毒ガス帯
コナン・ドイル作/永井淳訳
目 次
毒ガス帯
一 フラウンホーファー線のくもり
二 死の潮
三 毒の海に沈む
四 死にゆく者の手記
五 死せる世界
六 大いなる目ざめ
物質分解機
地球の叫び
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毒ガス帯
一 フラウンホーファー線のくもり
この途方もない大事件も、いずれ時がたてば細部の記憶が薄れてしまうにちがいないから、まだ印象のあざやかな今のうちに、正確に書きとめておかねばならない。だが、こうして筆を進めながらも、わたしは、この驚くべき体験をくぐり抜けたのが、『|失われた世界《ザ・ロスト・ワールド》』の四人のグループ――すなわちチャレンジャー教授、サマリー教授、ジョン・ロクストン卿、そしてわたし――であったという数奇なめぐり合わせに、ただただ感嘆するばかりである。
今から数年前、わたしが『デイリー・ガゼット』紙上に画期的な南アメリカ旅行の報告を載せた当時、やがてそれよりもさらに異常な個人的体験を語る運命にあるとは夢想だにしなかった。これは人類の歴史において前代|未聞《みもん》の体験であり、おそらくは歴史の数多い記録の中でも、はるかに見劣りのする低い山々に囲まれた偉大な山巓《さんてん》として、ひときわ目立った存在となるに違いない。事件そのものの異常さはいつまでも消えないだろうが、それにしてはこの驚くべき事件に際してわれわれ四人が同じ場所に居合わせた事情は、ごくあたりまえのものと言ってよかった。事件がおこる前のもろもろの出来事については、できるだけ簡単明瞭な説明にとどめるとしよう。もっとも世間の好奇心が今もなお強く尾を引いていることから判断するに、説明が詳しければ詳しいほど読者には歓迎されるということを、わたしも決して知らないわけではないのだが。
その日、八月二十七日金曜日――世界の歴史において永久に記憶されるべき日付である――、わたしは出社すると同時に、いまも社会部長の椅子《いす》にあるマッカードル氏をつかまえて、三日間の休暇を願い出た。するとこのスコットランド人は首を横にふり、残り少ないふわふわした赤毛をかきむしってから、あまり気乗りのしない口調で話しはじめた。
「いいかマローン君、実は近々きみにひと働きしてもらおうと思っていたところだ。きみでなければとうていこなしきれないような仕事がありそうなんでね」
「申しわけありません」私は落胆を隠そうとつとめながら答えた。「もちろんどうしてもとおっしゃるなら、この話は引っこめます。しかし大事な一身上の用件があるもんですから。もしできたら――」
「きみの都合はきいてやれんな」
癪《しゃく》にさわったが、あからさまにいやな顔はできなかった。結局、無理なのはわたしのほうだった。新聞記者に個人の計画をたてる権利はないということを、もうそろそろ悟ってもよいころだった。
「わかりました。休暇は諦めます」わたしは一瞬の間にできるだけ陽気な声に切りかえた。「で、ぼくに何をやらせようというんですか?」
「ロザーフィールドに住む例の勇ましい男と会って、談話をとってほしいんだよ」
「まさかチャレンジャー教授じゃないでしょうね?」と、わたしは叫んだ。
「ところがまさしくそうなんだ。やっこさん先週も『クーリア』紙の若いアレック・シンプソンを追っかけて、帽子をかぶる暇も与えず大通りを一マイルも走らせた。たぶんきみもそのことは警察《さつ》まわりの連中の記事で読んだろう。うちの社の連中だって、どっちみち動物園で放し飼いになっているアメリカワニをインタビューしに行くようなもんさ。だがきみなら大丈夫だろう――彼の旧友だからな」
「なあんだ」と、わたしは心底ほっとして答えた。「それなら簡単ですよ。ぼくが休暇を願い出たのは、ロザーフィールドのチャレンジャー教授を訪ねるためだったんですからね。実は三年前の『失われた世界』への冒険旅行の記念日がやってくるので、彼が当時の隊員全部を自宅に招いてお祝いをしようというわけなんです」
「そいつはありがたい!」と、マッカードルが両手をこすり合わせ、眼鏡の奥で顔をほころばせながら叫んだ。「きみなら彼の意見を聞きだせる。これがほかの人間だったらまともに相手にはしないところだが、あの男はかつて信じられないようなことを実証してみせたから、今度の話だってあるいは本当かもしれん!」
「彼からどんな話を引きだすんです?」わたしはたずねた。「彼はこのところ何をしているんですか?」
「今日の『タイムズ』に載った『科学的可能性』と題する彼の公開状を読まなかったのかね?」
「読んでません」
マッカードルはひょいと身をかがめて、床から『タイムズ』を一部取りあげた。
「こいつを大きな声で読んでみたまえ」と、ある囲みを指さし、「もう一度聞いてみたいんだ。あの男の言っていることがはっきりのみこめたかどうか、自分でもちょっと自信が持てないんでね」
つぎにかかげるのは、わたしが『ガゼット』の社会部長に読んでやった手紙である。
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科学的可能
拝啓――先般貴紙に掲載された、惑星および恒星のスペクトル中のフラウンホーファー線のくもりに関する、ジェームズ・ウィルソン・マクフェイルの独断にみちた愚かな手紙を、いささか賞賛の念をまじえて興味深く拝読しました。彼はこの現象を、まったく重視する必要のないものとしてかたづけております。しかしながら、よりすぐれた頭脳の持ち主には、それが非常な重要性――地球上の全人類の安全をおびやかすほどの重要性をはらむものと見えるかもしれません。科学の専門用語を用いては、新聞記事から自分の考えを借りている無力な人々に、わたしの趣意を理解してもらうことが期待できないので、彼らの知能の限界まで程度をおとして、貴紙の読者にも理解できる一般的な類推を用いながら、状況を説明したいと思います。
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「まったく驚いた男だ!」と、マッカードルが感にたえたように首をふった。「彼にかかっては、どんなおとなしい連中でも腹に据《す》えかねて騒ぎだす。あれじゃロンドンに居づらくなったのも無理はない。あれほど偉大な頭脳の持ち主としては、まったく残念なことだよ、マローン君! じゃ、その類推とやらを聞かせてくれ」
わたしは先をつづけた。
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大西洋を旅するゆるやかな海流に、紐《ひも》でつないだコルクの群を浮かべたと仮定していただきたい。コルクはくる日もくる日も同一条件下で、ゆっくり洋上を漂います。もしコルクに知覚があれば、これらの条件は永久不変であると考えるかもしれません。しかしながら、最高の知識の持ち主であるわれわれ人間は、コルクを驚かすような多くの現象がおこりうることを知っております。彼らは船や、眠っているクジラにぶつかるかもしれないし、あるいは海草にからまるかもしれない。そしていずれにせよ、彼らの長い旅はラブラドル半島の荒磯《あらいそ》に打ちあげられて終わるかもしれないのです。しかし、彼らが同質無限と信じこんでいる大洋をひねもす漂流している間は、そうした事実をいかにして知りうるでしょうか?
おそらく貴紙の読者は、この比喩において、大西洋がわれわれをとりまく広大なエーテルの海を意味し、コルクの群がわれわれの属する微少な目だたない惑星系を意味することを理解するでありましょう。とるに足らないくずのような衛星を抱えた三流の星として、地球は日々同一の条件のもとに、宇宙の極限でわれわれを襲うかもしれないある未知の目的地または悲惨な破局に向かって漂流しているのです。そこではエーテルのナイアガラ滝、あるいは想像もつかないラブラドル半島がわれわれを待ちうけているかもしれません。紙数に限りがあるため、貴紙のジェームズ・ウィルソン・マクフェイル記者の浅薄で無知な楽天主義に触れる余裕はないが、われわれの究極の運命を左右するこうした宇宙環境の変化のあらゆる徴候を、周到に観察すべき根拠は十分にあります。
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「この男は坊さんになったら成功していたな」と、マッカードル。「この説教調は教会のオルガンにもひけをとらないぐらいだ。では目下彼の不安をかきたてていることを拝聴しよう」
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スペクトル中のフラウンホーファー線が全般的にぼやけたり移動したりする現象は、わたしの意見では、宇宙において、あまり目だたないが異常な変化が、きわめて広汎《こうはん》におこっていることを示しております。惑星の光は太陽光の反射したものだが、恒星の光はそれ自体から発するものであります。ところが、現在惑星恒星いずれから発するベクトルも、ある種の変化の影響を受けている。とすれば、これは惑星あるいは恒星自体の変化と考えるべきであろうか? わたしに言わせればこれはありえないことであります。惑星恒星に共通するいかなる変化が同時におこりうるであろうか? それは地球をとりまく大気圏におこった変化ではないのか? それはありえないことではないにしても、可能性はきわめて低いと言わねばなりません。なぜならわれわれの周囲にはその変化を示すいかなる徴候もないし、化学的な分析の結果も否定的であります。とすれば、第三の可能性は何か? それは輻射媒体《ふくしゃばいたい》、すなわち星と星との間に拡がって全宇宙に充満する微細なエーテルの変化かもしれません。この大洋を、われわれはゆるやかな海流にのって漂っているのです。この海流が、まったく新しい、想像もつかない性質を持ったエーテル帯の中へ、われわれを導いてゆくことは考えられないであろうか? どこかで変化がおこったことは、スペクトルの乱れによって立証されております。それは望ましい変化かもしれないし、逆に悪い変化かもしれない。あるいはまったく影響のない変化か、そこはまだわかりません。浅薄な観察者はこれを重視する必要のないものとしてかたづけるかもしれないが、わたしのように真の哲人たるにふさわしい深い知性を身につけた者ならば、宇宙の可能性は測りがたいこと、賢者とは予測不可能なことに対して備えを怠らない人間であるということを理解するでありましょう。ごく明らかな一例をあげるならば、現にスマトラの土着民の間で正体不明の疫病が多発していることを、ほかならぬ今朝貴紙が報じているが、これは彼らが宇宙の変化に対して、より複雑なヨーロッパ人種よりも敏感に反応した結果でないと、だれに断言できるでしょうか? わたしは事実をありのままにさらけだしている。現在の段階では、それを強調しすぎるのもあっさり否定してしまうのも好ましくない。というものの、それが科学的可能性の範囲内にあることを理解しないのは、想像力に欠ける愚かな人間だけであります。
敬具
ジョージ・エドワード・チャレンジャー
ザ・ブライヤーズ、ロザーフィールド
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「実に面白い手紙だ」マッカードルが、いつもパイプがわりに使っている長いガラス管に紙巻き煙草を詰めながら、考えこむようにして言った。「きみはどう思うね、マローン?」
お恥ずかしい話だが、正直なところわたしはこの問題に関してまったく無知だった。例えば、フラウンホーファー線とはいったいどういうものなのか? マッカードルは社のお抱え科学者に教わりながらこの問題を勉強していたところらしく、机の中から、若い野心的なクリケット・クラブの帽子のリボンを思わせる多色のスペクトル縞《じま》を二枚とりだした。そして赤からはじまって順に橙《だいだい》、黄、緑、青、藍《あい》と移動し、紫《むらさき》で終わる鮮やかな色彩の上に直角に交差する黒い線を指で示した。
「この黒い縞模様がフラウンホーファー線と呼ばれるものだ」と、彼は説明した。「それから七種の色は光そのものだ。どんな光でもプリズムで分解するとこれと同じ色を現わす。それはそれでどうということはないが、問題なのはこの黒い線だ。なぜならそれらは光を発する物体によってさまざまなちがいがあるからだ。先週来もともと鮮明であるべきこれらの線がぼやけはじめ、その原因について多くの天文学者が議論をたたかわせている。こっちはぼやけた線を撮った写真で、あすうちの新聞に載る予定になっている。世間はこれまでのところこの問題になんの関心も示していないが、『タイムズ』に載ったチャレンジャー教授の公開状を読めば、おそらく目がさめるだろう」
「で、このスマトラの疫病うんぬんというのは?」
「まあスペクトルのぼやけた線をスマトラの病める現地民に結びつけるのは飛躍がすぎるかもしれん。しかしあの男の言いだす突拍子《とっぴょうし》もないことが、実はほんとだったという例が前にもあるからな。とにかくスマトラで妙な病気がはびこっていることは疑問の余地がないし、きょうもシンガポールから、スーダン海峡の燈台が故障して、付近の二|隻《せき》の船が座礁したという電報が入っている。これについてもチャレンジャー教授に意見を聞いてみるだけのことはあるよ。もしはっきりした答が聞きだせたら、月曜日までに原稿を送ってくれ」
新しい任務のことを考えながら部長室から出てくると、廊下の待合室からわたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。電報配達の少年が、ストレータムの下宿から配送された電報を持ってきたのである。発信人は今しがた話題にのぼっていた人物で、つぎのような文面だった。
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ストレータム、ヒル・ストリート十七、マローン――酸素を持参せよ――チャレンジャー
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「酸素を持ってこいだって!」わたしの知っているチャレンジャーは、きわめて不器用な垢抜《あかぬ》けない悪ふざけも平気でやれる、およそ野暮《やぼ》なユーモアの感覚の持ち主である。これも周囲の人間のまじめな顔つきなどいさいかまわず、大口あいてひげをふるわせながら、目を細めて笑いころげるいつもの冗談の一つなのだろうか? 電文をもう一度読みかえしてみたが、ふざけているような感じはみじんもなかった。とすると、これはきわめて簡潔な命令なのだ――実に奇妙な命令ではあるが。彼が本気で発した命令ならば、少なくともわたしは絶対に無視する気はない。たぶんなにかの化学実験が計画されているのかもしれなかった。おそらく――いや、彼がなぜ酸素を持ってこさせようとしたか憶測するのは、わたしの仕事ではない。わたしは言われた通りにすればよいのだ。ヴィクトリア駅で汽車に乗るまで一時間近く時間があった。わたしはタクシーをつかまえて、電話帳で前もって調べておいたオックスフォード・ストリートの酸素ボンベ供給会社に向かった。
目ざす店の前の歩道に降り立ったとき、二人の青年が鉄のボンベを中から運びだして、苦労しながら待たせてある車に積みこむのが見えた。一人の老人が彼らのうしろに立って、皮肉たっぷりなしゃがれ声で叱言《こごと》を言ったり指図《さしず》したりしている。老人はわたしのほうを向いた。きびしい顔だちと山羊《やぎ》ひげはどう見てもまちがえようがない。わたしの旧友である気むずかし屋のサマリー教授にちがいなかった。
「なってこった!」と、彼は叫んだ。「まさか|きみも《ヽヽヽ》酸素を持参せよというあのばかげた電報を受けとったわけじゃあるまいな」
わたしは黙って電報を示した。
「いやはや! 実はわしも同じ電報を受けとって、ごらんの通りいやいやでかけてきたところだ。あいかわらず我慢のならない男だよ。いつもの供給手段をやめて、彼自身よりも忙しい人間の手をわずらわせねばならないほど、急に酸素が欠乏するということは考えられんのだがね。自分で直接注文すればよさそうなもんだ」
わたしとしては、たぶん今すぐに必要なのだろうとしか答えようがなかった。
「あるいは単に彼がそう思いこんでいるだけで、実際は必要がないのかもしれん。とにかくわしがこれだけの量を買いこんだ以上、きみがさらに買うのは無駄というもんだよ」
「しかし、理由はわからないが、やっぱりわたしも自分の分を持ってゆく必要がありそうです。言われた通りにするほうが無難ですからね」
こうして、サマリーにはさんざん反対されたにもかかわらず、わたしも酸素ボンベを一本注文して、ヴィクトリア駅まで乗せて行ってくれるという彼の車に積みこんだ。
わたしがふり向いて自分の乗ってきたタクシーに料金を払おうとすると、運転手は料金のことで非常に不服そうな口ぶりだった。サマリー教授のところへ戻ってみると、彼は酸素ボンベを運んできた男たちを相手に、白い山羊《やぎ》ひげを怒りでふるわせながら激しく応酬《おうしゅう》し合っていた。一人が教授をつかまえて「おいぼれオウム」と罵《ののし》ったので、彼の運転手が腹を立てて、主人に味方するため運転席からとびだした。われわれはやっとのことで路上でのつかみ合いを防ぎとめることができた。
これらは事あらためて述べる必要もない些細《ささい》なことに思われるかもしれないし、事実そのときは深い意味のない事件としてかたづけた。しかし、今になって思いかえしてみると、わたしがこれから述べようとしている物語に深い関係のあったことがわかるのである。
運転手が新米なのかそれともこの騒ぎで平静を失っていたのか、駅までの運転ぶりがひどく頼りなかった。途中二度までも、同じように危なっかしい走り方の車と、もう少しで衝突しそうになったほどである。わたしはサマリーに向かって、ロンドンの運転技術もひどく程度が落ちたものだと話しかけたことをおぼえている。一度などメルの角でけんかを眺めている野次馬の群に突っこみそうにさえなった。いきりたった野次馬は、下手《へた》くそな運転を大声でなじり、ステップにとび乗ってわれわれの頭上でステッキをふりまわす者まで出る始末だった。わたしがその男を押しのけたが、それにしても群衆をふりきって公園から逃げだしたときは、ほっと安堵《あんど》の胸をなでおろしたものである。いくら些細な出来事でも、こうもたてつづけにおこると、妙に落ちつかない気分だったし、連れの不機嫌な表情からも、彼の忍耐が限界に達していることが読みとれた。
しかし、痩せた長身を黄色いツイードの狩猟服につつんで、プラットホームでわれわれを待っているジョン・ロクストン卿の姿を見たとたんに、上機嫌が戻ってきた。彼の精悍《せいかん》な顔、そして鋭さは抜群だが人間味のあふれたなつかしい目は、われわれの姿を見て喜びに輝いた。赤毛にはちらほら白いものがまじり、額《ひたい》の皺《しわ》は時間の|のみ《ヽヽ》にけずられて幾分深さを増していたが、ほかの点では昔仲間のジョン卿そのままだった。
「今日は、教授! しばらくだったな、マローン君!」と叫びながら、われわれのほうに近づいてきた。
彼はわれわれのうしろの手押車に積まれた酸素ボンベを見つけて、さも愉快そうに笑いだした。
「やっぱりですか! ぼくのは貨車に積んでありますよ。おやじはいったい何を考えているんですかね?」
「『タイムズ』に載った彼の公開状を読みましたか?」とわたしがたずねた。
「さあ、読んでないけど」
「実にばかげた手紙だ!」と、サマリーが吐きすてるように言った。
「とにかく、酸素の件はそれと関係があるらしい」と、わたしは言った。
「実にばかげた手紙だ!」と、サマリーが必要以上に激しい口調でくりかえした。
われわれは揃って一等車の喫煙室に入った。サマリーはすでに短い、黒こげになった古いブライヤーのパイプに火をつけていた。それは彼の長い攻撃的な鼻を焦がしそうだった。
「チャレンジャー君は頭のよい男だ」と、彼は熱っぽく言った。「それは何人《なんびと》も否定できない。否定するやつはばか者だ。彼の帽子を見たまえ。あの中には六十オンスの脳味噌《のうみそ》がつまっている――故障もせず、すばらしい性能を発揮する大型エンジンだ。わしは機関室を見ただけでエンジンの大きさがすぐわかる。だがしかし、彼は生まれつきの大ぼら吹きだ。わしが彼に面と向かってそう言うのをきみたちも聞いたはずだが、世の脚光を浴びるために芝居がかった策を弄する生まれつきの大ぼら吹きなのだ。世の中が静かになると、チャレンジャー君はなんとかして世間に自分の噂《うわさ》をさせようとする。エーテル帯の変化だとか人類の危機だとかいうたわごとを、まさか彼自身本気で信じているとはきみたちも思わないだろうね? だいたいこんな途方もない作り話が今までにあったかね?」
彼は老いたる白い大鴉《おおがらす》といった趣きで、皮肉たっぷりな笑いで体を揺すりながらわめきつづけた。
サマリーの話を聞いているうちに、わたしはむらむらっと腹が立ってきた。われわれが得た名声の源であると同時に、前例のない貴重な体験の機会をわれわれに与えてくれた指導者に向かって、このような口をきくのは、大いに恥ずべきことであった。わたしが口を開いて強く反論しようとすると、一瞬早くジョン卿が辛辣な口ぶりで言った。
「あなたは前にも一度チャレンジャー教授とやり合いましたね。ところがあなたは十秒とたたないうちに降参してしまった。ぼくから見ると、やっぱり彼はあなたなどと役者がちがうようですよ。一歩さがって、あまりお節介《せっかい》などやかないほうが賢明じゃないんですかね」
「そのうえ」とわたしが加勢する。「彼はわれわれ全員にとってすばらしい友人でした。かりにどんなあやまちをおかしたにしろ、彼は竹を割ったようにさっぱりした性格で、まちがっても陰にまわって友人を悪く言うような人じゃありませんよ」
「よく言ってくれた、マローン君」と、ジョン・ロクストン卿が言った。それから、彼は親しみのこもった微笑を浮かべて、サマリー教授の肩をぽんと叩いた。「さあさあ、教授、おたがいに言い争ってもつまらんですよ。一緒に多くのことを見てきた仲じゃないですか。とにかくチャレンジャーのそばに近づいたら彼の悪口は言わぬことです。マローン君もぼくも、あのじいさんのこととなるとすぐかっとする癖がありますからね」
しかしサマリーは全然折れる気配がなかった。顔は不服そうにゆがみ、パイプから立ちのぼる煙まで腹を立ててもうもうと渦《うず》をまいた。
「いいかね、ジョン・ロクストン卿」と、彼は金切声をあげた。「科学の事柄に関するきみの意見は、わしの目から見れば、新型の散弾銃に関するわしの意見がきみにはなんの値打ちもないのと同様、まったく取るに足らんものだ。わしにはわし自身の判断というものがあり、それをわしの流儀で利用する。かつてわしの判断がまちがっていたからといって、あの男の言うことならどんなでたらめでもすべて批評せずに受けいれなければならんということはないと思うがね。それともなにかね、われわれに科学界の法王を押しつけようというのか? 権威をもってくだされたその布告は絶対|無謬《むびゅう》であるから、卑しい大衆は疑問を持たずに受けいれろというのかね? 断っとくがわしにはわしの頭脳がある、それが使えないのなら学者を廃業して奴隷にでもなるほうがましだ。きみたちがエーテルだとかスペクトルのフラウンホーファー線だとかいうたわごとを信じるのは勝手だが、きみたちより年をとった賢い人間までその気ちがい沙汰の仲間に引きずりこもうとするのはやめてくれたまえ。かりにエーテル帯が彼の言うほど影響を受けており、それが人体に有害だとしたら、すでにわれわれの上にもその影響が現れてよいはずだと思わんかね?」ここで彼は、自分の意見に酔って声高に笑った。「そうだとも、われわれはとっくに異常をきたして、列車の中で静かに科学的な問題を論じ合うかわりに、体内で作用する毒の徴候を具体的に現しているはずだよ。有害な宇宙の秩序の乱れはいったいどこに現れているかね? 答えられるものなら答えたまえ! さあ、ごまかしてもだめだ! はっきり答えてもらおう!」
わたしはますます腹が立ってきた。サマリーの態度には、ひどくかんにさわる攻撃的な何かがあった。
「あなたももっとよく事実を知れば、これほど自信たっぷりな口のきき方はしなくなるでしょう」と、わたしは言った。
サマリーはパイプを口からはなして、石のように冷やかな目でわたしをにらみすえた。
「その無礼な発言は、いったいぜんたいどういう意味かね?」
「ぼくが社を出るとき、うちの部長は、スマトラの原住民の間で病気がひろまっていることと、スーダン海峡の燈台が故障したことを確認する電報がとどいたと話していました。ぼくはそのことが言いたかったんです」
「まったく、人間の愚かさにはきりがない!」と、サマリーが当たり散らした。「かりに一瞬でもチャレンジャーのばかげた仮定を採用するとして、だいたいエーテルというものは、ここでも地球の反対側でもまったく同質だということが、きみたちにはわかっていないのかね? イギリス・エーテルだとかスマトラ・エーテルなどというものが存在するとでも思っているのか? おそらく今この列車がわれわれを乗せて走っているサリーのエーテルのほうが、ケントのエーテルよりも上質だぐらいに考えているのかもしれん。まったく素人《しろうと》の無批判と無知には限度というものがないから困る。スマトラのエーテルが完全な麻痺状態を惹きおこすほど有害なのに、ここのエーテルがわれわれになんの影響も及ぼさないなどということが果たして考えられるだろうか? わし個人は、これまでなかったほど気力にあふれ、精神も安定していることを保証してもよい」
「あるいはそうかもしれません。ぼくは自分が科学者だなどとは思っていませんが、ただどこかでこんな言葉を聞いたことがあります。ある時代に科学と呼ばれるものが、つぎの時代には誤謬《ごびゅう》であることが多い、とね。しかし、もともとわれわれはエーテルについてそれほど多くを知っているわけではないから、それが地球上のさまざまな地域で局地的な影響を受けても、その効果はある程度時間がたたなければわれわれのもとまで及ばないかもしれないということは、わずかばかりの常識があれば見当がつくのではないでしょうか」
「『かもしれない』とか『ではないだろうか』を濫用すれば、どんなことだって証明できる」サマリーが猛然と反撃した。「豚だって空を飛べる|かもしれん《ヽヽヽヽヽ》。そうとも、豚は空を飛ぶかもしれん――が実際はありえないことだ。きみたちと議論しても無意味だな。チャレンジャーがきみたちの頭にばかげた考えを詰めこんでしまったもんだから、二人とも理性が働かなくなっておる。むしろ列車のシートと議論するほうがましなくらいだ」
「サマリー教授、あなたの態度はこの前お目にかかったときからいっこうに向上のあとが見えませんな」と、ジョン卿が辛辣にきめつける。
「きみたちへぼ貴族は、真実に耳をかすことに慣れておらんようだ」と、サマリーも皮肉な笑いを浮かべながらやりかえす。「たいそうな肩書を持っていても、あいかわらず中身は無知な人間にすぎないことをだれかに思い知らされると、きみたちとしてはいささかショックを感じるのではないかな?」
「誓って言いますが」と、ジョン卿がきっとなって答える。「あなたがもう少し若かったら、ぼくに面と向かってそういう侮辱は口にさせませんよ」
サマリーは貧弱な山羊ひげをぶるぶるふるわせながら、ぐいとあごを突きだした。
「これだけはきみに知っておいてもらいたい。若かろうと年寄りであろうと、わしは生まれてこのかた、無知な気どり屋に向かって、自分の本心を打ち明けるのが恐ろしいと思ったことは一度もなかった――さよう、きみにも奴隷や愚か者が勝手に発明して自称するのと同じぐらい多くの肩書があるとすれわば、無知な気どり屋というのもまさにその一つだろう」
一瞬ジョン卿の目は怒りで燃えあがったが、やがて、懸命にその怒りを押さえつけ腕を組み、苦笑を浮かべながら座席にもたれかかった。わたしはその場の成り行きが恐ろしく、嘆かわしかった。過去の思い出が波のように押し寄せてきた。すばらしい同志の交わり、幸福な冒険の日々――われわれが共に苦しみ、努力し、そして手に入れたもの。それがこんな結果になって、悪口雑言の応酬にわれを忘れるとは! 突然わたしは泣き出した――人前をはばかろうともせず、声をあげて泣きだしたのである。連れの二人は驚いてわたしのほうを見た。わたしは両手で顔を覆った。
「なんでもないんです」と、わたしは言った。「ただ――ひどく悲しくなったんです!」
「きみは病気なんだよ、マローン。泣いたりするのはそのせいだ」と、ジョン卿が言った。「最初からどうも妙だと思っていたんだよ」
「きみの悪習はこの三年間に少しも改まっておらんようだな」と、サマリーが首をふりながら言った。「わしも顔を合わせた瞬間から妙なそぶりに気がついておった。同情の無駄づかいはよしたまえ、ジョン卿。マローン君の涙は純粋にアルコールのせいなのだ。彼はわれわれと会う前に酒を飲んでいたらしい。ついでに言えば、わしはつい今しがたきみを気どり屋と呼んだが、これは不当にきびしすぎる評言だったかもしれん。しかしその言葉から、かつてわしが身につけていたささやかだが愉快な芸当を思い出した。きみはわしの厳格な科学者としての一面しか知らない。昔このわしがほうぼうの託児所で、家畜の物真似《ものまね》の名人としてもてはやされていたことを想像できるかね? たぶん今もきみを楽しませることができるかもしれない。にわとりの鳴き声などはどうかね?」
「いや結構です」と、ジョン卿が答えた。依然としてひどく気分を害しているらしい。「別に聞きたくありません」
「卵をうんだばかりのめんどりの鳴き声も、水準以上という評判をとっておった。ひとつやってみるかね?」
「いや――ごめんこうむります」
ところが、この強い辞退にもかかわらず、サマリー教授はパイプを口からはなして、つぎつぎに鳥や家畜の鳴き声を真似しては、目的地へ着くまでわれわれを楽しませてくれた――というより、楽しませそこなったというほうが適当かもしれない。それがあまりに滑稽《こっけい》なので、わたしの涙は急に騒々しい笑いに変わった。この謹厳な教授と向かい合わせにすわって、やかましいおんどりや、しっぽを踏まれた仔犬《こいぬ》の鳴き声を真似るのを見ているうちに――というより聞いているうちに――わたしの笑い声はさぞやヒステリックになっていたにちがいない。途中でジョン卿が自分の新聞をさしだしたが、その余白には鉛筆で、「かわいそうな男! 完全に狂っている」と書かれていた。教授の態度は疑いもなく常軌を逸していたが、それでいてわたしには、彼の芸当が非常に器用な楽しいものに感じられた。
物真似が続いている間に、ジョン卿は身を乗りだして、野牛やインドの土侯《ラージャ》のことをくどくどと話し始めたが、わたしに言わせればそれは初めも終わりもはっきりしない妙ちきりんな話ぶりだった。サマリー教授がカナリアの物真似をはじめ、ジョン卿の話がクライマックスにさしかかるころ、列車はロザーフィールドの下車駅に指定されたジャーヴィス・ブルックに到着した。
駅にはチャレンジャーが出迎えにきていた。彼の態度はこのうえなく堂々としていた。ゆっくりと気どった足どりで、威厳をたたえながら駅のホームを闊歩し、へりくだった穏やかな微笑を浮かべながら周囲の人々を見まわす彼には、おそらくどんな気どり屋のおすの七面鳥も歯が立たなかったろう。以前のチャレンジャーと多少とも変わったところがあるとすれば、もともとそなわっている特徴がいっそう目立つようになったことがそれだった。黒い髪のぴったりはりついた巨大な頭と広い額は、昔よりもいっそう大きくなったようだ。黒いひげはよりふさふさと印象的にたれさがり、澄んだ灰色の目と、尊大で皮肉なまぶたは、いよいよ威圧的な感じを増していた。
彼は校長先生が生徒に向かってするように、楽しそうに握手をかわし、やさしい微笑を浮かべた。それから、ほかの二人ともあいさつをかわして旅行鞄や酸素ボンベの積込みを手伝い、最後にわれわれを大型自動車に押しこんだ。車を運転するのは、わたしがはじめて教授を訪問した波乱に富んだ日に、玄関に出迎えたあの無口なオースチンだった。車は美しい田園風景を縫いながら、曲がりくねった丘の道をのぼりつづけた。わたしはオースチンと並んで助手席にすわったのだが、うしろの三人は相手かまわずそれぞれ勝手にしゃべっているような感じだった。ジョン卿は依然として野牛の話をやめる気配がなさそうだし、一方チャレンジャーの昔と変わらぬのぶとい声と、サマリーの耳ざわりな声は、高尚な科学的激論をたたかわせている。突然オースチンがハンドルに目を向けたまま、木像のような顔をわたしのほうに傾けた。
「わたしはお暇を出されました」と、彼は言った。
「なんだって!」
今日は何もかもおかしなことだらけだ。だれもが予期しなかった奇妙なことばかり言いだす。まるで夢でも見ているような気分だった。
「これで四十七回目ですよ」と、オースチンが感慨深げに言った。
「いつやめるんだ?」と、わたしはたずねた。ほかに適当な言葉が浮かんでこなかったのだ。
「いや、やめはいたしません」と、オースチン。
それでこの話は終わったかに見えたが、間もなく彼がふたたびむしかえした。
「わたしがやめたらだれがあの方のお世話をしますか?」と、彼は主人のほうに首をのばした。「わたしの代わりが見つかると思いますか?」
「だれかいるだろう」と、わたしはあいまいに答えた。
「おりません。わたし以外の人間では一週間とつとまらないでしょう。わたしがやめれば、あの家はゼンマイの切れた時計のようにがたがたになってしまいます。あなたさまがあの方のお友だちだからお話するのです。もしわたしがあの方の言葉をまともに受けとったとしたら――いや、とてもそんなことはできません。あの方と奥さまでは、それこそ赤ん坊二人を置き去りにするようなものです。わたしがいなければ手も足も出ません。それでいて、あの方はわたしに暇を出すとおっしゃるんですよ」
「なぜほかの人間ではつとまらないのかね?」と、わたしはたずねた。
「そりゃ、ほかの人間はわたしのように我慢強くないからですよ。チャレンジャーさまは頭のよい方です――あんまり頭がよすぎて、時には気が変なのじゃないかと思うほどです。実際、わたしなどには解《げ》せないこともしょっちゅうですからね。例えばけさなども――」
「何をしたんだ?」
オースチンはわたしのほうに身を乗りだして、しゃがれ声でささやいた。
「家政婦に噛みついたのです」
「噛みついた?」
「ええ。脚に噛みついたんですよ。彼女がマラソン走者のように玄関からとびだしてゆくのをわたしはこの目で見たのです」
「いやはや!」
「あの方の日頃のふるまいをごらんになれば、あなたさまもそうお思いになるはずです。近所づきあいは全然なさいません。いつかあなたさまがお書きになった例の『失われた世界』の怪物どもの記事を読んで、チャレンジャーのやつ、あのときは『楽しきわが家』にいるように居心地がよかったろう、などと思っている連中も近所にはおりますよ。現に連中はそう噂しているのです。ですがわたしは十年間おそばに仕えて、あの方がたいそう好きなのです。実際偉い方ですよ。なんだかんだ申しても、やはりあの方のおそばに仕えるのはこのうえない名誉だと思っております。それにしても人を怒らせるようなことを時おり平気でなさる。例えばあれですがね。あんなのは訪問者に対する昔ながらの歓待と言えるもんでしょうか? どうぞご自分でお読みになってください」
車は極端にスピードをおとして、カーヴした急な登りにさしかかったところだった。曲がり角のこぎれいに刈りこんだ生垣の上から、注意書きの立看板がのぞいている。字数も少なく、人目をひくように書かれているので、オースチンの言うように、車の中からでもさほど苦労せずに読むことができた。
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警告
来客、新聞記者、物乞い、いっさいお断り。
G・E・チャレンジャー
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「あれはどう考えても親切とは申せません」オースチンは首をふりながらこの嘆かわしい看板に視線を走らせた。
「クリスマス・カード向きの文句とは申せませんよ。わたしがこんなによくしゃべったのはもう何年も前からなかったことですが、きょうというきょうは肚《はら》にあることをすっかりぶちまけてしまいました。あの方が癇癪《かんしゃく》をおこして何度くびを宣言しようと勝手ですが、わたしは絶対にやめません。これだけははっきり申しあげます。わたしはあの方の召使であり、あの方はわたしの主人なのです。これだけはいつまでたっても変わらない事実ですよ」
