので、駅には、相変わらずやせていて身綺麗(みぎれい)にした抜けめのない白イタチのようなレストレード警部が出迎えてくれた。歩いて五分ほどいくと、カッシング嬢の住んでいるクロス街へ出た。街の通りはひどく長く、両側にレンガ造りの二階建ての家が立ちならんでいた。どの家も小ぢんまりと整っており、玄関に白い石段がついていて、あちこちの戸口でエプロン姿の女たちが集まっておしゃべりをしていた。通りの中ほどのところでレストレードは立ちどまり、とある家の扉をたたくと小柄な女中が出てきた。カッシング嬢は玄関わきの部屋に坐っており、私たちはそこへ案内された。彼女はおだやかな顔つきの、大きなやさしい眼をした女性で、灰色の髪がこめかみから両側に曲線を描いて垂れていた。ひざの上には縫いかけの椅子の背覆(せおお)いがおいてあり、そばの腰かけには色のついた絹糸の篭(かご)がのせてあった。
「小屋の中に入れてありますよ、あんな恐ろしいものは」と、レストレードが部屋にはいっていくと、彼女がいった。「あなたがたがそっくり持っていってくださればありがたいわ」
「そうしましょう、カッシングさん。あなたに立ち会っていただいてホームズさんか現物を見るまでのあいだ、ここにおいといただけですよ」
「おや、どうしてわたしが立ち会わないといけないの?」
「ホームズさんが質問されるかと思いましてね」
「あれほど何も知らないと申しあげたのに、いまさらわたしに質問なさって何になるんです?」
「ごもっともです」と、ホームズがなだめるようにいった。「今回の事件では、ずいぶんご迷惑なさったでしょうな」
「そうですとも。わたしはおとなしい性質で、世間から引きこもって暮しておりますの。新聞に自分の名前が出たり、警察のかたが家に来られたりするなんて、はじめてなんです。あんなものをこの部屋に運びこむのはいやです、レストレードさん。見たければ、小屋のほうへいらしてください」
家の裏手のせまい庭の中に、小さな物置小屋があった。レストレードがその中にはいって、黄色のボール箱を、茶色の包み紙や紐(ひも)といっしょに外に運び出した。庭の小道の奥にベンチがあったので、私たちはそこへ腰をかけ、ホームズはレストレードが手渡す品物をひとつずつ入念に調べた。
「この紐はひどく興味をそそりますな」と、ホームズは紐を明るいところへかざして、匂いをかいでみた。「この紐をどう考えます、レストレード君?」
「タールが塗(ぬ)ってありますね」
「まさにその通り。タールを塗った麻ひもです。きみはたしか、カッシング嬢がはさみで切ったといいましたね。たしかにごらんのように、切り口が二重にほつれている。これは重要ですよ」
「どうして重要なんですかねえ」と、レストレードがいった。
「結び目がそのまま残っていて、しかもこの結び目が特殊な結びかたであることが重要なんですよ」
「たいへんきちんと結んであります。その点はすでにわたしが書きとめておきました」と、レストレードはかなりご満悦の様子だった。
「じゃ、紐の件はこれくらいにして」とホームズは微笑していった。「次は包み紙です。茶色の紙で、明らかにコーヒーの匂いがします。気がつきませんでしたか? まちがいないと思いますがね。宛名の文字はかなりたどたどしい活字体ですな。『クロイドン市、クロス街、S・カッシング様』
先端が太いペン、おそらくJペンを使って、粗悪なインクで書いてます。Croydon(クロイドン)のy をはじめ iと書き、あとからyとなおしてますよ。したがって小包の差出人は男です……活字体の文字は明らかに男の字体ですから……あまり教養のない、クロイドンの町を知らない男ですね。ここまではとんとん拍子だ! 箱は黄色い甘露(ハニデュー)タバコの半ポンド入りの外箱で、ほかには箱の左隅に親指の跡が二つある以外に、はっきりした特徴はないな。ぎっしり詰めてある塩は、粒のあらいもので、獣皮の保存とか粗野な商業用の目的に使われるやつですよ。そして、この中にこんな奇怪なしろものが埋められていたってわけだ」
彼はそういいながら、二つの耳をとり出して、ひざに乗せた一枚の板の上におき、丹念にそれを調べた。レストレードと私は、彼の両側から身をかがめ、この恐ろしい遺物と、ホームズの熱心に考えこんだ顔つきとを交互に見くらべていた。調べおわるとホームズはもう一度それを箱の中にもどし、しばらくのあいだじっと沈思黙考していた。
「もちろんきみも気づいたでしょうが」と、彼はやっと口を開いた。「この二つの耳は同一人のじゃないですね」
「ええ、それには気づいております。ですが、医学生の悪戯だとすれば、解剖室から別々の耳を持ちだして、これを一組にして送りつけるのはたやすいですよ」
「ごもっとも。でも、これは悪戯なんかじゃありませんよ」
「たしかですか?」
「どう推理しても悪戯説にはまったく反対ですね。ふつう解剖室の死体には防腐剤が注入してあります。この耳にはその形跡がありませんよ。それに、切りとってまもないものです。鈍い刃物で切断されていますが、医学生がやったのだったら、そんなことはないはずです。また、医学生の頭に浮かぶ防腐剤といえば、石炭酸か精溜アルコールであって、粒のあらい塩なんかじゃないでしょう。もう一度いいますが、これは悪戯なんかではまったくなくて、われわれが調査しているのは、ほんものの犯罪なんですよ」
ホームズの言葉を聞き、彼の厳しくひきしまった真剣な表情を見ているうちに、私はいいしれぬ戦慄(せんりつ)をおぼえた。序幕からこう残酷であれば、その裏面にどんなに異常で不可解な恐怖が隠されているかわからない。しかし、レストレードはまだ半信半疑であるらしく、首を横にふった。
「悪戯説にはたしかに難点もありますが、しかし犯罪説にはもっと重大な欠点がありますよ。あの女性はペンジ市とこの町で過去二十年間、とてももの静かで品行方正な暮しをしてきたんです。その間は、一日も家をあけたことがないといえるほどです。それじゃ、いったいどういう理由で、犯人が自分の罪の証拠品を彼女に送ってよこす必要があるんです? しかもその彼女が、われわれと同様、その理由がちっともわからないといっているんですよ。彼女が無類の名女優でわれわれをだましているのだったら話は別ですがね」
「そこがこれから解明しなければならない問題なんですよ」と、ホームズが答えた。「ぼくとしては自分の推理が正しく、二人の人物が殺害されたと推定して調査するつもりです。片方の耳は女のもので、小さくて形が上品で、耳飾り用の孔(あな)があいている。もう片方の耳は男のもので、日焼けして変色し、同じく耳飾り用の孔がある。この二人の人物はおそらく殺されています。生きておれば、耳のない二人の噂はとうにわれわれにも聞こえているはずです。今日は金曜だから、小包みを発送したのは木曜の午前中だな。すると悲劇が起きたのは、水曜か火曜、あるいはそれ以前ということになる。二人とも殺されたとすれば、殺人の証拠品をカッシング嬢に送りつけてくる者は、その犯人以外にいるだろうか? 小包を発送した人物こそ、突きとめなければならない相手さ。
ところで、犯人が小包をカッシング嬢に送りつけるからには、何かはっきりした理由がなければならないよ。では、その理由は何か? それは殺したことを彼女に知らせるためか、さもなければ彼女を苦しめるのが目的だったはずだ。しかしその場合には、送り手が誰であるかを彼女が知っていることになる。では彼女は知っているのだろうか? いや、そいつは疑わしい。もし彼女が知っていたら、どうして警察を呼ぶ必要があるだろうか? 自分でどこかにその耳を埋めてしまえば、誰にも知られずに始末できたんだ。彼女に犯人をかばう気があれば、当然そうしたろう。だが彼女にかばう気がなければ、犯人の名前をもらすにちがいない。ここに解き明かさなければならない、もつれた謎があるんだ」
彼は庭の垣根の上あたりをぼんやり見つめながら、高い声で早口に話してきたが、勢いよく立ちあがると、家のほうへ歩いていった。
「カッシング嬢にいくつか質問しようと思ってね」と、彼はいった。
「では、ここでお別れしましょう」レストレードがいった。「ほかにちょっとした仕事がありますから。わたしのほうは、これ以上彼女から聞き出すことはありません。署のほうにいっております」
「駅にいく途中でお寄りしますよ」と、ホームズが答えた。
やがてホームズと私は玄関横の部屋に戻ったが、そこにはあの平然とした婦人があいかわらずもの静かに椅子の背覆いを縫っていた。私たちがはいっていくと、彼女はひざの上に縫いかけの布を置いて、青い目を大きく見開き、さぐるように私たちを見た。
「わたしは確信しているのです」と、彼女はいった。「こんどのことは何かのまちがいですわ。あの小包はわたしあてのものなんかじゃありません。警視庁のかたにもそのことは何回もお話ししたのに、あのかたは笑ってばかりいるんです。わたしにはこの世にひとりとして敵はいないんですもの、誰かこんな悪企(わるだく)みをするでしょうか?」
「ぼくもそれと同じ見方になってきましたよ、カッシングさん」と、ホームズは彼女の傍に坐りながらいった。「どうもそうとしか考えられないが……」
彼はなぜかここで言葉を切った。私がふと彼を見ると、意外なことに、彼は妙に食いいるような視線でカッシング嬢を凝視していた。彼の熱心な顔からは一時驚きと満足の表情がうかがえた。だが、不意に黙りこんだホームズを、彼女がおやと思って見返した時には、彼はもとの落ちついた表情に戻っていた。そこで私もじっと彼女を見つめたが、ウエーブのかからない灰色の髪や、飾りのついた帽子や、小さな金めっきの耳環や、その冷静な顔つきなど、どこを見ても、ホームズをあれほど興奮させたものは発見できなかった。
「一つ二つ質問したいことがあるのですが……」
「質問だなんて、もううんざりですわ!」カッシング嬢はたまりかねて叫んだ。
「ご姉妹はおふたりおられますね」
「どうしてそれがおわかりになりまして?」
「この部屋にはいった瞬間に、暖炉だなに飾ってある三人のご婦人の写真に注意をとめたのです。そのうちの一人はもちろんあなたであり、あとの二人はたいへんあなたに似ていらっしゃるから、きっとご姉妹に違いないと思ったのです」
「ええ、そのとおりですわ。あれは妹のセアラとメアリーですわ」
「それにぼくのすぐそばにもう一枚の写真があって、これは妹さんが男のかたとご一緒にリヴァプールで撮ったものですね。この男性は制服から察しますと船の給仕らしいですね。妹さんはこの当時はまだ結婚前でしたね」
「観察眼の鋭いかたですこと」
「商売ですからね」
「おっしゃるとおりですわ。でも、これは結婚前の写真ですが、二、三日あとにブラウナーさんと結婚しましたのよ。あの写真を撮ったころは、彼は南アメリカ航路の汽船に乗っていたのですが、妹をとても好いていましたから、長いあいだ離れて暮すのは耐えられないといって、リヴァプールとロンドン間の定期船に乗り変えたのです」
「ああ、じゃあコンカラー号ですな?」
「いいえ、わたしが聞いたところではメイ・デイ号ですわ。ジムは一度ここへ訪ねてきましたの。あれはまだ禁酒の誓いを破る前のことでしたわ。でもそのあと、彼は上陸するときまってお酒を飲むようになって、少しでも飲めばすっかり気が狂ってしまうのです。ああ、誓いを破ってグラスを手にしたのが悪かったのですわ! まずわたしとのつきあいを断ち、そのあと妹のセアラともけんかしちゃって、今ではメアリーも音信不通ですから、彼らがどうなっているやらわかりません」
カッシング嬢が自分のひどく悩んでいることを話題にしているのは明らかだった。彼女も一人暮しの多くの人々と同様、最初は内気であったが、しまいにはすっかり打ち解けてきた。彼女は船の給仕をしている義弟のことをいろいろと事細かに話してきかせ、そのあと話題を転じて、以前部屋を貸した医学生のことにふれて、彼らの品行の悪さを長々と説明し、おまけに医学生たちの名前や彼らが通っていた病院名まで教えてくれた。ホームズは時おり質問をさしはさみながら、何事にも注意を傾けて聞いていた。
「上の妹のセアラさんのことですが、あなたも彼女も結婚なさっておられないのに、どうして一緒にお暮しにならないのですかね」
「ああ、あなたはセアラの気質をご存知ないから、そんなことおっしゃるんですわ。わたしがクロイドンにまいりましたとき、二人で暮してみようと思って、ふた月ほど前まで一緒に暮していたんですけど、別れなければならなくなったんです。実の妹の悪口はいいたくないんですが、セアラはとにかく口やかましく、気むずかしいたちなんです」
「セアラさんはリヴァプールのご夫婦とけんかされたそうですが」
「そうなんです。一時はとても仲がよかったのにね。そうですとも、二人の近くにいたいといって、移り住んだくらいなんですもの。それが今では、セアラはジム・ブラウナーのことは、どんなに酷(ひど)く言ってもいい足りないくらいなんです。セアラがここにいたこの半年の間は、口を開けば、ジムは酒を飲むだの、態度が悪いだの、悪口ばかりいっていました。きっとセアラに口うるさく干渉されて、ジムがてきびしくやっつけたのが不仲になったはじめじゃないかしら」
「いや、どうもありがとう、カッシングさん」ホームズは立ち上って、会釈しながらいった。「妹のセアラさんは、ウォリントンのニュウ街にお住いということでしたね? では失礼致します。ご自分でもおっしゃっていたようにあなたには何の関係もない事件で、ご迷惑をおかけして、お気のどくでした」
私たちが通りに出たところへ馬車が通りかかったので、ホームズはそれを呼びとめた。
「ウォリントンまでの距離はどれくらいだ?」
「一マイルぐらいですよ」
「よし。ワトスン、乗りこもう。鉄は熱いうちに打てだよ。問題は単純だが、一、二きわめて参考になるところがあったよ。御者君(キャビー)、電報局があったら、馬車をとめてくれよ」
ホームズは途中で短い電報を打ち、そのあと馬車に戻ると、帽子を鼻の上までずらして日光を避け、座席に深くもたれながら馬車に揺られていた。御者は一軒の家の前で馬車を停めたが、そこはついさっき私たちが出てきたばかりの家によく似ていた。ホームズは御者に待機するように命じて、玄関の叩き金(ノッカー)に手をやると、ドアが開いて、ぴかぴか光る帽子と黒服に身を固めた、若く、謹厳(きんげん)そうな紳士が踏み石のところに現われた。
「カッシングさんはご在宅でしょうか?」と、ホームズがたずねた。
「セアラ・カッシングさんは重病です。昨日からひどい脳障害を起して苦しんでおられます。主治医としての責任上、面会を許すわけにはいきません。十日ほどたってから、改めておいでくださるように願います」
彼は手袋をはめ、ドアを閉めると、通りの向こうへ歩み去った。
「会えないんなら、しかたがない」とホームズは快活にいった。
「会ってみたところで、彼女はたいして話もできないだろうし、またする気もないだろうしね」
「いや、ぼくは彼女から何かを聞き出すつもりじやなかったんだ。ただ顔を見るだけでよかったのさ。だが、どうやらこれで知りたいことは全部知ったようだよ。御者君、どこか手ごろなホテルヘやってくれ。そこで昼食をとって、そのあと警察署により道して、親愛なるレストレードに会うことにしよう」
私たちはふたりで心楽しく軽い食事をとった。そのあいだ、ホームズの話題といえばヴァイオリンのことばかりで、自分のもっているストラディヴァリウスは安く見つもっても五百ギニーの値打ちがあるものだが、それをトテナム・コート街のユダヤ人の質屋でたった五十五シリングで買ったことをいかにも得意そうにしゃべった。話はそれからパガニーニ(イタリアの不世出のヴァイオリニスト、作曲家。一七八二〜一八四〇)のことに移り、一時間ほど坐りこんで一本のクラレットを飲みながら、この傑出した人物の逸話を次から次へと語ってくれた。午後もかなりまわって、私たちが警察署にたち寄ったころは、焼けつくような陽光もやわらかな光に弱まっていた。レストレードが、入口のところで私たちを待ちかねていた。
「電報が一通あなた宛にきてますよ、ホームズさん」
「ははあ! あれの返事だ」彼は封を切って、さっと目を通すと、丸めてポケットにねじこんだ。「万事これでよし!」
「何かわかりましたか?」
「何もかもわかりましたよ」
「なんですって!」レストレードはびっくりして彼の顔をみつめた。「ご冗談でしょう?」
「この上なく大まじめです。恐るべき犯罪がおこなわれたのを、いまやぼくは細かい点まで解明したんですよ」
「では犯人は?」
ホームズは名刺の裏に短かく走り書きして、レストレードに投げてよこした。
「そいつが犯人の名前ですよ。逮捕できるのは、早くても明日の夜ですな。この事件に関しては、ぼくの名前は絶対に出さないでください。自分の名前を残すときは、解決の困難な事件だけにかぎりたいですからね。ワトスン、さあ行こう」
ホームズが渡した名刺をうれしそうな顔で見つづけているレストレードを残して、私たちは駅のほうに大股で歩いていった。

その夜、べーカー街の自室で葉巻をくゆらせなから気軽な雑談をかわしていた時に、シャーロック・ホームズがいった。
「この事件はね、きみが『緋色の研究』とか『四つの署名』とかの題名で記録にとどめた事件と同様、結果から原因へと逆に推理をすすめなければならないものの一つだった。今でもわからないところもあるが、それは犯人をつかまえさえすればじきにわかることだから、レストレードに詳細を知らせてほしいと手紙で頼んでおいたよ。あの男は推理のほうはさっぱりだめだけど、逮捕することなら安心して任せておける。なにせあの男はいったん自分のなすべきことを悟ったら、ブルドッグのようにくいついて離れない。あの男が警視庁の第一人者にまで昇進したのも、まったくこの粘(ねば)り強さのおかげなんだよ」
「では、この事件はまだ全部はかたづいちゃいないのかい?」
「本質的なところはかたづいたといってもいい。今回のいまわしい一件の張本人が誰であるかはわかっている。被害者のうちの一人はまだわかっていないけど。もちろん、きみにはきみなりの結論があるだろうがね」
「ぼくの推測では、きみが疑っているのはリヴァプール航路の船の給仕、ジム・ブラウナーじゃないか?」
「うむ! 疑っているどころじゃないよ」
「でも、ぼくの眼には、ばくぜんとそれらしく思えるというだけだがね」
「いや、ぼくの考えでは、逆にこれほどはっきりしたことはないよ。大事な点をかいつまんで話そう。きみも覚えているように、この事件にとりかかるとき、ぼくらはまったく白紙の態度でのぞんだ。これがいかなる場合でも有利だからね。ぼくらは何ひとつ憶測をまじえなかった。ただ観察し、その観察から結論を引きだすことだけを目的にして、現場へ出かけた。そこでまず何を見たか? 落ちついた上品なひとりの婦人と一枚の写真だった。婦人は何ひとつ隠しだてする人にはみえなかったし、写真は彼女に二人の妹がいることを教えてくれた。その時ぱっと頭にひらめいたのは、あのボール箱はこの二人の妹のうちのどちらかに送られたものではないかということだ。ぼくはその考えを、あとでゆっくり立証なり反証なりの決着をつけられる問題として、ひとまず留保しておいた。それから、きみも覚えているように、庭へ出ていき、黄色い箱のひどく奇怪な中身を見た。
紐は船の帆を縫うのに使うものだったので、この調査に、たちまち海の匂いがひろがりはじめた。結び目は船乗りがよくやる結び方だし、小包の発信地は港町だし、男の耳に耳飾り用の孔があいていて、そういう習慣は陸上の人よりも船乗りたちにはるかに多くみられることなどに気づいた時、この悲劇に登場する人物たちは、船乗りを業とする連中のなかにいるという確信がついたのだ。小包の宛名を調べる時になって、宛名がS・カッシング様と書かれてあるのに気がついた。ところで、一番上の姉はもちろんS・カッシング嬢だ。だが、名前に同じSがつく者が彼女以外にもう一人いるかもしれない。その場合は、調査を新たに土台そのものからやり直す必要にせまられる。そこで、ぼくはこの点を解明してやろうと思って、家の中にはいっていった。ぼくがカッシング嬢に、これはやはり何かの間違いですよといおうとしたとたんに、急に話を中断したのをおぼえているだろう。じつはあの時、ぼくがあっと驚くと同時に、調査範囲がぐんと狭(せば)まるような、あるものを見たからなのだ。
ワトスン、きみも医者だから知っているだろうが、人間の身体の中で耳くらい形のさまざまなものはない。どの耳にも、一般に明確な特徴があって、他のどんな耳とも違っている。去年の『人類学会誌』を読めば、この問題についてぼくが書いた短い論文が二つ掲載されているよ。そういうわけで、ぼくは箱の中の耳を、専門家の眼で観察し、その解剖学的特徴を脳裏に刻みつけておいた。だからぼくがカッシング嬢をみて、彼女の耳が、いま調べてきたばかりの女の耳にそっくりなことに気づいた時の、ぼくの驚きを想像してみてくれ。それは決して偶然の一致などというものではない。耳翼の短かいところといい、耳朶の上辺の大きな曲り方といい、内軟骨の渦巻きぐあいといい、みんな同じだった。主要な特徴において、両者はそっくり同じ耳だった。カッシング嬢のうちあけ話によると、まず第一に、彼女の妹の名前がセアラであり、妹の住所は最近まで彼女と同じところだった。この結果、なぜ間違いがおこり、誰あてに小包が送られるはずであったかが、完全に明らかになった。そのあと、末の妹と結婚した船の給仕のことを聞かされた。その話から、彼が一時はセアラ嬢とかなり親密で、彼女がブラウナー夫妻の近くに住むといって、実際にリヴァプールに出かけたほどであったが、その後になってけんか別れしたことがわかった。このけんか以来、数力月間まったく音信不通になってしまったから、もしブラウナーがセアラ嬢宛てに小包を送るとすれば、必ずもとの住所に送ることになるはずだ。
これで、問題は驚くほど見とおしやすくなってきたわけだ。ぼくたちは、この船の給仕である人物が、衝動的な男で、激しい情熱の持主であることを聞かされた。きみも覚えているように、この男は現在よりもはるかに条件のよい仕事を投げうってまで、妻のそばにいることを選んだのだ。ただしこの男にはときどき大酒を飲む癖がある。これで、彼の妻が殺され、同時に……おそらくは船乗りだろう……ある男が殺されたと考えるだけの理由を得たわけだ。犯行の動機としてすぐ思いつくのは、もちろん嫉妬だ。では、どうして殺害の証拠品をセアラに送る必要があったのだろう? おそらく彼女がリヴァプールに住んでいたあいだに、今度の悲劇の原因になった何事かに、彼女が関与したからなのだ。きみも知ってるとおり、あの航路の船はベルファスト、ダブリン、ウォーターフォードの順に寄港するのさ。だから、もしブラウナーが殺人を犯し、しかもすぐ自分の乗るべきメイ・デイ号に乗船したとすれば、最初の寄港先であるベルファストが、あの無気味な小包を最初に郵送できる場所になるはずだ。
この段階では別の解釈もありうるので、とうてい成り立ちそうもないと思えたが、それでもぼくはそれを解明したうえで次に進もうと決心した。ブラウナー夫人に失恋した男が夫妻を殺したかもしれないし、男の耳は夫のものであったかもしれない。この説には重大な難点がたくさんあるが、ありえないことではない。そこでぼくはリヴァプール警察にいる友人のアルガーに電報を打って、ブラウナー夫人が自宅にいるかどうか、ブラウナーがメイ・デイ号で出発したかどうかを調べるように頼んだ。それからウォリントンに出向いてセアラ嬢を訪ねたわけだ。
ぼくはまず第一に、あの家族の耳の特徴がどこまで彼女の耳に表われているかを見たいと思ったのだ。それからもちろん、彼女から重要な情報が得られるかもしれないと思ったが、その点については大した期待を持ってはいなかった。クロイドンじゅうがあの事件の噂(うわさ)でもちきりだったから、彼女はむろん小包の件は前日に知っているに違いないし、しかもそれが誰宛てに送られたものか、彼女だけが知っているはずなのだ。もし法に味方する気があれば、彼女はすでに警察に連絡しているだろう。それにしても、彼女に会うのはぼくらの義務だから、出かけてみた。行ってみると、小包が届いたというニュースを聞いて……彼女の発病はこの時からなのだが……脳炎を起こすほどはげしい苦痛を受けたことがわかった。これで彼女が事件の重大性を充分にわきまえていることが、以前よりはっきりした。しかも彼女から何事かを聞き出すためには、しばらく待つほかないことも同様にはっきりした。
だが実際には、彼女をあてにするまでもなかった。ぼくがアルガーに頼んでおいた返事が、指示通りクロイドン警察署気付けで届いていたからだ。これ以上に決定的なことはない。ブラウナー夫人の家はすでに三日以上閉めきってあり、近所の人たちの話では、彼女は南部の親類のところへ行ったという。船会社に問いあわして確めたところ、ブラウナーはメイ・デイ号に乗船して出航したそうだから、船は明日の夜テームズに着く計算になるよ。ブラウナーの船が着いたら、頭は鈍いが行動は果敢な、あのレストレードが待ちうけているから、細かい点まですべて補足されることは間違いなしさ」
シャーロック・ホームズの期待は、はたして裏切られることはなかった。二日後に、彼は分厚い封書を受けとった。中身はレストレード警部からの短い手紙と、大判洋紙に数ページにわたってタイプで打たれた文書であった。
「レストレードが首尾よくつかまえたよ」と、ホームズは私をちらと見ながらいった。「彼が何といってきたか、きみにも興味があるだろうから、読んであげよう」


拝啓
われわれの推理の正否を試すために、われわれのたてた計画にしたがって(われわれのといってるところが愉快じゃないか、ワトスン?)私は昨日午後六時アルバート埠頭(ふとう)へ赴き、リヴァプール・ダブリン・ロンドン郵船会社所属の汽船メイ・デイ号に乗りこみました。調査したところ、同船にはジェイムズ・ブラウナーという名の給仕はいましたが、航行中の挙動があまりに異常なため、船長はやむなく仕事を休ませていることが判明いたしました。そこで船員の寝所に降りてみますと、彼は道具箱に腰をかけ、両手で頭をかかえこみ、からだを前後に揺り動かしておりました。大柄で力の強そうな、きれいにひげを剃った顔は日焼けしていて……にせ洗濯屋事件で協力してくれたオルドリッチにどこか似た男です。
こちらの用件を知ると彼は飛びあがりましたので、私は近くをうろついていた水上警官を呼ふべく警笛を口に当てますと、彼は気力を失くしたらしく、両手を差し出しておとなしく手錠をかけさせました。われわれは彼を留置場に連行し、何か証拠になる品がはいっていないかと思い、彼の道具箱も押収してきましたが、船員の誰もが持っている鋭い大型ナイフ以外に収穫はなく、骨折り損に終りました。しかしながら、もはや証拠を必要としなくなったのです。すなわち署で取り調べの警部の前に引き出されて、彼は自供したいとすすんで申し出たからです。そこでいうまでもなく、彼の供述の通りに係りが速記にとり、タイプで三通の文書を作成しましたので、ここにその一通を同封いたします。事件は私の予想した通り、きわめて単純なものでありますが、私の捜査に対してあなたのご助力を得ましたことをここに厚くお礼申しあげます。
敬具
G・レストレード


「ふうむ! 捜査はじつに単純なものでしたか」と、ホームズはつぶやいた。「だけど、当初レストレードがぼくらの助けを求めたときには、それほどのご明察があったとは思えないがね。それにしても、ジム・ブラウナーが自発的に供述したものを読もうじゃないか。これがシャドウェル署で、モントゴメリイ警部の前で述べた彼の供述書だ。供述の言葉をそのまま伝えているところが、この文書の長所だよ」

「言いたいことがあるかですって? ええ、あるどころじゃない。洗いざらいぶちまけなきゃ気がすみませんや。絞(しば)り首になさってもいいし、このまま放っておかれるなら、それでもいい。こっちは、どうなろうとかまいやしない。こういっちゃなんだが、あれをやってからというもの、夜もおちおち眠れないんでさあ。これからだって、永久に眼を閉じるまでは、二度と眠れやしないでしょうよ。ときどきはあの男の顔が、たいていはあの女の顔が浮んでくるんでさあ。どっちかの顔が眼の前にちらついて離れないんで。男は陰うつなしかめっ面だが、女のほうはあっと驚いたような顔なんです。ええ、あの白い子羊みたいな女が、びっくりするのもむりはありません。なにしろ、いままで愛情しか示したことのないこの顔が、殺気をみせてあらわれたんですからね。
でも、これはセアラのせいなんだから、破滅した男の呪いで、彼女を思うさま苦しめて、からだ中の血を腐らせてやりたい! こういったからって、わたしは自分の弁護をしようってんじゃない。また酒を飲みはじめ、まるで獣みたいにひどい飲んだくれになったことはわかってるんでさあ。だけど女房はわたしを許してくれたでしょう。あの女がわたしたちの家庭にはいりこみさえしなかったら、女房は滑車にからむ綱のように、わたしにぴったりとくっついて離れやしなかったでしょう。それというのも、セアラ・カッシングがわたしに惚れたんで……それが事の起りなんです……セアラはわたしに惚れていた。だが、わたしがあの女の身心のすべてよりも、女房がつけた泥の中の足跡のほうが気にかかるんだと知ると、愛情は一転して毒々しい憎悪に変わっちまったんでさあ。
みんなで三人姉妹でした。一番上の姉はただの善良な女、二番目は悪魔、三番目は天使でした。わたしが結婚したとき、メアリーは二十九、セアラは三十三でした。ふたりで所帯をもったころは、日はながく幸福でした。リヴァプールじゅうさがしたって、メアリーほどすてきな女はいないと思ってました。その後、一週間のつもりでセアラを招待したんですが、一週間が一力月に延び、それがさらに延びてといった具合で、とうとう家族の一員みたいになっちまったんです。
当時はわたしも禁酒協会のメンバーで、小金を貯えておったし、物事はすべて新しい銀貨みたいに輝いてました。それがこんなことになるなんて、いったい誰が思ったでしょう? 誰だって夢にも思いやしなかったですよ。
わたしは、週末にはよく家に帰ったものですが、時には船積みのため出航が遅れることがあって、一週間つづけて家にいることがありました。だから義姉のセアラと顔を合わせる機会も多かったんです。あの女は背がすらっと高く、髪は黒く、気の短かい激しい気性の女で、いつもつんと気どっていて、眼が火打ち石の火花みたいにきらきら光っとりました。だけど可愛いメアリーさえいてくれりゃあ、わたしはあの女などちっとも問題じゃなかった。これは神かけて誓います。
時にはセアラはわたしと二人きりになりたがったり、一緒に散歩しようと誘いたかったようですが、わたしはそんなことなど気にもとめなかったんでさあ。ところがある夜、わたしははっと目のさめる思いをしました。船から帰ってみると、女房は外出していて、セアラがおりました。『メアリーはどこだい?』とたずねますと、『支払いに出ていったわよ』という返事です。わたしは我慢できなくて、部屋の中をうろうろ歩きまわりました。『ジムったら、五分間でもメアリーがいないと、楽しくないのね。でもほんのしばらくの間でも、あたしとつきあえるのを喜ばないなんて、失礼じゃないの?』というんです。『わかったよ』と、わたしが思いやりの気持から手をさしだしますと、あの女はそれをさっと両手で握りしめたんです。その手はまるで熱でもあるみたいに燃えてました。あの女の眼をのぞきこんで、わたしはすべてを了解しました。あの女の気持はいわなくたってわかったし、わたしのほうもいう言葉がなかった。わたしは顔をしかめて、手をひっこめましたよ。あの女はしばらく黙ってそばに立ってましたが、やがて手をあげてわたしの肩を軽くたたくと、『しっかりなさいよ、ジム!』といって、あざけりの笑い声をあげて、部屋から走り出ました。
その時からセアラはわたしを徹底的に憎むようになりましたが、いったん人を憎むとなるとどこまでも激しく憎むのです。そんなことがあったのに、あの女を家に住まわせておいたのですから、わたしがばかでした。どうしようもないうつけ者でした。でもメアリーを悲しませてはと思って、彼女にはひとこともいいませんでした。その後も以前と変わりなく暮してましたが、しばらくたって、メアリーの心に微妙な変化が起こっているのに気づくようになりました。これまであんなにわたしを信じ、無邪気だったのに、妙に疑い深くなって、どこに行ってきた、何をしてきた、その手紙は誰からきた、ポケットに何を入れているとか、そんなくだらんことばかり聞きたがるんです。日がたつにつれて、彼女の様子はますます変になり、いっそう怒りっぽくなって、わたしたちは、何でもないことでしょっちゅうけんかするようになりました。わたしはまったくどうしていいかわからなくなりました。セアラはわたしを避けてましたが、メアリーは彼女と仲がよくて離れません。今にして思えば、あの女はいろんな策略をめぐらして女房の心をわたしがら引き離そうと企んでいたんですが、それがわからなかったほど、当時のわたしは盲も同然でした。
それからわたしは禁酒の誓いを破って、また飲みはじめたんです。でも、メアリーが以前のメアリーであってくれれば、わたしは誓いを破らなかったでしょう。こうなると、メアリーにもわたしに愛想をつかす理由ができたってわけで、わたしたちの間の溝(みぞ)はますます大きくなりました。そこへあのアレッグ・フェアベアンという男が割りこんで、これで事態はとてつもなく険悪になっていきました。
はじめこの男はセアラに会いに来たんですが、そのうちにわたしたちとも親しくなったんです。なにせ、この男は愛想がよくて、どこへいっても友人を作る男でした。颯爽(さっそう)としていて、いきなちぢれ毛で、世界の半分を旅しており、その見聞を話してきかせることができました。たしかにつきあっておもしろいし、船乗りにしては驚くほど礼儀をわきまえておりましたから、水夫室よりも船尾室の生活が長かったにちがいないと思いました。この男はひと月ほどわたしの家に出入りしてたんですが、こうしたもの柔らかで巧妙な態度にまさかひどい目にあわされようとは思ってもみませんでした。それでも、とうとうわたしも疑惑を抱くようになって、その日からわたしの心のやすらぎも永久に失われたんです。
それもほんのささいなことだったんです。わたしが不意に居間にはいろうとして、ドアからはいりがけにみたメアリーの顔は、喜びに輝いていました。ところが、それがわたしだと知ると、また顔色が曇(くも)って、さも失望した様子で、そっぽを向いてしまいました。それだけでわたしはじゅうぶん察しがついたんです。メアリーがわたしの足音を聞き違えたとすれば、その相手はアレック・フェアベアンしかいません。もしそのときあいつがいたら、きっと殺していたでしょう。わたしはいったん怒ると気ちがいみたいになるからです。メアリーはわたしの眼が狂暴に輝いているのを見ると、駆けよってわたしの袖をつかんで、『やめて、ジム!』といいました。『セアラはどこだ?』とききますと、『台所よ』という返事です。わたしは『セアラ!』と呼びながら、そこへはいっていきました。『あのフェアベアンの野郎を二度とこの家に出入りさせるな』『どうして、いけないの?』『おれの命令だ』『あら、わたしのお友だちがこの家に来てはいけないのだったら、わたしもここにいてはいけないわね』『好きなようにするがいいさ。だが、フェアベアンがもう一度ここに顔を出したら、あいつの片耳をそぎ落して、記念におまえに贈ってやるぞ』セアラはわたしの顔つきにおそれをなしたらしく、ひとことの返答もせず、その夜のうちにわたしの家から出ていきました。
あの女は根っからの悪魔だったのか、それともメアリーをそそのかしてふしだらな行為をさせて、わたしがメアリーを憎むようにしむけたのか、わたしには今だにわかりません。とにかくあの女は通りをふたつへだてたところに家を借りて、船乗り相手の下宿をはじめました。フェアベアンはよくそこへ泊りにいき、メアリーもしょっちゅうそこへいっては、姉やあの野郎とお茶を飲んでおりました。
メアリーがどれくらい頻繁(ひんぱん)に行っていたか、わたしは知らなかったんですが、ある日彼女のあとをつけて、いきなり玄関から押し入ると、フェアベアンのやつ……ひきょうなスカンク野郎は、裏庭のへいを越えて逃げていきました。わたしは女房に、今度あの男と一緒にいるところを見つけたら、おまえを生かしちゃおかないぞといって、紙のように蒼白い顔をして泣きながらふるえている女房を引きずって帰ったんです。こうなっちゃ、もうわたしたちの間に、愛情のかけらさえ残っちゃいません。女房がわたしを憎み恐れているのがわかりますから、それを思うとつい酒を飲まずにおれなくなって、それがまた女房の軽べつを買うはめになりました。
そのうちに、セアラはリヴァプールでは暮らしが立たないとわかって、おそらくはクロイドンの姉のところに戻っていったんだと思いますがね。でもこっちの家庭はあいかわらず、ごたごたつづきでした。それが先週になって、とうとう何もかもがめちゃくちゃになっちまったんです。
こうなんです。一週間の巡回航路に出るため、わたしはメイ・デイ号に乗りこんだんですが、大だるが転げて食器皿を壊しちゃったんで、帰港して十二時間ほどかかることになりました。わたしは下船して、いま帰ったら女房はどんなに驚くだろう、こんなに早く会えるなんてと喜ぶんじゃないかと思いながら、家に帰っていきました。そんなことを考えながら、家の近くの通りを曲ったとたん、一台の馬車とすれ違ったんです。見れば、女房とフェアベアンが並んで坐り、二人して何やらしゃべって笑いあっています。歩道に立ってじっと見つめているわたしのことなど、まったく気がつかない様子です。
わたしは誓って、ほんとうのことをいいます。その瞬間から、わたしは自制心をなくしちまったんです。いま思いかえすと、何もかも、ぼんやりした夢みたいです。最近は大酒をのんでましたから、物事の見さかいもつかぬほど、頭が狂っていたんです。今でも頭の中が、ドッグ人足のハンマーみたいに、がんがん鳴って痛いんだが、あの朝は、まるでナイアガラの滝が耳の中でごうごう鳴っているみたいな状態でした。
それで、わたしはさっと駆けだして馬車のあとを追いました。手に太い樫(かし)のステッキを握りしめて、たしかにわたしははじめから、激怒しておりました。でも、駆けていくうちに悪知恵も働いて、姿を見られないように、すこし離れて追いかけました。やがて二人は駅につきました。出札口はかなり混雑してましたから、わたしは気づかれないように二人のすぐ近くまでいきました。二人はニュー・ブライトン行きの切符を買いましたので、わたしも同じ切符を買い、三両後ろの車輌に乗りこみました。汽車が着くと、二人は遊歩道を歩いていきますので、わたしは百ヤードと離れずについていきました。とうとう二人がボートを借りて、こぎ出すところを見ました。その日はたいへん暑かったから、水の上のほうが涼しいと思ったんでしょう。
こうなると、あいつらはわたしの手の中にはいったも同然です。うすい靄(もや)がかかっていて、二、三百ヤード先は視界がききません。わたしもボートを借りて、あいつらのあとを追いました。あいつらのボートは遠くにぼんやり見えるのですが、わたしと同じ速度でこいでいました。だから、わたしが追いついた時には、もう岸から一マイルは離れていました。まわりは靄がカーテンのようにおおっていて、そのまんなかにわれわれ三人だけがいるという状態になりました。近づいてくるボートに乗っているのがわたしだと知った時の、あいつらの顔を、ああ、どうして忘れることができましょう? 女は大声で悲鳴をあげました。男は気ちがいみたいにわめきちらして、オールでわたしに突きかかってきました。きっとわたしの眼の中に殺意を見たのでしょう。わたしはそれをかわしてから、ステッキで一撃しますと、男の頭は卵みたいにつぶれちまいました。わたしはたしかに気が狂ってはいたが、それでもメアリーのほうは助けてやるつもりもあったんです。ところが彼女は、倒れた男に抱きついて、大声で『アレック』と呼びながら、泣きさけんでいるんです。わたしは、またステッキで一撃しました。彼女は男のそばにのびてしまいました。こうなると、わたしは血の味を知った野獣のようなものです。もしセアラがその場に居あわせたら、ええ、きっとわたしは同じように殺したでしょう。わたしはナイフをとり出し、そして……そうです、もういうまでもありますまい。セアラに、おまえのおせっかいがどんな結果を招いたか、その証拠を見ろと突きつけてやったら、あの女はどんな思いがするだろう……わたしはそう思うと、むごたらしい喜びにふるえました。それからわたしは、死体をボートにくくりつけ、船板を一枚はがして、死体が沈むのをじっと見とどけました。貸しボート屋は、ふたりが靄のため方向を見失って外海に流されてしまったと考えるにちがいありません。わたしはきちんと身なりを整え、陸にもどると、誰にも怪しまれることもなく、汽船に乗りこんだんです。その夜、セアラ・カッシングあての小包を作って、翌日ベルファストから郵送しました。
さあ、これで真相は全部話しましたよ。絞り首なり、なんなり、お好きなようになさってください。だけど、わたしをこれ以上に罰することはできませんよ。わたしはもうすでに、充分に罰を受けているんですからね。目を閉じると、いつもあの二人の顔がじっとわたしを見てるんです……わたしのボートが靄(もや)の中から突然あらわれた時のように、あの二人がじっとわたしを見てるんですよ。わたしはひと思いに二人を殺したんですが、あの二人はじわじわとわたしを殺していきます。このままじゃ、あと一晩も呪われてすごせば、わたしは朝まで待たずに気が狂ってしまうか、死んでしまうかでしょう。わたしを独房に入れたりはしないでしょうね? どうか、それだけはかんべんしてください。いまわたしに親切にしておけば、いつかあんたがたが苦しむ時に、誰かに親切にされますよ」

「こういうことをどう解釈する、ワトスン?」とホームズは文書を下に置いて、しみじみとした口調でいった。「この悲惨と暴力と恐怖の堂々めぐりに、どんな意味があるんだね? それは何かの役に立ってるはずなんだ。さもなくば、この世はただ偶然の支配する場所になってしまう。そんなことはおよそ考えられないことだよ。だが、どういう役に立っているのか? その問いは、永遠につづく大問題であって、それに対して人間の理性は、いつの時代でも、解答からほど遠いところにあるといえよう」
赤い輪



「それにしても、ウォレンさん、あなたが心配するほどのことじゃありませんよ。忙しい時間をさいてまで、このぼくがでしゃばるほどの問題とも思えませんしね。ほかにも引きうけている仕事がいっぱいありますから」
シャーロック・ホームズはそういうと、大型のスクラップ・プックのほうにまた向きなおった。彼はそれに最近の切り抜きを整理して索引(さくいん)をつけていたのである。しかし、下宿屋の女主人のほうも、女性特有のしつこさとずるさを身につけていた。彼女はがんとして一歩も引きさがらなかった。
「あなたは去年、あたしのとこの下宿人の事件を片づけてくださったわ……あのフェアデイル・ホッブスさんの」
「ああ、そうでしたね……ごく単純な事件でしたよ」
「でも、あの人はあなたのご親切を、まるで暗闇に光明がさしたみたいだったと、いつも話しておりましたわ。こんどはこのあたしが、どうにもわからない、暗闇に迷ってしまったんで、あの人の言葉を思い出したんです。あなたがその気にさえなってくだされば、おできになるかたですものね」
ホームズはどちらかといえば、おせじに弱い男であり、また公平にいって、人に親切な男である。この二つの力に動かされて、あきらめのため息をもらしながらゴムのりのブラシを下におき、椅子を後にずらした。
「さあ、それじゃ、ウォレンさん、お話をお聞きしましょうか。タバコを喫(す)ってもかまいませんね? ありがとう、ワトスン……そのマッチもね。あなたの心配事は、こんど来た下宿人が部屋にとじこもったきり、顔を見せないってことでしたね。でもねえ、ウォレンさん、かりにぼくが下宿したとしても、何週間も顔を見せないなんて、よくあることですよ」
「たしかにそれはそうです。でも、こんどの場合はそれとは違いますわ。あたしはこわくてしかたがないんです。こわくて夜も眠れません。朝早くから夜遅くまで、部屋の中を足早やにあちこち動きまわる音が聞こえるのに、その姿をまったく見たこともないなんて……もう耐えられませんわ。夫もあたしと同じくらい神経をとがらせています。でも夫は一日じゅう仕事で外出してるからいいのですが、あたしのほうは神経の休まる間がありません。どうしてあの人は隠れてばかりいるんでしょう? どんなことをやったんでしょうね? 女中のほかは、家の中にはあの人とあたしだけしかいない状態ですもの、もう神経がまいってしまいますわ」
ホームズは身を乗りだして、細長い指を女主人の肩にかけた。彼には、望みさえすればいつでも人の心を落ちつかせる、まるで催眠術のような力があった。彼女の眼から、おびえの色がうすらぎ、顔つきもなごんで、いつもの平静な表情になっていた。彼女は、彼にすすめられた椅子に腰をおろした。
「お引き受けする以上、ぼくもいろいろと細かいことをのみこんでおかなければなりません」と彼はいった。「落ちついてよく考えて話してください。ごくささいなことが、いちばん重要だったりしますからね。その人は十日ほど前にやってきて、二週間分の下宿料を払ったとのことでしたね?」
「あの人はこちらの条件をたずねました。あたしは週五十シリングですと答えました。家のいちばん上の階に、小さな居間と寝室のついた、何もかも完備された部屋があるんです」
「それで?」
「するとその人は、『こちらの条件を受けいれてくれれば、週五ポンドずつ出そう』というんです。あたしも貧乏な女ですし、夫の稼ぎもわずかですから、あたしにはそれだけのお金はかなりのものでした。その人は十ポンド札を出して、すぐその場で渡すと、『こちらの条件さえ守ってくれれば、二週間ごとに同じ額をさしあげる。もし守ってくれなきゃ、もうこの家には用はありません』というのです」
「どんな条件です?」
「玄関の鍵を持たせてくれというんです。それはべつにかまいません。下宿人に鍵を持たすことはよくありますから。それにまた、いつも自分ひとりにしておいてくれ、どんなことがあっても、ぜったいに部屋にはいらないでくれ、というんです」
「べつに驚くほどのことじゃないでしょう?」
「常識としてはそうです。でも、あのやりかたはまったく常識はずれですわ。来てから十日にもなるのに、そのあいだ主人もあたしも女中も、一度もあの人の姿を見たことがないんですもの。朝も昼も夜も、部屋をあちこちせわしく歩きまわる足音は聞こえるのですが、来た日の晩に外出しただけで、それからは一度も外に出ないのです」
「えっ、来た日の晩に外出したんですか?」
「ええ、それもずいぶん遅く帰ってきましたの……みんなが寝たあとでしたわ。あの人は部屋を借りることがきまると、外出するから玄関の戸を開けておいてくれ、といいました。真夜中すぎに階段をのぼってくる足音が聞こえましたわ」
「だけど食事はどうしているんです?」
「あの人の特別な指示で、ベルが鳴ったら、あの人の部屋のドアの前に、椅子にのせておくことになっています。食事がすむとあの人はまたベルを鳴らし、私たちが同じ椅子においてある食器をさげにいくんです。ほかに何か欲しいものがある時は、あの人は紙きれに活字体の字を書いて、それを置いておくんです」
「活字体の字ですって?」
「ええ、鉛筆書きの活字体です。それもただ品物の名前を書いてよこすだけですの。お見せしようと思って持ってきましたわ。これは……石齢(SOAP)です。こっちは……マッチ(MATCH)です。これは来た日の翌朝書いてあったもので……デイリー・ガ ゼ ッ ト(DAILY GAZETTE)です。あたしは毎朝、こ の 新聞を食事といっしょに届けてるんです」
「ねえ、ワトスン」と、ホームズは女主人が手渡した大判の紙きれを、ひどく好奇心をそそられた様子で見つめながらいった。「これはやっぱり少し変だよ。部屋にひきこもっているのはいいとしても、どうして活字体で書くんだろう。活字体なんて、不器用な書きかただよ。どうして筆記体で書かないんだろう? どう思うかね、ワトスン?」
「筆跡を知られたくないんだろうね」
「でも、どうしてだろう? 下宿の女主人に一、二の単語の筆跡を見られたって、それがどうだっていうんだ? でも、きみのいうとおりかもしれないね。それにしても、こんなに短かい言葉で伝言をよこす理由は何だろうね?」
「わからないなあ」
「知的な推理にとっちゃおもしろい分野だな。この文字は先の太い、紫色の、何の変てつもない鉛筆で書かれている。この紙は、ごらんのとおり、字を書いたあとで、ここのところから破りとってある。だからSOAP(石鹸)のSがすこし切れているよ。これは意味深長じゃないか?」
「何かを警戒したのかな?」
「そのとおりだ。本人の正体がばれるような、親指の指紋とか、何かの痕跡が、破った部分についてたからだよ。ところでウォレンさん、その男は中肉中背で、色が黒くて、あごひげがあるとのことですが、年齢はいくつぐらいです?」
「まだ若い……三十前のかたですわ」
「ほかに特徴はありませんか?」
「英語はかなり達者ですが、アクセントで外国人だとわかりましたわ」
「服装もちゃんとしていたんですね?」
「とても立派で……れっきとした紳士ですわ。黒い服を着てましたが……ほかには、とりたてて特徴はありませんでした」
「自分の名前はいわなかったんですね?」
「ええ、いいませんでした」
「それに、手紙もこないし、来客もないんですね?」
「ええ」
「でも、あなたか女中さんかが、朝の掃除をしに部屋にはいるんでしょう?」
「いいえ、あの人は何でも自分でなさるんです」
「ほう! それはたしかに珍らしいですな。荷物などはどうなんですか?」
「大きな茶色のかばんをひとつ提(さ)げてきただけで……ほかにはなんにも」
「どうも、これじゃたいして参考にはなりそうもないですな。その部屋から出てきたものは、何もないんですね……絶対に何も?」
女主人はハンドバッグから一枚の封筒をとり出し、なかから燃えさしのマッチ二本と、巻きタバコの吸いがらを、テーブルの上に振るい落した。
「けさ、これがお盆の上にあったんです。あなたがささいなものから大事な意味を読みとるかただときいて、こうして持ってきたんです」
ホームズは肩をすくめた。
「これは何にもなりませんな」と、彼はいった。「マッチはもちろん巻きタバコに火をつけるのに使ったものです。燃えた部分が短かいのでわかります。パイプや葉巻に火をつければ、マッチの半分ぐらいは燃えますからね。おや、まてよ! このタバコの吸いがらはたしかに変だ。その人には、口ひげとあごひげがあるといわれましたね?」
「そうです」
「だとすると、わからんな。こんな吸い方ができるのは、ひげのない男だけですがねえ。ねえワトスン、きみのような短い口ひげでも、こんな吸いかたをしたら焦げてしまうだろう?」
「ホールダーを使ったんじゃないかい?」
「いや、ちがうね。吸いがらのはしに唇のあとがあるからね。もしかしたら、部屋には二人の人間がいるんじゃないですか、ウォレンさん?」
「いいえ。食事もごくわずかですから、これでよく、ひとなみにもつなと思うくらいですわ」
「まあ、もう少し材料が集まるまで待つほかありませんね。ともかく、あなたは何も心配なさることはありませんよ。下宿代は前金でもらっているし、変わり者にはちがいないが、やっかいな下宿人じゃない。気まえよくお金は出すし、身を隠そうとしているからといって、それがあなたに直接の関係があるわけじゃない。ぼくたちとしても、何かの犯罪のにおいがするという理由でもないかぎり、その人の秘密にむやみに立ちいるだけの口実もないですよ。ぼくもお引きうけした以上は、ないがしろにするつもりはありません。何か新しい問題がおきたら知らせてください。必要とあれば、いつでもお助けしますよ」

「この件には、たしかに興味深い点がいくつがあるよ、ワトスン」女主人が帰ると、ホームズはいった。「これはもちろん、ごくつまらない……個人の奇癖の問題かもしれないが、あるいは見かけよりはずっと根の深い問題かもしれない。まず最初に気がつくことは、もちろん次の点だ。つまり、いま部屋に住んでいる人間と、借りる契約をした人間とは、まったく別人かもしれないということだ」
「どうしてそう考えるんだい?」
「いいかね、吸いがらの件はさておいても、部屋を借りる契約をした直後にその下宿人がただ一度だけ外出したという事実は、何かを暗示してないだろうか? 彼が……あるいは彼とは別の人物が……帰ってきたのは、目撃者が一人もいない時間だったんだよ。出ていった者と、帰ってきた者とが、同一人物であるという証拠はどこにもない。それに部屋を借りた男は、英語が達者だった。ところが、これには matchesと 複数であるべきところを、match と単数で書いている。これはきっと辞書を見て書いたんだよ。辞書にはふつうは、名詞は単数形で出ていて、複数形では載ってないからね。こんなに短縮した書きかたは英語の知識がないことを隠すためかもしれない。そうだ、ワトスン、下宿人が別の人物と入れ替っていると考えるだけの根拠はじゅうぶんあるよ」
「でも、いったい何が目的なんだろう?」
「おお、問題はそこだよ。それには、こういう明快な捜査方法があるんだ」
彼は大型のスクラップ・ブックを取り出した。それには、彼が毎日、ロンドンのいろんな新聞の通信欄を切りぬいて張りつけてあった。そのページを繰りながら、彼はいった。
「どうだい! まるでうめき声と叫び声と泣き声の合唱じゃないか! 珍妙な出来事ばかりが、よくもこんなにゴタゴタ集まったもんだ! だけど、風変わりな出来事を研究する者には、このうえもない宝庫だよ。さて、この人物はいまはひとりきりの状態だ。外部から手紙で連絡をとることもできない。もしそうすれば、極秘にしておきたい彼の居場所が他人に知れてしまうことになる。では、外部から情報とか伝言をつたえるにはどうすればよいか? もちろん、新聞広告を使うほかに方法はない。われわれのほうは、幸いにも、一種類の新聞だけに注目すればよいわけだ。これが、この二週間分の『デイリー・ガゼット』の切り抜きだよ。『プリンス・スケート・クラブで見た黒い毛皮のえりまきをしたご婦人へ』……これは飛ばしてもかまうまい。『ジミイ、どうかお母さんを悲しませないで』……これも関係ないようだ。『もしブリックストン行きのバスの中で気絶した婦人が』……その婦人がどうしたというんだ。『日ごと、あなたをお慕いして……』たわごとだ、ワトスン、とんでもないたわごとだよ! おや、これはちょっと見込みがありそうだよ。『辛抱せよ。必ず連絡方法を見つける。それまでは本欄で……G』これはウォレン夫人のところへ下宿人がきて、二日目のものだよ。いかにもそれらしく思えるじゃないか? あの謎の下宿人は、英語は書けないまでも、読むことはできるんだ。これにつづく記事がまた見つかるかな? おや、あったよ……三日あとにだ。『準備はうまく運んでいる。辛抱と用心が大切だ。やがて暗雲が晴れる……G』その後の一週間は何もなくて、そのあとでもっと決定的なのが出ているよ。『道は開けつつある。機会を見て暗号により通信を送る。打ちあわせどおりの暗号を忘れるな……一はA、二はB、以下これに準ずる。近く通信を開始する……G』これは昨日の新聞に出ていたが、今日の新聞には何も出てない。それにしても、ウォレン夫人の下宿人には、まさにぴったりの広告だよ。もう少し待てば、ワトスン、いっそうはっきりしてくることは疑いなしだ」
はたして、その通りだった。次の朝訪ねてみると、ホームズは暖炉の敷物の上に立ったまま、火に背をむけて、いかにも満足そうに微笑を浮かべていた。
「これはどうだね、ワトスン?」とテーブルの上の新聞を拾いあげて彼はいった。「いいかい、『白い石で外張りした高い赤レンガの家。四階。左側の二番目の窓。日没のあと……G』とある。これでもう決定的だ。朝食がすんだら、ウォレン夫人の家の近辺をすこし偵察する必要があるね。おや、ウォレンさん! けさはどんなニュースを持ってこられたんです?」
私たちの依頼人は、破裂しそうな勢いでいきなり部屋にとびこんできた。察するところ、何か新しい、重大な事態の進展があったらしかった。
「これは警察ざたです、ホームズさん!」と彼女は叫んだ。「もう我慢できません。あの人に荷物をまとめて出てってもらいます。あの時すぐ部屋まで行って、よっぽどそういってやろうかと思ったんですが、まずあなたのご意見をうかがってからだと思いかえしましたの。でも、もうこれ以上は我慢できません。とにかくあたしの主人までがひどい目にあったんですからね……」
「ウォレンさんかひどい目にあったといいますと?」
「とにかく手荒なことをされたんです」
「でも、誰が手荒なことをしたんです?」
「ああ、それはこっちが聞きたいですわ! 今朝のことでした。主人はトテナム・コート通りのモートン・エンド・ウェイライト社で作業時間係をしております。毎日七時前には家を出なきゃいけないんです。それが今朝は、家を出て十歩もいかないうちに、二人の男が背後から近づいてきて、いきなり頭から外套をかぶせると、歩道のわきに待たしてあった馬車に押しこめちゃったんです。そうやって主人を一時間ほど引っぱりまわしたあげく、ドアをあけて外へほうり出したんです。主人は道端に転がったまま、気を失っておりましたから、馬車がどこへ行ったかもわかりませんでした。やがて気がついて起きあがってみますと、ハムステッドの荒野にとり残されていました。それで辻馬車で家に帰ってはきたのですが、いまだにソファで休んだきりです。だけどあたしはそのことをお知らせしなければと思って、大急ぎでここへとんできたんです」
「じつに興味ぶかい!」と、ホームズはいった。「で、ご主人はその連中の顔をよく見たんですね……連中の話すのを聞いたんですね?」
「いいえ、すっかり気が遠くなっていたから、まるで魔法の力でからだを持ち上げられ、魔法の力でほうり出されたような記憶しかないといっています。それにしても、二人はいたと思う、いや、三人だったかもしれない、といっております」
「それで、あなたは今回の出来事が下宿人と関係があるというんですね?」
「そうですとも。あたしたちはあそこに住んで十五年にもなりますが、今までこんなことが起きたためしがないんですからね。あの人にはもうこりごりですわ。お金さえもらえばいいってものじゃありません。日の暮れないうちに出ていってもらいますわ」
「ちょっと待ってください、ウォレンさん。あせって軽率なことをしてはいけません。この問題ははじめに考えていたよりも、ずっと重大だという気がしてきました。あなたのところの下宿人が、何かの危険におびやかされていることは、もう明らかですよ。下宿人をねらう敵が、あなたの家の玄関近くで待ちぶせしていて、朝の霧が深かったものだから、ご主人をその男とまちがえてつかまえたことも、同様に明らかです。まちがいだと気がついて、連中はご主人を解放したんです。あれがもし、まちがいでなくて下宿人のほうがつかまっていたとしたら、下宿人がどんな目にあったかは、思っただけでもぞっとしますよ」
「では、どうすればいいのですか、ホームズさん?」
「ぼくはぜひとも、その下宿人に会ってみたいのですがねえ、ウォレンさん」
「ドアをこわしてでもはいらないかぎり、無理だと思いますよ。お盆を置いて階段をおりていくとき、あの人がいつも鍵をあける音がするんですけど」
「お盆を部屋の中に入れなきゃなりませんからね。その時、われわれがどこかに隠れておれば、ドアを開けるところを必ず見ることができますな」
女主人はしばらく考えていた。
「では、反対側に仕切り部屋がありますから、そこに鏡でもとりつけて、あなたがたはドアのかげに隠れておられれば……」
「それは名案だ! 下宿人の昼食は、何時ごろですか?」
「一時ごろです」
「じゃあ、ワトスンとぼくは、そのころまでにそちらにうかがいますよ。では、しばらくのあいだお別れですね、ウォレンさん」
十二時半に、私たちはウォレン夫人の家の玄関前に立っていた。家はグレート・オーム街の、大英博物館の東北よりの狭い通りにある……黄色いレンガ作りの、高くて間口のせまい建物だった。ところが、通りの角ちかくという恰好な位置にあるので、そこからはもっと見栄えのする住宅がならんだハウ街を見わたすことができた。ホームズは満足げな微笑をもらしながら、その立ち並んだ住宅のうちの一軒を指さした。その建物は誰の眼にもとまるほど、目立って突き出ていた。
「ほら、ワトスン! あれが『白い石で外張りした高い赤レンガの家』だよ。あそこが信号の発信地だ。これで場所もわかったし、暗号もわかっている。だからあとの仕事はきっと簡単だよ。あの窓には『貸部屋』の札がはってある。なるほど、あの空き部屋なら、仲間が利用しやすいわけだ。おや、ウォレンさん、どうしました?」
「ちゃんと準備しておきましたよ。階段をあがって踊り場で靴を脱いでください、ご案内しますから」
女主人が準備してくれたのは、絶好の隠れ場所だった。鏡がうまい位置にとりつけられていたから、暗がりに坐っているだけで、向こう側のドアを手にとるように見ることができた。私たちがそこに落ちつき、ウォレン夫人が出ていったかと思うと、謎の隣人の鳴らすベルの音がかすかに聞こえてきた。やがて女主人がお盆をもって現われ、閉めきったドアの前の椅子にそれをおくと、わざと重々しい足音をたてて降りていった。私たちはドアの隅に隠れるように身をかがめ、鏡のなかをじっとのぞきこんでいた。女主人の足音が消え去ると、とつぜん鍵をまわす音がして、ドアの把手がまわり、二本の細い手がさっと伸びて椅子からお盆を持ちあげた。一瞬後に急いでお盆を戻したが、その時、色の浅黒い、美しい顔がおびえたように、仕切り部屋のせまい人口のほうをじっとうかがっているのを、ちらっと見ることができた。それからドアがばたんと閉まり、もう一度鍵のまわる音がすると、あとはすっかりもとの静けさにかえった。ホームズにうながされて、私たちはこっそりと階段をおりた。
「夕方にまたきます」と、ホームズは心待ちしていた女主人にいった。「ワトスン、この件は自分の部屋に帰ってから話したほうがよさそうだよ」
「やっぱりぼくの推理はあたっていたんだ」と、ホームズは自分の部屋の安楽椅子に深々と坐りこんで話しだした。「やはり下宿人が入れ替っていたんだ。でも、それがまさか女だったとは、しかもあんなに風変わりな女だったとは、意外だったよ、ワトスン」
「あの女はぼくたちに気づいたよ」
「うん、彼女は危険を感ずる何かを見たんだよ。それはまちがいない。これで事件のだいたいの脈絡がはっきりしてきたんじゃないかね? 一組の男女が、非常に恐ろしい切迫した危険を逃れて、ロンドンに身を隠そうとしている。その危険がどれほど大きいかは、あの厳しい警戒ぶりを見ればわかる。男のほうには、やりとげねばならない仕事がある。だからそれを終えるまでの間は、女をぜったいに安全にしておきたい。それは決して容易な問題じゃない。ところがその男は、独得な方法でそれを解決したんだ。しかもそれがあまりに鮮やかだったものだから、女がいることを、食事の世話をする下宿の女主人にさえ気づかれていない。今になってはっきりしたが、あの活字体の伝言は、筆跡で女だということを見破られないためだったんだ。男は女に近づくことができない。近づけば、敵に女の居場所がばれてしまう。女に直接連絡する方法がないとすれば、男は新聞の通信欄を利用するほかはないよ。ここまではすっかりはっきりした」
「だけど、そもそもの原因は何だろう?」
「ああ、ワトスン……いつもながら、きみはひどく実際的だね! 事のそもそもの原因はいったい何かねえ? ウォレン夫人のもちこんだ気まぐれな依頼は、思わぬ発展をして、調べるにつれてますます気味の悪い様相を呈してきたよ。だが、これだけのことはいえる。つまりこれはありふれた恋の逃避行じゃない。危険の徴候におびえていた、あの女の顔を見ただろう? それに、下宿の主人が襲われたこともわかっている。あれはもちろん下宿人をねらったものだよ。あんなふうに何かにおびえたり、必死になって秘密を守ろうとしたりするのは、それが生きるか、死ぬかの問題だからだよ。ウォレン氏を襲ったところをみると、敵は何ものかは知らないが、下宿人が男から女に入れ替ったことに気づいていないとみえる。これはじつに奇妙で複雑な事件だよ、ワトスン」
「どうしてきみがこれほど深入りしなけりゃいけないのかい? 何か得になることでもあるのかね?」
「何の得になるかって? 芸術のための芸術さ、ワトスン。きみだって患者を治療する時は、料金のことなんか考えずに、病状を研究しているわけだろう?」
「研究のためだよ、ホームズ」
「研究に終りはないからね、ワトスン。知識を得るということは、勉強の連続で、最後に最大の恩恵が待っているのだ。これは勉強になる事件だよ。金にも名誉にもならないが、それでもぼくはこの事件をぜひ解決してみたいんだ。日が暮れたら、この調査を一段階さきに進めてやろうじゃないか」
私たちがウォレン夫人の下宿に再び出向いた頃は、ロンドンの冬の夕闇は、一枚の灰色のカーテンが覆(おお)ったように濃くなっていた。その陰うつな単色の闇に光るものは、ただ窓を四角に鮮明にいろどる黄色の灯火と、ぼんやりとかすんだガス灯だけであった。下宿の暗くした居間から外をのぞき見ると、暗闇の高いところで、もう一つひかっているかすかな光が見えた。
「あの部屋で誰かが動いている」と、やせた顔を窓ガラスに押しつけるようにして、熱心に見やりながら、ホームズは小声でささやいた。
「うん、影が見える。あ、また出てきたぞ! 手にローソクを持チているよ。ほら、窓から外をのぞいている。女が自分のほうに注目しているかどうか確かめたいんだな。さあ、信号を出しはじめたぞ。きみもあの暗号文を読みとってくれたまえ、ワトスン、ぼくの解釈と照合しよう。ひとつ光った……これはAだ。ほら、また光った。きみのほうはいくつだ? 二十だって? ぼくも同じだ。二十ならTのはずだ。AT……これならわかる! もう一つTだ。きっとこれは次の単語のはじまりだよ。すると、これで…… TENTA になるわけだな。やめてしまったぞ。これで終りのはずがないだろう、ワトスン? ATTENTA じゃ意味が通じない。それとも AT・TEN・TA と三語に分けるのかな。TA を人名の頭文字と解釈すれば、「十時に(アット・テン)、T・A・」とでも読むのかな。あ、また始まったぞ!こんどは何だって? ATTE ……なあんだ、同じ信号の繰りかえしだ。変だな、ワトスン、これは変だよ!あ、また始めた! ATTE ……なあんだ、同じことを三回繰りかえしている。ATTENTA をこれで三回も! 何回繰りかえすつもりだろう? いや、これで終りらしいな。男は窓から引っこんでしまったよ。さて、これをどう解読するかね、ワトスン?」
「暗号の合図だ、とはわかるがね」
ホームズは、いかにも解読できたぞといわぬばかりに、突然くすくす笑いだした。「しかも意外に簡単な暗号だよ、ワトスン。あれはもちろんイタリア語さ!終りにAがあるのは、相手が女だからだよ。『気をつけろ! 気をつけろ! 気をつけろ!』これでどうだい、ワトスン?」
「それがきっと正解だよ」
「まちがいないよ。あれは緊急の連絡だ。三回も繰りかえしてその点を強調したからね。でも、何に気をつけろというんだ? ちょっと待てよ、男がまた窓のところに現われたぞ」
身をかがめた男のほの暗い影と、小さな光の揺らめきが、またしても窓ごしに見えて、合図がふたたび始まった。その合図は前よりも早くて……その早さについていくのがやっとだった。「PERICOLO……ペリコロか……えっ、これはイタリア語で何だったかね、ワトスン? 危険という意味じゃなかったかな? そう、そうだとも! これは危険を知らせる信号なんだよ。あ、また始まったぞ! PERI……おや、どうしたんだろう?」
小さな光がとつぜん消えて、かすかに光っていた四角な窓がまっ暗闇になってしまった。その高い建物は、ほかの階の窓は明るく輝いているのに、四階だけが黒い帯を巻いたようになった。あの最後の警告はとつぜん中断されたのだ。どうして、また誰によって中断させられたのか? その瞬間すぐに、私たち二人の頭に、同じ考えがひらめいた。ホームズは、身をかがめていた窓ぎわから、ぱっと離れた。
「これは大変なことになった、ワトスン。何か険悪なことが起きているぞ! そうでなくては、あんなに大事な通信があんなに急に中断するはずがないじゃないか? このいきさつを警視庁に知らせなくちゃならんな……だけど、事態がこうも切迫しては、ここを離れるわけにもいかないし」
「ぼくが警察に行ってこようか?」
「もうすこし状況をはっきり確認する必要がある。確認してみれば、真相は意外に単純かもしれないからね。さあ、ワトスン、われわれだけであそこへ行って、調べられるかぎリのことを調べてみよう」



ハウ街を急ぎ足で歩きながら、私は出てきたばかりの建物を振りかえって見た。最上階の窓に、輪郭ははっきりしないが、たしかに人の顔の影が見えた。その場を動こうともせず、夜の闇のかなたを真剣に凝視して、中断された信号が再開されるのを、息をころして待ちこがれている女の顔だった。ハウ街の共同住宅の入口には、えりまきと外套で身をくるんだ男が手すりに寄りかかっていた。玄関のあかりが私たちの顔を照し出すと、その男は驚いた様子であった。
「ホームズさんでしたか!」
「おや、グレグスンじゃないか!」といって、ホームズは警視庁の警部と握手をかわした。「旅路の果てに恋人と再会したようなものですな。なんでまた、こんなところに?」
「おそらくは、あなたと同じ目的ですよ」と、グレグスンがいった。「あなたがこの件をさぐっておられようとは、まったく意外でした」
「違った糸をたぐっても、結局は同じもつれにたどりつくってことか。ぼくは合図を見て、ここに来たんですよ」
「合図ですって?」
「そう、あの窓からのね。それが途中で急に消えたので、その理由を調べにきたんですよ。でも君が担当しているなら、もう安心だから、ぼくが続けるまでもありませんな」
「ちょっと待ってください!」グレグスンは真剣な表情でいった。「正直なところ、ホームズさん、どの事件の時だって、あなたが味方してくださったからこそ、わたしは心強い思いでいられたのです。この住宅の出口は一つしがありません。だからあいつはもう捕えたも同然ですよ」
「あいつって誰のことです?」
「おやおや、今度は私たちのほうが勝ちましたな、ホームズさん。今度はあなたが降参する番で!」彼はステッキで地面を強くたたいた。すると、通りの向こうがわに停まっていた四輪馬車から、ひとりの馭者が鞭(むち)を手にして、ゆっくりと歩いてきた。
「シャーロック・ホームズさんをご紹介します」と、彼はその馭者にいった。「こちらはピンカートン・アメリカ探偵局のリヴァトンさんです」
「あのロング・アイランド洞窟事件で有名な?」とホームズがいった。「初めてお目にかかります」
そのアメリカ人は、もの静かな、てきぱきした青年で、きれいにひげを剃(そ)った細くとがった顔をしていたが、賞め言棄に類を赤らめた。「ぼくはいま命がけで追跡中なのです、ホームズさん。ジョルジアノを捕まえたら……」
「何ですって! では、あの赤輪党のジョルジアノですか?」
「おや、 やつは ヨーロッパでも悪名が 高いのですね? アメリカでの彼の足どりはすっかり調べがついていますよ。五十件の殺人事件の主犯だということはわかっていても、はっきりした決め手がないのです。ぼくはニューヨークから彼のあとを追ってきて、ロンドンでも一週間ぴったり尾行し、逮捕の口実ができるのを待ちかまえているのです。グレグスンさんとぼくが、この大きな共同住宅の中に追いこんだんですか、出口は一つしかありませんから、もう逃げられませんよ。彼がこの中にはいってから、出てきた者は三人いるのですが、その中に彼がいなかったことは断言できます」
「ホームズさんは、合図がどうとか言っておられますよ」と、グレグスンが口をはさんだ。「例によって、ホームズさんはわれわれの知らないことをたくさん知っておられるらしいんです」
ホームズはこれまでの状況を単純明快に説明した。するとアメリカ人はいまいましそうに両手を打ち鳴らした。
「しまった、気づかれたんだ!」
「なぜ、そう思うんです?」
「だって、そうなるじゃありませんか? つまり、ここから仲間に通信を送るのがあいつのねらいだったんです……ロンドンにはあいつの手下が何人もいますからね。ところが、あなたのご説明によれば、手下の者に危険を告げている最中に、とつぜんそれを中断しました。その理由は次のうちのどちらかとしか解釈できません。つまり、あいつは通りにいる私たちの姿をとつぜん窓から見つけたか、あるいは何らかの理由で危険の迫ったことを知ったんです。だから危険を避けようとして、あいつはすぐに何らかの行動を起こすにちがいありません。どうしたらいいでしょうか、ホームズさん?」
「すぐに上がっていって、現場を調べるんですな」
「でも、逮捕状がありません」
「あいつは怪しげなことをもくろんで空き部屋に侵入しているんですよ」と、グレグスンが口をはさんだ。「さしあたりそれだけの理由でじゅうぶんです。逮捕してから、ニューヨーク警察に連絡し、あらためて許可を取ればいい。いま逮捕する責任は、わたしが取ります」
警部などという者は、知恵の点ではへまをやっても、勇気の点ではけっしてへまをやらない。グレグスンは、この追いつめられた殺人犯をつかまえにいく時でも、まるで警視庁の階段をのぼる時と同じように、きわめて平然とした、事務的な態度で、階段をのぼっていった。ピンカートン探偵局の男がむりに追い越そうとすると、グレグスンはひじでそれをつよく制止した。ロンドンでの危険は、ロンドン警察にまかせてもらいたいというわけだ。
四階の廊下の左側の部屋のドアが半開きになっていた。グレグスンがそれを押しあけた。部屋の中はまっ暗で物音ひとつしなかった。私はマッチをすって、警部の角灯に火をつけた。はじめちらちらしていた火が、しだいに燃え上がってくるにつれて、私たちは息もとまるほど驚かされた。敷物もないモミの床板に、鮮明な血の足跡がついていたのである。まっ赤な足跡は、ドアの閉まっている奥の部屋から出てきて、こちらに向かっていた。グレグスンはドアをさっとあけて、角灯で前方を照らし出し、私たちは彼の肩ごしに中をじっとのぞきこんだ。
その空き部屋の中央に、ひとりの大男が、からだをねじまげ、ひげのない浅黒い顔を恐ろしげに醜くゆがめ、頭のまわりをぞっとするような深紅の血で染めて、白い床板にべっとりと描かれた大きな赤い輪の中に倒れていた。折りまげた両ひざを立てて、苦しげに両手を伸ばし、上向きになった褐色の太いのどのまん中に、ぐさりと深く刺したナイフの白い柄(つか)だけが突き出ていた。並みはずれた大男とはいえ、この恐るべき一撃にあっては、屠殺斧(とさつおの)を打ちこまれた牛のようにひとたまりもなく倒れたにちがいない。男の右手のそばには、角の柄のついた恐るべき両刃の短剣が落ちており、その近くに黒いキッドの手袋があった。
「やっ、これは! これはまさしく黒のジョルジアノだ!」と、アメリカの探偵が叫んだ。「こんどは誰かに先を越されたぞ」
「この窓にローソクがありますよ、ホームズさん」とグレグスンがいった。「おや、何をしてるんです?」
ホームズは窓ぎわに歩み寄って、ローソクに火をつけ、それを窓ガラスにむかって前に後に動かしていた。それから暗闇の中をのぞきこみ、ローソクを吹き消して、床に投げすてた。「こうしておけば、あとで役に立つと思いますよ」と彼はいった。それから彼はこちらへ歩み寄ってきて、何ごとか深く考えこんでいたが、二人の探偵のほうは死体を検証していた。「あなたがたが下で待っている間に、この家から出ていった者が三人いるとのことですが」と、ホームズがやっと口をひらいた。「その人たちをよく注意して見ましたか?」
「ええ、見ましたよ」
「そのなかに三十歳くらいの、黒いあごひげのある、顔色の浅黒い、中肉中背の男がいませんでしたか?」
「いましたよ。最後に出てきたのがその男です」
「おそらく、その男が犯人ですよ。その男の人相はぼくが知っているし、ここにその男の足跡がちゃんと残っています。これだけの材料があれば、もうじゅうぶんでしょう」
「なにせロンドンの何百万人の中から捜し出すんですから、それだけじゃ不足ですよ、ホームズくん」
「それもそうですな。だからこそぼくは、参考人として、このご婦人を呼んだんです」
その言葉で、私たちはいっせいに振りかえった。そこには、入口を額縁のようにして、背の高い美しい女……ブルームズベリの謎の下宿人が立っていた。ゆっくりと彼女は歩み寄ってきた。青ざめて顔を不安そうにこわばらせ、まばたきもせずに眼を大きく見開き、彼女のおびえた視線は床の上の黒い姿に釘づけになっていた。
「あなたがたがこの男を殺したのですね!」と、彼女は低い声でいった。「おお、神様! あなたがたがこの男を殺したんです!」やがて急につよく息を吸いこむと、彼女は喜びの叫びをあげ、飛びあがった。それから手をたたいて部屋中を踊りまわり、黒い眼を歓喜に輝かせ、美しいイタリア語の感嘆詞を次から次へとその唇からもらすのだった。こんな美しい女がこんな恐ろしい光景を見て喜びにうちふるえるとは、無気味でもあり、驚くべきことでもあった。とつぜん彼女は踊りまわるのをやめると、不審そうな眼(まな)ざしで私たちを見つめた。
「もしかすると、あなたがたは警察のかたなんでしょう? あなたがたがジューゼッペ・ジョルジアノを殺したんでしょう? そうなんでしょう?」
「われわれは警察のものです」
彼女は部屋の暗いところをさぐるように見まわした。
「でも、それじゃ、ジェンナロはどこにいますの? わたしの夫のジェンナロ・ルカは? わたしはエミリア・ルカです。わたしたちは一緒にニューヨークからきました。ジェンナロはどこにいるんです? つい今しがた、あの人がこの窓からわたしを呼んだので、大急ぎで走ってきたんですよ」
「お呼びしたのは、このぼくです」と、ホームズがいった。「あなたが! どうして、あなたにそれができたんです?」
「あなたがたの暗号はたいして難かしいものじゃなかったのですよ。あなたにぜひここにきていただく必要があったのです。ぼくが Vieni(イタリア語で「来たれ」の意味)と合図しさえすれば、あなたがきっと現われることがわかっていました」
美しいイタリアの女は畏敬の眼ざしでわが友ホームズを見た。
「どうしてあれがおわかりになったのか不思議ですわ」と彼女はいった。「ジューゼッペ・ジョルジアノが……どうしてこの男が殺され……」彼女はここで口をつぐんだ。やがて、彼女の顔はとつぜん誇りと喜びに輝きはじめた。「わかったわ! 夫のジェンナロですわ! どんな危害からもわたしを守り通してくれた、すばらしく美しいジェンナロがやったんですわ! 立派に自分の手でこの怪物を殺したんだわ! おお、ジェンナロ、あなたは何てすばらしいんでしょう! こんなに立派な男にふさわしい女なんて、どこにいるでしょう?」
「ところで、ルカ夫人」と、散文的なグレグスンは、まるでノッティング・ヒルの不良連中を相手にする時と同様に何らの感傷もまじえることなく、女の袖をつかんでいった。「あんたが誰で何をしているのか、まだはっきりとしてはおらん。だが、今の話を聞いて、あんたを警視庁へ連行して調べる必要があることだけは、はっきりしておる」
「ちょっと待ちたまえ、グレグスン」と、ホームズがいった。「そんなにむりに聞き出すまでもなく、この婦人だって自分から情報を提供したいという気持でいるかもしれないじゃないか。いいですか、奥さん、あなたのご主人は、ここに倒れている男を殺したかど(ヽヽ)で、逮捕され裁判を受けることになるのをご存知ですか? あなたの話すことが、その時の証拠になるんですよ。しかし、ご主人の行動の動機が潔白なものであり、ご主人としてもそれを人にわかってもらいたいと望んでいるとお考えでしたら、何もかも打ちあけるのが、いちばんご主人のためになるでしょう」
「ジョルジアノが死んだ今となっては、もう何も恐れるものはありません。あの男は悪魔でした、怪物でした。そんな男を殺したって、夫を罰しようとする裁判官など、この世にいるはずがありませんわ」
「それでは」とホームズがいった。「このドアに鍵をかけ、部屋をもとのままの状態にしておいて、一緒にこのご婦人の部屋に行ってみませんか。そして彼女の話を聞いたうえで、われわれの見解をまとめることにしましょう」
それから三十分後、私たちは四人とも、ルカ夫人の小さな居間に坐って、はからずもその結末を私たちが目撃するところとなったこの気味の悪い事件の、驚くべきいきさつを彼女が物語るのに耳を傾けていた。彼女としては早口で流暢にしゃべったのだが、だいぶ型破りの英語であったので、文法的に明快なものにして紹介しよう。
「わたしはナポリに近いポジリッポの生まれで、アウグスト・バレリの娘です。父は主席法廷弁護士で、その地方の執行官代理をつとめたこともある人物です。ジェンナロは父に雇われていた男で、わたしは彼を愛するようになったのですが、女ならだれしも彼を愛せずにはおれなかったでしょう。彼にはお金も地位もなく、あるものは美貌と力とエネルギーだけでした。だから父はわたしたちの結婚を許しはしなかったのです。わたしたちは手をたずさえて逃亡し、バリ島で結婚しました。わたしの手持ちの宝石をお金にかえて、それを旅費にしてわたしたちはアメリカに渡りました。今から四年まえのことでした。それ以後はずっとニューヨークで暮しておりました。
アメリカでは、はじめの頃はとても運がよかったのです。ジェンナロはある立派なイタリア人のところで働けるようになりました。そのかたがバワリーという場所で悪い奴に脅(おど)されているところを、夫が助けてあけたのが縁になって、それ以来厚い知遇をえたのでした。そのかたはティト・カスタロッテさんといって、ニューヨークでも有数の果物輸入商のカスタロッテ・エンド・ザンバ商会の社長でした。ザンバさんが病身でしたから、このカスタロッテさんが、三百人以上の人を使っている会社で、全権を握っていました。このかたが夫を雇い入れ、ある部門の長にしてくださったりして、何事においても親切にしてくださいました。
カスタロッテさんは独身でしたから、ジェンナロを自分の息子みたいに思っていたにちがいありません。夫もわたしもカスタロッテさんを父親のように慕っておりました。ブルックリンに小さな家を借り、家具もそなえつけて、これで将来もすっかり安定したような気持でおりましたか、そこへ突然、暗雲が現われて、みる間にわたしたちの前途はまっ暗になってしまったのです。
ある晩、ジェンナロが勤めを終えて帰宅した時、ひとりの同郷の人を連れてきました。ジョルジアノという男で、やはりポジリッポの出身でした。あの死体をごらんになりましたから、あの男がどんなに大男だったかは、みなさんはご存知のはずです。並み外れていたのは身体だけではなく、あの男の何もかもがグロテスクで、ばかでかくて、みるからに恐ろしげでした。その声といったら、わたしたちの小さな家では、まるで雷(かみなり)のようなものでした。話をする時にはきまってその太い腕をぐるぐる振りまわすので、部屋が狭くてハラハラするほどでした。その思想も感情も情欲も、すべてが誇張されて、怪物じみていました。話しぶりも、しゃべるというよりはどなっているようなものでしたから、聴くほうはその精力に恐れをなして、その激流のような雄弁をおとなしく拝聴するほかはありません。ひとたびその眼光ににらまれると、だれもが縮みあがって思いのままです。とにかくあの男は、恐ろしい、すごい男でした。わたしは、あの男が死んでくれたことを、神に感謝しますわ!
あの男は頻繁に訪ねてきました。だけど、あの男と顔を合わせるだけでわたしは不愉快でしたが、ジェンナロもやはり同じ気持だったのです。夫は気の毒にも青ざめて、気乗りのしない顔で、政治とか、社会問題とかのお得意の話題を、とめどもなくしゃべりつづける客の言葉に耳をかしていただけなのです。ジェンナロは不平らしいことは一言ももらしませんでしたが、夫の気持がよくわかっているわたしは、夫の顔に、いままでに見たことのないある種の感情を読みとっておりました。最初は嫌悪の感情かと思いましたが、あとになって、そんな生やさしいものではないことが、わかってきたのです。それは恐怖の感情……深刻な、得体の知れない、身のすくむょうな恐怖でした。その夜……わたしが夫の恐怖を知った夜……わたしは夫にすがりついて、嘆願しました。わたしへの愛にかけて、そしてあなたが大切だと思っているすべてのものにかけて、どうかわたしに隠し立てしないでください、どうしてあの巨漢にそんなにおびえるのか、そのわけを打ち明けてくだざい、とたのみました。
夫の語ってくれた言葉は、聞けば聞くほどわたしの心を氷のように凍(こお)らせるものでした。かわいそうに夫のジェンナロは、未熟で無鉄砲な青年時代に、つまり全世界が彼には敵に見え、世の不正を憤(いきどお)るあまり半狂乱になっていた頃のことですが、例の炭焼党(カルボナリ)(一八一五年以後ナポリで結党され、自由と民族統一を主張した秘密結社)につながる、『赤輪党』というナポリ人の結杜に加入したことがあるのです。この結社の秘密遵守(じゅんしゅ)の厳しさは恐るべきもので、いったん入ったら二度と脱退はできません。わたしたちがアメリカに逃げた当初は、ジェンナロはこれで結社とも永久に縁が切れたと思っておりました。ところが、夫はある晩、ナボリで入党させてくれた当の相手の、あの大男のジョルジアノと町でばったり出会ってしまったのです。その時の夫の恐怖はどんなだったでしょう! ジョルジアノは人殺しでひじまで血に染って真赤だというので、南イタリアでは「死神』という異名をとった男です。ジョルジアノはイタリア警察の追及を避ける目的でニューヨークにきたのですが、この新しい国でも、はやくも恐るべき結社の支部をつくっていました。これだけのことをわたしにすっかり打ちあけると、ジェンナロはちょうどその日に届いたという呼び出し状を見せてくれました。その書状は、上辺に赤い輪のマークがついていて、これこれの日に支部の会合をひらくから、必ず出席せよという命令でした。
これだけでも大変ですのに、もっとひどいことが重なってきました。ジョルジアノは毎晩のようにわたしたちの家にきておりましたが、くるたびにしきりにわたしに話しかけ、夫と話をしている時でも、あのぎらぎら光る、恐ろしい、野獣のような眼が、片時もわたしから離れないことに、わたしはかねてから気づいておりました。ところがある晩、あの男はその秘密を暴(ばく)露(ろ)しました。彼にとっては「恋』……わたしの言葉でいえば野獣の情欲……というべきものを、わたしがよびさましてしまったのです。その晩彼がきた時には、ジェンナロはまだ帰っておりませんでした。彼は勢いこんではいってくると、太い腕でわたしをつかまえて、まるで熊のようにわたしを抱きすくめ、顔中に接吻して、一緒に逃げてくれと口説(くど)くのでした。わたしがもがきながら悲鳴をあげているところへ、帰ってきたジェンナロが彼に襲いかかりました。ジョルジアノはジェンナロをなぐって気を失わせると、逃げていったきり、そのまま二度と寄りつかなくなりました。わたしたちはその夜以来、恐るべき男を敵にまわすことになったのです。
二、三日後に会合が開かれました。その会合から帰ってきたジェンナロの顔を見て、わたしはこれは何か心配事が起きたなとわかりました。それは想像さえしなかったような恐ろしいことでした。結社の資金づくりのため、彼らは富裕なイタリア人を脅迫し、金を出さないと暴力を行使していました。それで、わたしたちの友人であり、恩人でもあるカスタロッテさんがねらわれたらしいのです。カスタロッテさんは脅迫に屈せず、その脅迫状を警察に届けたのです。そこでほかの金持連中がこれにならって反抗しないように、見せしめとしてカスタロッテさんを血祭りにあげることになっておりました。その会合では、カスタロッテさんを家ごとダイナマイトで爆破する計画が練られたのです。くじ引きでそれを実行する者をきめる時がきました。ジェンナロがくじを引く時、ジョルジアノは意地の悪いうす笑いを浮かべていたそうです。
もちろん、はじめから細工(さいく)がしてあって、やはりジェンナロの引いたくじは赤い輪のついた丸い札でした。殺人の命令です。命令に従って最良の友を殺すか、それとも命令に背いて、自分も、そして最愛の妻までも、仲間の復讐の標的にするかです。この結社では、裏切った仲間を処罰する時の規則として、本人だけでなく、恐ろしいことに、その人の愛している者たちまで危害を加えることになっていたのです。かわいそうなジェンナロは、そのことをよく知っていたので、恐怖に身を苛(さいな)まれ、心配のあまり気も狂わんばかりに苦しんだのでした。
その夜、一晩中わたしたちは眠りもせずに、抱きあって、この困難に対処しようと互いに励ましあったのです。翌晩には、計画を実行しなければならないことにきめられていたのでした。翌日の正午ごろまでには、わたしたち夫婦はロンドンに向かっておりましたが、もちろん恩人のカスタロッテさんには事前に危険を知らせ、警察にも情報を知らせて、これからの恩人の生命を保護してくれるようにたのんでおきました。
それからさきのことは、みなさまがご存じのはずですわ。わたしたちは、敵が影のようにあとを追ってくるにちがいないと覚悟しておりました。ジョルジアノには、復讐したいという個人的な動機があったわけですが、それはともかくとして、彼がいかに残酷で悪賢(わるがしこ)くて執拗であるかを、わたしたちは承知しておりました。イタリアでもアメリカでも、この男がおそろしく強大な力をもっているという噂はよく聞こえています。こんどこそは、その全力を揮(ふる)ってわたしたちに襲いかかってくるでしょう。敵が追いついてくるまでの二、三日の余裕を利用して、夫はわたしのために、敵の力がぜったいに及ばない隠れ場所を見つけてくれました。夫のほうは、アメリカとイタリアの両方の警察と連絡がとりやすいように、自分ひとりで行動したかったのです。妻のわたしでさえ、夫がどこでどうしていたのか知らないのです。わたしは新聞の通信欄をとおして連絡を受けていただけです。でも一度、部屋の窓からのぞいた時、二人のイタリア人がこの家を見張っているのを見つけて、ジョルジアノがとうとうわたしの隠れ場所を発見したことを知りました。そのあとやっとジェンナロが、ある家の窓から合図を送ると新聞広告で伝えてきました。ところが、送られてきた合図は、ただ気をつけろと呼びかけるだけで、しかも途中で急に切れてしまいました。今になってはっきりしたのですが、夫はジョルジアノが自分の近くまで迫っていることを知って、彼が来た時の準備をしていたのです。その結果は何と幸運だったことでしょう! そんなわけで、こんどはわたしがみなさんにぜひおたずねしたいのです。わたしどもが法の裁きを恐れるだけの理由がどこにありますか、夫のジェンナロのやったことに、有罪の宣告を下しうる裁判官がいったいどこにいるでしょう?」
「どうです、グレグスンさん」とアメリカの探偵が警部のほうに視線を投げながらいった。「英国側ではどんな見解を示すのかはわかりませんが、ニューヨークでは、このかたのご主人のやったことに対して、かなりの数の市民が感謝の賛成票を投ずると思いますよ」
「やはり署へ同行ねがって、上司に会ってもらいましょう」とグレグスンは答えた。「いまのお話が立証されれば、このかたも、ご主人もご心配なさるような結果にはならんでしょう。だけど、どうも合点がいかないのですが、ホームズさん、あなたのようなかたが、どうしてこの事件に首を突っこまれたのでしょうかねえ?」
「研究ですよ、グレグスン君、研究のためなんです。いまだに人生という古くて新しい大学で、知識を求めているんですよ。ねえ、ワトスン、きみは事件の収集簿のなかに、またしても悲劇的で怪奇な見本を一つ増やしたことになるじゃないか。ところでまだ八時前だね。コヴェント・ガーデンで「ワーグナーの夕べ』をやってるんだ! いまから急げば、第二幕には間に合うかもしれないよ」
ブルース・パーティントン設計書

一八九五年十一月の第三週、ロンドンは濃い黄色の霧におおわれていた。とくに月曜日から木曜日の間は、べーカー街の部屋の窓から、正面の家が影も形も見えないほどだった。最初の日は、ホームズは分厚い資料集に索引をつけてすごした。二日目と三日目は、ちかごろ道楽になったお題目……中世音楽で、辛抱づよく時を過ごした。ところが四日目の朝、食事のあと、椅子をうしろに押しやって、ねっとりとした茶色の渦巻きがいまだに視界をおおっており、窓ガラスに油っぽい水滴となって凝集しているのを見た時、生まれつき性急で活動的なホームズには、こんな単調な生活がどうにも我慢できなくなった。ありあまる精力をもてあまして、爪をかんでみたり、家具をたたいてみたり、無為を呪ってみたりして、居間の中をせかせかと歩きまわるのだった。
「新聞にも、おもしろいことは何ひとつないだろう、ワトスン?」
ホームズがおもしろいというのは、犯罪事件としておもしろいという意味なのだ。新聞には、革命とか、戦争の可能性とか、内閣の更迭(こうてつ)がせまっているとか、いろんなニュースが出ているが、そんなものはホームズの眼中にはない。新聞に出ている犯罪事件は、たしかに、みんな平凡でばかばかしいものばかりである。ホームズはつまらなそうにうなり声をあげると、また落ちつきなく歩きまわりはじめた。
「ロンドンの犯罪者ときたら、まったく退屈だからなあ」と彼は、いい獲物が見つからない狩猟家のように、いまいましそうな声で不満をもらした。「この窓の外を見たまえ、ワトスン。ほら、人影がぼんやり浮かんで、かすかに見えたかと思うと、たちまち霧の中に隠れてしまうだろう。泥棒だろうが、人殺しだろうが、こういう日なら、虎が密林(ジャングル)に出没するように、ロンドンじゅうを歩きまわれるんだぜ。襲いかかるまでは姿を見られないし、襲いかかった時でも、被害者にだけしか気づかれずにすむんだよ」
「こそ泥なら、たくさん出没しているさ」と私はいった。
ホームズはさも失望したように鼻を鳴らした。「この陰欝な大舞台は、もっとましな役者のために用意されているんだ。ぼくが犯罪者でないのは、この社会にとっては大いなる幸運というべきだよ」
「まったくだね!」と、私は心からうなずいた。
「かりに、ぼくがブルックスとかウッドハウスとかいう連中だったとしたら、あるいはぼくの命を奪うに足るだけの理由をもった五十人ほどの連中のひとりだとしたら、ぼくはぼく自身の追跡を受けて、はたしてどれくらい生きのびられるだろうかねえ? 呼び出されるとか、にせの会合におびき出されるだけで、万事休すになっちまうよ。ラテン系の国々に霧の日がないのはいいことだよ……むかしから暗殺の絶えない国だものね。おや! このひどい退屈をうち破ってくれるものが、ついにやってきたぞ」
女中が一通の電報を持ってきた。ホームズは封を切ると、とつぜん愉快そうに爆笑した。
「あれっ、なんだって? 兄のマイクロフトがここへくるんだってさ」
「驚くほどのことじゃないだろう?」
「とんでもない! これはまるで市街電車が田舎の道を走っているような出来事なんだよ。マイクロフトは軌道の上を走る電車みたいに、けっして脱線しないんだ。ペルメル街の下宿、ディオゲネス・クラブ、ホワイトホールの役所……これを毎日、循環(じゅんかん)しているだけなんだ。ここへだって、以前に一度、それもたった一度、きただけなんだよ。その兄が脱線するなんて、どんな異変が起きたのかな?」
「電報には何もいってないのかい?」
ホームズは彼の兄の電報をわたしてよこした。


カドガン・ウェストノ件デ会イタシ。スグユク。
マイクロフト

「カドガン・ウェスト? 聞いたことのある名前だな」
「ぼくには心当りがないがね。それにしても、あのマイクロフトがこんな突っ拍子もない行動に出るなんて! これじゃ、遊星だって軌道を踏みはずすかもしれないぜ。ところで、きみはマイクロフトがどんな人物か知っているね?」
私は『ギリシャ語通訳』(「ホームズの回想」編参照)の事件の際に聞いた説明を、おぼろげながら記憶していた。
「政府のある部署につとめる、ちょっとした役人だ、ときみから聞いたよ」
ホームズはくすくす笑いだした。
「あのころは、ぼくもきみのことをそんなによく知らなかったんだよ。国家の大事を語る場合には、慎重でなくちゃならないからね。兄が政府の役人であると考えても、それはむろんまちがいではない。だけど、時には兄が政府そのものであるといっても、ある意味ではまちがいではないんだ」
「ほんとか、ホームズ!」
「やっぱり驚いたね。マイクロフトは年俸四百五十ポンドの下級官吏に甘んじて、これっぽっちの野心もなく、名誉も肩書きも望みはしないが、それでいてこの国にとっては必要欠くべからざる人物なんだ」
「で、どんなふうに重要なんだい?」
「まずその地位がきわめて異例なものなんだ。兄は独力でそれを築いたんだよ。そんな型やぶりなことは、以前にもなかったし、これからだってないだろう。頭脳はこのうえなく秩序整然としており、知識を蓄える能力も大きく、いずれも常人の及ぶところではない。この同じような大きな力を、ぼくは犯罪捜査に振りむけているが、兄はその特殊な仕事に活用しているんだ。各省庁で判断されたことが彼のところに集ってくる。いわば手形交換の中心、株式取引きの中枢というか、全体の均衡をはかるところなのだ。ほかの連中はみな何かの専門家だが、兄だけは博識を専門としている。いまかりに、ある大臣が、海軍とかインドとかカナダとか金銀貨複本位制とかの問題について情報を得たいとする。その大臣は個々の問題について各省庁から報告を得るわけだが、その全部を総括(そうかつ)し、それぞれの問題がどう関連しあっているかを、即座に解答できる人物はマイクロフトだけなんだ。はじめは、みな兄を手っとり早い、便利な道具として利用していたわけだが、いまでは、彼のほうがかけがえのない存在として重きをなしている。兄の偉大な頭脳の中には、いろんな知識が分類整理されていて、いつでもすぐにとり出せるようになっている。幾度となく兄の言葉で国の政策が決められたんだ。彼はその仕事に打ちこんでいる。ほかのことにはまったく関心がない。ぼくが訪ねていって、つまらない問題を相談するときだけは、知力の訓練だといって、くつろいでやってくれるがね。
ところが今日は、そのジュピター神が下界に降りてくるというんだ。いったい何があったんだろう? カドガン・ウェストとは何者で、マイクロフトとどういう関係があるんだろうね?」
「わかった」と叫んで、私は長椅子の上に散らばっている新聞をさっとつかんだ。「そうだ、そうだ、ここに出てたんだ。やっぱり! カドガン・ウェストというのは、火曜日の朝、地下鉄の線路で死体となって発見された若い男だよ」
ホームズは口へ持っていきかけたパイプを途中でとめて、さっと姿勢をただした。
「これは重大だぜ、ワトスン。平素の習慣を変えさせるほど兄を動かしたんだから、これはただの死亡事件じゃないぞ。でも、いったい兄は、何でそんなことにかかわりあわねばならんのかな? ぼくの記憶では、あれは特徴のない事件だったがねえ。あの若い男は汽車から落ちて自殺したらしいじゃないか。物盗りにあった形跡もないし、暴力を加えられたとみられる特別の理由もない。そうなんだろう?」
「検死が行われて、たくさんの新事実が明るみに出てきているよ。もっとくわしく調べてみれば、たしかに奇妙な事件だといえるだろう」
「兄を動かしたことからみても、とてつもない大事件だと考えざるをえないよ」
彼はひじ掛け椅子に心地よさそうに身を沈めた。「さあ、ワトスン、とくと事実をながめてみようじゃないか」
「男の名前はアーサー・カドガン・ウェストといって、年は二十七、独身で、ウーリッチ兵器廠(へいきしょう)の職員だ」
「国家公務員だな。そこに兄マイクロフトとのつながりがあったんだ!」
「月曜日の夜、その男は急にウーリッチを離れた。最後に彼を見たのは婚約者のヴァイオレット・ウェストベリー嬢で、その晩七時半ごろ、とつぜん霧の中で別れてしまった。ふたりはべつにけんかしたわけではないので、どうして彼が急に別れたのか、彼女にも見当がつかないという。その次に彼の消息が知れたのは、ロンドンの地下鉄道のオルドゲイト駅のすぐ外で、メイスンという線路工夫が彼の死体を発見した時だった」
「いつのことだい?」
「死体は火曜日の朝六時に発見された。汽車がトンネルを出て、駅にさしかかる地点で、東へ向かう線路の左側に、レールからだいぶ離れて倒れていた。頭部がひどくつぶれていて……汽車から転落すればまさにこうなると思われる外傷だった。汽車から転げ落ちないかぎり、死体がそんな線路近くにあるはずがない。近くの町から運んできたものなら、駅の柵(さく)を通らなければならないが、そこには常時、改札係が立っている。この点は絶対に確かなようだ」
「なるほど。その件ははっきりしているよ。その男は死んでいたにせよ、生きていたにせよ、汽車から転げ落ちたのか、突き落されたかだ。そこまではぼくにははっきりしている。続けてくれ」
「死体の発見された線路を通る列車は、西から東へ走っているが、その中には純然たる市内線(メトロポリタン)のほかにも、ウイレスデンやその他遠くからくるのもある。確実なことは、この若い男が死んだ時に、その夜おそくここを通る列車に乗っていたということだが、どの駅から乗りこんだか、その点がはっきりしていない」
「切符を見ればすぐにわかるぜ」
「ポケットには切符がなかったんだ」
「切符がなかったって! ワトスン、それはじつにおかしいじゃないか。ぼくの経験では、切符を見せずに市内線のプラットホームには出られないがね。だからその男もきっと切符はもっていたんだよ。乗った駅を隠すために誰かにとり上げられたのだろうか? それはありうるな。それとも本人が列車の中で紛失したんだろうか? それもありうる。だがこの点は奇妙にひっかかるな。物を盗られた形跡はなかったね?」
「ないようだな。ここに彼の所持品の一覧表がある。財布には二ポンド十五シリングはいっていた。キャピタル・エンド・カウンティ銀行ウーリッチ支店の小切手帳も一冊あった。これを見て身元が判明したんだ。それに当夜の日付のウーリッチ劇場の二階正面席の切符が二枚あった。ほかには技術関係の書類を小さく束ねたものがあった」
ホームズは満足そうな声をあげた。
「やっとわかったよ、ワトスン! 英国政府……ウーリッチ兵器廠……技術関係の書類……兄のマイクロフト、これで鎖(くさり)が完全につながる。だけどそのマイクロフトがきたらしいぜ。おそらくは自分で説明しにね」
そのあとすぐに、背が高く恰幅(かっぷく)のいいマイクロフト・ホームズが部屋に通された。大柄でがっちりした骨格で、外観はどこか遅鈍(ちどん)で無細工な体つきだが、この無恰好な骨組のうえにそびえている頭部は、額がいかにも威厳にみち、深くおちくぼんだ淡灰色の眼はあくまで鋭く、その唇は固くひきしまり、その表情の動きが陰影に富んでいて、ひと目彼を見た人は、その無恰好な身体のことは忘れてしまい、その卓越した精神だけを印象に残すだろう。
彼に続いてはいってきたのは、私たちの旧友の、警視庁のレストレード……あいかわらずやせた厳(いか)めしげな男だった。二人の深刻な表情から、よほどの重大問題をかかえてきたことが察せられた。警部はひと言もいわずに握手をした。マイクロフト・ホームズはもどかしげに外套をぬぐと、ひじ掛け椅子に腰をおろした。
「じつに困った事になったよ、シャーロック」と、彼はいった。「ぼくは自分の習慣を変えるのは大嫌いだが、当局が承知しないんだよ。シャム国の現状を考えると、ぼくが役所を留守にするのは、ひどく具合(ぐあい)が悪いんだけどね。しかし、今度ばかりは重大な危機なんだ。首相があんなにあわてたのを見たことがない。海軍省のほうは……蜂(はち)の巣をつついたような騒ぎさ。事件の記事は読んだかい?」
「いま読んだところだ。技術関係の書類というのは、どんな書類なんです?」
「おお、そこが重大なんだ! さいわい、まだ人に知られてはいない。それを知ったら、新聞が大騒ぎするだろう。あのあわれな青年がポケットに持っていた書類は、ブルース・パーティントン型潜水艇の設計書だったんだ」
マイクロフト・ホームズは厳粛な口調で話したが、その話しぶりは彼が問題をいかに重視しているかを示していた。ホームズと私はじっと話のつづきを待った。
「もちろん、おまえも話には聞いてるだろう? 誰だって知ってることだからな」
「名前だけはね」
「その重要さは、どんなに強調してもたりないほどだよ。政府のあらゆる機密の中でも、もっとも厳重に守られてきたのだ。ブルース・パーティントン型潜水艇の行動半径内では、もはや海戦は不可能であると考えてさしつかえないのだ。二年前、国家予算から巨額の金をひそかに支出して、この発明の独占権の獲得にあてたのだ。その機密を守るためにあらゆる努力がなされてきた。設計はきわめて複雑であって、三十ほどのそれぞれ別々の特許を含んでおり、その一つ一つが全体の機能に欠くことができないもので、兵器廠に隣接した機密室の精巧な金庫の中に保管され、その部屋には盗難予防の扉や窓がつけられていた。いかなる事情があろうと、機密室から設計書を持ち出すことは禁止されていた。たとえ海軍の造船技師長であっても、その設計書を見たい時は、わざわざウーリッチの機密室まで足を運ばねばならなかったのだ。ところがそれが、ロンドンのまん中で死んだ下級職員のポケットの中にはいっていたというのだ。お役所式でいえば、まことに遺憾(いかん)なことじゃないかね」
「でも、現物は取りもどしたんだろう?」
「それが、シャーロック、答は否なんだ! だから重大なんだ。まだ取りもどしておらん。ウーリッチから持ち出された設計書は十枚だ。カドガン・ウェストのポケットにあったのは七枚だ。いちばん重要な三枚がない……つまり盗まれ、消えうせたんだ。シャーロック、万事を投げうってやってほしい。いつものつまらない軽犯罪裁判所むきの謎々なんか放っておけよ。この国際的な大問題を解決するんだ。カドガン・ウェストはなぜ書類を盗んだのか、紛失した書類はどこにあるのか、カドガンはどんな死にかたをしたか、死体はどうしてあそこにあったか、どうすればこの被害を償えるか? こうした疑問への解答を見つけてほしい。そうすればおまえは国家にすばらしい貢献をしたことになるんだ」
「どうして自分でやらないんです、兄さん? あなたならぼくに負けないほど眼力があるのに」
「そうかもしれないがね、シャーロック。だが、こまかい材料集めが問題だよ。おまえがこまかい材料を知らせてくれたら、ぼくはひじ掛け椅子に坐ったままで、お返しにすばらしい専門家の意見を提供するよ。だけどあちこち駆けまわるとか、鉄道監視員をきびしく問いつめるとか、レンズを眼にあてて腹ばいになるとか……そういうことはぼくの得意じゃないんだ。この事件を解決できるのはおまえだけだよ。今度の叙勲者名簿におまえの名前をのせてもらいたかったら……」
シャーロックは微笑して頭をふった。
「ぼくは勝負(ゲーム)のために勝負(ゲーム)をするんだよ。でも、これはたしかに興味深い問題を含んでいる事件だから、ぼくはよろこんで調査してみるよ。もっとくわしく話してくれないか」
「もっと重要なことは、この紙に書いてきたよ。おまえの役に立ちそうな、二、三の住所も書いておいた。書類の実質的な保管責任者は、あの有名な政府高官のジェイムズ・ウォルター卿で、勲章や肩書きをいちいち並べると紳士録に二行ほどにもなる人物だ。いまでは白髪もまじるほど年功を重ねてきた官吏で、紳士の名に恥じぬ人物であって、高貴なかたがたのお宅へも好意をもって招かれる客であり、まして愛国心を疑われるような人ではない。金庫の二個ある鍵のうちの一個を、この人物が持っている。さらにつけ加えていうと、月曜日の勤務時間中には、書類はまちがいなく機密室にあった。ジェイムズ卿は三時ごろロンドンヘ出かけたが、そのとき鍵は持って出たのだ。この事件の起こった晩は、ずっとバークレイ・スクェアのシンクレア提督の邸宅にいたのだ」
「それは立証ずみなんですね?」
「そうだ。ウーリッチを出たことは、弟のヴァレンタイン・ウォルター大佐が証言しているし、ロンドンに着いたことは、シンクレア提督が証言している。だからジェイムズ卿は事件の直接の関係者じゃないと考えてよい」
「もう一個の鍵を持っている人物は誰ですか?」
「上級職員で製図技師のシドニイ・ジョンスン氏だ。彼は四十歳の既婚者で、五人の子供がいる。口かずのすくない、気むずかしい男だが、勤務成績は立派だといえる。同僚の評判はよくないが、勤勉家だ。彼自身の説明によると、これを裏づけるものは細君の証言だけなのだが、月曜日の晩は勤務を終えてからはずっと自宅にいて、時計の鎖につけていた鍵は、いままで一度もはずしたことはない、というのだ」
「カドガン・ウェストのことを話してください」
「この男は勤めて十年になるが、まじめに働いてきた。短気で性急な性質だという評判はあるが、生(き)まじめで実直な男だ。これという悪い噂もない。役所での地位はシドニイ・ジョンスンの次席だ。仕事の性質上、設計書には毎日接していた。ほかに設計書をとり扱う者はいなかった」
「あの晩、設計書を金庫にしまったのは誰です?」
「上級職員のシドニイ・ジョンスンだ」
「じゃあ、だれが設計書を持ち出したかは、はっきりした答が出ているようなものだな。現に書類は、あの下級職員のカドガン・ウェストの死体から見つかってるんですからね。決定的といえるんじゃないかな?」
「たしかにそう思えるがね、シャーロック、だけど、説明のつかぬことがたくさん残っているんだ。まず第一に、なぜ彼はあれを持ち出したか?」
「相当の値打ちがあるんでしょう?」
「あれを売れば、たしかに数千ポンドをたやすく手に入れることができるだろうね」
「売るためという以外に、あの書類をロンドンに持ち出すような動機は考えられないかな?」
「いや、それはないよ」
「それでは、売るつもりで持ち出したというのを、ひとまず仮説として前提にしよう。ウェスト青年が書類を持ちだした。ところで、合鍵があってはじめてそれができるわけだが……」
「合鍵は数個必要だな。建物や部屋を開けなきゃならんから」
「じゃあ、彼は数個の合鍵を持っていたんだ。彼は設計の機密を売ればいいと思って、書類をロンドンに持ち出したんだが、むろんその時には、翌朝紛失したことがばれないうちに、設計書を金庫にもどすつもりでいた。ところが、ロンドンでそういう売国行為をやっている最中に、殺されてしまった」
「どんなふうにして?」
「ウーリッチへ帰る途中で殺されて、車室から放り出されたものと仮定しましょう」
「死体のあったオルドゲイトは、ウーリッチへ帰る途中にあるロンドン橋の駅からはかなり行きすぎたところだよ」
「ロンドン橋を通りすごしてしまう理由なら、いくらでも想定できるよ。たとえば、列車の中でだれかに会って、乗りこしたのも気づかないほどその人と夢中で話しているうちに、話がもつれて暴力ざたに発展し、彼が一命を落したとも考えられる。あるいは、彼が車室から逃げようとし、線路に転落して死んだということもありうる。その場合、相手が扉を閉めてしまえば、霧は深いし、誰の眼にもとまらないわけだ」
「これまでの情報からでは、それが最上の説明といえるだろうな。だけど考えてごらん、シャーロック、とり残している問題が多すぎるよ。たとえば議論は議論として、カドガン・ウェストは、あの書類をロンドンへ持ち出そうと、じつは前々から計画していたとも考えられるよ。その場合、彼は外国の密偵と会う約束になっているから、当然その晩はあけておかねばならないはすだ。ところが実際には、彼は劇場の切符をあらかじめ二枚持っていて、婚約者と途中まで同行し、そのあとにわかに姿を消したんだ」
「人目をくらましたんですな」と、じれったそうに会話を聞いていたレストレードが口をはさんだ。
「じつに奇妙なやりかただよ。それが異議申し立ての第一号だが、第二号はこうだ。彼がロンドンに着いて外国の密偵に会った、としよう。朝までに書類を持ち帰らなければ、持ち出したことがばれてしまう。持ち出したのは十枚だ。ポケットには七枚しかなかった。あとの三枚はどうなったのか? まさか何の代償もとらずに、相手にくれてやることはあるまい。そうすると、その売国行為の代償はどこへ消えたのか? ごく普通の常識では、死体のポケットから巨額の金が見つかってもいいはずだと思うがね」
「それでしたら、簡単明瞭ですよ」と、レストレードがいった。「その間に何事かが起きたとしたら、それはこうにきまっていますよ。彼は書類を持ち出して売ろうとした。そして密偵に会った。ところが値段の折り合いがつかなかった。彼は家に帰りかけた。しかし密偵はそのあとをつけた。列車の中で密偵は彼を殺した。重要とみた書類だけを奪い、死体を車外に投げすてた。これで何もかもちゃんと説明がつくじゃありませんか?」
「切符がなかった件はどうなるのかね?」
「切符を残しておくと、密偵の家がどの駅に近いかがわかってしまう。そこで死体のポケットから抜きとったというわけです」
「うまい、レストレード、たいへんうまいよ」と、ホームズがいった。「きみの説明はうまくつじつまがあっている。しかし、それが真実なら、事件は終りだね。一方では、反逆者が死んでいる。他方、ブルース・パーティントン型潜水艇の設計書は、すでに大陸に渡っているだろう。われわれにどんな仕事が残されているかね?」
「行動だよ、シャーロック……行動だよ!」と、マイクロフトは椅子からぱっと立ち上って叫んだ。「そんな説明には、ぼくの本能が納得しないよ。全力を発揮するのだ! 犯行現場に行ってくれ! 関係者に会うんだ! あらゆる手をつくして調べるんだ! おまえの生涯を通して、いまこそ、国家に貢献しうるまたとない機会だぞ」
「はい、はい!」と、ホームズは肩をすくめた。「さあ! ワトスン、それにレストレード君も、一、二時間つきあってくれるね? まずオルドゲイト駅から捜査を始めよう。さよなら、兄さん。夕方までには報告できると思うけど、あまり期待しないでほしいと、いっておくよ」
一時間後、ホームズとレストレードと私は、地下鉄道がトンネルを出てオルドゲイト駅にさしかかる地点に立っていた。赤ら顔の礼儀正しい老紳士が、鉄道会社の代表として立ち会った。
「若い男の死体が倒れていたのは、ここです」と、彼はレールから三フィートほど離れた地点を指さしていった。「上から落ちたものではありませんな。ごらんのように、ここはぜんぶ壁にさえぎられていますからね。すると、列車から落ちたとしか考えられません。その列車も、わたしどもが調べたところでは、月曜日の真夜中ごろ通った列車にちがいありません」
「車輌を調べて見て、暴力ざたの形跡でも残っていませんでしたか?」
「そんな形跡はありません。それに切符も見つかっていません」
「ドアが開いていたという記録はありませんか?」
「ありませんね」
「けさになって、新しい情報がはいりました」と、レストレードがいった。「月曜日の夜十一時四十分ごろ、市内線の普通列車に乗ってオルドゲイトを通ったある乗客が、列車が駅に着く直前に、線路に死体でも落ちたような、どさっという鈍い音を聞いたと明言しています。だけど、霧が深くて、何も見えなかったそうです。彼はその時はそれを報告しませんでした。おや、ホームズさん、どうかしましたか?」
わが友は立ったまま、いかにも緊張した表情で、トンネルからカーブしながら出てくる線路をじっと見つめていた。オルドゲイトは乗換駅なので、その周辺はポイントが綱(あみ)の目のように交叉していた。その無数のポイントに、ホームズの真剣な探るような眼がそそがれ、その鋭い機敏な顔は、例によって唇を固く結び、鼻孔をふるわせ、太い眉をよせた、私にはなじみぶかい表情をみせていた。
「ポイントだ」と彼はつぶやいた。「ポイントなんだ」
「何ですって? それがどうかしましたか?」
「こういう線には、ポイントがあまりないのが普通なんでしょうね?」
「はい。ここほどはありません」
「そのうえカーブもある。ポイントとカーブ。うむ、やっぱり! そうだったのか」
「何ですって、ホームズさん? 何か手がかりをつかんだんですか?」
「一つの着想で……目安にすぎませんよ。だけど、事件はたしかにおもしろくなってきた。奇抜だ、まったく奇抜だ。でも、そうとしか考えられない。線路には血の跡がありませんね」
「ほとんどありませんでした」
「だけど、かなりの傷だったはずですよ」
「骨が砕(くだ)けていました。しかし外傷はたいしたことはなかったんです」
「それにしても、多少の出血があってもよさそうなものだがね。霧の中でどさっと落ちる音を聞いたという客の乗っていた列車を、ぼくが調べるわけにはいきませんか?」
「それはむりじゃないでしょうか、ホームズさん。列車はもう連結を解いて、車輌はあちこちに分散していますからね」
「それでしたら、ホームズさん」とレストレードがいった。「ご安心ください。どの車輌も念入りに調べてあります。わたしが自分でしらべたんです」
わが友のいちばん悪い癖は、自分より頭の鈍い人間に対する失望の色を隠さないことである。
「そんなことだろうと思った」と、彼は踵(きびす)をかえしながらいった。「あいにくですが、ぼくが調べたかったのは車輌じゃなかったんだ。ワトスン、ここでの仕事はもうすんだよ。レストレード君、ここでお引きとりいただいてかまいません。これからわれわれは、ウーリッチヘ調査に出かけますから」
ロンドン橋で、ホームズは兄あての電報を書き、打つ前に私に見せてくれた。それには次のように書いてあった。


暗闇ニ微カナ光明ヲ認メルモ、アルイハ消エルカモ知レヌ。英国ニイル外国人スパイト国際的密偵ノ、氏名オヨビ住所ノ一覧表ヲ使イニ話シテ届ケラレクシ。べーカー街ニテ返信マツ……シャーロック


