豪勇ジェラールの冒険
コナン・ドイル/秋田元一訳
目 次
第一話 ジェラールが耳をなくした話
第二話 ジェラールがサラゴーサを占領した話
第三話 ジェラールが狐を殺した話
第四話 ジェラールが軍隊を救った話
第五話 ジェラールがイギリスで勝利をおさめた話
第六話 ジェラールがミンスクに乗りこんだ話
第七話 ジェラールがワーテルローで奮闘した話
第八話 ジェラールの最後の冒険
ある騎士のものがたり――ドイル略伝
訳者あとがき
[#改ページ]
第一話 ジェラールが耳をなくした話
カフェで話しているのは年老いた准将である。
諸君のまえだが、わしはこれまでにたくさんの都市を見てきた。八百騎の命知らずのかわいい部下たちが、かんかん、りんりんと勇ましい音をたてながらついてくる先頭に立って、わしが征服者としてどれほど多くの都市に乗りこんだか、その数はあえて申すまい。わがフランス軍の先頭には騎兵隊がいて、騎兵隊のまえにはコンフラン軽騎兵連隊が、そしてこの軽騎兵のまっ先にわしが立っていた。だがわれわれが訪れた都市のなかでは、ヴェネツィアがいちばん不便な街並みで、おかしなところだった。ここを設計した連中が、騎兵隊の作戦行動をどう考えていたのか、わしにはさっぱり想像がつかない。ミュラ元帥でも、ラ・サール将軍でも、一個大隊の騎兵をあそこの広場に集結するとなると、さぞかし頭を痛めたことだろう。こういうわけでわが軍は、ケレルマン元帥ひきいる重装備の旅団と、わしの軽騎兵連隊とを本土がわのパドヴァに残しておいた。だがシュシェー元帥は歩兵を引きつれてヴェネツィアを占拠し、その冬はわしを副官に抜擢していた。それというのも、ミラノにおけるイタリア人の剣客の一件がすっかり元帥の気にいったからだ。この剣客というのはなかなか腕の立つ男で、このわしが相手をつとめたということはフランス軍の名誉のためにまことに幸運であった。それにまた、この男には痛い目にあわせる必要があった。プリマドンナの歌いかたが気にいらなければ、終始沈黙を守ればいいのに、公衆の面前でかれんな女性に侮辱を加えるのだから許せないのだ。こんなわけで、同情はことごとくわしに集まった。そしてこの一件が落着し、剣客の未亡人に遺族手当が支給されるようになってから、シュシェー元帥がわしを副官に抜擢したので、わしは元帥についてヴェネツィアへ行った。ここで、これからお話しする奇妙な冒険に出くわしたのだ。
諸君はヴェネツィアへ行ったことがないだろうな? ない、やはりそうか。フランス人はめったに旅に出ないからな。だがあの当時はずいぶんと遠出をしたものだ。モスクワからカイロにいたるまで、われわれはありとあらゆるところへ出かけて行ったが、あまり大人数で押しかけるものだから、行く先々ではちと迷惑だったろう。それにパスポートともいうべきものが、砲車の前車(ここは弾薬が積みこまれるところ)に収められていたのだから。フランス人がいまいちど旅に出るようになれば、それこそヨーロッパは厄日《やくび》を迎えることとなろう。いまでは自分の故郷からなかなか離れようとしないが、いったん出かけるとなると、しかもわれらが小柄な男(ナポレオンのこと)みたいな先達が道案内に立つとなると、どこまで突っ走るか知れたものでない。しかし偉大な時代は過ぎ去り、偉大な人びとは死んだ。その最後の生き残りとなったわしが、このカフェでシュレーヌ産のワインをかたむけながら、むかし話に花を咲かせているというわけだ。
ところで、わしが話そうと思うのはヴェネツィアのことだ。あそこの連中は、まるで泥の浅瀬にいる|どぶねずみ《ヽヽヽヽヽ》みたいに暮らしている。だが家屋はなかなかたいしたもので、教会、とりわけサン・マルコ寺院は、わしがこれまでに見たどれよりもすばらしいものだ。しかしなんと言っても、ヴェネツィアの人たちの自慢の種は彫像と絵画だ。ヨーロッパでもっとも有名なものがそろっているからな。数ある軍人のなかには、戦争をするのが商売だから、戦闘と略奪以外には頭をつかうべきでない、と考えている連中も多い。たとえばブーヴェ――わしが皇帝陛下から勲章をいただいた日にプロシャ兵に殺された男だ。もし、あの男を野営や酒保から連れだして、書物とか美術とかの話を吹っかけようものなら、きっと奴さんはきょとんとして目を白黒させたことだろう。最高の軍人なら、まずはわしのように、精神と霊魂にかんする事柄も理解できるものなのだ。事実、わしが軍隊にはいったのはごく若いときだったし、補給係将校がわしの唯一の師匠だった。しかし目をしっかりと見開いて世間をわたっていけば、自然といろいろなことが学べるものだ。
こういうわけで、わしはヴェネツィアの絵画を鑑賞し、それを描いたティツィアーノやフラ・アンジェリコなどというすぐれた画家を知ることができた。それに、ナポレオン皇帝陛下は絵がわからなかったとは、だれも言えまい。というのはヴェネツィアを攻略したとき、いのいちばんにおやりになった仕事は、選り抜きの絵画をパリへ送ることだったからだ。われわれ一同も分捕れるだけ分捕ってきたものだ。わしも自分のわけまえとして二枚の絵を手にいれた。一つは『女精《ニンフ》たちの驚き』と題するもので、これは手もとに残してある。いま一つの『聖バルバラ』という絵は|おふくろ《ヽヽヽヽ》にプレゼントしてしまった。
それにしても、われわれの部下のなかに、彫像と絵画のことでたいへんな不始末をしでかした者がいたことは認めざるをえない。ヴェネツィアの人たちはこういうものにとても愛着を感じていたし、大寺院の門の上にあった四頭の青銅の馬にいたっては、まるでわが子みたいにかわいがっていたものだ。わしにはむかしから馬を見る目があったので、つくづくとこの馬の銅像をながめたものだが、とりたてて感心できる代物とは思えなかった。鈍重そうな脚は軽騎兵の軍馬にはむかず、かといって砲車をひかせるには体重がたりなかった。それでもヴェネツィア市内の馬となると、生きている、いないにかかわらず、この四頭しか見あたらないのだから、馬にかんする知識を市民に期待しても、それはむりというものだ。この馬の銅像がパリへ運びさられてゆくとき、ヴェネツィアの人びとは悲しみのあまり涙をながした。フランス軍の兵士十人の死体が運河に浮かんだのは、その晩のことだ。この殺人事件の仕返しとして、さらに多くの絵画が送りだされ、フランス兵は彫像を破壊したり、マスカット銃をステンドグラスの窓にむけて発砲したりした。このことが住民を激昂させ、ひどく険悪な感情が市中にみなぎった。多数の将校や兵士がその冬のあいだに姿を消し、死体すら出てこなかった。
ところでわしはどうかというと、することがいっぱいあって、時間を持てあますということは決してなかった。どこの国にあっても、その国の言葉を学ぼうとするのがわしのしきたりだ。このために、わしはいつもそこの言葉を教えてくれる親切な女性をさがして、稽古をつけてもらうのだ。外国語を身につけるには、これがいちばんおもしろいやりかただ。こういうわけで、わしは三十にならぬうちに、ヨーロッパのほとんどすべての言葉が喋れるようになった。だが正直な話、こうして学んだ言葉はふだんの生活にはあまり役にたたないものだ。たとえばわしの仕事はたいてい、兵士と百姓が相手だから、「わたしが愛しているのはあなただけです」とか、「戦争が終わったら帰ってきます」とか喋れたところで、それがなんの役にたつだろうか?
ヴェネツィアで教えてくれた女性ほど、かわいい先生はいなかった。ルチアという名で、姓は――だが男というのは姓などおぼえていないものだ。ただ、これだけは言っても差しつかえあるまい。彼女はヴェネツィアの名門の出で、祖父はこの町の総督をつとめたということだ。彼女は絶世の美人だった――諸君のまえだが、このエティエンヌ・ジェラールが『絶世の』という言葉をつかうときは、それなりの意味をこめているのだ。わしには判断力がある。さまざまな思い出がある。比較する手だても知っている。これまでにわしを愛した女性のうち、この言葉が当てはまるのは二十人とはおるまい。しかし繰りかえして言うが、ルチアは絶世の美人だった。ブルネットの髪をした女のなかでは、トレドのドロレス以外に彼女と並ぶ者は思いだせない。マセナ元帥に従ってポルトガルに遠征したとき、サンタレムでかわいがってやった娘もブルネットだった――名は、ちょっと忘れた。あれも非の打ちどころのない美人だったが、ルチアの容姿と気品にはかなわなかった。アグネスというのもいた。いずれも優劣はつけがたいが、ルチアはいかなる美女にもひけをとらぬと言っても、なんら不当でない。
わしがルチアにはじめて会ったのは、いまお話しした絵画の一件からだ。彼女の父親は大運河《グランド・カナル》のリアルト橋のむこうがわに宏壮な邸宅をかまえていた。家のなかはいたるところに壁画が描かれていたので、シュシェー元帥が工兵隊を派遣して、壁画の一部を切りとってパリへ送るように命じた。わしは工兵隊について行ったのだが、そこで泣きぬれているルチアの顔を見てからは、壁画を壁からはがすとひびがはいりそうな気がしてきた。で、そのむね工兵隊に伝えると、連中は引きあげて行った。この一件があってから、わしはこの家族と親しくなり、父親といっしょにキャンティ酒を何本もあけ、娘からはうっとりとするようなレッスンをたんとつけてもらった。
この年の冬、フランス軍の将校のなかにはヴェネツィアで結婚した者もいる。わしもその気になれば結婚できたかもしれない。なにせ、ルチアにはぞっこん惚れこんでいたのだから。だが、このエティエンヌ・ジェラールには、なにものにも代えがたい剣が、馬が、連隊が、おふくろが、皇帝陛下が、それに栄達があった。粋《いき》な軽騎兵の心のなかには、恋する余地はあっても、妻の占めるべき場所はない、そう、あのころのわしは考えていたものだよ、諸君。わしにはわからなかったのだ。あの消えうせたなよやかな手をいまいちど握りしめたくなろうとは。むかしの同僚がすっかり成長した子どもたちにかこまれて、安楽椅子にくつろいでいるのを見るたびに、思わず顔をそむける淋しい日々が訪れてこようとは。このような恋愛を、当時のわしは戯れとか、慰さみ程度にしか考えていなかった――ようやくいまごろになって、恋愛こそ人生を形成するものであり、ありとあらゆるもののうちでもっとも厳粛で、もっとも神聖なものだということがわかった……や、これは、これは、どうもありがとう! これはいい酒だ。もう一本やっても体に障《さわ》ることはあるまい。
さてここで、ルチアを愛するがために、これまで出くわしたさまざまな驚くべき冒険のなかでも、もっとも怖ろしい事件がおこり、そのためにわしの右耳の上の部分をなくすにいたった顛末《てんまつ》をお話しすることにしよう。諸君からもこれまでずいぶんと、どうして右の耳が欠けているのかというお尋ねがあった。この話をするのは今晩がはじめてだ。
シュシェー元帥の司令部はその当時、ダンドロ総督の古い邸宅にあった。この建物はいまでもサン・マルコ広場から、さほど離れていない水辺に立っている。冬も終わりに近いある晩のこと、コルディニ劇場から帰ってみるとルチアからの手紙とゴンドラが一艘、わしを待ちうけていた。困ったことが起きたので、すぐ来てほしいという文面だ。フランスの男子で、しかも軍人であるからには、こうした手紙にたいする返答はただ一つしかない。すぐさまわしは舟に乗りこんだ。すると船頭は暗い水面へと漕ぎだして行った。舟の座席に腰をおろすとき、船頭がえらく大柄だという印象をうけたのをおぼえている。背丈はたいしたことはないが、これほど胸幅のある男にはあまりお目にかかったためしがない。だがヴェネツィアの船頭というのは屈強な者ばかりで、力自慢の男も珍しくない。船頭はわしのうしろに立って漕ぎはじめた。
ひとかどの軍人なら、敵地にいるかぎり、いついかなるところでも油断は禁物だ。これがわしの処世訓の一つで、頭に白いものをいただくまで生きながらえたのも、ひとえにこの教えを守ってきたからだ。ところが、この晩のわしの迂闊《うかつ》さときたら、不安な胸のうちを見すかされはしまいかと怖れている愚かな騎兵となんら変わるところがなかった。ピストルは、あまり急いだために忘れてしまった。剣はベルトからつっていたが、この剣という代物はかならずしもいちばん使いやすい武器とはいえない。わしはゴンドラの座席の背にもたれたまま、舳先《へさき》がすいすいと水を切る音や、ぎいぎいと絶えまなくきしるオールの音に心を奪われていた。行く手にはせまい運河が網の目のように走り、左右には高い家がそびえていたので、頭上の星空も短冊状にしか見えなかつた。ところどころ、運河にかかった橋の上に、ほの暗い石油ランプの灯がゆらいでいた。ときおりどこかの壁龕《へきがん》から弱い光がもれてきたが、それは聖徒像のまえで灯っている蝋燭《ろうそく》のためだった。だがこれを除くと、あたりは一面の闇で、ゴンドラの長い黒い舳先に白いふさ飾りのような波が立つことで、わずかにそれが水だとわかるだけだった。夢想にふけるにはもってこいの場所であり、時間であった。わしはこれまでの半生に思いをめぐらしてみた。自分がかかわってきたさまざまな偉業、乗りこなしてきたかずかずの駿馬、そしてかつて恋した女たち、こういったことをつぎつぎと思いうかべたのだ。それからわしは愛するおふくろに思いを寄せ、村人たちから息子の評判を聞いておふくろが喜ぶさまを想像した。もちろん、皇帝陛下のことも考えたし、なつかしい祖国、陽光の降りそそぐフランス、美しい娘たちと勇敢な息子たちを生みだしたフランスのことも思った。フランスの国境をへだたること数百リーグの地にまで三色旗をひるがえしてきたかと思うと、わしの胸には思わず熱いものが込み上げてきた。偉大なフランスに命を捧げよう。わしは片手を胸にあてて、こう誓った。
その瞬間だ、船頭がうしろから襲いかかってきたのは。襲いかかってきたというのは、ただ攻めかかってきたということでない。全身の重みをあずけて、文字どおりわしの上に倒れかかってきたということだ。船頭はうしろに立ってゴンドラを漕いでいるから、わしには船頭の姿が目にはいらないし、こうした不意打ちを防ぐ手だてはまったくない。この瞬間まで、わしは腰をおろしたまま、胸には崇高な決意をみなぎらせていたが、つぎの瞬間、舟底に突っ伏して、あっと声をあげたまま暴漢に押さえこまれた。荒々しい熱い息がわしの襟首にかかった。たちまち、わしの剣は奪いとられ、頭から南京袋をかぶせられたあげく、細引きでがんじがらめにしばりあげられてしまった。わしは.コンドラの舟底で、まるで羽根と足をしばられた鶏みたいに手も足も出せなかった。叫ぶことも、動くこともできなかった。言ってみれば、一束の荷物というところだ。すぐにまた、すいすいと水を切る音やオールのきしる音が聞こえてきた。船頭は一仕事すませると、また平然と落ちつきはらってゴンドラを漕ぎはじめた。騎兵隊の大佐に南京袋をかぶせる仕事など、毎日やりつけておるわい、とでも言いたげに。
わしは、まるで屠殺場へ送られてゆくあわれな羊みたいに、舟底にごろんと横たわっていた。そのとき、この胸に煮えたぎってきた屈辱と憤激はとても口にできるものでない。かりにも、軽騎兵六個旅団の代表戦士、ナポレオン軍切っての剣客たる、このエティエンヌ・ジェラールが、たった一人の丸腰の男にこうもむざむざと取り押さえられようとは! だがわしはじっと横になっていた。物事には抵抗すべき時と、力を貯えるべき時とがある。いまのわしは船頭にぎゅっと両腕を締めつけられていて、まるで押さえこまれた子ども同然だった。そういうわけで、胸のなかは怒りで燃えさかっていたが、時機が到来するまで静かに待つことにした。
どのくらい舟底に横になっていたのかわからないが、とにかくかなりの時間のように思われた。その間ずっと、水面をすいすい切る音と、ぎいぎいとオールのきしる音が聞こえてきた。何回か、ゴンドラは角を曲がった。というのは、ゴンドラの接近を仲間に知らせようとするときに船頭が叫ぶ長い悲しげな声を聞いたからだ。かなりの距離をこなしたあと、やっとのことで、ゴンドラの舟べりが船着場に接触してこすれるのを感じた。船頭は手にしたオールで三回、なにか木をたたいた。その呼びだしにこたえて、|かんぬき《ヽヽヽヽ》がぎいときしり、ついで鍵ががちゃりと回る音が聞こえた。大きな扉がぎいっと開いた。
「つかまえたか?」だれかがイタリア語でたずねた。
船頭はからからと笑って、わしがはいっている袋を蹴ってみせた。
「ここにいる」と彼は言った。
「みんなお待ちかねだ」それにつづけて、わしにはわからないことを喋《しゃべ》った。
「じゃ、引きとってくれ」と船頭は言って、わしを袋ごと両腕でかかえ、階段を何段か上って行った。わしがかたい床に放りだされると、すぐにまた、かんぬきがぎいと鳴り、いまいちど鍵が物悲しげな音をたてた。これでわしは、屋内に閉じこめられたわけだ。
聞こえてくる声と足音から察すると、数人の者がわしを取りかこんでいるらしかった。わしのイタリア語は、喋るよりも聞くほうが数段まさる。だから、奴らの話は手にとるようにわかった。
「まさか殺しゃしめえな、マテオ?」
「殺したらどうだというんだ?」
「そうなると、裁判で申し開きをしなきゃならなくなるぜ」
「いずれ殺すんだろう。そうじゃねえのか?」
「そりゃそうだが、おめえやおれが先走ったまねをするわけにはいくめえ」
「ちえっ! 殺しちゃいねえよ。死人なら噛みつきっこねえ。この袋をかぶせようとしたら、おれの親指にがぶりと噛みつきやがった」
「やけにおとなしいじゃねえか」
「おっぽり出してごらん。けっこう、ぴんぴんしてるぜ」
しばってあった細引きが解かれ、袋が頭から引きぬかれた。わしは目をつむったまま、床の上にじっと横たわっていた。
「ほら見ろ、マテオ。おめえ、奴の首の骨を折りやがったな」
「まさか。気絶してるだけさ。もっとも、このまま息を吹っかえさねえほうが、奴のためさ」
わしの上着の内側に手が差しこまれた。
「マテオの言うとおりだ」とだれかが言った。
「心臓がどきんどきんいってるぜ。このまま打っちゃっておけば、すぐに息を吹きかえすだろう」
わしは一、二分じっとしていたが、それから思いきって薄目をあけ、まつ毛のあいだから様子をうかがってみた。はじめのうちはなにも見えなかった。それというのも、わしは長いこと暗闇のなかにいたし、ここにはほのかな灯りしかともっていないからだ。だがじきに、高い丸天井一面に神々の絵が描かれていて、わしのはるか頭上でアーチ形になっているのがわかった。わしが運びこまれたのは殺し屋どものけちな巣窟ではなくて、ヴェネツィアのさる宏壮な邸宅のロビーにちがいない。そこでわしは、身じろぎ一つせず、おもむろに、こっそりと、自分を取りかこんでいる男たちをうかがってみた。ゴンドラの船頭、こいつは色が浅黒くて人相のわるい、いかにも残忍そうなならず者で、その脇には男が三人控えていた。一人は顔のゆがんだ小男で、どことなくえらそうに振舞っていて、手には鍵をいくつか握っていた。ほかの二人は若くて背のたかい従僕で、しゃれたお仕着せを身につけていた。彼らの話を聞いているうちにわかったのだが、小男がこの家の執事で、ほかの連中は彼の配下だった。
すると相手は四人だ。しかし小男の執事は勘定にいれなくてもよかろう。武器さえあれば、この程度の人数のちがいなぞ一笑にふすところだが、いざ取っ組みあいとなると、あの船頭が相手では他の三人の加勢がなくても勝ち味はない。となると、頼りになるのは腕ずくでなくて、策略しかない。ぐるりを見まわして、なにか逃走手段を見つけようと思った。見まわそうとしたそのとき、わしはほとんどわからないぐらい頭を動かした。ほんのちょっぴりであったが、見張っている連中の目はごまかせなかった。
「さあ、目をあけろ、目を!」執事が叫んだ。
「立たねえか、フランス人」船頭がどなりつけた。「起きろと言ってるんだ!」そしてまたしても、わしを足で蹴った。
命令がこのときほどすみやかに実行に移されたことはあるまい。すぐさまわしは躍りあがって、ロビーの奥へと一目散に駆けだした。連中は狐を追跡するイギリスの猟犬よろしく、あとから追いかけてきた。長い廊下に出たので、わしは突っ走って行った。廊下は左に折れ、さらにまた左に折れていたので、わしはまたロビーに戻ってしまった。追手はほとんど手のとどくところに迫っていた。考えている余裕などなかった。わしは階段のほうへ向かったが、男が二人そこから下りてくるところだった。すばやく身をかわして引きかえし、さきほどわしが運びこまれた扉にあたってみた。だがそこには大きなかんぬきがかかっていて、とてもはずすわけにいかない。船頭が短刀を手に襲いかかってきたが、胴体めがけて一蹴りくれてやると、仰向けざまに伸びてしまった。短刀はがちゃんと音をたてて大理石の床へ飛んで行った。が、これを奪う暇もなかった。五、六人の男たちがわしを取り押さえようとしていたのだ。その連中を突き抜けようとすると、小男の執事が目のまえに足を出したので、わしはばたりと倒れた。だがすぐさま立ちあがり、つかんでいる手を振りほどいて連中のどまん中を突破し、ロビーの反対側にある扉へと急いだ。扉にたどりついたとき、わしはかなり追手を引きはなしていた。扉のハンドルがわしの手のなかでするすると回るので、思わず勝利の叫びをあげた。ここからなら外へ出られるし、なんの障害もなく逃げだせるからだ。だがわしは、ヴェネツィアという奇妙な都市にいることを忘れていた。ここではどの家も一つの島になっている。わしが扉をさっと開け、街路へ飛びだそうとすると、ロビーの灯りが、石段のいちばん上まで満々とたたえている、深い、静かな、黒い水面を照らしていた。思わず尻ごみしていると、たちまち追手が迫ってきた。だがわしは、そうむざむざと捕まる男でない。
ふたたび追手を蹴破って、しゃにむに通り抜けて行ったが、そのときわしを捕えようとした者に髪の毛を一握りほどむしりとられた。小男の執事が手にした鍵で襲いかかってきたため、わしは立てつづけに殴られて負傷したが、いまいちど前方に活路を切りひらいた。大階段を駆けのぼり、突きあたりにある両開きの大きな扉を力まかせに開けたものの、ここでとうとう、これまでの努力も水の泡だと思い知らされた。
わしが闖入《ちんにゅう》した部屋にはあかあかと灯りがともっていた。金色の天井蛇腹《コルニス》、ずっしりとした柱、壁画と天井画などから察するに、どこか有名なヴェネツィアの邸宅の大広間にちがいない。この奇妙な都市にはこのような邸宅が何百とあって、そのいずれもがルーヴル宮やヴェルサイユ宮殿に光彩を加えるような部屋を備えている。この大広間の中心には一段高くなった壇があって、この上に半円を描く形で、十二人の男がそれぞれ黒いガウンをまとって着席していた。このガウンはフフンシスコ会修道士の僧服に似ていたが、男たちはみな顔の上半分を仮面でおおっていた。
武装した連中――いかにも荒々しい顔だちのごろつきどもだ――が扉のまわりに立っていた。連中のなかに、壇と向かいあって、軽歩兵の制服を着た若者が一人いた。振りむいたとたんにだれだかわかった。第七連隊のオーレ大尉だ。バスク地方出身の青年で、彼とは冬のあいだ、たびたび杯を酌みかわしたことがあった。かわいそうに、顔からすっかり血の気がうせていたが、殺し屋どもに取りかこまれていても男らしい態度はくずさなかった。戦友のわしがこの部屋に飛びこんできたとき、彼の黒い目に突如としてきらめいた希望の光、そしてわしがやってきたのは彼の運命を変えるためでなく、彼と運命をともにするためだとわかったときの絶望の表情、こういったものは忘れようにも忘れられるものでない。
わしが連中のまえに突然あらわれたときの、奴らの驚きはご想像にまかせよう。追手はわしの背後に詰めかけて出口をふさいでいたから、もはや逃げだすことは不可能だ。だがこういったときこそ、わしの本領が発揮されるのだ。わしは威儀を正して裁きの場へと進みでた。上着は破れ、髪は乱れ、頭からは血が流れていたが、わしの眼光と身のこなしを見れば、これはただものでないぞ、ということがすぐにわかったろう。だれも手を出す者がいなかったので、わしは一人のいかめしい老人のまえまで進んだ。長く白い顎《あご》ひげと親分らしい態度から、この老人が年齢、地位ともに首領格であることがわかった。
「おそれながら」わしは言った。「このわたしがなぜ暴力によって捕縛され、ここへ連れてこられたのか、その理由をお聞かせねがいたい。わたしはこちらにいる紳士と同様、名誉を重んじる軍人です。われわれ両名を即刻、釈放するよう要求します」
この訴えにたいして怖ろしいほどの沈黙がつづいた。仮面をつけた十二の顔がこちらをむいて、復讐にもえるイタリア人の十二対の目で穴のあくほどまじまじと見すえられるのは、あまり気持ちのいいものでなかった。だがわしは、いかにも礼儀正しい軍人にふさわしい態度で立っていた。そしてこの威厳のある態度が、わがコンフラン軽騎兵連隊にどれほどの名誉をもたらすだろうか、と思わざるをえなかった。だれでもあのような難関に際しては、あれ以上に振舞うことはできなかったと思うよ。わしはつぎからつぎへと殺し屋どもを不敵な面魂《つらだましい》でにらみつけ、返答を待った。
ついに沈黙を破ったのは白ひげの老人であった。
「この男はなに者じゃ」彼はたずねた。
「ジェラールと申す者です」戸口にいる小男の執事が答えた。
「ジェラール大佐です」わしは言った。「わたしの言うことに嘘いつわりはありません。わたしはエティエンヌ・ジェラール、特別勲功者として五たび表彰され、名誉の軍刀の推挙をうけた、かのジェラール大佐です。現在はシュシェー将軍の副官をつとめております。ここにいるわたしの戦友とともに、即刻、釈放されるよう要求します」
またしても怖ろしい沈黙が一同を襲い、またも十二対の冷酷な目がわしの顔にそそがれた。口を切ったのは、やはり白ひげであった。
「まだこの男の番でない。リストにはそのまえに二人の名前が載っておるぞ」
「この男はわたしどもの手を逃れて、ここへ飛びこんだのです」
「自分の番まで待たせておけ。木造の牢へ連れてゆくのじゃ」
「閣下、もし手向かってきましたら?」
「土手っ腹に短刀を突きたててやれ。本法廷も是認するじゃろう。ほかの連中の片がつくまで、こいつを引ったててゆけ」
連中がわしに詰めよってきた。一瞬わしは抵抗しようと思った。そうすれば英雄にふさわしい最期を遂げたであろうが、だれがそれを目撃して記録にとどめてくれるというのか? 自分の運命をすこし先にのばしているだけかもしれないが、これまでいくたの苦難に出会っても無事に切りぬけてこられたので、つねに希望はすてず、運命の星を信じるようになっていた。わしは、ならず者たちが捕まえるままに、この部屋から連れだされた。船頭はわしに寄りそって歩きながら、長めの抜身の短刀を手にちらつかせていた。その残忍そうな目もとには、わしの土手っ腹に短刀を突きたてる口実が見つかったら、それこそ望むところだという様子がうかがえた。
実にふしぎなところだ、このヴェネツィアの大邸宅というのは。なにしろ御殿と要塞と牢獄が一つになっているのだから。連行させるままに廊下をとおり、石をむきだしにした階段を下ってゆくと、やがて短い廊下に出た。ここには扉が三つ開いていて、わしはそのうちの一つの戸口に押しこめられた。バネ錠が背後でがちゃりと締まった。灯りといえば、廊下側の鉄格子からかすかに射しこむだけであった。瞳をこらしたり、手探りしたりして、わしは念入りにこの部屋を調べた。先ほどの話によれば、まもなくこの部屋を出て、法廷に出頭しなければならないことはわかっていたが、万に一つの見込みでも、それを放棄するのはわしの本性にもとるからだ。
独房の石の床はじめじめしていたし、壁は数フィートの高さまで、ぬるぬるしていて不潔だった。ここが水面より低かったことは明らかだ。天井近くの高いところに斜めの穴が一つあって、採光と換気はそこからしか得られなかった。この穴から明るい星が一つ、わしに向かってきらきら輝いていたが、それを見ていると心の底まで慰められ、またしても希望が湧いてくるのだった。わしは信心深い人びとにつねづね敬意を払っているが、わし自身は信心深い人間ではない。しかしこの晩、穴から光を投げかけていた星は、すべてを見とおす目のようにわしの上にそそがれていた。そのときわしは、戦場でおびえている若い新兵が、隊長からおだやかな視線をそそがれたような気がしたのをおぼえている。
牢獄の三方の壁は石でできていたが、残る一面は木造だった。しかもそれはごく最近造られたものだ。仕切り壁をいそいで設けて、大きな独房を二つの部屋に分けたにちがいない。古い壁、ちっぽけな窓、がっしりした扉には望みを託すわけにいかない。当たってみる可能性があるとすれば、木で仕切られたこの一面だけだ。だがわしの考えでは、たとえ仕切り壁を突きぬけたとしても――これはそうむずかしいこととは思えないが――結局、いまと変わらぬ堅固な独房に入りこむのがおちだ、と思えた。だがわしは手をこまねいているより、たえずなにかをしていたい性分た。そこで全神経、全精力を木造の壁にかたむけてみた。すると二枚の板の継ぎあわせがまずく、ゆるんでいたので、これなら楽にはがせると思った。なにか道具はないものかとさがしてみた。隅にある小さなベッドの脚が使えそうだった。この脚の先を板のすき間に押しこんで、ぐっとこじあけようとしたとき、あわただしげな足音か聞こえてきたので、やむなく中断して聞き耳をたてた。
そのとき耳にしたことは、なろうことならすっかり忘れてしまいたい。何百人という人間が戦場で死ぬのを見てきたし、わし自身も思いだすのがいやになるほど、大勢の人間を殺してきた。だがこれはすべて正々堂々たる勝負で、軍人の義務であった。この殺し屋どもの巣窟で人が殺されるのとは大ちがいだ。連中はだれかを追いたてるようにして廊下を歩かせていた。男は抵抗し、わしの独房を通りすぎるとき、その扉にしがみついた。どうやらその男は第三の独房に入れられたにちがいない。ここから一番遠い独房だ。「助けてくれ! 助けてくれ!」という叫び声につづいて、殴りつける音と悲鳴が聞こえた。「助けてくれ! 助けてくれ!」ふたたび叫び声があがり、ついで「ジェラール! ジェラール大佐!」という声が聞こえた。殺されようとしているのは、あのあわれな歩兵大尉だ。「人殺し! 人殺し!」わしは大声をだして、扉を蹴破ろうとした。だがいまいちど、叫び声が聞こえただけで、すべてが静まりかえってしまった。一分ほどすると、どぼんという水音がした。もうこれで、だれもオーレ大尉の姿を見かけることはあるまいと思った。彼はその冬、ヴェネツィアで、所属連隊の人員点呼から消えていった百名もの軍人と回じ運命をたどったのだ。
足音がまた廊下に聞こえてきた。今度はわしの番だな、と思った。ところが、連中はとなりの独房の扉をあけて、だれかを連れだした。足音は階段をのぼって、しだいに消えていった。すぐにまた、わしは板をはがす仕事に取りかかった。ほんの二、三分もたたぬうちに板をゆるめてしまったが、こうしておけば取りはずしも取りつけも思いのままだ。このすき間をくぐり抜けてみると、そこもまた独房で、思ったとおり、わしが閉じこめられていた部屋と一対をなしていた。脱走できそうにないことは、これまでとなんら変わりがなかった。というのはこれ以外に突破できる木造の壁はなく、扉にはバネ錠がしっかりかかっていたからだ。わしの不幸な仲間がだれであったのか、それを示す手がかりはまったくなかった。わしは自分の独房にもどって、はずした二枚の板を元どおりに取りつけると、おそらくはわしの弔鐘となるであろう呼び出しを、あらんかぎりの勇気を奮いおこして待つことにした。
呼び出しはなかなか来なかったが、とうとう足音がいまいちど廊下から聞こえてきた。わしは度胸をすえて、またなにか怖ろしい仕打ちのために、あわれな犠牲者の悲鳴が聞こえてくるのではないかと耳をそばだてた。しかし、そういうことはまったく起こらず、囚人は別に手荒な目にあうこともなく独房に入れられた。となりとの穴を覗いてみる暇もなかった。つぎの瞬間には、わしのとこの扉が荒々しく開けられて、例のやくざな船頭が、ほかの殺し屋どもをしたがえて独房に入ってきたからだ。
「出てこい、フランス人」と船頭が言った。彼は大きな毛むくじゃらの手に血のついた短刀を握りしめていた。残忍な目には、この短刀をわしの心臓にずぶりと突き刺す口実を、ひたすら探しているのが読みとれた。抵抗してもむだだった。わしはなにも言わずについて行った。石の階段をのぼって、先ほど秘密裁判が行なわれていた豪華な広間へ連れもどされた。案内にしたがって中にはいると、意外にも一同の注意を集めたのは、このわしではなかった。彼らの仲間の一人で、背のたかい、色の浅黒い若者が一同のまえに立って、低いながらも真剣な調子で仲間に訴えていた。声は不安でふるえ、両手は苦しい嘆願のために、突きだしたり、ねじまけたりしていた。
「こんなことは断じてなりません! 断じてなりません!」と彼は叫んだ。「本法廷に嘆願します。この判決を考えなおしてください」
「控えなされ、同志よ」裁判長格の老人が言った。「この件の判決はくだされたのじゃ。して、つぎの件の審判が控えておる」
「後生ですから、お慈悲を!」若者が叫んだ。
「慈悲はすでにほどこした」と老人が答えた。「このような犯罪には、死刑でも軽すぎるほどじゃ。おとなしくして、裁判を進行させなさい」
わしはその若者が悲痛な思いで、がくんと椅子につくのを見た。しかし、彼がどのようなことで悩んでいるのか、推測する暇はなかった。残る十一人の同僚が、すでにきびしい目をわしに向けていたからだ。運命の時が訪れていたのだ。
「ジェラール大佐じゃね?」怖ろしい老人が言った。
「そうです」
「かの盗賊の首領ボナパルトの代理で、シュシェー将軍と自称する強盗の副官なのじゃな?」
この嘘つきめ、という言葉が口を突いて出そうになった。だが待てよ、物事には議論すべき時と沈黙すべき時とがある。
「わたしは名誉を重んじる軍人です」わしは言った。「わたしは命令にしたがって、職務をはたしたまでだ」
みるみるうちに、老人の顔面は朱をそそぎ、目は仮面をとおして燃えあがった。
「おまえらは一人残らず、盗人で人殺しじゃ」と彼は叫んだ。「この土地でなにをしているのだ? おまえたちはフランス人じゃないか。なぜフランスに留まっておらんのじゃ? われわれがヴェネツィアに招待したとでも言うのか? どんな権利があって、ここにいるのじゃ? われわれの絵画はどこにある? サン・マルコの馬はどこに行った? われわれの先祖が何世紀もかけて集めた宝物を盗むとは、いったい何者の仕業なのだ? フランスがまた荒野原であったころ、ここはすでに大きな都会だった。おまえら、飲んだくれの、そうぞうしい、無知な兵隊どもが、聖徒と英雄の成果をぶちこわしてしまったのじゃ。文句があるか?」
まことに怖るべき老人だった。白いひげを憤怒で逆立たせて、短い文句を一つ一つ、まるで獰猛《どうもう》な犬のように吠えたてたのだ。もちろん、わしにも言い分があった。老人の言う絵画は無事パリにあるし、馬は正直言って大騒ぎするほどの代物でない。それに英雄は――聖徒のことはいざ知らず――なにも先祖にまでさかのぼらなくても、自分の椅子にすわったまま、お目にかかることができるではないか。これだけのことは、わしにも指摘できたのだが、そうしたところでこれは、イスラム教徒のエジプト騎兵と宗教論争をするようなものだ。わしは肩をすくめるだけで、なにも言わなかった。
「被告はなにも弁明の言葉がないのだな」仮面をつけた判事の一人が言った。
「判決をくだすまえに、どなたかご意見がおありかな?」老人がぎょろりと一同をにらみまわした。
「閣下、ひとこと」と別の判事が言った。
「この件について申しあげますと、どうしても一人の同志の古傷に触れることになりますが、この将校の場合には、他への見せしめとして、厳罰をくだす格別の理由があることをお忘れになりませんように」
「それは忘れておらん」老人が答えた。「同志よ、法廷がある面ではあんたを傷つけたとしても、別な面では十分に満足をあたえるじゃろう」
わしがこの部屋にはいったとき嘆願していた若者が、よろよろと立ちあがった。
「もう、がまんができません」と彼が叫んだ。「閣下、お許しください。裁判はわたしを除いて進めてください。なんとも気分が悪い! 気が狂いそうだ!」若者はすさまじい身ぶりで両手を振りあげて、部屋から飛びだして行った。
「かまうな! かまうな!」と老裁判長が言った。「血も涙もある人間にこの部屋に残っておれと言うほうが、どだい無理じゃ。だが、あれも生粋のヴェネツィア人だ。最初の苦しみが消えれば、これ以外には手がなかったとわかってもらえるじゃろう」
この思いがけない出来事の間、わしは忘れられていた。わしという男は無視されることには慣れていないが、もし、このまま打っちゃっておかれたら、そのほうがよっぽどありがたかったろう。だがこのとき老首領が、いけにえに舞い戻ってくる虎のように、またわしをにらみつけた。
「おまえはいっさいの償いをせねばならん。そうするのは当然の報いじゃ」彼は言った。「おまえは成りあがり者の軍人で、しかも外国人のくせに、ロレダン家の御曹司《おんぞうし》とすでに婚約中の、ヴェネツィア総督の孫娘さまに、こともあろうに色目をつかいおった。かような特権をほしいままにする者は、その代償を支払わねばならぬのじゃ」
「いかに代償が高くても、特権の価値にはおよぶまい」わしは言いかえした。
「それを言うなら、内金でも払ってからにせい」と彼は言った。「おそらくそのころには、そうそう気位ばかり高くしてもおられまい。マテオ、この捕虜を木造の独居へ連れてゆきなされ。今晩は月曜じゃ。この男には食べ物も水もやるな。そして、水曜の晩にまた、法廷に連れてくるのじゃ。そのとき、死刑の方法を決定する」
先行きは明るいものとは言えないが、ともかく死刑はしばし執行猶予となった。毛むくじゃらの残忍な男が、血塗りの短刀を片手にまといついているときには、わずかな情けでもありがたいものだ。わしはこの男に部屋から引きずりだされ、階段を突き落とされるようにして、また独房に戻った。扉にがちゃりと錠がおりると、わしはひとり物思いにふけった。
最初に思いついたのは、不幸な隣人と連絡をつけることだった。男の足音が消えてゆくまで待ち、それから慎重に二枚の板をはずして、覗いてみた。部屋のなかはひどく暗かった。ただ朦朧《もうろう》としていて、片隅にうずくまっている人影がやっとわかるだけだ。低いつぶやくような声が聞こえてきたが、それは死の恐怖におびえる人がするように、祈りを唱えているのだった。板をはずすとき、めりめりといったにちがいない。絹をさくような悲鳴が聞こえた。
「しっかりしたまえ、しっかり!」とわしは叫んだ。「絶望するには、まだ早すぎる。気を強くもちなさい。エティエンヌ・ジェラールがおそばについておりますぞ」
「エティエンヌですって!」それは女の声――しかも、わしの耳にはいつも妙なる調べを奏でた声であった。わしはすき間から躍りこんで、彼女を抱きしめ、「ルチア! ルチア!」と叫んだ。
しばらくの間は、ただ「エティエンヌ!」と「ルチア!」を繰り返すだけだった。こういうときには、話などできないものだ。最初に気を取り戻したのはルチアであった。
「ああ、エティエンヌさま、みながあなたさまのお命を奪おうとしています。どのようにして、あの人たちの手に落ちましたの?」
「君の手紙を受けとったので」
「あら、お手紙など差しあげませんわ」
「さては、悪党めに計られたか! で、君は?」
「わたしもあなたさまのお手紙をいただきましたので」
「ルチア、わしは手紙など出していない」
「では、わたしたち、同じ罠《わな》にかかったのですわ」
「ルチア、わしはどうなろうとかまわない。それに、わしには差し迫った危険はない。ただ独房に戻されただけだ」
「ああ、エティエンヌさま、みながあなたさまのお命を奪おうとしています。ロレンツォがいますもの」
「白ひげの老人のことかね?」
「いえ、いえ、色の浅黒い青年です。わたしのことを愛しておりましたし、わたしのほうも、あの人を愛しているものとばかり思いこんでいましたの――真実の愛とは、エティエンヌさま、どのようなものかがわかるまでは。あの人は決してあなたさまを許しませんわ。石の心を持っている人ですもの」
「奴らには好きなようにさせておくがいい。このわしから、過去を奪うことはできないのだからね、ルチア。だが君は――君はどうなるのだ?」
「なんでもありませんわ。エティエンヌさま。ほんの一瞬の苦しみ、それでおしまいなの。あの人たちに言わせれば、破廉恥《はれんち》の烙印《らくいん》のつもりでしょうが、わたしはこの烙印を名誉の王冠と思って身につけてまいりますわ。ほかならぬあなたさまからの授かりものですもの」
彼女の言葉を聞いて、わしの血は恐怖で凍りついた。これまでにわしがしてきた数々の冒険など、いま、わしの魂に忍びよる、この怖ろしい影にくらべれば物の数でなかった。
「ルチア! ルチア!」とわしは叫んだ。「後生だから教えてくれ。殺し屋どもは何をしょうと言うのだ。教えてくれ、ルチア! 教えてくれ!」
「エティエンヌさま、それは申しあげられませんわ。それは、わたしよりもはるかに、あなたさまを苦しめることになりますから。でも、やはり、申し上げることにしますわ。もっと悪いことをご心配なさるといけませんから。首領はわたしの耳を切り落とすよう命じました。フランス人を愛した女として、生涯消えることのない烙印を押すのだと申しております」
ルチアの耳! わしが何度もキスした、あのかわいい耳を。わしはビロードのような、小さな二つの耳に触って、この冒涜がまだ行なわれていないことを確かめた。わしの屍《しかばね》を乗り越えぬかぎり、この耳に手をつけさせはしないぞ。わしは歯を食いしばって、ルチアにこう誓った。
「ご心配なさらないで、エティエンヌさま。でも、ご心配いただけると、やはり嬉しいの」
「あなたには指一本触れさせませんぞ――あの悪魔どもに!」
「それに、わたしはまだ絶望していませんの、エティエンヌさま。ロレンツォがいます。あの人は、わたしが裁かれるとき、だまっておりました。でも、わたしが去ってから、申し開きをしてくれたかもしれません」
「そのとおり。わしはその申し開きを聞いた」
「それなら、あの人たちも思いなおすかもしれません」
事実はそうでないとわかっていたが、どうしてそれをルチアに打ち明けることができるだろうか? だが、結局は、打ち明けたも同然であった。女性特有の鋭い本能で、わしの沈黙は言葉となって伝わったからだ。
「だれもロレンツォの言うことに耳を貸そうとしなかったのですね! わたしにそう話すのを、なにも怖がることなどありませんのよ。わたしは、このような立派な軍人から愛されるにふさわしい女だということが、いまにおわかりになるでしょうから。ロレンツォは、いまどこにおりますの?」
「広間から出て行った」
「では、この屋敷からも出て行ったかもしれません」
「おそらく、そうだろう」
「あの人はわたしを運命の手にゆだねたのですわ。おや、エティエンヌさま、エティエンヌさま、人がやってきます!」
はるかかなたから、あの不吉な足音と鍵のがちゃがちゃ鳴る音が聞こえてきた。今度はなんのためにやってくるのだろう? 法廷へ連行する囚人は、ほかにはいないはずだ。わしの最愛の女《ひと》に刑を執行するためとしか思えなかった。わしはルチアと扉のあいだに立って、両手、両足に、獅子にも劣らぬ力をみなぎらせた。ルチアに指一本でも触れようものなら、この屋敷をぶちこわしてみせるぞ。
「戻ってください! 戻って!」と彼女が叫んだ。「あなたは殺されますわ、エティエンヌ。わたしの生命のことは、いずれにしてもご心配いりません。わたしをいとしく思《おぼ》し召すなら、エティエンヌさま、どうぞお戻りになって! なんでもありませんわ。物音一つ立てません。何をされようと、お耳には入れませんわ」
かよわい女性のルチアがわしと揉みあって、ありったけの力で、わしを二つの独房の間仕切りの穴まで引っぱって行った。だが突然、ある考えがわしの頭にひらめいた。
「二人とも、助かるかもしれないぞ」わしはささやいた。「黙って、すぐ、わしの言うとおりにするんだ。わしの独房にはいりなさい。早く!」
わしはルチアを穴から押しこんで、手を貸して壁板を修復した。わしの手には彼女のマントが残っていた。これを体にまとって、独房のいちばん暗い隅へそっと移った。そのまま横になっていると、扉が開いて、数人の男がはいってきた。角灯は持ってこないものと、にらんでいた。これまでも持ってきたことがないからだ。彼らの目には、わしは隅っこの、朦朧とした黒い固まりにすぎなかった。
「灯りを持ってこい」一人が言った。
「いけねえ、いけねえ。ばか言うな!」荒々しい声が叫んだ。耳におぼえのある、ならず者のマテオの声だった。「もともとこの仕事は、あまり気のりがしねえんだ。明るいところだと、ますますやる気がしなくなるってわけよ。ごめんなせえよ、お嬢さん。だけど、法廷の命令にゃあ、したがわなきゃならねえ」
わしはぱっと立ちあがり、奴らのなかを突きぬけて、開いた扉から逃げだしたい衝動にかられた。だが、そんなまねをして、どれだけルチアの助けになろう? たとえ、まんまと逃げおおせても、わしが加勢を連れて引きかえすまで、ルチアは奴らの掌中に残ることになろう。いかんせん、わし一人では、ルチアのために活路が開けるとは思えないからだ。こういったことすべてが、一瞬のうちにわしの頭にひらめいた。この際、わしのとるべき唯一の道は、じっと横になったまま、なにごとも甘んじて受け、機会を待つことだと悟った。船頭の節くれだった手が、わしの巻き毛の髪をあちこちとさぐった――これまで女の白魚の指しか、まさぐったことのない髪だったのに。つぎの瞬間、奴はわしの耳をつかんだ。まるで熱いアイロンをあてたような激しい痛みが全身に走った。わしは唇をかんで、悲鳴をこらえた。生暖かい血が首筋から背なかへ流れるのを感じた。
「やれ、ありがたや、終わりましたぜ」と船頭は言って、わしの頭をやさしくなでた。「まったく気丈な娘さんだ。お世辞じゃねえ。ただ、フランス人に惚れるなんてまねをしねえで、もっと嗜《たしな》みがよかったらな。恨むのだったら、あっしじゃなくて、あのフランス人にしてくだせえ。あっしはなにも好きでやったんじゃねえから」
わしはじっと横たわったまま、歯ぎしりして自分の無力さをくやしがる以外になにができたろう? それでも、わしの苦痛と激怒は、これも愛するルチアのためだと思えば和らげられた。男はよく女性にたいして、あなたのためならどんな苦しみでも喜んで耐え忍びますと言うが、これが口先だけでないことを示せたのは、わしの名誉とするところだ。わしはまた、こうも考えた。もしこの話が他日語りつがれるようになれば、わしはなんと雄々しく振舞ったものかとたたえられることだろう。また、コンフラン軽騎兵連隊の将兵は、どれほど彼らの連隊長を誇りに思うことだろう、と。このように考えていたおかげで、血がなおも首筋を伝って石の床にしたたり落ちるあいだも、だまって耐えることができたのだ。だが、このしたたり落ちる血の音のために、あやうく身の破滅を招くところだった。
「出血がひどいぜ」手下の一人が言った。「医者を呼んだほうがいいぞ。さもねえと、朝までもたねえぞ」
「じっとしたまま、口もきかねえ」と別の一人が言った。「ショックで死んじまったんだ」
「ばかな。若い女がそうやすやすと死ぬもんか」マテオの声だった。「それにおれは、裁判のお印《しるし》程度しか、ちょん切っちゃいねえ。さあ、起きなせえ、お嬢さん、起きなせえ!」
マテオはわしの肩をゆさぶった。マントの下の肩章に触りはしないかと、心臓もとまる思いだった。
「気分はどんなですかい?」と彼はたずねた。
わしは返事をしなかった。
「畜生ッ! 相手が女でなくて、男だったらいいんだが。しかも、ヴェネツィア一の別嬪《べっぴん》ときてやがる」船頭が言った。「おい、ニコラス、ハンカチを貸してくれ。それから、灯りを持ってこい」
万事休す。最悪の事態に立ちいたったのだ。どうあっても、助かる見込みはない。わしはそれでも片隅にうずくまっていたが、まるで山猫が躍りかかろうとするときみたいに、全身の筋肉を緊張させていた。どうせ死ぬなら、わしの生涯にふさわしい最期にしようと決心した。
奴らの一人が灯りを取りに行った。マテオはハンカチを持って、わしの上に身をかがめた。あと一瞬で、わしの秘密がばれるだろう。ところがマテオはふいに立ちあがって、不動の姿勢をとった。それと同時に、がやがやとそうぞうしい物音が、わしのはるか頭上にある小窓から聞こえてきた。オールのがたがたいう音と大勢の人声であった。そのとき、階上の扉を割れんばかりにたたきつけて、怖ろしい声がとどろいた。
「開けろ! 皇帝陛下の名において命ずる、開けろ!」
皇帝陛下! それは聖徒の名を唱えると、たちどころに悪魔が退散するような効果があった。奴らは恐怖の叫び声をあげて逃げだした――マテオも、手下も、執事も、殺し屋どもは総くずれになった。また、叫び声が聞こえ、それにつづいて斧をがんがん打ちおろす音と、板がばりばり割れる音がした。ロビーでは、武器ががちゃがちゃいう音とフランス兵の叫び声。つぎの瞬間、階段を飛びおりる足音が聞こえたと思うと、一人の男が狂ったようにわしの独房へ飛びこんできた。
「ルチア! ルチア!」と男は叫んだ。薄明かりのなかに突っ立って、はあはあ、あえいでいるばかりで、何を喋っていいかわからないようだった。しばらくして、また口を切った。「ぼくがどれほど君を愛しているか、ルチア、見せてあげたじゃないか? これ以上、どんなことができますか? ぼくは祖国を裏切り、誓いを破り、同志を売った。君を救いたい一心で、命をすてたのです」
この若者は、わしにルチアを奪われたロレンツォ・ロレダンだった。わしはこのとき、彼の心中を察して胸のふさがる思いがしたが、やはり、恋の勝負には遠慮は無用だ。たとえ、この勝負に敗れても、優雅で思いやりのある者に負けるのなら、いささかの慰めになろうというものだ。わしはこういうことを言い聞かせようと思ったが、一言喋ったとたん、ロレンツォはわっと叫んで部屋から飛びだした。そして廊下につるしてあった灯火を引っつかんで、わしの顔に突きつけた。
「きさまか、この悪党め!」彼は叫んだ。「きざなフランス野郎め! これまで、おれが受けたひどい仕打ちを償わせてやるぞ」
だがつぎの瞬間、彼は、わしの青白い顔と、頭から血がなおもしたたり落ちるのを見た。
「どうしたんだ?」彼はたずねた。「いったいどうして耳を切られたのだ?」
わしは苦痛で弱った心を振りはらって、傷口にハンカチをあてたまま、椅子から立ちあがった。いつもの快活な軽騎兵大佐に戻っていた。
「わしの傷などなんともありゃせん。ご異存がなければ、こんな些細な、個人的な事柄には触れないことにしましょう」
しかしルチアがとなりの独房から飛びこんできて、ロレンツォの腕にすがりながら、これまでのいきさつを一気に打ち明けた。
「このりっぱな紳士――このかたがわたしの身代りになってくださったのよ、ロレンツォ! わたしのために苦痛に耐えていらしたの。わたしを救おうとして、ひどい目に会われたのよ」
わしはロレンツォの顔から読みとれる苦悩に同情できた。やっとのことで、彼はわしに手を差しのべた。
「ジェラール大佐」と彼は言った。「あなたは崇高な恋をなさるのに、まことにふさわしいかただ。わたしはあなたを許します。わたしにはひどい仕打ちをなさいましたが、りっぱにその償いをなされましたから。しかし、あなたが生きておられたとは驚きです。わたしはあなたが裁かれるまえに法廷を去りましたが、ヴェネツィアの芸術作品を破壊した以上、いかなるフランス人にも慈悲が示されないものと理解していました」
「このかたは破壊などなさらなかったわ」ルチアが声を高くした。「わたしたちの屋敷の芸術作品を保護するのに、お力添えをいただいたのよ」
「それはともかく、一つだけはね」わしはこう言って、腰をかがめながらルチアの手にキスをした。
諸君、以上のようなしだいで、わしは耳をなくしたのだ。ロレンツォは、この冒険の夜から二日とたたないうちに、サン・マルコ広場で心臓を突き刺されているのが発見された。秘密法廷とならず者たちについては、マテオほか三名は銃殺、その他の者はヴェネツィアから追放処分を受けた。ルチア、わしのかわいいルチアは、フランス軍がヴェネツィアを去ったあと、ムラノにある修道院に引きこもった。彼女はまだそこにいて、いまでは、おだやかな女子修道院長になっているかもしれない。そしてかつてわれわれ二人の心臓がともに鼓動したころのことや、この大きな全世界すら、二人の血管のなかで燃えあがる恋にくらべれば、まことにささやかなものに思えたころのことを、とうの昔に忘れてしまったかもしれない。あるいは、そうでないかもしれぬ。おそらく忘れていないだろう。いまでも修道院の平和が、あのはるかな昔、彼女を愛した軍人の古い思い出のために乱されるときがあるかもしれない。青春は過ぎさり、激情は消えても、紳士の魂は決して変わるものでない。いまでもエティエンヌ・ジェラールは、彼女のまえに白髪の頭をたれ、お役にたつとあれば喜んで、もう一方の耳をなくしてもいいと思うのである。
[#改ページ]
第二話 ジェラールがサラゴーサを占領した話
諸君に話したことがあるかな? サラゴーサ包囲作戦の際に、わしがコンフラン軽騎兵連隊に配属されたときのいきさつと、あの都市の占領に、わしが目ざましい手柄をたてた話を。なに、まだか? それではぜひとも、お聞かせしなければなるまい。わしは事実をありのままに話すつもりだ。二、三の男性と、二、三十人の女性を除けば、諸君はこの話を聞く最初の人たちだ。
ところで諸君はご承知のことと思うが、わしが中尉として、それから下級大尉として勤務していたのは、第二軽騎兵連隊――通称、シャンブラン軽騎兵連隊――だった。当時、わしはまだ二十五歳で、無鉄砲で向こうみずな点にかけては、ナポレオン軍のだれにもひけを取らなかった。たまたま戦争がドイツ国内では終結したものの、スペインではまだ猛威をふるっていた。そこで皇帝陛下が、スペイン遠征軍を増強しようとの思《おぼ》し召しから、わしをコンフラン軽騎兵連隊の上級大尉として転属させた。この連隊は当時、ランヌ元帥の第五軍団に属していた。
ベルリンからピレネー山脈までは、たいへんな道のりだ。わしがあらたに配属された連隊は、ランヌ元帥のもとで、当時スペインのサラゴーサという町を包囲していた軍隊の一翼をになっていた。そこでわしは、その方向に馬首をむけ、なんと一週間そこそこでフランス軍司令部に到着し、そこからコンフラン軽騎兵連隊の陣営に差しむけられた。
この有名なサラゴーサの包囲については先刻ご承知のことと思うので、いかなる将軍も、ランヌ元帥があのとき直面した以上の困難な任務を負わされたことはない、とだけ言っておこう。この大きな都市はスペイン人の群衆――軍人、農民、僧侶たち――でごったがえしており、彼らはすべて、フランス軍にたいする猛烈な憎しみと、降服するくらいなら死を選ぶといった凶暴な決意にみちていた。この町には八万の人間がいて、これを包囲するのはわずかに三万だった。それでもわが軍は強力な砲兵隊をかかえていたし、わが工兵隊は選りすぐりの精鋭であった。あのような包囲攻撃はこれまでにも例がない。ふつうは、防衛施設を占領すれば、その都市は陥落するものだ。だがサラゴーサでは、防衛施設が占領されてから本格的な戦闘が始まったのだ。民家はことごとく砦《とりで》となり、街路はすべて戦場と化した。そこでわが軍は連日、一寸刻みに肉薄する必要にせまられ、守備隊がひそむ民家を爆破していったので、しまいには、この都市の半分以上が壊滅してしまった。しかし残り半分はいぜんとして戦意がおとろえず、防衛上、有利な地点を占めていた。というのは、ここではとてつもなく大きな修道院と尼僧院が、まるでバスチィーユ監獄のような塀をめぐらしているので、われわれの行く手からおいそれと一掃するわけにいかなかったからだ。以上が、わしが包囲軍に加わったときの情況だ。
正直な話、騎兵は包囲作戦となると、あまり役にたたないものだ。もっともわしには、他人がこんなことを言おうものなら、とてもがまんができぬ時期もあったが。ところで、コンフラン軽騎兵連隊は町の南方に陣取っていた。斥候《せっこう》を派遣して、スペイン軍がその方面から進撃してこないことを確かめるのが、その任務だった。連隊長の大佐は優秀な軍人とはいえなかったので、この連隊はのちになってこそ、高い評価を受けるようになったものの、当時はそれとはおよそ掛け離れた状態だった。たった一晩の間にさえ、わしはどきっとするような目になんども出くわした。わしの理想は高かったので、整頓の行きとどかぬ陣営、手入れの悪い軍馬、だらしのない騎兵を見ると、情けない思いがするのだ。その晩、あらたに同僚となった将校二十六人と会食したが、わしはつい夢中になって、ドイツ遠征軍でこれまで見てきたことと、こことではだいぶ様子がちがうと、あからさまに言ってしまったようだ。これですっかり座がしらけてしまった。みんなの視線がこちらに向けられているのを見て、はじめてわしは自分の軽率さに気づいた。とりわけ大佐は憤慨した。連隊きっての無法者、オリヴィエ少佐がわしの正面に陣取って、ばかでかい黒い口ひげをひねりながら、まるで取って食わんばかりにこちらをにらみつけていた。しかしながら少佐の態度にわしは腹をたてなかった。事実、こちらが軽率だったし、それに着任第一夜に上官と喧嘩をすれば、それこそ悪い印象をあたえると思ったからだ。
ここまでは、わしのほうが悪かったと認める。だが、ここからが話のつづきだ。夕飯がすむと、大佐と何人かの将校が部屋から出て行った。というのは、会食の場所は農家だったからだ。あとには、十二、三人残っていた。山羊皮の袋に入ったスペイン・ワインが出て、われわれはみな陽気になった。やがて例のオリヴィエ少佐が、ドイツ遠征軍とか、戦役でわしが果たした役割とかについて、二、三の質問をした。ワインでいい機嫌になっていたので、わしは水を向けられるままにつぎからつぎへと話しつづけた。諸君、これはむりもなかろう。わしに同情してくださるだろう。ドイツでは、わしは軍隊の同年輩の将校全員の模範だった。剣をとっては並ぶ者はなく、もっとも勇敢な騎手、百戦練磨の英雄だった。だがここでは、わしはただ無名であるばかりか、嫌われてさえいた。勇敢な同僚たちをまえにして、こんど仲間に加わった者がどういう男なのか、聞かせてやりたくなるのは当然でないか?