車は白い門柱を通り抜けて、ゆるやかにカーヴする、ツツジの茂みに囲まれた車まわしに入った。前方に低いれんが造りの建物が見えてきた。住み心地のよさそうな美しい白ペンキ塗りの木造部分が、建物全体をひきたてている。小柄で上品なチャレンジャー夫人が、愛想のよい微笑を浮かべて、ドアのあいた玄関まで迎えに出ていた。
「さあさあ」と、チャレンジャーが勢いよく車から出て叫んだ。「お客さまの到着だ。わが家に客があるとは珍しいことだ。近所同士はいたって仲が悪いんでね。うちのパン焼き職人の車にネコいらずを投げこむやつがいるとしたら、それはきっと近所の連中の仕業《しわざ》だろう」
「まあ――なんて恐ろしいことを!」と、夫人が泣きたいような笑いたいような顔をして叫んだ。「ジョージときたらだれとでもけんかしてしまうのですから、ご近所にはおともだちが一人もおりませんのよ」
「近所づきあいなどしていると、わしの比類のない奥さんに目を向ける暇がなくなってしまう」とチャレンジャーは言い、短いずんぐりした腕で夫人を抱いた。ゴリラとカモシカ、という形容がこの夫婦にはぴったりだ。「さあさあ、お客さんは汽車の旅で疲れておいでだ。昼飯の用意も忘れんようにな。セアラは戻ってきたかね」
夫人は悲しそうに首をふり、教授は豪快に笑いながらいかついしぐさでひげをしごいた。それからオースチンに向かって、
「車をしまったら奥さんを手伝って昼食の用意をしてくれんか。では諸君、どうぞわしの書斎へ。緊急に話しておきたいことがあるのでな」
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二 死の潮
ホールを横切るとき電話が鳴った。われわれは好むと好まざるとにかかわらず、チャレンジャーのつぎのような会話を聞くはめになった。もっともわたしは「われわれ」というふうに限定したが、百ヤード以内にいた人間なら家中に響きわたるチャレンジャーの途方もない大声をだれ一人として聞きのがすはずはなかったろう。そのときの彼の受け答えをわたしは今でもおぼえている。
「さよう、もちろんわしだ……そう、まちがいなく有名なチャレンジャー教授本人だ、それ以外のだれだというのかね?……もちろん、一言一句まちがいない、さもなければこのわしが驚くはずがないではないか……わしには少しも意外じゃない……はっきりとした証拠がある……遅くも一日か二日中だ……わしにもどうすることもできんな……まことに残念だが、実はきみなどよりもっと重要な人物の心を動かせるものと考えておった。今さら泣き言を並べてもはじまらん……いや、おそらくわしにも無理だろう。まあ運を天にまかせるしかないね……それで十分だ。ばかを言いたまえ! わしにはそんなたわ言に耳を傾けるよりももっと大事な仕事がある」
彼は乱暴に受話器をかけて、二階の広々とした風通しのよい書斎へわれわれを案内した。大きなマホガニーの机の上に、封を切っていない電報が七、八通のっていた。
「まったくのところ」と、彼はその電報をかき集めながら言った。「こうなると発信人の費用を節約してやるために電信略号を採用したほうがいいかもしれん。『ロザーフィールドのノア』〔洪水を予見した旧約聖書のノアに自分をなぞらえている〕とでもすればぴったりだろう」
あまりぴんとこない冗談を言いだすときの例に漏れず、彼は机によりかかって、電報の封を切ることもできないほど激しく手をふるわせながら、はじけるような大声で笑いだした。
「ノアだ! ノアだ!」と、彼が赤かぶのような顔で息をはずませているそばで、ジョン卿とわたしは同感の微笑を浮かべ、一方サマリーは消化不良に悩む山羊《やぎ》のような顔で、手きびしい反対をほのめかすように首をふった。やがてチャレンジャーが、依然として唸《うな》るような声で笑いながら、電報の封を切りはじめた。われわれ三人は弓形の張出し窓の前に立って、すばらしい眺めを楽しんだ。
その眺めは実際大したものだった。ゆるやかに曲がりくねった道は、われわれをかなり高い場所――標高七百フィートということがあとでわかった――まで運びあげたらしい。チャレンジャー邸は丘のはずれにあり、書斎の窓のある建物の南面からは、サウス・ダウンズのゆるやかな曲線が起伏する地平線を描く南イングランドの広野を一望のもとに見渡すことができた。丘の切れ目にうっすらと煙の漂っているところがルゥイスの町らしい。足もとには起伏に富んだヒースの野が拡がり、その中にはめこまれた細長い、鮮やかな緑色のクローバラ・ゴルフ・コースには、ゴルファーの姿が点々と散らばっている。少し南寄りの森の切れ目からは、ロンドン=ブライトン間の幹線道路の一部がのぞいている。すぐ目の前には小さな囲み庭があって、そこにわれわれを駅から運んできた車がとまっていた。
チャレンジャーが急に叫び声を発したので、われわれはびっくりしてふりかえった。彼は電報を読み終わって、それをきちんと机の上に重ねたところだった。彼のごつごつした大きな顔、というよりももじゃもじゃのひげの隙間からのぞいている顔の一部は、依然としてひどく紅潮し、何かしら激しい興奮に見舞われているようすだった。
「さて、諸君」と、彼はまるで大聴衆にでも話しかけるように改まった口調になり、「このたびの再会は非常に愉快であり、しかもそれは異常な、前例がないと言ってもよいような状況のもとで実現した。ロンドンからの旅の途中で何か気のついたことはなかったでしょうかな?」
「わしの気づいたことといえばただ一つ」と、サマリーが皮肉な微笑を浮かべた。「ここにいるマローン君が南アメリカ旅行以来少しも変わっておらんということだった。残念ながら車中での彼の態度にはうなずけない点が多かったし、率直に言ってわたしは非常に不愉快な思いをしなければならなかった」
「まあ、人間だれしも人をうんざりさせることはありますよ」と、ジョン卿が口をだした。「マローン君だって別にあなたに意地悪しようとしたわけじゃない。それになんたって彼はフットボールの国際試合の出場者なんだから、ほかの人間とちがって彼にフットボール試合の講釈を三十分聞かされても、われわれとしては文句は言えませんよ」
「フットボールの講釈を三十分だって!」わたしはむっとして叫んだ。「野牛のことを三十分もだらだら話していたのはそういうあなたのほうじゃありませんか。サマリー教授もきっと証人になってくれるでしょう」
「さあ、二人のうちどっちがよりわしをうんざりさせたか、その判定は非常にむずかしいところだな。とにかくチャレンジャー君、わしははっきり断っておくが、フットボールの話も野牛の話ももう二度と聞きたくないね」
「ぼくはきょうフットボールのことなど一言も言わなかったんです」と、わたしは抗議した。
ジョン卿がピイッと口笛を吹き、サマリーは悲しそうに首をふった。
「朝のうちからひどいものだった」と、サマリーが言った。「まったく嘆かわしいことだ。わしが無言で悲しい思いにふけっている間中――」
「無言ですって!」と、ジョン卿が叫んだ。「だってあなたはずっと寄席の物真似ばかりやってたじゃないですか――人間というよりはとまらなくなった蓄音機に近かった」
サマリーはきっとなって激しく抗議した。
「きみは冗談を言って得意になっているようだな、ジョン卿」と、苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
「まったくひどい。これは気ちがい沙汰だ」と、ジョン卿が叫んだ。「みんな人のやったことは知っていても、自分で何をしたか知らないようだ。最初から筋道立てて考えてみましょう。われわれはまず一等車の喫煙室に入った、ここまでははっきりしていますね? それから『タイムズ』に載ったチャレンジャー卿の手紙のことで議論がはじまったんです」
「ほう、そうかね」と、この家の主人は目を細めて叫んだ。
「あなたは彼の主張になんら真実が含まれる可能性はないと言いましたよ、サマリー教授」
「これは驚いた!」チャレンジャーが胸をふくらませてひげをしごいた。「なんら真実が含まれる可能性はないだと! その言葉は前にも聞いたような気がする。ではおたずねするが、いったい高名なるサマリー教授は、科学的可能性の問題についてあえて一つの意見を明らかにしたつまらぬ人間をやっつけるために、どのような反論を展開したのかね? その気の毒な人物の息の根をとめる前に、ひとつきみが作りあげた反論の根拠を示していただきたいものだ」
彼はせいいっぱいの不器用な皮肉を口にしながら、一礼して肩をすくめ、両手を大きく拡げてみせた。
「根拠は簡単だ」と、サマリー教授も負けていない。「地球をとりまくエーテルが、ある場所で危険な徴候を示すほどに有害なら、車中のわれわれがなんの影響も受けないはずはない、とわしは言ったのだ」
しかしこの弁明は、チャレンジャーの騒々しい笑いを引きだしただけで終わった。彼の笑いがあまりいつまでもつづくので、ついに部屋の中のものすべてが共鳴して、カタカタ鳴りだすかと思われるほどだった。
「わが有能なるサマリー教授は、またしても現在の状況に含まれる事実をいくつか見落としておられるようだ」と、汗の浮き出た額を拭きながら、ようやく彼は言った。「いいかな諸君、わしの考えを理解してもらうためには、わし自身がけさやったことを詳しく述べるのが一番だと思う。このわしでさえ一瞬精神の均衡を乱したほどだと聞けば、諸君の精神錯乱も大目に見ていいだろう。わが家では数年前から家政婦を一人雇っている――セアラという名前だが、姓のほうは面倒だからおぼえようとしたこともない。これがなかなかきつい顔だちの女で、態度はつんとして近寄りがたく、物に動ぜず、われわれの知る限りでは感情というものを外に現したことがない。けさわしが一人で朝食をとっているとき――家内は朝食を部屋でとる習慣になっておるのでな――ふと、この女の冷静さにも限度があるかどうかためしてみるのは、さぞかし面白いだろうし有益でもあるだろうという考えが浮かんできた。そこでわしはいたって簡単だが効果的な実験方法を思いついた。まずテーブルの真中にある小さな花びんをひっくりかえしてから、わしは呼鈴を鳴らしてテーブルの下にもぐりこんだ。すぐに彼女がやってきた。食堂が空っぽなので、わしは書斎へ引きあげたものと思ったらしい。こっちの思惑《おもわく》通り、彼女はテーブルに身を乗りだして花びんのとりかたづけをはじめた。目の前には木綿の靴下と深ゴム靴が見えておったな。わしは首をのばして彼女のふくらはぎに思いっきり噛みついてやった。実験は信じられないほどの成功をおさめた。彼女はしばらくの間|麻痺《まひ》したように棒立ちになってわしの頭を見おろしていたが、やがて金切声を発して食堂からとびだして行ったよ。わしは申し開きをするつもりであとを追ったが、彼女は一目散に車まわしを走り去った。数分後わしは南西の方角へ死物狂いで逃げてゆく彼女の姿を、望遠鏡でとらえることができた。わしはこの出来事をすべてありのままにお話ししている。それが諸君の頭の中に根づいて芽を出すのを待っているのだ。どうだろう、この話を聞いて何か思い当たることはないかね? きみはこれをどう思う、ジョン卿?」
ジョン卿はまじめな顔をして首をふった。
「いいかげんなところで自分の行動にブレーキをかけておかないと、そのうち困ったことになりますよ」と、彼は言った。
「サマリー君、きみなら何か意見があるだろうね」
「チャレンジャー君、きみは今すぐ仕事を休んで、三か月ばかりドイツの温泉へ保養に行くべきだな」
「なかなか読みが深い!」と、チャレンジャーが叫んだ。
「さて、マローン君、きみは先輩たちがみごとに失敗した問いに、解答を与えることができるかな?」
わたしは教授の期待にこたえた。きわめて控え目な意見を述べたつもりだが、それが正解になっていたのである。もちろん、その後に何がおこったかを知っている諸君には自明の理だろうが、そのときはすべてが目新しく、わたしにも確固たる自信があったわけではない。だが、わたしは突然強い確信を抱いたのである。
「毒だ!」と、わたしは叫んだ。
その言葉を口にしながら、わたしの心は午前中のさまざまな経験を反芻《はんすう》していた。ジョン卿の野牛の話、わたし自身のヒステリックな涙、サマリー教授の言語道断なふるまい、そして公園のけんか、運転手のめちゃくちゃな運転ぶり、酸素会社での口論など、ロンドンの奇妙な出来事。突然すらすらと謎がとけはじめた。
「もちろん毒のせいです」と、わたしはもう一度叫んだ。
「われわれは一人残らず毒におかされているんですよ」
「図星だ」と、チャレンジャーが両手をこすり合わせながら言った。「われわれはみんな毒におかされている。地球はエーテルの毒ベルトに突入したのだ。そして現在毎分数百万マイルの速さで、いよいよ深入りしつつある。いまマローン君の言った『毒だ!』という一言は、われわれの頭が狂いだした原因をずばりと言い当てているのだ」
われわれは驚きのあまり声もなく顔を見合わせた。この状況にぴったりの言葉が見当たらないのだった。
「人間の精神にはこのような徴候をチェックし、コントロールする知的な制止作用がある」と、チャレンジャーはつづけた。「ただしすべての人間がその作用をわしと同じ程度まで発揮できるとは思わない。なぜなら、われわれのさまざまな精神作用の力は、たがいにある種の均衡を保っているからだ。だがそれは疑いなくこのマローン君の中にも認められる。わしはいささか突飛な思いつきで家政婦を驚かせたのち、静かに腰をおろして理性を働かせた。まずわたしはこれまで召使いの脚に噛みつきたい衝動に駆られたことなどないことを自分自身に納得させた。したがってこの衝動はアブノーマルなものだった。間もなくわしは真相に気がついた。脈搏を測ってみたらふだんより十回も多いし、反射神経も過敏になっている。そこでわしはより高級で健全な自身、分子の変調にかかわりなく、冷静にどっしりと腰を据えた本物のG・E・Cに呼びかけた。彼に対して、毒の作用でおこるばかげた精神の混乱を厳重に監視するよう命じたのだ。その結果わしはまぎれもなく自分自身の支配者であり、混乱した精神を客観的に観察しコントロールできることを発見した。これこそ物質に対する精神の目ざましい勝利の実例だった。なぜなら精神ときわめて深くかかわり合っている現在の物質の状態、わしの精神はそれに対して勝利を占めたからだ。むしろ精神は手も足もでなかったが、人格の力でそれをコントロールしたと言ってもよいくらいだ。こうして、家内が二階から降りてくるのを、ドアのかげに隠れて大声で驚かしてやりたいという衝動に駆られたときも、わしはその誘惑に勝って、自制にみちた威厳ある態度で彼女と顔を合わせることができた。アヒルの鳴き声を真似したいという強烈な欲望も、この手でりっぱに切り抜けた。そのあと、車の用意を言いつけるために下へ降りて、修理に熱中しているオースチンの姿を見たときも、わしはいったんふりあげた片手をとめて、たぶん彼に家政婦のあとを追わせることになったにちがいない仕打ちを思いとどまった。それどころか、彼の肩にそっと手をおいて、諸君の汽車に間に合うよう車を玄関にまわしておいてくれと命じただけで、あとは何事もなくすんだのだ。現に今この瞬間も、サマリー教授の滑稽《こっけい》な山羊ひげをつかんで顔を前後に揺さぶってやりたいという激しい誘惑に駆られているが、ごらんの通りわしは完全に自分を抑えつけている。諸君にもわしのやり方を見習ってもらいたいものだ」
「野牛の話には気をつけます」と、ジョン卿が言った。
「ぼくもフットボールには気をつけます」と、わたし。
「あるいはきみの意見が正しいかもしれんな、チャレンジャー君」と、サマリーが穏やかな声で言った。「正直言ってわしの考え方は建設的であるよりは批判的だし、新しい学説、とりわけそれがこの場合のように現実ばなれした突飛《とっぴ》なものであるときは、おいそれと提灯《ちょうちん》持ちをする気にはなれない人間だが、けさからの一連の出来事をふりかえって、連れの二人のばかげたふるまいを思いかえしてみると、それが相当に強い毒の影響を受けた結果だと信じてもいいような気がしてくる」
チャレンジャーは上機嫌で同僚の肩を叩いた。「われわれは進歩している。着実に進歩している」
「では、ひとつお願いがある」と、サマリーが下手《したで》に出た。「現在のきみの見通しを聞かせてくれたまえ」
「諸君のお許しを得て、この問題についてもう少し話をつづけさせていただこう」チャレンジャーは机の上に腰をおろして、ずんぐりした脚を前でぶらぶらさせた。「われわれは現在恐るべき作用を目前にしつつある。それは、わしの考えでは、地球の終末なのだ」
地球の終末! われわれはいっせいに大きな弓型張出し窓に視線を転じ、うるわしい夏の日の田園風景を眺めた。ヒースの生い茂る長い斜面、立派な別荘群、ゴルフを楽しむ人々。それが地球の終末とどう結びつくのだろうか! それはしばしば聞きなれた言葉だが、それが目前にさし迫った具体的な意味を持ちうること、いつとも定まらない漠然とした日付ではなくきょうにさし迫った現実だということを考えると、足もとのぐらつくような恐ろしさがこみあげてくる。われわれはみな厳粛な気持に襲われて、無言でチャレンジャーの話のつづきを待った。彼の威圧的な風貌が話の内容に重みを加えるため、しばらくはこの男の粗野でばかげた印象がすっかり消え失せてしまい、並の人類とはちがう何か荘厳な存在のように思われた。やがて少なくともわたしだけは、この部屋に入ってから彼が二度までも人間くさいばか笑いをしたことを思いだしてほっとした。いくら超然とした精神にも所詮は限界があるのだろう。結局のところこの危機もそれほど大きな、さし迫ったものではないのかもしれない。
「きわめて微少ではあるが有害な細菌に覆われた一房のぶどうを思い浮かべていただきたい。庭師はある種の消毒液でそれを洗う。彼はぶどうをより清浄にしたいのかもしれないし、あるいはより無害な新しい細菌を繁殖させるために、前の細菌をとり除く必要があるのかもしれない。いずれにしてもぶどうを消毒液にひたせば有害な細菌は死んでしまう。わしに言わせれば、宇宙の庭師は太陽系全体をまさに消毒液にひたそうとしているところなのだ。その結果地球の外殻上でのたうちまわっている人類という微少な細菌はたちまち死滅してしまうだろう」
ふたたび沈黙が訪れた。それはやがてけたたましい電話のベルによって破られた。
「また細菌の一人が助けを求めてきたようだ」と言って、彼は苦い笑いを浮かべた。「彼らも自分たちの永続的な存在が、実は宇宙の必然でもなんでもないということに、ようやく気がつきはじめたらしい」
彼は一分か二分、書斎を留守にした。その間残された者はだれ一人として口をきかなかったことをおぼえている。事実何を言ってもはじまらないような状況だった。
「ブライトンの保健所員からだった」と、チャレンジャーが戻ってきて言った。「どういうわけか海面と同じ高さのほうが症状のあらわれ方が速いようだ。ここの高さは海抜七百フィートあるから、ほかの場所より安全らしい。世間はわしがこの問題に関する最初の権威者であることを知ったものと見える。きっと『タイムズ』にでた公開状のせいだろう。駅から到着してすぐの電話は、ある地方都市の市長からだった。諸君もわしの話すことを聞いたと思うが、その男は自分の命の値打ちをばかに過大評価しておった。わしはその考えを改めさせてやったよ」
サマリーはいつの間にか腰をあげて窓のそばに立っていた。痩せて骨ばった両手が心の動揺でふるえていた。
「チャレンジャー君」と、彼が熱っぽく呼びかけた。「この問題はあまりに深刻だから、無駄な議論で時間を浪費すべきではないと思う。わしが何か質問しても、それによってきみを怒らせる意図など毛頭《もうとう》ないことをわかってくれたまえ。はたしてきみの話や推論に誤りがないかどうか、わしはそれが知りたいのだ。青空にはいつもと変わらぬ太陽が輝いている。ヒースの野も花も鳥も健在だ。ゴルフ場では人々がゲームを楽しみ、労働者たちは畑で麦を刈っている。彼らもわれわれも破滅の淵《ふち》にのぞんでいるかもしれない――このうるわしい夏の日は、人類が長い間待ち受けてきた審判の日かもしれないときみは言う。きみはこの途方もない判断の根拠をどこにおいているのだろうか。スペクトル中のフラウンホーファー線の変調――スマトラの病気の噂――それともわれわれがおたがいに認めた各人の奇妙な行動にだろうか? この最後の徴候はそれほどはっきりしたものではないが、きみやわれわれは、慎重に努力すれば、なんとか抑えることができるかもしれない。われわれにはなんの気兼ねも必要ないんだよ、チャレンジャー君。われわれが今置かれている立場や、将来の見通しを、遠慮せずにはっきり言ってくれたまえ」
それは傾聴に値するりっぱな発言、老動物学者の辛辣さのかげにひそむ強靱《きょうじん》な信頼すべき精神から生まれた発言だった。ジョン卿が感動して立ちあがり、教授に握手を求めた。
「ぼくもまったく同感です」と、彼は言った。「さあ、チャレンジャー教授、われわれの置かれた立場を話してください。あなたもよくごぞんじのように、われわれはとくに神経質な人間じゃない。しかし週末をすごしにやってきたら、それが最後の審判の日に|もろ《ヽヽ》に行き当たっていたとなると、これは全然説明なしではすまされません。いったいどんな種類の危険があるんですか? その程度は? それから、その危険に対処するにはどうすればいいんですか?」
長身のジョン卿は、窓ぎわで陽の光を全身に浴びて、陽にやけた片手をサマリーの肩にかけながら、力強く立っていた。一方わたしは、火の消えた煙草を口にくわえたまま、さまざまな印象がきわめて鮮明に浮かびあがる例の半無意識状態で、ひじかけ椅子《いす》に身を沈めていた。これはひょっとすると毒の影響が新しい形であらわれたのかもしれない。しかし精神錯乱にも似た衝動はすでに消え失せて、ひどく無気力だが感覚だけは妙にとぎすまされた状態に変わっていた。私は傍観者だった。まるで自分には関係のないことのような気がした。目の前にはとてつもない危機に直面した三人の力強い人間がいる。彼らを観察するのは実に興味深いことだった。チャレンジャーは答える前に濃《こ》い眉をしかめ、ひげをしごいた。慎重に言葉を選んでいるようすが感じられた。
「諸君がロンドンを出発する直前のニュースはどんなものだったかね?」と、彼がたずねた。
「ぼくは十時に『ガゼット』社におりました」と、わたしが答えた。「シンガポール発のロイター電によれば、スマトラでは、各地で病気が蔓延《まんえん》しており、その結果燈台の機能も停止してしまったということです」
「それ以後事態は急速に悪化しつつあるようだ」と、チャレンジャーが電報の束をとりあげて言った。「わしは当局および報道機関と密接な連絡を保っているので、各地から続々ニュースが入ってくる。実を言えばわしにロンドンへ帰れという強い要望が方々からやってきているのだが、わしが帰ったからといってこの際どうなるものでもない。報告によれば毒の影響はまず精神的な興奮からはじまるらしい。けさパリでおこった暴動は非常に激しいものだったというし、ウェールズの炭坑夫たちも大騒ぎをはじめているそうだ。手もとの資料が信頼に足るものとしての話だが、人種や個人で非常に差異のあるこの興奮状態のつぎにくるものは、ある種の機能亢進および精神の沈静状態と言ってよいだろう。現にマローン君にはすでにその徴候がある程度認められる。しかしこれはいくらか時間をおいて昏睡状態に変わり、急速に深まってついには死が訪れる。わしの毒物学の知識によると、ある種の植物性神経毒の症状が――」
「チョウセンアサガオだ」と、サマリーが言った。
「その通り!」と、チャレンジャーが叫んだ。「問題の毒に名を与えれば、科学的正確さに向かって一歩踏みだすことになる。かりにこれをチョウセンアサガオ毒と名付けることにしよう。この全世界の破壊者、偉大な宇宙の庭師の消毒液の命名者たる栄誉は――残念なことにそれは死後の栄誉だが、しかしユニークであることに変わりはない――どうやらきみのものらしいな、サマリー君。チョウセンアサガオ毒による症状は、わしが今説明したようなものと考えてよいだろう。エーテルが普遍的な媒体である以上、その毒が全世界を覆いつくし、あらゆる生物が死滅することは確実だと思われる。これまでのところそれは特定の地域を気まぐれに襲っているにすぎないが、いずれ数時間のちがいで、つぎからつぎへ砂州を呑みこんでゆく上げ潮のように、不規則な流れとなってあちこちに拡がり、結局は地球全体を覆いつくしてしまうだろう。チョウセンアサガオ毒の作用とその蔓延に関しては、一定の法則が働いていると思われる。これは時間が許せば非常に興味深い研究課題になるだろう。わしが調べたかぎりでは」――ここで彼は電報の束にちらと目を向けた――「未開民族ほど中毒症状が早く現れるようだ。アフリカからは悲しむべき報告がとどいているし、オーストラリアの原住民はすでに絶滅したらしい。北方民族は南方民族にくらべてはるかに強い抵抗力を示している。これはけさ九時四十五分にマルセイユから発信された電報だ。ひとつ原文通りに読みあげてみよう。
『プロヴァンス地方は終夜錯乱させる興奮状態に見舞われる。ニームではぶどう栽培者の暴動。トゥーロンでは社会主義者の蜂起。けさ方より昏睡《こんすい》状態を伴う急患が続出。|恐るべき疫病《ペスト・フウドロワイヤン》。市街には多数の死者があふれ、業務は完全に麻痺し、南仏一帯は混乱の極に達す』
一時間後、同じ場所からつぎのような電報がとどいた。
『われわれは絶滅の危機におびやかされている。寺院や教会は人々であふれ、死者の数は生存者を超えた。ありうべからざる恐ろしい事態。死は苦痛を伴わずに訪れるようだが、きわめて迅速で、避けるすべもない』
パリからも同じような電報がとどいているが、こちらはまだそれほど切迫していないようだ。インドとペルシアは完全に死滅したらしい。オーストリアではスラヴ系住民が被害をこうむっているがチュートン系住民にはほとんど影響がない。大ざっぱに言って、平野や海岸に住む人々は、わしの手もとにある限られた資料から判断するかぎり、内陸または高地の住民より速やかに影響を受けつつあるように思われる。ほんのわずか高い場所でも相当な開きがでてくるようだから、かりに一人でも人類が生き残るとすれば、その人間はふたたびアララット山頂〔トルコの東部国境にある高山。ノアの方舟がその山頂に乗りあげたという伝説がある〕で発見されることになるだろう。今われわれのいるこの小さな山でさえ、間もなく惨事の海に囲まれた一時的な小島になるかもしれない。だがこの速さで事態が進めば、いずれ数時間以内にわれわれも海中に没してしまうだろう」
ジョン・ロクストン卿が額の汗を拭った。
「それにしても不可解なのは」と、彼は言った。「その電報の束を手でおさえながら、悠然と腰を据えて笑っていられるあなたの心境です。ぼくもたいていの人に劣らないぐらい死というものを見なれていますが、地球上の人間が一人残らず死んでしまうとなると――なんとも恐ろしいことだ!」
「笑いについては」と、チャレンジャー。「諸君と同じように、わしもエーテルの毒が脳に及ぼす刺激的な影響をこうむっていることを忘れないでくれたまえ。しかし全人類の死滅という考えがきみの頭に吹きこんだ恐怖については、それがいささか誇張されすぎていることを指摘したい。もしきみがたった一人で小舟に乗せられ、行先も知れない大海に送りだされたとしたら、きみの心が沈みがちになるのも無理はない。孤独と不安がきみを圧迫するからだ。だが、もしこれが、身内や友人が全部乗りこんだ大きな船の旅だったら、たとえ目的地は知らされなくても、きみは少なくともみんなが共通の同時的な体験によって最後まで緊密に結びつけられていることを感じるだろう。一人だけの死は恐ろしいが、全人類の死は、それがまったく苦痛を伴わないと思われるだけに、わしに言わせれば、少しも不安を感じさせないのだ。恐怖は学者、有名人、高貴の人がすべて死に絶えたあともなお生き残りたいと考えるところから生じると述べた人物がいるが、わしもその意見に同感だね」
「ではこれからどうするつもりかね?」と、サマリーがたずねた。彼が同僚科学者の意見に同意を示したのはこれがはじめてだった。
「まず昼飯だ」とチャレンジャーが答えたとき、合図の鐘が家中に鳴り響いた。「わが家の料理女はすばらしいオムレツを作る。それにまさるものはやはり彼女の作るカツレツだけだ。宇宙の混乱が彼女のすばらしい腕を鈍らせていないことを願おうではないか。わしの九六年もののシャルツバーガーも、われわれが力を合わせて努力するかぎり、当たり年のぶどう酒をむざむざ浪費せずにすむかもしれない」彼は両手を机に突いて、重い体をひょいと持ちあげた。地球の最後を予言する間ずっとそこにすわっていたのである。「さあ諸君、残された時間がわずかなら、それを冷静に楽しむことがいよいよ必要になってくる」
事実それは非常に楽しい食事となった。たしかにわれわれはこの恐ろしい状況を忘れていたわけではない。事件の重大さが絶えず頭の奥にちらついて、われわれの心をしめつけた。しかし、結局死にのぞんで臆病風に吹かれるのは、かつて一度も死に直面したことのない人間である。その点われわれ四人は、生涯のある偉大な時期に、絶えず死と顔つき合わせていた経験がある。一方チャレンジャー夫人も、信頼のおける夫の力強い導きに全面的によりかかって、彼と一緒にどこへでもついて行く覚悟のようだった。未来は運命の手にゆだねられていても、現在はわれわれ自身のものだった。われわれは和気あいあいと楽しく現在の時をすごした。それぞれの気持ちは、前にも述べたように。不思議なほど冷静だった。わたしでさえ時おり才気のひらめきを発揮した。チャレンジャーにいたっては、まったくどれほどりっぱだったことだろう! この男の類《たぐい》まれな偉大さ、彼の英知の幅広さと力強さを、このときほどまざまざと感じたことはなかった。サマリーは辛辣な批評のコーラスに彼を引きずりこみ、ジョン卿とわたしは笑いながら両教授の議論に耳を傾けた。夫人は夫の腕に手をかけて、彼の大声をしずめるのに懸命だった。生命、死、人間の運命――そういった問題がこの忘れがたい時間の話題だった。しかも食事が進むにつれて、不思議なことにわたしの心は突然高揚し、手足がチクチク痛みはじめ、それによって目に見えない死の上げ潮がゆっくりとまわりに満ちはじめたことを実感するとともに、食卓の会話はいっそう活気がこもった。一度ジョン卿が突然片手で目を覆《おお》い、サマリーが一瞬椅子に身を沈めるのに気がついた。われわれの吐く息の一つ一つに奇妙な荒々しさがこもった。それでいて心はいたって冷静で充足感にあふれていた。やがてオースチンが入ってきてテーブルに煙草を置き、そのまま引きさがろうとしたとき、「オースチン!」彼の主人が呼びとめた。
「はい」
「おまえの忠実な働きぶりには深く感謝しているよ」
オースチンのむっつりした顔にかすかな微笑が浮かんだ。
「わたしはただ義務をはたしただけでございます」
「きょうは世界の終わりになるかもしれんぞ、オースチン」
「はい。それは何時ごろになりましょうか?」
「それはわしにもわからん。おそらく夜まではもたんだろう」
「わかりました」
無口な召使いは一礼して引きさがった。チャレンジャーは煙草に火をつけ、妻のかたわらに椅子をずらして片手をにぎりしめた。
「おまえも現在の状況は知っているだろう。ここにいる友人諸君にも今それを説明したところだ。こわくはないだろうな?」
「苦痛はないんでしょうね、ジョージ?」
「歯医者で使う笑気と似たようなもんだ。おまえはそれを吸いこむたびに死んだようになったじゃないか」
「でもあれはとても気持のよいものですよ」
「死も気持のよいものかもしれん。衰弱しきった肉体は死の印象を記録することができないが、われわれは夢の中や昏睡《こんすい》状態で感じる精神的な快感を知っている。自然は美しいドアを作って、光り輝くうすぎぬのカーテンをぶらさげ、われわれの迷える魂を、そこから新しい世界へ導き入れるのかもしれない。わしは現実の底を探るたびに、そこにはかならず知恵と思いやりがあることを発見する。恐怖におびえた人間に思いやりが必要だとすれば、それは一つの生から他の生へ危険な旅をするときをおいてほかには考えられない。わしはきみの唯物主義には賛成できんね、サマリー君。少なくともわしは、死んでのち単なる物質的要素、一握りの塩とバケツ三杯の水と化してしまうには、あまりにも偉大すぎる人間だと自負しているからだ。ここには」――と、彼は大きな頭を毛むくじゃらの太い指でたたいて見せた――「物質を利用はするが、それ自体物質ではないなにか――死をほろぼしこそすれ、死によってほろぼされることのないなにかがあるのだ」
「死といえば」と、ジョン卿が言った。「ぼくもいちおうはキリスト教徒ですが、われわれの祖先がまるで死んだ事実を認めないかのように、斧《おの》や弓や矢などと一緒に埋葬された気持が、ぼくにはよくわかるような気がします。おそらくぼくだって」彼はいくぶん恥ずかしそうに一座を見まわした。「使いなれた〇・四五〇口径のエクスプレス銃や鳥銃、銃床にゴムを張った短銃、それに少々の弾薬と一緒に埋葬されたら、きっと気持が落ちつくことでしょう――もちろんこれは愚かな空想かもしれないが、きっとそうだろうという気がします。あなたはこれをどう思いますか、サマリー教授?」
「お望みとあればわしの意見を述べよう」と、サマリー。
「きみの発言は石器時代、あるいはそれ以前への逆行だ、弁護の余地はない。わし自身は二十世紀の人間だから、りっぱな文明人として死ぬことを願っている。おそらくわしは諸君ほど死を恐れていない。なぜならわしはもう老人だし、何がやってこようと、どうせたいして長くは生きられないからだ。しかし屠所《としょ》に引かれる羊のように、何一つ抵抗もせずにこうしてすわっているのはわしの好むところではない。われわれにできることは何もないというが、それは確かなのかね、チャレンジャー君?」
「助かるための方法は――皆無だ」と、チャレンジャーが答えた。「しかし、数時間でも生きながらえて、われわれ自身この大惨事にまきこまれる前に、その進展ぶりを見きわめるということなら――わしの力でなんとかできるかもしれん。実はそのための準備もすでにしてある――」
「酸素かね?」
「その通り。酸素だ」
「しかしエーテルの毒に対して酸素がなんの役に立つ? 酸素とエーテルでは、性質においてれんがのかけらと気体以上に大きなちがいがある。この二つはそもそも次元がちがう。たがいに影響し合うということは考えられんはずだ。酸素の一件はばかげた提案だとは思わんかね、チャレンジャー君?」
「まあ聞きたまえ、サマリー君。このエーテル毒は疑いもなく物質的な作用の影響を受けている。それは中毒発生の過程や分布を見ればわかることだ。われわれは前もってそれを予測していたわけではないが、現実の状況から判断して疑いない事実だということができる。だからこそわしは、人体の生命力と抵抗力を増す酸素のような気体が、きみの名付けたチョウセンアサガオ毒の作用を遅らせる可能性は大いにあると確信したわけだ。あるいはこの考えがまちがっているかもしれん、しかしわしは自分の推論の正しさに自信を持っている」
「しかし」と、ジョン卿が口をだした。「ミルクびんをくわえた赤ん坊みたいに、酸素ボンベをくわえてすわっていなければならないのなら、ぼくはごめんこうむりますよ」
「そんな必要はない」と、チャレンジャーが答えた。「これは主として家内のおかげだが、彼女の部屋をできるかぎり密室状態で保つ準備がしてある。敷物とニスを塗った紙で隙間をふさいだのだ」
「まさかニスを塗った紙でエーテルの侵入を防げると思っているんじゃあるまいな、チャレンジャー君」
「きみは肝心の点を見落としている。わざわざそんなものを用意したのは、エーテルの侵入を防ぐためではなく、酸素が外に漏れるのを防ぐためなのだ。空気中の酸素の比率をある程度まで多く保てば、感覚の麻痺が防げると思う。わしの用意した二本の酸素ボンベに諸君のもってきた三本を加えれば、十分とは言えないがかなり役には立つだろう」
「それでどのくらいもつかな?」
「わしにもわからん。とにかく中毒症状が耐えがたくなるまでは口をあけないつもりだ。いよいよそれが必要になったら、少しずつ放出する。それで数時間、うまくすれば数日は生きのびられるかもしれない。その間に破滅した世界を観察するのだ。われわれの死期は少なくともそれだけ先にのばされ、われわれ五人は、おそらく未知の世界に向かって突き進む人類の最後衛をつとめるという、異常な体験を持つことになるだろう。ではすまんがボンベ運びに手をかしてもらいたい。すでにここの空気もかなり息苦しくなってきたようだ」
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三 毒の海に沈む
