緋色の研究
コナン・ドイル/延原 謙訳
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目 次
第一部 元陸軍軍医 医学博士ジョン・
H・ワトスンの回想録再刻
第一章 シャーロック・ホームズ君
第二章 推理学
第三章 ロウリストン・ガーデン事件
第四章 ジョン・ランスの証言
第五章 広告を見てきた男の話
第六章 グレグスンの手腕
第七章 暗中の光明
第二部 聖徒たちの国
第八章 アルカリ大平原
第九章 ユタの花
第十章 ジョン・ファリア予言者と語る
第十一章 命がけの脱出
第十二章 復讐の天使団
第十三章 ワトスン博士の回想録(続編)
第十四章 結末
解説
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新潮文庫編集部からのお知らせ
本書のモルモン協会(末日聖徒イエス・キリスト協会)に係わる描写には事実と乖離したものが散見されますが、本作品が十九世紀末に書かれたものであること、またフィクションであることから原文のままといたしました。
なお、モルモン教会には「四長老会」なるものは実在せず、異教徒との結婚を禁ずるということや第三者が結婚相手を決めるということもありません。また、一夫多妻も一八九○年には廃止されております。
[#地付き]新潮文庫編集部
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第一部 元陸軍軍医 医学博士ジョン・
H・ワトスンの回想録再刻
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第一章 シャーロック・ホームズ君
一八七八年にロンドン大学で医学博士の学位をとった私は、軍医としての必須《ひつす》科目をおさめるため、ひきつづきネットリの陸軍病院へと進んだ。そしてそこで修業《しゆぎよう》を終了《しゆうりよう》してから、順調に第五ノーサンバランド・フュージリア連隊付の軍医補に任命されたのである。
当時連隊はインドに駐在《ちゆうざい》中であったが、私の赴任《ふにん》前にかの第二次アフガン戦争が勃発《ぼつぱつ》してしまった。ボンベイに上陸してみると、わが連隊はすでに山地を前進して敵地ふかくはいっていると聞かされたが、自分とおなじ立場におかれた多くの士官たちとともにそのあとを追って、カンダハールまでたどりついてみると、そこにわが連隊がいたので、ただちに新しい軍務に服したのである。
この戦役《せんえき》は多くの人に叙勲《じよくん》やら昇進をもたらしたけれど、私にとっては徹頭徹尾《てつとうてつび》災難だけであった。私は命ぜられてバークシャー連隊付に転じ、その隊の一員としてかのマイワンドの大苦戦に参加した。そのさいジェゼール銃弾《じゆうだん》に肩《かた》をやられて、骨をくだかれたうえ、鎖骨下《さこつか》動脈もすこしかすった。あのとき勇敢《ゆうかん》な当番兵マレーの献身《けんしん》的な行動がなかったら、私はおそらく残忍《ざんにん》きわまる回教兵《ガージー》の手中に陥《おちい》るほかなかったであろうが、忠実なる彼《かれ》は傷ついた私を駄馬《だば》の背に乗せて、無事英軍戦線までつれ帰ってくれたがため、さいわいにして今日あるを得たのである。
長期間の困苦にからだが衰弱《すいじやく》しているところへ、痛みで疲労《ひろう》をましたので、私は多数の傷兵とともに、ペシャワールの基地病院へと後送された。そこで大いに健康を回復し、もう病室のなかを歩きまわったり、すこしはヴェランダへ出て日向《ひなた》ぼっこくらいできるまでにこぎつけていたとき、残念ながらわがインド領の呪《のろ》うべき腸チフスにやられてしまった。
幾月《いくつき》かのあいだ、私の命は絶望の淵《ふち》をさまよっていた。でもやっと意識をとりもどして、少しずつ快方にはむかったものの、衰弱がはなはだしかったので、一日も早く本国へ帰せという医局の断定がくだされた。
そこで運送船オロンティズ号に乗せられ、一カ月後には、これでも元の体になれるかと疑われるまで健康を害してしまった体をかかえて、ポーツマス桟橋《さんばし》へ上陸したのであるが、静養のためにはむこう九カ月の休暇《きゆうか》を、祖国政府から与《あた》えられていた。
故国にはひとりの親戚《しんせき》もひとりの友人をももたなかった私は、まるで空気のように自由の身であった。いや、一日十一シリング六ペンスの支給額が許すかぎりの自由の身であったのだ。そういう状況《じようきよう》のもとにおかれた私が、全国の無為怠惰《むいたいだ》のやからたちが滔々《とうとう》としておし流されてゆく、あの下水溜《げすいだめ》のような大都会、ロンドンへとひきつけられたのは、すこしの無理もないことだった。
ロンドンで私は初めしばらくのあいだ、ストランドのあるホテルに滞在《たいざい》して、つまらない無意義な生活をただ漫然《まんぜん》とおくり、持っていた金をかなり不相応に使い荒《あら》していた。そのためふところ具合がひどく悪化したので、これじゃロンドンを去ってどこか田舎《いなか》へでもひっこむか、さもなければ生活様式を根底から改める必要があると気がついた。
そこで後者をえらぶことにし、さしあたりホテルをひき払《はら》うのを手はじめに、もっと質素でよいから費用のかからぬところへ居を移そうと決心を定めたのである。
この決意ができたばかりの日だった。クライテリオン酒場のまえにつっ立っていると、肩をたたくものがある。ふりかえってみると、聖バーソロミュー病院時代私の下で助手をつとめていたスタンフォード青年である。
だだっ広い大ロンドンのまっただ中で、親しみのある顔にひょっくり出会うなんて、孤独《こどく》なものにとってはじつに愉快《ゆかい》なことである。スタンフォードとはそのころ、なにも特別に親しくしていたというわけでもないのだが、私は狂喜《きようき》した。むこうも私に会ったのを喜んでいるらしい。私はうれしさのあまり、ホウボーン料理店で昼食をおごるからというわけで、辻馬車《つじばしや》に乗って出かけた。
「ワトスンさん、あなたいったいなにをやっているんです?」雑踏《ざつとう》した街路をがらがらはしる馬車のなかで、スタンフォードは不思議さをかくそうともせず、まっこうからたずねた。「からだは針金みたいにやせてるくせに、顔や手はくるみのように日にやけてるじゃありませんか」
私はてみじかに、自分の冒険談《ぼうけんだん》を語りきかせたが、でも目的地へ着くまでに語りつくすのはむずかしかった。
「さんざんでしたねえ!」私のこぼすのを聞きおわって、彼は同情こめていった。「いまはなにしているんですか?」
「下宿をさがしているのさ。手頃《てごろ》な家賃で居心地《いごこち》のよい部屋がないものか、その大問題の解決をしようとしているところだ」
「そいつは不思議だなあ! 今日そういうことを私にいうのは、あなたでふたり目ですよ」
「ふたり目? 初めにいったのは誰《だれ》なんだい?」
「病院の化学研究室にいる男ですがね、いい部屋を見つけたんだけれど、ひとりで占領《せんりよう》するには負担が重すぎるし、といって半分持ちあってくれる者はないしって、ぶつぶつ今朝こぼしていましたっけ」
「しめたッ!」私は叫《さけ》んだ。「もしほんとうに割《わ》り勘《かん》で協同生活をやりたいという者があるんなら、僕《ぼく》こそおあつらえむきというものだ。僕にしたってひとりよりか相棒のあったほうがいいからねえ」
スタンフォード先生グラスごしに、いささか妙《みよう》な顔をして私を見ながら、
「あなたはまだシャーロック・ホームズをご存じないからねえ。たえずいっしょにいるとなりゃ、あなただってあんまりよくないかもしれませんよ」
「どうして? どんなところがいけないの?」
「なあに、べつにいけないってわけはありませんがね、あの人、考えることが少々変っていますからねえ。ある種の科学には夢中《むちゆう》になる人なんです。私の知るかぎりでは、そりゃもう尊敬すべき人は人なんですけれどね」
「医学生なんだね?」
「いいえ。といってなにが志望なんだか、私にはてんで見当がつきません。解剖《かいぼう》学にはたいへん造詣《ぞうけい》がふかいようだし、化学者としても一流なんですが、私の知るかぎりでは医学のほうは組織だっておさめたことはないようです。そして研究題目ときたら、気まぐれで常軌を逸《いつ》しているくせに、教授たちをあっといわせるような不思議な知識をうんともっている妙な人です」
「当人に直接、なにをやるつもりかたずねてみたことはないの?」
「いいえ。たずねたって容易に話すような人じゃないんです。もっとも興にのると、ずいぶんうちとけて話せる人なんですけれどね」
「いちど会いたいもんだな。僕も誰かと同宿するようなら、勉強家で静かな人のほうがいいからねえ。まだからだも十分でないし、あんまりそうぞうしいにぎやかなのは耐《た》えられないんだ。そういうことは、もうこれからさき一生の分を、アフガニスタンでしつくしてきたものね。でその男には、どうしたら会えるだろう?」
「いまきっと研究室にいますよ。あの人は何週間も顔も出さぬかと思うと、朝から夜まで閉じこもる人でね。さしつかえがなかったら、食事がすんでからいっしょに馬車で行ってみましょう」
「それはいいね」私はすぐに応じた。そして話はほかの方面へそれていった。
ホウボーンを出て病院へ行くまでの途中《とちゆう》、スタンフォードは私が同宿しようといいだした先方の人物について、まえよりもいくぶんくわしいことを説明してくれた。
「かりにその人とうまくゆかなかったからといって、私を責めては困りますよ。私はときどき研究室で会って知っているだけのことしか、あの人についちゃ知らないんですからね。この話はあなたのほうから希望が出たんだから、責任を私になすりつけられちゃ困ります」
「うまくゆかなかったら、別れるのはなんでもないさ。僕にいわせればね」と私はまじまじスタンフォードの顔を見ながらつけ加えた。「なにか理由があって、君はこの問題から手を引きたがっているらしく思われるよ。その男は手におえないかんしゃく持ちだとでもいうのかい? それともなにかほかによくないところでもあるのか、かくさず話してくれたまえ」
「言葉じゃ説明できないことを、説明しろといわれちゃ弱ったな」スタンフォードは笑いながら、「ホームズという人は私の眼《め》から見ると、少し科学的でありすぎる――むしろ冷血にちかいくらいなんです。たとえば親しい友だちにだって、新発見の植物性アルカロイドをちょいと一服のませてみる、それくらいのことはやりかねない人ですね。むろんそれは恨《うら》みでもあってやるわけじゃありませんよ。そうじゃなくて、ただ研究心が旺盛《おうせい》なあまり、その毒物の反応を正確に知るためには、それくらいのことは辞さないかもしれぬという一例なんです。人にのませるというと悪く聞えますが、研究のためならきっと自分でものみかねない人だと思います。まあそれほど知識の正確さにたいして情熱をもっているらしいんですね」
「それも大いにいいじゃないか」
「ところがそいつも度がすぎでもしますとね。たとえば解剖室の死体を棒でたたいてまわるといったようなことにでもなると、おだやかじゃありませんよ」
「死体をたたく?」
「たたくんです。死後どの程度に打撲傷《だぼくしよう》がつくか、確かめるのだといってね。こいつは現に私がその現場を見ましたよ」
「だって、それでも医学生じゃないっていうのは?」
「医学生じゃありません。あの人はいったいなにを研究の目的としているのか、誰にだってわかりゃしませんよ。――なんて話しているうちに、もう来ましたね。どんな人だか、ご自分で会ってごらんになるのがいちばんです」
このとき私たちは、ほそい路地をとおって、小さな裏口をくぐったのだった。なかは大きな病院のとある一棟《ひとむね》である。私にははじめての場所でないから、殺風景な石段をのぼって、白壁《しらかべ》のところどころに焦《こ》げ茶色のドアの並《なら》んでいる廊下《ろうか》を奥《おく》へはいってゆくには、案内もいらなかった。廊下のつきあたり近くから、ひくいアーチ型の天井《てんじよう》をもつ別の廊下がわかれて、化学研究室へ通じているのである。
研究室はりっぱな部屋で、数しれぬ多くのガラス壜《びん》が、あるものはきちんと並べて、またあるものはとり散らかされていた。脚《あし》のひくい大型のテーブルがあちこちに散在して、その上には、レトルト、ピペット、青い炎《ほのお》のちろちろするブンゼン灯などが、ところ狭《せま》く並んでいた。
室内にいる研究者はたったひとりだけで、その人は奥のほうの実験台にのしかかるようにして実験に没頭《ぼつとう》していたが、私たちの足音でふと顔をあげたかと思うと、うれしそうな声をあげて上体をおこし、そのまま立ちあがった。
「発見したよ! とうとう発見したよ!」彼は一本のピペットを手に、走りでてきながら、スタンフォードにむかって叫んだ。「血色素《ヘモグロビン》にあえば沈澱《ちんでん》するけれど、血色素以外のものでは絶対に沈澱しない試薬を発見したよ」たとえ金鉱を発見したって、これほどうれしそうな顔はできなかろう。
「こちらはドクトル・ワトスン。このかたがシャーロック・ホームズさんです」スタンフォードが私たちをひきあわせてくれた。
「はじめまして」ホームズはていねいにいって私の手を握《にぎ》ったが、その握りかたは言葉つきにも似ず、いささか乱暴だと思われるほど強かった。「あなたアフガニスタンへ行ってきましたね?」
「ど、どうしてそれがおわかりですか?」私はびっくりした。
「いや、なんでもないです」彼はひとりで悦《えつ》にいりながら、「それよりも問題は血色素ですよ。この私の発見の重要さは、むろんあなたも認めてくれるでしょうな?」
「そりゃ化学的にはむろんおもしろい発見だけれど、実用的には……」
「どういたしまして! こいつは近年にない実用的な法医学上の発見ですよ。血痕《けつこん》にたいして的確な試験ができるじゃありませんか! ま、こちらへ来てみてください」彼はむきになって私の服の袖《そで》をつかみ、いままで自分が研究していた実験台のところへ引っぱっていって、
「新しい血でやりましょう」と長い千枚通しを自分の指に刺《さ》し、出てきた一|滴《てき》の血をピペットにとった。
「さて、まずこの微量《びりよう》の血液を一リットルの水のなかに加えます。その結果は、ごらんのとおり普通《ふつう》の水と外観はすこしも違《ちが》いません。混合の比率は百万分の一以下という微量です。それでもなおあきらかな反応が得られるのです」
そういいながら彼は、容器のなかへ少量の白い結晶物《けつしようぶつ》を放《ほう》りこみ、つぎに透明《とうめい》な液を数滴加えた。するとたちまち水はどんよりした茶褐色《ちやかつしよく》に変り、ガラス器の底へはうす茶色の沈澱物が生じた。
「は、は、は!」ホームズは新しい玩具《おもちや》をもらった子供のように、手をうって喜んだ。「ど、どんなもんです?」
「きわめて鋭敏《えいびん》に反応するものらしいですな」
「みごとだ! じつにみごとなものだ! 旧式のグアヤック・チンキ試験なんて手間ばかりかかって不確実でお話にならないし、血球の顕微鏡《けんびきよう》検出法だっておなじようなもんだ。ことに顕微鏡法ときたら、付着後数時間を経過した血痕には、もう役にたたないんだからな。そこへゆくとこの方法は、血痕の新旧なんかには無関係です。この方法がもっと早く発見されていたら、いま大きな顔をしてのさばっているやつで、とうの昔《むかし》に牢《ろう》へたたきこまれているのが何人あるか知れやしない!」
「それはそうでしょうな」私はつぶやいた。
「犯罪事件というものは、たえずこの点にひっかかって悩《なや》んでいるのです。たとえば犯罪があってから、そう、数カ月ぐらいたってひとりの男に嫌疑《けんぎ》がかかったとする。そのシャツなりハンカチなり、あるいは服なりを調べてみると、褐色がかったしみがついている。そのしみがはたして血痕であるか、それとも泥《どろ》か錆《さび》かあるいは果物のしみであるかを決定しなければならない。ここに至って従来は幾多の専門家が悩まされていた――というのは何故《なぜ》か? 信頼《しんらい》すべき試験法がなかったからです。けれどもここにシャーロック・ホームズ法が発見された以上、今後はもはやなんらの困難もなくなったというものです」
こう語るうちにも彼は妖《あや》しく眼をかがやかせ、片手を胸にあてて、想像でよび集めた聴衆《ちようしゆう》の喝采《かつさい》にこたえるかのように、気どってうやうやしく一礼したものである。
「おめでとうをいわなければなりませんね」私は彼の熱狂《ねつきよう》ぶりに少なからず驚《おどろ》かされた。
「昨年フランクフルトでフォン・ビショフの事件というのがあったのですが、そのころもしこの方法が知られていたら、この男なんか必ず絞首台《こうしゆだい》に送られていたのです。それからブラッドフォードのメースンも、悪名高いミュラーも、モンペリエのルフェーヴルも、ニュー・オルリーンズのサムソンも、そのほかこれが決め手になる事件をいくつでも挙げられますがね」
「犯罪事件にかけては、まるで生き字引みたいですね」スタンフォードが笑った。「この方面の新聞を発刊するといいですよ。発刊するんだったら、『過去の犯罪新報』という名にするんですね」
「読みものとしても、さぞおもしろいものができるだろう」ホームズは指を刺したあとへ絆創膏《ばんそうこう》を小さく貼《は》りつけて、「こうしとかないと、ずいぶん毒物をいじるもんだからね」と私のほうを見て微笑《びしよう》しながら、その手を出して見せた。それにはおなじような絆創膏がいちめんに、まるで斑点《はんてん》のように貼ってあり、ところどころ強い酸類で皮膚《ひふ》が変色していた。
「じつはきょうは用事があって来たんですがね」スタンフォードは三脚《さんきやく》のたかい腰《こし》かけに腰をおろし、べつのおなじものを足で私のほうへ押《お》してよこしながら、「このワトスンさんは下宿をさがしているんです。ところであなたも今朝、誰か同宿してくれるものがほしいのに、相手が見あたらないってこぼしていたから、これはちょうどよかろうと思ったもんですからね」
シャーロック・ホームズはこの申し出が気にいったらしく、「僕の眼をつけている部屋というのはベーカー街ですがね。部屋としちゃ申し分ない手ごろさなんだ。君、強い煙草《たばこ》の匂《にお》いはべつに気にならないでしょうな?」
「私は自分でもふだんシップスを愛用しているくらいです」
「それは結構だ。それから僕はたいてい薬品の類を身近において、ときどきは実験もやりますが、その点困りませんか?」
「ちっとも困りませんな」
「それではと――そのほかの僕の欠点はなにかな? 僕はときどき憂鬱《ゆううつ》になって、何日もつづけて口をきかないことがあるが、そういうとき僕が怒《おこ》っていると思ってくれちゃ困るんです。ただ黙《だま》ってほっといてさえくれれば、じきもとのとおりになるんですからね。ところでこんどは君のほうのうちあけたところを聞こうじゃありませんか。いっしょに暮《くら》すとなればそのまえに、おたがいの短所を十分知りあっていたほうが好都合ですからね」
私は訊問《じんもん》にあったのを笑って、「私はブルドッグの子犬を一|匹飼《ぴきか》っています。それから神経が疲《つか》れているから、すべて騒々《そうぞう》しいのはご免《めん》こうむりたいです。そして起床《きしよう》時刻はでたらめで、ひどい不精《ぶしよう》ものです。からだが元気な時は、まだまだ悪いところもいろいろあるのですが、いまのところまあこれらが主なものです」
「ヴァイオリンをひくのは、その騒々しい部類にはいりますかね?」彼は心配そうにたずねた。
「そりゃ演奏者にもよりますが、ヴァイオリンもじょうずな人のひくのはこのうえなくよいものですけれど、下手な人のときては……」
「うん、そんなら大丈夫《だいじようぶ》だ」彼は快活に笑いながら、「それじゃ事はきまったと思っていいですね。ただし部屋そのものが君の気にいらなかったら、こりゃべつだが」
「部屋はいつ見に行きますか?」
「あすの正午にここへ訪ねてきてください。いっしょに行って全部とりきめましょう」
「承知しました。じゃきっかり正午に」私は握手《あくしゆ》しながら約した。
話がすんだらすぐ、薬品を相手に研究に没頭していった彼を残して、私たちは私のホテルのほうへ歩いていった。
「それはそうと」とつぜん歩みをとめて、私はスタンフォードにたずねた。「僕がアフガニスタンから帰ってきたなんていうことを、彼はいったいどうして知ったのだろう?」
スタンフォードは謎《なぞ》めいた微笑をうかべて、「そこがあの人の癖《くせ》なんですよ。どうして物事をああも見やぶるのか、みんなが不思議がっているんです」
「へえ! じゃ誰にもわからないんだね?」私は非常に興味をおぼえた。「こいつはおもしろいぞ! おもしろい人物を紹介《しようかい》してくれて、まことにありがとう。『人類が真に研究すべき問題は人間なり』だからね」
「じゃあの人を研究するんですね」スタンフォードはこのあたりで別れの挨拶《あいさつ》をしながら、「でもこいつはなかなかの難問でしょうよ。あなたが研究するよりも、反対にあなたが研究されるほうへ私は賭《か》けますね。じゃさよなら」
「さよなら」私はホームズにたいしていたく興味を感じながら、ホテルまでぶらぶらと歩いて帰った。
第二章 推理学
翌日、私は約束《やくそく》どおり研究室を訪ねていって、前日ホームズの話していたベーカー街二二一番Bのその部屋をいっしょに見にいった。そこは居心地《いごこち》のよい寝室《しんしつ》二つと、気持よく家具も備えてあり、大きな窓が二つあって、明るく風通しのよい大きな居間一室とからなっていた。部屋を借りるとすれば、あらゆる点で好ましいものだったし、下宿代はふたりに割りあててみればきわめて格好であったし、私たちは即座《そくざ》に約束をとりきめて、部屋を占領《せんりよう》することになった。
私はその晩のうちにホテルから荷物をはこんだ。ホームズはつづいて翌朝、数個の箱《はこ》と旅行|鞄《かばん》を持ちこんだ。そして一両日は荷物を解いて、それを都合よく配置するのに忙殺《ぼうさつ》されたが、それがすむとしだいに落着いて、新しい環境《かんきよう》にだんだん同化していった。
ホームズはいっしょに暮しにくい男では決してなかった。日常はもの静かで、起居とも規則的だった。夜は十時すぎて起きていることはめったにないし、朝はきまって私の起きないさきに食事をすまして出てゆくのであった。そしてその一日を、ときには化学研究室ですごすこともあり、解剖《かいぼう》室で暮すこともあり、またおりおりは長いあいだ散歩することもあったが、その散歩には遠く下町のほうまでも行くらしかった。
彼《かれ》が研究熱にとらえられているときの根気ときたら、なにものにも劣《おと》らぬ強さをもっていたが、ときどきその反動が現われると、幾日《いくにち》となくぶっ通しで居間の長《なが》椅子《いす》に長くなったきり、朝から晩まで口もきかなければ、筋肉一つ動かさないでじっとしていた。そうしたとき彼の眼の、うつろな夢《ゆめ》みるようなのを見た私は、もしも彼の平素の節制と潔白とを知っていなかったら、なにか麻薬《まやく》の類に惑溺《わくでき》しているのだと信じたかもしれなかった。
日のたつにつれて彼にたいする私の興味はふかくなり、彼がなにを目的に生きているかという問題に関して、私の好奇心《こうきしん》はつよくなった。元来彼の外見なり容貌《ようぼう》なりそれじたいが、どんな不注意な人の眼をもひかないではおかないのだ。身長もたっぷり六フィート以上あるが、ひどくやせているのでじっさいよりはよほどたかく見える。
眼といえば、前にいった冬眠《とうみん》的な期間はべつだけれど、射るような鋭《するど》い光をもっているし、肉のうすい、鷲《わし》のような鼻は、ぜんたいの風貌に俊敏果敢《しゆんびんかかん》な印象をあたえている。そして彼の頤《あご》、これがまたぐっと出て角《かど》ばり、決断の人であることを示しているし、両手はいつもインキと薬品のしみだらけだが、手先が器用なことは驚くほどで、こわれやすい学術器械類をいとも巧《たく》みに扱《あつか》うのを、私は何回となく見せられて知っているのである。
この男のためどんなに私の好奇心がそそられたことか。自分に関することとなると、なに一つ話そうとしない彼の口を解《ほぐ》してやろうと、私がどんなにしばしば努めたことか。
こううちあけると読者は私を、救いがたきおせっかいものだと考えられるかもしれない。けれどもそうときめつけるまえに一応お考え願いたいのは、当時私の生活がいかに目的を欠いていたか、いかに私の日常が倦怠《けんたい》にみちていたかということである。天気でも格別よい日のほかは、健康が外出を許さなかったし、訪ねてきて気をまぎらしてくれる友とてはなかったし、私としては彼の身辺をめぐる小さな謎を待っていたように歓迎《かんげい》し、それを解くことにでも時間をつぶさなければ、どうにもしかたがなかったのである。
彼は医学を勉強しているのではなかった。この点はスタンフォードの言のあたっていることを、彼自身の口から聞いた。それではなにかほかの方面で、将来学者の列に加わりうるよう学位をとるとか、またはその他の登竜門《とうりゆうもん》を突破《とつぱ》するための勉強をしているかというと、そんな様子もさらに見えなかった。それでいてある種の研究にかけては異常な情熱をもっており、へんに一方に偏《へん》してはいるが、驚くべき該博《がいはく》な知識をもっていて、私など彼の言葉のはじにそれを知ってまったく舌をまいたほどである。なにか確たる目的なしにああまで懸命《けんめい》に勉強したり、正確な知識の獲得《かくとく》に汲々《きゆうきゆう》するものはあるまい。漫然《まんぜん》と読書する人で、知識の正確さを誇《ほこ》りうる人はほとんどないのだ。よほどの理由がないかぎり、人はこまかい事に心を悩ますものではない。
彼は驚くべき物知りであると同時に、一面いちじるしく無知であった。当代の文学|哲学《てつがく》政治に関する彼の知識はほとんど皆無《かいむ》らしかった。私がトーマス・カーライルをもちだしたら、彼はきわめて無邪気《むじやき》に、それがなにものでどんなことをした人であるかをたずねた。
だがそんなのはまだよいとして、偶然《ぐうぜん》のことから、彼が地動説や太陽系組織をまったく知っていないのを発見したとき、私の驚きは頂点に達した。いやしくもこの十九世紀の教養ある人物で、地球が太陽の周囲を公転しているという事実を知らぬものがあろうとは、あまりの異常さに私はほとんど信じがたくさえあった。
「ふふふ、驚いたようだね」彼は私のあきれた顔を見て微笑しながら、「だがこうして知ったからには、こんどはできるだけ忘れてしまうように努めなきゃ」
「忘れるように?」
「僕《ぼく》はおもうに」と彼は説明した。「人間の頭脳というものは、もともと小さな空っぽの屋根裏部屋のようなもので、そこに自分の勝手にえらんだ家具を入れとくべきなんだ。ところが愚《おろ》かなものは、手あたりしだいにこれへいろんながらくたまでしまいこむものだから、役にたつ肝心《かんじん》な知識はみんなはみだしてしまうか、はみださないまでもほかのものとごた混ぜになって、いざというときにちょっととりだしにくくなってしまう。
そこへゆくと熟練した職人は、自分の頭脳部屋へしまいこむ品物については、非常に注意をはらう。仕事をするに役だつもののほかは、決して手を出さず、といってその種類は非常に多いのだが、これらを彼はきわめて順序よく、きちんと整理しておく。
そもそもこの頭脳部屋の壁《かべ》が伸縮《しんしゆく》自在で、いくらでも拡《ひろ》がりうるものだと思うのがまちがっているんだ。この点からいうと、なんでもかまわず詰《つ》めこんでいると、いまに、なにか一つ新しく覚えるごとに、前から知っていたことをなにかしら忘れることになるにちがいない。だから、役にもたたぬ知識のために、有用のやつがおし出されないように心掛《こころが》けることがきわめて大切になってくる」
「だって太陽系の知識くらい……」と私は抗議《こうぎ》した。
「僕にとってそんなものがなんになるものか!」彼はせきこんで私の言葉をおさえた。「君は地球が太陽の周囲を回っているというが、たとえ地球が月の周囲を回転しているとしても、そんなことで僕の生活や僕の仕事に、なんの変化もおこらないんだからね」
じゃその君の仕事というのはなんなのだと、よほどたずねてやろうと思ったが、そのときの彼の態度には、どこかそうした質問をよろこばぬふうが見えたので、私は控《ひか》えた。そのかわり、このときのちょっとした話をくり返し熟考してそこからなにかの結論をひきだしてやろうと頭をしぼった。
彼は自分の目的に関係のない知識はとりいれないといった。してみると彼のもっている知識は、ことごとく彼にとってただちに有用なものだということになる。私は心のなかで、彼のとくべつよく知っていることを示した、いろいろの項目《こうもく》を数えあげてみた。そしてついには鉛筆《えんぴつ》をとって、紙きれに書きとめてみた。書きあげてみると、思わず微笑がうかんできた。その一覧表というのはこうである。
シャーロック・ホームズの特異点
[#ここから改行天付き、折り返して9字下げ]
一、文学の知識――ゼロ。
二、哲学の知識――ゼロ。
三、天文学の知識――ゼロ。
四、政治上の知識――微量。
五、植物学の知識――不定。ベラドンナ、阿片《あへん》、その他|一般《いつぱん》毒物にはくわしいが、園芸に関してはまったく無知。
六、地質学の知識――限られてはいるがきわめて実用的。一見して各種の土壌《どじよう》を識別。散歩後ズボンの跳泥《はね》を小生に示して、その色と粘度《ねんど》によりロンドン市内のどの方面で付いたものかを指摘《してき》したことあり。
七、化学の知識――深遠。
八、解剖学の知識――精確ではあるが組織的ではない。
九、通俗文学の知識――該博。今世紀に起きた恐《おそ》るべき犯罪はすべて詳細《しようさい》に知っている。
一〇、ヴァイオリンを巧《たく》みに奏す。
一一、棒術、拳闘《けんとう》および剣術《けんじゆつ》の達人。
一二、イギリス法律の実用的知識深い。
[#ここで字下げ終わり]
ここまで書いてきて、私は失望してその紙を火の中に投げこんでしまった。「こんな才能の寄せ集めをやってみて、それでやっとこの男のやろうとしていることを発見したり、あるいはまたそういう才能を要する仕事がなんであるかをさぐり当てようとしたり、そんなくだらないことは早くよしたほうがいい」私はつぶやいた。
私は右の表で、彼のヴァイオリンに関する才能のことを指摘した。これはきわめてすばらしいものではあるが、ほかの才能なみにすこぶるかたよっていた。彼がさまざまの曲を、ことに難曲をも奏しうるのは、かつて私の求めに応じて、メンデルスゾーンの歌曲やそのほか愛好の曲を奏してくれたのでもわかる。けれども彼ひとりのときは、めったに楽譜《がくふ》をひろげたり、またはこれという曲らしいものを奏することもないし、人に知られた旋律《せんりつ》をかなでることもないのである。
夕方になるとよく肘掛《ひじかけ》椅子《いす》にもたれこんで、眼《め》をつぶって膝《ひざ》の上に横たおしにしたままのヴァイオリンを、そぞろに掻《か》きならすことがあった。その曲もときには朗々と、ときには憂鬱《ゆううつ》に、ときには夢幻《むげん》的に、あるいは陽気なこともあった。これらはみな、そのときどきの彼の思考を反映するものにはちがいないが、思考を助長するための音楽であるのか、あるいは奏楽は単に気まぐれにすぎないのか、私はいずれとも判じかねた。
というわけで、さんざん勝手な曲をひかれるのだから、もし最後にこっちの注文で好きな曲をたて続けに奏して、埋《う》めあわせをつけてくれるのでなかったら、私はとっくに抗議をもちだしていたかもしれない。
いっしょに住みはじめて最初の一週間ばかり、ひとりも来客がなかったので、私はホームズもまた私同様に友人の少ない男なのだろうときめかけていた。だがまもなく、それは思いちがいで、彼には多くの知人が、しかもひろく社会のあらゆる方面に知人のあることがわかった。そのなかのひとりで、血色のすこし悪い、鼠《ねずみ》のような顔をした黒眼のレストレードという男は、たった一週間のうちに三、四回もやってきた。
それからある朝は、流行の服装《ふくそう》をした若い女性が来て、三十分あまりもいたかと思うと、その午後にはごま塩頭の、行商人らしいみすぼらしいユダヤ人が来たが、この男はひどく興奮しているらしかった。その、すぐあとから、だらしないふうをした中婆《ちゆうばあ》さんがやってきた。
またあるときは、白髪《はくはつ》の老紳士《ろうしんし》が面会にきたこともあるし、綿ビロードの制服を着た鉄道の赤帽《あかぼう》もやってきた。これらえたいの知れぬ人物がやってくると、ホームズはきまって居間を専用させてくれというので、私はいつも寝室へ退却《たいきやく》することにしていた。これについては気の毒だといつも彼はあやまっていた。
「僕はこの部屋を仕事用に使わなきゃならないのでね。あれはみんな僕のところへ頼《たの》みにくる客なんだ」
ここでまた単刀直入に質問する機会がきたわけだが、私の遠慮《えんりよ》ぶかさがまたしても、他人にうちあけ話を強《し》いることを躊躇《ちゆうちよ》させたのである。当時私は、彼にはなにかふかい理由があって、いいたくないのだろうと思っていたのだが、まもなくむこうから進んでこの問題に触《ふ》れてきたので、そうでないことがわかったのである。
すこしわけがあって覚えているのだが、三月の四日であった。いつもよりいくらか早く起きでてみると、ホームズはまだ朝食をすませていなかった。宿の主婦《おかみ》は私の朝ねぼうにはなれているので、私の分は食事の用意もできていなければ、コーヒーも用意されてはなかった。で私は誰《だれ》でもよくやるようにいわれのない癇癪《かんしやく》をおこしてベルを鳴らし、支度《したく》してくれとぶっきらぼうに告げた。それからテーブルの上にあった雑誌を手にとって、黙々《もくもく》としてトーストをかじっているホームズを横目に見ながら、それで時間をつぶそうと思った。
表題に鉛筆でしるしをつけた記事があったので、自然私の眼はその活字を追っていた。
それは「生命の書」といささか覇気《はき》のつよい題をつけて、自己のまえに展開してくるものを、精確かつ組織的に検討することによって、観察力に富む人間がいかに多くのことを学びうるものであるかを説いたものであった。だが読んでみて私には、抜《ぬ》け目なさとバカらしさとを巧みにつき混ぜたものとしか思われなかった。推理は緻密《ちみつ》で熱があるけれども、それから出てくる結論には、こじつけと誇張《こちよう》のあとがみえたのである。
顔面筋肉のちょっとした動きとか、視線の移動とかいうような、瞬間《しゆんかん》的表情によって、人心の奥底《おくそこ》まで見ぬきうるものだと、筆者は主張している。そしてまた、観察と分析《ぶんせき》とに習練した人をあざむくことは不可能であるというのである。
その結論はすべてユークリッド幾何学《きかがく》の定義のごとく、ぜったいに誤りはない。慣れないものはその結論に驚《おどろ》いて、そこまで到達《とうたつ》した筋道を教えられるまでは、筆者を魔法《まほう》つかいだとも思いかねないだろう。
「ただ一|滴《てき》の水より」筆者はいう。「論理家は大西洋またはナイヤガラ瀑布《ばくふ》など、見たり聞いたりしたことがなくても存在の可能なことを、推定しうるであろう。同様に、人生は一連の大きな鎖《くさり》であるから、その本質を知ろうとすれば、一個の環《かん》を知りさえすればよいのである。
すべて他の学問とおなじく、推理分析学もまた、長期間刻苦|精励《せいれい》してはじめて習得しうるのである。これが完成の域に達するには、生涯《しようがい》を研鑽《けんさん》に費やしても、いまだもって十分とは決していえない。
初学者はこれら至難の業《わざ》たる精神的方面の研究にはいるに先だって、まず初歩の問題から習得すべきである。たとえば他人に会えば一見して経歴職業を判別しうるよう、習練をつむのである。
このような習練はばかばかしく見えるかもしれないが、これこそが観察力を鋭敏《えいびん》にし、またどこに眼をそそぎ、何物を探《さぐ》りみるべきかを教えてくれるのである。指の爪《つめ》、服の袖《そで》、靴《くつ》、ズボンの膝頭《ひざがしら》、人さし指や親指などのたこ、表情、カフス、これらのものはいずれの一つをとっても、それぞれの人物の職業を明示してくれる。有能な観察者がこれらのものをすべて総合するときは、かならずなんらか啓発《けいはつ》されるものであることを、筆者はかたく信じて疑わない」
「なんというたわごとだ!」私は雑誌でテーブルをぴしゃりとたたきながら叫《さけ》んだ。「こんなくだらない記事を読んだことがない」
「なんだい?」ホームズがたずねた。
「なに、この記事なんだ」私は用意された席につきながら、卵の匙《さじ》で指して、「しるしがつけてあるから、君も読んだのだろう? なかなか巧みに書いてあることは認めるけれど、読んでじっさい腹がたつ。これはきっと閑人《ひまじん》が暇《ひま》にまかせて、逆説を組みあわせてでっちあげた空論にきまっている。こんなことがほんとうに行われるものか! 僕はこいつを書いた男を、地下鉄の三等車へ押《お》しこんで、乗っているお客の職業をいちいち当てさせてやりたいくらいだ。やるなら一対千でも僕は賭《か》けてやるよ」
「そいつは君の負けだ」ホームズが静かにいった。「その記事なら僕が書いたんだけれどね」
「君が?」
「そうさ。僕は観察にも推理にも才能があるんだ。そこに述べてある理論を、君は妄想《もうそう》だと思っているらしいが、ほんとうにきわめて実用的なんだ。いま現に僕は、それのおかげで毎日のパンを得ているくらいだからね」
