新潮文庫 ドイル傑作集 [
失なわれた世界
[#地から2字上げ]コナン・ドイル
[#地から2字上げ]延原謙 訳
目次
一 私たちの周囲は勇壮なことだらけ
二 チャレンジャ教授との運だめし
三 宅はとてもがまんのならない人です
四 これぞ世界最大のこと
五 質問! 質問!
六 私は神のむちであった
七 あすは秘境に入る
八 新世界へのピケ
九 誰に予想できたか
一〇 不思議が起こった
一一 この時ばかりは私も勇士
一二 森の中はこわかった
一三 とても忘れ得ぬ光景
一四 これぞ真の征服
一五 この目で不思議を見た
一六 行進! 行進!
解説
[#ここから2字下げ]
登場人物
グレディス・ハンガトン……マローンの愛人
エドワード・D・マローン……デイリ・ガゼット新聞記者
マカードル氏……デイリ・ガゼット新聞社会部長
G・E・チャレンジャ……教授、変りものの動物学者
タープ・ヘンリ……ネーチャ新聞編集局員
メープル・ホワイト……放浪のアメリカ人画家
サマリイ教授……比較解剖学教授
ロード・ジョン・ロクストン……スポーツマンで冒険家
ザンボー……ニグロの巨漢
[#ここで字下げ終わり]
一 私たちの周囲は勇壮なことだらけ
ハンガトン氏といえば彼女の父親だが、およそこれほどへまな人はない。ふわふわとあやふやでだらしがなく、どこまでもお人よしなのだが、鳥でいえばぼたんいんこにでもたとえるか、あくまでもおろかな自己中心に物を考える人物である。もし私がグレディスを捨てるとすれば、こんな人物を義父に持つようになるといういやさしか原因はあるまい。この人は私が週に三回チェストナットへ行くのを、自分に会いに来るのだ、とくに金銀両本位制の話を聞きに来るのだと内心思っているのだと思う――この問題ではいっぱしオーソリティのつもりでいるのだから。
その晩も一時間以上にわたって、悪貨は良貨を駆逐するだの、補助貨としての銀の価値だの、インド貨ルピーの低落だの、|為替《かわせ》の真の基準だのについて、単調な話をくどくどと聞かされた。
「いまかりに、」とよわよわしいながら乱暴に叫んだ。「世のなかの債務がいっせいに、即時返済を要求されたとする。現状のもとではどんなことになると思う?」
私などは当然破産してしまうと自明の答えをすると、彼はいすからとびあがり、それは身についた軽率さだとしかりつけておいて、私のまえではまじめな問題なぞ論じてはいられないと言い、フリーメースンの会合に出席するので、着がえのため部屋を出ていった。
ようやくグレディスと二人きりになれた。運命の瞬間である。その晩はずっと、決死隊に加えられる信号を待っている兵士のような気もちだった。勝利の希望と敗退の恐怖とが胸中を去来した。
彼女は誇りたかく優美な横顔を、赤いカーテンを背景に浮かべて座っていた。なんという美しさだろう! また何という澄ましかただろう! 私たちは友だちだった。それも大の仲よしだった。といっても私としては、ガゼット(新聞の名である―訳者)記者仲間の一人とむすぶような、完全に率直な、あくまで親切な、どこまでも性別を超越した友情以上には出られなかった。女性があまりに率直で、あまりに打ちとけてくるのは、私として本能的にいやであった。男子として気が許さないのである。真の性的感情のはじまりには、おく病と疑惑がつきもので、これはその昔、恋愛にしばしば暴力のともなった不らちな時代からの伝統である。頭をうなだれ、目をそらし、口ごもる声もたどたどしく、たじろぐ姿もなよなよと――これこそ情熱の真のあらわれであって、びくともしない凝視や、率直な返答などはその現われでない。私の短い経験からも、それだけのことは分かっているが、あるいは本能という民族的意識のうちにその遺伝を受けているのでもあろう。
グレディスはあらゆる女性的特質をそなえていた。あるものは冷ややかで酷薄な女だと評したが、それは裏切りである。かすかに日やけした東洋的ともいえる色あいのはだ、まっ黒な髪、大きくてうるんだ目、むっちりとしているがすばらしい口びる――情熱のしるしはそこに現われていた。しかし悲しいかな、その情熱をひき出す秘けつが今にいたるまで分からなかった。しかし結果がどうあろうと、この宙ぶらりんの状態をたちきって、今晩こそ心ゆくまでやるべきだろう。拒絶されるかも知れないが、兄妹づきあいなんかより、はねつけられた愛人のほうがどんなによいか。
ここまで思いつめた私が、重くるしい長い沈黙を破ろうとしたとき、何もかも見ぬくような黒い双眼が私を見まわした。誇りたかき顔に微笑を浮かべて頭をゆっくり振った。
「ネッドさん、わたし予感がしますわ。あなたは結婚の申しこみをなさろうとしていらっしゃるのね。でもそうして頂きたくありませんの。今のままがずっといいのですもの。」
私はいすを少し近づけて、
「それがどうして分かったのですか?」と心から不思議の思いでたずねた。
「女にはいつでも分かるのじゃありません? およそ世間の女で、うっかりしていたため不意うちをくった人があるとお思いになりまして? でもねえ、ネッドさん、私たち、友情の点ではほんとに純で、楽しかったと思いますわ。これを打ちこわしてしまうなんて、ほんとに情ないと思いますわ。若い男と女とがこうやって、ひざをまじえて話しあえるなんて、ほんとにすばらしいとお思いになりません?」
「分かりませんね。グレディスさん、ひざをまじえて話すのだったら、駅長さんとでもできるわけですけれどね。」ここで駅長という名がどうしてとび出してきたものか、とにかくまぎれこんできたので、二人とも笑ってしまった。「僕はそんなことで少しも満足はできませんよ。僕はあなたをこの腕で胸に抱きしめて、そして、そして……」
私がある種の欲望を表現しようとする素振りのあるのを見て、彼女はいすからとびのいた。
「あなたは何もかも台なしになさるわね、ネッドさん。こんなことにならないうちは、すべて美しくて自然だったのに。ほんとに残念よ。なぜご自分をお抑えになれませんの?」
「こんなことをするのも僕の発明ではありません。自然です。愛情なのです。」私は抗弁した。
「そう、もし二人が愛しあっているのなら、話はべつかも知れませんわね。でもわたしは愛してなんかいませんわ。」
「でも愛さなければなりません。その美しさで、心から! おおグレディスさん、あなたは愛するように生まれてきたのです。愛さなければなりません!」
「その時のくるまで待っていなければなりません。」
「でもなぜ僕を愛せないのですか、グレディスさん? 僕の外見からですか? それとも……」
彼女は少しからだをゆるめ、片手を前へのべた。まことに優美な、少し前こごみの姿勢だったが、私の頭を押しもどすようにして、ひどく悩ましげな微笑をふくんでのぞきこんだ。
「いいえ、そうじゃありませんのよ。あなたは生まれつきの気どり屋さんではありません。ですからはっきりと言えますけれど、理由はもっと深いところにありますの。」
「僕の性質にあるのですか?」
彼女はおもおもしくうなずいてみせた。
「どうしたらそれを直せると思います? さあ、そこへ腰をおろして、詳しく話してください。いいえ、腰かけてくれなければ、何も聞きたくありません。」
彼女はけげんそうな目つきで私を見つめたが、全幅の信頼をおかれた以上に私の胸を打った。それをペンで紙に書くのは、なんと野蛮で汚ならしくみえることだろう。要するに私だけに特有の感じなのかも知れない。とにかく彼女は腰をおろした。
「さあ、僕のどこが悪いか教えてください。」
「わたしほかに愛する人がありますの。」
こんどは私がびっくりして、いすから飛びあがる番だった。
「とくに誰というのではありませんのよ。」と私の顔つきの変ったのを見て笑いながら、「ただ理想ですの。わたしの考えているような人に会ったこと、まだありませんわ。」
「その人のことを詳しく話してください。どんなふうの人ですか?」
「顔だちなら、あなたにそっくりだと思いますわ。」
「うれしいことをおっしゃる! その人にできて僕にできないのは、どんなことですか? たった一言でいいのです――禁酒家、菜食主義者、飛行家、接神論者、スーパーマン――何にでもなってみせますよ。グレディスさん、どれがお好みにあうかさえ言ってくださればよいのです。」
彼女は私の性質の融通性のあるのに笑いだして、「第一にわたしの理想の人は、そんな風に話すと思いませんわ。おろかな小娘の気まぐれな言葉のままに自分を持ってゆくような人でなく、もっときつく厳しい人だと思いますの。何よりもその人は、死に直面しても平然と事を行ない得る人――偉大な行為や異常な経験をもつ人でなければなりません。わたくしの愛するのは人ではなくて、その人のかち得た栄誉なのです。その栄誉がわたしにも反映してくると思うからよ。リチャード・バートン(イギリスの探検家で東洋学者、一八九〇年死―訳者)はどう? 未亡人の書いたあの人の伝記を読んで、奥さんの愛情がよく分かりましたわ。それからスタンリ夫人があります! 夫のことを書いた本の最後のすばらしい章をお読みになったことありまして? このような人こそ女性が魂までうちこんで尊敬する人でもあり、女のほうもそのささげる愛情によって、この偉大な行為の鼓吹者として全世界から尊敬され、そのためかえって偉くなれるのですわ。」
彼女の熱をおびた姿はひどく美しいものに見えたので、私はあやうく圧倒されるところであったが、けんめいにふんばって議論をすすめていった。
「僕たちみながスタンリであり、バートンになれるものではありませんし、機会もありません。少なくとも僕はそうです。機会さえあったら、僕もやってみますよ。」
「でも機会はいくらもありますわ。自分の機会をつくりだすのが、私のいっているような人の特徴ですわ。そうさせまいとしてもダメよ。わたしまだそんな人に会ったことないけれど、何だか知りあいのような気がするわ。私たちのまわりには勇敢なことならいくらもあるけれど、ただそれを実行する人の現われるのを待っているだけよ。実行するのは男子で、女性はその報いとしてささげるため愛情をしまっておくのですわ。先週気球で飛んだあの若いフランス人をみてごらんなさい。大風の日でしたけれど、行くと公表してしまったから、どうしても出発するのだとがんばったのよ。気球は二十四時間に千五百マイル(二四〇〇キロ―訳者)も流され、ロシアのまんなかに墜落しました。わたしの申すのはこんな人なのです。この人に愛された女の人を考えてごらんなさい。どんなにかほかの女の人はうらやんだことでしょう? 愛人のために人からうらやまれる――そういう女で私はありたいのよ。」
「あなたの喜ぶことなら、僕もやってみたいものです。」
「あら、わたしを喜ばすためだけで何かなすってはいやよ。やむにやまれずなさるのでなければ、不自然ですわ。あなたのなかにある男性が、男らしい表現を求めているのでなければダメよ。先月でしたかウイガン炭坑の爆発のお話をうかがいましたけれど、あのときあなたは窒息ガスにかまわずに、坑内へもぐっていって坑夫たちを助け出すわけにはゆきませんでしたの?」
「やりましたよ。」
「そんなお話少しもなさらなかったのね。」
「大して自慢にもなりませんからね。」
「ちっとも存じませんでしたわ。」と少し興味のわいたように私を見て、「それは勇敢でしたのね。」
「やらないではいられなかったのです。よい記事を書くには事件の現場に居あわす必要がありますからね。」
「何て平凡な動機でしょう! それではロマンチックなところは薬にしたくもありませんわ。」と彼女は片手をさしのべたが、あまりの美しさとその態度のけだかさに押されて、私はただ静かにそこへキスしただけだった。「はっきり申しますけれど、わたしは少女の空想をもつおろかな女でしかありません。でもわたしにとってそれは真実だし、身についたものですから、それに基づいて行動するしかありませんの。わたし結婚するのなら、有名な人にしたいと思いますわ。」
「それをしたらどこが悪いのです? あなたのような女性こそ男児を張りきらせるのです。僕にもチャンスを与えてください。そして僕にそれをつかむ能力があるかどうか見ていてください。それにあなたもいうとおり、男児はチャンスを自から作るべきです。向こうから来るのを待っていてはなりません。クライヴ(一七二五―七四、のちインドの支配権を握った―訳者)をごらんなさい。一介の事務員にすぎなかったのが、のちにインドを征服したではありませんか! よしっ! 僕もかならず何かやってみせますよ!」
私がアイルランド生まれらしく、とつぜん興奮をみせたので、彼女は笑って、
「どうしていけませんの? あなたは男として持ちうるものを何でも――若さも健康も力も教育も元気も持っていらっしゃる。あなたにあんなこと切りださせたのは、私がいけなかったわ。でもわたしうれしい。あなたにそんな考えをめざめさせたかと思うと、ほんとにうれしくなりますわ。」
「ではもし僕が……」
私の口びるを押さえた彼女の手は、まるで温かいビロードのように感じられた。
「もういいっこなし。夜勤にお出かけになるのが三十分もおくれましたわ。わたしが余計なことを言って、あなたに思い出させなかったのね。いつの日にかあなたが世界的地位を得たとき、改めてこの問題を話しあいましょうね。」
そんなわけで私は、この霧ふかい十一月の夜を、カンバウエル行きの電車めがけて、あすともいわずにこの婦人を満足さすような仕事を見つけたいものと、ひそかに胸を燃やしていたのである。しかし世のなかは広いけれど、私のとるべき行動が信じがたい形で現われ、あるいはそれをなしとげるまでの不思議な段どりを少しでも予想し得た人が、その広い世のなかに一人でもあるだろうか?
要するにこの開巻の一章は、これから始まる私の物語とは何の関係もないように見えるであろう。それでもしかし発端のない物語というものはないのであり、そのわけは身のまわりどこにでも勇壮な行為を行なう余地はあると考え、目についたどんなものにも飛びつこうという欲望に燃えて世のなかに出てゆき、私のやったように自分の知る世界からとびだして、大冒険と一大報酬の待っている不思議な、神秘的な、薄明の世界へ飛びこむことになるからである。
見よ、そこで私はデイリ・ガゼット社に出社して、そこではほんの末席をけがす記者であるにすぎないのだが、グレディスに物みせられるような何ものかを求むるかたい決意にもえていたのである。彼女が自分の栄光のために私に生命をかけさせようというのは、そもそも冷酷なのであろうか? はたまた利己というものだろうか? そんな考えは中年の人なら起こるかも知れないが、初恋に燃える二十三歳の若ものには思いもおよばない。
二 チャレンジャ教授との運だめし
私はいつもマカードル氏、ねこ背で赤毛の気むずかしい社会部長が好きだったし、向こうもそうあってほしいと思っていた。もちろん正式の主筆はボーモンだが、これはオリンパス山上の希薄な空気のなかに鎮座ましますようなもので、そこで取り扱うのも国際的危機とか、内閣の分裂とかいう大問題にかぎられていた。目をどことなく見すえ、思いを遠くバルカン諸国か、ペルシャ湾にはせながら、奥の聖堂へはいってゆく孤高な姿を時おり見かけた。私たちとはかけ離れた高い存在だった。しかしマカードルは彼の第一副官であって、私たちもなじんでいた。私がその部屋へはいってゆくとうなずいてみせ、目がねをはげ頭の上のほうまで押しあげて、スコットランドなまりでやさしくいった。
「これは、マローン君、聞くところによるときみはだいぶ腕がたつらしいね。」
私は礼を述べた。
「炭坑爆発の記事もすばらしかったし、サウスワークの火事の記事もよかった。真にせまる筆致だったよ。ところできょうの用事は?」
「おねがいがありましてね。」
驚いたような顔をして、私の視線から目をそらした。
「ちょっ! なにかね?」
「社の特派員としてどこかへ行かせてはいただけませんか? 最善をつくしてやりぬき、よい記事を取るつもりですが。」
「どんな種類の仕事を考えているのかね?」
「冒険があって危険の伴なうものなら何でもかまいません。全力をつくしてやります。むずかしければむずかしいほどよいと思いますし、私には合うように思います。」
「君は妙に命を捨てたがっているようだね。」
「命を正しく用いたいだけです。」
「うむ、じつにすばらしい。だがそういうことは過去のものじゃないかね。特別任務には費用をいとわないというのはどうかな? もちろんそういう命令をうけるのは、大衆に信用のある名の知れた経験者にかぎるさ。地図のうえの大きな空白はみんな埋められているし、ロマンスのはいる余地なんかどこにもないよ。しかしちょっと待ってごらん。」と急に顔をほころばせて、「地図の空白で思いだしたのだが、どうだろう、かたり[#「かたり」に傍点]をあばいて――つまり現代のミュンヒハウゼン(ロシアに従軍したドイツ軍人。その冒険談はラスペの有名な小説の材料になった―訳者)のことだが――あれのインチキをばらして、世間の笑いものにしてやる気はないかね? 君ならあの男のうそをばらして、笑いものにしてやれるんだがな! どうだ、おもしろいぜ。君は気に入らんかね?」
「どんなことでも、どこでも、そんなことは少しもかまいません。」
マカードルはしばらく何か考えにふけっていたが、
「あの男と親しい仲になれるか、少なくとも口をきくくらいにはなれるか、とにかく君ときたら他人と親善関係を作りあげるのは一種の天才のようだ――共鳴からはいってゆくのか、それとも動物磁力によるのか、若さの活力によるものか、それは分からないがね。私はまえからそれに気がついていたよ。」
「いろいろご心配おそれいります。」
「それではエンモア・パークのチャレンジャ教授にあたってみてどこが悪いと思う?」
さすがの私もこれにはいささかあきれた。
「チャレンジャですか! あの有名な動物学者のチャレンジャ教授にですか? あれはテレグラフ(新聞名―訳者)のブランデルの脳天に穴をあけた男じゃありませんか?」
部長はこの話にニヤリとして、
「気になるかね? 君は冒険を求めているといったのではなかったかね?」
「仕事にはいつでもついて回るものです。」
「そのとおりだ。教授だって年がら年じゅうそうだとも思わないし、ブランデルはきげんの悪いときにぶつかったか、へまな会いかたをしたのだと思っている。君なら運もよかろうし、扱いかたも心得ていると思う。これは君の畑でもあるし、ガゼットとしても乗りだすべきだね。」
「私はあの人のことは何も知りません。ブランデルをなぐった事件で警察裁判になったことに関連して、その名をおぼえているだけです。」
「マローン君、きみの手引きになる記録が少しある。しばらく前から目をつけていたのでな。」と引き出しから紙を一枚とり出して、「ここに大略の経歴が書いてあるから、これを君にあげとこう――
チャレンジャ――ジョージ・エドワード。一八六三年ニューブランデンブルグ市生まれ。教育ラーグス学院、エディンバラ大学。一八九二年大英博物館助手、一八九三年同比較人類学部部長補佐、同年筆禍事件により辞職。動物学の研究によりクレイトン賞を授与さる。――うむ、小さな活字で二インチ(約五センチ―訳者)ほども並べたててあるぞ――ベルギイ協会国外会員、ならびにアメリカ科学協会員、南米ラプラタ協会員、等等、古生物協会前会長、大英協会H部門――その他かずかず。――著述、カルムック頭蓋骨(中国奥地人のこと―訳者)群に関する考察。脊椎骨進化の概要。ウィーン動物学会において白熱的論争をおこしたる『ワイスマン学説の根本的|誤謬《ごびゅう》』をふくむ幾多の論文。娯楽――散歩、アルプス登山。住所――西ケンジントン区エンモア・パーク。
さあ、これを持ってゆきたまえ。今夜のところそれだけだがね。」
私はその紙きれをポケットにおさめて、
「ちょっと待ってください。」目のまえにあるのが赤ら顔ではなくて、赤いはげ頭なのに気がついて私はいった。「私はなんのためこの人に会うのだか、まだのみこめません。この人が何をしたのですか?」
また顔がみえてきた。
「二年まえに探検のため単身南米へ渡り、去年帰ってきたが、南米へ行ったことはたしかなのに、南米のどこへ行ったのだか、どうしても言わないのだ。まずばくぜんと冒険の話をはじめるのだが、そこで誰かがあら探しをはじめると、かきのようにぴたりと口を閉じてしまう。何か驚くべきことがあったか、それともあの男は類いまれなる大うそつきであるのか、このほうがあたっているらしい。写真も持っているが、これはこしらえものだという。ひどく怒りっぽくなっていて、質問したりすると誰にでも暴行を加えるし、新聞記者なんか階段から突きおとすという。私の見るところでは科学的才能こそあるが、誇大もう想性の殺人狂なのだと思う。マローン君、この人物こそ君に打ってつけだよ。ものになるかどうか、早速ひとつ手をつけてみたまえ。君も自分のことは何とかなるだろう。いずれにしても安心してやりたまえ。というのは雇用者保険条例というものがあるからね。」
にやにやしていた赤ら顔が消えて、しょうがいろのうす毛にかこまれたうす赤いはげ頭がまた見えだした。会見はこれで終ったのだ。
私は通りを横ぎってサヴェージ・クラブまで行ったが、なかへははいらないで、アデルファイ・テラスの手すりにもたれて、茶いろで油っぽいテムズの河面を見ながらながいこと考えこんだ。私はいつでも戸外のほうがしっくりと、またはっきりと物を考えることができるのだ。チャレンジャ教授の業績一覧をだして、電灯の光で目をとおした。そのうちにインスピレーションとしか思えない感じが浮かんだ。新聞人として、いま聞いた話からこのつむじ曲りの教授とはとても近づきになれそうもないことをである。だが教授の略伝のうちに二度も出てきたはげしい反訴は、教授が科学に熱狂的であることを意味するに過ぎないのではないか。ここにつけこむすき[#「すき」に傍点]が露呈されているのではあるまいか? よし、やってみよう。
クラブへはいっていった。十一時を回ったところで、ラッシュにはまだ早いが、大きな部屋はかなりたてこんでいた。せいがたかくやせて骨ばった人が、火のそばのひじ掛けいすに腰をおろしていた。近くにいすを持ってゆくと、顔をあげてこっちを見たが、これぞ誰をおいても会っておきたい人物であった。「ネーチャ」紙の編集局員タープ・ヘンリといって、ひからびたようにほっそりと、革みたいな感じの顔をしており、知るかぎりの人に親切をつくす男である。私は即座に問題をきりだした。
「チャレンジャ教授ってどんな人だね?」
「チャレンジャ?」と科学者らしくまゆをひそめて、「あれなら南米からまゆつばの話を持ち帰った男さ。」
「何の話だって?」
「ひどく変った動物を発見したとか何とか、途方もない話さ。その話は撤回したのだと思うが、いずれにしても今はおとなしくなった。ルーターの記者と会見して大騒ぎをやらかしたが、それでこれはいかんと思ったのだね。信用にかかわる問題だよ。それでも話をまじめに取りあげかけた人もあるが、すぐに放棄してしまった。」
「どうして?」
「そりゃがまんのならないほど不作法だし、すること為すことお話にならないからさ。動物学協会のワドリといえば今は死んだ人だが、手紙を送って、『動物学協会長はチャレンジャ教授に敬意を表するとともに、次期会合にご出席を得ば本懐にございます。』といってやったところ、その返事がお話にならなかった。」
「それで教えないというのかい?」
「その、あまりひどい文句をぬいていえばこうなる。『チャレンジャ教授は動物学協会長に敬意を表し、貴下が地獄へ落ちれば本懐のいたりに存じます。』」
「神さま!」
「そうさ、ワドリもその通り思ったことだろう。そういえば会場でチャレンジャが泣き声でいったのを思いだすよ。『五十年にわたる科学界の交際のうち……』これにはさすがのワドリも当惑していたようだ。」
「ほかに何かチャレンジャのことは?」
「僕は細菌学者だ。君も知っているとおり、九百倍の顕微鏡が僕の世界だ。だから肉眼で見えるものに、本気になって注意を払っているとはいえない。既知の世界のはずれから進攻している開拓者だ。いったん研究室を出て、君たちお偉い、がさつでぶざまな者にあうととまどってしまう。私心はないからスキャンダルは口にしないが、科学者の懇話会でならチャレンジャのこともいくらか聞いたことがある。というのは誰も無視できない人物だからだが、あれでなかなか利口なところがある。完全に充電した電池というか、そのかわりけんか早くて、たちの悪い気まぐれ者で、破廉恥なところがある。南米へ行ってきて怪しげな写真を発表するところまでいった。」
「気まぐれ者だというが、どんな気まぐれをやったのだい?」
「いくらでもあるが、最近のものはワイスマン(ドイツの生物学者。自然淘汰説をとなえた―訳者)と進化論に関するものだった。その問題でたしかウィーンで大騒ぎをやらかしたはずだ。」
「その要点だけ教えてはもらえまいか?」
「いまは困るが、議事録の翻訳がある。社にそのとじこみがあるから、どうだい、これから行こうじゃないか?」
「願ったりかなったりだ。あの男に会わなきゃならないが、そのまえにいくらかでも先手を打っておきたい。それにお力ぞえを得て、こんなありがたいことはない。今からでもおそくなければ、ご同道しようじゃないか。」
三十分後に私は新聞社で大きな本を前に座っていた。『ワイスマン対ダーウィン』として『ウィーンにおける白熱的論争、活発なる討論』という副題がついている。私は科学の素養はあまりなかったので、その内容まで理解する力はなかったが、このイギリス教授はその説を|挑戦《ちょうせん》的に主張し、大陸の学者連をさんざ困らせたことだけは分かった。『異議あり』『どっと叫び声』『議長へいっせいに訴願』この三つがまず、私の目にとびこんだ。全文がシナ語ででも書かれているように、私には何のことやらまったく分からなかった。
「君が英語に翻訳してくれるといいのだがねえ。」私は哀れな声で協力者の顔を見た。
「なあに、これはもう訳してあるよ。」
「じゃいっそのこと原文にぶつかったほうがよかった。」
「門外漢にはたしかに無理だね。」
「一カ所でもいいから内容のはっきりした文章に出あえば、人間の思想を伝えることにもなり、役にたつんだがね。おお、こいつならいい。おぼろげながら理解できそうだ。ここを写しとろう。恐るべき教授との橋渡しになるだろう。」
「ほかに何か僕のすることはないかね?」
「そうだね、教授に手紙を一本書こう。ここで書いて、アドレスも君のを使わせてもらえば、雰囲気は出るというものだ。」
「そうするとここへ暴れこんで、そこいらの家具をぶちこわすことになるな。」
「そんなことはないさ。書いた手紙を読んでみたまえ。論争的なとこなんか少しもありゃしないよ。」
「それじゃそこが僕のいすとつくえだ。紙はこっちにある。書けたら出すまえに検閲したいね。」
ちょっと手数はかかったが、書きあげてみるとまんざらのできでもなかった。いくらか誇りを感じながら、私はこの細菌学者に声を出して読んで聞かせた。
「チャレンジャ教授足下、自然界のつつましき学徒の一人として、小生はダーウィンとワイスマンの相違に関する足下のご考察につき、最大の興味を感ずるものであります。記憶を新たにするため最近再読いたす機会をもちましたが……」
「ひどいうそをつくな。」ヘンリが小声でいった。
「あの透徹したる、かつ卓越したるご高説は、この方面における決定的なものと存じます。さりながら文中につぎのごとき一句があります。すなわち『余は個個のイド(遺伝基質)は幾世代にもわたりて徐徐に作りだされたる歴史的構造をもつ小世界なりとの、許しがたく独断的主張には強く抗議するものなり』との一節であります。その後のご研究によりて足下はこの言を修正するご意志なきやいかに? またこの言には多少の行きすぎありとご再考なきやいかに? 小生もこの問題には興味を持ち、多少の私見を持ちあわせておりますれば、失礼ながら親しく面接のうえ意見を交えたく、ここにご会見をお願いいたす次第です。幸いにしてご賛同を得なば明後水曜日午前十一時に訪問いたしたく存じます。
まずは深厚なる敬意をささげて、
[#地から2字上げ]エドワード・D・マローン」
「どうだね、これで?」私は得意だった。
「さあ、君の良心が許せばだが……」
「ついぞやましいことをやったことはない。」
「それで会ってどうする気なんだ?」
「行ってみたいだけさ。行って会ってくれたら、何とかなろうではないか。あるいは正直のところを白状することになるかも知れない。向こうがスポーツマンなら、かえってその手に乗ってくるかも知れない。」
「乗ってくるって、なるほどね! だが向こうのほうが君を乗せそうだな。鎖かたびらかアメリカン・フットボールの服装がいりそうだな。ではさようなら。水曜日の朝になったら君あての返事がここへ来ると思う――返事をよこすとすればだがね。敵は乱暴で物騒で、いじ悪な男で、会ったことのあるものなら誰でも憎んでいるし、学生たちはあざけりの的にしていて、勝手なまねをしている。返事のこないほうが、かえって君には幸福かも知れないね。」
三 宅はとてもがまんのならない人です
私の友人の恐れもし望んでもいたことは、ついに実現しなかった。水曜日にネーチャ社へいってみると、西ケンジントン局の消印のある手紙で、私の名がごつごつした字で書いてあるのが一通来ていた。内容はつぎの通りである。
[#地から2字上げ]エンモア・パークにて
[#ここから2字下げ]
余の所説に賛同するとの内容のお手紙まさに拝見。貴下たると|何《なに》|人《びと》たるとを問わず、余の所説が第三者の賛同に依存するものとは考えず。ダーウィン説に関する私見にたいし、貴下は『考察』なる語を使用しおられるも、かかる関係につきかかる語を使用するはいたく目ざわりなることをご注意いたしたし。さりながら前後の関係よりみて、右は悪意より出でたるものにはあらで、無知と不手|際《ぎわ》より出でたるものと判断さるるにより、この点は深くとがめざることと致したし。貴下は余の講演の孤立せる一部を引用しおらるるも、これはその真意を解しおられざるもようなり。人間の知力をもってすれば理解し得ざるはずはなきところながら、さらに理解の拡充を望まるるにおいては、訪問者は余の大いに好まざるところなれど、指定の時刻に特に面会いたさん。余の見解に部分的変改を加えんとするがごときは、熟慮のうえ発表したるものなれば、無用のことたるをご承知ありたし。ご来訪の節は本書の封筒だけを、当家の使用人オースティンにご呈示ありたく、同人は自称新聞記者どもの乱入を防止するの任務にあるものなり。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]敬具
[#地から2字上げ]ジョージ・エドワード・チャレンジャ
私の冒険的試みの結果やいかにと、早朝から出社してきたタープ・ヘンリに読んで聞かせた手紙は以上のとおりである。これにたいしタープは、「近ごろクチクラとかいう薬ができて、アルニカよりは利くという話だ。」といっただけだった。こんなユーモアを発言する男も世のなかにはいるものだ。
手紙を手にしたのは十時半に近かったが、タクシというものがあるから、約束の時間までには目的の家までゆけた。円柱のある堂堂たる玄関の家で、窓には厚いカーテンがおりていて、この恐るべき教授の裕福なのを思わせた。ドアを開けたのは厚ラシャのジャケツを着て茶いろのゲートルをつけた、あさ黒くて乾からびたような、年のころも分からぬ男だった。あとで分かったのだがこの男は運転手で、来るそばから逃げだす執事の代りをつとめていたのである。うす青い目でさぐるように見あげ見おろしていたが、
「お待ちしていましたか?」とたずねた。
「約束があります。」
「手紙をお持ちですか?」
私は封筒を出してみせた。
「よろしい!」この男は口数が少ないようだ。あとについて廊下をはいってゆくと、とつぜん小柄な女にさえぎられた。食堂らしいドアから出てきたのだが、黒い目をした明るく活発な婦人で、イギリス人というよりフランス・タイプに見えた。
「ちょっとお待ちください。オースティンもお待ちなさい。お尋ねしますが、まえに主人にお会いになったことがございまして?」
「いえ、初めてですよ。」
「ではまえもって申しあげておきますけれど、宅はとてもがまんのならない人でして、どうにもなりません。前もってご注意申しあげておきますれば、ご容赦いただけるかと存じまして。」
「奥さま、それはありがとう存じます。」
「乱暴でもしそうでしたら、すぐに部屋を飛びだしてくださいまし。議論なぞしてぐずぐずなすってはいけません。そのために怪我をなすった方も何人かあります。あとで悪い評判がたち、私たちへはねかえってきます。お会いになりますのも、南米の問題ではございませんでしょうね?」
この婦人をだますわけにはゆかない。