「これがあるときっと役に立つよ、ワストン」と、彼はウーリッチ行きの列車の座席に腰をかけた時にいった。「兄のマイクロフトのおかげで、こんな願ってもない奇抜な事件にめぐりあえたよ」
彼の真剣な顔つきから、あの烈しく緊張した精力的な表情がまだ消えていなかった。それは、何か新しい暗示的な状況の展開で、刺戟にみちた一連の考えが生れてきていることを示していた。フォックスハウンドが耳を垂れ、尻尾を巻いて犬小屋のまわりをうろつくさまと、その同じ犬が眼を輝かせ、筋肉を緊張させて獲物の匂いを懸命に追いかけるさまとを比較してみよ……けさからいまにかけて、ホームズはそれほどにも変貌していた。ほんの数時間まえに、霧にとじこめられた部屋の中を、ねずみ色のガウンを着て落ちつきなく歩きまわっていた、あの元気もなければ生彩もなかったホームズとは、まるで別人のようだった。
「材料がちゃんとあって、捜査の見込みがあって」と、彼はいった。「その可能性に気づかなかったとは、ぼくもずいぶんまぬけだな」
「いまでも、ぼくにはさっぱりわからないよ」
「最後の部分はぼくにもわからないんだが、ずっと先までたどれそうな見通しはついているんだ。あの男はどこかほかの場所で殺されて、死体は、じつは列車の屋根にのせられていたんだ」
「屋根だって?」
「奇抜だろう? しかし事実を考えてみろよ。死体の発見された場所が、列車がポイントにさしかかって上下左右に揺れる地点であったというのは、単なる偶然の一致かね? 屋根の上にのっていた物が転げ落ちそうな場所といえば、あそこじゃないかね? 列車の中にあった物なら、ポイントのところで揺れても、外に転げ落ちることはないよ。死体は屋根から落ちたか、あるいは非常に珍らしい偶然が重なったか、どちらかだ。だけど、ここで血の問題を考えて見たまえ。どこかほかの場所で出血していたとすれば、もちろん、線路に血がついてないのも不思議じゃない。それぞれの事実は、それ自体何ごとかを示唆している。それが積み重なると、強い説得力をもって迫ってくる」
「それで切符も見つからなかったわけだ!」と私は叫んだ。
「そうだよ。切符のなかったことも、いままでは説明がつかなかったが、こう考えれば説明がつく。すべて、つじつまが合う」
「しかし、そうだとしても、あの男がどうして死んだかという謎を解くところまでは、まだほど遠いよ。まったく、簡単になるどころか、不可解になっていくばかりだ」
「そうかもしれん」と、ホームズは考えこんだ様子でつぶやいた。「そうかもしれん」彼は黙って物思いに沈んでいったが、それは、のろのろした列車がウーリッチ駅に着くまでつづいた。列車を降りると、彼は辻馬車を呼びとめて乗りこみ、ポケットからマイクロフトの書いてくれた紙をとりだした。
「これから夕方にかけて、何軒もの家を訪ねてまわることになるが、まずジェイムズ・ウォルター卿のところに足を向けたくなるね」
その有名な政府高官の邸宅は、縁の芝生がテムズ河畔にまでつづく、美しい別荘風の建物だった。そこへ到着したころには、霧も晴れかかり、薄靄(うすもや)のヴェールをとおして、濡れたような陽光がさしていた。ベルを鳴らすと執事が出てきた。
「ジェイムズ卿にご面会ですって!」と、彼は厳しい顔つきで答えた。「ジェイムズ卿は、今朝お亡くなりになりました」
「何ですって!」と、ホームズはびっくりして叫んだ。「どうしてお亡くなりになったのです?」
「どうぞおはいりになって、弟のヴァレンタイン大佐にお会いになったらよろしいでしょう」
「では、そうさせていただきますか」
私たちはあかりをうす暗くした客間に通された。ちょっと間をおいてはいってきたのは、かなり背が高く、美貌で、うすい顎(あご)ひげのある、五十歳ぐらいの、死んだ科学者の弟にあたる男だった。錯乱した眼、涙の跡のある頬、ぼさぼさの髪などが、この一家にとつぜん降りかかった不幸を雄弁に物語っていた。そのことを話す時の彼の声はみだれがちであった。
「こんどのひどい不祥事のせいですよ。兄のジェイムズ卿は、名誉をとくに気にする人でしたから、あんな事件には耐えられなかったのです。それで、心がはり裂けちゃったのです。自分の部署の有能さをいつも誇りにしてましたから、こんどの出来事は、致命的な打撃でした」
「じつは、事件を解明するうえで参考になるご意見を、ご本人からうかがえるかと期待しておったのですが」
「あなたやわれわれと同様、兄にとっても、こんどの事件はまったく謎だったと断言できます。兄はすでに、知っていることは残らず警察に話しております。もちろん、カドガン・ウェストが犯人だということを疑っておりませんでした。だけど、それ以外はまったく想像もつかない、といっておりました」
「事件に関して何かこれはというようなことを、あなたは思いつかれませんか?」
「私自身も、読んだり聞いたりしたこと以外には、何も知らないのです。失礼とは思いますが、ご存知のように、ホームズさん、ただ今とりこんでおりますので、できればお話はここで切りあげさせていただきたいのです」
「事件は思いもよらぬ展開になってきたな」と、馬車に戻ってからわが友がいった。「あの人は自然死か、それともきのどくに自殺したのか! 自殺だとしたら、職務怠慢を理由にみずからを責めた結果とみていいのかな? その問題はあとで検討することにしよう。さあ、こんどはカドガン・ウェストの家だよ」
ウーリッチの町はずれの、小さいが手入れのいきとどいた家に、息子を亡くした母親がひっそりと住んでいた。老婦人は悲しみに心を奪われていて、私たちが何かを聞き出せそうな様子ではなかった。しかし、彼女の傍らに白い顔をした若い女がいて、自ら名のったところによると、彼女は死んだ男の婚約者のヴァイオレット・ウェストベリー嬢で、あの運命の夜に彼を最後に見た女だった。
「わたしにもわけがわからないんです、ホームズさん。あの悲劇が起きてから、わたしは一睡もしないで、どうしてあんなことになったのか、夜となく昼となく考えに考えつづけてきました。あのアーサーほど誠実で、勇気があって、愛国心の強い人はいませんわ。責任をもって保管している国家の機密を売るくらいなら、自分で右腕を切り落したほうがましだと考える人でした。あの人を知っている者にとって、こんなばかげた、おかしな、道理にあわないことってありませんわ」
「だけど、事実があるのですよ、ウェストベリーさん?」
「はい、そうなんです。だからこそ、わけがわからないんです」
「金に困っていたってことはありませんか?」
「いいえ。とても質素でしたから、給料でじゅうぶん足りていました。彼は二、三百ポンド貯めておりましたし、お正月には結婚する予定でおりました」
「何か精神的に動揺している様子はありませんでしたか? いいですか、ウェストベリーさん、つつみ隠さず何でも話してください」
ホームズの鋭い眼は、彼女の様子がちょっと変わったのを見のがさなかった。彼女は顔を赤らめて、もじもじしていた。
「ええ、ありましたわ」と、しばらくたってやっと答えた。「あの人には何か心配ごとがあるんだと感じておりました」
「ずいぶん前からですか?」
「ほんの一週間ほど前からです。あの人は考えごとをしたり、何かを心配している様子でした。それで、そのことを問いつめてみましたの。すると、たしかに気になることはあるが、それは自分の公務に関する問題だというのです。『重大なことだから、たとえ相手がきみでも話すわけにはいかない』という返事でした。それ以上のことは聞き出せませんでした」
ホームズは深刻な顔をしていた。
「続けてください、ウェストベリーさん。彼に不利だと思われることでも、話してください。それが必ずしも不利な材料になるとはかぎりませんから」
「じつはこれ以上ほかにお話しすることはないんですの。一度か二度、あの人が何かを話したそうにしたことは、あったようですけど。ある晩、あの機密はかなり重要なものだ、外国のスパイならきっと巨額の金を支払っても手に入れたがるだろうな、と彼がいっていたのをおぼえています」
わが友の顔はますます深刻になった。
「ほかに何か?」
「あんな大事なものを役所ではおろそかにしている……あれでは、売国奴が設計書を盗むのはかんたんだと申しておりました」
「そんなことをいったのは、つい最近ですか?」
「はい、つい最近ですわ」
「では、あの最後の晩のことをお聞かせください」
「お芝居を見にいくことにしてましたの。霧がとても深くて、辻馬車は使えませんでした。だから歩いていったんです。役所の近くまできた時、とつぜんあの人は、霧の中へ駆け出していきました」
「ひと言もいわずにですか?」
「あの人はあっと叫びました。それだけでした。わたしは待っていたのですが、あの人は戻ってきませんでした。それでわたしは、家に帰りました。翌朝、役所が始ってから、警察のかたが調べにこられました。十二時ごろ、あの恐ろしい知らせを聞きました。ああ、ホームズさん、あの人の名誉を回復さえしていただけたら! あの人があんなにも大切にしていた名誉を」
ホームズは悲しげに首を振った。
「それじゃ、ワトスン、ほかをあたってみるとしようか。こんど調べるところは、書類が盗まれた役所だよ」
「あの青年にははじめから不利だったが、調べてみると、ますます不利になるな」と、馬車がごとごとと走り出すと、彼はいった。「結婚を間近かに控えていたことは、犯罪の動機になるよ。それで金が欲しかった。金のことを口にしたところからみると、かねてから計画を練っていた。あの娘に自分の計画を話して、もう少しで売国的な行為の共犯者に仕立てるところだった、と考えられる。どれもこれも、不利な材料ばかりだな」
「だけどねえ、ホームズ、性格という要素も考慮されてしかるべきじゃないかね? しかも、通りに婚約者をおき去りにして駆け出していって重罪を犯すなんて、おかしいとは思わないかい?」
「まったくその通りだよ! たしかに異論の出るところだ。それにしても、これは一筋縄(ひとすじなわ)ではいかない、容易ならぬ事件だよ」
役所では上級職員のシドニイ・ジョンスン氏が私たちを迎え、どこでも絶大な効果を発揮するホームズの名刺がここでも敬意を払われたとみえて、うやうやしく応対してくれた。彼はやせて、気むずかしそうな、眼鏡をかけた中年の男で、頬は落ちくぼみ、最近の極度の神経過労で両手が痙攣(けいれん)していた。
「ひどいことです、ホームズさん。じつにひどい!部長が亡くなられたのをご存知ですか?」
「その部長宅からきたところです」
「役所はめちゃくちゃです。部長は亡くなられるし、カドガン・ウェストは死ぬし、書類は盗まれるし。でも、月曜日の夕方この部屋のドアを閉めるときまでは、ここは政府のどの部署にも負けない有能な役所だったんですがね。ああ、考えただけでもぞっとする! よりによって、あのウェストがこんなことをしでかすとは!」
「すると、やはり彼の犯行だと考えておられるのですね?」
「そうとしか考えられないじゃありませんか。それはいまだって、まさかあの男にかぎって、と思いたいんですが」
「月曜日に役所を閉めたのは何時でしたか?」
「五時です」
「あなたが閉めたのですか?」
「わたしがいつも最後に退出するんです」
「設計書はどこにおいてありましたか?」
「あの金庫の中です。わたしが自分であの中に入れたのです」
「この建物を巡視する守衛はいないんですか?」
「います。だけどほかの部屋も巡視することになっています。軍人あがりで、もっとも信頼できる男です。あの晩は異状がなかったと報告しています。もちろん、霧の深い夜でしたが」
「カドガン・ウェストが勤務時間後にこの建物に侵入しようとしたと仮定しますと、彼が書類を手にするまでに、鍵は三つ必要でしょう?」
「そうです。建物の鍵、機密室の鍵、金庫の鍵が必要です」
「その鍵を持っていたのは、ジェイムズ・ウォルター卿とあなただけですね?」
「わたしはドアの鍵は持っておりません……金庫の鍵だけをあずかっています」
「ジェイムズ卿は自分の習慣をきちんと守る人でしたか?」
「そうだと思います。少くとも鍵に関しては、三つとも同じかぎ輪につけておられました。ここで何度も見たことがございます」
「そのかぎ輪を持って、ロンドンヘ出かけられたのですね?」
「そうおっしゃっておられました」
「それに、あなたも鍵を手離したことはなかったのですね?」
「ぜったいにありません」
「じゃあ、犯人がウェストだとすれば、彼は合鍵を持っていたことになる。それなのに、死体から鍵は発見されなかった。では、観点を変えることにして、かりにこの役所の職員が設計書を売ろうと思えば、今回のように原本を盗み出すよりは、自分で写しを作ったほうが簡単じゃないんですか?」
「設計書の写しを効果的にやるためには、相当の専門的知識が必要ですよ」
「しかし、ジェイムズ卿とあなたとウェストには、その専門的知識がおありだったと思われますが?」
「もちろん、ありますよ。ですが、ホームズさん、どうかわたしを問題の渦中に引っぱりこまないでください。原本が現にウェストの死体から見つかっているのに、こんな推論が何になるんですかね?」
「ええ、でも写しでじゅうぶん間に合うのに、安全にとれる写しをとらないで、危険を承知で原本を持ち出すのは、たしかに奇妙ですよ」
「むろん、奇妙です……でも、彼はそうしたんです」
「この事件は、調査すればするほど、説明できないことが出てきますよ。ところで三枚の書類がまだ見つかっていませんね。その書類はきわめて重要なものだそうですが?」
「そう、重要です」
「その三枚があれば、あとの七枚はなくとも、ブルース・パーティントン型潜水艇が建造できる、というわけですね?」
「海軍省へはそういう趣旨(しゅし)の報告をしておきました。しかし今日もう一度あの図面を検討してみますと、必ずしもそうとは断言できません。自動調整孔の二重弁の図面が、もどってきた書類のなかにあったのです。外国人が自力でそれを考案しないかぎり、あの潜水艇を建造することは無理ですよ。もちろん、近いうちにその困難を打開するとは思いますが」
「しかし、あの紛失した三枚の図面がいちばん重要なのですね」
「もちろんです」
「よろしければ、これから構内を歩きまわってみたいと思います。ほかにおたずねしたいこともないようですから」
ホームズは金庫の錠、機密室のドア、さらに窓の鉄のよろい戸までも調べてみた。外の芝生に出てきて、ようやく彼は強い関心を示しはじめた。窓の外に月桂(げっけい)樹(じゅ)の茂みがあって、その数本の枝が曲がったり折れたりしていたからである。彼はレンズをとり出して、それを綿密にしらべ、その下の地面にあるかすかな痕跡らしきものを仔細に観察した。しまいには上級職員に頼んで鉄のよろい戸を閉めてもらった。ホームズはそれを見て、あのよろい戸の締まり具合じゃ、まん中に隙間(すきま)ができるから、部屋の中の様子は外からでも見えるな、と私に指摘した。
「三日もたっているから、何の痕跡か見分けがつかなくなっている。あの痕跡は格別の意味があるものかもしれないし、何でもないものかもしれない。ところで、ワトスン、これ以上ウーリッチにいてもむだなようだ。ここで得た収穫はわずかなものだったよ。ロンドンに戻ったほうがよさそうだ」
だが、ウーリッチ駅を発つまえに私たちはもう一束の収穫を手に入れていた。駅の出札係が、月曜日の晩に顔見知りのカドガン・ウェストの姿をこの眼で見た、彼はまちがいなく八時十五分発ロンドン橋行きの列車でロンドンヘ向かったと、確信をもって教えてくれたのである。ウェストは三等切符を一枚買い、他に同行者はいなかったという。出札係はその時、彼の興奮してそわそわした様子に、気づいていた。手がぶるふる震えていて釣り銭も受けとれないほどだったから、出札係が手伝って渡してやったという。時間表を参照してみると、ウェストが婚約者と七時半ごろ別れてからすぐ乗れる列車といえば、やはりその八時十五分発の列車がいちばん早いことがわかった。
「もう一度はじめからやり直しだよ、ワトスン」と、黙って三十分ほど考えこんだあとで、ホームズがいった。「いろんな事件をきみと一緒に捜査してきたけど、今度くらいわかりにくい事件にぶつかったのははじめてだ。行けども行けども、その先にまた新しい峰(みね)があらわれるからね。だけど、いくらかは前進していることもたしかだよ。ウーリッチでの捜査は、おおむねウェストに不利な結果が出たんだが、あの窓のところに残っていた跡は、有利な材料になるんじゃないかな。たとえば、ある外国の密偵がすでにウェストと接触していたと仮定しよう。ウェストはそのことを他言しないという約束のもとに接触していたのだろうが、婚約者にもらした言葉からもわかるように、彼の考えは動揺していたんだよ。ここまでの推理は上出来だ。つぎに、こう仮定してみよう。彼が婚約者と劇場へいく途中、霧の中でふと見ると、例の密偵が役所のほうへいくではないか。彼は短気な男だから、決心するのも早い。任務を守るのに何の躊躇(ちゅうちょ)があろう。その男のあとを追って窓のところまでいき、書類が盗み出されるのを見ると、その泥棒を追跡したんだ、こう考えれば、写しが作れるのに、なぜ原本を盗み出すのか、という反論をくつがえすことができる。外部の者なら、原本を盗むよりほかに方法がないからね。ここまではつじつまが合う」
「つぎの展開はどうなる?」
「そこから先で困難にぶつかるんだ。普通の常識では、そういう場合、カドガン・ウェストはまず悪党をとり押さえて誰かに急を告げるという行動をとるはずだよ。なぜ、彼はそうしなかったのか? 書類を持ち出した人物がじつは上役だった、ということは考えられないか? そう考えれば彼の行動はうなずけるんだ。それとも、その上役が霧の中でうまくゆくえをくらましたので、ウェストは先まわりしてその上役の家で待ちかまえようと、ロンドンに急いで発ったのかな? もちろん彼がその上役の家を知っていたと仮定してだよ。ともかく、霧の中に婚約者を置きざりにしたまま連絡をとろうとさえしなかったぐらいだから、よほどさしせまった事情があったんだよ。われわれの追跡も、ここで手がかりを失うことになる。そして、いま検討した二つの仮説と、ウェストの死体が七枚の設計書をポケットに入れて、市内線の列車の屋根のうえにあったという事実との間隙を埋める材料は何もないのだ。こうなったら、今度は逆の方向から勘(かん)を働かせてみよう。マイクロフトに頼んでおいた外国の密偵の住所一覧表が届いていれば、その中からめぼしい相手を選び出して、一方からでなく、二つの方向から追跡してやるさ」
はたして、一通の手紙がべーカー街でわれわれを待ちうけていた。政府の文書配達係が大急ぎでそれを届けたのだ。ホームズはざっと目を通すと、私に投げてよこした。


小物は数知れずいるが、かかる大事件を企む者は少数である。考慮に値する者は次の三名のみだ。
ウェストミンスター区グレート・ジョージ街十三のアドルフ・マイヤー
ノッティング・ヒルのキャムデン荘のルイ・ラ・ロティエール
ケンジントン区コールフィールド・ガーデン十三のフューゴ・オーバスタイン
最後の人物は月曜日はロンドンにいたことが判明しているが、現在は市中にはいないとの報告がある。光明を認めたと聞いて、喜びにたえない。内閣は君の最終報告を今やおそしと待ち望んでいる。王室からも緊急の要望が届いている。必要とあれば、国家は全力をあげて君を支援する。 マイクロフト


「残念ながら」と、ホームズは微笑をもらした。「女王陛下の馬や兵隊を全部繰り出してもらっても、この事件には役に立ちそうもないよ」
彼はロンドンの大地図をひろげて、熱心にのぞきこんでいた。「うむ、これだ!」やがて彼は満足そうにうなずいた。「形勢はやっとこちらに傾いてきたぞ。そうだろう、ワトスン、これでうまくいかないはずがないじゃないか」
彼は急に陽気になって私の肩をぽんと叩いた。「ぼくはしばらく外出してくるよ。なあに、ほんのちょっとした偵察さ。信頼すべき同志にして伝記作者でもあるきみが一緒でなくちゃ、ぼくは大事を決行する気にはなれないからね。ここにいてくれよ。一、二時間もしたら帰ってくるから。時間をもてあますようだったら、原稿用紙とペンをとり出して、ぼくたちがいかにして国家の危機を救ったか、という物語を書きはじめるんだね」
彼がいかにも意気揚々としているので、なぜか私まで楽しくなってきた。私はよく知っているが、彼は日頃からあの謹厳(きんげん)な態度を崩さず、よほどうれしいことでもないかぎり、これほどまで羽目をはずすことはなかったからである。長い十一月の晩、私はじりじりしながら彼の帰りを待った。やっと九時を少しまわった頃、使いの者が短い手紙をとどけてきた。


ケンジントン区グロスター通りのゴルディニ・レストランで食事している。すぐこちらに来てくれないか。金梃子(かなてこ)、カンテラ、鑿(のみ)、ピストルを持参のこと。
S・H・


まっとうな市民ともあろう者が、薄暗く霧につつまれた街路を、こんな物騒な道具を持っていくのだ。私はその道具類を外套の下におし隠して、指定の場所へまっすぐ馬車を走らせた。ホームズは、華美に飾り立てたイタリア風のレストランの、入口に近い小さな丸テーブルに席をとっていた。
「食事はすんだかい? それじゃ食後のコーヒーとキュラソーをつきあえよ。この店の特製の葉巻きを喫ってみたまえ。思ったよりいい味だよ。道具は持ってきたかい?」
「この外套の下に持っているよ」
「上出来だ。これまでぼくのやったことを簡単に説明しておこう。それに、これから何をやるかも教えておくよ。もう君にもわかってるだろうが、ワトスン、あの青年の死体は誰かが列車の屋根に乗せたんだ。そのことは、彼が落ちたのは車輌からではなく屋根からだ、とぼくが確信をもって判断した瞬間からはっきりしている」
「まさか、陸橋から落ちた、なんてことはあるまいね?」
「そんなことはありえないよ。注意して見ればじきにわかるけど、列車の屋根はすこし丸味がついていて、まわりに手すりなんかないんだ。だから、カドガン・ウェスト青年がそこへ乗せられたことは確実だよ」
「どうやってそこへ乗せたんだ?」
「その問題がわからなかったわけだ。考えられる方法は、ただ一つだ。きみも知っているだろうが、地下鉄道はウェスト・エンドのどこかでトンネルから出る。ぼくが地下鉄道に乗った時、たまたまちょうど頭のすぐ上に、どこかの家の窓を見たことをぼんやりおぼえているんだ。そこで、かりに列車がそういう窓の下で止まったとすれば、死体を屋根に乗せるのはさして難しくないんじゃないか?」
「とてもありそうもないよ」
「ほかのあらゆる可能性がだめな場合は、いかにありそうもないことでも、残ったものが真実だ、という例の古い原理に戻らなけりゃならないよ。ほかのすべての可能性がだめだってことは、実証ずみなんだぜ。最近ロンドンを去ったという国際的密偵の大物が、地下鉄道の線路に接して並んでいる家々の一つに住んでいると知った時、ぼくが急に浮き浮きして、きみがいささかびっくりするほど喜んだのもむりはあるまい」
「へえ、そうだったのかい?」
「そうなんだよ。コールフィールド・ガーデン十三のフューゴ・オーバスタイン氏がぼくの目指す相手になったんだ。ぼくはグロスター通り駅で作戦を開始した。とても助けになる駅員がいっしょに線路ぞいに歩いてくれたおかげで、満足すべき事実をつかめたよ。そのひとつは、コールフィールド・ガーデンの家々の裏階段の窓は線路に面しているという事実であり、もう一つのもっと重要なことは、幹線の一つがこの付近で交差しているため、地下鉄道の列車はちょうどこの場所でしばしば数分間の停車を余儀なくされるという事実だ」
「すばらしいぞ、ホームズ! ついにつかんだね!」
「ここまではね……でも喜ぶのは早い、ワトスン。前進はしている、だけどゴールはまだ遠いんだ。さて、コールフィールド・ガーデンの裏側を見おわると、ぼくは表側にまわってみて納得したんだ。思ったとおり、相手は逃げ去っていたよ。そこはかなり大きな家で、ぼくの勘(かん)では、階上の部屋には家具はなさそうだ。オーバスタインは彼の従者と二人だけで住んでいたが、この従者もかなり親密な共謀者だったようだ。ここで覚えていなくてはならないことは、オーバスタインが大陸に渡ったのは獲物を処分するためであって、また舞い戻ってくる余地もあるということだ。逮捕状を恐れる理由もないし、まさかどこかの物好きが家宅捜索をしようとは夢にも思ってはいないだろうからね。ところがあいにく、その思いがけない家宅捜索を、ぼくたちがこれからやろうというんだ」
「逮捕状をもらって合法的にやるわけにはいかないのかい?」
「証拠すらないのに」
「どんな目当てでやるのかね?」
「どんな往復文書が出てくるものやらわからんよ」
「ぼくはそんなこといやだ、ホームズ」
「ねえきみ、道路で見張っててくれるだけでいいんだ。不法侵入のほうはぼくが引きうけるよ。いまは小事にこだわっている時じゃない。マイクロフトの手紙や海軍省や内閣、それに報告を待ちわびている高貴なお方のことを考えてもみろよ。ここはどうしてもやらなきゃならん」
私の返答は、テーブルから立ち上がることであった。
「きみのいうとおりだ、ホームズ。やっぱりやらないわけにはいかない」
彼はとび上がって、私に握手を求めた。
「きみが、最後にしりごみするような男でないということはわかっていたよ」といって、ホームズの眼には一瞬、今まで見たこともないやさしさがひらめいたが、すぐにまたもとの厳(いか)めしい実行家の顔にもどった。
「ここから半マイルほど先なんだが、べつに急ぐまでもない。歩いていこう。道具を落さないでくれよ。警察に挙動不審で捕まりでもすると、ことは面倒になるからね」
コールフィールド・ガーデン一帯は、表面に飾りのない支柱と柱廊式玄関のついた家の建ちならんだところで、こういう様式の建物はロンドンのウェスト・エンドに数多く見受けられるが、ヴィクトリア朝中期の代表的な産物である。隣りの家では子供たちのパーティでもあるらしく、幼い声が楽しげにざわめき、ピアノの音とともに夜の空気に、こだましていた。まわりには霧がまだ立ちこめていて、私たちの姿をうまく隠してくれた。ホームズはカンテラに火をつけ、どっしりした玄関の扉を照らした。
「こいつはやっかいだぜ。錠をかけたうえに閂(かんぬき)までさしこんである。地下の勝手口からはいったほうがよさそうだ。あそこは幸いへこんでいるから、おせっかいな警官が来ても見つからないですむ。ちょっと手を貸してくれ、ワトスン、お次はぼくが手を貸すから」
すぐさま、二人とも地下勝手口に降りた。暗い陰の中に身を隠したかと思うと、上の霧の中から警官の足音が聞こえてきた。そのやわらかなリズムが遠ざかると、ホームズは勝手口のドアをこじあけにかかった。身をかがめてしきりに何事かやっていたが、やがて鋭い音がしてドアが開いた。勝手口のドアを閉めて、私たちは暗い通路の中におどりこんだ。ホームズが先にたって、敷物もついてない曲がりくねった階段を昇った。カンテラの小さな末広がりの黄色い光が、一つの低い窓を照らした。
「ここだよ、ワトスン……ここにちがいない」
彼は窓を開けはなった。すると、遠くからしゅうしゅうという低い音が聞こえてきた。それがだんだん大きくなって轟音(ごうおん)となり、暗闇の中を列車が通り過ぎていった。ホームズが、窓の敷居にさっと光をあてた。そこには、通過する機関車の煤煙(ばいえん)が厚くつもっていたが、その黒々とした表面はところどころ、こすれてうすくなっていた。
「ここに死体をおいたんだよ。おや、ワトスン! これは何だ? これはまぎれもなく血の痕だぞ!」
彼は窓枠についている微かな汚れを指さしていた。「ほら、石の階段にもついているよ。これで証拠はそろった。列車が止まるまでここで待っていよう」
ながく待つことはなかった。そのつぎの列車が、前と同じように、トンネルの中から轟音をひびかせて近づいてきたが、トンネルを出ると速力をゆるめ、それからブレーキをきしませて、すぐ眼の下に停止した。窓と車輌の屋根との間隔は四フィートもなかった。ホームズは静かに窓を閉めた。
「ここまでは、まちがっていなかったぞ」と彼はいった。「どう思うかね、ワトスン?」
「傑作だ。今までの最高だよ」
「その意見には賛成できないね。死体が屋根の上にあったという着想もたいして絶妙とはいえないんだが、いったんそういう着想さえ得たら、あとは必然的にこうなるさ。もしこの事件が国家の一大事という側面をもっていなかったら、事件としてはこれまでのところではめずらしくもないものだろう。困難はまだ終ったわけじゃない。でも、たぶんここで、何らかの手がかりが得られると思うよ」
台所の階段を昇って、二階の、続き部屋にはいった。一つは食堂で、質素な家具があるだけで、とくに興味をひくものはなかった。二番目は寝室で、ここもからっぽだった。残ったもう一つの部屋はもっと期待がもてそうだったので、ホームズは順序立てて念入りに捜査にとりかかった。書物や書類が散らかっており、書斎に使っている部屋と思われた。すばやく手際(てぎわ)よく、ホームズは引き出しや戸棚をつぎからつぎにひっくりかえして中身を調べたが、その厳(いか)めしい顔が成功の喜びに輝くことはなかった。一時間たっても、はかばかしい進展をみせなかった。
「ずる賢い奴め、証拠をすっかり隠したな」と彼はいった。「自分の罪状になるようなものを何ひとつ残していない。危い往復文書は破棄したか持ち去ったかしたんだ。これが最後の望みだ」
それは書き物机にのっている小さな錫(すず)製の金庫だった。ホームズがそれを鑿(のみ)でこじあけた。くるくると巻いた紙が数枚はいっていて、数字や計算がいっぱい書きこまれていたが、それが何に関連したものであるかを示す説明書きはなかった。『水圧』とか『一インチ平方に圧力』とかいう言葉が何回も出てくるので、潜水艇と関係があるのかとも思われた。ホームズは腹立たしそうに、全部それをほうり捨てた。最後に残ったのは一枚の封筒だけで、中には新聞の小さな切り抜きがはいっていた。彼はそれをテーブルの上に振るい落した。するとたちまち、その顔に熱意がみなぎってきて、期待にたがわぬ何かを見つけたことがわかった。
「これは何だろう、ワトスン? えっ? 何だと思う? 新聞広告に出た一連の通信だよ。印刷と紙質から見て『デイリー・テレグラフ』の人事通信欄だ。あのページの上の右隅にいつも出てるやつさ。日付けはない……だけど通信文の出た順序に並べてあるよ。きっと、これが最初だ。


『連絡を待ちかねていた。条件承知す。名刺にある住所に詳報されたし……ピエロ』つぎはこうだ。『複雑ゆえに説明は困難。詳報を送られたし。現物と引きかえに現金を渡す……ピエロ』そのつぎはこうだ。『事態は切迫す。契約の履行なき場合、申込を撤回するほかなし。面会日を書簡で通知せよ。当方広告にて必ず返事す……ピエロ』最後はこれだ。『月曜日夜九時以後。二度たたけ。吾等のみ在室。疑惑は不要だ。現物と引きかえに現金を支払う……ピエロ』


これこそ完全な記録だよ、ワトスン、めざす相手のこの男をつかまえられたらなあ!」彼はテーブルを指でこつこつ叩きながら、しばらく物思いにふけっていた。やがて彼は、勢いよく立ちあがった。「まあ、ここまでくれば、あとはたいして難しくはあるまい。ここにはもう用はないよ、ワトスン。『デイリー・テレグラフ』社へ馬車を廻して、幸運に恵まれた今日一日の仕事を締めくくるとしよう」
翌日の朝食後に、打ち合せどおりマイクロフト・ホームズとレストレードがやってくると、シャーロック・ホームズは前日の私たちの行動を語って聞かせた。私たちがまさしく夜盗の真似をしたことに、本職の警部はさすがに首をかしげた。
「われわれ警察のものには、そんなことはできかねますな、ホームズさん。それじゃ、あなたがわれわれ以上の成果をあげるのも不思議じゃないです。でも、やりすぎますと、いつかはあなたもワトスンさんも厄介なことになりかねませんぞ」
「愛する英国、この美しき祖国のためだ……ね、ワトスン? この身を祖国という祭壇にささぐるを喜ばんかな、だ。ところで兄さんはどう思います?」
「すばらしいよ、シャーロック! みごとだ! だけど、それをどう利用するつもりかね?」
ホームズはテーブルの上にあった『デイリー・テレグラフ』をとりあげた。
「ピエロが出したきょうの広告を見ましたか?」
「なんだって? また出たのか?」
「そうです、これですよ。『今晩時間と場所は同じ。二度たたけ。事はきわめて重要。きみの身の危険に関わる……ピエロ』と出ている」
「なるほど!」と、レストレードが叫んだ。「これを見て相手がやってくれば、そこをわれわれが捕まえる!」
「そのつもりでぼくが出したのですよ。ふたりとも、今夜八時ごろコールフィールド・ガーデンにきてもらえれば、きっと解決に一歩近づけますよ」
シャーロック・ホームズのきわめて注目すべき特徴の一つは、これ以上努力しても無駄だと悟ったら、その途端に頭を休めて、即座に考えをより軽いもののほうへきりかえることができる能力である。あの忘れることのできない日の朝から夕方まで、ホームズはかねてより執筆中であったラサス(イタリアの作曲家、推定一五三二〜九四、声楽曲の巨匠として知られる)の多声聖歌曲の論文に没頭していたことが私の記憶に残っている。私のほうは、とてもそんな冷静な力など持ち合わせていないので、その日は無限に長い一日に思われた。事件がもたらす国家的な重大性とか、高貴なかたがたの焦慮とか、私たちの試みている実験への不安とか……すべてが絡(から)みあって私の神経を悩ましつづけた。それで、軽い夕食をすませて、やっと探索に出かけた時には、私はほっとした気持だった。
レストードとマイクロフトは、打ち合せどおりにグロスター通り駅のまえで私たちを待っていた。オーバスタインの家の地下勝手口のドアは、前夜から開けたままになっていたが、マイクロフト・ホームズが手すりを乗りこえるなんて絶対にいやだと憤然と拒絶したので、私は中にはいって玄関の扉を開けてやらねばならなかった。九時には全員が書斎に腰をおろして、相手の出現を根気よく待った。
一時間が過ぎ、さらに一時間が過ぎた。十一時の鐘が鳴った。教会の大時計が打ち鳴らす韻律正しい鐘の響きは、私たちの希望に無情な挽歌を奏(かな)でているように聞こえた。レストレードとマイクロフトは椅子に落ちついて掛けてはおれず、そわそわと懐中時計ばかり見ていた。ホームズは無言で冷静に待機し、眼はなかばとじていたが、全感覚をとぎすませていた。突然彼は頭をあげた。「来たぞ」と彼はいった。
ひそやかな足音が玄関を通りすぎ、そしてまた引返してきた。玄関に足をひきずるような音が聞こえ、つぎに叩き金をするどく二度たたく音がした。ホームズは、私たちにそのまま坐っているように手で合図して、立ちあがった。明かりらしきものは、廊下に灯っているガス灯だけであった。ホームズは玄関を開け、黒い人影がすべるようにはいると、扉を閉めて鍵をかけた。「こちらヘ!」という彼の声がし、しばらくして、その男は私たちの前に立った。ホームズは男のすぐあとにつづいてきたが、男が驚いて叫び声をあげて身を翻(ひるがえ)すと、襟元をつかんで部屋の中に引きずり戻した。相手がよろけているうちにドアを閉めて、ホームズはそれに背中をあてて立ちふさがった。男はまわりをじろりと見まわし、よろめいたと思ったら、気を失って床に倒れた。その拍子に縁の広い帽子がふっ飛び、口もとから首巻きがすべり落ちて、ヴァレンタイン・ウォルター大佐の長くてうすい顎(あご)ひげとやわらかで繊細な感じの美貌が現われた。
ホームズは驚いて口笛を鳴らした。
「今度ばかりはぼくのことをばかだと書いてもいいよ、ワトスン。こんな奴をつかまえようとは思ってもみなかったよ」
「誰なんだい、この男は?」と、マイクロフトは身をのりだすようにしてたずねた。
「潜水艇建造部長だった故ジェイムズ・ウォルター卿の弟ですよ。うむ、これで敵の手のうちがよめたぞ。正気づいてきたようだ。この男の取り調べはぼくにまかせてほしい」
倒れた男の身体を、われわれはソファに運んだ。男は起きあがって、恐怖にうたれた顔つきでまわりを見まわし、額に手をあてて、自分がこうなったのが信じられない様子だった。
「これはいったいどうしたというのです?」と、彼はたずねた。「わたしはオーバスタイン氏を訪ねてきたんだが」
「もう何もかもわかっているんです。ウォルター大佐」と、ホームズはいった。「英国紳士たる者がこんなことをなさるとは、まったく信じがたいことです。しかし、あなたとオーバスタインとの文通や関係は、何もかもこちらにはわかっています。それにカドガン・ウェスト青年の死にまつわる事情もまた同様です。細かい点であなたの口からしか聞けないこともまだ残ってますから、あなたはこの機会に、自分の罪を認め、自白することで、少しでも心証をよくしておかれるようにお勧めします」
男はうめき声をあげ、両手に顔をうずめた。私たちは待ったが、彼はおし黙ったままだった。
「はっきりいっておきますが」とホームズがいった。「大事なところは、すっかりわかっているのですよ。あなたが金に困っていたことも、ご令兄の持っておられた鍵の型をとったことも、オーバスタインと文通を始めたことも、オーバスタインが『デイリー・テレグラフ』の広告欄を使ってあなたに応答していたことも、のこらずわかっています。月曜日の夜、あなたは霧の中を役所へ行かれました。ところが、あなたはカドガン・ウェスト青年に姿を見られ、あとをつけられましたね。あの青年には、かねてからあなたを疑う理由があったんでしょうな。彼はあなたが書類を盗み出すのを見たが、その書類をロンドンのご令兄のところへ持っていくのかもしれないと考えて、ほかの人に急を知らせるわけにもいかなかった。彼は善良な市民だけに、個人的な用事は一切投げうって、霧の中をあなたのすぐあとについて尾行していくと、あなたはこの家にはいっていったのです。そしてその時、彼が干渉してきたので、ウォルター大佐、あなたは売国行為のみならず、さらに恐るべき殺人という罪までも犯したんです」
「わたしじゃない! わたしじゃない! 神に誓ってわたしじゃない!」と、哀れな罪人は叫んだ。
「では、カドガン・ウェストが列車の屋根にのせられるまえに、どうして死んだのか話してください」
「話しますとも。誓ってほんとうのことを話します。殺し以外のことは、たしかにわたしがやったと認めます。あなたのいわれるとおりです。株式取引所の借金の返済にせまられていたんです。ぜひとも金が必要でした。オーバスタインが五千ポンド出そうといいました。その金で身の破滅を免れようとしたんです。しかし殺人については、わたしはまったく無実ですよ」
「では、何があったんです?」
「彼はかねてからわたしに疑惑をいだいていて、おっしゃるとおり、あとをつけてきたんです。わたしのほうは、この家の玄関に着くまで、つけられていることに少しも気づきませんでした。霧が深くて、三ヤード先も見えなかったんです。わたしが扉を二度たたくと、オーバスタインが出てきました。その時ウェストが飛びこんできて、その書類をどうするつもりか、と詰問しました。オーバスタインはいつも短い護身用の杖(つえ)をもっていて、手許から離したことがありませんでした。ウェストがわれわれのあとを追って家の中にはいりこんできた時、オーバスタインは、その杖で彼の頭を打ちました。その打撃は致命的でした。彼は五分もたたぬうちに死んでしまいました。彼の倒れているところが広間だったので、この死体をどう処置したらいいか、われわれは途方にくれました。それでオーバスタインが思いついたのが、裏窓の下に停まる列車を利用することでした。だがそのまえに、彼はまずわたしが持ってきた書類に眼をとおしました。その中の三枚が重要だから、自分がもらっておくといいました。『やるわけにはゆかぬ。それを戻しておかないと、ウーリッチでは大変な騒ぎになる』と、わたしがいいました。
『いや、おれがもらっておく。こんな専門的な書類は、かぎられた時間じゃ写しなんか作れないからね』
『でも今夜じゅうに全部を返しておかなくちゃ』と、わたしがいいました。彼はしばらく考えてましたが、やがてわかったと叫んでこういいました。
『三枚はおれがもらっておく、あとの残りはこの青年のポケットにねじこんでおこうじゃないか。そうすりゃ死体を見て、誰だって、すっかりこの男のしわざだと思うだろうからね』
ほかにいい方法もないので、彼のいうとおりにしました。
われわれは窓のところで三十分も列車が停まるのを待っていました。霧が深くて誰から見られる心配もなく、じつに簡単に、ウェストの死体を列車の屋根にのせることができました。わたしに関するかぎり、これで事件は終りです」
「それで、ご令兄は?」
「兄は何も申しませんでしたが、以前私が鍵を持っているところを見つけたことがありますので、あるいは疑っていたかと思います。兄の眼を見て疑っているのがわかりました。結果はご承知のように、兄は二度と頭を上げることができませんでした」
部屋の中は沈黙につつまれた。それを破って発言したのはマイクロフト・ホームズだった。
「罪の償いをできませんか? そうすれば良心の苦しみもやわらぎ、罰も軽くなるだろうがね」
「わたしにどんな償いができるでしょうか?」
「オーバスタインは設計書を持ってどこにいったのです?」
「知りません」
「行きさきは教えなかったのですか?」
「自分あての手紙はパリのルーブル・ホテル気付けで届くといっていました」
「それなら、償いをすることはまだ可能ですよ」と、シャーロック・ホームズがいった。
「できることなら何でもいたします。あいつに好意を示さねばならないような特別の理由はありません。わたしを破滅させ没落させたのは、あいつのせいです」
「ここに紙とペンがあります。この机で、ぼくのいう通りに書いてください。封筒の宛名は、さきほどのを書くんです。それでけっこう。文面はこうです。

『拝啓 今回の取引に関してご連絡いたします。
貴殿も今ではもちろんお気づきと存じますが、重要な詳細図が一枚欠けております。私の手許に複写図が一枚あるのですが、これがあれば完全なものになります。しかし、これを入手するに際しては、また新たな苦労を要したのですから、さらに五百ポンドを前金でお支払いいただかねばなりません。郵便による送金は信用いたしかねますし、支払いも金貨か紙幣以外のものはお断りいたします。そちらに出向いてもよろしいのですが、いま私が本国を離れると、ことさら人々の注意をひく結果になることは目にみえています。そこで土曜日の正午、チャリング・クロス・ホテルの喫煙室でお会いしたいと思います。英国紙幣か金貨以外のものでは受けとりかねますことを忘れないで下さい』

それで結構です。これを見て相手がやってこなかったら、まさに不思議というもんですよ」
はたして、そのとおりだった! このことは歴史上の事実となっていて……未公開の挿話といえる一国の秘史が、公開された編年史よりも、はるかに親しみぶかくおもしろいということはよくあるが……やはりオーバスタインは生涯に二度とない大手柄を成就せんものと、誘いに乗っておびき寄せられ、英国の牢獄に十五年間つながれることになった。彼の鞄(かばん)の中から、値のつけようもないほど貴重なブルース・パーティントン設計書が発見されたが、彼はこれを全ヨーロッパの海軍省に競売に出していたのだった。
ウォルター大佐は、刑期の二年目を終えるころに獄死した。ホームズはというと、彼はさわやかな気分でラサスの多声聖歌曲の研究にもどったが、やがてその論文は自費で出版され、専門家の間では、この分野の研究としては今後ともこれが最高のものであろうといわれている。
事件が解決して数週間たったころ、私は偶然に知ったのだが、ある日ホームズはウインザー城で一日をすごして、すばらしく立派なエメラルドのネクタイピンをつけて戻ってきたことがあった。買ったのかい、と私がたずねると、彼は、さる慈悲深い貴婦人からの贈り物なんだよ、以前ぼくはその貴婦人のためにちょっとした頼まれ事をしてさしあげたことがあるんだが、幸いにもそれをうまく果たしたことのお礼だよ、という返事だった。彼はそれ以上くわしいことは明かさなかった。だが、私にもその貴婦人の尊い名前はすぐに言いあてることはできるだろうし、もちろんわが友にとっても、そのエメラルドのネクタイピンは、永久にブルース・パーティントン設計書事件を思い出させる記念の品であろう。
瀕死の探偵

シャーロック・ホームズの下宿の女主人のハドスン夫人は、じつに長いあいだ、さんざん辛抱してきた女だった。二階の部屋には時間の見さかいもなく、いろんな奇妙な人物、時には好ましからぬ人物が押しかけてくるし、また、その下宿人が並みはずれた人物で、その日常がなにしろ風変わりで不規則とあっては、彼女の苦労も生やさしいものではなかったろう。部屋はあきれるほど乱雑だし、変な時刻に音楽に熱中するし、時には部屋の中で拳銃の射撃練習をやるし、気味の悪い、時としては悪臭を発する科学実験をやるし、おまけに身のまわりにはいつも危険と暴力の雰囲気がつきまとっているのだから、彼はたしかに、ロンドンでいちばんひどい下宿人にちがいなかった。ところがその反面、下宿料のほうは、じつに気まえよく支払っていた。私と同居していた何年かの間にホームズが支払った金額だけで、おそらくあの家を買いとることができたであろう。
ハドスン夫人は、心から彼を畏敬していて、彼がどんなに目にあまることをした時でも、けっして余計な口出しをしようとはしなかった。彼に好意をもっていたこともたしかだが、それも、ホームズが女性に対してきわめて優しく礼儀正しかったからである。彼は女がきらいで、信用もしなかったが、それでいていつも騎士道的な精神をもった敵対者だった。彼に対するハドスン夫人の尊敬の念がいかに純粋であるかを知っていたからこそ、私の結婚生活の二年目に、彼女が訪ねてきて、ホームズの容態が気づかわれると語った言葉に、私は思わず身をのりだすように耳を傾けたのであった。
「今にも死にそうなんです、ワトスン先生。この三日間というもの、衰弱していく一方で、あと一日もつかもたないかという状態ですの。それでいて、どうしても医者を呼ばせないんですからね。けさも、骨ばかりとんがったお顔に、大きな目玉を光らせて、わたしをごらんになるんですもの、もうじっとしておれなくなりました。『あなたのお許しがあろうとなかろうと、ホームズさん、すぐにでも医者を呼んできます』と申しあげますと、『じゃあ、ワトスン君にしてください』とおっしゃったんです。一刻の猶予(ゆうよ)もなりません。すぐにかけつけてください。さもないと、先生、死に目にも会えないかもしれませんよ」
ホームズがまさか病気しているとは知らなかったので、私はびっくりしてしまった。大急ぎで外套と帽子を手にとったのはいうまでもない。馬車で一緒に戻っていきながら、私はくわしいことをたずねた。
「わたしにもちっともわかりませんわ。ホームズさんは、あの川べりのロザーハイスの町で何かの事件を調べておられたのですが、お帰りになった時にあの病気を背負いこんでこられたんです。水曜日の午後から床についたきり、起きあがることもできないでいます。この三日間、食事も飲みものも咽喉(のど)を通りません」
「それは大変だ! どうして医者にみせなかったんです?」
「医者なんかいらぬ、とこうおっしゃるのです。なにしろ我の強いかたでございましょう、とても逆らえるものではありませんわ。でも、あのご様子じゃ長いことはありませんわ。ごらんになればすぐにおわかりになるでしょうが」
彼の様子は見るからに痛ましいものであった。霧深い十一月の午後の薄明りの中で、病室も陰気であったが、寝台からこちらをみつめているやせ衰えた彼の顔を見たとたんに、私は心臓が凍る思いがした。眼は熱病の光をたたえ、両の頬には病的な紅潮がみられ、唇には黒いかさぶたが付着していた。掛け蒲団のうえに投げだしたやせた手が絶えまなく痙攣(けいれん)しており、声はかすれてとぎれとぎれであった。私が部屋にはいっていった時、彼はぐったりしていたが、こちらを見て眼が一瞬光りを帯びたのは、私であることを認めたからであった。
「どうやら、ワトスン、とうとう来るべき日が来たらしいぜ」と弱々しい声でいったが、それでもどこかにいつもの無神経な調子が残っていた。
「何てことをいうんだ!」と私は叫びながら、彼のほうへ歩みよった。
「そばへ寄っちゃだめだ! 離れてるんだ!」と、彼は危険を感じた瞬間にしかみせない、あのけわしい、命令するような口調でいった。「ワトスン、そばに寄ったら、出ていってもらうよ」
「でも、どうしてなんだ?」
「そうしてもらいたいからさ。それだけの理由じゃ、ご不満かね?」
やはり、ハドスン夫人のいうとおりだった。彼は以前にもましてわがままになっていた。だけどやはり、彼の衰弱しきった姿を見るのは痛ましかった。
「何とか手助けしてやりたいと思ったんだが」と、私は弁明した。
「だからこそいってるじゃないか! ぼくのいうとおりにしてくれるのが、いちばんぼくのためなるんだ」
「わかったよ、ホームズ」
彼はきびしい態度をやわらげた。「怒ってはいないだろうね?」と苦しそうに息をしながら彼はたずねた。
気の毒に、こんな哀れな姿で寝ているのを見て、どうして怒る気になれよう!
「きみのためを思って、こういってるんだ、ワトスン」と、彼はしわがれた声でいった。
「ぼくのためだって?」
「自分がどんな病気か、ぼくにはわかっているんだ。スマトラの苦力(クーリー)病なんだ……この病気については、ぼくらよりオランダ人のほうがよく知っている。もっとも、オランダでも今日まであまり研究はされてないがね。ただ、一つはっきりしていることがある。それは、これにかかったら、かならず死ぬし、おそろしい伝染力があるということだ」
彼は熱っぽく興奮して語りながら、長い手をしきりにふるわせて、私を遠ざけようとした。
「さわると伝染するよ、ワトスン……さわるだけでね。離れてさえおればいいんだ」
「ひどいことをいうじゃないか、ホームズ! ぼくが、そんなことを恐れて一瞬でもたじろぐとでも思っているのかい? 見も知らぬ患者を相手にする時でも、ぼくは平気なんだよ。まして昔からつきあっているきみに、このぼくが友人としての務めをはたさないでおれると思うのかね?」
ふたたび私はそばへ歩み寄ったが、彼はおそろしい権幕(けんまく)で私を追い返した。
「きみがそこに立っていてくれるなら、ぼくは話をしてもいい。だけどそうしてくれないのなら、部屋から出ていってくれ」
私はホームズの並みはずれた能力に深い敬意をいだいているので、たとえわけがわからない場合でも、彼の希望に逆らったことはなかった。しかしこの場合は、私の医者としての本能が承知しなかった。ほかの場合なら彼のいうとおりにもしてやろう。だが、少くとも病室では、私が彼の主人であるはずだ。
「ホームズ」と私はいった。「きみは普通のからだじゃないんだよ。病人は子供とおんなじなんだから、ぼくにまかせてくれ。きみが好むと好まざるとにかかわらず、ぼくは病状を診察して、きみを治療するよ」
彼は意地の悪い眼で私を見た。
「どうしても医者にかからねばならないのなら、せめて信頼できる医者を呼んでほしいな」と彼はいった。
「じゃあ、ぼくをぜんぜん信頼できないというのかい?」
「きみの友情には信頼がおけるよ。だけど事実は事実だからね、ワトスン。けっきょくのところ、きみはきわめて経験の浅い、医者としても世間並みの資格しか持っていない、全科開業医にすぎないんだ。こんなことをいうのは厭(いや)なんだけど、こういわざるをえなくしたのはきみなんだからね」
私はひどく自尊心をきずつけられた。
「そんなことをいうなんて、きみらしくもない、ホームズ。そういう態度からみても、きみの精神状態がはっきりわかるよ。でも、きみがぼくを信頼できないなら、ぼくはむり強(じ)いはしないよ。ジャスパー・ミーグ卿でもペンローズ・フィッシャーでもいい、とにかくロンドンで最高の名医を呼んでくるさ。でも、誰かに診てもらわねばならんことは、絶対にたしかなんだ。ぼくが自分で治療もしてやらず、誰かほかの医者を呼んで治療させることもしないで、ここに立ったままきみの死ぬのを見ているとでも思ったら、それこそきみは友人を見そこなったというものだよ」
「きみの好意はありかたいがね、ワトスン」と、病人はすすり泣きともうなり声ともつかない声でいった。「きみの無学をわからせてあげようか? タパヌリ熱とはどんな病気か知っているかい? 台湾の黒爛病(こくらんびょう)ってどんな病気かい?」
「どっちも聞いたことがないな」
「東洋には疾病(しっぺい)に関してはさまざまな問題があるし、不思議な病理学上の可能性もあるんだよ、ワトスン」と彼は、衰えていく力をふりしぼるようにして、とぎれとぎれに喋った。「ぼくは最近犯罪医学に関する研究をしているうちに、これだけの知識を得たんだ。この病気にかかったのも、その研究をやっている最中だったんだ。とてもきみの手に負えないよ」
「そうかもしれないね。でも、ぼくはたまたま知っているんだけど、熱帯病に関しては現在では最大の権威者といわれるエインストリー博士がいまロンドンに滞在中だ。どんなに反対してもむだだよ、ホームズ、ぼくはいますぐこの人を呼びにいくからね」
あんなにびっくりしたことはなかった! 死にかけている男が、一瞬のうちに虎のように猛然と身を躍(おど)らせて私をさえぎった。かちりと鍵をまわす鋭い音がした。次の瞬間、彼はよろよろと寝台にもどっていき、一挙におそろしいほどの精力を出しつくしたので、ひどく疲れてあえいでいた。
「まさか力づくでこの鍵を奪いとるとはいわないだろう、ワトスン? さあ、きみをつかまえたぞ。もう出られないよ。ぼくの気が変わるまで、ここにいてもらうよ。だけど、きみのご機嫌はとるよ」(あえざあえぎ、やっとの思いで息をつぎながら、どうにかこれだけのことがいえたのだった)「きみは心からぼくのためを思ってくれている。もちろん、それはよくわかっている。きみの好きなようにさせてあげるから、ぼくが元気になるまであとしばらく待ってくれ。いまはだめだ、ワトスン、いまはだめなんだ。いまは四時だ。六時になったら、出ていってもいいよ」
「これじゃまるで気ちがいざただよ、ホームズ」
「たった二時間だ、ワトスン。六時になったら出ていっていいと約束するよ。待ってはくれないのかい?」
「どうしようもないようだね」
「そうだとも、ワトスン。いや、ありがとう、蒲団ぐらい自分でなおせるよ。離れていてほしいんだ。ところでワトスン、あと一つ条件があるんだがね。医者を呼ぶんだったら、きみが名前をあげた人じゃなくて、ぼくが選んだ人物にしてほしいんだ」
「いいとも」
「この部屋にきてから、やっと物わかりのいい返事をしてくれたね、ワトスン。あそこに本があるよ。ぼくはちょっとばかりくたびれたよ。蓄電池か不良導体に電流を流す時にはこんな感じがするものなのかな?六時になったら、ワトスン、また話を始めよう」
ところが思いがけないことに、その六時を待つまでもなく、先ほどホームズが扉のところへ飛んでいった時にも劣らぬくらいに私をびっくりさせる出来事がもちあがって、私たちは話を再開することになったのである。私は立ったまま、しばらくベッドの中の無言の病人を眺めていた。顔を蒲団に隠すようにして、彼は眠っているらしかった。それから私は、落ちついて本を読む気にもなれないので、部屋の中をゆっくりと歩きまわって、四方の壁を飾っている名高い犯罪者の写真を眺めた。そうやって何気なく歩きまわっているうちに、最後に、マントルピースのところへきた。パイプや煙草入れや注射器やペーパーナイフや拳銃の薬莢(やっきょう)など、その他のこまごましたものが散らかっていた。そのまん中に、すべり蓋(ぶた)のついた黒と白に彩られた小さな象牙(ぞうげ)の箱があった。かなり精巧にできた小箱だったので、もっとよく見てやろうと思わず手をのばした、その瞬間……
恐るべき叫び声……通りまで聞こえたんじゃないかと思えるほどの大声……を、ホームズがあげたのである。その恐ろしい声を聞いて、私は皮膚が冷たくなり、頭髪が逆立ってしまった。振りかえってみると、ホームズのひきつった顔と狂気じみた眼がちらりと見えた。私はその小箱を手にしたまま、茫然としてその場に立ちすくんだ。
「それを置くんだ! すぐにだ、ワトスン! 今すぐといってるんだ!」
私が小箱をマントルピースの上にもどすと、彼はまた頭を枕に深々と埋めて、ほっと安堵(あんど)のため息をもらした。「ぼくは自分のものにさわられたくないんだ、ワトスン。きみもよく知ってるはずじゃないか。きみのすることは神経にさわるよ。きみは医者だろう……その医者が患者を精神病院へ追いやるようなことをしてるんだよ。まあ、すわりたまえ。そしてぼくを休ませてくれよ!」
この出来事は私の心にはなはだ不愉快な印象を残した。なんでもないことでひどく興奮したあげく、日ごろのあの柔和な言葉づかいとはおよそ遠い、こんな暴言を吐くなんて、彼の精神の混乱はよほど深刻なのだ。およそ何が悲惨といっても、精神の高貴さを破滅させることほど悲惨なものはない。約束の時間が過ぎるまで、私はがっかりした気持で黙ってすわっていた。ホームズも私と同じように時計を見ていたにちがいない。だから六時になるかならないうちに、彼は前と同じように熱に浮かされた調子で話しはじめたのだ。
「ところで、ワトスン、ポケットに小銭をもってるかい?」
「あるよ」
「銀貨は?」
「たくさんあるよ」
「半クラウン銀貨は何枚ある?」
「五枚」
「ああ、たったそれだけ! それだけかね! じつにお気の毒だね、ワトスン! だが、それだけでもいい、それを懐中時計用ポケットに入れるんだ。そして残りのお金は全部、ズボンの左ポケットに入れたまえ。そう、それでいい。それでこそきみのバランスがよくなるというもんだよ」
それは狂気のたわ言だった。彼は身を震わせて、またしても咳(せき)ともすすり泣きともつかぬ音をたてた。
「ガス灯をつけてくれるかい、ワトスン。でもよく気をつけるんだよ。ほんの一瞬でも、明かるさを半分以上にしてはいけないよ。いいかい、気をつけてくれよ、ワトスン。ありがとう、それでけっこうだ。いや、窓おおいは降ろさなくってもいいんだよ。それから、書類と手紙を持ってきて、このテーブルの、ぼくの手のとどくところに置いてくれるかい。ありがとう。こんどは、マントルピースの上にあるあのがらくたを少し、ここにね。それでけっこうだ、ワトスン! そこに角砂糖ばさみがある。それであの象牙の小箱をはさんで、持ち上げてくれないか。そう、それをこの書類の間に置いてくれ。よし、けっこうだ! さあ、これできみに出かけてもらえるよ。ロウア・バーク街十三番地のカルヴァートン・スミス氏を呼んできてくれないか」
正直なところ、私は、医者を呼びたいという気持をいくぶん失くしかけていた。というのは、かわいそうにホームズの精神錯乱がこれほどはっきりしているのに、彼を残して私が出かけるのは危険だと思われたからである。ところがホームズは、前に医者を呼ぶのを頑固に拒絶したのと同じくらい強硬に、こんどは自分の名ざした人物に診てもらうといってきかなかった。
「そんな名前は聞いたことがないよ」と私はいった。
「ないだろうね、ワトスン。現在この病気にもっとも精通している人物が、じつは医者じゃなくて農園主だと聞いたら、きみは驚くだろうね。カルヴァートン・スミス氏というのは、スマトラに居住している有名な人物で、いまロンドンを訪問中だ。医師の手当も満足に受けられないような辺鄙(へんぴ)なところにある彼の農園で、この病気が発生したんだ。それがきっかけで彼は自らそれを研究して、いまではかなり広範囲にわたる成果をあげている。彼はとても計画的なやり方をする人なんだ。きみを六時前にいかせたくなかったのも、いっても彼が研究室にいないのがわかってたからだよ。きみが彼をうまく説得してここへ連れてきて、この病気の研究を何ものにもかえがたいほどの道楽にしている彼から、その無類の経験の恩恵を受けることさえできれば、まちがいなくぼくの命は助かるんだ」
私はホームズの語ったところを、あたかも彼がそのとおり続けざまに話したかのようにここに記述しているものの、じっさいには彼は息苦しくあえいだり、苦痛をうったえるように両手をかたく握りしめたりして、話す言葉もとぎれがちだったのであり、その様子を伝えようとはしなかった。私といっしょにいたこの二、三時間のあいだに、彼の容態はますます悪くなっていた。熱病性の赤い斑点はいよいよ目立ってきて、眼はさらに落ちくぼんでますます異様に輝いてきたし、額には冷汗が光っていた。それでも、彼はあくまで快活な雄々(おお)しい言葉づかいを忘れなかった。最後の最後まで、彼は見上げた人物でありたかったのだ。
「彼に会ったら、ぼくの容態のありのままを話すんだよ」と彼はいった。「きみの心に焼きついているそのままを、つまり死にかけている男……死にかけて精神錯乱を起こしている男……という印象を伝えるんだ。それにつけても、大海の底がどうしてびっしりと牡蛎(かき)で埋まってないのか、ぼくには不思議でならんよ。あんなに繁殖力が強いのに! ああ、ぼくはさまよっていく! 頭脳が頭脳を支配するなんて、おかしいぞ!ところで、ぼくは何をいっていたのかな、ワトスン?」
「カルヴァートン・スミス氏を呼びにいくための指示だよ」
「ああ、そうだ。そうだったな。ぼくの生死がかかっているんだ。ぜひともきてほしい、と頼んでくれ、ワトスン。ぼくと彼とは、おたがいに気まずい感情を持っているんだ。彼の甥(おい)のことがあってね……邪(よこしま)なことをやっているとぼくは疑いをもったので、それを彼に悟らせたんだ。するとその青年がむごい死にかたをしちまった。そんなわけで彼はぼくを恨んでいる。彼をうまく宥(なだ)めてほしいんだ、ワトスン。頭をさげ、手を合わせて頼んで、なんとしてもここへ連れてきてくれ。ぼくの生命を救いうるのはあの男だ……あの男だけなんだ!」
「いざとなったら、馬車に押しこめてでも連れてくるさ」
「そんなことをしちゃだめだよ。うまく説きふせて連れてくるんだ。承知させたら、きみはあの男よりひと足さきに帰ってきてくれよ。なんとか口実をもうけて、あの男と一緒にこないようにしてくれ。ここが肝心なんだよ、ワトスン。ぼくの期待にそむかないでくれ。今までだってぼくの期待にそむいたことは一度もなかったじゃないか。もちろん、自然界には諸生物の増殖をくいとめる天敵というものがあるさ。きみとぼくは、ぼくらなりの務めをはたしてきた。それとも、この世界に牡蛎(かき)をはびこらせてもいいというのか? いやいや、それはひどいぞ! きみは思ったとおりのことをそのまま先方へ伝えてくれればいいんだ」
すぐれた知性の持主が、まるで愚かな子供みたいに、わけのわからぬことを口走っているのだ。そんな思いに胸を痛めながら、私は彼をのこして出ていかねばならなかった。鍵を渡してくれたので、これ幸いと思って、私はそのまま持って出た。彼が中から鍵をかけて私を閉め出しでもすると面倒だからである。
廊下へ出ると、ハドスン夫人が立ったまま身を震わせて泣いていた。部屋を出た私に追いすがるように、ホームズが錯乱状態で何やら歌っているようなかん高くほそい声が聞こえてきた。玄関で、私が口笛を吹いて馬車を呼んでいると、霧の中から一人の男が近づいてきた。
「ホームズさんの容態はいかがですか?」と、彼はたずねた。その男は古くからの知りあいの、警視庁のモートン警部で、ツイード製の私服を着ていた。
「重態ですよ」と、私は答えた。彼はじつに妙な顔つきで私を見つめた。彼が悪魔のような男だとは思えなかったが、玄関の扇形の欄間(らんま)からもれる光に照らしだされたその顔は、もしかすると喜んでいるのじゃないかと疑いたくなるような表情をたたえていた。
「そんな噂(うわさ)をうすうす聞いてはおりました」と、彼はいった。辻馬車が停まったので、私は彼と別れた。
ロウア・バーク街は、ノッティング・ヒルとケンジントンの、どちらとも境界のはっきりしない位置にある、立派な家のたちならんだところだった。御者が馬車をつけたのは、古風な鉄の柵(さく)とか、どっしりした両開きの扉とか、ぴかぴか光る真鍮(しんちゅう)の金具などに、とりすました重々しい感じをただよわせている、ひときわ目立つ家だった。そういう全体の雰囲気にじつによく調和していたのは、色つき電灯の淡紅色のまばゆいばかりの光を背にうけて姿をみせたもったいぶった執事であった。
「はい、カルヴァートン・スミス氏はご在宅です。ワトスン先生とおっしゃいますね。はい、かしこまりました。ご名刺をおあずかりいたします」
小生の名前と肩書きでは、カルヴァートン・スミス氏の心を動かす力はなかったらしい。半開きになった扉から、かん高い、気むずかしい、よくとおる声が聞こえてきた。
「どんな人かね? なんの用だ? これ、ステープルズ! 研究の時間中は誰にもじゃまされたくないと、あれほどいってあるじゃないか!」
そのあと執事が静かにとりなしている声が聞こえてきた。
「いや、会うわけにはいかん、ステープルズ。こんなことで仕事をじゃまされては困るんだ。わしはいま家にはおらん、とそういいなさい。もしどうしても会いたければ、牛前中にくるようにいいなさい」
また執事の静かにささやく声がした。
「じゃあ、こう伝えればいい。午前中ならこられてもいいけど、そうでなきゃくるな、とね。わしの仕事をじゃまされたりしてはたまらん」
私は、病床でもだえながらこの男を連れて帰るのを、いまかいまかと待ちかねているホームズのことを思った。礼儀などにこだわっている場合ではない。彼の生死は、ここで私が機敏に行動するかどうかにかかっているのだ。執事が弁解がましく伝言をのべるのを待たずに、私は彼を押しのけて部屋へはいっていった。
鋭い怒りのわめき声を発して、ひとりの男が暖炉のそばの寝椅子から立ちあがった。大きな黄色い顔はきめが荒く脂(あぶら)ぎっており、ふとった顎(あご)が二重にたるみ、房々した砂色の眉の下から無愛想な灰色の二つの眼が、脅(おびや)かすように私をにらんでいた。禿げあがった頭の、片側のピンク色をした丸みのうえには、小さなビロードの喫煙帽が、斜めに傾いてちょこなんとした格好でのっていた。頭部はとてつもなく大きいが、眼を下のほうに移すと、驚いたことに、からだつきは小さく貧弱で、肩と背中が曲がっており、子供のころに佝僂病(くるびょう)にかかった人のようであった。
「いったいこれはなにごとです?」と、彼はかん高い金切り声をあげた。「どうして断りもなくはいってきたんです? 明日の朝なら会ってもいいと伝えたじゃないか」
「申しわけありません。でも、今すぐでないと手遅れになるんです。じつはシャーロック・ホームズ君が……」ホームズの名前を出したとたん、この小柄な男はなみなみならぬ関心を示した。顔からたちまちのうちに怒りの色が消えうせて、緊張したただならぬ表情に変わった。
「ホームズのところからこられたのか?」
「ついさっき出てきたところです」
「ホームズの身に何か? どうしたんです?」
「病気で危篤状態です。だからお伺いしたんです」
男は私に椅子をすすめ、自分ももとの椅子にあらためて坐りなおした。そのとき彼の顔が、マントルピースの上の鏡に写ったのを、私はちらと見た。その顔は悪意にみちたいまわしい微笑を浮かべていたといっていい。だけど、それは彼が神経を乱されて顔をゆがめたのをかいまみたせいだ、と私は自分にいいきかせた。なぜなら、しばらくして私を振りむいた時には、ほんとうに心配そうな表情を浮かべていたからである。
「それはお気の毒なことで」と、彼はいった。「ホームズさんのことは、前にちょっとした仕事の関係で存じあげているだけですが、あの人の才能と人格にはたいへん敬服しております。わしも素人(しろうと)の医学者だが、あの人も素人犯罪学者でしてな。あの人の相手は悪人、わしの相手は細菌だ。わしの場合は、あれが牢獄でして」と、彼は脇机の上にずらりと並んだ壷や瓶を指さして話をつづけた。「あのゼラチン培養基の中には、世界でもとびぬけて凶悪な犯人が懲役(ちょうえき)に服しておるんでしてな」
「ホームズ君がお目にかかりたい理由も、あなたにはその専門知識がおありだからですよ。彼はあなたを高く評価しておりまして、ロンドンで自分の病気をなおせる人はあなたのほかにはいないといっております」
小柄な男はびっくりして身をよじらせた。その拍子にしゃれた喫煙帽が床にすべり落ちた。
「どうしてかね?」と、彼はたずねた。「どうしてホームズさんは、このわしが病気をなおせると思ったのかな?」
「あなたが東洋の医学に深い造詣(ぞうけい)をおもちだからです」
「しかし、どうして自分の病気が東洋のものだとわかったんだろう?」
「それは、捜査の仕事で波止場に出かけて、中国人の船乗りどもにまじって働いたからですよ」
カルヴァートン・スミス氏は愉快そうに微笑して、喫煙帽を拾いあげた。
「ほう、そうですか……ほんとでしょうな?」と、彼はいった。「でも、あんたが心配するほどの容態とは思われんがね。発病したのはいつから?」
「三日ほど前からです」
「精神錯乱はどうかね?」
「ときどき起こしますよ」
「ちえっ! そいつは重そうだな。頼みに応じないのも不人情でしょう。わしは仕事を中断されるのが大きらいだけど、ワトスンさん、こんどばかりは特別ですぞ。すぐ一緒にまいりましょう」
その時私はホームズの命令を思い出した。
「ほかにも用事がありますので」と、私はいった。
「じゃあ、よろしい、わしはひとりでいきます。ホームズさんの住所は控えてある。おそくとも三十分以内にそちらへ伺いますよ」
帰ってきて、ホームズの寝室へはいる時は、心が沈んでいくようだった。私の留守中に、最悪の事態が起きていはしないかと心配だったからだ。ところが、私の留守の間に、彼がだいぶよくなっていたので、安心して胸をなでおろした。あいかわらず顔色は青ざめていたが、精神錯乱は跡かたもなく消えて、声は弱々しくても、その話しぶりはいつもより歯ぎれがよくて明晰だった。
「やあ、会えたのかい、ワトスン?」
「うん、もうじきくるよ」
「そいつはよかった、ワトスン! うまくやったもんだ! きみは最高の使者だよ」
「あの男はぼくと一緒にくるといったけどね」
「それじゃいけないんだ、ワトスン。それじゃぜったいにだめになっちゃうんだ。あの男はぼくのどこが悪いのかときいたろう?」
「イースト・エンドで中国人に病気をうつされたといっておいたよ」
「そうこなくっちゃ! ワトスン、きみのやったことは、やっぱり親友でなくちゃできないことだよ。もうこれできみは退場してもいいよ」
「でも、ホームズ、ぼくはここで待ってて、あの男の診断を聞きたいんだ」
「もちろん、きみの気持はそうだろう。だけど、ふたりのほかは誰もいないとあの男に思わせたほうが、はるかに卒直で有益な意見を引きだせると思われる理由があるんだよ。さいわい、このベッドの頭のほうに空き部屋がある」
「そりゃひどいよ、ホームズ!」
「ほかにしかたがないんだよ、ワトスン。隠れ場所としては、あまり快適とはいえんが、あそこならまず怪しまれる心配はないよ。うん、これだったら、ワトスン、きっとうまくいくぜ」
とつぜん、彼はやつれた顔をきびしくこわばらせて起きあがった。「車輪の音だ、ワトスン。早く、さあ、ぼくのいうことを聞いて! ちょっとでも動いちゃだめだよ、どんなことがあっても……たとえ何が起ころうとだよ、いいかい? 声を出しても、身動きしてもいけない! ただじっと聞き耳を立てているんだ」
そういうとたちまち、一時的に回復していた元気がなくなって、こうしろといわんばかりの命令的な話しぶりは、半ば精神錯乱を起こした男の、低い聞きとりにくいつぶやきに変わってしまった。
むりに追い立てられてはいりこんだ隠れ場所で耳をすませていると、階段をのぼってくる足音がして、つづいて寝室の扉があき、そして閉まる音がした。そのあとは、意外にも、長い沈黙が続き、ただ病人の苦しげな息づかいとあえぎが聞こえてくるだけであった。おそらく客は枕もとに立って、患者をじっと見おろしていたのだ。そしてとうとう、その異様な沈黙が破られた。
「ホームズ!」と、客が呼んだ。「ホームズ!」眠っているものを起こす時のしつこい呼び声であった。「聞こえないのか、ホームズ?」
病人の肩を荒っぽく揺さぶっているらしく、ごそごそという音がした。
「ああ、あなたは、スミスさん?」と、ホームズはつぶやいた。「まさかあなたにきていただけるとは思いませんでした」
相手は笑いだした。「そうだろうな。だが、このとおりやってきている。なに、恨みに報いるに善をもってせよだよ、ホームズ……どうだ、恥じいったかね!」
「それはご親切に……見あげた心がけです。なにしろあなたの専門的知識は大したものですからね」
客はくすくす笑っていった。「おまえにはわかるさ。わしのことを知っているのは、幸いにして、ロンドンではおまえ一人だからな。自分が何の病気か知っているのかね?」
「例のやつですよ」
「ほう! で、その徴候はわかるのか?」
「わかりすぎるほどですよ」
「だけど、わしは驚かんぞ、ホームズ。かりに例のやつだとしてもべつに意外だとは思わん。だけど、ほんとうにそうだったら、おまえのお先はまっ暗だよ。かわいそうに、ヴィクターのやつは四日で死んだよ……逞(たくま)しくて快活な若者がね。ロンドンのど真ん中で、あいつが東洋の奇病にかかるなんて、おまえのいうように、まさに不思議というほかはないよ。しかもわしが特に熱心に研究していた病気にかかるとはな。偶然の一致にしても奇妙だよな、ホームズ。それを嗅ぎつけるところは、おまえもさすがだが、そこに因果関係があるなどといいだしたのは、いささか同情がなさすぎるというもんだ」
「あれはあなたのしわざですよ」
「なに、わしがやったというのかね? でも、その証拠をあげることはできまい。だが、あんなにわしの噂をまき散らしておきながら、自分が困ってくると、こんどは平身低頭してわしの救いを求めにくるとは、どういうつもりかね? いったい何の真似だね……ええ?」
病人の、苦しげな荒々しい息づかいが聞こえた。「水をくれ!」と、彼はあえいだ。
「おまえは、もうじき、ご臨終だよ。だけど、わしの話を聞かせないうちは、おまえをあの世へいかせたくないな。だから水をくれてやるのさ。ほら、こぼすなよ! そう、それでいい。わしのいうことがわかるかね?」
ホームズはうめいた。「できるだけのことをしてくれ! 過去は過去として葬りましょう」と、彼はささやくようにいった。「ぼくが何もかも忘れればいいんだ……誓ってそうする。この病気をなおしてさえもらえれば、あのことは忘れよう」
「何を忘れるというんだ?」
「もちろん、ヴィクター・サヴェージの死亡事件をですよ。たったいま、あなたは、自分がやったと認めたも同然の発言をしましたが、それを忘れるというんです」
「忘れようと覚えていようと、おまえの好きなようにするがいいさ。どうせ生きて証人席(ボックス)に立てはしないんだ。いいかね、ホームズさんよ、おまえのはいるところは、まるで形のちがう桶(ボックス)なのだよ。わしの甥がどんな死にかたをしたかを、おまえが知っていたところで、わしにはなんともないんだ。死にかかっているのは、あいつじゃない。おまえなんだ」
「そりゃそうだ」
「わしを呼びにきた男……名前は忘れたが……あいつの話じゃ、おまえの病気は、イースト・エンドで船乗りたちからうつされたそうじゃないか」
「そうとしか思えん」
「おまえのご自慢はその頭じゃなかったのかね、ホームズ? 自分でも利口な男とうぬぼれていたんじゃないのかい? ところが、こんどばかりはもっと利口なやつに出くわしたんだよ。さあ、よく思いだしてみろ、ホームズ。おまえがこの病気にかかった原因は、ほかのところにあるとは思わんのか?」
「わからん。もう、ものを考える力がない。たのむ、助けてくれ!」
「いいとも、助けてやるさ。いかにも助けてはやるが、それも、おまえの病状がどれほどひどいか、どうしてこうなったのかをわからせるためにな。死ぬ前に、それを教えてやりたいんだ」
「この苦痛をなんとかしてくれ」
「苦しいか? そうだろう、苦力(クーリー)どもも死ぬまざわに泣き叫んだものだ。からだが痙攣するだろう?」
「ああ、痙攣する」
「それでも、わしのいうことは何とか聞こえるわけだな。よく聞け! この徴候が現われる直前に、何か変わったことがあったのを思い出さないか?」
「いや、ぜんぜん」
「もう一度考えてみろ」
「苦しくて考えるどころじゃない」
「よし、それじゃ助け船を出してやろう。郵便で何かがとどかなかったか?」
「郵便で?」
「箱みたいなものだがね」
「ああ気が遠くなる……もうだめだ!」
「よく聞け、ホームズ!」死にかけている男を揺さぶっているらしい音が聞こえたが、私としては隠れ場所でじっと我慢するほかはなかった。「わしのいうことを聞くんだ。いやでも聞かせてやるぞ。箱をおぼえてはおらんか……象牙の箱を? 水曜日にとどいたはずだ。おまえ、それを開けたろう……思い出したか?」
「ああ、そうだ、あれを開けたんだ。中に強いバネが仕掛けてあった。何のいたずらか……」
「いたずらじゃなかったことを、いま骨身にしみて思い知ったろう。このばかめ! 自分からわざわざ死ぬような目にあうなんて。誰に頼まれてわしのじゃまをしたんだ? ほうってさえおれば、こんなひどい目にあわなくてすんだのに」
「思い出した」ホームズはあえぎながらいった。「あのバネのせいだ! 血が出た。あの箱だ……テーブルのうえにあるやつだ」
「まさにそのとおり! だが、これはわしのポケットにもらっておくほうがよさそうだな。これさえとりあげてしまえば、証拠は何ひとつ残らんからな。だがな、真相は教えてやったぞ、ホームズ。わしに殺されたことをみすみす知っていながら死ぬがいい。おまえはヴィクター・サヴェージの死にかたを知りすぎていたから、おまえにも同じ死にかたをさせてやったまでだ。もうじき、おまえは息をひきとるさ、ホームズ。ここにすわって、おまえの死ぬのをじっくりと見てやるよ」
ホームズの声は、ほとんど聞きとれないくらい小さくなっていた。
「なんだって?」と、スミスはいった。「ガス灯をもっと明るくしてくれだと? なに、眼がかすんで暗くなりだしたというのか? よし、明るくしてやろう。そうすりゃ、おまえの顔がもっとよく見えるからな」
彼は部屋を横切っていき、光は急に明るさを増した。「おい、ほかに何かしてほしいことがあるかね?」
「マッチと煙草だ」
私は喜びと驚きで、もう少しで大声をあげるところであった。ホームズがごく普通の声……いくらか弱々しげではあるが、いつもの聞きなれたあの声……で喋ったからである。しばらく沈黙がつづいた。カルヴァートン・スミスはあっけにとられて口もきけずに、ホームズを見おろしていたらしい。
「これはいったいどういうわけだ?」ようやく彼の口から、不快そうなしゃがれ声がもれた。
「これこそ敵をあざむく最高の名演技さ」と、ホームズがいった。「正直いって、この三日間、ぼくは食事もとらず、水も飲まなかった。さっききみがご親切にもぼくについでくれた、あのコップの水が初めてさ。だけど、いちばん苦しかったのは、煙草だね。おや、ここに煙草があるじゃないか」
マッチをする音が聞こえた。「これでたいへん気分がよくなったよ。あれ、あれ! 誰の足音かな?」
外で足音がひびいて扉があくと、モートン警部が姿をあらわした。
「すべて手はずどおりだ。この男ですよ」とホームズがいった。警部はおきまりの警告をならべてから、「ヴィクター・サヴェージ殺害の容疑できみを逮捕する」と、最後にいった。
「それに、シャーロック・ホームズ氏殺人未遂をつけ加えるといいね」と、ホームズはくすくす笑いながらいった。「警部さん、このカルヴァートン・スミスさんは病人のぼくの手間をはぶいてやろうと、自分でガス灯を明るくしてくれて、ぼくにかわってご親切にもあなたを呼ぶ合図までしてくれましたよ。ついでですが、この犯人は上着の右ポケットに小さな箱を持っていますから、それをとりあげておくことですね。ありがとう。ぼくだったら、おっかなびっくりとりあつかうところですがね。ここへ置いてください。裁判のときはこれが一役買うはずです」
とつぜん、犯人が逃げだす音と格闘する音が重なり、つづいて金属がぶつかる音がして、痛いという悲鳴がおこった。
「暴れれば痛い目にあうだけだぞ」と警部がいった。「おとなしくしたらどうだ?」
手錠をかちりとかける音がした。
「よくも罠(わな)にかけたな!」と、かん高い、とげとげしい声がした。「こんなことをして、裁きを受けるのはおまえのほうだぞ、ホームズ、わしじゃない。病気をなおしてくれとこいつに頼まれたから、わしはかわいそうだと思ってきてやったんです。こいつはこれから、わしがいいもしなかったことを、あれこれとでっちあげるつもりでしょうが、そんなことは狂った頭で妄想した作り話にきまってますよ。おまえは好きなように嘘をつくがいいさ、ホームズ。こっちの言い分も同じだけの説得力をもつのだからな」
「しまった!」と、ホームズが叫んだ。「すっかり忘れていた。ワトスン、ほんとにすまなかったな。きみのことをうっかりしてるなんて! カルヴァートン・スミスさんに紹介するまでもあるまい。きみたちは夕方のほんの少し前に会っているんだからな。下に馬車を待たせているんでしょう? 服を着かえたら、すぐ降りていきますよ。警察でも、ぼくがいたほうが、何かと役にたつでしょうからね」

「なにしろこんなに腹がへったことはなかったよ」と、ホームズは、身じたくの合い間に一杯のクラレットを飲み、ビスケットをつまんで腹ごしらえをしながら、こういった。「もっとも、知ってのとおり、ぼくはもともと生活が不規則な男だから、こういう離れわざをやっても、普通の人ほど苦にはならないがね。ハドスン夫人に、ぼくがほんとうに重態だと思い込ませることができるかどうかが成功の鍵だったんだ。彼女がそう思い込めば、彼女はきみにそれを伝えにいくはずだし、そうすればこんどはきみがあの男を呼びにいく、というぐあいに事が運ぶからね。きみは怒らないよな、ワトスン? きみも自覚しているだろうが、きみにはたくさんの才能があるんだが、そらとぼけてみせる能力だけはまるでだめなのだからね。ぼくの秘密を知ったうえで、スミスにぜひともいかねばならぬと思わせるなんて、とてもきみにはできない芸当なんだ。しかもスミスをこさせるかどうかが、全計画の成否を決める重要な点だったんだ。あの男の執念ぶかい性質をぼくはよく承知していたから、自分の小細工の仕上がりぐあいをかならず見にくるはずだという成算はあったがね」
「でも、きみの様子がね、ホームズ……あの青ざめた顔はどうして?」
「三日間飲まず食わずでおれば、どんな美男だってあんなふうにきたなくなるさ、ワトスン。ほかのことは、スポンジでひとぬぐいすれば、すぐに化けの皮がはげるような細工だよ。額にワセリンをぬり、眼にはベラドンナ剤をほどこし、頬に紅をつけ、唇に蜜蝋(みつろう)をぬって固めれば、効果はてきめんだよ。仮病については、以前から論文の主題にしようかと思ったこともあるぐらい興味があるんだ。半クラウンだとか牡蛎(かき)だとか、あるいは何の関係もない事柄を会話の中におりこめば、おもしろいほど精神錯乱の効果が出るものだね」
「でも、ほんとは伝染もしないのに、最後までぼくを近づけなかったのは、どういうつもりだったんだ?」
「それを、ぼくの口からいわせたいのかい、ワトスン? ぼくがきみの医師としての才能をぜんぜん信用してないとでも思っているのかね? きみの鋭い診断にかかったら、いくら弱っているとはいえ、脈も熱も高くないのに、死にかかっている男で通用するはずがないじゃないか? 四ヤード離れていたからこそ、なんとかきみをだますことができたがね。きみをだませなかったら、誰があのスミスをぼくの手の届くところまで連れてこれただろうか? いや、ワトスン、ぼくはあの箱に触わりゃしないよ。あの箱を横から見れば、開けたとたんに毒蛇の歯のような鋭いバネが飛び出す仕掛けになっていることが、じきにわかるんだよ。あの怪物と相続権をめぐって争ったサヴェージも、きっと、これに似た仕掛けにかかって、殺されたんだよ。それにしても、ぼくのところにくる郵便物は、きみも知ってのとおり、いろいろと変わったのが多いけど、やはり小包には警戒していてよかったよ。だけど、あの男に自分の策略がうまくいったと思わせておけば、油断して白状するだろうと考えたんだが、やはり思ったとおりだったよ。そう見せかけるために、ぼくはほんものの俳優のような完璧な演技でやってのけたんだ。すまないが、ワトスン、上着を着せてくれないか。警察の用がすんだら、シンプスン料理店で栄養食をとるのも、こんな時には悪くないぜ」
フランシス・カーファクス姫の失踪

「ねえ、どうしてトルコにしたんだね?」と、私の編上靴(あみあげぐつ)をしげしげとながめて、シャーロック・ホームズがたずねた。そのとき、私は藤椅子の背に深々ともたれていたので、前に投げ出した足が、何ごとにも敏感なホームズの眼にとまったのである。
「英国製だぜ」と、私は怪訝(けげん)な顔をして答えた。「こいつはオクスフォード街のラティマ靴店で買ったんだよ」
ホームズは、いかにもじれったそうに苦笑してみせた。
「風呂だよ」と彼はいった。「風呂のことだよ! 心身ともに爽快になる英国式の風呂があるのに、どうして、からだがだるくなるし、料金も高いトルコ風呂なんかにしたんだ?」
「このところリューマチが痛くて、老(ふ)けこんだような気かしたもんでね。トルコ風呂というのは、薬品にかわるものとでもいうか……とにかく新陳代謝を活発にし、体内を浄化する効きめがあるんだよ」
「ところで、ホームズ」と、私は言葉をつけ加えた。「この編上靴とトルコ風呂とのつながりは、論理的な頭の持ち主には、さぞかし、わかりきったことなんだろうが、そこをわかりやすく説明してくれるとありがたいがね」
「推理のつながりはたいしてむつかしくないんだ、ワトスン」と、ホームズは悪戯(いたずら)っぽく眼を輝かせた。「たとえば、ぼくがきみに『けさは誰と一緒に馬車に乗ったんだね?』と質問したら、その言葉の裏にどんな推理が働いているかは、いわなくともわかるじゃないか。こいつも、その程度の初歩的な推理の問題さ」
「新しい例題を出して、説明にかえるとは、けしからん」と、私はややそっけない言い方をした。
「痛烈だな、ワトスン! なかなか筋のとおった堂々たる抗議だよ! ええと、問題点は何だったかな? そうだ、今いったこと……馬車の件を先にしよう。ほら、きみの上着の左側の、袖と肩にハネがあがっているだろう。きみがひとりで二輪馬車のまん中にのっていたら、ハネをかけられずにすんだはずだし、たとえかけられたとしても、左右均等にかけられたはずだよ。だからきみが片側にのっていたことは一目瞭然さ。つまり連れがあったことも、はっきりしているわけだ」
「なるほど単純明快だ」
「ばかばかしいほど平凡じゃないか」
「だけど、編上靴と風呂の関係は?」
「これがまた、いたって幼稚なんだ。きみの編上靴の紐の結びかたには、きまった癖があるんだ。今きみの靴を見ると、ていねいに蝶結びに結んである。いつものきみなら、そんな結びかたはしない。だから、きみはどこかで靴をぬいだんだ。では、誰がその紐を結んだのか? 靴屋か……それとも浴場の給仕(ボーイ)かだ。その靴は最近あつらえたばかりだから、靴屋のやっかいになることはあるまい。とすると、何が残る? 浴場さ。たわいない推理じゃないか。だが、何はともあれ、トルコ風呂というのは、こっちにも好都合だったよ」
「どういう意味だい?」
「きみがそんなところへ行ったのも、つまりは気分転換をしたいからだろう? そこで、きみにぜひ勧めたいことがあるんだ。ローザンヌ(┗F M,13,0,13,28┛スイスの レマン湖北岸の都市┗F M,15,,15,0┛)はどうだい、ワトスン? ……しかも汽車は特等、費用は何もかもが最高級、という豪勢な待遇で」
「すごいじゃないか! でも、どうしてなのかね?」
ホームズはひじ掛け椅子の中で身をそらして、ポケットから手帳をとりだした。
「およそ世の中でいちばん危険なのは」と、彼はいった。「友もなくふらふらと流れ歩く女性だ。こういう女は人に何らの害も及ぼさず、かえって人にいちばん恩恵を施こすことの多い人間なんだが、他人に犯罪の口実を作らせやすいことだけはまちがいない。頼る者とてない。いたずらに放浪の旅をかさねる。国から国へ、ホテルからホテルヘと渡り歩くだけのお金にはことかかない。ときとしては、あやしげな下宿屋(ペンシオン)とか宿泊所にまぎれこんでしまうこともある。まるで狐(きつね)の世界に迷いこんだ雛(ひな)のようなものだ。がぶりと食べられてしまっても、誰も気にとめない。フランシス・カーファクス姫も、そんな悪運にみまわれたのじゃないかと、ぼくは心配しているんだ」
ホームズの話題が一般論から急に特定の人へと移ってくれたので、私のほうは助かった。彼は手帳を見つづけていた。
「フランシス姫は故ラフトン伯爵の令嬢で、直系の親族ではただひとりの生存者だ。遺産は、きみもおぼえているだろうが、男系が相続した。彼女にのこされた財産はかぎられたものだったが、その中に、銀と風変わりなカットのダイヤモンドをちりばめた、きわめて珍らしい古代スペインの宝石がふくまれていた。この宝石を彼女はことのほか気にいっていて……銀行にも預けず、片時も離さずに持ち歩くほどの愛着ぶりだった。このフランシス姫は、美人薄命というべきか、まだ中年になったばかりなのに、つい二十年前の誇らしい家系の娘が、数奇な運命のいたずらで、いまでは誰からも見棄てられた人になってしまっている」
「それで、彼女の身に何か起こったのかね?」
「いったいフランシス姫に何が起こったのか? 生きているのか、死んでいるのか? そこが問題なんだ。彼女はかたくななほど自分の習慣に忠実な人で、この四年間というもの、彼女の昔の家庭教師のドブニー嬢という、ずっと以前に職を退き、いまはキャンバーウェルに住んでいる婦人に、二週間おきに手紙を出すのを欠かしたことがなかった。ぼくに相談をもちこんだのは、このトブニー嬢なんだ。連絡を絶って、ほぼ五週間にもなるそうだ。最後によこした手紙はローザンヌのホテル・ナショナルからのもので、その後フランシス姫は行き先も告げずに、そこを立ち去ったらしい。家族は心配しているが、なにしろたいへんな金持だから、お金はいくらでも出すから、とにかくその間の事情を解明してくれというんだ」
「こちらが情報を引き出せる相手は、ドブニー嬢だけなのかね? きっとほかにも文通していた人がいるんじゃないか?」
「確実な情報を得られそうなところが、あとひとつだけあるんだ、ワトスン。それは銀行だよ。独身の女にも生活費がいる。彼らの銀行通帳は日記を圧縮したようなものだよ。彼女はシルヴェスター銀行に口座を設けている。ぼくは彼女の金銭出納を見てきたんだ。終わりから二番目の小切手は、ローザンヌで振り出して、支払いにあてているが、額が大きいから、きっと手もとに現金が残ったはずだ。そのあとは、小切手を一枚振り出しただけだ」
「誰あてに、どこで?」
「マリイ・ドヴィーヌ嬢あてだ。どこで振り出したかは記載されていない。モンペリエ(南フランスの都市)のリヨン銀行で現金化されたが、三週間もたっていない。金額は五十ポンドだ」
「そのマリイ・ドヴィーヌ嬢というのは何者なんだい?」
「これも調べがついてる。マリイ・ドヴィーヌ嬢はフランシス・カーファクス姫の侍女だった女だ。どうして姫がこの小切手を彼女にあたえたのか、それはまだはっきりしていない。だけど、きみが調査してくれれば、じきに未解決の問題は解明できるさ」
「このぼくが調査するって!」
「つまり、健康増進のためにローザンヌヘ遠征するというわけだよ。あのアブラハム老人が生死のせとぎわだという時に、ぼくがロンドンを離れるわけにはいかないじゃないか。それに、原則としてぼくはなるべくなら英国を離れないほうがいいんだ。ぼくがいないと警視庁はさびしがるし、犯罪者どもの間によからぬ刺激をあたえるもとにもなる。だから、ここはひとつきみが行ってくれ、ワトスン。ぼくのつたない助言を、一語につき二ペンスという法外な料金を払ってでも求めるだけの価値があると思うなら、昼でも夜でも遠慮なくお金を使って電報照会をしてくれ。ぼくはいつでも、大陸無線のこちらのはしで、きみの連絡を待っているよ」
それから二日後、私はローザンヌのホテル・ナショナルに宿泊し、名高い支配人のモゼ氏の丁重な歓待を受けた。彼の話では、フランシス姫はここに数週間滞在していたそうである。彼女は誰からも好意をもたれる女性で、年齢は四十に近いが、いまだ美貌は衰えず、若いころはどんなにか美人だったろうと思わせるだけの容色をじゅうぶんにとどめていたという。高価な宝石については、モゼ氏は何にも知らなかったが、召使いたちの話では、姫の寝室においてあった重たい旅行鞄(かばん)には、いつもきちんと錠がかかっていたそうだ。侍女のマリイ・ドヴィーヌも姫におとらず評判がよかった。意外にも彼女はこのホテルの給仕長のひとりと婚約していたので、ことのほか簡単にその住所を聞き出すことができた。モンペリエのトラジャン街十一番地である。さっそく書きとめておいたが、さすがのホームズでも、こうも器用に情報を集めることはできまいと思ったものだ。ただし、一箇所だけ、謎につつまれた部分が残った。私がいくら知恵をしぼっても、なぜ姫が急にここを立ち去ったかという理由を解明することはできなかった。彼女はローザンヌでの生活をじゅうぶん満喫(まんきつ)していたのだ。湖を見おろす贅沢(ぜいたく)な部屋で、この季節をずっと過ごすつもりでいたと思えるふしがあった。それなのに突然発(た)つといいだして、前金で一週間分の部屋代を払っていたのに、その翌日にはあわただしくここを立ち去っている。侍女の恋人のジュール・ヴィパールだけはそれらしい理由を語ってくれた。彼の考えでは、姫が急に出発したのは、一両日前に背の高い、色の黒い、顎(あご)ひげのある男がホテルに訪ねてきたことと関係があるというのだ。
「野蛮な……ほんとに野蛮な男だった!」とジュール・ヴィバールは叫んだ。その男はこの町のどこかに泊っていたらしく、湖のほとりの散歩道でしきりに姫に話しかけているのを見かけたものがいる。それからその男はホテルへ訪ねてきたが、姫は面会を拒絶した。彼が英国人だということはたしかだが、名前はわかっていない。姫はその直後にこの地を発っていった。ジュール・ヴィバールの話も示唆(しさ)に富んでいるが、もっと重要なことは、彼ばかりでなく彼の恋人までが、あの男の訪問と姫の出発とは因果関係があると考えていたことである。そのジュールがただ一つ話そうとしなかったことがある。それは、なぜマリイが女主人から暇をとったかという問題である。それについて彼は何も知らないか、知っていても話したくなかったのだろう。その点を知りたければ、私がモンペリエへ出向いて、彼女の口からじかに聞き出すほかはなかった。
かくして私の捜査の第一章は終った。第二章の主題は、フランシス・カーファクス姫がローザンヌを去ってどこへ行こうとしたかということにしぼられた。この点に関しては、人に知られたくなかったらしく、姫ははじめから誰かに後を追われるのを振りきるつもりでここを立ち去ったのだ、という見方が有力になった。そうでなければ、姫は荷物に公然とバーデンゆきの荷札をつけてもよかったはずだ。ところが姫も荷物も、ずいぶんまわり道をして、ライン河畔のその温泉地に到着しているのだ。これだけのことを、私はクック旅行社の出張所の支配人から聞きだしたのである。そこで私もバーデンヘ出かけたわけだが、そのまえにホームズに電報を打って調査の状況をくわしく報告し、彼からはひやかし気味のほめ言葉の返電をもらったのだった。
バーデンでは、彼女の足どりをつかむのに造作はなかった。フランシス姫は 英 国 館(イングリッシェル・ホフ) に二週間ほど滞在していた。そのあいだに南米からきた宣教師のシュレシンジャー博士夫妻と親しくなった。多くの孤独な婦人の例にもれず、フランシス姫は宗教に慰めと使命を見いだした。シュレシンジャー博士の並みはずれた個性とその全身全霊を傾けた信仰と、それに博士が献身的に伝道をおこなっているうちに病気になり、目下回復に向かいつつあるという事実、そうしたことが彼女の心を深く動かしたのだ。彼女はシュレシンジャー夫人を助けて、この回復期にある聖者の看護にあたった。ホテルの支配人の言葉によれば、博士はヴェランダの安楽椅子にもたれ、その両側を二人の婦人に付き添われながら日を送っていた。博士は聖地パレスチナの地図を作製中であったが、それは彼が執筆していたミディアン族の王国に関する論文には欠かせない資料であったからだ。やがて、健康もかなり回復したので、夫妻はロンドンに帰っていき、フランシス姫もいっしょに出発したという。これがちょうど三週間前のことで、ホテルの支配人もその後の消息は知らなかった。侍女のマリイのほうは、その数日前、ほかの侍女たちに、自分は永久に暇をもらったのだといい残して、涙ながらに立ち去っていた。シュレシンジャー博士は、出発する前に、一月の勘定を全部まとめて支払っていた。
「それにしても」と、ホテルの主人は話を結んだ。「フランシス・カーファクス姫の消息をたずねてこられたのは、あなたばかりじゃないのです。つい一週間ほど前にも、あなたと同じ用件でおみえになったかたがいましたよ」
「名前をいいましたか?」と、私はきいた。
「いいえ、でも英国人でした、それも一風変わった」
「野蛮な感じの?」と、私はホームズのやりかたをまねて、知っていることをつなぎあわせて、たずねてみた。
「よくご存じで! いかにもそういう表現がぴったりですな。図体の大きい、ひげのある日焼けした男でして、あの風采(ふうさい)じゃ、高級なホテルなんかより、百姓の泊まるような宿屋のほうが似あっていますよ。どうも気性の激しい乱暴そうな人でしたから、わたしは、ご機嫌をそこねたら大変だと思って、ずいぶん気をつかいました」
霧が晴れるにつれて人の姿がはっきりしてくるように、もう謎はくっきりした輪郭をあらわしてきた。この善良で信心深い婦人は、無気味で情容赦(なさけようしゃ)のない男に、行く先々をつきまとわれていたのだ。彼女はその男を恐れている。そうでなければ、ローザンヌから逃げ出したりするはずがない。男はまだしつこくあとを追っている。おそかれ早かれ、追いつくだろう。いや、すでに追いついているのではなかろうか? 彼女がいまだに音信不通なのはこのため(ヽヽヽヽ)ではないのか? 姫の連れになった善良な人たちは、この男の暴力、あるいは恐喝(きょうかつ)から彼女を守ってはやれなかったのか? 男がこんなに長く追跡する裏には、どんな恐るべき目的、どんな深い策略があるのだろうか? これが、これから解明しなければならない問題なのだ。
ホームズには手紙で、私がいかに敏速かつ確実に問題の根元を探りあてたかを説明してやった。折りかえし彼から返電を受けとったが、その内容は、シュレシンジャー博士の左の耳の特徴を知らせよ、というものであった。ホームズのユーモアのセンスは一風変わっていて、時としてはしゃくにさわることもある。だから私は時と場所をわきまえないこんな冗談にはとりあわないことにした……いや、実をいうと、彼の電報がくる前に、私は侍女のマリイを捜しにモンペリエに到着していたのである。
もとの侍女を捜しあて、彼女から知っていることを全部聞き出すのは、さして難かしくはなかった。彼女は忠実な女で、姫から暇をもらったのも、姫のそばにはしっかりした人がついているから安心して後事を託せると考えたからであり、それに自分の結婚もまぢかに迫ってきたので、いずれにしろ別れないわけにはいかなかったからであった。彼女が困惑した顔で打ちあけたところによると、姫はバーデン滞在中、彼女に対して妙に怒りっぽくなり、一度などは、彼女の誠実さを疑っているかのような態度を示したという。その結果、かえって思ったより容易に暇をとることができたのだった。フランシス姫は、結婚の祝いとして彼女に五十ポンドをあたえた。私と同じように、マリイも、姫をローザンヌから追いやったあの怪しい男に対して、強い不信の念を表明した。湖のほとりの散歩道で、あの男が姫の手首をひどく乱暴につかんだのを、現に彼女は目撃していたのだ。彼は粗暴な恐ろしい男だった。フランシス姫は、この男を恐れたからこそ、シュレシンジャー夫妻の誘いに応じてロンドンヘ同行する気になったのだ、と彼女はいった。そのことについて姫はマリイにはひと言もいわなかったが、姫がたえず不安におびえながら暮していたことは、いろんな点からみてまちがいないらしかった。
そこまで話してきた時、とつぜん彼女は椅子からとびあがって、驚きと恐れのあまり顔をふるわせた。「あそこに!」と、彼女は叫んだ。「あの悪党はまだしつこく後をつけてるわ! あれがいまお話しした男です」
開けはなった居間の窓から、ふと外を見ると、毛の硬い黒い顎ひげをはやした色の浅黒い大男が、通りの中央をゆっくりと歩きながら、家々の番号札をしきりにのぞきこんでいた。その男が、私と同じように、この侍女を捜しにきたのは明らかだった。なぜかむらむらとした衝動がこみあげてきて、思わず私は表にとびだして、その男に声をかけた。
「きみは英国人だな」
「それならどうしたってんだ?」と、彼はいかにも悪党じみた険悪な顔つきでいった。
「名前をきかせてもらえないかな?」
「いや。だめだ」と彼はきっぱりとはねつけた。やっかいなことになったが、こんな時には単刀直入にやるにかぎる。
「フランシス・カーファクス姫の居場所はどこなんです?」
彼はあっけにとられた様子で、私の顔を見つめた。
「姫をどうしたんです? なぜ、姫につきまとうんです? 返事をうかがいたいですね!」と私はつめよった。すると相手の男は、怒号をあげて猛然と私にとびかかってきた。私も格闘にかけてはいささかの経験と自信があるが、なにせこの相手は鉄のように握力が強く、悪鬼みたいに怒りくるっていた。その手で咽喉(のど)をしめつけられ、あやうく気が遠くなるところだったが、その時、向かいがわの酒場から青い仕事着を着て不精ひげをはやしたフランス人の労働者が棍棒(こんぼう)をもって飛びだしてきて、相手の前腕をしたたかになぐりつけてくれたので、やっと男は咽喉から手をはなした。彼は怒りの形相もすさまじく、また私に襲いかかったものかどうか迷っている様子で、しばらくつっ立っていた。やがて、腹立たしそうな唸(うな)り声をあげると、そばを離れ、私が出てきたばかりの家にはいっていった。すぐわきに立っている命の恩人に礼をいおうと思って、私はそちらのほうを振りむいた。
「いやはや、ワトスン」と、彼はいった。「まったくめちゃくちゃくなことをしてくれたな! 今夜の急行でいっしょにロンドンヘ帰ったほうがよさそうだね」
それから一時間後、シャーロック・ホームズは、いつもの服装をして、ホテルの私の部屋にすわっていた。彼が突然に、しかもちょうどよい時に姿をあらわしたその間の事情は、聞いてみると、じつに簡単なものであった。ロンドンを離れてもよいとわかると、私の次の訪問先を察知して先まわりをしたのだった。そして労働者に変装し、酒場に席をとって、私があらわれるのを待っていたのだ。
「しかも、きみは終始一貫して珍妙な調査をやってくれたよ、ワトスン」と、彼はいった。「よくもこれほどのひどい失敗を重ねたものだと、あきれてしまうぜ。けっきょく、きみのやった調査は、行く先々で騒ぎを大きくしただけで、何ひとつ得るものはなかったよ」
「きみがやったって、おそらく、これ以上うまくはやれなかったよ」と、私も負けずにいいかえした。
「『おそらく』は余計だよ。ぼくは、現に(ヽヽ)うまくやったんだからね。このホテルには、フィリップ・グリーンという貴族が同宿している。その人に会えば、もっとうまい調査の手がかりを得られると思うよ」
その時、盆にのせた一枚の名刺が面会者の来訪を告げ、つづいてはいってきたのは、街路で私に襲いかかった、あの顎ひげの悪党であった。私を見ると、彼は目を丸くした。
「これはどういうことですか、ホームズさん?」と、彼はたずねた。「あなたのお手紙をみて、ここヘやってきたんですが、この人は事件とどんな関係があるのですか?」
「こちらは、ぼくの長年の友人で仲間でもある、ワトスン先生です。この事件にも協力してくれているんですよ」
その正体不明の男は、二言三言詫(わ)びをいって、日に焼けた大きな手をさしのべた。
「お怪我(けが)はなかったですか? あの姫をわたしがいじめていると責められたものですから、ついかっとなってしまいました。まったく、このごろのわたしはどうかしているのです。神経が異様に高ぶっておりましてね。でも、こんな時にどうしたらいいか、さっぱりわからないのです。何よりもまずお聞きしたいのは、ホームズさん、あなたがどうしてわたしという人間をご存知であったかということです」
「フランシス姫の家庭教師だったドブニー嬢と連絡がついてるからですよ」
「あの屋内帽(モブ・キャップ)をかぶったスーザン・ドブニー婆(ばあ)さんと! 彼女のことはよくおぼえてます」
「彼女のほうでもあなたのことをおぼえていますよ。あれはずいぶん前の……あなたが南アフリカヘ行く決心をする前のことですがね」
「おお、あなたはわたしの過去をすっかりご存じだ。こうなったら何も隠さずお話ししましょう。誓って申しますが、ホームズさん、フランシスを心の底から愛したわたしのように、深く女を愛した男は、この世にはありますまい。たしかに若いころのわたしは乱暴者でした……同じ階級のほかの連中も似たようなものでしたがね。ところが、彼女の心は雪のように清浄でした。彼女は、ほんの少し粗野なところがあっても、それが許せない娘でした。だから、わたしの数々の粗野な行状を知ると、彼女はもう口もきこうとはしませんでした。それでいて、彼女はわたしを愛していたのです……何という愛の不思議でしょう!……ただわたしを愛したばかりに、彼女はその清らかな半生を独身で通すことにさえなったのです。ある歳月をへて、わたしはバーバートン(米国オハイオ州 北東部の都市)でお金もできましたので、彼女を捜し出して、彼女の心をやわらげることができるかもしれないと考えました。彼女がまだ独身でいることは聞いていました。さいわい彼女にはローザンヌで再会できたので、わたしはあらゆる努力をして彼女を説得したのです。彼女の心もだいぶ動いたようでしたが、けっきょくは彼女の意志をくつがえすまではいたらず、二度目に訪ねた時には、もうローザンヌを立ち去っておりました。わたしは彼女のあとを追ってバーデンまで足を運びました。そのあとしばらくして、彼女の侍女がこの町にいることを聞いたのです。わたしは荒っぽい男でして、つい最近まで荒っぽい生活をしておりました。だからワトスン先生からあんなことをいわれると、ついかっとなってしまったのです。だけど、お願いです、フランシス姫がどうなったのか、ぜひ教えていただきたいのです」
「それを、ぼくたちも知りたいのですよ」と、シャーロック・ホームズは妙に重々しい顔つきでいった。「ロンドンでは、どちらにお泊まりですか、グリーンさん?」
「ランガム・ホテルにおります」
「それでは、ロンドンヘお帰りになって、ぼくが連絡するまで待機していてくださいませんか? 空しい期待を抱かせたくはないのですが、フランシス姫の身の安全を守るためにできるかぎりの手をつくすつもりでおりますから、その点だけはご安心になってください。いまはそれ以上のことは申しあげられません。この名刺をさしあげておきますから、いつでもご連絡ください。さあ、ワトスン、きみは荷物をまとめてくれ。ぼくのほうはハドスン夫人に電報を打って、あすの七時半に腹ぺこのふたりが帰るから、朝食のほうをよろしく頼むと知らせてくるよ」

べーカー街の部屋へ帰ってみると、一通の電報が待っていた。ホームズはそれを読むと、おもしろそうに大きな声をあげて、私に投げてよこした。「サケテ、ギザギザ」という電文で、発信地はバーデンであった。
「これはどういう意味だい?」と、私がたずねた。
「あらゆることを意味してるんだよ」と、ホームズは答えた。「おぼえているだろうが、あの聖職者の左の耳の形状を教えよという、一見とっぴょうしもない問合せを、ぼくがしたじゃないか。きみはその返事をくれなかったがね」
「あのときは、もうバーデンを発ったあとだったから、調べられなかったんだよ」
「そりゃ、そうだ。そんなこともあろうかと思って、ぼくは同文の電報を 英 国 館(イングリッシェル・ホフ) の支配人にも打っておいたんだ。これがその返事さ」
「この文面で何がわかったのかね?」
「ワトスン、われわれのこんどの相手が、まれにみる悪辣(あくらつ)で危険な人物だということがわかったんだよ。南米出身の宣教師シュレシンジャー博士とは、じつは偽牧師(ホーリー)ピーターズという男で、オーストラリアの生んだもっとも破廉恥(はれんち)な悪党のひとりだ。それにしても、オーストラリアのような振興の国が、こんな高度に洗練された犯罪者を生みだすとはね。この男のいちばんの特技は、宗教心につけこんで孤独な婦人を巧妙にだますことなんだ。それに、彼の妻ともいうべき、フレーザーという英国生まれの女が、したたかな相棒というわけだ。手口から察して、この男だとにらんだが、その肉体的特徴……一八八九年にアデレイドの酒場でけんかをして、ひどく噛みつかれたときの痕跡……を知って、もうまちがいないとわかった。かわいそうに姫は、どんなことでも平気でやる極悪非道な二人組の術中にはまっているんだ、ワトスン。姫がすでに殺されているという可能性も、じゅうぶんありうる。殺されていないとしたら、きっと何らかの形で監禁されていて、ドブニー嬢やほかの友人にも手紙を出せないでいるんだよ。彼女がロンドンヘは来ていないという仮定も、彼女がロンドンをすでに離れているという仮定も、可能性としては成り立つ。だが、おそらく前者ではなかろう。なぜなら、外国人登録制度があるから、大陸の警察の眼をあざむくのは容易ではないからね。それに後者もまた考えられない。なぜなら、この悪党が人を監禁しておける場所としては、ロンドンがいちばん便利だろうからね。だから、ぼくの勘(かん)では、彼はかならずロンドンにいるはずだということになる。だが、いまのところ、場所を指摘してみるだけの材料がない。こういう時には、夕食でもとって、気ながにやるんだな。夜になったら、ぼくはちょっと出かけてくるよ。警視庁のレストレードと話をしてみようと思うんだ」
しかし、警察という公的な組織も、また小さいが能率のよいホームズ独自の組織も、謎を解明するだけの決め手に欠けていた。ロンドンという数百万の人々がひしめく大都会の中では、われれの目指す三人の人物のゆくえは、あとかたもなく痕跡を消され、まるではじめからいないのも同然であった。新聞広告を出してみたが、成功しなかった。あらゆる手がかりを追及してみたが、ついに成果はなかった。シュレシンジャーが立ちまわりそうな怪しげな場所をのこらず調べてみたが、むだであった。彼の昔の仲間たちに、それぞれ監視をつけてみたが、彼と交渉しているものはなかった。一週間もやりきれぬ不安な日々がつづいた後に、ついに、とつぜん一筋の光明がさしこんできた。銀とダイヤモンドをちりばめた、古代スペイン風の意匠をこらした首飾りが、ウェストミンスター街のボビントン質店に、質入れされたのである。質入れした人物は、牧師らしい風采の、ひげのない大柄な男で、その住所氏名は明らかにでたらめなものと判明した。耳の特徴には気がつかなかったらしいが、人相はまさしくシュレシンジャーその人であった。
われらの顎(あご)ひげの友人は、三回も情報を聞きにランガム・ホテルから訪ねてきたが……その三度目は、この新事実が発見されて一時間とたたぬ時であった。大きなからだにつけた衣服が、しだいにだぶついてきていた。心配のあまり、彼はやせ細っていく様子だった。
「わたしに何か仕事をやらせてもらえたらなあ!」と、彼はくるたびに、嘆いていた。とうとうホームズが彼の願いを聞きとどける時がきた。
「あいつは宝石類を質に入れはじめたよ。こんどこそ捕まえなくちゃ」
「でも、それは、フランシス姫の身に何らかの危害が加えられているという証拠じゃないかな?」
ホームズは非常に沈痛な表情で首を横にふった。
「かりに今まで、やつらが姫を監禁してきたとしても、姫を釈放すれば、こんどはやつらが破滅することになるから、今後とも姫を手離すことはありえないね。われわれは最悪の事態に備える必要があるよ」
「何かわたしにできることはありませんか?」
「あなたの顔は、やつらに知られちゃいないね?」
「知られていません」
「今後あいつがどこかほかの質店へ姿をあらわすことも考えられる。そうなれば、そこからまた調査をやりなおさなくちゃいけない。けれども、質の値はよかったし、べつに質問も受けなかったから、現金に困ったら、こんどもまたボビントン質店にあらわれるのじゃないかな。店のものへ、この手紙を見せれば、あなたを店内で待機させてくれますよ。あいつがきたら、あとをつけて家をつきとめるんです。だけど、軽率なことをしちゃだめですよ、とくに乱暴はいけません。何事もかならずぼくに知らせて、ぼくが許可したことだけをやる、と誓ってください」
それから二日のあいだ、フィリップ・グリーン氏(あえて説明しておくと、彼はクリミア戦争でアゾフ海艦隊を指揮した有名な提督の子息である)からは、何の連絡もなかった。三日目の晩、彼はまっ青な顔をして、そのたくましい全身の筋肉を興奮でわなわなと震わせながら、私たちの居間にとびこんできた。
「やつがきた! やつがきた!」
彼はすっかりあわてていて、しどろもどろのことを口ばしった。ホームズはすぐに彼を落ちつかせると、押しやるようにひじ掛け椅子にかけさせた。
「さあ、何が起きたのか、順を追って話してください」
「つい一時間ほど前にあらわれたんです。こんどは細君のほうでしたが、持ってきた首飾りはこの前のと対(つい)のものでした。彼女は背が高くて、顔色が蒼く、イタチみたいに小さな眼をしていました」
「その女ですよ」と、ホームズがいった。
「女が店を出ると、わたしはあとをつけました。ケンジントン通りを北のほうに歩いていくので、私は尾行をつづけました。やがて彼女はある店にはいりました。なんと、ホームズさん、そこは葬儀屋なんです」
ホームズはぎょっとしたようだった。「なんですって?」と声をふるわせて聞きかえしたが、冷静な何くわぬ顔とは裏腹に、その声はまぎれもなく内心のはげしい動揺を伝えていた。
「彼女は帳場にいた女と話していました。わたしも店の中にはいっていきました。『約束より遅れてるじゃないの』彼女は何かそんな意味のことをいっていました。帳場の女はしきりに弁解しておりました。『もうとっくにお届けするはずだったんですが、なにしろ普通の型じゃないものですから、時間がかかってしまいまして』ふたりは話をやめて、わたしのほうを見ました。それでわたしは、ちょっとしたことをたずねて、すぐに店を出ました」
「うまくやりましたね。それからどうなりました?」
「女が店から出てきましたが、わたしは戸口のところに隠れて見ていたんです。女は急に警戒心を起こしたのか、まわりを見まわしていました。それから辻馬車を呼びとめて、乗りこみました。わたしも幸いなことに、別の馬車をつかまえて、あとをつけることができました。女はブリックストン区のポールトニイ広場三十六番地のところで、馬車を降りました。わたしはいったんそこを通りすぎ、広場の角で馬車を降り、その家を見張りました」
「だれかを見かけましたか?」
「窓はどれもまっ暗で、一階にひとつだけ灯りがついていましたが、よろい戸がおりていて、なかは見えませんでした。わたしはたたずんだまま、これからどうしようかと迷っておりますと、幌(ほろ)つきの荷馬車が家の前にとまって、二人の男がおりてきました。車から何かを取りだし、玄関の石段のうえに運びあげました。ホームズさん、それは棺(ひつぎ)だったのです」
「えっ!」
「とっさにわたしは家の中に駆けこもうかと思いました。男たちと荷物を中に入れようとして扉が開きました。扉を開けたのは、さっきのあの女でした。ところが、わたしがそこに立っていると、わたしのほうをちらと見て、さきほどの男だと気がついたらしく、驚いた様子であわてて扉を閉めました。わたしのほうは、あなたとの約束を思い出して、こうしてここへとんできたわけです」
「じつにうまくやってくれましたな」と、ホームズは紙きれに何やら書きつけながら、いった。「捜査令状がなければ、合法的な処置は何もできません。ですからこの手紙を当局へ持っていって、令状をとっていただけると、ありがたいのですが。多少の難点はあるかもしれないが、宝石を売ったことで理由はじゅうぶんでしょう。細かいことは全部レストレードがやってくれます」
「でも、そんなことをしているあいだに、姫が殺されるかもしれない。あの棺はなんのために用意したんでしょう、彼女以外の誰を入れるというんです?」
「われわれもできるかぎりのことはしますよ、グリーンさん。いまは一刻を争うのです。あとのことはわれわれにまかせてください」
事件依頼者が急ぎ足で立ち去ると、ホームズはさらにこういった。「さあ、ワトスン、あの男がいけば、正規の警察官が出動する。ぼくらは例によって遊撃隊として、独自の行動をとらねばならないよ。事態はまさに危機一髪という時だから、どんな極端なことをやってもかまわんだろう。一刻も早くポールトニイ広場へ急ぐんだ」
「いまの状況を改めて説明しておこう」と、彼はわれわれの馬車が速度を早めて国会議事堂の前を駆けぬけて、ウェストミンスター橋にさしかかった時にいった。「あの悪党どもは、まず姫から忠実な侍女を引き離したうえで、姫をだましてロンドンへ連れてきた。彼女が手紙を書いたとしても、その手紙は途中で横どりされてしまったのだ。仲間を通じて、家具つきの家を借り、ひとまずそこへ落ちついた。それからただちに姫を監禁し、最初からねらっていた高価な宝石類を手に入れた。すでにやつらはその一部を売りはじめたが、姫の運命に関心をもって追跡している人間があろうとは夢にも思っていないから、宝石を売りに出しても身の危険はないと考えているらしい。姫を釈放すれば、もちろん彼女が警察に訴えるだろうから、それはできない。だからといって、いつまでも監禁しておくわけにもいかない。そうなると、唯一の解決策は彼女を殺してしまうことだ」
「それははっきりしているね」
「そこでもうひとつの方向から推理してみよう。ふたつの方向から別々の推理をたどっていって、どこかで交差する点が見つかったら、そこがいちばん真実に近いとみなしていいわけだ。こんどはフランシス姫からじゃなく、棺のほうから出発して、逆方向に推理をすすめてみよう。棺が運ばれたということは、残念ながら、姫が死んだという可能性を裏づけている。しかもそれは、正規の死亡診断書と埋葬許可書のそろった、正式の埋葬であることを示している。明白に姫を殺害したとすれば、裏庭に穴でも掘って死体を埋めておくはすだ。ところが、このやりかたをみると、公然と、しかも正規の手続きをふんでいる。これはいったいどういうわけだ? すると、やつらは、医者をあざむいて自然死と思わせるような方法……たぶん毒を使って……彼女を殺したにちがいない。それにしても、医者に診(み)せるなんて、どうも変だな。その医者が共謀者でもないかぎり、普通なら診せないと思うがね」
「死亡診断書を偽造したんじゃないかな?」
「危くなってきたな、ワトスン、とても危険だ! いや、ちがうぞ、そんなことをやるとは考えられないよ。おい(キャビー)、ここで停めてくれ! 質屋の前を通りすぎたばかりだから、ここが葬儀屋だよ。中にはいってくれるかい、ワトスン? きみの風采なら、相手も信用するよ。ポールトニイ広場の葬儀は、明日の何時にあるのか聞いてほしいんだ」
女の店員はべつにためらう様子もなく、明朝八時だと答えてくれた。
「やっぱり、ワトスン、事を秘密のうちに運ぶつもりは、まったくないんだよ。何もかも公然とやるつもりだ! 何らかの方法で合法的な手続きを済ましたから、何の不安もないと思っているんだよ。さあ、こうなったら、じかに正面攻撃をしかけるしかあるまい。武器はあるかい?」
「ステッキがあるよ!」
「よし、それでじゅうぶんだ。なにしろ『正義のけんかなら力は三倍』だからね。警察の出番を待っていては手遅れになる。法律のきゅうくつな枠を守っていては犯人に先を越される。おい(キャビー)、もう帰っていいよ。さあ、ワトスン、のるかそるかやってみよう。今まで何度も経験した冒険を」
ホームズは、ポールトニイ広場の中央にある大きなうす暗い家の玄関に立って、勢いよくベルを鳴らした。扉はすぐに開いて、広間のうすあかりに照らされて、背の高い女が姿をあらわした。
「おや、何のご用ですか?」闇の中から私たちをのぞき見ながら、女はきつい口調でたずねた。
「シュレシンジャー博士にお会いしたい」とホームズがいった。
「ここにはそんな人はいません」と答えて、女は扉を閉めようとしたが、ホームズは足でそれを阻止した。
「何と名のっておられるかは知らないが、とにかくこの家に住んでいる男のかたにお会いしたい」と、ホームズは鋭くつめよった。
女はしばらくためらっていた。やがて扉を開けて、「では、おはいりください」といった。「わたしの夫は相手が誰であろうと、会うのを避けたりする男じゃありません」
私たちを中にいれて扉を閉め、右側の居間へ通し、ガス灯をつけて出ていきながらいった。「ピーターズはすぐまいります」
ほんとうに女のいったとおりだった。私たちが埃(ほこり)っぽくシミの臭いのただよう部屋を見まわすひまもなく、扉がひらいて、大柄でひげのない、頭のはげた男が、軽やかな足どりで部屋にはいってきた。頬の肉の垂れおちそうな、大きな赤ら顔で、みかけはいかにも聖職者らしく装ってはいるが、冷酷で意地悪そうな口もとがその印象をぶちこわしていた。
「これは何かのまちがいですな」と、いやみたっぷりの猫なで声でいった。「はいる家をまちがわれたのじゃないかな。この通りをもっと先にいったところに……」
「もうたくさんだよ。そんなまわりくどいごまかしにつきあってる暇はないんだ」と、わが友は鋭くいいはなった。「きみはアデレイドのへンリー・ピーターズだ。バーデンや南米では牧師シュレシンジャーという異名で通っている。それは、ぼくがシャーロック・ホームズと名のってもまちがいではないように確かなはずだよ」
ビーターズ(これからはそう呼ぶが)は、ぎょっとして、この手ごわい強敵の顔をまじまじと見つめた。「あんたの名前を聞いても、べつに驚きはしない、ホームズさん」と、彼は平然とした様子でいった。「良心にやましいところがないから平気ですよ。この家に何の用事で?」
「フランシス・カーファクス姫をどうしたのか調べにきたんだ。きみがバーデンから連れてきたことはわかっている」
「あの婦人の行方は、こちらが聞きたいくらいだ」と、ピーターズはにべもなく答えた。「彼女には百ポンド近い貸しがある。見返えりといえば、宝石商が見むきもしないつまらぬ首飾りが二つあっただけだ。バーデンでは家内やわしにつきまとって離れず……そのころのわしが別の名前を使っていたのは事実だが……とうとうロンドンにまでくっついてきた。彼女の宿泊費も旅費もわしが支払ってやったんだ。ロンドンにくると、さっさと行方をくらまして、いまも話したように、借金のかた(ヽヽ)にあんな時代おくれの宝石を置いていったんだ。あの女を見つけてくれたら、恩に着ますよ、ホームズさん」
「見つけますとも」と、ホームズがいった。「見つけ出すまで、この家をしらべさせてもらいますよ」
「捜査令状はお持ちですか?」ホームズはポケットから拳銃を半分ほどのぞかせた。「ほんものがあらわれるまで、これで間に合わせてもらうよ」
「なんだ、それじゃまるで強盗だ」
「そういわれても仕方がないがね」と、ホームズは愉快そうにいった。「この連れの男もひどい悪党でね。ふたりでこの家を捜索するつもりだ」
相手は扉をあけた。
「警官を呼べ、アニイ!」と彼はいった。廊下を走っていく女のスカートがちらと見え、玄関の扉が開き、そして閉まる音がした。
「ぐずぐずしてはおれん、ワトスン」と、ホームズがいった。「ピーターズ、じゃまだてすると、けがをするだけだよ。この家に持ちこんだ棺はどこにある?」
「棺をどうしようというんだ? もう使っている。死体を入れてある」
「その死体を見せてもらおうか」
「いやだ、ことわる」
「では勝手に見せてもらう」ホームズはさっと相手を押しのけると、広間の中にはいっていった。すぐ目の前に半開きの扉があった。われわれは中にはいっていった。そこは食堂でうす暗くしたシャンデリアの下のテーブルに、棺が置かれていた。ホームズはガス灯を明るくして、蓋(ふた)をあけた。棺の奥底に横たわっていたのは、やせ衰えた姿だった。頭上のあかりは、年老いてしなびた顔を照らし出した。たとえ虐待、飢餓、病気など、どんな苦痛をこうむったとしても、あの美しいフランシス姫がこんなやつれはてた姿に変わるはずがない。ホームズの顔には驚きと、そして安堵(あんど)の色が浮かんだ。
「よかった!」と彼はつぶやいた。「別人だった」
「こんどばかりは、とんだへマをやったものですな、シャーロック・ホームズさん」と、あとからついてきたピーターズがいった。
「この死体は誰です?」
「ぜひ知りたいとおっしゃるなら、教えてさしあげる。これは家内の乳母をしていた、ローズ・スペンダーという、ブリックストン養老施療院にいた婆さんですよ。わしたちは彼女をここへ連れてきて、ファーバンク・ヴィラ十三番地の……住所を控えておいたらどうです、ホームズさん……ホーソム博士を呼んで、同じキリスト教徒の友愛精神で、手厚く看護してやったのです。ところがここへきて三日目に、彼女は死んだ……死亡証明書には老衰死と記されてますよ……だが、これはあくまで医者の診断で、もちろんあなたならご明察でしょうがね。葬儀のほうは、ケンジントン通りのスティムソン商会に頼んでありますから、明朝八時に埋葬してくれるはずです。これでもまだ、文句をつける余地がありますか、ホームズさん? ばかげたへマをやったもんですな。このへんで間違いを認めたらどうです? フランシス・カーファクス姫がはいっているものと思いこんでふたを開けてみたら、中身は意外にも九十婆さんの死体だったので、ぽかんと口をあけて驚いていたあんたの顔を、写真にでも撮っておきたかったですな」
相手からこれほど罵倒(ばとう)されても、ホームズはあいかわらず無表情を装っていたが、内心ではよほどくやしかったとみえて、両手をきつく握りしめた動作にそれがあらわれていた。
「この家全体の捜索を終わったわけじゃない」
「これでも、まだやるというのか!」とピーターズが叫んだとき、廊下に女の声がして、重たげな足音がきこえてきた。
「やれるかやれないかは、すぐにわかるさ。警察のかた、どうぞこちらへ! この人たちが勝手にここへ押しかけてきて、いくらいっても出ていってはくれんのだ。追い出してもらいたい」
入口には巡査部長と巡査が立っていた。ホームズは自分の名刺を渡した。
「ぼくはこういうものです。こちらは友人のワトスン医師です」
「おや、ホームズさんでしたか。お名前はよく存じております」と巡査部長がいった。「でも令状がなければ、出ていってもらわねばなりませんな」
「もちろんです。それはよく承知していますよ」
「逮捕してください!」とピーターズが叫んだ。
「その必要があると判断すれば、しかるべき処置をとりますよ」と、巡査部長は威厳をこめた口調でいった。「ここはとにかく、お引きとりねがわねばなりませんな、ホームズさん」
「わかりました、ワトスン、引きあげよう」
まもなく私たちは通りへ出た。ホームズは例によって冷静であったが、私のほうは屈辱と怒りがこみあげてきた。巡査部長があとを追ってきた。
「お気の毒でした、ホームズさん。これも法の定めでして」
「いかにもそうでしょう、部長さん。あなたとしては、ああするよりほかに仕方がなかったと思いますよ」
「あそこへいかれたのも、ちゃんとした目的があってのことでしょう。わたしにできることがありましたら……」
「ある婦人が行方不明なんです、部長さん。われわれはあの家にいるとにらんでいます。もうすぐ令状が出るはずです」
「ではあの連中から眼を離さぬようにしますよ、ホームズさん。もし何かあったら、かならずお知らせします」
そのときはまだ九時だったから、われわれはすぐに捜査を再開することにした。まずブリックストン養老施療院を訪ねてみた。聞いてみると、数日前にある慈悲深い夫婦がたずねてきて、頭のもうろくした老婆をもとの召使いだといって、許可を受けていっしょに連れかえったことは、たしかに本当だった。その老婆がその後死亡したといっても、誰も驚きはしなかった。
つぎの訪問先は医者だった。彼がいうには、往診を頼まれたので行ってみると、死にかかっている老婆がいたが、明らかに老衰によるものとわかったし、彼女が息をひきとるまで立ち会ったので、正規の死亡診断書を書いたということだった。「医者として保証しますが、どこにも不自然なところはなく、犯罪行為が介入する余地などありません」と、彼はいった。家の中に怪しいと思われる様子はまったくなく、ただあの階級の人にしては、召使いが一人もいないのが変だと思われただけだった。医者からは、それ以上のことは聞き出せなかった。
最後に足を向けたところは、警視庁だった。捜査令状が出されるまでには、手続き上の問題があった。長官の署名が必要だが、それは明日の朝でなければ得られないのだ。明朝九時ごろホームズが出向いてくれば、レストレードと現場へ出かけ、正規の家宅捜索がやれるとのことであった。かくして一日は終った。ただし真夜中近く、例の巡査部長が訪ねてきて、あの大きな暗い家の窓のあちこちに、あかりがちらちらしていたが、誰も出はいりしたものはいない、と教えてくれた。しかし、私たちとしてはただ祈るような気持で我慢づよく夜の明けるのを待つほかはなかった。
シャーロック・ホームズは、いら立ちのあまり話をする気にもなれず、異様に興奮して眠れそうにもなかった。私が寝室に引きあげる時も、彼は額に太く黒い眉をけわしく寄せて、神経質な長い指で椅子の縁を叩いたり、しきりに煙草をふかしたりしながら、あらゆる角度からこの謎を解明しようと頭を悩ましていた。その夜は幾度となく、彼が部屋の中を歩きまわる足音が聞こえた。そして翌朝、私が起こされたばかりの時に、待ちかねたように彼は部屋に飛びこんできた。化粧着をまとってはいたが、眼は落ちくぼみ、顔色は青白く、昨夜は一睡もしていないということがすぐにわかった。
「葬儀は何時だった? 八時じゃなかったかい?」と、彼はひどくそわそわしてたずねた。「もう七時二十分だぜ。こりゃ大変だ、ワトスン、神に授かったこの頭脳がこんなに役立たずだとは知らなかったよ。さあ、急ぐんだ、大急ぎだ! 生死にかかわる……死ぬ可能性が百とすれば、生きている可能性は一しかない。ああ、これが手遅れにでもなったら、ぼくは自分を許してはおけないよ、絶対に!」
それから五分もたたないうちに、私たちの乗った二輪馬車はべーカー街を疾走していた。だがそれほどまでに急いでも、議事堂の大時計の前を通りすぎるころは、八時までにあと二十五分しかなかったし、ブリックストン通りを疾走しているころに、八時の鐘が鳴っていた。しかし、遅れたのは私たちばかりではなく、八時を十分もすぎているというのに、霊枢車はまだ玄関の前にとまっていた。しかも私たちの馬車の馬が白い泡(あわ)をふきながら家の前にとまった時、三人の男にかつがれた棺が入口にあらわれたところであった。ホームズは大急ぎで飛び出していって、男たちの行手をさえぎった。
「もとにもどすんだ!」と、彼は先頭の男の胸に手を押しあてて叫んだ。「すぐに、もとにもどせ!」
「何をばかげたことをいうんだ? もう一度きくが、令状はあるのか?」と、ピーターズが棺のむこうの端から大きな赤ら顔をのぞかせて、怒り狂ってどなった。
「令状はもうすぐくる。それまではこの棺を家から出すな」
ホームズの厳しい口調に男たちは圧倒されてしまった。ピーターズは急に家の中に消えたので、男たちはホームズの命令にしたがった。「急げ、ワトスン、急ぐんだ! ネジまわしはここにある!」と彼は、棺がテーブルのうえに戻されると大声で叫んだ。「ほら、きみはここの釘を抜くんだ! 一分間でふたをあけたら、一ポンド金貨だぞ! 何もきくな……棺を開けるんだ! みんなでふたを引っぱれ! そうだ、その調子だ! もう一本だ! それにもう一本! さあ、もう少し! もう少しだ! ああ、やっと開いたよ」
力を合わせて、私たちは棺のふたをこじ開けた。すると棺の中から、息がつまるような強いクロロフォルムの臭いが鼻にしみてきた。中の死体には、顔一面に綿をかぶせてあり、その綿に麻酔剤がしみこませてあった。ホームズが綿をむしりとると、美しく高貴な中年の女性の、彫像のような顔があらわれた。すぐさま彼は婦人のからだに腕をいっぱいにまわして、上半身を抱きおこした。
「死んでるか、ワトスン? かすかな望みはあるかな? まさか手遅れだったんじゃあるまいな!」
それから三十分ばかりの間は、やはり手遅れだったかと思われる状態がつづいた。じっさいに呼吸は止っていたし、クロロフォルムの毒を吸いこんでいたから、フランシス姫は二度と息をふきかえさないのじゃないかと思われた。だが、しばらく人工呼吸や、エーテル注射など、あらゆる医学的な処置を講じた結果、ついに、生命のかすかな脈動が感じられ、まぶたがかすかに震え、口にあてた鏡にわずかな曇(くも)りがあらわれ、すこしずつ息をふきかえしていく様子が認められた。
その時、表のほうに一台の馬車がとまったので、ホームズはよろい戸をあけて外をのぞいた。
「レストレードが令状をもってきたよ。いまごろきたって、相手は逃げてしまっているさ」
廊下を急ぎ足でやってくる重たげな足音を聞きながら、ホームズはこうつけくわえた。「それにしても、ぼくたちよりもこの婦人を看病するのにふさわしい人がきたようだ……おはよう、グリーンさん。フランシス姫をどこかへお連れするのでしたら、早いほうがいいですよ。ところで、葬儀はやはりやるべきだね。この棺の中には、もう一人お婆さんがはいっているから、早く彼女を最後の安息所へ移してあげるんだね」