忘れがたい経験の場所と定められた部屋は、居心地のよい婦人用の居間で、十四ないし十六フィート四方ほどの広さだった。赤いビロードのカーテンで仕切られた奥のほうが、チャレンジャー教授の化粧室となっていた。その小部屋はさらに広い寝室につづいている。カーテンはまださがっているものの、寝室と化粧室は通しで実験室として使うことができる。一方のドアと窓はニスを塗った紙で目ばりして密閉してある。階段の踊り場に面したもう一つのドアの上には、どうしても換気が必要になったときにそなえて、紐《ひも》で密閉する扇窓がとりつけられていた。部屋の四隅には大きな灌木を植えたたらいが置いてある。
「いかにして限られた酸素を大量に費消することなく、おびただしい炭酸ガスをとり除くかということは、非常にむずかしい重要な問題だ」と、壁ぎわに並べられた五本の酸素ボンベを見まわしながら、チャレンジャーが言った。
「もっと準備の時間が長ければ、わしの全知をこの問題に傾注することができたろうが、現実にはやれるだけやるより手はない。四本の灌木でもないよりましだろう。五本の酸素ボンベのうち二本はすぐにでも放出できるようになっているから、知らず知らずのうちに毒におかされるという心配はない。同時に、危機は突然訪れるかもしれないから、この部屋からあまり遠くへはなれぬほうが賢明だろう」
そこにはバルコニーに向かって開いた低い、幅の広い窓があった。窓からの眺めは、われわれがすでに書斎から嘆賞したものと同じだった。外を眺めても混乱のきざしはどこにも見当たらない。真下には丘の中腹をくねくねと這いのぼる道が見えている。おりしも駅のほうから一台の馬車がゆっくりと丘をのぼってくる。近ごろでは田舎の村でしかお目にかかれなくなった先史時代の遺物のような代物《しろもの》だ。その下のほうには、乳母車《うばぐるま》を押し、もう一人の子供の手を引いた子守女の姿が見える。あちこちの別荘から立ちのぼる紫色の煙は、この一帯の風景に整然とした秩序と素朴な快適さの印象を与えている。雲一つない青空や光り輝く地上のどこにも、破局の前兆は認められない。農夫たちは昼食をすませてふたたび刈り入れにとりかかり、ゴルファーたちは、二人あるいは四人と連れだって、依然コースでプレイをつづけている。わたし自身の頭の中は奇妙に混乱し、はりつめた神経は耳ざわりな音をたてているのにくらべて、ゴルファーたちのさりげない態度はなんとも解せないかぎりだった。
「あの連中は全然体の変調を感じてないようだ」と、わたしはゴルフ場のほうを指さしながら言った。
「きみはゴルフをしたことがあるかね?」と、ジョン卿がたずねた。
「いや、ありません」
「一度自分でやってみれば、いったんコースに出た以上、本当のゴルフ好きなら、最後の審判の槌音《つちおと》でも鳴り響かぬかぎり絶対にプレイを中止する気にならないことがわかるだろう。おやまた電話が鳴っている」
食事中から食後にかけて、けたたましい執拗《しつよう》な電話のベルが何度もチャレンジャー教授を呼びたてた。彼は言葉少なに報告されるそれらのニュースを、われわれにも話してくれた。これほど恐ろしい事件が世界の歴史に記録されたことはかつてなかったろう。大いなる影は死の上げ潮のように南のほうから忍び寄りつつあった。エジプトはすでに錯乱状態をすぎて、今は昏睡状態にある。スペインとポルトガルは、とりわけ聖職者と無政府主義者が激しく衝突し合うという狂躁《きょうそう》状態ののち、今は完全に沈黙していた。南アメリカ大陸からはすでに入電がとだえていた。北アメリカではまず合衆国の南部諸州が、激しい人種騒動をくりひろげたのち、毒の影響力に屈した。メリーランド州から北ではまだそれほど顕著な徴候が現れておらず、カナダではほとんど変化がおこっていないという。ベルギー、オランダ、デンマークがつぎつぎと毒におかされた。絶望的な電報が、学問の一大中心や化学者や高名な医者のもとへ世界各地から殺到して、彼らの助言を懇望していた。天文学者のもとへも問い合わせが集中した。だがどうすることもできなかった。惨事は全世界的な規模で拡がっており、そのうえ人間の知識や支配力の及ばぬものだった。苦痛は伴わないが、避けるすべもない死が、老いも若きも、弱者も強者も、金持も貧乏人も、無差別に襲いかかり、それを回避する望みも可能性も皆無だった。
以上は、前後の脈絡を欠いた言葉で、電話を通じてわれわれのもとに送られてきたニュースである。大都市はすでにおのれの運命を悟って、推測のかぎりでは、威厳と諦めをもって最後の時を迎える準備を進めているらしかった。だが目の前のゴルファーや農夫たちは、頭上にナイフをふりかざされていることを知らずにとびはねている仔羊《こひつじ》にも似ている。それは驚くべきことだった。だが考えてみればそれも無理はない。すべては巨大なただの一歩とともに襲ってきたのだ。彼らの警戒心をかきたてるどんな記事が朝刊に載っているか? そしてまだようやく午後の三時にしかなっていない。だがわれわれが窓から眺めている間にも噂がひろまったらしく、農夫たちは急いで畑から帰りはじめた。ゴルファーたちの中にもクラブ・ハウスに引きあげる者が現れた。子守女はくるりと向きを変え、あわてて乳母車を押しながら丘の道をのぼりはじめた。わたしは彼女が額に片手を当てるのを見た。いつの間にか馬車がとまり、疲れた馬が首うなだれて休んでいた。上を向けば晴れ渡った夏の空――切れ目のない巨大な青いドームが覆いかぶさり、わずかに遠くの丘の上に、綿毛のような白雲が浮かんでいるだけだ。かりに人類が今日死滅するとすれば、少なくとも輝かしい死の床だけは用意されている。だがしかし、大自然の美しさは、この恐るべき大規模な破壊を、かえって痛切な、すさまじいものに感じさせるのだった。われわれ人類が、このすばらしい住居から、速やかに容赦なく立退きを迫られているのは、なんとも耐えがたいことだった。
さきほどわたしはふたたび電話が鳴ったことを述べた。突然チャレンジャーの大声がホールから聞こえてきた。
「マローン君。きみに電話だ」
わたしは電話のそばに駆けつけた。ロンドンのマッカードルからだった。
「マローン君か?」という聞きなれた声。「ロンドンでは恐ろしいことがおこっている。頼むからチャレンジャー教授にどうすればよいかきいてみてくれ」
「教授にも名案はありません」と、わたしは答えた。「彼はこの危機を全世界的な、避けがたいものと見ています。われわれは酸素を用意しているが、それもわずかな数時間死期を遅らせるだけの役にしか立ちません」
「酸素か!」と、苦しそうな声。「もう酸素を手に入れる余裕はない。社のほうはけさきみが出発してからというもの、てんやわんやの大騒ぎなんだ。すでに社員の半数以上が感覚を失ってしまった。わたし自身もひどく体がだるい。目の前の窓から、フリート・ストリートに倒れている人間が大勢見える。交通は完全に麻痺してしまった。最後に入った電報から判断すると、世界中が――」
しだいにかぼそくなりつつあったマッカードルの声が、このときぴたりとやんだ。一瞬のち電話を通して、机の上に顔を突っ伏したようなどさっという鈍い音が聞こえた。
「マッカードルさん! マッカードルさん!」とわたしは叫んだ。
答はなかった。受話器を置きながら、これがマッカードルの声の聞きおさめだと悟った。
ちょうどそのとき、わたしが電話のそばから一歩戻りかけた瞬間、毒の影響はわれわれのうえにも及んできた。まるで肩までつかって水浴しているときに、いきなり頭から横波をかぶったような感じだった。目に見えない手がそっと喉に巻きつき、じわじわしめつけて命を奪い去ろうとするかのようだった。わたしは耐えがたい胸苦しさ、頭をきつくしめつけられるような感覚、ひどい耳鳴り、それに目の前で飛び交う火花をおぼえている。そのままよろめいて階段の手すりにもたれかかった。その瞬間、顔は赤黒く充血し、目玉はとびだし、髪をふり乱した手負いの野牛のようなチャレンジャーが、何事かわめき散らしながら猛烈な勢いでわたしの横を走り抜けて行った。すでに意識のなさそうな小柄な夫人は、彼の幅広い肩にかつぎあげられている。ともかく階段につまずいて転んだり這ったりしながらも、恐るべき力をふりしぼって有毒な大気をのがれ、一時的な避難場所にたどりつこうとしていた。そのひたむきな姿を見て、わたしもまたつまずき、倒れ、手すりにすがりながら、夢中で階段を駆けのぼり、ようやく上の踊り場までたどりついたところで、力つきて前に倒れ伏した。ジョン卿の鋼鉄の指がわたしの襟をつかみ、一瞬後わたしは口もきけず、身動きもできないまま、居間の絨毯《じゅうたん》の上にあお向けに寝かされていた。夫人もわたしと並んで横たわり、サマリーは窓ぎわの椅子に坐って、顔が膝につきそうなほどぐったりとうなだれていた。まるで夢でも見ているような気分で、チャレンジャーが巨大なかぶとむしのように床を這うのを眺め、やがてボンベの口から静かにしゅうしゅう漏れはじめる酸素の音を聞いた。チャレンジャーは二、三度深々と酸素を吸いこんだ。生命のガスを吸い込むたびに、彼の胸は大きな音をたてた。
「効くぞ!」と、彼は勝ち誇ったように叫んだ。「わしの推測はやはり正しかった!」彼はふたたび敏捷に、力強く立ちあがっていた。片手にボンベを持って夫人のそばに駆け寄り、それを顔に近づけた。数秒後に彼女はうめき声を発し、もそもそ動いて上体をおこした。チャレンジャーはつぎにわたしに近づいた。わたしは暖かい生命の潮が静かに動脈の中へ流れこむのを感じた。わたしの理性は、結局それが一時的な休息でしかないことを知っていた。だが、その休息の価値を軽々しく口にするとしても、今や生きのびた一時間一時間が無限の価値を持っているように思えた。わたしは、このときの生命の奔流に伴う戦慄にも似た感覚の喜びを、いまだかつて知らない。肺の重苦しさは薄れ、頭をしめつける痛みは消え、平安と、穏やかな、けだるい安息の快い感覚が徐々に全身を覆った。わたしは横たわったまま、サマリーにつづいて最後にジョン卿が、同じ魔法で元気をとり戻すのを見守った。ジョン卿がさっと立ちあがってわたしを助けおこす間に、チャレンジャーは夫人を抱えあげて長椅子にすわらせた。
「ジョージったら、わたしにかまわないでくれればよかったのに」と、彼女は夫の片手を握って言った。「死の扉には、あなたのおっしゃるとおり美しく光り輝くカーテンがさがっておりましたわ。だって息苦しさを通りこすと、口では言えないほど穏やかなよい気持がしましたもの。どうしてわたしを現実に連れ戻してしまったんですの?」
「死ぬときは二人一緒にと思ったからだよ。われわれは長年一緒に連れそってきた。いよいよこれが最後というときに、別れ別れになってしまうのはさぞ辛かろうと思ってね」
一瞬、その優しい声の中に、わたしはまったく新しいチャレンジャーの一面を垣間《かいま》見た。それは同時代人を時には驚愕させ、時には憤慨させてきた、片意地で、暴言癖のある、尊大なチャレンジャーとは、およそ別人の感のある一面だった。死の影が覆いかぶさったこの場面で、最も奥深く隠されたチャレンジャーの姿、すなわち一人の婦人の愛を獲得し、それを長年にわたって保ちつづけてきた男の真面目《しんめんぼく》が現れたのだ。だが彼の態度は一瞬にして変わり、ふたたびわれわれの力強い隊長に戻っていた。
「この破局を予見し予言した者は、全人類中で一人わしだけしかいない」と彼は言った。その声は科学的勝利の喜びで高鳴っていた。「スペクトル中のフラウンホーファー線のくもりに関するきみの疑問もこれで解決されたろうから、『タイムズ』に載ったわたしの手紙が妄想に基づくものだなどとは、もはや言いだすまいね、サマリー君」
このときばかりはいかに好戦的なサマリー教授といえども、挑戦に対して沈黙せざるをえなかった。茫然とした顔ですわったまま、まだ自分が現実にこの地球上に存在していることを確かめようとするかのように、ひょろ長い手足を恐る恐るのばしてみるだけで精いっぱいだった。チャレンジャーが酸素ボンベに近づき、気体の放出する音はほとんど聞きとれないほど低くなった。
「できるだけ酸素を節約せねばならん」と、彼は言った。
「この部屋の空気はかなり酸素の量が多くなっているから、もう諸君も不快な徴候は感じていないだろう。毒を中和するのにどれだけの酸素を放出すればよいか、それを知る方法は実験だけしかない。今から実験によってその答を見つけだすとしよう」
われわれは無言の緊張の中で五分かそれ以上もすわりつづけ、それぞれの感覚の変化を観察した。ちょうどわたしが、ふたたびこめかみのあたりをしめつけられるように感じはじめたとき、チャレンジャー夫人がソファの上から気が遠くなりそうだと訴えた。彼女の夫がボンベの栓をゆるめた。
「近代科学以前の時代には」と、彼が言った。「すべての潜水艦に白ねずみが飼われていた。彼らのデリケートな生理組織が乗組員より先に空気の汚染に対して反応を示すからだ。この場合はおまえがそのシロねずみの役目をはたしてくれるらしい。ほら、酸素の放出量をふやしたら気分がよくなったろう」
「ええ、さっきより楽になりましたよ」
「たぶん混合の比率はこの程度でよいのかもしれん。必要最小限の量がわかれば、それをもとにしていつまで生きられるかも計算できる。ただ残念ながら、さきほど蘇生に要した分だけで、一本目のボンベの大部分が空になってしまった」
「それがどうかしましたか?」と、両手をポケットにつっこんで窓ぎわ近くに立っていたジョン卿がたずねた。「どうせ死ぬと決まっているのなら、多少生きのびたところでどうということはないはずです。だって万に一つも助かる見込みはないんでしょう?」
チャレンジャーは微笑しながら首をふった。
「だったら背中を押されるまで待たずに、いっそ自分からひと思いに飛びこむほうがいさぎよいとは思いませんか? もしそうすべきだと言うのなら、わたしはいつでもお祈りを唱え、ボンベの口を閉めて窓をあける覚悟ができています」
「それがいいわ」と、夫人は雄々しく意見を述べた。「わたしはジョン卿のおっしゃることが正しいし、そうするほうがずっとよいと思いますよ、ジョージ」
「わしは絶対に反対だ」と、サマリーが怒ったような声で叫んだ。「死ななければならない時がきたらりっぱに死のう。だが故意に死期を早めるのは、実にばかげた、非難すべき行ないだ」
「マローン君はこれをどう思うかね?」と、チャレンジャーがたずねた。
「ぼくは最後まで見とどけるべきだと思います」
「わしもまったく同感だ」と、彼は言った。
「あなたがそうなら、わたしも賛成しますよ、ジョージ」と、夫人が叫んだ。
「そうですか、ぼくはただみなさんの意見が知りたかっただけです」と、ジョン卿。「最後まで見とどけることに衆議一決したら、ぼくも喜んで従いますよ。もちろん大いに興味はあります。ぼくも生まれてこのかた人並みに冒険もし、危険な目にもあってきたが、その点ではなんといっても今度の経験が群を抜いていますからね」
「万一地球上に生命が存在しつづけると仮定して」と、チャレンジャーが言った。
「ばかばかしい仮定だ!」と、サマリー。
チャレンジャーは無言のままとがめるように彼をにらみつけた。それから、ていねいに教えさとすような口調でくりかえした。
「万一地球上に生命が存在しつづけると仮定して、いわゆる精神の次元から物質の次元にかけて、われわれがどのような観察の機会に恵まれるかはだれにも断定できない。物質的諸現象を観察し、判断をくだすのに最も適しているのは、われわれ自身物質的存在である間だということぐらい、人並みはずれて愚鈍な人間にも(彼はここでサマリーにじろりと一瞥《いちべつ》をくれた)明らかなはずだ。したがってわれわれが将来生存をつづける者たちに、われわれの知るかぎり世界または宇宙がかつて遭遇《そうぐう》したなかで最も恐るべき事件の全貌を伝えることを望むならば、そのためにはぜひともこの残された数時間を生きつづけねばならない。いずれにせよこれほどすばらしい経験をみずから好んで何分も縮めてしまうのは、いとも嘆かわしい行為であるといわねばなるまい」
「わしもまったく同感だ」と、サマリーが叫んだ。
「これで話は決まった」と、ジョン卿。「かわいそうに庭にいたお宅の運転手が今あの世に旅立ったところですが、とびだして行ってこの部屋に運びこんでも無駄でしょうね?」
「狂気の沙汰だ!」と、サマリーが叫んだ。
「おそらくそうでしょう」と、ジョン卿。「どうせ彼は助かる見込みがないし、われわれが生きて戻れたとしても、家のまわりに酸素をまき散らすだけで終わってしまう。ほら、あの木の下の鳥を見てください!」
われわれは長く低い窓ぎわに四つの椅子を引き寄せた。夫人は目をつむって長椅子にすわったままだった。ふと、途方もなくグロテスクな考えがわたしの心をよぎったことをおぼえている。われわれ四人は一階正面の特別席で世界のドラマの終幕を観賞しつつあるという考えがそれだった――この幻想は部屋の中のひどいむし暑さのせいでいっそう強められたものかもしれない。
すぐ目の前には、半分だけ手入れのすんだ自動車が見えていた。運転手のオースチンにもついに死の宣告がくだったらしく、倒れるときにステップか泥よけにぶつけたと思われる大きなあざを額にこしらえて、車輪のそばに長々と横たわっていた。片手には洗車に使うホースを握りしめたままだった。庭の隅に小さなスズカケノキが二本立っており、その下にはやわらかい羽毛に覆われた数羽の小鳥が、小さな脚を上向きにして、痛々しく地面に転がっていた。死神の大鎌のひとなぎは、大小を問わず生あるものすべてを刈り倒してしまったのだ。
庭の塀ごしに、駅へ行く曲がりくねった道が見えた。ついさきほど畑から急いで引きあげた農夫たちが、丘のふもとのあたりで折り重なって倒れている。その上のほうでは、子守女が、草のおい茂った土堤《どて》の斜面に頭と肩でもたれかかるようにして横たわっている。乳母車からおろした赤ん坊も、彼女の腕の中で身動き一つしない毛布の塊りとなりはてていた。彼女のすぐそばの道ばたに小さな黒いものが見えているのは、一緒にいたもう一人の男の子らしい。丘の道をさらにわれわれのほうに近づいたところでは、死んだ馬車馬が轅《ながえ》の間で膝を折ってうずくまっている。老人の御者はグロテスクなかかしか何かのように泥よけの上にぶらさがり、顔の前に両手をだらりとぶらさげている。座席にいる若い男の姿を窓ごしにぼんやり見分けることができた。片側のドアが開き、ちょうど外へ飛びおりようとした瞬間に息を引きとったかのように男の手がそのドアの把手《とって》をしっかり握っている。そこからチャレンジャー邸のほぼ中間にゴルフ・リンクスがある。午前中と同じようにゴルファーたちの黒っぽい姿が点々と散らばっているが、もちろん今はコースの芝生やそれをとりまくヒースの野にじっと横たわったままだ。ある一か所のグリーンには、最後までゲームをつづけていた四人組とキャディたちの計八人が倒れていた。青空にはただ一羽の鳥も飛ばず、目の前の広々とした田園を動きまわる人やけものの姿もなかった。夕方の太陽は穏やかな光の矢を投げかけているが、万物を覆いつくす死の静寂と沈黙がそこにはたちこめていた。そして、われわれも間もなくその死に飲みこまれようとしている。今この瞬間は、もろい一枚のガラスが、毒エーテルを中和する酸素をその中に閉じこめることによって、すべての人類を見舞った悲運からわれわれを護っている。あと数時間は、一人の男の知識と先見の明が、広大な死の砂漠の中で、われわれのかぼそい命のオアシスを涸《か》らさずに保ち、全地球的な破局にまきこまれるのを防いでくれるだろう。だが、やがて酸素の量もしだいに減り、われわれもまた桜色の居間の絨毯《じゅうたん》で苦しみもがき、全人類と地球上の生きとし生けるものの運命は、ついに完全な終焉《しゅうえん》を迎えるのだ。われわれは口もきけないほど厳粛な気分で、長い間窓外の悲劇的な世界を見守っていた。
「家が燃えているらしい」と、ようやくチャレンジャーが沈黙を破って、木々の上に立ちのぼる一条の煙を指さした。
「火を持っている最中に倒れた人間も大勢いるだろうから、おそらく方々で火事がおこるだろう――町全体が火に包まれるところもきっといくつかある。現に物が燃えているということは、大気中の酸素の比率は正常であり、異常をきたしたのはエーテルのほうだという事実をはっきり示している。ほら、クローバラ・ヒルの上にも火の手があがった。あれはたしかゴルフ場のクラブハウスだ。教会の時計が時を告げている。人工の機械が、創造者である人類よりあとまで生き残ったことを知ったら、哲学者たちはさぞ喜んだことだろう」
「おや!」とジョン卿が叫び、興奮の面持《おももち》で椅子から立ちあがった。「あの、煙はなんだろう? やっ、汽車だぞ」
まず轟音《ごうおん》が聞こえだし、やがてジョン卿の言う通り、列車がすごいスピードで視界にとびこんできた。いったいそれがどこから、どれだけの距離を走りつづけてきたものか、われわれは知るよしもなかった。ただ何かの奇蹟的な幸運のおかげで、ここまでは無事に走ってきたものらしい。
しかしこの列車の恐ろしい最期が、われわれの目の前で演じられることになった。石炭を積んだ貨車の列が線路上に立ちふさがっていたのである。われわれが思わず息をのむと同時に、急行列車は地響きをたてて同じ線路を突進してきた。すさまじい衝突がおこった。機関車も客車も、はじけとぶ木片とねじまがった鉄片の山となって積み重なった。残骸の一部から火がほとばしり、間もなく全体が焔に包まれた。われわれはこの恐ろしい光景に茫然となって、三十分近い間ほとんど口もきかずにすわっていた。
「気の毒な人たち!」と、ようやくチャレンジャー夫人が叫び、泣きながら夫の腕にすがりついた。
「あの列車に乗っていた客は、衝突した相手の石炭や、今彼らが火に焼かれて姿を変えた炭素と同じように、すでに生命のない存在だったんだよ」と、チャレンジャーがやさしく妻の手を撫でながら言った。「ヴィクトリア駅を出たときは人間の乗った列車だったが、衝突するはるか以前から死人を乗せて死人の手で運転されていたのだ」
「世界中いたるところでこれと同じようなことがおこっているにちがいありません」と、さまざまの異常な出来事を目の前に思い描きながら、わたしは言った。「例えば航海中の船だが――それらはかまの火が消えるまで、あるいはどこかの海岸に乗りあげるまで、とどまることなく走りつづけるはずです。帆船の場合も同じこと――乗組員の死体を積んだまま、やがて船材が腐り、水が漏りはじめて海の底に沈む日まで、風の吹くままに海上を漂いつづけることでしょう。もしかするとこれから一世紀のちにも、大西洋ではそうした幽霊船がたくさん目につくかもしれません」
「それから坑底に潜った炭坑夫たちがいる」と、サマリーが陰鬱に笑った。「今後ふたたび地球上に地質学者が存在することがあるとすれば、彼らは石炭層に人間が住んでいたという珍説をうちたてることだろう」
「ぼくはそういう方面の知識は何もないが」と、ジョン卿が言った。「このあとは地球は『空家』になるような気がします。しかし人類が完全に死滅してしまったら、地球はどうやって元に戻るんですか?」
「地球は以前にも空家だった」と、チャレンジャーがおごそかに答えた。「しかし、はじめはわれわれにも理解できない自然の諸法則の影響で、やがてそこに人間が住むようになったのだ。それと同じ過程がふたたびくりかえされぬと断定はできないだろう」
「まさか本気ではないだろうな、チャレンジャー君?」
「わしは心にもないことを口に出す習慣はないのだがね、サマリー教授。つまらん発言はよしたまえ」
チャレンジャーのひげがぐいと突きだされ、まぶたが重そうにたれさがった。
「きみは頑固な独断家で通してきたが、どうやらその性格は死ぬまで変わらんものと見える」と、サマリーがむっとして言った。
「そういうきみは想像力の欠如した妨害者だが、やはりその悪い癖はなおらんらしいな」
「想像力といえば、きみをどれほど悪く言う人間でも、おそらく想像力が足りないとは言わんだろう」と、サマリーが言葉じりをとらえて皮肉った。
「まったくなんてこった」と、ジョン卿。「おたがいにいがみ合いながら酸素を吸いつくしてしまうなんて、いかにもふだんのお二人にふさわしいが、だいたいふたたび人類が戻ってこようとくるまいと、そんなことはどっちだっていいじゃありませんか。どっちみちわれわれの生きている間にはありえないことなんだから」
「今のその言葉は、はからずもきみの精神の限界をはっきり物語っておる」と、チャレンジャーが辛辣に応酬した。
「真の科学者精神は、それ自身の時間および空間条件に束縛されるものではない。それは無限の未来から無限の過去をへだてている現在の境界線上に、みずから観測所をうちたてる。科学的精神はこの確実な地点から、すべての物事の発端と終末に対して突撃をしかけるのだ。死について言うならば、科学的精神は部署について正常に秩序正しく最後まで任務をはたしながら死ぬ。それ自身の肉体の消滅といったとるに足らぬ事柄は、物質的次元におけるすべての限界を無視するのと同様、完全に無視してしまうのだ。わしの考えはまちがっているかね、サマリー教授?」
サマリーはしぶしぶ同意した。
「もっとも条件つきだがね」と、彼は言った。
「理想的な科学精神というものは」と、チャレンジャーがつづけた。「――あまりにも自己満足に浸りきっていると思われてはおもしろくないから、三人称で話を進めるとしよう――理想的な科学精神というものは、その精神の持ち主が気球から落ちて地上に到達するまでの間にも、一つの深遠な知識を身につける能力を持たねばならない。こうした強い意志の持ち主にしてはじめて、大自然の征服者や真理の擁護者たることができるのだ」
「今度ばかりは大自然のほうが上手《うわて》らしいですよ」と、ジョン卿が窓の外を眺めながら言った。「あなた方科学者が大自然を支配しつつあるという新聞の社説を読んだことがあるが、どうやら自然はその束縛から脱しつつあるようですからね」
「それは一時的な後退にすぎん」と、チャレンジャーが確信を持って答えた。「無限の時の流れにくらべたら、百万年や二百万年はわずか一瞬でしかない。現に植物は生き残っているではないか。あのスズカケノキの葉を見たまえ。鳥は死んだが植物はいっこうに衰えない。湿地帯にはびこる植物の中から、やがて巨大な生命群――現在われわれ五人はそのしんがりをつとめるという変わった任務をはたしつつあるわけだが――の開拓者たるべき微生物が発生するだろう。こうして最も低級な生命形態がいったん地上に確立されれば、人類の出現はカシの木がはえるのと同じように確実なのだ。かくて輪廻《りんね》はふたたびくりかえされる」
「しかし毒は?」と、わたしが質問した。「生命を芽のうちに摘みとってしまうのではありませんか?」
「おそらく毒はエーテル中の一つの層――言ってみればわれわれが漂っている大海に横たわる有毒なメキシコ湾流のようなものにすぎんだろう。あるいは毒に対する耐性が生まれて、生命は新しい条件に適応できるようになるかもしれない。われわれの血液中の酸素の比率がわずかに高くなっただけで、こうして生きていられるという事実は、動物がその毒に耐えるのにさほど大きな変化を必要としない何よりの証拠なのだ」
さきほどまで木々の上に煙を吐きだしていた家は、今や完全に火につつまれ、焔の舌を空中高くふきあげていた。
「実に恐ろしいことだ」と、ジョン卿がいつになく動揺してつぶやいた。
「だからどうだというんです?」と、わたしが言った。
「世界は死に絶えたんです。火葬はうってつけの儀式ですよ」
「もしこの家が火事になったら、ぼくはむしろ一思いに死んでしまうほうがいい」
「わしはその危険を予想して、家内に火の元には十分注意するよう言いつけておいた」と、チャレンジャーが言った。
「火の元は心配ありませんよ、ジョージ。でも頭のほうがまたずきずきしはじめましたわ。なんていやな空気なんでしょう!」
「換気が必要なんだ」そう言ってチャレンジャーは酸素ボンベの上にかがみこんだ。
「ほぼ空っぽに近い。これ一本で約三時間もった計算になる。もうすぐ八時になるところだから、今晩一晩は無事にすごせるだろう。酸素が完全になくなるのは明日の朝九時ごろのはずだ。もう一度だけ心おきなく日の出を眺められる」
彼は二本目のボンベの栓を開いて、ドアの上の扇窓を三十秒ほどあけておいた。やがて室内の空気はめっきり浄化されたが、われわれの症状もさらにひどくなったので、彼はふたたび窓を閉じた。
「ところで」と彼は言った。「人間は酸素だけでは生きられない。夕食の時間はとうにすぎている。わしは諸君を招いて再会の喜びをわかち合おうと思いついたとき、何よりもわが家のすばらしい料理を賞味していただこうと思っておった。しかし、今はあるもので間に合わせるよりほかない。石油ストーブをたいて急速に酸素をつかいはたしてしまうのは気ちがい沙汰だということに、きっと諸君も同意してくれるだろう。今手もとには少々の冷肉とパンとピクルスがある。それに赤ぶどう酒二本があれば、乏しいながらも空腹をみたせるだろう。おまえには心から礼を言いたい――いつに変わらぬ主婦の鑑《かがみ》だ」
実際驚くべきことだが、チャレンジャー夫人は、イギリスの主婦特有の威厳と礼儀正しさをただよわせながら、わずか数分の間に、中央のテーブルを純白のクロースで覆い、ナプキンを配し、中央の電気スタンドを含めた優雅な文明品とともに、つつましい食事をその上に並べ終わった。さらに、われわれの食欲がきわめて旺盛だったことも、これまた驚くべきことだった。
「それはわれわれの感情の尺度なのだ」と、チャレンジャーが言った。恐れ多くもその高貴なる科学的精神によって、食欲などという卑しい問題を解明してくれるらしい。
「われわれは非常な危機を通り抜けてきた。それは分子の混乱を意味している。分子の混乱状態は元に戻す必要がある。深い悲しみや喜びは激しい空腹をもたらす――小説家たちは断食の結果空腹を感じると主張するだろうが、あれは嘘《うそ》だ」
「田舎の人々が葬式のときに大盤ぶるまいをするのはそのためですね」と、わたしは思いきって言ってみた。
「その通りだ。実に適切な例を思いついてくれた。タンをもう一きれどうかね、マローン君」
「蛮族の間でも同じです」と、ジョン卿がビーフを切りながら言った。「ぼくはアルウィミ川の上流で、酋長の葬式をすませた一族が、とてつもなく大きなカバを食うのをみたことがあります。ニューギニア方面には、最後のあとかたづけのために、死者の肉体そのものを食ってしまう連中までいますよ。だがなんといっても、葬式のごちそうとしては、われわれの食べているやつが一番変わっていますね」
「不思議でならないのは」と、チャレンジャー夫人が口をはさんだ。「これだけ人が死んでいるのに全然悲しさを感じないことですわ。ベドフォードにはわたしの両親が住んでおりますけど、きっともう死んでしまったにちがいありません。それなのに、このとてつもない悲劇を目の前にしながら、わたしは個人個人はおろか両親の死にも全然深い悲しみを感じないのです」
「ぼくの年とった母親もアイルランドの田舎家に住んでいます」と、わたしは言った。「ショールを肩にかけ、レース帽をかぶって、目をつむったまま窓ぎわの古ぼけた木の椅子によりかかっている彼女の姿が目に浮かぶようです。そばにはきっと読みさしの本が一冊置いてあるでしょう。だがぼくはどうして彼女の死を悼《いた》まなければならないのか? 彼女はすでに死に、ぼくももうすぐ死にかけている。死後の世界では、イングランドとアイルランドよりもっと近いところで暮らせるかもしれないんですからね。もっとも、愛する母親の肉体がもうこの世に存在しないのだと考えると、いくぶん心は痛みますが」
「肉体について言えば」と、チャレンジャー。「われわれはたとえそれが自分の体の一部であっても、切りはなした爪や髪の毛を悼みはせん。同様に片脚の人間が、なくなった脚をなつかしく思いだすこともない。物質的な意味での肉体は、苦痛と疲労の源泉でしかなかった。それは昔から人間の能力の限界を示すものだった。それなのにわれわれはなぜ肉体と精神の分離についてくよくよ思いまどわなければならないのか?」
「肉体と精神の分離ははたして完全におこりうるものだろうか」と、サマリー。「それにしても全人類の死滅という事実はやはり恐ろしい」
「わしがすでに説明したように、全人類の死は一個人の死にくらべればはるかに恐怖感は薄い」
「戦闘の場合も同じです」と、ジョン卿が口をだした。「胸に一撃をくらい、顔の真中に穴をあけられて床に倒れている一人の男を見れば、おそらく胸はむかつきます。逆にぼくはスーダンで、一万人もの人間が倒れている光景を目撃したが、そんな感情は全然わいてこなかった。なぜなら歴史が作られようとするとき、人間の命などあまりに卑小すぎて気にかけるほどの値打ちがないからです。きょうのように何億という人間が同時に死ぬときは、ある特定の人間の死だけを抜きだして考えることは不可能なんですよ」
「わたしたちも早くおしまいになってしまえばよいと思いますわ」チャレンジャー夫人があこがれるような口ぶりで言った。「ああ、ジョージ、わたしはとても恐ろしいんです」
「いや、いざとなればおまえが一番勇敢な人間であることが証明されるだろう。わしはおまえにとってあいも変わらぬ乱暴な夫でしかなかったかもしれんが、それはG・E・Cの生まれつきの性格であって、自分自身どうすることもできなかったということだけは銘記しておいてもらいたい。結局わしと結婚してよかったと思っているだろうね?」
「この広い世界であなたに勝る人はおりませんとも」夫人は彼の牡牛のような首に両手をまわした。われわれ三人は窓ぎわに歩み寄って、目の前の光景に茫然と見とれていた。
すでに夜の闇がたちこめ、死の世界は薄明の中につつみこまれていた。しかし南の地平線上には深紅の長い縞《しま》が拡がり、生き生きと脈打つようにふくらんだりしぼんだりしていた。突然|紅蓮《ぐれん》の焔となって中天高く吹きあげるかと思うと、やがて火勢が衰え、地上低く這いまわるのである。
「ルゥイスが燃えている!」と、わたしが叫んだ。
「いや、あれはブライトンだ」と、チャレンジャーがわれわれのほうに近づいてきて言った。
「丘陵地帯のなだらかな屋根が火の中に浮きあがって見えるだろう。つまり燃えているのはそれより数マイルも遠いところなのだ。きっとブライトンの町全体が火につつまれたのにちがいない」
ほかにも何カ所か赤い焔の輝きが見え、線路上の残骸の山もいまだに黒煙をふきあげていたが、丘陵地帯の向こうで猛威をふるっている大火にくらべれば、それも針の先で突いたほどの明かりの点にすぎなかった。『ガゼット』の紙面を飾るのに、これ以上の特ダネがまたとあるだろうか! これほどの機会に恵まれながら、それを記事にできないという体験をした新聞記者がかつていただろうか――特ダネ中の特ダネを目の前にしながら、それを読んでくれる人間がただの一人もいないとは! だが、突然、新聞記者の記録本能が頭をもたげた。科学者たちが死の直前まで生涯を賭《か》けた仕事に忠実でありうるとしたら、わたしだって、科学者ほど高級な職業でないにしても彼らに対抗してはいけないはずはあるまい。わたしがこれから行おうとしていることは、おそらく永久に人目にふれる機会がないだろう。しかし、いずれにせよこれから長い一夜をすごさねばならないのだし、少なくともわたしに関するかぎり、眠ることは論外だった。記録をとることによって、退屈を感じたり、よけいな考えで心を悩ましたりせずにすむだろう。かくてわたしはいま目の前にノートブックを拡げている。たった一つしかない電気スタンドのかすかな明かりを頼りに、膝《ひざ》の上で走り書きしたせいで、筆蹟は乱れている。多少とも文学的な筆致が感じられるとすれば、おそらくそれが当時の状況にふさわしかったのだろう。しかし、現実にこの記録は、あの恐ろしい一夜の、長時間におよんだ心の動揺と戦慄を、今もなお読む人に伝えるだけの力を失っていないのではないかと思う。
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四 死にゆく者の手記
