マラコット海淵
コナン・ドイル/斎藤伯好訳
目 次
マラコット海淵
[解説]
深海探測の歴史
ドイルのSF
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マラコット海淵
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これらの書類の編集がわたしの手にゆだねられたからには、海洋学と深海生物研究の目的で一年前に出帆した汽船ストラトフォード号の悲しい失踪をみなさんに想起してもらうことから話を始めたい。
この探検隊は、「疑似《ぎじ》珊瑚形成論」や「鰓葉《さいよう》属生物形態学」などの著者として有名なマラコット博士によって組織された。同博士はサイラス・ヘドレイ氏を同行していた。同氏は元マサチューセッツ州ケンブリッジ動物学研究所助手で、出帆当時はオクスフォードのロード奨学金給費研究員であった。経験ゆたかなハウイ船長が汽船の指揮を取り、フィラデルフィアのメリバンク製作所から招いたアメリカ人機械工一名をふくむ二十三名の乗組員たちがいた。
この全員がまったく姿を消した。この悲運な汽船に関する消息は、同船と外見のそっくりな船が一九二六年秋の大強風の中で沈没するのを実際に見たという、ノルウェーの一小型帆船の報告だけであった。
その後、「汽船ストラトフォード」と銘打った救命ボートが、数多くの甲板スノコ、救命ブイ、円材などの破片とともに、同船遭難の現場と推定される付近の海上で発見された。この事実は、同船がかなり長い間消息を絶《た》っていることと考え合わせると、同船の運命に不吉な確信を抱かしめるに十分であるように思われた。さらにこの確信は、たまたま、時を同じうして受信された無電のあったことがわかると、いよいよもって、その信頼度をたかめてきた。この無電の電文は、部分的にはいささか意味の明確さを欠くうらみはあったが、ことストラトフォード号の最期を示唆する点に関するかぎり、ほとんど疑いの余地を残さなかった。この電文は、のちほど、本書においても引用してお目にかけるつもりである。
ストラトフォード号の、今回の航海については、その当時から、いろいろ論評のまととなり、世間の耳目をあつめた点がいくつかあった。その第一は、この探検家をひきいるマラコット博士の不可解な秘密主義である。元来、同博士の報道陣に対する嫌悪と不信は名高いものであったが、今回の場合はその極端さがひどすぎた。なにしろ、船がアルバート・ドックに滞在していた何週間かというものは、新聞記者たちの質問には、いっさい返答をしないばかりか、新聞社ときけば、いかなるものの立ち入りもゆるさなかった。うわさによれば、船上には、深海研究用としてとくに設計された、なにか思いもよらぬ構造の機械を積みこんでいるとのことであったが、このうわさは、同船がウエスト・ハートルプールのハンター造船所で特殊の船体改造をおこなった時、いよいよ、その真実性を強めたとのことである。なんでも、同船は船底がポッカリと取りはずしできるようになっているらしいとのことで、このことは、とくに、同船と今回の航海保険契約をとりかわすことになっていたロイド保険会社の注意をひいた。いろいろ紆余曲折はあったらしいが、結局、同保険会社も契約に応じたところをみると、この船は想像以上に独創的な、安全度の高い構造の設計であったようだ。その当座は、このうわさも、ほかの多くのうわさと同様、たちまち世間の人々の記憶から消えてしまったものだが、今、こうして、ストラトフォード号の遭難を想起してみると、何かしら、かんたんに忘れさることのできぬ、重要性を持っていたように思われるのだ。
ストラトフォード号の今回の航海に関する因縁話はこのくらいにしておいて、そろそろ本題に入ることにしよう。現在までのところ、この事件を究明する手がかりとして、四つの資料が収集されている。その第一は、ストラトフォード号がテムズ港を出帆後ただ一度だけ寄港した時に、同船に乗りくんだ研究員サイラス・ヘドレイ氏が、その友人でオクスフォード大学のトリニティ・カレッジにいるサー・ジェイムス・タルボットにあてて書いた一通の書簡である。第二の資料は、さきにわたくしが申し述べた奇妙な無電の電文であり、その第三は、汽船アラベラ・ノウルズ号の船長のしるした航海日誌中、例のガラス球に関する部分である。第四の、すなわち最後の資料は、そのガラス球内部におさめられていた文書であるが、この文書には、おどろくべき内容の物語が、じゅんじゅんとしてしたためられており、読む人をして、これは極度に残酷な精神の持ち主が頭をひねって創《つく》りあげた、こりにこったフィクションか、さもなくば――つまり、その物語るところが真実のものであるとするならば、人類の歴史に新たな一頁を加えるものと称しても過言ではないほど貴重な文献だと信じせしめるものであった。前口上はこのくらいにして、いよいよ、第一の資料、サイラス・ヘドレイ氏の書簡をそのまま再録することから本題にはいることとしよう。これは一九二六年十月一日付で書かれ、未公開のものであるが、本書では、サー・ジェイムス・タルボットのご好意によりとくに引用の栄を得た。
前略
タルボット君、ぼくはこの手紙をポルタ・デ・ラ・ルツから投函しようとしている。当地には、休養をとるべく数日間寄港している。テムズ港を発って以来の航海中、ぼくの大のなかよしは、機械主任のビル・スキャンランだった。同君はぼくと同郷の士であるのみならず、ひとの気をそらさない性格の持ち主だから、ぼくとは、たちまち、十年来の知己のごとく、うちとけあってしまった。でも今朝だけは、どうやら、ぼくがおいてけぼりをくわされたらしい。スキャンランは、例のかれ一流の口調をまねれば「|あまっこ《ヽヽヽヽ》との|あいびき《ヽヽヽヽ》」とやらに出かけてしまったのだ。そう、まったくのはなし、かれはイギリス人たちが、本もののアメリカ人ならかくあるべしと考えているような口のききかたをするのだ。きっと、かれのような男を、生《き》っ粋《すい》のアメリカっ子というのだろう。ぼくの場合、イギリス人の友人達といっしょにいる時には、思い出しては、「〜って|思うね《ゲス》」とか「〜|とみるね《レコン》」などと、せいぜい、アメリカ口調をつかってみせているにすぎない。いや、まったく、そうでもしなかったなら、ぼくがアメリカっ子だということを、たいがいのイギリス人は気がつかないだろうと|思うね《ヽヽヽ》。しかし、ぼくときみのあいだでは、そんなことはどうでもいい話だ。まあ、さしあたって、この、いま書いている手紙の中には、いくらさがしたって、ぜったいにアメリカなまりはない、みんなきれいなオクスフォード|ばり《ヽヽ》の英語ばかりだということに、大みえをきっておこうか。
たしか、きみはミトレでマラコットに会ったことがあるね。それだったら、かれがいかにつきあいにくい|じい《ヽヽ》さんかということはいまさらいわなくても知っているだろう。またどういうわけで、この仕事のお鉢がぼくのところへまわってきたかについてのいきさつは、もうきみにははなしてあったね? マラコットが例のソマービルから動物学研究室について問い合わせたときに、研究室がぼくの遠洋蟹に関する受賞論文を送った。そいつが、おかしな芸当をしたという例のいきさつだ。もちろん、このような自分の趣味にあった仕事につくことはすばらしい。だが、できることなら、動くミイラのようなマラコットといっしょでないほうがいい。マラコットの孤立ぶりと仕事への献身は人間ばなれしている。「世界に冠たる、融通きかずの頑固じじい」とビル・スキャンランはいう。それでも、自分の仕事に対するこれほどのうちこみかたは、みあげたものだ。自分が研究している学問以外、この世には何も存在していないのだから。いつかぼくが話したら、きみも大笑いしていたが、ぼくが準備として何を読んでおいたらよいかをたずねたところ、マラコットは、本格的なものとしてはかれ自身の著作全集を、骨休みにはヘッケルの『プランクトンの研究』を読めと言ったくらいだ。
マラコットについては、あのオクスフォード本通りを見おろす小さな客間で知った以上のことはわかっていない。かれはなにも言わず、またそのやせぎすの、きびしい顔――サボナロウラ〔一四五二〜九八。イタリアのドミニコ会修道士で宗教改革を企てたが、果さず、異端者として火刑に処せられた〕の顔というよりむしろ、トーキマーダ〔一四二〇〜九八。スペイン最初の宗教裁判所長で、冷厳な人柄で有名〕の顔だ――は決して温和な色を浮かべない。長くて、肉のうすい、威圧的な鼻、濃い眉毛の下でたがいにぐっと寄りあって、ギラギラと輝いている小さな灰色の目、うすく唇の引きしまった口もと、絶え間ない思索と長い禁欲生活で深く落ちくぼんだ両頬――すべて、なじみにくい代物ばかりだ。かれは、俗人の達し得ない精神的なお山の頂上に住みついている。ときどき、ぼくはかれの気が少々狂っているのではないかと思うことがある。そのいい例が、かれのこしらえたあの途方もない装置一式だ――しかし、話は順序を追ってしていくことにしよう。
まず、そもそもの出発の模様から話をはじめよう。ストラトフォード号は、小型ながら優秀な航海力を誇る汽船で、行動力に富んでいるから、われわれ探検隊の仕事にはまさにうってつけだ。排水量は千二百トンだが、小ぎれいな甲板や、大きさのわりには広い船はばを持ち、水深測量、トロール漁業、浚渫作業、引き網作業などをおこなうための設備を完全にそろえている。もちろん、トロール網をたぐり入れるための強力な蒸気ウインチだとか、そのほかのさまざまな装置がゴチャゴチャとついており、その中にはなじみの深いものもあれば、みなれないものもある。これらの下が、われわれの特別研究のための、完備した実験室である。
出帆する以前から、われわれは神秘の船という異名を頂戴していたが、やがて、ぼくにも、その評判がまんざらはずれているわけでもないことがわかってきた。もっとも、航海のはじめごろは、きわめて常識的な行動に明け暮れていたのだが。まず北海に出てから向きを転じ、ひとかきか、ふたかきトロール網をひいたが、これは、たいして収穫もなく、いささか時間の浪費であったようだ。というのは、そこいらへんの水深は六十フィートをこすかこさぬ程度で、まだ浅すぎたし、われわれがとくに目的としたものは深海の探索であったからだ。とにかく、日常みなれた食卓魚、つのざめ、いか、くらげおよび、たいして珍しくもない沖積期粘土の海底沈澱物のほかには、とりたてていうほどの収穫物はなかった。それから、われわれはスコットランドをまわり、ファロウ群島を横目にみながら、ウイヴィル・ソムソン峰へと航海してきたのだが、ここでは多少気のきいた収穫をあげることができた。そこから南下してわれわれ本来の航行区域――つまり、アフリカ沿岸とその周辺諸島との間の海域へとむかった。ある闇夜の晩に、フェルト・イヴェンチュラ島付近で、危うく座礁しかかったが、そのほかには別にこれといった事件もない平穏な航海をつづけていた。
この初めのうちの何週間かの間に、ぼくとしては、できることなら、マラコットじいさんともお近づきになっておきたいと思い、せいぜい気をつかってみたのだが、これはなかなか容易なことではなかった。まず第一に、つきあいにくいことは、この博士は、どうしようもなく仕事に没頭しきっていて、ふだんは、いつも心ここにあらずといった有様でいることだ。ほら、いつかの笑い話――マラコット先生がエレベーターを降りようとした時に、市電に乗っているのと勘違いして、係りのボーイに金を払おうとしたという話をきみも憶えているだろう? 万事こんな調子なのだ。大ざっぱに見て、一日のうち半分の時間は、思索にふけってすごしているが、その間中は自分がどこにいて、何をしているのか全然意識していないんだな。第二に、この先生ときたら、とことんまで秘密主義なのだ。例えば、しょっちゅう書類やら海図やらをにらんで何やらやっているくせに、たまたま助手のぼくがかれの船室に入っていこうものなら、すばやくかくしてしまうといった有様だ。ぼくのにらんだところでは、マラコットじいさんは心の中に何か秘密の計画をいだいているらしいのだが、この船がまだどこかの港に立ち寄る可能性のあるかぎり、それをわれわれに打ち明けるつもりはないらしい。まあ、そういったところが、今までにぼくのうけた印象であるが、例のビル・スキャンランも、ぼくと同意見だ。
「なあ、ヘドレイさん」先だっての夕刻、ぼくが実験室にこもって、測深をやって得た試料の塩分検出に取り組んでいると、スキャンラン君が入って来て話しかけた。「あんたは、あのじいさんが何を考えていると思うかね。いったい全体、やっこさん何をしでかそうとしているんだろう。あんたは、どうみるかね」
「そう、ぼくの考えでは」と、ぼくは答えた。「これまでにチャレンジャー号やその他もろもろの調査船がやったようなことを、もう一度われわれの手でやり直《なお》し、魚類目録にせいぜい二つか三つの新しいサカナの名前を書き加え、ついでに、水深測図に少しばかり新しい書き込みをするというのが、|おち《ヽヽ》じゃないかねエ」
「いや、あんた、そいつは、ちょっと見当ちがいだぜ」とかれは応じた。「もし本気で、そんな甘っちょろい考えを持っているんだったら、もう一度考え直したほうがいいね。まず第一の話だ、このおれはいったい全体何のために来ていると思うかね?」
「船の機関《エンジン》が故障でもおこした時の用意にだろう」
「エンジンなんてのはおれには関係ないよ。この船のエンジンは、あのスコットランド人の技師のマクラレンの責任なんだ。ちぇッ、とんでもない見当ちがいだ。メリバンク製作所のお偉方が、四番打者のこのおれさまをこの船にわざわざ乗りこませたのは、あんな|うすのろ《ヽヽヽヽ》エンジンの世話をさせるためじゃないよ。しかも、こんなおれに一週五十ドルもはらうときちゃ、どうみても、ただごとじゃないね。まあ、これからおれと一緒に来てごらん。面白いものを見せてあげよう」
スキャンランはポケットから鍵をとり出すと、それで実験室の裏手にある一つの扉を開けた。そこからは狭い船内階段が下に延びていて船倉の一画に通じており、降りて行くと、きちんと整頓された室内に、巨大な代物が、なかば解きかけた包装函のわらの中から、キラキラ光る地肌をのぞかせていた。よくみると、それは、四囲のふちを精巧なネジや鋲で止めた何枚かの鋼鉄板であった。一枚はおのおのおよそ十フィート四方もあろうか、厚さは約一インチ半ほどで、真ん中におのおの十八インチぐらいの丸い穴があいている。
「こいつは、いったい何だね」ぼくがたずねた。
ビル・スキャンランのおかしな顔――かれは軽喜歌劇の役者と賞金稼ぎのボクサーとを足して二で割ったようなご面相をしている――は、ぼくのおどろくさまをみて、にたりと笑った。
「そうこなくちゃ、だんな」得たりやおうとスキャンランは答えた。「はい、こいつだよ、ヘドレイさん。こいつのために、このおれさまが、ここにいなさるというわけさ。この囲いには、鋼鉄の底をつけることになっているんだ。そいつは、ほれ、あのうしろの大きなケースにはいっとる。その上に、ちょっと弓形の頭をくっつけ、そして、そのまた上に、鎖かロープを通すための、でっかい環をくっつけるというわけさ。さあ、ここから、船底をみてごらんよ」
船底には、四角形の木の台があり、その四すみには|しめネジ《ヽヽヽヽ》がつき出ていたから、この部分がぽっかりととりはずしできるものであることは一目でわかった。
「二重底というやつだ」スキャンランがいう。
「あのじいさんは、いよいよ本物の気ちがいかも知れんし、さもなくば、何かまだおれたちの知らないネタをにぎっているのかも知れん。しかし、おれの目にくるいがなければ、一種の部屋――そいつに、くっつける窓はここにしまってあるが――を造り上げ、そいつを、この船底から海底へ降ろすつもりらしい。やっこさんは、ここに探照灯を準備しているんだが、おれの見るところじゃあ、こいつを、この部屋の丸い舷窓に取り付けて、海にもぐり込んでから、あたりを照らしながら見てまわろうという魂胆らしい」
「博士の計画しているのが単に海中を見てまわるということだけだったら、ほら、あの、カタリナ島の観光ボートみたいに、透明の硬質ガラスで船を作ればいいのに」とぼくがいうと、
「まさに仰せのとおりだ」と、スキャンランも頭をかきながら同意した。「そいつにゃあ、このおれもとんと気がつかなかった。しかし、まあ、今のところ、一つだけはっきりしていることは、このおれが、あのじいさんの命令どおりに、この奇妙きてれつな代物を作るお手伝いをするようにと、わざわざ、アメリカくんだりから、派遣されているってことだよ。今のところは、じいさんは何もおれにいわないんで、おれのほうもだまっているしかないが。なあに、あんまり長く待たせるようだったら、何から何まで洗いざらいかぎつけてやるつもりさ」
まあ、こういったところが、ぼくとぼくを取りまくミステリーとの最初の出会いだ。その後、天候が荒れ模様になったり、それが晴れると、大陸斜面外側にあるケイプ・ジュバ北西海域で深海底引網漁を行なったり、そのほか、気温の記録やら、塩分の測定やらで忙しく立ち働かねばならなくなってきた。しかし、この、入って来るものは何でも細大逃さずのみ込んでしまおうといわんばかりに、二十フィート幅の大口をあけて待つピータースン式オッター・トロール網を引いて海底をさらうことは、すこぶるスポーツ的な面白さのある仕事だ。時には、四分の一マイルほど網を引きずり廻しただけで一山ほどもある魚が集まるかと思うと、半マイルも廻ると実に多種多様な魚の群れを一つかみにしたりする。まったく、陸上と同様、海中にも種々異なった風土があり、またそのおのおのには、その数と同じだけの異なった生物が棲息していることを、つくづくと知らされた。時たま、海底から半トンほどの澄んだ桃色の寒天状物質だけがかかってきたこともあったが、これとても、生命の生きた材料かも知れなかったし、また、時としては、収穫物は、山ほどの古めかしい分泌物であって、これを顕微鏡で観察してみると、非結晶質の泥土の間に、何百万とも知れぬ翼足類らしい丸網状の球体が、うごめいていたりした。しかし、もうこれ以上、海底ギンポや深海大エビ、ほや類やなまこ、蘇苔虫類や棘皮《きょくひ》動物といった術語をならべたてて、きみをうんざりさせることは止めておこう――ともかく、海底は莫大な獲物を蔵しており、われわれが、せっせとそれらを採集して廻って来たということだけは十分判ってもらえるだろう。しかし、マラコットの関心は、こんな仕事にあるのではなくて、このじいさんのエジプト人のミイラみたいな頭の中には、きっと何かほかの秘められた計画があるのだという感じが常にぼくにつきまとって離れなかった。今までの仕事はすべて、真の仕事に入る前に人間や道具立てをテストするためのものであるように思われてならなかったのだ。
ここまで、この手紙を書いたところで、ぼくは陸上で最後のノビをするために上陸した。この船は、明日の朝早く出帆することになっているのだ。それにしても、ぼくがたまたまこうして上陸する気になったのは無駄ではなかった。ちょうど波止場では、マラコットとビル・スキャンランを取りかこんで、一騒動持ち上がろうとしていたところだったからだ。ビルはちょっとした猛者で、その双手には自称|鬼殺し《ヽヽヽ》のパンチを秘めてはいたが、こうして手に手にナイフをぬき放った六人ものならず者たちに取りかこまれては、明らかに形勢有利ならず、ぼくが折よくなかに割って入らなかったらどうなっていたか判ったものではなかった。何でも、博士が、例によって、身に一文も持っていないことを、きれいさっぱり忘れてしまって、タクシーを雇い、地質学を研究しながら、島のほとんど半周にわたって乗りまわしたのだそうだ。いざ料金を支払うという段になって話がこじれ出し、運転手は博士の懐中時計をカタに取ると言い出した。ここへ、たまたま来あわせたビル・スキャンランが、即座に実力を行使したのだそうだが、もし、ぼくが折よくここに来合わせて、運ちゃんには一ドルか二ドル、眼の下にアザを作ったやつに五ドルの|おとしまえ《ヽヽヽヽヽ》を払って話をつけなかったら、博士もスキャンランも、針ねずみのように背中にナイフを突き刺されるはめにおちいっていたことであろう。こんないきさつを経てことが落着した後だったので、その当座のマラコットは、今までにないほどおとなしく、親しみやすくなっていた。船に帰りつくやいなや、かれはぼくをかれ専用の船室に呼び入れ、感謝の言葉を述べた。
「ところで、ヘドレイ君」と、かれはいった。「きみはたしか、まだ独身だったね」
「はい、まだひとりです」と、ぼくは答えた。
「扶養家族は一人もいないわけだね」
「はあ」
「そいつは、よかった」とかれはいった。「この航海の目的については、わしは、わしなりの理由で、極秘にしておきたかったので、まだなにも打ち明けていなかったはずだ。その理由の一つは、出しぬかれることを恐れたからだ。とかく科学的な計画というものは、世間にもれた時には、ちょうど、ほれ、スコットがアムンゼンにしてやられたのと同じめに遭わんともかぎらんのでな。つまり、あの時、スコットめが、あの計画を自分の胸三寸に収めたままにしておけば、南極に到着した最初の人間は、アムンゼンではなくて、スコットということになっていたはずだ。わしの場合とて同じことだ。わしの目的地は南極におとらず重要な所だから、どうしても、計画を他人にもらすわけにはいかなかったのだ。しかし、もう、われわれの一大冒険の幕が切っておとされる日の前夜となった今では、誰も、この計画の秘密を盗んで、わしらを出しぬきはすまい。いよいよ、明日、われわれは真のゴールに向かって出航するわけだからな」
「ところで、そのゴールというのは、一体どこなんです?」
そうぼくがたずねると、マラコットは、一瞬、その禁欲者そのものの顔に、燃えるような狂信者の感激をみなぎらせて、身体を前にのり出させた。
「われわれのゴールは」と、かれはひと息して、「大西洋の底だ」
このところで、ぼくもしばしこの手紙を書く手を休めねばなるまい。ぼくが息を止めたのとおなじ効果をきみにもわけあたえたいからだ。もしぼくが小説家だったら、話をここで打ち切って、あとは明日のお楽しみとやるところだろう。しかし、ぼくは単にこのできごとの記録者であるに過ぎないから、ぼくがさらに一時間マラコットじいさんの船室に留まっていたことやら、かくして、非常にたくさんのことを耳にしたことなどを洗いざらい話してしまってもかまわないだろう。最後の|はしけ《ヽヽヽ》が船を出るまで、まだ時間はあるはずだ。
「そうだとも、きみ」と、マラコットはふたたび口を開いた。「今となれば、もうきみは何を外部に書き送ってもかまわんよ。きみの手紙が英本土に着くころには、われわれは、いよいよ最後の突撃にかかっているだろうからね」
こういうと、マラコットじいさんは、くすくすと忍び笑いをもらした。もともと、このじいさんには、何気ない調子でかれ独特の冗談をいっては悦に入る妙なくせがある。
「そうだ、この場合、突撃というのがまさにぴったりの言葉じゃわい。科学史上、英雄的きわまりない突撃だ。まず第一に、わしの信念とするところは、深海において水圧が極度に高いとする学説はまったくもって誤っておるということだ。深海における水圧を低くするように働く何らかの要素が存在することは、嘘いつわりのないところなのだ。もっとも、今の段階では、わしにはその要素とはどんなものであるか明言することができぬのがきわめて残念だが。まあ、これも、われわれが、これからこの探検を通じて解きあかそうという問題の一つなのだ。ところできみは一マイルの水深においては、どのくらいの水圧があると教えられてきたのかな?」マラコットは、かれの大きな|つの縁《ヽヽヽ》の眼鏡ごしにぼくをみつめた。
「少なくとも、平方インチ当たり一トン以上でしょうな」と、ぼくは答えた。「わかりきったことだと思いますが」
「いつの世においても、先駆者の仕事というものは、わかりきったことを疑ってみることから始まるものなのだ。頭を使いたまえ、きみ。きみは先月中ずっと非常にこわれやすい深海生物をあまた採集しつづけておった――その、繊細な原型をくずさずには、採集網から水槽にうつすこともできないほど、こわれやすい生物をね。そんな、こわれやすい生物の存在を、まのあたりにみても、まだ、強大な水圧の存在を信ずる気かね、きみは」
「水圧というものは」と、ぼくは抗弁した。「それ自身均等化するものと聞いています。つまり、外圧と内圧とが均等化すれば、水圧の存在は感じられなくなるはずです」
「ふん、屁理屈だよ。屁理屈にすぎん!」マラコットは大声で、ぼくをさえぎると、やせた小さな頭を、いらだたしげにふった。
「それじゃあ聞くが、きみは球型の魚類を採集したことがあるだろう――たとえば、腹口類のグロブルスのような奴だ。もし、深海の水圧が、もしもお前さんの想像しているようなものであったならばだ、こいつら球型魚は押しつぶされて、平《ひら》べったくなっていなくちゃならん理屈になる。え、どうだね。さもなくば、もう一つ例がある。ほら、われわれのオッター・ボード〔トロール網の開口部にある板〕を見たまえ。このボードは、トロール網の口許にありながら、ぜんぜん押しつぶされる気配もないじゃないか」
「しかし、潜水夫の体験は?」
「うむ、なかなか、いいところをついてきおる。たしかに、潜水夫たちは、耳の内部というような、おそらく、もっとも敏感な器官に影響を及ぼすに足る水圧の増加を訴えておる。しかし、わしの計画するところでは、われわれは何の水圧にも、さらされることはないのだ。われわれは、鋼鉄製の鳥かごの中に入って潜水し、外を観る時は、各面にとりつけられた硬質ガラスの窓をつかう。厚さ一インチ半の二重ニッケルめっき仕上げ鋼鉄製の潜水函をぶち破るほど、水圧が強くないかぎり、わしらは無事だろうというわけさ。まあ、いうなれば、わしらのやろうとしていることは、ナッソーでウィリアムソン兄弟のやりかけた試みの延長にすぎん。――このナッソーでの実験の成果については、誰も疑っておるやつはおらんじゃろうが。万が一、わしの計算がまちがっておったとすれば――そこだよ、問題は。改めてきくが、あんたには扶養家族はおらんじゃったね。しかし、まあ、計算ちがいをしたところで、わしらは、雄大な冒険の途上に果てるわけだ――もって、男子の本懐とするところ、というわけだな。もちろん、あんたの気が進まなかったら、わし一人で行ってもいいのだよ」
そりゃ、もちろん、ぼくだって、こんな途方もない計画はまるっきり気ちがいざただとは思った。しかし、ごぞんじのように、こんな時、あえて尻込みするのは、得てしてむずかしいものなのだ。なんとかして時間をかせぎ、事態をよく考えてみようとするのがやっとだった。
「いったい、どのくらいの深度まで潜水なさるおつもりですか、先生?」
ぼくがたずねると、マラコットは壁に貼ってある地図の上で、コンパスの一端をカナリー諸島南西部の一点に突いた。
「実は昨年、この部分で、ちょっとした水深測量をやったんだが、一か所、非常に深い部分があった。だいたい二万五千フィートほどの海淵だ。わしが最初の発見者というわけだから、将来の海図には〈マラコット海淵〉とでも命名されて載ることだろうて」
「じゃあ、先生は」と、ぼくは思わず声を高くして叫んだ。
「まさか、その、とんでもない奈落の底へ潜って行くつもりじゃあ……」
「ないね、残念ながら」マラコットは余裕たっぷりな微笑をうかべて応じた。「残念ながら、われわれの降下|鎖索《ささく》も送気管も、半マイルと届かん。しかし、わしの言わんとしておったことは、こうだ。この深い裂け目は、大昔の火山噴火のおかげでできたものであろうが、その周囲には、盛り上がった峰や、そう広くはないが高原のようなところがあるはずだ。その隆起した部分だったら、せいぜい海面三百|ひろ《ヽヽ》も潜れば十分届くだろう?」
「三百|ひろ《ヽヽ》ですって! あの一マイルの三分の一ですね!」
「そのとおり。まあ、だいたい三分の一マイルぐらいだろう。今のところの計画では、すでに用意した小型の耐圧性の高い、観察用設備の完備した潜水函で、この海底の土手に降り立とうと思ってる。着いたら、そこで、なんでもでき得るかぎりの観察をやってこようというわけだ。潜水函と本船との間には、通話管が引かれるから、われわれは潜水函の中から思うままの指示を出すことができるはずだ。どうだね、こうやって話を聞いてみれば、わけのないことだろう? あがりたくなったら、この通話管を使って、本船の乗組員にそういえばいいのだから」
「それで、空気は?」
「ポンプで本船から送り込むさ」
「しかし、真っ暗でしょうが」
「そう、遺憾ながら、そのとおりだと思う。ジュネーヴ湖でフォルとサラシンの行なった実験によれば、その程度の深さでは、紫外線の存在すら認められぬそうだ。しかし、それがどうしたというのだね? わしらの潜水函には、本船のエンジンから強力な電気照明を供給するし、さらには、十二ボルトの電流を出せるように接続した六個の二ボルト・ヘルゼンス乾電池を予備に持っている。こいつに、可動反射鏡として陸軍用ルーカス式信号灯をつければ、わしらの場合は、だいぶ有利になる。ほかに何か、難点があるかね?」
「もし、送気管がもつれたら?」
「もつれはせんよ。しかし、万が一の時の用意には、チューブにつめた圧搾空気を備えてあり、二十四時間はもつ。さあ、これで納得がいったかね? 一緒に来るか?」
これは、そう簡単に決心のつくような問題ではない。頭脳は素早く回転し、気味《きみ》の悪いほど鮮明に、ある一つの場面を想像した。まず、あの黒い函が太古そのままの深海を沈んでいく。よごれきって、すえつくような空気を呼吸する。と、周囲の鋼鉄製の壁が内側に|たわみ《ヽヽヽ》、ふくれ上がり、鋲穴の一つ一つから、水がふき出し、やがて、足許からも、じわじわと浸水し出す。緩慢ではあるが、それだけに、おそろしい死だ。だが目を上げると、マラコット老人の、いかにも科学に殉ずる人にふさわしい意気昂揚たる燃えるような眼が、じっとぼくの上にそそがれていた。人の心をとらえ熱狂させずにはおかない眼だった。よしんば、気狂い沙汰であろうとも、少なくとも高潔で非利己的だ。一瞬、燃えさかるマラコットの心の焔から一片の火を分け取るような気持ちで、ぼくは立ち上がり、手をのばして言った。
「博士、最後まで、お供させて下さい」
「こうなることは、わかっておった」と、マラコットは答えた。「わしが、あんたを選んだのは、何も、あんたが学問を少しばかりかじっておったからではないし、また」と、かれは微笑みながら、つけくわえた。「あんたがいささか遠洋蟹に造詣《ぞうけい》が深いからというわけでもない。いいかね、きみ。わしが買ったのは、もっと直接役に立つもの、つまり、あんたの誠実さと勇気だよ」
こういった次第で、ちょっとばかりあまいことばをかけてもらったばっかりに、ぼくはこれからの一生をかけて危ない橋をわたるはめになってしまった。さあ、そろそろ、最後のはしけが船を出るらしい。郵便物はないかと、しきりに呼びかけている。親愛なるタルボット、これがぼくからの最後の手紙になるかも知れないし、うまくいけば、また面白いたよりを書くことができるかも知れない。もし、ぼくから、あまり長い間便りがなかったなら、浮き付きの墓標でもつくって、カナリー諸島の南方の海のどこかにうかべてくれ。こんな墓碑銘をつけてだ。
[#ここから1字下げ]
わが友人サイラス・ヘドレイの残骸の、魚に食われざる部分は、全《すべ》てここ、もしくは、この辺《あた》りにねむる。
[#ここで字下げ終わり]
本事件に関する第二の資料は、王室郵船の汽船、アロヤ号を含む数隻の汽船によって受信された解読不能の無線電文である。この電文は一九二六年十月三日午後三時、つまり、前に引用した書簡中に示唆されたストラトフォード号のグランド・カナリー出帆時後二日目に受信されており、ノルウェーの帆船が、ポルタ・ド・ラ・ルツの南西二百マイルで台風にほんろうされた一隻の汽船が沈没するのをみた時刻とだいたい一致する。その電文をここに原文どおり引用することとする。
[#ここから1字下げ]
キンキュウ」キョウフウヲウケテンプ ク」タイセイタテナオシデ キヌ」スデ ニマラコット・ヘド レイ・スキャンランユクエフメイ」チョウサデ キズ」シンカイソクシンキノソクセンノハシニヘド レイノハンカチーフ」セイカンノノゾ ミナシ」ジ ョウキキセン・ストラトフォード」
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すこぶるわけのわからない電文ではあったが、これが悲運なストラトフォード号からきた電文の最後のものであった。まったく、この電文のある部分は、すこぶる奇怪きわまりないもので、通信士の頭が狂ってしまったんだろうとして片づけられてしまった。しかしながら、これで、ストラトフォード号の運命は、もう動かしがたいものとなった。
本事件の解明は――もし、これが解明と呼び得るものであるならばだが――例のガラス球内部にはいっていた文書中で述べられた物語の中に発見されるはずである。その手はじめに、まず、そのガラス球の発見の際のいきさつにつき、これまでに新聞に書かれた短い記事を引き伸ばしてみるのも悪くはないだろう。次のものは、カーディフからブエノスアイレスに向け石炭を積んで航海したアラベラ・ノウルズ号の船長アモス・グリーンの航海日誌である。
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一九二七年一月五日水曜日。北緯二七度一四分、西経二八度。天候静穏。低い巻雲のほか青天。鏡のような海。夜半直の第二点鐘の時、一等航海士は一個の光る物体が波間に高く持ち上げられまた没するのをみたと報告。はじめかれは何か見なれない魚かと思ったそうだが双眼鏡を使って仔細に観察したところ、それは銀色の球体つまりボールで、非常に軽量なため水面に浮かぶというよりは水面に固着しているようにみえた由。呼ばれて見に行ったところ、ほぼフットボールぐらいの大きさで、本船の右横の方向、約半マイルの辺にキラキラと輝いている。私はエンジンを休止させ、二等航海士の指揮のもとに船尾ボートを出させ、その物体を収拾し、本船に持って来させた。
調べてみると、それは、何か知らぬが非常に固いガラス材料で作った球であることがわかった。内部には、何か非常に軽い気体がつまっていて、投げあげるとふわふわとまるで子供たちの遊ぶ風船のように上空にただよった。表面はほとんど透明に近く、内部に紙をまるめたものがはいっているのがみえた。ところが、そのガラスのようにみえた物質は、異常に固く、こわすのに思いもかけぬ苦労をさせられた。ハンマーはまったく役にたたない。思案を重ねているうちに主任技師が一計を案じ、そのボールをエンジンの動程(旋盤)の間にかませて始動させ、はじめて、ボールを壊すことができた。その際、残念なことには、ガラス球はこなごなに砕けてしまい、分析に使えるような切片をのこすことができなかった。それでも内部に入っていた文書だけは手に入れたから、さっそく、それを調べてみた。その結果、これは非常に重要なものであることを知り、プレイト河港に到着するやただちに英国領事館に届け出ることにした。少年時代から三十五年余の海上生活だが、これほど奇妙なできごとに出あったことはなかった。私ばかりではなく、船中の誰に聞いても同意見であった。これがどういうことを意味するのか、世の多くの私よりもすぐれた頭脳の持ち主の解析におまかせしたい。
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こういったところが、これから一言一句そのままにご紹介しようとするサイラス・J・ヘドレイの手記が世に出たいきさつのすべてである。
*
ぼくは、だれに宛ててこの手記を書いているのだろう。そう、いうなればこの広い世界全体にあてて、といいたい。しかし、それでは、いささか、ばくぜんとしすぎているようなので、この際、いちおう、オクスフォード大学にいるぼくの友人サー・ジェイムス・タルボットにあててということにしておこう。というわけは、ぼくの最後の手紙はかれあてに書いたものだったし、この手記は、考えようによっては、その手紙のつづきともいえるからだ。しかし、この手記をおさめたガラス球が、万一、ふかに食われることもなく海面に浮かび上がり、波間にただよいはじめたとしても、そばを通る船の上の人々がこれをみつけてくれることは百に一つの確率もありはしない。しかし、それでもなおやってみるだけの価値はありそうだ。マラコット博士がもうひとつ送り出そうとしているから、率直に言って、われわれのすばらしい物語が世に出る公算はかなり強くありそうだ。世間の人々がこれを読んでも、信ずるかどうかは、別の問題だ。しかし、ぼくの想像するところでは、ガラス状物質でおおわれたこのボールをみとめ、レビゲン・ガスを含んだ内部の様子に気づきさえすれば、世間の人々は、きっと、ここに何か尋常ならざるものの存在を感ずるはずだ。とにかく、タルボット、少なくともきみはこれを読まずに捨てることはあるまい。
もしだれかがことのはじまった発端とか、何をわれわれがやらんとしていたかとかを知りたいと欲するならば、かれはそれを昨年十月われわれがポルタ・デ・ラ・ルツを発つ前夜に、ぼくがきみにあててかいた手紙の中に見つけることができるだろう。まったく、ほんとうに! あれからわれわれの身の上にどんなことが待ちかまえていたかこのぼくが知っていさえしたら! おそらく、ぼくはあの晩にボートでひそかに船から逃げ出してしまったかも知れない。しかし、それなのに、いや、たぶん、そんなことを予知したとしてもやっぱり、ぼくは博士の側に立って、すべてのことを見届けてやろうとしたであろう。今考え直してみても、やはりそうしたであろうことはまちがいない。
さて、われわれがグランド・カナリーを出帆した日にさかのぼって、ぼくの経験を申しのべることにしよう。
われわれの船が港を離れるやいなや、マラコット老人は、パッと火がついたように活気づいた。とうとう行動の時が来て、この男の体内に鬱積していた全精力が一時に燃え上がったかのようだ。まったく、かれはこの船を、すべての人間を、そして、その船内のあらゆるものを自分の指揮下に収め、すべてをかれ自身の意志どおりにねじ曲げた。カサカサと音でも立てそうにしなびきって、放心したように考えこんでばかりいた学者の面影は突如消えた。そしてそのかわりに、人間の形をした電気機械がうかび上がり、はちきれんばかりの活力をみなぎらせて、もてあまさんばかりの衝動力にふるえていた。かれの両眼は眼鏡ごしに、ランタンの中の灯のように光っている。かれは、まるで同時にあらゆる場所にいるように思えた。海図にかがみこんで距離を較べてみたり、船長と船位の推算をしてみたりするかと思うと、ビル・スキャンランをせっついたり、ぼくに何だかだと雑用をいいつけてみたり。しかしそのすべてのものがみなかれ独自の手法につらぬかれており、また、しっかりした目的をもっているのだ。おどろいたことには、かれは電気や機械に関する知識ももっていて、スキャンランが、かれの監督のもとに注意深く組み立てをはじめていた機械に長い間つきっきりでとり組んでいた。
「なあ、ヘドレイさん、まったく、こいつは|いかす《ヽヽヽ》ぜ」航海第二日目の朝、ビルがいった。
「さあ、こっちへ来て、ちょっとみてごらんよ。あの先生は結構つきあえる男らしいし、機械いじりときたら、|くろうと《ヽヽヽヽ》はだしだぜ」
その組み立て中の代物が、このぼくの棺おけになるかも知れぬと思うと、あまりよい気持ちはしなかったが、よしんばぼくの墓場であるとしても、それは、いかにも、われわれの壮途にふさわしい大墳墓であるとみとめないわけにはいかなかった。床は四枚の鋼鉄板にしっかりと締めがねで止めてあり、それぞれの板にはおのおのその中央に舷窓がネジでとりつけてあった。上部の小さなあげぶたから出入りするのだが、同じようなあげぶたは底部にもついていた。この鋼鉄製の函は、細いが強力な鋼鉄の鎖索で吊るすようになっており、その鎖索は船内の円筒型の軸に巻かれ、われわれが深海底引網に使う強力なエンジンによって、くり出したり、まき戻したりするようになっている。ぼくの聞いたところでは、その鎖索は、およそ半マイルの長さを有し、たわんだところは、甲板上にある繋船柱にぐるぐると巻いてある。ゴムの送気管も同じ長さで、それには電話線と、船の蓄電池から函内に電気を送る電線とがくっついている。もっとも、函内で独力で電力を得る設備も、ぬかりなくついているのだが。
船のエンジンを止めたのはその日の夕刻であった。晴雨計は低くさがり、水平線のかなたに立つ厚く黒い雲は、ひと荒れ来るぞと警告を発していた。海面にみえるのは、ノルウェーの国旗をかかげた帆船一隻だけで、その帆船も、荒れ模様にそなえるかのごとく帆をおろしていた。しかし、その当座は、万事は好調で、ストラトフォード号は、貿易風のそよぎであちらこちらに白い波がしらをみせる深青色の大洋を、おだやかにゆられて航海していた。そんなときに、ビル・スキャンランがぼくの研究室に入って来た。その顔には、生れつき、のんきな気性のかれが、今までに、ついぞ見せたことのないような、興奮しきった表情をあらわにしている。
「さあ、ぐずぐずしちゃあおられんぜ、ヘドレイさん」とかれはいう。「ほら、船底に井戸みてえなものがあるだろう。あそこの中に、いよいよ、例のおかしな代物をおろしはじめたぜ。うちの大将はいよいよあいつを海中にしずめるつもりかな。あんたはどう思うかね」
「きっとそうだよ、ビル。ぼくも博士といっしょに行くことになってるんだ」
「そうかい、そうかい。しかし、まあ、お前さんたちゃあ、お二人とも、まったくの気ちがいだね。なに、あんなおかしな代物を本気で考えているってことがさ。しかし、あんたがた二人だけを行かしたとあっちゃ、このわたしが臆病者ということになっちまうなあ」
「ビル、きみには関係ないことだよ」
「いや、ところが、おれには、関係があるように思えるね。まったくのはなし、もし、お前さんがた二人だけを行かせようものなら、このおれは、黄疸《おうだん》にかかった支那人みたいに黄色いいくじなしということになるにちげえねえんだ。メリバンク製作所は、その機械の面倒をみろといって、おれをここへ派遣したんだ。だから、もしかりに、あの機械が海の底に沈んじまうんだったら、このおれも、もちろん沈んでなくちゃあならねえ。あの鋼鉄の函の行くところこそ、ビル・スキャンランの住み家なりってわけさ――たとえ、まわりにとっついているやろうどもが、気ちがいだろうとなんだろうとね」
ここで、かれと論争したところではじまらない。かくして、ぼくたちの自殺クラブには、さらに一名、会員がふえ、マラコット博士の指示を待つことになった。
その夜は一晩中、係りの者たちは機械の調整に忙しく立ちはたらいた。ぼくたち三人が、いよいよ、冒険に旅立つべく潜水函の中に入ったのは、翌朝、早めの朝食をすませてからであった。鋼鉄の函は船の二重底の部分に、なかば降ろされていた。ハウイ船長がいたましげな面持ちでさし出す手を握りかえして、ぼくたち三人は、順次に、上部のあげぶたから、潜水函の中へ降りて行った。三人が入り終ると、あげぶたは閉じられ、外側からしっかりネジ止めされた。ぼくたちを内蔵した潜水函は、さらに数フィート降ろされ、一応、われわれの頭上で、二重底の上部引戸を閉じた。こうして二重底の中間にわれわれを閉じこめた後、海水を導入し、潜水函の潜水能力に異常がないかどうか検査する。潜水函はその検査用井戸のなかで、固く締めがねをとざしたまま静止していたが、別に、水がもってくるような徴候もみえなかった。それで、いよいよ今度は二重底の下側のふたを開き、われわれの潜水函は、船底より深い海中へと、吊りさがって行った。
函内は、まったく居心地のよい小部屋であった。何から何まで、かゆいところに手のとどくように整備されており、これを設計し建造した人の技術と推測力には、ただただ、目をみはるばかりであった。電灯照明は、まだ点灯されていなかったが、どちらの側の舷窓からも、海上からさしこむ亜熱帯太陽の光が、暗緑色の水を通して、明るくかがやいているのがみえた。なん匹かの小魚が、緑一色の背景に美しく銀色のしま模様を浮かせながら、あちらこちらと泳ぎまわっている。函内には狭い室をぐるりと一周して背つきの長椅子がとりつけられてあり、それに沿って、水深測量用のダイアル、温度計、その他の諸計器類がやや上方に設けてある。長椅子の下側には、送気管が故障した際に使う圧搾空気の予備ボンベからのびるパイプが一列に並んでいる。送気管は、ぼくたちの頭上で大きく口を開いて空気を送りこんでおり、そのわきあたりから通話装置がぶらさがっており、外側からはいってくるハウイ船長の気づかわしげな声がきこえた。
「本気で潜水する用意ができましたか、博士?」と、船長はたずねている。
「わしらのことはなにも心配せんでいい」マラコット博士はじれったそうに答えた。
「さあ、そろそろ、ゆっくりでいいから潜水函を降下させてくれ。通話機の前には、いつも誰かがいるようにしてな。わしが、その時々の状況を報告する。わしらが海底に到着したら、わしから指示するまで、そのままの位置で待っていてくれ。鎖索にあまりたくさんの張力をかけてもいかんから、一時間に二|結節《ノット》ほごすぐらいの速度でやったらいいだろう。いいな。さあ、それでは、『降下はじめ!』」
マラコットは、この最後の号令を、まるで狂人の悲鳴のようにわめいた。無理もなかろう、かれにとって今は生涯最高の瞬間なのだ。長い間はぐくみ育ててきた夢の結実なのだから。ぼくのほうはといえば、なにか、一人の偏執狂患者に、うまうまと一杯くわされてしまったような気がして、急に背筋が寒くなった。おそらく、ビル・スキャンランも同じだったにちがいない。かれも、ぼくのほうを見やりながら、一瞬、悔やんでいるような苦笑をおくり、自分の額にそっと手をやってみせた。しかし、その次の瞬間、マラコット博士は、再び真顔にもどり、自制心にあふれた自分をとりもどしていた。まったく、われわれをとりかこむ、あらゆる事物のすみずみにまで行きわたった、すぐれた秩序と深い洞察に気づくにつれ、この老博士の精神力の偉大さには、ほとほと頭のさがる思いがした。