「それはいったいどんな具合に?」私は思わず好奇《こうき》の眼をかがやかせた。
「そう、僕には独自の職業がある。この職業をもっているのは、おそらく世界中で僕ひとりだろうが、じつは顧問探偵《こもんたんてい》なんだ。といっても君にはわかるかどうか。いまこのロンドンには国家の刑事《けいじ》や私立探偵がたくさんいる。これらの連中が失敗すると、みんな僕のところへやってくるので、僕は、正しい手掛りを得させてやるのだ。依《い》頼者《らいしや》がすべての証拠《しようこ》を僕のまえに提出するので、僕は犯罪史の知識を利用して、たいてい正しい方向を指摘してやることができる。
だいたい犯罪にはきわめて強い類似《るいじ》性があるから、千の犯罪を詳《くわ》しく知っていれば、千一番目のものが解決できなかったら不思議なくらいなものだ。あのレストレードは有名な刑事だが、ちかごろにせ札《さつ》事件で迷宮《めいきゆう》に踏《ふ》みこんでしまったものだから、ああしてちょいちょい訪ねてくるわけなんだ」
「じゃそのほかの人たちは?」
「多くは民間の興信所から紹介《しようかい》されてくるんだが、みんなそれぞれなにかしら心配ごとなり、トラブルなりを持っていて、それをなんとか解決してほしい連中なんだ。そこで僕は先方の話を聞き、それぞれ忠告を与《あた》えてやる。そして相談料をいただくというわけなのさ」
「だってそれじゃ君は、事件を詳細に見ている当事者にさえよくわからない問題を、この部屋から一歩も出ないで、ちゃんと解決できるというのかい?」
「そのとおり。僕にはその点一種の直覚力があるからね。ときには事件が案外複雑だったりもするが、そういうときは自身走りまわって、直接いろんなものを見てこなければならないことになる。それも僕にはいろんな特殊《とくしゆ》の知識があって、それを応用するから、問題は驚くほど容易になってくるのだ。
その雑誌に出ている推理の法則なんか、君の嘲笑《ちようしよう》を買ったようだが実地にあたって僕にはきわめて尊い利器になる。観察は僕にとって第二の天性だ。ぼくたちがはじめて会ったとき君はアフガニスタン帰りでしょうといったら、大いに驚いていたようじゃないか」
「あれはきっと誰かに聞いていたんだろう」
「とんでもない。僕は自分で知ったんだ。ながねんの習慣で、推理の過程を非常にはやくやるものだから、途中《とちゆう》の段階をほとんど意識しないで結論に達してしまったが、説明してみればこういう順序なんだ。
ここに医者タイプで、しかも軍人ふうの紳士がいる。すると軍医にちがいない。顔はまっ黒だが、黒さが生地《きじ》でないのは、手首の白いのでわかる。してみると熱帯地がえりなのだ。艱難《かんなん》をなめ病気で悩《なや》んだことは、憔悴《しようすい》した顔が雄弁《ゆうべん》に物語っている。左腕《ひだりうで》に負傷している。動かしかたがぎごちなくて不自然だ。
わが陸軍の軍医が艱難をなめ腕に負傷までした熱帯地はどこだろう? むろんアフガニスタンだ。――と、これだけの過程をおわるには一秒も要しなかった。それで僕がそれをいったら、君は驚いたというわけさ」
「そう説明されてみると、すこぶる簡単だね」私は微笑《びしよう》した。「君はエドガー・アラン・ポーのデュパンを思い出させる。ああいった人物が、小説の主人公以外に実在しようとは、夢《ゆめ》にも思わなかったなあ」
シャーロック・ホームズは立ちあがって、パイプに火をつけた。
「もちろん君は褒《ほ》めたつもりで、僕をデュパンに比べてくれたのだろうが、僕にいわせればデュパンはずっと人物が落ちる。十五分間もだまりこくっていてから、とつぜん適切な言を吐《は》いて、友人たちの思索《しさく》をぶちこわして驚かすというあの男のやり口は、きわめて浅薄《せんぱく》な見栄《みえ》だよ。それは分析的な才能をいくらか持っていたには違《ちが》いなかろうが、ポーの考えていたほどの驚異《きようい》的な人物じゃ決してないよ」
「君はガボリオウの作品を読んだことがあるかい? ルコックは探偵として君の理想にかなうだろうか?」
「ルコックなんて、あわれな不器用ものさ」ホームズはふんと鼻で笑って、腹だたしげな声でいった。「取りえといったらたった一つ、精力だけだ。あの本には胸《むな》クソが悪くなった。問題はただ身もとをあかさぬ被告《ひこく》の正体を、外部から突《つ》きとめるだけのことなんだが、僕なら二十四時間で片づけて見せることを、ルコックは六カ月もかかっているんだからね。あれは探偵の避《さ》けるべき事がらを教える教科書になるくらいのものだ」
好きな人物をふたりまで、こう無遠慮にやられたので、いささか憤慨《ふんがい》した私は、ぷいと立って窓のところへ行き、にぎやかな往来を見おろした。
「この男は頭もいいかもしれないが、うぬぼれも相当なもんだな」私はひそかに思った。
「近ごろは犯罪も犯人もさっぱりなくなった」彼《かれ》は彼で不平そうにいった。「われわれの職業に頭脳があるということが、なんの役に立つのか? 僕は有名になれるだけの頭脳を持っていることを自分でよく知っている。過去現在にわたって、犯罪|捜査《そうさ》に関して僕ほどの研究を積み、また僕ほどの天分をもつものは、ひとりだっていやしない。しかもその結果はどうか? 腕をふるおうにも、犯罪が一つもないのだ。警視庁の刑事連にさえひと眼で見ぬけるくらい簡単な動機しかない悪事――犯罪ともいえないくらいの単純な悪事しかありゃしないのだ」
彼の高慢《こうまん》ちきな口ぶりには、つくづく閉口した。で、話題をかえるのがなによりだと気がついて、
「あの男はなにをさがしているのかな?」と、質素な服装のがっしりした男を指さした。その男はさっきから往来のむこうがわを、しきりに家の番号|札《ふだ》をのぞきこみながら、ゆっくり歩いているのである。大きな青い封筒《ふうとう》を手にしているのは、きっと誰かの手紙でも届けるのだろう。
「ああ、あの海兵隊の退役兵曹《たいえきへいそう》のことかい?」
「この法螺《ほら》ふきめ!」肚《はら》のなかで私は罵倒《ばとう》した。「反証をあげられる心配がないと思って、勝手なヨタをとばしてら」
だが私のそう思った瞬間に、その男はこの家の番号札が眼につくと、つかつかと往来をこちらがわへ渡《わた》ってきた。つづいて強く戸をたたく音がして、太い声が聞え、やがて重い足音がどしんどしんと階段をのぼってきた。
「シャーロック・ホームズさんにこれを」はいってくるなり彼はそういって、ホームズに手紙を渡した。
今こそホームズのうぬぼれを直してやるによい機会だ。見ろ。こんなことになろうとは夢にも思わないものだから、でたらめをいったのだろうが、あわてるな! そう思いながら私はできるだけ穏《おだ》やかにたずねた。
「君、失敬ですが、ご職業はなんですか?」
「便利屋《コミツシヨネア》であります。制服はその、修繕《つくろい》に出していますんで」彼はぶっきら棒に答えた。
「そして以前は?」私はすこし意地悪い眼でホームズをちらりと見やった。
「兵曹でございました。海兵軽歩兵隊のな。べつにご返事はないのでございますな? は、それでは……」
彼はかちりと踵《かかと》をならしてそろえ、挙手の礼をし、そのまま帰っていった。
第三章 ロウリストン・ガーデン事件
白状するが私は、ホームズの理論にかく実用性のある証拠をまざまざと見せつけられて、すっかり驚くとともに、彼の分析力にたいする尊敬の念を大いに増したのである。もっとも、すべての事がらは単に私を眩惑《げんわく》する目的のもとに――といっても、いったいなんのためであるのか、その理由にいたってはまるで見当もつかないのであるが――あらかじめ仕組んであった芝居《しばい》ではないかというかすかな疑念が、それでも心のどこかに潜《ひそ》んでいたのも事実である。ホームズのほうを見ると、彼はもう手紙を読みおわって、なにか一心に考えこんでいるらしく、光のないうつろな眼《め》つきをしていた。
「いったいどうしてああいう推理ができたのかね?」と私はたずねた。
「推理? なんの?」ホームズはいらいらしたような声で反問した。
「なんのって、あの男が退役兵曹であるということをさ」
「つまらないことにかまっている暇はないよ」と彼はつっけんどんにいったが、すぐに笑顔《えがお》を見せて、「いや、これは僕《ぼく》が悪かった。思索を乱されたものだから、つい腹がたってね。だがまあいいや。じゃ君は、あの男が海兵隊あがりだってことが、ほんとうにわからなかったのかい?」
「まったくわからなかったね」
「弱ったな。説明のほうがかえってむずかしいくらい造作もないことなんだがな。二と二でなぜ四になるか証明しろといわれたら、君だってちょっとまごつくだろう? 四であることはまぎれもない事実なんだけれどな。
ええと、さっきの男の手の甲《こう》には、道のむこうがわを歩いていてもちゃんと見えるくらい大きな錨《いかり》の刺青《いれずみ》があった。それだけで海の匂《にお》いがするじゃないか。しかも一方に軍人らしい態度があり、型どおりちゃんと頬髯《ほおひげ》もはやしている。そこで海軍あがりとまではわかる。ところが、あの男にはいくらか尊大なところがあって、なんだか命令的な態度が見える。あの男の頭の傾《かたむ》けかたと、短杖《ケーン》の振《ふ》りかたには君もむろん気がついたろう? それから、見たところ堅実《けんじつ》で、まじめな、中年の男だ――と、こういった材料を寄せ集めた結果、僕は兵曹あがりとにらんだのだ」
「なあるほど! 驚いたもんだな」
「平凡《へいぼん》なことさ」とホームズは一言でかたづけたが、私が心から驚嘆《きようたん》しているのを見て、悪い気はしないらしいのは顔つきに見えていた。「たったいま僕は犯罪らしい犯罪がないといったが、どうやら考えちがいだったらしい。これを見たまえ」
彼は便利屋がおいていった手紙を私によこしたのである。
「へえ! これは怖《おそ》ろしいことだ!」私は手紙にちらと眼をおとすなり叫んだ。
「どうやらすこしは変った事件らしい」彼はあくまでも落着きはらって、「そいつを一度読みあげてみてくれないか?」
私は彼のためつぎのようにそれを音読してやったのである。
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シャーロック・ホームズ様
昨夜ブリクストンにほど近いロウリストン・ガーデン三番の家で難事件が発生しました。巡回《じゆんかい》中の巡査が午前二時、かねて空家だと知っている同家に灯火《あかり》を認めたので、不審《ふしん》をいだいて調べてみたところ、表玄関《おもてげんかん》はあけはなってあり、家具が一つもなくて人の住むとも思えない表の間に、みなりの立派な紳士《しんし》の死体がありました。ポケットの中には「アメリカ合衆国オハイオ州クリーヴランド市イナック・J・ドレッバー」という名刺《めいし》が数枚あり、金品をとられた形跡《けいせき》もなく、その他、この人の死亡原因を示すような証跡ものこっていません。室内に数カ所|血痕《けつこん》はありますが、死体には外傷が一つもないのです。彼がどういう理由で空家にはいったのか見当がつきません。じつに不思議な事件といわねばなりません。
小生本日十二時までは同家にいるつもりですが、それまでに同所へご出張願えないでしょうか? ご連絡《れんらく》があるまでは、いっさい手をつけずにお待ちします。万一おさしつかえある場合は、後刻小生から詳しく報告申しあげますから、何分のご意見をおきかせくださるよう、ご助力をお願い申しあげます。
[#地付き]早々。
[#地付き]トバヤス・グレグスン
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「グレグスンは警視庁でもちゃきちゃきの腕ききのひとりなんだ。この男とレストレードとは、ボンクラ刑事の中では優秀《ゆうしゆう》なほうだ。ふたりとも敏捷《びんしよう》で精力家なんだが、ただ型にはまりすぎていてね。まったくあきれるほどね。そしてお互《たが》いに対抗《たいこう》意識が強くて、嫉妬《しつと》しあうところなんか、まるで商売女みたいだな。この事件にふたりとも関係するのだったら、きっとおもしろいことになるだろうよ」
私は彼が落着きはらって饒舌《じようぜつ》を弄《ろう》しているのに呆《あき》れた。
「一刻もぐずぐずしているべきときじゃないだろう。なんなら辻馬車《つじばしや》を呼んでこようか?」
「さあ、僕は行くかどうかきめてない。僕くらい救いがたき怠《なま》けものはないのでね。もっともそれは発作《ほつさ》の起きたときの話で、これでときにはずいぶんてきぱきやることもあるにはあるがね」
「だってこいつは君が待ち望んでいたおあつらえむきのチャンスじゃないか」
「そんなことをいうけれどワトスン君、この事件が僕にどれだけ関係があると思うんだ? かりに僕が事件を解決してみたって、グレグスンやレストレード以下の刑事の功績になってしまうのはわかりきっているんだからね。というのが、僕は役人でもなんでもないからだがね」
「でもせっかくこうして助けを求めてきているんだから……」
「それは手腕《しゆわん》が僕におよばぬことを知っているからさ。それも僕にたいしてはそれを認めているが、第三者に知られるくらいなら、舌でも噛《か》んで死んだほうがましだと思っている彼らだからね。だが、ちょっと行ってみるのも悪くはない。僕は僕で独立に調べてやろう。調べても、得なことは一つもあるまいけれど、まあ連中をわらいものにするぐらいはできるだろうよ。さあ……」
彼は急いでオーヴァーに手を通し、いままでの無気力にうって変って、活動的な気分がわきおこったとみえ、そこら中を飛びまわって支度《したく》をはじめた。
「さあ、君も帽子《ぼうし》をかぶりたまえ」
「僕にもいっしょに行けっていうのかい?」
「ほかに用事がないのなら来るさ」
それから一分後に、私たちはブリクストン街さして矢のように馬車をとばしていた。霧《きり》の深い曇《くも》った日で、家々の上には街路面の泥《どろ》いろが反映でもしたかのように、一面に鼠《ねずみ》いろの大きなヴェールが垂れこめていた。
ホームズはひどく上機嫌《じようきげん》にうかれて、クレモナ・ヴァイオリンのこと、ストラディヴァリウスとアマーティとの相違《そうい》など、たあいもなくしゃべりつづけた。それに反して私は天気がうっとうしいのと始めた仕事が陰惨《いんさん》なのとで、すっかり気がめいって、黙《だま》りこくっていた。
「君は事件のことをちっとも考えようとしないらしいね」私はついにたまりかねて、ホームズの音楽談をさえぎった。
「データがない。証拠材料がすっかり集まらないうちから、推理を始めるのはたいへんな間違いだよ。判断がかたよるからね」
「材料はすぐ手にはいりそうだよ。これがブリクストン通りだが、僕が間違ってなければ、あれが問題の家だろう」
「そのとおりだ。おい馭者《ぎよしや》君、ここで停《と》めてくれ」その家までは百ヤードもあるのに、彼がどうしてもおりるというので、私たちはその家まで歩いてゆくことになった。
ロウリストン・ガーデン三番というのは、見るからに不吉《ふきつ》なことでもおこりそうな家だった。通りからすこしひっこめてたてた四戸のうちの一戸で、二戸は塞《ふさ》がっており、二戸は空家になっていた。
空家には窓掛《まどかけ》一つないがらんとした窓が三段にわびしく並《なら》んでおり、曇った窓ガラスのところどころに貸家札の貼《は》られているのが、白内障《そこひ》のような不気味な感じだった。
家のまえはところどころ草などひょろひょろと生えている小さな前庭で、そのあいだに粘土《ねんど》と砂利《じやり》とで堅《かた》めたらしい黄いろな小道が通じていた。ゆうべの雨であたり一帯が水だらけである。前庭は頂に木の柵《さく》をつけた高さ三フィートの煉瓦塀《れんがべい》でかこまれており、その塀にがっしりした巡査がよりかかっていたが、それをまた閑人《ひまじん》の一団がとりかこんで、内部の模様をちらりとでも見ようとして、背のびしたりきょろきょろしたり、むだな努力をしていた。
私はシャーロック・ホームズがすぐにも家のなかへとびこんで、取調べにかかるものと思いこんでいたのに、そんな気配はすこしも見せなかった。場合が場合だけになんだかきざにもとれる無頓着《むとんじやく》な態度で、家のまえの通りをぶらぶらと行ったり来たり、ぼんやり地上に眼をおとしたり、空を仰《あお》ぎみたり、むこうがわの家や塀など眺《なが》めたりしていた。
そうした外部の検査がすむと、彼は静かな小道を、いや小道のはじの草の上を踏《ふ》んで、たえず路面に眼を注いでなかへはいっていった。そして途中《とちゆう》で二度ほど立ちどまったが、その一度などにっこりして、うれしそうな声をもらしたのを私は見た。そこには水を含《ふく》んだ粘土質の路面に多くの足跡がしるされていたが、警察の人たちが出たりはいったりしたあとだから、そんなところから得るところがあろうとは私には思えなかった。とはいえ彼の観察力の鋭敏《えいびん》さを目《ま》のあたり見せられていた私は、私などにはわからない多くの事実をそこに見つけたのにちがいないと思った。
玄関のところで私たちは、手帳を手にした背のたかい、髪《かみ》が亜麻《あま》いろで、いろの白い男に迎《むか》えられた。その男は急いで出てきて、心からうれしそうにホームズの手を握《にぎ》りしめたのである。
「いや、よく来てくれましたね。まだなにも手をつけさせずにお待ちしていたんですよ」
「あれだけは例外ですね?」ホームズは小道のほうを指さして皮肉にいった。「水牛の群れが通ったとしても、ああまで踏み荒《あら》されることはあるまい。もっとも君のことだからちゃんと見きわめがついたからこそ、あそこの通行を自由に許したのでしょうがね、グレグスン君?」
「なんしろ家のなかに、することがうんとありましてね」グレグスン刑事はつべこべといいわけをして、「同僚《どうりよう》のレストレード君が来ていますんで、この方面は彼に一任していたんです」
ホームズは私のほうに横目を使いながら皮肉をこめて眉《まゆ》をあげた。
「君やレストレード君のようなお歴々がふたりも来ておられるんじゃ、第三者がとびこんでみたって、あんまり得るところはなさそうだな」
グレグスンはわが意を得たりとばかり、うれしそうにもみ手をした。
「できるだけのことは、ふたりでやったつもりなんですがね。どうも奇妙《きみよう》な事件でして、こういうのこそきっとあなたのお気にいるだろうと思いますね」
「まさか君はここへ馬車で来たんじゃないでしょうね?」
「いいえ」
「レストレード君も?」
「もとよりです」
「じゃなかへはいって、部屋を見ましょうか」
こんなわけのわからない問答の後、彼は大股《おおまた》に家のなかへ歩み入った。グレグスンは呆れたような顔をしてあとに従った。
板張りむきだしの、埃《ほこり》だらけの廊下《ろうか》が、すぐ台所から勝手口のほうへ通じていた。その途中の左右に二つのドアがあり、一つはあきらかに数週間まえから閉じたままであるらしく、あとの一つは食堂で、そこが怪事件《かいじけん》のおこった現場であった。ホームズがそこへはいっていったので、私も、死体があると思うものだから、しめやかな気持であとについてはいった。
そこは正方形の、もともとかなり大きな部屋でもあったが、家具の類がなに一つおいてないので、ますます広く見えた。四方の壁《かべ》は下品なけばけばしい壁紙を貼りめぐらしてあったが、ところどころに黴《かび》でしみはできているし、その壁紙が大きく剥《は》がれて垂れさがったところもあちこちにあり、壁の地肌《じはだ》が黄いろく露出《ろしゆつ》している。
入口の正面に白い人造大理石のマントルピースのついた派手な暖炉《だんろ》があって、そのマントルピースのはじに赤蝋燭《あかろうそく》のもえ残りが立ててあった。たった一つの窓はひどく埃だらけで、さしこむ明りもぼんやりと、すべてのものを冴《さ》えない灰いろに見せていた。その感じは、家のなかがすべて埃だらけなので、いっそう強められてもいた。
もっともこうしたこまかいことは、あとで観察したのであって、はいった瞬間《しゆんかん》には床《ゆか》の上に長くなって、うつろな見えぬ眼でむなしく、汚《よご》れた天井《てんじよう》をくゎっと見つめている気味悪い死体に注意を集中された。
それは四十三、四|歳《さい》の中肉中背で肩幅《かたはば》ひろく、こまかく縮れた黒い髪と、短く刈《か》りこんだ濃《こ》い頤鬚《あごひげ》のある男だった。身なりは高価な上質ラシャのフロックと、おなじチョッキに淡《うす》いろのズボン、よごれ目の見えない純白のカラーとカフスをつけている。
そばにはよくブラシをかけたシルクハットが床の上にころがっていた。両手は虚空《こくう》をつかんだままにゅっと横にのばし、両脚《りようあし》はその断末魔《だんまつま》の苦しみを物語るように縺《もつ》れあっていた。そして硬《こわ》ばった顔には恐怖《きようふ》の表情があり、それがまた私には極端《きよくたん》な憎悪《ぞうお》とも見られたのである。怨《うら》めしそうに怖《おそ》ろしく歪《ゆが》めたこの顔は、そのせまい額や低い鼻や角ばった頤とあいまって、妙に猿《さる》のような印象を与《あた》えた。不自然にからだを曲げているということも、その感じを深めた一因であろうか。私はいろんな死にざまを見てきたが、ロンドン郊外《こうがい》の大通りに面している、うす暗い不気味な部屋で見たこの死体くらい、怖ろしい形相の死体にぶつかったことがない。
あいかわらずやせてイタチのように見えるレストレードが、いつのまにか入口へきて、ホームズと私に挨拶《あいさつ》した。
「こいつは評判になりますよ。私もながねん警察につとめていますが、こんどのような事件にぶつかるのはまったくはじめてですね」
「手がかりがなにもないのですよ」グレグスンがいった。
「まったくなんです」レストレードも言葉をあわせた。
シャーロック・ホームズは死体に近づいて膝《ひざ》をつき、熱心に調べはじめた。
「たしかに外傷はないというんですね?」彼はあたり一面に飛散した血痕《けつこん》を指さしながらふたりにたずねた。
「ぜったいにないです」ふたりが同時に答えた。
「ではむろんこの血は第二の人物のものだ。もし他殺だとすると、おそらく加害者のものだろう。これで思いだすのは一八三四年にユトレヒトで起ったファン・ヤンセン殺しの状況《じようきよう》だが、君あの事件を覚えていますか、グレグスン君?」
「覚えてませんなあ」
「一度読んでみるんですな。じっさい読んどくべきだ。日の下に新しきものなし、ですよ。すべてかならず前にあったことの繰《く》りかえしにすぎないんだからな」
そういいながら彼は、敏捷な手さきをそちこちと働かして、死体に触《さわ》ってみたり圧《お》してみたり、ボタンをはずしたり検診《けんしん》したりなどする一方に、その眼はまえから私が知っている例の、放心したような表情をうかべていた。
調べは非常に敏速で、それがどれくらい綿密にされているのか、いないのか、誰《だれ》にもわからないくらいであったが、最後に死体の唇《くちびる》を嗅《か》ぎ、エナメル革靴《かわぐつ》の底をちらと見てから彼はたずねた。
「死体はすこしも動かしてないといいましたね?」
「私たちが調べるのに、すこしばかり動かしたといえば動かしただけです」
「じゃもう仮置場のほうへ収容してもいいです。もうこれ以上見るところはありません」
グレグスンは担架《たんか》と四人のかつぎ手とを用意していたので、それを呼んで死体を運び出させた。そのとき、みんなで死体をかつぎあげようとすると、一個の指輪がちりんと落ちて、床の上をころげた。レストレードはすぐにそれを拾いあげて、不思議そうにじっと眺めた。
「女が来たんだな。これは女の結婚《けつこん》指輪ですよ」
そういって手の上にのせて出したので、私たちはそれをとりまいた。飾《かざ》りのない金の指輪で、かつては花嫁《はなよめ》の指を飾ったものであることは疑う余地がなかった。
「いよいよ複雑になってきた。そうでなくてもいい加減こみ入った事件だのになあ」グレグスンが心細いことをいった。
「かえって簡単になったとは思わないですかね?」ホームズがいった。「ま、そんなものを眺めていたって、どうにもなりゃしませんが、ポケットにはどんな品がありました?」
「全部ここにまとめてあります」グレグスンは階段のいちばん下の段に、雑然とおいてある品物を指さして、
「ロンドンのバロウド社製の金時計が一個、番号は九七一六三、アルバート型の非常に重い純金の金鎖《きんぐさり》、共済組合模様《フリーメーソン》の金指輪が一つ、眼《め》にルビーを入れたブルドッグの頭の金ピン、ロシア皮の名刺《めいし》入れ、そのなかにはクリーヴランド市のイナック・J・ドレッバーという名刺がはいっていますが、これはシャツにつけたE・J・Dの頭字《かしらじ》と一致《いつち》します。
財布《さいふ》は見あたりませんが、ばら銭が七ポンド十三シリングあり、見返しにジョゼフ・スタンガスンと名まえを書きこんだボッカチオのデカメロンのポケット版が一冊、手紙が二通、一通はE・J・ドレッバーあて、一通はジョゼフ・スタンガスンあて――と、これだけです」
「手紙のアドレスは?」
「ストランドの米国|両替所《りようがえじよ》内で、留置きとなっています。どちらも差出し人はガイオン汽船会社からで、会社の船がリヴァプールを出帆《しゆつぱん》する期日のことなど書いてあります。だからこの被害者《ひがいしや》はニューヨークへ帰るつもりでいたものと思われます」
「スタンガスンという男について調査してみましたか?」
「すぐに手はうちました」グレグスンが答えた。「新聞へのこらず広告を出させましたし、米国両替所のほうへは部下をひとりやりましたが、これはまだ帰ってきません」
「クリーヴランドのほうはどうしました?」
「けさ電報で照会しました」
「どういう文句です?」
「事情を詳《くわ》しく述べて、なにか参考になることを知らせてほしいといってやりました」
「なにかもっと決定的な点を、具体的にたずねてはやらなかったのですか?」
「スタンガスンのことをたずねておきました」
「それだけ? もっと重大な、この事件ぜんたいを左右するような事項《じこう》はないものかな? もう一度電報うってみませんか?」
「必要な事項はすべていってやりました」グレグスンは怒《おこ》ったような声でいった。
ホームズはひとりにやにやして、なにかいおうとしたが、このとき、私たちが玄関《げんかん》へ出てきてこんな話をしているあいだも、ひとり食堂にのこっていたレストレードが、うれしそうにもみ手をしながら出てきて、さも自慢《じまん》らしくこういった。
「グレグスン君、僕《ぼく》はいまきわめて重大な発見をしたよ。僕があの壁をていねいに調べたからよかったようなものの、さもなければこれは誰もが見落としてしまったにちがいない」
小がらなレストレードは両眼をかがやかしていた。彼《かれ》は同僚に一矢《いつし》むくいたうれしさが、面《おもて》に現われるのをやっとの思いでおさえているのだ。
「さ、来てみたまえ」彼は急いで食堂へとって返し、気味のわるい死体がとり除《の》けられたため、いくらか明るくなった感じのするその部屋の、とある場所に立って、
「さ、そこに立ってくれたまえ」と靴の底でマッチをすって、それを壁にかざし、「これを見たまえ」といよいよ得意そうである。
壁紙があちこちと剥がれていることはまえに述べたが、とくにそこのところは大きく剥がれて、ざらざらした黄いろい地肌が正方形に露出していた。そのむき出しの壁に、まっ赤な字でただ一語、こう書かれているのである。
RACHE
「これをどう思います?」レストレードは見せもの小屋の客引きのように、こう叫《さけ》んだものである。「これが今まで見落とされていたのは、このいちばん暗い隅《すみ》にあったのと、誰もここを見ようという気をおこさなかったからです。これは血で書いたもので、犯人が自分の血でやったにちがいないです。壁をつたって落ちたこの血の痕《あと》を見てください。とにかくこれで自殺の疑いだけはなくなったわけです。
ではなぜこの暗い隅を選んで書いたか? それはこうです。あのマントルピースのうえに蝋燭が立っています。これを書いたときはあれが点《とも》っていたのですから、点ってさえいればここは暗いどころか、部屋中でいちばん明るい場所だったからです」
「で、君がこれを見つけたということが、いったいどういうことになるのかね?」グレグスンがけなすような調子でいった。
「どうなるって? それはこれを書いた人物は|RACHEL《レーチエル》という女名まえを書こうとしたのさ。それをまだ書き終らぬうちに邪魔《じやま》がはいったのだ。よく記憶《きおく》しておきたまえ、この事件が解決したときには、かならずレーチェルという女に関係のあることがわかるから。ホームズさん、あなたがそんな顔をして笑うのは、それはまあいいですよ。あなたは敏捷で頭がいいでしょうさ。しかしいざとなりゃ、やっぱり老練家でないとねえ」
「いや、どうも失敬しました」とホームズはどっと噴《ふ》きだしてレストレードを怒らせたことを詫《わ》びて、「われわれに先がけてこの文字を発見されたのは、まったくあなたのお手柄《てがら》ですよ。お説のとおり、どう見てもこれは、ゆうべの事件の関係者が書いたものですね。私はまだこの部屋のなかを調べている暇《ひま》がなかったんだが、お許しを得て今からはじめますかな」
こういったかと思うとホームズは、ポケットから巻尺と大きな丸い凸《とつ》レンズをとりだし、この二つの道具によって足音もたてずに部屋のなかを歩きまわり、ときどき立ちどまったりあるいは膝をついたり、一度などは腹ばいにまでなって調べた。そして調べに夢中《むちゆう》のあまり、私たちの存在すら忘れたかのように、ひっきりなしになにやらひとりごとをいいつづけ、そのあいだにときどき間投詞やうめき声や口笛《くちぶえ》や、またときにはうれしそうな低い叫び声さえ発した。
見ていて私は、よく訓練された純血のフォックスハウンドが、鼻をならしながらいつまでも草むらのなかを、前後左右に駆《か》けまわって、ついにはよく、一度失った臭気《しゆうき》をも必ずさがしだすのを思い出さないではいられなかった。
二十分あまり彼は、私には見えさえしないなにかの痕跡《こんせき》から痕跡への距離《きより》をきわめて綿密に測ったり、また私にはわけもわからぬ妙な方法で、巻尺を壁面《へきめん》へあてがったりして調べをつづけた。ある場所では床の上の灰いろの埃を集めて、ていねいに封筒《ふうとう》へおさめた。そして最後に壁の文字を一字一字凸レンズでいとも詳しく調べてから、やっと満足したとみえて、巻尺と凸レンズとをポケットにおさめた。
「天才とは苦痛を無限にしのぶ能力のあるものだというが、こいつはきわめて拙劣《せつれつ》な定義だ。こいつはむしろ探偵《たんてい》に下《くだ》すべき定義だよ」ホームズはにやりと笑った。
グレグスンとレストレードとは、この素人《しろうと》探偵のすることを、多くの好奇心《こうきしん》にいくらかの軽蔑《けいべつ》を交えた眼でじっと見ていたが、ホームズのすることはどんなにこまかいことにもみんな、それぞれちゃんとした実際上の目的があるという、私にも今はすこしわかりかけてきた事実を、彼らはふたりともみてとることができなかったらしい。
「ご意見はどうですか?」ふたり同時にたずねた。
「私はうっかり出しゃばって、君たちの加勢でもすると、当然君たちのものであるべき功績を、すっかり横どりする結果になるからなあ。君たちがこれほど立派にやっているものを、邪魔しちゃ気の毒ですよ」ホームズは皮肉たっぷりに、「君たちのほうで捜査《そうさ》の結果を話してくれれば、それはできるだけの助言は喜んでしますがね。ところで私は、最初に死体を発見した巡査《じゆんさ》に会ってみたいのですが、名まえと住所を教えてくれませんか?」
レストレードは手帳をちょっと見て、「ジョン・ランスという男ですが、いま非番のはずですから、ケニントン区パーク・ゲートのオードリ・コート四六番の家へいったら会えるでしょう」
ホームズは巡査の住所を控《ひか》えて、
「さあ、ワトスン君、訪ねていってみよう。ところで一つだけ参考になることをいっておきますがね」とふたりの刑事のほうへ向いていった。「これは他殺事件で、加害者は男です。身長六フィート以上の壮年《そうねん》、身長に似あわず足が小さくて、先の角ばった靴をはき、インド産のトリチノポリ葉巻をすう男です。
ここへは被害者といっしょに、四輪の辻馬車《つじばしや》できたが、その馬は、右の前脚《まえあし》だけは新しい蹄鉄《ていてつ》をつけているが、あとの三個は古い。そして加害者は赤ら顔で、右手の爪《つめ》のおそろしく長い男だということはいえる。と、きわめてわずかな特徴《とくちよう》にすぎないけれど、なにかの役にたつこともあるでしょう」
レストレードとグレグスンはちらと顔を見あわせて、疑わしそうなうす笑いをもらした。
「他殺だとすると、いったいどうして殺されたのでしょうか?」レストレードがきいた。
「毒殺さ」ホームズはそっけなくいい放って歩きだしたが、戸口のところでふりかえって、「もう一ついっときますがね、レストレード君、RACHEというのはラッヘと読んで、ドイツ語で『復讐《ふくしゆう》』という意味です。だからレーチェル嬢《じよう》の捜査なんかに、大切な時間を空費しないようにしたまえ」
こう捨てぜりふを残しておいて、呆然《ぼうぜん》たるふたりのライバルを見かえりもせずに彼は出ていった。
第四章 ジョン・ランスの証言
私たちがロウリストン・ガーデンの三番を出たのは午後の一時であった。シャーロック・ホームズはまず私をつれてもよりの郵便局へゆくと、長文の電報をうち、それから辻馬車を呼びとめて、レストレードから聞いたオードリ・コートへと馭者《ぎよしや》に命じた。
「証言は直接聞くにこしたことはないからね。ほんとうをいえば、この事件に関する僕の見通しはすっかりついているんだが、それにしても調べられるかぎり調べておいたほうがいいのだ」
「しかし驚《おどろ》くほかはないね、ホームズ君」と私はいった。「ほんとうはさっき君がこまかく説明したほど、君だってはっきりとわかっているわけじゃないのだろう?」
「いや、思いちがいなどする余地はないのだ。あそこへ行ってまず眼についたことは、車どめの石にちかく、路面に二条のわだちの跡《あと》のあることだった。ところで、昨夜まで一週間、さっぱり雨が降らなかったのだから、したがってあんな深いわだちの跡を残したのは、昨夜でなければならない。
なお馬蹄のあともあったが、そのなかの一個は、ほかの三個にくらべて輪郭《りんかく》が非常にはっきりしていたから、これは蹄鉄が新しいとみるべきだ。馬車は雨が降りだしてから来たもので、朝になってからは一台もこなかった。――というのはグレグスンの言葉が証明しているが、そうするとその馬車は、かならず夜のうちに来たもので、したがってそれは、ふたりの男を乗せてきたに違《ちが》いないということになる」
「聞いてみるときわめて簡単なことだが、じゃ加害者の身長のわかったのは?」
「そんなことはなんでもない。いったい人間の身長というものは、十中八、九までその歩幅《ほはば》からわかるものだ。いちいち数字をあげて君を退屈《たいくつ》させるまでもないが、計算はきわめて簡単だ。この男の歩幅は、そとの泥濘《ぬかるみ》にもあったし、室内の埃《ほこり》の上にも残っていた。なおこの計算は、べつの方面から検算してみる方法もあった。人間というものは、壁《かべ》になにか書くときは、本能的に自分の眼の高さに書くものだ。ところがあの文字は床《ゆか》から六フィート以上のところに書いてあった。――子供の遊びのようなものさ」
「それじゃ年齢《ねんれい》の点は?」
「なんの造作もなくひと跨《また》ぎに四フィート半も歩けるくらいの男なら、よぼよぼの老人であるわけがない。四フィート半というのは、その男が跨ぎこえている庭の小道の水たまりの幅なんだがね。エナメル靴のほうは、その水たまりを迂回《うかい》しているけれど、さきが四角い靴のほうは跨ぎこえていた。
だから僕のいったことに不思議はちっともないんだ。あの雑誌の記事で主張した観察と推理の教義を、ほんのすこしばかり実地に応用しただけのことだよ。もうほかにわからないことはないかい?」
「指の爪のこととトリチノポリ葉巻のことがわからない」
「壁の文字は人さし指を血にひたして書いたものだった。ところが凸レンズで調べてみると、壁土に浅くひっ掻《か》いた痕がある。爪が短く切ってあったら、そんな疵《きず》のできるはずがないからね。
それから床に落ちていた煙草《たばこ》の灰をすこし集めてきたが、いろが黒ずんでいて薄片《はくへん》状だった。これはトリチノポリ葉巻にだけ見られることだ。葉巻の灰については、専門的に研究したこともあるし、じっさい僕はそれについて論文まで書いたくらいだ。葉巻でも刻み煙草でも、在来種のものなら僕は灰を見ただけで見分けられるつもりだ。まあこうした点こそ、名探偵のグレグスンやレストレードのような連中と違うところだよ」
「それじゃ赤ら顔だというのは?」
「うむ、あれはいささか大胆《だいたん》すぎる断定だったかもしれない。僕としては、今でも誤った断定とは思っていないけれどね。まあ目下の事態では、それだけはきかないでおいてほしいよ」
私は額に手をあてて、「僕は頭が混乱しちゃった。考えれば考えるほど、不思議でならない。このふたりの男は――ふたりだとしてだが――どうして空家へなんかはいったのだろう? そしてふたりを乗せてきた馬車の馭者はどうなったのだろう? どうして毒をのませたり、のまされたりしたのだろう? 血は誰《だれ》の血だろう? 物盗《ものと》りの仕業《しわざ》でないとすると、殺害の動機はどこにあるのだろう? そして女の指輪がどうしてあんなところにあったのだろう?