わたしのノートの新しいページのはじめに書かれた前記の題が、なんと不思議に見えることか! しかもそれ以上に不思議でならないのは、それを書いたのがほかならぬこのわたし――わずか十二時間ほど前、かくも異常な事件がおこるとは夢にも思わず、ストレータムのアパートを出てきたエドワード・マローンであるということだ! わたしはいま一連の出来事を思いかえしている。マッカードルとの会話、『タイムズ』に載ったチャレンジャーの最初の警告、車中での腑《ふ》におちない行動、楽しい昼食、破局の訪れ、そして今、われわれは人類の死に絶えた地球上に、踏みとどまっている。そして、いずれは自分たちも同じ運命を免れないことを知ったわたしは、新聞記者という職業に伴う機械的な習慣から書き記されただけで、決して人間の目にふれることのないこの文章を、すでに死んでしまった人間、われわれ五人以外の人間が一人残らずそこへ旅立ってしまった影の境界の戸口に立っている人間の言葉として眺めている。真の悲劇は高貴なるもの、善なるもの、美なるものすべてが死滅してしまったあとに取り残されたときにおこるというチャレンジャーの言葉が、いかに賢く、真実を言い当てているかということが、今になってよくわかる。しかしわれわれだけが取り残される危険はまったくない。すでに二本目の酸素ボンベが空になろうとしている。残り少ない命は、ほとんど分まで正確にかぞえられる状態である。
われわれはたった今、チャレンジャーのたっぷり十五分間におよぶ長い演説を聞き終わったところである。興奮して大声を張りあげるチャレンジャーは、かつてクイーンズ・ホールで懐疑派の学者たちを相手に長広舌をふるったときの彼をほうふつとさせた。しかし彼の熱弁にとって、およそこれほど奇妙な聴衆はなかったのではないか。夫人は柔順そのもので、演説の内容については何一つ知りもしないし、サマリーは暗がりにすわって、例のごとくけんか腰で批判的ではあるが、興味深そうに話に聞き入っている。ジョン卿はその場の成行きに退屈したらしく、部屋の隅をぶらぶら歩きまわっていたし、わたし自身は窓ぎわに立って、夢でも見ているような、あるいはなんの個人的関心もない事柄を見るようなぼんやりとした状態で、外の景色を眺めていた。チャレンジャーが化粧室から持ってきた顕微鏡のスライドに電燈の光があたるように、中央のテーブルに位置を占めていた。鏡に反射した白っぽい小さな光の輪が彼のごつごつしたひげだらけな顔の半分を明るく照らし、残る半分を濃《こ》い影の中に沈ませていた。彼は最近最も下等な生命形態の研究に従事していたらしく、目下彼が興奮しているのは、前の日に作成した顕微鏡のスライドの中の、アミーバがまだ生きていることを発見したためだった。
「諸君ものぞいてみたまえ」と、彼は興奮しながらくりかえした。「どうだサマリー君、こっちへきて自分の目でたしかめてみないかね? マローン君、きみならわしの言ったことの証人になってくれるだろうな? 中央に見える小さな紡錘《つむ》形のものは珪藻類《けいそうるい》だ。これは動物というより植物に近いものだから問題にせんでもよかろう。だが右手のほうに見えるのは、疑いもなくアミーバだ。ほれ、スライドの上をのろのろと動きまわっているだろう。上のねじが調整用だ。自分でのぞいてみたまえ」
サマリーがいやいや応じた。わたしも言われた通りにして、丸い光のスポットの中のねばねばした液体を横切って泳いでいる、すりガラスでできているような感じの微生物を認めた。ジョン卿は自分の目で見ないうちから彼の言葉を信じる気になっていた。
「ぼくはアミーバが生きているか死んでいるかなんてことで頭をわずらわしたくありません」と、彼は言った。「どうせアミーバと人間とでは顔見知りになれる気づかいなどないんだから、そいつの顔をおぼえておく必要もないでしょう。まさかアミーバが|われわれ《ヽヽヽヽ》の健康を気づかってくれているとは思えませんからね」
それを聞いてわたしがふきだすと、チャレンジャーが冷ややかにわたしをにらみすえた。そのときほどびっくりしたことはない。
「なまはんかな学のある人間の軽薄さは、無知な人間の鈍感さよりも、科学にとってはるかに有害だ。もしジョン・ロクストン卿がわしの頼みをきいて――」
「ジョージったら、あんまり腹を立てないでくださいな」と、夫人が顕微鏡の上に落ちかかる夫の黒い髪を手でおさえながら言った。「アミーバが生きようが死のうが、そんなことはどっちだっていいじゃありませんか」
「どっちでもよくはない」と、チャレンジャーが不機嫌に言いかえした。
「ではお話をうかがいましょう」と、ジョン卿がからかい気味に言う。「どっちみち何か話さなくちゃならんのなら、むしろアミーバの話のほうがいい。ぼくがアミーバに冷淡だったとか、そいつの感情を傷つけたとお考えなら、いさぎよくあやまりますよ」
「わしに言わせれば」と、サマリーがけんか腰のきいきい声で割りこんできた。「アミーバが生きていることをきみがなぜそれほど重要視するのかとんとわからん。そいつはわれわれと同じ空気の中にいるから、毒の影響を受けないのはむしろ当然だ。もしこの部屋から外に出せば、ほかの動物たちと同じように死んでしまうだろう」
「いいかね、わが友サマリー君」と、チャレンジャーが妙に下手《したて》に出た。(ああ、反射鏡の明るい光の輪に照らされた彼の尊大な顔を、絵にかいてお目にかけられたらわたしも本望なのだが!)「今の発言から察するに、きみは状況がよくのみこめていないらしい。この標本はきのう作ったものだが、完全に密封されている。したがってこの部屋の酸素が入りこむ隙間はない。しかし、もちろんエーテルだけは、宇宙の隅々まで侵入するように、この標本の中にも入りこんでいる。つまりアミーバはエーテル毒におかされずに生き残ったのだ。したがってこの部屋の外にいるすべてのアミーバも、きみが考えたのとちがって、実は死なずに破局を乗り越えたと断言してさしつかえない」
「しかし、ぼくはまだそのことに喝采《かっさい》を送る気になれませんね」と、ジョン卿が言った。「生き残ったことがそれほど重要なんですか?」
「重要だとも。なぜなら地球はまだ死滅していないことになるからだ。もしきみに科学的想像力というものがそなわっていれば、この事実から前に目を向けて、今から数百万年後に――それでも永遠の時の流れから見ればほんの一瞬にすぎないのだが――このアミーバという小さな根から芽をふいた動物や人間が、ふたたび地球上に充満するさまを思い描くことができるはずだ。きみは野火を見たことがあるだろう。焔は地表の草木を一本残らず焼きはらってしまい、あとに残るのは黒焦げの荒地だけだ。きみはこの土地が永久に荒野と化してしまうにちがいないと思う。ところが焼けあとには植物の根が残っており、きみが数年後にそこを通りかかったとすれば、黒焦げの焼け野原がどこだったか全然わからなくなっている。このちっぽけな生物の中にも、それと同じ動物界の根がひそんでいて、固有の発達と進化により、われわれをまきこんだこの想像を絶する危機の痕跡を、やがて完全に拭い消してしまうのだ」
「面白い話だ!」とジョン卿が言い、テーブルに近づいてきて顕微鏡をのぞきこんだ。「このちっぽけな生物が、人間の祖先の第一号というわけか。大きなワイシャツの飾りボタンのようなものを背負っていますよ!」
「黒っぽく見えるのはアミーバの細胞核だ」と、チャレンジャーが幼児に文字を教える子守女のような口ぶりで言った。
「こうなるとわれわれも孤独を感じる必要はない」と、ジョン卿が笑いながら言った。「地球上にはわれわれのほかにもだれかが生きているんですからね」
「きみは地球が作られた目的は、人類の発生をうながし、その存在を維持してゆくことにあるときめてかかっているようだな、チャレンジャー君」と、サマリーが言った。
「では、きみは地球がどんな目的のために作られたと思うかね?」チャレンジャーはごくわずかな矛盾も見のがすまいと神経をとがらせながら反問した。
「わしは時どき思うのだが、地球という舞台は人類がその上を気どって歩きまわるために作られたとする考えが、実は人類のとんでもないうぬぼれではないかと心配になることがある」
「その点についてはなんとも断定できないが、少なくともきみの言うとんでもないうぬぼれというやつを抜きにしても、なおかつ人類がこの地球上で一番の高等生物であることはまちがいない」
「もちろんそれは万人の認める事実だ」
「言うまでもないことだ」
「無生物状態の地球――あるいは無生物とは言わないまでも、少なくとも人類の痕跡をとどめない地球が宇宙空間を歩みつづけた何百万年、何兆年という時間を考えてみたまえ。この無限の時間を通じて、地球は雨に洗われ、太陽に灼かれ、風に吹きさらされつづけてきたのだ。ところが地質学的時間の観念から言えば、人類はついきのうから地球上に存在しはじめたにすぎない。だとしたら、それ以前の長い準備段階がすべて人類の出現のためのものだなどと、軽々しく断定できるものかね?」
「ではいったいだれのため――なんのための準備というのだ?」
サマリーが肩をすくめた。
「そんなことがどうしてわれわれにわかるかね? われわれには測り知れない何かの理由があるのかもしれないし――人類の出現は単なる偶然、発展の過程にまぎれこんだ副産物かもしれないではないか。きみの考えは、いわば海面に浮かぶ水の泡《あわ》が、海は自分を作りだし維持するために存在していると考え、寺院に巣くうねずみが、この建物は最初から自分の住居と定められていると決めこんでしまうようなものだ」
わたしはこれまで彼らの論争を逐語的に書きとめてきた。しかし、今はその論争が、長ったらしい専門用語をつらねた騒々しい応酬と化してしまった。二人の偉大な学者が最も高級な問題について議論し合うのを傍聴する機会に恵まれたことは、疑いもなく一つの特権だが、二人の意見がことごとに対立するので、ジョン卿やわたしのような門外漢にはほとんどはっきりしたことがわからない。結局論争は行きづまり、騒々しい言葉のやりとりもしずまった。サマリーは椅子の上で背中を丸め、チャレンジャーはあいかわらず顕微鏡の調節ねじをまさぐりながら、嵐のあとの海のように、低くこもった不明瞭な呟《つぶや》き声を漏らしつづけていた。ジョン卿はわたしのそばに近づいてきて、二人で夜の景色を眺めた。
空には青白い新月がのぼり――人間の目が見る最後の月だ――星が明るい輝きを放っていた。南アメリカの高原の住んだ空気の中でも、これほど明るく輝く星を見たことはなかった。おそらくエーテルの変化が光になんらかの影響を与えたのだろう。ブライトンの火葬は依然として勢いが衰えず、遠い西の空にも赤い斑点が浮かびあがっていた。アランドルかチチスター、あるいはポーツマスあたりで火事がおきたのだろう。わたしは腰をおろして瞑想にふけりながら、時おりノートに書きこみをつづけた。空気中には快い憂鬱がただよっている。青春、美、騎士道精神、愛――そういったものすべてが今終わりを告げようとしているのだろうか? 星明りに照らされた地球は穏やかな安らぎにみちた夢の国のように見える。そこが人類の死体の積み重なった|受難の地《ゴルゴタ》であると、だれに想像ができようか? わたしは突然衝動的に笑いだしていた。
「おいおい、マローン君!」と、ジョン卿が驚いてわたしのほうを見ながら叫んだ。「苦境に陥ったときに笑いを求める気持はわかるが、いったい何がそんなにおかしいんだ?」
「さまざまな未解決の大問題を考えていたんですよ」と、わたしは答えた。「われわれがおびただしい努力を傾注し、熟慮を重ねてきた問題です。例えば英独の対立――あるいはうちの部長がひどく神経をとがらしていたペルシア湾問題ですがね。われわれがさかんにいらだったり憤慨したりしていたころ、結局こういう形で解決がつくとだれが想像したでしょうか?」
われわれはふたたび沈黙した。おそらく各人が一足先きに死んだ友人たちに思いをはせていたのではないかと思う。チャレンジャー夫人はしめやかにすすり泣き、夫は彼女に何事かささやきかけていた。わたしの心に浮かんでくる人々はまったく信じられないことだが、みな庭にいるオースチンのように血の気をなくし硬直して横たわっている。例えばマッカードルだが、彼は倒れた瞬間そのまま、片手に受話器を握りしめて机にうつ伏せになっているにちがいない。主事のボーモントも、彼の聖域をいろどる青と赤のトルコ絨毯の上に横たわっていることだろう。それから編集室の同僚たち――マクドナ、マレー、ボンド、彼らもまた鮮烈な印象や不思議な事件をいっぱいに書きとめたノートブックを手にしながら、仕事に没頭しつつ死んでいったにちがいない。だれそれは医者へ、だれそれはウェストミンスター寺院へ、また別のだれそれはセント・ポール寺院へと、取材のために派遣された光景がまざまざと目に浮かぶ。息を引きとる瞬間に彼らは決して印刷されることのない輝かしい見出しの列を、ありありと思い描いたことだろう! 医者の意見をたずねたマクドナは、きっとこういう見出しを書いたことだろう。『ハーレー・ストリートに|望み《ホープ》』――マクドナは昔から頭韻を踏まなければ気のすまない男だった。『ソーレー・ウィルソン氏と会見』『最後まで望みをすてるな――高名なる専門家の弁』『わが社の特派員が訪問したとき、この著名な科学者は屋上に避難していた。恐慌をきたして押し寄せる患者の群を避けるためである。彼は事態の重要さを十分理解していることをはっきり態度に示しながらも、すべての希望が閉ざされたとは頑として認めなかった』マクドナならこんな調子で書きだすだろう。それからボンド、彼はセント・ポール寺院を担当したにちがいない。常々文学的なタッチに自信を持っていた男だ。まったく、これほど彼にふさわしい題材がまたとあろうか! 『巨大なドームの下の狭い特別席に立って、それまで頑《かたく》なに拒みつづけてきた神の強大な力の前にひれ伏す、絶望的な人々の群を見おろしていると、やがて動揺した群衆の間から、哀願と恐怖の低いうめき声と、神に救いを求める震えをおびた叫びが湧きおこって――』とまあこういった調子だろう。
事実新聞記者にとって、これほどすばらしい題材はない。たとえわたしの場合のように、結局は宝の持ちぐされで終わるとしてもである。このような記事のおしまいに、『J・H・B』と署名を載せるためなら、ボンドはひきかえにどんなものでも投げだすだろう。
だが、わたしはなぜこうも無駄なことを書きつづけているのか。つまるところは時間つぶしにすぎない。チャレンジャー夫人は奥の化粧室に引きこもってしまった。教授に聞けば彼女はそこで眠っているという。彼自身は中央のテーブルにすわってノートをとったり本を調べたりしている。まるで数年ごしののんびりした研究に取り組んでいるかのようだ。彼はひどく耳ざわりな音のする鵞ペンを使っていたが、その音は意見を異にする人間に向かって侮辱を投げつけているような感じだった。
サマリーは椅子で眠っており、時おりひどくかんにさわるいびきをかく。ジョン卿は両手をポケットに入れ、目を閉じて横になっている。こんな状況で眠れる人の神経が、わたしには理解できない。
午前三時三十分。何かに驚いて目をさましたところだ。ノートに最後の書きこみをしたのは、昨夜十一時五分すぎだった。時計のねじをまいて時間をたしかめたことをおぼえている。つまり残されたわずかな時間のうち、およそ五時間ほど無駄にしてしまった計算だ。信じられないことだが、前よりもずっと気分はすがすがしく、死を迎える覚悟もできていた――というより、自分自身にそう思いこませようとつとめた。しかしながら、人間は健康であればあるほど、生命の潮が高まっていればいるほど、死を恐れる気持が強まるものらしい。自然の配慮はいかに慎重で慈悲にみちていることか! おかげで人間が現世に投じた錨《いかり》は、本人も気がつかないほどかすかな力の積み重ねによって引きあげられ、やがて彼の魂は、かりの住まいである現世の港から、かなたの大海へとさまよい出て行くのである。
チャレンジャー夫人はまだ化粧室にこもったままだった。教授もすでに椅子の上で眠っている。実際それは見物《みもの》だった! 巨大な図体で椅子の背にもたれかかり、大きな毛むくじゃらの手をチョッキの胸で組み合わせ、襟《えり》から上は豊かにもつれたひげの先端しか見えないほど顔をふんぞりかえらせている。いびきに合わせて全身が小刻みにふるえていた。チャレンジャーの豊かなバスに、時おりサマリーのかんだかいテノールのいびきがからむ。ジョン卿もまた、長い体を籐椅子の中でえびのように折り曲げて眠っている。夜明けの冷えきった明かりがしのびやかに部屋の中にさしこみ、すべてが悲しみに沈んだ灰色一色に染まっていた。
わたしは窓から日の出を眺める――今後人類の死に絶えた世界を照らしつづける不吉な日の出だ。人類は一日にして死滅したが、惑星は依然として運行をつづけ、潮は干満をくりかえし、風はささやき、自然はアミーバのはてにいたるまで、かつて創造の主を自称した人類が、みずからの存在によって宇宙に祝福を与え、あるいは呪《のろ》いを投げつけたことなどまるで知らぬげに、悠々とおのれの道を歩みつづけている。眼下の庭にはオースチンがぶざまに手足をのばして倒れている。顔は夜明けの光に照らされて白々と浮きあがり、硬直した片手からはホースの口が突きでたままだ。かつては意のままに動かすことのできた機械のそばに力なく横たわっている。なかば滑稽でなかば悲劇的なこの人物の中に、全人類の運命がいみじくも象徴されていた。
わたしがそのときに書いた手記はここで終わっている。それ以後におこった事件はあまりにもめまぐるしく、ショックが大きすぎて、とても書きとめておく余裕はなかったが、その記憶だけは細部にいたるまではっきり残っている。
妙に息苦しさを感じて酸素ボンベに視線を向けたとき、わたしは自分の目を疑った。われわれの命の砂は間もなく底をつきかけていた。夜の間にチャレンジャーが四本目のボンベの栓をゆるめていたのである。四本目のボンベももうすぐ空になることは明らかだった。恐ろしい息苦しさが押し寄せてくる。わたしは走って部屋の隅にたどりつき、ノズルを四本目から最後のボンベに移しかえた。そうしながらも、わたしは良心の呵責《かしゃく》を感じていた。なぜなら、今ここで手をとめさえすれば、ほかの四人は眠りながら死ねるのだという考えが心に浮かんでいたからである。しかしながら、この考えは奥の部屋で叫ぶ夫人の声によって追い払われた。
「ジョージ、ジョージ、息がつまりそうだわ!」
「大丈夫ですよ、奥さん」とわたしが答えたとき、ほかの連中が叫び声に驚いて目をさました。「今新しいボンベの口をあけたところですから」
こんな重大な場面でさえ、チャレンジャーを見て笑いださずにはいられなかった。毛むくじゃらの大きな握りこぶしで目をこすっているところは、眠りからさめたばかりのひげをはやした大きな赤ん坊といった図だったからである。サマリーは自分の置かれた立場に気がつくと、悪寒《おかん》に襲われでもしたかのように全身をふるわせ、一瞬科学者らしい自制心を失ったかに見えた。それに比してジョン卿のほうは、狩猟の朝の目ざめのように冷静で機敏だった。
「五本目すなわち最後のボンベだ」と、彼は言った。「ねえマローン君、きみはまさかずっと目をさましたまま、膝の上でノートをとりつづけていたわけじゃないんだろうね」
「いや、時間つぶしに少々書いただけですよ」
「まあ、アイルランド人でなければとてもそんな真似《まね》はできんだろう。例のアミーバ君が成長するまで待たなければ、きみの読者は現れんのだからな。今のところはやっこさん何を見てもあまり興味がないらしい。ところで教授、あなたの見通しはいかがですかな?」
チャレンジャーは窓の外の風景を覆う濃い朝霧を眺めていた。この霧の海の中から、円錐形の島のように、森に覆われた丘がところどころ頭をのぞかせている。
「これが経帷子《きょうかたびら》になるかもしれませんわ」と、部屋着にくるまって姿を現したチャレンジャー夫人が言った。「あなたのお気に入りの歌にもありますよ、ジョージ。『鐘を鳴らして古いものを送りだし、新しいものを迎え入れよう』ってね。まるでこの状態を予言しているような文句ですわ。でもかわいそうにみなさんはふるえていらっしゃる。わたしだけ一晩中ぬくぬくとふとんにくるまっていたのに、みなさんは椅子で冷えきってしまったんですものね。でも今すぐ楽にしてさしあげますよ」
この尊敬すべき小柄な夫人が急いで姿を消すと、やがて湯わかしの煮えたつ音が聞こえてきた。間もなく彼女は湯気のたつココアのカップを五つ盆にのせて運んできた。
「これをお飲みなさい。ずっと楽になれますよ」
われわれは熱いココアをすすった。サマリーがパイプに火をつける許可を求め、ほかの三人も紙巻き煙草を吸った。おかげで気持は落ちついたような気がしたが、これはまちがいだった。ただでさえ汚れた部屋の空気がなおさら汚れてしまったのである。チャレンジャーは扇窓をあけざるをえなかった。
「あとどれぐらいもちますかね、チャレンジャー教授?」と、ジョン卿が質問した。
「三時間、というところだろうな」と答えて、教授は肩をすくめた。
「さっきまではとてもこわかったけど」と、チャレンジャー夫人。「いよいよ近づいてきたら、ずっと簡単なことのような気がしてきましたわ。お祈りをするほうがいいんじゃないかしら、ジョージ?」
「おまえが祈りたいのならそうするがよい」と、大男はたいそう優しい口調で答えた。「みんなそれぞれの祈り方を持っている。わしの場合、運命がさしむけたものに喜んで黙従することがそれだ。最高の宗教と最高の科学がその点で結びつくような気がするのだ」
「わしは自分の精神的態度を黙従などという言葉で説明したくないし、ましてや喜んで従うことはわしの本意ではない」と、サマリーがパイプをくわえたままで反論した。
「やむをえないから屈服するだけのことだ。正直なところもう一年は生きのびて、白亜層化石の分類を完成させたいと思っておる」
「きみのその研究は、たとえ完成したところで、わしの大事業《マグナム・オプス》である『生命の階梯《かいてい》』の研究がようやく端緒についたばかりという事実にくらべれば、いたってささやかなものでしかない」と、チャレンジャーは尊大な口ぶりで言った。
「わしの頭脳、読書、経験――実際のところユニークな知識のすべてが、この画期的な研究書の中に盛りこまれるはずだった。それにもかかわらず、わしはさっきも言ったように、あえて運命に黙従するつもりなのだ」
「われわれにはみなそれぞれやり残した仕事があると思うが」とジョン卿。「マローン君、きみの場合それはどんなことかな?」
「書きかけの詩集があります」と、わたしは答えた。
「とにかく世間はきみの詩集を読まされないですんだわけだ。どんな不幸にも探せば何かしら埋め合わせがあるものだな」
「あなたはどうです?」
「実はたまたま身辺を整理して旅立つ準備をしていたところだ。この春メリヴェールとチベットへ白ひょうを撃ちに行く約束をしていたんでね。でも奥さん、このりっぱな家が建ったばかりのあなたには、ほんとにお気の毒ですね」
「ジョージのいるところなら、どこでもわたしの家ですわ。でも、新鮮な朝の空気を吸いながら、二人で美しい丘の上へ最後の散歩を楽しむことができたら、何を投げだしても惜しくはないのに!」
われわれの心は彼女の言葉に強く共鳴した。太陽が薄絹のような霧を通してぱっと輝き、はてしない南イングランドの野を金色に染めた。暗い有毒な空気の中で、その清潔で輝かしい、風に吹きさらされた田園風景は、まるで夢のような美しさをたたえていた。チャレンジャー夫人がその眺めにあこがれるように片手をさしのべた。われわれは窓ぎわに椅子を引き寄せて、半円形に腰をおろした。息苦しさはますますひどくなっていた。死の影はわれわれ――人類最後の生存者の上にも覆いかぶさりつつあるように思えた。それは四方に垂れさがる目に見えないカーテンに似ていた。
「このボンベはあまり長もちしないようだな」と、ジョン卿が苦しそうに息をしながら言った。
「圧搾してボンベにつめたときの圧力と管理によって、それぞれの容量に差があるのだ」と、チャレンジャーが説明した。「なるほどこのボンベは内容が少ないようだな、ロクストン君」
「したがってわれわれに残された時間は計算より少なくなるわけだ」と、サマリーが苦々しげに言った。「われわれが生きてきたさもしい時代の実体を示す最後の好例がここにある。さて、チャレンジャー君、いよいよ肉体の消滅という現象を研究する絶好の機会が訪れつつあるようだ」
「わしの膝の前に腰掛けを持ってきてすわりなさい。そして片手をわしにあずけるのだ」と、チャレンジャーが夫人に言った。「どうだろう、諸君、この耐えがたい息苦しさの中でこれ以上我慢しつづけるのは賢明じゃないと思うのだが。おまえはきっとそれを望むまいな?」
夫人は低いうめき声をあげて夫の膝に顔を埋めた。
「冬のサーペンタイン〔ハイド・パークにあるまがりくねった池〕で泳いでいる連中を見たことがありますよ」と、ジョン卿。「みんなが水に入ったあと、一人か二人岸に残って、すでに水の中にいる仲間を羨ましそうに眺めながらふるえているやつがいました。つまり一番最後に残った者が一番辛いんですね。いっそひと思いに水へとびこんで、この苦しみを終わらせてしまいましょう」
「窓を開けてエーテルを呼び入れようというのかね?」
「窒息して死ぬよりは毒で死ぬほうがましです」
サマリーはしぶしぶうなずいて、痩せた片手をチャレンジャーのほうにさしのべた。
「きみとはよくけんかをしたが、それもすべて終わりだ。おたがいに心の底では友情と敬意を抱いていた。いよいよお別れだな」
「さようなら、マローン君!」と、ジョン卿が言った。
「窓はしっくいで固めてあるから、簡単にはあきそうもない」
チャレンジャーが立ちあがって夫人を助けおこし、しっかりと胸に抱きしめた。夫人は彼の首に両手をまわした。
「双眼鏡をとってくれたまえ、マローン君」と、彼は厳粛な口調で言った。
わたしは言われた通りにした。
「われわれを造りたもうた神の手に、ふたたびこの肉体を返すのだ!」彼は朗々たる声で叫び、双眼鏡を窓に投げつけた。
ガラスの破片の飛び散る音がまだおさまらないうちに、力強くさわやかな風がわれわれの頬を撫でた。
驚きのあまり口もきけずに坐っているうちに、どれぐらいの時間がたったろうか。やがて、夢見心地の中で、ふたたびチャレンジャーの声を聞いた。
「大気は正常に戻った」と、彼は叫んだ。「地球は毒ベルトを脱したのだ。しかし生き残った人間はわれわれだけしかいない」
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五 死せる世界
わたしはその場の光景を今でもありありとおぼえている。海のほうから吹いてくる湿りをおびた冷たい南西の微風が、茫然として椅子に座りこんでいるわれわれの頬を冷やし、モスリンのカーテンを揺り動かしていた。そうやってどれぐらいの間すわっていたろうか! あとでそのことを話し合ってみたが、各人の意見はまちまちだった。みな混乱し、自失し、意識もなかばもうろうとしていた。ありったけの勇気をふるって死にそなえていたのだが、この恐ろしい新事実――同胞がすべて死に絶えたあともなお生きつづけなければならないという事実は、まるで肉体に痛棒をくらったようなショックでわれわれを襲い、無力にしてしまった。やがて中断していた機能がふたたび徐々によみがえってきた。記憶が戻り、思考がまとまるようになった。過去、現在、未来の関連――これまでの生活と、これからつづけなければならない生活が、生き生きとした、容赦ないあざやかさで目の前に浮かびあがる。恐ろしい思いに打ちひしがれて無言で仲間の顔を見まわすと、みな同じことを考えているらしい表情が読みとれた。目前に迫った死からかろうじてのがれた人々が感じてもいいはずの喜びのかわりに、暗い憂鬱の波が全員を押しつつんでいた。われわれが愛したものすべてが、限りない未知の大洋へと洗い流されてしまい、われわれだけが、友も希望もあこがれもないまま、地上の孤島に置き去りにされてしまった。これからの数年間、ジャッカルのように人類の墓場をうろつきまわるうちに、やがて遅ればせながらわれわれの上にも孤独な死がふりかかってくるのだ。
「恐ろしいことだわ、ジョージ。ほんとに恐ろしいことだわ!」と、夫人が悲痛なすすり泣きとともに叫んだ。「わたしたちもみんなと一緒に死ねたらよかったのに! ああ、なぜわたしたちを助けたりしたんです? まるで死んだのはわたしたちで、ほかの人たちはみな生きているような気がしますわ」
チャレンジャーは濃い眉毛を寄せて熱心に考え事をしながら、大きな毛深い両手で前にさしだされた夫人の手をつつみこんだ。彼女は何か困ったことがおきると、子供が母親にするように、いつも夫のほうに腕をさしのべるのだった。
「わしは無抵抗主義を標榜する運命論者ではないが」と、チャレンジャーが言った。「最高の知恵は現実を受けいれることにあると常に考えている」話し方はゆっくりと落ちついていたが、その朗々たる声からは気持の動揺が明らかに読みとれた。
「わしは絶対に受けいれん」とサマリーが断固とした口調で反駁した。
「あなたが受けいれようといれまいと、大勢に影響はないと思うんですがね」と、ジョン卿が意見をさしはさんだ。
「抵抗しながら受けいれるにしても無抵抗で受けいれるにしても、いずれ行きつくところは同じなんだから、とやかく言ってみてもはじまらんでしょう。第一ぼくの記憶では、こうなる前にわれわれがだれかから現状の容認をしいられたことなどないんだし、ましてや今となってはそんなやつが現れるはずもありません。だから各人がそれをどう考えようと、実際には大したちがいがないわけですよ」
「幸福と不幸では大きな違いがある」と、チャレンジャーが言った。放心したような顔で、依然として夫人の手を軽く撫でている。「流れにのって泳いでいれば心は穏やかだが、流れに逆らえば苦しい思いをし、疲れるばかりだ。これはわれわれの力ではどうにもならん問題だから、現実は現実として受けいれ、これ以上の無駄な議論はやめようではないか」
「しかし、われわれの生活はどうなってしまうんでしょうか?」と、わたしは絶望して雲一つない青空に訴えた。
「例えばこのぼくはどうすればいいのか? 新聞なんてものはなくなってしまったから、ぼくは飯の食いあげですよ」
「射撃や兵役もなくなってしまったから、ぼくだってもう何もすることがない」と、ジョン卿。
「生徒がいないことには教師はつとまらん」と、サマリーが叫んだ。
「でもわたしには夫と家があります。だからまだわたしの役目が残っていることを神に感謝しますわ」と、チャレンジャー夫人が言った。
「わしにもまだ仕事が残っている」と、チャレンジャーが同調した。「科学はまだ死んでいないし、この悲劇自体が多くの興味深い研究課題を提供することだろう」
彼はすでに窓という窓をあけはなしており、われわれはそこから静止した沈黙の世界を眺めていた。
「ところで」と、彼はつづけた。「地球が完全に毒ベルトに突入したのは、きのうの午後三時、あるいはそれよりちょっとあとだった。今はちょうど九時だが、問題は地球がいつそこから脱出したかということだな」
「夜明け方は空気が汚染していました」と、わたしが言った。
「もっとあとまでそうでしたわ」と、チャレンジャー夫人が言った。「八時ごろまでは最初に感じた息苦しさがはっきり残っておりましたもの」
「とすると、八時直後に脱出したと考えていいだろう。つまり地球は十七時間毒エーテルに浸っていたことになる。その間に偉大なる庭師は、彼の果実の表面に繁殖した人間というカビを死滅させてしまったのだ。消毒が不十分で、われわれ以外にも生存者がいるということは考えられるだろうか?」
「ぼくもそれを考えていたところです」と、ジョン卿が言った。「無数にある浜辺の小石の中で、何もわれわれだけが残らなくたっていいでしょう」
「ほかにも生存者がいるという考えはばかげておる」と、サマリーが確信ありげに言った。「ここにいるマローン君がいい例だ。牡牛のように力強く鈍感な彼が、階段をのぼりきる前に意識を失って倒れてしまうほどの猛毒だった。十七時間はおろか十七分でも抵抗できた人間がいるとは考えられん」
「チャレンジャー教授のような人がほかにもいて、このことを予想し準備していたとしたら?」
「おそらくそういうことはありえないだろう」チャレンジャーは得意そうにひげを突きだし、まぶたをたるませた。
「この危機を予見させた観察と推論と先見の明ある想像力を持つ人間が、同じ時代に二人も存在するとは考えられん」
「すると、きみの結論は、ほかに生存者は一人もいないということなのかね?」
「ほぼ疑問の余地のないところだ。しかしながら、毒は下から上に向かって作用していったこと、したがって大気の上層へ行けば行くほど毒性が薄れたかもしれないということを忘れてはならん。実際不思議な現象だがそうとしか考えられん。ともかくこれは将来の興味ある研究課題だ。したがってもし生存者を探すとすれば、海抜何千フィートもの高さにあるチベットの村かアルプスの農家あたりに一番見込みがあるということも考えられる」
「しかし、鉄道も汽船も動いていないとなると、それは月の生存者を探すのと変わりありませんね」と、ジョン卿が言った。「それよりもぼくが知りたいのは、これがほんとに終わったのか、それともまだ途中なのかということですよ」
サマリーが細い首をのばして地平線上を眺めまわした。それから、あまり自信のなさそうな声で、
「この通り空気は澄んでいる。だがきのうもそうだった。まだ完全に終わったと断言はできん」
チャレンジャーが肩をすくめて言った。
「われわれはふたたびさきほどの運命論に立ち戻る必要がある。地球が以前にもこれと同じことを経験しているとすれば、そしてそれはかならずしもありえないことではないが、少なくとも非常に遠い昔だろうということは想像がつく。したがってふたたび同じことがおこるとしてもずっと先きのことだと言っていい」
「それはよかった」と、ジョン卿。「しかし地震には揺りかえしというやつがありますよ。だから今のうちに思いっきり脚をのばして、たらふく空気を吸っておくほうがいいと思います。酸素の蓄えもつきてしまったから、このつぎは部屋の外も中もありませんからね」
不思議でならないのは、過去二十四時間の感情の激動に対する反動として、どうしようもない無気力状態が襲ってきたことだった。それは精神と肉体の両方を覆いつくす底深い感覚で、何がどうなってもかまわないし、何をしても無駄でわずらわしいだけだという気持をおこさせるものだった。チャレンジャーまでがそうした状態におちいり、両手で大きな頭を抱えて椅子にすわりこんだまま、あらぬかたに思いをはせている始末で、ジョン卿とわたしが両側から手をとって引きおこしたときも、よけいなことをするなといわんばかりにじろりとにらみすえ、猛犬のような唸り声を発したものだ。しかしながら、いったん狭苦しい避難所から広い住みなれた大気の中へ出ると、しだいに正常なエネルギーがよみがえってきた。
しかし、われわれはこの世界の墓場の中でいったい何から手をつけたらよいのか? 世界のはじまり以来、このような難問に直面した人間がいただろうか? われわれの将来の物質的必要、あえていうならばぜいたくまでが保証されていたことは確かである。食糧、ぶどう酒、美術品、すべては選りどり見どりだった。だがわれわれは何をなすべきか? いくつかの手近な仕事がただちに心に浮かんだ。まず台所へ降りて行って、二人の召使をきちんとベッドに横たえてやった。一人は暖炉のそばの椅子で、もう一人は洗い場の床で、ともに苦しむことなく死んでいったらしい。それからかわいそうなオースチンを庭から運び入れた。全身の筋肉が過度の死後硬直で板のようにこちこちになり、組織がひきつって口が笑うように歪んでいた。これは毒で死んだ人間に共通する微笑だった。どこへ行ってもこのひきつった笑いにぶつかった。彼らはわれわれの置かれた恐ろしい立場をあざ笑い、人類の不運な生存者に対して、無言のうちに陰惨な笑いを投げかけているようだった。
「ねえ、みなさん」と、ジョン卿が言った。食堂で食物をわかち合って食べているとき、彼だけは落ちつきなく行ったりきたりしていた。「みなさんはどう思っているか知らないが、ぼくはこうして何もせずにすわっていることに我慢がならないんですよ」
「では、どうしろというのかね?」と、チャレンジャーが質問した。
「ここから出て、外の様子を見ようじゃありませんか」
「わしもそれを提案しようと思っていたところだ」
「このちっぽけな田舎村のことじゃないんです。それならここの窓からでも見えますからね」
「では、どこへ行こうというのかね?」
「ロンドンです!」
「よかろう」と、サマリーが大声をあげた。「きみなら四十マイルの道のりに耐えられるかもしれんが、心配なのはチャレンジャー君だ。なにしろこのずんぐりした短い脚ではね。もちろんわしのことなら心配はいらん」
チャレンジャーはひどく腹を立てていた。
「自分自身の肉体的特徴に批評を限定することができたら、きみ自身こそ批評の種には事欠かぬことがわかるんだがね」
「きみを怒らせるつもりは毛頭なかったのだよ、チャレンジャー君」と、気のきかない教授先生は弁解した。「自分の肉体に関してきみにはなんの責任もない。天がきみに対してずんぐりした体を与えたのなら、脚が短いのはむしろ当然すぎることではないか」
チャレンジャーは激怒のあまり言葉を返すこともできず、ただ唸り声を発し、目をぱちくりさせ、威嚇的な姿勢を示すだけだった。口論がますますひどくならないうちに、ジョン卿が急いで割って入った。