「この事件をきみの記録の中に加えるとしたらだね」と、その夜ホームズがいった。「どんなに優秀な頭脳でも、時にはそれが曇ることもあるという実例にしかなるまいね。そんな失敗は誰にでもあるが、その錯誤に気づいて訂正しうる人が、いちばん偉いのだ。こういうふうに評価の基準を変えれば、ぼくだっていくらかは賞賛されてしかるべきだと思うよ。昨夜はひと晩じゅう、さんざん思い悩んだんだ。何らかの手がかりとか、誰かのちょっとした一言とか、現に観察した材料とかの中に、よく注意しておれば当然気づいていいはずなのに、ついうっかり見のがしてきたものがあったのじゃないかってね。そして明けがたになって、ふとあの言葉を思い出したんだ。それは、フィリップ・グリーンの報告の中にあった、葬儀屋の細君がいった言葉だった。『もうとっくにお届けするはずだったんですが、なにしろ普通の型じゃないものですから、時間がかかってしまいまして』と彼女はいったんだ。もちろん棺のことだが、その棺が普通の型じゃないというのだ。ということは、特別の寸法の棺を注文したとしか考えられない。でも、どうしてだろう? どうしてそうする必要があるんだろう? すると、ぼくはすぐにあることを思い出したんだ。それは、棺が深くて、その底のほうに小柄なやせ衰えた婆さんがはいっていたことだ。あんなに小さな死体をおさめるのに、どうしてあんなに大きな棺が必要だったのか? もう一つの死体をいっしょにいれるためだ。こうすれば一通の死亡証明書で同時に二人を埋葬できる。ぼくの眼が曇ってさえいなければ、とっくの昔にわかっていたことだったんだ。八時になれば、フランシス姫は埋葬されてしまう。残された唯一のチャンスは、棺が家を出るまえにそれをさし止めることだけだった。姫を生きたまま救出できるチャンスは絶望に近いと思われたが、ともかくチャンスにはちがいなかった。そして、それは結果の示すとおりだ。ぼくの知るかぎりでは、あの連中は今までに人殺しだけはやったことがない。最後の土壇場(どたんば)になっても、あの連中は実際に暴力をふるうことはためらったのだろう。姫を埋葬してしまえば、姫を殺したという証拠は残らないし、たとえ姫の死体が発掘されたとしても、彼らには逃れる方法はある。彼らはおそらくそういう考えに達したのではないかと推察し、ぼくはそこにいちるの望みを託した。その時の情景は容易に想像できるよ。二階に恐ろしい小部屋があっただろ? あそこに姫は長い間監禁されていたんだ。彼らはその部屋に押しいって、クロロフォルムをかがせて姫を意識不明にし、階下へかつぎおろし、彼女が二度と眼をさまさないようにと周到にも棺にまで麻酔剤を注ぎ、ふたをかぶせてねじ釘で密封した。じつに巧妙な手口だよ、ワトスン。数ある犯罪の記録の中でも、こんなやりかたをしたものは例がないよ。あの元宣教師どもが、レストレードの追跡をうまく逃れたとすれば、あの連中がこれからどんな見事な手口を考え出すか、興味のあるところだね」
悪魔の足

私とシャーロック・ホームズとの長年の親密な友情の記念として、数々の珍らしい経験や興味深い思い出を、時に応じ折りにふれて記録してきたが、その間に私にとっていつも厄介な問題であったのは、ホームズが自分の名前を世間に知られるのをひどく厭(いや)がることであった。性格的に陰鬱で皮肉を好む彼にとっては、どんな場合でも世間の賞讃などは唾棄(だき)すべきものであったし、一つの事件をうまく解決し、実際の摘発を正規の警察機関にまかせて、警部たちのほうが大衆からこぞって見当はずれの賛辞を受けるのを、あざけるような微笑を浮かべて聞いている時が、彼にとってはいちばん愉快だったのである。この数年の間に、私の記録が公衆の眼にふれる機会がかなり少なくなったのも、じつはホームズのこういう態度によるものであって、おもしろい材料が不足していたわけではない。彼の冒険に仲間として立ち会うことは、私に許された特権であったが、それだけに私としては行動を慎重にし、言葉をつつしむ必要があったのである。
ところが、先週の火曜日に、ホームズから次のような電報が……電報で間にあうならわざわざ手紙など絶対に書かない男であることはよく知られている……届いたものだから、私は少ながらず面くらったのである。


「コーンウォルノ恐怖ニツイテ書イテハドウカ? ……アレホドノ奇怪ナ事件ハ他二類ヲ見ズ」


彼はどうして今ごろになって、あんな事件を思い出したのか、またどんな気まぐれから、私にそれを公表させる気になったのか、私にはさっぱりわからない。だが、せっかくの機会だから、彼から取り消しの電報がこないうちに、事件の詳細を正確に書きとめておいた覚え書を大急ぎで捜し出して、あえて読者のために、私はこの物語を公開することにしよう。
あの鉄のように強靱(きょうじん)なホームズの体力が、長い間の過酷な仕事による疲労に加え、本人の時折の不摂生も手伝って、衰弱の徴候をみせはじめたのは、一八九七年の春のことであった。その年の三月、ハーレイ街に住む医師のムア・エイガ博士……この人とホームズの劇的な出会いについては、いつか機会をみて語るつもりだが……から、これ以上健康を害したくなければ、引き受けている事件を全部放り出して、完全な休養をとらなければならないと、厳しい宣告を受けたのである。ところが、ホームズは絶対的ともいえる客観性の持主であるところがら、自分の健康状態などには、何らの興味も示さなかった。それでも、永久に仕事ができなくなるとおどかされて、ようやく転地保養に出かける気になった。こういうわけで、その年の早春、私たちはコーンウォル半島の突端にあるポルデュ湾の近くの、小さな田舎家に滞在することになったのである。
そこは風変わりな場所で、ホームズの気むずかしい好みに奇妙にぴったり合っていた。草の生い茂る岬の頂きに建っている白塗りの小さな家から、窓の外を見おろすと、半円形をしたマウンツ湾の不気味な全景が、目の前にひろがっていた。この湾の周囲の黒々とした絶壁と波に洗われた暗礁(あんしょう)は、昔から帆船にとっては死の罠(わな)と恐れられ、無数の船乗りたちの墓場となった場所である。北風が吹くと湾内は波も静まり風も凪(な)いで、外海の嵐にもまれた船は、それが危険とも知らず誘い込まれるように避難してくる。
すると、突然風が渦を巻き、南西からの疾風が吹き荒れ、船は錨(いかり)を引きずられ、風下の暗礁に吹き寄せられ、白く砕ける荒波のなかで、最後の苦悶がはじまる。だから賢明な航海者は、この呪われた湾にはけっして近づかないのだった。
陸上の周囲の風景も、海上におとらず陰鬱である。見わたすかぎり起伏の多い荒地がひろがり、ものさびしい、茶色の原野のところどころに、古代の村落の跡を物語る教会の塔がそびえていた。この荒野のいたるところに、今は姿を消した種族の遺跡が残っており、彼らはこの地上から絶減してしまったが、後世に残した唯一の記念物は、奇妙な石の塔とか、死者の遺骨を埋めた小高い塚とか、有史以前の戦争の跡を思わせる珍らしい土塁(どるい)とかであった。忘れ去られた民族の伝説に色どられたこの地方の魅力と秘密は、すくなからずホームズの想像力に訴えるものがあって、彼は荒野を長い時間散歩したり、独りきりで冥想にふけったりして日々を過ごした。彼は古代コーンウォル語にも興味をそそられ、それが古代カルデア語と同系統のものであり、主としてフェニキアの錫(すず)貿易業者を通して伝わったものと思うと言っていたのを私はおぼえている。言語学に関する書物を取り寄せて、彼がこの問題を本格的に研究しようとしていたやさきに、それは私を悲しませ、ホームズを喜ばせたのだが、事もあろうにこの夢多き土地で、私たち二人は家からほんの目と鼻のところで起きた思いがけない事件に巻きこまれてしまったのだ。それは、私たちをしてロンドンから逃げ出させたどんな事件よりも強烈な刺激に富み、興味津々(しんしん)たるものがあり、またはるかに神秘につつまれた事件であった。私たちの単純な生活と平和で健康的な日常はひどくかき乱され、コーンウォルばかりでなく西部イングランドの全域にわたって異様な興奮を呼び起こす結果になった一連の事件の渦中に投げこまれたのである。ロンドンの新聞は、きわめて不完全な情報しか伝えなかったが、多くの読者は当時「コーンウォルの戦慄(せんりつ)」として話題になったあの事件を記憶されていることであろう。あれから十三年たった現在、私はこの驚くべき事件の真相をくわしく語ろうと思うのである。
前に述べたように、コーンウォル地方のあちこちに立っている教会の塔が、点々と散在している村落の標識となっていた。その中でいちばん近いのはトレダニック・ウォーサ村で、二百人ばかりの村人の住む田舎家が、古い、苔(こけ)むした教会の周辺に密集していた。教区牧師のラウンドヘイ氏は考古学を研究していたから、それが機縁でホームズはこの人と知り合いになった。彼はでっぷりした愛想のよい中年の男で、この地方の伝説にかけては豊かな知識があった。彼に招待されて、私たちは牧師館で午後のお茶をごちそうになったが、その席でモーティマー・トリジェニス氏とも知り合いになった。この人は生活には困らぬ紳士で、だだっ広くてまとまりのない牧師館に部屋を数室借り切って、牧師の貧しい収入を補ってくれていた。牧師は独身でもあったので、そういうとりきめに喜んで応じたのだが、二人の間には性格や趣味の共通点がほとんどなかった。下宿人のほうはやせて色が黒く、眼鏡をかけており、ひょっとしたら奇形ではないかと思わせるほどの、ひどい猫背であった。短時間の訪問であったが、その間に牧師はよくしゃべったが、下宿人は妙に無口で、悲しげな顔つきをした内省的な男で、眼をあらぬほうに外らし、何か自分のことを思い悩んでいる様子であった。
三月十六日火曜日、朝食をすませたばかりで、私たちが居間で煙草をふかし、これから日課の荒野への散歩に出かけようかという時に、突然この二人が飛びこんできた。
「ホームズさん」と、牧師が声をふるわせて叫んだ。「ゆうべ、じつに異様な悲劇的な事件が起こりました。今まで聞いたこともない怪奇な事件です。こんな時に、あなたがここに居合わせてくださるのも、神の思召(おぼしめ)しとしか思われません。この広い英国で、いま私たちが頼みとするのは、あなた以外にありません」
私は冷ややかな態度で、この迷惑な訪問者を見つめたが、ホームズは思わず口からパイプをはずして、猟師の掛け声をきいた老練な猟大のように、椅子の中で身を起こした。彼が手で安楽椅子をすすめると、あわてふためいている牧師は困惑した表情の連れと並んで腰をおろした。モーティマー・トリジェニス氏は牧師よりも落ちついていたが、細い手がびくびくと痙攣(けいれん)したり、黒い眼がぎらぎらと光っているところをみると、内心の動揺はふたりとも同じであった。
「わたしから話しましょうか、それともあなたが?」と、彼は牧師にたずねた。
「ともかく、現場をさきに発見したのはあなたで、牧師さんのほうはあとからのようですから、あなたがお話しなさったほうがいいのじゃないかな」と、ホームズがいった。あわてて服を着たらしい牧師とは対照的に、そばに坐っている下宿人のほうは服装をきちんと整えていたが、そのふたりが、ホームズの明快な推理を聞いて、いかにも驚いた表情をするのが、私にはおかしかった。
「わたしから、まず簡単な説明をしておくほうがいいでしょう」と牧師がいった。「そのあとで、このままトリジェニスさんから細かい点を聴取すべきか、あるいはすぐさまこの奇怪な事件の現場に駆けつけるべきか、あなたが判断なさればよろしいでしょう。では、説明いたしますが、ここにおられるトリジェニスさんは、昨晩は、トレダニック・ウォーサ村の、荒野の古い石の十字架の近くの家で、兄弟のオウエンさんとジョージさん、それに妹のブレンダさんといっしょにすごされたのです。トリジェニスさんが十時すざに退出された時、ご兄弟は食堂のテーブルを囲んで元気で楽しそうにトランプ遊びをしておられました。けさ、トリジェニズさんがいつものように早起きをして、朝食前にそのあたりを散歩していますと、医師のリチャーズ博士の馬車が近づいてきて、急患の知らせを受けてトレダニック・ウォーサ村の家にいくところだというのです。トリジェニスさんは、むろんのことその馬車に便乗しました。トレダニック・ウォーサに着いてみると、たいへんな事が起きていたのです。ご兄弟も妹さんも、昨夜別れた時のままの恰好で、テーブルを囲んで坐っており、前にはトランプの札が並んだままだし、ローソクは根もとまで燃えつきています。だが、妹さんは椅子に寄りかかったまま死んで冷たくなっており、その両わきに坐っている二人のご兄弟はすっかり気が狂っていて、げらげら笑ったり叫んだり何やら歌ったりしているのです。三人とも、つまり死んだ妹さんも発狂した二人のご兄弟も、みなその顔は極度の恐怖にゆがんで……見るからにぞっとするようなひきつった表情になっているのです。家の中に誰かが侵入した形跡もなく、年老いた料理人で家政婦のポーターさんがおりましたが、彼女は、ゆうべはぐっすり眠っていたので、何の物音も聞かなかったといいました。何ひとつ盗まれたものも物色されたものもないので、一人の婦人を死に到らしめ、二人の元気な男を発狂させるほどの恐ろしい出来事とはどんなものだったのか、まったく不可解です。まあ、おおよそのところは以上のような次第です、ホームズさん。なんとかあなたのお力で事件を解明していただければ、おおいにありがたいのです」
私はどうにかしてホームズをうまく説き伏せて、転地の目的である静養に引きもどそうとひそかに思っていたのだが、彼の真剣な顔つきと額に寄せた眉を一目見て、そんなことを期待してもむだだと観念するほかはなかった。彼はしばらくのあいだひと言もいわずに、私たちの平和な生活に割りこんできたこの奇怪な悲劇について夢中で考えこんでいた。
「調べてみましょう」と、やっと彼は口を開いた。「お聞きしたかぎりでは、ずいふん珍らしい事件のようですね。あなたは直接現場をごらんになったのですか、ラウンドヘイさん?」
「いいえ、ホームズさん、トリジェニスさんが牧師館に知らせにこられた報告を聞いて、さっそくここへ相談に駆けつけたわけです」
「その奇怪な悲劇が起こった家は、ここからどれくらい離れていますか?」
「一マイルほど奥の荒野です」
「ではいっしょに歩いていきましょう。でもその前に、あなたに二、三おたずねしたいことがあリます、モーティマー・トリジェニスさん?」
この人はその時までずっと沈黙したままであったが、牧師のいかにも露骨な興奮ぶりよりも、かえって強く自制している彼の内心の興奮のほうが、はるかにはげしいことを私は見抜いていた。顔色はまっさおで、表情はひきつり、不安そうな眼でホームズを見つめ、握りしめた細い両手がぶるぶる震えていた。自分の肉親にふりかかったこの恐るべき出来事が語られるのを聞くとき、血の気の失せた唇はわなわなと震え、その暗い眼は、事件現場の恐ろしい光景をそこに映しているかのようであった。
「何なりとおたずねください、ホームズさん」と、彼は真創な口調でいった。「口にするのも心苦しいのですが、あるがままをお答えします」
「昨夜の様子をお聞かせください」
「まずですね、ホームズさん。いま牧師さんがおっしゃったように、わたしはあの家で夕飯をとりました。食後に兄のジョージがホイスト遊びをしようといいだしました。みんなでテーブルを囲んだのは九時ごろでした。そして十時十五分すぎに、わたしは席を立って帰ることにしたのですが、みんなはまだとても楽しそうにトランプを続けていました」
「玄関まで送ってくれたのは誰ですか?」
「家政婦のポーターさんはもう寝室に引きあげておりましたから、自分で玄関の扉を開けました。そして、出るとすぐ扉を閉めました。三人のいる部屋の窓は閉まっていましたが、よろい戸はおりていませんでした。けさ行ってみますと、扉にも窓にも何ひとつ異状はないし、誰か怪しい人間が侵入した形跡もないのです。ところが部屋にはいってみると、ふたりの兄弟は恐怖のあまりすっかり気が狂い、妹のブレンダは椅子の肘掛けから頭をだらりと垂らしたまま、恐怖の衝撃で死んでいました。あの部屋の光景を、生涯忘れることはできません」
「お話をうかがったところでは、事実はたしかに奇怪ですな」と、ホームズがいった。「お見受けするところ、あなたは事件の原因については、全くお心あたりがないのですね?」
「悪魔です、ホームズさん。悪魔のしわざです!」モーティマー・トリジェニスは叫んだ。「この世のもののことだとは思われません。彼らの頭から理性の光を奪いとるような何ものかが、あの部屋に侵入したのです。人間わざでは、あんなことはできませんよ」
「だけど」とホームズがいった。「人間の力を越えたもののしわざだとすれば、もちろんぼくにも手の施しようがありませんよ。しかし、そんな極論をするまえに、あらゆる観点から現実に則した解釈を試みることが大切です。トリジェニスさん、あなた自身のことですが、ご兄弟はいっしょに暮しておられたのに、あなただけが別居されていたのは、家族のかたと同調できないものがあったからだと推察しますが?」
「じつはそのとおりなのです、ホームズさん。でも、あれは過去のことですし、もう解決ずみですよ。私たち一家は、レッドルスの錫(すず)鉱山の採掘業者でした。私たちはその事業をある会社に売りわたし、どうにか生活していけるだけの蓄(たくわ)えをもって、事業から身を引いたのです。そのお金の分配をめぐって、ある種の感情のもつれが生じ、しばらく兄弟仲が冷たくなったのは事実ですが、最近ではそんなことをいっさい忘れて、みんながこのうえなく仲よくなっていたのです」
「ご兄弟といっしょにすごされた昨夜のことを思い返してみて、あの惨劇を究明する手がかりになるような材料はありませんか? じっくりと考えてみてください、トリジェニスさん。何かぼくの参考になるようなことはありませんか?」
「何ひとつ思いあたることはありません」
「家族のかたは、みないつもと変わらず、元気で快活だったのですね?」
「みんな元気そのものでした」
「ご家族の方たちは神経質なたちでしたか? 危険が迫っているのではないかという不安を感じている様子は見えませんでしたか?」
「そういうことは、まったくありませんでした」
「それでは、ほかに参考になるようなことは、何もないというわけですね?」
モーティマー・トリジェニスはしばらく真剣に考えこんでいた。
「一つだけ思い出したことがあります」と彼は、やっと口を開いた。「トランプ遊びをしている時、わたしは窓に背を向けて坐り、わたしと組んでいた兄のジョージは、窓を正面に見る位置におりました。ふと見ると、兄がわたしの肩越しに窓のほうをじっと見つめていますので、わたしも思わず振りかえってのぞきこみました。窓は閉まっていましたが、よろい戸はおろしてなかったので、外の芝生の植込みは、暗がりのなかでも見えました。すると一瞬、植込みの中で何かが動いているのが見えたような気がしました。人間なのか獣なのかさえわかりませんでしたが、ただ何かがそこにいると思いました。何を見ているのかと兄にたずねてみますと、兄もわたしと同じような感じがしたというのです。それだけのことなんですが」
「あらためて調べてはみなかったのですね?」
「はい。たいしたことでもないと思って、そのまま放っておきました」
「では、あなたがあの家を退出する時にも、何も不吉な予感はなかったのですね?」
「ぜんぜんありませんでした」
「あなたが、けさあんなに早く事件を知ったいきさつがわからないのですが」
「わたしは早起きでして、たいてい朝食前に散歩します。けさ散歩に出かけるとすぐ、医者の馬車が追いついてきました。医者の話では、家政婦のポーターさんが大至急きてくれといって、子供をよこしたというんです。わたしはその場ですぐに医者の横に乗せてもらいました。家に着くと、あの恐ろしい部屋をのぞきこみました。ローソクも暖炉の火も数時間まえに燃えつきたらしく、彼らはまっ暗闇のなかにとり残されたまま、夜が明けるまでじっと坐っていたのです。医者の言葉では、ブレンダは死んでから少なくとも六時間はたっているとのことでした。乱暴された形跡はありません。ただ、あの恐ろしい形相で椅子の肘(ひじ)掛けに寄りかかっていたのです。ジョージとオウエンは時々思い出したように歌をうたったり、まるで二匹の大きな猿のようにペちゃくちゃしゃべっていました。ああ、それは眼をおおいたくなる光景でした。わたしは正視するに忍びませんし、医者の顔もまっ青でした。じっさい、彼は気を失ったように椅子に崩れおちてしまって、それを介抱するのに手を焼いたほどでした」
「世にも稀(まれ)な……じつに驚くべき事件だ!」ホームズは立ちあがって帽子を手にしながらいった。「これからすぐにトレダニック・ウォーサの家へ出かけたほうがよさそうですね。正直なところ、最初からこれほど奇怪な様相を呈している事件はめったにありません」

その第一日の朝の捜査は、とくにみるべき成果を得られなかった。ただ、開始早々ちょっとした出来事にぶつかって、それが私の心にきわめて不気味な印象を残したのである。惨劇の起こった現場へいくには、狭い曲がりくねった田舎道を通るのであるが、そこを歩いている時に、一台の馬車がこちらへ疾走してくる音が聞こえ、私たちは道の端によけてそれを通過させた。そばを通りすぎる時、閉じた窓の隙間から、醜く引きつった顔が気味の悪いうす笑いを浮かべて、こちらをじっと睨(にら)んでいるのを、私はちらりと見た。そのらんらんと光る眼と白くむきだした歯は、悪夢のような幻影をひらめかして、さっと通り過ぎていった。
「兄たちだ!」とモーティマー・トリジェニスは、唇までまっ青になって叫んだ。「ヘルストンへ連れていかれるところです」
私たちはぞっとする思いで、がたごとと揺れながら走りさる黒い馬車を見送った。それから私たちはあの家族が奇怪な災難にみまわれた呪われた家のほうに歩いていった。そこは大きな陽あたりのいい住居で、田舎家というよりも別荘とでもいったほうがふさわしく、かなり広い庭があって、コーンウォルの暖かい大気をあびて、もう春の花が咲きみだれていた。この庭に面して居間の窓があり、モーティマー・トリジェニスの話では、兄たちを一瞬のうちに狂わせた恐ろしい魔物は、この窓からはいってきたにちがいないというのである。玄関へはいるまえに、ホームズは考えごとをしながら、ゆっくりと草花の鉢の間や庭の小道を歩きまわった。その時、彼は考えごとに熱中していたあまり、如露(じょうろ)につまずいて、なかの水をぶちまけて、私たちの足や庭の小道を水びたしにしてしまった。家の中にはいると、コーンウォル生まれの老家政婦のポーター夫人が私たちを出迎えた。彼女は、ひとりの若い娘の手を借りて、一家の家事を切りまわしてきたのである。彼女はホームズの質問にすらすらと答えてくれた。彼女は夜中に物音ひとつ聞かなかったという。主人たちは、最近はみなとても元気で、あんなに楽しく幸福そうな姿は見たことがないといった。
ところが、けさ部屋にはいって、テーブルを囲んだ主人たちの悲惨な姿を見たとたんに、彼女は恐ろしさのあまり気を失ってしまった。正気にかえると、すぐに窓をあけて朝の空気を入れ、表の小道に走り出て、作男の少年に頼んで医者を呼びにやったのだ。死んだお嬢さんは二階の寝台にねかせてあるから、見たければ案内するという。二人の兄弟は、大の男が四人がかりで、やっと精神病院の馬車にのせたのだった。この家には、もう一日だっている気がしないから、さっそく午後にはセント・アイブスの家族のところに戻るつもりだという話であった。
私たちは二階へあがって、死体を検視した。ブレンダ・トリジェニス嬢はもう中年にちかかったが、なかなかの美人だった。浅黒くて端正な容貌は、死んでもなお美しく上品であったが、ただ、死ぬまぎわの恐怖に引きつったあとが、まだどこかに残っていた。その彼女の寝室から、私たちは怪奇な惨劇の起こった居間へおりた。暖炉の火床には、夜通し燃えていた火の燃えがらが、黒焦げになっていた。テーブルの上には、燃えつきて蝋(ろう)の垂れたローソクが四本立っておリ、トランプの札が一面に散らばっていた。椅子は壁ぎわに片づけてあったが、そのほかはまったく前夜のままであった。
ホームズは部屋の中を軽い足どりでせわしく歩きまわった。それぞれの椅子に掛けて、昨夜のとおりの位置にしてみて、その位置から庭がどのくらい見えるかを確かめていた。それから彼は床や天井や暖炉などをしらべた。その間じゅう私は一度も、彼の眼が急に生きいきと輝き、唇がぎゅっと引き締まったりするのを見なかった。それは彼が昏迷の中に一筋の光明も見出せないでいることを示していた。
「なぜ火を焚(た)いたのかな?」と彼は、ひとつだけ質問した。「春の夜なのに、こんな小さな部屋でいつも火を焚いていたんですか?」
モーティマー・トリジェニスは、ゆうべは寒くて雨も降ったからだ、と説明した。だから、彼がこの家にきてから、火を焚いたのだといった。「これからどうなさいます、ホームズさん?」と彼はたずねた。
ホームズはにっこり笑って、私の腕に手をおいた。「ワトスン、このままでは、ぼくはまたニコチン中毒の一途を進むことになりそうだよ。きみかせっかく親切心から口うるさく注意してくれているのにね」と彼はいった。「みなさん、これで失礼して、家に帰ります。ここにいても、新たな事実は見つかりそうもありませんしね。これまでの事実をよく検討してみるつもりです。トリジェニスさん、何かわかったら、あなたと牧師さんに必ずお知らせしますよ。では、ひとまずさようなら」
ポルデュの家へ帰ってくると、ホームズはしばらく黙って考えごとにふけっていたが、やがて口を開いた。肘掛け椅子に身を丸めて坐りこみ、その苦行者のようなきびしい顔は、あおく渦巻く煙草のけむりの中に深ぶかと包まれ、黒い眉をしかめ、額にしわを寄せ、眼はうつろに遠くを見ていた。そのあと、彼はパイプをおいて、ぱっと立ちあがった。
「これじゃだめだよ、ワトスン」と彼は苦笑しながらいった。「崖のところを散歩して、石の矢じりでも捜そうじゃないか。こんどの事件の手がかりよりも、このほうが楽に見つかりそうだよ。材料もそろってないのに頭脳を酷使するのは、エンジンを空まわりさせるようなものだ。破裂してこなごなになってしまう。まず海辺の空気、日の光、それに忍耐だよ、ワトスン……果報は寝て待つんだ」
「ところで、ここでわれわれのとるべき態度を冷静に定義してみよう、ワトスン」と彼は、崖っぷちを歩きながら話を続けた。「現在わかっていることは、たしかにごくわずかだが、それをしっかり把握しておくんだ。そうすれば、新しい事実が出てきたら、それを正しい場所にはめこむことができるからね。まず第一に、きみもぼくも、人間界の問題に悪魔などがはいりこむことは認めない、という論点に立とう。そういう考えは、完全に頭から捨ててかかるんだ。いいね。そうすると、故意であれ偶然であれ、ともかく人間の力が働いたために、三人の人間が痛ましい被害をうけたという事実がのこる。これは確乎(かっこ)たる前提だよ。では、事件が起こった時点はいつだろうか? モーティマー・トリジェニスの話がほんとうだとすると、それは、まちがいなく彼が部屋を出た直後だよ。この点がきわめて重要なんだ。それもおそらくは、彼が部屋を出てから数分以内に起こったんだ。テーブルにトランプの札が並んだままだったからね。いつもならとっくに寝室にはいる時刻なのに、彼らは同じ場所に坐ったままだったし、椅子を後に引いて立ち上がろうとした様子もない。だから繰りかえしていうが、事件は、モーティマー・トリジェニスが帰った直後に、つまり昨夜の十一時以前に起こったのだ。
われわれが次になすべきことは、もちろん、部屋を出たあとのモーティマー・トリジェニスの行動をできるだけ正確に突きとめることだ。これは調べるのが簡単だし、どうやら彼の行動には疑わしい点はないようだ。ぼくのやりかたをのみこんでいるきみのことだから、むろんぼくがあの時に如露(じょうろ)につまずいたわけを見抜いていたとは思うが、あれで彼の足跡がはっきりわかったんだよ。また、ああするのが、いちばんよくわかるんだね。濡れた砂の小道に、あざやかに彼の足跡が刻まれていたよ、ほら、昨夜も雨が降ったじゃないか。だから足跡の見本さえ手に入れれば、ほかの足跡から彼のを選び出して、そのゆくえをたどっていくのは、さして難しくはなかったよ。彼は牧師館のほうへさっさと帰っていったようだ。では、モーティマー・トリジェニスが事件の表面から消え、しかも外部の誰かがトランプ遊びの三人に害を加えたとすれば、いったいその人物はどういう人物だと考えたらいいのか? また、どのようにしてあれほどの恐怖をもたらし得たのか? 家政婦のポーターは除外してもいい。彼女はもちろん犯罪をおかすような女ではない。じゃあ、外部の誰かが庭に面した窓に忍びより、何らかの方法で、見るものを発狂させるほどの恐ろしい効果を演出したという証拠でもあるのか? この点に関しては、モーティマー・トリジェニスの証言だけが唯一の参考材料で、つまり、庭に何か動くものを見たと兄がいったというのだ。昨夜は雨で、雲が垂れこめていて、暗かったのだから、これはたしかに異常なことといっていい。なぜなら、何ものかがあの三人を嚇(おど)かそうとたくらんだとすれば、その顔を窓ガラスに押しつけるぐらいに近寄らなければ、中の三人には見えないはずだよ。ところが、あの窓の外には幅三フィートの花壇があるのに、そこには人の足跡はついてないのだ。だから屋外にいるものが、中の三人にどうしてあんなに恐ろしい印象をあたえることができたのか、理解に苦しむよ。それに、どうしてあんな奇怪な手のこんだことを企てるのか、その動機がわからない。この事件がどれくらい難解であるかは、わかるだろう、ワトスン?」
「難かしさだけは、わかりすぎるくらいにね」と私はきっぱりといった。
「でも、もう少し材料があれば、その困難を克服してみせるんだがな。きみの収集したいろんな事件記録の中にだって、これに劣らず難解なものがあるんじゃないか。まあ、そのうちにもっと正確な材料が手にはいるだろうから、しばらくこの事件をほうり出して、けさはこれから石器時代の人間の研究でもしようよ」
私はホームズの物事にこだわらぬ超然とした精神については、まえにも触れたかもしれないが、それにしても、コーンウォルのあの春の朝ほど、それに驚嘆したことはない。不気味な謎の解決にせまられているのもけろりと忘れたように、彼はじつに気楽そうに、二時間も石斧だの矢じりだの土器のかけらだのについて、あれこれと喋りつづけた。ようやく午後になって、田舎家へ帰ってみると、部屋にはひとりのお客が私たちを待っていて、じきに私たちの関心は、あの事件のほうに引きもどされたのである。その客が誰であるのかは、私たちはふたりとも名前を聞くまでもなく知っていた。巨大な体格、鋭い射すような眼と鷹(たか)のような鼻をもつ、しわの深い、岩のようにいかつい顔、私たちの田舎家の天井まで届きそうな灰色の頭髪……手離したことのない葉巻のニコチンで汚れた部分は別として、まわりは金色で、口もとは白くなっている顎(あご)ひげ……すべてこういう特徴は、アフリカはもとよリロンドンでもよく知られているから、これがあのライオン狩りの名人で、探検家でもあるレオン・スターンデール博士だといえば、読者もそのすさまじい風貌をすぐに思い浮かべることができよう。
博士がこの地方に滞在していることは、私たちも以前から耳にしていたし、荒野の小道で彼の長身を一、二度見かけたこともある。しかし、彼のほうから私たちに接近しようとはしなかったし、私たちのほうも彼と近づきになろうとは夢にも思わなかった。博士が隠遁生活を好む人で、探検旅行の合い間の大部分を、ボーシャム・アリアンスのさびしい森の中の小さなバンガローですごす、ということは世間によく知られていたからである。この森の小屋で書物と地図を相手に、完全に孤独な生活をおくっており、彼独特の簡素で気ままな生活を楽しみ、近所のことにはまるで無関心という様子であった。だから、その博士がホームズに、この謎めいた事件の捜査は進んでいるのかどうか、と真剣な口調でたずねるのを聞いて、私はあまりの意外さに驚いたのである。
「土地の警察はぜんぜん見当外れのことをやっていますよ」と彼はいった。「でもあなたは経験が豊富だから、何らかの解釈がおありにちがいない。あなたに内密な話をうかがいたいといえば、いかにも厚かましいようですが、じつは、ここに長く住んでいる間に、あのトリジェニス家の人たちと親しくなりまして……というよりも、ほんとうは、彼らはコーンウォル生まれの母かたの親戚で、わたしにはいとこにあたるわけで……彼らの奇怪な運命は、わたしにとってはもろん大きな衝撃だったんです。そんなわけで、わたしはアフリカへ向かうつもりで、昨日はプリマスまで行っていたのですが、けさ知らせを聞いて、捜査のお手伝いをしようと思って、まっすぐ引返してきたんです」
ホームズは驚ろいたように眉を動かした。
「では、そのために、アフリカ行きの船に乗りそこねたというわけですね?」
「次の船にします」
「ほう! それは美しい友情ですな」
「なにしろ親戚ですからね」
「いかにもそうでしょう……母かたのいとこですからね。でも旅行の荷物は船に積んであるのでしょう?」
「一部は積みこみましたが、大部分はホテルに置いてあります」
「そうですか。しかし、昨夜の事件はまだプリマスの朝刊には出なかったはずですが」
「いえ、新聞じゃなくて、電報で知ったのです」
「失礼ですが、どなたからの?」
探検家のやせた顔にさっと影がさした。
「いやにせんさくしますな、ホームズさん」
「これがぼくの仕事でしてね」
スターンデール博士は、怒りをしずめて、やっとの思いで落ち着きをとりもどした。
「聞かれて困ることじゃありませんがね」と彼はいった。「電報で知らせてくれたのは、牧師のラウンドヘイさんですよ」
「ありがとう」と、ホームズはいった。「では、最初のご質問にお答えしますが、今回の事件については、まだよくわからない部分もありますが、必ず解決できるという自信はじゅうぶんにあります。いまこれ以上申しあげるのは、時機尚早かと考えます」
「それにしても、あなたがとくにどの方面に疑惑をお持ちかぐらいは、話してくださってもかまわないのじゃないかな?」
「いや、それもお答えできません」
「それじゃあ、時間の浪費だったな。これ以上ここにいても無駄だ」
高名な博士はひどく不機嫌な表情で、家から出ていったが、五分とたたないうちにホームズはそのあとを追った。それから夕方まで彼は戻らなかったが、帰ってきた時、足どりは重く、疲れた顔をしているので、捜査がたいして進展しなかったことがすぐにわかった。彼は届いていた電報にさっと眼をとおすと、暖炉の中に投げこんだ。
「プリマスのホテルからの返電だよ」と彼はいった。「牧師からホテルの名前をきいて、レオン・スターンデール博士のいうことが本当かどうか、問い合せてみたんだ。彼が昨夜はたしかにそこに泊まり、現に荷物の一部をアフリカ行きの船に積みこむ手配までしたのに、この事件の捜査にたち会うために引き返してきたのは事実らしい。きみはこれをどう考えるかね、ワトスン?」
「彼はこの事件に格別の関心を持ってるね」
「格別の関心か……たしかにそうだが、ぼくたちがまだつかんでいなかった糸があるよ。これをたどっていけば、もつれた謎が解けるかもしれない。元気を出せよ、ワトスン。まだ材料が全部出つくしたわけじゃないんだからね。それを全部手に入れさえすれば、すぐに困難は乗りこえられるさ」
だが、そのときの私は、ホームズの言葉が思いがけないほど早く実を結ぼうとは予想もしなかったし、また事件が驚くほど奇怪で不気味な展開をみせて、捜査の新しい道筋が開けようとは、夢にも思わなかった。その翌朝、窓ぎわでひげを剃(そ)っている時、馬蹄の音がきこえるのでふと眼をあげると、一台の二輪馬車が全速力で街道を疾走してくるのが見えた。馬車が家のまえでとまると、中から牧師がとびだして、庭の小道を駆けてきた。ホームズも起きて服を着ていたので、私たちは急いで牧師を迎えに出た。この客は口もきけないほど興奮して、息を切らしていたが、やっとあえぎながら、悲惨な出来事を話しだした。
「われわれはよくよく悪魔に魅入られています、ホームズさん! わたしの教区は哀れにも悪魔にとりつかれてしまった!」と、彼は叫んだ。「悪魔にほしいままに蹂躙(じゅうりん)されています! われわれは悪魔の餌食(えじき)になってしまった!」彼は狂ったように踊りまわっていたが、その血の気の失せた顔と引きつった眼を見ないものは、その姿を滑稽とさえ思ったろう。そのあと彼の口からとびだしたのは、恐ろしい言葉であった。
「モーティマー・トリジェニスさんがけさ亡くなったのです。それもご兄妹とまったく同じ症状で」
ホームズは、その瞬間、床を蹴(け)るような勢いで立ちあがった。
「いますぐ馬車に乗せてもらえますか?」
「もちろんです」
「じゃあ、ワトスン、朝食はあとまわしだ。ラウンドヘイさん、万事引き受けました。急いで……急いで、現場がかき乱されないうちに着かなくちゃ」
モーティマー・トリジェニスの部屋は、牧師館の角にある上下の部屋であった。下が大きな居間で、上が寝室だった。 外はクロケー(┗F M,13,0,13,28┛ 木球を打って関門を通過させる遊技┗F M,15,,15,0┛ )用の芝生になっており、その芝生が窓のすぐ近くまでつづいていた。私たちが着いた時は、まだ医者も警察も到着してなかったので、現場はそっくりそのままの状態でのこっていた。この三月の霧の朝に、私たちが見たその場の光景を、ありのままに描写してみよう。あの光景は、いまも私の心に、忘れられない鮮烈な印家をのこしているのである。
部屋の空気は、むっとする匂いが充満していて、気分が悪くなるほどであった。最初に部屋にはいった召使いが窓を開けておいてくれたから、どうにか我慢できたが、そうでなかったらもっと息苦しかったであろう。これは、中央のテーブルの上でランプが燃えて油煙をあけていたからだ、とも考えられる。
テーブルのそばの椅子の背にもたれるような姿で坐り、うすい顎ひげを前に突き出し、眼鏡を額のほうに押しあげるようにして、モーティマー・トリジェニスが死んでいた。窓のほうを向いたやせた浅黒い顔は引きつっていて、あの死んだ妹の顔と同じように、恐怖の跡をみせていた。手足は痙攣(けいれん)したまま硬直し、指はねじ曲がっており、恐怖に襲われた瞬間の発作で悶(もだ)え死んだものと思われた。ちゃんと服を着ていたが、あわてて着こんだらしい様子がうかがえた。ベッドには寝た形跡があり、彼が悲惨な最期をとげたのは、今日の早朝だということは疑いの余地がなかった。
その死者の部屋にはいった瞬間から、ホームズの態度は一転して活発になった。表面は冷静に見えても、彼の心の底には火のような情熟が脈動していることがわかった。たちまち彼の神経は鋭敏にとぎすまされ、眼は生き生きと輝き、顔はひきしまり、手足は力をみなぎらせて、小刻みに震えていた。芝生にとびだしていくと、こんどは窓から部屋にはいってきて、部屋の中をぐるぐる歩きまわっていたかと思うと、二階の寝室に上がっていったりして、その姿はまるで獲物を追い求めて突進する猟犬のようであった。寝室にはいるとすばやく部屋じゅうを見まわし、さっと窓を開けはなった。それがまた彼に何やら新しい興奮を引きおこしたらしく、窓から身を乗りだすようにして、歓声をあげた。また階段を駆けおり、窓から外へ出て、芝生に腹ばいになり、起きあがってまた部屋に戻ってきたが、その精力的な働きぶりは、まるで獲物を目の前まで追いつめた猟師のようであった。ランプはごく普通の型のものだったが、ホームズはことのほか綿密にそれを観察し、油入れの寸法を計った。それから拡大鏡をとり出して、ガラスの筒の上部をおおっている滑石(タルク)のふたを丹念にしらベ、その表面にこびりついている灰を削りおとすと、それを封筒に入れ、手帳のあいだにしまった。そこへちょうど医者や警官が姿をみせたので、ホームズはさりげなく牧師を呼んで、私たち三人は芝生へ出た。
「ぼくの捜査がまるっきりむだでなくてほんとうによかった」と彼はいった。「ここに残って警官たちとあれこれこの事件の話をするわけにはいかないが、ラウンドヘイさん、どうか警部によろしくお伝えください。そしてあなたから、寝室の窓と居間のランプに注意するように、と伝言していただけるとありがたいのですが。この二つは、いずれも何事かを暗示しているし、二つを組合せて考えれば、ほぼ決定的な解答が得られるのです。警察でそれ以上のことを知りたければ、ぼくの家にご足労ねがいたい、ぼくはよろこんでお目にかかるとお伝えください。さあ、ワトスン、もうここを引きあげてもいいのじゃないかな」
警察は素人が出しゃばるのを嫌ったのか、あるいは自分たちだけで有力な手がかりがつかめると思っていたのか、とにかく、それからの二日間は、警察から何の連絡もこなかった。その間、ホームズは田舎家で煙草をふかしたりとりとめのない考えごとにひたったりしていたが、大部分の時間を散歩に使い、ひとりで戸外を散策して、何時間もたってからもどってきても、どこへいってきたともいわなかった。だが、ある実験を彼がしてくれたので、彼の捜査の方向だけは私にも推察できた。彼は、あの惨劇の朝モーティマー・トリジェニスの部屋で燃えていたランプと同じものを買ってきた。このランプに、牧師館で使っているのと同じ油を入れて、それが燃えつきるまでの時間を、正確に測定した。もう一つの実験は、もっと気味の悪いもので、その不快な印象はいつまでも私の脳裏にこびりついている。
「きみもおぼえているだろうが、ワトスン」と、ある日の午後ホームズがいった。「ぼくたちが収集したいろんな報告の中に、ただ一つだけ共通した類似点があるんだ。それはどの場合でも、部屋の空気が、はじめてそこへはいった人たちにある種の共通した影響をあたえているという点だよ。ほら、モーティマー・トリジェニスが兄たちの家に行って惨劇を知った時のエピソードとして、医者が部屋にはいるなり椅子に倒れてしまった、といっていたじゃないか? もう忘れたのかい? 彼がたしかにそういったことはまちがいないよ。ところで、これもおぼえているだろうが、家政婦のポーターさんも部屋にはいったとたんに、気が遠くなってしまって、正気にかえるとすぐに窓をあけた、といっていた。第二の事件……モーティマー・トリジェニス自身が死んだときだ……の場合には、召使いが窓をあけておいてくれたのに、部屋にはいった時あんなに息苦しかったのを、きみもよもや忘れてはいまい。あの時きいたんだが、あの召使いは気分が悪くなって、あとで寝こんだそうだよ。
こうした事実はじつに意味深長だとは思わないか、ワトスン? いずれの場合にも、部屋の中に有毒な空気が充満していたという証拠は歴然としている。また、いずれの場合にも、部屋の中で火が燃えている……前には暖炉が、後にはランプの火だった。暖炉は寒かったから焚(た)いたのだが、ランプが点火されたのは……油の消費量を実験したからわかるのだが……夜が明けてかなりの時間がたってからなんだ。これはどういうわけだ? これは、三つの事実……火の燃焼、息苦しい空気、そしてあの不幸な人たちの発狂、あるいは死亡……その三つの間に、何らかの因果関係があるからにきまっている。ここまでははっきりしていると思うが、どうかね?」
「どうもそうらしいね」
「少なくともこれを有効な仮説として認めてもさしつかえあるまい。つまり、いずれの場合にも何かを燃やして、異常に毒性の強い気体を発生させたものと仮定してみよう。よろしい。第一の場合……トリジェニス家の場合……には、その毒物は暖炉にしかけられたんだ。たしかに窓は閉まっていたが、火の勢いで燃焼ガスのかなりの量が煙突から出ていったと考えるのが自然だ。だから、第一の場合は、燃焼ガスがより多く室内に残存した第二の場合にくらべて、毒性の効果が弱かったにちがいない。このことは結果がはっきり示している。つまり、第一の場合では、体質が比較的に虚弱だと思われる女だけが殺され、男はふたりとも、とにかく一時的にか永久にか発狂しただけですんでいる。この発狂という症状が、毒物の効きめとしては、最初の段階なんだよ。第二の場合には、毒物の効きめは完璧だった。だから、こういう事実は、何かを燃やして有毒な気体を発生させたという仮説を裏づけているのじゃないかな。
あらかじめこういう推理を組立てていたものだから、ぼくはモーティマー・トリジェニスの部屋を捜索する時も、とうぜんそういう毒物が残ってはいないかと、きょろきょろ見て歩いたんだ。あるとすれば、その場所はランプの滑石(タルク)のふたか、油煙よけにきまっている。見ると、はたして、そこにはたくさんの灰があって、端のほうには、まだ燃えてない茶褐色の粉末がこびりついていた。きみも見ていたが、その半分をぼくが取って、封筒に入れたんだ」
「どうして半分だけにしたんだい、ホームズ?」
「警察の捜査のじゃまをしては悪いからね、ワトスン。ぼくはいつの場合でも、自分の見つけた証拠物件は、必ず警官たちのために残すようにしているんだ。毒物はあの滑石(タルク)のところに残っているんだから、それを見つけだせるかどうかは、彼らの頭脳の問題だよ。さて、ワトスン、このランプに火をつけるぜ。だけど、用心のために窓は開けておこう。なにしろ、この社会に有益な貢献をなしうる二人の人物を、みすみす死なせてしまっては、大変だからね。きみは、その開いた窓のところの肘掛け椅子にかけてくれたまえ。ただ、きみが、どこかの利口な人間のように、こんな危険な実験にかかわりあいたくないというのなら、話は別だがね。えっ、終わりまで見届けたいって? そうこなくちゃ! この椅子をきみの反対側におくよ。こうすれば、きみとぼくは、毒物から同じ距離のところに、向かいあって坐ることになるわけだ。扉は少し開けておくよ。さあ、これでお互いが相手の様子に注意しておれるから、これ以上続けては危険だと感じたら、ただちに実験を中止できる。わかったね? それじゃ、いよいよ封筒から粉末を……あるいはその残り物をというべきかな……とり出して、ランプの炎のうえにおくよ。こういうふうに! さあ、ワトスン、腰をすえてどういうことになるか見てやろう」
効果はすぐにあらわれた。椅子に腰をおろすのとほとんど同時に、早くも私は、濃厚な麝香(じゃこう)の香に似た、一種いいがたい、吐き気を催すような匂いを感じた。ほんの一息吸っただけで、私の思考力も想像力も、まったく自由がきかなくなった。目の前に厚い黒雲が渦をまいて、この雲の中に、何か得体の知れぬ恐ろしいもの、全宇宙の化け物じみた想像を絶する邪悪なものが潜んでいて、恐れおののいている私の感覚に、今にも襲いかかるのではないかと思われた。不気味な影のようなものが厚い黒雲の中で渦を巻いて流れ、その一つ一つが、霊界の果てから何かいいようのない怪奇なものが、見ただけで卒倒するような恐るべきものが、今にも姿をあらわすぞという、警告であり威嚇(いかく)であった。凍るような恐怖が私を襲った。頭髪は逆だち、眼はとびだし、口は開いてしまい、舌は皮のように乾いていた。頭の中は極度に錯乱して、今にも発狂しそうであった。
私は叫び声をあげようとしたが、しわがれた唸(うな)り声がもれただけで、自分の声でありながら、どこか遠くの私とは別人の声のように響いていた。その瞬間、私は何とか逃れようともがいたあげく、この恐ろしい黒雲をつき破り、ホームズの顔をちらっと見た。その顔はまっ青にこわばっていて、恐怖に引きつり……死人の顔とまったく同じ形相であった。その形相を見て、私ははっとわれに返り、元気をとりもどした。椅子からぱっと立ちあがり、ホームズに抱きつくと、もつれあうように扉の外にとびだし、次の瞬間、私たちは芝生のうえに倒れこんだ。ならんで横たわりながら、私たちの意識をよぎったのは、いままで私たちを取りかこんでいた地獄のような雲をつき破って射しこむ、まばゆいばかりの美しい陽光だけであった。陽がさすにつれて、霧につつまれた風景が明るくなるように、私たちの魂をつつむ雲が晴れていき、平和と理性がよみがえってきた。私たちは芝生にすわって、冷たく汗ばんだ額を拭き、たったいま味わったばかりの恐ろしい経験の痕跡がまだ残ってはいないかと、不安そうにお互いの顔を見つめあった。
「ワトスン!」と、やがてホームズが落ちつかない声でいった。「ぼくは、ほんとうに、きみに感謝しなければならないし、あやまりもしなければならない。自分だけでやっても感心できない実験なのに、友人のきみまでも引きこむなんて、もう弁解の余地もないよ。まったくすまないことをしたね」
「いまさら何をいうんだ」と、私は、ホームズがこれほどの優しさをみせたことははじめてなので、いささか感激してこういった。「きみに協力するのは、ぼくの最大の喜びであり、特権とさえ思っているよ」
すると彼はたちまち、親しい者にみせるあのいつもの態度、半ば諧謔(かいぎゃく)的で半ば皮肉めいた調子にもどってしまった。「ぼくたちを発狂させるなんて、それは蛇足というものだよ、ワトスン」と彼はいった。「なぜなら、忌憚(きたん)のない観察者はきっとこういうと思うよ。『あんなむちゃな実験をやろうとしたこと事体が、すでに発狂していた証拠である』とね。正直なところ、効果があれほど早くて、あれほど激しいとは、夢にも思わなかったよ」
彼は家の中に駆けこみ、まだ燃えているランプを、いっぱいに伸ばした手の先にもってあらわれると、それを茨の茂みに放り捨てた。
「あの部屋の空気が入れ変わるまで、しばらく待っていよう。これで、あの惨劇がどうしておこったかは、もうすっかりわかったろう、ワトスン?」
「わかりすぎるほどにね」
「だけど、犯人はまだはっきりしていない。さあこの東屋(あずまや)にはいって、ふたりでその点を検討してみよう。あの毒薬がまだ咽喉(のど)のところにひっかかっている感じだよ。あらゆる証拠からみて、モーティマー・トリジェニスが第一の事件の犯人だと断定してまちがいあるまい。ただ、その彼が第二の事件では犠牲者だ。まずここで思い出す必要があるのは、あのトリジェニス家では兄弟げんかが起こって、そのあと再び和解したという話だよ。そのけんかがどの程度険悪なものだったのか、また和解が心からのものであったのか、ぼくたちはただ推測するほかはない。しかし、あのずるそうな顔をして、眼鏡の奥に意地の悪い、小さな丸い眼を光らせていた、モーティマー・トリジェニスのことを考えると、彼が寛大な、人を容易に許すような性格の男だとは、どうしても思えない。さて第二に、トランプ遊びをしていたとき、庭で誰かが動いていたという説は、惨劇の真の原因からぼくたちの関心を少しの間そらしたが、あれはモーティマー自身がいい出したのだったね。つまり彼は故意にぼくたちをあざむこうとしたわけだ。最後に、モーティマーが部屋を出ていく時に、あの毒薬を暖炉の火にくべなかったとしたら、いったい誰がそんなことをするだろう? 事件は彼が帰った直後に起こっているんだ。そのあと誰か第三者が部屋にはいってきたとすれば、家族のものはテーブルから立ち上がっているはずだよ。おまけに、コーンウォルのようなもの静かな田舎では、夜の十時以後に他人の家を訪問する者はいない。だから、あらゆる証拠からみて、モーティマー・トリジェニスを犯人だと断定してまちがいあるまい」
「じゃあ、本人が死んだのは、自殺だったというわけか!」
「うむ、ワトスン。表面だけをみると、そういう推測も成り立たないことはない。自分の兄妹たちをああいう悲惨な運命に追いやったという罪の意識を持った男なら、悔恨にかられて、それくらいのことはやりかねないからね。ところが、それをくつがえすだけの有力な理由があるんだ。幸いにも、その間の事情をくわしく知っている人が英国にひとりいる。ぼくは、今日の午後その人の口から真相を聞き出そうと思って、手配しておいたんだよ。おや、約束より少し早目に来られたな。どうぞこちらへお通りください、レオン・スターンデール博士。あの部屋はせまいうえに、今まで化学の実験をしておりましたので、あなたのような高名なお客をお通ししては、失礼かと思いまして」
庭の木戸が開く音がして、偉大なアフリカ探検家の堂々たる姿が小道にあらわれた。彼は少し驚いた様子で、私たちの坐っている丸木造りの東屋(あずまや)のほうへ向き直った。
「お呼びでしたな、ホームズさん。お手紙を一時間ほど前に受けとって、こうしてわざわざ足を運んできたわけだが、どうしてあなたの呼び出しに応じなければならぬのか、合点がいきませんな」
「そのことでしたら、お帰りになるまでに、はっきりとした結論が出ると思いますよ」と、ホームズはいった。「それにしても、ぼくの突然の申し出に快く応じてくださって、まことにありがたいですな。こんな戸外で略式の接待をする失礼はお許しいただくとして、じつはこのワトスン君とぼくは、新聞のいわゆる『コーンウォルの戦慄』事件の、被害者の同類になるようなことを、あやうく免(まぬが)れたばかりですので、ここしばらくは戸外のきれいな空気を吸っていたいのです。これから話しあう問題は、あなたにとっても、個人的に密接な関係がありますから、立ち聞きされる心配のない場所を選ぶのも、いいのではないでしょうか」
探検家は口から棄巻をはなして、ホームズをきっと見つめた。
「わたし個人に密接な関係のあることをお話しするといわれるが、わたしには何のことやらさっぱりわかりませんな」
「モーティマー・トリジェニス殺害の件です」と、ホームズがいった。一時、私は武器を持っていればよかったと思った。スターンデールの浅黒い精悍(せいかん)な顔がさっと赤らみ、眼はらんらんと輝き、額には太い荒々しい青筋が走り、拳を握りしめてホームズに躍(おど)りかかろうとした。しかし、急に踏みとどまって、必死の思いで辛うじて冷静でいかつい態度を取り戻したが、興奮して怒り狂ったときよりも、かえってこのほうが険悪な感じがした。
「野蛮人にまじって法律などとは無縁なところで長年暮してきたので」と、彼はいった。「つい何事も自分の思いどおりにする癖がついてしまいましてね。この点はどうか忘れないようにねがいます、ホームズさん。あなたに危害を加えるつもりはありません」
「ぼくのほうもあなたに危害を加えるつもりはありませんよ、スターンデール博士。その何よりの証拠は、真相を知っておりながら、警察を呼ばないであなたをお呼びした点にあるではありませんか」
スターンデールはあえぎながら腰をおろしたが、こんな風に成圧を受けたのは、長い冒険生活のうちで、おそらくこれがはじめての経験であったろう。ホームズの態度には、どんな相手も屈服させずにはおかないという、透徹した自信がみなぎっていた。客のほうは、内心の動揺を抑えかねたように大きな手を握ったり開いたりしながら、一瞬、口ごもった。
「それはどういう意味です?」と、彼はやっといいかえした。「これが脅(おど)し文句だとしたら、ホームズさん、あなたはまずい相手を選んだものですな。腹の探り合いは、もうやめたらどうですか。いったいどういう意味なんです?」
「ではお話ししましょう」と、ホームズはいった。「お話する理由は、ぼくが腹を割って話せば、そちらからも正直な答が返ってくると思うからです。ぼくが次にどういう態度をとるかは、すべてあなたの弁明の性格にかかっているのです」
「私の弁明ですって?」
「そうです」
「どういう問題に対する弁明です?」
「モーティマー・トリジェニス殺害の容疑に対する弁明です」
スターンデールはハンカチで額の汗をふいた。「たしかにあなたは攻撃的だ」と、彼はいった。「あなたの成功の秘訣は、こういう驚くべき脅し文句の効果だというわけですな」
「虚勢を張っているのはあなたのほうです」と、ホームズは容赦なくきめつけた。「レオン・スターンデールさん、ぼくのほうじゃありませんよ。その証拠に、ぼくの結論の根拠になっている事実を、いくつかお話ししましょう。荷物の大部分をアフリカヘ送らせたのに、あなたがなぜプリマスから帰ってきたのか、その点についてはいまは触れないでおきます。ただ、それを聞いた時じきにわかったことは、今回の悲劇の真相を検討していくうえで、あなたは重要な要因のひとつであると……」
「わたしが帰ってきたのは……」
「その理由は聞きましたが、それだけでは納得できないし、不十分です。まあ、この件はあまり追及しないでおきましょう。あなたは、ここへ来られて、ぼくが誰を疑っているかを知ろうとした。ところが、ぼくはそれを明かさなかった。そのあと、あなたは牧師館へいき、外でしばらく待っていたが、やがて自分の家に帰っていかれたのです」
「どうしてそんなことがわかるのです?」
「あなたのあとをつけたんですよ」
「誰も見かけなかったが」
「ぼくが人のあとをつける時は、相手は通常誰の姿も見かけないんですよ。あなたは家に帰って、眠られぬ夜をすごし、ある計画を立て、それを翌朝、すぐに実行に移したんです。ちょうど夜が明けはじめたころ、家を出て、門のそばに積んである赤っぽい小石をポケットに入れましたね」
スターンデールはぎょっとして、意表を衝かれた表情でホームズを見た。
「それからあなたは牧師館につづく一マイルの道を急いだのです。そして、その時のあなたの靴は、いまはいておられる靴底に波型のあるテニス靴でしたね。牧師館へ着くと、あなたは果樹園を通りぬけ、建物の横の生垣をくぐって、トリジェニスの部屋の窓の下に出ました。もうすっかり明るくなっていたが、家の者はまだ起きていなかった。あなたはポケットから小石を取りだして、窓をめがけて投げつけた」
スターンデールはぱっと立ちあがった。
「おまえは悪魔だ!」と、彼は叫んだ。ホームズは、ほめられでもしたように、黙って微笑を返した。「二つかみか、あるいは三つかみぐらいの小石を投げると、ようやくあの家の下宿人が窓ぎわに出てきたのです。あなたは下へ降りてこいと手で合図をした。彼は急いで服を着て、居間に降りてきた。あなたは窓からその部屋にはいった。会った……といってもほんの短い時間だったが……その間あなたは部屋の中をあちこち歩きまわっていた。やがてあなたは窓から出て、その窓を閉め、外の芝生に立って、葉巻をふかしながら、部屋の中でどういう事態が起こるのかを、じっと見守っていた。とうとうトリジェニスが死ぬのを見届けると、あなたは来た時と同じ道を引き返していった。さあ、スターンデール博士、こういう行動を、あなたはどう弁明しますか? また、こういうことをした動機は何だったのです? ぼくをごまかそうとしたり、軽くあしらおうとしたりすると、問題は永久にぼくの手を離れることになりますよ」
ホームズの厳しい詰問(きつもん)の言葉を聞いているうちに、博士の顔は灰色に変わっていた。両手に顔を埋めて、しばらく考えこんでいたが、やがて不意に衝動にかられたように、胸のポケットから一枚の写真をとり出して、私たちの前の粗末なテーブルのうえに投げた。「あんなことをしたのは、このためです」
美しい女性の半身像が写っていた。ホームズはそれをのぞきこんで、いった。
「ブレンダ・トリジェニスさんですね」
「そうです、ブレンダ・トリジェニスです」と私たちの客はくりかえした。「長い間、わたしは彼女を愛しておりました。彼女も長年わたしを愛しておりました。わたしがコーンウォルに隠遁(いんとん)したことを、世間の人々は不思議に思ったようですが、その秘密はこれだったのです。ここにいるからこそ、わたしはこの世でただ一人の愛(いと)しい女に会うことができたのです。彼女と結婚できなかったのは、わたしに妻がいたからです。妻は何年か前にわたしを捨てて出ていったのですが、悲しいことに、離婚しようにも、英国の法律はそれを許さないのです。長い間ブレンダは待っていました。わたしも長年待ちつづけました。そして待った結果がこれだったのです」
彼は巨体を震わせて、はげしくすすり泣き、色のまだらな顎ひげの下の咽喉をつかんだ。それから、辛(かろ)うじて自分を制して語りつづけた。
「牧師さんは知っております。あの人には何もかも打ち明けました。あの人は彼女のことを、天使のような女だったと、いってくれるでしょう。だからこそ、牧師さんはわたしに電報で知らせてくれたのですし、わたしは引返してきたのです。愛する女があんな悲惨な最期をとげたことを知った時、わたしにとって、荷物やアフリカがいまさら何だというのです? これで、わたしの行動のわからなかった部分が明らかになったでしょう、ホームズさん」
「話を続けてください」とホームズがいった。スターンデール博士はポケットから紙包みをとり出して、テーブルの上においた。包みの表には『ラディクス・ペディス・ディアボリ』(悪魔の足の根)と書いてあり、下のほうに劇薬の赤いラベルが貼ってあった。彼はそれを私のほうに押してよこした。
「あなたはお医者さんだと聞いていますが、こういう毒薬をご存じですか?」
「悪魔の足の根ですって! いや、聞いたことがありませんね」
「知らなくても医者としての不名誉にはなりません」と彼はいった。「ブダ(ハンガリーの首府ブダペストの一地区)のある研究所に見本が一つあるだけで、ヨーロッパには他にはない毒薬なのです。しかもどの薬学のの書にも、毒物学の文献にもまだ出ていないのです。この根が半ば人間の足のような、半ば山羊の足のような形をしているところから、植物学に造詣(ぞうけい)のある伝道師が、こういう奇抜な名前をつけたのです。西アフリカのある地方で、呪術師が罪人を判定する時に拷問に用いる毒物で、今でも彼らの間では秘薬とされております。この世にも稀(まれ)な試薬は、わたしがウバンギ地方で予期せぬ幸運な事情の下に手に入れたのです」
話しながら博士が紙包みを開くと、中から赤褐色の嗅ぎ煙草のような粉末が出てきた。
「それで?」と、ホームズはきびしくたずねた。
「これからが大事な本題なのです、ホームズさん。あるがままの事実を隠さずお話ししましょう。あなたがすでに大部分のことを知っておられる以上、わたしとしてもあるがままの事実を全部知っていただくほうが、むしろありがたいのです。トリジェニス家とわたしが親類関係であることは、すでにお話しした通りです。妹のためを思って、わたしは兄弟たちと仲よくしておりました。そのうちに、金のことで兄弟げんかが起こって、あのモーティマー・トリジェニスは兄弟たちと仲たがいしましたが、まもなく和解したようでした。だからその後も、ほかの兄弟たちと同じように、モーティマーとも会っておりました。彼は悪賢い、陰険な、策略をめぐらす男で、いろいろと不愉快なことがありましたので、わたしは彼のことを信用できない人物だと思っていたのですが、これというけんかの口実のないまま日を過ごしました。
つい二週間前のある日、彼がわたしの家にきましたので、アフリカの珍しい土産(みやげ)を見せてやりました。ほかの品物といっしょに、この粉末を見せて、その奇怪な効力のことを説明してやったのです。この粉末が、どれほど脳中枢を刺激して恐怖感を増幅させるかとか、種族の司祭から、この粉末で罪人かどうかを試される哀れな土人は、死ぬか発狂するかのどちらかしかないとか、また、ヨーロッパの医学は無力なもので、この毒薬を検出する術をいまだに知らないとか、話してやったのです。わたしは部屋から一歩も出なかったのに、彼がどのようにしてそれを盗んだのか、気がつかなかったのですが、ともかくわたしが戸棚を開けたり引出しをのぞきこんでいる間に、悪魔の足の根の一部を抜きとったに違いありません。いまから思えば、あの時彼は薬の効果があらわれるために必要な分量だとか時間だとかを、くどくどとたずねたのですが、その時のわたしは、そんな質問の裏に、彼の個人的な企みが隠されていようとは夢にも思いませんでした。
その件については、プリマスで牧師さんの電報を受けとるまで、気にもとめずにおりました。あの悪党は、知らせが届くまえにわたしの乗った船は出帆しているだろうし、そのままあと何年もアフリカにいるだろう、と考えたに違いありません。しかし、わたしはすぐに引き返してきました。くわしい事情を聞けば聞くほど、わたしの毒薬が使われたことが、いよいよ確かになってきたのです。だが、もしかして、あなたが別様の解釈を考えついているかもしれないと思って、あなたをお訪ねしたのですが、何も得るところがありませんでした。真犯人はモーティマー・トリジェニスだと、わたしは確信したのです。彼は金が欲しくて、兄弟たちがみな発狂してしまえば、共同財産を管理するのは自分ひとりだけになると考えて、悪魔の足の根を使って、二人の兄弟を発狂させ、そのうえ、彼にとっては実の妹で、わたしにとっては何ものにもかえがたい相愛の女ブレンダを殺してしまったのです。こんな罪を犯した彼には、どんな罰が加えられてしかるべきでしょうか?
法に訴えるべきでしょうか? だが、わたしの訴えを立証する証拠がどこにあるというのです? わたしが事の真相を知っているからといって、こんな幻想的な話を、田舎の陪審員たちに信じこませることができるでしょうか? できるかもしれない、だができないかもしれない。だが万が一にも失敗してはならないのです。私の魂は復讐を叫びました。
ホームズさん、先ほどもいいましたように、わたしは生涯の大部分を、法律の外で暮してきましたので、いつのまにか自分の意志を法とするような癖がついていたのです。今度の場合もそれでした。彼が兄妹たちを悲惨な運命に追いやった以上、彼もまた同じ運命に殉ずるべきだ、とわたしは思い決めました。彼がみずからその道を選ばないとすれば、わたしが自分の手で彼を処罰するほかはありません。英国広しといえども、現在のわたしほど、自分の生命を軽視しうるものはおりますまい。
もう、これ以上いうべきことはありません。あとはあなたのご明察のとおりです。たしかに、わたしはひと晩まんじりともせず考えたあげく、翌朝すぐに出かけていきました。彼を起こすのは困難だろうと予想して、前もって、あなたのいわれたように、小石を用意して、それを窓へ投げつけました。すると彼は階下へ降りてきて、わたしを窓から居間へ入れました。私は面とむかって彼の罪を責めたてました。わたしは裁判官兼死刑執行人としてここへきたのだ、と宣告しました。あの卑劣漢はわたしの拳銃を見ると、すっかりおしけづいて、椅子にくずおれてしまいました。わたしはランプに火をいれ、その上に粉末をのせ、窓の外に出て、もし彼が部屋から逃げ出そうものなら、ただちに射殺するぞと身がまえておりました。五分もたたぬうちに彼は死にました。ああ! その死にようといったら! だが、わたしの心は石のように冷ややかでした。なぜなら、わたしの罪のない愛人が死ぬ間際に味わった苦しみ以上のものを、彼が罰として味わったわけではないのです。
これが事の真相です、ホームズさん。あなただって、もし女を愛したとしたら、これくらいのことはやりかねないのではありませんか? ともかく、いまのわたしはあなたの決定にしたがうだけです。どのように処置されても不服はありません。さきほども申したように、わたしのように死を恐れない男は、この世にはおるまいと思います」
ホームズはしばらく無言のままだった。「で、あなたとしては、どうなさるおつもりだったのです?」と、やがて彼はたずねた。
「中央アフリカに骨を埋めるつもりでした。現地での仕事はまだ半ばしか終わっておりません」
「ではアフリカへ出かけて、あとの半分を完成なさるのですね」と、ホームズはいった。「少くとも、ぼくのほうは、とめだてするつもりはありません」
スターンデール博士はその巨体を起こし、うやうやしく一礼して、東屋(あずまや)を出ていった。ホームズはパイブに火をつけて、煙草入れを私によこした。
「同じ煙でも毒性のない煙は、気分転換にはいいものだね、ワトスン」と、彼はいった。「きみも同じ考えだと思うが、今度の事件はぼくたちがあれこれと口出しすべき問題じゃないよ。ぼくたちの捜査は警察とは別個のものだったから、その処置も別個のものであっていいはずだ。きみもあの男を告発しようと思わないだろう?」
「もちろんだとも」と、私は答えた。
「ワトスン、ぼくには恋愛の経験はないが、もしぼくが恋をして、ぼくの愛する女があんな殺されかたをしたとすれば、ぼくだって、あの無法者のライオン狩りと同じことをやったかもしれんよ。何ともいえないな。ところで、ワトスン、わかりきったことをいまさら説明してもはじまらないが、ぼくの捜査の出発点になったのは、もちろんあの窓枠のところにあった小石だったんた。あれと同じような小石は、牧師館の庭にはなかったんだよ。スターンデール博士に注意を向けるようになった時、ぼくははじめて、彼の住む小屋の周辺にあれとよく似た小石があることを知ったというわけだ。それに、すっかり明るくなっているのにまだランプの火がともっていたこと、ランプの滑石のふたに粉末が残っていたことなどが、推理を明晰なものにするうえで、重要な鎖の一環だった。さあ、ワトスン、もう事件のことは忘れて、新たな気持でカルデア語の語根の研究をやりなおそうじゃないか。きっと大ケルト語の系統をひくコーンウォル語の中に、その影響をとどめているはずだよ」
最後の挨拶
──シャーロック・ホームズの終幕(エピローグ)

それは一九一四年八月二日……世界の運命を変えたあの悲劇の八月(第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)の時)……の夜九時のことだった。この退廃した世界を、神の不吉な呪いが覆(おお)っていると、当時すでに変事を予感した人がいたとしても不思議ではない。というのは、むし暑くよどんだ空気の中に、無気味な静寂と何事か大事件の前兆のごときものが感じられたからである。太陽はとっくに沈んでいたが、遠く西の空の果てには、鮮烈な傷口のようにまっ赤な雲の裂け目がのぞいていた。空には星が光りかがやき、湾には船の灯火が明滅していた。高名なふたりのドイツ人が、横に長く、低い勾配の急な破風(はふ)作りの家を背景にして、庭の遊歩道の石の欄干(らんかん)のそばに立っていた。彼らは高い白亜質の断崖のすそに広々とつづく浜辺を見おろしていた。この白亜質の断崖は、フォン・ボルクが、四年前に放浪の鷲(わし)のように舞いおりた場所であった。彼らは頭をくっつけ合うようにして何やらひそひそと密談をかわしていた。下から見あげると、ふたりの吸っている葉巻の赤い火が暗闇の中にふたつ浮かびあがり、それはあたかも暗黒の世界をのぞきこむ憎悪に満ちた悪魔の不吉な眼光のように思われた。
このフォン・ボルクという男は非凡な人物で、ドイツ皇帝(カイザー)の数ある忠実な密偵のうちでも、並ぶ者がないといわれた存在であった。彼が他のどの国よりも重要視されている英国ヘ、諜報員として派遣されたのは、その才能を期待されたからであったが、ひとたび任務について活動をはじめると、その任務の秘密を知る世界でたった六人の人々の眼にも、彼の才能はいよいよ鮮明に写ってきたのであった。その六人のうちの一人が、いま彼が相手をしている公使館の一等書記官フォン・へルリング男爵で、その百馬力という大型のベンツは、田舎道をふさいだまま、主人がロンドンへ帰るのを待っていた。
「ぼくの情勢判断に狂いがなければ、きみはおそらくこの一週間以内にベルリンヘ帰ることになるだろう」と、一等書記官が話を続けていた。「帰ったら、フォン・ボルク君、きみはびっくりするほどの歓迎をうけるだろうな。きみがこの国でなしとげた功績は、わが国の最高首脳者たちに高く評価されているらしいよ」
書記官は大男で、胸まわりが厚く上背(うわぜい)があり、ゆっくりと重々しい話しぶりに特徴があった。その話しぶりが、彼の政治家としての経歴を可能にした主たる財産だといってよかった。
フォン・ボルクは笑った。
「英国人をだますなんて、造作もないよ」と、彼はいった。「こんなに扱いやすい、単純な国民がいるものか」
「さあ、それはどうかな」と、相手が考えるようにいった。「彼らには、どんなに親しそうにみえても決して心を許さない、ある不可思議な一線があるから、そこを心得ておく必要がある。うわべは確かに単純そうにみえるから、知らない者はついだまされてしまう。初対面の印象はじつにものやわらかだ。つきあっているうちに、突然何かひどく堅いものにぶつかって、それ以上彼らの内部へ踏みこめないことがわかる。そうなると、こちらのほうがそういう態度に対応していかなくてはならなくなる。たとえば彼らの島国特有の因襲などは、絶対に見落してはならない」
「それは、『折目正しい』とか、そういったことだね?」と、この種のことにはさすがのフォン・ボルクもさんざん悩まされてきたとみえて、ため息まじりにいった。
「妙なところでいろいろあらわれてくる頑固な英国人気質のことだよ。たとえば、これはぼくの大失敗の一つなんだが……こうして自分の失敗の話ができるのは、きみも知ってのとおり、ぼくの仕事が成功しているからだがね。ぼくが着任したてのころだった。ぼくは週末の会合に招かれて、ある閣僚の別荘に出かけたんだ。その時の話の内容は、びっくりするほど開けっぴろげだった」
フォン・ボルクはうなずいて、「あの時はぼくも同席していた」とぼつんといった。
「そうだったね。もちろん、ぼくはその時入手した情報の要点をベルリンへ報告したよ。ところが、あいにくわが国の大臣はこの種の事柄の処理がまずくて、いかにもその時の話の内容を知っているぞといわんばかりのことを発表してしまったんだ。もちろん、情報の出所は突きとめられ、すぐにぼくだとわかった。そのおかげで、ぼくがどれほどひどい目にあったか、きみにもわかるまいね。あの時ばかりは、ぼくを招待した英国人の態度には、ものやわらかさなんてどこにもなかったよ。それから二年間というもの、不首尾の埋め合わせをやってきたようなものだ。そこへいくときみには、スポーツマンらしいポーズがあるから……」
「いやいや、ポーズなんていわないでくれ。ポーズというのは技巧的なものだけど、ぼくの場合はあくまで自然な態度なんだ。ぼくは生まれながらのスポーツマンさ。ぼくは心から楽しんでいるんだよ」
「だからますます効果があがるわけだ。きみはやつらとヨットの競走はやる、狩猟はやる、ポロはやる。どんなスポーツでもやつらと対等にこなせる。きみの四頭立て馬車は、オリンピックに出ても入賞できるよ。若い士官たちと拳闘試合までやったというじゃないか。その結果はどうだね? 誰もきみのことを警戒する者はいない。『スポーツ万能の愉快な男』だとか、『ドイツ人にしてはなかなか話のわかるやつ』だとか、酒が強く、ナイトクラブに出入りする、派手な、遊び好きな若者ぐらいにしか思われていない。ところが、きみのこの閑静な田舎家が、じつはこの国の災いの根源であり、スポーツ好きな田舎紳士が、じつはヨーロッパ随一の有能な秘密諜報員なのだからねえ。天才だよ、フォン・ボルク君……きみは天才だよ!」
「お言葉いたみいりますな男爵。そりゃ、ぼくだって、この国に四年もいて、それがまんざら無駄ではなかったと思っていますよ。ところで、ぼくが手に入れた材料を、きみにはまだ一度も見せたことがなかったね。ちょっと中へはいらないか?」
書斎には、テラスからじかに入れるようになっていた。フォン・ボルクは扉を押しあけて、先に書斎にはいって、電灯のスイッチをひねった。それから大男の男爵がはいりおわるのを待って扉を閉めると、格子つきの窓にかかっているカーテンを注意深く手でまっすぐになおした。これほどの用心を重ねて、安全を確認したあげく、ようやく彼は日に焼けた鷲(わし)のような顔を客のほうへ向けた。
「書類の一部はもうここにはないんだ」と、彼はいった。「きのう妻や家族のものがフラッシング(オランダ南西部の島の海港でイギリス海峡に面している)ヘ向けて出発したので、あまり重要でない書類を持たせてやったのだ。もちろん、残りの書類については、大使館に保護してくれるよう申請するつもりだが」
「きみの名前は私的な随員のひとりとして登録してある。だから、きみ自身と荷物が本国へ戻るための手続きには、めんどうなことはないはずだよ。むろん、われわれがベルリンヘ戻らないですむ可能性もあるわけだ。英国がフランスを見殺しにするかもしれないからね。両国の間に、おたがいの行動を拘束するような条約はないはずだからね」
「じゃ、ベルギーは?」
「うん、ベルギーとだって同じことだよ」
フォン・ボルクは首をかしげた。「まさか、そんなことがあるものか。英国はちゃんとした条約を結んでいるはずだよ。英国ともあろう国が、他国を見殺しにすれば、権威をみずから失墜(しっつい)させて、とりかえしのつかないことになるよ」
「でも、そうすることによって、英国は、少なくとも当分の間、自国の平和を維持できるじゃないか」
「だけど、そうなったら、英国の国家としての名誉はどうなる?」
「ちぇ! きみ、いまは功利主義の時代だよ。名誉なんて古くさい中世の観念だよ。おまけに英国は戦争の準備ができていない。こんなことは、およそ常識では考えられないことだがね、わがドイツが五千万マルクにのぼる軍事特別税を決定したということは、まさに『タイムズ』紙の第一面に広告を出したのと同じくらいに公然と露骨に、こちらの意図を示していると思うんだが、英国人はいっこうに眠りからさめないんだからね。なるほど、あちこちで、その件に関して質問されることはある。それに何とかもっともらしい返答をするのが、ぼくの仕事だ。また、あちこちでドイツはけしからんという声も聞く。それをうまくなだめるのが、ぼくの役目だ。しかし、肝心な軍備については……武器弾薬の貯蔵も、潜水艦攻撃に対する防備も、高性能爆薬の製造設備も……英国としては何の準備もしていないことは確かだ。こんな状態で、どうして英国が参戦できるかね? ことに今のように、われわれが謀略でアイルランドの内乱とか、婦人参政権運動の女傑どもの騒動だとか、そのほかありとあらゆる騒ぎを起こさせて、国内問題に気をとられるように仕向けているからには、だよ」
「英国だって、自国の将来についてはよく考えていると思うよ」
「ああ、それはまた別の問題だよ。将来は将来として、わが国としても英国に対しては確乎とした独自な戦略を立てているだろうし、きみの提供する情報がきわめて重要なものになるだろうよ。だが、ジョン・ブル(英国人のこと)との対決は、今日か明日かという、さしせまった問題なんだ。向こうが今日だというのなら、こちらの準備は完了している。明日だというのなら、こちらの準備はさらに万全なものになっている。英国としては、単独で戦うよりも、同盟国と協力して戦うほうが賢明だと思うが、まあ、それはこちらの知ったことじゃない。今週は英国の運命を左右する一週間だよ。つい話がそれてしまったが、きみは書類の話をしていたのだったね」彼は肘掛け椅子に坐って、秀げあがった額を電灯に照らされながら、ゆったりと葉巻きをくゆらせた。
この広い部屋には、樫(かし)の羽目板が張られ、書物がぎっしりと並んでいたが、未来計画の部になっている隅のほうには、カーテンのかかっている一角があった。カーテンを引くと、真鍮の金具のついた大きな金庫があらわれた。フォン・ボルクは時計の鎖から小さな鍵をはずして、しばらく錠を操作していたが、やがて重い扉をぱっと開いた。
「どうです!」と彼は、金庫からはなれて、得意そうに両手をひろげていった。電灯の光が鮮やかに金庫の内部を照らしだした。大使館の書記官は思わずわれを忘れて、中の分類棚にびっしりと詰まった書類の列を、のぞきこんだ。どの棚にもラベルがはってあり、書記官の眼はそれを一つ一つ追いながら、たくさんの表題を読んでいった。表題は、「浅瀬」「港湾防備」「航空機」「アイルランド」「エジプト」「ポーツマス要塞(ようさい)」「英仏海峡」「ローサイス」(スコットランドにある英国の海軍基地)とか、そのほか二十あまりもあった。どの分類棚にも書類や図面がぎっしりと詰まっていた。
「じつにたいしたものだ!」と書記官はいった。彼は葉巻をおいて、ふとった手でそっと拍手した。
「これがこの四年間の収穫というわけだ、男爵。大酒飲みで、馬にばかり乗っている田舎紳士の仕事にしては、まあ悪くはないと思うがね。だけど、目玉商品になる情報が、まもなく手に入るはずだ。それを納める棚もちゃんと用意してある」彼は「海軍暗号」と書かれてある場所を指さした。
「でも、あの棚には、もうすいぶんたくさんの書類がはいっているじゃないか」
「あんなものは古くて紙屑も同然だよ。どういうわけか急に海軍省が警戒しだして、暗号を全部変えてしまったんだ。これには、さすがにまいったよ、男爵……ぼくの全活動の中でいちばんみじめなつまずきだった。だが小切手をふんだんに使えたことと、忠実なアルタモントのおかげで、今夜じゅうに万事うまく解決できるというわけだ」
男爵は時計を見て、いかにも残念そうな声をだした。「じつに残念だが、これ以上待ってはおれん。きみも知ってのとおり、カールトン・テラスのドイツ大使館では、いまいろんな計画が着々と進行中だし、われわれは全員部署につかなきゃならんのだ。きみの大手柄を見とどけて、そのニュースを持って帰れたら、と思っていたんだが。アルタモントは何時にくるともいっていなかったのかね?」
フォン・ボルクは一通の電報を手渡した。


今夜必ズ新シイ点火プラグヲ持ッテ行ク
アルタモント


「点火プラグだって?」
「彼は自動車技師で、ぼくはたくさんの自動車を持っている男という設定になっているんでね。二人の間には暗号が決めてあって、使いそうな言葉は、すべて自動車の予備の部品(スペア・パーツ)で表わすことになっている。ラジエーターといえば戦艦のことだし、オイルポンプといえば巡洋艦のことだ、という具合にね。点火(スパーク)プラグは海軍の暗号書なのだ」
「ポーツマスから正午に打っているな」と、電報の表書きを調べて、書記官がいった。「ところで、きみはこの男にいくら払うのかね?」
「この特別な仕事に対しては、五百ポンド。もちろん給料とは別途にね」
「欲の深い悪党め。こういう売国奴は役には立つが、それにしても、こんなやつらに報償金を出すのは惜しいな」
「いや、アルタモントに払うのは、ちっとも惜しいとは思わないね。すばらしく腕のたつ男だよ。金さえ十分に出せば、あの男の言葉でいうと、『品物』はとにかく引き渡してくれるんだからね。それに、あの男は売国奴じゃないんだ。英国に対する敵意の激しさにかけては、このアイルランド系アメリカ人にくらべたら、たいていの汎(はん)ドイツ主義的なプロシア貴族などは甘っちょろいぐらいだよ」
「ほう、アイルランド系のアメリカ人なのかね?」
「あの男の英語の発音を聞けば、きみにもすぐにわかるよ。なにしろ、あの男が何をいっているのか、ぼくにもわからない時があるくらいだからね。あの男は、英国王(イングリッシュ・キング)と純正英語(キングス・イングリッシュ)の双方に宣戦布告しているとみえる。どうしても帰らなきゃいけないのかい? あの男は、すぐにもくると思うんだがなあ」
「いや、帰るよ。残念だが、もう時間がないんだ。明日の朝はやくきてくれ。きみが手に入れた暗号書を持って、ヨーク公記念碑下の階段を登ってドイツ大使館の小さな入口をくぐった時に、英国におけるきみの活躍は、輝かしい勝利の終止符を打つことになるんだ。おや! トーケイ酒じゃないか!」脚の高い二つのグラスといっしょに、厳重に封をし、覆いのついた瓶が盆にのって出されたのを見て、書記官は指さした。
「ロンドンへ帰る前に、一杯やらないか?」
「いや、けっこうだ。だけど豪勢じゃないか」
「アルタモントはふどう酒の味がよくわかる男でね。ぼくのところのトーケイ酒がすっかり気に人っているんだ。気むずかしい男だから、こういう細かいところで機嫌をとっておかないとね。まったく、神経を使わせる男なんだよ」
彼らは再びテラスのほうへ出ていった。そのはずれに待たせてあった男爵の運転手がちょっと手をふれると、大型の自動車は、軽快な音を発しながら震動を開始した。「あの灯火(あかり)がハーリッジだな」と、書記官はダスト・コートをはおりながらいった。「なんて静かで平和な風景だろう。だが、一週間以内に、ここにはわが国の艦艇の灯火が見られるはずだ。そうなると、英国の海岸はこんなに平穏じゃなくなるってわけだ!それに空だって、わがツェッペリンの豪語が実現すれば、これほど穏やかじゃなくなるさ。ときにあれは誰だね?」
彼らが出てきた家には、一つだけ窓に灯火がついていた。部屋の中にはランプがともっており、そのそばのテーブルに向かって、田舎風の帽子をかぶった赤ら顔の人のよさそうな老婆がすわっていた。彼女は、背を丸めて編み物をしていたが、ときどき手を休めて、そばの腰かけにうずくまっている大きな黒猫の頭をなでてやっているのだった。
「あれはマーサだよ。召使いはあれ一人だけ残しておいたんだ」
書記官はくすくすと笑った。
「あの婆さんは、まさに大英帝国の象徴だな」と彼はいった。「自分のことにばかり熱中して、他愛もなく眠りこんでいる様子がね。では、さよなら、フォン・ボルク!」手を振って別れを告げると、彼は自動車にとび乗った。次の瞬間、ヘッドライトの二つの金色の閃光(せんこう)が闇を照らしだした。書記官は豪華なリムジン車のクッションに深々ともたれて、切迫したヨーロッパの悲劇のことばかり考えていた。だから車が村の通りを曲がった時、反対方向から走ってきた小型のフォード車と、すぐそばをすれちがったことには、まったく気がつかなかった。自動車の光が遠くに消えてしまうと、フォン・ボルクはゆっくりとした足どりで書斎にもどっていった。通りすがりに窓のほうを見ると、例の老家政婦はもう灯火を消して寝た様子であった。今まで家族や召使いたちと大勢で暮してきたので、このだだっ広い家が音もなく静まりかえってまっ暗なのは、彼にとっては初めての経験だった。だが家族はみな安全な場所に逃がしてあるし、台所をうろついているあの老婆のほかには、いまこの広い家に残っているのは自分ひとりだけだと思うと、ほっとする気持であった。書斎の中には整理しなければならない書類が山ほどあったので、さっそく仕事にとりかかったが、やがて彼の利発そうで端正な顔は、焼却する紙片の熱気で赤らんでいった。テーブルのそばに彼の手提げ鞄(かばん)がおいてあり、その鞄の中に、彼は金庫の中の貴重な資料をきちんと順序立てて詰めはじめた。だが、その仕事にとりかかるかとりかからないうちに、彼の鋭敏な耳は、遠くから響いてくる自動車の音を聞きつけた。たちまち彼はうれしそうな呟(つぶや)きを発すると、鞄に帯をかけ、金庫を閉じて鍵をかけ、急いでテラスのほうへ走り出た。彼が外へ出るのと同時に、門のところで小型の自動車が灯火を消すところが見えた。乗っていた男は車からとびおりて、急ぎ足で彼のほうに近づいてきた。運転手のほうは、灰色の口ひげをつけたがっしりした体格の年とった男で、ひと晩じゅう待たされるのも覚悟のうえといった様子で、運転席に坐ったままだった。
「どうだった?」とフォン・ボルクは、駆け寄って客を迎えながら、真創な口調でたずねた。答えるかわりに、男はいかにも得意そうに、小さな茶色の紙包みを頭上にかざしてみせた。
「今喜んでもらえますぜ、だんな」と彼は叫んだ。「とうとう獲物を手に入れましたよ」
「暗号書かい?」
「電報で知らせたとおりでさあ。手旗信号、灯火信号、無線信号も、みな最新のものですぜ。原本じゃなくて写しですがね。原本を持ち出すのはどうも危ないんで。写しといったって本物ですぜ。信用してもらって大丈夫でさあ」
彼は粗野な馴れ馴れしさで、ドイツ人の肩をぼんとたたいた。これにはフォン・ボルクもちょっとたじろいだ。
「まあはいりたまえ」と彼はいった。「いま家の中にいるのはぼくだけだ。その暗号書だけを待っていたんだ。そりゃ、原本よりは写しのほうがいいよ。原本が盗まれたとなると、向こうは暗号を全部変えてしまうだろうからね。それにしても、その写しを盗んだことを、気づかれてはいないだろうな?」
アイルランド系アメリカ人は書斎にはいって、肘掛け椅子にすわって長い手足を伸ばした。彼は背の高いやせた六十歳ぐらいの男で、目鼻立ちのはっきりした顔に、小さな山羊ひげをつけたところは、どことなくアンクル・サムの諷刺(ふうし)漫画に似ていた。吸いかけの湿った葉巻きを斜めにくわえていたが、腰をおろすと、すぐにマッチをすって火をつけた。
「引越しの支度ですかい?」と彼は、まわりを見まわしながらいった。「ねえ、だんな」カーテンがめくれて、むきだしになった金庫に眼をやって、彼はこうつけくわえた。「まさか、あの中に書類を入れとくんじゃないでしょうな?」
「いけないのか?」
「あたりまえでざあ、こんな開けっぴろげな変なものに入れるなんて! これでもあんたは一人前のスパイがつとまるってことになってるんですかねえ。ヤンキーの泥棒なら、こんなものは缶切り一つで開けてしまいますぜ。おれの出した手紙もこんな危ないものの中へ入れとくんだと知ってたら、ここへ手紙なんか出すんじゃなかったな」
「この金庫をこじ開けるのは、よほどの常習犯でも無理だろうよ」とフォン・ボルクは答えた。「この金庫は、どんな道具を使ったって破られはしないよ」
「でも錠前をこわせば?」
「いや、それが二重組み合わせ式の錠前になっているんだ。どんなしくみか、わかるかい?」
「そんなこと知るもんか」と、アメリカ人はいった。「いいかね、この鍵は、数字と文字の両方を合わせなきゃ、開かないんだ」彼は立ちあがって、鍵穴の周囲の二重放射形のダイヤルを指さした。「ここの外側ので文字を、内側ので数字を合わせるしくみになっている」
「なるほど、そいつはうまくできてるな」
「だからきみが思うほど単純な構造じゃないんだ。これを作らせてから四年になるがね、ダイヤルをどんな文字と数字に合わせてあるか、わかるかね?」
「そいつは、わからねえや」
「いいかね、文字は八月( August )、数字は一九一四に合わせているんだ。ほらこのとおり」
アメリカ人の顔には、驚きと感嘆の色がありありと見えた。
「ヘえ! そいつは見事だ! 開戦の時期をぴたりと当てたんだからな」
「もちろん、そのころから、ぼくたち少数のものは、開戦時期を正確に推測できていたんだ。まあ、それもこれも今日かぎりで、明日の朝はこの家もたたむつもりだよ」
「それじゃ、おれの逃げ道もちゃんと用意してくれるんでしょうね。こんないまいましい国に、たった一人でとり残されちゃたまらないからね。おれの見るところじゃ、ここ一週間たらずのうちにジョン・ブルめは、後脚で棒立ちになって猛然と暴れだすだろうよ。おれは海の向こうから高見の見物といきたいね」
「でも、きみはアメリカ市民なんだろう?」
「まあ、アメリカ市民といえば、あのジャック・ジェイムズもそうなんだけど、あの男もポートランドの刑務所にぶちこまれている始末だ。おれはアメリカ市民だといってみたところで、英国の警官とは仲よくなれないんでね。『ここでは英国の法律に従ってもらう』といいやがる。ところでだんな、ジャック・ジェイムズの件にしても、どうもあんたは、部下をあまりかばってはくれないようだね」
「それはどういう意味だ?」とフォン・ボルクは鋭く反問した。
「だって、あんたはみんなの雇い主だろう? そんなら部下が失敗しないように気を配るのがあんたの責任じゃないか。ところが部下が失敗した時でも、あんたが一度でも助けてやったことがあるかね? 現にジェイムズだって……」
「あれはジェイムズが悪いんだよ。それはきみも知っているだろう。あいつは勝手なことをやりすぎたんだ」
「ジェイムズがまぬけだった……それはまあ認めますがね。だけどホリスの場合は……」
「あいつは気違いだ」
「まあ、あいつも最後のころはちょっと頭が変だったけどね。それにしても、朝から晩まで、すきさえあればあいつを警官に引き渡してやろうと手ぐすねひいている連中を、百人も相手にしていたんじゃ、頭がおかしくなるのも無理はないぜ。でも、あのスタイナーだって……」
フォン・ボルクはひどくびっくりして、赤ら顔が心もち青くなった。
「スタイナーが、どうしたというんだ?」
「逮捕された、というだけのことですがね。昨夜、あいつの店が手入れを受けて、書類もろとも身柄はポーツマス刑務所に拘禁されたんでさあ。あんたのほうは逃げ出せるから気楽だろうが、あいつはかわいそうに、ひとりで責められるんだ。生きて出てこられたら、運がいいというもんだ。だからおれも、あんたとおんなじ時に海を渡ってしまいたいのさ」
フォン・ボルクは意志強固な、冷静な男であったが、部下の逮捕を聞いては、さすがに動揺の色を隠しきれなかった。
「どうして、スタイナーに手がまわったのだろう?」と彼はつぶやいた。「いや、これはひどい痛手だよ」
「なあに、この程度のことですんで幸運だったというもんですぜ、なにしろ、このおれにまで手がまわっているようですからね」
「まさか!」
「まさかじゃありませんよ。現にフラットンで、おれの下宿の女主人が警察の尋問を受けたんですからね。それを聞いて、おれも、これ以上ぐずぐずしてはおれん、と思ったよ。それにしても、だんな、ぜひ知りたいんだが、警察はどうしてここまで感づいたんだろうな? おれがあんたに雇われてから、警察につかまったのは、スタイナーで五人目だ。いまおれが逃げそこなったら、誰が六人目になるかは、いわずと知れたことだ。あんたはこれをどう弁明するつもりかね? 自分の手下がこんなふうに次々とつかまっていくのを、黙って見てて、あんたは恥かしいとは思わんのかね?」
フォン・ボルクはまっ赤になった。
「何という口のききかただ!」
「これくらいのことがいえなくて、あんたの仕事がつとまるもんかね、だんな。おれは、思ってることを遠慮なくいわせてもらうよ。あんたがたドイツの政治家は、密偵を利用するだけ利用して、あとはそいつがどうなろうと平気で見てるっていうじゃありませんか」
フォン・ボルクはいきなり立ちあがった。
「ぼくが自分の手先を敵に売ったとでもいうのか!」
「なにもそこまでいうつもりじゃありませんがね、だんな。それにしても、どこかに敵の内通者だとか、味方のような顔をした二重スパイがいるはずだ。それがいったい誰なのかを見破って教えてくれるのが、あんたの役目というもんだ。とにかく、もう危ない目にあうのは、ごめんだね。オランダへ逃げるんだ、一刻も早くね」
フォン・ボルクは怒りを抑えていた。
「おたがいに長い間いっしょに仕事をしてきた仲だ、勝利の瞬間を眼の前にして、いまさらけんかでもあるまい」と、彼はいった。「きみはすばらしい働きをしてくれた。しかもずいぶん危険をおかしてね。ぼくはそれを忘れはしない。ぜひ、オランダヘ渡ってくれたまえ。ロッテルダムからニューヨーク航路の船が出てるから、それに乗るんだ。これから少くとも一週間は、ほかの航路は危険だからね。じゃ、その暗号書はこちらへもらっておこうか。ほかの荷物といっしょに荷作りするからね」
アメリカ人は、手に小さな包みを持っていたが、いつまでたってもそれを渡そうとはしなかった。
「ドウ(米国で金のことをいう)のほうはどうなっているんです?」
「ドウって何のことだ?」
「金のことでさあ。報償金の五百ポンドですよ。砲手のやつが、最後の土壇場(どたんば)になって急に欲を出しやがってね。でも、せっかくの品物を手に入れなきゃ何にもならないから、こっちはあと百ドル余分に出すはめになっちまった。それでも相手は『とんでもない!』といいやがってとりあおうともしない。とうとう、もう百ドル追加してやっと話をつけたんだ。けっきょく、全部で二百ポンドもかかったんで、金をもらわんことには、これを渡すわけにはいかんというわけでして」
フォン・ボルクは苦笑した。「どうやらぼくのことをあまり信用してはおらんようだな」と彼はいった。「先に金をもらってから、暗号書を渡すというわけだな」
「そうですとも、だんな、それが商売の常識というやつでね」
「よし、じゃ、きみのいうとおりにしよう」彼はテーブルについて、小切手を書き、小切手帳から切りとったが、相手にはなかなか渡そうとはしなかった。「けっきょく、ぼくたちは金銭でつながった仲だったんだからね、アルタモント君」と、彼はいった。「きみがぼくのことを信用しないのだから、ぼくもきみを信用するだけの理由がない。わかるかね?」と彼は、振りかえって肩ごしにアメリカ人を見ながらいった。「小切手はテーブルの上におく。きみがそれを取るまえに、包みの中身をしらべさせてもらうよ」
アメリカ人は黙って包みを渡した、フォン・ボルクは巻いてある紐をとき、二重に包んである包み紙をほどいた。そして、彼は口もきけないほどびっくりして、目の前の小さな青色の書物を見つめた。表紙には、金文字で『実用養蜂便覧』と書かれていた。この大物スパイが、とてつもなく奇妙な書名に眼を見張ったのは、ほんの一瞬であった。次の瞬間、彼は鉄のような手で背後からえり首を押えつけられ、もがき苦しむ顔の前に、クロロフォルムをひたした海綿を突きつけられていた。
「もう一杯どうだい、ワトスン!」とシャーロック・ホームズは、インピリアル・トーケイ酒の瓶を差しだしていった。
さきほどのずんぐりした運転手は、テーブルのそばにすわりこんで、いかにもうれしそうにグラスを突きだした。
「いい酒だね、ホームズ」
「とびきりうまい酒だよ、ワトスン。あそこのソファにのびている友人の話では、この酒は、ドイツ皇帝フランツ・ヨゼフのシェーンブルン宮殿の特別貯蔵庫の品だそうだ。すまないが窓をあけてくれないか。クロロフォルムの匂いがしては、酒の味がまずくなるからね」
金庫の扉は開いていた。ホームズはその前に立って、次から次へ書類をとり出しては、すばやく目を通し、フォン・ボルクの手提げ鞄にきちんと詰めこんでいた。ドイツ人は腕と足をしばられて、ソファの上で高いびきで眠っていた。
「急ぐことはない、ワトスン。誰にもじゃまされる心配はないからね。ベルを押してくれないか? この家に残っているのは、マーサ婆さんだけなんだ。彼女はじつにすばらしい働きをしてくれたよ。ぼくがこの事件を手がけることになると同時に、すぐに彼女を、この家の家政婦の仕事を見つけておくりこんだんだよ。ああ、マーサ、喜んでおくれ、万事うまくいったよ」
感じのいい老婆が入口に姿をあらわした。彼女はにっこり笑ってホームズにおじぎをして、ふとソファの上の男に眼をやって心配そうな顔つきをした。
「だいじょうぶだよ、マーサ。どこも怪我してはいないんだから」
「それなら安心なんですかね、ホームズさん。このかたはこのかたなりに、いいご主人でしたよ。きのう、奥さまと一緒にこのわたしも、ドイツヘいってくれないかといってくださったのですよ。でもそうしていたら、あなたの計画に支障をきたしたでしょうね?」
「そうだとも、マーサ。おまえがここにいてくれたからこそ、ぼくも安心して仕事がやれたんだ。今夜はおまえの合図をじりじりしながら待っていたよ」
「書記官がきていたからですよ」
「それは知っている。ここへくる途中、自動車ですれちがったからね」
「あの人は帰らないのじゃないかと気をもんだほどでした。あの人がここにいたのでは、あなたの計画が狂ってしまいますものね」
「そのとおりだよ。まあ、待たされたといっても、三十分かそこらでおまえの部屋のランプが消えたので、これでやっとじゃま者がいなくなったことがわかったというわけだ。あすロンドンのクラリッジ・ホテルヘきておくれ、マーサ」
「かしこまりました」
「ここを立ちのく準備は、ちゃんとできているだろうね」
「はい、もうすっかり。主人はけさ手紙を七通出しました。いつものように宛名は控えてあります」
「ありがとう、マーサ。明日それを見せてもらうよ。おやすみ」といって彼は、老婆の姿が見えなくなると話をつづけた。「ここに残っている書類はたいして重要じゃないんだよ。書いてある内容はもちろん、とうの昔にドイツ政府に連絡されているわけだからね。危険で国外には持ち出せない原本だけが残っているんだ」
「じゃ、何の役にも立たないんだね」
「いや、必ずしもそうとはいいきれないよ、ワトスン。この書類があれば、少くとも向こうに何が知られており、何が知られていないかはわかるからね。書類の大部分は、ぼくの手を通して渡ったものだから、もちろん内容はまったくいいかげんなものだよ。ぼくの提供したあてにならない機雷敷設図を信用して、ドイツの巡洋艦がソレント海峡を航行するところを想像すると、ぼくの晩年も楽しくなるというものだ。それにしても、ワトスン」と彼は仕事の手を休め、旧友の肩をつかんだ。「明るいところで、しみじみときみの顔を見てなかったね。久しく会ってなかったが、どんなになったかな? 見たところは、あいかわらず若々しいがね」
「二十年も若がえったような気がするよ、ホームズ。久しぶりにきみから、ハリッチへ自動車で迎えにきてくれという電報を受けとった時ほど、うれしかったことはないよ。それにしても、ホームズ……きみはちっとも変わらない……その山羊ひげだけはいただけないがね」
「これも国家のためを思えばこそ、やむをえず生やしているんだ。ワトスン」とホームズは、貧相なひげを引っ張りながらいった。「明日になれば、このひげも不細工な思い出にすぎなくなるさ。整髪して、ほかも少し見場(みば)を変えて、明日はきっとクラリッジ・ホテルに姿をみせるよ。その時には、こうしたアメリカ人ばりの芸当(スタント)……失礼、ワトスン、こんな言葉を使ってしまって。ぼくのイギリス語の泉は永久に濁ってしまったようだな……つまり、このアメリカ人になる仕事の前の姿に戻っているよ」
「それにしても、きみは引退していたのだろう、ホームズ。サウス・ダウンズの小さな農園で、蜜峰を飼い、読書に明け暮れるという、隠者の生活をおくっていると聞いていたよ」
「そのとおりだよ、ワトスン。ぼくの悠然たる生活の産物、晩年の大作、ともいうべきものがこれなんだよ」彼はテーブルの上から例の書物を取りあげ、その長い表題を読んだ。『実用養峰便覧……女王峰の分封に関する観察』独力で書いたのだ。見てくれ、これが、昔ロンドンで犯罪社会を監視していた時のように、小さな働きバチの群(ギャング)を観察して、夜は寝もやらず考え、昼は忙しく立ち働いて得た成果なんだよ」
「それでいて、どうして探偵の仕事に舞い戻ることになったんだね?」
「さあ、そのことで、このぼく自身もじつは驚いているくらいなんだ。なにしろ、外務大臣だけなら断りようもあったんだが、総理大臣までがわざわざぼくの田舎家に足を運んでこられたとあってはねえ! じつをいうと、ワトスン、ソファに寝ているあの紳士は、われわれ英国人にとっては、いささか才能のありすぎる相手だったんだよ。密偵としては群を抜いて優秀だった。わが国の情勢は悪くなるばかりで、しかもどうして悪くなるのか、誰にもわからない。潜伏している密偵のしわざだとわかり、中には逮捕されるものもあらわれたが、どうやら裏に強力な秘密の中枢機関があるということが明らかになった。そこでその機関を暴(あば)くことがぜひとも必要になった。その仕事をこのぼくがやるようにと、強い圧力がかかってきたというわけだ。やってみると、この調査には二年かかったよ、ワトスン。だけど、こいつはなかなか波乱に富んだ二年間だったよ。まずシカゴを遍歴の振り出しに、バッファローでアイルランドの秘密結社を卒業して、スキバリーンでは警察をさんざん悩まし、それがフォン・ボルクの手下の眼にとまるところになり、その男がぼくを密偵にはうってつけの男だと推薦してくれたといえば、その間の事情がいかに複雑であるかがわかるだろう。それ以来ぼくはフォン・ボルクの信用を得たわけだが、さりとて彼の策略の裏をかいて、巧妙に計画の大半をぶちこわし、第一級の密偵を五人も刑務所におくりこむことに、怠(おこた)りはなかったというわけさ。ぼくは彼らの行動に眼を光らせて、時機の熟したころを見はからって摘発してやったんだよ、ワトスン。おや、ご気分は悪くはないでしょうか!」
最後の言葉は、さんざんあえいだり眼ばたきをしたあげく、静かに横になったまま、ホームズの説明に耳を澄ましていたフォン・ボルクに向けられたものだった。これを聞くと、彼は激怒に顔をゆがめて、怒り狂ったようにドイツ語で悪態を吐きちらしはじめた。ホームズは、囚人の悪口や罵倒には眼もくれず、さっさと書類を調べつづけた。
「ドイツ語は、音楽的には美しくないが、表現力の豊かさはという点ではどこの国の言葉よりすぐれているとみえるね」とホームズは、フォン・ボルクが罵(ののし)り疲れて、仕方なく口をつぐんだとき、感想をのべた。「あれあれ!」と彼は、一枚の複写図を箱に入れるまえに、その図面の端のほうに眼をとめながら、つけ加えた。「これじゃ、もう一人刑務所にぶちこまなくちゃいけない。かねてから怪しいとにらんではいたんだが、あの会計係がまさかこれほどの悪党だとは知らなかったよ。フォン・ボルクさん、あなたの口から答えていただくことが、ぞくぞくと出てきますね」
捕われた男はやっとの思いでソファの上に起きあがり、驚嘆と憎悪の奇妙に交錯した表情でホームズを凝視していた。
「このお返しは、かならずするからな、アルタモント」と、彼はゆっくりとした口調で冷ややかにいいはなった。「一生かかっても、この恨みはかならず晴らしてやる!」
「おきまりの歌の文句かね」と、ホームズはいった。「思えばその歌を、ぼくは幾度聞いたことだろう! 死んだモリアーティ教授のお得意の小うただったし、セバスチャン・モーラン大佐もよく歌ったものだ。ところがぼくは、このとおりちゃんと生きていて、サウス・ダウンズで蜜蜂を飼っている」
「くたばれ! この二重スパイめ!」と、ドイツ人は縛られたまま激しくからだを揺すり、殺意に燃えた眼でホームズをにらみつけた。
「いや、それほどひどかないよ」といってホームズは微笑した。「ぼくの英語のしゃべり方を聞いてりゃおわかりと思うが、シカゴのアルタモント氏なんて架空の人物だよ。ぼくがその男の名前を借りただけで、そんな男はどこにもいやしないんだ」
「それじゃ、おまえは何者なんだ?」
「ぼくが何者かだって? そんなことは本当はどうでもよいけど、きみが興味をお持ちのようだから教えてあげるよ、フォン・ボルク君。ぼくがきみの国の連中と近づきになるのは、こんどがはじめてじゃない。ドイツでは若いころにずいぶん仕事をしたから、ぼくの名前はおそらくきみも知っているはずだよ」
「教えてほしいがね」と、プロシア人は苦々しげにいった。
「きみのいとこのハインリッヒが英国公使をしていた頃、アイリーン・アドラーと故ボヘミア国王の仲を裂いたのは、このぼくだよ。きみの母かたのおじにあたるフォン・ウント・ツゥ・グラフェンシュタイン伯爵が、虚無主義者のクロップマンに殺されそうになったところを救ったのも、このぼくだ。それにまた……」
フォン・ボルクは驚いて、思わず身を起こした。「その男ならひとりしかいない」と、彼は叫んだ。
「まさにその男なんだ」と、ホームズがいった。
フォン・ボルクはうめき声をもらし、ソファにのけぞった。「しかも情報の大半を、なんと、その男から得ていたのか! そんなものに何の価値があろう! ぼくは何をしていたというんだ! ぼくはもう永久に破滅だ!」
「きみに渡した情報は、たしかにあまり信用はおけないがね」と、ホームズがいった。「いろいろと修正を要するところがあるが、いまのきみには、もうそんな時間もあるまい。きみの国の海軍大臣は、わが国の新型の大砲が予想よりも大きく、巡洋艦の速力が思いのほか速いと知ることになるんだよ」
フォン・ボルクは絶望のあまり、自分の咽喉(のど)をかきむしった。
「ほかにも細かい点で修正を要することが、たくさんあるが、それはいずれ時がくれば、明らかになるさ。それにしても、きみにはドイツ人には珍らしい美点が一つあるよ、フォン・ボルク君。きみがスポーツマンだという点だ。つまり、今まで大勢の人間を出し抜いてきたのに、今度はとうとう自分が出し抜かれる番になったと知っても、ぼくを恨んだりはしないだろう。何といっても、きみはきみの祖国のために最善をつくし、ぼくはぼくの祖国のために最善をつくしたんだから、これ以上自然なことはないじゃないか。それに……」とホームズは、打ちのめされた男の肩に手を置いて、あたたかみのある言葉をつけくわえた。「もっと卑劣な敵の手に倒れるよりは、このほうがよかったんですよ。さあ、ワトスン、書類の整理ができた。この捕虜に手を貸してくれるかい? すぐにロンドンへ出発しようと思うんだ」
体力があり、自暴自棄になっているフォン・ボルクを、自動車のところまで連れていくのは、容易ではなかった。それでも、二人は両側から彼の腕をかかえて、庭の遊歩道をゆっくりと歩かせた。その道は、ほんの二、三時間前にあの有名な外交官の祝辞を受けながら、晴れやかな自信にみちてフォン・ボルクが歩んだ道であった。最後にちょっと暴れたが、彼は手足を縛られたまま、小型自動車の席のあいたところに押しこめられた。その大事な手提げ鞄は彼のわきに突っこまれた。
「多少きゅうくつかもしれないが、しばらくこれで我慢してもらいましょう」
出発の準備が整った時、ホームズがいった。「葉巻に火をつけて口にはさんであげたら、失礼でしょうかね?」
しかし、怒ったドイツ人には、どんな思いやりも通用しなかった。
「ご承知でしょうな、シャーロック・ホームズ君」と、彼はいった。「きみがこういう仕打ちをなさるのを、きみの国の政府が承認しているとすれば、それは戦争行為になるということを」
「じゃあ、きみの国の政府はどうなんだ、これだけの仕打ちをしておいて?」とホームズは、手提け鞄をポンポンと叩きながらいった。
「きみには個人の資格しかない。逮捕状も持ってはいない。きみのやったことは、何から何まで完全に非合法的で、恥しらずな行為だ」
「いかにもそのとおり」と、ホームズがいった。
「ドイツ臣民を誘拐した罪」
「それに私文書も盗みましたな」
「そうか、自分たちの立場はわかっているんだな、きみとそこの相棒は、村を通りぬけるとき、ぼくが大声で助けを求めたら……」
「おやおや、そんなばかげたことをすれば、村の宿屋が『吊されたプロシア人』という珍らしい看板を出すことになるだけですよ。その結果、わが国の田舎の宿屋の呼び名が、もう一つ増えることになりますな。英国人は辛抱づよい国民ですが、目下のところ少々気が立っておりますから、あまり彼らを刺戟しないほうが賢明ですよ。それよりも、フォン・ボルク君、ここは観念し、おとなしく常識的に警視庁へご同行ねがいましょう。警視庁に着いたら、きみの友人のフォン・ヘルリング男爵を呼び出して、彼が空けておいてくれた大使随員の席が、今でもまだ残っているかどうか確かめてみることですね。ワトスン、きみは昔のように仕事を手伝ってくれるだろうから、ロンドンへ行っても遠まわりしたとは思わないだろうね。このテラスに並んで立とうじゃないか。ぼくらが静かに語り合うのも、これが最後になるかもしれないからね」
ふたりの友は、過ぎし日々の思い出をあらためて呼び起こしながら、しばらく親しく語りあった。その間、捕われた男は縛(しば)られた縄をほどこうと空しくもがいていた。やがて、自動車のほうに歩いていきながら、ホームズは、振りかえって月光に映える海を指さし、感慨をこめて頭をふった。
「東の風が吹いてくるね、ワトスン」
「そうじゃないだろう、ホームズ。とても暖かいよ」
「愛すべき親友のワトスン! きみは移り変わる時の流れの中で変わることのない不動の標識だよ。だがやはり、東の風が、今まで英国に吹きつけたことのないような風が吹いてくるんだ。凍りつくような冷たい風だよ、ワトスン。その寒風に打たれて、わが国の多くの同胞が、滅びるかもしれない。しかし、それは神の思し召しによる、厳しい試練にほかならない。嵐の去ったあとには、太陽の輝きに照らしだされて、もっと汚れのない、もっと良質の、さらに力強い国家があらわれるだろう。エンジンをかけてくれ、ワトスン。もう出かける時間だ。ぼくは五百ポンドの小切手を持っているけど、これは早目に現金にしたほうがよさそうだな。さもないと、振出人は支払い停止にしかねないからね」(完)
[翻訳 鮎川信夫 (C)Nobuo Ayukawa]
「事件簿」目次


有名な依頼人
白面の兵士
マザリンの宝石
三人ガリデブ
ソア橋事件
覆面の下宿人
三破風館の謎
サセックスの吸血鬼
はう男の秘密
ライオンのたてがみ
ショスコムの納骨所
引退した絵具屋