しかし、やがて、ぼくたちの興味は、深度が増す一瞬一瞬ごとに出くわす、すばらしい未知の経験の数々へ移っていった。ゆっくりと、潜水函は大洋の深みへと沈んで行く。うすみどり色の水は、濃いオリーブ色に変った。さらに、ふたたび、美しい青色へと変り、その色合いをどんどん深めていった。深青色はやがて濃縮されて、陰うつな紫色へと変化していく。下へ下へとわれわれは潜降していった――百フィート、二百フィート、三百フィート。送気弁は完全にはたらいていた。本船の甲板上にいるのと、まったく変らないほど自然に呼吸できる。ゆっくりと、水深測量の針が、照明された丸い文字盤の上を動いて行く。四百フィート、五百フィート、六百フィート。
「気分はどうですか」頭上の通話機から、気づかわしげな声がどなった。
「最高にいい気分だ」マラコットが、これに応じてどなりかえした。しかし、あたりはだんだんに暗くなってくる。かすかな、灰色の、たそがれ時ほどの明るさが残っていたと思う間もなく、まったくの暗黒の中にわれわれは置かれていた。
「機械をとめい!」マラコット隊長はさけんだ。降下はとまり、われわれをのせた函は、水面下七百フィートの海中に宙吊りされていた。ふと、カチリとスイッチのはいる音を聞いた。次の瞬間、まばゆいばかりの金色《こんじき》の光の流れがおのおのの舷窓からほとばしり出て、われわれをとりかこむ暗く黒い水の大気から、ちらちらする眺めをさっと切り開いた。ぼくたち三人は、それぞれ専用の舷窓のガラスにぴたりと顔を押しつけて、いまだいかなる人間もみたことはあるまいその景観に見とれた。
これまでのところ、われわれが時折こころみる底引網にかかってくる、のろまな魚どもや、地引き網から逃げそこなったばかな魚どもを観察する以外、われわれがこの水中の世界について知識を得る手段はなかった。ところがどうだろう、いまや、ぼくたち三人は、このすばらしい水中の世界を、そのありのままの姿で、直接みることができたのだ。もし神々の創造の目的が人間を作ることであったと解釈するならば、陸上にくらべ海中がこれほどたくさんの住民をかかえているのは、つじつまの合わない話だ。土曜日の夜のブロードウェイとか、平日の午後のロンバート・ストリートがいくら混雑しているといっても、今、ぼくたち三人の眼前にひらけている偉大な海中の世界での人ごみにくらべれば、もののかずではない。われわれはすでに、魚たちがまったく無色であるか、または、上半分が群青色で下半分は銀色といった海中独特の色彩におおわれているような表面海層を通過して来ていた。ここでは、深海生物のものとして考え得るあらゆる種類の色彩と形態の生物がうごめいていた。
繊細なレプトケファリ、つまり、うなぎの稚魚は、舷窓から流れる光の線をよこぎって、みがき上げた銀器のようにきらめきながら、すばやく走りぬけて行く。ムロエナ、つまり、深海ヤツメウナギの緩慢な蛇のような姿態が身をよじり、からみ合ったまま通りすぎるかと思うと、全身これ大きなとげと口ばかりといった格好の黒いケラティアが、馬鹿みたいにポカンと口をあけて、舷窓ごしに見つめるわれわれを逆に見つめかえしたりしている。時には、大イカがじっとうずくまったままの姿勢でゆらゆらとただよってきて、われわれを、まるで人間のような気味の悪い目でじろりとにらんだり、そうかと思うと、何か花のようなものがただよってきて視界がぱっとはなやぐので、よく見ると、シストマだろうか、それともグラウカスだろうか、なにか透明な深海の軟体動物であったりする。一尾の巨大なカランクス、つまり、深海マグロが、何回も何回もわれわれの舷窓をはげしくたたきつづけていたが、そのうち、ふいに、七フィートもあろうかと思われる大きなフカの黒いかげに襲われ、ぱくんと大きく開いたフカの口の中に消えてしまった。マラコット博士はひざの上にノートをひろげたまま、うっとりとして坐っていた。時おり思い出したように観察したことを書きこんだり、それに何か専門的な反芻《はんすう》をひとりごとにしてぶつぶつとつぶやいたりしていた。
「あれは何だったかな。あれは何だったかな」博士のひとりごとは、ぼくの耳にも入ってきたものだ。「そうだ、そうだ。あれは、マイクル・サーズのグループが採集したシモエラ・ミラビリスだ。ほ、ほう。肺魚科ウナギもおるわい。しかし、こいつはどうみても新種だな。あのマクルルスをみてごらん、ヘドレイ。われわれが網を引いてつかまえる代物とは、だいぶちがった色つきをしてるだろうが」
一度だけ、マラコット博士も、どぎもをぬかれるシーンがあった。それは、なにか長い楕円形のものが、ものすごい速度で上方からとんで来て、かれの舷窓をかすめて行った時だ。そいつは後部に上から下までわれわれの視野のとどくかぎりいっぱいの長さにのびて振動する|しっぽ《ヽヽヽ》をつけていた。ぼくも、それを目にした当座はマラコット博士と同じように仰天してしまった。だから、その謎の究明にのり出したのは余人ならぬビル・スキャンランである。
「は、はあ、あのジョン・スウィニイのまぬけやろうが、よりによっておれたちの潜っているところへ測鉛を投げこみやがったんだな。だが、まてよ。これでも、やつは、やつなりに気をきかしたつもりでいるんじゃねえかな――おれたちが海の中でさびしがらねえようにってね」
「そうだ、そうだ」ほっとしたせいか、マラコットも、めずらしく、くすくすと笑いながら陽気に応じた。「長尾属測鉛種というてな――新種じゃよ、ヘドレイ。ピアノ線のしっぽと鼻さきの測鉛がその特徴だ、ウフフフ。しかし、まったくの話、本船の人たちには、せいぜい、|まめに《ヽヽヽ》測深をやってもらって、大きさに限りのある例の海底高原の真上に、なんとかうまく、わしらの潜水函をおろすよう骨をおってもらわなければならん。おおい」と、かれは通話口に向かってどなった。「万事快調だ、船長。さあ、もうすこし下におろしてくれ」
かくして、さらに深くわれわれは潜降して行った。マラコット博士が電灯を消したので、あたり一面、ふたたび、漆黒のやみと化した。水深計の照明だけが小さく光っていて、刻々増していく潜水函の深度を示していた。ほんのかすかな横ゆれが感じられたが、それがなかったら、われわれの乗っている函が下方へ動いていることすら忘れてしまうところだった。鼻をつままれてもわからないようなくらやみの中で、ぼうっと小さく浮き出している水深計の針の動きだけが、信じがたいような現在位置を意識させ、われわれの神経を緊張させていた。
すでにわれわれのいる深度は千フィート台だ。函内の空気はみるからによごれていた。スキャンランが送気装置の吐出弁に油をさすと、それでも、ちょっと、しのぎやすくなった。千五百フィートの深度でわれわれは函を停止し、海中に宙づりされたまま、もう一度照明灯をつけた。なにか大きな黒いかたまりがわれわれのそばを通過して行ったが、それが、はたして、メカジキ、つまり深海産のサメであったか、それとも、まだ知られざる種類の怪物であったのか、もう、まったくわからなかった。博士は、あわてて照明灯を消した。「こいつが、もっとも、危険なのだ」と、かれはいう。「深海にはな、ちょうど、いたずら好きのサイがミツバチの巣をもてあそぶように、このわしらの潜水函に悪ふざけをしかける気まぐれな生物がいるのだ。しかし、そんな悪ふざけを受けるわれわれにしてみれば、まるで、サイにもてあそばれるミツバチの巣箱みたいな頼りない立場におかれるわけだからな」
「だったら、サイじゃねえでしょう。クジラでしょ」
「うむ、クジラも深海にまでもぐって来るかも知れんな」と老学者は答えた。「なんでも、グリーンランドのクジラは、垂直にほぼ一マイルの深度まで潜水するそうだ。しかし、一般的にみて、傷つけられるとか、よほどおどろかされるとかしないかぎり、ふつう、クジラというものは、そんなに深くもぐれるものではない。いま行ったやつは大イカだったかも知れんな。イカなら、ほとんどどんな深度ででもみられる」
「でも先生。イカはやわらかいから、あたしたちに悪さをするまでは行かないでしょう。イカにしてみりゃあ、このメリバンク特製のニッケル鋼に、引っかききずでもつければ、ばんばんざいといったところじゃないかな」
「やつらのからだそのものはやわらかいかも知れぬが」と、マラコットは大学生の質問に答える教授のさまよろしく答えていた。「大きなイカのくちばしは鉄の棒でさえもかみきってしまう力をもっておる。そんなくちばしでひとかみされたら、こんな、せいぜい一インチの厚みしかない舷窓なぞ羊皮紙のようなものだ」
「へええ、そいつはおどろきだ」と、ビルが大声で応じたとき、われわれは再び函が潜降しはじめたのに気づいた。
やがて、とうとう、やわらかく、しずかに函は静止した。衝撃がぜんぜん感じられなかったので、照明灯をつけ、函の周囲に鎖索が、うねうねと幾重にもたるんでいるさまが目にうつらなかったら、海底に到着したと気づかなかったぐらいだ。この際、このたるんでとぐろを巻いている鎖索送気管ともつれるおそれがあり危険だった。マラコットが大声で注意したので本船では鎖索を引っぱり、函の頭上でピンと緊張させた。水深計は千八百フィートを指している。ぼくたちはじっと、大西洋の海底火山の尾根に立ちつくしていた。
2
しばらくの間、われわれ三人はともに同じ感想をいだいていたのではないかと思う。何かをしたいとか、何かを見たいとかいった欲望はまったくないのだ。ただ、静かにすわったままで、この心のたかぶりを――つまり、いま、われわれは自分たちの世界にいくつかあるうちの一つの大洋の真底にいるのだという感激を――じっと味わっていたかったのだ。しかし、まもなく、全方向に走る照明灯の光にてらされて、われわれの周囲にうかび上がる不可思議な情景が、しだいにわれわれの興味をつのり、窓ぎわへとひきつけていった。
われわれの函はひょろ長い海草(カトレリア・マルチフィダだと博士はいう)の床の上に腰をおちつけていた。その海草の黄色い葉状体は深海の潮流になぶられて、まるで夏風にたわむれる木々のこずえのようにそよいでいる。照明灯の光で金色に映える幅広い平べったい葉は、時々なびいてきてはわれわれの視界を横ぎったが、われわれの観察をさまたげるほど背が高くはなかった。その後ろには、なにか黒い火山岩|滓《し》のようなものでできた坂があり、その斜面はさまざまに美しく色どられたナマコ、海鞘《ほや》、ウニ、ヒトデのたぐいで装飾され、まるでヒヤシンスやサクラソウで化粧した春の土堤を思わせた。これらの海中の生きた花々は、石灰のように黒い地肌に、目のさめるような真紅、深いむらさき、えもいわれぬピンクなどを奔放にまきちらしているのだ。あちこちの暗い岩の裂け目には、大きな海綿が密生し、また、中深度層特有の魚たちが、潜水函の放出するまぶしい光線を横ぎっては目もあやな色彩を反射させていた。夢のように美しい情景にうっとりとみとれていると、通話管を通して、ぼくたち三人の身を案ずる声に呼びかけられ、はっとわれにかえった。
「さあ、海底の模様はお気に召しましたか。みんな元気ですか。あんまり長くならんうちにあがって来て下さいよ。なにしろ気圧計がさがってきて、そろそろひと荒れ来そうなぐあいなので、安閑《あんかん》としてはおれんのです。送気のぐあいはいかがですか。なにか、われわれにやってほしいことはありませんか」
「わかっとるよ、船長」マラコットはきげんよく答えた。
「すぐあがるよ。あんたがいろいろ心配してくれるんで、まるで本船の船室にいるのと変らぬくらい、居心地がいい。このままの位置で、今度は前進したいから、その用意を頼む」
われわれは、すでに発光魚のいる領域に来ていた。ここで函内の照明を消してしまい、まったくやみの中で――かりに写真の乾板を露出させて一時間もつりさげておいても、紫外線ひとつ感光しないような漆黒のやみの中で――大洋の燐光活動をみることは楽しかった。黒ビロードの幕を背景にいくつかの光の点々がゆっくりと動いて行くさまは、まるで夜の海をわたって行く汽船がその舷窓から発する|ともしび《ヽヽヽヽ》にも似たムードがある。いっぴきの見るもすさまじい形相の生物は発光する歯牙を持っていて、聖書の物語によく出てくる神秘的な怪物のように、やみの中で歯ぎしりをしていた。また、あるものは長く金色に光るアンテナ線をもっているし、そうかと思うとその頭上に羽根かざりのような光の冠をいただいている生物もいた。われわれの視野のとどくかぎり一面のくらやみの中で、光の点々はきらめき、各自思い思いの仕事に従事しているかのごとくに少しずつ曲がってみたり、芝居小屋がはねる時間のストランド街で右往左往するタクシーのように、自分の進路を照らしたりしている。やがて、われわれの潜水函も照明をつけ、博士は再び海底の観察にかかりはじめた。
「だいぶ深く潜って来たことは事実だが、まだ深海特有の沈澱物を手に入れるほど深くはないようだ」とマラコットが言い出した。「いずれにしても、そのような沈澱物の採集は今日のところはだめじゃろう。いずれ日をあらためて、もっと長い鎖索をつけて――」
「よしてくださいよ、先生!」ビルがどなった。「もう、潜るほうは、いいかげんにきりあげたらどうですかね」
マラコットは微笑した。「きみも、もうじき、深海生活に慣れるだろう、スキャンラン。今日の潜水が最後だと思うとったら、大まちがいじゃぞ」
「ちぇッ、かってにしてくれってんだ!」ビルがぼやいた。
「まあ、きみもそのうちには、ストラトフォード号の船倉におりて行くぐらいの気がるさで海に潜って来られるようになる。ヘドレイ君、あんたにも判るじゃろうが、このびっしりと密生しとるドロ虫と珪土質海綿を介して観察するかぎりにおいては、ここいらへんの基礎|地形《ちぎょう》は軽石と黒い玄武岩の火山岩滓だな――つまり、古代に火成活動のあったことを示唆しとる。じっさいの話、このことは、わしが以前から持っていた見かたを確証づける以外の何ものでもないと、わしは考えたい。いうなれば、わしらの今立っておるこの海底の尾根は火山活動の結果できたものにほかならず、また、マラコット海淵は――」と、博士はさもいとおしげにこの言葉を、ゆっくりと間のびさせて発音して、
「マラコット海淵はその山の外輪斜面に当たるわけだ。いま急に思いついたのだが、わしらの乗っているこの潜水函を、このままゆっくりと、マラコット海淵の縁まで前進させて、そのへんの岩層はどんな具合になっているか、この眼で見たら面白かろうと思うのだ。おそらく、とてつもなく巨大な絶壁が、大洋の奈落の底へきり立っているのではなかろうか」
このもくろみはこの上なく危険なものだ。第一、われわれの函をつるしているかぼそい鎖索が、ひどい横ゆれにともなう緊張に、果してどの程度耐え得るか、誰にもわかってはいないのだ。ところが、マラコットときたら、なにか科学的観察が必要ときまった以上、自分の身の危険だろうと他人の身の危険だろうと、かまってはいられなくなる性分なのだ。とうとう、ぼくらを乗せた函が、音もなく、潮流にそよぐ海草をなぎたおしながら、ゆっくりと前方へせり出しはじめた時、ぼくはその振動にぎしぎしと悲鳴をあげて耐えているのであろう鎖索を思い浮かべて、思わず首をすくめ、息を殺した。ふとみやると、ビル・スキャンランも同じような格好をしている。それでも、鎖索はどうやらもちこたえたらしく、じわりじわりと奈落の上空を滑空しはじめた。マラコットはとみれば、手のひらの上にコンパスをのせ、声をふりしぼって進路を指示したり、前方に障害物があったりすると函を持ち上げろとどなったりしている。
「この玄武岩の尾根はどうみても一マイルもない幅のせまいものだ」と、マラコットは説明してくれた。「わしは、はじめから、この海淵の最も深い部分は、わしらが潜りはじめた点から、いくぶん西方と見ておった。このくらいのスピードで行けばもう間もなくそのあたりに着けるだろう」
黄金色のたなびく海草と黒玉〔貝褐炭〕の土台から|にょきにょき《ヽヽヽヽヽヽ》と生えそろう、天然のカッティングをうけた豪華な宝石でかざられた海底火山の高原の上を、われわれはめくらめっぽうにすべって行った。とつぜん、マラコット博士は通話機にとびついた。
「おおい、函をとめろ」とかれは叫んだ。「ちょうど真上についたぞ」
なるほど、巨大な裂け目が、とつぜん、われわれの眼前にぱっくりと口をあけていた。おそろしいながめだ。悪夢のような光景だった。黒い玄武岩のきらきらとかがやく断崖が鋭い角度で底知れぬ奈落へ落ちこんでいる。その端部には岩の薄片が、まるで地上の山峡に群生するシダ類のようにぶらさがって、ふちどりをしている。しかし、その宙にゆれる|へり《ヽヽ》の下には、鋭く深い割れ目の黒光りする地肌がみえるだけなのだ。その岩状の先端は向こう側へ折り曲がっていたが、この底なし穴の深さは、まったくけんとうがつかない。なにしろ、われわれの持つ照明灯の光では、この奈落の陰気なやみを通すことは、とうていできないのだ。それで、われわれは用意したルーカス式信号灯を下に向けて照らしてみた。信号灯は何本もの長い平行する光線を下へ、下へと延ばして行く。下へ、下へ、下へ。そして最後には、われわれの足下に口を開くみるもおそろしい裂け目の暗やみの中に飲みこまれてしまう。
「まったく、すばらしいな」マラコットは、そのやせた、熱心な顔に、かれ特有のよろこびの表情をみなぎらせて、函外の光景にみとれながら、さけんだ。「深度の記録は、次から次へとやぶられるものだ――わかりきったことだがね。ラドロン島の近辺に二万六千フィートのチャレンジャー海溝があるかと思えば、フィリピンの沖合には三万二千フィートのプラネット海溝がある。まだそのほかにもいろいろな海溝がありはするが、マラコット海淵はその勾配《こうばい》の鋭いことにかけては、どいつにもヒケはとらないだろう。また、こんなに長いあいだ、大西洋の海図を作りに来た水路測量家たちの眼を逃れてきたということも注目に価する。まったく、こいつは、うたがいもなく――」
ふと、マラコットは話なかばに言葉をきった。みると、かれの顔上にははげしい興味とおどろきの表情が凍りついている。マラコットの肩ごしに視線を送ったぼくとビル・スキャンランとは、目にうつったものを見たとたんに、石のように身体がすくむのをおぼえた。
われわれが光を投射しつづけていた奈落の底から、なにやらえたいの知れぬ巨大な生物があがってくる。はるか下方の、穴の暗やみの中にとけこんでいるあたりから、なにかおそろしい形の怪物のおぼろげな姿が、よろめきながら、脈うちながら、ゆっくりとあがって来る。ぎこちない格好で水をかきながら、深淵のふちへ、よちよち登って来るのだ。だんだん近寄って来るにつれて、怪物は照明灯の光線をまともにうけるようになったので、そいつの見るもおそろしい形態が、前よりはっきりと、われわれの眼に入ってきた。いままでの科学では知られていない動物だが、どこかわれわれになじみ深い動物たちとの類似点を持っている。巨大なカニというにはいささか長すぎるし、そうかといって巨大な伊勢エビというには短すぎる。どちらかというと、ザリガニに近い体形をしており、両側にはおそろしいはさみが二本にょきにょきとつき出し、一対の十六フィートほどもある触角が、どす黒くにごった色をしてふくれあがった両眼の前部でふるえていた。うす黄色の背中は、さしわたし十フィートもあっただろうか、そしてその体長は、触角をのぞいても、三十フィートはくだらなかった。
「すばらしい」とマラコットはうなった。その手はノートに何ごとかを懸命に書きつづけている。「半肉茎質《はんにくけいしつ》の眼、伸縮自在の鰓葉《さいよう》、甲殻類だが、種《しゅ》は未知のもの。甲殻類マラコッティ種――とでも命名してやろうか。え、そうしてわるいわけはなかろう?」
「け、けっこうな名前ですな先生。いいですよ、そうきめても。だ、だけど、あいつ、だんだん、こっちへきますぜ」とビルがさけんだ。「ねえ、先生。照明灯は消したほうがいいんじゃないですか」
「まあ、ちょっとまてよ。いま、あれの網状組織をメモしとるんだから」熱狂した博物学者は動じない。
「さあ、ようし。このくらいでいいだろう」やがてマラコットも満足したらしく、メモの手を休め、ライトを消した。あたり一面は、ふたたび、黒インクを流したような暗やみにもどった。外では、月のないやみ夜の流星のごとく、しのびよる怪物の発する光が走っている。
「あのけだものめ、まったく、この世のものじゃないね」ビルは、ひたいの冷や汗をふきながらいう。「あいつをみていると、まるで禁酒時代の密造酒をガブ飲みしてふつか酔いをした翌朝みたいな気分になってくるわい」
「たしかに、|みば《ヽヽ》はあまりよくないな」とマラコットも応じた。「もし、実際に、あのすさまじい|はさみ《ヽヽヽ》の脅威にさらされたら、扱いのいい相手ではあるまいな。しかし、この鋼鉄製の潜水函の中にいるおかげで、わしらは、安全に、好きなように、あれを観察することができる」
このかれの言葉が終るか終らないうちに、函の外壁をつるはしでたたくような、にぶい音がした。つづいて、長くひっぱるようにして、ガリガリ、ゴリゴリとやすりで引いたり、ひっかいたりするような音がしてきたが、コツーンと一つするどい打撃音がすると、ぴたりとやんだ。
「ほうら、あいつは中に入りたがっているぜ」ビル・スキャンランが、おびえたようにさけんだ。「こうなるとわかったら、『立入り禁止』の札でも出しときゃ、よかったな」
ビルの声はひどくふるえていたから、このじょうだんも、かなり無理していっていることがありありとわかった。白状すると、ぼくのほうも、足音をしのばせた怪物が、このみなれない|から《ヽヽ》をうち破りさえすればなにかうまい食べものが入っていようものをとばかりに、さらに暗くなったのに乗じて、窓を一つ一つかぎまわっている気配を感ずるにつれ、ひざがガタガタふるえてくるのをどうすることもできないでいた。
「だいじょうぶだ、こいつには、わしらをどうすることもできんよ」マラコットは、つとめて強がりをいってみせるのだが、その口調にはなんとなく自信がない。「しかし、なんとか、こいつを追いはらう算段をしたほうがよかろう」と、博士は通話管で船長に呼びかけた。
「おおい、もう二十フィートか三十フィート上へあげてくれ」と、かれは叫んだ。
数秒後には、われわれはその熔岩の高原から持ち上がり、静かな水の中で、ゆらゆらとゆれていた。ところが、しつこいのは、かの怪物である。ほんのちょっとの間《ま》をおいて、われわれはまたしても、ガリガリとひっかく音、そして鋭くコツーン、コツーンとたたく音をきいた。潜水函に追いついて、その触角と鋭い|はさみ《ヽヽヽ》でさぐりつづけているらしい。暗やみのなかにじっと息をひそめ、近づく死を待っている図なんてものは、どうみても気持ちのよいものではない。ひょっとして、あの大きな|はさみ《ヽヽヽ》が、われわれの窓をうちやぶったら。第一、この窓はそれほど丈夫にできているのだろうか。こんな疑問を、誰一人口にはしなかったが、三人とも一様に心の中でくりかえしているようだった。
ところが、そんなものとは似ても似つかない、別の予期せぬ危険が、とつじょとして、われわれをおそってきたのだ。コツーン、コツーンという怪物の|はさみ《ヽヽヽ》が函をうつ音は、しだいに上方へ移動して行ったが、やがて、われわれの身体はリズミカルな前後振動を感じはじめたのだ。
「たいへんだ」と、ぼくは思わず、さけんだ。「鎖索をつかんだらしいぞ。あいつは、きっと索をきってしまうにちがいない」
「ねえ、先生、そろそろ水面に出ましょうよ。あたしらは、もう、みるべきものはみんなみてしまったはずだ。だから、もう、そろそろ、家へかえる時間ですよ。ビル・スキャンランのなつかしのすみかへね。さあ、エレベーター係に手配して、この潜水函を引き上げてもらいましょうよ」
「とんでもない、わしらの仕事は、まだ半分もすんどらんぞ」と、マラコット博士は、しわがれ声でぼやいた。「わしらは、まだ、海淵のほんのはじっこを探りはじめたばかりだ。せめて、この海淵はどのくらいの大きさなのかぐらい、みきわめていこうじゃないか。この割れ目の向こう岸まで行ったら、わしも、まあまあ、がまんして、今日のところは引き上げてやってもいい」と、ぼくとビルの二人に宣言すると、こんどは通話機に向かってさけんだ。
「さあ、船長。わしが〈とめろ〉というまで、このまま二ノットの速度で前進をつづけてくれ」
潜水函は、ふたたび、ゆっくりと深淵をわたりはじめた。暗くしても、いっこうに、怪物の攻撃を避ける手段とはならぬことがわかったので、われわれは、もう、いささか破れかぶれの気持ちでライトをつけた。一つの窓は、へばりついた怪物の下腹と思われる部分にさえぎられ、そこからは、ほとんど何もみえない。頭部と巨大な二本のはさみは函の上方で何やらゴソゴソやっている。そして、われわれ三人は、鳴りづめの鐘のようにゆさぶられっぱなしだった。怪物の力は、まさに想像を絶するほどであったにちがいない。水面下五マイルの海中で――しかも頭上にかくのごとき恐ろしい怪物を背負って――こんな救いようのない苦境に立たされた人間が、われわれ三人以外にかつていたことがあるだろうか。潜水函をゆすぶる振動はますますはげしさを加えていった。鎖索の異常なけいれんに気づいた船長のあわてふためいたさけび声が通話管を通って聞えてくる。マラコットも、思わず立ち上がって、あきらめの表情をみせて手を上げている。とつぜん、函内にいるわれわれは、ワイヤーが、悲鳴に似た音をたててきれるのを、はっきりと感じた。つぎの瞬間、われわれをのせたまま、潜水函は下方にぱっくりと口をあけて待つ、底知れぬ奈落へと落ちて行ったのだ。
そのおそろしい瞬間を思い出そうとすると、まず耳にうかぶのはマラコットの口をついてでた絶叫だ。
「鎖索め、とうとう、きれおったぞ。もう、どうにもならん。わしらは|おだぶつ《ヽヽヽヽ》だ」かれは、わめくと、通話機をひっつかんでさけんだ。「さらばじゃ、船長。諸君、さようなら」これが地上の人間世界に対する、ぼくたちの最後のことばとなった。
われわれの潜水函は、あなたがたが想像しているように、すうっと落ちていったわけではない。かなり重量があったにもかかわらず、中空の潜水函はある程度の浮揚力を持っていたのだ。それで、函はわれわれをのせたまま、ゆっくりとしずかに奈落の底へ沈んでいった。われわれにこの破滅をもたらした、かのおそるべき怪物の触手からずり落ちるときには鋭くかする音が長く尾を引いたが、そのあとは、まったく無音の世界を、ゆるやかに旋回しながら果てしれぬ深みへと落ちて行った。およそ五分もたったころだろうか、いや当時のわれわれには一時間にも思えたのだが、とにかく、しばらく落ちつづけると、やがて、まだつながっていた通話線の限界点に達したらしく、通話線はまるで細い糸のようにプツンときれ、われわれの落下は、さらにつづいていった。ほとんど同時に送気管も切断され、通気孔からは、海水がゴボゴボとふきあがってきた。ビル・スキャンランがすばやく熟練した手を動かしてゴム管一つ一つに電線をまき、水の浸入を防いだ。いっぽう、マラコット博士が圧搾空気ボンベの栓をひらいたので、シュウシュウと音をたてながら、新鮮な空気が函内に放出しはじめた。電線がたちきられた瞬間に照明灯は全部消えてしまっていたが、博士は暗やみの中でもヘルゼンス乾電池を接続する作業ができたので、しばらくすると、ぱっと天井についている多くのランプがいっせいにともった。
「一週間はもつじゃろう」と、かれは苦笑をうかべながら言った。「まあ、死ぬまぎわまで、あかりだけには恵まれているはずだ」そういいつつ、かれは悲しげに頭をふってみせたが、そのやせた顔に、ふとあたたかみのこもった微笑がうかんだ。「わしには、こうなっても悔いることは何もありはせん。わしはもう年よりだし、この世でやりたいことは、ほとんどやってきてしまったからな。しかし、こうやって死ぬまぎわになってただ一つ心残りに感ずることは、あんたがた二人のような若い前途有望の青年を道づれにしてしまったことだ。やっぱり――わし一人でやればよかった」
少しでも老博士を安心させたいという気持ちから、ぼくは無言でその手をにぎりしめた。まったく、なにもいうことはなかった。ビル・スキャンランも、無言であった。ときおり行き交う魚群の影に深度をあらためて意識しながら、われわれは、さらに下へ下へと、沈黙の世界を墜落して行った。ときどき、ふっと、自分たちが墜落して行くのではなく、魚たちが上方へとんで行くような錯覚にとらわれることもある。潜水函は、あいかわらず、ゆれつづいていた。だから海底に落下したときに、はたして、うまくこのままの正常な姿勢でいられるのか、それとも横倒しになってしまうのか、皆目けんとうがつかなかった。もしかすると、さかさまになって落ちるかも知れない。さいわい、のっているぼくたち三人の体重がうまい具合にバランスをとるはたらきをしてくれて、どうやら水平を保っていられるらしかった。ちらりと水深計をみやり、すでにわれわれのいる深度は一マイルをこえていることを知った。
「どうだ。やはり、わしのいったとおりだったろう」と、マラコットがいささかの自己満足を披露していった。「きみは海洋学会の会報にわしが書いた『水圧と深度との関係』なる一文を読んだことがあるだろう。もう一度、陸の上の世界でしゃべることができたらなあ。あのギッセンにいるビューロウのやつめを、ぎゅうのねも出ないほどとっちめてやるのだが。あのドイツの似非《えせ》学者め、なにもろくろく知りもせんくせに、わしの説に反駁《はんばく》しおって」
「なるほどねえ。しかし、あたしだったら、そんな貴重なおしゃべりを、石頭の学者先生なんかをあいてにぶっぱなしはしねえな」アメリカっ子の機械屋がまぜっかえした。「アメリカはフィラデルフィアにゃあ、かわいい娘っ子がいてさ、ビル・スキャンランさまがおかくれになったと聞きゃあ、そのかわいらしいおめめにホロホロと、玉の涙のひとしずくときちゃうんだ。しかし、まあ、こいつあ、あまりいい話じゃねえですけれどね」
「やっぱり、きみは来るべきじゃなかったね」ビル・スキャンランの気持ちを察すると、ぼくは思わずかれの手の上に自分の手をかさねて、いってやった。
「しかし、あんとき、このおれが尻ごみなんぞしていたら、とんでもねえはったりもののいくじなしにされちまっただろうし」と、スキャンランは、ぼくにこたえていった。「こいつはおれの仕事だもの。やっぱり、来てよかったよ」
「もうどのくらいたったでしょう?」しばらく沈黙がつづいたあとで、ぼくは博士にたずねた。
マラコット博士は肩をすくめた。
「いずれにしても、ほんものの海底をみるだけの寿命はありそうだわい」と、かれはいう。「あと一日はゆうにもつぐらいの空気はこのボンベの中にある。問題は、わしらが吐く汚れた大気の処置だ。こいつが、まずくすると、わしらを窒息させるおそれがある。なんとかして、われわれの出す炭酸ガスを取り除くことができればいいが」
「そいつは、ちょっと、不可能なようですね」
「純粋な酸素のボンベが一本ある。まさかの時の用意にと、わしがとくに手配してつみこませておいたのだ。これを時々、少しずつ放出すれば、かなり長い間、わしらは生きのびていられるだろう。ごぞんじのように、わしらは、いまは、もう二マイルをこえる深度におるのだがね」
「こんな状態になってしまっているのに、また、なぜ、生きのびようなんて考えるのですか。どうせだめなものなら、一瞬でも早いほうがいいじゃないですか」と、ぼくはいった。
「まったくそのとおりだ」と、スキャンランもさけんだ。「こんなどうしようもねえことは、なんとか早いとこすませてしまって、ごめんこうむりたいもんだよ」
「そうして、これから展開しようという人類未到のすばらしい光景に、目をつぶっていろというのか、このおろかものたちめが!」マラコットは毅然としていいかえした。
「そういうのを科学への反逆というのだ。たとえ、わしらの死骸が、永久に深海にうもれようとも、最後まで、未知なものを観察し記録しようという意欲をすててはいかん。もっと、正々堂々と死にのぞもうではないか」
「いや、いいことをいうねえ、先生」と、単純なスキャンランは、たちまち風向きをかえて、さけんだ。「こんなに腹のすわった人を拝んだことはねえ。いいでがすとも、こうなったら、あたしゃあ、とことんまでつきあいますぜ」
ぼくたち三人は、長椅子にすわり、函内がゆれつづけているので、椅子のはしを緊張した指でしっかりとにぎりしめながら、辛抱づよくじっとしていた。ときおり、魚のかげがきらりきらりと、舷窓の外側をかすめて上へ動いて行く。
「もう、深度三マイルだ」マラコットがつぶやいた。「酸素ボンベをあけようか、ヘドレイ君。空気がだいぶ、にごってきたようだ。そう、そう」と、マラコットは急に何かを思い出したように、乾いた、かんだかい声で笑いながら、つけくわえた。「この瞬間から、まさに、まちがいなく、ここはマラコット海淵だ。ハウイ船長が、わしら遭難のニュースを本国に持ちかえれば、友人連は、せいぜい、このわしの墓場が同時にわしの偉業を記念する場所にもなっていることに気づくだろう。あのギッセンのビューロウめとて、これにはどうすることもできないだろうて」あとは、なにやら、わけのわからない学問上の|ぐち《ヽヽ》を、ぶつぶつといっていた。
われわれは、ふたたび、だまりこくって坐ったまま、水深計の針が四番目のマイル指標へと、じりじり動いて行くさまを、じっと見つめていた。ふと潜水函がなにか重いものにズシンと打ちあたり、ひどくゆれた。ゆれかたがとてもはげしかったので、このまま、いよいよ横だおしになるのかと覚悟をきめたほどだった。あとで考えてみると、あれは大きな魚だったかも知れないし、または、われわれが落ちこんだ淵の絶壁の途中に突き出た岩のかたまりであったかも知れない。この奈落をだいぶ長い時間おちて来た今となってみると、さっきまで、いよいよ深海だとばかりに、感激して観察していたこの海溝の尾根などは、まったく水面にいるのと等しいくらいだ。そんなことを考えている間にも、ぼくたちは、暗緑色によどむ水の中を、ゆっくりとうず巻きながら、下へ下へと落ちて行った。水深計は、とうとう二万五千フィートを指した。
「どうやら、わしらの旅も終点に近づいたらしい」と、マラコットがいった。「去年、わしがスコット式測深機を使ってはかったら、このへんは、いちばん深いところで二万六千七百フィートあった。まあ、このままおちて行けば、あと二、三分のうちに、わしらの運命もきまるじゃろう。墜落したときの衝撃でこの潜水函もろとも、こなごなにつぶれてしまうか、それとも――」
そういっている瞬間に、われわれは着底したのだ。
母親が赤ん坊を羽根ブトンの上にねかせるときよりも、もっとしずかに、そうっと、ぼくたちは大西洋のどん底に着陸したのだ。たまたま、われわれが、行きあたった、このやわらかく、厚い、弾力性にとんだ軟泥がこの上なく上等なクッションの役割をはたしてくれたので、ぜんぜん、衝撃を感じなかった。ぼくたちは三人とも腰をおろしているところから動かなかったが、あとで考えてみると、そのことが結果的には幸となった。なにしろわれわれの函は、ねばねばした|にかわ《ヽヽヽ》状の泥で厚くおおわれて突き出た小山の上に、とまり木の小鳥よろしく鎮座して、函のほとんど半分ほどは宙にういたまま、ゆらりゆらりとゆれていたのだから。ちょっとでも動いてバランスをくずそうものなら、たちまち、ひっくりかえるおそれが多分にあった。しばらく、|やじろべえ《ヽヽヽヽヽ》のようにゆれつづいていたが、そのうちにそれもおさまって、しだいに函は動かなくなった。函の動揺がおさまったところでマラコットは舷窓ごしに外をながめたが、たちまち、おどろきのさけび声をあげ、あわてて照明灯を消した。
われわれは一様に目をみはった――ライトを消したのにもかかわらず、あたりがはっきりと見えるのだ。おぼろげな、霧のような光が函の外側から、冬の朝の冷たい日光のように、舷窓を通って流れこんでくる。窓べりに顔をおしつけて、この異様な光景を眺めた。不思議なことだ。潜水函の照明をまったく使わないで、あらゆる方向の数百ヤード内にあるものが、すべてはっきりと見えるのだ。不可能なことだ。信じられないことだ。しかし、うたがいようもなく、このわれわれ自身の感覚はそれが事実であることを訴えている。この壮大な海底の岩床は発光しているのだ。
「いや、当然のことだ」マラコットがさけんだ。それまで、三人とも、しばし、無言で立ちつくしたままでいた。「予測せざることがあって当然のことだ。しかし、この翼歩類とも有細孔類ともつかぬ軟泥は何だと思う? なにか腐食の産物らしいが――つまり、何千、何億とも知れぬ有機体生物の腐って崩れた死骸ではなかろうか。その腐食物がなんらかの原因で燐光効果をおこしているのだ。そうじゃないとしたら、ほかには、いったい、どんな考えようがあるかね? しかし、うーむ。こんなすばらしい論拠をつかみながら、その知識を世間に伝える手段がないなんて、まったく、ざんねんだ」
「しかし」と、ぼくはわりこんだ。「われわれはいままでも、いっぺんに半トンもの輝光性膠状体を採集したことがありましたけど、それらには、ぜんぜん、このような発光現象はみられませんでしたよ」
「きっと、それらの場合には」と、マラコット博士は即座に応じた。「長い時間をかけて水面にまでひきあげてくるうちに、発光性をなくしてしまったのだろう。しかし、考えてもごらんよ、この、しずしずとくさりゆく、目の届くかぎりの広大な平原いっぱいの腐敗物とくらべれば、半トンの採集物など、まったく比較の対象にもならんじゃないか。そう、そう、いうなればだ」そのおもいつきに有頂天になったらしいマラコット博士は、一段と声を高くしていった。「このへんの深海生物たちはこの有機物のじゅうたんを食って生きているのではなかろうか――ちょうど、おかの上の牛たちが牧場の草を食うようにだ」
かれが、そういっているうちにも、ぼってりと重く、ずんぐりとした感じの黒い魚の一群が、海底の岩床ぞいに、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。よくみると、かれらは、ところどころに密生する海綿をくんくんかぎまわったり、ぱくぱく、ついばんだりしている。そうかと思うと、べつの大きな赤い生物で、いかにも海の牛といった感じのやつが、ぼくの舷窓のまん前で、もぐもぐと、なにやらをかみなおしている――まさに、牛が食べた草を反芻しているさまにそっくりだ。そのほかにも、たくさんの動物たちがあちらこちらでぱくぱく、もぐもぐやっており、おりにふれ、ひょいと頭をあげては、かれらの世界にとつぜん乱入した、みなれない怪物――潜水函を、うさんくさそうにながめている。
ところで、マラコット博士のようすは、ただただ驚嘆するばかりであった。この濁った空気の中で、刻々とせまってくる死のかげにも、いささかたりとも動ぜず、学問の命ずるところに黙々としたがって、せっせと観察をし、メモをとりつづけているのだ。その真摯《しんし》な姿に心をうたれたぼくも、とうていかれのような精細なメモはとれぬまでも、この未知の世界の光景の一こま一こまを、できるだけ鮮明に頭にやきつけておこうと、ぼくなりの努力をする気になった。大洋の|どん《ヽヽ》底は赤土だが、このあたりでは、灰色の深海軟泥におおわれ、目のとどくかぎり一面に、うねうねと起伏する灰色の平原となっている。この平原は決して平坦ではなく、ところどころに、ぼくらの潜水函がのっているような小山がつき出ており、無数にあるこれらの小山はギラギラと怪奇な光に輝いていた。これらの小山の間をぬって、雲霞《うんか》のごとく、奇妙な魚の群れがかけまわっていた。どれもこれも未知の種属だ。きらりきらりと、あらゆる種類の色合いをみせて群舞しているのだが、どちらかというと黒と赤のものが多かった。マラコットは、心のたかぶりを懸命におさえながら、これらの魚群を観察し、記録している。
函内の大気は、ますます汚染してきた。酸素をボンベから放出することだけが唯一の救いであった。おかしなことだが、ぼくらは三人とも空腹を感じていた――とくに、ぼくは腹ペコだった。マラコットが気をきかせてつみこませたビンづめの牛肉とバタつきパンをむしゃむしゃ食い、水わりウィスキーで流しこんだりした。この食事で五感もどうやら生きかえったような気分になったので、ふたたび、のぞき窓の前に腰をおろし、この世の最後となるかも知れぬ煙草に火をつけてくつろいだ。ちょうどそんな時に、ぼくの眼がふととらえたものが、たちまち、心の中に異様な考えと期待とをうずまかせたのだ。
うねうねと起伏する灰色の平原には、ところどころ、小山のようなものが散在するといったが、一つのとくに大きなやつが、ぼくの舷窓のまん前にあった。みたところ、三十フィートとはなれていない。みるとはなしに視線を送っているうちに、その側面になにか、おかしな|しるし《ヽヽヽ》をみつけた。なおもながめまわしているうちに、おどろいたことには、同じような|しるし《ヽヽヽ》がいくつもいくつもつづいていて、その小山の周囲をぐるりととりまいていることに気づいた。死期が近づいてきて、自分でももう覚悟をきめてしまった人間に、なにか、この世に関することでスリルを感じさせるのは容易なことではないはずだ。ところが、その時のぼくときたら、一瞬、息もできぬほどおどろいていた。自分が今、目にしているものが、よく円柱などにほどこされている帯状の絵模様で、貝殻がぶらさがったり、くずれかけたりしてはいるが、明らかに、いつの世にか人間の手によって彫られたものにちがいないとさとったからだ。まったく、心臓がとまっても、しかたがないほどのおどろきであった。マラコットとスキャンランもかけよって来て、ぼく同様に息をのむと、この、人間のどこへでも進出しようとするエネルギーの実証に、まじまじと眼をすえた。
「こいつあ、彫刻じゃねえか、まちがいねえ!」スキャンランが、すっとんきょうな声をあげた。「この、あんまりぞっとしねえとんがりは、なにか、家の屋根みてえなところだと思うね、おれは。そいから、あっちに、うじゃうじゃとあるがらくたも、みんな家みてえなもんだ。ねえ、大将。あたしらは、なんだか町か村みてえなもののまうえに、おっこちて来たんじゃねえですかね」
「そうだ、まったくのところ、古代の都市だ」マラコットも、うなずいた。「地質学の教えるところによると、この海は、むかし、大陸とその内湾だったらしい。しかし、これまでのわしは、たいしてむかしでもない第四紀地質代に大陸の陥没によって、大西洋ができたなどという説を信じないですごしてきたが。すると、エジプト説話を伝えるプラトンの論文は事実だったのだ。この火山による生成物をみておると、かの大西洋における陥没は地震活動によるというみかたは正しかったようにも思えてくる」
「たしかに、これらの円頂には、どこか一定の規則性があるようです」と、ぼくもいった。「ぼくには、なんだか、これらの一つ一つはべつべつの家なのではなく、全体が一つの円屋根を形づくっているように思えてきました――つまり、なにか、とほうもなく巨大な建物の屋根の装飾物なのではないでしょうか」
「おれも、あんたのいうとおりだと思うね」と、スキャンランもいう。「四すみにでっかいやつが一つずつ建ってて、そのあいだに、ちっちゃいやつが、いくつかの列にならんで建っているってわけだ。まちげえねえよ、こいつは。きっとなんかの建物だ。全体をいちどきにみわたしてみりゃあ、もっとはっきりわかるにちげえねえ。しかし、でっけえなあ――メリバンクの工場なんぞすっぽり入っちまうぜ。いや、一つじゃ、だいぶ、すきまがあまっちまうくれえだ」
「上方からの堆積物で、いつのまにか屋根まで、うまってしまったのだろう」マラコットがいう。「また、いっぽう、この建物のおかげで崩壊せずにこられたのだ。今のところ気温は恒常的に華氏三十二度を、ちょっとこえる程度だ。これだけの大深海にあると、うまいぐあいに崩壊作用を抑えるような温度だ。この、海底の岩床をおおい、たまたま、わしらには好適の照明をあたえてくれる発光力を持つ深海堆積物の分解作用は、きわめて、ゆるやかなものであったにちがいない。おやおや。おい、ほら、みてみい。この彫刻は単なる模様ではないぞ。どうやら、文字のようだ」
まったく、マラコットのいったとおりだった。同じしるしが、あちらこちらに、何回となくくりかえされているのだ。これらのしるしは、うたがいもなく、古代アルファベットの一種にちがいない。
「わしは、かつて、古代フェニキアの遺物をしらべたことがあるが、あそこに彫られた文字には、どこか、それと似かよったところがあるようだ」と、マラコットはいった。「そうだ、そうだ、わしらは古代に埋没した都市をさぐり当てて、こうして、見ておるわけだよ。ただ、ざんねんながら、この、世にも貴重な発見は、わしらともども墓場へもって行く以外どうしようもない。学ぶべきことはこれが最後だよ。わしらの知識は一巻の終りとなるわけだからな。こうなったら死ぬのは早いほうがいいというきみらの意見に、わしも賛成したくなったわい」
もうながいことはなかった。函内の空気はよごれきってしまい重くよどんでいた。重い炭酸ガスが充満しているので、ボンベの栓をあけても、酸素はほとんど出てこない。われわれは長椅子の上に背のびをし、天井の近くに残っているわずかばかりの清浄な空気をぱくぱくと吸って生きながらえていた。しかし、悪臭にみちた有毒な大気との限界は、じわりじわりと上方にずれてくる。マラコット博士はあきらめの表情とともに腕を組み頭を胸もとにたれてしまった。スキャンランも、すでに毒気にあてられ、床の上を、はいまわっている。ぼく自身の頭もふらふらで、胸のあたりに、がまんのできない重みを感じ、思わず眼をとじた。五感は、たちまち失われていく。いよいよ、最後かと覚悟をきめ、いまわの見おさめに、もう一度だけ、あたりのようすをみておこうと、力をふりしぼって重いまぶたをあけてみた。そのとたん、ぼくは思わず喜びのうなりをあげ、よろよろとよろめいた。
なんと、人間の顔が、外側から舷窓ごしにぼくたちを見つめているのだ!