「歩く歩くと言いますが、なぜ歩かなきゃならんのです?」
「では汽車に乗れというのかね?」と、チャレンジャーが八つ当たりした。
「自動車がありますよ。あれに乗っていけない理由はないでしょう?」
「わしの運転はうまくない」と、チャレンジャーはひげをしごいて考えこみながら言った。「しかし、人間の知性がより高度に発揮された場合は、どんなことにでも適応できるほどの柔軟性を持つものだと考えたきみの態度は正しい。すばらしい思いつきだぞ、ジョン卿。わし自身が運転して、諸君をロンドンまで案内しよう」
「きみはそんなことをせんでもよい」と、サマリーが釘をさした。
「おやめなさいよ、ジョージ!」と、夫人も叫んだ。「運転の経験は一度しかないし、おまけに車庫の扉をめちゃめちゃにしたことをおぼえているでしょう」
「あれはほんのちょっとした不注意だった」と、チャレンジャーは自信満々で答えた。「とうにすんだことを今さらむしかえすな。まちがいなくロンドンまで連れて行くよ」
この場を救ったのはジョン卿だった。
「どんな車ですか?」と、彼はたずねた。
「二十馬力のハンバーだ」
「えっ、それだったらぼくが何年も乗っていたのと同じ車ですよ。全人類を一台の車に乗せて運ぶことになるとは夢にも思わなかった。たしか五人乗りでしたね。では身支度をしてください、十時に車を玄関へまわしますから」
約束通り、運転席にジョン卿を乗せた車が、エンジンの音を響かせながら十時に庭からやってきた。わたしはジョン卿の隣に乗り、有能な緩衝国ともいうべきチャレンジャー夫人が、怒りっぽい二人の教授にはさまれてバックシートにすわった。やがてジョン卿がブレーキをゆるめ、すばやくギアをファーストからサードに入れて、地球上に人類が出現して以来最も奇妙な自動車旅行に出発した。
八月のこの日、自然の美しさがいかばかりであったかを想像していただきたい。さわやかな朝の空気、雲一つない空、金色に輝く夏の陽ざし、サセックスの森のしたたるような緑、ヒースに覆われた濃紫色の丘陵地帯、周囲の色どりあざやかな美しい風景を眺めていると、ただ一つの不吉なしるし――厳粛な、すべてをつつみこんでしまう静寂――さえなければ、大いなる悲劇が持ちあがったことなどつい忘れてしまいそうになる。田舎でも人家のたてこんだところでは、静かな生命の息吹きが感じられるものだ。それはあまりにも底深く、不断につづいているので、時おり気づかずにすごしてしまうことがある。ちょうど海上生活者が絶え間ない波の音に無感覚になってしまうようなものだ。小鳥のさえずり、昆虫の羽音、遠くこだまする話声、牛の鳴き声、犬の吠え声、列車の音、荷車の音――それらが一つに解け合った絶え間のない和音が、無意識のうちに耳に入りこんでいる。その音が今は聞きたくても聞けないのだ。完全な静寂はむしろ不気味だった。静寂があまりにも厳粛かつ強烈なので、自動車のエンジンの響きが、人類の廃墟を覆う棺覆いのようなこの神聖な静寂に対する、ぶしつけな介入、許しがたい不敬のように思われるほどだった。この不気味な静寂と、あちこちで燃えくすぶっている建物の煙とが、南イングランドの景観を嘆賞するわれわれの心に冷水を浴びせるのだった。
やがて死者の姿が目につきはじめた! はじめのうち、ひきつった笑いを浮かべた無数の顔は、体がふるえだすほどの恐ろしさを感じさせた。その印象があまりにも強烈だったので、ゆっくりとステーション・ヒルをくだりながら、二人の子供と一緒に死んでいる子守女や、かじ棒の間にすわりこんでいるおいぼれ馬や、御者台で身をよじっていた御者や、開いたドアに手をかけてまさにとび降りようとする姿勢で死んでいた若者のそばを通りすぎたときのことを、わたしは今なおありありと思いだすことができるほどだ。なおも丘の道をくだると、六人の農夫が雑然と脚を重ね合わせ、目ばたき一つしない目でまぶしい太陽を見あげながら横たわっていた。それらは今なお写真でも見るようにはっきりわたしの記憶に灼《や》きついている。
だが間もなく、慈悲深い天の配慮のおかげで、あまりにもはりつめた神経がそうした眺めに反応することをやめた。あまりにも大きすぎる恐怖が、われわれを無感覚にしてしまったのである。ばらばらの死体は数人の群に、数人の群は群衆に、さらに群衆は全人類へと数を増していき、間もなくわれわれは、それをどこへ行ってもぶつかる避けがたい現実として受けいれるようになった。ただ、時おり特別に残酷で醜悪な場面にぶつかったときだけ、心は激しいショックとともにそれが持つ人間的な意味に気がつくのだった。
中でも子供たちの死が哀れを誘った。われわれの心は許しがたい不正に対する義憤でみたされたことをおぼえている。ある大きな州会学校の前を通りかかって、門前に散らばるいたいけな死体の長い列を見たときは、みな心の中で泣いていたし、チャレンジャー夫人だけは実際に涙を流していた。子供たちは恐慌をきたした教師たちに見捨てられ、急いでわが家へ帰ろうとするところを、毒の網につかまってしまったのである。家々の窓からも大勢の人々が顔をのぞかせていた。タンブリッジ・ウェルズでは、例のひきつった笑いの見えない窓が一つとしてなかったほどである。人々は死の直前に、空気の必要と、われわれだけしかみたすことのできなかった酸素へのあこがれに駆られて、窓ぎわへ殺到したのである。帽子もかぶらずに家の中からとびだした男女の死体が、歩道にも散乱していた。車道まではみだして死んでいる者も大勢いた。幸いジョン卿はすばらしい運転技術を持っていたので、死体をよけながら楽々と進むことができた。しかし村や町にさしかかると、歩くような速さでしか進めなくなり、タンブリッジの学校の向かい側では、しばらく車をとめて道をふさいでいる死体をどかさなければならなかった。
サセックスとケントの街道筋を延々と埋めつくす死のパノラマの中でも、とりわけわたしの記憶にはっきり灼きついている光景がいくつかある。その一つは、サウスバラ村の宿屋の前にとまっていたピカピカの大型車である。おそらくブライトンかイーストボーンあたりへの行楽の帰りなのだろう。美しい服を着た若くて美人ぞろいの女が三人乗っていて、そのうちの一人は膝にかわいらしいペキニーズを抱いていた。ほかには遊び人ふうの年配の男と貴族的な青年が乗っており、後者は片眼鏡を目にあて、手袋をはめた指に燃えつきた煙草をはさんだままだった。死は一瞬の間に彼らを襲い、すわったままの姿勢で硬直させてしまったのだ。年配の男が死の直前に息苦しさに耐えかねてカラーをかきむしった痕跡が認められるだけで、ほかはみな安らかに眠っているとしか見えなかった。片側のステップの近くに一人の給仕がうずくまり、そのかたわらにいくつかの割れたグラスと盆が散乱していた。反対側には、痩せこけた男女の浮浪者が、施しを求めて細い腕をのばしたままの姿勢で倒れていた。一瞬の時間の経過が、貴族と給仕と浮浪者と犬を、原形質が活力を失って溶解するという共通の立場に追いこんでしまったのである。
もう一つ、セヴンオークスから数マイルロンドン寄りで見た不思議な光景が忘れられない。左手に大きな修道院があり、正面に長い緑の斜面が拡がっていた。この斜面に大勢の生徒が集まり、ひざまずいてお祈りをしていた。子供たちの前には修道女たちが並んで、さらに上のほうに、それと向かい合って、修道院長と思われる婦人がぽつんと立っていた。自動車の行楽客とちがって、この人々は前もってこの危機を警告されており、最後の授業のために集まって、教える者も教わる者もともに美しく死んでいったものらしかった。
わたしの心は、依然としてこの恐ろしい経験による茫然自失の状態からさめきっておらず、激しく揺れ動いた当時の感情を再現する方法を求めていくらあがいても無駄らしい。おそらく感情の再現などと欲ばらずに、事実だけを示すのが賢明な最上の方法かもしれない。サマリーとチャレンジャーさえ意気消沈してしまい、うしろの席からは時おり夫人の忍び泣きが聞こえてくるだけだった。ジョン卿はといえば、これまたハンドルの操作と、死体をよけて通るという困難な作業に気をとられて、口をきく余裕も気持もなさそうだった。一つだけ、彼がうんざりするほど何度もくりかえしたので、わたしの記憶に残っている言葉がある。人類破滅の日にたいする評言としては、あまりに場ちがいな言葉なので、わたしはつい吹きだしそうになってしまった。
「なんと見事なもんだ!」
彼は、死と災厄が手をたずさえて作りだした恐ろしい光景が目の前に現れるたびに、この嘆声を発したのである。ロザーフィールドのステーション・ヒルをくだるときも「なんと見事なもんだ!」だったし、ルゥイシャム街道と旧ケント街道ぞいに死の荒野を通り抜けるときも、やはり「なんと見事なもんだ!」をくりかえしていた。
ここで、突然驚くべき出来事にぶつかった。一軒のみずぼらしい角家の窓から、細長い人間の腕が一本のぞいて、ひらひらとハンカチをふっていたのである。人間が生きているしるしを発見したというのに、われわれの心臓は一瞬ぴたりととまり、つぎの瞬間激しく動悸《どうき》をうちだした。まったく思いがけず死人にでくわしたときでも、これほどの驚きを味わったことはない。ジョン卿が歩道のふちに車をとめ、われわれは大急ぎであけはなされたドアを通り抜け、階段を駆けのぼって、目印が出ていた三階の表の部屋にとびこんだ。
開いた窓ぎわの椅子に一人の老婦人がすわり、すぐそばのもう一つの椅子の上には、われわれを救ったものより小さめだが形はそっくり同じ酸素ボンベが置いてあった。彼女は入口でもみ合っているわれわれのほうに、眼鏡をかけた痩せ顔を向けた。
「永久に一人ぼっちで取り残されるのかと思いましたよ」と、彼女は言った。「わたしは病人で身動きがとれないもんですからね」
「奥さん、たまたまわれわれがここを通りかかったのは幸運でしたよ」と、チャレンジャーが答えた。
「一つだけとても大事な質問をしたいんですけど、みなさん、どうぞ隠さずに答えてくださいな。この事件でロンドン・ノース・ウェスタン鉄道の株はどんな影響を受けるでしょうか?」
彼女があれほど悲痛な面持で熱心に答を求めたのでなかったら、われわれはきっと笑いだしていたにちがいない。バーストン夫人――というのが彼女の名前だが――は老齢の未亡人で、このわずかな持ち株の配当だけに頼って生きているのだった。彼女の生活は配当金の多少によって左右されるので、生きているということはとりもなおさず株価の変動に影響されるということを意味していた。われわれは世界中の金が彼女のものになるが、それを手に入れても使い道がないことを説明した。しかし彼女のもうろくした頭ではこの新事態がどうしても理解できないらしく、消えてしまった持ち株を惜しんで大声で泣きだす始末だった。「それがわたしの全財産なんですよ」と、彼女は嘆いた。「それがなくなってしまったら、むしろ死んだほうがましです」
彼女のくり言を聞いているうちに、広大な森の木がすっかり倒れてしまったのに、この痩せこけた古木だけが生きのこっている理由を発見した。彼女は長い間|喘息《ぜんそく》をわずらっており、医師の処方による酸素が危機の瞬間にも手もとにあったというわけである。当然のことながら息苦しさを感じたので習慣的にその酸素を吸入した。その結果息苦しさは薄れ、その後も少しずつ吸入することによってどうにか一晩生き抜いた。やがて彼女は眠ってしまい、われわれの車の音で目をさましたのである。一緒に連れて行くことは不可能だったので、生きてゆくのに必要なものをすべて用意してやったうえで、遅くとも二日後には連絡することを約して別れを告げた。そのときになってもまだ、彼女は元も子もなくなってしまった株のことを思って嘆き悲しんでいた。
テムズ川に近づくにつれて、道路の障害物はますます多くなった。ロンドン・ブリッジを渡るときもたいそう骨が折れた。ミドルセックス側から橋にいたる道は、端から端まで凍りついたような車や人の群で埋まり、それ以上は一歩も先へ進むことができなかった。橋の近くの船着場では一隻の船がまっかな焔を発して燃え、空気中にはおびただしい煤《すす》や刺激臭が漂っていた。議事堂のあたりで濃《こ》い煙が立ちのぼっていたが、われわれのいる場所からは何が燃えているのかわからなかった。
「みなさんはどう思うかわからないが」と、ジョン卿がエンジンをとめながら言った。「ぼくは都市より田舎のほうがましだと思います。死せるロンドンには我慢がならない。このままロザーフィールドへ引き返そうじゃありませんか」
「率直に言ってここでは何も期待できないと思う」と、サマリーが言った。
「しかしながら」と、静寂の中を異様なまでに響きわたるチャレンジャーの胴間声。「特異体質とか職業上の偶然のおかげでこの破局を生きのびた人間が、七百万中あの老婦人ただ一人ということは考えられん」
「ほかに生きのびた人がいるとしても、どうやってそれを探しだすつもりですの、ジョージ?」と、夫人が質問した。「でも、このまま引き返すまえに探すだけ探してみることには賛成しますわ」
われわれは道路のはしに車を寄せて、キング・ウィリアム・ストリートの歩道に散乱する死体を苦労してよけながら歩きだし、ある大きな保険会社の開いたドアの中へ入った。ちょうど通りの角にある建物だったので、格好の見晴らし台とにらんだわけである。階段をのぼる途中で、中央の長いテーブルを囲んで八人の年配者がすわっている会議室らしい部屋を通り抜けた。高い窓があいていたので、われわれはそこからバルコニーに出た。混雑したシティ〔ロンドンの旧市部、金融・商業の中心〕の道路が放射状にひろがり、眼下の通りは静止したタクシーの黒い屋根で端から端まで埋まっていた。ほとんどすべてのタクシーがシティの外側へ向かっているところを見ると、恐慌をきたしたシティの勤め人たちが、郊外や田舎に住む家族のもとへ駆けつけようと最後のむなしい努力を試みたものらしかった。ぱっとしないタクシーの群にまじって、ところどころに富裕な実業家のピカピカに磨きあげられた大型車が立ち往生している。せきとめられた車の群にはさみこまれてどうすることもできなかったのだ。ちょうどわれわれの真下にもそういう豪華な大型車が一台とまっていた。持主である太った老人が、大きな体を窓の外に半分乗りだし、ダイヤモンドの指輪をはめた短い手を突きだして、運転手に混雑から抜けだす最後の努力を命じる姿勢のままで死んでいた。
この車の洪水の中で、何台ものバスが島のようにひときわ高く浮かびあがり、満員の二階席の乗客は、子供部屋のおもちゃのように、おたがいの膝の上に上体を折り曲げて倒れていた。道路中央の信号燈の台には、がっしりした警官が、まさか死んでいるとは思えないほど自然な姿勢で、柱によりかかって立っている。その足もとには、みすぼらしい格好をした新聞売りの少年が、新聞の束をかたわらに投げだして横たわっている。新聞を積んだ手押車が雑踏の中にはまりこんでおり、『ローズ・クリケット場で騒動。州対抗試合中断さる』と黄色い地に黒インクの大きな文字が読みとれた。これは最も早い版らしく、ほかにも『世界の終末か? 大科学者の警告』『立証されるか、チャレンジャーの予言? 不吉な噂ひろまる』などと書かれたビラが目についた。
チャレンジャーは雑踏の中で旗のようにきわだって見える後者のビラを指さして、夫人の注意をうながした。それを眺めながら得意そうに胸をはり、ひげをしごいている。ロンドンは自分の名前とともに死に、人々の頭に今もなお自分の予言が刻みこまれていることを考えると、いくら気むずかしい彼でもまんざら悪い気はしないのだろう。彼の心中はだれの目にも明らかだったので、例によってサマリーが皮肉を言いたくなったのも無理はない。
「ついに華々しい脚光をあびたようだな、チャレンジャー君」
「まあそういうことらしい」と、チャレンジャーは満足そうに答えた。それから、放射状にのびる静寂と死にみちた通りを見はらしながらつけ加えた。「ところで、これ以上ロンドンにとどまっても、することは何もないと思う。ただちにロザーフィールドへ帰って、残された何年かを最も有効に使うにはどうすればよいか話合おうではないか」
死せるシティから記憶にとどめて持ちかえった光景のうち、もう一つだけここに書き記しておこう。それは、車をとめておいた場所にある、聖マリアをまつった古い教会の内部をのぞいたときのことである。われわれは教会の石段にひざまずく人々の間を通り抜け、スイング・ドアを押して中へ入った。内部はひざまずいて思い思いに祈り、恐れおののく人々で、立錐《りっすい》の余地もないほど混雑していた。恐ろしい最後の瞬間に、突然生の現実に直面させられて恐慌をきたした人々は、数世代にわたってほとんど集会を開いたことのないこうしたシティの古い教会へ、急いで集まってきたのである。彼らはそこでぴったりと身を寄せ合ってひざまずいていたが、中には動揺のあまり帽子を脱ぎ忘れた者も大勢いた。一方彼らの頭上の説教壇には平服の若い男がいた。そこに立って人々に語りかけているとき、突然すべての人々の上に死が見舞ったらしく、今その若い男は、頭と力の抜けた両腕を説教壇のはしにだらりとぶらさげて、見世物小屋のパンチ〔イギリスで古くから人気のある操り人形。醜悪なせむし姿で奥さんのジュディを虐待する〕のような格好で横たわっていた。灰色のほこりっぽい教会、苦痛に身をよじる人々の群、薄明と静寂、それはまさしく悪夢の世界だった。われわれは小声でささやき合いながら忍び足で歩きまわった。
やがて、わたしの心にふとある思いつきが浮かんだ。ドアに近い一隅に古ぼけた聖水盤があり、その奥の深いくぼみに鐘つき用のロープがさがっていた。ロンドン中に合図を送って、まだ生きているかもしれない人々をここに呼び寄せるのだ。わたしは走って行ってそのロープを引っぱったが、驚いたことに鐘はびくともしなかった。ジョン卿が追ってきた。
「すばらしいことを思いついたな、マローン君」と、彼は上着を脱ぎながら言った。「ぼくにも手伝わせてくれ。すぐ鐘が動きだすぞ」
ところが、それでも重い鐘がびくともせず、さらにチャレンジャーとサマリーが手をかしてくれたのち、ようやく巨大な鐘の舌が、頭の上で殷々《いんいん》たる音楽を奏《かな》ではじめた。死せるロンドンのはしばしまで、われわれの友情の合図が響きわたり、生きているかもしれない人々に希望を送りとどけた。その力強い金属的な響きはわれわれの気持をもふるいたたせ、いよいよこの仕事に熱中させた。ロープがぐいと引きあげられるたびに、われわれの足は地上からはなれて二フィートも宙に浮いたが、つぎには渾身《こんしん》の力を合わせてロープを引きおろす。中でも一番背の低いチャレンジャーが、怪力をふりしぼってこの仕事に熱中し、一引きごとにしゃがれ声をあげながら、巨大な食用ガエルのようにぴょんぴょんとびはねていた。過去において多くの未知の危険をともに乗りこえてきた四人の冒険家、今運命の手に選ばれてかくも比類ない体験をしつつある同志たちを、一幅《いっぷく》の絵に描き残そうと思い立つ画家がいるとしたら、まさしくこの場面こそ題材にふさわしい。われわれは三十分間鐘を鳴らしつづけた。顔からは汗の玉がしたたり、腕と背中の筋肉が痛んだ。それから教会の柱廊玄関に出て、通りのしずまりかえった雑踏に目をこらした。しかし、われわれの合図に答える物音一つ、かすかな動き一つなかった。
「無駄だ。一人も生き残っていない」と、わたしは叫んだ。
「これ以上どうすることもできません」と、チャレンジャー夫人。「お願いだからロザーフィールドへ帰りましょうよ、ジョージ。こんな恐ろしい、しずまりかえったシティにあと一時間もいたら、わたしはきっと気が狂ってしまいます」
われわれは一言も口をきかずに車に乗りこんだ。ジョン卿がハンドルを握って南のほうへ車をまわした。われわれにはこれが章の終わりと見えた。不思議な新しい章がはじまることなど、ほとんど思いもよらなかった。
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六 大いなる目ざめ
われわれ個人のささやかな一生のみならず、人類の歴史においても圧倒的な重要性を持つこの異常な事件の物語も、いよいよ結末に近づいたようだ。物語のはじめでも述べたように、やがて人類の歴史が書かれるとき、この事件は疑いもなくふもとの丘の上にひときわぬきんでてそびえる高峰となるにちがいない。われわれの時代は、選ばれてかくも不思議な出来事を経験するという、特別の運命を定められていた。その影響がどれほどまでつづくか――人類はこの大いなる衝撃によって教えられた謙譲と敬虔《けいけん》の念をいつまで保ちつづけられるか、それは先きへ行ってみなければわからない。ただ今後すべてが今までと同じではありえない、ということは断言してよいだろう。
人間というものは、見えざる手によって押しつぶされそうになるまで、自分がいかに無知無力であり、どれだけその手によって支えられているかということに、絶対に気がつくことはない。死はわれわれのすぐ近くまでやってきた。われわれはそれがまたすぐやってくるかもしれないことを知っている。不気味な影がわれわれの生活を覆っている。しかし、その影の中で、義務の観念、自制と責任感、人生の厳粛さと目的に対する理解、自己開発と向上の熱烈な意欲といったものが生まれ育ち、人間社会の隅々まで影響を及ぼすほどそれが本物になったということは、何人も否定できないだろう。それはセクトやドグマを超越した何かである。物の見方の変化、均衡感覚の変化、あるいは、人間とは未知の世界からひとたび冷たい風が寄せればひとたまりもなく参ってしまう存在、今はお情けにすがって生きているはかなく卑小な存在であるという明確な認識、と言ってもよいだろう。
しかしこの知識をもって世界が以前よりもまじめになったとしても、その結果世界はより悲しい場所だ、ということにはならないと思う。現在のまじめな抑制された楽しみが、過去において――それはついきのうのことであると同時に、想像もできないほど遠い昔でもある――しばしば楽しみという名で通ってきた騒々しいばか騒ぎにくらべれば、はるかに深味があり賢明であることに、だれしも異論はないだろう。用もない訪問やそれに対する返礼、厖大にして不必要な家庭内の気苦労、ぜいたくで退屈な食事などに浪費されてきた空虚な生活も、今では読書、音楽、より素朴で健全な時間の配分から生じた暖かい家庭の団欒《だんらん》などに、休息と健康を見いだしている。こうして健康と楽しみが増した結果、この国の生活水準を大幅に引きあげた公共資金をまかなうための増税にもかかわらず、人々は以前より豊かになったということができる。
大いなる目ざめの正確な時間についてはいくつかの異論がある。時計のちがいは別として、毒の作用に地域差があったらしいという点ではほぼ意見が一致した。疑いもなく、各地方ごとの蘇生の時間はほぼ同じだった。そのときビッグ・ベン〔議事堂の大時計〕が六時十分を指していたという目撃者が大勢現れた。グリニッジ天文台長は標準時の六時十二分と発表した。一方イースト・アングリアのきわめて有能な観測官レアード・ジョンソンは、その時間を六時二十分と記録している。われわれの場合は疑問の入りこむ余地がなかった。なぜなら、そのときわたしはチャレンジャーの書斎にすわって、彼が正確に時間を合わせておいた時計とにらめっこしていたからである。そのとき針は六時十五分を指していた。
わたしの心は重々しく沈んでいた。ロンドンへの往復の間に目撃した恐ろしい光景の印象は、刻一刻と強まって、わたしの心に重くのしかかっていた。ありあまるほどの動物的健康と絶大な肉体のエネルギーに恵まれたわたしにとって、鬱々として心が楽しまないなどという状態はめったにないことだった。わたしはどんな暗闇の中でもユーモアの光を見いだすアイルランド人気質がそなわっている。だが今の暗闇だけは、そのわたしにもどうしようもないほど深い。
ほかの連中は階下で将来の計画を練っていた。わたしは窓ぎわに腰をおろして頬杖つき、自分たちが置かれた絶望的状況に思いふけっていた。これから先きも生きつづけることができるだろうか? とわたしは自問しはじめていた。死せる世界に存在しつづけることがはたして可能だろうか? 大きな物体はより小さな物体をひきつけるという物理現象があるように、未知の世界へ去ってしまった厖大な数の人類のほうへ、われわれも強大な力で引きつけられるのではないだろうか? 結末はどんなふうにやってくるだろうか? ふたたび毒ベルトが接近してくるか、それとも累々たる死体から生じる瘴気《しょうき》のために、地球には人間が住めなくなってしまうのだろうか? あるいはまた、この恐るべき事態にさいなまれて、われわれの精神が異常をきたすのだろうか? 死せる世界にとり残された一群の狂人たち! この恐ろしい考えにとらわれているとき、ふとかすかな物音を聞きつけて眼下の道路に視線を向けた。あのおいぼれた馬が、馬車を引きながら丘の道をのぼってくるではないか!
同時にわたしは遠くでさえずる鳥の声と、だれかが庭で咳《せき》をする音を聞き、目前の風景の中で何かが動きはじめるのを感じた。わたしの視線をとらえたのは、あの痩せ衰えた滑稽《こっけい》な、おいぼれ馬だったことをおぼえている。それはゆっくりと、苦しそうにあえぎながら丘をのぼってきた。それから、わたしの視線は、御者台で背中をまるめている老人、庭から身を乗りだして、興奮しながら御者に指示を与えている青年へと移動した。彼らは疑いもなく生きていた。しかもぴんぴんしていた!
だれもかれもがふたたび生きている! すると、あれはみな幻覚だったのだろうか? この毒ベルト事件が完全に夢だったなどということがありうるだろうか? 一瞬わたしの混乱した頭は、あやうくそう信じこむところだった。だが目を下に向けると、掌《てのひら》に教会の鐘のロープでこすられた水ぶくれができている。やっぱり現実だったのだ。しかし、目の前には生き返った世界――一瞬のうちに上げ潮のように生命のよみがえった地球がある。広々とした風景に視線をさまよわせるうちに、ありとあらゆる場所でその徴候が認められた――しかも驚いたことに、すべては静止する直前と同じ動きを示しているではないか。例えばゴルファーたち。彼らがプレイをつづけるなどということが想像できたろうか? いや、現実にティー・ショットを行っている男がいるし、グリーンにいるほかのグループは、まぎれもなくホールめざしてパットをおこなっている。農夫たちはゆっくりと仕事に戻っていく。子守女は子供の一人をぽんと叩いてから、乳母車を押して丘をのぼってくる。人々は何事もなかったかのように、中断した行為をそっくり再開しはじめたのだ。
わたしは大急ぎで階段を駆けおりた。すると、開いたホールのドアから、庭で驚きと喜びをわかち合う仲間たちの大声が聞こえてきた。われわれはたがいに顔見合わせて握手をかわし、大声で笑い、感動したチャレンジャー夫人は、全員にキスをしてから、最後に夫の両腕に身を投げた。
「それにしても、眠っていただけとは考えられん!」と、ジョン卿が叫んだ。「ねえチャレンジャー教授、まさかあなただって、ぎょろりと目をむいて手足をこわばらせ、あの恐ろしいひきつった笑いを浮かべた人々が、ただ眠っていただけとは信じないでしょう!」
「あれはいわゆる強直症というやつだったにちがいない」と、チャレンジャーが答えた。「過去においてはきわめてまれな現象で、絶えず死と錯覚されてきた。その状態がつづいている間は体温がさがり、呼吸はとまり、心臓の鼓動も識別できなくなる――実際のところ、一時的な現象である点を除けば、死そのものであるといってもさしつかえない。いかに洞察力に富む人間でも」――ここで彼は両目を閉じ、にやりと笑った――「それがこんなふうにいたるところで発生することを想像するのは無理というものだ」
「きみは強直症と規定するかもしれんが」と、さっそくサマリーが文句をつける。「つまるところそれは一つの病名にすぎんのであって、その結果となると、それをひきおこした毒の場合と同様、われわれにはほとんど何もわかっておらん。せいぜい言えるのは、汚染されたエーテルが仮死状態をひきおこしたというぐらいのことだろう」
オースチンはぐったりと自動車のステップに腰かけていた。わたしが二階で聞いたのは彼の咳だった。ずっと無言で頭を抱えていたのだが、今は何かひとり言を呟きながら自動車を眺めまわしている。
「あのがきめ!」と、彼はうなった。「まったく油断もすきもあったもんじゃない!」
「どうかしたのか、オースチン?」
「リュブリケイターがあけっぱなしになっているんですよ。だれかが車にいたずらしたんです。おそらくあの庭師の小僧にちがいありません」
ジョン卿がうしろめたそうな顔をした。
「わたしはいったいどうしたんでしょうか」と、オースチンがふらつく足で立ちあがりながらつづけた。「車を洗っている最中に気持が悪くなったような気がします。ステップのそばに倒れたところまではおぼえていますが、リュブリケイターをあけっぱなしにしておいたおぼえは絶対にありません」
オースチンは、彼自身と全世界におこったことが手短かに話されるのを、信じられないような面持で聞いていた。リュブリケイターから油が流れていた理由も明らかにされた。彼は自分の車が素人の手で運転されたと聞いてひどく疑わしそうな表情を示し、眠れるシティのくだりに話が及ぶと、とりわけ熱心に耳を傾けた。一通り説明が終わったとき、彼が言った言葉を、わたしは今でもおぼえている。
「イングランド銀行へもいらっしゃいましたか?」
「行ったとも、オースチン」
「あすこには何百万という現金があり、人間は一人残らず眠っていたわけですね?」
「その通りだ」
「ご一緒できなかったのが残念でなりません!」と、彼はうなるように言い、ふたたびくそまじめな顔で洗車にとりかかった。
突然玉石に車の軋《きし》る音が聞こえてきた。例の古ぼけた馬車がチャレンジャー邸の玄関に横づけになったのだ。若い乗客が中からおりてくるのが見えた。間もなく、たった今深い眠りからさめたようなぼんやりした表情の女中が、お盆に名刺をのせてやってきた。チャレンジャーは名刺を一瞥《いちべつ》するなりふんと鼻を鳴らし、濃い黒髪が逆立つほどかんかんに怒りだした。
「新聞記者だ!」だが、すぐに気持をやわらげて微笑を浮かべながら、「結局、全世界がこの事件に関するわしの意見を一刻も早く知りたがるのも無理はないな」とつけ加えた。
「この人物がそのためにはやってきたとは考えられん」と、サマリーが水をさした。「あの馬車は危機が到来する前から丘の道に見えていたんだからね」
わたしは名刺をのぞいてみた。「ニューヨーク・モニター ロンドン特派員 ジェームズ・バクスター」とある。
「会いますか?」と、わたしはたずねた。
「わしはいやだ」
「まあ、ジョージったら! 他人様にはもっと親切にしなければいけませんよ。あなただって今度の事件では学ぶところがあったでしょうに」
彼はちょっと舌打ちして、頑固そうな大頭を横にふった。
「まったく有害な人種だ! ちがうかね、マローン君? 近代文明のうんだ最悪の人種、ことごとに自尊心に富んだ人間を中傷し、妨害するやから! 彼らがわしに好意的な記事を書いたことが一度でもあったかね?」
「それじゃあなたはいつ新聞記者に好意的な言葉をかけましたか?」と、わたしは反問した。
「外国人がわざわざあなたに会いにきたのです。まさか門前払いをくわせたりはしないでしょうね!」
「仕方あるまい。きみが一緒にきて話してくれ。わしの私生活に不当に干渉するようなことは、前もってはっきり断っておくぞ」彼は心の中でぶつぶつ文句を言いながら、まるで怒り狂った病気のマスティフ〔大型の猛犬〕のようにわたしのあとからついてきた。
きびきびした若いアメリカ人は、ノートをとりだしていきなり本題に入った。
「ぼくが今日おたずねしたのは、アメリカ国民がこの危機についてもっと詳しく知りたいと望んでいるからです。あなたのお考えでは、危機は間近かに迫っているということですが」
「目下地球に危機が迫っているというが、わしはそんなことを知らんぞ」と、教授は無愛想に答えた。
新聞記者はいささかあっけにとられて彼の顔を見た。
「ぼくの言っているのは、地球が毒エーテルのベルトに突入するという例の可能性についてなんですよ」
「わしは今、そんな危険を懸念してはおらん」
記者はますます当惑を感じたらしい。
「あなたはチャレンジャー教授でしょう?」
「さよう。それがわしの名前だ」
「だったらなぜ危険はないなどとおっしゃるんですか? ぼくはけさの『ロンドン・タイムス』に載ったあなたの署名入りの手紙の話をしてるんですよ」
今度はチャレンジャーがあっけにとられる番だった。
「けさだって? けさは『ロンドン・タイムス』など発行されておらん」
「しかし」と、アメリカ人は軽い非難の口調で言った。
「ご承知のように『ロンドン・タイムス』は日刊紙ですからね」そして内ポケットから問題の新聞を引きだした。
「ほら、ここにその手紙が載っていますよ」
チャレンジャーはもみ手をしながらくすくす笑いだした。
「どうやら謎がとけたぞ。するときみはこの新聞をけさ読んだというのだな?」
「そうです」
「そのあとすぐわしに会いにやってきた」
「はい」
「ここへくる途中で何か異常を感じなかったか?」
「実を言うと、お国の人々が、かつてなかったほど生き生きと人間的に見えました。駅のポーターがぼくに冗談を言いかけてきましたが、こんなことはイギリスへきてからはじめて経験しましたよ」
「ほかには?」
「いや別に、あとは思いだせません」
「ではきくが、ヴィクトリア駅を何時に出発したかね?」
アメリカ人は微笑を浮かべた。
「ぼくはあなたのお話をうかがうためにここへきたんですよ、教授。ところが、どうやら『ミイラ取りがミイラに』なりそうな形勢ですね。役目がすっかり入れかわってしまったようです」
「わしには興味のある問題なのだ。出発時間を思いだしたかね?」
「もちろんです。十二時三十分でした」
「到着時間は?」
「二時十五分です」
「それから馬車を傭った?」
「そうです」
「ここから駅までどれくらいあると思うかね?」
「およそ二マイルというところでしょうか」
「とすると、それに要する時間は?」
「あの喘息病《ぜんそくや》みの馬じゃ、おそらく三十分はかかるでしょう」
「つまり、今三時というわけだな?」
「ええ、あるいはもうちょっといってるかもしれません」
「では時計を見てみたまえ」
アメリカ人は言われた通りにした。それから驚いてわれわれの顔を見た。
「おや!」と、彼は叫んだ。「故障らしい。あのおいぼれ馬め、きっと遅いほうの新記録だぞ。そう言われてみると、もう日暮れが近いようです。それにしてもなんだか妙だなあ」
「丘をのぼる途中何も変わったことはなかったかね?」
「一度ひどいねむ気におそわれたような気がします。たしか御者に何か話しかけようとしたが、向こうは見向きもしなかった。おそらく暑さのせいだと思ったが、一瞬めまいがした。変わったことはそれだけですよ」
「やはり全人類が同じ経験をしたのだ」と、チャレンジャーがわたしのほうを向いて言った。「みな一瞬めまいを感じただけで、だれ一人その間におこったことを理解していない。オースチンがホースを手にとり、ゴルファーがプレイを再開したように、だれもが中断した行為をそのままつづけたのだ。きみんところの部長も新聞の発行をつづけるにちがいないが、あとで一号抜けたことを知って驚くだろう。いいかね、記者君」と、彼はがらりと変わった愛想のよい態度で、アメリカ人に向かってつけ加えた。「地球がエーテルの大海の中でメキシコ湾流のように渦をまく毒流へ突入したことを知ったら、きみは大いに関心をかきたてられるだろう。将来の便宜にそなえて、今日が八月二十七日金曜日ではなく、八月二十八日土曜日であることをおぼえておきたまえ。それからきみがロザーフィールド・ヒルの馬車の中に、二十八時間意識を失ってすわっていたこともな」
「|ここで《ライト・ヒヤ》」――と、わが同業のアメリカ青年なら言うだろう――わたしはこの物語を終わる。すでにみなさんも気づいておられることと思うが、以上は『デイリー・ガゼット』の月曜日の号に掲載された記事をもっと長くし、より詳細に報告したものにすぎない。なお前記の記事は歴史上最大の特ダネとして全世界に認められ、当日の売上部数は三百五十万部をくだらなかった。わたしの神聖な部屋の壁には、額縁におさめたつぎのすばらしい見出し群が今もなお飾られている。
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全世界二十八時間の昏睡に陥る
前代未聞の異常な体験
チャレンジャーの予言的中
本社特派員九死に一生を得る
興味津々の手記
酸素持参で籠城
鬼気迫る自動車旅行
死の町と化したロンドン
空白のページを埋めるもの
おびただしい大火と人命の損失
毒エーテルふたたび地球を襲うか?