有名な依頼人

「いまとなっては、もうだれにも迷惑はかからないだろう」
シャーロック・ホームズが、やっとそういってくれるまで、何年かかったことか。そのあいだ、わたしは、これから書きしるす、ホームズが活躍するある事件を発表させてほしいと、十回も頼み続けた。
こうして、ホームズが探偵として一番活躍していた時代の、それもたいへん変った事件を、わたしは発表できることになったのである。
ホームズもわたしも、サウナ風呂が大好きである。風呂からあがって、休憩室で汗のひくあいだ、パイプをくわえてタバコをすう。風呂あがりの気持ちのよい、ぐったりさに、心地よくひたっているときは、ホームズもふだんより、いくらか口が軽くなって、おしゃべりになる。ホームズが、すこしは普通の人間になるときである。
ノーサンバランド大通りのサウナ風呂の二階に、寝いすが二つならべておいてある、ちょっとはなれた静かな場所がある。これから話そうとする事件がはじまるのは、一九〇二年九月三日、この寝いすに、ふたりがならんで横になっていたときであった。
わたしは、ホームズに、ちかごろ何か、かわったことが起きなかったか、たずねた。
すると、ホームズは口で答えるかわりに、からだに巻きつけたシーツのあいだから、長くて細い神経質そうな腕を、にゅっとだした。そして、そばにかけている上着のポケットをさぐって、一通の手紙をとりだした。
「たいしたことでもないのに、ご本人だけが騒ぎたてているものなのか、それともほんとに生きるか死ぬかの問題なのか。いまのところ、ぼくにも、これに書いてあることだけしかわからないんだがね」
ホームズは、そういって、手紙を渡してくれた。
見ると、封筒には、カールトン・クラブの名が印刷されていた。日付は前の日の夜である。封筒の中身をとりだして読むと、つぎのようなことが書いてあった。


シャーロック・ホームズさま
まだお目にかかっていませんが、わたくし、サー(卿)・ジェームズ・デマリーは、かねてから、あなたさまを尊敬している者であります。
さて、とつぜんですが、たいへん重要であり、できるかぎり用心深くあつかう必要のある問題について、ご相談もうしあげねばならなくなりました。明日の午後四時半、おたずねいたします。なにとぞ、お会いいただけますよう、お願いもうしあげるものです。
なおカールトン・クラブまで、電話でご都合を、おしらせいただけましたら、ありがたくぞんじます。


「もちろん、承知したと返事をしておいたけどね、ワトスン」
わたしがかえす手紙を受けとりながら、ホームズは逆にたずねてきた。
「きみは、このデマリーという男について、なにか知っているかい?」
「そうだね、貴族や身分の高いひとたちだけ集まってつきあう社交界では、名が知れわたっているということぐらいかな」
「じゃあ、ぼくのほうが少しは知っていることになるか。あのひとたちの社交界で、新聞に出てもらいたくない、やっかいな事件を、おもてざたにしないで解決することで、評判の男だ。きみもおぼえているだろう、ほら、ハマフォードの遺言状事件で、ジョージ・ルイス卿と、どんなぐあいに巧みににはなしあったか。あの男だよ。
貴族にしては、交渉ごとのじょうずな才能がある。だからきょう、ぼくのところにもちこんでくる相談ごとにしても、ただのお騒がせでなくて、ほんとにぼくらの助け舟を必要しているものではないかと、期待しているんだけどね」
「ぼくらだって?」
「そうさ、手つだってくれるんだろう、ワトスン?」
「もちろん、よろこんで手つだうよ」
「じゃあ四時半だよ。それまでは、この問題は忘れてしまうことにしよう」

そのころわたしは、ホームズとはべつに、クィーン・アン街に住んでいた。それでも依頼人がやってくるという指定の時刻まえに、なつかしいベーカー街へいって待っていた。
四時半きっかり、サー・ジェームズ・デマリー大佐は、たずねてきた。
サー(卿)でもあり、大佐でもある有名なこのひとについては、いまさらここで説明するまでもないだろう。心のひろい、正直な人がら。大きな、ひげをきれいにそった顔。なかでも、ここちよい、やわらかで甘い声は、多くの人が知っている。
アイルランド系のひとに多い、灰色の目には、すなおな輝きがあった。また、いつもにこにこしている、軽やかな口もとには、相手を気楽にさせる雰囲気があった。
この日も、ぴかぴかのシルクハット、黒のフロックコート、黒いサテンのちょうネクタイにさした真珠のピン、ラベンダー色のくるぶしまでのゲートル、よく光る靴。もともとそれで有名なのだが、どこにもすきのない身なり。
そういったいでたちの、大柄な貴族が堂々とはいってきたのだから、小さな部屋は、たちまち、さらにせまくなった感じ。
ていねいに頭をさげ、デマリー卿はいった。
「なるほど、やはりワトスン博士も、ごいっしょでしたか。ホームズさん、ワトスン博士にも、ぜひともご協力をいただかねばならないと思いますよ。なにしろ、こんどの事件の相手は、暴力をつかうのは平気だし、どんなこともやりかねない男なのですから。ヨーロッパじゅうさがしても、こんな危険な人物はいないといっても、いいすぎではないでしょう」
ホームズは、にっこり笑っていった。
「そのようなお言葉にふさわしい人間なら、これまでにも何人か、相手にしたことがあります」
それからホームズは、タバコをすすめた。
「タバコは……おやりになりません? では失礼して、パイプをすわせていただきます。あなたのおっしゃる男が、死んだモリアーティ教授や、まだ生きているセバスチアン・モラン大佐よりも危険な人物だとしますと、わたしにとって、相手にして不足はありません。名前をお聞きしてよいですか?」
「グルーナ男爵というお名前を、ごぞんじですか?」
「というと、オーストリア人の殺人者のことですか?」
デマリー卿は、皮の手袋をはめた手をあげ、笑いながらいった。
「たいしたものですな。どんなことでも、あなたの眼を、のがれられるものなど、なにもない! では、ホームズさんは、あの男が殺人者だということも、もう、ごぞんじなのですな?」
「ヨーロッパで起きた犯罪事件なら、すべてくわしく調べておくのは、わたしの仕事のひとつです。プラハのあの事件の記録に目をとおしていれば、だれだって、あの男がやった犯行だと信じるはずです。あの男が罪からのがれられたのは、どの法律で罰することができるかという点で、ちょっと問題があったこと。それから、証人のひとりがなぞの死をとげたこと。そのためでした。
あの男の妻は、シュプリューゲン峠で『思いもかけない事故』で死んだことにされてしまいました。だが、ほんとうはグルーナ男爵のしわざです。わたしがこの目で、殺しの現場を、じっさいに見たとさえ、いいきってもよいほど確かです。それに、そのあと、男爵がイギリスヘやってきていることも知っています。
いずれ、あの男を相手にしなければならないときがやってくると、覚悟していました。そのグルーナ男爵が、なにかしでかしたというのですか? まさか、むかしのあの事件が、ここでまた、問題にされることになって、おいでになったのではないでしょうね?」
「いや、ちがいますな。もっと重大な問題です。犯罪というものは、起こったのを罰するのも大切ですが、起こらないようにすることのほうが、もっとだいじです。ホームズさん、目の前でいやなこと、言葉にもいいつくせない、おそろしいことが起きようとしている。それも、そのあと、どういうことになるか、はっきりわかっているのに防ぐことができない。こんななさけない、つらいことはありませんよ」
「そうでしょうね」
「とおっしゃってくださるのであれば、わたしが代理してまいった人間に、同情していただけるわけですな」
「ちょっと、まってください。あなたのご依頼ではないのですか! では、ほんとうにご依頼なさっているひとは、どなたなのです?」
「ホームズさん、その点であまり、わたしを責めないでいただきたい。その名誉あるかたのお名前を、ぜったいにもらさないとお約束して、ここにまいったからです。
またわたしは、最後までそのひとの名前を口にしなかったと、かえって報告しなければならない。そのかたが、あなたに事件のご依頼をなさったのは、ご自身のためというより、たいへん気高いお気持ちからなのですが、あくまでも、名はだしたくないというお考えです。
もちろん、あなたへのお礼や調査にかかる費用は、十分させていただきます。お仕事のすすめかたにしてもおまかせし、口をさしはさみません。であれば、依頼人のほんとうの名前など、関係ないのではありますまいか?」
ホームズは、きっぱり、いった。
「お気のどくですが、わたしのなぞ解きは、一方だけを相手にして、すすめるわけにはいかないのです。もう一つの側、依頼人がだれかというなぞも解かなければならないのでは、事件をうまく解決できるはずはない。残念ですが、サー・ジェームズ、それでは、この事件をおことわりするほかありません」
デマリー卿は、すっかりこまりきったようすだった。がっかりしたこと、あわてていることは、その大きな感じやすい顔からすぐ、わたしには読みとることができた。
決心したように、デマリー卿はいった。
「ホームズさん、あなたがおことわりなさることで、どんなひどいことになるか、おわかりになっておられない。おかげでわたしは、どうしたらよいか、どうすべきか、自分で判断しなければならなくなった。もし、ここでわたしが、なにもかもうち明けたら、よろこんで引き受けてくださるのはまちがいない。それなのに、約束でどんなことがあっても、それを口にだせないのですから、こまりました。
そうだ、これなら、どうでしょう。許されているかぎりで、おはなしすることではいかがでしょうか?」
ホームズは、ゆずらなかった。
「お聞きしたとしても、それでわたしが事件をお引き受けすることになるか、お約束できませんよ。そういう条件であれば、お聞きしましょう」
「わかりました」
デマリー卿はうなずき、はなしはじめた。
「まず、あなたはド・メルビル将軍の名をごぞんじでしょう?」
「カイバル峠の戦いで有名なド・メルビル将軍ですか? あのひとなら知っています」
「あのひとには、若くて美しいお嬢さんがいらっしゃいます。バイオレット・ド・メルビルといって、財産もあるし、才能もある。どの点からいっても文句のつけようのない、すばらしいお嬢さんです。じつは、わたしたちが、いま、悪魔のような男からまもろうとしているのは、この愛らしい、疑うことをしらない女性なのです」
「すると、そのお嬢さんは、グルーナ男爵にひきつけられ、あの男にあやつられそうになっているとでもいうのですか?」
「そのとおり。それも女のひとにとっては、いちばん強い力、愛の力で、ひきつけられているのです。ごぞんじと思いますが、あの男は世にもめずらしいほどの美男子です。
そのうえ、すごくひとをひきつける態度、やわらかな声音、さらには女のひとには大きな魅力になる、なぞめいた、ふしぎな雰囲気、それらをみんな、そなえています。聞くところによると、あの男は、どんな女のひとも、思いのままにし、自分の仕事にさんざん利用してきたといいます」
「それにしても、なぜそのような男が、ミス・バイオレット・ド・メルビルのような身分の高いお嬢さんに、ちかづくことができたのでしょうね?」
「それはなんでも、地中海をヨットで航海していたときの出来事だったそうです。この航海に参加することをゆるされたひとは、みんな選ばれたひとばかりでしたが、会費はそれぞれの負担ということになっていました。そこで、だれでも申し込むことができた。航海の主催者は、もちろん、男爵の正体をしらなかったので参加をみとめた。気がついたときは、もう手おくれだったというわけです。
あの悪人は、バイオレットにつきまとって、ついにバイオレットを自分にひきつけることに成功しました。バイオレットがどんなに、あの男に夢中になっているか、愛しているなどという言葉ではたりないほど、夢中になっています。毎日でも会ってないと、落ちつけないといったぐあいです。
あの男に悪い評判のあることなど、いくらいっても、聞こうとしません。なんとか目をさまさせようと、あらゆる手をつくしてみました。みな、むだでした。そして、途中をはぶいてもうしあげますが、来月には、バイオレットは、男爵に結婚を申し込むといっています。バイオレットはもう成人ですし、鉄のように意志のつよいひとですから、もう手の打ちようがありません」
「バイオレットさんは、男爵がオーストリアで起こした事件を知っているのですか?」
「あいつは、じつに悪がしこい男です。先まわりして、自分からバイオレットに、世間に知られている過去の悪いはなしを、のこらず、うちあけているのです。それも、どれにも自分に罪はない。自分のほうこそ、悪いうわさをたてられて、被害をうけた人間なのだと、言葉たくみにはなしている。ですから、バイオレットは、それを信じきっていて、わたしたちがなんといおうと、まるっきり、耳をかそうともしないのです」
「なるほどね。でもいまのおはなしのおかげで、依頼人の名はばれてしまいましたね。ほかでもない、ド・メルビル将軍でしょう」
デマリー卿は、いすのなかでもじもじしながら、いった。
「ホームズさん、そうですともうしあげれば、簡単にあなたをあざむけるんでしょうが、じつはそうではないのです。ド・メルビル将軍は、ほとんど半分、病人みたいになっています。
あの勇敢な軍人も、こんどの事件では、すっかりがっくりしてしまいました。戦場では決して見せたことがないのに、こんどばかりは勇気を失い、なにもできない、ただの年よりになってしまっています。とても、あのオーストリア人のような、元気でずるい悪人を向こうにまわす力など、ありっこありません。
わたしに依頼したひとというのは、将軍とは昔から親しくしていただけでなく、このバイオレットがおさげ髪のころから、自分の子のようにかわいがってきたひとなのです。ですから、こんどのような悲しいことがすすんでいくのを、だまってそばで見まもっていられなくなったのでしょうね。
といっても、警視庁にたのんでやってもらうような問題ではありません。そこで、そのひとがいろいろお考えになって、あなたにお願いしたらということになったのです。しかし、先ほどももうしあげましたが、そのひとがこの事件にかかわりあったことがなかったことにするため、あくまでもその名前をださないというのが、条件です。
この依頼人がだれかは、もちろん、ホームズさん、あなたのお力をもってすれば、わたしを追跡して、つきとめるのは簡単でしょう。しかし、そのひとの名誉にも関係してくる問題です。どうかそれだけはなさらないように。名前をかくしたままにしておいていただくよう、お願いもうしあげます」
ホームズは、あのなぞのような笑いを浮かべていった。
「そのことでしたら、お約束してもけっこうです。それにあなたのご依頼の事件そのものに、興味をおぼえました。お引き受けしましょうか。あなたへのご連絡は、どうしたらよいのですか?」
「カールトン・クラブヘご連絡ください。おいそぎのときは、わたしの個人用の電話、XX(エックスエックス)の三一番におかけになってください」
ホームズはメモ帳にその番号を書きとると、ひざのうえにひろげた。そして、なぞめいた笑いを、まだ浮かべながらいった。
「グルーナ男爵が、いま、どこに住んでいるのか、ごぞんじですか?」
「キングストンにちかいバノン・ロッジというところです。大きな屋敷です。なにかあやしい金もうけがうまくいって、金持ちになったようです。それだけ、敵にまわすと手ごわいあいてですよ」
「いまも、その屋敷に住んでいるのですか?」
「ええ」
「いまおはなしいただいたことのほかに、なにかこの男のことについてお聞きしておくことはありませんか?」
「金のかかる趣味をもっている男です。まず、馬が道楽です。ひところは、ハーリンガムのクラブで、馬に乗って木のボールを打ってあらそう、ポロにこっていました。ですが、あのプラハ事件で悪いうわさがたって、しかたなくやめたようです。
いまは、古書と絵画のコレクションに熱中しています。芸術の才能もなかなかのものだと思いますよ。たしか、中国の陶器については、専門家として世間にしられ、そのことを本にまでしています」
ホームズは、うなずいた。
「いろいろな性格がからみあった、複雑な男のようですね。大犯罪者は、すべてそうしたものです。わたしの古なじみのチャーリー・ピースはバイオリンの名手でした。ウエインライトなんかも、なかなかの芸術家でした。そのほか数えあげると、きりがないぐらいです。
さてと、ジェームズ卿、おかえりになったら、わたしがグルーナ男爵を相手にする気になったと、依頼人におつたえください。いまはそれ以上、もうしあげられません。二、三、情報を集める心あたりもあります。なんとか、やれると思いますよ」

サー・ジェームズ・デマリー大佐が、かえっていったあと、ホームズはながいあいだ、じっとなにか考えこんでいた。わたしがいることさえ、忘れたのではないかと思った。やがて、夢からさめたように、はきはき、いいだした。
「ああ、ワトスン、そうだ、きみの意見は?」
「そうだね、まず、きみはその若い女性にあってみるべきじゃないか」
「なにをいう、ワトスン。気の毒にも心を痛めた、お年よりのお父上さえ、気持ちをかえさせることができなかったのだよ。他人のぼくがいって、どうなるんだというんだい。もっとも、ほかの方法がみんなだめだったら、きみの提案にのってみるけどね。まずは、ちがった方法ではじめたいと思う。さっそく、シンウェル・ジョンスンに手つだってもらおうと思っているんだ」
シンウェル・ジョンスンのことにふれるのは、これがはじめてである。わたしが、最近のホームズの活躍した事件をあまり記録に書いていないからである。じつは、この二十世紀のはじめのころから、この男はホームズにとって、このうえもなくだいじな手つだいをする、役にたつ助手をつとめてくれていたのである。
正直いうと、残念なことに、ジョンスンは、もとは危険な悪人として、有名であった。二度も、バークハースト監獄にいれられている。それから、心をいれかえ、ホームズと手をくんだ。そして、ロンドンの犯罪者の世界に、ホームズのスパイとしてもぐりこみ、情報を集めた。こうやって集めた情報は、何回となく、ホームズの事件の解決に、大いにやくにたった。
もしこれが警察のスパイであったなら、たちまち正体がばれたはずである。さいわいなことに、ホームズがジョンスンを使った事件は、じかに裁判所にもちこまれるようなものでなかった。そのために、すこしも仲間に感づかれなかったのである。
それに、なんといっても、二度も懲役で監獄にはいったということが、大いにものをいっていた。ジョンスンは、どんなナイト・クラブにも、安い宿屋にも、賭博場にも、自由に出はいりできた。おまけに、観察はするどく、頭の働きが早いので、情報を集めてくるのに、ぴったりの人間だった。
シャーロック・ホームズが、いま手つだってもらおうとしているのは、この男なのである。
わたしは、あいにく、ホームズといっしょに、すぐ動くことができなかった。医者の仕事のほうに、さしせまった用事があったからである。それでも、前もって会合の場所と時間をきめ、その晩、レストランのシンプスンでホームズにあった。
店の正面の窓ぎわの小さなテーブルにすわったホームズは、ストランド街を、ひっきりなしに行き来する人の波を見おろしながら、その日のあれからのことをはなしてくれた。
「ジョンスンは、いま、しきりにしらべまわっている。きっと、犯罪者たちがひそんでいる世界から、なにかさぐりだしてくると思う。グルーナ男爵の秘密は、そんなところに、かくされているはずだ。それをまず、あばきださなければね」
「しかしだよ、男爵がどんな悪事を働いているかしらせても、バイオレットはそれを悪事とは見ないんだよ。たとえ、きみがどんな新発見をしたって、バイオレットの考えを変えさすことにはなりはしないのじゃないか」
「そんなこと、わかるもんか。女のひとの感情や心は、男にとって、いつまでたっても、なぞだよ。人殺しさえゆるすし、犯人のいいわけさえ聞きいれるかと思うと、もっと軽い罪に怒ることもある。グルーナ男爵も、そういっていたけれど……」
「えっ! 男爵と話したのかい?」
「そうだったね。まだ、ぼくのプランをきみには、聞かせていなかった。ワトスン、ぼくはあの男に、正面からあたりたかったのだ。面と向かって眼と眼を見あわせ、どんな性格の男か、じかに見てたしかめたかった。そこでジョンスンにさしずをしたあと、キングストンへ馬車をとばした。男爵は、たいへん、あいそうよく、むかえてくれたよ」
「きみだと、わかったのか?」
「わかるも、わからないもない。ぼくは、名刺をだしてとりついでくれと頼んだのだからね。いや、なかなかの相手だった。氷のように冷静、声は絹のよう。その態度はきみと同じ仕事の、よくはやる医者のように、ものやわらか。それなのに、有毒なこと、コブラのようなやつ。
あの男には、犯罪者として、生まれつきの素質がある。ほんものの犯罪者の貴族だ。表面は、午後のお茶でも飲むようなようすで、そのうらには、地獄の残酷さがある。そう、早いうちに、アーデルベルト・グルーナ男爵に注意をむけてよかったと思っている」
「あいそうがよかったようだね?」
「ネズミを見て、のどをならしているネコというのかな。ああいう男のあいそうのよいのは、あらっぽい男の乱暴よりもおそろしい。まず、そのあいさつからして、あの男らしかった。
『いずれ、早かれおそかれ、お目にかかることになると思っていましたよ、ホームズさん』
こうさ。それから、
『いうまでもなく、ド・メルビル将軍の依頼で、お嬢さんのバイオレットとわたしの結婚をやめさせるために、ここへこられたのでしょうね? ちがいますかな?』
ぼくは黙ってそうだという、しぐさをしてみせてやった。
すると、あの男は、こういうではないか。
『それは、それは。せっかくのご評判に傷がつくだけです。これは、あなたの手におえる事件ではありません。骨折り損のくたびれもうけ、というものです。そればかりか、あなたの身に危険をまねくことになるかもしれません。すぐ手をひかれるよう、つよくご忠告もうしあげますよ』
ぼくは、答えたよ。
『これはおかしなことだ。こっちも、それとまったくおなじことを、あなたに忠告するつもりだったんですからね。あなたの頭のよさには、まえから敬意をはらっていたが、こうしてはじめてお目にかかり、その敬意はいよいよ、深まったといってよいでしょう、男爵。
そこで、男と男のあいだのはなしをさせてもらいたいのですがね。だれも過去のことをあばきたてて、あなたに不愉快な思いをさせようなどとは、思ってもいない。みんなすんだことで、あなたも平和にくらしている。だが、あなたがあくまでもこの結婚にこだわるのなら、強力な敵がいっせいに立ちあがって、さいごには、あなたがイギリスにいられなくなる、ということになるんですよ、よろしいか。
そうまでして、がんばる必要があるのですか? そう、ここはおとなしく、あの女性から手を引いたほうが、かしこいのではありませんかね。あなたの過去のいろいろなことが、つぎからつぎと、あの女性が知ることになるのは、あまりうれしいことじゃ、ないのではありませんか』
男爵は、鼻の下にちょっぴりと髭をのばし、それをワックスのチックでかためていて、まるで昆虫の短い触角のようだった。
あの男は、それをひくひくさせながら、さもおもしろそうに、こっちのいうことを聞いていたよ。だが、ぼくがはなしおわると、おだやかに笑いながら、こういったよ。
『いや、笑いだしてしまい、失礼しました、ホームズさん。だが、あなたのすることを見ていると、いかにもおかしい。まるで手にカードをもたずにゲームをしているようでね。まあ、だれもこれだけ、あなたのように、うまくやれまい。それにしても、いささか、あわれですな。これという点数の高い絵のカード一枚あるというわけでなく、いや、それどころか、あなたのもっているのは、くずみたいなカードばかりじゃありませんか』
『ほんとうに、そう思いますか?』
『ごまかしても、むだですな。それなら、はっきりさせてあげましょう。わたしには、強いカードが手にあります。お見せしてもかまわない。さいわいなことに、わたしは、あの女性が、心からわたしを愛するようにさせることができた。それも、わたしの過去の不幸なできごとを、なにもかもうちあけたうえでのことなんですよ。
それからまた、いまにどこかの意地わるな、なにか悪いたくらみをもった人間がやってくる。ご自分のことだと思ってくださいよ。そして、あること、ないことを、おおげさにしゃべりたてるだろう。そのときは、どのように受け答えするかも、はなしておきましたよ。
あなたは、催眠術をかけたあとの「暗示」のことを、お聞きになっているでしょうな、ホームズさん? それなら、それがどんなにかけられた人間に働くか、いまにおわかりになるはずだ。力のある、すぐれた男にかかれば、くだらない手品や、から騒ぎをやらなくても、催眠術はかけられますからな。
バイオレットは、あなたのくるのを待ちかまえていますよ。まちがいなく、あってくれます。なにしろ、あの女性は、父親にはたいへんすなおで、なにもかもしたがいます。たったひとつの小さな、わたしたちの問題をのぞいてはね』
というわけだ、ワトスン。これじゃとてもはなしをすすめることはできない。それで、できるだけおちついて、へこまされたとみせかけないで、引きあげることにした。ところが、あの男爵、ぼくがドアのハンドルに手をかけたとたん、よびとめて、こういったんだ。
『ときにホームズさん、フランスの探偵でル・ブルンというひと、知っていますか?』
『知っていますよ』
と答えると、
『あのひとが、どうなったかということも、ごぞんじで?』
『たしかモンマルトルで、アメリカインディアンのようなやつにおそわれて、生涯、片足が不自由になったと聞いているが』
『そのとおりです。じつに奇妙なめぐりあわせですが、あのル・ブルンという男は、その一週間まえから、わたしのことを、しらべはじめていました。ホームズさんもそんな目にあわないように、用心なさらないと。あまり、ぞっとしないはなしですからな。そういう目にあったのは、ひとりやふたりじゃない。あなたは、あなたの道を進む。わたしには、わたしの道を進まさせる。……これが、あなたにおくる最後の言葉です。さようなら!』
というわけだ、ワトスン。いまのところ、はなしはここまでだよ」
「危険な男らしいね」
「このうえなく危険なやつだ。おどしなんか、ちっともこわくない。だがあいつは、口でいうよりももっとおそろしいことを、平気でやる男だからね」
「どうしても、この事件を引き受けなければならないのかい? あいつがバイオレットと結婚しては、そんなにまずいことなのかい?」
「まずいにきまっている。あいつが前の夫人を殺したのは、まちがいないのだからね。それに依頼人が依頼人だからね。いや、それはまあ、いま、いうことではないだろう。そのコーヒーを飲んでしまったら、いっしょにぼくの家へこないか。あの元気もののシンウェルのことだ。きっと、報告をもってきているにちがいないよ」

家にいくと、たしかにホームズがいったように、下品な赤ら顔の、大きなからだの男が、わたしたちを待っていた。病気持ちのようなあれた肌なので、いきいきとした黒い眼だけが、きわだっている。その目を見れば、この男がじつは、たいへん、抜け目のない利口者だということがわかる。
さっそく、お得意の犯罪者がひそんでいる世界へのもぐりこみに成功したのか、そばのソファーに若い女をつれてきていた。
ほっそりしたからだつきで、見るからに感情のはげしそうな女であった。青白い、思いつめたような顔は、若々しかったが、後悔と悲しみのあとが、顔にきざまれていた。それを見れば、この何年か、すさんだ暮らしをしてきたのがすぐわかる。
シンウェル・ジョンスンは、わたしたちに、ふとった手をふって、その若い女を紹介した。
「こちらが、ミス・キティ・ウィンターです。キティのしらないことは、なにも……いや、それは本人がおはなしするでしょう。わたしは、あなたからの連絡をもらって、一時間とたたないうちに、このひとをさがしあてたんですぜ」
若い女は、まちかねたように、しゃべりだした。
「あたしをさがすなんて、かんたん。いつもこの地獄、うん、このロンドンにいるんだもんね。そこのふとっちょさんのシンウェルと、おなじ住人ってわけ。このひととあたし、長いおつきあいなんだ、そうだよね、ふとっちょさん。でもねえ、あたし、これだけはきちんといっとくけど、世の中に正義というものがあるんならね、あたしたちより、ずっとひどい地獄におちたって当然っていうやつが、ひとりいる。そいつなんでしょうよ、ホームズさんが追いまわしているのって?」
ホームズは、にっこり笑っていった。
「すると、手をかしてくださるんですね、ミス・ウィンター?」
「あの男を、当然いくべきところへ送りこめるんだったら、あたし、どんな、手つだいでもよろこんでする」
ミス・キティ・ウィンターは、いきおいこんでいった。
キティの白い、思いつめた顔や、キラキラする目には、はげしい憎しみがあった。女にもめったに見られないし、男ではぜったいに見られない表情であった。
「あたしの過去のことなんか、聞くことないわよ、ホームズさん。うん、どうせ、たいしたことないんだもの。でもね、こんなあたしにしたのは、アーデルベルト・グルーナなのよ。そう、あいつをひきずり落としてやれたら! そして、あいつがつぎからつぎと、多くのひとを、つき落としたその穴へ、ひきずりこんでやれたら!」
キティは、両手のこぶしをにぎりしめ、はげしくふりまわした。
ホームズはいった。
「じゃあ、こんどのはなしのいきさつは、知っているんですね?」
「ふとっちょさんのシンウェルから聞いたわ。あの男、またかわいそうなバカ女のあとを追いかけて手にいれたんだって。それも、こんどは結婚しようしてるんだって。それをやめさせたい、そうなんでしょ?
そう、あんたは、あの悪魔のことをようく、ごぞんじ。だから、ちゃんとした家の、きちんとした考えをもっているお嬢さんが、あいつといっしょに牧師さんの前に立とうとしている、そいつをやめさせる、そうなんでしょう?」
「ところが、そのお嬢さん、きちんとした考えなど、なくしている。あいつに夢中で、おかしくなっています。あの男のことは、なにもかもあいつから知らされているのに、お嬢さんは、気にもとめない」
「人殺しのことも、聞いたのかしらね?」
「もちろん」
「なんてこと。そのひと、すごくタフね!」
「かげぐちだと思って、うけつけないんですよ」
「証拠をつきつけたらどう。それで、目をさますんじゃない?」
「そうなんですよ。で、手つだってくれる?」
「このあたしというものが、証拠そのものよ。あたしがじかに会って、どんな目にあわされたか話してやったら……」
「それをやってくれる?」
「やってくれるかですって? やらないなんて、考えられて!」
「そう、たしかにやってみる値打ちはあるかもしれない。しかしあいつは、自分の悪事をほとんど白状しています。そして、そのお嬢さんとやらも、ゆるしている。もう一度、そんなはなしをしても、お嬢さんは、もう聞く耳をもたないのじゃないかな」
キティは、いった。
「あいつが、なにもかもはなしをしていないことを、教えてやるわよ。世間でさわいだ殺しは、ひとつだけど、そのほかにも、ひとつやふたつ、あいつがやったらしい殺しを知ってるんだもん。
はじめ、あのねこなで声で、だれかのうわさをしていると思ったら、急にじっとわたしを見ながら、こういったのよ。
『あの男のいのちも、あとひと月だな』とね。
それもまゆ一本、動かさないでいうのよ。でもあたし、ちっとも、気にとめなかった。だって、そのころは、あいつに夢中だったんだもの。こんどのおバカさんみたいに。あいつのすることは、なにからなにまで、いいことと思っていたんだもんね。
でも一度だけ、ショックだったことがあった。そうよ、なんてこと! あのとき、あいつのうそ八百に、ごまかされさえしなければ、その晩のうちにも逃げだしていたのに! あいつ、あるノートをもっているの。茶色の革表紙で、錠(じょう)までついている。表紙にあいつの紋章が、金箔で押してある。あの晩は、お酒がちいーと、はいっていたんだと思う。そうでなきゃ、あんなもの、あたしに見せるはずがないもんね」
「というと、どんなもの?」
「それが、ホームズさん。あいつは、ひとが、蝶(ちょう)や蛾(が)を集めるように、女を収集していたのよ。あいつは、自分に夢中になった女のひとを収集して、自慢にしていたってわけ。あのノートは、そのコレクションの記録なのよ。スナップ写真をはりつけ、名前からなにから、いちいちくわしく書いてあるのよ。けがらわしいったら、ありゃしない。どんな下等な男だって、あんなものが作れるわけがない!
なのに、アーデルベルト・グルーナのやつは、そんなけがらわしいことをやっていた。題をつけるんだったら、『自分のために身を滅ぼしたものたち』とでもすればよいノートよ。でもね、こんなこと、どうってことないわよね。だって、あなたの役にたつものでないし、役にたったって、手にいれられないんだからどうしようもないもん」
「どこに、おいてあるのです、それは?」
「いまどこにあるか、わたしにわかるはずないもん。あの男とわかれてから一年以上よ。あのころの置き場所を知っているけど、あいつ、なんだって、きちょうめんできれい好きなんだから。だけどひょっとすると、いまでも、奥の書斎の、古いデスクの整理棚にいれているかも。あいつの家を知っている?」
ホームズは答えた。
「書斎へは、はいったことがある」
キティは、びっくりしたようだった。
「えっ、そうだったの。けさ、仕事をはじめたばかりなのに。ホームズさん、あんたは、手をつけるのがすごく早いんだ。アーデルベルトも、こんどは油断ができないわよね。表の書斎というのは、中国の陶器をかざった部屋。そこには、窓と窓のあいだに大きなガラスの戸だながあるわ。その表の書斎の部屋のデスクのかげにドアがある。そこが、奥の書斎。せまい部屋だけれど、あいつはいろんな書類やなにか、いっぱい、つめこんでいる」
「どろぼうを、おそれているのかな?」
「アーデルベルトは、そんな臆病者じゃあないわよ。どんなにあいつを憎んでいる相手も、それだけは認めると思うわ。自分の身は、自分でまもることができる男。夜は警報器があるし、それに泥棒のねらうようなものなんか、なにもありゃしない。あるのは、珍しい陶器くらいなもんだもん」
すると、もと悪事の専門家、シンウェル・ジョンスンが口をはさんだ。
「陶器じゃだめだ。溶かしたらおしめえだし、そのままじゃ、むろんのこと、売れねえブツだ。盗品買いのどこも、ひきとらねえな」
ホームズも、いった。
「そのとおりだ。ではと、ミス・ウィンター、あすの夕がた五時に、もう一度ここへきてくれないかな。それまでに、あなたの提案どおり、あのお嬢さんに会えるよう、なんとか手はずをしておくから。あなたのご協力には、心から感謝します。いうまでもないことだけど、依頼人のほうから、じゅうぶんな謝礼がでるはず……」
「よしてよ、ホームズさん。あたし、金がほしくて、こんなことをしてるんじゃないのよ。あいつが泥のなかへ突きおとされるのを見るだけで、じゅうぶん。泥のなかのあいつの憎い顔を、この足でふみにじってやりたい。それで満足。明日どころか、あなたがあいつを追いかけているうちは、いつだって、あたし、手つだいにきてよ。このふとっちょさんに、あたしのアジトは知らせてあるから」
わたしは、それっきり、つぎの日の晩までホームズに会わなかった。
その晩、わたしたちはふたたび、ストランド街のレストランで食事をいっしょにした。
わたしは、バイオレット・ド・メルビルにあったときのようすをたずねた。すると、ホームズは肩をすくめて、つぎのようにはなしをしてくれた。
ただ、ホームズのはなしぶりは、事実をならべただけのもので、いかにもそっけない。そこで、わたしは、すこしばかり、やわらかく、実際の生活でつかわれる言葉になおすことにした。
ホームズは、まず、いった。
「バイオレットに会うのは簡単だった。それというのも、このお嬢さん、こんどの婚約ではたいへん親不孝をした。それをつぐなうために、ほかのことならなんでも、自分のわがままをおさえて、父親のいうことにしたがって見せようとしているからだ。
将軍から、どうぞおいでくださいという電話があった。それから、あの火の玉のようなミス・キティ・ウィンターも、時間どおりやってきた。それで、ぼくたちが、バークリ・スクェア一〇四番の老将軍の屋敷の前で馬車を降りたのは、ちょうど五時半だった。
その屋敷というのは、そのへんの教会なんかおよばないぐらい、おそろしく陰気でいかめしく、ロンドンによくある、灰色の堂々とした城のような建物だった。
召使いに案内されて、黄色いカーテンをかけた広い客間へとおされた。みると、そこにはちゃんとバイオレット・ド・メルビルが、待ちうけていた。とりすましていて、青い顔した、とっつきにくい女性だった。そのとっつきにくさといったら、奥ふかい山の雪おんなみたいだったよ。
まあ、ワトスン、なんとあの女性をいいあらわしてよいか、ぼくには、いまでもわからない。きみもおそらく、事件がかたづくまでには、あの女性に会うことになるはずだ。だからきみの文章の才能にまかすよ。たしかに美人だ。だけどね、その美しさは、この世のものでないといってよいものだ。いつも高いところばかり見つめて、目をそらさない、くるったように神を信じきっている、信者の美しさなんだ。
そういえばそうだな、あれは、中世の有名な画家の描いた絵で、なんどとなく見た顔だ。男爵のようなけだものが、なんでこの世のものではないような女性を、夢中にさせたのか、ぼくには想像さえできない。きっと、きみも知っているように、気高い、貴いものと野獣、野蛮人と天使という、猛烈にはなれているものは、案外、おたがいにひかれあうものなんだね。それにしても、こんなにかけはなれた悪い例は、きみも知らないだろうよ。
もちろん、バイオレットは、ぼくたちがたずねてきた理由を知っていた。あの悪党めは、いち早く、ぼくらの悪口を、吹きこんでいたからだ。ただね、ミス・ウィンターという若い女がついてきたのには、びっくりしたようだ。
それでも顔色ひとつかえずに、まるで信心深い女子修道院の院長みたいにふるまった。そして、ふたりのわるい病気をもった修行僧をむかえたように、ぼくたちに、それぞれがすわる席をさししめしたのには、こっちもおどろいたね。ワトスン、きみもそっくりかえって威張りたかったら、ミス・バイオレット・ド・メルビルを見ならうといいよ。
バイオレットときたら、まるで氷山から吹きおろしてくる風のように、冷くいった。
『よく、いらっしゃいましたこと。お名前はようくぞんじあげておりますわ。きょうのおいでは、わたくしの婚約の相手、グルーナ男爵の悪口をもうすためでいらっしゃいますね?
こうして、お目にかかりますのは、父にいわれましたればこそで、いたしかたありません。でも、まえもって、お断りしておきますけれど、そちらがどんなお話をなさろうと、わたくしの心は、すこしもかわりませんことよ』
ぼくは、逆にバイオレットがかわいそうになった。ちょっとのあいだは、自分の娘のような気さえした。ぼくはあまり、はなしがじょうずなほうじゃない。ぼくは、感情を表にだすより、理屈っぽくしゃべるほうだ。だけど、このときだけは、できるかぎり心をこめて、あたたかい言葉をつかい、はなして聞かせてやった。
結婚してみてはじめて、その男の正体、それも手が血でよごれた殺人者で、ほんとうは、心から愛していなかったことを知った女のひとが、どんなにみじめになるかを、懸命にいろいろはなしてきかせた。なにひとつ、かくさなかった。そんな結婚が、どんなにはずかしいものになるか、おそろしいものか、苦しいものか、望みを失うものか。口がすっぱくなるまでしゃべりにしゃべった。
だけどもね、どうはなしても、バイオレットの象牙のようなほおには、血の気さえ浮かんでこない。夢をみているようなふたつの目には、なんの感情の動きもない。ぼくは、いまさらのように、あの悪党のいっていた催眠術をかけたあとの「暗示」ってやつが、いかに強いか思い知った。バイオレットは、なにか夢を見ているように、こちらのはなしは、うわのそらで聞いていたとしか思えない。
しかもその答えの、はっきりしたことといったらなかったね。
『ずいぶん、しんぼうして、おはなしをうかがっていましたわ、ホームズさん。でも、前にもうしあげたように、わたくしの気持ちは、すこしもかわりません。わたくしの婚約者、アーデルベルトは、嵐の中をすすむ、生きかたをしてまいりました。そのためもあって、ひとさまからはげしく憎まれたり、悪いうわさも立てられました。そのことは、よく知っておりますわ。
でも、あなたで、それもおしまいでしょうね。いままでもいろいろなかたが、いれかわりたちかわりきて、あのひとの悪口をいっていかれましたけど。あなたは、たぶん、親切なお気持ちからなさっていらっしゃるのでしょう。とはいえ、あなたは、お金で雇われる探偵とか。そういうお仕事は、お金しだいで、反対に男爵の味方にもおなりになると、わたくしはうけたまわっていますわ。
いずれにしましても、わたくしは、あのかたを愛しております。あのかたも、わたしを愛しています。ですから、世の中のひとが、なんとおっしゃろうと、窓のそとで、小鳥がさえずるほどにも聞こえません。そのことを、とくとご理解たまわりたいとぞんじます。あの気高いひとが、たとえほんのひと時でも、おとしいれられるようなことがあっても、わたくしは、そこから引きあげてやり、もとの姿にもどしてさしあげます。それこそが、わたくしの役目と、ぞんじておりますのよ』
そこで、バイオレットは、つれてきたキティに視線をうつしていった。
『この若い女のかたは、どなたですか?』
ぼくがそれに答えようとすると、キティは、まるでつむじ風がまきおこったように、まくしたてた。
ワトスン、火と氷がぶつかりあったらどうなるか、このときのふたりは、まさしくそうだったよ。
『どなたですかって。あたしが自分でいうわ』
ミス・キティ・ウィンターは、いきなりいすから立ちあがって、はげしく口をねじまげながら、しゃべりはじめた。
『あたしはね、いいこと、あいつの最後の女だったのよ。あの男に夢中にされて、さんざんだまされ、利用されたあげく、ごみ箱へぽいとすてられた百人もの女のうちのひとり。あいつはあんたもそうするにきまっているけど。あんたの場合、すてられるのは、ごみ箱じゃなくて、たぶん墓場。そのほうがまし。いっとくけど、おバカさん。あんなやつと結婚したらそれでおわりってこと。胸がはりさけて死ぬか、首の骨を折って死んじゃうか、それはあいつが選んでくれるかもしれないけどね。
こんなことをいうの、あんたが好きだからじゃない。あんたが死のうと生きようと、あたしの知ったことじゃないもん。ただあの男が憎いの。あいつがわたしにしたことの、お返しだけはしてやりたいのよ。
それも、どっちでもかまわない。なによ、そんな顔であたしをにらんだりして。ごりっぱなお嬢さまかどうかしらないけど、なにもかも終わってみたら、いまのわたしなんかより、あんたのほうが、ずっと、いやしい女になっているにきまっているんだものね』
ミス・ド・メルビルは、ひややかにいった。
『もう、ここで、そんなことをいい争いたくありませんわ。いろいろありますが、ただひとつだけ、いわせてくださいませ。あのひとの、いままで、生きてこられた道をふりかえると、三つの時期があります。そのある時期に、たちのわるい女にひっかかったことも、わたくしは、知っています。そのときに、なにかまちがいを犯したことがあるにせよ、いまは心から悔いあらためています。そのことは、保証してもよいとぞんじます』
キティは、叫んだ。
『三つの時期ですって! あんた、バカよ! どうしようもない、《ど》のつく阿呆(あほう)よ!』
バイオレットは、いよいよ、つめたくいった。
『ホームズさん、きょうは、これでお引きとりいただきたいとぞんじます。あなたにお目にかかるようにという父のいいつけには、したがいました。でも、この女のかたの、わけのわからないおはなしなど、耳をかす必要はないとぞんじます』
これをきくとミス・ウィンターは、いきなり、ミス・ド・メルビルに躍(おど)りかかっていった。もしぼくが、とっさにその手首をつかんでひきもどさなかったら、キレたキティは、きっと、このにくらしいバイオレットの髪を、ひっぱりまわしていただろうよ。ぼくは、キティをドアまでひきずっていった。そして、もう半分ぐらい、気もおかしくなって荒れくるっていたキティを、幸いにも、道で大さわぎにならないうちに、なんとか馬車に押しこむことができた。
ぼくだって、キレはしなかったが、かなりむかむかしていた。せっかく救ってやろうとしているのに、そのご本人は、いかにも冷たく、関係ないようにふるまい、すましかえっているんだから、憎らしくなるのは当然だろう。
まあ、こういうわけだ。これでいままでのことは、きみにもすっかり、わかっただろう。最初の手がだめなら、べつのあたらしい手を考えださなければならない。それでワトスン、いずれはきみにも、やってもらいたい役目が、かならずでてくると思うから、連絡はいつも、とれるようにしておきたい。もっとも、こんどはやつらが、勝負をしかけてくるはずだ」
ホームズのいうとおりだった。やつらから、勝負をしかけてきた。やつらといったが、バイオレットがかかわっているとは思えないから、アーデルベルト・グルーナ男爵が勝負をいどんできたのだ。
ホームズとはなしあってから、二日後のことだった。グランド・ホテルとチャリング・クロス・ステーションのあいだには、片足をなくした新聞売りが、夕刊を売っている場所がある。そこにさしかかったとき、新聞売りのもっているプラカードをふと見て、心まで凍る思いをしたことを、いまでもわたしは、はっきりおぼえている。そのおそろしい思いをしたとき、どの敷石をふんでいたか、はっきり指さすことができるぐらいだ。
プラカードの黄色い紙には、くろぐろとおそろしいニュースが、書かれていた……。


シャーロック・ホームズ氏、暴漢におそわれる


それを見てわたしは、しばらく、頭から血がひいてぼーっとなってしまった。それから代金をはらうのもわすれて、夕刊をひったくるようにとったので、新聞売りに文句をいわれたこと。それからいそいで金をはらって、薬局の店さきに立って、問題の記事をくりかえし、くりかえし読んだこと。あまりにもショックだったので、ばらばらにしか思いだせない。
そのときの新聞記事には、つぎのように書かれていた。


有名な私立探偵シャーロック・ホームズ氏は、けさ、暴漢におそわれた。まだくわしいニュースははいっていないが、ホームズ氏は、昨夜十二時ごろ、リーゼント街のカフェ・ロイヤルの前で、ステッキをもった二人組の暴漢におそわれ、頭やそのほかを強く打たれ、死にそうな傷をうけたとのこと。
医師のことばによると、かなりの重傷とのことである。すぐにチャリング・クロス病院へかつぎこまれたが、本人の強い希望でベーカー街の自宅へうつされた。
おそってきた犯人たちは、いずれもきちんとした身なりの男で、やじ馬をかきわけてカフェ・ロイヤルへはいり、裏通りのグラスハウス街方面へ逃走した。被害者ホームズ氏のかねてからの活動や、すばらしい推理によって、ひどいめにあってきた一味のしかえしと見られている。


この記事に目をとおすと、わたしは走ってきた馬車にとびのった。そして、ベーカー街にいそいだ。
いってみると、自家用馬車がまっていて、ホールにはいると、有名な外科医レズリー・オークショット卿が、ちょうど帰ろうとしていたところだった。
オークショット卿は、わたしに告げた。
「いまのところ、すぐ危険がどうのこうのということはありません。頭にひどい切り傷が二か所、ほかにかなりの打ちきずをおっています。切り傷のほうは、いく針か縫わなければなりませんでした。モルヒネの注射をうっておきましたから、しばらく、しずかに、そのままにしておいてください。まあ、五、六分くらいなら、面会してもかまいますまい」
医者のゆるしがでたので、わたしは、まっ暗な部屋へ、そっとはいっていった。
四分の三ほどおろしてあったブラインドのすきまから、斜めに日がさしこんでいた。
けが人は、眼をあけていて、しゃがれた声でささやくように、わたしの名を呼んだ。頭にした白いリネンの包帯からは、赤い血がにじんでいた。
わたしは、枕もとに腰をおろして、そっと顔をのぞきこんだ。
ホームズは弱々しくいった。
「そんなに心配そうにするなよ、ワトスン。見かけほど悪くないんだ」
「よかった、安心した!」
「きみも知っているだろうが、ぼくは多少、棒術(ぼうじゅつ)を学んでいる。だから防ぎきることができるはずだったんだが、そのうちのひとりが、ぼくより上手(うわて)だった」
「なにかぼくにできることがあったら遠慮なくいってくれよ。もちろん、あいつが、さしむけてきたものにきまっている。きみがやれといえば、のりこんでいって、あいつの化けの皮をはがしてやる」
「ありがとう、ワトスン。だが、だめだ。警察がうごいてくれなければ、こっちだけではどうにもできない。それにしても、逃げ道をうまく、用意していたよ。まえもって、よく計画してやったにちがいない。
まあ、しばらく待ってくれ。ぼくにも二、三考えがある。まず一番にやることは、ぼくの怪我を、なるたけおおげさにいいふらす。みんなは、きみのところへようすをたずねていくはずだ。そしたらきみは、一週間もてばいいほうだとか、脳震盪(のうしんとう)をおこしたとか、意識がないとか、いかにも悪そうに、でたらめをならべたててくれ。どんなにおおげさに、いってもいいぜ」
「だけどね、ほんとうのことを知っている、医者のレスリ・オークショット卿がいるじゃないか」
「そっちは、だいじょうぶだ。できるだけ、いかに重い傷か、そっちのほうだけ、見せておくから。その点はうまくやるよ」
「そのほかに、ぼくのすることは?」
「そうだね、シンウェル・ジョンスンに連絡をとって、あのミス・キティ・ウィンターに、身をかくすようにつたえてくれないか。おっかないやつらが、いまごろ、必死にキティをさがしているはずだ。キティが、ぼくの味方についたことを知ったのだからね。ぼくを襲ったぐらいだ。キティをほっとくはずがない。これは急ぐ必要がある。今晩のうちに、連絡してくれないか」
「これからすぐ、いってくる。ほかに用は?」
「パイプをテーブルへ出しといてくれ。それからタバコ入れもね。そう、ありがとう。毎朝、ここへきてくれ。作戦をねろうよ」

わたしは、その晩のうち、ジョンスンに連絡をとった。そして、ミス・ウィンターを、殺される危険のなくなるまで、静かな郊外のどこかにかくまうよう手配してくれと頼んだ。
それから六日間、世間は、ホームズが死にかかっていると思いこんでいた。医者のオークショット卿の発表も、ホームズの容体が安心できないというものだった。新聞の記事も、「ホームズ氏の回復むずかし」というようなものであったからである。
だが、毎日たずねていったわたしには、それほど悪くないことがわかっていた。ホームズは、もともと、芯(しん)がじょうぶなうえ、意志も強いので、奇跡を起こしていたのである。
回復があまり早いので、じつはもっと元気になっているのではないか、わたしにかくしているのではないかと、疑ったほどである。もともと、ホームズは、みょうにかくしだてする悪いくせがある。それで、あとであっとおどろかせるのだが、親友のわたしにさえ、なにをたくらんでいるのか、教えようとしない。
はかりごとは、だれにも知らせないで、そっとすすめるのが一番である。だがそれが、ふたりのあいだの、ただひとつのみぞのようなものであると、だれよりも親しくしているわたしは、いつも感じていた。
七日目、傷を縫った糸を、ぬきとった。けれども、その日の夕刊には、反対に、傷が化膿しだしたと報道された。その日の夕刊には、そのホームズの容態とはべつに、見のがせない記事があった。
この金曜日、リバプールを出帆するキュナード汽船のルリタニア号の船客名簿のなかにアーデルベルト・グルーナ男爵の名が見えたことである。近づいてきた、ド・メルビル将軍のひとり娘、バイオレットとの結婚式のまえに、ぜひとも、かたずけておく必要がある金銭にからまる問題で、アメリカにいくというのである。
そのニュースをわたしが読んでいるあいだ、ホームズは、青ざめた顔で、熱心に聞いていたが、ショックをうけたようだった。
聞きおわると、ホームズは叫んだ。
「金曜日だって? あと、まる三日しかないじゃないか。あいつ、危ないとさとって、逃げだすつもりかもしれない! 逃がすものか! ぜったいに逃がしゃしないぞ! ワトスン、きみの出番だ! きみにやってもらいたいことがある」
「なんなりと、いってくれ、ホームズ」
「よし、これから二十四時間、中国の陶器の勉強に、集中してくれ」
それ以上、ホームズは、なにも説明してくれなかった。またわたしも、なにも質問しなかった。ながいあいだのホームズとのつきあいから、こういうときは、なにも聞かないで、いわれたとおりにしたほうがよいことを、知っていたからだ。
わたしは、すぐ、ホームズの部屋をでた。そして、ベーカー街を歩きながら、どうして中国の陶器の勉強などという奇妙なことをしなければならないのだろうと、あれこれ考えた。
しまいには考えるのをやめて、馬車に乗り、セント・ジェームズ・スクェアにあるロンドン図書館にいった。そして、図書館の副司書をしている友人ロマックスに事情をうちあけ、貸してくれたいっぱいの参考書をかかえて、家にもどった。

よくいわれるはなしがある。月曜日に手ごわい専門家を証人に呼んで訊問するときは、弁護士は、必死でつめこみ勉強をして裁判所にむかう。ところがそのにわか知識は、裁判がおわって一週間もたたない土曜日には、もうすっかり忘れてしまうという。
わたしも、陶器の専門家になるつもりなどなかった。だけど、その日も夜まで、途中少し休んだだけ、翌日も午前中かけて、中国の陶器を書いた本で勉強した。そして、いろいろな名前もおぼえこんだ。
わたしの学んだのは、たとえば有名な芸術家で装飾家であったひとたちの特徴、イギリスにはない、つぎつぎにかわるふしぎな年号のこと、明(みん)朝の洪武(こうぶ)帝時代の陶器のもよう、おなじ明朝の永楽(えいらく)帝時代の絵つけの美しさ、それから清(しん)朝時代の陶工の唐英(とうえい)の書である。
そのほかにも、宋や元などといった中国の昔につくられた、かずかずのみごとな陶磁器など、いろいろあった。
つぎの日の晩にホームズを訪ねたときは、わたしの頭のなかは、中国の陶磁器の知識で、ぱんぱんになっていた。
新聞を読んでいるひとには、思いもよらぬことだけど、ホームズはベッドをはなれていた。そして、お気にいりのひじかけいすにふかぶかとすわり、包帯をまいた頭に、肘(ひじ)つえをついていた。
「おいおい、ホームズ、新聞では、きみは死にかけていることになっているんだぞ」
「そうさ。そう思わせようとしたんだから、望むところだ。ところでワトスン、勉強はやってくれたかい?」
「まあ、やるだけのことはやってみたけれど」
「けっこうだよ、それで。では、中国の陶器のことを話しあって、ぼろをださないですむと思うかい?」
「まあ、なんとかね」
「じゃあ、マントルピースの上のあの小さな箱を、とってくれたまえ」
ホームズは、小箱のふたをとると、中から、さもだいじそうに、東洋の絹でていねいにくるんだものをとりだした。絹をひろげると、世にも美しい深い藍色をした、美しい小皿があらわれた。
「ワトスン、だいじにあつかってくれよ。これはほんものの、明朝のうす焼きの磁器だ。クリスティーズ美術品競売所でも、こんな美しいのがでたことはない。一皿だけだが、これがひと組そろっていたら、国王の身代金ほどの値打ちがあるものなんだ。もっとも、北京の紫禁城(しきんじょう)のほかで、そろったものがあるかどうか、疑わしいけどね。まあ、中国の磁器がわかる人間だったら、気がくるったように、大さわぎするだろう」
「で、これをどうしろというのだい?」
ホームズは、一枚の名刺をわたしにわたした。それには「ハーフ・ムーン街三六九番地、医師ヒル・バートン」と印刷されていた。
「これが、今晩のきみの名前だ。この名刺をもって、グルーナ男爵をたずねるんだ。あの男の暮らしぶりを、ちょっとしらべたのだが、八時半には、家にかえってくる。まえもって手紙をとどけ、今晩、たずねていくことと、明朝の磁器のすばらしい、ひと組を持っているので、そのとき、見本をお見せすると、知らせてやるんだよ。
名刺に医者を名のらせたのは、きみはほんとうにそうなんだから、ボロがでないし、かえって都合がよいのではないかと思ったからだ。とどうじに、きみは中国の磁器の収集家であるってことにするんだ。そして、たまたま、すばらしい品を手にいれ、男爵もおなじように収集家だときいたので、値段によってはゆずってもよいと、そうもちかけるのだよ」
「いくらと、いったらいいんだい?」
「いいところに気がついてくれた。持ってきた品の値段を知らなかったら、収集家とはいえないものね。たちまち、化けの皮をあらわしてしまう。この皿は、デマリー卿にたのんで、借りたものなんだ。たぶんあのひとの依頼人のコレクションだと思う。世界にまたとない品だ。そういってもいいすぎではない」
「じゃあ、ひと組そろえて専門家に、値段をつけてもらうといったら、どうだろうか?」
「すごいぞ、きょうは、さえている、ワトスン! それには美術品競売所のクリスティーズかサザビーズあたりに、見てもらうといえばよい。用心して、きみからは、けっして値段をいいださないこと」
「だが、会ってくれなかったら、どうするんだい?」
「なに、ぜったいにあうさ。あいつは、中国の磁器の、すごいコレクション・マニアなんだ。それも世間でもみとめているほど、陶磁器の知識をもっている男だ。
まあ、すわりたまえ。手紙の文句をいうから、そのとおり書いてくれ。返事はもらわなくてよい。ただ、夜にそちらをたずねたいこと、その理由さえつたえればいいんだ」
それは、すばらしい手紙だった。簡単で、ていねいで、収集家だったら、すぐにでも会いたくなるような内容のものである。わたしは、すぐ、メッセンジャーにその手紙の配達を頼んだ。そして夜になると、ヒル・バートン博士の名刺をポケットにいれて、だいじな小皿をもって、ひとり、冒険にでかけたのである。

グルーナ男爵の屋敷は、建物も庭園も美しかった。サー・ジェームズ・デマリー大佐がいったように、この男がすごい金持ちであることは、まちがいなかった。門をはいって、しばらく、両がわに美しい植えこみのある、まがりくねった馬車道をいった。すると、あちこちに彫像を飾ってある、砂利をしきつめた広場へでた。
この屋敷は、南アフリカの金山王が、一番景気のよいときに、建てたものだった。低く、横にひろがった建物の、四すみには、小さな塔があった。建築の常識からいうと、おかしな建物だったが、大きく堂々としていた。
教会の大司教といわれてもおかしくない、執事がまずでてきた。そして、ビロードの制服を着た召使いに、男爵のいる書斎へわたしを案内するよう、いいつけた。
グルーナ男爵は、窓と窓のあいだにすえつけてある、中国の陶磁器を飾った大きな戸だなの前に立っていた。戸だなの戸は、開いていて、男爵は、茶色の小さな壷を手にしていた。わたしがはいっていくと、茶色の壷を持ったまま、振りかえった。
「ドクター、どうぞ、おすわりください。ちょうどいま、わたしの大事なコレクションをながめ、それにさらにつけ加えられるものとは、いったい、どんなものか、考えていたところです。
いかがですか、この小さな唐の時代の品は? これは七世紀のものですが、きっと、あなたもご興味があるでしょう。作りといい、深いつやといい、これだけのものは、ごらんになったはずはないと思いますよ。で、おはなしの明朝の小皿は、お持ちになられたのですか?」
わたしは、ていねいに包みをひらいて、小皿を手わたした。すると男爵は、デスクにむかってすわった。だいぶ暗くなってきたので、ランプを引きよせると、念入りに小皿を見はじめた。
わたしは、そこで、黄色いランプの光を顔にうけている男爵を、思いのまま観察することができた。
たしかに、きわだって美しい男であった。ヨーロッパ中に、美男だとうわされただけはある。むしろ小がらであったが、からだつきがいかにも、上品で、しなやかそうであった。
顔の色は、東洋人のように浅ぐろく、眼は大きく、黒く、だるそうになにか物思いにふけっているように見える。これでは、女性を夢中にさせるはずだと思った。髪の毛もひげもまっくろで、ひげはほそく、ぴんとはねて、ワックスのチックでかためてある。
ちょっと見ただけでは、顔だちはすっきりして愛嬌さえあった。ただひとつ、ほかのひととちがうのは、うすい唇を、一文字にひきしめていることだった。殺人者の唇というのがあるとしたら、これにちがいない。
そのうすくひきしまった唇は、顔に切りつけたあとのように見え、ほんとうは、血も涙もない、残酷な性格であることを、はっきり知らせる危険信号になっていた。悪ものにしては、そこまで考えがおよばないのか、ひげを上にぴんとはねあげているので、その唇が、まる見えなのである。
声にも魅力があるし、態度も申し分なかった。年は三十になったばかりのように見えたが、あとでじつは、四十二であることがわかった。男爵は、しばらく、小さな皿を、あきずにながめていたが、やがてためいきをもらして、いった。
「すばらしい。じつに、すばらしい! お手紙によると、これとおなじものを六枚、セットでお持ちだということですね。こんな世にもまれな品がそろってあるなど、噂にも聞いたことがないのが、ふしぎでなりません。これとくらべられる品が、イギリスにもあるのは知っています。しかし、それは、持ち主からいって、売りになど出ることはないはずです。こんなことをおたずねするのは、失礼かもしれませんが、ドクター・ヒル・バートン、どうやって手にいれられたのですか?」
わたしは、できるだけ、聞き流すようなふりをして、たずね返した。
「なにが、問題なのですか? 品物がどんなものか、おわかりいただければ、それでよいのでは。いくらでおゆずりするかは、専門家がつけた金額でけっこうです」
グルーナ男爵の黒い眼に、ちらりと、うたがわしそうなものが走った。
「いよいよ、ミステリーになってきましたね。こんな高価なものを取り引きするのです。そのまえにくわしいことを知っておくのは当然のことではないですか。それは、品物が本物であることはわかります。その点を問題にしてるのではありません。しかし、もしかして起きるもしれない、いろいろなことを考えて、どうして悪いのですか。あとになって、あなたに売る権利がない品とわかったら、どうしたらよいのですか?」
「そんなことは、ぜったい、起こりません。わたしが保証します」
「だったら、こんどはあなたの値打ち、あなたの保証をだれがするかという問題が起こってきます」
「それは、わたしの取引銀行にお問い合わせください。銀行が保証をしてくれますから」
「そうなるのでしょうね、きっと。それでも、わたしには、この取り引きが、どこか、ひっかかる」
わたしは、なにげなく、いった。
「買おうと、買うまいと、あなたのご自由です。あなたが、中国磁器の専門家だと聞いたから、まず一番先にお目にかけたまで。ほかの買い手を見つけるのは、そうむずかしいことではないでしょう」
「わたしが中国磁器の専門家であることを、だれから聞きました?」
「そのことについての、ご著書があるではありませんか」
「お読みになったのですか?」
「いや」
「おやおや。これはますます、わたしには理解できない、ミステリーになってきた! あなたは専門家でもあり、こんな貴重な品まで集めている収集家でもある。それなのに、いまもっている品がどんなもので、どんな値打ちがあるものなのか、それを教えてくれる、ただ一冊の本を読むこともなさらないとはね! これは、どういうことなんでしょうね?」
「わたしは、たいへん、いそがしい身です。なにしろ、職業が開業医ですからね」
「それは、答えになりませんね。趣味があれば、どんなにいそがしかろうと、それをほうりだしても熱中するもんです。たしか、お手紙には、中国陶磁器を勉強なさっているとか?」
「ええ、そうですよ」
「では、失礼ながら、二、三のテストをさせてもらいます。はなしをうかがえばうかがうほど、ミステリーになってくる、ドクター。……いや、ドクター、医者だということにしてね。
まずおたずねするが、聖武(しょうむ)天皇について、なにか知っていますか? それから聖武天皇と奈良の正倉院との関係を知っていますか?……おや、これくらいのことが、おわかりにならない? では北魏(ほくぎ)朝と、陶磁器の歴史でのつながりを、ご説明ください」
わたしは、怒ったふりをして、いすから、いきなり立ちあがった。
「無礼ではないですか! わたしは、あなたにわざわざ、これを見せにやってきた。それなのに、まるで小学校の生徒のように、テストをうけさすなんて。それは、わたしの知識は、あなたのにかなうはずはないかもしれない。だからといって、こんな失礼なことをされて、答えろといわれても、答えたくなるはずはない、ぜったいに」
男爵は、しばらく、わたしをじっと見つめていた。いつのまにか、その目からは、だるそうな、もの思いにふけるところは消えていた。そしてぎらぎらと光りだし、残忍なうすい唇は、ひんまがり、白い歯がむきだしになった。
「なんでやってきた? おまえは、スパイだな! ホームズの手先だろう。なにかのたくらみをもって、やってきたな。あいつは死にかかっている。そうか、それでかわりにスパイをよこして、おれを見張らせようとしたのか! ふん、よくも勝手に、はいりこんできやがったな! こいつ! はいったときのように、やすやすと帰れないことを、思いしらせてやる!」
男爵は、すごいいきおいで、いすから立ちあがった。なにをしでかすかわからないほど、怒っている。わたしは思わず、あとずさりして、身がまえた。
はじめから男爵は、わたしを疑っていたのかもしれないし、あのテストで、すっかり、ばれたのかもしれない。どっちにせよ、この男をだましとおすのは、むりだったのだ。
男爵は、デスクの引出しをあけ、その中に手をつっこみ、あらあらしくひっかきまわした。そのとき、なにかの物音を聞きつけたのか、立ったまま、じっと耳をすました。
「あっ!」
男爵は叫んだ。そして、また「あっ!」と叫びながら、うしろのドアから、奥の部屋へ飛びこんでいった。
わたしも、そのあとを追うように、あいたままのドアのところへ、ほんの二、三歩ですっとんでいった。
そのとき見た室内の光景を、いまでもありありと思い出すことができる。庭へでられる窓が、大きく開いていて、そのそばに、青白い顔をしたシャーロック・ホームズが立っていた。血だらけの包帯を頭にまいているので、まるで幽霊か、なにかのように見える。
だがつぎの瞬間には、ホームズは、その窓からとびこえてそとへ逃げた。そとの月桂樹の植えこみに、がさりという音がした。
グルーナ男爵は、それを見て、怒りの叫び声をあげ、開いた窓へかけよった。
そのときだった! それもほんの一瞬だったが、わたしははっきり、この目で見た。女の腕らしいものが、月桂樹の植えこみから一本、にゅっとのぞいたのである。そして、すこしのまもおかずに、男爵が、ぎゃあっ! と叫んだ。いまでも耳の底にのこっている。この世のものといえない悲鳴であった。
男爵は、両手で顔をおおい、くるったようにかけまわり、部屋中にひびきわたる悲鳴を叫びつづけた。そして、絨毯(じゅうたん)にどさりと倒れ、のたうちまわった。
「水を! たすけてくれ! 水を!」
わたしは、サイド・テーブルのうえにあった水差しをつかんで、そばにかけよった。
執事や召使いも数人、ホールからかけこんできた。
わたしには、そのときのことが、いまになっても、忘れられないでいる。わたしがひざまずいて、男爵の顔をランプのほうへ向けたとたんに、召使いのひとりが、ばったり気絶してしまったのである。
硫酸が顔じゅうにかかり、耳やあごからポタポタとたれている。かたほうの目は、もう白くにごり、もうひとつの目は、まっかにただれていた。ついさっき、わたしが感心した美しい顔は、画家が、美しい絵のうえを、きたない雑巾でなでまわしたように、みるかげもなかった。目や鼻はくずれ、全体がまだらに変色し、見るもむざんな、お化けのような顔になってしまったのだ。
わたしは、かけこんできた執事たちに、硫酸をあびせられたことだけ、ごく簡単に説明してやった。すぐ、あるものは窓からとびだし、あるものは芝生へかけだしていった。だが、そとは暗く、雨さえ降りだしていた。
男爵は、そのあいだ、犯人をののしり、のろっていた。
「あのあまのしわざだ! キティ・ウィンターめ! ちくしょう! 悪魔! おぼえていろ! きっとしかえしをしてやる! いたい! がまんできない!」
わたしは、ただれた顔に油をぬってやった。それから、くずれて赤い肉がでているところには、脱脂綿をあてがってやり、それから、モルヒネ注射を打った。
男爵は、このショックで、わたしへの疑いも忘れたのか、手にしがみついてきた。そして、つぶれた目をまた見えるようにしてくれると思ったのか、死んだ魚のような目で、じっとわたしを見あげた。
わたしは、ほんとうなら同情したはずなのに、気の毒にも思わなかった。この男がいままで、さんざんしてきたことを知っていたからだ。このような、むごたらしい目にあってもしようがないと思った。
それに、しがみついてくる焼けただれた熱い手にも、ぞっとしていた。そのうち、かかりつけの医者が専門の医者をつれてきたので、わたしはやっと、お役ごめんになった。
警察からも、警部がやってきた。わたしは、ほんとうの名刺をわたした。警視庁では、わたしもホームズとおなじように知られているのだから、もう一つの名刺をだしてもばれるにきまっていた。
それで、わたしはこのおそろしい、陰気な屋敷をはなれることができた。そして一時間もかからずに、ベーカー街にもどってきた。
帰ってみると、ホームズは、いつものいすにすわっていたが、疲れきった青じろい顔をしていた。自分の怪我だけでなく、今晩の騒ぎに、さすがのホームズも、ショックをうけたようすだった。
ホームズは、男爵の顔かたちが、まったくかわってしまったとはなすのを、おそろしそうに聞いていた。聞きおわると、ぽつりといった。
「そう、罪のむくいだよ、まったく。早かれおそかれ、こうなるはずだったと思う。さんざん悪いことをしてきた男だからねえ!」
そしてホームズは、テーブルから茶色のノートをとりあげた。
「これが、キティのはなしていたノートだよ。これで結婚をやめさすことができなかったら、ほかにどんな方法があると思う? まあ、これでだいじょうぶ、まちがいなく、やめさせることができる。これを見せたら、プライドの高い女だったら、がまんできるはずはない、ましてバイオレットがね」
「あの男の女性との愛の日記かい?」
「いや、キティのいうように、女性コレクション記録とでもいったほうがよい。まあ、どう呼ぼうと、かってだ。キティから、こいつのことを知り、もしそれを手にいれることができれば、すばらしい武器になると思った。あのときは、うっかり、キティにしゃべられてはと思ったので、しらん顔していた。だが、どうやって手にいれたらよいか、考えをめぐらしていたのだ。
そこへあの襲撃だ。男爵は、ぼくがやられたと思いこんだはずだ。警戒もしなくなる。チャンスがやってきたと思った。ほんとうは、もうすこし待ちたかったが、アメリカへいくというので急ぐことにした。あの男にとって、こんな危険な日記を、のこしてゆくはずはない。すぐ行動にうつさなければと思ったのだ。
といって、やつは用心深いやつだ。盗みにはいるのは、むずかしい。だが、夜だったら、注意をほかへそらすことができれば、チャンスがあるかもしれないと思った。そこで、きみと、あの青い小皿のお出ましを願ったわけだ。
しかし、それには、あのノートがある場所を、正確に知っておく必要があった。それに、きみのにわか勉強の陶磁器の知識じゃあ、ほんのわずかな時間しか、あの男をふせぎとめることはできないと思った。
それで、考えたすえ、キティに手つだってもらうことにした。それにしても、キティが、コートの下に、さもだいじそうにもっていた小さな包みが、まさかあんなものとは気がつかなかった。ぼくはキティが手を貸しにやってきてくれたと思いこんでいた。まさか、キティは、キティなりの、計画をしくんでいたとはねえ」
「男爵は、ぼくをきみのスパイだと見ぬいたよ」
「そんなことになりゃしないかと、思っていたんだ。それにしては、きみはうまくやってくれたよ。見つからずには逃げだせなかったが、ノートをさがしだす時間はあった。
やあ、サー・ジェームズ、いいところへ、いらっしゃいました」
この紳士は、連絡を受けてやってきたのである。
サー・ジェームズ・デマリー大佐は、ホームズのはなす事件のいきさつを、じっと耳をかたむけて聞いていた。やがて、はなしがおわると叫んだ。
「おみごとなお働き!……おみごとの、ひとことにつきます、ホームズさん。でもワトスン博士のいわれるような、おそろしい傷を、やつがうけたとすると、このいやらしいノートを使うまでもなく、結婚をやめさせることができるのでは、ありますまいか」
ホームズは頭をふって、いった。
「ミス・バイオレット・ド・メルビルのようなタイプの女性は、そうはいきません。またまた、とんでもない危害をうけた、かわいそうな被害者として、いよいよ、愛するようになります。傷を与えたことなど、ここではどうということはありません。それより、わたしたちは、心の面で、あの男を追いつめなければならないのです。
このノートがあれば、バイオレットも、きっと目をさまします。この方法のほかに、どんなやり方が考えられます? このノートに書いてある字は、あの男自身のものです。いくらバイオレットでも、男爵のものでないとはいいはれないでしょう」
サー・ジェームズ・デマリー大佐は、そのノートと貴重な小皿とをもって立ちあがった。わたしも、ずいぶん長くいたので、あとをおうように帰ろうとした。
表にでると、デマリー卿の自家用馬車が待っていた。デマリー卿は、身がるにとびのり、制服の御者に行先を命令して、そのまま走りさっていった。
そのとき、デマリー卿は、窓からコートを半分ほどたらして、馬車のドアの表側についている紋章をかくすようにした。それでもわたしは、ホームズの家のドアの上の窓からさす光りで、ちらりとその紋章を見てとった。
思わずわたしは、おどろきのあまり、息をのんだ。そしてあわてて引きかえし、階段をかけあがり、ホームズの部屋へとびこんだ。
「依頼人がだれか、わかったよ! おどろくなよ、依頼人は……」
わたしがわめくように、この大ニュースをいおうとすると、ホームズは片手をあげて、ことばをさえぎった。
「尊い身分の友人で、騎士のように正義感のあるおかた。いまは、それだけにしておこうよ。これからだって、それでたくさんじゃないか」
グルーナ男爵がどんな男か、動かぬ証拠をしめす、あのノートが、どういうふうに使われたか、わたしは知らない。デマリー卿が、うまくとりはからってくれたにちがいない。おそらく、バイオレットをきずつけないよう、父親のド・メルビル将軍に、すべてその使い方をまかしたのだろう。どっちにせよ、その効果は思ったとおりだった。
三日後、『モーニング・ポスト』紙には、アーデルベルト・グルーナ男爵とミス・バイオレット・ド・メルビルの結婚がとりやめになったという、記事がのった。
そのおなじ新聞には、硫酸をあびせた罪で裁判にかけられた、ミス・キティ・ウィンターの警察裁判所での第一回公判のもようも、報じられていた。
この裁判では、キティには、しかえしのために罪をおかしてもおかしくない、ひどい目にあった事情があることが、あきらかになっていった。そのため、判決は、こういった犯罪では、もっとも軽いものになった。
シャーロック・ホームズも、盗みの罪で、訴えられるおそれがあった。だが、しのびこむ理由がある上、依頼人が有名人であるときには、きびしいことでしられているイギリスの法律も、そこは人間味のある気くばりをするものと見える。ホームズは、いまだに、うったえられることもなく、法廷の被告席に立たないですんでいる。
白面の兵士

ぼくの友人ワトスンのアイディアときたら、きわめてまずしい。しかも、そのアイディアに、ばかにこだわるところがある。ずいぶん前から、ぼくが扱った事件を、自分で書いてみろと言いつづけたのもそのせいである。
もしかして、そのようにワトスンに悩まされたのは、ぼくに原因があったのかもしれない。おりにふれて、ワトスンが人びとの興味をひこうと、ぼくの事件をおもしろくしすぎている、もっと事実だけをきちんと書くべきだと、批判してきたからだ。
「じゃあ、ホームズ、そういうのだったら、自分で書いてみたまえ」
ワトスンにそう反撃されて、ぼくはやむなくペンをとった。だが、書くとなると、やはりだいじなのは、できるだけ読者の興味をひくような話にすることだ。おもしろくなければ、読者は読んでくれない。やっと、それに気がついたというわけだ。その点では、これからお話しする事件は、ぼくの扱ったもののうちでも、いちばん怪奇にみちたものだから、読者の期待を裏切らないだろう。それに、ワトスンのいままでつづった、ぼくの事件のどれにも入っていない。
古い友人であり、伝記作者でもあるワトスンの話がでたから、このさい言っておくが、ぼくが今日まで、ささやかな多くの事件で、かれといっしょの行動をしてきたのは、思いやりや気まぐれからではない。ワトスンはワトスンなりの、すばらしい長所があるからである。ワトスンは、でしゃばりやでなく、ひかえめな性格のせいか、ぼくの解決した事件を、おおげさにほめる割合に、自分の長所にはあまり気づいていない。
自分で結論をだしたり、これから相手がどう動くか、先に見こしてしまう仲間と仕事をいっしょにするのは、まことにやっかいなものである。反対に、事件の進んでいくたびに目を見はり、先のことは何ひとつわからないような男こそ、ぼくにとって、理想の協力者なのである。
ぼくのメモによると、南アフリカでおこなわれたボーア戦争が終わってまもない一九〇三年一月のことである。ぼくのところに、大がらで元気な、日にやけた、ジェームズ・M・ドッドと名のる、イギリス人がたずねてきた。
そのころ、ワトスンは、ぼくを置きざりにして結婚し、べつに住んでいた。長いつきあいの中で、後にも先にも、ぼくに知らん顔で、ワトスンが勝手なことをしたのは、これだけであった。ぼくは、ひとりぼっちだったのである。ぼくはいつものくせで、窓に背を向けてすわった。そして、客には光を正面から受けるように、反対側の椅子をすすめた。ジェームズ・M・ドッド氏は、どう話をはじめたらよいか、ちょっと、とまどっているようすだった。
ぼくは、助け船をだそうとはしなかった。だまっていてくれればくれるほど、こちらは、その間、相手をゆっくり観察できる。だが一方、依頼人に、こっちの推理のすばらしさの見本を見せてやると、後がスムースにいくものである。そこで、ぼくの推理力の二、三の見本を見せてやった。
「あなたは、南アフリカから帰っていらっしゃいましたね?」
「はい、そうですが」ドッド氏は、ちょっとびっくりしたようだ。
「志願兵騎馬連隊のかたですね?」
「まさしく、そのとおりです」
「それも、ミドルセックス隊ですね?」
「そのとおりです。ホームズさん、あなたは魔術師みたいなかただ!」
ドッド氏が眼をぱちくりしているので、ぼくも、ついほほえんでしまった。そこで、説明してやった。
「このイギリスでは、こんなに日にやけた男らしい紳士を、そう簡単にはお見うけできない。そのひとがたずねてこられたのですよ。それも、ハンカチをポケットでなく、袖ぐちに押しこんでね。それだけで、どこの方かぐらい、わかります。それに短いあごひげを生やしておられます。普通の兵隊なら、ひげを生やすことはできません。それから、服のスタイルをみれば、馬に乗るひとだとわかります。ミドルセックス隊ともうしあげたのは、あなたの名刺からわかったのです。スロッグモートン街の株式仲買人とありましたね。あそこのひとなら、あの連隊にはいることに、ほとんど決まっているじゃないですか」
「見ただけでおわかりになるなんて」
「見るだけなら、あなたがたとおなじです。わたしは、ただ、よく注意して見る訓練をつんでいるのです。それはそうとして、ドッドさん、今朝(けさ)おたずねになられたのは、観察学を議論をするためではないでしょう。タクスベリー・オールド・パークで、なにがあったのですか?」
「ホームズさん、どうして、それを?」
「いや、いや。べつにミステリーを解いたのでもなんでもありません。あなたからいただいたお手紙の便箋(びんせん)に、あそこの名前が印刷されていたこと。それからお手紙の文章から、今日いらっしゃるのは、たいへんさしせまったご用のように思ったこと。それで、なにか重大な事件が起きたと考えたのですよ」
「なるほど、おっしゃるとおりです。あの手紙は、きのうの午後、書いたものです。その後、いろんなことが、いっぱいありましてね。エムズワース大佐が、わたしを叩(たた)きだしさえしなければ……」
「あなたを、叩きだしたのですって?」
「ええ、まあ、そういっていいでしょうね。情(なさけ)のかけらもない男ですからね、エムズワース大佐は。軍隊時代は、規律、規律といって、そのきびしいことといったら、このうえもなかったそうですよ。まあ、あの当時は、口があらっぽくても、なんでもないときだったんでしょうけどね。しかし、ゴドフリーのことがなかったら、わたしは我慢ならなかったと思いますよ」
ぼくは、パイプに火をつけて、いすの背にもたれかかりながら言った。
「そのお話、もう少しわかるように、話をしていただけませんか」
依頼人は、いたずらっぽく、にやりと笑っていった。
「お話しなくても、あなたには、なにもかもわかっていただけたような気がしたもんですから。では、事実だけ、お話します。それが、いったい、どういう意味なのか教えていただけると、ありがたいのです。きのうは、ひとばん少しも眠らないで、いろいろ考えてみましたが、考えれば考えるほど、わからなくなってくるのです。
わたしが入隊したのは、一九〇一年の一月ですから、二年前になります。そのとき、ゴドフリー・エムズワースも、同じ隊へはいってきました。ゴドフリーは、クリミヤ戦争でビクトリア十字勲章(くんしょう)をもらったエムズワース大佐のひとり息子(むすこ)ということでした。その血をひいたのか、生まれつき勇気のある青年でしたから、南アフリカのボーア戦争に志願したのも当たりまえです。連隊でも、一、二とはいない、すばらしいやつでした。わたしたちは、すぐ、親しくなりました。生活をいっしょにして、喜びも苦しみも、ともにわけあったのですから、強い友情でむすばれるのは当然です。ゴドフリーは、まさしく、わたしの戦友でした。
この戦友という言葉には、軍隊では特別の意味があります。わたしたちは一年間、あらゆるところで、苦労をともにしながら助けあって、はげしい戦いをいっしょにした仲間です。そしてゴドフリーは、南アフリカのプレトリア市郊外のダイアモンド・ヒルの戦いで、ゾウ撃ちに使われる、大きな口径の銃からの弾丸をうけて、負傷しました。
わたしとゴドフリーは、それっきり、はなればなれになったのです。ゴドフリーからは、ケープタウンの病院からと、サザンプトンからと、一通ずつ手紙をもらいました。だが、それっきり、なんのたよりもなくなったのです。それから六か月以上になるのに、もっとも親しい友人であり、戦友であった男が、なんのたよりもくれません。
戦争が終わったので、わたしたちは、みんなイギリスに帰ってきました。そこで、わたしは、エムズワース大佐に手紙を出して、息子のゴトフリーはどうしているか、たずねました。返事はありません。しばらく待って、もう一度、手紙を出してみました。すると、今度は返事がありましたが、みじかくて、ぶっきらぼうな文章でした。それには、ゴドフリーは世界一周の旅に出ていて、ここ一年くらいは帰るまい。それだけです。
ホームズさん、こんな手紙で、わたしが納得(なっとく)できますか。どこからどこまで、ひどく不自然ではないですか。あの気のいいゴドフリーが、仲間であるわたしに、なにも知らせないで旅にでるなど、あるはずがありません。ゴドフリーらしくないやりかたです。
それにまた、たまたま、わたしは知っているのですが、ゴドフリーは莫大(ばくだい)な遺産の相続人です。だがその父と、仲がよくないということでした。父の老大佐は、いばり散らすことが、ときどきあったようです。若いゴドフリーもまた、あの男の性格から、おとなしくひっこむはずはありません。
で、まあ、わたしは、どうしても納得できせん。そこで、ことの真相をつきとめてやろうと決心しました。ところが、二年間も家をあけておいたものですから、あれこれ、かたづけなければならない用がいっぱいあって、ひまがありません。やっと今週になって、ゴドフリーの問題にとりくむことができるようになったと、そういうわけです。しかし、とりあげたらとりあげたで、真相のわかるまでは、なにもかもなげうつ覚悟です」
ジェームズ・M・ドッド氏は、敵にまわしたらやっかいな相手だが、味方にしたら、このうえなくたのもしい人間らしかった。青い目は、いよいよきびしく、角ばったあごは、話すたびに力がはいり、ひきしまっていった。
ぼくはたずねた。
「なるほど、それで、あなたはどうしました?」
「まず、いちばん先にわたしがしようとしたのは、ベドフォードにちかいタクスベリー・オールド・パークのゴドフリーの家をたずね、自分の目でたしかめることでした。それでまず、母親に手紙をだしました。気むずかしそうな父親は、もうけっこう。母親に、まっすぐ攻撃をかけたのです。
ゴドフリーの親友だけど、そのころのいろいろな、おもしろい話があるから、聞かせてあげてもよい。さいわいなことに、近くそちらのほうへいくついでがある。ご都合はどうですか、というような内容の手紙を出したのです。するとすぐ、親切な返事がありました。お待ちしていますから、泊まりがけのつもりで、いらっしゃいとありました。そこで、さっそくこの月曜日にでかけていったのです。
タクスベリー・オールド・パークにある屋敷は、たいへん交通の不便なところでした。どこからいくにも、八キロは歩かなきゃならないのですからね。駅を降りても、馬車一台もなし。わたしはスーツケースを片手に、歩きました。向こうへ着いたときは、もう暗くなりかけていました。
パークというぐらいですから、かなり広い庭園で、そのなかに建っている屋敷は、大きいだけの、なんともまとまりのない建物。いろいろな時代の建て方がいりまじっているという感じでした。半分、木組みを見せた土台はエリザベス朝風、そのうえの柱廊や玄関は、ビクトリア朝風といったぐあいです。なかは、ぐるっと板壁がはめられていて、毛氈(もうせん)や古ぼけて消えかかった絵などがかけられている、うす暗くて、気味の悪い家でした。
ラルフという執事がいましたが、これがまた、家の古さに負けないくらい、年とっているような老人。そして、それよりもっと年をとっているように見える、その執事の奥さんもいました。執事の奥さんは、ゴドフリーの乳母(うば)をしていたひとで、母親のつぎに愛していると、ゴドフリーが話していました。ですから、見るからにうす気味わるい老婆でしたけれど、わたしはなんとなく親しみをおぼえましたね。
母親も、いい感じのひとでした。もの静かで、こがらで、ハツカネズミのような……。
ですが、あの大佐だけは、いただけません。着くとさっそく、ちょっとしたけんかをしてしまいました。わたしは、よっぽど、そのまま駅にかえろうかと思いましたが、それでは向こうの思うつぼですから、じっと我慢したのです。
わたしは、まっすぐ書斎へ通されました。おおがらで、ねこ背、顔色は悪く、まばらな灰色のあごひげの男が、散らかしたデスクの向こうに、すわっていました。それが大佐でした。鼻には、赤い血管がうきでて、まるでハゲタカのくちばしのように突きでています。そして、もじゃもじゃの眉の下にある、灰色の眼が、わたしを鋭くにらみつけるのです。これだからゴドフリーが、父親のうわさをめったにしなかったのだなと、このとき、思いあたりました。
『さて、あんたが、ほんとうは何の目的で、ここへおいでなさったか、わたしは、たいへん知りたいのだが』
こちらをいらいらさせるような声で、大佐はたずねてきました。
わたしは、そのことなら、奥さんに出した手紙に書いたと答えると、こうです。
『そう、そう。きみは、アフリカでゴドフリーと知りあったと言っておったとか。しかし、もちろん、ほんとうかどうかは、きみのことばだけが証拠だから、ほんとうは、わからないわけだ』
『ポケットに、ゴドフリーが、わたしにあてた手紙がありますよ』
『それを、見せてくれんかな?』
わたしが手わたした二通の手紙を、大佐は、ちらっと見ると、今度は投げかえしてきて、こうたずねるのです。
『なるほどね、それでどうなんだというのかな?』
『わたしは、あなたのご子息(しそく)、ゴドフリーが好きでした。わたしたちは、いろんな親しいつきあいや思い出でむすばれています。それが突然、手紙一本、こなくなったのです。いったい、どうしたのだろうと、不思議に思うのも、その理由を知りたがるのも、あたりまえじゃありませんか?』
『そのことなら、いつぞや、手紙をさしあげ、あれがどうしているかお知らせした記憶がありますぞ。息子は、世界一周の旅に出かけている。アフリカでの無理がたたったのか、そのあと、健康を害しましてな。それで、母親とも相談して、このさい、十分にからだを休めさせたほうがよいと、考えたしだいです。ほかにも、息子の友人で、この件でご心配してくださるかたがおありなら、どうか、よしなに、きみからお伝えねがいたい』
わたしは答えました。
『そのようにいたしましょう。しかし、そうであれば、ご子息のゴドフリーの乗った船の名や航路や、出帆日などを、教えていただけませんか? 追っかけて手紙をだせば、かならず、ゴドフリーにとどくと思いますから』
このわたしの頼みには、さすがの大佐も弱ったようです。太いまゆをよせ、いらだたしそうに、テーブルの上を指でたたいていました。そして、チェスで痛い手をさしてきた相手に、どうさしかえすか決めたというように、じっとわたしを見かえして、こう言うのです。
『きみのように、しつっこくされたら、だれだって、怒らんはずはない。押しつけがましすぎると、それは無礼というべきだ』
『しかしこれも、ただただ、あなたのご子息の身を心配するあまりですから、おゆるしをいただかないと』
『いかにも、さよう。そう思えばこそ、いままで、ずっと我慢してきたんですぞ。だが、いまのおたずねには、答えるわけにいかん。どこの家にも、家庭の事情があって、他人には話せないこともある。いくらそのひとが、息子に好意をもっているかたでもな。それよりもわたしの妻が、きみが聞かせるという、ゴドフリーの思い出ばなしを、楽しみにしておる。それを、早く話してやってくれないかな。ただし、言っておくが、現在や未来のことは、おたずねくださるな。そういうおたずねは、意味がないばかりか、わたしたちをこまらせるばかりですからな』
こういわれては、これ以上どうしようもありませんよ、ホームズさん。なにも先へすすめることはできません。そこで、表面は大佐のいうことに従うふりをして、心では、ゴドフリーがどうなったのか、あくまで調べてやろうと思いました。
じつに、たいくつな晩でしたよ。大佐と奥さんとわたしの三人で、陰気な古めかしい部屋で、しずかに食事をしました。老夫人のほうは、いろいろと熱心に、ゴドフリーのことをたずねました。だが大佐のほうは、しずんでいて、ほとんどしゃべりません。
わたしは、そこにいるのが、いやでしょうがありませんでした。そこで、食事がすむと、礼儀にはそむかないように、早めにあいさつして、きめられた寝室へひきあげました。そこは一階の、大きな、がらんとした、なんの飾りもない部屋でした。陰気なことでは、ほかのところとおなじです。でも、ホームズさん、一年も南アフリカの草原でくらしてきた身ですよ、こっちは。そんなこと、気にもなりません。
わたしは、カーテンを少しあけ、庭をながめましたが、半月がかがやいて、たいへん美しい夜でした。わたしは、気をまぎらわそうとして、ごうごう音をたてて燃えている暖炉(だんろ)のそばへ腰をおろしました。そして、そばのテーブルに石油ランプをひきよせて、小説を読みはじめました。するとまもなく、そこへ老執事のラルフが、暖炉にいれる石炭入れをもってやってきました。
『夜おそく、足りなくなるといけないとぞんじまして。冷えこむ季節でございますし、こちらのお部屋は、とくに寒うございますから』
ところが、ラルフは石炭入れをおいても、なぜか出ていかないで、もじもじしています。わたしが、ふりむいてみると、しわだらけの顔に、なにか言いたそうなようすを見せて、こちらを向いて立っていました。
『あの、お客さま、失礼でございますが、お食事のとき、あなたさまが、ゴドフリー若だんなさまのことを、お話しされておられました。聞くとはなく、耳にはいってしまいました。ごぞんじと思いますが、わたくしの妻は、若だんなさまの乳母をつとめましたので、わたしなども、育ての親と申してもよかろうかとぞんじます。それで、若だんなさまのことになると、つい、よそごとのようには思えなくなります。それで、あの、お客さま、若だんなさまは、あちらでは、たいそうりっぱなお働きをなさったとかで?』
『連隊一の勇気ある男だったよ。ぼくも、南アフリカのオランダ系ブーア人の銃にねらわれたのを、助けられたことがある。あのときゴドフリーに救ってもらえなかったら、いま、ここには、いなかったはずだ』
老執事は、皮だらけのやせた手を、すりあわせた。
『そうですとも、お客さま、そうですとも。ゴドフリーさまでしたら、そういうお働きをなさるでしょうな。小さいときから、いつも勇ましくていらっしゃった。ここの広いお庭で、若だんなさまが登ったことのない木は、一本もございませんよ。それに、こうと決めたら、だれも止められるものじゃありませんでした。まことに立派なぼっちゃまで、いえ、おかたでいらっしゃいましたのに』
これを聞いたわたしは、椅子から思わずとびあがって、さけんだ。
『なんといった? いらっしゃいましたのに、といったね? まるでゴドフリーが死んでしまったような言い方じゃないか? いったい、なにがあったんだ? ゴドフリー・エムズワースは、どうなったんだ?』
わたしは、ラルフの肩をつかみ、ゆさぶりました。だが、老執事はあとずさりするばかりでした。
『なんのお話だか、よくわかりません、お客さま。ですけれど、ゴドフリーさまのことでしたら、どうぞ、だんなさまにおたずねくださいますよう。だんなさまが、知っておられます。わたしなどは、お答えできる立場ではございません』
そういって、老執事は出てゆこうとしましたので、わたしは腕をつかみ、引きとめました。
『聞いてくれ。出ていく前に、たったひとつでいい、ぼくの質問に答えてくれ。答えてくれなければ、朝までこの手をはなさないぞ。どうなんだ? ゴドフリーは死んだのか?』
老人は、わたしの眼を見かえすこともできないようすでした。まるで催眠術にでもかかった男みたいです。そして、その口から、答えがはきだされてきました。それは、予想もしなかった、おそろしい答えだったのです。
『いっそ、そうでしたら、ほんとに、よかったのに!』
ラルフは、そうさけぶと、わたしの手をふりほどいて、逃げていってしまいました。

おわかりでしょう、ホームズさん。これを聞いたわたしが、どんなにみじめな気持ちで、椅子へもどったか。老人の言葉からは、たったひとつしか答えがでてきません。ゴドフリーは、なにか犯罪をおかしたか、少なくとも、家の名誉をけがすようなことをおこしたのです。それでそのことが、世間にもれないようにするために、あのきびしい父親がどこかに送りこんでしまい、人目(ひとめ)からかくしてしまった。それにまちがいありません。
ゴドフリーは、むこうみずなやつです。まわりの影響を、簡単に受けるタイプでもあります。悪いやつらの手にのって、悪いことにはまりこんだにちがいありません。もしそうなら、まことにこまったことです。でも、たとえそうであっても、わたしは、なんとかゴドフリーをさがしあてて、できることなら助けてやりたい。それで、あれやこれやと考えあぐんでいたところ、ふと顔をあげてみると、眼のまえにゴドフリー・エムズワースが立っているじゃありませんか!」
依頼人のジェームズ・M・ドッド氏は、そのときのおどろきを思いだしたのか、つぎの言葉が出なかった。ぼくは、うながした。
「どうぞ、つづけてください。あなたの事件は、普通では考えられないものです」
「ゴドフリーは、ガラス戸のそとに立って、ガラスに顔をおしつけて、こっちを見ているのです、ホームズさん。この部屋へはいったとき、カーテンをすこしあけて外を見たと、さきほど、お話ししました。それから、しめなかったので、カーテンは、すこしあいたままだったのです。そこをふさぐように、立っていました。ガラス戸は床までありますから、からだ全体が見えたのですが、わたしがおどろいたのは、その顔色です。
まるで死んだひとのように、まっ白。あんな顔、見たことありません。幽霊というのは、あんな顔をしているんでしょうかね? でも、このとき、目と目があいましたが、目は生きている人間の目です。しかも、見られたと知ると、その男は、あっというまもなく飛びのいて、そのまま、暗やみへ姿を消してしまいました。
その姿には、なにかぞっと感じさせるものがありましたね、ホームズさん。それはただ、夜、見てもわかるぐらい白く、チーズのように白ちゃけた顔のせいばかりではありません。それだけでなく、なにか悪いことをして、ひとの目をおそれているような、こそこそしているような、もしあれがゴドフリーだとしたら、あのまっすぐな性格の男らしくもない、ふるまいです。わたしは、ぞうっとしました。 しかし、ブーア人を相手に一、二年も兵士をやっていると、ちょっとやそっとでは、おどろかなくなっています。それに、すばやく動くことができるようにもなっていました。ゴドフリーが姿を消すのと、わたしがガラス戸に走りよるのとは、ほとんど同じぐらいでした。やっかいな掛け金があったので、すこし手間どりました。でも、いそいで庭へ出ると、ゴドフリーの逃げていったと思うほうへ小道づたいに追いかけていきました。小道はかなり長く、そのうえ、暗くてよく見えません。ただ、前のほうをだれかが逃げていく気配は感じました。
わたしは追いかけながら、「おーい、ゴドフリー!」と、何度もよんでみましたが、返事はありません。しばらくいくと、道がいくつもに別れているところにきました。それぞれその先には、はなれ家(や)があります。どっちへ行ったらよいのだろうか、ちょっとまごついていますと、ドアの閉まるばたんという音が、はっきり聞こえてきました。まちがいなく、その音は、いまとびだしてきた屋敷のほうではなく、前の暗い闇(やみ)のなかから聞こえてきたものです。これでじゅうぶんです、ホームズさん。さっき見たのが、ゆうれいでも、まぼろしでもないことがはっきりしたのです。ゴドフリーは、わたしに見られたと知って、はなれ家へ逃げこんで、ドアをしめたのです。まちがいありません。
それ以上、すぐには、どうすることもできません。そこで、眠れない一夜をおくりました。心の中で、くりかえし、この不思議な出来事を、いろいろと考えてました。
あくる朝、大佐は、いくらか機嫌(きげん)をなおしているような気がしました。それに、夫人が、近所にいくつか面白いところがあると教えてくれましたので、それをチャンスに、もうひと晩泊めてもらえないか、といいだしてみました。大佐はいやな顔はしましたが、しぶしぶ承知してくれたので、わたしは、まる一日かけて調べることができました。ゴドフリーが、どこか近いところにかくれていることは、もうまちがいありません。どんな理由なのか、どこにかくれているのか、それが謎(なぞ)なのです。
タクスベリー・オールド・パークの屋敷はとても大きくて、一連隊の兵隊でも、かくしておける広さがあります。この屋敷のなかに秘密があるとしたら、もう、わたしひとりではお手あげで、できっこありません。しかし、きのうの晩聞いたドアのしまる音は、屋敷からではありませんでした。だとしたら、庭園にある建物をまずしらべたほうがよいと思いました。さいわいのこと、大佐夫妻や執事たちは、それぞれ、自分の用事があって、わたしをほったらかしにしてくれました。
庭園には、小さなはなれ家(や)がいくつもありました。そのはずれに、庭師や猟の番人の住めるくらいの、すこし大きいのがあります。ドアをばたんとしめた音は、ここから聞こえたのではないだろうかと思いました。そこで、あてもなく庭園を散歩しているようなふりをして、そのはなれ家にちかづいてゆきました。
すると、ちょうど、その家から、あごひげを生やした男が、きびきびとした動きをしながら出てきました。黒い服を着て、山高帽をかぶっているところからいって、庭師ではありません。そればかりか、おどろいたことに、その男は、出てきたはなれ家のドアに錠(じょう)をかけ、そのかぎをポケットにしまうではありませんか。その男は、こっちを向いたところ、そこにわたしが立っているので、ぎょっとしたようすでした。
『あなたは、どなたです?』
男がたずねてきたので、わたしはこの屋敷へ来ている客だと答えました。そして、ゴドフリーの友だちであることもつけくわえて言い、さらにこう言ってやりました。
『ゴドフリーも、あえばきっとよろこんでくれるのに、旅行に出ていたとは、残念でたまりませんね』
すると、なんとなく、うしろめたそうに、その男は言いました。
『まったくですね。それは残念ですな。まあ、そのうち、また、おいでになられてみたら、いかがですか』
そういって、男はたちさっていきました。しばらくたって、わたしがふりかえってみると、庭園のはずれの月桂樹のかげに、半分からだをかくすように立って、こちらのようすをうかがっているのです。わたしは、なにげなく通るふりをして、そのはなれ家をよく見てやりました。はなれ家の窓には、あついカーテンがかかっていましたし、見たところ、ひとのいる気配はありません。といって、これい以上、目だつふるまいをすると、せっかくの発見もふいになってしまい、屋敷からつまみ出されないとも限りません。それに、まだ見はられているようすです。
そこでゆっくり屋敷にひきあげました。日が暮れてから、また、しらべにいこうと思ったのです。
夜、あたりがしずまると、わたしはガラス戸からぬけだし、足音をたてないよう、そうっと、あの不思議なはなれ家へと向かいました。はなれ家の窓には、あついカーテンがおりていることは、さっき言いました。いってみると、昼とちがって、よろい戸までしめられていました。ただ一か所だけ、なかの灯りがもれているところがあります。それもよくしらべると、さいわいなことに、カーテンがぴったりとはしまっていません。しかも、よろい戸にもちょっとしたすきまがあるので、室内のようすが見えました。
なかなか、いごごちがよさそうな部屋でした。ランプがあかあかと輝き、炉(ろ)には、いきおいよく火が燃えています。よく見ると、朝のあのこがらな男が、こちらを向いて椅子にすわり、パイプをくわえ、新聞を読んでいました」
そこで、ぼくは口をはさんだ。
「なんという新聞でしたか?」
依頼人のドッド氏は、話のとちゅうだったので、むっとしてたずねかえしてきた。
「それが、なにか重大な関係でもあるのですか?」
「たいへん、だいじなことですよ」
「じつは、注意もしませんでした」
「でも、ふつうの大きさの新聞だったか、週刊誌なんかの、小さな型(かた)のものだったか、気がつかれたでしょう?」
「そういわれれば、ふつうの新聞のような大きさではなかったと思います。『スペクテーター』だったかもしれません。でもそのときは、そんなことまで、注意をするひまはなかった。というのは、もうひとり窓に背を向けた男がいたこと、それが、ゴドフリーにまちがいなかったからです。
顔は、見えませんでした。だけれど、肩のあたりのかっこうに見おぼえがあります。見るからに落ちこんでいるようすで、ほほづえをついて、火のほうにからだをかがめていました。わたしは、それからどうしようか、一瞬まよいました。と、だしぬけに、肩をたたかれました。ふりかえって見ると、エムズワース大佐が立っています。
『こっちへ、くるんだ』
大佐は、ひくい声で言いました。そして、そのまま口もきかずに、屋敷のほうへ歩いていくので、わたしはしようがなく、あとをついていきました。大佐は、わたしの寝室へはいっていくと、入り口のところにあった時刻表をとりあげて、言いました。
『八時半のロンドン行きの列車がある。八時に玄関へ馬車をまわしておく』
大佐の顔は、いかりでまっ青になっていました。こうなっては、どうしようもなく、わたしは、めちゃくちゃな言いわけをいったり、これもゴドフリーの身を心配するあまりのことだと、ただただ、あやまりました。すると大佐は、ぶっきらぼうにこうまで言うのです。
『もう、言いわけはたくさん。きみは、わたしの家の、かくしておきたい秘密(ひみつ)にふみこんだ。じつにはずかしいことをしたのだ。客のふりをしてやってきて、スパイをした。もう、口もききたくない。二度と顔も見たくない』
そうまで言われては、ホームズさん、わたしだって、かっとなってしまいます。思わず、はげしく言いかえしてやりました。
『わたしは、たしかにゴドフリーを見かけた。あなたが、自分勝手な理由で、ゴドフリーをかくしていることもわかった。どうして、ひとの目からかくしておきたいのか、そこまでは、わたしにもわからない。だけれど、これではゴドフリーに自由がないことだけは、はっきりしている。はっきり言っておきますが、エムズワース大佐。ゴドフリーの身が安全であることをたしかめるまでは、どこまでも、事件の真相をつきとめますからね。わたしは、あなたのおどしをおそれて、しっぽをまく人間じゃないですぞ』
それを聞くと大佐は、鬼のような、すさまじい顔つきになりました。そして、いまにもつかみかからんばかりの剣幕(けんまく)。はじめにお話ししたとおり、大佐は、やせてはいるけれど、荒っぽそうな大男です。わたしだって弱虫じゃないが、とっくみあいになったら、どっちが勝つかわからない。でも大佐は、しばらくわたしをにらみつけたあと、いきなり背をむけて、ぷいと出ていってしまいました。
わたしは、つぎの日の朝、言われた列車に乗って発ちました。そして、手紙でおねがいしましたように、まっすぐにこちらへうかがって、これからどうしたらよいか、あなたのご意見とお力をいただこうと、そればかり考えて、おうかがいしたというわけです」
ジェームズ・M・ドッド氏が持ってきた問題というのは、このようなものであった。頭の回転が早い読者なら、もうとっくに謎解(なぞと)きをしていると思う。この事件は、そんなにむずかしいものではない。事件の真相と考えられるものが、ごくかぎられているからである。
とはいうものの、たいへん初歩的であっても、いくつか興味ぶかいことがあること、また目あたらしい点があることで、ここに記録するだけの値打ちがあると思う。そこで、いつものようにすじみちを追いながら、つきとめていくやりかたで、答えをしぼっていこうと思う。
ぼくは、まず、ドッド氏に、こうたずねた。
「その屋敷には、召使いは何人いましたか?」
「わたしの見たかぎりでは、老執事とその奥さんだけですね。大佐夫妻は、ごく質素な生活をしているようです」
「では、はなれ家のほうには、召使いはいなかったのですね?」
「ええ、あのあごひげを生やした男がそうでないとすれば、ひとりもいませんね。でも、あの男は、召使いより身分が高いように見えましたが」
「それは、たいへん参考になりますね。屋敷からはなれ家へ、食事を運んでいるようすはありましたか?」
「そういわれてみると、たしか、ラルフがバスケットをもって、庭の小道をはなれ家のほうへ歩いていくのを見ましたよ。そのときは、食べものだとは考えもしませんでしたけどね」
「土地のひとには、なにか、たずねてみましたか?」
「たずねてみました。駅長や村の旅館の主人などでしたが、いきなり戦友のゴドフリー・エムズワースのことを知っていないかと、たずねたところ、ふたりとも、ゴドフリーなら世界一周の旅行に出たと答えました。軍隊から家にもどってきたかと思うと、すぐまた、出かけてしまったというのです。どうやら、あの近所では、そう思いこんでいるようでしたね」
「それには、ちょっと、うたがわしいところがあるなどとは、言わなかったでしょうね?」
「言いませんでした」
「それは、たいへんよいご判断でした。しかし、これについては、ぜひしらべてみなければなりませんね。ごいっしょにタスクベリー・オールド・パークヘ出かけましょう」
「今日ですか?」
ちょうどそのころ、ぼくは、友人ワトスンがのちに『なぞのアベ荘園(しょうえん)』という題で発表した、グレイミンスター公爵にふかい関係のある事件にとりくんでいるまっさいちゅうであった。また、トルコ皇帝からたのまれた事件もあった。こちらのほうなど、政治の問題になるおそれもあったので、いそいで手がける必要があった。
そういう理由で、ぼくがジェームズ・M・ドッド氏といっしょに、やっとベドフォードシアへ出かけられるようになったのは、日記をめくってみると、次の週のはじめだった。
ぼくたちは、ユーストン駅へ馬車で向かう途中、重々しい、無口な、黒みがかったグレイの髪の紳士をひろいあげた。ぼくが、前もって打ち合わせておいたのである。ぼくは、そのグレイの髪の紳士を、ドッド氏に紹介した。
「こちらは、古い友人でしてね。わざわざ来てもらったのですが、むだになるかもしれない。逆に、たいへん役にたつかもしれません。まあ、いまは、これだけしか言えませんがね」
ワトスンの書いたものを読んだ読者は、事件を手がけているそのさなかでは、ぼくが決してよけいなことをしゃべらないことも、心のうちをあかさないということも、とっくのむかし、気づいていると思う。このときもドッド氏はびっくりしたようすだったが、べつになにもいわなかった。
ぼくたち三人は、そのまま旅をつづけた。ぼくは列車の中で、もうひとつだけ、ドッド氏に質問したが、それは、連れてきた人間に、聞かせようとしたのである。
「あなたは、ガラス戸におしつけた顔を、はっきり見たとおっしゃった。まちがいなく、ご友人のゴドフリーさんだったのでしょうね?」
「その点は、まちがいありません。ガラス戸に鼻をおしつけたのです。それで、正面からランプの光を受けましたからね」
「よくにた、他人の空似(そらに)ということも、ありますよ」
「いや、いや。まちがいなく、ゴドフリーでした」
「でも、かわっていたと、いわれましたね?」
「色だけですよ。ゴドフリーの顔は、どう言いあらわしてよいか、まるで魚の腹(はら)みたいに白い色をしていました。あらいざらして、白くしたような」
「顔ぜんたいが、白かったのですか?」
「ちがいます。ひたいも窓におしつけていましたから、そこだけが、とくによく見えたのです」
「声をかけたんですか?」
「いや、あまりにもとつぜんのことで、おどろいて、いっとき、すくんでしまい……でも、すぐあとを追ったのです。だが、前にいったように、見うしなってしまいました」
これで、事件はほとんど解決したといってよい。あとはこまかい一点だけ、仕上げに必要だった。
ドッド氏の言う、ばかにだだっ広い、古い屋敷にたどりつくのには、長い道のり、馬車にゆられなければならなかった。まず玄関にあらわれたのは、老執事のラルフだった。
馬車は、一日貸しで借りていた。そこでぼくは、いっしょにきてもらった紳士に、呼ぶまで馬車のなかで待っていてもらうようたのんだ。それから、ドッド氏となかへはいっていった。
ラルフは、こがらなしわだらけの老人だった。執事が着る黒の上着に、しもふりのズボンという、おきまりの服装だったが、ただ一つだけ、ちがうところがあった。茶いろの皮手袋をはめていたことである。ラルフは、ぼくたちを見るとすぐ、あわててその皮手袋をはずし、玄関のホールのテーブルの上においたのである。
ワトスンが、すでに書いているが、ぼくの感覚はほかのひととくらべて、とくべつにするどい。このときも、かすかな鼻をさすようなにおいに、気がついた。どうやらホールのテーブルからにおってくるようすだった。
そこでぼくは、帽子をテーブルの上におきに、ひきかえした。そして、その帽子をわざとぶつけて、手袋を下へおとしてやった。それから、いそいで手袋をひろいあげるとき、なにげなく鼻を三、四十センチほど、ちかづけてみた。やはり、タールのような、へんなにおいがその手袋からしてきた。
これで、あとから書斎へはいっていったときは、事件はみごと、完全に解決していたということになる。いや、それを言ってはまずい! このように、自分で事件を話すとなると、うっかり、手のうちを見せてしまう!
事実、ワトスンがいつもさいごのところで、話をもりあげるのに成功するのは、いろいろな解決のヒントの鎖(くさり)のなかの、こういうひとつの環(わ)をかくしておくからである。
エムズワース大佐は、書斎にはいなかった。だが、ラルフの知らせをうけて、いそいでやってきた。廊下から、足ばやの重い足音が聞こえたと思ったら、ドアがいきなり、大きくあいた。そして、あごひげをふるわせ、見るからにおそろしげに顔をゆがめた老人が、飛びこんできた。老人は、手にしていたぼくたちの名刺をひき裂き、下へたたきすて、足でふみにじった。
「忘れたのか、いまいましい、おせっかいやきめが! 二度と来るなと警告しておいたぞ! そのクソいまいましいツラを、二度と見せるな。こっちにことわりなく、ここにはいってきたからには、力づくでも、追いだしてやる。こっちの権利だ! よし、一発くらわせてやる! こなごなにしてやるとも! それから、あんただが」
今度は、ぼくのほうを向いて言った。
「やはり、警告しておく。あんたもおなじだ。そのいやしい商売のことは、ようく聞きおよんでいる。評判の才能は、どこかよそで使うんだな。ここでは、勝手にさせんぞ」
ドッド氏は、がんとして、はねつけた。
「いや、わたしは帰りませんぞ! ゴドフリーから、自由をうばわれていないと聞くまでは」
頭に血がのぼった大佐は、ベルをならしていった。
「ラルフ、警察へ電話だ。警部に、巡査をふたり、至急よこすよう、たのむんだ! 強盗がはいったとでも言え!」
「ちょっと、おまちなさい」
ぼくは、そういっておしとめてから、ドッド氏にいった。
「ドッドさん、エムズワース大佐には、わたしたちをこの屋敷から追いだす、正当な権利があります。だが、いっぽう、あなたがしていることは、ご子息の身を思うあまりで、ほかに悪意などないことを大佐に理解していただかねばならない。そこで、あえておねがいをするのですが、五分間だけ、エムズワース大佐とふたりだけで話をさせていただく時間をいただけないか。そうすれば、このことについての大佐のお考えがかわると思うのですが」
老軍人、エムズワース大佐はがんこだった。
「そう、やすやすと考えをかえるもんか」
そして、執事に命令した。
「ラルフ、言いつけたとおり、早くするんだ。なにを、そんなところでぐずぐずしている? はやく、警察へ電話するんだ!」
ぼくは、ドアの前に背をつけて、たちふさがった。
「とんでもない! 警察など呼んだら、それこそ、あなたの恐れていた、いちばんなってほしくない不幸な結果になるのですよ」
ぼくは手帳をだして、ある言葉を書くと、その頁をやぶりとって、大佐に手わたした。
「このことで、わたしたちはおたずねしたのです」
その書いたものを、じっと見つめているうちに、大佐の顔にあった怒(いか)りはしだいに消えていき、おどろきだけが残った。
「どうして、わかったのです?」
大佐は、あえぐように言うと、くずれるように椅子に身をしずめた。ぼくは言った。
「事実を知るのが、わたしの仕事です。それが、商売ですからね」
大佐はしばらく、骨ばった手で、もじゃもじゃのあごひげをしごきながら、だまって考えこんでいた。やがて、あきらめたという身ぶりをしながら言った。
「それほど、ゴドフリーにあいたいのなら、あわせましょう。わたしの望むところではない。あんたがたにせまられて、やむなく、あわすのだ。ラルフ、ゴドフリーとケントさんに、五分ほどしたらみんなでいくからと、つたえてきなさい」
わたしたちは、すこし時間をおいてから、庭の小道をとおって歩いていった。やがて、問題のはなれ家のまえまできた。あごひげを生やした、こがらな男が入り口に立って、むかえた。男は、さもおどろいたというような身ぶりで言った。
「どうしたのです、だしぬけに、エムズワース大佐? われわれの計画が、めちゃくちゃになるじゃありませんか?」
「しかたがなかったのだ、ケントさん。事実をつきつけられ、われわれは負けたんだ。ときに、ゴドフリーに、あえますか?」
「ええ、なかでまっていますよ」
ケントと呼ばれた男は、そういって先に立ち、ぼくたちを、地味な家具がある広い部屋へ案内した。暖炉の前には、ひとりの男が立っていた。その姿をひと目みると、ドッド氏は、両手をひろげて走りよっていった。
「や、ゴドフリー、やっとあえたな! おれだ。元気か」
すると、相手は手をふって、おしとどめた。
「ぼくにさわるな、ジミー! はなれろ! ぼくをよく見ろ! これが、あのスマートだった、B中隊の伍長(ごちょう)代理、エムズワースに見えるかい、どうだ?」
ゴドフリーのようすは、たしかに普通ではなかった。かつては、アフリカの太陽に日やけした、くっきりした目鼻だちの、好ましい青年だったにちがいない。それがいまは、その日やけした肌のあちこちに、みょうな白っぽい、まだらがあらわれていた。
ゴドフリーは、いった。
「これだから、ひとにあうわけにいかなかったんだよ。ジミー、きみなら、かまわない。だが、ほかのひとをつれてこないで、ひとりできてくれたらよかった。つれてきたのには、理由があるんだろうけど。なにしろ、とつぜんだからね」
「ぼくとしては、きみが無事なのをたしかめて、安心したかった。ただ、それだけだ、ゴドフリー。このあいだの晩、庭からガラス戸ごしにのぞいていただろう。あれを見て、どうしても真相をつきめなければという気持ちになったんだよ」
「きみが来ていると、ラルフがおしえてくれた。ぼくはぼくで、どうしてもきみの顔を見たかった。見つからなきゃあいいとねがったんだ。だが、ガラス戸をあける音がしたので、あわててはなれ家へ逃げかえったというわけさ」
「それにしても、これは、いったいどうしたことなんだい?」
「うん、そんなに長い話ではない」
ゴドフリーは、タバコに火をつけると、話しはじめた。
「おぼえているかい、南アフリカのプレトリア郊外の東部鉄道沿線(えんせん)、パフェルススプルートで、戦いのあった朝のことを。ぼくが撃(う)たれたことは聞いているだろう?」
「聞いたとも。でも、くわしくは知らされなかった」
「あのとき、われわれ三人だけ、本隊からはぐれてしまったんだ。あのとおり山や谷の多い土地だったからね。シムスン、はげのシムスンというあだなの男と、アンダスンとぼくだ。ブーア兵を追って進んでいたんだが、かくれているやつがいて、あべこべに三人ともかこまれてしまった。シムスンとアンダスンは殺された。ぼくは、ゾウ撃ちの銃の弾(たま)で肩をやられたが、それでも必死に、馬の鞍(くら)にしがみついて、十キロも逃げただろうか。そのうち、とうとう気が遠くなって、馬からふりおとされてしまった。
気がついてみたら、もう夜になっていた。どうにか起きあがりはしたものの、ふらつくし、気分もわるい。おどろいたことに、ぼくのすぐそばに家があった。広い階段があって窓がたくさんある、かなり大きな家だ。
死にそうな寒さだった。きみはおぼえているか。夕がたになるとよく襲ってきた、あの凍(こご)えるような寒さ。体をよいほうにひきしめる、このへんの寒さとちがって、しびれるような不愉快な寒さだ。
とにかく、ぼくは骨までこおりそうだった。救いは、その大きな家にたどりつき、横になることだ、それしかないと思った。そこで、よろめきながら、むがむちゅうで、そっちへ足をひきずっていった。いまから思うとなんだか、夢のなかのできごとのような気がするが、やっとの思いで階段をのぼって、ドアが開いている大きな部屋へはいった。ベッドがいくつもならんでいたので、そのひとつに、ほっとしてころがりこんだ。ベッドはシーツも毛布もなかったが、そんなこと、どうでもよい。ぼくは、そこいらへんのものをかきあつめて、ぶるぶるふるえている体にかぶせた。そして、そのまま、ぐっすり眠りこんでしまったというわけだ。
つぎに目がさめたのは、朝だった。なんだか、もとの世界にかえったのではなく、悪い不思議な夢を見つづけたまま、目がさめたような気がした。アフリカの太陽は、カーテンもない大きな窓からさんさんとさしこみ、がらんとした白塗りの大きなへやのすみずみまで、くっきり照らしている。
ぼくの目のまえには、カボチャみたいな大きな頭の、小びとのような男が立っていた。そして、ボーア人のしゃべるオランダ語で、興奮したように、なにやら早口でしゃべりながら、茶いろの海綿みたいな気味のわるい両手をふりまわしていた。
その男のうしろにも、人間がひとグループ、立っていた。そして、ぼくとそのカボチャ頭の小びととのなりゆきをおもしろそうに見ている。だが、それらのひとを見て、ぼくの背筋につめたいものが走った。ひとりとして、きちんとしたからだ、顔つきのものがいないのだ。どの人間も、きみょうにねじれていたり、ふくれあがっていたり、どこか顔かたちがまともでない。このグループが、笑ったときなんか、耳をおさえたくなるほど、おそろしいものだった。
英語のわかるものは、ひとりもいないようすだった。だけど、なんとかぼくの事情をわかってもらわなくちゃならない。というのも、カボチャ頭の男が、だんだん怒りをましていったかと思ったとき、わけのわからないことを叫び、不自由なきみのわるい両手で、むかってきたからだ。そして、ぼくの傷口から、出血がまたはじまったというのに、ベッドからひきずりおろそうとした。この怪物のような男は、小さいくせに牛のように力が強かった。
そのとき、みるからに上の人間とわかる年配の男が、騒ぎを知ってかけつけてきてくれなかったら、それこそ、どんなことをされていたか、わからなかったと思う。年配の男が、オランダ語で二、三、きびしく言うと、ぼくをいじめていた小男はたちまち、ちじみあがって引きさがった。そうしておいて、その年配の男は、ぼくのほうに向いて、いかにもあきれたという顔で、たずねてきた。
『いったい、なんだって、こんなところにいるのですか? いや、ちょっとお待ちなさい。だいぶ疲れているようだし、それに肩の傷は、手当をしなければならない。わたしは医者です。すぐ、ほうたいをしてあげよう。それにしても、なんていうことだ! ここにいるくらいなら、戦場にいたほうが、ずっとましだったのに。ここはハンセン病の病院です。あなたは、その患者のベッドで寝ていたのですよ』
もう、これ以上なにも話す必要はないのじゃないか。このへんが戦場になるかもしれないという話があって、前の日、病院は、患者たちをみな全員、一時、避難させた。だが、イギリス軍がここからさらに先へすすんでいったので、患者たちは、この医者につれられてかえってきたというわけだ。医者の言うには、自分はこの病気にはもうかからないようなからだになっているはずだが、それでも、ぼくのしたようなまねは、ぜったい、する気になれないとね。
医者は、ぼくを自分の部屋へつれていってくれ、親切に手当してくれた。そのうえ、一週間ぐらいすると、ぼくをプレトリアの総合病院へうつしてくれた。
そう、これできみにも、ぼくの悲劇というやつが、わかっただろう。それでも、ぼくは、かならず伝染するというハンセン病に、万にひとつもかかっていないことを、祈った。だけど、ぼくの祈りはむなしかった。この家へかえってくると、まもなく、いまこの顔にあらわれているような、おそろしいハンセン病のしるしがでたというわけだ。
ぼくは、どうしたらよいだろう? さいわい、ここは、さびしいところだ。家にはふたり、召使いがいる。どちらも心から信用できる人間だ。それに、ここでなら、なんとか生きていける。秘密をまもるという約束をしてくれて、外科医のケントさんも、いっしょに暮らしてくれることになった。
この線でいけば、なんとかうまくいけそうだった。もしそうでなかったら、ぼくがハンセン病であることがわかったら、おそろしいことになる。だれひとり知った人間もいないし、あうこともできないハンセン病院に送られ、出してもらうのぞみもなく、そこで死ぬ!
だから、ぜったい、秘密にしなければならない。こんな静かな田舎(いなか)だけれど、知れたら大さわぎになる。あげくのはて、ハンセン病院に追いやられることになるからだ。ねえ、きみにだってそうなんだ。いくら親友のジミーにだって、このことはかくしておかなければならなかったんだ。それをどうして父が、ゆるしたのか、ぼくには、まだ、わからない」
エムズワース大佐は、ぼくを指さした。
「この紳士が事実をつきとめて、わたしをぎゃふんとさせたからだ」
そして、ぼくが『ハンセン病』と書いてわたした紙をひろげて見せ、つづけていった。
「そこまでごぞんじなら、いっそ、すっかり、うちあけたほうが安全ではないかという気がしたのだよ」
ぼくも、いってやった。
「それはそうですよ。かえってよい解決のほうに向かうことになるかもしれないのですからね。診察したのは、ケント先生だけだったと思います。ハンセン病という病気は、熱帯か、あるいは熱帯にちかいところで生まれた病気だと聞いています。失礼ですが、先生は、こういった病気の専門家ですか?」
ケント氏は、ちょっと、むっとしたようだった。
「わたしも、医者の教育をうけた人間ですから、ひととおりの知識はもっているつもりですよ」
「先生、わたしは、先生のお力を疑っているわけではないのです。ただ、病気が病気です。こんな場合、ほかの意見を聞くことは、必要だったのではありませんか。おそらく、ほかの医者に診(み)せて、ハンセン病院にはいるよう、強く要求されることをおそれた。そのために、そうなさらなかったのではありませんか?」
大佐が、かわって答えた。「そのとおりです」
ぼくはいった。
「おそらく、そうだろうと思っていました。そこで、わたしは、友人の医師をつれてきました。たいへん考え深いひとで、その点では、ぜったいに信用がおけます。前にわたしが、この友人の仕事のことで、力を貸したことがあります。それで、きょうは、医者としてでなく、わたしの友人として助けてくれるそうです。名前は、ジェームズ・サウンダーズ卿です」
最高司令官ロバーツ卿(きょう)への面会をゆるされると知らされた下級将校みたいに、そのときのケント氏は、顔じゅういっぱいに、その興奮と喜びを、あらわにして見せた。そして小声で、つぶやいた。
「お目にかかれるなんて、名誉なこと、このうえもありません」
「では、サー・ジェームズに、こちらへ来てもらいましょう。おもての馬車のなかで、まっております。それではエムズワース大佐、診察がすむまで、わたしたちは、書斎で待つことにしようじゃないですか。そのあいだ、わたしの推理を説明しましょう」
ここまでくると、つくづく、ワトスンのいないのがくやまれてくる。ワトスンがいたら、この場面では、だいじな節目ふしめで、かならず質問をしてくれたり、おどろきの声をあげたりする。そして、常識をただ組み立てただけの、つまらないぼくの推理を、さも不思議な天才的な力で解決できたように、もちあげて書いてくれるのだが。
自分で書くとなると、助けがないから困る。とはいえ、このとき大佐の書斎で、ゴドフリーの母親もいれた、ごく少数の聴衆に、どうやって推理をしたか、しゃべってやったぐらいは、書くことはできるだろう。