「おやまあ! それは何より危険な話題でございますよ。あなたは宅の言葉なぞ少しも信じていらっしゃらないのでしょう。きっとそうでございますわ。でも表だってそうは仰っしゃらないほうがようございます。でないとまた乱暴をしますからね。宅の話を信ずるふうをしていらっしゃれば、何事もなくすみますわ。宅が信じきっていますのをお忘れなくね。そうすれば何事もなくすみます。あんな正直な人ってありませんわ。あまりぐずぐずしていらっしゃると、きっと疑いをおこしますからね。あぶないとお思いになりましたら、ベルを鳴らして、宅につかまらないようにしていらしてくださいまし、すぐに私が参ります。どんなにたけり狂っていましても、私の申すことはよくききますからね。」
こうはげましておいて、夫人は私を無口なオースティンに引き渡した。この短い話しあいの間も、分別の像のような顔で控えていた男のあとについて廊下のつきあたりまでいった。ノックすると内部に牛のほえるような声がして、私は教授と向かいあうことになった。
本や地図や図形でいっぱいの広いテーブルをまえに、回転いすに腰をおろしていた。はいってゆくと、いすをぐるりと回してこっちへ向きなおった。見ただけで私はどきりとした。何か変ったところがあるものと覚悟はしていたが、これほど手ごわいとは思いもよらなかった。息もつまる思いをさせたのはそのずう体と堂堂たる風采である。頭の大きいことといったら、こんな大頭にはお目にかかったことがない。この男のシルクハットを私がかぶったら、おそらく頭をす通りして肩までくるだろう。アッシリアの牛のような顔とひげをもち、赤ら顔で、あごひげは青ともいえず黒といいたいほど濃くて、トランプのスペードの形をして胸にたれていた。髪がまた変っていて、大きくカールした束になって前にさがり、巨大な額にはりついていた。目はその大きな束のおくに、青みがかった灰いろに光っていて、するどく八方見とおしでひどくおうへいに光っていた。大きな肩はばとたるのような胸部だけをテーブルのうえにみせているが、そのほか巨大な両手には黒い毛が長くはえていた。これとうなるような、ほえるようでごろごろいう声が、悪名たかき教授の第一印象である。
「やあ、何のご用?」おうへいにいってじろりと私を見た。
こちらは少しでもながくごまかしつづける必要があった。でなければせっかくの会見もおじゃんである。
「会見のお約束をいただきまして、まことにありがとうございます。」と私は手紙の封筒をうやうやしくさしだした。
すると向こうも私の手紙をつくえから取りだして前へおきながら、
「ははあ、君は若いから、平易な英語もわからんとみえるな、どうじゃ? それでわしの結論全般には賛成じゃというのじゃな?」
「全面的にです、全面的に!」私はとくに力をこめていった。
「ほう、それでわしの立場もうんと強くなるな、どうじゃ? 君の若さと顔つきから、同じ支持にしても倍の価値がある。少なくとも君は、ウィーンの豚どもより上等じゃ。あの連中のガアガアなくのは、イギリスの豚めが孤立してわめきたてるのに比べりゃ、何のことはないがの。」といって、私がその豚の代表ででもあるかのようににらみつけた。
「それは言語道断の行動だったようですな。」
「けんかならまかせておいてくれ。何も同情を求める必要は少しもない。そっとしといてもらおう、壁を背にしてな。G・E・C(ジョージ・エドワード・チャレンジャのこと―訳者)はそうするのが一番じゃ。じゃからこの会見もなるたけ早く切りあげるとしよう。そうせんければ君も好都合とはいえまいし、わしもうんざりするでな。君はなんでもわしの命題に論述したところにつき、批評があるとかいう話じゃったな。」
彼の話しぶりには残酷なほどあからさまなところがあり、それをごまかすのは骨が折れた。攻勢に転ずるには、折りを見なければならない。はなれて考えていたときはあれほど簡単に思えたのに。ああ、アイルランド生まれの私の機知のなさ! これほど助けのほしいとき、加勢してくれる機知はないのか? 教授は鋼のような鋭い目つきで私を見すえて、「さあ、どうじゃ?」とわめいた。
「むろん私は一介の研究者にすぎません。」私はうつろな笑顔でいった。「熱心な学究というにすぎません。同時に先生はこの問題につきワイスマン説にたいして少し辛らつにすぎはしまいかと思うのです。あの日以来全般の証拠は、彼の――その、彼の立場を強化するものではないでしょうか?」
「どんな証拠かね?」うす気味のわるいほどおだやかに反問した。
「さあ、もちろん先生ならおっしゃるような、明確な証拠はどこにもないと思います。私の申すのはただ近代思想の傾向と、一般的な見地から見ての話です。言葉は少し変ですけれどね。」
教授はすっかり熱心になって、前へのりだすようにし、指を折ってみせながら、
「君は知っておると思うが、|頭《ず》|蓋《がい》指数は不変のものかね?」
「当然のことです。」
「感応遺伝説は審理中であることも?」
「もちろんです。」
「そして性細胞質が単性生殖卵とは異なることも?」
「もちろんですとも!」ずぶとさにわれながらどんなものだとばかり叫んだ。
「じゃが、それは何を立証するものかね?」おだやかに、なだめるようにいった。
「何をですって? 何を立証するものでしょう?」
「教えてほしいかね?」ねこなで声でいった。
「どうぞお願いします。」
「それの立証するものはな、」とつぜん激怒して教授はがなりたてた。「お前がロンドン一のぺてん師じゃということじゃ。うじゃうじゃと下劣な記者で、本来科学などに縁のないものじゃ。」
両眼に気違いじみた怒気をうかべ、ぬっと立ちあがった。この息づまるような瞬間にも、私はたまげるばかりの発見をした。背のごく低い男で、頭が私の肩のあたりまでしかなく、いじけたヘラクレス(ジュピタの子で大力無双の英雄―訳者)というか、物すごい活力が体内にひそんでいるのである。
「デタラメじゃぞ!」テーブルに指をつき、顔をつき出すように前へ乗りだしながらわめいた。ずっと君に話していたことをいうのじゃがね。科学的なデタラメじゃ! わしと知恵くらべができるとでも思っていたのかね、そのクルミ頭で? へぼ記者のくせに全能の力があるとでもうぬぼれていたのかい? 君がほめれば人は偉くなり、けなせばダメになるとでも思っているのかい? わしらはみんな君に頭をさげて、ありがたいお言葉を頂だいせんければならんのかい? こっちの男は押しあげ、あっちの男は引きずり降すのかね! むずむずする害虫めが、知っとるぞ! おかど違いじゃぞ。両耳を削りとられたものじゃから、それで釣りあいの感覚がなくなったのじゃ。ふくれあがった気球め! 君にふさわしい場所へ押しこめてやる。そうじゃ、G・E・Cに勝てるものではない。君なんかのかなわん人がひとりおるのじゃ。その人は君に来るなというた。来るなら危険を覚悟のうえで来いというたのに、君はきた。罰金じゃぞ、マローン君、罰金を出せ! 君は大いに危険な勝負をいどんで、どうやら負けたらしい。」
「それは、先生。」私はドアまで後ずさりしてそれを開け放ちながら、「何とでも悪しざまに仰っしゃるのはご自由ですが、限度というものがあります。暴力は困りますよ。」
「何が悪いものか!」といいながら独特の威嚇的な身ぶりでゆっくりとせまってきたが、そのうちぴたりと停ると、着ていた子供っぽく短いジャケツのポケットに大きな両手とも押しこんで、「君のような男は何人もこの家からたたき出してやった。君で四人目か五人目じゃ。どれもこれも三ポンド十五シリングの罰金をとってやった――平均しての話じゃがな。不経済じゃが、どうも止むをえん。じゃから君だけをただで見のがすわけにはいくまい? いやいや、どうしても払わせなければ。」とダンスの先生のように、つまさきをこっちへ向けて、じりっじりっと迫ってきた。
ドアを閉めてかけ金をかけようと思えば、できないこともなかったが、それではあまりにひどすぎるというものだ。それに当然の怒りも胸のうちに燃えあがってきた。今まではこっちが悪かったが、こうまで嚇かされてみると、こっちもかえって強くなる。
「お手をお引きください。もう黙ってはおられません。」
「何をいうか!」黒い口ひげがあがり、白い歯が冷笑をちらつかせた。「黙ってはおられぬのだって?」
「バカなことはおよしなさい! どうなさろうというのです? 私は二百十ポンド(約一一三キロ―訳者)あって、くぎのように丈夫で、毎土曜ロンドン在住のアイルランド人クラブのセンタ・スリークオータとしてラグビをやっております。私はあなたなんかに……」
この瞬間、私にとびかかってきた。あらかじめドアを開けておいてよかったと思う。そうでなかったら二人は一体になってドアをぶちぬいていたに違いない。二人は一体となって、とんぼ返りをうって廊下をころげていった。途中でいすを巻きこみ、もろともに往来へとびだしてしまった。私の口はあごひげでいっぱいになり、腕はからみあい、からだは一つになって、いまいましいいすの脚のあいだにからまっていた。用心ぶかいオースティンが玄関のドアを開けはなっていたので、私たちはもろともにもんどり打って石段を落ちていった。私は二人の道化師が娯楽場でこれに似たことをしてみせるのを見たことがあるが、けがをしないようにやるには相当の練習が必要だろう。いすはこっぱになって下まで落ちており、私たちは離ればなれになって下水みぞへ落ちこんだ。教授はすばやく立ちあがると、握りこぶしを振りまわしながらぜんそく病みのような声をあげてどなった。
「参ったか?」
「何をいうか、ろくでなしの暴漢!」私は気をとり直してやり返した。
教授はけんか早くいきりたっていたから、この場で時をうつさず二人は黒白をつけるところであったが、幸いにも思わぬことから醜態をやらかすのをまぬがれた。一人の巡査が手帳を手にしてそばに立ったからである。
「どうしたというのです? 恥ずかしいとは思いませんか。」エンモア・パークで聞いたもっとも理にあった言葉である。「いったいどうしたというのです?」私のほうを向いて追い打ちをかけてきた。
「この人が私にとびかかったのです。」
「あんたは手を出しましたか?」
教授ははげしく息づかいしただけで、何も言いはしなかった。
「いずれにしてもこれが初めてじゃありませんな。」巡査は頭をふりふりきびしくいった。「先月も同じようなことで拘引されました。この人の目に黒あざをこさえましたね。こっちの人を警察へ引き渡しますか?」
私は後悔した。
「いえ、それはやめておきましょう。」
「それでは何がもとでこんなことになったのです?」
「私が悪かったのです。私のほうからこの人の家へ立ち入ったのです。それでこの人は当然の警告をしました。」
巡査は手帳をパタリと閉じて、
「これからこんな騒ぎを起こさぬよう注意してください。」といって集まってきた肉屋の店員や女中、二三の弥次馬に向かって、「立っちゃいかん、立っちゃいかん。」といっておいて、のっしのっしと通りを歩いていった。教授は私を見たが、その目のなかには何かしらユーモラスなものが浮かんでいた。
「まあはいりたまえ。話はまだすんどらんはずじゃ。」
この言葉にはどことなく不気味なものがあったけれど、それでも私は教授のあとについて家のなかへはいった。召使のオースティンは木像のように、だまってドアをとざした。
四 これぞ世界最大のこと
ドアを閉ざしたと思うとチャレンジャ夫人が食堂からとびだしてきた。この小柄な夫人はぷりぷり怒っていた。ブルドッグに立ち向かうヒヨコのように、教授の前に立ちふさがった。私のころげ出るところは見たが、引きかえしてきたとは知らないらしい。
「なんです、ジョージ! あのおとなしい青年に怪我をさせましたね。」
教授はおや指で肩ごしに私のほうをさして、
「うしろにおるよ、ピンピンしてな。」
夫人はとまどったが、それほどのこともなかった。
「あらすみません。つい見えませんで。」
「奥さま、ご安心ください。何のことはありません。」
「そうでなくてもやせたお顔に、宅は傷をこさえてしまいました。ジョージ、あなたって何て乱暴なのでしょう! 週のはじめから終りまで、恥ずかしいことばかりして。誰でもあなたのことを憎み、笑いものにしていますよ。もう我慢ができません。これが最後ですよ。」
「うちわの恥をさらすな。」わめきちらした。
「うちわなものですか! 町じゅうに、いえロンドンじゅうに知れわたって――オースティン、あっちへ行きなさい。ここに用はありません。みながあなたのうわさをしているのが分かりませんか? それであなたの体面はどこにあるのです? あなたは千人もの学生に尊敬される勅任の大学教授であるべき人です。こんなことであなたの体面はどこにあります?」
「おまえの体面のほうはどうかね?」
「私をひどい目にあわせすぎます。わるもの――どこにでもいる口のきたないわるもの――あなたはそれになっておしまいです。」
「しずかにしておくれよ、ジェシイ。」
「わめいたり、どなったりしてばかりいる悪もの!」
「もうすんだことだ! 悔悟のさらし台に腰をおろしている!」
驚いたことに教授は腰をまげると夫人を抱きあげ、玄関のすみにある黒大理石の高い台のうえに腰かけさせてしまった。高さは少なくとも七フィート(約二一五センチ―訳者)くらいあって、細長いので、夫人は落ちないでいるのがやっとだった。怒りで顔をふるわせ、両脚をぶらんぶらんさせ、しかも落ちはしまいかと体をかたくしている姿ほど、おかしなものはなかった。
「おろしてちょうだい!」泣き声だった。
「どうぞと言いなさい。」
「この乱暴もの! すぐにおろしてったら!」
「マローン君、書斎へ来たまえ。」
「でも先生――」私は夫人を見まもりながらいった。
「マローン君もおまえのためを思っているぞ、ジェシイ。どうぞといえば、おろしてやる。」
「なんて野蛮な! どうぞ! どうぞ!」
カナリヤでも扱うように夫人をおろした。
「自分のすることに、気をつけなければいけないね。マローン君は新聞記者だから、あすの新聞にすっかり書きたてて、このあたりの町で一ダースも余計に売りたてるかも知れん。『上流生活者の珍聞』――その台にも登ったことじゃし、上流になった気がするじゃろうな。それから副題に『風変りな家庭の一見』はどうじゃな。それからこのマローン君は悪食家じゃよ、あの職業の連中がみなそうのようにな。ポルクス・エキス・グレーゲ・ディアボリ――つまり悪魔の群れから出てきた豚じゃな。マローン君、どう思うな?」
「まるでむちゃくちゃですよ!」私ははげしくいった。
教授は牛のような声で笑って、
「二人はすぐ提携するようになる。」と視線を夫人から私のほうへ移して、ふっと大きく息をはき出した。それから急に言葉の調子をかえて、「このつまらない一家の冗談を許してくれたまえ、マローン君。君をここへ呼び戻したのは重要な目的があったからで、このつまらない一家のおどけに巻きこむためではなかった。さ、おまえはあっちへ行っておくれ。そうしてもうじれることはないよ。」大きな片手を夫人の肩において、「おまえのいうことは、いちいちもっともじゃ。おまえのいう通りにしていれば、もっとましな男になれたはずじゃ。しかしそれではジョージ・エドワード・チャレンジャというものはなくなる。世間にはちゃんとした男はたくさんある。しかしG・E・Cはわし一人じゃ。じゃによって何事もがまんしておくれ。」とここでとつぜん大きな音をたてて夫人にキスした。私は乱暴されたよりもとまどった。「そこでじゃ、マローン君、」とひどく威厳をつくろってつづけた。「さあどうぞ、こちらへ。」
十分まえにはあんな騒動をやらかした部屋へ二人は再びはいっていった。教授は静かにドアをしめてから、私にひじ掛けいすをすすめ、葉巻の箱を鼻さきへさしだした。
「ほんもののサン・ジュアン・コロラドじゃ。君のように興奮しやすい者には何よりの鎮静剤になる。待ったり! かみ切るんじゃない。切る――刃もので注意して切るんじゃ! いすにもたれて、わしのいうことをよく聞いてもらいたい。何か言いたいことが浮かんでも、あとのことにしてほしい。
まず第一に、君は当然のこととしてこの家を出ていったが、またこうして戻ってきた。」とちょう戦し、反ばくされるのでも待つように、あごひげをつき出して私を見つめながら、「そのわけはあのおせっかい極まる巡査に君が答えた通りじゃった。そのなかにわしは君にたいしてある種の好意のようなものを認めた。とにかく君の同業者に抱いているものとは違うものを感じたのじゃ。君が非は自分にあるというたので、これはある種の公平さと幅広い見解をもっていると分かった。人類の亜種は、不幸にして君もそれに属しているのじゃが、わしの目から見れば精神的に常に低水準にある。ところが君の言葉はとつぜん君をその水準以上にあげた。君はわしの真剣な注意をひくようになった。以上の理由によって、君をもっとよく知りたいと思い、いっしょにこの家へ引きかえしてくれるように頼んだのじゃ。そのタバコの灰は、その左がわにある竹のテーブルのうえの、日本できの小さなさらに落としてもらいたい。」
これらのことを学生に向かって講義でもするような調子でわめきたてた。そのあいだ回転いすを私のほうへ回して、まるで巨大な食用がえるが首をうしろに反らしたように構え、目を細めて横柄なまぶたをしていた。それがここでとつぜん横むきになったから、もじゃもじゃの髪の毛とつき出た耳が見えるようになった。そしてつくえの上の書類の山をひっかき回していたが、ぼろぼろの写生帳らしいものを取って私のほうへ向きなおった。
「南米の話をしようと思うのじゃが、批評がましいことは言わんでおいてほしい。何よりも大切なことは、これから話すことの内容はどんなことにもあれ、わしが直接許さぬ以上、少しでもどんな方法でも公表せんでほしいことじゃ。その許可もおそらく|万《ばん》与えることはあるまい。分かったかね?」
「それはむずかしい問題です。賢明なる方法としては……」
教授は写生帳をテーブルのうえにおいて、
「それじゃ話はおしまいじゃ。では、さようなら。」
「いけません。待ってください! どんな条件にも従います。どうもそうする以外に手はなさそうです。」
「それはどこを探してもないな。」
「それでは約束に従います。」
「名誉にかけてじゃな?」
「名誉にかけます。」
教授は横柄な目つきで疑わしそうに私を見ていたが、
「結局のところ、君の名誉とはいったいどこにあるのかな?」
「誓って申しますが、それはちと言いすぎではありませんか!」私もむっとした。「そんなことをいわれたのは生まれて初めてです。」
私がむかっぱらをたてたので、教授は気を悪くするどころか、かえって面白がってみえた。
「頭が丸くて、うむ、短頭|顱《ろ》で目が灰いろ、髪は黒いから黒人系を思わせる。ケルト人(コーン人、ウエルス人、アイルランド人などインド系人の総称―訳者)ではないかな?」
「私はアイルランド人です。」
「アイルズか、ふんアイルズな。」
「はい。」
「やっぱりそうだったか。待てよ、君はわしの信任をかたく守ると約束したな? 信任というけれど、わしも必ずしも確信しておるわけではない。そのかわり面白いと思われる二三の徴候を話すことにしよう。まず最初にいうておくが、おそらく君も知っておるじゃろうけれど、二年前わしは南米旅行をした。このことは科学界では世界的のクラシックとなるじゃろう。旅行の目的はウォリス(イギリスの博物学者、一八七三―一九一三―訳者)やベーツ(イギリスの動物学者、一八二五―一八九二―訳者)の結論を確証するにあったが、それには彼らがやったのと同じ条件のもとに、その報告にある事実を見るのでなければならん。もしわしの探検の結果が何ら彼らの報告と変らなんだとしても、それはそれなりに価値があるのじゃ。ところが行っておるうちに奇妙なことがあってな、それはそれなりにまったく新しい方面に調査の手をのばすことになった。
君も知っとると思う――いや、教育の普及しとらん世の中じゃから、あるいは知らずにおるかも知れんが――アマゾン河の流域のある部分にはごく一部が踏査されているだけで、大部分は踏査されておらず、なかには地図にさえなく本流にそそいでおるものもある。わしの仕事というのはこの知られざる奥地を訪ねてそこの動物群系を調べるにあった。これがわしの生涯を正当化する大きな、不朽の動物学の述作のうえに数章の材料を供することになるのじゃ。
仕事をすませての帰り途じゃったが、ふとしたことからわしはある土人部落で――そこが何という支流であったかは伏せておくが――一夜を明かすことになった。ここの部落のものはキュケマという土人で、物柔かではあるが下品で、精神力は普通のロンドン児には及びもつかなんだ。河をさかのぼってゆくとき、何人かの土人の病気をなおしてやったので、わしにたいしては相当の好感を抱いていたらしい。そこでわしの帰りを首を長うして待っておったのも不思議ではなかった。わしの姿をみるとしきりに手まねをするが、どうやらわたしに医者になって手当をしてほしい急病人があるらしい。首長のあとについてある家へはいってゆくと、果してそうじゃったが、残念ながら病人はそのとたんに息を引きとってしまった。ただしそれは驚いたことに土人じゃなくて白人なのじゃ。白人も白人、頭は亜麻いろじゃが、からだはしらこ[#「しらこ」に傍点]の特徴をそなえとる。着とるものはぼろぼろで、やせ衰え、ながいこと難儀したらしいあとが見える。土人の説明で分かった限りでは、まったく見知らぬ男で、たった一人森をぬけてこの部落にたどりついたのじゃが、そのときすでにへとへとだったものらしい。
寝床のそばにランドセルが落ちていたので、その内容を調べてみた。そのなかのはり札に名が書いてあった。――アメリカのミシガン州デトロイト市レーク街のメープル・ホワイトというのがその名じゃ。これこそこのわしがいつでも敬意を表する気の人の名じゃ。こんどの業績の栄誉を割りふるとき、少なくともわしと同等に割りあてるべきじゃというても少しも過言ではない。ランドセルの内容から、この人は画家で詩人で、感銘を求めてこんなところへ入りこんだことが分かった。詩の断片もあった。わしにはそういったものの判断はできかねるが、妙に価値のあるものには思えなんだ。それから至って平凡な河の風景画が何枚か、絵の具箱と色チョークの箱が一つずつ、画筆、あのインクスタンドのうえにある曲った骨、バクスタ著の『|蛾《が》と|蝶《ちょう》』が一冊、安もののピストルが一つと数発の実弾がはいっていた。そのほか身のまわりの品はもともと持っていなかったか、それとも歩いておるうち紛失したか、一つもなかった。以上がこの変な放浪のアメリカ人の持っておったものの全部じゃ。
そばを離れようとしたとき、ぼろぼろのジャケツの胸から何かはみ出しているのに気がついた。このぼろぼろのスケッチ・ブックがそれで、わしのものになってからというもの、シェークスピアの二つ折版の初版ものを手に入れたよりも珍重してきたものじゃった。いま君の手に渡すから、内容を一ページずつめくって、詳しく調べてもらいたい。」
自分は葉巻をとっていすにもたれかかり、私のすることを恐ろしく鋭い目つきで見まもった。
どんなものが出てくるかという期待で私はその本をあけてみた。だが第一ページには、厚ラシャのジャケツを着たおそろしく太った男がいるだけなのでなあんだと失望した。その下に『郵便船上のジミ・コルヴァ』と書いてある。それからさき数ページには土人やその風俗のスケッチがあり、そのつぎにはひどくやせたヨオロッパ人と向かいあいに腰かけているシャヴェル帽(おもに英国教会牧師の用いる黒のフエルト帽―訳者)のふとって愛きょうのある牧師が描いてあり、『ロザリオにてクリストフェロ師と昼食』と注がついていた。そのつぎの数ページには女や赤ん坊の絵があり、さらに『砂州上の海牛』『海がめとその卵』『ミリティやしの下の黒アジュティ』などと説明のついた動物の絵がつぎからつぎへと続いた。アジュティというのは豚に似た動物だった。最後に出てきたのは鼻口のつき出した不気味なとかげ類の二ページにわたる写生である。私は何のことやら分からずに教授にたずねた。
「これはただのクロコダイル(ナイル産の大ワニ―訳者)でしょうね?」
「アリゲータ(米国産の小型ワニ―訳者)さ! アリゲータだ。南米にはほんもののクロコダイルはおらん。両者の相違はね……」
「変ったところはどこにもありませんと申したつもりなのです。先生のおっしゃったことを正当づけるものは何もないじゃありませんか。」
教授ははれやかにほほえんで、
「つぎのページをあけてみたまえ。」
私はそれでも共感する気にはなれなかった。ざっと色づけをしただけの一ページ大の風景画だった。それも風景画家が将来もっと入念に描くつもりで、よくスケッチしておくという程度のものだった。前景は鳥の羽根のようなうす緑の草木になっており、それがしだいに向こうへ昇り坂になって、そのさきは暗赤色のがけになっていた。どこかで見た玄武岩質の肋骨のようなものが現われている。それが切れ目なく続き、ずっと背景をなしている。一カ所ピラミッド形に独立した岩があり、そのうえに大きな樹が一本生えていて、この岩とがけとは大きな割れ目で隔てられているようだった。それらの向こうは熱帯性の一面に青い空だった。そして赤ちゃけたがけのうえは一面にうす緑の草木が線をなしていた。つぎのページにも同じ場所の水彩画があって、これはずっと近くから描いたものなので、細かい部分まではっきり見てとれた。
「どうじゃな?」教授がたずねた。
「たしかに妙な地形ですね。でも私は地質学には暗いから、これがそんなに変っているかどうかはわかりません。」
「変っておる! 二つとない。信じられんくらいじゃ。こんなものがあろうとは、誰も夢にも思うまい。ではつぎ。」
ページをめくった私は、驚いて声をあげた。見たこともないような奇怪なる動物が一ページ大に描かれている。アヘン剤飲用者の途方もない夢というか、幻覚だ。頭部は鶏のそれのようで、胴はふくらんだとかげのよう、あとへ引きずっている尾には、上向きの角がたくさん生えていた。曲った背には独立の出っぱりがたくさんあって、まるで十二羽ものおん鶏のとさかを互いちがいに植えつけたようであった。この動物の前景にはばかげた一寸法師、人間の形をした小人がいてその動物を見まもっていた。
「さて、君はそれをどう思うね?」と教授は勝ちほこったように両手をこすりあわせた。
「怪物みたいな――グロテスクですね。」
「それにしても何がこんな妙な動物を描かせたのじゃと思う?」
「商売上の手でしょう。」
「君の下し得る説明はせいぜいそんなところかね?」
「それでは先生は何と説明されます?」
「明らかにいえることの一つは、こういう動物が実在するということじゃ。つまりこれは生態をスケッチしたものなのじゃ。」
またもやとっ組みあったまま、もんどり打って廊下をころげてゆくようなことになるかと思えば、思いきり笑いとばしもならなかった。
「そう、そうでしょうね。」と私は低能児でもからかうようにいってから、「ですが実は、この小人の姿には合点がゆきませんね。もし土人だったら、南米にも小人族がいるという証拠にも使えましょうが、何しろ夏帽をかぶったヨーロッパ人らしいですからね。」
教授は怒った水牛のように鼻をならして、「そこが君の限度なのじゃな。おかげでわしは可能の見地がひろがってきた。大脳の不全麻ひ! 精神的遅鈍! 驚くべきことじゃ!」
あまりのことに怒りもならなかった。じっさい腹をたてるなんかは、エネルギイの空費にすぎまい。こんな男に怒っていたら、さいげんがない。私は退屈らしく微笑するに止めておいた。
「この男は小さいなと思っただけですよ。」
「ここを見なさい!」と教授は乗りだすようにして、大きなソーセージのような毛だらけの指で絵をついてみせ、「この動物のうしろに植物があるじゃろう? 君のことじゃから西洋たんぽぽか芽キャベツくらいに思うとるじゃろうが、これは象げやしという植物なのじゃ。五十フィートか六十フィート(約一五―二〇メートル―訳者)まで生長する。この人物はある目的のため描かれておるのじゃとは思わぬかね? この動物のそばに立って描いていたら、無事ではおられん。じゃから高さを示すため自分の姿を描きそえたのじゃ。あの男はまず五フィート以上はあった、木のほうは十倍以上ある。とするとどういうことになる?」
「へえ! それじゃ先生はこの動物を――チャリング・クロスの駅舎もこの動物を入れるこやには小さすぎることになりますが!」
「誇張はさておき、これはりっぱに生長した見本動物じゃな。」と教授は悦にいった。
「たった一枚スケッチがあるからといって、人類の無数の経験を無視することはできませんぞ。」私はページをめくってみたが、これに類するものは何もなかったので、「放浪のアメリカ人画家が、それも麻薬に酔ったか熱に浮かされたか、それとも単に気まぐれな空想のもとに描いたものか、たった一枚のスケッチですぞ! 科学者である先生もそんなものを正当づけることはできますまい。」
答えのかわりに教授は本だなから一冊の本をとりおろして、
「これは才能のあるわしの友人レイ・ランケスタのすぐれた論文じゃ! このなかには君の面白がるような図解がある。あ、おう、これじゃ! 下にこう説明してある。『ジュラ紀(中世代の中紀、植物、は虫類などが栄えた―訳者)の|恐竜《ダイノソア》、|剣竜《ステノソーラス》の生態と考えられるもの、後脚だけで普通の人の二倍の高さあり』さあ、これをどう思うね?」
教授はあけたまま本を渡してよこした。その絵を見て私はどきりとした。この再現された前世界の動物は、無名の画家のスケッチと類似したものが多分にあった。
「たしかにすばらしいですね。」
「だが決定的だとは認めないのじゃろう?」
「そりゃ偶然の一致かも知れず、それともこのアメリカ人画家がどこかで絵をみたことがあって、その記憶が頭のどこかに残っていたのかも知れません。それが夢幻状態のとき頭のどこかへ生きかえってくるものです、人間て。」
「よろしい。」と教授は寛大にいって、「それはそれとして、ここでこの骨を見てもらいたい。」と死んだ画家の持ちものにあったと説明した骨を一本私に渡した。長さ六インチ(約一五センチ―訳者)ばかりで私の親指よりも太く、一端には乾からびた軟骨のようなものがついていた。
「知られているどんな生物のものじゃと思う?」
私はそれを受けとって注意ぶかく調べ、ほとんど忘れかけている知識をよび起こそうとした。
「人間の|鎖《さ》|骨《こつ》のきわめて太いのじゃないでしょうか。」
教授は軽べつしたように手を振って否定しながら、
「人間の鎖骨なら|彎曲《わんきょく》しとる。これはまっすぐじゃ。それに太いみぞがあって、そこに大きな|腱《けん》がついていたのを思わすものがある。このことはこれが鎖骨でないことを意味する。」
「では正直なところ、これが何であるか私には分かりません。」
「無知を暴露したからといって、何も恥ずかしがることはない。南ケンジントン(ロンドンというのとほぼ同じ地区―訳者)の知識人でこの名のいえるものはまずあるまいからね。」とこんどは豆つぶほどの骨を丸薬入れからとりだして、「わしの判定し得るかぎりではこの骨は、君の持っとるものと相似物じゃ。これでその動物の大きさがほぼ見当がつこう。またその軟骨からしてそれが化石した標本ではなく、現世のものと分かるはずじゃ。君はそれを何だと思うね?」
「たしか象には……」
教授は痛みでも感じたように、ぴくりとした。
「いかん! 南米に象がおるなんて、学務委員会の管理する学校の多い今日でも、そんなことをいってはいかん!」
「では、」と私はあわててさえぎり、「南米産の大きな動物、たとえばばく[#「ばく」に傍点]なんかでは。」
「なあ君、この方面の学問なら、わしは精通しとるものと思うてくれてよい。ばく[#「ばく」に傍点]にせよそのほか動物学上知られておるどんな動物にせよ、これはそんな既知の動物の骨では決してない。きわめて大きくて強く、どの点から推してもこの地球上に生存しながら、まだ科学界に知られておらん、ひどくあらあらしい動物の骨じゃろう。これで得心がいったろうね?」
「得心のゆくゆかぬは別として、少なくともたいへん面白いです。」
「ではまんざら望みなきにあらずじゃな。君はどこかに見どころがあるようじゃから、二人で辛抱づよくさぐってみよう。死んだアメリカ人のことは暫くおき、わしの話を続けよう。わしがアマゾンのことを深く調べずには帰る気にならなんだのは、君も分かってくれるじゃろう。死んだあの男がどっちの方向から来たかについては、指示するものがあった。土人の言い伝えが、わしの道しるべじゃった。それというのは、河ぞいのすべての種族のあいだに、一つの風説の伝わっておるのが分かったから、それが道しるべになったのじゃ。むろん君はクルプリのことは聞いたことがあるじゃろうな?」
「さあ、知りませんね。」
「クルプリは森の精じゃ。少し恐ろしくて、いくらか悪意があり、近づかぬほうがよいものじゃ。正確な形や性質は誰にも分からぬが、アマゾンでは恐怖のまとになっとる。アマゾンの流域ではどこの部落できいてみても、クルプリのおるという地域というものは一定しとる。アメリカ人の画家が来たのがその方向じゃった。何か恐ろしいものがそこにはおるのじゃ。何がおるか見届けるのがわしの仕事じゃった。」