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これらの輝かしい見出しにつづいて、一人の観察者が生涯の長い一日に書きあげたという限りでは最初にして最後の、そして唯一の手記が、九段半を費やして印刷されていた。チャレンジャーとサマリーの共同執筆になる学術的報告書が掲載されていたが、一般的な報告はわたし一人の手にゆだねられた。これでわたしは心おきなく『ヌンク・ディミティス』〔聖書シメオンの頌歌の冒頭の句、さらば行かしめたまえの意で、任務を全うした人の告別の意に使われる〕を歌うことができる。これほどの栄誉をになった新聞記者のその後の生活には、虚脱感以外の何が残るだろうか!
しかし、センセーショナルな見出しと、わたし個人の勝利以外にも、まだつけ加えておくことがある。いや、むしろ全日刊紙中最大の新聞に載った、この事件に関する高潔な社説の、格調高い結びの一節を引用してそれにかえるとしよう。それはすべての思慮深い人間によって長く心に銘記されるであろう。『ザ・タイムズ』はつぎのように述べた。
「われわれ人類は、四方をとりまく目に見えない無限の力に対してまったく無力である。これは使い古された決まり文句である。過去の予言者たちからも現代の思想家たちからも、われわれは同じお告げと警告を受けとってきた。しかし、あまりにもしばしばくりかえされる真理がそうであるように、これもまた時とともにいささか現実味と説得力を失ってしまった。失われたものを回復するためには、一つの教訓、実際経験が必要であった。われわれはこの恐るべき試練からたった今抜けだしたところである。われわれの意識は突然の打撃に今なおもうろうとし、精神はおのれの限界と無力を思い知って洗い清められた。世界はこの教えに対して高価な授業料を支払った。被害の全貌はまだほとんど知られていないが、ニューヨーク、オルレアン、ブライトンの大火は人類の歴史上最大の悲劇にかぞえてよいものである。鉄道および船舶事故の集計が終われば、そのほとんどの場合、機関士たちが毒におかされて倒れる前に、動力をとめることに成功したとみなしうる証拠があるにしても、それは恐ろしい記事を提供することになるであろう。しかしながら物質的損害は、生命財産の双方にわたっていかにおびただしくとも、今日われわれにとって最大の関心事ではない。これは時がくれば忘れられるであろう。だが忘れてならないことは、そしていつまでもわれわれの想像力につきまとうであろうし、またそうあってしかるべきことは、宇宙にひそむさまざまな可能性の顕現、われわれの無知から生じた自己満足の崩壊、われわれの物質生活の進む道がいかに狭く、その両側にどのような深淵が口をあけているかというこの証明である。今日のわれわれの感情の根底には厳粛と謙譲がある。この土台の上に、よりまじめで敬虔な人類が、より価値ある寺院をうち建てることを願おうではないか」 (完)
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物質分解機
チャレンジャー教授はたいそうご機嫌《きげん》ななめだった。書斎の前の絨毯《じゅうたん》を踏んでドアの把手《とって》に手をかけたとき、家中に鳴りひびくつぎのようなひとり言が聞こえたのである。
「さよう、二度目の間違い電話だ。午前中だけで|二度も《ヽヽヽ》かかってきた。考えてもみたまえ、わしのような科学者が、どこの馬の骨とも知れないばか者のおかげで、ひっきりなしに大切な研究の邪魔をされておるのだ。もうとうてい我慢がならん。すぐに支配人を呼びたまえ。ああ、きみが支配人か。支配人ならなぜ支配せんのか? そうとも、きみはきみのぼんくら頭では理解できない重要な研究を邪魔するために支配人の権力をふるっている。社長を呼びたまえ、社長を、なに、でかけている? そんなことだろうと思った。今度こんなことがおこったら、きみを法廷に突きだしてくれるからな。うるさく鳴きたてるにわとりが有罪になった前例もある。このわしもその訴訟に勝ったことがあるのだ。にわとりが有罪なら、耳ざわりな電話のベルだって同罪だろう。勝負はわかりきっておる。謝罪の手紙をよこしたまえ。よろしい。考慮しておこう。では」
電話がすむのを待って、わたしはおっかなびっくり書斎へ入った。まったくまずいときに訪問したものだ。電話から向きなおった教授と顔が合った――まるで怒り狂ったライオンというところだ。巨大な黒ひげが逆立ち、厚い胸は怒りでふくれあがり、尊大な灰色の目がわたしの全身をねめつけて、あらためてなんの関係もないわたしに怒りをぶちまける。
「ろくろく働きもせずに金ばかりもらっているとんでもない悪党どもめ!」教授はほえたてた。「わしの正当な抗議を聞きながら、やつらは無礼にも笑っておった。これはわしを悩ますための陰謀なのだ。そして、マローン君、きみはこの不愉快きわまる朝の仕上げをしにやってきたらしいな。自分の意志でやってきたのか、それともきみのぼろ新聞がインタビューをとるために派遣したのか、いったいどっちなのだ? 友人としてなら許すが、新聞記者としてなら立入禁止だ」
ポケットに手を入れて、マッカードルの手紙を探していると、突然また別の癇癪《かんしゃく》の種が彼の心に浮かんだらしい。毛むくじゃらの大きな手で机の上の書類をかきまわし、やがて一枚の新聞の切抜きを見つけだした。
「きみは最近書いたある記事の中で、親切にもわしのことに言及してくれた」と、その切抜きをわたしに向かってふりかざしながら、彼は言った。「それというのは、最近ゾーレンホーフェン粘板岩地層で発見された恐竜の骨に関する、例のいくぶん内容空疎な記事だがね。その中に『現代の最も偉大な科学者の一人であるG・E・チャレンジャー教授は――』という書出しではじまる一節がある」
「それがどうかしましたか?」
「なぜこんな不愉快な形容や限定を用いるのだ? きみはわしと同等、あるいはそれ以上にすぐれた科学者がほかにもいると言いたいらしいが、それはどういう人物を指すのかひとつ名前を聞かせてもらおうじゃないか」
「たしかにあれは語弊がありました。『現代の最も偉大な科学者――』と書くべきだったのです」わたしは相手の言い分を認めた。それはお世辞ではない、わたしの本心である。この一言が風向きをがらりと変えた。
「わしのことを心の狭い人間だなどと思わんでくれよ、マローン君。ただこうして排他的で理非をわきまえない同学者たちに囲まれていると、結局たよれるものは自分しかないのだ。わしは生まれつき自己主張などとは無縁だが、反対者に屈服するわけにもいかんだろう。さあさ! かけたまえ! 用件は何かね?」
わたしは細心の注意を払わなければならなかった。いつまたほんの些細なことでライオンが吼《ほ》えだすかわからないからである。わたしはマッカードルの手紙を拡げた。
「この手紙を読みますから聞いてください。うちの編集長マッカードルからのものです」
「その男ならおぼえている――新聞記者にしては好感のもてる人種だった」
「少なくとも彼のほうはあなたを非常に尊敬しています。高度に学問的な調査の必要が生じた場合は、常にあなたにそれをお願いしてきました。今日も実はその用件でうかがったのです」
「彼の希望はどんなことかね?」教授は不格好《ぶかっこう》な鳥がお世辞を言われて羽をふくらますように、さも得意そうな表情になった。机に両|肘《ひじ》をついてゴリラのような手を組み、ひげを前に突きだし、なかば瞼《まぶた》のたれさがった灰色の目で、やさしくわたしのほうを見つめた。やることすべてが大袈裟《おおげさ》であり、いったん機嫌がなおると、途方もなく親切になって、怒ったとき以上に人を圧倒する。
「では、わたし宛ての編集長の手紙を読ませていただきます。
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われわれの尊敬すべき友人チャレンジャー教授を訪問して、つぎの問題につき協力を要請してもらいたい。ハムステッドのホワイト・フライアーズ・マンションにラトヴィア生まれのテオドール・ネーモルという人物が住んでいる。この人物は、その力の及ぶ範囲内に置かれたいかなる物体をも分解することのできるきわめて不思議な機械を発明したと主張している。物質は分解して分子状態あるいは原子状態に還元されるというのだ。しかも機械を逆に操作することによって、物質をふたたび元の形に戻すこともできるという。とっぴな主張のようだが、それにはある程度の根拠があり、彼は驚くべき発見をしたのだと考えられる確かな証拠がある。
この種の発明が持つ革命的な性格、または兵器として使われる場合の重要性について、わたしが多言を費やす必要はないだろう。しばらくの間にせよ、軍艦を分解し、大軍を原子の群に変えてしまうこの力は、全世界を支配することになるだろう。社会的、政治的な理由から、一刻も猶予せず問題の真相をつきとめねばならない。この人物は自分の発明を金にかえたいため、すすんで宣伝につとめているから、彼に接近することは容易である。同封の名刺を示せばこころよく迎えてくれるだろう。わたしの希望は、きみとチャレンジャー教授が彼を訪ねて問題の機械を調査し、『ガゼット』にこの発明の価値についてちゃんとした記事を書いてくれることだ。今夜きみからの連絡を待っている。
――R・マッカードル
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以上がわたしたちに与えられた指示です、チャレンジャー教授」と、わたしは手紙を折りたたみながらつけ加えた。「わたしと一緒に行ってくださるよう心からお願いします。わたしのように限られた能力しかない者には、この任務はとても無理ですからね」
「そうだろうとも、マローン君!」と、偉大な教授は嬉しそうに喉《のど》を鳴らした。「きみも決して並一般の知能に欠ける人間というわけではないが、こういう問題はいささか荷がかちすぎるだろう。間違い電話をかけてくるようなばか者どものおかげで午前中の仕事がめちゃめちゃになってしまった以上、少し暇つぶしをしても大して変わりはない。実は例のイタリア人の道化師マツォッティの説に論駁しようとしていたところだ。あの男の熱帯シロアリの幼虫発達に関する説ときたら、まさに軽蔑すべき代物《しろもの》だ。しかしあいつのペテン師ぶりを完膚《かんぷ》なきまでに暴露してやるのは、ま、夜になってからでも遅くないだろう。それまでは喜んできみのお役に立つとしよう」
以上のようなしだいで、あの十月の朝、わたしはチャレンジャー教授と一緒に地下鉄の北行線に乗りこみ、尋常一様でないわたしの生涯の間でも、とりわけ異様な体験をすることになった。
わたしは、エンモア・ガーデンズの教授の家を出る前、悪評高い電話によって問題の人物の在宅をたしかめ、われわれの訪問を予告しておいた。彼はハムステッドのしゃれたアパートに住んでおり、われわれを控室でたっぷり三十分も待たせて、ある訪問者の一団と声高に話しこんでいたが、ようやく玄関で別れを告げる声から判断するに、先客はロシア人の一行と思われた。半開きになったドアの隙間から、わずか一瞬の印象ながら、アストラカンの襟《えり》のついた外套にくるまり、つやつやした山高帽をかぶった、上流の知識人らしい人々の姿がちらちらと目についた。彼らは成功した共産主義者がいとも簡単に身につけるブルジョア的安逸の様相をすべて身にまとっていた。玄関のドアがしまったと思うと、テオドール・ネーモルが控室に入ってきた。彼は日光を正面から受けて立ちながら、長い痩せた両手をこすり合わせ、穏やかな微笑を浮かべて、抜け目のなさそうな黄色い目でわれわれを値踏みするように眺めた。
ネーモルは背の低いずんぐりした男で、一見不具者のような感じだったが、どこが異常かと言われても指摘はできない。しいて言えば背中にこぶのないせむしとでもいうところだろうか。体に似合わず大きなぶくぶく太った顔は、ゆですぎた|だんご《ヽヽヽ》のような色合いと水分を含み、にきびやできものが血色の悪い肌にくっきりと浮きあがっていた。目は猫のそれに似ており、濡れた、しまりのない、よだれをたらした口の上にはえている長いぴんと張った口ひげも、どことなく猫を思わせた。わずかに赤黄色の眉毛から上だけが、この下卑《げび》たいやらしい人相を救っていた。その上で、わたしがめったにお目にかかったことのないほど並はずれたすばらしい頭蓋《ずがい》が弧《こ》を描いている。この偉大な頭なら、おそらくチャレンジャー教授の帽子もぴったりだろう。テオドール・ネーモルの顔の下半分からは、よこしまで不愉快な陰謀家を連想するかもしれないが、上半分だけ見れば世界の偉大な思想家や哲人と肩を並べる人間と見えないこともなかった。
「さて、おふたかた」彼はほとんど外国訛りの感じられない猫なで声で言った。「さきほど電話でちょっとうかがったところから判断するに、あなた方はネーモル分解機のことをもっとくわしくお知りになるためにおいでになったものでしょうが、いかがですかな?」
「いかにも」
「ではお訊ねしますが、あなた方はイギリス政府の代表ですか?」
「ちがいます。わたしは『ガゼット』紙の記者、そしてこちらはチャレンジャー教授です」
「りっぱなお名前だ――ヨーロッパではだれ知らぬ者がない」彼の黄色い歯がお追従《ついしょう》笑いでむきだしになった。「ところで、お気の毒だがイギリス政府は好機を失ったと言わねばなりません。イギリス政府がそれと同時に失ったものもいずれわかるでしょう。あるいは帝国そのものを失ったことになるかもしれませんな。わたしは最初に買い値をつけた国の政府に機械を売るつもりでおりましたから、かりに機械があなた方の認めない国の手中におちたとしても、あなた方はもっと早くこなかったことを悔やむしかありませんな」
「すると、すでに秘密を売ってしまったのですか?」
「さよう、わたしの言い値でね」
「その場合、あなたは買い手が独占権を保有すると考えますか?」
「もちろんそうするでしょう」
「しかし、あなた以外にも秘密を知っている人間がおります」
「それはちがいます」彼は広い額に手を触れた。「これが秘密の保管されている金庫ですよ――鋼鉄製の金庫よりも安全で、しかもエール錠をかけたより確実です。ある者は一面を知り、ほかの者が別の面を知るかもしれないが、全体を知っているのはこの世でただ一人、わたしだけなのです」
「それからあなたが秘密を売り渡したさきほどの紳士たちがいますよ」
「いやいや、わたしは金を受け取らないうちに秘密を知らせるほどばかじゃありません。彼らはわたしという人間を買って、この金庫を運ぶのですよ」――と、彼はふたたびおでこをぽんと叩いた――「中身ごとどこでも好きな場所へね。そこでこの取引きにおけるわたしの義務が、忠実に、非情に遂行されるのです」彼はふたたびもみ手をしたが、その作り物めいた笑いが一瞬ゆがんだ表情に変わった。
「失礼ですが」と、それまで一言も口をきかなかったチャレンジャー教授がどら声を発した。彼の一癖ありそうな顔には、テオドール・ネーモルに対する徹底的な反感が表れていた。
「まず議論をはじめる前に、そもそも論ずるに値するものがあるかどうかということをはっきりさせておきたい。ごく最近も、遠隔操作で地雷を爆発させると言いだしたイタリア人が、調査の結果とんでもない山師と判明した事件がありましたからな。歴史はくりかえすと言われるが無理もありません。ご承知のようにわしには科学者としての名声がある――あなたはさきほど全ヨーロッパ的名声とおほめくださったが、わし自身に言わせればそれはアメリカにおいても決してひけをとらないと信ずべきたしかな理由があります。科学には慎重さがつきものである以上、証拠を見せていただいたうえでなければ、あなたの主張を信じるわけにはゆきませんな」
ネーモルはその黄色い目から、わたしの連れにひどく敵意のこもった視線をなげつけたが、同時に作りものの愛想のよい微笑が顔に拡がった。
「あなたはまさに評判通りの方ですな、教授。決してペテンにかかるような方でないという噂は常々耳にしておりました。もちろん実演をご覧になれば納得《なっとく》してくださるでしょうが、その前に一般的な原理について二、三お話ししておかねばなりません。
わたしがここの研究室に作った実験用物質分解機は、単なるひな型にすぎないことがわかるでしょう。ただしそれはそれで、力の限度はあってもきわめて理想的に作用します。例えばあなたを分解してまた元へ戻すのはいとも簡単ですが、まさかそんな目的のために某大国の政府が何百万という大金を用意するはずはありません。このひな型は単なる科学的なおもちゃにすぎないのです。同じ作用がもっと大規模にひきおこされたときはじめて、巨大な実際的効果が達成されるのです」
「ではそのひな型を見せていただけますかな?」
「単にご覧いただくだけでなく、もしあなたにその勇気があれば、あなたご自身を実験台にして、疑う余地のない実演をお目にかけてもいいのです」
「|もし《ヽヽ》ですと!」と、ライオンが吼えたてた。「その|もし《ヽヽ》という言葉は許しがたい侮辱ですぞ」
「まあまあ。あなたの勇気にケチをつけるつもりは毛頭《もうとう》ありません。身をもっておためしになる機会を与えようということですよ。ただその前にこの機械を支配する基礎的な法則を二、三ご説明しましょう。
ある種の結晶体、例えば塩や砂糖などは、水に入れると溶解して形が見えなくなります。目で見ただけではその中に塩や砂糖が混っていることがわからなくなりますな。つぎに蒸発またはほかの方法によって水を減少させると、どうです! ふたたび結晶体が前と同じ形で目の前に現れます。さて、あなたという有機体がこれと同じように宇宙の中へ溶解し、つぎに諸条件をそっくり逆転させることによってふたたび人間の形に戻るというプロセスを理解できますかな?」
「その類推はまちがっている」と、チャレンジャーが叫んだ。「かりに百歩ゆずって分子が分裂作用によって消散させられることを認めるとしても、なぜそれが前と同じ状態に復元されるというのかね?」
「当然予想される反論ですが、わたしとしては分子構造が完全に復元されると答えるしかありません。一種の目に見えない骨組があって、すべての分子が自動的に本来の場所におさまるのです。あなたは笑うかもしれないが、間もなくその不信と冷笑はまったく新しい感動にとってかわられるでしょう」
チャレンジャーは肩をすくめた。「わしはいつでも実験台になりますぞ」
「もう一つあなた方に心にとめておいてもらいたいことがあります。おそらくそれがわたしの理論を理解するうえで役立つでしょう。東洋の魔術や西洋の神秘術《オカルティズム》に、ある物体が突然移動してほかの場所に現われるアポールという現象があることを聞いたことがあるでしょう。分子構造をばらばらにし、それらを電磁波にのせてほかの場所に運び、ある抗《あらが》いがたい法則に従ってふたたび分子の配列を元通りに復元するのでないかぎり、そのようなことは絶対に不可能です。わたしの機械がちょうどこれと同じ理屈なんですよ」
「信じがたいことを説明するために、別の信じがたい現象を持ちだすのは公正とは言いがたい」と、チャレンジャー。「わしはあなたのアポール説も分解機も信じませんな。ネーモルさん。わしは貴重な時間をつぶしてきているんだから、もったいぶるのはそれぐらいにして、早く実演を見せていただきたいものです」
「ではどうぞこちらへ」と、発明家は言った。われわれは彼の案内でアパートの階段をおり、裏手の小さな庭を横切った。そこにはかなり大きな離れ家があり、発明家は鍵《かぎ》を使ってわれわれを中へ招き入れた。
中は白一色の大きな部屋で、無数の銅線が花づなのように天井から垂れさがり、台座の上に大きな磁石が一個置いてある。この磁石の前に、長さ三フィート、直径一フィートほどあるプリズム・ガラスのようなものがある。その右手の亜鉛板の台の上には椅子が一つあり、ぴかぴかに磨きあげた銅の帽子が上からぶらさがっている。帽子にも椅子にも太い電線が接続され、側面には番号のついた刻み目のある追歯車のようなものと、天然ゴムで覆ったハンドルがあり、ハンドルは現在ゼロの目盛りをさしている。
「これがネーモル分解機です」と、この不思議な男は機械のほうに手をふりながら言った。「諸国家間の勢力の均衡を変えるものとして喧伝される運命にある機械のひな型です。これを所有する者は世界を支配するのです。さて、チャレンジャー教授、こういう言い方が許されるならば、あなたはこの問題に関していささか礼儀と熟慮に欠ける発言をなさった。この椅子にすわって、新しい力の可能性を身をもってためしてみる勇気をお持ちですかな?」
もとよりチャレンジャー教授はライオンにもひけをとらない勇気の持ち主であり、挑戦的な態度を示されれば、たちどころに頭に血がのぼる性質である。彼は機械に向かって突進しかけたが、わたしが片腕をつかんで引きとめた。
「いけません。あなたの命は貴重です。軽率もいいところだ。安全だという保証がどこにありますか? ぼくが今まで見たうちで、この機械《ヽヽ》に一番よく似たものといえば、シン・シン刑務所の電気椅子ですよ」
「わしの安全の保証は」と、チャレンジャー。「きみという目撃者がおり、万一わしの身に何かあれば、この男は少なくとも殺人罪に問われるということだ」
「そんなことで科学界は諦めきれません。あなた以外の人にはできない研究が未完成のままあとに残されるんですよ。少なくともぼくがはじめに実験台にのぼり、害がないとわかってからあなたがつづくべきです」
肉体的な危機を恐れるようなチャレンジャー教授ではないのだが、研究が中絶するかもしれないという考えはさすがにこたえたらしい。彼がためらい、心を決めかねている間に、わたしはさっさと前に出て椅子にとびのってしまった。発明家がハンドルに手をかけた。カチッという音を聞いたことはおぼえている。それから一瞬感覚が混乱し、目の前に霧がかかったように何も見えなくなった。やがて霧がはれると、いやらしい笑いを浮かべた発明家が目の前に立ち、チャレンジャー教授が、りんごのように赤い頬を蒼白《そうはく》にして、発明家の肩ごしに目を丸くしてこちらを眺めていた。
「さあ、はじめてください!」と、わたしは催促した。
「もう終わりました。あなたはみごとに反応しましたよ」と、ネーモルが答えた。「その椅子からどいてください。今度はきっとチャレンジャー教授がためしてみたいでしょうからな」
わたしの友人がこれほど動揺しているのは見たことがない。鉄のような沈着さも今は完全に失われていた。彼はふるえる手でわたしの腕をつかんだ。
「驚くべきことだ。きみはほんとに消えたんだよ、マローン君。一点の疑いもない。一瞬目の前に霧がたちこめたかと思うと、椅子は空っぽだった」
「どれくらい長く消えていたんですか?」
「二分か三分間だ。正直言ってわしは恐ろしかったよ。きみが戻ってくるとはどうしても思えなかったのだ。やがて彼がこのハンドル――これがハンドルと言えるならばだが――を新しい目盛まで動かすと、きみはいくぶん狐につままれたような表情だが、ほかは前と全然変わらない状態で、ふたたび椅子の上に姿を現わした。きみの姿がみえたときは実際ほっとしたよ!」彼は赤い大判のハンカチで額の汗をぬぐった。
「さあ、いよいよあなたの番です」と、発明家がうながした。「それとも怖気《おじけ》づきましたかな?」
チャレンジャーは目に見えて緊張した。それから、引きとめようとするわたしの手を払いのけて、椅子に腰をおろした。ハンドルはカチッと音をたてて三の目盛まで動いた。とたんに教授が消えた。
機械の操作者が完全に落ちつきはらっていたのでなければ、わたしは恐慌に襲われていたにちがいない。「なかなか興味深い実験だと思いませんか?」と、彼は言った。
「チャレンジャー教授のあの巨体を考えれば、現在彼が分子状の雲となってこの建物のどこかに浮いているという事実が不思議でならないでしょう。もちろん今や彼の運命はわたしの手中に握られております。わたしが彼をいつまでも空中に浮かせておこうと思えば、それを妨げるものは何もありません」
「いや、このぼくがすぐに方法を見つけだしてあなたを妨害しますよ」
彼の微笑がふたたびゆがんだ。「まさか、わたしは一度だってそんな考えを抱いたことはありません。とんでもない話だ! 偉大なるチャレンジャー教授が永久に姿を消してしまうとは――宇宙空間に溶けこんで何一つ痕跡を残さぬとは! 恐ろしい、途方もないことだ! しかしながら率直に言って、教授の態度はいささか礼儀を欠いていたことも事実でしたな。どうでしょう、ちょっとしたみせしめを与えてやれば――」
「いや、それはいけません」
「あるいは興味ある実験と呼んでもいい。あなたの新聞に面白い記事を提供するような実験ですよ。例えばわたしは、人体の有機組織とまったく震動数のちがう体毛は、自由に残したり除いたりできることを発見しました。毛のない熊を見るのはさぞ面白いでしょうね。さあ、ごらんなさい!」
ハンドルが音をたてた。一瞬後教授はふたたび椅子の上に姿を現わした。しかし、なんという変わりようか! 毛を刈りとられた哀れなライオン! チャレンジャー教授の肉体に加えられたいたずらに対して腹を立てる一方、わたしはあまりのおかしさに大声で笑いださずにはいられなかった。
彼の巨大な頭の鉢は赤子のようにつるつるで、あごもまるで少女のようになめらかだった。偉大なたてがみをむしりとられて、顔の下半分はあごの張った感じがひときわ強められ、一方全体から受ける感じは、打ちのめされて腫《は》れあがった老剣闘士の風貌にも似て、巨大なあごの上にブルドッグのような口がのっていた。
われわれの顔にある表情が浮かんだのかもしれない――発明家の皮肉な笑いが、教授を見て拡がったことは疑う余地がなかった。だが、その表情がどんなものであったにせよ、チャレンジャーは片手を頭にあげて異変に気がついた。とたんに彼は椅子から跳びおりて、発明家の喉に両手をまわし、床に投げとばした。チャレンジャー教授の怪力ぶりを知っているわたしは、一瞬相手が死んだものと確信した。
「気をつけてください。彼を殺してしまえば二度と元通りにはなりませんよ!」と、わたしは叫んだ。
この言葉は大いに効果があった。怒り心頭に発したときでも、チャレンジャーは常に物事の道理に耳を傾ける。彼は恐ろしさにふるえている発明家を引きずるようにして床からおきあがった。「五分間だけ猶予を与える」と、恐ろしい形相《ぎょうそう》であえいだ。「その間にわしを元通りにしなかったら、きみのその痩せこけた体をしめ殺してやるぞ」
腹を立てたチャレンジャーに盾《たて》ついては危険である。そんなときには非常に勇敢な人間でも尻ごみしかねないし、ましてやネーモル氏は特に勇敢な人物とも見えない。それどころか、顔に点々と散らばるできものやいぼは、地肌がふだんのパテのような色合いから魚の腹のような色に変化するにつれて、いよいよはっきり目立つようになった。手足はわなわなふるえ、口も満足にきけなかった。
「まったく、ひどいことをする!」と、彼は片手を喉に当てて切れ切れに呟いた。「こんな暴力をふるわれるいわれはなかったのだ。友人同士の間なら笑ってすまされる害のない冗談ですぞ。わたしは単に機械の力をお目にかけようと思っただけで、他意はなかった。あなたが納得のゆくまで実験を見たがるだろうと思ったまでで、誓って悪意はなかったのですぞ、教授」
教授は答えるかわりに椅子へ戻った。
「彼から目をはなさないでくれ、マローン君。勝手な真似をさせるでないぞ」
「承知しました」
「さあ、わしの顔を元通りにするか、それとも痛い目に会いたいか」
発明家は恐れをなして機械に近づいた。復元作用が限度まで働き一瞬のちに、ふたたびたてがみをなびかせたライオンが出現した。彼は両手でいとしそうにひげをしごき、つぎに頭をなでて髪の毛が完全に元へ戻ったことをたしかめた。やがて彼は威風堂々と止り木からおりた。
「きみは自分の身に重大な結果を招きかねない無礼な行いをした。しかし、あれはあくまでも実験のためだったという解釈を一応認めることにしよう。さて、きみが発明したと称するこの驚くべき機械について、二、三の質問を許してもらえるかね?」
「分解力のよってきたるところ以外のことなら喜んで答えましょう。それだけは大事な秘密ですからな」
「その秘密を知っているのはきみだけだということだが、まちがいないだろうな?」
「ほかの人間はまったく知りません」
「助手はいないのかね?」
「おりません。わたしは一人で研究します」
「これは驚いた! 実に興味深いことだ。ところで、分解力が本物であることはわしも納得したが、その実際的な意味となるとまだよくわからんのだが」
「さきほど説明したように、これはひな型です。だがもっと大規模な機械を作ることも容易です。ご覧の通りこれは垂直に作用します。対象物の上下に電流を流し、震動を与えて分解または復元します。しかしこの操作は水平にもできるのです。その場合でも効果は変わらず、しかも電流の強さに比例して影響範囲が拡がります」
「具体例をあげてくれたまえ」
「例えば二|艘《そう》の小船にそれぞれ電極を設置すると、その間にある軍艦は簡単に消失して分子と化する。軍艦が陸上部隊に変わっても理屈は同じです」
「で、きみはこの発明を独占権としてヨーロッパの某国に売り渡したというのだな?」
「そうです。あとは代金の支払いさえすめば、彼らはかつていかなる国も所有したことのない強力な武器を所有するのです。あなたはまだ、この発明が有能な人間――自分の所有する武器の使用を恐れない人間の手にゆだねられた場合の、偉大な可能性を理解しておられないようだ。それは測りしれないほど大きな可能性を含んでいるのです」男のよこしまな顔に満足そうな微笑が浮かんだ。「ロンドンの一画にこの機械が据えられた場合を考えてごらんなさい。容易に手に入れることのできる強力な電流の効果を想像してみてください」男はさも愉快そうに笑った。「テムズの谷が一掃され、何百万という住民が跡形もなく消えてしまうのです!」
それらの言葉――そして発明家がその言葉を口にするときの得意満面の様子が、わたしの心を恐怖でみたした。ところで、それがわたしの連れに与えた効果はまったく別物だったらしい。驚いたことには彼は急に愛想のよい微笑を浮かべて、発明家に片手をさしだした。
「ではあなたにお祝いを申しあげねばなりませんな、ネーモルさん。あなたは疑いもなく大自然の驚くべき特性を発見し、それを人類による利用のために解放した。それが破壊的のために利用されるのは憂うべきことだが、科学は善悪の区別にかかわりなく、どこであろうと知識のおもむくところへ追いかけて行くものだ。ところで原理はともかくとして、この機械の構造を調べさしてもらうことに異存はあるまいな?」
「もちろんですとも。機械は肉体にすぎません。それを動かす原理、つまり魂は、機械を見るだけではつかめませんからな」
「ごもっとも。しかしメカニズムだけ見ても実に精巧にできているようだ」彼はしばらく機械の周囲を歩きまわって、いくつかの部品に手を触れてみた。それから、絶縁された椅子の上にその不格好な体をひょいとのせた。
「もう一度宇宙の遠足をためしてみますかな?」と、発明家がたずねた。
「今はいい――あとにしよう! それより、あなたも気づいておられるだろうが、どこかで漏電しているらしい。こうしてすわっていると、ほんのわずかだが感電していることがわかる」
「まさか。椅子は完全に絶縁されていますよ」
「しかしまちがいなく感電している」彼は椅子からおりた。発明家はあわててそのあとにすわった。
「何も感じません」
「背骨がピリピリするような感じはしないかね?」
「いや、別に」
突然カチッという鋭い音がして、男の姿が消えた。わたしは驚いてチャレンジャー教授を見た。
「いったいこれは! 機械にさわったんですか、教授?」
「しまった! ついうっかりハンドルにさわってしまったと見える」と、彼は答えた。「この種の未完成の模型にはよくありがちな事故だ。ハンドルに安全装置をつけておく必要がある」
「いま三の目盛をさしています。そこが分解作用をひきおこす目盛ですよ」
「きみが消えたとき、そのことには気がついておった」
「だがぼくはひどく興奮していたもんで、あなたが元に戻ったときハンドルがどの目盛をさしていたか気がつきませんでした。あなたは気がつきましたか?」
「見ることは見たかもしれんが、そういうわずらわしいことはすぐ忘れることにしているのでな、マローン君。目盛はいくつもあって、われわれにはその使い道がまったくわからん。わかりもしないことをためしてみて、いよいよ事態を悪化させないともかぎらん。おそらくこのままほっとくのが一番かもしれんよ」
「するとあなたは――」
「さよう。このほうがいいのだ。テオドール・ネーモルという興味深い人物は、宇宙空間に撒き散らされ、彼の発明した機械は価値を失った。そしてヨーロッパの某国政府は、甚大な被害をもたらすこの機械の知識を奪われた。午前中で片づいたにしては悪い仕事ではなかったよ、マローン君。きみのところの新聞には、特派員が訪問した直後におこったラトヴィア人発明家の失踪事件に関する面白い記事がのるだろう。わしとしても楽しい経験だった。研究室の退屈をまぎらわしてくれる愉快な時間というわけだ。しかし人生は楽あれば苦ありという。いよいよあのマツォッティというイタリア人と、彼の熱帯シロアリの幼虫発達に関するばかげた見解に戻らねばなるまい」
ふりかえって見ると、椅子の上あたりに、まだ例のねっとりした霧が漂っているようだった。「しかし――」と、わたしは食いさがった。
「善良なる市民の最大の義務は殺人を防ぐことだ」と、チャレンジャー教授は答えた。「わしはその義務をはたしただけだよ。もうこの話はよしたまえ。マローン君! これは議論に値する問題ではない。もっと大事な問題があるのに、くだらんことにかかずらわって時間を無駄にしすぎたようだ」 (完)
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地球の叫び
