失われた世界
目次

一 まわりには英雄的行為がいっぱい
二 チャレンジャーと会って運をためしたまえ
三 主人ときたら、我慢のならない人です
四 前代未聞の大事件
五 質問!
六 神の鞭 ジョン・ロクストン卿
七 明日は秘境に入る
八 新世界の監視人
九 夢にも思わなかったこと
十 不可思議な事件
十一 このときだけはわたしも英雄
十二 森の中の恐怖
十三 忘れえぬ光景
十四 真の征服
十五 この目で驚異を見た
十六 行進! 行進!
あとがき
登場人物

エドワード・マローン……主人公、ガゼット紙の記者
チャレンジャー教授……アマゾン探検隊の隊長
サマリー教授……チャレンジャー教授のライバル
ジョン・ロクストン卿……世界的な探検家
グラディス嬢……マローンの恋人
マッカードル……社会部長、マローンの上役
タープ・ヘンリー……新聞記者、マローンの友人
メイプル・ホワイト……失われた世界の発見者
一 まわりには英雄的行為がいっぱい

彼女の父ハンガートン氏ほどヘマな人物は、どこを探してもいないだろう――ふわふわと軽薄で、だらしのないおしゃべりおうむ(・・・)とでもいうところか、根っからのお人好しなのだが、徹底した自己中心主義の愚かな人物でもある。万一わたしがグラディスのもとから逃げだす気になるとしたら、理由はこんな人を義父として仰がなければならないという、ぞっとするような考え以外にはあり得ない。ハンガートン氏としては、わたしが週に三日も足しげくチェスナットに通ってくるのは、自分と話がしたいから、とりわけ両本位制に関する高説を拝聴したいからだと、本心から信じこんでいるにちがいない。なにしろ彼は、この問題については、いっぱしの権威のつもりでいるのだから。
わたしは、その晩も例によって、悪貨は良貨を駆逐するとか、代用貨幣としての銀の価値だとか、ルピー貨の下落だとか、真の為替(かわせ)基準だとかいうお題目について、一時間かそこらも退屈きわまる講釈をきかされた。
「かりに」と、彼は内容もないくせに妙に気負った口調で叫んだ。「世界中で一時にすべての負債に対する即時返済の要求が起こったとしたら、現在の状態では、いかなる事態を招くと思うかね?」
わたしはそうなったらたちまち破産ですよと、わかりきった返事をすると、彼は急に椅子(いす)から立ちあがって、わたしのあいも変わらぬ軽率さを叱り、きみが相手ではまともな議論もできぬわいと言い捨てて、フリー・メイソンの会合に出席するため、着がえをしに部屋を出て行った。
これでようやくグラディスと二人きりになれた。ついに運命の時がきたのだ! その晩のわたしは、最初からずっと、勝利の希望と敗退の怖れの入り混った不安な気持で、決死隊の出撃命令を待つ兵士のような気分にひたっていた。
彼女は例のつんととりすました繊細な横顔を、緋色(ひいろ)のカーテンに浮きあがらせて坐(すわ)っていた。なんという美しさ! それにしても、なんというとりすましようか! わたしたちは、きわめて親しい間柄だった。しかし、その友情は、例えばわたしが『ガゼット紙』の同僚の記者たちとの間に結ぶ友情の域を越えることはなく、どの点から見ても淡泊な、親切心に根ざすもので、異性間の感情とはおよそ異なるものだった。わたしの本能は、わたしと同席しながら、なんのこだわりも気おくれも感じないこの女性に対して、妙に反撥を感じるのである。それは男性にとって少しも名誉なことではない。本物の異性間の感情が芽生えたら、愛と暴力がしばしば分かちがたく手を結んでいた太古の時代から、人類が受け継いできた羞恥(しゅうち)心と不信が伴わなければ嘘である。うつむいた顔、伏目、消え入るような声、全身で表現される身も世もあらぬ風情(ふぜい)――こういったものこそまぎれもない情熱のしるしであって、ひるむことを知らぬまなざしやあけすけな返事では、まったくお話にもならない。わたしのような若僧(わかぞう)でさえ、それぐらいのことは知っている――あるいは、われわれが本能と呼ぶところの種族の記憶として受け継いできているのだ。
グラディスは女らしさをふんだんにそなえている。彼女が冷たくてかたくなすぎるという人もいるが、それは彼女に対する冒涜(ぼうとく)というものだ。うっすらと陽やけしたきめこまかい肌(はだ)は東洋的と形容してもいいほどだし、漆黒(しっこく)の髪、つぶらにうるんだ瞳(ひとみ)、心持大きめだがすばらしい唇――情熱のあかしはすべて身にそなわっている。ただ悲しむべきことだが、これまでのところ、わたしはその情熱を引きだす秘密を知らなかった。しかし、今晩こそは、どんなことがあってもこの宙ぶらりんの状態を清算して、はっきり決着をつけるつもりだ。もちろん拒絶されることもありうる、がしかし、兄として受け容れられるよりは恋人として斥(しりぞ)けられるほうがましというものだ。
ここまで考えて、長い、ぎごちない沈黙を破ろうとしたとたんに、二つのせんさくするような黒目が、ぱっちりとわたしを見すえ、とりすました顔がとがめるような微笑をうかべながら、かすかに揺れた。
「あなたがプロポーズなさるんじゃないかという予感がしますわ、ネッド。でも、その予感がはずれてくれればいい、だって、わたしたちは今のままのほうがずっとすてきなんですもの」
わたしは少しばかり椅子を近づけた。
「ぼくがプロポーズすることが、どうしてわかったんです!」と、びっくり仰天(ぎょうてん)しながらたずねた。
「あら、女はだれでもその気配を感じるものじゃなくって? なんの予感もなしにプロポーズされた女が、一人でもいるとお思いなの? でもね、ネッド、わたしたち、お友だちのままでも十分楽しくやってきたのに、今になってそれをこわしてしまうなんて、とても残念ですわ!わたしたちのような若い男女が、二人だけでなんのこだわりもなくお話できるなんて、とてもすばらしいことだと思いません?」
「ぼくにはわかりませんよ、グラディス。二人だけで話すったって――ぼくは駅長とだって二人だけで話せますからね」なぜここでだしぬけに駅長が登場したのか、わたし自身にもわからなかったが、とにかくそれで二人ともついふきだしてしまった。「そんなことは全然うれしくないですよ。ぼくの望みは、あなたをこの両腕に抱いて、あなたの顔を胸に受けとめ、ああ、グラディス、ぼくは――」
彼女は、わたしがその望みのうちどれかを実行しかねない気配を感じて、さっと椅子からとびあがった。
「あなたは何もかも台なしにしてしまいましたわ、ネッド」彼女は言った。「あなたがこんなことをおっしゃるまでは、みな美しくて自然だったのに。ほんとに残念ですわ。なぜもっとご自分を抑えられないんでしょう?」
「しかし、これはなにもぼくの発明じゃない。これが自然なんです。愛とはこんなもんですよ!」
「そうね、おたがいに愛し合っていれば、こんなふうじゃないかもしれませんね。でも、わたしは一度も愛情を感じたことがないんですもの」
「しかし、あなたはそれを感じなくてはいけません――その美しさと、優しい心を持っているというのに! ああ、グラディス、あなたは愛するために作られた人です! 愛さなくてはいけない!」
「無理に愛することはできませんわ」
「だが、なぜぼくを愛する気になれないんです、グラディス? ぼくの容貌のせいですか、それとも、ほかに何か理由でも?」
彼女は少しばかりうちとけた。片手をさしだして――またとなく優雅な、しおらしい態度だった――そっとわたしの頭を押し戻した。それから、上向きになったわたしの顔をじっとのぞきこんで、物思わしげな微笑をうかべた。
「いいえ、そんなことじゃないんです」と、やがて彼女は言った。「あなたはうぬぼれやさんじゃないから、はっきり申しあげても気を悪くなさらないでしょうけど、そんなことじゃなくって、もっと深い理由があるんです」
「すると、ぼくの性格ですか?」
彼女はこっくりうなずいた。
「その悪い性格をなおすにはどうすればいいんです? どうぞ坐って教えてください。いや、ただ坐ってくださるだけでも満足です!」
彼女はこの言葉を信じてよいものかどうかとあやぶみながら、じっとわたしをみつめていたが、それは、全幅の信頼を寄せられた以上に、わたしの胸にはずしんとこたえた。それを文字で書き表わすのは、なんと野蛮でけだものじみた行為に見えることだろう。しかし、たぶんこれはわたしだけの特有な感じ方かもしれない。とにかく、彼女はふたたび腰をおろした。
「さあ、ぼくのどこが悪いかいってください」
「わたし、ほかに愛する人がいるんですの」
今度はわたしが椅子からとびあがる番だった。
「でも、それは特定の人ではありません」彼女は、わたしの顔にうかんだ驚きの表情を見て、笑いながら説明した。「理想の男性とでもいうのかしら。でもそんな方にはまだ一度もお目にかかっていませんわ」
「その人のことを話してください。いったいどんなやつなんです?」
「あら、見かけはあなたそっくりかもしれませんわ」
「うれしいことをおっしゃる! では、彼のすることで、ぼくのしないことは? 一語で言ってください。酒を飲まないとか、肉を食べないとか、飛行家、見神論者、スーパーマンとか――どうすればあなたが喜ぶかさえ教えてくれたら、ぼくはなんでもやってみせますよ」
彼女は、わたしの百面相ぶりにふきだしてしまった。
「そう、まず第一に、わたしの理想の男性は、あなたが今おっしゃったようなことは言わないと思いますわ。もっと毅然(きぜん)としていて、たかが愚かな小娘の気まぐれなどに左右されない人。でも、何よりも大切なのは、敢然として行動できること、死に直面してもそれを恐れないこと――つまり、偉大な行為と未知の経験に富む人ですわ。わたしが愛するのは男の人ではなくて、その人がかちえた栄光なのです。なぜなら、その栄光がわたし自身に反映するからですわ。リチャード・バートン〔探検家。英訳版『千夜一夜物語』の編纂者として有名〕を考えてごらんなさい。彼の奥さんが夫のことを書いたものを読んでみて、わたしには彼女の愛情がよく理解できましたわ。それから、スタンリー卿〔アフリカ探検家。代表作に『黒い大陸』〕夫人がおります! 彼女の夫のことを書いた本の、すばらしい最後の章をお読みになって? こういう男性こそ、女性が心から尊敬できる人たちなのです。しかも女性のほうも、その愛情によって、高貴なる行為の鼓吹者として全世界から名誉を与えられ、見劣りするどころか、かえって偉大になれるのです」
熱っぽく語りつづける彼女のあまりの美しさにうっとりとして、ともすれば相手の言葉を見失ってしまいそうだったが、けんめいに努力して議論について行った。
「しかし、だれもがスタンリーやバートンになれるわけではありませんよ。おまけに、その気になったとしてもチャンスがありません――少なくともぼくにはそんなチャンスがなかった。ぼくだってチャンスがあったらしりごみはしませんよ」
「でも、チャンスはそこらじゅうにころがっていますわ。自分自身でチャンスを作りだすということも、わたしのいう理想の男性の資格なんです。彼を引きとめることはだれにもできません。わたしはまだ会ったことがないけど、その人のことなら隅から隅まで知っているような気がしますわ。わたしたちのまわりには、英雄的な事柄がいくつもあって、実行してくれる人が現われるのを待っているのです。実行するのは男の役目、女たちはそういう男たちへのごほうびとして、愛情を大切にとっておくのです。先週気球で空高くのぼって行ったあの若いフランス人をごらんなさい。あいにくと強い風が吹きまくっていましたけど、いったん発表した予定は変えられないとがんばって、とうとう出発してしまいましたわ。その結果二十四時間で千五マイルも風に流されて、ロシアのどまん中に着陸したそうですよ。あれこそわたしのいう理想の男性ですわ。彼に愛された女のことを考えてごらんなさい、ほかの女たちはどれほど彼女を羨んだことか! わたしの望みもそれなんです――わたしが愛した男のことで、同性の羨望を一身に受けることなんです」
「あなたが喜んでくれるなら、ぼくもやってみせます」
「でも、わたしを喜ばせることだけが目的であってはいけませんわ。やむにやまれぬ気持から、あなたにとってそうすることが自然だから――あなたの中の男性が英雄的な行為を望んでいるから、そうするのでなければ無意味です。ほら、あなたは先日ウィガン炭坑の爆発事故の記事をお書きになったでしょう。炭酸ガスをものともせずに、ご自分で坑内に降りて行って人々を助けだせなかったのかしら?」
「そうしましたとも」
「だってそんなことはおっしゃらなかったわ」
「べつに吹聴してまわるほどのことじゃないからですよ」
「そうとは知りませんでしたわ」彼女はあらためて興味ありげにわたしを眺めた。「とても勇敢だったのね」
「そうするしかなかったんです。すぐれた記事を書くためには、現場に居合わせなくてはなりませんからね」
「まあ、そんな散文的な動機から? そううかがったら、夢がすっかり消えうせましたわ。それにしても、動機がなんであれ、あなたが坑内へ降りたことはやっぱりうれしいですわ」
そういって彼女は片手をさしだした。そのしぐさには、優しい中にもおかしがたい気品がこもっていたので、わたしは身をかがめて接吻するだけで諦めねばならなかった。「わたしはたぶん子供っぽい空想にとりつかれた愚かな女なんでしょうけど、でも、わたしにとってはそれが現実で、もう肉体の一部になってしまったような考え方ですから、それに従って行動するよりほかないんです。結婚するとしたら、有名人を相手に選びたいと思いますわ」
「大いに結構ですとも」わたしは上ずった声で叫んだ。「男をふるいたたせるのはあなたのような女性です。ぼくにもチャンスを与えてください。そして、やれるかどうか見守っていてください! それに、あなたもおっしゃるように、男は自分でチャンスを作りださなければならない(・・・・・・・・・・・・)、ほかから与えられるのを待っていてはだめなんだ。クライヴをごらんなさい――一介(いっかい)の事務員にすぎなかった彼が、インド征服の偉業をなしとげた。きっとぼくだって世界をあっといわせるようなことをやってみせますよ!」
彼女は、いかにもアイルランド人らしいわたしの突発的な興奮ぶりを見て笑いだした。
「そうですとも」彼女は言った。「あなたには、若さ、健康、力、教育、エネルギー、男の持つすべてのものがそなわっていますわ。さっきあなたにあんなことを言わせたのは、わたしがいけなかったんです。でも今は、そんなふうに考えてくださるとしたら、これほどうれしいことはありませんわ」
「で、もしぼくが――?」
彼女の掌が、暖いビロードのようにわたしの唇をおおった。
「お話はもうこれで十分。夜勤で出社する時間に、もう半時間も遅れていますのよ。ただそれを注意するのはお気の毒な気がして。いつかあなたが世界的な名声をあげたとき、たぶんこの問題をもう一度話し合う機会がありますわ」
そんなわけで、その霧深い十一月の夜、わたしは心を燃えたたせ、一刻も早く彼女にふさわしい英雄的な行為を見出さんものと、固く決意しながら、カンバウェル行きの電車めざして歩いていた。しかしながら、この広い世界で、その行為が現実となってあらわれる信じがたい形を、あるいはわたしをその行為へと導く未知の過程を、はたして何人が想像しえたであろうか?
それに、結局のところ、この開巻第一章は、わたしのこれからの物語とはなんの関係もないではないかと、読者は思われるかもしれない。しかしながら、この章なくしてわたしの物語はありえないのである。なぜならば、一人の男が、自分のまわりには英雄的な事柄がふんだんにあると考え、その一つが目につきしだい行動を開始しようという激しい意欲に燃えて世界に乗りだして行くときにのみ、彼は、わたしがそうであったように、住みなれた生活と縁を切って、偉大な冒険と偉大な報酬が埋れているすばらしい神秘と薄明の世界に挑むことができるからである。見よ、『デイリー・ガゼット』の編集室の末席を汚すこのわたしは、その夜出社してのち、グラディスにふさわしい冒険行を探し求める固い決意に燃えていたのである! 彼女が自分の名誉のために、わたしの命の危険まで求めたのは、非情というべきか、利己的というべきか? いや、中年の人間ならばそうも考えるかもしれない。だが初恋の熱病にとりつかれた二十三歳の若者の頭には、そんな考えの入りこむ余地はない。
二 チャレンジャーと会って運をためしたまえ

わたしは、気むずかし屋で猫背気味の赤毛の社会部長マッカードルが好きである。願わくば先方もわたしを好いて欲しいものだ。もちろん、正真正銘のボスはボーモントだが、彼はわれわれには縁のないオリンポスの高みに住んでいるから、国際危機だとか内閣の分裂だとかいう大問題以外のことには関知しない。ときおり孤高の威厳をただよわせて、奥深い聖所へ歩んで行く彼の姿を見ることがあるが、その目ははるかかなたを見つめ、心はバルカン諸国やペルシャ湾にさまよっているらしい。われわれからすれば手のとどかない別世界の存在だ。しかしマッカードルは、さしずめ彼の第一副官というところで、われわれがつき合うのはもっぱら彼のほうである。わたしが編集室へ入って行くと、マッカードルはうなずいて、禿(は)げあがった額(ひたい)に眼鏡を押しあげた。
「やあ、マローン君。聞くところによると、なかなかの活躍ぶりらしいね」と、スコットランドなまりで声をかけてくれた。
わたしは礼を言った。
「炭坑爆発の記事は上出来だった。サザークの火事もよかったぞ。現場取材の感じがよく出ていた。ところで、用事はなんだね?」
「お願いがあります」
とたんに相手は警戒の色をうかべて目をそむけた。
「ちぇっ! とたんにお願いとくるか、なんだね?」
「わたしをどこかへ特派していただけないでしょうか? 全力をつくしていい記事を書きたいと思います」
「いきなり特派というが、何か計画はあるのかね、マローン君?」
「今のところ特にありませんが、冒険と危険のあふれる仕事ならなんでも構いません。とにかく最善をつくします。困難であればあるほど、わたしとしては大歓迎です」
「ばかに命を捨てたがっているようだな」
「命を正しく使いたいんです」
「おやおや、まさに意気軒昂というところだな、マローン君。だが、そういう時代はもう終わったのとちがうかね。莫大な費用をかけて記者を特派しても、このごろではまず元がとれん。それに、いずれにせよそういう任務は、読者に信用のある経験を積んだ有名記者の役割だ。地図上の大きな空白はどんどん埋められつつあり、もう冒険や綺談(きだん)の入りこむ余地はどこにもない。いや、待てよ!」突然、マッカードルの顔に微笑がうかんだ。「地図の空白といえば、一つ思いだしたことがある。詐欺師(さぎし)の正体をあばいて――つまり、現代のほら男爵(だんしゃく)ミュンヒハウゼンのことだが――世間の笑い者にするというのはどうだ? きみならあの大嘘つきの正体をあばいてくれるだろう。どうだ、こいつはいいぞ。やってみる気はないかね?」
「なんでもやります――どこへでも行きますよ」
マッカードルはしばらく考えこんでから言った。
「きみがあの男とうまくやれるかどうか――せめて口をきくだけ親しくなれるかどうか、問題はそこだな。もっとも、きみは見るところ人の心にとり入る天才らしい――共感を呼ぶというか、動物的な牽引力というか、あるいは若さの持つ力というか、現にわたし自身がそういうものを感じている」
「おほめにあずかって恐縮です」
「では、さっそくエンモア・パークのチャレンジャー教授に当たって、運だめしをしてみてはどうだ」
おそらくわたしは、いささか度胆を抜かれた表情だったにちがいない。
「チャレンジャー!」わたしは叫んだ。「例の有名な動物学者、チャレンジャー教授か! 『テレグラフ紙』のブランデルが、頭を割られたという人物じゃないんですか?」
社会部長の顔に、とりつくしまのない笑いがうかんだ。
「いやなのかね? きみは冒険を求めていると言わなかったかな?」
「この仕事に冒険はつきものです」
「その通りだ。あの男だって年中そんな乱暴ばかり働くわけでもあるまい。ブランデルのときは、相手の虫のいどころが悪かったか、あるいは面会の手際が悪かったのさ。きみなら幸運を期待できそうだし、彼のあしらい方も心得ているだろう。それに、この仕事ならきみの希望とも合致するし、『ガゼット』としてもかた(・・)をつけなきゃならんことだ」
「しかし彼のことは何一つ知りません。ブランデルを殴ったときの、軽犯罪裁判と関連して、やっと名前だけはおぼえている程度ですよ」
「わずかだが参考資料があるよ、マローン君。わたしはしばらく前から教授に目をつけていたんだ」彼はひきだしから一枚の書類をとりだした。「これが彼の経歴の要約だ。ざっと読んでみよう。
チャレンジャー、ジョージ・エドワード。一八六三年、スコットランド、ラーグズに生まる。教育、ラーグズ・アカデミー、エジンバラ大学。一八九二年、大英博物館助手となり、翌九三年、同館比較人類学部次長。同年筆禍事件をおこして辞職。動物学上の研究に対しクレイトン・メダルを授けらる。所属学会――ほほう、外国の学会だけで小さな活字で二インチも並んでいるぞ――ベルギー協会、アメリカ科学アカデミー、ラ・プラタ学会等々。前古生物学会会長。大英学術協会H部門会員――その他多数。著書。『カルムック頭骨群の調査報告』『概説脊椎動物の進化』、他にウィーンの動物学会総会において白熱的論議の対象となった『ワイスマン学説の根本的誤謬』を含む多数の論文あり。趣味。散歩、登山。住所。ウェスト・ケンジントン区、エンモア・パーク。
さあ、これを持って行きたまえ。今日のところはこれで全部だ」
わたしは書類をポケットにすべりこませた。
「もう一つうかがいます」ふと見ると、目の前にあるのはあから顔ではなく、ピンク色の禿(は)げ頭だったので、わたしはこう呼びかけた。「なぜぼくがこの男に会いに行くのか、まだよくわかりません。彼は何をしたんですか?」
マッカードルはふたたび顔をあげた。
「二年前に単身南アメリカ探検にでかけたのさ。帰国したのは昨年だ。南アメリカへ行ったことは疑いないが、正確な場所は絶対に明かそうとしない。あやしげな口調で冒険談を語りはじめたが、あら探しをする者が現われたら、それっきり牡蠣(かき)のように口をつぐんでしまった。何か信じられないような体験をしたか――あるいはとんでもない嘘つきの名人か、というところだが、どうやらあとのほうらしいね。動かぬ証拠写真を握っているそうだが、それはでっちあげという噂(うわさ)もある。質問をしかけた相手にはみさかいなしに噛みつき、新聞記者を階段から引きずりおろすほど気むずかしくなっているそうだ。ま、わたしの想像では、科学かぶれのした殺人的誇大妄想狂というところだな。これがきみの相手だよ、マローン君。とにかく、彼をどう料理できるか、やってみるんだな。きみももう子供じゃない、自分の面倒ぐらいは見られるだろう。いずれにしろ身の危険はない。雇主責任保険法というものがあるからね」
赤味をおびた笑い顔が、ふたたびしょうが色のうぶ毛に囲まれたピンク色の卵型に変じた。面談は終わったのである。
わたしは通りを横切ってサヴィジ・クラブのほうへ歩いて行ったが、中へは入らずに、アデルフィ・テラスの手すりによりかかって、長い間考え事をしながら、茶色ににごったなめらかな川面を眺めていた。生来物を考えるときには戸外のほうがまとまりがいいという性質(たち)なのだ。チャレンジャー教授の経歴表をとりだして、電燈の明りで一通り読んでみた。やがて、インスピレーションとしかいいようのないものが心に浮かんできた。新聞記者のかん(・・)というやつで、与えられたわずかばかりの知識をもとに判断しても、この喧嘩っぱやい教授にたやすく接近できるとは思えない。しかし、この簡略きわまる経歴の中で二度も述べられている論争は、彼の科学に対する極端な情熱を物語る以外の何物でもないだろう。その点につけこむ隙があるのではないだろうか? とにかくやってみることだ。
そこまで考えて、わたしはクラブに入った。ちょうど十一時をまわったところで、ラッシュにはまだ間があるが、それでも広い部屋の中はかなりの混雑ぶりだった。わたしは、暖炉のそばの肘掛椅子(ひじかけいす)に坐っている長身の、痩(や)せて骨ばった男の姿に気づいた。わたしが椅子を近づける気配を感じて、その男がふりかえった。これこそ、誰をおいても会っておくべき人物――『ネーチャー紙』のタープ・ヘンリーだ。乾からびた骨と皮ばかりの生物だが、胸の底には暖い人間味が通っていることを、彼を知る人間ならみな知っている。わたしはいきなり用件を切りだした。
「チャレンジャー教授について何か知っているかい?」
「チャレンジャーだって?」と科学者らしく非難するように眉(まゆ)をひそめた。「南米からでたらめな作り話を持ち帰った男だよ」
「どんな話かね?」
奴(やっこ)さんが発見したと称する不思議な動物についての愚にもつかないたわごとさ。今はもう撤回したと思うよ。とにかく公表はしてないね。ロイター通信のインタビューのとき、大騒ぎが持ちあがったんで、とても無理だと見たんだな。学者としての信用問題だった。奴さんを信じる気になった人間も一人、二人いたようだが、間もなく本人のほうからとりさげさ」
「どうやって?」
「我慢のならない無礼な仕打ちを見せつけてね。気の毒に、動物学会のウォドリーもその口だった。ウォドリーはメッセージを送ったんだ。『当動物学会会長はチャレンジャー教授に深甚なる敬意を表するとともに、次期総会にご出席賜らば、この上なき名誉と心得るものであります』とね。それに対する返事は、とても口にはだせないようなものだった」
「いわないつもりかい?」
「そう、下品な文句を削らしてもらえば、だいたいこんなところだな。『チャレンジャー教授は貴動物学会会長に深甚なる敬意を表するとともに、貴下がくたばってくれればこの上なき名誉と心得るものであります』」
「そいつはひどい!」
「そうとも、ウォドリーもきっとそう叫んだにちがいないよ。会の席上、彼は口惜(くや)しそうに言ったっけ。『科学の研究交換に関するわたしの五十年の体験において――』あの老人にはたいへんなショックだったにちがいないな」
「ほかに何か知ってることは?」
「ぼくは細菌学者さ。九百倍の顕微鏡の世界に生きている。肉眼で見えるものは、たとえなんであれ、ぼくの関心を惹(ひ)かないのさ。可知の世界のはずれからやって来た開拓者としては、一歩研究室の外へ出て、きみたちのように大きいばかりでできそこないのみっともない生物に接触すると、てんで場ちがいな気がしてならないんだ。それに、ぼくは元来公平な人間だから、スキャンダルの噂などする柄ではないが、それでも科学座談会などでは何度かチャレンジャーの噂を耳にしている。なにしろ奴(やっこ)さんはだれも無視できない存在だからね。噂によるとたいそう頭のいい男で、エネルギーを充電したバッテリーみたいなものだそうだが、喧嘩っぱやくて、意地の悪い物好きで、しかも人を人とも思わぬところがあるそうだ。南米探検の一件では、いろんな贋(にせ)の写真まででっちあげたらしいよ」
「物好きだといったが、彼が特に興味を持っているものは?」
「かぞえきれないほどだが、最近はワイスマン学説と進化論にこっているらしい。たしかその問題で、ウィーンの学会で大騒ぎをやらかしたはずだよ」
「要点を説明してもらえないかな?」
「今はだめだ。しかし学会報告の翻訳がある。事務所でファイルしてあるよ。一緒にくるかい?」
「願ったりかなったりだ。いや、おかげで助かったよ。遅すぎなければ、これから一緒に行きたいね」
三十分後、わたしは新聞社の編集室に坐って、大冊とにらめっこをしていた。『ワイスマン対ダーウィン』というページが開かれ、『ウィーンにおいて激しい抗議。活発な討論』という小見出しがその下に並んでいる。科学教育をないがしろにしてきたわたしには、議論の内容全体をつかむのは無理な相談だったが、それでもイギリスの教授がきわめて戦闘的な態度で自説を主張し、大陸の同学者たちをすっかり怒らせてしまったらしいことは理解できた。かっこつきの表現がたくさんある中で、まず「異議あり」「会場騒然」「全出席者より議長に要望」という三つがわたしの目をとらえた。記事のほとんどの部分が、意味のわからなさ加減では中国語で書かれているも同然だった。
「きみ、こいつを英語に訳してくれないか」わたしはいとも情(なさけ)ない口調で仲間に頼みこんだ。
「だって、そいつは翻訳じゃないか」
「それじゃ、ひとつ原文でためしてみるとするか」
素人(しろうと)にはちょっとむずかしすぎるんだよ」
「人間らしい考えを伝えてくれるきちんとした文章が一つでもあれば、ぼくの仕事には十分役に立つんだがな。ああ、これこれ、これなら役に立ちそうだ。おぼろげながら意味がわかるような気がする。写しとっておくとしよう。これだけがぼくをあの恐るべき教授に結びつける命綱だからな」
「ほかに何か手伝うことは?」
「そうさね、教授に手紙を書こうと思うんだ。ここで文面を考えて、ついでにきみのアドレスも使わしてもらえば、それらしい雰囲気も出ようというもんだ」
奴(やっこ)さんがここへ怒鳴(どな)りこんできて、家具をめちゃくちゃにこわすかもしれんよ」
「いやいや、手紙を見せるよ――喧嘩を売るつもりはないから安心してくれたまえ」
「そうか、これがぼくの机と椅子だ。便箋はそこにあるだろう。ただし投函する前に見せてくれよ」
手紙はかなり骨が折れたが、われながらなかなかの出来栄えだったと思う。わたしは見事な筆蹟に内心得意になりながら、批評家然と構えている友人の細菌学者に、声高に読んできかせた。
「親愛なるチャレンジャー教授
貧しき科学の徒として、わたしはダーウィンとワイスマンの相違に関するあなたの考察に、かねてから並々ならぬ関心を抱きつづけてきました。最近、ウィーンにおけるあなたのすばらしい講演を再読する機会を得て、――」
「大嘘つきめ!」と、タープ・ヘンリーが咳いた。
「――当時の記憶を新たにしております。あの明晰にして称賛すべき主張は、おそらくこの問題に終止符を打つものだと思います。しかしながら、一か所だけ気になるところがあります――すなわち、『わたしは、個々の遺伝基質は、何代にもわたってじょじょに形成された歴史的建造物を所有する小宇宙である、などという、我慢のならない独断的主張に、強く抗議するものであります』という個所ですが、それ以後の研究成果と照らし合わせて、この主張を修正なさるおつもりはないのでしょうか? これはいささか言いすぎだとはお思いになりませんか?もしお許しが得られるならば、この問題について並々ならぬ関心を抱いているわたしは、直接お目にかかってお話しするのでなければ十分に説明をつくしがたいようないくつかの示唆を、お伝えいたしたいと存じます。ご都合よろしければ、明後日(水曜日)午前十一時にお訪ねいたす所存です。
深甚なる敬意をこめて、
エドワード・D・マローン」
「どう思う?」わたしは得意満面でたずねた。
「まあね、きみの良心が痛まないのなら――」
「まだ良心に見捨てられたことはないさ」
「しかし、どうするつもりなのかね?」
「まずとにかく敵地に乗りこむことだ。いったん部屋に入りこめば、あとはなんとかきっかけがつかめるさ。なんなら全部白状してしまってもいい。教授がスポーツマンなら、悪い気はしないだろう」
「悪い気はしないだって! だが悪い気がするのはきみのほうだぞ。鎖(くさり)かたびらか、アメリカン・フットボールのユニフォームでも着て行くがいい。では、おやすみ。教授に返事を出す気があれば、水曜の朝にはここに返事が届くだろう。なにせ乱暴で喧嘩っぱやい危険な男だから、一度でも会ったことのある人間からはみな嫌われている。また彼とつき合ったことのある学者は、例外なく嘲笑を浴びせているぐらいだから、まあ返事などこないほうが無難かもしれないね」
三 主人ときたら、我慢のならない人です

わが友タープ・ヘンリーの恐れというか希望は、残念ながらかなえられない運命だったらしい。水曜日の朝彼を訪ねると、ウェスト・ケンジントン局の消印のついた手紙が届いていた。表には有刺鉄線の柵のような筆蹟で、わたしの名前がなぐり書きされている。文面はこうだった。

「エンモア・パークにて
拝復――貴書簡によれば、わたしの意見を支持される由ですが、わたしの意見は貴下はいうにおよばず、その他何人の支持も必要としておりません。また、ダーウィン学説についてのわたしの声明を、『考察』と呼んでおられるようですが、この場合『考察』なる言葉を用いることは、重大な侮辱を含んでいることに貴下の注意を喚起するしだいです。しかしながら前後関係から判断するに、これは悪意から生じたものではなく、無知と浅慮の結果であると思われるので、あえて問題にするつもりはありません。貴下はわたしの講演の一部を引用しておられるが、お見受けするところその意味がわかっておられないようです。人間並みの知能さえそなわっていれば容易に理解できることなのですが、さらに詳しい説明をお望みとあれば、本来あらゆる訪問および訪問者を好まないのですが、あえてご指定の日時に訪問されることに同意いたします。意見を修正せよとのお言葉ですが、熟慮のうえいったん発表したものを修正する意志は毛頭ないことをおことわりしておきます。ご来訪の節は、本書状の封筒を召使のオースチンにお示しください。この者は、『ジャーナリスト』を自称する礼儀知らずの悪党どもからわたしを護る役目をしております。
敬具
ジョージ・エドワード・チャレンジャー」

以上はわたしがタープ・ヘンリーに声を出して読んできかせた手紙の文面である。彼はわたしの冒険の結果が知りたくて、早朝から出社してきていたのだった。彼はたった一言、「クチクラとかいう新しい薬があって、アルニカ・チンキより効くそうだよ」と言っただけだった。世の中にはこうしたすばらしいユーモアの感覚をそなえた人間もいる。
手紙を受けとったのは十時半近かったが、タクシーに乗ると、約束の時間にちょうど間に合った。タクシーは柱廊玄関のある堂々たる邸宅の前で停った。どっしりした厚手のカーテンにおおわれた窓は、この恐るべき教授の暮らし向きの裕福さを物語っていた。ドアを開けたのは、黒い水先案内人ふうの上衣を着て、褐色の革の長靴をはいた、色の浅黒い、ひからびた、年齢不詳の奇妙な男だった。あとでわかったのだが、この男は教授の運転手で、長つづきしたためしのない執事たちの合間を埋めているのだった。彼は薄青いせんさく的な目で、わたしの全身を睨(ね)めまわした。
「お約束は?」
「もちろんあります」
「手紙をお持ちですか?」
わたしは封筒をとりだした。
「結構です!」相手はいたって無口な人間らしい。彼のあとから廊下を歩いて行く途中で、突然小柄な婦人に呼びとめられた。食堂とおぼしきところから、いきなりとびだしてきたのだ。黒い目をした快活そうな婦人で、どちらかといえばイギリス女よりもフランス女に近いタイプだった。
「お待ちください」彼女は言った。「お前もそこで待っていなさい、オースチン。どうぞこちらへお入りください。失礼ですけど、主人には前にもお会いになったことがございます?」
「いや、このたびが初めてですが」
「でしたら最初にお詫(わ)びしておきますわ。なにしろ主人ときたら、我慢のならない人ですの。そのことを前もってご注意しておけば、幾分でも寛大なお気持になっていただけるかと思いましてね」
「それはそれはご親切に」
「腕力をふるいそうになったら、すぐ部屋の外へお出になってください。主人と言い合ってはいけません。そのために怪我(けが)をなすった方も何人かおりますわ。あとでそのことが世間の噂の種になると、わたしたちにはねっかえりがくるんです。まさかご用件は南アメリカのことじゃないんでしょうね?」
ご婦人にむかって嘘はつけない。
「おやまあ! 一番危険なのはそれなんです。主人の言うことなど、あなたは一言も信じようとなさらないでしょうけど――わたしだってそれが当然だと思いますわ。だけど、そうはっきり、おっしゃると、主人がかっとなりますから、どうぞ信じるようなふりをなすってくださいね。そうすれば無事でお帰りになれます。なにしろあの人自身は絶対にそれを信じているんですから。ほんとにあれほど正直な人はおりません。あまり長居をなさると疑われるかもしれませんからね。万一危険が迫ったら――本当に危険なときだけですよ――呼鈴を鳴らして、わたしが行くまで主人を寄せつけないようにしてくださいませね。どんなに怒り狂っているときでも、わたしが行けばたいていはおとなしくなりますから」
こんなふうにわたしを励ましたのち、夫人は、この短いやりとりの間、まるで思慮分別をブロンズの像に刻んだような顔でずっと待っていた無口なオースチンに、わたしを引き渡した。彼はわたしを廊下のはずれまで案内して行った。そっとドアを叩くと、中から牛のほえるような声が答えて、わたしは教授とむかい合うことになった。
彼は、書籍や地図や図表を所せましと並べた大きな机の向こうで、回転椅子に坐(すわ)っていた。わたしが入って行くと、その椅子がぐるりとこちらを向いた。彼の風采に、わたしは唖然(あぜん)とした。一風変わった人間を予期しなかったわけではないが、まさかこれほど圧倒的な人物とは思わなかった。何よりもぎょっとするのは、その並はずれた寸法――それに威圧的な容姿である。まずその頭の鉢だが、わたしがこれまでお目にかかった人間の頭の中ではこれが最大だった。かりに彼の山高帽をわたしが恐る恐る頭にのっけたとしよう。それは顔全体にすっぽりかぶさってようやく肩でとまるにちがいなかった。顔とひげは、アッシリアの雄牛にそっくりだった。すなわち前者はまっ赤、後者は青味がかって見えるほど漆黒(しっこく)で、スペードの形をして胸まで垂れていた。髪の毛がまた変わっていて、長い曲線状のひとふさになって、巨大な額にはりついていた。黒い大きな眉毛の下には、せんさく好きで高慢ちきな青味がかった灰色の目が光っていた。このほか長いまっ黒な毛におおわれた巨大な両の手を別にすれば、テーブルの上に見えている部分は、幅広い肩と樽(たる)のような胴体だった。これに獣の吠(ほ)えるようなすさまじいガラガラ声が加わって、悪名高きチャレンジャー教授の第一印象が仕上がった。
「なんの用だ?」彼は横柄(おうへい)に人の顔をにらみつけながら言った。
わたしは少なくとも今少し相手をだましつづける必要があった。さもないと、早くも面会は一巻の終わりということになってしまうにちがいない。
「面会をお許しいただいて、ありがとうございました」と下手に出て、封筒をさしだした。
彼はわたしの手紙を机の中から出して、目の前に拡げた。
「ははあ、きみがこの平易な英語もわからんという青年だな。で、わたしの学説に全体としては賛成だというんだね?」
「全面的に――全面的に賛成です!」とわたしは強調した。
「おやおや! そうなると、わしも非常に心強い。それにきみの年齢と顔つきが、この支持に二倍の値打ちを与えている。とにかく、きみは少なくともあのウィーンの豚(ぶた)どもよりはましだよ。もっともあいつらが一緒になってわめきたてても、イギリスの豚一匹ほどもうるさくはないがね」
彼は、そのイギリス豚の代表が今日の前にいる、といった感じでわたしのほうを見た。
「ウィーンではだいぶひどい目に会われたようですね」
「断わっておくが自分の喧嘩に人の手は借りん。もちろん同情もいらんよ。壁を背にして一人で闘ってやる。G・E・C(ジョージ・エドワード・チャレンジャー)はそのときが一番幸福なんだ。さてと、この訪問はできるだけ早く切り上げてもらいたいもんだ。どうせきみにとってはあまり愉快な結果にならんだろうし、わしにとっても迷惑至極なことだ。手紙によると、わしの主張に関して何か意見があるそうだが」
彼の流儀はがむしゃらなほど単刀直入で、これではとうていごまかしおおせる見込みがなさそうだった。しかし、なんとかうまい具合にきっかけをつかまなくてはならない。面と向かうまではそれがいとも簡単なように思えた。ああ、わがアイルランド人の才気よ、ぼくがこれほど助けを必要としているというのに、役に立ってはくれないのか? 彼は鋭い、刺すような目でわたしを釘づけにした。「さあ、遠慮せずに話したまえ!」
「もちろんわたしは一学徒にすぎません」わたしはばかみたいな笑いを浮かべながら言った。
「いわば熱心な質問者とでもいいますか。しかし、この問題におけるあなたのワイスマン学説の否定は、いささか度がすぎるような気がします。あれ以来一般的な証拠は――なんというか、彼の説を裏づける傾向がある、とは思いませんか?」
「どんな証拠がある?」彼は薄気味の悪い穏かな口調でたずねた。
「つまり、その、もちろん決定的証拠といえるものは何もないことをわたしも知っています。こういう言い方が許されるなら、わたしは、近代の思想と科学の一般的見解の傾向をさして言ったつもりだったんですが」
彼はひどく熱心に身を乗りだした。
「頭蓋指数が一定不変の数字だということはおそらくきみも知っているだろうね」と、指についたインキのしみをかぞえながら言った。
「もちろんです」
「では感応遺伝がいまだに学問的に証明されていないことは?」
「いうまでもありません」
「性細胞質が単性生殖卵とは異なることも?」
「当たり前ですよ」と叫んでから、わたしは自分の図々しさにあきれた。
「しかし、それによって何が証明されるかな?」と、穏かな猫なで声がかえってきた。
「さて、なんでしょう? 何を証明するんですかね?」
「では教えてあげようか?」と、喉を鳴らすようなやさしい声。
「どうぞお願いします」
「それが証明するのは」突然彼は怒りを爆発させて荒れ狂った。「きみがロンドン一のとんでもない大山師だということだ。科学はおろか礼儀作法もわきまえない、卑しいこそ泥のような新聞記者だということだ!」
彼は目に兇暴な怒りをたたえて椅子からとびあがった。この緊張の一瞬においてさえ、わたしは相手がひどくちんちくりんな男で、わたしの肩のあたりまでしかないことを発見しておかしがるだけの余裕があった――背丈の十分伸びきらなかったヘラクレスとでもいうか、その測り知れないエネルギーは、すべて深さと、横幅の広さと、脳みそのほうへ行ってしまった感じだった。
「出まかせだ!」彼は身を乗りだしてテーブルに指をつき、顔をぐいと突きだしながらわめいた。「わしが今きみに話したことは、みな科学用語を使っただけの出まかせだった! きみはその石頭でこのわしの目をごまかせると思ったのかね? いまいましいヘボ記者のくせして、おそらく自分は全能だとでも思っているのだろう。自分がほめるかけなすかで、人間一人を左右できるとうぬぼれているんじゃないかね? きみの前にひざまずいて、ありがたいお言葉の一つもちょうだいしなければならないのかね?こいつは一つ肩を持ってやろう、あいつはやっつけてやれか、まったくいい気なもんだ。いやらしい寄生虫め! お門ちがいもいいところだ。時代のせいでつんぼになって、平衡感覚を失ってしまったのだろう。大ぼらふきめ! きみのような人間にふさわしい扱い方をしてやる。G・E・Cはきみなどにだまされはせんぞ。きみの思い通りにならない人間が少なくとも一人はいるのだ。彼はきみに近づくなと警告した。にもかかわらずやって来たのだから、危険は覚悟の上だろう。罰金だよ、マローン君、罰金を払いたまえ! きみはかなり危険なゲームを挑んできたわけだが、どうやら勝目はなさそうだね」
「いいですか」と、わたしはドアのところまで後ずさってそれを開けた。「口だけならいくらひどいことをおっしゃっても構いません。しかし限度というものがあります。暴力は許せませんぞ」
「許せないだと?」彼は妙に威嚇的な感じのするゆっくりした足どりで前に進んだ。が途中で立ちどまって、いささか子供じみた短い上着のポケットに大きな両手を突っこんだ。「わしはこれまでにこの家から何人か新聞記者をほうりだした。きみでたぶん四人目か五人目になるだろう。三ポンド十五シリング――それが一人あたりの罰金の平均だ。安くはないがやむをえんだろう。きみも同僚諸君に見ならってはどうかね? いやだなどとは言わない方がいいと思うんだが」そう言いおわると、ふたたびダンス教師のように爪先き立って、じわじわと脅迫するように前に進みはじめた。
その気になれば廊下にとびだしてドアに鍵をかけることもできたろうが、それではあまりに屈辱的だった。おまけに、今やわたしの内部では正当な怒りが燃えはじめていた。最初はたしかに弁解の余地もなくこちらに落度があったが、この男の脅迫がわたしの怒りを正当にしたのだ。
「やめてください。さもないと、こっちの忍耐にも限度があります」
「なんだと!」黒い口ひげがピクッと持ちあがり、小ばかにしたような笑いとともに白い牙がきらりと光った。「忍耐にも限度があるって?」
「ばかな真似はやめてください、教授! 喧嘩ならどうせあなたの負けです。わたしの体重は二百十ポンド、頑健このうえなし、毎週土曜日には、ロンドン・アイリッシュ・チームでセンター・クォーター・バックをつとめています。いざとなったら、おめおめ――」
みなまで言わせず、彼はわたしのほうに突進してきた。その前にドアをあけておいたから幸運だった。さもなければ、もつれ合ったままドアをぶち抜いていたろう。二人は横っとびにとんぼがえりをうって廊下にとびだした。途中で椅子もろともまきこんで、通りまで転がっていった。わたしの口には相手のひげがいっぱいにつまり、四本の腕ががっちりからみ合い、体ももつれ合ったところに、いまいましい椅子の脚が容赦なくぶつかった。注意深く観察していたオースチンが玄関のドアをさっとあけたので、われわれは後向きにもんどりうって玄関の階段を転がり落ちたのだ。以前に二人組のアイルランド人が芸人寄席でこれに似たことをやるのを見たことがあったが、ある程度の練習を積まなければ、こんなことをやって怪我をしないとは考えられない。椅子は階段の下でバラバラにこわれ、われわれ二人もはなればなれになって下水溝に転がりこんだ。彼はすばやく立ちあがり、両手のこぶしをふりまわしながら、ぜんそく病みのように喉を鳴らした。
「どうだ、まいったか」と、彼があえぎながら言った。
「なにを、暴漢め!」わたしは勇をふるいおこして叫んだ。
そのままだと結着がつくまでやらざるをえなかったろう。教授は闘志満々だったからである。幸いわたしは醜態をさらさずにすんだ。手帳を手に持った警官がそばに立っていたのである。
「なんというざまですか? 恥を知りなさい恥を」と警官が言った。わたしがエンモア・パークで聞いた中では、一番分別のある言葉だった。「さあ」彼はわたしに催促した。「わけを話していただきましょうか」
「この男がわたしにとびかかってきたんです」
「まちがいありませんか?」と警官が質問した。
教授はぜいぜい喉を鳴らすだけでなんとも答えなかった。
「とにかく、これがはじめてじゃありませんからな」警官は首をふりながらいかめしい口調で言った。「先月もこれと同じ事件をおこしていますよ。見なさい、このお若い方の目に黒いあざができている。この男を警察に引き渡しますか?」
わたしは急に教授が気の毒になった。
「いや。そのつもりはありません」
「なぜです?」
「落度はわたしにあるのです。わたしが無理に邪魔をしたのがいけなかった。この人はちゃんと警告していたんですよ」
警官は手帳をぱたんと閉じた。
「まあいいでしょう。二度とこんな騒ぎはおこさないことですな」彼は言った。「さあさあ、そんなところに立ちどまってないで、行った行った!」これはそばに寄ってきた肉屋の小僧、女中、それに浮浪者に向けられた言葉である。彼はこの二、三人の野次馬を追い散らしながら、どたどたと通りを歩いて行った。教授はわたしのほうを見た。その目には、どこかユーモラスな表情があった。
「来たまえ! まだきみとの話は終わっておらん」
妙に薄気味の悪い言葉だったが、とにかく彼について家の中に入った。木像のように無表情な召使のオースチンが、うしろでドアを閉めた。
四 前代未聞の大事件