「喜びたまえ、諸君! 今夜、君たちに加わったのは、尋常一様の男ではない。ラティスボンの英雄、イエナの征服者、アウステルリッツの方陣を破った男として知られる、かのジェラールだ」と言ってやりたかったのも当然ではないか? もちろんわしはこういうことすべてを話せたわけでない。だが、すくなくともいくつかの事件は聞かせてやったので、このあとみんながこれを話題に取りあげてくれるものと思った。わしはそのつもりで喋った。彼らは聞いてはいたものの、さっぱり感心はしなかった。わしは喋りつづけた。最後に、わしが軍隊を先導してドナウ川をわたったときの話をすると、聞き終わって、みながどっと笑い声をあげた。わしは恥辱と憤怒でまっ赤になって立ちあがった。彼らにうまうまと乗せられていたのだ。なぶり者になっていたのだ。わしのことをほら吹きか、大嘘つきだと思いこんでいたのだ。これがコンフラン軽騎兵連隊でわしを歓迎するやりかたか? わしは無念の涙を目から払った。これを見て一同はますます笑いたてた。
「君は知っとるかな、ペルタン大尉、ランヌ元帥がまだ軍隊におられるか、どうか?」オリヴィエ少佐がたずねた。
「もちろん、いらっしゃると思います」大尉が答えた。
「ほんとかね。ジェラール大尉が着任された以上、元帥がおられる必要はないと思ったよ」
また、どっと笑いが起こった。目に入るのは、車座に並んだ顔、あざけりの目、高笑いする口――大きな黒い剛毛の口ひげをたくわえたオリヴィエ少佐、やせた体をして、せせら笑っているペルタン大尉、若僧の少尉らまでが腹の皮をよじらせて笑いこけた。まったくなんたる侮辱! だが、憤怒のあまり涙もかれてしまった。わしはふたたび、冷静で控え目なわれに返った。うわべは氷だが、内心は烈火と化していた。
「お伺いしますが」とわしは少佐に言った。「連隊の閲兵は何時でありますか?」
「まさかわれわれの勤務時間を、ジェラール大尉、変えるつもりではあるまいね」こう彼が言うと、また爆笑が起こった。しかしわしがおもむろに一座を見まわすと、笑い声は消えた。
「集合ラッパは何時ですか?」わしは語気鋭くペルタン大尉にただした。
なにか人をばかにするような返事が口から出かかったが、わしが一瞥をくれると引っこんでしまった。「集合ラッパは六時です」と彼は答えた。
「ありがとう」わしはこう言って、一座の頭数をかぞえ、わしの相手となる将校が十四人だとわかった。うち二人は、サン・シール陸軍士官学校を出たばかりの小僧っ子らしかった。こんな若僧のあやまちをとがめるのも大人げない。すると残るのは、少佐と、四人の大尉と、七人の中尉だ。
「諸君」わしは彼らの顔を一人一人見まわして言葉をつづけた。「諸君はわたしを歓迎するに非礼をもってなされたが、この非礼にたいし名誉回復の決闘を申しこまないかぎり、わたしはこの有名な連隊の一員に値しないことになる。諸君がもし、なんらかの口実をもうけて決闘を拒否したら、わたしは諸君をこの連隊の一員に値しないものと考える」
「その点にかんしては異議はなかろう」少佐が言った。「わたしは自分の地位を投げうっても、コンフラン軽騎兵連隊の名において、いかなる決闘にも応ずる用意がある」
「お言葉、感謝いたします」わしは答えた。「しかしながら、わたしを笑ってなぶり者にした他の紳士諸君にも、わたしは要求する権利があると思います」
「では、だれと決闘しようと言うのかね」ペルタン大尉がたずねた。
「全員だ」わしは答えた。
彼らはびっくりして、たがいに顔を見合わせた。それから部屋のむこう端のほうへさがって、なにやらひそひそとささやきあっていたが、やがて大きな笑い声が聞こえてきた。あいかわらず、脳たりんのほら吹きが相手だと思っていたにちがいない。すぐに、みんなが戻ってきた。
「君の要求は変わっているが、応じることにする」オリヴィエ少佐が言った。「どのようにしてこの決闘を行なうつもりかね? 条件は君に一任する」
「剣を使って」わしは言った。「古参の順にお相手いたします。最初はオリヴィエ少佐、時間は五時。こうすれば、集合ラッパが鳴るまでに一人に五分ずつかけることができます。ところで、まことに恐縮ですが、決闘の場所を指定していただきたい。なにしろ、このあたりの地理にはまだ不案内なものですから」
彼らはわしの冷静で実際的な態度に感銘をうけた。すでに笑いは唇から消えていた。オリヴィエの顔にも、もはや潮笑の色はなく、陰気できびしい顔つきになっていた。
「軍馬の列のむこう側にちょっとした空地がある」彼は言った。「そこで二、三度、決闘が行なわれたことがあるが、首尾は上々だった。ジェラール大尉、君の指定する時刻には、あそこに行っているぞ」
わしの要求を承諾してくれたので、みんなに一礼しかけたとき、食堂の扉が威勢よく開いて、大佐がひどく興奮した面持ちで部屋に飛びこんできた。
「諸君」と大佐が言った。「わしは諸君のなかから、最大限の危険をともなう任務に志願する者を一名さがすよう要請をうけた。隠さずに言ってしまうと、この件は極度に重大なものであって、ランヌ元帥がとくに騎兵将校に目をつけられたのも、歩兵や工兵の将校よりも騎兵将校を失うほうが、まだましだと考えられだからだ。妻帯者は不適格だ。それ以外で志願する者はおるか?」
言うまでもないことだが、独身の将校は一人残らず前に出た。大佐はぐるりと見まわして、いささか困惑ぎみだった。わしには大佐の苦しい胸中がよくわかった。最高の人物を送らねばならず、しかも、一番手放したくないのも最高の人物だからだ。
「連隊長どの」わしは言った。「一つ提案してもよろしいでしょうか?」
彼はきびしい目でわしを見た。夕飯のときのわしの発言を忘れていなかったからだ。
「言いたまえ!」
「この使命は権利から言っても、便宜から言っても、わたしが引きうけるべきだと申しあげたい」
「どういうことだ? ジェラール大尉」
「権利と言いますのは、わたしが上級大尉だからです。便宜と言いますのは、この連隊では、隊員がまだわたしのことをよく知らないので、たとえわたしがいなくなっても惜しまれることがないからです」
大佐の顔つきがやわらいだ。
「ジェラール大尉、君の言うことには確かに真理がある」彼は言った。「事実、この使命には君が最適だと思う。わしについてきたまえ。指示をあたえよう」
わしは部屋を出るとき、同僚たちにおやすみの挨拶をして、明朝五時にはかならず出頭しますよ、と繰りかえした。みんなはだまって会釈したが、顔の表情から判断すると、どうやらわしの人格を正当に評価しはじめているのが見てとれた。
わしは連隊長がすぐにも、わしの任務がなんであるか、教えてくれるものと期待していた。しかし予想に反して、彼はだまって歩きつづけるだけで、わしはしかたなくあとをついて行った。われわれは野営の陣地を通りぬけ、塹壕《ざんごう》を横ぎり、町の城壁がくずれてできた石の山を越えて行った。この奥には、工兵隊の地雷で爆破された民家の残骸のなかに、迷路のような道ができていた。何エーカーもの土地が壁の破片や煉瓦の山に埋もれていたが、ここはかつては多くの住民をかかえていた地域だった。細い路がいく筋も通じていて、ところどころの曲がり角には、旅人のために道しるべのついた角灯がつるしてあった。大佐はどんどん急いで行き、だいぶ歩いてから、われわれの行く手が高い灰色の壁にさえぎられ、そこで行きどまりになっているのがわかった。ここのバリケードの背後に、わが軍の前衛隊がいた。大佐はわしを屋根のない家屋に案内したが、そこには将官が二人いて、ドラム罐の上に地図をひろげ、ひざまずいたまま、角灯の明かりで熱心に地図を調べていた。ひげをきれいにそり、頸をひねっているのがランヌ元帥で、もう一人は工兵隊の指揮官、ラズー将軍だった。
「ジェラール大尉が志願してまいりました」大佐が言った。
ランヌ元帥は立ちあがって、わしと握手した。
「君はなかなか勇敢な男だ」と彼は言った。「君にプレゼントしたいものがある」元帥はこう付け加えて、わしにちっぽけなガラスの管を手わたした。「これはファルデ博士によって特別に調合されたものだ。最期の瞬間がきたら、これを唇につけさえすればいい。そうすれば即刻、死ぬことができる」
はなからこれでは気がめいりかねない。正直な話、背筋にぞっと寒けが走り、髪の毛は恐怖で逆立ったほどだ。
「閣下、失礼でありますが」わしは敬礼しながら言った。「大きな危険をともなう任務に自分が志願したことは承知しております。しかし、その詳細についてはまだ承っておりません」
「ペラン大佐」ランヌ元帥はきびしく言った。「この勇敢な将校に、どのような危険にさらされるかも教えずに志願させるとは、男らしくないぞ」
しかしわしは、このときすでに本来の自分にもどっていた。
「閣下、はばかりながら申しあげますが、危険が大きくなれば、それだけ栄誉も大きくなります。わたしが志願したのを後悔するのは、そこに危険がないとわかったときだけです」
これは格調の高い言葉だった。その上、わしの態度がこの言葉に力をあたえた。この瞬間のわしは、まさに英雄的な人物だった。ランヌ元帥が称賛の目でわしの顔を見つめたとき、スペイン遠征軍におけるわが初舞台は、なんとすばらしいものだろうかと思って、胸がわくわくした。たとえ今夜死んだとしても、わしの名前が忘れさられることはなかろう。こんどの同僚たちと、以前の同僚たちとでは、なにかと相違する点があろうが、エティエンヌ・ジェラールを愛し、称賛する点では意見の一致をみることだろう。
「ラズー将軍、情況の説明を!」ランヌ元帥が簡潔に述べた。
工兵隊の指揮官は手にコンパスをもって立ちあがった。彼はわしを戸口まで連れていき、破壊された民家の残骸のなかにそびえる高い灰色の壁を指した。
「あれが敵の現在の防御線だ」と彼は言った。「広大な聖母マリア修道院の壁だ。あれが攻略できれば、この都市はかならず陥落する。だが敵は、あのあたり一帯に対抗道をめぐらしている。しかも壁はとてつもなく厚いから、大砲で破壊するにしてもどえらい仕事だ。ところが、わが軍が手に入れた情報によると、敵は下の部屋のどれかにかなりの量の爆薬を貯えているとのことだ。これを爆破できれば、わが軍の進路が開けることになる」
「どうしたら、そこへ行けますか?」
「それはこうだ。町のなかにはユベールというフランス人の特務機関員がいる。この勇敢な男がたえずわが軍と連絡をとっていて、火薬庫を爆破すると約束した。決行するのは早朝とのことで、この二日間というもの、われわれは千名の精鋭からなる突撃隊を用意して、突破口ができるのを待ちかまえている。ところが爆発が起こらないのだ。しかもこの二日間、ユベールからはなんの連絡もない。問題はだ、ユベールがどうなったかだ」
「それを確かめてほしい、と仰言るのですか?」
「そのとおり。病気なのか、負傷したのか、それとも死んでしまったのか? なおもユベールの決行を待つべきか、それとも別な地点で攻撃をしかけるべきか? ユベールからの連絡がないかぎり、こちらとしては決断しかねるのだ。ジェラール大尉、これが町の地図だ。ごらんのとおり、あまたの修道院や尼僧院にぐるっとかこまれたなかに何本もの街路があるが、これはみな中央広場へと集まっている。この広場までやってくれば、その一角に大寺院が見える。ここがトレド通りだ。ユベールは靴屋と酒屋にはさまれた小さな家に住んでいる。大寺院からむかって右手だ。わかるかね?」
「よくわかります」
「ぜひともその家に行き、ユベールに会って、この計画がいまなお実行可能なのか、それとも断念しなければならないのか、そのあたりを確かめてもらいたい」こう言って彼は、汚ない茶色のフランネルをまるめたような代物を取りだした。「これはフランシスコ会修道士の僧衣だ。これで変装すれば、ずいぶんと役にたつだろう」
わしは一瞬、しりごみをした。
「それでは、わたしはスパイになってしまう」わしは声を高くした。「むろん、軍服のまま行ってもよろしいですね?」
「とんでもない! そんなことで、どうして市街を通りぬけられると思うか? それにいま一つ忘れてならないのは、スペイン軍は捕虜を生かしておかないということだ。どんな服装で捕まろうと君の運命には変わりがない」
確かにそうだった。わしがスペインにはいったのは、なにも昨日、今日というわけでないので、この場合の運命とはたんなる死以上の、なにかただならぬものらしいことがわかっていた。国境からの道中ずっと、拷問だの、手足切断だのという怖ろしい話を耳にしてきた。わしはフランシスコ会修道士の僧衣をまとった。
「これで用意ができました」
「武器は持ったか?」
「剣があります」
「剣だとがちゃがちゃ音がする。剣は置いて、この短刀を持ってゆきたまえ。ユベールに夜明けの四時に突撃隊が待機すると伝えてくれ。表に軍曹が待っていて、市内に潜入する要領を教えてくれるはずだ。では、さらば、武運を祈るぞ!」
わしがまだ部屋から出ないうちに、この二人の将軍はもう、おたがいの三角帽を地図の上で触れあわんばかりにしていた。出口のところで、工兵隊の下士官がわしを待っていた。わしは僧衣の腰紐をむすび、軍帽を脱いで頭巾をかぶった。拍車は取りはずした。それからだまって案内役について行った。
慎重に進んでゆく必要があった。頭上の塀の上にはスペイン軍の歩哨が並んでいて、たえずわが軍の前衛地点に発砲してくるからだ。広大な修道院の物陰にかくれて、瓦礫の山のなかをゆっくりと慎重に道を拾うようにして進んで行き、やっとのことで大きな栗の木に辿りついた。ここで軍曹は立ちどまった。
「この木なら楽に登れます」彼が言った。
「梯子より簡単です。登ってゆくと、一番上の枝からあの家の屋根にわたれます。そこから先は、大尉殿の守護天使に案内役をおねがいしなければなりません。わたしはこれ以上、お力にはなれませんから」
重い茶色の僧衣をしっかり締めなおして、わしは言われたとおり、栗の木を登った。半月《はんげつ》があかあかと輝いて、屋根の輪郭が紫色の星空に、黒く、くっきりと浮きでていた。栗の木は家に寄りそうように立っていた。ゆっくりと枝から枝へと登って、梢近くまできた。もう一枝、しっかりした枝を伝ってゆきさえすれば、塀にとどくはずだ。ところが突然、わしの耳に人の足音が聞こえてきた。わしは幹の陰に小さくなって、その影に紛れこもうとした。一人の男が屋根の上をこちらに向かってきた。黒い姿が身をかがめ、頭を前に投げ、銃身を突きだして、そろそろと忍びよってくるのが見えた。その所作は一挙手一投足にいたるまで、警戒と疑惑にみちていた。一、二度立ちどまってから、また進み、ついにわしから数ヤードと離れていない胸壁のへりまでやってきた。それから男はひざまずき、マスカット銃をかまえて発砲した。
わしは突然、大音響が耳もとにとどろいたのに度肝をぬかれ、あやうく栗の木から落ちそうになった。一瞬、自分が狙われたのではないか、と思ったほどだ。だが、下のほうから低い呻《うめ》き声が聞こえ、スペイン兵が胸壁から身を乗りだして大声で笑ったので、なにが起こったのかが呑みこめた。それは気のどくにもわしの忠実な軍曹で、わしの姿が消えるまで見とどけようとしていたのだ。スペイン兵は軍曹が木の下に立っているのを見て、発砲したのだ。諸君は、暗がりでよく撃てたものだと思うかもしらんが、あの連中はラッパ銃という代物を使うのだ。弾丸のかわりにいろいろな石や金属片を詰めこんで使うわけだが、ちょうど枝に止まっている雉をわしが撃つように、これなら百発百中はまちがいのないところだ。このスペイン兵は立ったまま、下の暗がりを覗きこんでいた。ときどき唸り声が下から聞こえてくるので、軍曹がまだ生きているのがわかった。歩哨はあたりを見まわした。万事、異状はなかった。おそらく彼は、この呪われたフランス人に止《とど》めを刺そうと思ったのかもしれない。さもなければ、ポケットのなかを調べてみたかったのだろう。動機がなんであれ、スペイン兵は銃を下におき、身を乗りだして、ひらりと栗の木に乗り移った。その瞬間、わしは相手の体にぐさりと短刀を突き刺した。男は枝と枝の間をばさばさっとものすごい音をたてて落ち、どすんと地面にたたきつけられた。下のほうで、ちょっとの間、揉みあう音とフランス語の罵声が一、二度聞こえてきた。負傷した軍曹は長いこと待たないでも、復讐ができたのだ。
しばらくの間、わしは身動きすることは差しひかえた。いまの物音を聞きつけて、きっとだれかがやってくると思ったからだ。ところが、あたりは静寂そのもので、聞こえるのは、都市《まち》の中で夜ながの十二時を知らせる鐘の音ばかりだった。わしは枝をそろそろと伝ってゆき、ひょいと屋根に乗り移った。スペイン兵の銃がそこに置いてあったが、わしにはなんの役にもたたなかった。角《つの》製の火薬入れは彼のベルトについていたからだ。それと同時に、もし銃が見つかれば、なにか起こったことに敵が気づくので、銃は塀のそとに捨ててしまうのが最上の策に思えた。それからわしはあたりを見まわして、屋根からおりて都市《まち》なかへ潜入する手掛かりをさがした。
言うまでもないが、おりるのにもっとも簡単な方法は、歩哨が登ってきた道筋だ。これはすぐにわかった。屋根づたいに「マヌエロ! マヌエロ!」と叫ぶ声が、四、五回聞こえてきた。物陰にうずくまっていると、月明かりのなかに、ひげもじゃの顔が跳ねあげ戸から、にゅっと突きでるのが見えた。呼んでも返事がないので、ひげ男が這いでてきたのだ。あとからもう三人でてきたが、いずれも完全武装で身を固めていた。取るにたらぬような用心でもなおざりにしないことが、どんなに大事であるか、これでおわかりいただけよう。歩哨の銃をその場に置きざりにしていたら、すぐさま捜索が行なわれ、わしは発見されたにちがいないからだ。ところが、この巡視隊は歩哨の痕跡を示すものをなに一つ見かけなかったので、おおかた屋根の上をむこうへ歩いて行ったとでも考えたのだろう。そこで彼らは急いでそちらへむかった。わしは、連中が背をむけたとたんに、開けっ放しの跳ねあげ戸へ走りより、そこから階段をおりて行った。この家は空家らしかった。わしは家のまんなかを通りぬけて、開いている戸口から通りへ出た。
そこは狭い、人気のない路地だったが、突きあたりは広い道になっていた。ところどころ焚火をしていて、そのまわりでは大勢の軍人や農民が眠りこけていた。都市《まち》なかの悪臭ときたら、それこそひどいもので、はたして人間がこんなところに住めるものかと思ったほどだ。この何カ月もの間、包囲攻撃がつづいていたので、街の清掃も死者の埋葬もままならなかったからだ。大勢の人びとが焚火から焚火へと行ったりきたりしていて、そのなかに数名の修道僧がいるのに気づいた。修道僧がまったく怪しまれずに行ききしているのに勇気をえて、わしは大きな広場のほうへ急ぎ足でむかった。一度、焚火のそばにいた男が立ちあがって、わしの袖をつかんで引きとめた。男は、一人の女が路上でじっと横たわっているところを指さしたが、どうやら彼の言いたいのは、女が死にかかっているから、教会の最後の儀式を執行してやってほしいということらしかった。わしは記憶の底にわずかに残っていたラテン語に助けをもとめた。「オーラ・プロ・ノビス(われらがために祈れ)」わしは頭巾の奥から唱えた。「テ・デウム・ラウダームス(神なる汝を讃えまつる)。オーラ・プロ・ノビス(われらがために祈れ)」わしはこう唱えながら片手をあげて、前方をさした。男はわしの袖をはなして、なにも言わずに引きさがったので、わしはおごそかな身ぶりで先を急いだ。
あらかじめ想像していたように、この広い通りは中央広場へと通じていた。広場には兵隊が大勢いて、焚火がさかんに燃えていた。一人、二人話しかけてくる者がいたが、相手にしないで足早に歩いて行った。大寺院の前をすぎると、先ほど説明のあった通りを進んで行った。このあたりはわが軍の攻撃からはもっとも遠い地域なので、さすがに野営の陣を張っている軍隊は見あたらなかった。通りは闇につつまれていて、ときどき窓辺から微かな光がもれてくるだけだった。指示された家を酒屋と靴屋の間に見つけるのはむずかしくなかった。なかには灯りがついておらず、扉は閉ざされていた。用心しながら掛け金を押してみると、はずれたような感じがした。だれがなかにいるのか、それはわからないが、ともかく危険を冒さなければならない。わしは扉を押して、なかにはいった。
なかはまっ暗だった――しかも扉を閉めたあとの暗さは言わずもがなだ。わしは手さぐりで、テーブルの縁までやってきた。そこでわしはじっとたたずんだまま、さてこのあとどうしたものか、せっかくユベールの家にはいりこんだものの、彼に関する情報をどうしたら手に入れることができるのか、と考えてみた。へまをやらかせば、命にかかわるばかりか、わしの使命も遂げられぬことになる。おそらくユベールはひとりで住んでいるのではあるまい。たぶんスペイン人の家庭に下宿していて、わしが訪れたことがわかれば、このわしばかりでなく、ユベールまで破滅に陥れるかもしれない。いまだかつてこれほど途方にくれたことはなかった。だがこのとき突然、わしの血を凍らせるようなことが起こった。声が、ささやくような声が、わしの耳にとどいたのだ。「|神さま《モン・デュー》!」苦悩にみちた声が叫んだ。「ああ、|神さま《モン・デュー》! |神さま《モン・デュー》!」そのあとすぐ、闇のなかで乾いた鳴咽《おえつ》がして、またもとの静寂にもどった。
わしはこの怖ろしい声を聞いて身の毛がよだつほどぞっとしたが、同時に希望で胸がわくわくした。フランス人の声だったからだ。
「だれだ?」わしはたずねた。
呻き声がするだけで、返事がない。
「ムッシュ・ユベールか?」
「ああ、ああ」溜息をつくような低い声なので、ほとんど聞きとれないくらいだ。「水、水をくれ、お願いだ、水を!」
わしはその声のほうへ進んで行ったが、壁に突きあたってしまった。また呻き声が聞こえた。今度はまちがいなく、頭上から聞こえてきた。わしは両手をあげてみたが、むなしく空を切るばかりだった。
「どこにいるのだ?」わしは叫んだ。
「ここだ! ここだ!」異様な震え声がささやいた。わしは壁にそって手を伸ばしてゆき、男の素足をさぐりあてた。この足はわしの顔ぐらいの高さにあったが、手さぐりしてみたかぎりでは、足を支えるものは何もなかった。わしはぎょっとして、よろけながら後退した。それからわしはポケットの火口《ほくち》箱を取りだし、火を打った。ピカッと光ったとき、わしの前で一人の男が宙に浮いているように見えたので、びっくり仰天して箱を落としてしまった。いまいちど、ぶるぶる震える指で火打ち石を鋼《はがね》に打ちつけた。今度は火口だけでなく、蝋燭《ろうそく》にも火がついた。この蝋燭を高く掲げてみると、驚きのほうは多少収まったものの、それが照らしだす光景で恐怖がますます募ってきた。
その男は、まるでイタチが納屋の扉に釘づけになったみたいに、壁に釘で打ちつけられていた。ばかでかい釘が両手、両足に打ちこまれていた。男はあわれにも断末魔の苦しみにもがいていて、頭は肩にがくんとたれ、黒ずんだ舌が両唇から突きでていた。外傷と喉の渇きのために、彼は死にかかっていた。あの残忍な鬼どもはユベールの前のテーブルに、ワインをなみなみと注いだ大きなコップを置いて、彼の苦悶に追い打ちをかけようとしたのだ。わしはコップを彼の唇に持っていった。ユベールはまだ飲むだけの力があって、そのどろんとした目にはわずかばかりだが光がもどってきた。
「フランス人か?」彼がささやいた。
「そうだ。君がどうなったか、見とどけるために派遣されたのだ」
「見つかってしまった。それで殺《や》られたのだ。だが死ぬ前に、知っていることをお伝えしたい。もうすこしワインを、お願いだ! 早く! 早く! もう死にそうだ。力が抜けていく。聞いてくれ! 火薬は女子修道院長の部屋に保管されている。壁に穴をあけ、導火線の端は礼拝堂のとなり、シスター・アンジェラの独居房にある。用意は二日前にすっかり整った。だが書状が見つかって、拷問にかけられたのだ」
「なんということだ! 君はここで二日間も磔《はりつけ》になっていたのか?」
「二年間とも思えるほどだ。同志よ、わたしは祖国フランスのために尽くしたんだね? だとしたら、わたしのささやかな願いを聞いてくれ。この心臓を一突きに刺してくれ! たのむ、お願いだ、この苦しみを即座にとめてくれ!」
ユベールは事実、手のほどこしようのない状態だったので、彼の願いを聞いてやるのが、いちばん親切な行為だったろう。それでもわしは、平然として彼の体に短刀を突き刺すことはできなかった。もっとも立場を変えたら、同様の慈悲を懇願したにちがいないが。ところが突然、ある考えが脳裏をよぎった。ポケットには、苦しまずに即座に死ねる薬がはいっていた。これさえあれば、わしは拷問の憂き目にあうことはないのだが、このあわれな男はそれを緊急に必要としていたし、しかも彼には祖国フランスから十分に優遇される資格があった。
わしは小さな瓶を取りだし、中味をワインのコップに入れた。このコップを男の口へ持っていこうとしたとき、突然、戸口のそとでがちゃがちゃと武器の鳴る音がした。わしはとっさに灯りを消し、窓のカーテンのうしろに忍びこんだ。つぎの瞬間、扉が勢いよく開いて、二人のスペイン人がどかどかと室内にはいってきた――色の浅黒い荒々しい男たちで、一般市民の身なりをしていたが、肩からはマスカット銃を下げていた。わしの跡をつけてきたのではないかと恐怖におびえながら、カーテンのすき間からそっと覗いてみた。しかし彼らがやってきたのは、不運なわが同胞をながめて、たんに目の保養をするためだとわかった。一人の男が角灯を携えてきたが、それを死にかかっているユベールの前にかかげ、二人してどっと潮笑した。このとき、角灯を持った男の視線がテーブルにあるワインの上に落ちた。さっそくこれを手にとり、悪魔のような薄笑いを浮かべて、ユベールの唇へ持っていった。瀕死の男がこれにありつこうと、無意識に頭を前方にかたむけたとたん、コップをさっと引っこめて、自分でぐいっと一息に飲んでしまった。それと同時に、男はあっと大声をあげ、狂ったように喉を掻きむしりながら、ばったりと床に倒れて息が絶えた。仲間の男は恐怖と驚愕で、ただただ目を見張るばかりだった。やがて、自分の迷信からの恐怖に耐えきれなくなって、きゃっと悲鳴をあげるなり、気が狂ったように部屋から飛びだして行った。石畳の上を荒々しくばたばたと逃げていく足音が聞こえたが、そのうちこの音も遠くに消えうせた。
角灯は火がついたまま、テーブルの上に置きざりになっていたので、わしがカーテンの陰から出てみると、あわれにもユベールの首ががくんと胸にたれて、彼もまた絶命しているのがわかった。唇をワインに持っていこうとしたのが、彼の最後の動作だった。家のなかでは柱時計がカチカチと大きな音をたてていたが、これを除けば、まったく静寂そのものだった。壁にはフランス人のねじれた体が磔《はりつけ》になっていて、床にはスペイン人の死体が静かに横たわっていた。すべてが角灯の灯りで、ぼんやりと照らしだされていた。
わしは生まれてはじめて、恐怖の激しい発作におそわれた。わしはこれまでに、無残にも手足を失った人間が地上に倒れている姿は何千となく見てきたが、この薄暗い部屋に同席している、黙して語らぬ二つの姿ほど怖ろしく感じた光景はなかった。わしは先ほどのスペイン人と同じように、往来へ飛びだして行った。ひたすらこの陰惨な家から抜けだしたかった。大寺院まで走ってくると、やっと正気を取りもどすことができた。ここの物陰にあえぎながら立ちどまり、脇腹を押さえて取り乱した心を静め、これからどうしたらいいか、考えようとした。わしがまだ息をきらせて、ここにたたずんでいると、大きな真鍮の鐘の音が頭上で二つ鳴りひびいた。二時を知らせる鐘だ。四時になると、突撃隊が部署につくはずだ。まだ二時間は活動の余地がある。
大寺院の内部は輝くばかりの明るさで、大勢の人が出たり入ったりしていた。そこでわしは、ここなら咎《とが》められることもあまりなさそうだし、落ちついて計画を練ることができると思い、なかに入って行った。それはまことに奇妙な光景だった。というのは、ここが病院と避難所と倉庫になっていたからだ。一つの通路には食料品がぎっしり詰まっているかと思うと、別な通路には病人や負傷者がごろごろ転がっていた。中央には、あまたの寄るべのない人びとが住みついて、モザイク模様の床の上で煮炊きすらしていた。祈りをささげている人も多かったので、わしも柱の陰にひざまずいて、首尾よく無事にこの難関から抜けだせますように、そしてまた、ドイツにおけると同様、今夜も目ざましい働きができて、スペインでもわしの名声が高くなりますようにと真心をこめて祈った。
時計が三時を打つまで待って、それから大寺院を出て、聖母マリア修道院のほうへ進んで行った。ここが攻撃の目標になっていたからだ。諸君はわしの性格をよくご存知だから、すでにおわかりのことと思うが、このわしはおめおめとフランス軍の陣営にもどって、わが軍の特務機関員は死亡しましたので、なにか別の手段を見つけて市内に突入しなければなりません、などと報告するような男ではない。わしがなんらかの手段を講じて、ユベールの未完成の仕事をやり遂げるか、それともコンフラン軽騎兵連隊に高級大尉の欠員が一名生じるか、このいずれかだ。
わしは、さきほど述べた広い通りをだれにも怪しまれずに歩いて行って、やがて敵の防備の外堡《がいほう》となっている大きな石造りの修道院にやってきた。これは正方形の建物で、まんなかが庭園になっていた。この庭園に、数百人の男たちが、一人残らず武器をもち、準備を整えて集結していた。これはもちろん、この場所がフランス軍の攻撃目標になりそうな地点だということが、市中に知れわたっていたからだ。このときまで、わが軍のヨーロッパ各地における戦闘は、いつも軍隊対軍隊という形で行なわれてきた。だがこのスペインに来てはじめて、人民を相手に戦うことがいかにすさまじいものであるかを知った。このような戦いには名誉もなにもない。かなり年配の商人、無知な百姓、狂信的な司祭、興奮状態の婦女子、その他守備隊を構成する雑多な連中、こういつた烏合《うごう》の衆を打ち負かしたところで、どんな名誉になるというのか? それにまた、こういう戦いには、極端な苦痛と危険がともなうのだ。それというのも、こうした連中は相手に息つく暇をあたえないし、戦争の掟は守らないし、その上いかなる手段に訴えてでも、相手に危害を加えようと死にもの狂いになっているからだ。種々雑多な殺気だった集団が、聖母マリア修道院の庭園でかがり火のまわりにたむろしているのを見たとき、われわれの仕事がいかにうとましいものであるかを悟りはじめた。われわれ軍人は政治についてとやかく考えるべきではないが、そもそもはじめから、このスペインの戦争には不吉な影がつきまとっているようにみえた。
しかしこのときは、そんなことをじっくり考える余裕はなかった。先ほどお話ししたように、修道院の庭園までやってくるのはなんら難しいことでなかったが、建物の内部へ咎められずにはいりこむのは容易でなかった。まず最初に、庭園をぐるりと歩いてみた。わしはすぐに大きなステンドグラスの窓を見つけることができた。ここが礼拝堂にちがいない。ユベールの話では、火薬が保管されている女子修道院長の部屋はこの近くで、導火線はどこか隣接している独居房から、壁の穴をとおして仕掛けられているということだった。どんな犠牲をはらっても修道院のなかに潜りこまねばならない。入口には番兵がいた。どうしたら、なんの口実もなしにはいりこめるだろうか? だが突然、霊感がひらめいて、うまくいきそうな考えを思いついた。庭園には井戸があって、この井戸のそばに空のバケツがいくつか置いてあった。わしは二つのバケツに水を汲んで入口に近づいた。両手に水のはいったバケツをさげている使役の男には、言い訳など不要だ。番兵は扉を開けて、わしを通してくれた。はいってみると、そこは板石を敷いた長い廊下で、角灯が照らしていて、修道女の独居房が片側にずっと並んでいた。これでついに成功への本道に出られた。わしはためらうことなく歩きつづけた。庭で観察していたので、どちらへ行けば礼拝堂に出られるか、わかっていたからだ。
大勢のスペイン兵が廊下でぶらぶらして、煙草をすっていた。何人かの者が、わしが通りがかると声をかけた。わしからの祝福をもとめていたと思うのだが、わしの「オーラ・プロ・ノビス(われらがために祈れ)」はすっかり彼らを満足させたようだった。まもなく、わしは礼拝堂までやってきた。となりの独居房が火薬庫として使われていることは簡単にわかった。というのは、独居房の前の床が火薬ですっかり黒ずんでいたからだ。扉は閉まっていた。殺気だった顔つきをした二人の男が扉のそとで見張っていて、一人のほうは鍵をベルトに差しこんでいた。この男と一対一なら、さほど時間もかけずに鍵が手にはいったろう。だが相棒がいっしょでは、力ずくで鍵を奪うことはとうてい望めなかった。礼拝堂のむこう側にある火薬庫のとなりの部屋が、シスター・アンジェラの独居房にちがいない。扉が半開きになっていた。わしは勇気を振るいおこし、バケツを廊下において、咎められることなく部屋にはいって行った。
室内にはてっきり、殺気だった命知らずのスペイン人が五、六人はいるものと覚悟していた。ところが実際にわしの日にはいったのは、はるかに厄介なものだった。この部屋は、なんらかの理由で立ちのきを拒否した修道女が使うために、あらかじめ取っておいたようだ。修道女が三人、なかにいた。一人は年配の、きびしい顔をした婦人で、修道院長であることはまちがいない。ほかの二人は魅力的な顔だちの若い女性だった。三人は部屋の奥にすわっていたが、わしがはいっていくと立ちあがった。いささか驚いたことに、その態度と表情から、わしの来たことを歓迎し、また期待もしていたのがわかった。わしはすぐに落ちつきを取りもどし、どういう事情なのか、はっきり見てとった。攻撃が修道院に加えられようとしているので、当然この修道女たちは、どこか安全な場所へ移るように指示があるものと期待していた。おそらく三人はこの構内から立ちのくまいという誓いをたてて、追ってなにぶんの沙汰があるまで、この独居房にとどまるよう命じられたのだろう。
ともかく、わしはこの仮定にもとづいて行動することにした。なんとしても、この三人を部屋から追いださねばならなかったし、それにはこれが格好の口実になるからだ。わしはまず、扉にちらっと目をやり、鍵が内側にあるのを見た。それから修道女たちにむかって身振りで、わしのあとについてくるよう促した。修道院長がなにか問いかけたが、わしはじれったそうに首をふって、もう一度合図をした。彼女はためらっていたが、わしが足を踏みならして高飛車な態度で呼びたてたので、三人はすぐにしたがった。礼拝堂のほうが安全だと思って、そこに彼女たちをつれてゆき、火薬庫からいちばん離れた場所に案内した。三人の修道女が祭壇の前に落ちついたとき、わしの胸は喜びと誇りで躍動した。これで最後の障害が行く手から取りのぞかれたと思ったからだ。
それにしても、これまで何度も経験してきたことだが、こういうときが実に危険な瞬間なのだ。わしは院長に最後の一瞥を投げかけた。すると驚いたことに、彼女の鋭い黒い目が、驚きから不審の念へとしだいに表情を変えながら、終始わしの右手にそそがれているのに気づいた。院長の注意をひくのも無理からぬ点が二つあった。一つは、先ほど栗の木の上で刺した歩哨の返り血で赤く染まっていたことだ。それだけなら大したことでないかもしれない。短刀は、サラゴーサの修道士にとって聖務日課書と同様、別に珍しいものではないからだ。だがわしは人差し指に太い金の指輪をはめていた。ドイツのさる男爵夫人からの贈り物だが、夫人の名前はご容赦ねがいたい。この指輪が祭壇の燈火できらっと光ったのだ。ところで、修道士という者は赤貧を守る誓いをたてているわけだから、その手に指輪をはめるなどということはありうべからざることなのだ。わしは素早く振りかえって、礼拝堂の戸口へと向かったが、これは取りかえしのつかぬ失敗だった。ちらりと振りむいてみると、院長がすでにわしを追いかけてくるのがわかった。わしは礼拝堂の戸口を駆けぬけ、廊下を走って行ったが、院長は金切り声をあげて、前方の二人の番兵に急を知らせた。さいわいにも、わしは平常心を失っていなかったので、いっしょになって声を張りあげ、まるで院長とわしとが同一人物を追跡しているみたいに廊下の先のほうを指さした。つぎの瞬間、わしは番兵の脇を駆けぬけ、独居房に飛びこんで、重い扉をばたんと閉め、なかから戸締りをした。かんぬきを上下に、そして大きな錠を中間に掛けたので、木造の扉とはいえ、打ち破るにはかなりの力が必要だった。
このときでも、彼らが気転をきかせて、この扉に鉄砲一挺分の火薬を仕掛けたら、わしの運命もこれまでだったろう。これが彼らに残された唯一の機会だった。というのは、わしの冒険もいよいよ最終段階に差しかかっていたからだ。ついにここで、まず、たいていの男なら生きぬいてこられなかったほどの危険につぐ危険のあとで、わしは導火線の末端がある場所にたどりついた。もう一方の端はサラゴーサの火薬庫だ。彼らはまるで狼のように廊下でわめきたて、マスカット銃で扉をがんがんたたいていた。わしはこんな騒ぎには気をとめずに、ユベールが教えてくれた導火線を必死にさがした。もちろん、火薬庫寄りの側《がわ》にあるはずだ。わしは四つんばいになって這いながら、すき間というすき間はすべて覗きこんでみたが、それらしいものは見あたらなかった。銃弾が二発、扉を貫通して壁にめりこんだ。扉をがんがん、どんどんとたたきつける音がますます烈しくなった。片隅に灰色のかたまりを見つけたので、わっと歓声をあげて飛びついたが、よく見るとただの埃《ほこり》だった。そこでわしは扉側の、弾丸の飛んでこないところへ後退した――いまや弾丸はさかんに室内に撃ちこまれていた――そして耳をつんざくようなひゅうひゅう唸る音をつとめて忘れようとしながら、はたして導火線がどこにあるのか、じっくり考えてみた。ユベールは修道女たちの目に触れぬように、慎重に取りつけたにちがいない。もしわしだったらどこに取りつけただろうかと、想像してみた。わしの目は片隅にある聖ヨセフの彫像にひきつけられた。台座の縁には木の葉がぐるつと取りまいていて、この葉のなかにランプがともっていた。わしはすぐさま駆け寄って、葉っぱをむしりとった。あった、あった。細い黒い線が出てきた。この線は壁の小さな穴へと消えていた。わしはランプをかたむけて、さっと床に伏した。つぎの瞬間、雷鳴のような轟音がおこって、周囲の壁がぐらぐらっと揺れ動き、頭上からは天井ががらがらっと崩れ落ちてきた。恐怖におびえるスペイン人のわめき声を圧倒して、精鋭を選りすぐったわが突撃隊のものすごい喊《かん》声が聞こえてきた。まるで夢のように――楽しい夢のように――この喊声を聞いていた。が、やがてなにも聞こえなくなった。
ようやく意識を取りもどしたとき、二人のフランス兵がわしを抱え起こしていた。頭は破《わ》れ鐘のようにがんがん鳴っていた。わしはよろよろと立ちあがり、あたりを見まわした。漆喰《しっくい》ははがれ落ち、家具は飛びちり、煉瓦にはところどころ裂け目ができていたが、ぱっくりと口が開いた形跡はなかった。事実、修道院の壁はきわめて堅牢だったので、たとえ火薬庫が爆発しても、壁を崩壊させるまでにはいたらなかった。他方、爆発が守備側に大恐慌をひきおこしたので、わが軍の突撃隊はほとんど抵抗をうけずに方々の窓を攻略し、門戸を突破することができた。廊下へ駆けだして行ってみると、そこは兵隊で溢れていた。わしはそのとき、幕僚をしたがえてはいってきたランヌ元帥その人に出あった。元帥は立ちどまって、熱心にわしの話に耳をかたむけた。
「でかしたぞ、ジェラール大尉、あっぱれだ!」元帥は叫んだ。「君が述べた事実はまちがいなく皇帝陛下にご報告申しあげるぞ」
「閣下に一言申しあげたいのですが」わしは言った。「わたしはただ、ムッシュー・ユベールが計画し、かつ実行した仕事の最後の仕上げをしたにすぎません。ユベールこそ大義に殉じた男であります」
「ユベールの功績は忘れられることはない」元帥が言った。「ところで、ジェラール大尉、もう四時半だ。君は一晩中、頑張りとおしてきたので、さぞ腹がすいとることだろう。わしは幕僚といっしょに、これから市内で朝食をとるが、ぜひとも君を主賓として招待したい」
「閣下のお供をいたしますが」わしは言った。「ちょっとばかり先約がありまして、いささか手間どるかと思います」
元帥は目をまるくした。
「こんな時間にか?」
「はい、閣下」わしは答えた。「昨夜はじめて会った同僚の将校たちが、今朝はなにをさておいても、一目わたしの顔を見ないことには収まりがつきません」
「では、またあとで」元帥はこういって立ちさって行った。
わしは急いで修道院の粉砕された扉を通りぬけた。昨夜、打ち合わせをした屋根のない家屋につくと、わしは僧衣を脱ぎすて、そこに残してきた軍帽と剣を身につけた。それからもとの軽騎兵将校にもどって、約束の場所である木立ちへと道を急いだ。わしの頭は火薬庫の爆発による衝撃で、まだくらくらしていた。それに、あの怖ろしい一夜におけるさまざまな感情の高ぶりのために疲れきっていた。まるで夢でも見ているような気持ちで、夜明けのほの暗い光のなかを歩いて行った。わしのまわりでは露営のかがり火がくすぶり、起床しかけた軍隊のざわめきが聞こえてきた。ラッパと太鼓が方々で歩兵隊に非常呼集をかけていた。すでに爆発と喊声とで事態が明らかになっていたからだ。わしは大股で歩いてゆき、軍馬の列のむこうにあるコルク樫の小さな木立ちにはいってみると、例の十二人の同僚が剣を腰にさげ、一団となって待っていた。彼らが好奇の眼《まなこ》をむけるなかを、わしは近づいて行った。おそらく顔は火薬で黒ずみ、手は血に染まっていたので、昨夜なぶり者にした青年大尉とはちがったジェラールに見えたことだろう。
「諸君、おはよう」わしは言った。「お待たせして、たいへんすまなかった。不本意ながら時間のやりくりがつかなかったのだ」
一同はなにも言わずに、まだ好奇の眼でじろじろと見ていた。彼らはわしの前に一列に並んだので、今度は全員の姿が目にはいった。背の高い者、低い者、ふとったのもいれば、やせたのもいる。口ひげを生やした喧嘩早いオリヴィエ少佐、やせていて、真剣な顔つきのペルタン大尉、はじめての決闘で顔面紅潮した若いウーダン、皺のよった額に向こう傷のあるモルティエ。わしは軍帽を脱ぎすて、剣を抜いた。
「諸君に一つお願いがある」わしは言った。「ランヌ元帥から朝食に招《よ》ばれているので、あまり閣下をお待たせするわけにいかないのだ」
「で、どうしようというのだ」オリヴィエ少佐がたずねた。
「諸君に五分ずつ時間をさくという約束をしたが、いちどきに全員まとめてお相手いたしたい」
わしはこう言って剣をかまえた。
しかし、彼らの応答はまことに麗わしく、まことにフランス的なものだった。さっといっせいに十二振りの剣を鞘から抜き、高く保持して敬礼の姿勢をとったのだ。十二人の将校が身じろぎもせず、踵をぴたりとつけ、各自の剣を顔の前にまっすぐ捧げたまま、そこに立っていた。
わしは思わずよろよろと後ずさりした。一人一人の顔を見た。一瞬、わしは自分の目が信じられなかった。この連中が、わしを嘲笑したこの連中が、なんとわしに敬意を表しているのだ! すぐさま、わしには事情が呑みこめた。わしが彼らにあたえた感銘と、償いをしたいという彼らの願望とが読みとれた。弱い人間でも危険にたいしては心を鬼にすることができる。しかし、感動にたいしては、そうはいかないのだ。「戦友諸君!」わしは声を張りあげた。「戦友諸君!――」だが、これだけしか言えなかった。なにものかに喉首を締められて、息がつまりそうに思えた。するとたちまち、オリヴィエ少佐の両腕がわしをかかえ、ペルタン大尉がわしの右手を、モルティエが左手をつかんだ。だれかがわしの肩をたたき、だれかが背中をぴしゃぴしゃ打ち、ぐるりを取りまく笑顔がわしの顔を覗きこんでいた。このようにしてわしは、コンフラン軽騎兵連隊に確固たる地歩を占めたことを知ったのだ。
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第三話 ジェラールが狐を殺した話
フランス軍全体のなかでただ一人、ウェリントン将軍|麾下《きか》のイギリス将兵から、いつまでも執念ぶかい憎しみを買っていた将校がいた。フランス軍のなかには略奪者もいたし、無法者も、賭博師も、二重人格者も、放蕩者もいた。すべてこういう連中には相手かたも目をつぶることができた。彼らの同数は英軍将兵のなかにもいたからだ。ところがマセナ元帥麾下の一将校が犯した罪は、言語道断、前代未聞、まことに忌まわしいかぎりのものであった。この話題が悪態まじりに取りあげられるのは、ようやく夜もふけて、二本目の酒瓶が男たちの口を軽くしたときだった。このニュースがひとたびイギリス本国に伝えられると、戦争の詳細についてほとんど知らない田舎の紳士は、これを聞いてまっ赤になって怒りだし、イングランド中部地方の小地主にいたっては、斑点《しみ》だらけの拳《こぶし》を天に振りあげて悪態をついたものだ。しかも、この怖るべき振舞いをした者はだれあろう、われらが友人にしてコンフラン軽騎兵連隊の准将、エティエンヌ・ジェラール、華麗に馬を乗りこなし、軍帽の羽根飾りを風になびかせる伊達《だて》男、淑女たち、ならびに軽騎兵六個旅団の寵児。
ところが奇妙なことに、この勇敢な紳士がこうしたふらちなことを行なって、イベリア半島におけるもっとも悪名高き男となっていながら、当の御本尊は、表現力豊かなフランス語でも名づけようのない罪を犯したという意識を、まるで持ちあわせていなかったことだ。彼は高齢で亡くなったが、その性格に光彩をそえた、もしくは性格を傷つけた、例の磐石のような自信から、何千にものぼるイギリス人がその手で准将の首を締めつけたがっていたという事実は、ついぞ知る由もなかった。それどころかこの冒険を、彼が世界に示した数ある功業の一つに数えたて、いつもの安カフェで周囲に集まる熱心な人たちにそれを聞かせながら、しばしば一人会心の笑みをもらし、悦に入っていたものだ。このカフェでは夕食とドミノの間に、かつてフランスが怒りの天使さながら、堂々と、かつ怖ろしい形相で立ちあがり、ヨーロッパ大陸を震えあがらせた昔のことを――いまではとうてい想像もつかない、あのナポレオン全盛期のことを――准将は涙と笑いをまじえて物語ったものだ。では、彼が独特の話しぶりで、しかもユニークな観点から見た話に耳をかたむけようではないか。
諸君はご承知のことだろうが(と准将は語りだした)、わしとマセナ元帥とその他の連中がポルトガルでウェリントン将軍を撃退して、将軍もろとも軍隊をテジョー川に追い落とそうと思ったのは、一八一〇年も終わりに近いころだった。ところが首都リスボンからまだ二十五マイルも離れていたとき、われわれはいっぱい食わされたことに気づいた。というのは、このイギリスの将軍はトレス・ヴェドラスというところに堡塁と砦で一大防御線を築いていたので、さすがにわが軍もこれを突破することができなかったからだ。この防御線は半島全体を横断していた。わが軍は故国を遠く離れていたので、あえて敗北の危険を冒すわけにはいかなかったし、すでにブサコでは、この連中を相手に闘うのは生易しいことでないと思い知らされていた。この際われわれにできることと言えば、防御線の前にじっくり腰をすえ、全力をかたむけて敵の封鎖に出る以外に手があっただろうか? そこにわが軍は六カ月もとどまって、なみなみならぬ心労をしいられたものだが、マセナ元帥が後日述懐したところによると、体に生えている毛で白髪にならなかった毛は一本もなかった、と言うほどだ。だがわしとしては、事態をさほど憂慮することもなく、ひたすら軍馬の世話に精をだしていた。軍馬には休養と青い飼葉《かいば》が大いに必要なのだ。馬の世話が終わると、地酒のワインを飲んで、なんとか時をすごしたものだ。サンタレムに一人の女性がいて――いや、この件については語るまい。色男たる者は、そうやたらに喋るものでない。もっとも、その気になればいくらでも喋れるぞと、匂わせておくのは結構だが。
ある日、マセナ元帥から使いがきたので出かけてみると、元帥はテントのなかで、テーブルの上にピンでとめた大きな図面を眺め入っているところだった。独眼の元帥は、例の射るような眼差しでだまってわしを見た。その表情で事態が重大なのに気づいた。元帥はいらいらして落ちつかない様子だったが、わしの態度を見て自信を取りもどしたようだった。勇者と接触するのは悪いことではないぞ。
「エティエンヌ・ジェラール大佐」元帥は言った。「君が非常に勇敢で、冒険をものともしない将校だということは、かねがね噂に聞いておる」
まさか本人の口から、その噂は本当です、と言うわけにはいかなかったが、かといって否定するのも愚かなことだ。そこでわしは踵の拍車をがちゃっと合わせて敬礼した。
「それに君はすばらしい騎手だってね」
わしはそれを認めた。
「その上、軽騎兵六個旅団きっての剣士だそうだね」
マセナ元帥の入手する情報は正確なことで知られていた。
「ところで、この図面を見てくれたら、わしが君にやってもらいたいことがなんであるか、すぐにわかるだろう。ここがトレス・ヴェドラスの防御線だ。ごらんのとおり、広大な地域にわたっている。したがって英軍が確保している陣地は、ところどころに点在しているだけだということがおわかりだろう。ひとたび防御線を突破すれば、そこからリスボンまで二十五マイルにわたって広々とした.平地がつづいている。わしには、この地域にウェリントンの部隊がどう配置されているか、それを知ることが非常に重要なのだ。この件を君に確かめてきてもらいたいのだ」
元帥の言葉を聞いて、わしは気がめいってしまった。
「閣下」わしは言った。「軽騎兵の大佐ともあろう者が、スパイの真似をするわけにはまいりません」
元帥は笑って、わしの肩をぽんとたたいた。「君もせっかちでなかったら、軽騎兵にはなっておるまい。よく聞いてくれれば、スパイの真似をしてくれと頼んでいるのでないことが、わかってもらえるだろう。ところで君は、あの馬をどう思うかね?」
元帥はわしをテントの入口へ連れて行った。そこには一人の騎兵がいて、実にほれぼれする馬を引きまわしていた。いわゆる連銭葦毛《れんぜんあしげ》で、背はさほど高くないが――おそらく五フィートちょっとだろう――いかにもアラブ種の血統らしく、短い頭とみごとな弓なりの首をしていた。肩と臀部の筋肉はたくましく、それでいて脚はすらりと伸びているので、この馬を眺めているだけでも嬉しくてぞくぞくしてぎた。みごとな馬と美しい女――七十年の星霜をへて、わしの血潮が冷めきったいまでも、この二つを見ると感動せざるをえないのだ。いわんや一八一〇年のことだ。この感動がどんなものだったか、ご想像いただけよう。
「これがヴォルティジュールだ」マセナ元帥が言った。「わが軍でいちばん速い馬だ。わしの頼みは、今夜でかけて防御線の側面を迂回し、敵の背後を横ぎり、反対側の側面から帰ってきて、敵軍の配置の情報を提供してもらうことだ。軍服を着用して行きたまえ。そうすれば、たとえ捕虜になっても、スパイとしての死刑はまぬがれる。おそらく防御線を通りぬけても誰何《すいか》されることはなかろう。敵の陣営はとびとびに点在しているからだ。ひとたび防御線内にはいりこめば、何者に追跡されても、昼間なら相手を振りきることができる。道路を避けてゆけば、まったく気づかれずに逃げることができよう。明日の夜までにきみが復命しなければ、捕虜になったものと考え、君と交換にペトリ大佐を敵に引きわたすつもりだ」
わしがひらりと鞍にまたがって、この駿馬をあちこち駆けさせ、あざやかな手綱さばきを元帥に披露したとき、なんとわしの胸は誇りと喜びでふくらんだことか! 馬はすばらしかった――いや、馬も乗り手もすばらしかった。マセナ元帥は手を打って喜びの声をあげた。これはわしではなく元帥の言葉だが、勇敢な馬には勇敢な騎手がふさわしいのだ。それから軍帽の羽根飾りをひるがえし、短いマントをうしろになびかせて、三度目に元帥の前をけたたましく通りすぎたとき、彼の年老いた厳しい顔には、このわしを選んだのがまちがいでなかったという表情がうかがえた。わしは剣を抜き、柄を唇のところまであげて敬礼し、それからわしの宿舎へと走らせて行った。わしがある任務のために選ばれたという情報がすでに広まっていたから、かわいい部下どもがテントからぞろぞろ出てきて、わしを歓迎してくれた。ああ、部下たちが彼らの連隊長をどれほど誇りにしていたか、これを思うとわしの老いた目にも涙が込みあげてくる。わしもまた、部下たちを誇りに思った。彼らには勇敢な指揮官がふさわしかった。
この夜は嵐になりそうな気配だった。これはわしにとって、まことに好都合なことだ。わしは自分の出発を極秘にしておきたかった。もし英軍がわしの派遣を知ったら、当然、なにか重大なことが起こるものと結論をくだすにちがいないからだ。そこで水を飲ませるようなふりをして、わが軍の前哨線の先まで馬を連れだした。わしはあとをついて歩いてゆき、そこで馬にまたがった。地図、磁石、それに元帥からわたされた指令書、これらを上着の懐におさめ、軍刀を腰に帯びて、いよいよわしは冒険に乗りだした。小糠《こぬか》雨が降っていて、月も出ていなかったので、あまり気のりがしなかったろうと想像なさるかもしれない。しかしわしの心は、わしに払われた敬意と、わしを待ちうけている栄誉を思うと軽やかになった。この手柄は、やがてわしの剣を元帥の官杖《かんじょう》に変える、あの輝かしい武勲の数々にさらに一つを加えることになるのだ。ああ、われわれ愚かな連中は若くして成功に酔いしれ、なんという夢を見ていたことか! あの夜、六万人の将兵から選ばれて馬を進めてゆくとき、このわしが余生をキャベツの栽培をしながら、一カ月百フランで送るだろうと、どうして予測できたろうか! ああ、わが青春、わが希望、わが戦友たちよ! だが、運命の輪は回りつづけて、とどまることを知らない。諸君、許してくれたまえ。年をとれば、人間だれしも気が弱くなるものだ。
さて、わしの道筋は、まずトレス・ヴェドラスの高地の前面を横ぎり、それから小川をわたり、いまはもう焼け落ちてしまって、たんなる目じるしでしかない農家を通りすぎ、そのあと若いコルク樫《がし》の森を抜けて、聖アントニオ修道院へ出ることだった。ここが英軍の陣営の左翼になっていた。ここでわしは南へむかい、小高い丘をひっそりと越えて行った。マセナ元帥の考えによると、わしが目撃されることなくもっとも容易に敵の陣営に忍びこめるのはこの地点だったからだ。
わしはきわめてゆっくりと進んで行った。まっ暗闇なので、目の前の自分の手すら見えなかった。こういう場合には、わしは手綱をゆるめ、馬に勝手に歩かせることにしている。ヴォルティジュールは自信ありげに進んで行った。わしはすっかり満足して、馬の背にまたがったままあたりをうかがい、灯りのあるところにはいっさい近づかなかった。三時間ほど、こうして慎重に前進していくと、どうやら危険地帯をぶじ通過できたように思えた。そこでわしは元気よく進んで行った。夜明けまでには敵軍の後方に出たかったからだ。この地方には葡萄畑がたくさんあって、冬になると広々とした平地になるので、馬に乗っていく者には障害物がほとんどないのだ。
しかしマセナ元帥は英軍の狡猾さを過小評価していた。どうやら防御線は一つでなく、三重になっていたようだ。しかも第三の防御線がもっとも強力で、ちょうどいま、そこを通過しているところだった。わしが馬を進めながら首尾は上々と得意になっていると、突然目のまえに角灯がひらめいて、磨きこんだ銃身がきらりと光り、赤い軍服がにゅっと現われた。
「だれか?」という叫び声! なんと鋭い声だ! わしはさっと右手へ向きをかえ、気が狂ったように馬を走らせた。十数発の銃弾が闇のなかから火を吹き、わしの耳もとでひゅうひゅう唸った。これはわしにとって、なにもめずらしい音ではなかった。それでも、愚かな新兵みたいに、あの音が好きだなぞと言うつもりはない。しかしすくなくとも、この音のために落ちついて物が考えられないということは一度もなかった。そこでわしは一目散に馬を走らせ、場所をかえて運だめしするより手がないと思った。わしは英軍の前哨隊を迂回して行ったが、やがて追手の物音も聞こえなくなったので、とうとう防御線を突破したものと判断した。この判断は当たっていた。五マイルほど南へくだって行ったが、ときどき火口《ほくち》に火をつけては磁石を眺めた。すると、にわかに――このときのことを思いおこすと、またもや胸の痛みをおぼえる――わしの馬が呻き声もあげず、よろめきも見せずに、わしを乗せたままばったりと倒れて死んでしまったのだ!