わたしは『ガゼット』紙の記者をしている友人のエドワード・マローンから、チャレンジャー教授のことを聞いたかすかな記憶がある。マローンはいくつかの驚くべき冒険旅行で、教授と行をともにしている。しかし、わたしは自分の商売が忙しく、会社にもこなしきれないほどの注文が殺到している状態だったので、外の世界でおこっていることに目を向ける余裕はほとんどなかった。ただ、漠然と記憶しているのは、チャレンジャー教授に関する、乱暴で狷介《けんかい》な性格の、血の気の多い天才という評価だけである。だからつぎにかかげる仕事上の手紙を教授から受けとって、わたしは大いに驚いた。
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ケンジントン、エンモア・ガーデンズ十四番地乙
拝啓
小生は目下アルトワ式ボーリングの専門家の協力を必要としております。率直に言って小生はいわゆる専門家なるものをそれほど高くは評価しておらず、小生のようにすぐれた頭脳の持ち主であれば、いたずらに専門知識を売物にするばかりで(これは残念ながら単なる自己宣伝であることが多い)限られた視野しか持たない人間よりも、はるかに健全でとらわれない考え方ができるということを、常々実例によって確信しております。にもかかわらず、小生は貴君をためしてみようと考えております。というのは、アルトワ式ボーリング業者のリストを眺めているうちに、一風変わった貴君の名前――いっそばかげた名前と書こうかと思ったほどです――が小生の関心をひき、しかも調査の結果、小生の若い友人であるエドワード・マローン君が、貴君と知り合いであることがわかったからであります。右のようなしだいで、一度貴君と面談いたしたく、もし貴君が小生の要求に合致するようであれば、――要求水準はかなり高いものではありますが――きわめて重要な任務を貴君の手にゆだねたいと思います。これは口頭で話し合うことしか許されない極秘事項なので、目下のところ手紙ではこれしか申しあげられません。それゆえ、もし先約があればただちにそれを取り消して、きたる金曜日午前十時三十分に前記のアドレスを来訪されたくお願いいたします。小宅の玄関には靴拭きのみならず泥おとしまでそなわっており、チャレンジャー夫人は非常に几帳面《きちょうめん》な女ですから十分ご注意願います。
敬具
ジョージ・エドワード・チャレンジャー
[#ここで字下げ終わり]
わたしはこの手紙を主任に渡して、教授あてに、ピアレス・ジョーンズ氏は指定の日時に訪問する旨の返書をしたためさせた。それは丁重このうえない商用文だったが、ただ書きだしが「貴簡(日付なし)拝読いたしました」という文句ではじまっていた。それが教授に二通目の手紙を書かせることになった。
[#ここから1字下げ]
前略――(と、有刺鉄線のようなぎくしゃくした文字が書面におどっていた)――小生の手紙に日付が脱落していた旨のご指摘拝誦つかまつりました。莫大な税金に対する見返りとして、わが国の政府は、封筒の表面に小さな円型の印またはスタンプをおして投函の日付を示す習慣があることを留意していただきたい。もしこの印が脱落または識別不能なる場合は、差出人ではなく郵便局に対して苦情を申し出るべきものです。それはともかくとして、貴君の観察眼を小生が依頼した仕事に関する文章にのみ向け、手紙の形式を批評するようなことは早々におやめになるほうがよろしかろうと思います。
[#ここで字下げ終わり]
この手紙を読んだ結果相手はきちがいであることが明らかになったので、わたしはとりあえずリッチモンド・チームで一緒にラグビーをやっていた旧友のマローンに会って相談するほうがよいと判断した。彼は昔と少しも変わらぬ陽気なアイルランド人気質まる出しで、チャレンジャー教授との最初の小競合《こぜりあ》いのいきさつを聞いたとたんに腹を抱えて笑いだした。
「そんなのはまだ序の口だよ」と、彼は言った。「教授の前に出て五分もすれば、生皮を剥がれるような気がしてくることうけあいさ。彼の毒舌にはだれだって歯が立たないんだから」
「しかし、世間はどうしてそういう人間を大目に見るんだ?」
「大目に見てるわけじゃない。名誉|毀損《きそん》、口論、軽犯罪法違反などを全部ひっくるめたら――」
「軽犯罪法違反だって!」
「そうとも、彼は意見が合わなくなると相手を階段の上から投げとばすことしか考えないんだ。背広を着た原始時代の穴居人だよ。片手に棍棒《こんぼう》を持ち、もう一方の手に火打ち石のかけらを持った彼の姿が目に浮かぶようだ。人間の中には自分が生きている世紀の産物もいるが、彼の場合は過去一千年間の産物というおもむきがある。あれは初期新石器時代あたりに属する人間だよ」
「そんな男が教授とはね!」
「実際不思議な話だ! ヨーロッパ一の頭脳、しかもその背後にはすべての夢を現実に変える行動力がひそんでいる。同僚たちは毒のように彼を嫌って、なんとかして抑えつけようとするのだが、彼は歯牙にもかけずわが道を突進するというわけさ」
「なるほど」と、わたしは言った。「それで一つだけはっきりした。そんな男とは関係を持ちたくないね。さっそく約束を取り消そう」
「そんな必要はない。約束は一分もたがえず正確に守りたまえ――いいかい、ただの一分ちがってもひどい目に会うぞ」
「なぜ取り消してはいけないんだ?」
「そのわけを説明しよう。まず第一に、チャレンジャーについてぼくが話したことをあまり大げさに考えないことだ。彼に近づく人間はみな例外なく彼が好きになる。あの熊おやじは根は気だてのやさしい人なのさ。ぼくは彼が天然痘《てんねんとう》にかかったインディアンの赤ん坊を背負って、ブラジルの奥地からマデイラ川まで百マイルも歩き通すのをこの目で見たことがある。何をやらせても偉い男だよ。扱い方さえ心得ていれば決して乱暴されることはないさ」
「乱暴するチャンスなど与えてやるものか」
「だとしたらきみはばかだよ。ヘンジスト・ダウンの謎《なぞ》というのを聞いたことがあるかね――例の南海岸の竪坑《たてこう》|掘鑿《くっさく》の話だが?」
「何か秘密裡に石炭の試掘をやっているらしいということだ」
マローンは意味ありげに目ばたきした。
「まあ、そう思いたいのならそれもよかろう。ぼくは教授から秘密を打ち明けられているが、彼の許可があるまでは何とも言えないんでね。ただこれだけは新聞に出たことだから話してもいいだろう。ベタートンという男がいる。彼はゴムで一財産つくって、数年前に科学のために使うという条件づきで、全財産をチャレンジャー教授に贈った。これがたいへんな金額で――なんと数百万ポンドに達することがわかった。チャレンジャーはまずその金でサセックスのヘンジスト・ダウンに土地を買った。ヘンジスト・ダウンというのは白亜地層の北端に位置する荒地だが、彼はそこの広大な一画を手に入れて立入禁止の柵をめぐらした。中央部に深い峡谷があるんだが、彼はそこで発掘を開始したんだ。教授の発表によれば」――ここでマローンはふたたび目ばたきした――「イングランドにも石油資源があることを実証するつもりだということだ。彼は秘密を守ることを条件に高給で傭われた一群の労働者たちを集めて、ここに小さなモデル村を建設した。峡谷も彼の地所同様立入禁止になっていて、番犬が目を光らせている。この犬に噛みつかれて、ズボンの尻はもちろん、あやうく命までなくしそうになった新聞記者も何人かいるほどだ。これは非常に大規模な仕事で、サー・トーマス・モーデンの会社が工事を請負っており、彼らもまた秘密を守ることを誓わせられている。ところでいよいよアルトワ式ボーリング業者の協力が必要になったらしい。きみはこれまで会ったこともないし、おそらく今後も会う可能性の少ないすばらしい人物と近づきになれるのだが、かりにそれを抜きにしても、興味深い体験と高額の小切手が目の前にぶらさがっているというのに、まさかこの仕事を断るほどばかじゃないだろうね?」
結局マローンの説得が功を奏して、わたしは金曜日の朝エンモア・ガーデンズへでかけて行った。約束の時間に遅れないようにと特別に用心して、二十分前に戸口に着いた。通りで時間をつぶしているうちに、ふとドアに銀色の矢のマスコットのついたロールス・ロイスが目にとまった。まぎれもなく大モーデン社の若き共同経営者、ジャック・デヴォンシアの車である。彼のことは昔からきわめて洗練された紳士として知っていたので、それが突然目の前に現われて、ドアの前に立ちながら両手を頭上に持ちあげ、ひどく興奮した口調で「ちくしょう! ああ、あんちくしょう!」と叫ぶのを聞いたときは、われながら少なからずびっくりした。
「いったいどうしたんだ、ジャック? ばかに腹を立てている様子じゃないか」
「やあ、ピアレス! きみもこの仕事に関係があるのかい?」
「どうやらそうなりそうな気配なんだ」
「癇癪を抑える訓練にはもってこいだよ」
「もっとも、お見受けするところさすがのきみも腹にすえかねるほどらしいね」
「まあそんなところだ。なにしろ執事の口上がこうなんだ。『教授は、ただいま卵を食べているところで手がはなせないから、もう一度手すきのときにおいでいただければお目にかかると申しております』これが召使を通じてのいいぐさなんだぜ。ついでに言えば、ぼくは教授に貸しになっている四万二千ポンドを受け取りにきたところなんだ」
わたしは口笛を鳴らした。
「で、その金を払ってもらえないのかい?」
「いやいや、金払いは悪くないんだ。あのゴリラめ、率直に言って金に関しては気前のいいほうだと言うべきだろう。ただ自分が気に入ったときに自分の気に入ったやり方で払う、人の都合など考えない、というようなところはあるがね。ま、とにかくきみも彼と会って運だめしをしてみたまえ。きみの気に入るかどうかその目でたしかめるんだな」そう言い捨てて、彼は自動車で走り去った。
わたしは何度も時計をのぞきながら行動開始時刻の到来を待った。自分の口からこう言うのもなんだが、わたしはいたって筋骨たくましいほうで、ベルサイズ・ボクシング・クラブではミドル級第二位にいる。しかし人と会う前にこれほどそわそわした経験はかつてなかった。もちろん肉体的な恐怖のせいではない。万一この気ちがい科学者に攻撃されたとしても、十分対抗できる自信はあったからだ。わたしが平静を失っていたのは、スキャンダルにまきこまれはせぬかという恐れと、金もうけの口がおじゃんになるかもしれないという不安の混り合った複雑な感情のせいだった。しかしながら案ずるより生むが易しという言葉もある。わたしは時計の蓋をパチンと鳴らしてドアに近づいた。
応対に出たのは木像のような顔をした老執事だった。その男の顔に浮かんだ表情というか表情の欠如は、どんなことがあっても決して驚かないように訓練されているという印象を与えた。
「お約束ですか?」と、彼がたずねた。
「もちろんです」
彼は手に持った名簿に視線を走らせた。
「お名前は?……はい、ピアレス・ジョーンズ様ですな……お約束は十時三十分。結構です。用心しないと新聞記者には悩まされ通しでしてね、ジョーンズ様。ご存じかと思いますが、教授は新聞を目の敵にしておりますのでな。こちらへどうぞ、チャレンジャー教授がお目にかかります」
間もなくわたしは教授の前に通された。この人物については、友人のテッド・マローンが『|失われた世界《ザ・ロスト・ワールド》』への旅行記の中で、わたしなどの及びもつかないほど巧みな紹介をおこなっているはずだから、それで間に合わせていただくとしよう。わたしの目についたのは、マホガニーの机の向こうにすわっているとてつもなくずんぐりした人間の胴体と、スペード型の偉大な黒ひげと、尊大にたれさがったまぶたでなかば覆われた二つの大きな目だけだった。巨大な頭はうしろにふんぞりかえり、ひげはぴーんと前に突きでて、全体から受ける感じは、傲然《ごうぜん》たる偏狭の印象以外の何物でもなかった。「いったいなんの用だ?」と詰問するような表情が全身から読みとれる。わたしはテーブルの上に名刺をさしだした。
「そうそう」彼はまるでいやな匂いでもするように名刺をつまみあげながら言った。「思いだしたよ。きみはいわゆる専門家というやつだったね。ジョーンズ君――ピアレス・ジョーンズ君か。君は名付親に感謝すべきだよ。この滑稽な名前のおかげでわしの目にとまったんだからね〔ピアレス・ジョーンズ、すなわち|並ぶ者なき《ヽヽヽヽヽ》ジョーンズという意味になる〕」
「失礼ですが教授、わたしは仕事の話をしにきたんで、名前のことを論じるためにきたのではありません」と、わたしはできるだけ威厳をこめて言った。
「おやおや、きみは相当に短気な男らしいね、ジョーンズ君。神経がひどくいらだっている。この調子だと、きみと取引きするには足もとに気をつけんといかんな。まあ腰をおろしてくつろぎたまえ。わしはシナイ半島の資源開発に関する君のパンフレットを読んだが、あれは自分で書いたものかね?」
「もちろんです。ちゃんとわたしの署名がでていますよ」
「まったくだ! その通りだよ! しかし署名がでているからといって、かならずしもその人の執筆したものだとは言えんのじゃないかね? とにかく、今はきみの言葉を信じよう。あのパンフレットは全然価値がないというわけでもない。退屈きわまる文章の底で、時おりなかなかすぐれた着想が光っているところもある。着想の芽はそこかしこに散らばっていると言ってもよい。きみは結婚しているかね?」
「いや、独身です」
「それなら秘密を守れる可能性はある」
「いったん約束した以上は決して口外しません」
「なるほど。友人のマローン君が」――と、彼はテッドがまるで十歳の少年であるかのような口ぶりで話した――「きみのことをほめておった。信頼できる男だとな。わしの信頼を受けるということはたいへんなことだよ。というのは、わしは目下世界史はじまって以来最大の実験の一つ――いや、最大の実験と言いきってよいぐらいだ――にとりかかっている。きみをその仲間に入れようというわけなのだ」
「この上ない名誉です」
「まったくだ。正直言ってこの試みの巨大な性質が最高度の技術を要求するのでなければ、わたしはだれも仲間に入れず自分一人でやりたいところなのだ。さて、ジョーンズ君、きみは絶対に秘密を守ることを約束してくれたから、この試みの要点を話すとしよう。それはこうだ――われわれの住んでいる地球は、それ自体が一個の生物体であり、わしの信ずるところでは、血液の循環、呼吸作用、神経組織などを与えられている」
やはり、この男はまぎれもない気ちがいらしい。
「どうやらきみの頭では理解できんらしいな」と、教授はつづけた。「だが少しずつわかってくるだろう。ヒースの生い茂る荒野が、巨大な動物の毛むくじゃらの脇腹とそっくりだということもいずれわかる。全自然界を通じてある種の類似が存在しているのだ。やがて長い年月にわたる陸地の隆起や、陥没にも気がつくだろう。それがこの生物の緩慢な呼吸作用なのだ。そして最後にわれわれの小人的感覚《リリビューシャ》には地震や地殻変動とうつる、ちょっとした身動きやひっかきがある」
「火山はどういうことになりますか?」と、わたしは質問した。
「ちぇっ! それもわからんのか! 火山は人間の体で言えば皮膚の温点に相当する」
わたしは混乱した頭で、この途方もない主張にある解答を与えようとした。
「では温度は!」と、わたしは叫んだ。「それは地中にもぐると急速に上昇し、地球の中心部は高温の液体状になっているのではありませんか?」
彼はわたしの主張をあっさりしりぞけた。
「近ごろは公立学校が義務教育制をとっているから、おそらくきみもこれぐらいは知っていると思うが、地球は両極で偏平になっている。つまり極点はほかの場所より地球の中心に近いということであり、したがってきみの言う中心部の高温を最も感じやすい。極地の気候条件が熱帯のそれと同じだというのはもちろん周知の事実だ、ちがうかね?」
「それはまったくの初耳です」
「あたりまえだ。並みの人間には耳新しく、概してあまり歓迎されない考えを推し進めるのが、先駆者の特権というものだよ。さて、これをなんだと思うね?」彼はある小さな物体をテーブルの上からつまみあげた。
「ウニのようですな」
「その通り!」彼は幼い子供が利口な答をしたときのように、大袈裟《おおげさ》な驚きの表情を浮かべて叫んだ。「これはウニ――ごくあたりまえのウニだ。自然は大きさこそちがえ何度も同じ形をくりかえす。ウニは地球のひな型というか原型とも言えるものだよ。ほれ、形はほぼ球形だが、頂点と底がいくぶん平べったいだろう。そこで今度は地球を一個の巨大なウニと考えてみよう。異論はないかね?」
異論の第一は、あまりばからしくて話にならないということだったが、あえてそれを口には出さなかった。かわりに、さしさわりのなさそうな話題を探した。
「生物は食物を必要としますが、地球はその巨大な体をなんで養っているのですか?」
「いいところに目をつけた――話せるぞ!」と、教授は、大袈裟《おおげさ》にほめあげた。「この程度の自明のことに関しては、きみもなかなか目ざといところがあるようだ。もっとも、少し複雑な問題になると、あまり血のめぐりがよくはなさそうだが。地球はいかにして養分を摂取するかという問題だが、ふたたびウニの例を引いて説明しよう。ウニをとりまく海水が、この小動物の管状器官を通過するときに養分を供給する」
「すると、つまり海水が――」
「そうじゃない。エーテルだ。地球は宇宙空間に円型の軌道を描いて運行しているが、移動に当たってはエーテルが絶えず地球の内部を貫流して活動力を与えている。金星、火星など、ウニに似たほかの多くの星も、それぞれ独自の空間から養分を摂取して、みな同じことをやっているのだ」
この男は明らかに気がふれているらしいが、逆らっても無駄だった。彼はわたしの沈黙を同意のしるしと解したらしく、いともにこやかな微笑を浮かべた。
「どうやらわかりかけてきたようだ」と、彼は言った。
「暗闇に光がさしてきた。きっと最初はまぶしかろうが、すぐに慣れる。わしの手にあるこの小さな生物について、なお二つ三つ意見を述べるのを、辛抱して聞いてくれたまえ。
かりにこの固い表皮の上を、ある種の微少な昆虫が這いまわっていると仮定しよう。ウニはその昆虫の存在に気づいているだろうか?」
「たぶん気がついてないでしょうね」
「とすれば、地球は人間に利用されていることに全然気づいていないということも、容易に想像できるわけだ。地球は、老朽船にフジツボが付着するように、太陽の周囲を運行中に寄生した植物の生育や、微少な動物の進化に、全然気づいていない。これが現状であり、わしはそれを変えてみせようというのだ」
わたしは唖然として目をみはった。「それを変えるですって?」
「少なくとも一人の人間、ジョージ・エドワード・チャレンジャーだけは、注目を要求していることを、地球に知らせてやるのだ。地球としても、この種の意思表示に出会うのはおそらくはじめてのことにちがいない」
「それにはどんな方法を考えておいでですか?」
「さよう、そこから本題に入るのだ。きみはなかなかいいところをついてくる。もう一度わしの手にあるこの小動物に注目していただこう。この固い殻の中はきわめて神経過敏にできあがっておる。かりに微少な寄生動物がその注意を喚起しようと望んだ場合には、殻に孔をうがってウニの感覚器官を刺激するとは思われんかね?」
「当然そうするでしょう」
「あるいは、人体の表皮を這いずりまわる蚤や蚊の場合を考えてみてもよい。われわれは彼らの存在に気がつかないかもしれない。しかし、やがて彼らがその口吻《くちばし》を、人体の殻に相当する皮膚に突き刺すと、われわれは不愉快な寄生虫の存在に気がつく。そこまで言えばわしの計画もわかってもらえるんじゃないかね。暗闇に光がさしはじめるようにな」
「驚きましたね! では地殻に孔をあけようとおっしゃるんですか?」
彼はえもいわれぬ満足の表情で目をつむった。
「さよう、今きみの目の前にいるのは」と、彼は答えた。
「地球の固い表皮にはじめて孔をうがとうとする人物なのだ。いや、すでにその偉業をなしとげた人物と言いかえてもよい」
「すると、もうすでに!」
「モーデン社の優秀な技術協力のおかげで、どうやらそう言ってもいいところまでこぎつけた。数年間にわたって、現存するあらゆる種類のドリル、クラッシャー、爆薬などを使って日夜作業をつづけた結果、われわれはついにゴールに達したのだ」
「まさか地殻を突き抜けたとおっしゃるんじゃないでしょうね!」
「きみのその言葉が驚きを現わすものなら、それはそれでよろしい。だが、もし不信の気持が裏にひそんでいるとしたら――」
「いやいや、決してそんなことはありません」
「わしの言葉を疑ってもらっては困る。われわれは地殻を突き抜けたのだ。地殻の厚みは正確に言えば一万四千四百四十二ヤード、およそ八マイルというところだ。おそらくきみも関心を持つだろうと思うが、われわれは掘り進む途中で炭層を発見した。これがいずれはわれわれの計画に要する費用を埋め合わせてくれるにちがいない。おもな障害といえば、白亜下層とヘースティングズ砂層の湧水《ゆうすい》だったが、これもどうにか解決した。今やわれわれは最後の段階にさしかかった――その最後の段階とは、ピアレス・ジョーンズ君以外の何物でもない。つまり、きみは蚊に相当する存在なのだよ、ジョーンズ君。きみのアルトワ式ボーリングは、蚊のくちばしの代役をつとめるのだ。今や頭脳の働きは終わった。考える人は退場し、機械の専門家、|並ぶものなき《ピアレス》専門家が、金属の棒を手にして登場するときなのだ。どうだな、これで事情はのみこめたかね?」
「八マイルですって?」と、わたしは驚いて叫んだ。「アルトワ式ボーリングの限界がほぼ五千フィートだということをご存じないのですか? 上部シュレジェン〔現在のポーランド西南部の炭坑地帯〕で六千二百フィートという例を知っていますが、これだって驚異的な深さと考えられているのです」
「きみは誤解しとるようだな、ピアレス君。わしの説明がまずかったか、きみの脳みそに欠陥があるのか、どっちとは言うまい。アルトワ式ボーリングの限界はわしもよく知っている。六インチのボーリングで事足りるとしたら、わしの巨大な堅坑に何百万ポンドも注ぎこむようなことはせん。きみに頼みたいのは、できるだけ鋭利で、長さ百フィート以内の、電気モーターで働くドリルを用意してもらうことだ。重さを加えて打ちこむふつうのドリルで十分間に合うだろう」
「なぜモーター式でないといけないんですか?」
「わしがここにいるのは命令を与えるためであって、理由を説明するためではないのだよ、ジョーンズ君。われわれの目的が達成される前に、きみの命が、電気で遠隔操作されるこのドリルに左右されるという事態がおこるかもしれないのだ。遠隔操作は可能だろうね?」
「もちろん可能です」
「ではその準備をしてくれたまえ。まだきみに現場へ行ってもらう段階ではないが、そのための準備は今からしておいてもいいだろう。わしの話はこれでおしまいだ」
「しかし」と、わたしは注意をうながした。「どんな地盤にドリルを打ちこむのか知る必要があります。砂、粘土、白亜層と、地盤によって方法がちがってきますからね」
「ゼリーだ」と、チャレンジャー。「さしあたりはゼリーにドリルを打ちこむつもりでいてくれたまえ。ではジョーンズ君、わしにはまだ大切な仕事が残っているから、これでお引きとり願おうか。機械の請求額を含めた正式の契約書を作っておいてくれ」
わたしは一礼して帰りかけたが、戸口まで行かないうちに好奇心に負けてふりかえった。教授は早くも鵞ペンを紙にこすりつけるようにして書き物をはじめていたが、わたしが声をかけるとこわい顔をして見あげた。
「まだ何か用かね? もう引きとってくれと言ったはずだが」
「いえ、べつに。ただ、いったいなんの目的でこんな不思議な実験をなさるのかうかがいたかったんです」
「帰った帰った!」と、彼は腹を立てて叫んだ。「卑しい商売人気質をまる出しにしないで、少しは高尚なことを考えたらどうだ。くだらない商売基準など忘れてしまえ。科学は知識を追求する。知識はわれわれをその望むところへ導くが、それでもなお、われわれは知識を追求しなければならない。人間とはなんであるか、なぜ人間なのか、人間のおかれた立場はなんなのか、それを知ること自体がとりもなおさず全人類の望みではないのかね? さあ、とっとと帰りたまえ!」
教授の偉大な黒い頭が、ふたたび机の上の紙におおいかぶさって、黒いひげと見分けがつかなくなった。わたしは仕方なくこの風変わりな人物の前から引きさがったが、頭の中は、彼と協力することになった不思議な仕事のことを考えるだけで、わけもわからないほど混乱していた。
事務所へ戻ってみると、テッド・マローンがにやにや笑いながら、面接の結果いかんと首を長くして待っていた。
「やあ!」と、彼は叫んだ。「べつに変わりはないようだな。襲いかかったり殴られたりはしなかったのかい? 扱いがうまかったんだね。ところであのじいさんをどう思う?」
「あんないまいましい、無礼な、我慢のならない、うぬぼれ屋は見たことがない。しかし――」
「思った通りだ!」と、マローンが叫んだ。「だれしもその『しかし』という言葉に行き当たる。もちろんきみの評価はすべて当たっているし、それでもまだ手ぬるいぐらいだが、そのくせして、あれほどの大人物をわれわれの物差《ものさし》ではかるべきではない。ほかの人間なら腹が立つところでもあの男なら我慢できると、だれしも感じるのだ。ちがうかな?」
「なにしろぼくはまだあの男をとやかく言うほどよくは知らない、しかし、もし彼がただの意地悪な誇大妄想狂ではなく、彼の言うことが事実だとしたら、たしかにまれに見る人物だということは言えるだろう。だが、はたしてあれはほんとの話だろうか?」
「もちろんほんとだとも。チャレンジャーは絶対に嘘《うそ》を言わぬ男だ。ところで、きみはどこまで知っているのかな? ヘンジスト・ダウンの話は聞いたかい?」
「うん、あらましはね」
「ぼくが保証してもいいが、これはすばらしい計画だ――思いつきの点でも実行の面においてもね。教授は新聞記者ぎらいだが、ぼくだけは彼の信用を得ている。なぜなら、ぼくは彼が許可したことしか記事にしないことを知っているからだよ。そんなわけで、ぼくは彼の計画を知っている、いや、計画の一部を知っていると言うべきかもしれんな。彼ほどの人物になると、われわれ凡人には測りかねるところがあるんだ。いずれにせよ、ヘンジスト・ダウンの一件は現実だし、完成に近いこともぼくが保証する。今ぼくに言えるのは、成行きを見守って、その間にボーリング機械を用意しておくほうがいいということだな。間もなく教授自身かぼくから連絡があるだろう」
事実マローンから連絡があった。それから数週間たったある朝早く、彼は教授の伝言をもって事務所にやってきたのである。
「きょうはチャレンジャーの使いだよ」と、彼は言った。
「きみはまるでサメの案内魚《パイロット・フィッシュ》みたいな男だな」
「彼のためなら、案内役だろうとなんだろうと喜んでつとめるよ。実に驚くべき人物だ。見事にやってのけたよ。今度はきみの出番だ、教授もきみのために幕をあける用意ができている」
「まあ、この目で確かめるまでは信じられんが、機械はすべてトラックに積みこんである。いつでも出発できるよ」
「ではすぐ出発してくれ。きみのことは非常に精力的で、時間に几帳面な男だと宣伝しておいたから、ぼくを嘘つきにしないでくれよ。ところで、きみはぼくと一緒に汽車で行ってくれ、その間に仕事のことを説明しよう」
そのうるわしい春の朝――正確に言うならば五月二十二日――われわれは、歴史に名をとどめるべく定められた晴れ舞台への運命の旅に出発した。旅の途中、マローンはチャレンジャー教授の指示の手紙をわたしに手渡した。
[#ここから1字下げ]
前略(とその手紙ははじまっていた)
ヘンジスト・ダウンに到着したら、わたしの計画の全貌を掌握している主任技師バーフォース君の指示を仰がれたい。この手紙の持参者である年若い友人マローン君もまた、わたしと連絡を保っており、わたしを外部との直接的接触から護る役目を受け持っている。われわれは竪坑の深さ一万四千フィート地点およびそれ以下で、地球の性質に関するわたしの所説を完全に裏づけるある種の現象をすでに経験した。しかしながら現代科学界の麻痺《まひ》せる知性に強烈な印象をうえつけるためには、なおいっそう決定的な証拠が必要である。きみはその証拠を提供し、彼らはそれをわが目で確かめることになるのだ。きみは昇降機で下降する途中、もしまれに見る観察力をそなえているとするならば、第二次白亜層、石炭地層、デヴォン紀およびカンブリア紀の特徴を持つ地層を順次通過して、最後にわれわれの竪坑の大部分をしめる花崗岩層に達することに気がつくだろう。目下のところ底は防水布で覆われているが、敏感な地球の内膜をへたにいじくりまわして、早まった結果を招いては困るので、そこには絶対に手を触れぬようにしてもらいたい。わたしの指示に従って竪坑の底から二十フィートの高さに、ある程度の隙間をあけた二本の頑丈な桁《けた》材が渡されている。この隙間は、きみのアルトワ式ボーリングのパイプを支えるためのものだ。ドリルの長さは五十フィートあれば十分だろう。そのうち二十フィートを桁の下に突きだし、ドリルの先端が防水布に近づくようにする。命が惜しかったらそれ以上は近づけるな。残る三十フィートを竪坑の上のほうにのばしておけば、ドリルを落下させたときにおよそ四十フィートほど地球の中身にもぐりこむだろう。この中身は非常に軟らかいものだから、特別にドリルを打ちこむ力は不必要で、落下したパイプはそれ自体の重みによって、われわれが露出させた地層に突き刺さるだろう。なみの知能をそなえた人間なら、これだけ指示を与えられれば十分と思われるが、おそらくきみはさらに多くの指示を必要とするであろうから、その場合はマローン君を通じてわたしに問い合わせられたい。
ジョージ・エドワード・チャレンジャー
[#ここで字下げ終わり]
サウス・ダウンズの北端に近いストリントン駅に到着したとき、わたしがかなり緊張した状態にあったことは、容易に想像もつこうというものだ。塗りのはげたヴォルクスホールの小型ランドー型自動車が迎えにきていて、七マイルほどの間道や田舎道を、われわれを乗せてガタピシ走った。そのあたりはへんぴなところなのに、道には深い轍跡《わだち》がきざまれ、車の通行が激しいことを歴然と示していた。一台のトラックが草むらに横転していたところを見ると、この道で苦労したのはわれわれだけではないらしい。途中、揚水ポンプのバルブとピストンと思われる巨大な機械の部品が、ハリエニシダの茂みから赤錆《あかさ》びだらけの姿をのぞかせていた。
「チャレンジャーの仕業《しわざ》だよ」と、マローンがにやにやしながら言った。「見積もりより十分の一インチ小さいという理由で、道ばたにほうりだしてしまったんだ」
「きっと訴訟沙汰になったろうな」
「訴訟沙汰だって! いいかね、そのためには自分の裁判所でも持たなきゃ無理だね。われわれが訴訟をはじめたら、判事一人が一年間それにかかりっきりになってしまうだろう。政府も同様だ。国王対ジョージ・エドワード・チャレンジャー、ジョージ・エドワード・チャレンジャー対国王、二人ですばらしい悪魔のダンスを踊りながら、裁判所から裁判所へ渡り歩くだろう。さあ、着いたぞ。いいんだ、ジェンキンス、通してくれ!」
人目につきやすいハナキャベツのような耳をした大男が、うさんくさそうに顔をしかめて車の中をのぞきこんだ。彼はわたしの連れを見るなり、急になごやかな顔つきになってあいさつした。
「いいとも、マローンさん。『アメリカン・アソシエーテッド・プレス』の連中かと思ってね」
「ほう、あいかわらずこのへんをうろついているのかい?」
「きょうはあいつら、きのうは『ザ・タイムズ』の連中ですよ。まったくうるさいったらないやね。あれを見なさい!」男は遠い地平線の黒点を指さした。「ほら、あすこでキラリと光ってる、あれは『シカゴ・デイリー・ニューズ』の望遠鏡ですよ。ええ、あいかわらずしつこく追いかけまわしている。向こうの望楼に、まるでカラスのように群がっていましたぜ」
「かわいそうな記者諸君!」と、いかめしい有刺鉄線の柵の入口を通り抜けるとき、マローンがつぶやいた。「ぼくもその一人だから、彼らの気持はよくわかる」
このとき、背後で「マローン! テッド・マローン!」と呼びかける哀れっぽい嘆願の声が聞こえた。声の主はたった今オートバイで到着した太っちょの小男で、ヘラクレスのような怪力の門番につかまってじたばたしているところだった。
「おい、放せ!」と、彼はわめきたてた。「その手をどけろ! マローン、このゴリラ野郎を引きはなしてくれ」
「放してやれ、ジェンキンス! その男はぼくの友人だよ」と、マローンが叫んだ。「いったいどうしたんだ? こんなところで何をしてる? きみのたまり場はフリート・ストリート〔ロンドンの新聞街〕だろう。――サセックスの荒れ野原はお門《かど》ちがいじゃないかね?」
「おれが何を追っかけているかちゃんと知っているくせに。ヘンジスト・ダウンについて記事を書くことをおおせつかったんだ。手ぶらで社へ帰るわけにはいかないんだよ」
「気の毒だが、ロイ、ここでは何も手に入らんよ。柵の内側は立入禁止だ。どうしても入りたかったら、チャレンジャー教授に会って許可をもらいたまえ」
「教授には会ったよ」新聞記者は恨めしそうに答えた。「けさだ」
「で、彼はどう言った?」
「窓からほうりだすとおどかされたよ」
マローンは笑いだした。
「きみはどう答えたんだ?」
「『ドアの具合が悪いんですか?』と言って、どうもなっていないことを見せるためにドアから外へとびだしたよ。言い争ってもはじまらないからね。おとなしく帰ってきた。きみはロンドンのひげをはやしたアッシリアの牛ばかりか、おれの新しいセルロイドのカラーをめちゃくちゃにしたこの暴漢とも、妙に仲がいいらしいな、テッド・マローン」
「残念ながらきみの力にはなってやれんよ、ロイ。できることなら助けてやりたいのはやまやまなんだがね。フリート・ストリートでは、きみは絶対に参ったと言わないという評判だが、今度だけは見込みがない。悪いことは言わないから社へ帰りたまえ。二、三日待てば、教授の許可が出しだいぼくがニュースを送ってやるよ」
「どうしても中へ入るのは無理か?」
「無理だね」
「金ならいくらでも出すぞ」
「もうちっとましなことは言えないのか?」
「噂によるとニュージーランドへの近道を掘っているという話だが」