ドアが閉まると同時に、チャレンジャー夫人が食堂からとびだしてきた。この小柄な婦人はかんかんに怒っていた。にわとりがブルドッグの前に立ちはだかったという恰好(かっこう)で、夫の行手をさえぎった。明らかにわたしがこの家から出るところだけを見て、また戻ってきたことは知らないのだ。
「いけないわ、ジョージ! あの若い人に怪我をさせたのね」
彼は肩ごしに親指を突き立てた。
「うしろでピンピンしているよ」
彼女はうろたえたが、これは無理もなかった。
「すみません、つい気がつかずに」
「いや奥さん、どうぞご心配なく」
「でも、その目のあざはうちの人がやったんでしょう! ジョージったら、なんて乱暴なんでしょう! 一日としてスキャンダルの絶える日がないじゃありませんか。世間の人たちはみなあなたを嫌ったりばかにしたりしてるんですよ。わたしだってもう我慢がなりません。絶対にこれっきりですよ」
「人前に恥をさらすな」と彼がわめいた。
「世間さまはもうとっくに知っていますよ。ご近所の人たちが、いいえロンドン中が――あなたは遠慮しなさい、オースチン――あなたの噂をしているとは思ってもみないんですか? 教授の権威はどこにあるんです? 一流大学で欽定講座を担当して、何千人という学生の尊敬を受けるべきあなたなんですよ。その権威はいったいどこにあるんです、ジョージ?」
「では、おまえの権威はどうなんだ?」
「わたしを困らせてばかりいるのね。わめき散らすことしか知らないありふれたごろつき――あなたはそんな人間になってしまったんですよ」
「やめてくれ、ジェシー」
「かんしゃくもちの乱暴者!」
「もういい。さらし台の上で後悔させてやる!」
驚いたことに、彼はかがみこんで彼女をひょいと抱き上げ、廊下の隅にある黒大理石の高い台座にちょこんと腰かけさせた。高さが少なくとも七フィートはあり、おまけにやっと坐っていられるほどの広さしかなく、ひどく、バランスがとりにくそうだった。怒りに顔をひきつらせ、両足をだらりと下げて、体をこわばらせながら今にも落っこちそうな不安と闘っている彼女の姿ほど珍妙な見せ物は、ほかにとうてい想像できなかった。
「おろしてくださいな!」と、彼女は泣き声を出した。
「『お願いします』と言え」
「なんて人でしょう。すぐにおろしてちょうだい!」
「書斎へ来たまえ、マローン君」
「しかし――」わたしは夫人から目をはなせなかった。
「マローン君もおまえのためにああ言ってくださる。どうだ、『お願いです』と言ったらおろしてやるぞ、ジェシー」
「なんて憎らしい! お願いです、どうぞ!」
彼はまるでカナリアかなにかのように、軽々と夫人を抱きおろした。
「もっと行儀よくしなくてはいかんな。マローン君は新聞記者だ。あしたの新聞で洗いざらい書き立てられて、しかも近所でふだんより一ダースも多く新聞が売れるかもしれんぞ。『上流生活(ハイ・ライフ)の奇妙な物語』なとという見出しをつけられて――だってあの上にいるとひどく高く(ハイ)感じるんだろう? 小見出しは、『風変わりな家庭の瞥見(べっけん)』とでもいうところかな。マローン君も同業諸君の例にもれず、ゲテ物食いだからね。ポルクス・エクス・グレーゲ・ディアボリ、つまり、悪魔に飼われた豚というところかな、マローン君?」
「あなたは実に我慢のならない人だ」と、わたしは熱くなって叫んだ。
彼はほえるような大声で笑った。
「ま、どうせすぐ仲なおりするんだよ」と言って妻からわたしのほうに視線を転じ、大きな胸をふくらませた。それから、急に言葉つきを変えて、「わが家のつまらぬ悪ふざけには目をつぶってくださらんか、マローン君。わしがきみを呼び戻したのは、こんな夫婦間の気まぐれにまきこむためじゃない、もっと真面目な目的があったのだ。おまえは向こうへ行ってなさい、もう怒ってもはじまらんぞ」彼は妻の両肩に大きな手を置いた。「おまえの言うことは一々当たっとる。おまえの忠告を全部聞き入れていれば、わしも少しはましな人間になれるだろうが、そのかわりジョージ・エドワード・チャレンジャーの真価はうすれてしまう。わしよりましな人間はいくらでもいるが、G・E・Cはこの世にただ一人しかいない。だからよくも悪くもこのわしで我慢してもらうより仕方ない」突然、彼は大きな音をたてて夫人に接吻し、さきほど暴力をふるったとき以上にわたしを当惑させた。それから、やおら威厳のある態度にかえってつけ加えた。「では、マローン君、よかったら(・・・・・)こちらへ来たまえ」
われわれは十分前にさんざんのていたらくでとびだした部屋へ、あらためて入りなおした。教授は用心深くドアを閉めて、わたしに肘掛椅子をすすめ、鼻の先きへ葉巻ケースを押してよこした。
「本物のサン・ファン・コロラドだ。きみのように興奮しやすい男は、鎮静剤の効き目も早いだろう。いかんいかん! 噛む法があるか! 切るんだ――こんなふうにていねいにな。さてと、ではくつろいでわしがこれから話すことをよく聞いてくれ。途中で何か言いたいことがあっても、適当な話の切れ目まで遠慮してくれたまえ。まず第一に、きみが追い出されるべくして追い出されたあと、ふたたびここへ戻ってこられたわけを説明しよう」――彼はひげをしごいて、異議申し立てをそそのかすかのようにわたしの顔色をうかがった――「さよう、当然追い出されるべくして追い出されたあとでだ。その理由はさきほどのおせっかいな警官に対するきみの答えの中にある。あのときのきみの答えには、かすかながらわしに対する好意のようなものが感じられた――いずれにせよ、きみたち新聞記者仲間には、わたしの知る限りなかったことだ。きみは自分の落度を正直に認めることによって、公正な精神と広い見識の証拠を示してわしの目にとまったというわけだ。不幸にしてきみもその一人である下等人類は、知能の点ではみな例外なくわしよりも水準が低い。しかしきみの最前の言葉は、いっきょにきみをわしの水準まで引き上げた。わしが真面目にとり合うに足るところまで追いついてきたのだ。この理由で、きみをあらためて家の中へ招じ入れて、もっとよくきみの人柄を知りたいと考えた。ところで煙草の灰は、きみの左手にある竹製のテーブルの、小さな日本製の灰皿に落としてくれんかね」
これだけのことを、彼は教室で講義をする教授のように、がんがんするような声で言ってのけた。回転椅子をぐるりとまわしてまっすぐわたしのほうを向き、巨大な食用がえるのようにおなかをいっぱいにふくらましていた。頭は思いっきりふんぞりかえり、尊大なまぶたがなかば閉じられていた。それが突然半身になったので、今度はもつれあった髪の毛と、赤い突き出た耳しか見えなくなった。机の上に散らばっている書類をかきまわしはじめたのだ。間もなくぼろぼろになったスケッチブックらしき物を手にとってふたたびわたしのほうに向きなおった。
「これから南アメリカについて話すつもりだが、批評はさし控えてくれたまえ。最初に断わっておくが、これから話すことは、わしの許可がないかぎりどんな形でも公表してもらっては困る。しかもこの許可が与えられる可能性は、まず絶対あるまい。よろしいかね?」
「これはまたずいぶん厳しい条件ですね。納得のゆく説明さえ聞かしてもらえれば――」
彼はノートをテーブルに戻した。
「それじゃ話は終わりだ。早々に引きとっていただくとしようか」
「いや、待ってください。どんな条件でものみます。目下のところ、それ以外に方法はなさそうですからね」
「その通りだ」
「わかりました。約束します」
「名誉にかけて?」
「名誉にかけて」
相手の無遠慮な目に疑わしそうな表情が浮かんだ。
「そうは言っても、わしはきみの名誉について何も知らんからな」
「誓って言いますが」わたしはかっとなって叫んだ。「あなたもずいぶん勝手な熱をふく方だ。こんな侮辱を受けたのは生まれてはじめてです」
彼はわたしの反応に当惑するどころか、かえって興味を持ったらしかった。
「丸い頭か」彼はつぶやいた。「専門的に言えば短頭、灰色の目に黒い髪、黒人の血が混っているらしい。ケルト人だと思うが、どうかね?」
「アイルランド人です」
「純粋アイルランド人かね?」
「そうですとも」
「さもあろう。それで納得がゆく。ところで、きみはわしの秘密を守ると約束したな? その秘密というのは、まだ結論まではほど遠い段階なのだ。しかしきみにだけは二、三興味ある事実を教えてあげよう。まず最初に、きみもおぼえているだろうが、わしは二年前南アメリカへ旅行した――やがては世界科学史上の古典的旅行となるべきものだった。旅行の目的は、ウォレスおよびベイツの結論を実証することだったが、この目的は彼らの報告した事実を、まったく同一の条件下で観察しないかぎり果たされたとは言いがたい。わしの探検行がそれ以外の成果をあげなかったとしても、それはそれで特筆すべきことだったろう。ところが、現地にいる間に、ある興味深い事件がおこって、まったく新しい探求の道を開いてくれたのだ。
きみも知っているだろうが――いや、こんな無学な時代だから、あるいは知らんかもしれないが――アマゾン川流域地方はまだごく一部しか探検されておらず、大部分は地図にも載(の)っていないような無数の支流がアマゾンに注いでいる。この人跡未踏の奥地をたずねて、そこの動物を調査するのがわしの仕事だった。わしはこの調査によって、わしの一生を意義あらしめるはずの、動物学上の偉大な記念碑的著作の数章分に相当する資料を手に入れた。仕事を終わって帰る途中、とあるインディアンの部落で一夜をすごすことになった。その部落は、名前と位置はひとまず伏せておくが、ある支流が本流に注ぐ地点にあった。原住民はクカマ・インディアンといって、いたっておとなしいが未発達の種族で、まあその知能は平均的ロンドン子と似たり寄ったりというところだったかな。わしは川をさかのぼる途中でその連中の病気をなおしてやったものだから、連中もわしの人柄に感心していたらしく、部落へ戻るのを今や遅しと待ちかまえておった。部落民の手真似(てまね)から察するところ、急病人が出てわしの手当てを受けたがっているらしい。わしは酋長(しゅうちょう)に案内されて一軒の小屋へおもむいた。小屋に到着した瞬間、わしを呼んだ病人は息を引きとったことを知った。驚いたことに病人はインディアンではなく、白人だった。白人も白人、髪は亜麻色でしらこ(・・・)の徴候まで示している。ボロを身にまとい、見る影もなく痩せ衰えて、長い間の苦労を歴然と物語っておった。土民たちの説明から理解できたかぎりでは、この男は連中のまったく知らない人間で、今にも倒れそうな状態で森の中からひとりふらりと部落にまぎれこんで来たらしい。
寝床のそばに男のナップザックがあったので、中身を調べてみた。中の名札に名前が見つかった――メイプル・ホワイト、ミシガン州デトロイト市レーク・アヴェニュとある。この名前に対して、わしはいまだに敬意を抱かずにはいられない。やがてわしの研究が世に認められたとき、この名前にわしと同等の栄誉が与えられると言っても決して言いすぎではあるまい。
ナップザックの中身から判断するに、この人物が感興を求める画家にして詩人であることが明らかだった。詩の断片がいくつか出てきた。わしは自分に詩のよしあしを判断する能力があるとは思わないが、それにしてもさほどすぐれた詩とも思えなかった。それから川の風景を描いた平凡な絵や、絵具箱、クレヨン箱、絵筆、今わしのインク・スタンドにのっている曲がった骨、バクスター著『蛾と蝶』、安物の輪胴式拳銃、それにわずかな弾薬などが出てきた。身のまわりの品はもともとなかったのか、途中でなくしてしまったのだろう。以上がこの奇妙な放浪のアメリカ人の財産のすべてだった。
帰ろうとしたとき、ボロボロの上着の胸から何かがはみ出しているのにふと目がとまった。それがこのスケッチブックだったのだが、そのときすでにごらんのように汚れておった。だがこの遺品がわしの手に入ってからというものは、シェークスピアの初版本よりも大切に扱ってきたつもりだ、ま、これを手にとって、一ページずつ何が描かれているかよく見てみたまえ」
彼は葉巻をくわえて椅子(いす)にもたれかかり、何一つ見のがさない鋭い目で、この記録が生みだす効果の観察にとりかかった。
わたしは意外な事実の期待に胸をときめかせながらスケッチブックを開いた。もっともその事実がどのような性質のものかはまるで見当がつきかねたが。しかし、第一ページに関するかぎりこの期待は裏切られた。とっくりのセーターを着たひどく太った男の絵があって、その下に『郵便船上のジミー・コルヴァー』と説明があるだけだったからだ。つぎにインディアンとその生活を描いた小さなスケッチが数ページつづいた。つぎはシャベル帽をかぶった太っちよの陽気な坊さんと、痩(や)せこけたヨーロッパ人が向かい合って坐っている絵で、説明は『ロザリオでクリストフェロ師と昼食』とあった。なおも女や子供たちのスケッチが数ページつづき、それから、『砂洲の海牛』『海ガメとその卵』『ミリティ椰子(やし)の下の黒アジュティ』などという説明のついた一連の動物の絵がきた。この黒アジュティというのは、豚に似た動物だった。そして最後に、鼻の長い、ひどく不気味なとかげ類のスケッチが、見開きいっぱいに描かれていた。結局わたしにはなんのことかわからないので、教授にその旨白状した。
「これらはきっとクロコダイルなんでしょうね?」
「アリゲーターだ! アリゲーターと言いたまえ! 南アメリカに本物のクロコダイルなぞいるはずがない。クロコダイルとアリゲーターのちがいは――」
「つまり、何も不思議な点は見当たらないというつもりだったんですよ――あなたがおっしゃったことを裏書きするようなことという意味ですがね」
教授は穏かに微笑した。
「ではつぎのページを開いてみたまえ」
それでもなおわたしは驚かなかった。今度のは大ざっぱに彩色した一ページ大の風景画で、それも風景画家が将来もっと本格的な作品に仕上げるつもりでスケッチを試みた、という程度のものにすぎなかった。羽毛のような植物でおおわれた薄緑の前景がしだいにのぼり坂になって赤黒い断崖で終わっている。崖は前に見たことのある玄武岩(げんぶがん)の地層に似て、奇妙にうねった線を描いていた。この崖は切れ目のない壁になって背景に横たわっている。その一か所に、孤立したピラミッド状の岩があって、てっぺんに大きな木が一本生えている。岩壁に割れ目が入ってできたものらしかった。それらの背景は、熱帯の青い空だった。植物が細い緑色の線になって赤茶けた崖のてっぺんをふちどっている。つぎのページも同じ風景を描いた水彩画だが、このほうは細部がはっきり見えるほど対象に近づいて描いたものだった。
「どうだね?」と教授がたずねた。
「たしかに奇妙な地層だとは思います。しかしわたしは地質学の専門家じゃないから、驚くべきものだという気はしませんね」
「驚くべきことだ!」と、彼はわたしの言葉をくりかえした。「実にユニークな地層だ。信じられんほどだよ。このような可能性を想像した人間は一人としておるまい。ではそのつぎだ」
わたしはページをめくるなり驚きの声を発した。一ページ大にわたって、見たこともない奇妙な動物が描かれていた。阿片(アヘン)中毒者の悪夢というか、精神錯乱の妄想というべきか。頭は鳥類だが、胴は太ったとかげに似ている。長く引きずったしっぽには上向きのとげがずらりと並び、こんもりと丸味をおびた背中には、大きな鋸(のこぎり)状のひだがくっついていて、まるで一ダースものにわとりのとさかを交互に植えつけたようだ。この動物の前には、人間の姿をしたこっけいな小人というか一寸法師のようなものが立って、その化物を眺めていた。
「さあ、これをどう思うかね?」と、教授が得意そうに両手をこすり合わせながら叫んだ。
「恐ろしい――グロテスクとしか言いようがありません」
「だが彼はなぜこんな絵を描いたのかね?」
「商売上の手、ですか」
「おやおや、きみはその程度の想像力しか持ち合わせないのかね?」
「では、あなたのお考えは?」
「もちろんこの動物が実在するということだ。つまり、この絵は実物の写生だということさ」
それを聞いてふきだしそうになったが、とたんにまたもやとっ組み合ったまま廊下に転がり出る光景が目に浮かんだ。
「ごもっともです」わたしはばかをからかうような調子で答え、こうつけ加えた。「しかし、正直なところ、この小人がどうも腑(ふ)におちません。もしこれがインディアンだとしたら、アメリカ大陸にもピグミー族がいることの証明になると思いますが、これはどう見ても陽よけ帽をかぶったヨーロッパ人ですよ」
教授は怒った野牛のようにいきりたった。「きみは実に我慢のならん男だ。可能性に関するわしの見解を勝手に拡大しおって。大脳の不全麻痺! 精神の愚鈍! 実際驚くべきことだ!」
しかしわたしを怒らせようとしても無駄だった。実際、この男に腹を立てるとなると、四六時中腹を立てていることになるから、エネルギーの浪費である。わたしはうんざりした笑いを浮かべるだけで満足した。「この男があまりに小さいんで驚いたんですよ」と、わたしは言った。
「ここを見たまえ!」教授はぐっと身をのりだして、毛の生えたソーセージのような太い指で絵を突っついた。「動物のうしろに植物が見えるだろう。きみはこれをタンポポか芽キャベツのたぐいと思ったんじゃないかね? ところがさにあらず、これはゾウゲシュロという植物で、高さは五十フィートから六十フィートもある。となると、この人物はある目的のために描かれたものだとは思わんか? まさかこんな動物のすぐ前に立って、無事にスケッチができたなどとは考えられない。つまり、高さの比較のために自分自身を描き入れたのだ。木の高さが人間の十倍ほどあるが、これは当然のことなのだ」
「驚きましたね! すると、この動物は――なんてこった、これじゃチャリング・クロス駅にだって入りきれませんよ!」
「誇張はともかくとして、確かにこれはよく育った動物だ」教授は満足そうに言った。
「しかしたった一枚のスケッチのために、人類の長い体験を無視することはできません」わたしはページをめくってみて、ほかにこの種の絵はないことを確かめた。「しかも放浪のアメリカ人画家がハシーシュの幻覚か熱病のためもうろうとした意識の中で、あるいは気まぐれな空想を満足させるために描いたのかもしれないたった一枚のスケッチなんですよ。かりにも科学者ともあろう方が、そのようなことをおっしゃってよいものでしょうか」
答えるかわりに、教授は本棚から一冊の本を取り出した。
「これはわしのすぐれた友人レイ・ランカスターの手になるりっぱな論文だ! この中のある挿絵が、おそらくきみの関心をひくだろう。これこれ、ここにあるやつだ。説明はこうだ。『ジュラ紀に棲息した恐竜の一種、剣竜の生態想像図、後肢だけで成人の二倍の高さがある』さあ、きみ、これをどう思うね?」
彼は問題のページを開いた本をわたしに手渡した。わたしは一目見てびっくりした。この死滅した世界の動物の復元図は、たしかに無名の画家の手になるスケッチと驚くほどよく似ているではないか。
「なるほど、驚くべきことです」
「だが、決定的だとは言いたくないのだろう?」
「ええ、単なる偶然の一致か、あるいは画家が前に見たことのあるこの種の絵を記憶にとどめていたのかもしれませんからね。錯乱状態の人間にはよくあることですよ」
「よかろう」教授はばかに寛大だった。「それはひとまずおくとして、つぎにこの骨を見てくれんか」彼は死んだ男の持物だったと説明した例の骨をさしだした。長さはほぼ六インチ、わたしの親指より太くて、一方の端に乾いた軟骨らしきものが認められた。
「これはなんの骨だと思う?」
わたしは注意深く観察して、忘れかけた知識を思いおこそうとつとめた。
「骨組のがっちりした人間の鎖骨かもしれませんね」
教授はさも軽蔑に耐えないといったようすで手をふった。
「人間の鎖骨は曲がっているが、これはまっすぐだ。表面に溝が走っているが、これは太い腱(けん)の跡と考えてよかろう。つまり鎖骨でないことは明らかだ」
「そうなると、正直なところわたしには見当もつきません」
「知らないからといって恥じる必要はない、おそらくサウス・ケンジントン中探しても、これがなんの骨だか知っている者はおるまいからな」そして今度は豆粒ほどの骨を丸薬入れの中からとりだした。「わしの見るところ、この人間の骨と、今きみが手に持っている骨は同種のもののように思われる。とすると、この動物の大きさの見当がつくだろう。しかも軟骨の部分から判断して、これは化石ではなくまだ新しい標本だ。さあ、どうかね?」
「きっと象の骨も――」
彼はどこか痛むところでもあるかのように顔をしかめた。
「やめたまえ! 南アメリカに象などおらん!いくらこのごろの質の低い小学校でも――」
「では、南アメリカに棲む巨大な動物――例えばバクではどうですか」
「わしの専門的知識を信頼してよろしいぞ、マローン君。この骨はバクであれ何であれ、動物学上知られている動物の骨だとは考えられんのだ。これは巨大で、力強く、あらゆる類推からして、きわめて兇暴な動物で、地球上に現存してはいるがいまだに科学の対象とされていないものの骨なのだ。きみはおそらく信じないだろうがね」
「少なくとも大いに興味はあります」
「それなら脈はある。きみという人間のどこかに理性がひそんでいるようだから、ひとつ気長にそれを探してみようではないか。死んだアメリカ人のことはひとまずおいて、わしの話に進もう。わしがこの問題をもっと深く探究せずにアマゾンから帰る気がしなかったことは、きみにも想像がつくだろう。死んだアメリカ人がどの方角から来たかはわかっていた。もっとも、インディアンの伝説だけでも手がかりとしては十分だったろう。川ぞいに住む種族の間では、どこでも不思議な土地の話を聞くことができたからね。きみもクルプリの話は聞いたことがあるだろう?」
「いや」
「クルプリは森の精だ。恐ろしくて、意地が悪く、近寄らないほうがいいとされている。だれもその形や性質を説明できる者はおらんが、アマゾン川ぞいでは一種の禁句になっておる。どの種族の間でも、このクルプリが住む方角は一致している。かのアメリカ人はその方角からやってきたのだ。何か恐ろしいことがあるのは確かだった。その正体を確かめるのがわしの仕事だったというわけだ」
「で、どうなさったんです?」わたしの軽薄さはすっかり消えていた。このどっしりした人物は相手の注意と敬意をひきつけずにはおかないらしい。
「わしは土民たちの尻ごみを押しきって――なにしろ連中はそのことを口にするのもいやがるのだ――説得したり贈り物を与えたり、白状すれば少しばかりおどしもして、ようやくそのうちの二人に案内役を承知させた。言葉につくせない数々の冒険と、めざす方角に向かって長い旅をしたあとで、われわれはついに話に聞いたこともなければ、かの不幸な先駆者をのぞいてはだれ一人として訪れたこともない地方にたどりついた。ではこれを見てくれたまえ」
彼は半截(せつ)程度の一枚の写真を渡した。
「この写真のうつりがあまりよくないのは、川を下る途中で小舟が転覆(てんぷく)して、未現像のフィルムを入れた箱がこわれてしまったためだ。大部分のフィルムは全然使い物にならなかった――とりかえしのつかない損失だ。助かったごくわずかのうちの一枚がこの写真というわけだよ。不鮮明なのはそのせいだが、きみなら認めてくれるだろう。これを見て作りものだと言うものもおった。もっともわしは今そのことをとやかく言うつもりはないがね」
なるほど写真はひどく影が薄かった。心ない者が見たら、このぼんやりした画面を誤解するのも無理はない。ごくありふれた風景だが、細部を注意して見ると、まるで巨大な滝のような断崖が高々とそびえ立ってつづいており、前景にはゆるやかに傾斜した森林地帯を見分けることができた。
「さきほどの絵と同じ場所のようですね」
「おおせの通りだよ」教授は答えた。「わしは画家が野営した跡を発見した。さて、今度はこれだが」
それは同じ場所をずっと近くから撮(と)ったものだったが、画面はやはりひどく不鮮明だった。それでも断崖から孤立した、てっぺんに木の生えている例のピラミッド状の岩がはっきり見分けられた。
「これはもう疑う余地がありません」
「よろしい、きみも多少は進歩してくれたようだな。だれでも進歩はする、そうではないかな? いいかね、この三角岩の頂上を見てくれたまえ。何か目につく物はないかね?」
「大きな木があります」
「その木に何が見える?」
「大きな鳥です」
教授は拡大鏡を貸してくれた。
「ええ、大きな鳥がとまっています」わたしは拡大鏡をのぞきながら言った。「すごいくちばしをしていますよ。まるでペリカンのようだな」
「どうもきみの目はあまりよくないらしい。これはペリカンでもなければ鳥でもない。わしがこの動物を仕止めることに成功したといったらどうだ、興味は湧かんかね? わしの異常な体験で、持ち帰ることのできる唯一の証拠物件がそれだった」
「では、それは今もあるんですね?」ついに目に見える証拠をたずね当てたのだ。
「かつてはあった。写真をだめにしてしまった例の転覆事故で、ほかの多くのものと一緒に不幸にも見失ってしまったのだ。ただ、急流の渦にのみこまれる寸前に、わしがそいつにしがみついたおかげで、羽の一部が手に残った。わしはそれっきり意識を失って岸に打ち上げられたらしいが、このすばらしい標本のみじめったらしい切れはしは無事手に残っていた。今それをお目にかけよう」
教授はひきだしの中から、わたしには巨大なこうもりの翼の上部としか見えないものをとりだした。長さが少なくとも二フィートはあり、彎曲した骨の下に膜のようなものがくっついていた。
「ものすごく大きなこうもりですね!」
「そんなものではない」教授はきっぱりと言った。「わしのように高級な学問的雰囲気の中で暮らしていると、動物学の初歩でさえも一般にはこのように知られていないということが思いもよらないのだ。鳥の翼は実際には前肢だが、こうもりの翼は膜のある三本の細長い指から成っているといった、比較解剖学の初歩的事実だって、きみはおそらく知らんのだろうね。さて、この場合、骨は明らかに前肢のそれではないし、一本の骨に一本の膜がかぶさっているだけだから、こうもりの翼ではありえないことも見ればわかるだろう。だが鳥でもないこうもりでもないとしたら、これはいったい何かね?」
わたしのわずかばかりの知識はもう種切れだった。
「さあ、わかりませんね」
彼はさきほどの手引書を開いて、ある怪鳥の絵を指さした。
「これがダイモルフォドン、あるいはプテロダクティルと呼ばれるジュラ紀の空飛ぶ爬虫類(はちゅうるい)の正確な復元図だ。つぎのページにその翼の構造の図解が出ている。それをきみの手にある標本とくらべてみたまえ」
見ているうちに驚きが全身を包んだ。もはや一点の疑いもなかった。わたしはすっかりとりこになってしまった。スケッチ、写真、教授の話、そして今実物見本――こうしてつぎつぎと証拠を積み重ねられてみると、圧倒されないわけにはいかない。わたしはそう告白した――心をこめてそう告白した。なぜなら、教授は不当な扱いを受けた人間であることがはっきりしたからだ。彼は椅子の背にもたれかかって、目をとろんとさせ、寛大な微笑を浮かべながら、突然さしてきた陽の光に心ゆくまでひたっていた。
「まったく前代未聞の大事件です!」とわたしは叫んだが、これはどちらかといえば科学的な興奮というよりもジャーナリスト的な興奮から発した叫びだった。「実に偉大な事件です。あなたは失われた世界を発見した科学の領域のコロンブスです。あなたを疑っていたように見えたとしたら心からお詫(わ)びします。なにしろ想像もできないことだったもんですから。しかしこの証拠が本物だということはわたしにもわかりますし、おそらくだれだってあなたの話を信じないわけにはいかないでしょう」
教授は満足そうに喉を鳴らした。
「で、つぎにどうなすったんですか?」
「ちょうど雨期だったし、それに食糧もつきてしまったのだよ、マローン君。わしはこの大断崖を何か所か調べてみたが、どうしても登り口を見つけることができなかった。木の上に翼手竜(プロテダクティル)がとまっているのを見つけて射ちおとしたあのピラミッド状の岩のほうは、それにくらべればまだしも近寄りやすかった。わしも岩登りにかけては腕に覚えのあるほうだから、なんとかまん中ほどまで登ってみたのだ。その高さからだと、断崖の上の台地のようすがもっとよくわかった。そこはきわめて広いらしく、西を見ても東を見ても緑におおわれた台地におわりがないのだ。下はじめじめしたジャングルになっていて、蛇や虫や熱病の巣だ。つまりこのふしぎな世界を外界から護る自然の防壁になっているんだね」
「ほかに何か生き物は見ませんでしたか?」
「いや、見なかった。ただ、崖の下で一週間野営している間に、上のほうからたいそう奇妙な物音が聞こえてきたがね」
「しかし、アメリカ人が描いたあの動物は? あれをどう説明します?」
「彼はあの崖を上まで登って、そこであの動物を見たとしか考えられん。したがって、どこかに道があるはずだ。また、それが非常にけわしい道だとも考えられる。さもないと上から動物たちが降りてきて、あの辺を荒らしまわるはずだからね。そこまでは確実だと思わんか?」
「しかし、彼らはそもそもなぜそこにいるんでしょう?」
「それはさしてむずかしい質問だとは思わん。答えは一つしかない。きみも聞いたことがあるかもしれんが、南アメリカは花崗岩の大陸だ。内陸のこの地方に限って、はるか大昔に、突然大規模な火山性の隆起がおこった。この断崖は玄武岩らしいから、つまるところ火成岩だ。おそらくサセックス州ほどの地域が、そこに棲んでいた生物もろとも持ちあげられ、浸蝕にもびくともしない硬さをもつ垂直の絶壁によって、大陸のほかの部分から切りはなされてしまったのだ。結果はどうなったか? 一般的な自然法則は停止した。ふつうの世界で生存競争に影響をおよぼすさまざまな制限は、すべて無力になるか性質を変えた。かくてふつうならば消滅するはずの生物が生き残る。翼手竜も剣竜もともにジュラ紀の動物だから、大昔の生物だ。それが偶然の条件によって自然に逆らって生き残ったというわけだ」
「しかしあなたが握っている証拠は決定的です。あとはそれをしかるべき権威たちの前に示すだけでいい」
「わしも一度は単純にもそう思いこんだ」教授は苦々しげに言った。「ところが事実はそうではなかった。わしは事あるごとに無知と嫉妬心から生じる不信に直面しなければならなかった。なにせ人に頭を下げたり、自分の言葉が疑われているのにある事実を証明しようとするのは、わしの性に合わんことでね。だから最初に疑いの目で見られてからというもの、これだけ確かな証拠だが人に見てくれと頼むことはいっさいしなかった。問題そのものに厭気がさしてしまって、話をする気にもなれなかった。大衆のばかげた好奇心を代表するきみのような連中が、わしの生活を乱しにやってくると、もう穏かに応待することはできないのだ。正直言って生まれつき激しい気性のところへもってきて、腹が立つとすぐ暴力をふるう傾向がある。おそらくきみも気がついているだろうがね」
わたしは片目をこすっただけで黙っていた。
「家内にもこのことでは何度忠告されたかわからないぐらいだが、名誉を大切にする人間なら、だれでもわしと同じような気持を抱くと思うのだ。しかし今夜は意志の力で感情を抑えるすばらしい例を示してやろうと考えている。きみもぜひ見にきたまえ」彼は机の上から一枚のカードをとってわたしにくれた。「それにもある通り、今夜八時半から動物学会のホールで、かなり有名な博物学者のパーシヴァル・ウォルドロンが、『時代の記録』という題で講演することになっておる。わしは特に招かれて演壇にあがり、講演者に賛辞を呈する動議を提案する予定だが、実はその機会を利用して聴衆の興味に訴えるような言葉を二、三それとなく巧妙に織りこんで、この問題についてもっと深く知りたいという気持を何人かの人間におこさせようと狙っているのだ。なに論争をするつもりはこれっぽっちもない、ただこれにはもっともっと奥があるということを知らせればそれでよい。自分でしっかり手綱を引きしめることによって、わしももう少し好意的な反応を期待できるものかどうか、それを確かめたいのだよ」
「わたしも行っていいですか?」
「もちろんだとも」彼はやさしく答えた。機嫌(きげん)がよくなると、怒り狂っているときと同じぐらい圧倒的な親切さを見せてくれる。なかばつぶった目と黒い大きなひげの間にはさまれた両頬を、突然二つの赤く熟れたりんごのようにふくらませるやさしい笑い顔には、えもいわれぬ魅力があった。「ぜひきたまえ。たとえこの問題に関してはまったく無力で無知な人間でも、とにかく会場に同志が一人いると考えれば、わしの気持も慰められるだろう。ウォルドロンはただのほら吹きにすぎないが、追従者もかなり多いから、きっと聴衆も多勢集まるにちがいない。さて、マローン君、わしは予定より多くきみのために時間をさいてしまった。広く世界にわかち与えるべきものを、一個人が独占するのはよくない。今夜会場で会おう。それはそうと、わしがきみに話したことを公表しないという約束は守ってくれるだろうな」
「しかし、マッカードル氏が――うちの編集長ですが――あれこれ質問すると思います」
「なんとでも好きなように答えるがいい。特にこう言ってやれ、もしほかの人間をよこしてまたわしの邪魔をするようなら、乗馬鞭を持って乗りこんで行くからとな。きみに断わっておくが、もしこれが活字にでもなったら承知せんぞ。よろしい。では今晩八時半に動物学会ホールでな」
部屋の外に追いだされるとき、赤い頬と、青味がかってちぢれたひげと、意地の悪そうな目が最後に印象に残った。
五 質問!

チャレンジャー教授との最初の面会で受けた肉体的ショックやら、二度目の話合いにともなう精神的なショックやらで、チャレンジャー邸を出るころはくたくたの状態だった。がんがんする頭の中で、一つの考えが脈打っていた。それは、教授の話には真実があること、それが途方もなく重大なこと、もしそれを記事にする許可が得られたなら、『ガゼット』は想像もつかないような特ダネをつかむことになる、ということだった。通りのはずれにタクシーがいたので、わたしはそれにとび乗ってまっすぐ社へ向かった。マッカードルは例によって自分の席にいた。「やあ」と彼の声が期待ではずんだ。「雲行きはどうかな? ひどい目に会ってるんじゃないかと思っていたんだ。まさか彼に乱暴されたんじゃあるまいね?」
「はじめはちょっとやり合いました」
「なんという男だ! で、きみはどうした?」
「なに、そのうち彼もおとなしくなって、穏かに話し合いましたよ。ただ、何も収穫はありませんでした――少なくとも記事にできるようなことは」
「さあ、それはどうかな。現にきみの目は彼に殴られてあざになっている、これは記事になるよ。われわれとしても暴力をのさばらせておくわけにはいかんじゃないか、マローン君。彼の反省をうながす必要がある。明日の社説で徹底的にたたいてやろう。きみが材料を提供してくれれば、あの男に永遠に消えない烙印(らくいん)を押してやる。ミュンヒハウゼン教授――というのは小見出しとしてどうかね? あるいは現代によみがえるサー・ジョン・マンデヴィル(十四世紀ごろフランスで刊行された架空旅行記の著者といわれる)――カリオストロ(十八世紀イタリアで名を売った詐欺師)――とにかく歴史に名を残すペテン師、暴漢ならだれでもいい。奴さんのインチキぶりを世間にあばきたててやる」
「わたしは反対です」
「なぜだ?」
「彼は詐欺師などじゃないからです」
「なんだと!」マッカードルがわめいた。「まさかきみは、奴さんのマンモスやマストドンや巨大な海蛇の話を信じているわけじゃないだろうな」
「さあ、そんな話は初耳ですね。彼がそんなことを言ってるとは思いませんよ。しかし、彼が何か新しいことを知っているとは信じます」
「ではぜひそのことを記事にしたまえ!」
「そうしたいのは山々ですが、なにしろ記事にしないという条件で秘密に教えてもらったもんですからね」わたしは教授の話をかいつまんで説明した。「ま、ざっとこういうことです」
マッカードルはまるっきり信じてくれそうもなかった。
「ところで、マローン君」と、やがて彼は言った。「今晩の講演会のほうは記事にしてもさしつかえあるまい。ウォルドロンはもう何度となく新聞に出ているし、チャレンジャーが今夜話すことはだれも知らないはずだから、おそらくほかの新聞は全然目をつけていないだろう。運がよければ特ダネものだ。いずれにせよきみに行ってもらって、詳しい記事にしてもらうとしよう。十二時までスペースをあけておくからね」
まったく忙しい一日だった。わたしはサヴィジ・クラブでタープ・ヘンリーと一緒に早目の夕食をとりながら、その日の出来事を報告した。彼は痩せぎすな顔に疑わしそうな笑いを浮かべながら聞いていたが、わたしが教授の話を信用したと聞いて大声で笑いだした。
「現実にはそんなことはおこらんさ。偶然に大発見をして、そのあと証拠を紛失してしまうなんてことはね。それは小説家の領分だ。あの男は動物園の猿の檻(おり)みたいに、頭の中にごまかしをいっぱい詰めこんでいる。みんな根も葉もないたわごとだよ」
「しかしアメリカの詩人をどう思う?」
「そんな人間は存在しなかったのさ」
「ぼくはスケッチブックを見たんだぜ」
「チャレンジャーが自分で描いたんだろう」
「ではあの動物も?」
「もちろんさ。ほかにだれが描く?」
「では、写真はどうなんだい?」
「写真だってあてにはならん。きみ自身鳥が一羽見えただけだと言ったじゃないか」
「翼手竜だ」
「彼がそう言ったんだろう。きみは暗示にかかったんだよ」
「じゃ、骨は?」
「最初のやつはシチューにでも入っていたんだろう。二番目のやつはそのためにでっちあげたんだね。ちょっとばかり頭がよくて、その方面の知識があれば、骨だって写真だって簡単に贋物を作れるさ」
わたしはなんだか心配になってきた。要するにわたしは早まりすぎたのかもしれない。だが、そのときふとうまい考えが浮かんだ。
「どうだろう、きみも一緒に講演会へ行ってみないか?」
タープ・ヘンリーは考えこんだ。
「チャレンジャーは人気のある人物じゃない。彼と結着をつけたがっている人間はたくさんいる。ロンドン中で一番人に憎まれている男と言ってもいいだろう。医学生たちが会場で騒ぎだしたらおさまりがつくまい。騒ぎにまきこまれるのはごめんだね」
「少なくとも彼の主張を聞いてやるのがフェアプレイというもんじゃないかな」
「あるいはそうかもしれん。よし、今夜はきみのお伴をしよう」
会場に到着してみると、予想よりはるかに多くの聴衆が集まっていた。ずらりと並んだ電気自動車が白ひげの教授たちを吐きだす一方、もっと地位の低い歩行者の黒い流れが、アーチ形の入口にぎっしりとつめかけて、科学の徒ばかりでなく一般人も大勢混っているらしかった。座席に腰をおろすと同時に、若々しいはしゃいだ空気が大向こうからホールのうしろのほうまでみなぎっていることが感じられた。うしろをふり向くと、見なれた医学生らしいタイプの顔がずらりと並んでいた。明らかに各大病院からそれぞれ派遣されてきた顔ぶれだ。聴衆の態度は今のところ上機嫌だが、いたずらっぽい気分がみなぎっていた。科学講演会の前ぶれにはふさわしくない流行歌の熱っぽい合唱がわきおこり、野次は猛烈をきわめそうな気配だった。野次られるほうは迷惑千万にちがいないが、ほかの人間にとってはなかなか楽しい晩になりそうだった。
かくて、メルドラム老博士が有名なふちのめくれあがったオペラ・ハットをかぶって壇上に現われたとき、早くも聴衆は声を和して「その帽子はどこで手に入れた?」とはやしたてたので、博士はあわててそれをぬぎ、こっそり椅子の下に隠してしまった。痛風病みのウォドリー教授がびっこをひきながら席につくと、会場中から足の具合はどうかという好意的な声がとび、明らかに彼を困らせた。しかし会場の反応が中でもすさまじかったのは、わたしの新しい友人チャレンジャー教授が、演壇上の前列のはしに定められた自分の席についたときだった。彼の黒いひげが演壇のはずれに現われるやいなや、どっと歓声があがったので、わたしはふとタープ・ヘンリーの予想が当たったのではないか、これだけ多くの人が集まったのは、講演そのもののせいではなく、有名なチャレンジャー教授が進行に加わるという噂が行きわたったせいではないかと心配になった。
教授の登場と同時に、服装のいい前列の聴衆の間にいくぶん同情的な笑いがおこったところを見ると、学生たちの反応はかならずしも彼らにとって不愉快なものではなかったらしい。聴衆のあいさつはまさにすさまじい音の爆発で、餌のバケツを持った飼育係の足音が遠くに聞こえたときの、肉食動物の捻(うな)り声に似ていた。いくぶん攻撃的な調子があったかもしれないが、わたしが受けた感じでは概して単なる騒々しい叫び声、憎み軽蔑している人物というよりは自分たちを楽しませてくれる人物に対する騒々しい歓迎、というところだった。チャレンジャーは、気のやさしい男が、やかましく吠えたてる仔犬の一群に対したときのように、うんざりしたような、寛大な軽蔑の微笑を浮かべてゆっくり着席し、胸を張り、ひげをしごきながら、まぶたのたれさがった尊大な目つきで満員の会場をねめつけた。彼の登壇と同時におこった騒ぎは、議長のロナルド・マレー教授と講演者のウォルドロン氏が前に進み出て、いよいよ会が始まってもまだつづいていた。
マレー教授は、大部分のイギリス人に共通する欠点、すなわち声が小さいという欠点を持っていた。いったい、多少とも聞くに価することを話そうという人間ならば、なぜ話し方の技術という簡単なことを身につけようとしないのか、これは現代生活の不思議の一つである。彼らのやり方は貴重な泉の水をつまったパイプで水槽に送りこもうとするほど不合理なことで、しかもそのパイプはほんのちょっと掃除してやれば簡単に通るのである。マレー教授は自分の白いネクタイとテーブルの水さしに向かって深遠な言葉をぼそぼそと話しかけ、右手の銀の燭台におどけたまなざしを送った。彼が腰をおろすと、有名な講師のウォルドロン氏が立ちあがり、会場には好意的なざわめきがおこった。いかめしい痩せた顔、しゃがれ声と攻撃的な態度に似合わず、他人の意見を消化し、それを、素人にもわかりやすく興味ある方法で伝える技術をそなえていた。しかも真面目一方の話題について語るときも、面白おかしくするこつを心得ているので、天文学のほうでいう歳差とか脊椎動物の形成といった問題も、彼にかかるとばかに楽しい話になってしまうのである。
彼がわれわれの前にくり拡げてみせたのは、常に明晰で時には華麗(かれい)と言ってもいいような言葉で、科学的に解説する天地創造の鳥瞰図だった。地球が燃えるガスの巨大な塊りとなって宇宙を運行するところからはじめて、それが固まり、冷却し、褶曲(しゅうきょく)して山を作り、蒸気が水になり、想像を絶する生命のドラマの舞台がじょじょに形成されてゆく過程を描いて見せた。生命の起源そのものに関しては、慎重に言葉をにごした。生命の根源が、初期の高温時代をこえて生き残らなかったことは確実である、と彼は断言した。したがって生命の発生はそれ以後のことである。それは冷却しつつある地球の無機物質から発生したものであろうか? 大いにありうることだ。それとも宇宙の他の流星からやってきたのだろうか? これはまず考えられない。一般的に言って、賢明な人間はこの問題について柔軟性に富んだ考え方をするだろう。無機質から有機質を作りだすことはおそらく不可能だろう――少なくともこれまでのところ、その実験は成功していない。生と死の間に横たわる断層に、人間の化学はまだ橋をかけることができないでいる。しかしより高度の、より精妙な大自然の化学というものが存在して、それが長期間にわたって偉大な力を及ぼしつづければ、人間には不可能な成果を生みだすことができるのかもしれない。それ以上のことはうかがい知る由(よし)もない。
ここで講演者は低級な軟体動物や微弱な海の生物にはじまり、一段一段のぼりながら爬虫類や魚類を通過して、ついにトビネズミにいたる動物界の巨大な階梯に話題を転じた。胎生動物であるこのトビネズミは、おそらくあらゆる哺乳動物の直接の先祖であり、したがって今この会場におられる皆さんの祖先でもあるかもしれない。(後列の疑い深い学生たちの間から、「ちがう、ちがう」の声あり)今反対の声をあげた赤いネクタイの若い紳士は、おそらく卵からかえったと主張しているのでしょう。これはまことに珍しい例だから、講演終了後すぐお帰りにならず、ぜひとも詳しく観察させていただきたい。(笑い)大自然の長い進化のクライマックスが、赤いネクタイをしたこの紳士の創造だったというのは、なんとも奇妙なことである。しかし、進化ははたしてこれで終了したのだろうか? この紳士を最終の型――発展のすべてであり大団円であると考えるべきだろうか? この赤ネクタイの紳士が私的生活においてどれほどの美徳をそなえていようとも、宇宙のはかり知れぬ進歩がこの人物を生みだしたことで停止するならば、これはまことに残念なことである。おそらくこういう言い方をしても赤ネクタイの紳士が感情を害されることはあるまいと思う。進化の原動力は尽きはててしまったわけではなく、依然として動いており、まだまだ多くの成果をこれから達成するだろう。
こうして満場のしのび笑いの中で、見事に野次を処理したのち、講演者はふたたび地球の過去に話を戻して、海が干あがり、砂洲があらわれ、その周辺に緩慢な粘着性の生命が出現し、潟(かた)は生物であふれ、海の生物が泥床に避難所を求め、そこにある豊富な餌を食べてどんどん成長してゆく過程を説明した。「かくてウィールドやゾルンホーフェンの粘板岩中に化石となって発見され、いまだにわれわれをぞっとさせる醜悪なトカゲの一種が生まれたのです。この種族が人類出現のはるか以前に消滅したことは、まことに幸運であったと言わねばなりません」
「質問!」と、このとき壇上からのぶとい声が響きわたった。
ウォルドロン氏は、赤ネクタイの紳士の例を見てもわかるように、辛辣なユーモアの才をそなえた規律を重んじる人物であり、彼の講演を野次で妨害するのは危険なことだった。しかしこの叫び声はあまりにも唐突だったので、さすがの彼もどぎまぎしてしまった。不愉快なベーコン派(シェークスピアの作品は実はベーコンの作であると主張する人々)と対決したシェークスピア学者か、地球平面説を信じる狂人に議論をふっかけられた天文学者なら、きっとこんな顔をするところだろう。ウォルドロン氏はちょっと間をおいてから、ひときわ声を大にしてゆっくりくりかえした。「この種族が人類出現のはるか以前に消滅したことは……」
「質問!」と、例の声がもう一度ひびき渡った。
ウォルドロンがあっけにとられて壇上の教授連を一人ずつ目で確かめるうちに、まるで眠りながら笑っているかのように、椅子にそりかえって目をつむりながら楽しそうな表情を浮かべているチャレンジャーにぴたりと視線をとめた。
「なるほど!」ウォルドロンは肩をすくめながら言った。「声の主はチャレンジャー教授のようですな」そして満場の笑い声の中で、これですべてが片づき、もう言うことはないといった態度でふたたび講演に戻った。
ところが問題はこれで片づくどころではなかった。過去の荒野の中にあって、演者がどの道を選んだにしろ、行きつくところはかならず今は消滅した先史時代の動物の話になり、そうするとたちまちチャレンジャー教授が雄牛のような声で「質問!」とわめきたてるのだった。聴衆はむしろそれを期待するようになり、いよいよその声が聞こえると大喜びで騒ぎたてた。学生たちで満員のベンチまでが仲間入りして、チャレンジャー教授のひげが上下に別れると、本人がまだ声を発しないうちから、何百という声が「質問!」と叫び、ほぼ同数の声が「静粛!」とか「見苦しいぞ!」とそれに応酬した。さすがに気の強いウォルドロンも、これには浮足立ってしまった。もじもじしたりどもったり、同じことをくりかえしたり長い一くさりを言いよどんだりしたすえ、とうとうかっとなって騒ぎの元兇のほうに向きなおった。
「もう我慢がならん!」彼は壇上の一角をにらみつけて叫んだ。「チャレンジャー教授、この無知で不作法な妨害をただちに中止していただきたい」
会場は水をうったようにしずまりかえり、学生たちはオリンポスの神々が仲間喧嘩をはじめるのを見て、うれしさで体を固くした。チャレンジャーは太った図体をゆっくり椅子から持ちあげた。
「わたしからもお願いがありますぞ、ウォルドロン君」彼は言った。「科学的な事実と厳密に一致しないことを、断定的に述べるのはやめていただきたいものですな」
この一言が嵐をよびおこした。「恥を知れ恥を!」「彼にも意見を述べさせろ!」「つまみだせ!」「壇上から引きずりおろせ!」「公平にやれ!」などという声が、面白半分に、あるいは反感をこめて、会場にあふれた。議長は立ちあがって手を叩き、興奮した泣き声で訴えた。「チャレンジャー教授――個人的な――意見は――後刻」不明瞭なぶつぶつ声の雲の上に突き出た山の頂きは、わずかにこれだけだった。妨害者は一礼して微笑を浮かべ、ひげをしごいてから椅子に腰をおろした。顔をまっ赤にしていきりたったウォルドロンは、ふたたび講演をつづけた。ときどき断定をくだすところへくると、憎々しげに敵手をにらんだが、こっちは例によって楽しそうな微笑を浮かべたまま、どこふく風で狸(たぬき)寝入りをきめこんでいた。
やがて講演は終わった――結論がばかに忙しくてまとまりを欠いていたことから判断するに、これは予定よりも早目に切りあげたものらしかった。論旨は支離滅裂(しりめつれつ)で、聴衆はそわそわしながら期待に胸をはずませていた。ウォルドロンが席に帰り、議長が何かさえずると、チャレンジャー教授が立ちあがって演壇の前のほうへ進んだ。わたしは記事にするために、彼の演説を一語一語書きとめた。
「紳士ならびに淑女諸君」彼は依然うしろのほうでつづいている妨害の中で切りだした。「いや、これは失礼――紳士、淑女、ならびに子供さん方――ついうっかり、聴衆のかなりの部分を占めている人たちを無視してしまったことを、わたしはお詫びせねばなりません」(満場騒然、その間教授は片手をあげ、巨大な頭で同情的にうなずきながら、まるで群衆に祝福をさずける大司教のような態度だった)「わたしはただ今華麗かつ想像力に富んだ講演を行なわれたウォルドロン氏に対して、感謝の動議を提案すべく、選ばれてこの席についたものであります。氏の講演の中には、わたしと意見を異にする部分があり、わたしはそれを指摘することを自分の義務と心得たわけでありますが、にもかかわらずウォルドロン氏は、自身の目的、すなわち氏自身が地球の歴史と考えておられる事柄について、明快で興味深い説明を加えるという目的を、りっぱに果たされたのです。通俗的な講演というものは聞いて非常に面白いものだが、しかしウォルドロン氏は」(ここでにやりと笑って講演者に目くばせし)「無知な聴衆にも理解させようとして内容程度を落とすため、どうしても浅薄で誤解を招きやすくなると指摘しても、きっとお許しくださると思います」(皮肉な拍手)「また通俗講演者はその性質上聴衆にこびる傾向があります」(怒ったウォルドロン氏の抗議のジェスチャー)「彼らは名声と金のために、貧しく無名の研究者がなしとげた業績を食い物にするのです。実験室で得られたごくささやかな新事実、科学の殿堂を築くただ一個のれんがといえども、無駄に時間をつぶすばかりで、何一つ役に立つ成果を残しえない受け売りの解説などよりははるかにましであります。わたしがこの明白な反省をあえて口にしたのは、特にウォルドロン氏を中傷する意図などからでは毛頭なく、諸君が均衡の感覚を失って、高僧と見習い僧をとりちがえるようなことがあってはならないと考えたからであります」(ここでウォルドロン氏が議長に何事か耳打ちし、議長は中腰になって重々しく水さしに話しかけた)
「しかし、この問題はもう十分でしょう!」(騒々しく、長ったらしい拍手)「わたしはもっと興味のある問題について語りたいと思います。そもそもこのわたしが、最初の質問者として、わが講演者の不正確さを指摘した問題はなんであったでしょうか? それはある種の動物が今もなお地球上に存在していることについてであります。このテーマに関するかぎり、わたしの態度はアマチュアのそれでも、あえて言うならば通俗講演者のそれでもなく、科学者の良心から発して事実のみに執着する人間の態度であります。こうした前提に立って、わたしは、ウォルドロン氏がいわゆる先史動物を自分の目で見たことがないゆえに、そのような動物は存在しないと断定されるのは間違っていることを指摘したいのです。これらの動物は、ウォルドロン氏も述べられたごとく、まぎれもなく人間の祖先でありますが、同時に、このような表現が許されるとすれば、現在もまだ生きている祖先なのであり、それらが棲息する地域を探し求めるエネルギーと大胆ささえあれば、恐ろしい特徴をそなえたこれら先史動物はかならず現在でも発見できるのです。ジュラ紀に棲息したと考えられる動物、哺乳動物中の最も巨大で兇暴なものでさえ餌としてむさぼりつくしてしまう猛獣は、今もなお生存しているのです」(「ばかを言うな!」「証拠はあるのか!」「どうしてわかった!」「質問!」などの叫び声)「なぜわかったか、というんですか。それは、わたし自身が秘密の棲息地を訪れたからです。この目でちゃんと確めてきたからです」(拍手、叫び声、そして「嘘つき!」という怒号)「わたしが嘘つきだと?」(そうだそうだ、という声)「だれだ、今そうだと言ったのは? わたしを嘘つき呼ばわりした人は、その場に立ってよく顔を見せてくれたまえ」(「ここにいるぞ!」という声につづいて、眼鏡をかけた無邪気そうな小男が、必死で抵抗しながら、学生の一団から無理矢理立ちあがらされた)「きみか、わたしを嘘つきと言ったのは!」(「ちがいます!」とその男は叫んで、ビックリ箱の人形のようにひょいと姿を隠した)「この中にわたしの言葉を疑う人がいたら、会の終了後喜んで話し合いましょう」(「嘘つき!」)「だれだ?」(またしても罪のない者が、必死にもがきながら、高々と胴上げされた)
「事としだいによってはわたしのほうから降りて行って――」(「降りてこい、降りてこい!」と合唱がおこり、会はしばし立往生。その間議長は立ちあがってオーケストラの指揮者よろしく両腕をふりまわしていた。教授のほうはまっ赤な顔をして鼻孔をふくらませ、ひげを逆立てんばかりにして、持前の兇暴性を発揮しそうな雲行きである)「偉大な発見者はみな例外なくこのような疑い深さ――まぎれもない愚者の時代のしるしに悩まされてきた。諸君は偉大な事実を目の前に示されると、それを理解するのに役立つ直観も想像力も持ち合わせない。科学の新しい分野を開拓すべく命を賭けた人間に、泥を投げつけることしかできないのだ。諸君は予言者を糾問(きゅうもん)する。ガリレオ、ダーウィン、そしてわたし――」(長い拍手とめちゃくちゃな妨害)
以上はそのときわたしが急いで書き記したメモからの引用であるが、そのころ講演会が達していた極度の混乱状態のほんの一部しか伝えていない。なにしろ騒ぎのあまりのすさまじさに恐れをなして、数人の婦人客は早くも逃げだしていたほどだ。威厳のある尊敬すべき学界の長老たちまでが、学生たちと同じように興奮にまきこまれていたらしく、白ひげの老人が立ちあがってこの頑固な教授に拳をふりあげる光景も見られた。聴衆は一人残らず沸騰する鍋(なべ)のように荒れ狂っていた。チャレンジャー教授が一歩前に出て両手をふりあげた。この人物の身にそなわる途方もなく大きく、男性的で、人目を惹きやすい何かが、その堂々たるジェスチャーや見くだすような視線とあいまって、会場の喧騒をじょじょにしずめてしまった。彼は何かしら決定的な発言を行なおうとしているらしい。人々は鳴りをしずめてそれを待った。
「わたしは諸君を引きとめるつもりはない」彼は言った。「諸君にそれだけの値打ちはないからだ。真理はあくまでも真理であって、愚かな若僧どもが――それと彼らにひけをとらないほどばかな老人どもが――束になってわめきたてたところでびくともするものではない。わたしは科学の新分野を開拓したと主張し、諸君はそれに反対する」(拍手)「それならひとつ諸君自身にためしてもらおう。諸君の中から信頼のおける人物を一人か二人代表に選んで、わたしの発言を実際にためしてみてはどうだろうか」
老練な比較解剖学の教授サマリー氏が聴衆の間から立ちあがった。長身痩躯(そうく)、神学者のようにぱっとしない苦りきった人物である。彼はチャレンジャー教授に質問をこころみたいが、今のお話は二年前アマゾン川の上流地方を探検したときの収穫であろうか、と言った。
チャレンジャー教授はしかりと答えた。
サマリー氏は、以前その地方を探検したウォレス、ベイツをはじめとする揺ぎない名声を持つ科学者たちでさえ見落したその発見を、チャレンジャー教授はいったいどうやって手に入れたのかと重ねて質問した。
チャレンジャー教授は、サマリー氏はアマゾンとテムズを混同しているらしい、アマゾンはテムズとは比較にならないほどの大河で、支流のオリノコ川だけでも流域は五万マイルにおよぶほどだから、それほどの広大な地域で一人の人間が発見できなかったものを他の人間が発見したとしても別に驚くには当たらない、それを知っていただけばサマリー氏も納得するだろうと答えた。
サマリー氏は辛辣な微笑を浮かべて、もちろんテムズとアマゾンのちがいは自分もよく知っている、それだからこそ前者についてのいかなる主張も実証できるが、後者の場合は不可能だと述べた。そしてもしチャレンジャー教授が、先史動物を発見した地方の正確な緯度をご教示くだされば感謝にたえないのだがとつけ加えた。
チャレンジャー教授は、しかるべき理由があってそれを明かすわけにはいかないが、聴衆の中から選ばれた委員会になら、細心の注意を払ったうえで打ち明ける用意があると答えた。ついてはサマリー氏自身この委員会に参加して、直接事の真偽をたしかめる気持はないだろうか?
サマリー氏、「よろしい、そうしましょう」(万雷の拍手)
チャレンジャー教授。「では問題の場所にいたる材料をあなたにお渡しすることを約束します。しかしながらサマリー氏がわたしの発言をたしかめられる以上、公平を期するために、わたしもあなたの発言をたしかめる人間を一人か二人同伴したい。率直に言ってこの旅行には困難や危険がつきまとうから、サマリー氏は若い同僚を同行されるほうがよろしかろう。では志願者をつのってもいいでしょうな?」
人間の一生における最大の危機は、このように思いがけないはずみで生じるものだ。この会場へやってきたとき、わたしは夢にさえ見たことのない危険な冒険に志願して出るなど、考えてもみなかった。しかしグラディスがいる――これこそ彼女の言う絶好の機会ではないだろうか? グラディスなら一も二もなく参加をすすめるだろう。わたしは威勢よく立ちあがった。口を開いて何か言おうとしたが、全然言葉にならなかった。連れのタープ・ヘンリーが、上着の裾(すそ)を引っぱってこうささやくのが聞こえた。「坐れよ、マローン! 人前でばかな真似(まね)をするな」ちょうどそのとき、数列前の席から、濃(こ)いしょうが色の髪をした、痩せて背の高い男が立ちあがるのが見えた。その男は鋭い怒ったような目つきでわたしのほうをふり向いたが、こっちも負けてはいなかった。
「わたしが行きます、議長」と、わたしは何度もくりかえした。
「名前を言え、名前を!」と聴衆が叫んだ。
「エドワード・ダン・マローン。『デイリー・ガゼット』の記者です。絶対中立の証人となることを誓います」
「あなたのお名前は?」と、議長がわたしの長身のライバルにたずねた。
「ジョン・ロクストン卿。アマゾンへは前にも行った経験があって地理に明るいから、この調査団に加わる適任者だと思います」
「スポーツマンおよび旅行家としてのジョン・ロクストン卿の名声は、もちろん世界的なものです」議長は言った。「同時にこのような探検隊には新聞記者を加えることも適当かと思います」
「ではわたしから提案しよう」と、チャレンジャー教授、「いっそこのご両人を今夜の会の代表に選んで、サマリー教授の調査行に同行させると同時に、わたしの発言の真実性について報告していただいてはいかがだろうか」
こうして叫び声と拍手の中でわれわれの運命は決定され、わたしは出口に向かう人波に押し流されながら、突然目の前に開けた新しい大計画になかば茫然となっていた。ホールの外へ出たとき、一瞬歩道上で学生たちの笑い声がおこり、その中で重い傘をふりまわしている一本の腕が上下するのが見えた。やがて、うめき声と拍手かっさいの中から、チャレンジャー教授の電気自動車がすべりだし、わたし自身は、グラディスのことと自分の将来に関する思いで頭をいっぱいにしながら、リージェント・ストリートのにぶ色の街燈の下を歩んでいた。
突然だれかがわたしの肘(ひじ)に手を触れた。ふりかえってみると、わたしと一緒にこの未知の探検行に志願した長身の人物の、ユーモラスな人を人とも思わぬ目があった。
「マローン君、でしたな」彼は言った。「おたがいこれからは仲間同士です。ぼくの家はこの通りを行ったところ、オールバニーなんですよ。よかったら三十分ほど時間をさいてくれませんか。きみにどうしても話したいことが二、三あるんです」
六 神の鞭 ジョン・ロクストン卿