わけても加害者はなんのため逃走《とうそう》のまえにゆうゆうとRACHEなんてドイツ語を書いていったのだろう? 正直なところ、僕にはこれらの事実の辻褄《つじつま》をどう合せたらいいのか、見当もつかないよ」
ホームズはわが意を得たりといわんばかりに微笑《びしよう》した。
「君は事件の難点だけを、じつに簡潔に要約してくれたね。僕は大筋だけはすでに見当がついているが、それでもまだ不明なところはたくさんある。レストレードが発見して喜んだ血の文字なんか、社会主義とか秘密結社とかいうものを暗示して、警察の眼《め》を晦《くら》まそうとする小細工にすぎないよ。あれはドイツ人の字じゃない。Aの字なんか、君も気がついたかどうか、ちょっとドイツ流の字だが、ほんとうのドイツ人なら必ずラテン文字で書くにきまっている。だからあれはドイツ人の書いたものではなく、下手にドイツ人をまねて、かえってやりすぎていると見ていい。つまり捜査の手をわき路《みち》へそらすための計略にすぎないことになる。
だがワトスン君、僕はこの事件については、もうこれ以上説明するのはやめておこう。手品師がいちど種をあかしてしまうと、だれも感心してくれなくなるだろう。僕だってあんまり仕事のやり口を知られてしまうと、ホームズも結局はおなじ人間にすぎないと、世間が思いだすだろうからね」
「そんなことは決してないよ。君は探偵術をこれ以上は不可能だというところまで厳正な科学に近づけたんだねえ」
ホームズは私の言葉と、それをいう私の熱心さとを喜んで、顔を赤くした。私はすでに気づいていたことだが、彼《かれ》は自分の探偵術について褒《ほ》められると、まるで美貌《びぼう》を讃《たた》えられた女性のように、敏感《びんかん》に反応するのである。
「もう一つだけいっとくがね。エナメル靴《ぐつ》の男と、さきが四角い靴の男とはおなじ馬車できて、いっしょに仲よく、おそらく腕《うで》さえ組みあって、小道をはいっていったんだ。
それからふたりは家のなかへはいると部屋の中を歩きまわった――いや、もっと正確にいうとエナメル靴のほうはじっと立っていたが、四角い靴のほうは部屋のなかをあちこちと、しきりに歩きまわった。そのことはみんな床の埃のうえに現われているのだが、そのうえまだ、埃の語るところによれば、彼は歩いているうちしだいに興奮してきた。歩幅がしだいに広くなっていることでわかるのだ。間断なくしゃべりつづけているうちに、自分でしだいに興奮してきたのにちがいない。それからあの惨劇《さんげき》がおこったのだ。
これで僕の知っていることはすっかり話してしまった。あとは推測ばかりだ。しかし調査に着手するにあたっての基礎《きそ》だけは、十分に揃《そろ》っているから安心だ。それにしても僕は、今日ノーマン・ネルーダ夫人を聴《き》きにハレの演奏会へゆきたいと思っているから、大急ぎで片づけなきゃならない」
こういう話をとり交《かわ》しているうちに馬車は、うすぎたない横町などのあるみすぼらしい街を走りつづけていたが、なかでもとりわけきたならしい横町のところまでくると、馭者はとつぜん車をとめて、
「このなかのあそこがオードリ・コートです」と灰いろに下塗《したぬ》りした煉瓦《れんが》だての家なみのあいだの狭《せま》い路地をさした。「ここでお待ちしています」
オードリ・コートはあんまりぞっとする場所ではなかった。狭い路地をはいってゆくと、なかは石を敷《し》きつめた四角い空地で、それをとりまいて、むさくるしい家々が軒《のき》をつらねているのだった。
うすぎたない子供たちの群がっているなかをぬけて、色のあせた洗濯物《せんたくもの》の乾《ほ》してある下をくぐり、四六番の家へ行ってみると、ドアに打ちつけた真鍮《しんちゆう》の小板に、ランスの名が彫《ほ》りつけてあった。ランス巡査は寝《ね》ているというので、私たちはとっつきの小さな客間に通されて、待つことになった。
まもなく、彼は眠《ねむ》りを妨《さまた》げられてすこし不機嫌《ふきげん》な顔をして出てきた。
「報告は署のほうへ出しておきましたが……」
ホームズはポケットから半ソヴリンの金貨を出して、考え考えそれを弄《いじ》りながらいった。
「じつは、あなたの口から直接聞きたいと思って来たのでして……」
「それは、話せとおっしゃればなんでも、知っているだけのことは申しますけれど……」巡査はホームズの手にある金貨から眼を放さないでいった。
「ではあなたの見たとおり、事件の経過を聞かせてください」
ランスは馬毛の長《なが》椅子《いす》に腰《こし》をおろして、一言でもいいもらしてはならぬと決心したように、額に皺《しわ》をよせた。「では最初のおこりから話しますが、私の受持は晩の十時から朝の六時までです。十一時ごろにホワイト・ハート酒場で喧嘩《けんか》があっただけ、それ以外は巡回中すこしも異状はありませんでした。
午前一時ごろに雨が降りだしましたが、ちょうどハリイ・マーチャーといって、これはホランド・グローヴ区の受持巡査なんですが、その男に会ったので、ヘンリエッタ街の角で立ち話をしました。でもすぐに、たぶん二時か、すこしは回っていたかもしれませんが、私はまた一回りして、ブリクストン街のほうに異状はないか見てこようと思いました。
おそろしく天気が悪くて心細い晩です。巡回中は一、二度馬車が通っただけで、人っ子ひとり出会いません。これは内証《ないしよ》ですが、こんなときこそジンホットの一|杯《ぱい》もきゅっとやったら、どんなにすてきだろうと、そんなことを考えながら歩いてゆきますと、ふと例の家からちらちらと灯火《あかり》のもれているのが見えました。
元来あそこは二|軒《けん》だけ空家になっていて、それも一軒にいた前の借家人が腸チフスで死んだというのに、家主がちっとも下水を直そうとしないもんだから、借り手がつかないでいるってことを私は知っていたんですがね。
ですからその、空家の窓に灯火が見えたんで、こいつはおかしい、なにか間違いでもあったんじゃないかと思って、私は玄関《げんかん》まで行ってみたですが――」
「玄関までいって、そこで立ちどまって、それから庭の木戸のほうへひき返してきたのですな?」ホームズが言葉をはさんだ。「あれはなんのためですか?」
ランスはこれを聞くと、ぎくりと跳《おど》りあがって、すっかり度胆《どぎも》をぬかれたらしく、ホームズの顔を見入った。
「そ、そのとおりです。いったいどうしてそいつをご承知なんだか……誰にも私はしゃべらなかったんですがねえ。じつはその、玄関まで行きは行ったものの、しいんとしてあんまり寂《さび》しいので、誰かいっしょに来てくれないものかなと思ったんです。
この世のものでさえありゃ、なにも恐《おそ》れやしませんが、チフスで死んだ男が、恨《うら》みの下水を検査しに来ているんじゃないかと思うとその、なんだかこう変な気になっちまって、マーチャーのランタンでも見えやしないかと、門まで出てみたわけなんです。だが、てんでそんなものは見えやしません」
「通りには人っ子ひとりいなかったのですね?」
「人っ子ひとりどころか、犬ころ一|匹《ぴき》見えません。で私は気を取りなおして、玄関へひき返してドアをあけてみました。なかはしんと静まりかえっていますから、灯火のともっている部屋へはいってゆきました。するとマントルピースに蝋燭《ろうそく》が、赤い蝋燭がゆらゆらしていまして、その光で眼についたものは……」
「ああ、君が何を見たかそれはみんなわかっています。君は何度も部屋のなかを歩きまわり、死体のそばに膝《ひざ》をついたでしょう? そして部屋を出て台所のドアをあけようとしてみてから……」
ジョン・ランスは跳《と》びあがって、気味悪そうな眼をしながら、叫《さけ》んだ。
「どこに隠《かく》れてそれを見ていたんです? でなければ、そう詳《くわ》しくわかるはずはないね」
ホームズは笑って、テーブルごしに巡査のほうへひょいと名刺《めいし》を投げだした。
「私を殺人の嫌疑《けんぎ》で捕《とら》えるのだけは止《よ》してくださいよ。私は犬ではあるかもしれませんが、決して狼《おおかみ》じゃないです。その点はグレグスン君やレストレード君が保証してくれます。で、それからどうしました? さきを聞かせてください」
ランスはやっと腰をおろしたが、どうにも腑《ふ》におちないという顔つきであった。
「私は門のところまで出て、呼子を吹《ふ》きました。その笛《ふえ》でマーチャー君ほかふたりのものが駆《か》けつけてくれたのです」
「そのとき通りには誰もいなかったですか?」
「そうですね、まあ、役に立つような人間は、ね」
「それはどういう意味ですか?」
ランス巡査はにやりと歯をむきだして笑った。
「私はこれで酔《よ》っぱらいはずいぶん見ていますが、あんなにべろべろに酔ったやつを見たのははじめてです。私が出てみると、その男は門のところで柵《さく》によりかかって、コロンバインの『新流行旗』かなにか、そんな唄《うた》を、せいいっぱいの声をはりあげてどなっていました。なにしろしゃんと立っていられないくらいなんですから、手を貸してくれるどころじゃありゃしません」
「どんなふうの男ですか?」
ジョン・ランスは枝葉《えだは》のことをきかれたのがいくらか気にくわぬらしく、
「おそろしく酔っぱらった男ですよ。私たちの手がふさがっていなけりゃ、あんな男は豚箱《ぶたばこ》へたたきこんでやったんですがねえ」
「顔とか服装《ふくそう》とか、そういうところには気をとめなかったのですか?」ホームズはじれったそうにたずねた。
「見たことは見ていますがね。なにしろマーチャーとふたりがかりで助けおこしてやったくらいなんですから……そう、背のたかい赤ら顔の男で、その顔の半分はマフラーでもって……」
「もうよろしい。その男はどうなりましたか」ホームズがきいた。
「そんなものにかまっているどころじゃなかったです」巡査は不満そうにいった。「どうせ無事に帰っていったことでしょうよ」
「服装はどんなだったですか?」
「茶いろのオーヴァーを着ていました」
「鞭《むち》を手にしていたでしょう?」
「鞭ですって? いいえ」
「じゃ置いてきたんだな。そのあとで馬車を見るとか、または音でも聞かなかったですか?」
「いいえ、見も聞きもしませんね」
「じゃこの半ソヴリンを進呈《しんてい》しましょう」ホームズは帽子《ぼうし》をとって立ちあがりながら、「だがランスさん、残念ながらあなたは警察方面では出世できそうもありませんね。その頭は飾《かざ》りであるとともに、大いに活用するためのものなんですよ。
ゆうべあなたは巡査部長になれるチャンスがあったんだ。あなたが助けおこしてやった男こそ、こんどの事件の秘密の鍵《かぎ》を握《にぎ》っている人物で、われわれがさがし求めているやつだったのですからね。いまになってかれこれいってみてもはじまらないが、事実だから教えてあげるのです。さ、ワトスン君、帰ろう」
私たちはそのまま馬車のほうへとって返したが、あとに残されたランス巡査は、半信半疑のうちにも、心中大いに不愉快《ふゆかい》だったことであろう。
「まぬけだなあ!」帰りの馬車のなかで、ホームズはにがにがしそうにつぶやいた。「考えてもみたまえ、こんな絶好の機会に遭遇《そうぐう》しながら、みすみす逃《に》がしてしまうなんて、じつに愚《おろ》かなことじゃないか!」
「だけど僕《ぼく》にはまだわからないなあ。なるほどその酔っぱらいの人相は、君の話していた第二の男というのと符合《ふごう》しているようだけれど、それにしてもなんだっていったん逃げだしてから、ひき返してきたのだろう? 犯人がそんなことをするかね」
「指輪だよ、君、指輪のためだよ。指輪がほしいために、とって返したんだ。あらゆる方法が失敗したとしても、あの指輪さえあれば、いつでも犯人は釣《つ》れるよ。僕はきっと捕えてみせるよ、ワトスン君。二対一で賭《か》けてもいい。しかしこれもみんな君のおかげなんだ。君がいなかったら、僕は行かなかったかもしれない。したがって生れてはじめてというこのおもしろい事件を、むなしく逸《いつ》したかもしれないんだからね。そう、緋色《ひいろ》の研究というやつをねえ。
いささか美術的な表現をつかったっていいだろう? 人生という無色の糸蓄《いとかせ》には、殺人というまっ赤な糸がまざって巻きこまれている。それを解きほぐして分離《ぶんり》し、端《はし》から端まで一インチきざみに明るみへさらけだして見せるのが、僕らの任務なんだ。
さあ、それでははやく昼食をすませて、ノーマン・ネルーダを聴きにゆこうよ。彼女《かのじよ》はアタックといい、ボーイングといい、すばらしいものだ。特に絶妙《ぜつみよう》のショパンの小曲はなんといったかな? トゥラララ、リラリラレー」
馬車のなかにぐっと反《そ》りかえってこの素人《しろうと》探偵《たんてい》は、ひばりのようにさえずり続けていたが、私はそれを聞きながら人の心の複雑|多岐《たき》であることについて感慨《かんがい》にふけっていたのである。
第五章 広告を見てきた男の話
午前中の活動が私の健康には過ぎたらしく、午後にはどっと疲《つか》れがでた。それでホームズが演奏会へ出かけたあとで、ソファに横になって、二時間ばかり眠ってやろうと思ったが、だめだった。
私の頭はつぎつぎにおこった奇怪《きかい》なできごとですっかり興奮してしまって、怪《あや》しい空想や疑念がむらむらと湧《わ》きおこった。眼をとじさえすれば、殺された男のヒヒのような歪《ゆが》んだ顔が浮《うか》んできた。じつに凶悪《きようあく》な相をもった顔だった。こんな顔をこの世から葬《ほうむ》りさってくれた男にたいして、感謝の念しかおこらなかったほど、それほど凶悪な相をそなえた顔だった。もしこの世に極悪無道《ごくあくむどう》さをあらわす相というものがあるとすれば、それは正しくクリーヴランドのイナック・J・ドレッバーの顔がそれであった。とはいいながら、正義は行なわれなければならぬことは認めるし、また、被害者《ひがいしや》が邪悪《じやあく》な人間だからといって法律的に犯人の罪がゆるされるものではないことは私もよく心得ているのである。
だがこの被害者は毒殺されたのだというホームズの説は、考えれば考えるほど非凡《ひぼん》であると思われた。そういえばホームズが死体の口を嗅《か》いでいたのを思いだすが、あのときなにかそうした証跡《しようせき》でも発見したのにちがいない。のみならず、死体には外傷もなければ、絞殺《こうさつ》のあともないというが、毒殺でないとしたら死因をどこへ持ってゆこう?
一方には、床《ゆか》の上のおびただしい血潮というものがある。あの血はいったい誰《だれ》の血なのだろう? 格闘《かくとう》のあともなければ、また、被害者は相手を傷つけたと思われるような武器をも持ってはいなかった。
これら数多くの疑問が、ぜんぶ解決されないかぎりは、容易に眠れるものでないのを私は知った。私ばかりでなく、ホームズにしても同様であろう。そのホームズがああして落着きすまし、さも自信ありげな態度を見せているのは、私にこそまるきり推測もつかないけれど、彼《かれ》はすべての事実にあてはまる説明をちゃんと持っているからであろうか?
彼は非常におそく帰ってきた。あまり帰りがおそいので、演奏会だけではなかったなと私にもわかったほどだった。なにしろ彼の帰るまえに、夕食の皿《さら》のほうが出てきたほどだったのである。
「じつにすばらしかったよ」彼は席につくなりいった。「君は音楽についてダーウィンがなんといったか覚えているかい? 彼の主張に従えば、そもそも音楽を生みだしたり鑑賞《かんしよう》する能力は、言語能力よりもはるかに古くから人類にそなわっていたというのだ。われわれが音楽から微妙《びみよう》な感動をうける原因も、おそらくはそのためだろうね。われわれの精神のなかには、原始時代の漠然《ばくぜん》とした記憶《きおく》がかすかに存在しているのだ」
「それはいささか大ざっぱな考えかただな」私はいった。
「自然を解しようというには、自然そのものくらい大ざっぱな頭でなければだめだよ。ところでどうしたんだい、顔いろがたいへん悪いようだぜ。ブリクストン通りの事件で気が転倒《てんとう》したんだね」
「じつをいうとそれなんだ。アフガニスタンでいろんなものを見てきたあとだから、ほんとうをいうともっと無感覚であっていいはずなんだがねえ。なにしろあのときは同僚《どうりよう》がマイワンドでずたずたにされるのを見ても、さらに動じなかったくらいだのに……」
「よくわかる。この事件にはいやに想像力を刺激《しげき》する奇怪さがあるからねえ。想像力がなければ、恐怖《きようふ》もおこらないものだ。ところで君、夕刊を見たかい?」
「いや、まだ見ない」
「かなり正確に事件の報道が出ている。ただ死体をかつぎあげたとき、女の結婚《けつこん》指輪が落ちたことだけは書いてないが、まあそのほうがかえって都合はいい」
「なぜ?」
「この広告を読んでみたまえ。あのあとですぐに、全市の新聞に僕が送ったものだがね」
そういって彼が夕刊を投げてよこしたので、示されたところを見ると、拾得物《しゆうとくぶつ》広告|欄《らん》の最初につぎのような広告が出ていた。
[#ここから1字下げ]
今朝ブリクストン通りのホワイト・ハート酒場とホランド・グローヴの中間の路上にて、金製カマボコ型結婚指輪一個拾得す。今夕八時より九時までにベーカー街二二一番Bワトスン博士まで申し出られたし。
[#ここで字下げ終わり]
「名まえを無断で使ったのを許してくれたまえ。僕の名を出すとあのボンクラ連中に知れて、出しゃばられると困るからね」
「そんなことはちっともかまわないが、誰かうけとりにでも来ると困るなあ。僕は指輪なんか持っていないもの」
「なに、大持ちなんだよ」と彼は一個の指輪を私によこして、「これで結構まにあうよ。そっくり模造したといってもいいぐらい似ている」
「それにしてもこんな広告を出して、誰がやってくるというのかな?」
「むろんあの茶いろのオーヴァーを着た男さ。さきの四角い靴《くつ》をはいた赤ら顔のね。自分で来ないにしても、かならず共犯者をよこすにきまっている」
「だってそんなことをしては危険だくらいのこと気がつくだろう?」
「大丈夫《だいじようぶ》さ。僕の判断が違《ちが》っていなければ、いや、決して違ってないと信ずべき理由を僕はもっているのだが、あの男はこの指輪をとり戻《もど》すためなら、どんな危険もおかすにきまっている。
僕の考えによれば、あの男はドレッバーの死体の上に俯向《うつむ》いたとき、この指輪を落して、そのときは気がつかなかったが、あの家を出てから気がついて、急いでひき返してみたが、そのときはもう、うっかり消し忘れてきた蝋燭《ろうそく》のために、巡査《じゆんさ》が来ていてはいれなかったのだ。といって、うろうろして怪しまれてはならないから、やむなく酔っぱらいのまねまでしてごまかさなければならなかった。
だから君自身をあの男の立場において考えてみたまえ。指輪はもしかしたら家を出てから落したのかもしれない、という気もするだろうではないか。そうとしたら君ならどうする? まず第一に夕刊の拾得物欄に念のため眼《め》をさらすだろう。そうすればむろんこの広告が眼にとまる。有頂天《うちようてん》になって喜ぶ。なんで罠《わな》であることなんかに気がつくものか。路上で発見された指輪が殺人事件に結びつけられる理由はないとしか彼には考えられないよ。来るよ。かならず来る。いまから一時間以内にかならず来るよ」
「そして、来たら?」
「そのときはすっかり僕にまかせとくさ。君は武器をもっているかい?」
「ふるい軍用|拳銃《けんじゆう》と弾丸がすこしある」
「じゃそれを掃除《そうじ》して、弾丸をこめといたほうがいいだろう。その男はきっとむこう見ずの命がけでやって来るのだろうからね。それは僕としても油断さしといて捕《とら》えるつもりだけれど、万一の場合には備えておくほうがいいからね」
私は寝室《しんしつ》へいって彼の忠告どおりにした。そして用意のできたピストルを手にして出てきてみると、テーブルはきれいに片づけられて、ホームズは好きなヴァイオリンをしきりにかき鳴らしていた。
「首尾《しゆび》はますます上々だよ」私の姿を見ると彼は声をかけた。「いまアメリカから電報の返事がきたが、やっぱり僕の判断が正しいようだ」
「というのは?」私はせきこんできいた。
「このヴァイオリンも弦《げん》をかけかえるともっとよくなるんだがなあ。君、ピストルなんかポケットへおさめたまえ。そしてその男がはいってきても、普通《ふつう》にものをいうんだよ。そのあとは僕にまかせておけばいい。あまりじろじろ顔を見たりして、相手に警戒《けいかい》させてはいけないよ」
「ちょうど八時だね」私は時計を出してみた。
「うん、おそらくここ数分以内にくるだろう。ドアをすこしあけときたまえ。そう、それでいい。それから鍵《かぎ》をうちがわから鍵穴にさしこんでおいてくれたまえ。ありがとう。ところでこの本は昨日|露店《ろてん》で掘《ほ》りだしてきたちょっとおもしろい本だが、『国際法規』というラテン文の本だ。ベルギーのリエージュで出版したのが一六四二年だというから、チャールズ一世の首がまだしっかり胴体《どうたい》にくっついていた時分のことだね」
「刊行者は誰だね?」
「どんな人物だかわからないが、フィリップ・ド・クロイとある。見返しにインキの色はすっかり褪《さ》めているが、『|グ《*》リエルミ・ホワイト蔵書』と書いてある。ウィリアム・ホワイト【訳注 グリエルミはウィリアムのラテン語風の形】って誰だろうな? きっと十七世紀のもったいぶった弁護士かなんかだったのかもしれない。筆跡《ひつせき》にそれらしい癖《くせ》がある。――あ、どうやら来たらしいよ」
このとき玄関《げんかん》のベルがはげしく鳴ったのである。シャーロック・ホームズはそっと立って、椅子《いす》を入口のほうへ移した。すると女中が出てゆくらしい足音が廊下《ろうか》に聞え、つづいて玄関の掛金《かけがね》をはずす音が、がちゃりと鳴った。
「ワトスン博士のお住居《すまい》はこちらですか?」とはっきりしてはいるが、いくぶん耳ざわりなところのある声がたずねた。それに対する女中の答えは聞きとれなかったが、ドアのしまる音がして、誰かが階段をのぼってきだした。不確実な、ひきずるような足音である。ホームズはそれを聞いて、意外に思ったらしい表情をちらと見せた。足音の主はしずかに廊下をすすんで、ついに部屋の戸を力なくたたいた。
「おはいりなさい」私は大きな声で応じた。
するとさだめし狂暴《きようぼう》な男であるかと思いのほか、ひどく年とった皺《しわ》くちゃ老婆《ろうば》がよちよちとはいってきた。老婆は急にランプのあかりを見たので、眩《まぶ》しそうであったが、ひざを軽く曲げて一礼してからただれた眼をしょぼしょぼさせて私たちを見ながら、神経質にふるえる手さきでポケットをさぐった。ちらりとホームズを見ると、絶望のどん底に沈《しず》んだような顔をしているので、私も動揺《どうよう》をおさえるのがやっとだった。
老婆はポケットから夕刊をだし、例の広告のところを指さしながら、ぴょこりとまた頭をさげて、
「旦那《だんな》さま、お邪魔《じやま》にあがりましたのはこれのためでございますんで。ブリクストン通りの金の結婚指輪、あれは娘《むすめ》のサリイのものでございます。こんどは結婚してからそれでもどうやら一年になりますんで、亭主《ていしゆ》はユニオン汽船のボーイでございますが、帰ってきたときサリイの手にあの指輪のないのを知ったら、どんなことになりますやら。ふだんでも怒《おこ》りっぽい男でございますけれど、とりわけお酒でもはいりますと、いっそうひどくなりますんで、はい。昨晩もじつはサーカスへまいりまして……」
「この指輪がそうですか?」私はめんどうくさくなったので、いきなり割りこんだ。
「はいはい、ありがとうございます。サリイがどんなに安心いたしますか。はい、これはどうもありがとうございます」
「それからあなたの家はどこですか?」私は鉛筆《えんぴつ》をとりだしながらたずねた。
「ハウンズディッチのダンカン街の一三番でございます。ここからですとずいぶんかかります」
「ハウンズディッチからじゃ、どこのサーカスへ行くにしても、ブリクストン通りは通らないはずだね」ホームズが聞きとがめた。
老婆はふりかえって、赤くただれた眼でホームズをにらみつけながら、
「こっちの旦那のおたずねになったのは私の家でございますよ。娘はペカムのメイフィールド・プレースの三番に下宿しております」
「じゃ婆さんの名は?」
「私はソウヤと申します。娘はデニスでございます。トム・デニスと結婚しましたんで、船にさえおればなかなか捷《すばしこ》い男でございますから、会社のほうの受けもいちばんよいのでございますけれど、陸《おか》へあがりますと女やらお酒やらでもう……」
「ソウヤさん、それじゃ指輪をわたしますよ」私はホームズの合図にしたがって、老婆の饒舌《じようぜつ》をさえぎった。「これはたしかに娘さんのものらしい。落し主の手へ無事にもどったので、私も大いに安心しましたよ」
老婆はくどくどお礼やら、うれしさやらを述べて、指輪をたいせつにポケットへおさめ、よぼよぼと帰っていった。老婆の姿が部屋のそとに見えなくなるやいなやホームズはがばと跳《は》ね起きて、自分の部屋へ駆《か》けこんだかと思うと、たちまち長オーヴァーに襟巻《えりまき》という姿で出てきた。
「僕はあの女をつけてゆく。あいつはきっと共犯にちがいないから、つけてゆけば主犯の男をつきとめられると思う。起きて待っていたまえ」
ホームズは早口にこういっておいて出ていったが、彼の部屋を出たのと、階下で老婆が帰ったあとのドアをしめる音とが、ほとんど同時だった。窓からのぞいてみると、さっきの老婆が、むこうがわをよぼよぼと歩いてゆくのを、ホームズがこちらがわのすこしあとからついてゆくのが見えた。
「ホームズの推理がことごとく間違っているか、あるいはいないか、いずれにしても疑問の核心《かくしん》にはいってゆこうとしているのは事実らしい」私はひとりで考えた。起きて待っていろというが、そんなことは頼《たの》まれるまでもなく、彼の冒険《ぼうけん》の結果を聞くまでは、眠《ねむ》ろうたってとっても眠れるものではない。
彼が出かけたのが九時まえであった。何時になったら帰るのか、もとより見当もつかなかったが、私はぼんやり煙草《たばこ》をふかしたり、アンリ・ミュルジェールの『放浪《ほうろう》生活』を拾い読みしたりしていた。
やがて十時をうつと、パタパタと寝室へさがる女中の足音が聞え、十一時にはこれもやはり寝室へしりぞく主婦《おかみ》の堂々たる足音が部屋のまえを通りすぎた。十二時ちかくになってやっと、彼がドアをあける音がガチャリと聞えた。そしてホームズが部屋へはいってくるのを見た瞬間《しゆんかん》に、彼の顔いろから尾行《びこう》が失敗に終ったのを、私は知った。彼の顔のなかでおかしさとくやしさが、あい争っているらしかったが、ついにおかしさのほうが勝を占《し》めたとみえて、とつぜん腹をかかえて笑いだしたのである。
「こいつばかりはなんとしてでも、警視庁の連中には知られたくないもんだね」と彼は自分の椅子に腰《こし》をおろしながら、大きな声でいった。「ふだん僕《ぼく》がこっぴどくからかってやるもんだから、あの連中はこいつを聞いたら、その意趣《いしゆ》ばらしに、いつまでも話のたねにしたがるだろうからねえ。なに、どうせいつかは仇《かたき》をうってやるんだから、笑ってもいいことはいいけれどね」
「というと……?」と私はたずねた。
「失敗談だからって、僕は話すのは平気だがね。あの婆さんは少しゆくと足を引きずりはじめて、どう見ても足をいためているようだった。すると急に立ちどまって、通りかかった四輪|辻馬車《つじばしや》を呼びとめたから、行きさきを命じるのを聞いてやろうと、そばへ寄っていったが、心配することはない、婆さんは道のむこうがわまでも聞えるくらい大きな声で、『ハウンズディッチのダンカン街の一三番まで』とどなったものだ。おやおや、するとダンカン街は嘘《うそ》じゃなかったのかなと思いながら、婆さんが乗りこむのを見とどけて、僕は馬車のあとへしがみついた。この技術はいかなる探偵《たんてい》でもかならず熟練しなきゃならないことなんだ。
馬車ははしりだしたが、ダンカン街まで一度もスピードをゆるめるようなことはなかった。一三番の手まえまできたとき、僕はひょいととびおりて、なにくわぬ顔でそのへんをぶらぶら歩いていた。
見ていると馬車は一三番の戸口で停《とま》って、馭者《ぎよしや》がとびおりて馬車のドアをあけ、お客のおりるのを待っているが、なかからはいっこうに誰もおりてこない。そのうち僕は馬車のところまで歩いていったが、馭者先生からっぽの馬車のなかへ半身をいれ、狂乱状態でさがしながら、聞くにたえない罵詈《ばり》雑言《ぞうごん》を連発していた。じっさい馬車のなかには婆さんの影《かげ》もないのだから、いつまでどなっていたって、車賃が出てくるわけはないやな。
で馭者といっしょに一三番の家でたずねてみたが、そこはケズウィックという身許《みもと》の確かな壁紙貼《かべがみは》りの職人の家で、ソウヤとかデニスとかいう名は聞いたこともないというわけなんだ」
「それじゃなにかい?」と私はあきれて叫《さけ》んだ。「あのよぼよぼの老婆が疾走《しつそう》中の馬車のなかから、君にも馭者にも見られることなしに抜《ぬ》けだしたというのかい? まさかそんな!」
「婆さんだって? くそくらえ!」ホームズは語気|荒《あら》くいった。「まんまといっぱいくわされるなんて、僕らこそよぼよぼ爺《じじい》さ。あいつはきっと若い男の変装《へんそう》だったにちがいない。若くて敏捷《びんしよう》で、おまけに無類の役者だったんだ。ちょっとまねもできんような立派なメークアップだった。つけられたと知って、うまく僕をまいたのにちがいない。
これでみても僕のさがしている男は、僕らの考えていたようにひとりではなくて、そいつのためにはある程度までは危険を冒《おか》してくれる味方をもったやつだということがわかる。ところでワトスン君、きみはひどく疲《つか》れた顔をしているね。さあ、じゃもう寝《ね》たまえ」
まったく私は非常に疲れていたので、ホームズの忠告に従うことにし、ぷすぷすいぶる暖炉《だんろ》のまえに彼をのこしておいて、ひとり先に寝室へはいった。そしておそくまで眠られぬままに、低音の、悲しげに咽《むせ》ぶようなヴァイオリンの音を聞いて、彼は調査にのりだしたこの奇怪《きかい》な事件のことをまだ考えつづけているのだなと思った。
第六章 グレグスンの手腕《しゆわん》
翌朝の新聞は「ブリクストン事件」の記事でいっぱいだった。どの新聞もながい記事に扱《あつか》っており、なかにはそのうえ社説でまで論じたのもあった。そしてその記事のなかには私にとって耳新しい報道もいくらかあった。当時の記事はいまでも切抜き帳のなかに保存しているから、そのうちの二、三をつぎに抜粋《ばつすい》してみよう。
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デイリイ・テレグラフ紙[#「デイリイ・テレグラフ紙」はゴシック体] こんどの事件が犯罪史上ほとんど類例を見ない怪事件であると述べ、被害者《ひがいしや》の名がドイツ系であること、犯罪の動機がほかに見あたらないこと、壁面《へきめん》の奇怪な文字などは、すべてこの事件が政治的亡命者または革命家の手によって行われたことを語るものであるとし、なお社会主義者は多くの支部をアメリカにもっているから、被害者はおそらく彼ら一派の不文律を犯《おか》したため、その追及《ついきゆう》をうけたものであろうとし、さらに夜間秘密裁判制度《*フエームゲリヒト》、トファナ水、カルボナリ党、ブランヴィリエ侯爵《こうしやく》夫人、ダーウィンの進化論、マルサスの人口論、およびラトクリフ・ハイウェーの殺人事件にまで調子にのって言及したのち、政府に警告をして国内在住の外人にたいしていっそう厳重な監視《かんし》をなすべきだと結んでいる。【訳注 フェームゲリヒトとは十四世紀のころとくにドイツのウェストファリアで行われた恐怖制度。トファナ水は十七世紀シシリアの女トファナが秘密殺人用に売ったと伝えられる毒薬。おそらく砒素剤だろうという。カルボナリ党はイタリー共和党秘密結社。ブランヴィリエ侯爵夫人は利欲のため親兄弟を殺した十七世紀フランスの女怪。ラトクリフ・ハイウェーは現在のロンドン市セントジョージ街で一八一一年にここで殺人事件が頻発してロンドン市民を戦慄させた】
スタンダード紙[#「スタンダード紙」はゴシック体] こういう無法きわまる犯行は通例自由党政権下で発生するものである事実について述べ、これは人心の動揺とそれにともなうすべての権威《けんい》の失墜《しつつい》に原因するものであると断じている。そして被害者は数週間来ロンドンに滞在《たいざい》中のアメリカ紳士《しんし》で、カンバウエルのトーキー・テラスのシャルパンティエ夫人方に下宿していたが、旅行には秘書のジョゼフ・スタンガスン氏を連れて、本月四日の火曜日にシャルパンティエ夫人に別れをつげ、リヴァプールゆき急行列車に乗るといってユーストン駅へむかった。
ふたりとも同駅のプラットホームに姿を現わしたのは事実であるが、それ以後の行動は一切《いつさい》不明である。その後とつぜん、既報《きほう》のとおり、ユーストンからは数マイルはなれたブリクストン通りの空家内でドレッバー氏の死体が発見されたのである。ドレッバー氏がどうしてそこにいたのか、またどうして悲運に出会ったかなどは、すべて神秘にとざされている。スタンガスン氏の行方《ゆくえ》についても、まだなにもわかっていない。しかし聞くところによると警視庁のレストレードおよびグレグスンの両氏が本件に関係したというから、これらの疑問も遠からずこの高名な両|刑事《けいじ》によって必ずや解決せられるであろうことを信じて疑わぬものである。云々《うんぬん》。
デイリイ・ニューズ紙[#「デイリイ・ニューズ紙」はゴシック体] まずこの事件が政治的犯罪であるのは疑いの余地がないと論じている。専制主義と大陸諸国政府で勢いを得てきた自由主義への嫌悪《けんお》から、すぎし日への追憶《ついおく》によって憤懣《ふんまん》をいだいてはいるものの、元来はよき市民であるはずの人々が多数この国へはいりこんでいるが、これらの人々のあいだには厳しい掟《おきて》があり、これにそむくとたちどころに死をもって罰《ばつ》せられるのである。被害者の日常を知るため秘書スタンガスン氏の行方|捜査《そうさ》に全力をあげるべきだとしている。そして両人の宿泊《しゆくはく》していた家が判明したのは一に警視庁のグレグスン氏の慧眼《けいがん》と活動のおかげだが、これによって捜査は一大|飛躍《ひやく》をしたと結んでいる。
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ホームズと私は朝食をとりながら、これらの記事をいっしょに読んだのだが、ホームズには記事がよほどおかしかったらしい。
「だから僕がいったんだ。どんなことになるか知らないが、結局はレストレードとグレグスンの得点になるんだってね」
「だけど、それは事件のなりゆきによって、おのずから違《ちが》ってくるだろう」
「どうしてどうして、そんなことにはちっとも関係がないんだ。犯人が捕《つか》まれば、それはもとよりあのふたりの努力のためだし、捕まらなければ捕まらないで、ふたりの努力もむなしくということになるんだ。表が出ればこっちの勝ち、裏が出ればむこうの負け――という都合のよさだ。あのふたりには、どんなことをしたって、追随者《ついずいしや》がたえない。『ばか者を尊敬する大ばか者は絶ゆることなし』だね」
「おや、あれはいったいなんだろう?」このとき私は叫んだ。ホールから階段へかけて、どやどやと人の足音がして、主婦《おかみ》の聞えよがしの口小言が聞えたからである。
「探偵局のベーカー街分隊だよ」ホームズが真顔で答えた。そのとたんに、ぼろをまとったこれまで見たこともないきたならしい浮浪《ふろう》少年が六人、どやどやと室内へおしこんできたのである。
「気をつけ!」ホームズが命令すると、六人の小さな無《ぶ》頼漢《らいかん》どもはきたない小像でも並《なら》べたように、一列につっ立ったものである。「これからはウィギンズひとりを報告によこすのだ。ほかのものはここへ上ってくるんじゃない。そのあいだそとで待っているんだ。ところでウィギンズ、見つかったか?」
「いいや、まだだよ」少年のひとりが答えた。
「どうせそんなことだと思っていた。見つけるまでねばるんだぞ。さあ、お駄賃《だちん》をやる」とホームズは少年たちに一シリングずつ渡《わた》してやり、「では、もう帰ってよろしい。こんどはもっといい報告を持ってくるのだよ」