「それでどうされました?」私のうわっ調子なんかどこかへけし飛んでしまった。この堂堂たる学者に注目と尊敬を抱かずにはいられなかった。
「わしは土人の極度にしりごみするのも構わず――その話をするだけでしりごみする始末じゃったが――いろいろと説得したり物を与えたり、しまいにはいくらか嚇してみたりして、二人の土人を案内者に雇うのに成功した。内容はいわんでおくが、いろいろと冒険をかさね、ある方向へある距離を進み――その詳しいことは今は略しておくが――ようやくのことである地点へ来た。ここは死んだ画家のほか誰一人来たことのないところじゃ。ところでこれを見てくれんか?」
教授は半折大の写真を一枚渡してよこした。
「河を下る途中でボートが転覆したものじゃから、まだ現像してないフィルムをおさめた箱がこわれて、こんな不満足な結果になってしもうた。ほとんど大半がダメになってしもうた。取りかえしのつかん損害じゃった。どうにか取りとめたなかの一枚がこれなんじゃよ。不十分な点、不鮮明な点は容赦ねがいたい。ねつ造したものじゃろうと言うものもあったが、いまそんなことをとやかく君と言い争う気持はない。」
写真はたしかに写りが悪かった。同情のない批評家なら、そのぼやけているのを見て曲解したかも知れない。くすんだ灰いろの風景で、細かいところまでよく調べてみると、大きな滝のように見える高い絶壁が遠く長くつらなって、前景は樹木におおわれた平原がしだいに高く傾斜してひろがっていた。
「これはあの絵と同じ場所だと思いますが。」
「そうじゃとも。あの男のキャンプのあとも見つけた。こんどはこれを見てごらん。」
写真はひどく損じたものだったが、同じ場所の近景だった。頂上に樹木のある岩ががけから独立して一つだけそびえていた。
「もう何も疑う余地はありません。」
「ではいくらか進歩したようじゃ。お互に進歩するとも。そうじゃないか? つぎに塔のようにつき出たその岩の頂上を見てくれぬか。何かあるかね?」
「大きな木があります。」
「したがその木のうえには?」
「大きな鳥がいます。」
教授はレンズをよこした。
「ええ、大きな鳥がとまっています。」私はレンズを通して見ながら、「口ばしがひどく大きいようですね。ペリカンとでも申しましょうか。」
「君の眼力には感服できないな。これはもとよりペリカンでもなければ、鳥でもない。この妙なものを射ち落としたと知ったら、君も面白がるかも知れん。わしの経験のうち唯一つの確実な証拠として持ち帰ったものがこれじゃというたら、君も面白がってくれるじゃろう。」
「ではそれをお持ちなのですか?」手に取ることのできる確証がついに現われた。
「持っておった。じゃが不幸にしてこれも、写真と同じにボートの事故のとき失なってしもうたのじゃ。急流のうず巻くなかへ消え去ろうとしたとき、とっさにつかんだが、手のなかに残ったのは翼の一部だけだった。岸へ流れついたとき、わしは意識不明じゃったが、どうしたことか気がついてみたら、この貴重な標本の哀れな残がいだけが手のうちにあった。それをいま君に見せよう。」
引き出しからとりだしたのは、大きなコウモリの翼の上部とおぼしい物であった。長さは少なくとも二フィート(約六一センチ―訳者)あり、曲った骨の下部には膜のようなものがついていた。
「ものすごく大きなコウモリですな。」
「滅相もない。」教授ははげしく打ちけした。「わしのように教養と科学的|雰《ふん》囲気のなかに生活しておると、動物学の根本原理がそれほどまで知られておらんとは、思いもよらんじゃった。君は比較解剖学の基本的事実さえ知らんのかねえ。鳥類の翼はじつは前腕なのに対して、コウモリの翼は前腕の三本の指が長くのびたあいだへ膜のはったものなのじゃがねえ! さてこの場合じゃが、この骨は決して前腕じゃない。よく見れば君にも分かるじゃろうが、この骨は一本だけでそこへ膜が一つはっておる。じゃからこれは決してコウモリではない。コウモリでなく鳥でないとすれば、これは何じゃと思う?」
私の貧弱な科学知識はたねぎれになった。
「ほんとに私には分かりません。」
教授はさっきも私に見せた基準的書物をひらいて、
「ここに、」と異様の怪物の飛行しているさまを描いた絵を示しながら、「ダイモルフォドンあるいは|翼手竜《テロダクテイル》と呼ばれるジュラ紀の飛行|爬《は》虫類のみごとな再現図がある。つぎのページには翼の構造図も出ておる。君の持っとるその見本とくらべてみたまえ。」
見たとたんに驚きの波がかすめた。私は得心させられた。もうのっぴきならぬ。こう証明をつぎからつぎと積みかさねられては、どうにもならない。スケッチ、写真、説明のうえにじっさいの標本まで見せられては、立証は完全というものだ。私はいった――おだやかに言った。教授はいったい虐遇されていると思ったからである。彼はまぶたをとじ寛容な微笑を浮かべて、この降ってわいた日光を一身にあびていた。
「この話はじつに前代未聞の大きなものですね。」私の胸中にわき起こったのは、科学的感激というよりも新聞記者としてのそれであった。「じつにすばらしいです。先生は失なわれた世界を発見なすったのですから、さしずめ科学界のコロンブスというところですね。私が先生を少しでも疑っているように見えたとしたら、まったく相すまぬ次第です。思いも及ばぬことだったものですからね。しかし私はこの目で証拠を見たのですから、今は何もかも分かりました。これなら誰でもいやおうはないでしょう。」
教授は満足そうにのどをごろごろ鳴らした。
「それから先生はどうなさいました?」
「雨期じゃったし食糧もつきてきた。大きな絶壁の一部は踏査したが、登上する方法はどうしても発見できなんだ。翼手竜を発見して射ったピラミッド形の岩山のほうは登るに楽じゃった。岩登りには多少の心得があるから、どうにか中途までは登った。そこまで登ると絶壁上の高原のありさまがいくらか分かってきた。そこは非常に広いらしく、西も東も見渡すかぎり緑の高原じゃった。眼下は湿地帯で、へびやこん虫や熱病のうじゃうじゃしとるジャングルになっとる。自然に高原を守る役をはたしとるわけじゃ。」
「なにかほかに生物のいる様子はありませんでしたか?」
「いや、見なんだな。それでも絶壁の下に一週間ばかりキャンプをはっている間に、上の土地から奇妙な音は聞こえてきた。」
「ですがアメリカ人画家の描いた動物は? それをどう説明されます?」
「頂上まで登って、そこで見たものに違いないと思う。じゃから登る道はあるのじゃ。それもよほど困難な道に違いなかろう。そうでなければ動物どもが降りてきて、下の平原を走りまわるに違いなかろう。そこまでは確実じゃ。」
「ですけれどそれらの動物はどうしてそこに住みついたのでしょう?」
「その問題は大して不可解とも思わん。説明はただ一つしかあり得んのじゃ。南米は君も聞いたことがあると思うが、花こう岩質の大陸じゃ。この地点はずっと大昔に、火山性の突発大隆起がおこった。この岩壁は玄武岩じゃし、従って深成岩なのじゃ。イギリスのサセクス州(イギリス最大の地方行政区、約三七〇〇平方キロ―訳者)ほどの地域が、そこに生存していた生物を乗せたまま一どきに隆起し、どんな腐食作用もうけつけぬ硬い垂直の絶壁によって、大陸の他の部分と断ちきられてしもうたのじゃ。その結果はどうなったと思う? 大自然界の普通の法則が一時中絶されたのじゃ。全世界の生存競争に影響をあたえるいろんな制限は、まったく無効になるか変更をうけたりする。さもなければ死滅しとるはずの生物が生存したりもする。翼手竜も剣竜もともにジュラ紀の生物じゃから、非常に古いものじゃ。それが偶発的事故のため不自然にも生き残ったのじゃ。」
「しかし先生の立証は決定的です。あとはただしかるべき権威者のまえに、それを展開されさえしたらそれでよいのだと思います。」
「わしも安易にそう思うた。」教授は苦い顔をして、「ところが事は思うとおりにはゆかなんだ。至るところで愚鈍とねたみからくる不信に出あったのじゃ。どんな人にもへいこらしたり、疑いをもたれたときそれを証明してみせたりするのは、わしの性質にあわん。第一回でこりてからは、持っとる証拠を見せたり、|下《した》|手《て》に出ることはせんじゃった。問題そのものがいやになり、口にする気もせんじゃった。民衆のバカげた好奇心を代表する、たとえば君のような男が、わしの閑居を騒がせにくると、もったいぶって控え目に応対してなんかおれなんだ。わしは生まれつきいくらか激しやすくて、じれてくるとつい乱暴もする。その点は君も気がついとるじゃろうな。」
私は目をこすっただけで黙っていた。
「家内もそのことではたびたびいさめてくれるが、ひとかどの男なら誰でもわしと同じに感じるものと思う。じゃが今晩は感情を意志の力で押さえる最高の見本をみせたい。すなわち展示会に君を招待しようというのじゃ。」といって教授はデスクのうえにあったカードを取って私によこしてから、「そこにもある通り、かなり広い人気のある動物学者のパーシヴァル・ウォルドロン氏が動物学会館の講堂で、『時代の記録』という題で八時半から講演をするのじゃ。わしは講壇に列して、事後、演者に感謝の動議を出すよう招待されとる。その際手ぎわよく、また早いとこ二三の意見をさしはさんで聴衆の興味をそそり、もっと突っこんだ話を聞きたいと思うものが出るように仕向けたいと思う。何もけんかを吹きかけるのではない。世のなかには図りしれぬ深いもののあることを説くだけじゃ。自分を押さえるつもりじゃし、この克己力によって好結果が得られるかどうかもためしたい。」
「私も行ってよいでしょうか?」熱心にたずねた。
「むろんよろしい。」とおだやかに答えたが、すばらしくどっしりしていて、態度にも温情があった。乱暴なときに劣らず威圧感があった。笑うと細くなった目と太く青黒いひげのあいだで、両のほおが赤いリンゴのようにふくらんだ。「ぜひきたまえ。よしや何も知らず何の役にもたたんと分かっていても、講堂内に味方が一人おると思えば、どんなにか心丈夫じゃろう。聴衆は多いことと思う。ウォルドロンは大ぼら吹きじゃが、人気は大したものじゃからな。そこでマローン君、思ったよりも長くしゃべりすぎた。広く世に示すべきものを、個人が独占するのはようない。今晩講演会でまた会おう。それまではわしの話をだれにもしゃべらんことじゃ。」
「でもマカードルさんが――これは私のところの編集長ですが、私のしたことを知りたがると思いますが……」
「好きなように話したがよい。ただその話のなかに、もし編集長が第三者をわしに紹介してよこしたら、わしは乗馬むちを手にして迎えるとつけ加えてもらいたい。ただわしの望むところは、この話が決して印刷に付されぬということじゃ。それでは今夜八時半に動物学会館で会おう。」
手まねで部屋を出ろとやられたとき、最後に印象に残ったのは、赤いほおと青黒いひげ、それに強情な目つきであった。
五 質問! 質問!
チャレンジャ教授との最初の会見で得た肉体的なショックや、第二の会見で得た精神的ショックやらで、エンモア・パークから社へ帰ってゆくときは、新聞記者としての士気がいくぶん欠けていた。ズキズキする頭で考えたことは、あの男の話には真実性があり、内容はきわめて重大であり、許しさえ得ればガゼット紙の記事としてすばらしいものができあがるのだがなということであった。表通りへ出てみるとタクシが一台待っていたので、それへとび乗って社へ走らせた。マカードルはいつもの席にいて、私を見ると待っていたように、
「やあ、」と声をかけてきた。「どういうことになったね? 相当やりあっているなと思っていたよ。まさか向こうから手を出しはしなかったろうね。」
「はじめは少しおかしかったです。」
「なんて男だ! それで君はどうしたね?」
「だんだん話が分かるようになりましたから、少ししゃべりあいました。しかしかんじんなことは分かりませんでした。つまり記事の材料は得られなかったのです。」
「どうだかね。君は目のまわりが黒くなっているようだが、やられたんだろう。りっぱに記事になるよ。『恐怖時代(フランス革命の狂暴であった時代―訳者)』はがまんできないからね。やったことには責任をとらせなきゃあ。よし、あすの朝刊に小論文を書いて、痛い目にあわせてやろう。ただ材料さえくれれば、永遠の|烙《らく》|印《いん》を押してやるよ。ミュンヒハウゼン(大ボラ吹きの男爵―訳者)教授――小見出しとしてどうだ? サ・ジョン・マンデヴィル(一四世紀フランス小説中の人物―訳者)の再来――カリオストロ(イタリアの大さぎ師―訳者)――歴史上のあらゆる詐欺師いかさま師を持ちだすのだ。化けの皮をひんむいてくれるよ。」
「それは困りますよ。」
「どうしていけない?」
「決して詐欺師ではないからです。」
「え、何だって?」マカードルは声をあげて、「君はマンモスやマストドン(いずれも前世界の巨象―訳者)や大海へびなどの話を信じるのかい?」
「さあ、そのことは知りませんけれど、そんな主張をしているのではないのです。ただ何か新しいものを手に入れたことだけは信じてよいと思います。」
「じゃ頼むからそれを書いてもらいたい。」
「それは私も書きたいのですけれど、私の知っていることはみんな、書かないという条件のもとに、こっそり教えてくれたのです。」と私は教授の話をかいつまんで話し、「というわけなんです。」
マカードルは信じられない面もちで、
「それでマローン君、今晩の科学会だが、これには何の秘密もないはずだ。ウォルドロンのことは何度も新聞に出たし、今夜のことはどこも取りあげはしまいし、チャレンジャの話のあることなんか知ってやしない。そこで運がよければ特だねが得られるわけだ。君はぜひそこへ出席して、何もかも報告をたのむ。夜なかまで紙面をあけて待っているからね。」
その日は忙しかった。早めにサヴェージ・クラブで夕飯をすませたが、その席でヘンリにはこんどの冒険のことをいくらか話して聞かせた。やせた顔を疑わしそうににやにやさせて聞いていたが、私が教授に納得させられたという段になると、カラカラと笑って、
「現実生活ではそんな風にはならぬものだよ。人は首尾よく大発見をやりながら、その証拠を失なうなんかありっこない。そんなのは小説家にまかせておきたまえ。あいつときたら、動物園のさる[#「さる」に傍点]小屋みたいなもんで、まん着だらけだ。何もかもみんなたわごと[#「たわごと」に傍点]さ。」
「しかしアメリカ詩人というものがある。」
「そんなものはいやしなかったさ。」
「僕はスケッチ・ブックを見たよ。」
「そんなものチャレンジャのスケッチ・ブックさ。」
「じゃあの人の描いた動物だというのかい?」
「もちろんさ。ほかに誰が描くものかね。」
「そうすると写真は?」
「何もうつってやしない。鳥がいたというのも、君がそう思っただけさ。」
「翼手|竜《りゅう》もかい?」
「それもチャレンジャがいうだけさ。彼は君の頭にそれをたたきこんだのさ。」
「じゃあの骨は?」
「最初のはアイルランド・シチュウのなかにあったのさ。第二のものはかねてでっちあげてあったのさ。君が少し気がきいて、職務に忠実であれば、骨にしても写真にしても、でっちあげるのは何でもない。」
私は少し不安になってきた。要するに私が早のみこみだったのだろう。だがそのとき、ふとうまい考えが浮かんだ。
「今夜の会に行かないかい?」
タープ・ヘンリは考えこむらしかったが、
「チャレンジャはあいそはよいけれど、人気のある男じゃない。彼と黒白をつけたいような理由をもつ者はたくさんいる。まあロンドン一の憎まれものだろう。もし医学生が出席していたら、はてしない騒ぎになるだろう。くま園(もとくまいじめという遊びがあった―訳者)に巻きこまれるのはいやだからな。」
「教授が自分の立場を説明するのを聞いたほうが、公平というものだと思うがな。」
「そう、それが唯一の公平というものだ。よろしい、今夜のところはお相伴をするとしよう。」
講堂へ行ってみると、予想以上に人が集まっていた。ずらりとならぶ電気自動車から白ひげの教授連がぞろぞろと降りる一方、つつましやかな歩行者の黒っぽい流れが、アーチ形の玄関をぞろぞろとはいっていった。これでみると講演は科学の問題ではあるけれど、一般にかなりの人気があるらしい。席についてみて分かったのだが、特別席にも普通席にも若い、子供らしい気分さえあふれていた。振りかえってみると、見なれた医学生タイプの顔がならんでいた。大病院が期せずしておのおのその分遣隊をよこしているのらしい。聴衆は今のところ陽気だが、何となくいたずらっ気があるようだ。流行歌のひとくさりが熱をおびて合唱されていたが、科学の講演の前にしてはいかにも不似合いな前奏である。講演のはじまらぬうちからもう、誰かをやじってやろうという空気が見られ、やじられる側からみれば迷惑千万なことであろうとも、関係のないものにとっては楽しい晩になりそうである。
こうして有名なふちのめくれたオペラハットをかぶったメルドラム老博士が壇上に現われたとき、「その帽子どこで買った?」といっせいに質問を浴びせられて、あわてて帽子をとり、いすの下へこっそり隠した。痛風になやむウワドリ教授がびっこを引き引き席につくと、場内のいたるところから、「足の指のかげんはどうですか?」と同情あふれる声がかかったので、教授はまごついていた。だが私の知りあいになったばかりのチャレンジャ教授の現われたときの騒動は最高であった。そのあいだに本人は壇上の前列のはじの席へと歩みよった。かどを回って歩みよるとき例の黒ひげが見えると、どっと歓声があがったので、タープ・ヘンリの推測は正しくて、この群衆は講演を聞くのが目的ではなく、有名な教授が参列すると聞いたためではなかろうかと考えた。
教授が現われたとき、正面の席にいる身なりのよい聴衆のなかから、学生たちの歓声がかならずしも不満でなかったらしく、いく分同情的な失笑がおこった。このあいさつは驚くほどの声の爆発であった。バケツをさげた番人の足音が遠くに聞こえたときの、食肉動物のおりの騒ぎにそっくりであった。なかには不快なのもあったが、大体は単純な底ぬけ騒ぎで、いやな人や軽べつしている者を騒ぎたてて迎えるというより、愉快な面白い人を迎えるといった調子だった。教授はやさしい人がやかましくほえたてる小犬でも迎えるように、疲れたような寛大な軽べつの微笑を浮かべてそっと着席すると胸をはり、手でひげをしごくと眠むそうで人もなげなる目で聴衆を見わたした。その歓声のおさまらぬうちに、司会者のロナルド・マレエ教授と講演者ウォルドロン氏が人びとのあいだを縫って現われ、いよいよ会は始まった。
たいていのイギリス人にありがちのことだが、マレエ教授は声が通らない欠点があるといっても、本人は許してくれるだろう。かりにも聞くに価する内容をもった人が、なぜ他人に分からせるよう努力しないのか、これは近代生活における不思議の一つである。彼らの方法は貴重なる液体をつまった管によって貯蔵所へ送ろうとするに似て、やろうとさえ思えばほんの少しの努力で通じるのである。マレエ教授は自分の白ネクタイとテーブルのうえの水さしに向かって深遠な発言をし、右手の銀のしょく台におどけたあいさつをした。それで腰をおろすと、つづいて有名な講演者ウォルドロン氏がさかんな拍手のうちに立ちあがった。この人はいかめしい、やせ形の人物でしゃがれ声でけんか腰のところがあったが、他人の思想を消化して俗人にもわかりよく、面白く聞かす特技をもっていた。及びもつかぬものを面白おかしく聞かすのである。春秋分点の歳差とか|脊《せき》|椎《つい》動物の組織なども、この人の口にかかるとひどく面白いものになるのだ。
話は科学によって解明された大自然の鳥|瞰《かん》図であった。始終明快に、ときには真にせまる言葉でそれを述べた。まず地球が大きな燃えるガス体として天空を運行し、凝固し冷却し、しわは山脈となり、蒸気は水となり、不可解な人生劇の演ぜらるる舞台がしだいに準備されたことを語った。生命そのものの起源については用心ぶかく言葉をにごした。生命の根源は、地球の燃えていたころには存在しなかったことほぼ確実であると断言した。よってその後に発生したものであるのは確実である。では冷却する地球の無機元素から発生したのであるか? きわめてそうらしい。あるいは外界から流星にのって地球上へ到達したのであるか? それもほとんど考えられない。要するにもっとも賢いのは、少しも独断的でないのだ。私たちは実験室でも、無機材料から有機物を造成することはできない、少なくとも今のところは。生と死とのあいだの深海は、今日の科学をもってしては橋をかけることができない。しかしながら自然というより高等で不可解な科学があって、長期にわたって強い力で活動し、人間には不可能な結果をみごとにもたらす。この問題はこの程度にとどめなければならない。
ここで話は動物界の大段階にうつった。下は軟体動物および微小な海|棲《せい》動物にはじまって、|爬《は》虫類および魚類と一段一段と階段をのぼり、ついに胎生動物であるカンガルーねずみにいたった。これぞあらゆる|哺《ほ》乳動物の直接の祖先なのである。それゆえに聴者諸君の祖先でもあるわけだ。(ノー、ノーの声が後列の懐疑的な学生のあいだから起こった)赤ネクタイの青年紳士は、これもやはり「ノー、ノー」と叫んだから、たぶんこれも卵からかえった組なのであろうが、この人に向かって講演者は、あとで詳しく拝見したいといった(笑声)。大自然のいく代にもわたる過程の頂点が、赤ネクタイの紳士の創造であったとはいかにも奇妙だ。しかしその過程は停止したのであろうか? この紳士をもってその過程は終ったのであろうか? 進化のすべてであり、その終りを示すものであろうか? 赤ネクタイの紳士が私生活においていかなる美徳を持っていようとも、大自然がこの人を創造したことをもって終ったとするがごときは、演者のこころよしとせざるところである。進化は磨滅するものではなく、いまなお働いており、なお偉業が成就せんとしているのである。
満場の忍び笑いのなかにあって、やじをみごと処理してから講演者は本題にもどり、海の乾いたこと、砂州の出現、その一端にねばねばした不活発な生物のあらわれたこと、生物のうようよしている浅海、海の生物が|泥床《でいしょう》に逃げだしたこと、そこには食物が豊富であったこと、それにつれて、おそろしく繁殖したことなどを述べた。つけ加えて、「かるがゆえに、淑女ならびに紳士諸君、ウィールドンあるいはゾーレンホーフェン粘板岩中に発見されて人目をおどろかすとかげ[#「とかげ」に傍点]類の恐るべき種属の発見となる。さりながら幸いにしてこれらは人類がわが天体上に姿を現わすはるか以前に滅びさったのである。」
「質問!」壇上から大きな声がかかった。
ウォルドロン氏は、さっき赤ネクタイの紳士をやっつけたのでも分かるとおり、辛らつな皮肉をそなえた規律励行主義者だった。しかしこの発言はあまりに意外だったらしく、一時はどうしてよいか分からないらしかった。まるでシェークスピア学者が下等なベーコン派(シェークスピアはベーコンなりとの説がある―訳者)の前へ出たか、天文学者が地球平面説狂信者のおそうところとなったようである。しばらくはぽかんとしていたが、気をとりなおすと声をはりあげて、「……以前に滅びさったのである。」
「質問あり!」またもや声がかかった。
ウォルドロンはあっけにとられて壇上の教授たちを見まわしたが、その目はチャレンジャ教授にとまった。いすにもたれかかって目をつぶり、眠りながら笑ってでもいるような楽しげな表情をうかべていた。
「わかった!」ウォルドロンは肩をすくめて、「わが友チャレンジャ教授だな。」といったきりで大笑いのうちに講演をつづけたが、これが最後の説明でこれ以上は何もいう必要はないかのようだった。
しかしこのことはこれで終りにはならなかった。過去という荒野のどの道をたどったにしても、行きつくところは絶滅した生物または有史以前のそれについての説に落ちつき、そのたびにチャレンジャから牛のような声をあびせられた。聴衆はそれを期待し、どなり声のたびに喜んで騒ぎたてた。ぎっしり詰まった学生席がこれに和し、チャレンジャがひげのなかから口をひらくとまだ声もださぬのに、あちこちから、「質問あり!」とわめきたて、さらに多くの人たちから「静粛に!」とか「恥を知れ!」とかの声がかかった。ウォルドロンは少しも物に動じないしっかりした人物だけれど、ぺらぺらと早口になった。へどもどしたり、どもったり、同じことをくりかえしたり、長い文句でこんがらかったりした。そしてとうとう、こんな目にあわせた本尊のほうへ猛然と向きなおった。
「もうじつに我慢できない!」壇上の一角をにらみつけた。「チャレンジャ教授、こんな無知で無礼な妨害はやめにしてもらいたい。」
講堂内は一時しんとした。学生たちはオリンパス(太古そこにもろもろの神がいたと伝えられる―訳者)の神たちがうちわげんかするのをでも見るように、かたずをのんで見物していた。チャレンジャは大きなからだをやおらいすから起こした。
「ウォルドロン君、こんどはわしのほうからお尋ねせんならんが、厳密にいって科学的事実と合致せぬような断定を下すのは、やめにしてもらいたい。」
この発言はあらしのせきを切った。「恥を知れ、恥を!」「話を聞け!」「つまみ出せ!」「壇上から引きずりおろせ!」「フェア・プレイ」などの声が、面白がるのも腹立ちまぎれなのも、いっせいにとどろきわたった。司会者は起立して両手をはためかしたり、泣き声をあげた。「チャレンジャ教授――個人の――意見は――後ほど。」これだけがわずかに聞きとれた声である。妨害者はぴょこんと頭をさげて、にやにやとひげをなでながら腰をおろした。ウォルドロンはまっ赤になり、けんか腰で説明をつづけた。ところどころ断定をくだすところへくると、論敵にむかって憎らしげな視線を投げたが、教授はあいかわらずほがらかで楽しげな微笑さえ浮かべて、ぐっすり寝こんでいるように見えた。
ついに講演は終った。――結論を急いで支離滅裂なところがあったから、おそらく頭でっかちになったことと思う。論旨もしどろもどろで聴衆も落ちつかず、つぎはどうなることかと不安であったことと思う。――ウォルドロンが腰をおろし、司会者のかすかな紹介があって、チャレンジャ教授が立ちあがり、演壇へ進み出た。私は新聞のためその言うところを一語ももらさず写しとった。
「淑女ならびに紳士諸君、」大向こうからつづけざまのやじを浴びながらはじめた。「これは失礼、淑女紳士ならびに子供諸君、わしは不注意にも今晩の聴衆の相当の部分を無視したることをあやまります。(がやがやがおこり、そのあいだ教授は片手をあげ、法王が群集に祝福を与えでもするように同情的に大頭でうなずきながら立っていた。)わしはただいまのウォルドロン氏の真に絵画的であり、かつ想像力あふるる講演にたいし、感謝の評決をするためこの席にのぼったものであります。氏の説にはわしの賛同し得んものがある。それが発言されるごとに指摘するのがわしの義務であった。にもかかわらずウォルドロン氏はみごとに目的を貫徹された。すなわちわが地球の歴史と思わるるものを、簡単かつ面白く説示されたのである。由来通俗講演はききやすいものであるが、どうしても一面上すべりな、聴衆を迷わすものになりやすいと申したら、ウォルドロン氏には失礼であろうか。(ここでチャレンジャははれやかにほほえんでウォルドロンのほうをちらりと見やった)由来通俗講演家は寄生的なものである。(皮肉なかっさいが起こり、ウォルドロン氏はむっとしたように抗議の身ぶり)彼らは貧しく無名の同胞のなしとげた成果を、名誉と金銭のため食いものにする。実験室にて得られたるきわめて小さき新事実、科学の殿堂を築く一個のレンガでさえ、むだな一時間をすごし、しかも何ら有効なる成果を残さぬ受け売りの解説よりもはるかに重みがある。わしがこの分かりきった感想を述べるのも、ことさらにウォルドロン氏をとがめるものではなく、諸君がつりあいの観念を失して、小坊主を高僧とまちがえないようにしてほしいがためである。(ここでウォルドロン氏は司会者に何かささやき、司会者は中腰で水差しに向かってはげしく何かいった)しかしこの話はこのくらいでよろしかろう。(しばしは鳴りもやまぬ大かっさい)もっと興味ふかい問題にうつろう。独創的な研究家であるわしが、講演者の正確さに特に異議を申したてる点はなんであるか? それはこの地球上にある種の動物の生存している点である。わしがこの問題をとりあげるのは、しろうととしてでも、また通俗講演家としてでもない。あくまで事実をはなれん科学的良心の所有者としてである。ウォルドロン氏はいうところの有史以前の動物を見たことがないゆえに、かかる生物はもはや実在せんと仮定されるのであるが、それは大なるまちがいである。氏も申さるるように、われらの祖先ではあるが、かかる表現を用いてよいならば、われらの同時代的祖先である。もしその生息所をさがすの努力と胆力があるならば、きわめて醜怪にして恐ろしき特徴をもつ古生物が今なお発見されるのである。ジュラ紀のものと考えらるる生物、今日最大にして強力と考えらるる|哺《ほ》乳動物をさえさがしだして捕食する怪物が現存するのである。(ばかな! 証明しろ! どうして分かった? 質問あり! などの声あり)どうして分かったかとのお尋ねでありまするが、わしはその秘密の場所へ行ってきたからであります。その一部をこの目で見たがゆえに知っとるのであります。(かっさい、怒号、うそつきとの声など)わしはうそつきであるか? (満場一致のそうぞうしい雷同)わしのことをうそつきというた人がある。その顔を見ておきたいから、立ってもらえんかな? (ここにいるとの声あり、目がねをかけた小柄の男が、じっさいはそうでないのに、はげしくもがくのを学生たちに胴あげされた)君は大胆にもわしのことをうそつきというたのであるか? (違いますよ。いいませんよ! と罪をかぶせられた男はびっくり箱のおもちゃのように隠れてしまった)もしここに出席の諸君のうち、わしの言うたことに疑念を抱く人があるなら、喜んでこの講演後少しく話しあいたい。(うそつき!)いまいうたのは誰じゃ? (またもや罪のない男が、がむしゃらに潜りこもうとするのを、たかだかと差しあげられた)ここでこの壇上から諸君のなかに降りていったら――(いざやいざ恋人よの合唱がおこり、ために講演会はしばらく中断され、司会者は立ちあがって音楽の指揮者のように両手を振った。教授は満面に朱をそそぎ、鼻の孔をふくらませ、ひげを逆だてて、まさに北欧伝説にいう狂戦士さながらだった)いかに偉大なる発見者も、同じような不信に泣いておる。バカものの世代の汚辱である。偉大なる事実が諸君のまえに展開されても、諸君には直観もなければ、それを理解するに役だつ想像力にも欠けとる。科学に新分野を開拓するに命をかけた人に、どろを投げつけることしかせん。諸君は予言者を迫害する。ガリレオを、ダーウィンを、そしてこのわしを……」(ひとしきりかっさいが続き、講演は完全に中断された)
以上は当時急いでとったノートから写しとったものであるが、これでも会衆のおちいった大混乱の実状を十分伝えるものではない。ものすごいばかりのわめきあいで、数人の婦人のごときは急いで退場してしまった。まじめで尊敬すべき年長者たちも、学生に劣らずその空気にまきこまれたらしく、ひげの白くなった連中までが立ちあがって、がん固な教授にむかってこぶしを振りあげた。多くの聴衆が煮えたぎるなべのように沸きに沸いた。教授は一歩進み出て両手をあげた。この人にはどこか大きく人目を引きつける男らしさがあったので、この堂堂たる身振りと威圧的な目のまえには、さすがの騒ぎもしだいにおさまってきた。教授は何かはっきりと言うことがあるらしい。一同はそれを聞こうと静まりかえった。
「わしは諸君をひきとめはせん。ねこに小判というものじゃ。事実はどこまでも事実であり、おろかなる多数の若ものどものこの騒ぎも――同じほどにおろかなる年輩者どものともつけ加えねばなるまいが――事実を何らまげるものではない。わしは科学に新分野を開いたと公言する。諸君に抵抗する。(かっさい)しからば諸君をためしてみよう。ここで諸君のうち一人または二人を選んで代表とし、わしのいうことが正しいかどうか調査してはもらえまいか?」
比較解剖学の老練教授サマリイ氏が聴衆のなかから立ちあがった。背のたかいやせて気むずかしそうな人だが、神学者のようなしなびた相好をしていた。チャレンジャ教授にうかがいたいが、いまの発言中にあった結論は、二年前に行なったアマゾン源流の調査の際得たものであるかどうか。
チャレンジャ教授はそうだと答えた。
しからばおたずねしたいが、ウォリス、ベーツその他の科学的定評のある探検家がすでにさぐったその地方において、いかにして新発見をされたのであるか?