わしは気がつかなかったのだが、あの地獄のような前哨隊からの一発が馬の胴体を貫通していたのだ、この勇敢な馬は決してひるむことも弱ることもなく、出命のあるかぎり走りつづけた。ついいましがたまで、わしはマセナ元帥の軍隊のなかで、もっとも速く、もっとも優雅な馬にどっかとまたがっていた。つぎの瞬間、馬は横ざまに倒れ、革だけの値打ちとなり果て、そこに突っ立っているわしは目もあてられぬほど無力でぶざまな男、馬を失った軽騎兵になっていた。この乗馬靴、拍車、長い剣で、いったいなにができるというのか? わしは敵の防御線内に深くはいりこんでいた。どうして帰還することが望めようか? わしは恥ずかしいと思わないからこそ言うのだが、さすがのエティエンヌ・ジェラールも死んだ馬に腰をおろし、絶望のあまり両手のなかに顔を埋めたものだ。すでに夜明けの光の縞模様が東の空で白みはじめていた。三十分もすれば、すっかり明るくなるだろう。あらゆる障害をぶじに乗りこえてきて、いよいよというときに敵の懐に陥り、使命は果たせず、わが身は捕虜となる――これだけでも軍人たる者、胸の張り裂ける思いがするではないか?
だが諸君、勇気だ! どんなに勇敢な者でも、このように気が弱くなる瞬間がある。しかしわしには一片の鋼《はがね》のような精神があって、曲げれば曲げるほど、いっそう高く跳ねあがるのだ。いっとき絶望に陥っても、すぐそのあとは氷の頭脳と火の心だ。まだ万事休したわけではない。これまでもいくたの危難を切りぬけてきたからには、今度も切りぬけてみせよう。わしは馬から立ちあがり、どうしたらいちばんいいか、考えてみた。
まず第一に、後退できないことは確かだった。防御線を通過するずっと以前に、すっかり夜が明けてしまうだろう。昼間は身を潜めていて、逃げだすのは夜にしなければならない。わしは死んだヴォルティジュールから鞍、拳銃の革袋、それに馬勒を取りはずして茂みのなかに隠した。こうしておけば馬の死体が見つかっても、だれもフランスの軍馬だと気がつくまい。それから馬はそのままにして、日中、安全でいられそうな場所をさがしに出た。どちらをむいても、丘の中腹には野営のかがり火が見え、すでに人影がそのまわりで動きはじめていた。いますぐ隠れないと一巻の終わりだ。だがどこに隠れたらいいのか? わしがいまいるのは葡萄畑で、葡萄の木を支える柱は立っているが、葉はすっかり落ちていた。身を隠すものはなにもなかった。それにまた、夜になる前に多少は食べ物と水が必要だ。わしはしだいに明けてゆく薄明のなかをやみくもに前進し、いつもの幸運が味方をしてくれるものと期待した。失望はしなかった。諸君、幸運とは女性なのだ。彼女はいつも、勇敢な軽騎兵には目をかけてくれるのだ。
さてそこで、葡萄畑のなかをよたよた歩いてゆくと、なにかが目の前にぼんやり浮かんできた。見えたのは大きな四角い家で、これとは別に細長くて低い建物が、その脇についていた。ここには三本の道路が集まっていたので、すぐにそれが旅宿《ポサダ》だとわかった。窓には灯りが見えず、なにもかもが暗く静まりかえっていたが、もちろんこんな快適な宿舎にはだれかが泊まっているにちがいないと思った。ひょっとしたら偉い人かもしれない。しかしわしは経験から、実際に危険が近づけば近づくほど、その場所が安全になることを知っていた。だからわしは、どうあっても、この隠れ家から離れる気にはなれなかった。低いほうの建物は言うまでもなく馬小屋だった。さいわい、入口の扉の掛け金がはずれていたので、小屋のなかに忍びこんだ。そこには牛や羊がたくさんいたが、これは略奪をまぬがれようとして集めたにちがいなかった。梯子が屋根裏の干し草置場へかかっていたので、これを登って、いちばん上の干し草の束のなかに潜りこんだが、なかなか気持のいいものだった。この干し草置場には小さな窓が開いていて、旅宿の店先と道路が見おろせた。そこでわしは横になったまま、どんなことが起こるか、様子をうかがうことにした。
すぐにわかったことだが、ここがだれかお偉がたの宿舎だろうという考えはまちがいでなかった。夜が明けるとすぐに、英軍の軽竜騎兵が文書を携えてやってきた。それからというものは、にわかにこの場がそうぞうしくなり、将校たちがたえず馬で乗りつけては去って行った。彼らはきまって「ステイプルトン卿――ステイプルトン卿」と同じ名前を口にしていた。旅宿の主人が大きなワインの瓶を持ちだして、英軍の将校に振舞っていたが、それを横になったまま、喉をからからにして、ただじっと眺めているのはつらかった。しかし将校たちの血色のいい、髭をきれいに剃った苦労のなさそうな顔を見ながら、このように高名な人物が、これほど彼らの近くに寝そべっているのを知ったらどう思うだろう、と考えてみるのも愉快だった。こうして寝そべったまま眺めているうちに、わしはある光景を目撃してびっくりした。
とても信じられないのは、このイギリス人たちの人を食った振舞いだ! ウェリトン将軍がマセナ元帥に封鎖され、軍隊を動かすことができないと知ったとき、将軍はどうしたと思うかね? 当てられるものなら何度でも言ってみたまえ。将軍は激怒したとか、絶望したとか、あるいは全軍を集結して最後の一戦に打ってでるまえに、祖国の栄光について訓示をたれたとか、いろいろ答えられよう。ところが、こういうことはなにもしなかった。将軍はイギリスへ快速艇をやって、狐狩り用の猟犬を何十頭も取りよせ、部下の将校たちと腰をすえて狐狩りをはじめたのだ。この話は嘘じゃない。トレス・ヴェドラスの防御線の背後では、こういう頭のおかしいイギリス人たちが週に三日、狐狩りをしていた。われわれは野営地でこの噂を聞いていたが、いま噂が嘘でないことを自分で確かめたのだ。
というのは、いま言った道路を、こうした白と茶の猟犬が三、四十頭やってきたからだ。その尻尾はちょうど陛下の親衛隊の銃剣のように、ぴたっと同じ角度に突きだされていた。いやはや、そのおみごとなこと! そして、うしろのほうに犬とまじって、とんがり帽に赤い上着をきた男が三人、馬に乗ってやってきた。これが猟師だということはすぐわかった。このあとから、さまざまな軍服を着こんだ大勢の騎手が、二、三人ずつ固まって談笑しながら、ぞろぞろと道を進んできた。それでも速足《トロット》以上にはスピードをあげないようだった。彼らがつかまえようとしているのは、さぞかし足のおそい狐にちがいないと、わしは思った。しかしこれは先様《さきさま》のことだ。わしの知ったことでない。すぐに彼らはわしの窓下を通りすぎて見えなくなった。わしはじっと待ちながら様子をうかがい、好機が訪れたら物にしてやろうと思っていた。
まもなく一人の将校が、ちょっとわが軍の遊撃砲兵に似た青い軍服を身につけて、馬を|だく《ヽヽ》足で走らせてきた――中年の恰幅のいい男で、ごま塩の頬ひげをたくわえていた。彼は馬をとめ、旅宿の前で待っていた竜騎兵の当直将校と話しはじめた。このときわしは、英語を習っていてよかったと痛感したものだ。会話は全部、聞きとれて理解できたからだ。
「集合地《ミート》はどこかね?」と中年の将校がたずねた。ミートとは肉のことだから、わしはてっきりこの男がビフテキに飢《かつ》えているものと思いこんだ。だが相手が、アルタラの近くですと答えたので、場所の話をしているのだな、とわかった。
「ジョージ卿、おそうございます」当直将校が言った。
「うむ、軍法会議があってな。ステイプルトン・コトン卿はお出かけになったか?」
このとき窓が開いて、たいそう美々しい軍服をまとった眉目秀麗な青年が顔を出した。
「やあ、マレー! このうんざりする書類のおかげでちょっと手が離せないが、すぐに追いかけていくよ」
「承知した、コトン。わしもおくれているので、先に行くぞ」
「馬丁にわたしの馬をひいてくるよう伝えてくれないか」窓辺の若い将官は下の当直将校に言った。中年の将校は道をどんどん進んで行った。
当直将校が馬に乗って、どこか離れたところにある馬小屋へ出かけたが、二、三分もすると、帽子に花形記章をつけたスマートなイギリス人の馬丁が、馬の手綱をひいてやってきた。――いや、諸君、およそ完璧な馬などとは、第一級のイギリスの猟馬を見るまでは口にできんものだ。これはすばらしかった。丈が高く、背幅もあり、たくましく、その上、鹿のように優雅で敏捷なのだ。毛並の色はまっ黒で、その頸といい、肩といい、腰、蹴爪毛《けづめげ》といい――どうしてこの馬について、ことこまかに説明できよう? 日の光が馬の肌に、まるで磨きこんだ黒檀でも照らすように輝いていた。馬はちょっとふざけて踊るような格好で、蹄《ひづめ》を軽く粋《いき》にあげた。そして、たてがみをゆすって、もどかしそうにいなないた。力と美と気品がこれほどまでに渾然一体となったものは見たことがない。イギリスの軽騎兵がアストルガの戦いで、どうしてわが親衛隊の追撃兵を追いこせたか、これまでしばしば不審に思ったものだが、イギリスの馬を見たとき、わしの疑いは氷解した。
旅宿の入口には手綱をゆわえておく金輪があった。馬丁はここに馬をつないで、なかにはいった。すぐにわしは運命の女神が授けてくださった幸運を察知した。あの鞍にまたがれば、出発したときよりも万事がうまくいきそうだった。ヴォルティジュールですら、このみごとな馬にはかなわない。わしにとって、思いつくことは、即実行することだ。すぐさまわしは梯子を駆けおりて、馬小屋の戸口に立った。つぎの瞬間にはそとにあって、手綱を手につかんでいた。わしは鞍に飛び乗った。主人だか馬丁だか知らぬが、だれかが背後で気が狂ったようにどなった。いくらどなろうと、こっちの知ったことか! わしは馬に拍車を入れた。馬はぱっと躍りあがって飛びだした。わしほどの騎手でなかったら、きっと落馬したところだ。わしは手綱をゆるめて馬の走るにまかせた――どちらへ行こうと、この旅宿から遠ざかるかぎり、かまうことはなかった。馬は地ひびきをたてて葡萄畑を横ぎり、ほんの数分で追手を何マイルも引き離してしまった。荒涼としたこの地方では、わしがどちらへ逃げて行ったか、もう追手にはわかりゃしない。まずは安全だと思った。そこで、小さな丘の上に登って、鉛筆と手帳をポケットから出し、見えるかぎりの敵陣の見取図と地形の略図を描きはじめた。
わしが乗っている馬はまことにかわいい奴だった。が、背なかにまたがったまま図を描くのは容易ではなかった。ちょいちょい耳をそばだてては、ぎくっとして、もどかしそうに身をふるわせるのだ。はじめはこの癖がどうにも理解できなかったが、やがてこの仕草をするのは、「ヨーイ、ヨーイ、ヨーイ」という奇妙な声が、どこか下の樫の林のなかから聞こえてくるときだけなのに気づいた。すると突然、この奇妙な叫び声が世にも怖ろしい絶叫に変わり、狂ったように角笛が吹き鳴らされた。たちまち馬は狂いだした。目は爛々と輝き、たてがみは逆立った。一、二度、大地を蹴って跳ねあがってから、逆上したように身をねじって向きを変えた。鉛筆はこっちへ飛び、手帳はあっちへ飛んだ。そのとき谷間を見おろすと、驚くべき光景が目にとまった。狐狩りの一隊がなだれを打って駆けおりていた。狐は見えなかったが、猟犬たちは鼻づらを下に、尻尾を立て、いっせいに吠えたてていた。ひとかたまりになっているので、まるで黄と白の一枚の大きな絨毯《じゅうたん》が動いているようだった。うしろからは騎手たちがつづいた――いやはや、なんという壮観! 一大軍団のなかに見られるあらゆる兵種を考えてみたまえ。ある者は狩猟服を着ていたが、大部分は軍服だった。青の竜騎兵、赤の竜騎兵、赤いズボンの軽騎兵、緑のライフル銃兵、砲兵、上着の裾の切りこみから金の裏地を覗かせている槍騎兵、そして大部分は赤、赤、赤。これは歩兵将校が騎兵なみに懸命に馬を走らせていたからだ。このような一団のなかには上手に乗りこなす者もいれば、下手な者もいたが、誰も彼もが全力で疾走し、尉官も将官に負けずに、押しあいへしあい、拍車をかけては突進し、なにも考えずに、ひたすらこの愚にもつかぬ狐を血祭りにあげようとしていた。まったく風変わりな国民だ、イギリス人とは!
しかしわしには狐狩りを見物したり、このイギリス人たちに驚嘆したりする暇などなかった。猛り狂っているすべての猟馬のなかで、わしのまたがっている馬がいちばん激しかったからだ。ご承知のように、この馬は猟馬なので、猟犬の叫び声を耳にするということは、ちょうどわしが、むこうの街角から騎兵隊のラッパの合図を聞くのと同じようなものだった。馬はぞくぞくと身をふるわせた。しだいに猛り狂っていった。何度も宙に跳ねあがり、馬銜《はみ》をがっと噛んだかと思うと、たちまち斜面を駆けおりて、猟犬めがけて急追した。わしはどなったり、手綱をひきしめたりしたが、まるで効き目がなかった。イギリスの将官は小勒《しょうろく》だけで乗りまわしていたらしく、この馬は鉄のような口をしていた。引きもどそうとしてもむだだった。それは選抜隊の歩兵から酒瓶を取りあげるのに等しかった。わしは絶望してあきらめた。鞍の上にどっかと腰をすえたまま、きたるべき最悪の事態に備えた。
なんと驚くべき馬だろう! こんな馬にまたがったことはなかった。足を蹴るたびに、たくましい尻の筋肉が盛りあがり、グレイハウンドのように全身を伸ばして、ますます快調に飛ばして行った。切る風が顔を打ち、耳をかすめてひゅうひゅうと唸った。わしの上着は略装だった。簡素で地味な色の軍服だ――もっとも着る人によってはどんな軍服でもりっぱに見えるものだが――そこでわしは、用心のため、軍帽の羽根飾りを取りはずした。その結果、狐狩りの一団のさまざまな軍服のなかで、わしの軍服がとくに人目をひくようなことはなかった。また、狐を追跡することで頭がいっぱいになっている連中が、わしなんかに注意をはらうはずがなかった。フランスの将校が自分たちといっしょに馬を走らせているなどとは、ばかばかしすぎて思いつくわけがない。わしは馬を走らせながら、げらげら笑った。事実、危険のまっただなかにあっても、この場には喜劇的ななにかがあったからだ。
先ほど言ったように狐狩りの連中は、こと馬術の腕前という点では、ぴんからきりまでいた。そのため、数マイル進んでゆくと、もはや突撃する連隊のように一団となっていないで、かなりの距離にわたってばらばらになり、腕の確かな騎手は猟犬のすぐあとに、そうでない者はずっと引き離された状態になった。ところでわしは馬術にかけてはだれにもひけをとらないし、乗っている馬は最高ときていた。ほどなくわしが先陣の仲間入りしたことはご想像がつこう。猟犬が広々とした野原を疾走し、赤い服の猟犬係があとにつづき、先陣には七、八騎しかいないのを見たとき、世にもふしぎなことが起こったのだ。馬だけでなく、わしまでが――このエティエンヌ・ジェラールまでが猛り狂ったのだ! 一瞬にしてわしをとらえたのは、この狩猟の精神、負けてたまるかというこの執念、狐へのこの憎悪だ。憎っくき獣め、こいつがわれわれをばかにするという法があるか? 下劣な泥棒狐め、いまこそ年貢の納めどきだ! ああ、すばらしい気分だ、狩りをするこの気分は。狐を馬の蹄《ひづめ》で踏みにじってやりたくなるのだ。わしはイギリス人といっしょに狐狩りをしたことがある。それから、いつか話してあげるが、ブリストルのボクサー、バスラーと拳闘をしたこともある。それにしてもこの狩猟とはすばらしいもの――おもしろいだけでなく、人を熱狂させるものだと言いたい。
先へ行けば行くほど、わしの馬はますます速くなった。やがて、猟犬の群れにわしと同じくらい接近しているのは、わずか三人だけになった。正体がばれはしまいか、という懸念はすっかり消え失せていた。わしの脳髄はぴくぴくと律動し、血は熱くなり――この世における唯一の生きがいは、このいまいましい狐に追いつくことに思えた。わしは騎手を一人追いこした――わしと同じ軽騎兵だ。これで前にいるのは二人だけになった――一人は黒い上着の男で、いま一人は先ほど旅宿で見かけた青い服の砲兵将校だった。彼はごま塩の頬ひげを風になびかせていたが、実にみごとな手綱さばきを見せていた。一マイルかそこら、この順序はくずれなかった。ところが、急勾配の斜面を駆けあがるとき、体重が軽いおかげで、わしが先頭に出た。二人とも追いこした。斜面を登りきるころには、険しい顔をした小柄なイギリス人の猟犬係と轡《くつわ》をならべていた。われわれの前には犬の群れがいた。その群れから百歩ほど先に褐色の毛の房のようなものが見えた。全身を伸ばして疾走する狐だった。これを見るとわしの血は燃えあがった。「さあ、こいつめ、とっちめてやるぞ!」と叫んで、猟犬係に励ましの声をかけ、ここにも一人、頼りになる男がいるぞ、とばかりに手を振ってみせた。
いまや、わしと獲物の間には犬の群れしかいなかった。猟犬とは本来、獲物の所在を教えるのが仕事だが、いまではわしにとって助けとなるどころか、かえって邪魔になった。どうしたら追いこせるか、それがなかなか難しいのだ。猟犬係もわし同様に困っていた。彼も犬の群れについて走っていたが、すこしも狐に近づくことができなかった。この騎手はなかなか速かったが、冒険心に欠けていた。わしはというと、この程度の困難が克服できなければ、コンフラン軽騎兵連隊の名誉にかかわると感じた。エティエンヌ・ジェラールが猟犬の群れに阻まれていいものか? ばかばかしいかぎりだ。わしは一声叫んで拍車を入れた。
「手綱をひきなさい! 手綱を!」猟犬係は叫んだ。
この親切な老人はわしのことを心配してくれたのだが、わしはにっこりと笑い、手を振って彼を安心させた。犬の群れはわしの前に道をあけた。一、二頭は怪我したかもしれないが、それがどうだというのだ? オムレツをつくるには卵を割らなきゃならん。猟犬係がうしろで喝采してくれるのが聞こえた。もう一ふんばりしてみせると、猟犬はみな、わしのうしろになってしまった。前にいるのは狐だけだった。
ああ、この瞬間の喜びと得意ときたら! イギリス人特有のスポーツで、イギリス人を打ち負かしたのだから。三百人の者が一人残らず、この獣の生命を奪おうとしていたが、いままさに、これをなしとげようとしているのは、このわしであった。わしは軽騎兵旅団の戦友たちのことを思った。おふくろや、皇帝陛下や、祖国フランスのことを思った。わしはこのいずれにも名誉をほどこしたのだ。刻一刻と、わしは狐に迫っていった。決断の時がやってきた。わしは剣を抜き、空中で振った。すると英軍の勇者たちが、うしろでいっせいに喝采した。
このときはじめてわかったのだが、この狐狩りとはまったく難しいものだ。獲物を目がけて何度も斬りかかるのだが、さっぱり手ごたえがないのだ。相手は小さい上に、刃《やいば》をすばしこくかわしてしまう。斬りかかるたびごとに、うしろから大きな激励の声が聞こえてくる。この声援をうけて、わしはもう一ふんばりしてみせた。ついに勝利の最後の瞬間がやってきた。狐が身をかわそうとするところを、わしは逆手で斬りつけたが、これは手ごたえ十分だった。かつてロシア皇帝の侍従武官を斬ったのと同じ技だ。狐はまつ二つになり、首はこっち、尻尾はあっちに飛び散った。わしは振りかえりざま、血染めの剣を宙に振ってみせた。この瞬間、わしは得意満面――最高だった。
ああ! どれほどわしは、この雅量ある敵の祝辞をうけるまで、ここで待っていたいと思ったかしれない。敵は五十人ほど目にはいったが、一人として手を振って、喝采を送らぬ者はなかった。イギリス人というのは、ほんとうは感覚の鈍い民族でない。戦争や狩猟での勇敢な行為は、つねに彼らの胸を熱くするのだ。年とった猟犬係はといえば、わしのいちばん近くにいたので、いましがた目撃したことでどんなに度肝を抜かれたか、わしは二つの目ではっきり見てとることができた。彼はまるで麻痺したみたいだった。口はあんぐりと開き、指は広げたまま、手を宙に差しあげていた。一瞬、わしは引きかえして、彼を抱きしめたい衝動にかられた。だがすでに、わしの義務の念が耳のなかで鳴りひびいていた。この英軍の将兵は、狩猟の仲間に見られる友愛の精神こそあれ、わしを捕虜にするのはまちがいのないところだ。いまとなっては使命を果たす望みもなかった。できるかぎりのことはやったのだ。マセナ元帥の陣営が、そう遠くないところに望めた。さいわいにも狐を追いかけて、わが陣営のほうへ近づいてきたのだ。わしは死んだ狐から目をあげ、抜き身の剣で一礼するや、全力をあげて逃げだした。
しかしこの勇敢な狩人たちは、そうむざむざとわしを逃しはしなかった。いまや、わしが狐だった。あらたな狐狩りがこの平原で勇ましく繰りひろげられた。わしが友軍の陣営めがけて駆けだしたとき、彼らははじめてわしがフランス人だと気がついた。彼らは一団となって追いかけてきた。われわれが前哨線の射程距離内にはいると、ようやく彼らは立ちどまった。そして三々五々、その場に立ちつくしたまま、引きかえそうともせず、わしにむかって大声をあげ、手を振ってみせた。いやいや、敵意があったからだとは考えたくない。それよりも、感嘆の情が彼らの胸にあふれ、彼らはひたすらに、かくも勇敢、かつ申しぶんなく振舞った見知らぬ男を、その胸に抱きしめたい一心だったと考えたい。
[#改ページ]
第四話 ジェラールが軍隊を救った話
一八一〇年の十月から、一八一一年の三月までの六カ月間、英軍をトレス・ヴェドラスの防御線の中に閉じこめた話は、もう諸君にお聞かせしたとおりだ。わしが英軍の将兵といっしょに狐狩りをして、彼らのなかには一人として、コンフラン連隊の軽騎兵より速く走る者がいないことを教えてやったのは、このときのことだ。わしがフランス軍の陣営へ、まだ狐の血がしたたる剣を引っさげたまま馬を走らせて帰ると、わしのしたことをつぶさに見ていた前哨の隊員たちが狂喜の歓声をあげて、わしに敬意を表した。一方、狐狩りをしていた英軍の将兵は、なおもわしの背後でわめいていた。したがって、わしははからずも両軍の喝采を博したわけだ。これほど多くの勇士たちの称賛を浴びたかと思うと、熱いものがぐっと目頭に込みあげてきたものだ。このイギリス人たちは敵ながらもなかなか太っ腹だ。その日の夕方、白旗を立てて、「狐を斬った軽騎兵将校殿」と上書きした小包がとどいた。開いてみると、わしが打ち捨ててきたままの、真っ二つになった狐がはいっていた。これには添え書きもついていて、イギリス流に、短いながらも心のこもったものだった。わしが狐を仕留めたのだから、狐の肉はわしに食べてもらいたいというのだ。フランス人が狐の肉を食べないということまでは知らないらしく、狩りで栄冠を勝ちえた者に獲物を食べさせたいという彼らの願いが、この文面からうかがえた。
フランス人が礼節の上でおくれをとるのも心苦しいことだ。そこでわしは、この獲物を勇敢な狩人たちに返上して、つぎの「狩猟の朝食」での添え料理として受けとってもらった。このようにして、騎士道精神をわきまえた好敵手同上は丁々発止とわたりあうのである。
わしは単騎偵察の手土産として、英軍の明確な見取り図を持ちかえった。そしてこれを、その日の夕方、マセナ元帥の前に提出した。
元帥がこれを見れば、すぐに攻撃の手を打つだろうとひそかに期待していたが、列席の元帥たちは虎視|眈々《たんたん》と相手の出方をうかがい、まるで飢えた猟犬のように噛みついたり、吠えたてたりしていた。ネー元帥はマセナ元帥が大きらい、マセナ元帥はジュノー元帥が大きらい、スルト元帥は彼ら全部が大きらいといったわけで、結局、なんの決定もくだされなかった。この間にも食料はしだいに欠乏してきて、わが華麗な騎兵隊は飼料不足のために深刻な打撃をうけた。冬が終わるころには、この地方一帯を荒らしつくしていて、馬糧徴発隊をあちこちに派遣したものの、われわれが口にできるものはなにもなかった。どんなに勇敢な者にも、撤退の時期が訪れていたことは明白であった。わしもこれを認めないわけにいかなかった。
だが撤退はそう簡単なことでなかった。わが軍が糧食の欠乏のために疲弊している上に、敵軍はわれわれが長いこと活動しなかったので、大いに力を貯えていた。ウェリントン将軍はさほど怖ろしくなかった。彼は勇敢で用心ぶかいが、冒険的なところがあまりなかった。その上、この荒れはてた土地では敏捷に追撃できるはずがなかった。しかしわが軍の腹背には、ポルトガル市民軍や、武装した農民や、ゲリラたちが大勢集まっていた。こういった連中は、冬の間はずっと、安全な距離を保っていたが、わが軍の馬があらかた蹄葉炎《ていようえん》にかかると、彼らは蝿のようにわが前哨隊のまわりに群がってきた。ひとたびこの掌中に陥ったが最後、なんびとの生命といえども、鐚《びた》一文の値打ちすらなくなってしまう。顔見知りの将校で、この期間に殺された者は十指に余る。いちばん運がよかったのは、岩陰から狙撃されて、頭だか心臓だかを射抜かれた男だった。なかには殺し方があまりにも残忍なので、その報告を遺族に伝えかねるのもあった。
こういう悲劇がひんぴんと起こり、これが将兵たちの心につよく刻みこまれていたので、この陣営から撤退させることが非常に困難になった。なかでもゲリラの首領で名はマヌエロ、通称「にんまり居士」という飛びきりの悪党がいた。快活そうな顔つきをした大柄のふとった男で、わが軍の左手に横たわる山並のなかに兇暴な一味を引きつれて潜んでいた。この男の残虐非道の数々を書きたてれば、ゆうに一冊の書物を必要とするだろう。だがこの男は確かに実力者であって、配下の山賊どもをしっかり組織していたので、われわれが彼の縄張りの地域を通りぬけることは、まず不可能だった。こういうことができたのも、配下の連中に厳格な規律を課し、残酷な刑罰でこれを強制したからにほかならない。こうした手口で、彼は手下どもを怖るべき山賊に仕立てたが、またそれは思わざる結果をも招いたのだ。このことについては、追い追いお話しすることにしよう。山賊の首領が、もし首領代理を笞打たなかったら――いや、この話はそのときがきたらお聞かせしよう。
さて、撤退に関してはいくたの困難がともなった。かといって、他にとるべき道のないことも明らかだった。そこでマセナ元帥は軍用|行李《こうり》と傷病兵を、司令部のあったトレス・ノヴァスから、兵站《へいたん》線上にある最初の強力な拠点コインブラヘと速やかに移動しはじめた。しかし敵の目を盗んで実施することはできなかった。たちまちゲリラがわが軍の側面にじりじりと群れをなして迫ってきた。わが軍の師団の一つ、クローゼル師団は、モンブラン騎兵旅団とともにテジョー川のはるか南方にいたので、わが軍の撤退作戦を知らせることがぜひとも必要だった。さもなければ彼らは、敵地のどまんなかで孤立してしまう怖れがあった。わしはいまだに覚えているが、マセナ元帥がこれをどうやり遂げるだろうかと思った。というのは、ただの軍使では辿りつくことができないし、小部隊では殲滅《せんめつ》させられるにきまっていた。なんとかして、撤退の命令をこの将兵たちに伝えなければならない。そうでないとフランスは一万四千の兵員だけ、軍事力が弱体化することになる。わしが、ほかならぬこのジェラールが、ここで大手柄をたてて、面目をほどこすことになろうとは夢にも考えていなかった。それは、どのような人にとっても最高の栄誉となったであろうし、わしを有名にした数ある武勲のなかでも一段と高く輝くものだった。
当時、わしはマセナ元帥の幕僚として仕えていた。わしのほかにも幕僚が二人いて、いずれもが非常に勇敢で聡明な将校だった。一人はコルテクス、いま一人はデュプレッシーと言った。彼らは年齢の上ではわしより先輩だが、その他の点ではすべて、わしの後輩だった。コルテクスは色の浅黒い、小柄な男で、なにごとをするにも非常にきびきびしていて真剣そのものだった。りっぱな軍人だったが、慢心が身の仇になった。本人の評価どおりに買ってやれば、軍隊での第一人者ということになる。デュプレッシーはわしと同様、ガスコーニュ出身で、ガスコーニュ男子の例にもれず、まことにりっぱな人物だった。われわれは一日交替で勤務していた。これからお話しする朝、日直に当たっていたのはコルテクスだった。朝食のときは彼の姿を見かけたが、その後は本人もその馬もさっぱり見かけなかった。マセナ元帥は終日、例によってふさぎこんだまま、英軍の陣営やテジョー川の船の出入りを望遠鏡で覗いてときをすごしていた。元帥はわれらが僚友コルテクスを派遣した使命についてなに一つ喋らなかったし、われわれもこれを聞きただすわけにはいかなかった。
その夜の十二時ころ、わしが元帥の司令部のそとに立っていると、なかから元帥が出てきて、三十分ほど身じろぎもせず、腕を胸の上に組んだまま、闇のなかから東のほうをじっと見つめていた。彼はひどく硬直した姿勢で目をこらしていたので、諸君がこの外套にくるまった、三角帽の人影を目撃したら、おそらく元帥の彫像だと思いこんだかもしれない。元帥がなにを見つめていたのか、わしには想像がつかなかった。だが最後に一言、「畜生ッ」と言うなり、くるっと回れ右をして屋内にもどり、バタンと扉を閉めた。
翌朝、つぎの幕僚のデュプレッシーがマセナ元帥と会談していたが、それがすむと、デュプレッシーも彼の馬も二度と見ることができなかった。その夜、司令部の控えの間にすわっていると、元帥がわしのそばを通って行った。わしは窓ごしに、ちょうど前の晩と同様、元帥が立ったまま東のほうを見つめているのに気づいた。たっぷり三十分の間、闇のなかの黒い影となって、そこにたたずんでいた。それから、大股ではいってきて、扉をバタンと閉めた。元帥の拍車と軍刀の鞘が、がちゃがちゃと廊下に鳴りひびくのが聞こえた。どうひいき目に見ても、彼は荒々しい老人だった。ご機嫌をそこねているときは、いっそ皇帝陛下にお目通りしたほうが気が楽なくらいだ。この夜、元帥がわしの頭上で「畜生ッ」を連発し、足を踏みならすのが聞こえた。しかし、わしには呼びだしがこなかった。こちらも元帥の気性はよく承知しているので、呼ばれもしないのに、のこのこ出かけていくような真似はしなかった。
翌朝は、いよいよわしの番だった。残っている幕僚といえば、わししかいなかったからだ。わしは元帥お気にいりの幕僚だった。彼はいつも才気煥発の軍人に心をひかれた。この朝、わしを呼びだしたとき、元帥の黒い瞳には涙が光っていたようだ。
「ジェラール!」元帥が言った。「こっちへきてくれ!」
元帥は気安くひとの袖をつかんで、東側の開け放たれた窓辺へわしを連れて行った。目の下には歩兵の野営地があり、その先は騎兵の陣営で、杭につないだ馬が何列も長々とつづいていた。さらにフランス軍の前哨地点、そのむこうには広々とした平地があって、ところどころに葡萄畑が望めた。はるか彼方には丘陵が連なっていて、ひときわ目だつ峰がそびえていた。この丘陵の麓を森林地帯がぐるっと取りかこんでいた。一筋の道が白く、くっきりと走っていて、起伏しながら丘陵の谷あいを通りぬけていた。
「あれがメロダル山脈《シェラ》だ」元帥が山を指さして言った。「頂上になにか見えるかね?」
わしは、見えませんと答えた。
「今度は?」と元帥は言って、双眼鏡をわたしてくれた。
双眼鏡で覗くと、山頂に小さな土まんじゅうか、石塚のようなものが見えた。
「君がいま目にしているのは丸太を積みかさねたもので、狼煙《のろし》に使うつもりであそこに置いてあるのだ。わが軍があの地域を掌握していたときに積みあげておいたのだ。いまではわが軍の勢力下にはないが、狼煙台だけはぶじに残っている。ジェラール、この狼煙に今夜火をつけなければならんのだ。祖国フランスがこれを必要としている。皇帝陛下も、わが軍も、これが必要なのだ。君の同僚二人が狼煙の火をつけに出かけたが、どちらも頂上まで達しておらん。今日は、いよいよ君の番だ。君の武運長久を祈る」
軍人たる者は命令をうけたとき、その理由を問いただすべきでない。そこでわしが急いで部屋から退出しようとすると、元帥はわしの肩に手をおいて引きとめた。
「君にはなにもかも知っといてもらおう。そうすれば、君が命を賭けようとしている使命が、どんなに崇高なものかがわかるだろう。ここから南へ五十マイル、テジョー川の対岸に、クローゼル将軍の軍隊が駐屯している。彼の野営地はオサ山脈《シェラ》という峰の近くだ。この峰の頂上に狼煙台があって、この狼煙のそばに将軍は前哨隊を配置している。将軍との取りきめで、夜中の十二時にわれわれの狼煙を見たら、将軍もそれにこたえて狼煙に火をつける。そしてただちに撤退して、本隊に合流することになっている。だがすぐにも出発してくれないと、将軍を置きざりにせざるをえない。わしはこの二日間、将軍に合図を送ろうとしてきた。今日中には、どうしても伝えなければならない。さもないと、将軍の軍隊は取り残されて、全滅の憂き目を見ることになるからだ」
ああ、諸君! 運命の女神がわしに授けてくれた任務がいかに崇高なものかを知ったとき、わしの胸はどんなにふくらんだことか! もしわしがさいわいにして一命を取りとめれば、ここでわしの月桂冠にあらたなすばらしい葉を、もう一枚加えることになる。これに反し、もし一命を失うことになろうとも、それはわしの生涯にふさわしい死にかたと言えるだろう。わしはなにも言わなかったが、心のなかの崇高な思いがおのずと顔に輝きでたにちがいない。マセナ元帥がわしの手をとって、ぎゅっと握りしめたからだ。
「あれがその丘だ。あそこに狼煙がある」元帥が言った。「君と狼煙との間には、ゲリラとその一味がいるだけだ。この計画に大部隊を派遣するわけにはいかない。また、小部隊では見つかって全滅してしまう。だからこそ、わしは君一人にこれをゆだねるのだ。君一流のやりかたで、これをやってくれたまえ。ただし今夜の十二時には、丘の上に狼煙があがるのを見せてもらいたい」
「もし狼煙があがらないようでしたら、元帥閣下、わたしの所持品を売りはらって、そのお金を母のもとに送ってくださるようお願いいたします」そこで、わしは騎兵帽のまま挙手の敬礼をして、くるりと回れ右をした。目前に迫った偉業を思うと、胸が熱くなった。
わしはしばらくの間、自分の部屋にすわったまま、この問題にどう取り組んだらいちばんいいかと考えていた。コルテクスとデュプレッシーの二人が、ともに非常に熱心で積極的な将校でありながらメロダル山脈の最高地点に到達できなかった事実は、この地方がゲリラに厳重に監視されていることを示していた。わしは地図で距離を測ってみた。丘陵地帯に辿りつくまで、十マイルは平地を横ぎらなければならない。その先には、山裾を取りまく森林地帯があって、幅は三、四マイルありそうだ。それからが本当の峰で、高さは大したことはないが、身を隠すものがまったくない裸の山だ。以上が、わしの行程の三段階だった。
わしの見たところでは、ひとたび森林に辿りつけば、あとは楽に行けそうに思えた。というのは、この森林の陰に隠れていて、夜陰に乗じてよじ登ることができるからだ。夜の八時から十二時まで、四時間あれば登れるだろう。とすると、真剣に考えなければならないのは第一段階だけだ。
その平坦な地域には、人目をひく白い道路が走っていた。わしは同僚が二人とも、馬で出かけたのを思いだした。これが命取りになったのは明白だ。というのは、この道路に見張りを立て、道ぞいにやってくる者を待ち伏せするぐらいのことは、山賊たちにとって朝飯前の仕事だからだ。わしとしては、原野を馬で横ぎって行くのはむずかしいことでない。しかも、このときはいい馬を持っていた。ヴィオレットとラタプランというわが軍きっての駿馬二頭に加えて、ステイプルトン卿から奪ったイギリスのすばらしい黒い猟馬もいたからだ。しかしながら、あれこれ考えたすえに、徒歩で出かけることにした。このほうが好機到来という際に、ぬかりなく好機に乗ずることができるからだ。それに服装だが、軽騎兵の制服の上から長い外套をまとい、頭には灰色の歩兵の略帽をかぶった。どうして百姓の姿で行かなかったのかと、お尋ねになるかたもあろうが、これは、名誉を重んじる者はスパイとして死にたくないのだ、と答えたい。虐殺されるのと、戦争法規にのっとって正当な処刑をうけるのとでは、まったくちがう。わしとしては、そんな末路を辿る危険は冒したくない。
その日の午後おそく、わしはこっそりと陣営を抜けだし、わが軍の前哨線を通過した。外套の下には軍刀のほかに、双眼鏡と小型拳銃を忍ばせていた。ポケットには火打道具一式がはいっていた。
二、三マイルの間は葡萄畑に隠れてどんどん進んで行けたので、わしは内心得意になり、やはり頭の働く人間でなければ、当面の任務をまんまとやりとげるわけにはいかないのだ、と心ひそかに思った。言うまでもなくコルテクスとデュプレッシーは、天下の公道で馬を飛ばしたりするものだから造作なく見つかってしまうが、そこへいくと、葡萄の木のなかを潜行する頭のいいジェラールは、彼らとはまったく別人であった。たぶん、五、六マイルほどはなんの障害もなく進んで行った。この地点に小さな居酒屋があって、店のまわりに何台かの荷車と、いくたりかの人間が目にはいった。これが最初に見かけた人間だった。わしは味方の前哨線からかなり外に出ていたので、出会う者すべてが敵だと思っていた。そこで身をかがめたまま、見とおしのきく場所へ忍び足で近づき、なにをやっているのか、うかがってみた。すると、この連中は百姓で、二台の荷車に空の酒樽を積みこんでいるところだった。彼らがはたして味方なのか、敵なのか、見当がつきかねたので、わしはまた、どんどん歩きつづけた。
だがまもなく、わしの任務が思っていたほど簡単でないと悟った。土地が高くなるにつれて葡萄畑がなくなり、やがて、低い丘が点在する広々とした地域に出た。溝のなかにうずくまって、双眼鏡で様子をさぐってみた。すぐに気づいたのだが、どの丘の上にも見張りが立っていて、前哨線が前に張りでているところは、わが軍とまったく同じだった。「にんまり居士」というこの悪党が定めた規律のことはかねがね聞いていたが、これは疑いもなく、その一例だった。
丘と丘との間には、歩哨線が敷かれていた。わしは側面へとすこし移動してみたが、前方にはやはり敵がいた。どうしたものかと途方に暮れてしまった。身を隠してくれるものはほとんどなく、鼠一匹うろちょろしても、たちまち見つかってしまうだろう。もちろん、夜になれば、忍びこむのはたやすいことだ。これはトレス・ヴェドラスの英軍を相手に、先刻わしがやってのけたことだ。しかし、わしはまだ目標の山から遠い地点にいたので、そんなことをしていたら、夜なかの十二時に狼煙をあげるのに間にあわなくなってしまう。
わしは溝に横たわったまま、考えられうるかぎりの案を立ててみた。考えれば考えるほど、それは危険なものになっていった。ところが突然、ひらめきがやってきた。決して絶望することのない勇者に訪れる、あのひらめきが。
さきほど居酒屋の前で、二台の荷車に空の酒樽が積みこまれていると言ったのを、諸君は覚えているだろう。あのとき、牛の頭は東のほうを向いていたから、この荷車がわしの目ざす方向へ行くのは明らかだった。もしこの荷車の一つに身を隠すことさえできたら、ゲリラの布陣をこれ以上うまく、しかもやすやすと突破できる方法は他にあるまい。この案は実に簡単ではあるが名案だったので、これが頭にひらめいたとき、思わず快哉《かいさい》の叫びをもらしたものだ。わしはすぐさま居酒屋のほうへ急いでもどった。そして、茂みの陰から、路上で行なわれていることをつぶさに観察した。
赤い鳥打ち帽をかぶった百姓が三人、酒樽を積みこんでいた。一台の荷車はすでに積み終わり、もう一台のほうは下の段まで積んだところだった。まだたくさんの空樽が房酒屋のそとに置いてあって、これから積みこまれるのを待っていた。運命の神はわしの味方だった――いつも言っているように、この神は女神であって、さっそうとした若い軽騎兵には逆らうことができないのだ。ところで、見守っていると、この三人の男は居酒屋のなかにはいって行った。この日は暑かったし、力仕事をしたので喉が乾いたのだろう。わしは閃光のようにさっと茂みから飛びだして、一台の荷車によじ登り、空樽のなかに潜りこんだ。樽には底があったが、蓋はついてなかった。そして、開いているほうを内側にして、横積みになっていた。このなかでわしは膝頭を顎につけ、まるで犬小屋の犬みたいにうずくまっていた。樽はそう大きくなかったし、わしだって大の大人だからだ。こうして横になっていると、三人の百姓がまた外に出てきた。まもなく、わしの真上でがたんという大きな物音が聞こえた。別の樽を積みあげている音だ。彼らは荷車に樽を山のように積みあげたので、わしはどうやって抜けだしたものか、想像もつかなかった。しかし、ライン川を越えたからには、ウィスラ川(ポーランドの川)をわたることを考えるべきだ。もし運と才覚とでここまでこられたのなら、これらしだいでもっと遠くへまで運んでくれるにちがいないと思った。
やがて、荷車が満載になると、百姓たちは出発した。わしは樽のなかで牛の一足ごとにほくそえんだ。わしの行きたい方向へ運んでくれているからだ。荷車はゆっくり進んで行った。百姓たちは荷車のわきを歩いていた。このことがわかったのも、彼らの話し声がすぐそばで聞こえたからだ。なかなか陽気な連中らしく、歩きながら腹の底から愉快そうに笑っていた。なにがおかしいのか、それはわからなかった。わしは彼らの言葉をかなり喋れるのだが、耳にはいってくる断片的な話からは、別に滑稽な言葉は聞きとれなかった。
牛の歩く速度は一時間に約二マイルと、わしは踏んだ。そこで、確かに二時間半はたったと思ったとき――この二時間半ときたら、諸君、窮屈で、息苦しく、酒の澱《おり》の臭気であやうく中毒しかかったものだ――これだけたてば、広々とした危険地域は通りすぎ、森林と山のはずれに差しかかっているにちがいないと思った。そこで今度は、どうやって樽から抜けだしたらいいか、考えてみる必要があった。いくつかの方法を思いついて、それぞれの長所短所を検討していたとき、この問題はきわめて簡単な、しかも意外な形で解決した。
荷車は急にぎいっと止まった。すると、なん人もの荒々しい声が興奮して喋るのが聞こえた。
「どこだ、どこだ?」一人が言った。「おれたちの荷車だ」別のが言った。「どういう奴だ?」いま一人がたずねた。「フランスの将校だ。奴の帽子と靴を見たんだ」彼らはどっと笑った。
「居酒屋の窓から眺めていたら、奴さんは、まるで闘牛がセヴィリアの猛牛に追いたてられるみてえに、樽のなかに飛びこみやがったのさ」「で、どの樽だ?」「こいつさ」と言ったが、果たせるかな、この男の拳がわしの頭のそばの樽板をこつこつたたいたのだ。
諸君、わしみたいな地位にある男にとって、これはまたなんという惨めな話だろう! 四十年たったいまでも、このときのことを思うと顔が赤くなる。しばられた鶏のように手足の自由がきかず、こうした土百姓の粗野な笑いをなすすべもなく聞きいるだけ――しかも、わしの使命は不名誉な、いや滑稽とさえ言える結末を迎えたことがわかっていた。もし樽の土手っ腹に銃弾をぶちこんで、わしをこの惨めさから解放してくれる者がいたら、どんなにかその男を祝福したことだろう。
荷車から樽を放りだす、がらん、ごろんという音が聞こえた。やがてひげ面の顔が二つと銃口が二つ、わしのほうを覗きこんだ。彼らはわしの上着の袖をつかんで、明るいところに引きずりだした。まぶしい日光のなかに突っ立ったまま、目はぱちくり、口はあんぐりといった格好だから、さぞかし珍妙だったにちがいない。体は海老《えび》のように曲がっていた。こわばった関節をぴんと伸ばせなかったからだ。それに、ワインの澱の中につかっていたので、上着は半分ほど、英軍の制服みたいに赤く染まっていた。この畜生どもは笑いに笑った。わしが態度と身振りで、奴らを軽蔑している様子を見せようとすると、奴らの哄笑はますます大きくなった。しかし、こうした苦しい立場にあっても、わしは本来の自分にふさわしく振舞った。ゆっくりとまわりの連中に視線をあびせてゆくと、いままで笑っていた奴らはどいつも、平気で見返すだけの度胸がないことがわかった。
ひとわたり見まわしてみると、自分がどのような状況に置かれているか、はっきりとわかった。わしはこの百姓どもにまんまとはかられて、ゲリラの前哨隊の手のなかに突きだされたのだ。ゲリラの隊員は八人いて、どいつも兇暴な顔つきで、毛むくじゃらの連中だった。木綿のハンカチをソンブレロの下にだし、ボタンのたくさんついたジャケツを着て、派手な色の飾り帯を腰に締めていた。銘々が銃を持ち、さらに拳銃を一挺か二挺、ベルトに差しこんでいた。親分格の男は大柄でひげもじゃの悪党だったが、こいつがわしの耳もとに銃を突きつけている間に、手下どもがわしのポケットをさぐった。そして、外套、拳銃、双眼鏡、軍刀、それに、こいつが一番こたえたが、火打ち道具一式を奪いとった。どんな事態が起きようと、わしはもうこれまでだ。たとえ狼煙台に辿りつけたとしても、肝心の狼煙に火をつける手段がなくなったからだ。
奴らは八人、いいかね、諸君、それに百姓が三人、これにたいし、わしはまったくの徒手空拳というありさまだ! ところでエティエンヌ・ジェラールは絶望しただろうか? 取り乱しただろうか? ああ、君たちはわしのことをよくご存知だ。だが奴ら山賊の畜生どもには、まだわかっていなかったのだ。万事休すと思われたこの土壇場で見せた、あのどえらい驚嘆すべき奮闘ぶりは後にも先にもやったためしがない。まあ、何度でもいいから言って当ててごらん。だが、わしが奴らから逃れた手段はなかなか当たらんだろう。耳をすまして、よく聞きたまえ。
わしの体が探られたときには、荷車からもう引きずりおろされていた。わしはまだ体をねじまげたまま、奴らのまんなかに突っ立っていた。だが関節の硬直がしだいにとれてくると、早くもわしの頭はなんらかの逃走手段を見つけようと、さかんに活動していた。山賊どもが見張りを立てていたのは狭い峠道だった。道の片側は険しい山腹になっていた。反対側は非常に長い下り勾配で、数百フィート下の灌木の茂った谷間までつづいていた。この連中は、諸君もおわかりの通り、屈強な山男ばかりで、山の上り下りにかけては、わしのはるかにおよぶところでない。足にはアバルカスという革の靴を草鞋《わらじ》のように結んでいるので、どんなところでも滑ることはない。だから、気力に欠ける者だったら絶望するところだ。だがわしは、運命の女神が授けてくださった奇妙な好機を、とっさの間に見つけて利用したのだ。下り勾配がはじまる道ばたに、酒樽が一つ置いてあった。わしはゆっくりと樽のほうににじりよった。そして虎が躍るように足から樽に飛びこみ、体に一ひねりくれて、路肩からごろっと丘の斜面に転がりでた。
あの怖ろしい逃避行がどうして忘れられようか? 樽は跳ねあがり、どかんとぶつかり、びゅんびゅんと風を切って、ものすごい坂を転げ落ちて行った。わしは膝と肘を突っぱり、できるだけ体をまるめて、すこしでも安定させようとした。それでも頭がはみだしていて、脳味噌が飛びださなかったのが不思議なくらいだ。ながい、なだらかな勾配があったかと思うと、今度は急斜面になっていて、ここにくるともう樽は転がらなくなった。まるで山羊のように空中に跳ねあがり、がたんどかんと落下したので、体中の骨がぎしぎしと鳴った。なんとまあ、風が耳もとでひゅうひゅうと唸ったことか! 頭は何度も何度も横転したので、とうとうわしは気分がわるくなり、目はくらくらで、意識も失いかけた。そのとき、ひゅっと風を切る音につづき、木の枝がめりめり、ばりばりと大きな音をたてて折れ、先ほどはるか下に見えた茂みに差しかかった。この茂みのなかを突きぬけ、さらに前方の斜面を転げ落ち、また別の茂みの懐深く飛びこんで行った。ここで樽は若い木にぶつかって、こっぱみじんに砕けてしまった。ばらばらになった樽板と|たが《ヽヽ》のなかから這いだしたものの、体はどこもかしこもずきずきと痛んだ。しかし、わしの心は歓喜の歌を高らかに歌い、意気は天をつくものがあった。わしのなし遂げた離れわざがいかにすばらしいものであったか、それがわかっていたからだ。それでわしにはもう、丘の上に狼煙が燃えあがるのが見えるような気がした。
上下にはずみながら転げ落ちてきたために、わしはひどい吐き気におそわれていた。わしが大海原で波のうねり――あの不実なイギリス人がむかしから利用してきた物理的運動――をはじめて経験したときと同じ感じだった。しばらくの間、両手で頭をかかえたまま、樽の残骸のそばにすわりこんでしまった。だが休んでいる暇などなかった。もう上の方からは叫び声が聞こえてきた。追手が斜面を駆けおりてくるのだ。わしは藪のいちばん深いところに飛びこみ、走りに走ったので、とうとう完全に疲れはててしまった。そこで横になって、はあはあ息をはずませながら耳をそばだてたが、なにも聞こえてこなかった。どうやら敵を振りきってしまったのだ。
呼吸がやっと整ったので、わしは足早に歩きはじめ、小川をいくつか、膝までつかってわたった。奴らが犬をつかって追跡してくるかもしれないと思ったからだ。展望のきく場所に出てまわりを見わたしてみると、嬉しいことに、あれだけの冒険をしたにもかかわらず、当初の行程から大してはずれていないことがわかった。頭上にはメロダルの峰がそびえていた。そのむきだしの険しい山頂は中腹を蔽《おお》ういじけた樫の森のなかから突きでていた。この樫の森は、わしがいる茂みからつづいていたので、森のはずれにでるまでは、差しあたってなにも怖れるものはないように思われた。それと同時に、だれもがわしの敵であり、わしは身に寸鉄も帯びていないのに大勢の連中がわしを取りまいているのだと思った。人影は見かけなかったが、何度か鋭い警笛と、一度だけ、遠くでひびく銃声を耳にした。
藪のなかを押しわけて進むのは容易なことでなかった。だから大きな木が立ち並んでいるところにでて、なかを走っている林道を見つけたときはほっとしたものだ。もちろん、この林道を歩いて行くようなばかな真似はしないが、付かず離れずといった形で、この道筋を辿って行った。かなりの距離を歩いて、そろそろ森のはずれに差しかかるころだろうと思ったとき、奇妙な呻き声が耳に飛びこんできた。はじめは動物の鳴き声だと思ったが、こんどは人間の言葉が聞こえた。ただ、わしにわかったのは「モン・デュー!」というフランス語の間投詞だけだった。ぬかりなく用心しながら、声のするほうへ進んで行った。さて、そこで見たのはこういうことだ。