ジョン・ロクストン卿とわたしはヴィゴー・ストリートへ折れて、有名な貴族長屋のうす汚れた門をくぐった。くすんだ長い廊下のはずれで、わたしの新しい友人はとあるドアをあけて電燈のスイッチをひねった。着色したシェードを通して輝く多くの電燈の明りが、広々とした部屋全体を赤っぽい色で照らしだした。戸口に立って周囲を見まわすうちに、この部屋が男くささと結びついた並々ならぬ居心地のよさと優雅さの印象を与えることに気がついた。金持のぜいたくな趣味と、独身者の気のおけない乱雑さが入りまじって、そこかしこに感じられた。高価な毛皮とどこか東洋のバザールで買いもとめたらしい不思議な虹色(にじいろ)のじゅうたんが、無造作に床に散らばっている。その方面にかけてはずぶの素人(しろうと)であるわたしの目にも、高価な貴重品だとわかる絵や版画が、四方の壁に所せましとばかりかかっている。ボクサーや、バレリーナや競争馬のスケッチがあるかと思えば、そのとなりには肉感的なフラゴナールや勇壮なジラルデや夢見るようなターナーがかかっているという具合だ。だがこれらの装飾品にまじって、いくつものトロフィーが飾られており、ジョン・ロクストン卿が現代有数の万能スポーツマンであることをわたしに思いおこさせた。マントルピースの上にたがいちがいに飾られたダーク・ブルーとチェリー・ピンクのオールは、彼がオクスフォード出でレアンダー・クラブの一員であることを物語っているし、その上下にある細身の剣と拳闘グラヴは、持主がこの二つの競技において優勝した記念だった。部屋の一方の羽目板には、すばらしい狩猟の獲物の首がずらりと並び、最上段で尊大な下あごをだらりと垂れているアフリカのラド・エンクレーヴ産の珍しい白サイも含めて、世界各地で仕とめた逸品ぞろいだつた。
高価な赤いじゅうたんの中央に、黒と金色のルイ十五世ふうのテーブルがあった。このりっぱな骨董(こっとう)品も、今はグラスのしみや葉巻のやけこげで無残に痛めつけられている。テーブルの上には煙草(たばこ)の入った銀の盆とつやつやに光った酒びん立てがあり、それと近くにあるサイフォンで、この部屋のあるじは物も言わず丈の高いグラスに飲物を作りはじめた。わたしに手ぶりで肘かけ椅子をすすめ、飲物をそばに置いてから、彼は一本の長い、口当たりのよいハバナ葉巻をさしだした。それからわたしと向かい合って腰をおろし、奇妙な輝きをおびた無遠慮な目――氷河湖のような冷たいライト・ブルーの光をたたえた目で、じっとわたしを見つめた。
軽やかな葉巻の煙を通して、すでに写真で何度も見たことのある顔を、あらためて詳細に観察した。いかめしくそりかえった鼻、くぼんだ頬、てっぺんの薄くなった色濃(こ)い赤毛、ちぢれた男性的な口ひげ、しゃくれたあごの小さく刈りこんだ攻撃的なひげ。ナポレオン三世のようなところもあればドン・キホーテのような感じもするが、それでいてまぎれもないイギリスの田舎紳士、すばしこく、活動的で、猟犬や馬を愛するスポーツマン・タイプだった。肌は太陽と風のおかげで、高価な植木鉢のような赤色だった。眉毛はふさふさと垂れさがり、もともと冷たい目に恐ろしさを与え、しかも意志の強そうな、しわの刻まれた額によってその印象は倍加されていた。痩せてはいるが骨組みはがっちりしており、実際、イギリス人でもこれほど底力の出せる人はめったにあるまいということを、実地に示したこともしばしばあった。身長は六フィートを少し上まわるのだが、異常なほど盛りあがった肩のせいで、実際より低く見えた。以上が、今わたしと向かい合って、荒々しく葉巻を噛みながら、無言でじっとわたしを見つめて妙に落ちつかない気持にさせている、有名なジョン・ロクストン卿の印象である。
「ところで」と、ようやく彼は口を開いた。「われわれも思いきったことをしたもんだね、お若いの(ヤング・フェラ・ラッド)」(彼はこの『お若いの』というあまり耳なれない言葉を、一語であるかのように言ってのけた)「まったくのところ、二人とも向こう見ずな点では似た者同士だ。おそらくきみも会場へ到着したときには、まさかこんなことになると思ってはいなかったろうね」
「考えてもみなかったです」
「こちらもご同様だ。考えてもみなかった。ところが今は二人とも首までどっぷりつかってしまった。ぼくなんか三週間前にウガンダから帰ってきて、スコットランドに家を一軒借りたばかりで、家賃の契約や何もすませてしまったところさ。実際われながら不可解だよ。きみのほうはどうなんだい?」
「ぼくの場合は、仕事と大いに関係がありましてね。ぼくは『ガゼット』の記者ですから」
「それは知ってる――志願して出たとき、きみがそう言ってたからね。ところで、もしよかったらきみに頼みがあるんだが」
「なんなりと喜んで」
「危険が伴っても?」
「どんな危険です?」
「それが、危険というのはバリンジャーなんだ。きみも聞いたことがあるだろう?」
「いや、初耳です」
「おやおや、きみはどこで育ったんです? サー・ジョン・バリンジャーといえばスコットランド随一の騎手なんだぜ。ぼくなんかせいぜいうまくいって互角に太刀打ちできるかというところで、障害競走になると全然歯がたたん。ところで、彼が練習以外のときは酒びたりだということが、今や公然の秘密なんだ。びっくりするような酒量だと、彼自身が言っている。このところ火曜日というと錯乱状態になって、悪魔のように荒れ狂うんだ。彼はちょうどこのま上に住んでいる。医者はみな何か食べなければ手のほどこしようがないと言っているが、なにしろ本人はピストルをかたわらに置いてかけぶとんの上に寝ころがり、そばへ近寄るやつには弾丸を六発ぶちこんでやると宣言しているもんだから、召使どももストライキをおこす始末なんだ。ジャックは腕っぷしが強いうえに拳銃の名手ときている。しかし、グランド・ナショナルの優勝騎手にそんな死にかたをさせるわけにもゆくまいが――きみはどう思う?」
「じゃ、どうしようというんですか?」
「きみとぼくで不意打ちしたらどうかと思うんだ。彼はおそらくうつらうつらしているだろうから、悪くっても一人が怪我(けが)をするだけで、その間にもう一人が取りおさえられる。枕カバーを彼の両腕にまきつけてしまえればしめたもんだ。あとは電話をかけて胃ポンプをとり寄せ、命の綱の夕食を無理にでもとらせるという寸法さ」
前ぶれもなしにいきなり持ちかけられたにしては、かなり危険な仕事だった。自分が人並み以上に勇敢な人間だとは思わない。おまけにアイルランド人特有の想像力のせいで、未知の事柄に対すると実際以上に恐ろしく感じる傾向がある。しかしその反面、卑怯者と呼ばれることを極度に恐れながら育ってきた。勇気を疑われるぐらいなら、歴史書に出てくるフン族のように、断崖からとびおりるほうがはるかにましだと思う。それでいて、その行為を駆りたてるのは、実は勇気ではなくて自尊心と恐れなのだ。そんなわけで、頭上の部屋にいるアル中の姿を想像するだけで尻ごみしたくなったが、せいいっぱい無造作なつくり声で、今すぐでも結構ですと答えていた。ロクストン卿がなおも危険について話すのを聞くうちに、わたしは妙に落ちつかなくなってきた。
「話を聞いても危険が減るわけじゃない」わたしは言った。「行きましょう!」
われわれは腰をあげた。するとロクストン卿は、くっくっと親しそうに笑って、わたしの胸を二度三度軽く叩き、やがてふたたび椅子に押し戻した。
「よかろう、坊や――きみなら大丈夫だ」と彼は言った。
わたしは驚いて相手の顔を見た。
「ジャック・バリンジャーの世話は、今朝ぼく自身がやってのけたよ。キモノの裾に一発くらって穴があいたが、彼の手がふるえていたおかげで助かった。ちゃんと拘束服を着せたから、一週間もすれば全快だろう。気を悪くしないだろうね、マローン君? きみとぼくの間には深いつながりができたわけだが、今度の南アメリカ行きはなかなかの大仕事だと思っている。そこで、同じ仲間なら信頼のおける人物をと考えたわけだ。そのためにきみをここへ連れてきたんだが、きみは見事合格した。なにせあのサマリー老人は最初から世話をやいてやらなきゃならんだろうから、きみもぼくも責任重大というわけだ。それはそうと、きみはアイルランド代表ラグビー・チームの選手候補になっているあのマローン君ですか?」
「たぶん補欠ですよ」
「どこかできみの顔を見たことがあるような気がする。そうだ、対リッチモンド戦できみがトライをあげたとき、ぼくは試合を見ていた――あのシーズンを通じて最高のスワーヴだったよ。ぼくはラグビーの試合だけは事情が許すかぎり見ることにしている。あれは人類が考えだした最高に男性的なゲームだからね。しかし、スポーツの話をするためにきみを誘ったわけじゃない。仕事の打ち合わせにかかろう。『タイムズ』の一面に出船表がでている。来週水曜日にパラ(ブラジル北部の港)行きのブース汽船が出る。教授ときみの都合さえよければ、これに間に合わせられると思うが、どうかな? よろしい、教授と打ち合わせしておこう。ところできみの装備は?」
「社のほうで用意してくれるでしょう」
「射撃はできるかね?」
「まあ国防義勇軍の標準というところですか」
「なんてこった! そんなにお粗末なのかい?若い連中はどうして射撃をおぼえようとしないんだろう。ハチの巣の世話をするだけなら、針のないハチでも用は足りるというわけか。だがそんなことじゃ、だれかが蜜をくすねにやってきたとき、いつかは恥をさらすことになるよ。南アメリカでは、教授が気ちがいか嘘つきでないかぎり、帰るまでにいろんな危険にもでくわすだろうから、少なくとも銃をまっすぐに構えるぐらいはできたほうがいい。どんな銃を持っているのかね?」
彼は樫材の戸棚に歩み寄ってさっと扉をあけた。オルガンのパイプのような、ピカピカ光る二連銃の銃身がちらと目についた。
「ぼくの銃の中から、きみに貸してあげられるやつがあるかもしれん」と彼は言った。
彼は美しいライフル銃を一梃(ちょう)ずつとり出して、カチッと音をさせながら銃身をあけたり閉じたりしたあと、まるで子供をあやす母親のような手つきでやさしく撫でながら元へ戻した。
「これはブランド製〇・五七七速射銃だ。こいつであの大物を仕止めたんだよ」と言って、彼は白サイを見あげた。「あと十ヤードで、こっちがやつの獲物になるところだった。


この円錐形の弾丸こそ わが運命のよりどころ、
げに弱き者の 正当なる味方なり。


ゴードンを知ってるだろうね。彼は馬と銃の詩人で、その二つながら達人だった。ところで、これも役に立つ銃だ――〇・四七〇口径、望遠、ダブル・エジェクターつき、射程距離は直射で五十三フィート。三年前ペルーの奴隷監督どもに対して使った銃だ。あの国では神の鞭のように恐れられたものだった。もっとも、どの議会報告書にもこの話は出ていないがね。人間だれしも人間の権利と正義のために立ち上がらなくてはと感じるときが何度かあるんだよ、マローン君。そうしないと一生うしろめたい思いにつきまとわれる。だからこそぼくも自力で小さな戦争を戦ってきた。宣戦布告から戦闘行為、そして終結まで何もかも自分でやってのけた。この傷痕はみな奴隷殺しと闘ったときにできたものだ――どうだい、たくさんあるだろう? 一ばん大きなやつは連中の親分株のペドロ・ロペスと闘ったときの名残りだが、あいつはプトマヨ川の黒い流れの中で殺してやった。さあ、きみに向きそうなやつがあったぞ」彼は美しい褐色と銀色のライフルをとり出した。「台尻にはゴムの肩当てがついているし、命中率も高く、弾倉には薬莢を五個装填できる。これなら命を託せるよ」彼はその銃をわたしに手渡して樫(かし)の戸棚をしめた。それから椅子に戻って、「ところできみはチャレンジャー教授についてどんなことを知っている?」
「今日はじめて会ったばかりですよ」
「ぼくもそうなんだ。われわれが二人とも知りもしない人間から、内容のわからない命令を受けて船に乗るなんて、妙だとは思わないかね?彼は思いあがった男らしかった。仲間の科学者には好かれていないようだった。だいたいきみがこの問題に興味を持ったいきさつは?」
わたしが午前中の経験をかいつまんで話すのを、彼は熱心に聞いていた。やがて南アメリカの地図を引っぱりだしてテーブルに拡げた。
「彼がきみに話したことは全部本当らしい。いいかね、ぼくがこういう言い方をするのは、まだ話したいことがあるからだ。南アメリカはぼくの好きな土地だし、ダリエン(パナマ地峡の旧名)からフエゴ諸島(アルゼンチン南端の諸島)まで縦断してみたまえ、そこは地球上で最も雄大で、豊かで、驚異に満ちた土地だ。人々はまだこの土地のことを知らないし、将来どうなるかもわかっていない。ぼくはこの大陸をはしからはしまで歩いてみたし、さっき話した奴隷商人との闘いのときには、あそこで二度も乾期をすごしたことがある。で、その間に二度もこれと同じような話を聞いた。インディアンの伝説か何かだが、その裏にはきっと何かがありそうだ。あの地方のことをよく知れば知るほど、何があっても不思議はないという気がしてくる――実際、どんなことでもだ。原住民が利用する細い水路があるだけで、あとはまったくの暗黒だ。さて、ここマット・グロッソ(ブラジル西部の大密林・草原地帯)は」――彼は葉巻で地図の一部をなぞった――「つまり三国の国境が接するこのあたりは、何がおこっても驚かないほどの神秘地帯だ。今晩教授も言ったように、ヨーロッパがすっぽり入ってしまうような大森林の中を五万マイルの水路が流れている。きみとぼくがスコットランドとコンスタンチノープルほどはなれた場所にいたとしても、それでもなお同じブラジルの大森林の中にいることになるのだ。人間はこの巨大な迷路のここかしこに、ポツリポツリとか細い道を作っているにすぎない。なにしろ同じ川の標高が場所によって四十フィートも異なり、国の半分は足を踏み入れることもできない沼沢地なんだ。こんな国だから何か新しい、不思議なことがあったとしてもいっこうにおかしくない。それをわれわれが最初に発見してどこが悪い? それに」彼は痩せた奇妙な顔を輝かしてつけ加えた。「ここにはいたるところスポーツ的なスリルがある。ぼくは古ぼけたゴルフボールみたいなもんで、とっくに白ペンキがはげ落ちてしまった。人生というプレイヤーがこのボールをいくら強くひっぱたいても、もう痕跡さえ残らないんだ。しかし、スポーツ的なスリルというやつは人生の塩味だ。これがあればもう一度生きるに価する。今の生活はあまりに口当たりがよくて、退屈で安楽すぎるからね。広漠たる荒野さえ与えてくれれば、銃を手に持って価値あるものを探し求めよう。これまでに戦争も障害競争も飛行機もやってみたが、大酒飲んで酔っぱらった夜の夢に出てくるようなこの猛獣狩りだけは、まだ一度も経験したことのない楽しみだよ」彼はその日を予想してうれしそうに笑った。
たぶんわたしはこの新しい友人の紹介に少し手間をとりすぎたかもしれない。しかしこれからかなりの期間を仲間としてすごすのだから、一風変わった人柄や、話し方、考え方の特徴なども含めて、できるだけ最初の印象を忠実に記すよう努力した。わたしは講演会の結果を報告する必要にせまられて、ようやく彼に別れを告げた。腰をあげたとき、彼はピンクの明りの中に坐って、お気に入りのライフルに油をくれながら、未来の冒険のことを考えてひとり笑いをしていた。危険に直面したとき、相棒としてこれほど冷静で勇敢な人間はイギリス中探しても見当たらないだろうと、わたしは確信した。
その夜、異様な事件の連続でくたくたに疲れきったわたしは、部長のマッカードルと一緒に腰をおろして、事の次第をつぶさに報告した。マッカードルはこれを大事件だと判断して、翌朝主筆のサー・ジョージ・ボーモントに話すことにした。とりあえずわたしが探検行の詳細をマッカードル宛ての連続書簡の形で書き送り、それを『ガゼット』に連載するか、あるいは一時さしとめておいて、あとでチャレンジャー教授の希望する形で発表することだけを申し合わせた。未知の国への道案内とひきかえに、教授がどんな条件を示すかがわからなかったからである。電話でその点を問い合わせてみたが、新聞に対する悪口を聞かされ、出航予定を連絡してくれれば出発までに道順を書いたものを渡すという以外、何一つ要領をえなかった。再度の問い合わせにはついに教授の返事さえ得られず、それでなくてさえ癇癪(かんしゃく)をおこしかけている主人を、これ以上怒らせないでくれという意味の苦情を、奥さんからちょうだいしただけだった。その日遅く三度目の電話をかけたところ、恐ろしい物音につづいて、中央交換台からチャレンジャー教授の受話器がこわれたという連絡があった。われわれは仕方なく教授との連絡を断念した。
さて、忍耐強い読者よ、わたしはこれ以上みなさんに直接語りかけることができない。これから先きは(もしこの話の続きがみなさんのもとに達するとしての話だが)『ガゼット』を通じて知っていただくより他はない。古今を通じて最も注目すべき探検旅行となるかもしれないこのたびの出来事の発端を、わたしは編集長宛てに書き送ることにする。そうすればかりにわたしがイギリスへ戻らなくても、この事件が持ちあがった事情の記録だけは残る。わたしは今この最後のくだりをブース汽船の『フランシスカ号』の談話室で書いているが、やがて水先案内人を通じてマッカードル氏の保管にゆだねられるものだ。最後にこのノートを閉じるに当たって、もう一つだけ目に浮かんだ光景を描かせていただきたい。それはこの旅にたずさえて行く祖国イギリスの最後の思い出だ。晩春のじめじめした霧の深い朝で、冷たいこぬか雨が降っていた。雨に濡れて光るレインコートを着た三人の男が、巨大な客船のタラップに向かって歩いて行く。その船からは出帆信号旗がひらめいている。彼らの前を、トランク、梱包、銃器ケースなどを山積みした手押車を押しながら、ポーターが歩いて行く。長身の憂鬱そうなサマリー教授は、早くもこうなったことを深く後悔しているかのように、首うなだれ足を引きずるようにして歩いている。ジョン・ロクストン卿はきびきびした足どりだ。痩せた精力的な顔が、ハンチングとマフラーの間で微笑している。わたし自身について言えば、準備に忙殺されて、別れの悲しみを忘れていられたのは幸いだった。それは疑いもなくわたしの態度にあらわれていたにちがいない。われわれがちょうど船までたどりついたとき、突然背後で叫ぶ声が聞こえた。見送りを約束していたチャレンジャー教授だった。癇癪持ちのあから顔で、息をはずませながら追っかけてきた。
「いや、結構」彼は言った。「船には乗らんほうがよろしい。ほんの一言伝えるだけだから、ここでも用は足りる。今度の旅行のことで、わたしに貸しを作ったなどとは夢にも思わんでくれたまえ。わたしにとってこれはまったく取るに足らない問題であり、かりにも感謝の気持など抱いておらぬことを承知しておいていただきたい。真実はあくまで真実であって、諸君の報告いかんで変わるようなものではない。ただ、それが愚かな大衆の感情を刺激し、好奇心を満足させはするかもしれんが。道順はこの封筒の中に入っている。アマゾン河畔のマナウスという町に着いたら開封してもいいが、表に書いてある開封の日時は厳重に守ってもらいたい。おわかりかな? 諸君の名誉にかけて、約束はたがえんようにしてくれたまえ。ただし、マローン君、きみの通信はいっこうにさしつかえんよ、事実を公表することがきみの旅行の目的なんだからね。しかし目的地は伏せておくこと、帰国するまで公表はさし控えること、これだけは承知しておいてもらいたい。ではお元気でな。きみは、不幸にしてきみが従事するいまわしい職業に、わしが抱いていた反感を、いくぶんなりともやわらげてくれた。それからジョン卿、おそらくあなたは科学の門外漢だろうと思う。だが、前途に横たわるすばらしい猟場は、この上ない贈物となるだろう。きっと『狩猟界(フィールド)』あたりに、突進するダイモルフォドンを仕止めた手柄話でも書くことになる。それからサマリー教授もお元気でな。まあ今からでは無理かと思うが、もし万一自己改善の能力があるとすれば、あなたもロンドンへ帰るころは少しは賢くなっていることだろう」
言い終わって、彼はくるりと背を向けた。間もなくデッキの上から、彼のずんぐりした姿がひょこひょこ揺れながら、列車に乗るために遠ざかって行くのが見えた。さて、船は今ドーヴァー海峡をすぎたところだ。手紙を集める最後の鐘が鳴って、水先案内人が下船する時間だ。あとは「昔ながらの船路にそって、水平線のかなたに消えて行く」のみだ。あとに残してきたすべてのものに、神よ祝福をたれたまえ。そしてわれらを無事帰国させたまえ。
七 明日は秘境に入る

わたしは、ブース汽船上のぜいたくな船旅や、一週間におよぶパラ滞在の話で、この手記の読者を退屈させるつもりはない(ただし、装備の点で絶大な援助を惜しまなかったペレイラ・ダ・ピンタ・カンパニーに対して、ここに感謝の念を記しておく)。また、川の旅についてもごく簡単に触れるだけにとどめよう。われわれは、大西洋を横断した『フランシスカ号』よりほんの少し小さいだけの汽船で、広い、流れのゆるやかな泥水の川をさかのぼった。ついにオビドス河峡を通過してマナウスの町に着いたが、ここでは英伯貿易会社の代表ショートマン氏のおかげで、田舎宿のわびしさから救われた。氏の手厚いもてなしを受けながら日を送るうちに、チャレンジャー教授の指定した開封の期日がついにやってきた。その日の驚くべき事件を語る前に、二人の同行者と南アメリカへきてからの知り合いについて、もう少し詳しく触れておきたい。以下わたしは思いのままに語るつもりだから、マッカードル氏よ、公表に際してはあくまでこれを資料として、あなたの思い通りの形に刈りこんでいただきたい。
サマリー教授の科学的識見は広く一般に認められているから、わたしが改めてくりかえすまでもないだろう。とにかく最初に受ける感じよりも、この種の危険な探検に向く人物であることは確かである。長身痩躯(そうく)、筋だらけの肉体は、まったく疲れるということを知らず、無愛想で、皮肉っぽく、時には、まったく冷淡なその態度は、どんなに環境が変わっても全然影響されるようすがない。六十六歳という年齢にもかかわらず、時おり辛い場面に出会ってもついぞ泣き言を洩らさなかった。わたしは彼がこの探検に加わったことを内心厄介に思っていたが、実際にはわたし自身にも劣らない忍耐力の持主であることを認識した。性格的にはいうまでもなく辛辣な懐疑派である。チャレンジャー教授はまちがいなくペテン師であり、われわれはばかげた、無駄骨折りに乗りだしてしまったのだから、南アメリカでは失望と危険にさらされ、イギリスでは世間一般の笑いものにされるだけだという信念を、最初から隠そうともしなかった。彼はむきになって痩せた顔をゆがめ、まばらなやぎひげをふりたてながら、サウサンプトンからマナウスまで終始このことばかり言いつづけたのである。しかし上陸以来周囲の昆虫や鳥類の美しさと多様性から、ある程度の慰めを得るようになった。科学への情熱だけは、疑いもなく本物なのである。昼間は銃と昆虫網を持って森の中をとびまわり、夜は採集した無数の標本の整理に没頭している。小さな癖はいろいろあるが、中でも服装に無関心なこと、不潔なこと、時おり放心状態におちいること、煙草好きで短いブライヤーのパイプを四六時中くわえていることなどが目立つ。若いころ何度か科学探検隊に参加した経験もあり(ロバートソンのパプア島探検にも加わった)、野営やカヌーも別に珍しくはないらしい。
ジョン・ロクストン卿にもサマリー教授と共通するところはあるが、ほかの点では正反対と言っていい。年齢は二十歳も下だが、痩せて骨ばった体つきは教授によく似ている。容貌については、ロンドンに残してきた手記の一部でたしか説明したと思う。彼は極端に几帳面(きちょうめん)で清潔好きときており、常に綾織(あやお)りの白いスーツを一分の隙もなく着こなして茶の長靴をはき、少なくとも一日一回はひげを剃る。行動派の例に洩れず口数が少なく、いつも自分の考えを追っているが、質問に答えたり会話に仲間入りするときは反応がすばやく、風変わりでユーモラスな言葉で人を笑わせる。彼の世界知識、とりわけ南アメリカに関する知識の深さは驚くほどで、この旅行の成功をかたく信じており、サマリー教授の嘲笑にもたじろぐようすはない。話し方も態度も穏かだが、その輝く青い目の底にはすさまじい怒りと断固たる決意がひそんでいる。ふだんは手綱をひきしめているだけに、いったんそれが爆発したときの威力は恐るべきものである。ブラジルおよびペルーでの功績についてはめったに話さないが、彼を自分たちの守護者のような目で眺める川ぞいの原住民たちの喜びようは、わたしにとっても予想外だった。原住民が赤い酋長(レッド・チーフ)と呼ぶ彼の功績は、彼らの間では伝説になっているが、わたしが知りえたかぎりでも、まさに驚くべき事実だった。
今から数年前、ジョン卿がペルー、ブラジル、コロンビア三国のあいまいな国境線にはさまれた無人地帯を訪れたときのことである。この広大な地域には野生のゴムの木が茂り、コンゴの場合と同じように、土民たちにとっては、昔ダリエンの銀山でスペイン人に監視されながら強制労働に従ったころに匹敵するわざわいの種となった。一握りの悪い混血スペイン人が国を支配し、手下のインディアンに武器を与え、ほかの者を奴隷に仕立てて、ゴムを採集し川を下ってパラまで輸送する非人道的な苦役を強制していた。ジョン・ロクストン卿はこのあわれな犠牲者たちのために支配者たちをいさめたが、結果は無駄骨で、脅迫と侮辱を受けただけだった。そこで奴隷監督の親王であるペドロ・ロペスに正式に宣戦布告し、逃亡奴隷の一団を組織して武器を与え、作戦を指揮したすえ、ついにこの悪名高き混血スペイン人をみずからの手で殺して彼の組織を壊滅させた。
やわらかい声で話すこののんびりした態度の赤毛の男が、アマゾンの川ぞいでは深い興味をもって眺められていたとしても不思議ではない。もっとも、彼によって呼びおこされる感情には、当然のことながら土民の感謝とそれに劣らず激しい搾取階級への怒りが混り合っていた。彼のかつての体験から得られた利点の一つは、ブラジル全土で通用している、ポルトガル語一、インディアン語二の割合で混った特殊なヘラル語を自由自在に話せることだった。
ジョン・ロクストン卿が南アメリカ気ちがいであることは前にも述べた。彼はきわめて情熱的にこの偉大な国を語るのだが、その情熱は伝染性のものらしく、何も知らないわたしの関心をとらえ、好奇心を刺激した。彼の話の魅力を再現することはとてもできそうにない。正確な知識と生々しい想像力が結びついた独特の語り口は、ついにサマリー教授の痩(や)せた顔からも皮肉で懐疑的な冷笑を消してしまったほどである。この巨大な川がかくも急速に探検されながら(ペルーの征服者たちは、事実この川伝いに全大陸を横断した)、常に変貌してやまない両岸の背後に横たわるものは、結局何一つわかっていないと、川の歴史を語ってくれもした。
「あすこに何があると思う?」彼は北のほうを指さして叫ぶ。「森と沼地と人跡未踏のジャングルだ。そこに何が棲(す)んでいるかはだれにもわからない。南には何がある? まだ白人が行ったことのないじめじめした森だ。周囲はどっちを向いても未知の世界ばかりなのだ。狭い川の部分をのぞけば、ほかに何がわかるだろうか?この国でありうることとありえないことのちがいを知っている人間などいやしない。チャレンジャー教授がまちがっているなどと、だれが断言できるだろうか?」この直接のあてこすりに、サマリー教授はふたたび頑固な冷笑をとり戻して、小さなブライヤーのパイプのもうもうたる煙のかげで、無言のうちに承服しがたく首をふりながら坐っている。
ひとまずこのへんでやめておこう。わが二人の白人同志は、わたし自身もそうだが、いずれこの手記が先きへ進むにつれて、その性格と能力をもっとはっきり表わすようになるだろう。すでにわれわれは何人かの従者を傭い入れてある。彼らもやがてはわれわれに劣らず重要な役割を果たすことになるだろう。一人はサンボという大男の黒人で、これは馬のようによく言うことをきき、頭もよい黒いヘラクレスだ。われわれはパラの汽船会社の推薦で彼を傭った。サンボはこの会社の船で働いているうちに、片言の英語をおぼえたのだ。
上流からアメリカ杉の荷を運んできた混血のゴメスとマヌエルも、同じくパラで傭った。この二人もひげをはやした猛々(たけだけ)しい黒人で、プーマのようにすばしこくしなやかだった。われわれがこれから探検するアマゾンの上流育ちであることに目をつけて、ジョン卿が彼らを傭う気になった。二人のうちゴメスのほうは流暢な英語が話せるというもう一つの利点をそなえていた。この三人は一か月十五ドルの手当てで、召使、料理番、漕(こ)ぎ手を兼ね、そのほかどんな用事でも引き受ける約束だった。このほかわれわれは、川ぞいの部族の中で魚釣りと船を操ることにかけては一番腕のたしかな、ボリビアのモーホー族の男を三人傭い入れた。彼らの頭株は部族の名をとってモーホーと呼ぶことにし、ほかの二人はそれぞれホセ、フェルナンドと名付けた。こうして三人の白人、二人の混血、一人の黒人、三人のインディアンからなる小規模な探検隊は、奇妙な調査に出発すべく指示を待ってマナウスで待機していた。
退屈な一週間がすぎて、ついに指定の日時がやってきた。マナウスの町から二マイルほど奥に引っこんだところにあるショートマン氏のサンタ・イグナシオ館の、日よけをおろした居間を想像していただきたい。窓の外のギラギラ照りつける黄色い日ざしの中には、シュロの木がそれ自身に劣らず黒い、くっきりした影を落としている。静かな周囲の空気には、はてしない昆虫のうなり声が満ちている。眠気をもよおすような低い蜂(はち)の羽音から、キィーンというようなかん高い蚊(か)の羽音まで、何オクターヴにもおよぶ熱帯特有のコーラスだ。ヴェランダの向こうには森を切りひらいた狭い庭があって、サボテンの生垣(いけがき)に囲まれ、花盛りの茂みで飾られている。花のまわりでは大きな青い蝶(ちょう)や小さなハチドリが、ひらひらとびまわったり、火花のように弧を描いてさっと舞いあがったりする。室内のわれわれは、封筒ののっている籐のテーブルを囲んで坐っていた。封筒の表にはチャレンジャー教授の角ばった筆蹟で、つぎのような注意が書かれていた。


『ジョン・ロクストン卿一行への注意事項。七月十五日正午、マナウスにて開封すべし』


ジョン卿はテーブルの上に自分の時計を置いた。
「まだ七分ある」彼は言った。「教授もずいぶん几帳面な人だな」
サマリー教授が痩せた手で封筒を持ちながら、皮肉な笑いを浮かべた。
「今すぐ開封しようが七分後だろうがどうというちがいはあるまい」彼は言った。「これだってあの男のもったいぶった無意味なやり口の一部にすぎんさ」
「しかし、約束は約束です」と、ジョン卿、「主役はあくまでもチャレンジャー教授であって、われわれは彼の好意でここまでこられたのだから、指示にそむいて開封するのはほめられたことじゃない」
「ごりっぱなことだ!」教授は苦りきって叫んだ。「ロンドンにいるときからばかばかしいと思ってはいたが、時がたつにつれてなおのことそう思えてきた。この手紙に何が書いてあるかは知らんが、少しでもあいまいな点があったら、わしはつぎの船で川を下ってパラで『ボリビア号』に乗ってしまいたいくらいだ。考えてみれば、わしには気ちがいの主張をやりこめるために走りまわるよりもっと大事な仕事がある。さて、ロクストン君、どうやら時間のようだよ」
「そのようだ」と、ジョン卿、「ひとつ笛でも吹いたらいかがです」彼は封筒を持ちあげてペンナイフで開封した。折りたたんだ一枚の紙を取りだして、注意深くテーブルの上に拡げた。ただの白紙だった。裏を返してみたが、やはり何もない。われわれは当惑して顔を見合わせた。やがてその沈黙はサマリー教授の調子はずれな嘲笑によって破られた。
「これはインチキを白状したも同然だ」彼は叫んだ。「これ以上の証拠は必要ない。あのペテン師め、とうとうかぶとを脱ぎおった。あとは帰国して彼の詐欺師(さぎし)ぶりを天下に公表するだけだ」
「あぶりだしインクじゃないですか?」とわたしは言った。
「まさか!」と言いながらも、ロクストン卿は紙を陽にかざしてみた。「自分をごまかしてみてもはじまらんよ、きみ。この紙には最初から何も書かれなかったのだ、ぼくが保証するよ」
「おじゃましていいかね?」と、ヴェランダのほうから大きな声が響いてきた。
だれも気がつかない間に、ずんぐりした人影が陽のあたった庭に忍びこんでいたのだ。あの声! あの幅広い肩! われわれが驚いて口もきけずにとびあがったとき、丸い、あざやかなリボンのついた子供っぽい麦わら帽をかぶったチャレンジャーが、両手をポケットに入れ、ズック靴を一足ごとに気どって上に向けながら目の前の空地に姿を現わした。彼は顔を上向きかげんにして、アッシリアふうのりっぱなひげと、もって生まれた尊大なまぶたと意地の悪い目を、金色の光の中に浮かびあがらせながら立っていた。
「どうやらほんのちょっと遅かったようですな」彼は時計を見ながら言った。「この封筒を渡したとき、実を言うと、諸君にそれを開封させるつもりはなかった。指定の時間前に自分で現われるつもりだったからね。不幸にして未熟な水先案内人と邪魔っけな砂洲のせいで到着が遅くなってしまった。おかげでサマリー教授あたりに、だいぶ悪口を言われたのとちがいますかな?」
「正直言って」ジョン卿はいくぶん非難を含んだ声で言った。「あなたが姿を現わしてくれたのでほっとしましたよ。いくらなんでもこれじゃ任務の終わるのが早すぎますからね。もっとも、なぜこんな不可解な真似をするのか、いまだに納得はできませんがね」
チャレンジャー教授は答えるかわりに室内へ上がりこみ、わたしやジョン卿と握手をかわした。サマリー教授には重々しい尊大さをただよわせて会釈したあと、柳枝製の椅子にどっかと腰をおろした。椅子はチャレンジャーの重みでギシギシ軋(きし)んだ。
「出発準備はできているかな?」と、彼はたずねた。
「明日なら発てます」
「ではそうしよう。わしという申し分のない案内人がいる以上、もう地図の必要はない。そもそもわしは最初からこの調査の指揮をとるつもりだった。今にわかるだろうが、どんなに詳しい地図でも、わしの情報と案内にはかなうまい。わしが小細工をろうした封筒の一件だが、ああでもしなかったら、諸君と一緒に出発することを強要されて、不愉快な思いをしていたことだろう」
「わしは一緒の旅などごめんこうむるよ!」とサマリー教授がいきまいた。「大西洋を渡るほかの船があるかぎりはな!」
チャレンジャーは毛むくじゃらの手をふって彼をあっさり片づけた。
「良識ある諸君のことだから、きっとわしの反対を耐えしのんで、結局わしが自分の思い通りに行動し、わしの存在が必要となった瞬間に姿を現わすほうがずっとよいということに気がついてくれるだろう。その瞬間が今やってきたのだ。もう案ずることはない。諸君はかならず目的地に到達できる。これから先きはわしがこの探検隊の指揮をとることにするが、明朝早く出発できるよう今夜中に準備を完了しておいてもらいたい。わしの貴重な時間は無駄にできないが、おそらく諸君にしても程度のちがいこそあれその点に変わりはないだろう。だから、諸君が見にきたものを目の前に示すまでは、しゃにむに前進してもらいたい」
ジョン・ロクストン卿は川をさかのぼるために『エスメラルダ号』という大型蒸気船をチャーターしていた。気温は夏冬を問わず華氏七十五度から九十度の間を上下していて、さほどいちじるしい変化がなかったから、出発の時期は大して問題ではなかった。しかし雨量のほうは話が別だ。十二月から五月までが雨期に当たり、この間じょじょに増水して渇水期より水位が四十フィートも高くなる。そうなると水は岸にあふれ、広大な土地を呑みこんで沼沢地となり、この地方の言葉でガポという地域を作る。徒歩で渡るには深すぎ、船では浅すぎるという厄介な地域だ。六月に入ると減水がはじまり、十月から十一月にかけて最低水位に達する。したがってわれわれの探検も、本流および支流が程度の差こそあれ正常な状態にある乾期に予定されていた。
川の流れは一マイルの落差がわずか八インチ程度だから、きわめてゆるやかなほうだ。卓越風は東南の風だから、船の航行にこれほど都合のよい川はなく、帆船はペルー国境まで一気に進んで、それから流れとともに下ることになる。われわれの『エスメラルダ号』は優秀なエンジンをそなえているから、ゆるい流れを無視して、よどんだ湖水でも渡るようにどんどん進むことができた。船は三日間北西に向かって川をさかのぼった。河口から千マイルも上流のこのあたりでさえ、ほぼ中央から見る両岸がはるか遠くの水平線上の黒い影にしか見えないほど川幅が広い。マナウスを出発してから四日目に、合流点のあたりでは本流にさほどひけをとらないほどの川幅を持つある支流に入った。しかし、進むにつれて川幅は急速にせばまり、さらに二日後、とあるインディアン部落に到着した。チャレンジャー教授はここで上陸して『エスメラルダ』をマナウスへ帰すほうがよいと主張した。間もなく急流にさしかかるから、この船はすぐ役に立たなくなるというのだ。また、今や秘境の入口は近いから、その秘密をできるだけ人に知らせたくないのだとひそかにつけ加えた。そのため彼は、この旅行の道筋に関する正確な手がかりを絶対に公表したり、ほのめかしたりしないとわれわれに誓わせる一方、召使たちにもそのことを約束させた。わたしの手記でこの点が漠然としているのはそのためであり、いくつかの場所の関連性を示すわたしの地図や図版はみな正確だが、方位を用心深くちがえてあるから、それらを秘境への手引きとして利用してはならないことを、前もって読者諸君にご注意しておく。秘密にしておきたいというチャレンジャー教授の理由は、あるいは妥当であるかもしれないし、そうでないかもしれない。がともかくも教授は案内の条件を変えるぐらいなら探検そのものを中止するほうがいいとまで考えている以上、われわれとしてもそれを認めるよりほかはない。
われわれが『エスメラルダ』に別れを告げて、外界との最後のつながりを断ち切ったのは、八月二日のことだった。それ以来四日がすぎた。その間にわれわれはインディアンの大きなカヌーを二隻傭った。これはたいそう軽い材料(竹の枠を動物の皮でくるんだもの)でできているので、障害物に行き当たったときはかついで通ることができた。この二隻のカヌーに全部の荷物を積みこんだうえ、船旅の助手として二人のインディアンを傭った。アタカとイペトゥーというこの二人のインディアンこそ、チャレンジャー教授の前回の旅行のときお伴をした連中だという。彼らはまたこの前と同じ場所へ行くのだと聞いてふるえあがったようすだった。しかしこの地方の酋長の権限は絶対的なもので、交換する品物が彼の気に入れば、部族の者がとやかく言ってもはじまらない。
かくして明日は秘境に分け入る予定である。この手記は川を下るカヌーに託して送り届けられるが、これがわれわれの運命に関心を持つ人々への最後の連絡となるかもしれない。親愛なるマッカードル氏よ、これは打ち合わせ通り貴下宛てとなっている。削除するなり書き変えるなり、その他どうでもお好きなようにしていただきたい。チャレンジャー教授の確信ありげな態度から判断して――サマリー教授はあいかわらず懐疑的だが――彼が自分の主張を見事に証明するだろうこと、われわれは今このうえなく異様な体験の入口にいるのだということを、わたしはかたく信じている。
八 新世界の監視人

国の人々もおそらく共に喜んでくれるだろう。われわれはついに目的地に到着したが、少なくともこれまでのところ、チャレンジャー教授の言葉はすべて正しいことが証明された。実はまだ台地上に登ってはいないが、それは現に目の前にそびえ立っているし、今ではサマリー教授もかなりおとなしくなっている。彼がライバルの言を正しいと認めたわけではないが、今までのように口を開けばチャレンジャーに楯(たて)つくということもなくなり、概して沈黙を守りながら成行きを見守っているというところだ。ともあれ本筋に戻って、手記の続きにとりかかろう。途中で傭ったインディアンの一人が怪我をしたので、部落へ帰すことになった。この手紙を彼に託すわけだが、はたしてイギリスまで届くかどうかは疑わしい。
前便では『エスメラルダ』と別れたインディアン部落を出発するところまで報告した。この手紙は悪い知らせから書きはじめなければならない。というのは、今夜はじめての重大な争い(教授たちの絶え間ない口争いは例外として)がおこった。あるいは悲劇的な結末を告げるかもしれない。ゴメスという英語の話せる混血のことは前にも触れた。よく働くすなおな男だが、こういう連中によくありがちな好奇心という病気にとりつかれている。出発の前夜、われわれが計画について話し合っている小屋の近くに隠れて立ち聞きしていたらしい。ところが大男の黒人サンボに姿を見られた。犬のように忠実で、しかも混血に対して黒人共通の憎しみを抱いているサンボは、ゴメスをわれわれの前に引き立ててきた。ところがゴメスはいきなりナイフを抜いて切りつけた。サンボのばか力が片手でナイフを払いおとしたからよかったものの、さもなければグサリと一突きにされたところだった。この問題はどうやら説諭で片づき、二人は強制的に仲直りの握手をさせられて、なんとか丸くおさまりそうである。一方学者同士の反目は、あいかわらずつづいており、しかもかなり険悪だ。チャレンジャーが挑発的なことは認めざるをえないが、サマリーの毒舌も隅におけず、それがますます事態を悪化させる。ゆうべもチャレンジャーは、テムズ・エンバンクメントを歩いているとき川を見る気がしないと言いだした。自分が死んで行きつく先きを見るにしのびないからというのである。もちろん彼はウェスミンスター・アベイに葬られるものと確信しているのだ。サマリーは、皮肉な笑いを浮かべて、たしかミルバンク刑務所はとりこわしになったはずだがと応酬した。ところがチャレンジャーのうぬぼれは桁(けた)がちがいすぎて、サマリーの皮肉もいっこうにぴんとこないらしい。彼はただひげ面をほころばせて、子供でもなだめるような声で、「そうとも! そうとも!」とくりかえすばかりなのだ。実際この二人は子供も同然だ。一方が痩せっこけた意地の悪い子供だとすれば、もう一方は恐るべき尊大な子供――それでいて二人ともこの科学時代の代表的人物たるにふさわしい頭脳の持主なのだから始末が悪い。知能、性格、精神――人生というものをよく知るにつれて、これらがまるっきり別のものであることがわかってくる。
その翌日、われわれはこの注目すべき探検の事実上のスタートを切った。荷物はカヌー二隻に楽々と積めることがわかったので、教授たちはそれぞれのカヌーに分乗させて、平和を維持するために人員を六人ずつの二組に分けた。わたし自身はチャレンジャーの組に入った。彼はこの上なく上機嫌で、全身からやさしさを発散させながら、無言の法悦にひたっている人間のような表情で動きまわった。しかしわたしは教授がいつもこんな気分ばかりではないことを知っているから、晴天が突然雷雨に変わったとしてもほかの人ほど驚かない。彼と一緒にいると落ちつかないが、そのかわり退屈しないことも確かである。おそろしく変わりやすい風向きが、いつどの方角へ急転するかと、年中びくびくしていなくてはならないからである。
われわれは二日の間かなり大きな川をさかのぼりつづけた。川幅は数百ヤードもあり、水の色は黒っぽいが透明なので、たいていは川底まで見通すことができた。アマゾンの支流のおよそ半数はこの同類であり、残る半数には白っぽくにごった水が流れている。このちがいは流域の土質によるものだ。黒っぽいほうは植物性腐蝕土を、白っぽいほうは粘土層を示している。途中で二度急流にでくわしたが、二度とも半マイルほど陸地伝いに歩いて乗りこえた。両岸は原生林だったが、一度斧(おの)の入った森林よりはかえって入りこみやすく、カヌーをかついで楽に通り抜けることができた。この原生林のおごそかな神秘を忘れることができようか? 樹木の丈といい幹の太さといい、都会育ちのわたしの想像の範囲をはるかに越えており、頭上はるかかなたに拡がった枝が、ぼんやりかすんで見えるほどの高さまで、幹が壮大な列柱のようにそびえ立っていた。その枝はゴシックふうの曲線を描いて天に向かい、寄り集まって緑色の巨大な屋根を形作っている。時おりこの屋根を通して金色の陽光がさしこみ、まばゆい光の縞(しま)をなして荘厳なうす闇をつらぬいていた。厚く積み重なった木の葉が腐って、足音をやわらかく吸収してしまう中で、静寂がまるでウェスミンスター・アベイの薄明の中にでもいるようにわれわれの魂をひっそりと包み、チャレンジャー教授のどら声までがおとなしい囁(ささや)きに変わっていた。自分だけではこれらの巨木の名前一つわからないところだが、学者先生たちが西洋スギ、巨大なパンヤの木、アメリカスギなど、多種多様な植物の見分け方を教えてくれた。それらがこの大陸を、植物界からの自然の恵みを人類に与える最大の供給源たらしめる一方、動物界からの恩恵という点では一番立ち遅れさせている。鮮かなランや神秘的な色調の苔類がくろずんだ樹の幹のまわりでくすぶり、木洩れ陽が金色のアラマンダや、星形をした深紅(しんく)のタクソニアの花や、濃青のイポメアを明るく照らしだすとき、そこはまるで夢の中で見るおとぎの国だった。こうした深い森の中では、暗黒を嫌う生命が、常に光を求めて上にのびようともがいている。ごく小さなものまで含めて、ありとあらゆる植物が、より強く高い仲間にからみついて緑の表面に顔を出そうと身をよじる。蔓草(つるくさ)はすばらしい勢いではびこっているが、ほかの土地ではそういう習性を持たない植物、イラクサやジャスミンやジャシタラヤシまでが、暗がりからのがれるために西洋スギの幹などにからみついて上へのぼっていこうとする。われわれの前方に開いている壮大な緑のアーケードに、動物は一度も姿を現わさなかった。しかしはるか頭上で絶えず生物の動く気配がするところを見れば、蛇、猿、鳥、ナマケモノなどの住む変化に富んだ世界があるにちがいなかった。彼らは陽の当たる場所にいて、はるか下方をのろのろと進んでゆく黒い豆粒のようなわれわれの姿を、不思議そうに見おろしているかもしれない。夜明けと日没にはホエザルが叫び、オウムがけたたましい鳴き声を発したが、うだるように暑い日中は、遠い波の音のような昆虫の羽音が耳に入るばかりで、周囲の暗がりの中にしだいにかすんでゆく巨木のまわりでは、何一つ動きまわる気配もなかった。一度アリクイかクマのようながにまたの動物が、暗がりを不器用に走り抜けたことがあったが、わたしがこの巨大なアマゾンの森林で見かけた地上動物はこれっきりだった。
しかしこれほど奥深い秘境にいてさえ、それほど遠くない場所に人間が住んでいると思わせることがおこった。三日目の明け方、リズミカルで重々しい、妙にこもったような音が空気をふるわすのを聞いた。それは切れぎれに朝の間中続いていた。最初その音が聞こえたとき、二隻のカヌーは数ヤードの間隔で進んでいたが、インディアンたちが突然化石したように体の動きをとめて、恐怖の表情を浮かべながらじっと耳を傾けた。
「なんの音だろう?」と、わたしがたずねた。
「太鼓だよ」ジョン卿が平然と答えた。「戦士の太鼓さ。前にも聞いたことがある」
「はい、戦士の太鼓です」混血のゴメスが言った。「野蛮なインディアンです。兇暴な連中で、おとなしいやつらとちがう。一マイルごとに見張っていて、すきがあれば殺します」
「どうやって見張るのかな?」わたしは暗いしずまりかえった空間をみつめながらたずねた。
混血は幅の広い肩をすくめた。
「やつらは方法を知っています。自分たちだけの方法を。見張っていることは確かです。太鼓で通信するんです。すきがあれば殺しますよ」
その日の午後になると――ポケット日記を見たら、八月十八日火曜日だった――少なくとも六つか七つの太鼓の音がさまざまな方角から聞こえてくるようになった。時には急調子で、時にはゆっくりと鳴り響き、遠く東のほうでかん高く、断続的に鳴るかと思うと、しばらく間をおいて北のほうからどろどろとこもったような音が聞こえるといった具合で、明らかに双方で連絡をとり合っていると思われることもあった。その絶え間ない響きの中に、うまく言いあらわせないが妙に神経をいらだたせる威嚇的な何かがあって、「すきがあったら殺す、すきがあったら殺す」と、ゴメスの言葉をそのままいつ果てるともなくくりかえしているかのようだった。静まりかえった森の中に人の気配はない。穏かな大自然の平和と慰めが、暗い樹木のカーテンのこちら側にある。しかしその向こうからは、一つの人間の意志が伝わってくる。「すきがあれば殺す」と、東のほうの人間が言う。「すきがあれば殺す」と、北のほうの人間が答える。
太鼓の音は一日中強く弱く鳴りつづけ、黒人従者たちの顔に恐怖の表情を植えつけた。向こう見ずで鼻柱の強い混血までがおびえているようだった。しかしながら、この日におよんで、わたしはサマリーとチャレンジャーが第一級の勇敢さ、つまり科学精神にもとづく勇敢さの持主であることを知った。これこそダーウィンがアルゼンチンのあらくれ牧童(ガウチョ)の間で、ウォレスがマラヤの首狩族の間で示した勇気と同じものだった。慈悲深い造物主は、同時に二つのことを考えられないように人間の頭脳を作りたもうたから、科学への関心が心を占めているとき、身の安全に関する考慮が入りこむ余地はないらしい。一日中絶えない不気味な威嚇の太鼓を聞きながらも、二人の教授は飛ぶ鳥や川岸の茂みの観察に余念がなかった。チャレンジャーが地響きのするような咆え声をあげると、すかさずサマリーが牙をむいてとびかかるといった具合で、絶え間のない論争はあいかわらずだったが、二人ともセント・ジェームズ・ストリートのロイヤル・ソサエティ・クラブの喫煙室にでもいるかのように、危険などいっこうに感じないらしく、インディアンの太鼓のことを全然口にも出さなかった。もっとも一度だけ二人がそれを話題にしたことがある。
「ミラナ族かアマファカ族の人食いどもだろう」と、チャレンジャーが森にこだまする太鼓の音を指して言った。
「いかにも」と、サマリーが応じた。「原始的な種族にはよくある例だが、この連中も抱合的(ポリシンセティック)言語を持つモンゴリアン系らしい」
「抱合的は確かだが」と、チャレンジャーが珍しく寛大なところを見せた。「わしの知るかぎり、この大陸の言語はみなそのタイプに属するようだ。百種以上もノートにとった結果だから、まずまちがいはない。それにモンゴリアン系というのはどうかな」
「比較解剖学のごく限られた知識でも、そのことは証明できるはずだよ」と、サマリーが苦りきって答えた。
チャレンジャーが喧嘩腰であごを突きだしたので、顔がひげと帽子の縁の間に隠れてしまった。「もちろん、限られた知識ではそうなっても仕方ない。深い知識があれば別の結論も出ようというものだが」二人はたがいにすごい権幕でにらみ合った。おりから、遠くの太鼓がひときわ高く、「殺すぞ――すきがあれば殺すぞ」と鳴り響いた。
夜に入ると、われわれは錨(いかり)がわりの重い石で川の中央にカヌーをもやって、インディアンの襲撃にそなえた。しかし何事もおこらず、夜明けと同時に出発し、太鼓の音もしだいに背後に遠ざかっていった。午後三時ごろ、一行は一マイル以上におよぶ急流にさしかかった。これこそチャレンジャー教授が前回の旅行で災難にあった場所である。正直なところ、わたしはこれを見たとたんに安心した。ささやかなものとはいえ、教授の話の正しさを示す最初の直接証拠がこれだったからである。インディアンたちがこのあたりの深い茂みをかきわけて、まずカヌーを、つづいて荷物を運ぶ間、われわれ四人はライフルをかついで、森からやってくるかもしれない危険から彼らを護るために、間に立って進んだ。夕方までにこの急流を越えて、なお十マイルほど先きへ進んだところでカヌーをもやった。わたしの計算では、これで支流に入ってから百マイルは進んだことになる。
翌朝は早いうちに出発した。チャレンジャー教授は明け方からひどくそわそわしながら、絶えず川岸に目を配っていた。やがて突然満足そうな叫びを発したかと思うと、妙な角度で川の上に突き出ている一本の木を指さした。
「あの木はなんだと思う?」と、彼はたずねた。
「アサイヤシだな」と、サマリー。
「その通り。わしが目印にしておいたアサイヤシだ。秘密の入口はここから半マイルほど上流の対岸にある。ほかの場所は森に切れ目がない。それが不思議なところだ。あすこの大きなワタの木の間に、濃緑の下ばえがとぎれて薄緑のイグサがはえている場所が見えるが、あれが未知の世界への秘密の入口だ。まあ先きへ進めばよくわかる」
それはまことに不思議な場所だった。薄緑のイグサが目印の地点に達したのち、われわれはカヌーに棹(さお)さして数ヤード進み、やがて静かな浅い流れにたどりついた。川底は砂地で、水はきれいに澄んでいた。川幅はおよそ二十ヤードぐらいで、両岸は深い森だった。しばらくの間灌木がアシの茂みに変わったことに気がつかなかった人にとって、こんな流れと、その向こうにおとぎの国があることなど思いもよらなかったろう。
それはまぎれもないおとぎの国――人間の想像の及ばない不思議な国だった。深い茂みが頭上で重り合って自然のパーゴラを織りなしていた。金色の薄明りに包まれたこの緑のトンネルを通って、透明な緑色の川が流れている。川そのものも十分美しいが、降ってくる途中でやわらげられたあざやかな木洩(こも)れ陽を反射した不可思議な色調が、なんともいえずすばらしかった。水晶のように透明で、ガラス板のように滑(なめら)かで、氷山の緑のような青味をおびた川が、緑のアーチにおおわれて行手に横たわり、カヌーの一漕ぎごとにその輝く水面に無数のさざ波が砕け散った。それは秘境への通路にふさわしい眺めだった。もうインディアンがいる気配はなかったが、動物はしだいに多く見かけるようになり、しかも狩猟家を知らないらしく、われわれを見ても物おじしなかった。ビロードのようにけばだった黒い小さな猿が、まっ白な歯をむいていたずらっぽく目を輝かせながら、われわれ一行に話しかけてきた。時おりワニがドボンと重い水しぶきをあげて岸からとびこんだ。黒い不恰好なバクが茂みの隙間から顔をのぞかせ、足音をたてながら森の中へ逃げこんだこともあった。黄色いしなやかな体をした大きなプーマがやぶの中から現われて、黄褐色の肩ごしに兇暴な緑色の目でわれわれをにらみつけたこともあった。鳥の数も多かった。とりわけコウノトリ、サギ、トキなどの渉禽類(しょうきんるい)が、青、深紅、白などの群をなして水面に突き出た木の幹にとまり、一方船底の透明な水の中では、あらゆる形と色彩の魚が棲(す)んでいた。
この不透明な緑の光にみちたトンネルを、われわれは三日間さかのぼった。少しはなれると、前方の緑の川面と緑のアーチの境目が識別できないほどだった。この神秘的な水路の底知れぬ静けさは、これまで人間にかき乱された痕跡をまったくとどめなかった。
「このあたりにはインディアンもいません。恐ろしいのです。クルプリが」と、ゴメスが言った。
「クルプリとは森の精のことだよ」と、ジョン卿が説明した。「邪悪なものはすべてこの名で呼ばれている。インディアンどもはこの方角に何か恐ろしいものがあると考えて近寄らないのだ」
三日目、川は急速に浅くなるので、間もなくカヌーでは進めなくなることがはっきりした。一時間に二度ぐらいの割合で船が川底にぶつかるようになった。とうとうカヌーを川岸の茂みの中に引きあげて、そこで一夜を明かすことになった。翌朝ジョン卿とわたしが川にそって二マイルほど森の中へ分け入ってみた結果、川はますます浅くなる一方なので、チャレンジャー教授がすでに予想していた通り、どうやらカヌーで進める最後の地点まで到達したらしいと報告した。そこでカヌーを引きあげて茂みに隠し、斧(おの)で近くの立木の皮をはいで帰りの目印にした。それから銃、弾薬、食糧、テント、毛布などを各人に分配し、その荷物を背負ってさらに苦しい旅へと出発した。
新しい行程のしょっぱなに、気の短い教授たちの間で口論が始まるという不幸な事態がおこった。チャレンジャーはマナウスでわれわれに追いついた時から、一行の指揮権は自分にあると主張していたが、もちろんサマリーはこれを快からず思っていた。それが今、同僚教授にある任務を命ずるときになって(といっても、アネロイド晴雨計を運ぶだけの仕事である)、危機が表面化したのである。
「ちょっとおたずねしたいが」と、サマリーは意地悪く落ちつきはらって言った。「きみはそもそもいかなる資格でこのような命令を出そうとするのかね?」
チャレンジャーは気色ばんだ。
「この探検隊の隊長の資格でだよ、サマリー教授」
「しかし、残念ながらわしはきみにその資格を認めん」
「ごもっとも!」チャレンジャーは柄にもなく皮肉っぽい口調で言って頭を下げた。「ではわしの立場をはっきりさせていただこうか」
「よろしい。きみは今発言の真偽を問われている人間だ。この委員会はそれを裁くためにここまでやってきた。つまり、きみは裁判官と一緒に歩いているわけだよ」
「やれやれ!」チャレンジャーはカヌーの縁に腰をおろした。「そうなれば当然きみは自分の思い通りに進むわけだ。わしはあとからゆるゆるとついて行く。わしは隊長じゃないそうだから、先導しろといってもごめんこうむるよ」
幸いジョン・ロクストン卿とわたしという正気の人間がいたおかげで、二人の教授の短気できちがいじみた行動のため、手ぶらでロンドンへ帰るはめになるのをまぬがれた。それにしても二人をなだめるのに、どれほど議論と、懇願と、説明をつくしたことだろう。やがてついにサマリーが冷笑を浮かべ、パイプをくわえて先頭に立ち、チャレンジャーが大いに悪態をつきながらあとにつづくことになった。このころわれわれは幸運にも二人の学者がエジンバラのイリングワース博士を全然高く買っていないという事実を発見した。以後そのことがわれわれの安全弁となった。緊張状態が訪れてもこのスコットランドの動物学者の名前さえ持ちだせば、難なく事態は好転した。教授たちが共通のライバルに対する非難と攻撃のため、一時的に同盟を結ぶからである。
川岸にそって一列縦隊で進むうちに、間もなく川幅が小川程度にせばまって、足を踏み入れると脛(すね)まで没するスポンジのような苔におおわれた広い緑の湿地帯に消えてしまった。そこは黒雲のような蚊の大群をはじめ、ありとあらゆる害虫の巣だったので、森の中を迂回してふたたび固い地面にたどりついた。おかげで遠くからだと虫の羽音がオルガンのように聞こえるこの有害な湿地帯を避けて通ることができた。
カヌーを乗りすててから二日目に、われわれは周囲の状況が一変したことに気がついた。道はずっと登りになり、なおも進むうちに周囲の森がしだいにまばらになって、熱帯特有の豊かさが見られなくなった。アマゾン平野の沖積層に繁茂する大木群にかわって、フェニックスやココヤシが群生し、その間は厚いやぶでおおわれるようになった。くぼんだ湿地にはモーリティアヤシが優雅に葉をたれていた。われわれは羅針儀だけを頼って進んだが、一、二度チャレンジャーと二人のインディアンの間で意見の対立がおこった。教授の言葉を借りるならば、一行が「近代ヨーロッパ文化の高度の所産よりも未開人の誤れる直感を信じようとしたこと」に彼が腹を立てたからである。しかし三日目に、未開人の直感が正しかったことが明らかになった。チャレンジャーが最初の探検のとき心にとめておいた目標がいくつか発見されたのである。前回の野営地の跡である、すすで黒くなった四つの石もちゃんと発見された。
なおも登り道を行くと、やがて越えるのに二日はかかりそうな岩の突きでた斜面にさしかかった。植物相はふたたび変わって、目につくのはゾウゲヤシとすばらしいランの氾濫だけになった。その中には教えられて名を知ったランの珍種ヌットニア、ヴェクシラリアだとか、見事なピンクの花をつけたカトレア、深紅のオドントグロッサムなどという種類も混っていた。ところどころ川底が小石で、両岸をシダの茂みでおおわれた小川が、音をたてて浅い山峡を流れ下り、岩の散らばった沼の岸にこの上ない野営地を作っていた。そこでとれる背びれの青い魚は、ちょうどイギリスのマスぐらいの大きさで、夕食のいいごちそうになった。
カヌーをおりてから九日目、およそ百二十マイルも進んだかと思われるころ、まわりに木が見えなくなった。もっともその前から木がだんだん低くなって、灌木の茂み程度になってはいたのだが。そのあたりは一面隙間なしの竹やぶばかりで、インディアンの小刀や鉈鎌(なたがま)で切り開かなければ通れそうもなかった。一時間に二度の割で休憩しながら、朝の七時から夜の八時までたっぷり一日働いて、どうにかこの障害物を乗り越えることができた。およそこれほど単調でうんざりするような作業は想像もできなかった。竹やぶが最もまばらなところでさえ、十ヤードそこそこしか先きが見えないところへもってきて、たいていいつも目の前はジョン卿のコットン・ジャケットの背中、両側は一フィートほどのところに黄色い壁が見えるだけなのである。上のほうからはナイフの刃のように細い日光がさしこみ、頭上十五フィートほどのところでは、青空をバックにしてアシの葉先きが揺れていた。こんなやぶの中にどんな動物が棲むのかわからないが、時おりすぐ近くで大きな動物がガサゴソする音を聞いた。ジョン卿は音のぐあいから野牛の一種だろうと判断した。夜の訪れとともに、ようやくこの竹やぶを細い帯のように切り開き、長かった一日の重労働でくたくたに疲れきった体で、すぐに野営の準備をした。
翌朝も早いうちに出発した。周囲のようすはまたまた一変した。ふりかえると、川筋のようにはっきりした竹やぶの壁が見える。前方は広々とした平坦地で、それがヘゴの茂みの点在するゆるやかな登り坂になり、全体に丸味をおびて、長い鯨(くじら)の背中のような屋根で終わっていた。正午ごろこの屋根に達すると、向こう側は浅い谷になっており、谷の向こうはふたたびゆるやかな登りになって、低い、ゆるやかにカーヴした地平線までつづいていた。この最初の丘を登っているとき、重大らしくもあり、そうでもなさそうな感じもするある事件がおきた。
途中で傭った二人のインディアンと共に隊の先頭を進んでいたチャレンジャー教授が、突然立ちどまって興奮の面持で空を指さした。その方角に目を向けると、一マイルかそこらはなれたところで、巨大な灰色の鳥のようなものがゆっくりと地面から舞いあがり、低く一直線に滑るようにしてヘゴの茂みのかげに消えてゆくのが見えた。
「あれを見たかね?」と、チャレンジャーが興奮して叫んだ。「サマリー君、見たかね?」
同僚の教授は鳥のようなものが消えた一点をじっと見つめていた。
「あれがなんだというのかね?」
「まちがいない、翼手竜だ」
サマリーが冗談じゃないという顔で吹きだした。「たわごとはいいかげんにしたまえ! あれは確かにコウノトリだった」
チャレンジャーは口もきけないほど立腹した。黙々と荷物をかついでまた歩きだした。ところがジョン卿がわたしに追いすがった。顔つきがいつになく真剣だった。彼はツァイスの双眼鏡を手に持っていた。
「あれが茂みの向こうへ消える前に焦点を合わせたんだ」彼は言った。「翼手竜だと言いきる自信はないが、スポーツマンの名誉にかけて、あんな鳥は生まれてこの方一度も見たことがない」
こういう次第である。われわれはいよいよ秘境の入口に到着して、隊長の言う失われた世界の監視人にでくわしたのだろうか? 報告に手心は加えないから、読者はこの事件を自分の目で見たも同然である。それ以上特筆すべきことは何もおこらなかったから、目下のところこの事件は解釈のしようがない。
さて、読者諸君(この手紙がイギリスに届けばの話だが)、わたしは大河をさかのぼり、イグサの幕をくぐり抜け、緑のトンネルを通り、ゾウゲヤシの長い丘を登り、竹やぶの障害を越え、ヘゴの生い茂る平原を横切って諸君をここまで案内した。ついに目的地は目の前に全貌を現わした。二つ目の尾根を越えたとき、ところどころヤシの生えたでこぼこの平原と、つづいて写真で見おぼえのあるそびえたつ赤土の断崖を前方に見たのだ。これを書いている現在も、断崖は目の前にあり、写真と同じ場所であることは絶対まちがいない。一番近いところは現在の野営地からおよそ七マイルばかりで、ゆるやかにカーヴしながら見わたすかぎりつづいている。チャレンジャーは品評会で入賞したクジャクのように意気揚々と歩きまわり、サマリーは沈黙がちだが内心ではまだ疑っている。いずれわれわれの疑問もとけるだろう。腕に折れ竹を突き刺したホセが、ここで引きかえすと言ってきかないので、無事国に届くことを祈りながら彼にこの手紙を託することにする。今後も時間の許すかぎり書きつづけたい。手紙の理解に多少とも役立つかと考えて、旅の略図をここに同封する。
九 夢にも思わなかったこと