チャレンジャ教授は答えて、サマリイ氏はアマゾン河とテムズ河を混同しておられるようじゃ。アマゾンのほうが大きい。アマゾンの支流であるオリノコ河だって約五万マイル(約八万キロ―訳者)の流域があり、これほどの土地であればある人の見おとしたものを、別人が発見するがごときはあり得ることであるといった。
サマリイ氏は冷笑を浮かべて、テムズ河とアマゾン河の違いのごときはよく知っている。ただしその違いは、前者についてはすぐ調査できるが、後者については何もできないだけだ、といった。チャレンジャ教授はその有史以前の動物の発見された地方の緯度と経度を明示してくださらないだろうかともつけ加えた。
チャレンジャ教授は答えて、当方に正当な理由があるので、その点は申しかねるが、聴衆のなかから選ばれる委員会には、条件つきである程度うちあける用意がある。サマリイ氏はその委員会に加わり、自から調査にあたられる意志はないであろうかといった。
サマリイ氏は、「よろしい。参加しよう。」と答えた。(大かっさい)
チャレンジャ教授、「それならば行く道を示す材料となるものをかならずお渡し申そう。しかしながらサマリイ氏がわしの説くところを調査される以上、わしのほうでも氏の言を調査する一二の人を同伴せしめるのが公平じゃと思う。わしはそれに困難と危険の伴なうことを秘しはせん。サマリイ氏は若い協力者が必要であろう。わしからそのような有志者をつのってもよいであろうか?」
一人の男の生命に関する大きな危機がかくして降りかかったのである。私はこの講堂へはいるとき、このような未開地への冒険に参加すると誓約するようになると、夢にでも思っていたろうか? しかしグレディスが――これこそ彼女のいっていた機会ではないのか? グレディスなら行けというだろう。私はぬっと立ちあがった。口は動かしかかったが、何のいうべき言葉も用意はなかった。つれのタープ・ヘンリが私の服のすそを引っぱって、小声でいうのが聞こえた。「座れ、マローン君! 公衆の面前でバカなまねをするな。」同時に気のついたのは、五六列前の席にいた男だが、背のたかい、ジンジャいろの髪でやせたのが急に立ちあがって、うしろを向いて私をにらみつけたが、そんなものに負けているような私ではない。
「司会者、私が行きます。」私はいくどもくりかえした。
「名をいえ! 名をいえ!」聴衆から声がかかった。
「エドワード・ダン・マローンです。デイリ・ガゼット紙の記者です。偏見を少しも抱かぬことを誓います。」
「あなたのお名まえは?」司会者が背のたかい男にたずねた。
「私はロード・ジョン・ロクストン(名のかしらにロードのつくのは貴族である場合が多い―訳者)です。私はすでにアマゾン河をさかのぼったことがあります。あの地域のことはよく知っており、この踏査には特に参加する資格があると思います。」
「ジョン・ロクストン|卿《きょう》のスポーツマン、旅行家としての名声は、もとより世界的なものです。」司会者がいった。「同時に新聞関係の人がこの探検に加わることも、たしかによいことと思います。」
「ではわしから提議するが、この両君が今晩の会合の代表としてサマリイ教授の探検に同行し、わしのいうところの真偽を調査報告することにしてはどうであろう?」
チャレンジャ教授のこの提案によって、叫び声と喚声のうちに私たちの運命は決し、気のついたときには出口のほうへうずまき流れてゆく人たちの流れのなかへ巻きこまれて、心はとつぜんわき起こった新しい大きな計画のため、半ばぼう然としていたのである。講堂を出てゆくと、笑いさんざめく学生たちが舗道にむれをなし、腕をまいた重いこうもりをふり落とされそうになりながら、押し流されていったのである。それから喚声とかっさいの入りまじるなかを、チャレンジャ教授の電気自動車が車止めをすべりだしていった。私自身はといえば、いつしかリジェント街の銀いろの灯火の下を、グレディスを思い、将来の不安でいっぱいになりながら歩いていった。
不意にひじにさわるものがあった。振りかえってみると、こんどの変った探索に同行を志願したやせて背のたかい男のおどけた、しかし威圧的な目がそこにあった。
「マローン君でしたね? おたがいは話相手になるわけですね? 私の家はこの道をちょっといったオルバニにあります。ぜひお話しておきたいことも二三あるし、三十分ばかり時間をさいて、ちょっと寄ってくれませんか?」
六 私は神のむちであった
ロード・ジョン・ロクストンと私はヴィゴ街を折れてゆき、有名な貴族長屋のうすぎたない入口をはいっていった。うすぎたなく長い家なみがつきるところで、この新しい知人はとあるドアを押しあけ、スイッチをひねった。色のついたかさごしに輝いている多くの電灯が、赤みをおびて大きな部屋を浮かびあがらせた。入口に立ってあたりを見まわした私は、なみなみならぬ気やすさと気品のなかに、男らしさの活気にあふれるものを感じた。どこを見ても趣味あふれる金持のぜいたくと、独身男子らしい不精たらしさとが入り乱れていた。どこか東洋の市場から来たものらしい高価な毛皮と、あざやかなにじ色をした敷きものとが散乱していた。その方面の知識にとぼしい私の目にも、きわめて高価な珍品とわかる絵や版画が、たくさんかかっていた。ボクサやバレーの少女、競馬うまなどのスケッチが、肉感的なフラゴナール(一七三二―一八〇六年フランスの画家―訳者)、武ばったジラルデ、夢みるようなターナ(一七七五―一八五一年イギリスの画家―訳者)などの絵と交互にかかっていた。しかしこうしたいろんな装飾品のなかに、いろんなトロフィが飾ってあったので私は、ロクストン|卿《きょう》が当代の万能スポーツマンであるのをすぐに思い浮かべた。暖炉だなのうえに濃青色のオールと桜いろのそれとの交差させてあるのは、この人が古いオクスフォード大学の先輩で、リアンダ・クラブの一員であるのを示しており、その上下にあるフェンシング用の剣とボクシングのグローヴは、二つながらその優勝者であったことを示していた。部屋のまわりにすばらしく大きな獲ものの首が、まるで腰羽目のように一列にとびだしていた。その大部分が世界の各地から集められた選りぬきで、なかには英領スーダンのレド・エンクレーヴの珍しい白サイが、ひときわ尊大な口びるをたれていた。
敷きつめた高価な赤いじゅうたんのまん中に、黒と金いろのルイ十五世風のテーブルがおいてあった。古代の美しい品であるが、いまはコップのあとや葉巻の焼けこげだらけで台なしになっていた。そのテーブルのうえには銀の灰ざらと、ぴかぴか光る酒びんとがおいてあった。そのびんとそばのサイフォンから、だまって二つの背のたかいグラスに酒をこさえた。私にひじかけいすをすすめ、そばに私の分の飲みものをおいてから、口あたりのよい長いハバナ葉巻を渡してよこした。それから自分も向かいあって席につき、勝手の知れない光る目で、大胆に私を見た。冷たくうす青い氷河湖を思わすような目だった。
私の吸う葉巻のうすい煙をとおして、多くの写真ですでに見知っている顔の細部を、あらためて見なおした。強くそりかえった鼻、やせて落ちくぼんだほお、てっぺんの薄くなった黒っぽく赤い髪、ちぢれて男性的な口ひげ、つき出たあごに少しばかりある小さいながらどこか積極的なひげ、どこかナポレオン三世らしさもあり、ドン・キホーテじみたところもあった。しかもイギリスのいなか紳士、機敏でするどく、犬や馬を愛する人の精髄といったところも備えていた。皮膚は太陽と風にさらされて、りっぱな植木ばちのような赤みをおびていた。まゆはふさふさと目のうえに垂れさがり、本来冷たい目を恐ろしげにみせ、たくましくしわの深い額がさらにそれを強調していた。からだつきはやせて見えるが、きわめてがっしりしており、じっさいイギリスでもこれほどの努力にたえる人はあるまいことをしばしば示した。背たけは六フィート(一・八二メートル―訳者)を少しこすのだが、両肩が妙に丸みをおびているので、それほど高くは見えなかった。以上が向かいあって腰をおろし葉巻を強くかみ、ながいあいだ気まりの悪くなるほどだまりこくって、じっと私を見つめるロクストン|卿《きょう》の印象である。
「ところで、」とついに口をきった。「ついにあんなことをやっちまったね、お仲間、君。」この呼びかけは変てこであるが、彼はまるで一語であるかのようにすらすらといってのけた。「うむ、とんだところへ飛びこんだものだ、お互にね。あの部屋へはいってゆくときは、まさかこんなことになろうとは思いもしなかったろうね、どう?」
「夢にも思わなかったですよ。」
「ご同様、まったく思いもよらなかった。ところがこうしてのっぴきならないことになった。僕は三週間まえにウガンダ(アフリカ東部のイギリス保護領―訳者)から帰ったばかりで、スコットランドに土地をきめて、借地契約その他をすませたところだ。愉快な飛躍だね、え? 君のほうの都合は?」
「仕事の常道なんですよ。僕はガゼット紙の記者です。」
「知ってる。この仕事を引きうけるとき、君はそういったよ。ところでよかったらちょっと仕事があるんだが、どう?」
「喜んでやりましょう。」
「危険があっても構わないね?」
「どんな種類の危険です?」
「バリンジャに関することなんだが、あいつは危険なのでね。あの男のことを聞いたことがありますか?」
「いいえ。」
「へえ! 君はどこで暮らしてきたんです? サ・ジョン・バリンジャといえば北方ではもっともすぐれた紳士騎手なんですぜ。平地でならこっちの調子さえよければ、僕にも勝てるが、ジャンプときたらかないっこない。ところでこの人はトレーニングのないときは、ひどく深酒をするという点、誰知らぬものもない秘密なんだ。平均をとるのだと自分ではいってるんだがね。この火曜日に錯乱状態になるほど飲んだが、それ以来悪魔のようになっている。この上の部屋にいるんだが、医者はここで何か食物をとらなければ、気のどくだが命はもたないといってる。しかし寝台に横になって、上掛けのうえにピストルを用意しており、近よるものにはどてっぱらに六発ぶちこんでくれると公言しておるので、召使どもはひと騒ぎやらかしたという。一筋なわでゆける男ではない。それに射撃の名手でね。だがグランド・ナショナル(リバプールで毎春行なわれる大障害競馬―訳者)の優勝者をそんな風に死なせるわけにはゆくまいと思うが、どうかね?」
「じゃどうしようっていうんです?」
「僕の考えたのは、二人でとびこむことだった。おそらくうとうとしていることだろうから、最悪の場合でも一人が射たれるだけで、残ったほうはとびこんでとり押さえられると思う。まくらカバーのなかへ両腕を押しこんだらすぐ電話をかけて、胃|洗滌《せんじょう》をやってもらったら、一命はとりとめられると思う。」
不意に一日の仕事にまいこんできたとしては、いささかあぶない仕事だった。私はとくに勇敢な男とも思っていない。アイルランド生まれだから、未知のもの未経験のことを、じっさいより恐ろしがるところもある。その反面では|卑怯《ひきょう》を恐れ、こんな汚名を忌むように育てられている。あえていうが何かことがあって、それを敢行するだけの勇気に欠けていると思われたときは、歴史の本にある|匈奴《きょうど》のように、進んで危機にとびこむことも辞さない。しかし私をはげますものは、勇気よりもむしろ誇りと恐れだろうと思う。だからウイスキで狂った男が上の部屋にいると聞いて、気おくれはしたけれど、つとめて平静を装い、いつでも行きましょうと答えた。ロクストンがなおも危険を口にするのは、私をじりじりさすだけであった。
「話しあってばかりいても、らちはあかない。さあ行きましょう。」私はいって立ちあがった。向こうも立ちあがったと思うと、ひそかにくすくす笑ったらしく、私の胸をかるく二三度たたいてから、いすにおし戻して、
「オーライ、坊っちゃん――合格だよ。」といった。
何のことだか分からないから、私は見あげるばかりだった。
「ジャック・バリンジャならけさ会ってきた。僕のキモノのすそを射ちぬきゃがった。手がふるえていたので助かったが、みんなでジャケツをかぶせておいたから、一週間もしたらよくなるだろう。もう心配しないでも大丈夫だと思う。ところで二人は誓いあった仲だが、こんどの南米ゆきは非常に重大だと思う。ついては仲間をもつとすれば、十分信頼のおける人であってほしいと思った。そこで君を評価したわけだが、君はその試験をりっぱにパスした。あのサマリイ老はお守りが必要だろうから、二人の責任は重大だと思う。ところで君は、アイルランドにラグビ・カップを取ってくるものと期待されているマローン君、もしやあのマローン君ではあるまいか?」
「その補欠ですよ、たぶん。」
「顔に見おぼえがあると思った。リッチモンドとの試合で君がトライをあげるのを見た。あのシーズン中でのみごとなスワーヴだった。都合さえつけば、ラグビの試合は見おとしたことがない。何といっても一番男性的なスポーツだからね。ところで何もスポーツの話をするために、君に来てもらったわけではない。仕事の話をつける必要がある。ここにタイムズの第一ページに船舶の出入港表が出ているが、来週の水曜日にパラ(アマゾン河の河口に近い港―訳者)行きのブース会社の船が出るから、それにしたらと思うがどうかね? サマリイ教授と君の都合しだいだが……よろしい。教授のほうは僕から話をしよう。君の支度の都合はどうなんだ?」
「社のほうでやってくれると思う。」
「君は射撃のほうはどうなんだ?」
「国防軍兵士なみです。」
「やれやれ、そんなにへたなのかねえ。君たち若い人は、どうしてあれを覚えようとしないのだろう? はちの巣のせわをするだけなら、針のないはちでも事はたりるだろうが、みつを盗みに来るやつのあったとき、それではバカをみるよ。南米では、チャレンジャ教授が狂人かうそつきでない限り、帰るまでにはいろんなことがあるだろうから、鉄砲くらいまっすぐに構えられる必要がある。君はどんな鉄砲をもっているね?」
こういってかし[#「かし」に傍点]の戸だなのところへゆき、パッとあけると、二連銃がオルガンのパイプのように、ずらりと並んでいるのが目にとびこんできた。
「僕の銃のなかから君に割愛できるものを選ぼう。」
一つずつつぎからつぎと美しいライフル銃をとりだし、カチリ、パチンとあけたりとじたりした。それからさながら母親が子供をあやすように、やさしくなでながらもとのところへしまった。
「これはブランド製の〇・五七七銃だ。あの大きなやつも、」と白サイの首を見あげて、「これで仕とめたのだが、もう十ヤード(約九メートル―訳者)おそかったら、僕のほうがこいつの収集におさめられるところだった。
[#ここから3字下げ]
その|円《えん》|錐《すい》形の銃弾にチャンスはかかる
そは弱きもののもつ正しき強みなれ
[#ここで字下げ終わり]
ゴルドン(一八三三―八五年イギリスの軍人―訳者)は知っているだろう? 馬と銃の詩人で、二つながら達人だった。ああ、これがいい。〇・四七〇で望遠照準になっており、二連発で、五十三フィートまで標点射程になっている。三年まえにペルーで奴隷監督を敵としたときの僕の武器だ。僕はあの地方で神のからざお[#「からざお」に傍点]をつとめた。もっともどんな紳士録にも出てはいないがね。僕たち誰でも人間の権利や正義のためには、立ちあがらない時がある。さもないと二度とさっぱりした気になれないものだ。それだからこそ一戦を交えたのだ。みんなこっちから戦いを宣し、自分でやり、自分でけりをつけた。このきずあとはみんな、奴隷殺しをやっつけるたびにできたものだ。かなりたくさんあるが、なかでも大きいのは彼らの王ペドロ・ロペツをやっつけたときのもので、プトマヨ河のよどみで殺してしまった。さてここに君に向きそうなのがある。」と茶いろと銀いろのライフルを一つとりだして、「台じりにはゴムが十分張ってあるし照準に狂いはない。弾倉には五発はいる。これさえあれば命をあずけても大丈夫だ。」とその銃を私によこし、戸だなを閉めた。それからいすへ戻りながら、「ところでチャレンジャ教授だが、あの人について知っていることは?」
「きょうはじめて会ったんだ。」
「僕もそうなんだ。全然知らない人から|封《ふう》|緘《かん》命令をもらって航海するなんて、まったくおかしいよ。あれは思いあがった老いぼれらしい。同じ科学畑の人にも好かれていないらしい。君はこんどの仕事にどんなところから興味をもつようになったのかね?」
私は午前中のことを簡単に話した。すると彼は熱心に耳をかたむけていたが、南米の地図を出してきてテーブルのうえにひろげた。
「あの男が君に話したことは、一言一句信用する。こういうと、つづけて言いたいことがある。南米は僕の愛するところで、ダリエン(カリブ海のパナマとコロンビアの中間にある湾―訳者)からフェーゴ(ガテマラの火山―訳者)まで縦断すると、この地球上でもっとも雄大、もっとも|肥《ひ》|沃《よく》、もっとも驚異的な土地であるのが分かるだろう。この地方についてのわれわれの知識はゼロに近く、将来のこともまったく分からない。僕はすみからすみまでくまなく歩きまわり、奴隷商人と戦った話のときいったように、乾燥期を二度すごした。そこにいるあいだに、同じような話を何度も聞いたが、これは土人の伝説か何かで、疑いもなくその裏には何かあるらしい。その地方のことを知れば知るほど、どんなことでも有り得ることがわかるだろう。――どんなことでもね。人間がそばを歩けるような狭い水路が少しあるが、そこをのけたらまったくの暗黒だ。さてこのマト・グロソ(ブラジル西南の高原―訳者)では、」と葉巻で地図のある部分をさっとなでて、「それとも三国の相接する地方には、驚くようなものは何もない。あの男が今晩いったように、ヨーロッパ全体くらいの森林のなかを、五万マイル(約八万キロ―訳者)の流れが走っている。君と僕とがスコットランドとコンスタンチノープルとに分かれておりながら、しかも同じ森のなかにいるのだ。人間はこの迷宮のなかへ、ぽつぽつとあちこちへ通路をこさえた。何といっても河の落差は四十フィート(約一二・二メートル―訳者)にも達し、国の半分は沼沢地で、とても通れたものじゃない。こんな国なら何かしら新しい、不思議なものが潜んでいないはずがないではないか? それをわれわれが発見してどこが悪い? それに、」とここでやせ衰えた顔を急にうれしそうに輝かせながら、「そこには一マイルごとにスポーツ的なスリルがある。僕はゴルフの古い球みたいなもので、ずっとまえに白い塗料ははげてしまっている。人生は僕をぴしゃぴしゃ打ったから、もうどこへも白い跡をつけない。しかしスポーツ的冒険はね、生存の塩だよ。そうなるとまた生きるに価する。僕たちはみんな、少し柔かく、にぶく、気楽になりすぎている。僕の手に銃を一つ持たせ、大広原と広大な土地を提供して、さがすに価するものを探求させてみたまえ。僕は戦闘も野外横断競走も飛行機もやってみたが、えびでめしを食った夜の夢でみたような野獣を狩るのは、ま新しい興奮じゃないか。」彼は前途を考えてか、うれしさにほくそえんだ。
この新しい知人のことを長く語りすぎたと思うが、これから長いあいだ行動をともにするのだし、初めて会ったそのままに、その風がわりの人がら、話しぶりの変っていること、考えかたにちょっと癖のあるところ、すべてありのままに書いてみた。だが私としてはきょうの会見の記事を書く必要があるので、別れることにした。そのとき彼は桃いろの光のなかに腰をおろし、愛用の銃に油をさしながら、前途の冒険を思って独りでほくそえんでいた。ただはっきり分かっているのは、前途にもし冒険があるとすれば、こんなに冷静で勇気あふれる同伴者は、イギリス中をさがしてもほかにあるまいということだった。
その夜、きょう一日のいろんなでき事で疲れてはいたけれど、部長のマカードルとおそくまで起きていて、この間の事情を詳しく説明してやった。重大事と考えたので部長は翌朝編集長のサ・ジョージ・ボーモンに報告したという。そこできまったのは、私はマカードルにあてて継続的に手紙の形式で、冒険の経過を詳しく知らせること、この手紙は到着しだい順を追ってガゼット紙上に発表するか、または留保しておいてあとでまとめて発表するかは、すべてチャレンジャ教授の希望しだいによる。何しろ秘境へ入りこむのにどんな方角を選ぶかも、教授の指令がまだ分かっていなかったからである。電話で問いあわせてみても、新聞にたいする悪口をならべるだけで、何もいわず、結局得たのは乗船を知らせてくれたら、出帆までには適当と思われる指令を渡そうとのことだった。それ以上は何をきいても答えず、夫人が代って悲しげなひつじの鳴くような声で、主人はたいへん腹をたてているから、これ以上怒らせないでほしいというだけであった。その日ずっと遅くなってからもう一度電話してみたが、ガチャンというおそろしい音がしただけで、続いて中央電話局から、チャレンジャ教授の受話器はこわれてしまったと知らせてきた。それからあとは問いあわせるのは断念してしまった。
さて辛抱づよい読者諸君、今後は直接諸君にお話することができなくなる。向後は(たとえこの話の続きがお目にとまるとしても)私の代表する新聞を通してしかできない。編集長の手に、おそらく前代未聞ともいえるこの大探検のおこりとなった事情を書き残しておく。たとえ私が二度とイギリスへ帰ってこなくなるにしても、事件の記録だけは残るわけである。私はこの最後の数行をブース社のフランシスカ号のサロンで書いている。これは水先案内人がもちかえってマカードル氏の保管にゆだねる。このノートを閉じるにあたって最後の一景を描いておく。南米まで持ちゆく最後の故国の思い出となるものだ。晩春のじめじめした霧の朝で、細い雨が冷たく降っている。三人の人物がゴム合羽を光らせながら|埠《ふ》頭を、出帆旗をひるがえして待つ大きな定期船の歩み板のほうへ歩いてゆく。そのまえには運搬人が、トランク、|梱《こん》|包《ぽう》、銃のケースなどを山と積んだ手押車を押してゆく。背がたかく陰気なサマリイ教授が、ひどく後悔した人のように頭をたれてとぼとぼと歩いてゆく。ロード・ジョン・ロクストンは元気よく歩き、やせたなかに情熱をおびた顔が、ハンチングとマフラーのあいだで輝いている。私自身は準備に忙殺された日日と、別れのつらさを通りこしたのを喜んでいる。それが自然に外見に現われていたと思う。船までたどりついた時とつぜん、うしろから声がかかった。見送ると約していたチャレンジャ教授だった。赤ら顔で気みじかそうに、息をきらせながら追いかけてくる。
「いやもうたくさん。船まではゆきとうない。ほんのひと言いうだけじゃから、ここからでも用はたりる。諸君が旅だつからというて、わしが少しでも諸君に恩をきるなどとは考えてもらいとうない。こんどのことにはわしは無関心じゃと思うてもらいたいし、個人的な義務感を抱くなんてまっぴらじゃ。事実はあくまで事実で、君たちのどんな報告も、事実をまげることは少しもできんのじゃ。どんなに無力な大衆の感情をあおり、好奇心をかきたてるとしてもじゃな。君たちの守るべき指令と案内は、この封筒のなかにある。アマゾン河畔のマナウス(アマゾンの支流リオ・ニグロの一九キロ上流左岸の港市―訳者)に着いたら開封するのじゃが、表面に書いてある日時までは開封してはならん。わかったな? この条件の厳守は諸君の名誉にゆだねる。いや、マローン君、きみの通信には何等の制限も加えん。事実の公表がきみの行く使命なのじゃからな。しかし正確な行先については報道せんこと、帰国するまではいっさい何も発表せんでもらいたい。ではさようなら。君が不幸にして仲間入りしておるいまわしい職業へのわしの感情を、君はやわらげるのに少しは力があった。さようなら、ジョン卿。科学は君には閉じられた本じゃろうと思うが、あっちへ行けば猟が待っとるじゃろうから、満足できると思う。突進する巨獣ダイモルフォドンを射殺したことを、フィールド誌へ発表する機会もあろう。そしてきみにもさようなら、サマリイ教授、あんたがまだ自己改善の見こみがあるなら――正直のところそれはむずかしいと思うが――ロンドンへ帰りつくまでには、ずっと賢明になっておられるじゃろう。」
そういって帰っていったが、一分後には汽車へ戻ろうとひょこひょこ歩いてゆくずんぐりと背の低い姿が、デッキから見えた。さて、船はいま海峡をかなりすぎている。手紙をしめきるベルが鳴っている。水先案内人も船をおりるところだ。「昔ながらの船路をはるかに去る」のだ。残されたすべての人に幸あれ。そしてわれらをも無事帰国させたまえ。
七 あすは秘境に入る
ブース社の定期船上のぜいたくな航海記事で、この実話を読む人たちをうんざりさせたくないし、パラに一週間停舶したしだいも割愛しよう。(ただ船の装備を整えるのにペレイラ・ダ・ピンタ社の助力のあったことだけは感謝したい)、大西洋を横断したのより少し小さい船で、河幅ひろくのろのろと流れる粘土いろの河をのぼる船旅にだけは少しくふれておきたい。結局オビドスの瀬戸を通過して、マナウスの町へはいったのだが、ここでは英伯貿易会社の代表ショートマン氏の好意により、いなか宿のあじけなさを味わわずにすんだ。氏のファゼンダ(ブラジルの農園にある家―訳者)で、チャレンジャ教授の指令書を開封してよい日のくるまでを、快適にすごした。その日の驚くべきでき事を報告するまえに、こんどの計画に参加している同僚や、南米にきて集めた人たちのことを、はっきりと描写しておきたい。私は思ったままをはっきり書くが、マカードル氏よ、この材料をどのように使われようとも、それはあなたのご自由です。この報道が世界の人たちに達するのは、あなたを通じてなのですからね。
サマリイ教授の科学的|造《ぞう》|詣《けい》については、私にもよく分かっていることで、今さら何もいうことはない。教授は初めて会って思ったよりも、この種の手荒い探検にずっと適している。背がたかく、やせて筋骨たくましい肉体は疲れをしらず、そっけなく、やや皮肉屋で、ものに少しも動じない態度は、環境のどんな変化にも少しも動じない。六十六歳にもなっているが、いやでもぶつかることのあった苦難にたいし、ねをあげたのを聞いたことがない。かねてこの人の存在は探検の足手まといだと思っていたが、じっさいその耐久力はたいして私に劣らないと思う。気だては気むずかしく懐疑的である。初めからチャレンジャ教授は希代のくわせもので、私たちはおかげで途方もない探検にきたのであり、南米では失望と危険を味わうだけ、イギリスへ帰ればあざ笑いをうけるのが関の山だとの信念を隠したことはなかった。やせた顔を興奮でゆがめたり、うすいヤギひげをゆさぶったりしながら、サザンプトンからこのマナウスへ来るまでの道中をずっと、この考えを私たちにぶちまけていたものである。下船してからは周囲のこん虫や鳥類の美しさや多種多様性に、心はいくぶん慰められてみえた。科学に魂をうちこんでいたからである。一日じゅう猟銃と採集網をもって森のなかを駆けまわり、夜は夜で採集した標本を台紙にとめるのに余念がなかった。ほかの小さな特色といえば、身なりにはいっこう構わず、からだもきたないなりで、日常のことには無関心で、ブライアの短いパイプを片時も口からはなしたことがなかった。若いころ学術探検にも数回加わったことがあり、(ロバートスンの一行とパプアへも行っている)キャンプやカヌーでの生活は何ら珍しくないのだ。
ロード・ジョン・ロクストンもサマリイ教授に似たところがあったが、ほかの点ではまったく対照的であった。年齢の点も二十年若いが、ほっそりと骨ばったからだつきは似かよっていた。その顔だちについては、ロンドンへ残してきた記録のなかに書いたと思う。身だしなみはきわめてきちょうめんで、いつも白のうんさい[#「うんさい」に傍点]織りの服を着こみ、茶いろのかよけ長ぐつをはき、少なくとも一日に一度は顔をそる。たいていの活動家がそうだが、いうことはひどく簡潔で、すぐ自分の考えにふける。質問にはすぐ答えてくれ、話の仲間にも加わるが、風がわりなひょうきんな調子で話した。世界の知識、とくに南米のそれはまことに驚くべきものがあり、こんどの旅行には何かありそうだと心から信じきって、サマリイ教授の冷笑くらいではびくともしなかった。声もおだやかで態度ももの静かであったが、きらきら光る青い眼のそこには激怒とかたい決意とがひそんでおり、押さえられているだけにいっそう危険性をおびていた。ブラジルやペルーでの自分の事績についてはほとんど口にしなかった。河畔の土人のあいだに彼が姿を現わしたときの土人たちの興奮、彼のことを自分たちのチャンピョンとも保護者ともあがめるさまは、まったく予想もしないことだった。赤いしゅう長――と彼らは呼んでいたが――の偉業は彼らのあいだでは伝説となっていたけれど、私の知りえたかぎりでは真に驚くべきものがあった。
ロード・ジョンが数年前、ペルー、ブラジル、コロンビアの三国に接する国境あいまいな無人境に入りこんだのには、こんな理由があった。この大きな地域には野生のゴムの樹が繁茂しており、これがコンゴのように土人ののろいの種になっていた。ダリアンの銀鉱でスペイン人が土人に課した強制労働にも匹敵するものだったのだ。一団の悪らつな混血土人がこの土地にはびこり、自分たちに組するものに武器を与えて、他の土人をみんな奴隷にし、当時アマゾン河をパラまで流れついていたゴム採集者のため、極悪非道なる苦役をしいていたのだ。ロード・ジョン・ロクストンはこのあわれな犠牲者を守るために言葉をつくしてあたってみたが、せっかくながらただ脅迫と侮べつを受けるにとどまった。そこで奴隷商人の頭目ペドロ・ロペツに正式に戦いを宣し、逃げてきた奴隷を味方につけ、武装させて一戦を交えた。その結果は、自らの手でこの名にしおう混血の土人を殺し、その作っていた組織を破壊してしまった。
声がやさしく態度も自由でゆったりしたこの赤毛の男が、大アマゾンの河畔では深い興味をもってながめられたのに何の不思議もない。土人の感謝に引きかえて、彼らを食いものにしようとするものの憤りは同じくらいに強かったから、彼は人によりさまざまの感じをおこさせた。この経験が役にたったことの一つは、彼がジェラル(ブラジルの山地の名―訳者)語がすらすらと話せることだった。三分の一はポルトガル語、残りの三分の二はインディアン語のまじった特殊の言葉で、ブラジルでは普遍的に使われていた。
前にもいったようにロード・ジョン・ロクストンは南米狂であった。この大国の話となると情熱あふれ、この情熱はまた伝染性をもち、まったく無知識の私の注意をひきおこし、好奇心をあおった。彼の話しぶりは正確な知識と独特の風味ある想像力とがとけあって不思議な魅力をかもしていたが、それをここに再現できたらなと思う。教授の冷笑的かつ懐疑的なほほえみさえ、話を聞くうちいつしかそのやせた顔からしだいに消えさるのが常だった。この大河がどしどし踏査されること、(初期のペルー探検者のうちには、河ぞいに全大陸を横断したものもあるのだから)しかもたえず変動する両岸の背後に横たわるものは、何一つ知られていないと、この河の歴史を説いたりもした。
「あそこには何がある?」彼は北方を指さしてはよく叫んだ。「森林、沼沢地、人跡未踏のジャングル、それらが何を潜めていることか、誰が知ろう? そして南は? じめじめした未踏の大森林だ。白人ははいったことがない。どっちを向いても未知なものがぶつかってくる。河川の両岸の狭い地帯をのぞいて、何が分かっているか? チャレンジャ老の言が誤りであると誰が断定できるか?」このまっこうからの|挑戦《ちょうせん》にたいし、サマリイ教授の顔には再びがん固な冷笑が浮かんだ。そして無言のうちに不同意を現わし、いすに掛けたなりでブライアのパイプからもうもうたる煙をはきながら、首をふっていた。
この二人の白人の同伴者のこと、その性質や限界のことは、私自身のそれとともに話のすすむにつれて明らかにすることもあろうが、いまはこのくらいにしておく。しかし来るべき探検に少なからぬ役をはたすと思われる従者をすでに手に入れている。第一はザンボーという名のニグロの巨漢である。色の黒いハーキュリーズ(ギリシャ神話の大力の英雄―訳者)で馬のようにすなおで、わかりもよい。船会社の推薦によってパラで採用した。そこの船に乗っているうちに片ことの英語が話せるようになっていた。