枯葉を褥《しとね》として、わしと同じ灰色の軍服を着た男が、ながながと横たわっていた。一見して、重傷を負っているのがわかった。胸に布切れを当てていたが、それが血で深紅に染まっていた。褥のまわりは一面が血の海で、雲霞《うんか》のような蝿の大群のなかで男は横になっていた。かりに呻き声がわしの耳にとどかなかったとしても、蝿のぶんぶん唸る音がわしの注意をひいたにちがいない。一瞬、なにか罠でも仕掛けてあるのではないかと思って、その場に立ちどまった。だがついに、憐憫の情と誠意とが他の感情にまさってきた。わしは男のかたわらに駆けよってひざまずいた。男はやつれた顔をわしにむけた。デュプレッシーだった。わしの一日前にでかけた僚友だ。その落ちこんだ頬と、どんよりした生気のない目を一瞥しただけで、死期の迫っていることがわかった。
「ジェラール!」彼は言った。「ジェラール!」
わしは同情の念を顔にあらわすことしかできなかった。しかしデュプレッシーは生きる力が急速に衰えていくなかで、さすが勇敢な男子にふさわしく、なおも自己の任務を忘れなかった。
「狼煙だ、ジェラール! 火をつけてくれるかね?」
「火打ち道具はあるか?」
「ここだ」
「では、今夜つけてみせるぞ」
「それを聞いて、もう思い残すことはない。奴らに撃たれたんだ、ジェラール。だが、元帥に伝えてくれ、ぼくが最善をつくしたと」
「で、コルテクスは?」
「あれは不運だった。敵の手に落ちて、無残にも殺された。もし、逃れられないとわかったら、いいか、ジェラール、弾を、心臓に撃ちこんで自決しろ。コルテクスの二の舞をふむなよ」
息がたえだえになってくるのがわかったので、前かがみになって言葉を聞きとった。
「任務を遂行するにあたって、なにか参考になることがあったら聞かせてくれないか?」
「うん、うん。デ・ポンバル。あの男が役にたつ。デ・ポンバルを信用しろ」こう言ったきり、頭ががくっとそりかえって、そのまま|こと《ヽヽ》切れた。
「デ・ポンバルを信用しろ。いい忠告だ」
驚いたことに、一人の男がわしのすぐそばに立っていた。あんまり夢中になって僚友の言葉に耳をかたむけ、その忠告を聞きとろうとしていたので、男が忍びよってきたのにまったく気づかなかった。わしはすっくと立ちあがって、男とむかいあった。背の高い、色の浅黒い男で、黒い髪、黒い目、黒い顎ひげ、それに面長の悲しげな顔つきをしていた。片手にはワインの瓶をもち、肩からは、こういう連中がよく携えているラッパ銃をつるしていた。男は肩から銃をはずそうともしなかった。そこでこれが、わしの死んだ僚友の推薦した男だとわかった。
「ああ、ついに死んでしまった!」男はこう言って、デュプレッシーの上にかがみこんだ。「この人は撃たれたあと森へ逃げこんだが、さいわい、倒れているところをわしが見つけて、死にぎわをいくらかでも楽にしてやれた。この枯葉の褥もわしがこしらえたものだし、喉の渇きをいやしてあげようと、このワインを持ってきたところだ」
「かたじけない」わしは言った。「フランスの名において、あらためてお礼を申したい。わたしは軽騎兵の一大佐にすぎないが、エティエンヌ・ジェラールと申す者。フランス軍のなかでは、いささか知られた名前だ。ところでおうかがいしたいが――」
「承知した、わしはアロイシウス・デ・ポンバル、同姓の有名な貴族の弟。現在は、『にんまり居士』のマヌエロでとおっているゲリラの首領の下で首領代理をつとめている」
なんたることだ! 思わずわしは拳銃のあるべき場所へ手をやったが、相手はこの仕草を見ても、ただ微笑するだけだった。
「わしはマヌエロの首領代理だが、また彼の不倶戴天の敵でもあるのだ」こう言って、ポンバルは上着をぬぎ、シャツをたくし上げた。「これを見てくれ!」と彼は叫んで背中をむけたが、そこには一面、赤や紫のみみず脹れがむごたらしく刻まれていた。「これが『にんまり居士』のわしにたいする、いや、ポルトガルで最も高貴な血をひく男にたいする仕打ちなのだ。わしが『にんまり居士』になにをしてみせるか、とくとごらんいただきたい」
彼の目と、むきだしにした白い歯には、すさまじい怒りがあらわれていたし、みみず脹れの背中からにじみでている血を思いあわせると、その言葉の真実性をもはや疑うわけにはいかなかった。
「わしを支持すると誓った部下が十人いる」男は言った。「二、三日したら、ここでの仕事をかたづけて、フランス軍に参加したいと思っている。それまでは――」不思議なことに彼の表情がさっと変わったかと思うと、突然、銃を前にかまえた。「手をあげろ! このフランスの犬め!」彼は叫んだ。「あげないと、頭をぶっとばすぞ!」
どきっとしたろう、諸君! 目をまるくしているじゃないか! それなら、首領代理との話が不意にこんな形で終わったので、どんなにわしがどきっとし、目をまるくしたか、おわかりいただけよう。黒い銃口と、その背後には怒り狂った黒い目が見えた。わしになにができたろう? わしはまったく無力だった。言われるままに、両手を上にあげた。それと同時に、森のいたるところがら人声が聞こえてきた。叫び声に呼び声。ついで大勢の駆けてくる足音がした。怖ろしい人影の群れが緑の茂みから飛びだしてきて、十余りの手がわしを捕えた。そしてわしは、あわれにも武運つたなく、逆上したまま、ふたたび捕われの身となった。ありがたいことに、自決用の拳銃は身につけていなかった。このとき武器を持っていたら、いまごろこのカフェにすわりこんで、諸君にこうした昔話をするわけにはいかんだろう。
垢だらけの毛深い手に四方八方からむんずとつかまれたまま、わしは森のなかの小径を引っ立てられて行った。悪党のデ・ポンバルがわしを捕えている連中に指図をくだし、四人の山賊どもがデュプレッシーの死体を運んで行った。夕闇がようやく迫るころ、われわれは森を抜けて、山腹に差しかかった。この山腹を追いたてられて登って行くと、やっとのことでゲリラの巣窟に辿りついた。それは山頂に近い地表の裂け目にあった。すぐ頭上には、わしにこれほどまでの犠牲をはらわせた狼煙台がある。薪を方形に積み重ねたものだ。下のほうには掘ったて小屋が二、三軒あって、これはおそらく山羊飼いのものだろうが、いまのところは悪党どもの隠れ家になっていた。この小屋の一つに、わしはみじめにも手足をしばられて放りこまれた。そばには同僚の遺体があった。
わしは横になったまま、どうしたら数時間後に頭上の薪の山に辿りつけるかと、ひたすらこの一念に取りつかれていたとき、小屋の戸が開いて、一人の男がはいってきた。この手さえしばられていなかったら、奴の喉首に飛びかかったことだろう。男はだれあろう、デ・ポンバルその人だった。山賊が二人、あとにしたがっていたが、彼は部下に引きさがるよう命じて、うしろの戸を閉めた。
「この悪党め!」わしは叫んだ。
「シーッ!」デ・ポンバルは言った。「低い声で話していただきたい。だれが聞いているかわからないし、わしの一命にもかかわることだからだ。ジェラール大佐、あなたに言っておきたいことがある。わしはあなたの亡くなった同僚にたいすると同じく、あなたの仕合わせを願っている。先ほど遺体のそばでお話ししていたとき、周囲を取りまかれているのに気づいて、あなたの逮捕はとても避けられないと思った。ぐずぐずしていたら、わしまであなたの運命を辿ることになる。そこで即刻この手であなたを捕え、一味の信頼をつなぎとめた。あなたの思慮分別をもってすれば、わしにはこれ以外に打つ手がなかったことがおわかりだろう。あなたを救えるかどうか、いまの段階ではわからないが、すくなくとも努力はしてみるつもりだ」
これは事態にあらたな光を投げかけるものだった。わしには彼がどこまで真実を語っているのかわからないが、これからの行動によって判断することにしよう、と答えた。
「それで結構だ」デ・ポンバルは言った。「ただし、一言だけ忠告しておく。首領がこれからあなたと会うことになるが、穏やかに話すようにしなさい。さもないと、首領はあなたを二枚の板にはさんで、挽き殺してしまうだろう。首領に口答えしてはいけない。彼がほしがっている情報は、すなおに提供してやることだ。これがあなたに残された唯一の機会だ。こうして時間をかせぐことができれば、物事がわれわれに有利に展開するかもしれない。さあ、もう時間がない。すぐについてきなさい。怪しまれるといけないから」デ・ポンバルはわしを助け起こして、戸を開けると、ひどく乱暴にわしを引きずりだした。そして、そとにいた仲間の手をかりて、ゲリラの首領が粗暴な手下どもにかこまれてすわっているところへ、荒々しく押したり、突いたりして連れて行った。
一段と目だつ男が「にんまり居士」のマヌエロだった。ふとって、血色がよく、いかにも満足そうな様子で、ひげはきれいに剃り、顔が大きく、頭は禿げていた。まるで一家のやさしい父親を絵に描いたような男だった。その誠実そうな微笑を見ていると、これがかの悪名高いならず者で、その名を聞いただけで英軍は言うまでもなく、わがフランス軍までも震えあがらせるとはまったく信じられなかった。のちに英軍の将校トレントが、この男を数々の残虐行為のかどで絞首刑にしたのは有名な話だ。マヌエロは大きな石の上に腰をおろしたまま、まるで昔の知りあいにでも会ったみたいに、わしを見てにっこりとした。しかしわしは、彼の手下の一人が長い鋸《のこぎり》に寄りかかっているのに気づいた。この光景はわしの思いちがいを悟らせるのに十分だった。
「今晩は、ジェラール大佐」首領は言った。「連日、マセナ元帥の幕僚から表敬訪問をうけ、まことに光栄のいたりじゃ。先日はコルテクス少佐、ついでデュプレッシー大佐、そして今度はジェラール大佐。おそらくそのうちに、かたじけなくも元帥みずからお訪ねいただけるかもしれませんな。デュプレッシー大佐にはお会いになったことじゃろう。コルテクス少佐はむこうの木に釘づけになっておる。あとはあんたをどう処置したらいちばんいいか、それを決めるだけじゃ」
なんとも気がめいる話だ。しかしこの間ずっと、彼のふとった顔は微笑をたたえ、その言葉は大そう穏やかに愛想よくのべられた。ところが今度は、不意に前かがみになると、その目にきわめて激しいものが読みとれた。
「ジェラール大佐。わしにはあんたの生命を助けるという約束はできない。それはわしらのしきたりに背くことになるからじゃ。だが、あんたに安らかな死をあたえることも、恐ろしい死をあたえることもできる。どちらにいたそうかの?」
「その代わりにどうしてほしいのかね?」
「安らかに死にたいのなら、わしの質問に正直に答えてもらいたいのじゃ」
突然、一つの考えが頭にひらめいた。
「あなたはわたしを殺そうと思っている。わたしがどのような死にかたをしようと、あなたには大した問題ではあるまい。もしわたしが質問に答えたら、わたしに死にかたを選ばせてくれるのだね?」
「そうじゃ。それが今夜の十二時前なら、そのようにする」
「誓いなさい!」わしは叫んだ。
「ポルトガルの男子の一言じゃ。それで十分でないか」
「あなたが誓わぬうちは、一言たりとも口にしないぞ」
マヌエロは怒りでまっ赤になり、目を鋸のほうへとむけた。しかし彼はわしの語調から、わしが本気で言っていることや、わしが脅されて屈伏するような人間でないことがわかった。彼は黒い羊の革でできた上着の下から十字架を引っぱりだして言った。
「ここに誓言する」
ああ、この言葉を聞いたときの喜びときたら! なんたるみごとな最期――フランス第一の剣客にふさわしい、なんたるみごとな最期だろう! わしはこう考えると嬉しさのあまり、腹からの笑いを抑えきれないほどであった。
「で、おたずねの件とは!」わしは言った。
「あんたも正直に答えると誓うかの?」
「男子と武人の名誉にかけて、ここに誓う」諸君もおわかりのとおり、わしが約束したのは怖るべきことだった。だが相手の要求を呑むことで得られるものにくらべれば、これしきのことはなんでもない。
「これはまことに公平で、興味津々たる取引じゃわい」こう言って、マヌエロはポケットから手帳を取りだした。「では、フランス軍の陣営のほうに目をむけてくださらんか?」
首領が指さした方向にむきなおって、眼下の平原にある陣営を見おろした。十五マイルも離れているのだが、大気が澄みきっているので、なにからなにまで実にはっきりと見わたせた。わが軍の天幕と仮小屋が長方形にならび、それに騎兵隊の布陣と、砲兵の十個中隊の所在を示す黒い班点があった。わが威風堂々たる軽騎兵連隊があそこで彼らの連隊長を待ちわびるばかりで、二度と会うことはできないのだと思うと、なんとも言いしれぬ淋しさにおそわれた。わが連隊なら一個大隊もあれば、この殺し屋どもをことごとく地上から一掃できたろう。友軍の陣営の一角を眺めているうちに、わしの真剣な目には涙があふれてきた。そこには八百騎の部下がいて、いずれもが連隊長のためなら喜んで命を投げだす者ばかりだということを、わしは知っていたからだ。だがわしの悲しみは、天幕の背後にトレス・ノヴァスの司令部の所在を示す煙が立ちのぼるのを見ると、たちどころに消えてしまった。あそこにはマセナ元帥がいる。そして神の御意にかなえば、今夜わしは一命を犠牲にして、元帥からあたえられた使命をまっとうするのだ。誇りと歓喜の情がわしの胸に満ちあふれた。もしわしが雷鳴のような声をだせたら、友軍にむかってこう叫んでやりたかった。「よく見ておけよ、このエティエンヌ・ジェラールがクローゼル師団を救うために一命を投げうつところを!」事実、これほど崇高な偉業がまっとうされても、だれ一人これを語りつぐ者がいないのかと思うと悲しかった。
「さあ、陣営が見えるじゃろう」山賊の首領が言った。「コインブラに通じる道も見えるじゃろう。あの道にはフランス軍の有蓋車と救急車がいっぱい集まっておる。これはマセナが撤退をはじめようということなのかね?」
だれの目にも有蓋車の黒い列が動いていて、護衛兵の銃剣がときどきピカッと光るのが見えた。わしの誓約は誓約として、すでに明白となっているものを認めたとしても思慮を欠いたことにはならんだろう。
「元帥は撤退する」わしは答えた。
「コインブラを通ってか?」
「そうだと思う」
「だがクローゼル師団は?」
わしは肩をすくめた。
「南へくだる道はすべて封鎖されておる。伝令をだしてもむだじゃ。マセナが退却すれば、クローゼル軍は最悪の事態に陥るぞ」
「運を天にまかせるしかない」わしは言った。
「兵員の数は?」
「ざっと一万四千というところだ」
「騎兵は?」
「モンブラン騎兵師団からの一個旅団」
「連隊名は?」
「追撃兵第四連隊、軽騎兵第九連隊、それに胸甲騎兵一個連隊」
「そのとおり」マヌエロは手帳を見ながら言った。「確かにあんたは正直に答えておる。嘘をついたら容赦しないところじゃが」それから一師団ずつ、つぎからつぎへと全軍にわたって、各旅団の構成をたずねた。言うまでもないが、大きな目的を抱いていなかったら、こんなことを喋る前にわしの舌を引き抜かせたことだろう。クローゼル軍を救うことさえできれば、なんでも答えてやろうと思った。
最後にマヌエロは手帳を閉じて、ポケットにしまった。「情報を提供してくれてかたじけない。この情報は明日、ウェリントン卿のもとにとどけることとしよう。ところで、あんたは自分の契約を履行なさった。こんどはわしが履行する番じゃ。どんなふうに死にたいのじゃな? 軍人としては、おそらく銃殺刑を望むところじゃろうが、メロダルの断崖から身を投げるほうが、事実、楽な死にかただと考える者もおる。かなり大勢の者がこれを実行したが、残念なのは当の本人たちの口から感想が聞けんことじゃ。鋸という手もあるが、これはどうも人気がよくないようじゃ。絞首刑にすることも、もちろんできるが、それにはわざわざ森までくだってゆかねばならん。しかしながら、約束は約束じゃ。それにあんたはひとかどの人物とお見受けする。わしらとて、労を惜しまず、あんたの望みをかなえて進ぜよう」
「あなたは先ほど、夜の十二時前に死刑にすると言われた。それならば、その時刻の一分前に処刑してもらおう」
「よろしい」首領は言った。「そこまで生に執着するのはいささか子供じみているが、あんたの望みは聞きとどけてやろう」
「処刑の方法だが」とわしは言葉をつづけた。
「わたしは世界中から見てもらえるような死にかたが好きだ。あそこに積みあげた薪の上にのせて、生きたまま火あぶりにしてもらおう。ちょうどその昔、聖徒や殉教者たちが火あぶりにされたようにだ。これは尋常一様な最期ではないが、一国の皇帝もうらやむような最期だ」
この思いつきは、ひどくマヌエロを楽しませたようだ。
「もちろん、よかろう」マヌニロは答えた。「もしマセナがわしらの様子をさぐるためにあんたを派遣したのなら、山の上の火がなにを意味するか、推測できるだろう」
「そのとおり」わしは言った。「わしが火あぶりを望む理由はまさにそれだ。わたしが軍人にふさわしい死を遂げたことを、元帥は推測し、すべての者が知るだろう」
「わしとしてはなんら異存はない」首領はぞっとするような微笑をうかべて言った。「山羊の肉とワインをあんたの小屋に差し入れて進ぜよう。日が沈みかけているから、かれこれ八時になるじゃろう。あと四時間したら、最期の覚悟をなさるのじゃ」
美しい世界が去りゆこうとしていた。わしは眼下の黄金色の靄《もや》に目をやった。そこでは落日の最後の光が、湾曲するテジョー川の青い水面に照りはえ、英軍の輸送船の白帆に輝いていた。実に美しい光景だった。この光景と別れを告げるのは淋しいかぎりであった。だが世のなかには、これよりもっと美しいものがある。他人のため、名誉のため、任務のため、忠節のため、愛のために殉ずる死――これこそ肉眼で見られるいかなるものにもまして、はるかに輝かしい美しさだ。わしの胸は、自分の崇高きわまりない行為にたいする賛美の念で満たされたが、すぐにわしがクローゼル軍を救うために、狼煙のまんなかに身を投げだしたことをはたして知ってくれる人がいるだろうか、という懸念につつまれた。わしはかくあれかしと望み、かつ祈った。もしそうなれば、おふくろにとってなんという慰め、軍隊にとってなんという模範、わが軽騎兵連隊にとってなんという誇りになるだろう! デ・ポンバルがようやく食物とワインをもって小屋にはいってきたとき、わしがまっ先に要求したのは、わしの最期の模様を記録して、フランス軍の陣営に送ってもらいたいということだった。彼は一言もそれには答えなかった。しかしわしの栄光に輝く最期がまったく知られずに終わることもあるまいと思って、旺盛な食欲で夕食をたいらげた。
その場に二時間ほどいると、ふたたび戸が開いて、首領がなかを覗きこんだ。わしは暗闇のなかにいたが、松明をもった山賊が彼のかたわらに立っていたので、首領がこちらを覗いたとき、その目と歯がきらりと光るのが見えた。
「用意はいいか?」
「まだその時間でない」
「ぎりぎりの刻限までねばるつもりじゃな?」
「約束は約束だ」
「大いに結構。そうすることとしよう。ところで仲間の一人がよからぬことをしでかしたので、内輪でちょっと裁きをせねばならん。わしらには独自の厳重な掟があって、人によって差別をもうけないのじゃ。ここにいるデ・ポンバルに聞いたら話してくれよう。じゃ、デ・ポンバル、この男の手足をしばりあげて、薪の上に寝かせてくれ。あとで戻ってきて、彼の最期を見とどけることとしよう」
デ.ポンバルと松明をもった男がなかにはいった。首領の足音がしだいに遠ざかって行った。デ・ポンバルは戸を閉めた。
「ジェラール大佐」彼が言った。「この男は信用してよろしい。わしの腹心の一人だから。これは命がけの仕事だが、まだあなたを救えるかもしれない。だがわしはたいへんな危険を冒すわけだから、はっきり約束していただきたい。もしあなたを助けだしたら、われわれはフランス軍の陣営にあたたかく迎えられ、過去のことはいっさい水に流す、と保証してくれるかね?」
「確かに保証する」
「ではわしはあなたの言葉を信用する。さあ、早く、早く、一刻の猶予もならん! あの人でなしが戻ってきたら、われわれは三人とも惨殺の憂き目を見ることになる」
わしはデ・ポンバルのやることを、ただ目をまるくして見つめていた。長い綱を一本手にすると、わしの同僚の死体をぐるぐるしばりつけ、布切れを口のまわりに結えつけて、ほとんど顔が見えないようにした。
「そこに横になるんだ!」彼はこう叫んで、わしを死体のあった場所に寝かせた。「わしは四人の部下を待たせてある。彼らがこれを狼煙台の上に運んでくれよう」デ・ポンバルは戸を開けて、命令をくだした。何人かの山賊がはいってきて、デュプレッシーを運びだした。わし自身は床の上に横たわったまま、希望と懐疑ではげしい胸騒ぎを覚えていた。
五分たつと、デ・ポンバルと手下たちが戻ってきた。
「あなたは今、狼煙台の上に寝かされている」と彼が言った。「あれがあなたでないと、いったいだれが言いきれよう。あなたは猿ぐつわをはめられ、がんじがらめにしばられているので、口をきいたり身動きしたりするとはだれも思わない。さて、あとはデュプレッシーの死体を運びだして、メロダルの断崖から放りだすだけだ」
二人の手下がわしの頭を、別の二人が踵をつかんで、硬直して身動きのできぬわしを小屋から運びだした。そとに出たとたん、わしは驚きのあまり叫び声をあげそうになった。月は狼煙台の上に昇っており、銀色の月光にくっきりと浮かびあがって、山頂に横たわる人影が認められた。山賊たちは野宿しているか、狼煙台のまわりにたむろしているかで、だれもわれわれの一行を止めたり、怪しんだりする者はなかった。デ・ポンバルは先頭にたって、断崖のほうへむかった。崖っぷちまでくると、われわれの姿は彼らの視野から隠れた。そこでわしはふたたび足をつかうことを許された。デ・ポンバルは狭い、曲がりくねった小径を指さした。
「これが下へ通じる道だ」こう言ってから突然、「おや、あれはなんだ?」
怖ろしい悲鳴が下の森から聞こえてきた。デ・ポンバルは、まるで馬がおびえたように、わなわな震えていた。
「あの悪魔の仕業だ」彼はつぶやいた。「奴はわしにしたように、だれかを処刑しているのだ。かまわずに、どんどん進め! 奴の手につかまったら、それこそお陀仏だ!」
一人ずつ、われわれは狭い山羊の径を這い下りて行った。崖の下でまた森にはいった。突然、まぶしい黄色の光が頭上で輝いて、木の幹の黒い影がさっと前に飛びだした。山賊どもが狼煙に火をつけたのだ。われわれが立っているところからも、炎につつまれた意識のない遺体と、薪を積んだまわりで、人食い人種のようにわめきながら踊っている山賊の黒い影が見えた。ああ! わしはどんなにか、奴ら犬畜生どもにむかって拳を振りまわしたことか! いつかわが軽騎兵とわしとで、この借りは返してやるぞと、どんなにか誓ったことか!
デ.ポンバルは前哨が配置されている場所と、森のなかの径をすべて知っていた。だが悪党どもに出くわさないように、われわれは山のなかに潜りこんで、何マイルも骨を折って歩かなければならなかった。だが、そのおかげでわしの望んでいた光景が見られるなら、たとえそれが遠まわりになろうとも、どんなにか喜んで歩いたことだろう! 夜なかの二時ごろ、われわれは曲がりくねった径をとおって、むきだしになっている丘の肩で足をとめた。振りかえると、狼煙の燃え残りのまっ赤な輝きが、まるで火山の火がメロダルの高峰から噴出しているみたいに見えた。それから、じっと見つめているうちに別なものが目にはいった。思わずわしは歓喜の叫びをあげ、嬉しさのあまり地面の上を転げまわった。はるか南の地平線上に黄色い光がちらつき、きらめいて、やがて大きくゆらめきながら燃えあがった。人家の灯りではない。星の光でもない。それはオサ山上で応答する狼煙で、クローゼル軍がエティエンヌ・ジェラールの派遣された使命を了解したことを物語っていた。
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第五話 ジェラールがイギリスで勝利をおさめた話
諸君には狐狩りで、わしが英軍将兵を打ち負かした話をお聞かせした。このときは狐をすさまじい勢いで追跡したので、訓練をうけた猟犬の群れも追いつくことができず、ひとりわしの手で獲物を血祭りにあげたものだ。この件については長々と喋りすぎたかもしれないが、狩猟における勝利には、戦闘ではとても味わえないスリルがある。戦闘では所属の連隊や軍隊と勝利を分けあうことになるが、狩猟で栄冠を勝ちえるのは、だれの助けも借りないまったくの個人であるからだ。イギリス人がわれわれに優っている点の一つは階級の上下をとわず、あらゆるスポーツに大きな関心を払っているという事実だ。イギリス人のほうが金持ちなのかもしれない。あるいは、われわれ以上に怠け者なのかもしれない。だがわしがイギリスで捕虜になっていたとき、このスポーツ熱がどんなに普及しているか、人々の心と生活にどんなに侵透しているかを知ってびっくりしたものだ。走る馬、闘う鶏、鼠を殺す犬、なぐりあう人間――彼らはこうしたものを見物するためなら、全盛期の皇帝陛下にも背をむけたことだろう。
イギリスのスポーツのことなら、いくらでも話すことができる。わしの捕虜としての交換命令がイギリスにとどいたあと、ラフトン卿の賓客となっていたとき、大いにスポーツを見物したからだ。フランスに送還されるまでの数カ月の間、わしはダートムアの北端のハイ・クームにあるラフトン卿の美しい屋敷に滞在していた。ラフトン卿は、警官隊がプリンスタウンからわしを追跡したとき、彼らといっしょに馬を走らせてきた。そしてわしが追いつめられたとき、彼がわしに抱いた感情は、このわし自身がフランスで、勇敢で礼儀正しい軍人がたよるべき友もなく、一人でいるところを見かけた折りに感じるものと変わりがなかった。要するに、彼はわしを屋敷に連れてゆき、衣服をあてがい、食事をだし、まるで実の兄弟みたいな待遇をあたえてくれた。わしはイギリス人についてこれだけは言っておきたい。それは彼らがいつも寛大な敵であり、戦闘の相手としては実にりっぱな人びとだということだ。イベリア半島なら、スペイン人の前哨がわれわれに銃を突きつけてくるところだが、イギリス人が突きつけるのはブランデーの瓶なのだ。しかもこのように寛大な国民のなかでも、これほどりっぱな英国貴族に匹敵する人物は一人もいなかった。卿はたいへん暖かい手を逆境にある敵に差しのべてきたのだ。
ああ! ハイ・クームという名を聞くだけで、なんという楽しいスポーツの思い出がよみがえることか! いまでもわしは細長くて低い煉瓦の家、あの暖か味のある赤い家と、戸口の前の白い漆喰の柱をはっきりと思いうかべることができる。このラフトン卿という人は大のスポーツマンだったので、彼を取りまく人びとも同じタイプに属していた。だがわしにとって互角に勝負ができないスポーツはほとんどなく、ある種目ではわしのほうが優っていたと言ったら、喜んでいただけるだろう。屋敷の裏手には森があって、雉《きじ》が放し飼いになっていた。この鳥を撃ちとめるのがラフトン卿の楽しみだった。それは、従者たちを森のなかにいれて雉を追いだし、そとで待ちかまえている卿や友人たちが飛びたつ雉をズドンと仕留めるという寸法だった。わしのやり方はもっと巧妙だった。わしは雉の習性を研究し、夜になると、こっそり出かけて行って、木立ちのなかで塒《ねぐら》についているところを何羽も撃ち落とすことができた。ほとんど一発もむだにしなかった。だが猟場の番人が銃声に気がついて、イギリス人らしい粗野な調子で、残っている鳥は撃たないでくれと、わしに訴えた。この夜わしはラフトン卿の夕食の食卓に十二羽の雉を並べて、あっと言わせた。卿はこれを見てすっかり喜び、笑いに笑って涙をだしてしまった。
「たまげたねえ、ジェラール君、君のおかげで死にそうだよ!」卿は叫んだ。しばしば彼はこの台詞を口にした。と言うのは、いつもわしはイギリス人のスポーツに参加しては、ラフトン卿の度肝を抜いたからだ。
夏のスポーツでクリケットと言う競技があるが、これも教わった。庭師の親方ラッドはクリケットの名手で、ラフトン卿自身もそうだった。邸宅も前に芝生があって、ここでラッドがクリケットを教えてくれた。これは勇ましい遊戯だ。軍人むきの競技だ。競技者銘々が相手に球をぶつけようとするのだが、相手はわずか一本の小さな棒でこの球を受けとめるのだ。背後にある三本の棒は、ここからあとへ退却できないことを示している。まったくの話、これは子供の競技ではない。白状すると、わしはこれまでに九度も従軍したが、この球がはじめてわしをかすめて飛んで行ったとき、顔からさっと血の気がひく思いがしたものだ。球があまりにも速かったので、棒をあげて受けとめる余裕もなかった。だがさいわいわしには当たらずに、境界を示す木製の標柱を倒した。今度はラッドが守備にまわり、わしが攻撃する番になった。郷里のガスコーニュでまだ少年だったころ、わしは遠くへまっすぐに物を投げることを覚えた。だからこの勇敢なイギリス人に命中させる自信があった。えいっという掛け声もろとも助走して、ラッド目がけて球を投げた。球は銃弾のような勢いで彼の肋骨を目ざして飛んで行った。しかしラッドがだまったまま棒を振ると、球は驚くほど高く舞いあがった。ラフトン卿は手をたたいて喝采した。ふたたび球が戻ってきて、またわしが投げることになった。今回は球がラッドの頭をかすめて飛んだので、こんどこそ彼が顔色をかえる番だと思った。だがこの庭師は勇敢な男で、ふたたびわしにむかって、さあこいと身がまえた。ああ、諸君! わしが凱歌をあげる時がやってきたのだ! ラッドが着ていたのは赤いベストだったが、わしはこのベストを目がけて球を投げた。こうもみごとに的に直撃するところを見たら、君たちはわしのことを軽騎兵ではなく、砲兵だと言いたくなるだろう。絶望の叫び声――敗れた勇者があげる叫び声もろとも、彼は背後にある木の杭の上に倒れたので、杭はみな地面に転がってしまった。残酷なのはこの場に居合わせていたイギリス人の貴族で、ただ笑ってばかりいて、使用人を助けに行こうとしないのだ。そこで勝ったほうのわしが駆けよって、この勇敢な競技者を抱き起こし、称賛と激励と希望の言葉をかけてやった。ラッドは痛くて、まっすぐ立っていられなかった。だがこの正直な男は、わしの勝利が決してまぐれでないと認めてくれた。「狙いどおりになさったのです! 狙いどおりでした!」何度も繰りかえして彼はこう言った。まったく、このクリケットというのはすばらしい競技だ。わしはいまいちど、お手合わせを願いたいと思ったが、ラフトン卿とラッドはもうシーズンも終わりだと言って、二度とクリケットをやろうとしなかった。
老いさらばえたこのわしがこんな手柄話をくどくどと語るなんて、まったく愚かしいことだ。だが正直な話、わしを愛してくれた女たちや、わしが打ち負かした男たちのことを思いだすと、この老いぼれも大いに慰められてほっとするのだ。あれから五年たって、講和が成立してからラフトン卿がパリにやってきたとき、ジェラールという名はデヴォンシャーの北部では、わしが披露したすばらしい離れわざのために今でも有名だ、と断言してくれたのも楽しい思い出だ。ラフトン卿の話では、とりわけボールドック閣下とやった拳闘試合がいまだに評判になっているとのことだ。
そのときのいきさつはこうだ。ラフトン卿の邸宅には、夕方になるとスポーツ愛好者が大勢集まってきて、大いにワインを飲み、賭けごとに熱中し、猟馬や狐について語りあったものだ。あの風変わりな連中を、わしはいまでもよく覚えている。バリトン卿、バーンステイプルのジャック・ラプトン、アディスン大佐、ジョニー・ミラー、サドラー卿、それにわが敵ボールドック閣下、この連中は判で押したように同じタイプの人間だった。酒飲みで、無鉄砲で、喧嘩早くて、賭けごとがすきで、おまけに奇妙な出来心やとほうもないむら気の持ち主だった。だが彼らは荒っぽいなりに心のやさしい連中だった。ただこのボールドックというふとった男だけは別格で、拳闘の腕前を鼻にかけていた。この男がフランス人はスポーツを知らんと言って笑ったので、わしが彼の得意とするスポーツで挑戦することになったのだ。
なんとまあばかな、と諸君は言われるだろうが、すでに酒瓶が何度もまわっていたし、わしの血管にはわかき血潮が熱く流れていた。よし、この高慢ちきな男と闘ってみせよう。技量はつたないにせよ、われわれフランス人にはすくなくとも勇気があることを示してやろう。ところがラフトン卿が許そうとしないのだ。わしは、やらせてほしいと言いはった。ほかの連中はわしに声援を送り、背中をぽんとたたいてくれた。「いや、それはいかん、ボールドック、このかたは客人なんだから」ラフトン卿が言った。
「自分からやりたいと言いだしたんだ」ボールドック閣下が答えた。「ねえ、ラフトン、『拳《モーレイ》』をはめれば、怪我することはないよ」サドラー卿が大声で言った。こういうわけで話がまとまった。
「拳《モーレイ》」とはどんなものか、わしにはわからなかった。だが間もなく彼らは革製の大きな鰻頭みたいなものを四つ持ちだしてきた。ちょっとフェンシング用のグラブに似ているが、もっと大きなものだ。われわれは上着とベストをぬいでから、これを手にはめた。それからグラスや酒瓶をのせたテーブルを部屋の片隅に押しやって、いよいよ二人はむかいあった。サドラー卿は肘掛け椅子にすわったまま、掌に懐中時計をのせていた。「時間だっ!」と彼が言った。
諸君に白状しておくが、わしはこの瞬間、これまで何回となくやった決闘からは味わったことのない身ぶるいを感じた。剣か拳銃があればお手のものだ。だがここでわしにわかっているのは、このふとったイギリス人と格闘して、両手にばかでかい饅頭みたいなものをはめたまま、できるかぎりのことをして相手を打ち倒さなければならない、ということだけだった。しかも初っ端から、わしに残されていた最高の武器を奪われてしまった。「いいか、ジェラール、足蹴りはいかんぞ!」ラフトン卿はわしに耳打ちした。わしが履いているのは舞踏用の薄手の上靴だけだった。それでも相手はでぶときているから、狙いたがわず何度か足蹴りをくれてやれば、どうにか勝てたかもしれない。だがフェンシングの場合と同様に作法というものがあるから、足蹴りは控えた。わしはこのイギリス人を見て、どう攻撃したらいいか考えた。相手の耳は大きくて突き出ていた。この耳がつかめたら引きずり倒せるかもしれない。わしは飛びかかった。が、このぼてぼてのグラブにだまされて、二度も耳をつかみそこねてしまった。相手は殴りかかってきたが、そんなことは意に介せず、ふたたび耳をぎゅっとつかんだ。相手はばったり倒れた。わしはその上に倒れこんで、彼の頭を床にがつんとたたきつけてやった。居合わせた勇敢なイギリス人たちはどんなに喝采し、声をあげて笑ったことか! どんなにわしの背なかをたたいてくれたことか!
「このフランス人には互角の賭金だ」サドラー卿が叫んだ。
「反則だ」と相手はまっ赤な耳をこすりながら叫んだ。「ひどい手口でわしを倒したのだ」
「同じ手口をつかえばいい」ラフトン卿は冷ややかに言った。
「時間だ」サドラー卿が叫んだ。ふたたびわれわれは攻撃をはじめた。
相手の顔はまっ赤だった。小さな目はブルドッグのように狂暴で、顔面には憎しみがみなぎっていた。わしのほうは気楽に快活に振舞った。フランスの紳士は闘いはするが、憎むような真似はしない。わしは相手の前に堂々と立って、決闘でやるように一礼した。お辞儀には品位と礼儀の意味があるが、挑戦を意味することもある。わしはお辞儀にこの三つをことごとくふくめ、そのあとすぐ、肩をすくめていささか嘲笑を示してやった。この瞬間だ、彼が一撃を加えたのは。部屋がぐるぐるっとまわって、わしは仰向けに倒れた。だが即座に立ちあがって、互角に渡りあった。相手の耳を、髪の毛を、鼻を、つぎつぎに引っつかんだ。ふたたび戦闘の狂喜がわしの血管によみがえってきた。いつもの勝鬨が口をついてでた。
「皇帝陛下万歳!」と叫びながら、相手の鳩尾《みずおち》にがつんと頭突きをくらわした。敵はわしの頸に腕をからめ、片手でわしを押さえつけたまま、もう一方の手で殴りはじめた。わしが相手の腕にがぶりと噛みつくと、敵はあまりの痛さに悲鳴をあげた。「この男を離してくれ、ラフトン」と彼は叫んだ。「離してくれよ、おい! わしに噛みついているんだ!」みんながわしを引き離した。あのときの笑い声や、喝采や、称賛の言葉――どうしてそれが忘れられようか? 敵さえもわしに悪意を抱いていなかった。わしと握手をしてくれたからだ。わしのほうは、彼を抱いて頬ずりをした。それから五年たって、ラフトン卿から、この夜のわしのすばらしい振舞いが、いまなおイギリスの友人たちの記憶にあらたであると聞かされたものだ。
しかし、今夜、諸君にお話ししたいのは、わしがスポーツで大活躍をしたということではない。ジェーン・デイカー夫人と、夫人がもとで起こった奇妙な冒険のことだ。ジェーン・デイカー夫人はラフトン卿の妹君で、ラフトン家の女主人だった。わしがここにやってくるまでは、夫人も心細かったのではないかと思う。彼女は美人である上に洗練されていて、周囲の者たちとの共通点がまったくなかったからだ。事実、当時のイギリスでは多くの女性について同じことが言えるだろう。そのころの男ときたら、粗野で乱暴で、下品な上に、田舎じみた習性が身についていて、嗜《たしな》みなど、ろくに持ちあわせていなかった。だが女性となると、わしの知るかぎり、もっとも愛らしく、もっともやさしい人たちだった。このジェーン夫人とわしとは昵懇《じっこん》の間柄になった。それというのも、わしにはこのデヴォンシャーの男たちみたいに、晩餐のあとでポートワインを三本もあけるような真似ができなかったので、早々に夫人の客間へと引きさがり、ここで毎晩、彼女がハープシコードを演奏し、わしが故国の唄を歌うということになったからだ。こうした平穏な瞬間には、自分の連隊が、敬愛し、心服する指揮官を失って敵軍の前に取り残されているというみじめな思いから、一時的にせよ、逃避できたものだ。事実、わしはイギリスの新聞で、ポルトガルやスペインの国境で行なわれている華々しい戦闘の記事を読むたびに、髪の毛をかきむしりたい気持ちにおそわれた。不運にもウェリントン将軍の手に捕えられたばかりに、参戦の機会をことごとく失ってしまったからだ。
諸君、これまでのジェーン夫人についての話から、このあとどのようなことが起こったか、ご推察いただけよう。エティエンヌ・ジェラールは、思いがけずも美しい若い女性とつきあうことになった。これは彼にとってなにを意味することになるのか? 彼女にとってはどうなのか? 客人で、しかも捕われの身であるわしが、この家の主人の妹君に恋をするわけにはいかぬ。わしは万事控え目にして身をつつしんでいた。自分の感情を抑え、彼女の感情をつのらせないようにした。ただ、わしにとって気がかりなのは、ついうっかり本心を見せることがあったのではないか、ということだ。舌が沈黙していると、目がますます雄弁になるからだ。彼女の楽譜をめくるたびに指が小刻みに震えてしまう。この震えの一つ一つがわしの胸の秘密を物語った。だが夫人は――夫人は実にみごとだった。女性が人をあざむく天賦の才を持っているのは、まさにこの点だ。もしわしが彼女の胸の秘密を見ぬいていなかったら、彼女はわしがこの家にいることすら忘れている、と思いこむようなときもあった。何時間も、夫人は甘美な憂いにわれを忘れてすわりこんでいたものだ。わしはランプの灯りのなかで、彼女の青白い顔と鬢《びん》の巻き毛をうっとりと眺め、自分がこんなにも深く彼女の心を動かしたかと思って、内心ぞくぞくした。それからやっとのことでわしが口をきくと、夫人は椅子にすわったままぎくっとした。そしてわしがこの部屋にいるのに気づいてびっくりしたというそぶりを、実にみごとに装って、わしをじっと見つめるのだった。
ああ! どんなにかわしは、不意に彼女の足もとに身を投げだして、その白い手に口づけし、はからずも夫人の秘密を垣間見たが、信頼を裏切るようなまねは絶対にしない、と言ってやりたかったことか! だが、そうはいかぬのだ。わしの立場は彼女とちがっていた。わしは世に捨てられた敵として彼女の屋敷で世話になっているのだ。唇をしっかりと閉じたまま、夫人が見せてくれたすばらしい無関心のそぶりを真似ようとつとめた。しかし、諸君もご賢察のとおり、わしは夫人に奉仕する機会を熱心にうかがっていた。
ある朝、ジェーン夫人は馬車に乗ってオークハンプトンへ出かけた。わしは散歩がてら同じ道を歩いて行ったが、それというのも彼女が帰ってくるのに出会えるかもしれないと思ったからだ。冬もはじめのころで、土手の羊歯《しだ》はしおれかかっており、その下にそって走る道はくねくねと曲がっていた。ここダートムアは荒涼としたところで、大地は荒れ放題の上に岩だらけだ――風と霧の土地だ。わしはてくてく歩きながら、イギリス人が不機嫌になるのもむりはないと思った。わし自身の胸のうちも重苦しかった。そこで道ばたの岩に腰をおろして、荒涼とした景色を眺めているうちに、なんとなく心配な、不吉な思いにおそわれた。そのとき行く手の道のほうへ一瞥をくれると、突然ある光景が目にとまった。それはわしの、心からあらゆる雑念を追い払った。わしはすっくと立ちあがって、驚きと怒りの叫びをあげた。
道路の曲がり目にそって一台の馬車がやってきた。引いている小馬は全速力で疾走していた。馬車のなかにはほかならぬ、会いたいと思っていた夫人が乗っていた。彼女はなにか差し迫った危険から逃れようとする様子で、小馬に鞭をくれながら、たえず肩越しにうしろのほうへ目をやっていた。道が曲がっているので、彼女を脅《おびや》かしているものがなにか、わしには見えなかった。どういうことなのか、わけもわからず、わしは前へと走りでた。つぎの瞬間、追手の姿が目にはいった。わしはこの光景を見てますますたまげてしまった。それはイギリスの狐狩り用の赤い上着をきた紳士で、灰色の大きな馬にまたがっていた。まるで競馬みたいに、馬を全力疾走させていた。この駿馬の歩幅が長いため、懸命に逃げていく夫人の馬車にまもなく追いついた。紳士は身をかがめながら、小馬の手綱をぐっとつかんで、馬車をとめた。つぎの瞬間、彼は夢中になって夫人に話しかけていた。鞍にまたがったまま身を乗りだして熱心に喋っているのだが、夫人のほうは恐怖と嫌悪のそぶりで彼を避けていた。
これは、諸君もお察しのとおり、わしにはとうてい黙視できぬ光景だった。ついにジェーン夫人のお役にたつ機会が訪れたと思うだけで、なんとわしの胸はわくわくと高鳴ったことか! わしは走った――ああ、なんとまあ、必死に走ったことか! とうとう、息をきらし、口もきけないありさまで、馬車まで辿りついた。男はイギリス人の青い目でちらりとわしのほうを見たが、話に夢中になっていたので、わしには気をとめなかった。夫人も一言も口にしなかった。彼女はなおものけぞるような姿勢で、その美しい青白い顔は男をじっと見つめていた。彼はなかなかの好男子で、上背があり、たくましく、褐色に日焼けしていた。この男を見たとたん、わしは嫉妬のうずきを覚えたものだ。彼はイギリス人が真剣なときにするように、低声《こごえ》で早口に話していた。
「ねえ、ジニー、君なんだ、君だけなんだ、ぼくが愛しているのは」男は言った。「恨まないでおくれ、ジニー。過ぎさったことは水に流して、さあ、もうすんだことだと言っておくれ」
「いえ、いけませんわ、ジョージ、とてもそんなこと!」夫人が叫んだ。
暗い赤い色が彼のハンサムな顔をおおった。男はかっとなって言った。
「どうして許してくれないのだ、ジニー?」
「過去が忘れられないのでございます」
「なんだと、忘れなければいかん! これまでずいぶんと頼んできた。もう命じてもいいころだ。ぼくにも権利がある。わかったかね?」彼の手が夫人の手首をつかんだ。
やっと、わしは息がつけるようになった。
「ジェーン様」わしは帽子を取りながら言った。「なかに割ってはいりましょうか、それともなにかお役にたつことがございますか?」
だが二人とも、まるで両者の間でぶんぶん唸っている蝿ほどにも、わしのことは気にかけなかった。二人の目はぴたりと釘づけになっていた。
「いいかね、ぼくにも権利がある。ぼくは長いこと待っていたのだ」
「おどしてもむだですわ、ジョージ」
「折れてくれないか?」
「いいえ、とんでもないことです!」
「それが最後の返答かね?」
「はい、さようでございます」
彼は痛烈な呪いの言葉を吐いて、夫人の手を突きはなした。
「よろしい、この件についてはとくと考えてみることにしよう」
「おそれいりますが」とわしは威厳を見せて言った。
「えい、くたばってしまえ!」彼はわしのほうに怒り狂った顔をむけて言った。つぎの瞬間、馬に拍車をあてたかと思うと、もと来た道を疾駆していた。
ジェーン夫人は紳士の姿が見えなくなるまで見送っていた。夫人が眉をひそめることなく、にっこりと微笑んでいるのを見て、わしは意外に思った。それから彼女はわしのほうへ振りむいて、手を差しのべた。
「ほんとうにご親切さま、ジェラール大佐。ご好意からだと思いますわ」
「ジェーン様」わしは言った。「あの紳士の名前と住所を教えていただければ、二度とあなたにご迷惑をかけぬよう取り計らいますぞ」
「騒ぎたてないでほしいのです」彼女は叫んだ。
「ジェーン様、わたしはそこまでわれを忘れるような真似はいたしません。ご安心ください。こうした事件では、いかなる婦人の名前も口外いたしませんから。あの紳士から『くたばってしまえ』と言われたおかげで、こちらから喧嘩のたねをでっちあげる手間がはぶけました」
「ジェラール大佐」夫人は真顔になって言った。「軍人として、また紳士として、ぜひお約束していただきたいのです。この件はここだけの話にしておくことと、いましがたごらんになったことは兄に一言もお話しにならないということです。約束なさってください」
「ぜひともと仰《おっしゃ》れば」
「約束は守っていただきます。ではハイ・クームまでご同道いたしましょう。みちみちご説明申しあげますから」
彼女の説明の最初の言葉が剣の切っ先のようにぐさりとわしに突きささった。
「あの紳士はわたしの夫でございます」
「あなたのご主人!」
「わたしが既婚の身であるのは、とうにご存知のことでしょう」夫人はわしが動揺するのを見てびっくりした様子だった。
「存じませんでした」
「あの人がジョージ・デイカー卿でございます。わたしどもは二年前に結婚いたしました。わたしがどんなにひどい仕打ちをうけたかは、お話しする必要はございません。わたしは夫のもとを去り、兄の屋敷に逃れてまいりました。今日という日まで、あの人はうるさいことを言ってまいりませんでした。なんとしてもわたしが避けなければならぬのは、夫と兄とが決闘することでございます。考えただけでもぞっといたします。こういうわけですから、ラフトン卿には、今日たまたま夫に出あったことをお話ししていただきたくないのでございます」
「もしわたしの拳銃がこの迷惑からあなたを救えれば――」
「いえ、いえ、そのようなことはお考えになってはなりません。ジェラール大佐、約束をお忘れになりませんように。ハイ・クームに着きましたら、先ほどごらんになったことは一言たりと仰らないで!」
彼女の主人だって! わしはこれまで、彼女のことをてっきり若い未亡人だと思いこんでいた。
「くたばってしまえ」とほざいたあの日焼け面をした畜生が、鳩のようにやさしいこのご婦人の夫だとは! ああ、夫人があの憎むべき係累《けいるい》から彼女を解放することをわしに許してくれさえしたら! わしが彼女にしてあげられるほど、手っとり早くて確実な離婚はない。だが約束は約束だ。わしは文字どおり約束を守り、口はかたく閉じていた。一週間すると、わしはプリマスからフランスのサン・マロに送り返されることになっていた。そうなれば、この話のつづきを耳にすることはもうあるまいと思った。ところが運命のいたずらで、これには続編があって、わしがはなはだ愉快な、名誉ある役割を演ずることになったのだ。
この事件からわずか三日後のこと、ラフトン卿があわただしくわしの部屋に飛びこんできた。顔面は蒼白で、ひどく取り乱したようすだった。
「ジェラール君、ジェーン・デイカー夫人を見かけませんでしたか?」
夫人とは朝食のあとで顔をあわせたが、いまはもう正午だった。
「まちがいなくこれは、あの悪党めの仕業だ!」気のどくにもわしの友人は、まるで狂ったように駆けまわりながら叫んだ。「いましがた土地管理人がやってきて、二頭立ての幌つき馬車が全速力でタヴィストック街道を走っていくのを見た、と知らせてきた。鍛冶屋《かじや》は馬車が仕事場の前を走りぬけるとき女の悲鳴を聞いている。ジェーンは消えてしまった。きっと妹はあの悪党のデイカーにかどわかされたにちがいない」ラフトン卿は手振りのベルを激しく鳴らし、「ただちに馬二頭、用意せいっ!」と叫んだ。「ジェラール大佐、拳銃を! もしジェーンが今夜、グラヴェル・ハンガーからわたしといっしょに戻らなければ、ハイ・クームの屋敷はあらたな主人を迎えることになろう」
そこでわれわれは三十分もたたぬうちに、昔の武者修行の騎士よろしく、夫人を窮状から救うために乗りだして行った。デイカー卿が住んでいるのはタヴィストックの近くだった。街道筋の家々や通行料徴収所で、われわれの前に駅馬車が飛ぶように疾走して行ったという情報を耳にした。だから二人の行き先については疑う余地がなかった。馬を進めながらラフトン卿は、いまわれわれが追跡している男について、話してくれた。この男の名はイギリス中で、あらゆる種類の悪事を意味する代名詞として評判になっているようだ。酒、女、さいころ、トランプ、競馬――ありとあらゆる道楽で、彼は悪評を得ていた。由緒ある、りっぱな家柄の出で、ラフトン家の美しいジェーン姫と結婚したら、若さゆえの放蕩もおさまるものと思われた。数カ月の間は、いかにも神妙にふるまっていたが、その後、夫人の感情のもっとも敏感なところをつまらぬ不義密通で傷つけた。彼女は家を出て、兄のもとに身を寄せた。ところがその庇護のもとから、いまいちど、本人の意思に反して連れだされたというわけだ。ラフトン卿とわしとは一つの使命を帯びて馬を進めて行ったが、男子としてこれ以上りっぱな使命を帯びた者がこれまでにはたしていただろうか?