恐ろしい事件がおこった。だれ一人夢想もしなかったことだ。われわれはどこまで行っても事件につきまとわれるらしい。この不思議な、近寄りがたい土地で、一行全部が死に絶える運命にあるのだろうか。わたしは頭が混乱してしまって、目の前にある事実についても将来の希望についても、正確な判断を下せない状態だ。途方にくれたわたしにとって、現在は恐ろしく、未来は夜のように暗い。
これほどの窮地に追いこまれた人間はかつてないだろうし、現在位置を知らせて救援を乞うのも無駄なことだ。かりに救助隊が派遣されたにしても、それが南アメリカへ到着するずっと前に、われわれの運命は決定されているだろう。
実際のところ、ここは月の表面ぐらい人間世界から遠い。だから難局を切り抜けるには、自分たちの能力に頼るより手がないのだ。わたしには三人の同志がいる。知力にすぐれ、不屈の勇気を持つ人々だ。これだけが唯一の頼みの綱である。彼らの平然たる顔つきを見るときだけは、わたしも暗闇の中で一条の光明を見出した思いだ。わたしも外見だけは彼らと同じように平然としていることだろう。だが内心ではどうしようもないほど不安なのだ。
われわれをこの破局に導いた一連の出来事を、できるだけ詳細に報告しよう。
前便の結びの部分で、赤い断崖のはてしないつらなりから七マイルの地点にいると書いたが、これは疑いもなくチャレンジャー教授の語った断崖だった。そばに近づくにつれて、崖がところによっては教授の話よりもなお高そうで――少なくとも千フィートはありそうなところもある――たぶん玄武岩層の隆起の特徴だと思われる奇妙な筋が認められた。エジンバラのソールズベリ介砂層でもこれと似たものが見られる。台地の上は植物が生い茂っているらしく、崖の縁には灌木の茂み、内部には無数の巨木が見えた。動物の姿は全然見かけなかった。
その夜は崖の真下の、荒涼とした場所にテントを張った。頭上の崖は垂直どころか、てっぺんがオーヴァーハングしているので、そこを登るのは問題外だった。すぐ近くに、この手記の前のほうで述べたはずの鋭い三角岩が高々とそびえている。それは教会の巨大な赤い尖塔のようで、てっぺんは台地と同じ高さだが、その間には広い裂け目が口をあけていた。てっぺんに一本の巨木がはえている。このあたりは崖も比較的低く、およそ五、六百フィートぐらいかと思われる。
「あの木の上に」チャレンジャーが言った。「翼手竜がとまっていたのだ。わしは岩の中ほどまで登ってそいつを射ちおとした。わしぐらい岩登りが上手なら、あの岩ぐらい頂上まで登れそうだ。もっともそうしたところでいっこうに台地に近づくわけじゃないがね」
チャレンジャーが翼手竜の話に熱中している間に、わたしはサマリー教授の顔色をうかがってみた。はじめてかすかな信用と後悔らしきものが認められた。薄い唇にもはや冷笑はなく、むしろ逆に興奮と驚きの表情が、灰色のしかめっ面に浮かんでいた。チャレンジャーもそれに気がついて、満足そうに勝利を味わっているようだった。
「もちろん」彼は慣れない不器用な皮肉をこめて言った。「わしの言う翼手竜とはコウノトリのことだが、それはサマリー教授もおわかりだろう。ただしこのコウノトリには羽根がなく、全身皮でおおわれ、膜のある翼を持ち、口に歯がはえているがね」彼がニヤリと笑って目くばせし、気どって頭を下げたので、サマリーは居たたまれなくなって逃げだした。
翌朝、コーヒーとマニオク(ブラジル原産のタカトウダイ科の植物。根から良質のでんぷんがとれる)の簡単な朝食をすましたあと――食糧を倹約する必要があった――崖を登る最上の方法を検討するために作戦会議を開いた。
チャレンジャーが法廷の裁判長もどきに、いかめしく司会役をつとめた。岩の上にチョコンと坐って、子供っぽい滑稽(こっけい)な帽子をあみだにかぶり、垂れさがったまぶたの下から尊大な目でわれわれをにらみつけ、黒いひげをふりたてながら現在位置とこれからの進路を説明するチャレンジャーをご想像願いたい。
彼より一段低いところにわれわれ三人が坐っている。太陽の下の旅ですっかり日にやけて元気そうになった若いわたし、片時もパイプをはなさず、真剣な表情だが依然として批判的なサマリー、かみそりのように鋭く、しなやかで機敏な体をライフルにもたせかけ、鋭い目でじっと話し手を見つめているジョン卿。われわれのうしろには二人の混血土人とインディアンたちが控え、前方には巨大な赤い岩の壁がそびえ、目的地との間に立ちふさがっていた。
「言うまでもないが」と、隊長は言った。「この前のとき、わしは崖をのぼるためにあらゆる方法を試みた。登山家としてはかなり腕におぼえのあるこのわしにして成功しなかったのだから、ほかの者が同じ方法でやっても失敗するのは目に見えておる。前回は岩登りの道具を持たなかったが、今回は手まわしよくそれを持ってきた。それさえあれば三角岩の頂上までは登れるだろう。だがかんじんの崖がオーヴァーハングしている以上、そこを登ろうとしてもまず見込みはない。前回は雨期が近かったし、食糧も底をつきかけていたから、ぐずぐずしておれなかった。まあそんなわけで時間の余裕がなかったから、正直なところここから東へ六マイルほどの範囲を調べてみたにすぎんが、少なくともその間には登れそうなところが見当たらなかったというわけだ。となると、今度はどうすべきかな?」
「考えられることは一つしかない」と、サマリー教授、「きみが東を調べたのなら、今度は崖にそって西側を調べ、登れそうな場所を探すことだな」
「その通りだ」と、ジョン卿、「この台地はそれほど広くなさそうだから、周囲をたどっているうちに楽な登り口を発見できるかもしれないし、発見できなければ一まわりしてまたここへ戻ってくるわけだ」
「この若い友人にはすでに説明してあるが」とチャレンジャーが言った。(彼はわたしのことをまるで十歳かそこらの小学生のように扱うくせがある)「どこを探しても楽な登り口などあるはずがない。そんなものがあるとすれば、台地が外界から孤立して、自然の生存法則に不思議な影響を及ぼす特殊な条件が保たれるはずがないからだ。しかしながら、熟練した登山家ならどうにか頂上にたどりつけるが、図体の大きい重い動物には降りられないという場所がどこかにあるかもしれん。つまり登はん可能な場所はきっとある」
「なぜそんなことがわかるのかね?」と、サマリーが鋭くたずねた。
「先駆者であるメイプル・ホワイトというアメリカ人が、実際に登っているからだ。さもなければスケッチブックに描かれたあの怪獣の姿を見られたはずがない」
「きみの主張は単なる仮定にもとづくものだ」と、サマリーは頑強に言いはった。「なるほどきみの言う台地は、現に目の前にあるから認めざるをえない。だがこの上に動物が棲んでいることまで納得したわけではないぞ」
「きみが認めようが認めまいが、そんなことはなんの値打ちもない。ただ台地そのものがきみのぼんくら頭にも入りこんだのは喜ばしいかぎりだがね」そう言って彼は台地を見上げ、驚いたことに、やにわに岩の上からとびおりてサマリーの首根っこをつかまえ、力づくで上を向かせて、いきりたったしゃがれ声で叫んだ。「さあ! 台地に動物がいるかいないか、しっかり目をあいて見ていただこうか」
厚い緑のひだが崖の縁をおおっていることは前にも述べた。その中から何か黒いすべすべしたものが現われた。それがゆっくりと前に進んで崖からぶらさがったところを見ると、妙に平べったいスペード型の頭をした大きな蛇だった。一瞬朝日を浴びて、なめらかに曲りくねった体が頭上でゆらゆら揺れていたが、やがてゆっくり後もどりして姿を消した。
サマリーはひどく興味をひかれたらしく、チャレンジャーに首をおさえられたまま抵抗もせずにそれを見守っていたが、やがて同僚の手をふり払って、いつもの威厳ある態度に戻った。
「チャレンジャー教授」彼は言った。「何か言いたいことが心に浮かんでも、人の顔を持ちあげないようにしてもらいたいものだな。ありきたりの大きなニシキヘビが現われたぐらいのことで、このような無礼が許されるわけでもあるまい」
「しかし台地の上に生物がいることは事実だ」と、チャレンジャーは勝ちほこって言った。
「さて、この重要な結論が、どんな偏見にとらわれた鈍感な人間の目にもはっきり証明されたからには、テントをたたんで西のほうへ登り口を探しに出発するほうがよくはないかな」
崖下の地面はごつごつした岩場なので、歩みはのろく、骨が折れた。しかし、突然胸のおどるようなものに出くわした。それは古い野営地のあとで、牛肉のあき罐が数個、『ブランデー』というレッテルのびん、こわれた罐切り、その他前の旅行者が残したさまざまの品物が散らばっていた。しわくちゃの破れた新聞は『シカゴ・デモクラット』と読めたが、日付はちぎれていた。
「これはわしのじゃない」チャレンジャーが言った。「おおかたメイプル・ホワイトのものだろう」
ジョン卿は巨大なヘゴの木の日かげになった野営あとを、珍しそうに眺めていた。「ねえ、これを見たまえ。どうも道しるべのようだよ」
堅木の破片が西のほうに向けて木に打ちつけられていた。
「まちがいなく道しるべだ」とチャレンジャー、「それ以外には考えられん。この旅が危険なことを知ったわれわれの開拓者は、あとからくる者のために自分のとった進路をこれで示したのだ。先へ進めばもっと何か見つかるかもしれん」
たしかに教授の言葉通りになったが、それは思いもかけぬ恐ろしい光景だった。断崖の真下に、前に切り開いて進んだのと同じような高い竹やぶが茂っていた。それぞれの竹が二十フィートもあり、先端が鋭く丈夫なので、ちょうど槍(やり)をさかさに立てたような恰好だった。この竹やぶの外側をまわって通りすぎるとき、中のほうで何か白っぽいものが目についた。やぶの中に頭を突っこんでよく見ると、それは肉のおちたしゃれこうべだった。全身の骨格がそっくり横たわっていたが、頭蓋骨だけは胴体とはなれてかなり手前のほうにころがっているのだった。
インディアンの山刀で竹やぶを切り開いて、この過去の悲劇のあとをくわしく調べてみた。衣服は切れはしだけしか残っていないが、脚に長靴が残っているところを見ると、死んだ人間は明らかにヨーロッパ人だった。ニューヨークのハドソン製の金時計と、万年筆のついた鎖が骨の間に落ちていた。蓋(ふた)に『A・E・SからJ・Cへ』と彫った銀のシガレット・ケースも見つかった。金属製品の酸化状態から、悲劇はさほど遠くない昔におこったものと判断された。
「いったいだれだろう?」ジョン卿が言った。「かわいそうに、体中の骨がばらばらに折れているようだ」
「おまけに竹が折れた肋骨の間を通ってのびている」とサマリー、「竹は成長の早い植物だが、それにしても二十フィートものびる間死体がずっとここにあったとは考えられん」
「この男の身許については」とチャレンジャー教授、「一点の疑いもない。ショートマンの邸できみたちと会うために川をさかのぼる途中、わしはメイプル・ホワイトのことをいろいろとたずねてみた。パラでは収穫がなかったが、幸い確実な手がかりが一つあった。スケッチブックの中に、彼がロザリオで一人の坊さんと食事をしている絵があったからだ。その坊さんとは会って話すことができた。ひどく議論好きな男で、近代科学の腐蝕作用によって多少とも信仰がぐらついていたにちがいないところへ、わしが重ねて冒涜的なことを持ちだしたと言ってひどく腹を立てたが、ともかくもある確実な情報を与えてくれた。メイプル・ホワイトは四年前、つまりわしが死体を見た二年前にロザリオを通ったという。その時はジェームズ・コルヴァーというアメリカ人の連れがいたが、船に残っていたので坊さんには会わなかったそうだ。だからこれはジェームズ・コルヴァーの遺体にちがいないと思うのだよ」
「それに彼がどんな死に方をしたかもはっきりしている」とジョン卿が言った。「崖の上から落ちたか投げおとされたかして串刺(くしざ)しになったのだ。そうでなければ骨がバラバラに折れたり、こんなに高い竹が突き刺さったりするはずがない」
われわれはバラバラに折れた骸骨のまわりに立って、ジョン・ロクストン卿の言葉の正しさを噛(か)みしめながら沈黙していた。頭上の崖は竹やぶにおおいかぶさるように突きだしている。だがこの男は自分で足を踏みすべらしたのだろうか? 単なる事故だったのだろうか? それとも――この秘境はすでに不吉な恐ろしい可能性をはらみつつあるように思われた。
われわれは無言のまま崖にそって前進した。それは以前何かで読んだ南極の巨大な氷原のように切れ目がなく平らだった。極地の氷原は水平線のはてからはてまで見わたすかぎりつづいており、探検船のマストほども高くそびえ立っているという。五マイルほど進む間岩の裂け目は一つとして見当たらなかった。やがて、ふたたびわれわれを新しい希望でみたすようなものに突然気がついた。ちょうど雨除けに都合のよさそうな岩のくぼみに、これも西のほうを向いた矢印がチョークでなぐりがきされていたのだ。
「これもメイプル・ホワイトが描いたものだ」チャレンジャー教授が言った。「おそらくたのもしい後続部隊がすぐあとからやってくるという予感がしたのだろう」
「彼はチョークを持っていたんだね?」
「ナップザックの中に色チョークの箱が入っていた。白チョークが短くすりへっていたのをおぼえている」
「それが確かな証拠だ」サマリーが言った。「その人物が残した道しるべをたどって西へ進むのがよい」
なおも五マイルほど進むと、ふたたび岩の上に白い矢印が見つかった。そこではじめて、岩の表面に狭い裂け目が認められた。裂け目の中につぎの矢印があって、少し上向きになっていた。地面より上の場所を示しているらしい。裂け目の内側は、巨大な壁面がそびえ立つ荘厳な場所だった。狭い隙間から青空がちょっぴり見え、両側の緑のひだにさえぎられた薄明りが、わずかに底のほうまでさしこんでくるだけだった。何時間も食事をしていないうえに、ごつごつした岩場の不規則な行進でくたくたに疲れていたが、興奮のあまり休息も頭に浮かばなかった。とにかくインディアンたちにテントを張ることを命じておいて、われわれ四人に混血二人を加えた六人がこの狭い裂け目の奥に踏みこんだ。
入口のところでもぜいぜい四十フィートほどの広さしかなかったのだが、進むにつれてその幅が急速にせばまり、ついに急角度で行きづまりになってしまった。それから先きは平らでなんの手がかりもなく、とても登りには適さない。開拓者が示そうとした場所がここでないことは明らかだった。われわれは奥行きがせいぜい四分の一マイル程度のこの裂け目をまた入口まで引きかえした。それから、ジョン卿の鋭い目が探し求めていたものをたずねあてた。頭上高く、暗い影の中でもひときわ暗い丸いところが見えた。まぎれもなく洞穴の入口である。
崖の下のその場所は岩のかけらが積み重なっていて、よじのぼるのにそれほど苦労はなかった。そこまでたどりついたとき、疑問は完全に氷解した。単に岩穴の入口というだけでなく、壁にはまたまた矢印が認められたのだ。これこそメイプル・ホワイトと彼の不幸な友人が発見した登り口にちがいない。
われわれはひどく興奮していて、テントへ戻るどころか、ただちに最初の探検を実行しなければ気がすまなかった。ジョン卿のナップザックに懐中電燈が入っていたので、彼が黄色い光の輪で足もとを照らしながら先頭に立ち、われわれは一列になってそのあとから進んだ。
洞穴は明らかに水蝕によってできたものらしく、壁はなめらかで足もとには玉石が転がっていた。ちょうど人間一人が腰をかがめて通れるぐらいの広さである。およそ四十五ヤードほど水平に進んだのち、四十五度ぐらいの登りになった。やがてこの登り道はさらにきつくなり、よつんばいになって進む手足の下でゆるんだ石ころがくずれ落ちるようになった。突然ジョン卿が叫び声を発した。
「行きどまりだぞ!」
彼の背後に群がったわれわれの目の前に、黄色い光に照らされて、行手を天井までふさいでいる玄武岩の壁が浮かびあがった。
「天井が落ちたんだ!」
岩のかけらをいくつか掘りかえしてみたが無駄だった。かえって大きな岩がゆるんで傾斜した通路を転がりだし、われわれを押しつぶしてしまうおそれがあった。いくらがんばってみたところで、この障害物をどかすことはできそうにもなかった。メイプル・ホワイトがかつて登った道も、今は役に立たないのだ。
われわれは口もきけないほど気落ちして、足を引きずりながら暗いトンネルをテントのほうへ戻ってきた。
ところが洞穴の中にいるうちにある事件がおこった。その後の事件と考え合わせて、これにはかなり重要な意味があった。
洞穴の入口から五十フィートほどさがった割れ目の一番低いとこで、ひとかたまりに集まっているとき、突然大きな岩が転がりだし、すさまじい勢いでわれわれの横を走っていった。すんでのところで命を落とすところだった。岩がどこから降ってきたのかわれわれには見えなかったが、洞穴の入口にいた混血の従者たちもそれが上のほうから落ちてくるのを見たというから、崖のてっぺんから降ってきたものにちがいなかった。しかし上を見ても、崖の上をおおっている緑のジャングルの中では、何も動く気配がない。ただこの岩がわれわれを狙って投げおろされたものであることは確かである。とすると、これは人間の仕業、それも台地の上にいる悪意を持った人間の仕業ということになる!
われわれはこの新しい局面と、それがわれわれの計画に及ぼす影響で頭をいっぱいにしながら、急いで岩の割れ目から引きかえした。これまでも楽観を許さない状況なのに、自然の妨害に加えて人間の故意の反対にでくわすとなれば、まず成功の望みはなくなってしまう。しかしながら頭上わずか数百フィートの高さにある美しい緑の崖の縁を見上げるとき、その奥をきわめないうちにロンドンへ帰ることを考えた者は一人としていなかった。
状況を検討し合ったすえ、最善の方法は崖にそってさらに進み、頂上へのほかの登り口を探してみることだという結論に達した。崖はすでにかなり低くなっており、方向も西から北に変わっていたから、これが円周の弧と考えられるなら、ぐるりと一まわりしても大した距離ではなかった。最悪の場台でも数日後には出発点に帰りつくだろう。
その日一日で二十二マイルほど進んだが、別に変わったこともおこらなかった。アネロイド晴雨計から判断して、カヌーを乗りすててからかれこれ海抜三千フィートほどの高さまで登りつづけた計算になるようだ。気温や植物相にかなりの変化が見られる。熱帯旅行につきものの恐るべき虫の被害も、今はだいぶ少なくなった。時おりヤシの木を見かけるし、ヘゴの木はいくらでもあるが、アマゾン特有の樹木は姿を消している。ヒルガオ、トケイソウ、ベゴニアなどの花は、この殺風景な岩山の中でイギリスを思いださせて、なかなか楽しい眺めだった。ストレータムのある別荘の窓の植木鉢に咲いている赤いベゴニアと同じ種類のものも見かけた――がどうやらわたしは個人的な回想にひたりすぎたようだ。
その夜――台地めぐりに出発した最初の日のことだが――ある偉大な経験がわれわれを待っていた。それはわれわれが今や身近かにせまった驚異に対して、まだいくぶんなりとも疑問を抱いていたとすれば、それを永遠に解消してしまうような経験だった。
親愛なるマッカードル氏よ、あなたはこの手紙を読まれたときおそらくはじめて、『ガゼット』がわたしを無意味な企てのために派遣したのではないこと、チャレンジャー教授の許可がえられしだい世に発表する想像もつかないような特ダネをつかんだことを理解されることと思います。もちろんわたしはわたしなりにイギリスへ証拠を持ち帰るまでは、この記事を発表するつもりはありません。さもないと永久に新聞記者の中のミュンヒハウゼンと非難されかねないからです。おそらくこの点についてはあなたも同意見で、こうした記事がかならず呼びおこす批判と疑いの大合唱に対抗できるめどがつくまでは、『ガゼット』の信用を賭けるようなことを望まないだろうと信じております。ですから『ガゼット』の大見出しになること疑いなしというこの不思議な事件の報告も、時期がくるまでは編集長のひきだしに保管していただかねばなりません。
とはいうものの、それはほんの一瞬の、それも一度かぎりの出来事であり、われわれの確信の中で尾を引いているにすぎなかった。
事件というのはこうである。ジョン卿がアジュティ――豚に似た小さな動物である――を一頭仕止めてきて、半分をインディアンたちに与え、残りをわれわれが食べるために焚火で焼いていた。日が暮れたあとで肌寒く、われわれは火のそばにかたまっていた。月こそなかったが星明りで平原をやや先きまで見通すことができた。そこへ、突然夜の闇の中から、飛行機のような音をたてて何物かがさっと襲いかかってきたのだ。一瞬われわれ四人の頭上に革のような翼の屋根がおおいかぶさり、長い蛇のような首、猛々しく貧欲な赤い目、驚いたことに小さくてまっ白な歯のはえた巨大なくちばしがちらとわたしの目についた。それは一瞬のうちに飛び去り――同時にわれわれの夕食も消えていた。幅十二フィートもある巨大な黒い影が空中に舞いあがり、怪鳥の翼にさえぎられて星も見えなくなったが、やがて頭上の崖のかなたに姿を消した。一同は火のまわりに坐ったまま、ハーピイ(ギリシャ神話。女の姿をし、鳥の翼と爪を持つ怪物)に襲いかかられたローマの詩人ウェルギリウスの英雄たちのように、驚きのあまり口もきけなかった。やがて最初に口を開いたのはサマリーだった。
「チャレンジャー教授」と、厳粛な声を感動でふるわせながら呼びかけた。「わしはきみにお詫びせねばならん。まったくわしがまちがっていた。どうぞこれまでのことは水に流してくれたまえ」
りっぱな言葉だった。二人の教授ははじめて心のこもった握手をかわした。はじめてまぎれもない翼手竜の姿を認めたことによって、実に多くの進歩を見たのである。この二人の和解を思えば、ふいになった夕食も惜しくはない。
しかし台地の上に先史時代の動物が存在するとしても、その数は決して多くないらしく、翌日からの三日間にふたたび姿を見かけることはなかった。その間われわれは、崖の北と東側にあって石ころだらけの荒地と野鳥の群がる荒れはてた沼地が交互にくりかえす不毛の地を横断した。その方角からだと台地はまったく近寄りがたく、切り立った崖の下に固い岩棚がなかったら引きかえすよりほかはなかったところだ。亜熱帯性のどろどろ腐った湿地に何度も腰まではまりこんだ。なお悪いことに、そこらは南アメリカで最も攻撃的な毒蛇、ジャラカカ蛇の繁殖地だった。この恐ろしい生物が腐った沼の表面にくねくねと鎌首をもたげて、何度もわれわれのほうに向かってくるので、常に散弾銃の狙(ねら)いを定めておかなければ、とても身の危険を防げたものではなかった。泥沼のある場所にじょうご型の深みがあって、そこでは青ざめた緑色の苔が腐っていたが、この悪夢のような思い出はおそらく永久に忘れられないだろう。その場所が毒蛇の巣らしくて、斜面という斜面は蛇で足の踏み場もないほど、しかも人を見た瞬間にとびかかるのがジャラカカの習性なので、それらが一匹残らずくねくねとわれわれのほうに立ち向かってきた。こんなに数が多くては一々射っていても間に合わないので、さっさと逃げだしてもうこれ以上は息がつづかないというところまで走りつづけた。走りながらうしろを向いて、アシの間に見え隠れする恐るべき追跡者の鎌首がどこまで近づいたかを見たときのあの恐ろしさは、いつまでも忘れられそうにない。今製作している地図の中で、ここをジャラカカ沼と名づけた。
進むにつれて崖は赤味を失い、チョコレート色に変わっていた。台地上の植物はずっとまばらになり、高さも三百ないし四百フィートと低くなったが、依然登れそうな場所は見当たらなかった。むしろ最初にたどりついた部分の崖よりもかえって手ごわそうだった。岩壁のけわしさはわたしが石ころだらけの荒地で撮った写真にもはっきり示されている。
「とにかく」みんなで状況を検討し合っているとき、わたしは言った。「雨はどこかを伝って流れ落ちているんだから、岩の間にその水路があるはずですよ」
「この若い友人はなかなか頭のひらめきが鋭いようだ」と、チャレンジャー教授がわたしの肩を叩いた。
「雨はきっとどこかへ流れてゆくはずです」と、わたしはくりかえした。
「彼は現実をつかんでいる。ただ問題なのは、われわれがこの目で確かめた結果、岩の表面にそのような水路が全然見当たらないということだ」
「とすると、水はどこへ流れているんです?」
「外側へ流れださないとしたら、地中へしみこんでいると考えるしかないだろうな」
「では台地の中央に湖でも?」
「わしはそう思うね」
「その湖は昔の噴火口かもしれん」サマリーが言った。「もともとこの台地の形成そのものが火山性だ。だがそれはともかく、台地の表面は内部に傾斜していて、中央部にはかなりの水がたまっているにちがいない。それがどこか地下の水脈を伝わって流れだし、例のジャラカカ沼に注いでいると考えたほうがいいだろう」
「さもなければ蒸発によって一定の水量が保たれる」とチャレンジャーが意見を述べた。それをきっかけに二人の学者はお定まりの科学的論議に入りこんでいったが、われわれ素人にとってはシナ語も同然でチンプンカンプンだった。
六日目に崖の周囲をまわり終わって、孤立した三角岩のそばの最初の野営地へ帰ってきた。一行は失望していた。これ以上は考えられないほど綿密な調査を行なった結果、どんなに元気のいい人間にも登れそうな場所はないということがはっきりしたからである。メイプル・ホワイトが矢印で示してくれた登り口も、今はまったく通行不可能だった。
さて、今後われわれはいかにすべきか? 食糧のほうは銃で仕止めた獲物で補っているおかげで結構ながもちしているが、それもいつかは補給の必要がでてくる。あと二か月もすれば雨期が訪れて、テントも洗い流されてしまうだろう。岩は大理石よりも堅く、これだけの高さに通路を刻みつけることは時間と資材が許さない。その夜は一同が憂鬱な顔を見合わせながら、物も言わず寝床にもぐりこんだのも不思議がなかった。わたしは眠りにつく寸前の光景を今もはっきりおぼえている。チャレンジャーが巨大な食用蛙のような恰好(かっこう)で火のそばにうずくまって両手で大きな頭を抱えこみ、明らかに考えごとにふけっていたらしく、わたしがおやすみなさいと声をかけても全然気がつかないらしかった。
ところが朝目をさましたときのチャレンジャーはまったくの別人だった。全身に満足感と喜びがみなぎっている。彼は朝食に集まったわれわれを前にして、目に作りもののへりくだった表情を浮かべた。
「わしは諸君にいかように非難されてもいたしかたないと思っている。だがどうかそれを口に出してわしに恥しい思いをさせないでいただきたい」とでも言いだしかねない態度だが、それとはうらはらに意気揚々とひげを突きだし、胸をはり、片手を上着のポケットに突っこんだままだった。その恰好でトラファルガー・スクエアの空いた柱脚を飾り(そこにはネルソン提督の銅像がある)、ロンドンの街に新たな恐怖を加えることを時おり空想しているのかもしれない。
わかった(ユーレカ)!」彼はひげの間で白い歯を輝かせて叫んだ。「諸君、喜んでいただきたい。問題は解決しましたぞ」
「登り口を発見したんですか?」
「まあそう言ってもよかろうな」
「どこです?」
答えるかわりに、彼は右手の尖塔のような岩を指さした。
それを見た瞬間、われわれは、少なくともわたしはがっかりして顔を伏せた。その岩が登はん可能なことはすでにチャレンジャーも保証している。問題はそれと台地の間にある恐ろしい深淵だ。
「しかしとうてい向こうへは渡れないでしょう」と、わたしは溜息をついた。
「少なくとも岩の頂上までは登れる。そこまでたどりついたら、わしの工夫がまだ底をついていないことをお目にかけられるかもしれん」
食後隊長が持ってきた登山用具の包みをといた。彼はその中から、長さ百五十フィートの丈夫で軽いロープの束、アイゼン、ハーケンなどを取りだした。ジョン卿は経験を積んだ登山家だし、サマリーも何度か急な山を登っているから、岩登りの新米は事実上わたしだけだった。しかし体力と活気が経験不足を補ってくれるだろう。
わたしとしては髪の毛が逆立つような瞬間も何度かあったが、実際はそれほどの難事業でもなかった。中腹まではいたつて楽々と登れたが、それから上が一歩ごとにけわしくなり、特に最後の五十フィートは文字通り小さな岩の突起や割れ目にしがみついて登る始末だった。チャレンジャーが最初に頂上にたどりついて(こんなぶざまな体格をした人物がこれほどの機敏さを発揮するとは珍しいことである)、そこにはえているかなり大きな木の幹にロープをしばりつけてくれなかったら、わたしはいうまでもないがおそらくサマリーも頂上をきわめることはできなかったろう。このロープを頼りにごつごつした岩壁をよじのぼって、間もなく二十五フィート四方ほどの草のはえた狭い平坦地にたどりついた。そこが頂上だった。
一息入れて最初に目についたのは、われわれが通ってきたこの地方の異様な眺めだった。まるでブラジル平原全体が眼下に横たわっているかのごとく、はてしない拡がりを見せて、その向こうははるかな地平線上に青いもやとなってかすんでいた。前景には岩やヘゴの木を点々とまき散らした長い斜面があり、その向こうの中間地帯には、鞍(くら)型の山ごしにわれわれが通り抜けてきた竹やぶの黄色と緑が見えるだけだった。それから先きは植物がしだいに数を増して、目のとどくかぎり、たっぷり二千マイルはありそうな大森林を形成していた。
この壮大なパノラマに言葉もなく見とれている間に、チャレンジャー教授がわたしの肩にどっしりと片手をおいた。
「こっちだよ、きみ。もはや後退はない(ヴェスティジア・ヌラ・レストロルスム)。輝かしい目標めざして前進あるのみだ」
ふりかえってみると、台地とわれわれの立っている場所の高さはまったく同じで、ところどころ高い木の混った緑の茂みは、近寄りがたいことを忘れさせるほどすぐ近くに見えた。大ざっぱな目測で空間の幅は四十フィートほどあるが、こうして見るかぎりでは四十マイルにも感じられた。わたしは片腕を木の幹にまきつけておいて、深淵に身をのりだしてみた。はるか下方にわれわれのほうを見あげる従者たちの姿が、黒い豆粒のように見えている。この岩壁も向かい側の台地の壁と同じで垂直に切り立っていた。
「これは不思議だ」と、サマリー教授のきいきい声が聞こえた。
ふり向くと、わたしがつかまっている木を熱心に調べている。だがなめらかな樹皮も筋のある小さな葉も、わたしにはありふれたものとしか見えなかった。
「だってこれはただのブナの木ですよ!」
「その通り」サマリーは答えた。「こんな異境にもわれわれの同胞がいるとみえる」
「単に同胞というだけではない」とチャレンジャー教授、「きみの比喩をもう少し拡大させてもらうならばまことにたのもしい味方とも言える。このブナの木はわれわれの救い主になるかもしれんぞ」
「まったくだ!」ジョン卿が叫んだ。「これは橋になる!」
「いかにも、橋だよ! わしはゆうべ解決策を考えあぐねてむざむざ一時間も浪費したわけではない。かつてこの若い友人に、G・E・Cは窮地におちいったとき真価を発揮する男だと語ったことがあるが、ゆうべのわれわれがその窮地にあったことは諸君も認めるだろう。しかし意志の力と頭脳が手を組めば、かならず策はあるものだ。この空間にかかるはね橋さえあればよかった。見たまえ!」
確かにすばらしい思いつきだった。木の高さは優に六十フィートはあるから、倒れる方角さえうまくいけば楽にこの空間を渡ることができる。チャレンジャーはテント用の斧(おの)をちゃんと用意してきており、それをわたしに手渡した。
「この若い友人はりっぱな体をしているから、この仕事にはもってこいだろう。ただし自分勝手にやられては困る、ちゃんと指示通りにやってくれたまえ」
わたしは彼の指示に従って、木が望ましい方向に倒れるように根元に切りこみを入れた。もともと台地のほうにかなり傾いていたから、これはさほどむずかしい仕事でもなかった。やがてジョン卿と交替で熱心に斧をふるいはじめた。一時間とちょっとたったころ、大きなはじけるような音がして木は前方に傾き、やがて向こう側の茂みを枝で押しつぶすようにしてどうと倒れた。幹の根元が切株からはなれてわれわれのいる平地のはしまで転がっていき、一瞬これで万事おしまいかと思わせたが、数インチの差でかろうじてとまった。こうして秘境への橋ができあがった。
三人は言葉もなくチャレンジャー教授に握手を求めた。教授は一人一人に丁重なおじぎをした。
「最初に秘境へ渡る栄誉は」彼は言った。「当然このわしがになうべきだと思う――きっと将来描かれる歴史画の絶好の画題になることだろう」
彼が橋に近づいたとき、ジョン卿が手で上着のすそをおさえた。
「ちょっと待った。わたしがそうはさせませんよ」
「そうはさせんだと!」教授は顔をそらせてひげをぐいと突きだした。
「これが科学に関する問題だったら、科学者であるあなたの先導に喜んで従いますよ。だがこれはわたしの領分だから、あなたのほうが従う番です」
「きみの領分とは?」
「人それぞれ専門があるが、わたしのは兵法ですよ。わたしに言わせれば、われわれは今新しい国に侵略を開始するところだが、そこには敵がうようよしているかもしれない。わずかばかりの良識と忍耐心を欠いたために、その中へ盲(めくら)めっぽうに突進するようなのは、わたしの戦術にはないですからね」
彼の忠告にはなるほど一理あって無視するわけにはいかなかった。チャレンジャーは頭をひょいとあげ、重い肩をすくめた。
「では、きみの提案は?」
「わたしの判断では、あの茂みの中に食人種がいて昼飯の時間を待っているかもしれません」ジョン卿は橋のほうを見ながら答えた。「だから料理鍋で煮られてしまう前に知恵を働かせるほうがよろしい。何も問題がないことを望みながら、同時に問題があるかのように行動するのが賢明です。マローンとわたしがもう一度下へおりて、ライフル銃を四梃と、それにゴメスやほかの連中も連れてきましょう。それから一人だけ向こう側へ渡り、あとの者は銃で援護して、安全だとわかったら全員が渡ります」
チャレンジャーは切株に腰をおろして、くやしそうにうめいていた。しかしサマリーもわたしもこうした実際面の細かいことが問題になったらジョン卿が隊長として適任だという点では意見が一致していた。今は最大の難所に頂上からロープがぶらさがっているので、二度目の登はんはずっと簡単だった。一時間以内にライフルと散弾銃が運びあげられた。二人の混血土人たちがジョン卿の命令で食糧をかついで一緒に登った。最初の探検が長びいた場合にそなえるためである。各人が肩に弾薬帯をかけた。
「さて、チャレンジャー教授、あなたがどうしても一番乗りに固執されるなら」と、すべての準備がととのったころ、ジョン卿が言った。
「きみの寛大な言葉をわしは深く恩に着る」と、教授がぷんぷん怒りながら答えた。というのも、これほどあらゆる権威に反感を持つ人もいないからである。「お許しをいただいたからには、開拓者として恥ずかしくない行動をお目にかけよう」
木にまたがって両脚を空間にぶらさげ、手斧を背中にかついだチャレンジャーが、ひょこひょこ体を動かしながら間もなく向こう側へ行きついた。彼は這うようにして崖の縁に立ち、こっちに両腕をふりかざした。
「やったぞ! ついにやったぞ!」
わたしは心配しながら彼を見守った。何か恐ろしい運命が、背後の緑の中からとびだしてきて彼を襲うのではないかという漠然としたおそれがあったからだ。しかし、一羽の不思議な色をした鳥が足もとから飛び立って木々の間に姿を消したほかは、これといって変わったこともおこらなかった。
二番手はサマリーだった。一見ひよわそうな体つきの割には、すばらしく強靱(きょうじん)なエネルギーだった。自分が向こう側へ着いたら、チャレンジャーにも武器を渡せるようにと、銃を二梃背負って行くことを主張した。三番手がわたしで、途中で眼下の恐ろしい深淵に目を向けないようにつとめた。サマリーが銃の床尾をさしのべてくれ、つぎの瞬間には彼の手にすがりついていた。しんがりのジョン卿は歩いて渡った――何一つ支えになるものもないこの橋を、実際に歩いて渡ったのである! きっと鉄のような神経を持っているのにちがいない。
かくてわれわれ四人は、メイプル・ホワイトの夢の国、失われた世界に足跡をしるした。一人一人がこれこそ最高の勝利の瞬間だと感じていた。実はこれが最大の惨事の序曲だなどと、いったいだれが予想しえただろう。破壊的な一撃がわれわれを襲った事情については、ごく簡単に説明しておこう。
深い茂みをかき分けて崖の縁から五十ヤードほど奥のほうへ踏み入ったとき、背後から、バリバリッという恐ろしい音が聞こえてきた。われわれは本能的に今きた道を引きかえした。橋が消えているではないか!
身を乗りだしてのぞいてみると、はるか崖の真下にもつれ合った枝のかたまりと砕け散った幹の部分が見えた。まぎれもなくわがブナの木である。三角岩の頂上の平地がくずれて橋が落ちたのだろうか? 一瞬だれもがそう考えた。つぎの瞬間、三角岩の向うはずれから、浅黒い一つの顔、混血のゴメスの顔がゆっくりと現われた。確かにゴメスにはちがいないが、それまでの静かな微笑を浮かべた仮面のように無表情なゴメスではない。目は血走り、醜くゆがんだ顔、憎しみと復讐をしとげた喜びでひきつった顔がそこにはあった。
「ロクストン卿!」彼は叫んだ。「ジョン・ロクストン卿!」
「なんだ。ここにいるぞ」
けたたましい笑い声が谷間を越えて響きわたった。
「そうだ、確かにそこにいるとも、イギリスの犬めが。おまえは永久にそこへ残るのだ! とうとう待ちに待ったチャンスがやってきた。登るのにずいぶん苦労したが、降りるのはもっとむずかしいぞ。間抜けどもが、みんな罠にかかったのだ!」
われわれはあまりの意外さに口もきけなかった。ただ荘然として突っ立っていただけだ。草の上に太い折れた枝が見えたので、それをてこに使って橋を落したことがわかった。ゴメスの顔はいったん消えたが、やがて前よりもいっそう狂気じみた表情でもう一度現われた。
「洞穴のところでも、石を転がしてもう少しでおまえたちを殺すところだった」彼は叫んだ。「しかしこのほうがいい。じわりじわりと死が近づいてくるのが一番恐ろしいだろう。やがておまえたちはそこで白骨になる。こんな場所はだれも知らないから、骨を拾いにくるやつもいない。いよいよ死が近づいたとき、五年前にプトマヨ川で、射ち殺したロペスのことを思いだすがいい。おれはそのロペスの弟だが、兄の復讐をとげた今なら、何がおこっても安心して死ねる」彼はきちがいのように片手をふりまわし、それっきりあたりは静かになった。
この混血土人が復讐計画を実行したあとさっさと逃げだしていれば、何も問題はなかったのである。ところが、大見得を切りたいというラテン民族特有のばかげた、抵抗しがたい衝動がわざわいして、彼は足を踏みすべらしてしまったのだ。南アメリカの三国を通じて、神の鞭という威名をとどろかせたほどのロクストンのことだから、ゴメスの悪罵をおとなしく聞き流すはずはなかった。ゴメスはすでに三角岩の向こう側を下りにかかっていた。だが彼が平地に達する前に、ジョン卿は崖の縁にそって走り、相手の姿が見える場所を探しだした。ライフルがカチッと音をたてた。そしてわれわれの目には何も見えなかったが、絶叫につづいて、はるか下方から人間の体が墜落するドサッという音が聞こえてきた。ロクストンは顔色ひとつ変えずに戻ってきた。
「わたしはうかつな愚か者だった」彼は苦々しげに言った。「わたしが間抜けだったばかりに、みなさんにこんな迷惑をかけてしまった。あの連中が身内の恨みをいつまでも忘れないことを、絶えず念頭においてもっと用心すべきでした」
「もう一人はどうなったんですか? あの橋を落とすには、二人がかりでなければ無理でしょう」
「その気になれば射つこともできたが逃がしてやったのさ。もう一人はこれとは無関係かもしれないからね。しかしやっぱり殺したほうがよかったかもしれんな。きみの言うように手をかしていたとも考えられる」
ゴメスをこの行動に駆りたてた理由がわかってみると、彼の挙動にいろいろ思い当たるふしもあった。絶えずわれわれの計画を知りたがったこと、テントの外で立ち聞きしていてつかまったこと、時おりだれかが見かけた憎しみの表情など、みなそれである。われわれがなおもそのことを論じ合いながら、新事態に対処すべく知恵をしぼっているときに、下界でおこった妙な眺めがわれわれの注意をひいた。
生き残りの混血としか考えられない白服の男が、まるで死神に引きずられるような恰好で走っている。そのあとから数ヤードの間隔で走ってゆくのは、われわれの忠実な従者であるサンボの黒檀(こくたん)色の巨体だ。彼は見るうちに逃げる男に追いついて、首に両手をかけた。二人はそのままの姿勢で地面に倒れた。一瞬後サンボがおきあがった。ぐったりした男を見おろし、それから、うれしそうに手をふりながらこっちのほうへ走ってくる。白服は広大な平原のまん中にぴくりともせず横たわっていた。
二人の反逆者は死んだ。しかし彼らがやった悪事は死後も尾を引いている。われわれはどうやっても三角岩まで帰れそうにない。ついさきほどまで世界の住民だったわれわれが、今は台地の住民になってしまった。この二つの間には決定的な距離がある。向こうにはカヌーを隠した場所に通じる平原がある。紫色のもやにかすんだ地平線のかなたには、文明世界に通じる川がある。しかし二つの世界をつなぐ橋はもうないのだ。われわれのいる場所と過去の生活の間に口をあけた巨大な裂け目に、人間の知恵で橋をかけることはできそうにもない。われわれの存在条件は一瞬にして変わってしまったのだ。
この事態に直面したとき、わたしは三人の同行者の性格を知った。彼らは疑いもなく威厳があって思慮深いが、とりわけ無類の沈着さをそなえていた。さしあたり茂みの中に腰をおろして、辛抱強くサンボを待つほかはない。間もなく彼の黒い正直そうな顔が岩かげから現われ、たくましいヘラクレスのような巨体が三角岩の頂上に浮かびあがった。
「どうすればいいですか?」と彼が叫んだ。「なんでも言われた通りにします」
質問するほうは楽だが答えるほうは簡単にはいかない。一つだけはっきりしていることがあった。サンボは外界との信頼できるつながりなのだ。この男なら絶対にわれわれを見すてないだろう。
「いやいや! わたしは逃げません。何があってもここにいます。しかしインディアンどもは引きとめておけません。もうこのあたりにはクルプリが住んでいるから部落へ帰るとかなんとか、いろんなことを言ってます。わたしの力ではとても引きとめておけません」
「せめて明日まで待たしておくんだ、サンボ」わたしは叫んだ。「手紙を運んでもらいたいんだ」
「承知しました。かならず明日まで待たせておきます。しかしわたしは今何をすればいいんですか?」
してもらいたいことはいろいろあったし、事実この忠実な男はりっぱにそれをやってのけた。まず最初に、われわれの指示に従って、切株からロープをほどいて一端をこちら側に投げた。太さは洗濯綱程度だがたいそう丈夫なロープだった。橋の代用にはちょっと無理だが、山登りの必要があるときは測り知れないほど役に立ちそうだ。サンボがこのロープにすでに運びあげておいた食糧の荷をゆわえつけ、われわれのほうで引きとった。かりにそれ以外の方法が見つからないとしても、これで最低一週間は生きてゆける。やがてサンボはいったん下におりて、いろんな物資――弾薬箱一個ほかさまざまな品物――のつまったほかの荷を運びあげた。これらもロープのやりとりで無事われわれの手に入った。夕方になって、ようやく彼は三角岩からおりていった。翌朝までインディアンたちをつなぎとめておくことを確約して。
こういう次第で、わたしは一本のろうそくを頼りにこれまでの出来事を書き記すために、台地での第一夜をほとんど眠らずにすごした。
われわれは崖の縁で夕食をとり、野営した。荷物の中に入っていた二本のアポリナリス鉱水でのどの渇きをいやした。とにかく飲料水を探すことが必要だったが、ジョン卿でさえ一日にしては多すぎるほどの冒険で疲れていたらしくて、だれ一人奥のほうへ入ってみようと言いだす者はなかった。火を焚いたり不必要な物音をたてたりすることは厳重につつしんだ。
明日は(これを書いている今はもう明け方だから、今日はというほうが正確かもしれない)秘境への最初の探検をこころみることになるだろう。このつぎはいつ続きを書けるか見当もつかないし、あるいはこれが最後になるかもしれない。とにかくインディアンたちはまだ元の場所にいるようだし、間もなく忠実なサンボが手紙を受けとりに三角岩へのぼってくることだろう。今はただ手紙が無事に届くことを祈るだけだ。
追伸――われわれのおかれた状況は、考えれば考えるほど絶望的に見えてくる。帰れそうな見込みはまずない。台地のはずれに大きな木でもはえていれば橋をかけなおすこともできようが、五十ヤード以内にそんな木は見当たらない。四人の力を合わせても、橋の役に立つほどの大木をどこからか運んでくることは不可能だろう。もちろんロープは短かすぎて、それを伝っておりることもできない。どう考えても、われわれの立場は絶望的だ――そうとしか言いようがない!
十 不可思議な事件