ホームズが手を振《ふ》ると、少年たちはまるで六|匹《ぴき》の鼠《ねずみ》のように、ちょこちょこと階段を駆けおりていった。と思うとたちまち街路のほうから、いせいのいい金切り声が聞えてきた。
「あの浮浪児の少年ひとりのほうが、一ダースの警官よりも役にたつんだ。その筋のものだと思えば、姿を見ただけでたいていの者は口をつぐんでしまうからね。そこへゆくとあの連中は、どこへでもはいってゆけるし、なんでも聞きだしてこられる。そうして鋭《するど》いことといったら、針みたいなんだからね。ただ欠けているのは組織の問題だけだ」
「このブリクストン事件に関して、彼らを使っているのかい?」
「そうさ、すこし確かめたいことがあってね。あいつらにやらせとけば、単に時間の問題だけなんだ。おや! これは非常におもしろい報告が聞けるよ。グレグスンが顔じゅうをかがやかせて、大にこにこでやってくるもの。あれはむろんここへ来るのさ。ほら止りそうになった。石段に足をかけた」
玄関《げんかん》のベルがはげしく鳴って、まもなく金髪《きんぱつ》のグレグスン刑事が階段をひと跨《また》ぎに三段ずつ駆けあがって、私たちの部屋へ跳《おど》りこんできた。
「やあホームズさん!」彼はホームズのいっこう反応のない手をぐっと握《にぎ》りしめながら、うわっ調子で叫んだ。「喜んでください。事件をすっかり白日の明るみへさらけだしてやりましたよ」
このとき表情ゆたかなホームズの顔に、一抹《いちまつ》の気づかわしげな色が現われたようだった。
「というと、いよいよ手がかりでもつかんだというのですか?」
「手がかりですって? はははは、われわれは犯人をちゃんと挙げちまったですよ」
「その犯人の名は?」
「アーサー・シャルパンティエといって、海軍の士官です」グレグスンは太い手さきを仰山《ぎようさん》にこすり合わせて、反身《そりみ》になりながら得意そうにいった。
シャーロック・ホームズはほっと安心のため息をもらして、にっこり顔いろをゆるめた。
「まあお掛《か》けなさい。そしてこの葉巻でもやってください。あなたがどうしてそこまでつきとめられたか、ぜひそれがうかがいたいものですねえ。ウイスキーの水割りをやりますか?」
「やってもいいです。なにしろ一両日おそろしく活動したので、すっかり疲れてしまいましたよ。むろん肉体的の努力よりも、主として精神的のそれだったですがね。あなたならわかってくださると思いますが、おたがいにいわば精神労働者ですからなあ」
「これはどうも光栄ですな」とホームズはにこりともしないで答えた。「それじゃひとつこの大成功をおさめられた経過をうかがいましょうか」
グレグスン刑事は肘掛《ひじかけ》椅子《いす》に腰をすえて、まず満足そうに葉巻をふかした。それから急にうれしさの発作《ほつさ》にでもおそわれたように、ぴしゃりと自分の太股《ふともも》を平手で叩《たた》いた。
「滑稽《こつけい》なのはレストレードのまぬけ先生ですよ。自分じゃいっぱし腕利《うでき》きのつもりでいるんですが、まるきり見当ちがいの方面ばかり駆けずりまわりましてねえ、いまでも秘書のスタンガスンのあとばかり追いまわしているんですよ。スタンガスンなんかこの事件に無関係なこと、まるでまだ生れない赤ン坊《ぼう》と同じでさあ。それでも今ごろは、さだめし罪もないスタンガスンを捕《とら》えあてたことでしょうて」
グレグスンはそう思うとおかしくてたまらぬらしく、笑って笑って、しまいには息がつまって、きゅうきゅう苦しがるまで笑いつづけた。
「ですが、あなたのほうはどうして手がかりをつかんだのですか?」
「すっかり話しちまいましょう。そのかわりワトスンさん、これはむろん極秘《ごくひ》ですよ。元来この事件でまず打開しなければならなかった困難は、被害者の身もと経歴です。それには新聞広告を利用して、ひろく回答を待てばよいという人もありましょう。けれどもこのトバヤス・グレグスンの仕事はそんなやり口を選びません。あなたがたは、被害者のそばに帽子《ぼうし》が落ちていたのをご記憶になっているでしょう?」
「あれはカンバウエル街一二九のジョン・アンダウッド父子商会の製品でしたね」ホームズがいった。
グレグスンはかなり出鼻をくじかれた形で、「あなたがあれに気がついていたとは、まったく意外でしたな。それではアンダウッドへ行ってみましたか?」
「いいえ」
「ほう!」グレグスンはやっと安心したらしく、「チャンスというものはいかにつまらないものに見えても、決して見のがすべきじゃありません」
「偉大《いだい》なる精神にとっては、つまらないというものは決してないです」ホームズは警句もどきに答えた。
「で私はアンダウッドの店へいって、これこれの帽子を売ったかとたずねたです。すると主人は帳簿《ちようぼ》をしらべて、それはトーキー・テラスのシャルパンティエという下宿にいるドレッバーという人に売って、届けたとすぐに教えてくれました。それであの男のいた家がわかったのです」
「機敏だ! 非常に機敏です!」ホームズがつぶやいた。
「そこで私はシャルパンティエ夫人を訪問しました。夫人はたいへん青い顔をして、心配そうです。ちょうど娘《むすめ》さんもそのとき部屋にいましたが、これがまた大変美しい女性でしてね、話してみるとまっ赤な眼《め》をしていて、なにか話しかけるたびに唇《くちびる》をぶるぶる震《ふる》わせているのです。そんなことを見のがす私じゃありません。こいつは臭《くさ》いぞとすぐに気がついたです。
いよいよ手がかりを見つけたときの気持、これはホームズさんもよくご承知のことでしょうが、じつになんともいえず身内のぞくぞくするものです。で私は、『もとこちらに下宿していたクリーヴランドのイナック・J・ドレッバーさんの不思議な最期《さいご》のことをお聞きおよびですか?』とまずたずねてみました。
するとシャルパンティエ夫人がうなずいてみせました。口もきけない様子です。それに娘さんのほうはわっと泣きだしました。そこでこいつはなにかあるとにらんだので、そろそろと探《さぐ》りをいれてみました。
『ドレッバーさんが汽車に乗るといって、ここを出たのは何時ですか?』
『八時でございました』夫人は心の動揺《どうよう》を押《おさ》えるためにぐっと唾《つば》をのみこんで、『秘書のスタンガスンさんのお話では、九時十五分と十一時と列車が二つあるけれど、九時十五分のにするとかおっしゃってでございました』
『彼を見たのはそれが最後ですか?』
こうたずねますと母親はさっと顔いろをかえて、まるで死人のようになりました。そしてたった一こと、『はい』と答えるのにさえ、しばらくかかったほどです。それも咽喉《のど》にからまった不自然な声でやっとそういったのです。
それからまたしばらく沈黙《ちんもく》がつづきましたが、そのうち娘のほうが静かな声ではっきり申しました。
『お母さん、嘘《うそ》をいってよいことのあった例《ためし》がありません。このかたにすっかり話してしまいましょうよ。あの、実は、私たちはそのあとで、ドレッバーさんにお目にかかりました』
『まあ、お前ってば!』シャルパンティエ夫人は両手をあげて、どっと椅子に倒《たお》れかかりながら叫《さけ》びました。『お前はとうとう兄さんを殺してしまったんだよ!』
『アーサーだってきっと、私たちがほんとうのことを話したほうがいいと思っていますわ』娘はきっぱりといいました。
『そうです。こうなったらすっかり私に話してしまったほうがよいです。半分うち明けるのはまるきり隠《かく》しているのよりも悪いです。それに私たちのほうでも、かなりいろいろと知っているのですからね』
『みんなお前の罪ですよ、アリス!』母親の夫人は小言をいっておいて私にむかい、『すっかり申しあげます。私が息子《むすこ》のためにこんなに心配していますのは、息子がこんどの怖《おそ》ろしい事件に関係がありはしないかと心配しているからではございません。息子はほんとに潔白なのでございます。ただ私の心配いたしますのは、あなたがたのお眼には、息子が怪《あや》しいとうつりはしないかということでございます。でも、そんなことが決してあるはずはございません。息子の立派な人格や、官職や経歴が、そんなことを許しはいたしません』
『事実をつつまずうちあけてくださるのが、あなたにとって最もよい方法です。ご安心なさい。ご子息に罪がないのなら、なにも恐《おそ》れることはないのです』
『アリスや、お前は席をはずすほうがよいでしょう』母親がそういうと娘は出てゆきました。『ほんとうはこんなこと、お話しする気はすこしもなかったのですけれど、娘があんなことを申してしまいましたから、すっかりお話しいたすよりほかなくなってしまいました。いったんそうときめましたからは、どんなこまかいことも包まずすっかり申しあげます』
『それがいちばん賢明《けんめい》です』
『ドレッバーさんは三週間ちかく、私どもにご滞在《たいざい》でした。その前は、秘書のスタンガスンさんとごいっしょに、大陸のほうをずっとご旅行だったそうで、どのトランクにもみんなコペンハーゲンのホテルのラベルが貼《は》ってありましたから、最後にそこからロンドンヘいらしったのだと存じます。
スタンガスンさんはもの静かな、無口なおかたでしたが、ドレッバーさんのほうは、こう申してはなんでございますけれど、大違いでした。なさることが下品で、卑《いや》しくさえみえました。
こちらへお着きになりましたその晩に、もうたいそうお酒にお酔《よ》いになりましたくらいで、それからもお昼すぎにはいつも、素面《しらふ》でいらしたことはないくらいでございます。
女中たちにたいしても、にがにがしいほど慣れなれしくて、もっと悪いことには、娘のアリスにもたちまちおなじ態度におなりになって、一度ならずいやらしいことをおっしゃいました。もっともそれはさいわいと娘がまだ無邪気《むじやき》なため、意味が通じませんでしたけれども、一度なぞ娘をとらえて抱《だ》きついたりなさいました。
そのときはさすがスタンガスンさんが見かねて、止めてくださいましたほどでございます』
『でもあなたはなぜ、そんなことをされて我慢《がまん》していたんです? 下宿人はあなたの心一つで出てもらうこともできるはずじゃありませんか?』
私がそうたずねますと、無理からぬ質問ですから、シャルパンティエ夫人はぽっと赤くなって、『あのかたのいらした日にご注意すればよろしかったのですが、でもつよい誘惑《ゆうわく》がございましたから……あのかたは一日一ポンド、おふたりで一週十四ポンド払《はら》ってくださいました。
なにしろいまは不景気なときでございますのに、私は寡婦《やもめ》でございますし、海軍にいます息子にはずいぶんお金もかかります。それだけの収入をとり逃《にが》してしまうのが惜《お》しかったのでございます。それでできますだけのことはいたしましたのですけれど、でもただいま申しました最後のときには、さすがにお腹《なか》にすえかねまして、それをたてに出ていただくように申しました。それであのかたは出ていらしたのでございます』
『ふむ……それで?』
『あのかたの馬車がはしりだすのを見ましたときは、私は心が明るくなるように感じました。息子はいま休暇《きゆうか》で家におりますけれど、怒《おこ》るときかぬほうでございますし、それに、妹をたいそうかわいがっておりますから、このことはなにも聞かせてはいませんでした。
あのかたたちをお見送りしまして、表をしめてしまいますと、心の重荷がとれたような思いがいたしました。ところがそれから一時間もたちませんうちにベルが鳴りまして、またドレッバーさんが戻《もど》ってこられたのです。ひどく興奮していらっしゃいました。またお酒に酔っていました。
ほんとにしようがないったら、私が娘といっしょにおりますところへおしかけていらして、汽車に乗りおくれたことをとりとめもなくしゃべりちらしてから、アリスに向って、私のいますのもかまわずに、いっしょに駆《か》けおちしようとおっしゃるのです。
あんたはもうおとなじゃから、法律でとめられることはない。わしは金ならしこたま持っとる。こんな皺《しわ》くちゃ婆《ばあ》さんなんかかまわずに、さ、今からすぐわしといっしょに出かけよう。あんたには女王さまみたいな暮《くら》しをさせてあげようわい
かわいそうにアリスはびっくりして後ずさりしましたが、あのかたは手をとって戸口のほうへひきずってゆこうとなさるのです。
私はおもわず声をたてました。するとそこへ息子のアーサーが来てくれましたが、それからどんなことがおこりましたのか、すこしも存じません。ののしりあう声とつかみあいの物音だけは聞きましたけれど、あまりの怖ろしさに顔もあげられませんでした。しばらくしてみますと、アーサーが戸口に立って、棒を手にして笑っていました。
これでもう二度とあんなやつに悩《なや》まされることはあるまいよ。ついでにちょっとあとをつけていって、あいつがどうするか見てやろう
そういって息子は帽子をかぶって表へ出てまいりました。そしてつぎの朝、私どもではドレッバーさんが不思議な死にかたをなすったのを知ったのでございます』
これだけのことを話すのに、夫人はいく度か喘《あえ》いだり、とぎれたり、ときどきは聞きとれぬくらい声の低くなることもありましたが、私はいちいち速記してきましたので、話の内容には決して誤りはないです」
「たいへんおもしろいですな」ホームズはあくびをしながら、「それからどうしました?」
「シャルパンティエ夫人の話が切れたとき、私はすべてのことがらがただ一点にかかっていることに気づきました。そこでいつも女性にたいして効を奏してきた眼つきで、じっと彼女《かのじよ》を注視してから、息子がその晩何時に帰ってきたかをたずねてみました。すると彼女の答えは、
『存じません』
『存じません?』
『はい、息子は鍵《かぎ》をもっておりますから、自分で表をあけてはいったのでございます』
『ではあなたが寝《やす》んでからですね?』
『はい』
『あなたは何時に寝みましたか?』
『十一時ごろでございました』
『するとご子息はすくなくとも二時間は外出しておられたことになりますね?』
『はい』
『二時間以上、あるいは四、五時間であったかもしれませんな?』
『はい』
『そのあいだ何をしていたのでしょう?』
『私は存じませんけれど……』彼女は唇までまっ青になりました。
むろん、これ以上きくことも調べることも必要ありません。私はシャルパンティエ中尉《ちゆうい》のいどころを確かめて、巡査《じゆんさ》をふたりつれていって逮捕《たいほ》したのです。彼《かれ》の肩《かた》に手をおいて、おとなしくついてくるように命じますと、ずうずうしくもあの男はこう口答えしたものです。
『あの悪党のドレッバーの死の関係者として私を逮捕するのでしょうね?』
こっちからなにもいわないのにこうなんです。これだけでも十分疑いをかけるだけのものはあります」
「いかにもねえ」
「そのときはまだ、ドレッバーをつけてゆくとき持って出たという母親の話の、太い棒をもっていましたが、それはがんじょうな樫《かし》の棍棒《こんぼう》でした」
「で君の推理はどうなりますか?」
「私の推理では、彼はドレッバーを尾行《びこう》してブリクストン通りまでいったのです。ところがそこでまたまた口論をはじめているうち、ドレッバーはたぶん鳩尾《みぞおち》かなにかを棍棒でやられて、そのために外傷のすこしも残らない死にかたをしたのです。
ひどい雨の晩で、そのへんに誰《だれ》もいなかったので、シャルパンティエは空家へ死体をひきずりこんだわけです。蝋燭《ろうそく》や血痕《けつこん》や、壁《かべ》の文字や指輪は、あれはみんな警察の眼をくらまそうという細工にすぎません」
「みごとだ!」ホームズは大いに感服して、「ほんとうにグレグスン君みごとだ! 君の将来が楽しみですよ」
「へへへへ、自分ながらまあね」グレグスンは得々として、「シャルパンティエ自らの供述によると、ドレッバーを少しつけていったところで、先方がそれに気がついて、辻馬車《つじばしや》を拾って逃《に》げてしまったというのです。で帰ろうとすると、途中《とちゆう》で海軍の旧友にあったので、つれだってながいこと散歩したといっていますが、その友人の住所をたずねても、満足な返答ができない始末です。
この事件は珍《めずら》しいくらい話の辻褄《つじつま》がしっくり合っていると私は思いますよ。ふふふふ、おもしろいのはレストレードですね。先生とんでもない方面へ捜査《そうさ》の手をのばしちまっているんですからねえ。あんなものを調べたって、何になるもんか! おや! そういえば当人がやってきたようですぜ!」
グレグスンのいったとおり、話しこんでいるうち階段をのぼって、部屋へはいってきたのはレストレードであった。ただし、今日のレストレードはいつもと違《ちが》って、服装《ふくそう》や態度に、人を見くだしたところも気どったところも見えなかった。それどころか顔は当惑《とうわく》しきっており、服は乱れていた。グレグスンのいるのを見て困ったような顔をしたのは、むろんホームズに助言を求めるつもりでやって来たのにちがいない。部屋の中央に立って帽子をいじりながら、どうしようかと躊躇《ちゆうちよ》する様子だったが、しばらくして口を切った。
「じつに奇怪《きかい》きわまる事件です。不可解な謎《なぞ》のような事件です」
「ほう、やっぱりそう思いますかね、レストレード君」グレグスンは勝ちほこって叫《さけ》んだ。「どうせ君はそんなことだろうと思っていた。秘書のスタンガスンの行方《ゆくえ》はわかりましたか?」
「秘書のジョゼフ・スタンガスン氏は」とレストレードは重々しく告げた。「けさ六時ごろ、ハリデイ特定《プライベイト》ホテルで殺害されました」
第七章 暗中の光明
レストレード探偵《たんてい》の投げつけた情報は、あまりにも重大であり、あまりにも意外だったので、私たちは三人とも唖然《あぜん》として口もきけなかったのである。グレグスンはがばと席を立ったので、その拍子《ひようし》に飲みのこしの水割りウイスキーをひっくりかえしてしまった。私は無言でホームズを見つめたが、彼はきゅっと口をむすんで、眉《まゆ》をよせていた。
「スタンガスンもか! いよいよ複雑になってくるな」しばらくしてホームズはつぶやいた。
「もとからかなり複雑だったですよ」レストレードはやっと椅子《いす》におさまりながら、「私はなんだか参謀《さんぼう》会議みたいなところへ来あわせたわけですかね」
「君、その、まったくまちがいはないのでしょうな、この情報は?」グレグスンはややいいにくそうにたずねた。
「僕《ぼく》は今までスタンガスンの殺された部屋にいたんだ。もともと僕が最初に事件を発見したのだけれどね」
「じつは今、事件に関するグレグスン君の意見を聞いていたところなんですがね。ここで一つあなたの見てきた新事実を詳《くわ》しく話してくれませんか?」
「いいですとも。正直にいいますと私は、ドレッバー殺しにはスタンガスンが関係しているだろうという意見でした。事がこう展開してきたので、私の考えが全然誤っていたことがわかりましたが、はじめは単純にそう思いこんで、秘書の行方捜査に専念したのです。
三日の夜八時半ごろに、ユーストン駅であのふたりを見かけた者がありました。そしてその夜の午前二時に、ドレッバーだけが死体となって、ブリクストン通りの空家のなかで発見されたのです。私がまずぶつかった問題は、スタンガスンは八時半からドレッバーが殺されるまでのあいだ、どこでなにをしていたか? また、犯行後、彼はどこへいったかということでした。
私はまずリヴァプールヘ電報して、スタンガスンの人相を知らせ、アメリカゆきの船舶《せんぱく》の警戒《けいかい》を依頼《いらい》しました。それから自分では、ユーストン駅付近のホテルと下宿屋を軒《のき》なみ調べて歩きました。これはもしドレッバーにはぐれたとすれば、スタンガスンは駅の付近の宿で一夜をあかして、翌朝駅へ行ってぶらぶらしながら、ドレッバーのくるのを待ちうけるのが最も自然だと考えたからです」
「そういう場合はどこか落ちあう場所をあらかじめきめておきそうに思うな」ホームズがいった。
「そのとおりでした。昨夜はひと晩この調べに空費してしまいましたが、今朝は早くから残ったところをまわりはじめて、リトル・ジョージ街のハリデイ特定《プライベイト》ホテルまで来たのが八時でした。スタンガスンという人がいるかとたずねてみますと、いるという色よい返事です。
『あのかたがお待ちかねなのはあなたさまでございましたか? もう二日もまえからお待ちかねでございますよ』
『いまどうしていますか?』
『お二階に――まだお寝《やす》みでございます。九時に起してくれとおっしゃいました』
『じゃすぐに部屋へ行ってやりましょう』
とつぜん私が行ったら、スタンガスンは度を失って、なにか不用意な言葉でももらすかもしれないという胸算用《むなざんよう》でもあったのです。
雑役夫《ざつえきふ》がすすんで案内に立ってくれましたが、部屋は三階にあって、せまい通路をのぼってゆくようになっていました。雑役夫は部屋のドアを教えておいて、すぐにおりてゆきかけましたが、そのとき私は二十年来場数を踏《ふ》んでいるにもかかわらず、ぞっとするうす気味悪いものを見てしまいました。ドアの下から血が一すじ、赤いリボンをくねらせて廊下《ろうか》を横断し、むこうがわの壁ぎわに小さな血の池をこしらえているのです。
おもわず私が声をたてたので、おりてゆきかけた雑役夫が戻ってきました。そしてこの有様をみて、気を失わんばかりに驚《おどろ》いてました。ドアは内がわから鍵がかかっていましたが、ふたりで体当りして、無理におしあけました。
見ると一つある窓はあけはなたれて、そのそばに寝衣《ねまき》姿の男が、からだを丸くして倒《たお》れています。まったくこと切れているのみならず、手足が冷たくなって硬直《こうちよく》がきているところをみると、死後相当の時間を経過しています。
ともかくもふたりで死体を起してみましたが、雑役夫はその男の顔をひと目見て、ジョゼフ・スタンガスンと名のってその部屋に泊《とま》っている紳士《しんし》にまちがいないと認めました。死因は左胸部の刺傷《さしきず》で、おそらく心臓まで貫《つらぬ》いていると思われるほど深いものです。
ところで、ここまでは普通《ふつう》の殺人ですが、これからがじつに奇怪なのですよ。みなさんは死体の上になにがあったと思いますか?」
私は身内がぞくぞくするような気がした。そしてホームズがつぎのように答えるまえに、もう恐怖《きようふ》の予感でわくわくした。
「赤い血で RACHEという字が書いてあったのです」
「そのとおりです」
レストレードは畏敬《いけい》の念に打たれたように答えた。そして一同はしばらく無言であった。
この姿なき犯人のやることにはなにかしらひどく規則正しい、それでいてなんとも不可解なところがあるので、犯罪はいやがうえにも凄惨《せいさん》さを加えた。それを思うと戦場へ出てもびくともしなかった私だけれど、ひどく神経を悩ませられるのだった。
「加害者らしい男を見かけたものがあります」レストレードはつづけた。「牛乳配達の少年ですが、搾乳場《さくにゆうじよう》へ行こうとして、ホテルの裏手にある厩《うまや》のほうからくる道を通りがかると、いつもそこへ横にしてある梯子《はしご》が、ホテルの三階のあけはなたれた窓に立て掛《か》けてあるのを見ました。通りすぎてからふりかえってみると、その梯子をおりてくる男があります。あまり落着きはらって、おおっぴらでおりてくるので、ホテルの仕事をしている大工か指物師《さしものし》だろうと思って、かくべつ気にもとめず、感心に早くから働くのだなと、そのまま通りすぎたのだそうです。
あとで考えてみると、あから顔の背のたかい男で、茶いろがかった長いオーヴァーを着ていたといいます。男は殺害後なおしばらくその部屋に留《とどま》っていたにちがいないと思われるのは、手を洗ったとみえ、洗面器の水が血でよごれているし、シーツにはていねいにナイフを拭《ふ》いたあとが残っています」
その男の人相が、昨日ホームズのいっていたのとピッタリ符合《ふごう》しているので、私はそっと彼の顔を見た。だがそこにはすこしの得意らしさも、満足らしさすら見られなかった。「そのほか部屋のなかに、加害者の手がかりになるようなものは残っていなかったのですか?」
「なにもありません。スタンガスンのポケットからは、ドレッバーの財布《さいふ》が出てきましたが、支払《しはら》いはすべてスタンガスンがしていたそうですから、ふだんから預かっていたのでしょう。財布のなかには八十ポンドあまりあって、何も紛失《ふんしつ》した形跡《けいせき》はありません。
この異常な連続犯罪の動機がどこにあるにしても、物盗《ものと》りが目的でなかったことだけは確実です。そのほか被害者《ひがいしや》のポケットからは、一カ月ばかりまえの日付で『J・H・ヨーロッパにあり』としたアメリカのクリーヴランド局発の電報が一通出てきただけで、書きつけの類は一つもありません。そしてその電報にも差出し人の名はありませんでした」
「それだけですか?」ホームズがたずねた。
「とにかく役にたちそうなものはそれだけです。それからスタンガスンが寝《ね》ながら読んでいた小説が、ベッドの上にあったのと、パイプがそばの椅子の上にあったのと、テーブルの上に水をいれたコップが一つ、それから、窓枠《まどわく》の上に丸薬が二粒《ふたつぶ》はいった経木《きようぎ》の小箱《こばこ》があったくらいのものです」
シャーロック・ホームズは椅子からとびあがって、うれしそうな声をあげた。
「やっ! 最後のひと齣《こま》だ! ああ、これでやっと完結しました」
ふたりの刑事《けいじ》はあっけにとられて、彼の顔をまじまじと見つめた。
「さんざん悩まされたが、私はもうすっかり筋道がわかりましたよ」ホームズは自信にみちていった。「むろんこまかな点は、おいおいに補足してゆくのだけれど、ドレッバーが駅でスタンガスンに別れたときから、死体になって発見されるまでの主要な事実は、じっさいこの眼《め》で見てきたくらいはっきりと私にはわかっているのです。その、私が知っているということは、証拠《しようこ》をお目にかけてもよろしい。レストレード君、その丸薬が手にはいったのでしょうね」
「ここに持っています」レストレードは白い小さな箱をとりだした。「これと財布と電報とを、署のほうへ安全に保管しておくつもりで押収《おうしゆう》してきました。もっともこんな丸薬なんぞ、すこしも重要視したわけではありませんから、ほんのときのはずみで持ってきたようなものですがね」
「それをこちらへください」ホームズはいった。「どうだろう、ワトスン君」彼は私のほうを向いた。「こいつは普通の丸薬かね?」
それはまったくありふれた丸薬ではなかった。真珠《しんじゆ》のような灰いろがかった小さな丸い粒で、光にすかしてみると透明《とうめい》にちかい。
「軽いところや透明性のあるところをみると、水に溶解《ようかい》するだろうと思うな」私がいった。
「まったくそのとおりだ」ホームズが同意した。「ちょっと君、すまないけれど下へいって、テリヤをつれてきてくれないか。あの犬はだいぶ前から病気のようだが、もういよいよだめだとみえて、昨日も主婦《おかみ》が君に、早く楽にしてやってくれと頼《たの》んでいたようじゃないか」
私は請《こ》われるままに、下へいって犬を抱《だ》いてきた。苦しそうな喘《あえ》ぎかたや、どんよりした眼をみれば、この犬ももうながくはないことがわかる。じっさい雪のようにまっ白になっている口もとは、この犬がすでに犬としての普通の寿命《じゆみよう》を生きてしまったことをあきらかに物語っている。私は敷物《しきもの》の上にクッションをおいて、そっとテリヤをおろした。
「この丸薬の一つをとって、まず二つに割ります」ホームズはペンナイフを出してそのとおりに丸薬を切りながら、「半分はあとのため箱に戻《もど》しておいて、のこりの半分をこのワイングラスのなかへ入れます。グラスのなかには茶匙《ちやさじ》一|杯《ぱい》の水がはいっています。うむ、ごらんのとおりワトスン君の推定があたっていました。丸薬は容易に溶解していきます」
「いかにもおもしろいかもしれませんが」レストレード刑事は、からかわれているのじゃないかと思ったとき、多くの人がやるように苦い顔をして、「しかしそれがジョゼフ・スタンガスンの死とどういう関係があるのか、私にはさっぱりわかりませんな」
「あせらずに! レストレード君、辛抱《しんぼう》が大切ですよ! 非常に関係のあることが、いまにわかってきます。――では、これに牛乳をすこし加えて口あたりをよくし、犬に与《あた》えると、犬はじき舐《な》めてしまいます」
そういいながらホームズはグラスのなかのものを受皿《うけざら》にあけて、犬の鼻さきへおいた。犬はたちまちその薬入りの牛乳をきれいに舐めてしまった。ホームズの態度があまりに真剣《しんけん》なので、私たちはすっかり釣《つ》りこまれて、いまになにか驚くべきことがおこるのだろうという期待で、固唾《かたず》をのんでじっと犬を見まもった。
だがなにごともおこりはしなかった。犬はあいも変らずクッションの上にねそべって、あいも変らぬ苦しげな息づかいをしているだけで、薬のためべつだん容体がよくもならなければ、悪くなった様子もない。
ホームズは時計を出してじっと見ていたが、一分二分と時間はすぎるのに、なんの反応も現われないので、ひどくくやしそうな顔をし、ついに絶望のいろさえ浮《うか》べた。ぎゅっと唇《くちびる》をかみしめ、テーブルの上を指でたたき、そのほかいらいらしたときのあらゆる身ぶりをした。
あまりに無念そうだったので、私は心から彼に同情をしたが、ふたりの刑事はホームズの挫折《ざせつ》を小気味よく思ったらしく、それみたことかと嘲《あざけ》るような微笑《びしよう》を浮べていた。
「偶然《ぐうぜん》である筈《はず》がない」ホームズはたまりかねて、つと立ちあがり、あらあらしく部屋のなかを歩きまわりながら、大きな声で独語した。「これが偶然だなんて、そんなことがありうるものか! ドレッバー殺しのときに眼をつけておいたこの丸薬が、スタンガスンの死体のそばで発見されたんだ。それなのにこの丸薬は無毒である。これはなにを意味するのか? 僕の推理が全然あやまっていたというのか? そんなことはありえない! しかもこの犬はなんともない。――ああわかった! わかったぞ!」
ホームズはさもうれしそうに歓声をあげながら、例の箱のところへとんでいって、もう一つのほうの丸薬を二つに割り、その一つを水にとかし、牛乳を加えてまえとおなじに犬の鼻さきへおいた。あわれな犬は、舌がその液についたかと思うともう、手足をぶるぶると痙攣《けいれん》させ、雷《かみなり》にでも打たれたようにたちまちぴんとつっぱって絶命してしまった。
シャーロック・ホームズはほっと大きな息をもらして、額の汗《あせ》をおし拭《ぬぐ》った。
「僕はもっともっと自分の推理に自信を持つべきだ。一貫《いつかん》した推理の糸の一カ所に、一見これと矛盾《むじゆん》する事実が現われたときは、必ずこれとは別の解釈が可能だくらい、今ごろになって悟《さと》るようなことじゃだめだ。この箱の丸薬のうちで、一つはおそるべき毒物だけれど、一つのほうはまったく無害だったのだ。いったいこんなことくらい、箱を見ないうちから、僕はわかっていなきゃならなかったのだ」
この最後の言葉は、ひどく私を驚かした。でなければ、まじめにホームズがいったものとは、どうしても受けとりかねた。けれども足もとに死んでいる犬は、なんといっても彼の推定の正しかったことを立証している。私は頭のなかの霧《きり》がしだいに晴れて、おぼろげながら事実の真相がわかってくるような気がした。
「諸君には、すべてが不思議にみえるにちがいない」とホームズは続けた。「それはなぜかというと、諸君は最初の出発点で、真の手がかりが一つだけ眼の前にころがっていたにもかかわらず、それを見落してしまったからです。私はさいわい、それをつかむことができた。そしてその後におこった出来事はすべて、私の最初の断定を裏がきしてくれ、それはまた当然の論理的結果でもあったのです。だから諸君の頭を混乱させ、事件をいやがうえにも不可解なものにしたことがらが、私にとっては啓発《けいはつ》ともなり、また結論を強調してくれるものともなったのです。
いったい不思議と神秘とを混同するのはまちがっている。もっとも平凡《へいぼん》な犯罪が最も神秘的に見えるものです。つまり、推理を引き出すべき斬新《ざんしん》な、または特殊《とくしゆ》な材料が見あたらないがためです。この事件にしたって、単に死体が路上に横たわっているというだけで、それゆえに事件を有名ならしめた付随《ふずい》的な奇怪《きかい》さや、センセーショナルなところがなかったら、解決はとほうもなく困難だったのにちがいありません。ところがあのようにこまごまと不思議なことがあったので、解決がむずかしくなるどころか、かえって容易になってくるわけです」
グレグスンはホームズの長講をかなり辛抱して聞いていたらしいが、いよいよがまんできなくなったものとみえて、
「ねえ、シャーロック・ホームズさん、あなたが敏腕家《びんわんか》であり、独特の方法をもっておいでのことは、つねにわれわれの認めているところですが、いまわれわれが求めているのは、単なる説明や説法ではありません。われわれは犯人を捕《とら》えなければならないのです。
私は私の考えに従って、微力をつくしましたが、不幸にしてこれは私が誤っていたらしい。なぜならば、シャルパンティエはすくなくともこの第二の犯罪にたいしては、無関係であることは明らかであるからです。
つぎにレストレード君は、同君の考えに従って、犯人と目されるスタンガスンの行方《ゆくえ》を追及しました。しかも同君もやはり誤っていたようです。
あなたは思わせぶりなヒントを小出しにちらつかせていられるから、すくなくともわれわれよりは、より以上になにかを知っておられるらしい。もうこのへんでもはや、あなたがどこまで深く知っておられるかを、単刀直入におたずねする権利がわれわれにあると思います。あなたは犯人の名前をいえますか?」
「グレグスン君のいうことは、もっとも千万《せんばん》だとしか考えられませんな」レストレードがかわって攻《せ》めたてた。「私たちはふたりとも信ずるところをやってみて、ふたりとも失敗におわりました。さきほどからうかがっていますと、あなたは必要な証拠までちゃんと押《おさ》えておいでのように、再三口にされましたが、もはやおかくしになる必要はないでしょう」
「犯人|逮捕《たいほ》がすこしでも遅《おく》れると、そのあいだにまた新しい凶行《きようこう》を重ねるときを与えることになりはしないかな?」私も口をはさんだ。
こう三人から迫《せま》られても、ホームズはいずれとも決しかねている様子だった。さっきから頭をたれ、眉《まゆ》をよせて部屋のなかを歩きつづけているが、これは深い思索《しさく》に没入《ぼつにゆう》しているときの彼のくせなのである。
「もうこれ以上殺人を犯《おか》すことはないでしょう」
しばらくしてとつぜん、彼は私たちの正面へ来て立ちどまりながらいった。
「その問題はもうまったく心配はいらないと思う。犯人の名を知っているかというご質問ですが、私はちゃんと知っています。だが犯人の名を知るくらいは、これを捕えることの困難さにくらべたら、なんでもありません。しかも間もなく捕えてみせるつもりでいます。それには、私のやっている手配だけで十分成功する成算もあるのです。
ただし、相手の男は賢《かしこ》くてむこう見ずのうえに、いつかも証明しておいたとおり、本人に劣《おと》らぬ賢さをもつ味方があるから、きわめて慎重《しんちよう》にことを行うことが必要です。犯人は、人に感づかれていないと思っているあいだは、こちらが巧《たく》みにやれば捕えられるチャンスもありますが、すこしでも怪《あや》しまれていると気がつけば、名まえをかえて即座《そくざ》にこの大都会の四百万民衆のなかへ姿をかくしてしまうおそれがあります。
おふたりの感情を害するつもりなんかすこしもないけれど、この男は警察の手にはあいかねると思わずにはいられなかった。そのために私は君たちの助力を求めようとしなかったのです。もし失敗すれば、むろんその点で私が全責任を負わなければならないのもよく承知していますし、また、ちゃんと覚悟《かくご》もしています。現在のところは、知らせたがために私の定めた手はずに狂《くる》いのくる心配がなくなりさえすれば、すぐにもすべてをお話しするという約束《やくそく》だけなら、喜んでしてもいいです」
この約束にも、また、警察の刑事ぜんたいを遠まわしに侮蔑《ぶべつ》したホームズの言葉にも、グレグスンとレストレードは大いに不満があるらしかった。前者は亜麻《あま》いろの髪《かみ》のはえぎわまで染まるほどまっ赤になったし、後者の小さく光る眼は、鬱憤《うつぷん》と好奇心とで燃えていた。けれどもふたりともまだなんとも口をきくひまのないうちに、ドアをたたく音がして、浮浪児《ふろうじ》の総代であるウィギンズ少年が、そのきたならしい不快な姿を現わした。