「あれがグラヴェル・ハンガーだ」ラフトン卿は鞭で差し示しながら叫んだ。見ると、青々とした丘の中腹に煉瓦と木で造られた古い建物があって、イギリスの田舎の邸宅にしか見られない美しさがあった。「庭園の門の近くに旅籠屋《はたごや》がある。そこに馬をあずけることにしよう」と彼が付け加えて言った。
わしとしては、これだけの大義名分があるのだから、大胆に玄関へ馬を乗りつけて、夫人を引きわたすよう要求するのが筋だろうと思った。だがこれはわしのまちがいだった。イギリス人だれしもが怖れる唯一のものは法律だ。イギリス人は自分で法律をつくるのだが、いちど法律ができあがると、それは怖るべき暴君となって、どんなに勇敢な者でもその前では怖じ気づくのだ。イギリス人は自分の頸の骨を折ってもにっこりしていられるが、法律を犯すとまっ青になる。ところで、庭園のなかを歩きながらラフトン卿が話してくれたところによると、われわれはこの件にかんして法律上不利な立場にある、ということらしかった。デイカー卿が自分の妻をさらって行ったとしても、夫人は疑いもなく彼のものだから正当な行為であり、われわれの立場はいまや、強盗か不法侵入者同然になりさがってしまった。強盗が公然と表玄関に乗りつけるのは穏当でない。力ずくか、策略で夫人を連れさることはできようが、法律上の権利として連れさることはできない。法律上、われわれは不利な立場にあるからだ。以上のことは、二人して屋敷の窓近くの人目につかぬ植込みに忍び寄って行くとき、わしの連れが説明してくれた事柄だった。ここからだと、この要塞ともいうべき屋敷を念入りに調べることができたので、この屋敷に足場がつくれるかどうか、とりわけ、なかにいる麗しい捕虜と連絡がとれるかどうか、試すことにした。
そこでラフトン卿とわしは植込みに隠れたまま、乗馬服のポケットに拳銃を忍ばせ、夫人を連れずには決して引きかえすものかと、心のなかに断固たる決意を抱いていた。われわれはこの広々とした屋敷の窓という窓を懸命に見まわしたが、捕虜のいる気配も、いや人間のいる気配すら認められなかった。だが玄関前の砂利道には馬車の車輪の轍《わだち》が深く刻まれていた。二人が到着したのは疑う余地がなかった。月桂樹の茂みのなかにしゃがみこんで、われわれはひそひそ声で作戦会議を開いたが、奇妙な邪魔がはいって会議が中断された。
屋敷の玄関から、背の高い、亜麻色の髪をした男がずかずかと出てきた。それこそ選抜歩兵中隊の右翼に選びたいような体格だった。この男が日焼けした顔と青い目をこちらにむけたので、デイカー卿だとわかった。彼は大股に砂利道を歩きながら、われわれが潜んでいるところを目ざして一直線にやってきた。
「出てこい、ネッド!」と彼が叫んだ。「猟場の番人に散弾を一発ぶちこまれるぞ。おい、出てこい。茂みのかげにこそこそ隠れたりするな」
こうなると、われわれの立場はあまり格好いいものでなかった。わしの連れは気のどくにも顔をまっ赤にして立ちあがった。わしも素早く立ちあがり、できるだけ威厳を取りつくろって一礼した。
「やあ! 先ほどのフランス人じゃないか?」デイカー卿はわしに返礼もしないで言った。「奴には言ってやりたいことがある。ところでネッド、君がやっきになって追いかけてくることはわかっていたから、こちらからお待ちしていたというわけだ。君が庭園を横ぎって、植込みに隠れるところはこの目で見た。さあ、家のなかにはいってこい。腹を割って話そうじゃないか」
どうやら勝負は、このハンサムな巨漢に分があるように見えた。デイカー卿がホーム・グラウンドで悠々と立っているところに、われわれは物陰からこそこそ出てきた。ラフトン卿は一言も口をきかなかったが、わしにはその曇った眉間と陰鬱な目の色から嵐の襲来が読みとれた。デイカー卿が先に立って屋敷にはいり、われわれはすぐそのあとについて行った。彼は樫材の鏡板を張った居間へわれわれを案内し、はいると扉を閉めた。それから、傲慢《ごうまん》な目つきでわしの頭のてっぺんから爪先まで、じろじろと眺めまわした。
「いいか、ネッド、かつてイギリスの家庭では、一家の問題は自分たちの流儀で結着をつけたものだ。この外国人は、君の妹とわしの妻にどういう関係があるのかね?」
「デイカー卿」とわしは口をはさんだ。
「わたしに言わせていただければ、これはたんに妹とか妻とかいった事件ではありません。わたしは問題になっているご婦人の友人です。わたしには世のすべての紳士と同様、女性を残酷な行為から保護する特権があります。わたしがあなたのことをどう思っているか、ほんの仕草一つでごらんにいれましょう」わしは乗馬用の手袋を手に持っていたので、これで相手の顔をぴしっと打った。彼は苦笑しながらあとずさりしたが、その目は石のように冷ややかだった。
「すると、君は用心棒を連れてきたってわけだな、ネッド?」デイカー卿は言った。「いざ決闘という場合には、すくなくとも自力で闘ってもらいたいものだ」
「もちろん、そうするとも」とラフトン卿は言った。「いま、この場で」
「この大ぼら吹きのフランス人を殺《や》っつけたら」デイカー卿はこう言った。そしてつかつかとサイド・テーブルに歩みより、真鍮張りのケースを開けた。「確かにこの男か、わしのどちらかが、この部屋から死体として運びだされることになる。ネッド、わしは君に好意を持っていた。ほんとうだとも、だが、わしの名前がジョージ・デイカーであるのと同じぐらい確かに、君の腰巾着を撃ち殺してみせるぞ。さあ、好きな拳銃を選んで、このテーブル越しに撃ってきたまえ。銃弾《たま》ははいっている。まっすぐ狙って、殺せるものなら殺してみろ。もし仕損じたら、貴様の命はそれまでだぞ」
ラフトン卿がこの喧嘩を買って出ようとしたがむだだった。二つのことがわしの頭のなかではっきりしていた――一つは、ジェーン夫人がなににもまして、夫と兄の決闘を怖れていたこと、いま一つは、わしがこの大男の貴族を殺《や》っつけることさえできれば、万事めでたく落着するということだ。ラフトン卿はデイカー卿などに用はない。ジェーン夫人も彼には用がない。だから、二人の友人であるこのエティエンヌ・ジェラールが、これまでの恩返しに、この邪魔ものを片づけてやろうと思ったわけだ。だが実際の話、これよりほかに方法はなかった。デイカー卿はわしに銃弾を撃ちこみたくてむずむずしていたし、わしはわしでデイカー卿に一発お見舞いしたくてたまらなかったからだ。ラフトン卿が反論し、がみがみ怒鳴ってもむだだった。われわれの決闘はやめるわけにいかないのだ。
「では、どうしてもわたしでなくて、わたしの客人と決闘したいのなら、明日の朝、立会人を二人つけて行なったらどうだ」たまりかねてラフトン卿が大声で言った。「これではテーブル越しの人殺しにすぎん」
「だがね、ネッド、このほうがわしの性に合っているんだ」デイカー卿が答えた。
「わたしもだ」わしも言った。
「それなら君らの勝手にしたまえ」ラフトン卿が叫んだ。「いいかね、ジョージ、もしこういう状況のもとでジェラール大佐を射殺すれば、君は裁判官としてでなく、被告人として法廷に立つことになるぞ。わしは決闘の介添人などごめんだ。絶対にことわる」
「わたしは介添人なしでやる覚悟は十分にできています」わしは言った。
「それはいかん。法律違反だ」デイカー卿が叫んだ。「さあ、ネッド、くだらんことを言うな。わしらは決闘するつもりなんだぞ。えい、畜生、君にやってもらいたいのはハンカチを落とすことだけなんだ」
「この件に関わりあいになるのはごめんこうむる」
「ではだれかを捜さなけりゃならん」デイカー卿は言った。彼はテーブルの上にある拳銃にさっと布を掛けて、振鈴を鳴らした。従僕がはいってきた。「バークレー大佐にこちらへいらっしゃるように伝えてくれ。撞球室におられるはずだ」
すぐに背の高いやせたイギリス人がはいってきた。りっぱな口ひげをたくわえていたが、これはいつもひげをきれいに剃っているこの国の人にしては珍しかった。その後聞いたところでは、ひげをはやすのは近衛兵と軽騎兵だけだそうだ。このバークレー大佐は近衛連隊の軍人だった。大佐は一見したところよそよそしく、疲れて、元気がなく、気どった喋りかたをする人物で、その大きな口ひげから長くて黒い葉巻を、まるで藪からにょつきりとでた棒のように突きだしていた。彼はわれわれ二人をつぎつぎに、いかにもイギリス人らしく冷ややかに眺めまわした。われわれの意向を聞かされても、驚いた様子はまったく見せなかった。
「なるほど」大佐は言った。「なるほど」
「バークレー大佐、わしは介添に立つことをお断わりする」ラフトン卿が叫んだ。「いいですか、この決闘はあなたがいなければ成立しないはずです。しかもなにかが起これば、あなた個人の責任になるのですぞ」
バークレー大佐はこういう問題では権威のように見えた。彼は口から葉巻を離し、よそよそしい、気どった声で独断的な意見をのべた。
「事態は尋常とは申せませんが、不法ではありませんな、ラフトン卿。こちらの紳士が殴打を加え、それをもうひとかたの紳士がお受けになった。これが明白な事実です。日時と条件は名誉回復の決闘を要求なさるかたが決めることです。たいへん結構です。ご本人はいまここで、テーブルをはさんで決闘したいとおっしゃっています。それはこのかたの権利の範囲内の行為です。わたしはこの責任をお引き受けする覚悟でおります」
これではもう、なにも言う余地がなかった。ラフトン卿は部屋の隅に腰をおろしてふさぎこんでいた。眉をひそめ、両手は乗馬ズボンのポケットに深々と突っこんだままだった。バークレー大佐は二挺の拳銃を丹念に調べ、テーブルの中央に置いた。デイカー卿が一方の端に、そしてわしが反対側の端に立ち、両者の間には八フィートのぴかぴかのマホガニー材のテーブルがあるだけだった。長身の大佐は暖炉に背をむけ、敷物の上に立ったまま、左手にハンカチを持ち、右の指に葉巻をはさんでいた。
「わたしがハンカチを落としたら」大佐が言った。「拳銃をつかんで、勝手に撃ってください。用意はいいですか?」
「いいとも」われわれは叫んだ。
大佐の手が開いて、ハンカチが落ちた。わしはさっと身を乗りだして、拳銃をつかんだ。だがテーブルの幅が、いま言ったように八フィートあったので、この腕の長い貴族のほうが、わしより拳銃をつかむのに有利だった。わしがまだ上体を起こさぬうちに、デイカー卿は発砲した。まさにこの姿勢のおかげで、わしは命びろいしたのだ。もし上体を起こしていたら、銃弾がわしの脳味噌を打ち砕くところだった。実をいうと、わしの髪の毛のなかをひゅうっという唸りをたてて飛んでいったのだから。この瞬間、わしが発砲しようと拳銃を持ちあげたとたんに、扉がぱっと開いて、二つの腕がわしに絡みついた。わしの顔をじっと見上げているのは、紅潮し、逆上したジェーン夫人の美しい顔だった。
「お撃ちにならないで! ジェラール大佐、わたしに免じて撃たないで」夫人は叫んだ。「誤解していましたの、そう――誤解だわ! あのかたは最高の夫、最愛の夫ですわ。二度とあのかたのおそばから離れません」彼女の手がわしの腕をするすると滑りおりて、拳銃をつかんだ。
「ジェーン、ジェーン」とラフトン卿が叫んだ。「わしといっしょに来なさい。お前はここにいてはいかん。さあ行こう」
「なんともはや、妙なことになったわい」バークレー大佐が言った。
「ジェラール大佐、お撃ちにはなりませんわね? 主人が怪我でもしたら、わたしの胸は張り裂けてしまいますわ」
「ああ、じれったい、ジニー、この男に尋常の勝負をやらせなさい」デイカー卿が叫んだ。「彼は男らしくわしの射撃に立ち向かったのだ。彼の邪魔をしてはいけない。なにごとが起ころうと、不当な目にあうことはないはずだ」
しかしこのときすでに、わしと夫人との間には目くばせが交されていて、これが彼女にすべてを語っていた。夫人の両手がわしの腕からそっと離れた。「わたしは主人の生命とわたしの幸福をジェラール大佐におあずけいたします」
この見上げた女性は、なんとまあ、わしを知りぬいていたことか! わしは拳銃の撃鉄を起こしたまま、一瞬決断しかねてたたずんでいた。相手は勇敢に面とむかって、その日焼けした顔にも、大胆な青い目にも、たじろぎ一つ見せることがなかった。
「さあ、さあ、撃ちなさい!」大佐が敷物の上から叫んだ。
「では、やってもらおう」デイカー卿が言った。
すくなくともわしは、自分の腕がいかに完全にデイカー卿の生命を掌握しているか、一同に見せてやりたいと思った。これだけのことは、自尊心にたいしてもやる義務がある。いい標的はないかと、あたりを見まわした。大佐はわしの相手のほうへ顔をむけて、彼が倒れるところを見とどけようとしていた。大佐の顔は、わしから見ると横むきになっていた。長い葉巻が唇から突きでていて、灰が一インチほど先端に残っていた。電光石火の早業で、わしは拳銃をかまえて撃った。
「灰を落とさせていただきました」わしはこう言って、イギリス人の間では見られない優雅なお辞儀をした。
このときの失敗はあくまでも拳銃のせいで、わしの狙いが悪かったのではないと確信している。大佐の唇から半インチもないところで、葉巻がぷっつり断ち切られたのを見たとき、わしは自分の目が信じられないほどだった。彼は焦げた口髭から、ぎざぎざになった葉巻の吸い差しを突きだしたまま、目をまるくしてわしを見つめていた。いまでもわしは、大佐の間のぬけた怒った目と、狼狽した細面の顔を思い浮かべることができる。それからすぐに、大佐は喋りはじめた。これはわしがいつも言っていることだが、イギリス人というのは、日常生活のそとへ押しだしてやれば、実際には鈍感な国民でも、無口な国民でもない。このときの大佐ほど活発に喋った人はいないだろう。ジェーン夫人は両手で耳をおおった。
「おい、おい、バークレー大佐」デイカー卿がきびしく言った。「すこしは慎みたまえ。この部屋には婦人がおられるのだから」
大佐はしゃちほこばって一礼した。
「もしデイカー夫人に、この部屋から退出していただければ」と彼は言った。「わたしが、このいまいましいフランス野郎に、奴と奴の小ざかしい手口をどう思っているか、たっぷり言い聞かせてやれるでしょうな」
このときのわしは実にすばらしかった。わしは大佐の言葉など無視して、彼をそこまで立腹させた理由だけを念頭においていた。わしは言った。
「この不幸な出来事にたいするわたしの弁明を率直に申しのべます。もしわたしが拳銃を撃たなかったら、デイカー卿の名誉に傷がつきかねないと思いました。だがこのご婦人の訴えを耳にした以上、ご主人に銃口を向けるのは、わたしにはとうてい不可能なことでした。そこであたりを見まわして、標的をさがしました。そしてまことに不運にも、あなたの口もとから葉巻を撃ち落としてしまいました。実を言うと、わたしの考えは灰を落とすこと、それだけでした。この拳銃には一杯食わされました。以上がわたしの釈明です。この陳謝をお聞きになって、なおかつ、わたしが名誉回復の決闘に応じる義務があるというお考えならば、この要求にたいし、わたしが拒否できないことは申すまでもありません」
わしのとった態度はたしかに魅力溢れるもので、ここに居合わせた人びとの心をぐっとひきつけた。デイカー卿は進みでて、わしの手をかたく握りしめて言った。「いや、まったく、わしはフランス人にたいして、いまあなたに抱いているような気持ちを抱こうとは夢にも思いませんでした。あなたは男らしいかたです。しかも紳士です。これ以上申しあげることはありません」
ラフトン卿はなにも言わなかったが、その力強い握手は彼の胸中をあまさず物語っていた。バークレー大佐までがわしに敬意を表し、あの不運な葉巻の件はもう忘れよう、とはっきり言ってくれた。そして夫人は――ああ、もし彼女がわしにむけた表情―― 上気した頬、うるんだ目、小刻みに震える唇を諸君に見せてあげられたら! わが麗わしのジェーン夫人を思い起こすとき、瞼に浮かんでくるのはこのときの面影だ。わしは晩餐までいてほしいと言われたが、諸君もおわかりのとおり、ラフトン卿にせよ、わしにせよ、もはやグラヴェル・ハンガーに留まる理由はなかった。この和解した夫婦は二人きりになりたいのだ。馬車のなかで、夫は妻に心から悔い改めていることを得心させた。ふたたび彼らは相愛の夫婦となったのだ。もし二人がこのままでいるのなら、おそらくはわしが去るにしくはない。どうしてわしにこの家庭の平和が掻き乱せようか? 不本意なことだが、わしがこの場に居合わせるということだけで夫人の心に影響をあたえるかもしれない。いや、いや、わしは思いきって立ち去らねばならぬ――夫人の説得をもってしても、わしを引きとめることはできなかった。
何年かのちに、わしはデイカー夫妻一家がイギリスでもっとも幸福な家庭の一つに数えられ、二度とふたたび彼らの人生に暗雲がかかることがなかった、という話を耳にした。だがおそらく、デイカー卿が夫人の心中を見抜くことができたら――いや、もうこれ以上は言うまい! 女性の秘密とは彼女だけのものだ。ジェーン夫人とその秘密は、とうの昔にデヴォンシャーのどこかの墓地に埋葬されていることだろう。おそらくあの陽気な仲間も皆いなくなって、ジェーン夫人はいまでは退役したフランスの老准将の思い出のなかに生きているだけだ。すくなくともこの老将は決して忘れることができないのだ。
[#改ページ]
第六話 ジェラールがミンスクに乗りこんだ話
諸君、今夜のわしは強いワインを飲《や》りたいね。ボルドーよりブルゴーニュ産のワインのほうがいい。わしの心が、この老兵の心がめいってならんのだ。まったく奇妙なもんだ、このいつのまにかに寄る年波というやつは。こればかりはだれにもわからんし、理解がいかん。精神のほうはさっぱり変わらないから、肉体がみじめにくずれゆく過程が思いおこせないのだ。ところが、はたと思い知らされるときがくる。振りまわす剣のひらめきのようにすばやく、はっきりとわかる瞬間がやってくる。そしてわれわれの過去の姿と現在の姿がわかるのだ。そうだ、今日がそれだった。今夜はブルゴーニュのワインを飲りたい、白のブルゴーニュ――モンラッシェだ――いや、ご散財をかけますな!
実は今朝、練習場でのことだ。老人が愚痴をこぼすのは、諸君、なにとぞご容赦ねがいたい。諸君は閲兵式をごらんになったろう。実にすばらしかったじゃないか。わしは勲章|佩用《はいよう》の退役将校席におった。この胸の略綬《りゃくじゅ》がわしのパスポートだ。勲章は革の袋に入れて家にしまってある。今日は大いに面目をほどこした。なにしろ、われわれの席は敬礼を受ける場所にあって、皇帝陛下と御料《ごりょう》馬車がわれわれのすぐ右手だったからな。
わしはもう何年もの間、閲兵式に行ったことがない。目に入るものがなにかと気にいらんのだ。たとえば、歩兵の赤いズボンが気にくわん。昔は白いズボンをはいて戦ったものだ。赤は騎兵と決まっておる。もうすこしすれば、歩兵はわれわれ軽騎兵の毛皮帽や拍車を欲しがることだろう! もしわしが閲兵式に出かけて行ったら、このエティエンヌ・ジェラールがこれを大目に見たと言われてもいたしかたあるまい。そこでわしは家に引っこんでいた。だが今度のクリミア戦争は別だ。兵士が戦場へ行くのだ。勇士が集結するというのに、わしが欠席するわけにいくまい。
いやまったく、みごとな行進をするもんだ、あの小柄な歩兵どもは! 体こそ大きくないが、とてもがっしりしている。それに態度がりっぱだ。歩兵が行進してゆくとき、わしは脱帽して敬意を表した。そのあと、大砲が出てきた。りっぱな大砲だった。引く馬も、砲手も申しぶんがない。わしは彼らに脱帽した。ついで、工兵隊があらわれた。わしは彼らにも脱帽した。工兵ほど勇敢な兵士はいないからな。そのあとやってきたのは騎兵隊――槍騎兵、胸甲騎兵、追撃兵、それにアルジェリア騎兵だった。彼ら全員につぎつぎとわしは脱帽できたが、アルジェリア騎兵にだけはこれを差し控えた。皇帝陛下はアルジェリア騎兵をお持ちでないからだ。ところで、これらの部隊が全部通りすぎたあと、最後になにがやってきたと思うかね? 軽騎兵の旅団さ。しかも突撃の態勢でだ! ああ、諸君、この誇り、この誉れ、この美しさ。このときの閃光と火花、馬蹄のとどろきと鉄鎖のひびき、風になびくたてがみと気品のある馬の顔、もくもくと立ちのぼる埃《ほこり》と躍動する軍刀の波! わしの心臓は軽騎兵の行進にあわせてどきどきと鼓動した。そしてしんがりは、なつかしいわが連隊ではないか。わしの目は、豹の毛皮の鞍覆いにまたがった銀鼠《ぎんねず》の上着にとまった。とたんに歳月が消えさって、わしのすばらしい部下とその馬が若い連隊長を追って疾駆し、若さと力を誇示した四十年まえの情景がまぶたに浮かんだ。わしは杖を振りあげた。「突撃! 前進! 皇帝陛下万歳!」これは過去が現在に呼びかけているのだ。だが、ああ、なんというかぼそい甲高い声だ! これがかつては大旅団の両翼にまでとどろきわたった声なのか? そして一本の杖すらまともに振りまわせないこの腕、これが強力なナポレオン軍のなかでも匹敵するもののなかった鉄火の筋肉なのか?
彼らはわしを見て微笑した。喝采してくれた。皇帝陛下は笑って会釈をされた。だがわしにとって、現在とはおぼろな夢のことで、実在するのは、今はなきわが八百騎の軽騎兵と遠い昔のエティエンヌだ。もう、やめておこう――勇士たるものは、コサック騎兵やドイツ槍騎兵にたいするように、老齢や運命にも立ちむかうことができるのだ。だがモンラッシェのほうがボルドー・ワインよりも結構なときだってあるのだ。
彼らが出かけていくのはロシアだ。そこで一つ、ロシアの話をしてあげよう。ああ、なんという悪夢に思えることか! 血と氷。氷と血。頬ひげに雪がつもった獰猛《どうもう》な顔、顔、顔。救いをもとめて差しだすいくつもの青白い手。そして白い大平原を黒い長蛇の列がとぼとぼと足どりも重く、百マイル、さらにまた百マイルと進む。それでも依然として白い大平原だ。ときには樅《もみ》の林が大平原のかなたに姿を見せ、ときには大平原が寒々とした青空にまで広がっていた。それでも黒い列はよろめきながら前進をつづける。この疲れた、ぼろぼろの、ひもじい兵士たちは、寒さのために気力も喪失して、右にも左にも目を向けなかった。やせこけた顔で背をまるめ、さながら手負いの獣がその巣にもどるように重い足を引きずりながら、ひたすら祖国フランスを目ざして前へ前へと進んで行った。口をきく者もなかった。足を引きずる音も雪のなかではほとんど聞きとれないのだ。いちどだけ、彼らが笑うのを聞いた。ウィルナ郊外のことで、一人の副官がこのみじめな長蛇の列の先頭まで馬をとばして、これがナポレオン軍なのか、とたずねたときだ。この言葉を耳にした者は一人残らず、あたりを見まわした。そして敗残の兵士たち、壊滅した連隊、それに毛皮帽をかぶった骸骨のようなかつての親衛隊が目に入ると、彼らはげらげらと笑った。この笑いが、まるで野火のように、つぎつぎと縦隊の列に伝わっていった。わしはこれまでにずいぶんと、呻いたり、叫んだり、悲鳴をあげたりする声を耳にしてきたが、このナポレオン軍の笑い声ほど身の毛のよだつものはなかった。
しかし、この無力な兵士たちが、どうしてロシア軍による全滅をまぬがれたのだろうか? なぜコサック騎兵の槍で血祭りにあげられたり、家畜の群れのように駆り集められ、捕虜としてロシアの奥地へ追いやられたりしなかったのだろう? 雪原をゆく黒い長蛇の列を見ていると、その周辺にもやはり黒い影法師が動いており、隊列の側面と背後にちぎれ雲のように出没していた。これがコサック騎兵で、狼が羊の群れを狙うようにわれわれにつきまとっていた。しかし彼らが襲いかからなかったのはなぜかというと、ロシア中の氷雪をもってしても、わが軍のつわものどもの熱い心を冷ますことができなかったからだ。この兇暴な騎兵とその餌食の間に進んで身を投げだそうとする者が、最後までたえずいたからだ。とりわけ一人の人物は、危険が高まるにつれてますます偉大な頭角をあらわし、軍の先鋒をひきいて勝ち進んだときよりも、むしろ悲運のなかで高い名声を勝ちえたのだ。この人物のためにわしは乾杯する――赤いたてがみのライオン、ネー元帥のために。元帥が肩ごしにぐっとにらみつけると、敵は怖れをなして近づくこともできなかった。わしはいまでも元帥が、大きな白い顔を怒りでふるわせ、淡青色の瞳を火打ち石のようにきらめかせ、銃火のとどろきのなかにあって破鐘《われがね》のような大声で吼えたてる姿を思いうかべることができる。元帥愛用の羽根飾りのない、つやつやした三角帽は、あの怖るべき時代に祖国フランスが再起をはかる旗じるしになっていた。
諸君もよくご存知のように、わしも、またコンフラン軽騎兵連隊も、モスクワには行かなかった。われわれはボロディノの兵站《へいたん》線にとどまっていた。どうして皇帝陛下がわれわれを置きざりにして前進することができたか、わしには理解しかねる。事実、わしはこのときはじめて、陛下の判断力がおとろえだし、陛下がもはや昔日の陛下でないことがわかった。それでも軍人は命令にしたがわねばならない。そこでわしはこの村にとどまった。ところでこのボロディノという村には、大会戦のために生命を失った三万の死骸の毒気が漂っていた。わしは軍馬の体調を整えたり、部下の軍服を調達したりして晩秋をすごしたので、前線の友軍がボロディノに退却してきたとき、わしの軽騎兵連隊は最強の騎兵隊として、ネー元帥のもとで後衛を仰せつかった。あの怖るべき時代にわれわれがいなかったら、元帥はいったい何ができただろう? 「ああ、ジェラール」ある晩、元帥が言った――だがわしがこの言葉を繰りかえすのは適当でない。元帥は全軍の将兵が感じていたことを口にしたのだ、と言えば十分だろう。後衛が全軍を守り、コンフラン軽騎兵連隊が後衛を守っていた。まったくそのとおりだった。たえずコサック騎兵が襲ってきた。そのつど、われわれが彼らを撃退した。一日たりとも刃《やいば》の血をぬぐわぬ日はなかった。これが実際のところ、軍人の責務というものだ。
だがウィルナとスモレンスクの間で、なんとも手のほどこしようのない事態におちいった。コサック騎兵と、さらに寒さにたいしても戦うことはできたが、飢えとは戦えなかった。万難を排しても食糧を確保しなければならない。その夜、ネー元帥が寝泊りしている幌馬車にわしが呼ばれた。元帥は頬づえをついて大きな首をうなだれていた。心身ともに疲労|困憊《こんぱい》していた。
「ジェラール大佐、事態はきわめて深刻だ。兵士たちは飢えている。なんとしても食糧を確保せねばならん」
「それならば馬を」わしは提案した。
「君のところのわずかばかりの騎兵を除けば、馬など一頭もおらんのだ」
「では軍楽隊を」
元帥は絶望しながらも、からからと笑った。
「軍楽隊だと?」
「戦闘員は大事ですから」
「よし!」元帥は言った。「君は最後まで戦いぬく覚悟だな。わしだってそうだ。よし、ジェラール、よろしい!」元帥はわしの手をぎゅっと握りしめた。「ところで、ジェラール、わが軍にはまだ望みが一つだけ残されている」彼は幌馬車の天井から角灯をはずし、目の前に広げた地図の上においた。「わが軍の南方に、ミンスクという町がある。敵の脱走兵の話では、大量の小麦が町の公会堂に貯えてあるそうだ。そこで君が適当と考えるだけの兵士をひきいてミンスクへ出かけ、小麦を接収し、町で徴発した荷車に積んで、こことスモレンスクの間にいるわしのところまで運んできてもらいたいのだ。たとえ失敗しても、たかが一分遣隊の損失にすぎん。成功すれば、全軍にあらたな生命をもたらすこととなる」
元帥の表現は適切でなかった。というのは、もしわれわれが失敗すれば、それは明らかに一分遣隊の損失ではすまなかったからだ。量も大事だが、質も大事なのだ。それにしても、なんと名誉な使命、なんと光栄な冒険だろう! もし人間の手で持ってくることができるものなら、かならずこの小麦をミンスクから運んできてお目にかけます。わしはこう言って、勇士の任務について熱っぽい言葉を二、三まくしたてた。すると、元帥はいたく感動して立ちあがり、わしの肩を愛情こめてつかみ、幌馬車の外へとわしを送りだした。
わしにはっきりわかっていたのは、この企てを成功させるには少数の兵力を連れてゆき、頭数をそろえるよりも、むしろ奇襲に頼らなければならないということだった。大人数だと人目につきやすいし、その食糧を確保するのもきわめて困難な上に、周囲のロシア軍が全力を集中して、われわれを確実に壊滅させる行動にでるだろう。そうでなくて、もし騎兵の小部隊がコサック騎兵に見とがめられずに通過できれば、おそらくはもう、敵軍の抵抗にあうことはなかろう。ロシア軍の主力はわが軍の後方、数日の行軍を要する地点にいることがわかっていたからだ。この小麦は疑いもなく、彼らの消費に当てるものだった。軽騎兵一個中隊とポーランド槍騎兵三十騎、これだけをわしはこの冒険のために選んだ。その夜、われわれは野営地を抜け、ミンスクを目ざして南下した。
さいわい半月《はんげつ》の夜だったので、敵の攻撃をうけずに通過することができた。二度ほど、大きな火が雪のなかに燃えあがっていて、その周囲に長い棒が林立しているのが見えたた。これはコサック騎兵の槍で、眠っている間はまっすぐ突き立てていた。奴らのなかに突撃していけたらどんなに嬉しかったろう。奴らにはずいぶんと借りがあったからだ。僚友たちはわしから目をそらし、闇のなかで赤くゆらめく炎へ熱っぽい視線をむけた。正直なところ、わしも突撃したい誘惑にはげしく駆られた。コサック騎兵にたいし、フランス軍とはいつも数マイルの距離を保つ必要があるぞ、と教えてやれば良い教訓になっただろうから。しかしながら、一度に二兎を追わぬが兵法の要諦だ。そこでわれわれは雪のなかをしずしずと進み、コサック騎兵の野営地を左右に残して行った。背後の黒い空は一列に並んでいる炎のために、全体がまだら模様を帯びていた。この炎はあわれな友軍の兵士たちが、ふたたび悲惨と飢餓の一日を迎えるために、なんとか露命をつないでいこうとしているのを示していた。
一晩中、われわれは馬の尻尾を北極星にむけたまま、ゆっくりと進んで行った。雪のなかには馬の足跡がいくつもついていた。そこでわれわれはこの足跡をたどって行った。こうすれば、われわれ騎兵隊が通過したと気づく者はあるまい。これが百戦練磨の将校のちょっとした気くばりというものだ。それに足跡をたどってゆけば、たぶん、村に出られるだろうし、村に着けば食糧も手にはいるというものだ。
夜が明けるころ、われわれはこんもりと茂った樅《もみ》の林のなかにいた。樹木には雪が積もっていたので、日の光はほとんどわれわれのところへとどかなかった。この林を抜けだしたときには、もうすっかり夜が明けていて、朝日が大雪原のはずれから頭をだし、雪原を端から端まで真紅に染めていた。わしは配下の軽騎兵と槍騎兵を林の陰にとめて、地勢をじっくり観察した。われわれのすぐそばに、小さな農家が一軒あった。その先、数マイル離れたところに村があった。そしてはるかかなたの地平線上にかなり大きな町があって、教会の塔がいくつもそびえていた。これが、ミンスクだ。どの方向を見ても軍隊のいる気配はなかった。明らかにわれわれは、コサック騎兵の陣地を通過していたし、われわれと目的地の間にはなんらの障害もなかった。わしが現在の局面を部下に聞かせてやると、歓喜の叫びがいっせいに起こった。われわれは村へと急いで前進した。
だが、いま言ったとおり、われわれの目の前には小さな農家があった。われわれがこの農家のほうへ進んでゆくと、軍用の鞍をおいた灰色の駿馬が戸口のそばにつながれているのに気づいた。すぐにわしは馬を急がせたが、そこまで着かぬうちに一人の男が戸口から飛びだしてきて、ひらりと馬にまたがったかと思うと、さくさくする雪の煙を背後にもうもうと舞いあげながら、すさまじい勢いで走りさった。日光が男の金色の肩章にきらりと光ったので、ロシアの将校だとわかった。もし逃がそうものなら、この地方一帯が不穏になるだろう。わしは愛馬ヴィオレットに拍車をくわえ、一目散に追いかけた。部下の騎兵もあとにつづいた。だがこのなかにはヴィオレットに比肩しうる馬はなかった。だからわしがロシア将校を捕えそこねた場合、部下の援助は期待できぬことがよくわかっていた。
だがエティエンヌ・ジェラールがまたがったヴィオレットから逃げおおせるのは、よほどの駿馬であり、老練な騎手だ。この若いロシア将校は巧みな騎手で、馬もすばらしかったが、しだいにわしは相手を消耗させた。彼はたえず肩ごしに振りかえり――浅黒いハンサムな顔に鷲のような鋭い目が光っていた――さらに追いつめてゆくと、相手がわしとの距離を測っているのに気づいた。突然、将校がなかば振りむいた。閃光が走り、銃声がとどろいたかと思うと、拳銃の弾丸がわしの耳をびゅっとかすめた。相手が剣を抜くいとまもあたえず、わしは襲いかかった。だが彼はなおも馬に拍車をかけ、両者はならんで雪原を疾駆した。わしは自分の脚を将校の脚に押しつけ、左手で相手の右肩をつかんでいた。彼の手がさっと口もとへ走るのを見たとたん、相手を自分の鞍頭《くらがしら》にぐいと引きよせ、喉をつかんでなにも飲み込めないようにした。彼の馬は主人を残して走りさったが、わしはしっかりと彼を抱えていた。ヴィオレットは立ちどまった。軽騎兵連隊のウーダン軍曹がまっ先に追いついた。彼は老練な軍人だったので、わしの意中を一目で見てとった。
「しっかり押さえていてください。あとのことはわたしがいたしますから」
軍曹はさっとナイフを取りだして、その刃をロシア将校の食いしばった歯の間に差しこみ、一ひねりくれて口をこじあけた。舌の上には濡れた小さな紙粒があった。将校はこれを必死になって飲み込もうとしていたのだ。ウーダンが紙粒をつまみだしたので、わしは男の喉から手をはなした。なかば窒息しかかっていたが、将校がこの紙をちらりと見たときの様子から、これはきわめて重要な伝言だとわしは確信した。彼の手は、わしからこれをひったくろうとでもするかのように、ぴくぴく痙攣《けいれん》していた。それでもわしが粗暴な振舞いを詫びると、肩をすくめて、人のよい微笑を見せた。
「ところで用件だが」将校が咳ばらいをして痰を吐くのを見とどけてから、わしは言った。「姓名は?」
「アレクシス・バラコフ」
「階級と所属連隊は?」
「グロドノ竜騎兵隊の大尉」
「所持していたこの書面はなにか?」
「恋人にあてた手紙です」
「その恋人の名が」わしは宛名を調べながら言った。「コサック騎兵隊長プラトフというわけか。おい、おい、これは重要な軍事文書だ。君はこれを将軍から将軍へと届けにいこうとしている。どういう文面か、いますぐ言ってみたまえ」
「お読みになればわかります」将校は、教養のある多くのロシア人がそうであるように、完璧なフランス語を話した。だが彼は、ロシア語がすこしでもわかるフランス軍将校は千人中一人もいない、ということを十分に承知していた。
「プスティ・フランツーズィ・プリダート・フ・ミンスク。ムィ・ガトーヴ」
わしはじっと見つめていたが、首を振らざるをえなかった。そこで部下の軽騎兵たちに見せたが、彼らもかいもく見当がつかなかった。ポーランド兵は荒くれ者ぞろいで、読み書きはからきしだめだった。ただ軍曹だけは例外だったが、その男は東プロシャのメメル出身なので、ロシア語となるとさっぱりだった。わしはいらいらして気も狂いそうだった。なにしろ、わが軍の安危がかかっているかもしれない重大な秘密を手にしながら、その内容がさっぱりつかめないからだ。もう一度わしは捕虜となった将校に翻訳してくれと頼んだ。そして翻訳してくれたら放免しよう、と言った。将校はわしの要求をせせら笑うだけだった。わしは彼の態度に感服せざるをえなかった。もしわしが彼の立場だったら、まったく同じようにせせら笑ってみせただろうからだ。
「せめて、その村の名前ぐらい教えてくれないか」とわしは言った。
「ドブローヴァだ」
「で、むこうに見えるのがミンスクだろうな?」
「そうだ、あれがミンスクだ」
「では村へ行くことにしよう。そうすればその文書を翻訳してくれる者が、すぐにも見つかるだろう」
そこでカービン銃を持った騎兵を捕虜の左右につけて、われわれはいっしょに前進した。この村はほんの小さな村だった。わしは一本しかない街道の両端に歩哨を立てて、村人が抜けだせないようにした。部隊に停止を命じて、兵馬に食糧を見つけてやる必要があった。一晩中、行進してきたし、その先も長い行軍をつづけなければならないからだ。
この村の中心に大きな石造りの家があったので、わしはここへ馬で乗りつけた。そこは司祭の家だった――ここの司祭は薄汚い見苦しい老人で、われわれの質問になに一つ丁重な返事をよこさなかった。こんな醜男《ぶおとこ》は見たことがないが、驚いたことに、家事の切りもりをしている一人娘は大ちがいだった。彼女はロシアには珍しいブルネットの美人で、クリーム色の肌、漆黒の髪、それに実にみごとな黒い目をしていて、その目は軽騎兵を見るといつもきらきらと輝いた。一目見るなり、この娘はわしのものだと思った。軍人が任務を遂行しているとき、女性に言い寄るのは慎まねばならん。それでもわしは、目の前にだされた質素な食事をとりながら、この娘と快活にお喋りして、一時間もしないうちにすっかり仲よしになってしまった。ソフィーというのが娘の名だが、姓のほうは知らない。わしのことはエティエンヌと呼ぶように教えてやり、彼女の気持ちを引き立たせるようにしむけた。というのは、かわいい顔が悲しげで、美しい黒い目には涙が光っていたからだ。なんでそんなに悲しんでいるのか、わしは娘にむりに明かしてもらった。
「これがどうして悲しまずにいられましょうか?」娘は愛くるしい片言のフランス語で答えた。
「わたしの国の人があなたがたにつかまって捕虜になっているんですもの。あなたがたが村に乗りこんでいらっしゃるとき、二人の軽騎兵の間にはさまれているのを見ましたわ」
「これが戦の宿命《さだめ》というものさ」わしは言った。「今日は彼の番。だがひょっとすると、明日はわしの番だ」
「でも、考えてみてください、ムッシュー――」
「エティエンヌだよ」わしは訂正した。
「それでは」と娘は美しく上気した顔で必死になって叫んだ。「考えてみてください、エティエンヌ、その若い将校があなたの本隊に連れもどされて、餓死か凍死の憂き目にあうということを。だって、噂どおり、あなたのお国の軍人さんが苦しい行軍をなさっているとすると、捕虜の運命はどうなるのでしょう?」
わしは肩をすくめた。
「あなたはやさしそうな顔をしていらっしゃるわ、エティエンヌ」彼女が言った。「まさかあのかわいそうな人を殺したりなさらないでしょうね。お願いです、あの人を釈放してあげて」
娘の華奢《きゃしゃ》な手がわしの袖を押さえ、黒い瞳《ひとみ》が哀願するようにわしの目を見つめた。
突然ある考えが頭にひらめいた。娘の要求を認めてやろう。だが代わりにこちらの願いも聞いてもらおう。部下に命じて、捕虜をこの部屋に連れてこさせた。
「バラコフ大尉」わしは言った。「この若いご婦人が君を釈放してくれと、しきりに頼むのだ。で、わしもそうしようと思っている。一つ、君に捕虜の宣誓をしてもらいたい。むこう二十四時間はこの家にいて、われわれの行動を何者にも通報する手段はとらない、という宣誓をだ」
「宣誓します」大尉が答えた。
「では君の名誉心を信頼しよう。一人増えようと、減ろうと、大軍同士の戦いなら大勢に影響はあるまい。君を捕虜として連れて帰れば、死刑の宣告がくだされるだろう。さあ、むこうへ行きたまえ、そして君の感謝の気持ちをわしにではなく、君の手に落ちた最初のフランス軍将校に示してやってくれ」
彼が立ちさると、わしはポケットから例の文書を取りだした。
「ところでソフィー、君から頼まれたことはしてあげたよ。そこで今度はこちらからの頼みだが、一つロシア語の手ほどきをしてくれないか」
「ええ、喜んで」
「では、これからはじめよう」と言って、わしは彼女の前に文書を広げた。「これを一語ずつ見ていって、全体の意味を教えてくれないか」
娘は文書を見て、少々驚いたようだった。「この意味は、フランス軍がミンスクにくれば、万事休す、と言うことなの」突然、狼狽の色がその美しい顔をよぎった。「あら! なんということをしたんでしょう?」娘は叫んだ。「わたし、自分の国を裏切ったりして! ああ、エティエンヌ、あなたの目に見せてはいけない文面だったんだわ。あなたってほんとに狡《ずる》いかただわ。わたしみたいに疑うことを知らないお人よしの娘に、祖国を裏切るような真似をさせるなんて!」
わしは気のどくになって、でぎるだけソフィーを慰めてやり、わしみたいな老獪《ろうかい》なつわものにまんまと一杯食わされたとしても、なんら彼女の恥にはならん、と言ってやった。だがいまは、お喋りなどしているときでなかった。この文面で、小麦が実際にミンスクにあって、それを守る軍隊が現地にいないことが明らかになったからだ。わしは窓から急いで命令をくだした。ラッパ手が集合ラッパを吹いた。十分後には、われわれはこの村をあとにして、ミンスクヘと馬を懸命に走らせていた。町の金色の丸尾根や尖塔が雪の地平線上にきらきら輝いていた。それがだんだん高く、さらに高くそびえてゆき、ようやく太陽が西に沈むころ、われわれは広い本通りにやってきた。農夫のわめき声や、おびえた女たちの叫び声のなかを駆けぬけて、とうとう大きな公会堂のまえに出た。配下の騎兵隊を広場に整列させ、わしはウーダンとパピレットの両軍曹をしたがえて、建物のなかに飛びこんだ。
なんたることだ! ここでわれわれを迎えてくれた光景が忘れられようか? われわれの真正面にはロシア軍の精鋭が三列横隊で並んでいた。われわれがはいってゆくとマスカット銃をかまえ、すさまじい一斉射撃がわれわれの顔をめがけて加えられた。ウーダンとパピレットは全身に銃弾をあびて、床に倒れた。わしは毛皮帽を吹っ飛ばされ、上着に二箇所も穴をあけられた。敵の精鋭が銃剣をかまえて、わしをめざして飛びだしてきた。
「計られたぞ!」わしは叫んだ。「まんまとだまされたぞ! 馬を離すな!」わしは公会堂から飛びだしたが、広場いっぱいに兵士たちが群がっていた。横町という横町から、竜騎兵とコサック騎兵が馬に乗って襲いかかってきた。耳を聾《ろう》するばかりの砲火が周囲の民家からあびせられ、わが軍の兵士と馬の半数が地面に倒れた。「あとにつづけ!」わしはこう叫んで、ヴィオレットに飛び乗った。だが、ロシア竜騎兵の巨漢の将校がいきなりわしに抱きついてきたので、二人もろとも地面に転げおちた。彼は剣をかまえてわしを刺し殺そうとしたが、思いなおして、わしの喉首をぎゅっとつかんだまま頭を石畳にたたきつけたので、わしはとうとう気を失ってしまった。こう言うわけで、わしはロシア軍の捕虜となったのだ。
意識を取りもどしたとき、ただ一つ残念に思ったのは、わしを捕えた将校がわしの脳天を打ち砕いてくれなかったことだ。ミンスクのあの大きな広場には、わが軍の騎兵の半数が死ぬか、手傷を負って倒れており、そのまわりにはロシア人のやじ馬どもがわいわい歓声をあげて集まっていた。残りの騎兵はすっかり意気消沈して、公会堂の玄関に押しこめられ、コサックの騎兵大隊がその監視に当たっていた。ああ、わしになにが言えたろう? なにができたろう? 明らかにわしは、念入りに餌をつけた罠に部下を引っぱり込んでしまったのだ。敵はあらかじめ、わが軍の使命について知っており、われわれに備えていたのだ。それにしてもあの文書があったばかりに、すっかり警戒をおこたり、まっしぐらにこの町へと乗りこんでしまった。これをどう説明したらいいのか? 自分の大隊の壊滅ぶりをながめ、わしが持ち帰るはずの食糧を征露の大軍の戦友たちが待ちわびているさまを思うと、涙が頬を伝わって流れ落ちた。ネー元帥はわしを信頼していたのに、わしはその期待を裏切ってしまった。元帥はいくたびとなく雪原の上に目をこらして、決してその目を喜ばすことのない小麦の護送部隊を捜しもとめていることだろう!