このうえなく不可思議な事件がおこり、今もまだつづいている。わたしの持っている紙といえば、古いノートが五冊にあとはバラ紙だけである。筆記用具も鉄筆型万年筆が一本あるだけだ。だがわたしはこの手の動くかぎり経験や印象を書きつづけるつもりである。このような不思議を見る機会に恵まれたのは、全人類の中でわれわれだけなのだから、記憶が色あせないうちに、身辺に迫った恐ろしい運命がいよいよわれわれを襲わないうちに、それを記録にとどめておくことが絶対に必要なのだ。サンボがこの手紙を川まで持って行ってくれるか、わたし自身何か奇蹟的なことがおこって自分で持ち帰れるか、あるいは大胆な探検家が、改良された単葉機をかってわれわれの足跡を偶然発見して、この一束の手記を手に入れるか、いずれにしても今わたしの書いているものが、真の冒険談の古典として、将来不滅の地位を獲得することを信じて疑わない。
ゴメスの奸計によって台地に閉じこめられた最初の朝、われわれの新しい経験がはじまった。最初の事件は、われわれが迷いこんだこの場所について、あまりよい印象を抱かせるものではなかった。朝方ほんの少しまどろんだあとで目をさますと、脚の上に妙なものが見えた。ズボンの裾(すそ)がめくれあがって、むきだしの脚に紫色をした大粒のブドウが一個のっかっていたのである。ぎょっとして身をおこし、それをとりのけようとしたところ、恐ろしいことに人さし指と親指の間でパチンとはじけとんであたりに血がとび散った。わたしの悲鳴を聞いて二人の教授が駆けつけてきた。
「これは珍しい」と、サマリーがわたしのすねをのぞきこみながら言った。「大きな吸血ダニだが、どうやら新種らしい」
「これが探検の最初の成果というわけだ」チャレンジャーが大きなもったいぶった声をはりあげた。「さしずめイクソデス・マローニとでも命名しなくてはなるまい。こいつに噛まれたことなど、動物学の不滅の記録に名を残す栄誉にくらべたら物の数ではないぞ、マローン君。ただこの満腹したすばらしい標本をひねりつぶしてしまったのは残念だったな」
「いやらしい虫けらめ!」
チャレンジャー教授は抗議するように眉をつりあげ、わたしの肩にそっと片手をおいた。
「きみも科学的観察眼と客観的な科学精神を養わなくてはいかんな。わしのような学者肌の人間には、針のような口吻とふくれあがった腹を持つこの吸血ダニも、クジャクか北極のオーロラのように美しい自然の創造物と見える。きみがこのような悪口を言うのは聞くにたえん。ま、注意していればきっとまた標本が手に入るだろう」
「その点は疑いない」サマリー教授が冷静そのもので言った。「たった今きみの襟首の中にも一匹もぐりこんだところだ」
チャレンジャーは牛のようなうなり声を発してとびあがり、きちがいのように上着とシャツをかきむしって脱ぎすてた。サマリーとわたしはあまりのおかしさにほとんど手助けもできなかった。ついに彼の巨大な胴体(仕立屋ではかれば五十四インチはあるだろう)がむきだしになった。全身をおおう黒い毛のジャングルから、迷いこみはしたもののまだ食いつくところまでいっていないダニをつまみだした。どうもこのあたりの茂みは恐ろしいダニの巣らしく、野営地をほかへ移さねばならないようだ。
だがそのまえにまず忠実なサンボと打ち合せをしておかなくてはならない。間もなく彼はココアやビスケットの罐をたくさんかついで三角岩に現われ、それらをこちら側へ投げてよこした。まだ下に残っている食糧のうち、彼がこれから二か月間食いつないでゆくだけを残して、ほかはインディアンたちへの報酬および手紙をアマゾンまで運ばせる手間賃として与えるよう指示した。数時間後インディアンたちが遠くの平原に一列になって、それぞれ頭の上に一個ずつ包みをのせながら前にきた道を戻ってゆくのが見えた。サンボは崖下の小さなテントを占領して、そこでわれわれと外界との橋渡しをすることになった。
さて、いよいよ次の行動を決定しなければならない。まず深い茂みの中から、四方を立木で囲まれたせまい空地へ移動した。空地の中央には平べったい岩があり、すぐ近くにきれいな湧き水も見つかったので、この居心地のよい清潔な場所に腰をおろして、新世界探検の最初の計画をねった。まわりの木の枝では鳥がさえずっていたが――とりわけ今まで聞いたことのないホーホーという妙な鳴き声が耳についた――それ以外に生物のいる気配はなかった。
最初にしなければならないのは、手もとにある物資の明細を作ることだった。それによって今後どこまでがんばれるかがはっきりする。われわれ自身が運んだものと、サンボがロープで送りこんだものを合わせれば、さしあたりは十分すぎるほどだった。周囲にひそむ危険と考え合わせて最も重要なことは、ライフルが四梃と千三百発の弾丸、それに散弾銃が一梃あることだった。ただし散弾銃の小型薬包は百五十発しかなかった。食糧のほうは優に数週間はもちそうだし、ほかに十分な煙草と、大型望遠鏡に優秀な双眼鏡を含めた科学器具もいくつかある。これらを全部空地にまとめて、第一の用心として手斧やナイフでとげのある灌木をたくさん切って直径十五ヤードほどの円陣を築きあげた。これが当座の作戦本部――突然危険に襲われたときの避難所や物資の貯蔵所にもなるはずの場所だった。ここはチャレンジャー砦(とりで)と名付けられた。
砦が完成しないうちに正午になったが、日ざしはそれほど強くなく、概してこの台地は気温も植物も穏和な相を示していた。われわれの周囲の林にはブナ、カシ、それにカバの木まである。一本だけ他にぬきんでたイチョウの大樹が、砦の上に枝や葉を拡げていた。その日かげで論議をつづけているとき、作戦段階でたちまち主導権を握ったジョン卿が自分の意見を述べた。
「人間にも動物にも姿を見られたり物音を聞きつけられたりしないかぎり、われわれの身は安全です。問題はわれわれがここにいることを相手に知られてからだが、今のところまだ気づかれたようすはない。したがって、しばらくはここに身をひそめながら外のようすをうかがうのが上策だと思います。何はともあれ往来がはじまる前に相手をじっくり観察する必要があります」
「だがわれわれは前進しなくちゃならない」と、わたしが思いきって言った。
「その通りだとも、坊や! 前進はするさ。ただし良識ある前進をね。本拠地に戻れないほど遠くまで行ってはいけない。とりわけ命にかかわるとき以外は決して発砲してはいかんよ」
「そういうきみがきのう発砲したではないか」とサマリーが言った。
「あれはやむをえなかったのです。しかし強い風が台地のほうから外へ吹いていたから、台地の奥まではおそらく聞こえなかったでしょう。ところで、この台地をどう呼びますかね? 名前をつけるのはわれわれの役目だと思いますが」
なかなか愉快な名前がいくつか候補にあがったが、チャレンジャーのが決定的だった。
「考えられるのは一つだけだ。ここを発見した開拓者の名をとって、メイプル・ホワイト台地としよう」
メイプル・ホワイト台地の名前が、わたしの仕事になっていた例の地図に書きこまれた。きっと将来の地図にもこの名前が現われることだろう。
メイプル・ホワイト台地の安全な調査こそ、つぎにとりかかるべき問題だった。この土地には未知の動物が棲んでいることを、すでにわれわれはこの目で確かめているし、さらにメイプル・ホワイトのスケッチブックはもっと恐ろしく危険な動物が現われる可能性を示していた。また、竹で串刺しになった骸骨の存在が、兇暴な人間の住んでいることを想像させる。台地の上から突きおとされたのでなければ、あんなところに死体があるはずはなかった。こんな場所で脱出の手段もなく閉じこめられたわれわれの立場は、明らかに危険にみちており、われわれの理性はジョン卿の経験が教える用心をすべて必要と認めた。だが心は一刻も早く出発してこの世界の中心部まで行きたいとうずうずしているとき、それを抑えて入口にとどまることはとてもできそうになかった。
そこでとげのある枝で防御柵の入口をふさぎ、食糧物資を完全に囲っておいてここを出発した。砦の近くの泉から流れだした小川にそって、ゆっくりと慎重に未知の世界へ分け入った。この川は砦へ帰るときの恰好の道しるべだった。
出発後間もなく、不思議なものがわれわれを待ちうけている痕跡にぶつかった。まず深い森の中を数百ヤード進んだ。森にはわたしの見たこともない木がたくさんあったが、一行の中では植物通であるサマリーが、下界ではとっくに消滅した松柏科およびソテツ科の植物だと判定を下した。やがてわれわれは小川の幅が拡がり、かなり大きな沼になっているあたりにさしかかった。前方にはトクサまたはスギナモと呼ばれるらしい丈の高いアシの珍種が生い茂り、その間にヘゴの木が点在して風に揺れていた。先頭を歩いていたジョン卿が急に片手をあげて立ちどまった。
「これを見てください。きっと全鳥類の祖先の足跡にちがいない!」
目の前の地面には巨大な三本指の足跡がしるされていた。足跡の主がなんであれ、それは沼地を横切って森の中へ入っていったのだ。われわれは立ちどまってこの途方もなく大きな足跡を調べた。もしこれが鳥の足跡だとしたら――ほかの動物がこんな足跡を残すわけがない――ダチョウよりもはるかに大きいことから判断して、途方もない巨体が想像される。ジョン卿は用心深く周囲を見まわして象射ち銃に弾丸を二発こめた。
「名狩猟家の面目にかけて断言するが、この足跡はまだ新しい。まだ十分とたっていません。ほら、この深い足跡にまだ水がしみだしているでしょう! 絶対にまちがいない! やや、小さい足跡もあるぞ!」
なるほど同じ形の小さな足跡が大きいのと平行してつづいている。
「しかしこれをどう思う?」サマリー教授が三本指の足跡の間にある、五本指の巨人の足跡のようなものを指さして、勝ちほこるように叫んだ。
「ウィールドだ!」チャレンジャー教授が有頂天になって叫んだ。「ウィールド地層でこれと同じものを見たことがある。三本指の足で直立歩行をするが、ときどき五本指の前足の片方だけ地面につく動物だ。鳥ではないよ、ロクストン君、鳥ではないよ」
「すると、四足獣?」
「いや、爬虫類だ、恐竜だよ。こんな足跡を残すものは恐竜だけしかない。それは九十年前にサセックスのあるりっぱな医者をさんざん悩ませたものだが、こんなところで生きた恐竜にお目にかかろうなどと、だれが予想したろう」
チャレンジャーの声がしだいに小さくなっていき、われわれは茫然として立ちどまった。足跡をたどっているうちに、沼地からはなれた茂みと森を通り抜けて外へ出てしまったのだ。今目の前に拡がる空地には、生まれてはじめて見る奇異な動物が五頭もいた。われわれはやぶの中にしゃがみこんで、心ゆくまでそれを観察した。
今五頭と言ったが、そのうち二頭だけが大きくて残る三頭はまだ子供だった。とてつもなく大きい。赤ん坊でさえ象ぐらいの図体だから、親のほうは比較するものがない。トカゲのようなうろこ状の石板色の皮膚(ひふ)におおわれ、陽の当たったところはぬめぬめと光っている。五頭とも地面に坐って幅の広い強そうな尾と巨大な三本指の後足でバランスをとり、五本指の小さな前足で木の枝を引っぱって若葉を食べていた。この動物の姿を正確に伝えるにはどう言ったらいいかわからないが、体長が二十フィートもあり、黒いワニのような皮膚を持つカンガルーの化物とでもいえばおおよその想像はつくだろう。
どれぐらいの間この不思議な光景を身じろぎもせずに眺めていたろうか。強い風がわれわれのほうに向かって吹いていたし、茂みの中にすっぽり隠れているから、発見されるおそれはまずなかった。ときおり子供たちが親のまわりを不器用にはねまわって遊んでいた。巨大な体が空中にとびあがり、地ひびきをたてて地面におりてきた。親たちには想像を絶するような力があるらしく、かなり高い木の葉にとどかないと見るや、太い幹に前足をかけてまるで若木でも倒すように易々と引き倒してしまった。この動作を見ながら思ったのだが、筋肉がものすごく発達している反面、脳みその発達はひどくおそまつらしかった。というのは、重い木が頭に倒れてきたとき、忍耐力に限度があるらしくて、つづけざまに鋭い泣き声を発したからである。この事件で危険な場所に長居は無用と考えたのだろうか、配偶者と三頭の大きな子供を従えて、ゆったりした足どりで森の中へ逃げこんでしまった。しばらくは木の幹の間に石板色に光る皮膚と、茂みの上で揺れる頭が見えていたが、やがてそれも視界から消えた。
わたしは同志三人の顔をふりかえった。ジョン卿は象射ち銃の引き金に手をかけて狙いを定め、狩猟家らしく目を光らせていた。オルバニーの居心地よい部屋の、マントルピースの上に組合わせた二本のオールの上にこいつの首を飾るためなら、彼はどんなものだって惜しいとは思わないだろう。だが彼の理性が引金を引かせなかった。なにしろこの秘境の不思議をくまなく探検できるかどうかは、ひとえにこちらの存在を隠しておくことにかかっていたからである。二人の教授は言葉もなく至福を味わっていた。興奮のあまり無意識のうちに手を握り合って、チャレンジャーはふくらませた頬に天使のような微笑をうかべ、一方サマリーは皮肉な顔を一瞬驚嘆と畏敬でなごませながら、まるで不思議なものを見た二人の子供のように突っ立っていた。
「今こそ行かしめたまえ!」ようやくサマリーが口をきった。「イギリスではこれをなんというだろう?」
「サマリー君、イギリスでどう迎えられるかわしは確信をもって言える」とチャレンジャー、「きみはとんでもない大嘘つき、科学界のペテン師と罵られるだろう。つまりかつてのわしと同じ目に会うのだよ」
「写真をつきつけてもか?」
「にせものだと言われるさ、サマリー君! おそまつなにせものだとな」
「標本を見せたら?」
「それなら信用されるだろう! そうすればマローン君やフリート・ストリートの彼の仲間どもも、ようやくわれわれに対する賛辞を書きつらねるだろう。八月二十八日――この日われわれはメイプル・ホワイト台地の空地において五頭の禽竜(イグアノドン)を見る。マローン君、きみの日記にこう書いて、新聞に送ってやりたまえ」
「その返信に編集長の靴の爪先きがとんでくるかもしれないから用心しろ」ジョン卿が言った。
「ロンドンとここでは緯度がちがうから物の形がちがって見えるかもしれん。どうせ信じてもらえそうもないからという理由で、自分の冒険談を語らない人間も大勢いるんだよ。だが信用してくれないからといって非難はできない。一、二か月たてばわれわれ自身にだって夢だったとしか思えなくなるさ。ところで今の動物をなんと言いましたっけ?」
禽竜(イグアノドン)だよ」サマリーが答えた。「ケントとサセックスのヘイスティングズ砂岩には、いたるところこいつの足跡が残っている。イングランド南部の緑の植物が繁茂していた時代には、それを餌にして禽竜が沢山繁殖していたのだ。やがて自然条件が変化して彼らは死に絶えた。ここでは自然条件も当時のままで、連中もいまだに生き残っていると見える」
「生きてここから帰れるとしたら、なんとかしてあいつの首を持ち帰りたい」ジョン卿が言った。「ソマリランドやウガンダの土人にそれを見せたら、さぞまっ青になってふるえあがることだろうな。あなた方はどう思っているか知らないが、われわれは思ったより危険な場所にいるようですよ」
わたしも身のまわりに同じような謎と危険を感じていた。薄暗い森の中には何か恐ろしいものがひそんでいるようだったし、上を見あげれば黒っぽい葉むらから漠然とした恐怖が体の芯(しん)までしのびこんでくるようだった。なるほどわれわれが見た巨大な動物は、一見不器用で無害らしく、人間を傷つけることはありそうもない。しかしこの驚異にみちた世界には、ほかにもどんな動物が生き残っていることか、どんな兇暴な野獣が岩や茂みの中の巣窟からとびかかってくるか知れたものではない。先史時代の動物についてはほとんど知識がないが、猫が鼠をとるようにライオンや虎を餌食にする動物のことを、何かの本で読んだ記憶がある。メイプル・ホワイト台地でこんな動物が発見されたらいったいどうなることか!
われわれはこの日の朝、新世界での第一日目にして早くも、身のまわりの未知の危険にめぐり合う運命にあったのだ。思いだすだけでも身ぶるいのするような恐ろしい冒険だった。ジョン卿の言うように禽竜のいた空地が夢としか思えないなら、翼手竜の沼地はいつまでも消えない悪夢として残るだろう。とにかく事件の経過を正確に書きとめておく。
われわれはゆっくりと森の中を進んだ。一つにはジョン卿が物見の役を買って出て、安全を確かめてからわれわれを前進させたからであり、一つには教授たちのどちらか一方が、ほとんど一足ごとに花や昆虫の新種を発見してはかがみこんだからである。小川の右岸にそってつごう二、三マイルも進んだかと思われるころ、またもや森の中のかなり広い空地にたどりついた。帯状の茂みが重なり合った岩までつづいていた――このように台地の方々に丸石が転がっているのだ。腰までとどく茂みをかきわけながらこの岩をめざしてゆっくりと進んでいるとき、耳なれない奇妙な低い話し声のような音や口笛のような音が聞こえてくるのに気がついた。音の震源地は少し先きへ行ったあたりらしく、あたりの空気は絶えずこの騒々しい音でふるえている。ジョン卿が片手をあげて停止を命じ、自分は背中を丸めて小走りに岩の並んだところまで進んだ。彼は岩の上から向こう側をのぞいてみて、驚きの身ぶりを示した。それから、われわれの存在を忘れてしまったかのように、夢見心地で立ちあがった。ようやくこっちへこいという合図を送ってよこしたが、用心のしるしに片手をさしあげたままだった。
足音をしのばせて彼のそばまで近寄り、岩の上からのぞいてみた。そこはすりばち状の凹地で、おそらく大昔は台地の比較的小規模な噴火口だったものと思われた。われわれのいる場所から数百ヤードのところにあるすりばちの底には、水あかで緑色に腐った水がたまっていて、そのまわりにはガマの穂がはえていた。凹地自体が不気味な場所だが、そこに棲息している動物たちが加わって、ダンテの地獄篇の一場面を思わせる陰惨な光景を呈していた。ここは翼手竜の巣なのだ。何百という見わたすかぎりの大群である。水たまりの周辺には赤ん坊たちが群がり、恐ろしい姿をした母親たちが硬質の黄色い卵を抱いていた。爬虫類とも鳥類ともつかないこの醜悪な生き物の巣窟から、恐ろしい鳴き声がおこってあたりの空気をふるわせ、ぞっとするようなかびくさい瘴気(しょうき)が立ちのぼって吐き気をもよおさせた。だが上のほうでは、生き物というより剥製の標本という感じのする大きな灰色のひからびた雄どもが、それぞれ一個の石をひとりじめにして翼を休めている。時おり赤い目をくるくるっと動かし、鼠罠のようなくちばしをあけてトンボをパクリとやるとき以外は、身動き一つしない。巨大な膜状の翼がたたまれているので、いやらしいくもの巣色のショールを肩にかけ、そのうえに残忍そうな顔をひょっこり突きだした巨人の老婆のように見える。大小とりまぜて少なくとも千匹が目の前の凹地に群がっていた。
教授たちは丸一日でも喜んでその場所にがんばっただろう。先史時代の動物を観察するこの恵まれた機会に、二人はそれほど夢中になっていた。岩の間に散らばった魚や鳥の死骸を指さして、これで彼らの食物がわかったと言い合い、この空飛ぶ竜の骨が、ケンブリッジ地方の緑砂の中に見られるように、一か所にかたまって発見される謎がこれでとけたと喜び合った。つまり翼手竜はペンギンと同じように群棲動物だというのである。
やがてサマリーと意見の衝突をきたしたチャレンジャーが、自説を証明しようとして岩の上に顔を突きだしたために、あやうく破滅的な事態を招くところだった。その瞬間一番近くにいた雄が鋭い笛のような鳴き声を発し、二十フィートはあろうかと思われる革質の翼をはばたいて空に飛びあがった。雌や子供が水ぎわに寄りつどう間に、まわりを囲んだ見張りの雄どもがつぎつぎと立って空に舞いあがった。巨大な体と醜悪な姿を持つ彼らが、百匹以上で群をなして、つばめのように軽やかな力強い羽さばきで頭上を飛びまわるさまは、まさに壮観というほかはなかったが、間もなく感心して見とれてはいられないことに気がついた。はじめのうちは大きな輪を描いて飛んでいたが、これはいわば危険がどこまで迫っているかを確かめるためだったらしい。やがてしだいに高度がさがり、円周もせばまってきて、ついには乾いた翼の音が聞こえるところまで迫ってきて、頭の上をかすめそうにぐるぐるまわりはじめた。あたりの空気をふるわせるこの大きな羽音は、競技会当日のヘンドン飛行場を思わせるものがあった。
「森の中へ逃げこんで一か所にかたまるんだ」ジョン卿が銃を逆さに持って身構えながら叫んだ。「やつらは襲ってくるつもりだぞ」
退却しようとしたまさにその瞬間、頭上の輪はいっそうせばまって、一番近くまでおりてきたやつの翼のはしがわれわれの体にあやうく触れそうになった。銃の台尻で打ちかかったが、手ごたえもなければ傷ついたようすもなかった。そのとき、突然かすめ飛ぶ石板色の輪の中から長い首がさっとのびて、鋭いくちばしが突きかかってきた。くちばしはあとからあとから襲ってくる。サマリーが悲鳴をあげて片手で顔をおおった。指の間から血がしたたり落ちた。わたしもうなじのあたりに刺すような痛みを感じて、ショックでふらふらしながらうしろをふりかえった。チャレンジャーが倒れたので助けようとして身をかがめたとき、うしろからまた襲われ、彼と重なって倒れた。そのときジョン卿の象射ち銃の銃声が聞こえた。顔をあげると、翼を折られた一匹の翼手竜が、くちばしをクワッと開いてわめき、まっ赤な目をギョロギョロさせながら、まるで中世の絵で見る悪魔のような姿で地面をのたうちまわっていた。仲間は突然の銃声に驚いて空高く舞いあがり、頭上で輪を描いていた。
「今だ」ジョン卿が叫んだ。「命がけで逃げろ!」
よろめきながら低い茂みを通り抜け、ようやく森の中に逃げこんだが、それでもなおハーピイどもはふたたび襲ってきた。サマリーが一撃をくらって倒れたのを、ほかの者が助けおこして木の幹の間を走った。そこまでくればもう安全だった。巨大な翼がじゃまをして枝の下までは入りこめないからである。びっこをひきひき意気消沈して帰途につくころになっても、彼らは抜けるような青空を背景にして、頭上はるかな高みでいつまでも輪を描いていた。今ではジュズカケバトほどの大きさにしか見えないが、きっとまだわれわれの姿を執念深く目で追っていることだろう。だが、やがてわれわれがもっと深い森の中に入るころ、ついに彼らも追跡をあきらめたらしく、姿が見えなくなった。
「実に興味深く、有益な経験だった」小川のほとりで一休みしたとき、チャレンジャーがはれあがった膝(ひざ)を水で冷やしながら言った。「怒った翼手竜の習性を、われわれほどくわしく観察した人間はおるまいな、サマリー君」
サマリーは額にできた傷の血をぬぐい、わたしは首筋のひどい傷をしばった。ジョン卿も上着の肩のところを噛みとられていたが、幸いかすり傷程度ですんだ。
「これは注目すべきことだ」チャレンジャーはつづけた。「マローン君は明らかにくちばしで突かれているが、ジョン卿の上着は歯で噛み切られたものだ。わしの場合は翼で頭を殴られた。つまり連中の攻撃法が実に多彩をきわめているという何よりの証拠だよ」
「実際間一髪というところで助かった」ジョン卿が真剣な顔で言った。「まったくあんないやらしいやつにやられて死ぬなんて考えただけでぞっとする。発砲したのは申しわけないが、なにしろああするより仕方がなかったんです」
「発砲してくれなかったら今こうして生きてはいられませんよ」わたしは確信をもって答えた。
「銃声だけならどうということはないかもしれない。どうせこれだけの森では木が折れたり倒れたりして、しょっちゅう銃声のような音がひびいているもんです。だが、みなさんも同感なら、今日は一日にしてはスリルが多すぎたから、これで本部に戻って薬箱の石炭酸で傷口を消毒するほうがいいと思います。あいつらの恐ろしい歯にはどんな毒がないとも限りませんからね」
世界がはじまって以来、この日のわれわれのような経験をした人間は皆無だろう。とにかくここでは驚異の種がなかなか尽きないらしい。小川ぞいにようやく空地に帰りついて、いばらのバリケードを見たとき、これでどうやら一日の冒険も終わりだと思った。ところが一休みする間もなく、頭の痛くなるような謎が待ち受けていた。チャレンジャー砦の門も城壁もそっくり元のままなのに、何か不思議な力強い動物が留守中に侵入した痕跡があった。といっても足跡がないので侵入者の正体はわからず、わずかに巨大なイチョウの木のたれさがった枝を伝ってそれが出入したらしいと想像がつくだけだった。しかし荷物の荒らされ方を見れば、それが兇暴な力の持主であることは一目瞭然だった。地面いっぱいに品物がまき散らされ、肉の罐詰が一個ぐしゃぐしゃにつぶれて中身がはみだしていた。弾薬箱がマッチの軸のように粉々になり、ちぎれた薬莢がそばに転がっていた。われわれはふたたび正体不明の恐怖に襲われて、恐ろしい怪物がひそんでいるかもしれない周囲の薄暗がりをこわごわ見まわした。おりからサンボの呼び声が聞こえた。台地のはずれまで出て行って、三角岩の頂上に腰かけて笑っている彼の姿を見かけたとき、どれほど心が休まったことか。
「何もかもうまくいきました、チャレンジャーさま。何もかも! わたしはここにおります。ご心配なく。用があったらいつでも呼んでください」
彼の正直そうな黒い顔と、豊かなアマゾンまでの道のりの半ばに相当する目の前の広大な眺めが、われわれは二十世紀の地球上にいるのであって、誕生間もない荒れはてた状態の惑星にいるのではないことを実感させた。紫色にかすむ地平線の向こうの大河では、巨大な蒸気船が行きかい、人々が日常生活の些細な出来事を噂し合っているというのに、一方われわれは過ぎ去った時代の動物たちにまじって野営しながら、もう一つの世界をはるかに眺め、それが意味するものすべてにあこがれることしかできないというのが、どう考えても現実とは思えなかった。
この驚きにみちた一日のことでもう一つだけ忘れられない記憶がある。それを書いてこの手紙を終わるとしよう。怪我をしたためにいくらか怒りっぽくなっていたせいだと思うが、われわれを襲ったのはプテロダクティル属だったかダイモルフォドン属だったかということで教授たちの意見が対立し、激しい口論に発展した。喧嘩にまきこまれたくないので、わたしが少しはなれたところで倒木の幹に腰をおろして煙草を吸っていると、ジョン卿がぶらりと近寄ってきた。
「あいつらのいた場所がどんなだったかおぼえているかね、マローン君?」
「はっきりおぼえていますよ」
「あれは火山の噴火口だと思わないか?」
「きっとそうですよ」
「地面をよく見たかい?」
「岩があった」
「だが水たまりのまわり――アシのはえているあたりは?」
「青味がかった土だった。あれは粘土でしょう」
「いかにも。青い粘土のつまった噴火口だ」
「それがどうかしたんですか?」
「いや、なんでもないんだ」と言いすてて、彼はまたぶらぶら戻って行った。そっちのほうからは、サマリーのかん高いキイキイ声があがったりさがったりしてチャレンジャーのよくひびく低音にからんだ、学者たちの長ったらしい口論の二重唱が聞こえてきた。その夜、「青い粘土――噴火口につまった青い粘土か!」というジョン卿のひとり言をもう一度聞かなかったら、わたしはこのことをすっかり忘れていただろう。くたくたに疲れきって眠りこむ前に聞いた最後の言葉がそれだった。
十一 このときだけはわたしも英雄

われわれを襲った恐るべき生物の咬傷(こうしょう)に、何か特別な毒があるかもしれないというジョン・ロクストン卿の推測は、ずばり的を射ていた。最初の台地探検の翌朝、サマリーとわたしは激しい苦痛と高熱に見舞われ、一方チャレンジャーの膝の打ち身も、びっこをひいてさえ歩けないほどひどかった。仕方なくその日は一日キャンプにとどまって、ジョン卿が唯一の防御物であるいばらの壁を、いっそう高く、厚くするのを、われわれにできる範囲で手伝った。その長い一日、どこからだれにとは言えないが、絶えず監視されているような気分がつきまとったことをおぼえている。
その感じがあまりに根強かったので、わたしはチャレンジャー教授にそのことを打ち明けたのだが、熱にうなされているせいだと、一言のもとに片づけられてしまった。きっと今度こそは何か見えると確信しながら、何度もすばやく周囲を見まわした。しかし、目に入るものは、黒っぽくもつれ合った柵か、頭上をおおう巨木の荘厳でうつろな暗がりだけだった。それでも、何かわれわれに敵意を抱くものが近くで様子をうかがっているという感じは、ますます強まった。わたしはふとインディアンの迷信クルプリ――森にひそむ恐ろしい妖精――を思いうかべた。それが森の奥深い聖域に侵入した人間にとりつくというのは、考えられないことではない。
その夜(つまりメイプル・ホワイト台地で迎える三日目の夜)、われわれはとうてい忘れることのできない恐ろしい体験をした。それにつけても、ジョン卿が骨折って防壁を強化してくれたことに感謝しなければならない。消えかかった火を囲んで眠っているとき、われわれは、聞いたこともないような一連の恐ろしい叫び声で目をさました――というより、眠りを叩き破られたというべきか。その不思議な音は、なんにたとえていいかわからないが、われわれのキャンプの数百ヤード以内から聞こえてくるもののようだった。蒸気機関車の汽笛のようにけたたましい音だが、それでいて澄んだ、機械的な、鋭い汽笛とはちがい、音量がはるかに豊かで、苦痛と恐怖の極度の緊張でふるえている。われわれはこの神経をかきまわすような音を遮断するため、両手で耳をおおった。全身に冷汗がにじみ、物悲しいその鳴き声を聞いているうちに心臓まで苦しくなった。不幸な人生のありとあらゆる嘆きが、恐ろしい天の告発が、そして尽きざる悲しみが、すべてこの恐ろしい、苦痛の叫び声に集中し、圧縮されているように思えた。やがて、この鋭く響きわたる音にまじって、もう一つ別な音が聞こえはじめた。それは、最初のにくらべてとぎれとぎれで、腹の底から響く笑い声のようでもあり、喉を鳴らすような騒々しさが、はじめの鋭い音にからんでグロテスクな伴奏をなしていた。この恐ろしい二重唱は三、四分もつづいたろうか、その間に驚いて飛び立つ鳥の群で、木の葉がざわざわと揺れた。やがて、はじまったときと同じように、突然ピタリと物音がやんだ。われわれは長い間恐ろしさのあまり無言で坐っていた。やがてジョン卿が小枝を一つかみ火にくべたので、赤い焔が仲間の緊張した顔を照らしだし、頭上の大枝にちらちらと揺れた。
「あれはなんだろう?」と、わたしが小声で言った。
「夜が明ければわかるよ」と、ジョン卿。「いずれにせよ近かった――空地の中の音だ」
「われわれは先史時代の悲劇を洩(も)れ聞く特権を与えられたらしい。あれはジュラ紀の沼地のはずれに生い茂るアシの中で、大きな恐竜が小さなやつを軟泥の中に追いつめた一幕だな」と、チャレンジャー教授がかつてないほど厳粛な声で言った。「創造の過程で、人類が遅れてやってきたのは幸運だった。人類出現以前には、人間の勇気や道具ではとうてい太刀打ちできない強力な生き物がはびこっていた。さっきあばれまわっていたような怪物を相手にして、人間のいしゆみや投げ槍(やり)や弓矢がなんの役に立つだろう? 現代のライフル銃だって、ほとんど勝目はないくらいだ」
「わたしも同感です」と、ジョン卿がエクスプレス銃を撫でながら言った。「それにしても、あの怪物を相手に一勝負やってみたかったですな」
サマリーが片手をあげた。
「シーッ! 何か物音が聞こえるぞ!」
コトリともしない静寂を破って、ドサッドサッと重々しい規則的な音が聞こえてくる。荒々しくはないがいかにも重そうな足が地面を踏みしめる音――まぎれもなく動物の足音だ。それはキャンプの周囲をゆっくりまわって、入口の近くでとまった。低い、波打つような空気の音――怪物の呼吸の音だ。この夜の恐怖からわれわれを護るものは、弱々しい柵一つしかない。みんなライフルを手にとり、ジョン卿が銃眼をつくるために小さな枝を引き抜いた。
「おお! 姿が見えるようだぞ!」
わたしは中腰になって、彼の肩ごしに銃眼からのぞいてみた。たしかに見える! 黒い木々の間に、ひときわ黒い漠とした影が見える――猛々しい力をみなぎらせた威嚇的な姿がうずくまっている。背丈は象より高くはないが、おぼろげな輪郭が巨大な体と怪力を思わせる。エンジンの排気音のように規則的で力強い呼吸から、途方もない生命力がうかがわれる。それが動きだしたとき、二つの恐ろしい緑色の目の輝きが見えたような気がした。ゆっくり前へ動きだしたような、気持の悪い音がした。
「きっと跳びかかってくるぞ!」わたしは銃の打金をおこしながら言った。
「撃つな! 撃ってはいかん!」とジョン卿がささやいた。「こんな静かな夜に発砲すれば、何マイルも先さまで聞こえるだろう。銃は最後の切札にとっておくんだ」
「柵を乗りこえられたら、われわれは破滅だ」と、サマリー。その声は神経質な笑いに変わった。
「いや越えさせはしない」ジョン卿が叫んだ。「だが、いよいよというときまで撃たないでください。あいつをなんとか始末できるかもしれん。とにかくやってみます」
人間の行為でこれほど勇敢なものを見たことがない。彼は焚火の上にかがみこんで燃える枝を一本手にとり、引きとめる間もなく、自分で門にあけた出撃口からするりと抜けだした。怪物は恐ろしい捻り声を発しながら近づいてくる。ジョン卿はひるむどころか、軽くすばやい足どりでそいつに駆け寄り、鼻面にたいまつを突きつけた。一瞬、巨大なひきがえるのような、いぼだらけの鱗におおわれた顔、クワッとあけた口から生血をしたたらせた顔が浮かびあがった。と思う間もなく、茂みにざわざわと音を残して、恐ろしい訪問者は姿を消した。
「火には向かってこないと思ったんだよ」戻ってきて枝を焚火の中に投げだしたジョン卿が、笑いながら言った。
「あんな危険なことをやってはいけない!」と、われわれが口を揃えて叫んだ。
「ああするより仕方がなかったんです。もしあいつが柵を越えていれば、われわれはあいつを仕とめようとして同志射ちをしていたかもしれません。また、柵ごしに発砲してあいつを傷つければ、たちまち襲いかかってきたでしょう――もちろん、そうなるとわれわれはおしまいだ。まあ、うまく危機をのがれたわけですよ。それにしても、あいつは何者でしょう?」
学者先生たちは即答しかねておたがいに顔を見合わせた。
「わたしとしては、あの動物を分類する自信はない」と、サマリーが焚火でパイプに火をつけながら言った。
「きみが態度を明らかにしないのは、科学者として当然そうあるべき慎重さというものだ」と、チャレンジャーが恩きせがましく言った。「わしも今のところは、今夜われわれが一種の肉食性の恐竜に出会ったという程度の、漠然とした言い方しかできん。この種の生物がこの台地に存在しているという予想はすでに述べておいたはずだ」
「先史時代の生物には、われわれの知らないものもたくさんいる。これから出会うかもしれない動物すべてに名前をつけられると考えるのは、いささか軽率だと思うがどうだろう」
「いかにも。大まかな分類だけにとどめておくのが安全だ。明日になれば、もっとはっきりしたことがわかるかもしれん。ひとまず中断された眠りをつづけるとしよう」
「ただし見張りを立てる必要があります」ジョン卿が断言した。「こんな危険な場所では、用心するにこしたことはありません。二時間交替でどうでしょう」
「では、パイプを吸いかけているから、わたしが一番手といこう」と、サマリー教授が言った。このとき以来、われわれは見張りなしでは決して眠らないようになった。
夜が明けて間もなく、前夜われわれの眠りを妨げた恐ろしい捻り声の震源地を発見した。禽竜の空地が恐るべき屠殺場だった。緑の草地のいたるところに散らばった血だまりと肉塊から、はじめは多くの動物が殺されたものと想像したが、なおよく観察すると、虐殺されたのはあの不恰好な動物のただ一頭だけであることがわかった。彼はおそらく体はさほど大きくないが、はるかに獰猛(どうもう)な動物のために、文字通りずたずたに引き裂かれたものらしい。
教授二人は地面に坐りこんで、狂暴な歯型と巨大な爪跡の残った肉片を一つずつ調べながら、激しい議論に熱中していた。
「まだ結論をだすわけにはいかんようだな」と、白っぽい巨大な肉片を膝の上において、チャレンジャー教授が言った。「痕跡はわが国の角蛮岩の洞窟で発見される剣歯虎(サーベルタイガー)の存在を示しているようだが、現にわれわれが見た動物は、疑いもなくもっと大きくて、爬虫類に近い性質のものだった。わしとしては、異竜説をとりたいところだ」
「または巨竜だな」と、サマリー。
「その通り。肉食性の大型恐竜ならばどれをとってもあてはまるだろう。地球上に災いをまきちらし、博物館を喜ばせた獰猛な動物はみなその仲間だ」彼は自分の気のきいた冗談がよほどうれしかったらしく、カラカラと笑った。もともとユーモアのセンスなぞありはしないのだが、下手な冗談も自分の口から出ると得意で仕方がないのだ。
「あまり騒々しくしないほうがいいです」ジョン卿がそっけなく言った。「どんな敵が近くにいるかわからない。もしこいつが朝飯を食いに戻ってきてわれわれをつかまえたら、笑いごとじゃありませんよ。ところで、この禽竜の皮のしるしはなんでしょうか?」
くすんだ石板(スレート)色の鱗のはえた皮膚の、ちょうど肩の上あたりに、一見アスファルトのような物質が奇妙な黒い輪を作っていた。それがなんであるかだれにもわからなかったが、サマリーが、二日前に見た親子連れの子供のほうにも同じしるしがあったような気がすると言いだした。チャレンジャーは何も言わなかったが、その気になれば意見はあるのだといわんばかりに、もったいぶった顔つきをした。とうとうジョン卿が意見を求めた。
「閣下のお許しがいただけるならばまず第一に申しあげたいことは」と、もってまわった皮肉な口ぶりで、「閣下にとっては日常茶飯事らしいあのような叱り方に、わたしは慣れておらんということです。罪のない冗談を笑うのにも閣下の許可がいるとは知りませんでした」
結局この気むずかしい友人は、謝罪の言葉を聞いてようやく機嫌をなおした。やっと気分もおさまったので、彼は、倒木の演壇の上から、いつもの例で千人のクラスに貴重な講義をするような調子で、かなりの時間われわれに話しかけた。
「例のしるしに関しては、それがアスファルトの汚れであるというわが友サマリー教授の意見に同意したい。この台地が性質上高度に火山性であり、アスファルトは地殻火成論と深い関連がある点を考えれば、それが流動状態にあって動物たちの体にくっついたことは疑う余地がない。より重要なのは、この空地に痕跡を残していった肉食獣の存在に関する問題である。この台地がイギリスの中程度の州より広くないことはおおよそ見当がついている。この限られた空間で、かなりの数の動物が――その多くが下界では絶滅したものだが――長年にわたって共存してきた。さて、それだけの期間に肉食獣が無制限に繁殖した結果、彼らの食糧が底をついて、肉食の習慣を変えるか飢死せざるをえなくなることが十分に考えられる。ところが、われわれの目で確かめたところ、そのような現象はおきていない。したがってわれわれに想像できるのは、自然のバランスが、この猛獣たちの数を制限するなんらかの力によって保たれているということである。そこでわれわれが解決すべき数々の興味深い問題の一つは、その力がなんであるか、どのように作用しているかを解明することである。わしは将来この肉食性の恐竜をもっと綿密に観察する機会が訪れるものと信じている」
「わたしはそうは思いたくないですね」と、わたしが言った。
教授は太い眉をぐいと釣りあげただけだった。ちょうど出来の悪い生徒の見当違いな発言にぶつかった校長先生のような感じだった。
「たぶんサマリー教授も何か言いたいことがおありだろう」と彼は言い、サマリーとともに余人のうかがい知れぬ科学の高みへとのぼっていった。そこでは出生率の低下が、生存競争において、食物の減少を防ぐ作用をする可能性が論じられたらしい。
その朝われわれは、翼手竜の棲む沼地を避けて、小川の西ではなく東に進路をとりながら、台地のごく限られた部分を探検して地図に書き入れた。その方角は依然深い森でおおわれており、やぶの茂みも厚くてなかなか思うように進めなかった。
わたしはメイプル・ホワイト台地の恐怖を説明することにいささか手間取りすぎたようだ。実はまったく別の一面もなかったわけではない。その日の午前中、われわれは美しい花の中を歩きまわったのだ――わたしの見るところ大部分が白または黄色の花だったが、教授たちの説明によると、これが原始的な花の色なのだそうだ。いたるところ地面がこの花で隙間なくおおわれており、このすばらしく柔かいカーペットにくるぶしまで埋まりながら歩いていると、その甘い濃密な香気で酔い心地になってしまう。よく見かけるイギリス蜂が周囲を捻(うな)りながら飛びまわった。頭上の木々には枝もたわわに実がなり、われわれの知っているものもあれば、まったく新しい品種もあった。鳥がどの種類をついばんでいるか観察することによって、有毒なものを避けて、食糧にすばらしい変化を与えることができた。通り抜けたジャングルの中には、野獣の踏み固めた無数の小径があり、湿地では禽竜のそれを含めた無数の不思議な足跡を発見した。一度など木立ちの中でこの巨大な生物が草を食っている場面を観察したが、望遠鏡をのぞいたジョン卿の報告によると、午前中に見たのと場所は違うが、やはりアスファルトの汚れが認められるということだった。その現象が何を意味するのか、われわれには理解できなかった。
われわれは多くの小さな動物を見た。ヤマアラシ、鱗におおわれたアリクイ、長いそりかえった牙のある白黒まだらの野生のブタなどである。一度、木立ちの切れたところで、かなり前方に緑色の丘の肩をはっきりと見た。そこを横切ってこげ茶色の動物が相当のスピードで走りすぎた。一瞬の出来事だったので、その正体を確かめることはできなかったが、もしジョン卿の言うように鹿だったとすれば、わたしの故郷の沼地から時おり掘り出される巨大なアイルランド・オオシカにも劣らない大きさだったことは間違いない。
謎の訪問者がキャンプを訪れて以来、われわれはいつもある懸念を抱いてそこへ帰るようになった。しかしこの日は何も異常がなかった。その夜われわれは現在の状況と将来の計画を論じ合った。その内容をある程度詳細に説明しておく必要がある。というのは、それによって新しい出発の手がかりをつかんだのだが、おかげでメイプル・ホワイト台地については、何週間もかかって手に入れるものよりいっそう完全な知識を得ることができたのだから。口火を切ったのはサマリーだった。彼は一日中不機嫌だったが、翌日の行動予定に関するジョン卿の発言が、ついに彼の癇癪(かんしゃく)を爆発させた。
「今日にしろ明日にしろ、いつでもそうだが、要するにわれわれのなすべきことは、この罠(わな)から逃げだす方法を探すことだと思う。ところが諸君はこの台地に深入りすることにしか目を向けておらん。われわれは脱出計画をたてるべきだと思うがな」
「これはまた心外ですな」チャレンジャーが堂々たるひげをなでながらどなった。「科学者ともあろうものがこのような不名誉な感情を口にするとは。今きみのいる場所は、有史以来例を見ないほどの魅力で、野心的な博物学者を惹きつける場所なのですぞ。ところがきみはこの土地あるいはそれが内包するものについて、きわめて皮相な知識しか手に入れないうちに、早くも逃げだすことを考えている。わしはきみを見そこなったよ、サマリー教授」
「断わっておくが」と、サマリーが気むずかしく答えた。「わたしはロンドンで大勢のクラスを抱えている。今はそれを無能な代理講師の手にまかせてある状態なのだ。ここがきみとわたしの違いだよ、チャレンジャー教授。わたしの知る限り、きみは責任ある教育の仕事を与えられたことがなかったはずだからね」
「その通りだ」と、チャレンジャーも負けていない。「高度の独創的な研究能力を、より卑少な目的に向けるのは一種の冒涜だというのがわしの持論だからな。教育界に地位を提供されても、頑として断わりつづけてきた理由はそれだよ」
「ほう、例えばどんな地位を?」と、サマリーがからかい口調でたずねた。がジョン卿が急いで話題を変えた。
「率直に言って、この台地についてもっとよく知る前にロンドンへ帰るというのは、非常に残念なことだと思います」
「わたしも社の奥の部屋へ入っていって、マッカードルに合わせる顔がありません」と、わたしも言った。(わたしの率直さを大目に見てくれるでしょうね?)「彼はこんな中途はんぱな記事を書いたわたしを決して許さないでしょう。それに、どっちみち下界へ降りたくても降りられないんだから、わたしに言わせれば議論をしても無駄ですよ」
「この若い友人の頭は明らかに隙間だらけだが、一種の素朴な良識がそれを十分埋め合わせているようだ」と、チャレンジャーが言った。「彼の嘆かわしい職業上の利害はわれわれにとっては取るに足らないものだ。しかし、彼も言うように、いずれにせよ脱出方法はないのだから、議論してみてもエネルギーの浪費というものだろう」
「何をやってもエネルギーの浪費に変わりはない」と、サマリーがパイプをくわえたままでどなった。「それよりもわれわれは、ロンドンの動物学会で委任された明確な任務を果たすためにここへやってきたということを思いだしていただきたい。その任務とはチャレンジャー教授の発表の真偽を確かめることだった。われわれは今彼の発言を支持すべき立場にあることを認めざるを得ない。したがってわれわれの一応の任務は終わったのだ。この台地で探求さるべき詳細について言えば、それはあまりにも大きすぎて、特殊装備のととのった大規模な探検隊でなければとても手に負えそうもない。もしわれわれ自身がそれを企てたとすれば、すでに得た重要な科学上の成果もろとも、二度とふたたびイギリスへ帰れないという事態も十分考えられる。チャレンジャー教授は、一見侵入不可能と見えたこの台地に、われわれを運びあげる方法を考えついた。われわれはふたたび彼の天才に訴えて、なんとか下界へ降りる方法を考えてもらうべきだと思う」
正直なところサマリーの意見を聞いているうちに、それがまったく妥当なように思えてきた。チャレンジャーでさえ、もし自分の発表の裏付けが疑いを抱く人々のもとまで達しなければ、敵を論破することはできないということを考えて、かなり心を動かしていた。
「台地から降りるという問題は一見とてつもない難問のように見える」彼は言った。「しかし、頭を使えばおそらく解決できる。メイプル・ホワイト台地に長居は無用、間もなく帰国の問題に直面せねばならないという諸君の意見に、わしは同調する用意がある。しかしながら、少なくともこの台地をひととおり探検し、地図を作って持ち帰るまでは、絶対にこの場所をはなれるつもりはない」
サマリー教授が気短かに鼻を鳴らした。
「すでに二日もかかって探検しているが、台地の地理に関するわれわれの知識は最初にくらべて少しも進歩していない。わかったのはいたるところ深い森におおわれており、その中に分け入って各部分のつながりを明らかにするのに数か月はかかるだろうということだけだ。中央に高い山でもあれば話は別だが、これまで見たかぎりでは逆に中央部に向かって低くなっている。つまり奥へ入れば入るほど全体の見通しがつかなくなるということだ」
わたしの頭に霊感がひらめいたのはまさにこのときだった。たまたまわたしの目が頭上の大枝を拡げるイチョウの木の節(ふし)くれだった太い幹にとまった。幹の太さが他を圧しているとすれば、高さもきっとそうに違いない。台地の周辺が一番高くなっているとしたら、この大木は台地全体を展望する絶好の見張所になるのではないか? ところで、わたしは故郷のアイルランドで走りまわっていた腕白小僧時代から、木登りには自信がある。岩登りでは人に遅れをとるとしても、木登りなら絶対に負ける気づかいはない。一番低い枝に足さえかかれば、あとはてっぺんまで登れないのが不思議なくらいだ。仲間はわたしの思いつきを聞いて喜んだ。
「マローン君は軽業師(かるわざし)のような真似ができるという」チャレンジャーが赤いりんごのような頬をふくらませて言った。「形だけは堂々としていても、もっと体の固い人間にはとうていできないことだ。わしは彼の決心に拍手をおくりたい」
「なるほど、すばらしい思いつきだ!」ジョン卿がわたしの肩を叩いた。「なぜ今までそれを思いつかなかったんだろう! 日が暮れるまであと一時間足らずしかないが、ノートを持っていけば台地の大まかなスケッチぐらいはとれるだろう。弾薬箱を枝の下に三つ重ねれば、簡単に枝まで押しあげられそうだ」
彼は箱の上に立って、木の幹に向かったわたしを静かに持ちあげた。そのとき、チャレンジャーがとびだしてきていかつい手で一突きしたので、わたしの体はあっさり枝までとびあがった。両手で枝にしがみつき、足で激しく蹴(け)るうちに、まず胴体が、ついで膝が枝の高さまで持ちあがった。頭の上にちょうど梯子のような具合になった手頃な横枝が三本と、もつれ合った具合のいい枝があったので、どんどん上のほうへ登った結果、間もなく葉にさえぎられて地面が見えなくなった。ときどき障害物にぶつかって、一度など蔓草にぶらさがって八フィートから十フィートも登らねばならなかったが、概して調子よく登り、チャレンジャーのドラ声もはるか下方へ遠ざかった。しかし木は途方もない大きさで、上を見あげてもいっこうに枝が細くなるようすはなかった。途中厚い茂みになったヤドリギのようなものに突き当たった。それによじのぼり、顔をまわして向こう側に何があるか見ようとしたとき、わたしは驚きと恐ろしさのあまり、もう少しで木から落ちるところだった。
わずか一フィートか二フィートの距離をおいて、ある顔がわたしをのぞいていたのだ。顔の主はヤドリギのかげにいて、たまたまわたしと同時に顔をまわしたものらしい。それは人間の顔だった――少なくとも今まで見たどの猿よりも人間に近い顔だった。長い白っぽい顔で、にきびにおおわれ、鼻ぺちゃで、こわいまばらなひげのはえた下あごがぐいと突き出ていた。濃(こ)く太い眉毛の下の目は獰猛(どうもう)そうで、口をあけて罵り声のような音をたてたとき、曲がった鋭い犬のような歯が見えた。一瞬その狂暴な目に憎しみと威嚇が読みとれた。やがて、閃光のように、深い恐怖の表情が浮かんだ。そいつがもつれ合った緑の葉の中に跳びおりたとき、ピシッピシッと枝の折れる音がした。赤っぽい豚のような毛むくじゃらの体がちらと見えたが、やがて葉と枝の渦の中に消えてしまった。
「どうした、何かあったのか?」と、下からジョン卿の声が聞こえた。
「見ましたか?」わたしは両手で枝にしがみつき、ぞっとしながら叫んだ。
「足を滑らしたような音がしたが、なんの音だい?」
わたしはこの猿人が突然風変わりな現われ方をしたことにショックを受けていたので、ひとまず木から降りて仲間にそのことを話すべきかどうかためらっていた。しかしこれだけ高く登っていながら、任務を果たさずに降りるのは情(なさけ)ないような気がした。
そんなわけで、呼吸をととのえ、勇気をとり戻すために長い間休んだあとで、ふたたび登りにかかった。一度枯枝に体重をかけて両手で宙づりになるという場面もあったが、概して楽な登りだった。やがて周囲の葉もしだいにまばらになり、頬をなぶる風から判断して、どうやら森の木木のてっぺんから上に抜けだしたことがわかった。しかし一番高いところまで登りつめるまでは周囲を見ない決心をして、とうとうてっぺんの枝が体の重みでしなうところまでたどりついた。そこで手頃なふたまたの枝に安全に腰をおちつけて、この神秘にみちた台地のすばらしいパノラマを見おろした。
太陽は西の地平線のすぐ上にあり、この日は特によく晴れた夕暮れだったので、台地のはずれまではっきりと見通すことができた。それは、この高さから見おろすと、長径約三十マイル、短径約二十マイルの楕円形をしていた。おおよその地勢は浅いじょうご型で、周囲からしだいに傾斜して中心部のかなり大きな湖にいたっている。湖は周囲がおよそ十マイルぐらいはあるだろうか、縁を厚いアシの茂みに囲まれ、湖面のところどころに黄色い砂洲がのぞいて、柔かい光の中で黄金色に輝いている。夕方の明りの中で、たとえようもなく美しい姿で横たわっていた。ワニにしては大きすぎるし、カヌーにしては長すぎる黒い物体が、砂洲の縁に無数に認められた。望遠鏡でそれらが生物であることだけは確認したが、どんな動物であるかはまるで見当もつかなかった。
台地のわれわれが野営している側から、ところどころ空地をちりばめた下り坂の森林地帯が、中央の湖に向かって五マイルか六マイルつづいている。真下には例の禽竜の空地があり、少し先きに翼手竜の沼地らしい丸い森の切れ目が見える。しかし台地の正面はこれとまったく別の様相を呈している。そこでは外界をさえぎる玄武岩の崖と同じものが台地の内側にもあり、およそ二百フィートほどの断崖を形成してその下は森の多い斜面になっている。赤い絶壁の下、地面からかなり高いところに、無数の暗い穴があいているのが望遠鏡を通して認められた。これはおそらく洞窟の入口なのだろう。ある入口で何か白っぽいものが光っていたが、その正体はわからなかった。わたしはあたりが暗くなって細かいところの見分けがつかなくなるまで、木の枝に坐って地図を描きつづけた。それから、大木の下で今か今かと待っている仲間のところへ降りていった。このときだけはわたしも探検の英雄だった。自分一人で考えだし、自分一人でやってのけたのだ。その結果、未知の危険にさらされながら、一か月も手探りで歩きまわる無駄をはぶいてくれるに違いない地図を手に入れた。三人はかわるがわる厳粛な表情でわたしに握手を求めた。しかし、わたしの地図の細部について論じる前に、まず樹上で出会った猿人の一件を報告する必要があった。
「そいつはずっとあすこにいたんです」
「どうしてそれがわかる?」と、ジョン卿がたずねた。
「何か敵意を持つものにずっと見られていたような気がするからですよ。ぼくは前にもそう言ったでしょう、チャレンジャー教授」
「そういえば確かにそんなことを言ったな。われわれの中で彼がそうしたものに敏感なケルト的特性を一番多くそなえているようだ」
「テレパシーなどというものは――」と、サマリーがパイプをつめながら言いかけた。
「問題が大きすぎて今ここで論じるには不適当だ」チャレンジャーがきめつけた。それから、日曜学校の生徒に話しかける坊さんのような口調で、「ところでその動物は親指を掌に曲げられるかどうか見なかったかね?」
「いや、気がつきませんでした」
「しっぽはあったかな?」
「ありません」
「足に把握力はあったかね?」
「そうでもなければあれほどすばやく枝の中に姿は消せないと思います」
「南アメリカには、わしの記憶に間違いがなけれは――誤りがあったら指摘してくれたまえ、サマリー教授――約三十六種の猿が棲息しているが、類人猿がいることは知られていない。しかし、それが存在していることは間違いない。ただアフリカと東洋にしかいない毛におおわれたゴリラのような種族とは違う」(チャレンジャー教授を見ているうちに、その同族はケンジントンにもいるとつい口に出しそうになった)「これはひげをはやした色のないタイプだ。色がないということは、森の中に隠れ住む習性を示している。問題は彼が猿と人間のどちらにより近いかということだ。もし後者に近いとすれば、俗説に言うミッシング・リンク(類人猿と人間の中間にあったと想定される動物)にほぼ相当するだろう。とにかくこの問題を解決することがわれわれのさし当たっての義務というものだ」
「いやいや、そうじゃない」サマリーがだしぬけに口出しした。「マローン君の思いつきと活躍によって(この言葉を引用せずにはいられない)地図が手に入った今、われわれの緊急の義務はこの恐ろしい場所から無事逃げだすことだと思う」
「文明時代の肉なべか(旧約出エジプト記。モーゼにひきいられてエジプトを出たイスラエル人が、荒野に飢えて、エジプト時代のぜいたくな肉なべを引き合いに出しながら不満を述べる)」とチャレンジャー教授がうなった。
「いや、文明時代のインクつぼだ。われわれがこの目で見たことを記録し、あとの探検はほかの人間にまかせるのが義務というものだ。マローン君が地図を作る前はみなそれに賛成だったではないか」
「それは、探検の成果が友人たちの手に届いたとわかれば、確かにわしの心も安まるだろう。どうやってここから降りるかについてはまだなにも考えが浮かんでおらん。しかし、これまでの経験では、わしのすぐれた頭脳をもってしても解決できない問題にであったためしがないから、明日になったら下へ降りる問題を考えてみると約束してもいい」
かくて問題は一応けりがついた。しかしその夜、焚火と一本のろうそくの明りで、失われた世界の最初の地図が書きあげられた。わたしが見張台から観察して大ざっぱに書きとめておいたものは、すべて関連のある場所に書きこまれた。チャレンジャーの鉛筆が湖の所在を示す大きな空白の上をさまよった。
「湖にはどう名前をつけるかな?」
「きみ自身の名前を永久にとどめてはどうかね?」と、サマリーが例によって皮肉な口ぶりで言った。
「わしの名前はもっとほかの、わしにしかできないことで後世に残ると信じている。山や川に名を冠すればどんなばかでもその無価値な名前を後世に残すことができるだろう。だがわしはそんな記念碑を必要としない」
サマリーが皮肉な笑いをうかべながら新たな攻撃に移ろうとしたとき、ジョン卿があわててさえぎった。
「湖に名前をつけるのはきみの役目だよ、マローン君。きみが最初の発見者だからね。かりに『マローン湖』とつけたとしても、だれも文句の言いようがないだろう」
「よかろう。マローン君に一任しよう」と、チャレンジャー。
「ではグラディス湖としてください」おそらくこのときわたしの顔があからんでいたことだろう。
「中央湖とするほうがわかりやすくはないかね?」と、サマリーが言った。
「やっぱりグラディス湖にします」
チャレンジャーがわたしの肩を持つような視線を向けて、からかい気味に大きな頭をふった。
「若い人は若い人だ。グラディス湖でいいじゃないか」
十二 森の中の恐怖