わたしは、つぎのように、話してやった。
「ぼくの推理の方法は、まず第一に、およそ考えられないことを、まず取りのぞいてしまうことからはじめます。そして、そのあとに残ったものが、たとえ見かけは理屈にあわないようなものであっても、そこに真実があるのではないかと考えて、さらに推理を進めていくのです。
そうやって、およそ考えられないことを、どんどん取りのぞいていっても、まだなん通りかの疑いが残るかもしれない。そのときは、その残った疑いを、ひとつひとつ、いろいろな面からしらべていき、その中から真実をみつけていくのです。
では、このやり方を、今度の事件にあてはめてみましょう。はじめにわたしは、この話をきいたとき、ゴドフリーさんが、おとうさんの屋敷のはなれ家にとじこめられているか、とじこもっていることについて推理をすすめていくと、三つの疑いが残ると思いました。
第一番目は、なにかの罪に関係したため、身をかくしているのではないか。第二番目は、心の病気にかかったのだが、家族の人たちが精神病院に入れないでいるのではないか。第三番目は、なにかの病気になったのだが、ひと目をかくしているのではないか。
わたしは、この三つのほか、考えられる疑いはないと思いました。そこでこの三つを、さらにふるいにかけたり、はかりにかけたりして比べてみようと考えました。
まず罪に関係したのではないかという疑い。この疑いは、とりあげる必要がないと思いました。まず、この地方では最近、解決していない犯罪事件が、りません。これはたしかです。もしかして、犯罪が起きたことそのものが知られていない事件なのかもしれない。だとしたら、家族の人たちは、家のなかにかくまおうとはしないでしょう。外国へ逃がしたほうが、事件が表ざたになったとき、はるかに有利です。
心の病気ではないかという疑い。罪に関係したのではないかという疑いより、こちらのほうがもっと、もっともらしいと考えられます。はなれ家にだれかいるというのは、監視の人間かもしれない。そのひとは出てゆくとき、ドアにかぎをかけたというのですからね。とじこめているのだとしたら、心の病気という疑いが強くなります。しかし一方、この監視はあまりきびしいものではない。なぜっていうと、きびしいものであったら、夜中にぬけだして、友だちをのぞきになんか来られっこありません。
ドッドさん、おぼえていますか。ケントさんがなにを読んでいたのか、おたずねしましたね。あれは、そのへんのことを調べようとした例のひとつだったんです。もし『ランセット』とか『英国医学雑誌』などの医学に関係する雑誌だったら、大助かりだったのですよ。
しかし、心の病気のひとを、医者やそのほか資格のあるひとが監視して家の中にとじこめておいても、役所へ届けておけば、けっして罪に問われません。それなのに、なぜこのように懸命(けんめい)にかくそうとするのでしょう? こう考えてくると、この疑いも、つじつまが合わなくなります。
残るのは、第三番目です。これはめったにないことですし、ちょっと考えられないことでした。しかし、これだと、なにもかもぴったりとあてはまります。南アフリカでは、ハンセン病はめずらしくありません。ゴドフリーさんは、なにかとんでもない目にあって、ハンセン病をうつされたのではないか。ハンセン病に伝染したら、二度とかえってこれなくなる病院に入らなければならなくなる。そうはさせまいと、家族のひとたちは、死ぬほどのつらさを味わったと思います。もし、うわさでもたったら、かならず役所が動いて、患者を収容しますから、ぜったい秘密にしなければならない。
お礼さえきちんと支払えば、患者のめんどうを見る医者をさがしだすことは、そんなにむずかしいことではありません。暗くなったあとでは、患者をそんなに、とじこめておく理由もない。皮膚に白いまばらができるのは、この病気にみられる特徴です。
こう考えていくと、この最後のが、いちばん考えられる疑いになります。これだけいろいろと説明できれば、ほぼ事実と考えてことを運んでも、まちがいないと思いました。
まず、こちらへ着いてみて、食事をはこんだラルフが手袋をつかっている。それも、その手袋からは消毒薬のにおいがした。これで、この疑いが、やはりほんものだったと、はっきりしました。
そこで、エムズワース大佐、あなたの秘密を見やぶっていることを、たったひとことで、お教えしたのです。口でいわずに、書いてお見せしたのは、わたしが、このことを世間に知らせたりしない、信用できる人間であることを、わかってもらいたかったからです」
こんなふうな簡単な説明を、わたしが終えようとしたそのとき、ドアがあいて、皮膚(ひふ)病の大家である、いかめしい顔のサウンダーズ卿がはいってきた。しかし、いつもはエジプトのスフィンクスのように無表情なこのひとが、このときは顔をほころばせ、目もとにも、人間味(み)あふれるあたたかさを浮かべていた。
サウンダーズ卿は、大またにエムズワース大佐のそばへ歩みよっていき、いきなり握手(あくしゅ)を求めた。
「わたくしは、しばしば悪い知らせをする役目ばかりさせられて、よいお知らせをすることはほとんどない男ですが、今度ばかりは、よろこんでいただけますよ。これは、ハンセン病ではありません」
「えっ、なんですって!」
「にせハンセン病か、魚鱗癬症(ぎょりんせんしょう)にみられる、あきらかな症状ですな。皮膚に魚のうろこのようなまだらができる、みにくい、がんこな皮膚病です。なかなかなおりにくいが、なおすこともできるし、なによりも伝染しません。
そうですな、ホームズさん。考えられないことだが、たまたま症状が同じだったというわけですよ。それにしても、たまたま同じだったといってよいのかどうか? もしかして、われわれの知らない、ある力がはたらいて、こうなったのではないでしょうか? この青年は、伝染してもおかしくない危険な目にあった。それからの恐怖と不安は想像さえできないほど、おそろしいものであったはずです。そのことが、からだに影響をあたえて、にせの症状を起こしたと考えていいのではないでしょうか? いずれにしても、わたしは医者としての名誉にかけて申しあげますが……
おや、夫人は、気をうしなわれたようですね。うれしさのあまり、ショックをうけたのでしょうから、ケントさん、その介抱(かいほう)は、あなたにおまかせしますよ」
マザリンの宝石

ワトスン博士にとって、ベーカー街の建物の二階にある、ちらかったままの、思い出ぶかい部屋を、ひさしぶりにたずねるのは、たいへん、うれしいことだった。この部屋が、かずかずの事件や、冒険の出発点になったのだ。
ワトスンは、壁にかかげた科学の図表、酸でこげている化学薬品の台、すみにたてかけられたままのバイオリン、まえには、パイプやタバコがはいっていた石炭入れなどを、なつかしそうに見まわした。
さいごに、ワトスンは、元気そうに、にこにこしているビリーを見た。この利口で、気のきく少年が助手をしてくれているおかげで、むっつりして、沈みがちな、ひとりぼっちのホームズのさびしさが、どれだけ慰められたか、はかりしれないものがある。
「なにもかも、むかしのままだ、ビリー。きみもかわっていないようだ。ホームズは、どうだい?」
すると、ビリーはなにか心配そうに、ホームズの寝室のドアをちらりと見て、いった。
「ええ、まあ、でも先生は、まだ、おやすみのようなんですよ」
その日は、美しい夏の夕方で、午後七時にもなっていた。だが、ワトスンは、ホームズの不規則な生活をよく知っているので、べつに心配もしなかった。
「すると、なにか事件でもあるのだね?」
「はい、そうです。先生は、いま事件でたいへんなんです。ぼく、心配なんですよ。顔の色も悪くなるし、痩(や)せてもきてますし。それに、なにも食べないのです。『お食事は、いつなさいます?』ってハドスン夫人がお聞きになったら、『あさっての七時半にしてください』というご返事なんですよ。先生が事件に夢中になると、たいがいの場合、そうなることは、ごぞんじでしょうが」
「ああ、ビリー、そうなんだよ」
「いま、先生は、だれかを追っているんです。きのうは失業して、職さがしをしている労働者に変装して、お出かけになりました。きょうは、おばあさんに、化けました。先生の変装のうまさをよく知っているはずの、このぼくでさえ、だまされちゃったほど、うまくね」
そしてビリーは、ソファにもたせかけてある、かさばったパラソルを指さして、つけくわえた。
「あれが、おばあさんに変装したときの道具のひとつですよ」
「ビリー、いったい、どんな事件なんだい?」
ビリーは、まるで国の重大事件でもはなすように、声をひそめていった。
「ワトスン先生になら、はなしてもいいと思いますけど、だれにもしゃべらないでくださいね。あの王冠ダイヤモンドの事件ですよ」
「えっ! あの十万ポンドもする盗難事件かい?」
「そうなんです。ぜひとも取りもどさなきゃいけないといって、総理大臣や内務大臣までお見えになられたんですよ。おふたり、そのソファに、おすわりになったんです。先生は、おふたりに、ていねいにお会いなられました。そして、できるかぎりのことをやってみますからといわれて、おふたりを安心させたのです。ところが、そこへあのキャントルミア公です……」
「えっ、あのひとが?」
「そうなんですよ。それがどういう意味か、おわかりでしょう? こんなこと、いっちゃいけないのでしょうけど、いやなひとですね、ワトスンさん。総理大臣は、ぼくとも、きちんとおはなししてくれるような方でしたし、内務大臣もていねいで、やさしいひとでした。
けれど、キャントルミア公には、がまんできません。ホームズさんだって、そうだと思いますよ。なにしろ、先生をすこしも信用しないし、こんどの事件を頼むのも、反対なさっているんです。それどころか、失敗すればよいと思っているんですよ」
「で、ホームズも、それを知っているのかい?」
「ホームズ先生が、知らないなんてことは、なにもありませんよ」
「じゃあ、ホームズが成功して、キャントルミア公を、ぎゃふんといわせてあわてさせてやりたいね。ところで、ビリー、あの窓にかけてあるカーテンは、どうしたのだい?」
「先生が、三日前に、あそこへかけたんですよ。あのうしろには、ちょっと、おもしろいものがあるんですよ」
ビリーは、前に歩いてゆき、張り出し窓のくぼみをかくしていた、厚いカーテンをはねのけてみせた。
ワトスンは、思わず、あっと声をもらした。
そこにガウンを着たホームズそっくりの人形がおいてあったからだ。いつものように、ひじかけいすに、ふかぶかと腰をおろし、顔は四分の三ほど、窓のほうに、うつむきかげんに向いて、ありもしない本を読んでいるふりをしている。
ビリーは、人形の首をぬきとって高くかかげて、ワトスンに見せた。
「ときどき、先生とぼくとで、生きているように見せかけるために、顔の向きをかえるんですよ。でもブラインドがおりていないときは、ぜったいに、さわりませんけれどね。ブラインドがおりていないと、道の向こう側から丸見えなんですよ」
「そういえば、前にも一度、こんな人形を利用したことがあったよ」
「ぼくのくる前でしょう」
ビリーは、そういいながら、カーテンをほそ目にあけて、下の通りを見おろした。
「あのむこうから、ここを見張っているやつがいるんです。ほら、あの窓のところにいます。ちょっと見てごらんなさいよ」
ワトスンが一歩、前へでたとき、寝室のドアが開いた。そして、ひょろ高いホームズがでてきた。青い顔をして、すこし、やつれて痩せたように見えるが、まえとおなじように、元気そうにきびきびと動いていた。
ホームズは、ひととびで、窓のところへいき、ブラインドをおろしてしまった。
「これでよし、ビリー。あぶないところだったんだよ、きみのいのちがね。いいかい、いま、きみにもしものことがあると、こっちが困るんだから、用心してくれなきゃ。やあ、ワトスン、ようこそ古巣へ。ちょうど、事件が一番、きわどいところにさしかかっているところへ、きみはきたわけだ」
「どうもそのようだね」
「ビリー、きみは、あっちへいってなさい。ねえ、ワトスン。あの子のことでは、悩んでいる。どこまで、危険な目にあわせてよいものか、まだ考えがきまらない」
「どんな危険なんだい、ホームズ?」
「死というものが、いつ、おそいかかってくるかもしれない危険だ。それも、今晩、起きそうなんだ」
「えっ、なにが、起きそうだっていうんだ!」
「殺されるようなことがさ、ワトスン」
「おい、おい、ホームズ! 冗談もいいかげんにしてくれよ!」
「ぼくが、いくらユーモアのセンスがないからといって、冗談なら、もっとましなことをいうよ。それはそれとしてだ。しばらくはのんびりしようじゃないか。アルコールやっても、かまわないかい? ソーダ水製造器も、葉巻も、もとのまんま、おなじところにある。
まあ、ワトスン。むかし、きみがよくかけていた、ひじかけいすに腰をかけろよ。それとも、きみがいやがるパイプやタバコを、ぼくがやめられないでいるから、ここに、いたくないとでもいうのかい? ちかごろは、食事のかわりにタバコをやっているんだ」
「なぜ、ものを食べないんだ?」
「おなかがすいているときのほうが、頭がさえるからさ。ワトスン、きみだって医者だから、わかっていると思うがね。食べ物の消化のためにつかえば、それだけ血液は、脳の働きのほうにまわらなくなる。ぼくは、頭脳そのものだ、ワトスン。ほかの部分は、おまけみたいなものさ。だから、まず、頭の働きを第一に考えないとね」
「それにしても、なにが危険なんだ?」
「ああ、そのことか。もしかして、その危険に見まわれるかもしれないから、きみにも、犯人の名まえや住所くらい、知っておいてもらったほうが、いいかもしれない。なにかあったら、警視庁へ知らせてくれたまえ。ぼくが、さようなら、よろしくといっていたと、いってね。
犯人はシルビアスという名だ。ネグレット・シルビアス伯爵だ。書いておいてくれよ。いますぐ、書いておいてくれないか。ノース・ウエスト、ムーアサイド・ガーデンズ、一三六番だ。いいかい?」
気持ちをおもてにかくせないワトスンは、心配そうに顔をくもらせた。それにワトスンは、ホームズがどれほど大きな危険を、つねに冒しているか、知りすぎるほど知っていた。また、ホームズがいったことが、けっしておおげさなものでなく、どちらかというと、いつもひかえ目であることも、わかっていた。
だがワトスンも、そう聞いたら、どんな危険があろうと、あとにひけない男だった。このときも、たちまち、いっしょに立ち向かおうと決心した。
「ぼくにも、手つだわせてくれよ。この二、三日は、手があいているんだ」
「きみのよい点は、正直なことだったが、うそまでつくようになったのかい? ひと目見れば、患者で、おおいそがしの医者だということは、すぐわかるんだよ」
「それほどの重い患者はいないんだ。それよりも、そいつを、早くつかまえてしまうわけに、いかないのかい?」
「いや、ワトスン。それはできるさ。だからやつも、気をもんでいるのさ」
「できるのに、なぜやらないのだ?」
「ダイヤモンドが、どこにあるのか、わからないからだ」
「そうか。ビリーもいっていたな。なくなった王冠の宝石を、さがしているんだって?」
「ああ、黄色いマザリンの宝石さ。なげ網をして、魚はとじこめた。だが、そこから犯人をとりだしても、宝石が手にはいらなかったら、なんにもならないだろう? たしかに、やつらを牢に送りこんでやったら、この世の中は、ずっとよくなる。だが、それが、ぼくのねらいじゃない。ぼくは、あの宝石をとりもどしたいんだ」
「その、きみの書いとけといった、シルビアス伯爵というのは、その魚の一ぴきなのかい?」
「そう、魚も魚だけれど、サメだ。かみつくよ。そのほかに、ボクサーのサム・マートンというやつもいる。こいつは、たいしたことはない。伯爵につかわれているだけだ。サメというほどのものじゃない。図体は大きいが、のろまで、頭のからっぽの、生きえさの川ギスというところか。おなじように、ぼくのなげた網の中で、ばたばたしているだけだ」
「そのシルビアス伯爵というのは、どこにいるんだい?」
「けさは、ずっとあいつのそばを、つきまとってやった。おばあさんに化けてね。とてもうまくいった。一度なんか、パラソルをひろってくれたよ。『落ちましたぞ、ご婦人』などといってね。父親か母親かのどちらかが、イタリア人のせいか、きげんのいいときは南ヨーロッパ人らしく、あかるくて調子がよい。だが怒ると、悪魔の生まれかわりみたいになる。気まぐれなこと、このうえないという、生きかたをしているやつだ、ワトスン」
「もしかして、そういう生きかたが、いたましい事件にむすびつくのかもね」
「なるほど、そうともいえるな。あとをつけていくと、シルビアス伯爵は、旧ロンドン市内のミノリーズにある、シュトラウベンジーの作業場までいった。シュトラウベンジーは、空気銃をこしらえている男だ。なかなかのもので、命中率が高い空気銃だ。そいつはいま、向かいの家の窓に、すえつけられて、こっちをねらっているはずだよ。
ワトスン、きみは、こっちの窓の人形を見たかい? そうだったな、ビリーが、もう見せていたんだね? そうなんだ、いつなんどきでも、銃弾がとんできて、このすばらしい頭をぶちぬくかもしれないんだ。おや、ビリー、こんどはなにかい?」
ビリーは、盆のうえに一枚の名刺をのせて、はいってきた。
ホームズは、その名刺をちらと見ると、まゆをあげて、ゆかいそうな笑いをうかべた。
「ご本人だよ、この名刺は。こいつは思いもかけなかった成り行きだよ。面とむかってたたかう覚悟で来たな。なかなか大胆なやつじゃないか、ワトスン。あいつの評判を聞いたことがあるかもしれないが、狩猟の銃の名人として、有名なやつだ。ぼくをうまくやっつけて、あいつの狩猟帳に、ぼくの名前をくわえようとしにきたのだろう。ぼくが、あいつを追いまわしていることを、身じかに感じてきた証拠だよ」
「すぐ、警察をよぶんだ」
「いずれは、そうなるだろう。だが、まだ早い。窓から、そっとのぞいてみてくれ、ワトスン。だれか、通りをぶらついていないか、見てくれないか」
ワトスンは、注意ぶかく、カーテンのはしをめくって、のぞいてみた。
「うん、玄関のドアのまえあたりを、あらっぽそうな男がうろついている」
「そいつは、サム・マートンだ。シルビアス伯爵の命令どおりに動くやつだが、オツムが少したりない。……ビリー、お客さんは、どこにいる?」
「待合室にいます」
「ベルをならしたら、こっちへ通してくれ」
「はい、先生」
「ぼくが、この部屋にいなくても、かまわずに通していいんだよ」
「はい、先生」
ワトスンは、ビリーがさがって、ドアがしまるのをみとどけると、つめよるように、いった。
「ここに、ぼくものこるよ、ホームズ。このまま帰って、きみを見殺しにはできない。相手は、おいつめられて、死にものぐるいなんだ。なにをしでかすか、わからない。ひょっとしたら、きみを殺すつもりできたのかもしれない」
「そんなこと、びくともしないよ」
「とにかく、ぼくは、きみのそばをはなれない」
「それは、たいへん、まずい」
「あいてが、かい?」
「いや、ぼくにとって、まずいんだ」
「だけど、ほっとくことはできないよ、ぼくは」
「いや、できるんだ。きみは、いままで、一度だって失敗したことないじゃないか。こんどだって、うまくやってくれるよ。この男、なにかたくらみがあって、やってきたのだろう。そうだったら、こっちはこっちで、やつをひきとめておく作戦をする」
ホームズは、そういって、手帳の頁をやぶり、なにか二、三行、走り書きした。そして、それをワトスンにわたすといった。
「ロンドン警視庁へひとっ走り、馬車をとばして、これを捜査課のユーガルくんに渡してくれないか。そして、連れてきてもらいたいんだ。そこで、あいつをつかまえるってことになる」
「わかった。よろこんで、やってみる」
「きみがかえるまでに、宝石のありかを、つきとめておくよ」
ホームズは、ベルをおした。
「さて、ぼくらは、寝室をぬけて出ることにしよう。もうひとつ出口があるので、たいへん便利だ。むこうに見られないようにして、サメのようすを見てやりたいのだ。きみも、おぼえているだろう、この方法は?」
というわけで、ホームズとワトスンがぬけでたあと、その部屋はからっぽになった。まもなく、ビリーが、シルビアス伯爵を、案内してきた。

伯爵は、狩猟家であり、スポーツマンであり、遊びのすきな有名人であった。色のあさ黒い大男で、ワシのくちばしのようにまがって、つきでた鼻の下には、黒ぐろとした口ひげを生やしていた。そのみごとな口ひげが、残忍そうな、うすい唇をかくしていた。
服装は、りっぱだが、はでなネクタイ、光る宝石いりのタイピン、きらきらかがやく指輪など、ひどく、けばけばしかった。
伯爵は、部屋にはいると、うしろ手でドアをしめ、どこかにわながしかけられていはしないかと、不安そうに、するどい目をあちこちに光らせた。やがて、外を向いている、窓ぎわのひじかけいすのうえに、じっと動かない頭部や、ガウンのえりがのぞいているのを見て、思わず息をのんだようであった。
はじめは、ただ意外そうな表情をうかべただけだったが、すぐ、黒い残忍そうな目をギラギラかがやかし、もう一度あたりを見まわした。それから、だれも見ていないのをたしかめると、太いステッキを半分、ふりあげ、そろりそろりと、しのび足でよっていった。
そして、身をややかがめて、いまや、殴りつけようとしたとき、それをばかにするような、つめたい声が、寝室のあいたドアから、聞こえてきた。
「こわさないで、それを、伯爵! こわさないでください!」
殺人者、伯爵は、ぎょっとして顔をひきつらせ、よろよろ、あとずさりした。そしてふりかえると、こんどは、人形にかわり、声の主めがけて、そのナマリをつめたステッキをふりあげようとした。
だが、ホームズの灰色の目は、すこしもあわてないばかりか、軽蔑するように笑いさえうかべていた。それに、気おくれしたのか、伯爵の手は、自然と下へおりてしまった。
ホームズは、人形のほうへ歩みよりながら、いった。
「なかなかよくできているでしょう。フランスの有名なろう人形づくりのタベルニエが作ったものです。ろう人形づくりにかけては、あなたのお友だちの空気銃づくりのシュトラウベンジーの腕前より、すぐれていると思います」
「空気銃だと? いったい、それはなんの話だ!」
「まあ、どうか、帽子とステッキを、そちらのテーブルにおいてください。けっこう。では、そのいすに、どうぞ。それから、腰のうしろポケットのピストルもだして、そこへ置いていただきたいのですがね。いや、そのまま、ピストルの上へ腰をおかけになりたければ、それでもけっこう。とにかく、よいところへきていただいた。ちょうど、あなたにおはなしをしなければと、思っていたところでしたのでね」
伯爵は、顔をしかめ、相手をおどかすような、その太いまゆを、ぴくりとさせた。
「こっちも、おまえとはなしをつけたいことがあって、きょう、わざわざ、出むいてきたんだ、ホームズ。いま、おまえをなぐりつけようとしたことは、みとめてもよい」
ホームズは、テーブルのはしに腰をかけて、片足をぶらぶらさせた。
「わたしも、あなたにそういうお考えが、おありだとは考えていました。だがなぜ、わたしなんかを、そんなに気になさるのですか?」
「おまえは、よけいなことをしている。こっちには、迷惑せんばんだ。おまえは、手先に、おれをつけさせただろうが」
「手先ですって? とんでもない、そんなこと、ぜったいにありません」
「とんでもないと? おれをつけたことは、ちゃんと知っているんだぞ。この礼は、きっちり、あとでつけさせてもらうからな、ホームズ」
「シルビアス伯爵。つまらないことをいうようですが、わたしとおはなしなさるのであれば、もうすこし、きちんとした言葉づかいで、お願いしたいんですがね。わたしの名まえを、呼びすてにするのだけは、かんべんしてください」
「わかったよ、それでは、ホームズくん。こういえば、よいのか」
「けっこうですとも。ですが、わたしの手先に、あなたをつけさせたというのは、まったく、あなたの思いちがいですよ」
シルビアス伯爵は、ふふんと、鼻で笑った。
「自分だけ、おりこうさんだと、思っちゃいかんな。きのうは、年よりの労働者、きょうは、ばあさん。そいつらは、ずうっと、わたしのあとをつけまわした」
「いや、これはおほめにあずかって、おはずかしい。ダウスン男爵は、絞首刑になる前の夜に、わたしが探偵となって働いているのは、法律をまもらせることでは、とくをしたが、すばらしい俳優をうしなった演劇にとっては、そんをしたと、そういってくれたものです。わたしの、つまらない変装をおほめくださるとは、恐縮せんばん」
「えっ、あれはきみだったのか……きみ、本人だったのか!」
ホームズは、首をすくめた。
「ほら、あのすみにあるパラソル、おぼえていらっしゃるでしょう。ミノリーズのへんで、ご親切にも、あなたが、ひろってくだすったものですよ。あのときは、まだあやしいとは、気がつかれなかったのですね」
「そうと知っていたら、きみを二度も……」
「この粗末な家へかえすのじゃなかった、そうおっしゃりたいのでしょう。そのことは、よく知っていましたよ。人間は、とかくチャンスをのがして、くやしがる。あのときも、あなたがチャンスをのがしたので、こうやってお目にかかれるってわけです」
伯爵は、いっそう、ひたいにしわをよせ、すごい目つきでにらんだ。
「そうと聞いたら、いよいよ、ゆるさん。手下ではなく、おせっかいにも、きみ自身が、変装したとは! なぜ、わたしのあとを、つけまわしたのだ?」
「なぜって、いわれましてもね、伯爵。あなたはよくアルジェリアで、ライオン狩りをなさる」
「それが、どうした?」
「なぜでしょう?」
「なぜ? スポーツだ……。興奮をよぶ……それに、危険でもある!」
「ひとびとのために、その危険なものを、とりのぞいておこうという意味もあるのでしょう?」
「そのとおり」
「わたしの理由も、かんたんにいえば、それです」
それを聞いたとたん、シルビアス伯爵は、すくっと立ちあがった。しかも、腰のうしろポケツトヘ、するりと手をのばしていた。
「すわって、伯爵、おすわりなさい! まだそのほかに、もっと、はっきりした理由もあるのですよ。わたしは、あの黄色いダイヤがほしい!」
すると、シルビアス伯爵は、いすに腰をおろし、こんどはそっくりかえった。そして、ずるそうに、にやりと笑った。
「なんのことやら、さっぱり、わからん!」
「だが、あなたは、わたしが追いまわしているのは、ごぞんじだ。今晩だって、あなたがここにきたほんとうの理由は、どのくらい、わたしがこの問題を知っているか、さぐるためだった。わたしを消してしまわなければならないほどのものか、確かめるためでもあった。
実際、わたしがあなたであったら、そうするでしょうね。なにしろ、わたしは、なにもかも、知りつくしている。ただひとつのことを、のぞいてね。もっとも、そのひとつも、これからあなたが教えてくれると思うけれど」
「ほう、なるほどね! それで、そのひとつとはなにかね?」
「王冠ダイヤモンドが、いま、どこにあるかです」
伯爵は、するどい目で、ホームズをにらんだ。
「は、はん、それが知りたいのだと? どうして、このわたしが、そんなこと教えることができるんだ?」
「いや、あなたなら教えることができる。いや、けっきょくのところ、教えることになる」
「まったく、ばかげたはなしだ!」
「ごまかしても、むだです、シルビアス伯爵」
伯爵を見つめるホームズの目は、しだいに一点に集中して、光をおび、刺すような、鋼鉄の剣の、ふたつのきっさきみたいになった。
「あなたは、まったく、すどおしの板ガラスみたいなものです。わたしは、あなたの心の奥まで見すかすことができる」
「それじゃあ、きみは、ダイヤモンドが、どこにあるかも、わかるはずじゃないか」
ホームズは、おもしろそうに手をうった。そして、ついにやっつけたといわんばかりに、相手を指さしていった。
「やっぱり知っていたんだ。ついにみとめましたね」
「わたしは、なにもみとめなどしていない」
「ねえ、伯爵。あなたさえ、どっちが自分にとって、とくなのかがわかれば、ここで取り引きができるんですけどね。さもないと、いっときますけど、いたい目にあいますよ」
シルビアス伯爵は、あきれたというように天井を見あげて、いった。
「ごまかしても、むだだといったのは、たしか、そちらのおかたじゃなかったかな?」
ホームズは、チェスの名人が一番よい手を、考えだそうとしているように、じっと考えこみながら、相手を見つめていた。やがて、机の引き出しから、厚ぼったい、小さな手帳をとりだした。
「このなかには、なにが、はいっていると思います?」
「そんなこと知るものかい、ホームズくん」
「あなたが、はいっているのです」
「わたしが?」
「そうです。伯爵、あなたがですよ。あなたのすべてが。よこしまな行動や危険な生き方のすべてがね」
伯爵は、目をいからせて、叫んだ。
「なにをばかな、ホームズめ! いつまでもがまんしていると思っていると、とんでもないぞ!」
「なにもかも、もれなくここに書いてあります。たとえば、どうです、ハロルド夫人の死の真相とか。せっかく、遺産を相続したのに、そのブライマの土地も、かけで、たちまちなくしてしまったようですけど」
「ふん、なにを夢みたいなことを、いっているのだ」
「それからミス・ミニー・ワレンダーの死ぬまでの完全な記録は、いかがですか」
「ちぇっ、そんなもの、なんになる!」
「そのほかにも、まだ、いっぱいある。そう、一八九二年二月十三日にリビエラゆきの列車の中でおきた列車強盗事件もあります。それから、おなじ年におきた、リヨン銀行のにせ小切手事件」
「いや、それはまちがいだ」
「では、ほかのは、ぜんぶ、ほんとうなのですね。ところであなたは、カード・ゲームの名人です。他人がいいカード、切り札をぜんぶ持っていたら、ゲームを投げだすのじゃないですか。時間の節約のためにもね」
「それがどうしたというのだ! きみのいう宝石と、どう関係がある?」
「まあ、おしずかに! そういきりたたないでください。わたしのはなしのすすめかたは、退屈かもしれないが、すぐ要点にはいります。いまおはなししたように、あなたのやった悪事は、のこらずわかっています。なかでも、この王冠ダイヤが、あなたと、やとわれ用心棒のしわざだということは、なにからなにまでつかんでいます」
「そんなばかな」
「あなたを、官庁のホワイトホールまで送っていった馬車の御者、そこからかえるときの馬車の御者、どちらもわかっています。そのとき、陳列ケースのそばであなたを見かけたという守衛までいるんですよ。それだけじゃない。あなたが、アイキー・サンダーズに、ダイヤモンドを切りわけてくれとたのんだこと、そしてことわられたこともね。アイキーが、ひそかに、わたしに教えてくれたのだから、もうゲームは、わたしの勝ちではありませんか」
伯爵の額には、血管がはっきり、うかびあがった。心がかきみだされていることを見せまいと懸命なのだ。ぎゅっとにぎりしめた、あさ黒い手は、ぶるぶるふるえ、なにかいおうとしているのに、言葉もでてこない。そこでホームズは、つづけた。
「これが、わたしの手もちのカード、ぜんぶ、お見せしたことになります。ただ、テーブルにさらすことができない一枚のカードがあります。ダイヤのキングです。おわかりでしょう、それがどこにあるか、わたしには、いまもって、わからない」
「わかってたまるものか、ぜったいに」
「そうでしょうかね? あなたにとって、どうしたらよいのか、気をしずめて考えることを、おすすめしますね、伯爵。あなたは、二十年ぐらい牢にはいる、罪をおかしている。サム・マートンも、おなじくね。牢にいたら、どんなすばらしいダイヤモンドを持っていても、なんの役にもたたない。そうじゃありませんか? しかし、ダイヤモンドをわたしにくだされば、そう、この罪をみのがしてあげます。わたしは、あなたやサムを、牢にほうりこもうとしているのではない。ほしいのはあのダイヤモンドだけです。どうです、もう、あきらめては。そうすれば、わたしからは、あなたは自由の身です。これから、いままでのようなことをしないかぎりはね。もっとも、また、罪をおかすようなことをなされば、そう、それまでですが。だがいまのところ、わたしが頼まれているのは、ダイヤモンドをとりもどすことだけ。わたしの目的には、あなたを、つかまえることは、はいっていない」
「だが、こっちが、いやだといったら?」
「そうですね、まあ残念ですが、あなたをつかまえて、ダイヤモンドは、あきらめなければね」そのとき、ホームズがベルをならしたので、ビリーがあらわれた。
「ねえ、伯爵。この相談には、あなたのご友人、サム・マートンも、いれてやってはと思うんです。なんといっても、あの男にも関係がありますからね。ビリー、玄関のまえに、大きな、みっともない男がいる。それに、ここへくるよう頼んでくれ」
「先生、ここへ、きたくないといったら?」
「むりやり、つれてこないこと。ことばも、気をつけるんだ。シルビアス伯爵が、くるようにおっしゃっていたといえば、かならず、くるからね」
ビリーが出ていくと、伯爵がたずねた。「いったい、なにをしようとしているんだ?」
「さっきまでここに、友人のワトスンがいましてね。サメと川ギスが、網にはいったと、話してやったところです。いま、その網をひきあげている。いずれのえものも、手にいれることができるのですよ」
伯爵は、立ちあがって、手をうしろにまわした。ホームズも、ガウンのポケットから、なにかを半分ぐらいとりだしていた。
「ホームズ、おまえは、ベッドの上では死ねんぞ」
「わたしも、ときどき、そんな気がしています。どうってこと、ないんじゃありませんか? そんなことより、伯爵、あなたこそ、横たわって死ぬのではなく、縦にぶらさがって、つまり絞首刑で死ぬ、ということになるのじゃありませんか。まあ、さきのことを考えて、くよくよするのはよしましょうよ。生きているいまを、なぜ楽しまないのですか?」
とつぜん、悪者中の悪者といったシルビアス伯爵の、ひとをおどかすような黒い目が、おそいかかる直前の、けだもののように、光った。ホームズは、すばやく身がまえた。緊張で、背がいっそう高くなったようにさえ見えた。それでもホームズは、おちついて、おだやかにいった。
「ねえ、リボルバーなんてピストルに手をかけるのは、おやめなさい。たとえ、わたしにすきがあって、そちらが早く抜きだしても、発砲する勇気なんか、あなたにあるはずはない。リボルバーって、やっかいなしろものだし、音が大きすぎませんかね、伯爵。空気銃のほうがよかったんだ。あっ、ごりっぱな、お仲間の足音が聞こえてきた。
やあ、マートンさん、こんにちは。通りにいるのは退屈だったんでしょう。そうじゃありませんでしたか」
サム・マートンは、石のように頑丈(がんじょう)なからだつきの、若い男であった。みるからに、頭の働きはにぶいくせに、強情そうな番台(ばんだい)のように、ひらべつたい顔をしていた。このボクサーは、とまどったように、ドアのところに立って、あたりを見まわした。こんなに丁寧(ていねい)なあいさつをうけるのは、はじめての経験らしかった。
だがこのマートンにしても、なんとはなしに、相手が自分を敵として見ているのは、感じとったようすだった。とはいっても、どう受け答えしてよいのかもわからないのか、まごまごしていた。
マートンは、もっと悪がしこい仲間、伯爵にすくいをもとめるように、目をやった。
「はなしは、いってえ、どうなっていやがるんでえ、伯爵? このやろう、なんだっていうんですかい? なんか、やばいことでも?」
しゃがれた、ふとい声だった。伯爵は、肩をすくめただけで、なにもいわなかった。ホームズが、かわって答えてやった。
「マートンさん、手つとり早くいえば、なにもかも、おわったというわけですよ」
そういわれても、ボクサーのマートンは、仲間に顔を向けたまま、ホームズを見ようともせずに、いった。
「このやろう、悪い冗談をいってやがるんでしょう? いま、悪い冗談なんかに、あいてしてやる気分じゃねえ」
ホームズが、またいった。
「それは、そうじゃないでしょうよ。夜がふけるにつれて、ますます、そんな気分じゃなくなると思いますがね。ところで、シルビアス伯爵、わたしは、いそがしい身ですから、これ以上時間をむだにするのは、ごめんこうむらせていただきたい。ちょっと寝室に引きあげます。そのあいだ、おうちにいるように、くつろいでください。わたしがいなければ、こころおきなく、ご友人に、いま、どういうことになっているか、ご説明してあげることができるでしょう。そのあいだ、わたしはバイオリンで、ホフマンのベニスの舟唄でも、かなでることにするか。五分たったら、さいごのご返事を聞きに、もどってきます。おわかりですね、わたしのいっていることが? あなたたちを、警察につきだすか、それともダイヤモンドを返してもらうか、どちらかであることを?」
ホームズは、かたすみにあったバイオリンをもつと、寝室へすがたを消した。すこしして、閉めきった寝室のドアの向こうから、いちど聞いたら忘れられない、ベニスの舟唄のしらべが、すすり泣くように、ながく尾をひいて、かすかにきこえてきた。マートンが不安そうにたずねるのと、伯爵がふりかえるのと、ほとんど同時だった。
「どうしたって、いうんで? あのやろう、ダイヤのことを知ってやがるんですかい?」
「知りすぎるくらい、知っている。なにもかも知っている」
「こんちくしょうめ!」ボクサーのマートンの青い顔は、いっそう、青ざめた。
「アイキー・サンダーズが、裏切って、やつにばらしたんだ」
「あいつが! あのやろうめ! よし、こんどあったら、ただじゃあおかねえ。こっぴどく、たたきのめしてやる。そんで死刑になったってよ、かまうもんか」
「いまさら、そんなことをして、どうなる。それより、これからどうしたもんか、そいつをきめなくちゃならない」
マートンは、寝室のドアを、うさんくさそうに見た。
「ちょい待ち。ゆだんならねえ野郎だ。立ち聞きなんてえ芸当を、しねえだろうな?」
「バイオリンをひきながら、立ち聞きできるはずはないだろう」
「それは、そうですがね。カーテンのうしろに、だれか立ち聞きしていやがるとか。いや、ここは、ばかにカーテンばかり、ありすぎらあ」
マートンは、そういいながらまわりを見まわして、はじめて、窓の人形に気がついた。ぎょっとしたのか、口をあけたまま声も出すことができずに、ただそちらの方向を、指さしていた。
伯爵は、しかりつけた。
「なにおびえている! ただの人形じゃないか!」
「ほんとか? びっくりさせやがる! ろう人形館のマダム・タッソウだって、こうはつくれねえ。ガウンから、なにからなにまで、まるで生き写しですぜ。だけどね、このカーテンは、気にくわねえ、伯爵」
「いいかげんにしろ! カーテンなんかほっとくんだ! ぐずぐずしちゃいられない。時間がないんだぞ。悪くすりゃ、あのダイヤモンドで、牢にほうりこまれるこむことになる」、
「やろう、そんなことを、いってやがるんで?」
「盗んだブツ、石のあるところさえ教えれば、見のがすといっている」
「なんですって! あれをはきだせというんですかい? 十万ポンドもするやつを?」
「そうしなきゃあ、牢にはいるしかない」
マートンは、みじかく髪の毛をかりこんだ頭をかいて、いった。
「あのやろう、ひとりなんでしょう? やっちまいましょうよ。あのやろうをバラせば、おびえなきゃならねえことなんか、なんにもなくなっちゃうんでしょう」
伯爵は、首をふった。
「あの男は、武器ももっているし、ゆだんもしていない。それに、こんなところで、リボルバーを一発、お見まいしたんでは、かえって逃げられなくなるじゃないか。それに、やつがにぎっている証拠を、警察も知っていると考えたほうがよい。おや! なんだ、いまのは?」
窓のほうから、かすかな音が聞こえた気がした。
ふたりは、はっとして、立ちあがって、窓のほうを見たが、それっきりだった。窓のまえには、あの奇妙な人形が、いすにかけているだけで、ほかは、まったく、からっぽだった。
マートンは、いった。
「通りですぜ。ところで、あんたがボスだ。おつむがいいんだから、なんか考えているにちげえねえ。やっちまうのがいけねえなら、そっちにまかせまさあ」
伯爵は、答えた。
「あんなやつより、もっと利口なやつさえ、コケあつかいしてやったおれだ。盗んだブツは、ちゃんとこの秘密ポケットにある。どんなときでも、手ばさない。今晩のうちにも、イギリスから持ち出し、日曜までにはアムステルダムで、四つにカットしてしまうことにする。ホームズも、バン・セダまでは知るまい」
「バン・セダの出発は、来週じゃなかったんですかい?」
「そうだったんだ。だがこうなったら、つぎの船で発ってもらわなきゃなるまい。どっちか、おまえか、おれかが、ライム街のバン・セダまで石をとどけて、はなしをつけなきゃなるまい」
「そんでも、二重底(ぞこ)の用意は、まだ、できあがっていねえ」
「それは百も承知さ。あいつにはこばせて、あとは運まかせだ。一分一秒、時間をあらそわなければならない」
スポーツマンの本能というか、警戒心がはたらいて、また、伯爵はじっと耳をすまし、窓のほうを見つめた。やはり、通りのほうから、かすかな音が聞こえてきた。
そこで安心したのか、伯爵はつづけていった。
「ホームズのやつだが、よし、あいつ、コケあつかいしてやる。おまえもわかったろうが、石さえ手にはいりゃ、あのばかやろう、おれたちをつかまえないっていうことだ。だったら、渡す約束をしてやろうじゃないか。にせのありかをおしえてやるんだ。にせだと気がついたときは、ブツは、オランダヘわたり、おれたちもこの国にはいないってわけだ」
サム・マートンは、にやッとしながら、手をたたいた。
「そいつは、うめえな」
「おまえは、あのオランダ人のところへいって、いそぐよう伝えろ。おれは、あの青二才のばかに、でまかせの白状をしてやる。石は、リバプールにあるとでもいうんだな。ちぇっ、なんてあわれっぽいバイオリンだ。神経がいらいらしてくる曲じゃないか。リバプールをしらべて石がないとわかるころには、そいつは四つにカットされている。おれたちも、海の上ってわけだ。おい、もっとこっちへこい。そこは、鍵穴からのぞかれれば、まる見えだ。そら、ダイヤモンドは、ここにある」
「よくそれを持って、歩けまさあねえ」
「身につけているのが、一番、安全なんじゃないかい? ホワイトホールからだって、おれたちは持ちだせたんだ。おれのうちにおいておいたら、だれかが、持ちだすかもしれないじゃないか」
「ちょいと、見せておくんなさい」
シルビアス伯爵は、仲間の顔を、ちらっと、つめたく見ただけだった。サム・マートンが出したよごれた手なんか、見もしなかった。
「へえ、なんてことだ。おれがひったくるとでも思うんですかい? ふん、いつもそうなんだ、ボス。そのやり方には、おれもちょっと、頭にきているんだ」
「まあ、そうムキになるな、サム。喧嘩なんかしているひまはないんだ。そんなに、このけっこうな品物をおがみたきゃ、見せてやる。まあ、窓のところへきな。ほら、明るいほうへかざすぜ。いいか」.
「ありがとう!」
とつぜん、そういうホームズの声がして、すぐそばの人形が、いすからいきなり、すくっと立ちあがったと思ったとたん、片手で宝石をつかみとった。そして、もうひとつの手に持ったピストルを、ぴたりと伯爵の頭につきつけた。二人の悪者は、あまりのことに、度肝(どぎも)をぬかれたのか、口をあけたまま、あとずさりした。そして、やっと、ふたりが、自分をとりもどすより早く、ホームズは、ベルを押していた。
「手あらなことは、やめてくれ! いいですか、紳士諸君、手あらなことは、やめるんですな! 家具はこわさないで! じたばたしてもむだです。おふたりともおわかりのように、そんなことは、とてもできっこありません。おおぜいの警官が、下でまっているのですからね」
伯爵は、おどろきのあまり、怒ることも、これからのことを心配することも、わすれていた。ただ、あえぐようにいった。
「それにしても……いったい……どうして……?」
「おどろかれるのもむりはない。気がついていらっしゃらないようだが、わたしの寝室からは、このカーテンの向こうがわにでられるドアがありましてね。ろう人形を動かすとき、音を聞かれたかと心配したけれど、運は、わたしに味方してくれたようです。おかげで、わたしが聞いていると知ったら、とうてい口にするはずはない、たいへん大事なおはなしを、たっぷり、うかがわせてもらいました」
伯爵は、すべておわったという身ぶりをしてから、いった。
「おまえには、完全に負けたよ、ホームズ。おまえは、悪魔そのもののような男だ」
ホームズは、礼儀ただしくほほえんで、答えた。
「あたらずといえども、遠からず。そうとも、いえるかもしれませんね」
頭のにぶいサム・マートンも、やっと事情がのみこめてきたようすだった。あらあらしく階段をのぼってくる足音を聞きつけると、もうだまってはいられなくなった。
「おまわりだ! くそっ! だがよ、あのくそいまいましいバイオリンのやつは、なんだっていうんだよ? まだ、聞こえてくるじゃないか!」
ホームズは、答えた。
「いや、そのとおり。いまいましい曲は、まだ、聞こえてくる。だが、最後までやらせて、おかなきゃあ。あれは、ちかごろ発明された、すばらしい蓄音機のレコードから、ながれてくるんだから。だれかが、ひいているわけではない」
警官が、どやどやとはいってきた。そして、ふたりに手錠をカチリと音をさせてはめると、待たせてあった馬車へつれていった。
警官隊といっしょにやってきたワトスンは、あとにのこって、ホームズの成功をよろこんだ。
これで、ホームズのかがやかしい冒険の記録に、みごとな解決が、さらにひとつ、つけ加わったのである。だがふたりが、いままでのいきさつを、はなしつづけることはできなかった。途中で、ビリーがやってきたからである。
ビリーは、ばかによそよそしく、またしても、盆に名刺をのせて、とりついだ。
「先生、キャントルミア公が、お見えになられました」
ホームズは、うなずいた。
「ビリー、お通しするように。ワトスン、この方は、王室の大事なことがらをあつかう、たいへん地位の高い貴族だ。王室のために心からつくす、すぐれたひとだけれど、旧式な考えにこりかたまっている。どうだろう、そのこりを、もみほぐしてやっては? このさい、すこし、悪ふざけをしてやろうか? まだなんにも、知っているはずはないからね」
ドアがあいて、痩せて、いかめしそうな老人がはいってきた。顔は細く、とんがっていて、両ほおにひげを生やしていた。そのむかし風のほおひげが、まっくろでつやつやしているのにくらべ、背はまがり、歩きかたもよたよたしているので、なんともつりあいがとれなかった。ホームズは、愛想よくまえにすすみでて握手した。相手は、にぎり返しもしてこなかった。
「キャントルミア公、ごきげんいかがですか? この季節にしては寒いようですが、家のなかにいますと、さほど感じません。オーバーをおとりしましょうか?」
「いや、けっこう。脱ぐにはおよばないでしょう」
ホームズは、なおもキャントルミア公のそでに、手をかけながらいった。
「どうぞ、ご遠慮なく。こちらにいます友人のワトスン博士も、こういう気温の急なあがりさがりには、用心しないといけないと申しています」
キャントルミや公は、ふきげんそうに、ホームズの手をはらいのけた。
「いや、これでけっこう、ホームズさん。長くいるつもりはない。あなたが、自分から名のりでて引き受けた仕事がどうなっているか、そのすすみかたを確かめに、ちょっと立ち寄っただけなんですからな」
「むずかしい仕事です……。たいへんむずかしい」
「そうなるだろうと、思っておりましたよ」
王室につかえる老貴族は、言葉にも態度にも、はっきり、ホームズをばかにしたような顔を見せた。そして、つづけていった。
「人間というものの力は、かぎりあるものでな、ホームズさん。それがあるがために、けっきょくのところ、うぬぼれたがる人間の弱点が、なおされていくのではなかろうか」
「そのとおりです、公爵。わたしも、どうしてよいやらわからず悩んでいるのです」
「そうだろうとも」
「とくに悩んでいることが、ひとつあります。あなたのお力ぞえをいただければ、ありがたいのですが」
「いまになって、わたしの力ぞえを求めるのは、おそきにすぎないのではないかな。あなたなりのやりかたで、ご自分だけで、おやりになると聞いておった。とはいえ、力を貸さないと申すのではありませんぞ」
「じつは、キャントルミア公。わたしが悩んでいますのは、じっさいに宝石を盗んだ犯人一味は、裁判にかけて、罰することができますが……」
「まず、あなたは、犯人をとらえなければならん……」
「まさしく、そのとおりです。しかし、わたしがいま悩んでおりますのは、その盗まれた宝石を、さらに受けとったものを、どうあつかったらよいかということなのです」
「そんなことを、はなしあうのは、早すぎはしないかな」
「まえもって、計画を立てておいたほうがよろしいのではありませんか。さて、そこでですが、盗まれた宝石を受けとったという、逃げかくれできない証拠とは、なんだとお考えになりますか?」
「じっさいに、その宝石をもっていることに、きまっているではないか」
「では、あなたでしたら、盗まれた宝石をもっているものを、逮捕なさいますか?」
「いかにもそれが当然だろうが」
ホームズは、めったに心から笑わなかった。だがこのときばかりは、友人のワトスンには、その顔に、その笑いに近いものがうかんだような気がした。
「そういうことなら、公爵、まことに心苦しいことではございますが、あなたの逮捕を、おねがいしなければなりません」
キャントルミア公は、かっとなった。顔色の悪い、その年とったほおは、若いときのように朱(しゅ)にそまって、まっかになった。
「失礼にもほどがある、ホームズさん! わたしは、五十年間、王室のために働いてきたが、このような目にあったのは、いまだかついてなかったこと。わたしは、いそがしい身です。大事な用件にかかわっておりましてな。このような、おろかしい冗談を聞くひまも、趣味もありませんぞ。正直にいって、わたしははじめから、あなたの力を、まったく信じていなかった。このような事件は、きちんと手つづきをふんで、警察にまかせたほうが安全だという、わたしの意見は、はじめからおわりまで変りなかった。いまのふるまいで、わたしの意見は、まちがってないことがはっきりしました。では、ごきげんよう、さようなら」
ホームズは、すばやく、貴族とドアのあいだに、走っていき、立ちふさがった。
「ちょっとお待ちください、公爵。マザリンの宝石を、いっとき、お持ちになっているのを発見されるのとちがい、じっさいにお持ちかえりになると、罪として問われることになります!」
「ホームズさん、もう、ゆるすことはできない! どきなさい!」
「あなたのコートの右ポケットに、手をお入れになってみてください」
「なんだと、ホームズさん?」
「どうぞ……早く、どうぞ。右ポケットに、手をいれてみてください」
つぎの瞬間、キャントルミア公は、ブルブル手をふるえさせながら、黄色い大きなダイヤを取りだし、眼をぱちくり、口をぽかんとあけて、立ちすくんでしまった。
「な、なんと、これは、なんということです? これは、なんなのですか、ホームズさん?」
「おゆるしを、キャントルミア公。おゆるしを。この古い友人のワトスンくんにお聞きになっていただいても、けっこうです。わたしには、つい茶目っ気をだして、いたずらしたがるくせがありましてね。それに、事件を劇のようにして盛り上げあげたいと思うと、もうおさえきれなくなるのです。……公爵がはいっていらしたとき、つい、そのダイヤモンドを、ポケットにしのびこませたのです」
老貴族は、手のひらにのせたダイヤモンドの宝石から、目の前で笑っているホームズの顔に、目をうつした。
「ホームズさん、すっかりあわてましたぞ。だが、これは、まさしく、マザリンのダイヤモンドにまちがいない。王室にかわって、心からの感謝をささげたい。お言葉のように、あなたのユーモアは程度をこしているし、ことの重要さからいって、悪ふざけといってよい。しかしながら、わたくしも、さっきもうしあげた批判を、いさぎよく、とり消さねばなるまい。すばらしいお腕前を、拝見したのですから。それにしてもどうしてこれを……」
「事件はまだ半分しか、かたづいておりません。こまかいことは、しばらくおまちを。しかし、キャントルミア公。おかえりになって、王室のかたがたに、このダイヤをお返しになる。そして、このご満足のいく報告をなさる。そのことで、わたしの悪ふざけを、すこしはおゆるしくださいますよう。ビリー、キャントルミア公をお見おくりしたら、ハドスン夫人に、用意のできしだい、二人前の夕食をだすように、いってくれないか」
三人ガリデブ

これは、喜劇だったのか、悲劇だったのか、どちらだったのだろうか。この事件で、ひとりの男は、知恵をしぼった。わたしは、血をながした。もうひとりの男は、罪をおかして罰をうけた。だけど、どちらかというと、喜劇の面が強い。まあ、これを読んだひとに、そのどちらなのか、決めてもらうほかないだろう。
わたしは、この事件がいつだったのか、よくおぼえている。それというのも、ホームズが、国王からサーといわれることがゆるされるナイトの爵位(しゃくい)をさずけられるのに、それを辞退した、同じ月に起きたからある。このいきさつは、いずれ、くわしく書く機会があるかもしれない。だが、ここでは、ナイト辞退のことに、ちょっと触れておくだけにしておく。ホームズの親友で、また協力者の立場にあるわたしは、この件で、かるがるしく、めったなことをしゃべってはいけないと思う。
だが、くりかえして言うが、その件があったために、事件がいつであったか、はっきり言うことができるのである。それは、南アフリカでのボーア戦争が終わったすぐ後、つまり、一九〇二年六月の末日だった。
ホームズには、ときどき、数日もベッドでごろごろしていることがある。そのときも、そんな日がつづいたある朝、やっと起きだしたかと思うと、大きな三、四十センチの紙に、なにやら長々と書きつけてある手紙を一枚もってあらわれた。さもおもしろそうに、いつもは灰色のきびしい目をかがやかせて、わたしに言った。
「ワトスン、金もうけのチャンスがある。ガリデブという名前を聞いたことがあるかい?」
わたしが、ないと答えると、ホームズは言った。
「そうか。だが、もしも、きみがだよ、ガリデブという名前の人間を見つければ、金がはいるのにね」
「へえ、なぜ?」
「まあ、話せば長い物語……というより、すっとんきょなう話さ。ぼくたちは、いままでの経験で、人間というものがいかに複雑なものか、なにもかもわかったような気がしてきた。だが、こんなあやしげな事件にぶつかると、その自信もあやしくなるね。やがてその人があらわれて、こちらに逆に、いろいろたずねるだろう。くわしいことはそれからにするけれど、とにかく、ガリデブという名前の人間をさがしだすことだ」
そばのテーブルのうえには、電話帳があった。わたしはたいして期待もしないで、それをめくってみた。びっくりぎょうてんしたことに、このめずらしい名前が、そこにちゃんとのっているではないか。わたしは、してやったりと思わずさけんだ。
「あったよ、ホームズ! ここにある!」
ホームズは、わたしの手から電話帳をとってみて、言った。
「N・ガリデブ。ロンドン西区リトル・ライダー街一三六番地か。がっかりさせて悪いが、ワトスン、このガリデブは、この手紙をくれたご本人なんだよ。手紙に、その住所が書いてあるだろうが。別のガリデブをさがさなければね」
そのときハドスン夫人が、盆(ぼん)に名刺をのせてはいってきた。わたしは、その名刺をとりあげた。今度こそまちがいない。わたしは飛びあがって、よろこんだ。
「これこそ、そのガリデブだぜ! 頭文字が、ちがっている! アメリカのカンサス州、ムーアビルの弁護士ジョン・ガリデブとある」
ホームズは、名刺をみて、にっこり笑った。
「残念だけど、ワトスン。これでは見つけたことにはならないんだよ。この紳士のお出ましは、じつは、ちゃんとすじがきの中にはいっているんでね。もっともこの人が、はやばやと今朝、たずねてくるとは思っていなかった。とにかく、あってみよう。弁護士という立場が立場だから、知りたいことを、たくさん教えてくれると思うよ」
まもなく、本人がはいってきた。弁護士のジョン・ガリデブ氏は、きれいにひげをそった丸顔の、見るからに元気そうな、背の低い人だった。こういった仕事をしているアメリカ人に、よく見かけられるタイプである。全体の感じは、まるまるして、どこか子供っぽく、しかも顔じゅう笑(え)みをうかべているので、年よりもずっと若く見える。
しかし、おどろいたのは、その目だった。およそ人間の目で、これほど心のなかの動きをはっきり示すのを、わたしは今まで、あんまりお目にかかったことはない。それほど、生き生きとしてかがやき、ゆだんなく、心の動きにつれてすばやく変わるのである。言葉つきはアメリカなまりがあったが、気になるほどではない。
ジョン・ガリデブは、わたしたちの顔を、ちらっと見くらべ、それからたずねた。
「ホームズさんは? ああ、やっぱりね! ホームズさんの写真って、あたりまえのことだけど、ご本人そっくりなんですね。わたしとおなじ名前のネーサン・ガリデブさんから、手紙をお受けとりになったでしょう?」
シャーロック・ホームズは、うなずいた。
「どうぞ、おかけください。いろいろとお話が、たくさんおありのようですね」
そして、なにやら書きこんである手紙をひろいあげて、たずね返した。
「もちろん、あなたが、この手紙にあるジョン・ガリデブさんですね? それにしても、あなたは、ずっとイギリスにおいでだったようにお見かけしますが?」
「どうして、そんなことが言えるのですか?」
わたしには、ジョン・ガリデブの、心の中をすぐあらわす目に、にわかにうたがわしげなしるしが浮かんだように思えた。
「あなたの服装が、すべて、イギリス・スタイルだからです」
ガリデブ弁護士は、むりやり笑ってみせた。
「そのトリックというのか、あなたのやり口(くち)は、本では読んでいますが、まさか、自分もその的(まと)にされようとはねえ。どこでわかったのですか?」
「服の肩(かた)の裁断の仕方、くつのつま先の形など、だれが見たってひと目でわかりますよ」
「そうですかね、そんなにイギリス・スタイルになっているなんて考えもしなかった。仕事の関係で、しばらくこちらへきています。それで、お言葉のようなイギリス・スタイルになっているのかもしれません。しかし、あなたもおいそがしい身でしょうし、わたしも、服の裁断の仕方を話しあうために、おあいしにきたわけではない。お手もとにあるその手紙の用件にとりかかりませんか?」
どうしてか、ホームズの態度にガリデブ弁護士はいらだってきたらしく、その丸っこい顔はにがりきってみえた。ホームズは、おだやかに、なだめるようにいった。
「まあ、まあ、しんぼうしてください、ガリデブさん! ワトスン博士にお聞きになってもけっこうですが、事件とは無関係なような話をお聞きするのは、わたしのくせのようでして、けっこう、あとになって、それが事件の解決に役にたつのですよ。でも、どうしてネーサン・ガリデブさんとご一緒でないのですか?」
すると、ガリデブ弁護士は、きゅうに怒りがこみあげてきたようすだった。
「こっちこそ、聞きたいぐらいです。なんだって、あの男は、あんたを引っばりこまなければいけなかったんですか? また、あんたもあんただ。なにをしようとするのですか? これは、二人の紳士のあいだの商売の取引のようなものであったはずだ。それがこともあろうに、その一方が探偵をたのむなんて! 今朝あの男にあったら、あんたにたのむというばかなまねをしたと聞いた。それで、さっそく、おうかがいしたわけです。それにしても不愉快きわまる」
「だが、ネーサン・ガリデブさんは、あなたを非難など少しもしていませんでしたよ、ジョン・ガリデブさん。あのひとは、ただただ、目的をとげたい一心(いっしん)で相談してきたのです。目的をはたすということは、あなたにとっても大事なことではありませんか。わたしは、いろいろな情報を手にいれることができます。それを知って、あのひとがわたしに相談をもちかけたのは、ごく自然のことではありませんかね」
客は、怒りをだんだんにしずめていったようすだった。
「それなら、話は別です。今朝、あの男をたずねたら、探偵にたのんだというので、ここの住所を聞いてすっとんできた。わたしは、個人の問題に警察がはいりこむのは、まっぴらごめんなのです。でもあんたが、その男をさがすのを協力してくださるだけというのなら、べつに損はないのだから」
「ま、そういったところでしょうか。では、わざわざおみえになったことですから、じかにくわしく、お話をうかがおうじゃありませんか。このワトスン博士も、こまかいことは、なにひとつ知らないこともあるし」
ガリデブ弁護士は、安心はできないぞというような目つきで、わたしをじろりと見た。
「この人にも、知っておいてもらう必要があるのですか?」
「いつもいっしょに仕事をしているのです」
「まあ、いいでしょう。べつに秘密というわけでもないのですからね。じゃあ、できるだけ、みじかく話をしましょう。
あんたがたが、カンサス州のひとだったら、アレグザンダー・ハミルトン・ガリデブといえばわかるはずなんですがね。はじめは土地の売買で財産を作りましたが、のちには、シカゴの小麦相場でひともうけしました。このガリデブは、その金でフォート・ダッジの西のほう、アーカンザス川の流域に、そう、あんたがたの国のひとつの州ほどもある、広い土地を買いました。そこには、牧場も、材木になる森も、農場もあって、およそお金になるものが何もかもあるという土地なのです。それでいて親類も、血のつながりがあるものも、ひとりもいない……いや、いるのかもしれないが、そんな話を聞いたことがありません。それでも、アレグザンダー・ハミルトン・ガリデブは、この変わった自分の名前を、誇りにしていました。そのために、わたしと親しくするようになるのですがね。
そのころわたしは、カンサス州の州都、トピーカ市で弁護士をしていたのですが、ある日、この老人がたずねてきました。自分とおなじ名前の人がいると知って、いても立ってもいられない思いでやってきたというのです。なんでも、ガリデブという名前を名のる人をさがしだすのが、この老人の趣味なんだそうで、なんとしてでも、世界じゅうさがして、ガリデブという名前を見つけだすつもりだというのです。
そして、なんと、『もう一人、さがしてくれ』と、わたしにいうのです。こちらは忙しくて、それどころではありません。わたしは、世界じゅうをかけめぐってガリデブさがしをするひまはないと、ことわりました。
すると、老人は、『いまは、そんなことを言っておられるけど、もし、わたしの計画を知ったら、あんただって、かならずさがしに出るにきまっている』といったのです。わたしは、じょうだんだと思いました。ところが、この言葉に、たいへん深い意味がこめられていたことに、まもなく気がつくのです。
というのは、老人はそれから一年もたたないうちに死にましたが、あとに残された遺言(ゆいごん)状というのが、カンサス州ではじめてといってよいような、奇妙な遺言状でした。全財産を三等分にわけ、そのひとつをわたしにくれるというのですが、それには条件がありました。ガリデブという男をもうふたり発見しなければ、わたしの分はもらえないのです。三分の一ずつもらったとしても、それぞれ、五百万ドルにはなるはず。だが、三人そろわないことには、指一本触れることはできません。
もちろん、またとない大きなチャンスです。わたしは、弁護士の仕事をほったらかして、ガリデブさがしにかかりっきりになりました。アメリカじゅうさがしたのですが、ついに、ひとりも発見できません。それこそ、アメリカじゅうのすみずみまでさがしまわりました。
どうしても見つからないので、とうとうイギリスまで手をのばすことにしました。やっぱり歴史の古い国ですね。ロンドンの電話帳にその名前がありましたよ。そこで二日前、たずねていって、くわしく説明したんです。ところがこの人もわたしと同じように、ひとりもので、女の親類はいるけれどガリデブと名のる男の人はいないというのです。遺言状には、男のおとなが三人となっているのですからね。ですから、ひとり足りません。もし、あなたのお力でそのもうひとりのガリデブをさがしていただけたら、お礼のお金をじゅうぶんお支払いしますよ」
ホームズは、かすかな笑いをうかべて言った。
「どうだね、ワトスン。ぼくがすっとんきょうな話だといったわけ、わかっただろう? ジョン・ガリデブさん、こういうときは新聞の三行広告をご利用なさるのが、いちばん手っとり早い方法だと思いますが」
「もちろん、もう出しましたよ。ところが、さっぱり答えがないのです」
「へえ、そうですか! それにしても、これは変わった事件ですね。わたしのほうでも暇を見つけて調べましょう。ところで、あなたがトピーカ市からいらっしゃったそうですが、偶然の一致(いっち)というのでしょうか、あそこに、手紙を交わしていた人がいましてね……もう亡くなりましたが……ライサンダー・スター博士といって、一八九〇年には市長をつとめていました」
「ああ、スター博士ですか。あの人は、死んだいまでも尊敬されていますよ。それじゃ、ホームズさん、わたしのできることといったら、あなたと連絡をとりつづけることぐらいですが、いずれこの二、三日のうちには何かお知らせできるかと思います」
こう言ってアメリカ人はかるく頭をさげて、帰っていった。ホームズはパイプに火をつけ、奇妙な笑いをうかべて、しばらくすわっていた。たまりかねて、わたしがたずねた。
「どうしたんだい?」
「どうも、不思議なんだよ。じつに不思議なんだよ」
「なにが、不思議なんだ?」
ホームズは、口にくわえたパイプをとった。
「なにが、不思議かって、ワトスン。なんであの男は、うそ八百の話を長々としゃべっていったんだろう。不思議でしょうがない。よっぽど、ま正面からその疑問をぶつけてやろうかとも思った。そのものずばり質問してやったほうがよいときが、けっこうある。だが今度は、まあ、だまされているような顔をしておくほうが、作戦上よいのではないか。そう思いなおして、しなかったのだ。
いいかい、ここにひとりの男がいる。そいつは、一年も着ふるしたような、ひじがすり切れたイギリス仕立ての服を着て、ひざがぬけたズボンをはいている。それなのに、その男は、この手紙や本人の話によると、アメリカの田舎(いなか)から出てきて、最近ロンドンへ着いたばかりだというじゃないか。
それに、新聞に三行広告なんか出していやしない。そのことはきみもよく知ってるように、あの三行広告の欄はなにひとつ見のがすぼくじゃない。あそこは、獲物(えもの)を見つける、ぜっこうな猟場だからね。キジのおすのような獲物を、ぼくが見のがすはずがあると思うかい?
それから、トピーカ市のライサンダー・スター博士の話も、口から出まかせのうそなんだ。というわけで、どこをさわってもうそだらけ、ネコ毛だらけっていうわけだ。
あの男がアメリカ人であるのだけは、うそではないと思う。だが、長いロンドンでの生活で、アメリカなまりはすっかりぬけている。だとしたら、何をたくらんでいるのだろうか? ガリデブさがしなんていう、とっぴょうしもない話をこしらえた、その裏には、どんなわけがひそんでいるのだろうか?
とにかく、これは注意しておく必要があると思うな。たしかに、あの男は悪いやつだ。それも、なかなか腹(はら)の黒い、頭のきれるやつだ。だとしたらもうひとりのガリデブ、この手紙をよこしたネーサン・ガリデブも同じように悪いことをする男かどうか、たしかめなければならない。ちょっと、電話をしてみてくれないか?」
言われたとおりに電話をかけてみると、細い、ふるえ声が聞こえた。
「はい、はい、わたしがネーサン・ガリデブです。ホームズさんは、そこにおいでですか? ちょっと、お話しておきたいことがあるのですが」
わたしは、ホームズに受話器をわたした。そのあとは切れぎれにしか、電話の会話は聞けなかった。
「ええ、おいでになりましたよ。前からのお知りあいじゃないのですね?……いつからですか?……たった二日前ですか?……ええ、もちろん、すばらしいお話ですよ。で、今晩は、おうちにいらっしゃいますか? あの同じ名前のひとは来ませんね?
……わかりました。けっこうです。じゃあ、うかがいます。あの人のいないところで、お話ししたいものですから。……ウトスン博士もいっしょです。……お手紙を拝見して、あまり外出はなさらないとわかっていたのですが……じゃあ、六時ごろにうかがいますが、あのアメリカ人の紳士には、くれぐれもお話しなさらないように……けっこうです。じゃあ、そのとき」

ここちよい春の夕方どきだった。リトル・ライダー街は、エッジウェアの大通りから横にはいった、あのいやな思い出、むかし、ここで絞首刑がおこなわれたというタイバーン・ツリーから、ほんの目と鼻のあいだにあった。そのリトル・ライダー街でさえ、しずんでいく夕日からの斜(なな)めめの光をうけて、金色にきらきらかがやいていた。
わたしたちがめざした家は、大きくて古風な、初期のジョージ王朝風の建物で、れんがづくりの平らな正面の一階には、ふたつの出窓がつき出ていた。わたしたちの依頼人は、この一階に住んでいた。そのつき出た出窓は大きな広間にあって、依頼人はいつも、ここで暮らしているようすだった。
ホームズは家にはいるとき、あの奇妙な名前をほりこんだ、小さな真ちゅうの表札板をさし、その色が変っている表面を見ながら言った。
「そうとう古いものだ。とにかく、ネーサン・ガリデブは、本名であることはまちがいないようだね。このことは覚えておこうよ」
家のなかには共同の階段があって、玄関ホールには、いろいろなひとの表札が出ていた。事務所らしいものもあれば、個人の名前もあった。ここは、どうやら普通のアパートではなくて、気ままな暮らしかたをしている、ひとりもののすみかという感じだった。
玄関のドアをあけてくれたのは、依頼人ご本人で、管理人の女性が四時には帰ってしまうのでと、言いわけをした。
ネーサン・ガリデブ氏は、ひどく背が高く、おまけにネコ背で、だらっとしまりのないからだつきのひとだった。おそらく、六十歳はこえているのだろう。やせこけて、頭もはげていた。運動というものを、およそ何もしないのか、顔は死人のような青い色をしている。また、大きなまん丸の目がねをかけ、やぎひげをちょっぴりはやしているので、ネコ背の姿勢といい、いかにも好奇心の強そうな人のように見えた。それでも、全体の感じは変わってはいるけれど、人のよい人物らしかった。
そのネーサン・ガリデブ氏の住んでいる部屋が、同じようにこれまた変わっていた。まるで小さな博物館みたいなのである。幅も奥行きもかなり広い部屋には、大小さまざまな戸だなや陳列(ちんれつ)だなが、やたらにならべられていて、そのそれぞれに地質学と解剖学(かいぼうがく)の標本が、ぎっしりつめこまれていた。
入口の両がわには、蝶(ちょう)や蛾(が)の標本をおさめた箱がつんである。中央の大きなテーブルには、ありとあらゆるがらくたが、ところせましと散らばっていた。そしてその中に、大きな顕微鏡の長い真ちゅう管がそびえ立っている。見わたしてみてわたしは、この人物がいろいろなものに、それも何もかもにといっていいぐらい興味をもっていることにびっくりした。
こっちに古代の貨幣(かへい)のケースがあるかと思うと、そっちの陳列だなに火打石の器具を集めたキャビネットがある。また中央のテーブルのかげには、化石の骨のはいった戸だながある。その戸だなの上の方には、石こうで作られた頭骸骨(ずがいこつ)がずらりとならんでいて、〔ネアンデルタール原人(げんじん)〕とか〔ハイデルベルク原人〕とか〔クロマニョン原人〕とかいう記号がついていた。とにかく、おそろしくいろんなものを研究しているのはたしかである。わたしたちをむかえたガリデブ氏の右手には、みがき用の革(かわ)があった。どうやら今まで、その革をつかって貨幣をみがいていたらしかった。すぐガリデブ氏は、みがいていた貨幣を指につまみあげ、わたしたちに見せながら説明した。
「シシリー島にあった古代都市、シラクサの貨幣ですよ。それもいちばん栄(さか)えていた時期のね。さいごのころはひどく質が落ちましたが、このころのものはさすがにいい。もっとも古代アレキサンドリア文化の系統のほうを好むひともいますがな。そう、そこらへんの椅子(いす)の、どれでもかまいません。どうか、おかけになってください、ホームズさん。失礼して、この骨をちょっと片づけてしまいますから。それから、あなた……そう、そう、ワトスン博士でしたな……すみませんが、その日本の花びんを、ちょっとわきへどけていただけませんか。
ごらんのとおり、こうやって趣味の品をまわりに集め、ささやかに楽しんで暮らしているわけです。医者は、外に出歩かなくてはとお説教をしますが、こんなにわたしを引きとめる品がたくさんあるのに、それをふりきってできるはずがないでしょうが。このキャビネットひとつをきちんと整理して、カタログを作るとなると、たっぷり三月はかかりますからね」
ホームズは、めずらしそうにあたりを見まわして言った。
「まさか、まったく外出されないというのでないでしょうね?」
「まあ、ときたまは、サザビーズやクリスティーズなどの古物(こぶつ)競売店へ、馬車でいきますがな。そのほかには、めったに外出しません。あまりからだも丈夫(じょうぶ)なほうじゃないし、なによりも研究に夢中なもんですからな。
ところで、ホームズさん。今度のとんでもない幸運にはびっくりしましたよ……うれしい話ですが、聞いたときはぎょうてんしましたな。もうひとり、ガリデブという男が見つかればという条件つきですが、ひとりぐらい、きっと見つかりますよ。わたしにも兄弟がひとりいたことはいたけれど、死んでしまいました。女では資格がないということで……だが、広い世の中です。ひとりくらい、いるはずですよ。
わたしは、かねがね、あなたは変った事件を手がけられると聞いていたものだから、それで手紙をあげたわけですがな。むろん、あのアメリカ紳士の言うことももっともで、まず、あの人の言うことを守るべきだったかもしれん。だが、わたしとしては、いちばんよいと思ってしたつもりです」
ホームズは、うなずいた。
「そうですとも、あなたがわたしに連絡されたことは、たいへん賢(かしこ)かったと思いますよ。それにしても、あなたはほんとうにアメリカにある土地を手にいれたいとお望みなのですか?」
「いや、とんでもない。何があろうと、このコレクションを手ばなして、どこかへいこうなどという気なんて、まったくありません。でもあの人の言うには、遺産をわけることができたら、すぐ、わたしの取り分を買ってくれるそうです。なんでも五百万ドルという話でした。
いま、わたしのコレクションで足りない標本が十種ばかり、売りに出ています。それなのに、わたしには手にいれる金がない。たったの数百ポンドなのにね。ここで五百万ドルもあったら、どれほど助かることか。わたしは今でも、コレクションについては、イギリスの中でもとびぬけたものをもっています。もしもっと集めることができたら、十八世紀のイギリスの大博物学者ハンス・スローンと肩をならべられることができるかもしれないのですよ」
ネーサン・ガリデブは、大きな、まん丸の眼鏡(めがね)の奥で目をかがやかせた。この人は、もうひとりのガリデブをさがすためなら何でもするつもりでいるようすだった。ホームズは、言った。
「きょう、おうかがいしたのは、一度お目にかかっておきたいと思っただけで、あなたの研究のおじゃまをする気なんか、少しもありません。ご依頼を受けたかたには、わたしはお会いすることにしているのです。くわしいいきさつは、ポケットにあるお手紙ではっきりわかっています。そのうえ足りないところは、アメリカのガリデブさんがたずねてこられましたから、そちらからもうかがいました。あなたは、ついちかごろ……今週まで、アメリカのガリデブさんをごぞんじなかったのでしょう?」
「さよう。この火曜日に、はじめてたずねて見えられたのです」
「あの人は、きょう、わたしに会ったことを言いましたか?」
「はあ、あなたをたずねた足でここへよりましてな、えらく怒っていましたが」
「なんで怒ったんでしょうね?」
「名誉をきずつけられたと受けとったらしいですな。しかし、帰るときには、すっかりきげんをなおしとりましたよ」
「これからどうしろというようなことを、なにか言っておりませんでしたか?」
「いや、なにも言っておりませんな」
「あなたからお金を受けとるとか、またはほしいとか言ってきたことはありませんでしたか?」
「いいや、そんなことは、ぜんぜん」
「あの人は、何か、かくれた目的をもっているとは思いませんか?」
「いやいや、あの人が言っているほかに目的があるとは思いませんな」
「さっき、電話でわたしと打ちあわせしたことを、あの人に話しましたか?」
「ええ、そりゃ言いましたな」
ホームズはじっと考えこんだ。さすがのホームズも、すこしばかり途方(とほう)にくれているようすだ。
「こちらのコレクションのなかに、何か、ひじょうに高いねうちものがありますか?」
「ありませんな。わたしは金持ちではありませんから、りっぱなコレクションだと自分では思っていますけれど、とりわけねうちの高いものは、ひとつもありませんな」
「では、盗まれるなどのご心配をしていない?」
「ぜんぜん」
「ところで、このお部屋には、いつからお住まいですか?」
「もう、五年ちかくになりますかな」
このとき、しきりにドアをノックする音がしたので、ホームズの質問はとちゅうで止めなければならなくなった。

ネーサン・ガリデブ氏が立っていって、かけ金(がね)をはずしたかと思うと、アメリカ人のガリデブ弁護士が、興奮した面持(おもも)ちで、息をはずませてはいってきた。
「やあ、まだ、いましたね」
ガリデブ弁護士は、頭の上で新聞をふりまわしながら、叫んだ。
間(ま)にあえばいいがと思って、いそいでやってきましたよ。ネーサン・ガリデブさん、おめでとう! これで、あなたは大金持ちになりましたよ。これでわれわれの仕事は、大成功でおわったわけです!
それからホームズさん、あなたには、もうお願いすることがなくなった。お手数をかけて、お気のどくなことをしました」
ガリデブ弁護士は、部屋の主人のガリデブ氏に新聞をわたした。わたされたガリデブ氏は、しるしのついている広告のところを見つめて、立ちつくしているばかりであった。わたしたちは、その肩ごしに広告をのぞきこんだ。
そこには、つぎのように印刷されていた。

ハワード・ガリデブ
農業用機械製作
イネたばね機、刈り取り機、手動(しゅどう)・蒸気耕耘機(じょうきこううんき)、たねまき機、馬鋤(まぐわ)機、農業用手押し車、四輪荷馬車、そのほか農業用機械なんでも。
掘り抜き井戸の見つもりもします。
ご用の方はアストンのグローブナ・ビルまでへ

主人のガリデブ氏は、大声をあげてよろこんだ。
「ばんざい! これで、三人そろったわけですな」
アメリカ人のガリデブ弁護士は言った。「バーミンガムのほうまで問いあわせの手をのばしたんですよ。そうしたら、たのんでおいた人間から、この広告の出ている地元の新聞が送られてきたのです。こうなったからには、すこしでも早く話をまとめなきゃならない。さっそく、このガリデブに手紙を出しておきました。あすの午後四時、あなたがたずねていくからとね」
コレクターのガリデブ氏は、たずねかえした。
「このわたしに、行けというのですか?」
ガリデブ弁護士はかまわず、こんどはホームズにきいた。
「どう思いますか、ホームズさんは? そのほうが利巧(りこう)なんじゃありませんかね? こちらに定(さだ)まった家がないアメリカ人のわたしが、人をおどろかす変わった話を持ちこむんですよ。そのまま信じてくれるでしょうかねえ。
そこへゆくと、ネーサン・ガリデブさん。あなたは、生まれも育ちもイギリス人ですよね。その人の話すことだったら、むこうも信用してくれますよ。できたらわたしもご一緒したいのですが、あいにく、明日はいろいろ用事がいっぱいあってね。もしも何かあったら、いつでも、かけつけて行きますから」
「でもねえ、わたしはこの数年、そんな遠くへ出かけたことがないのでねえ」
「なに、そんなご心配はご無用ですよ。ちゃんと、汽車でどうやっていくか調べてあります。十二時のに乗れば、二時すぎにはむこうへ着きます。そうすれば、その晩のうちに帰ってこられます。あなたは、この男にあったら、これまでのいきさつを説明してやり、その人がガリデブであるということを証明する文書を書いてもらい、署名(しょめい)してもらってくればいいのです。それに、あなた、ガリデブさん!」
ガリデブ弁護士は、ここで急に声をあらげた。「わたしなんか、海の向こうのアメリカから、はるばるやってきたのですよ! それとくらべたら、最後の条件をととのえるために、たかが百五、六十キロばかり旅行するのが何だというのです!」
今度は、ホームズまでうなずいて言った。
「それは、そうですね。この人の言うとおりだと思いますよ」
ネーサン・ガリデブ氏は肩をすくめ、しぶしぶ言った。
「まあ、どうしてもということなら行きましょう。わたしの生活に、こんなすばらしい希望をあたえてくれたあなたです。そのあなたに、いやとは言えませんな」
ホームズが言った。
「では、それで決まったというわけですね。もちろん、結果がわかったら、わたしに知らせていただけるでしょうね?」
「そうするようにしましょう。さてと」
そう言ってガリデブ弁護士は、時計を出して見た。
「では、ネーサンさん。わたしはこれで帰ります。あすはバーミンガム行きを、お見送りにいきますからね。
ホームズさん、いっしょに帰りませんか? あ、そうですか、方向がちがう? じゃあ、失礼。あすの晩あたりは多分、よいご報告ができると思いますよ」
アメリカ人が帰っていくとホームズは、きゅうに晴れやかな顔になった。もう、とまどっている様子はない。
「ガリデブさん、あなたのコレクションを、一度ゆっくり見せていただきたいのですが。仕事の関係で、どんな知識も役にたつものなのです。この部屋は、まさしく知識の宝ものをしまってある博物館のようなものですよ」
依頼人のガリデブ氏は、思わずうれしさに顔を笑いでいっぱいにして、眼鏡(めがね)の奥の両目をかがやかせた。
「あなたが、たいそう頭のよいかただというおうわさは、いつもうかがっています。お忙しくなければ、今すぐにでも、どうぞ」
「それが、残念ですが、いまはちょっと暇がなくてね。でも、この標本はどれもたいへんきちんと分類されているうえ、いちいちラベルもはられてあるあるようですから、わざわざご説明いただかなくても、わかりそうです。あすはちょっと時間がとれそうですから、お留守の時でかまわなければ、よらせていただき、拝見したいのですが、いかがですか?」
「かまいませんとも、どうぞ、どうぞ。四時前でしたら、地下室にサウンダーズ夫人がおります。かぎも持っていますから、お声をかければ、あけてくれるはずです」
「では、あす午後にうかがわせていただきます。あなたからも、サウンダーズ夫人に念のため、ひとこと、おっしゃっておいてください。ときにこのアパートの管理会社は、どこですか?」
ガリデブ氏は、とつぜんの質問に目をまんまるくした。
「エッジウェア・ロードのホロウェイ・アンド・スティール不動産ですが。それが、なにか?」
ホームズは、笑っていった。
「建物のことになると、わたしはちょっとうるさいほうなんですよ。この建物はアン女王朝風か、それともジョージ王朝風かと考えていたのでね」
「ジョージ王朝風の建物ですよ、まちがいなくね」
「そうですか。わたしは、もうちょっと古いかと思ったんですがね。まあ、そのことなら、すぐたしかめられますよね。では、ガリデブさん、失礼します。バーミンガム行きのご成功を心からおいのりします」
アパートの管理会社は、すぐそばにあった。行ってみると、もう閉まっていたので、わたしたちはそのままベーカー街へ帰った。ホームズは、夕食をすますまで、この件をいっさい口にしなかった。
やっと、ホームズは言った。
「どうやら、こんどの小さな事件は幕がおりそうだね。もちろん、きみも、おおよそのことがわかったと思うけどね」
「ぼくには、なぜ幕がおりるのか、はじめもおわりも、まったくわからないのだから、見当もつかない」
「どうしてはじまったのかは、はっきりしている。あす、なぜ幕がおりるのかも、すぐわかるさ。きみはあの新聞広告に、何かおかしな点があるのに気がつかなかったかい?」
耕耘機(こううんき)という字のつづり plough が、まちがって、plow になっていたけど」
「へえ、あれに気がつくとはねえ! ワトスン、きみもずいぶん進歩したよ。英語ではまちがいだが、アメリカ語ではあれでいいんだよ。印刷屋は、もらった原稿のとおりに活字をくんだのさ。それから四輪荷馬車(にばしゃ)の字のつづり buckboard も、やっぱりアメリカ語だ。それに掘り抜き井戸だ。これもまた、イギリスでは、ほとんど見かけられないけれど、アメリカでは広くゆきわたっている井戸だ。つまりあの広告は、イギリスの製作所が出したように見せかけているけれど、じつはアメリカ風の広告なんだよ。このことは、どういうことだと思う?」
「あのアメリカ人のガリデブ弁護士が、自分で出したとしか考えられないね。どうしてそんなことをしたのか、ぼくにはさっぱり、わけがわからないけれど」
「そう、それには二つの説明が考えられると思う。とにかく、あの人のよい、化石(かせき)みたいなじいさんを、バーミンガムまで引っぱり出したかった。このことはまちがいない。だからぼくは、じいさんに、わざわざ出かけていってもむだ足になると、話してやろうと思った。だけど、考えなおした。じいさんをいかせて、舞台をからっぽにしたほうがよいのではないかとね。明日だよ。そう、明日になれば何もかもわかる」
つぎの日の朝、ホームズは早くおきて、どこかへ出かけていった。お昼ごろ帰ってきたが、ばかにしんけんな顔をしていた。
「ワトスン、こいつは予想していた以上に、たいへん危険な事件になってきた。今までのことで、きみという人の性格は、ぼくにはよくわかっているつもりだ。危険だと言うと、きみは、いよいよそれに立ちむかっていく。だからといって、言わないのはフェアじゃない。だけど、こんどの事件は、まさしくたいへん危険な事件だ。それを知っておいてもらいたいんだ」
「危険をわけあうのは、はじめてじゃないのじゃないか、ホームズ。これが最後の危険にならないようにとさえ、願っているくらいだ。で、今度のは、どんなに特別、危険だというのだ?」
「われわれは、たいへんきびしい事件に立ちむかおうとしているのだよ。きょうぼくは、ジョン・ガリデブ弁護士の正体(しょうたい)をつきとめてきた。それがなんと、あいつは《殺し屋》エバンズなんだよ。残酷(ざんこく)な殺し屋ということで、名前が売れている男だ」
「ぼくは、ぜんぜん知らないけどね」
「そうだろうね。ぼくとちがって、きみの商売では、とくにロンドン刑務所のポケット版『ニューゲート・カレンダー』を、頭の中へいれとく必要がないものね。今朝(けさ)ぼくは、ロンドン警視庁へいって、友人のレストレード警部に会ってきたんだ。警視庁の連中ときたら、毎度のこと、想像力は少し足りないんじゃないかと思うけど、調査をとことんとやること、整理することにかけては、世界一だ。 ぼくは警視庁の記録に、あのアメリカ人のことが、何かしるされてはいないかと思いついたのだ。そのとおりだったんだよ! 警視庁の
「ルージュ肖像(しょうぞう)写真館」とよばれている犯罪者の写真台帳に、あの丸顔がにっこり笑いかけているじゃないか。ジェームズ・ウィンター、またの名はモアクロフト、さらにまたの名《殺し屋》エバンズと、その写真の下に書いてあった」
そう言って、ホームズはポケットから封筒をとりだして、つづけた。
「そこで、あいつの記録から必要なことだけ、二、三書きとってきた。シカゴ生まれで、年齢四十四才。アメリカで三人の男を射(う)ち殺した。政治家の力を借りて刑罰を軽くしてもらった。
そのあと、一八九三年にロンドンへきた。一八九五年一月には、ウォータールー・ロードのナイト・クラブで、カードとばくをしていて、相手の男にピストルを発砲。撃(う)たれた男は死亡した。騒(さわ)ぎをしかけたのは、死んだ男のほうとされた。その男というのは、シカゴの有名なニセ文書、ニセ金づくりのロジャー・プレスコットだとわかった。
《殺し屋》エバンズは、一九〇一年まで刑務所ではたらき、出所した。そののちは警察の注意人物となっているが、今のところ、まじめに生活しているということになっている。とにかく、きわめて危険な男だ。武器をかくし持っていて、いつでも使えるようにしている。ワトスン、これが、ぼくたちの獲物(えもの)の正体だ。それも、つかまえるのには危険がつきまとうことを、よく知っておく必要がある」
「だが、いったい何をねらっているのだろうか?」
「まあ、いずれはわかるさ。ぼくは、アパートの管理会社にも行ってきたけれど、自分で言ったとおり、ガリデブは五年前からあそこへ住んでいる。その前は、一年ばかり空(あ)いていたが、それまで住んでいたのは、ウォードロンという紳士だったということだ。ある日、その紳士は、とつぜん姿を消した。それから、なんの連絡もなくなったそうだ。
管理会社は、消えた紳士の顔かたちをよくおぼえていた。それによると、背は高く、色はあさ黒く、あごひげのある男だったという。ところで、《殺し屋》エバンズに殺されたプレスコットは、警視庁の記録によると、これまた、背は高く、色はあさ黒く、あごひげのある男だったという。
そこで、推理してみるとしよう。アメリカ人の犯罪者プレスコットは、もしかして、ウォードロンだったのじゃないか。そうだとすると、今、おひとよしのガリデブが小博物館にしている部屋の、前の住人となるじゃないか。これにまちがいないと思う。これで、どうやらくさりの環(わ)のひとつが、見つかったことになる」
「じゃあ、そのつぎの環は?」
「そうだね。それを、これから行って、さがさなければならないのだ」
そしてホームズは、引出しからピストルをとりだして、わたしに手渡しながら言った。
「ぼくには、使い慣(な)れたのがある。あのアメリカ人が西部劇のように、ずどんとしないとはかぎらない。こっちもそれにそなえておく必要はある。ワトスン、一時間ほどあげるから、昼寝でもして元気をつけておいてくれよ。それから、リトル・ライダー街の冒険といこうか」
わたしたちが、あのネーサン・ガリデブの奇妙なアパートへ着いたのは、きっちり四時だった。地下室にいる管理人のサウンダーズ夫人は、ちょうど帰るところだったが、気持よく中へいれてくれた。ドアはスプリング式錠前(じょうまえ)で、閉めれば自然に鍵がかかり、外からは開けられなくなるしくみになっていた。そこで、帰りぎわには、まちがいなく閉めていくと、ホームズはサウンダーズ夫人に約束した。
まもなくして、玄関のドアの閉まる音がした。そして、帰っていくサウンダーズ夫人の女物の帽子が、窓の前を横ぎっていくのが見えた。これで、この家の一階には、わたしたちがいるだけになったのである。
ホームズはさっそく、あたりを急いでしらべはじめた。暗いかたすみには、壁から少しはなれて戸だながあった。それを見つけると、わたしたちはその戸だなのうしろに、かがんでかくれることにした。そこでホームズは、これからのざっとした計画をささやいた。
「あいつは、あの愛すべきじいさんを、この部屋から追いだしたかった。……それだけは、たしかだ。ところが、このじいさんがけっして外出をしないもんだから、何かの方法を考えなければならなくなった。そのあげく、何とか考えついたのが、ガリデブの遺産というさわぎだよ。ワトスン、そいつはここの住人、ネーサン・ガリデブの妙ちきりんな姓(せい)がヒントになって考えついたにちがいないが、悪魔がこしらえたのではないかと思われるほど、工夫をこらしたものだ。それを、やつは筋(すじ)書きどおり、たくみに実行している」
「それにしても、何をねらってのことなんだろうか?」
「さあね、それを見つけようとやってきたのだ。すくなくとも、この部屋の住人、ガリデブ氏は関係がないよ。やつの殺した男……プレスコットに関係したことだと思う。おそらく、やつはプレスコットの犯罪の仲間だったのじゃないかな。この部屋には、なにか犯罪にむすびつく秘密があるのじゃないか。それが、今のところのぼくの推理だ。
はじめは、あのじいさんの思っている以上に、コレクションの中に悪いやつらのねらいそうな高価な品があるのではないかと思った。だけど、悪いことにかけては、その名も高いロジャー・プレスコットが、この部屋に住んでいたとなると、もっと深いところに、ねらいがかくされているような気がしてきた。だからワトスン。こうして、ただただ、しんぼう第一とじっとしていることになったんだよ」
だが、しんぼう第一は、そんなにしないですんだ。玄関を開けたてする音がしたので、ぼくたちは、暗がりでからだをよせあった。
やがて、部屋のかぎをまわす、カチリというするどい金属の音が聞こえた。そして、あのアメリカ人が部屋へはいってきた。にせ弁護士は、そっとドアをしめると、安全をたしかめるように、じろりとあたりを見まわした。それからオーバをぬぎすて、何をしたらよいのか、どうやってやるのか、何もかもこころえたように、つかつかと中央のテーブルに歩みよった。
まず、テーブルをわきへ押しやった。つぎに、その下にあった四角いじゅうたんをめくった。それをくるくると筒(つつ)のように巻くと、今度は、内ポケットから短いカナテコをとりだした。そして、そこへひざをついたかと思うと、何か、しきりにやりはじめた。
まもなく、床(ゆか)をずらせる音がして、ぽっかり四角い穴があいた。《殺し屋》エバンズは、マッチをすって短いろうそくをともした。つぎの瞬間には、わたしたちの目から姿が消えていった。
今こそ、チャンスだ。ホームズは、わたしの手首にさわって合図をおくった。わたしたちはしのび足でちかよった。しかし、静かにうごいたのだが、ふるい床が、ぎしっと足の下できしんだにちがいない。アメリカ人のあたまが、にゅーっと穴の中から出てきて、あたりのようすをうかがった。
わたしたちを見つけたアメリカ人は、不意打ちをくらった怒りにもえた目つきで、はたとにらみつけた。だが、わたしたちが二挺(ちょう)のピストルで、自分の頭をねらっているのを知ると、だんだんに怒(いか)りをやわらげ、しまいには照れくさそうな笑い顔に変わっていった。
そいつは、穴から床にはい出てきながら、あわてたようすを見せないで、静かに言いった。
「やあ! おそれいりやの鬼子母神(きしもじん)だよ、ホームズさん。お前さんは、どうやらこっちの筋(すじ)書きを、はなからお見とおしってわけか。こうなったら、降参だよな。おれの負けだ……」
こう言うやいなや、《殺し屋》エバンズは内ポケットからピストルをひきぬくと、たてつづけて二発、ぶっぱなした。
とつぜん、わたしの股(また)にまっ赤な焼きごてを押しつけられたような、するどい痛みが走った。と同時に、ホームズのピストルの台じりが相手の頭に打ちおろされた。アメリカ人が顔じゅう血だらけになって、床のうえにのび、ホームズがそのからだをさぐってピストルを取りあげるのを、ぼくはぼんやり見ていた。それからホームズの、やせているが、力強い腕がわたしのからだをだき、椅子(いす)にかけさせてくれた。
「ワトスン、やられたんじゃないだろうね? おねがいだ、たいしたことはないと言ってくれ!」
そのときわたしは、けがなんぞ、一つや二つ、いや、いくらしても、どうってことはないとさえ思った。ホームズの、いつもひややかな顔の奥には、こんなにもあたたかい友情がみちみちていたのだ。その澄(す)んだ、するどい瞳(ひとみ)はくもり、かたくむすんだ口びるはふるえていた。このときわたしは、頭脳がすぐれて大きいだけでなく、その心もそれに劣ることなく、すぐれて大きいことをはじめて知ったのである。長い年月、たいしたことはないが、心からホームズにつくしてきたことが、このとき、一瞬とはいえ頂点にたっしたといってよいぐらい、むくわれたと、わたしは感じたのである。
「なんでもない、ホームズ。ほんのかすり傷だよ」
ホームズは、ポケット・ナイフでわたしのズボンを切りさいて見た。
「そのとおりだ。ただ、かすっただけだ」
そう言ってホームズは、安心のため息をもらした。だが、からだを起こして、きょとんとした顔をしているアメリカ人に気がつくと、急に冷たい顔になってにらみつけた。
「神のおめぐみで、かすり傷でよかったのだぞ。もしワトスンを殺してでもしてみろ。お前は、生きてこの部屋を出られなかったはずだ。まあ、それはそれとして、何か言いぶんでもありますかな?」
悪ものエバンズに、何も言いぶんなど、なかった。ただ、にがりきった顔をして、床のうえにのびているばかりだった。
わたしは、ホームズの腕にすがって、秘密のあげ戸にかくされていた、小さな地下室をいっしょにのぞきこんだ。エバンズの持ちこんだろうそくがまだ燃えて、あたりを照らしているので、さびついた大きな機械、太い巻取紙(まきとりがみ)、ちらばったびん、小さなテーブルのうえにきちんとならべられた、いくつもの小さな紙のたばが見えた。
ホームズは、言った。
「印刷機だ……ニセ札をこしらえる設備だよ」
「ええ、そのとおりでさ」
そう言って、エバンズはよろよろと、ゆっくり立ちあがった。だがすぐ、椅子(いす)に腰をおとしてしまった。そして言った。
「ロンドンはじまって以来の、いちばん大きな印刷機ですぜ。プレスコットの機械ですがね。テーブルのうえの紙のたばは、プレスコットのこさえた札(さつ)。二千たばある。ひとたばで百ポンド。どいつも、立派にほんものとして通るやつでさ。よかったら、そいつをさしあげることで、手を打ってはどうですかい? かわりに、おれを見のがすことで」
ホームズは、笑って言った。
「そんなわけにはいかないね、エバンズくん。この国には、きみのかくれるような穴なんかない。きみは、プレスコットという男を射殺した。そうだったんじゃないか?」
「そりゃ、そうですよ。だが、そのためにおれは五年もムショにいれられた。それも、向こうがさきに手出しをしたのにですよ。五年ですぜ。……それどころか、おれは、スープ皿(ざら)ほどある勲章をもらってもいいはずだったのに。プレスコットの印刷したお札と、イングランド銀行のお札のちがいを見わけることができるやつなど、どこにもいやしない。
もし、おれがあいつを殺していなかったら、ロンドンじゅう、プレスコットのお札であふれかえっていたはずなんですぜ。あいつが、どこでそのお札をこしらえていたか、知ってるのは、この世の中でおれひとり。だとしたら、おれが、ここをねらうのも当然というものでしょう、そうじゃありませんかね?
ところがここには、昆虫学者だか何だか知らないが、へんちくりんな名前のじいさんががんばって、あの部屋から一歩も動こうとしない。そうなると、こっちも、〈とうへんぼく〉のじいさんを追いだすために、せいいっぱい、頭をしぼらなければならなかったんでさ。
いっそ、ひと思いに殺してしまったほうが賢(かしこ)かったかもしれませんがね。殺すなんて、わけもなくできる。だがね、こう見えても、おれ、いたって気のやさしい野郎(やろう)でね。相手がピストルを持っていなけりゃ、こっちから射ってかかるなんて、気にならないのでさ。
だけどホームズさんよ。おれが、どんな悪いことをしたっていうんですかい? この機械を使ったわけでもない。あの〈とうへんぼく〉のじいさんをいためつけたわけでもない。どこが悪くて、おれをしょっぴこうというんですかい?」
ホームズは、言った。
「まあ、わたしから見て、殺人をくわだてたというところかな。だが、そんなことは、ぼくらの仕事じゃない。きみをまちかまえている人たちが、やることさ。いま、ぼくらがしてほしいのは、おとなしくしていてもらうことだけだね。ワトスン、ロンドン警視庁へ電話をしてくれないか。むこうも、こうなることを期待していなかったわけでもないだろう」
とまあ、こういういきさつが、《殺し屋》エバンズと、やつがつくった〈三人のガリデブ〉という、ほらばなしのすべてである。たった一人、ほんとうのガリデブを名のる、かわいそうな老人は、そのあと、夢が消えさったショックで、二度と元気をとりもどせなくなったという。夢にえがいた博物館がつぶれてたおれたので、あわれ、その下敷きになってしまったのである。なんでも最後は、プリクストンの老人ホームにひきとられたというはなしだった。だが、それっきり消息がなくなってしまった。
プレスコットのニセ札製造機が発見されたその日、ロンドン警視庁は、たいへん大よろこびをした。ニセ札製造機があることはわかっていながら、プレスコットが殺されてしまったので、長いこと、さがしだすことができないでいたからである。
その点、エバンズは大きな手柄をたてたわけだ。おかげで刑事部の何人かの有能な刑事は、安心して眠れるようになった。なにしろ、プレスコットのニセ札作りの技術は、だれもまねができないほどすぐれていた。それだけ、その機械を使われたら、社会は危険にさらされるはずだったのである。
警視庁は、エバンズがもらしていたように、スープ皿ほどの勲章だって、喜んでおくってもよい気持ちであったであろう。だが、頭のかたい裁判官は、それほど好意をみせなかった。そのために、《殺し屋》は、出てきたばかりの暗い刑務所へ、逆もどりということになったのである。
ソア橋事件

ロンドンのチャリング・クロスのコックス銀行の地下金庫のどこかに、ブリキの文箱が保管されている。その箱は、何回もの旅行でがたがたになっているが、そのふたには、元インド軍つき医学博士ジョン・H・ワトスンという、わたしの名がペンキで書かれている。
その箱にしまいこまれている書類のほとんどは、友人シャーロック・ホームズがいろいろ手がけた、奇怪な事件を記録したものである。あるものは、たいへんおもしろい内容なのだが、謎(なぞ)のままでおわっている。そういうものは、話のおわりがないのだから、書こうにも書くことができない。謎ときのない事件など、研究者にはおもしろいかもしれないが、それを読んで楽しむ普通の読者には、腹がたつだけであろう。
その謎のままの事件のひとつには、自宅へ傘(かさ)を取りにいったきり、この世から姿を消してしまったジェームズ・フィリモア氏の話もある。それとおなじくらいふしぎな事件に、『アリシア』号という小さな帆船(はんせん)の話がある。この船は、ある春の朝、たいして濃くもない霧のなかへ帆走していって姿を消したまま、それっきり帰ってこなかった。そして、船も乗組員も、今になっても、そのゆくえはわからない。
そのような事件の三つ目に、有名なジャーナリスト、イザドーラ・ベルサーノの事件がある。このひとは、虫のはいったマッチ箱をじっと見つめたまま、気がおかしくなっているのを発見された。その箱にはいっていた虫は、現在の科学ではまだ正体のわからない、めずらしいものであったという。こうした謎のままでおわっている事件とは別に、事情があって発表できないものもある。もし活字にでもなろうものなら、家族の秘密がひとに知られて、いくつもの上流の家庭で、大さわぎになるだろう。
言うまでもないことだが、わたしは、信頼をうらぎってまで秘密をもらしたりするつもりはない。こういった記録は、事件の暇(ひま)をみてホームズに選びだしてもらい、焼き捨てることにしようと思っている。
だが、そういったものを除いても、大小の差はあるが、おもしろい事件がかなり多く残る。それらを編集して発表することで、さらにいっそう、わたしが尊敬するホームズの評判を高めてもよかったのである。だが、わたしがあえてしなかったのは、多く発表しすぎることで、読者がもうホームズの冒険にあきあきはしないかということをおそれたからである。その中には、わたしがじかに関係した事件もある。いっぽう、わたしが関係しなかったか、あるいはしてもごくわずかな事件もある。だが、これから話す事件は、わたし自身が経験したものである。

それは十月の、風の強いある朝のことだった。わたしは起きると、服を着がえながら、ふと裏庭をながめた。そこにはプラタナスの木が一本だけ、庭をかざるように立っていた。ちょうど、その残り少ない枯れ葉が、ひらひらと一枚、また一枚と風に舞い落ちていくところだった。
このような風景には、まわりの環境に影響を受けやすい芸術家のひとりとして、わが友ホームズも、きっとさびしい思いをしているにちがいない。わたしはそう考えながら、食事をしに下へおりていった。ところがおどろいたことに、ホームズは、食事を終えるところだったが、ことのほか気分がよさそうだった。しかも、そういう上機嫌のときのくせで、すこし意地わるく、はしゃいでいた。わたしはたずねた。
「どうやら、事件が、もちこまれたようだね、ホームズ」
ホームズは、答えた。「推理の能力は、伝染するとみえるね、ワトスン。ぼくから伝染した能力で、みごと当ててたじゃないか。そうなんだ、事件が持ちこまれた。一か月ばかり、つまらない事件か、何もない日がつづいて、たいくつで時間をもてあましていた。やっと車輪がまわりはじめたってわけさ」
「ぼくにも、手つだわせてくれるね?」
「手つだってもらうほどのものではないが、まあ、きみが食事をすんだら話すよ。まずはその前に、今度きた料理人の女性がつくった、卵のかたゆでを二つ、その味をためしてみるんだね。どうもこのできばえは、きのうホールのテーブルでみた『ファミリー・ヘラルド』という雑誌と関係がありそうなんだ。卵をゆでるというだけの仕事も、時間に気をくばる注意力が必要だ。きっとあの女性、雑誌の恋愛小説に気をとられてしまったのだろうよ」
十五分ばかりたって、テーブルの上のものがかたづけられると、わたしたちはおもむろに向きあった。
ホームズは、まずポケットから一通の手紙をとりだして言った。
「きみは、金山王のニール・ギブスンを知っているかい?」
「アメリカの上院議員だろう?」
「そう、アメリカのある西部の州から一度、上院議員にでたことがある。だが、それよりも世界最大の金鉱山(きんこうざん)の持ち主として名が知られている男だ」
「うん、そのことなら知っているよ。たしか、しばらく前からイギリスに住んでいる有名人だ」
「そう、ギブスンは五年ほど前、ハンプシアにかなり大きな邸宅を買っている。それから、奥さんがいたましい死に方をしたのも、聞いたかい?」
「もちろん、聞いたとも。そう言われて思い出したが、その事件もあって、名前が知られているんだ。でも、くわしいことは何も知らないな」
ホームズは、いすの上においた、いくつかの新聞を手でしめしながら言った。
「ぼくだって、まさかこの事件がこっちにまわってくるなんて、考えてもみなかった。そうと知ったら、切りぬきくらいまとめておくのだったよ。ほんとうをいうと、大さわぎされるわりには、これという問題があるとは思えなかったからだ。つかまった犯人の人がらには、興味があった。だが、はっきりした証拠があるのだから、無実とはいえないと思った。検死裁判の陪審員(ばいしんいん)たちの意見もそうだったし、警察裁判所の報告もおなじだった。事件は今、ウィンチェスターの巡回裁判にかけられている。そんなやりがいのない事件を手がけるのは、むだというものだ。ぼくには、事実を発見する力はあるが、事実を変えさせる力はないからねえ。よっぽど思いがけない、あたらしい事実でも出てこないかぎり、依頼人には、希望がないのじゃないかな?」
「きみの依頼人というと?」
「ああ、話すのを忘れていた。どうもきみのわるいくせがうつったようだ。どうも、話の後先(あとさき)をとりちがえるようになったらしい。まず、これを読んでくれよ」
ホームズがよこしたのは、太いみごとな字で書かれた手紙だった。それは、つぎのようなものだった。


前略
神のおつくりになった、もっとも善良な女性が死に追いやられているのを、見すてておくわけにはいきません。あの女性を救うためなら、わたしは自分のできることは、何でもさせていただく。わたしはその事件の真相を知らない。いや、知ることは、たいへんむずかしい。わかっていることはただ一つ、ミス・ダンバーは、ぜったいに無実だということです。
事件のことは、あなたもご存じのはず。国じゅう、噂(うわさ)はするが、だれ一人としてあの女性の弁護をするものがいない。この不公平さに、わたしの心は引きさかれそうです。あの女性は、ハエいっぴきさえ殺せない人柄(ひとがら)です。
そこでわたしは、明日午前十一時、この暗やみを照らす明りをみつけていただけないか、お願いにあがります。わたしは、あの女性を救いだす有力な証拠を持っていながら、気づかずにいるのかもしれない。もしミス・ダンバーを救うために、力を貸してくださるのであれば、わたしの知っていることをみな、持っているものをみな、わたし自身のからださえ差しだして協力させていただく。これまであなたは、ひとよりまさる力をふるって数々の事件を解決されてきたと聞きおよんでいる。その力のすべてを、この事件にもそそぎこまれるよう、お願いします。 草々
十月三日 クラリッジ・ホテルにて J・ニール・ギブスン
シャーロック・ホームズさま


「というわけだ」ホームズはそう言うと、食事のあと、いっぷくしたパイプのタバコの灰をたたきおとした。そしてゆっくり、新しいタバコをつめながらいった。
「それで、この紳士の来るのを待っているんだ。事件の内容を知るのには、これだけの新聞をみんな読まなきゃならないが、そんな暇はないと思う。それで、きみにこの事件に興味をもってもらうために、簡単にあらすじを話すしかあるまい。
この男は、世界の経済を動かすことではいちばん力のある人間だが、手におえないほど、おそろしく乱暴ものらしい。その夫人が今度の事件の犠牲者なのだが、中年すぎの女性というぐらいしか、ぼくは知らない。この夫人にとって不幸だったのは、ふたりの子どものためにやとった家庭教師が、たいへん美しい、若い女性だったことだ。事件の関係者はこの三人、場所は、由緒(ゆいしょ)あるイギリスの中央にある、広くて大きな古い領主館(りょうしゅかん)。
つぎに事件だが、夫人は夜おそく、領主館から五、六百メートルはなれた庭園のかたすみで死んでいるのを発見された。夫人はパーティー用のドレスを着て、肩にショールをはおったまま、頭をピストルでうちぬかれていた。その死体のまわりには、射ったピストルも、凶器らしいものも見あたらなかった。また、犯人の手がかりになるものは、なにひとつ残っていなかった。その付近、どこをさがしても、凶器が見つからなかったんだ、ワトスン。ここが、かんじんなところだ。この殺人事件は、夜おそくおこなわれたらしい。猟場の番人が死体を発見したのは、十一時ごろのことだった。死体を家のなかへ運びこむ前に、警察と医者が死因などをしらべた。すこし、説明が簡単すぎたかい? それとも、あらすじはわかってもらえたかな?」
「よくわかったよ。それがどうして、家庭教師に疑(うたが)いがかかるようになったのだい?」「そう、まず第一に、事件に直接につながる証拠があった。死体の弾丸のあとと銃の口径とがぴったり合い、一発だけ発射されているピストルが、家庭教師の衣装(いしょう)戸だなの底から、みつかったのだ」
ここでホームズは、ふと目を一点にとめた。そして、「家庭教師の……衣装……戸だなの……底から……」と、きれぎれにゆっくり繰り返したかと思うと、それっきりだまりこんでしまった。どうやら、いつものように、頭のなかですじみちを追って推理しはじめたようすだった。そのようなときは、何かを言ってじゃましないほうがよいと思い、わたしはだまっていた。
すると、とつぜん、ホームズはわれにかえって、また元気に話をつづけた。
「そうだよ、ワトスン、ピストルが出てきたのだ。のがれようもない証拠だ。そうじゃないか。ふたりの陪審員もそう考えた。それに、死んだ夫人は、ある紙きれをもっていた。死んだ場所であおうという、家庭教師が書いたものだ。ねえ、これをどう思う?
そのうえ、殺人をする動機まである。ギブスン上院議員は魅力のある人物だ。もし夫人が死ねば、そのかわりに奥さんになれるのは、だれだと思う? やとっている主人から目をかけられている、この若い家庭教師の女性のほかに、だれが考えられる? 中年すぎの夫人を殺すことで、愛と金と力の三つが手に入るわけだ。醜(みにく)いはなしだよ、ワトスン、じつに醜いね!」
「まったくだ、ホームズ」
「しかもだよ、この家庭教師には、殺人のあった場所にいなかったことを証明するアリバイもない。それどころか反対に、その時刻のころ、ソア橋の……殺人があった場所の名前なんだけれど……近くにいたことをみとめた。通りかかった村のひとに、姿を見られているので、いなかったとは言えないのだよ」
「それでもう、きまりといえるじゃないか」
「いや、まだあるんだ、ワトスン。このソア橋は、橋げたのない、幅のひろい石の橋で、両がわにらんかんがついている。そして、庭園のアシの茂った長く深い池の、いちばん狭くなったところにある。門から玄関までの馬車道の途中にあるのだ。この池はソア池と呼ばれている。この橋のたもとに、夫人は倒れていたのだよ。まあ、こんなことがおもな事実だ。おや、約束の時間より、だいぶ早くきたが、どうやら依頼人のお出ましらしいぜ」
ボーイの少年、ビリーがドアをあけた。だが、ビリーが取りついできたひとの名は、わたしたちが待っていたひとではなかった。マーロウ・ベイツ氏といって、ホームズもわたしも、はじめてのひとであった。やせこけて、神経質そうな男である。目つきもおどおどしているし、態度もびくびくしている。医者のわたしからみると、ノイローゼの一歩手前という感じだった。
ホームズがいった。「だいぶ、興奮(こうふん)していらっしゃるようですね、ベイツさん。まあ、おかけください。ざんねんですが、十一時にひととあう予定がはいっているので、みじかい時間しかお相手できませんが」
客は、息がきれでもするように、ぽつん、ぽつんと言った。
「知っています。……ギブスン氏が、もうすぐお見えになる、のでしょう。わたしはあの人に使われている人間です。土地、屋敷の管理をしています。ホームズさん、あいつは悪人です。悪人も悪人、極悪人(ごくあくにん)です」
「だいぶ、きついお言葉ですな、ベイツさん」
「時間がありませんので、言葉はきつくなります。ここへ来たことが知られたら、それこそ、たいへんな目にあわされます。今にも、あいつがあらわれるでしょう。それなのにわたしは、これより早くはこれなかった。けさ、はじめて、あいつがあなたとあう約束をしていることを、秘書のファグスンさんから聞いたものですから」
「それでも、あなたは、ギブスン氏の管理人なのでしょう?」
「わたしは、すでに辞職を申し出てあります。ですから、二週間たてば、あいつの奴隷(どれい)の身分から、自由になれるのです。あいつは、なさけ知らずの男ですよ、だれに対してもね。いろいろ慈善(じぜん)事業をしているのだって、みんな私生活でしている罪を、かくすためです。
なかでもいちばんの犠牲者は、奥さまでした。奥さまへのあいつの仕打ちときたら、残酷(ざんこく)そのものでした。そう、オニのような仕わざでしたよ! 奥さまが、どのように亡くなられたか、それは、わたしにはわかりません。だが、奥さまの一生をだいなしにしたのは、あいつです。奥さまは、ブラジル生まれの、南国そだちで……ごぞんじなかったのですか?」
「ええ、はじめて聞きました」
「生まれも南国なら、性格も南国出身者にありがちなものでした。熱帯のぎらぎらする太陽の子、いつも熱い思いをしている情熱の子というようなひとでした。そういうひとですから、はげしくあの男を愛しました。でも中年になって、その美しさがおとろえていくにつれて、あの男を引きとめる力がなくなりました。……若いころは、たいへんな美人だったときいています。
わたしたちは、みんな奥さまが好きで、味方でしたから、奥さまへの仕うちを見て、あいつを憎みました。でもあいつは、ずるがしこく、口先がうまい男です。それで、これだけはお耳にいれときたかったのです。見せかけでごまかされてはいけません。あいつは、裏でちがうことを考えているんですから。ではこれで、失礼します。いいえ、引きとめないでください! もう、あいつがきます!」
おびえた目つきで柱時計をみると、このかわった客、ゲイツ氏は、まるでころがり去るように戸口へかけていき、そのまま姿を消してしまった。
ホームズは、ちょっとだまっていたが、あきれるように、いった。
「いやはや、だね! ギブスン氏は、なんという忠実な管理人を使っているものだね。だが、この忠告はなかなか役にたつ。これで、いつ本人が来てもだいじょうぶというわけだ」
約束の時刻にきっちり、階段に重い足音がした。そして、有名な億万長者が部屋へはいってきた。見ただけでわたしは、さっきの管理人のおびえや、憎しみが理解できた。そればかりでなく、実業界のライバルたちの多くが、なぜ、この男にのろいのことばを投げつけるのかも、よくわかった。もしわたしが彫刻家で、鉄のように強い神経と、革のようにかたい心をもった、実業界の成功者を像につくれといわれたら、このニール・ギブスン氏をモデルにするだろう。
背が高く、やせて骨ばったギブスン氏の顔かたち、全体からは、なにかいつも飢え、何もかもほしがっているような感じをうけた。エブラハム・リンカーンから、気高さをとりのぞいて、かわりにいやしさを加えたような男といえば、わかってもらえるのではないか。顔は花こう岩をノミできざんだように、骨ばっていかつく、冷酷(れいこく)そのものであった。深いしわは、なんども多くの危険をくぐりぬけてきた傷あとのようだった。
ギブスン氏は、もじゃもじゃの眉毛(まゆげ)の下から、冷たそうな灰いろの目で、わたしたちをかわるがわるみくらべた。そしてホームズがわたしの名を言うと、申しわけていどに頭をさげた。
それからギブスン氏は、いつも人に命令している人間によくみられる態度で、手じかの椅子(いす)をかってに引きよせ、ホームズに、その骨ばったひざをくっつけんばかりに近づけて、腰をおろした。
「はっきり申しあげるが、ホームズさん。この事件では、金などいくらかかってもかまわんのだ。真相を照らしだすことができるのなら、札束に火をつけて燃やしてもけっこう。あの女性は、なにも知らんのだ。なんとしてでも疑いをはらしてやらねばならん。ぜひ、あんたにやってもらわなければならない。いくら必要かな?」
ホームズは、冷ややかにいった。
「わたしの捜査には、料金表のようなものをさだめてあります。それを変えたことはありません。もっとも、場合によっては、まったくいただかないということもあります」
「ふむ、なるほど。金はどうでもいいというのなら、名声はどうかな? みごと真相をつきとめることができれば、イギリスとアメリカのいずれの新聞もあんたをとりあげて、大さわぎをする。二つの大陸の有名人になるわけだ」
「ありがたいことですが、ギブスンさん。わたしは有名人になる必要などないのです。驚かれるかもしれませんが、わたしはむしろ、名まえをかくして仕事をしたいのです。わたしが興味をもつのは、事件の謎ときで、金でも名声でもありません。しかし、こんな話は時間のむだです。事件のことをお話しあいしようじゃありませんか」
「事件といっても、おもなことはみな新聞に出ているとおりだ。わたしとして、これにつけ加えてあんたの役にたつものがあるとは思わん。しかし、なにか知りたいことがあったら、なんでも聞いてほしい」
「では、ひとつだけ、お聞きしたいことがあります」
「なんだな?」
「あなたと、ミス・ダンバーとは、正しくは、どのようなおつきあいなのですか?」
金山王、ギブスン氏はかっとしたらしく、一度は立ちあがりかかったが、すぐ気を落ちつけて、腰をおろした。
「ホームズさん、どうやら、そういう質問をするのはあんたの権利らしいな。それに、捜査をすすめるのに必要というのかね?」
「まあ、そう考えてけっこうです」
「では、はっきりいっておこう。われわれのつきあいは、こちらが雇(やと)い主(ぬし)、相手は使用人で、ことばをかわしたこともなければ、相手がこどもの勉強をみてやっているときのほかは、顔をあわせたことさえない」
ホームズは、椅子から立ちあがった。
「わたしは、たいへんいそがしい男です。無駄ばなしをしている時間も、趣味もありません。これで、お別れしたいとぞんじます」
ギブスン氏も同じように、さっと立ちあがった。だが、のっそりと背の高いそのからだは、ホームズの上にのしかからんばかりのいきおいだった。そして、もじゃもじゃの眉の下の目は怒りにもえ、顔色の悪い頬(ほお)も、すこし赤みがおびていた。
「いったい、どういう意味なんだ? この事件をやりたくないのか?」
「まあ、とにかく、ギブスンさん。あなたとはかかわりたくありません。わたしの言葉は、おわかりになったと思います」
「きわめて、よくわかった。だが、そのうらに何かあるのではないか? お礼の金を上げたいとか、むずかしすぎて事件を引き受けるのがこわいとか。もっと、はっきりした返事を聞きたいものだ」
ホームズは、きっぱりした調子で答えた。
「たしかに、お聞きになりたいでしょうね。では、お答えしましょう。この事件はたいへんこみいっています。その上、さらにまちがった情報をもらえば、ますます解決はむずかしくなります」
「すると、わたしが嘘(うそ)をついているとでもいうのか?」
「さあ、わたしはできるだけ遠まわしに言ったつもりです。ですが、あなたがそうとられたのであれば、そのとおりなんでしょう」
わたしは、思わず椅子からたちあがった。億万長者は、まるでオニのようなすさまじい顔で、大きなにぎりこぶしをふりあげたからだ。だがホームズは、気にもしないように、すこしほほえんだだけで、パイプに手をさしのべて言った。
「おしずかに。朝食のあとでは、ちょっとした議論でも、心がみだれるものなのですよ。どうですか。朝の空気を吸いながら散歩でもなさっては。そして、すこし、気をしずめてお考えになったら、いろんなことに気がつかれて、よいと思いますがね」
金山王は、けんめいに怒りをしずめていた。わたしは、この男の自分の気持ちをおさえる力のすごさに、心のなかでは感心していた。猛烈(もうれつ)に怒ったかと思った次の瞬間には、ひとをみくだすような、冷たいもとの態度にかえっていたからである。
「よろしい。あんたの決めることだ。仕事のやりかたについては、あんたの考えがあるのだろう。やりたくないというのに、むりやりやってもらうことはできない。だが、ホームズさん。あんたはきょう、だいぶ損をしたのだぞ。わたしは、あんたなんかよりずっと強い男を負かしてきたのだからな。わたしにさからって、得した人間は、今までひとりとしていない」
ホームズは、ほほえみを浮かべたまま言った。
「同じようなことを、多くのひとが言いましたよ。でも、このとおり、わたしは元気でやっている。では、さようなら、ギブスンさん。世間には、まだまだあなたが学ばなければならないことが、たくさんありますよ」
客は、あらあらしく出ていった。だが、ホームズは、夢でもみているような目で天井をみつめ、だまって、ゆうゆうとパイプをふかしていた。しばらくたってから、ホームズは尋(たず)ねてきた。
「ワトスン、きみは、どう思う?」
「そうだね、ホムーズ。あの男は、自分のいく先ざき、じゃまするものならなんでも、力づくで押しのけてきた。管理人のベイツという男の言ったとおりで、奥さんが中年になって魅力を失なっていたら、おそらく邪魔者(じゃまもの)になっていたかもしれない。そうだとしたら、正直に言うけれど、これはやっぱり……」
「そのとおり。ぼくも同じ考えだ」
「でもね、家庭教師とのつきあいは、ほんとうは、どうだったんだろうね? きみは見ぬいているようにいったけどね」
「おどしさ。知っているふりをして、おどかしてやったんだ。あの手紙は、じつに熱っぽく、感情をこめて書いている。あのギブスンの、自分の気持ちをおさえきる態度やひとを見下(みくだ)すようなそぶりとくらべると、あまりにも違いすぎる。どうやら、殺された奥さんより、犯人とうたがわれている家庭教師のことを心配している。
だとしたら、事件の真相を知るためには、三人の関係を正しく理解しておく必要がある。そこでまず、正面から攻撃をしかけてみた。ところがあの男は、あわてることもなく、さらりと、雇い主と使用人とのつきあいだと言ってのけた。これはいけないと、さもわかっているふりをして、おどしをかけたのさ」
「たぶん、引きかえしてくるだろうね?」
「かえってくるとも。かえってこないはずはない。事件を今のままにしておくわけにいかないものね。ほら! 今のはベルの音じゃなかったかい? やっぱりね。足音がする。……やあ、ギブスンさん、今もワトスン博士と、おかえりがおそいと話していたところですよ」
金山王は、出ていったときよりも、だいぶ素直(すなお)になっていた。といって、残念無念(ざんねんむねん)という目つきをしているところをみると、自尊心を傷つけられたくやしさは、まだ残っている。だが、目的をはたすためには、頭をさげるほかないと考えたようだ。
「ホームズさん。よく考えてみたが、どうも、あんたの言葉をすこし誤解していたという気がする。なにごとであろうと本当の情報を知りたいという、あんたの態度はもっともだと思う。それこそ、りっぱな態度だ。だが、ミス・ダンバーとわたしのつきあいは、この事件にはまったく関係がないはずだ」
「それを決めるのが、わたしの役目じゃありませんか?」
「そう、わたしもそうだと思う。きみは、まるで外科医のようだ。病状をくわしくきかないと診断をくださない点でね」
「まさしく、そのとおりです。ぴったりのお言葉です。それから、こうも言えますよ。医者をだまそうという患者にかぎって、自分の病状をかくしたがるものです」
「それはそうかも知れん。だが、女性とのつきあいをあからさまに質問されたら、たいていの男は答えたくなくなる。仲がよいとか、そうでないとかではなく、知られたくない秘密をほじくられるような気がして、男の多くは、いやがるのが普通ではないかな。それなのに、あんたはいきなりそれをたずねてきたのだ。だが、頼みにきたのは、ミス・ダンバーを救うためだ。目的が目的だから、ゆるすとしよう。さて、これで禁止の札(ふだ)ははずしたわけだ。自由に捜査してかまわん。何が知りたいのだな?」
「ほんとうのことです」
金山王は、考えをまとめようとしているように、しばらくだまりこんでいた。しわが深くきざまれた、きびしい顔は、ますます重苦しくなっていった。そして、やっとギブスン氏は口を開いた。
「ごく短く、かんたんに話そう、ホームズさん。それに、言いづらいこともあるから、必要以上に深くは話すことはできないが……。わたしが、妻をはじめて知ったのは、ブラジルで金鉱をさがしまわっていたころだ。妻のマリア・ピントオは、マナウスの役人の娘で、たいそうな美人だった。そのころはわたしも、若く元気な青年だったが、今になって冷静な目でそのころをふりかえってみても、マリアが世にもまれな美しい娘であったことは、たしかだ。それに情(じょう)がふかく、まっすぐな性格で、南国生まれによくみられる気まぐれなところは、それまでにわたしの知っていたアメリカの女性にはまったくみられない魅力であった。
まあ、そんなわけで、わたしはマリアを愛し、結婚した。だが、何年かがたって、情熱がさめるころになって、わたしたちには何ひとつ共通するところがないということに気がついた。わたしの愛は、さめた。マリアのほうもさめてくれたら、話はずっと簡単だった。だが、男とおんなとは違っていた! わたしがどんなことをしても、マリアの心は離れていこうとしない。
わたしは、マリアにつらくあたった。ひとは、残酷な仕うちだといった。だが、マリアの愛をさまさせ、できたら憎しみにかえさせたほうが、ふたりにとって幸せになると、わたしは考えた。だが、どうやってもマリアの気持ちをかえることはできなかった。マリアは、二十年前、ブラジルのアマゾン川の岸べでわたしを愛したと同じように、このイギリスの森のなかで、いまなお愛するのをやめない。わたしがどんなことをしても、愛しつづけるのだ。
そこへあらわれたのが、ミス・グレース・ダンバーだった。広告を見て応募してきて、二人のこどもの家庭教師になった。新聞で写真を見たと思うが、これまた、世にもまれな美人だった。
ところでわたしも、おんなのひとに対しては、世間の男とかわりない。そういう女性と、ひとつ屋根の下でくらし、毎日顔をあわせ、言葉をかわしていたら、強く心をひかれないわけにいかない。ホームズさん、そういうわたしを非難するかな?」
「そういう感情をいだいたからといって、非難はしません。だが、あなたはこの女性の雇い主です。あなたから貰うお金で生活しているのではありませんか。それなのに、その立場で自分の気持ちを話されたら、どんなに相手が困ることになるか、おわかりでしょうね」
「うむ、そうであろうな」
そう答えた億万長者の目には、ホームズの非難にたいする反発が、ちらりとあらわれた。だが、すぐ続けていった。
「だからといって、今さらわたしは、いい子になんかなるつもりはない。これまでだって、ほしいものがあったら、かならず手にいれようとした男だ。だがこんどほど……この女性の愛をかちとりたいという望みをいだいたことは今までなかった。それで、ミス・ダンバーに、わたしのきもちを話した」
ホームズは、心をうごかされたとき、こわい顔をしてみせる男である。
「やっぱり、話されていた! 話されていたのですね?」
「話したとも。できたら結婚をしたい。しかし、いまは妻がいるからどうにもならない。だが、金など問題ではないし、幸福にするためならどんなことでもするつもりだとね」
ホームズは皮肉っぽく、笑いながら言った。
「それはまた、たいそう気前のいいことですな」
「いいかね、ホームズくん。わたしは事件のことで来たのであって、道徳を話しあうために来たのではない。そのことで、あんたに批判などされたくない」
ホームズは、きびしく言った。
「わたしがこの事件をお引き受けするのは、その若い女性のためです。その女性の罪がたとえどんなものであっても、いまお話しになった、あなたのした罪とくらべたら、たいしたものではないと思います。あなたは同じ屋根の下にいて、ほかに頼(たよ)るものがいない女性を追いつめたのですよ。あなたがた大金持ちのかたは、金さえ出せばどんな罪でも大目にみてもらえると考えているようです。ですが、世の中はそんなにうまくいくものでないことを、ぜひ思い知るべきです」
ところが意外にも、このするどい非難をあびながらも、金山王ギブスン氏は落ちついていた。
「わたしも今、それを考えていたところだ。わたしが望んだとおりに運ばなかったことは、幸いだった。ミス・ダンバーは、わたしの申し出をことわったばかりか、すぐやめると言いだした」
「なぜ、やめなかったのです?」
「まず第一に、ミス・ダンバーには、その収入をたよりにしている家族があった。仕事をやめたら、収入がなくなる。そのことを考えて、そう簡単にやめることはできなかった。そこで、わたしが二度とこんなことで悩まさないと約束した。それで、やめるのを思いとどまったのだ。
しかし、そのほかにも理由はある。ミス・ダンバーは、こんどのことで、自分がわたしに強い影響力もっていることを知った。それを利用する気になったのだ」
「どんなふうに?」
「そう、ミス・ダンバーは、わたしの仕事のことをすこしは知っていた。ホームズさん、わたしの仕事は、じつに大規模(だいきぼ)のものだ……ふつうの男が信じられないくらいにね。そして、相手を生かすも殺すも、思いのままだった……その多くは殺すほうだったが。それも相手は個人ばかりじゃない。団体もあるし、都市のこともあるし、国が相手のことさえある。
ビジネスは、きびしいゲームだ。弱いものは負けてしまう。わたしは、いつも全力でゲームをした。意気地(いくじ)のない悲鳴など、ぜったいもらさない。そのかわり、他人がいかに泣きごとをならべても、ゆるしはしなかった。
だが、ミス・ダンバーは、ちがった考えかたをしていた。そのほうが正しいのかもしれない。何万という人を失業させたり、負かしたりして、ひとりの人間が必要以上の財産を独(ひと)りじめしてはいけない……あの女性は、それを口に出して言った。それが、ミス・ダンバーの考えかただった。
おそらくミス・ダンバーは、お金、ドルよりも、もっとひとびとを幸せにするなにかを、わかっていたのだと思う。そしてこの女性は、わたしがあんがい、自分のことばに耳をかたむけることを知り、わたしの仕事に影響を与えることは、社会にためになると信じたのだ。こうして、わたしのところに踏(ふ)みとどまることになったのだが、そこへこんどの事件がおきた」
「それについて、なにか手がかりになるものは?」
金山王は、しばらくのあいだ口をつぐみ、両手で頭をかかえて考えこんでいた。それから、おもむろにいった。
「ミス・ダンバーは、たいへん苦しいところに追いこまれた。そのことは認める。それに女性が心のなかで考えていることは、とても複雑で、男の考えつかないものがある。
はじめ、思いもかけない事件がおきたので、うろたえてしまったわたしは、ふだんのミス・ダンバーの人柄からは考えられない、何かとんでもないことをしでかしたと思った。だがそのとき、ひとつの説明がうかんだ。とにかく、それを話してみよう。
わたしの妻は、ひどくねたみぶかい性質であった。生活の面では、わたしは妻にねたまれるようなことはしなかったし、妻も知っていたと思う。わたしとそのイギリスの女性とのつきあいは、さっきも言ったが、わたしの考えかたを変えさせようとするためのものだったが、そういったつきあいのほうが、ねたみがはげしくなるものだ。とくに、ミス・ダンバーがわたしの心や仕事のしかたに、自分さえもっていない、強い影響力をもっていることに気づいてからは、たいへんであった。それはよい方へ働かそうとする影響力だったが、妻は憎しみで、気がおかしくなった。
妻のからだには、もともとブラジルのアマゾンのあつい血がながれている。もしかして、ミス・ダンバーを殺してしまおうと、思いつめたかもしれない。それともピストルでおどかして、追い出そうとしたのかもしれない。どちらにしても、そこでもみあいになり、なにかのはずみで弾丸がとびだして、それが逆に、もっていた妻にあたった」
ホームズは、言った。
「そういうこともあるのではないかと、すでに考えてみました。事実、たくらんで殺したのでないとしたら、それしか説明できません」
「だが、ミス・ダンバーは、はっきり、そうでないと言っている」
「といって、ミス・ダンバーが違うと言っても、ほんとうにそうなんでしょうか。そんなおそろしい立場におかれたら、むちゅうでピストルを手にしたまま、家へ逃げ帰るということも、考えられるではありませんか。
帰ったところ、ピストルに気がつき、なにがなんだかわからなくなって、衣装(いしょう)戸だなへ投げこんだ。ところが、それがあとで発見されると、弁解してもわかってもらえないと思い、何もかもなかったことにする。こういうことが考えられると思うのですが、いかがですか。この説明をくつがえすようなものが、なにかありますか?」
「ある。ミス・ダンバー自身の人柄(ひとがら)だ」
「は、はあ。なるほど」
ホームズは、そこで時計をみて続けた。「きょうのうちに、ミス・ダンバーに会える許可証がとれるのであれば、夕方の汽車でウィンチェスターへ行こうと思います。じかに、この若い女性から話を聞くことができたら、この事件の解決に役にたつことがわかるかもしれません。もっとも、そこで出たわたしの答えが、あなたのご希望と同じになるかどうかは、わかりませんけどね」
ところが、役所の許可をとるのに、あんがい手まどったので、その日のうちに、ミス・ダンバーがとらえられているウィンチェスターに行くのは、あきらめなければならなかった。わたしたちは、かわりにニール・ギブスン氏のハンプシアの屋敷(やしき)、ソア・ブレースに行った。ギブスン氏は、いっしょに行かなかったが、この事件をはじめにあつかった地元の警察のコベントリー巡査部長の住所を教えてくれた。