同じくパラでゴメスとマニュエルの二人を雇い入れた。これはいずれも混血土人だが、上流からアメリカすぎの船荷について降りてきたところだった。ひげがこく、浅黒い皮膚をして、気性はげしくて、ひょうのように活気があり、かつしなやかで強かった。二人ともこれから探検しようというアマゾンの上流地方でそだったので、ロード・ジョンの推薦で雇うことになったのである。ゴメスのほうは英語が話せるという利点があった。この二人は私たち個個の召使として一カ月十五ドルの給料で、料理をするとか船をこぐとか、必要なことは何でもすることになっていた。このほかにボリビアから来たマホ・インディアン(スペイン系である―訳者)を三人雇った。この種族はアマゾン流域に住むもののうち、魚釣りとボートの操作にもっとも長じている。その頭目を種族の名をとってマホと呼ぶことにし、他のものにホセ、フェルナンドと名づけた。そうすると三人の白人、二人の混血土人、一人の土人、三人のインディアンがこのささやかな隊をなし、奇妙な探検に出発するまえの一時を、マナウスで指令を待っていた。
あきあきする一週間が経過して、ついに約束の日と時刻がきた。マナウスの町から二マイルはいったところにあるファセンダ・タンタ・イグナチオの日よけをおろした居間を思いうかべてほしい。戸外には黄いろっぽい太陽がしんちゅう色にぎらぎらと輝き、ヤシの樹の影が樹そのもののようにはっきりと黒く見えた。大気はおだやかで、ブンブンとたえまなくうなるコン虫の声、蜜蜂の太いうなりから、蚊のかん高い声にいたるまで、いろんな音階の合唱でみちていた。ヴェランダの向こうはよく刈りこんだ小庭で、さぼてんの生けがきにとりかこまれ、花をつけたかん木の茂みで飾られている。あたりには大きな青いちょうや小さなハチスズメが、ぎらぎらする日光のなかをとび回っていた。私たちは室内の竹製のテーブルをかこんで腰をおろし、テーブルのうえには封のままの封筒がおいてあった。表にはチャレンジャ教授のぎざぎざの筆跡でつぎのように書いてあった。
「ロード・ジョン・ロクストンとその一行への指令書。七月十五日正十二時マナウスにて開封のこと。」
ロード・ジョンは時計をだしてテーブルのうえの近いところへおいた。
「あと七分。あの老人きちょうめんですな。」ロード・ジョンがいった。
サマリイ教授は苦笑をもらして、やせた手で封筒をとりあげていった。
「いま開けたって、七分後にしたって、大した違いはないでしょう。どうせ一部か全部か、インチキとバカげた文句の連続でしょう。何しろ名うての人物の書いたものですからな。」
「といっても試合はルールに従ってやらなければ。」ロード・ジョンがいった。「これはチャレンジャ老の興行なんだし、その好意によってこうして来たのだから、この手紙の指図に従わないのは、あまりに無法というものでしょう。」
「けっこうなことだ!」教授はにがにがしげにいった。「ロンドンにいるときから、バカな話だと思っていたが、だんだん分かるにつれて、いっそうそう思われるようになった。この封筒のなかに何があるか分からないが、十分はっきりしたものでなかったら、つぎの船で河をくだり、パラでボリヴィア号に乗船しようと思う。つまり狂人の断定を論破するのに奔走するくらいなら、この世にはもっと責任のある仕事が待っている。さあ、ロクストン君、ほんとうにもう時刻ですよ。」
「時刻がきました。笛を吹いていいわけです。」とロクストンは封筒をとって、ペンナイフで封を切り、折りたたんだ紙を一枚とりだした。そして注意ぶかく開いてからテーブルのうえにのべた。白紙だった。裏がえした。ここもまっ白である。私たちは途方にくれて顔を見あわせた。その沈黙を破ったのはサマリイ教授の調子はずれの|嘲笑《ちょうしょう》であった。
「これは公然たる自認だ。これ以上何を望むことがあろう? ぺてん師は自らどろを吐いたのだ。あとは帰国して、あの男は鉄面皮なぺてん師だったと報告するだけだ。」
「あぶりだしインキだ!」私がいってみた。
「そうは思わないね。」とロード・ロクストンはその紙片を光にかざしてみながら、「いや、きみ、思いちがいなんかすることはない。僕は保証するが、この紙にははじめから何も書いてはなかった。」
「はいってもよろしいか?」ヴェランダからこうどなる声がかかった。
ずんぐりした男の影が日光のしまをよぎってこっそりと近づいてきた。あの声だ! あのものすごい肩はばだ! 色リボンをつけた子供っぽい円形の帽子をかぶったチャレンジャが、ジャケツのポケットに両手を入れ、一足ごとにズックぐつの爪さきを優美に上へあげながら、窓のところへ現われたのを見て、私たちはあっといって腰をあげた。教授は身をそらし、ふるいアッシリアを思わすひげもぼうぼうと、伏し目がちなまぶたとがん迷な目にイギリス人特有のごう慢さを現わして、はげしい日光のなかに立っている。
「二三分おくれたかな?」と時計を出してみながら、「白状するがこの封筒を諸君に渡したとき、それを開封してもらう積もりは少しもなかった。はじめの予定では、この時刻までに到着する積もりじゃった。じゃがまぬけな水先案内人とじゃまっけな州のために、思わぬ遅刻をしてしもうた。同学の友サマリイ教授はさぞやさんざんな悪口をならべられたことであろう。」
「正直なところ、あなたが現われたのでほっとしたと申したい。」ロード・ジョンはいくらか言葉もきびしく、「われわれの使命は時ならずして完了するところでしたからね。どうしてこんなとっぴな方法をとる必要があったのか、いまだにどうしても合点がゆきません。」
それに答えるかわりにチャレンジャ教授は部屋へはいってきて私とロード・ジョンと握手をかわし、サマリイ教授にはおうへいにおもおもしく会釈しておいて、柳枝製のいすに腰をおろした。その重みでいすはギシギシと鳴り、左右にゆれた。
「旅だつ用意はでけとるかな?」
「あすにも出発できます。」
「ではそうしなさい。わしが自分で案内するという便宜があるのじゃから、案内の地図もなにもいらん。初めからわしはこの調査の指揮をとるつもりじゃった。いちばん正確な地図でさえ、わしの知識と指示にあっては、足もとへも寄りつけぬのがすぐにお分かりじゃろう。この封筒で諸君をちょっとつったのは、もしわしの考えを正直に話したら、いやでも君たちといっしょに出発せんならなんだからじゃ。」
「私はちがいますぞ!」とサマリイ教授は本気になって大きい声で叫んだ。「大西洋を通う船はいくらもある以上な。」
チャレンジャは毛むくじゃらの大きな手で制しておいて、
「わしが反対するのも、わしが勝手な行動をとるのも、またわしの存在が必要になったとき初めて姿を現わしたほうがよいことも、みんな君の常識がよいと教えてくれるじゃろう。いまこそその時がきたのじゃ。もう安心してよい。もう目的地を見失なうことはない。たった今からこの探検旅行の指揮はわしがとる。そこであすの朝は早く出発のできるように、今晩じゅうに準備を整えてほしい。わしの時間は大切じゃ。むろん君たちについても同じじゃろう。それで諸君の見に来られたものを見せるまでは、できるだけ早く突進してほしいのじゃ。」
ロード・ジョン・ロクストンは大きな汽艇エスメラルダ号を契約傭船していた。それで私たちは上流へ行くことになった。気候に関するかぎり、いつを選んでも大差はなかった。気温は夏でも冬でも七十五度から九十度(いずれも華氏、摂氏では二四度から三二度―訳者)までのあいだを上下し、暑さに大した違いはなかった。しかしながら湿度になると大違いで、十二月から五月までの雨期には、河はしだいに増水して最低水位よりも四十フィート(約一二メートル―訳者)は高くなる。水は両岸にはん濫し、広い土地に水をたたえて大きな沼沢をつくり、方言でガポという大地域をつくる。大部分は歩いては渡れないほどどろ深く、といってボートでゆくには水が浅すぎる。六月ごろに水は引きはじめ、十月か十一月には最低となる。私たちの探検行はあたかも乾燥期にあたっており、本流も支流も多少とも正常な状態にあった。
河の流れはゆるやかで、一マイル(一・六キロ―訳者)につき八インチ(約二〇センチ―訳者)以上の落差はなかった。南東の卓越風があるから、どんな河でもこれほどの好都合はなかった。帆船はペルーの国境までつねに昇り、流れについてまた下るのだが、私たちの場合についていえば、エスメラルダ号はエンジンが優秀だから、ゆるやかな流れを無視してつっ走り、よどんだ湖水でも走るように早く進んだ。三日間西北へ向かって河をさかのぼったが、河口から千マイル(一六〇〇キロ―訳者)もきたこのあたりでも、河幅が広いので河流の中心にいると両岸がはるかな地平線に見られた。マナウスを出てから四日めに、本流と大差ない河口をもつ支流へはいった。しかしその支流は急に河幅がせまくなり、二日めに土人の部落へ着いた。ここで教授は一同上陸し、エスメラルダはマナウスへ帰そうと主張した。説明によると河はすぐ急流となり、船は使えなくなるというのだ。ひそかに加えて、いまや秘境の入口に近づいているのだから、秘密を打ち明ける人が少ないほどよいのだともいう。この目的のために教授はまた、あとで行き先の正しい手掛りとなりそうなことを、口外したり出版したりしないよう私たちに誓わせ、従者たちにも同じことをおごそかに誓約させた。このため話をあいまいにしておかねばならない点もあるし、私の示す地図にも図版にも、土地相互の関係は正確であるが|羅《ら》|針《しん》|儀《ぎ》の方位はわざとこれを秘めておくから、じっさいこの土地への案内には少しも役だたないことをことわっておきたい。チャレンジャ教授の秘匿するのが当を得たものであるにせよないにせよ、私たちはその説くところに従うしかなかった。教授は案内の条件を変えるくらいなら、こんな探検は放棄してしまうともいった。
エスメラルダ号に別れを告げて、外界との最後のつながりを断ちきったのは八月の二日であった。あれ以来四日たった。このあいだに土人から二つの大きなカヌーを借りた。これは軽い材料でできていた(竹の骨に皮をはったものだ)から、どんな障害にぶつかっても避けて通ることができた。持物をカヌーに積みこみ、航行の手伝いにべつに二人の土人を雇った。チャレンジャ教授がまえの旅行のときつれていった二人――アタカとイペチュというのだが――だと聞いている。再度の企てをするのだと知って、この二人は恐怖にとりつかれたようだったが、この地方ではしゅう長は族長の権力をもっているから、契約が彼の目からみて好い条件なら、その一族のものはいや応をいう権力はないのだ。
というわけで、あすは秘境に入るのだ。この手記は河を下るカヌーに託して送るつもりだが、私たちの運命に興味をもたれる人たちへの最後の通信となるかも知れない。親愛なるマカードル氏よ、これは貴下あてとするが、約束に従って|抹《まっ》|殺《さつ》されようと、変改を加えられようと、すべては貴下の判断にまつ。チャレンジャ教授の態度に確信のみえることから――サマリイ教授の懐疑はあい変らずながら――指導者としてその言うところをかならずや立証してみせるであろうし、まもなくすばらしい経験を得ることを確信して疑わない。
八 新世界へのピケ
本国の人たちもきっと共によろこんで下さることと思う。私たちはついにゴールへ来たのだ。少なくともチャレンジャ教授の言はある点まで正しいと分かったのだ。高い台地まではまだ登っていないのが事実に違いないが、サマリイ教授でさえ気分がやわらいできた。論敵の正しさをちょっとでも認めるというのではないが、いままでのようにたえず難ずるということはなくなり、いつも注意ぶかい沈黙をまもるだけになった。それはそれとして、話をもとへ戻さなければならない。前回にペンをおいたところから話をはじめるのだ。負傷した土人を一人いま送りかえすところだから、それに託してこの記事を送る。うまく到着するかどうか、きわめて怪しいところだけれど。
前回ペンをおいたのは、エスメラルダ号から下船した土人の部落であったが、いま私は面白くない事から話しはじめなければならない。それというのも最初の個人的紛争(教授たちのたえざるいさかいは別として)はこの晩おこり、悲劇的な結果におわるかも知れないところだった。英語を話す混血土人ゴメスのことは書いたはずだ。よく働き柔順である。ただこの種の人たちにありがちな好奇心が強いという欠点は持っているけれど。出発まえの晩だから私たちが計画について論じあっているのを、この男が小屋の近くにかくれて盗み聴きしていたらしい。それを巨漢の土人ザンボーに見つかってしまった。何しろ犬のように忠実な男で、混血土人にたいしては平素から種族的憎悪をいだいているから、引きずりだして私たちのところへ連れてきた。ゴメスはナイフを引きぬいたが、何しろ巨漢は力もちだからかなわない。ナイフはすぐにもぎとられてしまった。さもなければザンボーは刺し殺されるところだった。ことは|叱《しっ》|責《せき》におわり、二人はむりに握手をさせられた。これで今後のことは心配あるまい。ところで二人の学者の反目のほうは、とめどがなくて激しかった。チャレンジャがあくまで挑戦的なのはこれを認めなければなるまいが、サマリイの毒舌も相当なものなので、事態はいっそう悪化することになる。ゆうべもチャレンジャは、テムズ河の土手を歩いても上流のほうを見る気がしない、自分の行きつく先を見るのは物悲しいものだ、といった。むろん死後はウェストミンスタ寺院(一〇五〇年建立、ここに葬られるは英国人最大の栄誉―訳者)へ葬られるものと信じこんでいるのだ。しかしサマリイは苦笑を報いただけで、ミルバンク監獄はとり壊しになったはずだなぞといった。チャレンジャのうぬぼれは大したものだから、そんなことをいわれたくらいでへこたれはしない。彼はひげ面でにやにやしただけで、「なるほど。なるほど。」と子供をあやすような調子でくりかえすだけだった。まったくのところ二人とも子供なのだ。一人が乾からびたつむじ曲りの子供なら、一人は手におえない横柄な子供なのだ。ただどっちも科学時代の最前線に進出するだけの頭脳をもっている。頭脳、性格、精神――人は世のなかをいろいろと見るにつれて、これらの区別がはっきりしてくる。
つぎの日に私たちは特筆すべき探検の旅へと踏みだした。
持物はいっさい二つのカヌーに苦もなくのせられた。隊員も六人ずつの二組に分かれ、当然のことながら平和保持のため、二人の教授は別別のカヌーに乗るようにした。私自身はチャレンジャといっしょだったが、教授はうれしそうで、のぼせあがったように顔じゅうにやさしみを浮かべ、無言のまま歩きまわっていた。しかし私はほかの気分の時の教授を少し知っているので、日光の輝いているとき大雷雨が起こっても、少しも驚きはしない。いっしょにいるとのんびりもぼんやりもしていられない。いつ恐ろしいかんしゃく玉が破裂するか知れないから、四六時ちゅう戦戦|兢兢《きょうきょう》としていなければならないからである。
二日のあいだ、かなり幅のある河をのぼっていった。河幅は数百ヤード(一ヤードは一メートルより少し短い―訳者)で、水のいろは黒っぽいが透明だから、いつでも底まで見えた。アマゾンの支流の半分くらいはこういう種類のものだが、あとの半分は白っぽくて不透明である。この違いはそこを流れる土地がらによる。黒っぽいのは植物性の腐敗物のあるのを示し、白いのは粘土質の泥土がふくまれているのだ。二度急流に出くわしたが、いずれも半マイルくらい陸上運搬をやってそれを避けた。両岸の森林は原始林で、次代にできた森よりも通るのは容易だから、そのなかをカヌーをかついで行くのはそんなに骨もおれなかった。あの厳粛な神秘がどうして忘れられようか? 樹の高さも幹の太さも、都会育ちの私なんか想像もつかぬもので、壮大な円柱のようにすくすくと伸び、頭上はるかなところで大枝はゴシック体にそとに曲り、それが重なりあって大きな青緑色の屋根をなしているのが幽かに見られた。そこを通して太陽の弱い金いろの光がこぼれ落ち、荘厳な幽暗をほの明るくしていた。腐った葉などのうずたかく積もった柔かいところを、音もなく歩いていると、ウェストミンスタ寺院のうす明りにおそいかかるのと同じ静けさが、ひしひしと魂にせまってきて、さすがチャレンジャ教授の太い声も沈んで、まるでささやきのようになるのであった。これらの大樹の名も、私だけだったら知らずにすごすところだが、学者たちがついているので西洋すぎ、パンヤの樹、アメリカすぎと、雑然とした植物のなかから、それぞれ指摘してくれた。この大陸は人類が植物界からうける自然のめぐみをもっとも多く供給するが、動物の種類はぐっと少なくなる。目のさめるようなランや、すばらしい色の地衣が黒ずんだ幹にくすんでおり、不意にさしこむ光の矢が金いろのアラマンダ、深紅のタクソニアの星形の花ぶさ、濃青色のイポメアを照らすとき、おとぎの国にいるかと思わせた。この広大な森林のなかにあって、生あるものは暗黒をいとい、上へ上へと伸びようともがく。植物という植物は、小さいものにいたるまで、緑の表面へ出ようとうずまきのたうち、高く強い同胞にまつわりつく。巻きつく植物は巨大で、よく繁茂して、他の土地では巻きつくと知られていないものも、うす暗がりからのがれようとして、いつしかその技術を身につけている。普通のいらくさ、そけい、ジャシタラ・ヤシまで西洋すぎの幹にまつわりつき、その頂上に達しようとつとめている。
動物については私たちの前方に横たわる広大なる丸天井の長廊下には、少しも姿を現わさなかった。しかし頭上はるかではたえず動くものがあるので、へびやさる、鳥やナマケモノの類がたくさんいると分かった。それらのものは日光のあたるところに住み、はるか下のやみの深いなかをよろめき歩く小さな人間の姿を、不思議そうに見おろしていた。あけがたと日没時には、ほえざるがキャッキャッと呼びかわし、いんこが不意にかん高く鳴いたが、日中の暑いときは、よせ波を遠くで聞くような、こん虫のなき声だけがかしましく聞こえた。途方もなく大きな幹がおごそかに続き、そのはては暗黒となっているところに、動くものといっては何一つなかった。がにまたの動物が一度、ありくいかくまであろうか、物かげをぶざまに慌てて逃げていった。アマゾンの大森林のなかでみた唯一の生物であった。
だがこの神秘境も、人間生活そのものと遠くは離れていないことを示すものがあった。三日目の明けたころ、異様な太い音がおもおもしくリズミカルにひびいて、朝の空気を断続的にゆるがした。初めてこれを耳にしたのは、二つのカヌーが数ヤードの近さで並んで進んでいるときだったが、土人たちは銅像にでもなったように急に動かなくなり、顔に恐怖を浮かべてじっと耳を傾けた。
「いったい何だろう?」私がいった。
「太鼓さ。」ロード・ジョンがむぞうさにいった。「攻め太鼓だが、まえに聞いたことがある。」
「はい、攻め太鼓です。」混血土人のゴメスがいった。「未開の土人で、良民ではありません。凶暴です。一マイルごとに見はりを立てて、すきがあったら殺す気でいるのです。」
「どんなにして見はっているのだい?」私は動くもののない暗やみを見つめながらきいた。
「土人は知っていますよ。」混血土人は広い肩をすくめて、「あいつらには独特のやりかたがあるのです。こっちを見はって、互いに太鼓で合図をしています。おりがあったら殺しに来ます。」
その日の午後――私の懐中日記によると八月十八日火曜日である――になると、少なくとも六つか七つの太鼓があちこちで鳴りわたった。ある時は早く、あるときはゆっくりと、時には明らかに問答をしている様子だった。一つは東方はるかに断音的のひびきを伝えるかと思うと、ちょっと間をおいて北のほうから低音がどろどろと聞こえてきた。その断えざる低音のなかには、いいようもなく威嚇的なものがあり、混血土人の一語一語をそのまま反復しているようであった。
「殺すぞ。すきがあったら殺してやるぞ。」この沈黙の森のなかに、何一つ動くものとてはなかった。この暗い樹のカーテンのなかには、静かな大自然の平和とおだやかさがあった。だがはるかな背後からは、同胞の通信が伝わりつづける。「できたら殺すぞ。」と東の男がいうかと思うと、北からも、「できたら殺すぞ。」
その日いちにち、太鼓は高く低く鳴りわたった。その威嚇は同行の土人たちの顔に影響をあたえた。勇敢で鼻柱の強い混血土人でさえも、おじけづいてみえた。しかしこの日私は、サマリイ、チャレンジャ両人とも最高タイプの勇気、つまり科学精神からくる勇気をもっていることを知った。これこそアルゼンチンのガウチョ(スペイン人と土人との混血児―訳者)のなかでダーウィンが、またマラヤの首狩り土人のなかでウォリスが示したのと同じ精神に|出《い》づるものである。人間の頭脳は同時に二つのことを考えられないように、慈悲ぶかい万物の創造主がつくっているから、科学にたいする好奇心がそのなかに満ちあふれていると、単なる一身上のことなぞはいる余地はないのだ。終日たえることのないその異様な威嚇のなかにあって、両教授はとびゆくあらゆる鳥や、岸べのかん木を、するどい争いをつづけながら見つめていた。チャレンジャが低くうなるように言うと、サマリイがすぐどなりかえしたし、二人はロンドンのセント・ジェームズ街にあるロイヤル社交クラブの喫煙室にでもいるかのように、危険感は少しもないらしく、太鼓をうつ土人のことには少しもふれなかった。一度だけその点にふれた。
「ミラーニャ族かアマジュアカ族の食人種かな。」チャレンジャ教授が太鼓のこだましてくる森のほうを親指でさしながらいった。
「それそれ、」とサマリイ教授が雷同した。「すべてこれら種族の言葉はモーコ系と同じに抱合的ですからな。」
「なるほど抱合的じゃ。」とチャレンジャはおうように、「しかしほかの種類の言語がこの大陸に存在しようとは思われんし、わしは百以上もノートを取っとるが、モーコ説にはにわかに賛成できんな。」
「比較解剖学という限られた知識からでも立証できると思うがな。」サマリイがはげしくいった。
チャレンジャはけんか好きらしくあごを突き出したので、顔はひげと帽子のふちだけのようになった。「もちろん限られた知識ではそうなるじゃろうさ。知識さえ広ければ、べつの結論が出てくる。」二人はたがいに敵意をみせてにらみあった。そのあいだも遠くで太鼓の音が低く聞こえた。「殺してやるぞ――できたら殺してやるぞ。」
その夜は大きな石をいかりの代わりに、流れのまんなかにカヌーをとめ、万一の襲撃にそなえて万全の策をとった。しかし何事も起こらず、夜明けとともにさかのぼっていったが、太鼓の音ははるか後方に遠ざかっていった。午後の三時ごろ、ひどく急な流れが一マイルばかりつづいているところへ来た。チャレンジャ教授がこの前のとき遭難した場所である。はっきりいうが、私はその現場を見てほっとした。ささやかなりとはいえ、これは教授の話の真実性を裏づけるものを初めて見たと思ったからである。土人はまず二つのカヌーを、それから荷物を運んだが、このあたりの森は深かったから、いつ危険がせまるかも知れないと思い、私たち白人四人は銃を肩にそれにまじって歩いた。夕がたまでに急流をのり越え、さらに十マイルほど進んでその夜はそこに停船した。私の計算では支流にはいってから少なくとも百マイルほどのぼったことになる。
つぎの日はわりに早く出発した。夜あけとともにチャレンジャ教授はひどくそわそわして、たえず両岸をうかがっていたが、とつぜんうれしそうな声をあげ、水ぎわ近く変った角度で一本だけそびえている木を指さしたものである。
「あの木、あれをどう思うな?」
「あれならアサイヤシだね。」サマリイがいった。
「その通り。わしが目じるしにしておいたのはアサイヤシじゃ。秘密の入り口は河の向こうがわを半マイルのぼったところじゃよ。木立ちには切れ目がない。それが不思議なのじゃが、あそこの大きなはこやなぎの森のあいだに濃緑の下生えがなくなり、うす緑の灯心草の見えるところがある。あれがわしの秘境への秘密の入り口なのじゃ。あれを押し進めば分かるよ。」
じっさい不思議な場所だった。うす緑の灯心草の一列になっているところまでゆき、カヌーを棒ですすめ数百ヤード行ってみると、結局静かな浅い流れにきた。底は砂で水は澄んできれいだった。幅は二十ヤードくらいか、両岸はうっそうと茂っている。ほんの少しのあいだかん木があし[#「あし」に傍点]に代ったことを見てとった人も、こんなところに清い流れがあり、その向こうにはおとぎの国があろうとは思いもよらなかったであろう。
おとぎの国――それはたしかに人間の想像し得るかぎりのものであった。こんもり茂った植物が頭上をおおい、交錯して自然のパーゴラをなし、この緑のトンネルを通して黄金のうす明りが緑の澄んだ河に落ちていた。それだけでも美しいのに、上からもれてくるいきいきとした光がこされ、柔らげられて現わす不思議な色によって、何ともいえず美しかった。水晶のようにすき通り、ガラス板のように動かず、氷山のふちのように緑いろの流れが、茂った葉のアーチの下に広がっており、カヌーのひとこぎごとに光る水面に幾千のさざ波をたてた。不思議の国に入るにふさわしい通路だった。土人のいる気配はなくなったが、動物のいる形跡は多くなった。それに人おじをしないので、狩猟ということを知らぬのを示していた。むく毛の小さい黒ビロードをみるようなさるが、雪のように白い歯をむきだし、人をバカにしたように目を光らせて、通りかかった私たちに話しかけた。にぶく重い水音をたてて南米わにが、ときおり岸からとびこんだ。黒っぽく不細工なばく[#「ばく」に傍点]が一度、下生えのすきからこっちをのぞいていたが、そのうちこそこそと森のなかへ姿をかくした。また黄いろくくねくねした大きなアメリカ・ライオンが一度、下生えのなかをかすめたが、敵意にみちた青い目で、茶いろの肩ごしに憎にくしくこっちをにらみつけていた。鳥類は多かった。とくにこうのとり、あおさぎ、ときなどの渉|禽《きん》類が紅や青や白やの小群をなして、岸から突き出た丸太のうえに休んでいた。また足下のきれいな流れのなかには、いろんな色の魚がうようよしていた。
この日光をうけてかすんだ緑のトンネルを私たちは三日間進んでいった。この遠い行く手を望み見ても、緑の水はどこで終り、遠くの緑のアーチはどこから始まっているのか、分からなかった。この不思議な水路のふかい静寂を乱すような人間を思わすものは何もなかった。
「ここには土人はいない。恐ろしいからです、クルプリがね。」ゴメスがいった。
「クルプリというのは森の精だよ。」ロード・ジョンが説明した。「どんな悪魔にも通じる名で、がきどもはこの方面に恐ろしいものがいると考え、そこで寄りつかないんだ。」
三日目になると、カヌーの旅はもう長くは続けられないと分かってきた。流れが急に浅くなってきたからだ。二時間も底にへばりついたことが二度ある。ついにカヌーをかん木の茂みに引きあげて、そこで夜をすごした。朝になってロード・ジョンと二人で流れに沿って森のなかを二マイルばかり歩いてみた。だが流れはだんだん浅くなるばかりなので、ひとまず帰って、チャレンジャ教授がかねて予想していたように、カヌーでゆける最高地点に達したようだと報告した。そこでカヌーは引きあげ、かん木のやぶのなかに隠し、またさがす時の目じるしに二本の木におのでしるしをつけた。それから荷物を――銃、弾薬、食糧、テント、毛布その他を分配し、それを背負ってさらに苦しい行程へと出発した。
不幸にして短気な二人のあいだの口論が、この新しい行動の序幕となった。チャレンジャはこの一行に加わったときから、みなに命令を下していたが、サマリイは明らかにこれをこころよく思っていなかった。さて同僚にある任務をわりあてたとき(それはアネロイド晴雨計を持ってゆくだけのことだったが)事態は急速に危機にひんした。
「ちょっとうかがうが、君、」とサマリイは意地わるい冷静さで、「どういう資格があって、君はこんな命令を出されるのかね?」
チャレンジャは気色ばんでにらみつけ、
「わしはこの探検隊の指導者としてやっとるのじゃよ、サマリイ教授。」
「それではいうが、君にそんな資格は認めないね。」
「ごもっとも!」チャレンジャは不細工な皮肉のうちに軽く頭をさげて、「それではわしにしっくりの役をきめてもらうかな。」
「そうとも。君の説の真偽が問題になって、その調査のため来たのがこの委員会だ。君は審判者たちといっしょに歩いているのだよ。」
「やれやれ!」とチャレンジャはカヌーの船ばたに腰をおろして、「それなら君の勝手にしたがよい。わしはぶらりぶらりと後についてゆく。わしが指導者でないのなら、道案内をすると思ってくれては困るな。」
ありがたいことに分別のある男が二人――ロード・ジョンと私とだが――いて、学のある二人の教授の短気でおろかしい行動のため、私達は手ぶらでロンドンへ帰るようなことにならずにすんだ。それにしても二人をなだめるのに、どんなにか説得し、懇願し、説明につとめたことであろう! サマリイはやっとのことで、パイプをくわえたまま冷笑をうかべて歩きだし、チャレンジャはそのあとから、ぶうぶう言いながらついてきた。運よくこのころに、二人の学者がエディンバラのイリングワース博士をひどく軽べつしているのを知った。それからというもの、これが一つの安全弁となった。どんなに雲ゆきが怪しくなっても、このスコットランドの動物学者の名を持ちだしさえすれば、おさまった。仲の悪い二人の学者もほこさきをそろえてこの学問上の敵を憎しみをこめてこきおろすのである。
土手を一列になって進んでゆくと、流れは急速にとても狭くほんの小川となり、ついに海綿状の緑のこけだらけの大沼沢になってしまった。ひざまで没するこの湿地を渡ろうとすると、たくさんの蚊や羽のあるいろんな虫がおしよせてきた。それで再び陸地へあがり、樹のあいだを縫って歩いた。おかげで有害な沼地に落ち入らないですんだ。虫の音は遠くでオルガンを奏するようにやかましかった。それほど数が多いのである。
カヌーを捨ててから二日目に、地勢ががらりと変っているのに気づいた。道はしだいに登りになり、登るにつれて森はまばらになって、熱帯特有の深さはなくなった。沖積層のアマゾン平野の大木に代って、なつめヤシ、ココヤシがあちこちに群生し、そのあいだはやぶになっていた。湿気の多いくぼ地にはモウリティアヤシが優雅な葉をたれていた。|羅《ら》針儀が唯一の指針であったが、チャレンジャと二人の土人とのあいだに意見の相違が一二度おこった。このとき教授のがなりたてた言葉を引用すると、「近代ヨーロッパ教養の最高所産よりも、未開人の誤り多い本能を信じることに全員が同意」したことになる。しかしそれが正しかったのは三日目に分かった。チャレンジャが前回の旅行でつけた目じるしを数カ所で発見したのである。ある地点ではキャンプのあとに違いない黒く焼けた石を四つ発見しさえした。
道はなお登りで、ところどころ岩の出た坂を登ったが、それに二日間かかった。植物の状況はまた変った。ゾウゲヤシばかりはまだあり、すばらしいランがたくさん茂っていた。教えられて知ったが珍しいヌトニア・ヴェキシラリアだの、紅や真紅のみごとな花をつけたカトレヤやオドントグロサムなどがあった。底が小石で両岸にしだの生えた流れが、あちこちの浅い山峡をごぼごぼと音をたてて流れており、岩のちらばった水たまりのふちには、いつでも夜営をするに好都合の場所があった。水たまりには大きさといい形といいイギリスのマスと同じくらいの背の青い魚がいて、夕食のよいお菜になった。
カヌーを捨ててから九日め、数えてみると百二十マイルは歩いたであろうか、しだいに樹がなくなってきた。なくなるというよりは小さく、かん木になったのである。やがてそれも一面の竹やぶとなり、それもひどく密生しているので、土人の蛮刀やなたがまで切り開いてやっと前進した。早朝七時から夜は八時まで、一時間ずつ二度休んだだけで、この障害をぬけるのにまる一日かかった。これほど単調で退屈な仕事はなかった。いちばん竹のまばらなところでも視界は十ヤードか十二ヤードにしかすぎず、前をゆくロード・ジョンの綿ジャケツの背と、左右一フィートにせまる黄いろい壁が見えるだけであった。上からはナイフのうすい刃のような日光がさしこんでおり、頭上十五フィートのところには紺青の空を背景にあしの葉さきがゆれていた。こんなふかい茂みにはどんな動物がいることか分からないが、大きくて重量のあるらしいものが近くまで突進してくるのが何回か聞こえた。その音から判断して、これは野牛だろうとロード・ジョンはいった。夜になるころこの竹林をぬけ、長い一日の行程でへとへとになっていたが、そこへテントをはった。