わし自身の運命もまことにきびしいものだった。わしの未来はせいぜいよくても、シベリアへ流刑というところだ。だが諸君は信じてくれるだろう。エティエンヌ・ジェラールの両頬に涙が流れ落ち、それがそのまま凍りついてしまったのも、自分自身のためでなく、飢えている戦友たちのためだったということを。
「なんだ、このざまは?」すぐそばでしわがれ声が聞こえた。振りむくと、さきほどわしを鞍から引きずりおろした黒ひげの大柄な竜騎兵と顔が合った。「見ろ、フランス人が泣いてるぞ! コルシカの大将の部下は勇敢な者ばかりで、子供などいないと思っとったんだが」
「もし君とわしが二人きりで対決すれば、どちらのほうが上手《うわて》か思い知らせてやるんだが」
返事をするかわりに、この畜生めはわしの顔に平手打ちをくわせた。わしは相手の喉笛をむんずとつかんだが、こいつの部下が十数人がかりでわしを引き離した。部下の者がわしの手を押さえている間に、将校はまたわしを殴った。
「卑怯者め!」わしは叫んだ。「これが将校であり、紳士である者を遇する道か?」
「おれたちはなにも貴様にロシアへ来てくれと頼んだおぼえはないぞ」将校が言った。「それでもやってくるというなら、どんな待遇でも甘んじて受けろ。おれの思いどおりにやれたら、即座に撃ち殺すところだ」
「この責任はいつかとってもらうぞ」わしは口ひげから血をぬぐいながら叫んだ。
「もしプラトフ部隊長がわしと同じ考えなら、貴様は明日のいまごろまで生きてはおるまい」
将校は殺気だった顔で答えた。彼が部下にむかってロシア語でさらになにかを言うと、彼らはみな、さっと馬に飛び乗った。かわいそうに、主人同様、みじめな顔つきのヴィオレットが引きだされ、わしはこれに乗れと言われた。わしの左腕は革紐でしばられ、竜騎兵の軍曹の鐙金《あぶみがね》につながれていた。このように、なんとも目もあてられないありさまで、わしと敗残の部下はミンスクから出発した。
われわれの護送の指揮をとった、このセルジンという男ほど残忍きわまる奴に出会ったためしがない。ロシアの軍隊は世界でも最良の分子と最悪の分子とをかかえこんでいるが、このキエフ竜騎兵連隊のセルジン少佐より悪質なのは、イベリア半島のゲリラ以外、どこの軍隊でもお目にかかったことがない。背丈は並みはずれて高く、兇暴で冷酷な顔つきをして、ごりごりの黒い顎ひげが胸当ての上にかぶさっていた。これは後日聞いた話だが、少佐はその腕力と剛勇で有名な男だった。熊のような握力の持ち主だということは、わしも保証できる。なにしろ、鞍から引きずりおろされたとき、そう感じたからだ。この男はまた、なかなか機知に富んでいて、われわれを肴《さかな》にロシア語でたえず喋りまくっては、部下の竜騎兵やコサック騎兵を笑わせていた。二度ほど、少佐は乗馬|鞭《むち》でわしの戦友を打った。一度は、鞭を肩の上で振りまわしながらわしに近づいてきたが、わしの目になにか、鞭を振りおろさせないものがあったようだ。
このように悲惨と屈辱をなめ、飢えと寒さにさいなまれて、われわれの縦隊は広大な雪原をやるせない思いで進んで行った。太陽は沈んでしまったが、それでも北国の長い薄明のなかで、われわれはうんざりする旅をつづけた。体は寒さで痺《しび》れ、凍りつき、おまけに打たれてずきずき痛む頭をかかえて、ヴィオレットにゆられて進んで行ったものの、ここがどこやら、どこを目ざしているものやら、ほとんどわからぬような始末だった。この牝馬も頭をたれて歩いていた。頭を上げるのは、周囲にいるコサック騎兵のみすぼらしい馬に、軽蔑の鼻あらしを吹くときだけだった。
だが不意に護送隊がとまった。われわれが停止したのはロシアの寒村の街道だった。左側に教会があり、反対側には大きな石造りの家があって、その外観にはどうやら見おぼえがあるような気がした。薄明のなかであたりを見まわすと、われわれはドブローヴアに連れもどされ、いまわれわれが戸口で待機しているこの家は、今朝がた立ち寄った司祭の家だとわかった。わしのかわいいソフィーが、なんとも奇妙なことにわが軍を破滅に導いた不吉な文面を、そうとは知らずに翻訳してくれたのは、たしかにここだった。
考えてもみたまえ! ほんの数時間前、われわれが大いなる希望に燃え、使命にたいする明るい見通しをいだいてこの地点をあとにしたのに、いまやわれわれ生き残りは、敗北の屈辱をうけた兵士として、残忍な敵が定める運命を甘受しようとしているのだ。だがこれが軍人の宿命というもの――今日はキスの雨、明日は鉄拳の嵐。金殿玉楼の美酒か、あばら屋のどぶ水か。毛皮か、ぼろか。金貨のうなる財布か、素寒貧か。たえず最高から最悪へと揺れ動き、変わることがないのは勇気と名誉心だけだ。
ロシアの騎兵たちは馬からおりた。わしのあわれな部下たちも、同様に下馬を命じられた。時刻もだいぶ遅かったので、今夜この村に泊るのは明らかだった。われわれが一人残らず捕われの身だとわかると、農夫たちのなかから大きな喝采と歓喜の声が湧きおこった。彼らは燃えあがる松明を手に、家のなかからぞろぞろと出てきた。女たちはコサック騎兵のためにブランデー入りの紅茶を運んでいた。ほかの連中にかこまれて、老司祭が姿を見せた――われわれが今朝会ったばかりの司祭だ。今度は喜色満面といったていで、熱いポンチを盆にのせていた。あの温かそうな湯気はいまでもおぼえている。
司祭のうしろにはソフィーがいた。彼女がセルジン少佐と握手し、彼の勝利と敵兵逮捕を祝っているのを見て、わしはぞっとした。彼女の父親の老司祭は傲慢な顔つきでわしを眺め、やせこけた汚い手でこちらを差しながら、ひとを侮辱するようなことを言った。娘のソフィーもわしを見たが、なにも言わなかった。わしはソフィーの黒い目にやさしいあわれみを読みとることができた。そのあと彼女はセルジン少佐のほうをむいて、ロシア語でなにか喋った。すると少佐は顔をしかめ、じれったそうに首を横にふった。ソフィーは開け放たれた戸口から差す明るい光のなかに立ったまま、少佐になにやら嘆願している様子だった。わしの目はこの二つの顔――美女と野獣の顔に釘づけになった。わしは直観的に、いま論議されているのはわし自身の運命だと悟ったからだ。長い間、少佐は首をふっていたが、とうとう彼女の嘆願の前に軟化して、譲歩するように見えた。彼は、見張りの軍曹をつけられているわしのほうへ振りむいた。
「このやさしい人たちがお前に今夜の宿を提供しようと言うのだ」少佐はこう言って、執念ぶかい目でわしを頭のてっぺんから足の爪先まで眺めまわした。「この人たちの申し出を断わるわけにはいかん。だがはっきり言えば、おれとしては貴様を雪の上に放りだしておきたいとこだ。そうすれば貴様みたいなフランスのごろつきも、すこしはのぼせ上がった血の気がさめるだろう」
わしは軽蔑の目で少佐を見た。
「君は野蛮人として生まれたが、死ぬまで野蛮人だろう」
わしの言葉が相手の急所をちくりと刺したらしく、少佐はいきなり畜生呼ばわりをすると、鞭を振りあげ、打つ構えを見せた。
「だまれ、この耳欠け野郎め! おれの思うままにやったら、貴様の傲慢な鼻っ柱は夜の明けぬうちに凍えてしまうところだぞ」怒りをぐっと抑えて、少佐はソフィーにむきなおったが、本人はさも丁重な態度をとっているつもりらしかった。「もしお宅に錠のしっかりかかる地下室があれば、この男を一晩そこに寝かせてもよろしい。この男を休ませてあげたいという折角の思し召しですので。だが、われわれをだますような真似はしないという捕虜の宣誓をさせなきゃならん。明日プラトフ隊長にこいつを引きわたすまでは、わしに責任があるのだから」
少佐の横柄な態度は、どうにも我慢がならなかった。彼がソフィーにわざわざフランス語で喋ったのは、わしにたいする侮辱的な言い草をわしにわからせるためだった。
「わたしは君の恩恵など受けるつもりはない」とわしは言ってやった。「好きなようにするがいい。わたしは捕虜の宣誓など絶対にしないからな」
少佐はばかでかい肩をすくめて、この件はこれまでだ、と言わんばかりにそっぽをむいた。
「よかろう、大将、だがお前の手足の指にとってはえらい災難だろう。雪のなかで一晩明かして、明日の朝、貴様がどうなっているか、拝見することにしよう」
「ちょっと待って、セルジン少佐」ソフィーが叫んだ。「この捕虜の人にそんなにつらく当たってはいけませんわ。このかたには、わたしたちの親切と情けを受ける特別な理由がございますもの」
少佐は疑ぐるような表情で、ソフィーとわしを見くらべた。
「特別な理由とはなんです? あなたはこのフランス人にひどくご執心のようだが」
「いちばんの理由は、このかたが今朝、ご自分の意志でグロドノ竜騎兵連隊のアレクシス・バラコフ大尉を釈放してくださったことです」
「そのとおりです」バラコフ大尉が家から出てきて言った。「今朝がた、わたしはこの人に捕まりましたが、捕虜の宣誓をして釈放してもらいました。フランス軍の本隊に連れていかれたら、あやうく飢え死にするところでした」
「ジェラール大佐がこんなに寛大な処置をとってくださったんですもの、運命が入れ換わったいま、寒さの厳しい今夜だけ、うちの地下室で夜露をしのいでいただいてもよろしいじゃありませんか。これがあのかたの寛大さにたいするささやかなお返しというものですわ」ソフィーが言った。
だが竜騎兵少佐はあいかわらず機嫌が悪かった。
「ではまず、逃亡を企てないという捕虜の宣誓をおれにしてもらおう」少佐が言った。「おい、聞いとるか? 宣誓をするかね?」
「まっぴらだ」わしは断わった。
「ジェラール大佐」ソフィーがなだめるような微笑をわしにむけて叫んだ。「わたしになら宣誓をしてくださいますわね?」
「あなたになら、お嬢さん、なにごとも拒否できませんな。喜んであなたに宣誓いたしましょう」
「ほら、セルジン少佐」ソフィーは勝ち誇って叫んだ。「これでもう十分でしょう。お聞きのとおり、大佐がわたしに宣誓してくださると仰いました。このかたの安全については、わたしが責任を持ちますわ」
いかにも不愛想な仕草で、少佐はぶつぶつ言いながら承諾した。そこでわしは家のなかへ案内された。あとからは、しかめっ面をした司祭と、黒いひげを生やした大柄な竜騎兵少佐がついてきた。地下には大きな広い部屋があり、冬の暖房用の薪が貯えてあった。ここへわしは案内され、ここが今夜の宿だと教えられた。この殺風景な部屋の片側には、薪の束が天井まで積みあげられていた。床には板石を敷きつめ、壁はむきだしのままで、その壁面の奥ふかくに窓が一つだけあったが、これには厳重に鉄の横棒がついていた。灯りとしては、馬小屋用の大きな角灯が一つ、低い天井の梁からつるしてあった。セルジン少佐は角灯を下におろし、ぐるっとまわして、この殺風景な部屋の隅々まで照らしながら、にたりと笑った。
「どうだね、フランスの旦那、このロシアのホテルが気に入ったかね?」少佐は憎々しげに冷笑を浮かべてたずねた。「とりわけ豪華というわけにはいかんが、これがわれわれの提供できる最上のものだ。お前らフランス人は、こんど旅に出たくなったら、たぶんどこかよその国を選んでくれるだろう。そのほうが居心地がいいからな」少佐は白い歯をひげの間からちらちら覗かせて、わしのことを嘲笑した。それからわしを残して出て行った。大きな鍵が錠にぎいっとかかるのが聞こえた。
まったく惨めな一時間というもの、身も心も冷えきって、わしは薪束の上にすわっていた。顔は両手にうずめ、心は悲しい思いでいっぱいだった。四面壁でかこまれたこの部屋でも結構寒かったが、わしは戸外にいる部下の騎兵たちの苦痛をしのび、部下の悲しみに胸を痛めた。それから部屋のなかを行きつ戻りつし、手足が凍えないように手をたたいたり、足で壁を蹴ったりした。角灯がほんのりと温かみをあたえてくれたが、それでも凍《い》てつくような寒さだった。それに朝からなにも食べていなかった。だれもがわしのことを忘れてしまったのではないかと思った。だが、やっと、錠のなかで合鍵ががちゃりとまわる音が聞こえた。はいってきたのはだれあろう、今朝がたわしの捕虜になったアレクシス・バラコフ大尉だった。ワインの瓶を脇の下から突きだし、熱いシチューの大皿を前にかかえていた。
「シィーッ!」大尉が耳打ちした。「だまって! 元気をだしてください! セルジン少佐がまだいるので、ゆっくり訳は話せませんが、眠らずに用意してください!」急いでこれだけ言うと、ありがたい食べ物を置いて、そそくさと部屋から出て行った。
「眠らずに用意してください!」この言葉が耳のなかで鳴りひびいた。わしはシチューを食べ、ワインを飲んだ。だがわしの胸を熱くしたのは、シチューでもワインでもなかった。バラコフ大尉のこの言葉はどういう意味なのか? どうして目を覚ましていなければいけないのか? なんの用意をせよというのか? まだ逃亡の可能性があるのだろうか? わしはこれまで、ふだんはろくにお祈りもしないくせに、危険なときだけ神頼みする人を軽蔑してきた。これはちょうど、なにか願いごとをするときだけ、隊長にぺこぺこする下劣な兵隊に似ている。それでも、一方でシベリアの岩塩坑での重労働を思い、他方でフランスにいるおふくろのことを思うと、バラコフ大尉の言葉が自分の希望どおりの意味であってほしいと、口先からでなく、心の奥底から祈りが込み上げてくるのをどうすることもできなかった。村の大時計が一時間ごとに時を告げていったが、表の通りではロシア軍の歩哨の点呼のほか、なにも聞こえなかった。
そうこうするうちに、わしの心臓が激しく鼓動しはじめた。廊下に軽やかな足どりが聞こえたからだ。すぐに鍵が回り、扉が開いて、ソフィーが部屋にあらわれた。
「ムッシュー――」
「エティエンヌだよ」わしは訂正した。
「ちっともお変わりにならないのね」ソフィーが言った。「でも、わたしのこと、憎んでいらっしゃらないの? あなたを罠にかけたのに、許してくださったの?」
「罠って?」わしはたずねた。
「あら! まだおわかりじゃないのかしら? 公文書を翻訳するようにと仰いましたわね。で、その文面は『もしフランス軍がミンスクに来れば、万事休す』という意味だと言いましたね」
「じゃ、どういう意味なんだ?」
「ほんとうは、『フランス軍をミンスクによこせ。わが軍はこれを迎え撃つ』という意味でしたの」
わしは彼女のそばから飛びのいた。
「わたしを敵に売ったのか!」わしは叫んだ。「君がこの罠にわたしをおびき入れたのか。わたしの部下が殺されたのも、捕虜になったのも、君のせいだ。なんてばかだったんだ、女の言うことを信用するなんて!」
「ジェラール大佐、それはお門違いというものですわ。わたしはロシアの女です。わたしの第一の義務は祖国のためにつくすことです。あなただって、フランス娘には、わたしのように振舞ってほしいとお望みでしょう? もしわたしがあの文面を正しく翻訳したら、あなたはミンスクヘお行きにならなかったでしょう。あなたの騎兵隊は逃げおおせたでしょう。わたしを許すと仰ってください!」
この娘がわしの面前で堂々と自分の立場を弁護している姿は、なかなか魅力に溢れていた。それにしても、死んだ部下のことを思うと、彼女が差しのべた手を握ることはできなかった。
「結構ですわ」ソフィーはその手をおろしながら言った。「あなたはご自分の国の人たちに心を寄せていらっしゃるし、わたしも自分の国の人たちに心を寄せています。でしたら、おあいこでしょ? でも、ジェラール大佐、あなたはこの家で思慮ぶかい、やさしいことを仰いました。『一人増えようと、減ろうと、大軍同士の戦いなら大勢に影響はあるまい』って。あなたのとうとい教訓はむだにいたしません。その薪束のうしろに見張りのいない扉があります。これがその鍵です。お逃げなさい。ジェラール大佐。これでもう、二度とふたたびお目にかかることはございますまい」
わしは鍵をつかんだものの、頭がくらくらして一瞬たたずんでいた。それから鍵をソフィーに返して言った。
「わたしは逃げるわけにはいかない」
「なぜですの?」
「捕虜の宣誓をしたからだ」
「どなたに?」ソフィーがたずねた。
「もちろん、君にさ」
「ではわたしがその宣誓からあなたを免除してあげますわ」
わしの胸は歓喜に躍った。もちろん、ソフィーの言ったことはほんとうだ。わしはセルジン少佐には捕虜の宣誓を拒否した。だから彼にはなんらの義務もない。ソフィーがわしを約束から解放してくれるのなら、わしの名誉には傷がつかない。わしはソフィーの手から鍵を受けとった。
「村の街道のはずれにバラコフ大尉がいます」彼女が言った。「わたしたち北国の者は侮辱にせよ、親切にせよ、受けたものは決して忘れませんわ。大尉はあなたの馬と剣を用意して、あなたをお待ちしています。一刻の猶予もなりません。二時間もすれば、夜が明けますから」
こうして、わしは星明かりのロシアの夜の中へと抜けだし、開いた戸口からわしをじっと見送っているソフィーに見納めの一瞥を送った。彼女はわしがのべた冷静な感謝の言葉以上のものを期待するかのように、物たりなさそうな目でわしを見ていた。だがどんなに賤しい者にも誇りがある。わしの誇りが彼女の仕組んだぺてんのために傷ついたことは否定しない。わしは彼女の手に、まして彼女の、唇にキスする気にはなれなかった。戸口は狭い路地へとつづいていた。この路地のはずれに、外套にくるまった人影がわしのヴィオレットの手綱をとって立っていた。
「今度、フランスの将校が難儀しているのを見たら親切にしてやってくれと、あなたはおっしゃいましたね」その男が言った。「幸運を祈ります! どうぞご無事で!」わしが鞍に飛び乗ると、彼はこうささやいた。「合言葉は『ポルタヴァ』です。お忘れになりませんように」
合言葉を教えてくれたのはありがたかった。敵の戦線を離れるまで、二度もコサックの前哨隊を通過しなければならなかったからだ。やっと最後の騎馬哨兵のところを通りすぎて、ふたたび自由の身になれたと思ったとたん、背後の雪のなかでざくざくいう音が聞こえ、大きな黒馬に乗った大男が風を切ってわしを追いかけてきた。わしは最初、衝動的にヴィオレットに拍車を入れようとした。だが長い黒ひげが綱鉄の胸当てにたれているのを見て、馬をとめて待つことにした。
「思ったとおり貴様だな、このフランスの犬畜生め!」セルジン少佐は抜き身の剣をわしにむけて振りかざしながら叫んだ。「捕虜の宣誓を破ったな、この野郎!」
「宣誓などしなかったぞ」
「この嘘つきめ!」
あたりを見まわしたが、だれもついてくる者はいなかった。騎馬哨兵たちはじっとしたまま、はるか遠くにいた。われわれはたった二人きりで、天には月、地には雪があるだけだった。運命の女神はいつもわしの味方だ。
「君には宣誓をしなかった」
「あのご婦人にしたろう」
「だからわたしはあのかたに責任を負っているわけだ」
「そのほうが貴様にとっては好都合かもしらんが、あいにくながら、この責任はおれにたいしてとってもらわねばなるまい」
「よし、かかってこい」
「や、剣までも! さては売国奴の手を借りたな! ははーん、すっかりわかったぞ! あの女が助けたんだな。今夜の仕業の罰として、あの女はシベリアへ追放だ」
この言葉が彼への死刑執行令状となった。ソフィーのためにも、この男を生かして帰すわけにはいかなかった。二人の刃《やいば》が切りむすんだ。たちまちわしの剣が相手の黒ひげを貫いて、ぐさりと喉もとに突きささった。わしも少佐も、ほとんど同時に地面に倒れたが、この一突きだけで十分だった。彼は獰猛な狼みたいに、わしの足首に噛みついたまま絶命した。
二日後に、わしはスモレンスクにいた本隊にもどり、ふたたびあの行軍――通った跡に赤い血の筋をえんえんと残しながら、雪のなかをとぼとぼ進んでゆくあの陰鬱な行軍――の一員となった。
諸君、もうたくさんだろう。わしは悲惨と流血に満ちた当時の記憶をよみがえらせたくない。これはいまだに夢のなかでわしを悩ますのだ。やっとのことでわが軍がワルシャワにたどりついたとき、砲と輜重《しちょう》と、四分の三の戦友を棄ててきていた。だがエティエンヌ・ジェラールの名誉は捨てなかった。わしが捕虜の宣誓を破ったと言う者がいるが、わしの面前では口の利きかたに注意してもらおう。なぜなら、その間の事情はわしが話したとおりだからだ。それに、老いたりとは言えこの人差し指は、わしの名誉にかんすることとなれば、まだ引き金をひけぬほど耄碌《もうろく》していないからだ。
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第七話 ジェラールがワーテルローで奮闘した話
一 森の居酒屋
わしが皇帝陛下と祖国フランスのために、剣を抜くという光栄に浴した大会戦は数々あるが、どれ一つとして敗れたためしはない。だがワーテルローでは、ある意味で、わしはその場に居合わせていたのだが、わしは戦うことができずに、敵側が勝利をおさめた。この二つの事柄の間には関連がある、などと言うつもりはない。諸君はわしのことをよくご存知だから、まさかわしがそんな主張をするとは思わんだろう。しかしこれが詮索《せんさく》のいい材料になって、わしを喜ばそうとする結論を引きだす者も出てきた。要するに、英軍の方陣を二つ三つ撃破するだけで、勝利はわれわれのものとなっていたはずだ。もしエティテンヌ・ジェラールひきいるところのコンフラン軽騎兵連隊が、これをなしえないとすれば、どんなに判断の確かな者でもあやまちを犯すことになる、というのだ。
しかしこんな話はやめよう。運命の女神は、わしが手を控えるように、そして帝国が没落するように定めたのだ。だがこれもまた運命の女神の命ずるところによって、この陰鬱と悲嘆の時期に、かつて勝利の翼に乗ってブローニュからウィーンまで進撃したとき、ついぞ得ることのなかった名誉がもたらされたのだ。わしの周囲がすっぽりと暗闇につつまれたあの最後の瞬間ほど、わしが燦然《さんぜん》と燃え立ったことはない。諸君もご承知のとおり、わしは逆境にある皇帝陛下に忠誠をつくし、わが剣と名誉をブルボン王家に売りわたすことを拒絶した〔ナポレオン没落後に復帰したブルボン王家には仕えなかったという意味〕。二度とふたたび、軍馬にまたがることはなかった。二度とふたたび、かわいい部下の先頭に立って馬に乗り、太鼓と銀色のラッパを背中で聞くこともなかった。しかし諸君、わが軍人生活最後の日に、わしがいかに偉大であったかを思い、そしてわしがあまたの美人の愛と、あまたの高潔な紳士の尊敬を勝ちえた目ざましい手柄のなかでも、その華麗さ、大胆さ、それに偉大な目的の達成という点で、一八一五年六月十八日の夜の、わしの有名な遠乗りに匹敵しうるものが一つもないことを思い起こすと、心はほっと慰められ、目には涙が浮かんでくるのだ。
この話は軍隊の食卓や兵舎の部屋でたびたび人の口にのぼるから、陸軍部内でこの話を聞いたことのない者はほとんどいない。このことはわしも承知している。ただ、わしはこれまで謙虚に口を閉ざしてきたが、今日はごく内輪同士の集まりだから、諸君のまえに本当の事実をご披露することにしよう。
まず最初に、わしが断言できることが一つある。ナポレオン陛下は生涯を通じて、この戦役に引き連れて行った軍隊ほどすばらしい軍隊を持ったことはなかった。一八一三年には、フランスはすっかり疲弊していた。古参兵一人に未成年兵五人という割合だった――マリー・ルイズ新兵、とわれわれはこの未成年兵を呼んでいた。皇帝陛下の出陣中は、マリー・ルイズ皇后が募兵に大わらわだったからだ。しかし一八一五年になると事態は一変した。捕虜になった連中がぞくぞくと帰ってきていた――ロシアの雪原から、スペインの土牢から、イギリスの牢獄船から。これは危険きわまる連中だった。歴戦の古強者《ふるつわもの》で、むかしの商売を恋しがり、心は憎悪と復讐に充ち満ちていた。このなかには山形の袖章を二、三本つけた兵士が大勢いた。山形一本が五年間の兵役を意味するのだ。それにしても、この連中の気概は怖るべきものだった。怒りに燃え、猛り狂い、熱狂的で、皇帝陛下を崇拝すること、さながらイスラム教国の奴隷兵が予言者を崇拝するのに等しかった。自分の熱血が陛下のお役にたつものなら、おのれの銃剣の上に突っ伏すことも辞さない連中だ。こうした荒々しい古強者どもが満面に朱をそそぎ、兇暴な目を光らせ、すさまじい叫び声をあげて出陣するのを見たら、まさに、向かうところ敵なしの感をいだいたことだろう。
当時はフランス精神が大いに高まっていたので、他国の精神など、とうてい足もとにも寄りつけなかったろう。ところがイギリス人という国民ときたら、精神もないくせに、やたらにがっしりした、びくともしない体力を持っていて、これにわれわれは体当りしてあえなく玉砕したのだ。問題はここだよ、諸君! 一方では、詩歌、侠気、献身――すべて美しく、雄々しいもの。他方では、体力。われわれの希望、われわれの理想、われわれの夢――すべてが古きイギリスの、あの怖るべき体力のまえに粉砕されたのだ。
ナポレオン皇帝が軍勢を寄せあつめ、十三万の歴戦の兵をひきいて北部国境へ急行し、プロシャ軍と英軍に不意討ちをかけたことは、なにかで読んでおられるだろう。六月十六日に、ネー元帥がカトル・ブラで英軍を牽制している間に、わが軍はリニーでプロシャ軍を撃破した。わしがこの勝利にどこまで貢献したか、それはわしの口から言うべきでないが、わがコンフラン軽騎兵連隊が栄光につつまれたことは、人のよく知るところだ。このときのプロシャ軍は善戦した。八千のプロシャ兵の死体が戦場に遺棄された。皇帝陛下はこれでプロシャ軍の始末はついたと考えられた。というのは、グルーシ元帥ひきいる三万二千の兵を派遣して追い討ちをかけ、陛下の作戦計画の妨害をせぬようにしたからだ。そのあと八万近い将兵とともに、あの「いまいましい」英軍に攻撃をかけた。われわれフランス人からイギリス人に復讐してやることが、なんとたくさんあることか! ――ピット首相の軍事費、ポーツマス港の牢獄船、ウェリントン将軍の侵略、ネルソン提督の背信的勝利! ついに天罰のくだる日が到来したと思われた。
ウェリントン将軍は六方七千の兵をひきいていたが、そのなかにはオランダ兵とベルギー兵が多く、フランス軍にたいしては、あまり戦意が旺盛でなかった。優秀な兵士は五万といなかった。で、親しく八万の兵士を統率する皇帝陛下のまえに出ると、このイギリスの将軍は恐怖のあまり体がしびれて、自分も動けなければ、自分の軍隊も動かすことができなかった。諸君は蛇ににらまれた蛙を見たことがあるだろう。この蛙さながらに、英軍はワーテルローの尾根の上に立ちすくんでいたのだ。この前夜、リニーで一人の副官を失った皇帝陛下は、わしに幕僚に加わるよう命じられたので、わしはコンフラン軽騎兵連隊をヴィクトル少佐の指揮にゆだねた。会戦の前夜に転属命令をうけて、わしの部下たちとわしと、どちらのほうが深く悲しんだか、それはわからない。だが命令は命令だ。忠実な軍人ならただ肩をすくめて服従あるのみだ。皇帝陛下にしたがって、わしは十八日の朝、敵陣のまえを騎馬で横ぎった。陛下は望遠鏡で敵軍を眺めながら、どうしたら一番手っとり早く敵を撃滅できるかと、一計を案じておられた。スルト元帥が陛下のすぐ近くにいた。それにネー元帥とフワ将軍、さらにポルトガルやスペインで英軍と戦った将軍たちが控えていた。「陛下、お気をつけください」スルト元帥が言った。「英軍の歩兵はなかなかしっかりしておりますぞ」
「お前たちはあの連中に打ち負かされたので、すぐれた兵隊だと思っとるんだろう」陛下が言われた。われわれ若い者は横をむいてにやにやした。だがネー元帥とフワ将軍はまじめで真剣な顔つきだった。赤と青の縞模様を見せて、ところどころに砲兵隊を配置した英軍の陣地は、この間もずっと、わが軍のマスカット銃の長い射程内で、ひっそりと、油断なくかまえていた。浅い谷のむこうがわでは、わが軍の将兵が朝のスープをすませ、出陣のために集結していた。ひどい雨が降ったが、このときには太陽が顔をだし、フランス軍の上に照りつけたので、わが騎兵旅団はさながら幾筋ものめくるめく剣の河と化し、無数の歩兵の銃剣がきらきらと輝いていた。このすばらしい軍隊を目のまえにして、その外観の美しさと威容に接すると、わしはもうじっとしていられなくなった。思わず鐙《あぶみ》を踏んで立ちあがり、毛皮帽を振って、「皇帝陛下万歳!」と叫んだ。するとこれが怒濤《どとう》のような叫びとなって軍列の端から端へと伝わってゆき、騎兵はさかんに剣を打ち振り、歩兵は軍帽を銃剣の先に高々とかかげた。英軍は尾根の上に立ちすくんでいた。彼らは最期のときが訪れたのに気づいていた。
事実、この瞬間に命令がくだされ、全軍の進撃が許されたら、英軍の最期が訪れたことだろう。わが軍はただ彼らに襲いかかり、地上から一掃すればよかったのだ。勇気という点を別にしても、わが軍のほうが数も多く、古強者ぞろいで、指揮官もすぐれていた。ところが皇帝陛下は順を追って万事をやりたいお考えだった。砲兵が動けるように、地面が乾いて堅くなるまで待たれた。こんなわけで三時間を空費して、やっと十一時になってから、ジェローム・ボナパルトのひきいる縦隊がわが軍の左翼に進出し、戦闘開始を告げる砲声を聞いたのだ。この三時間の浪費がわれわれの命とりとなった。左翼への攻撃は、英軍の近衛兵が占拠している農家にむけられた。ここの守備隊員がせっぱ詰まって、甲高い恐怖の叫びをあげるのが三回ほど聞こえた。それでも彼らは抵抗をつづけていた。デルロン将軍の兵団が右翼に進撃して、英軍の戦線の別の部隊と交戦していたとき、われわれの注意は目のまえの戦闘から、はるかかなたの地点へとひきつけられた。
皇帝陛下はそれまで望遠鏡で英軍の戦線の最左翼を眺めておられた。このとき不意にダルマチア公爵――われわれ軍人はスルト元帥と呼んでいたが――のほうをむいて言われた。
「あれはなにかね。元帥?」
われわれはみな、望遠鏡を目にあてたり、小手をかざしたりして、陛下が見つめておられるほうを見た。はるかかなたに森が見え、それから木の生えていない長い斜面があって、その先にまた森があった。この二つの森にはさまれた裸の地帯になにやら黒いもの、ちょうど動く雲の影みたいなものが見えた。
「あれは、陛下、牛の群れかと思います」スルト元帥が答えた。
この瞬間、黒い影のなかからきらりと光るものがあった。
「グルーシ元帥だ」陛下はこう言って、望遠鏡をおろされた。「英軍は二重に敗北するぞ。敵はわしの掌中にある。もう逃げだすことはできん」
陛下はぐるっと見まわして、わしのところでその目がとまった。
「ああ! 軍使の第一人者がおる。ジェラール大佐、君は馬術の名手だね?」
わしは旅団の誇り、愛馬ヴィオレットに乗っていた。で、そのむね申しあげた。
「ではグルーシ元帥のところへ馬を飛ばしてくれ。むこうに元帥の部隊が見えるだろう。元帥に英軍の左翼と後衛を攻撃するよう伝えてくれ。わしは前面を攻めるから、とな。力をあわせて英軍を粉砕し、一兵たりとも逃さぬようにしよう」
わしは敬礼をするなり、なにも言わずに馬を飛ばした。このような晴れの使命が自分の任務かと思うと、歓喜のあまりわしの胸は高鳴った。わしは砲煙のなかからぬっと浮かびでた赤と青の長い列を見て、道々この列にむかって拳《こぶし》を振りおろした。「英軍を粉砕し、一兵たりとも逃さぬようにしよう」これは陛下のお言葉だ。このお言葉を行動に移すのが、かく申すエティエンヌ・ジェラールだ。わしは一刻も早く元帥のもとに到着したかった。
一瞬、英軍の左翼を突っ切ろうかと思った。これが一番の近道だからだ。わしはこれまでにも、もっと大胆な行動に出て、無事に切りぬけてきた。しかしうまく事が運ばず、捕えられるか、撃たれるかすれば、伝言は伝えられることなく、したがって陛下の計画も水泡に帰すことだろう。そんなわけで、わしは騎兵隊、ついで追撃隊、親衛槍騎隊、騎銃隊、騎馬選抜隊、そして最後になつかしそうな目でわしを見送るかわいい部下たちのまえを通りすぎて行った。騎兵隊のむこうには陛下の親衛隊がいた。これは歴戦の古強者ぞろいの十二個連隊で、長い紺の外套に羽根飾りをはずした高い毛皮帽という、地味で簡素ないでたちだった。全員、山羊皮製の背嚢《はいのう》のなかに、青と白のパレード用の制服を入れていたが、これは明日、ブリュッセル入城の際に着用することになっていた。わしは親衛隊のまえを馬で通りすぎながら、この兵士たちはこれまでいちども敗れたことがないのだと思った。そして彼らの日に焼けた顔ときびしい沈黙の態度を見ながら、今後も決して敗れることはないと、心ひそかに思った。ああ、あと数時間でどういうことになるか、わしにはまったく予想がつかなかったのだ。
親衛隊の右手には、少年親衛隊とロボー元帥ひきいる第六軍団がいた。そのあとわしは、ジャキノー将軍の槍騎兵部隊とマルボ将軍の軽騎兵部隊を通りすぎた。この両部隊が戦陣の最右翼を固めていた。これらの軍隊はみな、森のなかを抜けてやってくる軍団のことなどまったく知らず、左方で激しくつづいている戦闘に注意を奪われていた。百門以上の大砲が双方の陣営からとどろいていた。そのすさまじい音といったら、わしがこれまで参加したすべての戦闘のなかでも、これほど騒々しい戦闘はせいぜい五、六回しか思いだせない。肩ごしに振りかえって見ると、英仏両軍の二個旅団の胸甲騎兵が、抜き身の剣を夏の稲妻のように頭上できらめかせながら、一団となって丘の斜面を駆けおりてきた。どんなにかわしは、愛馬ヴィオレットの向きを変え、部下の軽騎兵をひきいて、このまっただなかへ躍り込みたかったことか! なんたるざまだ! エティエンヌ・ジェラールが戦闘に背をむけ、みごとな騎兵戦をあとにするとは。だが任務は任務だ。そこでわしはマルボ将軍の騎馬哨兵のまえを通り、左手にフリッシュモンの村を見ながら、森のほうへと馬を進めて行った。
わしの前方には「パリの森」という大きな森林があった。あらかたは樫の木で、森のなかには細い道が二つ、三つ通っていた。わしはここまでくると、立ちどまって耳をすました。しかし森の薄暗い奥からは、先ほど自分の目で、こちらへ殺到してくるのを見た大部隊の進軍をしめすラッパの吹鳴《すいめい》も、轍《わだち》の音も、馬蹄のひびきも聞こえてこなかった。わしの背後では戦闘がけたたましく荒れ狂っていたが、前方では、まもなくあまたの勇士が眠ることになる墓場のように、すべてが森閑としていた。日光は頭上で弓なりに生い茂った木の葉でさえぎられ、ひどく湿っぽい臭いがじめじめした地面から立ちのぼっていた。数マイルの間、馬を飛ばしていったが、下には木の根が張りだし、上には枝がおおっているなかを、こんな速度で飛ばしていく騎手はちょっといないだろう。すると、やっとのことで、グルーシ元帥の前衛部隊がちらりと見えた。軽騎兵がばらばらに、わしの両側のすこし離れた木々のなかを通って行った。遠くに太鼓の音が、そして軍隊の行進にともなう低い、単調なざわめきが聞こえてきた。いつなんどき、幕僚に出あって、グルーシ元帥に親しく伝言をつたえるようになるかもしれない。このような行進では、フランスの元帥は確実に前衛部隊とともに馬を進めてゆくことを、わしはよく知っていたからだ。
急に前方の木立がまばらになった。森のはずれにやってきたのだと思うと嬉しかった。はずれへ出れば、軍隊も見わたせようし、元帥もさがせよう。道が木立のなかから抜けでたところに、小さな居酒屋がある。ここは木こりや馬力の御者たちが一杯やる溜まり場だ。この入口のまえでちょっと馬をとめ、前方の光景を見てとった。二、三マイル離れたところに、もう一つ大きな森が見えた。これがサン・ランベールの森で、皇帝陛下はさきほど、ここから軍隊が進出してくるところをごらんになったのだ。しかしながら、一つの森を抜けて、いま一つの森に辿りつくまで、どうしてこんなに時間がかかったのか、それはすぐにわかった。この二つの森の間にはラスヌ川の深い峡谷があって、これを渡らなければならないからだ。はたして、騎兵、歩兵、砲兵といった長い縦隊が峡谷の一方をぞろぞろくだってきて、反対側を大挙して登っているところだった。前衛部隊はすでにわしの両側の木立のなかにいた。騎馬砲兵の中隊が道ぞいにやってきたので、わしは馬を走らせて、指揮官に元帥の居場所を教えてもらおうと思った。だがそのとき|はたと《ヽヽヽ》、砲兵の軍服は青色だが、その上着には、わが軍の騎馬砲兵みたいに赤いモールの胸飾りがついていないのに気づいた。この様子に驚いて、左右の兵隊を見つめているとき、わしの腿《もも》に手をかける者がいた。居酒屋の亭主で、店から飛びだしてきたところだった。
「気でも狂いなさったかね!」亭主は叫んだ。「なんでここにいなさる? なにをしとるのかね?」
「グルーシ元帥をさがしているんだ」
「ここはプロシャ軍のどまんなかですぜ。引っかえしてお逃げなさい!」
「だめだ。これはグルーシ元帥の軍団だ」
「なんでわかりなさる?」
「皇帝陛下がそう仰せられた」
「とすると陛下も、どえらいまちがいをなされたもんだ! 実はな、たったいま、シレジア軽騎兵の偵察隊がここから出て行ったとこですぞ。森のなかで見かけなかったかね?」
「軽騎兵を見た」
「それは敵なんですぜ」
「グルーシ元帥はどこにいる?」
「ずっと後方ですよ。偵察隊が元帥を追いこしてきたんでさあ」
「じゃ、どうして引きかえせよう? 前進すれば、元帥に会えるかもしれない。わしは命令にしたがって、草の根をわけても元帥をさがしださねばならんのだ」
亭主はちょっと思案していたが、すぐにわしの手綱をつかんで叫んだ。
「早く! 早く! わしの言うとおりになさい。まだ逃げだせるかもしれん。敵はまだ、あんたに気づいていない。わしについてきなさい。敵が通りすぎるまで、かくまってあげよう」
居酒屋の裏手には、屋根の低い馬小屋があった。亭主はここにヴィオレットを押しこんだ。そのあと、わしを引きずるようにして、居酒屋の調理場に連れこんだ。そこは煉瓦を床に敷きつめた、まったく飾りつけのない部屋だった。ふとった赤ら顔の女が|かまど《ヽヽヽ》でカツレツをつくっていた。
「どうしたんだね」女は顔をしかめて、わしと亭主を見くらべながらたずねた。「おまえさんが連れてきたこの人はだれなのさ?」
「フランス軍の将校さんだよ、マリー。プロシャ軍につかまらんようにしてあげなくっちゃ」
「どうしてだね?」
「どうしてだって? べらぼうめ、おれだって昔は、ナポレオン陛下の兵隊だったじゃねえか? 親衛隊の義勇兵にまじって、名誉の銃をいただいたじゃねえか? おれの目のまえで戦友が連れさられるのを見ていろと言うのか? マリー、おれたちはこの人を助けにゃならんのだぞ」
それでも内儀《かみ》さんはひどく敵意にみちた目でわしを見た。
「ピエール・シャラス」内儀さんが言った。「おまえさんときたら、自分の家が頭の上で焼かれちまうまではじっとしていないんだから。この薄のろにゃ、わかっちゃいないのかね、おまえさんがナポレオンのために戦ったのは、ナポレオンがベルギーを支配していたからじゃなかったかね? いまはもう、ナポレオンじゃないんだよ。プロシャ軍があたしたちの味方だよ。こいつは敵さ。あたしゃ、この家のなかにフランス人は入れないよ。さっさと引きわたしておしまい!」
居酒屋の亭主は頭をかいて、絶望の目をわしにむけた。しかし、この女が心配しているのはフランスでもベルギーでもなく、自分の家の安全だけが大事なのだということが、はっきりとわかった。
「お内儀さん」わしはできるだけ威厳と自信のある態度をつくろって話しかけた。「ナポレオン皇帝は目下イギリス軍を打ち破っておられるから、夕方までにはフランス軍がこちらにやってくることになろう。このわしによくしてくれれば、褒美《ほうび》をとらせよう。だがもし密告でもしようものなら、おまえは罰せられ、おまえの家はまちがいなく憲兵司令官によって焼き払われることになるだろう」
内儀さんはこれを聞いて動揺したので、わしはすかさず、別な方法で勝利を完全なものにした。
「まったくの話、お内儀さんのような美人が血も涙もないなんて、考えられるかね? わしが必要とする隠れ処《が》を、まさか拒むようなことはなさらんだろう」
内儀さんはわしの頬ひげを眺めていたが、わしにはその態度が和らいだのがわかった。わしは彼女の手をとった。二分もすると、われわれはすっかり打ち解けてしまった。これを見た亭主が、もし事態がこれ以上進展したら、わしの身柄を敵軍に引きわたしてしまうと、容赦なく言いきったほどだ。
「おまけに街道はプロシャ兵でいっぱいだ」亭主が言った。「早く! 早く! 屋根裏へ!」
「早く! 早く! 屋根裏へ!」内儀さんもおうむ返しに叫んだ。そして二人して、天井の跳ねあげ戸へ通じる梯子のほうへと、わしをせきたてた。表の扉をけたたましくたたく音が聞こえた。そのあとすぐに、わしの拍車がきらりと光って穴を潜りぬけ、跳ねあげ戸がぱたんと閉まったと思ってくれたまえ。すぐに下の部屋でプロシャ兵の声が聞こえた。
わしの隠れ処は細長い屋根裏部屋で、天井はこの家の屋根そのものだった。この屋根裏部屋は居酒屋の片側全体をおおっていたので、床のすき間から、調理場でも、居間でも、酒場でも、すきなように見おろすことができた。窓はなかったが、荒れほうだいになっていたので、屋根のスレートが何枚か剥《はが》れているところから光が差しこんでいて、観察にも便利だった。ここはがらくた置場になっていた――片側には飼葉《かいば》が、そして反対側には空瓶が山と積んであった。わしが潜ってきた穴以外には、扉も窓もなかった。
わしは数分の間、干し草の山に腰をおろし、心をしずめて今後の計画を練った。プロシャ軍が味方の増援部隊より先に戦場に到着するとは、まことに容易ならざる事態だ。しかし敵はわずか一個軍団の模様で、たかが一個軍団ぐらい増えようと減ろうと、皇帝陛下ほどのかたにとってはどうでもいいことだ。陛下なら英軍にこれだけの兵力をあたえても、なお撃破するだけの余裕がある。グルーシ元帥が後方にいる以上、自分が陛下にご奉公できる最善の道は、敵軍が通過するまでここで待機し、それからふたたび騎馬の旅をつづけ、元帥に会って陛下の命令をつたえることだ。元帥がプロシャ軍のあとを追わずに、英軍の背後に進出すれば、万事はうまくいくだろう。フランスの運命はわしの判断力と勇気いかんにかかっていた。諸君も先刻ご承知のように、こんなことはなにもこれがはじめてではない。だからわしが、勇気も判断力も決してわしを見捨てることはない、と信じた理由はおわかりだろう。たしかに皇帝陛下は、この使命のために適任者を選ばれた。陛下はわしのことを「軍使の第一人者」と呼ばれた。この肩書きに恥じぬ働きをしてみせよう。
プロシャ軍が通りすぎるまで、なにもできないことはわかっていた。そこでわしは暇つぶしに彼らを観察した。どうもプロシャ兵は好かんが、抜群の規律を維持していることは認めざるをえない。唇は土ぼこりで固まり、疲れきっていまにも倒れそうだったが、だれ一人として居酒屋にはいってくる者はいなかった。さきほど表の扉をたたいた連中は人事不省の戦友を運びこんできて、これをおろすと、すぐさま隊列へ復帰した。ほかにも何名かの者が同様に運びこまれて、調理場に寝かされた。まだ少年といっていいような若い軍医が、あとに残って傷病兵の手当をした。床のすき間から彼らを観察したあと、こんどは尾根の穴に注意をむけた。この穴からは、そとで起こっていることが申しぶんなく眺められた。プロシャの軍はなおも、ぞろぞろと通りすぎていた。彼らがすさまじい行軍をしてきて、ろくろく食べ物も口にしていないことはすぐにわかった。兵士たちの顔はぞっとするほど青ざめていて、ぬかるみの悪路で転んだため、頭の先から足の先まで泥まみれになっていた。疲労困憊していたものの、それでも彼らの士気は旺盛だった。砲車の車輪が軸までぬかるみにはまりこみ、疲れきった軍馬が膝まで泥につかって砲車を牽引できなくなると、兵士たちがこれを押したり、引いたりした。騎馬の将校たちは隊列を行きつ戻りつして、活溌な兵士には称賛の言葉をかけ、おくれがちな兵士には剣の|ひら《ヽヽ》による一撃で元気づけていた。
前方の森のむこうから、たえず戦闘のものすごいどよめきが聞こえてきた。まるで地上の川という川が合流して一大爆布となり、すさまじい轟音をたてて落下しているみたいだった。瀑布の飛沫さながらに、煙がもうもうと木立の上に高く舞いあがっていた。将校たちは剣でこれを指し示した。すると干からびた唇からしゃがれた鬨《とき》の声をあげて、泥まみれの兵士たちは戦場へと突進した。一時間ほど、わしは彼らが通過するのを見守っていた。そして敵の前衛はすでにマルボ将軍の騎馬哨兵に接触したにちがいない。陛下はすでに敵の到来にお気づきだろう、と思った。「諸君は街道筋をえらく足早にのぼっていくが、帰りははるかに足早にくだっていくことになるんだぞ」わしはひそかにこう思って、自分をなぐさめた。
ところが、この長い待機中の単調さを破る事件がおこった。わしが屋根の穴のそばに腰をおろしたまま、敵の軍団がほとんど通りすぎたので、まもなく街道にはわしの道中の邪魔がなくなるだろうと、ひとりで悦に入っていると、突然フランス語で声高に言いあらそう声が調理場から聞こえてきた。
「あがらせるもんか!」女の声が叫んだ。
「あがると言ったら、あがるんだ!」男の声がして、取っ組みあいの物音がした。
すぐさまわしは、床のすき間に目をあてた。ふとった内儀さんが、忠実な番犬さながら、梯子のいちばん下に陣どっていた。そして、プロシャ軍の若い軍医が、怒りで顔面蒼白になったまま、なんとか梯子を登ろうとしていた。プロシャ兵のうち何人かは衰弱から回復していて、調理場の床のあちこちにすわりこんだまま、無表情な顔つきでじっと二人の喧嘩を見守っていた。亭主はどこにも見あたらなかった。
「酒なぞ上にはないよ」内儀さんが言った。
「酒など欲しくない。兵隊を寝かせる干し草か藁が欲しいんだ。上に藁があるというのに、煉瓦の上に寝かせる手があるか?」
「藁なんかないよ」
「じゃ、何があるんだ?」
「空瓶だよ」
「それだけか?」
「そうとも」
一瞬、軍医は断念するかに見えたが、兵士の一人が天井を指さした。兵士の言葉はよくわからなかったが、どうやら天井の板の間から藁が突きでているのが見える、ということらしかった。内儀さんが抗弁してもむだだった。兵士が二人、立ちあがって、内儀さんを脇にどけた。その間に、若い軍医は梯子をかけあがり、跳ねあげ戸を押しあけて屋根裏に潜りこんだ。戸がさっと開いたとき、わしはそのうしろに隠れた。だが運のわるいことに、軍医は自分で戸を閉めたので、二人は突っ立ったまま、顔と顔を見あわせた。
これほどびっくり仰天した若者は見たことがない。
「フランスの将校」軍医は息を切らせて言った。
「シッ!」わしは言った。「シッ! 大きな声をだすな」わしは剣を抜いていた。
「わたしは戦闘員ではない」軍医が言った。「どうして剣をつかって威嚇するのか? わたしは武器を持っていない」
「わしは君をあやめたくはないが、わが身は守らなければならぬ。わしはここに隠れているところだ」
「スパイか!」
「スパイならこんな制服は着ていない。それに軍の幕僚にスパイはいない。わしはあやまって、プロシャ軍団のどまんなかに馬を乗り入れてしまった。そこでプロシャ軍が通りすぎたら脱出しようと思って、ここに隠れたのだ。わしに危害を加えなければ、わしも君には危害を加えない。しかし、わしがここにいることを口外しないと誓わなければ、この屋根裏部屋から生きて下りることはできないぞ」
「剣を鞘《さや》に納めてください」軍医が言った。わしはその目に好意のきらめきを見た。「わたしの生まれはポーランドです。あなたや、あなたの国の人たちに悪い感情はいだいておりません。患者には最善をつくしますが、それ以上のことはいたしません。軽騎兵将校を逮捕することは軍医の職務ではありませんから。お許しがいただければ、この干し草の束を下に持っていって、患者たちの寝床をつくってやりたいのです」
わしは軍医に誓約させようと思っていたが、これまでの経験によれば、人間というものは真実を語る意思がなければ、真実を誓わないものだ。そこでわしは、これ以上なにも言わなかった。軍医は跳ねあげ戸を開け、必要なだけの干し草を放り投げると、戸を閉めて梯子を下りて行った。彼が患者のところにもどると、わしは気になってじっと見守った。わしの味方の内儀さんも同様に彼を見つめていた。だが軍医は黙々と兵士たちの手当に専念していた。
このころまでには、敵の軍団のしんがりも通過したものと思った。そこでわしは、もう邪魔者はおるまいと確信して、屋根の穴に近づいた。もっとも、二、三の落伍兵はいるだろうが、そんなものは無視してよかった。最初の軍団はたしかに通過して、歩兵の最後の隊列が森のなかに消えてゆくのが見えた。しかし、サン・ランベールの森から、最初の軍団の兵力に劣らぬいま一つの軍団があらわれたときの、わしの落胆ぶりはご想像いただけよう。リニーで全滅したものと思われた全プロシャ軍が、わが右翼に襲いかかろうとしているのは疑いなかった。一方、グルーシ元帥はまんまとおびきだされて、むだ足を踏んでいたのだ。大砲の轟音がずっと近くで聞こえたので、先ほど通りすぎて行ったプロシャ軍の砲兵隊がすでに戦闘を開始しているのがわかった。わしの苦しい立場を想像してくれたまえ!
刻一刻と時間はすぎてゆく。日は西に沈もうとしている。なのに、わしが隠れているこの忌まわしい居酒屋は、すさまじいプロシャ軍の奔流のなかに浮かぶ小島さながらだった。グルーシ元帥のもとに辿りつくのがなによりも大事なのに、鼻の先でも見せようものなら、たちまち捕虜になることは必定だった。わしがどれほど運命をのろって髪の毛をかきむしったか、ご想像いただけよう。だが、われわれの行く手にはなにが待ちうけているか、まったくわからないものだ! わしが自分の不運に憤っていたときですら、同じ運命が、グルーシ元帥に伝言をつたえるより、はるかに高度な任務をわしのために取っておいてくれたのだ。その任務とは、わしが「パリの森」のはずれの小さな居酒星に閉じこめられなかったら、わしのものになるはずがなかったのだ。
プロシャ軍の二個軍団が通りすぎ、いま一つの軍団がやってきたとき、ここの居間でひどく騒がしい物音と、数人の話し声が聞こえてきた。わしは場所をかえて、下でなにが行なわれているのか、見とどけることができた。
プロシャ軍の将軍が二人、わしの真下にいて、テーブルに広げた地図の上に頭をかたむけていた。数名の副官と幕僚がだまってまわりに立っていた。二人の将軍のうち、一人は荒々しい老人で、白髪の上に皺《しわ》だらけ、半白の口ひげは伸びるにまかせ、猟犬が吠えるような声をしていた。もう一人のほうはこれより若いが、面長でいかめしい様子をしていた。若いほうの将軍は学生みたいな態度で地図上の距離をはかっていた。ところが老将軍のほうは、まるで軽騎兵の伍長みたいに、地団太をふんだり、いきまいたり、毒づいたりしているのだった。老人がこんなに殺気だち、若いほうがこんなに控え目なのを見るのは奇妙だった。二人の話がすべて理解できたわけではないが、大体の意味は確実につかめた。
「いいか、わが軍はどこまでも突進せにゃならん!」老将軍はドイツ語ですさまじい呪咀の言葉をまじえながら、声を高くした。「わしはウェリントン将軍に約束したのだ。たとえわしの体を馬にしばりつけてでも、全軍をひきいてそこへ行くとな。ビューロー将軍の軍団は目下交戦中だ。ツァイテン将軍の軍団は総力を結集して、これを掩護するだろう。前進だ、グナイゼナウ参謀長、前進だ!」
参謀長は首を横にふった。
「閣下、英軍が敗れますと、海岸へ後退するということをお忘れになってはいけません。そうなりますと、グルーシ軍が閣下とライン河の間にいて、閣下の立場はどうなりますか?」
「打ち破るまでさ、グナイゼナウ参謀長。ウェリントン公とわしが協力して、敵を粉砕してみせる。いいか、突進だ! この戦争は一撃で終結するのだ。ピルシュ軍を繰りださせろ。そうすれば、わしらは、ティールマン将軍がグルーン軍をワーヴルのむこうに引きとめている間に、六万の兵力を投入して戦局を決定することができるのだ」
グナイゼナウ参謀長は肩をすぼめた。だがこのとき、日直将校が戸口に姿を見せた。
「ウェリントン公の副官がお見えです」
「ほ、ほう!」老将軍が叫んだ。「どういう用件か聞こうじゃないか」
緋《ひ》色の軍服を泥と血だらけにした英軍の将校が、よろめきながら部屋にはいってきた。腕にはまっ赤に染まったハンカチが結んであった。彼は倒れないようにテーブルにつかまった。
「伝言はブリュッハー元帥あてであります」将校が言った。
「わしがブリュッハー元帥じゃ。さあ、早く言いたまえ!」老将軍はいらいらして叫んだ。
「ウェリントン公から閣下にお伝えせよとのことであります。英軍は地歩を維持できるので、結果にかんしてはなんら心配していない、と公爵はおっしゃっております。フランス軍の騎兵隊は撃滅され、歩兵二個師団はあとかたもなく壊滅いたしました。親衛隊だけが予備に残っている状態であります。もし閣下が強力な援助をわが軍にあたえてくだされば、敵の敗戦は完全な大敗走となり、そして――」将校の膝ががくっとくずれて、彼は床の上にうずくまった。
「よし! それで十分だ!」ブリュッハー元帥が叫んだ。「グナイゼナウ参謀長、副官をウェリントン将校のところへやって、わしに全幅の信頼を寄せるよう伝えてくれ。さあ、諸君、ひと働きせにゃならんぞ!」元帥はせきこんで部屋から出て行った。幕僚たちは帯剣をがちゃがちゃ鳴らしながら、あとにしたがった。その間に、二人の日直将校が英軍の伝令を軍医のところへ運んで行った。
参謀長のグナイゼナウ将校はちょっとの間、あとに残った。彼は一人の副官の肩に手をかけた。この副官は先ほどからわしの目をひいていた。なにしろわしはつね日頃から美丈夫には目ざといからな。背が高く、すらりとしていて、まさに典型的な騎兵将校だ。事実、彼の容姿には、わしと一脈通じるなにかがあった。顔は浅黒くて、鷹のように鋭く、ふとく毛深い眉の下には血走った黒い目を光らせ、それに口ひげときたら、これだけでわが軽騎兵連隊の選抜中隊にはいれそうだった。白い襟章のついた緑の上着に馬の毛のヘルメット――竜騎兵だな、とわしは思った。真剣勝負の相手としては、願ってもないさっそうたる騎兵将校だ。
「シュタイン伯爵、ちょっと話がある」グナイゼナウ参謀長が言った。「たとえ敵が敗走しても、皇帝を逃がすようなことになれば、また軍隊を駆りあつめてくるだろうから、すべてが一からやり直しという仕儀になる。だが皇帝を捕えることができれば、この戦争は事実上終結する。このような目的のためなら、大きな努力を払い、大きな危険を冒す価値がある」
若い竜騎兵将校は無言のまま、一心に耳を傾けていた。
「かりにウェリントン公のお言葉どおりだとして、フランス軍が総くずれになって戦場から退却する場合、皇帝は国境への近道として、ゲナッペからシャルルロワへ抜ける道を引きかえすのはまちがいないところだ。皇帝の馬は駿足だろうし、敗走兵が皇帝のために道をゆずることも考えられる。わが騎兵隊が敗れた敵軍の背後を追いかけて行っても、皐帝ははるかかなたの先頭にいることになる」
若い竜騎兵将校はうなずいた。
「シュタイン伯爵、皇帝のことは君にまかせる。君が皇帝を捕えれば、君の名は歴史に残るだろう。君はわが軍のなかでもっともたくましい騎手という評判をえている。君の眼鏡にかなった同志を選びたまえ――十名ないし十二名で十分だろう。君は戦闘に加わってはいけない。全軍による追撃作戦に従事してもいけない。部隊からはなれて馬を進め、崇高な目的のために精力を貯えておかねばならぬ。わかったな?」
いまいちど、竜騎兵将校はうなずいてみせた。この沈黙がわしに感銘をあたえた。こいつはまことに危険きわまる人物だと、感じたのだ。
「では委細は君の手にまかせる。最高の者以外には手をだすな。君なら皇帝の馬車を見あやまることはあるまいし、皇帝の姿を認めそこなうこともあるまい。ところでわたしは元帥のあとを追わねばならぬ。では、ご機嫌よう! 今度君に会えるのは、ヨーロッパ中に鳴りひびく君の偉業を祝福するときだと信じている」
竜騎兵将校が一礼すると、グナイゼナウ参謀長はいそいで部屋から出て行った。青年将校はしばらくの間、じっと考えこんでいた。それから参謀長のあとにつづいた。わしは好奇心にかられて、このあと青年将校がどのような行動にでるだろうかと、屋根の穴から覗いてみた。彼の馬はみごとなたくましい栗毛で、二本の脚先が白く、居酒屋の横木につないであった。将校はひらりと鞍にまたがると、通りかかった騎兵の縦隊をさえぎり、先頭の連隊をひきいている将校に話しかけた。やがて話がすむと、軽騎兵が二人――これは軽騎兵連隊だった――隊列から離れて、シュタイン伯爵のそばについた。つぎの連隊も止められて、槍騎兵が二名、シュタイン伯爵の護衛に加わった。つぎの連隊は竜騎兵を二名、さらにつぎの連隊は胸甲騎兵を二名提供した。そのあと彼はこの騎兵の小さな一団を脇に連れてゆき、自分のまわりに円陣をつくらせて、これからの任務を説明した。結局、この九名の軍人は一団となって馬を進め、「パリの森」のなかへ姿を消した。
諸君、以上のことがどんな凶事を意味するか、それはお話しするまでもあるまい。事実、この青年将校は、わしが彼の立場だったら、そうしたであろうことをやったまでだ。各連隊長から、連隊きっての騎兵を二名ずつ出してもらい、こうして彼は、追跡するなにものでも捕えることができる一団を編成したのだ。どうか陛下に天佑神助を! 陛下が護衛もつけずに、この連中の追跡をうけることがありませんように!
そしてわしは、いや、親愛なる諸君――わしの心の興奮を、動揺を、錯乱を想像してくれたまえ! グルーシ元帥のことなど、すっかり念頭から消えてしまった。砲声は東の方からまったく聞こえてこなかった。元帥が近くにいるはずはなかった。かりに元帥がやってくるとしても、もはや戦局を変えるにはおそすぎるだろう。太陽はすでに西空にかたむき、明るいのもせいぜいあと二、三時間だ。わしの使命は今や無益なものとして放棄することもできよう。だがここに、これまで以上に急を要する差しせまった使命が生じた。この使命とは、陛下の安否、おそらくは陛下の生命にかかわるものであった。どんな犠牲を払い、どんな危険を冒しても、陛下のおそばへもどらなければならない。だが、どうしたらできるというのだ? 全プロシャ軍がいまや、わしとフランス軍の陣営の間に立ちはだかっていた。プロシャ軍は道路をすべて封鎖したが、エティエンヌ・ジェラールの目のまえに横たわる任務への道を封鎖することはできなかった。わしはもう待ってはいられない。出ていかなければならぬ。
この屋根裏への出入口は一つしかなかった。下へ行くには梯子を下るしか方法がなかった。調理場をのぞくと、若い軍医がまだそこにいた。椅子には負傷した英軍の副官がすわっており、藁の上には極度に衰弱したプロシャ兵が二人、横になっていた。他の兵士はみな元気を回復して、原隊へ復帰して行ったのだ。ここにいるのはわしの敵で、自分の馬のところへ行くのにも敵のなかを通っていかねばならなかった。軍医はなんら怖れるにあたらない。英軍の副官は負傷していて、彼の軍刀は外套といっしょに片隅に置いてあった。プロシャ兵の二人はなかば意識を失っており、そのマスカット銃はそばに置いてなかった。こんなに容易《たやす》く脱出できる機会がまたとあろうか? わしは跳ねあげ戸を開け、するすると梯子を下り、抜き身の剣を手にしたまま、彼らのどまんなかに立ち現われた。
いや、その驚きようといったらなかった! 軍医はもちろん承知していたが、英軍将校と二人のプロシャ兵は、軍神みずから天から舞い降りたと思えたにちがいない。わしの風采、わしの雄姿、銀鼠《ぎんねず》の軍服、手にはぎらぎら光る抜き身の剣、確かにわしは一見にあたいする光景だったに相違ない。プロシャ兵の二人は目をまるくして、化石のように横になっていた。英軍の将校は立ちあがりかけたが、衰弱していたために、口をあんぐりと開け、片手を椅子の背にかけて、またすわりこんでしまった。
「なんたることだ! なんたることだ!」彼は繰りかえした。
「動かないように」わしは言った。「だれにも危害を加えるつもりはない。だがわしを妨げようと手向かう者には災いがくだるぞ! わしに手出しをせねば、怖がることはなにもない。だが邪魔だてしようとすれば、助かる見込みはまったくないぞ。かく言うわしは、コンフラン軽騎兵連隊長、エティエンヌ・ジェラールだ」
「ややっ!」英軍の将校が叫んだ。「いつか狐を殺した男だな」ひどく険悪な形相がその顔を暗くした。狩猟家の嫉妬心は卑しい感情だ。この英軍将校がわしを憎んだのは、わしが彼よりも一足先に狐を突き刺したからだ。われわれフランス人の気質はこれとはどんなにちがっていることか! もしわしがこのような離れわざを目撃したら、わしは歓声をあげて相手を抱擁したことだろう。だが議論している暇はなかった。
「まことに恐縮だが、ここにある君の外套を拝借していかねばならん」わしは言った。
将校は椅子から立ちあがって軍刀に手をかけようとした。しかし、わしは彼と軍刀の間に割りこんではいった。
「なにかポケットにあるなら――」
「ケースがひとつ」将校が言った。
「わしは泥棒を働くつもりはない」こう、わしは言って、外套を取りあげ、ポケットから銀の水筒と、四角い木製のケースと、望遠鏡を取りだした。わしはこれ全部を彼に手わたした。すると、この恥知らずの男はケースを開けて。ピストルをだし、わしの頭に狙いをさだめた。
「さあ、大将。剣をすてて、降参しろ」将校が言った。
わしはこの破廉恥きわまる行為にびっくりした。彼のまえに立ちすくんだ。わしは節操とか、恩義とかを言い聞かせようとしたが、相手の目がピストルごしにじっと冷たくこちらにそそがれているのが見えた。
「問答無用!」将校が叫んだ。「剣をすてろ!」
このような屈辱を忍ぶことができようか? こんな思いをして剣を取りあげられるくらいなら、死んだほうがまだましだ。「撃て!」という言葉がわしの唇を突いてでたとたん、英軍将校の姿は目のまえから消えうせた。そして、そのかわりに大きな干し草の山があらわれ、赤い軍服の腕と二足の長靴が、そのなかでじたばたもがいていた。ああ、勇敢な内儀さんよ! わしの命を救ってくれたのは、わしの頬ひげだった。
「お逃げなさい、軍人さん、お逃げなさい!」
内儀さんが叫んだ。そう言いながら、床にある干し草の新しい束を、もがいている将校の上に積みかさねた。すぐさまわしは中庭に飛びだし、ヴィオレットを馬小屋から引きだして馬上にまたがった。窓から撃たれたピストルの弾が、わしの肩をひゅうとかすめていった。振りかえって見ると、怖ろしい形相がわしをにらんでいた。わしはにやりと笑って軽蔑してみせると、そのまま拍車を入れて街道へ躍りでた。プロシャ軍はすっかり通りすぎていたので、わしの行く手も、わしの任務も、なんら妨げられることなく目のまえに横たわっていた。フランスが勝てば、なにも言うことはない。もしフランスが負けるようなことになると、そのときこそ、わしとわが愛馬の上に、勝敗以上のもの――皇帝陛下の安全と生命がかかることになるのだ。
「進め、エティエンヌ、進め!」わしは叫んだ。「おまえのあらゆるすばらしい手柄のうちで、最後になるかもしれないが、最高のものが、いまおまえの目のまえに横たわっているぞ!」
二 九人のプロシャ騎兵
このまえ、諸君にお会いしたとき、皇帝陛下からグルーシ元帥にあてた重要な使命の一件をお話しした。もっともこの使命は水泡に帰したが、これはわしの落度によるものではない。それから、午後の長いあいだ、田舎の居酒屋の屋根裏部屋に閉じこめられ、プロシャ軍にまわりをかこまれていたため、そとに出られなかった話をした。さらに、プロシャ軍参謀長がシュタイン伯爵に指令をくだすところを盗み聞きし、フランス軍の敗北の暁には、皇帝陛下を殺すか、生け捕りにするという物騒な計画が進められていることをわしが知ったのも、諸君はおぼえておいでだろう。最初のうち、こんなことはとても信じられなかったのだが、砲声が一日中とどろいていて、しかもそれがわしの方向へちっとも進んでこないので、英軍がすくなくとも陣地を堅持して、わが軍の攻撃をことごとくはねのけているのは明らかだった。
この日の戦いは、フランス魂とイギリスの体力の戦いだったと言ったが、正直な話、この体力たるや、まことにしたたかなものだった。もし皇帝陛下が単独の英軍を打ち破ることができないとしたら、六万にのぼる忌まわしいプロシャ軍に雲霞のごとく側面をかこまれたいま、陛下にとって事態がいよいよ苦しくなったのは明白だ。いずれにせよ、この秘密を手に入れたからには、陛下のおそばへといそいで馳せ参じなければならない。
わしがさっそうと居酒屋から飛びだしたことは、この前お目にかかったときにお話しした。うしろでは英軍の副官が、やり場のない拳を窓からだして振りまわしていた。わしは彼の姿を見て、ふきださずにはいられなかった。まっ赤に怒った顔のまわりには、干し草がいっぱいついていたからだ。ひとたび街道に出ると、わしは鐙《あぶみ》の上に棒立ちになり、赤い裏地が着いた、すてきな黒い乗馬服に袖をとおした。例の英軍将校から拝借した上着だ。これは長靴の上のところにまで達したので、わしの身もとを明かす軍服をすっかり隠してしまった。ところでわしの毛皮帽だが、こんなものは。プロシャ軍のなかにも似通ったものがいくらもあるから、人目をひく怖れはなかった。こちらに話しかけてくる者がいないかぎり、プロシャ軍全域を通りぬけられない理由はなかった。わしがドイツ各地を転戦していた楽しい歳月の間、数多くのドイツ婦人と親しくなったので、ドイツ語はわかった。だがわしがドイツ語を話すとなると、どうしてもきれいなパリ訛《なまり》がでてくる。これでは彼らのごつごつした、非音楽的な話しかたと混同されるわけにはいかないのだ。この訛が人の注意をひくことは承知していたので、どうか口をきかずに進んでゆけるようにと望み、かつ祈るばかりであった。
「パリの森」はとても広かったので、これを迂回することは考えるだけむだだった。そこでわしは渾身の勇をふるって、街道ぞいにプロシャ軍のあとを飛ばした。道を辿るのはむずかしくなかった。砲車と弾薬車の車輪で、二フィートにも達する轍《わだち》がついていたからだ。すぐにわしは、プロシャ軍とフランス軍の負傷兵が道の両側に倒れているのが目にはいった。このあたりでビューロー将軍の前衛部隊が、わがマルボ将軍の軽騎兵と接触したのだ。軍医とおぼしき、白い長い顎ひげをたくわえた老人がわしにむかって大声を張りあげ、なおも叫びながら追いかけてきた。しかしわしはいちども振りむかずに、老人を黙殺したまま、ひたすら拍車を加えて疾駆した。老人の叫び声は、その姿が木立の間に見えなくなってからも、長いこと聞こえていた。
まもなくわしはプロシャ軍の予備隊に追いついた。歩兵たちはマスカット銃に寄りかかったり、疲れきって、濡れた地面に横たわったりしていた。将校たちはいくつかのグループに分かれて、戦闘のものすごい轟音に耳をかたむけながら、前線からの報告を検討していた。わしは全速力で通りすぎた。だが一人の将校が駆けだしてきて、わしの行く手に立ちふさがり、片手をあげて「止まれ」の合図をした。プロシャ兵の五千の目がわしにそそがれた。まさに危機一髪の瞬間だった! 諸君はそう思っただけで顔面蒼白になるだろう。さすがのわしも全身総毛立ったとお考えだろう。だが一瞬たりと言えども、わしは平常心と勇気を失うことがなかった。「ブリュッハー将軍!」わしは叫んだ。この言葉をわしの耳もとにささやいたのは、わが守護天使ではなかったか?