幻覚だったろうか? ぼくは夢中でマラコットの肩をひっつかむと、荒々しくゆすぶった。かれは上半身を起こして目をみはった。そして、窓の外の出現物を認めると口もきけぬままに驚きの表情で顔をうずめた。ぼくだけでなく、マラコットも見たのだとすると、これは決して、死にかけたぼくの頭が作り出した虚構ではあるまい。その顔は色黒で、どちらかというとやせぎすで長めだった。みじかくかりこんだあごひげをつけ、その生き生きとした両眼のひとみは、あちらこちらと、さぐるように、すばやく動きまわり、ぼくらのおかれている情況の仔細《しさい》をのこらずつかんだようだった。その男の顔には、びっくり仰天している表情が、ありありとうかんでいる。函内の照明灯は全部いっぱいにつけっぱなしであったから、いまの顔の持ち主のとびださんばかりに開いた眼にうつった、小さな函内に展開される死の光景は、この上なく異様な、それでいて鮮明な地獄絵であったろう。なにしろ、一人の男はすでに床の上で長々とのびており、ほかの二人は、有毒ガスによる初期窒息状態にあって、断末魔の苦しみによじれ、ゆがんだ顔を向けて、自分のほうをみつめているのだ。ぼくも博士もそろって手をのどにあてており、二人の胸は大きく波うって絶望的なあがきを訴えていた。
覗いていた男は手を一ふりすると、急いで立ちさった。
「わしらをみすてて行きおった」と、マラコットがさけんだ。
「いや、もしかすると、たすけを求めに行ったのかも知れません。とにかく、あのスキャンランを長椅子の上にでもねかせてやりましょうか。あのまま、床の上にころがっていたんじゃ、長いことありませんよ」
ぼくは博士とともにスキャンランを長椅子の上にひきずりあげ、頭の下には枕をあててやった。かれの顔はすでに灰色に変り、わけのわからぬうわごとをつぶやいているが、脈搏はまだある。
「まだ、のぞみはありますよ、先生」ぼくはいったが、声はおかしなぐらい、しゃがれていた。
「しかし……しかし、こいつはいったいどうしたわけだ。まったく、わしらは、気がくるってしまったのか」マラコットはあえぎながらつぶやいた。「こんな海の底に、人間が、いったい、どうやって生きていられるのだ。第一、どうやって呼吸するのだろう? 集団幻覚かも知れぬぞ。なあ、きみ、わしらは二人そろって気が狂いかけているのだ」
気味の悪い怪光の中にうかぶ、さむざむとした、さびしい灰色の荒野を窓外にみやり、あるいは、マラコットのいうとおりかも知れぬと感じた。しかし、そのとき、とつぜん、何か動くものに気づいた。いくつかのかげが、はるかかなたの水中にちらちらと動いてみえる。やがて、だんだんとかたまり、色もこくなって、動く人間の形をととのえてきた。一群の人々が、岩床の上を、われわれの函めざしかけ進んで来る。と思う間に、かれらは舷窓の前に集っていて、指さしたり、身ぶり手まねをまじえたり、さかんに議論をはじめたようすである。その群れの中には、婦人も何人かいたが、大多数は男たちであった。その男たちの中でも一きわ力も強そうなからだつきで、人一倍大きな頭と黒いみごとなあごひげを持った男が指導者らしい。この男は、すばやく潜水函の周囲を調べまわった。われわれの函があぶなっかしくのっているのが平原から上に突き出した小山の突端であったから、かれには、函の底にある、ちょうつがい止めの開き戸がまず目にはいったらしい。かれは、ただちに、使いを走らせる一方、力づよく、断固たる態度で、ぼくたちに内側から扉をあけるように手まねした。
「あけたってかまわないでしょうね」ぼくは博士に問いかけるようにつぶやいた。「このままでいたって、どうせ窒息して死んでしまうんだし、おぼれたって、もともとですよ。それに、こう苦しくっちゃ、もう、がまんできませんよ」
「いや、もしかすると、わしらは、おぼれないかも知れんぞ」と、マラコットは、あえぎながらも考えぶかげに答えた。「下から入ってくる水は圧搾空気の水準から上へは、のぼり得ないはずだ。スキャンランに、ブランディを少し、のませてやれ。とにかく、いずれにせよ、これが生きるための最後の手だてだ。あの男にも、やるだけはやらせてやろう」
ぼくは、長椅子の上にのびている機械屋の頭をおこすと、のどにブランディをつぎこんでやった。ゴクゴクとのどを鳴らすと、かれはぱっちりと眼をひらき、ふしぎそうにあたりをみまわした。ぼくとマラコットは両わきからスキャンランをはさむようにして、かかえおこし、長椅子の上に立たせた。かれはまだ完全には正気にもどってはいず、ふらふらしていたが、ぼくは手みじかに事情を説明してきかせた。
「水がその蓄電池のところまでつかると、わしらが塩素中毒にやられる危険もでてくるだろう」と、マラコットはいう。「空気ボンベは、ありったけ全部、栓をあけておこう。函内の気圧が高くなればなるほど、外部からの水は入りにくくなるわけだから。さあ、わしが、この扉のレバーをひっぱるから、手をかしてくれんか」
われわれは身体をいっぱいにそらせて体重をかけながら、レバーをひき、函の底の丸いあげぶたをひっこぬいた。しかし、実のところ、そうしながらもぼくは内心で、自殺行為だと感じていた。とたんにみどり色の水が函内の照明に映えてキラキラ、パチパチと光りながら、ごぼごぼと流れこんできた。水はたちまち、われわれのかかとをぬらし、すねに達し、胸のあたりにまでつかったところでやっととまった。しかし、極度に高められた気圧は、とうていがまんのできるような代物ではなかった。頭の中はジージーと鳴りつづけ、耳の鼓膜は破れんばかりに痛む。こんな大気の中では、とても長いことは生命がもてそうにもない。天井近くの網だなに必死の思いでしがみつきながら、どうやら、ともすれば胸までつかっている水の中に倒れこもうとするからだを支えていた。
函内の天井近くであっぷあっぷやっているような有様だったから、舷窓はとうに水中に没してしまっていて、外をみることはできない。したがって、われわれに対する救援の手がいったい、どこいらへんまでのびているのか、とんと見当もつかず、本当に心細かった。正直いって、その時はもう無我夢中であったから、助かるだろうかなどと考えている余裕もないくらいだった。しかし、われわれをとりまいているはずの一群の人々の断固たる、果断な態度が、どことなく、ぼくたちの頭のすみにちらついていた。とくに、あの大がらな、あごひげをつけた指導者のおもかげは、なにかしら、おぼろげではあったが、一つの希望の灯火を、ぼくたちの心の中にともしていた。ふと気がつくと、その当の希望の主が、ぼくの足もとの水ごしに、ぼくたちをみあげている。と、思うまに、かれは函の底部に丸くあいた入口を通り、水をくぐりぬけてあがって来、ぼくたち三人が立っている長椅子の上に並んで立った。背はひくい――ぼくの肩ぐらいしかない――が、がっしりとして、みるからに頼もしげなからだつきをしている。茶色の大きな瞳はじっとわれわれをさぐるように、むしろなかば楽しんでいるような確信にみちた視線を送っていた。無言のうちにも、われわれに語りかけるような視線だ――≪かわいそうに。もうだめだとあきらめかけているんだろうが、いましばらく辛抱しなさい。すぐ、このわたしが、なんとか、あなたがたを助け出す道を考えてあげるから≫
そのときになって、はじめて、おどろくべきことに気づいた。その男は――かりに、かれらがぼくたちと同じ人間だと仮定しての話だが――頭からすっぽりと透明な着衣で身をつつんでいるのだ。それでいて、手足は自由に動くようにデザインされている。その透明度が非常にすぐれているため、いままで水中でみたのでは、まったく着ているのが判らなかったのだが、こうして、頭だけでも空気中に出したかれと顔をつきあわせてみると、ガラスのような、そのかぶりものが銀色に光っているので、はじめてその存在に気づいたわけだ。両肩には、透明な被覆物の下側に、なにかおかしな、丸く出っぱったものをくっつけている。よくみると、なにか、非常にたくさんの穴があいた長方形の箱のようなものだ。それのおかげで、かれの姿は、ちょうど、肩章をつけて正装した海軍士官のようにみえた。この新しい友人がぼくらと並ぶとすぐ、底の入口からもう一つ別の男の顔がのぞき、それと入れかわりに、大きなガラス製のあわのようなものが突き出された。つぎつぎと三個、同じようなものが投げこまれ、それらは水中をみるみる浮きあがってきて、やがて、ぽっかりと、われわれが頭を出している水面に出てきた。それから、六個の小箱が運ばれ、新しい友人は、われわれの左右の肩に一個ずつ、ついていたつけひもをつかって、くくりつけていった。つけ終ると、われわれの肩も、ちょうどかれの肩と同じように肩章がついた形になった。すでに、ぼくは、このみなれぬ人々の生活が決して自然のおきてにさからったものではないことに気づきはじめていた。つまり、この両肩につけた小箱にしてみても、一方が空気を製造する新式な装置、他方が、吐いた空気を吸収する装置なのだ。かれは、ぼくたち一人一人に頭から、かの透明な着衣をかぶせてくれた。上膊部《じょうはくぶ》と手首を弾性バンドでしめられるのを感じた。こうやっておけば、水は、着衣の内側へは、まったく入ってこないわけだ。その透明衣の内部では、完全に呼吸することができた。マラコットが、かれ自身の透明衣の中で、厚い眼鏡ごしに、あのおなじみのするどい眼をパチクリさせているようすや、スキャンランが、肩につけた空気製造装置から供給される酸素のおかげで生きかえり、快活でお調子ものの彼自身をとりもどして、例のニヤニヤ顔でぼくのほうをみつめているのを見ると、涙の出るほどうれしかった。われわれの命の恩人は、われわれ一人ひとりの顔を丹念に見てまわっては、満足の色を表情にあらわし、手まねで、かれにしたがって、函の底の丸穴から、海底の岩床へおりて来るようにさそった。ぼくたちが丸い穴をくぐりぬけるとき、そして、よろめきながら、ぬるぬるする軟泥の上に第一歩を印したときには、六人の人々の手が、親切にわれわれの身体をささえてくれた。
いまでさえも、こうしてはじめて海底におりたったときに感じたおどろきは、忘れ去ることができないでいる。こうして三人とも、無事で、らくらくと五マイルの深淵の底に立っていられるなんて。まったく信じられない気持ちだった。それに、あれほどたくさんの科学者たちが口々に予測した水圧の重荷は、いったい、どこへ行ってしまったのだろう。あたりをおよぎまわる極彩色の魚ども同様、まったく、われわれの身体には、水圧など感じられないのだ。もっとも、われわれ自身の身体に関するかぎりは、なにやら得体の知れぬガラス質の鐘の形の着衣をまとっているから、それも無理のないことだろう。まったく、われわれの知識にあるどんな鋼鉄よりも、はるかに堅固な感じなのだから。しかし、その透明衣におおわれていないで、むき出しになっている手足はどういうことになるのだろう。はじめのうちこそ、水中特有の緊縮感を感じはしたが、やがて時がたつにつれてそれにもなれてしまうと、まったく忘れてしまうこともできるのだ。三人とも無事だとわかってくると、あらためて自分たちがぬけ出して来た潜水函をながめる余裕もできてきた。これは、まったくすばらしい光景だった。蓄電池を働かせっぱなしで退避してきてしまったので、舷窓の一つ一つからは強い光の線が走り出ており、その光にむらがる魚群が窓という窓に集ってひしめく有様は壮観であった。ぼくたち三人が我を忘れてそれにみとれていると、われわれを救い出してくれた人達の指導者は、マラコットの手を突っついて、うながしたので、かれらのあとについて、水中の沼沢地を横ぎって歩きはじめた。ねばねばする表面の泥が足をとるので、非常に歩きにくい。
その途中で、またまた、おどろくべき出来事がおこった。この海底では、まったくの田舎者であるぼくたち三人にとっては、ただただ、目をみはるばかりの事件であった。われわれの頭上に、とつぜん、一つの小さな黒いものがあらわれると、上方の暗やみからゆらゆらとゆれながら下降してきて、われわれが立っているところのすぐ近くの岩床におり立ったのだ。あんのじょう、それは、ぼくたちがいる頭上の水面に碇泊しているストラトフォード号から投げこまれた深海測深鉛であった。いまや、探検の途なかばにして指導者を失ってしまったかれらは、せめて、その悲愴な指導者の名を冠して命名されるべきこの海淵――マラコット海淵の測深を、涙ながらに行なっていることだろう。しばらく前に、もっと浅い海中でみかけたのと同じ測鉛である。想像するに、われわれの遭難という悲劇で一度中断していた測深を再開して、まさか、当のぼくたち三人の足もと近くへ落ちて来るとは考えずに、測鉛を投げこんだらしい。様子をみていると、測鉛が着底すると自動的にはたらき出して、測鉛と索線とをきりはなす装置は、すぐには始動しないらしく、測鉛は軟泥の上に落ちたまま、しばらくの間じっとしていたから、船上ではまだ測鉛が着底したことには気がついていないらしい。測鉛からは、ピンとはられた索線が、ぼくの頭上を越えて上方に延びている。この索線は五マイルの海水をへだてて、なつかしの本船の甲板につながっているのだ。だから、手紙を書いて、この索線にしばりつけでもしたらどうだろう。しかし、そう考えた次の瞬間、そんなことは、まったく、ばかげた、不可能なことであるのに気づいた。でも、どうにかして、われわれがここで無事でいることを、本船につたえる手段はないだろうか。上半身は例の透明衣でおおわれているので、上衣のポケットには手をふれることはできない。しかし、腰から下は自由であったから、さぐっていたぼくの手は、ズボンのポケットにふれ、たまたま、その中に入っていたハンカチをひっぱり出した。いそいで、そのハンカチを測鉛の上部の線にむすびつけた。つけ終るやいなや、測鉛の自動装置がはたらき出して、測鉛は索線からきりはなされた。索線は再びゆっくりと持ち上がりはじめ、ぼくの白いハンカチをひらひらさせながら、もう二度とこの眼にみることはかなわないかも知れぬ海上の世界へともどって行った。あとにとり残された七十五ポンドの測鉛は、ぼくらの新しい友人たちの興味をさそったらしい。かれらは、仔細にそれをしらべはじめ、あげくのはてに、それを運んで持ちかえることにして、ふたたび歩き出した。
二百ヤードほど、群立する小山の間をぬって歩いていくうちに、やがて、四角にきった扉の前で、われわれの一行は止まった。扉の両脇には頑丈な柱が立っており、上の横木《まぐさ》には、なにやら文字らしいものが彫りこんである。扉が開かれ、われわれは入口をくぐりぬけて、大きい、殺風景な部屋に入った。この部屋には、左右に開く仕切扉があって、内側の機械仕かけで動かされるらしい。その仕切扉の内側に入ると、扉は自動的にわれわれの背後で閉じた。頭から透明衣をすっぽりとかぶっていたので、なんの音もきこえなかったが、しばらくたつうちに、どこかで強力なポンプが作動していることがわかった。その部屋に入って来た当初には、海底と同様に、われわれの頭上まであった海水が、みるみるうちに退いていったからだ。
十五分もたつかたたないうちに、ぼくたちは、しめった石だたみの上に立っていた。同行して来た新しい友人たちは、せわしく、ぼくたち三人の透明衣をぬがせてくれた。一分もたたないうちに、ぼくたちはこの上なく清浄な空気に充ち、適度の照明のいきとどいた、あたたかい部屋の中に立っていた。ぼくたちを救ってくれた、皮膚の色の浅黒い海底人たちは、親しげにぼくたちのまわりに集って来て、握手を求めたり、ぼくたちの肩や背中をたたいたりした。また、たえず、あたたかい微笑を顔にうかべ、口々になにごとかを談笑しあっている。その言語は耳なれない、摩擦音の多いひびきを持ち、意味するところは、まったく、ぼくたちにはわからない。しかし、かれらの顔に、一様にうかぶやさしい微笑と、かれらの眼に燃える友情の光は、海底の水中にいても、よく理解できた。ぬいだ透明衣を壁の上にたくさんならんでいるくぎにかけると、親切な海底人たちは、ぼくたち三人をなかばみちびくように、なかば押すようにして奥の扉をくぐりぬけた。そこからは、ゆるやかに下降する通路がある。いま、くぐりぬけて来た扉が背後で閉じていくのをみても、ぼくたち三人には、自分たちがはからずも大西洋の海底で見知らぬ種族の人々の客となり、それまで自分たちが属してきた世界から永久に隔絶されようとしているのだという無視すべからざる事実が、どうもピンと来ないのは妙であった。
かくして、ひどい緊張感から急に解放されると、ぼくたちは三人とも、まったく疲れはてているのに気づいた。現代版ヘラクレスと自称するビル・スキャンランでさえも、歩きながら床に足をひきずっていたし、マラコットとぼくときたら、案内をしてくれる人々の好意に甘えてその肩にとりすがり、まるでもち運ばれるように歩いていた。しかし、ぼくの場合、つかれきってはいたものの、あたりのものめずらしい情景には、貪欲に観察の目を走らせていた。大気が、どこかにある送風装置から送られてきていることは明らかだ。このことは、通りすぎる壁のところどころにある丸い開口が、シュウシュウと音を立てているのをみてもわかる。照明は散光によるもので、最近、現行のフィラメント電球にかわる優れた発明として、ヨーロッパの科学者たちの間で注目を集めだした蛍光装置の進化したものであることは明らかだった。通路の天井ぎわに沿って並んで吊りさがっている美しいガラス製の長い円筒から、そこはかとなく照明されているのだ。ぼくの観察がそのへんまで行ったところで、下降する通路から大きな居間へと通された。部屋の中は厚く敷物がしきつめられ、金ピカに光る椅子や、坐りごこちのよさそうに傾斜したソファなどで豪華に調度されている。どこか、発掘したての古代エジプト王の墳墓を想い出させるようなふんいきだ。そこまでついてきた大勢の人々はひきさがり、例の指導者らしいあごひげの男と二人の従者らしい人間とが残った。
「マンダ」あごひげの男は自分の胸をポンポンとたたいてみせながら、数回くり返して発音した。それから、今度はぼくたち三人を次々に指さし、マラコット、ヘドレイ、スキャンランと名のらせ、つづいて自分で完全に発音できるようになるまで、それをくり返した。次に、かれは、ぼくたち三人に腰をおろすように手まねをすると、従者の一人を呼び何事かを命じた。従者は急いで部屋を出て行ったが、やがて、一人の非常に年とった白髪と長いあごひげの男をともなって帰って来た。老人はその頭上に奇妙な円錐形をした黒い布の帽子をかぶっている。いいわすれていたが、この世界の人々はみな、古代ギリシア人が着たような、ひざまでくる長い着物を身にまとい、魚の皮か、サメの皮でできた長靴をはいている。さて、あとから入って来た高齢の人は明らかに医者らしく、ぼくたちを一人一人診察してまわりながら、かれの手をぼくたちの額にあてたり、ときどき、ぼくたちの身体の状態を頭の中で判断しようとするかのごとく、自分の眼をとじたりした。見ていると、どうも、ぼくたちのぐあいがかれを満足させるようなものではなかったらしく、医者はマンダに向かって頭をふりながら、重々しい口調でなにごとかを短くささやいた。マンダがただちに命をくだすと、従者が部屋を出て行って、まもなく、食べものらしいものと、酒びんのごときものとを盆にのせてぼくたちの前へ運んで来た。ぼくたちは、それが何であるかたずねるのがおっくうなくらいにつかれきってはいたが、食べ物は、喜んでちょうだいすることにした。食べおわると別室に通されたが、そこには三つの寝台が用意されており、ぼくはその一つの中にころがりこむようにして横になった。急激におそってきた眠気の中で、ビル・スキャンランがやってきて、寝ているぼくの枕もとにすわったのを、かすかにおぼえている。
「いやあ、まったく、あのブランディには生きかえったなあ」と、かれはいっていたようだ。「でも、おれたちは、いったい、どこにいるんだろうなあ」
「きみが知らないものを、ぼくが知っているはずがないだろう」
「そりゃそうだな。さあ、おれも眠くなってきたぞ」ねむそうな声でいうと、かれも、自分の寝台に向かった。「いやあ、まったく、あの酒はよかったなあ。ここには、禁酒法なんてものはないらしいから助かったあ」それが、ぼくのおぼえていることばの最後だった。ぼくはそのまま、生れてこのかた味わったことのないほど深い眠りにおちていった。
3
目がさめたが、はじめのうちは、自分がどこにいるのかわからない。前日の出来事は、まるで、ぼやけかかった悪夢のようにしか思い出せないのだ。ましてや、それが正真正銘の事実であると信ずることは、なかなかできなかった。戸惑いを感じながら、ぼくは、茶色の壁にかこまれた、だだっぴろい、殺風景な、窓のない部屋の中を見まわした。つづいて、天井ぎわにそって流れてくる、ゆらぐような、むらさき色の光線とか、あちらにポツン、こちらにポツンとおいてある家具類に目をうつし、そして最後に、ほかの二つの寝台をみやった。その一つからは、かんだかい、耳ざわりないびきがきこえてくる。いく日間かのストラトフォード号上での生活から、ぼくは、そのいびきがマラコット老人以外の何者のものでもないことを知った。それにしても、考えれば考えるほど怪奇な出来事だった。ぼくはそっと手の指で寝台の敷布をまさぐって、それがなにか海草のたぐいを乾して織ったものらしいことをたしかめた。やはり、きのうぼくたちが体験した、信じがたい冒険は事実であったらしい。それにしても――と、ぼくがまだ何か思いまどっているうちに、目ざめたらしいビル・スキャンランの爆発するような高笑いがきこえた。
「おす! きょうだい」くっくっと忍び笑いをもらしながらビルはさけんだ。ぼくの目ざめていることに気がついたらしい。
「ばかに、いいごきげんらしいね」どちらかというと、つっけんどんな調子で、ぼくは応じた。「でも、そんなばか笑いなんかしていられるような場合じゃないと思うがね」
「いや、おれもね、目がさめたばっかりの時は、あんたみたいに、妙に、ぐちっぽい気分だったんだけどね」と、ビルが答えた。「ところが、そのうちに、こいつあ、また|しゃく《ヽヽヽ》な考えがうかんできて、それで、思わずばか笑いしたくなったというわけさ」
「ぼくだったら、そんなばかな笑いはのみこんじまうがね」と、ぼくはいってやった。「それで、その考えというのは何かね」
「そこだよ、きょうだい。きのう、あの測鉛がおちて来た時に、あの索線におれたちがずらり鈴なりになってぶらさがっていったとしたら、いったい、どんなことになったろうと考えたのさ。そら、あの時おれたちが着せられていたガラスの着物が、うまい具合に、息をさせてくれるだろうから心配なかったろうと思うんだがな。いっぽう、船の上じゃ、あのハウイのおっさんが船べりからのぞいているところへ、水ん中から、おれたちが束になって、ぽっか、ぽっかととび出して来るという寸法だ。あのおっさん、おったまげるぜ。おれたちが釣れたと思ってな。ヘッ。まったく、こたえられないくらい愉快な話じゃないか」
ぼくも思わずつられてビルといっしょに笑い出したので、二人の笑い声でマラコット博士も目をさました。マラコットも、二、三分前にぼく自身がしていたのとちょうど同じような、きょとんとした顔つきで、寝台の上に起きなおった。やがて、マラコットも仲間に加わっておしゃべりをはじめ、これから開かれるであろう未知の世界の研究への期待をオーバーなよろこびとともに強調してみせたり、そうかと思うと、こうして博士自ら努力して得た研究の成果を地上の世界にいる同学の士たちに伝える手段のないことを大げさに嘆いてみせたりした。こんな支離滅裂な話をしあっている間は、それでも、ぼくは自分のおかれている不安な境遇を忘れることができるので、救われた気持ちであった。話は、それでも、だんだん、現実的なものへと転じてくる。
「いまは九時だ」と、マラコットが自分の懐中時計を見やりながらいった。三人の時計はどれも、ほとんど同じ時刻を指していた。しかし、九時とはいっても、はたして、それが朝の九時であるのか夜の九時であるのかは、まったく、わからない。
「わしらなりの|こよみ《ヽヽヽ》を作っておかなければならん」とマラコットは提案した。「わしらが潜水を始めたのは、たしか、十月三日だった。それから、その日の夕刻ごろ、ここへ着いたことになる。それで――と。わしらは、いったい、どのくらい眠っていたのだろう?」
「見当もつかねえなあ、おれには。一か月ぐらいたってるかも知れませんよ」と、スキャンランが答えた。「なにしろ、あたしにとっちゃあ、工場のボクシング大会で六回戦に出たとき、ミッキー・スコットのアッパーをくってマットにのびちまって以来のことですよ、こんなによくねむったのは」
うまいぐあいに、文明国の住民として必要を感じるような設備はよくそろっていたので、ぼくたちは、とりあえず、顔をあらい、衣服をととのえた。しかし、入口の扉は、厳重にかぎがかかったままだ。われわれが、とらわれの身であることは明らかだった。どこにも換気装置らしいものは見あたらないにもかかわらず、室内の空気は清浄にたもたれている。おそらく、壁にあるいくつかの小さな穴から送気されているのだろう。また、ストーブなど、そのかげもみえないのに、室内の気温は快適なあたたかさに調節されているから、どこかに、全室暖房源もあるらしい。そのうちに、ぼくは、ふと、壁の一つに小さなボタンがあるのをみつけ、何気なくそれを押してみた。想像していたとおり、これは一種の呼鈴のようなものであったらしく、扉はただちに開かれ、黄色い長衣をまとった小がらな黒人が、出入口にあらわれた。かれは、何か質問するように、その大きな、茶色の、親切そうな眼で、ぼくたちをみた。
「わしらは腹がへっておる」と、マラコットが話しかけた。「なにか、食べ物をくださらぬか」
その男は、首をふり、微笑した。マラコットのいったことが、かれには理解できないでいることは明白だった。
スキャンランは、かれ一流のアメリカなまりをべらべらとまくしたててみたが、結果はやっぱり、意味のない微笑を、その男からかえされただけだった。それでも、ぼくが、口をあんぐり開けて、指をつっこんでみせると、はじめてその男は元気よくうなずき、急いで立ち去って行った。
十分ほどたつと、扉はふたたびぱっと開き、黄色の長衣をまとった二人の従者があらわれた。かれらは、小型の車輪つきのテーブルを押して来た。かりにぼくたちがビルトモア・ホテルにいたとしても、これほどのご馳走にはありつけなかったであろう。コーヒー、熱いミルク、ロールパン、うまい|ひらめ《ヽヽヽ》、そして、はちみつなどがあった。それからおよそ三十分間というものは、われわれにとって、自分たちのたべているものがいったい何であって、それらはどこでどうやってとれるのかなどを考えるひまもないほど、いそがしい時間であった。われわれが無我夢中で食事を終えると、ふたたび、さきほどの従者があらわれ、テーブルをかたづけ、注意ぶかく扉のかぎをしめて出て行った。
「てめえの|つら《ヽヽ》をつねりゃ、ほら、こうして|あざ《ヽヽ》ができるし」と、スキャンランがいった。「するてえと、なにかな、こいつは、アヘンでも吸った時にみえる幻覚ってやつかな。ねえ、先生。あんたが、あたしらをここへつれて来たんだ。いったいぜんたい、こりゃ、どうしたわけなんですかねえ。そこんところを教えて下さるのは、あんたの責任だと思うんだがなあ」
マラコット博士は、首をふりながら答えた。
「わしにとっても夢のような成り行きだ。ただ、わしの場合は、夢は夢でも、この上なく、すばらしい夢だがね。まったく、地上の世界に伝えることができさえしたら、ほんとにすばらしい話なんだが」
「ひとつだけ、はっきりしていることがあります」と、ぼくはいった。「例のアトランティス大陸についての伝説には、たしかに一片の真理があったということです。つまり、なにか、おどろくべき事情があって、ここの人たちが、アトランティス文明をうけついできているということです」
「でも、もし、やつらがその何とか文明とかいうのをうけついでいるとしても」と、ビル・スキャンランが、その丸い頭をひっかきながら、大声でいった。「やつらが、いったい、どうやってこの空気とか、飲み水とかいうものを手に入れているのかわからなきゃ、しようがねえ。きっと、そのうちに、ゆうべみたあごひげのおっさんがお目通りをくださりにくるだろうから、そうしたらよくきいてみよう」
「しかし、ことばが通じないのに、どうやって質問したり、説明してもらったりするのかね」
「まあ、まあ。わしらはわしらなりに観察をもとにして考えていこうじゃないか」と、マラコットが割って入った。「すでに、ひとつのことはわかっとる。わしはそれをさきほどの朝食のはちみつから知ったのだ。つまり、あのはちみつは、明らかに人工のものだった――わしらが地上の世界でも最近成功した合成はちみつと同じようなものだ、ここだよ、きみ。もし人工はちみつがあるのだったら、人工コーヒー、人工小麦粉がないわけはないだろう。元素の分子というものは、いうなれば、建物をつみあげるレンガのようなものだ。しかも、われわれの周囲いたるところに存在するレンガなのだ。そうとわかれば、のこる問題はいかにして望むがままに一つまたはそれ以上のレンガをぬき出すかということになる。つまり、そうやって、なにか新しい物質を作り出すわけだな。こんなふうにして自由にレンガのいれかえができさえすれば、砂糖はでん粉にも、アルコールにもなる。しからば、このレンガのいれかえ作業は何によっておこなわれるのか――熱だ。電気だ。または、まだわしらがまったく知らないほかの要素もあるかも知れん。なかには、それ自身で転換をおこなうものもあるだろう――たとえば、ラジウムを放置しておくと自然に鉛になるとか、ウラニウムが誰の手もへずしてラジウムに変るとかいうようにな」
「それでは、かれらは非常に高度に発達した化学をもっているとおっしゃるのですか」
「まさにそのとおり。しかも、わしはそれを確信しておる。まったくのところ、いまわしが話した元素のレンガでかれらの手に入らぬものは一つもないくらいだろう。水素と酸素は海水からかんたんにとれるし、窒素と炭素は海草類の中にふんだんに含まれておる。さらには、例の深海堆積物は燐やカルシウムを含んでいることだろう。これらをうまく使いこなす技術と知識がありさえすれば、何でも、作れないものはないはずだ」
マラコット博士が、お得意の化学講義にいよいよ本腰を入れようと身体をのりだしたとき、扉が開いてマンダがあらわれ、ぼくたちにていねいな会釈をした。かれといっしょに、ゆうべみた高齢の威厳ある紳士もやって来た。この人はかなり広範な知識をもった学者らしく、きょうは、ぼくたち三人にむかい、つぎつぎに、相互に異なっているらしい言語を使って話しかけてきた。しかし、残念ながら、ぼくたちには、どれもこれも、同じように理解できないことばばかりだ。やがて、かれもあきらめたように肩をすくめてみせると、マンダのほうに向きなおり何事かを告げた。いっぽう、マンダは、まだ扉のそばに立ったまま待っていた二人の黄色の着衣の従者たちに命令をあたえる。すると、そそくさと出て行った従者たちは、やがて、二本の柱でささえた奇妙なスクリーンのようなものを運んで戻って来た。それは、まさに、われわれが地上の世界でみる映画用のスクリーンにそっくりだったが、ただこちらのほうは表面になにか光沢のある物質が塗ってあるらしく、光を反射しては、ところどころキラキラと光っている。かれらは、このスクリーンを一方の壁によせてたてた。例の老学者はしずしずと距離をはかりながら進み出ると、その立ち止まった点の床の上にしるしをつけた。老学者はその点に立ったまま、マラコットのほうに向きなおり、片方の手をマラコットのひたいにあてながら、もう一方の手でスクリーンを指さした。
「きちがいざただね、こりゃあ」と、ビル・スキャンランはいった。「まったく正気のさたじゃないね」
マラコットは首をふって、われわれがとほうにくれていることを知らせようとした。しばらくの間、相手の老学者も同じようにとほうにくれたという顔をしていた。しかし、そのうちに、先方の男には何かいい考えがうかんだとみえて、一瞬、顔を明るくすると、まず自分自身を指してみせた。それから、かれは、やおらにスクリーンのほうに向きなおり、その眼をこらしてスクリーンをみつめ、どうやらかれ自身の思考を一点に集中させるかのようなさまをみせた。すると、次の瞬間、われわれの目の前で、スクリーン上には、その男自身の映像がぼんやりとあらわれてきた。それから、かれは指さきを転じてわれわれ三人のほうにむけた。一瞬ののちには、われわれ三人のものらしい、一群の映像がスクリーン上にあらわれはじめ、それまでうつっていたかれ自身の映像にとってかわった。しかし、スクリーンに映っている映像の三人は、どうみても、実際のぼくたちとは、あまり似ていない。スキャンランはまるでマンガの中国人のように見えたし、マラコットは、くさりかかった死体みたいだった。しかし、どうやらこんなところがかれの眼にうつるぼくたち自身の姿であるらしい。
「思考を映像化するのだ」ぼくは、思わずさけんだ。
「そのとおりだ」と、マラコットもいった。「じつにおどろくべき発明だ。原理的にいえば、地上のわれわれの世界でも発明しかけているテレビジョンをテレパシーとむすびつけたものにすぎんがね」
「しかし、このおれさまが、よもや、映画に出ようなんて考えてみたこともなかったなあ――あの、おかしなチャンコロみてえな野郎がおれだとしての話だが」と、スキャンランも言い出した。「このネタを『レジャー』誌の編集室に売りこめば、一生ねて暮らせるぐらいの現ナマがはいるぜ。なんとか、このカラクリを荷造りして地上のやつらに送ってやれないもんかねえ」
「そんなことをしようものなら、とんでもないことになるよ」と、ぼくがいいかえした。
「まったくの話、そんなことをしようものなら、世界中がひっくりかえるような大騒ぎになってしまうさ――もちろん、ぼくたちがうまく、もとの世界にかえれるものとしての話だが。まて、あの先生、こんどは、何をいおうとしているんだろう?」
「あのじいさんはあんたにかわりにやってみろって、いってんですよ」
マラコットは指定された場所に立った。博士の強力で明快な頭脳は、かれの思考を完全無欠な映像にしたててスクリーン上に出現させた。まずマンダの像がうつり、つづいて、ぼくたちが乗りくんでいたストラトフォード号の像が出た。
マンダと老学者は、船の像をみると、一様に了解の意をあらわすように大きくうなずいてみせ、つづいて、マンダは最初にぼくたちを指さし、次にスクリーンを指して両手を大きくふるしぐさをした。
「その船のことをみんな話してくれ――とでもいっているんじゃないですか」大声で、ぼくはいってやった。「きっと、ぼくらがだれであるか、そして、どうやってここへ来たのかを映像化して話してくれといっているんですよ」
マラコットはマンダにうなずいてみせて、かれらの要求を了解したことを知らせたのち、スクリーンに向かって、ぼくたちの船が航海して行くもようから、映像化しはじめたが、とつぜん、マンダが腕を前につき出してマラコットを制止した。すると、マンダの命をうけた従者たちが、さっさとスクリーンを片づけだしたので、ぼくたち三人はあっけにとられていると、マンダは、ぼくたちにむかい、かれについて来るようにと手まねした。
まったく大きな建物であった。ぼくたちはつぎからつぎへと何本かの下り勾配の廊下を進んで行き、最後に、大学の講堂のごとく階段式に聴衆席の並んだ大きな広間に通された。一方の側には、さきほどみかけたのと同じ種類だが、ずっと大型のスクリーンが設備されている。その大スクリーンに向かい合うように並んだ聴衆席には、すでに、少なくみても千人の人々が坐っていて、ぼくたちが入って来るのをみると、いっせいに歓迎のざわめきをおこした。男も女も、老人も子供もいる。ざっとみたところ、男はみな浅黒い顔にあごひげをたくわえており、ご婦人連は若きは美しく、老いては威厳のある人が多い。しかし、ぼくたち三人は、かれらを観察している余裕もほとんどないうちに、最前列の席に案内され、つづいて、マラコットだけは、大スクリーンにむきあっておかれた小椅子にみちびかれ、照明がなにかのしかけでぐっと暗くなり、開始の合図が送られてしまった。
マラコットは、こうして突然あたえられた役目をなかなかもってりっぱにつとめあげた。スクリーンにはまず、われわれののった汽船がテムズ港を出発するところがうつった。港からかいまみられる正真正銘の地上における現代都市の偉観は期せずして、緊張した観衆のあいだに、興奮のざわめきをひきおこした。つづいてこんどは、この汽船の航路を示す地図があらわれた。つぎに、われわれがのった鋼鉄製の潜水函が付属物ともども画面にうつし出されると、観衆たちは、さもわかった、わかったといっているかのごとくささやきあっている。いよいよ潜水を始め、深海へ深海へと下降してくるぼくたちの姿が再現された。画面のわれわれは、やがて、深淵のふちに到着する。ぼくたちを瀕死のめにあわせた例の怪物が現われた。「マラックス! マラックス!」そのみるもおそろしい動物の姿をひとめみるなり、人々は口々にさけんだ。これらの人々がこの怪物の正体とそのおそろしさを知っていることは、あきらかだった。
怪物が潜水函の鎖索をいじりはじめると、観衆はおびえたようにシーンとなり、ついにその鎖索が切断され、潜水函が奈落の底に落下しはじめると、恐怖の悲鳴が口々におこった。こんなぐあいに行なわれた約三十分間の思考投写による説明は、じつに明確に、現在ぼくたちのおかれている事情と境遇とを説明してくれた。ことばを使って話そうとしたら、とてもこんなにぐあいよくはいかなかったにちがいない。
マラコットの話がすむやいなや、観衆たちは口々に同情のことばを浴びせかけながらぼくたち三人の周囲に集って来、ぼくたち一人一人の肩をたたき、歓迎の意を表した。しかるのちに、いく人かの貴族たちにも紹介された。ここの人々はみな同じような服装をしているから、貴族とはいっても、その区別は単に知識力の差によってのみなされるようにみうけられた。いわば、ここでは、すべての人々は社会的には平等なのだ。男たちはひざまでとどく長い鬱金《うこん》色の単衣を着て腰のあたりにベルトをしめ、なにか海棲動物の皮で作ったらしい丈夫な長靴をはいている。ご婦人たちはとみれば、これはまた目もあやなピンク、ブルー、グリーンなど各色に染めあげた、さらりと流れるようにスマートな衣服に身を包み、それにふさになった真珠や淡白色の貝がらをあしらうという美しい古典的よそおいをまとっている。ほとんどのご婦人が、地上の世界とは比較にならぬほどの美貌の持ち主だ。その中に、とくに一人――いや、やめておこう。この公開を願う文書にぼく個人の私情をしたためることはあまり好ましいことではない。ただ、これらの人々の中の貴族たちの一人であるマンダにはモナという名の一人娘がいて、その日にはじめてあってからというもの、彼女の黒いつぶらな瞳に燃えるぼくたちに対する同情と理解の気持ちはぼくの心へじかに伝わってくるのを感じたし、日がたつにつれて、ぼくの彼女に対する感謝と賛美の気持ちはいやましていったということだ。この絶世の美女については、さしあたりこのくらい叙述するだけでやめておこう。とにかくぼくの生活の中に新しい強力な影響をおよぼしたことは事実だった。
マラコットはとみると、ついぞ見たこともないような元気さで、一人のやさしげなご婦人を相手に身ぶり手まねで熱弁をふるっている。そうかと思うと、スキャンランは一群の少女たちの爆笑のうずの真っただ中で、かれの思いの|たけ《ヽヽ》をお得意のパントマイムで熱演している。二人の仲間のそんな姿を見ていると、悲運きわまりないと慨嘆しつづけてきたぼくたちの境遇にも、こんな明るい面のあったことにあらためて気づき、うれしくなった。どうやら、これからさき、生きて行くだけは許されそうなこの世界で一生をまっとうしたとするならば、それもそれなりに、ぼくたちがこれまでに失ったものに対する補償になってくれるような気がしてきた。
その日、この会合のあとで、ぼくたちはマンダに案内されてその広大な建物を見て廻った。長い年月の間に堆積した海底の沈殿物で、この建物は底床の中にすっぽりとはめこまれたようになってしまっており、屋根にあたる部分からでないと出入りできない。したがってこの出入口から発する通路はすべて下向きに延びており、最下階はじつに出入口から数百フィートも下にあるのだ。床は順番に掘り下げたようになっており、各方向に下り勾配の通路が延びて、海底の岩床をさらに深く掘りこんだ部分へと通じていた。空気製造装置もみせてもらったが、それには、ポンプがついていて、建物内部全体に製造した空気を循環させるようになっている。マラコットは、おどろき、かつ感嘆しながら、その小さなレトルトが酸素を窒素と化合させるのみならず、アルゴン、ネオン、その他の地上のぼくたちの世界では、やっとその正体をつかみかけたばかりといった各種の気体をつくりだすこともできる事実を指摘していた。新鮮な水をつくりだすための蒸溜槽や巨大な電気装置などもぼくたちの目をみはらせた。ざんねんなことは、これらの機械装置がどれもこれも高度に複雑な構造をもっていて、とてもぼくたちの頭では、かれらの説明についていけなかったことだ。だから、このぼくに確言できることは、ただ、ガス状やら液状やらのいろいろな化学剤をいろいろな機械に注ぎこみ、それを熱やら圧力やらで処理すると、小麦粉やら紅茶やらぶどう酒やらが、その産物として出てくる事実をこの眼でみ、この舌でたしかめてきたということだけなのだ。
建物の大部分は開放されており、ぼくたちも自由に出入りして、しらべることができた。好奇心にかられて一心不乱にあっちこっちを調査しているうちに、ほどなくぼくたちの頭にとりついてしまった一つの考えがあった。それは、つまり、この建物が海中に没するということが、実際に陸地が波間に陥没するだいぶ以前から予知されていたのではないかということだ。はじめから、この建物全体は、あきらかに大量の海水の浸入を予測した人々の手により、洪水に対する防備を考慮に入れて設計されていたということだ。もちろん、これは単なる推測にすぎず、これといった証拠はないのだが、よく考えてみれば、これらの防備は決して海底生活が始まってからつけ加えられたものではないことはあたりまえのことで、証拠の必要もあるまい。それに、ぼくたちは、この巨大な建物が、大陥没から避難するためにノアの方舟として建造されたものである|しるし《ヽヽヽ》をこの目でみてしまったのだ。つまり、空気、食糧、蒸溜水その他の生活必需品を作りだす巨大なレトルトや槽はみな壁の中にはめこまれているが、このことはこれらの装置がすべて最初に建物を設計した時から必要要素として数えられていたことを示唆するものとみてさしつかえあるまい。同じことが、この出入口用耐水室についても、例のガラス球をつくる珪土《シリカ》工場についても、はたまた、水利を調節する巨大なポンプについてもいえる。こうしてみると、われわれを取りかこむ偉大な装置の一つ一つが、すべてここの住民たちの祖先である驚くべき人々の技術と予知によって設計され建造されたものであることに気づき、あらためて驚嘆せざるを得なかった。