前にも言ったはずだが――このところ記憶が混乱しがちだから、あるいはわたしの思い違いかもしれない――事態の解決とまでは言わないにしても、それに大いに役立ったわたしの働きに対して、仲間の三人から感謝の言葉を浴びせられたとき、わたしの胸は誇らしさでふくらんだ。年齢から言っても、経験、人格、知識、その他人間形成のあらゆる要素から言っても、一行の中では、若僧にすぎないわたしは、そもそものはじめから影の薄い存在だった。そのわたしが今やりっぱな手柄をたてたのだ。それを考えるだけで心が暖まった。だが、悲しいかな、おごれる者は久しからず! 過信を伴った自己満足のささやかな喜びが、その夜わたしの生涯で最も恐ろしい経験へと導くことになる。そのときのショックを思いだすだけでも、いまだに心臓が苦しくなるほどだ。
事件はこんなふうにしておこった。わたしは木登りの冒険でひどく興奮していたため、その夜はなかなか寝つかれそうになかった。サマリーが見張番で、小さな焚火にかがみこんで坐っていた。骨ばった奇妙な姿が、膝にライフルを抱き、とがった山羊(やぎ)ひげが疲れてこっくりするたびに揺れている。ジョン卿は南アメリカのポンチョにくるまって静かに横たわり、チャレンジャーは森の中までひびきわたるようなすさまじいいびきをかいて眠っている。満月が明るく輝き、空気は冷たく肌に快い。散歩にはもってこいの晩だ! 突然、「散歩していけないことはあるまい」という考えが浮かんだ。こっそり、キャンプをぬけだし、中央の湖まで行って、朝食の時間までに湖に関するなんらかの報告をたずさえて戻ってきたとしたら――わたしはなおいっそう役に立つ人間と評価されるのではないだろうか? それから、もしサマリーの主張が勝ってなんらかの脱出手段が発見されたら、われわれは台地の中心部の神秘に関する直接の知識を手に入れてロンドンへ帰還することになるが、現実にその地を踏んだのは一行中でわたしだけということになるのだ。わたしはグラディスのことと、「わたしたちのまわりには、英雄的な事柄がいくつもあって…」という彼女の言葉を思いだしていた。彼女がそれを言ったときの声までがはっきり聞こえるような気がした。それからマッカードルがいる。三段抜きの記事はどうだ! 出世の足がかりではないか! それでつぎの大戦の特派員に選ばれるかもしれない。わたしは銃を手にとり、ポケットに薬莢をいっぱい詰めこんで、柵の入口のいばらをかきわけながらすばやく外へ出た。出がけにひょいとふり向くと、見張番としてはまったく無能なサマリーが、くすぶる火の前で、風変わりなぜんまいじかけのおもちゃのように、無意識で船をこいでいた。
わたしは百ヤードも進まないうちに自分の無謀を後悔しはじめていた。この報告のどこかですでに述べたと思うが、わたしは想像力がありすぎて真に勇敢な人間にはなれない。だが臆病者と見られることをひどく嫌う一面もある。今わたしを前に進ませている力はそれだけだった。要するに手ぶらで帰る気になれないというだけのことなのだ。たとえ仲間がわたしの不在に気がつかなくても、またわたしの弱点を知らないとしても、依然わたし自身の心の中に許しがたい屈辱感が残るだろう。それにしても、今自分のおかれた立場を考えると恐ろしさで身ぶるいし、名誉をそこなわずにそこから逃げだすためなら、持てるすべてを与えても惜しくないような気分だった。
森の中は恐ろしかった。木々は厚く生い茂り、葉がいっぱいに拡がっているので、ところどころ高い枝が星空を背景に複雑な線細工のような影をうかびあがらせているほかは、月の光さえまったく見えない。暗闇に目が慣れるに従って、森の中の暗さにもいろいろ違いのあることがわかった――ぼんやり物の形がわかる程度の暗さのところもあれば、洞窟の入口か何かのように、墨を流したような暗さのところもある。そこを通るときは恐ろしさで身がすくんだ。わたしは引き裂かれた禽竜(イグアノドン)の絶望的な叫びを思いだした。森の中にこだましたあの恐ろしい叫びだ。それから、ジョン卿のたいまつの明りで見たあのくすんだいぼだらけの血まみれの顔。今もわたしはそいつの猟場にいるのだ。あの名の知れない恐ろしい怪物が、今にも暗闇の中からとびかかってくるかもしれない。立ちどまってポケットから薬莢をとりだし、銃尾を開いた。レバーにさわってみてギョッとした。わたしが持ってきたのは散弾銃だった。ライフル銃ではなかったのだ!
またしても逃げ帰りたい衝動にかられた。これこそわたしの失敗をとりつくろう何よりの口実になる――事情が事情だから、だれもわたしを軽んじるものはいないだろう。しかし、ここでもまたばかげた自尊心が失敗という言葉に抵抗を感じた。失敗は絶対に許されない。結局わたしが出会うかもしれない危険に対しては、散弾銃もライフル銃も同じように無力かもしれないのだ。銃をとりかえるためにキャンプに戻れば、きっと仲間に姿を見られるだろう。そこでいろいろと説明する必要が生じて、この計画はわたしだけのものではなくなってしまうおそれがある。結局しばしためらったのち、勇気をふりしぼって、役に立たない銃を小脇に抱えながらまた歩きだした。
森の中の暗さも恐ろしかったが、それにもましていやなのは、禽竜の空地を照らす白っぽい静かな月の光だった。わたしは茂みの中に隠れてそこの様子をうかがった。巨大な野獣の姿は全然見当たらなかった。おそらくここで仲間の一頭が悲劇的な運命に見舞われたため、彼らはこの餌場に近づかなくなったのだろう。もやにかすんだ銀色の夜の中には、生物の気配がまったくなかった。そこで、わたしは勇を鼓してすばやく空地に踏みだし、ふたたび反対側のジャングルに分け入って道しるべの小川にたどりついた。小川は陽気な水音をたてて流れ、子供のころマスの夜釣りに行った西部地方のなつかしい川によく似た楽しい道づれだった。流れに沿って進めば湖にたどりつくことは確かだし、同じ道をたどってキャンプまで帰ることができる。しばしばからみ合った茂みのために川を見失ったが、水音のおかげで道に迷う心配はなかった。
斜面をくだるにつれて樹木がしだいにまばらになり、ところどころ高い木をまじえたやぶが森にとってかわった。おかげで速度もずっと早くなったし、敵に気づかれないで相手の姿を見ることができた。翼手竜の沼地に近づいたとき、乾いた鋭い羽ばたきが聞こえて、例の巨大な生物が――羽を拡げると少なくとも二十フィートはある――すぐ近くから空へ舞いあがった。それが月をよぎって飛ぶとき、膜状の羽を通して月明りがはっきり見え、まるで白っぽい熱帯の輝きの中を骸骨が飛んでいるような感じだった。わたしは茂みに身をひそめた。過去の経験からして、ただの一声で百羽ものいやらしい仲間を呼び集めることを知っていたからである。そいつが地上に舞いおりるまで待って、わたしはこっそり先きへ進んだ。
その夜は非常に静かだったが、進むにつれて低いごろごろという音、絶え間ない呟(つぶや)き声のようなものが前方に聞こえはじめた。音はしだいに高くなり、すぐ近くからはっきり聞こえるようになった。立ちどまってもやはり切れ目なしにつづいているところを見ると、どこか一定の場所から響いてくるものらしい。やかんの湯が煮立つ音か、大きな鍋の煮える音に似ていた。間もなく音の震源地が見つかった。小さな空地の中央に、湖――むしろ水たまりというほうが適切かもしれない、トラファルガー広場の噴水の池ほどの大きさしかなかったから――が見えたのである。黒いタールのような物質におおわれたその表面が、底から噴きだすガスの泡であがったりさがったりしていた。表面の空気が熱気でちらちら揺れ、まわりの地面は手でさわれないほど熱かった。明らかにはるか大昔にこの台地を持ちあげた火山活動が、いまだ完全に死に絶えていないのだ。繁茂する植物の間からのぞく黒ずんだ岩や熔岩の塊りは、いたるところで見かけたが、ジャングルの中にあるこのアスファルトの水たまりは、台地の斜面で大昔の噴火口が今も活躍していることを示すはじめてのものだった。夜明け前にキャンプまで戻るには先を急ぐ必要があったので、ここをくわしく観察する暇はなかった。
この夜の恐ろしい散歩を、わたしはいつまでも忘れないだろう。月明りに照らされた広い空地を通るときは、はしのほうの影の部分を忍び足で通り抜けた。ジャングルの中では、野獣が通るらしい小枝の折れる音がするたびに、胸をどきどきさせながら立ちどまった。時おり大きな黒い影がすいと目の前に浮かびあがっては消えた――四つ足で地を這うような、大きくて静かな影だった。わたしは何度逃げ帰ろうとして立ちどまったことか、しかしそのたびに自尊心が恐怖を押しのけて、ついにわたしを目標地点まで進ませた。
ついに(時計は午前一時を指していた)わたしは、ジャングルの切れ目に鏡のように光る湖面を認めた。十分後には中央湖の岸に生い茂るアシの中に立っていた。ひどく喉がかわいていたので、地面にひざまずいて湖の水を心ゆくまで飲んだ。目のさめるような冷たい水だった。そこは広い径になっていて、さまざまな動物の足跡が残っていたから、動物たちの水飲み場に違いない。水際に巨大な熔岩の塊りがぽつんと横たわっていた。その上にのぼって横になると、あらゆる方角に見通しがきいた。
最初目についたのは、なんとも驚くべき眺めだった。木のてっぺんからの眺めを説明したとき、遠くの崖に洞穴の入口らしい無数の黒点が見えたと述べたが、今その同じ崖を見あげると、赤い光の円盤がいくつもくっきりと闇の中に浮かびあがっている。まるで汽船の舷窓に灯がともったようだ。一瞬火山の活動で流れだした熔岩の輝きかと思ったが、そんなことはありえない。熔岩ならば高い崖の上などではなく、凹んだ場所から流れだすはずだ。だとしたら、いったいこの光の正体はなんだろう? 不思議なことだが、そうとしか考えようがない。この赤い光は洞穴の中で燃えている火の反映に違いない――火をおこすことのできるのは人間だけだ。とすると、台地には人間が住んでいることになる。わたしの探検はりっぱに報いられた! ロンドンへ帰って報告すべき特大ニュースがここにある!
わたしは長い間横になったまま、この赤くふるえる光の斑点を見守った。わたしのいる場所から十マイルははなれていると思うのだが、それだけの距離をおいても、だれかその前を通りすぎるらしく、時おり明りが点滅したり暗くなったりするのが手にとるようにわかる。この洞窟まで忍び寄って中をのぞき、この不思議な場所に住む種族の外見と性格について、仲間に何か報告を持ちかえれるなら、わたしはひきかえにどんなものを投げだしてもいい! さしあたりそれは問題外だが、いずれわれわれがこの台地を去るまでには、洞窟についてはっきりした知識を手に入れなくてはなるまい。
グラディス湖――わたしの湖――は、その中心に明るい月の影をうつして、水銀を流したように目の前に横たわっている。いたるところで低い砂洲が水面に突きだしているのを見れば、湖は底が浅いことがわかる。静かな水面のあちこちで生物の気配がする。それは波紋とさざなみだけのこともあれば、銀色の鱗(うろこ)を輝かせてとびあがる大きな魚や、石板(スレート)色のこんもりした背だけを水面にのぞかせて移動する怪物のこともある。ある黄色い砂洲では、不恰好な体と長いしなやかな首をして、水際をそろそろ歩きまわる巨大な白鳥のような動物が見えた。やがてそいつは水の中にとびこんだが、まがった首と突きだした頭だけがしばらくの間水面で揺れていた。間もなくそれは水中にもぐって完全に姿を消した。
わたしの注意は間もなく遠くの眺めから、足もと近くでおこっていることに引き戻された。二匹の巨大なアルマジロのような動物が水飲み場にやってきて水際に坐りこみ、赤いリボンのように見える長いしなやかな舌を出したり引っこめたりしながら、ピチャピチャ水をなめていたのである。枝角をはやした王者のような風格を持つ巨大な鹿が雌鹿と二頭の仔鹿をひきつれて、これまたアルマジロと並んで水を飲んでいた。これほど大きな鹿は地球上のどこにも存在しないだろう。わたしの見た鹿はせいぜいそいつの肩のあたりまでしかなさそうだ。やがて彼は警告の叫びを発して家族と一緒にアシの茂みに姿を消し、一方アルマジロもあわてて隠れ場に逃げこんだ。新手の見るからに恐ろしい怪物が道を近づいてきたのだ。
一瞬わたしはこのぶざまな姿をどこかで見たような気がした。彎曲した背中に三角のとげが生えならび、鳥のような奇妙な頭は地上すれすれのところにある。そうだ、思いだした。剣竜(ステゴサウルス)――メイプル・ホワイトがスケッチブックに描いた動物、最初にチャレンジャー教授の関心をひいた動物だ! おそらくアメリカ人画家が出会ったやつの同類が、今わたしの目の前に現われたのだ。そいつの途方もない重さで地面が揺れ、ゴクンゴクンと水を飲みこむ音が静かな夜の中に響きわたった。およそ五分間、そいつはわたしの岩のすぐ近くにいた。手をのばせば、背中で波打つ気味の悪いとげにさわりそうなほどだった。やがて地響きをたてながら水飲み場をはなれ、玉石の間に姿を消した。
時計は二時半を指していた。わたしはそろそろしおどきだと判断して、帰途についた。小川の右側をずっと歩いてきたのだから、帰る方角についてはなんの心配もなかった。小川はわたしのいる石からほんの目と鼻のところで中央湖に注いでいる。わたしは意気揚々と出発した。収穫は十分にあるし、仲間に喜ばれそうなニュースもたくさんある。もちろん中でも重大なのは、火の燃えている洞窟を見たことと、そこに穴居人が住んでいるらしいことだ。そのほかにも、経験から中央湖について話すことができるだろう。そこには不思議な生物がいっぱいいることを証言できるし、これまで見たこともないような原始的陸棲動物をいくつかこの目で見た。歩きながら考えたことだが、この夜のわたしほど不思議な夜をすごし、それによって人類の知識に多大の貢献をなした人間は、そうざらにはいないだろう。
そんなことを考えながら斜面をのぼって、キャンプと湖のちょうど中間ぐらいまでたどりついたとき、背後に不思議な音を聞きつけてふとわれにかえった。いびきとも捻り声ともつかない、低くこもった、何か背筋の寒くなるような音だ。明らかに恐ろしい動物が近くにいるらしいのだが、姿が見えないので、わたしは足どりを速めた。半マイルほどいったところで、またもや声が聞こえた。依然としてうしろのほうからやってくるが、今度は音も大きく、ますます威嚇的である。正体はなんであれ、そいつがわたしを追っかけてくるという考えが心に浮かんだとたんに、心臓が止まるような恐怖に襲われた。肌にあわが生じ、髪の毛が逆立った。この怪物たちがおたがい同士で引き裂き合うのは奇妙な生存競争の一部としてうなずける。しかし彼らが現代の人間に立ち向かい、意識的にすぐれた人類のあとをつけ、追いつめるとなると、考えるだけでも耐えがたいほど恐ろしいことだ。わたしはふたたびジョン卿のたいまつに照らされた血だらけの顔を思いだした。まるでダンテの地獄の最も深いところから現われたような恐ろしい顔だった。わたしは膝をがくがくさせながら、大きく目を開いて月に照らされた小径をふりかえった。夢の中に現われる風景のように音のない世界だった。銀色の光に洗われた空地、黒い茂み――それ以上は何も見えなかった。やがて、静寂をつらぬいて、例の低い喉にかかったしゃがれ声が、いよいよ近くから聞こえた。ぞっとするような緊迫感がみなぎる。もはや疑う余地はない。何かがわたしを追いかけてくる。しかもそいつは刻一刻近づいてくるのだ。
わたしはさきほど通ってきた地面をじっと見つめながら、まるで化石したように立ちどまっていた。たった今通ってきたばかりの空地の向こうはしで、茂みの揺れ動くような気配がする。大きな黒い影が月明りに照らされた空地にひょいととびだしてきた。ことさら「とびだしてきた」という表現を用いたのは、その動物がカンガルーのように大きな後足で立ち、前足は体の前で曲げていたからである。物すごく大きな図体をしており、力も強そうで、まるで二本足で立った象のような感じだったが、それでいて動作は思いがけず機敏だった。姿を見た瞬間おとなしい禽竜であってくれればいいと思ったが、いかにわたしが無知とはいえ、まったく違う動物だということがすぐにわかった。三本指で草食性の鹿のような顔をした巨大な禽竜と違って、そいつはキャンプにやってきたのと同じようにだだっぴろい、ずんぐりしたひきがえる面をしている。その猛々しい叫び声と執念深さから判断して、かつて地球上に存在したもっとも兇暴な肉食性の恐竜であることは間違いなかった。そいつは歩きながら約二十ヤードごとに前足を地面におろして鼻面をすりつけた。わたしの匂いをたどっているのだ。時おり足跡を見失うらしいのだが、すぐまた見つけだして、わたしの通った小径をすばやく追いかけてくる。
今でもこの悪夢を思いだすと額に汗がにじみでる。どうすればいいのか? なんの役にも立たない鳥射銃が手にあるだけだ。そんなものはなんの助けにもならない。岩か木はないかと必死であたりを見まわしたが、目のとどくかぎりの茂みには若木しかない。ふつうの大きさの木だったら、この怪物はまるでアシか何かのようにへし折ってしまうだろう。結局逃げるしか手はない。でこぼこの地面では速く走ることもできないが、必死であたりを見まわすと、前方に踏み固めた小径がくっきりと浮かびあがった。前にもこういう野獣の通り道を見たことがある。脚は速いほうだし体の調子も上々だから、逃げればなんとか助かるかもしれない。役に立たない銃を投げすてて、後にも先きにも例のない半マイルを夢中で走りだした。脚が痛くなり、息切れがし、喉は空気を求めてはり裂けるのではないかと思ったが、とにかく追い迫る恐怖からのがれるために無我夢中で走った。ついにもう一歩も動けなくなって立ちどまった。一瞬無事に逃げおおせたかと思った。うしろの道では物音一つしない。と思う間もなく、突然物すごい地響と荒々しい息づかいとともに、怪物がふたたび追いすがってきた。しかもすぐ背後に迫っている。わたしは進退きわまった。
逃げだすまえにあんなに手間どっていたのは、今にして思えば正気の沙汰ではなかった! その間相手は匂いだけでわたしのあとをつけていたのだから、速度もにぶかったのだ。だがふたたび走りだそうとするところを、相手に見られてしまった。今度はわたしの姿を見ながら追いかけてくるわけだ。一本道だからもう姿を見失うこともない。角を曲がって姿を現わした怪物は、すばらしい勢いでとびはねながら進んでくる。月光が巨大な突出した目や、あんぐりあいた口の中の途方もない歯並びや、ずんぐりした頑丈な前足の爪をギラギラ光らせている。わたしは恐怖の叫びを発してふり向くなり、あとも見ずに走りだした。怪物の息づかいが背後にますます追い迫ってくる。重々しい足音はもう完全に追いついてしまった。今にも背中につかみかかられるかと、まったく生きた心地もしなかった。突然バリバリッという音がして――わたしの体が宙に浮いた。あたりは真暗闇でなんの物音もしない。
ふとわれにかえると――意識を失っていたのはせいぜい五分間ぐらいのものだろう――突き刺すような恐ろしい匂いが鼻をついた。暗闇の中で片手をのばすと、大きな肉の塊りのようなものに触れた。もう一方の手は巨大な骨を探し当てた。上を向くと丸い星空が見える。してみるとわたしは穴の中に落ちこんだものらしい。ゆっくり立ちあがって体じゆうにさわってみた。頭のてっぺんから足の爪先きまでどこもかしこも痛いところだらけだが、幸い手足はなんとか動くし、関節も別段異常はないらしい。穴に落ちこんだときの状況が混乱した頭によみがえってきたとき、頭上の星空に怪物のシルエットが浮かびあがるのではないかと、恐る恐る見あげたが、形はおろかなんの物音も聞こえなかった。そこで、運よく落ちこんだこの不思議な場所の正体を見きわめるべく、あらゆる方向にゆっくりと歩きまわってみた。
前にも言ったように、そこは急な壁に囲まれ、底部の直径がおよそ二十フィートばかりある穴だった。平らな穴の底には腐敗のすすんだ大きな肉の塊りが散乱していた。空気は悪臭をはらんではなはだ不快だった。腐敗した肉塊につまずきながら歩きまわっているうちに、突然何かしら固いものにぶつかった。穴の中央にまっすぐな一本の柱が立っているのだ。てっぺんまでは手がとどかないほど高く、表面はぬめぬめした脂でおおわれていた。ふとポケットの中に錫(すず)の箱に入った蝋マッチがあることを思いだした。それを一本すってみて、ようやく穴の正体がおぼろげにわかってきた。性質については疑う余地がない。罠――それも人間の手で作られた罠だ。高さ九フィートほどの中央の柱は、てっぺんが鋭くとがり、それで刺しつらぬかれた動物の血でくろずんでいる。柱の周囲に散乱する肉塊は、つぎの獲物にそなえて前の獲物の体を切り刻んで柱からとり除いたときの残りものなのだ。わたしはチャレンジャー教授の言葉を思いだした。人間の貧弱な武器では徘徊する怪物どもにとうてい太刀打ちできないから、この台地に人間は住めないという言葉である。だが今や人間はここにも住めることが明らかになった。どんな人種かはわからないが、入口の狭い洞窟に人間が住みついている。そこは図体の大きな恐竜には入れないから、絶好の避難場所になる。一方知能のすぐれた彼らは、動物の通り道に木の枝でおおった落し穴を掘り、まともに立ち向かってはとうていかなわない強力な野獣を仕止めるすべもこころえている。人間はいつの時代でも支配者なのだ。
落し穴の急な壁は元気のいいものならばよじのぼるにさほどむずかしくはなさそうだが、あやうく殺されかけた恐るべき敵がまだ近くにいるだろうと思って、長い間おとなしく待っていた。敵が近くの茂みに隠れて、わたしが現われるのを待っていないという保証はない。だが大とかげ類の習性に関するチャレンジャーとサマリーの会話を思いだすと、勇気がよみがえってきた。彼らには脳というものがほとんどなく、小さな頭蓋腔では物を考えるほどの力はない、したがって彼らが地球上から消滅したとすれば、その原因は変化する状況に適応できなかった知能の低さのせいだという点で、二人の教授は同意見だった。
彼が茂みにひそんでわたしを待っているとすれば、わたしの身に何がおこったかを理解しているということになり、彼らにも原因と結果を結びつける知力があるということになるだろう。漠然とした掠奪本能だけで動いている脳味噌の足りない動物だったら、獲物の姿が視界から消えたとたんに追跡をあきらめ、しばらくは不思議に思ってその場にとどまるかもしれないが、やがて新しい餌を求めて立去るということも十分考えられるのではないだろうか? わたしは穴のふちまでよじのぼって外の様子をうかがった。星は薄れかかり、空が白みかけて、ひやりと肌に快い朝の風が頬を撫でる。敵の姿も見えなければ物音も聞こえない。わたしはゆっくりと外に出て、しばし地面に坐りこんだ。もちろん危険が迫ったらすぐにも穴の中へ舞い戻るつもりで。やがて、物音は全然しないし夜も明けはじめたので、勇を鼓して今きた道をこっそり戻りはじめた。しばらく行ったところで投げ捨てた銃を拾い、間もなく道しるべの小川までたどりついた。そこから何度も恐る恐るふりかえりながら、キャンプへの帰途についた。
突然ある物音が忘れていた仲間のことを思いださせた。澄みきった静かな朝の空気の中を、遠くのほうから鋭い銃声が鳴り響いたのである。立ちどまって耳をすましたが、それっきりあとは何も聞こえなかった。一瞬、仲間の身にも危険がふりかかったのではないかと考えてぞっとした。が、やがてもっと単純で自然な説明が心に浮かんだ。もうすっかり夜も明けている。彼らはわたしが森の中で迷ったものと思いこみ、銃声で方角を知らせようとしたのだ。発砲禁止の申し合わせがあることは事実だが、わたしが危険に陥ったと考えた場合、彼らはためらわずその禁を破るだろう。だから一刻も早くキャンプへ帰って彼らを安心させなければならない。
くたくたに疲れていたので、気ばかりせいても足は速くなかった。だがようやく見おぼえのある場所にたどりついた。左手に翼手竜の沼地があり、前方には禽竜の空地が見える。わたしはチャレンジャー砦の手前にある最後の森に入ったのだ。彼らの心配を解消するために、はずんだ声で呼びかけた。しかしなんの応答もない。わたしは不安に襲われた。でかけたときとそっくり同じ姿の防柵が目の前に現われたが、入口があいたままになっている。急いで内部に走りこんだ。冷たい朝の空気の中で、恐ろしい光景が目に入った。荷物はめちゃめちゃに散乱し、仲間の姿はなく、くすぶりつづける火のそばの草が恐ろしい血だまりでまっ赤に汚れている。
わたしはこのショックに茫然として、しばし自失の態だったに違いない。悪夢の記憶があとからよみがえってくるように、大声で仲間の名前を呼びながら、人気のないキャンプの周囲の森を夢中で走りまわったことを、今もおぼろげに記憶している。しずまりかえった薄暗がりの中からはなんの応答もなかった。もう彼らとはめぐり会えないのではないか、自分一人だけ下界へ降りる方法もなく恐ろしい土地に置き去りにされたのではないか、この悪夢のような土地で死んでいかなければならないのではないかという恐ろしい考えが、わたしを絶望の底へ突きおとした。髪の毛をかきむしり、頭を殴りつけたいような気持だった。今になってはじめて、自分がどれだけ仲間を頼りにしていたかが身にしみてよくわかる。チャレンジャーの落ちつきはらった自信、ジョン卿の自信とユーモアにみちた冷静さが、わたしにとってなくてはならないものだったのだ。それなしには、暗闇にほうりだされた無力な子供のように手も足もでない。どっちを向けばいいのか、何から手をつけていいのかさえわからない始末だった。
しばらくの間途方に暮れて坐っている間に、どんな不幸が突然仲間を見舞ったのかつきとめようという気になった。キャンプの乱雑な様子を見れば、何物かに襲われたことは疑いない。さきほど聞いた銃声はその時間を示している。しかも銃声がたった一発しか聞こえなかったということは、それがあっという間に終わったことを物語っている。ライフル銃は地面に残されたままになっていて、その一梃――ジョン卿の銃――の床尾には空の薬莢が残っている。チャレンジャーとサマリーの毛布が焚火のそばにあるところを見ると、寝こみを襲われたらしい。弾薬と食糧の箱が、不幸な写真機や感光板ケースとともに乱雑に散らばっているが、数はちゃんとそろっている。ところが箱からとりだしておいた食糧は――かなりの量だったと記憶しているが――すっかり姿を消している。したがって侵入者は土人ではなく動物らしい。土人なら洗いざらい奪い去るはずだからである。
しかし動物の群、あるいは一匹の兇暴な動物に襲われたのだとしたら、仲間の身はどうなったのだろう? 猛獣ならば疑いもなく彼らを殺して、何か痕跡を残してゆくはずだ。なるほど恐ろしい血だまりが格闘を物語ってはいる。途中でわたしのあとをつけたようなやつなら、猫が鼠を引きずるように、易々と犠牲(いけにえ)を引きずってゆくだろう。その場合残る二人があとを追いかけることは十分考えられる。しかし、それならばライフル銃を残して行くのはどう考えても理屈に合わない。混乱し、疲れきった頭で答を見つけだそうとつとめればつとめるほど、いよいよ納得のゆく説明から遠ざかるばかりだった。森の中を探しまわったが、結論を引きだせそうな痕跡は全然見つからない。それどころか自分自身が道に迷ってしまい、わずかにまったくの幸運から、一時間ほどさまよい歩いたのちやっとキャンプに帰り着くことができた。
突然ある考えが浮かんでいくぶん気持が楽になった。この世の中でわたしはまったくの一人ぼっちではない。断崖の下の、声をはりあげればとどくところに、忠実なサンボが待っている。そう思って台地の縁まで行き、下のほうをのぞいてみた。小さなキャンプの焚火のそばで、毛布をかぶってうずくまっているのは、まぎれもなくサンボだ。ところが、驚いたことにもう一人の人間が彼と向かい合って坐っている。仲間の一人が安全な下り道を発見したのかと思って、一瞬わたしの心は喜びではずんだ。しかしもう一度よく見たときその希望はけしとんだ。のぼる朝日がその男の赤い肌を照らしている。インディアンなのだ。わたしは大声をはりあげ、ハンカチをふった。やがてサンボが上を向き、片手をふってから三角岩にのぼりかけた。間もなく彼はわたしのすぐ目の前に立ち、わたしの報告に深い悲しみの表情で聞き入った。
「きっと悪魔に襲われたんですよ、マローンさま」と彼は言った。「みなさんが悪魔の土地に踏みこんだので、やつが怒ってみなさんを捕えたに違いないです。早く下に降りないとあなたもやられてしまいますよ、マローンさま」
「どうやって降りたらいいんだ、サンボ?」
「木にからんだ蔓を手に入れて、ここまで投げてください。この切株にしっかり結びつければ、橋ができあがります」
「われわれもそのことは考えた。こっちには人間一人を支えるほど丈夫な蔓がないんだ」
「ではロープをとりにやらせなさい」
「だれをどこへとりにやらせるんだ?」
「インディアン部落へです。あそこには革紐がたくさんあります。下にいるインディアンを使いに出しましょう」
「あの男はだれだ?」
「ここから帰って行ったインディアンの一人ですよ。仲間に殴られて金をとられたのでまたここへ戻ってきました。手紙を持たせてもいいし、ロープを持ってこさせてもいい――なんでも言うことをききます」
手紙だって! もちろん頼みたい! その男はわれわれを助けてくれるかもしれない。かりに命が助からなかったにしろ、われわれの死が無駄には終わらないだろう。われわれが科学のために死を賭して手に入れた貴重な資料が祖国の友人たちの手に渡ることがこれではっきり保証された。すでに書き終わった手紙が二通もわたしの手もとにある。今日は一日がかりでわたしの最近の体験を三通目の手紙にまとめるとしよう。インディアンはこの手紙を文明世界へ持ち帰ってくれるだろう。そこでサンボに夕方もう一度のぼってくるように命じたのち、このみじめで孤独な一日を費やして昨夜の体験を書きつづった。同時にもう一つ短い手紙を書いて、インディアンが最初に出会う白人商人か川船の船長に渡させることにした。われわれの生死がそれにかかっていることを説明して、ロープを送ることを依頼する手紙である。夕方それとソヴリン金貨が三枚入っている財布をサンボに投げて渡した。これは使いのインディアンへの報酬だ。ロープを持って戻ってきたら、さらにその倍額を与えることを約束した。
親愛なるマッカードル氏よ、これでいかにしてこの手紙があなたの手まで届いたかおわかりいただけたことと思う。また、あなたの不幸な特派員からの音信がこれでとだえたとしても、事の真相は明らかになるわけです。今夜ははなはだしい疲労と落胆のため、計画をたてる気にもなれない。明日はこのキャンプと連絡をとりながら不幸な仲間の手がかりを探しまわる方法を考えださなくてはなるまい。
十三 忘れえぬ光景

陽が落ちて憂鬱な夜が訪れるころ、わたしは眼下の広漠とした平原にぽつんと浮かぶインディアンの姿を見た。われわれの唯一のかすかな希望であるその姿は、夕陽に照らされて,バラ色に染まりながら、はるか彼方の川とわたしの間に立ちのぼる夕べの霧の中へやがて消えていった。
ようやく踏み荒されたキャンプへ帰るころ、陽はとっぷり暮れていた。わたしが最後に見たものは、眼下の広々とした世界の一点に浮かぶサンボの焚火の赤い光だったが、それはわたしの暗い心の中に忠実なサンボの存在が投じる一点の光明を象徴しているかのようだった。それでもこの破壊的な不幸に見舞われて以来、わたしははじめて幸福な気持になっていた。世界はわれわれのなしとげたことを知るだろうから、最悪の場合肉体は滅んでも名前だけは残り、われわれの功績を後世に伝えてくれるという確信があったからである。
不幸に襲われたキャンプで眠るのは恐ろしいが、ジャングルの中はなおさら不安である。いずれにせよどちらかを選ばなくてはならぬ。用心深さが眠らずに警戒することを要求する一方で、疲労しきった肉体がそんなことはとても無理だと主張する。巨大なイチョウの木の大枝にのぼってみたが、すべすべした樹皮がいかにも危っかしく、うつらうつらしはじめたとたんに地面に転落して首の骨を折ってしまいそうだった。仕方なく木から降りて、どうすべきかと思い迷った。とうとう防柵の扉を閉ざして三角形の頂点に三つの焚火をつくり、たらふく夕食を詰めこんでから深い眠りについた。やがて奇妙な歓迎すべき目ざめが訪れた。明け方、一本の手に腕をおさえられ、びくっとしてあわててライフルを手探りしながら立ちあがりかけたとき、わたしは冷たい朝の光の中でかがみこんだジョン卿の姿を発見して喜びの叫びをあげた。
それはまぎれもないジョン卿でありながら、同時に別人のようでもあった。わたしがキャンプを抜けだしたときの彼は、落ちついて礼儀正しく、服装もきちんとしていた。今日の前にいる彼は顔色蒼ざめ、目に荒々しい光をたたえ、長い距離を全力で走ってきた人間のように激しく息をはずませている。やつれはてた顔は傷だらけで血がにじみ、服はボロボロに破れてたれさがり、帽子は頭から消えてしまっている。わたしは驚いてまじまじと眺めたが、彼は質問する暇も与えなかった。話しかけながらも手は休みなく荷物をかき集めている。
「急ぐんだ、マローン!」彼は叫んだ。「一刻一秒を争うんだ。ライフルを二梃持ってくれ。ぼくが残りの二梃を持つ。それから薬莢をできるだけ多く集めてポケットに詰めこむんだ。それと食糧を少々頼む。罐詰が半ダースもあればいいだろう。それで結構! 話しかけたり考えたりしている暇はない。すぐ出発しないと助からんぞ!」
なかば夢心地で何事がおこったのか見当もつかなかったが、とにかく両脇にライフルを抱え、両手にさまざまな物資を持って、彼のあとから、夢中で森の中へ駆けこんだ。彼はやぶの中を見え隠れしながら、やがて深い灌木の茂みにたどりついた。いばらをものともせず、その中へとびこみ、まん中に坐りこんでわたしを引き寄せた。
「さあ、ここなら安全だろう」彼はあえぎながら言った。「やつらは必ずキャンプを襲ってくる。まずそれを考えるだろう。だがキャンプが空っぽなんでとまどうだろう」
「いったいなんのことです?」と、ようやく呼吸をととのえてわたしがたずねた。「教授連はどこです? それから、だれに追われているんですか?」
「猿人だよ。まったく、なんというやつらだろう! 大声は禁物だよ、やつらは耳が鋭いんだから――目も鋭いが、わたしの判断では鼻はそれほどきかないようだ。おそらくわれわれの居場所を嗅(か)ぎつけはしないだろう。ところで、きみはいったいどこへ行ってたんだ? ま、いなくて幸いだったがね」
わたしは手短かに自分の体験を語った。
「そいつは気の毒だったな」と、わたしが恐竜に追いかけられて穴に落ちたことを聞いたとき、彼は言った。「安静療法向きの場所じゃないことは確かだと思うが、きみはどうだい? とにかくあの悪魔のようなやつらにつかまるまでは、何がなんだかまるで見当もつかなかった。昔ニューギニアの人喰人種につかまったことがあったが、ここのやつらにくらべたらチェスターフイールド一族の貴族みたいなもんだ」
「どんなふうにはじまったんです?」
「明け方だった。教授たちはそろそろ活動を開始するころだが、まだ議論ははじまっていなかった。突然猿の雨が降ってきたね。まるでリンゴの実がバラバラと木から落ちるようなぐあいさ。暗いうちにあそこへ集まっていたのだが、そのうちあの大きな木がやつらの重みに耐えきれなくなったのだろう。ようやく一人だけ腹に弾丸をぶちこんだが、何がなんだかわからないうちにあおむけに押えつけられてしまった。猿といったが、連中は棒や石を持ち、おたがい同士わけのわからぬ言葉で意志を通じ合い、最後には蔓でわれわれの手足を縛りあげた。わたしが数度の探検でお目にかかったいかなる動物よりも進化していることは確かだね。猿人というかミッシング・リンクというか、やつらの正体はそれだよ。あんなものは失われた(ミッシング)ままでいればよかったんだ。傷ついて豚のように血を流している仲間を運んでいってから、われわれのまわりに坐りこんだ。氷のような殺意というものがあるとすれば、やつらの顔に浮かんだ表情がまさにそれだった。大きさは人間なみで、腕力ははるかに強い。赤いふさふさした毛の下で一風変わったガラス玉のような灰色の目を光らせながら、いつまでも坐ったままでわれわれを眺めているんだ。チャレンジャーは臆病者ではないが、その彼でさえいささかたじろいでいた。身をよじってどうやら立ちあがり、いっそひと思いに殺せとやつらに叫んだ。彼もあまり突然のことなんで頭がどうかしてしまったらしく、まるで気ちがいのように荒れくるって悪態をつくんだ。相手がお気に入りの新聞記者だとしても、あれ以上に下品な言葉はわめき散らせないだろうな」
「で、そいつらはどんな反応を示したんですか?」わたしはジョン卿が小声でささやく不思議な話にすっかり心を奪われていた。その間彼は鋭い目つきで四方八方を見まわし、打金をおこした銃を握りしめたままだった。
「わたしはてっきり一巻の終わりだと思ったのだが、どうやら風向きが変わったらしいのだ。連中はしばらく。ペチャクチャやっていたが、やがて一人がチャレンジャーのそばに立ちあがった。きみは笑うかもしれないが、この二人が実によく似ているんだよ。自分の目で見たのでなければとても信じられんような話だがね。その年とった猿人は――どうやらそいつが首領株らしい――まるであから顔のチャレンジャーというところなのだ。教授の魅力の一つ一つを少しばかり強調すれば、そっくり老猿人ができあがる。ずんぐりしていて、肩幅が広く、分厚い胸、首なし、赤いひげ、ふさふさした眉毛、目のあたりにただよう『なんの用だ!』とでもいいたそうな尊大な表情、その他何から何まで驚くほどよく似てるんだ。猿人がチャレンジャーのそばに立って彼の肩に手をかけたとき、この珍妙な眺めが完璧(かんぺき)になった。サマリーはいささか興奮気味だったせいか、涙が出るほど笑いころげる始末でね。猿人たちも笑っていた――少なくともそれらしいしゃがれ声を発していたよ。それから連中は、われわれを引きたてて森の中を進んでいった。銃やその他には手を触れなかったが――おそらく危険だと思ったんだろうね――荷をほどいた食糧は全部さらっていった。サマリーとわたしは途中少々手荒な扱いを受けた――この傷と服の破れぐあいを見ればわかると思うが、連中の肌はまるで革のように固いもんだから、いばらの中だろうとなんだろうと一直線に進んでゆくんだ。ただしチャレンジャーだけは大いに楽をした。四人の猿人に肩の高さまでかつぎあげられて、まるでローマ皇帝みたいにふんぞりかえっていたよ。おや、あの音は?」
遠くのほうでカスタネットと思えないことのない、聞きなれない音がした。
「連中が行く!」わが友は二梃目の二連式エクスプレス銃に弾丸をこめながら言った。「両方とも弾丸をこめておきたまえ、生けどりにされるのはおたがいまっぴらだからね。あれは連中が興奮したときにたてる音なんだ。ぼくたちを見つけたらさぞ興奮することだろう。『竜騎兵第二連隊の最後の守り』はごめんこうむりたいからな。『こわばる両手に銃をとり、死傷者の輪に囲まれて……』てなことになったらばかばかしい。ほら、連中の声が聞こえるだろう?」
「はるか遠くらしい」
「少人数ならどうってことはないが、捜索隊が森中に散っているに違いない。さて、災難のつづきを話そう。間もなく彼らはわれわれを自分の町へ連れて行った――木の枝と葉で作った一千軒ほどの小舎が崖のふちにある大きな森の中にあるのだ。ここからだったら三マイルか四マイルというところだろう。汚ならしいけだものどもはぼくの全身を撫でまわした。一生その汚れが消えそうもない感じだな。彼らはわれわれを縛りあげ――ぼくを縛ったやつはまるで甲板長(ボースン)みたいに手先きが器用なんだ――身動き一つできないようにして木の下に転がした。棍棒を持った見張りが一人立っているんだ。断わっておくが『われわれ』とはサマリーとぼくの二人だ。チャレンジャー先生は木の上でパイナップルを食べながら、わが世の春というしだいさ。もっともわれわれにもパイナップルを手に入れてくれたし、縄の結び目をゆるめてもくれたがね。彼が例の双生児の兄弟と一緒に仲よく木の上に坐って、割れ鐘のような声で『鐘を打ち鳴らせ』かなにかを歌っているのを見たら――というのも猿人たちはおよそ音楽と名のつくものならなんでも大好きらしいからだが――きみだってきっとふきださずにはいられない。もっとも、わかってもらえると思うが、われわれはあまり笑いたいような気分ではなかったがね。彼らは、もちろん限度はあるが、チャレンジャーには好きなようにふるまわせていたくせに、われわれに対しては明らかに一線を画していた。いずれにしてもきみが一緒につかまらずに記録を保管していると考えると、大いに心が慰められたよ。
さて、いよいよびっくりするような話があるんだ。きみは人間が住んでいるらしい痕跡や、かがり火、罠などを見たと言ったね。ところがわれわれはその土民をこの目で見たんだ。小さな体をした、哀れっぽくうなだれた連中だが、そんなふうになるのも無理のない理由があるのだ。この台地の半分――きみが洞窟を見た向こう側のほう――は人間が支配し、こちら側の半分は猿人が支配しているらしい。そして両者の間では常に戦争が絶えないんだ。ぼくにわかったかぎりでは、ざっとこんな状況だよ。きのうは猿人たちが人間を大勢捕虜にして連れてきた。あんな騒々しさにはお目にかかったことがない。人間は皮膚の赤い連中だが、みな噛まれたり引き裂かれたりして、歩くのもやっとの状態だった。猿人は即座に二人を殺した。一人は片腕を引きちぎられて――まったく野蛮な殺し方だった。人間のほうは体こそ小さいが勇気があり、泣声一つ洩らさなかった。とにかく胸の悪くなるような眺めだったな。サマリーは失神するし、チャレンジャーでさえやっとこらえている始末だった。ところで、連中は行ってしまったようだな」
耳をすましてみたが、森のしじまをかき乱すのは鳥の鳴き声だけだった。ジョン卿は話をつづけた。
「きみは命びろいをしたんだよ、マローン。連中がきみの存在をすっかり忘れてしまったのは、小人のインディアンたちをたくさん捕虜にしたせいなんだ。さもなきゃきっときみをつかまえにキャンプへ引っかえしていたと思うね。もちろんきみが言ったように、連中は最初から木の上でわれわれを見張っていた、だから一人足りないことはちゃんと知っていたらしい。ただ新しい獲物のおかげでそれを忘れてしまったんだね。だから今朝ぼくがきみをおこしたとき本来なら猿に襲われていたところなんだ。さてそのあとが大変だった。まったくなんて恐ろしい目にあったもんだろう。アメリカ人の骨を見つけた例の先きのとがつた竹やぶをおぼえているかい? あれがちょうど猿人村の真下にあるんだ。つまり捕虜の身投げ場所なんだよ。よく探せばきっと骨が山のように見つかるだろう。竹やぶの上には広い閲兵式場のような空地があってね、連中はそこで処刑の儀式をおこなうんだ。哀れな捕虜が一人ずつとびおりるわけだが、直接地べたに落ちてバラバラになってしまうか、竹で串刺しになるかが楽しい見物というわけさ。われわれも広場に連れだされてそれを見たが、猿人どもは一人残らず崖のふちに集まってくるんだ。インディアンが四人とびおりたが、まるでバターの塊りに編針でも刺すような具合だった。あの気の毒なアメリカ人の肋骨の間から竹がのびていたわけもこれでわかった。恐ろしいことだがたしかに面白い見物だった。つぎは自分がとび降りる番かもしれないという考えが浮かんだにもかかわらず、手に汗にぎって死のとびこみを見物していたよ。
ところがわれわれの番じゃなかった。連中は今日の分に六人のインディアンを残しておいたらしく、われわれはとっておきの花形役者ということらしいんだ。チャレンジャーは助かるかもしれないが、サマリーとぼくはどうやら処刑リストに載っている。連中の言葉は手まねが半分以上だから、それほど苦労しなくても意味はわかる。だから今逃げなければ危いと判断したんだ。前からその計画をたてていて、一つ二つはっきりしていることもあった。ただサマリーは物の役に立たないし、チャレンジャーも似たりよったりだから、ぼく一人でなんとかしなければならない。顔を合わせれば議論をおっぱじめる始末だ。われわれをつかまえた赤毛の猿人の分類に関してご両人の意見が対立してしまってね。一方がジャワのドリオピテクスだと言い、もう一方はピテカントロプスだと主張する。ぼくに言わせれば二人とも気ちがいだね。とにかく役に立ちそうなことが二つばかりあった。一つはこの連中が空地では人間ほど速く走れないということだ。足は短くがにまたで、体が重いときている。チャレンジャーだって、連中の一番速いやつと競争しても百ヤード走って数ヤードは差をつけるだろうし、きみやぼくにかかっては全然問題にもならない。もう一つは彼らが銃を知らないということだ。おそらくぼくに射たれたやつがなぜ怪我をしたかさえわかっていないと思う。だから銃さえあればこっちのもんだ。そこで今朝見張りのポンポンを蹴とばしてのしてしまい、キャンプまでとんで帰って今ここにいるわけだ」
「しかし、教授たちが!」と、わたしは驚いて叫んだ。
「これから戻って彼らを救いださなきゃならん。さっきはとても無理だった。チャレンジャーは木の上だし、サマリーはとても逃げられる状態ではなかった。もちろん復讐のために二人を殺すということも考えられる。チャレンジャーにはおそらく指一本ふれるまいが、サマリーとなると断言はできん。いずれにしても殺したがっていることは間違いない。だからぼくが逃げなくても結局は同じことだったんだ。ただもう一度戻って彼らを救いだすか、少なくとも成行きを見とどける義務がある。いずれ夕方までにはっきりするだろうから、きみも肚(はら)をきめておきたまえ」
わたしはジョン卿のなかばユーモラスでなかば向こう見ずな、きびきびした話し方や短く力強い言葉の調子を、なるべく忠実に再現しようとつとめた。しかし彼は生まれながらの指導者だった。危険が増すにつれて陽気な態度がいっそう強く現われ、話し方は活気づき、冷静な目が熱っぽい輝きをおび、ドン・キホーテのようなひげがうれしさでぴーんとはりつめるのだ。危険を愛する心、冒険のドラマに対する熱意――それは抑えられれば抑えられるほど強くなる――人生の危険はすべて一種のスポーツであり、運命との死を賭した戦いであるという持論が、このように重大な局面にのぞんだとき、彼を得がたい相棒にする。かりに教授たちの身の上に関する心配がなかったとしたら、彼のような男と一緒にこんな事件にとびこんでゆくのはさぞ楽しいことだったに違いない。茂みの中の隠れ場所から立ちあがったとき、突然彼が腕をつかんで引きとめた。
「ちくしょう! やつらがやってくるぞ!」
われわれのいる場所から、緑のアーチの下を木の幹と枝でできた褐色の通り道が見えた。この道を猿人の一行が通って行く。がにまたで猫背の一列が時おり地面に手を触れながら、左右に首をふり向けて急ぎ足で歩いて行くのだ。うずくまるような歩き方がいくぶん背丈を低く見せているにしても、せいぜい五フィートそこそこというところだろう。手が長く、胸がものすごく厚い。ほとんどのものが手に棍棒を持っており、遠くから見ると毛むくじゃらのぶざまな人間の列のようだ。一瞬はっきり姿が見えたが、間もなく茂みの中に隠れてしまった。
「今はよそう」と、ライフルに手をかけていたジョン卿が言った。「一番いいのは連中が捜索をあきらめるまでじっと静かにしていることだ。それから彼らの村へ行って、大打撃を与えられそうかどうか様子を見るのだ。一時間の猶予を与えて、それから進撃だ」
われわれは罐詰をあけて朝の腹ごしらえをしながら時間をつぶした。ジョン卿は前日の朝からわずかな果物以外何も食べていなかったので、まるで飢えた人間のようにむさぼり食った。それから、ポケットを薬莢でふくらませ、両手にライフルを持って、両教授救出の旅に出発した。出発する前に、ふたたびそこが必要になった場合にそなえて、茂みの中の小さな隠れ場所に目印をつけ、チャレンジャー砦の方角をしるしておいた。無言で茂みをかきわけて進むうちに、やがて最初のキャンプ跡に近い崖のふちに出た。そこでいったん立ちどまり、ジョン卿が自分の計画を語った。
「深い森の中にいるかぎりは、連中にかないっこない。だが空地なら話は別だ。われわれのほうが連中より速く動ける。だからできるだけ空地からはなれないことだ。台地の外縁は内部よりも大きな木が少ないから、そこがわれわれの前線だ。目をよく開いて、ライフルの用意をしながらゆっくり進むんだぞ。特に薬莢が残っているうちに彼らの捕虜にならないことだ――これがぼくの最後の注意だよ、マローン君」
崖のふちまでたどりついて見おろすと、忠実な黒人のサンボが下の岩の上に坐って煙草を吸っていた。彼に呼びかけて、今自分のおかれた立場を話せるなら、何物も惜しくない心境だったが、残念ながら敵に聞きつけられる危険があった。林の中はどこもかしこも猿人でいっぱいらしい。彼らの奇妙な騒々しい話し声を何度も聞いた。そんなときは手近かの茂みに身をひそめて、話し声が遠ざかるまで息を殺して待った。そんなわけでわれわれの歩みはのろく、ジョン卿の用心深い身ぶりによって目的地に近づいたことがわかるまで、少なくとも二時間はたっていたに違いない。彼はじっとしていろと合図して、自分だけ這って前へ進んだ。一分もすると戻ってきたが、顔が興奮でふるえていた。
「さあ、急げ! 手遅れじゃないといいんだが」
わたしは神経質にぶるぶる興奮しながら這い進み、ジョン卿のそばで横になって茂みごしに目の前に拡がる空地を眺めた。
目の前には死ぬまで忘れられないような光景があった――そのぞっとするような、ありえない眺めを、筆でどうやって伝えていいかわからないし、もしこの先きふたたびサヴィジ・クラブの談話室に坐ってくすんだエンバンクメント(テムズ川の河岸通り)を眺めるような機会があったとしても、数年後にはわたし自身自分で見たことが信じられなくなってしまうだろう。そのときは悪い夢か熱にうかされた妄想のように思えるに違いない。だがとにかく記憶が色あせないうちに、そして、少なくともわたしのそばで濡れた草に腹這いになっている一人の男が、わたしが嘘をついているのではないことを知っている間に、そのことを書きとめておこう。
広い空地が目の前に横たわっている――はしからはしまで数百ヤードはあるだろう。緑の芝生と丈の低いワラビが崖のふちまではえている。この空地のまわりに半円型に木が立ち並び、葉で作った奇妙な小舎がいくつも枝の間に重なっている。一つ一つの巣が小さな家になっている安ぶしんのアパートとでも言えば一番よくわかってもらえるかもしれない。小舎の入口や木の枝には猿人たちが鈴なりになっているが、体の大きさから判断して一族の女子供らしい。その連中が画面の背景にいて、われわれを夢中にさせると同時にとまどわせた光景を、やはり熱心に眺めている。
崖のふちに近い空地には、およそ百人ばかりのもじゃもじゃした赤毛の動物が集まっている。大部分は巨大で、みな見るからに恐ろしそうな顔つきをしている。彼らの間にはある種の規律があるらしく、だれ一人列を乱すものがいない。列の前には数人のインディアンが立っている――小柄で、つるつるの手足をした肌の赤い連中だ。強い太陽光線の中で、その肌が磨きあげたブロンズのように輝いている。そのわきに長身の白人が立って首うなだれ、腕を組み、恐怖と落胆を全身で示している。サマリー教授の骨ばった体は見間違えようがない。
この哀れな捕虜の群の前とまわりに数人の猿人がいて厳重に見張り、逃亡を不可能にしている。やがて、ほかの連中からはなれた崖のふちに、場合が場合だけに笑うこともできないが、まことに奇妙で滑稽な二人の人物が現われてわたしの注意をひきつけた。一人は仲間のチャレンジャー教授である。上着の残骸はまだ肩にかかっているが、シャツはすっかり引き裂かれ、偉大なひげが厚い胸をおおう黒いもじゃもじゃの毛とからみ合っている。帽子もなくしてしまったらしく、探検旅行の間にのび放題になった長い髪の毛が、ほつれにほつれて風になびいている。わずか一日にして近代文明の高度の産物が南アメリカで最も野蛮な人種に早変わりしてしまったらしい。彼の脇に、猿人の王である支配者が立っている。ジョン卿の言葉通り、色が黒くなく赤い点だけをのぞけば、あらゆる点でチャレンジャーに生き写しだ。ずんぐりして背の低い体格、どっしりした肩、だらりとたれさがった長い腕、胸毛とからみ合ったかたいひげ、どこをとっても瓜二つである。ただ眉毛の上だけは、猿人のほうの額が後退してすぐ彎曲した頭部につづいているのに反して、チャレンジャーのそれがヨーロッパ人らしい広い額と巨大な頭の鉢になっている点だけが、鋭い対象を示してだれの目にも明らかな相違点となっている。その他の点では、チャレンジャー教授の滑稽なパロディが猿人の王である。
以上長々と述べてきたが、実際はわずか数秒間の印象にすぎない。それからまったく別のことを考えなければならなかった。めざましいドラマがはじまったのである。二人の猿人が捕虜の中から一人のインディアンを選びだして、崖のふちまで引きずっていった。王が合図の片手をあげた。猿人はインディアンの手足を持って、物すごい力で三度前後にふりまわした。それから、驚くべき怪力をふるって犠牲(いけにえ)を高々と持ちあげ、崖の向こうへ投げとばした。犠牲は最初上にとびだし、それから放物線を描いて落下していった。インディアンが視界から消えると、見張りをのぞく見物人の全員が崖のふちに走り寄る。長い沈黙を時おり狂ったような喜びの声が破る。やがて長い毛むくじゃらの手を突きあげ、興奮した叫びを発しながらそこら中をとびはねる。それが終わると崖のふちから戻ってふたたび整列し、つぎの犠牲を待つのだ。
つぎはサマリーの番だった。二人の見張りが彼の手首をつかんで乱暴に前へ引きだした。痩せた長い手足が鶏舎から引きだされたニワトリのようにもがいている。チャレンジャーが王のほうを向いて夢中で手をふりはじめた。仲間の命を助けてくれと懸命に哀願しているのだ。しかし猿人は彼を押しのけて首を横にふった。それが彼の最後の意識的な動作となった。ジョン卿のライフルが唸(うな)り、猿人の王は赤いぼろきれのように地面に横たわった。
「人ごみを狙って射て! 射ちまくるんだ!」と、ジョン卿が叫んだ。
ごくありふれた人間の魂にも、不可思議で残酷な深淵がある。わたしは生来心優しい人間で、傷ついた野ウサギを見ては涙を流したことも何度かあるほどだが、このときばかりは血なまぐさい欲望にとりつかれていた。気がつくと立ちあがっており、一つの銃を射ちつくすともう一つの銃を手にとり、それも空っぽになると弾倉を開いて弾丸をこめなおしている。そうしながらも純粋な暴力と殺戮(さつりく)の喜びに駆られて、夢中でわめいたり歓声を発したりしていた。われわれは四梃の銃で大車輪に荒れ狂った。見張りの二人は倒れたが、サマリーは自由の身になったとも気づかず、茫然として酔っぱらいのような足どりでよろめいている。猿人の群はこの殺戮の嵐がどこから吹いてくるのやら、またそれが何を意味するのやらもわからず、当惑顔で右往左往するばかりだ。彼らは狂ったように手をふり、手真似で話し合い、射たれたものにつまずいては自分も倒れた。それから、突然の衝動に駆られて、わめきながら一度に林の中へ逃げこんだ。あとには倒れた仲間が点々と置き去りにされた。捕虜だけが空地の中央にとり残された。
回転の速いチャレンジャーはとっさに事態をのみこんだらしい。うろたえ顔のサマリーの腕をつかんで、われわれのいるほうへ走りだした。見張りが二人追っかけてきたが、ジョン卿がたった二発で片づけた。われわれは教授たちを迎えるために空地へ走りだし、それぞれの手に弾丸をこめたライフルを押しつけた。ところがサマリーはもう精根つきはてていて、歩くのさえやっとだった。一方猿人どもはすでに恐慌状態から立ちなおっている。早くも茂みの中から現われて、われわれの逃げ道をふさぎそうな形勢だ。チャレンジャーとわたしが両側からサマリーを支えて走り、その間にジョン卿が茂みからのぞく野蛮な顔を狙い射ちして退却を援護した。彼らは奇声を発しながら一マイルかそれ以上も追っかけてきた。やがてついに彼らの追跡がやんだ。われわれの力を知って、正確なライフル射撃に立ち向かう気がしなくなったのである。ようやくキャンプにたどりついてうしろをふり向くと、人っ子一人いなかった。
とその時は思ったのだが、実はこれが思い違いだった。防柵のイバラの扉を閉ざしてたがいに握手をかわし、息を切らしながら泉のそばの地面に寝ころんだと思う間もなく、入口の外からひたひたという足音が、つづいて優しい哀願するような叫び声が聞こえてきた。ジョン卿がライフルを持って駆け寄り、扉をさっとあけた。そこでは生き残った小柄な赤いインディアン四人が地面に額をすりつけて、恐る恐るわれわれの保護を哀願していた。そのうちの一人が手をぐるりとまわして周囲の林を示した。そこら中に危険がひそんでいるということらしい。つづいて彼は前にとびだし、ジョン卿の脚に抱きついてその上に顔をすりつけた。
「いや、驚いたな!」ジョン卿はひげをしごきながら困りはてた表情で叫んだ。「ねえ――この連中をどうします? さあさあ、立って靴から顔をどけてくれよ」
サマリーが起きあがって愛用のブライヤーに煙草をつめていた。
「ついでに助けてやるべきだろうな」彼は言った。「きみのおかげで危く一命をとりとめた。まったく見事だったよ!」
「まったく立派だった!」と、チャレンジャーが叫んだ。「称讃すべき行為だった。われわれ個人だけでなく、ヨーロッパの科学界全体がきみの行為に対して深く感謝せねばなるまい。口はばったいようだがサマリー教授とわしがあすこで死ねば、近代の動物学史に大きな穴があくところだった。マローン君ときみは実に立派な働きをしてくれたことになる」
チャレンジャーは例の父親のような微笑をわれわれのほうに向けた。しかし彼らの選ばれた子供たち、未来の希望が、髪をふりみだし、胸をはだけて、ぼろぼろの服をまとっているのを見たら、ヨーロッパの科学界もさぞかし驚いたことだろう。彼は肉の罐詰を膝にはさんで、大きなオーストラリア産マトンの肉片を指でつまんでいた。インディアンは彼の顔を見るなり、小さな叫び声を発してジョン卿の脚にしがみついた。
「こわがらなくていいんだよ」と、ジョン卿が目の前にあるもじゃもじゃの頭を軽く撫でながら言った。「こいつはあなたの容貌になじめないんですよ、チャレンジャー教授。まあ、それも不思議はないがね。よしよし、この人はわれわれと同じただの人間なんだよ」
「そうだとも!」と、教授が叫んだ。
「それにしても、普通の人間といささか変わっていたのは幸運だったですな。もしあなたが猿人の王にあれほどよく似ていなかったら――」
「ジョン・ロクストン卿、少しばかり言葉がすぎるとは思わんかね?」
「でも、これは事実ですよ」
「その話はもうよそう。きみの発言は見当違いでなんのことかわからん。われわれの当面の問題はこのインディアンたちをどうするかということだ。もし彼らの住んでいる場所がわかれば、家まで送りとどけてやらねばなるまい」
「場所ならわかっています」と、わたしが言った。「彼らは中央湖の向こう岸の洞窟に住んでいます」
「マローン君が場所を知っているという。そこはかなり遠いんだろうな」
「たっぷり二十マイルはあります」
サマリーが捻(うな)った。
「わたしにはとても無理だ。猿人どもがまだわれわれを探している声が聞こえる」
なるほど、暗い林の奥のほうから猿人たちの騒々しい叫び声が聞こえてくる。インディアンたちがまたもやかぼそい泣き声を発した。
「すぐに移動しなきゃならん!」と、ジョン卿が言った。「マローン君、きみはサマリー教授を助けてやれ。荷物はインディアンに運ばせよう。さあ、連中に見つからないうちに出発だ」
半時間もしないうちに、茂みの中の隠れ場所に身をひそめた。キャンプのほうでは一日中猿人たちの興奮した叫び声が聞こえていたが、幸いわれわれのいるほうへはやってこなかったので、褐色の土人と白人の逃亡者たちは疲れきって長く深い眠りに入った。夕方うつらうつらしているとき、だれかがわたしの袖を引いた。チャレンジャーがかたわらにしゃがんでいた。
「きみは探検の日記をつけているが、いずれは出版するつもりなんだろうな、マローン君」と、彼はおごそかに言った。
「わたしは一介の新聞記者としてこの探検に加わったまでです」
「その通りだ。さきほどジョン・ロクストン卿のばかげた発言をきみも聞いたと思う。例の――どこか似たところがあるという話だが――」
「ええ、聞きましたよ」
「言うまでもないが、このような意見を公表すれば――きみが軽率な文章を書けばという意味だが――わしの名誉にひどい傷がつくことになる」
「もちろん事実以外は書きません」
「ジョン卿の発言は往々にしてひどく気まぐれなところがある。それにあの男は未開人種が威厳と人格に対して抱く尊敬に、ばかげた理屈をつけたがる。この意味がわかるかな?」
「ええ、よくわかりますとも」
「あとはきみの分別にまかせよう」それから、しばらく間をおいてつけ加えた。「猿人の王はなかなか立派なやつだった。男前がよくて、頭もいい。そうは思わなかったかね?」
「実に立派でした」
教授は内心ほっとしたらしく、ふたたび眠りについた。
十四 真の征服