コベントリー巡査部長は、背が高く、やせて顔いろの悪い男であった。なにか隠(かく)しだてをしているようすで、それをごまかそうとさえしているふうだった。口には出さないが、ほんとうはいろいろなことを知ってもいるし、うたがってもいるようだった。だから、ここが大事な点だと思われることを話すときに、急にひそひそ声になったり、つっこんできいてみると、ごくくだらないことが多かった。
こういうへんなところはあったが、もともとは正直で、でしゃばらない男だった。ざっくばらんに、この事件をもてあましていること、どんな助けでも大歓迎(だいかんげい)であることを、すなおにみとめた。巡査部長は言った。
「いずれにしても、ロンドン警視庁よりは、あなたに来ていただいてありがたいと思いました、ホームズさん。警視庁にのりだされると、わたしたち地元が解決しても、手柄はもっていかれてしまいます。それでいて、失敗でもすれば叱られるだけですからね。そこへいくとあなたは、公平なかただと聞いています」
「ぼくは、まったく表(おもて)に出ようなどとは考えていませんよ。この事件を、たとえ解決したとしても、ぼくの名前はでさないでほしい」
そのようにホームズが言ったので、このちょっと陰気な巡査部長は、あきらかにほっとしたようすだった。
「それは、たいへん心のひろいお考えですね。それに、お連れのワトスン博士も信頼できるかただとうけたまわっています。では、ホームズさん、ご案内しますが、一つだけおたずねしたいことがあります。ここだけの話ですが……」
コベントリー巡査部長は、いかにも言いにくそうにそっとあたりを見まわして、つづけた。
「あなたは、ニール・ギブスンさんご本人があやしいとは思われませんか?」
「それは、すでにぼくも、考えてみました」
「ミス・ダンバーには、まだお会いになられていないそうですね。あの女性はどの点からいっても、すばらしい、美しいひとです。ギブスン氏が、奥さんを邪魔者(じゃまもの)あつかいにしたのも当然でしょうよ。それにアメリカ人は、われわれとちがって、すぐピストルをぬきますからね。しかも、あれはあのひとのピストルなんですよ」
「それは、はっきり確かめられたのですか?」
「ええ、もちろん、ホームズさん。あれはギブスン氏のもっていた、一対(いっつい)のかたほうでした」
「一対のかたほうですって? あとの一つはどこにあるのですか?」
「あのひとは、いろいろな種類の銃を持っています。あのピストルと対(つい)のものは、ついに見あたりませんでしたが、箱はありました。一対をおさめるようにできていました」
「一対のかたわれであったのなら、もうかたほうが、かならずあるはずですがね」
「ええ、だと思います。館のほうに全部ならべておいてありますから、おしらべになられたらいかがですか」
「あ出で、そうさせていただくかもしれません。とにかく、ごいっしょにでかけて、事件の現場をまず見ることにしましよう」
こうした話をしたのは、村の駐在所になっている、コベントリー巡査部長の質素(しっそ)な家の、道に面した部屋であった。わたしたちは駐在所を出て、見わたすかぎりヒースの野原を、五、六百メートルほど歩いていった。黄金いろと青銅(せいどう)いろのヒースに、色あせたシダがまじっている、吹きっさらしの野原だった。そして、ソア・ブレースの屋敷へはいる横門のところへ出た。
そこから、キジの禁猟地(きんりょうち)のなかの小道を歩いていくと、すこし、ひらけたところへ出た。そこから、小高い丘の上に建っている、なかばチュードル王朝風、なかばジョージア王朝風の、半分木造の、幅のひろい大きな館(やかた)が見えた。
わたしたちのそばには、アシのしげる長い池があった。まん中あたりの、細くくびれたへんに石橋がかかっていて、正門からの馬車道がその上を通っていた。案内にたった巡査部長は、この橋のたもとで立ちどまり、地面の一か所を指さした。
「ここに、ギブスン夫人の死体があったのです。あの石は、わたしが目じるしにおいたのです」
「あなたがかけつけてきたのは、死体を運ぶ前と聞いていますが」
「そのとおりです。すぐ、わたしをむかえにきたものですから」
「だれが指図(さしず)したのですか?」
「ギブスンさんご本人です。しらせを聞いて、ほかの使用人をつれてまっ先にかけつけると、警察からだれかくるまで、なに一つ動かしてはいけないと命令されたそうです」
「それは賢明(けんめい)なやりかたでした。新聞記事で読んだのですが、弾は、ごくそばから発射されたとありますね?」
「はい、そうです、ごくそばからです」
「右のこめかみの近くだった、と?」
「こめかみの、すぐ後ろです」
「死体は、どんなふうに倒れていたのですか?」
「あおむけです。争(あらそ)ったあとはありません。なんの手がかりも残っていませんでした。ピストルもなく、ただ、ミス・ダンバーからの、短いメモのようなものを、左の手がにぎりしめていました」
「にぎりしめていた、と?」
「指をこじあけるのに、たいへんでした」
「それは、きわめて重大なことですよ。死んだ後、だれかが、にせの手がかりを残そうと手に持たせたのではないかという疑いが、それでなくなりますからね。たしか、そのメモというのは、ごく短いものだった。たしか、『九時にソア橋で……G・ダンバー』と。そうでしたね?」
「はい、そうです」
「ミス・ダンバーは、自分の書いたものだと認めているのですね?」
「はい、そうです」
「そのことで、どんなふうに弁解しているのですか?」
「巡回裁判まで、なにも言いたくないといって、弁解しません」
「このメモの問題は、じつに興味ぶかいものがあります。なぜ、メモを持っていたのか、その理由が、たいへんあいまいです。そうじゃありませんか?」
案内の巡査部長はいった。「さあ、どうなんでしょう。なまいきなことを言うようですが、わたしには、このメモだけがただ一つ、はっきりしている点だという気がするのですけど」
ホームズは、頭をふって言った。
「メモがほんもので、まちがいなく本人が書いたとしてですよ、そうだとしても、夫人が受けとったのは、そこに書いてある九時よりも前……一時間か二時間前のはずだった。それをなぜ、今だに左の手ににぎったままだったんでしょうね? なぜ、そんなに大事そうに持ってきたのでしょうね? ふたりで会うのに、そんなものを持ってくる必要はなかったはずです。どうです、重大な点だと思いませんか?」
「なるほど、そうおっしゃられると、そうかもしれないと思えてきました」
「わたしは、このらんかんに腰かけて、しばらく静かに考えてみたいと思います」
そう言ってホームズは、石のらんかんに腰をおろした。そして、するどい灰色の目で四方八方を見ていたが、ふいに立ちあがると反対がわのらんかんにかけよった。そして、ポケットから拡大鏡をとりだして、そこの石の表面をしらべだした。
ホームズは、つぶやいた。「これは、みょうだな」
「そうです。わたしも、その傷には気がつきました。通行人のしわざでしょうね」
らんかんの石の表面は灰色だったが、一か所だけ、六ペンス銀貨ほどの大きさで白くなったところがある。よく見ると、なにか、するどい一撃にあって表面が欠けたことがわかる。
「ちょっとやそっとで、これだけの傷はつかない」
ホームズは考えこみながらそう言って、持っていたステッキで、なん回もらんかんを打ちおろした。だが、すこしも傷はつかなかった。
「なるほど。そうとう強く打ったものだ。それも、みょうな場所を打っている。上から打ちおろしたのじゃなくて、下から打ちあげている。ほら、このきずは、かさ石の下側の角についているでしょうが」
「でも、死体のあった場所から、すくなくとも四、五メートルは離れていますよ」
「そう、たしかに四、五メートルはある。あるいは、この事件には関係ないのかもしれないが、いちおう注意はしておいたほうがよいと思います。さて、もうここには、ほかになにも見るものはなさそうだ。足あとは、まったくなかったということでしたね?」
「ええ、このように地面が鉄のようにかたいですからね。なんのあともありませんでしたよ」
「では、行きましょうか。まず館(やかた)へいって、さっきのお話にあったピストルを見せてもらいましょう。それからウィンチェスターへ行くことにします。捜査をもっと先にすすめるためにも、ミス・ダンバーには会っておきたいですからね」
ニール・ギブスン氏は、まだロンドンから帰っていなかったが、けさ、ベーカー街へたずねてきたノイローゼ気味のベイツ氏がいた。わたしたちは、うすきみの悪い笑(え)みをうかべているベイツ氏の案内で、形も大きさもさまざまの銃器の、すごい数のコレクションをみせてもらった。みな、ギブスン氏が長い波風の多い人生の中で集めたものである。
ベイツ氏は言った。
「ギブスンさんには、たくさんの敵がいます。あのひとの人柄や、やりかたを知っているひとには何のふしぎもないでしょうが。そういうひとですから、枕もとの引出しには、弾をこめたままのピストルがいつもはいっています。乱暴なひとですから、わたしたちはみんな、びくびくすることがよくありました。亡(な)くなった奥さんも、しょっちゅうおそろしい思いをされていたはずです」
「奥さんに暴力をふるったのを、見たことがあるのですか?」
「いや、それはありません。でも、それに近いような……つめたい、ひとの気持ちをずたずたにする嘲(あざけ)りのひどいことばを、使用人の前でさえあびせかけているのを、よく聞きました」
館(やかた)をでて、駅へ歩いてゆく途中でホームズは言った。
「この億万長者さまの家庭での生活ぶりは、あんまりほめられたものではなかったようだね。だが、ワトスン、ここへ来たおかげで、いろいろな事実を、なかにはまったく新しいことも知ることができた。それでも、解決にはまだまだだけどね。
ベイツが、主人を憎んでいることははっきりしているけど、そのベイツさえも、夫人が殺されたという知らせをうけたとき、ギブスンは書斎にいたと、ぼくに証言した。夕食の終わったのは八時半で、それから事件がおこるまでは、ふだんと少しもかわりはなかった。知らせをうけたのは、ずっとおそくなってからだが、事件は、あのメモに書いてある時刻、九時ごろにおきたことにまちがいないと思う。
ギブスンは、五時にロンドンから帰ってきてから、外に出たという証拠はまったくない。これにひきかえ、ミス・ダンバーは、橋のところで夫人に会う約束をしたことを認めている。それでいて、弁護士が裁判までなにも話さないよう助言していることもあって弁解しない。あの女性に、ぜひともたずねておきたい重大な質問が、いくつもある。だから、会うまで、とてもおちつく気分になれない。じつを言うとね、ぼくも、あの女性はクロではないかと思っているんだけど、ただ一つ、ひっかかることがあるのでねえ」
「その一つとは、なんだい、ホームズ?」
「あの女性の衣装戸だなからピストルが出てきたことさ」
わたしは、思わずさけんでしまった。
「おい、おい、ホームズ。ぼくは、あれこそ犯人だという、動かせない証拠だと思ったんだぜ!」
「それが、そうじゃないんだな、ワトスン。ぼくははじめ、ざっと新聞を読んだときから、ここがたいへんおかしな点だと思っていた。捜査を引き受けて、深入りすればするほど、この点にだけしか、手がかりの望みがないと思った。捜査では、きちんとつじつまがあっているかどうかをみることが大事だ。どこかにつじつまがあっていないところがあったら、それは、ごまかしかもしれないと考えてみるべきなんだよ」
「どうも、よくわからないな」
「じゃあね、ワトスン。今かりに、きみを、じっくりねった計画をこしらえ、ライバルのおんなを殺そうとしている独りの女性ということにしてみよう。きみはその計画をたてた。メモを書いて届けた。犠牲者はやってきた。きみは凶器を用意していた。犯罪は成功した。ここまでは文句ないほど完全にすすめている。
だが、だよ。ここまでこんなにも手ぎわよくすすめたのに、なぜ、その凶器をそのまま家へもって帰ったのだろうか? それも、事件がわかれば、まっ先に捜(さが)されるにきまっている衣装戸だなへ放りこむようなへまを、なぜしたのだろうか? せっかくの計画がふいになってしまうじゃないか。もともと、凶器はすぐそばの池に捨ててしまえば、アシの根が永久にかくしてくれるのだよ。
ねえ、ワトスン。親友であるぼくは、きみがこんなはかりごとなど、まずはできっこないと思うけど、そのきみでも、これほどのへまをやるとは思わないよ」
「そのとき、気がおかしくなって……」
「だめ、だめ、ワトスン。そんなこと考えられないよ。殺すまでのことを、こんなにきちんと、じっくり計画しているんだよ。その人間が殺人をしたあと、疑いがかからないよう、あらかじめ計画をたてないはずがない。ぼくたちは、たいへんなまちがいをおかそうとしている」
「だとすると、説明を必要とすることが、いくつもあるよ」
「じゃあ、その説明をしてみようじゃないか。見方をかえると、今までは、それこそ罪の証拠だったものが、逆に真実への手がかりになるものだ。たとえば、あのピストルがそうだ。ミス・ダンバーは、まったくおぼえがないと言っている。新しい見方では、ミス・ダンバーがそう言っているのであれば、ほんとうのこととする。すると、ピストルは衣装戸だなにわざと置かれたことになる。では、だれが置いたか? ミス・ダンバーに罪をきせたいと願う者だ。では、それが真犯人なのか? どうだい、これで捜査の上でたいへんわかりやすいすじみちが、浮かんできたじゃないか」

いろいろな手続きが、その日のうちに終わらなかったので、わたしたちはウィンチェスターで、ひと晩泊まらなければならなかった。
だが、つぎの日の朝、ミス・ダンバーの弁護をまかされている、いま売り出し中の新進の法廷弁護士、ジョイス・カミングズ氏の立ちあいのもとで、問題の女性と監房(かんぼう)で会うことができた。
わたしは、今まで耳にしていた評判で、美しい女性であることは予想していた。それでも実際に会ってみて受けた印象は、生涯(しょうがい)わすれられないほどのものだった。あのごうまんな億万長者ギブスンが、ミス・ダンバーに、自分に影響を与えるほどの力があることをみとめたのもふしぎではない。この女性の強い、くっきりとした目鼻立ちの、それでいて感受性のするどい顔を見て、もしかして理由もなく、思いもかけないことをしはしないかと感じるひとも、なかにはいるかもしれない。だが、それ以上に、生まれつき気高い人柄は、いつもまわりのものによい影響を与えつづけるにちがいないと思った。
ミス・ダンバーは、髪も目も黒みをおび、背が高く、上品なからだつきで、態度も堂々としていた。だが、その黒みをおびた目は、網(あみ)にかかって逃げられないでもがく動物のように、むなしさをうったえていた。
ところがいま、有名なホームズが救いの手をさしのべにあらわれたのである。若い女性の青ざめたほおに、ほんのり赤みがさした。わたしたちを見るひとみのなかには、ひとすじの希望の光がかがやきはじめたようだった。
ミス・ダンバーは、低くふるえる声で、まずたずねた。
「ニール・ギブスンさんから、わたしたち、ギブスンさんとわたしのことをお聞きになりましたでしょうね?」
ホームズが、答えた。
「うかがいました。しかし、そういう話をくりかえして、あなたにいやな思いをさせようとは思いません。あなたにお会いして、わたしはギブスン氏の言ったこと、あのひとへのあなたの影響力のことも、あなたとの関係がなんでもないことも、二つとも信じる気になりました。しかし、なぜそのことを法廷で、はっきりおっしゃらなかったのですか?」
「まさか、こんな疑いを受けるなんて、夢にも考えませんでしたもの。待っていれば、あのご一家の、お気のどくな事情をさらけださないでも、自然に解決のほうへ向かっていくと思っておりました。でも今となっては、解決するどころか、だんだん、むずかしくなってきている、それがやっとわかってきました」
ホームズは、力をこめて言った。
「ねえ、ミス・ダンバー、どうか、この件ではあまい考えは捨ててください。こちらのカミングズ弁護士も同じことを言うでしょうが、今のところ、なにもかもあなたに不利です。ここから抜けだすには、できることなら何でもやらなければなりません。あなたの身は安全ですなどと、口がさけてもいえないほど、きびしいのです。ですから真相をつきとめるために、あらゆる努力をしていただかないと」
「わたくし、なにもかも隠(かく)さず申しあげますわ」
「では、ギブスン氏の夫人との関係がどうだったか、ほんとうのことをお話しください」
「奥さまは、わたしを憎(にく)んでいました。南国で育ったかたの持つはげしい感情を、そのままぶつけるようにわたしを憎んだのです。それに、なにごとも中途半端(ちゅうとはんぱ)にはできない性質のかたです。ご主人を愛していらっしゃればいるほど、わたしを強く憎んだと思います。それは、わたしとギブスンさんとの関係を誤解されていたことも原因だと思いますわ。
奥さまの悪口を話したくありませんが、ご主人をご自分のからだの一部として、いつも結びつけておきたいという愛しかたをなさっていました。ですから、わたしたちの心でのつながりなどは、ほとんどご理解できなかったのだと思います。また、わたしがあの家を出なかったのは、ギブスンさんに、よい方面に力を向けていただくよう願ってのことでした。それもわかってはいただけませんでした。
今となっては、わたしがまちがっていたことがわかりました。自分が不幸の原因になるような場所に、いつまでもとどまっていたのは正しいことではありません。でも、たとえわたしがいなかったとしても、あの家の不幸がなくならなかったのではないかと思いますけど」
ホームズは、うなずいて言った。
「では、ミス・ダンバー、その夜におこったことを、どうぞ正確に話してください」
「知っていますことは、なにもかもお話し申しあげますけれど、ホームズさん、どれも、わたしは証明できません。それに二、三のかんじんな点では説明もできないし、どんな説明も思いつきません」
「あなたが、事実さえお話しになれば、だれかが、その説明をつけてくれるはずです」
「それでは、まず、あの晩わたしがソア橋に行ったことからお話しします。その日の朝、わたしは奥さまから、かんたんなメモのようなものをいただきました。こどもたちの勉強部屋の机の上においてありました。ご自分でおいたのかもしれません。それには、夕食のあと話したい重要なことがあるので、ソア橋にきてもらいたい。このことはだれにも知られたくないから、返事は、庭の日時計の上に置いておくようにとありました。
わたしは、どうしてそこまで秘密になさるのか、その理由がわかりませんでした。とにかく、言われたとおりに返事をして、お会いすることにしました。奥さまのメモには、読んだら焼き捨ててほしいとありましたので、勉強部屋の暖炉(だんろ)で燃(も)してしまいました。
ご主人は日ごろ、奥さまにとてもきびしくて、わたしがたびたびご注意もうしあげたほどです。それで奥さまは、たいへんご主人をおそれていらっしゃいました。ですから、わたしに会うことをご主人に知られたくないのではないかと、そのときは思いました」
「それなのに、夫人のほうは、あなたの返事のメモを、だいじに持っていたのですね?」
「はい。奥さまがなくなられたとき、それをしっかりにぎっていらしゃったと聞いて、びっくりしました」
「なるほどね。で、それからどうしました?」
「約束どおりに出かけました。橋のところまでいってみると、奥さまは待っておいででした。わたしはそのときまで、あのお気のどくなかたが、あんなにまでわたしを憎んでいるとは、夢にも思いませんでした。まるで、気がおかしくなったみたいでした。いいえ、ほんとうに気がおかしくなっていたのでしょう。嘘(うそ)もまことも区別がつかなくなっていましたから。そうでなければ、わたしへの憎しみを胸の奥でもえたぎらせながら、なんで毎日、なにもないような顔をして会っていることができたのでしょうか? そのときの奥さまのお言葉をくりかえしたくありません。ただ、怒りのすべてを、火でも吹きだすようにおそろしい言葉で、わたしをののしりました。わたしは、答えさえしませんでした。いえ、答えることができなかったのです。顔を見るだけでも、こわくなりました。両手で耳をふさいで、逃げだしました。わたしが逃げだしたあとも、奥さまは、橋のたもとに立って、のろいのことばをあびせつづけていました」
「あとで、死体が発見された場所でしたか?」
「そこから、二、三メートル離れたところです」
「あなたが逃げだした、そのすぐあと、夫人は死んだものと思われますが、それだのに、あなたは銃声を聞かなかった……」
「ええ、なにも、聞きませんでした。でもホームズさん、わたし、あまりのことに顔から血がひいてしまったみたいで、ただただ、早く自分のしずかな部屋へ逃げこもうとしました。ですから、ほんとうのところ、あとでどんなことがあったのか、気にする余裕などすこしもありませんでした」
「自分の部屋へ逃げこもうとしたと言われましたね。では、つぎの日の朝まで、部屋にひきこもったままだったのですか?」
「いいえ、奥さまがお亡くなりになったという知らせがはいったものですから、ほかのひとたちといっしょに飛びだしましたから」
「そのとき、ギブスン氏に会いましたか?」
「ええ、橋からもどってこられたときにお会いしました。医者と警察を呼びにやらせているところでした」
「あなたの見たところ、ギブスン氏は、あわてていたでしょうね?」
「もともと強いご性格で、おちついて動けるかたです。このときも、ご自分の感情をおもてにあらわしませんでした。でも、よく知っているわたしには、ひどく心をいためているのがわかりました」
「では、いよいよ、いちばん大事な点にはいりましょう。あなたの部屋で発見されたピストルのことです。あれを前に見たことがありますか?」
「いえ、まったくありませんわ」
「見つかったのは、いつですか?」
「つぎの日の朝、警官が捜査をはじめたときです」
「あなたの服のなかにあったそうですね?」
衣装(いしょう)戸だなのドレスの、いちばん下にありました」
「いつごろからそこにあったのか、わかりませんか?」
「前の日の朝まではありませんでした」
「どうしてわかるのです?」
「その朝、衣装戸だなを整理したからです」
「それは決定的ですね。あなたに罪をきせるため、だれかがしのびこみ、そこにピストルをかくしたことになる」
「それに違いありません」
「では、それはいつのことでしょう?」
「食事のときか、でなければ、こどもたちといっしょに勉強部屋にいるときのほか、むりでしょうね」
「夫人の手紙を見たときですね?」
「ええ、それから午前中いっぱいは、勉強部屋にいました」
「ありがとうございました、ミス・ダンバー。そのほかに、捜査の助けになりそうなことはありませんか?」
「なにも思いつきませんけど」
「あのソア橋の石のらんかん……死体があったちょうど反対がわのところですが、そこに、乱暴したような傷あとが、それも新しいのがあるのです。これについて、なにか思いあたることがありませんか?」
「ただの偶然(ぐうぜん)なのではありませんか」
「いや、おかしなことですよ、ミス・ダンバー。たいへんおかしなことなんですよ。事件がおきたときに、それもおなじ場所に、なぜ傷ができたのか」
「でも、どうして石に傷などできたのでしょうね? よほどの強い力でなければ、そうはならないのに」
ホームズは、答えなかった。その青じろい、真剣な顔に、きゅうに張りつめた、なにかに心をうばわれたような表情がうかんだ。わたしは、これまでの経験から、ホームズの天才の頭脳がはげしく活動をはじめた証拠であると思った。こういうときは、ホームズの考えは、たいへん重大なところにさしかかっているのを知っていた。
そのホームズの真剣なありさまに、だれも口をはさもうとはしなかった。弁護士も容疑者もわたしも、息をころしてホームズの顔を見つめていた。とつぜん、ホームズは椅子からたちあがった。全身の神経をぴりぴりさせ、すぐにでも活動にうつすかまえをみせた。「行こう、ワトスン! 行こう!」
「どうかなさいました、ホームズさん?」
「ご心配なく、ミス・ダンバー。それにカミングズさん、いずれ、こちらから連絡します。正義の神の助けがあれば、イギリスじゅうをわきたたせるような裁判を、あなたがあつかうようになりますよ。ミス・ダンバー、あすまでにはニュースを持ってきます。雲は晴れかかっている。やがて、その雲のあいだから真実の光がさしこみます。わたしのこの言葉を、それまで信じて待っていてください」
ウィンチェスターからソア・プレースまでの汽車の旅は、そんな長いものではなかった。だが、わたしにはもどかしく感じられた。ホームズも同じ思いだったのか、そわそわと落ちつきがなく、じっとすわってなどいなかった。車内を行ったり来たりしているかと思うと、座席のクッションを、長い神経質な指で、こつ、こつ、たたいたりしていた。
だが、汽車が目的地に近くなったころ、ホームズは、いきなりわたしの正面の席にきてすわった。この一等車は、わたしたちだけで買いきっていた。ホームズはわたしのひざに片手をおくと、いたずらっぽい気分になったときよくみせる、ばかに茶目(ちゃめ)っけたっぷりの目つきをした。
「ワトスン、きみは、こういう冒険に出かけるときは、よく武器をしのばせていたよね」
わたしがそうするのは、ホームズのためだ。ホームズときたら、事件にむちゅうになると、自分の安全など、ぜんぜん考えなくなってしまうからだ。そのわたしのピストルが、たのもしい味方になったことも一度や二度ではないはずである。
わたしは、このことを思い出させてやった。するとホームズは言った。
「そうだ、そうだったね。ぼくはそういうことになると、うっかり屋になるんだ。ところで、きみはきょうは、ピストルを持っているか?」
わたしは、腰のポケットから小型のピストルを取りだしてみせた。銃身はみじかく手ごろだが、なかなか威力(いりょく)があるものだ。するとホームズは、安全装置をはずして、実弾(じつだん)をぬき、注意ぶかくしらべてから言った。
「重いね……そうとうな重さだ」
ホームズは、しばらくひねくりまわしていたが、やがて言った。
「わかるかい、ワトスン? きみのピストルが、いま、ぼくらの調べているあの事件と、深いつながりを持つことになることをね」
「ねえ、ホームズ、冗談は言いっこなしだ」
「いや、ワトスン。とてもまじめな話だ。これから実験をやる。この実験が成功したら、なにもかもあきらかになる。そして、その実験は、このちいさなピストルの働きによって、成功も失敗も決まる。一発だけ実弾をぬいておく。あとの五発は、もとどおりにもどしてつめ、安全装置をかけておく。さあ、これでよしだ。こうしておけば、重みがついて、いよいよ都合(つごう)がよい」
わたしには、ホームズが何を考えているのか、何を言っているのか、すこしも、わからなかった。だが、考えこんでいるうちに、汽車はハムプシアの小さな駅についた。そこでわたしたちは、がたがたの二輪馬車をやとい、十五分ばかりで、駐在所(ちゅうざいしょ)でもあるあの巡査部長の家へたどりついた。
「手がかりですって、ホームズさん。なんですか、それは?」
「ワトスン博士のピストルの働きしだいです。ほら、このピストルです。ときに巡査部長、ひもを十メートルほど欲しいんですが?」
村の店に、じょうぶな麻ひもが、ひと巻きあった。ホームズは言った。
「これで必要なものは、全部そろったようだ。では、出かけましょうか。これで最後の仕あげということになってくれればよいのだが」
ちょうど、太陽が沈もうとしていた。その光に照らされて、ハンプシアの、波をうつようにゆるやかに上がり下がりする荒れ野は、すばらしい秋の風景をみせてくれた。コベントリー巡査部長はいっしょに歩きながら、疑わしそうな、批判するような目で、ホームズのほうをさかんにちらちらみやった。どうやら、ホームズが正気かどうか、疑っているようすだった。
ホームズのほうも、表面ではいつものように落ちついているふりをしているが、殺人の現場に近づくにつれて、心のなかでは、ひどくいらだっているのが、わたしにはわかった。わたしが、そのことを言うと、ホームズは言った。
「そうなんだよ、ワトスン。きみは前にも、ぼくのねらいがはずれて失敗したのを見たことがあるだろう。ぼくはこういうことには勘(かん)がはたらくほうなんだが、それでも、ときどきその勘がはずれることがある。ウィンチェスターの監房でちらっと頭にひらめいたときは、もうこれで決まりだという気がした。
だが、ぼくのように次から次と活発に頭が回転してしまう人間には、弱みがひとつある。せっかくの手がかりを考えだしたのに、それをだめにするような、第二の説明を考えついてしまうことだ。だがしかし、そうはいっても……ま、やってみるしかないな、ワトスン」
歩きながらホームズは、麻ひものかたほうのはしを、わたしのピストルの柄(え)にきちんと結びつけた。いよいよ事件の現場につくと、ホームズは巡査部長に聞きながら、死体の倒れていた位置に、注意ぶかく、正確にしるしをつけた。それからホームズは、ヒースやシダの草むらを歩きまわって、かなりの大きさの石をひろってきた。この石に、さっきのひものもういっぽうのはしを、しっかり結びつけた。それから、橋のらんかんから水面にたらした。
これだけの用意ができると、ホームズはわたしのピストルを手にして、橋のたもとからすこし離れた、死体のあった場所に立った。ピストルと石をつなぐひもは、らんかんごしに、石の重みでぴんと張った。
ホームズは、さけんだ。
「さあ、やるぞ!」
ホームズは、ピストルの先を自分の頭にあて、それからぱっと手を放した。するとピストルは、石の重みにひかれて飛んでいき、まず、らんかんにあたってカーンとするどい音をたて、さらにらんかんをこえてドブンと水のなかへしずんでいった。
ホームズは、ピストルが水中に消えるか消えないかのうちにかけだして、らんかんの前に行き、ひざまずいた。そして、予想していたものを見つけたぞといわんばかりに、うれしそうな声をあげた。
「ワトスン、これほどみごとにいった、ぴったりの実演ってあっただろうか? きみのピストルが問題を解決してくれたんだよ」
ホームズはそう言って、らんかんのかさ石の下かどにできた傷をゆびさした。その第二の傷は、第一のものと形も大きさもそっくりだった。
ホームズは立ちあがると、あっけにとられているコベントリー巡査部長の顔をみて言った。
「今夜は、わたしたちはここの旅館に泊まります。もちろんのこと、引っかけ鈎(かぎ)でさがせば、いまのワトスン博士のピストルは簡単に池からあがってきます。それだけではない。ピストルとひもと重しの、もうひと組みも見つかるはずです。そいつは、復讐(ふくしゅう)の心でこりかたまった女性が、無実の犠牲者に殺人の罪をきせようとたくらんだ道具というわけですよ。自殺を他殺とみせかけるためのね。
ギブスン氏には、わたしがあすの朝、お目にかかりたいと言っていたとお伝えください。お目にかかったうえで、ミス・ダンバーの無実の疑(うたが)いをはらす手つづきをとることにしましょう」

その晩おそく、村の旅館で、わたしたちがパイプをくゆらしながらひとやすみしていたとき、ホームズは、事件のいきさつを手みじかに話してくれた。
「ねえ、ワトスン。この『なぞのソア橋事件』を、きみの書く記録にくわえて発表してくれても、ぼくの評判が高まることにならないと思うよ。ぼくは最初ょから、頭のめぐりが悪かった。ぼくの探偵の技術の基本は、想像をじゅうぶん働かせながらも、実際にあったことと、どう結びつけていくかということだった。こんどの事件では、それが欠けていたのだからね。
正直に白状すると、あのらんかんの傷を見ただけで、事件の謎(なぞ)をとかなければいけなかったのだ。もっと早く、それに気がつかなかったとは、われながらじつになさけない。まあ、あの不幸な夫人の心の動きが、とても奥ふかくて、つかまえにくかったことはたしかだ。それだけ、夫人のたくらみを見やぶるのは、そう簡単ではなかったと思うけどね。ぼくらも今まで、多くの事件を経験してきたけれど、その中でも、ゆがんだ愛情がひきおこした事件としては、こんなにめずらしいのはなかったと思う。
夫人にとって、ミス・ダンバーがライバルであるという点では、それが心だけのつきあいであろうと、そうでなかろうと、変わりがなかった。どっちにしても夫人はゆるせなかった。夫人があまりにも愛情を押しつけすぎるので、夫はきらいはじめ、わざとつらくあたったり、きつい言葉をかけたりするようになった。夫人はそれさえも、罪もないミス・ダンバーのせいだと逆(さか)うらみした。
最初、夫人は死を選ぶことで解決しようとした。つぎに、どうせ死ぬのならミス・ダンバーを道づれにしてやろう、それもとつぜんの死よりも、はるかにおそろしい目にあわせてやろうと考えた。夫人がどうやって計画を次から次へとすすめていったか、それぞれをきちんとたどっていくことはできるけど、その陰険(いんけん)なことは、びっくりするほどだ。あのメモだって、ミス・ダンバーが場所を選んだようにみせかけるため、うまい具合(ぐあい)に書かせた。だけど、せっかくの書かせたメモが発見されなくてはと心配するあまり、しっかりにぎって死んだのだが、あれはいささかやりすぎだった。このことだけでも、ぼくはもっと早く夫人に疑いをいだくべきだったのだよ。
そのつぎに夫人は、夫のピストルの一つを持ちだした。きみも見ただろうが、あの館(やかた)には、りっぱな兵器のコレクションがある。簡単に持ちだせる。それを自分用にあてた。それから、それと対(つい)の、もう一つも持ちだし、一発だけ発射して、その朝、ミス・ダンバーの衣装戸だなへかくした。ピストルを発射するのは、森へ入ってやれば、ひとに知られないでやれる。
やがて時間を見はからって、夫人は橋のところへいく。それから自殺したあと、自分のピストルを処分するという、あの世にも悪知恵にたけたトリックをしかけた。そして、ミス・ダンバーがやってくると、これが最後とばかり、ありったけ、ののしりをぶちまけた。耳をふさいで、ミス・ダンバーが銃声の聞こえないところまで逃げだしたところで、自分で自分の頭を撃つという、おそろしい計画を実行したのだ。
これで、すべての環(わ)がすっかりそろって、鎖(くさり)ができあがった。新聞はきっと、なぜ、はじめから池をさらわなかったのかと騒(さわ)ぐかもしれない。事件が解決したあとなら、だれでも言えることさ。それに何といったって、何を、どこで、がわからないで、あれだけ広いアシのしげった池をさらってさがすなんて、そう簡単なことではないよ。
さて、ワトスン。ぼくたちは、一人のすぐれた女性と、一人のおそるべき男性を救った。もしこのふたりが、これから力をあわせて何かをすれば……たぶん、そういうことになるだろうけどね。『悲しみの教室』で、世間の人たちが学ぶ何かを、ニール・ギブスン氏も学び、そのことを世界の経済界の人たちは知ることになるはずだ」
覆面の下宿人

わが友、シャーロック・ホームズが探偵として大活躍(だいかつやく)したのは、二十三年にもなる。そのうちの十七年間、わたしは、友人として協力し、また、事件を記録してきた。そのわたしが、ホームズの扱(あつか)ったかずかずの事件を書くための、ぼう大な資料を持っていることは明らかであろう。だから、ホームズの回想録を書くときに、いつも問題になるのは、資料が見つかるかではなく、どれをえらぶかであった。本だなには、年鑑がずらりとならんでいるし、書類のつまった文書箱は数えきれないほどある。それも、犯罪事件ばかりでなく、ビクトリア朝の後期の上流社会や公職にある人たちの、みにくい、不正な事件の記録もすべて集められている。そのへんのことを調べている研究者には、このわたしのコレクションは、情報のつまった図書館といってよいのではないか。
この不正な事件の記録については、ひとこと、ことわっておいたほうがよいかもしれない。そのような事件が発表されて、家族の名誉とか、先祖の評判とかが傷つくことをおそれて、わたしに手紙をくれたひとたちがいる。だが、そのご心配はご無用である。そのことは、わたしも、たびたび言ってきた。
ホームズはいろいろと気をくばるだけでなく、つねに探偵という職業の名誉を傷つけまいとしている。これがホームズの評判をいっそう高いものにしているのだが、こういった気くばりは、どの事件を発表するかというときにも、すこしも変わりはない。自分を信頼して事件の解決を依頼したひとびとをうらぎるようなことは、いっさいしない。けれども最近、これらの書類をなんとか手に入れて、処分しようとした企(くわだ)てがあった。これに対しては、わたしは強く抗議する。このような不正なふるまいをした人物の名前はわかっている。もし、もう一度これをくりかえせば、わたしはホームズの名前で、たちどころに、ある政治家と灯台と訓練された鵜(う)に関係のある事件を発表するつもりだ。こう言えば、わたしの言う意味がわかる人間が少なくとも一人はいるはずである。
ところでわたしは、ホームズの天才ともいえるするどい勘と、なに一つ見おとさない観察力を、これまで発表した事件でくわしく述(の)べてきた。だが、扱(あつか)った事件のすべてがすべて、その才能が発揮されたものではない。ときには、さんざん苦労したあげく、やっと解決したものもある。またときには、なにもしないのに、棚(たな)からぼたもち式に向こうからころがりこんできたものもある。
しかし、どうしてか、ホームズの出番がなかったときにかぎって、もっともおそろしい悲劇といえる事件がおきている。わたしがこれからお話ししようとしているのも、そういった事件の一つである。前もっておことわりしておくが、ひとの名前や土地の名を少し変えてある。だが、そのほかについては、ほんとうに起きたできごとをありのままにのべてある。

ある朝、それは一八九六年の年末ちかくのことであった。わたしはホームズから、すぐ来てくれないかという知らせを受けとった。いそいで行ってみると、ホームズは、タバコの煙がもうもうとたちこめる中にすわっていて、やさしそうな下宿のおかみさんといったタイプの、まるまるとふとった年配のおんなの人と話していた。ホームズは手ぶりをまじえながら、そのおんなの人を紹介した。
「こちらは、サウス・ブリクストンのメリロウ夫人だよ。夫人は、タバコを吸うのには反対しておられないそうだ。だからワトスン、きみもタバコを吸いたいのなら、気にしないでやらせてもらえよ。メリロウ夫人は、たいへんおもしろい話を持ってこられた。どうやら、そうとう奥の深そうな話のようなので、きみにも聞いてもらったほうがいいと思って、お待ちいただいていたというわけさ」
「ぼくに、できることなら……」
わたしがそう言うと、ホームズは客に言った。
「おわかりいただきたいのですが、メリロウさん。わたしがロンダー夫人をおたずねするときは、立ちあう人間がひとり、いてほしいのです。ですから、前もってそのことを、ロンダー夫人におゆるし願っておいてください」
メリロウ夫人は言った。
「ええ、けっこうですとも、ホームズさん! ロンダー夫人は、とてもあなたにお会いしたがっていますものね。ですから教区じゅうのひとを引きつれておいでになっても、かまわないと思いますよ」
「では、きょうの午後、早めにおたずねします。その前に、あらためて事実をもう一度、たしかめておきたいと思います。そうすれば、ワトスン博士もよく事情がのみこめるでしょう。さっきのお話だと、ロンダー夫人は七年もあなたの家に下宿しているのに、一度しか顔を見たことがないというのですね?」
メリロウ夫人は、言った。
「そうなんですよ。でも、今だって、見なければよかったのにと思っているんですよ!」
「ということは、おそろしいほどひどい顔だったんですね?」
「ええ、ホームズさん。あなたもあれを、人間の顔とはおっしゃらないでしょうよ。そうとしかいいようがないわね。いつだったか、牛乳屋が、二階の窓からあの人がのぞいているのをちらっと見たんですよ。おもわず牛乳カンをおとしてしまい、前庭を牛乳だらけにしたくらいでしたからね。とにかく、そんなような顔なんですよ。あたしが見たときは、ロンダー夫人はうっかりしてたのだけれど、気がついて、いそいで顔をかくして、『ね、メリロウさん。わたしがどうして、ぜったいにベールをとらないか、これで知られてしまいましたわね』と言ってましたよ」
「下宿人が、どんな素姓(すじょう)のひとなのか、知っていたのですか?」
「なにも、知りませんね」
「だけど、あなたの家に来られたとき、紹介があったのでしょう?」
「いいえ、ホームズさん。でも、かわりにたくさんの現金を払ってくれました。三か月分の下宿代もきちんと前ばらいしてくれたんですよ。こちらの条件についても、何もおっしゃらずにね。このような、ぱっとしないおりですから、あたしのような貧しいおんなが、こんなよいお話、おことわりするわけないじゃありませんか」
「あなたの家をえらんだ理由を、なにか言いましたか?」
「あたしの家は道から引っこんでいますし、よそよりひっそりしていて、しずかです。それにまた、下宿人は一人しか置かないし、家族もありません。あのひと、ほかをあたってみたと思いますよ。それで、あたしの家がいちばん条件にあっていると考えたのじゃないかしらね。あのひとがさがしていたのは、ひと目につかないところで、そのためなら、いくらお金を払ってもかまわなかったのじゃないでしょうか」
「あなたのお話だと、一度うっかり見せたほかは、最初から最後まで、ぜったい顔を見せないというのですね。ふむ、これはめずらしいお話だ! じつにめずらしい。あなたが、そのわけを知りたくなるのは当然です」
「あたし、そんなこと知りたくもありませんよ、ホームズさん。下宿代さえきちんといただいていれば、あたしはけっこうなんですよ。あんなにしずかな下宿人、手数のかからない人なんて、ちょっとやそっとで見つかりませんものね」
「ではなんで相談をもちこんだのですか?」
「あのひとの健康なんです、ホームズさん。だんだん体がおとろえていっているように見えるんですよ。それだけでなくて、なにか、心のなかにおそろしい心配ごとがひっかかっているみたい。だって、『人殺し!』と叫ぶんですから。『人殺し!』ってね。一度などは、『このけだもの! あくま!』と叫ぶのを聞きました。なにしろ、真夜中のことでしょう。家じゅうにひびきわたりました。わたしはこわくて、ふるえあがってしまいましたよ。
それで、つぎの日の朝、部屋へいって言いました。
『ロンダーさん、なにか、あなたの心を悩ましているものがあるのでしたら、牧師さまもいらっしゃいます。それから警察というところもあります。どちらでも、きっとあなたのお力になってくれるはずでしょうよ』
すると、あの人は、こう言うのです。
『とんでもない、警察はだめ! それにもう過ぎてしまったことだから、いまさら牧師さんだって、変えることはできないわ。でも死ぬ前に、ほんとうのことをだれかに知っておいてもらえたら、どんなにか気持ちがやすまるでしょうにね!』
そこで、あたしは言ってやったんです。
『そうね、警察がおいやなら、私立探偵がいるじゃありませんか。あたし、どこかでその探偵の活躍を、読んだことありましたよ……』
ごめんなさいよ、ホームズさん。と、まあ、あなたのことを言ったのです。するとロンダー夫人は、すぐとびついてきましてね。
『そう、そのひとよ! 今までどうして気がつかなかったのかしら、わたし。メリロウさん、あのかたをここにお連れして。もし断(ことわ)られたら、わたしが、猛獣ショウのロンダーの妻だとおっしゃって。それから、アバス・パーバという名もね』
ロンダー夫人はそう言って、ほら、このとおり、アバス・パーバと書いてくれたんですよ。
『それを持っていけば、ホームズさんが、わたしの思っているとおりのかたなら、きっと来てくださるわ』
ロンダー夫人はそう言ったんですよ」
ホームズは、うなずいた。
「そのとおりですよ。けっこうです。おたずねしますよ、メリロウさん。ワトスン博士と、すこし話しておきたいことがあります。それがお昼ごろまでかかると思いますから、そう、三時ごろ、ブリクストンのあなたの家へおたずねします」
メリロウ夫人は、あひるのようによちよちと、その歩き方をこう書くほかしようがないのだが、部屋を出ていった。そして、夫人が出ていったとたん、シャーロック・ホームズは、部屋のすみにつみあげてあった、メモ切抜帳の山にとびつき、猛烈(もうれつ)ないきおいでそれをひっかきまわした。

しばらくのあいだホームズは、しきりにページをめくる音をさせていた。やがて、捜(さが)すものが見つかったのか、満足そうに何かつぶやいた。そしてそのまま、床の上に、東洋の仏像のようにあぐらをかき、まわりに数多くのメモ切抜帳をつみかさねたまま、ひざにその一冊をひらいて読みはじめた。
「あのころ、ぼくを悩ませた事件だよ、ワトスン。その証拠に、このメモ切抜帳の頁のはじに、ほら、こんなにもいっぱい書きこみをしている。正直いうと、ぼくにもわからなかったのだ。それでも、検死官の判断はまちがっているということだけは、信じていた。きみは、アバス・パーバの悲劇のことについて、何かおぼえていないかい?」
「おぼえていないな、ホームズ」
「あのころはまだ、ぼくといっしょに暮らしていたはずだがね。だけどぼくだって、あまりよくはおぼえていない。なにしろ、判断する材料もなかったし、関係者のだれも、ぼくに助けをもとめてこなかったからね。どうだい、きみは、この事件のところを読んでみたいだろう?」
「要点だけ、話してもらえないかな?」
「おやすいご用だ。聞いていくうちに、たぶん、きみも思いだすだろうよ。ロンダーといえば、もちろんよく知られた名前だった。ロンダーは、有名なウォムウェルやサンガなどと競(きそ)いあったほどのサーカスの団長だった。だが、ロンダーはたいへんな大酒飲みだったらしい。そのためもあって、この悲劇の大事件がおきたころは、ロンダーも、その率(ひき)いるサーカス団の人気も下がりはじめていた。
大事件がおこった晩、ロンダー・サーカス団は、街道づたいにウィンブルドンへ行く途中、パークシア州の寒村(かんそん)アバス・パーバという小さな村で一泊した。小さな村のことなので、サーカスをひらいても儲(もう)けにならないから、キャンプをはっただけだった。
ところで、このサーカス団には、北アフリカ産のすばらしいライオンが一頭いた。「サハラの王」という名で、ロンダー夫妻は、この檻(おり)のなかにはいって、このライオンにいろいろな曲芸をさせた。それがこのサーカス団の大きな見せものでもあった。
そら、これが、そのライオンに曲芸させているときの写真だ。これを見てもわかるが、ロンダーは大きなブタのような男だが、夫人のほうはすばらしい美人だ。検死官の調べだと、ライオンは、その前から少しいらついていて、危険なようすを見せていた。それなのに、慣れっこになっていて気がゆるんだせいか、だれも、あまり気にもとめていなかったという。
ライオンには、ロンダーか夫人のどちらかがいつも、夜、えさをやりにいった。一人で行くことも、夫婦そろって行くこともあった。だが、ぜったいに、ほかのものにえさをやりに行かせなかった。それというのも、ライオンは、えさをくれる二人にいちばんなつく。そうすれば、曲芸のさいちゅうに向かってきて、危害を加えることはないと信じられていたからだ。
ところが、七年前のその問題の夜は、夫婦がいっしょにえさをやりにいったところ、おそろしいできごとがもちあがった。しかも、そのくわしいことは、今もってあきらかにされていない。
真夜中ちかく、キャンプで眠っていたサーカスの団員はみな、ライオンのうなり声とおんなの悲鳴でたたきおこされた。それぞれのテントから、飼育係や団員たちがランプをもってかけつけてみると、世にもおそろしい光景がくりひろげられていた。
ライオンの檻(おり)の扉はあいていて、そこから十メートルぐらい離れたところで、ロンダーが頭のうしろをぐしゃりとっぶされて倒れていた。頭のいただきのへんには、つめのあとが深く残っているのがみえた。ロンダー夫人も、檻の扉のすぐそばに、あおむけに倒れているのだが、なんと、ライオンがのしかかっていて、牙(きば)をむき出しにしてうなっているではないか。そればかりか、夫人の顔は見るも無惨(むざん)にかきむしられている。とても生きているとは思われないほど、えぐられていたのだ。
そこでサーカス団のものは、力もちのレオナルドと、道化師のグリッグズを先頭に、人かが棒でライオンを追いたてた。ライオンは、ひらりと身をかわして檻のなかへ逃げこんだので、いそいで錠(じょう)をかけた。だが、どうしてライオンが檻から出たのか、それが謎であった。おそらく、夫婦が檻のなかへはいろうとして扉をあけたとたん、ライオンがおどりかかったのではないか。そのように、当時、考えられた。
証拠(しょうこ)として注意をひくようなものは、なにも残っていなかった。ただそのほかに、ロンダー夫人が住居としている幌馬車(ほろばしゃ)に運ばれていくとき、うわごとのように、『おくびょうもの! おくびょうもの!』と叫んでいたことがある。
ロンダー夫人が証言台に立てるまでに回復するのには、それから六か月かかった。そこで検死官のかたどおりの調べがおこなわれたが、ロンダーの死は、事故によるものにまちがいないという判定が出て、事件はおわった。と、まあ、そういうわけさ」
わたしは、たずねた。
「ぼくも事故だと思うけど、そうでないとしたら、どんなことが考えられるのだい?」
「きみがそう言うのは、わかる。だが、バークシア州警察の若いエドマンズ刑事にとっては、納得(なっとく)のいかない点が二、三あった。なかなか頭のいいやつだった! あとになって、インドのアラハバードへ転勤したけどね。
この男が、あるときぶらりとぼくをたずねてきた。そのときパイプを一、二服(ふく)やっているあいだ、話してくれたので、ぼくもこの問題に首をつっこむことになったんだが」
「髪の毛の黄いろい、あのやせた男だろう?」
「そう、その男だ。きみもそろそろ、思いだしてきたらしいね」
「しかし、エドマンズは、何が納得いかないのだい?」
「いや、ぼくだって納得がいかないんだよ。事件をもう一度、はじめからおっていくと、どうしてもおかしなところがでてくる。ライオンの立場になってみると、そのおかしな点が、まずわかる。まず、ライオンは檻を出て自由の身になった。そこで、何をやったか? 十メートルほど離れたところにいたロンダーに、とびはねておそった。ロンダーは逃げようとする。だがライオンは、うしろからロンダーをなぐりたおした。爪のあとが後頭部にあるのは、そのためだ。
ところがライオンは、そのまま走りぬけて逃げないで、とってかえした。そして檻の近くにいたロンダー夫人をおそって、うちたおし、顔の肉を噛(か)みとっている。
それから、まだある。運ばれていったときの、夫人の『おくびょうもの』といったうわごとだ。あれは、夫のロンダーがどうして助けにきてくれなかったのか、と言ったように受けとれる。だが、ライオンに先にやられたものが、どうして助けにこられる? というわけだ。おかしいだろう?」
「たしかにね」
「じつは、もう一つあるんだ。話しているうちに思いだした。ライオンのうなり声とおんなの悲鳴にまじって、男がおそろしい叫びをあげていたのを聞いていだものがいるんだ」
「それは、もちろん、ロンダーのだろう」「さあね、頭をくだかれた人間が、二度とそんな叫びをあげられるだろうか。少なくとも、おんなの悲鳴にまじって、男の叫び声を聞いたという証人が、ふたりもいるんだよ」
「でもそのころは、団員たちは、てんでにわめきたてていたと思うね。それにロンダー夫人のうわごとのことだけど、ぼくに、ある推理がある」
「それは参考になる。聞かせてくれ」
「ライオンが檻(おり)からぬけだしたとき、夫婦は十メートルほど離れれたところにいっしょにいたんだよ。ロンダーは逃げだして、なぐりたおされた。夫人のほうには檻へ逃げこみ、中から扉をしめようという、とっさの考えがうかんだ。それよりほかに逃げる道はない。夫人は、そうした。やっとそこまでたどり着いたとき、引きかえしてきたライオンに、うちたおされてしまった。夫人は夫に腹をたてたと思う。逃げ出してうしろをみせたから、ライオンはいよいよ凶暴(きょうぼう)になったのだとしてね。逃げ出さないで、二人して正面から立ち向かえば、おとなしくなったかもしれないのだ。だから運ばれながら、『おくびょうもの!』と口走ったんだと思う」
「すごいぞ、ワトスン! だが、きみのすばらしい推理には、一つ、傷(きず)がある」
「どんな傷だい、ホームズ?」
「ライオンがぬけ出したとき、二人とも、檻から十メートルぐらい離れたところにいたというが、ではどうして檻から出られたのだろう?」
「二人には敵がいて、そいつが檻のかぎをあけたんじゃないかな」
「それにしても、いつもは二人によくなついて、檻のなかで芸までしてみせるライオンが、なぜ獰猛(どうもう)になって、おそってきたのだろう?」
「きっと、檻に細工(さいく)をしたやつが何かして、おこらせたんだろう」
ホームズは、しばらく考えこんでいたが、やがて言った。
「なるほど、ワトスン。きみの推理にさらに説明をくわえると、こういうことが言えそうだ。ロンダーは敵の多い男だった。エドマンズも言っていたが、酒を飲むと大あばれをする。からだも大きいし、弱いものいじめはする。見さかいなく、口ぎたなくののしったり、むちうったりもしたという。さっきのメリロウ夫人がいっていた、『けだもの』とか『あくま』とかいう、ロンダー夫人が夜、うなされて叫ぶ言葉などは、死んだ夫を思いだしてのことかもしれない。
だが、こんなこまかいことを、事実もたしかめないで、ここであれこれ言いあっていても、しょうがないじゃないか。それよりも戸だなにヤマウズラの冷肉と、モンラッシェのうまい赤ワインが一本ある。それで元気をつけて出かけよう」

わたしたちは、約束の時間きっかりに、小さい二輪の辻馬車でメリロウ夫人の家の前に乗りつけた。夫人の家は、粗末(そまつ)ではあったが、しずかな場所にあった。まるまるふとったメリロウ夫人は、その家の玄関をあけはなって、そこに立ちはだかるように待かまえていた。夫人は、こんなけっこうな下宿人を逃がしてはならないと心配していたのだ。わたしたちに、くれぐれもそうならないように、気をつけて話を聞いてくれと、念をおした。そこで、だいじょうぶだからと保証してやると、やっと、粗末な敷物をしいたまっすぐな階段を先頭に立ってあがっていき、わたしたちを謎の下宿人の部屋へ案内してくれた。
下宿人が、ほとんど外出しないというので想像していたように、その部屋はむうっとして、かびくさく、風通しがわるかった。動物を檻(おり)で飼っていたむくいをうけたのか、いまは逆に、ロンダー夫人自身が檻にとじこめられているみたいであった。
夫人は、うす暗いかたすみにある、こわれたひじかけ椅子にひっそりすわっていた。ながい運動不足のせいか、昔は美しかったと思われるからだの線は、それほどでもなくなっているが、いまなお美女の持つ、はなやかさが残っていた。黒い、あついベールが、すっぽり顔をかくしていた。だが、上くちびるのあたりまでなので、形のよい口もとや、美しい線を描くあごが見えた。それだけでも、夫人がかつてはすばらしい美人であったことが、じゅうぶん想像できた。
ロンダー夫人の声も、ここちよく、きれいだった。
「ホームズさんは、わたしの名前をごぞんじないはずはありませんね。名前をお伝えしたら、きっと来てくださると思いました」
「そのとおりです、マダム。もっとも、わたしがあなたの事件に興味をもっているのを、どうして知っていらっしゃるか、わかりませんけど」
「健康をとりもどして、州警察のエドマンズ刑事のお調べをうけたとき、教えていただきました。申しわけなかったのは、あのかたに嘘(うそ)をついたことです。エドマンズ刑事には、ほんとのことをお話したほうが、ずっと、かしこかったかもしれません」
「いつも、真実を話すほうがかしこいといえます。あなたはなぜ、エドマンズに嘘をついたのですか?」
「というのは、あるひとの運命がわたしの証言一つにかかっていました。かばってやる値(ね)打ちのあるひとではないことは、百も承知です。でも、わたしのせいでそのひとを葬ってしまうことになるのは忍(しの)びがたいことだったのです。それほど、わたしたちは、親(した)しい……たいへん親しいあいだがらでした」
「しかし、いまは、お話ができるようになったというのですか?」
「ええ、そうです。そのひとは亡くなりましたから」
「では、いまになってでも、知っていらっしゃることを、なぜ警察にお話にならないのですか?」
「なぜっていいますと、考えてやらなければならない人間がもうひとりいるからです。そのもうひとりというのは、このわたしです。警察の調べがまたあれば、新聞はさわぎ、みにくい噂(うわさ)の嵐にさらされるにきまっています。そのようになることには、もう耐えられません。それにわたしは、そうは長く生きないでしょう。だとしたら、ひっそり、おだやかに死んでいきたいのです。でも、この呪(のろ)われた話を聞いて、きちんとご判断できるかたがおられたらと、かねがね願っていました。そのかたにうちあけておいて、わたしの死んだあと、すべての事情がはっきりわかるようにしておきたいと思っていたのです」
「それで、わたしを選んでいただいたのですね、マダム。けれどもわたしは、何よりも責任をだいじにする人間です。お話を聞いたあと、これは警察へ話さなければならないと思った場合、連絡しないとはお約束できませんよ」
「わたしは、あなたがそうなさるとは思いません、ホームズさん。わたしはあなたのご性格やなさりかたをようく知っています。何年もあなたのお仕事ぶりをみてきましたから。わたしにとって読書は、『運命』が残してくれた、ただ一つの楽しみでした。それで、世間のことは、もれなく知っているつもりです。あなたのご活躍もね。でも、どちらにせよ、この機会をのがすわけにいきません。その結果、あなたがわたしを不幸になさろうとかまいません。お話しすることで、わたしの心はやすまります」
「ワトスン博士もわたしも、よろこんで、うけたまわりますよ」

苦しみにたえてロンダー夫人は、椅子(いす)からたちあがり、引きだしから男の写真を一枚とってきた。どうみてもプロの軽業師(かるわざし)で、りっぱな体格の男だった。もりあがるような裸(はだか)の胸のうえに、たくましい腕を組み、濃(こ)い口ひげの下でにっこり笑っている。多くの軽業(かるわざ)をこなしてきた、自信あふれる笑いであった。
夫人は言った。
「これが、レオナルドです」
「証人にたった、力もちのレオナルドですね?」
「そうです。そしてこちら……こちらが、わたしの夫です」
それは見るからに不愉快な顔だった。人間ブタというか、いや、人間イノシシというべきか、そう呼んだほうがよいような、けだものみたいな凶暴(きょうぼう)さをみせていた。そのいやしそうな口もとからは、怒りくるって歯を噛(か)み鳴らし、あわを飛びちらすようすがありありとみえた。また、まっすぐ油断(ゆだん)なさそうに前をみつめる小さな目は、悪意にみちみちていた。ごろつき、あばれもの、ひとでなし、そういったことばを全部あらわしているような、大きくあごのはった顔であった。
「この二枚の写真をごらんになれば、わたしの話がよくおわかりになるはずです。わたしは、おがくずの上で育てられた、あわれなサーカス娘でした。十才にもならないうちに、輪(わ)ぬけの芸当をしこまれました。わたしがおとなになると、この男がわたしを愛しました。あれが、ほんとうの愛といえるかどうか。でも、サーカスの娘のわたしは、団長のあの男の妻になることを承知したのです。
その日から、わたしの地獄(じごく)の生活がはじまったのです。この男は、悪魔のようにわたしをいじめぬきました。サーカスの団員で、この男の仕うちを知らないものは一人もいません。妻のわたしがいるのに恥ずかしいことばかりします。それをとがめますと、わたしをしばりあげて乗馬のむちでぴしぴしと打ちます。みんな、わたしに同情し、この男を憎みましたけれど、何ができるでしょうか? だれも、この男がこわいのです。ふだんでも乱暴ですが、酒を飲むと手がつけられないほど、あばれまわります。人に乱暴したり、動物を虐待(ぎゃくたい)したりして訴(うった)えられましたけど、お金がありますから、罰金ぐらいこわくもなんともありません。
そんなことで、サーカスからは、できる芸人がみんな離れていきました。当然のこと、サーカスの人気は落ちます。それをわずかに支えていたのが、レオナルドとわたし、それに道化師のジミイ・グリッグズだけでした。グリッグズはダメな道化師(どうけし)で、おもしろくもおかしくもないのですけれど、それでも、けんめいにつとめてくれました。
そのうちにわたしは、だんだんレオナルドにひかれるようになっていきました。写真のような男です。いまとなると、このすばらしい体格に反して気の小さい心の持ち主だったということがわかりましたけど、そのころは夫にくらべたら、聖書の天使ガブリエルのようにみえたものです。レオナルドはわたしに同情して、なにかと助けてくれました。そしてしまいには、愛しあうまでになりました。その愛は、深く、深くなっていきました。それは、わたしがあこがれていたけど、味わえるなどと思いもしなかった、ほんとうの愛でした。夫のロンダーは、わたしたちを疑いました。でも、乱暴ものと同じくらい、ほんとうは憶病(おくびょう)ものですから、力もちのレオナルドをおそれていました。ですからその仕返しに、いっそうわたしをいじめるようになったのです。
ある夜、わたしの悲鳴を聞きつけて、レオナルドがわたしたちが住いにしている馬車へかけつけてくれました。その夜は、ほんとうに、もう血が流れる一歩手前までいきました。レオナルドもわたしも、いずれそうなることは避(さ)けられないと覚悟しました。ロンダーは生かしておく値打ちもないひとです。わたしたちは夫を殺す計画をたてたのでした。レオナルドは頭がよくて、はかりごとをめぐらすのが上手です。こんどの計画をたてたのも、レオナルドでした。あのひとを非難するつもりで言っているのではありません。わたしは夫を殺すために、あのひととどこまでも、地獄まで行こうと決めていたのですから。
でも、わたしにはあんな計画、考えもつきません。わたしたちは……レオナルドは、ふとい棍棒(こんぼう)をつくりました。その先になまりをしこみ、さらにそのしこんだ先に、長い鉄のくぎを五本、うえつけました。とがった先を出し、ライオンの前足の爪のひろがりと同じ幅(はば)にしたのです。これで、頭を打って殺したあと、ライオンを檻からはなしてやる。そして、ライオンのしわざのように見せかけようと考えたのです。
その日は、星ひとつかがやいていない、まっ暗闇の夜でした。いつものように夫とわたしは、バケツのなかにえさの生肉をいれて、ライオンの檻(おり)に行ったのです。レオナルドは、わたしたちがその途中、かならずそのそばを通る、大きな馬車のかげにまちぶせをし、そこで棍棒でなぐることになっていました。ところが、レオナルドがぐずぐずしていたので、わたしたちは、その場所を通りすぎてしまいました。それでもレオナルドは、足音を立てないように、つま先だってあとを追いかけ、ロンダーの頭をたたきつぶしたのです。ぐしゃっという、いやな音がしました。でもそれを聞いたわたしの心は、うれしさではずみました。やっと地獄の日々がおわったのです。すぐ檻へかけよって扉のかぎをはずしました。でもそのとき、おそろしいことがもちあがったのです。お聞きになっているかもしれませんが、猛獣(もうじゅう)がいかに人間の血のにおいをすぐ感じとるか。そして、それをかぐとどんなに興奮するか。このときも、ふしぎな動物の力で、ライオンは、だれか人が殺されたのをすぐ知ったのです。わたしがかぎをはずすと、ライオンはおどりかかってきました。
レオナルドは、わたしを助けられたはずです。あのとき、すぐかけよって棍棒でたち向かってくれたら、ライオンはおとなしくなったはずなんです。でも、レオナルドは勇気を失なってしまったのです。おそろしそうな声をあげて背をむけ、逃げてゆくのが見えました。と同時に、ライオンはがぶりとわたしの顔にかみついてきました。けだものの不愉快な熱い息をふきかけられ、気が遠くなっていたので、わたしは痛みも感じませんでした。湯気(ゆげ)のふきでる血だらけの、相手の大きなあごを両手で押しのけるようにしながら、声をあげて助けを呼びました。
キャンプがさわがしくなっていったのは、わかりました。レオナルドやグリッグズをはじめ、おおぜいの人がかけつけ、わたしをライオンの下から引きだしてくれたのを、ぼんやりおぼえています。でも、ホームズさん、記憶はそこまでで途切(とぎ)れ、それから、つらい何か月もの療養がつづくのです。やっと傷がなおってから鏡を見て、わたしはあのライオンを呪(のろ)いました。どんなにか呪ったことか! わたしの顔から美しさを噛(か)みとったことでなく、この生命を噛みとらなかったことを呪ったのです。
ホームズさん、わたしには一つの望みしか残されていませんでした。幸いその望みをかなえてくれるお金だけはありました。その残された望みというのは、どこかにかくれ、このあわれな顔を誰にも見られないようにすること、そして、今まで会ったことのある人間のだれにも、ぜったい会わないですむところで暮らすことでした。これがわたしに残されたすべてです。そして、その通りにしてきました。死ぬために穴のなかへはいりこんだ、かわいそうな、傷(きず)ついた野獣(やじゅう)……それが、ユージニア・ロンダーでもあるのです」
不幸な女性の話は、これでおわった。わたしたちは、すぐには口もきけなかった。しばらくたってから、ホームズは長い腕をさしのべると、ロンダー夫人の手をやさしくたたいた。ホームズが、このように同情にあふれた態度をとるのを、わたしはめったに見たことがない。
「お気のどくです! お気のどくです! 『運命』の悪いいたずらとしか言いようがありません。このあと、何かの埋(う)めあわせがなければ、あまりにもむごすぎます。ところで、このレオナルドという男は、そのあとどうなりました?」
「あれ以来、二度と会っていませんし、あの男からもたよりがありません。でも、あのひとをあんなに恨(うら)んだのは、まちがっていたのかもしれない。あの男はライオンの食べ残しでも、サーカスの巡業で見せものにしている、からだの奇形のおんなと同じように、あわれんでかわいがってくれたかもしれません。でも、おんなの愛情はそんなものではありません。あの男はライオンのあごの下にいた、わたしを見捨てて逃げていった人間です。絶体絶命のわたしを見ながら、助けてくれようともしなかった。
それなのに、わたしはあの男を絞首台(こうしゅだい)へ送ることはできませんでした。わたし自身が罪にとわれてどうなろうと、かまいません。今のわたしの生きかたよりも、もっと残酷な生きかたがこの世にあるでしょうか? でもわたしは、レオナルドをかばって、『運命』があの男におよばないようにしたのです」
「それで、レオナルドは死んだということですね?」
「あの男は、先月、おぼれて死にました。マーゲイトの近くで水泳中に。新聞に出ておりました」
「あの五本のくぎをうえこんだ棍棒(こんぼう)を、レオナルドはどう始末したのでしょうね? お話のなかで、いちばん変わっているし、悪がしこいものですからね」
「わかりません、ホームズさん。キャンプ地の近くに石灰鉱山(せっかいこうざん)あとの深い穴があります。そこには水がたまって、青あおとしていますから、あそこをさがしてみましたら、もしかして……」
「いや、いや、今となっては、それもどうってこともなくなりました。事件はおわったんですからね」
ロンダー夫人も、つぶやいた。
「ええ、事件は、おわったんです」
そのとき、わたしたちは席をたちあがって、帰ろうとしていた。だが、ホームズは、そのロンダー夫人のしゃべりかたに何か気にかかるものがあったようすだった。いそいでふりかえって、夫人とむきあっていった。
「あなたのいのちは、あなただけのものではありませんよ。それを勝手気ままにしてはいけない」
「こんないのち、だれの役にたつというのですか?」
「そんなこと、言ってよいのですか? しんぼうづよく、苦しみにたえて生きていくことは、しんぼうのたりない世間の人への、たいへん貴重な教えになるではありませんか」
ロンダー夫人の答えは、おそろしいものだった。自分のベールをあげて、光のほうへ進み出てきたのである。
「あなたなら、これに耐えられるかしら?」
じつに、おそろしかった。どんな言葉をつかっても、その顔を言いあらわすことはできない。顔じたいがなくなってしまったのだから。二つの生き生きとした、美しい茶いろの眼だけが、災害にあったような悲惨(ひさん)な傷あとから、悲しくもいたましい色をたたえて、わたしたちをみつめていた。それだけ、いっそう残酷(ざんこく)さを感じさせた。
ホームズは同情の気持ちをこめ、さらに、そんなことをやめるように出無言でかた手をあげて見せた。そして、わたしをうながして部屋を出た。

それから二日後、わたしはホームズをたずねた。ホームズは、暖炉(だんろ)の上の青い小さなびんを、いくらか得意そうに指さした。取りあげてみると、毒薬をしめす赤いラベルがはってあった。わたしはふたをあけてみた。すると、アーモンドのようないいにおいが、かおってきた。
わたしは言った。「青酸(せいさん)だね?」
「そのとおりだよ。郵便で送ってきた。『わたしを誘惑するものをお送りします。ご忠告にしたがって、生きます』という手紙がついていた。ねえ、送ってよこした勇気ある女性の名前は、言わなくてもわかるだろう、ワトスン」
三破風館の謎

わたしが、友人のシャーロック・ホームズと一緒につづけてきた冒険は、これまでにもたくさんあるが、これからのべる「三破風館(さんはふかん)」の事件ほど、劇的で、しかも突発的にはじまったものは、まずないだろう。
そのころわたしは、しばらくホームズとあわずにいたから、ホームズが現在どういう方面の仕事を手がけているのか、さっぱりわからなかった。
なぜかその朝、ホームズは妙に口数がおおくて、わたしを暖炉のわきの、すりきれたひじかけ椅子(いす)にすわらせると、自分はパイプをくわえ、もういっぽうの椅子に、とぐろを巻いてむきあった。
そして、さてというところで、だしぬけに客があらわれたのである。客というより、いかりくるった牡牛(おうし)が飛びこんできたといったほうが、そのときのようすを、はっきりと伝えられるかもしれない。
ドアが勢いよく開かれたとおもったら、黒人の大男がおどりこんできたのだ。それが、おだやかな顔つきだったら、あるいは喜劇役者にもみえただろう。なにしろそいつは、思いきり派手なグレイのチェックの服に、サーモンピンクのネクタイをひらひらさせていた。そいつが、鼻のつぶれた、ひらべったい顔をつきだし、黒いけわしい目に悪意をぎらつかせながら、わたしたちを見比べていったのだ。
「どっちがホームズさんだい?」
ホームズは、ものうげにほほえみながら、パイプをあげてみせた。
「ほう、あんたがそうかい?」
そういって、大男はどこか気味のわるい、忍び足でテーブルにまわってきた。
「それじゃいうけど、ホームズさんよ。他人のことにちょっかいをだすのは、やめてもらいたいな。他人がなにをしようが、おまえさんには関係なかろうが。わかったかい?」
「もっと話してくれ。なかなかおもしろい」
とホームズがいった。
黒人はうなった。
「なに? おもしろいだと? おれがちょっぴり締(し)めあげてやることになったら、おもしろがっていられないぜ。おまえさんみたいなやつは、前にも何度か締めあげてやったが、みんな最後には、おもしろいなんて口はきけなくなっていたな。おい、ホームズさん、これをみろよ!」
黒人はごつごつした大きなこぶしを、ホームズの鼻先につきつけた。
ホームズは、さも珍しそうに、そのこぶしをながめた。
「生まれつきこうなのかい? それともだんだんこうなったのかい?」
ホームズが、まったくこわがるようすもないためか、それともわたしが火かき棒を手にとるかすかな物音が耳にはいったのか、いずれにしても、客の態度がいくらかおだやかになった。
「とにかく、警告はしたからな。おれの友だちに、ハロウの事件に関係のあるやつがいるんだ。こういえば、なんのことだか、おまえさんにはわかるだろう。その男が、おまえさんに邪魔されたくねえといってる。わかったか? この世の中、おまえさんがとりしまってるわけじゃねえ。おれだって法律なんかに縁(えん)はねえ。だから、おまえさんがどうしても、ちょっかいをだす気なら、このおれが相手になるぜ。おぼえておけよ」
そういう大男に、ホームズもやりかえした。
「じつはこっちも、前からあんたにあいたかったのさ。あんたの体臭がいやだから、椅子にかけろという気はしないがね。しかしあんた、ボクサーのスティーブ・ディクシーだろう?」
「いかにも、おれはそういうものだが、生意気な口をたたくと、それが事実だってことを思い知ることになるぜ、ホームズさんよ」
「それは、そっちのことじゃないのか?」とホームズは、大男のぶあつい口を見ながらいった。「ホーバン・バーの前で若いパーキンズを殺したのも――おや、どうした? お帰りじゃなかろうね?」
黒人が、さっと顔色をかえて、うしろへとびさがった。
「でまかせをいうな! そのパーキンズとやらに、おれが関係あるっていうのか、ホームズさんよ? あの小僧が、ごたごたを起こしたときにゃ、このおれはバーミンガムのブル・リングで、トレーニングをやってたんだぜ」
「まあ、そういうことは、治安判事にむかっていったらよかろう。こっちはだいぶ前から、あんたとバーニー・ストックデールに目をつけているんだが――」
「ほんとうなんだぜ、ホームズさん――」
「いいから、とっとと帰れ。用があれば、こっちからむかえにいってやるから」
「それじゃ帰るぜ、ホームズさん。かってに押しかけてきたこと、わるく思わないでもらいたい」
「だれに頼まれてきたか、いえばゆるしてやろう」
「そんなことなら、隠すまでもねえ。いまホームズさんのいった人でさあ」
「じゃあ、そのバーニーを動かしたのはだれだ?」
「かんべんしてくださいよ。おれだってしらねえんだから、ホームズさん。ただあの人に『おいスティーブ、ホームズのところへいって、ハロウの一件に首をつっこんだりすると、命があぶないぞって、おどかしてきな』といわれて、きただけだ。うそもかくしもねえ。それだけの話でさあ」
そういうより早く、大男はつぎの質問をされないうちにと、はいってきたときとおなじように、あたふたと出ていった。
ホームズは、にが笑いしながらパイプの灰をはたきおとした。
「あいつのちぢれっ毛頭を、たたきわらずにすんでよかったよ、ワトスンくん。きみは用心ぶかく火かき棒をかまえていたけど、あの男はみかけによらず無害なやつなんだ。体はでかいが頭はからっぽで、ただいばりちらすだけだ。しかも、ごらんのとおり、逆におどされると、すぐおたおたするやつさ。スペンサー・ジョンの一味で、最近の悪事にも一役買っているはずだから、そのうちひまができたら、洗ってやるつもりさ。兄き分のバーニーは、多少頭のはたらくやつだが、暴行とか恐喝を専門にしている。それはそれで、ぼくが知りたいのは、あの大男をここによこした黒幕が、だれかってことさ」
「しかし、ホームズ、どうしてきみをおどして、手をひかせようとするんだろう?」
「このハロウ事件のためさ。こうなるとますます、この事件を手がけたくなるね。だれだかしらないが、こんなことまでして、ぼくをおどそうとするからには、事件の裏にかならずなにかあるにちがいない」
「それは、どういう事件なんだい?」
「その話をしようとしてたところに、さっきの喜劇役者がおどりこんできたってわけさ。ほら、これがメーバリー夫人からの手紙だ。きみさえよければ、これから電報を打っておいて一緒にでかけよう」
その手紙を、わたしは読んでみた。


シャーロック・ホームズ様
とつぜんお手紙をさしあげるご無礼を、おゆるしください。じつは、いま住んでおります屋敷にかんして、不思議なことがつぎつぎとおこりますので、ぜひ相談にのっていただきたいのです。あしたなら一日中おります。屋敷はウィールドの駅から歩いてもすぐ近くです。亡くなった夫も、そのむかし、あなたさまに助けていただいたことがございます。
なにとぞよろしくお願いいたします。かしこ。
メアリー・メーバリー


住所は「ハロウ・ウィールド 三破風館」となっていた。
「こういうわけなんだよ、ワトスンくん。都合がついたら一緒にいってみようじゃないか」
とホームズはいった。

みじかい汽車の旅をして、すこしばかり馬車にのり、わたしたちは目的の屋敷についた。一エーカーほどの草ぶかい荒れ地のなかに、木造とれんがの別荘ふうの建物がたっていた。
二階の窓の上に、もうしわけばかりつきでた三つの出っ張りが、三破風館の名のいわれをしめしている。建物の背後には小さな松林がひろがり、なんとなく陰気でみすぼらしい感じだった。
ところが、一歩建物のなかにはいってみると、家具はみんな立派なもので、われわれをむかえた女主人は、品がよくて、身のこなしにも教養とたしなみがうかがえる老婦人だった。
ホームズは、あいさつをした。
「ご主人のことは、よくおぼえておりますよ。そういっても、あのささやかな事件で、わたしがお役にたったのは、ずいぶん前のことですが」
「もしかしたら、息子のダグラスの名前のほうが、おなじみかもしれませんわね」
そのことばに、ホームズはひどく興味をおぼえたようすで、夫人を見つめた。
「ほほう! すると、ダグラス・メーバリーくんは、あなたのご子息ですか? わたしもちょっと存じあげていますが、あのかたならロンドンで知らないものはありません。じつにすばらしい青年です。いまどちらにおられますか?」
「亡くなりましたわ、ホームズさん! なくなりましたの! ローマ大使館につとめておりましたが、先月肺炎で亡くなりました」
「それはお気の毒に! あんなにお元気なかたが亡くなるなんて、とても信じられません。はつらつとして、やる気まんまんの若者だったのに!」
「血の気がおおすぎました。それがあの子の命とりになりました。ホームズさん、あなたは、あの子があかるくて元気いっぱいだった時代だけしか、ご存じないのです。あの子はいつのまにか、陰気で気むずかしく、ひとりで考えこんでばかりいる子になってしまいました。きっと、なにかとてもつらい目にあったんですよ。たった一カ月ほどのあいだに、あんなに元気だった子が、身も心も疲れはて、ものごとに皮肉な態度をとる男になってしまったのです」
「恋愛事件――女性問題ですか?」
「悪魔にとりつかれたのかもしれません。でもまあ、あの子の話を聞いていただくために、おいでいただいたわけではないので」
「ワトスン博士とわたしで、どんなご相談にものりますよ」
「じつはこのごろ、おかしなことばかりおこります。この家にきてから一年ばかりになりますが、もう隠居ぐらしのつもりですから、ご近所づきあいもあまりいたしません。ところが三日前に、不動産屋だというかたがみえまして、あるお客さまからさがしてくれと、たのまれている家に、この家がちょうどぴったりなので、譲ってもらえないだろうか、お金はいくらでもだすからと、まことにおかしなおはなしですの。
こことおなじ程度の家なら、ほかにいくらでも売りにだされているはずです。へんなことだと思いましたが、わるいはなしではないので、ためしにわたしが買った値段より、五百ポンドほど高くいってみました。すると、そのかたは、それでいいとおっしゃいました。
ついでに、お客さまが家具ぐるみほしいということなので、そちらも値段をつけてもらえないか、そうおっしゃるのです。家具のなかには、もとの家からもってきたものもあります。ごらんのとおり、かなりよいものがそろっているので、わたしも思いきった値段、それも端数なしの額をしめしたところ、こちらもすぐはなしがまとまりました。
じつはわたし、かねてから、ゆっくり旅をしたいと思っていましたが、このおはなしがまとまれば、一生のんびりと、好きな旅をしながら暮らせそうです。
きのう、そのかたが、契約書をこしらえて、お持ちになりました。さいわいわたしには、ハロウにお住まいのスートローさんという顧問弁護士がおります。わたしは念のため、その契約書をスートローさんに見せました。そうしてほんとうによかったとおもいます。スートローさんは『これはたいへんな書類です。これにサインなさったら最後、おくさんは法的に家からなにひとつ持ちだせないことになります。身のまわりのものまで、なにひとつですよ』と注意なさいました。
そこで、夜になってまた不動産屋のかたがみえたとき、そのことをもうしあげ、こちらは家具だけのつもりだと念をおしました。するとそのかたは、『それではこまります。なにもかもひとつ残らずですよ』とおっしゃるのです。わたしは、たずねました。
『衣類や宝石もですか?』
『いや、そういう身のまわりのものなら、多少はかまわないけど、家から持ちだすときは、すべて目をとおさせていただきます。こんどの買い主は、お金のことでは気前がいいけど、ちょっと気まぐれで、なにかいいだしたらあとにひかない気性なんです。なにもかもそっくり買いとるか、それがだめならやめるという人です』
『それなら、このおはなしはなかったことにしていただきます』
とわたしは、もうしあげました。それでこの話は立ちぎえになってしまいましたが、どう考えてみても、おかしな話なので、わたくし――」
ここで話に、おもわぬ邪魔がはいった。
ホームズは、片手をあげて夫人をだまらせると、大またで部屋を横切り、いきなりドアをさっとひらき、大がらでやせぎすの女の肩をつかんで、部屋のなかにひきずりこんだ。女はまるで、小屋からつかみだされたにわとりのように、ぎゃあぎゃあと見ぐるしくもがきながらはいってきた。
「はなしてください! なにをなさるんです?」
女は金切り声でわめいた。
「まあ、スーザンじゃないの。これはどういうこと?」
「あら奥さま、お客さまがお昼ごはんをめしあがるかどうか、うかがいにまいりましたら、このかたが、いきなりとびかかってきて――」
「もう五分も前から、この女の気配には気づいていましたが、おはなしがおもしろいところにさしかかっていたので、わざとしらん顔をしていたんですよ。なあスーザン、きみはぜんそくの気があるようだね。立ちぎきなんかするには、そののどのぜいぜいが、じゃまになるってことだ」
スーザンは、ふくれっつらで、意外そうに、ホームズをみた。
「それにしても、あなたはだれです? なんの権利があって、あたしをひきずりまわすんです?」
「なに、きみのいる前で、すこしばかり質問したいことがあったのさ。うかがいますが、メーバリー夫人、あなたは、わたしに、相談の手紙をおだしになることを、だれかにおはなしになりましたか?」
「いいえ、ホームズさん、どなたにもはなしておりません」
「お手紙を投函したのは、だれですか?」
「このスーザンですけど」
「そうでしょう。ねえスーザン、奥さまがわたしに相談なさるってことを、きみは手紙か、あるいは使いをだしたかして、だれかに知らせた。だれに知らせたんだい?」
「でたらめいわないで! だれにも知らせてはいません」
「いいかい、スーザン、ぜんそく持ちの人間は、あまり長生きできないものだ。うそをつくと、天国へいけなくなるよ。いったいだれに知らせたの?」
ここで夫人が、さけびだした。
「スーザン、おまえが恥しらずの裏切り者だって、やっとわかったわ。このあいだ、おまえは垣根ごしにだれかとはなしていました。わたしは見てたのよ」
「だれとはなしをしようと、あたしの勝手でしょう」
スーザンは、ふくれっつらでいいかえした。
「だれだかあててやろう。その相手はバーニー・ストックディールだろう?」
とホームズがいった。
「ふん、知ってるなら、聞くことないじゃないの」
「どうかとおもっていたけど、これではっきりした。ところでスーザン、バーニーの黒幕がだれだかおしえてくれたら、十ポンドあげよう。どうだい?」
「むこうさんはね、あんたが十ポンドくれるごとに、千ポンドくださるのよ」
「ほう、よっぽど金のある男なんだな。おや、笑ったね――じゃ、女か。どうだ、ここまでばれたんだから、あとひといきだ。その女の名前をあっさりいって、十ポンドもうけたら?」
「それをいうくらいなら、地獄へおちたほうが、ましだよ」
「これ、スーザン! なんという口のききかたです?」
「ふん、もうおまえさんなんかの世話になんかなるものか! こっちからでていってやる。荷物は、あした取りによこすからね」
スーザンは、肩をそびやかして、ドアのほうへむかった。
「さようなら、スーザン。ぜんそくには阿片安息香(あへんあんそくこう)チンキが、きくよ……」
ホームズは、スーザンがぷりぷりしながらでていくと、きゅうに陽気な顔から、きびしい顔にかわって、言葉をつづけた。
「どうやら、この一味は本気らしい。じつにすばやく、しかも念入りな動きをみせてます。たとえば、おくさんのお手紙の消印は、ゆうべ午後十時になっていた。それでもスーザンは、さっそくそれをバーニーに知らせ、バーニーはまた、それを黒幕に報告して、指令をうけるだけの余裕があった。黒幕は男か女か、さっき、わたしが男といったら、スーザンがにやりとしたようすからみると、どうやら女のようです。
その女は、さっそく対策をたてた。スティーブが呼ばれ、よく朝の十一時には、もうわたしに手をひけと、おどしにきている。じつに、手のまわしかたが、早いんですよ」
「でも、なにが目的なのでしょう?」
「そこが問題ですな。奥さんの前に、この家をもっていたのは、どういう人物ですか?」
「ファーガスンという、引退した船長さんですわ」
「その人物について、なにか、かわった話をきいていませんか?」
「いいえ、なんにも」
「じつはその人が、この家のどこかに、なにかを埋めたのではないかと思ったんです。もっともちかごろは、そういう場合、郵便局の貯金を利用するようですがね。しかし、世の中には変人もいます。またそんな人もいなければ、この世は退屈なところになるでしょう。
そういうわけで、はじめはなにか大切なものが、埋めてあるのだろうと思ったのです。しかしそうなると、買い手がなぜ家具までほしがるのかわからない。ひょっとしたら、奥さんご自身も気づかないまま、ラファエルの絵とか、シェイクスピアのフォリオ初版とか、そんなものをお持ちなのではありますまいね? なにか貴重な文化財が、この家にねむっているんじゃありませんか?」
「いいえ、めずらしいものといえば、クラウン・ダービーの茶器セットぐらいのものですわ」
「それだけじゃ、とても今回の謎の解答にはなりそうもないですね。もしその茶器がほしいなら、これこれの値段でゆずってほしいといえばいいわけです。家の中のものを、なにもかもすべて買い占めることはないでしょう。やっぱりこれは、奥さんは気づいておられないが、気がつけば、けっして手ばなしそうもないもの、そういうものが目的にちがいありません」
「ぼくの読みもおなじだね」
と、わたしは口をはさんだ。
「ワトスンくんもああいいますし、これできまりですね」
「でもホームズさん、それはいったいなんでしょう」
「純粋な心理的分析によって、その点にもうすこし迫ってみるとしましょう。奥さんがこの家にこられて、一年以上になるということでしたね?」
「もう、二年ちかくになります」
「なおさらけっこう。その長いあいだ、奥さんの持ち物をほしがる人は、ひとりもなかった。ところが三、四日前になって、突然、買いたいという人があらわれた。この事実から、どんなことが考えられますか?」
「その品物がなんであろうと、それはつい最近、この家にきたばかりだってことだ」
わたしはまた、口をだした。
「よし、これでまたひとつきまった。では奥さん、なにか最近、この家に届いたものがありますか?」
「いいえ。今年になってからは、なにも買っておりません」
「ふーん! それは不思議だ。では問題は、はっきりしたデータが手にはいるまで、しばらく、なりゆきを見まもることにしましょう。さて、あなたの弁護士さんですが、有能なかたですか?」
「スートローさんなら、たいへん有能なかたです」
「おたくの使用人は、ほかにまだいますか? それとも、いま玄関をばたんとしめてでていった、あのスーザンだけですか?」
「もうひとり、若いメードがおります」
「ではその人を使いにやって、スートローさんにひと晩かふた晩、この家に泊まってもらう手配をなさることですね。用心棒が必要になることが起こるかもしれません」
「用心って、だれにたいする用心ですの?」
「さあ、まださっぱりわかりません。むこうがなにを狙ってるのか、はっきりしないとすれば、反対のほうから攻めて、まず中心人物をつきとめるしかないでしょう。不動産屋の連絡先はわかっていますか?」
「名刺は名前と職業だけで、ヘインズ・ジョンスン、競売ならびに不動産鑑定士となっています」
「商工人名録をみても、おそらく、載っていないでしょう。まともな商売人なら、会社の住所を隠すはずがありません。では、またなにかありましたら、すぐにお知らせください。事件の捜査は、おひきうけします。そして、かならず解決いたしますから、安心してください」
ホールを横切るとき、なにものもみのがさぬホームズの目が、片隅につみあげてある、いくつかのトランクやケースにとまった。それぞれにラベルがついている。
「『ミラノ』に『ルツェルン』か。イタリアからきたものですね」
「死んだ、ダグラスのものです」
「まだ、荷ほどきされていないようですね。いつ着いたんですか?」
「先週とどきました」
「でも、さきほどのおはなしでは……いや、まあいいでしょう。これこそ、謎を解くかぎかもしれない。このなかに、なにか貴重なものがはいっているかもしれません」
「そんなはずはないとおもいますわ、ホームズさん。ダグラスはお給料のほかに、わずかな年金をもらっていただけですもの。貴重な品なんて、もっていたとは考えられません」
ホームズはしばらく考えにふけっていたが、やがて口をひらいた。
「ぐすぐずしていられませんよ。奥さん、これを、二階の奥さんの寝室へ運ばせてください。そして、なるべく早く、なかみをしらべてみることです。あしたまたうかがって、結果を聞かせていただきます」
『三破風館』が厳重な監視のもとにあることは、たしかだった。庭の小道をでて、高い生け垣の角をまがると、あの黒人ボクサーがものかげにたっていた。不意のことだし、さびしい場所でこんな男にでくわすのは、けっして気持ちのいいものではない。ホームズは、すぐポケットに手をやった。
「拳銃をさがしてるんですかい、ホームズさん?」
「いや、香水のびんさ、スティーブ」
「おまえさんも、おかしな人だ」
「わたしに目をつけられたら、おかしな人だなどといっていられないよ、スティーブ。けさ、注意しておいたはずだぞ」
「じつはそのことだけど、ホームズさん。あれからようく考えてみたんだけど、パーキンズのはなしは、もうこれっきりにしてもらいてえ。そのかわり、おれにできることなら、なんでもお手伝いしますぜ」
「なるほど。それならこの一件で、きみたちの黒幕になってるのがだれか、聞かせてもらおうか」
「知りませんよ、ホームズさん! けさもいったとおり、おれはなにも知らねえんだ。バーニーの兄きにいわれたとおり、やってるだけなんだから」
「よし、じゃあいっとくがな、スティーブ。この家の奥さんはもとより、この家のものはすべて、ぼくの保護のもとにあるんだ。それをわすれるなよ」
「わかりました、ホームズさん。おぼえときますよ」
歩きだしながら、ホームズはいった。
「どうやら、自分のしりに火がつきそうになって、急におびえはじめたようだな。黒幕のことだって、知っていれば、きっと口を割っただろう。
ともかく、ぼくはスペンサー・ジョン一味のことや、スティーブがそのひとりであることを知ってて、よかったとおもうよ。ところでワトスンくん、これはどうもラングデール・パイクがおとくいの事件らしいから、ぼくはパイクに会いにいってくる。帰るころには、問題がもっとはっきりしてるだろう」
その日は、そこでホームズと別れたきりになったが、そのあとホームズが、どこでどうすごしたか、想像はついた。ラングデール・パイクは、社交界のもめごとや、ひみつについては生き字引きのような男だ。このなまけものの変人は、毎日、目がさめているあいだは、セント・ジェームズ街にあるクラブの出窓の内がわにがんばり、大ロンドンすべてのうわさばなしの、受信局と発信局をつとめている。
そうしてあつめた情報を、大衆むけの低俗な赤新聞に書いて、毎週数千ポンドの金をかせぐといわれている。いろいろなものが、いりまじり、どろどろとしたロンドンの生活の底に、もしなにか奇怪な渦巻きでも生じれば、それはたちまち、この人間ダイヤルによって、表面から機械的な正確さでキャッチされてしまうのだ。
ホームズは、このラングデールにそれとなく情報をまわし、ときどきむこうからも、おかえしの情報をもらっている。

あくる朝早く、ベーカー街の部屋へいってみて、わたしは友人のようすから、万事うまく運んでいるように思えたのだが、意外にも、すぐそのあとで、きわめておもしろくないできごとにおそわれた。というのは、つぎのような電報がまいこんできたのだ。


至急オイデコウ 昨夜メーバリー夫人宅ニ夜盗ガ侵入 目下警察ガ調査チュウ スートロー


ホームズは、ひゅっと口笛をならした。
「いよいよ大づめにきたな。思ってたより早かった。この事件の背後には、よほど強大な力がはたらいているようだ。これまでにいろいろわかってきたから、べつに意外じゃないがね、ワトスンくん。このスートローという発信人は、むろんメーバリー夫人の弁護士だろうが、こんなことなら、いっそゆうべはきみに泊りこんでもらえばよかった。失敗したよ。この弁護士は、あまり頼りになりそうもない。さてこうなったら、もう一度ハロウ・ウィールドへ出向くしかないよ」
いってみると、きのうまで静かでおちついていた『三破風館』が、すっかりかわったようすになっていた。
庭の出口には、野次馬が何人かあつまり、ふたりの警官が、窓やゼラニウムの花壇をしらべていた。家にはいると、白髪の老紳士がでてきて、弁護士だと名のった。
それと一緒に、もうひとり、せかせかした赤ら顔の警部があらわれ、むかしからの知り合いのように、あいさつをした。
「やあ、ホームズさん。これは、あなたが顔をだすほどの事件じゃありませんぜ。ただのつまらない窃盗で、われわれ田舎警察だけで解決できます。専門家のおでましを願う必要はありません」
「ほう、それなら安心だ。ただの、つまらない窃盗ということですね?」
「そのとおりです。もうホシはわかっているから、すぐにつかまえてごらんにいれますよ。バーニー・ストックデールの一味で、黒人の大男――このあたりで、ちかごろよく姿をみられてるんです」
「それはいい! で、盗まれたものは?」
「たいしたものは、盗まれていないんですな。メーバリー夫人をクロロフォルムでねむらせて、家のなかを――ああ、ちょうど奥さんがでてこられました」
きのうあったばかりの夫人が、きょうはまっさおな顔で、元気なく、若いメードの肩につかまって、部屋にはいってきた。
夫人は、力なくほほえみながらいった。
「ホームズさん、せっかくご忠告をいただきながら、こんなことになってしまいました。スートローさんに、お手数をかけたくないと思いまして――なんの用心もしなかったのです」
「わたしは、そのことを、けさはじめて、うかがったのです」
と、弁護士がいいわけした。
「ホームズさんがせっかく、だれかに泊まってもらうようにと忠告してくださったのに、それに従わなかったので、たちまち、ばちがあたりました」
「たいへんお顔の色がわるいようですが、ゆうべのことをお話していただくのは、ご無理でしょうか?」
ホームズはいった。
「そのことは、すっかりここに書きとめてありますよ」
警部がぶあつい手帳をたたいた。
「それはそれとして、もし奥さんさえ、あまりお疲れでなければ――」
「ええ、でも、とくにおはなしするほどのこともございません。もちろん、あの恥しらずのスーザンが、手引きしたのだとおもいます。ゆうべの男たちは、家のなかのようすを、なにからなにまで知っていたようです。わたくし自身は、クロロフォルムをしみこませた布で、口をふさがれたまでは、おぼえておりますけど、それきり、どのくらい気を失っていたかわかりません。気がついてみると、ベッドのそばに男がひとりいて、もうひとりが息子の荷物から、なにかをとりだして、たちあがるところでした。荷物は一部ひらかれて、なかみが床にちらばっていました。わたくしは、おもわずとびおきて、逃げだそうとする男の腕にしがみつきましたの」
「あぶないことをしたものですな」
と、警部がいった。
「だけど、すぐふりはなされて、もうひとりの男にうしろから、殴りつけられました。それからは、なにもおぼえておりません。メードのメアリーが、物音で目をさまして、窓から大声で助けを求めました。それでまもなく、警察のかたがかけつけてくれたんですけど、そのときはもう、悪者たちは逃げたあとでした」
「なにをとられましたか?」
「ねうちのあるものは、なにもとられていないとおもいます。息子のトランクには、貴重品などはいっているはずがありませんから」
「犯人は、なにか手がかりになるものを、残していきませんでしたか?」
「わたしがしがみついたとき、犯人から夢中でもぎとったのか、紙が一枚、くしゃくしゃになって、床に落ちていました。それに、息子の筆跡で、なにか書いてありました」
「だから、たいして役にたたないということですよ。犯人の書いたものだというなら、話はべつですが」
と警部が口をはさんだ。
「いや、まったく。常識人はこまるよ」
そうつぶやいてから、ホームズは警部にいった。
「それにしても、ちょっとだけ見てみたい気がしますね」
警部は手帳のあいだから、折りたたんだフールスキャップ判の紙をとりだして、得意そうにいった。
「ホームズさんも、ぜひこの点を参考にしてください。これはわたしが、二十年の経験によってえた教訓です。こまかいものでも、指紋のようなものが出てくることがありますから」
ホームズはその紙をうけとって、ていねいにしらべた。
「警部さん、これをどう思います?」
「わたしのみるところでは、なんだかへんな小説の結末みたいな感じですな」
「ええ、たしかに、風変わりな物語のおしまいのようですね。ごらんのように、ページの上部に番号がふってある。この数字は二四五ですが、ほかの二百四十四ページ分は、どうなったんでしょう?」
「もちろん、犯人が持ち去ったんでしょうな。けっこうな獲物にありついたものだ!」
「こんなものを奪うために、わざわざ家へ押しいるなんて、おかしいですね。その点でなにか、思いあたることはありませんか、警部さん?」
「そうですな。急いだので、そこにあったものを、手あたりしだい持って逃げたんでしょう。うまくやったと、いまごろ大よろこびしてますよ」
「それにしても、なぜ息子のものを、盗んだりするのでございましょう?」
メーバリー夫人が首をかしげた。
「さよう、階下にめぼしいものがないので、二階へあがってみたんじゃないですか? わたしはそう思ったのですが、ホームズさんのお考えはいかがですか?」
「よく考えてみないと、なんともいえませんね、警部さん。ちょっとワトスンくん、この窓ぎわにきてみたまえ」
ホームズは窓ぎわにたち、紙片に書かれた文字を読みあげた。文章は途中からはじまっていた。


……切り傷や打撲傷で、顔は血まみれだったが、心の傷の出血にくらべれば、そんなものは、なんでもなかった。おもわず窓を見あげて、そこにあの愛らしい顔、かれが命をかけて愛してきたあの美しい顔が、はずかしめを受けて、あえぐかれの姿をみおろしていると気づいた、そのときの胸の痛みにくらべれば、なんでもなかった。しかも彼女は、ほほえんでいた。
おお、神よ! みあげるかれを、無情な悪魔のようにみおろして、彼女はほほえんでいた。そのときついに、かれの愛も死に絶え、憎しみが生まれた。男は、目的なしに生きられないのだ。あなたをだきしめることが、ゆるされぬならば、ああ、わたしの愛した人よ、そのときは、あなたを破滅させ、完全に復讐をとげることだけをめざして、わたしは生きていくだろう。


その紙を警部にかえしながら、ホームズはほほえんだ。
「文法がみだれていますね。気がつきましたか? とちゅうで、『かれ』がきゅうに『わたし』にかわっています。筆者が書きながら、つい夢中になり、最高潮にたっすると、自分が主人公のつもりになってしまったんですよ」
「いずれにしても、あまり役にたちそうなものじゃないようですな」
そういいながら、警部は紙片をもとどおり手帳のあいだにはさんで、ホームズをみた。
「おや、もうお帰りですか、ホームズさん?」
「あなたのような腕ききのかたが事件の担当なら、わたしなどが口をだす余地はないでしょう。ときに、メーバリー夫人、たしかあなたは、旅行にでたいとおっしゃってましたね?」
「ええ、それが一生の夢ですわ、ホームズさん」
「どちらへ、おでかけになりたいんです? カイロ、マデイラ、それともリヴィエラですか?」
「お金さえあれば、世界を一周してみたいですわ」
「なるほど。世界一周はいいですね。では失礼します。夜までに、なにか、ご連絡するかもしれません」
ホームズとわたしが窓の外をとおるとき、警部がにやにやわらいながら、しきりに首をふっているのがみえた。その笑顔は、こういっているようだった。
「利口な男っていうのは、かならずどこか、おかしなところがあるものさ」

ふたたび、騒々しいロンドンの中心街にかえりつくと、ホームズがいった。
「さてワトスンくん、ぼくらのささやかな旅も、いよいよ終わりにちかづいた。ついでに、あとひとふんばりして、このまま事件を終わらせたほうがいいとおもう。それにはきみも一緒にきてくれるとありがたい。なにしろ、こういう取り引きには、証人がいたほうが安全だ。相手は、くせもののイサドラ・クラインだからね」
わたしたちは辻馬車をひろって、グローブナー・スクエアへいそいだ。それまで、なにか考えにふけっていたホームズが、馬車のなかで、むっくり身をおこした。
「ところでワトスンくん、きみにはもう、これがどんな事件か読めてるんだろうね?」
「いや、残念ながらわかってるのは、この事件の黒幕の女性に、会いにいくのだということだけさ」
「そうか! でもイサドラ・クラインという名をきけば、なにか思いあたるだろう。むろん、あの有名な美人さ。あれと肩をならべるほどの美女は、まずいなかったね。
純粋のスペイン人で、十六世紀に中南米を征服した有力者の家がらだ。一家は、代々ブラジルのペルナンブーコで、総督をつとめてきたそうだ。イサドラ自身は、ドイツ人のクラインという老年の砂糖王と結婚して、まもなく世界で、もっとも美しい、もっとも金持ちの未亡人になった。それから、ひまと金にまかせて、勝手気ままなおこないをはじめた。イサドラは愛人をたくさんこしらえたが、そのひとりが、ロンドン社交界のスターともてはやされる、ダグラス・メーバリーだった。
ダグラスにとっては、イサドラとの恋愛は、たんなる遊びではなかった。ダグラスは社交界で女たちとあそびまわる、いいかげんな男ではなく、いったん女を愛したら、自分のすべてをあたえるかわりに、女のすべてを要求するという、強くて、誇り高い男だった。いっぽう女のほうは、小説によくある『つれない美女』だった。好きになった男でも、すぐにあきて、それきりもう見向きもしない。それで相手がまごついていると、つめたく、鋭いことばで、相手をつきはなすのだ」
「それじゃ、あれはダグラス自身の物語だったのか」
「やれやれ、やっとわかってきたようだね。いまイサドラは、自分の息子ぐらいのローモンド公爵と、結婚しようとしているらしい。年齢のちがいだけなら、公爵の母上も目をつむってくれるかもしれないが、ダグラスとの恋愛事件があかるみにでたのでは、話はこわれるだろう。そこで、どうしても――おや、ついたぞ」
それは、ウェストンでも一等地の角にたつ大邸宅だった。機械じかけのような男の使用人が、わたしたちの名刺をうけとってひっこんだが、やがてもどってくると、「おくさまはお留守でございます」といった。
「じゃ、お帰りまで待たせてもらいましょう」
いやな顔もせずに、ホームズがいった。
すると、たちまち、機械じかけのような顔つきがくずれた。
「お留守ともうしあげたのは、あなたさまにだけお留守という意味でございます」
「よし。これで待つことはないと、わかったわけだ。すまないがきみ、これを奥さまにわたしてもらいたい」
ホームズは手帳の一ページを裂きとると、二、三のことばを走り書きして折りたたみ、男にわたした。
「なんて書いてやったんだい、ホームズ?」
わたしはたずねた。
「なあに、『では、警察に連絡しましょうか?』と書いただけさ。これでだいじょうぶ、なかに通すとおもうよ」
そのとおりだった。しかもおどろくほど早く、効果があらわれた。一分後には、わたしたちは、まるでアラビアンナイトでも思わせる、りっぱな飾りつけの広い客間へ通された。室内は、ところどころにピンクの電灯をかざって、わざとうす暗くしてあった。
どうやらここの女主人も、『絶世の美女もうす暗いほうを好む』という年齢になっているようだ。
わたしたちがはいっていくと、女主人がソファから立ちあがった。すらりと高い体つきは、女王のような誇りにあふれて、みごとなプロポーションをたもち、美しい仮面のような顔をしていた。そのスペイン風の美しい目が、わたしたちをじろりと見た。
「突然おしかけてくるなんて、失礼でしょう? それに、このおかしな伝言はなんですの?」
イサドラは、例の紙片をつきつけながら、いきなり食ってかかった。
「説明の必要はないでしょう。わたしは、あなたが知性の高いかただと思っていますから、説明などしたら、かえって失礼になります。もっとも、正直にもうしますと、その知性もこのところ、少々あやしくなっているようですが」
「たとえば、どんなところがですの?」
「ごろつきを、差しむけておどせば、わたしがおそれて手をひくと思っておいでのようなところですよ。危険をおそれていては、わたしのような商売は一日もできません。それで、こうなったのは、あなたのせいなんです。おどされたからこそ、メーバリーくんのことを、洗ってみる気になったんですから」
「なんのお話なのか、さっぱりわかりません。わたくしがごろつきを雇って、なにをしたとおっしゃいますの?」
ホームズは、うんざりしたように背をむけた。
「やっぱりあなたの知性は、あやしくなっているようですな。では失礼します」
「お待ちなさい! どこへいらっしゃるの?」
「スコットランド・ヤードへね」
部屋の戸口までいかないうちに、イサドラが追いついてきて、ホームズの腕をつかんだ。一ションのうちに、鋼鉄からビロードのようにやわらかい女に、変身してしまった。
「まあ、おふたりとも、どうかこちらへ、おかけください。じっくりお話しいたしましょう。ホームズさん、あなたには、隠しごとなどしないほうがよろしいようですわ。あなたは、紳士としてのお心がけがおありになるかたです。女性の直観で、すぐわかります。わたくし、おともだちのつもりで、なにもかももうしあげますわ」
「こちらは、そのようなお約束はいたしかねますよ、マダム。わたしが法律をうごかしているわけじゃありませんが、これでも正義の代弁者のつもりでおります。一応おはなしをうかがったうえで、こちらとしてとるべき道を、もうしあげましょう」
「あなたのような勇気のあるかたを、おどそうとするなんて……ほんとうに愚かなわたくしでした」
「いや、あなたが愚かだったとすれば、ああいうごろつきに、あとでゆすられたり、裏切られたりするかもしれない弱点を、握られてしまったことですよ」
「いいえ、それはちがいます! わたくしだって、それほど愚かじゃありません。なにもかも、おはなしするとお約束したから、もうしあげますけど、バーニー・ストックデールと、奥さんのスーザンのほかには、この問題でお金の出どころを知っているものは、ひとりもおりません。それにあの夫婦のことなら、だいじょうぶです。こんどが初めてではありませんし……」
イサドラはにっこり笑って、小首をかしげてみせた。
「なるほど、試験ずみというわけですか」
「ふたりとも、けっしてほえずに、獲物を追いかける優秀な猟犬です」
「そういう猟犬にかぎって、いずれは飼い主の手にかみつくものです。ふたりとも、その前にこんどの窃盗事件で、逮捕されることになるでしょうがね。すでに警察が追いかけていますよ」
「そのときは、そのときですわ。たとえ、あのふたりがつかまっても、ふだんたっぷりお金をはらっているのだから、わたくしの名が出るようなことはございません」
「わたしが訴えでないかぎりはね」
「あら、あなたは紳士ですもの、女の秘密をあばくようなことは、なさいませんわ」
「とりあえず、あの原稿をおかえしいただきましょうか」
イサドラは小さな声をあげて笑うと、暖炉に歩みよった。そして火かき棒をとり、うずたかく積もった灰をくずしながらいった。
「これをおかえししますの?」
わたしたちの前にたって、いどみかかるようにほほえむイサドラのすがたは、あでやかでなまめかしかった。わたしは、ホームズが対決する犯罪者のなかでも、これほどあつかいにくい相手は、めったにいないという気がした。ところがホームズは、このようなことに、まったく心を動かされなかった。
「これで、あなたの運命はきまりました。あなたはたしかにすばやいが、今回ばかりは、ちょっとやりすぎたということです」
ホームズは冷ややかにいった。
イサドラは、がらりと火かき棒を投げすて、声をはりあげた。
「なんてわからず屋なんでしょう! ここに書かれていたことを、すっかりお聞かせしましょうか?」
「いいえ、そのことなら、うかがうまでもなくわかっています」
「でもホームズさん、わたくしの立場から、それを考えてくださらなきゃいけませんわ。一生の望みが、あと一歩というところで、消えかかっている女の立場を、理解してくださらなければねえ。そういう場合、わが身をまもろうとするのが、いけないことでしょうか?」
「しかし、もともとは、あなたに原因があるんですよ」
「ええ、それはみとめております。ダグラスは愛すべき青年でした。でも、わたくしの計画にあてはまらなかったのです。ダグラスは結婚を望みましたのよ、ホームズさん、無一文の平民のくせに! わたくしが承知しないとわかると、ダグラスはしつこくなりました。いったん与えられたからといって、いつも自分がわたくしを独占できると、勝手に思いこんでいたようです。たまったものではありません。それで、とうとうわたくしは、ダグラスに本心を知らせることにしたのです」
「ごろつきをつかって、この家の窓の下でダグラスを襲わせたわけですね?」
「なんでもよくご存じですこと。おっしゃるとおりですわ。バーニーとその手下に、ダグラスを追っぱらわせましたの。たしかに、いくらか手荒だったことはみとめます。でも、それでダグラスがなにをしたとお思いになります? あれが、かりにも紳士といわれる人のすることでしょうか。なんと、わたくしとの関係を、なにもかもそのまま小説に書いたのです。もちろん、そのなかでは、わたくしがオオカミ、あの人が子ヒツジです。いちおう仮名になっておりますけど、なにもかもくわしく書いてあるので、だれとだれのことか、ロンドンの人間ならすぐにわかってしまいます。こんなやりかたをして、いいものでしょうか、ホームズさん?」
「まあ、書くのは本人の自由でしょう」
「きっとイタリアの空気にかぶれて、趣味も、むかしのイタリアふうの残酷なものになったのです。そのような手紙をよこして、小説の写しをおくってきました。わたくしを不安におとしいれ、苦しめようというねらいなのです。原稿は二部あって、一部はわたくしに、もう一部は出版社に送るつもりだということでした」
「出版社むけのものが、まだ送っていないと、どうしてわかりました?」
「その出版社がどこだか、知っておりました。じつは、ダグラスが小説を書いたのは、これが初めてじゃありません。そこで出版社に問いあわせて、イタリアからはまだなんの連絡もないことが、わかりました。そこに、ダグラスが急に亡くなったという知らせが飛びこんできたのです。
しかし、もうひとつの原稿が、この世にあるかぎり、わたくしは安心していられません。もちろん、その原稿はほかの遺品と一緒に、おかあさまのところへ送り届られるでしょう。
そこで、ギャングたちを使うことにしました。そのなかのひとりが、メイドとしてあちらのお家に住みこみました。わたくしとしては、公正な手段で目的をとげたかったんです。そのように努力しましたの。あの家を家財道具ぐるみそっくり、買いとる用意もありました。あちらのおっしゃる値段で、買いとるつもりでおりました。
そういう努力が、ぜんぶむだになったので、いたしかたなく非常手段にうったえただけのことです。どう、お思いになりますか、ホームズさん? ダグラスに対する仕打ちが、ひどすぎたとしても――そのことではわたくし、ほんとうにわるかったと後悔しています。でも、これからのわたくしの一生が、台なしになろうというときに、ほかにどのような方法がとれたでしょうか」
シャーロック・ホームズは肩をすくめた。
「さて、またしても、こんなに重い罪をみのがすことになりそうだな。ところで、乗り物もホテルも、すべて一等クラスで、世界一周旅行をするとしたら、費用はどのくらいかかるでしょう?」
イサドラ・クラインは、あっけにとられ、目をまるくしてホームズをみつめた。
「五千ポンドもあれば、たりるでしょうか?」
「ええ、まあそんなところでしょう」
「よろしい。では、その金額の小切手をきってください。わたしがメーバリー夫人に届ます。あなたには、あの人をすこしばかり保養させてあげる義理がありますよ。それはそうとして、マダム――」
ホームズは、警告をするように、指をつきつけながらいった。
「用心なさい。用心しないといけませんよ! するどい刃物を、もてあそんでばかりいると、いつかはその美しい手が怪我をすることになりますからね」
サセックスの吸血鬼