ぼくたちの知り得たところでは、これらの人々は、はるか古代に中央アメリカとエジプトとを両翼とする超先進的文明を誇っていたのだ。また、その文明があったからこそ、自分たちの大陸が大西洋の底に沈む時には泰然自若として、このような驚嘆すべき海底都市を建設する偉業をも成し遂げ得たのであろう。このことについては、ぼくたちの見るところでは、明らかに退化の徴候をみせている現在の子孫たちは、いわば、ぼくたち並みの知力しかもたずに停滞しているらしく、先祖たちの残してくれた偉大な科学と知識を保守するのがせいいっぱいで、それらになにか新しいものをつけ加えようとする力は、まったく、ないようだった。たしかに、現存の人々もすばらしい能力を持ってはいるのだが、ぼくたち異邦人の目から見ると、どこかおかしなくらい創造性にかけているのだ。そのために代々受けついだすぐれた遺産になんら改良発展の手をくわえることができないでいる。この点に関しては、マラコットが、いつの日か、この地の文明知識を把握した時には、日をへずして、なにかよりすばらしい創造をくわえてくれるような気がしてならない。スキャンランにしても、もちまえののみこみの早さと機械いじりにかけては天性の器用さを駆使して、ヒマさえあれば、あれやこれやと当地製の機械装置をいじくりまわしている。スキャンランの熱心さにしてみても、当地の人々の能力がぼくたち三人にとって驚異的であると同じように、当地の人々の目をみはらせるにじゅうぶんなものをもっているのだ。ストラトフォード号から潜水函にのりこむ時に、スキャンランはかれご愛用のハーモニカを上衣のポケットにいれてもってきていたが、これは当地の人々に大変よろこばれた。たくさんの人々がぐるりとスキャンランをとりかこみ、まるでモーツァルトの名曲でもきいているかのようにうっとりと耳をかたむけているので、スキャンラン先生はいったい何を吹奏しているのだろうと行ってみると、かれはいとも無責任に生れ故郷の甘ったるい流行歌をとくいになって吹いていたりする。
この建物はけっして全部がぼくたちに開放されたわけではないといったが、この点に関して、もう少しくわしく説明しておこう。二、三日たつうちに、歩き古した一本の通路を人々がいつも降りて行くのに気づいた。ところが、いざぼくたちが見学するとなると、その通路のみはいつも予定のコースからはずされてしまうのだ。当然のことながら、ぼくたちは大きな好奇心をもちはじめ、ある日の夕方、すきをみて自分たちだけで見に行こうということになった。それでぼくたちはそっと自分たちの部屋をぬけ出し、あたりに人かげのないのをみさだめてから、その未知の区域へと探検をこころみた。
その通路は高いアーチ型のドアに通じていた。どうやら、そのとびらは黄金でできているらしい。押して中に入ると、だだっぴろい部屋に通じている。二百フィートにちょっと欠ける一辺をもった正方形の部屋だ。まわりの壁はいちめんに極彩色にぬりたくってあり、異様な絵画やら、まるでアメリカン・インディアンが盛装したときにつける紋章のような大きな冠《かむ》りものをつけた怪奇な生物の彫像などがかざってある。この広大なホールのはしには一つの大きな坐った人の像があった。仏陀のように足を組んでいるが、仏陀のおだやかな表情にみられるような仁慈の面かげはみじんもない。それどころか、この像は口をあけ目をいからせ、まさに憤怒の色にあふれている。そのいかりにふるえる両眼はどぎつい赤色でえがかれており、さらに効果をますためか照明を使って光らせてある。像のひざは大きな炉になっており、近づいてよくみると、中には灰がいっぱいにつまっている。
「モロックだ!」とマラコットはいった。「モロックとかバールとか呼ぶ、フェニキア人たちの古い神だ」
「おどろきましたね」と、カルタゴの骨董品のようなものを目前にしてぼくもさけんだ。「まさか、あのさもやさしそうにみえる人々が人間の|いけにえ《ヽヽヽヽ》をささげているわけじゃないんでしょうね」
「ほんとか、おい!」と、スキャンランも急に心配そうに叫んだ。「そんなことは、やっこさんたち同士だけでやってもらいたいもんだね。おれたちまで、まきぞえくうのはごめんこうむりてえな」
「いや、わからないよ。他人にあまり情けをかけることは、結局、自分たちにとってもあまりためにならないということぐらい――」と、ぼくはいった。「かれらだってよく知っているはずだ」
「まさに、そのとおりだな」と、マラコットもいった。かれは、火かき棒で炉の灰をあちこちとつっつきまわしている。「なにしろ、こいつはかれらが先祖代々うけついできた神さまだからね。しかし、わしの感じでは、まあ、どちらかというと、まだ、おとなしい拝みかただろうて。この灰は、どうやら、パンかなんかを焼いたものらしいから。しかし、おそらく、むかしは――」
ここで、ぼくたちの思索は、とつぜん、すぐ近くで起こったきびしい声で中断された。ふりかえると黄色の衣裳をつけ、いやに長い帽子をかぶった数人の男たちがかけよって来る。どうやら、この寺院の僧侶たちらしい。その僧侶たちは、まさにぼくたち三人を今すぐにでも問題のバールとかいう怪像の生けにえにせんばかりのけんまくだ。なにしろ、なかにはほんもののナイフをふりかざしているものもいる。あらあらしい身ぶりと、きびしいさけび声で、僧侶たちは、ぼくたち三人をかれらのメッカから追い出した。
「このやろう!」スキャンランがわめいている。「これ以上おれにたかってきやがると、てめえらのガン首をひっこぬいてくれるぞ。おい! このまぬけやろう。そのどぎたねえ手をおれの上衣からはなさねえと――」
まったく、その当座は、この聖なる場所で、スキャンランのよくいう「一大活劇」が、いまにもはじまるのではないかと、ぼくはひやひやした。それでも、博士と二人して、どうやら、この怒り狂う機械職人が手をあげないうちに自分たちの居室にひっぱって戻って来ることができた。しかし、マンダやその他の親しい人々のその後のふるまいから察すると、ぼくたちのこのいたずらがみんなに知れわたり、かつ、かれらのいきどおりを買ったことはたしからしい。
しかし、このひどいめにあった寺院のほかに、もう一つ別の、ぼくたちが自由に見学を許されている寺院があった。しかも、ここを見学にいって、じつに思いがけない結果を得ることになった。つまり、この寺院で、ぼくらは、不完全ながら、自分たちとこの海底人たちとの間で言葉をかわす手段をみつけたのである。その寺院は、さきほど話した寺院のすぐ下の階にあった。そこには、肩の上に一羽のフクロウをとまらせ、手に槍をもった女人を型どる、年へて黄色くなった象牙の像のほか、まったく何のかざりも変化もない。非常に年をとった男がその寺院の堂守りをつとめていたが、その男はきわめて高齢であるにもかかわらず、ぼくたちがそれまでに眼にしてきた海底人たちとは異なった人種であることは明らかであった。ぼくたちが、その象牙の像の前に立ったとき、とくにぼくとマラコットの二人が、はて、どこかでこれに似たものを見たことがあったが、それはどこだったろうと首をかしげて|まじまじ《ヽヽヽヽ》とその像を見つめ出したとき、その老人が話しかけてきたのだ。
「テア」と、老人は像を指さしながらいった。
「あれ?」ぼくは思わずさけんだ。「このひとはギリシア語をしゃべってますよ」
「テア! アテナ!」老人はくり返して発音した。
もう、うたがう余地はなかった。「女神――アテネの」にまちがいはない。あらゆる人間の知識からかならず何ものかを吸収せずにはおかないマラコットのすぐれた頭脳は、ただちに古代ギリシア語をつかって矢つぎ早に質問をあびせはじめた。しかし、ざんねんながら、そのせっかくの古代ギリシャ語も部分的にしか理解してもらえず、その上、それらに対する老人の返答は極度に古めかしいギリシア語の方言でなされたため、こちらでは、ほとんど理解できなかった。それでも、マラコットは、懸命になんらかの知識を得ようとつとめていたようだ。少なくとも、この老人という、ぼくたち地上の人間三人と海底の住人たちとの間に、おぼろげではあるが言語の疎通をはかり得る仲介者がみつかったことは事実なのだ。
「これはまったく――」と、その晩、マラコットは例によって馬のいななくようなかんだかい声を出して、大学の講堂で生徒たちに講義をするような口調でいった。「伝説というものの信頼性のおどろくべき証拠だ。事実というものが長い年月の間にはゆがめられてしまうものであるにせよ、かならず、そんな事実の基礎というものが存在したはずだ。諸君らがはたして知っているか、知っておらんかはわからんが――」(スキャンランから声あり。「神さまに|ぶちかけて《ヽヽヽヽヽ》、このおれは、知らんね」)「このアトランティス大陸に破滅がおとずれたとき、古代ギリシアとアトランティス人との間にはげしい戦争が行なわれていたという伝説があるのだ。この伝説はソロンがサイスの僧侶たちから学んだことの叙述の中に記されておる。それゆえに、こういうことも考えられないだろうか――つまり、大陸が陥没したときにも、アトランティスにはギリシア人の捕虜が何人かおって、それらのうちのいく人かは僧職の出であったため、自分たちの宗教を海底にまでもって来てしまったということだ。わしの考えるところでは、あの老人はその古代ギリシア僧侶の末裔《まつえい》なのだろう。さらに、しらべていけば、もっと古代ギリシア人たちに関する事実がわかってくるはずだろうが」
「まあ、おれにはそんなことはどうでもいいけどね」と、スキャンランがいった。「どちらかといやあ、やはり、あのおっかねえ赤目玉をむきだしてひざに|石炭びつ《ヽヽヽヽ》をだいている化けものよりは、こっちのきれいなおねえちゃんの神さまのほうがずっとましだよな」
「きみのいっていることが、ここの人たちにわかってもらえなくてよかったよ」と、ぼくはスキャンランをたしなめた。「もし、かれらにきみのいっていることがわかったら、きみはあわれ、キリスト教の殉教者として、悲愴な最期をとげるところさ」
「もし、このおれにあのいかすジャズをやつらにきかせてやるだけの才覚がなかったらね」と、スキャンランは、あいもかわらぬへらず口をたたく。「ところが、おっとどっこい、そうはいかねえとくるんだから世の中はおもしれえな。なにしろ、やつらは今じゃあ、まったくよくこのおれになついちまって、おれさまなしじゃ、夜も日もあけねえときちゃうんだからな」
ここの海底人たちは、ふだんは、ほんとうにほがらかな人たちばかりだった。しかし、ともすると、ぼくたちの心は失った故郷を思い出すことが多かった――いや、今でも思いだしつづけているのだ――あのオクスフォードのかよいなれた中庭を、ハーバードの構内にならび立つなつかしいエルムの古木を。こうして、この手記をしたためている現在でこそそれらの姿と、もう一度この目で、相まみえることができるかも知れぬと、はかないながらも、一|縷《る》の希望をもち得るようになったのだが、その当時は、それらの姿は、まるで月の世界の情景のようにたよりなかった。
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この海底に住みついてから四、五日たったある日のことだった。ぼくたちの宿主もしくは捕獲者――ときどき、どう呼んだらいいかわからなくなる――は、ぼくたちを海底の探検につれていってくれた。貴族のマンダをふくめ六人の海底人がぼくたちに同行した。まずはじめてここに来たときに足跡を印した例の出入用耐水室にみないっしょに入った。あの時とはちがい今度は、ぼくたちにも、いささかめんみつに部屋を観察する余裕がある。とても広い部屋だ。すくなくとも百フィート四方はある。ひくい天井はびっしりと生えそろった海苔や海草でみどりいろをしている。部屋中いちめんに、ぐるりと、何やら数字に似た記号をふった木のくぎが長い列をなしてならんでいる。その各々には、例のガラス製の鐘型のかぶりものが一個ずつと、呼吸を可能にするために両肩につける蓄電池のような箱が一対ずつ引っかけてある。石を敷いた床は何十世代かにわたる長い歴史の足あとを、いかにもこの身でうけとめていると主張するかのごとくに深くすりへってくぼみ、浅い水溜りができている。|軒じゃばら《コーニス》にぐるりととりつけられている蛍光照明が、上方から部屋全体を明るく照らしている。ぼくたちの身体にはガラス質のかぶりものと呼吸箱とが装備され、めいめいに一本ずつなにか軽い金属で作ったらしい丈夫な先のとがった棒が手わたされた。そのあとで、マンダはぼくたちに合図して、自分と仲間とで模範を示してくれながら、部屋の周囲に走っている鉄のさくに手でつかまれという。なぜこうしなければいけないかはまもなくわかった。ゆっくりと外側のとびらが開かれるやいなや、海水がものすごいいきおいで、渦をまきながら流れこんできたから、そうしてつかまっていないと、足をすくわれて、身体ごとおし流されてしまうのだ。しかしまた、いっぽう、水のほうもみるみるうちにそのかさを増し、たちまちわれわれの頭の上をこえてしまった。全身水につかると、身体がすっと軽くなり、鉄柵につかまってこらえていたものすごい水圧もしのぎやすくなった。マンダがさきに立って扉のほうへ歩き出した。次の瞬間、われわれは、ふたたび深海の底床の上にいた。出入口の扉は、われわれの帰りを待って開いたままになっている。
にじ色につめたくちらつくライトで深海の底の平野を照らすと、全方向に少なくとも四分の一マイルくらいの範囲内をみわたすことができた。ぼくたちの目をみはらせたことには、視界のとどくかぎりの最先端に、まぶしく燃える光がみとめられた。さらに気がついてみると、先導者のマンダはこの光に向かって歩いており、あとの者はぞろぞろと一列になって、かれのあとをついているにすぎないのだ。一行の足はおそい。なにしろ、海水の抵抗があって非常に進みづらい上に、底の軟泥はぼくたちが一歩ふみおろすたびに、ぐにゃぐにゃの|ぬかるみ《ヽヽヽヽ》のように足を深くうずめてしまうのだ。しかし、しばらく歩きつづけているうちに、ぼくたちの注意をひいた灯台の正体がわかるところまで来た。それは、なんと、ぼくたちの潜水函――地上世界からの忘れがたい形見だった。照明灯をこうこうとつけたまま、広い建物のいくつかある円屋根の一つの上で、ちょっとかたむきかげんに横たわっている。函内には底部から四分の三ほど水が入っていたが、ちょうど電気装置のある上部の一角はまだ空気が残っているらしく水の浸入を許さないでいた。函内をのぞきこむと、みなれた長椅子やら道具類があの時のままの状態で残っているいっぽう、かなりな大きさの魚がビンの中にとじこめられた小魚よろしくぐるぐると泳ぎまわっているさまは、まったく珍妙な光景であった。
一人ずつ、われわれは底部の開けはなしになっていたあげ板をくぐって函内にもぐりこんだ。マラコットは浸入した水の表面にまだぷかぷかと浮いている自分のノートを一心に集めはじめ、ぼくとスキャンランは、なつかしい自分たちの持ち物をあさってまわった。マンダも二、三人の海底人とともに函内に入って来て、函内の計器類、とりわけ水深計と温度計に好奇の目を光らせていたが、どうやら、温度計は取りはずして持って行くことにしたようだ。人類がいまだかつて潜降しえたうちで、もっとも深い海底の温度が華氏四十度である事実は、きっと多くの科学者たちの興味をそそることであろう。考えてみると、この温度はずっと上層の海中温度よりも高いのだ。おそらく、軟泥の化学分解作用のおかげだろう。
このわれわれの小旅行は、ぼくたち三人に海底での散歩をたのしませてくれること以外にも、ちゃんとした目的があったように思われる。つまり、食糧狩りだったのだ。同行者たちが、ときどき、めいめいに手わたされているあの先端のとがった棒をぐさりぐさりと下につきおろしては、大きな茶かっ色の平べったい魚をつきさしているのに気づいた。その魚はそこいらへんにうじゃうじゃとたくさんいたカレイではなく、なにかほかの軟泥にぴったりとくっついて横たわっている魚だ。まったく、とくべつに熟練した目をもっていなければ、そこにいることすらわからない。同行した小男たちは、たちまち二、三匹ずつの魚をつかまえて、それぞれ身体のわきにぶらさげている。ぼくとスキャンランは見よう見まねでたちまちそのコツをのみこんでしまい、仲良く二匹ずつつかまえることができた。ところが、マラコットのほうは、あたりに展開する海中の美にまったくこうこつとしてしまい、夢みるように、ただ、ぼうぜんとして歩きつづけている。ときどき、ガラス製のかぶりものの中から何事か一心に話しかけてくるのだが、こちらには、ただ、かれの顔の動きから何かいっているなとわかるだけで、さっぱりいっていることの見当はつかない。
海底のけしきについては、はじめのうちにこそ、単調な印象しかうけなかったが、やがて、灰色一色の平野は、海中の河とでもいうか、流れうごく深海の海流によって、刻々と、さまざまにその形相を変えることに気づき、印象もかわってきた。これらの海流はやわらかい泥砂の流床を切っては、その下側にある岩床を露出させる。こうしてできる土手の表面は赤土から成っているのだが、この赤土こそ海底の表面上に存在するあらゆるものの基礎を作りあげているものなのだ。
そんな赤土の基礎構造の表面には、ぽつんぽつんと白いものがある。ぼく自身、その白い物質を貝がらだろうぐらいに考えていたのだが、よく調べてみた結果、クジラの耳骨だとか、フカそのほか海の怪物たちの歯骨だとかであることがわかった。ぼくがたまたまひろい上げた歯骨の一つは十五インチほどあったから、その本体の巨大さを想像したときには、思わず身ぶるいが出た。そして、そんなおそろしい怪物が、どうやらもっと上の海層にしか姿をあらわさぬらしいことを、まったくもって、ありがたく感じた。マラコットの話では、その歯骨の主は巨大な人喰いシャチ、つまり、サカマタ属剣闘魚だろうとのことであった。このことはミッチェル・ヘッジの観察録を思いおこさせた。かれの手記によると、かれが捕えたことのある中でもっともどうもうなフカでさえ、そのからだに、はるかに凶悪な、そして図体の大きな怪物にやられたあとらしい古きずを持っていたそうだ。
海洋の深度を測ってみると、一つの特異な事実に気づく。つまり、前にもいったように、海底に堆積している大量の有機物質のかんまんな燐光腐食により、冷光がつねに放射されているということである。しかし、海底からややはなれた上層部は闇夜同然の暗黒の世界だ。その結果、海底に立った感じは、ちょうど重く暗い雨雲が低くたれこめて、どんよりとくもった冬の日のようである。この黒い天空から、ゆっくりと、しかし、たえまなく雪あらしのように降りつづけるちいさな白片。それがくすんだ背景にキラキラと反射するのだ。これらの雪片は、ぼくらと地上の世界とを隔絶する五マイルの海水の層の中に生き、そして死んだ巻き貝やその他の小生物たちの|から《ヽヽ》である。これらの貝がらの多数は落ちてくる途中で分解してしまい、海水中の石炭塩をいたずらに増す原料になるだけなのだが、分解せずにのこったわずかなものが、長い年月を経るうちに、ぼくたちがいま住んでいる一大海底都市を墓場のように埋めつくした海底堆積物を形成することになるのだ。
地上とぼくたちをむすぶ最後のきずな――潜水函をあとにして、ぼくら一行は、ふたたび海中のうす暗がりの世界を歩き出した。しかし、この時は、まもなく、まったく新しい出来事に出くわすことになろうとは夢にも思っていなかった。歩きつづけていたわれわれの前方にひとつの動く黒ずんだもののかげがあらわれたが、近づいて行くうちに、それはしだいに一団の人々の群れであることがわかった。めいめいガラス製のかぶりものをつけ、背後には石炭をうずたかく積みこんだそりをひきずって来る。すごい重労働だ。かわいそうに、これらの人たちは、苦しそうにからだを曲げたりのばしたりしながら、引きづなの役をはたすフカ皮のロープを、一生懸命にひっぱっている。いく人かの男たちからなるグループごとに、一人ずつ監督らしい男がついている。とくにぼくの興味をひいたことは、これらの重労働者とかれらの監督者とは、異なった人種であったことだ。労働者たちはみな一様にととのった顔と青い目を持つ背の高いスマートなからだつきの男たちである。いっぽうその監督者たちは、前にも書いたとおりの皮膚の浅黒い、ほとんど黒人種に近い、ずんぐりした肩幅のひろい体格の人々である。
当座はその真相について説明を求めるわけにはいかなかったが、この海底都市に住む二つの人種の一方は、他方の奴隷の子孫であるという印象がつよくぼくの心にやきついてしまった。マラコットはさらに、あの労働者たちこそ、いつぞやの寺院でみかけた女神を崇拝するギリシア人捕虜の末裔なのだと意見をのべた。石炭の積荷をひいて、ぞろぞろと歩いて来る数人の労働者たちのいくつかの群れはつぎつぎと、採炭所に向かって歩いていく途中のわれわれとすれちがって行った。この採炭所のあたりでは、例の海底堆積物およびその下側にある砂状の形成物はきれいにとりのぞかれ、大きく掘り起こされた穴がぱっくりと口をあけている。穴の中の地肌は粘土と石炭の層を交互に露出しているが、これは、あきらかに、いまは、大西洋の海底に横たわる古代に絶滅した世界の地層にちがいない。この巨大な採炭坑のあちこちの階にはそれぞれ何人かの人々の群れがとりついていそがしそうに採炭したり、ほかの人々が採炭した石炭をあつめてバケツにつめ、それらを引き上げて、坑外にはこび出したりしている。何世代にもわたる長い年月をかけて、もくもくと海底を掘りおこしてきた結果できたものであろう、この採炭坑は、とてつもなく巨大なもので、一つの穴として掘られた炭坑の一方の側に立つと向こう側がかすんでしまってとてもみえないくらいだった。こうして採掘された石炭はやがて電力に変換され、アトランティス中の機械装置すべてをうごかす動力となるのだ。また、これは話がちがうが、ぼくらが耳にしていた伝説の中で古代都市の名称が正しく伝えられているということはおもしろいと思った。こころみに、これらの古代都市の名をあげてみせると、マンダやその他の海底人たちは、ぼくらがそれらを知っていることを非常におどろき、つづいて、かれらにもその発音が通じることを示して大きくうなずいてみせた。
巨大な採炭坑を通りすぎて――いや、むしろ、その炭坑のたて穴をさけて右側に向かったといったほうがいいかも知れない――歩いて行くと、われわれは、玄武岩の低い絶壁のへりに出た。この玄武岩の表面は、まるではじめて地球上に姿をあらわした当時そのままに、きれいなかがやきをみせており、われわれの頭上数百フィートにまでそそり立つその頂上は、くらい背景の中にくっきりとうかびあがってみえた。この火山絶壁の根もとは、高くおいしげる海草のジャングルでかざられている。みると、その丈の高い海草は、古生代に棲生していたと思われるようなウミユリサンゴの、たくましくねじりあったかたまりから密生しているのだ。
この厚い|下ばえ《ヽヽヽ》の密生するへりに沿って、ぼくたちは、しばしの間、ぶらぶらと散策してまわった。同行した海底人たちはめいめい手にした棒で海草の草むらをたたいて歩いたが、そのたびに見たこともないようなめずらしい魚や甲殻類がとび出して来て、ぼくたち三人をおどろかせたり、よろこばせたりした。海底人たちは、そのあいまに自分たちの食卓用の魚類をつかまえることも忘れない。このようなたのしい散策を、およそ一マイルちょっともつづけただろうか。マンダがとつぜんたちどまり、警告とおどろきの身ぶりをしてみせた。声の通らぬ海中においては、身ぶりは海底人同士のことばでもある。同行の海底人たちはマンダの身ぶりをみて、ただちにそれが何のためであるかを知った。つづいて、おくればせながらぼくたちもその意味を知り、愕然とした。マラコット博士の姿がみえないのだ。
採炭坑では、たしかにかれもいっしょにいたはずだ。そして、玄武岩の絶壁のところへ出たときもいっしょだった。かれが、われわれより先に行くということはまず考えられないから、後方の海草のジャングルのどこかにいるにちがいない。同行の海底人たちはこの上なく心配してくれていたが、ぼくとスキャンランの二人のほうはむしろ、楽観していた。なにしろ、ものごとに熱中するとたちまち何もかも忘れて放心したようになってしまうマラコット博士のことだ。そんなに気をもまなくても、そのうちに、ふとかれの気をひいた海底生物かなにかにみとれてぶらぶらしている博士の姿が、すぐ見つかるだろうと、たかをくくっていた。それでも、われわれ一行はただちにきびすをかえして、それまで歩いて来た道を逆にもどりはじめた。百ヤードもいかないうちにマラコットの姿がみえた。
ところが、マラコットは懸命に走って来るのだ。それも、ふだんのかれを知っているぼくたちにはとても信じられないような敏捷さで走って来るのだ。しかし、恐怖にせきたてられては、どんなのろまでも走らないわけにはいかなかったであろう。両腕を前方にせいいっぱいつき出して、助けを求めながら走って来たマラコットは、つまずいてよろめきながらも、なおも懸命に、ぶざまなかっこうで力をふりしぼってかけて来る。しかし、よくみると、マラコットがそのように命がけでかけて来るのも無理のないことだ。なにか、見るもおそろしい怪物が三びき、いまにもかれの踵に喰いつかんばかりにして追って来るのだ。三匹の怪物は黒と白のしまもようをつけた、ニューファンドランド犬ほどもある大きなトラガニだった。しかし、まだ運のよかったことには、カニたちも足はあまり早いほうではない。やわらかい海底の泥の上を、奇妙な斜め歩きで、よちよちとはって来るのだ。それでも、恐怖におののいて逃げまわる獲物よりは少々早い。
たしかに、このレースは追うカニのほうに分があるようだった。だから、もし同行の海底人たちが割って入らなかったら、あと数分をへずして、カニたちのおそろしい|はさみ《ヽヽヽ》がマラコットのからだにくいこんでいたことだろう。海底人たちは、この光景をみるなり、とがった棒をかまえて突進して行った。いっぽうマンダは腰のベルトにつけていた携帯電灯を見るもいまわしい怪物たちの顔面に向けてきらめかせた。カニたちは、すぐさま、こそこそとかたわらのジャングルの中ににげこみ姿を消してしまった。いっぽう、わがほうのマラコットはと見れば、さんごのかたまりの上にぺったりとすわりこんでおり、目の表情からは、この思いがけぬ冒険でもう精も根もつきはてたといったようすが、ありありとよみとれた。あとになってきいた話によると、かれが深海シモエラのめずらしい標本になりそうな生物をみつけてあとを追ってジャングルにわけ入ったところ、あやまってかのおそろしいトラガニの巣に足をふみ入れてしまい、それからただちに、われわれが目撃したような命がけの追っかけっこが始まったのだそうだ。マラコットが元気を回復してふたたび歩き出すまでには、だいぶ長い時間を要した。
玄武岩絶壁のふち沿いにしばらく歩いたあと、われわれの一行は帰途についた。ここいらへんから前方にみる灰色の平原はところどころに不規則に小山やでっぱりがあり、古代の大都市がそのあたりにうずもれていることを物語っていた。もしあの寺院の中の生存者が出入口を作らなかったならば、その都市は、ちょうどヘルクラネウムが熔岩で埋まり、ポンペイが火山灰で埋まってしまったとおなじように、海底の軟泥にうずまってしまったことだろう。この出入口は、長い下り勾配の通路につながっており、その通路は両側に大きな建物がいくつも並ぶ大通りに合流している。これらの建物の壁はところどころくずれたり、ひびが入ったりしている。どうやらここはあの寺院の建築ほど堅牢な構造ではないらしい。しかし、建物の内部は、陥没のあった当時そのままの調度をたもっているものも多くあった。ただし、海水にひたっていたため、あるものはかえってたぐいまれなくらいに美しく、またあるものはその逆に気味わるく修飾されて、部屋の感じを変えてしまっていることはやむを得ない。
ぼくたちの案内人たちはどうやら最初に行きあたった建物はぼくたちに見てほしくないらしく、この町並の中核をなす大伽藍もしくは大宮殿といったかたちの建物へと、ぼくたちの肩をおさんばかりにせき立てて歩いていった。この建物の柱石や円柱に、もしくは天井と壁とが接するあたりにほどこされた彫刻、飾り壁の絵もようや階段などは、地上のものにはみられない美しさをもっている。ごく近くへ寄って行ってあらためて眺めると、どことなく、エジプトはルクソールにあるカルナック神殿の遺跡を想いおこさせた。さらに奇妙なことには、数々の装飾やなかば消えかかった彫りもの細工はこまかいところまでナイルのほとりにある大廃墟にそっくりである。はすの花を形どった円柱の頭部にしてみても同様だった。内部の壮大な広間の大理石をモザイク式にはめこんだ床の上に立ち、周囲の頭上高くにうかびあがる巨大な像にかこまれ、おまけに、ふと見あげると、ちょうど頭の真上を巨大なウナギが、にょろにょろと泳いで行くところだったり、われわれの照明灯におどろいた魚たちが四方八方にあわててにげまどうさまは、まさに驚異的な光景だった。
部屋から部屋へとぼくたちはぶらつきまわり、かぎりをつくしたあらゆる種類のぜいたくや、時としては、伝説によると神の怒りを買ったといわれる好色な愚行の数々の見本をみた。なかでも、ある一つの部屋は内部いちめんに真珠母をつかって美しく彩色されており、いまでも照明があたると、オパールのようなかがやきをみせてきらめいた。部屋の一隅には装飾をほどこされた黄色い金属製の壇と同じような材料の寝椅子がある。まるで、女王の寝室に入ったようなぐあいだが、その寝椅子には見るもうすきみ悪い黒イカがその大きな頭部を不快なリズムでゆっくりと上下させていた。その姿は魔ものの宮殿の真ん中でいまだに鼓動をつづける悪魔の心臓を連想させた。だから、案内者たちが外へ出るようにとさそってくれた時には、ぼくはむしろホッとした。ひそかにふりかえってみると、ほかの同行者たちも同じような不快な気持ちをいだいていたらしい。それから、ちょっと大円形劇場の廃墟も見学し、最後に波止場らしき場所に立って陸地であったと思われる部分の先端に立つ灯台をながめた。どうやら、ここは大きな海港都市であったらしい。やがて、一行はこのいささか気色のわるい場所をそうそうにぬけ出し、ふたたび、おなじみの深海の平原に出た。
われわれ一行の冒険はこれで終ったわけではなかった。またまた、海底人たちにとっても、ぼくたち三人にとっても、びっくりさせられるような出来事がおこったからだ。帰り道ももう間もなく終点になろうというころになって、案内者たちの一人が、おどろいたような身ぶりをして上空を指した。指さす方向を自らの眼で追ったわれわれは、まさに異様な光景に接した。黒い水の暗やみの中から、いっそう黒っぽいかげがうかびあがってき、ぐんぐん下に落ちて来る。はじめのうち、それは、まるで形のないかたまりのように見えたが、だんだん、明るみに近づいて来るにしたがい、怪奇な魚類の死体であることがわかった。深海を墜落してくる途中で破裂したらしく、何かぼろのような付属物をたなびかせながら、落ちて来る。うたがいもなく、大洋の上層部分でガスがこの死体を膨張させたのだが、腐敗作用によって放出されてしまったか、フカに食われて穴をあけられたかして、死体の重さをささえるだけの浮力を失い、そろそろとうずまきながら深海の底へ墜落してきたものらしい。今回の散策の道すがら、ぼくたちも、この目で魚たちに肉をきれいに食いとられた巨大な白骨をいくつか見ていた。しかし、今、落ちて来る怪物の残がいは、その腹わたがぬけてたなびいている部分をさし引いて考えてみても、じゅうぶんその威容をほこり得る巨大さであった。ぼくたちの案内者たちは、この墜落者から避けさせようと、あわててぼくたちのからだをつかむとわきへひきずって行こうとした。しかし、よく見ていると、墜落点はだいぶわれわれ一行からはなれたところへ行くらしかったので、やっとかれらも安心して立ちどまった。頭から例のガラス製のかぶりものをすっぽりとかぶっているので何の物音もきこえなかったが、あの巨大な図体が底床にぶちあたったときは、さだめしものすごい物音がしたにちがいない。また、われわれは、海底のグロビゲリナ軟泥が、まるでぬかるみに大石をおとした時のように、すさまじい勢いではねあがるのをみた。それは、身の丈、およそ七十フィートもあろうかという巨大なマッコウクジラだった。同行した海底人たちが一様に興奮とよろこびの身ぶりをしていたのをみると、これの鯨蝋《げいろう》と脂肪は、かれらにとっても、やはりかなりの利用価値をもっているらしかった。しかし、さしあたっては、獲物をそこに残しておくことにして、はやる心をおさえて、いちおう、そのまま帰り道をいそぐことにした。じっさい、海底旅行には未熟なお客さま――つまり、ぼくたち三人はもう、くたくたに、つかれはててしまっていたのだ。やがて、海底住居の屋根に掘りこんだ表玄関の前に着き、そして、やっと、つつがなく出入口用耐水室の水たまりのある石だたみの上に立ち、ガラス製かぶりものをとっている自分たちに気づいたときには、ほんとうに、ほっとした感じだった。
ぼくたちの身の上話を映像化して公会堂に集った人々に語った日から――ぼくたちの時間で推測して――四、五日たったころ、同じような種類の、ただずっと荘厳でいかめしい儀式に出席させられた。今度は、当地のおどろくべき住民たちの過去の歴史をわかりやすく、しかも興味ぶかく、映像化して観せてもらった。しかし、この催しがまったくわれわれだけのためだと思うのは、いささかうぬぼれすぎているようだ。どうやら、こうやって過去の歴史を映像化して観る儀式は定期的におこなわれているらしく、また、ぼくたちが参観をゆるされたのは、なにかもっと長い宗教儀式のほんの一部分にすぎなかったようだ。ともあれ、この機会に目にしたことの一部しじゅうを記しておこう。
ぼくたちは、数日前に、マラコット博士がぼくたちの過去をスクリーンをつかって語ってきかせた大広間へ案内された。すでに、公会堂にはたくさんの人々がぎっしりと集っており、ぼくたち三人は、この前と同様、最前列、大スクリーンのまんまえの来賓席に導かれた。やがて、長い歌を集った人々全員が合唱する。どこか、愛国心をたたえるようなひびきをもった歌だ。合唱がおわると、この国の歴史家、もしくは、伝承文学者かと思われる一人の白いひげを長くのばした高齢の男が拍手にむかえられて、しずしずとスクリーンの前に決められた焦点の位置に進み出た。
やがて、かれは前方のきらきらとかがやくスクリーンに鮮明な映像をえがき出し、この国の民族の興亡の歴史を説きはじめたのだ。そのあざやかなドラマティックな描きかたは、ほんとうに、タルボット、きみにもみせたいくらいだった。ぼくは、二人の仲間とともに、時と場所を忘れてその映像にひきこまれた。会堂中の聴衆ときたら、もっともなことながら、ぼくらどころではないひきこまれようで、なにか悲劇的な描写に入るとうめいたり泣いたりする。とくに、かれらにとっては父なる国アトランティス破滅のくだりでは、その泣き声は極に達した。
初めの部分のシーンは、まず、繁栄の途上にある旧大陸の姿をうつしだした。父からむすこたちへと代々伝承された記憶にしたがってその場面は次々と展開していく。はなばなしくひろがる国土の鳥瞰図が紹介される。じつに広い。水道施設も完備し、みごとに灌漑《かんがい》されている。大きな穀物の田畑、なみうつ果樹園、かわいらしいせせらぎ、木々のこんもりとしげった丘陵、しずかな湖水、そしてところどころに起伏する絵のように美しい山なみがあった。その国土には、ぽつんぽつんと部落が散在しており、農家やきれいな住宅がみうけられた。そこで描写は一転し、その国の首都の姿へとうつっていく。海辺に建ったすばらしく壮大な都市だ。古めかしい型の帆船がびっしりとうかんでいる港。陸揚げされた商品がうずたかく積まれた波止場。この首都の周囲は銃眼のついた高い城壁と深い外ぼりとによって防備されている。そのどれもこれも目をみはるようなスケールの大きさをほこっている。住宅の群れはその港町から内陸に向かって、何マイルにもわたって長くのびている。そして、その都市の中央には、ギザギザと銃眼のついた城塞が、まるで夢の国の風景のような荘厳さをみせてそびえ建っている。つづいて、この黄金時代に生きるこの国の住民たち一人一人の顔がうつしだされた。知性と威厳とにあふれた表情の老人たち、剛健な力にみちたつわものたち、敬虔な僧侶たち、美しく気品のある女たち、かわいらしい子供――どれもこれも、みな、神のように完成された人間の顔ばかりだ。
つぎに、まったく異質の場面がうつしだされた。戦争だ。いつはてるとも知れぬ戦争。陸上での戦争、海上での戦争。はだかで無抵抗な人々が、よろいかぶとに身をかためて武装した騎馬隊や大きな戦車の群れに、むざんにも踏み倒され、轢きころされていく。戦争の勝利に酔いしれる勝者の陣営にうずたかくつみあげられた戦利品の山。しかし、こんな勝利に富みさかえはしても、つぎからつぎへと画面にうつし出される人々の顔は、だんだんと動物的な、残酷さにみちたものへとかわってくるのだ。世代から世代へ、時代がうつるごとにかれらの気品はうしなわれ、品位はおちていった。好色な遊びの流行、道徳の頽廃をまのあたりに見、物質的な富裕化は、かならずしも精神的な向上をともなうものではないことをまざまざと知らされた。人間を犠牲にする野蛮な遊技が、むかしからの男らしいスポーツにとってかわった。もはや、しずかで素朴な家庭での生活とか、心の修養とかなどはまったくなくなってしまった。画面にかいまみるその当時の人々の表情は落ち着きのないあさはかなものばかりだ。そんな人々は、つぎからつぎへとただ目先の享楽のみに人生の生き甲斐を求めようとし、そのために、かえって生きるための目標を永遠にうしなってしまうのだ。それでもなお、手をかえ、品をかえて、生きがいをみいだそうと妄想している。その結果、そのための手段はますます複雑な、面妖な形をとらざるを得なくなるのだ。一方には極度に富裕になった階級の人々がいて感覚的な陶酔のみを求めるかと思えば、他方には、|かす《ヽヽ》のような極度に貧困した階級の人々がいて、その主人の要求をみたすためであったなら、どんなに神の摂理にさからうようなことであっても、その役目を忠実にはたそうとしているのだ。
しかし、ふたたび、そんな悪習を是正する動きがまきおこった。熱心に活動をつづける改革論者たちがいて、この国の進路をあやまった道から転換させようとしていた。かれらは、この国がかつてみすてた崇高な理想をもう一度よみがえらせようと懸命の努力をかさねていた。この改革論者たちが、深刻な、まじめな顔で人々を説いてまわり、訴えている姿がスクリーンにうつった。ところが、かれらは自分たちが救おうとしている当の相手から逆にさげすまれ、笑いものにされているのだ。とくに目についたことは、これらの改革論者に反対する側の指導者は、バール神につかえる僧侶たち――従来の非利己的な精神的なものの高揚にとってかわるに、ぎょうぎょうしい形式、みせもの、うわべだけの儀式からなる邪教をじわじわとはびこらせてきた悪僧たちであったことだ。しかし、改革論者たちはすこしもひるまないで、民衆をすくうための活動をつづけていた。改革論者たちの顔はしだいに、深刻な様相をおび、かれら自身の心眼にはすでにおそろしい姿をありありと見せている破滅の到来を何とか民衆に警告しようと、畏怖《いふ》を説く表情は必死であった。それを聞く民衆たちのなかには、ほんのひとにぎりの、かれらを信じその説くところのおそろしさに怯《おび》えるものもあったが、ほかの多くのものたちはそっぽをむき、あるいは、その話をわらいとばし、堕落と罪のみちをさらに深みへとたどって行くのであった。やがて、さすがにしんぼうづよい改革者たちも、どうにもしかたがないといったおももちでひきさがり、この堕落しきった人々をその運命のままに放置せざるを得ない時がくる。
そのとき、ぼくたちは、ふしぎな光景を見た。改革者たちのなかの心身ともに図ぬけてすぐれた一人の男が、ほかをリードしていることだ。この男は富も感化力も武力も、すべてそなえもっていたが、とくにかれの権力はこの世のものとはおもえないほど強大であった。この男が、催眠状態に入ったまま、高次元の精神と交信するさまが、スクリーンにうつし出された。かれの国の科学――われわれ現代人に知られているいずれのものよりもすばらしい科学――のすべてを、来たるべき災厄《さいやく》にそなえて避難用の方舟《はこぶね》をつくる仕事にふりむけたのはこの男であった。たくさんの職人たちが一心に仕事をするさまがうつった。方舟の壁がどんどん建造されていくいっぽう、大多数の不注意な市民たちの群衆が、そのような念のいった予防措置を不要のものといって、はやしたてながらみまもるさまがうつった。またほかのものは、理屈をこねてこの指導者にからみ、そんなに、きたるべき災厄がおそろしいのなら、どこかより安全な陸地へでもとんで行ったほうがかんたんだろうといったりしていた。ぼくらの理解できたかぎりにおいては、その指導者の答えは、その最後の瞬間において救われねばならぬ者が何人かおり、かれらのためにかれ自身は新しく建設中の完全な『寺』にのこらねばならぬというものらしかった。そうしているあいだにも、かれは自分に従ってくるものたちをその『寺』の中に集め、かれらをその内部にとどめておいた。超人間的な力がきたるべき事実を教えはするが、いつの日に、どの時間にそれが来るのかは、かれにもわからなかったからである。やがて方舟が完成し、耐水式の扉が完備され、試験されると、かれは自分の家族、友人、追従者、召使いたちとともに、運命の日を待っていた。
そして、とうとう、運命の日がやって来た。それは、こうしてスクリーン上の画像としてみてもおそろしい光景だった。ましてや、実際の姿のおそろしさは神ならぬ身の知るよしもない。最初に巨大なきらりきらりと光る水の山が、静穏な海面から信じられぬほどの高さにまでぐっともりあがってきた。みるみるうちに、その大波は前進しはじめ、頂上にあわの冠をいただきギラギラと光る大きな丘の姿のままで一マイル、また一マイルと、だんだん速度を増しながら前方にすべり出しはじめた。前進する大波の頂上、白くあわ立つあたりに何やら小さな破片が二つ、たあいもなくもてあそばれているのが見えたが、近づいて来たのでよく見ると、それらはむざんにうちこわされた二隻の古代帆船《ガリー》であった。やがて、水の怪物は海辺にぶちあたり、がぶりと都市をのみこんだ。建ちならんでいた家々は、まるで竜巻におそわれた畑のトウモロコシのように、無抵抗になぎ倒されていく。その家々の屋根にしがみつき、無慈悲な早さでせまってくる死のかげに断末魔の眼をいからす人々の姿をみた。その顔は恐怖にゆがみ、両眼をとびださんばかりにみひらき、口をわなわなとひきつらせ、恐怖にもはや正気を失って、無我夢中でおのれの手をかんだり、わけのわからぬことばをわめきちらしたりしている。かつて賢明な指導者の警告をあざけり笑った、その男女たちがいまや天のすくいを求めて金切り声で泣きさけんでいる――大地にひざまずき、おのれの顔をごりごりと地面にこすりつけ、両腕をくるったようにあげたりさげたりして、必死に助けを乞うている。もはや、市の後方に建っている例の方舟の中に逃げこむ余裕もなく、人々は小高い丘の上にある城砦へと殺到した。その城壁はこうして殺到し、必死にとりすがる人々でまっ黒にみえる。すると、とつぜん、その城砦も沈みはじめた。なにもかも、すべてのものが沈みはじめた。地球のはるかな奥底にまで水がそそぎこまれ、地殻の中心に燃える火はその水を熱して水蒸気に膨張させて吹き出させた。たちまち、陸地の基礎そのものが、吹きとばされ、こなごなにとび散った。都市全体が下へ下へと陥落していく。ぼくたち三人も、また満場の聴衆たちもそのすさまじい光景におもわず悲鳴をあげた。波止場はまっ二つになり、姿を消した。そびえ立っていた灯台は、ずぶずぶと波間に没した。建物の屋根はあわをふく白波にふちどられて、点々と絶え間なく線のようにつづく岩礁のようにその頭をのぞかせていたが、やがて、それも海中に没した。人々が逃げこんだ例の城砦はさすがに最後までのこっているようだったが、しばらくするうちにななめにすべりはじめ、これもまた奈落の底へと陥没していった。沈みゆく城砦のてっぺんにとりすがった人々が救いをもとめてふる手が、ひときわ、あわれである。