われわれの追跡者、猿人たちが、茂みの中の隠れ場所を全然知らないと思っていたのだが、間もなくそれが間違いだとわかった。林の中は木の葉のそよぐ音一つせずしずまりかえっていたが、あの狡猾(こうかつ)な猿人どもがチャンスの訪れるのをどれほど辛抱強く待っているかということを、最初の経験から気づくべきだったのだ。一生を通じてどんなことがおこるかわからないが、その朝ほど死が近づくことは絶対にないと、確信をもって言いきれる。とにかく順を追って話を進めよう。
われわれは前日の激しい興奮と乏しい食糧のため、くたびれきって目をさました。サマリーは依然弱っていて、立ちあがるのがやっとだった。しかしこの老人には依怙地(いこじ)な勇気のようなものがあってへこたれることを知らない。合議の結果一時間か二時間その場にとどまって、何よりも必要な朝食をまずすませ、それから台地を横断し、中央湖の岸をまわって、わたしの観察によりインディアンが住んでいることが確かめられた洞窟へ行くことに決まった。われわれは助けてやったインディアンたちの仲間の歓迎をあてにしていたのである。この任務が終わったあと、メイプル・ホワイト台地に関してもっと詳しい知識を手に入れれば、脱出と帰国という重要問題に専念することができる。それさえすめばわれわれの探検の目的は全部終了し、それから先きの第一の義務は、驚くべき発見を文明世界へ持ち帰ることだと、チャレンジャー教授でさえ認める気になっていた。
今ではわれわれも、助けてやったインディアンをもっと余裕のある目で眺められるようになっていた。彼らは小柄で筋肉質の体をしており、活動的で均斉がとれ、すんなりした黒髪を革紐で頭のうしろに束ねている。腰布も革でできていた。顔はつるつるで容貌もととのっており、いたって愛想がよかった。耳たぶがギザギザに裂け、血にまみれてたれさがっているところを見ると、穴をあけてぶらさげていた飾りを猿人どもに引きちぎられたものらしい。言葉はわれわれには理解できないが、単語も相当多いらしく、おたがいに指さしながら何度も「アッカラ」という言葉を発するので、どうやらそれが彼らの国の名前らしいと推測された。時おり恐怖と憎しみに顔面をひきつらせて、固く握りしめた拳を林に向かってふりまわしながら、「ドダ! ドダ!」と叫ぶ。これは敵の猿人を指す言葉に違いなかった。
「彼らをどう思います、チャレンジャー教授?」と、ジョン卿が言った。「わたしにも一つだけわかることがある。頭の前のほうの毛を剃ったやつが酋長らしいということですよ」
明らかにその男は仲間からはなれて立ち、ほかのものが彼に話しかけるときは必ずうやうやしい態度を示す。仲間うちでは最年少らしく見えるが、それでいて誇り高く元気いっぱいで、チャレンジャーがその大きな手を頭にのせたときなど、目をきらりと光らせて、拍車をかけられた馬のようにすばやく教授のそばからとびのいた。それから片手を胸にあてた威厳のある態度で、「マレタス」という言葉を数度くりかえした。教授はいっこうに平気な顔で手近かのインディアンの肩に手をかけて、まるでそれが教室で生徒に示すアルコール漬けの標本ででもあるかのように大声で講義をはじめた。
「このタイプの種族は、頭蓋容量、顔面角、その他いかなる測定から判断しても、知能は決して低くない。むしろわしの知っている南アメリカの原住民の多くの種族にくらべれば、かなり高度の知能を有していると言わなければなるまい。このような土地でこのような種族が進化したということはまったく了解に苦しむ。その点に関しては、この台地に生存する原始動物と猿人の間には非常に大きなへだたりがあるから、彼らがここで進化したものとは考えられん」
「すると連中はどこから降ってきたんですか?」と、ジョン卿が質問した。
「それは疑いもなくヨーロッパおよびアメリカのすべての学会で熱心に論じられることになろう。その一つの指針としてわしの状況判断を述べるならば」――彼は胸を張って尊大にわれわれを見まわした――「進化はこの土地の特殊な条件下で脊椎動物の段階まで進んだ結果、古代の動物が現在まで生きのびて新しいタイプの動物と共存している、ということになる。こうしてわれわれはバク――これは非常に古くからある動物だが――オオシカ、アリクイなどの新しい動物が、ジュラ紀の爬虫類と共存していることを発見した。ここまでははっきりしておる。ところが猿人とインディアンという問題がある。科学精神を持つ人間ならば、これらの存在をどう解釈すべきか? わしには外部からの侵入説しか考えられん。かつて南アメリカに類人猿が存在し、それがこの台地にのぼってわれわれの見たものに進化したということも考えられる。そのあるものは」――ここで彼はわたしの顔をにらみつけた――「知性さえともなえば、現存する人類にも劣らない容姿をそなえている。インディアンのほうは疑いもなくごく最近下界からここに移住したものだろう。飢えと征服の脅威に圧迫されて、この台地までのぼってきたのだ。ところが見たこともないような猛獣に出会って、マローン君の言う洞窟に逃げこんだ。しかし彼らは疑いもなく野獣の脅威から身を護るために苛烈な闘いを展開しなければならなかった。とりわけ最大の敵は彼らを侵略者とみなす猿人だが、巨大な野獣には欠けている狡猾な知恵で、容赦ない闘いを挑んできたに違いない。インディアンの人数が少ないのはそのせいだろう。さて、これで謎がとけたと思うが、何か質問は?」
今度だけはサマリー教授も弱っていて議論をする気になれないようだったが、それでも不賛成の意を示すように激しく首をふった。ジョン卿はウェイトもクラスも違う相手と殴り合いはできないとでもいうように、薄くなりかかった髪をかきむしっただけだった。わたし自身はインディアンの一人が見えなくなったと注意をうながすことによって、話を散文的で現実的な次元まで引きさげるといういつもの役割を演じた。
「水を汲みに行ったのさ」と、ジョン卿が言った。「牛肉のあき罐を持たせたら姿を消したからね」
「キャンプへですか?」
「いや、小川だよ。あすこの木のかげを流れている。せいぜい二百ヤードほどの距離さ。それにしては帰りが遅いな」
「わたしが行って見てきます」わたしはライフルをとりあげ、乏しい朝食の準備は仲間にまかせて小川の方角へ足を踏みだした。たとえわずかの距離でも、安全な茂みから出るのは冒険だと思われるかもしれないが、猿人の村ははるか彼方だし、今のところ彼らはまだわれわれの隠れ場所を発見していない。おまけにライフルさえあれば猿人恐るるに足らずだ。わたしはまだ彼らの狡智や腕力を本当に理解していなかったのだ。
前方のどこかでせせらぎの音が聞こえたが、からみ合った茂みや木にさえぎられて小川そのものは見えなかった。ちょうど仲間からはわたしの姿が見えなくなったところで、ある木の下の茂みの中に、何か褐色のものがうずくまっているのに気がついた。近寄ってみると、驚いたことにそれはいなくなったインディアンの死体だった。彼は横に倒れて手足をひきつらせ、首は考えられもしない方向にねじまがってちょうどうしろ向きに肩を眺めていた。何か悪いことがおこったことを仲間に知らせるために叫び声をあげてから、走り寄って死体の上にかがみこんだ。わたしの守護天使はこのときすぐ近くにいてくれたに違いない。というのは、恐怖の本能からか、それともかすかな葉ずれの音がしたためか、わたしはふと上を見あげたのである。頭上低くたれさがっていた厚い緑の葉むらの中から、赤毛におおわれた二本の頑丈な腕がにゅうっとのびてきた。一瞬おそければその大きな手がわたしの首にまきついていただろう。すばやくとびのいたが、二本の手のほうがそれよりも速かった。急にとびのかれたため、狙いがそれて致命傷にはいたらなかったが、それでも片手が首筋を、もう一方が顔をつかんだ。わたしは両手をあげて首を護ったが、つぎの瞬間、その巨大な手は顔の上をすべりおりてわたしの手をおさえていた。体ごと軽々と地上から持ちあげられ、やがて頭を耐えがたい力でうしろに押されて首の骨が折れそうになった。五感が麻痺してしまったが夢中で相手の手をかきむしってあごからはずした。見あげると冷酷非情な薄青の目が上からわたしの目をのぞきこんでいる。その恐ろしい目には催眠的効果があって、わたしはもはや抵抗できなくなってしまった。わたしが力を抜いたと見てとると、相手は兇悪な口の両端から二本の白い犬歯をのぞかせて、いよいよ激しくあごをうしろと上のほうへ押しつけた。目の前にオパール色のうすもやがかかり、耳の中で小さな銀の鈴が鳴った。遠くのほうでにぶい銃声が聞こえ、それから地面に落ちたときのショックまではかすかにおぼえているが、それっきり意識を失って身動き一つできなかったらしい。
気がついてみると茂みの中の隠れ場所で、草の上にあおむけに寝ていた。だれかが川から水を汲んできたらしく、ジョン卿がそれをわたしの顔にふりかけている。チャレンジャーとサマリーが心配そうな表情でわたしの体を支えていた。一瞬二人の科学者としての仮面のかげに、人間的な感情を垣間見た。わたしが参っていたのは怪我ではなくショックのせいで、三十分後には、頭と首筋こそ痛んだがなんでもやれるまで元気をとりもどしていた。
「危いところだったよ、マローン君」と、ジョン卿が言った。「きみの叫び声を聞きつけて走って行ったら、首がちぎれそうなほどねじまげられて足をばたばたやっているので、てっきり仲間が一人へると思ったよ。あわてていたので射ちそこなったが、相手もきみを落として大急ぎで逃げだした。ああ、ライフルを持った人間が五十人もいてくれたらな。そしたらあの悪党どもを全滅させて、この土地をきたときよりもきれいにして引きあげられるんだが」
今や猿人どもはわれわれの所在をつきとめ、四方八方から監視していることが明らかだった。昼間はさほど恐るるに足らないが、夜の間に襲ってくることは十分考えられる。だからできるだけ早く連中のそばからはなれるに越したことはない。三方を深い森に囲まれているから、待伏せされることもありうる。だが残る一方――湖のほうに傾斜している方向は、ところどころ木や空地のある低い茂みになっている。それはわたしが単独で探検したときに通った道であり、まっすぐインディアンの洞窟につづいている。したがってわれわれの進むべき道はこれ以外にない。
一つだけ大いに残念なことがある。キャンプをはなれることによって、そとに残してきた荷物が惜しいからではなく、外界との唯一のつながりであるサンボとの連絡がとだえてしまうからだ。しかし十分な弾薬と銃があるから、当座は心配ない。それに間もなくキャンプへ戻ってまたサンボと連絡をとる機会もあるだろう。彼は現在の場所にとどまることを固く約束した。まさかあの忠実な男が約束を破るとは思えない。
われわれは午(ひる)すぎ間もなく出発した。若い酋長が先頭に立って道案内をつとめたが、荷物運びだけは憤然として断わった。そのあとにわずかな荷物を背負った二人の生き残りのインディアンがつづいた。白人四人は弾丸をこめたライフルを持ってしんがりをうけたまわった。歩きだすと同時に突然背後の深い森の中から猿人の恐ろしい叫び声がおこった。われわれの出発を喜ぶ声か、それとも逃げだすのを見て野次(やじ)る声なのだろう。ふり向いても厚い木の壁しか見えないが、長く尾を引いた叫び声から察するに、森の中には大勢の敵がひそんでいるらしい。しかし追いかけてくる様子はなく、間もなくわれわれは彼らの力の及ばない空地に出た。
四人の最後尾を歩きながら、前を行く三人の恰好を見て笑いださずにはいられなかった。あの晩オールバニーでペルシャじゅうたんと、色電気のバラ色の光に照らされた自分の写真に囲まれていたぜいたくなジョン・ロクストン卿と、今日の前にいる人物が同じ人間だとは信じられない。また、エンモア・パークの広々とした書斎で、大きな机の向こうで威圧的に胸を張っていたチャレンジャー教授、そして動物学会の会合で演壇にのぼった厳格でとりすました姿は、いったいどこへ行ってしまったのか? サリーあたりでお目にかかる三人の浮浪者にしても、これほどまでにみすぼらしく汚ならしくはあるまい。台地にのぼってからわずか一週間しかたたないが、着がえは全部崖下のキャンプに置いてきてしまったし、おまけに一週間とは言っても厳しい試練の連続だった。もっとも猿人の手荒な取扱いをまぬがれたわたしが一番苦労をしなかったことにはなるのだが。わたしを除く三人は帽子をなくしてしまって、頭のまわりにハンカチを巻きつけている。服はぼろぼろにたれさがり、ひげぼうぼうで汚れ放題の顔からは人相の判別さえつかない。チャレンジャーとサマリーはひどくびっこをひき、わたしはわたしで朝のショックから立ちなおれず、いまだに足を引きずって歩いている。首は物すごい力でしめつけられたため、板きれのようにこっている。まったくのところ見るも哀れなていたらくで、連れのインディアンたちが時おり恐れと驚きの表情を浮かべながらふりかえるのも不思議はなかった。
夕方近くに湖の岸までたどりついた。茂みの中から抜けだして目の前に拡がる湖面を見た瞬間、連れの土人たちはかんだかい喜びの叫びを発して元気よく前方を指さした。鏡のような湖面を、カヌーの大船団がわれわれの立っている岸めざしてこぎ寄ってくる。最初それを見つけたときはかなり距離があったのだが、矢のような速さで進んでくるので、間もなく漕手がわれわれの姿を見分けられるほど近づいた。すぐに喜びのどよめきがあがり、船の中に立ちあがってかいや槍(やり)を、気ちがいのようにふりまわすのが見えた。やがてふたたび仕事にとりかかり、猛スピードで岸までたどりついて傾斜した砂浜に船を引きあげた。それからわれわれのほうに駆け寄ってきて、歓迎の叫びを発しながら若い酋長の前にひざまずいた。やがてそのうちの一人、大きなピカピカのガラス玉で作った首飾りと腕輪をつけ、美しい斑点のあるこはく色の動物の皮を身にまとった老人が走りだしてきて、われわれが救ってやった若者をいとおしそうに抱きしめた。それからわれわれのほうを向いて何か質問し、今度は前より威厳をこめてわれわれを一人ずつ抱擁した。つぎに彼の命令で全種族が地面にひれ伏して敬意を表した。わたし自身は身にあまる敬意を表明されていささか照れくさく、落ちつかない気持だったが、ジョン卿とサマリーも表情から察するにどうやら同じ気分らしい。しかしチャレンジャーだけは陽光をいっぱいに吸いこんだ花のように胸を張っていた。
「彼らは未開の種族かもしれないが」と、チャレンジャーがひげをしごいて周囲を見まわしながら言った。「目上の人間に対するこの礼儀正しさは、より進歩したヨーロッパ人種も見習わなければならないところがある。どうだ、この自然児の本能の正しさは!」
土人たちがこれから闘いにでかけようとしていることは一目見て明らかだった。全員が骨の穂先きをつけた竹の槍や弓矢を持ち、腰に棍棒や石斧のようなものをぶらさげていたからである。彼らが黒い、怒りにみちた目を森のほうへ向け、「ドダ」という言葉をひんぱんにくりかえしているところを見れば、老酋長の息子を救うかまたは復讐するためにでかけてきた救助隊であることが明らかだった。酋長の息子というのは、われわれと一緒の若者がそうだろうという推測である。やがて種族全員が車座になって会議をはじめた。その間われわれは玄武岩の一枚岩に坐って成行きを見守っていた。二人か三人の戦士が発言し、最後に若き酋長の息子が身ぶり手ぶりをまじえて熱弁をふるった。まるで彼らの言葉を知っているかのように、彼の言っていることがよくわかった。
「このまま帰ったところでどうなるのだ?」と彼は言っているらしい。「遅かれ早かれやらなければならない。諸君の仲間が殺されたのだ。われわれだけ無事で帰ったらどうなると思う? ほかの仲間はみな殺された。われわれだって決して安全ではない。こうしてみな集まって用意もできているではないか」ここで彼はわれわれを指さした。「この不思議な人たちはわれわれの味方だ。彼らは偉大な戦士であり、われわれと同じように猿人を憎んでいる。この人たちは」と、ここで天を指さして、「雷と稲妻を支配している。こんないい機会がまたとあるだろうか? 前進しよう、そして今死ぬか、将来安全に暮らすか、いずれにしてもこのままでは恥かしくて女たちのもとへ帰れないではないか」
小柄な褐色の戦士たちは若者の言葉にじっと耳を傾けていたが、彼が話し終わると同時に、粗末な武器をふりまわしながらとき(・・)の声をあげた。老酋長がわれわれのほうに進み出て、森のほうを指さしながら何事か質問した。ジョン卿がちょっと待てと身ぶりで示してから、われわれのほうを向いた。
「では一人ずつどうするか言ってください。わたしはあのエテ公どもにいろいろと恨みもあるし、あいつらを地球上から抹殺することになっても地球は別に文句を言うまいと思う。わたしはこの褐色の仲間に味方して闘いに参加するつもりです。きみはどうかね、マローン君?」
「もちろんぼくも一緒に行きます」
「あなたは、チャレンジャー教授?」
「協力するとも」
「サマリー教授は?」
「この探検の目的からだいぶ脇道へそれたようだな、ジョン卿。わたしはロンドンの教職をはなれてこの旅行に参加したとき、蛮族をひきいて類人猿の村を襲撃することになるとは夢にも思わなかったよ」
「その卑しい目的にわれわれが役立つんですよ」ジョン卿が笑いながら言った。「とにかく今はのっぴきならない、どうしますか?」
「どうもわたしには納得がいかんが」と、サマリーは最後まで抵抗を示した。「みんなが行くのならわたしだけ残る理由もなさそうだな」
「それで決まった」ジョン卿は老酋長のほうを向いてうなずきながら、ライフルを軽く叩いてみせた。老人はかわるがわるわれわれの手を握りしめ、ほかのものはいよいよ大きな歓声をあげた。その夜は時間が遅すぎて進撃できなかったので、インディアンたちは簡単に野営の準備をした。四方で焚火がたかれ、焔と煙をだしはじめた。森の中へ消えた数人が、やがて禽竜(イグアノドン)の子供を一頭追いたてて戻ってきた。これまたアスファルトの汚れを肩の上にくっつけており、土人の一人が持主のような態度で前に進み出て屠殺の許可を与えたとき、この巨大な動物が彼らにとっては家畜のような個人財産であり、あれほどわれわれを悩ましたアスファルトの謎が、実は所有者の印でしかないことがやっとわかった。草食獣で動きがにぶく、脳みその少ないこの頼りない動物なら、子供でも思いのままに動かすことができるだろう。間もなくこの巨大な動物は細かく切り刻まれ、槍で突かれた湖の大きな硬鱗魚とともに、その肉片が十か所以上もの焚火で焼かれた。
サマリーは砂の上に横たわって眠っていたが、ほかの三人はこの神秘の国についてさらに詳しい知識を手に入れるべく、湖の岸を歩きまわった。二度ばかり、翼手竜の沼地で見たのと同じ青粘土の穴を見かけた。この古い噴火口あとを見たとき、なぜかジョン卿が大いに興味を示した。一方チャレンジャーの関心をひいたのは、正体不明のガスがごぼごぼと表面に大きな泡を生じさせている泥の間欠泉だった。彼は管になったアシの茎をそのくぼみに突き刺して、上端に火をともしたマッチを近づけた。鋭い爆発がおこって青い焔がふきだしたのを見て、まるで小学生のように歓声を発した。さらにアシの先端に革の小袋をかぶせてガスでふくらませたものが、ふわりふわりと空中に浮きあがったときの喜びようといったらなかった。
「可燃性のガスだ、しかも空気よりはるかに軽い。遊離水素がかなりの割合で含まれているに違いない。G・E・Cの頭脳はまだかれはてていないようだぞ、マローン君。偉大な精神がどのようにして大自然の力を利用するかお目にかけよう」彼は何か秘密の目的を心に抱いたらしかったが、それ以上は何も語らなかった。
目の前に広々と横たわる湖面の眺めはすばらしかったが、その岸には何も見えなかった。こちらの人数と騒々しさに驚いてあらゆる動物が逃げてしまったらしく、腐肉をあさりながら頭上に輪を描いている数羽の翼手竜をのぞけば、野営地のまわりはひっそりとしずまりかえっていた。しかしバラ色に彩られた中央湖の水面は様子が違う。石板(スレート)色の巨大な背中や高い鋸状の背びれが水しぶきをあげて水面に突きだすかと思うと、ふたたび水中深くもぐってゆく。遠くの砂洲には不恰好な動物が点々と腹這いになっている。巨大なカメ、見なれない爬虫類、それに黒い油を塗った革のように平べったい動物が一匹いて、ひくひくけいれんしながらゆっくり水際へ移動していた。ところどころ蛇のような頭が水面に突きでて、前には水泡の襟飾り、うしろにはみお(・・)を引き、白鳥のように優雅な動作で浮き沈みしながら水を切って進んでゆく。この動物がわれわれから数百ヤードのところにある砂洲に這いあがって、樽(たる)のような胴体と、蛇に似た巨大な首のうしろにある巨大な水かきを現わしたとき、チャレンジャーとあとからやってきたサマリーが、異口同音に驚嘆の叫びを洩らした。
「蛇頸竜だ! 淡水に棲む蛇頸竜だ!」とサマリー、「こんなものを見られるとは、まったく長生きはするものだ! われわれは開闢(かいびゃく)以来最も恵まれた動物学者というところだな、チャレンジャー君!」
日が暮れて土人たちの焚火が暗闇を赤々と照らしだすころ、二人の科学者はようやく原始時代の湖の魅惑から引きはなされた。暗い湖の岸に横たわっている間にも、そこに棲む巨大な動物たちの鼻息や水にとびこむ音が聞こえてきた。
夜が明ける早々から野営地には活気がみなぎり、一時間後われわれは忘れがたい遠征に出発した。これまで戦争特派記者になることを何度夢見たかしれない。その場合、わたしが任務として報道すべき戦闘の本質というものは、どのような苛烈な戦争の中にあるのだろうか。以下は戦場からのわたしの第一報である。
わが軍の人数は夜の間に洞窟からやってきた新手の一群によって補強され、進撃を開始するころは総勢およそ四、五百人になっていた。前線には斥候(せっこう)が派遣され、そのあとから全軍が一糸乱れぬ隊列を維持して長い灌木の斜面をのぼり、森のはずれ近くまで近づいた。ここで彼らは槍組、弓組の長い横隊を作って散開した。ロクストンとサマリーが右翼につき、チャレンジャーとわたしは左翼についた。石器時代の軍隊に加わりながら、われわれだけがセント・ジェームズ・ストリートやストランドにある銃砲店の最新の武器を手にしている。
待つほどもなく敵が現われた。森のはずれから荒々しい叫び声がおこって、突然猿人の一団が棍棒や石を手にして現われ、インディアン隊の中央に突進してきた。まことに勇敢だが愚かな行動だった。図体ばかり大きながにまたの猿人は、足が遅く、一方敵は猫のようにすばしこいときている。野獣どもが口から泡をふき目をいからせて、突進してはつかみかかるさまはいかにも恐ろしい眺めだが、いつも機敏な敵に逃げられて全身これ矢ぶすまという結果になる。大きな猿人が一人苦痛のうめき声を発しながらわたしのそばを通りすぎたが、胸からあばらにかけて十数本の矢が突き刺さっていた。わたしが慈悲深いとどめの一発を頭に射ちこむと、そいつはリュウゼツランの茂みに倒れ伏した。しかし銃声はこの一発だけだった。猿人の攻撃は隊列の中央に向かっており、インディアンたちはわれわれの力をかりなくても敵を押しかえしていたからである。空地に走り出てきた猿人は、一人残らず森へ逃げ戻る前にやられてしまったように思う。
しかし木のはえているところまできたとき、楽観は許されなくなった。森へ入ってから一時間かそれ以上もたつのに、依然として死闘がつづいており、一時はわれわれも敵の攻撃を支えきれなくなったほどだった。茂みの中から巨大な棍棒を持った猿人がふいに躍りだして、槍で倒される前に三人か四人のインディアンをなぎ倒すことがしばしばなのである。その壊滅的な打撃は触れるものすべてを粉々に打ち砕いてしまう。サマリーのライフルも一撃をくらってマッチ棒のように折れまがり、もしインディアンの一人が相手の心臓を突き刺さなかったら、つぎの瞬間に彼の脳天も同じ運命に見舞われるところだった。頭上の木にのぼったほかの猿人たちは、石ころや丸太を投げおろし、時にはみずから隊列にとびおりてきて、ようやく倒されるまでめちゃくちゃにあばれまわるのだった。一度など味方はこの圧迫に耐えかねて後退しそうになった。われわれのライフルによる殺戮がなかったら、きっと算を乱して敗走していたに違いない。しかし老酋長のはげましで勇敢に勢いを盛りかえし、今度は逆に猿人どもが退却せざるをえないほど猛烈に攻めたてた。サマリーは武器がなくなってしまったが、わたしは可能なかぎり速く射ちまくった。反対側からは仲間がつづけざまに発砲する音が聞こえてくる。やがて一瞬のうちに恐慌と壊滅がはじまった。猿人どもは叫んだりほえたりしながらくもの子を散らすように茂みの中へ逃げこみ、インディアンたちは喜び狂ってすばやく逃げる敵のあとを追った。何代にもわたる遺恨の数々、狭い歴史の中でくりひろげられた憎悪と暴虐、虐待と迫害の記憶が、この一日ですべて帳消しになるのだ。ついに人間が最高の支配者となり、獣人は人間に従属すべきことを永久に思い知らされた。逃げようとしてもこの足の遅さでは機敏な土人の追跡をかわしきれない。木の枝のからみ合った森のいたるところで、勝利の叫びや、弓鳴りの音や、樹上の隠れ場所から猿人が地上に落ちるドシンという音が聞こえた。
わたしがほかの猿人を追いかけているとき、ジョン卿とサマリーが近づいてきた。
「戦いは終わった」と、ジョン卿が言った。「後始末は彼らにまかせておいていいだろう。見ないほうがよく眠れるさ」
チャレンジャーの目は殺戮の欲望で輝いていた。
「われわれは」と、彼は闘鶏のように興奮して歩きまわりながら言った。「歴史上典型的とも言える重大な戦いの一つに参加する特権に恵まれた――これは世界の運命を決定する戦いだった。一種族による他種族の征服を、諸君はどう思うかね? まったく無意味だ。常に同じ結果が生じる。しかし、時代の夜明けに穴居人が虎に対抗して戦い、象がはじめて自分たちの支配者を発見したこれらの苛烈な戦いこそ、まさに真の征服というべきだ――勝利だけが問題なのだ。不思議な運命のめぐり合わせによって、われわれはそのような戦いの勝敗を決定するのに手をかした。今後この台地は永久に人間の支配するところとなるだろう」
結局このように悲劇的な手段を正当化するためには、強固な信念というものが必要だった。一緒に森の中へ足を踏み入れると、槍や矢で身動きもできなくなった猿人がそこら中に転がっている。ところどころに圧しつぶされたインディアンの死体がかたまっているが、そこは追いつめられて開きなおった猿人が、あばれ狂って彼らを道連れにした場所だった。前方では絶え間なく叫び声とうなり声が聞こえている。インディアンがその方角へ敵を追いつめているのだ。猿人は村まで後退してそこで最後の抵抗を試みたが、またしても打ち破られた。われわれが到着したときはちょうど最後の恐ろしい見せ場がはじまるところだった。生き残った八十人か百人の男たちが、崖のふちに通じる広場に追いつめられていた。二日前にわれわれが救出の放れ業を演じた場所である。われわれが到着すると同時に、槍を持ったインディアンが半円の包囲網をつくって猿人に襲いかかり、あっという間にすべてが終わった。三十人か四十人はその場で死んだ。残りは悲鳴を発し、空をかきむしりながら、かって彼らの捕虜がそうしたように、六百フィート下の鋭い竹やぶめがけて断崖のふちから落ちていった。チャレンジャーの言う通り、これでメイプル・ホワイトにおける人間の将来は永遠に安泰である。男は絶滅し、猿人村は破壊され、女子供は鎖につながれて生きてゆく。はるか昔からの長い対立はかくして血なまぐさく終わりを告げたのだ。
勝利はわれわれにとってもいろいろと利益をもたらした。ふたたびキャンプへ戻って荷物を手にすることができた。また、サンボとの連絡も復活した。そのサンボは崖のふちからなだれをうって落下する猿人の群を遠くから見てすっかり仰天していた。
「早く降りてきなさい!」彼は大きく目をみはって叫んだ。「ぐずぐずしていると悪魔につかまってしまいます」
「あれこそ正常な声だ」サマリーが確信ありげに言った。「われわれは多くの冒険をしたが、いずれもわれわれの性格や立場には不向きなものばかりだった。チャレンジャー君、約束通りこれからはこの恐ろしい土地から脱出して、ふたたび文明世界へ帰ることに専念してくれたまえ」
十五 この目で驚異を見た

一日ごとにこの手記を書きつづけているが、最後まで書きおえる前に、いずれは雲間を通して陽の光がさしこんでくるものと信じている。今のところは具体的な脱出方法を何も思いつかないので、大いに焦っている。だが、心ならずも台地にとめおかれたことを、おかげでこの不思議な土地やそこに棲む動物をより詳しく観察できたことを、いずれ喜ぶときがきっとくる。
インディアンの勝利と猿人の絶滅が運命の変わり目だった。このときからわれわれは事実上台地の支配者になった。土人たちは年来の敵との戦いに力をかしたわれわれを畏敬(いけい)の目で眺めるようになったからである。彼らにしてみれば、おそらくこんな恐ろしい正体不明の一行には一刻も早く退散してもらいたかったのだろうが、下界へ降りる方法を教えるようなことはしなかった。彼らの身ぶり手真似から察するに、下界へ降りるトンネルがどこかにあることは疑いない。われわれが下で見たのは、そのトンネルの出口なのだ。猿人とインディアンは、それぞれ違う時期に、このトンネルを通って台地にのぼったのに違いない。メイプル・ホワイトと彼の仲間もおそらくこの道を通ったのだ。しかし、わずか一年前に恐ろしい地震がおこって、トンネルの上の口が完全にふさがれてしまった。われわれが手真似で下へ降りたいと意志表示をしても、土人たちは首を横にふって肩をすくめるだけである。彼ら自身も降りる方法を知らないのかもしれないが、それだけでなくわれわれを降りさせたくないかもしれないのだ。
勝利の戦いが終わると同時に、生き残りの猿人たちは台地を横切って引きたてられ(彼らの泣き声は恐ろしいばかりだった)、インディアンの洞窟の近くに住む場所を与えられた。以後彼らは支配者の監視のもとに奴隷として生きてゆくのである。つまりバビロンのユダヤびと、またはエジプトのイスラエルびとの、荒っぽい原始時代版というところだ。夜になると、木々の間から、長く尾を引いた叫び声が聞こえてきた。あたかも原始時代のエゼキエル(ユダヤの予言者)が偉大な民の不幸を悲しみ、滅び去った猿人村の栄光をしのぶ声のようだった。以後の彼らはきこりや水汲み人夫という哀れな存在にすぎなくなるのだ。
われわれは戦いの二日後、土人たちと一緒に台地の反対側へ戻り、彼らの崖下にキャンプを張った。彼らは喜んで洞窟のすみかを提供しようとしたが、ジョン卿が断固としてそれに反対した。もし彼らに叛逆心がある場合、敵の手中に陥ることになるからである。そこであくまで独立を保ち、彼らと非常に親密な関係を保ちながらも、緊急事態にそなえて武器の用意は怠らなかった。またわれわれはしばしば彼らの洞窟を訪問した。そこは人の手になるものか大自然の力でできあがったものかはわからないが、まったく驚くべき場所だった。すべての洞窟が一枚の同じ地層の上にあり、赤味がかった絶壁をなす火成玄武岩と、絶壁の基部をなす固い花崗岩の間の、やわらかい岩盤にうがたれたものだった。入口は地上約八十フィートの高さにあり、大きな動物には通れない狭く急な石の階段をのぼる仕組みになっていた。洞窟の内部は暖く乾燥していて、長さはいろいろだが直線の通路が山腹に入りこんでおり、なめらかな灰色の壁には台地のさまざまな動物を描いたすばらしい木炭画がたくさんある。もしもこの台地上の生物がすべて死に絶えたとしても、未来の探検家はつい最近までここに棲息していた不思議な動物――恐竜、禽竜(イグアノドン)、魚とかげなど――の証拠をふんだんに手に入れることができる。巨大な禽竜が家畜、というよりは移動する貯蔵食肉として飼いならされていることを知っていたから、この台地の上では人間が優越を確立しているものと想像した。ところが事実はそれと違って、彼らはただ寛容によって生きていることが間もなくわかった。インディアンの洞窟の近くにキャンプを設営してから三日目に、悲劇がおこった。その日チャレンジャーとサマリーは湖へ出かけ、数人の土人を指揮して巨大なとかげ類の標本を採集していた。ジョン卿とわたしはキャンプに残って、大勢のインディアンが洞窟前のゆるやかな草原に散らばってさまざまな仕事をするのを観察していた。突然彼らは「ストア」という言葉を口にしながら、鋭い警戒の叫びを発した。逃げ場を求める老若男女が四方八方から気ちがいのように石の階段へ殺到した。
上を見ると、彼らは洞窟の入口から早くあがってこいとわれわれを手招きしている。われわれはとっさにライフルを手にとって、いったいどんな危険が迫ったのか見るために走りだした。突然近くの森の中から、十二人ないし十五人のインディアンが命からがら逃げだしてきた。すぐあとから夜の間にわれわれのキャンプを驚かし、単独探検の途中でわたしを追跡したあの恐ろしい動物が二匹で追いかけてくる。姿形は恐ろしいひきがえるにも似て、ぴょんぴょん跳びはねながら進むのだが、その図体ときたら最も大きな象でさえかなわないほどの信じられない大きさである。これまでは夜の間しか見かけなかったが、事実彼らは、この場合のようにねぐらに踏みこまれたときを除けば、夜行性動物なのである。われわれはその場に立ちつくしたまま、この異様な姿に見とれていた。汚ならしいいぼだらけの皮膚は魚に似た珍しい虹色をおびて、陽ざしの中で体を動かすたびに七色に変化するのだ。
しかしながら、いつまでも感心して見とれているわけにはいかなかった。間もなく彼らが逃げる土人に追いついて、このうえなく残酷な殺戮を開始したのである。彼らのやり方は全体重をかけて土人の上に前のめりになり、ぺしゃんこに圧しつぶしでおいてつぎにとびかかるというふうだった。哀れな土人たちは恐怖の悲鳴を発したが、怪物どもの情け容赦ない殺意と恐るべき残虐行為の前にあっては、いくら逃げても無駄だった。彼らはつぎつぎと殺され、ジョン卿とわたしが救助に駆けつけたときはせいぜい六人ぐらいしか生き残っていなかった。ところがわれわれの救援はほとんど役に立たず、かえって同じ危険にまきこまれるはめになった。およそ二百ヤードの距離から弾倉が空っぽになるまで射ちまくったが、やつらには紙つぶてが当たった程度で、痛くもかゆくもないらしい。鈍感な爬虫類の常で傷にはいたって強く、脳中枢などというものがあらたまって存在してはおらず、脊椎に分散しているため、どんな近代的な武器をもってしても活動を鈍らせることはできそうもない。われわれにできることば、ライフルの閃光と轟音で彼らの注意をそらすことによって足どめし、その間に土人たちとともに安全な石段まで逃げることだ。しかし文明の利器である円錐型の弾丸がなんの役にもたたないところで、キョウチクトウ科の有毒植物の液を塗ってから腐肉の中につけた毒矢が効を奏した。こういう毒矢は猛獣狩りにあまり役に立たない。毒のまわりが遅くて、たいていは力が弱まる前に野獣に追いつかれ、やられてしまうからである。しかし二匹の怪物がわれわれを石段の下まで追いつめたとき、崖の上の隙間という隙間からいっせいに毒矢が降りそそいだ。彼らはたちまち全身ささらのようになったが、それでもいっこうに衰える様子はなく、無気力な怒りとともに石段にとりついた。よたよたと数ヤードのぼったところでふたたび地上にすべり落ちた。ついに毒がまわりはじめた。一匹が物すごいうめき声を発して平べったい大頭をがっくり地に落した。もう一匹は鋭い鳴き声をたてながら輪を描いてのたうちまわり、やがて数分間苦しそうに身をよじったかと思うと、硬直して身動きもしなくなった。インディアンたちはかちどきをあげて洞窟からとびだし、死体を囲んで勝利の踊りを踊りながら、最も危険な敵を二匹もやっつけた喜びで熱狂した。その夜彼らは死体を切り刻んですっかり片づけてしまった。肉を食うためでなく――まだ毒がまわっているから――そのままにしておくと疫病の巣になるからである。しかしながら、座ぶとんほどもある巨大な爬虫類の心臓だけは、ゆっくりと確実に波打ちながら、独立した生の鼓動を刻んでいた。それから三日たつと、ようやく神経中枢が衰えて、心臓が静止した。
そのうち、罐詰の机とちびた鉛筆と最後に一冊残ったぼろぼろのノートよりましな筆記用具が手に入ったら、アッカラ・インディアンについて――それから彼らとともにすごした生活やわれわれが垣間見たメイプル・ホワイト台地の不思議な自然条件について、よりいっそう詳しい報告書を書くつもりである。少なくとも記憶が薄れるということはないだろう。わたしが生きているうちは、ここですごした期間の一刻一刻やすべての行動が、物心ついた子供をはじめて見舞う不思議な出来事の数々と同じように、いつまでも鮮明な形で頭にこびりついてはなれないだろうからだ。いかなる新しい印象もこれほど深く心に刻まれた印象を拭い消すことは不可能だろう。時がきたら、あの神秘的な月の夜に湖でおこったことを書いてみたいと思う。魚竜の子供が――これは一見したところアザラシと魚が半々に混じったような奇妙な動物で、くちばしの両側に骨のおおいかぶさった目があり、頭のてっぺんにもう一つの目玉がある――インディアンの網にかかり、岸へ引きあげる前にもう少しでわれわれのカヌーを転覆させるところだった。同じ夜、イグサの茂みからとびだした緑色の水蛇が、チャレンジャーのカヌーのかじとりの体にぐるぐる巻きついて連れ去った。まだ夜の間に現われた巨大な白い動物のことも語りたい。今になっても獣だったか爬虫類だったかわからないが、それは湖の東の薄気味悪い沼地に住んでいて、かすかな燐光を発しながら暗闇の中をとびまわった。インディアンたちはそれをこわがって沼地に近寄らず、われわれも二度探検して二度ともそれを見かけたが、深い沼地を通り抜けることはできなかった。結局わかったのはそれが牛よりも大きくて、じゃこうのような不思議な匂いを放っていたということだけである。さらに、ある日チャレンジャーを岩壁の洞窟まで追いこんだ巨大な鳥についても語りたい――それはダチョウよりも背が高く、バゲタカのような首と、歩きまわる死神といった態(てい)の恐ろしい顔をして地上を走りまわる鳥だった。チャレンジャーが安全な場所まで逃げこんだ瞬間、そいつのそりをうった兇暴なくちばしが、まるで鋭いのみ(・・)のように教授の靴のかかとをけずり取った。このときは少なくとも文明の利器が役に立ち、頭から爪先まで十二フィートもある巨大な鳥は――チャレンジャー教授が息を切らしながらうれしそうに語ったところによれば、フォロラクスという名前なのだそうだが――ジョン・ロクストンのライフルで射たれて苦しそうに羽をふるわせ、激しくあがきながら黄色い残念そうな目をむいた。できることならオールバニーのジョン卿の部屋の壁に、そいつの平べったい意地の悪そうな首が獲物として飾られるところを見たいものだ。それから最後に、身長十フィートもある巨大なテンジクネズミ、トキソドンのことも語らねばなるまい。われわれは長い牙を持つこの動物が、夜明け方湖の岸で水を飲んでいるところを仕止めた。
以上すべてを、わたしはいつの日かもっと詳しく書いてみたい。そしてこうした忙しい日々にあって、夏の夕方、森のそばの長い草原に仲よく寝そべって、抜けるような青空を見あげながら、上空を舞う見たこともない鳥や、穴から顔をのぞかせてわれわれを観察していた不思議な動物に目をみはったこと、周囲の木の枝や茂みには甘い果物がたわわに実り、地上には見たこともない美しい花が咲いていたことなどを、しみじみと文章につづってみたい。また月の明るい夜長に、光り輝く湖上に船をこぎだして、想像もつかない怪物が突然躍りあがったときに拡がる波紋や、暗い湖底に棲む何物とも知れぬ動物が発する緑色のかすかな光を見たこともあった。いずれわたしの心とペンがこれらの場面を詳細に描きだす機会もあるだろう。
しかしながら、読者は不審に思われるだろう。わたしを含めた一行四人が日夜下界へくだる方法を求めて腐心すべきとき、なぜそのような見聞をひろめることに時間を費やしていたのかと。わたしの答はこうである。だれ一人としてそれを忘れていたものはなかったが、努力はすべて無駄だったのだ。ただ一つ、インディアンはわれわれの目的にとってなんの助けにもならぬということだけはすぐにはっきりした。ほかの点ではわれわれの友人であり、献身的な奴隷と言ってもいいほどだったが、岩の割れ目に渡す橋板運びを手伝うとか、下降に用いる革紐や蔓草を手に入れる話になるとたちまち態度はていねいだがきっぱり断わられてしまうのだった。微笑を浮かべ、目を輝かせて首を横にふられると、それで話はおしまいである。老酋長でさえわれわれの頼みを頑固に拒みつづけ、わずかにわれわれが救ってやった息子のマレタスだけが、何かに憧れるような目つきで、気の毒そうな身ぶりを示すだけだった。猿人との戦いに勝利をしめて以来、彼らはわれわれを、勝利を中に詰めた筒型の不思議な武器を持つ超人と見なすようになり、われわれが一緒にいる限り将来は安泰だと信じている様子だった。もし同族のことを忘れてこの台地に永住するならば、褐色の肌をしたインディアンの妻と専用の洞窟を、各人に無償で与えるという申し出さえおこなわれた。そんなわけで、われわれの希望からははるかにかけはなれてはいるものの、これまでのところ彼らは非常に親切にしてくれた。しかし最後には力ずくで引きとめられる恐れも十分あったので、脱出の具体的な計画は秘密にしておかなければならなかった。
恐竜に襲われる危険があったにもかかわらず(これは前にも述べたように夜行性動物だから、夜出歩かないかぎりさほど危険はない)、わたしは最近三週間に二度も古いキャンプ地へ行って、サンボが依然崖下でがんばっているのを見とどけた。はるか遠くに、われわれが祈るような気持で待っている救助隊の姿が見えはしないかと、目を皿のようにして広漠たる平原を見つめた。しかし長いサボテンがぽつりぽつりとはえているだけの平原は、はるか遠くの竹やぶまで、むなしくむきだしの姿を横たえていた。
「もうすぐ助けがやってきますよ、マローン様。一週間もしないうちにインディアンがロープを持って戻ってきて、みなさんを下までおろします」これがわが忠実なサンボのはげましの言葉だった。
二度目のキャンプ訪問から戻る途中、ある妙な出来事にまきこまれて仲間とはなればなれに夜を明かすはめになった。勝手知った道を通って翼手竜の沼地から一マイルかそこらの地点まできたとき、異様なものが近づいてくるのを見た。人間が竹を折りまげて作ったかごをすっぽりかぶって、ちょうど釣鐘型の檻(おり)に入ったような恰好で歩いてきたのである。さらに近づいてそれがジョン・ロクストン卿だとわかったときのわたしの驚きといったらなかった。わたしに気がつくと、彼はこの奇妙なおおいから出て笑いながら近づいてきた。ただし、いささかとり乱したようなところも感じられた。
「やあ、マローン君。こんなところできみに会おうとは思わなかったな」
「いったい何をしているんです?」
「友だちの翼手竜を訪ねるところさ」
「なんのために?」
「面白い動物だと思わんかね? ただ愛想が悪いのは困る! いつかのように知らない人間とみると牙をむいてとびかかってくるからね。だからこのかごを作ったのさ。こいつに隠れていればやつらをあまり刺激せずにすむだろうと思ってね」
「沼地で何をしようというんです?」
彼はせんさくするような目つきになり、ためらいの表情を浮かべた。
「教授以外の人間だって何かを知りたいと思うことはあるさ」と、ようやく彼は答えた。「あのかわいいやつを研究してやろうと思ってね。これ以上はきかないでくれ」
「気を悪くしたらかんべんしてください」
彼は機嫌をなおして笑った。
「いやいや、ぼくこそ、悪く思わないでくれよ、マローン君。チャレンジャー教授に例の悪魔の子を一匹連れ帰ってやろうと思ったまでさ。目的はほかにもあるがね。いやいや、きみには来てもらわなくて結構、ぼくはこの檻の中にいれば安全だが、きみはそうはいかんからね。じゃさようなら、日が暮れるまでには戻るよ」
彼はくるりと背を向けて、わたしを残したまま、異様な檻に入って森の中へ分け入って行った。
このときのジョン卿の行動が奇妙だったとしても、チャレンジャーのそれには及ばなかった。彼はインディアンの女たちから見ればきわめて魅力的な存在らしかった。いつも大きなシュロの枝をそばからはなさなかったが、女たちがあまりうるさく近寄ってくると、まるで蠅(はえ)の群か何かのようにそれで追い散らすのである。彼が権威の象徴であるこの枝を手に持って、ひげの先端をピンととがらせ、一歩ごとに爪先をはねあげ、肌もあらわな樹皮の腰みのをまとった目の大きなインディアンの女たちをずらりと従えて、まるでコミック・オペラのサルタンのように歩きまわる光景は、わたしが心にとどめて持ち帰る絵の中でも最もグロテスクなものの一つである。一方サマリーのほうは台地の昆虫と鳥類の観察に熱中し、一日の大部分を(ただしいっこうに脱出の方法を考えないチャレンジャーの非難に費やすかなりの時間を別として)集めた生物の整理と標本作りですごしていた。
チャレンジャーは毎朝のように一人でどこかへ出かけては、時おり遠大な計画の重みを一人で背負いこんだ人間のように、物々しい威厳のある表情でふらりと戻ってくる。そんなある日、シュロの枝を手に持ち、崇拝者たちの群を従えながら、秘密の仕事場へわれわれを案内してくれた。
そこはシュロの林の中央にある小さな空地で、わたしが前に述べた泥の間欠泉がある。噴泉の周囲には禽竜の皮で作った無数の革紐と、湖の大きな魚とかげの胃袋を乾燥させて平らにのばしたものと思われる大きな袋がぺしゃんこになっていた。この巨大な袋は一方のはしが縫いとざされ、反対のはしだけ小さな穴があいている。この口に数本の竹筒がつきささり、反対のはしは間欠泉の泥を通ってごぼごぼ噴きあがるガスを集めるための粘土製のじょうごにつながっている。間もなくだらりとした魚とかげがゆっくりとふくれあがり、空中に浮きあがりそうな気配を示したので、チャレンジャーがもやい綱を周囲の立木にゆわえつけた。半時間もするとかなり大きな気球ができあがったが、革紐の緊張度から判断して、相当な重量を持ちあげる力がありそうだった。チャレンジャーははじめての子供を目の前にして大喜びする父親のような表情で、おのれの頭脳の産物をさも満足そうに眺めながら、微笑を浮かべて無言でひげをしごいていた。最初に沈黙を破ったのはサマリーだった。
「まさかそれに乗って舞いあがるつもりじゃあるまいね、チャレンジャー君?」と、彼は皮肉な声で言った。
「今からこいつの力をお目にかけるつもりだよ、サマリー君。それを見たら、きみも危険だから乗るのはいやだなどとは言うまい」
「そんな考えは今すぐ頭から叩きだすほうがよさそうだね」サマリーはきっぱりと言った。「わたしは絶対にそんな愚かな真似(まね)をする気になれん。きみだったらこんな気ちがい沙汰に賛成はせんだろうな、ジョン卿?」
「すばらしい発明ですよ」と、彼は答えた。「どんな具合か見てみたいですね」
「もちろん見せてやるとも」と、チャレンジャー。「この数日間わしは全知全能をふりしぼって、いかにあの崖をおりるかという問題を考えつづけてきた。絶壁を伝わっておりるのは不可能だし、トンネルもないことがわかった。また例の三角岩へ橋をかけることもできない。となると、ほかにどんな方法が考えられるかね? しばらく前、このマローン君に、間欠泉から遊離水素が発生していると話したことがある。それが当然気球という考えに結びついた。正直言ってガスを詰める袋が見つからなくて最初は困ったが、あの爬虫類の巨大な内臓を思いだしたとき問題は解決した。ほれ、仕上げは上々というところだ!」
彼はぼろぼろになった上着の胸に片手をおき、もう一方の手で得意そうに気球を指さした。
すでに気球は丸々とふくらみ、強い力でもやい綱を引っぱっていた。
「狂気の沙汰もきわまれりだ!」と、サマリーがうそぶいた。
ジョン卿はこの思いつきがすっかり気に入ったらしい。「老人冴えてるじゃないか、え?」とわたしの耳にささやき、それから大きな声でチャレンジャーに言った。「ゴンドラはどうするんです?」
「さよう、つぎはゴンドラだ。だが作り方ととりつけ方はちゃんと考えてある。ま、その前にわれわれ一人ずつの体重を持ちあげる力があるということをお目にかけよう」
「四人一緒で大丈夫ですか?」
「いやいや、わしの計画ではパラシュートのように一人ずつ降りることになっている。気球はその都度上に引きあげられるわけだが、その方法はいたって簡単だ。要は人間一人をゆっくり下までおろすことができれば、それで目的は達成される。これからその能力をお目にかけよう」
彼はロープをかけやすいようにまん中がくびれたかなり大きな玄武岩の塊りを持ちだした。ロープは三角岩にのぼるとき使ったあと、台地まで持ってきたもので、長さは百フィート以上もあり、細いけれども非常に丈夫である。彼は何本もの紐がたれさがった革製の襟飾りのようなものを準備していた。それを気球の上にすっぽりかぶせて、革紐を下で一つにまとめた。そうすれば下にぶらさがる重量の圧力が気球の表面全体に分散する理窟である。つぎに玄武岩の塊りを革紐にゆわえつけて、そのはしにロープをぶらさげ、チャレンジャーが自分の腕に三度巻きつけた。
「さて」チャレンジャーは喜ばしい期待に顔ほころばせながら言った。「いよいよわしの気球の浮揚力をお見せする」言い終わると、立木にゆわえつけてあったさまざまな革紐をナイフで切った。
このときほどわれわれの探検が無に帰する危険にさらされたことはなかった。ふくれあがった気球が物すごい速さで空に舞いあがったのである。たちまちチャレンジャーの足が地面からはなれた。間一髪、わたしが浮きあがった教授の腰に抱きついたが、そのわたしまでが空中に持ちあげられてしまった。ジョン卿が必死でわたしの両脚にしがみついたが、彼もまた地上から持ちあげられるのがわかった。一瞬わたしは四人の冒険家が、自分で探検した土地の上空を、じゅずつなぎになってただよう光景を思い描いた。しかし、幸いにも、全然浮揚力の衰える様子もないこの悪魔の発明とは違って、ロープの強さに限度があった。プツンという鋭い音が聞こえたかと思うと、われわれ三人は重なり合って地面に落下し、もつれたロープが頭の上にかぶさってきた。やっとの思いでよろめく足を踏みしめながら立ちあがると、雲一つない青空のはるか彼方に、ぐんぐんのぼってゆく玄武岩が、小さな黒点となって見えていた。
「すばらしい!」負けずぎらいのチャレンジャーがすりむいた腕をさすりながら叫んだ。「満足すべき完璧な実験だった! わしもこれほどの成功は期待していなかった。諸君、わたしは一週間以内に新しい気球を作ることを約束する。安全かつ快適に帰国の第一歩を踏みだすことをあてにしてくださって結構だ」
これまでは過去の出来事をおこった順に書いてきた。今わたしは、サンボが長いこと待っていてくれた最初の野営地で報告の仕上げにとりかかっている。あれほどの困難や危険も、頭上にそびえる赤味がかった絶壁の上に残してきて、今ではまるで夢の中の出来事としか思えない。われわれはまったく予想もしなかった方法によって、ともかくも無事下界へ降りることができたのだ。四人ともみな元気である。一か月半か二か月後にはロンドンに帰っているだろうから、この手紙よりさほど遅くなることはないだろう。われわれの心はすでに偉大な故郷の町へ飛んでいる。われわれにとって何物にも変えがたいものを多く持つ偉大なるロンドンへ。
チャレンジャー教授手製の気球で命がけの冒険をした日の夜、運命の転機が訪れた。脱出計画に同情を示した人間が一人いたことは前にも述べた。われわれが救った例の酋長の息子である。彼だけはわれわれの意志に反して異郷に引きとめておくことを望まなかったのだ。身ぶり手真似で結構話は通じていた。その夜日が暮れてから、われわれの小さなキャンプにやってきて、わたしに(どういうわけか彼はいつもわたしにばかり関心を示した。おそらく年齢が一番近かったせいなのだろう)木の皮を丸めた小さな筒を渡し、厳粛な顔で頭上の洞窟群を指さしてから、これは内緒だというしるしに唇に指をあて、それからこっそり仲間のところへ帰って行った。
わたしがその樹皮を焚火の明りにかざして、みんなでそれを調べてみた。拡げるとちょうど一フィート四方ほどの大きさで、内側に奇妙な線が描かれている。まっ白な表面に木炭できちんと描かれたもので、一見簡単な楽符か何かのように思えた。
「なんだかわからないけれど、われわれにとって重要なものに違いありません」と、わたしが言った。「これを渡すときの彼の表情からそう感じたんです」
「冗談好きの原始人に出会ったのでなければね」と、サマリーが言った。「冗談というのは人間の最も初歩的な発達段階に現われる現象の一つと考えていいものだ」
「いや、これはある種の文書に違いない」と、チャレンジャーが言った。
「一ギニー・パズルの問題のようでもあるな」ジョン卿が首をのばしてのぞきこみながら言った。それから急に手をのばしてパズルをつかんだ。
「しめた! 答が出たようだぞ! マローン君の言う通りだ。これですよ! 線が何本あります? 十八本でしょう。ところで頭の上の崖には洞窟の入口が十八ありますよ」
「彼はこれを渡すとき洞窟のほうを指さしましたよ」と、わたしが言った。
「それで間違いない。これは洞窟の配置図なんだ。ほら、十八の洞窟が一列に並んでいて、あるものは浅く、あるものは深く、二叉に別れているものもある。われわれが見た通りだ。これは間違いなく地図です。ここに×印があるが、これはなんの意味だろう? 一番奥行きの深い洞窟に印がついているが」
「それがトンネルですよ」と、わたし。
「マローン君が謎を解いたようだな」と、チャレンジャーが言った。「もしこの洞窟がトンネルになっていないとしたら、われわれに好意を持っていいはずのあの男が、それに注意をひきつけようとした理由がわからなくなる。反対にこれがトンネルで反対側に出口があるとしたら、あとはせいぜい百フィートも崖をくだればいいはずだ」
「百フィートだと!」と、サマリーが不満の声をあげた。
「ロープはまだ百フィート以上あります」とわたしが叫んだ。「だからかならず降りられますよ」
「洞窟の中のインディアンをどうするつもりかね?」と、サマリーがやりかえした。
「頭の上の洞窟には一人もいませんよ。ここのはみな物置に使われているんです。今からすぐにのぼって行って様子を見てはどうですか?」
台地には乾燥したやに(・・)を含む木があって――植物学者に言わせるとナンヨウスギというのだそうだが――インディアンがそれをたいまつに使っている。われわれは一人ずつその木を束ねたものを手に持って、地図で×印のついている洞窟の、草におおわれた石段をのぼって行った。わたしが言った通り内部は空っぽで、われわれの頭上を無数のこうもりが飛びまわっているだけだった。インディアンにかんづかれたくなかったので、何度か曲り角を曲がって洞窟のかなり奥へ入りこむまで、暗闇の中を手探りで進んで行った。それからようやくたいまつに火をともした。そこは乾燥したりっぱなトンネルになっていて、なめらかな灰色の壁には土人の記号がたくさん描かれている。頭上はアーチ型の天井で、足もとは白っぽく光る砂だった。急ぎ足で進んで行くと、やがて行きどまりになったので、一同失望のうめき声を洩らした。鼠一匹通る隙間もない岩の壁が行手をさえぎっていたのである。出口はどこにもなかった。
われわれはこの思いもかけなかった障害物を眺めながら、苦々しい気持で立っていた。登りのトンネルと違って、地震でふさがったのではない。もともと行きどまり(キュル・ド・サック)なのだ。
「心配はいらんよ、諸君」と、不屈のチャレンジャーが言った。「前にも約束した通りわしの気球という手がある」
サマリーがうなった。
「洞窟を間違えたのかな?」と、わたし。
「そんなことはないさ」ジョン卿が地図をさしながら言った。右から十二番目、左からは二番目、この洞窟に間違いない」
わたしは彼がさしている印を見て、思わず歓声を発した。
「わかったぞ! こっちだ! こっちですよ!」
わたしはたいまつをかざしながら、急いで今来た道を戻りはじめた。そして、地面に落ちているマッチを示しながら、「ほら、ここでたいまつに火をつけたんです」
「その通りだ」
「地図によると、この洞窟は二叉になっている、われわれはたいまつに火をつける前に分れ道を通りすぎてしまったんですよ。さっきの入口に向かって右のほうに、もっと奥行きの深い道があるはずです」
わたしの予想は当たっていた。三十ヤードも行かないうちに、右手の壁に黒い穴がぽっかり口をあけた。その枝道にそって息を切らしながら何百ヤードも進んだ。やがて、突然、前方の暗いアーチの中に、薄暗い赤い光がさしこんできた。われわれは茫然としてその光を見つめた。焔の壁が行手をさえぎっているように見えた。急いで近寄ってみると、音も熱もなく、そよとも動く気配はないが、依然大きな光のカーテンが前方で輝いている。洞窟の内部は銀色に輝き、足もとの砂は宝石の粒をばらまいたようにこうこうと輝いている。さらに近づいてよく見ると、丸味をおびた縁が見えてきた。
「こいつは驚いた、あれは月だぞ!」とジョン卿が叫んだ。「外へ出られたんだ、外へ!」
それは崖の上の出口からまっすぐさしこんでくる満月の明りだった。出口といってもせいぜい窓ぐらいの大きさしかない岩の裂け目だが、それでもわれわれの目的には十分だった。外に首を突きだしてみると、下降はさほど難しいとも見えず、下の地面は思ったより近いところにあった。下からこの裂け目が見えなかったのも無理はない。ちょうどその上で崖がオーヴァーハングしていて、登はん不可能に見えたものだから、ろくに調べもしなかったのだ。手持ちのロープで下まで降りられることがわかったのですっかり安心して、翌晩にそなえるため喜び勇んでキャンプに戻った。
どたん場でインディアンに引きとめられる恐れがあるので、行動は迅速かつ隠密を要した。銃と弾薬を除いて、荷物はすべて置き去りにすることに決めた。ところが、内容は伏せておくが、チャレンジャーがある厄介な品物をどうしても持ち帰ると言いはったため、これにはひどく骨折った。その一日の長かったこと、だが日が暮れるとともに、出発準備はすべてととのっていた。骨折って石段の上まで荷物を運びあげ、それからふりかえって、この秘境にしばし別れを惜しんだ。ここも間もなく狩猟家や鉱山師(やまし)に荒らされて俗化してしまうかもしれない。しかしわれわれ四人にとっては多くの冒険をし、困難を味わい、そして多くを学んだ魅惑とロマンスの夢の国だ――これからは親しみをこめて、われわれの国と呼ぶことにしよう。われわれの左手では、近くの洞窟の一つ一つが、暗闇に赤く気持のよい焚火の明りを放っていた。下の斜面からはインディアンたちの笑い、歌う声が聞こえてくる。その向こうは一面の森で、中央に、闇を通してにぶい銀色に輝く、怪獣たちの母とも言うべき湖が見えている。そうしている間にも不気味な動物の鳴き声が闇をつんざいて響きわたった。それはメイプル・ホワイト台地がわれわれに別れを告げる声だった。われわれはまわれ右をして、祖国へ通じる洞窟への第一歩を踏みだした。
二時間後、荷物や持物はすべて崖下に運びおろされていた。チャレンジャーのお荷物を除けば、全然手間はかからなかった。荷物をその場に置いたまま、われわれはただちにサンボのキャンプに向かって出発した。明け方キャンプに近づいてみると、驚いたことに、火が何か所にも焚かれていた。救助隊が到着したのだ。川からやってきたインディアンがおよそ二十人ばかりいて、棒だとかロープだとか、岩の割れ目に橋を架けるのに役立ちそうなものがすべてそろっていた。これで、明朝アマゾンへ向けて出発するとき、もはや荷物運びを心配する必要もなくなったわけだ。
というわけで、わたしはけいけんな感謝の気持でこの報告書の筆をおく。われわれはこの目で驚異を見、数々の試練を克服することによって魂を洗われた。各人それなりに人間として向上した。パラに到着したら衣服を整えるために一時滞在するかもしれない。その場合はこの手紙を先きに郵送しよう。もし滞在しなければ、わたし自身これをたずさえてロンドンに到着するわけだ。いずれにしても、親愛なるマッカードル氏よ、あなたと握手をかわす日が待ちどおしくてならない。
十六 行進! 行進!