翌朝は早くから歩きだした。そして地勢がまたもや変ってきたのを発見した。振りかえってみると、河筋でもみるように、竹林がはっきりとつづいていた。前途はひろびろとした平原がゆるやかに登っており、へごがあちこちに群生しており、全体はカーヴして長く鯨の背をみるような丘陵をなしていた。そこまで達したのはひるごろであったが、むこうは浅い谷になっており、そのさきは再びゆるい傾斜をなして登り、そのまま低く丸い天涯につづいていた。重大ともそうでないとも思える一事件のおこったのは、この丘陵の一つを越しているときだった。
チャレンジャ教授は二人の土人をつれて先頭に立っていたが、急にたち停り、興奮して右方を指さした。そのとき私たちは一マイルかそこら離れたところを、灰いろの大きな鳥らしいものがゆうゆうと羽ばたきして舞いあがり、地上すれすれを低くまっ直にかすめて、へごのあいだに姿をかくしたのである。
「見たかな? サマリイ君、見たかな?」チャレンジャはうわずった声で叫んだ。
相手はその鳥の見えなくなったあたりを、一心に見つめていたが、
「あれが何だというのかね?」
「自信をもっていうが、あれは翼手竜じゃ。」
サマリイはバカにして吹きだした。「翼足竜とでもいうか、見たのはこうの鳥だな。」
チャレンジャは口もきけぬほど腹をたてた。背なかの荷物をひと揺りすると、そのまま前進をつづけた。しかしロード・ジョンは私とならんで歩きだしたが、その顔はいつになく真剣だった。ツァイスの双眼鏡を手にしている。
「樹をとび越えるまえに、焦点をあわせたんだ。何だったとはっきり言うのは控えるが、スポーツマンの名誉にかけて、生まれて初めて見るものだったと断言する。」
こういう事情である。私たちはほんとうにこの指揮者のいう失なわれた世界の入口にいるのだろうか? 事件はありのままに書いているのだから、もう何もいうことはない。これ以上特筆すべきものは何も見なかった。
さて、読者諸君――それも読んでくださるかたがあればだが――私は諸君を、広い河をさかのぼり、灯心草の幕を通りぬけ、緑のトンネルをくぐり、ヤシの長い坂をのぼり、竹やぶをぬけ、へごの平原を横ぎったところまで案内した。めざすところは目前にある。第二の丘陵を横断したとき、ヤシの散在するでこぼこの平原と、つづいてまえにスケッチでみた高い赤いがけの線がみえた。まさしくあのスケッチのものと寸分ちがわない。もっとも近いところで、現にキャンプしているところから七マイルくらいある。曲線を描いて見るかぎり続いている。チャレンジャは入賞したクジャクのようにそりかえって歩きまわり、サマリイはだまりこんでいるが、まだ疑いを抱いているようだった。いずれこの疑問もとける日が来よう。一方、折れ竹で腕を傷つけたホセは帰りたがっているので、この原稿をこれに託することにするが、結局はお手元へ届くものと思う。機会のありしだい、つづきを書く。ここにこの地の略図を同封しておくが、そのほうがこの説明をはるかに分かりやすくしてくれると信ずる。
九 誰に予想できたか
おそろしい事が降りかかってきた。誰に予想できたろうか? この苦難がいつ果てることか、私には予想もつかない。この不思議な近づきがたい場所で、一生を終ることになるのかも知れない。私は気が転倒しているので、現在の事実もこれからさきどうなってゆくかの見通しもはっきりしない。どぎもを抜かれている私にとって、現在も恐ろしいが、未来ときたら夜のようにまっ暗だ。
これ以上ひどい状況のもとに身をおいた人はないであろう。また確実な地理上の位置を伝えて、救助の手を求めることもむだであろう。たとえ救助隊を送ってもらえても、それが南米へ達しないうちに、人間の可能性では、私たちの運命はすでにつきているであろう。
まことに月世界にでもおるかのように、私たちは人間の援助からはほど遠くにいるのだ。無事に通りおおせるとしても、救いは私たちの能力のみが救いなのだ。相棒には三人のすぐれた人がいる。非凡な頭脳と不屈の勇気とを持つ人たちだ。ここに唯一の希望がある。これらの人たちの平然とした顔をみると、暗黒に光明を見る思いだ。外面はほかの人たちと同じように平静に見えたであろうが、私は内心びくびくものなのである。
この大変災にぶつかるまでの経過を、できるだけ詳しく説明しよう。
最後の原稿において私は、明らかにチャレンジャ教授のいう高原の段地をとりまく、赤いがけのはてしない線から七マイル以内にいると書いた。近づくにつれて、ある地点ではがけの高さは彼の話以上あるように思われた――ところにより少なくとも千フィートはそそりたっている――そして玄武岩質の隆起にありがちだという妙な線がはいっていた。こういうのはエディンバラのサルスベリ介砂層にも見られる。頂上にはうっそうと木が茂っているようにみえた。がけに近いところはかん木のやぶで、奥へゆくと高い樹がたくさんあった。見たところ生物の住んでいる様子はなかった。
その夜はがけのすぐ下にキャンプをはった――ひどく荒れたもの寂しい場所だった。頭上の介砂層はただ垂直にきりたっているだけではなく、頂上でそとのほうへ曲っているので、よじ登るなんかは問題でなかった。まえに述べたと思うが、近くに高くて細い岩のとがったのがそびえ立っていた。広くて赤い教会の塔のようで、そのいただきは段地と同じ高さだが、あいだには大きな割れ目が口をあけていた。そしてその頂上には高い樹が一本生えていた。段地もとがり岩もあまり高くなく、ここでは五六百フィートであろうか。
「翼手竜のとまっていたのは、」とチャレンジャ教授はこの樹をさして、「あの木のうえじゃ。それを射つまえに、わしは岩を半分ばかりよじ登っていた。わしくらい経験をつんどる登山家なら、あの頂上へのぼるにさして骨は折れまい。むろんそうしたからといって、それで段地へ近づけるわけではないがの。」
チャレンジャが翼手竜のことを口にしたとき、サマリイ教授の顔をちらりと見ると、軽信と後悔の色のきざしているのを初めて認めた。その薄い口びるにはもうせせら笑いはなく、それどころか興奮と強い驚きのいろが、灰いろの引きつった顔にありありと現われていた。チャレンジャもそれと見て、初めて勝利感にひたった。
「もちろん、」と特有な間のぬけた重苦しい皮肉さでいった。「わしが翼手竜のことを言うたとき、サマリイ教授はこうのとりのことを言うとるものと思われたのじゃろう。こうのとりはこうのとりでも羽根がなく、革質の皮膚、膜質の翼、口に歯のあるこうのとりでありますのじゃ。」にやにや笑いながら横目をつかい、サマリイがくるりと向きなおって歩みさると、ぴょこんと頭をさげた。
朝になってコーヒーとマニオク(カサヴァからとったでんぷん―訳者)というつつましい食事のあと――食糧は節約しなければならなかった――頭上の段地へ登る最善の方法について重大会議を開いた。
チャレンジャはまるで法廷の裁判長のようにおごそかに司会をつとめた。岩のうえに腰をおろし、子供じみた奇抜な帽子をあみだに、たれた目ぶたの下から高慢ちきな目で一同をにらみつけ、偉大な黒いひげを握りながら、現在の状況や将来の行動をゆうゆうと説明しているその姿を想像して頂きたい。
その下にいるわれら三人をも思い浮かべられたい――日にやけわかわかしく、山野を歩きまわったあとの元気にあふれた私、いつもパイプをはなさず、まじめくさってまだ批判的なサマリイ、しなやかで敏速なからだを銃にもたせかけ、ワシのような目をじっと話し手に向けている、かみそりのように鋭いロード・ジョン。その三人のあとにはあさ黒い混血土人と一団の土人が群がっており、前面にも頭上にも行く手をはばむ赤い岩の|肋《ろっ》|骨《こつ》がそそりたっている。
「いうまでもないが、」とチャレンジャがいった。「まえに来たときも、あらゆる手段をつくしてがけを登ろうとしたが、失敗におわった。わしにでけんくらいじゃから、ほかの者にでけるわけもなかろう。わしも登山のほうは相当のものじゃからな。そのときは岩登りの用意というものがなかった。しかしこんどはあらかじめ準備をしてきた。それを使えばあの孤立しとるとがり岩にも頂上まで登れる自信はある。じゃがかんじんのがけのほうは、切りたっとるから登ろうとしてもムダじゃ。このまえのときは雨期が近づいとったし、食糧は乏しくなるしするので、落着いておれんじゃった。このため時間を限られた。それでただ一ついえることは、がけを東のほうへ六マイルほど調査したが、登れそうなところは一カ所もなかった。そうするとこれからどうしたものかな?」
「合理的な方法はたった一つだと思う。」サマリイ教授がいった。「君が東のほうを調べたのなら、こんどはがけ下を西のほうへ歩いて、登れる道を求めるべきだろう。」
「それですよ。」ロード・ジョンが口をだした。「要するにこの高原はあまり大きくないようだから、らくに登れる道がないものか、探してみましょう。道がなければ元のこの場所へ戻りつくまでですよ。」
「この若い人にはもう説明したのじゃが、」とチャレンジャは私をさして(どうもこの人は私を十歳くらいの小学児童扱いに口をきくくせがある)「楽に登れる道なんかなさそうじゃ。理由は簡単で、もしそんなものがあったら、この頂上は孤立の別天地としては存在せんじゃろうし、適者生存の法則にかくも奇妙な妨害を与える条件は行なわれんじゃろうからな。それでも熟練した登山家になら頂上に達し得るが、巨大でからだの重い動物は降りられんという場所もあろうというものじゃ。とにかく登れる道のあるのはたしかじゃ。」
「どうしてお分かりです?」サマリイが鋭く切りこんだ。
「わしの先駆者、アメリカ人メープル・ホワイトは現実に登っておるのじゃ。それでのうてどうしてスケッチにあったあんな動物が見られよう?」
「君の判断は立証された事実よりも少し先走りしておりますぞ。」サマリイは強情である。「高原のあるのは、現に見とどけたのだから認める。しかしどんな種類のものにもせよ、そこに生物がいるというのはまだ納得していない。」
「君が認めようと認めまいと、それはまるで考えられんほど取るに足らんことじゃ。しかし高原そのものが君の頭のなかへはいりこんだと思うと、うれしくなる。」チャレンジャは段地を見あげていたが、驚いたことに岩からおどりあがり、いきなりサマリイの首すじに手をかけて顔を空中にねじむけた。「さあ!」と興奮のあまりしゃがれ声になりながら、「高原に動物のおるのを実見させてやろうか?」
茂った緑のふちががけのはなから垂れているのはまえに述べた。ここから黒くぎらぎらするものが垂れさがっているのだ。のろのろと出てきて割れ目へたれさがったので、妙な平べったいスペード形の頭をもつきわめて大きいへびだと分かった。ちょっとのあいだ頭上でゆらゆらと動き、からだを震わせていたが、つやつやと曲りくねったとぐろのうえに朝の太陽が輝いていた。そのうちのろのろと内がわへ引っこみ、姿は見えなくなってしまった。
サマリイはひどく興味をもったので、頭を突きあげられたまま、逆らいもしないで立っていた。そのうち相手を振りはらい、もとの威厳をとり戻した。
「チャレンジャ君、あごを押さえたりしないで、思うことを言ってくれるとうれしいね。ごく平凡なにしきへびを見たくらいで、こんな無礼を働いてよいことにはならないよ。」
「それでも高原には生物がおるのじゃ。」とチャレンジャは勝ちほこって答えた。「さてそこで、どんなに偏見をもった人にも頭のにぶい人にも明らかになるように、この重大な結論が立証されたのじゃから、ここでキャンプをたたんで、どこか登り口はないか西のほうへまわってゆくのが最善の策と思うのじゃが。」
がけのま下の地面は岩だらけで、でこぼこしており、歩行は困難でのろかった。しかしとつぜん、私たちを勇気づけるものが現われた。古いキャンプのあとで、シカゴ肉のかん詰のあきかん数個とブランディのレッテルのあきびんが一本、こわれたかん切りが一つ、その他まえの旅行者の残した破片がいろいろあったのだ。しわくちゃになりぐしょぐしょに破れた新聞紙は、日付は分からなかったが、「シカゴ・デモクラット」紙であるのは分かった。
「わしじゃない。メープル・ホワイトのものに違いない。」チャレンジャがいった。
ロード・ジョンは野営地に被さりかかっている大きなへご[#「へご」に傍点]の木を珍しそうに見やっていたが、「やあ、これをみたまえ。道しるべのつもりらしいね。」
一本のかたい木片が、木の幹にくぎづけにしてあり、どうやら西の方を指しているようだった。
「たしかに道しるべじゃ。」チャレンジャがいった。「それ以外の何じゃ? 前途に危険の横たわるのを思い、あとから来るものに道の分かりやすいようにと、先駆者は道しるべを残しておいてくれたのじゃ。これからも進むにつれて、まだ道しるべはあるじゃろうな。」
その通りだったが、それは思いもよらぬ恐ろしいものだった。がけのすぐ下に、前に通りぬけてきたものに似た高い竹が、かなりの広さにわたって生えていた。多くは二十フィートほどの高さで先端が鋭くとがっており、立ったままで恐ろしいやりになっていた。この竹やぶに沿って歩いてゆくと、そのなかに白く光るもののあるのが目にとまった。幹のあいだへ首をつっこんでみると、肉のおちた頭がい骨だった。骨格もあったが、頭がい骨だけが五六フィートもこっちへころがっているのだった。
つれている土人の蛮刀の数振りでその場所を切りひらき、この悲劇のあとを詳しく調べた。服の残片がほんの少し散らかっておるのが見られたが、骨ばかりの足はくつをはいており、死んでいるのがヨーロッパ人であるのは明らかだった。ニューヨークのハドスン製の金時計に鎖があり、旧式の万年筆がついて骨のあいだに落ちていた。そのほかふたに「A・E・SからJ・Cへ」ときざみこんだシガレット・ケースが落ちていた。その金属の状態からみて、この悲劇の起こったのはそう古いことではないと思われた。
「いったいどういう人間だろうな。」ロード・ジョンがいった。「かわいそうに! 骨という骨がみんな砕けたらしい。」
「砕けた|肋《ろっ》|骨《こつ》のあいだから竹がのびている。」サマリイがいった。「生長の早い植物だが、幹が二十フィートにも伸びるまで、この死体がここにあったとは考えられない。」
「この死体の身元についてははっきりしとる。」チャレンジャがいった。「わしは君たちを追ってファセンダまで河をさかのぼって来る途中、メープル・ホワイトのことをとくに入念に調べた。パラでは誰も知らなんだ。そのうち幸いにも一つの手掛りをつかんだ。ロザリオである牧師と昼食をとっているところがスケッチ・ブックのなかにあったが、この坊さんを見つけだすことができたのじゃ。会うてみるとえらく議論好きな男で、わしが何か腐食的なことを、これは近代科学によって信仰がぐらついてくるのは当然のことじゃが、いうと思うてえらく怒りだした。それでも幸いあるたしかな手掛りを与えてくれた。メープル・ホワイトは四年まえ、つまりわしが彼の死体をみる二年まえにロザリオを通った。当時は一人だけではのうて、ジェームズ・コルヴァというアメリカ人のつれがあった。この男はボートに残っとったので、坊さんは会うとらん。じゃからこの遺体はそのジェームズ・コルヴァにちがいない。」
「それにまた、」とこんどはロード・ジョンがいった。「この男がどうして死んだかも疑いはない。がけの上から落ちたか、突き落とされたかして竹にくし刺しになったのだ。そうでなければこんなに骨がばらばらになるわけもないし、地上からではあんなに高い竹に突きささるわけにゆくまい。」
この砕けた骨をかこんで立ち、ロード・ジョン・ロクストンの言葉を事実だと気がついて、一同言葉もなかった。がけの上部の出っぱりは竹やぶにおおいかぶさっていた。あの上から落ちてきたものに違いない。単なる事故であろうか? それとも――もう恐ろしい不吉な予想がこの秘境をめぐって起きはじめていた。
私たちは無言のうちにそこをはなれ、がけにそうてその下を歩いていった。がけは平らで切れ目がなく、絵でみたおそろしい南極の氷原が水平線から水平線へと広がって、探検船のマストのうえに高くそびえ立っているのに似ていた。五マイルというもの、割れ目もさけ目もなかった。とつぜん新しい希望を抱かせるものが目にはいった。雨のあたらない岩のくぼみに、矢じるしの白墨が西のほうを指してぞんざいに描かれているのだ。
「やっぱりメープル・ホワイトじゃ。」チャレンジャがいった。「たのもしい足音がすぐ後に続いてくると予感をもっていたのじゃ。」
「ではチョークを持っていたのですね?」
「ランドセルの持ちもののなかに、色チョークが一箱あった。なかで白いのが小さくへっとったのを覚えとる。」
「それはりっぱな証拠だ。」サマリイがいった。「この案内に従って西のほうへ行くしかない。」
さらに五マイルばかり行ったところで、岩のうえに再び白い矢じるしを見た。そこはがけに初めてせまい割れ目があって、内部へ切れこんでいた。割れ目の内がわにはもう一つ矢じるしがあり、いくらか上方を指していた。その示す場所は大地よりも上を指しているもののようだ。
荘厳な場所だった。両がわの壁はすばらしく大きくて、青空の部分はほんのわずかであるうえに、がけの上部は両方とも緑がおおいかぶさっているのだから、おぼろの光が地底に達しているだけだった。みんな何時間も物を食べていないし、石だらけのでこぼこのところを歩いてきたのですっかり疲れていたが、神経が緊張しているので立ち止まりもしなかった。しかし土人にキャンプを張るように命じ、私たち四人は二人の混血土人をつれて、狭い峡谷を進んでいった。
入口は幅四十フィートばかりだったが、はいってゆくに従って急速にせばまり、最後は鋭い角度で行きづまりになっていた。壁は垂直でなめらかだから、登るなど思いもよらない。たしかにこれは先駆者ホワイトの指示するものではなかった。そこで私たちは引きかえした――峡谷の深さは四分の一マイルくらいであった――とそのときロード・ジョンの鋭い目がさがしているものの上にとまった。頭上たかく暗いなかに、ひときわ暗いところが丸く見えていた。たしかにこれはほら穴の入口にちがいない。
がけの下のその部分はごろた石が積み重なっているので、登るのにさして困難はなかった。そばへ寄ってみると、いっさいの疑問が氷解した。ほら穴は岩壁にあいた口であるばかりでなく、その横に矢じるしまでついているのだ。ここなのだ。これこそメープル・ホワイトと非業な死をとげた仲間が登った口なのだ。
私たちはすっかり興奮して、野営地へ引きかえすどころではなかった。すぐ第一回の探検にとりかからなければならない。ロード・ジョンはランドセルのなかに懐中電灯をもっていた。これを役だたせるよりほかに方途はない。彼は黄いろい明るさの環を前方に投じながら先頭にたった。そのあとから私たちは一列縦隊をつくりながらついていった。
ほら穴は明らかに|水蝕《すいしょく》によってできたものだった。両がわの壁はつるつるしており、下は丸石がごろごろしていた。人一人からだをかがめてやっと通れる大きさだった。五十ヤードくらいまっ直に走っており、それから四十五度の角度で登りになっていた。やがてこの傾斜はさらに急になっており、両手両ひざでぐらぐらする石のあいだをはい登っていったが、足もとから丸石はごろごろと転げおちていった。不意にロード・ジョンが叫んだ。
「穴はふさがっている!」
うしろへ集まってみると、玄武岩が天井まで積み重なっているのが、黄いろい光の環のなかに見えた。
「天井が落ちこんだのだ!」
岩の破片をいくつか引っぱり出してみたが、何にもならなかった。それどころか手をつけない大きな岩が坂道を転がり落ちて、私たちが押しつぶされる危険さえあった。この邪魔ものはもはや何としても除去できないのが明らかだ。メープル・ホワイトの登った道はもう使えなくなっている。
口もきけないほど力をおとし、暗いトンネルをよろめき降り、キャンプへ戻っていった。
しかしながらこの峡谷を去らないうちに、一つのことが起こった。後でおこった事と考えあわせて、これは重大なことである。
私たちが峡谷の底、ほら穴の入口から四十フィートばかりの下へ、ひとかたまりに集まっていた時である。とつぜん大きな岩が転がり落ちてきて、すぐそばを大変な勢いでけしとんでいったのだ。みんなが間一髪の差で難をまぬがれた。岩がどこから落ちてきたのか分からなかったが、まだほら穴の入口近くにいた混血土人は、そばを転がりおちたのだから、がけの頂上から落ちてきたものに違いないといった。見あげても、がけの頂上は緑のジャングルがあるだけで、動くものの気配はなかった。しかし岩が私たちを目がけて落とされたのはまちがいないところだ。してみるとこのことは高原に人類が――それも悪意を抱いたのが――いることを示している!
急いで峡谷をたちのいたが、心は局面の新展開とそれがこっちの計画に及ぼす影響とでいっぱいだった。情勢は今までも困難だったのだが、大自然の障害に加うるに人類の故意の反抗が新たに加わるとすれば、前途は絶望的である。しかも頭上わずか数百フィートのところにある美しい緑のジャングルを見あげたとき、その奥を探査することなくロンドンへ帰ろうと思うものなぞ一人としてなかったのである。
状況を論議した結果、最善の手段は頂上へのべつの登り口をさがして、段地のすそを回ってみるという結論に達した。がけはかなり高さを減じてきたうえ、西から北へ方向を転じかけており、もしこれをもって段地が円弧をえがいている現われと見るならば、全円周はそう大きなものではなかろう。そうだとすれば最悪の場合でも数日で出発点へ戻れるであろう。
その日は約二十二マイルにのぼる行進をしたが、前途の見込は変化なかった。でも述べておきたいのは、カヌーをあとにしてからずっと登り坂だったが、アネロイド気圧計によると少なくとも海面上三千フィートの地点に達していると分かることである。気温にも植物にもかなりの変化がみられる。熱帯地の旅行のわざわいである恐ろしい害虫もだいぶ少なくなった。ヤシが少しとへごはたくさんあるが、アマゾンに特有の植物は姿を消していた。ひるがお、とけいそう、ベゴニアを荒れはてた岩のあいだに見るのはたのしく、そぞろに故国をしのばせるものがあった。ストリータムのある別荘の窓にはち植えになっていたのと同じ色のベゴニアだった。――だがこれは個人的な思い出にふけりすぎたようだ。
その夜――まだ高原の段地のすそを歩きはじめた最初の日の話のつづきだが――大きな経験が私たちを待っていた。それは身近に驚異はないという独断を永遠に払い落とすようなものであった。
親愛なるマカードル氏よ、これを読まれて社が私をかり射ちに派遣したのではないこと、教授の許可さえあれば世間に発表したいような原稿を期待されることでありましょう。私はたしかな証拠を手にいれるのでなければ、これらの原稿を公表しようとは思いません。でなければ記者のマンチョーゼン(小説の主人公で途方もない大ぼら吹き―訳者)よと一生けなされるでしょう。あなたも同感して下さると信じますが、この記事が当然ひき起こす批判と懐疑のいっせい射撃に私たちが対抗できるまでは、この冒険に社運をかけようとは思っておられないと信じます。それでこのすばらしい事件も、わが紙の大見出しとなるには、しばらく編集部のひきだしに留めおいて頂くしかありません。
とはいってもほんの瞬間的できごとで、私たちこそ確信してはいるものの、これといってそれに引きつづいて起こるものはなかった。
そのできごととはこうだった。ロード・ジョンがアジューティ――小さな豚のような動物である――を一頭射ってきたが、半分を土人たちに与え、残りの半分を火にかけて料理していた。日が暮れて冷えてきたので、みんなその火のそばへ寄っていた。月はなく星がまたたいていたので、平原をやや先まで見とおすことができた。さて、そこへひゅっと音がして、飛行機のように何ものかが舞いおりてきた。一瞬私たち全員が、革のような翼で頭上を被われた。そのときちらりと私の見たのは、へびのような長い首、赤く恐ろしい食い意地のはった目、大きく食いつきそうな口ばしなどであった。驚いたことにその口のなかにはピカピカ光る歯がいっぱい生えていた。つぎの瞬間にはもう怪鳥はとびさり、同時に私たちのごちそうも消えていた。さしわたし二十フィートもある巨大なかげが、さっと空中に舞いあがった。そのとき一瞬怪物の翼は星をかくし、頭上のがけのふちを越えて見えなくなってしまった。私たち一同火のそばに座って、腰のぬけたように声も出なかった。ヴァージル(紀元前のローマの詩人―訳者)の詩にある英雄たちがハーピイ(ギリシャ神話にある怪物―訳者)のまい降りるのを見たようなものである。まず口をきったのはサマリイである。
「チャレンジャ教授、」感動にふるえる声でおごそかに、「君におわびしなければならない。私が悪かった。過ぎさったことは水に流してもらいたい。」
よくもいったりっぱな言葉であった。ここで二人は初めて握手した。翼手竜の姿をはじめてはっきりと見たが、これは大いに一行のためになった。二人の教授が手をむすびあったのだから、ごちそうがなくなったくらい、何でもなかった。
ここの段地高原に有史以前の生物がいるとしても、その数は多くなさそうだった。それというのもそれからの三日間に、それらしいものを一度も見なかったからである。そのあいだは荒れた不気味な土地を歩きつづけた。そこはがけの北と東で、石ころだらけの荒れ地と、野鳥のたくさんいる荒れはてた沼地が交互にあった。その方面からはがけは近づきがたかった。がけのすぐ下にかたい岩のたながなかったら、引返すしかなかったろう。亜熱帯の沼地のねばねばの土とぬかるみのなかへ、腰まで没することが何度かあった。それに悪いことには、このあたりは南米でもっとも有毒な、すぐにとびかかってくるジャラカカへびが好んで繁殖するところらしかった。再三再四この恐ろしい動物は、腐ったような沼の水面をにょろにょろと泳いできて、私たちへ飛びかかった。それを防ぐにはいつも散弾銃をかまえているしかない。沼地のなかのじょうご型のくぼみ、そのなかに生じた地衣のためなまりのような緑いろを呈しているくぼみは、いつになっても悪夢のように私の胸によみがえってくることだろう。ここはこのへびの特殊な巣であるらしく、傾斜地という傾斜地がへびだらけで、みんな私たちのほうへにょろにょろと向かってきた。人を見るとすぐ向かってくるのがジャラカカへびの特徴である。射ち殺すにもあまりに数が多いので、しかたなく一散に逃げだしたら、すっかり疲れた。振りかえると、ずうっと遠くまで恐ろしい首や頭があし[#「あし」に傍点]のあいだに見えかくれしたのは、いつまでも思いだすだろう。いま製作している地図のなかに、ジャラカカ沼の名を書きこんだ。
進むにつれてがけの色は赤みがなくなり、チョコレートいろになって、頂上の樹木もずっとまばらに、高さも三四百フィートまで低くなった。しかし登れそうな場所はどこにもなかった。それどころか最初にがけを見たころよりも、ずっと登りがたくなっていた。切りそいだようなその険しさは、石ころだらけの荒れ地からとった写真によって明らかである。
「とにかく、」と私は、一同が現状を論じあっているときいった。「降った雨はどこかへ流れおちているのです。岩のなかにでも水路があるのですかね。」
「なかなか頭がよいな。」チャレンジャが私の肩をたたいていった。
「とにかくどこかへ流れおちていることはまちがいないです。」
「この人は現実をしっかりつかんどる。ただ一つの弱点は、岩のなかにトンネルのないことが、視覚上決定的に立証されとることじゃ。」
「ではどこへ流れてゆくのでしょう?」と私はあとへ引かない。
「そとへ流れとらんとすると、内がわじゃろうな。」
「では中央に湖があるのです。」
「まあそんなところじゃ。」
「湖はふるい噴火口と考えるのが事実に近かろう。」サマリイがいった。「全体の構造からして、もとより火山性だ。だがそれはともかくとして、高原は内がわに傾斜して、中央にはかなり大きな水をたたえているものと思われる。この水はまた地下水路をとおってジャラカカ沼に流れているのだろう。」
「あるいは蒸発によって均衡が保たれとるのかもしれん。」とチャレンジャが言葉をはさみ、二人の学者はいつもの科学的討論にはいっていった。門外漢にはシナ語と同様わけの分からぬものである。
六日目にがけのすそを回りおわって、例の孤立した岩の峰のそばに張っておいた最初のキャンプへ戻ってきた。一行は心中やるせなかった。調査はこのうえもなく綿密だったのに、どんなに勇敢な人にも登れそうな場所は一カ所としてなかったし、メープル・ホワイトが残してくれた白チョークの記号のある場所も、登れなくなっているのが分かったからである。
これからどうすればよいのか? 食糧の貯えは、銃によって補ってゆきもするから、十分であった。しかしいつかは補充を要する日が来るはずだ。二カ月もすれば雨になるだろうし、そうなればキャンプから押し流されることだろう。岩は大理石よりも固く、これほども高いところへ、新しく道を作るといっても、時をかけ手段をつくしても可能とは思われない。その夜一同が暗い顔を見あわせ、一言も口をきかず毛布をかぶって寝てしまったのも無理はなかろう。うとうとしながら私が覚えているのは、チャレンジャが大きな食用がえるのように火のそばへうずくまり、大きな頭をかかえて深い思案にふけっているらしく、私がおやすみといってもまったく気づかぬ様子だった。
しかし翌朝になって私たちにあいさつしたチャレンジャは、ゆうべとは打って変って、満足さとうれしさが全身にあふれていた。朝食をたべに集まったとき、目にうわべばかりの謙そんを現わして、「わしは君たちに何といわれても致しかたないのは知っとるが、それを言うてわしに赤面さすのだけは勘弁してほしい。」とでも言っている人のようだった。あごひげは得意そうにぴんと立ち、胸をふくらませ、片手をジャケツの前ポケットにつっこんだままだった。空想では自分の像がトラファルガ広場のあいた柱脚を飾り、ロンドンの街にさらに恐怖を加える姿を考えているのかも知れない。
「|わかった《ユ ー リ カ》!」ひげの中から歯を光らせて叫んだ。「諸君、わしのためにおめでとうと言うてもよいし、みんなが互いにおめでとうを言いあうてもよい。問題は解決したのじゃ。」
「あがり口を見つけたのですか?」
「あえていうが、そう思うてさしつかえない。」
「それはどこですか?」
答える代りに右手にある|尖《せん》|塔《とう》形のとがり岩を指さした。
一同は見あげてすぐ顔を――少なくとも私だけは――うなだれてしまった。あれへ登れることは教授がたしかめている。だが塔と段地とのあいだには恐ろしい|深《しん》|淵《えん》があるのだ。
「あれを向こうへは渡れませんよ。」私はため息をついた。
「少なくともあの頂上へは登れよう。」教授がいった。「登りさえしたら、創造的才能はまだ尽きたのでないのを見せるよ。」
朝食のあとで、登山用具を入れておいた包みをみんなで開けた。そのなかから教授は長さ百五十フィートばかりで軽くて丈夫なロープを一巻きと、アイゼン、クランプなどをとりだした。ロード・ジョンは経験のある登山家で、サマリイもいろいろと困難な登山をやったことがあった。それで岩登りにかけてまったく初心なのは私だけであった。しかし体力と敏活さをもって、経験の足りなさは補えるだろう。
思わず頭髪の逆だつことも何回かあったけれど、やってみるとそれほど困難ではなかった。前半はしごく楽であった。しかしそれから上は|勾《こう》|配《ばい》がつぎつぎと急になり、最後の五十フィートは岩の小さなたなに手をかけたり、割れめに足をかけたりの、文字どおりすがりついての登りだった。チャレンジャがさきに頂上に達して(こんな不格好な人にこんな活動力があろうとは、驚くべきことだ)、そこに生えていたかなりの大木にロープを巻きつけてくれなかったら、私にしてもサマリイにしても登頂はできなかったに違いない。このロープをたよりに、二人はぎざぎざの岩壁をのぼっていった。登ってみると頂上は直径二十五フィートばかりの草地になっていた。
一息いれてから私のうけた第一印象は、これまで通過してきた地方を見おろすすばらしい光景であった。全ブラジルの平野が脚下に広がるかと思うほどで、平野はどこまでものびて、はては遠い地平線のかなたにかすかな青がすみとなっていた。前景にはあちこちに岩があり、へごの木の散在する長い傾斜地があって、その向こうには馬のくらをみるような丘のさきに、一行の通ってきた竹林が黄緑に見えていた。それから木がしだいに増して目のとどくかぎり続き、ゆうに二千マイルはあろうかと思われた。