おそろしい悲劇の幕がおりると、あたりいちめん、きれめのない海面が、大陸の没したあとを覆っていた。生きものの一つもいない、しずかな海。しかし、ところどころにシュウシュウとまきあがる薄煙りや蒸気のうずは、そこかしこに投げすてられた悲劇の残がいを無情にさし示していた。人間や動物の死体、椅子やテーブルの破片、服のきれはし、プカプカと浮いている帽子、商品の梱《こおり》や俵《たわら》、その他もろもろのがらくたが、巨大な水のよどみのなかをあるいは上下に、あるいは前後左右にゆれうごきつつ、漂流していた。その巨大な水のよどみは、しだいにまざりものを消化しつくすと、水銀のようにかがやく、なめらかな水のひろがりへと変化していった。やがて、水平線にひくくかかった陰うつな太陽が無気味に、こののろわれた大陸の墓場を照らしている。そのありさまは、まさに、神の審判をうけ、その不行跡をいましめられて沈められた大陸の墓場にふさわしかった。
かくして、その長い物語はおわった。ぼくたち三人には、もうなにも質問することはなかった。スクリーンに投写されたイメージはそれ自体強烈でわかりやすかったし、ところどころにあったかも知れぬ話のすきまは、ぼくたち自身の頭脳と想像力でじゅうぶんおぎなうことができたからである。大陸のまわりの海底をせりあげると同時に、ゆっくりと、しかし非情にあの大陸を深淵の底へ深く深く沈めていった火山の活動のもようはぼくたちにもよく理解できた。ぼくたちの心のなかに、沈んだ大陸が海底にひろがり、やがては自分たちが大西洋と呼ぶ大洋の底を形づくり、方舟のように堅固に建造された避難所の中には、臆病者よ、ばか者よとあざわらわれたけれども、その実、きわめて警戒心の強かったほんのひとにぎりほどの数の人々が生き残って住みつき、その周囲にはなかば破壊された都市がよこたわっているありさまを、まざまざとえがいてみることができた。そして、最後に、いかにこれらの人々がその生活を送ってきたかがわかるような気がした。かの偉大な指導者の先見と科学知識がもたらした種々な装備が大いに役立ったことは言うまでもあるまい。この指導者が世を去る以前にかれは自分のもつすぐれた技能を懸命に住民たちに教えたのであろう。はじめのうちはわずか五十人か六十人にすぎなかった生存者たちの子孫はだんだんにふえ、しだいに今日みるがごとき一大集団となってきたのであろう。これらの人々は居住地を拡大するためには地中へ堀りすすんで行かなければならなかったことであろう。かのスクリーン上にうつし出された一連の映像とそれにもとづくぼくたち自身の推論は、いかに完備した書庫で資料をあさったとしても得られなかったような、はっきりした概念をあたえてくれた。こうした運命と、その運命のみちびくところにより、かくのごとくして、この偉大なアトランティス大陸はほろびさってしまったのである。ずっと遠い、この深海の軟泥が白堊《チョーク》に変るほどはるかな未来において、自然の新たな活動がこの一大海底都市をふたたび地上へもりあげることがあるかも知れない。そんなときに、未来の地質学者たちは、知識の探究にはげむあまり、火打ち石や貝がらなどの発掘は問題とせず、消滅した文明の遺跡と古代世界におけるこの一大災厄の痕跡をじかに掘り出してしらべようとするであろう。
ただ一つだけ、はっきりしないまま残っていることがあった。つまり、このアトランティス大陸の大悲劇がおこってから、いったいどのくらいの時間が経過しているのかということである。この点に関して、マラコット博士はおおよその計算をするための、おおざっぱな方法を案出した。ぼくたちがいまいる巨大な建物にはたくさんの別館がある。それらの別館のなかに、この国歴代の首領を葬《ほうむ》る場所につかう大きな地下室があった。ここにおいては、古代エジプトやユカタンにおけると同様、人間の死後、その死体をミイラにして保存する習慣がある。その地下室の壁にはくぼみがあってこれらのあまり気味のよくない過去のかたみがずらりと、はてしもない列をつくってならんでいた。その列につづく窪みの一つをマンダが、誇らしげに指さしたことがあり、どうやらそこが、かれ自身のために準備された場所らしかった。
「だいたい、ヨーロッパにおける歴代の王たちを平均してみると」と、マラコットがことさらに専門的な口調でいった。「だいたい、その在位期間は一世紀に五人というところだ。この数字をここでの計算に利用してもさしつかえはなかろう。科学的に正確な計算をするなどということはとても今の場合むりじゃが、だいたいのところはできるだろう。わしのかぞえたところでは、ミイラは四百体ほどあったようだ」
「それでは八千年ぐらいになるとお考えになるのですか?」
「そのとおり。また、この年数はプラトンの概算ともだいたい合っているようだ。アトランティス大陸が沈没したのは、文字によるエジプトの記録がなされる以前であることはまちがいないとみてもよかろう。そうすると、まあ、六千年前と七千年前とのあいだということになるかのう。いや、まて。やはり、さっき、わしらがこの目でその複製をみたあの大悲劇は、どうしても、八千年ぐらい前の出来事と考えたいな、わしは。しかし、いずれにせよ、いまだに、こうしてその痕跡を認めうる、あの大文明をきずきあげるためには、もちろん、何千年もの時間を要したことはまちがいあるまい。要するにだ」と、マラコットは結論をくだした――博士の主張するところは、そのまま、この手記を読んでくださる人におつたえすることにする――「わしらは、歴史はじまって以来、だれもがこころみたこともないほどに、確認された人間の歴史の範囲をひろげたのだ」
5
ぼくたち三人がこの海底都市に住みついてから、およそ――ぼくたちの計算で――一か月ほどたったころ、ここで体験したもののなかでも最右翼の、おどろくべき、予想だにしなかった事件が起こった。このときまでに、ぼくらのほうでも、たいがいのめずらしいできごとには免疫になってしまっており、どんなことがおきても、驚いたりうろたえたりしないだけの自信をもっていたはずなのだったが、こんどの事件だけは別格であった。まったく、ぼくらの想像力では、夢にも考えることもできなかったほど、予想外の事件だったのである。
いつでも、なにかたいへんなことがおこるとそれを知らせに走ってくる役はスキャンランのものときまっていた。このころになると、ぼくたち三人も、けっこう、この海底の巨大な建物内部における生活を楽しんでいたことを頭にいれておいていただきたい。また、ぼくたちは、すでに全住民共同の休養室だとか、娯楽室などがどこにあるかも知っていた。ときにはコンサートを聴きにも行ったし(ここの音楽は非常に変ってはいたが、またそれなりにみやびやかなところもあった)、芝居のようなものを観に行きもした。劇のなかでは、ぼくたちにはまだ理解できないでいる当地の言語も生き生きとした、大げさな身ぶりに翻訳されるので、みていて芝居についていけないこともなかった。だから、まあ、いうなればぼくら三人は、この海底都市に住む人々の社会の一員になりきっていたようなものだった。いく組かの家族を、それぞれの個室に訪ねたこともあった。そして、ぼくたち三人の生活は――ほかの二人がもし異議をとなえるというのなら、少なくともぼくの生活だけは――これら異国の人々のもつ不思議な魅力のおかげで、だいぶ、明るく、たのしいものになった。とりわけ、ある一人の美しく若い女性の魅力は、ぼくの生活に大きな影響をおよぼしていたようだ。この女性――モナというのがその名前だが――の父は、ここの住民たちの、何人かいる指導者たちの一人であった。かの女の家庭を訪れると、いつもかならず、言語や人種の差異を超越した、あたたかい親身な歓待をうけたものだ。そもそも、やさしい言葉などというものは、ここ古代アトランティスさながらの世界においても、近代アメリカにおいても、さほどの差はないものだ。アメリカはブラウン大学にかようマサチューセッツ娘をよろこばせ得るものなら、ゆうに、波の下はるかな深海に住む乙女をもよろこばすことができるというものだ。
閑話休題。さっそく、話をスキャンランがたいへんなできごとを知らせるべく、ぼくたちの部屋にとびこんで来たくだりにもどそう。
「なあにね、いましがたここの連中の一人が外からとびこんで来やがったんだが、そいつのおどろきようといったらまったくただごとじゃあない。なにしろ、例のガラスのしゃっぽをとりわすれちまってね、だれにも聞こえやしねえのに、ガラスの中で、長いことわめいていやがるんだよ。やっとのことで気がついて、ガラスのしゃっぽをとったら、こんどは、むやみやたらと『ブラー、ブラー、ブラー』だ。まったく、息の続くかぎり同じことをわめいていやがる。そうしたら、そのまわりにいたやつらも、みんないっしょになって、騒いだり、とびあがったり。いやはや、そのやかましいことったら。どうも、こいつは、ただごとじゃあねえね。いま、みんなして、そいつについてこの穴を出ていくところなんだがね。おれも、ついでに、水の中にとびこましてもらうよ。なんだかわからねえが、きっとなにかおもしれえことがあるにちがいないから」
部屋の外へ走り出てみると、人々がそれぞれ一様に興奮した身ぶりをあらわしながら、通路をかけおりて行く。ぼくたちも、その一団に加わって、海底に出て行き、興奮して走って行く使者のあとを追った。よほどの大事件とみえて、人々は、ともすれば、われわれエトランゼたちはおいてけぼりにされてしまいそうなスピードで道をいそいで行く。さいわい、かれらは手に手に、ランタンのようなあかりを持っているので、おくれても、おぼろげに光るそのあかりをたよりに、迷子になることもなく、あとを追うことができた。どうやら以前に来たことのある道をたどっているようであった。いくつかの玄武岩の崖の根もとに沿ってしばらく進んで行くと一連のふみ段が上に向かってのびている。ふみ段は長い年月にわたって使われてきたため、すりへって凹んでしまっている。このふみ段を登って行くと、ギザギザととがった岩々のいただきやら深い|裂け目《クレパス》などで、足のふみ場すらないほど、小きざみに区切られた地域に出た。ここは古代における熔岩の生成物らしい。ここを苦心してよちよちと通りぬけると、燐光でぼうっと明るく輝いている円形の平原に出る。そのまんまん中にでんと鎮座する代物をみて、ぼくは思わず息をのんだ。マラコットとスキャンランのほうをふとみると、かれらも同様に息をのみ、満面におどろきの表情をみなぎらせていた。
軟泥の中になかばからだをうずめて、かなり大きな汽船が横たわっていたのだ。船体は横だおしになっており、煙突は折れて奇妙な角度に曲がってぶらさがっていた。そのほか、前部の帆柱はみじかく折れとんでしまってはいたが、以上をのぞいては船体は完全で、まるでドックを出て来たばかりででもあるかのように小ぎれいで新鮮な感じにみちていた。ぼくたちはいそいで船体に近づいていった。どうやら、そこは船尾の下側であったらしく、顔をあげると、ペンキで書かれた船名――≪ストラトフォード=ロンドン≫が、いやおうなしに眼の中にとびこんできた。そのときのぼくたち三人の気持ちはどんなものであったか、よく判っていただけると思う。ぼくたちの汽船は、ここ、マラコット海淵の底までも、ぼくら自身のあとを追って来たのだ。
もちろん、最初、心にうけた衝撃は大きかったが、前後の事情はそれほど理解するに難いことではなかった。ぐんぐん目盛りをさげつつあった晴雨計、老練なノルウェー人の帆船でさえまいてしまった帆、そして水平線の上にみえた奇怪な黒雲の姿などが、まざまざと思い出されてくる。あきらかに、あの直後、未曾有の暴風雨の急襲があり、ストラトフォード号も転覆の運命に見舞われたのであろう。本船の乗組員たちが全員死亡してしまったことは、ほとんど大部分のボートが、つり柱についたままでさまざまに破壊された姿をさらしていたことからも、自明のことであった。それに第一、こんな本船も転覆するような、ひどい暴風雨のときに、いったい、どんなボートにのれば無事に生きのびることができたといえようか。この悲劇はぼくたちが海淵の底へ墜落してから、きっと一、二時間のうちにおこったものと思われる。海底でアトランティス人たちに救助されてから、ぼくたちがストラトフォード号の測鉛に出会った、その直後に同船の転覆がおこったものと推定される。ぼくたち三人の遭難を悲しんでくれたストラトフォード号の乗組員たちがみな亡くなってしまったのに、当のぼくたち自身が逆にこうしてぴんぴんしているということは、運命の悪戯《いたずら》とはいえ、じつにひどい、また気まぐれなことであった。この汽船が遭難後、海の浅い層の部分をしばらくただよっていたものか、それとも転覆したまま直《ただ》ちにこの深海の底まで一直線に沈没してきて、アトランティス人によって発見されるまで、ずっと、ここに鎮座していたのかは、まったくどちらともきめようがなかった。
あわれハウイ船長――いまはかれの亡骸《なきがら》――は硬直した手でしっかりと手すりをにぎったまま、船橋上の持ち場についたままの姿で発見された。このハウイ船長とほかに機関室にいた三人の火夫たちの遺体が、船内にのこっていた遺体のすべてであった。ぼくたち三人のたっての要求により、これらの四人の亡骸は沈没した船内から運び出され、かたわらの軟泥のなかに埋められて、海底植物の花々をたむけられた。このことをくわしくここに記しておくのは、万が一にもこの手記が世人の目にふれる機会をもった暁に、ハウイ船長の未亡人のお悲しみをいくぶんなりとなぐさめることができたらと願うがゆえである。ほかの三人の火夫たちの名前は、まったくぼくたちにはわからなかった。
この亡骸を収容する仕事を行なっている間中、アトランティスの小がらな男たちは、きわめて俊敏に汽船のあちこちに群がって立ちはたらいていた。下から見ていると、まるでチーズにたかるハツカネズミのように、汽船のあらゆる部分にとりついて働いているように見える。かれらの興奮した様子や、一様にいだいている強い好奇心のぐあいから判断すると、この人たちにとって、現代の船舶――とくに汽船――をじきじきに見るのは、どうやら、こんどがはじめてのことであるらしい。これは後刻きいた話であるが、かれらが身につけているガラス球内の呼吸機には、性能上、一定の有効時間の制限があり、せいぜい四、五時間ごとに、酸素を充填するステーションに戻ってこなければならない。酸素充填ステーションは例の基地内にしかないから、当然、この人たちが海底で行動する範囲は、かぎられていたわけで、たまたま、その範囲内に、しかもこの深海の底まで新世界の船が沈没してくることは、いままでには、決してなかったことらしい。アトランティス人たちは、ただちに、汽船を解体して、必要なものや、かれらにとって役にたちそうな部分を、せっせと運び出しはじめた。しかし、これは、実際たいへんな仕事で、なかなか、すぐにはすみそうもない。ぼくたち三人は、それをいいことに、さっそく船室内に入って行き、衣類やら書物やら、なんでも欲しいもので、しかもまだ使えそうなものを、ごそごそと持ち出すことにした。
こうしてストラトフォード号から持ち出したたくさんのものの中に、船長の航海日誌があった。この日誌には、ハウイ船長の筆で、ぼくたち三人の災難のもようが、同船遭難の日の日付で書きこまれている。執筆した当の船長がすでにこの世の人でないのに反し、ぼくたちがこれを読む図は、考えてみれば、しごく奇妙なものであったろう。その日誌には、こんなことが書いてあったのだ。
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十月三日
三人のきわめて勇敢な、しかし、いささか向こうみずな冒険家たちは、本日、私のとめるのをふりきって、例の潜水函にのりこみ、大洋の底へと降りて行ってしまった。そして、案の定、私が予測していたとおりの、おそろしい事故をひきおこしてしまったのだ。神の御名において、これら三人の霊よ安らかなれといのるばかりである。かれらがその死の潜水を開始したのは、ちょうど午前十一時。私としては、突風《スコール》が襲ってくる気配が感じられたこともあって、なんとか、この無謀な冒険をとめたい気持ちだった。今にして思えば、そのとき、ふと感じた衝動のままに、是が非でも行動するべきであった。しかし、実際のところ、私の反対は、ほんの少時間、潜水の開始を遅らせただけにすぎなかった。なんとなく、かれら三人に会うのはこれが最後であるような予感に責められながら、一人一人にあいさつをして、見送ったものだ。それでも、潜水開始後、しばらくの間は万事好調に行っているかにみえた。
やがて十一時四十五分に、かれらは三百|尋《ひろ》〔約五五〇メートル〕の深度に達し、海底を発見したと知らせてきた。マラコット博士は私あてに二、三の伝言を伝えてきたが、それから察するに、すべては順調に行っているようであった。ところがそんな時に、とつぜん、極度にとりみだした博士の声を聞いたかと思うまもなく、鎖索がひどく動揺するのを感じた。一分とたたぬうちに鎖索はぷっつりと切れてしまった。その少しまえに、博士の要求により、本船はかれらをのせた潜水函を鎖索で海中につりさげたまま、ゆっくりと前進していて、この鎖索が切断した瞬間には海溝の裂け目のちょうど真上にかかっていたものと推定される。送気管は、鎖索が切れてしまってからも、しばらく、潜水函とつながったまま、くり出されつづけていた。送気管がくり出された長さは、私の計量では、約二分の一マイルほどであった。その長さまでくり出されたところで、送気管もぷっつりと切れた。この時が、マラコット博士、ヘドレイ氏、スキャンラン氏の三人の消息がたえた瞬間でもあった。
しかるに、さらにもう一つ、現実にはとうていあり得べからざる、おどろくべき事実を記録しておかなければならぬ。このことが、いかなることを意味しているのか糾明したい気持ちはやまやまなのだが、現在の悪天候下では、ざんねんながら、船長としての私にはその余裕がないので、いまは事実をそのままここに書きつらねるだけにとどめておこう。
三人の潜降とほとんど時を同じうして、本船からの測深も行われていた。当時記録された深度は二万六千六百フィートであった。測深の際、投げこまれる測鉛は、言うまでもなく、そのまま着底した地点にきりはなして残しておいて、測線だけを引き上げるというのが、われわれの採用している測深の方法である。三人の遭難直後に投げこまれた測線を引き上げたところ、着底地点の土壌サンプルを収集するために測線の先端に付した陶器に、ヘドレイ氏所有のネーム入りハンカチが結びつけられてあったのだ。これをみて乗組員一同おどろくと同時に、頭をひねって考えてみたが、なぜこのようなことがおこったのか、一人も、うまく説明できる者はいなかった。この次に日誌を記入する時までには、もう少し、くわしく事情を説明することができるかも知れないが、現在のところは、いかんとも不可解ななぞのままである。われわれは、暴風雨の近づく気配を感じながらも、退避を延期して、しばらく海溝の真上あたりの海面を旋回し、なにかほかに浮きあがってくるものはないかと待機していた。切断された潜水函の鎖索もいそいで引きあげてみたが、その先端にはギザギザの切り口があるばかりで、何も付着していなかった。さて、これからなんとか、この悪天候をきりぬけるべく、船をあやつっていかねばならぬ。私の海上生活にはじめて経験するようなひどい大シケだ。ましてや、気圧が二八・五を割り、さらにぐんぐんさがりつつあるのを見たのは、私にとって生れてはじめての経験だ。
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以上が、かつてのなかまたちに関する最後の消息であった。この日誌が書かれた直後に、おそるべき暴風雨にみまわれ、ストラトフォード号はひとたまりもなく海のもくずと化したにちがいない。
こんなぐあいに、おどろいたり、悲しんだりしながら沈没してきたストラトフォード号の残がいの間を右往左往しているうちに、頭部にかぶっているガラス球の内部が何となく息ぐるしく、また同時に、肩の上の小箱が何となく重く感じられてきた。これが、そろそろ引きあげたほうがいいという無言の警告であった。こうして帰途についたのだが、その途中で、またまた、新しい冒険を経験するはめとなろうとは、神ならぬ身の知ろうはずはなかった。この帰り道に遭遇した体験ははからずも、この海底人種たちが常にさらされている危険の存在をぼくたちに教えてくれる結果となったのだ。またこれらアトランティス人の人口が、この海底に住みついて以来、地上人種たちをはるかにしのぐ長い年月を経てきているのにもかかわらず、現在みられる程度の数以上に増えない事情も、この危険の存在がそこはかとなく説明してくれるような気もした。なにしろ、かれらの現在の人口は、ギリシア系の奴隷階級をふくめても、せいぜい四、五千人にすぎないのだ。
ぼくたちは、すでに、さきほど、のぼって来たふみ段をおりきり、玄武岩の崖に沿って、その根もとにしげる海草のジャングルをかきわけて進んでいた。そんなときに、とつぜん、マンダが興奮して上方を指さし、つづいて、われわれから少しはなれて、ひらけた地点を歩いていた一団の人々にむかい、はげしい身ぶりで合図を送りはじめた。と、同時に、かれもかれのまわりにいた人々も、立ちつくすぼくら三人をひきずるようにして、かたわらにあった大きな丸石のかげににげこんだ。ぼくたち三人が、なぜ人々が怯えだしたのか、その原因を知ったのは、こうして、無事にかくれ場所におちついたあと、だいぶたってからのことである。
われわれのはるか上方から、特異な形をした巨大な魚が、ものすごい速度で急降下して来る。まるで、ふんわりとふくれあがった羽根ぶとんの大きなやつが水中に浮かんでいるような格好であった。下にいるわれわれがみあげると、その下側の腹は白く、その周囲にはいちめんに赤いふさのような長いふちどりがあり、その長いふさを振動させては水中を運動しているらしい。見たところ、口も目もないらしいが、やがて、その怪物はおそろしいほどの敏捷《びんしょう》な身のさばきをみせた。さきほど、ぼくたちのグループからはなれて、ややひらけたところを歩いていた一団の人々のうちの一人が、ぼくたちが逃げこんだのと同じ隠れ場所に向かって走って来ようとしたのだが、ちょっとスタートがおくれてしまった。その男は自分の悲運をさとると、顔を恐怖の表情でけいれんさせた。怪物は、たちまちこの男に襲いかかると、その平たい巨大なからだで男の全身をすっぽりとつつみ、その男の上にそのからだをあずけ、かたいサンゴにむかってヒクヒクと振動させた。おそろしいことだ。この怪魚はこうして、サンゴをおろしがねに使い、このあわれな男のからだをこなごなにすりつぶしてしまおうとしているのだ。このみるもむざんな出来事が、ぼくたちからわずかに数ヤードしかはなれていない、ほんの目と鼻のさきでおこったのだ。ところが、つれのアトランティス人たちは、あまりに急激な恐怖の到来にすっかりきもをつぶしてしまい、動く力もないようであった。このとき、勇ましくとび出して行ったのが、わがスキャンランである。かれは真一文字に突進すると、やにわに怪物の赤や茶の斑点がたくさんついている広い背中にとびのり、手にした金属の先端をずぶりと、怪魚のやわらかい肉の中につき刺したのである。
ぼくは、われ知らず、スキャンランのあとを追ってとび出した。すると、つづいてマラコットをふくめてかくれ場に身をひそめていた全員がわれもわれもとび出して来て、怪魚にとびかかって行った。怪魚もさすがにたまらず油のようにどろどろした、ねばりのある分泌物を尾のように引きながら、ゆらゆらとたちのきはじめた。しかし、ぼくたちの救助はいささか、遅きに失したようで、怪魚の体当たりで命の綱のガラス球をぶちわられた犠牲者は、いたましくも、すでに溺死していた。その死体をになって帰って来たその日は、いたましい弔いの日となったが、また同時に、ぼくたち三人にとってはかがやかしい勝利の日でもあった。というのは、敢然と怪魚に立ち向かって行ったぼくたち三人のすて身の行動は、アトランティス人たちのあいだにおけるぼくたちの評価を大いにあげる結果をもたらしたからだ。くだんの怪魚について、マラコット博士はブランケット・フィッシュの一種だろうと解説してくれた。この魚類自体は専門の魚類学者たちにはよく知られた種類であったが、あのように巨大なものが存在しようとは夢にも思ったことはなかった、とのことである。
たまたま、こうした銘記すべき事件の原因となったゆえにこのブランケット・フィッシュについて述べたが、このほかにもこの深海には地上の世界でわれわれが見たことも想像したこともないような不思議な生命活動が数多くいとなまれているのだ。その驚異については、あますところなく話そうとすれば、それだけでゆうに一冊の本が書き上がるであろう。ぼく自身、もし機会さえあれば、みずからそれを執筆するつもりはあるのだが。
さて、ここ深海での生活において、もっとも一般的な色彩は赤と黒である。植物はだいたい蒼ざめたオリーヴ色で、そのせんいは極度に強靭で、海上からひいたトロール網などでは、とてもひきちぎれるものではない。それゆえにこそ、従来の科学では、深海の底は、まるはだかで不毛の表面を持つとあやまって信じられてきたのであろう。海の生物たちの多くは卓越した美しさをほこっているが、なかにはまたきわめてグロテスクな形のものもおり、こいつらになると、陸上のいかに醜悪な生物といえども、とても比較の対象にならぬほどの、まるで幻覚を形あるものにしたような、おそろしい形相をしている。三十フィートも体長のある黒エイで、尾にはすさまじい棘《とげ》がついており、どんな生物でもこの尾でひとうちされたらとても生きてはいられまいと思われるようなやつを見たこともある。そうかと思うと、みどり色の眼をぎょろりとつき出した蛙みたいな生物がいたが、こいつはバカでかい口のほか、全身これ胃袋といった、貪欲きわまりないかっこうをしている。こいつに行きあった時には手にした懐中電灯でぱっと照らしつけて、そのひるむすきに逃げ出しでもしないかぎり、まず、助かるみちはない。ふだんは岩かげに身を横たえてじっとひそんではいるが、えものが来ると、間髪をいれず毒液を発射して殺す、盲目の赤ウナギ。巨大な、海底の恐怖の権化のような大ウミサソリ。こいつらが、メクラウナギなどとともに海草のジャングルの中をしじゅう、うようよと蠢《うごめ》いているのだ。
一度、うまいぐあいに、ほんもののウミヘビを見ることができた。このウミヘビという生物は深海の底に住み、海底地震でもおこってその立ちまわり先を追い出されでもしないかぎり、海面近くに出てくることはないから、めったに人間の目にふれることはないものだ。ある日のこと、海底を散歩に出たぼくとモナが、これに出あい、二人が藻葉菌鰓類《ラメラリア》の|ふさ《ヽヽ》の陰にじっとかくれたところ、そのわきを、まるで空中を滑空するグライダーよろしく、身動きもしないで泳ぎぬけていった。じつに巨大なやつで、からだの幅はおよそ十フィート、体長は二百フィートもあり、背中のほうは黒く、腹部は銀色がかった白色であった。背中には長いふさ毛のようなものが生え、眼は牡牛のように小さかった。いままでにぼくが述べてきた怪物や、まだほかにも数多くいるめずらしい生物たちについては、マラコット博士の筆になる別の手記を参照していただきたい――もちろん、これらの手記が無事に世人の手にわたるものとしての話だが。
一週、また一週とぼくたちの海底における新生活は過ぎて行った。いまでは、どちらかといえばこの上なく楽しい生活を送っているといえそうだ。アトランティス人たちの長く世に忘れられていた古代言語も、わずかずつではあるが憶えはじめており、いまでは、ほんの少し、かれらとおしゃべりができるほどになった。この海底の避難所には学ぶべきこと、また、たのしむことが無限にあるのだが、マラコット博士は、こと当地の古代化学に関するかぎり、完全に自分のものとしてしまったそうで、この知識を地上の現代世界に伝え得る手段さえあれば、現代化学のあらゆる概念を根本から改革してやるのだが、と切歯扼腕《せっしやくわん》するしまつである。ぼくたちには未知のいろいろな驚異的な知識のうちでも、とくにすばらしいものは、原子を分裂させる方法だ。アトランティス人はそれにより、地上世界の科学者たちが推測するほど大きくはないにしても、かなりの量のエネルギー源を得ている。かれらのエーテルの力と性質に関する知識もおどろくほど進んだもので、例の人間の思考を映像化してスクリーン上に投写する装置も、このエーテルの強弱を物質の世界に変形させることをその原理としている。ぼくたちは、この装置のおかげで自分たちの話をアトランティス人たちに理解させ、また、相手の物語を理解することができたわけだ。
ところが、これらのすばらしくすぐれた知識にもかかわらず、ぼくたち地上世界の現代科学とくらべてみるとき、その発展過程において、かれらの祖先が見おとしたと思われる部分もいくらかあるようだ。
この事実をみごとに実証してみせたのが、スキャンラン君である。何週間かのあいだ、かれはいかにも胸いっぱいに、いまにも張りさけんばかりの秘密をかかえ、その心のたかぶりを必死に抑えているといわんばかりのようすで、ひとり考えこんだり、思い出し笑いをしたりしていた。その期間中、かれの姿は時たましか見あたらず、どこかへもぐりこんで何事かやっているようで、しじゅう、いそがしそうであった。かれのたった一人の親友はバーブリックスという名のふとった陽気なアトランティス人で、なにか機械関係の仕事を職としている男である。じっさいのところ、スキャンランとバーブリックスとでは、言葉はほとんど通じないから、話し合いは身ぶり手まねをしたり、おたがいに背中をたたき合ったりすることによって行なわれていたのだが、どう気が合ったのか、たちまち意気投合してしまい、折あるごとに、二人きりでコソコソと内緒話をしてばかりいる。ある日の夕方、そのスキャンランが顔をかがやかして部屋へ入って来た。
「ねえ、先生」かれはまずマラコットに話しかけた。「ここの住民たちに渡してやりたい、とっておきのものがあるんですがね。そら、いままでに、ひとつかふたつ、おもしろいものを見せてもらったでしょう? だから、こんどは、あたしたちもなんとかお返しみたいなことをしておいたほうがいいと、思ったんですよ。どうですね。ひとつ、あしたの晩にでも、やっこさんたちに集ってもらって、一番わたしたちのショーをみせてやっちゃあ」
「ジャズかチャールストンでもやってみせようというのかい?」
「チャールストンなんてもんじゃない。そんなものじゃないが、まあ、このあたしにまかせて、当日みるまでのおたのしみということにしておいてもらおうか。とにかく、たいした見世物なんだよ。まあ、今のところはこのくらいしか種あかしはできねえんですよ。いずれにしても、見に来てくれりゃあ、がっかりさせはしねえから。売りものはこちとらの手にある。あとはそいつを売りつけるだけ、といったところでさ」
かくして、その次の日の夕刻、おなじみの集会堂に人々が集まって来た。スキャンランとバーブリックスは演壇に立って、ほこらしげに眼をかがやかせている。二人のどちらかがボタンを押した。すると――そう、スキャンランの口ぐせをつかえば、「こりゃ、おったまげた。まけたよ、おれは」
「2LO放送局でございます」すんだ声がひびいた。「英国諸島《ブリティッシュ・アイル》のみなさん、こちらはロンドンです。まず、天気予報を申し上げます」つづいて、低気圧だの、強風注意報だの、おなじみのお天気用語がひとしきり出てきた。「さいしょのニュース。かしこくも国王陛下におかせられましては、本日午前、ハマースミス小児科病院に新館を御|下賜《かし》あそばされました――」等々、例の声調があとからあとからとニュースをながしていった。ふたたび、なつかしい、ふだん着のままの英国を感じることができたのだ。そのたくましい背中に重い戦事公債を腰のまがるほど背負いこみ、それでもこつこつと毎日の勤勉な仕事の手を休めようとはしない、なつかしい英国。さらに、海外ニュース、スポーツ・ニュースとつづいた。地上のわれらが世界は、あいかわらず、のろくさと牛の歩《あゆ》みをつづけているようだ。集会堂につめかけたアトランティス人たちは驚きの目をみひらいてラジオ放送に聞き入っている。ただし、その意味はまったく理解できないでいるはずだ。それでも、ニュースがおわってその次の番組が、たまたま、近衛連隊軍楽隊の行進曲演奏であったのは、もっけの幸いであった。軍楽隊が「ローエングリン」からそのマーチの部分をかなではじめると、期せずして、耳をかたむけていたアトランティス人たちのあいだに、うれしそうな叫び声がおこった。笑止千万なことには、かれらはばらばらと演壇の上にかけあがって来て、背後のカーテンをひっくりかえしてみたり、大スクリーンのうらがわをそっとのぞきこんだりして、ラジオの出す音の源をさがし出そうと、やっきになっている。これで、この海底文明にも、ぼくたち地上人種の文化の爪あとをほんの少しでも残せたかと思うと、なんとなくうれしかった。
「いや、なあにね」あとで、スキャンランが、この舞台うらを話してくれた。「できたら、放送局を一つ作っちまおうと思ったんだけどね、ちょっとむりだった。つくる材料もねえし、おれのほうにゃあ、また、それだけの頭脳《あたま》もなかったしね。それでも受信機だけだったら何とかなると思った。故郷《くに》にいる時分には、自分で二球セットを組み立てて、中庭のもの干し柱のわきにアンテナをおったててさ、たったそれだけでけっこう合衆国中の局から放送を聴いていたもんだった。ここには、電気はあるし、真空管なんざ、十分こしらえるだけの腕をもったガラス細工屋はたくさんいるし、それに、空気を通って旅するエーテル波だったら水ん中を通って来ねえはずはねえ。こうなってくれば、あんた、そんなエーテル波をどうにかつかまえられるような道具立ては、できなかったらおかしいということにならあな。うめえぐあいに道具立てができて、はじめてそいつが鳴り出した時の、バーブリックスの野郎の驚きようったら、ハハハハ、なっちゃなかった、まったく。でも、いまはもう、やっこさんも利口になっちまって、このラジオのことにかけちゃあ、いっぱしのあたまをもってきたから、このおあそびは、ずっとここに残ってくと思うね」
アトランティス人の発明で、ぼくたちには未知であったものの一つに、マラコットがレビゲンと名づけたガス体があった。このガス体は水素にくらべ、約九倍もかるい。じつは、こうしてこの手記をしたため、それを地上の世界へ送りとどけようとするこころみも、もとはといえば、このレビゲン・ガスをつかってのかれの実験から発展してきたことなのだ。「このわしの考えにはマンダも同意してくれとる」と、マラコットはいった。「マンダがここのガラス職人たちに命令を出してくれたから、わしの考案したガラス球は一両日中にできあがるだろう」
「しかし、いったい、どうやって、われわれの手記をそのガラス球の中に入れるのですか?」ぼくはたずねた。
「あとでガスをつめるための開口がある。そこから紙を押しこめばいいだろう。ここの職人はみな腕がいいから、その紙をとじこめたまま、開口をふさいでくれるぐらい、わけもないと思う。ここから放流したガス球が、まちがいなく海面に浮かびあがるだろうことは、わしが確信をもっとる」
「でも、発見されずに一年も二年も、漂流してまわるのが関の山ではありませんか」
「そうかも知れぬ。しかし、このガラス球は、きっと、太陽の光をキラキラと反射するにちがいない。そうすれば、遠くからも、人目をひくにちがいない。たしか、わしらが今いる地点は、ヨーロッパと南アフリカとのあいだを往復する汽船の航路上にあるはずだ。だから、根気よく、いくつも、いくつも、ガラス球を浮かばせてやれば、そのうちの一つぐらいはうまいぐあいに発見されると思うのだ」
こういった次第で、タルボット、もしくは、この手記を読んでおられるほかの諸君よ、この手記があなたの手に入ったというわけだ。しかし、このガラス球放流のあとには、さらに大それた計画がつづくことになるかも知れない。この計画を立案したのは、アメリカ一の機械職人をもって自ら任じる、わがスキャンランの奔放な頭脳なのだ。
「ねえ、先生がた」ぼくたち三人だけで個室にすわりこんでいたときに、スキャンランが言い出した。「たしかに、ここにいるのは悪くはねえ。飲みものはいいし、食いものも上等だ。おまけに、ここでお目にかかった娘っこときたら、フィラデルフィア中の女が、みんな二束三文に見えてくるくれえに、すばらしい。ところがそれでも、ときどき、てめえの故郷《ふるさと》をもう一度でいいから拝みたいって感じる気持ちがおこってくるのは、どうしようもねえ」
「そう感じるのは、なにもきみばかりではないだろうが」とぼくが答えた。「ただ、問題はどうやったら、地上の世界にもどれるかということだよ」
「そうだ! ちくしょう、うまい考えがあるぜ。ねえ、このガラス球《だま》が書いたものを海の上へ運ぶんだったら、うまくすりゃあ、おれたちのからだも運んで行ってくれるかも知れねえじゃねえか。こいつあ、じょうだんでいってるんじゃねえ。おれは本気で考えてるんだ。ガラス球《だま》が小さすぎるというんなら、三つでも四つでもいっしょにゆわえつけて、からだにくっつけりゃあ、浮きあがる力もそれだけ、でかくなるわけだろうが。な、そうだろう? めいめいの頭にゃあ、あのガラスの面《めん》をかぶって、完全無欠に武装してから、ガラス球《だま》にからだをくくりつけりゃあいい。用意ができたら、出発のベルを合図におさえづなを切って、上へ上へとのぼって行くんだ。ところで、この海底から海面にでるまでに、でっくわしそうな邪魔ものはいるかな?」
「フカかなにかが出てくるぞ、たぶん」
「べらぼうめ! フカなんて、|め《ヽ》じゃねえや。おれたちは、きっとすごいスピードで浮き上がって行くだろうから、フカなんかとすれちがったところで、むこうさまで気がつきゃあしねえ。まあ、フカさんのほうじゃ、なにかしらんピカッと光るものが三つとんで行ったぐらいにしか感じねえだろう。しかし、こちとらのほうは、そのスピードのおかげで、海面に出たら五十フィートも空中にはねあがるにちげえねえ。テヘッ、こいつあおもしれえぞ。おれたちがそんなふうにして海中から飛び出て行ったら、おれたちをみつけるやつらは、ぶったまげてお祈りでもとなえやがるだろうな」
「しかしだね、きみ。そんなぐあいにしてうまく海面にとび出せたとしてもだ、その後はいったいどうなると思うかね」
「ねえ、旦那、後生だからそのあとのこととやらは、なるべく考えねえでもらおうじゃねえか。せいぜい、運試しをしてみるよりしかたはないだろう? それとも、この海の底で、一生暮らしてえというのかね? おれは、どうしてもいっちょう思いきってとび出して行ってみてえな」
「わしも、ぜひとも地上の世界にもどりたい。ここで体験したことがらを学会に報告することさえできたら、どんなにうれしいことか知れん」と、マラコットも応じた。「わしがここに来てから手に入れた新知識のうんちくを地上の人間どもに信じさせるためには、わしがじきじきに行って折伏《しゃくふく》せねばならん。その意味でも、わしは、いまスキャンランのいったようなこころみには、どんなものであっても賛成したい気持ちだな」
しかし、それでもなお――これの理由はあとで白状するつもりだが――それでもなお、ここから出て行くなどという計画には、あまり賛成したくない気持ちが、ぼくの心の中にあった。
「きみのいいだした計画は、まったくもって気ちがいざただと思うな。もし、海上に浮かびあがるときに、あらかじめだれか海面でぼくたちのあがって行くのを待っていてくれる人でもいないかぎり、とんでもないことになる。ぼくたちはまちがいなく、あてもない漂流をつづけた上、飢えと渇きで死ぬことになるんだよ」
「ちぇッ、ちぇッ、ちぇッ。そんなこといったってむりというもんだよ、あんた。おれたちが浮かびあがって行くのを、だれかに待っていてもらうなんて、できっこないじゃねえか」
「いや、待ちなさい。それは、あながちできないことではないかも知れんぞ」と、マラコットがひきとっていった。「せいぜい一、二マイルの誤差で自分たちのいる位置の緯度と経度を知らせてやることができるのだからね」
「そして、海上からはしごでもおろしてもらうんですか」ぼくは皮肉たっぷりにいってやった。
「はしごだなんてとんでもねえ! 先生のいうことも少しはまともに聞いてやってもらいてえな。ねえ、ヘドレイさん、あんたはその手紙の中にこう書くんだな。われわれは天下一品のおくりものをたずさえて浮上する用意がある――てへッ。こいつは大した特ダネだぜ。新聞屋がよろこぶぜ、きっと――われわれが浮上するのは、北緯二七度、西経二八度一四分の地点である、云々《うんぬん》とね。もちろん、そこんところは正確な数字を入れておいてもらうんだがね。判ったかい? それから、さらにあんたはこう書く。浮上するのは歴史上もっとも重要なる人物三名である。その名は、まず、科学の偉人マラコット、つづいて虫集めの新しいホープ、ヘドレイ、さてどんじりにひかえしは機械いじりの大天才、メリバンクのほこり、ビル・スキャンラン。この三名の重要人物が海の底から助けをもとめて泣きかつ叫んでおります、とね。少しは、おれの考えもわかってきたかね?」
「まあね。それから、いったいどうするのかね」
「うん? それからは地上のやつらしだいさ。でも、やつらにしてみりゃあ、こいつはちょっくらちょっとほうっておくわけにはいかない喧嘩の果たし状みてえなものさ。ほれ、スタンレーがリビングストンをさがしに行くという話、あれと同じようなもんさね。おれたちを引き上げるか、さもなきゃ、まず、おれたちに浮きあがらせといて、海の上にとび出して来たところをつかまえるか、そこいらへんの工夫は、やつらが何とでもつけてくれるよ」
「わしらのほうから、わしらなりの方法を示唆してやることもできるじゃろう」とマラコットがいった。「最初に、上から海中へ深海用の鎖索をおろしてもらい、海底にいるわれわれはまずそれのおりて来るのを待つ。鎖索がおりて来たら、わしらはそれに伝言を結びつけ、海上者たちに待機していてくれるよう依頼する」
「それなら何もいうこたあねえね、先生!」とスキャンランが叫んだ。「そうです。そのとおりにやりゃあ、いいんですよ」
「そしてまた――、もし、どなたかわしらと運命をともにしようとおっしゃるご婦人がいらっしゃるのだったら、一行の頭かずは三人が四人になっても、いっこうにかまわんよ」ぼくのほうにいたずらっぽい微笑をむけながら、マラコット博士が言い出した。
「そのことだったら、四人が五人になってもかまわんわけなんだ」と、スキャンランもいいかえした。「しかし、とにかくこれで、ヘドレイさん、あんたにもわかってもらえただろ? わかったら、さあ、早いとこ、その手紙を書いてもらおうか。そうすりゃ、半年もたたねえうちに、まちがいなくおれたちはテムズ河を拝めるんだぜ」
こういったわけで、ぼくたちはこのガラス球を――いまのぼくたちにとっては、あなたがた地上にいる人たちの空気と同じくらいに貴重な二つのガラス球を、海中に放流しようとしている。ぼくたち三人のせつなる願いをこめた二個の風船は真一文字に海上めがけて浮上するだろう。しかし、途中で二つとも消えてしまうようなことはないだろうか? その可能性も大いにあるわけだ。せめて二個のうち一個だけでもいいから、無事に海上にとび出してくれないだろうか? このことについては、まったく、運を天にまかすほかはない。さいわい、この手記がだれかの手にわたっても、ぼくたちを救うてだてがないという場合があるかも知れない。しかし、そうなったとしても、このガラス球は、少なくともぼくたちがこうやって無事に、しかも幸福に海底生活を送っている事実を世に知らせる働きはしてくれるわけだ。また逆に、もしこの手記の示唆したとおりにことが運ばれ、ぼくたちに対する救援の手をのばすために、資金と人手が必要になった場合は、なにとぞ、別途に指示した方法により、とりしきって欲しい。それまでは一応、さよなら――いや、またいずれそのうちに、というべきだろうか?