プロシャ軍の将校はわしのまえから跳びのき、敬礼して前方を指さした。プロシャ兵たちの規律は厳正だから、将軍への使者に立った将校をだれが引きとめたりするものか? これがわしをあらゆる危険からまぬがれさせてくれる魔法の切り札だった。そう思うと、わしの心は自然とはずんだ。わしはすっかり得意になり、誰何《すいか》されるのを待たずに、敵軍のなかに馬を乗り入れ、左右にむかって「ブリュッハー将軍! ブリュッハー将軍!」と叫んだ。すると誰も彼もが前方を指さし、道をあけてわしを通してくれた。ときには、しゃあしゃあとしたずうずうしさが最高の知恵になる場合がある。だが思慮分別も必要だ。わしは軽率だったと認めざるをえない。というのは、わしが馬を進めて、だんだんと戦線に近づいたとき、プロシャ軍の槍騎兵将校がわしの手綱をぐいとつかんで、火につつまれた農場の近くにたたずんでいる一団の人びとを指さして言った。
「ブリュッハー元帥がおられるぞ。伝言をつたえたまえ!」はたしてそこには、半白の頬ひげをたくわえた怖ろしげな老将軍が、ピストルの弾のとどくところにいて、目をこちらへむけていた。
しかし守護天使はわしを見すてなかった。閃光のように素早く、プロシャ軍の前衛部隊を指揮している将軍の名前が脳裏に浮かんだ。「ビューロー将軍!」とわしは叫んだ。槍騎兵将校は手綱を放した。「ビューロー将軍! ビューロー将軍!」わしは愛馬が一歩一歩、味方の陣営に近づくごとに大声を張りあげた。火につつまれたプランスノワ村を駆けぬけ、プロシャ歩兵の二つの縦隊の間を突っ走り、生垣を飛びこえ、行く手に躍りでたシレジアの軽騎兵をばっさり斬り倒し、すぐさま上着のまえをさっと開いて下に着ている軍服を見せ、歩兵第十連隊の散開隊形を通りぬけると、ふたたびわがロボー元帥の軍団のまっただなかにもどった。優勢な敵に側面を突かれ、ロボー軍団はプロシャ軍の前衛部隊の圧力をうけて、じりじりと追いつめられていた。わしは陛下のおそばに一刻も早く馳せ参じたいとひたすら念じて、愛馬を飛ばしつづけた。
しかし眼前に展開する光景を見て、わしはぴたりと立ちどまった。まるでわしはみごとな騎馬像と化したみたいだった。動くことも、息つくこともできずに、この光景に目をこらした。わしの行く手には小高い丘があって、この丘の上に立つと、ワーテルローの長い浅い谷が見おろせた。さきほどわしがこの谷を抜けてきたときには、両側に双方の大軍が対峙《たいじ》していて、その中間は空地になっていた。ところがいまや、両側の尾根の上には、算を乱して疲れきった連隊の長い不規則な列が見えるだけで、真の大軍ともいうべき死傷者たちはその中間に横たわっていた。長さ二マイル、幅半マイルにわたって、死傷者がごろごろと転がり、折り重なっていた。だが、殺戮《さつりく》はわしにとってなにも珍しい光景でない。わしが金縛《かなしば》りにあったのはこのためではなかった。それは英軍陣営の長い斜面を「動く森」――黒々と、揺れ動き、波うって、跡切れることのない――が登ってゆく光景のためだった。このわしに親衛隊の黒毛皮製の高帽がわからぬはずがあろうか?
親衛隊がフランス軍の最後の予備隊であり、皇帝陛下が死に物狂いの賭博師のように、すべてを最後の切り札に賭けておられることが、わしにわからぬはずがあろうか? わしの軍人としての勘で気づかぬはずがあろうか? 親衛隊は上へ、上へと登って行った――小銃掃射に悩まされ、葡萄弾をくまなく撃ちこまれながらも、堂々と、堅固に、びくともしないで、黒い激しい潮となって押しよせながら、英軍の砲兵陣地へかぶさって行った。わしは望遠鏡を手にして、英軍の砲手が大砲の下にかくれたり、後方へ走ったりするところを眺めることができた。黒い毛皮帽の波がうねりながら進んで行った。その直後に、わしの耳までとどくすさまじい音をたてて、彼らは英軍の歩兵部隊とぶつかった。一分経過した。さらに一分、それからまた一分がたった。わしの心は落ちつかなかった。彼らは押したり、押されたりしていた。もはや進まなかった。その場に食いとめられた。すなわち一大事! 親衛隊がくずれることなどありえようか?
黒い点が一つ、丘を駆けおりた。ついで二つの点が、さらに四つ、そのあと十の点が、それからばらばらになってもがいている大きな塊が、ちょっと立ちどまってはくずれ、またとまり、ついには蜘蛛《くも》の子を散らすように、一目散に駆けおりた。「親衛隊が敗れたぞ! 親衛隊が敗れたぞ!」四方八方からこの叫び声が聞こえた。わが陣営の全域にわたって、歩兵は向きをかえ、砲兵は大砲から離れた。
「親衛隊が敗れたぞ! 親衛隊が退却するぞ!」顔からすっかり血の気がうせた将校が、この悲痛な言葉を叫びながら、わしのそばを通りすぎた。「逃げろ! 逃げろ! 裏切られたんだぞ!」別の将校が叫んだ。「逃げろ! 逃げるんだ!」兵士たちは死に物狂いで後方へ駆けだし、つまずいたり、跳びあがったり、さながらおびえきった羊の群れみたいだった。叫び声やら悲鳴やらがわしの周囲からおこった。そしてこの瞬間、英軍の陣地を眺めたときに、生涯忘れえないものを目撃した。一人の騎士の姿が尾根の上に、落日の赤々と怒りに燃える最後の夕映えを背にして、黒くくっきりと浮かびあがった。その不気味な光を背景にした姿があくまでも黒く、身じろぎ一つ見せなかったので、戦《いくさ》の精霊そのものが怖ろしい谷間を見おろしているように思えた。じっと見つめていると、この騎士は帽子を高く揚げた。するとこれを合図に、砕ける波のような低く深いとどろきとともに、英軍のすべてが尾根の上に押しよせ、谷間になだれこんできた。ひらめく剣で縁どられた赤と青の長い戦列、殺到する騎兵隊の波、がらがらと音をたてて躍進する騎砲兵中隊――この敵軍がくずれだしたわが軍めがけて襲いかかった。
万事は終わった。苦悶の叫びがわが軍の一翼からおこり、全軍をおおった。それは絶望した勇士たちの苦悶だった。するとたちまちのうちに、この堂々たる軍隊は戦場からことごとく姿を消し、あとに残るのは恐怖に駆られて取り乱した烏合の衆ばかりだった。諸君、わしは今でも、ごらんのとおり、この怖ろしい瞬間を目をうるませずに、また声をふるわせずに語ることはできないのだ。
最初、わしはこのすさまじい突進の波にさらわれ、氾濫する水路に浮かぶ一本の藁のように渦に巻かれて流されて行った。だが突然、眼前の混成軍のなかに見えたのは、かの銀鼠の軍服に身をかため、その中央にぼろぼろに破れた軍旗を高々とかかげた、いかめしい騎士の一団だった。英軍とプロシャ軍が全力を結集しても、わがコンフラン軽騎兵連隊を打ち破ることはできなかったのだ。だがわしが原隊に復帰して彼らを見ると、悲痛な思いに胸を突かれた。少佐と七人の大尉と五百人の兵士が戦死し、若いサバティエ大尉が指揮をとっていた。五個中隊が見あたらぬが、どこにいるのかと訊《き》くと、彼は後方を指さして、「あの英軍の方陣の一つを取りまいております」と答えた。兵も馬も疲労困憊して、汗と埃にまみれ、黒ずんだ舌を口もとからだらりとたらしていた。それでもこの敗残の兵士たちが、少年ラッパ手から軍馬係軍曹にいたるまで、全員自分の位置について堂々と並んで馬を進めてゆくところを見ると、わしは誇りで胸がふるえるのをおぼえた。この兵士たちを皇帝陛下の護衛として連れてゆくことができたら!
コンフラン軽騎兵連隊のまんなかにおられれば、陛下の安泰はまちがいないところだ。しかし馬はみな疲れきっていて、早足で進むことができなかった。そこで部下たちにはサン・オーネイの農家に集まるよう命じて、わしは一足さきに道を急いだ。この農家はわが連隊が二日前に野営の陣を張ったところだ。ところでわしは人波のなかを強引に馬を進め、陛下を捜しもとめた。
この怖ろしい人波を分け入ったとき、わしの心から決して払いのけることができないものを目撃した。いまでも悪夢のなかで、このときわしが見た、血の気を失い、目をこらして絶叫する顔の際限のない列が記憶もあらたによみがえってくる。これはまさに悪夢そのものだ。勝ち戦では戦争の怖ろしさはわからない。これを痛切に感じるのは、敗北という冷酷な現実に直面したときだけだ。いまでも忘れないが、親衛隊の古参選抜兵が骨折した脚を直角に折り曲げて、道端に横たわっていた。「戦友、戦友、おれの脚をよけてくれ!」彼はそう叫ぶのだが、それでも兵士たちは彼につまずいて倒れかかるのだった。わしの前方には、槍騎兵の将校が一人、上着もつけずに馬を進めていた。いましがた、野戦病院で片腕を切断されたばかりだった。包帯がずり落ちていて、目もあてられぬありさまだった。二人の砲兵が大砲をひいて通りぬけようとした。すると追撃兵がマスカット銃をかまえて、一人の砲兵の頭を射抜いた。わしはまた、胸甲騎兵少佐が革ケース入りのピストルを二挺抜きだし、まず自分の馬を、ついで自分自身を撃つところを見た。道ばたでは、青い軍服を着た男が気でもちがったようにわめいて荒れ狂っていた。顔は火薬で黒くすすけ、服はずたずたに裂け、肩章が一つはなくなり、いま一つはだらんと胸の上にたれていた。近づいてみて、はじめてそれがネー元帥だとわかった。元帥は逃走してゆく軍隊にむかってわめきたてていたが、その声はとても人間のものとは思えなかった。それから彼は手にした剣を高々と揚げた――剣は柄《つか》から三インチのところで折れていた。
「フランスの元帥の死に際を見せてやるぞ!」と彼は叫んだ。わしも喜んでお供したかったが、わしの任務はほかにあった。元帥は諸君もご存知のように、みずから求めた最期を遂げることができず、この数週間後に、敵の手にかかって冷酷な死をむかえたのだ。
攻め込むときのフランス人は男以上、敗れたときのフランス人は女以下、という古い諺がある。わしはこの日にそれが真実なのを知った。だがこの敗北のさなかにも、わしは誇りをもって語れるものを目撃した。街道ぞいの畑のなかを、わが軍の精鋭、親衛隊の予備三個大隊がカンブロンヌ将軍にひきいられて行進していた。方陣をつくり、ゆっくりとした歩調で、黒毛皮帽の地味な列の上には軍旗がはためいていた。この親衛隊のまわりには、英軍の騎兵隊とプロシャ軍のブラウンシュワイク黒色槍騎兵隊が荒れ狂い、つぎつぎと波状攻撃をしかけては激突してくずれ、ちりぢりになって退却して行った。わしが最後に見たときには、英軍の大砲が、いちどに六門、葡萄弾を親衛隊のなかに打ちこみ、英軍の歩兵隊が三方から攻め寄せながら一斉射撃を加えていた。だがそれでも、雄々しいライオンが、血に飢えた猟犬に左右からぴたりと寄りそわれたように、光栄ある親衛隊の生き残りはゆっくりと行進し、停止し、列を詰めて整列すると、威風堂々と最後の戦闘から引きあげて行った。彼らにつづいて、親衛隊の十二ポンド砲の砲列が尾根の上に引きあげられた。砲兵は全員、部署についていたが、大砲は火を吹かなかった。
「どうして発砲しないのかね?」わしは通りかかりに連隊長に訊いた。「弾薬が底をついたのだ」「では、どうして退却しないのだ?」「われわれがここにいれば、しばらくは敵を食いとめることができるからだ。皇帝陛下に脱出なさる時間を差しあげねばならぬ」これぞまさしくフランスの軍人だった。
この勇士たちの壁の背後で、他の兵士たちは一息いれて、それからいくぶん気力を取りもどして行進をつづけた。彼らの進路は街道筋からそれていた。夕闇せまるこの地方一帯に、浮き足立ってちりぢりになった兵士の群れを見ることができた。この兵士たちが、わずか十時間前には、戦史に比頻のないもっとも優秀な軍隊を構成していたのだ。わしは駿馬に鞭打って、すぐにこの群れを引きはなした。ちょうどジェナップ村を通りすぎたところで、わしは陛下と生き残りの幕僚たちに追いついた。スルト元帥があいかわらず陛下の側近にいた。さらにドルーオ将軍、ロボー元帥、ベルトラン将軍、それに親衛隊の追撃兵が五名いたが、彼らの馬はほとんど動けない状態だった。日が暮れかかっていた。陛下がわしのほうにむきなおられたとき、そのやつれた顔が薄暗がりのなかで白く輝いた。
「あれはだれか?」陛下が訊かれた。
「ジェラール大佐であります」スルト元帥が答えた。
「グルーシ元帥に会ったか?」
「会えませんでした、陛下。プロシャ軍が間におりましたから」
「会えなくてもかまわん。いまとなってはどうということもない。スルト元帥、わしは引きかえすぞ」
陛下は馬を返そうとされたが、ベルトラン将軍が陛下の馬の手綱をしっかりつかんだ。「ああ、陛下」とスルト元帥が言った。「敵はこれまでに、いやというほどの幸運に恵まれております」彼らは陛下を取りかこんで、むりやり前進させた。陛下は顎を胸にうずめ、押しだまったまま馬に乗って行かれた。それは人間のなかでもっとも偉大な、そしてもっとも淋しい者の姿だった。はるか後方では、大砲がいまなお非情にも轟音をひびかせていた。ときどき闇のなかから、叫び声と悲鳴が、そして疾駆する馬蹄の低いとどろきが聞こえてきた。この物音を聞きつけると、われわれは馬に拍車を入れ、ちりぢりになった部隊のなかを急いで前進した。とうとう、冴えわたる月光のなかを夜どおし乗り進めてから、われわれは追われる者と追う者を、ともにうしろへ残してきたことに気づいた。
シャルルロワで橋をわたるころには夜が明けそめていた。あの冷たい、冴えた、探りだすような光のなかで、われわれはなんと幽霊の一群のように見えたことか! 蝋《ろう》の顔をした皇帝陛下、爆薬で黒ずんだスルト元帥、血まみれのロボー元帥。だがいまは馬を進めて行くのもいくらか気が軽くなって、肩ごしに振りかえって見ることもなくなった。ワーテルローから三十マイル以上も遠ざかってきたからだ。陛下の御料《ごりょう》馬車の一つがシャルルロワで手にはいったので、われわれはサンブル川の対岸で停止し、馬からおりた。
このときまでずっと、どうしてわしがもっとも大事なこと、つまり陛下を警護する必要について一言も語らなかったのかと、諸君は訊かれるだろう。事実、わしはスルト元帥にも、ロボー元帥にも、このことを話そうとしたのだが、両元帥は思いもよらぬ敗戦に打ちのめされ、当面の急務に心を奪われていたので、わしの警告の緊急性などとうていわかってもらえなかった。その上、この大逃避行の間、われわれのそばの街道にはいつも多数のフランス軍逃亡兵がいたので、この連中がどれほど士気を沮喪《そそう》していようとも、九人の騎士の襲撃などなんら怖れるにたりなかった。ところがいま、この早朝に、われわれが陛下の御料馬車をかこんで立っていると、後方の長く白い街道にフランス兵の姿が一人も見あたらないのに気づいて、不安な気持に襲われた。われわれは軍隊をはるかに引きはなしてしまったのだ。わしはあたりを見まわして、どのような防御手段が残されているかを確かめた。親衛隊の追撃兵の馬はいずれも落伍してしまって、追撃兵のなかではただ一人、半白の頬ひげをたくわえた軍曹だけが残っていた。スルト、ロボー、ベルトランの三将軍はいたが、彼らにどのような才能があるにせよ、ひとたび激しい乱闘となると、この三将軍を束にしたよりも、軽騎兵の主計軍曹を一人だけでも自分のそばにつけておきたかった。ほかには、皇帝陛下ご自身と御者《ぎょしゃ》と、シャルルロワでわれわれ一行に加わった宮中の従者――全員で八名。だがこの八名のうち、危急の際に頼りになるのは、追撃兵とわしとのわずか二名の戦闘員だった。われわれの一行がなんと無力な状態にあるのかと思いをめぐらせたとき、全身にぞっと寒けが走った。このとき、わしは目をあげた。するとあの九人のプロシャ軍の騎兵が丘を越えてやってきた。
このあたりでは街道の両側に、起伏する土地がどこまでもつづいていて、一部は小麦畑で黄色く彩られ、一部はサンブル川の水で青々と茂る草地になっていた。われわれの南には低い尾根があって、この尾根ごしにフランスへ通じる街道が走っていた。この街道ぞいに、九人の騎兵が馬を飛ばしてきたのだ。シュタイン伯爵はあたえられた指示どおりに、阜帝陛下の先まわりをする決心で、われわれのはるか南方にでていた。いま、シュタイン伯爵はわれわれが進んで行く方角――敵に遭遇するとは思いもよらぬ方角――からやってきた。わしが最初に彼らを見つけたとき、この連中はまだ半マイルもむこうにいた。
「陛下!」わしは叫んだ。「プロシャ兵であります!」
みんなはぎくりとして、目をまるくした。沈黙を破ったのは陛下だった。
「だれだ、あれがプロシャ兵だと言うのは?」
「わたくしであります、陛下――エティエンヌ・ジェラールであります!」
不快な情報を耳にすると、陛下はいつもその情報を提供した者に当たり散らされる。このとき陛下は耳ざわりな、しゃがれた、コルシカ訛の声でわしを罵倒された。こんな声は陛下が自制心を失われたときでなければ、耳にすることができないものだ。
「おまえはあいもかわらぬおどけ者だ。あれがプロシャ兵だとは、この阿呆め、どういうつもりなのだ? なんでプロシャ兵がフランスの方角からやってくる? おまえはなけなしの分別までなくしてしまったのか」
陛下の言葉は鞭のように骨身にこたえた。それでもわれわれが陛下にいだく感情は、子飼いの犬の主人にたいする感情に似ていた。足蹴にされても、すぐに忘れて、恨みはいだかない。わしは議論したり、弁明したりするつもりはなかった。一目見たときに、先頭の馬の前脚の毛が二本とも白いのに気づき、シュタイン伯爵が馬上にいることがわかった。ちょっとの間、九人の騎兵は馬をとめ、われわれの一行をしげしげと見つめた。すると今度は、それぞれの馬に拍車をいれ、勝鬨《かちどき》をあげながら街道を駆けおりてきた。彼らには目ざす獲物が掌中にあるのがわかっていたのだ。
この素早い突進ぶりで、あらゆる疑念は消えうせた。「やや、陛下、確かにプロシャ兵でありますぞ!」スルト元帥が叫んだ。ロボー元帥とベルトラン将軍はおびえた牝鶏《めんどり》のように道路を駆けまわった。追撃兵の軍曹は矢つぎばやに呪咀の言葉を吐きながら剣を抜いた。御者と従者は泣き声をあげて、両手をもみしぼった。ナポレオン皇帝は凍りついたような顔をして、片足を馬車の踏み段にかけたまま立っておられた。そしてわしは――ああ、諸君、わしはすばらしかったぞ! わが生涯におけるもっとも重大なこの瞬間に、わしのとった態度を正しく評価するにはどのような言葉を用いたらいいだろう!
冷静な機敏さ、怖るべき沈着、明晰な頭脳、迅速な手際! 陛下はわしのことを阿呆とか、おどけ者とか呼ばれたが、わしの雪辱はなんと素早く、なんと高潔であったことか! 陛下ご自身の分別が枯渇したとき、その欠を補うのはほかならぬエティエンヌ・ジェラールだった。
戦うのは無茶であり、逃げるのは愚かなことだった。陛下はふとっており、極度に疲労しておられた。どうひいき目に見ても、馬術の名手とは言えなかった。どうしたら陛下は、この一軍選り抜きの連中から逃れることができるだろうか? プロシャ軍きっての名騎手がこのなかにいるのだ。しかしわしはフランス軍きっての名騎手だ。わしは、いやわしだけは断じて彼らにひけをとらない。彼らが陛下のかわりに、わしを追跡してくれれば、首尾よくいかぬともかぎらない。こういう考えが頭のなかにさっとひらめいた。一瞬のうちに、わしは最初の考えから最終の結論へと飛んだ。つぎの瞬間には、最終の結論から機敏な力強い行動へと移った。わしは陛下のおそばへ突進した。陛下は馬車のかげで敵から見えぬところに立ちすくんでおられた。「陛下、お召しの上着を! お帽子を!」わしはこう叫んで、陛下の上着と帽子を剥《は》ぎとった。陛下の生涯でこれほどせきたてられたことはあるまい。すぐさま、わしはこの上着と帽子を身につけて、陛下を馬車のなかに押しこんだ。つぎの瞬間には、陛下の有名なアラブ種の白馬に飛びのって、一行からはなれて街道を疾駆していた。
諸君はすでにわしの目論見をお見とおしだろう。だがわしがどうして陛下の身がわりになることを思いついたのか、不審に思われるのもむりはない。わしの体つきはいまなおごらんのとおりだ。ところが陛下の体つきときたら、とても美しいとは言えなかった。背が低い上にふとっておられたからな。だが背の高さは鞍にまたがると目だたないものだ。あとは馬上で前かがみになって、背中をまるめ、小麦粉の袋みたいな格好をするだけだ。わしは小さな三角帽をかぶり、銀の星がついている灰色のゆったりした上着をきていた。この身なりはヨーロッパの端から端まで、三歳の子供にも知れわたっているものだ。わしがまたがっているのは陛下ご愛用の白馬だ。道具だては申し分なかった。
わしが走りだしたときには、すでにプロシャ騎兵はわれわれ一行から二百ヤード以内に迫っていた。わしは両手をつかって恐怖と絶望の身ぶりを見せ、それから馬を躍らせて街道ぞいの土手を越えた。これで十分だった。歓喜と激しい憎悪の喚声がプロシャ騎兵からどっと湧きおこった。それは獲物をかぎつけた飢えた狼の吠え声だった。わしは馬に拍車を入れ、草原を疾駆しながら脇の下から振りかえって見た。ああ、つぎからつぎへと八人の騎兵が土手を越えて、わしを追いかけてくるのを見たときの痛快さといったらない! 一騎だけがあとに残っていたが、すぐに叫び声と格闘の物音が聞えてきた。わしは古参のわが追撃兵軍曹を思いだし、この九人目の騎兵はもはやわれわれを悩ますことはあるまいと思った。街道には邪魔だてする者もいないし、陛下は意のままに行進をおつづけになれるはずだ。
だがここでわしは自分のことを考える必要があった。もしわしが追いつかれでもすると、プロシャ騎兵たちは失望のあまり、わしを手早くかたづけてしまうのは必定だ。もしそうだとしたら――もし一命をすてるとしたら――わしはそれでもすばらしい高値で命を売りつけたことになる。だがわしには追手を振り切れる見込みがあった。むこうが並みの騎手に並みの馬なら、振り切るのも造作なかったろうが、この場合、馬も騎手も一流ときていた。わしが乗っているのは天下の逸物だが、長途の夜行軍のために疲れていた。それに陛下は馬の扱いかたを心得ておられなかった。陛下は馬のことなどあまり気にかけず、手綱さばきが無器用だった。一方、シュタイン伯爵とその部下は遠方から急行軍でやってきたのだ。したがって、この競走は五分五分の条件だった。
わしの思いつきはとっさのことだったし、素早くそれを実行したために、わが身の安全のことなどあまり考えなかった。最初にこれを考えていたら、わしはもちろん、もと来た道をまっすぐ引きかえしたことだろう。そうすれば味方の兵士たちに会えるからだ。だがわしは街道からそれて、一マイルも平原を疾駆してからこのことに気づいた。そこで振りかえって見ると、プロシャ騎兵は長い横隊に散開して、わしがシャルルロワ街道にもどれないようにさえぎっていた。もどることはできなかったが、すくなくともじりじりと北へむかって行くことはできた。この地域なら味方の逃亡兵がいたるところにいるし、遅かれ早かれ、この連中に出くわせるにちがいないと思った。
だが一つだけ忘れていたことがあった――サンブル川のことだ。わしは興奮のあまり、深くて幅の広いサンブル川が朝日にきらきら輝いているのを見るまで、この川のことはまったく考えてもみなかった。川が行く手をさえぎった。プロシャ騎兵はわしの背後でわめきたてた。わしは崖っぷちまで疾駆してきたが、馬は跳びこもうとしなかった。拍車をいれてはみたものの、岸は高く、流れは速かった。馬は身をふるわせ、鼻を鳴らしながら尻ごみした。勝利の喚声が刻一刻と高まってきた。わしはむきを変えて、川岸を必死の思いで走った。川はこのあたりで湾曲していて、退路が絶たれているので、なんとかして対岸へわたらなければならなかった。突然、ぞくぞくするような希望が五体を駆けめぐった。川のこちら側に家が一軒、そしてむこう側にも一軒見えたからだ。こういう家が二軒あるところでは、川が浅瀬になっているのがふつうなのだ。坂道が川べりまでつづいていたので、馬を駆りたててくだって行った。なおも進んで行くと、水は鞍まで達し、泡が左右に飛びちった。馬が一度つまずいたときは、もうこれまでかと思ったが、すぐに立ちなおった。つぎの瞬間には、むこう岸の傾斜をぱかぱかとのぼって行った。水からでたとき、先頭のプロシャ騎兵が川に飛びこむざぶんという水音が背後で聞こえた。わしと敵兵との間隔は、ちょうどサンブル川の幅だけあった。
わしは陛下がおやりになるように、首を両肩のあいだにうずめて馬を進めた。口ひげを見られるといけないので、振りむく気にはなれなかった。灰色の上着の襟を立てていたのも、一つには口ひげを隠すためだった。いまからでも思いちがいに気づけば、敵兵は踵《くびす》を返して、御料馬車に追いつけよう。街道を走っていたときには、追手の蹄の音で、彼らがどのくらい離れているかがわかった。この音は、追手が徐々に差をつめているみたいに、大きくなってきたような気がした。われわれはいま、浅瀬からつづく石の多い、車の轍がついた小道をのぼっていた。わしは細心の注意をはらって、脇の下からうしろを覗いた。するとわしを脅かしているのは、僚友のはるか先頭を切っている一騎だけだということがわかった。これは軽騎兵だった。ひどく小柄な男で、大きな黒毛の馬に乗っていた。先頭に立てたのも体重が軽かったおかげだ。先頭というのは名誉ある位置だ。だがそれと同時に危険な位置でもある。ということは間もなく思い知るはずだ。わしは拳銃の革袋をさぐってみて、思わずどきりとした。拳銃がないのだ。一つの革袋には望遠鏡が、もう一方には書類が詰まっていた。軍刀はヴィオレットのところに置いてきたのだ。愛用の武器と馬さえあれば、こんな連中は軽くあしらってみせるのだが。
だが、わしにまったく武器がないわけではなかった。陛下の剣が鞍につるしてあった。短い反身《そりみ》の剣で、柄全体が金でおおわれていた――要するに、軍人のまさかのときに役だつよりは、閲兵式でぴかつかせるのにむいた代物だった。たいしたものではないが、この剣を抜いて、わしは機会をうかがった。刻一刻と蹄の音が近づいてきた。馬のあえぎが聞こえた。追手はわしにむかってなにか脅し文句をあびせた。小道が湾曲しているところを曲がったとたん、わしはアラブ種の白馬が尻を地面にこすりつけるほど、ぐいと引きとめた。馬のむきをぐるっと変えると、プロシャ軽騎兵と顔をつきあわせた。軽騎兵は猛烈な勢いでやってきたので、とまるわけにいかなかった。ただ一つの機会といえば、わしを馬の足で蹂躙《じゅうりん》することだった。もしそんなことでもしようものなら、彼はみずから死を招くことになっただろう。だがそれと同時に、わしか、わしの馬が手傷を負って、逃げる望みはすっかり絶たれたことだろう。しかしこの馬鹿者はわしが待ちかまえているのを見てたじろぎ、わしの右手を駆けぬけた。わしは白馬の頸の上に玩具のような剣を突きだして、相手の脇腹にぐさりと刺した。これは天下の名剣で、剃刀のように鋭かったにちがいない。というのは、ほとんど手ごたえがなかったのに、血が柄から三インチたらずのところにまでべったりとついていたからだ。馬はそのまま駆けぬけて行った。軽騎兵は百ヤードほどは鞍にまたがっていたものの、ついにたてがみに顔を突っ伏して、馬の頸から路上へと滑り落ちた。わしのほうは、すでにこの馬のすぐあとを追っていた。長々と話してきたが、これはほんの数秒の出来事だった。
プロシャの騎兵たちが死んだ戦友のかたわらを通りぬけるときに発した、激怒と復讐の叫びが聞こえてきた。そして彼らが皇帝陛下のことを、騎手として、剣士として、はたしてどう思うだろうかと考えると、おのずと微笑を禁じえなかった。わしは先ほどと同様、用心ぶかくうしろをうかがったが、七人の騎士のうち、立ちどまった者は一人もいなかった。戦友の非業の最期など、任務の遂行にくらべれば無に等しかった。彼らはさながら警察犬のように執念ぶかく、残忍だった。だがわしは追手をかなり引きはなしていたし、勇敢なアラブ種の白馬は快調に走りつづけていたので、まずは安心だと思った。
ところがほかならぬこの瞬間に、もっとも怖ろしい危険がふりかかってきたのだ。道が二股に分かれていたので、わしは細いほうの道を選んだ。このほうが、草が多く、馬の蹄には楽だからだ。とある門を駆けぬけると、そこは馬小屋と農場の建物でかこまれた中庭になっていて、いま来た道のほかには出口のないことに気づいた。このときの恐怖を想像してくれたまえ! ああ、諸君、わしの頭髪が雪のように白いのも、それなりの理由があったからではなかろうか?
引きかえすことは不可能だった。小道からはプロシャ騎兵の蹄のとどろきが聞こえてきた。わしはあたりを見まわした。ところでわしは生まれつき鋭敏な目をしている。これはどんな軍人にとってもそうだが、とりわけ騎兵隊の指揮官にとってはなによりの授かりものだ。長々とつづく低い馬小屋と農家の間に豚小屋があった。豚小量の前には四フィートの高さに横木が何本かわたしてあった。うしろは石造りの壁で、横木より高くなっていた。壁のむこうがどうなっているかはわからなかった。横木と壁との間はせいぜい二、三ヤードしかなかった。一か八かの冒険だったが、やらないわけにはいかなかった。刻々と急追してくる馬蹄のひびきが高まってきた。わしは豚小屋を目がけて馬を躍らせた。馬は横木をみごとに飛びこえて、なかで眠っている豚の上に前足を突っこみ、はずみで前へすべって膝をついた。わしは背後の壁のむこうに放りだされ、柔らかい花壇のなかに両手と顔から落ちた。わしの馬は壁のあちら側、わしはこちら側、ところがプロシャ軍の騎兵たちは続々と中庭になだれこんできた。だがわしはすぐさま立ちあがって、さかんに跳ねている馬の手綱を壁ごしにしっかり握っていた。この壁は石を積み重ねただけのものだったので、わしは石をいくつかくずして口を開けた。手綱をぐいと引いて声をかけると、勇敢なこの馬はぱっと跳びあがり、すぐさまわしのそばにやってきた。わしは鐙《あぶみ》に足をかけた。
鞍にまたがると、とたんに大胆きわまる考えが脳裏に浮かんだ。このプロシャ軍の騎兵たちが、かりに豚小屋に飛びこんでくるとすると、一度に一人ずつしかはいれないし、飛びこんでから体勢を立てなおす時間がなければ、その攻撃も怖れるにたりないだろう。ここで待ちかまえていて、敵が飛びこんでくるところを一人ずつ片づけてしまったらどうだ? これは実にすばらしい考えだった。そうすれば、エティエンヌ・ジェラールなる者が、なま易しく追跡できる相手でないと思い知ることだろう。わしの手は剣をさぐったが、空っぽの鞘をさぐりあてたときの心境たるや、諸君にもご想像いただけよう。馬があのいまいましい豚につまずいたとき、中味の剣が飛びだしてしまったのだ。人間の運命とはなんとばかげた些細なことに左右されるのだろう!――片側には豚がいて、反対側にはエティエンヌ・ジェラール。壁を跳びこえて、剣を手にすることができるだろうか? とんでもない! プロシャ軍の騎兵たちはすでに中庭にいるのだ。わしは馬首をめぐらして、ふたたび逃走をつづけた。
ところが一瞬、前よりもずっと始末のわるい罠にはまったような気がした。わしが出たところは農家の庭園で、果樹園を中心にして、周囲を花壇がかこんでいた。そして高い壁が庭園全体を取りまいていた。しかし、どこかに出入り口があるにちがいないと思った。ここへやってくる人がだれもかれも、豚小屋を飛びこえてくるはずはないからだ。わしは壁ぞいにぐるっと馬を走らせた。案の定、内側に鍵のついた扉に出くわした。馬からおり、錠をはずし、扉を開けた。すると六フィートと離れないところに、一人のプロシャ槍騎兵が馬にまたがっているではないか。
一瞬、われわれはにらみあった。そのあとすぐ、わしは扉を閉め、また錠をかけた。がたんというすさまじい音と絶叫が庭園のむこうの端から聞こえてきた。敵の一人が豚小屋を飛びこえようとしてしくじったのだな、と思った。どうしたらこの窮地を抜けだせるだろうか? 追手のうち何名かがぐるっと先まわりし、一方、何名かがわしのあとをつけてきたにちがいない。剣さえあれば、戸口にいた槍騎兵などわけなく打ち払えるところだが、いま出て行くのはむざむざ殺されに行くようなものだ。だがぐずぐずしていれば、何名かの者が馬からおり、豚小屋を踏みこえて追跡してくるに決まっている。こうなったらなにができようか? 即刻、行動しなければならぬ。さもなければ万事休すだ。だがこういう瞬間にこそ、わしの才気が存分に発揮され、行動が迅速機敏になるのだ。わしは馬を引いたまま、槍騎兵が見張っているところから壁ぞいに百ヤードほど走って行って立ちどまり、壁の上のほうに積まれた石を五つ六つ、力まかせに突きくずした。こうしておいてすぐさま、もとの扉へと急いでもどった。案の定、槍騎兵はわしがそこで脱出口をつくっていると思ったらしく、先まわりするために走って行く馬の蹄の音が聞こえてきた。門まできて振りかえってみると、一見してシュタイン伯爵とわかる緑色の上着をきた騎士が、豚小屋をきれいに飛びこえ、勝利の歓声も高らかに、庭園のむこうから猛烈な勢いで疾駆してくるのが目にはいった。「降伏なされい、陛下、降伏なされい!」シュタイン伯爵が叫んだ。
「一命はお助けいたしますぞ!」わしは門をすり抜けたが、錠をかける暇がなかった。シュタイン伯爵はわしのすぐ背後に迫っており、槍騎兵はすでに馬の向きを変えていた。白馬の背に飛び乗ると、邪魔者のいない草地を前にして、ふたたびわしは飛びだして行った。シュタイン伯爵は馬からおりて門を開け、手綱を引いて通り抜け、それからまた馬に乗らなければ追跡できなかった。わしが怖れていたのは槍騎兵よりシュタイン伯爵だった。槍騎兵の馬は調教も粗末だったし、それに疲れていたからだ。わしは一マイルほど懸命に疾走してから、思いきって振りかえってみた。するとシュタイン伯爵はわしからちょうどマスカット銃の射程距離のところに、そして槍騎兵は彼からまた同じくらいの距離のところにいた。ほかに見えたのは三騎だけだった。九人のプロシャ騎兵はあしらいやすい数に減ってはきたが、武器を持たぬ者にとっては一騎といえども手ごわいのだ。
こうも長く追跡されている間に、友軍の逃亡兵を一人も見かけなかったのは意外だった。だが考えてみると、わしは彼らの逃走の道筋からかなり西の方にずれていたので、友軍に加わろうと思うなら、もっと東の方に寄る必要があった。そうしないと、追手の連中は、たとえわしに追いつけないまでも、たえず見逃さずについてきて、しまいには北からやってくる敵軍にわしの行く手がさえぎられることになろう。東の方に目をむけると、はるかかなたに何マイルにもわたって砂塵《さじん》が舞いあがっているのが見えた。これは本街道で、わが軍が武運つたなく敗走しているにちがいなかった。だがまもなく、味方の落伍兵のなかには、こうした横道に迷いこんだ者がいるという証拠が見つかった。というのは、わしは突然、一頭の馬が畑のすみで草を食《は》んでいるのに出くわした。しかもそのかたわらには、土手に背をもたれて、主《あるじ》のフランス軍胸甲騎兵が重傷を負って、明らかに死にかかっていたからだ。わしは馬から飛びおりて、彼の長くて重い剣をつかみ、そのまま馬を進めて行った。この不運な男が弱々しい視力でわしを見たときの顔は、とうてい忘れられるものでない。半白の口ひげをたくわえた老兵で、筋金入りのナポレオン心酔者。彼にとって、今わの際に皇帝陛下のお姿を一目拝めたことは天上からの啓示のようなものだった。驚愕、敬愛、誇り――これらすべてが蒼白な顔面に輝いた。老兵はなにかをつぶやいた――おそらく彼が口にした最後の言葉だったろう――だがわしには耳をかたむける暇がなかった。そこで馬を飛ばして先をいそいだ。
この間ずっと、わしは牧草地を走ってきたのだが、このあたりでは幅広い溝が何本も牧草地を横ぎっていた。なかには十四、五フィート以下とは思えぬものもいくつかあって、跳躍を試みるたびごとに胆を冷やしたものだ。一度でもへまをすれば、身の破滅を招くからだ。しかし陛下の馬を選定した男の目は節穴ではなかった。この馬は、サンブル川の岸で尻ごみしたときを除けば、ついに一瞬たりともわしの期待を裏切ることがなかった。どんな障害でも一またぎに飛びこえた。それでも、この執拗なプロシャ騎兵どもを振りきることができなかった。水路を飛んで駆けさるたびごとに、わしはあらたな期待をもって振りかえるのだが、目に映るのはいつも、シュタイン伯爵が脚の白い栗毛にまたがって、わしが見せたように軽々と水路を飛びこえてくる姿だった。敵ながら、この日のあっばれな振舞にわしは敬意を表したものだ。
再三再四、わしはシュタイン伯爵とそれにつづく騎兵との距離を目測した。うしろへむきなおって、先ほど軽騎兵をやっつけたように、仲間が応援に駆けつけるまえにシュタイン伯爵を斬り倒そうと思った。だがほかの連中も一団となっていて、さほど遅れをとっていなかった。このシュタイン伯爵は、馬もさることながら、剣にかけても名手だろうから、伯爵を片づけるには少々時間がかかるだろうと、わしは思案した。もしそうなると、ほかの連中が加勢に加わって、わが身までが危なくなる。まずは、三十六計逃げるにしかずだ。
ポプラ並木の街道がこの平原を東西に走っていた。この街道を進んで行けば、長々とたなびく砂塵をたてて退却中のフランス軍に合流できるだろう。そこでわしは馬首をめぐらして、この街道を一目散に飛ばした。乗り進んでいくと、前方の右手に一軒家が見えた。大きな蔦の枝が戸口の上にたれていて、居酒屋だとわかった。外には百姓が五、六人いたが、こんな連中は別にどうということもなかった。わしがどきりとしたのは、赤い上着がちらりと見えたからだ。これは英軍がここにいることを示していた。しかしながら、わしは向きを変えることも、止まることもできなかった。とるべき道はただ一つ、馬を飛ばしつづけて、運を天にまかせるしかなかった。騎兵隊が見えなかったので、この連中は落伍兵か、略奪目あての兵隊にちがいない。とすれば、さして怖れるにはあたらない。近づいてみると、英軍の兵士が二人、居酒屋のそとのベンチに腰かけて酒を飲んでいた。二人がよろよろと立ちあがるのが目にはいった。二人ともひどく酔っているのは一見してわかった。一人が街道のまんなかに出て、ふらふらしながらわめいた。
「やあ、ナポ公だ! ナポ公にちげえねえ!」この男はわしをつかまえようと両手を広げて駆けだしてきたが、幸運にも酔っていたためにつまずいて、街道にばったりとうつ伏せに倒れた。いま一人のほうが危険だった。こいつは居酒屋に飛びこみ、わしがその場を駆けぬけるときに、マスカット銃をつかんで走り出てきた。そして片膝をつき、射撃の姿勢をとったので、わしは馬の頸の上にかがみこんだ。プロシャ兵やオーストリア兵から一発ぐらい見舞われても大したことはないが、イギリス兵は当時ヨーロッパきっての射撃の名手だった。この酔いどれも銃をかまえると、ぴたりとぐらつきが止んだように見えた。ずどんという銃声が聞こえた。
わしの馬は痙攣《けいれん》でもおこしたように跳びあがった。たいていの騎手だったら落馬したところだ。一瞬わしは馬が殺《や》られた、と思った。鞍の上で振りかえると、右の腎部から血が一筋流れ落ちているのが見えた。イギリス兵はと目をやると、こいつはあたらしい薬包の端を噛み切って、銃のなかに詰めこんでいた。だが導火線をとりつけるまえに、わしは射程距離のそとへ出ていた。この連中は歩兵だったので、追跡には加われなかった。ただうしろから、まるでわしが狐狩りの狐ででもあるみたいに、わいわい叫んだり、ほうほうと掛け声をかけたりするのが聞こえた。百姓たちも大声をはりあげ、棒切れを振りまわしながら畑のなかを走ってきた。四方八方から叫び声が聞こえた。いたるところに波のように突進してくる追手の姿が見られた。偉大な皇帝陛下がこのように田舎で追いまわされていようとは! わしはこの悪党どもをわが剣のとどくところで迎え撃ちたいと、心から願った。
しかしわしは、いまや行程の終わりに近づいていると感じた。わしは一個の人間に期待しうるすべてを――いや、それ以上のことを、と言う人もいよう――なしとげたが、とうとう逃れられないところに来てしまった。追手の馬は疲れていたが、わしの馬も疲れている上に手傷を負っていた。出血がひどかったので、ほこりっぽい、白い街道には赤い痕跡が残った。すでに足並みがのろくなっていたので、倒れるのは時間の問題だった。振りかえってみると、あいかわらずプロシャ軍の騎兵が五騎――シュタイン伯爵が百ヤードほど先頭に立ち、ついで槍騎兵、それから三人の騎兵が一団となって疾駆していた。シュタイン伯爵は剣を抜き、わしにむけて振りまわした。
わしとしては、降参してたまるかと覚悟をきめていた。プロシャ騎兵を何人まで冥土《めいど》の道づれにできるか、やってみようと思った。この最期の瞬間に、わしの生涯の偉大な功績がすべて幻影となって目のまえに浮かんだ。そしてこの、わが最後の偉業が、このような生涯の掉尾《とうび》を飾るのにまことにふさわしいものと思われた。わしの死は、わしを愛してくれる人びと、つまり、いとしいおふくろや、部下の軽騎兵や、その他名もなき人たちにとって致命的な打撃となろう。だがこの人たちは一人残らず、わしの名誉と名声を願っていた。だから、わしが最期の日にいかに馬をあやつり、いかに戦ったかを知れば、彼らの悲しみも多少は誇りで慰められるだろうと思った。そこでわしは心を鬼にした。
手傷を負ったため、馬がしだいに脚をひきずるようになったので、胸甲騎兵から奪った大きな剣を抜いて、最期の一戦をまじえようと腹をきめた。わしの手は手綱を引きしめにかかっていた。ぐずぐずしていれば、馬上の五人の騎兵を相手に徒歩の状態で戦うことになりかねないと思ったからだ。だがこの瞬間、わしの目は、心に希望をもたらし、唇に歓喜の叫びをあげさせるものを認めた。
前方の木立の上に、村の教会の尖塔が突き出ていた。だがこのような尖塔は二つとはなかろう。というのはこの一角がくずれたのか、落雷に打たれたのか、まことに異様なかたちをしていた。わしは二日まえにこの尖塔を見たばかりだが、これはゴッスリー村の教会だった。わしの胸が歓喜の歌声をあげたのは、なにもこの村に辿りつきたいからではなく、やっと自分のいるところがわかったからだ。そして前方半マイルたらずのところで、切妻壁が木々のあいだから突き出ている農家こそ、かつてわが軍が露営したサン・オーネーの農場にちがいなかった。しかもこの農場は、コンフラン軽騎兵連隊の集合地としてサバティエ大尉に指示しておいたところだった。ここに辿りつきさえすれば、あの連中が、わしのかわいい部下たちがいるのだ。わしの馬は一足ごとに弱っていった。刻一刻と、追手の物音が高まってきた。ドイツ語でさかんにまくしたてる呪咀の言葉がすぐうしろから聞こえた。ピストルの弾が耳もとをかすめた。わしは手負いの馬に狂ったように拍車をいれ、剣の|ひら《ヽヽ》を鞭がわりにたたきつけ、できるかぎり疾駆させた。農家の庭の開け放たれた閂《かんぬき》が目のまえにあらわれた。なかで剣がきらりと光るのが見えた。わしが地ひびきをたてて門を駆けぬけたとき、シュタイン伯爵の馬の首はわしから十ヤードと離れていなかった。
「でてこい、みんな! でてこい!」わしは叫んだ。怒った蜂が巣から群がって飛びたつときのような、がやがやいう音が聞こえた。そのとたん、このすばらしいアラブ種の白馬はわしを乗せたまま倒れてこと切れた。わしも庭の玉石の上に放りだされて、記憶を失ってしまった。
諸君、以上がわしの最後の、そして一番有名な手柄話だ。この話はヨーロッパ全土で評判になって、エティエンヌ・ジェラールの名を青史《せいし》にとどめることになったのだ。ああ! わしのせっかくの努力も陛下に数週間の自由を差しあげることができたにすぎない。陛下は七月十五日に英軍に降伏されたからだ。しかし陛下が、フランスでお待ち申しあげている軍勢を結集し、第二のワーテルローの決戦にいどみ、めでたい結末を迎えることができなかったのは、なにもわしの責任ではない。ほかの連中にわしと同じくらいの忠誠心があったら、世界の歴史は変わっていたかもしれない。そうすれば陛下は皇帝の座を保持されたろうし、わしのような軍人がキャベツをつくって余生を送ったり、酒場の昔語りで老後をすごしたりせんでもよかったろう。
なに、シュタイン伯爵とプロシャ軍の騎兵の運命はどうなったかというおたずねじゃな! 途中で脱落した三人については、まったくわからん。一人はわしが殺したのをおぼえておられるだろう。残るのは五人だが、このうち三人はわしの部下の軽騎兵たちに斬り倒された。部下の者は、このときお守りしているのはてっきり陛下だと思いこんでいたのだ。シュタイン伯爵は軽傷を負って捕えられた。槍騎兵の一人も同様だった。この二人には真相を打ちあけなかった。というのは、陛下の所在にかんする情報は、たとえそれが偽の情報でも、広まらないほうがいいと考えたからだ。だからシュタイン伯爵はほんの数ヤードのところで途方もない大魚を逸したと、あいかわらず信じこんでいた。「君たちが皇帝陛下を敬愛するのは当然だ」シュタイン伯爵は述懐した。「あのような名騎手、あのような名剣士にはお目にかかったためしがない」これを聞いて、軽騎兵連隊の若い大佐がからからと笑ったのはどうしてだか、彼にはわからなかった――もっとも後日、この間の事情を聞きおよんだとのことだが。
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第八話 ジェラールの最後の冒険
諸君に昔話をお聞かせすることはもうあるまい。よく言われることだが、人間というものは兎《うさぎ》に似ている。つまり、ぐるっと円をえがいて走り、出発点にもどって死ぬと言うのだ。近ごろ故郷のガスコーニュがしきりとわしに呼びかけてくる。わしの目には葡萄畑のなかをくねくねと流れる青いガロンヌ川が見える。このガロンヌの流れがそそぎこむ一段と青い海原が見える。古い町も見える。石造りの長い波止場ぞいに林立する帆柱が見える。わしの心は故郷の風のそよぎと、故郷の太陽のあたたかい輝きに飢《かつ》えている。
このパリには友だちがいる。仕事がある。快楽がある。あちらでは、わしを知っている者はみな墓のなかだ。それでも南西の風がわが家の窓をがたがた鳴らすと、母なる故郷がその子にむかって、早くお母さんのふところにもどって抱かれなさい、と呼びかける強い声に思えてならないのだ。わしは若いときに、やるだけのことはやった。時代は過ぎ去った。わしもまた去らねばならぬ。いや、諸君、悲しい顔をしてくださるな。栄光につつまれて幕を閉じ、友情と愛情で美しく飾られた生涯ほどしあわせなものがまたとあろうか?