このすばらしいパノラマにまだ酔いしれているところを、教授の重い手に肩をたたかれた。
「こっちじゃよ。前進あるのみ。後を振りかえるでない。光栄あるゴールをつねに見よじゃ。」
振りかえってみると、段地高原はいま立っているところと同高であり、かん木の緑の茂みのなかにはあちこち木が生えたのが見えたので、こんな近いのになぜあそこへ行けないのか実感がわかなかった。ざっと推定してこの深淵は幅四十フィートばかりだが、目でみたかぎりではそれが四十マイルにも感じられた。片腕で木の幹を抱いて|深《しん》|淵《えん》をのぞきおろすと、つれてきた土人がこっちを見あげているのが、黒く小さく見えた。絶壁は私たちが直面してきたのと同じに切りたっていた。
「これはまったく奇妙だ。」サマリイ教授がきんきん声でいった。
振りかえってみると、私のしがみついている木をきわめて興味ぶかそうに調べているのだった。なめらかな樹皮、小さく|葉《よう》|肋《ろく》のある葉はともに見なれたものだった。
「なあんだ、ぶなの木ですよ!」
「そのとおり。異国でみる同国人さ。」サマリイがいった。
「単なる同国人だけではないさ。」チャレンジャがいった。「君の|比《ひ》|喩《ゆ》を拡大させてもらえるなら、これこそ第一等の味方なのじゃ。このぶなが救いの神になるのじゃ。」
「まったくだ!」ロード・ジョンが叫んだ。「橋だ!」
「まさにそのとおり。橋じゃ。現在の立場を考えるのに、わしがゆうべ一時間費やしたのはムダではなかった。G・E・Cは背水の陣となったら全力を発揮できると、この若い友人に話したことがあるのを思いだす。諸君はゆうべ、みなが壁を背にして立っていたのは認めるじゃろう。しかしながら意力と知力の合するところ、道はつねに開かれる。この谷へかける橋を見つけさえすればよかったのじゃ。これでどうじゃ!」
たしかに名案だった。木は高さが六十フィートは十分あり、正しい方向に倒れさえしたら、谷を横断するのはわけないことだ。チャレンジャは登ってくるとき、キャンプ用おのを肩につるしていた。それをいま私にわたして、
「わが若い友は筋骨たくましいから、この仕事には打ってつけじゃと思う。ただ君は自分のことだけ考えるのはやめて、わしの注文どおりにやってもらいたい。」
教授の指示に従って、木があつらえ向きの方向に倒れるように、幹にふかく切りこみをつけた。もともと木は段地のほうへ、自然に強く傾いて立っていたので、仕事に困難はなかった。結局私はロード・ジョンと交互に、真剣におのを打ちおろした。一時間あまりで、めりめりと大きな音をたてて、木は前方へゆらぎどさりと倒れ伏した。枝はうまく向こうがわのかん木のなかへ埋まった。切られた幹のほうは台地のはじまで引っぱられ、これはダメかと思ったが、台地の端までころがってゆき、がけぶちから数インチのところで止まった。これで秘境への橋がどうやらできたのだ。
みなは無言のうちに、チャレンジャ教授と握手を交した。教授は麦わら帽をとって、いちいち深く腰をかがめた。
「秘境へ一番に渡る栄誉はわしが担いたい。もちろん将来の歴史的絵画の好画題じゃからな。」
こういって橋に歩みよるところを、ロード・ジョンが上衣のすそをつかんだ。
「どっこい、それは黙っておれませんよ。」
「なに黙っておれない?」教授が顔をあげたので、ひげが前へつき出た。
「科学上のことでしたら、あなたは科学者なのですから、おっしゃる通りにしますよ。しかし私の領分にはいった以上、私のいう通りにして頂かなければなりません。」
「君の領分とは?」
「人にはそれぞれ専門があります。兵隊生活なら私のものです。私の考えでは、私たちは新しい世界へ乗りこもうとしているのですが、そこにはどんな種類の敵が待っているか分かりません。少しも常識を働かせず忍耐も欠いて、めくらめっぽうに飛びこむのは、私のとらないところです。」
この忠告はいかにも当を得たものなので、むげには退けられなかった。チャレンジャは頭をつんとあげて、大きな肩をすくめた。
「それで君はどうしようというのじゃ?」
「私の考えでは、あの茂みのなかには、食人種の一隊が昼食を待っているかも知れません。」とロード・ジョンは橋の向こうがわを見やりながら、「なべのなかへ飛びこむ前に、よく考えたほうがよいと思います。やっかいなものの待っていることを望むものでは、むろんありませんが、それにしても何かがあるものとして行動をとるのがよいと思います。それでここはマローン君と私が下へ降りていって、銃を四つとゴメスともう一人土人をつれてきましょう。それからまず一人が橋を渡り、あとのものは銃で援護するのです。その一人が異状なく安全とみたら、そこで初めてみんなで乗りこむことにしましょう。」
チャレンジャは切り株に腰をおろして、もどかしそうにしていた。しかしサマリイと私は、実行面で疑問のある問題にはロード・ジョンの言に従ったほうがよいという意見に一致した。登るに困難な場所もいまはロープが垂らしてあるから、造作なかった。一時間たらずで、ライフル銃と猟銃をかつぎあげた。二人の混血土人もあがってきたが、これはロード・ジョンの命令で、最初の探検が時間をくう場合を考え、食糧を一包かつぎあげた。みんな弾薬帯もそろった。
「さてチャレンジャさん、どうしても一番のりをなさるおつもりですか?」用意が万端ととのうと、ロード・ジョンがいった。
「お許しを頂いてまことにありがとう。」怒っていた教授がいった。この人くらいあらゆる権威に屈しない人はないからであるが、「お許しを頂いた以上、まずわしが一番のりとゆこう。」
両足をぶらりとさげて木に馬のりになり、おのを背なかにつるしてチャレンジャはひょいひょいとからだを動かし、すぐ向こうがわへ渡ってしまった。そこで高原に立ちあがると、両手を大きく振って、
「とうとう来たぞ!」とどなった。
うしろの緑のやぶのなかから、何か恐ろしい運命がおそいかかるのではないかと、ばくぜんと気づかいながら見つめていた私は、そんな様子もなく万物粛として、足もとから複雑な色の鳥がとびたって、木立のあいだに姿をかくすのを認めた。
サマリイが二番手だった。よわよわしいからだのどこにこんなエネルギイが潜んでいるのかと思うばかりだった。銃を二つ持ってゆくと言いはった。これで二人の教授はそれぞれ銃が手にはいったわけだ。つぎは私だった。恐ろしい谷はできるだけ見おろさないようにした。サマリイが銃の台じりをさし出してくれたので、それからすぐその手にすがることができた。ロード・ジョンについていうと、彼は歩いて渡った――何の支えもなく文字どおり歩いて渡った。この男は鉄の神経をもっているに違いない。
かくして私たち四人は失なわれた国――メープル・ホワイトが夢にえがいた国へたどりついたのだ。一同にとって最高の勝利の瞬間と思われた。だがこれが、われわれにとって最高の苦難の序曲だったとは、誰が思いつき得たであろうか? 大きな災難がどんなふうに降りかかってきたか、簡単に話そう。
がけぶちをはなれ、密生したかん木のなかへ五十ヤードも進んだろうか。うしろでバリバリッという恐ろしい音がした。はっとして今きたところを引きかえした。橋が落ちているのだ。
絶壁のすそはるかに、こんがらかった枝と裂けた幹とが見おろせた。あのぶなの樹だ。台地のがけが崩れ落ちたのであろうか? しばらくはみんなそう思いこんでいた。だがつぎの瞬間、向こうの岩の塔のうえに黒い顔が、混血土人ゴメスの顔がにゅっと現われた。そう、ゴメスには違いなかったが、今までの神妙な微笑をたたえ、仮面のような表情ではなかった。見たのはギラギラ光る目、ゆがんだ顔、憎悪と復しゅうをとげた喜びで引きつった顔だった。
「ロード・ロクストン! ロード・ジョン・ロクストン!」とわめいた。
「おお、ここにいるぞ。」
かんだかい笑い声が谷の向こうから聞こえてきた。
「ようし、そこにいろ。このイギリス犬め、いつまでもそこにいろ! おれは待ちに待ったのだぞ。いまこそ機会はきた。そこへ行くのに骨を折ったが、そこを降りるのは、いっそうむずかしいぞ。バカなやつめ、わなにかかったのだ、おまえら一人残らずな。」
あっけにとられて口もきけなかった。目を大きく見はり、ぽかんと立っているだけである。台地の草のうえに大きな枝があるので、これをてこに橋を落としたなと分かるだけだった。ゴメスはいったん顔をかくしたが、すぐ出てきたのを見ると、いっそう狂気じみている。
「あのほら穴ではもうちょっとのことで石で殺してやるところだった。だがこのほうがよい。一思いでなく、このほうが恐ろしいだろうからな。骨をそこにさらしたままで、どこへ行ったか分からないから、拾いに来るものは誰一人ない。そこへ倒れての死にぎわには、五年前プトマヨ河で射殺したロペツのことでも思いだせ。おれはその弟だ。これでかたきは打ったから、どんなことになってもおれは安心して死ねるわい。」気の狂ったように片手をこっちへ振ったと思ったら、それきり静まりかえってしまった。
混血土人が単に復しゅうを遂げて逃げたというだけなら、首尾よくいったというものであろう。だが彼の滅亡を招いたのは、バカげた抑さえきれない芝居げたっぷりのラテン民族(フランス、スペイン、ポルトガル、イタリアなどの民族―訳者)のでき心であった。三国にわたって「神の|笞《むち》」の名をかち得ていたロクストンは、ののしられっぱなしで黙って引っこんでいるような人物ではなかった。混血土人はとがり岩の向こうがわを降りていた。ロード・ジョンはそれが降りきらぬうちに、段地のふちを土人の見えるところまで駆けていった。そこで銃声一発、私たちには何も見えなかったけれど、キャッという叫び声が聞こえ、つづいて重いものがどさりと落ちるのを聞いた。ロクストンは強情な顔つきをして私たちのところへ戻ってきた。
「私は目はしのきかぬバカでした。」と苦い顔をして、「私のおろかさゆえに、みなさんにとんだご迷惑をおかけしました。あの連中は民族的な長いあいだのうらみを抱いていることを念頭において、もっと注意すべきでした。」
「もう一人のほうはどうしたでしょう? あの木をがけからてこ[#「てこ」に傍点]で落とすには、二人がかりだったと思うが。」
「あいつも射って射てないことはなかったけれど、逃がしてやりました。かかりあいはなかろうと思いましてね。しかしあいつも殺したほうがよかったかも知れません。おっしゃるように手をかしたに違いないのですから。」
ゴメスのとった行動の糸口がわかってみると、この混血土人の邪悪な行為をいくつも思いあたった。たえず私たちの計画を知りたがっていたこと、テントのそとで立ち聞きをしているところをつかまったこと、ひんぴんと私たちの誰かがびっくりさせられた憎悪をこめた上目づかいなど。
いろいろと議論してこの新しい情勢に対処しようと苦心しているとき、下の平野で起こった奇怪な情勢が私たちの注意をひいた。
生きのこったほうの混血土人にちがいないのだが、白い服装の男が死神に主導されたようにけんめいに走ってゆく。そのすぐ後に、二三ヤードをへだてただけで、忠実な黒人ザンボーの大きな黒たん色のからだが続いている。見ているうちに逃げる混血土人の後からとびかかり、首に両腕をからみ一体となって地上をごろごろころげまわった。するうちザンボーだけが起きあがり、うつ伏せになったなりの相手を見おろしていたが、うれしそうに片手を私たちのほうへ振りながら駆けてきた。倒れた男のほうはそれなりに動く気配もなく、いつまでも大平野にそのままだった。
反逆者は二人とも亡びたが、あの二人のやった災害はもと通りにならない。もうどうしても岩の峰へは帰れないのだ。今までは世界の住民だったが、これからは段地高原のそれでしかない。世界と段地高原、この二つはまったくべつのものだ。下には平野があり、カヌーへ行かれる。その向こう、すみれ色にかすむ地平線のかなたに、文明世界へ戻してくれる流れがある。しかし二つのつながりは断たれたのだ。どんな人間の才能をもってしても、私たちと過去の生活との隔てとなっているこの谷に橋をかける方法を考えだすことはできない。私たちのあらゆる生存状態は一瞬にして変ってしまった。
この時である。私は三人の同行者の性格の本質を知った。彼らは厳粛で誠実で思慮ぶかかったが、そのなかには無敵の晴朗さがあった。しばらく私たちはやぶのなかに座り、ザンボーの来るのを待っているしかなかった。まもなく彼は岩のうえに正直そうな黒い顔を現わし、ハーキュリーズ(ギリシャ神話中の大力無双の英雄―訳者)のようなからだで岩のうえに立った。
「これから何をやりますだ? 言ってくださりゃ、その通りやりますだ。」
たずねるほうはやさしいが、それに答えるとなるとそうはゆかなかった。ただ一つはっきりしたことがあった。この男は外界とのただ一つのつながりなのだ。どんなことがあっても、この男を手ばなしてはならない。
「いや、いや、わしはここを逃げはしません。どんなことがあっても、踏みとどまりますだ。しかし土人は一人も残りゃしません。もういっていますだ。ここにはクルプリがいるから帰るんだってな。こうなったら勝手にさすしかない。わしにも引きとめる力はありましねえだ。」
「あすまで待たせておけ、ザンボー。手紙を持っていってもらうのだから。」私がいった。
「ようがすだ。あすまで待たせますだ。だがいまは何をしたらいいだね?」
ザンボーにさせることは、たくさんあった。この忠実な男はみごとにそれをやってのけた。まず第一に、私たちの命令によって木の切り株からロープをはずし、その一端をこっちへ放ってよこした。ほしもの綱よりそう太くはないが、きわめて丈夫な綱だった。それをつたって向こうへ渡るというわけにはゆかないが、これを使ってどこかへ登るとでもいうときには、大いに調法するだろう。運びあげてあった食糧の荷を、その端にしばりつけてくれた。それでこっちへ手繰りあげることができた。ほかに何がなくても、これさえあれば一週間はもちこたえられるだろう。最後に彼はいったん下へ降りて、いろんな物のつまった荷物――内容は弾薬一箱とほかのものもはいっていた――を運びあげた。ロープを投げかえして、これらをみんな手に入れた。翌朝まで土人を引きとめておくと確約してから最後に下へ降りていったのは夜に入ってからであった。
というわけで、一本のろうそくの灯りをたよりに今までのことを書きしるして、私は段地高原での最初の夜をほとんど眠らずにすごした。
私たちはがけっぷちでキャンプしたり食事をしたり、荷物のなかに二本あったアポリネーリス鉱泉で渇を医したりした。水を手に入れることが何よりも必要であったが、ロード・ジョンでさえたっぷり一日をそのための捜査に費したようだけれど、未知の世界へ踏みこむのは誰しも気がすすまなかった。火をたいたり、不必要に音をたてるのもはばかられた。
あす(いやどちらかといえばきょうだ。こうやってペンをとっていると、もう白みかけてきたから)はこの秘境に探査の第一歩を印することになる。いつまたこの続きを――書けるかどうかすら分からないが――ペンにすることができるか。とにかく土人たちはもとのところにいるようだ。忠実なザンボーがいまにこの原稿を受けとりにやって来るだろう。それがあなたの手に届くことを祈るのみです。
二伸――考えれば考えるほど、私たちの立場は絶望的に思われます。生きて帰れる見込みはほとんどない。段地高原のがけ近くに高い木があったら、それを切り倒して帰りの橋にすることもできるのですが、五十ヤード以内には一本もありません。四人が力を合せても、橋になるほど大きな幹は運んでこられますまい。ロープはもとよりそれにすがって降りられるほど長くありません。私たちの立場は絶望的です――見込みはありません!
一〇 不思議が起こった
不思議なことが起こった。いや、いまなお続いておこっている。私の持っている紙といったら、古いノートが五冊と切りぬきが一束だけである。それに鉄筆型鉛筆が一本だけであるが、私は手の動くかぎり経験したことや印象を書きつづけようと思う。それというのがこんなものを見るのは全人類のうちわれら一行のみであるから、記憶のうすれないうちに、たえず一行に迫っているらしい運命に追いつかれないうちに、これを記録に留めておくことが極めて大切だと思うからである。ザンボーが原稿をうまく河まで持っておりてくれるか、それとも私自身が奇跡的に持って帰れるか、あるいは単葉機が完成されて偶然にも一行の通ったあとを発見し、ついでにこの原稿を手に入れるか、いずれにしてもこの原稿が冒険談の古典になる運命にあることは明らかである。
悪人ゴメスによって私たちが段地高原へ閉じこめられた日の翌朝、一行は新しい経験に踏みだすことになった。そしてその最初のできごとというのが、私にとってあまりありがたいものではなかった。夜が白んでからとろとろとして目がさめてみたら、自分の脚が妙なことになっているのに気がついた。ズボンがめくれて、くつ下とのあいだが二、三インチ皮膚が出ている。見ると驚いたことに、大きな紫いろのブドウが一粒そこについているではないか。おやとばかり手をのばしてそれを摘まみとろうとすると、これまた驚いたことに、ブドウは指のあいだにつぶれて、八方に血をふきだしたのだ。気味が悪いので思わず声をあげると、二人の教授がそばへやってきた。
「こりゃ面白い。」サマリイが私の向こうずねをのぞきこんでいった。「大きなだに[#「だに」に傍点]だが、これはまだ分類されていないと思う。」
「こんどの探検の最初の収穫じゃ。」チャレンジャがどら声で学者ぶっていった。「さしあたりイクソデス・マローニとでも命名しておくしかないが、君の名を冠して動物学上に不滅の名を残すこの栄誉を思えば、食いつかれたくらいは何でもない。この貴重な標本を、満腹のままひねりつぶしたのは残念じゃがね。」
「きたならしい害虫めが!」私はいまいましかった。
チャレンジャ教授は太いまゆをあげて、なだめるように私の肩を押さえ、
「そんなことよりも科学的な目をやしない、冷静な科学精神を持たにゃいかん。わしのように冷静な気質のものにとって、|刺《し》|絡[#「絡」は底本では「月」+「各」。広辞苑の記述により代替。Unicode=#80F3]《らく》針のような吸血針と膨張する胃袋をもっただに[#「だに」に傍点]は、くじゃくのように美しい、あるいは北極光にもまさる大自然の作品なのじゃ。君がそんなに真価を認めん口のききかたをするのは、聞いておって悲しくなる。しかしこれから十分努力すれば、べつの標本が手に入れられるじゃろう。」
「それはまちがいないところだ。」サマリイがいった。「いま別のが一匹、君のえり首へはいったようだからな。」
チャレンジャは雄牛のようにうなって飛びあがり、気の狂ったように上衣もシャツも脱ぎすてた。サマリイと私は吹きだしてしまったが、あまりおかしいので手つだってやることもできなかった。それでもなんとか巨大なトルソー(頭と手足のない彫像―訳者)(服屋にはからせたら五十四インチはあるだろう)をむきだしにした。からだ中黒い毛だらけで、その毛をかき分けてまだ食いつかぬさきにだに[#「だに」に傍点]を摘まみとりはしたが、ここらあたりの草やぶのなかには、ほかにも害虫がたくさんいるようだから、キャンプをほかへ移さねばならないのは明らかだった。
だが何よりもさきに、例の忠実な土人と打ちあわせをする必要があった。土人は程なく例の|尖《せん》|塔《とう》のうえに姿を現わし、下から持ってあがったココアとビスケットのカン詰めをたくさん放ってよこした。下にある食糧のうち二カ月分を自分用にとっておくように命じた。あまったのはほかの土人への労苦の報いと、原稿をアマゾンまで運ぶ労賃に与えることにした。数時間のちに、それらが一団となってそれぞれ頭上に荷物をのせ、遠くの平野を帰ってゆくのが見えた。ザンボーだけは|尖《とが》り岩のふもとにあるわれら一行のテントに住んで、私たちと下界との唯一の連絡として居のこることになった。
さて、いまは一行のこれからの行動をきめる必要があった。キャンプ地をだに[#「だに」に傍点]だらけの草やぶから、周囲をあつく樹木でかこまれた小さな空開地へ移した。中央には平たい岩板がいくつかあり、近くにすばらしい泉があった。一行は気をゆるしてそこに腰をおろし、この未知の世界を探査する最初の計画をめぐらした。緑の木かげではいろんな鳥が――なかでもほろほろと鳴く鳥は一行には耳あたらしかった――鳴きたてていたが、それをのけたら生きものの気配はなかった。
第一の仕事は備蓄品の明細表をこさえて、どこまで耐えられるかを知っておくことだった。自分たちで持ってあがったものに加えて、ザンボーがロープでよこしたものもあるので、需品はかなり充実していた。なかでも重要なのは、このさき遭遇することになるかも知れぬ危険に備えて銃を四つと実弾が千三百発、ほかに散弾銃が一つあることだったが、このほうには薬包が百五十発しかなかった。食糧については数週間分あったし、タバコは豊富で、そのほか大型の望遠鏡と上等の双眼鏡を一つずつなど、科学器具もいくらかあった。これらの品を空地でとりまとめ、第一の用心としておの[#「おの」に傍点]とナイフで周囲のいばらを切り倒し、直径十五ヤードばかりの円形を残して周囲に積みかさねた。この円形の空地が当座の設営本部――突発的危険に対する防衛地でもあり、備蓄品の貯蔵所ともなるわけであった。チャレンジャ基地と命名することにした。
これで安心というまでには昼ごろまでかかったが、暑さはそれほどでもなかった。概してこの段地は、気温といい植物といい穏健であった。一行をとりまいている密林のなかには、ぶな、かし、それにかばの木まで見られた。巨大ないちょうの木がジャングルのなかに群をぬいてそびえており、大きな枝が何本か、作ったばかりの設営地のうえに伸びて、緑の葉をたれていた。その影にいて一行は評議をつづけていたが、いざとなると活動の指導権をとるロード・ジョンが意見をのべた。
「人間にしても動物にしても、われわれの姿も見ず声も聞きつけない限り、危険はありません。ここに人がいると分かった瞬間から、困難は始まるのです。今のところ見つかった徴候はありません。だからここはもっぱら静かにして、この土地の様子をさぐることです。往来をはじめるまえに、まず敵状を十分見きわめる必要があります。」
「でも前進しなければ……」私が切りだした。
「それはそうだ! 前進するとしよう。しかし常識を逸してはならない。帰り道がわからなくなるほど遠くまで行かないこと。それに何よりも大切なのは、生か死かという危機以外は決して発砲してはならない。」
「だって君はきのう発砲したではないか。」サマリイがいった。
「だって止むを得なかったのです。それにあの時は風が向こうへ吹いていましたからね。段地の奥へは聞こえなかったろうと思います。ところでこの場所を何と命名しましょう? その必要があると思いますが。」
いろんな案が出た。よいものもあったが、結局チャレンジャのいうことに落ちついた。
「つける名は一つきりじゃ。ここを発見した開発者の名にする。ここはメープル・ホワイト段地と呼ぶことにする。」
メープル・ホワイト段地ときまり、私の仕事である地図にもそう書きこんだ。将来作る地図にももちろんそう出るであろう。
メープル・ホワイト段地への平和裏の透通が、さしあたっての仕事だった。この土地に未知の動物が生息するということは、一行の目で立証されていた。それにメープル・ホワイトのスケッチ・ブックに、もっと恐ろしい危険な動物がいるらしいことが出ていた。また人類がいるかも知れず、いれば凶悪なものであるらしいのが、竹にささっていたがい骨でもわかった。あれは段地から投げ落とされたものに違いなかろう。こんなところへまぎれこんで、脱出の見こみもない一行の立場は、明らかに危険にみちており、考えれば考えるほどロード・ジョンの経験が語るようなあらゆる手段をつくしての注意が必要だと思われた。それでも一行が奥地へ進入して、その神秘をえぐりだしたいとうずうずしているものを、こんな段地のはずれなんかでまごまごしているのは何としても許されなかった。
いばらのさくの入口を、とげのあるかん木数本を投げこんでふさいでおき、キャンプ地に食糧その他の貯蔵品をのこしたまま出発した。泉から流れ出る小川にそってゆっくり、注意深く歩いていった。こうしておけば帰り道に迷うことがない。
歩きだしてまもなく、たしかにこの未知の世界には驚異があるらしいことが分かった。深い森のなかを行くこと数百ヤード、私にはわからぬ樹木がたくさんあった。一行のなかの植物学者であるサマリイは下界ではとっくに絶滅した|松柏《しょうはく》科の植物とソテツ科のそれだといったが、そこを通過すると流れが急にひろがり、かなり大きい沼地になっていた。その前方には妙な形のよしが高く繁っていて、これはとくさ[#「とくさ」に傍点]属の植物ですぎなも[#「すぎなも」に傍点]だとのことだったが、ところどころシダを交えており、気持よい風になびいていた。先頭に立っていたロード・ジョンが片手を高くあげて叫んだ。
「ちょっとこれを! これこそ全鳥類の祖先の足跡ですよ!」
目前の湿地に三本指の大きな足跡が残っている。どんな動物だか分からないが、沼の湿地を横断して森へはいったのだ。みんな集まって奇異な足跡を見おろした。鳥だとしたら――鳥以外のどんな動物がこんな足跡を残すであろうか?――だ鳥のよりも大きいから、同じ比率でゆくと背の高さはおそろしく高いものでなければならない。ロード・ジョンはしきりにあたりをうかがい、象銃に薬包を二発こめて、
「狩猟家としての名誉をかけますよ。この足跡は新しいです。ここを通過してから十分とはたっていません。足跡にはまだ水がしみ出していますからね。やあ! こっちには小さい足跡もある。」
その通りだ。同じ足跡の小さいのが、大きいのと平行に残っている。
「しかしこれは何だと思う?」サマリイ教授が勝ちほこるように、三本指のあとのあいだに五本指の、巨大な人間のそれのようなのがあるのを指していった。
「ウィールドンじゃ!」チャレンジャが有頂天になって叫んだ。「わしはウィールドン粘土層で見たことがある。三本指の足のうえに直立しておって、時おり五本指の前足を片っぽうだけ地につけるのじゃ。鳥ではないよ、ロクストン君、これは鳥ではないよ。」
「すると四足獣ですか?」
「いや、|爬虫類《はちゅうるい》じゃ――|恐竜《きょうりゅう》という。ほかのものがこんな足跡を残すはずがない。九十年ばかりまえサセクス(イギリスの州名、ウィールドンのうち、イギリス南部―訳者)の学者を悩ましたものじゃ。それにしてもこんなところでその実物に出会おうとは、誰が思うたじゃろう?」
教授の言葉はしだいに小さくなってゆき、聞きとれないまでになった。足跡をつけてゆくと湿地を出はずれ、木やかん木の茂みをくぐってゆくと、向こうに空地があって、そこに見たこともない珍妙な動物が五ついるのがみえた。はいつくばうようにしてかん木の茂みへもぐりこみ、ゆっくりと観察した。
いまいったように五ついるのだが、うち二つは親で、あとの三つは子供であった。ずいぶん大きい。子供でも象ほどの大きさがあるのだから、親ときたら見たこともなく、たとえようもない大きさだ。皮膚はねずみいろで、とかげ[#「とかげ」に傍点]のようにうろこ[#「うろこ」に傍点]形をなして背は太陽をうけてうすく光っている。五つとも地に腰をおろして、三本指のあと足二つと太い尾でつりあいを保っており、五本指の小さな前足で木の枝を引きおろし若葉を食っている。帰国したときどんなものを見たと報告したらよいか、大いに迷うところだが、途方もなく巨大なカンガルーのようで、身長は二十フィート(六・一メートル―訳者)、皮膚は黒いわにのようだったとでもいうしかあるまい。
身動きもせずどれほどこの奇異なものに見とれていたか分からない。強い風がこっちへ吹きつけており、こっちはすっかり隠されていたから、見つかる心配はなかった。子供はたえずふざけて、親たちのまわりをどたりどたりと跳びはねている。大きなからだで宙へ跳びあがり、すぐにどたりと落ちてくるのだ。親のほうは力がどれほどあるのか、計り知れなかった。見ているうちに一方の親が、かなり大きな木の枝についている葉に前足をのばしたが、届かないと見ると両の前足を幹にまわして、若木でも倒すように引き倒してしまった。その動作を見ていると、筋力はずいぶんまさっているが、頭脳はあまり発達していないように思われた。大きな木が頭の上から倒れてくると、つづけざまに悲鳴をあげたところから、からだは大きくても耐力には限度があるなと思われたからである。このことがあってからこのあたりは危険だとでも思ったのであろうか、三匹の大きな子供を従えてのろりのろりと森のなかへはいっていった。石板いろの皮膚が木のあいだに鈍く光っており、頭部が見えていたが、やがてそれもまったく見えなくなってしまった。
私は僚友を見わたした。ロード・ジョンは象銃の引金に指をかけて、鋭い目つきに猟人らしい熱をみせて四方へ注意している。オルバニの書斎のマントルピースの上に二本ぶっちがえたオールのあいだへあの獣頭をかざることができたら、何ものをも捨てて顧みないであろう。でも理性が無謀なことは許さなかった。この秘境の秘密をさぐるには、そこに住んでいるものに私たちの存在を秘しておくことが必要だと思うからである。二人の教授はだまっているが、無我夢中らしかった。興奮のあまり無意識のうちに手をとりあって、不思議なものを見た子供のように、ぽかんとして立っていた。チャレンジャの両のほおは天使のそれのようにふくれているし、ふだんは冷笑的なサマリイも、いまは驚異と敬けんな気持でなごんでみえた。
「主よ、今こそは!(シメオンの頌歌の冒頭の一節―訳者)」サマリイがついに口をきった。「イギリスではこの話をしたら、みなは何というだろう?」
「サマリイ君、イギリスで何というか、ここだけの話じゃが、君たちがこのわしにいうたのとまったく同じに、君のことを非道のうそつきで、科学界の大山師じゃというじゃろうね。」
「写真を見せてもか?」
「でっちあげというじゃろう。へたなでっちあげじゃとな。」
「標本を見せてもか?」
「それなら、いうことはあるまい。マローンやフリート街(ロンドンの新聞社の集まっている町―訳者)のやくざどもは、いまでもわしのうけた称賛にほえついとるのじゃ。八月の二十八日――この日わしらはメープル・ホワイト段地の空地で、五匹の|禽竜《きんりゅう》を見たのじゃ。マローン君、日記につけておいて、君の新聞に送ってやりたまえ。」
「その返礼に社からくつのつまさきがくるから、それも用心してな。」ロード・ジョンがいった。「ロンドンの緯度から見ると、物は何でも少し違ってみえるものだからな。冒険をやっても詳しいことをしゃべりたがらない男がたくさんいる。話したって信用してもらえないと思うからだ。これはどっちが悪いのだ? われわれでさえ一二カ月もするうちには、夢だったかと思われてくるだろうからな。どんな動物だったか、いえますかい?」
「禽竜だよ。」サマリイがいった。「ケント州とサセクス州のヘスティングズ砂岩には至るところこいつの足跡が残っている。イギリスの南部に至るところみずみずしい青物の茂っていた時代には、禽竜はうようよと栄えたものだ。しかしその食糧のなくなるにつれて、みんな死に絶えてしまった。ここではそうでないから、みんな生存しているのだ。」
「この段地から生きて脱出できるようなら、私は頭を一つもってゆかなければ。」ロード・ジョンがいった。「ソマリランド、ウガンダ(ともにアフリカの植民地―訳者)の連中のなかには、これを見たらまっ青になるのもいるだろうて。あなたがたは何と考えているか知らないが、私はうすい氷のうえに立ちつづけているような気がする。」
私も分からないことと危険にとりまかれているという点では、同じような気持でいた。木の下の暗がりには、いつでも恐いものが潜んでいるような気がするし、はっきりしない葉かげを見あげると、わけの分からない恐怖が胸に忍びこんできた。いま見た怪物は、べつに私たちに害を加えようとはしないようにも思われるが、この秘境にはどんな生物が生き残っていて、かん木林なり岩なりの|巣《そう》|窟《くつ》から跳びかかってくるかも知れないような恐怖がある。私は有史以前の生物のことはあまり知らないが、ねこ[#「ねこ」に傍点]がねずみを食うように、ライオンやとらを食物にする動物のことを書いた本を読んだのを、はっきり覚えている。こうした動物がこのメープル・ホワイト段地にもいるようなことがあったら、どうしよう!