「旦那《だんな》、馬車をつれてきたよ」少年は額のところへちょっと手をやりながらいった。
「ご苦労だった」ホームズはおだやかにいった。「どうして警視庁じゃこの型を採用しないんです?」と引出しから鋼《はがね》の手錠《てじよう》をとりだしながらいった。「このスプリングのうまく利《き》くことはどうです? あっというまにかかってしまいますよ」
「ふるい型でも十分まにあっています。問題はそいつをかける相手を見つけることですがね」レストレードも負けていなかった。
「それはそうだ。まったくそうだ」ホームズはにこにこしながら、「馭者《ぎよしや》は荷物を手つだってくれるだろうな、ウィギンズ? ちょっとここまであがってもらってくれないか」
今が今までまったくそんな話はなかったのに、ホームズが急に旅行でもしそうな口ぶりなので、私は眼を丸くした。部屋のなかには小さな旅行|鞄《かばん》があったが、ホームズはそれをひきずりだして、帯皮をかけはじめた。彼がしきりにやっているところへ、ウィギンズにいわれて馭者があがってきた。
「あ、馭者君、この締《し》め金《がね》をかけるんだから、ちょっと手を貸してくれないか」ホームズはふりむきもしないで、膝《ひざ》で鞄をうんうん押えながらいった。
馭者はなんだか不機嫌《ふきげん》な顔をして、めんどうくさそうにホームズのそばへより、両手を出して手つだおうとした。と、その瞬間《しゆんかん》、かちりという鋭《するど》い音と、金属のじゃらじゃら鳴るのが聞えて、ホームズがさっと立ちあがった。
「諸君!」ホームズの眼はかがやいた。「イナック・ドレッバーおよびジョゼフ・スタンガスンを殺した犯人ジェファスン・ホープ君をご紹介《しようかい》いたします!」
すべてはあっという間のできごとだった。なにがおこったのか、私にはちょっと実感が出ないくらい迅速《じんそく》であった。その瞬間のことは今でもありありと覚えている。ホームズの勝ちほこった表情、張りのある音声、魔法《まほう》にでもかかったようなはめられかたをした、きらきら光る手錠をじっと見たときの、馭者の茫然《ぼうぜん》とした顔つきの猛悪《もうあく》だったことなど、いまもなおまざまざとこの眼に見る気がするのである。
一、二秒間、私たちはまるで彫像《ちようぞう》の群れのように立ちつくした。次の瞬間わけのわからぬ怒号《どごう》を発するとともに、馭者は捕えているホームズの手を振《ふ》りもぎって、激《はげ》しく窓に体当りした。桟《さん》やガラスはひとたまりもなくこわれ散ったが、そこから外へ飛びだすまえに、グレグスンとレストレードとホームズとが、まるで三頭の猟犬《りようけん》のようにいっせいに跳《おど》りかかってひっ捕えた。そして部屋のなかへひきずり戻すとともに、世にもおそるべき激しい格闘《かくとう》がはじまった。
馭者は猛烈《もうれつ》に力のつよい、乱暴なやつであった。四人がかりのこっちが、何度となくふりはなされたほどである。まるで何かの発作《ほつさ》をおこした男の痙攣のような力だった。顔や両手は窓をつき破ったときガラスでひどく切って血だらけだったが、そんなことで抵抗力《ていこうりよく》が弱るような男ではなかった。
最後にレストレードが片手をうまく襟巻《えりまき》の内がわへかけて、咽喉《のど》を半締めにしたので、やっとじたばたしてもだめだとあきらめさせることができたような始末だった。それでもまだ私たちは、彼の両手だけでなく両足もしっかり縛《しば》ってしまうまでは、安心できなかったくらいで、それがすんで立ちあがったときには、みんなはあはあ息をきらしていた。
「こいつの馬車があるから、警視庁へ護送するにはちょうどまにあう。それでは諸君」ホームズはうれしそうな微笑をうかべて、「この小さなミステリーもついに終末をつけることになりましたから、私はどんなご質問にも喜んでお答えできます。もう返事を拒《こば》むようなご心配は決してありませんよ」
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第二部 聖徒たちの国
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第八章 アルカリ大平原
広漠《こうばく》たる北アメリカ大陸の中部地方には、いとうべき荒蕪《こうぶ》不毛の一大砂漠が存在して、多年、文化の進出を阻止《そし》する障壁《しようへき》をなしてきた。シエラネヴァダ山脈から東へネブラスカまで、北はイエローストーン河から南はコロラド河までが、この荒廃《こうはい》と沈黙《ちんもく》の領域であるのだが、自然はこの陰惨《いんさん》な領域にたいしても、全域を通じてかならずしも同一|状況《じようきよう》のもとにおくことをしなかった。そこには雪をいただく巍然《ぎぜん》たる高山があり、昼なお暗き幽谷《ゆうこく》があり、峨々《がが》たる峡谷《きようこく》を貫《つらぬ》いて荒《あ》れくるう奔流《ほんりゆう》があり、また、夏は塩分をふくんだアルカリ質の砂塵《さじん》うずまき、冬は白皚々《はくがいがい》たる雪の平原と化する大平原もある。ただこれらのあいだに荒涼《こうりよう》不毛陰惨などの特性が一脈あい通じて存するのはいうまでもないけれど。
この世に見はなされた土地には、住む人とてはない。ポーニー族やブラックフィート族の原住民の一隊が、どうかすると、ほかの猟場《りようば》へとおもむくため通過することはあるが、もっとも剛胆《ごうたん》な男といえども、この凄惨《せいさん》な地をはなれて、ふたたび草原へたどりついたときは、ほっとするのである。狼《コヨーテ》はやぶにひそみ、はげたかは羽音おもく空にまい、ぶざまな灰いろ熊《ぐま》は小暗い峡谷にのそのそして、岩間に餌食《えじき》を求める。――これらがこの荒地に住むものの全部である。
シエラブランカ山脈の北がわの尾根《おね》からの眺《なが》めほど、世にもものすごい光景はないであろう。眼《め》のとどくかぎり広漠たる平原で、あちこちに矮小《わいしよう》なかしわの貧弱《ひんじやく》なやぶを点々と交えているほかは、アルカリ質の土砂《どしや》がむきだしである。
はるか地平線のつきるところには、いただきに雪を粧《けわ》いした連山が峨々として横たわっているが、そこまでの広漠たる地域には、生けるものとては影《かげ》さえ、いや、およそ生命に関係のあるものすら見られないのである。
青銅色の大空には一羽の鳥さえとばず、沈滞《ちんたい》しきった灰いろの地上にも動くものとてはない。そしてすべては極度の静寂《せいじやく》にとざされているのである。どんなに耳を鋭《するど》くしてみても、この茫漠《ぼうばく》たる荒野には音らしいものさえ聞えることがない。あるものはただ沈黙《しじま》。――絶対の、めいるばかりの沈黙のみである。
この大平原のぜんたいを通じて、生命に関係あるものさえ見られないといったが、これはすこし事実と違《ちが》っていた。シエラブランカの山から眺めると、一条のほそ道が荒野をえんえんと横ぎって、はるかかなたに消えているのが見られる。そのほそ道には轍《わだち》のあとや多くの冒険者《ぼうけんしや》たちの足跡《そくせき》がしるされているのである。
そしてそこには白いものが点々と落ち散って、黒ずんだアルカリ性土砂のなかにあって、そこだけが太陽の光をきらきらと反射している。近よってそれを調べてみるがよい。それはみんな骨なのだ! あるは大きく粗《あら》く、あるは小さく花車《きやしや》なものもあるが、みんな骨なのだ! 大きく粗いのは牛の骨であり、小さく花車なのは人間のそれである。むなしく路傍《ろぼう》にたおれたこれら犠牲者《ぎせいしや》の残骸《ざんがい》をたどってゆけば、この戦慄《せんりつ》すべき隊商の通路が、千五百マイルにもわたっていることを知るであろう。
一八四七年五月四日のこと、この光景をしょんぼりと見おろしているひとりの旅人があった。みたところ、この土地の精霊《せいれい》か守り神ではあるまいかと思われる風貌《ふうぼう》で、年齢《ねんれい》も六十にちかいのか、それとも四十のほうへちかいのか見当がつきかねる。顔はごつごつとやせこけて、渋《しぶ》いろの羊皮紙のような皮膚《ひふ》が、出ばった骨々の上にぴんと張りつめている。
ながい褐色《かつしよく》の頭髪《とうはつ》や顎鬚《あごひげ》にはいったいに白いものを交え、落ちくぼんだ二つの眼は妙《みよう》にらんらんと光る。ライフル銃《じゆう》をにぎる手は骨と皮ばかりであるが、その銃にすがって立った姿をみれば、背はたかく、骨ぐみががっしりしていて、細いなりにも強壮《きようそう》な体質であるのを思わせた。だがやせ衰《おとろ》えた顔や、萎《しな》びた手足にひどくだぶつく服をみれば、なにがためにこの男がそう老人じみて見えたのかがわかる。彼《かれ》は死にかけているのだ。飢《う》えと渇《かわ》きから死にかけているのだ。
彼は水らしいものが見えはしないかと、むだな望みにひきずられて谷間をさまよい、それからこの小さな高みへとたどりついたのである。だが登ってみれば、眼のまえに展開しているのは、はるかに未開の連山をのぞむ茫漠たる塩の平原であった。水分の存在を示すであろう草一本、樹《き》一枝《ひとえだ》見えはしなかった。そこにはひとすじの望みをかけるべきものとてもない侘《わび》しき風景があった。
北を、東を、そして西を、彼はもの狂《ぐる》おしい眼でじっと見まわした。そして自分の放浪《ほうろう》もついに終局がきたことを、ここのこのはだか岩の上で死ぬのであることを知った。
「ここで死ぬのがどうだというんだ? 二十年後に羽根蒲団《はねぶとん》の上で死ぬとしても、おなじことじゃないか!」丸石のかげに腰《こし》をおろしながら彼はつぶやいた。
腰をおろすまえに、もう無用となった銃を地におき、鼠《ねずみ》いろのショールに包んで右の肩《かた》にかけていた大きな荷物もおろした。その荷物は彼の力には少しあまる重さだったとみえ、おろすときやや乱暴にどしんと地をついた。するとそのとたんに、その鼠いろの荷物のなかから小さな泣き声が聞えて、ひどくくるくるした鳶《とび》いろの眼をもつ小さな怯《おび》えた顔と、そばかすとくびれのはいった二本の小さな手とがにゅっと現われた。
「痛いじゃないの」子供らしい声がなじるようにいった。
「おやそうだったかい?」男は悪かったと思ったらしく、「そんなにひどくするつもりはなかったんだけどねえ」といいながら、鼠いろの肩かけを解いて、五つばかりのかわいらしい女の子を出してやった。
あいらしい靴《くつ》や、気のきいたピンクの服に、小さな白いエプロンをかけたところに、母親のゆきとどいた注意が現われている。顔いろこそ青ざめて色つやが悪いけれど、丈夫《じようぶ》そうな手足をみれば、少女が男ほどには苦しんでいないのがわかった。
「どうだな?」少女が乱れた金髪の上から、まだ後頭部をさすっているので、男は心配そうにたずねた。
「キスして直してちょうだい!」少女は痛かったところをつき出しながら、大まじめな顔をしていった。「母さんはいつもそうしてくださるわ。母さんはどこにいらして?」
「母さんはお出かけ。きっともうじき帰っていらっしゃるだろう」
「お出かけ? おかしいわ。だって行ってきますっておっしゃらないんですもの。母さんはいつでも、伯母《おば》さんのところへお茶にいらっしゃるのだって、ちゃんとそうおっしゃるわ。それだのに、もう三日もお帰りにならないんですもの。ねえ、ひどく咽喉《のど》がかわくじゃない? 水も食べるものも、なんにもなくって?」
「なんにもないの。しばらく我慢《がまん》しておいでね。しばらくでいいのだからね。こうやっておじさんに頭をもたせておいで。そうするとずっと楽だから。唇《くちびる》がかさかさしてものがいいにくいけれど、ようくわけを話しておいたほうがいいようだな。――なにを持っているの?」
「いいものよ」少女はうれしそうに二枚の雲母《うんも》のかけらを捧《ささ》げてみせながら、「お家《うち》へ帰ったら、これボブちゃんにあげるのよ」
「もうじき、もっといいものが見られるのだよ」男は確信にみちた口調でいった。「しばらくだから待っといでね。だけど、お話をするはずだったね。ええと、ルーシイはみんなで河のところから来たのを覚えているだろうね?」
「ええ、覚えているわ」
「あのときはね、またじきに別の河があるつもりだったんだよ。だけどコンパスがまちがったか、地図が悪かったか、どこが悪かったんだかいくら行っても河がない。そのうちに水がなくなってきた。ルーシイのような子供の飲むのが少しあるだけで、まるきり水がなくなってしまったんだ。それで……それで……」
「それでおじさんは、手も顔も洗うことができなくなったんでしょう?」少女は彼の汚《よご》れた顔をじっと見あげて、まじめにいった。
「そう、そして飲むこともできなくね。それでベンダーさんが一番先に死んでしまい、それからインディアンのピート、それからマグレガー夫人、それからジョニイ・ホーンズ、それからかわいいルーシイのお母さんという順序だったんだよ」
「じゃ母さんも、もう死んだ人なのね?」少女は急にエプロンに顔をうずめて、しくしくしゃくりあげだした。
「ルーシイとおじさんとだけ残して、みんな死んでしまったんだよ。そこでおじさんは、こっちのほうへ来てみたら水があるかもしれないと思って、お前を肩にかけてとぼとぼと歩いてきたんだ。けれどもいっこうに思わしいこともないようだ。もう望みといっては、ほとんどなにもないらしいのだ」
「じゃ私たちもやっぱり死ぬの?」少女は泣きやめて、涙《なみだ》の顔で男を仰《あお》ぎ見た。
「まあそんなことだろうと思うんだ」
「なぜもっと早くいってくださらないの?」少女はうれしそうに笑いながら、「私ほんとうに驚《おどろ》いたわ。だって死にさえすれば、母さんのところへ行けるんですもの」
「それはそうだ。お母さんのところへ行けるねえ」
「おじさんだってそうなのよ。私、母さんにいうわ。おじさんがかわいがってくださったって。母さんはきっと大きな水差しに水をいっぱい入れて、私やボブちゃんの大好きな、両がわを焼いた温かい蕎麦粉《そばこ》のパンケーキをどっさり持って、天国の入口までお迎《むか》えに出てくださるわね。それまでにどのくらいかかって?」
「さあ、わからないけど、そうながくはあるまいよ」
男の眼はじっと北のほうの地平線に注がれていた。そこの青空に三つの小さな点のようなものが現われて、それが刻々に大きくなりつつあったのである。なにものかが非常な急速力で接近しつつあるのだ。
やがて見る見るそれは、三羽の大きな褐色の鳥であることがわかった。鳥はふたりの頭上を大きく旋回《せんかい》して、ふたりを見おろす岩の上に羽根を休めた。おりたところをみると、西部地方の禿鷹《はげたか》ともいうべきノスリだった。ノスリがくるのは死の前兆なのである。
「あら、鶏《にわとり》よ!」少女はこの不吉《ふきつ》な鳥をさしてうれしそうに叫《さけ》び、手をたたいてとびたたせようと試みた。
「ねえおじさん、この国も神さまがお作りになったの?」
「それはむろん神さまがお作りになったのだとも」男は少女の意外な質問に、やや驚いたらしい。
「神さまはイリノイに国をお作りになったのよ。それからミズーリの河も。だけどこのへんは誰《だれ》かほかの人が国を作ったのだと思うわ。あんまり上手じゃないようね。水や樹をそろえるのを忘れちゃっているのですもの」
「ルーシイ、お祈《いの》りしないかい?」男はやや遠慮《えんりよ》がちにいった。
「だってまだ晩じゃないわ」
「かまわないよ。ほんとうは今ごろするものじゃないけれど、神さまはきっとそんなことかまわないとおっしゃるよ。前にみんなと野原にいた頃《ころ》、まい晩馬車のなかでしてたお祈り、あれをいましてごらん、ね」
「おじさんはなぜ自分でお祈りしないの?」少女は不思議そうにたずねた。
「忘れてしまったんだよ。おじさんは背がこの銃の半分くらいしかなかったころから、お祈りというものをしたことがないのだ。だが今からでは遅《おそ》すぎるということもないだろうから、ルーシイがいえばおじさんも聞きながら唱和することにしよう」
「じゃおじさんひざまずくのよ。私もするわ」少女はショールをそのためにひろげた。「両手をこういう具合に組みあわせるのよ。そうするとちゃんとした気持になるわ」
もし三羽のノスリのほかに見ているものがあったら、それは世にも不思議な光景だったことであろう。ひとりはまだ片言まじりの幼な児《ご》で、ひとりは恐《おそ》れを知らぬ老いた冒険者、このふたりがせまいショールの上に、大小の膝《ひざ》をならべているのである。ふっくらした顔を、やつれて骨ばった顔にならべて、一|片《ぺん》の雲もかからぬ大空にむけ、そこにいます畏敬《いけい》するもののお顔を仰ぎながら、心からなる熱誠をこめて、ほそくすきとおる声と、太いしわがれた声と、二つの声をあわせて慈悲《じひ》と許しを願っているのである。
やがて祈りがすむと、ふたりはまたもとのとおり丸石のかげに腰をおろしたが、少女は保護者の大きな胸によりそって、いつしかすやすやと寝入《ねい》ってしまった。男もしばらくはそれを見まもっていたが、自然の力にはうち勝つべくもなかった。
三日三晩のあいだ、一刻の眠《ねむ》りも、休息すらも取ろうとはしなかった彼である。徐々《じよじよ》にまぶたは疲《つか》れた眼のうえに垂れさがり、頭はしだいに沈《しず》んで、ついにそのごま塩の顎鬚《あごひげ》が少女の金髪とまじりあうまでになり、とうとうふたりとも昏々《こんこん》たる深い眠りに陥《お》ちてしまったのである。
この漂泊者《ひようはくしや》が、もしもう三十分眠らずにいたならば、不思議な光景を眼にすることができたはずだった。そのときこのアルカリ大平原のはるか彼方《かなた》にあたって、一団の砂塵《さじん》のまきおこるのが見られたが、初めはきわめて微量《びりよう》で、遠くの霧《きり》か霞《かすみ》と見まごうばかりであったのが、しだいに高くひろく舞《ま》いたって、ついに濛々《もうもう》ときわだつ一団の雲のようなものになってきた。
この雲のようなものは、なおもその大きさを増しつづけてやまず、ついにそれはおびただしい数の動物の大集団の移動によっておこる砂塵にほかならないことがはっきりするにいたった。ここがいくらかでも肥沃《ひよく》な土地であったならば、これを見たものは、それは例の草原に草を食《は》む野牛の大群がやってくるものと、速断したかもしれない。だがこの不毛の平原では、むろんそんなことはありえない。
砂塵のうずまきが、ふたりの頼《たよ》りない漂泊者の眠っている寂《さび》しい崖《がけ》に近づくにつれて、カンヴァスで張った馬車の幌《ほろ》や、武装《ぶそう》した騎馬隊《きばたい》の姿が、砂煙《すなけむ》りのなかにちらつきはじめ、なにやら得体《えたい》のしれなかったものは、西部地方にむかって旅しつつある一大移住民隊であることが明らかになったのである。
だがなんという驚くべき移住民隊であろう! 先頭が山のふもとにかかっているというのに、後尾《こうび》はまだ地平線上に現われてすらいないのだ。茫漠《ぼうばく》たる大平原をま一文字に横断して、四輪馬車や二輪の荷馬車や、乗馬の人やら徒歩の人やらが、ばらばらに断続しているのである。
重い荷物によろめき歩くおびただしい数の女たち、馬車のわきに添《そ》ってちょこちょこ歩いたり、またその馬車の白い幌の下から顔をのぞかせている子供たち。これはあきらかに普通《ふつう》の移住民隊ではなく、なにかの事情にせまられて、やむなく新しい国土をもとめて旅に出た漂泊の民《たみ》にちがいない。
このおびただしい人の群れからおこる雑然たる騒音《そうおん》は、馬車のきしりや馬のいななきとまじりあって、空にひびきわたった。いかにも音たかくはあったが、それでもまだその騒音は、疲れはてた身を高みで休めているふたりの旅人の眠りをさますには足りなかった。
列の先頭には、鋼鉄《こうてつ》のようにいかめしい顔をした二十人あまりの人々が、くすんだホームスパン地の服に身をかため、ライフル銃を手にして馬をすすめていた。崖の下までたどりついたとき、彼らは立ちどまってちょっとした相談をはじめた。
「兄弟たちよ、泉は右のほうにあります」口もとのきりっとした髭《ひげ》のない、ごま塩頭の男がまずいった。
「シエラブランカの右へ――そうすれば|リ《*》オ・グランデへ出ます」もうひとりがいった。【訳注 リオはスペイン語で河】
「水のことは憂《うれ》えぬがよろしい」第三の男が叫んだ。「岩の間からさえ水を出されたおかたのことゆえ、いまここでその選ばれたる人々を、お見すてになることはありますまい」
「アーメン! アーメン!」一同はその声に応じて神をたたえた。
相談がきまって一同が行進をはじめようとすると、一隊のなかでも若く眼の鋭いひとりがあっと叫んで、頭のうえの嵯峨《さが》たる岩頭を指さした。そこには岩のいただきに、ピンクの小さい布きれのようなものが鼠いろの岩を背にして、鮮《あざ》やかに浮《う》きだしているのである。
それを見ると一隊は馬をとどめ、銃を肩からおろした。一方本隊からは、新手《あらて》の騎馬隊が先導隊の応援《おうえん》にとかけつけてきた。そしてインディアンという言葉が口々にささやかれた。
「このへんにインディアンのいるはずはない」隊の指揮をとっているらしい年輩《ねんぱい》の男がいった。「ポーニー族の地方は通りすぎたのだから、山を越《こ》すまではもうほかの種族はいないはずなのだ」
「私がいって見てきましょうか、スタンガスンさん?」ひとりがこうたずねた。すると、
「私も」
「私も」
という声が一時に十あまりの口からおこった。
「馬を下へのこして行きなさい。私たちはここに待っている」
こう指揮者が答えると、若い人たちは即座《そくざ》に馬からとびおり、その馬をつないでおいて、好奇心《こうきしん》をそそる赤いものをめざして、絶壁《ぜつぺき》をよじのぼっていった。
老練の斥候兵《せつこうへい》の大胆《だいたん》さと巧《たく》みさで、彼らは音もたてずにすばやくのぼった。下から見ていると、岩から岩へひらりひらりととびうつりながら、上へ上へとのぼって、ついに空を画する輪郭《りんかく》の上にその姿を浮きださせた。
最初に赤いものを発見した若ものが、先頭を切っていた。と、彼はとつぜんなにものかにひどく驚いたらしく、両手を空にあげてなにごとか叫んだ。あとから続いていた人々は、なにごとかと怪《あや》しんだが、やがて追いつくにおよんで、その場の光景にみなひとしく驚きの声をあげたのである。
禿山《はげやま》の天辺《てつぺん》をなすその小さな平地には、一個の巨大《きよだい》な丸石が立っていたが、この丸石に寄り添ってひとりの背のたかい、ながい鬚をはやしたいかつい顔の、極度にやせこけた男が身を横たえているのである。おだやかな表情や規則的な息づかいが、彼が熟睡《じゆくすい》しているのを示した。
男のそばにはひとりの幼な児が、ふっくらとした白い手を、男の日にやけて筋ばった首に巻きつけ、金髪の頭を男の綿ビロードの上着の胸にもたせて眠っている。ばら色の唇をすこし開き、雪のように白い美しい歯なみを見せて、あどけない微笑《びしよう》をさえ浮べているのである。白い靴下にぴかぴか光る金具のついた愛らしい靴をはく、むっちりした小さな白い脚《あし》は、老人のながいしなびた脚と異様な対照をなしていた。
この妙《みよう》な一組の男女の眠っている頭の上の岩のはじには、三羽のノスリがおごそかにとまっていたが、多くの人々の姿をみると、しゃがれた声で失望のなき声を発し、かなしげに翔《と》びさった。
この不快な鳥のなき声は、ふたりの眠りをさました。眼《め》のさめたふたりは、びっくりしてあたりを見まわした。それから男はよろよろと立ちあがって、平原を見おろした。そこには、眠けにおそわれたときは、あれほど人気《ひとけ》のない荒涼《こうりよう》たるあれ地であったのに、いま見れば人馬の一大行列がえんえんと続いているのである。この光景に接して、彼はいかにも不思議でならぬという顔をしたが、やがて骨ばった片手で両眼をこすってつぶやいた。
「これが俗にいう幻覚《げんかく》というやつなのか?」
少女はそばに立って、男の上着の裾《すそ》につかまりながら、子供らしい驚きと好奇の目で黙《だま》ってきょろきょろとあたりを見まわしていた。
だが救助隊は、自分たちの出現が幻覚でないのを、ただちにふたりの漂泊者に信じさせることができた。隊員のひとりは少女を抱《だ》きとって肩の上にのせ、ほかのふたりは弱っている男を両方から支えて、馬車のほうへと援《たす》けおろしはじめたのである。
「私はジョン・ファリアと申すものです」漂泊の男は歩きながら説明した。「私とこの子供だけが、二十一人のなかで生きのこったのです。ほかのものはみんな飢《う》えと渇《かわ》きのために、ずっと南のほうで死んでしまいました」
「あれはお前さんの子供ですか?」ひとりがたずねた。
「今ではもうそうでしょうな」ファリアは挑《いど》みかかる調子でいった。「私が助けたんだから、私のものだ。あの子を私の手から取りあげることは、誰にもできるはずがない。今日からあの子はルーシイ・ファリアになったのだ。だがあなたがたは、いったいなにものですか?」筋骨たくましい日にやけた救助者たちを、好奇の眼で見まわしながら彼《かれ》はつづけた。「おそろしくまた大勢ですな」
「一万人ちかくいます」若もののひとりがいった。「われわれは迫害《はくがい》された神の子たちです。モロニ天使の選ばれたる民なのです」
「モロニ天使というのは聞いたことがありませんが、おそろしくたくさんの人を選んだものですねえ」
「神聖なことを冗談《じようだん》にしてはいけません」若ものがたしなめた。「パルミラで聖なるジョゼフ・スミスさまに授《さず》けられたという黄金の延べ板にエジプト文字で書きしるされた聖なる文《ふみ》、それをわれわれは信ずるものです。われわれはイリノイ州のノーヴーから来ました。あそこにわれわれが建立《こんりゆう》した教会堂もあるのですが、神を知らぬ乱暴な人々からのがれて、たとえ砂漠《さばく》の中央であろうとも、安全な土地をもとめて落着こうとしているのです」
ノーヴーの名はジョン・ファリアの胸にある記憶《きおく》をよびおこした。
「わかりました。あなたがたはモルモン教徒なんですね?」
「そうです。われわれはモルモン信徒なのです」一同は口をそろえていった。
「そしてあなたがたは、どこへ行こうとしているのですか?」
「どこだかわかりません。神の御手《みて》が予言者をとおして、われわれをお導きくださるのです。あなたがたもその予言者のまえへ出るのです。そうすれば、あなたがたをどうすべきか、そのかたがおっしゃるでしょう」
そのとき彼らは岩山のふもとへおりたっていたが、たちまち多くの巡礼者《じゆんれいしや》たちにとりまかれてしまった。――青じろい顔した柔和《にゆうわ》そうな女たち、嬉々《きき》として丈夫《じようぶ》そうな子供たち、気づかわしそうな男たちの、真剣《しんけん》な眼つきなどがそこにあった。
不思議な人物のひとりが、まだ幼い少女であり、ひとりがやつれはてた中老人であるのを知ったとき、驚きと憐《あわ》れみの叫び声が多くの人たちのあいだにおこった。けれどもふたりを援けおろした一隊の人々は、そこで留《とどま》ることなく、なおも進んで、多くの信徒たちをぞろぞろと従えながら、ひときわ目だって大きく、そしてぴかぴかと外観の派手やかな幌馬車のところまでいった。
ほかのものが二頭だてか、せいぜい四頭だてであるのに、この馬車だけは六頭の馬がつけてあった。そして馭者《ぎよしや》にならんで、まだ三十にはならないらしいのに、大きな頭やものに動ぜぬ面魂《つらだましい》に指揮者らしさをそなえたひとりの男が腰《こし》をおろしていた。彼は茶いろ表紙の厚い書物を読んでいたが、人々のやってきたのを見ると書物をわきへおいて、事情の説明にじっと耳を傾《かたむ》けた。そして聞きおわるとふたりの漂泊者にむかって、荘重《そうちよう》な言葉でいった。
「ふたりをこの一行に加えることは、われわれと同宗の信者としてのみ許される。われわれは羊の群れのなかに狼《おおかみ》を入れてはならない。初めは小さくとも、やがて果実ぜんたいを腐《くさ》らせてしまうあの一点の腐敗《ふはい》、ふたりがその腐敗の萌芽《ほうが》であるのが後にいたってわかるくらいならば、このままこの荒《あ》れ地に骨をさらすことになったほうがよい。この条件を承知で、ふたりはわれわれの一行に加わるか?」
「そりゃどんな条件だって、入れてもらいますよ」ジョン・ファリアがひどく語気をつよめていったので、おごそかな長老たちも思わずほほえまれた。指揮者のみはそれでも、あいも変らぬ石のような相好《そうごう》をすこしも崩《くず》さなかった。
「では兄弟、スタンガスン、このものをあちらへつれていって、食物と飲料を与《あた》えてやりなさい。子供もいっしょに。それからわが神聖なる教義をこの者に教えこむのを、あなたの係としておこう。だいぶてまどったようだ。さ、出発! |神の都《シオン》へ!」
「|神の都《シオン》へ! |神の都《シオン》へ!」
モルモンの信徒たちは口々に叫んだ。そしてこの叫びは小波《さざなみ》のように長い列をあとへあとへと伝わってゆき、遠く遠くちいさなつぶやきとなり、ついにまったく聞えなくなってしまった。鞭《むち》の音、わだちの軋《きし》りとともに、多くの馬車は動きはじめ、やがて長いながい全隊はふたたび行進をはじめたのである。
ふたりの漂泊者を託《たく》された長老は、彼らを自分の馬車へつれて帰った。そこではもう食事の用意ができていた。
「あなたがたはずっとここにいることになったのです。二、三日たてば疲れも回復するでしょう。そして言っておきますが、あなたがたは今から永久にわが信徒であることを忘れてはなりません。ブリガム・ヤングさまがそうおっしゃったのです。神の御声《みこえ》である聖なるジョゼフ・スミスさまのお声をもって、そうおっしゃったのです」
第九章 ユタの花
モルモン信徒たちが、その最終の土地へたどりつくまでに堪《た》え忍《しの》んだ試練や、艱難《かんなん》のかずかずは、ここに書きしるす必要はないであろう。
ミシシッピーの河畔《かはん》から出発して、ロッキー山脈西がわの傾斜地《けいしやち》にいたるまで、彼らはおよそ歴史上にもその比を見ない不断の不撓不屈《ふとうふくつ》さをもっておし進んだのである。土着人、猛獣《もうじゆう》、飢え、渇き、疲労《ひろう》、疾病《しつぺい》と、およそ自然が与えうるあらゆる障害がおこったが、彼らはすべてアングロサクソン民族の強靭《きようじん》性でそれを征服《せいふく》してしまった。
とはいえ長途《ちようと》の旅と重なる脅威《きようい》とには、一行のうちの最も剛健《ごうけん》な人々でさえも、動揺《どうよう》をきたしていたのである。だからこそ、眼下にユタの谷が日の光に輝《かがや》いて、広漠と開けているのを見、指揮者の口からこの地こそ約されたる土地であり、この処女地こそ永久に彼らのものであるのだと聞かされたとき、その場にひざまずいて、心からなる祈《いの》りを捧《ささ》げないものはひとりとしていなかった。
予言者ヤングはまもなく、果断不屈の指揮者であるばかりでなく、行政者としても熟練な手腕《しゆわん》をもっていることを示した。地図が描《えが》かれ略図がつくられ、そのなかに将来の都市がスケッチされた。四囲の畑地はすべて各個人の身分に応じて分配された。商人は商業に、職人はそれぞれの職につかせられた。町には街路や広場が、魔術《まじゆつ》のように忽然《こつぜん》として現われた。田園には排水《はいすい》や生垣《いけがき》や植えつけや伐採《ばつさい》が行われ、翌年の夏には早くも、田園は一面に小麦の穂《ほ》で黄金《こがね》いろの海と化した。
この奇妙な開拓地《かいたくち》では、あらゆるものが栄えた。とりわけ彼らが町の中央に建立しつつあった寺院は、いよいよ高くいよいよ広大になっていた。暁《あかつき》の色がほのかにさしはじめるころから、黄昏《たそがれ》が夜となるころまで、いくたの危険のなかを安全にここまで導きたまいし神のため、彼らが建立しつつあるこの寺院から、槌《つち》の音と鋸《のこぎり》のひびきの絶えることがなかった。
ふたりの漂泊者、ジョン・ファリアおよびファリアと運命をともにし、いまはその養女となっている少女ルーシイとは、モルモン信徒に加わって、ついにこの大移住地にいたるまで行をともにした。幼きルーシイ・ファリアはスタンガスンの馬車に乗せられて、彼の三人の妻と、早熟で我儘《わがまま》な十二|歳《さい》になる男の子とともに暮《くら》しながら、それでも楽しく旅をつづけた。彼女《かのじよ》は子供の持つ順応性で、母親を失った悲しみから立ち直りたちまち女たちの間の人気ものとなった。そうして新しくはじめた幌の屋根をもつ動く家での生活にも、しだいに慣れていった。
いっぽうファリアもその衰弱《すいじやく》から回復すると、役にたつ案内者として、また不屈の猟人《りようじん》として頭角をあらわした。彼は非常にはやく新しい仲間の尊敬を集めた。そのために、永住の地へたどりついたときには、予言者ヤングその人をはじめ、スタンガスン、ケンボール、ジョンストン、ドレッバーの四大長老をのぞいては、誰《だれ》にも劣《おと》らぬほど大きく肥沃《ひよく》な土地を彼に与えることに、衆議の一決をみたほどであった。
かくして得た田園に、ジョン・ファリアはみずから丈夫な丸太小屋をたてたが、それから年々多くの建てましをしたので、ついに部屋かず多い立派な家になった。彼は生来実行的な性質をそなえており、諸事ぬけめなく、手さきも器用だった。そして鉄のような健康のおかげで終日農場に出て耕作や手入れに従事することができた。したがって農場はじめすべて彼に属するものは、いちじるしい繁栄《はんえい》をきたした。
三年の後には近隣《きんりん》の誰よりも暮しむきがよくなり、六年の後には裕福《ゆうふく》になり、九年の後には金持になり、そして十二年の後にはソルトレーク市中をさがしても、彼と肩《かた》をならべるものは六人とはいないまでになった。ソルトレークからとおくワーサッチの山まで、ジョン・ファリアの名ほどよく知られたものはなかった。しかし彼には一つ、たった一つだけ、同宗信者たちの感情をそこねることがあった。それはいかに説きすすめられても、宗門の流儀《りゆうぎ》にしたがって妻をむかえることをしなかった一事である。それほど強情《ごうじよう》に拒《こば》みつづけながら、彼は決してその理由をあかさなかった。
このことについてなかには、彼は中途で帰依《きえ》した信仰《しんこう》であるモルモン宗に不熱心であると非難する者もあり、また一部の人たちは彼が貪欲《どんよく》で費用を吝《お》しむのであろうと悪口した。そうかと思うとまた一方では、ふるい恋愛《れんあい》関係を云々《うんぬん》し、大西洋岸方面で恋《こい》にやつれて死んだ金髪《きんぱつ》の乙女《おとめ》があったなどと口にするものも現われた。理由はどうあろうとも、とにかくファリアはかたく独身をとおしていた。しかしほかの点では新しい開拓地の宗旨《しゆうし》をかたく守ったので、彼は正しい歩みをつづけている正教派だという評判をとった。
ルーシイ・ファリアは丸太小屋のなかで育てられ、なにかと養父の仕事を手つだった。山々の透徹《とうてつ》した空気や、松《まつ》の木の香《こう》ばしい匂《にお》いが、彼女の守《も》りともなり母親ともなった。年ごとに彼女は大きく丈夫になった。そして両頬《りようほお》はますます赤く、歩きつきも女らしさを増した。
ファリア農場のそばを走っている大道を往来する人たちの多くは、麦畑のなかを軽《かろ》やかに歩いたり、父親の野生馬に跨《また》がって生れながらの西部の娘《むすめ》のように、やすやすと巧《たく》みに乗りこなしている彼女のしなやかな、娘らしい姿を見て、永いあいだ忘れていた思いが急に胸によみがえるのを覚えるのであった。かくして蕾《つぼみ》は花と咲《さ》きほこり、父親がもっとも裕福な農夫となったときには、彼女はロッキー山脈以西でくらべるものもないほど美しいアメリカ娘の典型となっていたのである。
けれどもルーシイがいつか一人まえの女になっているのを、一番に発見したものは、彼女の父親ではなかった。そんなことは、このような場合めったにあるものではない。少女から女になるあの神秘的な変化は、時間によって測れるほど急激《きゆうげき》な、粗《あら》いものではなかった。わけても彼女たち自身は、ある声のひびきや、ある手の接触《せつしよく》のためとつぜん心がときめくことによって、はじめてそれを知り、誇《ほこ》りと怖《おそ》れとの複雑した気持で、新しい大いなる自然が、自分の身内にめざめたことを悟《さと》るのである。