帰途アマゾン流域の人々が示した親切と歓迎に対する感謝の念をここに書きとめておきたい。とりわけ途中いろいろと便宜をはかってくれたペナローサ氏をはじめとするブラジル政府役人の諸氏、その必要を見越して、文明世界に仲間入りしても恥かしくないような衣服一式を用意しておいてくれたパラの町のペレイラ氏に対して、深甚なる感謝の念を禁じえない。道々示された好意に対する返礼として、こうした恩人たちを失望させなければならないのはなんとも心苦しい次第だが、事情が事情だからそれもやむをえない。われわれの探検のあとをたどろうとしても時間と金の無駄だということをここでお断わりしておく。報告書の中では地名まで変えてあるから、いかに綿密にそれを研究してみたところで、われわれの土地から千マイル以内にさえ近づくことは、おそらく、だれにもできまいと思う。
われわれの通り道にあたる南アメリカの各地でひきおこされた熱狂ぶりは、純粋に局地的なものだと思っていたから、われわれの探検のニュースがヨーロッパ全土にまで大騒動をひきおこしているとは、正直言って夢想だにしていなかった。ところが、われわれの乗っている『イベルニア号』がサウサンプントンから五百マイル以内に近づくころ、新聞社や通信社から、探検の成果をほんの数行でも知らせてくれれば、莫大な報酬を支払うという電報が続々と舞いこんできはじめたので、科学界のみならず一般の関心がいかに高まっているかを知った。しかしながら、われわれは動物学会の会員と会うまでいかなる新聞にも声明を発表しないことを申し合わせていた。動物学会から派遣されたわれわれとしては、調査を委任した機関に最初の報告をおこなう義務があると考えられたからである。そんなわけで、サウサンプトンには新聞記者が大勢待ちかまえていたにもかかわらず、われわれは声明をきっぱり断わった。その結果当然の成行きで、一般の関心は十一月七日夜に予定されている集会に集中した。この集会のためには、われわれの任務の発端の地であった動物学会ホールがあまりにも狭すぎるということで、かわりにリージェント・ストリートのクィーンズ・ホールが会場と決まった。主催者側がアルバート・ホールに口をかけたとしても、それでもなお狭すぎることを、今ではだれでも知っている。
集会の期日はわれわれの帰国後二日目の晩に当たっていた。最初の晩は、各人それぞれさし迫った個人的な用事があるに違いないからである。わたし自身の用事については今のところは話せない。もう少し時間がたてば、もっと冷静に考えたり話したりすることができるようになるだろう。この物語の冒頭で、わたしをこのたびの行動に駆りたてた原動力がなんであったかを、読者諸氏に示しておいた。とすれば、やはり物語を結ぶにあたってその結果を報告すべきだろう。そして、いずれはそうせざるをえない時がくるかもしれない。少なくともわたしはある力に動かされて驚くべき冒険に参加した。その力に対して感謝の念を抱かずにはいられない。
さて、いよいよわれわれの冒険の、波乱に富んだ最後にして最高の瞬間について語るときがきた。それをどのように描写すれば一番いいかと頭を悩ましているわたしの目の前に、わたしの友人で同僚でもあるマクドナ記者の手になるすぐれた詳報を掲載した十一月八日のわが社の朝刊がある。見出しまで含めてその全文を書きうつすのが、結局最上の方法ではないだろうか? 正直なところこの探検に特派員を派遣した企業の英断を売り物にするあまり、いささか手前味噌の感じがなくもないが、さすが報道の詳しさにおいては他社を足もとにも寄せつけない感じである。わが友マックはつぎのように書いている。

新世界
クィーンズ・ホールにおいて大集会
大騒動おこる
異常な出来事
あの物の正体は?
リージェント・ストリートの夜の騒乱
(特別記事)

「昨年、先史時代の動物が今もなお南アメリカ大陸に存在しているというチャレンジャー教授の報告の真偽を確めるべく、動物学会によって調査委員会が同大陸へ派遣された。その問題の報告会が昨夜大クィーンズ・ホールにおいて開催されたが、参集した何人も忘れえぬほど異常でセンセーショナルな雰囲気の中で会合が進行したという意味で、まさに科学史上記念すべき一日となるだろう」(わが同業のマクドナ君、なんという物々しい書きだしだろう!)「入場券は動物学会員とその知人のみに制限されていたはずだが、この知人というやつがはなはだつかまえどころのない表現で、開会予定の八時よりはるか前から、大ホールは立錐(りっすい)の余地もないありさまであった。しかしながら、閉めだしをくったことにいわれのない不満を抱く一般大衆が、八時十五分前に入口へ殺到したため、かなりの時間混乱が生じ、不幸にして脚を骨折したH管区のスコーブル警部を含めて、数人の怪我人まで出る始末であった。この不当な侵入者たちが、そこかしこの通路のみならず新聞記者席にまで詰めかけた結果、推定約五千人の聴衆が探検隊の到着を待つことになった。ようやく姿を現わした一行四人は、わが国はおろかフランス、ドイツの指導的科学者までがずらりと居並ぶ演壇の最前列に席を占めた。スウェーデンからもウプサラ大学の有名な動物学者セルジウス教授が出席していた。四人の英雄の登場をしおに、全聴衆が立ちあがり、盛大な歓迎の拍手が数分間つづいた。しかしながら、注意深い観察者ならば、拍手に混じって反対分子もいることに気がつき、この集会がかならずしもなごやかな雰囲気ではなく、むしろ荒れ模様であると推測したことであろう。ただし、あれほど意外な発展を予想した人物は一人としていなかったに違いない。
四人の探検家の風貌については多言を要すまい。彼らの写真がかなり前から各紙をにぎわしているからである。ただ、伝えられるごとく数々の困難を乗り越えてきた様子が、その風貌からはほとんど感じられない。おそらく出発のときにくらべてチャレンジャー教授のひげは手入れがゆきとどかず、サマリー教授の顔はより禁欲的で、ジョン・ロクストン卿はいっそう痩せており、三人とも黒く陽にやけてはいるようだが、それぞれ健康状態は申し分なさそうに見える。わが社の特派員で、国際的なラグビー・プレイヤーである有名な運動家E・D・マローンに関して言えば、髪の毛一筋乱れたところはなく、聴衆を見わたすその正直で素朴な顔には、上機嫌な満足の微笑が浮かんでいた」(わかったよ、マック、二人だけになったら承知しないぞ!)
「やがて拍手の嵐もしずまり、聴衆がふたたび腰をおろすと、議長であるダーハム公爵が立って話しはじめた。『わたしはここに参集した大聴衆と、彼らの目の前にあるごちそうの間に割りこんで、長ったらしい演説をおこなうつもりはありません。委員会の代表であるサマリー教授がどのような報告をなさるかをあれこれ臆測するのは議長の役目ではないが、このたびの探検がまれに見る成果をあげたということは、広く世間で取沙汰されております』(拍手)『明らかにロマンスの時代はまだ死滅していなかったのであり、小説家の途方もない空想が真理探究者の科学的調査と一致する接点が現実に存在したのであります。最後につぎの一言を述べて、前置きを終わりとしたい。すなわち、議長および全聴衆は、四人の方々が、困難にして危険な任務を果たして無事帰国されたことを、心から喜ばしく思うものであります。なぜならば、この種の探検に万一事故がおこった場合、動物学にとってはほとんどとりかえしのつかない損失だからであります』(嵐のような拍手、チャレンジャー教授もそれに仲間入りしていた)
「サマリー教授が立ちあがると同時に、またもや異様な熱狂がおこり、彼の演説のあいだ一定の間隔をおいてくりかえされた。演説内容の詳細は、ここでは割愛する。探検の詳報がわが社特派員のペンによって、付録として発行される予定だからである。したがってここではごく一般的な方向を示すだけにとどめておく。教授はまず最初にこの探検旅行のそもそもの発端を語り、友人のチャレンジャー教授に対して、今や完全に正しいと証明された彼の発言を、はじめは不信をもって迎えたことを謝罪するとともに、美しい賛辞を捧げた。ついで一般大衆がこの驚くべき台地の所在をつきとめようとする試みを阻止するために、手がかりになるようなことを用心深く隠しながら、実際にたどった旅の道筋を明らかにした。川から断崖の下にたどりつくまでの道中を漠然と説明したのち、崖をのぼろうとしては何度も失敗した苦心談で聴衆の心をとらえておいて、献身的な二人の混血土人の命とひきかえにようやく登はんに成功した事情を語った」(わが友マックがこのように意外な解釈をおこなったのは、サマリーが会場で疑問を呼びおこすようなことがあってはならないと配慮した結果である)
「かくして聴衆を想像上の台地まで導きあげ、橋の墜落によって彼らをそこに足どめしたのち、教授はこの驚くべき土地の恐怖と魅力の描写にとりかかった。個人的な冒険については多くを語らなかったが、台地上の不思議な野獣、鳥類、昆虫、植物などの観察によって得られた科学上の収穫を大いに力説した。と り わ け 鞘翅(しょうし)類と鱗翅(りんし)類の収穫がめざましく、四週間の間に前者については四十六種、後者については九十四種の新種を採集したということである。しかしながら聴衆の関心が集中したのは、言うまでもなくより大きな動物――とりわけはるか昔に絶滅したと信じられている大動物であった。教授はそれについてもかなりの数をかぞえあげたが、台地をより綿密に調査すれば、疑いもなくさらに多くの種類が発見されるであろうと語った。一行はほとんどがはなれた場所からだが、現存するいかなる動物とも一致しないものを少なくとも十二種は見たということである。これらの動物はいずれしかるべく分類され調査されるであろう。例えばぬけがらが濃い紫色で、長さが五十一フィートもある蛇や、暗闇の中で燐光を発する哺乳類らしき白い動物や、インディアンの間で猛毒を持つと信じられている巨大な黒色の蛾などである。こうしたまったく新しい動物を別にしても、台地には、ジュラ紀のはじめごろ生存していたものも含めて、よく知られている先史動物が多数棲息していたということである。その中には、最初にこの未知の国へ足を踏み入れたアメリカ人冒険家のスケッチブックに描かれていた巨大でグロテスクな剣竜もいて、これはマローン記者が湖の岸の水飲み場で姿を見かけたという。教授はまた一行が最初にめぐり合った不思議な動物、禽竜(イグアノドン)と翼手竜についても語った。ついで彼は、一度ならず一行中のメンバーを襲った最も兇暴な肉食性の恐竜に関する説明で、聴衆の胆を冷やした。巨大な猛禽、フォロラクスや、今もなお台地上に生存しているオオシカについても語った。しかしながら、会場の熱狂が最高調に達したのは、教授が中央湖の神秘を生々しく描いたときである。この正気で冷静な教授が、魔法の湖に棲む奇怪な三つ目の魚とかげや巨大な水蛇の話を、冷静に言葉を選んで語るとき、人々は夢でもみているのではないかとわが身をつねってみずにはいられなかった。つぎの話題はインディアンと、驚くべき猿人の村である。後者はジャワ猿人の進化したもの、したがって現に知られている動物の中では、人類学上の仮説であるミッシング・リンクに最も近い存在と考えられるものだという。最後に教授は、チャレンジャー教授による天才的ではあるがきわめて危険な空飛ぶ発明を披露して満場の笑いを誘い、この忘れがたい演説を、一行がようやく文明世界に帰ることのできた方法の説明でしめくくった。
報告はここで終わり、ウプサラ大学のセルジウス教授提案の感謝と祝辞の動議が、当然会場の支持を得て実行されるものと期待されたが、事実はそれほどスムーズに運ばないことが間もなく明らかになった。反対の気配はそもそものはじめからはっきり感じられたのだが、いよいよエジンバラのジェームズ・イリングワース博士がホールの中央で立ちあがった。決議の前に修正がおこなわれるべきではないかと、博士は質問したのである。
議長『修正の要があれば、もちろんです』
イリングワース博士『議長閣下、その必要があります』
議長『ではただちに採択に移ります』
チャレンジャー教授(さっと立ちあがって)『議長閣下、この人物は『科学クォータリー』誌上で深海動物の性質について論争をして以来、ずっとわたしの個人的な敵であります』
議長『議長としては個人的問題に立ち入ることをさし控えなければなりません。どうぞつづけてください』
探検隊に同情する人々の強い反対の声にかき消されたせいもあって、イリングワース博士の発言はところどころしか聞きとれなかった。彼を力ずくで坐らせようとするものもあったほどである。しかしながら、雲つくような大男で、大きな声の持主でもある博士は、なんとか騒ぎをおししずめて最後まで話し終わった。彼が立ちあがった瞬間から、聴衆全体から見れば少数派ではあるにしても、かなりの味方や同調者がいることは明らかであった。多数派の聴衆の態度は、いわば中立の立場で成行きを見守るというところであった。
イリングワース博士はまずチャレンジャー、サマリー両教授の科学的業績を高く評価することからはじめた。それから、純粋に科学的真理の探求という欲求にもとづく自分の発言が、個人の偏見のあらわれと解釈されるのはまことに遺憾であると述べた。自分の立場は、この前の集会でサマリー教授がとったところと実質的に同じものである。あのときはチャレンジャー教授の発言に対して、サマリー教授が疑義をさしはさんだ。今教授はかつてのチャレンジャー教授とまったく同じ内容の発言をおこなっておきながら、それがなんの疑問も招かないことを期待するとしたら、はたしてこれを道理と言えるであろうか?(『賛成』『反対』という叫び声で、発言がかなり長い間中断される。その間議長に向かってイリングワース博士を外の通りにほうり出す許可を求めるチャレンジャー教授の声が、新聞記者席まで聞こえてきた)一年前ある一人の人物があることを語った。今は四人の人物がほかのよりいっそう驚くべきことを語っている。そのことだけで、この革命的とも言うべき信じがたい事柄が事実であるという決定的な証拠になるのだろうか? 旅行者が未知の世界から持ち帰った話を、いとも簡単に信じてしまう例が、最近まま見受けられるが、ロンドン動物学会もそのような態度をとろうとするのであろうか? 委員会のメンバーがそれぞれ立派な人格者であることは認めるが、人間性とは本来複雑なものである。たとえ教授たちといえども、名誉欲に駆られて道を誤るというのはありえないことではない。人間はみな蛾と同じようなもので、明りの中で飛びまわることに喜びを感じるのだ。狩猟家はライヴァルの手柄話に負けたくないし、新聞記者は、たとえ想像力によって事案を補わねばならないとしても、センセーショナルな特ダネに背を向けるようなことをしない。委員会のメンバーは、それぞれ自分のやったことをよく見せたいという動機を持っていた。(『恥を知れ、恥を!』)もちろんそれによって人を不愉快な気持にさせるつもりは毛頭なかったとしてもだ。(『不愉快なのはお前だぞ!』と野次がとび、話が中断する)この驚くべき報告には、確証というものがほとんどない。わずかに数枚の写真があるだけだ。しかし今日のように巧妙な細工がおこなわれる時代に、写真がはたして証拠物件としての価値を持ちうるだろうか? ほかには何がある? ロープを頼りに崖をくだって脱出したため、大きな動物の標本は持ち帰れなかったという話だ。なかなかよくできた話だが、人を納得させる力はない。ジョン・ロクストン卿はフォロラクスの首を持ち帰ったということだが、この目で見なければ信用できない、としか言いようがない……以上のような意味のことを、イリングワース博士は語ったのである。
ジョン・ロクストン卿『この男はわたしが嘘つきだと言うのか?』(会場騒然となる)
議長『静粛に! 静粛に! イリングワース博士、そろそろ結論をだして、修正案を提出していただきたい』
イリングワース博士『議長閣下、言いたいことはまだまだあるが、おおせに従いましょう。サマリー教授の興味深い報告には感謝の意を表するが、この問題は『いまだに立証されていない事柄』として、より大規模な、望むらくはより信頼のおける調査委員会にゆだねられるべきことを提案いたします』
この修正案によってひきおこされた混乱ぶりを、正確に伝えることは難しい。大勢の聴衆が、旅行家たちに加えられたこの侮辱に対して、『採択反対!』『修正案を撤回しろ!』『やつを叩きだせ!』などの反対の叫びで怒りを表明した。一方不平分子のほうも――これまたかなりの人数であったことは否定できない――『静粛!』『議長!』『フェアプレイでいけ!』などの叫びで修正案を支持した。会場のうしろのほうに詰めかけた医学生たちの間で、乱闘や殴り合いがはじまった。収拾不能の事態を救ったのは、多数の婦人客のおよぼす鎮静作用であった。それでも、突然騒ぎが一段落し、やがて会場は水を打ったようにしずまりかえった。チャレンジャー教授が立ちあがったのである。彼の風采と態度は奇妙に人を惹きつけるものがあり、片手をあげて静聴を求めると、全聴衆は期待の表情で耳をすました。
『わたしが演説をおこなったこの前の集会でも、これと同じように愚かしく不作法な光景がくりひろげられたことを、まだ記憶しておられる方もこの中には大勢いると思います。あのときはサマリー教授が反対の急先鋒であり、彼は今でこそ悔い改めてはいるが、それでもなおあの一件を完全に忘れてしまうことは不可能であります。今夕わたしはあのときと同様の、いなあれ以上に不愉快な言葉が、たった今着席された人物の口から吐かれるのを耳にしました。この人物と同じ知的水準まで降りてゆくためには、意識的にみずからの影を薄くするような努力が必要でありますが、それにもかかわらず、わたしはみなさんの心に存在するかもしれないもっともな疑いをしずめるために、あえてそうする覚悟であります』(笑い声でしばし中断)『お断りするまでもないと思うが、調査委員会の責任者として、報告をおこなったのはサマリー教授であるにしても、この探検の最初の提案者はかくいうわたしであり、探検の成功は主としてわたしの力に負うているのであります。わたしは三人の紳士をさきほど報告された場所まで無事に案内して、すでにお聞きの通り、わたしの発言の正しさを納得してもらったのです。われわれは、帰国したあかつきに、四人の一致した結論に反駁するような愚か者がいなければいいがと願っておりました。しかしながら、かつてのわたし自身の経験から、理性的な人間を納得させるような証拠を持たずに帰国することはできないと判断しました。サマリー教授の説明にもあった通り、われわれのカメラはキャンプを襲った猿人の手でこわされ、感光板も大部分だめになってしまったのであります』(うしろのほうから野次と嘲笑、それに『もっとましな言訳をしろ!』と声がかかった)『わたしは今猿人の話をしたが、たった今耳に入った叫び声を聞くと、この興味深い動物に出会ったときのことを思いださずにはいられません』(どっと笑い声)『貴重な感光板を多く破壊されたにもかかわらず、われわれの手もとには台地上の不思議な生存状況を示す証拠写真がまだかなりの枚数残っております。これらの写真も偽物だと非難されたのでしょうか?』(『その通りだ!』という声につづいて、数人の聴衆がホールの外につまみだされるまで、しばし中断)『感光板は専門家による厳密な検査を受けました。だがこのほかにどんな証拠があるか? 脱出の状況を考えれば、大きな荷物を運びだすことはもちろん不可能だが、サマリー教授の新種を多数含む蝶およびかぶと虫類のコレクションは無事救いだされました。これも証拠とはいえないのであろうか?』(各所で『そうとも!』という声)『今そうともと言ったのはだれかな?』
イリングワース博士(立ちあがって)『われわれの言いたいのは、そんなものは先史動物のいる台地以外の場所でも採集できるということです』
チャレンジャー教授『貴君の科学者としての権威に敬意を表するのにやぶさかではない。もっとも、貴君の名前はそれほど有名ではないようだが。よろしい、では写真と昆虫標本は素通りして、いまだかつて明らかにされたことのない、正確で風変わりな資料をお目にかけるとしよう。例えば翼手竜の習性だが――(『ばか言うな』という声につづいて場内騒然)――それに照明をあててみよう。わたしの紙ばさみに一枚の写真が入っている。生きた翼手竜を撮影したものだが、おそらくこれを見れば、貴君も――』
イリングワース博士『写真では納得できない』
チャレンジャー教授『では実物を見せろといわれるのか?』
イリングワース博士『その通りです』
チャレンジャー教授『実物を見せれば信用するといわれるのだな?』
イリングワース博士(笑って)『いうまでもありません』
この夜の大騒動がおこったのはこのときである――科学界の集会では古今未曾有の劇的な騒動であった。チャレンジャー教授が片手をあげて合図を送ると同時に、わが同僚のE・D・マローン記者が立ちあがって演壇裏に引っこむのが見えた。間もなく彼は大きな四角い箱を抱えた大男の黒人二人とともに戻ってきた。一見して相当の重さがあるらしいその箱は、ゆっくりと前に運びだされて、教授の椅子の前に置かれた。客席はしーんとしずまりかえり、だれもが演壇上の見世物に視線を注いでいた。チャレンジャー教授が引き蓋(ぶた)を横に引いた。箱の中をのぞいて指をパチンパチンと鳴らしながら、『出ておいで、いい子だから』とやさしく話しかける声が記者席まで聞こえてきた。すると、ガリガリッと箱をかきむしる音がして、見るからに恐ろしい醜悪な生物が現われ、箱のふちにとまった。このとき、議長のダーハム公爵がびっくりしてオーケストラ・ボックスに転げ落ちたが、この珍事でさえ茫然とした聴衆の注意をひきつけることはできなかった。その動物の顔は、中世の狂った建築家の空想から生まれた最も恐ろしい怪獣の水落し(ガーゴイル)に似ていた。まっ赤な小粒の目が石炭のおきのように輝く悪意にみちた顔、なかば開いたままの長い、獰猛(どうもう)なくちばしには、鮫(さめ)のように鋭い歯がずらりと並んでいる。肩のあたりは隆々と盛りあがり、色あせた灰色の肩かけのようなものがそのまわりにかぶさっている。子供のころ話に聞かされた悪魔の姿そのものだ。満場騒然となり、あるものは悲鳴を発し、前列にいた二人の婦人が気を失って倒れた。演壇の上でも議長のあとを追ってオーケストラ・ボックスにとびおりるものが続出した。一瞬会場の恐慌は収拾がつかなくなる恐れがあった。チャレンジャー教授は両手をあげて騒ぎをしずめようとしたが、この動作がかえってかたわらの恐ろしい動物を刺激してしまった。その奇妙な肩かけが突然さっと拡がり、革のような翼となってバタバタとはばたいた。教授が脚に抱きついたが手遅れだった。恐ろしい動物は止り木から飛びたって、全長十フィートの翼でパタパタと乾いた音をたてながら、クィーンズ・ホールの空間をゆっくりと飛びまわりはじめた。腐ったような悪臭が会場全体に充満した。天井桟敷の人々が、この光り輝く目と恐ろしいくちばしの接近に恐れをなして叫び声をあげたため、怪物は興奮してますますあばれまわった。しだいに速く飛ぶようになって、壁やシャンデリアに激突した。『窓を! 頼むから窓を閉めてくれ!』と、演壇の教授が、心配そうにもみ手をしてとびはねながら、大声でわめきたてた。しかし、この警告は手遅れだった! ガス燈のかさの中にまぎれこんだ巨大な蛾のように、はばたきをしながら壁にそって移動した怪物は、開いた窓を発見して大きな体でくぐり抜け、会場から姿を消した。チャレンジャー教授は両手に顔を埋めて椅子に倒れ、聴衆は椿事(ちんじ)が終わったことを知って深い安堵の溜息を洩らした。
やがて――ああ、それからおこったことをどう説明したらいいのか――多数派の熱狂と、それに対する少数派の反応が一つにとけ合い、ホールのうしろのほうから、しだいに人数を増しながら、オーケストラ・ボックスを一またぎにして演壇に殺到し、興奮の極に達して四人の英雄をかつぎだしたのである」(このあたりは上出来だぞ、マック)「それまで聴衆の態度にいたらない点があったとしても、彼らはそれを十分に埋め合わせた。総立ちになって、動き、叫び、身ぶりで意志表示をした。黒山のような人だかりが、四人の旅行家を拍手でとり囲んだ。『胴上げだ! 胴上げだ!』と、彼らは口々に叫んだ。四人はたちまち彼らの頭上にさしあげられた。逃げだそうとしても無駄で、四人は名誉ある高みに据えられてしまった。降りようとしても降りられないほど、人々はぎっしり詰めかけていたのである。『リージェント・ストリートヘ! リージェント・ストリートへ!』と叫び声がおこった。満員の聴衆の中で渦巻がおこり、四人を肩にかついだゆるやかな人の波が出口のほうへ進みはじめた。外でも驚くべき光景がくりひろげられた。十万人をくだらない大群衆が待ちうけていたのである。密集した人ごみはランガム・ホテルの向こうからオクスフォード・サーカスまでつづいていた。肩車にのった四人の冒険家がホール前の明るい街燈の光の中に姿を現わすと、いっせいに歓呼の声がおこった。『行進! 行進!』という叫び声。群衆は通りをはしからはしまで埋めつくして、リージェント・ストリート、ペル・メル、セント・ジェームズ・ストリート、そしてピカディリーを通る大行進を開始した。ロンドンの中心部は完全に交通が遮断され、行進者と警官やタクシー運転手の間で何度も衝突がくりかえされた。四人がオールバニーのジョン・ロクストン卿の家の前でようやく解放され、ふくれあがった群衆が、『愉快な仲間』を合唱したあと、国歌を歌って全プログラムをしめくくったとき、時間はすでに真夜中をまわっていた。かくてロンドンが絶えて久しくめぐり合うことのなかった記念すべき夜の幕が閉じられたのである」

以上がわが友マクドナの記事である。装飾過剰の気味はあるにせよ、非常に正確な報告と言っていいだろう。例の突発大事件について言うならば、聴衆にとっては驚くべきことだったかもしれないが、断わるまでもなく、われわれには少しも意外ではなかった。ジョン・ロクストン卿が、護身用のペチコートを頭からかぶって、チャレンジャー教授のために、彼のいわゆる『悪魔のひよっこ』をつかまえに行く途中、わたしとばったりでくわした場面を、読者は記憶しておられるだろう。また、わたしは台地から降りるとき教授の荷物で手を焼いたことも話したはずだし、もし帰り旅のことを詳しく書いたとしたら、この汚らしい道連れの旺盛な食欲をみたすために腐った魚を手に入れなければならなかった苦労話にも当然触れていたことだろう。わたしがそれについて多くを語らなかったのは、言うまでもなくチャレンジャー教授の強い希望によるものである。教授は論敵を決定的に打ち破る時がくるまで、反駁不能な証拠物件を持ち帰ったらしいなどと噂されることを望んでいなかったのだ。
ロンドン翼手竜の運命についても一言つけ加えておこう。といっても、確実なことは何一つない。それがクィーンズ・ホールの屋根に、悪魔の彫像のような姿で何時間もとまっていたと、おびえた二人の婦人が証言している。翌日の夕刊には、近衛歩兵連隊のマイルズという兵隊が、マールボロー・ハウスの前で警備中無断で持場をはなれたかどで軍法会議に付された。マイルズの陳述はこうである。ふと空を見あげたところ、目をよぎって悪魔が飛んでゆくのが見えたので、あわてて銃を捨ててペル・メルのほうへ逃げだしたと。もちろんこの申し開きは受けいれられなかったが、彼が問題の翼手竜を見たのだということは十分考えられる。このほかの証書としては、わたしの知るかぎり、オランダ=アメリカ航路の定期船『フリースランド号』の航海日誌に見いだされるだけである。この汽船が翌朝九時に、スタート岬を右舷後方十マイルに見ながら進んでいるとき、山羊とこうもりのあいのこのようなものが、西南の方角へ物すごいスピードで飛び去ってゆくのを見たというのである。もし翼手竜の帰巣本能が彼を正しい方向に導いたとしたら、ヨーロッパ最後の翼手竜はどこか大西洋の果てに旅の終点を発見したのに違いない。
そしてグラディスだが――ああ、わたしのグラディス!――あの神秘的なグラディス湖は、今や中央湖と改名されなければならない。なぜなら、わたしを通じて彼女の名を不滅にする必要はもはやないからだ。わたしは彼女の性格の中に非常な芯の強さを見ていたのではなかったか? 彼女の命令に従うことを誇りに思っていたころでさえ、これは恋する男を死の危険に追いやるかもしれない哀れむべき恋であると、薄々感じていたのではなかったか? わたしは、本心では、彼女の美しい顔の奥にある魂をのぞくとき、そこにはわがままと移り気の双生児のような影がぼんやり見えるという考えを、いつも完全には拭いされなかったのではないか? いったい彼女は人をあっといわせるような英雄的行為そのものを愛したのだろうか、それとも、自分にはなんら犠牲を強いることなく、それが自分に与えてくれる栄光だけがお目当てだったのか? あるいはまた、あれはあとからくっつけたただの理屈にすぎなかったのだろうか? いずれにしても、あれは生涯のショックであった。そのためわたしは一時シニックな人間になってしまった。しかしこれを書いている今は、すでに一週間という時がたち、わたしはジョン・ロクストン卿と重大な会見をした――もしかすると、事態はいよいよ悪化するかもしれないのだ。
簡単に話そう。サウサンプトンには手紙も電報も届いていなかった。その夜わたしは不安で熱病におかされたようになって、ストレータムのこぢんまりした別荘へ駆けつけた。いったいグラディスは生きているのか死んだのか? 両腕を拡げ、微笑を浮かべて、彼女の気まぐれを満足させるために命の危険までおかした男に賛辞を捧げるという夜ごとのあの夢は、いったいどこへ消えてしまったのか? わたしはすでに夢想の高みから引きずりおろされてしっかり地に足がついていた。しかし納得のゆく理由さえ説明されれば、わたしはふたたび雲の上へ舞いあがるかもしれない。わたしは夜の小径を駆け抜けて激しくドアを叩いた。中からグラディスの声が聞こえてきたので、驚く女中を押しのけて、居間にとびこんだ。彼女はピアノのそばのかさつきスタンドの下で長椅子に坐っていた。わたしはたった三歩で部屋を横切って、彼女の両手を握りしめた。
「グラディス! グラディス!」
彼女は驚いてわたしを見た。どこがどうとは言えないが、微妙な変化のあとが見られる。目の表情、下から見あげるようなきつい視線、きっと結んだ口もとなどは、わたしの知らないものだった。彼女は手を引っこめた。
「これはなんの意味ですの?」
「グラディス! いったいどうしたんです? あなたはぼくのグラディス――愛するグラディス・ハンガートンでしょう?」
「いいえ、わたしはグラディス・ポッツですわ。夫をご紹介させてくださいな」
人生とはなんとばかげたものであろうか! 気がついてみると、わたしはしょうが色の髪をした小男に向かって、無意識のうちにおじぎをしたり握手をかわしたりしていた。その男は、かつてはわたしの神聖な場所だった深い肘掛椅子にうずくまっていたのである。われわれはぴょこんと頭をさげ合って笑いを浮かべた。
「父が、新居の準備がととのうまで、ここに住んでもいいって言ってくれましたの」と、グラディスが言った。
「なるほど」
「すると、パラでわたしの手紙をごらんにならなかったんですの?」
「ええ、全然」
「まあ、お気の毒に! あれで何もかもおわかりになったんですのに」
「手紙を読まなくてもよくわかりましたよ」
「ウィリアムにはあなたのことをすっかりお話してあるんですよ。わたしたちの間には秘密なんてありませんわ。ほんとにお気の毒にね。でも、あなただってわたしを置き去りにして世界の果てまで行っておしまいになったぐらいですもの、それほどひどい打撃というわけでもないんでしょう? とにかく気を悪くしてはいらっしゃらないわね?」
「もちろんですとも。その点はご心配なく。そろそろおいとまします」
「何か飲物を召しあがっていってくださいよ」と小男は言い、なれなれしくつけ加えた。「こんなことはしょっちゅうですよ。一夫多妻制にでもなれば別でしょうがね、おわかりでしょう?」彼のばかのような笑い声を背後に聞きながら、わたしはドアに向かった。
ドアの外へ出たとき、突然ある気まぐれな衝動に駆られて、神経質に呼鈴のボタンを見つめている恋の勝利者のところへ引きかえした。
「一つだけ質問に答えていただけますか?」
「道理にかなったものならね」
「いったいどんな手を使ったんです? 埋れた宝を探しだすとか、極地を探検するとか、海賊に仲間入りするとか、海峡の上を飛ぶとか、いずれ何かはやったに違いありません。恋の魔術はどこにあったのです? どうやって手に入れたんですか?」
彼はみすぼらしい人のよさそうな間抜け面に当惑の表情を浮かべて、わたしのほうを見かえした。
「いささか立ち入ったご質問だとは思いませんか?」と、彼はたずねた。
「では、これだけで結構です。あなたはなんなのです? ご職業は?」
「法律事務所で書記をしております。チャンサリー・レーン四十一番地、ジョンソン&メリヴェールの次席ですよ」
「さようなら!」と答えて、わたしは夜闇の中に姿を消した。すべて失意の英雄がそうであるように、わたしの内部では悲しみと怒りと笑いが、まるで火にかけた鍋のように煮えくりかえった。
もう一つだけちょっとした出来事をつけ加えれば、わたしの文章はおしまいである。ゆうべわれわれ四人は、ジョン・ロクストン卿の部屋に集まって夕食をした。食後なごやかな雰囲気の中で一服しながら、過ぎ去った冒険の思い出話を楽しんだ。見なれた人々の顔や姿を、まったく違った環境の中で見るのは、なんとも妙な気分だった。押しつけがましい微笑を浮かべたチャレンジャー。その依沽地な目にたれさがった瞼(まぶた)、喧嘩腰のひげ、厚い胸をふくらませながら、サマリーに自然の法則を説いている。それからサマリー、お気に入りの短いブライヤーのパイプを、まばらな口ひげとごましおの山羊ひげの間にくわえ、くたびれた顔を熱心に突きだして、チャレンジャーの発言の一つ一つに疑問をぶっつけている。そして最後にわれわれの招待主だ。鷲(わし)のように鋭く彫りの深い顔、冷く澄んだ青い目、だがその底にはいつもいたずらっぽい輝きとユーモアをたたえている。以上がわたしの目にうつった三人の近影というところだ。食後ジョン・ロクストン卿は、例のバラ色に輝き、数多くのトロフィーを飾った私室で、われわれに話したいことがあるという。彼は前もって戸棚から出しておいた古い葉巻入れをテーブルの上に置いた。
「本来ならもっと前にお話しすべきだったかもしれませんが、実は自分の置かれた立場をもっとはっきり知っておきたかったのです。いたずらに希望を持たせて、あとでがっかりさせるのはよくないですからね。ところが今や希望ではなく、事実であることがはっきりした。翼手竜の群棲する沼地を発見した日のことをおぼえているでしょうな? あすこの地勢がわたしの興味をひいたのです。みなさんは気がつかなかったかもしれないから申しあげると、あの沼地は青い粘土のいっぱい詰まった噴火口でした」
二人の教授がうなずいた。
「さて、わたしの知るかぎり、世界中で青い粘土の詰まった噴火口がほかに一か所だけあります。それがキンバリーのデ・ビアーズというダイヤモンド鉱山なんですよ。だからわたしがダイヤモンドを連想したことは、容易に想像できるでしょう。そこであのいやらしい動物どもを近づけないような仕掛けを考えだして、小さなくわ(・・)を持って一日楽しく遊びましたよ。そのとき掘りだしたのがこれなんです」
葉巻入れの蓋をあけて傾けると、豆粒から栗の実ぐらいまでの大きさの原石が二、三十個、テーブルにこぼれ出た。
「なぜそのとき話さなかったのだとおっしゃるかもしれない。まったくその通りだが、用心しないとだまされると思ったのです。この石は色や硬さがはっきりするまでは、図体ばかり大きくても、無価値かもしれないとね。そんなわけで黙って持ち帰り、帰国第一日にスピンク宝石店へ持って行って、ざっと磨いたうえで値踏みしてくれと頼んでおいたのです」
彼はポケットから丸薬入れをとりだし、わたしなどお目にかかったこともないような、すばらしい輝きをはなつダイヤモンドを一個テーブルに転がした。
「これがその結果です。スピンクの話だと、これ一個で少なく見積って二十万ポンドの値打ちがあるそうです。もちろんこれは四人で公平に分配すべきものだ。それしか考えられません。さて、五万ポンドを何に使いますかな、チャレンジャー教授?」
「きみがどうしてもその寛大な分配方法を主張するつもりなら、長年の夢であったチャレンジャー博物館を創立したいね」
「サマリー教授は?」
「教職から退いて、白亜層の化石の最終分類に時間をふり向けたいものだ」
「わたしは装備のととのった探検隊を組織して、もう一度あのなつかしい台地を訪ねるつもりです」と、ジョン・ロクストン卿。「そしてきみの場合は、もちろん結婚費用にあてるんだろうね、マローン君」
「結婚なんてまだですよ」わたしは哀れな微笑とともに答えた。「もしよかったら、ぼくを一緒に連れていってくれませんか」
ロクストン卿は無言で、テーブルごしに陽やけした手をさしのべてよこした。 (完)
あとがき

本書はSir Arthur Conan Doyle : The Lost Worldの全訳です。
読者にはすでにおなじみのはずですが、作者コナン・ドイルは名探偵の代名詞にまでなったシャーロック・ホームズの生みの親としてあまりにも有名です。そのため彼の幅広い創作活動の全貌はともすれば見落されがちですが、一連のホームズ物のほかにも、『ザ・ホワイト・カンパニー』『ナイジェル卿』などの壮大な歴史小説、本書に登場したチャレンジャー教授を主人公とする一連の空想科学小説などにも筆をそめております。
というより、作者自身を英文学史上不朽の存在たらしめたシャーロック・ホームズに対してより、むしろ歴史書好きの故イギリス首相チャーチルなど一部の愛読者を除いてはあまりかえりみられなかった前記の歴史小説に対して、作家としてのより深い使命感や愛着を注いでいたと見られるふしがあります。
推理作家として有名なジョン・ディクスン・カーの手になるすぐれたコナン・ドイル伝の中には、「……この『ナイジェル卿』は、彼にとっては、単に新しい長編小説(・・・・・・・・・)という以上の大きな意味をもっていた。これこそ彼の本であり、彼の夢であった。彼をシャーロック・ホームズの創造者としてしか見ないバカげた考え方を粉砕し、正しく評価された作家としての自分の地位を確立しようとする彼の宣言であった……」(大久保康雄氏訳)という一節がありますが、これは、シャーロック・ホームズを舞台化して大当りをとった名優ウィリアム・ジレットをして、「親愛なる博士よ、なんという毛色の変った趣味をあなたはもっておられるのでしょう」と嘆かせながら、二度も議会選挙に立候補して落選したことなどと考え合わせて、ホームズ物の大成功を横目でみながら、現実の政治――政治(歴史)小説という方向に報いられぬ情熱を燃やしつづけたコナン・ドイルの面影をほうふつとさせる評言です。作中人物の盛名が作者の思惑を無視してひろまった例として、最近ではメグレ警視――ジョルジュ・シムノン(シムノンの場合もメグレ物より、本当は、バルザック風の人間劇が書きたいと言っている)の場合などもありますが、これなどはさしずめ物語作者の栄光――そして悲惨とでも言うべき現象なのかもしれません。
余談はさておき、チャレンジャー教授物に話を進めましょう。この教授の登場する作品は全部で五篇あります。うち長編が三つ(『失われた世界』、『毒ガス帯』The Poison Belt, 『霧の国』The Land of Mist )、短編が二つ(『分解機』The Disintegration Machine,『世界の終末』When the World Screamed )です。
わが国ではコナン・ドイルといえば百人中九十九人までシャーロック・ホームズを念頭に浮かべるでしょうが、本国ではホームズに劣らぬ人気者がこのチャレンジャー教授だということです。電話のベルに研究の邪魔されたといっては電話会社のマネージャーにどなりこんだり、理窟よりは実力行使と取材にきた新聞記者を玄関先きへ投げだしたりする容貌魁偉(ようぼうかいい)な動物学者、小柄でおとなしい奥さんには手も足も出ない恐妻家のくせに、科学的真理の追求のためにはヨーロッパ第一級の科学者をも頭ごなしにやっつけるだけの蛮勇を持った硬骨漢、失われた世界(・・・・・・)で類人猿に仲間扱いされてまんざらでもなさそうな顔をするお人好し……たしかに、快活で、あけっぴろげで、むやみに怒りっぽく、そしてなによりも正義漢というこの人物には、スタイリストのホームズとはまた違った意味の大きな魅力があるといえましょう。ドイル自身この人物には非常な愛情を抱いていたらしく、チャレンジャー教授に似たあごひげやゲジゲジ眉毛で扮装して大喜びすることがしばしばあったと伝えられます。
ホームズのモデルというか、下敷きになった実在の人に、若き日のコナン・ドイルが学んだエジンバラ大学医学部のジョゼフ・ベル教授がいたように、チャレンジャー教授の場合も、名前と科学者としてのイメージは、一八七二年十二月から一八七六年五月にかけてイギリス政府の後援のもとに木造巡洋艦『チャレンジャー号』で世界中の海洋生物の生態を研究してまわった動物学者チャールス・ワイヴィル・トムソン卿、風貌のほうはベル教授の同僚であったラザフォード教授を念頭において創造した人物のようです。
話が前後しましたが、『失われた世界』は一九一二年に出版されました。チャレンジャー教授の登場する最初の作品です。一九一二年といえば、同国人で、今日でいうSFの先覚者的存在であるH・G・ウェルズが『タイム・マシン』『透明人間』などの古典的名作を矢つぎばやに発表したのがほぼ前世紀末のことですから、コナン・ドイルがウェルズに刺戟されて『失われた世界』をはじめとする一連の作品を書いたと考えるのは必ずしも当たらないと思います。むしろホームズがあまりにも世人にもてはやされたことに対する一種の反動から、もともと医学生である彼の中にあった科学的興味と、イギリス人一般に顕著な冒険心とが結びついて、空想科学小説の方向へ駆りたてたと考えるのはうがちすぎでしょうか。ともあれ『SF入門』の著者福島正実氏が指摘するように、単なる夢物語でなく、科学的可能性をモチーフに独自の空想世界を創造している点、ウェルズと並んで当時の作品としては注目すべきことだと思います。科学的可能性という言葉が嘘でない証拠に、この作品が発表された翌年の一九一三年に、アマゾンの源流をきわめると同時に、失われた世界(・・・・・・)を、あるいはその科学的証跡を探究する目的で、ペンシルヴェニア大学所属のヨット『デラウェア号』がフィラデルフィアを出帆し、アマゾン河口に向ったというエピソードをつけ加えてあとがきを終わります。(訳者)

〔訳者略歴〕永井淳(ながいじゅん) 一九三五年生まれ。埼玉大学文理学部卒業。出版社勤務をへてフリーの翻訳家となる。訳書アーサー・ヘイリー「マネーチェンジャーズ」、ジェフリー・アーチャー「ケインとアベル」、ジョン・トーランド「アドルフ・ヒトラー」など多数。
失われた世界
コナン・ドイル作/永井淳訳

二〇〇三年七月二十五日 Ver1