*
発見されたガラス球におさめられていた手記はこのように結んであった。前掲の手記は新聞記事で発表されたかぎりの全事実をカバーしている。ところが、この手記が印刷屋の手にわたされ活字になりつつあるあいだに、まさに予想だにしなかった、驚くべき内容をもつ後日談《エピローグ》がおこった。つまり、わたしがいわんとしているのはフェイバーガー氏所有の大型ヨット「マリオン号」による冒険的な救出作業および同船から無電で発信されケイプ・ド・ヴェルデ群島の無線局の中継を経てヨーロッパならびにアメリカで受信された記事のことである。この記事はアソシエイテッド・プレス紙の記者として著名なケイ・オスボーン氏により書かれたものである。
マラコット博士およびその仲間たちの苦境をうったえた前掲の手記がヨーロッパにもたらされた直後から、なんとかしてかれらを救出しようという運動が、地味ではあるがきわめて効果的に行なわれはじめていたようである。前記フェイバーガー氏はまことに気前よく、自分の所有になる有名な大型ヨット「マリオン号」をこの運動のために提供、救出作業のために使ってもらいたいと申し出、かれ自身も同船による救出作業に参加したのである。「マリオン号」は六月にシェルブールを出帆し、途中、サザンプトンにおいてケイ・オスボーン記者と映画カメラマンを乗船させたるのち、一路、海底からもたらされた手記の中に記されてあった地点の海上へと急行した。同地点に到着したのはちょうど七月一日のことであった。
一本の深海用ピアノ線をおろし、それをゆっくりと海底ぞいに引きずって行く。このピアノ線の先端には、重い測鉛のほかに、海上の救助隊からの伝言をおさめた小ビンがついている。この伝言にはこんなことが書いてあった。
「あなたがたの手記は無事に地上の世界で受けとり、その結果、われわれがこうして救助にまいりました。この伝言は、同時に無電機によっても送信されております。けだし、当方の無電送信があなたがたに受信されるかも知れぬと予測するからであります。われわれはこれからゆっくりとあなたがたが指定された海域を旋回します。このわれわれからの伝言をみたら、どうぞ、あなたがたからの連絡文をこのビンの中にお入れ下さい。当方ではあなたがたのご指示どおりに行動するつもりです」
二日間にわたって、マリオン号は同海域をゆっくりと行ったり来たりしたが、海底からは何の反応も得られない。しかし、第三日目にいたり、ついに、救助隊を驚喜させるようなことがおこった。一個の小さな非常に強く光る球体《ボール》が、かれらが乗っている船から、ほんの数百ヤードしかはなれていない海面にピョコンととび出して来たのだ。さっそく収容してみると、最初の手記をおさめていたものと同じ種類のガラス球にまちがいない。前回と同じように苦労してそれを破壊すると、次のような連絡文が入っていた。
[#ここから1字下げ]
「ありがとう。ほんとうにありがとう、みなさん。あなたがたの深いご好意とお力ぞえには感謝のことばも知りません。当方では、あなたがたのご伝言をなんなく手中におさめました。その結果、このようにしてご返信申し上げているしだいです。できることなら、ご指示どおりにあなたがたの測線についている小ビンにこの文書も入れようとしたのですが、深海では海流がとてもつよく、われわれの中でもっとも身の軽い者が追ったのですが、どうしてもその海流にさからってピアノ線をつかまえることができませんでした。さて、あなたがたのご援助に意をつよくしたわれわれは、いよいよ明日――当方の計算にくるいがなければ七月五日、火曜日の朝六時を期して、最後の冒険を敢行するつもりでおります。その際には一どきに一人ずつ浮上するようにいたしますから、無事に貴船に収容された先行者の体験をどうぞ無電にて、まだ深海に残っている後続者あてご忠告下さい。それでは、もう一度、心から感謝の意を表させていただきます。
マラコット、ヘドレイ、スキャンラン」
[#ここで字下げ終わり]
さて、以下はケイ・オスボーン記者の手記である。
「すばらしく気持ちのいい朝だ。深いサファイア色の海はまるで湖ででもあるかのように静まりかえっている。明るい半球をえがいてひろがる深青色の空には、ところどころうすい雲がかすかにのこっているだけだ。マリオン号の乗組員たちはみな朝早くから起きてきて、これからおころうとする出来事を、ピンとはりつめた興味をもって待ちかねている。時計の針が午前六時に近づくにつれて、こうして待っているわれわれの気持ちは、いたいくらいに緊張していた。信号マストの上には前もって見張り員が配置されていたが、この男がするどい叫び声とともに本船の左舷下の海上の一点を指さしてさわぎだしたのは、まだ、六時に五分ほど前のことであった。たちまち全員が、バラバラと甲板をそちら側にかけよる。記者は、うまいぐあいに積みこんであるボートの上に座を占め、よいながめを確保することができた。まず最初に記者の目にとびこんできたものは、大洋の底からものすごいスピードでぐんぐん浮きあがって来る銀色のあわのようなものだった。それはやがて船から二百ヤードほどはなれた海面にとび出して来、そのまま真っすぐに空中高くはねあがった。直径およそ三フィートぐらいの美しくかがやく球だ。空中高くはねあがったあと、ゆらゆらと風にもてあそばれて、まるで玩具の風船のようにただよっている。きれいなながめにはちがいなかったが、こうしてガラス球だけがとび出して来たのでわれわれの心には一瞬、くらい不安のかげがよこぎった。このガラス球の装備が途中でゆるみ、はこんでくるはずの大切な荷物を海中におとして来てしまったのではないかと思われたからだ。ただちに、無電による連絡がはじまった。
『あなたがたの送った球は本船のすぐ近くに浮上した。ただし、球には何も付着しておらず、そのまま球はとんで行ってしまった』
いっぽう、ボートがただちに海上におろされ、次の成り行きを待つ態勢をととのえた。
ちょうど六時をほんの少しまわったころ、ふたたび見張り員から合図があり、みると、海中を浮きあがって来る別の銀色の球をみとめた。ただし、今度の場合はさきほどのものにくらべ、だいぶ、おそい速度でのぼって来るようだ。海面にとび出すと、球は前と同じように空中にはねあがったが、今度はまちがいなく何か荷物をつけている。荷物は海面に浮かんだまま動かない。急いでボートが寄って行き収容して調べてみると、書籍、書類その他いろいろ雑多なものを何か魚の皮らしいものに包んで大きな梱《こおり》にしたものだ。しずくがポタポタとたれるその荷物をさっそく甲板に引きあげると、ただちに無電により、回収成功の旨を連絡し、われわれは次に到着するものを待った。
つぎの荷物が浮上するのに、大して待つこともなかった。ふたたび銀色の泡を見、それが海面を切ってとび出したが、今度は、空中に高々とはね上がった。そしてその球の下には、おどろくなかれ、ほっそりとした女性のシルエットがぶらさがっていたのだ。彼女のからだが球とともに空中にとびあがったのは、まったくはずみによるもので、一瞬ののちには海面を本船のかたわらにひきよせられた。彼女を引っぱりあげて来たガラス球の上半分に、丸い革のおおいがかぶさっており、これから長い革ひもがさがって、彼女のなよやかな細腰に巻いた幅広の革バンドにつないである。彼女の上半身にはいっぷうかわった西洋ナシのような形のガラス製のおおいがかぶせてある。いま、記者はガラス製のといったが、くわしくいうとこれはわれわれの世界にあるようなガラスではない。さきのガラス球と同じ材料だが、いわば、特殊硬質ガラスに似た未知の軽くて強靭な物質である。ほとんど透明に近いが、よくみると均等に細い銀色のすじめが無数に走っている。このガラス状物質のおおいには着用者の腰部と肩部にあたる部分にきつくしめつけるようにデザインされた弾力性のある付属物がついている。これによって体内にぜんぜん水が入りこまないようになっており、さらにこのおおいの内部には、ヘドレイ氏の手記にあったとおりの空気浄化を目的とするらしい、非常に珍しい形の、しかし軽量で実用的な装置がとりつけてある。少々てまどりはしたが、それでもどうやらこのガラス製のおおいを脱がせて、浮上した女性を甲板の上に運びあげた。彼女はそこで深い昏睡状態におちたまま横たわっている。しかし、彼女の呼吸は正常であったから、まもなく正気をとりもどすだろうと思われた。深海から海面へと急激に浮上して来たために気圧の変化の影響をうけて失神してしまったらしいが、例の保護おおい内部の大気密度が海面の大気圧にくらべかなり高く調整されていたため、その気圧の変化から来る影響もだいぶ少なくてすんだものと思われる。まあ、たとえていうなら、われわれの世界の潜水夫たちが、潜水作業を終えて海面に浮上する前にちょうど半分の深度のところで気圧になれるために一休みをするが、この女性のうけたショックも、だいたいそのへんのものと同じ程度だろうと推測された。察するところ、彼女こそ最初に発見された手記の中でモナという名で紹介されたアトランティス人の女性であろう。もし、彼女をアトランティス人の典型と考えるならば、たしかに、かれらは現代の地球上でも特筆されるべき高等な人種であるにちがいあるまい。彼女の肌の色は小麦色で、目鼻だちは美しくととのっており、髪の毛は黒く長い。やがて正気をとりもどして、ぱっちりと見開かれ、あたりをふしぎそうにみまわした眼はうす茶色である。クリーム色のチュニックにぬいつけられた貝がら細工や真珠貝の飾りがかわいらしく、長い黒髪にからまっている。深海の水の精としてこれ以上ふさわしい者はおるまい。まさに海の神秘と美の象徴そのものだ。いまや、彼女の美しくみひらかれた両眼には、完全な正気がもどってきたようだ。とたんに、彼女は若い雌《め》じかのようなすばやさでとび起きると、いちもくさんに甲板を船べりに向かって走って行き、海面をのぞきこんで叫んだ。『サイラス! サイラス!』
もちろん、われわれはただちに彼女の安着を無電で海底に伝え、かれらの心配をとりのぞいてやった。すると、こんどは、次々と、ごくみじかい間隔をおいてのこりの三人の男たちが浮上して来た。海面に浮きあがると、きまって、いったん三、四十フィートも空中にはねあがり、それからボチャンとふたたび海面に落下する。そこのところを間髪を入れず、待機していたわれわれの係りの者が救いあげた。三人とも一様に気を失っていた。とくに、スキャンランは耳と鼻から血をしたたらせていた。しかし、みんな小一時間もすると正気をとり戻し、ふらふらしながらも甲板を一人歩きするほど元気になった。救出されたこれらの人々が、元気を回復してから最初にやったことは、よく、おのおのの性格を表わしていると、記者は感じた。まずスキャンランだが、かれは口々に笑いさざめく一群の人々にとりかこまれて、一路、飲酒室へ急行したが、そこからは、いまでも陽気な叫び声がひびいてくる。なるほど、噂にたがわず、あまりお行儀のいいほうではないらしい。マラコット博士はただちに書類のたばをとりよせ、その中から、記者のみたところでは、びっしりと代数の記号やら符号やらが書きこまれている一枚の紙を破りとると、寸暇をも惜しむかのように、そそくさと下の船室へ姿を消してしまった。いっぽう、サイラス・ヘドレイはとるものもとりあえず異国の乙女のかたわらに走りより、じっとかの女の瞳に見入ったまま動こうともしない。しばらくたってから人づてに聞いたところ、永久にそんなかっこうでいるつもりででもあるかのごとく、まだ顔を見つめあっているとのことであった。目下の形勢はだいたいこんなところである。本船に装備された無電送信機の出力が、いささか小さすぎるのが気になるが、ケイプ・ド・ヴェルデ局までだったら、この記事を送りとどけることは十分できるだろう。この驚異的大冒険の詳細は、いずれまた日をあらためて、体験者たちみずからの手で公表されるものと期待したい」
6
大西洋の海底において、まさに驚くべき体験を余儀なくされ、さいわい多くの人々の温かいご援助により生還できてからというもの、じつはおびただしい数の方々から、かく申すぼく自身、つまりオクスフォード大学ロード奨学金給費研究員サイラス・ヘドレイならびにマラコット教授の二人あてに、はてはビル・スキャンランにまでも、手紙をいただいた。ごぞんじのように、ぼくたち三人は、カナリー諸島の南西二百マイルの地点において海中への潜降をこころみた。その結果、深海生物および水圧に関する定説を修正せざるを得なくなったような事実をたしかめたのみならず、信じられぬほど困難な環境にあって、いまだに営々として存続している古代文明社会の存在を確認したのである。ぼくたちに手紙をくださった人々は、みな異口同音に、このようなぼくたちの体験をもっとくわしく話すよう求めておられる。しかし、かなり皮相的にではあったが、前に発表したぼくの手記が一応、すべての事実を網羅しつくしていることは、やがてわかっていただけるはずである。とはいうものの、いままでの手記の中では物語をさしひかえた事件もいくつかあり、とりわけ、かのおそろしい「黒面魔王」にまつわる身の毛のよだつようなエピソードもまだだれにも話していない。じつは、この一件はまったくもって異常な事実と結末とをともなう話なので、さしあたっては、だれにも口外しないほうがいいのではないかというのがぼくたち三人の一致した見解であったのだ。しかし、今ではこの地上世界の科学がぼくたちの結論を受容したし――さらにもうひとつの事実をあえてつけくわえさせてもらうならば、この社会がぼくの花嫁を受容してくれたので――ぼくらの物語はでまかせのウソではないということも信じてもらえたものと考える。そうすると、ぼくらがこの世界にもどって来た当初はかえって世間から寄せられた同情を失うことにもなりかねなかったような話を、そろそろ公開してもよい時期に来ているのかも知れない。さて、このすさまじい出来事の物語にとりかかる前に、まず、かのアトランティス人たちと過ごした海底に埋れた世界でのすばらしい数か月間の思い出から話をはじめたい。このアトランティス人たちは、かれらのガラス質の酸素供給装置をかぶりさえすれば、いまぼくがこうしてハイドパーク・ホテルの一室から見ている花壇の上をロンドン子たちがのどかに歩きまわるのとまったく同じ気やすさで、大洋の底を自由自在に歩きまわることができるのだ。
ぼくたち三人が、海溝の底へ墜落してかれらに救助された当初は、ぼくたちの立場は、かれらの客というよりはむしろ囚人といったほうがふさわしいようだった。こんな立場が、どこをどうしてかわってきたのか、そしてまた――これはマラコット博士の人なみすぐれた才能に負うところが大なのであろうが――どうして最後には、かれらの歴史にその名をとどめるほどぼくらの来訪がかれらに対して重要なものとなり得たのか、もう一度、記憶と記録のひもをほどいてみたいと思う。
ぼくらが、こうしてもとの世界にもどって来ることはかれらに知らせてこなかった。もし事前に知らせたとしたら、おそらく強い反対をうけたことだろう。だから、ぼくらのとつぜんの失踪で、そのようなすばらしい足跡をかれらの記憶の上にしるした三人の異次元の人間が、かれらのなかでもっとも美しい人間を、いわば掌中の珠玉であった名花を盗んで、忽然と天上界にもどって行ったという伝説が、すでにかれらの間でできているだろうことは想像に難くない。
ぼくはここで、このいとも幻想的な竜宮におけるいくつかのめずらしい事件の数々を、起こった順序どおりに書きしるしてお目にかけたいと思う。ぼくの話はつぎつぎとぼくたち三人をおとずれた冒険のいくつかを順次にたどり、最後には、その中でも最大の冒険――三人の一人一人の心に生涯忘れ得ぬ強い印象を焼きつけた「黒面魔王」の出現へと発展するはずである。まったく、あの深海の世界には数えきれないほどの神秘があり、最後までとうとう理解し得ぬままにもどってきてしまったものが数多くあったから、ぼくは、どうかすると、もっと長くマラコット海淵の底にとどまっていたほうがよかったように感ずることさえあるのだ。実際問題として、ぼくたちがかれらの言語を急速におぼえこみつつあったことは事実であるから、もう少し時間をかけて滞在しておれば、もっともっと多くの知識を吸収し得たかも知れない。
かれらが何をおそれるべきか、はたまた、何が無害であるかを学んだのは、長い間の経験を通してであった。そう、ある日こんなことがあった。とつぜん警報が伝わり、ぼくたちもかれらにまじって急いでガラス質の酸素帽をかぶって海底へとび出した。なぜ人々が走って行くのか、いったい何をしようとしているのかは、まったく見当もつかない。しかし、ぼくたちともども道を急ぐ人々の顔上には一様に恐怖にとり乱した様子がうかがわれるのはうたがいようもない事実なのだ。海底の平原に着いた時、むこうから海底都市の出入口めざしてかけて来る一群のギリシア人炭坑夫たちに出あった。炭坑夫たちは疲れはて、死にものぐるいで逃げて来たらしく、中にはふらふらとよろめき、軟泥の上に倒れては起き、倒れては起きと、まるで這うようにして道を急いで来る者も多かった。どうやら、ぼくらの一行は、この連中のうちのろのろしている者をせきたてるための救援隊であったらしい。しかし、見まわしたところ、武器らしいものを手にしている者もいないし、ぼくたちエトランゼの目には、さしせまった危険の徴候はまったくみられない。そうしている間にも、坑夫の群れをせき立てて、一行は出入口に引きかえしたが、押しあい、へしあいしながらも最後の一人が無事扉をくぐり終ったところで、ふと、かれらの逃げて来たあとに目をやった。
目についたのは二つの鬼火のようなみどり色をした雲のかたまりだった。中心はぼうっと明るく光っており、周囲は不規則にギザギザしている。その二つの雲塊がわれわれのほうにむかって動くというよりは漂うといった感じで近寄って来る。その姿が、だんだんはっきりしてくるにつれて、まだわれわれとの距離は半マイルもはなれているのにもかかわらず、ぼくたちのまわりにいるアトランティス人たちは一大恐慌をひきおこし、われさきに奥へ入りこもうと押し合ったり、内側の扉をたたいたりしている。どうやら、かれらには、この人さわがせな二つの|ひとだま《ヽヽヽヽ》が近づいて来るのを片目にみながら、排水室にじりじりするのが、えらく気のもめることであるらしい。それでも、排水ポンプはスムースに働き、われわれ一行はまもなく無事に海底都市の内部に入った。外扉の上部にある横木には長さ十フィート、はば二フィートほどの透明なガラス体の大きなブロックがあり、外側に強い光を発する照明装置がほどこしてあった。一行の中の数人が、あらかじめそこにとりつけてあったはしごをバラバラとのぼって行き、このお粗末なのぞき窓から外を観察しはじめた。ぼく自身も急いで、その仲間に加わった。外扉のまん前に、さきほどの奇妙なみどり色の光の塊りがすわりこんだまま、その円形の輝きをチカチカさせている。光がチカチカするたびに、ぼくといっしょに椅子にとりついているアトランティス人たちは、さも恐ろしそうに、歯の根を震わせ、わけのわからぬ言葉を口走っている。そのうちに、水中をかげのような生物が、チカチカときらめきながらその姿をあらわし、ぼくたちがのぞきこんでいるガラスまどのむこう側に近づいて来た。その瞬間、周囲のアトランティス人たちは窓をのぞきこんでいるぼくのからだをあわててひっぱりおろしたので、外の様子は見えなくなってしまった。なんでもこの奇怪な生物は目にみえぬ有害な力を放射するのだそうで、ぼくがぼんやりとしていたため、かれらがあわててひきずりおろしてくれたのにもかかわらず、それをよけられず頭の毛の先端をやられてしまった。おかげで、そのときに被害をうけたあとは、ぼくの頭髪の一部を白毛にしたまま、いまだに残っている。
まもなく、アトランティス人たちは、思いきって外扉を開くことを決心したらしく、さらには一人の勇敢な男を斥候として送り出すことをきめたようだった。斥候にえらばれた男は、握手したり背中をたたいたりしてその勇気を賞讃し激励する人々に送られて海底へ出て行ったが、すぐにもどって来て、戸外の危険はもうまったく消散していることを告げた。たちまち、喜びの色が内部で息をころしていた人々の顔上にもどってきた。人々は、さいぜんの奇怪な生物の出現の時にみせた恐怖の色をまったく忘れてしまったかのように喜び合っている。かれらがおそれおののきながら発する叫び声の中に、しばしば「パラクサ」という語がきこえたから、どうやらこれが、さきほどの怪物の名前らしい。このおそろしい事件をただひとりよろこんでいる人間がいた。マラコット博士だ。いまにも、小さな網とガラス容器を持って外へ出て行こうとする。「新種の生命形態だ。なかば有機体であり、なかば気体質だが、あれはたしかに知性を持っておる」と、ひとりその究明に専念している。「けたくそわるい化け物」というのが、あまり科学的ならざるスキャンラン先生のご感想だった。
このことがあってから二日ほどあとのこと、ほかの大冒険にくらべれば「ほんのとるに足らぬ小探検」に出かけ、深海植物のあいだを歩きまわり、二、三の小動物を持参の捕虫網でつかまえたりしていたぼくたちは、とつぜん、一人の炭坑夫らしい男の死体を発見して愕然となった。どうやら仕事に出かける途中に、あわれにも、この前に出現した怪物どもの餌食にされたらしい。ガラス質の酸素帽は無残にこわされていた。このことはあの怪物どもがとほうもない力の持ち主であることを雄弁に物語っている。以前にぼくたちが伝言文をつめこんで海上へ放流したガラス球をこわそうとして経験されたことと思うが、このガラス状物質は極度に強靭な代物でそう簡単にこわれるようなものではないのだ。見たところ、死んだ男のからだはどこにもきずひとつなかったが、その目玉がぬきとられていた。
「大した美食家だ!」急いでひきかえす途中でマラコット博士がしみじみといった。「小羊の腎臓の上にある脂肪のほんの一小片を得んがために、小羊を殺すという、獰猛な|たかおうむ《ホーク・パロット》がニュージーランドにいるが、あの男を殺した怪物もそいつとまったく同じだ。目玉をくりぬくために人間一人を殺してしまっておる。まったくむごいことだ。上は天の果てから、下は深淵の海底にいたるまで、この世のものにはたった一つ共通する自然の習性があるようだな――しかもそれが、情け容赦のない残虐さとはなあ」
博士のいう、この深海におけるむごたらしい習性の所在をぼくたちは数々の実例を通して目撃してきた。たとえば、こんなこともあった。あるとき、海底の軟泥の上に、なにか重い樽でもころがして行ったような、おかしなみぞが走っているのを見つけた。さっそく、アトランティス人にそれを指し示して質問したところ、かれらの身ぶり手まねの答えから、おぼろげながらこの足跡を残した怪物の正体がわかってきた。この怪物の名前については、そのアトランティス語特有のきしるような声で教えてくれたのだが、ざんねんながら、この発音はヨーロッパにあるいかなる国の言語にもない音で、それを表記することは、どのアルファベットを使っても不可能だ。たぶん「クリクスチョック」というのが、まずまず、それに近い音であろう。しかし、その外観については、いつでも、あの便利な思考投写機を使うことができたから、非常にはっきりとその明細をつかむことができた。この思考投写機を使ってうつしだされたアトランティス人の心を通してみた怪物の正体は、さすがのマラコット博士でさえも、「巨大なナマコ」と形容するよりほかはなかったほど異形の生物であった。非常に大型の、ソーセージのような体型をしており、その先端に両眼をつけ、全身はかたい毛髪もしくは粗毛のようなものでびっしりとおおわれている。このぞっとするような形を描写しながら、そのアトランティス人は、つよい恐怖と嫌悪の情をその身ぶりにあらわしていた。
ところが、マラコットにとっては――博士の日ごろの性格を知っている人だったらよくわかっていただけると思うが――この身の毛のよだつような姿は、いたずらに、この未知な生物について、正確な生物学上の種や属をきめ、綿密な分類をおこないたいと衝動させる結果しかもたらさなかったようだ。ぼく自身も博士の性格はよく心得ていたから、その次の海底探検の途中、たまたま、同じような足あとを軟泥の上に見つけたとき、かれがその足あとをたどって、海草のジャングルをわけ入り、玄武岩の塊りをよじのぼり、夢中で怪物の追跡をはじめても、べつに大して驚きもしなかった。その平原のはずれに来ると、足あとの溝はそこでとぎれていた。しかし、ふとかたわらに目を転じると、岩々のあいだに天然の峡谷ができていたから、おそらくそこが、この怪物の住みかであろうと思われた。ぼくたち三人は、そのとき、おのおのアトランティス人が平常好んでたずさえる矛《ほこ》を手にしていたが、これから迫り来るかも知れぬ危険に刃向かうには、そんな矛だけではいかにもたよりないような気がしてならなかった。マラコット博士はそれでも、ゆうゆうと歩きつづけるのをやめようとしないので、ぼくもスキャンランも、博士のあとについて前進するよりほか、しようがなかった。ごつごつした岩の間を走るその峡谷は上むきにのびていた。その両側には火山岩塊が巨大な房のようにぶらさがっており、そのあちらこちらに、深海特有の長い赤や黒の薄葉菌鰓類《ラメラリア》が密生して、巨大なたれ幕のような姿を見せている。何千とも知れぬホヤ類や棘皮《きょくひ》動物のたぐいが、奇妙な形態の甲殻《こうかく》類や、原始的な姿態の爬行《はこう》動物たちとともにこの海の牧草地帯を、さまざまの明るい色彩や幻想的な造形の美をほこるかのようにうごめいている。そんなところを、ぼくたちはのろのろと進んで行った。海底を歩くこと自体あまり楽なことではない上に、のぼっている坂道の傾斜がかなり急であったからだ。そんな時、とつぜん、お目あての怪物がその姿をあらわした。しかも、その眺めは、どうひいきめに言っても気味のよいものではなかった。
怪物は、玄武岩がいくつか積みかさなってできたほら穴の|ねぐら《ヽヽヽ》から、にゅっと半身をつき出していた。毛むくじゃらの長いからだが五フィートほど見えたが、その先端に怪物の眼があった。眼は紅茶茶碗の受皿ほどの大きさで、黄色をしており、おはじき玉のようにギラギラとかがやいている。ぼくたちの近づいて行く気配を感じたらしい怪物は、突き出た肉茎《にくけい》にささえられた眼玉をゆっくりとまわした。それから、いとも緩慢な動作で|ねぐら《ヽヽヽ》からはい出て来た。まるで戦車のキャタピラのように、うねうねと全身をのたくらせて前進して来る。ぼくたちの姿をもう一度よく見きわめようとしてか、怪物は一度だけその頭をぐっと持ちあげてみせた。岩からゆうに四フィートの高さにまで持ち上がったと思う。そうやると首の両側に一対の、色といい、大きさといい、筋《すじ》模様のぐあいといい、まったくテニスシューズの波形の裏底のようなものがあるのが見えた。それが、いったい何であるのかはまったくわからなかった。ところが、まもなくその使いかたを身をもって教えられるはめにおちいったのである。
マラコット博士は、決然たる表情を顔上にみなぎらせて、手にした矛《ほこ》を前につき出して身がまえながら前進して行った。この珍奇な生物の生きた標本を目の前にしては、それを何とかして手に入れたいという願望が、恐怖という感情を博士のからだからぬきとってしまったのだろう。スキャンランとぼくはともにあまり自信もなかったが、といって、この老人を見捨てて逃げだすわけにもいかず、博士の両脇に立ってびくびくしていた。怪物はしばらくじっとこちらを見つめていたが、そのうちに、のろのろと、ぎこちないしぐさで坂道を這いおりはじめた。岩々をのそのそと這いぬけながらも、ときどき突き出した眼玉を、つと高く持ちあげては、ぼくたちの所在をたしかめている。しかし、怪物の歩みはとてもゆっくりであったから、ぼくたちは常に一定の間隔をたもつように注意するだけで、安心していた。三人とも、こんなことをしていては、死の瀬戸際に立っているようなものであろうとは、神ならぬ身の知るよしもなかったのだ。
そんなぼくたちにふと警告を与えてくれたものは、まさに天の助けであった。怪物はぼくたちからおよそ六十ヤードほどはなれたあたりを、のろくさと這っていた。そんなとき、たまたま、一匹のかなり大きな深海魚が峡谷の両側に密生する海草のジャングルからとび出して来て、反対側にむかって泳ぎわたろうとしたのだ。ちょうど、ぼくたちと例の怪物との中間あたりまできたときだった。とつぜん、その深海魚はピクッとからだをけいれんさせてとびあがったかと思うと、そのつぎの瞬間には腹を上にむけて、峡谷の底に沈んでゆき息絶えていた。同時に、ぼくたちは、めいめい、この上なく不快な痛みが全身を通りぬけ、膝から力が抜けて行くのを感じた。われらがマラコットは、大胆不敵な心の持ち主であると同時に、きわめて用心深い性格の持ち主でもあった。それで、その瞬間ただちに事態の容易ならざることを察し、この勝負はぼくたちの負けであることを悟ったようだ。ぼくたちが向かいあっているこの生物は、餌食を殺すのに、おそろしい電波を発射するのだ。この殺人光線の前では、ぼくたちの手にする矛などは、機関銃の前の棒ぎれほどにも役立たないだろう。たまたま、さきほどの深海魚がぼくたちよりさきにとび出して来て、怪物の餌食となり、殺人光線の存在を知らせてくれたからよかったものの、怪物がのろのろしているのをいいことに、ぐずぐずしていようものなら、いつかは怪物の体内の蓄電池いっぱいの強い光線を全身にあび、まちがいなくあの世に行っていたことであろう。これからはもうぜったいに、こんなおそろしい魔物には近づくまいと決心しながら、ぼくたち三人は全速力で巨大な深海産電気虫のところから逃げだして来た。
海淵の底には、まだまだ、もっと恐ろしい危険がたくさんあった。とりあえず、その中から次の一つを選ぶとすれば、マラコット博士が「|深海生黒マス《ハイドロップス・フェロックス》」と名づけた、それほど巨大なものではないが獰猛《どうもう》な深海魚であろう。これは大きな口とするどい歯をもった、ニシンと同程度の大きさの赤い魚である。ふつうの状態下にあってはべつに害はしない魚であったが、一たび血のにおいをかぐと――たとえどんな少量の血であっても――ただちに、襲いかかって来る。そしてかれらの襲撃をうけたら最後、もう助かるみこみはないものとかくごをしなければならない。犠牲者はほとんど一瞬のうちに大群をなしておそいかかるこの猛魚たちに食いちらされてしまうからだ。炭坑で一度おそろしい光景を目撃したことがある。一人の奴隷労働者があやまって自分の指を軽くきずつけてしまったのだが、流れ出た血を見た何千とも知れぬこの魚の群れが、間髪をいれず、そこいら中からとび出して来て、その男に食らいついて行った。犠牲者は地に身を投げ、必死に魚どもとたたかったが無駄であった。驚いたかれの仲間たちが、手に手に矛やシャベルをもって魚を追いはらおうとしたがやはりだめだった。その男のガラス質のおおいをつけていない下半身は、われわれのみている前で、かれにとりつき、もぞもぞと動く、生きた雲のような魚の群れに食いあらされ、とけるように消えて行った。一人の男がいたと思った次の瞬間には、白く骨のつき出した赤い肉塊がころがっていた。さらに一分とたたぬうちに腰から下はまったく白骨だけとなり、上半身もあらかた肉をついばまれてしまった骸骨がうらめしそうに深海の底にころがっていた。その光景のむごたらしさには、胸がむかむかしてきた。ハード・ボイルド型のスキャンランでさえも卒倒してしまい、かれを正気にもどすためにほかのものがとんだ大骨折りをしなければならなかった。
しかし、ぼくたちの目にうつった珍奇なものは、必ずしもおそろしいものばかりであったわけではない。そんなものの中に、おそらく永久にぼくらの胸を去らないであろう一つの思い出がある。それはぼくらがしばしばこころみた楽しい海底の散策中におこったことだ。当時、このような海底の徒歩旅行をぼくらは好んでおこなったものだったが、はじめのうちは必ずガイドとしてついて来たアトランティス人たちも、いく日かたって、ぼくらもどうやら自分で自分の世話がやけそうだと見てとると、ぼくたち三人だけで、海底旅行することを容認してくれていた。ちょうど、もうすっかりおなじみになってしまった平原の一隅を通りかかったとき、約半エーカーほどのうす黄色になった砂の部分を発見して意外に感じた。その前にそのあたりを通った時にはそのようなものは目につかなかったから、そのあとで何かを置いたのか、さもなくば、埋まっていた部分をほり起こしたのにちがいあるまい。ぼくたちはそこに立ちつくしたまま、いろいろとその原因を考えてみた。
(やはり海流か地震の結果であろうか。そうすると、いったいどんな海流が、またはどんな地震がこんな働きをするのだろうか)
そのうちに、こんどは、きもがでんぐりがえるほどおどろいた。そのうす黄色の地域全体がゆらゆらと上昇しはじめ、われわれの頭の真上をゆっくりと泳ぎ去って行ったのだ。まったく巨大な天蓋であった。そのかげがわれわれの頭上を通りぬけるのにはじゅうぶんに時計ではかれるだけの時間――おそらく一分か二分だろうが――を要したほどだ。おちついてよくみると、それは巨大なヒラメであった。マラコット博士の観察したところによると、その形態に関するかぎり、われわれが日常の食卓でよくお目にかかったことのある小ガレイと大した差異はなかったそうである。おそらくこの深海の堆積物がこの魚に極度に栄養価の高い食餌を提供した結果、これほどの大きさに成長したのだろうとのことであった。そのお化けヒラメの巨大な、ギラギラ、チカチカとところどころ黄色や白色に光る雄姿はまもなく頭上の暗やみの中に消え、それ以後、一度もお目にかかることはなかった。さらにもう一つ予想だにしていなかった深海現象があった。それは、しばしばおこった竜巻《たつまき》である。これらの竜巻は、定期的に予告もなしに流れこんでくるはげしい海底の潮流によって発生するものらしい。地上の竜巻がその猛風によって被害を及ぼすのと同様に、この海底の竜巻もひとたび到来すると、もう、どうしようもないおそろしさを発揮し、混乱と破壊のかぎりをつくす。
この竜巻による混乱があるからこそ、どちらかというとすべてのものが停滞し、堆積し、その結果として腐敗していく傾向しかない海底にも移動が起こるのだから、見かたによっては、むしろ好ましい自然現象なのかも知れない。しかし、それにしても、この竜巻を体験することは危険であり、あまり気持ちのよいものではない。
ぼく自身がはじめてこの|海の台風《ヽヽヽヽ》につかまったのは、前にお話したことのあるこの海底都市の一貴族マンダの娘モナと海底の散歩をたのしんでいる最中であった。海底都市から、およそ一マイルほどはなれたあたりに、色とりどりの海草で美しくおおわれた土手があった。ここがモナご愛用の庭園でピンク色のセルプュラリア、むらさき色のオフィウリド、赤いナマコ類が渾然とまざりあい、目のさめるような美しさを呈していた。ちょうどこの日は、モナがはじめてぼくにこの庭園を見せるといってつれ出してくれた日で、深海の嵐がとつぜん襲ってきたのも、二人してこの美しい土手に立ちつくしている最中であった。急激に襲ってきた海流は非常にはげしく、ぼくたち二人はたがいに手をつなぎ合って岩のかげにかくれ、かろうじて流されずにすんだ。この体験を通じて、ふと、ぼくは、この急激な海流は、人間がやっと耐えられる程度に高温なのに気づいた。このことは、この深海の竜巻はどこかで火山活動の一環として発生したことを示唆しているような気がしてならない。どこか遠くはなれた海底で爆発した火山で湧きあがった海水の余波が、こうして深海の異常な海流として打ちよせて来るのであろう。
この海流のとつぜんの来襲で、海底平原の軟泥はかきまわされ、まきあげられた泥の粒子は水中に懸濁《けんだく》して、厚い雲のように光をさえぎり、ぼくたち二人のいる周囲はたちまち暗くなってしまった。こうなっては、方角がまったくわからないから、帰路につくことは不可能だ。それに第一、この強い水流にさからって歩くことなど思いもよらぬことであった。そのうちに、いよいよこまったことには、だんだん胸苦しい気分がつのってき、呼吸がむずかしくなってきたことだ。酸素帽の作動が、そろそろ限界に近づいてきたのである。
このように人間が死に直面すると、往々にして心の底にあるつよい原始的な情熱がぱっと表面に浮かびあがってき、小さな感情はすべて底に沈められてしまうものである。すなわち、ぼくも、その瞬間にはじめて、自分がこのいとも優しい同行者を愛していること、それも心と魂の底から愛していること、いや、自分の心の底に深く根をおろし、自分自身そのものの一部となってしまっているような強い愛情をもって愛していることを知ったのだ。こうした愛情のなんと不可思議なことだろう! そして、その愛情を分析することの、なんと不可能なことか! たしかにモナは美しい女だ。しかしぼくの愛情は単に彼女の姿態や美貌ゆえではない。はたまたかつて耳にしたいかなる声よりも妙なるひびきをもつ彼女の声音《こわね》のゆえでもない。さりとて、彼女の思考を読みとるのは、その敏感な、つねに微妙な変化を忘れぬ彼女の顔の動きを通してだけだからとて、精神的な交わりのみから彼女を愛するというのでもない。ぼくをつねに彼女にひきつけているものは、その黒い瞳の底にあるもの、ぼくと同様に彼女の魂の底にある何ものかにちがいない。ぼくは、つと自分の手をのばしてモナの手をにぎりしめた。そのまま、じっと、彼女の顔を見つめ、そこから、彼女自身の従順な心に流れている思考、彼女の頬をバラ色に染めている感情で、ぼく自身のものと異なるものは何一つないことをたしかめた。ぼくのかたわらで直面する死には、彼女自身、なんの恐怖も感じていないらしい。そう考えるぼく自身の心臓は、ごっとんごっとんと、はげしく動悸していた。
しかし、それにしてもこの動悸ははげしすぎる。知らない人は、このガラス質のおおいを上半身につけると何も物音はしないとお考えになるだろうが、実際問題として、ある種の空気振動による震動音は容易にこのおおいを通って聞えてくるし、それが入りこむと、同じような振動をおおいの内部にひきおこすことがあるのだ。しかし、いま自分が耳にしているのは遠方の鐘の音のような、ゴーンという反響音で、心臓の鼓動よりはるかに大きな音だ。ぼくには、この音がいったい何を意味するのか、まるきり見当もつかなかったが、モナにはなにか確信があったようだ。じっとぼくの手をにぎったまま、モナはそっとかくれている岩かげから立ちあがった。それから、しばらく一心に耳をすませていたが、やがて低くかがんで、そのままそろそろとはげしく荒れくるう深海のあらしの中に向かって進みはじめた。まさに死神を相手にした苦しいレースであった。一瞬ごとに、ぼくの胸の圧迫感はつのっていく。ガラス質のおおいごしに、気づかわしげにぼくの顔をのぞきこむモナの可憐な顔をみた。ぼくは、ただ夢中で、よろよろと、モナのみちびく方向へよろめき歩いて行った。彼女の表情や身のこなしから察するところ、彼女のほうの酸素供給状態は、ぼくのほうよりは、いくぶん、ましであるらしい。ぼくは、自然が一動物としての自分に許容してくれた限界まで、こらえにこらえていたが、ふと、身のまわりのあらゆるものが、とつぜん、ふわふわと泳ぎだしたように感じた。ぼくは両手をだらんと投げ出し、ふらふらと海底の軟泥の上にくずれ落ちると、そのまま気を失ってしまった。
気がついたとき、ぼくはアトランティス人たちの住居内部で自分の寝椅子の上に横たわっていた。黄色い衣服をまとった老僧が、ぼくのかたわらに立っている。その手には、なにか気つけ薬らしいものの入った薬ビンがにぎられている。マラコットとスキャンランが心配そうな顔つきでぼくの上にかがみこんでいた。いっぽう、モナはやさしい気づかいを顔いっぱいにあふれさせて、ベッドの足のほうにひざまずいている。どうやら、この勇敢な乙女は、ああした危急の際に道に迷った者を呼びよせるために鐘をたたいている海底都市への出入口を目ざして急行し、どうにか、そこへたどりついたらしい。そこで、モナはぼくの危急を知らせ、救助隊とともに再びぼくの倒れている地点まで引きかえし、救助隊に参加していたマラコットとスキャンランが、自らの手でぼくをかかえてここへ運んで来たとのことであった。こうなってみると、これからさき、ぼくが何をやるにしても、それはまったくモナのやったことにほかならないということになろう。なにしろ、そのときから、ぼくの生命はモナに授けられたものとなったのだから。