ホームズは、最終便でとどいた手紙を、注意ぶかく読んでいた。そのうち、くすくすと、かわいた笑いをもらした。ホームズとしては、これがいちばん、声をたてる笑いにちかいのだ。そして、くすくす笑いながら、その手紙をわたしのほうへ投げてよこした。
「現代と中世、現実ととんでもない空想とが、いりまじってるということなら、これなんかきわめつきだね。ワトスンくん、きみはどう思う?」
わたしはその手紙を読んだ。


オールド・ジュアリー四十六番地
十一月十九日
吸血鬼の件について
拝啓、このたびわたしどもの事務所のお客さま、ミンシング・レーンの茶仲買商ファーガスン・ミュアヘッド商会のロバート・ファーガスンさんより、吸血鬼に関するご相談をうけました。しかし、わたしどもの事務所は、機械類の評価・査定を専門とするもので、吸血鬼のような問題は、専門外だと思います。そこでファーガスンさんには、あなたをおたずねして、その件をご相談になるのがよいでしょうと、お答えしておきました。なおわたしどもの事務所は、マティルダ・ブリッグズ事件の解決に成功なさったあなたのご手腕を、いまなお記憶しているものであります。敬具
モリスン・モリスン・アンド・ドッド法律事務所 担当者 E・J・C


「マティルダ・ブリッグズといったって、若い女性の名前じゃないんだぜ、ワトスンくん」
ホームズはなつかしそうな口ぶりで、話をつづけた。
「スマトラの大ネズミと関係がある、船の名なんだ。この話については、まだいまのところ、世間に知らせるつもりがないんだがね。しかしそれにしても、吸血鬼とはおどろいたよ。専門外というなら、われわれにだって専門外だ。
まあ、どんな仕事でも、退屈してるよりはましだが、なんだかグリム童話の世界にでも、迷いこんでしまったような気がするね。ワトスンくん、すまないが、ちょっと手をのばしてくれ。Vの項目になにがあるか、しらべてみようじゃないか」
わたしは、うしろにそりかえって、ホームズのいう分厚い索引帳を、ひっぱりおろした。
ホームズは索引帳をひざのうえにひろげると、ゆっくりと、なつかしそうに目を走らせて、そこに書きしるされた古い事件の記録や、これまで一生をかけて、長いあいだ溜(た)めてきた、さまざまな情報を読みかえした。
「グロリア・スコット号の航海か。いやな事件だったな。これは、たしかきみも書いていたはずだが、あまり、いいできばえではなかったようだぜ。
つぎは、偽造犯人のビクター・リンチ。有毒トカゲ、つまりアメリカドクトカゲ。こいつは手ごわい事件だったな! それからサーカスの美女、ビットリア。金庫破りのバンダービルト。クサリヘビ。ハマースミスの怪人ビガー。これはこれは! やっぱりこの索引は、いいね。おろそかにはできないよ。
いいかい、ワトスンくん? ハンガリーの吸血鬼伝説というのがある。それからこっちには、トランシルバニアの吸血鬼というのもあるよ」
ホームズは、しばらく熱心にページをくり、じっくり読んでいたが、やがてがっかりしたように鼻をならして、その索引を投げだした。
「くだらないよ、ワトスンくん、全部くずだ! 死体が墓からぬけだして歩きまわり、心臓に杭をうちこまなきゃ死なないなんて、そんなことがあるものか。頭がおかしいとしか、いいようがないね」
「しかし、ホームズ。吸血鬼といったって、死人ときまったものでもあるまい? 生きている人間にも、そういう習性をもったのが、いるかもしれない。たとえば若さを保つために、老人が子どもや若者の血をすするという話を、わたしは、どこかで読んだことがある」
「なるほど、それはそうかもしれない。ここにでている伝説のひとつも、ちょうどその話を裏付けるものだ。しかし、そんなことを、まじめにとりあげるべきだと思うかい? わが探偵事務所は、しっかりと地に足をつけて立っているのだ。今後もそうでなければならない。世の中は広いんだ。幽霊まで相手にしてはいられないよ。
残念ながら、このロバート・ファーガスン氏の相談は、本気でとりあげるわけにはいかないね。どうやら、この手紙がファーガスン氏からきたものらしい。読めば、なにを悩んでるのか、すこしははっきりするだろう」
ホームズは、第一の手紙に気をとられて、テーブルのうえに置いたままになっていた、もう一通の手紙をとりあげて封をきった。はじめは、ひやかすようなほほえみを、顔に浮かべながら読んでいたが、そのうち、ほほえみがきえて、手紙に心を強くひかれ、精神を集中する表情にかわっていった。
読みおわるとホームズは、その手紙を手にしたまま、しばらくじっと考えこんでいたが、ふとわれにかえったように、口をひらいた。
「ランバリーのチーズマン屋敷か。ランバリーって、どこだっけ、ワトスンくん?」
「サセックス州だよ。ホーシャムの南のほうだ」
「遠くはないな。それでチーズマン屋敷っていうのは?」
「あのあたりは、よく知ってるよ、ホームズ。古い屋敷が、いっぱい残っているところだ。屋敷にはそれぞれ、何世紀もまえに建てた人物の名前がついている。オードリー荘、ハービー館、キャリトン屋敷といったぐあいさ。それを建てて住んだ一族は、とうに忘れられてしまっても、名前だけは家とともに残っているわけだよ」
「そのとおりだ」
とホームズは冷ややかにいった。これはプライドが高くて、負けずぎらいの性格からくるもので、新しい知識に出会うと、たちまちそれを要領よく頭のなかにおさめるくせに、それを教えてくれた相手に感謝することが、ほとんどないのである。
「いずれ、この事件がかたづくころには、ランバリーのチーズマン屋敷についても、もっとくわしく知るようになるだろうがね。手紙はやっぱりロバート・ファーガスンからだったよ。この男、きみをまえから知っているとかいってるぜ」
「え? ぼくを?」
「まあ、読んでみたまえ」
ホームズは、手紙をわたしに渡した。便箋の一番上に、いまわたしたちの話にでた住所がすりこまれていた。


シャーロック・ホームズ様
わたしは顧問弁護士から、あなたにご相談するように薦められましたが、問題の性質上、はっきりしないところがあるため、どのようにお話したらよいか困っております。
わたしはある友人の代理人として、お手紙をさしあげるものですが、この友人は五年ほどまえに結婚しました。相手は硝石(しょうせき)の輸入を通じて知りあった、ペルーの貿易商のむすめです。
この女性は非常に美しい人ではありますが、もともと外国の生まれのうえ、宗教がちがうこともあって、夫婦のあいだで、ことごとに、趣味や考えかたが違うことが多く、いつしか友人は妻にたいする愛情もさめ、この結婚は失敗だったと考えるようになったのです。
友人は妻の性格のなかに、まったく夫の自分が立ちいることのできない面があることを、感じたものと思われます。この事実は、夫人が男にとって最高の愛情ぶかい妻であり、どこからみても、夫に心からの愛をささげているとしか見えないだけに、いっそう痛ましいものでした。
さて用件は、お目にかかって、詳しくもうしのべたいと思いますが、このお手紙をさしあげるのは、まずだいたいの事情を説明し、はたしてあなたがこの問題をとりあげてくださるかどうか確かめるためです。
じつは、この夫人が最近、日ごろの優しい、おだやかな人がらとうって変わり、奇怪な態度を示しはじめたのです。
友人はこの結婚が二度めで、亡くなった先妻とのあいだに、男の子がひとりおります。今年十五歳になりますが、とても愛らしく、心のやさしい少年です。ただ幼いころ、不幸な事故にあい、体がすこし不自由です。
ところがこの気の毒な少年を、夫人がわけもなく殴りつけている現場を、二度も目撃されました。一度などはステッキで殴りつけたため、腕に大きな赤あざが残ったほどです。
しかし、これも、生後一年にもならない、自分の愛らしい赤んぼうに対するしうちにくらべれば、とるにたらないものです。いまからひと月ばかりまえ、乳母がほんの二、三分、この赤んぼうのそばを離れたことがありました。すると、ふいに赤んぼうが、悲鳴のような声でけたたましく泣きだしたのです。
乳母が、いそいで部屋にもどってみると、夫人が赤んぼうにおおいかぶさり、どうやら首のあたりに噛みついているようです。
よく見ると、首に小さな傷ができて、血が流れているではありませんか。乳母はおどろいて、すぐに主人を呼ぼうとしましたが、それだけはやめてくれと、夫人は泣かんばかりにたのんで、そのうえ口どめ料として、五ポンドを乳母に握らせました。しかも事情については、なんの説明もしないで、とにかくその場は、それでおさまったわけです。
しかしながら、この事件で乳母はショックをうけ、それ以来、夫人の行動に油断なく目をくばり、かわいらしい赤んぼうの身に、いっそう注意をはらうようになりました。
ところが、乳母が夫人を監視しているのとおなじように、母親のほうでも乳母を見はっているらしく、乳母がやむをえず、赤んぼうのそばをはなれるのを待って、赤んぼうにちかづこうとしているように思われます。
夜も昼も、乳母は赤んぼうに対する守りをゆるめませんでしたが、いっぽう母親のほうも、日夜、じっと目を光らせ、子ヒツジを狙うオオカミのように、すきをうかがっているようなのです。
とても信じられないと思われるかもしれませんが、なにとぞ真剣にお考えください。なにしろ、ひとりの赤んぼうの命がおびやかされ、夫が正気を保っていられるかどうか、あやうくなっているのは事実なのです。
そして、ついに恐れていた日がやってきました。乳母は、もはやこの出来事を、主人に隠しておけなくなったのです。昼も夜も神経をすりへらし、ついに耐えられなくなって、なにもかも主人にうちあけてしまったのです。
おそらくいま、あなたがお考えになっているように、主人にとっても、乳母の話はまったくありえないこととしか思えませんでした。
友人が知っているのは、愛情こまやかな、やさしい妻であり、さきほどのべたように、子どもを叩いていじめたほかは、母として申し分のない女性です。それがどうして、かわいいわが子を、自分の手で傷つけたりするでしょう。
きっと、おまえは夢でも見ているのだろう。そんな疑いをかけるのは、おかしい。今後、女主人をそのようにわるくいうことは許さない。そういって友人は、乳母をたしなめました。
ところが、そんな話をしているとき、突然また赤んぼうのけたたましい泣き声が、聞こえてきたのです。乳母と友人は、おどろいて育児室へかけつけました。
すると、どうでしょう――ああ、ホームズさん、そのときの友人の気持ちをお考えください。ゆりかごのそばにひざまずいていた妻が、夫を見て立ちあがりました。ああ、むきだしになった赤んぼうの首から血が流れ、シーツをまっかに染めているではありませんか。
友人は恐怖の叫びをあげながら、夫人の顔を明るいほうへむけてみると、口のまわりが血だらけです。もはや、疑う余地はまったくありません。この母親が、わが子の血を吸ったのです。
事情は、だいたいこのようなものです。いま、夫人は自室に閉じ込められていますが、ひとこともいいわけをしていません。夫はもう半狂乱です。友人にしても、わたしにしても、吸血鬼については、ほとんど知りません。どこか遠い国の、きみのわるい夢のような物語だとばかり思っておりましたのに、このイギリスのサセックスのまんなかで、ほんものの吸血鬼に出会うとは!
くわしくは、明朝お目にかかってお話したいと思いますが、お会いいただけるでしょうか。
もし、お聞きとどけいただけますなら、どうかランバリーのチーズマン屋敷のファーガスンに、電報でお知らせください。そうすれば、わたしが明朝十時には、そちらにうかがいます。敬具
ロバート・ファーガスン

追伸――ご友人のワトスンさんが、ブラックヒース・クラブのラグビー選手だったはずですが、当時わたしもリッチモンド・クラブでスリークォーターをいたしておりました。わたしの自己紹介といえば、まあ、これくらいのものです。


わたしは、この手紙を置きながらいった。
「もちろん、この男ならよくおぼえてるよ。大男のボブ・ファーガスンは、リッチモンドで最高のスリークォーターだった。それに、やさしい人間だったが、友人のことでこんなに心配するなんて、やっぱりあの男らしい」
ホームズは、なにやら考えながら、わたしをながめて首をふった。
「人というのは、わからないものだねえ、ワトスンくん。きみにしても、まだまだぼくの知らない面が、いろいろありそうだ。じゃあすまないが、電報を一通たのむよ。『アナタノ事件ノ調査ヲ、ヨロコンデヒキウケル』とね」
「あなたの事件でいいのかい?」
「わが探偵事務所が、頭のにぶい人間ぞろいだなんて、思われたくないからね。もちろん、これはファーガスン本人の事件だよ。その電報をうったら、ひとまず問題は、あすの朝までおあずけにしよう」

翌朝の十時きっかりに、ファーガスンが大またではいってきた。わたしがおぼえているファーガスンは、長身で、岩を切りとったようにたくましく、しなやかな手足をもち、すばらしい運動神経にめぐまれ、そのスピードで、相手チームのバックスを、きりきりまいさせたものだった。
その全盛期を知っている、すぐれた運動選手の衰えはてたすがたを目のまえで見ることほど、胸が痛むものはこの世にないだろう。
かつてのみごとな体格は、いまや見るかげもなく、光りかがやいていた金髪は、すっかり薄くなり、背中もいくらかまがっている。きっと、ファーガスンもわたしを見て、おなじ思いにうたれたのではなかろうか。
でも声には、あいかわらず深みがあり、張りもあった。
「やあ、ワトスン。いつだったか、オールド・ディア・パークで、きみをロープごしに感客席にたたきこんだことがあったが、あのころの面影はまったくないね。ぼくも、だいぶ変わってると思うが、ことにこの二、三日、急にふけこんでしまったんだ。
ホームズさん、電報を拝見して、いまさら友人の代理人のふりをしてみても、むだだということがわかりましたよ」
「なにごとも、ありのままがいちばんです」
ホームズはいった。
「おっしゃるとおりです。しかし、自分が保護し、助けてやらなければならない女性の問題になると、これはなかなか話しにくいものです。それにしても、わたしはいったい、どうしたらいいでしょう。こんな話を、警察にもちこんだところで、まともにとりあげてもらえるとは思えないし、そうかといって、子どもたちだけは、どんなことがあっても、守らなければなりません。
ホームズさん、これは狂気でしょうか? それとも妻に、わるい血でも流れているのでしょうか? これまでに、似たような事件をあつかったことがおありですか? お願いです、どうか、お知恵をかしてください。わたしは、もうどうしたらよいかわからなくて、途方にくれるばかりです」
「そうでしょうとも、ファーガスンさん。とにかくこちらにおかけになり、気をとりなおして、わたしの質問にお答えください。わたしは、けっして途方にくれてもいませんし、かならず謎を解明する自信があります。
まずおたずねしたいのは、どのような処置をおとりになったかということです。奥さんは、その後もお子さんたちに、接しておいでですか?」
「いま思いだしても、ぞっとします。ホームズさん、妻は、じつに愛情こまやかな女性なのです。身も心もすべてをあげて、わたしを愛しています。そういう妻が、わたしにあの恐ろしい、とても信じられない秘密を知られたことで、大きなショックを受けたようです。
どんなに非難されても、いいわけもせず、口をとざしたまま、ただじっと絶望的な目で、うったえるようにわたしを見つめるばかりです。そのうち、自分の部屋にかけこんで、内側から鍵をかけて、わたしに顔を見せようともしません。
妻には、結婚まえからドローレスというメードがおります。使用人というより、いまや友だちのようなものです。このメードに、食事を運ばせている始末です」
「それでは、いまのところ、お子さんに危険はないわけですね?」
「乳母のメースン夫人が、絶対に子どもから目をはなさないと、いってくれました。この乳母なら、安心してまかせられます。それよりむしろ、あのジャックのことが心配でたまりません。なにしろ、手紙でもうしあげましたように、二度も妻から叩かれていますから」
「しかし、怪我をするほどではなかったんですね?」
「ええ、かなりひどくうたれましたが、さいわい、怪我はしていません。ただ、体の不自由な子ですから、いっそう、あわれに思いましてね」
その子のことを話すときは、ファーガスンの顔も、いくらかやわらぐようだった。
「あの子の体を見れば、だれだって、かわいそうだと思うでしょう。幼いころ、高いところからおちて、背骨がまがってしまったんですが、しかし心はじつにやさしくて、かわいい子なんです」
とファーガスンは、念をおした。
ホームズは、きのうの手紙をとりあげて、もう一度、目をとおしながらいった。
「ほかに、お宅には、どんな人がおいでですか?」
「召使いがふたり。どちらもわりに、新しい使用人です。それからマイクルという、うまや番の男がいますが、これも夜は母屋で休みます。ほかには妻とわたし、長男のジャック、赤んぼう、ドローレス、そしてメースン夫人。これで全部です」
「あなたは、結婚されたときには、まだ奥さんのことを、そう深くはごぞんじなかったようですね?」
「ええ、知りあって、数週間で結婚しましたから」
「そのドローレスというメードは、いつごろから奥さんについているんですか?」
「数年まえからでしょう」
「すると、奥さんの性格や人がらについては、あなたよりもドローレスのほうが、よく知っていることになりますね?」
「ええ、そういえるかもしれません」
ホームズは、手帳になにかメモをした。
「ここでお話をうかがっているより、一度、ランバリーにでかけてみたほうがよさそうです。あきらかに、個人的な調査が必要になる事件だと思います。奥さんが、部屋に閉じこもっていらっしゃるとすれば、わたしたちがうかがっても、あまりご迷惑になることもないでしょう。むろん、夜は旅館にとまります」
ファーガスンは、ほっとしたようだった。
「そうお願いできれば、いうことはありません、ホームズさん。おいでくださるのなら、ビクトリア駅発二時という、ご都合のよい列車があります」
「むろん、まいりますよ。ちょうどいま、手もあいているので、あなたの件に専念できますからね。もちろん、ワトスンくんもいっしょです。ところで、出発まえに、あと少し確かめておきたいことがあります。お気の毒な奥さんは、ご自分の赤ちゃんにも、またご長男のぼっちゃんにも、乱暴なことをされたそうですね?」
「そうです」
「ただし乱暴といっても、方法は違っていたそうですね? ご長男のほうは叩かれた」
「ええ、一度はステッキで、もう一度は手で、ひどくうちました」
「なぜうったか、説明はなさらないのですね?」
「ええ、ジャックが憎いというだけでした。憎い、憎いと、なんども口走っておりました」
「なるほど。継母(ままはは)には、ありがちなことですよ。なくなった先妻への嫉妬(しっと)とでもいうものでしょう。奥さんは、もともと、嫉妬ぶかいかたですか?」
「ええ、たしかに、嫉妬ぶかいですね。南国の女性らしく、愛情が強いのですが、そのぶん嫉妬も激しいのです」
「しかし、ご長男のほうは――ええと、十五歳ということですが、体が不自由なだけに、おそらく知能のほうは、かなり発達しているのではないかと思います。義理のおかあさんに、うたれたことについて、ご長男は、なにか説明をなさいましたか?」
「いえ、なにも理由はないというばかりです」
「ふだんは、義理のおかあさんと、仲がいいのですか?」
「いいえ、ふたりのあいだには、親子の情愛というようなものなんかありません」
「しかしご長男は、情が深く、心がやさしいというお話だったんじゃありませんか?」
「あんなに、親思いの子はありません。わたしには、かけがえのないむすこです。むすこのほうも、わたしのいうことや、わたしのすることに夢中です。ほかのことには、目もむけません」
ここでまたホームズは、なにかメモをとりあげ、そのあとしばらく、じっと考えてから口をひらいた。
「いうまでもなく、あなたが再婚なさるまでは、そのぼっちゃんとふたりだけで、男どうし、親友のように暮らしてこられたはずです。なにが起ころうと、ぜったい離れないほど、強く結ばれていたことでしょうね?」
「ええそれはもう」
「そしてぼっちゃんが、そんなに親思いであるとすれば、むろん、亡くなったほんとうのおかあさんの思い出が、心から消えることはないでしょう?」
「ええ、そのとおりです」
「なかなか、興味をひかれるお子さんですね。さて、もうひとつだけ、奥さんの乱暴のことでうかがいますが、赤ちゃんに奇怪なことをしたのと、ご長男を叩いたのは、おなじころですか?」
「はい、おなじときでした。なんだか、突然狂暴になり、つまらないことで、ふたりの子どもにあたりちらしたような感じです。二度めのときは、乱暴されたのはジャックだけでした。メースン夫人も、赤んぼうについては、なにもいってきませんでしたから」
「そうすると、問題はややこしくなりますね」
「おことばの意味が、よくわかりませんが、ホームズさん」
「そうでしょうね。こんなとき、人間はだれでも、いちおう見当をつけておいて、時がたったり、もっと完全な情報が手にはいったりするのを待って、それを訂正したがるものなんです。これは、わるい癖(くせ)ですよ、ファーガスンさん。しかし、人間は弱いものだから、しかたないのでしょう。
ここにいるあなたの旧友が、わたしの科学的方法について、大げさにかたり、期待をいだかせすぎてるんじゃないかと、気になります。しかし、わたしとしては、あなたの一件も、解決不可能とは思わないとしか、もうしあげられません。では二時に、ビクトリア駅でお目にかかりましょう」

ランバリーの「チェッカーズ」という旅館に、いったん荷物をおいてから、サセックス粘土の、まがりくねった細道に馬車をとばし、ファーガスンの住む古い一軒屋にたどりついたのは、霧ふかい十一月の、どんよりくもった夕方だった。
家は農場主の住居として建てられた、大きな建物で、中央の部分はとても古いのに、両翼は新しく建てまししてあり、チューダー式の煙突が、高くそびえるいっぽうで、急傾斜のホーシャム石板の屋根には、こけがはえている。
玄関まえの石段は、すりへって中央がくぼみ、ポーチをとりまく古いタイルには、この家を建てた人物にちなんだ、判じ絵の紋章が刻まれている。
なかにはいると、天井には太いオークの梁(はり)が、何本も平行してはしり、でこぼこの床は、あちこちがひどくくぼんでいる。とにかく、このくずれかけた建物全体に、長い年月と、すべてが腐っていく匂いが満ちているようだった。
建物の中央に、とびきり大きな居間があった。そこにファーガスンが、わたしたちを案内した。ここには、いっぽうの壁に、旧式の大きな暖炉があって、裏がわに一六七〇年の文字が見え、丸太が勢いよく、ぱちぱちと燃えていた。
みまわすと、ここがいろいろな時代と、さまざまな地方色がいりまじった、奇妙な部屋であることがわかった。壁には、なかばあたりまで、羽根板がはられているが、これはたぶん、十七世紀の自由農民の名ごりだろう。
ところがこの、壁の下半分の板張り部分には、えらびぬかれた、すばらしい近代の水彩画が、ずらりと飾られている。上半分の、黄色い漆喰(しっくい)がぬられている部分には、南米のいろいろな道具や、武具がかけられていた。こちらはあきらかに、二階にいるペルー生まれの夫人のコレクションだろう。
珍しいものずきのホームズは、たちまち好奇心をかきたてられたのか、席を立って、道具や武具をじっくりながめ、そして、なにか考えこむようなようすだったのか、席にもどってきた。
そこで、ふいに声をあげた。
「おう、これは! おいで、おいで!」
すみのバスケットのなかに、一頭のスパニエルがうずくまっていたが、呼ばれると、よちよちとおかしな足どりで、主人のほうへ近づいてきた。後足の運びが、ぎごちなく、しっぽは地面をひきずっている。ファーガスンのところへくると、その手をなめた。
「ホームズさん、なにか?」
「その犬ですが、足はどうしたんですか?」
「獣医にも、よくわからないんです。一種の麻痺らしいですが、髄膜炎(ずいまくえん)だろうということでした。しかし、危険な時期はのりこえましたから、まもなく治るでしょう――そうだな、カルロ?」
犬は、ひきずったしっぽの先を、わずかにふった。そして、かなしげな目でわたしたちを見まわした。自分の病気のことが、話しあわれているとわかるのだろう。
「突然、こんな病気になったんですか?」
「ええ、たった、ひと晩で」
「いつごろのことですか?」
「四か月ぐらいになりますが」
「それはおもしろい。とても参考になりますね」
「どんなことをお考えなのですか、ホームズさん?」
「わたしが、すでに立てている推理を、裏づけてくれますよ」
「いったい、どんなことをお考えなんです、ホームズさん? あなたにとっては、知的なゲームにすぎないかもしれませんが、わたしにとっては、生死の問題なのです! 妻は、殺人犯人になるかもしれないし、子どもはたえず危険にさらされています。どうか、お願いです、ホームズさん。じらさずに教えてください。恐ろしいことになっているんです」
大男の元スリークォーターは、わなわなと全身をふるわせていた。ホームズは、なだめるように、その腕に手をおいた。
「ファーガスンさん、どんな答えが出るにせよ、あなたには、心がいたむ結果になりそうですよ。そうならないように、できるだけ努力はしますと、いまはそれだけしかいえません。いずれロンドンに帰るまでには、なんとかはっきりしたことを、お知らせできると思います」
「ぜひ、そうなってくれるように、祈りますよ。それでは、ちょっと失礼して、二階の妻に変わりはないか、ようすを見てきます」
ファーガスンが席をはずすと、ホームズはまた、壁に飾られた珍しい収集品を、くわしく点検した。
やがて、ファーガスンはもどってきたが、その暗い、沈んだ顔つきから、夫人のようすがよくなっていないことは明らかだった。ファーガスンといっしょに、ほっそりと背の高い、褐色の顔をしたむすめがはいってきた。
「お茶の用意ならできているよ、ドローレス。なんでも、奥さんの望みどおりにしてやってくれ」
と、ファーガスンがいった。
「奥さん、とてもわるい」
むすめは声を張りあげ、怒りをこめた目で、主人をにらみつけた。
「奥さん、なにも食べたくない。ひどく病気。お医者さんいります。わたしひとり、お医者さんいなくて、わたしひとり。とてもこわい」
ファーガスンは訴えるような目つきでわたしを見た。
「わたしでよければ、いつでも診察するよ」
「奥さんは、ワトスン先生にみてもらうのを承知するかな?」
「わたし、ご案内する。許可いらない。奥さん、お医者さんが必要です」
メードは、高ぶる気持ちを抑えかねるように、ぶるぶるふるえていた。そのあとについて、わたしは階段をのぼり、古びた廊下を歩いた。廊下のいきどまりに、四すみに金具をうった、がっしりしたドアがあった。これでは、ファーガスンがむりやり部屋に押しいろうとしても、簡単にはひらかないだろうと思った。
メードが、ポケットから鍵をとりだし、頑丈なオークのドアを、ぎいぎいときしませながらひらいた。わたしがはいると、メードもすばやくつづいてはいり、ドアをしめきり、しっかり錠をおろした。
ベッドには、あきらかに、高熱と思える女性が横たわっていた。うつらうつらしていたようだが、わたしがはいっていくと、おびえたような美しい目をあげて、不安そうにこちらを見つめた。夫でないとわかると、かえって安心したのか、ほっとため息をもらして、枕に頭をしずめた。
わたしは、病人をおちつかせるために、やさしいことばをかけながら、そばへよって脈をとり、熱を調べた。そのあいだ、夫人はおとなしく、されるままになっていた。熱が高く、脈も多かったが、わたしの見るところ、それは体のどこがわるいというよりも、精神や、神経の興奮からくるもののようだった。
「一日、二日、奥さん、いつもこんなようす。死ぬんじゃないかって、わたし心配で心配でこわいです」
と、メードがいった。
病人は、上気した美しい顔を、わたしのほうへむけた。
「主人は、どこにいます?」
「下です。呼んできましょうか?」
「いいえ、会いたくありません。主人には、会いたくありません」
そういったきり、夫人のしゃべりかたは、熱にうかされたうわごとのようになった。
「ああ、悪魔め! 鬼! あの悪魔を、どうしたらいいんだろう!」
「わたしにできることが、なにかありますか?」
「いいえ。もうだれにも、どうすることもできません。すんだことです。なにもかも、おしまいです。いまさら、どんな手をうっても、すべてむだになるでしょう」
夫人は、なにか奇怪な夢にでも、とらわれているらしい。あの善良なボブ・ファーガスンが、鬼といわれたり、悪魔と呼ばれたりするわけがあるとは思えない。わたしは、声をかけた。
「奥さん、ご主人は心から奥さんを愛しておられますよ。こうなったことに、深く胸を痛めておいでです」
夫人はまた、美しい目をわたしにむけた。
「そのことは、よくわかっています。でも、わたくしが夫を愛していないとでも、思っていらっしゃいますの? わたくしは、夫を傷つけるぐらいなら、自分を犠牲にしてもかまわないとさえ思っています。それほど、深く夫を愛してますのに、よくもあの人はわたくしに、あんなことをして――わたくしのことを、よくもそんなふうにいえるものです」
「ご主人は、よわりきっておいでですよ。どうにも納得できないのです」
「ええ、納得できないでしょう。でも、まず信じてくれさえすればいいのです」
「どうです、ご主人に会って、話してみる気はありませんか」
「いいえ、会いたくありません。あのとき、あの人がわたくしにいった、恐ろしいことば、わたくしにむけた恐ろしい顔つきが、忘れられないのです。もう二度と顔も見たくありません。
どうか、もうおひきとりください。先生にお願いすることも、とくにございません。ただひとつだけ、赤んぼうをこちらへよこすようにと、夫にお伝えください。わたくしには、権利がございます。わたくしから夫にいえることは、これだけです」
そして夫人は、壁のほうへ顔をむけ、もう二度と、口をひらこうとはしなかった。
そこでわたしが、階下へもどってみると、ファーガスンとホームズは、あいかわらず暖炉のまえにすわっていた。
わたしの報告を、ファーガスンは暗い顔つきで聞いた。
「妻に赤んぼうを渡すなんて、とんでもない! そんなことができるものですか! いつまた、あの不思議な発作を起こすかしれないんですよ。赤んぼうのゆりかごのそばから、口を血だらけにして、立ちあがったあの姿は、忘れようったって忘れられるものじゃありませんよ」
そのようすを思いだしたのか、ファーガスンは身ぶるいした。
「赤んぼうは、メースン夫人にあずけておけば、安全です。絶対、メースン夫人の手もとから、引き離すつもりはありません」
気のきいたメードが、お茶を運んできた。この家で見た、ただひとりの、現代ふうの人間だった。そのメードが、お茶の給仕をはじめたとき、ドアがあいて、ひとりの少年がはいってきた。
青白い顔に、亜麻色の髪、あざやかな青い目をもつ、なかなかすてきな少年である。その青白い目が、父親を見あげたとたん、喜びと興奮にかがやいた。そのまま、父の首に腕をまきつけた、そのようすは、まるで恋する少女のように、ひたむきだった。
少年は叫んだ。
「なんだパパ、帰ってきてたのか? ちっともしらなかったよ! こんなことなら、ここで待っていればよかった。でも、よかった。パパが帰って、とてもうれしいよ」
ファーガスンは、ちょっと困った顔つきで、少年の腕をやさしくときはなした。それから、愛情のこもったしぐさで、亜麻色の髪に手をおいた。
「思ったより早く帰れたのは、このホームズさんとワトスン先生が、わたしの相談ごとをひきうけて、ここで、ひと晩すごしてくださるようになったからなんだ」
「ホームズさんって、あの探偵のホームズさんなの?」
「そうだよ」
少年は、さぐるような目で、わたしたちを見た。わたしには、その目が、刺すように鋭く、敵意をふくんでいるように見えた。
「もうひとりのお子さんは、どうしました、ファーガスンさん? ここで、ぜひ赤ちゃんのほうとも、お近づきになっておきたいものですな」
ホームズがいった。
「メースン夫人に、そういって、赤んぼうを連れてくるようにいってきなさい」
ファーガスンがいった。
少年は、足をひきずるようにして出ていったが、医者の目で見ると、背骨におかしいところがある歩きかただった。
まもなく少年が、もどってきた。そのうしろに、赤んぼうを抱いた背の高い、やせた女がいた。赤んぼうは、金髪に黒い目で、アングロサクソンとラテンとの、みごとな混血を示していて、とてもかわいらしかった。
ファーガスンは、もとより、目のなかにいれても痛くないほど、かわいがっているらしく、すぐに自分の胸にだきとって、やさしくあやしだした。
「こんなかわいい子を、傷つけるものがいるなんて」
そうつぶやきながらファーガスンは、赤んぼうののどにある、小さな赤い炎症のあとをのぞきこんだ。
そのとき、わたしはなにげなく、ホームズのほうを見た。なぜかホームズは、ひどく緊張した表情を浮かべていた。まるで、古い象牙の仮面のように、顔を固くして、ファーガスン親子のようすを、ちらりとながめただけで、あとは、らんらんと光る目で、部屋のむこうはしをじっと見ている。その視線をたどってみたが、どうやら窓ごしに、雨にぬれる陰気な庭を、ながめているとしか思えない。
窓のよろい戸が半分おりていて、庭がよく見えないはずなのだが、ホームズが神経を集中して見つめているのは、たしかにその窓に違いないのだった。
やがてホームズは、にっこりして、また赤んぼうのほうへ視線をもどした。赤んぼうの、まるまると太ったのどには、ぷつんととびだした、あの小さな傷あとがある。それをだまって、ていねいに調べた。それから目のまえでふられている、赤んぼうの、かわいいくぼみができた、こぶしをにぎり、握手するように、ふり動かした。
「さよなら、ぼうや。きみもずいぶん、おかしな人生のスタートをきったものだ。ところで、乳母さん、あなたにだけ、ちょっと内緒で、話したいことがあるんだが」
乳母を、すこし離れたところにひっぱっていくと、ホームズは二、三分、なにか真剣に話しあっていた。わたしには、最後のひとことか、ふたことが聞きとれただけだ。それは「だいじょうぶ、その心配も、もうすぐなくなるはずだから」というものだった。
この乳母は、口かずが少なく、気むずかしい女らしく、そのままだまって赤んぼうをだいて、さがっていった。
「あのメースン夫人は、どんな人がらですか?」
ホームズはたずねた。
「ごらんのとおり、愛想のわるい女ですが、あれで気だてはいいのです。赤んぼうにも、献身的につくしてくれます」
「ジャックくんは、どう? あのおばさん、好きかい?」
少年は、生き生きとした顔をくもらせ、頭を横にふった。
「ジャックは、好ききらいのはっきりした子でねえ。さいわいわたしは、好きなほうにいれてもらってますが」
と、ファーガスンが、少年の肩に腕をまわしながらいった。
少年は、あまったれて、父親の胸に頭を押しつけた。
ファーガスンは、少年をやさしく押しのけた。
「さあ、おまえはもう、むこうにいきなさい」
ファーガスンは、少年が出ていくまで、かわいくてたまらないという目つきで、そのうしろすがたを見おくっていたが、少年の姿が見えなくなると、ふたたびホームズにむきなおった。
「さて、ホームズさん、どうもあなたに、むだ足を踏ませたような気がしてなりません。あなたに同情していただいただけで、ほかにはこれといって、やっていただくこともなさそうです。やはりこれは、あなたの目からみても、はっきりいえない、複雑な事件なのでしょうね」
ホームズは楽しそうに口もとをゆるめた。
「簡単に、はっきりいえないことは事実です。しかし、いままでのところ、複雑とは感じていませんね。これは理知的な推理の問題ですが、最初のその推理が、ひとつづきの独立した出来事によって、ひとつひとつ確かめられていくと、それまで推理だったものが、事実にかわり、自信をもって、ゴールに到達したといえるようになるのです。
実のところは、ベーカー街を出てくるとき、すでにゴールに到達していました。あとはただ、観察によって裏づけをとり、確かめただけだったのです」
ファーガスンは、大きな手で、しわのよったひたいをおさえ、しゃがれた声でいった。
「どうか、お願いです、ホームズさん。この事件の真相が、ほんとうにおわかりなら、じらさずに、早く教えていただけませんか。このままでは、とても我慢できません。わたしは、どうしたらいいのですか?
ほんとうに、真相がおわかりでしたら、どうやってそれがわかったかなんてことは、わたしには問題じゃありません」
「いや、もちろん、あなたには、すべてお話しなければなりまん。必ず、お話します。でもそれには、わたしのやりかたで、やらせていただきたいのです。ワトスンくん、夫人は、わたしたちに会っても大丈夫だろうか?」
「病気だけど、頭のほうはしっかりしているよ」
「よし。夫人のいるところでないと、問題は解決しないんだ。それじゃ、いこうか」
「しかし、妻はわたしには、会ってくれませんよ」
ファーガスンが、泣き声でうったえた。
「大丈夫、お会いになります」
といってホームズは、紙切れになにか二、三行走り書きをした。
「ワトスンくん、きみは少なくとも、入室の許可をえている。すまないが、これを夫人に渡してきてもらえないかね?」
ふたたび、わたしは二階へあがると、用心ぶかくドアをあけたドローレスに、ホームズが書いた紙切れを渡した。
するとまもなく、室内から叫び声が聞こえた。喜びと、おどろきが、いりまじった声だった。
まもなくドローレスが、ドアから顔をあらわした。
「奥さん、会います。みなさんの話を聞きます」

わたしが呼ぶと、ホームズとファーガスンが、二階にあがってきた。
三人そろって部屋にはいると、夫人がベッドに起きあがっていた。ファーガスンは一歩、二歩、ベッドのほうへ歩みよったが、夫人が片手をあげて、拒むふりをすると、そのままひじかけいすに、すわりこんでしまった。
ホームズも、夫人に会釈してから、ファーガスンのとなりに腰をおろした。そんなホームズを、夫人は大きく目をひらいて見つめていた。
「ドローレスさんには、席をはずしてもらってもいいのですが」ホームズはいった。「しかし、奥さんがご希望であれば、ドローレスさんにいてもらっても、べつにかまいません。さて、ファーガスンさん、わたしはいそがしい身です。話は簡単に、ずばりといきましょう。手術は手ばやくすませるほど、痛みがすくないものですからね。まず、あなたの心を軽くすることから始めましょう。奥さんは、きわめて善良で、とても愛情の深い女性です。それにもかかわらず、たいへんな誤解をうけ、ひどい目にあっていらっしゃるのです」
ファーガスンは喜びの声をあげてすわりなおした。
「その証拠を、お聞かせください、ホームズさん。ご恩は一生わすれません」
「ええ、そのつもりですが、しかしそのためには、べつの面で、あなたを深く傷つけることになりますよ」
「妻の無実が証明されるなら、あとはどうなってもかまいません。これに比べたら、どんなことだって、もののかずではありませんよ」
「ではお話しましょう。まずはベーカー街で、わたしの頭に浮かんだ推理からです。吸血鬼という考えは、問題にするまでもないと思えました。このイギリスの社会では、そういうことは起こりません。
しかしながら、あなたの観察報告は、ひじょうにくわしくて、それを疑うことができません。奥さんが口を血だらけにして、ゆりかごのそばから立ちあがるところを、あなたは確かに見ているのです」
「そのとおりです」
「そこなんです。あなたは、夫人が赤ちゃんの出血した傷口をすったのは、血をのむためではなく、ほかに目的があるとは、思いあたりませんでしたか? イギリスの歴史にも、夫の腕の傷口から、毒を吸いだした王妃がいたではありませんか?」
「なに、毒ですって?」
「南米に関係の深いご一家のことです。一階の壁にかざってあるような武具が、きっとあるにちがいないと、この目で見ないうちから、わたしは直感的にさとっていましたよ。実際につかわれたのは、ほかの毒かもしれないのですが、そのときはまず、それが頭に浮かんだのです。
ところが、こちらにうかがって、壁にかざってある小さな鳥弓のそばの矢筒を見たら、からっぽになっていました。これで、わたしの予感が的中したことを知りました。もしもこの矢を、クラーレか、なにかの猛毒をつけて、それで赤ちゃんをちくりとさせば、いそいで毒を吸いださないと、すぐ死んでしまうでしょう。
それにあのスパニエルをごらんなさい! だれかが、その毒をつかおうとすれば、まだ効(き)き目があるかどうか、まず試してみようとするのではないでしょうか。犬のことまでは、予想していませんでしたが、犬を見たとたん、すぐにぴんときましたし、またそれが、わたしが組み立てなおした事件のかたちにも、ぴたりと納まるものだったのです。
さあ、あとはもう、おわかりでしょう。奥さんは、そういう攻撃をおそれていたのですよ。実際に、その現場を見て、すぐ毒を吸いだし、赤ちゃんの命を救いました。でもその事実をどうしても、あなたに話せませんでした。あなたが、ご長男をどれほど愛しているかよく知っているので、事実を話して、あなたを嘆き悲しませたくなかったのです」
「ジャックが!」
「さっき、あなたが赤ちゃんをあやしているとき、わたしはご長男のようすを、見まもっていました。よろい戸が半分しまっていて、そこの窓ガラスに、ご長男の顔がはっきりうつっていたんです。およそ、あれほど強い嫉妬や、あれほど激しい憎しみを浮かべた顔には、このわたしも出会ったことがないほどです」
「あのジャックが!」
「事実を、そのまま見つめなければいけません。こういう行動のきっかけになったのが、歪(ゆが)められた愛情、つまりあなたや、おそらくは亡くなったほんとうの母への、ほとんど病的な強い愛情だとすれば、痛ましいことです。ジャックの精神は、憎しみに焼きつくされてしまったのですよ。体の不自由な自分とくらべて、あの健康で、美しくかがやくばかりの赤ちゃんが、なんとしても憎くてたまらなかったのです」
「ああ、なんということだ! とても信じられない!」
「奥さん、わたしのもうしあげたとおりでしょう?」
夫人は、枕に顔をうずめて、すすり泣いていたが、ホームズに念をおされて身をおこし、夫のほうにむきなおった。
「ああ、あなた、どうしてわたしの口から、そんなことがいえるでしょう。それが、あなたにとって、どれだけつらいことになるかは、わかっていました。ですから、わたしではなく、だれかほかの人の口から、自然にわかるのを待ったほうがいいと、思ったのです。それでさっき、こちらの紳士が、まるで魔法のような力をお持ちなのか、『自分には、なにもかもわかっている』と書いてきてくださったときには、本当に救われた思いでしたわ」
「ジャックぼっちゃんのほうは、一年ほど、海岸にでもいかせてあげることですね。それがわたしの処方箋です」
ホームズは、椅子から立ちあがり、今度は夫人にいった。
「奥さん、ひとつだけ、まだはっきりしない点があります。ジャックくんを叩いたお気持ちはよくわかります。母親として、我慢にもかぎりがありますからね。しかし、この二日ばかり、赤ちゃんを手もとにおかないで、よく我慢できましたねえ」
「じつは、メースン夫人には、すっかりうちあけてあります。あの人は、なにもかもわかっているんです」
「なるほど。そんなことだろうと思っていましたよ」
ファーガスンはベッドのそばにより、むせび泣きながら、ふるえる夫人に手を差しのべていた。
「さあ、ワトスンくん、ぼくらもこのへんで、ひきさがろうか」
ホームズが小声でささやいた。
「ドローレスはだいじな奥さまが心配で、離れられないようだが、きみ、そっちのひじをつかんでくれたまえ。ぼくはこっちをかかえる。さあ、これでよし!」
メードを外につれ出すと、ホームズは後ろ手にドアをしめながらいった。
「こうしておけば、あとは夫婦のあいだで、話をつけるだろうよ」

この事件については、あとひとつだけ、つけくわえておくことがある。それは、物語のはじまりとなった手紙にたいして、ホームズが書き送った返事である。文面は、つぎのとおりだ。


ベーカー街
十一月二十一日
吸血鬼について
拝啓 十九日づけ、あなたの事務所のお客さま、ミンシング・レーンの茶仲買商ファーガスン・アンド・ミュアヘッド商会のロバート・ファーガスン氏の事件につき、さっそく調査をおこない、すべてうまく解決することができました。ここにご報告もうしあげます。あなたからのご推薦を、あつく感謝いたします。敬具
シャーロック・ホームズ

はう男の秘密

シャーロック・ホームズは、かねてから、プレズベリー教授にまつわる奇怪な事件の真相を、わたしが書いて、公表すべきではないかと主張していた。そうすれば、二十年ほどまえに大学をさわがせ、ロンドンの知識階級のあいだにまで、まことしやかに流れた、いまわしいうわさを、いっそうすることができるというのだ。
ところが、いろいろと障害があって、この怪奇な事件の真相は、ホームズの冒険の記録をたくさんつめこんだ、ブリキ箱の底ふかくうもれていたのである。それがいま、やっとゆるされて、日の目をみることになったのだ。これはホームズが、探偵の仕事から身をひく直前、もっとも晩年にあつかった事件のひとつだった。これを公表するには、いまでもなお、ある程度の心づかいと、手心(てごころ)が必要とされるのである。

一九〇三年九月はじめの、ある日曜の夕方のことだった。ホームズから、かんたんな電報を受けとった。
「ツゴウガヨケレバ スグコイ。ワルクテモ スグコイ。S・H」
そのころのわたしたちの関係は、とてもおかしなものだった。ホームズは習慣にこだわる人であり、その習慣も、ごくせまい、根づよいものにかぎられている。そのなかに、わたしもはいっていた。たとえてみれば、わたしはホームズにとって、バイオリンや、いやなにおいのするきざみタバコや、黒ずんだ古いパイプ、索引帳、さらにそれ以下のろくでもないものと、まったくおなじなのだ。
なにか事件がおきて、多少、信頼のおける、どきょうのいい相棒が必要になると、わたしの役割ははっきりしてくる。だがわたしのつかい道は、それだけではない。まずホームズの知性をみがく砥石(といし)だ。刺激剤ともいえる。ホームズはわたしをまえにおき、声にだして考えごとをするのが好きなのだ。わたしに聞かせるためではない。ほとんどが、ベッドのわくに語りかけているようなものである。
しかし、いったん習慣になってしまうと、わたしが反応をしめしたり、言葉をはさんだりすることが、いくらかホームズの役にはたつらしい。たしかにわたしの心のはたらきは、きまりきっていて、のろいかもしれないが、かりにそれがホームズをいらだたせたとしても、かえってホームズの炎のような直観力が刺激され、思考力がいっそう生き生きと、もえあがる。つまりこういう点に、わたしたちの同盟関係で、わたしがはたす、ささやかな役割があるのだ。
さて、ベーカー街にいってみると、ホームズはひじかけいすにおさまり、ひざをたて、パイプをくわえ、眉間(みけん)にはしわをよせ、なにか考えこんでいた。よほどの難問にぶつかって、思いなやんでいることはたしかだ。ホームズは手をふって、わたしが昔からすわっている、ひじかけいすを、さししめしたきり、あとは三十分ばかり、わたしがきたことさえ忘れているようだった。
やがて、長い夢からさめたように、はっとしてわれにかえると、いつもの、いたずらっぽいほほえみをうかべて、「古巣へようこそ」とわたしに声をかけた。
「考えごとに気をとられて、失礼したね、ワトスンくん。この二十四時間、おかしな事実になやまされつづけたが、こんどはそこから、もっと一般的な問題にまで、考えが発展してきたところなんだ。いまぼくは、探偵の仕事における犬の役割について、みじかい論文を書いてやろうかと、まじめに考えているのさ」
「しかしホームズ、その件はもう研究ずみじゃないか。ブラッドハウンドのことも、警察犬のこともさ」
「いや、そうじゃないんだ。その方面のことなら、よくわかってるさ。ぼくが、いまいっているのは、もっとふくざつな問題なんだ。以前きみが、ブナの木立ちにからませて、『ブナの木館』という題をつけて、世間にうけた事件をおぼえているだろう。あのときぼくは、子どもの心理を観察することから、おつにすました、うわべは非のうちどころのない父親の、かくれた犯罪性を発見するにいたった」
「うん、あの事件のことなら、よくおぼえてるよ」
「犬についていま考えていることも、それと似たような方向なのさ。犬はその家の生活を、反映する。陰気な家庭には、陽気にじゃれつく犬はいない。あかるい家庭には、かなしそうな犬はいない。口ぎたなくどなる飼い主には、歯をむきだしてうなる犬、また危険な人間には、危険な犬がつきものだ。
だから、そのときどきで犬たちの気分がかわるとすれば、それは飼い主の気分が、そのときどきでかわることを反映しているのさ」
わたしは首をかしげた。
「でもねえホームズ、そいつはちょっと、こじつけすぎじゃないのか?」
わたしの批判など、おかまいなしに、ホームズはパイプをつめかえて、すわりなおした。
「いまいったことを実地に応用してみると、もっか調査ちゅうの事件にぴったりなんだ。こいつが文字どおり『もつれた糸』のような事件でね。いまその糸口をさがしてるところなんだが、有望な糸口のひとつが、『プレズベリー教授の、忠実なウルフハウンド犬のロイが、なぜ飼い主の教授にかみつこうとするのか?』という問題のなかにあるのさ」
わたしはすこしがっかりして、いすの背にもたれた。わざわざ仕事をほうりだして、かけつけたのに、それがこんなつまらない問題のために、ひっぱりだされたのか? するとホームズが、じろりとわたしを見た。
「きみはあいかわらずだね、ワトスンくん! ごく小さいことがらこそ、もっとも重要な問題にせまる決め手になることを、けっしてわかろうとしない。
こんどの事件は、うわべだけみても、かなりおかしなはなしなんだ。むろんきみだって、ケンフォードの有名な生理学教授、プレズベリーの名ぐらいは知ってるだろう? きまじめな、年輩の学者だ。そういう人物が、これまで長いあいだ、忠実なウルフハウンド犬をかわいがり、友だちのようにくらしてきた。ところがさいきん、その愛犬に二度もおそわれているんだ。きみはこれを、どうおもう?」
「その犬は病気なんだろう」
「なるほど、それも考えてみるべきだ。ところがね、その犬は、教授いがいの人間には、まったくおそいかかろうとしない。また教授をおそうのも、ごくかぎられた場合だけらしいんだよ、ワトスンくん――じつに奇妙だ。おや、玄関のベルがなった。もしベネット青年だとすると、約束の時間よりはだいぶはやかったね。この男がくるまえに、もうすこしきみにはなしておきたかったんだが」

階段をあわただしくのぼる足音がして、せかせかとドアがたたかれ、あたらしい依頼人が勝手にはいってきた。年のころは三十がらみ、長身のハンサムな青年で、身なりもよく、身のこなしも品があるが、どこかに社会人のおちつきよりも、学生のようなはにかみがうかがわれた。青年はホームズと握手したあと、意外そうにわたしのほうをみた。
「ホームズさん、この問題は、じつにめんどうです。公私ともに、ぼくがプレズベリー教授にたいしてどういう立場にあるか、そこをお考えください。たとえ、どなただろうと、第三者のまえでこの問題をはなしたとなると、ぼくにはもういいわけができませんよ」
「そのご心配はいりませんよ、ベネットさん。ワトスン博士はとても考えぶかい人物ですし、どうやらこの事件では、助手がひとり必要になりそうですからね」
「それならおまかせしますよ、ホームズさん。おわかりいただけるでしょうが、この件ではぼくとしても、気をつけてことをはこばなければなりません」
「ワトスンくん、こちらはトレバー・ベネットさんといって、あの大科学者の助手をつとめる人で、教授とはおなじ家にすみ、教授のおじょうさんとも婚約ちゅうなんだ。そういえば、きみにも事情がよくわかるだろう。つまり教授にしてみれば、このベネツトさんに、あくまでも忠誠と献身とを要求する権利があることを、われわれもみとめなければなるまい。ところが、その忠誠と献身をしめすには、現在のこのおかしななぞを解明するために、必要な手段をとることしかないらしいんだ」
「それを、ぼくも期待しているのです。それだけが、ぼくの目的なんですが、ホームズさん、ワトスン先生は、くわしい事情をご存じなんでしょうか」
「いや、まだ説明しているひまがなくてね」
「では、あたらしい展開についておはなしするまえに、ぼくからもう一度、いままでの事情を説明しておいたほうがいいでしょう」
「それならわたしがはなしますよ。そうすれば、わたしが事件のすべてを正しくのみこんでいるかどうかも、はっきりしますからね。つまりこういうことなんだ、このプレズベリー教授は、ヨーロッパじゅうに名のきこえた科学者でね、ワトスンくん。生涯を学究にうちこんできた人で、これまで、いやなうわさをたてられるようなことは一度もなかった。夫人に先だたれて、いまはひとり娘のイーディスさんとくらしているが、なかなか精力的で、見かたによっては、けんか好きといえるぐらいの性格らしい。まあ、ついここ二、三カ月まえまでは、こんなようすだったわけだ。
ところが、この生活の流れが、とつぜんかわってしまった。教授はことし六十一歳になるというのに、大学の同僚で比較解剖学の講座をもっている、モーフィー教授のおじょうさんと婚約してしまったのだ。はなしをきけば、それも年にふさわしいおだやかな求愛というよりも、まるで若者のように熱狂的で、これほどひたむきなほれこみかたは、めったにはみられないといわれるほどだ。相手のアリス・モーフィーは、容姿も気だても、非のうちどころのない美人だから、教授がそこまでむちゅうになったのも、むりないことなんだが、教授の家族のあいだでは、この婚約に大賛成というわけにはいかなかった」
「あんまり、常識はずれだとおもわれたものですから」
と、ベネツトが口をはさんだ。
「まったくだ。常識はずれだし、ちょっとむちゃで不自然だ。それでもプレズベリー教授は財産家だから、相手かたの父親はべつに反対しなかったんだが、おじょうさんにはまた、おじょうさんの見方があった。すでに彼女には、何人かの求婚者があった。みんな世間的な名声では、教授には負けるかもしれないけれど、すくなくとも年齢の点では、おじょうさんにふさわしい結婚相手だとおもわれた。
でもおじょうさんは、教授の常識はずれなところを、まったく気にしないで、本人の人柄が好きになったらしい。ようするに、障害は年令がはなれすぎていることだけなのだ。
ちょうどこのころ、おだやかだった教授の生活に、とつぜん謎めいた、ふしぎな変化があらわれた。それまでは、一度もやったことのない行動をするようになったのだ。
たとえば、行く先もいわずに、ふらりと家をでたきり、二週間も留守にして、かえってきたときには、だいぶ旅行づかれをしていた。しかも、ふだんはなんでもはなす人なのに、このときの行く先についてだけは、口をかたくつぐんで語ろうとしない。
たまたま、ここにいるベネットさんが、プラハにいる学生時代の友だちから手紙をもらったが、そこに、こちらでプレズベリー教授をみかけて、はなしこそできなかったけれど、たいへんなつかしかったと書いてあった。この手紙で、はじめて教授の行く先が、家族のみんなにもわかったようなわけだ。
さて、これからがかんじんなところだ。この旅行後、教授のふだんのようすにもふしぎな変化があらわれた。こそこそと、人目をおそれるようなところがみえだしたのだ。
まわりの人たちも、教授がこれまでの教授とは別人になってしまい、誇りたかい精神に、黒い影がさしているようにおもえた。しかし、頭脳までがだめになったわけではない。
講義などは、あいかわらず才気あふれる名調子だが、それでいて、なにかこれまでにない、うすきみわるくて、意外な言動がうかがえるのだ。教授のおじょうさんは、とても父親おもいの人だから、いぜんの父親をとりもどしたくて、まるで仮面でもつけているような、父親のからをうちこわそうとつとめてきた。
そしてベネツトさん、あなたもやはり、いろいろと努力をされたが、まったくむだだった。それで、ベネツトさん、例の手紙の件については、あなたからはなしてもらいましょうか」
「ワトスン先生、まずご理解いただきたいのは、これまで教授はぼくにたいして、かくしごとをされなかったということです。ぼくが教授の実子か、弟だったとしても、あれほどの信頼をよせられることはなかったでしょう。秘書として、教授あてにおくられてくる手紙などは、すべてぼくが開封し、しわけをしておくことになっていました。
ところが、旅行からかえってきたあと、この習慣がかわってしまったんです。ロンドンから、切手のしたに×印のついた手紙がくるはずだが、それだけは開封せずにわたすようにと、教授に命じられたのです。たしかにそういう手紙が、何通かきました。どれもロンドンの東中央郵便区の消印があって、あて名は、いかにも無学らしいへたくそな文字でした。教授がそれにたいして、返事をだされたとしても、ぼくの手はとおっておりませんし、また、いつも郵便物を集めておくかごにも、はいっているのをみたことはありません」
「かごといえば、例の箱のこともありましたね」
ホームズがうながした。
「そうそう、箱のことですね。教授は一週間の旅から、小さな木の箱をもってかえりました。それには、ドイツなどでよくみかける、古風なこまかい彫刻がほどこしてありました。そこから、ヨーロッパへいってきたのじゃないかとおもったのです。この箱を教授は、研究用の器具などをいれる戸だなにしまいました。
ある日のこと、ぼくがカニューレ管をさがそうとして、ふとその箱に手をかけたところ、意外なことにひどくご立腹で、じつにけしからんと、はげしくしかられました。なにしろ、そんなことははじめてでしたから、ぼくはとても傷つきました。
箱にさわったのは、ぐうぜんにすぎないと、いいわけをしたんですが、そのあと一晩じゅう、教授はけわしい目で、ぼくを監視していました。ぼくにたいする疑いが、なかなかとけないようでした」
ここでベネットは、ポケットから小型の日記帳をとりだした。
「それが、七月二日のことです」
「あなたは、じつにりっぱな証人ですよ。そこに書きとめられた日付を、あとでみせていただくかもしれません」
とホームズはいった。
「この整理法も、やはり教授から学んだことなんです。それで、教授の行動がおかしいことに気がついたときから、ぼくは自分の義務として、教授を観察するべきだとおもいました。というわけで、それが七月二日だとわかるんです。教授が書斎から廊下にでたとたん、とつぜん愛犬のロイがおそいかかったのも、まさにその日なんですよ。
おなじようなことが、七月十一日におこり、さらに七月二十日にもおこったと、ここにメモしてあります。あとはロイを、厩(うまや)にとじこめなければならなくなりました。よく慣れた、かわいい犬だったんですけどね――しかしよけいなことまで申しあげて、ホームズさんを退屈させてしまったようですね」
ベネット青年は、いくらかとがめるようにいった。というのも、ホームズがはなしをきいていなかったからだ。
顔は無表情だし、目は放心したように天井をみあげている。
だがホームズは、やっとわれにかえって、つぶやいた。
「ふしぎだ! まったくふしぎだ! ベネットさん、いまうかがったことは、どれもわたしにとっては新発見ですよ。とにかく、これまでの事件のおさらいは、おわりですね? それで、なにかあたらしい展開があったというわけですか?」
いやなことでもおもいだしたのか、ベネット青年は快活な、うちとけた顔をくもらせた。
「これからおはなしするのは、おとといの晩のことです。夜中の二時ごろ、ベッドで目をさますと、なにやら廊下のほうで、ひくいくぐもった音がします。ベッドをぬけて、ドアをあけ、そっとのぞいてみました。まだおはなししてませんでしたが、その廊下のつきあたりには、教授の寝室がありまして――」
「それは何日のことで?」
とホームズが口をはさんだ。
見当ちがいな質問ではなしを中断され、ベネットはいやな顔をした。
「いまもいったように、おとといの晩――つまり、九月四日です」
ホームズはにっこりして、うなずいた。
「どうか、つづけてください」
「教授の寝室は、廊下のはずれだから、階段までいくには、ぼくの部屋のまえをとおらなければなりません。まったく、じつにおそろしい経験でしたよ、ホームズさん。これでもぼくは、人なみに度胸(どきょう)があるつもりですが、あの光景をみたときばかりは、ぞっとしました。
廊下はくらく、なかほどに窓がひとつあって、そこからわずかに光がさしこんでいるだけです。そのくらやみのなかを、なにか黒いものが、低くうずくまって、こっちへ近づいてくるんです。それが、ふいに光のなかにはいってきました。なんと、教授ではありませんか! それも、はっているんですよ、ホームズさん。はっているんです! といっても、手とひざをついた、四つんばいじゃありません。しゃがんで、手を床につき、その手のあいだに、首をつきだしているというかたちなんですが、ちっとも苦しそうにみえません。
あまりのことに、ぼくは、ぼうぜんとたちすくむばかりです。教授が部屋のまえまできたとき、ようやく気をとりなおして、廊下へでると、『どうなさったのですか?』と声をかけました。
ところが、教授の反応が、これまたかわっています。いきなりぱっとたちあがると、ぼくに、ひどいことばをあびせかけ、いそいでとおりすぎ、そのまま階段をおりていってしまいました。
そのあと一時間ばかり、ぼくは待ってみましたが、それきり教授はもどってきませんでした。おそらく、あれでは、明けがたまでは部屋にもどらなかったとおもいます」
「なるほど。ワトスンくん、きみならどう判断する?」
ホームズは、めずらしい標本をみせる病理学者のような態度できいた。
「おそらく腰痛(ようつう)症だろう。ひどい発作のときは、腰をかがめないと、歩けなくなる。それにいたいから、いらいらして、かんしゃくをおこす」
「さすがだ、ワトスンくん! きみはいつでも現実をよくみて、診断をくだすよ。しかし、こんどの場合は、腰痛症という診断をうけいれられないな。教授は、すぐしゃんとたってあるいてるんだから」
「ええ、いまほど教授が、健康だったことはありませんよ。こんなに元気いっぱいなのは、ぼくが知ってから、はじめてです。でも、おかしいことは事実です。そうかといって、警察に相談するような問題でもありません。どうしたらいいのか、とほうにくれるばかりです。
しかもなんとなく、いまにとんでもない災難が、おしよせてくるような気がしてなりません。イーディス――教授のおじょうさんのことですが――もまったく同感で、このままじっとしてはいられない、という気になっているんです」
とべネットがいった。
「たしかに、きわめてへんな、しかも意味ありげな事件ですね。きみは、どうおもう、ワトスンくん?」
「医者としての意見をいうなら、どうやら精神科医の領分だとおもうよ。例の老教授は、恋愛問題で、脳のはたらきがおかしくなったわけだ。なんとか、その情熱をさまそうとして、海外旅行にもでた。手紙や箱のことは、それとはべつのものに関係があるんだろう。個人的な取り引きによるもの――たとえば、公債や株券のようなものをいれてるんだな」
「するとロイというウルフハウンド犬は、その商取り引きが気にいらないというわけか。ワトスンくん、これは、そんな簡単なものじゃないよ。いま、ぼくがいえるのは――」
ここで、シャーロック・ホームズのはなしは、中断されてしまった。部屋のドアがあいて、ひとりの若い女性が案内されてきたのだ。その女性のすがたをみると、ベネットは声をあげてたちあがり、両手をひらいて走りよると、おなじく両手をさしのべてすすみでた女性をむかえた。
「イーディス! どうしたんだ! なにかあったのかい?」
「わたし、あなたのあとを追ってきたの。だって、ひとりだとこわくて、じっとしていられないんですもの」
「ホームズさん、こちらがプレズベリー・イーディス。ぼくの婚約者です」
「そうだろうと思いましたよ、ねえワトスンくん?」
ホームズは、ほほえみをかえしてから、イーディスにたずねた。
「それはそうと、おじょうさん、またあらたに、なにか起きたようですね。そのことを、われわれに知らせにいらっしゃったんでしょう?」
あたらしい客は、あかるくて、美しい、むかしながらのイギリス女性タイプで、ホームズにほほえみをかえしながら、ベネットのとなりにすわった。
「ベネットさんのホテルへまいりましたら、お留守でしたから、きっとこちらだろうとおもいましたの。ホームズさんにご相談するということは、あらかじめきかされておりました。ホームズさん、なんとかして、かわいそうな父を、助けてやっていただけないでしょうか」
「なんとかしてあげたいとおもいますが、事件について、まだはっきりしない点がありましてね、おじょうさん。もしかしたら、あなたのもってこられたおはなしをうかがえば、いくらか、新しいことがわかるかもしれません」
「じつはゆうべのことですの、ホームズさん。きのうは朝から、父のそぶりがへんでした。父には、自分のしていることなのに、ぜんぜんおぼえていないことが、よくあります。ふしぎな夢の世界に住んでいるんです。
きのうが、ちょうどそれでした。きのうの父は、いっしょにいましても、いつもの父ではありませんでした。外見は父なんですけど、なかみは父じゃないんです」
「それで、どんなことがあったのですか?」
「夜中に犬が、あんまりひどくほえるので、わたしは目をさましました。ロイはかわいそうに、ちかごろは、ずっと、厩舎(きゅうしゃ)のそばにくさりでつながれています。それにわたしは、寝るとき、かならずドアにかぎをかけます。たぶん、このベネットさんから、おききになったとおもいますけど、このごろわたしたちみんなに、なんだか危険がせまっているような気がしてならないからです。
わたしの部屋は三階ですけど、ゆうべはブラインドがあがったままで、外はあかるい月夜でした。犬がはげしくほえるので、なんとなく、そのあかるい窓をみていたら、なんとそこに父の顔があらわれたんです。
もうびっくりするやら、おそろしいやらで、気がとおくなりそうでした。父は窓ガラスに顔をおしつけ、片手で窓をおしあげようとしているようすでした。もし、あのとき窓があいていたら、きっとわたしは発狂していたでしょうね。これはけっして、夢や幻覚ではありません。あくまで事実なのです。だいたい二十秒ぐらいだったでしょうか。わたしは、からだがしびれたように横たわったまま、父の顔を見つめていました。そのうち、その顔は消えてしまいましたが、わたしにはベッドからとびおり、窓の外をのぞくことすらできませんでした。ただ、がたがたふるえながら、朝までじっと横になっていただけです。
朝食のとき父にあいますと、なんだかとっつきにくい態度でしたが、ゆうべのことについては、なにも申しません。もちろん、わたしもだまっていましたが、そのかわりロンドンにでかけるゆるしをもらい、こうやっておうかがいしたようなわけです」
イーディスの物語に、ホームズはひどくおどろいたようすだった。
「たしか、あなたのお部屋は三階だといわれましたね? お庭に、そんなに長いはしごがあるんですか?」
「いいえ、ありません。ですから、いっそうふしぎなんですの。あの窓まで、のぼってくる方法があるなんておもえません。それなのに父は、たしかに窓の外にいたのです」
「すると、日付は九月の五日ですね。これで問題は、いよいよややこしくなりましたよ」
ホームズがそういうと、こんどは、イーディスのほうがおどろく番だった。
ベネットがかわっていった。
「日付のことを、あなたが口にされるのは、これで二度めですね、ホームズさん。それが事件と、なにか関係でもあるのでしょうか?」
「あるでしょう。たしかにあります。でもいまのところは、まだ材料がたりません」
「まさか、月の満ち欠けと精神異常との関係、なんてことをお考えなんじゃないでしょうね?」
「いや、ちがいます。それとはまったくべつのことですよ。さしつかえなければ、その日記帳をあずからせてもらえませんか。あとで、日付をくわしくしらべてみたいんでね。
ところでワトスンくん、われわれの行動方針は、きまったとおもうよ。このおじょうさんのはなしによれば――この人の直感力には、わたしも全面的な信頼をおくが――教授はある特定の日時におきたことは、ほとんど、まったく記憶していないということだ。
そこで、そういう時期に教授と約束したようなふりをして、たずねていってみようじゃないか。へんだとおもっても、おぼえがないのは、自分の記憶力のせいだとでもおもって、あってくれるだろう。まず相手を、ちかくでじっくり観察してから、こっちの作戦を開始するわけだ」
「それは名案ですね。しかし、注意しておきますが、教授はときには、おこりっぽくなって、暴力をふるうこともありますよ」
とべネットがいった。
ホームズは、にっこり笑った。
「われわれが訪問をいそぐのは、いくつか理由があるのです。もし、わたしの仮説が的中していれば、急を要します。すべてはあすです、ベネットさん。あすケンフォードでお目にかかりましょう。たしかあそこには《チェッカーズ》という宿屋があって、ワインもわるくないし、シーツなどもまあまあだったはずです。さてワトスンくん、これから二、三日は、少々不自由をがまんしなければならなくなりそうだぜ」

月曜日の朝、わたしたちはあの有名な大学都市へとでかけていった。身軽なホームズとちがって、当時のわたしは医者として、仕事もかなりたくさんかかえていたので、留守ちゅうの段取りをつけるために、目のまわるようないそがしさだった。
旅のとちゅうでホームズは、事件のことを口にしなかったが、ゆうべはなしていた古風な旅館に着いて、スーツケースをあずけると、ようやくいった。
「ねえワトスンくん、昼食前に教授をつかまえよう。十一時から講義があるが、そのあといったん家へかえってひと休みするだろうからね」
「どんな口実で、訪問するんだい?」
ホームズは手帳を見た。
「八月二十六日に、興奮状態の波がきている。そういう時期には、自分の行動をよくおぼえていないとおもう。そのときに、訪問する約束をしたといいはれば、むこうだって反対はできまい。どうだ、おもいきってやってのけるだけの度胸はあるかい?」
「あたってくだけろだね」
「いいぞ、ワトスンくん! 《はたらき者》と《さらに向上》ということばが、合体したわけだ。あたってくだけろ――わがチームのモットーだよ。さあ、でかけよう。親切な土地の人が、われわれの道案内をしてくれるだろう」
そういう土地の人が、小ぎれいな二輪辻馬車の後部座席にすわり、たちならぶ古めかしい校舎のまえをとおりすぎて、並木道にまがりこむと、やがて芝生にかこまれ、むらさき色の藤の花におおわれた、すてきな家のまえにとまった。プレズベリー教授の生活は、快適なだけでなく、なかなかぜいたくなものに、とりまかれているようだ。
馬車がとまったとき、正面の窓に半白の頭があらわれた。そのもじゃもじゃの眉の下にならぶ、するどい目が、大きな角縁(かくぶち)のめがねのおくから、わたしたちを観察しているのがわかった。
まもなくわたしたちは、教授の部屋にとおされた。その奇行のために、わたしたちをロンドンから出張させたなぞの科学者が、目のまえにあらわれた。
しかし、その態度にも外見にも、どこといって変人奇人のようなところはみられない。顔だちのよい、堂々とした人物で、背がたかく、フロックコートを着たすがたには、大学教授にふさわしい威厳があった。なかでもその目はするどく光り、油断がなく、ぬけ目のない感じで、ずるがしこそうにもみえた。
教授は、わたしたちの名刺をみながらいった。
「どうかおかけください。ところで、どんなご用件ですかな?」
ホームズは愛想よくほほえんだ。
「それは、こちらからうかがいたいことですよ、教授」
「なんですと? このわたしに?」
「なにかの行きちがいがあるようです。ある人から、ケンフォードのプレズベリー教授がわたしに、なにかご用がある、そうきいてうかがったのですが」
「ほう、そうでしたか。そんなことをいったある人とは、どなたのことか、名前をうかがってもかまいませんか?」
教授のするどい目に、敵意がひらめいたようにみえた。
「せっかくですが、教授、そういうことはわたしの口から申しあげられません。もし、わたしのききまちがいでしたら、べつにまだ、ご迷惑をおかけしたわけでもないので、おわびして、ひきさがることにいたします」
「いや、わたしとしては、わびをいっていただくよりも、おはなしをもっとくわしくうかがいたいものです。なかなかおもしろい。あなたの主張を裏づけるような書面、あるいは、手紙、電報、そういうものはなにかお持ちですか?」
「いや、あいにくもっておりません」
「わたしが直接、あなたを呼んだと、そこまでおっしゃるつもりはないのですね?」
「どんな質問にも、お答えいたしかねます」
「まあ、そうだろうな。いまの質問は、なにもきみの口をかりなくても、答えがすぐわかるのだ」
あらあらしくいうと、教授は部屋を横ぎって、ベルのところにあゆみよった。そのベルの合図で、まもなくベネットがあらわれた。
「はいりたまえ、ベネットくん。こちらのおふたりは、わたしにまねかれてロンドンからきたといっておられる。わたしの手紙は、すべてきみが処理しているが、そのなかに、ホームズという人物にあてたものが、なにかあったかね?」
「いいえ、ありませんでした」
ベネットは顔を赤らめながら答えた。
「よし、これできまりだ」
教授は目をいからせて、ホームズをにらみつけながら、テーブルに左右のこぶしをついて、ぐっと体をのりだした。
「こうなると、きみの立場はきわめて怪しいものですな」
そこで、ホームズは肩をすくめた。
「わたしとしては、いたずらにおさわがせしたことを、おわびするしかありません」
「わびてすむことかね!」
満面に敵意をみなぎらせて、教授はかんだかい声でさけんだ。そして、すばやくわたしたちとドアのあいだに立ちふさがり、いかりに身をふるわせながら、こぶしをふりあげた。
「そんなことで、ここから簡単にでていけるとおもうなよ」
教授は顔をけいれんさせ、歯をむきだし、はげしい怒りにわれをわすれて、なおもわけのわからないことを口ばしる。もしこのとき、ベネットがあいだにはいってくれなかったら、わたしたちは腕ずくで部屋を出るしかなかっただろう。
「おねがいです、先生。お立場というものがあります。大学内で、うわさにでもなったらたいへんです! ホームズさんは有名なかたですよ。そんな失礼なまねをしては、のちのちこまります」
ようやく、客をむかえる主人の立場をおもいだしたのか――そういっても、こちらが勝手におしかけた客なのだが――しぶしぶ教授はわきにどいて、道をあけた。わたしたちは、やっとその家から外の並木道にでた。ホームズは、ことのなりゆきを、ひどくおもしろがっているようだった。
「あの教授は、神経がいくらかおかしくなっているようだね。こっちの出方も少々まずかったが、それでも、じかに本人にあってみたいという希望だけは、なんとかはたせたわけだ。おや、待てよ、どうやら追ってくるぜ、ワトスンくん。あの悪魔が、まだわれわれをつけてくる」
うしろから、ばたばたとはしってくる足音がした。だが、馬車道のカーブからすがたをあらわしたのは、あのおそろしい教授ではなく、助手のベネットだった。ほっとしているわたしたちに、ベネットは息をきらせながらちかづいてきた。
「ホームズさん、まことに申し訳ありません。おわびをいいたくてきました」
「いや、ご心配にはおよびません。探偵をやっていれば、こんなことはしょっちゅうです」
「教授が、あれほど腹をたてて、ぶっそうなようすをみせたのは、ぼくもはじめてです。教授の言動はだんだん不気味になってきます。おじょうさんやぼくが、ひどく心配するわけが、これでおわかりでしょう? 頭はあくまで明快なんですからね」
「明快すぎるほどですよ! その点は、わたしの計算ちがいでした。記憶力なんか、こちらの予想したより、はるかにしっかりしているようです。ところで、ここまできたついでに、おじょうさんの部屋の窓を、みせていただけませんか?」
ベネットは先にたち、植えこみをおしわけてすすんだ。すこしいくと、家の横手がみえるところにでた。
「あれです。三階の左側の窓です」
「ほう、とてもよりつけそうもないですね。もっとも、下にはツタがからまっているし、上には給水管もあって、足場にはなりそうだ」
「ぼくにはとても、のぼれません」
ベネットがいった。
「そうでしょう。ふつうの人間は、とてもあぶなくてのぼれやしない」
「もうひとつ、はなしておきたいことがあるんですよ、ホームズさん。教授が文通している、例のロンドンの人物の住所を、手にいれました。けさも一通だしたらしく、教授の吸い取り紙にのこっていたあて名を、写しとったんです。信任されてる秘書らしくない裏切り行為ですが、なにしろ、場合が場合ですので、やむをえません」
ホームズは、その紙をちらりとみただけで、ポケットにしまった。
「ドラークか――みょうな名だ。スラブ系のようですね。いずれにしろ、重要な手がかりの一つにはなります。さてベネットさん、わたしたちは午後の汽車で、ロンドンヘかえります。これ以上ここにいても、うるところはなさそうですからね。
犯罪をおかしたわけじゃないから、教授を逮捕するわけにもいかないし、精神病と立証されたわけでもないから、監禁することもできない。いまのところ、手のうちようがないんです」
「では、ぼくらはどうしたらいいんでしょう?」
「いましばらくの、しんぼうですよ、ベネットさん。ちかいうちに動きだします。わたしの考えでは、こんどの火曜日あたりが山ですね。その日には、またわたしたちもここへきます。それまでは、あなたがたが不愉快なことになるのは、はっきりしていますから、おじょうさんだけでも、すこしロンドンにいる期間をのばせれば……」
「それは、なんでもありません」
「では、もう危険はないと、わたしたちがいうまで、おじょうさんにはロンドンにいてもらってください。それまでは、教授の好きなようにさせて、さからわないことです。きげんをそこねなければ、まずだいじょうぶでしょう」
「あっ、教授がでてきました!」
ベネットが、はっとして声をひそめた。枝のあいだをすかしてみると、長身の人影が玄関のドアからあらわれ、あたりのようすをうかがっているところだ。そのうち、前かがみになって、頭を左右にむけながら、両手をまっすぐ前でふりだした。
ベネットはわたしたちへ、わかれのあいさつがわりに軽く手をあげると、木のあいだにすがたをけしたが、やがて主人のそばにあらわれた。ふたりは、なにか声高(こわだか)に、こうふんしたようすではなしながら、いっしょに家へはいっていった。
旅館へかえるとちゅう、ホームズがいった。
「教授は、われわれがひきあげたあと、データをみんな、足してみたんじゃないかな。ちょっとあっただけだが、きわめて明快で、論理的な頭脳の持ち主だという印象をうけた。たしかにおこりっぽいが、探偵が身のまわりをかぎまわっていて、しかもその探偵をやとったのは、内部の人間じゃないかという疑いがあるとすれば、かんしゃくをおこすのもむりないよ。かわいそうに、いまごろベネット君は、いやなおもいをしていることだろう」
とちゅうでホームズは、郵便局にたちより、電報を一通うった。夜になって、その返事がとどいた。ホームズはそれを読んでから、ぽいとわたしに投げてよこした。

コマーシャル・ロードニ ドラークヲ訪ネタ アイソノイイ老人 ボヘミア人カ 大キナ雑貨店ヲ営ム マーサー

「このマーサーは、きみがいなくなってからつかっている男だ。まあぼくの、手足となってはたらいてくれる雑用係さ。プレズベリー教授が、それほど秘密にしている文通相手が、どんな人間か、いちおう知っておくことが必要だからね。ボヘミア人だとすると、教授のプラハ旅行と関連がありそうだ」
「なんだろうと、関連のある事実がみつかったというのは、ありがたいよ。いまのところ、わけのわからないできごとばかりが、たがいになんのつながりもなく、ずらっとならんでいる。たとえば、ウルフハウンド犬が狂暴になったことと、教授のボヘミア行きのあいだには、どんなつながりがあるだろう。またそのことと、夜中に廊下をはいあるく男との関係は? とくに、きみがしきりに気にしている日付のことだが、これがぼくには最大の謎だね」
ホームズはにやりとして、しきりに手をこすりあわせた。いいおくれたが、このときわたしたちは、古びた旅館の一室におさまり、ロンドンでホームズがいっていた有名なワインを一本、ふたりのあいだにおいて、すわっていた。
ホームズは両手の指先をつきあわせ、まるで講義でもしているような調子でいった。
「では、まず最初に日付のことをとりあげようか。あのすばらしい青年の日記によると、七月二日にさわぎがあって、その後一度だけ例外があったようだが、あとはきまって九日ごとに、さわぎがおきている。最後の発作は、九月四日の金曜日だが、その前の発作がおきたのが八月二十六日だから、やはり九日目にあたる。こうみてくると、けっして偶然の一致とはおもえないわけだ」
それには、わたしも同意しないわけにはいかなかった。
「そこでいま、ひとつの仮説として、教授が九日ごとに、なにか強い薬をのんでいるとしてみよう。ききめは一時的だが、きわめて毒性の強い薬だ。
うまれつきはげしい気性が、薬のせいでますます荒くなる。プラハにいったとき、この薬をおぼえて、いまはロンドンのボヘミア人の仲介者から、ひきつづき買いいれている。こう考えると、すべてつじつまがあうじゃないか!」
「でも、犬のことはどうなるんだ? 窓からおじょうさんの部屋をのぞいた顔のことや、廊下をはいまわる男のことは、どう説明する?」
「そうあわてるな、ようやく目鼻がつきだしたところなんだ。とにかく、こんどの火曜日までは、なにもおこらないとおもうから、それまでは、ベネット君と連絡をたやさないようにして、このすてきな町をゆっくり楽しむとしよう」

あくる朝、ベネットがこっそりやってきて、最新の情報をきかせてくれた。ホームズが心配したとおり、この若い秘書は、かなりいやなおもいをしたようだ。
わたしたちが、おしかけたことについて、あからさまにしかりつけたりはしないが、ことごとに口ぎたなくののしり、あきらかに、なにか強いいきどおりを、隠せないようすらしい。しかし、けさはだいぶおちつき、教室につめかけた学生たちに、すばらしい講義をきかせた。
「あのおかしな発作をのぞけば、教授はこれまでになく元気で、精力的ですし、頭のほうもいたって明快です。ところが、なんだか、ちがうんです。ぼくがこれまで知っていた教授とは、別人なんです」
「いずれにしろ、ここ一週間は、心配するようなことはおこらないはずです。わたしは、いそがしい体ですし、ワトスン博士も患者をほうっておけません。こんどの火曜日、この時間に、もう一度ここでお目にかかることにしましょう。このつぎは、おわかれするときまでに、あなたの心配の種をとりのぞくまではいかなくても、事件の真相について、なんらかの説明ができるはずです。それまでは、なにかおこったら、そのつど手紙で知らせてください」

それから数日は、ホームズの顔をみることもなくすぎたが、次週の月曜の夕方になって、あす汽車でおちあいたいという、簡単な手紙がとどいた。ケンフォードへむかう汽車のなかで、ホームズがはなしたところによると、プレズベリー教授宅ではなにごともなく、教授の行動もごく正常だということだった。
その夜、《チェッカーズ》のおなじみの部屋にたずねてきたベネットの報告も、おなじだった。
「きょう、またあのロンドンの男から、手紙がきました。いっしょに、小さな小包みもひとつきました。どちらも切手の下に、ぼくがさわってはいけないという×印がついていました。ほかには、べつにかわったこともありません」
「それだけでじゅうぶんです」
ホームズは、きびしい顔でいった。
「そこでベネットさん、おそらく今夜こそ、なにかの結論がでるとおもいます。ぼくの推理が正しいとすれば、事件をいっきょに頂点へもっていく機会がつかめるでしょう。そのためには、教授の行動をしっかり見はっている必要があります。ですからあなたは、今夜は徹夜で、がんばってください。
もし、教授があなたの部屋の前をとおっても、そのままやりすごして、あとをつけるのです。ワトスン博士とわたしも、そう遠くないところにいることにします。それはそうと、あなたがいっておられた小箱のかぎは、どこにありますか?」
「教授が、懐中時計のくさりにつけています」
「どうしても、箱をしらべなければとおもうものですからね。まあ、いざとなれば、錠前はなんとかなるでしょう。ほかにお宅には、役にたちそうな男がいますか?」
「御者がいます。マクフェールです」
「どこでやすみますか?」
「厩舎の二階です」
「あるいは、力をかりるかもしれません。さてあとは、なりゆきを待つばかりです。さよなら。またお目にかかることになるとおもいます」
真夜中ちかくなってから、わたしたちは教授宅の玄関にむかいあった、灌木(かんぼく)のしげみに身をひそませた。空は晴れてはいたが、寒気がきびしく、ふたりともあたたかいコートを着てきてよかった。わずかな風があって、空をながれていく雲が、ときおり半月をおおいかくした。
期待と興奮が、わたしたちをかりたてていなければ、また、ここまでふたりの注意をひきつけてきたこの奇怪な事件も、いよいよおわりになるというホームズの保証がなかったなら、この徹夜の見はりは、おそらくみじめなものだっただろう。
「もし、九日周期というぼくの考えが正しければ、今夜、教授は最悪の発作をおこすはずなんだ。この奇怪な症状は、プラハ旅行のあと、おきるようになったこと。プラハにいるだれかの代理人とおもわれる、ロンドンのボヘミア人商人と、こっそり文通していること。しかも、きょうその男から小包みがとどいたこと。
すべての事実が、ひとつの方向をしめしている。教授がどんなものを、どんな目的で服用しているのか、まだはっきりしないが、出どころがプラハにあることはたしかなようだ。一定の指示にしたがい、九日ごとに服用をつづけているわけだが、この周期が、まずわたしの注意をひいた点だった。しかし、もっとも注目しなければならないのは、教授の症状だよ。きみ、教授の指の関節をみたかい?」
残念ながら、わたしは、気づかなかったというしかなかった。
「ぶあつくなって、ごつごつしてるんだ。ああいう指は、ぼくもはじめてだね。いつの場合も、人にあったら、まず手に注意することだよ、ワトスンくん。つぎにそで口、ズボンのひざ、くつだ。あれはじつにへんな指関節だったよ。あれを説明するとしたら、進化の形式で――」
ふいにホームズは言葉をきると、ぽんとひたいをたたいた。
「ねえワトスンくん、ぼくは、なんてまぬけだったんだろう! ちょっと信じられないことだが、それにちがいない。すべてがその一点をさしている。どうして、それらのあいだのつながりに、気がつかなかったんだろう。なんでまた、あの指関節をみのがしていたんだ! それに犬! それからツタ! これじゃ、そろそろぼくも、以前から夢にえがく小さな農場に引退するときがきたらしいね。
おっ、ワトスンくん、でてきたぞ! こんどこそわたしたちも、じかに、その奇怪な真相をみることができそうだ」
玄関のドアがゆっくりとひらき、ランプの明かりを背に、教授の長身があらわれた。ガウンをまとい、シルエットとなって、戸口にたっているが、前かがみで両腕をぶらぶらさせている。このまえにみたときと、おなじ姿勢だ。
そのうち教授は、馬車道におりたが、ここで全身に奇怪な変化があらわれた。腰をおとしてしゃがみこむと、両手と両足ではいあるきはじめたのだ。そして家の正面づたいにすすむと、まもなく建物の角をまがって、すがたを消した。同時に、ベネットが玄関のドアからでて、そっとあとをつけていった。
「くるんだ、ワトスンくん、早く!」
ホームズがさけんだ。わたしたちは足音をころして、植えこみをくぐりぬけ、半月の光をいっぱいにあびた、家の側面がみえるところまできた。ツタのからんだ壁の下に、教授がうずくまっているのが、はっきりみえた。わたしたちがみまもるうちに、教授は信じられない身軽さで、壁をよじのぼりはじめた。
ツタの枝から枝へとびうつり、たくみに手がかり、足がかりをつかみながら、べつにこれという目的はなく、たんに自分の力を楽しんでいるといったようすで、のぼっていくのだ。ガウンのすそが、体の両がわでひらひらするところは、まるで月光にてらされた壁にはりつく、巨大な黒いコウモリといったところだ。
やがて、この遊びにもあきたのか、教授はふたたび枝から枝をつたわって、地面におりると、さっきとおなじしゃがんだ姿勢になり、へんなはいかたで厩舎のほうへむかった。このとき、すでにウルフハウンド犬は、厩舎の外に出て、猛烈にほえていたが、主人のすがたをみると、いっそう興奮してほえたてた。くさりをぴんとはり、全身をふるわせて、くるったようにほえつづける。
教授は、犬がとびつけないぎりぎりの場所にうずくまると、さまざまな方法で犬をからかいはじめた。馬車道の砂利をひとにぎりつかんで、犬の顔に投げつけたり、ひろった枝でつついてみたり、かみつこうとしてひらいた口から、わずか二、三インチのところで、手をひらひらさせてみたり、すでに興奮しきっている犬の怒りを、さらにかきたてようと、ありとあらゆることをするのだ。
わたしたちも、これまでいろいろな冒険を体験してきたが、こんな奇怪な光景をみるのは、はじめてだった。人間らしい表情をうしなって、カエルのように地面にはいつくばった教授が、それでもなお、えらそうに、犬をいじめて残忍なよろこびにひたっている。犬は怒りくるい、後足でたちあがっては、なんとか教授にとびつこうとするのだが、わずかにとどかない。教授はたくみな手段をつくし、計算された残酷さで、犬をいじめつづけているのだ。
そのうち、たいへんなことがおきた。くさりが切れたわけではない。首輪が、もっと首のふといニューファウンドランド犬用のものだったため、すっぽりぬけてしまったのだ。がちゃりと金属が、地面におちる音がしたとおもうと、つぎの瞬間、犬と人とは一体となって地面にころがっていた。犬は怒りくるって、ほえたてる。教授はおかしな裏声で、恐怖の悲鳴をあげる。
まさに教授の命は、風前のともしびだった。猛犬は教授ののどにがぶりとかみついて、わたしたちがどうにかひきはなすまえに、教授は意識を失っていた。
わたしたちにしても、それは危険な作業だったが、さいわいベネットがかけつけて、しかりつけると、巨大なウルフハウンドもすぐおとなしくなった。このさわぎをききつけて、御者も厩舎の二階から、ねむそうな顔で、目をこすりこすりおりてきた。
「こんなことになるような気がしてたんだ。先生がこいつをいじめるのを、前にもみたからね。いつかはロイのやつが、反撃するだろうとおもってたよ」
犬をつないでから、みんなで教授を二階の寝室にはこんだ。わたしは、医師の資格を持つベネットに手つだってもらい、教授ののどの手当てをした。するどい牙は、わずかなところで、頚動脈をそれていたが、それでも出血がはげしかった。
三十分もすると、どうにか危険を脱したようなので、モルヒネの注射をうつと、患者はふかい眠りにおちいった。そこではじめて、わたしたちはたがいに顔をみあわせ、いろいろと相談することができた。
「一流の外科医にみてもらうべきですよ」
わたしはいった。
するとベネットがさけんだ。
「それだけは、こまります! いまのところは、事件もこの家のなかだけにとどまっています。事件を知るものが、内輪(うちわ)だけなら安全ですが、いったん外部にもれてしまったら、もうとめようがありません。教授の大学での立場、全ヨーロッパ的な名声、またおじょうさんの気持ちなどを、どうかおくみとりください」
「そうですね。このはなしを、われわれだけに、とどめておくことはできるでしょう。われわれにまかせてもらえば、再発をふせぐことも、むずかしいことではありません。ベネットさん、その時計のくさりについている、かぎをおねがいします。ここはマクフェールにまかせて、万一教授の容体(ようだい)がかわったら、すぐに知らせてもらえばよいでしょう。では、われわれのほうは、教授のなぞの小箱のなかみをみにいきましょうか」
とホームズはいった。
箱のなかみは、たいしたものでなかったが、われわれの目的にはじゅうぶんだった。からのくすりびんが一本、まだ九分どおりなかみのはいったのが一本、皮下注射器、外国人が書いたものらしい、読みにくい字の手紙が数通あった。封筒の×印からみて、その手紙が秘書の仕事をかきみだした、問題のものであることは、あきらかだった。どれも発信地はコマーシャル・ロード、差し出し人の署名は、「A・ドラーク」となっていた。
手紙の内容は、新しいびんを教授あてに発送したという送り状と、代金をうけとったという領収書みたいなものにすぎなかった。このほかに一通だけ、教養のある文字で書かれ、オーストリアの切手に、プラハの消印をおされた手紙があった。
「これだ! ついに、さがしもとめていた材料をつかんだぞ!」
そうさけんで、ホームズはなかみをとりだした。


拝啓 先日ご来訪をうけてより、あなたの問題について、いろいろ考えてみました。あなたがこの療法を希望されるについては、それなりに、とくべつなわけがおありのこととおもいますが、わたしの実験の結果からみて、これにはある種の危険がともないますので、くれぐれもご注意いただきたいのです。
おそらくは、類人猿の血清のほうが、よりよい結果をしめすものとおもわれますが、先日もご説明もうしあげたとおり、わたしが黒面(くろめん)のラングール(ヤセザル)を用いてきたのは、入手しやすいからです。もとよりラングールは、おもに木の上でくらし、地上では、はってすすみますが、類人猿は地上を直立歩行し、あらゆる点でより人類にちかいのです。
なお、この療法は、まだおおやけに発表する時期ではありませんので、あなたも、これが外部にもれないよう、くれぐれもご注意ねがいます。イギリスには、ほかにもう一名、この療法をうけている人がおります。今後はドラークが、おふたりにたいする、わたしの代理人をつとめることになっています。
お手数ながら、毎週、経過をご報告ください。
H・ローベンシュタイン


ローベンシュタイン! この名をみて、わたしも、以前新聞で読んだ、あるみじかい記事をおもいだした。どこかの無名の科学者が、なにやら未知の方法で、若がえりと不老不死の秘法を研究しているという内容である。あれはローベンシュタインだった! 驚異的な強精剤となる血清を開発しながら、その材料の入手法を明かさないため、業界から追放されたローベンシュタイン!
わたしがおもいだしたことを、手みじかにはなすと、ベネットはすぐ書棚から、動物学の手引きをひっぱりだして読みあげた。
「『ラングール。ヒマラヤのふもとにすむ、顔面の黒い大型のサルで、樹上生活をするサルのうちでは、もっとも大きく、もっとも人間にちかい』。まだこまかいことが、いろいろでています。それにしてもホームズさん、ほんとうにありがとうございました。おかげでこの事件の原因を、つきとめることができました」
「いや、ほんとうの原因は、いうまでもなく、老教授の恋愛にあるんです。性急な人だから、自分が若がえれば、恋愛が実をむすぶとおもいこんだんでしょう。人は《自然》を征服しようとして、逆に自然にうち負かされるものなんですね。どんなにすぐれた人間でも、本来あたえられた正道をふみはずせば、ただのけものに、逆もどりするということですよ」
しばらくホームズは、その小びんを手にして、透明な液体をながめながら、考えこんでいた。
「わたしのほうから、この人物に手紙をだして、おまえが売りさばいている、あやしげな毒液を手にいれたが、これは警察がとりしまる犯罪になるぞ、といってやれば、もうなにもしかけてこないでしょう。しかしこういうことは、くりかえされる危険がありますよ。ほかの人間が、もっといい方法をみつけることも考えられます。人類にとっては、きわめて現実的な危険です。
ねえ、考えてもみたまえ、ワトスンくん。若がえりや不老不死のくすりが、ほんとうにできたら、欲のふかい、わがままな人間ばかりが、ながながと生きることになる。それにひきかえ、精神的にすぐれた人間は、寿命がくれば、さっさと天国へいくことになる。それではこの世は、どうしようもない人間ばかりあふれた汚水だめになるだろう」
ここで、ふいにホームズは夢をみる人から、本来の行動の人にもどり、勢いよくいすからたちあがった。
「さてベネットさん、もうこれ以上つけくわえることはないでしょう。これでようやく、さまざまなできごとがつながり、一つにまとまったわけです。たとえばあの犬は、むろんあなたよりずっと早くから、教授の変化に気づいていました。臭覚で知ったのでしょう。ロイがおそいかかったのはサルであって、教授ではなかったのです。ロイをからかっていたのは、あくまでサルでした。サルならば、壁をのぼるのは、楽しかったはずです。おじょうさんの部屋の窓をのぞいてしまったのは、たんなるぐうぜんでしょう。
さて、ワトスンくん、早朝のロンドン行き列車があるはずだが、まずその前に《チェッカーズ》で、お茶を一ぱいぐらいのめそうだよ」
ライオンのたてがみ


それは、とても奇妙なことだった。長年にわたる私立探偵の生活のうちでも、わたしが、かつて出合ったこともないほど、わかりにくくて、異常な事件が、わたしの引退後にとびこんできたのだ。しかも、いきなりわが家の戸口にもちこまれてきたのだった。
わたしは長いあいだ、薄暗いロンドンのまっただ中で暮らしながら、いつかは自然をあいてに、静かな生活をおくりたいと、おりにふれて願ってきた。その願いがやっとかなって、サセックスに小さな家をかまえ、おだやかな引退生活に、心身ともにひたりきっているとき、この事件が起きたのだった。
このころは、親友のワトスンくんとも離れていて、あえるとすれば、たまに週末などに訪ねてくるときぐらいだった。この事件も、わたしが自分で年代記作者をつとめなければならない。
ああ! ワトスンくんさえいてくれたら、どんなにかこの事件を思しろく書き、あらゆる困難にうちかって、わたしのおさめた勝利を、いっそうかがやかしいものにしてくれるだろう!
だがそうはいかないから、わたしは自分で、なれない筆をとり、どのようにして一歩また一歩と、行く手に横たわる困難をのりこえ、「ライオンのたてがみ」のなぞをさぐっていったか、書き綴るほかないのである。
わたしの別荘は、イングランド南東部をはしる丘陵地、ダウンズの南斜面にあって、英仏海峡をひと目で見わたすことができる。このあたりの海岸線は、ことごとく白亜層の絶壁で、海へおりるには、すべりやすい、まがりくねった長い小道が、たった一本あるだけだった。
小道をおりきったところには、小石と砂利の浜が、百ヤードばかりある。満潮のときでも、この浜は波をかぶらない。
しかしそのほかに、入江や、窪地などがいたるところにあって、潮の干満のたびに水がいれかわり、すばらしいプールとなる。
このみごとな海岸が、左右へそれぞれ何マイルもつづき、そのあいだに一か所だけ小さな入江があって、フルワースという村になっている。
わたしの家は、一軒家だ。わたしと、年をとった家政婦と、そしてミツバチ一家、これが家族の全員だ。
半マイルほどはなれたところに、ハロルド・スタックハーストの経営する有名な受験指導校「ザ・ゲーブルズ」がある。かなり大きな施設で、いろいろな職業をめざす数十人の青年が、数人の教師といっしょに生活しながら、受験準備をつづけている。
スタックハースト本人も、若いころは大学代表の有名なボート選手で、学業でも万能の優等生だった。わたしはこの海岸にすみついてから、この男とだけは親しくしてきた。夜など、招かれないのに、ふらりとでかけていったり、またむこうからやってきたりするあいだなのである。
一九〇七年の七月の末、はげしい暴風がこの海岸をおそい、海峡を吹きあげる強風のため、高潮が崖のふもとにおしよせ、潮がひいたあとに大きな塩水湖がのこった。
朝になると、風もようやくおさまり、なにもかもすべて洗われて、こんなすてきな日には仕事をする気にもなれないので、うまい空気でもあじわおうと、わたしは朝食前に家をでた。
浜へおりる急な坂道につづく、崖ぞいの道をぶらぶらおりていった。すると、うしろから呼ぶ声がした。ハロルド・スタックハーストが、陽気に大きく手をふっていた。
「すばらしい朝じゃないか、ホームズさん! きっと、きみにあえると思ってたよ」
「泳ぎにいくところだね」
「また、あてられたな」
スタックハーストは、ふくらんだポケットをたたきながら笑った。
「おっしゃるとおりだ。マクファースンが先にでかけてるから、たぶんむこうで会えるだろう」
フィッツロイ・マクファースンは、自然科学の教師だった。背のすらりとした青年だが、リウマチ熱にかかり、そのあと心臓病になって、すばらしい将来を棒にふった。
しかし、生まれながらの運動家で、心臓にあまり無理をさせないものなら、どんな競技にもすぐれていた。とくに水泳は、夏でも冬でも欠かしたことがなく、このわたしも水泳が好きなほうだから、よくいっしょに泳いだものだった。
そんな話をしているうちに、うわさの本人がすがたをあらわした。まず頭が、小道のてっぺんの崖のふちに見えた。つづいて全身が崖の上にあらわれたが、それがどういうわけか、酔っぱらったようによろよろしていた。
つぎの瞬間、マクファースンはいきなり両手をふりあげると、すさまじい悲鳴とともに、ばったりとうつぶせに倒れてしまった。そこまで、五十ヤードぐらいあっただろう。スタックハーストにつづいて、わたしもかけより、だきおこして、あおむけにしてみた。
マクファースンは、すでに死にかけていた。落ちくぼんで、どんよりした目、土気色(つちけいろ)のほほなどを見れば、まさに息をひきとろうとしているとしか思えない。
だが、ほんの一瞬、その顔にかすかな生命の光があらわれ、しきりになにかうったえようとするように、口からぶつぶつと、ことばがもれた。はっきりしなくて、ほとんどわからなかったが、悲鳴のように口からほとばしった最後のことばだけ、わたしの耳には「ライオンのたてがみ」というように聞こえた。まったく場ちがいな、意味のわからないことばだが、わたしにはそうとしか聞きとれなかった。
それからマクファースンは、上半身を起こすと、手をあげて空をつかむようなしぐさをしたかと思うと、そのまま横むきに倒れこんだ。そして、息をひきとった。
スタックハーストは、突然のおそろしい出来事に、ぼうぜんとしていたが、わたしのほうは、すでに、全神経が緊張していた。いきなり、とんでもない事件に直面したということが、すぐわかったからである。
マクファースンは、ズボンの上にバーバリーのコートを着ているだけで、足にはひものとけたズックぐつをはいていた。倒れたはずみに、肩にひっかけていただけのバーバリーがずれおちて、はだかの上半身がむきだしになった。それをひと目見て、わたしたちはぎょっとして立ちすくんだ。
むきだしの背中いっぱいに、細いワイヤで、さんざん打たれたように、赤黒いみみずばれが、いくつもできているのだ。しかも、さけたみみずばれが、肩からわき腹にまで、まわりこんでいるところをみると、どうやらこの傷をこしらえた道具は、しなやかにまきつく、鞭(むち)のようなものらしい。
死にぎわのけいれんで、思わず下くちびるを噛みきったらしく、あごにも血がしたたっている。ひきつった、ゆがんだ顔を見ただけで、死にぎわの苦痛が、どれほどすさまじいものであったか、はっきりとわかる。
わたしは死体のそばにひざまずき、スタックハーストは、ぼうぜんと立ちつくしたままだった。そのうち、ふと影がさしたので見あげると、イアン・マードックが立っていた。
マードックも、おなじ学校の数学教師で、背が高く、色があさぐろい、やせた男だが、ひどく無口なうえに、いつも人びとから離れていることが好きなので、友人がまったくいなかった。ふつうの生活とはほとんど関係のない、無理数だの、円錐曲線だのといった、頭のなかであれこれ考える、高等数学の世界にすんでいて、学生たちからは変人あつかいをされていたし、笑いものにすらなっていた。
だがこの男には、どこか外国人の血でも流れているらしく、それが黒いひとみや、あさぐろい肌の色などにあらわれているだけでなく、ときどき、猛烈なかんしゃくを起こし荒れ狂うところにも、うかがうことができる。
あるとき、マクファースンの飼っていた小犬が、うるさく吠えるといって、いきなりその犬をかかえあげ、窓ガラスにたたきつけたこともある。このときはスタックハーストも、マードックが代わりのいない、すぐれた教師でなかったら、くびにすることを考えたにちがいない。
そういう変人で、複雑な男が、わたしたちのそばにあらわれたのだ。犬の事件もあって、マードックは死んだ青年と、あまりなかがよくなかったと思えるのだが、その場の光景に強いショックをうけたらしい。
「ひどいことだ! 気の毒に! なにか、わたしにできることでもありますか? お手伝いさせてください」
「あなたは、マクファースンさんといっしょだったんですか? なにがあったか、話してくれませんか?」
「いいえ、今朝はわたしは遅くなったので、まだ、浜へは行ってません。学校から、まっすぐここへきました。なにか、手つだいましょうか?」
「では、急いでフルワースの駐在所へいって、このことを通報してください」
返事もわすれて、マードックはかけだしていった。スタックハーストは、な思ぼうぜんとして、死体のそばに立ちつくしているだけなので、わたしがかわって動かなければならなかった。
まずわたしが、やらなければならないのは、だれか下の浜にいるか、たしかめることだ。小道のてっぺんに立つと、海岸ぜんたいがひと目で見わたせる。はるかかなたを、黒い人影が二つ、三つ、フルワースのほうへ歩いていくだけで、それをべつにすれば、広い海岸にはだれもいなかった。これだけを、しっかり見とどけてから、わたしはゆっくり坂道をおりた。
道は白亜層に粘土や泥灰土(でいかいど)がまじった土で、あちこちにあとがのこっている。のぼる足跡、くだる足跡、どちらもおなじ人物のものだ。すると今朝は、ほかにこの道をとおって、浜へおりていったものはいないことになる。
ひとつだけ、指をひろげた、手のひらのあとが見つかった。指先が、崖の上をむいているところを見ると、マクファースンが坂をのぼる途中、ころんで手をついたのだろう。ほかにいくつか、まるい窪みもあった。こちらは、よろけてひざをついたものらしい。
小道をおりきると、潮のひいたあとに、かなり大きな潟(かた)ができていた。そのそばで、マクファースンは服をぬいだらしく、岩の上にタオルが置きっぱなしになっていた。きちんとたたんであるし、濡れてもいないから、服はぬいだが、水にははいらなかったのだろう。
そのかたい小石の浜を、さがしまわると、小さな砂地があった。そこには、マクファースンのズックぐつの足跡と、はだしの足跡ものこっていた。これでみると、水にはいるしたくを、すっかりととのえたのに、タオルが示すように実際には、はいらなかったらしい。
こうなると、問題の性質が、かなりはっきりしてくる。いまだかつて、ぶつかったことのない、奇妙な謎だ。マクファースンが浜にいた時間は、せいぜい十五分というところだろう。スタックハーストが「ザ・ゲーブルズ」から、あとをおってきたのだから、この点は疑う余地がない。
マクファースンは泳ぐために浜におりて、服をぬいだ。これは、はだしの足跡が示すとおりだ。ところが、どうしたわけか、泳ぎもしないで、あるいは少なくとも、からだをふきもしないで、ぬいだばかりの服をふたたびあわただしく身につけ、そのままひきかえしてきたのだろう。服の着かたが乱れているし、靴ひもも、とけたままだった。
目的を急にかえたのは、いうまでもなく、あのようにむごたらしい鞭うちを受けたためだろう。痛みと苦しみのあまり、くちびるを噛みきり、最後の力をふりしぼって崖をはいのぼったのだが、ついに力つきて倒れたのだ。いったいだれが、こんなひどいまねをしたのだろう?
たしかに、崖のふもとには、小さなほらあながいくつもあるが、まだ低い朝の太陽が、まっすぐその中までさしこんでいるから、そこに身を隠すことはできない。
遠くの浜に、小さく見える人影はどうだろう。この犯罪と結びつけるには、あまりに、離れすぎている。だいいち、マクファースンが泳ごうとしていた潟の水が、崖下まで、ひたひたとうちよせている。人影は、その反対がわにいるわけだ。
海上には、あまり遠くないところに、二、三隻の漁船が見える。これはそのうち、ひまをみて、乗りくみの漁師を調べることにしよう。調査をすすめる道は、いくつかあるけれど、さて、これこそ、ものになりそうだと思えるものは見あたらない。
しばらくして、死体のところにもどってみると、すでに野次馬があつまって、人垣をつくっていた。スタックファーストも、むろんそこにいた。イアン・マードックも、村の駐在のアンダースン巡査をつれて、もどったところだった。
アンダースンは、赤毛の口ひげをはやした大男で、いなかのサセックス育ちらしく、のっそりとしていた。見かけは動きがにぶく、口かずが少ないが、なかなかものわかりのよいのが、サセックスの人間なのだ。わたしたちの話を、ひととおり聞いて、すべて書きとめると、わたしをわきへひっぱっていった。
「ホームズさん、お知恵を貸していただけると、ありがたいんですがね。わたしには、むずかしすぎる仕事のようです。やりそこなえば、ルーイス署の仲間たちに、いじめられます」
そこでわたしは、ただちに直接の上役と医者を呼ぶように忠告した。また、上役や医者が到着するまでは、現場にあるものを、なにも動かしてはならないこと、自分たちが、新しい足跡をつけないように、気をつけることなどの注意をあたえた。
そしてわたしは、待ち時間を利用して、死人のポケットを調べてみた。ハンカチが一枚に、大型ナイフ、おりたたみ式の名刺いれなどがでてきた。この名刺いれから、小さな紙片がのぞいていた。わたしはそれをひろげてみてから、巡査に手わたした。そこには、はしり書きの女文字で、「わたしは、かならずまいります。まちがいなくね――モーディー」と書かれていた。
時刻も場所もわからないが、どうやら恋人どうしの、うちあわせのようだ。巡査は、それを名刺いれにはさむと、ほかの品といっしょに、バーバリーのポケットにもどした。
それ以上、ここでは参考になりそうなこともないので、まずわたしは最初に崖下の浜をくわしく調べさせるよう手配すると、朝食をとりに、ひとまず家へもどった。

一、二時間すると、スタックハーストがやってきて、遺体が「ザ・ゲーブルズ」に運ばれたこと、そこで検死審問がおこなわれることを話してくれた。そのほかに、決定的な重大ニュースを、いくつか伝えてくれた。
崖下の小さな洞窟からは、やはりなにも発見されなかった。しかし、マクファースンのデスクを調べたところ、フルワースのモード・ベラミーというむすめと、新しく交際していたことを示す手紙が、いくつかでてきたという。これで、あの名刺いれにあった、手紙の書き手がわかったわけだ。
「その手紙は、警察がもっていったから、いま見せることはできないんだが、まじめな恋愛だったことはまちがいないよ。といって、それが今度の恐ろしいできごとと、関係があるとも思えないんだ。そのむすめさんが、マクファースンと会う約束をしていたとしてもね」
「約束したといっても、あのプールは、みんなが行くところなんだから、まさかあそこを、会う場所にえらぶことは、まずないだろう」
わたしは自分の考えをいった。
「それどころか、マクファースンが学生たちといっしょでなかったのは、たんなる偶然にすぎないよ」
スタックハーストはいった。
「ほんとうに、偶然だったのかな?」
スタックハーストは、眉のあいだにしわを寄せて考えこんだ。
「イアン・マードックが、学生たちを強引にひきとめたんだ。朝食のまえに、なにか代数の証明をやってみせるとかいったのさ。かわいそうに、そのことでマードックは、責任を感じて、ひどく胸を痛めているよ」
「しかしマードックは、マクファースンと、あまり仲がよくなかったんだろう?」
「ひところは、そうだったけど、ここ一年ばかりマードックは、だれよりもマクファースンと親しくしていた。もともとマードックは、だれにでも心をひらくという人間ではないんだけどね」
「それは、知っているよ。たしか、まえに犬をひどい目にあわせたとかで、仲がわるくなったと聞いたおぼえがあるんだが」
「ああ、あのことは、もうおさまっているんだ」
「しかし、いくらかわるい感情が残っていたんじゃないのかな?」
「いや、すっかり、仲直りしていたよ」
「なるほど。そうすると、このむすめさんのほうを、調べてみる必要がありそうだ。きみは、本人を知っているかい?」
「だれだって、知っているよ。このあたりでは、ならぶものがない美人なんだ。ホームズ、どこにいっても注目をひく、ほんとうの美人だよ。マクファースンが、あのむすめに気をひかれているのは知っていたが、まさか、手紙でわかるような親しいあいだにまで進んでいるとは思わなかった」
「どういう女性なんだい?」
「トム・ベラミー老人のむすめだよ。フルワースの海岸の貸しボートや、脱衣小屋、そういうものは、みんなトムじいさんのものだ。もとは、漁師からたたきあげた男だが、いまではなかなかの資産家だね。むすこのウィリアムと共同で事業をやっている」
「これから、フルワースまで歩いていって、その一家に会ってみないか?」
「どういう口実で?」
「なに、口実なんかなんとでもなるさ。あのかわいそうな青年は、自分で自分の体に、あんなむごたらしいことをしたわけじゃない。あの傷がまちがいなく鞭によってつけられたものなら、だれかがその鞭をふるったにちがいないんだ。
こういう淋(さび)しい土地だから、マクファースンの交友関係もかぎられてくる、それをひとつずつ、かたっぱしから洗っていけば、かならず動機にぶつかるはずだ。そして動機がわかれば、そこから犯人をつきとめるのは、けっしてむずかしくはないはずだ」
朝がた、あのようないたましい出来事を見て、気がめいってさえいなければ、フルワース村までの道は、タチジャコウソウのかおる草地がつづき、こころよい散歩になったことだろう。
フルワースの村は、入江をかこんで、半円形につながる窪地にひろがっていた。古めかしい小さな村を見おろす小高いところに、近代的な家がいくつかあって、そのひとつに、スタックハーストはわたしを案内した。
「あそこだよ。ベラミーは『ザ・ヘーブン』とよんでいるがね。ほら、すみに塔のあるスレートぶきの屋根の家だ。なにもないところから、たたきあげた男にしては、わるくないよ。おや、あれを見たまえ!」
「ザ・へーブン」の庭木戸があいて、ひとりの男があらわれたのだ。長身で、角ばった体つきは、ひと目でわかる。数学教師のイアン・マードックだった。すぐわたしたちは、道路でばったり出会った。
「やあ!」
スタックハーストが声をかけた。
するとマードックは、かるく会釈しただけで、あの妙に黒いひとみで、わたしたちを横目にみながら行きすぎようとする。
それを、スタックハースト校長がひきとめた。
「あの家に、なんの用があったんだい?」
するとマードックの顔が、怒りで赤くそまった。
「校長先生、たしかに学校のなかでは、ぼくはあなたの部下です。しかし、私生活のことまで、いちいち報告しなければならないとは思いませんでした」
そういわれると、これまで我慢をかさね、神経をぴりぴりさせていたスタックハーストは、ついに堪忍袋の緒(お)がきれた。
「こういうときに、きみのその答えかたは、あまりにも失礼だぞ、マードックくん!」
「あなたのおたずねこそ、失礼なんじゃありませんか?」
「これまでは見のがしてきたが、きみの反抗的な態度は、これが初めてじゃない。だが、それもきょうかぎりだ。一日も早く、ほかの就職口をさがしてもらいたい」
「とっくに、そのつもりでいましたよ。『ザ・ゲーブルズ』を住めるところにしてくれていた、たったひとりの友人を、きょう失ってしまったんですからね」
そういって、マードックは歩きさった。そのうしろすがたを、スタックハーストは怒りに燃える目で見送りながら、わざと聞こえるようにいった。
「なんと我慢のならない、いやな男だろう」
ここで、わたしの心に強い印象を与えたのは、イアン・マードックがこの機会をとらえて、早くも犯罪の現場から逃げだそうとしていることだった。もやもやとした疑いが、わたしの心のなかで、しだいに形をとりはじめていた。
これでベラミー家をたずねてみたら、さらにいろいろなことが、わかってくるかもしれない。スタックハーストも気をとりなおし、わたしたちは、そのままベラミー家へむかった。
ベラミーは、燃えるように赤いあごひげのある、中年の男だった。なぜか、ひどくきげんがわるく、顔までひげに負けないくらいにまっかになった。
「いや、詳しいことなんか、なにも聞きたくねえ。ここにいるせがれも、おなじ考えだが――」
と居間のすみにいる、動きがにぶそうで、愛想がわるい、頑丈な若者をゆびさした。
「マクファースンさんが、モードに目をつけて、いろいろなさるのは失礼きわまるってことだ。だってそうでしょう。むすめと結婚するなんてこと一度も口にださねえで、やたらに手紙をよこしたり、こそこそあいびきしたりのくりかえしだ。これじゃわしらは、父親としても兄としても、とうてい賛成できませんな。なにしろ、母親のいねえむすめだ。わしらが守ってやらなけりゃ、だれも守ってくれるものはねえ。だから、わしらとしちゃ、どんなことがあっても――」
そこでベラミーのことばが、とぎれた。むすめのモードが現れたからだった。どんな会合でも、ひとたびモードが姿をあらわせば、その会場はいっそう明るく、華やかになるだろう。
このような、とびきりの美女が、いなかの、このような家に生まれるとは、だれが予想できるだろうか。
わたしはつねに、感情よりも理性の強い人間だから、女性に心をひかれたことは、まずない。そんなわたしでも、このむすめのくっきりととのった顔だちや、そのぴちぴちした肌が持つ、この地方の匂いや、やわらかさを見れば、どんな青年も、まったく心を動かさないでいることなど、ありえないだろうと思った。
そのむすめが、ドアを押しあけて、目を大きく見張りながら、ハロルド・スタックハーストのまえに立っていたのだった。
「フィッツロイの亡くなったことは、もう知っています。どうかご心配なく、くわしいことをお聞かせください」
「さっきそのことなら、べつの紳士が見えて、知らせてくれたよ」
と、父親が口をはさんだ。
「なにもこんなさわぎに、妹をひっぱりこむことはないだろう」
むすこのほうが、わめいた。
妹はきっとなって、兄をにらみつけた。
「兄さんの知ったことじゃないわ。わたしは、自分のしまつぐらい、自分でつけるから、ほっといてよ。だれがなんといおうと、人がひとり殺されたことは事実だわ。せめて、犯人さがしのおてつだいをして、亡くなったあのかたの冥福を祈りたいと思うの」
モードは、スタックハーストの簡単な説明に、じっと耳をかたむけた。そのおちついた態度から、ただ美しいだけでなく、よほどしっかりした女性のように見える。おそらく、このモード・ベラミーこそ、わたしが出会ったなかで、もっとも完全な、もっともすぐれた女性として、長く記憶にのこることだろう。
モードは、わたしを見知っているらしく、話を聞きおわると、わたしのほうにむきなおった。
「ホームズさん、どうか犯人たちを法律で、きびしく罰してやってください。犯人がだれであろうとも、わたしはどこまでもあなたの味方として、おてつだいいたします」
そういいながら、父と兄にちらりと挑戦するような目をむけた。
「ありがとう。こういう問題では、女性の直感を、わたしは高く買っています。いまあなたは『犯人たち』といったけど、犯行にはふたり以上の人間が、かかわっているとお考えですか」
「わたしはマクファースンさんのことなら、よく知っています。とても勇敢で、強い男でした。ひとりで、あの人にそんなひどいことをするなんて絶対にむりです」
「できれば、あなたとふたりで話せませんか?」
「モード、つまらんことに、かかりあうんじゃねえぞ」
父親が怒ってさけんだ。
モードは、こまったようにわたしを見た。
「どんなお話でしょうか?」
「どうせ、すぐ世間には知れてしまうことだから、この場で話しても、かまわないんですが、わたしとしては、どちらかといえば、内密に話したかっただけなんです。おとうさんがいけないといわれるんなら、おとうさんにも、これから耳にすることは、ほかにもらさないようにしてもらいましょう」
と、わたしはここで、死者のポケットからでてきた手紙のことを話した。
「あれは検死審問の場に、かならず持ちだされるでしょう。あれについて、ここで説明してもらうわけにはいきませんか?」
わたしがたのむと、モードは答えた。
「べつに隠すこともありません。わたしたちは婚約していました。ただ、フィッツロイには、かなりのお年で、もう先も長くないおじさんがおります。フィッツロイが、そのおじさんの意志に反して結婚すると、遺産をもらえなくなるかもしれないので、婚約を秘密にしたのです。ほかに理由なんかありません」
「そんならそうと、早くいえばいいのによ」
と、父親のベラミーが不服そうにいった。
「お父さんが、もっと話のわかる人だったら、わたしだって隠したりしないわ」
「わしはな、だいじなむすめを、身分ちがいの男と結婚させたくなかったんだ」
「そういうふうに、あの人に対して偏見をもっているから、わたしはお父さんに話せなかったのよ。その約束のことなら――」
と、モードはドレスのふところをさぐって、しわくちゃになった一枚の手紙をとりだした。
「あれは、この手紙への返事なんです」


愛する人へ。火曜日の日没後すぐに、浜のいつもの場所で。そのときしか、ぼくは出られない。


「きょうが、その火曜日です。今晩、あえるはずだったのに」
わたしはその手紙を、ひっくりかえしてみた。
「郵便で来たものじゃありませんね。どうやってあなたのところに届いたんですか?」
「そのおたずねには、お答えしたくありません。あなたが、いまお調べになっている問題とは、なんの関係もありませんもの。関係のあることなら、どんなことでもお答えします」
そのことばどおり、モードはなんでも答えてくれたが、これといって捜査に役立つものは出てこなかった。
モードは、婚約者のマクファースンに、かくれた敵がいたとは思えないといった。それでも、自分にひそかな思いを寄せる男が、ほかにも何人かいることはみとめた。
「失礼だけど、イアン・マードックくんも、そのひとりですか?」
モードは顔を赤らめて、こまったようすだった。
「一時は、そんなふうに思ったこともありました。でもフィッツロイと、わたしとの間がらを知ってからは、そんなそぶりは見せなくなりました」
ここでふたたび、あの不思議なマードックをとりまく影が、わたしの心のなかに、色こく浮かびあがってきた。やはり、あの男の経歴を調べてみる必要があるだろう。私室も、そっと捜査しなければならないだろう。
スタックハーストの心のなかにも、すでにおなじような疑いが湧いていたらしく、よろこんで協力を約束してくれた。
「ザ・へーブン」を出て、帰りの道を歩きながら、わたしたちはすでに、事件解決の糸口をつかみかけたつもりで、明るい希望を胸にいだいていた。