その時代の気持を胸にうかべ、新しい人生の始まりを告げるある小さな出来事の、思い出をもたぬ女性はほとんどいないであろう。ルーシイ・ファリアの場合には、のちに彼女や彼女の周囲の人々の運命におよぼした影響《えいきよう》をのぞいて考えても、その出来事それ自身がきわめて重大なことなのであった。
それは六月のある暖かい朝であった。モルモン信徒たちは、蜜蜂《みつばち》の巣《す》を自分たちの紋章《もんしよう》としていたが、まさにその、蜜蜂のように忙《いそが》しくたち働いていた。野にも町にもひとしく、働く人たちの騒音《そうおん》があった。埃《ほこり》っぽい大道には重い荷をつんだ騾馬《らば》の列が、どれもこれもみんな西へ西へと志してぞろぞろと続いていた。
これは当時カリフォルニアに勃発《ぼつぱつ》していたゴールドラッシュのためで、たまたまこのソルトレーク市がその順路にあたっていたからである。その中にはまた、遠隔《えんかく》の放牧地からひかれてきた羊や去勢牛の群れだの、人馬ともにはてしなき長途の旅に疲《つか》れはてた移住者たちが交っていた。
おりしもこの雑踏《ざつとう》をぬって、まっ白な顔を運動のため紅潮させ、ながい栗《くり》いろの髪《かみ》をなびかせながら、ルーシイ・ファリアがみごとな手綱《たづな》さばきで馬を走らせていた。その日彼女は父親から、市中に用事を言いつかって出てきたのであるが、これまで何度もそうしてきたように、若い娘の元気にまかせてなんの恐《おそ》れるところもなく、ひたすら用事のことのみを思い、それをいかにはたそうかと心に案じながら、いつものとおり疾駆《しつく》していたのである。
旅によごれた冒険者《ぼうけんしや》たちは、ひとしく驚《おどろ》きの眼《め》をみはって、彼女を見おくった。毛皮を身につけて旅をしている、ものに動じぬあのインディアンさえも、白人娘の美しさに目を見はって、平素の禁欲主義をも忘れて心を動かしたほどであった。
町はずれまで来てみると、平野から出てきた六人の獰猛《どうもう》な顔つきの牧夫に引率《いんそつ》されている牛の大群のために、路《みち》がふさがれているのを彼女は知った。彼女はいらだちながら、隙間《すきま》らしいところを見つけて、いきなり馬をすすめてこの障害を乗りきろうとした。
けれども馬をそこへ入れたかと思うと、たちまち前後を牛のためにふさがれてしまい、気のついたときにはもう前後左右すきまもなく、怖ろしい眼をした長い角をもつ去勢牛のため、ひしひしととりかこまれていた。牛のとり扱《あつか》いには慣れていたから、それでも彼女は格別驚きもしなかったけれど、できるだけ早く行列のそとへ出たいと思い、馬を操《あや》なして機会をうかがっていた。
すると運悪くも一頭の牛が、故意か偶然《ぐうぜん》か角を彼女の野馬の脇腹《わきばら》へつよく突《つ》きあてたので、馬は狂《くる》ったように激《げき》してしまった。激した馬は鼻息もあらく、あと脚《あし》でぴんと立ちあがり、よほど熟練な騎手《きしゆ》でなければ振《ふ》りおとされてしまったであろうほど、はげしく跳《と》んだりはねたりした。まったく危機はせまった。逆上した馬はひとはねごとに、どこかを角にぶつけて、ますますたけり狂った。彼女は鞍《くら》にしがみついているのがやっとの思いだった。しかも落馬したが最後、御《ぎよ》しがたい怯《おび》えた多くの牛の蹄《ひづめ》に踏《ふ》みにじられて、無残な最期《さいご》をとげるばかりである。
こういう危急な事態には慣れていなかったので、彼女は頭がくらくらしてきて、手綱とる手も自然にゆるんだ。もうもうと立ちのぼる砂塵《さじん》や、もがき苦しむ動物のいきれで息苦しくなり、彼女は絶望のあまりもうどうでもよいという気がしかけたが、そのときふいに後ろでやさしい声がして、助けてやるから安心しろといった。同時に、日やけした逞《たくま》しい手が怯えた馬の口をおさえて、牛の群れをかきわけながら、そとへつれだしてくれた。
「お怪我《けが》はなかったでしょうか?」助けてくれた男がていねいにたずねた。
彼女は相手のくろい精悍《せいかん》な顔を見て、無遠慮《ぶえんりよ》に笑って、
「ほんとに驚いちゃったわ」と無邪気《むじやき》にいった。「ポンチョが牛の行列くらいで、あんなに怯えようとは、誰だって思わないんですもの」
「鞍につかまりとおしていたから助かったんですよ」相手はまじめな顔をしていった。背のたかい野性的な顔つきの若もので、つよい蘆毛《あしげ》の馬に乗って、粗末《そまつ》な猟服を身につけ、長いライフル銃《じゆう》を肩にかけている。
「あなたはジョン・ファリアさんのお嬢《じよう》さんですね? ファリアさんの家からあなたが馬で出てくるのを見ていました。お帰りになったらお父さんに、セントルイスのジェファスン・ホープ一家をおぼえているかってきいてください。もしあのファリアさんだったら、私の父とはずいぶん親しかったかたです」
「じゃあなたがいらして、ご自分できいてごらんになればよいのに」ルーシイは澄《す》ましていった。
若ものは彼女の言葉に喜んで、うれしそうに眼をかがやかせながらいった。
「そうしましょう。なにしろ私たちは二月《ふたつき》もまえから山にいたので、人さまをおたずねなどできる風体《ふうてい》じゃありませんが、お父さんにもそのおつもりで、お許し願わなければなりません」
「父はあなたにようくこのお礼を申しあげなければならないわ。むろん私もよ。父はたいへん私をかわいがってくれますから、もしここで私が牛に踏みつぶされていたら、一生どんなにか悲しく思うでしょう」
「私だってそうですよ」
「あなたが? だってあなたには、どうでもよいことじゃありません? あなたと私とはまだべつにお友だちというわけでもないんですもの」
若い猟人がこれを聞いて、くろい顔を曇《くも》らせたので、ルーシイは声をあげて笑いだした。
「ほほほほ、ほん気でいったのじゃありません。むろん今はもう私のお友だちですわ。ぜひ訪ねてくださいな。じゃ私もう行きます。おそくなると、これからもう父がなにも仕事をさせてくれなくなると困りますもの。さようなら!」
「さようなら」
若ものは鍔《つば》びろのソンブレロ帽《ぼう》をとって、彼女の小さな手の上に身をかがめながら答えた。
ルーシイは野馬の頭をたてなおして一鞭《ひとむち》くれ、砂塵をまきたてながら、ひろやかな路を疾駆し去った。
ジェファスン・ホープはむっつりと黙《だま》りこんで、仲間とともに馬をすすめた。彼《かれ》はこの人たちとネヴァダの山中へ銀鉱をさがしにはいっていたのであるが、さがしあてた鉱脈の採掘《さいくつ》に要する資金の調達に、いまソルトレーク市へと帰ってきたところだった。今が今まで仕事にかけては誰にも劣らぬ情熱をもっていた彼は、この思いもうけぬできごとのために、急にほかのほうへ心をひきつけられてしまった。さらさらと明るく健《すこ》やかなこと、シエラの山を吹《ふ》くそよ風にもくらぶべき、若く美しい女性の姿は、彼のはげしい野そだちな心を根底から動揺させてしまったのである。
彼女の姿がとおく視界のそとに消えさったとき、彼は自分の生涯《しようがい》に危機がきたのを知った。銀鉱の投機をはじめ、そのほかどんな問題でも、この新しい、魂《たましい》までもうちこませる問題にくらべては、なんらの重要性をも持ちえないのをさとった。いま彼の心のなかに湧《わ》きおこった恋は、決して少年の、変りやすく気まぐれなものではなかった。強固なる意志と不羈《ふき》の魂とを有する一人前の男子の、狂おしいまでの熱烈《ねつれつ》な恋であった。今まで企《くわだ》てたことで、一つとして成功しなかったことのない彼は、人間の努力、人間の忍耐《にんたい》のおよぶところ、どんなことをしてでも、この問題をやり遂《と》げずにはおくまいと、堅《かた》く心に誓《ちか》ったのである。
その晩彼はジョン・ファリアを訪《おとず》れた。そしてそれから後もたびたび訪ねていったので、ついに彼はその農場ですっかりなじみの顔になった。
この谷のなかに埋《う》もれ、仕事にのみ心を奪《うば》われていたジョンは、十二年のあいだ、ほとんど世のなかの消息を聞く機会をもたなかった。それらのすべてを話して聞かせるものは、ジェファスン・ホープであった。彼の話ぶりには父親だけではなく、ルーシイをも喜ばせるものがあった。彼はカリフォルニア地方開発の先駆者だったので、未開で平穏《へいおん》なそのころの成り金の栄枯《えいこ》盛衰《せいすい》に関するおもしろい話をたくさん知っていた。
彼はまた見張り、捕獣業《ほじゆうぎよう》、銀鉱さがし、牧場の管理などをしたこともあった。いやしくも血をわかす冒険のあるところならば、どこへでもそれを求めて頭をつっこんできた彼だった。彼はたちまちファリア老人のお気に入りになった。老人は彼の美点をしきりに褒《ほ》めそやした。
そうした場合ルーシイはいつでも黙って聞いてはいたが、ぽっと紅をさした頬や、晴れやかな、幸福にみちた二つの眼は、彼女の娘心がもはや彼女だけのものでないのを、何よりもあきらかに語っていた。正直者の父親は、そうしたきざしには気づかなかったでもあろうが、彼女の愛情をかちえた男に、それがわからないでいるはずはなかった。
ある夏のゆうべ、彼が馬を駆《か》ってこの家を訪れると、ちょうど戸口のところにいた彼女は、それと見て出迎《でむか》えに出てきた。彼は手綱を塀《へい》に投げかけておいて、大股《おおまた》に門をはいっていった。
「ルーシイ、私は出発することになりましたよ」彼女の両手をとって、やさしく顔を見おろしながらいった。「いまはいっしょに来てくださいとはいわないが、こんど帰ってくるまでには、いっしょに行く支度《したく》をしておいてくれますか?」
「それはいつごろになりますの?」
「ながくてせいぜい二カ月です。そのときは公然とあなたをもらいにきますよ。ふたりのあいだを邪魔《じやま》するものはありえないのですからね」
「父さんはあなたになんておっしゃって?」
「こんどの銀鉱の仕事がうまくゆきさえすれば、同意するといってくださいました。仕事のほうなら、すこしも不安はないのです」
「まあ、そう? 父さんとあなたとでお話がそうきまったのでしたら、もちろんもうなにもいうことはありませんわ」彼女はジェファスンの大きな胸に頬をおしあててささやいた。
「ありがとう!」彼はかすれた声でいって、彼女の上にかがんでキスした。「じゃもうすべてきまったね。これ以上ながくいればいるだけ、別れるのがつらくなるし、みんなが渓谷《やま》で私の帰りを待っているから、もう行きます。ではさようなら、ルーシイ、さようなら! 二カ月たったら帰ってきますよ」
こういって彼はルーシイをふりはなし、ひらりと馬に跨《また》がるとともに、あとをも見ずにいっさんに駆けていった。その様子はまるで、ひと目でもルーシイをふりかえってみたが最後、せっかくの決心がくじけてしまうのを恐れているかのようだった。
彼女は門のところに立って、彼の姿の見えなくなるまで、じっと見おくっていた。それからユタ中でいちばん幸福な娘として、静かに家のなかへはいっていった。
第十章 ジョン・ファリア予言者と語る
ジェファスン・ホープとその一行のものが、ソルトレーク市を去ってから三週間たった。ジョン・ファリアはこの若ものの帰りを思い、育てあげた娘を失わねばならない時期のさし迫《せま》るのを考えると、ひとり心の痛むのをおぼえた。しかし彼女の晴れやかな、幸福にみちた顔つきを見ては、千万言の説伏《せつぷく》にもまして、こんどの縁組《えんぐみ》を認めるのに力があった。
彼はかねてからその強固な心の底で、娘はどんなことがあっても、モルモン信徒とは結婚《けつこん》さすまいと堅く決心していた。彼から見ればあのような結婚は決して結婚ではなくて、汚辱《おじよく》にすぎないと思っていたのである。モルモン宗の教義を、彼がどう考えていたかはしばらく措《お》いて、この一点だけは決して考えを枉《ま》げなかった。けれども当時モルモン教国で異端《いたん》の説を表明することは、きわめて危険であったから、彼もこのことに関しては口を噤《つぐ》んでいなければならなかった。
危険といった。しかり、大いに危険だったのである。だから、もっとも信仰《しんこう》あつい高徳の人ですらが、うっかり口にした言葉を誤解され、そのためてきめんな迫害《はくがい》をうけるのを恐れて、宗教上の意見を述べるときは、声をひそめてでなければあえてしなかったほどである。いちど迫害の犠牲《ぎせい》になった人たちは、こんどは勝手に迫害者のほうへと鞍《くら》がえした。スペインのセビリアの宗教裁判、ドイツの夜間秘密裁判、イタリアの秘密結社といえども、当時ユタ州を暗雲にとざしたこのおそるべき制度には比ぶべくもなかったほどである。
その目に見えないことと、それにともなう神秘さは、この組織の怖ろしさを倍加した。全知全能のごとくに見えて、しかもその姿を見たものも声を聞いたものもないのである。あるとき教会に反対する意見を述べたものが、忽然《こつぜん》として姿をかくした。どこへ行ったのか、どうなったのか、誰も知るものはなかったのである。妻や子供たちは家に留《とどま》ってその帰りを待ったが、いつまで待ってみても彼らが父親の口から、秘密裁判の模様をこうだったと聞ける日はついに来なかったのである。
軽率《けいそつ》な言葉や、そそっかしい行為《こうい》には、破滅《はめつ》がつきものであった。しかも人々はその頭上にかかっている、このおそるべき力の本質については、すこしも知るところがなかった。だから人々はいつも戦々兢々《せんせんきようきよう》として、荒野《こうや》のまん中でさえ、日ごろ鬱積《うつせき》している疑問のかずかずをささやくことすらあえてしなかったのも、さらに不思議はないのである。
最初はこの漠《ばく》とした怖ろしい力も、いったんモルモン教を信じてから後に、これに背《そむ》き、またはこれを棄《す》てようとした反抗者《はんこうしや》のうえにのみ加えられていたのであるが、まもなくその範囲《はんい》が拡大された。それは成人した女性の供給がしだいに不足をつげてきたが、女がなくては一夫多妻の教義も意味をなさなくなる。そこで妙《みよう》な噂《うわさ》が広がりだしたのである。
すなわち、いまだかつてインディアンの襲撃《しゆうげき》をうけたことのない地方で、たびたび移住者が殺され、キャンプが掠奪《りやくだつ》にあったという噂である。そして長老たちの後宮《こうきゆう》には、新しい女性が現われた――いずれも泣きぬれた顔に、恐怖《きようふ》のあともなまなましい女たちであった。
行きくれた旅人たちが、山のなかで、武装《ぶそう》した覆面《ふくめん》の男たちの一隊が、闇《やみ》をかすめて忍《しの》びやかにすぐそばを通ってゆくのを見たと語った。
これらの物語や噂は、やがて実質をそなえてきて、何回もくりかえしその実在が確かめられ、ついに判然たるひとつの名称までもつにいたった。今日でも西部の寂《さび》しい牧場地方へゆくと、ダナイト団とか復讐《ふくしゆう》の天使団とかいう名称は、怖《おそ》るべき凶悪《きようあく》なものとして知られているのである。
かくも怖ろしい結果を生んだ組織の正体はわかってきたが、そのために人々の恐怖は減少するどころか、かえって増す一方であった。組織はわかったが、それでは誰《だれ》と誰とがその残虐《ざんぎやく》な団体に属しているのか、何人《なんぴと》も知るものはなかった。宗教の名にかくれて行われたこの血なまぐさい暴行に加わった人々の名は、かたく秘密に付せられていたのである。
予言者や、その人の使命に関する疑惑《ぎわく》を、親しい友だちにもらしたとする。その友人がすぐに、火と剣《けん》を手にして、暗夜おそるべき復讐を加えにくるかもしれないのだ。だから、すべての人々は隣人《りんじん》をおそれ、心の奥《おく》は決して口外することをしなかったのである。
ある天気のよい朝、小麦畑へと出かけようとしたジョン・ファリアは、ふと、門|掛金《かけがね》をはずすかちりという音を耳にしたので、窓からのぞいてみると、砂いろの髪《かみ》をもつがっしりした体の中年の男が、庭の道を歩いてくるところだった。それはまぎれもなく予言者ブリガム・ヤング自身だったので、ファリアはぎょっとした。
あわてふためきながら――このような訪問があまりよい兆《きざ》しでないのをよく知っていたから――彼はこのモルモンの管長を迎えに玄関《げんかん》へ走り出た。けれども管長は彼の挨拶《あいさつ》を冷やかに受けながして、おごそかな顔をして彼について部屋へ通った。
「兄弟、ファリアよ」管長は席につきながらこう呼びかけて、うす色のまつ毛の下から鋭《するど》い眼で、じっと老いた農場主を見すえた。「まことの信者たちは今日《こんにち》まであなたのよき友となってきた。砂漠で飢《う》え死にしようとしていたあなたを拾いあげて、食物を与《あた》えたのも、選ばれたる土地へ無事につれてきたうえに、大きな地面を分配し与えたのも、金持になれるように保護を加えてあげたのも、みんなわが信者たちだった。そうではなかったか?」
「はい、仰《おお》せのとおりでございます」
「それにたいする代償《だいしよう》として、われわれが求めたのはただ一つの条件、すなわち、あなたがまことの信仰を抱《いだ》き、いっさいわがモルモン教の慣行に従うということだけだった。あなたは一度それを承知しておきながら、一般《いつぱん》の風説の伝えるところによれば、その約を忽諸《ゆるがせ》にしているという」
「なんでわたくしが忽諸になぞいたしておりましょう?」ファリアは両手《もろて》をあげて抗議《こうぎ》した。「わたくしは公共基金に寄付をいたしませんでしたか? 一度でも教会へ出席しなかったでしょうか? それからまた……」
「あなたの妻女たちはどこにいる?」ヤングはあたりを見まわしながらいった。「あいさつしたいから、ここへみんな呼び入れなさい」
「わたくしが妻をもたぬのは事実でございます。しかし、いまは女の数が少ないときでもございますし、なおまた、あっても私よりも資格のあるかたが多数ございます。わたくしは決して寂しいと思ったことはございません。なんでもしたいことは娘《むすめ》がしてくれます」
「ああ私の話したかったのは、その娘のことなのだ。娘は成人してユタの花となった。そしてこの世の身分ある多くの人々からもかわいいものと見られている」
ジョン・ファリアは心のなかでうめいた。
「ところがここに私の信じたくない噂が流れている――彼女が異教徒と婚約ができたという噂だ。これはかならずでたらめな風説にすぎないのであろうな。聖なるジョゼフ・スミスさまの掟《おきて》第十三条になんとあるか? 『まことの信者の娘たちはみな、神に選ばれたる人の妻となるべし。そはもし異教の人の妻となるはいと凶《あ》しき罪なればなり』したがって、神聖な信仰を告白しているあなたが、かりそめにも自分の娘にそうした大罪を犯《おか》させるようなことは、よもやあるまいな」
ジョン・ファリアは黙って、ただ神経質に鞭《むち》をもてあそんでいた。
「この一事であなたの全信仰がためされることになりますぞ――そういうことに、四長老会で話がきまったのだ。あなたの娘はまだ若いのだから、われわれは老人と結婚せよとはいわぬ。また、娘の選択《せんたく》権をもまったく無視するとはいわぬ。われわれ長老たちはそれぞれ若い牝牛《めうし》をたくさん持っているが、息子《むすこ》たちにもまた相当あてがってやらなければならぬ。スタンガスンには息子がひとりある。ドレッバーにもひとりある。どちらにしても、あなたの娘なら喜んで家に迎えるだろう。ふたりのうちどちらにするか、娘に選ばせなさい。どちらも若くて富がある。そしてまことの信仰もある。これについてあなたの意見は?」
ファリアはしばらく眉《まゆ》をひそめて黙っていたが、やがてようやく答えた。
「どうぞ少しのあいだご猶予《ゆうよ》をくださいませ。娘はまだまだ子供でございます――まだほとんど結婚の年齢《ねんれい》にも達しないくらいでございます」
「一カ月の猶予を与えよう」予言者ヤングは腰《こし》をあげながらいった。「一カ月後に彼女が答えを出さねばならぬ」
ヤングは玄関を出ようとしてとつぜんふりかえり、興奮で顔をまっ赤にしながら、じろりとにらみつけてどなった。
「ジョン・ファリアよ、長老会の命令にそむくほど意志|薄弱《はくじやく》の徒ならば、十二年まえのあのとき、あんな約束《やくそく》をしないで、いまごろシエラブランカの山中に白骨となって風雨にさらされているほうが、あなたのためにも娘のためにもよかったのだぞ!」
威嚇《いかく》的に手を振《ふ》って、ヤングは出ていった。あとに残ったファリアは、足音が小石まじりの道を帰ってゆくのを耳にした。
ファリアは膝《ひざ》のうえに片肘《かたひじ》をついたまま、このことをどんなふうに娘にいいだそうかと、じっと思案しつづけていた。するとそのとき柔《やわ》らかな手がそっと自分の手のうえに重ねられたので、ふりかえってみると、そこに当のルーシイが立っているのだった。彼女の青ざめた、怯《おび》えた顔つきをちらと見ただけで、彼は彼女がいまの話を聞いていたのを知った。
「聞かずにはいられなかったんですもの」彼女は父親の顔つきでそれと察していった。「あのかたの声は家中に聞えました。ねお父さん、どうしたらいいでしょう? 私どうしましょう?」
「おまえは心配しなくてもいいよ」彼はルーシイをそばへ引きよせて、大きなごつごつした手で彼女の栗《くり》いろの髪をなでてやりながらいった。「どうにか始末をつけるとしよう。だけどお前はあの男に、いくらか気がなくなってきたようなことはあるまいねえ?」
ルーシイはただ啜《すす》り泣きながら、父親の手にすがりつくだけだった。
「よしよし、むろんそんなことはないね。そうだという返事は、お父さんも聞きたくはなかった。あれは頼《たの》もしい若者だ。そしてここらの男のように、祈祷《きとう》やらお説教ばかりしているが、さっぱりなっていない連中と違《ちが》って、あれはキリスト教徒だ。明日はネヴァダへ向けて発《た》つ一行があるから、なんとかそれに頼んで、わしらが追いつめられている一条を知らせてやろう。わしの眼《め》に狂《くる》いがなければ、あれは電報に鞭をうつような速さで、飛んで帰ってくるにちがいない」
父親のいいかたがおかしかったので、ルーシイは泣きながら笑った。
「あのかたが帰ってくれば、どうしたらいちばんよいか教えてくださるわ。だけど私の心配なのはお父さんのことよ。もしか――これは噂ですけれど、予言者に背いた人の怖ろしい目にあった話を、ほうぼうでしていますもの。背いた人はきっと怖ろしい目にあうのですって」
「しかしわしらはまだ背いたというわけじゃない。背きさえしなければ、なにもそんな噂に怖れることはない。まだたっぷり一月《ひとつき》というものあるのだ。それまでに、まあ、ユタを抜《ぬ》けだすのがいちばんだろうと思う」
「ユタを出るのですって?」
「まあそういうことだ」
「だって農園はどうなりますの?」
「できるだけ多く金にかえて、あとは棄ててゆくのだ。ほんとうをいうとね、ルーシイ、わしがそのことを考えたのは、こんどがはじめてではないのだよ。
あのいまいましい予言者なんかに、へいこらするここいらの人間とは違って、わしは誰にも屈従《くつじゆう》するのはいやだ。わしは生れたときから、自由の国アメリカの人間なんだ。人にへいこらしたことはない。いまから魂《たましい》をいれかえろといったところで、それには年をとりすぎた。あんな馬みたいな奴《やつ》、もしおれの農園へのこのこ作物でも食い荒《あら》しに来ようもんなら、それこそずどんと一発、まっ正面から大きな弾丸《だんがん》をお見舞《みま》いしないとはかぎらんぞ」
「だけど出てゆくといっても、そんなこと許されないでしょう?」娘は反対した。
「まあジェファスンが帰ってくるまで待つさ。あれが帰ればすぐなんとかなる。それまではなにも心配しないがよい。そして心配そうな様子を、人に見られないように気をつけるのだ。でないとお前の様子を見て、またあいつがわしのところへ、なんだかだと尻《しり》をもちこみでもすると困る。とにかく今すぐどうということはないのだし、危険だってありっこはない」
ジョン・ファリアはさも確信ありそうにこういって、ルーシイを慰《なぐさ》めたが、その晩はいつになく戸締《とじま》りに気をくばり、寝室《しんしつ》の壁《かべ》で錆《さび》だらけになっていた古い散弾銃《さんだんじゆう》をとりおろし、念いりに掃除《そうじ》して、弾丸までこめた。それらの事実を見まいとしても、ルーシイはすっかり見てしまった。
第十一章 命がけの脱出《だつしゆつ》
モルモン教の予言者と会見した日の翌あさ、ジョン・ファリアはソルトレーク市へ出かけて、ネヴァダの山へ旅だつ知人にあい、ジェファスン・ホープへの手紙を託《たく》した。その手紙には、父娘《おやこ》の身にふりかかってきた危急を告げ、彼《かれ》の帰りがいかに必要であるかが書かれてあった。手紙をわたしてしまうと少し気がかるくなったので、いそいそと彼は帰途《きと》についた。
農場へ帰ってみると、両がわの門柱に馬が一頭ずつ繋《つな》いであるので、彼はひどく驚《おどろ》かされたが、家のなかへはいってみて、若い男がふたりで自分の居間を占領《せんりよう》しているのを発見したときは、さらに驚きを大きくした。
ふたりのうち面長《おもなが》の青じろい顔をしたほうは、揺《ゆ》り椅子《いす》に反りかえって、両脚《りようあし》をかさねてストーヴのうえに預けているし、もうひとりの猪首《いくび》で下品な、むくんだような顔の男は、両手をポケットにつっこんで、窓のそばに立って口笛《くちぶえ》で俗っぽい讃《さん》美歌《びか》をふいている。
ファリアがはいってきたのをみると、ふたりとも顎《あご》をしゃくって軽く挨拶し、揺り椅子の男がまず話の口火をきった。
「たぶんわれわれをご存じないでしょうが、こちらはドレッバー長老の令息です。私はジョゼフ・スタンガスンです、神さまが尊いお手をさしのべて、あなたを真の教会に導かれたあのときに、やはり砂漠《さばく》を旅していた一行中のひとりです」
「神さまはどこの国の人間をでもみ心のままに、お好きなときに選ばれます。そして神の臼《うす》はゆっくりまわり、粉になるまで挽《ひ》きつぶしておしまいになるのです」もうひとりが鼻にかかる声でいった。
ファリアは冷やかに頭だけさげた。彼にはこのふたりがなにものであるか、よくわかっていた。
「今日《こんにち》われわれがきたのは」スタンガスンが言葉をつづけた。「われわれふたりのうちで、どちらかお気にめすほうが、お宅の令嬢《れいじよう》に求婚するようにと、それぞれ父親からいわれたからです。私はまだ四人しか妻をもちませんが、ドレッバーさんには七人ありますから、これは私のほうが権利が強そうですね」
「いやいや、兄弟スタンガスン、それは違う」もう一方がつよくうち消した。「問題は現在いく人の妻があるかではなくて、いく人もち得《う》るかにあります。こんど父が製粉場を僕《ぼく》にゆずってくれましたから、僕のほうが金持だと思う」
「しかし先のことをいえば、私のほうが有望です」スタンガスンも熱してきた。「神がこの世から父を召《め》したまえば、鞣《なめ》し工場と製革工場が私のものになります。それにまた、私のほうが年うえでもあるし、教会でも上席です」
「当人の選択にまかせることにしよう」若いドレッバーが鏡にうつる自分の姿に、作り笑いをしてみながらいった。「いっさい彼女の選ぶにまかせて、われわれは口を出さぬことにしよう」
このやりとりのあいだ、ジョン・ファリアは入口に立って、手にしていた鞭でふたりの背なかをどやしつけてやりたいのを、やっとおさえてむかむかしていたが、このときついに我慢《がまん》なりかねて、つかつかとふたりのほうへ歩みよった。
「おい! 娘がこいといったときはきてもよいが、それまでは絶対に、来るのはやめてもらいましょう!」
ふたりのモルモン教徒の青年は唖然《あぜん》として彼の顔を見つめた。ふたりの考えでは、ここでこうして彼らが求婚をきそうのは、娘にとってはもとよりその父親にとっても、最大の名誉《めいよ》でなければならないのだった。
「この部屋には出口が二つある」ファリアは叫《さけ》んだ。「一つはこの戸口、一つはその窓だ。どっちの口から出たいのか?」
ファリアの日焼けした顔がひどく怒気《どき》をふくんでおり、骨ばった手までぶるぶる震《ふる》えているので、ふたりの訪問客は、窓からつまみ出されてはたいへんだとばかり、あわてて逃《に》げ帰った。老いた農場主はふたりを追って玄関までゆき、最後の皮肉を浴びせかけた。
「どっちかにきめたら、きめたといってもらいたかったね」
「覚えているがいい!」スタンガスンは怒《いか》りで顔面を蒼白《そうはく》にして叫んだ。「おまえは予言者と四長老会の神聖をけがした。見ているがいい。終生それを悔《く》いなければならないぞ!」
「神の御手《みて》はなんじのうえに重くおろされん!」ドレッバーも尾《お》について叫んだ。「神は起《た》ってきさまを打たれるだろう」
「それじゃこっちから先に打ってやる!」ファリアはかっとなって、銃をとりに二階へ駆《か》けあがろうとしたが、ルーシイにひきとめられた。そしてやっとその手をふりはなしたときは、馬蹄《ばてい》の音で、ふたりがもう追いつけないほど遠くへ逃げのびてしまったことがわかった。
「青二才の偽《に》せ信者めが!」ファリアは額の汗《あせ》をふきながら罵倒《ばとう》した。「おまえをあいつらの妻にするくらいなら、お父さんはお前が死んでくれたほうがいいくらいだ」
「私だってそうよ、父さん」ルーシイは元気よく答えた。「でも、ジェファスンがもうじき帰ってきますわ」
「そうだ、あれの帰るのもながい先ではない。あいつらこんどはなにをはじめるか知れたもんじゃないから、なるべく早く帰ってくれるとよいがな」
たしかにそれは一刻も早く、この剛毅《ごうき》一方の老農場主とその頼《たよ》りすくない養女にとって、誰か助言と助力とを与えうるものが現われなければならない時機だった。
この開拓地《かいたくち》の全歴史をたどってみても、いまだかつてこれほど明白に、長老たちへの反抗《はんこう》を示した例は、どのページにも見いだせないのである。些細《ささい》な違反《いはん》でさえが、あれほど厳しく罰《ばつ》せられているのだとすると、こうした大反逆者には、どんな運命が待っていることだろう?
こうなればもはや富も地位もなんらの用をなさないのを、ファリアはよく心得ていた。彼に劣《おと》らぬ富と名とを持っていた人たちで、神かくしにあって、その財産が教会へ没収《ぼつしゆう》された例が、今までにいくつもあった。
ファリアは勇敢《ゆうかん》な男であったが、自分の身にふりかかってきたこの漠としてつかみどころのない恐怖《きようふ》には、おののかないではいられなかった。正体の知れている危険ならば、決然としてこれにたちむかうだけの決心があったが、こうした不安にはひどく悩《なや》まされるのだった。けれどもそんな様子は娘にはすこしも見せないで、なるべく事を軽く見ているふりを装《よそお》っていた。それでも父を思う彼女の眼には、父がなんとなく不安そうなのが見えないわけはなかった。
こんどの行動に関しては、ヤングからなにか通達があるだろうと、彼はひそかに期していたが、はたして、もっともそれは思いもよらぬ方法でやってきて、彼の予測は的中した。翌朝眼がさめてみると、驚いたことには、掛蒲団《かけぶとん》の胸のところに、四角い小さな紙きれがピンで留めてあったのである。その紙片《しへん》には太い乱暴な字で、
「改心の期間として二十九日を与う。しかるのちは――」
しかるのちはのつぎの棒は、いかなる脅迫《きようはく》にもまして怖《おそ》ろしい棒であった。
召使たちはみんな別の棟《むね》に寝《ね》ているし、窓も戸もしっかり戸締りがしてあったにもかかわらず、この警告状がどうしてこの部屋にあったのか、ファリアにはまるで見当もつかなかった。彼はそのまま紙片をまるめて棄《す》て、娘にはなにもいわなかったが、このできごとはすっかり彼を震えあがらせた。
二十九日というのは、ヤングが約した一カ月の残りの日数にちがいない。こういう神秘的な威力《いりよく》を有する敵にたいして、普通《ふつう》の勇気や腕力《わんりよく》がなんの役にたとう? あの紙きれをピンで留めていった手ぎわでは、彼自身にすら誰《だれ》の仕業《しわざ》だとも永久に知らせずして、心臓をぐさりとやってゆくことも、すればできたはずなのだ!
だがそれよりもいっそう驚かされたのは、その翌朝であった。親子で朝食のテーブルについたとき、ルーシイがあらっと叫んで天井《てんじよう》を指さした。みるとそこには、天井の中央に、燃え木で書いたらしい二十八という文字がまざまざと読まれたのである。
ルーシイにはその意味がわからなかったが、彼はそれを教えることをしなかった。そしてその晩彼は銃をそばへひきつけて、徹夜《てつや》の警戒《けいかい》をしていた。なにも見えも聞えもしなかった。ところが朝になってみると、自分の部屋のドアに、そとから二十七という字が大きくペンキで書いてあった。
こうして一日一日とすぎていった。くる日もくる日も、朝になってみるとかならず、この見えざる敵は根気よく記録をつづけ、一カ月の猶予期間があといく日残っているかを、どこか目だつ場所へ書きのこしているのだった。その呪《のろ》いの数字は、あるときは壁に書いてあった。またあるときは床《ゆか》の上に書いてあった。どうかすると小さな貼《は》り札《ふだ》にして、庭の戸や柵《さく》などに貼りつけてあることもあった。そうしていかにジョン・ファリアが寝ずの番をしていても、日々どこからその警告がくるのか、見やぶることはできないのだった。
しまいにはその警告状を見ると、ほとんど迷信《めいしん》的な恐怖をさえ感じるようになった。顔色|憔悴《しようすい》してたえずそわそわし、二つの眼は追いつめられた獣《けもの》のような不安をあらわしていた。彼にとってはもうこの世にたった一つの希望しか残されていなかった。それはネヴァダの山から帰ってくるはずの、若きジェファスンの到着《とうちやく》である。
二十が十五になり、十五は十になったけれど、ジェファスンからはなんの音さたもなかった。数字はなおも一つ一つと容赦《ようしや》なく下ってゆくが、若ものの消息はすこしも知れない。道に乗馬の蹄《ひづめ》の聞えるたびに、また牛馬を叱紀《しつた》する牧夫の声の聞えるたびに、老いたるファリアはこんどこそ救い主が着いたのではあるまいかと、門まで走り出てみたが、そのたびに新たなる失望をくりかえすのみであった。とうとう数字が五から四に下り、さらに三となったのをみて、ファリアはげっそりと気おちがし、脱出の希望をすっかり失ってしまった。単身ではあり、またこの開拓地をめぐる山々の地理にうとい彼ひとりの力では手も足も出ないことを自分でよくよく承知してもいたのである。
すこしでも往来の頻繁《ひんぱん》な道路は、いずれも厳重な見はりのもとに警戒されており、長老会の許可がなくては、誰ひとり通過することを許されなかった。どっちへころんでも、どうやらこれではふりかかっている怖ろしい運命をかわす方法はないらしい。しかも老いてなお彼は、娘の恥《はじ》と思うことは死んでも承知しまいという堅《かた》い決心を、微動《びどう》だもさせないのだった。
ある晩部屋にとじこもって、なんとかこの難局を打開する方法はないものかと、ひとりつくづく考えては、むなしい思案をくりかえしていた。それはそのあさ家の外壁《がいへき》に、二という数字が書かれていた日だから、夜があければいよいよ許された最後の日がくるわけだった。どんなことになるというのだろう? 漠とした怖ろしい想像が、それからそれへと彼の脳裡《のうり》にうかんだ。そして娘は、彼のいなくなったあとで、娘ルーシイはどうなるのだろう? どうしても、身のまわりに張りめぐらされているこの見えざる網《あみ》をのがれる道は、ぜったいにないだろうか? 彼はテーブルに面《おもて》を伏《ふ》せて、自分の無力さを思って咽《むせ》び泣いた。
「おや、なんだろう?」
寂《せき》とした夜の沈黙《しじま》のうちに、しずかになにやらひっかくような音がする。――ひくい音だが、あたりがしんとした夜なので、はっきり聞える。方角は表のほうである。
ファリアはそっとホールまで這《は》っていってじっと聞き耳をたてた。音はちょっと間をおいてから、また低く忍《しの》びやかに聞えてきた。誰かがきわめてそっと戸の羽目板をたたいているのだ。秘密裁判所の怖ろしい命令をはたしに、深夜の刺客《しかく》が忍んできたのだろうか? それともまた、最後の日がいよいよ来たとの警告を書きしるすために来たやつなのだろうか?