こうして、この地上の世界、つまり、空の下に人間の住む世界に奇蹟的な生還をとげ、しかも、そのモナ自身もぼくとともにいる今となっては、じつに珍妙な思い出となってしまったが、つのりくる彼女への愛情から、彼女のすべてが自分のものであるかぎり、永久にでも、この深海に住んでいようと本気で――心の真底から本気で、決心したものである。しかし、ぼくにはぼくとモナとをかたく結びつけているこの深い、深い親愛のきずなが――二人ともおたがいに強くその存在を意識しているはずのきずなが、長い間どうしても理解できなかった。このことについて、予想だにしなかったけれども、ぼくとしては大いに気にいった説明をしてくれたのは、彼女の父マンダであった。
ぼくとモナとの恋愛について、マンダはつねにやさしい微笑をもって見守っていてくれた――なんとなく、かれ自身は、ずっと以前から予期していたものの発生を見まもる人のような、寛大な、なかば楽しみながらことの成り行きを静観する気配の感じられる微笑であった。そんなころのある日のこと、マンダはぼくをかれの自室に呼ぶと、例の思考投写機のスクリーンをたてて、かれの思考と知識を画面にうつしてみせてくれた。そのときマンダがぼくに――そして彼女に見せてくれたものは、おそらく一生涯ぼくの心から忘れられることはない――いや、ぼくの身体からも、一瞬たりと離れることはないだろう。ぴったりと身体を寄せあってすわり、おたがいに手をかたく握りしめ合いながら、ぼくとモナとはかたずをのんで、マンダの思考を見つめたものだ。それは、主として、アトランティス人固有の人種的記憶にもとづく昔がたりであった。
いつとも知れぬ、ある時代に、美しい青海原にぐっとつき出た、岩だらけの、ゴツゴツした半島があった。いままで断っておくのを忘れていたが、この思考投写|映画《ヽヽ》――思いきって現代的な表現をさせてもらえば、やはり一種の映画ということになろう――には、物の形態のみならず、色彩をもうつし出すことができるのだ。この岬の上に、古めかしいデザインの、横幅の妙にひろい、赤い屋根、白い壁の美しい家が一軒建っていた。やしの木立がまわりをとりかこんでいる。この木立の中には軍陣がはられているらしい。木の間ごしに、テントの白いはためきや、いく人かの歩哨兵のものらしい武器のきらめきがちらちらするからだ。木立のかげから一人の中年の男が、ものものしく、甲冑に身をかため、手には円型の楯をかるがると持って歩いて来た。この男は、もう一方の手にも何かを持っているようであったが、はたして、それが剣であるのか、または槍であるのか、ぼくにはよく見えなかった。一度だけかれはぼくたちのいる方向に顔をむけたが、その顔は明らかに、この周囲にいるアトランティス人と同じ種属のものである。いや、じっさいのところ、この男はマンダと双生児ではないかと思われるくらいによく似ている。ただ、画面の男はマンダよりも荒けずりで情にとぼしく、威嚇するようなおそろしい顔つきをしている――たけだけしい獣性にあふれた顔つきだ。しかし、その獣性は決してその男自身の知性の低さによるものでなく、天与の性質から来るものらしい。このようなすぐれた知能と残忍な獣性が一人の人間の中に同居することは大いに危険である。この男の高く秀でた額と始終冷笑をうかべている、口髯のある口もとからは、深い悪意の存在をありありと読みとることができた。マンダの身ぶりから察するところ、この男こそマンダ自身の前世の姿であるらしい。しかし、そうだとすると、心とはいわずとも魂の修養において、現在のマンダはその前世の姿から格段の飛躍をとげているといえよう。
画面の中の男が家に近づいて行くにつれて、一人の若い女がその家から出て来てかれを迎えた。彼女は古代ギリシア人そっくりの服装をしており、ぴったりとからだに合った長い白衣は簡素ななかにも、婦人の考案した服装としては最高の美しさと威厳とを兼ねそなえていた。その若い女がその中年の男に近寄って行くときのそぶりは、いかにも服従と敬意にみちた態度――父に対する従順な娘の態度であったのだが、男はきびしく娘をはねつけ、つづいて、彼女を打つかのように手をふりあげた。娘が男から後ずさりしたとき、陽光がふとかの女の美しい、涙にぬれた顔をとらえた。その娘の顔はまぎれもなく、モナの顔であった。
そこで、銀色のスクリーンにうつし出された画像はいったんぼやけ、あらためて、べつの光景がうつし出された。こんどの場面は、ごつごつした岩にかこまれた海の入江の中の情景だ。ここは、どこか、さきほどみた半島の一部らしい。前景にへさきがとがって高い、みなれない形の小舟が置いてある。夜であったが月の光が、こうこうと海面を照らしていた。空にはぼくら同様、アトランティスにとってもなつかしい星の数々がまたたいている。ゆっくりと、警戒しながら、一そうの小舟が入江にこぎ入って来た。小舟の上には二人の漕ぎ手のほかに、へさきのあたりに坐って一人の黒いマントを着た男がいた。岸辺に近づくと、へさきの男は立ち上がって熱心にあたりをみまわしていた。すんだ月光に照らされて、その男の青ざめた、しんけんな顔がみえた瞬間、言うに言われぬ心の戦慄が、ぼくの全身をつらぬいた。モナがぎゅっとぼくの手の指をにぎりしめ、マンダも短い叫び声を発したのだが、それよりも早くぼくの心はおののいていた。なんと、画面の中で小舟のへさきに立っている男こそ、ぼく自身であったのだ。
そう、ぼくはたしかに現代のニューヨーク、もしくは、現代のオクスフォードに住むサイラス・ヘドレイだ。現代社会のごく新しい産物であるはずの、このぼく自身が、遠い古代に栄えた一大文明社会の一員であったとは、いったいどうしたことだろう。しかし、こうなってみると、自分の身のまわりに散見されるたくさんの記号や象形文字に、ぼく自身がなんとなく親しみを感じた理由もわかるような気がしてきた。何か大きな発見がいつも自分を待ちかねているくせに、いじわるく常に自分の手のとどかないところにいるような気がして、必死に記憶の糸をたどろうとつとめたことが、事実、それまでに何回もあったのだ。また、はじめてモナに出会ったとき以来、彼女とたがいに視線を交わすたびにぼくの魂の深淵に感じるこの動悸。その正体も、いまやはっきりと読めてきたようだ。その不可思議な魂のときめきこそ、一万二千年という長い年月の間、その記憶をかすかながら保ちつづけてきた、無意識の自我が、ぼくの心の底でうちふるえる感激にほかならないのだ。
画面では小舟が岸に着いたところだった。すると、岸からやや離れて、上手にある草むらから見えがくれに一つの白い人かげが出て来た。ぼくは両腕を大きくひろげてその白いかげをだきすくめた。ただ一度のあわただしい抱擁がすむと、画面の上のぼくのかげは、彼女をなかば持ちあげ、なかばひきずるようにして小舟の上にのせた。そのとき、とつぜん、するどい警笛が鳴りひびいたのだ。狂ったようなジェスチャーで、ぼくは漕ぎ手をせかして小舟を出発させる。しかし、おそすぎた。何人かの男たちがバラバラと草むらから群がり出て来た。男たちの手が必死にぼくたちの小舟の舟べりをおさえる。ぼくはそうはさせじと、その手をなぐりつけるが、効果はなかった。一本のおのが空中にひらめき、がっしとぼくの頭にめりこんだ。ぼくのからだはどさりと彼女の上にたおれ、女の白衣はみるみるうちに真紅の血潮でそまっていった。娘の父親が荒々しく、ぼくの死体の下にいる彼女の黒髪をひっつかんでひきずり出そうとし、女は目を大きく見ひらき、口を大きくあけて、悲鳴をあげる。と、そこでこの場面は終ってしまった。
銀色のスクリーンの上に、ふたたび画像がちらついた。ここは、かの賢明なアトランティス人の指導者が、運命の日にそなえて、あらかじめ建設した避難所の内部だ――つまり、今、ぼくたちが立ってスクリーンをみつめている建物そのものの内部だ。大災厄の瞬間に、収容された人々があたりにむらがり、恐れおののくさまを見た。ここにも、ふたたび、モナがいた。彼女の父親もいる。この前の事件のあとで、父親も多少は修養をつんで、正しい生き方に専念したおかげで、こうして救われる人々の中に加わることができたのだ。大きな広間が、まるで嵐にあっている船上のようにゆれ動き、恐怖にかり立てられた人々が、思い思いに円柱にしがみついたり、床の上にほうり出されたりしている。そのうちに、室内全体が大きくかたむき、波間を深く深く墜落して行った。そこで、この場面も消えて行った。ふと気づくと、マンダがこれで物語は終ったといわんばかりに、おだやかな微笑をうかべて、ぼくたちのほうをふりかえっていた。
そうだ、われわれはみな、マンダもモナもぼくも、現在あるこの姿で生れて来る以前に生きていたことがあるのだ。おそらく、これからも、働き合い、あるいはその働きをうけ合って、相互の生命の連鎖につづいて行くことだろう。前世において、ぼくは地上の世界で死んだ。それゆえに、その後におけるぼくの生れかわりも、地上の世界で行なわれてきたのだ。マンダとモナは海底の生活をおくったのち、海底の世界で死んだ。それゆえにこそ、宇宙不変の運命も、かれら二人に関しては、ここ、海底の世界において働いてきたのだ。一瞬、大自然の大きな黒いベールの一端がほんの少し持ちあげられ、われわれをとりまく神秘の謎の真ん中にちらりときらめく真理の光をかいまみたような気がした。各個人一人一人のこの世における生涯は、神の編集したもうた一巻の物語の中では、ほんの一小節にしかすぎないのだ。だから、ある個人の人生が、はたして賢明なものであったか、または、正しいものであったかなどを判断することは、いつか最後の審判の日が来て、長い〈時〉の記録すべてをあらためて読みとおすとともに、働きかけまた働きかけられて、連綿とつづいてきた因果応報を、最高の知識をもってふりかえり調べてみないかぎり、不可能なのである。
だから、このときはじめて知ったぼくとマンダ父娘との喜ばしい因果関係は、もし前もって知っていれば、それから数日後に、ぼくたち地上人三人と、ここの海底人たちとの間に起こった諍《いさか》いから、ぼくら三人を救ってくれたかも知れないのだ。しかし、残念ながら事実はそううまくは行かず、もし、その直後により重大な事件がおこって、みんなの注意がそちらにそれてしまい、しかも、うまいぐあいに、ぼくたちの働きがかれらの役に立って、みなの賞讃を得たという偶然がなかったら、ぼくら三人とアトランティス人たちとの関係はどうしようもなく悪化してしまったであろうほど、悪い立場においこまれる結果になってしまった。まずは、その一部始終を初めからお話しすることにしよう。
ある日の朝――毎日の仕事を基準にして、かろうじて自分なりの時間を計算しているこの昼夜もない海底で、朝という言葉が使えるものとしての話だが――マラコット博士とぼくは、ぼくたち三人のために特に与えられた大きな共同部屋の中にすわっていた。博士はこの部屋の一隅をかれ専用の実験室に改造して研究のために使っていたが、この日もそこで前日に捕獲しておいた胃口類をせっせと解剖していた。その机の上にはすでに、異脚類や橈脚《とうきゃく》類の小間《こま》ぎれや、切りくずが、ヴァレラ、董菜貝《とうさいがい》、カツオノエボシなどの標本とともにごちゃごちゃと散乱していた。その外形はともかく、混じり合ってただよう異臭たるや、いかに努めても、なじめない代物であった。ぼく自身は博士のかたわらの椅子に腰をおろして、一心にアトランティス語の文法を勉強していた。アトランティスの友人たちが、一見羊皮紙のような感じの紙に印刷した書物をたくさん持っていたので、借りて来たのだ。文字は、右から左へと書いていく奇妙なものだった。しかし、いざ手にとって、よく調べてみると、羊皮紙のように見えたものは、魚の浮袋を押しのばして加工したものである。あれやこれやとこの世界で目につく未知の知識をわがものとするための扉のカギを、真剣に探しまわっていた矢先にあったぼくは、ひまさえあれば、アトランティス語のアルファベットやら基礎文法やらと取り組んでいたものだ。
ところが、ぼくと博士との静かな勉強は、とつぜん、部屋の中へくりこんで来た思いもかけぬ人々の行列によって、乱暴に中断されてしまった。行列の先頭にたっているのはビル・スキャンランで、満面朱をそそいで興奮し、一方の腕をぐるぐると空中でふりまわし、他方の腕には、おどろくなかれ、まるまるとふとった赤んぼうをかかえているのだ。赤んぼうは、そうぞうしく泣きわめいている。スキャンランのあとからは、先日かれがラジオ受信機を組み立てた際に共同して仕事をしたことのあるアトランティス人の親友バーブリックスがつづいて入って来た。平常のバーブリックスは、柄が大きいだけに陽気な性質の持ち主であったのだが、この時ばかりは、どうしたわけか、その人なみはずれて大きな顔いっぱいに深い悲嘆の色をみなぎらせている。バーブリックスのあとにつづいているのは一人の女で、その麦ワラ色の髪や青い目は、古代ギリシア人の血をひく被支配階級の人間であることをあらわしていた。
「ねえ、先生、きいてくれ」興奮したスキャンランが大声で叫んだ。
「このバーブリックスという野郎はね、ごく気のいいやつなんだが、こんどは、とんでもない、馬鹿野郎にされようとしているんですよ。それに、やつの女房のこの女もひでえめにあおうとしているんだ。こうなっちゃあ、このおめでたい二人が、せいぜい損な扱いをうけねえように、めんどうみてやるのは、おれたちの責任だと思うんだ。おれの聞いた話のぐあいじゃ、どうやらこの女はこの世界じゃ南部の黒人《ニグロ》みてえな立場にあるらしい。その女をつかまえて、この野郎は、なんだかんだとうめえことをいってくどきやがったんだ。もっとも、そんなことは、おれたちには、あんまり関係はねえ」
「そうさ、そんなことは、もちろん、バーブリックスの個人的な問題で、ぼくたちの出る幕じゃないよ」と、ぼくが答えた。「いったいぜんたい、きみは何をそんなに怒っているのかね、スキャンラン?」
「じつはね、先生、きいてくれ。まあ、そういったわけで、まもなく、この赤んぼうが生れた。ところが、ここのやつらは、どうしても、そんな混血児を生ませない方針らしいんだな。それで、この坊主たちがよってたかって、この赤んぼうをあのけたくその悪い魔像の|いけにえ《ヽヽヽヽ》にしようとしてやがるんだ。くそ坊主どもの親玉がこの赤んぼうをひっつかんで、神殿へつれて行こうとしやがったところを、たまらなくなったバーブリックスがとりかえした。だから、おれもやつに加勢して、その坊主をぶん投げてやったというわけだ。そしたらこいつらがぞろぞろとおれたちのあとをくっついてきやがって――」
スキャンランの説明はここでひと休みせざるを得なくなった。さわがしい叫び声とともに荒々しい足音が通路のほうから聞こえてきたのだ。と思うまもなく、部屋の出入口の扉がものすごい勢いであけはなされ、例の神殿の従者らしい黄色の服をまとった数人の男たちが、部屋のなかに突入して来た。そのあとから、はげしい、残忍な目つきをした、鼻の高い、いかにも手ごわそうな僧侶が入って来た。かれが手で合図すると、従者たちがバラバラと寄って来て、スキャンランの手から赤んぼうをとりあげようとした。それをみるや、スキャンランは、赤んぼうを博士の机の上の動物の標本類などでごちゃごちゃしているあたりに置き、一本の矛《ほこ》をとりあげて、敢然と追手に立ち向かう身がまえをしたので、従者たちも思わずひるんだ。ところが、従者たちは手に手にナイフをかざして、ふたたびスキャンランに迫って来た。ぼくも捨ててはおけず、かたわらにあった矛を手にとると、スキャンランの助太刀にまわった。バーブリックスも同じように味方の戦列に加わった。少人数ながら、われわれの形相はいかにもものすごいものだったらしい。神殿の従者たちはじりじりとあとずさりをはじめ、形勢は睨み合いになってしまった。
「なあ、ヘドレイさん。あんた、ちっとはやつらの言葉がしゃべれるんだろ?」身がまえたまま、スキャンランがさけんだ。「ひとのものを取るのは、そうやさしいもんじゃあねえってことを、やつらにいってやってくれよ。今日のところは、どうあっても赤んぼうはわたせません、ご苦労さまでしたって、やつらにいってやってくれ。早いとこ、この部屋から出て行かねえと、ここは地獄の一丁目になりますよっていってやってくれ。そうれ、ざまあみろ。てめえのほうが欲しがったんだ。せいぜい、痛い思いをするんだな。さぞかし、ご満足だろうよ」
このスキャンランのせりふの最後のほうは、こっそりとスキャンランの背後にまわりこみ、かれを突きさそうとナイフをふりかぶったところをマラコット博士に見つかり、博士が魚の解剖用に使っていたメスで片腕をプッツリとさされた一人の従者にむけられたものである。腕をさされた男は、恐怖と痛みに低くうなり声をあげながら、キリキリ舞いをしている。いっぽう、その仲間たちはくだんの老僧侶にせきたてられ、いっせいに、われわれめがけてとびかからんと身がまえた。ちょうどそのとき、マンダとモナが部屋に入ってこなかったなら、いったい、それからどんなことが起こっていたか、まるで予想もつかない状態だった。マンダはこの光景に目をみはり、ただちに、親玉の老僧をつかまえて矢つぎ早に、質問をあびせかけた。それからモナは、ぼくのかたわらへ寄って来たので、ぼくは救われた気持ちで、机の上の赤んぼうをとりあげ、モナの腕の中にだかせた。赤んぼうは、彼女の腕の中で満足そうにあまえはじめた。マンダのまゆはすっかり暗くくもり、さすがのかれも、いかに事態を処理するか、まったく途方にくれたようすであった。ひとまず僧侶とその従者たちをなだめて神殿へ返すと、ぼくに向かって長々と説明をはじめた。しかし、ぼくのアトランティス語の知識は、まだ、きわめて乏しいものであったから、ぼくは、かれの話のほんの一部だけを、とびとびに理解して、自分の仲間たちに伝えた。
「赤んぼうは渡すことになった」と、ぼくはスキャンランに伝えた。
「わたすって! とんでもねえ話だ。だれがわたしてなんかやるもんかい」
「この人が」と、モナを指して、「母子ともども面倒を見てくれるんだ」
「ふうん。それだったら、また話もちがってくるな。モナさんが世話をしてくれるというんなら、おれのほうも手をひいてもいい。だけど、もしあのこじき坊主めが――」
「いや、いや、あの坊主たちには指一本ふれさせないそうだ。もちろん、貴族会にはかってからの話だが。これは生やさしい問題じゃないそうだよ。マンダの話では、ここの僧侶は強い特権をもっているし、それに、いま、やつらのやろうとしたことは、長い間、この国で行なわれてきた習慣なんだそうだから。かれの話では、もしそのような混血児ができた場合、上部階級と下部階級との間の区別がつかなくなるというのが、その根拠らしい。だから、ちがう階級の男女の間に生れた子供は殺すというのが、この国の法律なんだそうだ」
「ふうん。でも、とにかく、この赤んぼうは殺さねえというんだな」
「殺さないと思うね。さしあたっては、貴族会の決定を待たなければならないが、マンダは赤んぼうを生かすよう最善の努力をしてくれるそうだ。貴族会が開かれるのは、一週間か二週間先のことらしい。だから、とにもかくにも、それまでは無事だというわけだ。そのうちに、またどんなことがおこるやら知れたものではないが」
そう、何がおこるか知れたものではなかった。何がおこるのか、予測したものもいなかった。次章にご紹介する大冒険も、すべて、こんな調子ではじまったのである。
7
すでにお話したと思うが、アトランティス人たちの祖国のあった大陸を陥没させた、あの大災厄をあらかじめ考慮にいれて設計された海底の住居からあまりはなれていない地域に、かつてはかれらの現在の住居がその一部を成していた大都会の廃墟があった。また、頭から例のガラス質の酸素帽をかぶせられて、この大都会の廃墟の見学につれて行ってもらったこともすでにお話したと思う。そのとき廃墟をつぶさに訪問して抱いた深い感慨を、なんとか表現しようと苦労したこともあるような気がする。
深海堆積物の発する怪奇な灰色の燐光に照らされて、硬直した死体のように、しーんと静まりかえって建っている壮大な旧跡、巨大な彫刻された円柱、雲つくような建物の群れが、あいよって醸し出す、すさまじい印象は、とても言葉などでいいあらわせるものではない。廃墟には、深海の潮流に洗われる巨大な海草の葉のゆうゆうたるそよぎ、ぱっくりと大きな口をあけて開いたままになっている戸口や、調度をいっさい流されてしまった裸壁の各部屋の間を、ちらちらと泳ぎぬける巨大な魚類のかげのほか、動くものとてないのだ。アトランティスの友人マンダに案内されて、この廃墟を歩きまわり、少なくとも物質知識の点においては現代のわれわれをはるかにしのぐ発達をとげていたとみられるこの滅亡せる文明の奇妙な建築物その他の遺品をしらべてまわることは、ぼくたちにとっても、かぎりない楽しみであった。
いま物質知識とぼくはいったが、精神文化の面においては、彼我《ひが》の文明を分けへだてる大きな断層があることを、まもなく知らされたのだ。古代アトランティス文明の興亡の歴史を辿ってみてぼくたちの得た教訓は、一国最大の危機は、その国の知性が魂の働きを凌駕するほど発達したときに訪れるということだ。まさにこの理由でアトランティスの偉大な文明は破壊されてしまった。現代のわれわれ自身の世界においても同じことがおこらないとは誰が保証できようか。
この古代都市の廃墟の中に、かつては小高い丘の上に建っていたらしく、今でも全体の水準よりはかなりぬきんでて建っている一つの大建物があった。海底面からは、はばの広い黒大理石の階段が長くつづいて、建物の入口にわれわれを導く。この黒大理石は建物内部のほとんどの部分の仕上げにもつかわれていたが、かつては美しく輝いていたであろうその大理石も、いまや天井や壁からぶらさがっている、不気味な黄色の菌類や|もこもこ《ヽヽヽヽ》とふくれあがった腐肉のかたまりにかくされて、ほとんど見えない。正面の大扉の上には、やはり黒大理石の素材に、無数のへびがめらめらと放射状にとりついている、メデューサの首に似たおそろしい彫刻がほどこされている。このおそろしい模様の彫刻はほかにもあちこちの壁に、いくつもあった。ぼくたちはそれ以前にも何回かこの不吉な建物を探検してみたいと思ったことがあったのだが、ぼくたちがそうしたいと言い出すたびにマンダは非常に狼狽して、はげしいジェスチャーでやめてくれと答えるのが常であった。だから、マンダが同行しているかぎり、その内部に足をふみ入れることの不可能なのはわかっていた。それでも、不気味な場所の秘密を探ってみたいと思うぼくらの好奇心はつのる一方であった。そこで、ぼくたち――ビル・スキャンランとぼくの二人は、ある朝ひそかに作戦をねったものだ。
「おれのみるところじゃ」と、スキャンランがいった。「あそこには何かあのおっさんがおれたちに見せたがらねえ代物があるにちがいない。しかし、やつらがそうやってかくせばかくすほど、こちとらは、なんとか知恵をしぼっても見たくなるのが人情ってものだ。近ごろじゃ、おれにしろ、あんたにしろ、もうあそこらへんを歩くのにやつらの案内はいらねえ。なんのことはないやね。例のガラスの|しゃっぽ《ヽヽヽヽ》をかぶって、やつらがやっているのと同じように、出入口から歩いて出ればいい。二人だけで出かけて行って調べてみようよ」
「いいとも」スキャンランに負けず劣らず、強い好奇心を持っていたぼくは、二つ返事で同意した。ちょうど、その時、マラコット博士が入って来たので、かれにもたずねてみた。
「先生はいかがですか。よかったら、いっしょにいらっしゃって、あの〈黒大理石の宮殿〉の神秘を解いてみるつもりはないですか」
「うむ。あれは〈黒魔術の宮殿〉であるかも知れんしな」と博士はこたえた。「きみたちは、いままでに、〈黒面魔王〉の話をきいたことはないか?」
残念ながら初耳だとぼくはこたえた。読者の中にはまだごぞんじでない人がいるかも知れぬが、博士は比較宗教学や古代原始信仰の研究においても、世界的に著名な学者なのである。だから、はるかに遠い昔のアトランティスの宗教でさえも、博士はじゅうぶん研究しつくしているはずであった。
「アトランティスにおける宗教事情に関するわしたちの知識は主としてエジプトを通って伝えられたものだ」と博士はいった。「サイス寺院の僧侶たちがソロンに語ってきかせた説話をもとにして、後世の人間どもが、いろいろ、あることないことの尾ひれをつけたものが、わしらに伝わってきておるわけだ」
「それで、いったいその大昔の何とかいう坊主どもがのたまった話とは、どんなものだったんです?」スキャンランがたずねた。
「うむ。いろいろある。だが、とにかくそのなかにこの〈黒面魔王〉にまつわる伝説も含まれておるのだよ。どうも、わしは、この〈黒面魔王〉が、あの〈黒大理石の宮殿〉の主であったような気がしてならぬのだ。なかには〈黒面魔王〉というのは一人だけではなかったというものもいるが――いずれにせよ、記録に残っているのはこの一人だけなのだ」
「それで、いったいぜんたい、そいつは何者なんです?」
「うむ、いろいろの説がある。どの説にも共通していることは、この魔人は力においても邪悪の度合においても、人間以上であったらしい。そもそも、かのアトランティス大陸が海底に陥没するという一大災厄をまねいたもとも、もとはといえば、この魔王の邪悪さと、かれが人間どもの間に植えつけた道義の頽廃とのおかげだといわれているくらいだ」
「まるで、ソドムやゴモラみたいですね」
「そのとおりだ。ものごとには、すべて、限度というものがあるだろう。こうした人間どもの頽廃ぶりには、自然の神といえども、堪忍袋の緒を切ったというわけだよ。神にとって残された道はただ一つ、腐敗しきった世界を破壊してしまってすべて新しくやりなおしをさせようということだけだった。この|けだもの《ヽヽヽヽ》は――これほどの悪いやつはとうてい人間《ヽヽ》とは呼べんから――ひそかに不浄な技術を買いあつめ、普通の人間たちにとても真似のできないような魔力を手に入れた。しかも、こいつは、その魔力を、神意にそむく邪悪な目的にのみ使いおった。これが、わしの聞き知った〈黒面魔王〉の伝説だ。〈黒大理石の宮殿〉がこの魔王の棲家であったとすれば、人々が今もなお、その宮殿をおそれ、わしらをも近づけまいとする気持ちもよくわかってくるだろう」
「しかし、ぼくは、そのお話をきいて、ますます、あの宮殿を調べてみたくなりました」ぼくは思わず正直に叫んだ。
「おれもだ」とビルも唱和した。
「ふむ。いかんながら、このわしもその探検に興味ありと白状せねばならんわ」博士もいった。「そこいらのアトランティス人たちは単なる迷信からわしらに行くなといっとるのだろうから、わしらだけで、いささか探検してみたところで、かれらに迷惑がかかることもあるまい。わしらだけで機会をとらえて、こっそり調査してみよう」
しかし、その『機会』がやって来るまでには、少々時間がかかった。この海底都市の住人たちはおたがいが非常に緊密に結びつき合っているので、日々の生活にも個人的な時間をもつことが、わりと少ないのだ。それでも、ついにある朝のこと――いつもいうように、ぼくたち三人の見当だけで、大ざっぱに昼夜をわけ、暦をきざんでいるのだが――待望の『機会』が到来した。その朝は、なにか重大な宗教上の儀式があるらしく、すべての人がそれに参加することになっており、かれらの注意も必然的にそちらに向いていた。ぼくらにとってこんないい機会はまたとあるまい。出入口の排水ポンプ係りの二人の守衛をうまいこといいくるめたぼくたちは、どうにか、三人きりで、海底に出ることができた。あとは、もちろん、いうまでもなく、例の廃墟へと急行するばかりである。しかし、気がせけばせくほど、海の塩水は重く、ぼくたちの足どりは、なかなかはかどらない。ほんのちょっと歩いても疲れてしまう。それでも、どうやら、小一時間も歩くうちに、とうとう、ぼくらの興奮と好奇心をつのってやまない巨大な黒い建造物の前に立っていた。今日は、いつも、うるさく世話を焼いてくれる案内人がいないのをいいことに、どんな危険が待ちかまえているのか、ろくろく考えもせずに、ぼくたちは、ずかずかと大理石の階段を昇って行き、巨大な彫刻をほどこした表玄関を通って、邪悪の宮殿へと足をふみ入れた。
この建物はこの廃墟都市のほかの建造物にくらべると、はるかによく保存されていた――まったく、ふしぎなくらいよく保存されていて、家具、掛け物のたぐいが朽ちはてて、だいぶ以前にどこかへ行ってしまったほかは、石の骨組みや壁などは、ぜんぜん変形していない。朽ち果ててしまった人造の掛け物にかわるに、自然はいとも立派な掛け物をつけてくれていた。ただし、こちらのほうは、いささか気味の悪い掛け物である。どうひいき目にみても、このうすぐらい部屋が気味の良かろうはずはない。しかも、その不気味な薄暗がりの中には、奇怪な感じの形をした化け物のような小水生動物《ポリプ》たちや、グロテスクな不具者のような魚類がじっとうずくまっていて、まるで、悪夢のような雰囲気をかもし出している。とりわけ、ぼくがいまだに忘れられないでいるのは、ぞっとするような紫色のナマコで、そいつらがうじゃうじゃと大群をなして、はいまわっていた姿と、床の上に、ぺたんとまるで黒い敷物のようにはりついていた巨大なヒラメで、そいつは何本もの長い触手をからだの上にたてて海流にもてあそばせ、まるで冷たく燃えさかる炎のようにゆらゆらと波うっていた。一歩一歩、用心ぶかく足を踏みださないと、いたるところにうじゃうじゃとひそんでいる見るも恐ろしい生物を踏みつけてしまう。それらは、外見がいやらしいばかりでなく、とんでもない毒を体内にもっているかも知れないのだ。
豪華に装飾をほどこされた通路が何本かあり、それぞれいくつかの小部屋へと通じていた。しかし、建物の中央部は壮大な大広間に占められている。こんな廃墟と化す以前は、おそらく人間の手になったものとしては史上その例をみないほど華麗な部屋であったのではあるまいか。この薄暗い光では、この広間に立っただけでは天井も左右の壁も見通せなかったが、ランプをかざしながら、ぐるりと室内を一周して歩いてみると、部屋の壮大さや、壁にほどこされた装飾の精巧さは、だいたい想像できた。これらの装飾は、主として彫像やさまざまな飾り彫りから成っていた。どれもこれも、最高の技術で作られた、すばらしい芸術品だ。しかし、それらの主題はいずれ劣らず、身の毛のよだつような、いまわしい感じのものばかりだった。どれもこれも、どん底まで堕落しきった人間の心でしか考えうかばないような嗜虐的な残酷《サド》行為や、獣的な性欲をそのまま壁画にうつしかえたようなものばかりだった。
薄暗がりをすかして見ると、ぼくたちの周囲はどちらを向いても、怪奇な画像や不気味な夢がとりかこんでいるのがわかった。もし悪魔が自分の名義で寺院を建立するとすれば、こここそ、まさにそれであろう。そういえば、ここには悪魔自身も、ぬけめなく鎮座ましましている。広間の一角に、かつて黄金色に燦然として輝いていたのであろうが、今や色あせてしまった金属の天蓋におおわれた、赤大理石づくりの玉座に、すさまじい形相の神像がすわっているのだ。この神像はいつぞやアトランティスの住居の中にある神殿でお目にかかったことのあるバール神の像と同じ系統に属するものらしく、見るからに、邪悪、野蛮、威圧、残忍の権化そのものといった風貌をそなえていた。しかし、よく見ると、こちらのほうが、アトランティス神殿にある像よりも、はるかに異様で不気味である。その恐怖をそそらずにはいない顔つきからは、とてつもなく強大な精力の存在が感じられ、不可思議な感応力を発揮していた。その力に催眠されてか、いつのまにかぼくたちは、ランプを手にさげたまま、ぽかんとして黙想にふけっていた。その黙想のさなかに、とつぜん、信じがたい、驚くべきことがおこったのである。
ぼくたちの背後から、愚弄するような、人間の笑い声が高らかにきこえてきたのだ。すでに何回も話したように、こうして海底を歩いているのである以上、頭部は、もちろん、あのガラス質の酸素帽でおおわれているのだから、外部からの音色を聴くことも、内部から音声を発することもできないはずであった。それにもかかわらず、この高らかな嘲笑は、うたがいなく、ぼくたち一人一人の耳に、じかにはっきりと、聴こえてくるのだ。ぼくたちは、とびあがって驚き、あわててあたりを見まわしたが、自分たちの目の前に展開しつつある光景を見て、ふたたび、唖然として目をみはった。
広間の中にある一本の円柱にもたれかかるようにして、一人の男が立っていた。その男はじっと胸の上で両腕を組み、悪意にみちた視線を、まるでぼくたちを焼きつくすかのようにはげしく、こちらにそそいでいた。いま、ぼくはこいつを一人の男と表現したが、しかし、実のところ、そいつは人間とは、まったく似ても似つかない存在であった。尋常の人間ならば、呼吸のできない海底で平然と呼吸をし、普通の人間ならば、話すことなどできない場所で、ゆうゆうと話しだしたということは、この男が、明らかに尋常の人間とは異質の怪物であることをあらわしていた。外見は、非常に堂々として身の丈《たけ》およそ七フィートあまり、筋骨りゅうりゅうとして、いかにも運動神経の発達した、たくましい身体つきである。このことは、この男が、からだにぴったりと密着する衣裳をつけていたから、よく観察できた。その衣裳は、どうやら、黒光りのする|なめし皮《ヽヽヽヽ》で作られているらしい。かれの顔は、まるで青銅《ブロンズ》の彫刻のようだった――人間の顔が表現し得るかぎりの、あらゆる力と、あらゆる悪とを描写せんがために、最高の技術をもって作りあげられた彫像――まさに、そんな感じであった。それでも、この怪物の表情には慢心とか官能の陶酔とかいったものはなかった。そんなものは、結局、弱さを暴露する以外の何物でもないのだ。ところが、この怪物には、弱さなどみじんもなかったのである。それどころか、ワシのようにきつい鼻梁、黒く太い眉、内心に燃える火で、めらめらと、あるいは、ぎらぎらとかがやく、いかつい黒い瞳と、どれをとっても、男性的な鋭さと明快さにあふれていた。そんなかれの顔に、おそろしい要素を加えるものは、残忍な悪意にみちた眼と、まるでその運命を暗示するかのように真一文字にかたくむすばれた、美しいが冷酷な口もとにほかならない。この怪物をみていると、だれでも、その目の動きは脅迫と、ほほえみは冷笑と、笑い声は嘲笑と感じないわけにはいかないのだ。見た目は威厳にみちて立派だが、その内面は、骨の髄まで邪悪の情にみちみちていることに気づかずにはいられなくなる。
「さあ、諸君」と、まるで、ぼくたち自身、地上の世界に帰ったのではないかとうたがうほど明瞭な声調の、立派な英語を使って、その怪物は話しかけてきた。「諸君らは過去において非凡な冒険を重ねてきたし、これからもさらに心高鳴るすばらしい冒険を重ねて行くつもりだろう。もっとも、そろそろ、ここいらへんで、あなたがたの冒険絵巻も急転直下、全巻の終りということにしてさしあげようというのが、このわたしの、いとも楽しいつとめなのだがね。どうもこうしてわたしのほうからばかり一方的に話しかけていると、諸君は不満に思うかも知れぬが、さいわい、わたしは諸君の心はのこらず読みとることができるし、それに諸君の身の上についても完全な知識をもっているから、あえて、諸君が口を開く労をとらずとも、その言い分を誤解することはない。それにしても、諸君が知らなければならぬことは、たくさんある――じつにたくさんあるのだ」
ぼくたち三人は、救われない、驚きにみちた思いで、おたがい同士、顔を見あわせた。このおどろくべき事件のなりゆきに対して、自分たちはどう行動すべきか、おたがいに意見を交換して話し合うことのできないでいることは、まったくつらいことであった。そのとき、ぼくたちの耳には、ふたたび、あの心をいらだたせる嘲笑がひびいてきた。
「そうだ、まったく、つらいことだ。しかし、自分のねぐらに帰りついたあとで、いくらでも話し合うことはできる。わたしとしては、諸君を無事に帰してやるつもりでいるのだ――わたしからの伝言を持たせてね。伝言を持たせてやる必要がなければ、ここに足をふみ入れたことは、諸君にとっては死を意味することであったのだがね。まあ、それはさておいて、まず最初に、少しばかり諸君に話しておきたいことがある。いちおう、わたしはマラコット博士、あなたにむかって話すことにしよう。このなかではあなたが一番年長だし、もっとも賢明そうだから。もっとも、こんな場所に足をふみ入れること自体あまり賢明な者のやることではないのだがね。わたしのいうことはよくきこえているね? よしよし。あなたは何もいうことはない。ただ、うなずくなり、首をふるなりするだけでじゅうぶんだ。
もちろん、あなたはわたしのことをよく知っているはずだ。しかも、あなたがわたしの存在に気づいたのは、つい最近のことだろう。わたしに気づかれないように、わたしのことについて考えたり、話したりすることができる者は、この世に一人としていないはずだ。だれかが、このわたしの懐かしのわが家、わたしの心の奥底をまつる神殿に入れば、わたしはかならずここに呼び寄せられることになっている。それゆえにこそ、いまだにこの海底に住みつづける、あのあわれなやつらがここへ来るのを忌《い》み、あなたがたにも入るなと止めたのだ。あなたがたにしたところで、かれらのいうところにしたがって、こんなところへ足をふみ入れないほうが賢明であったろう。あなたがたが、わたしをここへ呼びよせたのだ。しかも、ひとたび呼びよせられた以上、わたしは簡単には立ち去らぬつもりだ。
ほんの一つまみほどの地球上の科学とやらを身につけたあなたの心は、わたしがもたらした問題を、あれやこれやと考え惑っている。酸素もなく、わたしがこの海底で生きていられるのは、いったいどうしたわけなのだろう? いいか、わたしは、ここに住んでいるのではないのだ。わたしが住んでいる場所は、太陽の光の下の、人間どものいる大きな世界だ。ちょうどいま、諸君が呼んだように、だれかが呼んだときにだけ、わたしはここへやって来るのだ。しかし、わたし自身はエーテルを呼吸する生物だ。エーテルは、この海底にも山の頂上にも同じように存在する。あなたがたと同種類の人間たちでも、少数の者は空気なしでも生きられるようだ。たとえば、強直症患者《キャタレプティック》は数か月間、呼吸をせずに寝ていることができるはずだ。わたしは、ちょうど、その強直症患者のようなものだ。ただし、わたしの場合はいま見るとおり、ちゃんと意識もあり、動きまわることもできる。
さあ、こんどは、いったいどうして、わたしの話があなたの耳に聴こえるのだろうかという問題だ。エーテルから空気へと変形するもの、これこそ、無線通信の精髄ではないだろうか? わたしの場合もまったくそれと同じように、自分の言語をエーテルを使っての発声から、あなたがたの、そのむさくるしいかぶりものの中にいっぱいつまっている空気を通してあなたがたの耳に与える衝撃へと変形させているのだ。
わたしの英語はどうしたわけか、だと? うむ。けっこう立派な英語だろう? ある期間わたしは地球上に住んでいたことがあるのだ。そう、うんざりするほど退屈で、つまらない時間だった。どのくらいの長さの時間か、だと? 今年で一万一千年めだったかな、いや、それとも一万二千年めだったかな。たぶん後者だろう。とにかく、わたしには、あらゆる種類の人間の言語を学ぶだけの余裕があったのだ。わたしの知っているほかの言語にくらべると、わたしの英語はそんなにうまいほうではない。
これで、いくらかは、あなたの心の疑問を解いたことになるかな? そのとおりだ。あなたがたの言うことは聞こえなくても、このわたしにはよくわかるのだ。さて、ところで、いよいよ、ごく、まじめな話がある。
わたしの名はバール・シーパ。世にいう〈黒面魔王〉だ。〈自然〉の内奥の秘密を奥深くきわめ、〈死〉そのものでさえこの身には無力のものと化した者こそ、このわたし自身だ。万物を制御するようになった結果、自分がその気になりさえすれば、死ぬこともないようになった。死ぬことがあるとすれば、それはわたし以上に強い意志の持ち主が出現したときであろう。しかし、寿命のある人間どもよ、ゆめゆめ、死をまぬがれたいなどと祈るのではないぞ。命数にかぎりある生をおくることは、一見ひどく無情のように思えようが、永遠にはてることのない生は、それにもまして苦痛の多いものなのだ。来る日も来る日も、終ることを知らぬ人間の営みのくりかえしをはた目に眺めながら、つきることのない生命の泉をくみつづけるのだぞ! 常に歴史の路傍に坐りつづけ、常に前進することをやめぬその歩みを、もくもくと見送りつづけ、自分はいつもあとにとり残されつづけるのだぞ! わたしの心がどす黒く苦汁にみち、死ぬことのできる奴らのおろかな衝動を呪いつづけるのに何の不思議があろうか。
できるかぎり、そいつらを傷つけ、苦しめてやる。むりもないことだろう?