そうは言っても、長い旅路のはてに近づいて、未知の世界へと通じる曲がりかどを目にすると、おのずと厳粛な気持ちになってくる。だが皇帝陛下と元帥たちはみな、この暗い曲がりかどを通って、あの世へと旅立たれた。そして部下の軽騎兵たちもだ――かつての部下のうち、あの世で待っていない者は五十人とおるまい。わしも行かねばならない。しかしこの最後の晩に、昔話以上のものをお聞かせしよう――これは驚くべき歴史上の秘密なのだ。これまでわしの唇は閉じられたままだったが、この注目すべき冒険をいささかなりとも披露して、後世に伝えても悪いことはあるまい。そうでもしないと、その冒険の一件はすっかり忘れさられてしまうだろう。なにしろ世界中で生き証人というのは、このわし以外にいないのだから。
諸君には一八二一年まで、わしといっしょに戻っていただくことにしよう。この年、われらが偉大なる皇帝陛下は過去六年間にわたってフランスから離れておられた。ただときおり、海のかなたから、陛下がご存命であるという風のたよりを聞くばかりだった。われわれ陛下を敬愛する者は、虜囚の身の陛下があの絶海の孤島〔セント・ヘレナ島〕で悲嘆に身をこがしておられると思うと、どんなに心が重くなったか、とても諸君にはおわかりになるまい。朝起きたときから、夜眠りについて目を閉じるまで、たえずこの思いがつきまとっていた。われわれの主君たる陛下がひどい屈辱をうけておられても、陛下をお助けするために手出し一つできぬことを思うと、われわれまでが辱しめをうけたような気になった。
陛下をすこしでも安楽にさせてあげられるなら、喜んで命を投げだそうという者はいくらでもいた。だがわれわれにできることといえば、なじみのカフェに腰をおろし、ぐちをこぼし、地図を眺めては、両者をへだてる海上の里程を数えたてるぐらいが関の山だった。まるで陛下が月世界にでも行かれてしまったように、われわれとしてはお力添えになりようがなかった。だがそれというのも、われわれが陸軍の軍人で、海のことはさっぱりわからなかったからだ。
もちろん、われわれがつらい思いをしたのは、陛下のうけられた不当な仕打ちもさることながら、仲間うちのちょっとしたもめごとのためだった。われわれのなかには、かつて高い階級についていて、もし陛下が玉座におもどりになったら、またもとの階級につきたいと望む者がたくさんいた。われわれはブルボン王家の白旗のもとで軍務に服したり、自分たちが敬愛するかたに剣先をむけるような宣誓をしたりすることはできなかった。だからわれわれは仕事もなく、金もなかった。われわれにできることと言ったら、寄り集まって雑談したり、ぐちを並べたりするぐらいのことで、懐が少々あたたかい者が勘定をはらい、一文なしが酒のご相伴にあずかる、といったぐあいであった。ときおり、運がいいと、ブルボン王家の親衛隊の一人に喧嘩をふっかけることができた。そして相手をブローニュの森で打ちのめすと、またもや皇帝陛下をお助けしたような気になった。やがて親衛隊の連中はわれわれの溜り場に気づくようになり、ここが熊ん蜂の巣でもあるかのように避けて通るようになった。
こうした溜り場の一つが――偉人亭といったが――ヴァレンヌ街にあった。ここへはナポレオン皇帝につかえた優秀な青年将校が何人も出入りしていた。そのほとんどがかつては連隊長か副官クラスだったので、階級の低い者がはいってくると、その非礼をさとらせるようにしむけた。常連にはライプチヒの戦いで名誉の勲章をうけたレピーヌ大尉、マクドナル元帥の副官ボンネ大佐、軍隊での名声がわしに迫っていたジュルダン大佐、わが軽騎兵連隊のサバティエ大尉、赤色槍騎兵連隊のムニエ、親衛隊のル・ブルトン、そのほか十名以上の者がいた。毎晩われわれは顔をあわせ、お喋りしたり、ドミノをしたり、グラスを一、二杯かたむけたりした。そしてどのくらい待ったら、陛下がセント・ヘレナからお帰りになり、われわれが連隊の指揮をとれるだろうかと話しあった。ブルボン家はもはやこの国にたいする支配力を失っていた。このことは数年後、パリがブルボン家に反乱をおこし、三度目の国外追放をしたことでもわかる。陛下はただ、この国の沿岸に姿をお見せになるだけでよかった。そうすれば、エルバ島からお帰りになったときとまったく同じように、小銃一つ撃つこともなく、パリヘと行進されたことだろう。
さて、事態がこのような状況にあった二月のある晩のこと、われわれのカフェに、ひどく風変わりな小柄な男があらわれた。上背こそなかったが、横幅がばかに広く、両肩が並みはずれて大きい上に、頭は奇形と見まがうほどばかでかかった。いかつい褐色の顔に残る傷あとが、なんとも奇妙な縞模様をつくっていて、船乗りみたいな半白の頬ひげをたくわえていた。両の耳には金のイアリングをはめ、手と腕にはやたらに入れ墨をしているので、本人が皇帝陛下の海軍のフールノー大佐だと名のるまえから、海の男だということがわかった。彼はわれわれ仲間の二人にあてた紹介状をもっていたし、大義のために献身していることは疑いがなかった。
われわれは彼に敬意をいだいた。というのは、彼にはわれわれのだれにも劣らぬ戦歴があったし、顔のやけどは、ナイル河の戦役で、オリエント号が爆発するまで艦上にとどまって、自分の部署を守っていたためだった。それでも彼は自分のことはほとんど喋ろうとしないで、カフェの片隅にすわりこんだまま、驚くほど鋭い目で一座の者を見つめ、われわれの談話に聞き耳をたてていた。
ある晩のこと、わしがカフェから帰ろうとすると、フールノー大佐があとをつけてきて、わしの腕に手をかけ、しばし無言のままわしを引ったてて行ったが、着いたところは彼の下宿だった。「君とちょっと話がしたいのだ」彼はこう言うと、階段をのぼって自分の部屋へ案内した。
部屋にはいると灯りをつけ、机のなかの封筒から一枚の紙をとりだして、わしに手わたした。それはウィーンのシェーンブルン宮殿から出されたもので、数カ月まえの日付になっていた。「フールノー大佐はナポレオン皇帝陛下の最高の利益を考えて活動しています。陛下を敬愛する人は疑念をいだかず大佐にしたがうべきです――マリー・ルイズ」以上がわしの読んだ文面だ。わしは皇后のサインをよく知っていたから、これが本物であることは疑いようがなかった。
「さて」と彼は言った。「わしの信任状にかんしては得心がいきましたか?」
「完全に」
「わしの指図をうける覚悟はできましたかな?」
「この文面からですと、したがわざるをえませんな」
「よろしい! まず最初に、先ほどのカフェでの話によると、君は英語が喋れるようだが?」
「ええ、喋れますとも」
「聞かせてもらえまいか」
そこでわしは英語でこう言った。「皇帝陛下がエティエンヌ・ジェラールの助けを必要としているときはいつでも、昼も夜も、陛下のために命を投げだす覚悟です」
フールノー大佐は微笑して言った。
「けったいな英語だが、まったく知らんよりはましだ。わしはイギリス人同様に英語を喋るが、これだけがイギリスの牢獄ですごした六年間に得たものだ。ところでわしがパリに来たわけをお聞かせしよう。わしは陛下の利害に深くかかわる一件で、わしに手を貸してくれる特務機関員を選ぶためにやってきたのだ。偉人亭というカフェに行けば、陛下につかえた昔の将校のうちでも選り抜きの者に会える。この連中なら一人残らず、陛下のために身命を賭しているから信頼することができる、という話だった。そういうわけで、君たち一同をとくと観察した上で、君がわしの目的達成に最適の人物だと白羽の矢をたてたのだ」
わしはほめられたので礼を言った。「で、わたしにやってほしいというのは、どういうことですかな?」
「わしと二、三カ月つきあってくれればいい。ただこれだけのことは知っておいてもらいたい。それはわしがイギリスで釈放されたのち、その地に住みつき、イギリス人と結婚し、小さなイギリス商船の船長になって、サウサンプトン港とギニア沿岸を何度か航海したということだ。みんなはわしのことをイギリス人だと思っている。しかし陛下のことに思いを馳せると、わしはときおり淋しくなる。それでこの気持ちがわかってくれる仲間がいたら、どんなに力強いことか、君にはおわかりいただけよう。こんなに長い航海だとひどく退屈するものだが、わしと船室をともにしてくれれば、悪いようにはしないつもりだ」
フールノー大佐は、その長談義の間じゅう、鋭い灰色の目でじっとわしを見つめていた。わしも負けずに見かえしてやったが、わしの目つきを見れば、大佐がいま相手にしているのは愚か者でないことがわかったはずだ。彼は金がぎっしり詰まっている麻の袋を取りだした。
「この袋のなかに金貨で百ポンドはいっている。航海に役だつものが多少は買えるだろう。買い物はサウサンプトンでするよう、おすすめする。船は十日後に、その港から出帆する。船の名はブラック・スワン号というのだ。わしは明日、サウサンプトンに帰るが、来週中にはまたお目にかかりたいものだ」
「ところで、航海の目的地はどこなのか、はっきり教えてくれたまえ」
「おや、言ったんじゃなかったかな?」彼は答えた。「アフリカのギニア沿岸へ行くんだ」
「それがどうして陛下の最高の利益と結びつくのだ?」
「君は軽率な質問はしない、わしは軽率な返事はしない。これが陛下の最高の利益と結びつくのだ」大佐はきっぱり答えた。こうして彼は会見を打ち切ってしまった。そこでわしは宿にもどったが、手もとに金貨の袋があるかぎり、その奇妙な会見が事実行なわれたことは疑うわけにいかなかった。
わしにはこの冒険を最後まで見とどけなければならぬ理由が大いにあった。そこで一週間とたたぬうちに、イギリスヘむけて出発した。わしはサン・マロから船でサウサンプトンにわたり、桟橋で訊くと、すぐにブラック・スワン号がわかった。こぎれいな小型の帆船で、これはあとから教わったのだが、ブリッグ型という船型をしていた。フールノー大佐は甲板にいた。荒くれ男が七、八人、船の手入れをしたり、出航の準備をしたりで、いそがしく働いていた。大佐はわしに挨拶して、下の船長室へと案内してくれた。
「君は今日からはただのジェラール君だ」と彼は言った。「そして海峡諸島の出身ということにしてもらおう。恐縮だが、これまでの軍隊調の習慣を払拭《ふっしょく》し、甲板を行ったり来たりするときも、騎兵流の肩で風を切る歩きかたをやめていただければありがたい。それに顎ひげのほうが、その口ひげよりは船乗りらしくみえると思うがね」
わしは彼の言葉を聞いてぞっとした。だが結局のところ、海へ出れば女性はいないのだから、こんなことはどちらでもいいことだった。彼は呼鈴で給仕係を呼んで、言った。
「ギュスタヴ、わしの友人エティエンヌ・ジェラールさんのお世話をよろしくたのむぞ。ジェラールさんはわれわれといっしょに航海なさるんだ。これがギュスタヴ・ケルーアン。ブルターニュ出身の給仕係だ。これにまかせておけば大丈夫だよ」
この給仕係は顔つきがいかつく、目がきつくて、このような平和な職業にしてはひどく喧嘩っ早い男に見えた。しかし、わしはなにも言わなかった。もっとも、ご推察のとおり、警戒の目は光らせていたが。わしの部屋は船長室のとなりに用意されていた。これはフールノー大佐の特別豪華な部屋と比較しなかったら、けっこう快適に思えたことだろう。彼は確かにぜいたくきわまる人間だった。部屋にはビロードの寝具と銀食器が新規に備えつけられていて、それは西アフリカ通いのちゃちな貿易船より、貴族のヨットにふさわしいように思われた。航海士のバーンズもそう考えていた。彼はこの部屋を覗くたびに、興味と軽蔑を隠すことができなかった。この男は大柄の、がっしりした、赤毛のイギリス人で、船長室に接続したもう一つの部屋をあてがわれていた。ほかにターナーという名の二等航海士がいて、この男の部屋は船の中央部にあった。乗組員は九人の船員とそれに少年の見習いが一人、このうち三人は、バーンズの話によると、わしと同様、海峡諸島の出身だった。このバーンズという一等航海士は、わしがなぜみんなといっしょに航海するのか、しきりと知りたがった。
「遊びだよ」わしは答えた。
彼は目をまるくしてわしを見た。
「西海岸へは行ったことがありますか?」
わしは、まだないと答えた。
「そうだろうと思ってましたよ。とにかく、そんな理由で二度と行くところじゃありませんからね」
わしがここに来てから三日ほどすると、船の|ともづな《ヽヽヽヽ》が解かれて、われわれの航海がはじまった。わしは船に強くなかった。正直な話、思いきって甲板に出られるようになったころには、陸地がすっかり見えなくなっていた。やっと五日目になって、親切なケルーアンが持ってきてくれたスープを飲み、寝台から這いだして、階段を昇ることができた。新鮮な空気がわしをよみがえらせてくれた。このときからは、船の動きに体を合わせるようにした。顎ひげも伸びはじめていた。わしがたまたま海軍に生まれあわせていたら、かつてのわしがりっぱな陸軍軍人だったと同じくらいに、りっぱな海軍軍人になっていたのは疑いのないところだ。綱を引っぱって帆をあげたり、帆がついている帆桁を回したりすることもおぼえた。
しかし、だいたいにおいて、わしの仕事はフールノー船長とエカルテというトランプのゲームをすることで、要するに彼の友だちとして振舞うことだった。彼が友だちを欲しがるのもむりはなかった。航海士はいずれも優秀な船乗りだったが、そろって読み書きができなかった。もし船長に万一のことがあったら、この大海原のなかで船の針路をどうとったらいいのだろう。なにしろ船の位置を海図に記入できる知識があるのは、船長一人だけだからだ。彼は船長室の壁に海図を貼って、毎日船の進路を記入していたので、船が目的地までどのくらいの距離にいるかが一目でわかった。彼がどんなに正確に進路の測定をするか、まことに驚くべきものがあった。
ある朝船長は、今夜ヴェール岬の燈台の灯りが見えると言ったが、はたして、暗くなるやいなや、左舷の前方に灯りが見えた。しかし翌日になると、陸地は視界から消えていた。バーンズ航海士は、この船がビアフラ湾の目ざす港に着くまで、もう陸地は見えない、と説明してくれた。日一日と、われわれは順風に乗って南下し、いつも正午になると、海図の上のピンがだんだんとアフリカ沿岸に近づいて行った。説明しておくが、われわれが求めているのは椰子油であって、いま積んでいる船荷は色物の布地、旧式のマスカット銃、それにいつもイギリス人が原住民に売りつけるがらくたのたぐいだった。
長い間、順風だった風がついにやんで、数日の間、船はじりじりと照りつける太陽のもとで、油を流したように静かな海を漂流した。陽差しがあまりに強烈だったので、甲板の板と板との間のコールタール・ピッチが溶けて泡だってきた。われわれは帆の向きをいろいろ変えて、気まぐれなそよ風一つ逃すまいとしたあげく、やっとのことでこの無風地帯を抜けだし、ふたたび威勢のよい風に乗って南進をつづけた。周囲の海一面に飛び魚が跳ねまわっていた。
数日の間、バーンズは不安そうな様子だった。わしは彼がたえず小手をかざして、陸地でもさがしているみたいに、水平線のかなたを見つめているのに気づいた。二度ほどわしは、彼が赤毛の頭を船長室の海図にすりつけんばかりにして、例のピンをにらんでいるところを見かけた。このピンはアフリカの沿岸にたえず接近はしていたが、けっして到着することがなかった。とうとうある晩のこと、フールノー船長とわしが船長室でエカルテをやっていると、バーンズ航海士が日焼けした顔に怒気をふくんではいってきた。
「失礼ですが、フールノー船長」と彼は言った。「操舵手がいまどの方向へ船を進めているか、わかっていなさるかね?」
「真南さ」船長はトランプから目を離さずに答えた。
「真東へ向けなきゃならんとこでしょう」
「どうしてそんなことがわかる?」
航海士は腹にすえかねて唸り声をだした。
「あっしは大した教育もねえが、船長、これだけは言わせてもらいますぜ。まだ十歳《とお》の餓鬼のころから、あっしはこのへんの海に来ておりやすから、赤道に来れば赤道ってわかるし、無風帯も知ってるし、オイル・リヴァーズヘの道筋だって承知しておりやすぜ。船はもう赤道の南へ出ているから、船主に言われた港へ行くんなら、真南じゃなくって、真東へ向きを変えなきゃいけねえとこだ」
「ちょっと失敬、ジェラール君。わしが先手だということをおぼえていてくれたまえ」船長はこう言って、トランプを置いた。「バーンズ君、この海図のところへ来てくれ。実地の航海術を教えてあげよう。ここを貿易風が南西から吹いている。ここが赤道だ。そしてここが目ざす港だ。そしてここに、自分の船の上では思いどおりにしなきゃ、気のすまん男がいるのだ」こう言うなり、船長は気のどくにも航海士の喉をぐいとつかみ、力まかせに締めつけたので、バーンズは気を失いそうになった。給仕係のケルーアンがロープを持って飛びこんできて、船長と給仕係とでバーンズに猿ぐつわを噛ませ、手足をしばりあげたので、まったく身動きできなくなってしまった。
「フランス人の一人が舵をとっていますから、この航海士は海に突き落としたらいいでしょう」給仕係が言った。
「それがいちばん安全だ」フールノー船長が同意した。
しかしこれは、わしにはとうてい忍びがたいことだった。なんと言われても、無力な人間を殺すことに賛成はできない。フールノー船長はしぶしぶながら、バーンズの生命を助けることに同意した。そこでわれわれは、船長室の下にある後部船倉《アフターホールド》ヘバーンズを運んで行った。ここで彼はマンチェスター織りの梱《こり》のあいだに寝かされた。
「昇降口《ハッチ》のふたは締めたってむだだよ」フールノー船長は言った。「ギュスタヴ、ターナー航海士のところへ行って、ちょっと話があると伝えてくれ」
ターナー二等航海士はなにも知らずに船長室にはいってきて、バーンズ同様、たちまち猿ぐつわを噛まされ、しばりあげられてしまった。彼も下へ運ばれて、仲間のとなりに寝かされた。昇降口《ハッチ》はそのあとで締められた。
「あの愚かな赤毛のおかげで、ついつい手を出してしまったわい」船長は言った。「だから思ったより早く、わしの機雷を爆発させるはめになってしまったよ。しかし、ひどい危害を加えたわけじゃないし、わしの計画が大きく狂うこともあるまい。ケルーアン、ラム酒を一樽、みんなのところへ持って行って、船長から赤道通過にあたって祝杯をあげるようにと伝えてくれ。奴らにゃなにもわかるもんか。われわれの同志たちには、君の食料貯蔵室まで来てもらおう。いつでも仕事に取りかかれるようにな。さて、ジェラール大佐、よろしかったら、エカルテの勝負をつづけることにしよう」
これは忘れられない出来事の一つだ。船長は鉄のように意志の強い男で、まるでカフェにでもいるみたいに、トランプを切ったり、カットしたり、配ったり、勝負したりした。下からは、はっきりとは聞きとれないが、二人の航海士がなにやらぼそぼそ言っているのが聞こえた。ハンカチで猿ぐつわを噛まされているので、息がなかばつまりかけていたのだ。威勢よく吹く風がぐいぐい船を押し進めていたので、部屋のそとでは船体がぎいぎいきしり、帆がぶんぶん唸った。波がざぶんと砕ける音や風がひゅうひゅう唸る音にまじって、イギリス人の水夫たちがラム酒の樽口を開けながら、荒々しい歓声や叫び声をあげるのが聞こえてきた。
われわれは五、六回ゲームをやった。すると、船長が立ちあがった。「そろそろ奴らもいい頃合いだろう」こう言いながら、彼はロッカーから一対のピストルを出して、その一挺をわしに手わたした。
しかしわれわれは抵抗を怖れる必要はなかった。だれ一人抵抗する者がいなかったからだ。当時のイギリス人ときたら、兵隊であれ、水兵であれ、それこそ手のつけられない飲んだくれぞろいだった。酒さえ飲まなければ、勇敢で善良な人間なのだが、酒が目のまえに出されると、まったくの狂人になってしまう――なんと言われようと、ほどほどに飲むということができないのだ。水夫部屋の薄明かりのなかで、五人が酔いつぶれ、二人が気でも狂ったように叫んだり、悪態をついたり、歌を歌ったりしていたが、これがブラック・スワン号の水夫だった。ぐるぐる輪に巻いた縄を給士係が持ってきたので、フランス人二人の助けをかりて(いま一人は舵をとっていた)、飲んだくれをつかまえ、しばりあげてしまった。そんなわけで、奴らは口をきくことも、身動きすることもできなかった。航海士たちが後部の昇降口《ハッチ》の下にはいっているので、この連中は前部の昇降口《ハッチ》の下に収容された。そしてケルーアンが一日に二回、食料と飲み物の差し入れをするよう言いつかった。こうしてついに、ブラック・スワン号が完全にわれわれのものとなった。
悪天候に見舞われたら、なすすべもなかったろうが、風の強さは船をぐいぐい南へ追いやる程度で、われわれをうろたえさせるほどは烈しくなかったので、あいかわらず快適に航海をつづけて行った。三日目の夕方、フールノー船長が前部の船橋からじっと瞳をこらして前方を眺めている姿を見かけた。
「ほら、ジェラール君、見てごらん!」彼はこう叫んで、前方に突きでている旗竿のむこうを指さした。
淡い青空が紺碧の海から浮きあがっていた。そしてはるか彼方、空と海とが溶けあうところに、なにかぼんやりと雲のような、だがもっと明確な形をしたものがあった。
「あれはなにかね?」わしは叫んだ。
「陸地だよ」
「どこの?」
わしは返事を聞こうと耳をそばだてた。だがわしにはもう、その返事がわかっていた。
「セント・ヘレナ島だ」
すると、これがわしの夢幻の島なのか! われらが偉大なフランスの鷲を閉じこめている檻《おり》はここだったのか! 何千海里の波涛と言えども、敬愛する主君からエティエンヌ・ジェラールを引き離しておくにはたりなかったのだ。あそこに皇帝陛下が、紺碧の海の彼方、あの雲がたなびくところにおられるのだ。わしの目はどんなにか、むさぼるように見入ったことか! わしの魂は船よりも先に飛んでゆき――ひたすら飛びつづけ、皇帝陛下にむかって、陛下のことはお忘れ申しておりませんぞ、あまたの日数をついやして、一人の忠実な僕《しもべ》がおそばに馳せ参じましたぞと、どんなにか申しあげたかったことか!
刻々と水面上の黒くぼやけたものが、くっきりと鮮明になってきた。すぐにはっきりと見てとれたが、これは山の多い島だった。日は暮れたが、わしはなおも甲板にひざまずいたまま、陛下のおいでになる地点とおぼしき暗闇をじっと見すえていた。一時間がたち、さらにまた一時間がたった。すると突然、小さな金色にきらめく灯りが船の真正面に輝いた。これはだれかの――おそらくは陛下のお住まいの窓からもれる灯りだろう。船からの距離はせいぜい一マイルか、二マイルしかあるまい。ああ、どんなにわしは、この灯りにむけて両手を差しだしたことか! ――これはエティエンヌ・ジェラールの手であったが、この両手こそ、フランス全体を代表して差しだされていたのだ。
船の灯りはすべて消されていた。やがてフールノー船長の指図で、われわれ全員が一本のロープを引っぱった。すると頭上の帆桁がぐるっと旋回して、船が停止した。船長はわしに船長室まで下りてきてくれ、と言った。
「ジェラール大佐、もうなにもかもおわかりですな。これまで秘密をすっかり打ち明けなかったとしても、お許しをいただけよう。このように重大な事柄では、なんぴとたりと言えど、腹心の友は持たないことにしている。わしは長いこと、皇帝陛下の救出計画を練ってきた。イギリスに留まったのも、商船に乗り組んだのも、それはひとえにこの目的からだった。万事わしの筋書きどおりに運んだ。わしはこれまでに何度か、アフリカ西海岸への航海を無事にこなしてきたから、こんどの航海の指揮をとるのになんら困難はなかった。一人ずつ、旧フランス海軍の軍艦乗組員を手下に加えた。それから君だが、わしは万一の抵抗に備えて、百戦練磨の闘士が一人欲しかったし、祖国へ帰る長い船旅の間、陛下のお相手をする適任者も欲しかった。わしの部屋はいつでも陛下にお使いいただけるよう、設備が整っている。明朝までには、陛下をこの部屋にお迎えし、この呪われた島影が見えない海上に出てゆけるものと信じている」
諸君、わしがこの言葉を聞いたときの感動を想像してくれたまえ。わしは勇敢なフールノー船長を抱きしめて、どうしたら力を貸すことができるか教えてくれ、と頼みこんだ。
「それは万事、君の手にまかせなければならん」船長が言った。「まっ先に陛下に敬意を表したい気持ちはやまやまだが、わしが出かけて行くのは賢明でなかろう。晴雨計が下がっている。嵐になりそうだ。陸地は船の風下になっている。それに島の近くにはイギリスの巡洋艦が三隻いて、いつなんどき攻撃してくるかわからない。だからわしはこの船を守ることにする。陛下の救出は君の仕事だ」
わしはこれを聞いて、全身がぞくぞくした。
「即刻、指令を授けてくれたまえ!」わしは叫んだ。
「君と同行する者は一名しか都合できない。現状でも帆桁を回すのがきついからだ」船長が言った。「ボートが一艘下ろしてある。この男が海岸まで漕いで行って、君の帰りを待ちうける。あそこに見える灯りはいかにもロングウッドの灯りだ。あの家にいる者は、みんな君の味方だ。一人残らず、陛下の脱出に力を貸してくれるものと信じてよろしい。英軍の番兵が警戒線を張っているが、番兵がいるのは家にそう近いところでない。この家まで辿りついたら、われわれの計画を陛下にお伝えした上で、ボートヘとご案内してお乗せするのだ」
陛下と言えども、このように簡潔にしかも明瞭に、指令を授けることはできなかったろう。一刻の猶予もならなかった。水夫の乗ったボートが舷側で待っていた。わしが足を踏み入れたとたんに、ボートはもう漕ぎだしていた。小さなボートは暗い海の上で踊ったが、たえずわしの目のまえにはロングウッドの灯りが、陛下の灯りが、希望の星が輝いていた。やがてボートの底が浜辺の小石でぎいときしる音がした。ここは淋しい入江で、番兵から誰何《すいか》される心配はなかった。わしは水夫をボートのそばに残して、丘の斜面を登りはじめた。
山羊の径が岩場にくねくねと通じていたので、道に迷う怖れはなかった。当然のことながら、セント・ヘレナでは、すべての道は陛下に通じているのだ。わしは門に辿りついた。番兵はいない――で、そこを通りぬけた。また門がある――やはり番兵はいない! フールノー船長が話してくれた警戒線はどうなっていたのだろう。わしはもう坂の上に来ていた。灯りがわしの真正面でじっと燃えていた。わしは物陰にかくれてあたりをうかがったが、やはり敵の影も形も見えなかった。近づいて見ると、この家は細長くて低い建物で、ベランダがついていた。
一人の男が正面の小道を行ったり来たりしている。わしは這って行って、この男を一目見た。おそらくこれがかの憎むべきセント・ヘレナ総督、ハドソン・ローだろう。陛下を救出した上に、その仇《かたき》を討つことができたら、なんたる大勝利だろう! だがどうやらこの男は英軍の番兵らしかった。わしはさらに這って行った。するとこの男は明るい窓のまえで立ちどまったので、顔がよく見えた。兵士ではなくて、司祭だった。聖職者が夜中の二時にこんなところでなにをしているのだろう? フランス人か、それともイギリス人か? もし彼がこの家の者であれば、秘密を打ち明けてもよかろう。もしイギリス人だったら、わしの計画はことごとく崩壊してしまう。
わしはいますこし這って行った。すると司祭は家のなかにはいったので、開いた扉から光がさっと外に流れた。いまやすべてがわしには明らかになった。一刻の猶予もならないことがわかった。腰をかがめて、わしは明るい窓へとすばやく駆け寄った。頭をあげて覗きこむと、わしの目のまえで、陛下が横になって死んでおられるではないか!
諸君、わしは銃弾で脳味噌を射抜かれたみたいに、砂利道に倒れこんで意識を失ってしまった。このショックのすさまじさときたら、このまま死んでしまわなかったのがふしぎなくらいだ。それでも三十分ほどして、よたよたと立ちあがったものの、手足がぶるぶる震え、歯はがちがち鳴っていた。わしはその場に棒立ちになったまま、憑《つ》かれた者の目で、この死者の部屋をじっと覗きこんでいた。
陛下は部屋の中央におかれた棺台の上に、静かに、安らかに、王者の威厳を失わずに横たわっておられた。その顔には、かつて戦いの日にわれわれの心を元気づけた、あの余裕がみなぎっていた。血の気のうせた唇に微笑がかすかに残っていて、薄く開いた両眼はわしの目にむけられているように思えた。陛下は、ワーテルローでお見かけしたときよりふとっておられ、その顔には、生前いちども拝見したことのない温和な表情を浮かべておられた。陛下の両側には蝋燭《ろうそく》が列をなしてともっていた。これがいわば灯台の役目をはたして、海上のわれわれを迎えてくれ、浜辺まで案内してくれたのだ。これこそ、わしが希望の星として仰いだものであった。多くの人がこの部屋でひざまずいているのに、ぼんやりと気づきはじめた。陛下と運命をともにしてきたわずかばかりの男女の廷臣たち、ベルトラン将軍夫妻、司祭、モントロン将軍――全員がここにいた。わしも祈りを捧げようとしたが、あまりにも悲しく、痛ましくて、祈ることができなかった。
だがわしは立ち去らねばならぬ。それでもなにもしないで立ち去るわけにはいかなかった。人が見ていようが、見ていまいが、そんなことにはかまわず、わしはいまは亡き指導者のまえに直立し、踵《かかと》をかちっと合わせ、最後の挙手の礼を捧げた。それから回れ右をして、急いで闇のなかを突っ走った。微笑を浮かべた血の気のない唇と、じっと動かない灰色の目が、たえず幻のようにわしのまえにちらついていた。
ボートを離れていたのは、ほんのちょっとの間のように思えたが、待っていた水夫の話では、もう何時間にもなるとのことだった。彼がこう言ったときはじめて、疾風に近い風が海から吹きすさび、波がとどろきながら浜辺に打ち寄せているのに気づいた。二度ほどわれわれは小さなボートを押し出そうとしたが、二度とも荒波に押し戻されてしまった。三度目には大波をもろにかぶって、船底が抜けてしまった。われわれはなすすべもなく、ボートのそばに立ちつくしていた。やがて夜が明けた。
海は荒れていて、その上をちぎれ雲が飛んでいた。ブラック・スワン号は影も形もなかった。丘を登って見わたしたが、荒れた大海原には帆影一つ見あたらなかった。船は消えうせてしまった。沈んだものか、それともイギリス人の乗組員によってふたたび乗っ取られたものか、あるいはどんなに意外な運命が待ちかまえていたものか、わしにはわからない。二度とふたたび、この世でフールノー船長に会うことがなかったので、わしの使命の結果は報告できないままになっている。
ところでわしのことだが、わしは英軍に自首して出た。水夫とわしは難破船の生き残りという口実をもうけて――もっとも、実際のところ、これは口実でもなんでもなかったのだが。英軍将校の手から、わしはいつもどおりの手厚い待遇をうけたが、なつかしい祖国――ここ以外では、わしのような生粋のフランス人にとって仕合わせなどありえない――を目ざして帰航の途につけるまで、なお数カ月もかかった。
以上、わしが主君に別れを告げたいきさつを一晩でお話しした。そして敗残の老兵の長話に辛抱づよく耳をかたむけてくださった、親切な諸君にもお別れを告げる。ロシア、イタリア、ドイツ、スペイン、ポルトガル、それにイギリス、諸君はわしとともにこれらの国々を歴訪し、わしのかすんだ目をとおして、あの偉大な時代の光彩と栄光を多少なりとも目のあたりにされた。そしてわしは、足音高く地球をゆるがした人びとの面影を諸君のまえによみがえらせた。どうかこれを、心のなかにとどめて、子孫に伝えてくれたまえ。偉大な時代の思い出というものは、国民が誇りうるもっとも大切な宝ものなのだから。
樹木がみずからの落葉を養分とするように、いまは亡きこれらの人びとと消え去った時代こそ、英雄と支配者と賢者の花をふたたび咲かせる養分となるだろう。わしはガスコーニュへ帰るが、わしの言葉は諸君の記憶のなかに残る。そうなれば、エティエンヌ・ジェラールなど忘れ去られたあといつまでも、ジェラールが話した言葉のかすかな反響で心があたたまり、精神が鼓舞されることもあろう。紳士諸君、老兵は諸君に敬礼して、ご機嫌ようと別れを告げる。(完)
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ある騎士のものがたり――ドイル略伝
この本の著者アーサー・コナン・ドイルは、一八五九年五月二十二日、スコットランドの古都エディンバラで生まれた。父はチャールズ・ドイル、母はメアリ。第二子、長男であった。
ドイル家の先祖はフランスの出身で、十四世紀以降、アイルランドに領地を所有していた。しかし一家は熱心なカトリック信者であったため、幾世代にもわたって迫害をうけ、先祖伝来の土地まで奪われることになる。
著者の祖父ジョン・ドイルが画業で身をたてようと、ダブリンからロンドンへ出てきたのは二十歳のときであった。やがて彼はH・Bの筆名で当時のもっとも著名な風刺漫画家となった。
ジョン・ドイルには五人の息子がいた。一人は早逝したが、成人した息子たちはそれぞれ父の画才をうけついでいた。長男はジェームズといって画家および学者として知られ、『英国年代記』や『英国公式貴族名鑑』という著述を後世に残した。次男のヘンリーは画家兼美術批評家として活躍し、のちにダブリンの国立美術館長に任命され、バス三等勲章をうけた。兄弟のなかでもっとも有名になったのは三男のリチャードである。彼は十九世紀の最高に輝かしいイラストレイター、風刺漫画家の一人であった。彼の描いた『パンチ』誌の表紙が一世紀にもわたって――じつに今世紀のなかばまで――使われてきたという一事だけでも、その人気のほどがうかがえよう。そして兄弟のなかでただひとり、名士になれなかったのが四男のチャールズ――コナン・ドイルの父親であった。
ジョン・ドイルはかなり裕福な生活を送っていたようだが、やがてチャールズも自分の職業につかねばならぬ年齢に達した。彼が十九歳のとき、縁あって、エディンバラのスコットランド土木庁に就職することになる。公務の余暇を利用して、ロンドンにいる兄たちと同様、自分の画才を十分に伸ばすことができるだろうと考えたのである。
チャールズが下宿先と定めたのは、アイルランド出身の未亡人の家であった。彼女はドイル家同様、熱心なカトリック教徒であった。この未亡人にはメアリという娘がいて、十二の年からフランスで教育をうけていたが、やがて学業を卒えて母のもとに帰ってくる。フランス語が堪能《たんのう》で、紋章学の研究を趣味にもつ、この元気はつらつとした娘にチャールズはしだいにひかれていった。二人が結婚したのは一八五五年、新郎二十三歳、新婦十七歳のときであった。
チャールズは土木庁からの収入のほかに、ロンドンで発行されている雑誌にスケッチなどをのせて多少の稿料をえていたが、つぎつぎと生まれてくる子どもたちをかかえて、生計は決して楽なものとはいえなかった。彼はホーリールード宮の噴水や、グラスゴー大寺院の大窓などの設計を担当した。しかしその地位は生涯を通じて上がることがなかった。著名な父や兄たちの存在は、彼にとって誇りであると同時に、大きな精神的負担でもあった。失意のチャールズを慰めるものは、釣りと酒と道楽半分に描く幻想的な絵だけであった。
妻のメアリが良妻であったかどうかはともかく、賢妻であったことはまちがいない。当時の女性としては、かなり高度な教育を身につけていたと言えるだろう。そもそもコナン・ドイルが小説に関心をもつようになったのも、母が物語を聞かせてくれるときの真に迫った語り口によるところが大きい、ということだ。それに彼女は行動についての信条をもっていて、この信条を息子にたたきこむことを忘れなかった。「強者を怖れず、弱者には謙虚であれ」「身分の上下をとわず、すべての女性に騎士として対せよ」
ドイルは読書好きの少年であったが、体力にめぐまれていたため、喧嘩も強かったようだ。ドイル一家が住んでいた袋小路には、貧しい家と比較的裕福な家が向かいあっていて、双方の子どもたちの間に激しい反目が見られた。あるとき彼は貧しい家庭の代表選手として、裕福な家の子どもと一対一の対決をした。彼自身の言葉によると、それは数ラウンドにわたるすばらしい闘いだったが、結局は勝負がつかなかったようだ。家に帰ると、母がびっくりした。
「まあ、アーサー、なんという目をしているの!」
それにたいして、彼はこう等えた。
「ちょっと行って、エディー・タラクの目を見てきてごらんよ!」
少年ドイルとしては、母の説く行動の信条にしたがって、手強い相手と互角以上に闘ってきたのだ、と言いたかったのであろう。
ドイルは九歳になると、親もとを離れて、イングランドのランカシャーにあるホッダー学院に入学することになる。これはストニーハーストというイエズス会のパブリック・スクールヘの予備校である。このホッダー学院で、ドイルはフランス語をみっちり仕込まれた。
予備校を卒えると、予定どおりストニーハーストへ進学した。この学校は百五十年ほどまえにイエズス会に移管されたパブリック・スクールで、教員はすべてオランダのさるカレッジから招聘《しょうへい》された。ここでの生活はスパルタ式で、体罰はきびしかった。「トリー」という平たいゴムの文鎮で生徒の手を打つのである。大柄な少年の場合には、両手をそれぞれ九回ずつ打つきまりになっていた。打たれると手の甲が黒ずんで、二倍ほどの大きさにはれあがる。体罰が終わって部屋から出ようとしても、ドアの取っ手が回せない。ドイル自身もこの体罰をうけたであろうが、家族への手紙ではこの件についてはまったく触れていない。
ストニーハースト在学中に、ドイルは文学に関心をしめし、校内誌の編集にたずさわることもあった。しかし最終学年を迎えると、彼は大学入学予備試験をめざして猛烈に勉強する。優秀な成績で試験に合格するが、ドイルは神父のすすめにしたがって、オーストリアのフェルトキルヒにあるイエズス会の学校に一年間留学することになった。ここでの規律はストニーハーストほど厳格ではなかったが、彼のドイツ語はかなり上達したようだ。
フェルトキルヒから帰郷すると、母のすすめもあって、エディンバラ大学の医学部にはいった。ここでドイルは生涯忘れえぬ二人の恩師に出会うことになる。一人は解剖学のラザフォード教授で、のちに彼が執筆した科学小説『失われた世界』の主人公、チャレンジャー教授のモデルとなった人である。この教授はアッシリア風の顎ひげをたくわえ、並みはずれた大声で学生たちを魅了し、畏敬せしめたということだ。
いま一人はジョゼフ・ベル教授という老練の医師であった。彼は患者を観察しただけで、その病状のみならず、職業や経歴や性格まで言いあてた。後年、シャーロック・ホームズのモデルは誰かとたずねられたとき、ドイルは、エドガー・アラン・ポーの作中人物デュパンと、エディンバラ大学のジョゼフ・ベル教授に負うところが大きい、と答えるのが常であった。
医学生時代のドイルは、休暇になると家計を助けようと個人病院でアルバイトにはげんだ。それでも文学にたいする関心は強いものがあって、昼食代が古本に化けてしまうことも珍しくなかった。彼が『ササッサ渓谷の秘密』という冒険談を書いたのはそのころのことだ。この短編小説は『チェンバーズ』誌に採用されて、彼は三ギニーと、作家としての自信らしきものを得ることができた。
一八八〇年、弱冠《じゃっかん》二十歳のドイルは捕鯨船の名目的な船医として北極洋へ向かった。これは当初、カリーという同級生が行くことになっていたのが、事情があって急にドイルのところにお鉢がまわってきたのである。報酬は大枚五十ポンド。即座に引きうけることにした。
彼が乗り組んだのは、ホープ号というわずか二百トンの捕鯨船であった。船が出帆した最初の晩、ドイルは給仕係と喧嘩して、相手の目のまわりに黒あざをつくり、乗組員たちの尊敬を勝ちえた。この航海では彼自身もアザラシ狩りや捕鯨に熱中した。学校と病院しか知らぬ二十歳の若者にとって、これほど心を奪われる体験ははじめてであった。捕鯨船に乗り組んだときは、大柄なばかりで均整のとれていない若者だったが、七カ月たって船からおりたときには、筋骨たくましい大人に変身していた。エディンバラに帰ったドイルは、母の乏しい懐に五十ポンドの金貨を捧げた。
翌年、彼は学内の最終試験に合格し、医学士と外科医学修士の称号をえた。学位をとったらいまいちど、船医として航海に出たいというのが彼の念願であった。そうすれば、さらに世間というものを知ることができようし、医師として開業するのに必要な資金も多少は稼げるからだ。それに二十歳そこそこで開業したとしても、世間の信頼をうることはむずかしかろう。こう、ドイルは考えたわけだ。船医の口を申しこむと、アフリカ西海岸航路の旅客・貨物定期船マユンバ号から採用の返事がきた。こんどは捕鯨船とちがって、四千トンほどの船であった。この航海ではアフリカ西海岸のいくつかの港町で、死ととなりあわせた現地人の生活を垣間見ることになる。彼自身も、船中でひどい熱を出して倒れた。船医といっては彼一人しかいない。ドイルは数日間、生死のあいだをさまよったあげく、かろうじて一命を取りとめることができた。ともあれ、灼熱の太陽のもとでの航海を体験したことは、本書の最終章「ジェラールの最後の冒険」のなかで生かされている。
アフリカ航路から帰ったあとしばらくして、ドイルはイギリス南部ポーツマス郊外のサウスシーに念願の開業医の看板をかかげた。医院とは名ばかりの、ささやかな診療所であった。それでも患者がしだいにつくようになり、なんとか生計を立てる見通しもついた。そこで、あいかわらず苦しいやりくりを強いられている母のもとから、十歳になる弟のイネスを引きとり、手伝わせることにした。イネスは学校から帰ってくると金ボタンの制服を着せられて、ホテルのボーイよろしく、玄関のドアを開閉した。三年後、彼はヨークシャーのパブリック・スクールにはいるために兄のもとを去った。
ドイルが結婚したのは、その後まもなくのことである。当時、グロスタシャー出身のある未亡人が一男一女を連れてサウスシーに滞在していた。息子は脳膜炎に冒されていて、助かる見込みがなかった。激しい発作をおこすので、ホテルにも下宿にも置いてもらえないという話を聞いて、ドイルは病人を自宅に引きとることにした。患者は数日後に死んだ。彼が結婚した相手はこの患者の姉で、ルイズ・ホーキンズといった。新郎より二歳年長だが、いたって穏やかな、気だてのやさしい女性であった。
シャーロック・ホームズとワトソン博士が登場する作品を書いたのは、結婚してからのことである。彼はポーが創造した探偵デュパンと、大学時代の旧師ベル教授の推理の手口を思いおこしながら『緋色の研究』を書いた。この原稿はいくつかの出版社を遍歴したすえに、ようやくウォード・ロック社から日の目を見ることになった。のちにいくたびも版を重ね、映画にまでなったこの作品はわずか二十五ポンドで買いとられた。印税はまったくはいらなかった。
サウスシー時代で見のがすわけにいかないのは、彼がカトリックの教義を正式に棄てたことであろう。ドイルは大学当時から、時代の思潮でもあった不可知論に傾倒するようになっていた。母はのちになって息子に理解をしめすようになるが、伯父たち親戚との間には以後深い溝が生じることになった。
サウスシーにおけるドイルは、医師として、また文芸・科学協会の一員として、町ではちょっとした名士であった。しかしなによりも彼の名を高めたのは、比類なきクリケットの名手としてであり、「ハンプシャー屈指の堅実なア式フットボールのバック」(地元紙の記事による)としてであった。事実、彼は万能といってよいほどのスポーツマンであった。ボクシングはドイルの得意とするスポーツで、ゴルフや乗馬のたしなみもあり、これは後年の話になるが、スイスにスポーツとしてのスキーを紹介したのは、ほかならぬドイル自身だと言われている。
一八九〇年の十二月も押しつまったころ、ドイル夫妻はあわただしげにオーストリアヘと旅立った。ウィーンで眼科の講義に出席し、資格をとろうと考えたのである。翌年の春、ドイルはロンドンに帰り、デヴォンシャー・プレースで眼科医の看板をかかげた。ところが患者が一人もやってこないのだ。当時を回想して、ドイルはこう書いている。
「毎朝、モンタギュー・プレースの下宿を出て、十時には診察室にはいり、三時か四時までそこに坐っていたが、わたしの平穏を破る呼鈴はいちども鳴ることがなかった。思索と仕事にこれほどよい場所がまたとあろうか?」
そうこうしている間に、彼は悪性のインフルエンザにかかり、危篤状態が一週間もつづいた。転機が訪れたのはこのときである。彼はこれまでの生涯を振りかえってみた。そして、医業をやめ、小説を書くことに生涯を託そうと決心した。いまいちど、彼自身の言葉に耳をかたむけてみよう。
「わたしはいまでもおぼえているが、喜びのあまり、掛けぶとんの上にあったハンカチを衰弱した手でつかみ、歓声もろとも天井に投げつけた。これでついに自分自身の主人になれるのだ。もはや職業服にしばられることもなく、他人の機嫌をとることもないのだ。どのように生きようと、どこで暮らそうとかまわないのだ。これはわが生涯における最高の歓喜の瞬間であった」
かくして「ボヘミア王家の色沙汰」「赤毛連盟」「唇のまがった男」などのホームズ物がぞくぞくと『ストランド』誌を飾ることとなった。ドイルはこの連載を六編で打ち切るつもりであった。彼の真の関心はウォルター・スコットのような本格的な歴史小説を書くことにあった。だがホームズの人気が燃えあがってくると、雑誌の編集長はさらに六編書いてほしいと言ってきた。そこでドイルは一編につき五十ポンドという法外な原稿料を吹っかけた。これだけ吹っかければ『ストランド』誌もあきらめるだろうと思ったのである。だが、編集長は承諾した。
ドイルの母親がホームズの熱烈な賛美者だったというのは有名な話である。彼女はまた、息子の作品のかくれた批評家でもあった。事実、ドイルはすべての作品の校正刷りを母のもとに送って、その批評に耳をかたむけてきた。『ストランド』誌との契約があと一編で切れるというとき、ドイルは母への手紙でつぎのように書いた。
「わたしは最後の物語でホームズを殺し、彼とはこれをかぎりに手を切りたいと思っています。ホームズはわたしの心を、よりよいものから奪ってしまうからです」
シャーロック・ホームズを葬ろうとする構想にたいし、母は猛然と反対した。こうして、ひとまずホームズは一命を取りとめることになるが、ホームズ物に永遠に終止符を打ちたいというドイルの決意には変わりがなかった。ホームズが「最後の事件」でスイス山中、ライヘンバッハの滝のなかに姿を消すのは、それからわずか二年後のことである。
不幸はしばしば手をたずさえてやってくるものである。一八九三年の秋、父のチャールズが長い療養所生活ののちにこの世を去った。彼はアルコール中毒患者であった。ドイルにとって父の死は予期できないことではなかったが、まったく予想もしなかったのは、妻のルイズが結核に冒されているという知らせであった。それは当時、「奔馬性結核」と呼ばれたもので、専門医の診断によると、あと数カ月の生命ということであった。四歳になる娘とわずか一歳の息子をかかえて、ドイルは途方に暮れた。彼は医師の意見をいれて、スイスのダヴォスへ行くことにした。アルプス山中の渓谷にあるダヴォスは四方の風からさえぎられ、陽光に満ちているから、病人の余命を多少はのばしてくれるだろう。これが医師の処方箋であった。この転地療養はドイル自身も認めているように「成功」であった。あと数カ月と言われた余命を十年以上も先にのばすことができたからである。
スイス滞在中に、ドイルは自伝的小説『スターク・マンローの手紙』を書きあげ、『ジェラール准将の功績』に着手した。後者は本書『豪勇ジェラールの冒険』に先行する准将物語である。妻の健康が回復してくると、彼は以前から申しこまれていた件を考える余裕が出てきた。アメリカでの講演旅行である。一八九四年十月、ドイルは、砲兵士官になっていた弟のイネスを連れて、アメリカヘと旅立った。ニューヨーク、ボストン、シカゴ、ミルウォーキーをはじめ、東部と中西部の数多くの都市で講演と朗読を行なった。シャーロック・ホームズの著者はいたるところで歓迎された。
しかし当時のアメリカには、手ごわい反英感情が広まっていた。この感情はアメリカの初期の歴史に根ざしており、それがアイルランド系の新聞人や政治家たちのしつこい敵意によってあおられていたのである。デトロイトでもうけられた宴席で、酒に酔った一人のアメリカ人がイギリスを攻撃する演説をしたとき、ドイルは許しをもとめて、つぎのように答えた。
「あなたがたアメリカ人はこれまで自分自身の柵《さく》のなかで暮らしてきたので、外側の現実世界のことをご存知ないのです。しかしいまや、あなたがたの国もいっぱいになり、これまで以上に他国民と交わらざるをえなくなるでしょう。そうなると、あなたがたのやりかたや願望を多少なりとも理解し、いささかでも同情してくれる国が一つしかないことに気づくでしょう。それはいまあなたが好んで侮辱する母国、イギリスであります。現在イギリスは一つの帝国であり、あなたがたの国も遠からず帝国になります。そのときこそ、あなたがたはおたがいを理解し、世界中に真の友がただ一人しかいないと知ることでしょう」
ドイルは紳士であると同時に愛国者であった。そして国際社会における英米両国の連帯の必要性を早くから唱えていた一人であった。
ジーン・レッキーという、のちに二度目の妻となる女性と知り合ったのは、一八九七年三月のことである。ときにドイル三十七歳、ジーンは二十四歳であった。彼女はスコットランドの古い一族の出で、ドイツに留学して声楽の勉強をしただけあって、すばらしいメゾソプラノの持ち主であった。そして華奢な体つきに似合わず、乗馬の名手でもあった。その人柄にひかれたのであろう、ドイルはたちまち恋におちた。だが彼には病いを養っている妻がいた。紳士をもって任じ、騎士道精神を重んじるドイルにとって、これは生涯最大の危機であった。
最初の数年間、ドイルとジーンの胸中を知るものはただ一人しかいなかった。それはドイルの母であった。彼はいっさいを母に告げた。彼女は即座に息子を支持した。そしてジーン本人に会って、その人柄を知ると、なおいっそう彼を支持するようになった。二人の関係はプラトニック・ラブであり、そのことをドイルの母は知っていた。「わたしは悪魔と闘う」ドイルは叫んだ、「そして勝つのだ」と。それは十年間にわたる悪魔とのすさまじい闘いであった。
一八九九年十月、ボーア戦争が勃発すると、ドイルは四十歳という年齢にもかかわらず、さっそく兵役を志願した。彼は一兵卒として従軍するつもりであった。この計画は母親の反対もあって実現にはいたらなかったが、ボーア戦争という歴史的大事件をこの目で見とどけたいという彼の願望は、いささかもおとろえることがなかった。ドイルは書斎派というよりは行動派であった。たまたま、ジョン・ラングマンという友人が自費で南アフリカに医師団を派遣するという話を聞き、彼もその一員として戦場へおもむくことになった。彼は負傷兵の手当や、当時大量に発生した腸チフス患者の治療にあたったが、ときには軍隊と行動をともにすることもあった。帰国後、ドイルはこのときの体験をもとに、しかも豊富な資料を駆使して『大ボーア戦争』という戦史をあらわした。
コナン・ドイルがナイトの爵位を授与されたのは、ボーア戦争における功績によるものであった。しかし彼の目には、ナイトの爵位といえど、せいぜい田舎市長のバッジぐらいにしか映らなかった。叙勲の内示をうけたとき、彼は母への手紙で辞退の意思を伝え、格調高くつぎのようにつけ加えた。
「わたしが最も高く評価しているのは『博士《ドクター》』の称号です。これは母上の自己犠牲と決断によって授けられたものだからです。わたしはこれより下へ降りて行って、別なものを手にいれようとは思いません」
ドイルは母の同意がえられるものと思いこんでいたが、彼女は息子の手紙を読んで、思わずふるえあがった。「あなたは気づいていないのですか」彼女は問いただした。「ナイトの爵位を辞退するのは王さまにたいする一つの侮辱だということを」
母は最愛の息子にたいし、みずからを神の代理人と任じていたのである。
本書『豪勇ジェラールの冒険』を書いたのは、このころのことである。ここに描かれたジェラールの勇姿は、前作『ジェラール准将の功績』にもましてさっそうたるものがある。作家としてまさに脂ののりきった年齢に達したドイルは、シャーロック・ホームズにもおとらぬ不朽の人物を創造したのである。
ドイルはこの『豪勇ジェラールの冒険』に先立って、『ストランド』誌上に名作『バスカヴィル家の犬』を連載の形で発表している。読者はひさしぶりにホームズ探偵とワトソン博士に再会できたわけだが、残念ながらこの物語の時代設定は「最後の事件」より前になっている。ホームズをライヘンバッハの滝から蘇《よみがえ》らせようという提案は大西洋の彼岸からやってきた。アメリカのある出版社が、もしシャーロック・ホームズを生きかえらせるならば、短編小説一編につき五千ドル提供する用意があると言ってきたのである。しかも、この版権はアメリカだけに限定されるという好条件であった。ドイルは承諾した。ホームズは蘇ることとなった。『シャーロック・ホームズの生還』である。
一九〇六年、長いあいだ病いと闘ってきた妻ルイズが安らかに永眠した。余命数カ月と宣告されてから十三年後のことであった。彼女は病床にあってもほがらかで、愚痴ひとつこぼすことがなかった。ドイルは彼女を恋してはいなかったが、なんびとにもまして好きであった、ということだ。
彼の生涯を語るとき、無視することのできない大きな裁判事件が二つある。一つはエダルジ事件であり、いま一つはオスカー・スレイター事件である。エダルジ事件の被告ジョージ・エダルジはインド人とイギリス人の混血であり、オスカー・スレイターはドイツ系ユダヤ人であった。いずれも人種差別に根をもつ、いわゆるでっちあげ事件である。エダルジ事件では、ドイルは真犯人を突きとめることによって被告の潔白を主張し、オスカー・スレイター事件では、あえて無頼の徒とみられる被告の弁護に立ちあがり、十数年という歳月をついやして、スレイターの無罪を勝ちとったのである。(コナン・ドイルの弁論「オスカー・スレイター事件」は、同事件の裁判記録『目撃者』に収録されている)
一九一四年に勃発した第一次世界大戦は、ドイルの身辺にも暗雲を投げかけた。妻の弟マルコム・レッキーが戦死し、さらに二人の甥と最愛の妹の夫があとにつづいた。最初の結婚でもうけた長男のキングズリーはフランス北部ソンムの激戦で重傷を負い、本国送還後に肺炎をわずらって死んだ。サウスシー時代に苦労をともにした弟のイネス・ドイル准将も、その数カ月後に同じく肺炎でこの世を去った。ドイルは若いころから、死者の霊魂と生者の精神との交霊をもたらすという、心霊術に関心をよせてきたが、これら親しい者の死が――とりわけ長男の死が――彼を心霊術の研究へとますます駆りたてることになった。
ドイルは、心霊術の信仰によって多くの友人を失った。シャーロック・ホームズの読者はドイルの変貌《へんぼう》ぶりにとまどい、あからさまな失望の色を見せた。しかし彼の信仰は揺らぐことがなかった。彼はつぎつぎと、心霊術に関する著述を公にした。心霊術講演の足跡はイギリス各地はもとより、北欧、アメリカ、南アフリカ、さらにはオーストラリアにまでおよんでいる。
ドイルは一九三〇年七月七日、サセックス州クロウバラの自宅で七十一年の生涯を閉じた。その数日まえ、彼は体調をくずしていたにもかかわらず、時の内務大臣に会って、心霊術を迫害する法律を阻止しようとロンドンまで出向いている。これが死期を早めたことは疑う余地がない。しかし、ドイルは愛する妻子に見守られて、安らかな臨終を迎えたという。
ドイルの文学上の業績はおそらく、前にもすこしく触れたように、シャーロック・ホームズとジェラール准将という個性ゆたかな人物を創造したことであろう。それにしても、ドイルがあれほど手を切りたいと願い、嫌悪すらしていたホームズ物によって、その名が世人に記憶されているのはまことに皮肉な運命と言わざるをえない。彼が心血をそそいだ歴史小説はいまでもかえりみられることなく、書店の片隅で埃をかぶっている。しかし、ジェラール物にはきらりと光るなにかがある。人々がこの不屈の精神をもった主人公に親愛と共感の情を失わないかぎり、ジェラール准将はいつまでも生きつづけることであろう。
一個の人間としてのドイルは、彼が生まれ育ったヴィクトリア朝を代表する人物と言ってよかろう。彼はこの時代の規範にしたがって生き、つねに紳士として名誉ある行動をとるように心がけた。しかも、ドイルの理想とするところは中世の騎士道精神で、これこそ彼の行動原理の根幹をなすものであった。この精神にささえられた人間ドイルの生涯は、それなりにさわやかで、みごとなものであったと言わねばなるまい。とりわけ、人種的偏見を排して司法の聖域に挑戦し、個人的には好意がもてない人物のために闘いつづけた気高い精神は時代をこえて高く評価さるべきであろう。
善良な巨人とも称されたこの男は、過ちをおかすときもまた騎士道的であった。晩年における心霊術への傾倒ぶりには、どこかドン・キホーテを想起させるものがある。中世の騎士道精神にあこがれて、みずからを正義の騎士と目《もく》し、風車の幻影に立ち向かったのは、ひとりラ・マンチャの郷士《ごうし》のみでなかったのである。
最後に、日本語で読めるドイルの伝記を二、三紹介して、この小文の不備をおぎなっていただくこととしよう。ドイルが晩年に書いた自叙伝は、かつて『わが思い出と冒険』という表題で刊行されたが、現在は惜しいことに絶版となっている。手にはいりやすいのは、つぎにかかげる三冊であろう。いずれも特色のある、すぐれた伝記である。
ジョン・ディクスン・カー『コナン・ドイル』大久保康雄訳、早川書房。
ロナルド・ピアソール『シャーロック・ホームズの生れた家』小林司・島弘之訳、新潮社。
ジュリアン・シモンズ『コナン・ドイル』深町眞理子訳、東京創元社。
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訳者あとがき
コナン・ドイルが生んだシャーロック・ホームズとエティエンヌ・ジェラールはまことに対照的な人物である。ホームズの性格が静であり、陰であるとすれば、ジェラールのそれは動であり、陽である。両者ともにそれぞれの国民性とは無縁でない。
本書はナポレオン麾下《きか》の軽騎兵連隊にあって、敵味方に勇名を馳せた男の回顧談という形式をとっている。それぞれの章が完結した短編でありながら、通読すれば、ナポレオン戦争の多彩な絵巻物をひもとく感がある。歴史小説家をこころざした作者だけに、史実にはかなり忠実だと言われている。滑稽味はあるが、荒唐無稽の冒険談ではない。
シャーロック・ホームズ同様、ジェラールにはモデルがある。本書にも登場するランヌ、マセナ両元帥のもとで幕僚をつとめ、いくたの戦役で軽騎兵連隊の指揮にあたり、のちに『回想録』をあらわしたマルボ将軍(一七八二〜一八五四)がその人である。ジェラールの人物像は、この実在の将軍にかなり近いということだ。
本編の主人公は何よりもまず、祖国フランスと皇帝ナポレオンに忠誠のかぎりをつくす若き軽騎兵将校である。馬術はもとより、剣にかけても並ぶ者のない達人で、小柄ながらも全身に騎士道精神をみなぎらせた一世の快男児。いささか軽率な面があるために、しばしば途方もない失態を演じるが、危難に直面すれば、機略を縦横にめぐらして豪胆ぶりを発揮する。ガスコーニュ男に特有の大言壮語と愛すべき自己陶酔癖、それに加えて美女をめぐる葛藤《かっとう》がこの物語に花を添えている。
一服の清涼剤、ないしは一種の青春賛歌とも言えるこの作品には、あえて解説を付す必要はなかろう。作者の言わんとするところはストレートに読者に通じるはずである。ただし、第三話の「ジェラールが狐を殺した話」については、すこしく触れておく必要があるかもしれない。ここではスポーツとしての狐狩りの場面が出てくるが、イギリスの推理作家ジュリアン・シモンズによると、この種の狐狩りでは追いつめた獲物は猟犬に殺させるのがしきたりで、ハンターが剣をふるって仕止めるものではない、ということである。おそらく、シモンズの言うとおりであろう。異国の風習にたいする無知からしきたりを破り、獲物の狐を一刀両断にした主人公が、敵軍の浴びせる怒号を称賛ないしは歓声と錯覚することによって、この短編は俄然《がぜん》光を放つものとなる。作者ドイルがこの作品に深い愛着を抱いたのも、なるほどとうなずけよう。
訳出にあたっては、大佛次郎、上野景福両氏のすぐれた訳業を参照させていただいた。深甚な感謝をここに捧げる次第である。(訳者)