ジョン・ファリアはこうまで神経を悩まさせられたり、胸を冷やさせられたりするくらいならば、いっそひと思いに殺されたほうがましだとさえ思った。で彼はいきなり躍《おど》りだして、掛金《かけがね》をはずし、さっとドアをあけはなった。
そとはひっそりと、まったく静まりかえっていた。よく晴れわたった空には、星が高くまたたいている。塀《へい》や門で仕切られた小さな前庭は見とおしだったが、そこはもとより、そとの道路にも人影《ひとかげ》一つ見えはしなかった。まずほっとして左右を見まわしたが、そっちにも怪《あや》しいものは見えない。ところが、ふと足もとに眼《め》をおとすと、そこにひとりの男がぴたりと腹ばいになって、大地に吸いついているので、ファリアはぎょっとして総毛だった。
まったく思いもかけないことだったので、彼はあやうく声をたてるところだったのを、壁にすがりつきながら、片手を咽喉《のど》へやってぐっとおさえた。最初はひどく怪我《けが》したか、または死にかかっているのだろうと思った。けれども見ているうちにその男は、すばやく、蛇《へび》のように音もたてずにホールへ這いこんできた。
からだが完全にホールへはいりきると、彼はむっくり起きあがって、いきなりドアをしめた。そしてなお、老ファリアの驚いたことには、精悍《せいかん》な不屈《ふくつ》の面魂《つらだましい》をしたジェファスン・ホープの顔をぬっと彼のまえへ出したのである。
「や、や、お前さんは! なんでびっくりさせるんだ?」老人は思わず叫んだ。「な、なんだってあんなまねをしてはいってくるんだ?」
「食べるものをください」ジェファスンはジェファスンで苦しそうな声で、「まる四十八時間というもの、水一|杯《ぱい》のむひまもなかったんです」とまだそこに出たままになっていた主人の夜食のたべのこりのパンとコールドミートにとびつき、がつがつ貪《むさぼ》り食って、やっと空腹がいくらかみたされると、
「ルーシイは元気でいますか?」とたずねた。
「ああ、あれにはまだなんにも知らせてないのだ」
「それはいい具合です。この家は八方から見はりがついています。だから私は這って忍びよったのです。いくらあいつらが抜《ぬ》け目がなくたって、はばかりながらこのウォッショウの猟師《りようし》にゃ敵《かな》いっこありませんよ」
ジョン・ファリアは待ちこがれていた味方を得たので、別人のように元気づき、若者のごつごつした手をとって、心から堅く握《にぎ》りしめながらいった。
「ほんとにお前さんは誇《ほこ》ってよい人だ。このなかへとびこんできて、危険や難儀《なんぎ》をともにしてくれるものが、めったにあるもんじゃない」
「そりァまったくそうですよ。なるほどあなたは立派なかただけれど、あなたがひとりだけでこんな立場におかれたんなら、私だって二の足を踏《ふ》みますよ。だれだって熊《くま》ン蜂《ばち》の巣《す》へ、われから進んで頭をつっこみたかありませんからねえ。
私はルーシイというものがあればこそ来たんですよ。もしルーシイの身に危害でもあるようだったら、そのまえにユタのホープ家は私という人間をひとりこの世からなくすことになる――と、私はそのくらいのつもりでいるんです」
「いったいこれからどうしたものかな?」
「あすが最後の日です。だからなんでも今晩中に、ことを行わなきゃだめです。騾馬《らば》を一頭と馬を二頭、イーグル谷にかくしてありますが、お金はいくらありますか?」
「金貨で二千ドルと紙幣《しへい》で五千ドル」
「結構です。私もそれくらいもっています。すぐに山を越《こ》して、カースン市へ逃げこまなきゃなりません。なにより先に、ルーシイを起してください。召使のものたちが、同じ棟に寝ていないのは何よりだ」
ファリアがルーシイを起して脱出《だつしゆつ》の支度《したく》をさせているあいだに、ジェファスン・ホープはありったけの食物を小さな包みにまとめ、山地は泉に乏《とぼ》しく、たまたまあっても、そのあいだが間遠《まどお》なのを経験で知っているから、磁器の壺《つぼ》に水をいっぱいみたした。
彼《かれ》のほうのこれだけの準備がすんだかすまないかに、早くもファリアはすっかり支度のできたルーシイをつれておりてきた。ふたりの恋人《こいびと》たちは熱情的な、しかし一分間をもおろそかにはならないときだから、きわめて簡単な挨拶《あいさつ》を交《かわ》しただけだった。まだしなければならないことが山とあるのだ。
「すぐに出発だ」ジェファスン・ホープは低いが力のこもった声で、危険の大きいのは十分自覚しているが、それにたいする覚悟《かくご》もまた十分できている人の意気をもっていった。
「表も裏も入口は監視《かんし》されていますが、横手の窓からそっと出て、畑をつっきってゆけば抜けだせます。道に出さえすれば、あとは馬のかくしてある谷までわずか二マイルです。夜あけまでには半分どおり山を越してしまえます」
「途中《とちゆう》で留《とど》められたらどうします?」ファリアがたずねた。
ジェファスンは上着のまえからのぞいてみえる拳銃《けんじゆう》の台尻《だいじり》を平手でかるくたたいて、
「手にあまるほどの数だったら、二、三人あの世へお供をさせてやりましょうよ」とすごみを見せてにやりと笑った。
家のなかの灯火《あかり》はすっかり消された。ファリアは暗い窓からそっと自分の畑を――いままでは自分のものであったが、今晩かぎり永久に見すててゆこうとする畑のほうを見やった。捨ててゆくのだが、その考えは彼としてもずっとまえから覚悟のできていることでもあり、また娘の名誉《めいよ》や幸福がそれで保たれるのだと思えば、悔《く》いるところはないのだった。
いま、樹々《きぎ》の葉はさらさらと鳴り、小麦畑はひろびろと黄金《こがね》いろの波をうって眠《ねむ》り、そこにはまったく平和と幸福がみちているかに見え、怖ろしい殺気がまぢかに忍びよっていようなぞとは、思いもよらないことだった。しかしジェファスンの青ざめた、緊張《きんちよう》した顔をみれば、彼がこの家へ近づいてくるときに、なにかそれらしいものを見ていることを物語っていた。
ジョン・ファリアは金貨と紙幣の袋《ふくろ》をもち、ジェファスンは乏しい食糧《しよくりよう》と水を、ルーシイは自分の貴重品を少しばかり入れた小さな袋を持った。
三人はきわめて注意ぶかく、しずかに窓をあけて待ち、黒い雲がきて、いくらかあたりの暗くなったときを選んで、ひとりずつ抜けだして小さな庭にはいりこんだ。そして息をこらして這いながら、その庭をぬけて生垣《いけがき》のかげにたどりつき、玉蜀黍《とうもろこし》畑のほうへ出る切れ目まで、垣根に沿《そ》って潜行《せんこう》していった。するとそのとき、ジェファスンがいきなりふたりをとらえて、生垣のかげへひきずりこんだ。三人はそこで震《ふる》えながらしばらく息をころして忍んでいた。
大草原で鍛《きた》えたおかげで、ジェファスンの耳が山猫《やまねこ》のように鋭《するど》くなっていたのが幸いした。三人が生垣の根もとへ身をひそめるとほとんど同時に、山梟《やまふくろう》のいやな鳴き声がひと声、そこからほんの数ヤードのところで聞えたかと思うと、すこし離《はな》れたところからべつの鳴き声がそれにこたえた。すると三人の通ろうとしていた垣根の切れ目のところに、おぼろな人影がぬっと現われて、また悲しげな合図の鳴き声をひと声発した。と、それにたいして第二の男が、暗闇《くらやみ》から姿を現わした。
「あすの真夜なか」第一の男が上役らしい調子でいった。「よたかが三度鳴くときに」
「承知しました。――兄弟ドレッバーに伝えますか?」
「彼に伝え、それから他の者に伝えてもらえ。九から七」
「七から五」第二の男がそう答えると、ふたりはたちまちべつの方角へ姿を消してしまった。別れがけに交した妙《みよう》な言葉は、彼らの合い言葉にちがいない。
ふたりの足音が遠く聞えなくなるのを待って、ジェファスン・ホープはすばやく隠《かく》れ場所をとびだし、つれのふたりを助けて、生垣の切れ目をぬけて畑のなかへとびこんでいった。そして、ともすれば弱りがちなルーシイを支え半ば抱《だ》きかかえるようにして全速力で走った。
「速く! 速く!」彼は喘《あえ》ぎつつもひっきりなしに力づけた。「いま歩哨線《ほしようせん》を抜けるところだ。速くしないとすべてだめだ。急いで! 急いで!」
畑をぬけて本道へ出てからは、たいへん足がはかどった。たった一度だけ人に会ったが、そのときはうまく畑へもぐりこんで、相手の眼をかすめた。
町へはいるすこし手前で、でこぼこした小道が山のほうへ分れている。ジェファスンはそれへふたりをつれこんだ。見あげる頭の上には、二つの峨々《がが》たる山が闇のなかにそびえている。その二つの峰《みね》のあいだのせまい谷が、すなわち馬をかくしてあるイーグル谷なのである。
正確な本能でジェファスン・ホープは大きな丸石のあいだをぬけたり、水の涸《か》れた川底を歩いたりして、ついに岩にさえぎられて、ちょっと人の気のつかぬ場所へきた。
そこには三頭の忠実な動物がおとなしく繋《つな》がれて待っていた。ルーシイはそのなかの騾馬に、ファリアとジェファスンとはそれぞれ金袋やそのほかの荷物をもって馬に跨《また》がり、ジェファスンの案内でいよいよ危険な、嶮《けわ》しい小道を進むことになった。
荒々《あらあら》しい自然に慣れないものにとって、それはなみたいていの行程ではなかった。一方は千フィート以上もあろうという岩山が、くろぐろとそそり立ち、その表面はまるで怪物《かいぶつ》の肋骨《ろつこつ》かと思うばかりに、玄武岩《げんぶがん》がながい柱をみせて威嚇《いかく》している。そして一方は丸石だの崩《くず》れ岩だのが、散乱していて、馬を乗り入れることすらできない。
そのあいだを一条の不規則な小道が走っているのだが、それもところどころひどく狭《せま》くなっているので、一列になってやっと通れるだけのこと、おまけに道とは名ばかりのひどいもので、よほど熟練した騎手《きしゆ》でなければ、乗りこなせないほどだった。しかし三人の脱出者にとっては、危険も困難もものかは、一歩は一歩ごとに、おそるべき暴虐《ぼうぎやく》から遠ざかってゆくのだと思えば、自然と心も浮《う》きたつばかりであった。
だが進むにつれて、まもなく彼らは、まだモルモン教徒の管轄《かんかつ》区域を出ていないことの証拠《しようこ》をみた。道がいとも嶮しく寂《さび》しい場所へきたとき、ルーシイがあっと叫《さけ》んで頭上を指さしたので、見あげると、彼らのたどる道を見おろせる大きな岩が、暗い夜空にくっきりと浮きだしていて、その上にひとりの歩哨が立っているのだった。同時に歩哨のほうでも気がついて、
「誰《だれ》か?」と軍隊式な誰何《すいか》の声が、谷の寂寞《せきばく》をやぶった。
「ネヴァダへゆく旅のものです」ジェファスン・ホープが、鞍《くら》につるしたライフル銃に手をかけながら、静かに答えた。
その答えに満足できなかったか、歩哨が銃を構えて下を見すかしているのが見えた。
「誰の許可を得てか?」
「長老会の許可を得て」ファリアが応じた。長老会と答えるのが、モルモン教国ではもっとも有力であるのを、彼は経験上知っていたのだ。
「九から七」歩哨が叫んだ。
「七から五」ジェファスンがさっき庭で聞いた合言葉を思いだして、すぐに返した。
「通過してよろしい。神の助けがあるように」上の声が答えた。
この地点からさきは道がひらけているので、速歩で馬を急がすことができた。ふりかえってみると、歩哨が銃を杖《つえ》にぽつねんと立っているのが見られた。そして、これでモルモン教国の外哨線を突破《とつぱ》したのだから、行く手にはもう自由が展開しているのを彼らは知った。
第十二章 復讐《ふくしゆう》の天使団
曲りくねった隘路《あいろ》をぬけたり、岩だらけの凸凹《でこぼこ》した小道を越えたりして、夜どおし彼らは馬に乗りつづけた。途中で何回か道に迷ったが、そのつど山の地勢にあかるいホープのおかげで、正しい道に出ることができた。夜が明けると目の前に、すさまじくそして驚《おどろ》くほど美しい景色がひらけた。いずれを見ても白雪をいただいた峰々がかさなりあって、地平線をくぎっている。そして道の両がわには屏風《びようぶ》のような岩がそそり立って、そのうえに生えている落葉松《からまつ》や松は、まるで頭の上に覆《おお》いかぶさるかと思われ、さっとひと風きたら、頭上に落ちかかるのではないかと危《あや》ぶまれた。
この懸念《けねん》は必ずしも杞憂《きゆう》とばかりはいえなかった。あれはてた谷あいには、現にこうして崩れおちてきた樹木や丸石が、点々と見られるのである。一行の通過中にも、巨大《きよだい》な岩がすさまじい音をたてて落下してきて、疲《つか》れている馬も驚き、急に走りだしたほどだった。
太陽が東の空に徐々《じよじよ》にのぼるにつれて、山々のいただきはあたかも祭りの日の灯火のように、つぎからつぎと燃えたって、ついには全山がバラいろに美しく照りかがやいた。この美しい壮観《そうかん》は、落ちゆく三人の胸をかきたて、あらたな元気をふるいおこさせた。
山あいから瀬《せ》をなして流れ出る奔流《ほんりゆう》のところで、三人は大休止をとって、馬には水をのませ、そのあいだに自分たちも急いで朝食をとった。ルーシイと父親とはもっと休んでゆきたがったが、ジェファスンは食事がすむとすぐふたりをせきたてた。
「やつらもいまごろは追跡《ついせき》をはじめた頃《ころ》だ。すべては速さ一つにかかっている。カースン市まで無事につきさえすれば、あとは一生でも休んでいられるのだから、いまは急がなければなりません」
その日は終日谷あいばかり進み、夕がたには敵から三十マイル以上はたしかに離れたろうと思われた。おそく、突《つ》き出た岩の根の、冷たい風のいくらか防げる場所をえらんで、たがいに寄りそって暖をとりあいながら少時間ねむった。
しかし夜のあけきらぬうちに起きて、また行進をつづけた。追っ手らしいものの姿も見えない。
ジェファスン・ホープは、もうここまでくれば、あの怖《おそ》るべきモルモン教徒の魔手《ましゆ》もおよばぬだろうと、そろそろ安心しかけた。彼らの鉄のような手がどこまで伸《の》び、いかに神速に犠牲者《ぎせいしや》をつかみつぶすものであるかを、彼は知らなかったのである。
脱出して二日目のひるころには、もともと乏しい食糧が早くも欠乏《けつぼう》してきた。けれども山には食糧になる獲物《えもの》もいることだし、じっさいこれまでにも、一|挺《ちよう》の銃で生命を支えてきた経験もしばしばあったから、ジェファスンはあまり心配もしなかった。
なにしろ海抜《かいばつ》五千フィートにちかい山なので、寒気がひどく強かったから、岩陰《いわかげ》を選んで枯枝《かれえだ》を集め、それに火をつけて父娘《おやこ》をあたらせた。そして馬をそれぞれ繋いでおいてから、ルーシイにしばしの別れをつげて、銃を肩《かた》に獲物を求めて出かけた。しばらくは、ふりかえると、身動きもしない三頭の馬のそばで、父娘が焚火《たきび》のそばにうずくまっているのが見えていたが、やがて岩にさえぎられてまったく見えなくなってしまった。
ジェファスンは谷から谷へと二マイルあまりも渡《わた》りあるいたが、木の幹の疵《きず》やそのほかの点からみて、そのあたりには多くの熊《くま》がいなければならないと思われるのに、いっこうそれらしいものに出遭《であ》わなかった。二、三時間もさがしまわったが、とうとうむだ骨におわったので、あきらめて帰りかけてふと頭上を見ると、ぞっとするほどうれしいものが眼にとまった。三、四百フィート上の突き出た岩のはじに、羊のように見えて大きな角を生やした動物が立っているのである。|ロッキー羊《ビツク・ホーン》と一般《いつぱん》に呼んでいる動物だが、下からは見えないが、後ろにその大群がいて、一頭だけそこへ見はりに出ているらしかった。しかもありがたいことには、見はり先生反対のほうへ向いて立っているので、猟人が下にいることには気がつかないらしいのである。
ジェファスンはすぐに腹ばいになって、銃を岩にもたせ、十分|狙《ねら》いをさだめてから、引き金をひいた。動物はぴょこんと宙にとびあがったかと思うと、ちょっと崖《がけ》のふちでよろめいてから、どさどさと下の谷へ落ちてきた。
獲物はおもくてとてもそのまま運べそうになかったので、ジェファスンは片股《かたもも》と脇腹《わきばら》の一部を切りとるだけで満足した。もうそろそろ夕闇のおりかけたなかを、彼はこの獲物を肩にして急いで帰途についた。
だが歩きだしてみて、とんでもない困難に直面しているのに気がついた。夢中《むちゆう》になって獲物をさがし歩くうちに、いつしか勝手知らぬ谷へ踏《ふ》みこんでいたのである。したがってもと来たとおりの道をさがして帰るのは容易なことではなかった。いまいる谷はいくつもの枝があり、その枝にまた枝がありして、しかもそれがおなじような谷なので、どれがどれだか見わけがつかなかった。で、それらしいと思う谷を一マイルあまり進んでゆくと、まったく通ったことのない谷川へ出た。これはまちがったと思って、こんどは別の谷へはいっていったが、それもやはりおなじような結果をきたした。
そうしているあいだにも、夜の幕はどんどん濃《こ》くなってくる。やっとの思いで、心覚えのある谷までたどりついたときは、もうあたりはすっかり暗くなっていた。しかも月がまだ出てくれないのみか、両がわが高い崖だから、暗さはひとしおで、一度とおった谷とはいえ、踏み迷わないようにするには、なかなか骨が折れた。
重い荷物はあるし、からだは疲れているし、よろめきつまずきながら、一歩一歩ルーシイに近づきつつあるのだということと、これからさきカースン市へつくまでの食糧には困らなくなったということに勇気づけられて、彼はわずかに歩みつづけるのだった。
やっとルーシイ父娘をのこしておいた谷の入口まできた。暗黒のなかにもそれと見覚えのある切りたった岩がわかった。出かけてからもう五時間ちかくにもなるのだから、さだめし気をもんでいることであろう。
彼はうれしさのあまり、帰ってきた合図として、両手を口にあてて、「おーい」と谷まにむかって叫《さけ》んでみた。そして立ちどまって耳をすましたが、ルーシイの返事はなかった。聞えるものといっては、あちこちの山に谺《こだま》して帰ってくる、うつろな自分の声ばかりである。声を大きくしてもう一度叫んでみた。やはり手ごたえはない。わけのわからない不安におそわれたので、彼は大切な食糧もいつかふりすてて、谷あいさして狂気《きようき》のように駆《か》けだしていった。
岩角をひと曲りすると、火を焚いてふたりを待たせておいた場所がひと目でみえた。まだ燃えのこりが炭火となって、ぽっとあたりを明るく照しだしているが、彼が去ってから一度も枯枝を燃しそえた様子はなく、あたりは静まりかえって人影《ひとかげ》も見えない。
不安はたちまち現実の驚きとなった。彼はいよいよ歩をはやめた。
行ってみると、残り火のまわりにはやはり生きものの影ひとつ見当たらない。馬も老人も、娘《むすめ》もみな姿を消してしまった。彼が留守のあいだになにか怖ろしい災難が突発したのにちがいない。人も馬もひっくるめて、なにか怖ろしい災難にまきこまれたため、その理由を知らせるべき材料をのこしておくひまさえなく、この場所をたち去ったのにちがいない。ジェファスン・ホープはこの打撃《だげき》で頭がくらくらしてきて、その場へ倒《たお》れそうなのを、銃を杖にやっと支えた。だが彼はもともと活動的な男であった。あまりの驚きに一時は途方にくれたが、たちまちその無気力から脱するとともに、燃えさしの一枝をつかんで火を燃しつけ、それを松明《たいまつ》がわりにあたりを調べにかかった。
地上はいち面に馬の蹄《ひづめ》のあとだらけで、多数の騎馬の一隊が、ここでふたりに追いついたことがわかった。そしてなお、足跡《あしあと》の示すところに従えば、乗馬隊はソルトレーク市のほうへと帰っているのである。ふたりとも彼《かれ》らのため拉《らつ》し去られたのであろうか。
ジェファスンはむろんそれにちがいないときめたが、ふとそのとき妙なものが眼《め》についたので、ぎくりとした。すこし離れたところに、小高く地肌《じはだ》をみせている赤土がある。
たしかに見覚えのないものだった。新しい墓としか思われないので、そばへいってみると、墓も墓、中央に一本の棒を立てて、そのさきを割って一枚の紙きれが挟《はさ》んであるのだった。その紙きれにはつぎのような簡単な、それでいてどうまちがえようもない文字が記《しる》されているのである。
ジョン・ファリア
元ソルトレーク市民
一八六〇年八月四日|没《ぼつ》
ああそれでは、さっきここで別れたばかりのあの剛毅《ごうき》一徹《いつてつ》の老人も、ついに亡《な》くなったのか! そしてこの簡単な棒きれ一本がその墓碑銘《ぼひめい》なのか! ジェファスンはもしやそのあたりに第二の墓があるのではないかと、狂《くる》おしくあたりを見まわしたが、それらしいものは見あたらなかった。ルーシイは長老の息子《むすこ》のひとりの後宮の一員になるという、最初からの宿命に従わされるために、おそるべき人々の手でつれ戻《もど》されたのだ。
そのことに気がついてみると、ジェファスンはそれを防ぎえなかった自己の無力さを思って、自分もいっそのことこの場でファリアとおなじ運命をたどり、この寂しい山のなかを永劫《えいごう》の安息所としたくさえなるのだった。
けれども彼の活動的精神は、失望のどん底から彼を奮いたたせた。たとえふたりを救いだすことは、もはやできないにしても、すくなくとも残る一生を、復讐に捧《ささ》げることはできるはずである。堅忍不抜《けんにんふばつ》の意志をもつとともに、おそらく荒野でインディアンにまじって生活しているあいだに、いつとはなく身につけたのであろうか、彼はきわめて執拗《しつよう》な復讐心をもっていた。のこり火のそばにたってジェファスンは、この悲しみをしずめる唯一《ゆいいつ》の手段は、とことんまで復讐するよりほかはないと感じた。そして強固なる意志と倦《う》むことを知らぬ全精力とを、ひたすらこの目的にむかって捧げようと、かたく決心したのである。
まっ青な凄《すご》い顔をして、投げだしておいた獲物を取ってもどり、火をかき起して、数日は持ちこたえられるだけの食糧を焼いて包みにこしらえ、疲れてはいたが休みもせずに、復讐の天使たちの足跡を追って山のなかをひき返していった。馬で二日しかかからなかった道を、疲れたからだ、いたむ足で歩くには、まる五日かかった。夜は岩のあいだに伏《ふ》して二、三時間まどろんだが、夜あけ前には必ず起きて、歩きつづけた。
六日目にやっと悲運の出発点となったイーグル谷までたどりついた。そこからはもはやソルトレークの市が眼下に見おろせた。疲れはてた彼は銃を杖に、足もとに展開する静かな市のほうへ、やせこけた手をうち振《ふ》って呪詛《じゆそ》をおくった。ふと気がついてみると、おもな街路には旗がたててあり、そのほか祭りのあるらしい様子がみえる。いったいなにがあるのだろうと、怪《あや》しみ考えているところへ、馬蹄《ばてい》の音が聞えて、騎馬の男がひとり近づいてきた。そばまできたのを見れば、ときどき世話をしてやったことのある、クーパーというモルモン教の男である。彼はルーシイがどうなったかきいてみたいと思って、呼びとめた。
「私はジェファスン・ホープだ。覚えているだろうね?」
クーパーは驚いた様子をかくさず、ジェファスンをしげしげと見た。じっさいこのきたないぼろをまとって、死人のように青ざめ、眼ばかり光らしている男が、まえには瀟洒《しようしや》たる若い猟人だったジェファスンだとは、ちょっと認めがたかったのである。だが本人にちがいないことがわかると、クーパーの驚きは狼狽《ろうばい》にかわった。
「こんなところへ来るとは、気でもちがったんじゃないか? お前さんと話しているところを人に見られでもしたら、こっちの生命があぶないくらいだ。お前さんにはファリア父娘《おやこ》の脱走《だつそう》を助けたかどで、長老会から逮捕《たいほ》命令が出ているのだからな」
「長老会だの逮捕命令だのって、ちっともこわかない」ホープは熱していった。「それよりもお前さんは、こんどのことをいろいろ知っているだろうが、どうぞお願いだから、すこしばかり教えておくれ。いままで一度だって気まずい思いなんかしたことのないお互《たが》いのなかだ。お願いだからどうか、いやだなんていわないでくれ」
「たずねることってなんですね?」モルモン教徒は不安そうに、ジェファスンの顔を見た。「はやくしてくれ。岩に耳あり、樹《き》に目ありだ」
「ルーシイ・ファリアはどうなった?」
「きのうドレッバーさんの息子と結婚《けつこん》したよ。や、や、どうした? しっかりしてくれ。顔がまるで死人のようだ」
「放《ほ》っといてくれ」ホープは弱々しい声でいった。じっさい唇《くちびる》のいろまで失って、彼はもたれていた岩のはじに、ぐったりと腰《こし》をおとしてしまったのである。
「け、結婚したって?」
「きのうね。――だからああやって、祭礼所に旗が出ているんだ。どっちが彼女《かのじよ》と結婚するかということで、ドレッバーさんの息子とスタンガスンさんの息子のあいだがちょっと紛《も》めてね、追跡《ついせき》隊にはどちらも加わっていたが、彼女の父親を射《う》ち殺したのはスタンガスンだったから、彼のほうが資格はよかったのだけれど、評議会にかけてみると、ドレッバーのほうへ賛成者が多かったものだから、予言者がそのほうへ与《あた》えることにしたんだ。だが誰《だれ》が妻にもつにしても、あの娘はもうながいことはないね。きのうも見れば、顔に死相が現われているようだ。あれじゃ女というよりも、幽霊《ゆうれい》だね。おや、もう行くのかい?」
「ああ、行くよ」
ジェファスンは腰をあげていた。彼の顔は大理石の像かと思うばかり堅《かた》くこわばって、二つの眼だけがそのなかで、いたましくも異様に光っていた。
「これからどこへ行くんだね?」
「どこでもいいさ」
ジェファスンは銃の紐《ひも》を肩にかけ、谷をおりてひとりすたすたと、野獣《やじゆう》の巣窟《そうくつ》のような山の奥《おく》へとはいりこんでいった。――野獣そのものにもまして獰猛《どうもう》な意図をいだきながら。
クーパーの予断は、忌《いま》わしいけれどもみごと的中した。原因は父の非業《ひごう》の死にあったか、それともまた、心にそまぬ結婚を強《し》いられたためであったか、あわれなルーシイは日一日と憔悴《しようすい》を加えて、一月《ひとつき》もたたないうちに死んでしまったのである。
彼女ののんだくれの夫は、主としてジョン・ファリアの遺産が目的で結婚したのだから、彼女が死んでも大して悲しむ様子はなかった。しかし後宮にいる多くの妻たちがかえって大いに同情し、モルモン宗の習慣にしたがって、埋葬《まいそう》の前夜お通夜《つや》をしてやった。
みんなで柩《ひつぎ》をとりかこんでいるところへ、夜がふけてから、ふいにドアをさっとおしあけて、風雨にさらされ、ぼろをまとった怖ろしい顔つきの男が、のっそりとはいってきたので、一同は腰をぬかさんばかりに驚いた。
はいってきた男は、怖れおののく女たちには、言葉をかけるどころか、眼もくれずに、かつてはルーシイ・ファリアの清純な魂《たましい》をやどしていた悲しき白衣の亡骸《なきがら》のところへ、まっすぐに進みよった。そして身を屈《かが》めて冷たいその額にうやうやしくキスし、遺体の手を取ってその指から結婚指輪をぬきとった。
「こんなものを嵌《は》めたままで埋《う》められてたまるもんか!」
彼はひどいけんまくでこう叫《さけ》んだかと思うと、あっというまに階段を駆けおりて、いずこともなく姿を消してしまった。あまりに奇怪《きかい》であり、あまりにとっさのできごとであったため、花嫁《はなよめ》のしるしである金指輪の紛失《ふんしつ》という、否定《ひてい》しようもない事実がそこになかったなら、現在見ていたものでも自分の眼を疑いたくなったほどだから、ましてやそれを人に話して信じてもらうのが、至難の業《わざ》であったのはいうまでもない。
それから数カ月間、ジェファスン・ホープは山のなかを放浪《ほうろう》して、一念はげしい復讐《ふくしゆう》の炎《ほのお》を胸に燃やしつづけながら、奇怪なる野性的な生活に日をすごした。
ソルトレークの市中では、市《まち》はずれを怪しいものが徘徊《はいかい》していたとか、そのものは寂《さび》しい谷あいにも出没するとかの噂《うわさ》が行われるようになった。ある時はスタンガスンの家の窓を破って銃丸《じゆうがん》がとびこみ、彼から一フィートと離《はな》れないところで、壁《かべ》にあたったことがあった。またこういうこともあった。ドレッバーが崖の下を通りかかると、大きな丸石が頭の上から落ちてきて、はっと思ってからだを伏せたからよかったが、すんでのことで圧《お》し潰《つぶ》されるところだったのである。
ふたりのモルモン青年は、まもなく、自分たちの生命をおびやかすこうした企図《きと》が、なにを意味するかを知ったので、その相手を捕《とら》えるか殺すかするつもりで、何度も山地を捜索《そうさく》したが、そのつど失敗をくりかえすばかりだった。それで以後は夜間または単独の外出を決してしないことにし、家にも警戒《けいかい》を加えはじめたので、やがて怪しいものの姿を見かけぬようになった。そこでふたりは、時の経過が相手の復讐心を冷《さま》してくれたのだと信じ、警戒をゆるめるようになった。
だがじっさいは、ジェファスンの復讐心は火の手をつよめこそすれ、決して冷めるどころではなかったのである。彼は堅忍不抜な意志力をもっており、ただ復讐の一念にこり固まって、ほかのことは思うひまもないくらいだった。しかし彼は実行を旨《むね》とする男なのである。そこでまもなく彼は、こう間断なくからだを酷使《こくし》しては、いかに鉄のような健康体をもってしても、とてもながつづきはしないと悟《さと》った。日夜風雨にさらされ、健全な食物をとらぬため、しだいにからだが弱ってきていたのである。
もしこのまま山のなかで犬のような死をとげたとしたら、復讐の一事はどうなるのだ? このままで押《お》してゆけば、犬のように死ぬのは眼に見えているではないか? それではうかうかと敵の思うつぼだと気がついたので、健康を回復するとともに、一つには物質的に不自由なく、目的に突進《とつしん》しうる資金をこしらえてこようと、残念ではあったがひとまずネヴァダの鉱山へと帰っていったのである。
はじめの予定では、ながくても一年のつもりだったが、思いがけない事情がいろいろとからまって、とうとう五年ちかくも山をはなれることができなかった。五年たっても恨《うら》みの思い出や、復讐を渇望《かつぼう》する心はすこしも薄《うす》らがず、ジョン・ファリアの墓を発見したあの晩と少しも変らず新らしく、激情《げきじよう》的だった。彼は正義と信ずるところをなしとげるためならば、自分の生命なぞどうなってもかまわない決心で、姿をかえ名を改めてソルトレーク市へと帰っていった。
そこには彼にとって悪い事態が生じていた。それより数カ月まえに、モルモン教国に分裂《ぶんれつ》を生じて――一部の若い信徒が長老に反抗《はんこう》したのであるが――その結果一部の不平分子は脱退してユタ州を去り、異教の徒となってしまっていた。そのなかにドレッバーもスタンガスンも含《ふく》まれていた。しかもふたりの行方《ゆくえ》は誰も知らないという。噂によれば、ドレッバーは去るにあたって資産の大部分を金にかえたから、よほどの現金を持っているはずだけれど、スタンガスンのほうはあまり金はないだろうということだった。ただそれだけの話で、どこへいったのか、手がかりはさらにないのだった。
いかに執念《しゆうねん》ぶかい男でも、これほどの困難にあっては、たいてい復讐は断念するのが普通《ふつう》であろうが、ジェファスンにかぎって、一刻でも逡巡《しゆんじゆん》はしなかった。すこしばかり持っていた金を、てあたりしだいなににでも職をもとめて、できるだけ食いのばしながら、町から町へ、彼は敵を求めてアメリカ中を旅してまわった。
星うつり年かわり、黒かった髪《かみ》も半白となったけれど、彼はなお放浪の旅をつづけていった。一念復讐をのみ希《ねが》いながら、警察犬のように敵のあとをさがしまわった。だがついに彼の忍耐《にんたい》は報《むく》いられた。それは窓のなかにちらりと顔を見たのにすぎなかったが、それだけで彼には、オハイオ州のクリーヴランドがめざす敵のいる土地であるのを知るに十分だった。
彼は復讐の計画をすっかりたてて、ひとまずそのみすぼらしい宿へと帰っていった。けれどもなんという不幸なことであろうか。そのとき窓からそとを見ていたドレッバーは、偶然《ぐうぜん》にも街上のジェファスンに気づき、その眼に殺気をふくんでいるのを認めてしまったのである。
ドレッバーはいまその秘書となっているスタンガスンをともない、あたふたと、治安判事のところに出頭し、ふるい恋敵《こいがたき》から怨《うら》みをうけ、生命を脅《おびや》かされつつあると訴《うつた》えた。そこでジェファスン・ホープはその夜|拘引《こういん》されたうえ、保証人がなかったため数週間も留置されてしまった。やっと許されて出てみると、ドレッバーの家は空家になっており、彼は秘書スタンガスンをつれてヨーロッパへ渡《わた》ったことがわかった。
またしても挫折《ざせつ》を味わわされたジェファスンは、その挫折によってますます恨みをふかめ、勇を鼓《こ》してふたたび果てしれぬ追跡の旅へとのぼった。
けれども今ははや軍資が欠乏《けつぼう》をつげていたから、彼はまた当分仕事をして、金を溜《た》めなければならなかった。でもついにそれをやり遂《と》げて、ぎりぎりの金をもって彼はヨーロッパへ渡った。そして途中《とちゆう》どんな賤《いや》しい仕事もいとわないで働きながら、市から市へと敵を求めて旅をつづけたが、なかなか敵にはめぐりあわなかった。
露都《ろと》サンクトペテルブルクに着いてみると、敵はパリへ向けて発《た》ったあとだった。デンマークの首都コペンハーゲンでもまた数日の差で、敵はロンドンへ向けて出発したあとだったが、最後にロンドンで、首尾《しゆび》よく彼はふたりを追いつめることができたのである。
そしてロンドンでどんなことがおこったか? それはジェファスン自身の告白に聞くにこしたことはない。その告白は、すでにわれわれがその恩恵《おんけい》をこうむっているワトスン博士の手記に順を追って記録されているから、それを引用するのが最上であろう。
第十三章 ワトスン博士の回想録(続編)
ジェファスン・ホープは猛烈《もうれつ》に抵抗《ていこう》したが、なにもわれわれに対して乱暴をはたらく気ではなかったらしい。というのは、もうかなわぬと知ると柔和《にゆうわ》な微笑《びしよう》をうかべて、みなさんお怪我《けが》はありませんかとたずねたのである。
「旦那《だんな》は私を警察へつきだすつもりなんでしょうね?」彼はホームズにむかっていった。「それにゃちょうど私の馬車が表においてあります。足の縄《なわ》をゆるめてくだされば、自分で歩いてゆきますよ。今じゃ昔と違《ちが》って太っちまったから、私をかついでゆくのは大変ですよ」
グレグスンとレストレードは、この注文をすこしずうずうしいとでも思ったらしく、顔みあわせて危《あや》ぶむ様子だった。でもホームズはジェファスンの言葉をそのままに受けいれて、足首をしばってあったタオルを解いてやった。ジェファスンは立ちあがって、もとどおり足が自由になったかと確かめでもするように、両足をひろげてみた。私はそのとき彼を見て、これほど頑丈《がんじよう》にできている男はめずらしいと思ったことや、日に焦《や》けた黒い顔には、その体力に劣《おと》らず怖《おそ》ろしそうな決意と気力の現われていたのを、いまでも覚えている。
「もし警察署長の空席《あき》でもあったら、旦那こそもってこいのかたですね」彼はまたホームズを見て、偽《いつわ》りのない感嘆《かんたん》の声をはなった。「私を追いつめた手ぎわなんざ、まったくたいしたもんでしたからね」
「君たちもいっしょに来られるほうがいいでしょう」ホームズはふたりの刑事《けいじ》にいった。
「私が馭者《ぎよしや》をやりましょう」レストレードがいった。
「それはありがたい。――グレグスン君は私といっしょになかへ乗ってください。それにワトスン君もね。君は非常に興味をもっていたようだから、いっしょに行きたかろう」
私はよろこんで応じた。そして一同ぞろぞろと下へおりていった。ジェファスンは逃《に》げようとするそぶりも見せず、おとなしく自分の馬車の客席へ乗った。そのあとから私たちも乗りこんだ。レストレードが馭者台にのぼって、馬にひと鞭《むち》くれるとたちまち目的地へ着いてしまった。
まず私たちは小さな部屋に通され、そこでひとりの警部がジェファスンおよび被害者《ひがいしや》の姓名《せいめい》を控《ひか》えた。警部はなま白い顔をした、無表情な男で、面倒《めんどう》くさそうに機械的な調べかたをした。
「今週中には判事の調べがあるだろうが、その前に、なにかいいたいことはないか? 注意しておくが、お前のいうことは記録にのこって、場合によっては後でお前に不利な材料となるかもしれないから、そのつもりで」
「いいたいことはたくさんあります」ジェファスンはゆっくりいった。「私はこの皆《みな》さんがたに、ここですっかり話してしまいたいのです」
「それは、裁判まで待ったほうがよくはないかね?」警部がいった。
「私は裁判をうけることはないだろうと思うんです」彼《かれ》は答えた。「いや、そんなにびっくりしないでください。自殺しようというんじゃありません。あなた、お医者さんですか?」そういって彼は鋭《するど》い黒い眼《め》で私を見た。
「そう、私は医者だが……」と私が答えると、
「じゃ、ここへ手をあててみてください」彼は微笑をふくんで、手錠《てじよう》の手で自分の胸を指さした。
いわれたとおりにしてみて、私は心臓がひどく乱調子に、つよく動悸《どうき》をうっているのを認めた。弱い建物の内部で、大きな機関でも運転するように、胸壁《きようへき》ががたがた震動《しんどう》しているのである。部屋のなかが静かなので、そこから発する乱れたにぶい鼓動を直接聞くことができるほどであった。
「これはいかん! 大動脈瘤《だいどうみやくりゆう》じゃないか!」私は思わず叫んだ。
「そういう病名なんです」ジェファスンは落着いて答えた。「先週医者に診《み》てもらいましたら、もうじき破裂するにちがいないといわれました。年々悪くなってきました。ソルトレークの山のなかで、あんまり風雨にうたれたり、食べるものも食べなかったり、無理が高《こう》じておこったやまいです。もう仕事をすませたから、いつ死んでもかまわんですが、事の顛末《てんまつ》だけはひととおり話しておきたいと思います。ただの人殺しをしたやつとして、汚名《おめい》をのこしたかありませんからね」
警部とふたりの刑事とは、彼に身のうえ話をさせることの可否について、とり急ぎ議論した。
「ワトスン先生、危険は迫《せま》っているとお考えになりますか?」警部がたずねた。
「きわめて近いです」
「それならば、公正な裁判を行なうためにもここで彼の供述をとるのが、われわれの義務と考えます」警部がいった。
「ではジェファスン、自由に話をはじめてよろしい。ただしもう一度断っておくが記録をとるから、そのつもりで」
「ではご免《めん》こうむって、腰《こし》をおろさせてもらいます」ジェファスンは腰をおろして、「動脈瘤のために、たわいもなく疲《つか》れるようになりましてね。それにさっきの格闘《かくとう》がだいぶんこたえました。もう片足|棺桶《かんおけ》へつっこんでるようなものですから、決して嘘《うそ》をいう気はありません。これから私の話すことは、すっかりありのままの事実なんです。それを聞いてあなたがたが、どうお扱《あつか》いになろうと、その点は私はどうでもいいんです」
こう前おきをしておいて、ジェファスン・ホープは椅子《いす》に深くよりかかってつぎのような驚《おどろ》くべき物語をはじめた。ごく平凡《へいぼん》なことでも話すような、落着いた順序ただしい話しぶりであった。以下はジェファスンの言葉をそのまま筆記したレストレードの手記によったものだから、その内容の正確なことは絶対に保証できる。
「私がなぜあのふたりを憎《にく》んでいるか、それはあなたがたとしてはどうでもよいことです。彼らにはふたりの人間を――父と娘《むすめ》ですが――殺害した罪がある。その罰《ばつ》として自分たちの生命を失ったのだ。ただこれだけ申しあげれば十分でしょう。
彼らが父娘《おやこ》を殺してから、時がたっていますので、どこの法廷《ほうてい》へ持ちだしても、法律でふたりを罰することはできないのです。しかし私はその罪を知っているのです。だから裁判官と陪審員《ばいしんいん》と死刑|執行人《しつこうにん》と、ひとりでこの三つの役を引きうけようと私は決心したのです。あなたがただって男である以上、私の立場におかれたら必ずそうしていたのにちがいありません。
いま申した殺された娘というのは、二十年前に私と結婚《けつこん》するはずになっていたのです。それがあのドレッバーとむりに結婚させられて、それがために悲嘆のあまり、とうとう死んでしまいました。私はその遺体から結婚指輪をぬきとって、ドレッバーの死ぬときそれを見せつけ、いまわの際《きわ》におかした罪とその報《むく》いとを思い知らせてやろうと、ひそかに心に誓《ちか》いました。
それでその指輪を肌身《はだみ》につけて、ドレッバーとその相棒のあとを追い、私はアメリカからヨーロッパ三界《さんがい》まで流れ歩きました。むこうはそのうちこっちがくたびれて、止《や》めるだろうという気だったのでしょうが、そんなことであきらめる私じゃありませんや。
私はこれであしたの日に死んだって、じっさいあすごろは死ぬのかもしれませんが、この世での仕事はすんだのですから、安心して死んでゆけるというものです。彼らは死んでしまいました。しかも私の手で死んだのです。私にはもうなんの望みも願いもありゃしません。
やつらは金がありましたが、こっちは貧乏《びんぼう》ですから、あとをつけてまわるのはなまやさしいことじゃありません。ロンドンへ着いたときは、ポケットがほとんどからっぽでしたから、さっそくなにか口すぎを求めなければと思いましたが、さいわい馬を扱うことなら、眼をつぶっていてもやれるほど慣れていますから、馬車屋へいって頼《たの》むとすぐ雇《やと》ってくれました。
雇《やと》い主のほうへは毎週一定の金を納めて、それ以上|儲《もう》かったぶんは自分のものになるのです。もっとも、余分なんてほとんどありゃしませんが、それでもどうやら曲りなりに暮《くら》してはゆけました。いちばん困ったのは道を覚えることでした。世のなかにおよそこの市くらい、道のわかりにくいところはありゃしません。いつも地図をもっていて、いちいちそれと首っぴきの始末です。でも、おもなホテルと駅のある場所を覚えてからは、かなり楽になりました。