どうやって、やつらを傷つけ、苦しめるのかと、あなたの心はいぶかっている。わたしにはすぐれた力がある。ところが、やつらには、ほんの小さな力さえもないのだ。わたしは人間の心を自分の思いのままにあやつることもできる。群衆を暴徒にするのだ。邪まな計画のあるところに、このわたしのいなかったためしはない。フン族がヨーロッパを半ば破壊しつくした時、わたしはそのフン族の中にいた。サラセン民族が、宗教の旗のもとに、己に反抗するものに剣をもって報いた当時も、わたしはサラセンとともにいた。聖バルトロメオ祭の夜にも、わたしは出かけて行った。奴隷売買の糸もわたしがひいていたのだ。わたしがそっと耳うちしたひとことが、おろかなやつらに、一万人ものしわくちゃ婆どもを魔法使いと信じさせ、焼き殺させた。パリの街路を血でみたした暴徒の群れを率いた背の高い色の黒い男は、このわたしだ。近ごろはどうもこのような血なまぐさいことも少なくなり、腕をこまねいていたが、うまいぐあいに最近、ロシアでなかなか面白いひと騒ぎがあった。じつは、いまのわたしは、ちょうど、そこから飛んで来たところなのだ。この深海の底で、史上例をみないほどの繁栄を誇ったかの大大陸文明の技術と伝説を少しばかり受け継いで、こそこそと泥の下に住みついておる海ねずみどものことは、そろそろ忘れかけておったところだった。そんなわたしに、わざわざ、ここを思い出させてくれたのは、ほかならぬ諸君なのだ。このなつかしのわが住み家は、幸か不幸か、諸君らの科学ではまだ究明されつくしていない精神感応力の糸でもって、ここの建て主であり、だれよりもここを愛しているこのわたしに、強く結びつけられているのだ。そのおかげで、こんどの場合も、わたしはだれか見かけないものがこのわが家にしのびこんだことをただちに知り、その正体を確かめるべく、飛んで来たのだ。こうしてここに来てみて――ましてや、わたしがここに来たことは文字通り一千年ぶりなのだ――きわめて当然のことながら、わたしは、ここに住んでおるはずの海ねずみどもを思い出した。やつらには、平安無事な生活を、いささか長く送らせすぎたようだ。もうそろそろ、追いたててやってもいい頃だ。そもそも、あいつらはある男の力によって、むりやりに大災害から救い出され、今日まで生きのびてきたのだ。その男こそ、死ぬまで、わたしを無力者あつかいにし、その男の信者とわたし以外のすべての人間を絶滅させた大災害から逃れる手だてを発明しおったやつだ。この海底の住民どもが助かったのは、やつの猿知恵のおかげだし、わたしが助かったのは自分の力によるものだ。しかし、いまや、このわたしが、その男の救いおった人間どもを一人のこらず絶滅させ、この話の結末をつける日が、どうやら来たようだな」
かれは自分の胸の中に手を入れて一枚の書状をとり出した。「これを〈海ねずみ〉の親玉にとどけてくれぬか」と、かれはいった。「諸君ら三人が、まきぞえをくって海ねずみたちと運命をともにするのは、ちょっと気の毒のようだが、よく考えてみれば、こんなことになったのも、もともと、諸君ら三人がまいた種なのだ。いずれまたそのうちにもう一度お目にかかるとしよう。さしあたっては、せいぜい、そこいらへんにたくさんある絵画や彫刻の研究でもするといい。わたしが自分の統治下にあったアトランティスの人間どもを、いかに高度の段階にまで教育してきたか、その業績の一端を知る手がかりにならんこともないからな。この部屋をよく見学して廻れば、わたしの影響下に置かれておったころの人間どもが、どんな礼儀作法や慣習を持っておったかもよくわかってくるはずだ。そのころの生活は、文字通り千差万別、変化に富み、豊かではなやかな色彩をもち、また多面的なものだった。そののちの、くそ面白くもない時代になると、わたしの統治時代の生活を悪の饗宴などと呼びおって、けなしたり、くさしたりするやつらも出て来おったが。まあ、なんとでも、好きなように呼んでくれ。いずれにしても、このわたしがもたらしてやった生活だし、わたし自身、大いに楽しんだし、べつに悔いることはないのだから。もしまた、機会があって、わたしの時代が来たとしたら、わたしは再び同じようなことを、いや、あるいはそれ以上のことをやるだろう。ただ、この永遠に尽きることを知らぬ生命という致命的な賜物だけは、ごめんこうむりたい。あのいまいましいワーダ――こいつが、やがては人間どもをそそのかして、このわたしにたてつかせよるほど強くなると知っておったら、若いうちに殺しておくべきだったのだが――、いまいましいワーダのやつめは、その不死身をえらぶ問題については、少なくともわたしよりは賢明だったようだ。やつも、まだこの世をうろつきに来ることはあるのだが、人間としてではなく、精霊としてやって来るのだ。さあ、わたしはこれで行くぞ。諸君、あなたがたは好奇心からここへ入って来たのだが、その好奇心もじゅうぶんに満足したことだし、文句はないだろう」
言い終ると、かれの姿は、ぼくたちの目の前でかき消すように消えてしまった。そう、このぼくの目の前で消え去ったのだ。しかし、一瞬に、ぱっと消え去ったわけではない。それまでからだをもたれかけさせていた円柱からはなれて、まっすぐに立った。直立して、見あげるようなすばらしいその身体が、端のほうからゆっくりとぼやけていったのだ。両眼に燃えていた光は消え、その顔つきが不明瞭になった。すると、みるみるうちに、全身はうずまく黒雲となり、このおそろしい広間によどむ水をかき立てながら上にぬけて行って、そのまま、怪物は去ってしまった。あとには、はじめて知った不可思議きわまりない生命の可能性に驚嘆したぼくたち三人が、まじまじとおたがいの顔を見つめあっている。
こうなったら、この気味の悪い宮殿に一刻たりとぐずぐずしているつもりはない。どう考えても、ここは、のんきにぶらついていられるような場所ではなかった。ふと見やると、ビル・スキャンランの肩の上には毒々しい紫色のナマコが一匹へばりついている。つとそれをつまみとってやったぼく自身、こんどは、かたわらに密生していた大きな黄色い鰓葉樹《ラメリブランチ》に、ぴゅっと気味のわるい毒液を吹きかけられ、そのとたんに液のついた手がピリッと痛んだ。よろよろと広間を出て行くぼくの眼に、もう一度、あたり一面の壁に氾濫《はんらん》する数々の不気味な彫刻がうつった。まったく悪魔自身の手になる作品でなくて何であろう。心の中では、ぼくたちの浅はかさが、この広間にのこのこと入りこむなどという、しなくてもいい愚行をあえてしたために引きおこしたこの日の出来事をくどくどと、呪っていた。やがて、やっと戸外のほのかな燐光に照らされた深海の平原に出、周囲の水が、ふたたび、透明に澄んだものとなっているのを知った時は、ほんとうに、ほっとした気持ちになった。それから一時間もしないうちに、ぼくたちは懐かしの住み家にかえりついていた。かぶりものを脱ぎ、自室におちつくと、ぼくたち三人は、さっそく、ひたいを寄せ集めて相談をはじめた。とくに、マラコット博士とぼくの二人は、あまりに大きな衝撃をうけたために、即座には口もきけぬほど、狼狽していた。どうやら、しゃんとしていられたのは、不屈の活力を胸に秘めたビル・スキャンランただ一人である。
「とんでもねえことになったな」スキャンランはいった。「こうなったら、もうあとにはひけねえ。おれの思うに、あの怪物は地獄の大親分にまちがいない。あの広間にあった気味のわるい絵やら彫像やら、そのほかごちゃごちゃある、ぞっとするものにかこまれたあの怪物を見ちゃあ、ここの赤ランプをつけて立入禁止の札をぶらさげた礼拝堂の番人なんざ、まったくけちな子供だましだ。それにしても、いったい、どうやって、あいつをかたづけるか――これが問題だな」
マラコット博士は、まるで我を忘れたように、じっと考えこんでいた。そのうちに、ふと起きなおると、ベルを鳴らして、黄色い服をきた従者を呼んだ。「マンダ」と、博士は従者に向かっていった。一分もたたぬうちに、ぼくらの親友、マンダが姿をあらわした。マラコットは、つと、あの運命の手紙をマンダに手渡した。
その瞬間におけるマンダの態度ほど、りっぱなものをぼくはいまだにお目にかかったことはない。ぼくたちは自分たちのつまらぬ好奇心から、かれ自身をふくめた、ここアトランティスの住民たちすべての身の上に、恐ろしい破滅をもたらしてしまったのだ。しかも、ぼくたちは、危うくなくすところだった生命をかれらに救われた、役立たずの居候にすぎないのだ。それにもかかわらず、さすがに、魔王からの伝言を読み終った瞬間には、さっと顔色を青ざめはしたが、顔をあげてぼくたちのほうにそそがれたかれの悲しげな茶色の瞳には、みじんも、ぼくたちを非難するような色は見られなかった。しかし、無言で頭をふるかれのからだの動き一つ一つに、絶望の気持ちがあふれていた。
「バール・シーパ! バール・シーパ!」マンダは叫び、けいれんするようにふるえる手で眼がしらをおさえる。そのさまは、まるで、なにかおそろしい幻覚から逃れようとするかに見えた。そのうちに、悲しみにうちひしがれ、気も転倒してしまった人のように、部屋の中を足早に歩きまわりはじめたが、やがて、このおそろしい伝言をみんなに伝えようとするのか、部屋から出て行ってしまった。数分もたたぬうちに、会議を開くために人々を中央公会堂に集めるらしい鐘の音がひびきわたった。
「ぼくたちも行ってみましょうか?」ぼくがたずねると、マラコット博士は首を横にふった。
「行ってみたところで、このわしらに、いったい何ができるというのだ。この問題については、アトランティス人たちとてどうすることもできぬ。悪魔の力をもっている者を相手に、いったいどう立ち向かえというのか?」
「イタチに向かって行くウサギの群れみてえなもんだ。まず、勝ち目はねえよ」スキャンランがいう。「でも、おれたちがそんなことをいってちゃ申しわけねえな。なんとかしてやるのはおれたちの責任なんだ。てめえらであの悪魔をおびき出しといてからに、おれたちにとっちゃあ命の恩人のあの人たちに|しり《ヽヽ》を持って行って、おあとはよろしくじゃ、どう見てもお天道さまにも言いわけがたたねえことだ、とおれは思うね」
「それでは、きみは、いったいどうしろというんだ?」ぼくは思わず身をのり出すようにしてたずねた。スキャンランのやくざな品のないことばづかいの中に、この現代っ子にふさわしい実行力を持った男特有の、なにか力強い根拠がかくされているような気がしてならなかったからだ。
「いや、そういわれると、おれにもわからねえんだけど」とスキャンランは答えた。「それでもやっこさんにしたって、あんがい、自分で思いこんでいるほど、絶対安全というわけでもないと思うんだ。やつにしたって、年をとりゃあ、ごじまんの魔力とやらも、少しは|めっき《ヽヽヽ》がはげてこようというもんだ。それに、さっき聞いたやつの話をうのみにすれば、やっこさんはもうかなりの老いぼれだぜ」
「ぼくたちだけで、魔王に攻撃をしかけてみようというのかね?」
「きちがいざただ」ふいに、マラコット博士が口をはさんだ。
スキャンランは自分の戸だなのほうへ歩いて行ったが、まもなく、こちらをふりむいたかれの手には大型の六連発ピストルがにぎられていた。
「こいつはどうだろうな?」とスキャンランはいった。
「ほら、いつか難破船を見に行ったときに、こいつを持ってきといたんだ。こんなものも、いつかは役に立つことがあるかも知れないと思ってね。弾丸もここに一ダースほどある。こいつを、あいつのでかい図体にぶちこんで風穴をあけてやったら、やつの魔力とやらも、少しはぬけてくるんじゃねえかな。おっ、ちきしょう! こりゃあ、どうしたことだ!」ピストルをとつぜん床の上にほうり出すなり、スキャンランはなぜか非常に痛そうにもがきはじめた。かれは左手で右の手首をきつくにぎりしめている。みるとかれの腕はひどくけいれんしている。ぼくと博士が何とかもみほぐしてやろうとその腕にさわってみると、筋肉がまるで木の幹のこぶのように固くしこっているのが感じられた。かわいそうに、スキャンランの顔は苦痛にゆがみ、ひたいにはだらだらとあぶら汗を流している。そのうちに、おびえきり、疲れきってへなへなと寝台の上に倒れてしまった。
「やっと放しやがった」と、スキャンランはいった。「もう大丈夫です。はい、どうもありがとう。痛みもだいぶ良くなったから。しかし、ウィリアム・スキャンラン、みじめなノック・アウトのおそまつだったな。いや、いい勉強になったよ。六連発もあいつには歯がたたねえ。やってもむだだね。これからは、あの魔王にはせいぜい一目おくことにしよう」
「たしかに、よい勉強になったようだな」と、マラコット博士がいった。「しかも、なかなかきびしい勉強だった」
「それでは、先生は、ぼくたちの戦いは勝ち目はないとおっしゃるのですか?」
「むこうが、こちらのいうこと、なすこと、すべてを見通す千里眼の持ち主なのでは、わしらに何ができるというのかね。しかし、あきらめてはいかん」博士はすわりこむと、そのまま数分間、じっと考えごとにしずんでいた。「わしの考えるには」と、しばらくしてから、マラコットはおもむろに口をひらいた。「スキャンラン、きみはしばらく、いまいるところで、そのまま横になっていたほうがいいだろう。いまうけたショックから回復するのには、多少、時間がかかるだろうからな」
「なにかやるときには、おれも仲間に入れてくださいよ。もっとも、あんなやつをやっつけるのはわけもねえだろうとは思うけど」わが友スキャンランは、いとも勇ましくいった。しかし、かれのひきつった顔、ふるえる手足などは、いましがた、かれがどんなにひどいめにあったかを雄弁に物語っていた。
「きみを仲間に入れるようなことは、いまのところ、何一つするつもりはない。いまの経験で、少なくとも、どんなことが適当でないかはわかったわけだ。暴力でもって立ち向かってもむだだということだ。だから一つ、なんとかべつの面から戦術を練りなおそうではないか――つまり、精神的な面からだ。ヘドレイ君、きみも、ここに残っていてくれぬか。わしはちょっと、いつも研究室に使っている部屋へ行ってくるから。あるいは、わし一人になれば、これから取るべき方策について、なにかいい知恵がうかんでくるかも知れん」
スキャンランもぼくも、マラコット博士のことはよく知っていたから、こんどの場合もかれを信頼して疑わなかった。もしいまわれわれが直面している難問を解決できる人間が、かりにいるとするならば、それはかれをおいてほかにあるまい。しかし、こんどの事態ばかりは、人間の能力の限界を越えている。取りおさえる手段はおろか、その正体すらわからぬ強力な敵を向こうにまわしては、われわれは生れおちたばかりの赤子とひとしいくらい、たよりない存在なのだ。苦しみに疲れきったのか、スキャンランは眠ってしまった。その枕もとにすわって考えこむぼくの頭の中を去来するのは、せいぜい、せまり来る敵の攻撃がいったいどんな形で、どこを目標におこなわれるのかを臆測するぐらいのもので、どうやってこの窮地を逃れるか、その手段を思案する余裕はまったくなかった。実際の話、いつなんどき、頭上にがっしりと支えられているはずの天井が落ちてくるとか、また四囲の壁が倒壊するとかして、深海のどす黒い水が、いままで長い間海水の存在すら忘れてすごしてきたここの住民たちの頭上に、どっと落ちてくるかも知れないのだ。
そのとき、とつぜん、ふたたび、ベルの音が、大きくひびきわたった。その、せきたてるような、甲高い音色は、聞く者の神経をいらだたせずにはおかない調子をもっていた。ぼくは思わず立ち上がり、スキャンランは寝床の上で上半身をおこした。こんどのベルは、たしかに、いままでにも時々鳴りひびいていたベルとは、どこかちがっている。狼狽したように、はげしく、それでいてとぎれとぎれに不規則な鳴りかたをするベルの音は、疑いもなく何かを警告しているのだ。全員、ただちに集合せよ。聞くものを脅かすように、しつこく鳴りつづけ鳴りわたる。
『さあ、早く来い。すぐに来い。なにもかもそのままにして、ただちに集まれ!』そんなことを、ベルは大声で喚きつづけているようだった。
「兄弟、おれたちもやつらといっしょに集まらなきゃ、いけねえかな?」と、スキャンランがいった。「どうやら、かれらも戦闘開始とばかり立ちあがったらしい」
「しかし、行ったって、いったい、ぼくたちに何ができるんだ?」
「さてね、もしかすると、おれたちの顔をみりゃあ、ちっとは元気づくかも知れねえ。いずれにしても、おれたちゃ、横着者《おうちゃくもの》にみられたくねえやな。ところで、先生はどこにいるんだい?」
「研究室へ行ったらしい。しかし、きみのいうことも、もっともだ、スキャンラン。とにかく、ぼくたちも彼らのところへ行って、かれらと運命をともにする覚悟だけでもあるってところを見せてやらなきゃならん」
「ひょっとすると、ここの気の毒な|まぬけ《ヽヽヽ》どもは、おれたちをたよりにしているのかも知れねえ。そりゃあ、たしかに、頭のほうはやつらのほうがいいにきまっているが、けんかのかけひきとなると、こちとらのほうが腕は数段上らしいからね。なにしろ、やつらはご先祖さまから代々りっぱなものを受けついできただけなんだろうが、こちとらは、何でも、てめえの腕をつかって、こつこつと、やって来なくちゃならなかったんだ。さあ、また、大洪水の来る時間だぞ――もし、これからおこる災難が、大洪水ならね」
ところで、こうして二人がドアへ近づいたとき、思いもかけぬ止め手が現われてぼくたちの行く手をさえぎった。マラコット博士がぼくたちの前に立ちはだかったのだ。しかし、それは、ぼくたちが日ごろ見なれている、いつものマラコット博士ではなかった――ふてぶてしいまでに悠然とかまえたその顔はすみずみまで精力と決意にかがやき、全身これ自信にみちみちているこの男が、はたしてあの老学者と同一人物であろうか?
ものしずかな学者のおもかげは消えてしまい、ここにマラコット博士の姿をかりて立っているものは、一個のスーパーマン、一人の偉大なる指導者、いうなれば人類をその意のままの形にきたえあげることのできる、崇高な一つの魂であった。
「さあ、諸君よ。かれらはわれわれを待っているにちがいない。事態はまだそれほど悪化してはいないようだが、ぐずぐずしてはいられぬ。ただちに行ってみようではないか。なにもかも、あとで説明してさしあげよう――もし、|あとで《ヽヽヽ》という言葉を、いまのわれわれが使えるものならば、だが。さあ、いますぐ行くよ」
この博士の最後の言葉は、適当な身ぶりとともに、ちょうど部屋の戸口に顔をだしたアトランティス人たちにむかって発せられたものである。このアトランティス人たちは、おびえきった顔で戸口に立ったまま、しきりにわれわれに早く来いと、熱心な身ぶりをくりかえしながら呼びかけていた。あたえられた仕事を素直に行なうことしか知らぬここの住民たちにくらべれば、ぼくたちのほうがまだ数倍強い性格とすばやい行動力をもっているといった、さきほどのスキャンランの言葉は、どうやらあたっていたようだ。そのせいか、いまもこうして、かけがえのない危急のときに臨んだかれらには、なんとかぼくたちにすがりついて助けを求めようとしているらしい空気がうかがわれる。ぼくたち三人が、びっしりと群衆のつまった公会堂へ入って行き、最前列のきめられた席に腰をおろすと、人々が期せずして満足と救いの気持ちをあらわす低いつぶやきを口々にもらすのが聞こえた。
もしぼくたちが、何かの役に立ち得るとするならば、ぼくたちの入って行ったのはどうやら時宜《じぎ》を得ていたようだ。あのおそろしい妖怪はすでに高壇の上に立ち、残忍な、うすい唇に悪魔の微笑をうかべて、目の前のおじけづいた人々を見おろしていた。イタチにいすくめられたウサギの群れといったスキャンランのさきほどの|たとえ《ヽヽヽ》が、この群衆の姿を見たとたんに、ぼくの記憶の中に甦ってきた。人々はおたがい同士、しっかと手を握りあって恐怖の底にちぢこまっており、大きく見ひらいた眼で、自分たちをおびやかす力にあふれた魔王の姿を、さらには、じっと自分たちを見おろす、花崗岩をきざんだような冷酷無比なかれの顔を、まじまじと見つめていた。幾重にもならんで、一様に恐怖にうちひしがれた視線で中央の高壇を見つめる、やつれはて、眼だけギョロギョロむき出しにした半円形の群衆の列を、ぼくはいまだに忘れることができない。
どうやらすでに、魔王は群衆にその運命を宣告しおわり、群衆はただ、じりじりと迫ってくる死の影におびえて呆然と立ちすくんでいるようにみうけられた。マンダはみるもあわれな敗残者の姿で立ち、しどろもどろに、自分の背後にいる人々のための哀願をくりかえしていたが、そんなかれの態度は魔王の同情を買うどころか、かえってその残酷きわまりない悪魔の楽しみに、ますます妙味をそえる結果になっていることは明らかであった。怪物は二こと、三こと聞きずてならぬ暴言をはいてマンダの言葉をさえぎると、右手を空中に高くあげた。そのとたんに、絶望の叫び声が公会堂のあちこちにこだました。
ちょうどその瞬間である。マラコット博士が高壇の上にとびあがったのだ。こんな博士の姿をみることはまさに驚嘆に価した。なにやら知れぬ奇蹟が博士を作りかえてしまったようだ。かれの歩きかたや身のこなしは、まさに若者になりきっている。さらに、その顔には、いまだかつて人間のものとしては目にしたことのないような力強さがみなぎっている。博士が強い足どりで自分のほうに近づいて来たので、壇上の黒い巨人は、驚きに目をぎらつかせて見おろした。
「なんだ、このちびめ。いったい、何をいいたいのだ」魔王はたずねた。
「こういいに来たのだ」マラコットは毅然《きぜん》として答えた。
「おまえの出る幕は終った。これ以上、この世に長居は無用だ。さあ、落ちて行け! お前を長い間待ちつづけている地獄の底へ落ちて行くがいい。お前は暗黒の国の王の小せがれなのだ。とっとと、暗黒の国へ消えうせるがいい」
それにこたえる魔王の両眼からは、めらめらと、どす黒い焔が吹きあがるような気がした。
「おれさまの命がつきたなどとはしゃらくさいことをいう。万が一、そんなことがあったとしても、そんな宣告をうけるのは、きさまのような、みすぼらしい人間の口からではないわい」と魔王は毒づいた。「〈自然〉の秘密を極めつくした、このおれさまに向かって、そんな大口がたたけるほどの力が、きさまのどこにあるというのだ。おれがその気になれば、おまえなどは、たちどころに吹きとばすことだってできるのだぞ」
マラコットは、すこしもひるまず、魔王のおそろしい視線をはねかえしていた。たまらず眼をそらしたのは、むしろ魔王のほうであったようだ。
「あわれなやつだ」とマラコットはいいかえした。「その気になりさえすれば、おまえなどたちどころに吹きとばせる力をもっているのは、このわたしのほうだ。自分にとりついた悪霊のおかげで、おまえも、ずいぶんと長い間、世を呪いつづけてきた。それも、いささか、長きに失したくらいだ。おまえは、この世のあらゆる美なるもの、善なるものを目のかたきにして害しつづけてきたのだ。だから、おまえがいなくなりさえすれば、人間の心はかろやかになり、太陽の光はいままでにまして明るく輝くだろう」
「なんたる言い種《ぐさ》だ。おまえは、いったい、何者だ? これは、いったい、どうしたことだ」魔王は口ごもった。
「おまえは秘密の知識を持っているからなどとうそぶいているが、その根底にあるものは何か判っているのか? わたしが教えてやろう。つまり、善悪両者が同じ水準にあるとすれば、善のほうが悪よりも、はるかに強いということだ。天使はいまだに悪魔にうち勝つことができるのだ。現在の瞬間、このわたしは、おまえがいままでいたのと同じ水準に立っておるから、疑いなく勝利はこちら側のものだ。天が、善であるわたしに与えたもうたのだ。どうだ、わかったか? もう一度いってやろう。さあ、悪魔め、落ちて行け。おまえの住み家である地獄の底へ、とっとと、落ちて行くがいい。さあ落ちて行け。落ちて行けといっているんだ! さあ、落ちて行け!」
その瞬間、まさに奇蹟がおこった。一分間か、あるいはそれ以上の間――このような際に、時間をはかるなど、とてもできぬことだ――かたや人間、かたや悪魔と、二つの存在は正面から、がっきと、にらみ合っていた。まるで二個の彫像のように動かず、おのおのの白色と黒色の顔上に容赦の色をみせぬ強い意志を決然とみなぎらせ、ぎらぎら光る|まなこ《ヽヽヽ》をたがいに見合わせて立ちすくんでいた。と、突然大きいほうのかげがひるんだ。魔王は憤怒に顔をけいれんさせ、長い爪のついた両手を空中に高くさしのばした。
「わかったぞ、おまえだな、ワーダ。このいまいましいやつめが! やっと、きさまの仕業だとわかったぞ。この、いまいましいワーダめ! きさまの魂に呪いあれ! 呪いあれ!」
喚きつづける魔王の声はだんだんに弱まっていき、長身の黒い姿はその輪郭からしだいにぼやけていき、頭はがっくりと胸のあたりにたれ、膝がへなへなとくずれると、全身が床の上に縮んでいき、縮みながら形を変えて行った。はじめのうちは、それでも縮こまった人間の形をしていたが、しだいに、形のない黒い塊りに変っていき、そのうちに、急にガクンとくずれると、ねばねばした、どす黒く不気味に腐敗しきった粘液のかたまりと化し、壇上にきたならしい|しみ《ヽヽ》をつけると同時に、あたりに不快な毒々しいにおいをまきちらした。と、思ったとたん、マラコット博士が大きな呻《うめ》き声とともに、力つきて、がっくりと前のめりに倒れたので、ぼくとスキャンランは、あわてて壇上にかけあがった。
「勝ったぞ! わしらが勝ったのだ」マラコット博士はそうつぶやくと、次の瞬間には気を失って、なかば死んだように床の上に横たわってしまった。
アトランティスの海底都市をおびやかしたかれらの歴史上その例をみなかったほど恐怖にみちた危険から、住民たちを救い、一個の悪霊を世界から永久に追放した冒険のいきさつは以上のごときものであった。マラコット博士から、あの日におけるかれの驚異的な活躍の裏話をきいたのはそれから数日後のことであったが、その物語たるや、まったく、突拍子もないもので、さすがのぼくとスキャンランでさえも、もしあの日の出来事を自分の眼でつぶさに目撃していなかったならば、たとえ、この話をきかされたとしても、おそらく、博士自身の病気がもたらした単なる幻覚だとして一笑に付してしまったかも知れない。あのときに見せたすさまじい博士の力は、それを必要としたあの日かぎり、まったく、かげをひそめてしまい、博士は、また、もともとぼくたちがなじんでいたのと同じ、物しずかな科学者にたちかえっていた、といったら、読者諸氏は、いったい、どうお感じになるだろうか。
「あんなことが、よりもよって、このわしのような者の上におこったとはね!」とマラコット博士自身、大きな声でいい、首をかしげたものだ。「唯物論者で物質的な考えに浸りきっておって、自分の哲学の中には、目にみえざるものなど存在させようともしなかった、このわしの身におこったのだからなあ。わしの半生涯をつぎこんで研究してきた理論のすべてが、わしの耳もとで、がらがらとみごとに、くずれおった」
「こうなったら、おればっかりじゃなくて、われわれ三人がみんなそろって、もう一度学校へ行かなきゃ、ならねえな」とスキャンランもいう。「もし、なんとか、うまいぐあいに故郷へかえれたときの|みやげ話《ヽヽヽヽ》がこれでできたというもんだ」
「でも、こんなことは、あまり話してまわらないほうがいいよ。アメリカ一の大うそつきと呼ばれたくなかったらね」とぼくも応じた。「もし、自分以外の者からこの話を聞いたとしたら、ぼくにしても、きみにしても、素直に信じる気になれるもんだろうか?」
「たぶん、信じる気には、なれねえな。ところで、先生。あんたは、その摩訶不思議な力を、じつにうめえぐあいに使いなさったね。なにしろ、あの図体のでけえ真っ黒の化けものが、こてんこてんにのされちまうなんて夢にも思わなかった。ああなっちゃ、やつももうこの世にもどって来たくたって、もどりようはねえだろう。あんたが、この世の地図からあいつをきれいさっぱりと押し出しちまったんだから。押し出されてどこの地図の上に、あいつが住み家をみつけたか、それは知らねえけど、とにかく、このビル・スキャンランさまの住んでるところじゃねえことはたしからしい」
「あのときに起こったことの一部しじゅうを話してきかせよう」と、マラコット博士はいった。「あのとき、きみたち二人とわかれて、わし一人で研究室にとじこもったことはおぼえておるだろう。わしの心の中にも希望はほとんどなかった。ただ、わしは、いままでに、いろいろな機会を通して、黒魔術〔悪魔の使う術〕や秘術〔錬金術、占金術など〕に関する書物をかなり手広く読んだことがあったのだ。その知識を通して、技術の程度が同一水準にあれば、善霊の用いる白秘術は、かならず、悪霊の用いる黒魔術に勝つということに気づいておった。あの魔王はわしらよりも強い水準に――あえて、わしは高い水準とはいわぬ――おったわけだな。これが勝敗をわけている唯一の事実だった。
これを克服する方法が、わしにはどうしても考えつかなかった。それで、わしは長椅子にわが身をひれ伏して祈った――そうだ、このわしが、こちこちの唯物論者であった、このわしが祈ったのだ――助けをもとめてな。人間が人力の限界にまで来てしまったら、あとは自分のまわりをとりかこむ目に見えぬものにむかって祈願の手をさしのばし、救いをもとめる以外、いったい、何ができよう。わしは祈った――そして、わしの祈りは、すばらしく、うまいぐあいにむくいられたのだ。
ふと、わしはその部屋の中にいるのが自分一人ではないのに気づいた。わしの前には一つの背の高い人かげが立っている。みると、その顔はわしらが相手にして、戦おうとしている魔王と同じぐらい色の黒い顔だが、そのあごひげのついた顔の思いやり深そうな表情には慈悲と愛情がみちあふれている。かれがわしに貸してくれた力感は強さにおいては相手のものとかわらなかったが、敵の〈悪〉に対する〈善〉の力であった。この力の前では、〈悪〉の力は、あたかも太陽の前の霧のごとく千々《ちぢ》に四散してしまうのだ。かれは、思いやりのある視線でじっとわしの顔をみつめておった。わしも、あまりの驚異に口をきくこともできぬままに、ただ、まじまじとかれの眼をみかえしておった。霊感じゃろうか、それとも直覚だろうか。わしの心の内部で何ものかがわしに話しかけておった。目前にいるこの男こそ、その生存中は悪を相手に戦いつづけ、はては、祖国の破滅がもはや避けられないものと知るや避難所を建設し、人間として生きのびる価値のあるようなもののみを選んでその内部に収容し、その生存をはかるよう導いたという、かの偉大なるアトランティスの賢者の精霊だというのだ。このすばらしい賢人ワーダの化身は、自分の遺業の破壊や子孫の滅亡を防ぐために、いまこうして、わしの目の前に出現しているのだという。
このような事実のすべてを、わしはまるで、かれの口から語りきかされたかのようにはっきりと、頭の中で悟ったのだ。すると、かれは、微笑をうかべたまま前へ進んで来、両手をわしの頭の上に置いた。かれがこうしてわしの体内に移しかえようとしているのは、かれ自身の徳と力であったのだ。わしは、それらの徳が、力が、火のようになって血管を流れて行くのを感じた。その瞬間から、この世界には、何も不可能なことはないような気がしてきた。わしは、奇蹟をなしとげるための意志と力とを手にいれたのだ。ちょうど、そのときあのベルがなり、危機がいよいよ到来したことを知らせた。わしがむっくりと長椅子から身をおこすのをみると、くだんの精霊は、激励するような微笑をもう一度、わしに送ると、かき消すように姿を消した。それから、わしはきみら二人といっしょになり、ごぞんじのような結果をひきおこしたのだよ」
「なるほど。それにしても、先生」と、ぼくはいった。「先生はここの住民たちの間では救世主として、ものすごい名声を博したわけです。だから、もし、先生さえそのお気持ちになれば、かれらの上に神として君臨することもあながち、むずかしくはありませんね」
「だけど、先生は、まったく、うまいぐあいに、あの魔王の攻撃をかわしなすったもんだね」とスキャンランが、くやしそうな声でいった。
「あいつが先生のやりなすっていることに気がつかなかったっていうのは、いったい、どういうわけです? おれが、ピストルを手にしたときは、ばかにすばしっこく見つけやがったが。おまけに、先生のときにゃあ、やっこさん壇の上でしばらく考えこむまで、正体がわからなかったときているのだから」
「わしの考えるには、きみの場合、まだ物質の水準の上で行為しておったからだと思う。ところが、わしとワーダの精霊との場合は、少なくともおたがいに話しあっている間は、精神の水準の上に立っておったのだ」マラコット博士は考え深げにこたえた。「このようなできごとを経験すると、つくづくと、謙遜の美徳のたいせつなことがわかってくる。われわれ人間が、この天地の間で可能な創造物の中では、いかに低い段階にいるものであるかは、こうして、自分たちよりも高度の段階にあるものと接したときに、はじめて悟ることができるものなのだ。たしかに、よい教訓になったよ。これからは、わしも、せいぜい、この教訓をいかした人生を送りたいものだて」
さて、諸君。これで、ぼくたちのすばらしい冒険談は終る。自分たちの消息を文書にしたためてビンにつめ、レビゲン・ガスを使って浮上させようと考えついたのは、この日からほんのしばらくのちのことであった。ごぞんじのように、このもくろみは大成功をおさめ、ぼくたち自身もやがて無事に海面に浮かびあがることができ、みなさんがたの厚いご看護とご歓迎をうけた。近ごろでは、マラコット博士が本気で、もう一度、海底へ行ってみたいなどと話している。なにか、魚類学上のことで、もっとくわしい資料をあさりたい問題があるのだそうだ。ところが、スキャンランのほうは、ぼくが耳にしたところでは、フィラデルフィアで例の女性とめでたく華燭の典をあげ、しかも、メリバンク製作所の工場長に昇進したとのことだから、もうこれ以上冒険を求める気持ちはないらしい。いっぽう、ぼく自身のほうは――マラコット海淵からあの美しい、かけがえのない真珠、モナをプレゼントしてもらったいまとなっては、もうこれ以上望むものはない。(完)
[#改ページ]
[解説]
深海探測の歴史
本書は、マラコット博士ら三人のメンバーが、大西洋の深淵に向って降下し、そこで太古から細々と命脈を保ってきたアトランティス大陸生残りの人びとに逢うなど、数々の不思議を体験する物語である。こんにちでは、アメリカのトリエステ号やフランスのアルキメデス号など、優秀な性能をもつたバチスカーフ(深海潜水艇)が、すでにつくられている。そして実際に太平洋の深さ一万メートルをこえる深海底へ降下し、多くのナゾを次々と白日のもとにさらしつつある。
したがってマラコット博士が、深さ約八千メートルのマラコット海淵に向って降下したとしても、別に驚くにはあたらないかもしれない。しかしながら、問題はそのような深海潜水行自体にあるのではなく、むしろこの本がいまから七十数年も前の一九二九年に書かれたという事実にあるのである。
なぜなら当時は、まだ世界の何人も深海をきわめたことがなく、深海についてはまるで知られていなかったといっていい。にもかかわらずドイルの筆は、地球が大昔からかたくなにその秘密をまもりつづけてきた深海というものの姿を、かなり的確に描きだしているからである。これはまことに、感嘆すべきことだといっていいだろう。
たとえば当時、暗黒で巨大な水圧のかかっている深海には、どんな生物も棲めないだろうと信じられていた。が、本書では深海は、いささかグロテスクではあるが豊かな生物の国として描かれている。また深海の底にも海流のあることや、海中を音もなく降る生物の遺骸(海雪)のことが描かれている。これらは、いずれも近頃になって事実であることが判明したもので、その意味ではドイルの先見の明は大いに評価されていいかもしれない。
ところで深海というところは、前にもいったように、暗黒と巨大な水圧の支配する世界である。
海の表面には太陽の光が照りつけているが、ひとたび水中に入射した光は、急速に減衰し、ついには消滅してしまうのである。この場合、太陽の七色の光――赤、橙、黄、緑、青、監、菫のうち、まず波長の長い赤系統の光から次第に失われていく。
深さ二、三十メートルで、早くもこの変化があらわれ、海は鮮やかな緑色にぬりつぶされてしまうのである。四年ほど前、私はフランスのバチスカーフFNRS三号にのって、金華山沖の深海へと降下し、表層から深さとともに変ってゆく色彩の神秘を、まざまざと見せつけられたものである。
なかでも深さ四十メートルくらいの濃い緑にブルーのまざった世界、それから深さ二百メートルくらいのこの世の終りを思わせるような黒味のかった濃藍色の海は、きわめて印象的なものであった。そして、肉眼で見ていて、とっぷりと日が暮れたのは、深さ三百五十メートルのあたりだった、と記憶している。
さしもの太陽の光も、このあたりまでの分厚い水の層のために敗北し、海のなかは形容しがたい黒色でおおわれてしまったのである。私は、バチスカーフの直径二メートルの球形のゴンドラのなかで、小さな丸い観測窓に額をこすりつけながら、その暗黒の海をみつめつづけていた。
それからふと思いたつて、サーチライトのボタンをおすと、私たちのバチスカーフは大小無数のすばらしい海雪の群れのなかにいるのだった。海雪というのは、文字通り海のなかの白い雪降りだ。
地上の雪片は氷の結晶であるが、海雪の正体は、何億また何兆というおびただしいプランクトンの石灰質や硅酸質の遺骸が、海の深部に向って絶え間なく落下してゆくものなのだ。むろんこれらの白い遺骸に生きたプランクトンの付着したものもあるし、それからまた上層大気のなかの多くの落下物――たとえば火山灰や、砂漠から舞い上った黄色い砂粒なども洋上に落ち沈んでいって、この大いなる雪降りの一員となるのである。
さてこの本のなかで、マラコット博士は「わしの信念とするところは、深海において極度に水圧が高いという説は、全くもって誤っているということじゃ。深海における水圧を低くするように働く何らかの要素が存在することは、嘘いつわりのないところなのだ」といっている。が、これは明らかに間違いであって、海水中では深さが十メートル増すごとに、約一気圧の割合で圧力がふえてゆく。したがって一万メートルの海溝の底ともなれば、一千気圧以上の大圧力がかかっているわけだ。
つまり一平方センチあたり約一トンの重さでおさえつけられているということで、こんなところへ生身の人間が放りだされたら、むろんひとたまりもなくグシャグシャに押しつぶされてしまうだろう。しかしながら、このような恐ろしい水圧にもめげず、現実に一万メートルをこえる深海底にもたくさんの生物が棲みついている。
たとえばフィリピン海溝の一万百九十メートルの海底で底曳き網をひいた結果、七五体のナマコと二五個のイソギンチャク、五個の二枚貝、それからクモヒトデ一などが上ってきた例がある。
深海動物たちにとっては、水圧こそが根本的な生活条件なのだ、と考える学者も多い。深さ一万メートルの海底の泥のなかから見つかったバクテリアは、地上の一気圧のままでは繁殖しないが、筒のなかに入れて一千気圧以上の圧力をかけると、見事に活性化することが知られている。つまりこのバクテリアが繁殖するには、大きな圧力こそが不可欠の条件なのである。
けれども、すべての深海動物がそうなのではなくて、一方には、広い範囲の水圧の世界に現実に適応しているものがある。たとえばマッコウクジラは、海の表層に棲んでいるが、深さ干メートルから千五百メートルという深海に棲む大イカを好んで捕食している。マッコウクジラの生活範囲はつまり一気圧から、少くとも百五十気圧以上という大きな幅をもつているわけである。これは全く驚くべきことで、いったいどのような機構で、マッコウクジラが大きな圧力の変化にたえられるのか、いまもって不明なのである。
人間の場合は、とうてい大きな水圧の変化にたえることはできない。ちょっと深さが増すと、たちどころに潜水病をおこして、人間は死んでしまう。
そこで人間が深海へくだるには、完全に気密で、巨大な水圧にたえられる特別製の容れものが必要なのである。
この本に出てくるマラコット博士らも、鋼鉄製の潜水函のなかにはいって、水圧をふせぐようになっている。それから母船の二重底のふたをひらいて、海中ヘワイヤーでつり下ろされる仕掛けである。このような着想は実はそれほど新らしいものではなく、少くともいまから二千数百年も前のアレグザンダー大王のガラス製潜水函にまで、さかのぼることができる。
彼は外側をロバの皮でおおい、さらに鉄の枠をはめて補強した大きなガラス函のなかにはいり、船から鎖で海底へつりおろしてもらったのである。鎖の長さは九十メートルもあったというが、とにかく大王は無事海底につき、そこで眼前を通りすぎるのに三日もかかるような途方もなく大きな魚をみた――とつたえられている。
ところで人間がはじめて、深さ千メートルに近い暗黒の深海へ降下することができたのは、はるか後年――この小説が書かれてから、さらに五年もあとの一九三四年のことである。
この年の八月十五日、アメリカのウィリアム・ビーブとオーティス・バートンの二人は、内径一メートル三七センチの鋼鉄の球のなかに自らを封じこめて、深さ約九二二メートルの深海へとくだったのである。場所は大西洋のノンサッチ島の南六マイルほどのところで、彼らは鋼球にはいったまま、船からワイヤーで海中へつりおろしてもらったのだった。
鋼球の壁の厚さは三・八センチで、重さは二・二七トン、それに直径二〇センチほどの丸い窓がついていて、自由に海中を観察したり、写真をとったりできるようになっていた。そして彼らは、この鋼球をバシスフィア(深海潜水球)とよんだのである。
この種の潜水球は、ワイヤーで母船と結びつけられているから、行動の自由がない。それにワイヤーが切れたら、万事おしまいである。この小説でも、マラコット博士の潜水函は、怪物にワイヤーを切られた結果、奈落のような深海底へと落下することになっている。
一九四九年になると、バートンはベントスコープという潜水球に一人でのり、カリフォルニア沖で一三七三メートルまで降下している。が、この潜水球も、原理的には前のと全く同じもので、ワイヤーにたよって海中を昇降するという致命的な欠陥は、少しも改善されてはいなかった。スイスのオーギュスト・ピカールは、この種の潜水球をみて、囚人球とよんだ。そして、何かもっとうまい深海への乗りものはないだろうか、と熱心に考えたのである。
その結果、彼はついに全く新らしい原理にもとづいて、画期的なバチスカーフFNRS二号や、トリエステ号を生みだしたのである。これらのバチスカーフは、鋼鉄でできた球形のゴンドラの上に、海水よりも軽いガソリンをつめたフロートをもっていた。そしてバラストを積んで、その重味で海中へ降下し、海底へついたらバラストを捨て、軽くなって浮上してくるという、至って自由な仕掛けであった。原理が気球と似ているところから、これらのバチスカーフは、水中気球ともよばれた。実際にピカールは、自分のつくった成層圏気球から、ヒントをえて、このような深海潜水艇をつくりだしたのである。
一九五三年九月、オーギュスト・ピカールは息子のジャック・ピカールと二人で、トリエステ号に乗りくみ、イタリアの西のチレニア海で、三一五〇メートルという深海底へ着床した。このトリエステ号には、もはや母船からつり下げられた厄介なワイヤーなんてものはなく、そのうえプロペラをまわして、自力で海中を航行する力さえもっていた。
一九五四年二月には、フランスのバチスカーフFNRS三号が、北アフリカのダカール港の沖合で、G・ウーオとP・ウィルムの二人をのせ、四〇五〇メートルの深海底まで降下した。このFNRS三号は、一九五八年の夏来日し、主として日本海溝を舞台に、何度か三千メートル級の潜水をやってのけた。そのとき私は、金華山沖の第一回目の潜水行に加わり、ウーオ艇長とただ二人で、はじめて日本海溝の深部を垣間見ることができたのである。
ところで、深海への挑戦は、その後も休みなくつづけられた。ピカール親子のつくったトリエステ号は、やがてアメリカ海軍のものとなり、大改装をほどこされた。そして一九五九年十一月、ジャック・ピカールとレヒニッツァーの二人は、太平洋のマリアナ海溝で、まず五五八〇メートルまでくだった。
つづいて六〇年一月二十三日には、ジャック・ピカールとウォルシュの二人が、ついにトリエステ号を一万九一六メートルというチャレンジャー海淵の底へ着床させたのである。いまのところこれが、人間のきわめた世界最深の記録である。
一九六二年の夏、フランス海軍はアルキメデス号という高性能のバチスカーフをもって来日し、日本海溝北部の最深部をめざして潜水した。この結果、ウルップ島の南南東約百九十キロのところで、まずウーオらは九二〇〇メートルの海底へ着き、つづいて七月二五日には、オバーンら三人が九五四五メートルという深海底をきわめることに成功した。けれども記録のうえでは、残念ながら二年前のトリエステ号の偉業に、わずかながら及ばなかったのである。(日下実男)
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ドイルのSF
アーサー・コナン・ドイルが、不朽の名探偵シャーロック・ホームズの生みの親であり、ポーによって創始された近代探偵小説を確立した恩人であることは、だれでも知っている。
しかし、そのおなじドイルが、SF史上の非常に重要な作品である『ロスト・ワールド』(失なわれた世界)を書き、本書『マラコット海淵』を書いて、現代SFへの大きな貢献をしていることは、探偵小説における名声のかげにかくれてか、あまり注目もされていないようだ。
しかし、考えてみれば、ドイルがうちたてた、論理的な近代推理は、つまりは科学精神にもとづくものなのだから、その意味では彼が科学のひらく未知の世界に、その飽くなき好奇心を燃やしたことも、決して偶然ではないのだ。
面白いことに、彼が『ロスト・ワールド』を書き、その続編『毒ガス帯』を書いたのは、一九一一年と一三年だ。これはH・G・ウェルズが、すでに彼のいわゆるサイエンティフィック・ロマンスの全部を書きあげて、イギリス伝統の冒険小説の新らしい一ジャンルとして読書人に意識されはじめていた頃である。ウェルズの亜流たちもなん人か活動をはじめていた。現象的にはドイルも、たしかに、こうした動きに影響されていたのだろう。
しかし、もちろんドイル自身は、そうしたことを考えてはいなかったろうし、むしろ彼としては、自らの作品を、ウェルズのそれと同じ系統のSFとして分類されることに反対だったにちがいない。ドイルは、そのころの西欧世界の知的好奇心をゆさぶっていた考古学的発見や、アフリカとか南米のような未開発の神秘境への学術探検の気運に、はげしく刺戟されていたのだ。
事実、彼の『ロスト・ワールド』は、当時ドイルがすんでいたサセックス・ダウンの近辺で、恐竜の一種――イグアノドンの足跡の化石が発見されてセンセーションをまきおこしたのを、きっかけとして書かれている。
ドイル自身も、さっそくそれを見にいった。
もともと医学的知識の豊富だったドイルはこれで古生物学に大きな興味をもち、古今の古生物学の文献を読みあさった。とくに、恐竜の復元想像図で有名なイギリスのランチスターの著書には、非常に感銘をうけたらしいことが、彼の伝記からもうかがわれる。
こうしたきっかけで書きだされた彼のSF作品が、ウェルズよりも、むしろヴェルヌの諸作にちかいことは当然で、そこに盛られたペダンチックなまでの科学知識は、そのかぎりにおいては、ウェルズを凌駕するものを持っていた。
ただ、ドイルには、ウェルズやヴェルヌにあった未来への信頼や不信――つまり未来への意欲が、まったく欠けていた。ドイルが結局F作品をわずかしかのこさなかった理由は、このあたりにあるのだろう。
ドイルは『毒ガス帯』のあと十数年たった一九二九年に、三たびSFテーマの作品を書いた。今度は、舞台は海洋の底で、深海探測の話とプラトン以来のアトランティス大陸伝説をむすびつけた独創的な作品だった。それが、本書である。
ここでもドイルは、知的好奇心にかられるままに渉猟した海洋関係の書物から得た知識のひろさを大いに活用している。そして、『ロスト・ワールド』の生物学者チャレンジャー教授に相当する海洋学者マラコット教授を創造している。この二人は、その後のSF作品に登場する一徹な老人科学者の典型となっている。
『マラコット海淵』を読んでもっとも感ずるのは、第一部と第二部とのあいだにある、マラコット教授の心境の変化である。第一部で科学以外のなにものも信じなかったマラコット博士が、第二部では、有限な人智を超える神秘的な力の存在を信じるようになっている。
これはしかし、同時に、コナン・ドイル自身の心境の変化でもあるのだ。一九一六年ごろから凝りだしたドイルの心霊学に対するうちこみかたは、年を追ってはげしくなり、二〇年には、教師として、世界をまわり心霊学の普及につとめるということにすらなっている。
第二部のマラコット教授の入信は、すなわち、ドイルの入信でもあったと考えるほかはない。
『マラコット海淵』を出した翌一九三〇年、ドイルは七一歳の高齢でこの世を去っている。(福島正実)