一週間がすぎた。検死審問でも、なぞは深まるばかりで、新しい証拠がでてくるまで、審問は一時延期となった。スタックハーストは、ひそかに数学教師の身のまわりをしらべ、その部屋もざっと捜査したが、とくにこれという結果はでなかった。
わたし自身としても、事件のいきさつをいまいちど、ものと心の両面から、調べなおしてみたが、新しい答えは出てこなかった。これまでに、わたしが手がけた事件の記録を、ぜんぶ読みかえしてみても、読者は、これほどわたしが完全にゆきづまり、自分の力の限界を思い知らされた事件を、ほかに見つけることはできないだろう。
わたしが得意とする想像力も、さびついたのか、いくら知恵をしぼってみても、謎を解くことができない。そのときに起きたのが、犬の事件だった。
はじめにそれを聞いたのは、わが家の年とった家政婦だった。こういういなかには、なんだか不思議な無線装置があって、人びとはそれをつかって、ニュースをやりとりするらしい。
「かわいそうな話ですよ、だんなさま。マクファースンさんの犬のことですけど」
家政婦がいった。
わたしは、このようなうわさ話に、ふだんならあまり興味をもたないのだが、このときは気になった。
「マクファースンの犬が、どうかしたのか?」
「死んだんですよ。ご主人の死を悲しんで、なげき死にしたとか」
「だれから聞いたの?」
「みんなその話で、もちきりですよ、だんなさま。すっかり元気がなくなって、あれから一週間、なんにも食べなかったそうです。それがきょう、浜で死んでるのを、ふたりの学生さんが見つけたんです。それもだんなさま、ご主人が亡くなったのと、まるきり、おなじ場所だったそうですよ」
「まるきり、おなじ場所で」
そのことばが、わたしの記憶のなかに、はっきりと刻みこまれた。これは、だいじなことだという感じが、胸にわいてきた。犬には、主人が死んだとき、あとを追って死ぬという、美しく忠実な性質がある。きっとマクファースンの犬も、主人のあとを追って死んだのだろう。
しかし「まるきり、おなじ場所で」とは! なぜ、このさびしい浜辺が、その犬の死に場所とならなければならなかったのか? 犬まで殺すほどの執念ぶかい恨みでもあるというのか?
それともまた? まだ、ぼんやりした感じだが、わたしの心のなかで、なにかがすでに固まりかけていた。二、三分もたたぬうちに、わたしは「ザ・ゲーブルズ」へむかって急いでいた。
スタックハーストは書斎にいた。
わたしの頼みを聞くと、犬を発見したふたりの学生、サドベリーとブラントを呼んでくれた。
「ええ、プールのすぐ水ぎわに倒れていましたよ。きっと、死んだ主人のにおいを追っていったんでしょう」
と、ひとりの学生がいった。
わたしは、その主人思いの犬を見せてもらった。エアデール・テリアだった。ホールのマットの上に寝かされていたが、死体はすでにかたく硬直して、目はとびだし、四本の足はねじ曲がっていた。どこを見ても、ひどく苦しんだことが、はっきりわかった。
「ザ・ゲーブルズ」から帰る途中、わたしは浜のプールヘおりてみた。太陽はすでに沈み、巨大な崖の影が黒く水面におちて、一枚のなまりの板のように、にぶく光っていた。
人影はまったくない。頭上の空を鳴きながら旋回する、二羽の海鳥のほか、生きものの気配もない。うすれていく光の中に、小さな犬の足跡が見えた。そこは、まさに、亡き主人のタオルがおかれていた、岩のまわりの砂地だった。
長いあいだ、わたしはそこに立ちつくし、しだいに濃くなるくらがりのなかで、考えにふけっていた。頭のなかには、さまざまな思いがうずまいている。
たぶん、読者のみなさんも経験がおありだろう。夢のなかで、なにか非常にだいじなものをさがしていて、それがすぐ目のまえにあることが、わかっているのに、いくら手をのばしても届かないじれったさだ。
その夕方、死の浜にひとり立ちつくして、わたしが味わっていたのは、まさにそのじれったさだった。やがて、わたしもあきらめて、岩のそばをはなれ、とぼとぼと家へむかった。ふいにそれが、わたしの頭にひらめいたのは、急な小道を、崖の上までのぼりつめたときだった。まるで稲妻のように、それまで必死に追いもとめながら、つかめなかった思い出が浮かんだのだ。
みなさんもごぞんじのとおり、すくなくともワトスンくんは、何度もそのことを書いてきたはずだが、わたしは、いろいろとかわった知識を山ほどたくわえていて、科学的にはすこしも系統だっていないが、仕事の上では、必要に応じて、ずいぶん役に立ってくれる。
たとえてみれば、わたしの頭は、いろいろな荷物をごたごたと詰めこんだ、トランクルームのようなもので、あまりにかずが多いため、それがどこにしまってあるか、わたし自身もぼんやりとしているが、少なくとも、はっきりさせる方法があった。ほとんど信じられそうもないことではあるが、可能性はつねにある。徹底的にしらべてみよう。
わたしの小さな家には、ばかに大きな屋根裏部屋があって、そこには書物がぎっしりつまっている。わたしは、この屋根裏部屋にとびこむと、一時間あまり本の山をかきまわしたあげく、ついにチョコレート色と銀色の装丁をほどこした本を、一冊もってとびだした。
そしてわたしは、おぼろげな記憶をたよりに、その本のある章をめくった。まず、ありそうもないことであるが、本当はどうなのか? 確かめるまでは、どうしてもおちつけない。
その夜、わたしが寝たのは、かなりおそくなってからだが、そのときには、翌朝とりかかる仕事が、まちどおしくてならなかった。

ところがこの仕事には、迷惑なじゃまがはいった。早朝のお茶もそこそこに、浜へでかけようとしているところに、サセックス州警察のバードル警部がたずねてきた。警部はがっしりして、おちついた、牛のような男で、考えぶかそうな目をしていた。その目がいま、こまりはてたという顔つきで、わたしを見た。
「あなたの、はかりしれないほど広く、深いご経験のほどは、よくぞんじあげています。もとよりこの話は、非公式なものなので、どうかここだけのこととして、お願いします。それにしても、マクファースン事件には、こまりぬいています。問題は、逮捕するかどうかということですが」
「逮捕するって、イアン・マードックくんのことですか?」
「そうです。だれが考えても、犯人はあの男よりほかにいませんよ。その点は、こういういなかの強みですな。容疑者の範囲を、簡単にせばめられるわけですよ。あの男が犯人でないとしたら、ほかにだれかいますか?」
「どんな証拠があるんです?」
どうやらこの警部も、わたしとおなじ、畠のうねづたいに、落ちぼひろいをしてきたようだった。まずマードックの性格、マードックをとりまく、なぞめいた影。犬の事件にも見られる、はげしいかんしゃくを起こすくせ。過去にマクファースンと、けんかをした事実。マクファースンがモード・ベラミーに、心を寄せるのを、こころよく思っていなかったと考えられる理由があること。すべてわたしの考えた線と一致しているが、これといって新事実はない。わたしが知らなかったのは、マードックがこの土地を立ち去る準備に、とりかかっているということだけだった。
「これだけ証拠がそろっているのに、みすみすマードックに逃げられでもしたら、わたしの立場は、いったいどうなるでしょう」
見かけはたくましく、おちついた警部も、内心ではかなり気をもんでいるようだ。
わたしは、言ってやった。
「しかし、よく考えてごらんなさい。それだけでは、肝心なところが、穴だらけですよ。だいいち、事件のあった朝、マードックにはりっぱなアリバイがあります。でかける直前まで、学生たちといっしょでしたし、マクファースンが崖からあがってきて、二、三分とたたないうちに、反対の学校のほうから歩みよってきたんです。それから、忘れてならないのは、体力的にほとんどちがいのない相手に、ひとりで、あれほどすさまじい暴行をくわえるのは無理だということです。
それからもうひとつ、あれだけの傷をあたえた凶器はなにか、という問題もあります」
「しなやかな、鞭のようなものとしか考えられません」
傷痕(きずあと)を、よく調べてみましたか?」
「見ましたよ。医者も調べました」
「わたしは拡大鏡をつかって、くわしく調べたのです。いくつか、とてもかわった点がありましたね」
「どんな点です、ホームズさん?」
わたしは机に歩みより、一枚の拡大写真をとりだした。
「こういう場合に、わたしがつかうのは、こういうものです」
「なるほど、徹底しておやりになりますね、ホームズさん」
「このくらいやらないと、こんにちのわたしのようになるのは、むずかしいでしょう。さて、このみみずばれ、この右肩までまわりこんでいるやつですが、なにか、目につくことはありませんか?」
「さあ、べつに……」
「凶器でくわえられた力の強さが、一定していないことが、はっきりしています。ほら、ここに内出血のあとが、斑点となって残っていますし、おなじものがこっちにもあります。この下のほうのみみずばれにも、おなじ特徴が見られます。これは、なにを意味するものでしょうか?」
「さあ、見当がつきません。あなたは、おわかりなんですか?」
「まあ、わかっているつもりですが、あるいはまちがっているかもしれません。いずれにしろ、この傷がなにによってできたか、それがはっきりすれば、そこから犯人にたどりつけるでしょう」
「いや、むろんこれはばかけた考えなんですが、たとえばまっかに焼けた金網を、背中に押しあてたら、金網の交差する部分は、深く焼けあとがのこって、こんな傷になるかもしれません」
「なかなか、思しろいたとえですね。あるいは、ひもにかたい結びこぶのたくさんついた、ひじょうに強い『九尾のねこむち』とか」
「あっ、そうだ、ホームズさん。それに違いありませんよ」
「まだまだ、それとはまったく、べつの原因も考えられないわけじゃあません。いずれにしてもバードル警部さん、逮捕まで持っていくには、まだ根拠が弱くて無理ですね。それにマクファースンがのこした最後のことば――『ライオンのたてがみ』(ライアンズ・メーン)も、そのままです」
「あれは、『イアンなんとか』といおうとしたんじゃないでしょうか?」
「それは、わたしも考えましたよ。しかし、つぎのことばが、『マードック』に音が似ていればいいのですが、まるっきりちがいます。マクファースンは、ほとんど叫ぶようにいいました。『たてがみ』(メーン)といったことは、まちがいありません」
「ほかに考えかたはありますか、ホームズさん?」
「あるとは思いますが、もう少し、確実な根拠がでてくるまでは、まだそのことは、いいたくありません」
「じゃあ、いつごろになったら、それがはっきりします?」
「あと一時間か、あるいは、もっと早いかもしれません」
警部はあごをなでながら、疑わしそうにわたしをながめた。
「なにを考えておられるのかな……ひょっとして、沖にいた漁船のことじゃないですか?」
「いや、あれは遠すぎますよ」
「なるほど。じゃあ、ベラミーとあのむすこですか? むすこは大男で強そうだし、だいいちマクファースンさんに、いい感情をもっていなかった。もしかしたら、あの親子が危害をくわえたのではないでしょうか?」
「いや、だめです。そのときがくるまでは、ぜったいに口はひらきませんよ」
わたしは笑って、警部にいった。
「それより警部さん、お互いがいそがしい体です。昼ごろまた、出なおしてきてくだされば――」
ここまでいいかけたとき、とんでもないじゃまがはいった。そしてそれがまた、事件の終わりのはじまりでもあった。
玄関のドアがばたんとひらき、廊下に乱れた足音がして、イアン・マードックがよろよろと、部屋にころがりこんできたのだ。顔はまっさお、髪はふりみだし、服もはだけ、骨ばった手で、もがくように家具をつかみ、体をささえながら、「ブランデー! ブランデーを!」と、あえぐように叫ぶと、そのままソファに倒れこんだ。
ひとりではなかった。すぐうしろに、スタックハーストがつづいている。帽子もかぶらず、息をきらせて、こちらも正気を失ったように叫んだ。
「そうだ、早く、ブランデーをたのむ! マードックは、虫の息だったんだ。ここまでつれてくるのが、やっとだった。途中で、二度も気を失った」
強いブランデーを、タンブラーに半分ほどあおると、急にマードックのようすがかわった。いきなり手をついて体をおこすと、肩にはおったコートをはねのけて叫んだ。
「お願いだ、なんとかしてくれ! 油をぬるか、阿片か、モルヒネをのますか! この地獄のような苦痛をやわらげてくれるものなら、なんだっていい!」
それをひと目見て、警部もわたしも、思わずあっとさけんだ。むきだしになったマードックの肩には、むごたらしい傷が、縦横に走っていた。それはまさしく、フィッツロイ・マクファースンの死体に残っていたものとおなじ、あのまっかにはれあがった奇怪な網目模様だったのだ。
ひどく痛むらしいが、それも傷のところだけの痛みではなかった。マードックは、ときどき呼吸さえとまりそうになって、顔が紫色にかわり、ひたいから玉の汗を吹きだしながら、胸をかきむしる。
このまま、もだえ死にしてしまうのではないかと思って、わたしたちは夢中でブランデーを、マードックののどに流しこむと、ようやく一口ごとに、すこしずつ生気がよみがえるようだった。
脱脂綿にサラダ油をしみこませて、その奇怪な傷にあててやると、どうやら痛みがやわらいだらしい。まもなくクッションに頭をおとして眠りこんだ。疲れきった体が、生きつづけるため、眠りにやすらぎをもとめたのだ。眠るというより、失神にちかいが、少なくとも、苦痛からの解放だった。
マードック本人から事情を聞くのは、どうてい無理だったが、ようやく命はとりとめたらしいとわかって、スタックハーストはほっとしたらしく、わたしのほうにむきなおった。
「おどろいたよ! いったいこれは、どうしたんだホームズ? なににやられたんだ?」
「どこで見つけた?」
「浜だ。マクファースンがやられたのと、まったくおなじ場所だ。この男も、マクファースンのように心臓が弱かったら、とてもここまではもたなかったろう。つれてくる途中、なんども、もうだめだとあきらめかけた。『ザ・ゲーブルズ』までは遠すぎるから、ひとまずここへつれてきたんだ」
「浜にいるところを見たのかい?」
「崖の上を散歩していたら、叫び声が聞こえたんだ。下をのぞいてみると、マードックが水ぎわを、よっぱらいのように、ふらふら歩いている。わたしは小道をかけおりて、とりあえず服をマードックの肩にかけると、体をささえてここまであがってきた。たのむ、ホームズ、全力をあげて、この土地にかけられた呪いをとりのぞいてくれ。このままでは、人が住ない土地になってしまう。世界的な名声をもつ、きみの力をもってしても、なんの手をうつこともできないのか?」
「いや、なんとかできるつもりだよ、スタックハースト。では、ついてきたまえ! それから警部さん、あなたもいっしょにどうぞ! この殺人者を、あなたの手にひきわたせるかどうか、やってみようじゃありませんか」
眠りつづけるマードックの世話は、わが家の家政婦にまかせて、われわれ三人はそろって、おそろしい潟へとおりていった。
砂利のうえに、マードックの衣類やタオルが、小さな山になって残っいる。わたしは水ぎわにそって歩きまわり、あとのふたりも一列になってついてきた。潟の大部分はごく浅かったが、崖の下の岩がえぐれたところは、ほぼ四、五フィートの深さがあって、泳ごうとするものは当然ここにくる。水晶のようにすきとおる、青い水をたたえて、天然のプールになっているからだ。
その天然プールを見おろす崖のふもとには、ごろごろした岩がならんでいる。わたしは先に立って、岩づたいに歩きながら、足もとの水面に、じっと目をこらした。もっとも深く、もっとも静かな水面にまできたとき、ついにさがしもとめていたものが、目にとびこんできた。思わずわたしは、叫び声をあげていた。
「キュアネアだ! キュアネアだ! 見たまえ、これが『ライオンのたてがみ』の正体だ!」
わたしがゆびさしたのは、まさしく、ライオンのたてがみをむしりとったとしか思えない、奇妙なものだった。
そいつは黄色い房に、銀色のすじのまじった毛むくじゃらなもので、水面下、三フィートばかりの岩だなに横たわり、ゆらゆらゆれたり、ふるえたりしていた。それは生きていた。ゆっくりと重々しく、ふくらんだり、ちぢんだりする動きをくりかえしているのだった。
「いままで、さんざんわるいことをしてきたのが、こいつだ。しかし、もうそれも終わりだぞ! スタックハースト、手をかしてくれ! この殺人者の息の根を永遠にとめてやるんだ!」
岩だなのちょうどま上に、大きな丸石があった。わたしたちは力をあわせて、大石を水中にころがしおとした。すさまじい水しぶきがあがり、水面がしずまってみると、石は水中の岩だなにのっていて、そのふちから、黄色いまくのようなものが、ひらひらのぞいている。どうやら殺人者は、石の下じきになっているようだ。やがて石の下から、なにかどろっとした油っぽいアオミドロのようなものがしみだし、まわりの水を染めながら、ゆっくりと水面に浮いてきた。
警部が叫んだ。
「これは、おどろいた! いったいなんですか、ホームズさん! わたしは、この土地で生まれて、この土地で育ったものですが、こんなものはいままで見たこともない。こいつは、サセックス特産のものじゃありませんな」
「特産でないのは、サセックスのためにけっこうなことですよ。おそらく、こないだ吹いた南西の強風に吹きよせられてきたんでしょう。おふたりとも、ぼくの家までもどりましょうか。おそろしい体験談を聞かせますよ。こいつとおなじ、海の魔物にやられかけて、一生それを忘れられなかった男の物語です」

わたしの書斎にもどってみると、マードックはだいぶ回復して、起きあがれるようになっていた。頭はまだぼんやりしているらしく、ときおり発作的な、激しい痛みに身をふるわせることもあった。突然、つきさすような痛みが全身に走って、気が遠くなりかけ、岸にはいあがるのがやっとだったという。
わたしは、例のチョコレート色と銀色の本を、とりあげながらいった。
「ここに一冊の本があります。これこそ、永遠の謎に終わったかもしれないこの事件に、最初の光明をもたらしてくれたものなんです。有名な観察家で、牧師でもあるJ・G・ウッドの、『野外生活』という本ですが、ウッド自身があのいまわしい怪物に出くわして、あやうく命をおとすところだったので、その経験を詳しく書くことができたわけです。
キュアネア・カピラータというのがこの悪者の学名で、こいつにやられると、コブラにかまれたのとおなじように、命があやうく、しかも苦痛は、コブラをはるかにうわまわります。ちょっと要点を読んでみましょう。
『水泳ちゅうに、もし、薄い褐色で、ライオンのたてがみと、銀紙の大きなかたまりを丸めたような、もやもやした物質を見つけたときは、じゅうぶん注意が必要である。これはハチクラゲの一種で、おそるべき毒針を持つキュアネア・カピラータというものである』
どうです、われわれのあの不気味な友だちを、じつに正確に書いているじゃありませんか。
このあと著者は、ケント州の沖合で水泳ちゅう、こいつに出会った体験を語っていますが、それによると、この怪物は、ほとんど目に見えないクモの糸のようなものを、伸ばしていて、その長さはときとして五十フィートにもおよび、その範囲にいると、だれでもさされて死ぬ危険があるそうです。ウッドは、かなり離れていたんですが、それでもあやうく死ぬほどの目にあったようです。
『その糸のようなものが、人間の皮膚にふれると、まっかな線があらわれる。これをこまかく点検すると、小さな膿(うみ)のふくろが、つながったものであることがわかる。このひとつひとつは、赤く熱した針のように、全神経を刺激する』
しかし、こういう局部の痛みは、著者の説明によると、もっとも軽いものだそうです。
『激しい痛みが、胸をつらぬき、わたしは銃弾に撃たれたように倒れた。脈拍はなんどもとまりかけ、心臓は六、七度も大きくはねあがって、そのつど胸から押しだされるように思われた』
ウッドがやられたのは、せまいプールの静止した水のなかでなく、波の荒い海上だったわけですが、それでもあやうく命をおとすところでした。そのあと、顔はまっさお、しわだらけで、しなびていて、とても自分の顔とは思えなかったそうです。
そのときは、ブランデーをまるまる一本、がぶ飲みしてしまったのがよかったらしく、なんとか一命をとりとめたのです。警部さん、この本をおあずけします。これを見れば、きのどくなマクファースンが出会った、悲しい事件のすべてを、あますところなく解明できるでしょう」
「ついでに、ぼくへの疑いも晴れるわけですね。警部さんにしても、ホームズさんにしても、ぼくを疑うのはもっともですから、べつにうらみはしません。しかし、逮捕される前日に、不幸な友人とおなじ目にあうとは皮肉です。もっとも、そのため逮捕をまぬがれることもできたというわけだ」
とマードックは、にが笑いした。
「いやいや、それはちがいますよ、マードックくん。わたしはすでに、真相を知る手がかりをつかんでいたし、予定どおりに、けさ早く潟へでかけていたら、きみにこういう恐ろしい経験をさせずにすんでいたと思います」
「でも、どうして真相がわかったんですか、ホームズさん?」
「わたしは乱読家でしてね。しかも、つまらないことを、妙によくおぼえてるんです。マクファースンのいった『ライオンのたてがみ』ということばが、ずっと頭にこびりついていて悩されました。たしか、どこか思いもよらないところで出くわした、つまり読んだもの、ということだけはわかりました。このことばが、じつによくあの怪物の正体をあらわしています。
マクファースンが見たときには、きっと水面に浮かんでたんでしょう。そしてマクファースンは、ああいうことばで、自分を死なせた怪物のことを知らせるのが、せいいっぱいだったんです」
「では、すくなくとも、これでわたしは無罪放免というわけですね」
マードックは、ゆっくりと立ちあがりながらいった。
「ここでひとつ、ふたつ、わたしからも説明させてください。捜査がどの方面にむいてたかは知ってます。わたしがモードを愛していたのは事実です。でも、モードが友人のマクファースンを選んだと知ったときから、モードが幸福になれるように、それだけを願うようになりました。自分は身をひいて、ふたりの仲人になることで、満足したんです。
たびたび手紙をとどける役目もしました。友人が亡くなったとき、いちはやく、そのことを知らせにいったのも、ふたりに信頼されていたし、モードもぼくに、とってもやさしくしてくれたためです。
なにも知らない人間に、先まわりされて、思いやりのない知らせかたをされてはいけません。モードのほうも、あなたがたに、むだな疑いをいだかせて、わたしを苦しい立場におとしいれないよう、わたしたちの関係については、けっして話さないはずだと思いました。
さて、ではおゆるしを願って、そろそろ『ザ・ゲーブルズ』に帰らせてもらいます。やっぱり、自分の寝床ほど、いいものはありません」
スタックハーストが、手をさしのべた。
「お互い事件のために、神経が高ぶっていたんだ。これまでのことは、水に流してくれたまえ、マードック。わたしたちは、これからうまくやっていけるに違いないよ」
ふたりは、なかよく腕をくんで出ていった。
警部ひとりが残って、牛のような目でわたしを見つめていたが、やがて大声でいった。
「いやあ、おみごとですな! これまでにも、あなたのことはワトスン博士のかかれたもので、読んでおりましたが、実をいうと、信じてはいませんでした。でもあなたは、ほんとうにたいしたものです!」
わたしは首を横にふった。こういうほめかたを、へいきで受けいれるのは、かえって自分の値打ちをさげるだけである。
「わたしだって、はじめはずいぶん、のろまでしたよ。とてもゆるせないほどの、のろまでした。もし死体が、水中で発見されていたなら、これほどのまちがいはしなかったでしょう。タオルのおかげで、だまされました。被害者のマクファースンには、とても体をふく余裕なんてなかったのに、てっきり水にはいらなかったと、かんちがいしたのです。
そうなれば、水中にひそむ、なにものかにやられたなんて、思いつきもしなくなります。そこがわたしの、あやまりのもとだったのです。警部さん、わたしはこれまで、さんざんあなたがた警察官を、からかってきました。でも今度ばかりは、このキュアネア・カピラータのやつに、スコットランド・ヤードにかわって、かたきをとられるところでしたよ」
ショスコムの納骨所

ながいあいだ、シャーロック・ホームズは倍率のひくい顕微鏡をのぞきこんでいたが、ようやく身を起こすと、得意そうにこちらをふりかえった。
「にかわだよ、ワトスンくん。まちがいなく、にかわだ。ちょっと、この視野にちらばってるものを見てみたまえ」
わたしは接眼レンズに目をあてて、焦点をあわせた。
「その毛のようなものは、ツイードの上着のけばだ。きまった形のない灰色のかたまりは、ほこりさ。左のほうには、上皮(じょうひ)細胞がうろこ状に見えてるし、まんなかの茶色のしみは、まちがいなく、にかわだ」
「なるほど。まあ、きみのいうとおりに受けとっておこう。しかし、そうだとして、それでなにが証明されるんだい?」
わたしは、笑いながらたずねた。
「こいつは、すばらしい証明になるよ。例のセント・パンクラス事件で、巡査の死体のそばに、帽子がひとつ落ちてたのを覚えてるだろう。容疑者は自分のものじゃないと、いいはってる。でもこの男は、額縁製造業者で、ふだん、にかわをあつかっているのだ」
とホームズは答えた。
「あの事件も、きみが調べているのか?」
「いや。警視庁の友人メリベールに、ちょっと頼まれただけさ。いつか、例のにせ金づくりの男をつかまえるのに、ぼくがあいつのカフスのぬい目にくいこんだ、亜鉛と銅のやすりくずを見つけて、手がかりにしてからというもの、警視庁でもやっと顕微鏡検査の重要性に気がついたらしい」
そういいながら、ホームズはいらいらして、自分の時計を見た。
「新しい依頼人がくるはずなんだが、おそいな。ときにワトスンくん、きみは競馬のことを、いくらか知ってるかい?」
「傷病年金の半分を、それにつぎこんでるくらいさ」
「それじゃ、これからぼくの『競馬案内』になってもらおう。ロバート・ノーバートン卿というと、どういう人物だい? この名前から、なにか思いだすことでもあるかい?」
「うん、あるね。住まいはショスコム・オールド・プレースだ。ここの近くで、ひと夏すごしたことがあるので、よく知ってるよ。ノーバートンという人物は、かつて、きみに捕まりかけたことがある」
「なにをしたんだ?」
「ニューマーケット・ヒースの競馬場で、サム・ブルーワーという、カーゾン街の有名な金貸しを鞭(むち)で打ちのめした。もうすこしで死なせるところだったよ」
「ほう、聞きずてならないね! ちょいちょい、そういう暴力をふるうのかい?」
「まあ、危険な男だという評判だった。騎手としては、イングランドでもっとも大胆で、命知らずなやつだろう。二、三年まえ、グランド・ナショナルでのレースで二着にはいったはずだ。
まあ、おそく生まれすぎた男なんだな。摂政時代(一八一〇〜二〇年)にでも生まれていれば、人気者として、ちやほやされただろう。ボクサーで、運動家で、競馬ではむこうみずなばくちうちで、美しい女性には目がないやつ。世間のうわさでは、だいぶ金にこまっていて、いずれ自滅するだろうということだ」
「うまいぞ、ワトスンくん、みごとな人物スケッチだ。おかげで、だいぶわかってきたよ。つぎはショスコム・オールド・プレースについて、なにか聞かせてくれないか?」
「ぼくも、くわしいわけじゃない。ショスコム緑地の中心にあって、有名なショスコム競走馬飼育場、それに調教場があるところだ」
するとホームズがいった。
「そして、そこの主任調教師が、ジョン・メースンという男だね。なにも、おどろくことはないぜ、ワトスンくん。いま、ぼくが広げているのが、その男からきた手紙なんだ。しかしそれよりも、そのショスコムについて、もっと聞きたいな。どうやらおもしろい事件を、掘り当てたようだ」
「まず、ショスコム・スパニエルという犬がいるよ。どこの犬の品評会でも、かならず目立つ名前だ。イギリスでも、いちばん厳選された品種だろう。ショスコム・オールド・プレースの女主人にとって、なによりの自慢だよ」
「つまり、ロバート・ノーバートン卿の夫人のことかい?」
「サー・ロバートは、いまだに独身だ。今後のことを考えれば、そのほうがいいんだろう。妹で、未亡人になっているレディ・ビアトリス・フォールダーと、くらしてるのさ」
「妹が、サー・ロバートと同居してるということかい?」
「ちがうよ。屋敷は亡くなった妹の夫、サー・ジェームズのものだったんだ。ノーバートンには、なんの権利もない。妹だって、一代かぎりの所有者で、死ねば、財産はすべてサー・ジェームズの弟のものになる。まあそれまでは、毎年の地代や小作料は、妹が受けとることになってるわけだ」
「それを、兄のロバートが使っているわけだな?」
「まあそんなところだ。なにしろ、ひどい男だから、妹の毎日の暮らしも不安なことだろう。それでも、兄には、ずいぶんつくしてやってるそうだがね。ところで、ショスコムで、なにがあったんだい?」
「そいつをぼくも知りたいのさ、そういってるところへ、どうやらそれを話してくれそうな人物が、きたらしいよ」
ドアがひらいて、給仕に案内されてきたのは、背の高い、きれいにひげをそった男だった。その顔は、馬や多くの男たちを監督する立場にある人間だけの、きびしい、ひきしまったものである。事実、ジョン・メースンは、その両方の仕事を、立派につづけているように見えた。
メースンは、ひややかに、おちつきはらって一礼すると、ホームズが手まねでしめしたいすに腰をおろした。
「手紙はとどきましたか、ホームズさん?」
「いただきました。でもあれだけでは、さっぱりわけがわかりません」
「なまやさしい問題ではないので、手紙では、くわしく書けなかったのです。また問題は非常にこみいっています。どうしても、お目にかかってお話しをするほかないのです」
「なるほど。では、お話しをうかがいましょう」
「まず第一に、ホームズさん、わたしの主人サー・ロバートは、正気じゃありません」
ホームズは、眉をつりあげた。
「ここはベーカー街ですよ。ハーリー街とちがって、医者の町ではありません。それにしても、なぜそう思われるんです?」
「それはですね、人がおかしなことをするといっても、ひとつやふたつなら、なにかわけがあるのだと、見のがすこともできるでしょう。しかし、やることなすこと、すべておかしいとなると、これは正気でないと思わなければなりません。きっと、ショスコム・プリンスやダービーのことで、すっかり頭がこんらんしてしまったにちがいありません」
「ショスコム・プリンスというのは、あなたが出走させようとしている、若い馬のことですね?」
「イギリス一の名馬ですよ、ホームズさん。わたしがそういうんですから、まちがいありません。ひとつあなたには正直にもうしあげましょう。あなたは名誉を重んじる紳士だし、この話が、ほかへもれる心配はないでしょうから。
サー・ロバートは、なにがなんでも、こんどのダービーには勝たなければならないのです。もう、借金で首がまわらなくなっていて、これが大金をつかむ最後のチャンスなのです。すでに都合のつくかぎり、借りられるかぎりの金をかきあつめて、あの馬にかけています。それも、ものすごい、かけ率です。いまなら一対四十で買えますが、あの人がかけはじめたころは、一対百に近かったのです」
「おかしいな、その馬が、そんなにいい馬なら、どうしてそんな率になるんですか?」
「世間は、あの馬がどんなにすごい馬か、なにも知らないんです。サー・ロバートは、そのへんの予想屋なんかより、ずっと抜け目がないんです。じつはプリンスに、腹ちがいの弟馬というのがいまして、ふだんそのへんを走らせるときは、こっそりこっちを使うんです。ちょっと見ただけじゃ、見わけがつきませんが、いっしょに走らせてみると、一ハロン(約二〇一メートル)で、二馬身の差がつきます。
いまのサー・ロバートには、この馬のことと、レースのことしか頭にありません。人生のすべてが、このレースの結果にかかっています。それまでは、なんとか金貸しどもの催促をかわしていられるでしょうが、万一プリンスが負けたら、それでもうあの人はおしまいです」
「たしかに無茶なかけのようですが、正気でないとは、どういうところから考えるわけですか?」
「お会いになれば、ひと目でわかります。おそらく、夜もろくに寝ていないんじゃないかと思います。一日じゅう、厩舎(きゅうしゃ)にはいったきりで、目が血走っています。なんだか、神経がすっかりまいっているみたいです。だいいち、妹のレディ・ビアトリスにたいする仕打ちだって、まともじゃありませんよ」
「ほう! どんな仕打ちです?」
「これまでは、ずっと仲のいい兄妹だったんです。趣味もおなじです。妹さんのほうは、兄さんに負けぬくらいの馬好きで、毎日きまった時間に馬車を走らせて、厩舎に馬を見にいきます。
馬たちのなかでも、プリンスが大のお気にいりでした。プリンスのほうも、毎朝、馬車の音が砂利道に聞こえると、両耳をぴんと立てて、角砂糖をもらうため、馬車のほうへ走っていったものです。ところが、そういうことも、もうなくなりました」
「なぜです?」
「なぜか、レディ・ビアトリスは、馬にたいする興味を、すっかりなくされたようです。もうこれで一週間、馬車を走らせても、厩舎のまえを素通りするだけで、『おはよう』ともおっしゃいません」
「兄妹げんかでも、したんでしょうか?」
「それも、はげしく憎みあうけんかですな。そうでもなければ、レディ・ビアトリスが、わが子のようにかわいがっていたスパニエルを、よそにやってしまうはずがありません。数日まえ、三マイルほどはなれたクレンドルで、『グリーン・ドラゴン』という旅館をやっているバーンズじいさんのところへ、やってしまったんです」
「それは、たしかにへんですね」
「レディ・ビアトリスは、もともと心臓がわるいし、水腫(すいしゅ)がおありだから、兄さんといっしょに外出するのはむりでした。これまではサー・ロバートが、毎晩、二時間ぐらいは妹さんの部屋ですごしていたんです。
妹さんは、ちょっと例を見ないほど兄さん思いのかただから、サー・ロバートも、それぐらいのことは、してあげるのがあたりまえでしょう。ところが、それもやめてしまいました。もういまでは、妹さんの部屋には、よりつきもしません。
レディ・ビアトリスは、それが悲しいのか、むっつりふさぎこんで、お酒ばかり飲んでいます。もう、あびるように飲んでいるのですよ、ホームズさん」
「仲がわるくなるまえから飲んでいたんですか?」
「ええ、グラスを手にすることはありました。それがちかごろじゃ、毎晩、ボトルを一本ずつあけてしまうことも、めずらしくありません。執事のスチーブンズが、そういっておりました。
つまり、なにもかも、いままでと違ってきて、しかもどこかがくるっています。それにしても、夜ふけに古い礼拝堂の地下室へ、いったいなにをしにいくのでしょうか? そこでサー・ロバートとこっそり会っている男は、いったい何者なのでしょうか?」
ホームズは、両手をこすりあわせた。
「つづけてください、メースンさん。ますます、おはなしがおもしろくなってきましたよ」
「あるじのサー・ロバートがでかけていくのを、はじめに見つけたのは執事です。ちょうど夜中の十二時、しかも強い雨が降っていました。そこで、つぎの夜、わたしが母屋のほうで見張っていると、はたして、またあるじが出かけていきました。
スチーブンズとふたりで、そっとあとをつけたのですが、もし見つかったら、ただじゃすみませんから、それこそびくびくものでしたよ。なにしろ、あるじは、おこると手が早いし、相手かまわず乱暴をはたらく人なんです。
そんなわけで、あまり近よれないのですが、それでも見失うことはありませんでした。あるじがでかけていったのは、幽霊がでる納骨所で、しかもそこで男がひとり待っていました」
「なんです、その幽霊がでる納骨所って?」
「いや、敷地のなかに、古い、荒れはてた礼拝堂があるんです。いつごろ建ったのか、だれも知らないくらい古いものです。この地下に納骨所があって、土地の人間のあいだでは、幽霊がでると恐れられています。
暗くて、じめじめした、さびしい場所です。昼間はともかく、夜の夜中にあんなところへでかけていくほど気の強い人間は、このあたりにはだれもおりません。ところが、あるじだけはべつです。あの人は、世の中にこわいものなんか、ひとつもないかたです。それにしても、夜中にあんなところで、なにをしているのでしょう?」
ここで、ホームズがいった。
「ちょっと待ってください! あなたは、そこでべつの男が待っていたといいましたね? 屋敷のものか、それともあなたの厩舎のだれかでしょう。その男がだれかつきとめて、どんな目的なのか、問いつめればよかったんじゃありませんか?」
「それが、まったく知らない顔でした」
「どうしてわかります?」
「はっきり顔を見たんですよ、ホームズさん。ふた晩めのことですがね。サー・ロバートは、しばらくしてひきかえしてきて、われわれのまえを通りすぎていきました。その晩は、うす明かりがあったんです。
わたしとスチーブンズは、ふたりとも、それこそ子ウサギみたいに、植えこみのなかで震えてたんです。しかし、もうひとりの男は、まだそこらにいる気配でした。そいつだけなら、べつにおそれることもありません。そこで、サー・ロバートの姿が見えなくなると、繁みからでて、月明かりで散歩でもたのしんでいるようなふりをしながら、男に近づいていって、声をかけました。
『やあ、こんばんわ! いったいあんた、だれかね?』
どうやらその男は、わたしたちの近づく足音に気づかなかったらしく、肩ごしにふりかえったその顔ときたら、まるで地獄で悪魔に出くわしたみたいでしたよ。わっと声をあげ、暗がりの中を、ころげるように走って逃げました。その速さといったら、あきれるばかりで、あっというまに、姿どころか、足音さえ消えてしまって、どこのだれだか、そこでなにをしてたのか、わからずじまいでした」
「しかし、月明かりで顔だけは、しっかり見てたんでしょう?」
「ええ、黄色っぽい顔をした、まあ、けちなやつです。あんなやつが、なぜまたサー・ロバートに用があるのでしょう」
ホームズは、しばらくだまって、考えこんでから、口をひらいた。
「レディ・ビアトリスのそばには、だれが付き添っているんです?」
「メードのキャリー・エバンスです。五年ごしについています」
「じゃあ、いうまでもなく、忠実な女でしょうね?」
メースンは居心地わるそうに、もじもじした。それから、思いきったようにいった。
「忠実にはちがいありませんが、さて、だれに忠実なのやら」
「ははあ。なるほど」
と、ホームズはうなずいた。
「つげ口は、したくないもので」
「いや、よくわかりましたよ、メースンさん。もちろん、状況ははっきりしています。サー・ロバートがワトスン博士のいうような人物だとすると、たぶん、どんな女性もただではすまないでしょう。兄妹げんかの原因が、そのあたりにあるとは思いませんか?」
「なんだか知りませんが、だいぶまえから、うわさが立っています」
「しかし、妹さんは、いままで知らなかった。それが、ここへきて、とつぜん気づいたとしてみましょう。妹さんは、その女を追いだそうとするが、兄さんがゆるさない。心臓がわるくて、なにひとつ自分でできない妹さんは、どんなにくやしくても、自分の意思をおしとおす手段がない。憎たらしいメードは、あいかわらず自分勝手にふるまっている。
そこで妹さんは、ふさぎこんで口もきかなくなり、酒ばかり飲むようになる。サー・ロバートは腹を立てて、妹のかわいがっているスパニエルをとりあげ、よそへやってしまった。
どうです、これで話のつじつまがあうんじゃありませんか」
「ええ、まあね、そこまでのところは……」
「そうです、ここまでのところは。しかし、いったいそのことと、サー・ロバートが夜ごと古い納骨所を訪れることは、どんな関係があるのでしょう。こっちのほうは、いま立てているすじ書きには、うまくあてはまらない」
「そうですとも、あてはまらないことは、ほかにもまだありますよ。サー・ロバートが、どうして死体を掘りだしたりするのか、ということです」
このことばを聞くと、ホームズはぎくりとしてすわりなおした。
「じつは、きのう、こちらにお手紙をさしあげたあと、わかったばかりなんです。サー・ロバートは、きのうロンドンにでかけました。その留守に、わたしはスチーブンズとふたりで、納骨所に降りてみました。すると、べつに異常はなかったんですが、ただかたすみに、死体の一部がおいてありました」
「警察へ届けたんでしょうね」
客は、にが笑いした。
「いや、それが、警察ではあまり関心はもたないんじゃないかと思いましてね。死体といっても、ひからびてミイラのようになった頭と、骨がわずかばかりです。おそらく、千年ぐらいまえのものでしょう。
しかし、以前はそんなものが、納骨所になかったことはたしかです。けっして、思い違いじゃありません。スチーブンズも、そう断言するはずです。すみのところに、板をかためて、かぶせてありましたが、これまでは、なにもおいてなかった場所なんです」
「その骨をどうなさいました?」
「はあ、そのままにしておきましたが」
「それは賢明でした。サー・ロバートは、きのう留守だったとのことですが、もう帰ってきましたか?」
「きょう、お帰りになるはずです」
「サー・ロバートが、妹さんの犬を、人にやってしまったというのは、いつのことです?」
「ちょうど一週間まえです。犬が古い井戸小屋の外で、ひどく吠えました。その朝、サー・ロバートは虫のいどころがわるかったのか、犬をいきなり乱暴にかかえあげたので、殺す気じゃないかと心配になったほどでしたよ。
でも、犬を騎手のサンディー・ペインに渡して、こんなやつ、二度と見たくないから『グリーン・ドラゴン』のバーンズじいさんにくれてやってこいといいつけたのです」
ホームズは、しばらくだまって考えこんだ。そのあいだに、いちばん古くて、いちばんきたないパイプに火をつけた。
それからホームズはいった。
「メースンさん、じつは、まだよくのみこめません。この件で、わたしにどうしろといわれるんですか。そこのところを、もう少しはっきりさせてください」
「たぶん、これをお目にかければ、はっきりすると思いますよ、ホームズさん」
そういってメースンは、ポケットから紙に包んだものをとりだし丁寧(ていねい)にひろげた。そこにあらわれたのは、黒こげになった骨片だった。
ホームズはそれを興味ありげに調べた。
「どこで手にいれましたか?」
「レディ・ビアトリスの、お部屋のま下の地下室に、セントラルヒーティング用の炉があります。しばらく使わずにいましたが、サー・ロバートが寒いといいだして、また火をいれさせました。
火をたくのは、ハービーという男です。わたしの下ではたらく若い者ですが、そのハービーが、けさわたしのところへきまして、炉のもえがらをかきだしていたら、これが出てきたというのです。だいぶ気味わるがっていました」
「わたしだって、おなじですよ。ワトスンくん、きみはこいつを、どう思う?」
まっ黒こげにはなっているが、解剖学上、なんの骨かはっきりわかった。
「人間の大腿骨部骨頭だね」
とわたしはいった。
「そのとおり! その若者が、炉をたくのはいつですか?」
ホームズは、真剣になっていた。
「毎晩、たきつけておいて、あとは見まわりません」
「すると、夜中には、だれでも炉のところへいけるわけですね?」
「もちろんです」
「外からでも降りられますか?」
「外からの入口がひとつあります。それに、もうひとつ、べつの入口が階段のそばにあって、それをあがると、レディ・ビアトリスのお部屋のそばの廊下にでます」
「そのへんに、なにかありそうですね、メースンさん。なにか、うしろ暗い事情がね。サー・ロバートは、ゆうべは留守だったということでしたね?」
「そうです」
「すると、この骨を焼いたのがだれかは知らないが、サー・ロバートではない」
「そのとおりです」
「ええと、あの犬をやった旅館ですが、なんといいましたっけ?」
「『グリーン・ドラゴン』です」
「バークシャー州のあのあたりには、魚つりにいい場所がありますか?」
ホームズがそういいだすと、正直な調教師は、こまったような顔をした。悩みごとが多いのに、さらにまた、頭のおかしなやつがあらわれたといいたそうだった。
「そうですね。たしか、水車のある川でマスがつれるし、ホール池では、カワカマスがつれるそうですよ」
「それはいい。じつは、ワトスンくんもぼくも、ちょっと知られた釣り師なんです――そうだね、ワトスンくん? じゃあこれからは、用事があったらその『グリーン・ドラゴン』におねがいします。今夜は、そこにいっていますよ。
もちろん、あなたが、わざわざ、おいでになる必要もないでしょう。そちらからのご連絡は、手紙で用がたりるだろうし、必要があれば、こちらから出むきます。はっきりした意見は、もうすこしくわしく調べてみてから、もうしあげたいと思います」

こういうわけで、五月の輝くばかりによくはれた夕方、ホームズとわたしは、一等車をふたりだけで占領し、ショスコムの小さな、「お声がなければ通過します」駅へとむかったのだった。
頭上の網だなには、釣りざお、リール、びくなどが、おどろくほどたくさん積みこんである。
目的の駅でおりて、ちょっと馬車を走らせると、古風な旅館についた。主人のジョサイア・バーンズも、大の釣りずきらしく、このあたりの淡水魚を根絶やしにしようという、わたしたちの計画によろこんで参加した。
「ホール池は、どうだろう。カワカマスは釣れそうかな?」
とホームズがいった。
主人の顔がくもった。
「あそこはいけませんよ、お客さん。一ぴきも釣らないうちに、あんたのほうが池のなかに叩きこまれる、てなことになりかねません」
「ほう、それはまたどうして?」
「サー・ロバートが、こわい人だからね。競馬の予想屋をひどく警戒してるので、あんたたちのような見なれない人が、調教場の近くをうろついていたら、けっしてほっときません。サー・ロバートは、馬のことになったら、絶対すきを見せないです」
「そういえば、こんどのダービーには、持ち馬を出走させるそうだね?」
「ええ、それもなかなかいい若駒ですぜ。あたしらもあり金のこらず、かけさせられました。もちろん本人は、なにもかも、この馬につぎこんでます。ときにお客さん――」
といった主人は、わたしたちを警戒するようにながめた。
「あんたたち、まさか、競馬関係の人じゃないでしょうな?」
「いや、とんでもない。ふたりともロンドンの生活につかれて、バークシャーのいい空気を吸いたくて、やってきただけさ」
「そんなら、ここはもってこいの場所ですぜ。いい空気ならたっぷりあるからね。だけど、いまいったサー・ロバートにだけは、気をつけなさいよ。口より手のほうが早い人だ。屋敷の地所には、よりつかないのがいちばんでさあ」
「いいことを教えてもらった! そのことはかならずまもることにしよう。ときにバーンズさん、ホールでくんくん鳴いている、あのスパニエルは、すばらしい犬だね」
「たいしたもんでしょう。純粋のショスコム種だからね。イギリスじゅう探したって、これだけの犬はいませんよ」
「わたしも、犬の繁殖には興味があってね。こんなこと、聞いていいものかどうかわからないが、あれだけの犬になると値段はどのくらいするものだろう?」
「わたしなんかに、とうてい手のでるような値段じゃありません。うちにいるのは、サー・ロバートが、ただでくれたやつでね。だからこそ、ああしてつないであるんでさあ。放してやったら、たちまち屋敷へ逃げかえっちまうよ」
主人が立ち去ると、ホームズはいった。
「だいぶ、材料がそろってきたね、ワトスンくん。むずかしい事件だが、まあ一両日のうちには、はっきりするだろう。ところで、サー・ロバートは、まだロンドンから帰らないそうだ。
そうすると、今夜ならサー・ロバートの神聖な場所に忍びこんでも、痛い目にあうおそれはないだろう。ひとつふたつ、確かめておきたいことがある」
「なにか、見こみがついてるのかい、ホームズ?」
「見こみというほどでもないが、一週間ばかりまえ、ショスコム荘の生活に、なにかとんでもない変化が起きたということはいえるだろう。その、なにかとは、なにか? いまは、結果からおしはかるしかないが、またそれが、奇妙にこんがらがってくるようなんだ。
しかし、そのためにぼくたちは助かる。なんの特徴もない、しずかな事件なんて、手がつけようもないからね。そこで、わかっている材料を整理してみよう。兄は、仲よくしていた病身の妹を見舞いにもいかなくなった。妹のかわいがっていた犬を、よその人間にくれてやった。犬は、妹のものなんだよ、ワトスンくん! これでなにか、思いあたることはないかい?」
「さあ、兄がひどく腹を立ててるってことだけだ」
「まあ、それはそうだろう。しかし、ほかの考え方もある。じっさいに、兄妹げんかがあったとして、それ以後の兄妹のようすを再検討してみよう。
妹のほうは部屋にとじこもって、それまでの生活のしかたをがらりとかえた。メードといっしょに馬車ででかけるときは、ぜんぜん顔を見せない。でかけるとき、いままでのように厩舎に立ちよって、お気にいりの馬に会おうともしない。そのうえ、大酒をのんでるらしい。これで要点は、みんなカバーしてるだろう。どうだい?」
「納骨所の件をのぞけばね」
「それはまた、べつの線だ。思考の線は二本ある。それを混合しないでもらいたいね。A線は、レディ・ビアトリスにかかわりのあるものだが、これには、なんとなく不吉な予感がすると思わないかい?」
「ぼくには、さっぱりわからないよ」
「ふむ。じゃあ、B線のほうを考えてみよう。これはサー・ロバートに、かかわりのあるものだ。サー・ロバートはダービーに勝つことだけで頭がいっぱいだ。高利貸しに首根っこをおさえられていて、いつ全財産をそっくり競売にかけられるか、厩舎をさしおさえられるか、わからないといったありさまだ。
もともと大胆で、むこうみずの男だが、収入はすべて妹にたよっている。妹のメードは、サー・ロバートのいうとおりに動く手先だ。どうだい、ここまではまず、まちがいないところだろう」
「しかし、納骨所はどうなるんだい?」
「そう、その納骨所だが、ひとつ仮説を立ててみようじゃないか、ワトスンくん。ちょっと人聞きはわるいが、あくまでも、議論をすすめるための仮説ということにしてさ。たとえば、サー・ロバートが妹を亡きものにしたんだとしたら?」
「おいおい、ホームズ、ばかなことをいうなよ」
「いいや、考えられることだぜ、ワトスンくん。たしかにサー・ロバートは、名門の生まれかもしれない。しかし、ワシのむれのなかに、どうかするとハシボソガラスがまじってることがあるからね。まあしばらくは、この推定にもとづいて、議論をすすめてみよう。
サー・ロバートは妹を殺したものの、大金をつくってからでないと、高飛びするわけにもいかない。ところが、その大金をかせぐには、ショスコム・プリンスのたくらみを、成功させるしかない。そういうわけで、ここしばらくはこの土地から動けない。
それまでに、妹の死体をなんとかしまつして、同時に妹になりすまし、その身代わりをつとめてくれる女をさがさなくてはならない。さいわいメードが手下だから、そんなにむずかしいことじゃない。
死体はひとまず、人がめったにいかない、納骨所へはこびこんでおく。そして夜のあいだに、そっと暖房用の炉でやいてしまう。その結果、われわれがすでに見せられた、あの証拠が残ったというわけだ。どうだ! ワトスンくん、この考え方は?」
「そうだな。妹殺しという、とんでもない仮説をみとめるならば、そういうことになるかもしれないね」
「ぼくは、あした、これについてちょっとした実験をやってみたいと思う。そうすれば、問題がいくらか、はっきりしてくるだろう。それまでは、われわれの正体がばれないように、ここの主人にせいぜい旅館の酒でもおごって、ウナギやウグイのはなしをすることにしよう。あの主人をよろこばすには、それがいちばんだ。はなしをしているうちに、またそのなかで、なにか役に立つような土地のうわさ話が、聞きだせるかもしれないからね」

朝になるとホームズは、カワカマス用の疑似餌(ぎじえ)を忘れてきたことに気づいた。おかげでこの日は、魚つりをしなくてよいことになった。十一時ごろ、散歩にでたが、そのとき主人から、例の黒いスパニエルをつれていくゆるしをえた。
まもなく、屋敷をかこむ緑地の門にさしかかった。二本の高い門柱のてっぺんに、紋章のグリフィンをとりつけてある。それを見あげながら、ホームズはいった。
「ここが、その屋敷だ。バーンズのはなしによると、いつも昼ごろレディ・ビアトリスは馬車でドライブに出るそうだ。あの門がひらくのを待つあいだ、馬車はスピードをおとすだろう。そこでワトスンくん、馬車が門をでて、またスピードをあげないうちに、きみは御者になにか尋ねてひきとめてくれないか。ぼくのことは気にするな。このヒイラギの繁みのかげにかくれていて、どういうことになるか見とどけたいんだ」
そう長く待つことはなかった。十五分ほどすると、うしろにほろをたたんだ黄色いバルーシュ型の大きな馬車が、屋敷内の長い並木道を門に近づいてきた。二頭のみごとな、あし毛の馬が高く足をあげて、馬車を引いていた。
ホームズは犬をかかえて、繁みのかげにうずくまった。
わたしは、のんびりステッキをふりながら、車道のまんなかに立った。門番が走りでて、大きな門の扉をあけた。
馬車が、並み足に速度をおとしたので、乗っている人物が、わたしにもよく見えた。化粧のこい、亜麻色の髪の若い女が、左側の席におさまり、生意気そうな目つきであたりをながめている。いっぽう右側には、いかにも病身らしい年配の女性が、顔から肩までショールを巻きつけ、背を丸めてすわっている。
馬が街道にでてきたところで、わたしは命令的に片手をあげ、御者が手綱をしぼると、
「ショスコム・オールド・プレースのサー・ロバートはご在宅か」とたずねた。
同時に、ホームズが繁みから姿をあらわし、スパニエルをはなった。犬はうれしそうに吠えながら馬車にかけより、ステップにとびのった。ところがたちまち、その熱っぽいよろこびは、はげしい怒りに変わり、犬は、ステップの上にたれさがっている黒いスカートに、いきなりかみついた。
「だしなさい! はやく馬車をだしなさい」
けわしい声があたりにひびきわたり、御者の鞭がなった。
われわれふたりと、犬一ぴきは、道路にとりのこされた。
ホームズは、いきりたつスパニエルの首に、引き綱をつけながらいった。
「どうだい、ワトスンくん、うまくいったじゃないか。主人だと思ったのに、ぜんぜん別人だったというわけだ。犬はけっして、人ちがいはしないからね」
「あの声は、男だったぜ!」
わたしもさけんだ。
「そうだ! これで手持ちの札が、また一枚ふえた。しかしワトスンくん、勝負は慎重にということは、あいかわらず変わらないよ」

この日、ホームズにもそれ以上の予定はないらしかったので、午後は水車小屋の小川で、ほんとうに釣り糸をたれ、夕食にマス料理を一皿くわえることができた。
ホームズが、ふたたび動きだすようすを見せたのは、この夕食が終わってからだった。
もう一度、わたしたちは、おなじみの緑地の門の前へでかけていった。そこに、長身の黒い人影が待っていた。それはロンドンで、すでにおなじみの調教師、ジョン・メースンだった。
「こんばんは、ホームズさん。お手紙を拝見しましたよ。サー・ロバートはまだもどりませんが、今夜には帰ると聞いています」
「納骨所までは、母屋からどれくらいありますか?」
とホームズが聞いた。
「四分の一マイルは、たっぷりあります」
「じゃあ、サー・ロバートのことは気にしないでいいですね?」
「あいにく、わたしはおつきあいできないんですよ、ホームズさん。サー・ロバートは、帰るとすぐにわたしを呼んで、ショスコム・プリンスのようすを聞きたがるでしょうから」
「わかりました。そういうことなら、あなたの手を借りずにやるほかないですね、メースンさん。納骨所まで案内してもらえれば、あとはわれわれでやります」
月のない、まっくらな夜だったが、メースンは慣れたようすで先に立ち、しばらく草原を横切ってすすんだ。やがて、ひときわ黒い影が前方にぬっとあらわれた。それが、われわれの目ざす古い礼拝堂だった。
もとはポーチだったらしい崩れたすきまからなかにはいると、メースンはごろごろした石材につまずきながら、どうにか建物のすみまでたどりつき、そこから急な階段づたいに、地下の納骨所におりていった。
メースンがマッチをすると、あたりがぼんやり明るくなった。いやなにおいがよどむ、ぶきみな光景だった。
くずれかけた、あらけずりの石壁や、古い棺(ひつぎ)の山が、まず目にはいる。鉛の板張りや、石造りなどの棺は、いっぽうの壁ぎわによせてつみあげられ、アーチや天井にまでとどき、さらにその先は、頭上のやみのなかに消えている。
ホームズが角灯をともすと、あざやかな黄色の光が、小さなトンネルとなって闇をつらぬき、さびしく暗い光景をてらしだした。その光は、棺につけられた名札にあたって、反射した。名札の多くは、この一族の紋章である、冠をかぶったグリフィン(ギリシャ神話の怪物。ワシの頭とつばさに、ライオンの胴を持つ)のかざりがつけてあり、死後もなお、その名誉と栄光をしめしていた。
「骨があったといいましたね、メースンさん? 帰るまえに、その場所だけ教えてください」
「こちらのすみですよ」
調教師は、そこへあゆみよったが、ホームズの角灯がその隅をてらすと、おどろいてさけんだ。
「おや、なくなっている!」
ホームズは、くすくす笑っていった。
「そうだろうと思いましたよ。いまごろは、れいの暖房炉のなかで、灰になってるでしょう。前にもその一部がやかれたようにね」
「しかし、だれが焼いたにしろ、なぜ、千年も前に死んだ人の骨を、焼かなければならんのです?」
ジョン・メースンがいった。
「それをいまから、つきとめようというわけですよ。だいぶ、時間がかかりそうなので、これ以上はおひきとめしません。なんとか朝までには、解答をつかめるでしょう」
と、ホームズはいった。
ジョン・メースンが引きあげると、ホームズはいよいよ納骨所のなかを、たんねんに調べはじめた。まず、奥のほうの、サクソン人のものと思われる、ごく古いものからとりかかり、ノルマン時代のユーゴーやオードーといった名のある、たくさんの棺をへたのち、やっと十八世紀のサー・ウィリアムや、サー・デニス・フォールダーのところまできた。
一時間以上もかかって、ついに納骨所の入口近くに立ててある、鉛張りの棺にたどりついた。そこで、ホームズの口から、かるい満足のさけびがもれ、さらにそのせわしない、なにかを期待するような動きから、とうとう目標に達したのがわかった。
拡大鏡をつかって、ホームズは、その重い棺のまわりを点検していたが、まもなくポケットから短いかなてこをとりだし、すきまに押しこんで、ふたをこじあけようとした。
ふたは、かすがい二つばかりで留められているだけらしく、めりめりと裂けるような音がして、ふたがすこし、はずれかかった。それをさらに押しひろげて、内部がわずかに見えてきたとき、思わぬじゃまがはいった。
だれかが、頭上の礼拝堂のなかを歩いていた。しっかりした、早く歩く足音だ。なにか目的があって、しかもこの場所のようすを、よく知っているものにちがいない。
階段から明かりがさし、つづいてその明かりをもった人物が、ゴシック式アーチの入口に、ぬっとあらわれた。堂々とした体つきに、獰猛(どうもう)な態度で、見るからにおそろしそうな人物である。
ぐいとまえへつきだした大型の厩舎用の角灯が、口ひげのこい、がっしりした顔や、怒りにもえる目を、下から照らしだしている。
その目があたりを見まわして、納骨所の内部のようすをくまなくさぐると、最後にわたしたちをにらみつけ、どなりだした。
「いったいきさまらは何者だ? おれの所有地で、なにをしている」
しかし、ホームズが答えないので、つかつかと二歩ばかりすすみ、手にした太いステッキをふりあげた。
「聞こえないのか? きさまは、何者だ? ここで、なにをしている」
ステッキが、空中でふるえた。
だが、ホームズはひるむどころか、逆に相手のまえにすすみでた。そして、きびしい調子でいった。
「サー・ロバート、こっちからもお尋ねしたいことがあります。これは、だれです? なんで、ここにあるんです?」
ホームズはむきなおって、うしろの棺のふたをあけた。強い角灯の光で、わたしが見たのは、頭から足の先まで、一枚のシーツにくるまれた人間の死体だった。いっぽうのはしから、魔女のように鼻とあごばかりがつきだした不気味な顔がのぞき、変色して、くずれかけたその顔のなかから、どろんとした目がこちらを見つめている。
準男爵はさけび声をあげると、よろよろとうしろにさがり、石棺のひとつで、なんとか体をささえた。
「どうしてこれが、わかったんだ!」
といって、また思いだしたように、えらそうな態度になった。
「どっちにしろ、きさまに関係なかろうが」
そこで、シャーロック・ホームズは名乗りをあげた。
「わたしは、シャーロック・ホームズというものです。たぶん、名前ぐらいは、お聞きになったことがあるでしょう。とにかく、わたしはつねに、すべての善良な市民の味方になり、法律を維持することにつとめています。けっして、『きさまに関係なかろうが』ではすまされません。あなたに説明していただかねばならない問題がたくさんあるようですな」
サー・ロバートは、しばらくホームズをにらみつけていたが、ホームズのおだやかなはなしかたや、落ち着いて自信にみちた態度に、さからえなかった。
「ホームズさん、神に誓って、わたしはやましいことはしていない。たしかに、見かけはわたしに不利なようだが、ほかに方法がなかったのだ」
「わたしも、そう思いたいところです。しかし、やはりそういういいわけは、警察にたいしてなさるべきでしょう」
サー・ロバートは頑丈な肩をすくめた。
「必要ならば、それもやむをえまん。ひとまず、わたしの屋敷へきて、どういうわけなのか、わたしのはなしを聞いたうえで、あなた自身に判断をねがいましょう」

十五分後、わたしたちは屋敷の一室にいた。ガラス戸の奥に、ぴかぴか光った銃身がずらりとならんでいるから、どうやらこの古い屋敷の銃器室だと思われる。部屋の家具なども、心地よくととのっていた。サー・ロバートは、ここにわたしたちふたりを残して、どこかへ姿をけした。
もどってきたとき、サー・ロバートは、一組の男女をつれていた。そのひとりは、馬車に乗っていたあの化粧のこい若い女で、もうひとりは、ネズミのような顔つきの小がらな男で、態度もこそこそしていて、感じのわるい男だった。ふたりとも、すっかりとまどっているようすなので、サー・ロバートはまだ、事情が変わってきたことを、説明してやっているひまがなかったのだろう。
サー・ロバートは、手まねでふたりをさしていった。
「このふたりは、ノーレット夫妻です。夫人は旧姓のエバンスの名で、長いあいだ、わたしの妹の忠実なメードとしてつとめてきました。このふたりを呼んだのは、ほかでもない。いまわたしにとって、最善の道は、真実をあなたに説明することだと思います。この世の中で、このふたりだけが、わたしのはなしを真実だと証明できるのです」
「旦那さま、こんなことをする必要がございましょうか? よくお考えになったうえでのことなんですか?」
と、女はさけんだ。
「わたしだって、これには、なんの責任もないんですからね」
と、女の夫もいった。
サー・ロバートは、その男を蔑(さげす)むように見た。
「全責任は、わたしがとる。それでホームズさん、事情をひととおり聞いてもらいましょうか。
あなたはどうやら、わが家の内情に、よほどくわしいようだ。そうでなければ、さっき、あの場所で出あうはずがありません。だから、すでにご存じでしょうが、わたしはこんどのダービーに、ダークホースを出走させるつもりです。それに、わたしのこれからのすべてがかかっています。うまく勝てれば、なにもかもぶじにおさまります。もし、負ければ、――その先は、考えたくもありません!」
「あなたのお立場は、よくわかりますよ」
とホームズはいった。
「わたしは、生活のすべてを、妹のレディ・ビアトリスにたよっています。しかし、みんなが知っていることですが、妹が持っている財産は、一代かぎりのものです。いっぽうわたしは、高利貸しからの借金で、首もまわらないしまつです。
まえから覚悟していたことですが、ここでもし妹が死にでもしたら、高利貸したちがハゲタカのようにおしかけてくるでしょう。そして、わたしの厩舎も、持ち馬たちも、すべてがむしりとられます。ところがホームズさん、一週間まえに、なんと妹が、ほんとうに死んでしまいました」
「そのことを、だれにも知らせなかったわけですか!」
「どうして知らせられましょう。完全な破滅に直面していたんですよ。たった三週間、三週間だけ、このままなんとかもちこたえられれば、なにもかもぶじおさまるのです。妹のメードの夫、ここにいるこの男ですが、これは俳優でしてね。そこでふと、わたしの頭にひらめいたのが、三週間ぐらいなら、この男に妹の代役をやってもらおうということでした。
代役といっても、毎日一度、馬車で外に出るだけでいいのです。妹の部屋には、このメードのほか、だれもいれさせなければすみます。これくらいのことは、それほどむずかしくありません。妹の死因は、長らくわずらっていた水腫でした」
「じっさいにそうかどうかの決定は、検死官の役目ですよ」
「ここ数か月、妹の病状が悪化して、いつこうなっても不思議ではなかったということは、妹の主治医が証言してくれるでしょう」
「で、どうなさいました?」
「遺体を、ここに、おいておくわけにはいきません。ノーレットに手伝わせて、その夜のうちに、いまは使われていない古い井戸小屋に運びました。ところが、妹のかわいがっていたスパニエルがついてきて、小屋の外で、しきりにきゃんきゃん泣くものだから、よそへ移したほうが、よいだろうと思ったのです。
スパニエルを、よそにやったあと、ふたたびノーレットとふたりで、遺体を古い礼拝堂の、地下納骨所へはこびました。死者を乱暴にあつかったり、死者の名誉をきずつけたりしたとは思っていませんよ、ホームズさん」
「しかしサー・ロバート、そうしたことそのものが、ゆるされないことだと思いますよ」
サー・ロバートは、いらいらして首をふった。
「説教するのは簡単です。あなただって、わたしの立場になってみれば、またちがった考え方をするでしょう。あと一歩というところで、すべての望み、すべての計画がだめになるというのに、なんの努力もせずに、手をこまねいていられるものですか。
妹にしても、しばらくのことではあるし、夫の先祖の棺のひとつにでもはいって、荒れてはいるが神聖なあの墓所で、安らかに眠るのは、けっしてわるいことではないはずです。そう考えたから、棺のひとつをあけて、なかの遺体をだし、かわりに妹の遺体をそこにおさめたわけです。
とりだした古い遺体のほうも、まさか納骨所の床に、ほうりだしておくわけにはいきません。これまたふたりで運びだし、夜中にノーレットが、セントラルヒーティングの炉で焼きました。これがわたしの、はなしのすべてです。
それにしてもホームズさん、どうやってあんたが、このことをつきとめて、すべてを告白しなければならないところまで、わたしを追いつめられたのか、その点はまったくわかりません」
ホームズは、しばらくじっと考えこんでいた。
それから、おもむろにいった。
「サー・ロバート、いまのおはなしには、ひとつだけ欠陥がありますね。競馬のかけ、つまり、あなたの将来への希望は、かりに債権者が全財産をおさえたとしても、さしつかえなく成立するんじゃありませんか?」
「いや、出走する馬も、その財産のうちに数えられます。かけの結果がどうなろうと、高利貸しどもは、目もくれません。ことによると、あの馬をダービーに出すことさえ反対するかもしれません。
あいにく、もっとも大口の債権者が、わたしに敵意をいだくサム・ブルーワーという悪党です。わたしはこいつを、ニューマーケット・ヒースの競馬場で、しかたなく鞭でうったことがあります。そういう男が、わたしを助けてくれると思いますか?」
そこでホームズは、腰をあげながらいった。
「なるほど、わかりました。とにかくこの問題は、警察にとどけでなければなりません。わたしの任務は事実を明らかにすることです。それが終わったのですから、これで失礼します。わたしは、あなたがなさったことの善悪や責任について、意見をのべる立場にありません。さあ、ワトスンくん、もう真夜中に近い。そろそろ、あの田舎の旅館にひきあげるとしようか」

いまではよく知られていることだが、その後、この風がわりな事件は、サー・ロバートの行動にふさわしくないと思えるほど、万事めでたく幕をとじた。ショスコム・プリンスはダービーに優勝し、大胆なとばく師の馬主は、八万ポンドものかけ金を手にいれた。
ダービーが終わるまで、貸し金のとりたてをひかえていた債権者たちも、おかげで全額返済を受けた。それでもなお、サー・ロバートの手もとには、準男爵としての生活を立てなおし、名誉をたもてるだけの金がのこされた。
警察も、検死官も、この問題の処理には寛大な立場をとった。サー・ロバートは、妹の死亡とどけがおくれたことにたいして、軽くしかられただけで、幸運にも、あの奇怪な行動については、ぜんぜん咎(とが)められることもなく、切りぬけることができた。いまでは事件のほとぼりもさめ、サー・ロバートも、立派な老後をすごすと約束するようなくらしぶりである。
引退した絵具屋

その朝、シャーロック・ホームズは、ふさぎこみ、あきらめきったような気分にひたっていた。もともと、きわめてすばやい、現実的な人間なのに、ときどき反動的に、まるで正反対の気分におちいりやすいのだ。
「見たかい、あの男を?」
と、ホームズはたずねた。
「いま、帰っていった老人のことかい?」
「そうだ」
「入口で、すれちがったよ」
「どう思った?」
「あわれで、つまらない負け犬というところだね」
「まったくだよ、ワトスンくん。あわれで、つまらない。しかし、考えてみれば、人生そのものが、もともとあわれで、つまらないものじゃないのかな? あの男の身の上こそ、人間社会をそのまま縮めたものじゃなかろうか? われわれは手をのばして、なにかをつかむ。ところが、その手のなかにのこるものはなにか。まぼろしだよ。いや、まぼろしよりまだわるい――みじめさだ」
「いまの男、あれも依頼人なのかい?」
「まあ、そういってもいいだろう。ロンドン警視庁から、まわされてきたんだ。医者が、なおらない病気の患者と見ると、やぶ医者にまわしてよこすのとおなじさ。そうしておいて、もはや手の施しようがない、たとえ、よそで、どんなひどい治療をうけても、これ以上は、わるくなりっこないのだと、弁解するわけだ」
「で、どんな事件なんだい?」
ホームズはテーブルから、だいぶよごれた名刺をとりあげた。
「ジョサイア・アンバリー。本人のはなしでは、画材製造業ブリックフォール&アンバリー商会の共同経営者で、副社長だったそうだ。この会社の名は、絵の具箱なんかでよく見かけるよ。ちょっとした財産もできたし、六十一歳で会社をやめて、ルイシャムに家を買い、これまでこつこつ、働きつづけてきたのだから、残りの人生はのんびりすごそうときめたのさ。どこから見ても、気楽な生活が保障されているわけだ」
「それは、そうだな」
ホームズは、ありあわせの封筒の裏に、走り書きしたメモに目をとおした。
「引退したのが、一八九六年だ。あくる九七年のはじめに、二十も年下の若い女性と結婚した。写真にいつわりがなければ、なかなかの美人だ。財産はある。若い妻も迎えた。おまけに、ひまはたっぷりある。こうなれば、すばらしい将来が開けていると思えるだろう。それが、なんと二年とたたないうちに、さっきも見たとおりの、世にもあわれな、見るかげもない人間になりはてたわけだ」
「なにがあったんだね」
「よくあるはなしさ、ワトスンくん。裏切りの友人と、浮気な妻という組みあわせだよ。あのアンバリーにも、ひとつだけ熱中する趣味がある。チェスだ。たまたまルイシャムの家から、あまり遠くないところに、これまたチェスの好きな医者がいる。名前は、ドクター・レイ・アーネスト。このアーネストが、訪ねてくるうちに、アンバリー夫人と愛しあうようになった。
まあこれは、自然のなりゆきだろう。なにしろ、わたしの依頼人は、精神的にどれだけ立派か知らないが、見た目はあのとおり、ぱっとしない男だからね。それでつまり、先週アーネストとアンバリー夫人は、手に手をとってかけおちした。行き先は、だれにもわからない。
さらにまた、わるいことにアンバリー夫人は、いきがけの駄賃とばかり、夫の書類保管箱をもちだした。これには、アンバリー老人が、これまで長いあいだ、こつこつと貯めこんだ財産のほとんどがはいっていた。
女を探しだせないものだろうか。金だけでも、とりもどせないだろうか。というわけで、いままでのところでは、いたってありきたりの事件だが、あのジョサイア・アンバリーにとっては、生きるか死ぬかの大問題なのさ」
「それで、きみはどうするつもりだい?」
「そう、さしあたっての問題はね、ワトスンくん。その質問を、そのままきみに、お返しすることになる。きみがもしも、ぼくの代役をひきうけてくれるとしたら、どうするつもりだい?
きみも知ってるとおり、いまぼくは『ふたりのコプト人の長老』の事件にかかりきりで、これもきょうあたりが、山だろうと思う。ルイシャムへ出かけてるひまは、まったくないんだが、かといって、現場で集めた証拠には、とくべつの値打ちがあるからね。アンバリー老人は、ぜひともぼくにきてくれ、と熱心にたのんできたが、どうしても無理だということを説明してやった。そうしたら、代理でもしかたがないと、あきらめたみたいだよ」
「もちろん、ひきうけるよ。もっともぼくがいったところで、たいしてお役に立つとも思えないが、できるだけのことはやってみよう」
とまあ、こんな次第で、ある夏の午後、わたしはルイシャムへ出かけたのだが、これが一週間とたたぬうちに、国じゅうを騒がせる大事件に発展しようとは、夢にも思わなかったのである。

ベーカー街にもどり、たのまれた仕事について報告をすませたのは、その夜もだいぶおそくなってからだった。ホームズは、深いいすに、やせた体を横たえ、つよいタバコの煙をパイプから、もくもくはきだしながら、ものうげに目を半分とじて聞いていた。
ほとんど、眠っているように思えるが、ときどき、わたしの話がとぎれたり、あやふやなところがあったりすると、そのたびにまぶたがぴくっと動いて、そのすきまから、ふたつの灰色の目が短剣のように光り、えぐるようにわたしを見るのだった。
「『ザ・へーブン』というのが、ジョサイア・アンバリーの家の名なんだ。面白いだろう。下層社会に身をおとした貧乏貴族といった感じがするじゃないか。あのあたりは、きみも知っているとおり、どこまでいってもおなじような、れんが建ての家並みがつづいて、うらぶれた郊外の街道という雰囲気がつよい。そのまんなかに、まるで古い文化と、やすらぎの世界のなごりをとどめる小島のように、その古い家が建っている。家をかこむ高いへいは、風雨にさらされて、コケのまだら模様の服をまとい、頭にもコケの帽子をかぶって、一種の……」
「詩人気どりは、やめてくれよ。ようするに、高いれんがのへいがあるんだろう?」
ホームズは、ずけずけといった。
「そうさ。そのへいのおかげで、通行人に道を尋ねなければ、とても『ザ・へーブン』には、いきつけなかっただろう。その通行人は、タバコをくわえて、通りをぶらぶらしていた。とくに、このことを話すには、ちょっとわけがある。
背が高くて、色があさ黒くて、ふさふさした口ひげをはやした、軍人あがりふうの男だが、ぼくが尋ねると、口で答えるかわりに、問題の家のほうにあごをしゃくりながら、へんに疑わしそうな目つきで、ぼくをじろじろ見た。この男のことは、まもなくまた、思いだすことになるんだ。
門をはいると、アンバリーが玄関から、むかえに出てくるのが目にはいった。けさは、ちらっと見かけただけだが、それでも、おかしな人物だなと思った。ところが、こうして明るいところで、あらためて見ると、その異常さがますます強く感じられた」
「その点は、ぼくもじっくり観察したが、しかし、きみの受けた感じも、ぜひ聞かせてもらいたい」
ホームズはいった。
「心の痛みに耐えかねて、腰がまがってしまった、というような感じだったな。まるで重い荷物でも背おっているように、腰が深くおれまがっている。ところが、見かけほど体が弱っているわけじゃない。肩の盛りあがり、胸の厚みなどは、巨人のようにがっちりしている。ただ、腰から下はほっそりとしていて、足なんかはひょろひょろだった」
「左の靴には、しわがよっているが、右の靴は、すべすべだっただろう?」
「ぼくはそこまで、気がつかなかったな」
「きみには、見る気がないからさ。あれは義足だよ。だが話をつづけてくれないか」
「それから目についたのは、半白の髪が、古ぼけたむぎわら帽の下から、もじゃもじゃはみだしてたことや、荒々しい、食いつきそうな顔つきと、そこに刻まれた深いしわ、そのぐらいかな」
「よくわかった。それでアンバリーは、なんといったんだい?」
「ひどい目にあったことを、いきなり、くどくど話しはじめたよ。ならんで玄関のほうへ歩きながら、もちろんぼくは、あたりを観察した。
あれほど、手入れのわるい家は、まず見たことがない。庭は荒れはてて、草も木ものびほうだい。庭というより、自然のままの荒れ地だね。まともな女が、どうしてあんなところで辛抱できたか不思議だよ。
家のなかがまた、さらにひどくて、だらしがない。さすがにアンバリー老人も、それは気になっているのか、なんとか修理をしようとしているようだ。ホールのまんなかに、緑色のペンキをいれた大きなかめがおいてあったし、ご本人は左手に大きなブラシをもっていた。木の部分を塗りかえようとしていたらしい。ぼくが通されたのは、老人の私室らしい、すすけた暗い部屋で、そこで長時間話をした。きみがこなかったんで失望していた。
『そうだろうとは、思っておりました。わたしのような、とるにたらない人間、それも財産をすっかりなくしたばかりの老人が、シャーロック・ホームズさんのような有名なかたを、ひとりじめしようなんて、虫がよすぎました』なんて、いやみをいってたよ。
そこでぼくは、依頼人の財産なんか、問題にしてるわけじゃない、といって聞かせた。
するとこんどは、
『なるほど、そうでしたな。ホームズさんの場合は、仕事に芸術をもとめていらっしゃる。それなら、ここにきてお調べになれば、芸術的な面でも、それなりに満足されるところがあったでしょう。また、人間性の問題もあります。ワトスン先生――わけてもこの、はじしらずの、おんしらず! じっさい、わたしが一度でも、妻のねがいを、聞きいれなかったということがありますか? あれほど甘やかされてきた女があるでしょうか? それから、妻の相手のあの青年は、むすこといってもおかしくないくらい、大事にしてやりました。この家にも、自由に出入りさせました。それなのに、わたしをこんな目にあわせるとは! ワトスン先生、世も末ですよ。おしまいですよ!』
とまあこんな調子で、一時間以上も、ぐちと、泣きごとのくりかえしだ。そのあいまに、どうにか聞きだしたところによると、アンバリーは、夫人が浮気をしてるなんて、夢にも思わなかったようだ。なにしろ、ふたりきりのしずかな生活で、使用人も通いの女がひとりだけだ。それも夕方、六時に帰ってしまう。
事件の夜、アンバリー老人は、夫人へのプレゼントのつもりで、ヘイマーケット劇場の、三階桟敷の切符を、二枚買っておいた。ところが、出かけるまぎわになって、夫人が頭痛がするから行けないといいだした。しかたなく、アンバリーはひとりで出かけた。この話に、うそはないらしい。使わなかった夫人の切符を見せてくれたよ」
「それは面白い。とても面白い。はなしをつづけてくれ、ワトスンくん。すっかり面白くなってきたよ。その切符を、きみは見たのかい。ひょっとして、座席の番号をおぼえていないか」
ホームズは、だんだん事件に興味をおぼえてきたようだった。
「たまたま覚えているよ。ちょうど、ぼくの学生時代の番号とおなじ三十一番だった。そこで頭にこびりついてるんだ」
わたしは得意になって答えた。
「すごいぞ、ワトスンくん。すると、アンバリーの座席は、三十番か、三十二番ということになるな」
「そうなるだろうね。それから、列はB列だった」
わたしは、いくらかぼかして答えた。
「ますますすばらしい。ほかにアンバリーは、どんなことをいっていた?」
「金庫室だという部屋を、見せてくれたよ。鉄の扉に、鉄のシャッターという、ちょうど銀行の金庫室とそっくりで、がんじょうそのものだ。盗難よけだといってたがね。ところがだ、夫人は、合い鍵を持ってたらしく、相手の男とふたりで、七千ポンドほどの現金と有価証券を、そっくりもって逃げたというのだ」
「有価証券だって? そんなもの、どうやって金にかえるつもりなんだ!」
「そのリストを、警察に提出してあるから、金にかえられないはずだと、アンバリーはいってた。ともかく夜の十二時ごろ劇場から帰ってみると、家じゅう荒されていて、ドアも窓もあけっぱなしにしたまま、夫人たちが逃げたあとだった。置き手紙もなければ、伝言もない。それ以後もなんの音さたもなしだ。とりあえず、警察にはとどけてある」
「ペンキを塗ってたといったね? どこを塗ってたんだ?」
「廊下を塗ってたようだ。しかし、いま話した部屋のドアや、木造部分なんかは、もう塗りおわっていた」
「こんなときにわざわざペンキの塗りかえなんて、へんだと思わないか?」
「『なにか、気の紛れるようなことをしていないと、もちませんから』と、アンバリーはいってたよ。いまペンキの塗りかえなんて、たしかに普通じゃないが、もともと当人が、常識はずれの人物だからね。ぼくの目のまえで、夫人の写真をびりびりに引き裂くんだ。『こんな顔、二度と見たくもない』とかなんとか叫びながら、それこそ半狂乱で、ちぎっては捨て、ちぎっては投げという騒ぎだよ」
「まだほかに、なにかあるかい?」
「うん、なによりも不思議なことが、ひとつある。帰りはブラックヒース駅まで馬車をとばして、そこから列車に乗ったんだが、発車まぎわに、あわててとなり車両にとびのった男がいる。きみも知っているとおり、ぼくは、人の顔をめったに忘れないほうだが、あれはたしかに、ルイシャムでアンバリー家への道をたずねた、あの背の高い、色の浅黒い男だった。
しかもそのあと、ロンドン・ブリッジ駅で、もう一度見かけたが、人ごみにまぎれて見うしなってしまった。あいつは、絶対、ぼくを尾行してたのだと思う」
「いや、まったくだ! そうだろう! 背が高くて、色が浅黒くて、ふさふさした口ひげのある男だといったね? おまけに、灰色のサングラスをかけていたんだろう?」
とホームズがいった。
「そのことは、いい忘れたが、たしかに灰色のサングラスをかけてた。ホームズ、きみはまるで魔法使いのようだね」
「それにフリーメーソンのネクタイピンをしてただろう?」
「ホームズ!」
「なに、かんたんなことなのさ、ワトスンくん。それよりも、実際的な問題のほうを、つきつめよう。じつをいうと、この事件、ばかばかしいほど単純で、ぼくが出るまでもないと思ってたんだが、それがどうやら急速に、ようすがかわってきたようだ。きみがせっかくぼくの代理でいきながら、肝心なところは、すべて見おとしてきたのは事実だが、それでもきみの目にとまった材料からだけでも、事件は真剣に考えなければいけないところにきている、といえる」
「ぼくが、なにを見のがしたっていうんだ?」
「まあまあ、気を悪くしないでくれ。ぼくが薄情な男だということは、知ってるだろう。きみだからこそ、これだけの成果があげられたんだよ。ここまでできるものは、まずないさ。しかし、肝心なところを、見おとしているのは確かなんだ。
たとえば、このアンバリーという男とその夫人を、近所のものは、どう見ているか。こいつはとても重要な点だよ。それにアーネスト医師の評判はどうか。はたして、ぼくたちが考えているような女たらしだったのか、どうか。
ねえワトスンくん。紳士のきみがたのめば、どんな女性だって、よろこんで協力者になってくれたはずだ。郵便局のむすめさん、八百屋のおかみさんなんか、どうだい? ぼくなんか、きみが『ブルー・アンカー』の若い女に、意味もないことをやさしくささやきかけ、その見返りに、有力な情報をひきだしてるようすが、目の前に浮かぶぜ。ところがきみときたら、そういうことを、ぜんぜんやっていない」
「いまからやってもいいよ」
「もうやってあるよ。電話という便利なものがあるし、それにロンドン警視庁もあるおかげで、ぼくはここにいながら、重要な情報が手にはいるのさ。事実、ぼくが入手した情報によると、あのアンバリーという男の話は、いちおうほんとうのことらしい。近所の評判によると、アンバリーは金銭欲が強いうえに、夫人には口やかましく、横暴だったそうだがね。
金庫室に、大金をおいていたというのも、うそではない。また、若い独身のアーネスト医師が、よくアンバリーとチェスをやっていたというのも事実だから、そのあいだに夫人をうまくだましたというのも、ほんとうかもしれない。ここまではまあ、いってみればよくある話で、とくに問題はなさそうに思える。ところが――ところがだよ!」
「どこに、問題があるというんだい?」
「ぼくの、思いすごしかもしれないがね。だが、まあワトスンくん、このはなしは、ひとまずうちきろう。しばらく、この退屈で、うんざりする仕事の世界をはなれて、音楽というわき道に逃避しようじゃないか。今夜は、アルバート・ホールでカリーナが歌う。せいぜいおしゃれをして食事もすませて、思いきり楽しむとしよう」

あくる朝、わたしは早起きしたつもりだったが、食事には、トーストのくずと卵のからが二個分のこっていて、ホームズのほうがもっと早く起きて、食事をすませたことがわかった。ふと見ると、テーブルに走り書きの置き手紙がある。


おはよう、ワトスンくん――
ジョサイア・アンバリーと会って、ひとつふたつ、確かめたいことがある。それがすめば、この事件をおしまいにできるか、それともできないか、はっきり決められるだろう。きみは三時ごろ、家にいるようにしてくれればいい。またきみの手を、借りることになるかもしれないから。


その日ホームズは、ずっと姿を見せなかったが、手紙に書かれていた時刻には、むずかしい顔をして、なにか思いつめたようすで、ぼんやり帰ってきた。こういうときには、そっとしておくにかぎる。
「アンバリーは、ここにこないかい?」
「うん」
「さあて! もう来るはずなんだが」
ホームズの期待は、裏切られなかった。まもなく、例のひどく暗い心配そうな、とまどった顔つきで、アンバリーがあらわれた。
「じつはホームズさん、さっき、こんな電報を受け取りました。なんのことだか、さっぱりわけがわかりません」
アンバリーがわたした電報を、ホームズは読みあげた。


スグオイデネガウ」コノタビノナクシモノニツキ」オシラセスルコトアリ」牧師館ニテ」エルマン


「リトル・パーリントンから二時十分の発信になっている。リトル・パーリントンは、たしかエセックス州の、フリントンからそう遠くないところだ。これはもちろん、すぐ行くべきだね。土地の牧師だから、まともな人物であることはたしかだ。ええと、ぼくの『聖職者名簿』は、どこへやったかな? ああ、ここだ……ほら、のっていますよ。J・C・エルマン、文学修士、モスモア・リトル・パーリントン合併教区司祭か。ワトスンくん、汽車の時刻表を見てくれないか」
「リバプール・ストリート駅、五時二十分発というのがあるよ」
「ちょうどいい。きみも一緒にいってあげたまえ、ワトスンくん。なにか相談相手が、必要になるかもしれない。これで、この事件もいよいよ大づめだね」
ところが、肝心の依頼人は、あまり乗り気でないようだった。
「これはまったく、ばかげてますよ、ホームズさん。こんな、遠いところにいる人が、こっちで起きたことを知ってるわけがありません。時間と金のむだづかいですよ」
「なにも知らなければ、わざわざ電報なんか、打ってきませんよ。すぐにいく、と返電をうちなさい」
「いや、やめておきましょう」
するとホームズは、いつものきびしい顔つきをいよいよひきしめた。
「警察としても、わたしとしても、あなたに対して、内心、ひじょうに不利な判断をすることになりますよ、アンバリーさん。これほど、はっきりした手がかりがあるのに調べようともしないとなれば、あなたが、ほんとうは捜査が進むのを望んでいないのではないかと、うたぐりたくなります」
そういわれて、依頼人はすっかりあわてたようだった。
「いやいや、そういうことなら、もちろんいきますよ。見たところ、この人物が、なにか役に立つ情報をもってるなんて、ばかげてるとしか思えませんが、あなたがそうお考えなら――」
「そう考えますとも!」
ホームズは、強くいった。
こうしてわたしたちは、牧師に会いにいくことになった。部屋を出るとき、ホームズはわたしをわきに呼び、そっと注意を与えてくれた。どうやら、この旅行を、とても重視しているらしい。
「どんなことをしてもいいから、アンバリーをかならずリトル・パーリントンまで、つれていってもらいたいんだ。もし途中で逃げだしたり、ひきかえしたりするようだったら、すぐ近くの電話交換局にかけつけて、ひとこと、『にげた』と報告してくれればいい。どこにいても、かならずぼくに連絡がつくようにしておくから」

リトル・パーリントンは支線の沿線にあって、いくといっても、そう簡単ではない。いま思いだしても、うんざりするような旅だった。暑いときで、汽車はのろい。アンバリーはきげんがわるくて、だまりこみ、たまに口をひらけば、どうせいったってむだだと、いやみをくりかえすばかりだった。
ようやく、田舎の小さな駅におりると、牧師館まで二マイルも、がたがたと馬車にゆられた。そこで、大柄な、えらそうにもったいぶった牧師がでむかえてくれた。
わたしたちは、書斎に通された。目のまえに、こちらからうった返電がおいてある。
「よくおいでくださいました。どんなご用件でしょう?」
と、牧師はたずねた。
「電報をいただいて、うかがったんですが」
わたしが、説明した。
「電報を? わたしは打っていませんが」
「いや、ジョサイア・アンバリーさんあてに、アンバリー夫人やお金のことで、電報をおうちになったでしょう?」
「冗談にしても、これは、けしからん冗談ですな。いまおっしゃったようなかたは、まるきり知らないし、どなたにも電報など打ったおぼえはありません」
牧師は、はらだたしげにいった。
アンバリーとわたしは、おどろいて顔を見あわせた。
「なにか、いきちがいがあるようですね。ここには、もうひとつ牧師館がありませんか? ここに、その電報を持ってきました。このとおり、差出人はエルマン、住所は牧師館となっています」
「牧師館はひとつだけ、教区司祭はひとりだけです。それにしても、こういうにせ電報は、ほんとうにけしからん。ぜひとも警察にたのんで、何者のしわざか、つきとめてもらわなければなりません。にせ電報とわかれば、これ以上お話しをつづける意味は、ないと思います」
こういうわけで、アンバリーとわたしは、外へ追いだされた。
あたりをながめると、イギリスじゅう探しても、これほどの田舎の村は、ほかにないように思えた。とりあえず、電報局へいってみたが、もうしまっている。しかし、駅前の小さな旅館『レールウェイ・アームズ』に電話があったので、そこからホームズに連絡をとった。
わたしのはなしを聞いて、ホームズもおどろいたようだ。
「それは不思議な話だな! じつにおかしいよ! それにしても、ワトスンくん、気の毒だが、今夜はもう帰りの汽車はなさそうだ。ぼくのおかげで、田舎の宿のひどさを、味わうことになったわけだが、しかしねワトスンくん、田舎にはつねに、すてきな自然がある。すてきな自然とジョサイア・アンバリー、この両方にゆっくり親しんでくれたまえ」
電話を切るとき、むこうでくすくす笑っている声が聞こえた。
アンバリーが、けちだという評判どおりであることは、すぐにはっきりした。ここにくる途中も、旅費に文句をつけ、汽車も三等にするといいはった。そして、旅館でも宿泊費のことで、やかましく騒ぎたてた。ようやく翌朝、ロンドンに帰りついたときには、ふたりとも、ひどくふきげんになっていた。

「通りがかりだから、べーカー街によっていきませんか? ホームズくんからも、なにか新しい情報が聞けるかもしれません」
と、わたしはさそった。
「そういわれても、きのうみたいなものばかりじゃ、聞くだけむだでしょうが」
アンバリーは、しかめっつらでいったが、それでもわたしについてきた。
到着の時刻は、あらかじめ電報でホームズに知らせてあったのだが、帰ってみると、彼の置き手紙があって、ルイシャムにいくので、わたしたちもあとからきてほしいと書いてあった。
これは意外だったが、もっと意外だったのは、ルイシャムのアンバリーの家の居間で待っていたのが、ホームズひとりだけではないことだった。いかめかしい、無表情な顔をした男がひとり、そばにすわっていた。色の浅黒い、灰色のサングラスをかけた男で、ネクタイには、大きなフリーメーソンのピンをさしていた。
ホームズが紹介した。
「こちらはぼくの友人、バーカーくんです。バーカーくんも、あなたの事件に関心をもっていましてね、アンバリーさん。これまでわたしとは、べつべつの線で調べてきましたが、たまたまふたりとも、いまおなじことを、あなたにお尋ねしたいと思っているんですよ」
アンバリーは、どっかり腰をおろした。危険が迫っていることを感じたらしく、それが目の色や、ぴくぴくひきつる顔にあらわれていた。
「どんなことを、お聞きになりたいんです、ホームズさん?」
「簡単なことです。死体はどうしました?」
いきなりアンバリーが、しゃがれた声をあげて、とびあがった。骨ばった手が空をつかみ、口が大きくひらいた。そのようすは、おそろしい肉食の鳥のように見えた。それこそ、ジョサイア・アンバリーのほんとうの姿――みにくい体とおなじように、心もねじまがった悪魔だった。
アンバリーは、そのまま、いすに腰をおとすと、手を口にあて、咳(せき)でもおさえるようなしぐさをした。とたんにホームズが、まるでトラのようにおどりかかると、アンバリーののどをつかんで顔を下へねじむけた。はげしくあえぐ口もとから、白い錠剤がひとつ、こぼれおちた。
「早く楽になろうたって、そうはいかないぞ、ジョサイア・アンバリー。『なにごとも正しい順序と方法をまもっておこなえ』と聖書もいっている。さて、どうしようかね、バーカーくん?」
「そとに、辻馬車を待たせてありますよ」
と、口かずのすくないバーカーがいった。
「署までは、ほんの数百ヤードだ。一緒にいこうか。ワトスンくん、きみはここで待っていたまえ。三十分もしたら、もどってくるから」
絵具屋の老人は、そのがんじょうな体に、ライオンのような力を隠しもっていた。しかし、そういう相手を扱いなれたふたりの男にかかっては、赤ん坊とおなじだった。もがいたり、あばれたりしながら、そとの馬車へとひきずられていった。そしてわたしは、ただひとり、不吉な感じがする家にとりのこされた。
さいわいホームズは、思っていたよりも早めに帰ってきた。こんどは、きびきびした若い警部が一緒だった。
「めんどうな手つづきは、バーカーくんにまかせてきた。きみはまだ、バーカーのことはよく知らなかったっけね、ワトスンくん。サリー州あたりでは、ぼくのにくむべき商売がたきの私立探偵なんだ。背の高い、色の浅黒い男だときみから聞いたとき、ぼくには、なにもかもわかったよ。
バーカーは、大きな事件をいくつも解決してる。そうだね、警部?」
「あの人には、たびたび邪魔されましたよ」
と、警部は遠慮ぶかく答えた。
「バーカーのやりかたは、ぼくとおなじで変則的なんだ。しかし、変則的なやりかたが、役に立つことだってある。たとえば警部、きみなんかは立場上、容疑者にむかって『今後おまえのいうことは、おまえに不利な証拠として用いられることがある』なんて、警告しなければならない。でも、こういうやりかたでは、こんどの犯人のような悪党から、自白をひきだすなんて、とうていむりだったろうね」
「まあ、それはそうでしょう。しかしホームズさん、われわれだって、いずれは目的を達しますよ。こんどの事件にしたって、われわれがなんにもわからず、とうてい犯人をとらえるのはむりだった、などと思われてはこまります。はっきりいわせてもらえば、あなたがたが、こちらでは使えない方法で、横からとびこんできて、われわれの鼻先から、獲物をさらっていくのは、我慢できかねるところがあるんです」
「べつに、獲物を横どりしたりはしないさ、マッキノンくん。これからは、事件の表(おもて)から、一歩後退することをお約束するよ。バーカーだって、ぼくがたのんだことを実行したにすぎない」
警部は、ほっとしたようだった。
「それはまた、ホームズさん、おおらかなおことばですね。感激です。ほんとうのところ、事件のことで、ほめられても、けなされても、あなたにとっては、べつにどうということはないでしょうが、われわれにとっては大問題なんです。とくに新聞がうるさく質問してきますからね」
「まったくね。しかし、いつだって新聞は、うるさく質問するよ。それならそれで、あらかじめ答えを用意しておけばいい。たとえば、頭のよい、やる気まんまんの記者から、きみがいったい、どういうところから疑いをもつようになったか、またどうやって真相をつきとめたのか、とたずねられたら、いったいどう答えるつもりだね?」
警部は、こまった顔をした。
「わたしどもは、真相なんか、まだぜんぜんつかんでいませんよ。ホームズさん、あなたは容疑者が、あなたがた三人の目のまえで、いきなり自殺をはかったのは、とりもなおさず、夫人とその愛人を殺害したことを、自供したも同然とおっしゃいますが、ほかにどんな事実があるのですか?」
「家宅捜査の手配は、もうしたのかい?」
「巡査が三人、こっちへむかっています」
「ではすぐに、なによりも明白な事実が手にはいるさ。死体は、ふたつとも、そう遠くにはないはずだ。まず、地下室や庭をさがすことだ。ここぞと思うところを掘ってみれば、そう手間はかからないだろう。この家は、水道ができるまえに建ってるから、どこかに、いまは使われていない古井戸があるはずだ。そこも調べてみるんだね」
「それにしても、あなたはどうしてわかったんです? 犯行は、どういうふうに、おこなわれたんです?」
「それでは、犯行の流れについて話して、つぎに説明を聞いてもらおうか。きみ以上に、ここにいる辛抱づよいワトスンくんこそ、説明を聞く権利がある。この事件では、はじめからおわりまで、大きな働きをしてくれたんだからね。
しかしそのまえに、犯人の心の内面をのぞいてみよう。これはきわめて異常なものだ。この異常性を考えると、絞首台よりは、むしろブロードムアの精神障害犯罪者収容所に送るほうが、よいのではないかと思える。
アンバリーは、現代のイギリス人よりも、中世のイタリア人を思いおこさせるような人物だ。ひどいけちで、あまりに金を惜しむので、夫人もすっかりいやけがさして、誘惑する男がいれば、すぐ誘いにのりそうなところがあった。
そこにチェスのすきな、若い医師があらわれたわけさ。アンバリーはチェスが強かったが、これはね、ワトスンくん、計画的な才能のあらわれでもあるんだ。ひどいけちは、みんなそうだが、アンバリーも嫉妬ぶかく、それも病的に高まっていた。
じっさいに、どういう関係だったのか、確かめもしないでアンバリーは、夫人と若い医師が愛しあっていると疑った。そこで復讐を決意して、悪魔のようなたくみさで、計画を練った。こっちへきてみたまえ!」
ホームズは先に立って、自分の家のように、なれた足どりで廊下を歩き、金庫室の、あけっぱなしのドアのまえで立ちどまった。
「うへえ! なんというペンキのにおいだ!」
警部がさけんだ。
「これが最初の手がかりなのさ。その点については、ワトスン博士の観察力に、感謝すべきだよ。もっともワトスンくんは、それから、なにかをつかむことはできなかった。わたしにとっては、それが第一歩になった。
いったいなぜ、この男は、こういう事件が起きているとき、家じゅうに強いにおいをただよわせねばならなかったのか。それとはべつのにおい、疑いをもたれるような、なにかあやしいにおいを消したいからだ。
そこで思いあたったのが、ごらんのとおり、鉄のドアとシャッターをそなえた、完全に密閉された部屋だ。このふたつを結びつけて考えてみると、さて、どういう答えがでてくるのか。これは、どうしても自分の目で家を調べてみる必要がある。
すでに、これがたいへんな事件であることは、わかっていた。ヘイマーケット劇場の座席表をしらべて、これまたワトスン博士の観察のおかげだが、事件当夜、三階B列の三十番、三十二番は、どちらも空席だったのを、確かめてあったからだ。つまり、アンバリーが劇場に行ったというのはうそで、アンバリーのアリバイはくずれる。夫人のためにとったという座席の番号を、頭がきれるわが友ワトスンくんに見せてしまうとは、手ぬかりだったな。
そこで問題は、どうすればこの家を、ぼく自身で調べることができるか、ということだ。そこで、思いつくかぎり、いちばんさびしい田舎に、代理人をおくって、そこから電報をうたせ、絶対その日のうちに、帰ってこられない時間に、アンバリーをおびきだした。ねんのため、ワトスン博士にも同行してもらった。牧師の名は、いうまでもなく、『聖職者名簿』からとったものさ。どうだね。ここまでは、わかったかい?」
「たいしたものです」
警部は舌をまいていた。
「邪魔がはいるおそれがなくなったところで、ぼくはゆうゆうと家に押しいった。ぼくは探偵にならなかったら、押しこみを商売にしていたろうし、泥棒の道でも、きっと第一人者になっていただろうな。
とにかく、ここでなにを発見したかを見てくれ。この壁のすそにそってガス管がひいてあるだろう? それだ。管は壁の角をとおって上へまがり、ここに栓がある。管はこのとおり、金庫室のなかにはいって、そのまま天井のまんなかにある漆喰(しっくい)のバラの飾りまでつづいているが、先端は飾りにかくれて見えない。ところが、あの管の先端は、切りっぱなしだ。外で栓をあけさえすれば、室内には、たちまちガスがたまる。
このドアとシャッターをしめておいて、栓をいっぱいにあけたら、この室内にいるものは、二分とたたないうちに、意識を失うね。どんなやりかたで、犠牲者たちをここへ誘いこんだのか知らないが、いったんはいってしまえば、もう逃げ場はない」
警部は、ていねいにガス管をしらべた。
「そういえば、うちの署にも、ガスのにおいがしていたと報告したものがありました。しかし、そのときにはもう、窓もドアもあけはなってあったし、ペンキも一部は塗られていて、いやなにおいでいっぱいでした。なんでもアンバリーのはなしによると、前日からペンキ塗りをはじめたそうです。しかしホームズさん、それからどうなったんです?」
「じつはここで、ちょっと意外な、なりゆきになった。調べをすませて、明けがた、食料貯蔵室の窓からはいだそうとすると、いきなり、えり髪をつかまれて『おい、きさま、いったいここでなにをしている』と、とがめられた。どうにか、首をねじむけてみると、なんと目のまえにあったのは、友人で好敵手のバーカーのサングラスだった。
まったく、おかしな出会いかたに、顔をみあわせて、にが笑いさ。バーカーは、レイ・アーネスト医師の家族にたのまれて、調査をしているうち、ぼくとおなじく、犯罪があったという結論に達したらしい。
数日まえから、家を見はっていたところ、ワトスン博士がたずねていったのを見かけて、あやしい人物だと思って、あとをつけた。でも証拠がないので、つかまえるわけにはいかなかった。するとこんどは、食料貯蔵庫の窓から、はいだしてくるやつを見つけて、ついに我慢しきれなくなって、つかまえたというわけだ。もちろんぼくも、事件のいきさつをはなして聞かせ、共同で捜査にあたることにしたわけだ」
「なぜ、あの男と組んだんです? なぜ警察じゃだめなんです?」
「それは、ちょっとテストをやってみたかったからさ。さいわい、結果はきわめてよかった。警察と組んだら、そこまではやれないだろうからね」
警部は、にやりとした。
「それもそうでしょうね。しかし、さきほどのおはなしでは、これからは事件の表からしりぞいて、捜査の結果は、すべて警察に渡してくれるということでした。まちがいありませんね?」
「まちがいないよ。それが、いつものぼくのやりかただから」
「それはありがたい。警察を代表して、お礼をもうしあげます。おかげで、事件ははっきりしたようですし、死体をさがすだけなら、そうむずかしいこともないでしょう」
「ここで、もうひとつ、ぞっとするような証拠を、見せてあげよう。おそらく、アンバリー自身も気がついていないと思う。ねえ警部、犯罪捜査で証拠をつかもうとしたら、いつでも他人の立場に立って、自分だったらどうするかを考えてみることさ。それには、いくらか想像力を必要とするが、かならず報われるよ。
いまきみが、このせまい部屋にとじこめられ、あと二分しか生きられないとしよう。だがなんとかして、部屋の外で、きみをあざ笑っているにちがいない悪党に、一矢(いっし)むくいてやりたい。さあ、きみならどうする?」
「なにか、書き残します」
「そうだ。どうして自分が殺されたのかを、世間に知らせたい。といって、紙に書いたらだめだ。すぐ、犯人に見つかってしまう。それなら壁に書いておけば、犯人には気づかれず、いつかだれかの目に、ふれることもあるだろう。というわけで、ここを見たまえ! 幅木(はばき)のすぐ上のところに、消えない紫色の鉛筆で、なぐり書きしてある。We We――と、これだけだが」
「なんのことでしょう」
「床上わずか、十インチばかりのところだ。つまり、これを書いた人間は、床にたおれて死にかけていた。書きおえないうちに、気が遠くなったんだろう」
「なるほど。We Were Murdered(われわれは殺されたのだ)と、書こうとしたんですね」
「ぼくも、そう判断したわけだ。だから、もし、死体から消えない鉛筆が見つかったら――」
「わかりました。かならず捜しだしますよ。ところで、有価証券のほうはどうなんです? こちらは盗まれたとは考えにくい。しかし、アンバリーがそういう証券などをもっていたのは、たしかなんです。それは確かめてあります」
「どこか安全なところに隠しているんだろう。かけおち事件のほとぼりがさめたころを見はからって、思いがけなく見つかったことにするのさ。そして、かけおちのふたりが後悔して送りかえしてきたとか、逃げる途中で、落としていったとか、そんなふうに発表するつもりだったんだろう」
「いや、すべての点に解答をお持ちのようですね。それにしても、アンバリーが盗難を警察に届けでるのは当然でしょうが、どうしてあなたのところへまで、出かけていったのか、それがわたしにはわかりません」
と警部がいった。
ホームズは答えた。
「たんなる、うぬぼれだよ! 抜け目なくやったつもりで、だれにもしっぽをおさえられるものかと、うぬぼれたんだ。近所の人に怪しまれたら、『あらゆる手段をつくしましたよ。警察だけじゃなく、シャーロック・ホームズにまで頼んであるんですから』と、いってやることもできる」
警部は笑った。
「まあ、『シャーロック・ホームズにまで』といわれても仕方ないでしょう。こんどの事件は実に手ぎわがいい。まさしく、名人芸ですよ」

二日ばかりたって、ホームズが、ひょいとわたしに投げてよこしたのは、『ノース・サリー・オブザーバー』という隔週刊の地方紙だった。それには、「『ザ・へーブン』の恐怖」にはじまって、「警察の大てがら」に終わる、はなばなしい見出しの下に、この事件のことが、ぎっしりつまった活字で、くわしく印刷されていた。最後の一節などは、記事全体の調子をあらわす、典型的な例だろう。


ペンキのにおいによって、ガスのにおいを、かくしているのではないかと推理したマッキノン警部のおどろくべき眼力、金庫室が死の部屋ではなかったかという、大胆な推理、それにもとづく捜査の結果、犬小屋によって、たくみにかくされた古井戸から、死体を発見するにいたったあたり、すべては、わが警察捜査陣の英知をしめす実例として、犯罪史上に記録され、長く生きつづけるであろう。


「まあいいさ。マッキノン警部は、いいやつだからね。ワトスンくん、きみはこれを、われわれの公式記録として保管しておきたまえ。いつの日か、真相を語ることもあるだろう」
とホームズは、ほほえみを浮かべながらいった。(完)
[翻訳 内田庶・中尾明 (C)Chikashi Uchida, Akira Nakao]

解説

探偵小説または推理小説と呼ばれる文学は、まだきわめて歴史の浅いものである。それは一般に、一八四一年、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」によって誕生したといわれている。ポーによる原型の創造は、まことに天才的な、完璧なものだった。推理小説といえるものは、「モルグ街」のほかにマリー・ロジェーの謎」「盗まれた手紙」など五つの短編を書いただけだが、その五編のなかに、後代の推理小説の主要なプロットやトリックはすべてふくまれているとさえいわれている。だが、ポーの原型が完全なものであったにもかかわらず、アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物によって推理小説という新しい文学のジャンルが確立されるまでには、なお五十年の歳月を要したのである。
もちろん、その間に推理小説的な文学や探偵の登場する小説がなかったわけではない。チャールズ・ディケンズは、「モルグ街」と同じ一八四一年に「バーナビー・ラッジ」を書いて、《被害者=犯人》の一人二役トリックに先鞭をつけているし、一八五二年の「荒涼館」ではバケット警部を活躍させている。そしてドイルが生れた一八五九年には、のちにエラリー・クイーンが本格推理小説として高く評価した短編「追いつめられて」を発表している。また、ディケンズの友人のウィルキー・コリンズも一八六〇年に「白衣の女」、一八六八年に「月長石」を書いているし、フランスではエミール・ガボリオが一八六六年に「ルコック探偵」を発表している。そして一八八六年にはオーストラリアでファーガス・ヒュームの「二輪馬車の謎」が出版された。これらの作品は、いずれも当時の人びとに大いに愛読されたものだが、まだ新分野を確立するだけの力と独創性を持つにはいたらなかった。
そして一八八七年にシャーロック・ホームズが登場した。それまでにドイルは冒険物、怪奇物、歴史物などの小説をかなり書いていたが、出版社にはほとんど売れなかった。そこで、つとにポーに注目し、ガボリオやコリンズに刺激をうけていた彼は探偵物の執筆を思いたち、一八八六年にホームズ物の第一作長編「緋色の研究」A Study in Scarlet を書いた。だが、この作品も出版社になかなか採用されず、ようやくビートン誌に発表されたのは翌年の十二月だった。しかも、反響はほとんどなかった。いまではすっかり忘れさられている作品だが、同じころに発表された「二輪馬車の謎」が当時の記録的なベストセラーだったことを思えば、このホームズの不運なデビューには歴史の皮肉を感じないわけにはいかない。
それでも、成功への糸は断ち切られたわけではなかった。アメリカのリッピンコット誌が「緋色の研究」に目をつけて、ホームズ物を注文してきた。それに力を得てドイルは長編第二作「四つの署名」The Sign of Four を書き、一八九〇年のリッピンコット誌二月号に発表した。このころからドイルの文運は急速に上昇しはじめ、歴史小説「ホワイト・カンパニー」や冒険小説などが次々に出版された。そして一八九一年に、ストランド誌の編集者ジョージ・ニューンズの注文でホームズ物の読切短編を同誌七月号から連載しはじめた。
シャーロック・ホームズの真の登場はこのときからといえるだろう。毎月一編ずつ一年間にわたって連載された短編シリーズは爆発的な評判を巻き起こした。人気は一編ごとに上昇して、ストランド誌の売行きは数倍になり、ドイルの原稿料も途中で大幅に引き上げられたといわれている。そして、一八九二年に、この最初の十二の短編をまとめて出版されたのが、「シャーロック・ホームズの冒険」The Adventures of Sherlock Holmes である。
この一冊によってドイルの作家としての地位は不動のものになり、シャーロック・ホームズという不滅の人物が出現したのである。この作中人物の新しい強烈な魅力は読者を熱狂させた。そして、ホームズの登場を起爆剤として推理小説ブームが起こり、無数の名探偵が輩出して、その後の黄金時代への基盤を確立することになったのである。
ドイルは医学生時代の恩師ジョゼフ・ベル博士をホームズのモデルにしたといわれているが、それ以上に、名探偵シャーロック・ホームズがポーの創造した天才探偵オーギュスト・デュパンの復活であることは疑いようのないことである。
「緋色の研究」の冒頭に、はじめてホームズに会ったワトスンが、いきなり「きみはアフガニスタンへ行ってきましたね」といわれて驚く場面がある。あとで、それを見ぬいた推理の過程を説明してもらったワトスンが「きみはまるでデュパン探偵のようだ」というと、ホームズは次のように答えている「きみはぼくをほめてくれたつもりだろうが、デュパンなどは問題にならない。十五分間も黙りこんだあとで、とつぜん友人の考えていたことを当ててみせるなんて、こけおどしの浅薄なやり方だ。たしかに分析の才能はかなり持っていた男にちがいないが、けっしてポーが考えていたほど非凡な人物じゃないよ」
ここでホームズがとりあげているデュパンの行為は、「モルグ街の殺人」の冒頭で語り手の「私」と二人で黙って夜道を歩いているときに、急に相手の心の中を読みとって「私」を驚かせる個処のことである。
これだけの引用によってもすぐにわかることは、ホームズとデュパンとのいちじるしい相似である。ワトスンの言葉どおり、ホームズは「まるでデュパン探偵のよう」なのである。デュパンが「私」を驚かしたように、ホームズはワトスンを驚かした。それは、まったく同じやり方によるものである。「こけおどしの浅薄なやり方」をしているのはホームズ自身にほかならない。それゆえ、デュパンに対するホームズの嘲笑は、ポーに対するドイルの敬意と愛着の逆説的な表現にすぎないのである。とはいえ、名探偵ホームズの創造に賭けたドイルの意気込みが並々でなかったことが窺われるであろう。
ホームズ物の短編を二つ三つ読めばだれでも気がつくことだが、このホームズの人を驚かせるやり方はやたらに出てくる。彼は事件の依頼人がやってくると、何もきかないうちに相手の職業や経歴、どこからどうやってきたか、出がけに何をしていたかというようなことまでいい当ててみせる。それは奇術のようにあざやかで、依頼人やワトスンは不思議でたまらなくなる。
このホームズの人を驚かせるやり方は、そのまま拡大されてホームズ物の物語構成のパターンになっている。事件が起こる――ワトスンはホームズとほとんど同じことを見聞きしているのだが、事件の謎はさっぱりわからない。そのうちに、ホームズには何かわかっているらしいということだけはわかるが、それが何であるかは見当もつかない。そして最後にホームズが事件を解決し、犯人をつかまえても、どうしてそうなったのか説明をきくまでは合点がいかない。
このような、のちに「ワトスン役」と呼ばれるようになった補助人物の視点に読者をひきずりこんで、ワトスンとともにホームズの活躍を追わせるのがホームズ物の構成パターンである。読者はワトスンと同じように驚いたり、まごついたり、ときにはワトスンよりは真相を見ぬいたと思ったりしながら、なんとかホームズと同じように事件の謎をとこうと躍起になるのである。
ホームズ物は、このようにして観察と分析による推理のおもしろさを読者に教えた。それが事件の謎やトリックの巧妙さとあいまって強烈な魅力となったのである。
ホームズ物の成功の要因の一つは、短編形式を採用したことにある。第一作の長編「緋色の研究」はほとんど反響がなかったのに、読切短編シリーズとして雑誌に登場したとたんに熱狂的に歓迎された。これは直接的にはストランド誌の企画の成功だったかもしれないが、ドイルが長編より短編のほうによりすぐれた手腕を発揮したことは確かである。ホームズ物の諸短編はその後の無数の短編推理小説の模範となっているし、現代でもいろいろな短編推理小説傑作選にかならず顔を出している。そして、あらゆるシリーズ物の例にもれず、その傑作とされているものは初期の作品に多い。この第一短編集「冒険」に収められている「赤毛連盟」「唇の曲がった男」「まだらのひも」などはいずれも昔から傑作として定評のある有名な作品である。
これらの作品については、その推理小説としての創意やトリックのおもしろさについて多くの人が語りつくしているから、ここでは「ボヘミア王家の色沙汰」という作品について少しふれておきたいと思う。
この作品は、筆者の知るかぎりでは、「赤毛連盟」などのように傑作選にえらばれたことはないようだし、あまり高い評価を与えている批評も見たことがない。その理由はおそらく、この作品がポーの「盗まれた手紙」によく似ているためにちがいない。
江戸川乱歩氏は、「探偵作家としてのエドガー・ポー」という評論のなかで、このことにふれて次のように書いている――『ドイルは殆んどこの作を模して「ボヘミアの醜聞」を書いた。デュパンは大臣の書斎の窓の外で空砲を撃たせて、大臣が窓際へ駈けつけた隙に、手紙を取返したが、ホームズは女優の窓の外で、煙を立てた上「火事だ」と叫ばせ、女優の注意をそらしておいて、問題の写真を取返した。一見してポーの模倣であることは明瞭である。しかし「ボヘミアの醜聞」にはそのほかに何等創意あるトリックもなく、面白さに於ても文学的価値に於ても、「盗まれた手紙」とは格段の相違があり、模して及ばざるの甚しきものであろう』
たしかに、「ボヘミア王家の色沙汰」が「盗まれた手紙」に酷似していることは、だれでも両作品を読めばすぐに気づくことである。写真(手紙)をとり返すというテーマから情況設定のこまかな点にいたるまで、模倣といえる部分はきわめて多い。着想の独創性を重んじる推理小説としての評価において、この作品が軽視されがちなのは当然というべきかもしれない。
だが、それにもかかわらず、この作品はホームズ物全体のなかでも特に注目すべきものを持っている。それは、ドイルという作家の特徴、そしてシャーロック・ホームズという作中人物の魅力が非常によく現われている作品だからである。乱歩氏はこの作品の批評のなかで大きな思い違いをしている。ホームズは「火事だと叫ばせ、女優の注意をそらしておいて、問題の写真を取返した」のではない。事実はまったく逆で、女優の注意を写真の隠し場所にひきつけたのである。つまり、ここは、「女は自分の家が火事になったら、本能的に自分の一番大切にしているもののところへ飛んでいく」という考えにもとづいた心理的トリックが使われている個処で、情況設定は「盗まれた手紙」に似ていても、ドイル自身の創意が大いに光っている部分である。この推理小説のポイントとなるべき部分が、乱歩氏の批評ではポーのアイディアの模倣のほかには「何等創意あるトリックもない」ことになっているのだから、重大な事実誤認といわなければならないだろう。
それに、ホームズは写真もとり返してはいない。この場面では写真の隠し場所をつきとめただけだし、あとでとり返そうとしたときには女優にまんまと出し抜かれて、結局とり返せなかったというのが結末なのである。
この結末はなかなか興味深い。事件は落着したとはいえ、名探偵ホームズとしては完全に失敗しているのである。そして、彼を出し抜いた女優アイリーン・アドラーが、女にあまり関心を持たないホームズの唯一の忘れがたい女性になるという結末は、この小説をきわめて異色な、しかも品のいい味わいのあるものにしている。また、この作品が輝かしい成功を獲得した短編シリーズの第一作であることを思えば、失敗譚からはじめるという設定はまことにしゃれたアイディアというべきであろう。
このように、この作品は、テーマと情況設定を「盗まれた手紙」から借用しているために(むろん、ドイルのポーに対する敬意のあらわれだろうが)、不当に低く評価されているようだが、実際はなかなか創意のある、魅惑的な雰囲気を持った小説なのである。
その魅力のもとはアイリーン・アドラーであろう。アイリーンがホームズに与えた感銘が読者の胸にも心地よく伝わってくるように、この女性は描かれている。「探偵」役と「犯人」役との間にこのような情感が流れ、しかもそれが全体のプロットにうまく溶けこんでいる推理小説はやたらにあるものではない。
シャーロックーホームズを愛する人びとが、このアイリーン・アドラーを見のがすはずはない。有名な「ベーカー街不正規隊」The Baker Street Irregulars と称する熱狂的なホームズ・ファンの会の会員たちは、例会を開くときには、かならずまずアイリーン・アドラーに対して乾杯することにしているそうである。
コナン・ドイル自身は、自分の好きなホームズ物としてこの「ボヘミア王家の色沙汰」を五番目にあげている。この作品が短編第一作であることからいっても、また作品そのものの出来栄えからいっても、作者が愛着を持つのは当然であろう。
この短編第一作ににじみ出ている一種の品のよさは、ホームズ物全体に流れているドイル作品の特質である。だいたい、犯罪という暗い殺伐としたものを主題にする推理小説でありながら、ドイル作品ほど明るい健康な雰囲気をたもっている小説は古今を通じて珍しい。それでいて、推理小説としての奇怪な謎の魅力やサスペンスをふんだんに持っているのは不思議な気がするほどである。
この独特の雰囲気をかもしだすもとが、ほかならぬシャーロック・ホームズという人物にあることは確実である。世間の人とほとんど交際しない、異様な性癖を持ったホームズが推理の権化(ごんげ)となって事件を解決していくときに、ときおり周囲の関係者に示す心づかいや思いやりは驚くばかりの人間味にあふれている。こうした思いやりは、事件の解決の仕方や、犯人に対する態度にまで行きわたっている。
実際、犯罪を解決しながら、ホームズほど犯人を警察や刑務所へ送らない探偵も、また古今を通じて珍しい。それは、ホームズ物に根っからの悪人というものがあまり登場しないためでもあるが、ほかの探偵ならさっさと警察へ渡してしまうような犯人でもホームズは別のやり方で結着をつけるのである。
この「冒険」に収録されている短編を見ても、無事に警察の手へ引き渡されているのは、たしか「赤毛連盟」の犯人だけである。その犯人もどこかユーモラスで、例の明るい雰囲気をただよわせている。また、何人かの犯人は死んだり、再起不能に陥ったりしているが、これは死なせてやったほうがましだという作者自身の思いやりによるものと、因果応報的な考えにもとづくものとの二つの解決法にわかれている。
また、ホームズ物の特徴の一つとして目につくのは、登場人物が社会の各層にわたって多彩をきわめていることである。国王、貴族、富豪、銀行家から、商人、店員、水夫、浮浪者、麻薬患者、乞食にいたるまで、出てこないものは一つもないと思えるほどで、これがドイル作品のおもしろさの要因の一つになっている。これは、おそらく、作者ドイルの本業が医者であったことと無関係ではないかもしれない。
以上のドイル作品の特徴は、それが多数の人びとに読まれ、シャーロック・ホームズが全世界の人びとに愛されるようになった要因になるものだと思う。その後の推理小説界が生みだしたハードボイルド小説などの読者から見れば、明るい健全なホームズ物は物足りないかもしれない。だが、ホームズ物が万人に読まれ、当時の紳士淑女から老人子供にまでホームズが愛されたからこそ、その後の探偵たちが登場する舞台ができたのである。
「モルグ街」のデュパン探偵の直系の後継者「べーカー街」のホームズ探偵が、ポーとおよそ正反対といってもいい資質の作家コナン・ドイルによって生みだされたのはまことに興味深いことといわなければならない。

ドイルはホームズ物として四つの長編と五十六の短編を書いた。第一短編集「シャーロック・ホームズの冒険」と前記の二長編「緋色の研究」「四つの署名」のほかに、次の長編と短編集がある。


第二短編集「シャーロック・ホームズの回想」The Memoirs of Sherlock Holmes 一八九四年
第三短編集「シャーロック・ホームズの生還」The Return of Sherlock Holmes 一九〇五年
第四短編集「ホームズ最後の挨拶」His Last Bow 一九一七年
第五短編集「シャーロック・ホームズの事件簿」The Case Book of Sherlock Holmes 一九二七年
長編「バスカーヴィル家の犬」The Hound of the Baskervilles 一九〇二年
長編「恐怖の谷」The Valley of Fear 一九一五年


ドイルは、ホームズ物のほかにも冒険物、怪奇物、歴史物、SF物など多数の小説を書いているし、晩年には心霊術の研究書まで何冊も発表している。だが、彼の名はあくまでもシャーロック・ホームズとともに生きつづけるべきものであろう。
そして、全世界の人びとに愛されて、生みの親以上に有名になったシャーロック・ホームズは、芝居や映画にも何回となく顔を出し、ついには作者の手をはなれて一人歩きをするようになった。古くはルブランのアルセーヌ・ルパン物にルパンの強敵として登場しているし、一九五四年には、作者自身の息子エイドリアン・コナン・ドイルと現代一流の推理作家ジョン・ディクスン・カーとの合作による「シャーロック・ホームズの手柄」の十二の短編のなかで、ほとんど昔さながらの活躍を見せている。また、ある映画のなかでは、ネス湖の怪獣退治までやっている。

コナン・ドイルの伝記には、J・ラモンドやH・ピアスンのものがあるが、前記のディクスン・カーが一九四九年に発表した伝記The Life of Sir Arthur Conan Doyle が決定版として高く評価されている。カーの「ドイル伝」は、晩年のウィンストン・チャーチルが大いに愛読した書物といわれている。
鮎川信夫
◆シャーロック・ホームズ全集(下)
コナン・ドイル作/鈴木幸夫・鮎川信夫・内田庶・中尾明訳

二〇〇六年四月二十五日 Ver1