あのふたりの居場所を見つけるには、ちょっとてまどりました。訪ね訪ねたあげくに、やっとあるときぱったり出くわしたのです。宿は河むこうのカンバウエル区のある下宿でした。
居場所をつきとめたからには、もうしめたものです。私は顎鬚《あごひげ》をはやしましたから、こんどは気づかれる心配もありません。こんどこそどんなことをしても逃《にが》しはしないぞと堅《かた》い決心のもとに、私はあくまでふたりをつけまわって、よい機会のくるのを待つことにしました。
それなのに、もうすこしで、私はまたしても逃げられてしまうところでした。
やつらがロンドン中どんなところへ行こうとも、私はかならずふたりのあとをつけることにしたのです。あるときは馬車で、またときには歩いたこともありますが、馬車ならば逃げられることがありませんから、馬車のほうが都合がよかったのです。そのかわり稼《かせ》ぎのほうは、朝はやくか夜おそくしかやれないから、主人に納める金がとどこおりだしました。でも私としては、めざす敵《かたき》さえ打てばよいのですから、そんなことは気にもなりゃしません。
彼らはじつに抜《ぬ》かりがありませんでした。ひょっとしたら狙《ねら》われているかもしれんという気でもあったか、ひとりでは決して外出せず、また日が暮れると出ませんでした。二週間というもの毎日つけ回りましたが、そのあいだに一度だって、ふたりがべつになったことはありません。
ドレッバーはほとんどいつでも酔《よ》っぱらっていましたが、スタンガスンのほうはなかなか油断のない男です。朝から晩まで眼を光らせているのに、ちっとも機会らしいものがありません。しかし、なんとなくもういいおりが来そうに思われましたから、私はべつにあせりはしません。ただ心配なのはこの胸が、このせとぎわへきてこいつが破裂して、仕事をやり残すようなことにでもならなければってことだけです。
ところがある晩、私がトーキー・テラスを、やつらの下宿のある街がそういう名なんですが、馬車で往《い》ったり来たりしていますと、一台の馬車がその下宿へついて、なかから荷物が運びだされて積みこまれ、つづいてドレッバーとスタンガスンが乗りこんで、どこかへ行きます。私はすぐに一鞭くれて、見えがくれにその馬車のあとを追いましたが、荷物を運びだしたところをみると、宿でもかえるつもりかと、こっちは気が気じゃありません。ユーストン駅でふたりは馬車をおりましたから、私も馬車をそこにいた子供に頼《たの》んでおいて、プラットホームまでついて行きました。
するとふたりはリヴァプールゆきの列車はどれだと車掌《しやしよう》にたずね、いま一本出たばかりだから、つぎのはもう二、三時間しなければ出ないと車掌が答えているのが聞えました。
スタンガスンはそれを聞いて腹だたしげな様子でしたが、ドレッバーはどっちかというとむしろ喜んでいるように見えました。混雑にまぎれてずっと近くへよってゆきますと、ふたりの話はすっかり聞えました。ドレッバーは自分だけのちょっとした用事がある、すぐ帰ってくるから、ここで待っていてくれといっています。するとスタンガスンはそれをたしなめて、ふたりはおたがいに一刻もはなれないという堅い約束《やくそく》だったじゃないかと申しました。
ドレッバーは、これはきわめて微妙《びみよう》な用事なのだから、どうでもひとりで行ってくると主張します。それにたいしてスタンガスンがなんと答えたか、それは聞きとれませんでしたが、ドレッバーは急に怒《おこ》りだして、お前は金で雇ってある秘書にすぎないのだから、主人にたいして指図がましいことをいうなとののしりました。そういわれるとスタンガスンはいやいやあきらめて、終列車までに帰ってこられなかったら、ハリデイ特定《プライベイト》ホテルで落ちあおうとだけ申しました。ドレッバーは、なあに十一時までにはかならずホームに戻《もど》るさといいながら、駅を出てゆきます。
待ちにまった機会が、ついにやってきたのです。敵はもう私の手中にあります。ふたりいっしょだと互《たが》いに助けあうということもありますが、ひとりずつならこっちの思うがままです。
といって、私はあんまり軽率《けいそつ》なことはしません。計画はちゃんとできています。なにがため誰《だれ》の手で殺されるのかを、十分思い知るだけの余裕《よゆう》を敵にくれてやるのでなければ、復讐《ふくしゆう》の本懐《ほんかい》をとげたとはいえません。ですから私は、私を苦しめた男にたいして、旧悪が報いてきたのであると知らせることのできるように、あらかじめ計画を立てておいたのです。
たまたまその数日まえのある日、ブリクストン街へ空家を見にいった客が、私の馬車のなかへその家の鍵《かぎ》をおき忘れていったことがあります。その晩とりに来たので鍵は返しましたが、そのあいだに私は型をとって、ちゃんと合鍵を作らせました。これでこの大都会のなかで、すくなくとも一カ所だけは、誰にも邪魔《じやま》される心配のない場所ができたわけです。いまはどうしたらドレッバーをその家までおびき出せるか、それだけが残っている問題でした。
ドレッバーは歩いてゆくうち、二、三|軒《げん》飲み屋にはいりました。なかでも最後の家では三十分ちかくも費やしましたが、出てきたのを見るとふらふら千鳥足でしたから、かなり酔っていたのでしょう。ちょうど私のまえに辻馬車《つじばしや》が一台いましたので、彼はそれを呼んで乗りました。私はぐっとその馬車に近く、ほとんど馬の鼻面《はなづら》がむこうの馭者から三フィートくらいのところまで寄せて、尾行をつづけました。
ウォータールー橋をわたって、まっすぐに二、三マイルも行きますから、どこへ行くのかと思っていると、驚いたことには今日まで下宿していたトーキー・テラスまできてしまいました。なんでいまさら帰ってきたのか、さっぱり見当もつきませんけれど、とにかく下宿から百ヤードばかり手まえで馬車をとめて、様子を見ていてやりました。
彼は下宿へはいり、馬車はどこかへ行ってしまいました。――すみませんが水を一|杯《ぱい》ください。話をしているうちに口がかわいてきました」
私はすぐにコップを渡《わた》してやった。すると彼はぐっとそれを飲みほして、また話しつづけた。
「ああ、これで楽になりました。――そこでじっと待っていますと、十五分ばかりして家のなかが急にそうぞうしく、取っ組みあいでもしているらしい物音が聞えてきたと思うと、ふいに玄関《げんかん》がさっとあいて、ふたりの男が現われました。ひとりはドレッバーですが、あとのひとりは見たこともない若い男です。初め出てきたとき、その男はドレッバーの襟首《えりくび》をつかんでいましたが、石段の上までくると、どんと突《つ》いておいて蹴《け》とばしたので、ドレッバーは往来のまん中までころがってゆきました。そのあとから若い男は太い棒を振《ふ》りながら、『やい畜生《ちくしよう》! 無垢《むく》な娘を侮辱《ぶじよく》すると承知しないぞ!』と罵声《ばせい》を浴びせかけました。
ほんとうにムキになって怒っていましたから、あいつがあわててよろめきながら逃げださなかったら、若ものは本気で、その棒でドレッバーを殴《なぐ》り倒《たお》したろうと思います。ドレッバーは角まで逃げてきて、そこに私の馬車のいるのを見て、大急ぎでとび乗り、『ハリデイ特定《プライベイト》ホテルまでやってくれ』と申しました。
ドレッバーのやつが私の馬車にとびこんできたのを見て、私はうれしさで胸がわくわくしてきました。そのために、いまがいま動脈瘤が破裂するんじゃないかと、それが心配になってきたほどです。それでゆっくり馬を歩かせながら、さしあたりどうするのがいちばんよいか、思案しました。このままどこか郊外《こうがい》の寂《さび》しい通りへでもつれていって、そこで最後の会見をするというのも一つの方法です。でほとんどそれにしようと決心しかけたとき、彼のほうから問題の解決策をさずけてくれました。
それはあいつがまたしても酒がのみたくてたまらなくなり、通りかかったとある酒場のまえで馬車をとめろと命じたのです。そうして私にそとで待っているようにいいおいて、彼はその酒場へはいってゆきましたが、店が看板になるときまでそこに居つづけて、出てきたときには泥《どろ》のように酔っていました。私はいよいようまい具合だと思いました。
だが私がドレッバーを残虐《ざんぎやく》な方法で殺したがっていたのだなどと、どうか考えないでください。もっともそういう無情な殺しかたをしてこそはじめて、厳正公平が得られるのだとは思いますが、私にはそんなひどい殺しかたはできません。それどころかずっと以前から、もしむこうが望むなら、死なずにすむチャンスだけは与《あた》えてやるつもりだったのです。
アメリカを放浪《ほうろう》していた時代、私はずいぶんいろんな仕事をやりましたが、そのなかにあるときヨーク大学の研究室の門番|兼《けん》掃除夫《そうじふ》をつとめたことがあります。
ある日教授が毒物学の講義のときに、アルカロイドとかいうものを学生に示して、これは自分が南アメリカの原地人の毒矢から取ったものだが、ごく微量でも人を即死《そくし》させるほどの猛毒《もうどく》だと説明しているのを聞きました。私はそのアルカロイドとかのはいっている壜《びん》を見覚えておいて、誰もいなくなってからすこしばかり手に入れました。
私は元来薬の調合なんかわりに得意なほうですから、このアルカロイドをまぜて、水にとける小さな丸薬を作り、べつに毒を入れないで作ったおなじようなのと一つずつ、小さな箱《はこ》に入れて持っていました。いよいよ時機が到来《とうらい》したときは、その箱をだして、二つに一つをまず相手に選ばせ、残ったほうを私がのむつもりでいたのです。この方法は、ハンカチに包んだピストルを射《う》ちあったりするよりも恐《おそ》ろしく、それでいて音もしません。
で、それ以来私は丸薬の箱をいつも肌身につけていましたが、とうとうそれを使うときがきたのです。それは十二時もすぎて、もう一時にちかいころでした。ざあざあ吹《ふ》きぶりのひどい晩で、からだはみじめに濡《ぬ》れそぼって気味の悪いほどでしたが、内心はわけもなく歓喜の声をあげて、雀躍《こおどり》したいほどのうれしさで私は胸もいっぱいでした。
みなさんのうちでどなたか、二十年間|夢寐《むび》にも忘れず心に願っていたことが、急にかないそうになったという経験をおもちのかたがあったら、必ずそのときの私の胸中がおわかりくださるでしょう。
私は気を落着けるため葉巻に火をつけて、ゆっくり一服|煙《けむり》を吐《は》きだしてみました。けれどもその手はぶるぶる震《ふる》え、こめかみはずきずきしつづけます。馬車を馭《ぎよ》してゆくうちも、ジョン・ファリア老人やかわいいルーシイの暗闇《くらやみ》のなかでにっこりしている顔が、こうしてみなさんの顔を見るのとちっとも変りないくらい、はっきり見えました。
ふたりはいつも馬車の左右にいて、私のさきへさきへと立ち、とうとうブリクストン街のあの家へ行きつくまで先導してくれました。
空き家に着くとあたりには人っ子ひとり見あたらず、雨の音しか聞えるものとてもありません。馬車の窓からのぞいてみるとドレッバーは、酔いつぶれてだらしなく眠《ねむ》っています。私は腕《うで》をゆすぶって、
『さあ、おりるのですよ』といいました。
『うん、よしよし』
彼《かれ》はおそらく初めに命じたホテルへ着いたと思ったのでしょう。そういっておとなしく馬車をおり、私について庭のほうへはいってきました。まだすこしふらふらしているので、私が引き添《そ》うようにして歩いていったのですが、どうにか玄関まできたので、ドアをあけて表の間へ彼をつれこみました。このときもルーシイ父娘《おやこ》はずっと先頭にたって、案内役をつとめてくれました。いえ、たしかにそうなんです。
『ばかに暗いな』やつはがたがた足ぶみしながらいいました。
『じき灯火《あかり》がつきます』私はマッチをすって、持っていた蝋燭《ろうそく》に火をつけてから、
『おい、イナック・ドレッバー!』と呼んで、蝋燭をさしつけた自分の顔を、ぬっと鼻さきへつきつけてやりました。
『おれが誰だかわかるか?』
ちょっとのま彼はもうろうたる酔眼《すいがん》で私を見つめていましたが、みるみるその眼《め》に恐怖《きようふ》がうかんで、顔ぜんたいを痙攣《けいれん》させました。私が誰だかわかったのにちがいありません。たちまち顔いろがまっ青になり、よろよろと倒れそうになりました。顔には冷汗《ひやあせ》がうかび、歯の根のがたがたいうのさえ聞えます。
その有様を見て私は入口のドアにもたれ、大声をあげて心ゆくまで笑ってやりました。復讐がどんなに心地《ここち》よいものであるかは、これまでわかっていたつもりですが、こうまで心の満足が得られるものだとは、夢《ゆめ》にも期していなかったことでした。
『この犬畜生め!』私は思うさま罵倒《ばとう》してやりました。『ソルトレークから始めて、サンクトペテルブルクまでもあとを追っていったおれだ。今までは、いつもいつも一歩の差でとり逃《にが》していたが、もう逃すことじゃない。少なくともお前の逃亡《とうぼう》の旅だけは、今日かぎりで終りになるのだ。お前かおれかどっちかが、あすの太陽をおがめないことになるのだからな』
こういっているうちにも、やつはますます隅《すみ》のほうへ尻《しり》ごみしてゆきました。たしかに私のことを狂《くる》っていると思っている様子です。じっさいそのときの私は気も狂っていました。こめかみの血管はどきんどきんと、ハンマーでもうつほど波うっています。あのとき鼻血がさっと出てくれなかったら、きっと発作《ほつさ》を起こして、その場にぶっ倒れていたのにちがいないと、今でも思うほどです。
『お前はいま、ルーシイ・ファリアのことをどう思っているのか?』私はドアにぴんと錠《じよう》をおろして、その鍵をあいつの鼻さきで振りながらいってやりました。『天罰《てんばつ》のくるのはおそかったが、とうとうお前を追いつめてしまったな』
ドレッバーのやつ腑甲斐《ふがい》なく唇《くちびる》をふるわしているだけです。あいつ命乞《いのちご》いをしたくも、むだだと知っていたのでしょう。
『お前は私を殺す気か?』とやつは口ごもりながらいった。
『殺すんじゃない。狂犬《きようけん》を殺す話をしてるんじゃない。父親を惨殺《ざんさつ》しておいて、おれのかわいい人をひきずって帰り、いまわしくも恥《はじ》しらずな後宮へおしこんだお前は、いったいあの人をかわいそうだと思ったことがあるのか?』
『あの女の父親を殺したのは私じゃない!』彼は叫《さけ》んだ。
『だが彼女《かのじよ》の無垢な胸を引き裂《さ》いたのはお前なんだ!』私は例の箱をつきつけて喚《わめ》いてやりました。『神さまにどっちが正しいかのお裁きを願おう。さ、このうちどっちでも、好きなほうを一つ飲め! 一つは死で、一つには生がある。おれはお前の残したほうを飲む。この世に正義があるものか、それとも単なる運だけに支配されているものなのか、これでわかるのだ』
やつは縮みあがって、大きな声をたてたり、助けを乞うたりしましたが、私はナイフをだして咽喉《のど》もとへさしつけ、とうとう丸薬を飲ませてやりました。残ったのを私も飲みました。
ふたりはむかいあわせに一分間あまり黙《だま》ってつっ立ったまま、結果いかにと待っていました。どっちが死に、どっちが生きのこるかの緊張《きんちよう》した瞬間《しゆんかん》です。
いよいよ最初の激痛《げきつう》がきて、毒は自分が飲んだ丸薬のほうにあったと知ったときのドレッバーの顔は、死んでも忘れられますまい。
私はそれを見ると大きな声で哄笑《こうしよう》し、ルーシイの指輪をだして彼の眼のまえへつきつけてやりました。だがそれはほんの瞬間のことで、アルカロイドの作用は非常に急速ですから、私のまだなにもいわないさきに、苦しそうに顔を痙攣させ、両手で虚空《こくう》をつかみ、ふらふらっとしたかと思うと、のどをしぼるようなうめき声をあげどさりと倒れてしまいました。足でからだを仰《あお》むきにして、胸に手をあててみましたが、もう鼓動《こどう》はありません。とうとう死んでしまったのです!
私の鼻血はまだ流れるほど出ていましたが、べつに気にもなりませんでした。どうしてその血で壁《かべ》に字を書く気になったのか、自分ながらさっぱりわかりません。たぶん警察の捜査《そうさ》方針を誤らせてやろうという悪戯《いたずら》っ気でもおこしたのでしょうか――というのは、そのとき私は気もうきうきと、上機嫌《じようきげん》だったのですから。
まだアメリカにいるころ、ニューヨークでドイツ人が殺されて、死体の頭の上のところに、|RACHE《ラツヘ》という字の書いてあったことがあって、秘密結社のしわざにちがいないと、当時新聞がやかましく騒《さわ》ぎたてていたのを思いだしたのです。ニューヨークの人を惑《まど》わせたくらいなら、ロンドンの人だって困るだろうというわけで、指に自分の血をつけて、いい加減のところへあの字を書いておいたのです。
それからあの家を出て馬車のところへ行ってみると、いい具合に誰も見ているものはなくて、あいかわらず雨と風が荒《あ》れているばかりです。すこし馬車を走らせてから、ふと、いつもルーシイの指輪を入れておくポケットに手をやってみますと、そこに指輪がありません。
ほかのポケットも調べましたが、どうしても見あたりませんので、なにしろ彼女のたった一つの形見ですから、こいつはたいへん、ことによったらドレッバーの死体にかがみこんだときにでも、落したのかもしれないと思って、すぐひき返してゆきました。馬車を横町へ入れておいて、あの指輪をなくすくらいなら、どんな危険でも冒《おか》すつもりでしたから、大胆《だいたん》にあの家まで歩いていったのです。すると門のところでばったり、なかから出てきた巡査《じゆんさ》に会いましたので、とっさにぐでんぐでんに酔っているふりをして、どうやら怪《あや》しまれるのを免《まぬ》かれました。
これがイナック・ドレッバーの死の真相です。このうえはもう、スタンガスンにたいしておなじことをして、ジョン・ファリアの恨《うら》みを晴らしさえすればよいのです。スタンガスンはハリデイ特定《プライベイト》ホテルにいることがわかっていますから、いちにちそのへんに張りこんでいましたが、いっこうに出てきません。ドレッバーが姿を見せないので、ことによると何かあったと感づいたのかなとも思いました。スタンガスンはじつに利口で、いつも油断のない男です。だが家から出さえしなければ、私を避《さ》けられると思っているとしたら、とんでもない見当ちがいです。
私はどの窓があいつの寝室《しんしつ》か、じきに探《さぐ》りだしてしまいました。そして翌朝はやく、夜の明けきらぬうちに、ホテルの裏通りにおいてあった梯子《はしご》を利用して、あいつの部屋へはいりこみました。すぐにたたきおこして、ずっと昔《むかし》人の生命を断《た》ったその責《せめ》を負うべきときがきたのだといってやりました。そしてドレッバーの最期《さいご》をも話してきかせ、おなじように二つの丸薬を出して、一つを選べと命じました。
すると彼はせっかく与えられた生きうるチャンスをとらえようとはしないで、ベッドからとびおりるなり、私の咽喉《のど》をねらって武者ぶりついてきました。それで自分を護《まも》るためやむを得ず私は心臓を刺《さ》しました。しかしいずれにしても神は、罪に汚《けが》れた手には毒の丸薬のほうしかお取らせにならなかったでしょうから、結果はおなじだったのです。
もう話すことはほとんどありません。それに、すっかり疲《つか》れてしまいましたから、ちょうどいいのです。
あとはアメリカへ帰るだけの旅費をためるつもりで、あいかわらず馭者をやっていたところ、きょう馬《ば》車溜《しやだま》りで待っている私のところへきたならしい小僧《こぞう》がやってきて、ジェファスン・ホープという馭者がいたらベーカー街二二一番Bの旦那《だんな》がお呼びだというので、私はべつに怪しみもせず出かけたところ、気がついた時にはこの若い旦那にいきなり手錠をかけられちまったというわけです。まったくすばらしいお手なみでしたよ。
これで私の話はおしまいです。みなさんはさぞ私を人殺しだとお見さげでしょうが、私はこれでも皆《みな》さんとご同様に、正義のために働く役人のひとりだと考えております」
この男の話があまりにスリルに富み、それを話す態度があまりに感銘《かんめい》ふかかったので、私たちは息もころして聞きいった。ふだん犯罪談などは耳にたこのできるほど聞きあきている本職の刑事《けいじ》たちでさえ、この話にはひどく興味をそそられたようだった。話がおわっても、しばらくは口をきくものもなく、ただレストレードが速記に補筆する鉛筆《えんぴつ》の音だけが、さらさらと聞えていた。しばらくしてホームズがまずその沈黙《ちんもく》をやぶっていった。
「わからないことを一つだけききたいが、新聞広告を見て私のところへ指輪をとりにきたおまえの相棒は、なにものかね?」
ジェファスンはホームズにおどけた表情でウインクしてみせながら、
「自分の秘密ならかくしゃしませんが、他人《ひと》さまの迷惑《めいわく》になることはねえ。あの広告を見たとき、罠《わな》ではあるまいか、それともほんとに誰かがあの指輪をひろったのだろうかと、だいぶ迷いました。それを友だちが進んで見にいってくれたのです。どうですか? あの男はなかなかうまくやったでしょう?」
「まったくうまかったよ」ホームズは心からの感嘆《かんたん》を惜《お》しまなかった。
「それでは皆さん」警部はもったいぶって、「法規上の手続きは履《ふ》まなければなりません。木曜日に判事の調べがありますから、そのときは皆さんにもご出頭を願うことになるでしょう。それまでは私が責任をもって、この男の身柄《みがら》を預かります」
警部はそういってベルを鳴らし、やってきたふたりの看守に、ジェファスン・ホープをつれ去らせた。私はホームズとつれだってそこを出て、ベーカー街へと辻馬車《つじばしや》を駆《か》ったのである。
第十四章 結末
木曜日に法廷《ほうてい》へ出頭しろという通告ははたしてあった。だがその木曜日がきても、われわれは証言をしにゆく必要はなくなったのである。問題はより高い審判者《しんぱんしや》の御手《みて》に委《ゆだ》ねられ、その厳正な裁きをうけるために、ジェファスン・ホープがその審判廷へと召《め》されたからである。逮捕《たいほ》されたその日の晩のうちに、彼は動脈瘤《どうみやくりゆう》が破裂《はれつ》して、翌朝みると、臨終にあたってその有効につかいえた生涯《しようがい》を回想するひまがあったのか、安らかな微笑《びしよう》さえうかべて、独房《どくぼう》の床《ゆか》に冷たく横たわっていたのである。
「グレグスンとレストレードは、ホープが死んだのでさぞくやしがっているだろうよ」その翌晩話の出たとき、ホームズはこういった。「いま死なれたんじゃ、先生たちのすばらしい大々的宣伝の機会はどうなると思う?」
「だってこの犯人を捕《とら》えるには、あのふたりなんかなんの役にもたたなかったんじゃないか?」私はいった。
「世のなかというものは、実際になにを為《な》したかの問題じゃない」ホームズはにがにがしげにいい返した。「肝心《かんじん》なのは世間の人に、なにかを為したと信じさせることだけだ。でもまあいいや」とすこしまをおいて、こんどは気をかえ、前より快活な調子でつづけた。「こういう事件なら、なにはおいても僕《ぼく》は手がけたいね。記憶《きおく》をくってみても、これ以上の事件はちょっと思いだせないくらいだからね。単純ではあるが、これにはいろいろと貴重な教訓が多かった」
「単純なんだって? これが?」私は思わず大声を出した。
「そうさ。単純というよりほかないね」ホームズは驚《おどろ》く私を見て微笑しながらいった。「その証拠《しようこ》には、すこしばかり平凡《へいぼん》な推理をやっただけで、僕はなんの助けも借りずに、わずか三日で犯人をおさえたじゃないか」
「それはそのとおりだけれど……」
「いつかも話したとおり、異常な事がらというものは手がかりにこそなれ、決して障害になるものじゃない。こうした事件を解くにあたって大切なのは、過去にさかのぼって逆に推理しうるかどうかだ。これはきわめて有効な方法で、しかも習得しやすいことなんだが、世間じゃあんまり活用する人はない。日常生活のうえでは、未来へ推理を働かすほうが役に立つから、逆推理のほうは自然なおざりにされるんだね。総合的推理のできる人五十人にたいして、分析《ぶんせき》的推理のできる人はせいぜいひとりくらいのものだろう」
「どうもはっきりのみこめない」
「のみこめなかったろうね。じゃもっとわかるように説明してみよう。あるできごとを順序を追って話してゆくと、多くの人はその結果がどうなったかをいいあてるだろう。彼らは心のなかで、個々のできごとを総合してそこからある結果を推測するのだ。
しかし、ある一つの結果だけを与《あた》えられて、はたしてどんな段階をへてそういう結果にたち至ったかということを、論理的に推理できる人は、ほとんどいない。これを考えるのが僕のいう逆推理、すなわち分析的推理なんだ」
「なるほど。それでわかった」と私はいった。
「そこでだ、この事件がすなわち結果だけ与えられて、そこからあらゆることを究明しなければならない事件の一つだ。これを解くのに僕がどんな推理の段階をふんだか、それを説明しよう。
まず最初から話すと、僕は頭のなかをまったく白紙にして、あの家へ歩いていった。したがって道路から調べはじめたわけだ。ところが、いつかも話したとおり、馬車のとおった跡《あと》がはっきり残っているのを見た。これをよく調べてみると、夜のあいだに馬車がきたのだということがわかった。しかもその馬車は、車輪のあいだが狭《せま》いところから、自家用車ではなく辻馬車だったことも確かめた。ロンドンで普通《ふつう》の四輪の辻馬車は、紳士《しんし》の自家用の一頭|曳《び》きの箱馬車《はこばしや》にくらべると、ずっと幅《はば》がせまいからね。
これが最初の収獲《しゆうかく》だった。それから門のなかへはいってゆくと、庭の路《みち》が偶然《ぐうぜん》にも、足跡《あしあと》をとるにはもってこいの粘質土《ねんしつど》でできていた。むろんあそこは君の眼《め》には、ただの踏《ふ》みあらされた泥路《どろみち》としか映らなかったろうが、僕の訓練された眼で見れば、一つ一つの足跡にそれぞれの意味があった。
探偵《たんてい》学のうちでも、この足跡の研究くらい大切でありながら、忘れられているものはあるまい。さいわいにして平素から僕はこれに重きをおいて、第二の天性となるほど訓練をつんでいるから、巡査の大きな足跡だらけのなかから、最初にそこを歩いたふたりの男の足跡を見つけるのに成功した。そのふたりのほうが巡査よりもさきに歩いているというわけは、巡査の大きな足跡でところどころ踏み消されているので容易にわかったのだ。これで第二段の事実がわかったことになる。すなわち、夜の客はふたりで、ひとりは背のたかい男――これは歩幅から推定したのだが――もうひとりは、小さくて上品な靴《くつ》の跡からみて、流行の服装《ふくそう》をした男だということがわかった。
家のなかへはいってみると、この最後の推定のあたっていることが立証された。流行の服装の男が、そこに倒《たお》れていたのだ。したがって、これがもし他殺だとすれば、背のたかい男のほうこそ犯人ということになる。
死体には外傷はなかったが、恐怖《きようふ》の表情から、これは死ぬまえに自分が殺されるのを悟《さと》ったのだということがわかった。心臓|麻痺《まひ》その他の突発《とつぱつ》的な自然死の場合は、死体に恐怖の表情が残っていることは、ぜったいにないからだ。
死体の口を嗅《か》いでみると、かすかに酸《す》っぱい臭《にお》いがした。そこで、これは毒を無理に飲まされたのだなと断定した。無理にというのはその顔に現われている憎悪《ぞうお》と恐怖がそれを裏がきしてくれた。
僕は消去法によって、この結論を得たのであって、これ以外の仮説ではどうしても事実と符合《ふごう》しない。といってこれは前例のない考えかたじゃ決してないのだ。毒を強制的にのました事例は、犯罪史上では目新しいことじゃない。オデッサのドルスキー事件、モンペリエのルトリエ事件なんか、毒物学者なら誰でも知っているだろう。
ところで、次は殺害の動機いかんという大問題だ。現金も時計もなくなっていないところを見れば、物欲からの犯罪でないことはわかる。では政治的な犯行か、または女性関係か? これが僕のさんざん考えさせられた問題だった。僕はどちらかというと、最初から女性関係とにらんでいた。政治関係の刺客《しかく》なら、できるだけ手ばやく目的を達して逃走《とうそう》しようとする。ところがこの犯行は、急がず悠々《ゆうゆう》と計画的に行われている。行われているばかりか、犯人はながいこと部屋にいたらしく、部屋中を足跡だらけにしている。
こうした秩序《ちつじよ》だった復讐《ふくしゆう》は、政治的な関係でなく、私怨《しえん》にもとづくものとしなければ辻褄《つじつま》があわない。そのあとで壁《かべ》の文字を発見するにいたって、僕はいよいよ所信をつよめた。あれが一種の偽装《ぎそう》だったことは、ほとんど疑いの余地がなかった。そのうえ指輪が発見されるにおよんで、問題は解決されてしまった。指輪は被害者《ひがいしや》に、死んだか消え失《う》せた女を思いださせる材料として、犯人が用いたものにちがいない。
そこで僕はグレグスンに、クリーヴランドへの問いあわせ電報には、ドレッバーの経歴上何か特定のことについての、調査を依頼《いらい》したのかとたずねた。するとグレグスンは君も聞いていたとおり、依頼しないという返事だった。
つぎに僕は念いりに部屋を調べて、犯人の身長のたかいことをいよいよ確かめ、トリチノポリ葉巻をやることだの、爪《つめ》のながいことだのを知った。床の上に流れていた血が、現場に格闘《かくとう》のあとのなかったところから、犯人の鼻血だとは推定していたが、よく調べてみると血の落ちている場所や落ちかたが、犯人の足跡にぴたりと符合していた。興奮のあまりあれほど鼻血をだすとは、よくよく多血質の男にちがいない。そこで僕は多少山をかけて、犯人はたくましい赤ら顔の男だといっておいたところ、結果は僕の判断の正しかったことを証明してくれた。
家を出てから僕は、グレグスンが怠《おこた》っていた仕事を片づけた。クリーヴランドの警察署長に電報して、イナック・ドレッバーの結婚《けつこん》に関する点だけを知らせてくれと依頼したのだ。
回答はきわめて決定的だった。それによればドレッバーはすでに、昔《むかし》の恋敵《こいがたき》のジェファスン・ホープという男からつけ狙《ねら》われているからと、保護を願い出ているばかりでなく、そのホープは目下《もつか》ヨーロッパへ渡《わた》っているはずだというのだ。この回答をうけとって、僕はいよいよ解決の鍵《かぎ》を握《にぎ》ったと思った。あとは犯人を捕えることだけだ。
僕はまえから、ドレッバーといっしょにあの家へはいっていった男は、かならずあの馬車を馭《ぎよ》してきた男でなければならないと考えていた。それというのが、道路にのこっている轍《わだち》のあとや馬蹄《ばてい》のあとで、馬がぶらぶら勝手にそのへんを歩きまわっていたことがわかったが、人がついていればそういうことのあるはずはないからだ。
馬車を路傍《ろぼう》にほうりだしておいて、馭者はいったいどこへ行っていたのか? 家のなかへはいっていたとしか考えられないじゃないか。では馭者はいわゆる第三者だったのか? いやしくも正気の人間が、裏ぎるにきまっている第三者の目の前で、このように念入りな犯行を演ずるとはおよそ考えられない。最後にもう一つ、ロンドンでもし誰かをつけまわろうとしたら、辻馬車の馭者になるくらい便利な方法はあるまい。
以上のような考察から、僕はジェファスン・ホープはロンドンで辻馬車の馭者になっているにちがいないと確信するにいたったのだ。ところで、ジェファスンは辻馭者であるとして、この犯行後にそれをやめたと考えられる理由は一つもない。のみならず彼の立場になってみると、急に馭者をやめたりしては、かえって怪《あや》しまれるから、すくなくとも当分はその職に留《とどま》っているだろう。
それからまた、彼《かれ》が変名を使っていたろうと考えられる理由もさらにない。もともと本名でさえ知るもののない土地へきて、変名しなければならない理由がどこにあろう?
そこで僕は浮浪児《ふろうじ》の探偵隊を動員して、ロンドン中の辻馬車屋を組織的に調べさせ、とうとう目ざす男をつきとめたのだ。彼らがいかに巧《たく》みに活動したか、そして僕がいかに敏捷《びんしよう》に彼らの報告を利用したか、それらの点は君の記憶に明らかだろう。
スタンガスンが殺されたのは、まったく予期しないことでもあったが、いずれは防ぎきれないできごとだったろう。彼が殺されたため、僕は例の丸薬を手に入れることができたが、ああいうものの存在はまえから推定していたのだ。これで事件ぜんたいが、一点の切れ目も疵《きず》もないりっぱな一本の論理的|連鎖《れんさ》になっているのがわかったろう?」
「驚嘆《きようたん》すべきものだ!」私は思わず叫《さけ》んだ。「君の功績はひろく公表して、一般《いつぱん》に認められてしかるべきだろう。事件の記録をかならず発表するのだね。君がしないというなら、僕がかわってペンをとってもいい」
「発表したきゃ、好きなようにするさ。だがこれを見たまえ」と一枚の新聞を私にわたしながらいった。「ほら、ここを」
それはその日のエコー紙で、彼の示した場所には、すでにこの事件のことがつぎのように報道されていた。
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イナック・ドレッバー氏およびジョゼフ・スタンガスン氏殺害の容疑者、ジェファスン・ホープの急死によって、われわれのセンセーショナルな興味は失われた。これで事件の内容はおそらく永遠の謎《なぞ》となったわけだが、わが社が確かな筋から聞いたところによれば、事件は恋愛《れんあい》事件とモルモン教とにからまるふるい宿怨の結果だという。被害者はいずれも青年時代にモルモン教徒であったらしく、いまは死亡した容疑者ホープもソルトレーク市の出身であるという。
いずれにしても本件はわが警察力の効果|偉大《いだい》なることを著《いちじる》しく立証したものというべく、諸外国にむかって、各自の宿怨はこれを自国内で解決するのが得策であって、イギリス領土内に持ちこんで遂行《すいこう》しようとするのは最も拙劣《せつれつ》不利であることを教えるものであろう。
本件犯人がかくも敏速に逮捕《たいほ》せられたのは、まったくグレグスン、レストレード二探偵の功績であることは公然の秘密である。逮捕はシャーロック・ホームズとかいう人物の家で行われたというが、同人も素人《しろうと》探偵としては多少才能があるそうだから、両氏のような名刑事の指導をうければ、将来ある程度まで技能をみがきうるであろう。両刑事の功績にたいしては、近くなんらかの形でこれを表彰《ひようしよう》することになっているという。
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「どうだい、僕が初めからいっているとおりだろう」シャーロック・ホームズは笑いながらいった。「僕らの緋色《ひいろ》の研究の成果は、ただ彼らの表彰ってことになるだけさ」
「いいじゃないか」と私は答えた。「僕は事件をみんな日記につけているから、やがて世間の人に発表してやるよ。それまではまあ、成功したんだという意識だけで満足しておきたまえ。――世《*》間の奴《やつ》らは我《われ》を非難する。だが我はわが家に秘した多くの財宝を眺《なが》めつつ自らを讃《たた》えよう【訳注 ホラチウス】といったローマの守銭奴《しゆせんど》みたいにね」
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解説
[#地付き]延原 謙
ここにおさめたのはホームズ物語の第一作たる A Study in Scarlet の全訳である。例によって原題名は、おやなんという意味だろうと首を傾《かたむ》けさせる。
作者コナン・ドイルのことはこの文庫版全集のほかの巻の解説にも書いたので重複するけれど、これはホームズ物語の第一作であるから簡単に記《しる》しておく。彼《かれ》は一八五九年にスコットランドのエディンバラで平凡《へいぼん》な役人の子として生れた。伯父《おじ》や祖父には当時名をなした政治|漫画家《まんがか》があった。長じてエディンバラ大学の医科に学んだが、家庭は弟妹《ていまい》が多く生活が苦しかったから、彼は在学中近ごろの言葉でいえば開業医の助手としてアルバイトもしたらしい。
ドイルがこれを書いたのはたぶん一八八六年のことで、八一年に学位をとった彼は、当時独身で、ポーツマス郊外《こうがい》のサウスシイというところで開業していた――というと体裁《ていさい》はよいが、診察室《しんさつしつ》だけは一応|飾《かざ》りつけたものの、あとは金がないので一歩|奥《おく》へはいってみるとガランとして何もなく、空箱《あきばこ》が二つおいてあるだけ、その一つに腰《こし》かけ一つを食卓《しよくたく》として水でパンを食べ、ありあまる精力をもてあまして毎晩数マイルも散歩をつづけるといった生活をしていたときのことである。
このあいだのことは、一九二四年に一冊にまとめて出版した Memories and Adventures という自叙伝《じじよでん》に詳《くわ》しく出ているのだが、私も二十年まえに卒読しただけで、戦争でその本を失い、英米でもいまは絶版になっているらしく、気をつけているけれどその後手にはいらないので、ここに詳述《しようじゆつ》できないのは残念である。〔編集部註 Memories and Adventuresは、一九六五年に「わが思い出と冒険」(新潮文庫、延原謙訳)として刊行された〕
ドイルがそういう苦しい「開業」生活中に、しばしば思いだしたのは恩師ベル博士の特異な人格で、そこからついにシャーロック・ホームズという人物を生みだしたことは有名でもあり、ドイルが自身前記自伝のなかに書いているのだから、まちがいはない。ただはじめはそんな名ではなかったのを、いろいろ考えた末、シャーロック・ホームズということにしたのだという。
ドイルがこの作を書いたのは、八六年だろうといった。実際発表されたのは、八七年なのだが、このあいだ、どこかの依頼《いらい》によって書いたのではないから、よくあることだが、あちこちの出版社へ送っては返されしていたわけなのである。それがついにBeeton's Christmas Annual に採用されたわけなのである。この年刊がどんなものであるか、不幸にして私は知らない。
さて相当自信のあるこの作が世に出たのに反響《はんきよう》は全くなかった。それでドイルは失望して、もうホームズ物は書くまいと思っていたのだが、二年後にアメリカのリピンコット誌の編集者がこれに眼《め》をつけ、前金まで添《そ》えて新作を依頼してきた。これが一八九〇年二月号のリピンコット誌に出た『四つの署名』である。(だからアメリカ人は、シャーロック・ホームズを認めて世に出したのはアメリカ人だと威張《いば》る)ところが一八九一年一月号から創刊されたストランド誌の編集者ジョージ・ニウンズがこれに目をつけ、読切り短編を依頼し、同年六月号から十二編|掲載《けいさい》した。これが『冒険《ぼうけん》』なのであって、以後長短編ともホームズ物語はすべてストランド誌に発表された。
さてこの作であるが、ワトスンがアフガニスタンで左肩《ひだりかた》に、動脈をかするほどの銃創《じゆうそう》をうけたことは、開巻第一に本人が書いており、(少し読みすすむと、不自由なのが左手であることをホームズが認めている)本人のいうことだから、まちがいないはずであるのに、第二作『四つの署名』からは、負傷したのが脚《あし》であることに急変しており、以後ずっとそうなっている。これはドイルが第一作のことを忘れたのか、それとも脚にしないと何か不都合なことでもあるのか、むろん小説だからどっちでもかまわないことだけれど、私にはわからない。
つぎに、この巻の第三章には、ホームズがグレグスンに向って、アメリカへ電報で問い合せをしたかときくところがある。グレグスンがスタンガスンのことを訊《き》いてやったというと、'Nothing else? Is there no circumstance on which this whole case appears to hinge?…'とホームズがいうのである。
ところが最終の「結末」の章のなかで(訳書の百九十七ページ)ホームズはこのときのことを述べて、「ドレッバーの結婚《けつこん》に関する点だけを知らせてくれ」と電報したといっている。どうもこれは作者が、あるいはホームズが、少しフェアプレーを欠いているように思われるがどうであろうか? グレグスンはまだ恋愛《れんあい》関係とまでは気がついていないのだから、それに向ってもっと大切なことというだけで、結婚関係とはっきりいわないのは、少なくとも独善のような気がする。ここでグレグスンがそうと知ってしまっては、小説になるまいけれど、第三章ではもう少しきわどいところまでいい、グレグスンとともに読者へも挑戦《ちようせん》したら、もっとすばらしかったろうと惜《お》しまれる。――私もどうやらシャーロキアンになってしまったらしい。
[#地付き](一九五三年五月)
改版にあたって
この度《たび》、活字を大きく読みやすくするに当たり、新潮社の意向により外国名、外来語のカタカナ表記の正確、統一を図《はか》ることになった。訳者が一九七七年に没《ぼつ》しているため、訳者の嗣子《しし》である私がその作業に当たったが、現代においてはあまりに難解な熟語や、種々の古風すぎる表現も多少改め、不適当と思われる訳文を修正した。
あくまでも原文に忠実にを基本に置き、物語の背景であるヴィクトリア朝の持つ雰囲気《ふんいき》を伝える程度の古風さは残したいと考えつつ、もとの訳文の格調を崩《くず》さぬよう留意して作業したつもりであるが、読者諸氏の御理解《ごりかい》を得られれば幸いである。
なお、本書の原題名は "A Study in Scarlet" であるが、この"Study"について最近の調査ならびに出版物によると、美術専門用語「習作」と訳すのが正しいことが判明した。しかしながら、日本では「緋色の研究」という題名が定着していること、翻訳小説では必ずしも原書名を用いるとは限らないこと、「緋色の研究」の方が「緋色の習作」よりも探偵小説の題名としては優れているという意見もあること、本書が今回の改版では本シリーズ中最後になってしまったが、既刊の物語にたびたび本書の題名が引用されていることなどから、延原謙の訳のままに私は「緋色の研究」で通すことにしたので、読者諸氏の了解を得たいと思う。
改訂《かいてい》に当たり、訳者の姪《めい》である成井やさ子、および、新潮文庫編集部の協力を得たので、ここに謝意を表する。
[#地付き]延原 展
[#地付き](一九九五年一月)