「いいかげんに諦めないと病院への近道になるぜ、ロイ。それじゃ失敬。こっちも仕事があるんでね」
「今のはロイ・パーキンスという特派記者だ」と、マローンが柵の中を歩きながら説明した。「やっこさんの記録もわれわれに破られたわけだ、なにしろこれまでは絶対にあとへ退かないという評判をとっている男だからね。あのぽちゃぽちゃとした無邪気な顔のおかげで、どこへでも入りこんでしまうんだよ。以前同じ部で働いたこともあった。ほら、あれが」――彼は小ぎれいな赤い屋根のバンガローの群を指さした――「労働者たちの住む一画だ。連中はみな選り抜きの熟練労働者で、なみよりはるかに高い給料で傭われている。傭用条件は、独身、禁酒家であること、そして秘密を誓っている。ぼくの知るかぎり、これまで外部に秘密が漏れたということはないようだね。あの運動場は彼らのフットボール場、離れ家は図書室兼遊戯室だ。実際教授は組織家としてもちょっとしたもんだよ。こちらが主任技師のバーフォースさんだ」
痩せてひょろ長い、顔に気苦労の皺を深々と刻みこんだ憂鬱そうな男が、目の前に立っていた。
「あんたはボーリング技師だね」と、彼は陰気な声で話しかけた。「あんたがくるという連絡は受けていた。きてくれて大助かりだ。なにしろ、正直なところ、こんな仕事の責任を負わされちゃ、神経が疲れてかなわん。一日中あくせく働いても、つぎに現れるのが白亜層の湧水なのか、薄い炭層なのか、油脈なのか、それとも地獄の火なのか、皆目《かいもく》見当もつかんときている。さいわいこれまでのところ地獄の火にだけは出会っていないが、あんたはきっとそいつにぶち当たるかもしれんぞ」
「竪坑の中はそんなに暑いんですか?」
「暑いことは暑い。それは否定の余地なしだ。しかし、気圧と狭い空間を割引きすれば、それほど暑いとは言えないかもしれん。もちろん換気はひどい。新鮮な空気をポンプで送りこむのだが、それでも二時間交替が限度だ――しかし労働者はみなやる気のある連中ばかりだ。教授がきのう底まで降りたんだが、彼はその暑さにひどくご満悦のようすだった。ま、昼飯でも一緒に食って、それから自分の目で確かめてきたまえ」
大急ぎで簡単な昼食をすませたのち、われわれは主任技師の好意的な配慮で、機関室の内部や、草原に散乱する廃棄処分になった雑多な機械の山を見学した。片側には初期の発掘に使われた巨大なアロール式水圧シャベルが、分解されて横たわっていた。そのかたわらには、これも巨大なエンジンが打ち捨てられている。これは、竪坑を掘り進むにつれて生じた土くれをすくいあげるためいくつものバケツをとりつけたワイヤー・ロープを引きあげるときに使われたものである。発電室では、巨大な出力を誇る数基のエッシャー・ヴィス・タービンが、一分間に百四十回転の速度で回転し、一平方インチあたり千四百ポンドの圧力を生じさせる水力だめを作動させている。この圧力は直径三インチのパイプを通って竪坑の底まで達し、ブラント・タイプのくぼんだカッターを持つ四本の鑿岩《さくがん》ドリルを動かしているのだった。機関室に隣接して配電室があり、大規模な照明装置に電気を送っている。さらにその隣りには、二百馬力の予備のタービンが一基あって、十二インチのパイプで竪坑の底へ空気を送りこむ十フィートの送風器を動かしていた。これらの驚くべき諸設備を、さも自慢そうに案内してまわる担当者の技術的な説明には、さすがにわたしもうんざりした。おそらく受売りのわたしもまた、読者をうんざりさせているのではないかと思う。しかしながら、うまい具合に歓迎すべき邪魔が入った。エンジンの響きにつづいて、ありがたいことに、ボーリング機械やパイプを満載したわたしの三トン積みのリーランド・トラックが、草原の向こうに見え隠れしはじめたのである。運転台には現場監督のピータースと、薄汚い格好の助手が乗っていた。二人はすぐに積荷をおろして中に運びこむ仕事にとりかかった。主任技師とマローンとわたしは、二人をそこに残して竪坑に近づいた。
それはわたしが想像していたよりもはるかに大規模な、驚くべき工事場だった。地底から運びあげた何千トンもの土が、竪坑の入口の周囲に馬蹄形《ばていけい》に積みあげられて、かなり大きな山を形作っている。白亜土、粘土、石炭、花崗岩からなるこの馬蹄形の内側に、鉄柱や、ポンプ、昇降機などを操作する仕組みが所せましとばかり立ち並んでいる。それらは馬蹄形の入口をふさいだれんが造りの発電所につながっていた。その向こうには竪坑が、直径三、四十フィートもある、縁をれんがとセメントで固めた巨大な口を、ぽっかりあけていた。穴の縁から首をのばして、八マイルはあろうと思われる恐ろしい深淵をのぞきこんだとき、わたしはそれが意味するところを考えて思わずたじたじとなった。太陽の光は穴の口から斜めにさしこんでおり、ところどころ軟弱な坑壁をれんがで補強した汚い白亜地層を、わずか数百ヤードしか見通すことができなかった。だが、はるか底のほうの真暗闇に、豆粒のような明りがぽつんと見えた。それはやっと見分けがつくぐらいの大きさでしかないが、墨を流したような背景にくっきりと浮かびあがっていた。
「あの明りはなんだ?」と、わたしがたずねた。
マローンがわたしと並んで手すりごしにのぞきこんだ。
「昇降機がのぼってくるところだ」と、彼は言った。「どうだ、すばらしいだろう? まだ出口まで一マイルかそれ以上もはなれている。あの小さな光の点は強力なアーク燈だ。どんどんのぼってきて、数分後には目の前に現れるぞ」
なるほど、針の先ほどの光はどんどん大きくなって、やがて坑内を銀色に明るく照らしだすほどになり、あまりのまぶしさに目をそむけずにはいられなくなった。間もなく鉄製の箱はガシャンという音を発して乗り場に静止し、四人の男が中から現われて竪坑の入口に向かった。
「みんなくたくただ」と、マローンが言った。「この深さで二時間交替は楽じゃない。さて、すぐそこに作業服がある。ひとつ一緒に降りてみようじゃないか。そうすればきみも自分の目で状況を判断できるだろう」
彼は機関室の隣りのつづき部屋へわたしを案内した。軽いタッサー・シルクで作っただぶだぶの作業服が、壁にたくさんかかっていた。わたしはマローンにならって着ているものをすべて脱ぎ、この作業服とゴム底の上靴を身につけた。マローンは先に着替えをすませて更衣室を出た。一瞬後、十組の乱闘が一度におこったような騒々しい物音を聞いて外へとびだすと、マローンが、わたしのボーリングの積みおろしを手伝っていた労働者にしがみついて、地面を転げまわっていた。よく見ると、彼はその男が必死になってしがみついている何かを奪い取ろうとしているらしい。だがマローンのほうが腕力でははるかにまさっていた。彼は相手の手からその物をもぎとり、めちゃくちゃに踏みつけた。そのときになってやっとわかったのだが、それは写真機だった。汚らしい格好をした労働者は、恨めしそうな顔でおきあがった。
「ひどいぞ、テッド・マローン!」と、男は叫んだ。「こいつは十ギニーもする新品なんだぜ」
「仕方がないさ、ロイ。きみが盗み撮りするのを見た以上、ほうってはおけないよ」
「うちの職人たちにどうやってもぐりこんだんだ?」と、わたしは正当な怒りをこめて詰問した。
悪党はウインクしてにやりと笑った。「どんなときでも方法はあるもんだよ。だがきみの現場監督を責めないでくれ。彼はてっきりぼろを着た職人だと思っていたようだ。彼の助手と服を交換してもぐりこんだのさ」
「出て行ってもらおう」と、マローン。「逆らっても無駄だよ、ロイ。チャレンジャーがここにいたら、きみに犬をけしかけていたところだ。ぼくもきみと同じ立場で困った経験があるから、意地悪はしたくないが、なにしろぼくはここでは番犬だ、吠《ほ》えるだけじゃなしに噛みつくこともできるんだぜ。さあ、出ていってくれ!」
こうして冒険好きの訪問者は、にやにや笑いを浮かべた二人の労働者に引き立てられて、柵の外へ連れ出された。こう書けば『科学者の狂った夢』という大見出しにつづいて、『オーストラリアへの直通路』という小見出しを掲げて、数日後『ジ・アドヴァイザー』紙をにぎわした四段抜きの興味深い記事のいきさつに、読者はなるほどと思い当たることだろう。この記事はチャレンジャー教授をして怒髪《どはつ》天をつかしめ、『ジ・アドヴァイザー』の編集長を、生涯で最も屈辱的かつ危険な会見にのぞませたものである。その内容は「わが社の有能な特派記者」ロイ・パーキンスの冒険を、きわめて装飾過剰な誇張された文体で報告したもので、「エンモア・ガーデンズの毛むくじゃらの暴漢」だとか「有刺鉄線の柵、ならず者、番犬に護られた一画」、はては「記者は二人の暴漢によって、イギリス=オーストラリア・トンネルの入口から力ずくで引きずり戻された。中でも手ひどい暴力をふるったのは、記者も顔見知りの、ジャーナリズムに寄生するなんでも屋であり、もう一人の、奇妙な熱帯風の服をまとった人相の悪い男は、ボーリング技師のように見せかけてはいたが、むしろホワイトチャペル〔ロンドン東部のユダヤ人居住区〕を連想させる風貌だった」といった式の、大袈裟な誇張がふんだんに書きつらねてあった。こんなふうにしてわれわれをやっつけたのち、ロイ・パーキンスの悪党は、竪坑の入口に敷かれたレールや、ケーブルカーで地中にもぐるためのジグザグの坑道など、見てきたような嘘を麗々《れいれい》しく並べたてていた。この記事による実質的な被害といえば、サウス・ダウンズに腰を据えて事件を待ち構える弥次馬の数が、目に見えて増加したことだけだった。もっとも、いよいよその日がきたとき、彼らは自分の物好き根性を後悔したことだろう。
わたしの現場監督と、ロイ・パーキンスの化けた贋物《にせもの》の助手は、さまざまな機械の部品、索具、V字型ドリル、鋼材、おもりなどをそこいらじゅうに拡げていたが、マローンがそれにかまわず底まで降りてみることを主張した。われわれはそのために格子になった鉄の箱に入り、主任技師と一緒に地球のはらわたの中へくだって行った。竪坑の壁面に掘り抜いたそれぞれの発着所を持つ、一連の自動昇降機があって、非常なスピードで運転されている。実際に乗ってみた感じは、なじみの深いイギリスの昇降機ののんびりした降下とちがって、垂直のレールを汽車で走っているような気分だった。
箱の壁が格子になっていて、照明が明るいので、通過する地層をはっきり見極めることができた。目に見えたのはほんの一瞬だが、わたしはそれぞれの地層を鮮明に記憶している。黒っぽい白亜下層、コーヒー色のヘースティングズ砂層、もっと明るい色のアッシュバーナム地層、黒い炭化粘土層、つづいて黒曜石のような輝きを放つ石炭層と粘土層が交互に重なって描く縞《しま》模様。ところどころれんがで補強されているが、全体として竪坑は非常にしっかりしており、それに費やされた厖大な労働量と機械技術には、ただただ驚嘆するばかりだった。石炭層をすぎると一見コンクリートのような地層のよせ集めが目の前に現われ、ついで暗黒の壁にダイヤモンドのかけらをばらまいたように石英の結晶がきらきら輝いている、原始|花崗岩《かこうがん》層に突入した。われわれはなおも下降しつづけた――いかなる人間もかつて足を踏み入れたことのない地底の深みへ向かって。古代の岩石は微妙にその色合いを変えたが、中でもわれわれの強力なアーク燈に照らされて、この世ならぬ美しい輝きを発した、バラ色の長石の厚い層が忘れられない。中継点に達して昇降機を乗り換えるたびに、坑内の空気はますます暑く、息苦しくなり、ついに軽いタッサー・シルクの服でさえ耐えがたく思われ、滴り落ちる汗がゴム底の上ばきにたまるほどになった。やがて、もうこれ以上はどうにも我慢できないと思いはじめたとき、最後の昇降機が静止し、われわれは岩盤をくり抜いた円形のプラットホームに降り立った。そのときふと、マローンが周囲の壁に向かって妙に疑い深い視線を投げかけるのに気がついた。彼がこの上なく勇敢な男であるかどうかはともかくとして、極端に神経質になっていたことだけは断言していいだろう。
「妙なものがあるぞ」と、主任技師が手近かの壁に手をのばしながら言った。彼は岩のかけらを光にかざして、それが奇妙なねばっこい浮きかすで光っていることを示した。
「このあたりで何度も震動がおこった。いったいどういうことだろうな。教授はひどく上機嫌だったが、わたしにはさっぱり見当もつかん」
「ぼくもこの壁が激しく揺れるのをこの目で見たよ。この前ここまで降りたとき、きみのドリルのために桁材を二本渡したんだが、取りつけ作業のため岩に刻みを入れると、一撃ごとに壁が身じろぎするんだ。現実的なロンドンの町で聞いたときは、教授の理論がばかげたものに思えたが、地底八マイルのここでは、なんだか自信をもって否定できなくなってしまう」
「あの防水布の下をのぞいてみれば、その自信はますますぐらつくだろうな」と、主任技師。「このあたりの岩はまるでチーズでも切るように造作なく切れたし、それを突き抜けると、見たこともないような地層にぶつかったんだ。教授はあわてて叫んだ。『覆いをかけろ! 手を触れるな!』ってね。だから言われた通り防水布をかぶせたが、今でもそのままになっている」
「ちょっと見せてもらえないかな?」
主任技師の哀れっぽい顔に驚きの表情が浮かんだ。
「教授の命令にそむくなんて冗談じゃない。あの人は抜け目がないから、いつどこで監視しているかわからんぞ。だがしかし、一か八かちょっとのぞいてみるとするか」
彼はわれわれの反射燈を下に向けて、黒い防水布を照らした。それから自分でかがみこんで、覆いのはしを結んであるロープをつまみ、六平方ヤードほどの地表をむきだしにした。
それは、まことに不思議な恐ろしい眺めだった。なめらかな光沢のある灰色の物質からなる表面が、ゆっくり脈打ちながら上下している。その鼓動は直接的でなく、ゆるやかなさざ波か律動が表面を渡ってゆくような感じだった。さらにこの表層自体が完全に均質ではなく、その下には、すりガラスを通して見るような感じで、ぼんやりした白っぽい部分や気泡が見え、それが絶えず形や大きさを変えている。われわれ三人は魅せられたようにこの不思議な光景をみつめつづけた。
「まるで皮を剥がれた動物のようだ」と、マローンがこわごわささやいた。「こうなると教授の地球ウニ説もまんざらでたらめじゃなさそうだな」
「ああ!」と、わたしも嘆声を発した。「そしてぼくがこの生物に銛《もり》を打ちこむのだ!」
「それがきみの名誉ある任務だよ」と、マローン。「そして、悲しいことに、わざとヘマをしでかさないかぎり、ぼくもそのとききみのそばで立会うことになるのだ」
「わたしはごめんだね」主任技師がきっぱり宣言した。「この決心だけは絶対に変わらない。もし教授がどうしてもと言い張るなら、そのときはくびにしてもらうよ。ほら、あれを見たらとうてい手を出す気にはなれん!」
突然、灰色の表層がじわじわっと盛りあがり、防波堤の上から見る波のようにわれわれのほうに押し寄せてきた。やがてそれはまたへこみ、かすかな律動だけが依然としてつづいた。バーフォースはロープをおろして防水布を元に戻した。
「まるでわれわれがここにいることを知っているみたいだったな」と、彼は言った。「なぜあんな風にわれわれ目がけて盛りあがったんだろう? おそらく光がなんらかの影響を及ぼしたのかもしれんな」
「さて、ぼくは何をしたらいい?」と、わたしはたずねた。
バーフォースは昇降機の終点のすぐ下に渡された二本の桁材を指さした。その間には約九インチの隙間があいている。
「あれは教授のアイデアだ」と、彼は言った。「わたしならもっとうまくやれたと思うんだが、気ちがい牛に逆らってもはじまらんからね。言われた通りにしておくほうが楽だし安全だ。彼はあんたに、六インチのパイプを、この桁材の間にとりつけさせる考えらしい」
「それなら大して難しくはなさそうだ」と、わたしは答えた。「なんだったらきょうから仕事を引き継いでもいい」
それは、想像もつこうと思うが、すべての大陸でボーリングを行った経験のある変化に富んだわたしの一生の中でも、これ以上はないという奇妙な経験だった。チャレンジャー教授は遠隔操作に固執するし、わたし自身もその主張にもっともな点があると思ったので、電気で操作する方法を考えださねばならなかった。もっとも、坑内には入口から底まですでに電線が通じているので、その問題はいたって簡単に解決した。現場監督のピータースとわたしは、最新の注意を払って長いパイプ材を運びおろし、岩の張りだしにそれを積みあげた。それから、作業の邪魔にならないように、昇降機の終点の足場を上に移動させた。重力だけに頼るのは心もとないので、打ちこみ式でやることにした結果、昇降機の下の滑車に百ポンドのおもしをぶらさげ、その下にV字型のカッターをとりつけたパイプをおろした。最後に、おもしを支えるロープを坑壁に固定し、電気のスイッチ一つで落下する仕組みにした。この慎重さを要する困難な仕事は、熱帯顔負けの暑さと、防水布の上に足を踏みすべらしたり道具を取り落としたりすれば、想像を絶する大惨事がおこるのではないかという不断の懸念の中で行われた。同時に、周囲の様子もわれわれの肝を冷やさせた。岸壁に不思議な震動が走るのをわたしは何度も見たし、掌《てのひら》を当てれば鈍い律動さえはっきり感じられた。仕事が完了したという最後の合図を送り、チャレンジャー教授がいつでも実験にとりかかれる準備がととのったことを、バーフォースに報告したときは、ピータースもわたしも思わずほっとしたものである。
それほど長く待つ必要はなかった。仕事が終わった日から三日後に、わたしは通知を受けとった。それは「家庭での招待会」に使われるようなありきたりの招待状で、文面はこうだった。
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きたる六月二十一日火曜日、午前十一時三十分より、サセックス州ヘンジスト・ダウンにおいて、物質に対する精神のめざましい勝利の光景をご覧に入れます。万障お繰り合わせのうえ、ご来駕《らいが》のほどお待ちいたします。
なお十時五分にヴィクトリア駅より特別列車が出ます。交通費自弁。実験終了後の昼食の用意は進行状況により決定。下車駅、ストリントン。
学士院会員、医学博士、理学博士他ジョージ・エドワード・チャレンジャー教授(前動物学会会長をはじめ数々の地位および名誉学位を保持せるも、本状の余白に限りあるため省略)
ジョーンズ殿(婦人同伴は遠慮されたし)
サウス・ウエスト区エンモア・ガーデンズ十四番地乙宛て、(楷書にて記名のうえ、すみやかに)出欠を連絡されたし。
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マローンに会ったのは、彼もちょうどこれと同じ招待状を受けとって、くすくす笑っているときだった。
「われわれにこれを送ってきたのは、彼の事大主義のあらわれさ」と、彼は言った。「死刑執行人の殺人犯に対するいいぐさじゃないが、どっちみちわれわれがいなきゃはじまらないんだからね。それにしてもロンドン中がこの招待状の噂でもちきりだぜ。教授としては得意満面の晴れ舞台というわけさ」
かくて大いなる日はついにやってきた。わたし自身は万全を期するために、前の晩出発するほうがよいと判断した。われわれのボーリング機械は所定の場所に据えつけられ、おもしの調整はすみ、スイッチによる接続も完全だった。わたしはこの奇妙な実験における自分の任務が、支障なく遂行されることを確信して満足していた。電気による遠隔操作は、人体への危険を最小限にするため、竪坑の入口から約五百ヤードはなれた地点で行われることになっていた。この上ない好天に恵まれた運命の夏の朝、わたしは自信にみちて地上に戻り、実験の全貌を見渡せるように丘の中腹へのぼった。
世界中の人々がヘンジスト・ダウンに集まったような騒ぎだった。街道筋は見渡すかぎり人の波で埋まっていた。自動車の群が田舎道をがたがた走り、実験場の入口で乗客を吐きだした。ほとんどの人はそこで行きどまりだった。屈強な警固の一隊が入口を固めていて、口実や買収はいっさい通用せず、羨望の的である淡黄色の切符を出した者だけしか通してもらえなかったからである。そこで彼らは散り散りになって、すでに丘の中腹から頂上にかけて、蟻《あり》のように群がり集まっている見物人の仲間入りした。実際それはダービーの日のエプソム・ダウンズを思わせた。柵の中にはいくつかの仕切りがもうけられ、入場を許されたさまざまな階層の人々が、それぞれ割当ての桟敷に案内された。桟敷は貴族用、下院議員用、学界の指導的な人物および科学界の著名人用にわかれており、最後の桟敷にはソルボンヌ大学のル・ペリエ、ベルリン・アカデミーのドリージンガー博士などの顔も見えていた。砂嚢《さのう》で囲み、波型トタン板の屋根をとりつけた特別席は、王室からの三貴賓のためにとっておかれた。
十一時十五分に、駅から特別招待客をのせた大型乗合自動車の列が到着し、わたしも歓迎の手伝いをするために柵の中へ降りて行った。チャレンジャー教授は、フロックコート、白チョッキ、磨きあげた山高帽で威儀を正し、ほとんど押しつけがましいほどの愛想のよさと、このうえない尊大さの混り合った表情を浮かべて、特別席のかたわらに立っていた。「明らかに典型的な予言者妄想の犠牲者である」と、ある批評家が彼を評したが、まさにその通りだった。招待客の案内を応援したり、時にはみずから桟敷に押しこんだりして、お歴々を自分のまわりに集めたのち、ちょうどうまい具合に一段高くなった場所へ自分がすわり、あたかも歓迎の拍手を期待する議長のごとくあたりを見まわした。だが拍手はおこらなかったので、彼は招待席の一番はしまで鳴り響くような大声でいきなり本題を切りだした。
「紳士諸君、本日はご婦人方をいっさいお招きしなかった。その理由は、誓って申しあげるが」――ここで泥くさいユーモアとうわべだけの謙遜の思い入れ――「男女の関係がこれまで常にきわめて親密であったことを、わたしが理解しないからではなく、実はこの実験にはいささかの危険が伴うことが、予想されるからであります。もっとも、それだからといって、今諸君の顔に浮かんだ不安の表情は、故なきものと言わねばなりません。新聞記者諸君には大いに喜んでいただけると思うが、実験を目のあたりに観察できる超特別席を、坑口周辺の盛土の上に用意しております。彼らはわたしの計画に対して、しばしば無作法とも思えるほど強い関心を示しつづけてきました。しかし、本日のためにわたしが示した配慮を知れば、彼らもきょうこそはわたしを責められないでありましょう。よくあることだが、万一何事もおこらなかったとしても、とにかくわたしが記者諸君のために最善をつくしたことだけは事実であります。反対にもし何かがおこった場合には、それだけの勇気があればの話だが、現象をじかに体験し記録できる場所を与えられたことになります。
一人の科学者にとって、いわば俗衆――この言葉が不当な侮辱にはならないと思うが――に向かって、彼の結論や行動のさまざまな理由を説明するのは不可能であることを、諸君は容易に理解してくれるものと信じます。こう言ったとたんに、そのへんで話の邪魔をする声が聞こえる。それからそこの角縁眼鏡の紳士にお願いするが、傘《かさ》をふりまわすのはやめていただきたい。(聴衆より声あり。「招待客をつかまえての今の言いぐさは、我慢のならない侮辱だぞ」)おそらくわたしの使った「俗衆」という言葉が、この紳士の感情を害したものと思います。それなら、わたしの招待客は、およそ俗衆とはかけはなれた人々であると訂正しましょう。要するに言葉はどうでもよいのであります。ただ今の無作法な発言に邪魔される前に、わたしが申しあげようとしていたことは、この実験の全貌が、近い将来に出版される予定の、地球に関するわたしの著書の中で、余すところなく明瞭に論じられているということであります。この本は、きわめて控え目に言っても、世界史上画期的な本になるはずです。(大勢の抗議の叫びに混って、「前置きはもうたくさん!」「なんのためにわれわれを呼んだのだ?」「これは冗談なのか?」という声)もうすぐ本題に入りますが、これ以上話に邪魔が入るようなら、悲しむべきことだが明らかにこの場に欠けている礼儀と秩序を保つために、あえて非常手段に訴えることを辞しませんぞ。要するにわたしの立場はこうです。わたしは地殻を突き抜けるほどの深い竪坑を掘って、これから地球の感覚皮質に強い刺激を与えようとしているのであります。このデリケートな実験は、わたしの配下にあるアルトワ式ボーリングの自称エキスパート、ピアレス・ジョーンズ君と、実験にのぞんでわたしの代理をつとめるエドワード・マローン君によって行われます。露出した感じやすい物質を針でチクリとやるわけですが、それがどのような反応を示すかということはまだ推測の域を出ません。では、そろそろ席におつきいただければ、この二人が坑内にくだって最終的な調整を行います。それから、わたしがこのテーブルの上にある電気のスイッチを押せば、それで実験は完了という段どりであります」
チャレンジャーの長広舌を聞かされると、たいていの人間は、地球と同じように、皮膚に穴をあけられ、神経をむきだしにされたように感じる。この日集まった人々も例外ではなく、それぞれの席へ戻る途中で、非難と怒りのどよめきがあがった。チャレンジャーは一人で高台の上の小さなテーブルの横にすわり、その魁偉《かいい》な風貌であたりを威圧しながら、黒髪と黒ひげを興奮でふるわせていた。しかしながら、マローンとわたしは前代未聞の任務を与えられて、坑底に急ぎくだらなければならなかったので、それ以後の場面には残念ながら見そこなった。二十分後、われわれは坑底に達し、露出した表層を覆う防水布を取り除いた。
われわれの目の前には驚くべき光景が現われた。ある種の不可思議な宇宙のテレパシーによって、地球は未曾有の非礼がわが身に加えられつつあることに気がついたかのようだった。露出した表層は火にかけた鍋《なべ》のように煮えくりかえっている。巨大な灰色の泡が盛りあがっては、鋭い音をたてて破裂する。内部の気泡や液泡は急速にくっついたりはなれたりしていた。横波はかつてなかったほど強く、速い。くろずんだ紫色の液体が、表層下のまがりくねった血管のような水路の合流地で脈うっている。それらすべては生命の鼓動を伝え、息苦しいほどの異臭が空気中に充満していた。
わたしがこの不思議な光景を茫然として眺めているとき、かたわらのマローンが突然驚きの声を発した。「おい、ジョーンズ。あれを見ろ!」
それを一目見たとたんに、わたしは電気の接続線を投げだして昇降機のほうへ走った。「おい、逃げろ。命がけだぞ!」
われわれが見たのは、まさに驚くべきものだった。坑底全体が急激に活発な動きを示しはじめ、それに伴って周囲の壁も激しく揺れだしたのである。この変動が桁材を支えている壁の穴にも影響をおよぼし、あとわずか数インチのずれで桁材が落下することは明らかだった。そうなるとボーリングの鋭い突端が電気のスイッチとまったく無関係に地球に突き刺さってしまう。その前にマローンとわたしは必死で坑外に避難しなければならない。八マイルの地底で今にも途方もない変動がおこるかもしれないことを考えると、無事脱出できる見込みはきわめて少なかった。われわれは無我夢中で地上に向かった。
この悪夢のような旅は、二人とも永久に忘れられないだろう。昇降機は息を切らして全速で上昇するのだが、それでも一分が一時間にも感じられた。中継点に到着するたびに、箱から転がり出るようにしてつぎの箱に跳びのり、ボタンを押して上昇をつづけた。鉄格子の屋根を通して、はるか頭上に竪坑の入口が光の輪を形作っている。それはしだいに大きくなり、やがて頭上に覆いかぶさるほどになったとき、われわれの目は待ちに待った入口のれんがに触れた。昇降機はなおも上昇する――そしてついに、われわれは狂おしい喜びと感謝の念で胸はずませながら、恐るべき牢獄からとびだしてふたたび緑の草地を踏みしめた。まさに間一髪だった。入口から三十歩とはなれないうちに、竪坑のはるか底のほうでわたしの鋼鉄の矢が神経中枢に命中し、大いなる瞬間がやってきた。
いったい何がおこったのだろうか? マローンもわたしも、竜巻になぎ倒されて、氷上を滑る二個の石ころのように草の上をくるくる転げまわるだけで、何が何やらまるで見当もつかなかった。同時にこの世のものとも思えない恐ろしい叫び声が、われわれの耳を襲った。その叫び声を言葉で説明しようと試みた者は何百人といるが、果たして的確に表現しえた者はいるだろうか? それはいわば、尊厳を傷つけられた大自然の苦痛と怒りと威嚇《いかく》が一つに混じり合って、恐ろしい怒号になったというていのものだった。一千個のサイレンをいちどきに鳴らしたようなその叫びは、群衆の聴覚を麻痺させるけたたましさでたっぷり一分間つづき、静かな夏の日の空気をふるわせて、南海岸の全域はおろか海峡ごしにフランスまで響きわたった。この傷ついた地底の叫びに匹敵する音は、歴史上かつて存在しなかった。
目はくらみ耳はつんぼになりながらも、マローンとわたしはそのときの激動と騒音をおぼえている。しかしこの不思議な現象の詳細はあとでほかの人の話を聞いて知った。
地球の体内から最初に現われたのは昇降機の箱だったそうである。ほかの機械類は壁ぎわに据えてあったので噴出を免れたが、昇降機の鉄板の床は、下から噴きあげる奔流をまともに受けた。筒の中に数個の紙つぶてをこめて強く吹けば、紙つぶては順ぐりに一定の間隔をおいて筒から飛びだすのと同じ理屈で、この場合十四台の昇降機がつぎからつぎへと空中に舞いあがり、壮大な放物線を描いて落下した。うち一つはワージング埠頭近くの海中に、もう一つはチチスターからさほど遠くない野原に落ちたということである。見物人は、青く澄んだ空をのどかに飛び去ってゆく十四台の昇降機ほど珍しい眺めは見たこともないと、異口同音に断言した。
ついで噴出がはじまった。タールを含むどろどろした気味の悪い物質が、すばらしい勢いでおよそ二千フィートと推定される高さまで噴きあげたのである。実験場の上空を旋回していた物好きな飛行機が一機、まるで対空射撃《アーチー》にやられたような具合に、人も機体も泥まみれになって不時着した。この刺激性の悪臭をもついやらしい物質は、地球という生物体の血液に相当するものかもしれないし、あるいはドリージンガー教授とベルリン学派が主張するように、大自然がおせっかいなチャレンジャー輩から地球を護るために用意した防御のための分泌物で、いわばスカンクの防御手段と同じものかもしれなかった。かりにこの説が当たっているとしても、張本人である教授は高台の上の玉座にいたおかげで難を免れたのに反して、汚物をもろにかぶった不運な報道陣は、全身にその匂いがしみついて、数週間はまともに人前にも出られない始末だった。噴出した汚物は風に乗って南の方へ流され、丘の上でじりじりしながら実験の結果を見守っていた不運な見物人たちの頭上に降り注いだ。幸い死傷者はゼロだった。人間が住めないほどではないが多くの家に悪臭がしみつき、今もなおこの偉大な実験の記念を壁の内側にとどめている。
やがて竪坑のふさがるときがやってきた。内側から肉が盛りあがって傷口がふさがるように、地球も大切な部分にできた裂け目を、すばらしい速さでふさいでしまうものと見える。坑壁の崩れ落ちる長く鋭い音が地底からこだまし、それがしだいに上のほうに近づいてきて、ついには耳を聾《ろう》するような大音響とともに、れんがで固めた竪坑の入口が崩れてふさがった。一方では小さな地震のような震動がつづき、周囲の盛土が崩れ落ちて、かつて入口があった場所に、高さ五十フィートの土くれやひしゃげた鉄材のピラミッドを作りあげた。チャレンジャー教授の実験は単に終了しただけでなく、永久にその姿を消してしまったのである。英国学士院によって建てられた記念碑がなかったら、後代の人々がこの前代未聞の大事件のあった場所を正確に知りうるかどうか疑わしい。
そして大詰めがやってきた。前述した一連の現象のあと長い静寂が訪れ、その間に人々は衆知を集めて、何がどのようにおこったかを解明しようとした。そのうちに、この途方もない偉業や、偉大な着想や、天才的な実験の意味が、突然明らかになった。彼らはいっせいにチャレンジャーのほうを向いた。つづいて四方八方から賞賛の声があがった。教授は晴れの舞台から、彼のほうを仰ぎ見る顔の海と、熱狂的に打ちふられるハンカチの波を見おろした。今思いかえしてみて、あれほど幸福そうだった教授を見た記憶はない。彼は目をなかば閉じ、手柄を十分に意識した微笑を浮かべ、左手は腰に、右手はフロックコートの胸に入れて椅子から立ちあがった。この得意のゼスチャーは永久に記録されるだろう。草原でコオロギがさえずるように、いっせいにカメラのシャッターの音がおこったからである。四方に向かって重々しく頭をさげる教授の肩に、六月の太陽が燦然《さんぜん》と降りそそいだ。超一流の科学者チャレンジャー、偉大なる先駆者チャレンジャー、地球をして人間の存在に気づかせた人類最初の人チャレンジャー。
しめくくりとして一言だけつけ加えておこう。実験の影響が全世界に及んだことはもちろんよく知られている。傷ついた地球の叫び声が聞かれた場所は、ヘンジスト・ダウンの実験場周辺だけだったが、ほかの場所でも地球がまぎれもなく一個の生物体であることを示す反応が認められた。すなわち地球上のありとあらゆる火山が怒りの声をあげたのである。ヘクラの地鳴りはアイスランドの人々に大地殻変動の恐れを抱かせた。ヴェスヴィオは激しく怒り狂った。エトナはおびただしい溶岩を吐きだし、イタリアの法廷では、ぶどう畑の被害の埋合わせとして、チャレンジャーに対する総額五十万リラの損害賠償要求の判決がくだされた。メキシコや中央アメリカの火山帯でさえ激しい火山活動の徴候が観測され、ストロンボリの怒号は東地中海全域を覆った。全世界をして語らせることは古来人類共通の野心であった。しかし全世界をして怒号せしめたのは、ひとりチャレンジャーのみの特権である。(完)
〔訳者略歴〕
永井淳(ながいじゅん) 一九三五年生まれ。埼玉大学文理学部卒業。出版社勤務をへてフリーの翻訳家となる。訳書アーサー・ヘイリー「マネーチェンジャーズ」、ジェフリー・アーチャー「ケインとアベル」、ジョン・トーランド「アドルフ・ヒトラー」など多数。