ちょうどこの朝――この秘境にはいって初めての朝であるが――私たち一行は大変なことにとりまかれているのを知る運命にあった。忌わしい冒険であった。考えるだけでもいやなことだ。ロード・ジョンのいったように、もし|禽竜《きんりゅう》の空地が一つの夢として私たちの記憶に残るとすれば、あの翼手竜の沼地にはいつまでもうなされることであろう。では事実をありのままに記述することにしよう。
私たちは森のなかをごくゆっくり歩いていった。一つにはロード・ジョンが偵察員として先頭にたち、私たちを勝手には歩かせなかったからでもあるが、二人の教授のうちどっちかが一歩あるいは二歩ごとに奇声をあげてしゃがみこみ、見たこともない花だとかこん虫だとかいって狂喜したからである。流れの右に添うて二マイルか三マイルも歩いたであろうか、木のないかなりの空地へ行きあわせた。かん木の帯が岩の入りくんだところまで続いていた。この段地には至るところ丸岩がころがっているのだ。腰まであるかん木のなかをこの石に向かってゆっくり歩いてゆくと、ぴいぴいがやがやいう妙な低い音のするのに気がついた。前方からたえず騒がしく聞こえてくるのだ。ロード・ジョンは手で停止信号をした。そうしておいて自分は腰をまげて小走りに岩のほうへ進んでいった。その岩のうえから向こうをのぞいてみて、驚いた様子をした。そして私たちのことなぞ忘れてしまったように、何ものにか見とれている。やっと手を振ってやってこいという身振りをしたが、警戒しろという合図もあった。それを見て何か異常で危険なものがあるのだなと思った。
はうようにしてそばまで行き、岩のうえからのぞきこんだ。見ると岩の向こうは窪地で、いつのころからかここは小さな噴火口だったのだなと思われた。そこはわん形の窪地で、何百ヤードかさきには緑のくずを浮かべた水がよどんでいた。周囲にはふとい[#「ふとい」に傍点]が生えている。気味のわるいところだったが、そのうえ妙なものがいるので、まるでダンテの地獄編の一場面を見るようだった。ここは翼手竜の群生地なのだ。ちょっと見ただけでも何百と群がっている。水たまりの周囲には子供がおり、気味のわるい母親が皮のようで黄いろがかった卵を抱いていた。腹ばい羽ばたくこれらの|爬虫《はちゅう》動物の群れからは、恐ろしくて騒がしい鳴き声と、毒気のあるかび臭いにおいがただよってきて、気持が悪かった。上のほうには岩ごとに雄がそれぞれ席を占めて、生きているというより乾いた標本のように、灰いろにしぼんでいた。ときおり目をぎょろりとさせ、とんぼが近くを飛びすぎると、ねずみ取りのような口ばしをぱくりとさせるだけである。大きな膜質の翼は、|前《ぜん》|肢《し》を折っているので、たたまれており、巨大な人間の老婆がくもの巣いろのショールにくるまってしゃがんでいるようで、残忍な頭だけが高くつき出していた。大小あわせて少なくとも千匹はいた。
二人の教授はこの有史以前の生物の研究に夢中になって、終日ここを離れたがらなかった。この奇妙な動物の食物を暗示するかのように、岩のあいだに落ちている魚や鳥の死んだのをさし示した。この翼手竜の骨が、例えばケンブリッジの緑砂地方のように、なぜ一定の場所に発見されるかという問題が、これで解明されたといって二人が喜びあうのを見た。ペンギンなどのように、この動物には群居性があるからだというのである。
だがそのあげくに、サマリイに何か議論を吹きかけられて、チャレンジャはそれに反論するため岩のうえから頭をのぞけたので、もう少しで私たち一同の破滅になるところだった。とっさに、一番近くにいた雄が口笛のようなかん高い鳴き声を発して、革のようで二十フィートもある翼をぱたぱたやって空中へ舞いあがった。雌と子供は水のまわりにごたごたと集まっていたが、見張り役の雄はつぎつぎと舞いあがり空たかく飛びかった。このすばらしく大きな気味のわるい百にあまる動物が、まるでつばめのように大きな翼を羽ばたきながら頭上を飛び交うさまは、見ものであったが、そんなものに見とれているべきでないと、すぐに気がついた。まず第一に、これらの怪物は大きな輪をえがいて飛び、危険がどの程度のものか見きわめようとしているのらしい。そのうちに飛びかたがしだいに低くなり輪も小さくなって、私たちの頭上をひゅうひゅう音をたてて小さく回るようになった。石板いろの大きな翼がぱさぱさと乾いた大きな音をたてるところは、まるでレース日のヘンドン飛行場を思わすものがあった。
「森へ逃げよう、離れないでね。」ロード・ジョンが銃を振りあげながら叫んだ。「やつらは危害を加えるつもりでいる。」
逃げだそうとした途端に、飛ぶ怪物の輪が一段と小さくなり、近くを飛ぶやつの翼はほとんど私たちの顔にさわりそうになった。そいつを銃を振りあげてたたいたが、手ごたえはなかった。するとぱたぱたいう翼のあいだからとつぜん長い首がのびてきて、口ばしではげしく突きかかってきた。一つき二つき、サマリイは悲鳴をあげて、手で顔をおさえた。その手の下からは血が流れている。私も首すじを一突きやられたので、気が遠くなりかけた。チャレンジャが倒れたので抱き起こそうとすると、またうしろから一突きされたので、折り重なって倒れ伏した。そのときロード・ジョンが象銃を一発はなしたので、振りかえって見あげると、怪物が一匹翼をやられて地に落ち、中世の絵にある悪魔のように、口を大きくあけ血走った目をぎょろつかせて地上をのたうっているのが見えた。仲間は急に大きな音がしたので、高く舞いあがり輪をえがいている。
「いまだ、命がけの逃走だ。」ロード・ジョンが叫んだ。
私たちはかん木のなかをよろめき走ったが、木のあるところへ逃げこむとき、また怪物におそわれた。サマリイが打ち倒されたが、みんなで抱きあげて、森のなかへ逃げこんだ。ここへはいれば、もう大丈夫だ。怪物は大きな翼をしているから、枝があって森のなかへははいれないのだ。さんざんな目にあって、びっこ引き引きキャンプへ帰ってゆきながら見ると、怪物はひどく高いところを青空を背景にはとくらいの大きさに、ながいあいだ飛んでいるのが見えた。むろんあの目で私たちの進路を見まもっているのだろう。それでも道が森の深いところへはいると、あきらめたのかもう姿が見えなくなった。
「もっとも興味ある信服すべき経験じゃった。」小川のほとりで小休止をしたとき、はれたひざを水で冷やしながらチャレンジャがいった。「サマリイ君、怒った翼手竜の習性はこれでとくとよく分かったな。」
サマリイは前額にうけた傷の血をふきとっていたし、私は首すじの筋肉にうけたひどい突き傷にほうたいをしていた。ロード・ジョンは上衣の肩を食いちぎられていたが、怪物の歯は幸い肉には届いていなかった。
「若い友人は議論の余地なく突き傷をうけたし、ロード・ジョンの上衣はかみつかれたからちぎれたのじゃという点は、特筆する価値がある。」チャレンジャはつづけて、「わしの場合についていえば、わしは頭のへんを翼で打たれた。これで怪物の攻撃方法のりっぱな実演を見たわけじゃ。」
「あぶないところでした。悪くすると一命にもかかわるところでした。」ロード・ジョンがおごそかにいった。「あんな汚らわしい害獣に殺されるなんて、こんなつまらない死にかたってありゃしませんよ。発砲したのはまずかったけれど、万止むを得なかったのです。」
「あのとき君が発砲しなかったら、いまここにこうやってはいられませんよ。」私は確信をもっていった。
「発砲そのものは悪くなかったかも知れない。この森のなかには、木が折れたり倒れたり、銃声ほどの音をたてることもたびたびだろう。だが君の意見はどうだか知らないが、みなは一日の冒険としては十分のものを味わったのだから、このへんでキャンプへ帰って石炭酸と外科箱のやっかいになったほうがよかろうと思う。あの怪物は口ばしにどんな毒を持っているか、分かったものではないからね。」
人類でこんなことを経験するのは初めてであろう。何かしら新たな驚きが、いつでも私たちの前途に横たわっていた。流れについてどうにか例の空地へたどりつき、イバラのさくのキャンプ地を見たとき、これでこんどの冒険も終ったのだと思った。だがまだまだ休むわけにゆかないのを知った。チャレンジャ城の門はもとのままだし、さくも壊されてはいなかった。それでも留守のあいだに何かしら力強い動物がここへ現われたのはたしかだった。どんな動物だか手掛りになるような足跡はなかったが、ただ巨大ないちょう[#「いちょう」に傍点]の木の枝が折れていて、ここから出はいりしたらしいのを思わせた。そのほか私たちの貯蔵品の状況を見ると、来たのがえらい力持ちであるのを示していた。あちこちまきちらかしてあるし、肉のかん詰が一つ、内容を調べたのであろうが、くしゃりとつぶされていた。そのほか弾薬箱が一つぐしゃぐしゃになっているし、そのそばには真ちゅうの薬きょうが一つずたずたになってころがっている。またもやばく然たる恐怖におそわれた。その恐怖の目で周囲の暗がりをあらためて見まわした。そのかげの中から、何か恐ろしいものがのぞいているのではあるまいか。そのときザンボーの呼びかける声が聞こえたので、どんなにうれしかったことか。段地のはずれまで行ってみると、彼はとがり岩の頂上に腰をおろして、にやにやしているのだった。
「うまくいっとります、チャレンジャさん、万事な。」といっている。「わっしはここにおります。心配ありません。用のあるときはいつでもここにおりますでな。」
ザンボーの誠実な黒い顔を見たおかげで、またアマゾン支流の広大な視界を見たおかげで、あそこを通ってゆけば故国へ帰れるのだが、私たちは二十世紀の地球上にいるのであって、何かの魔法によってどこかのできたての惑星の荒れはてたところにいるのではないことを思いだした。はるかのかたの紫いろの水平線のかなたには、大きな蒸汽船の通う大河があり、そのあたりでは人人が人生の小事件を語りあっていようのに、私たちは前世界の動物のなかに閉じこめられて、はるかにそこをうちながめ、それが意味するすべてのものにあこがれるしかできないとは!
この驚嘆すべき日のことは、もう一つ忘れられない記憶がある。それを書いてこの記事を終りにしようと思う。二人の教授は、けがのためひどく不きげんになっていたが、さっき危害を加えられたのは翼手竜属であるか鳥首竜であるかということにつき、意見をことにして激論をたたかわした。それを避けて私は少しはなれたところへ行き、倒れていた木の幹に腰をおろしてタバコをふかしていると、ロード・ジョンがぶらりとやってきた。
「マローン君、あの動物のいた場所をよく覚えているかい?」
「覚えているとも。」
「あそこは噴火口の一種だと思ったが、どうかね?」
「その通りだ。」
「土質に気がついたかい?」
「岩だらけだった。」
「だが水のまわりは? あしのあったところは?」
「青みがかった地質だったね。粘土のようだった。」
「それだ。青い粘土でいっぱいになった火山口だった。」
「それがどうしたというのだ?」
「何でもないさ、何でも。」といったきり、まだ言い争っている二人の学者のほうへ、ぶらりぶらりと帰っていった。そこではサマリイのかん高い声と、チャレンジャのバスとが入りまじって二重唱をなしていた。その夜彼の独りごとを聞かなかったら、ロード・ジョンのこの時の言葉なぞ忘れてしまうところだった。「青い粘土――噴火口のなかに粘土。」これを聞いてまもなく、私は疲れて眠りこんでしまった。
一一 この時ばかりは私も勇士
私たちを襲った怪物の口には、毒があるかも知れないといったロード・ジョン・ロクストンの言葉はあたっていた。段地を初めて探検した日の翌朝、私は痛くてたまらず熱もあったが、チャレンジャのひざは黒あざができて、びっこを引いて歩きもならない始末だった。それで一日じゅうキャンプにいたが、ロード・ジョンは私たちのできる限りの助力を得て、唯一の防壁であるイバラのさくを高く厚くしていた。長い一日私は、何だか得体の知れぬものが近くで様子をうかがっているのではないかという|妄《もう》|念《ねん》になやまされた。
その感じがあまり強いのでチャレンジャ教授に話したところ、教授は熱に浮かされているのだろうといった。何か見えるだろうと、またしてもあたりを見まわすのだが、防さくのうす暗いこんがらがりと、頭のうえに垂れている大木の枝のからみあった暗がりが見えるばかりであった。それでも何かが近くにあって悪意をもってこっちをうかがっているような気がしてならなかった。私は土人の迷信であるクルプリ――恐るべき森の精であるが――を思った。そしてこのもっとも奥深く神聖な土地へ侵入してきたものに取りつくのだろうと考えてみた。
その夜(メープル・ホワイト段地での第三夜だが)私たちへ恐ろしい印象をのこすような経験をして、ロード・ジョンが一心に防壁を強化してくれたのを感謝しなければならなかった。消えかかった火をかこんで眠っていると――というよりは眠りから突き起こされたといおうか――聞いたこともないような恐ろしい叫び声がつづけさまに起こったのである。この騒動を何にたとえたらよいか知らないが、とにかくキャンプから数百ヤードの地点から聞こえたように思う。鉄道機関車の汽笛のように、耳をつんざくような音であるが、汽笛はすみきって機械的に、鋭利な音であるのに、これは音量も太く低く、極度の|苦《く》|悶《もん》と恐怖にふるえている。私たちはこの神経にさわる哀音を聞くまいと両耳をおさえた。冷汗がからだじゅうに浮かび、あまりの哀れさに胸が悪くなった。なやみ多き生のあらゆる苦悩が、天の驚嘆すべき告発が、その数しれぬ哀しみが、積もり集まってこの恐ろしい苦悶の叫びになったように思われた。するとこの高調子のひびきのなかに、べつの断続的な低く太い笑い声が、加わった。この気味わるい二重唱が三四分間つづいたと思うと、あたりの木の葉は鳥が驚いてとびたつので、がさがさと鳴った。やがてそれらは始まったのと同じに、ぴたりとやんだ。恐ろしさに音もたてず、私たちはじっとしていた。するとロード・ジョンが小枝を一束火のなかへ投げこんだ。赤いほのおがぱっとその顔を照らし、頭上の大枝にちらちらした。
「なんだろう?」私は声を殺していった。
「朝になってみれば分かる。」ロード・ジョンがいった。「ごく近かった。空地のそとではない。」
「有史以前の悲劇をもれ聞く特典を与えられたのじゃ。ジュラ紀の沼地のあたりのアシのなかで起こった一種のドラマ、大竜が小さいのを泥のなかに押さえつけて動けなくしたというな。」チャレンジャが聞いたこともない荘重な調子でいった。「万物創生のなかで人間がおくれて現われたのは、たしかによいことじゃった。初期のころには、どんな勇気をもってしても、また無意識手段をもってしても、対抗できんような力が横行しとった。石投げ器だの投げ棒だの、あるいは矢でさえ今晩横行していたような力には対抗できるものでない。近代の銃でさえ、この怪物の力にはかなうものでない。」
「私もこの人をあと押しすべきだったと思いますよ。」ロード・ジョンがエキスプレス銃をなでながらいった。「しかし怪物のやつじつに早かったですからね。」
サマリイは片手をあげて、
「静かに! 何か音がするようだ。」
静まりかえったなかに、ぱたぱたと太く低い規則的な音が聞こえる。何かの動物の足音だ。柔かく重い足で大地を踏みしめる足音のリズム。そろりそろりとキャンプを忍び足に歩きまわり、入り口のところで止まった。低い歯ずれの音が聞こえ、また止んだ。怪物はひと息いれているのだ。あのイバラのさくがあるため、夜の恐怖の侵入を防いでいるのだ。みんな銃をとった。ロード・ジョンは小さな枝を一つ引きぬいて、銃眼をこさえた。
「おや、見えるような気がする!」
私は腰をまげて、その肩ごしに銃眼からそとをのぞいた。やっぱり見える。木の暗やみの下、いっそう暗いなかにぼんやりと黒く、恐ろしいものがつくばっている。馬よりも高くはないが、おぼろな輪郭はおそろしく大きく力がありそうに思われた。エンジンの排気のように規則的に、大量に呼吸しているところは、怪偉な生物を思わせた。一度動いたとき、緑がかった恐ろしい二つの目がきらりと光ったようだった。前へはい出したのか、がさがさと気味の悪い音がした。
「おどりかかろうとしている!」私は銃の打ち金を起こした。
「撃っちゃいけない!」ロード・ジョンが小さい声でいった。「こんな静かな晩に発砲したら、何マイルもさきまで銃声が聞こえる。最後まで自重したまえ。」
「さくを越えられたらおしまいだ。」サマリイがいったが、終りのほうは神経質な笑いになった。
「いや、越えさせてなるものか。」ロード・ジョンがいった。「だが発砲は最後までひかえるのです。まあ私が正体を見とどけられると思います。とにかくやってみましょう。」
人があんなに大胆な行為をするのを見たことがない。ロード・ジョンは手をのばして燃えさかる枝を一本とると、さくの入り口にこさえたすき間からおどり出て行った。怪物は恐ろしいうめき声とともに進み出た。ロード・ジョンはためらうことなく身がるに突進して、怪物の顔をめがけて燃える火をつきつけた。その瞬間私は、巨大なひきがえるのような動物の恐ろしい顔を、いぼだらけでらい病やみのような皮膚を、新しい血を流しているしまりのない口もとを見た。と思うとどさどさと音がして、恐ろしいこの怪物は森のなかに見えなくなってしまった。
「火にはかなうまいと思った。」ロード・ジョンは笑いながらいって、さく内にもどってくると、燃える枝をたき火のなかへ投げこんだ。
「あんなあぶないことをしてはいけないな。」私たちは口々にたしなめた。
「ほかに方法がなかったからさ。もしここへはいりこんできたら、やつをやっつけるのでこっちは同志うちをすることになる。それに反してさく越しに撃ったら、手負いになった怪物は、ここへ乗りこんできて、結果はいわずと知れている。要するにこれでうまく難をまぬがれたわけだ。それであれは何ものでしょう?」
二人の学者は顔を見あわせただけで何もいわなかったが、
「私としては、あの動物を分類することはできないな。」サマリイが火をとってパイプにつけながらいった。
「君として意見を述べんのは、科学者として当然の慎しみにすぎん。」チャレンジャが大いに恩きせがましくいった。「わしとしては今晩はもう少しのところで食肉性の恐竜を見られるとこじゃったという以上のことは、今のところばく然と言明する以上のことをする気はない。この段地には何かしらその種の生物の存在することは、すでに言及しておいたはずじゃ。」
「有史以前の動物といっても、現在その形態の明らかでないものがたくさんあることを忘れてはならない。」サマリイがいった。「それだからといって、出会うと思われるものに片っぱしから名をつけるのは、早計だと思う。」
「その通りじゃ。だいたいの分類だけに止めておくのが無難じゃろう。あすになれば何か確認の材料が得られるかも知れん。それまではまあ妨げられた眠りをとりかえすくらいのところじゃ。」
「それにしても見張りがいりますね。」ロード・ジョンが決然としていった。「このような土地では警戒が必要です。これからみんなで二時間ずつ交代でやりましょう。」
「それなら私が、このパイプをやりながら、第一回を受けもとう。」サマリイ教授がいった。それからは見張りなしには安心して眠れなかったのである。
朝になってまもなく、ゆうべ眠りを妨げられたあの騒ぎが何であるか分かった。|禽竜《きんりゅう》の空地は恐るべき|屠《と》殺場だったのである。緑の草地にある血だまりや、あちこち飛び散っている大きな肉塊から、多くの動物がここで殺されたのが分かったが、残存物を詳しく調べてみて、これらの肉が一匹分のそれであると分かった。しかもこれを殺したのは、殺されたほうよりは大きくなくて、はるかに猛悪な動物らしいのである。
二人の教授は腰をおろして、加害者の歯のあとや大きな爪あとのある肉片を一つ一つ調べながら、夢中になって議論をたたかわせていた。
「結論はまださし控えねばならん。」チャレンジャ教授は大きな白っぽい肉塊をひざにしていった。「徴候からいえば剣歯とら、わが国の|洞《どう》|窟《くつ》の角蛮岩中に今なお見られるあれがおるものと考えられるが、現実に見たあの動物はたしかにもっと大きく、|爬《は》虫類に似たものじゃった。わし個人としては異竜説を称えたい。」
「巨竜かも知れないな。」サマリイがいった。
「さよう、食肉性の大型恐竜ならばどれを持ってきても合格じゃ。そのなかにはあらゆる恐るべき、地球上を騒がせ、博物館を喜ばせた動物がふくまれているのじゃからな。」とチャレンジャはあたりにひびきわたる大声で笑った。もともとユーモアのセンスなぞないのだが、どんな未消化のおどけでも、それをいえば自分で大笑いするのだ。
「声や音はたてないほうがよいですね。」ロード・ジョンが苦りきっていった。「何ものがこの近くにいるか分かりません。そいつらが朝めしのつもりで引きかえしてきて、われわれにかかってきでもしたら、あんまり笑ってばかりもいられますまい。ときに禽竜の皮についているこの跡は何でしょう?」
にぶい灰いろでうろこのある皮膚で肩のうえあたりに、アスファルト風に見えるへんに黒い輪のようなものがついていた。それが何であるか、誰ひとりいえるものはなかったが、サマリイは二日まえにこれの子供を見たとき、その一つにこれに似たものがあったようだといった。チャレンジャは何ともいわなかったが、何か言おうと思えばいえるのだとばかり、横柄なもったいぶった顔をしていた。それでロード・ジョンが単刀直入にたずねた。
「閣下が私の発言をお許し下さるなら、私は喜んで卑見を申しのべたいと思います。」遠まわしのいやみである。「閣下はあのような言いかたが日常のこととなっていらっしゃるらしいが、私はそんなふうに習慣づけられておりません。罪のない冗談に微笑するたびに、いちいち閣下の許可を要するものとは知りませんでした。」
この怒りっぽい男は、わびられるまではきげんを直そうとしなかった。それでも気が静まると、倒れた木に腰かけた席からチャレンジャが、それが日常の習慣ででもあるかのように、一千人のクラスに重要な講演をするような調子で、ながながと私たちに向かって弁じたてた。
「このはん点については、わしはサマリイ教授の意見、アスファルトによる汚れとする説に同調するものであります。この段地はその性質がきわめて火山的でありまして、アスファルトは地|殻《かく》火成と関連ある物質でありまするから、それが液状において存在することは疑いの余地なく、動物がこれに接触することあるは自然であります。さらに重要なるは、この空地にそのこん跡を残したる食肉の怪物が今なお生存するか否かの問題であります。この段地はイギリスにおける平均の一郡より大ならざることが分かっております。この限られたる地域には、下の世界においてはすでに絶滅したる動物が、久しきにわたって生存してきたのであります。さて、かくも久しきにわたって食肉動物が無制限に繁殖をつづけるときは、食物の供給もつき、彼等は食肉の習性を変改するか、または餓死するしかないのであります。事実はかくならなかったことが眼前に明らかであります。従いましてこの動物の無制限に繁殖するをある程度抑制する自然の力が働いたとしか考えられないのであります。そこでいろいろと問題のあるなかで、われらの解明を待つもっとも興味あるものの一つは、その抑制力が何であり、いかに作用したかの発見にあるのであります。わしは食肉恐竜をより綿密に研究する機会はいずれ来るものと信ずるものでありまするが……」
「そんなものは来ないと思います。」私がいった。
教授は学校の先生が、いたずらっ子から失礼なことでもいわれたように、太いまゆをあげただけだった。
「サマリイ教授は何か一言あると思う。」といって二人の科学者はむずかしい科学上の話にはいっていったが、それは生存競争上の食物の制約と、出産率の制限の可能性とが論じられたらしい。
その朝、みんなで段地の小部分を詳しく調べた。翼手竜のいる沼地はさけ、流れの西がわでなく東がわを進んでいった。このあたりは森も深く、下ばえも多かったから、進行はのろかった。
私はこれまでメープル・ホワイト段地の恐ろしさばかり説明してきたが、この朝は美しい花をたくさん見たから、ここには別の面もあった。見たのは多く白または黄の花で、教授たちの説明によれば、花の色としてはこれが原始的なのだという。ところによっては地面が花で敷きつめており、そこを歩くとふわふわしたカーペットのうえでも歩くように、足音まで花で埋まった。においも甘さといい強さといい、酔うばかりであった。イギリスにもありふれたハチが至るところにぶんぶん飛んでいた。木の下をゆくと枝もたわむばかりに実がなっており、なかには見なれたものもあるが、まったく見たことのないものもあった。鳥がつついているのを見て、毒の有無を識別し、貯蔵の食糧に美味の変化をもたらすことができた。通ってゆく草地には野獣の踏みかためた道がいくつもあった。じめじめした場所には妙な足跡が入り乱れ、そのなかには禽竜のものもあった。一度草地で巨大な動物が数匹、草を食っているのを見たが、ロード・ジョンは双眼鏡を使って、けさ見たのと場所は違うけれど、その動物にもアスファルトがついているといった。これは何を意味するものであるか、どうも分からない。
小さな動物もたくさんいた。例えばやまあらし[#「やまあらし」に傍点]だとかうろこのあるありくい[#「ありくい」に傍点]だとか、白黒まだらで曲った長いきばのある野豚などである。一度木のないところから青い山の背がはっきりとみえ、そこを大きなこげ茶いろの動物がかなりの快速で走ってゆくのを見た。あまり速いので何であるか分からなかったが、ロード・ジョンのいったようにしかだとすれば、私の故郷のアイルランドの沼地で今でもつぎつぎと骨の発掘される巨大なアイルランドしかくらいはあるに違いない。
キャンプが不思議なものにおそわれてからというもの、そこへ帰ってゆくにはいつも悪い予感をともなった。それでもこの日は何のこともなく、すべては整然としていた。その晩、現在の状態とこれからの計画につき大いに討論をした。その結果何週間もかかって探検するよりも、メープル・ホワイト段地につきより詳しい資料を得たのだから、出発に先だって討論のしだいを少し長くなるが詳しく記さねばならない。討論を切りだしたのはサマリイだった。終日彼の態度は不平たらだらだったが、ロード・ジョンがあすは何をなすべきかについて何かいったのが、すっかり頭にきた。
「きょうでもあすでも、われらのなすべきことは、」と彼はいった。「落ちこんだこのわなから抜けだす方法を案出することだ。君たちはこの段地の奥へ入りこむことにばかり頭を使っているが、私にいわせれば脱出の方法を考えることこそ至当だ。」
「これは驚いた。」とチャレンジャが大きなひげをなでながらわめきたてた。「科学者ともあろうものが、そのようにあわれな心情を抱くとは! 君は大望ある自然科学者にとって世界始まって以来の大きな誘引力ある土地に現在おるのですぞ。それなのに君は、この土地につきあるいはその内容につき、ほんの外見的知識を得たにすぎんいま、ここを見捨てようという。君はもう少し話せる人かと思うていましたよ、サマリイ教授。」
「私はロンドンで大きなクラスを担任しているが、それがいま無能きわまる代理講師の手にゆだねてあるのを忘れてもらっては困る。」サマリイが苦りきっていった。「この点が君の場合と立場をことにするところだ。君としてはたしか責任ある教育上の位置についたことはなかったのだと思う。」
「それはそうじゃ。最高の独創的研究に向けらるべき頭脳を、くだらぬ方面に使用するのは、神を汚すものじゃとわしは思うとる。かるがゆえにわしは、いかなる教職の申し出にも顔をそむけてきたのじゃ。」
「たとえば?」とサマリイは冷笑を浮かべていったが、ロード・ジョンが急いで話題を変えた。
「この土地について知るところは極めて少ないですが、もっと詳しく知るまではロンドンへ帰ろうなどとは思いもかけないことを、私はここで強調しておきます。」
「私はこのままでは社の編集局へはいっていって、マカードル老に顔をあわす気がしません。」私がいった。(この報告の露骨さを許して下さるものと思います)「こんな不徹底な原稿なぞ見たら、あの人は決して容赦しないでしょう。それに私のみるかぎりでは、ここで議論なぞしているべきではありませんよ。たとえここを降りたくても、降りられないのですからね。」
「この人は明らかに多くの精神的欠陥があるようじゃが、そのことは初歩的常識によってある程度つぐなわれておる。」チャレンジャがいった。「その哀れな職業上の利害は、わしらの知るところでないが、この人もいうように、わしらはここを降りられんのじゃから、それについて議論してみても、精力を浪費するにすぎん。」
「何をするのも精力の浪費だ。」サマリイがパイプをくわえたなりで不平そうにいった。「ひとこと注意しておきたいが、私たちはロンドンの動物学会で委託された明確なる使命をおびてここへ来たのだ。その使命とはチャレンジャ教授のいうことの真偽をたしかめるにあった。教授の陳述が今や裏書きされたことは認めるにやぶさかでない。ゆえに私どもの表むきの仕事は終ったのだ。このうえはこの段地における細目の仕事だが、これは大がかりな探検隊を組織し、特殊の設備をもってして初めて処理し得ることだ。これだけの人数でそれをしようとすれば、すでに進歩している科学界に大いなる貢献をすることなくして終るであろうことは目にみえている。チャレンジャ教授は不可能と思われたこの段地への移渡の方法を案出された。今やわれらは旧世界への復帰方法を教授に講じていただくべきだと思う。」
サマリイの説くところを聞いていると、それがどこまでも合理的に私には思われた。チャレンジャですら、話を疑うものには確証をみせなければ論破できるものでないと思うから、心を動かされてみえた。
「ここを降りる問題は、一見恐ろしくむずかしい。」チャレンジャがいった。「それでも頭を使えば問題は解決すると思う。わしらのメープル・ホワイト段地への滞留も現在だいぶ長びいたことだし、帰国のことも今に問題になってくるのは、諸君も同感であろう。しかしわしは少なくともこの土地の表面的調査をすますまでは、そして地図のようなものでも持ち帰れるまでは、ぜったいにこの地を去ることを拒絶する。」
サマリイ教授はもどかしそうに鼻をならして、
「探査のためには貴重な二日を費した。それでもこの土地の実際の地理地勢については、来たときより一歩も得るところがなかった。この地は一般に深い森におおわれているが、そこに深く入りこんで、各地の関係をつきとめるには、何カ月もかかるだろう。内部に中心を形成する峰でもあれば話は違ってくるが、見たところ内部へゆくほど低く傾斜している。だから奥地へはいれば、それだけ全般の地勢は見るのが困難になってくる。」
そのときである。私の頭に霊感がわいた。頭のうえに大きな枝をはっているいちょうのこぶだらけの巨大な幹を目にとめたのだ。あの幹が他の木よりも太いとすれば、高さの点でも同じに違いない。この段地はふちの部分がもっとも高いとすれば、この巨木が段地全体を見わたす望楼の役をするだろうではないか? いたずら盛りの少年時代をアイルランドですごした私は、木のぼりにかけては大胆でもあり、熟練していた。岩場ではみなのほうがすぐれているかも知れないが、こんな木の枝のなかへはいったら、私こそ第一人者だ。あの巨大な第一横枝に足さえかけられたら、頂上までもゆけないのが不思議なくらいだ。一行は私の計画を聞いて大いに喜んだ。
「この人は軽業のような力わざをやってくれるという。からだの硬くなった人間には、外見はいくら堂堂としていても、とてもできんことじゃ。よう決心してくれたものじゃ。」チャレンジャが両ほおをリンゴのように赤くふくらませていった。
「やあ君、うまいところへ気がついたな!」ロード・ジョンが私の背なかをぽんとたたいていった。「どうしてわれわれは気がつかなかったのかな! 暮れるまでには一時間とないが、ノートを持って登れば、見たものをざっとスケッチしてこられよう。あの草地に弾薬箱を三つ重ねれば、すぐ押しあげてやるよ。」
私が幹に面して立つと、彼は箱のうえに立って静かに押しあげてくれた。そこへチャレンジャが躍りかかって大きな手を出したので、私は枝のなかへ突っこまれるようになった。両腕で枝にしがみつき、足をもがいているうちに、はじめは胴体が、つづいてひざがかかった。頭のうえにははしご[#「はしご」に傍点]のさんのように、みごとな枝が三本横にのびていた。そのうえには手ごろな枝がうんとある。それで私はそこをさっさとよじ登っていったが、まもなく下の地面も草も見えなくなってしまった。ときどき阻害物にゆきあった。一度などはつる草がからみついているので、八フィートか十フィートくらいよじ登らなければならなかった。それでもぐんぐんはかどったので、チャレンジャの声などははるか下のほうに聞こえた。しかしこの木はきわめて巨大なので、上を見ても頭上の葉が少しもうすくならなかった。私のしがみついている枝に寄生植物らしいこんもり茂ったものがあった。向こうに何があるかと、そのなかへ首をつっこんでみて、目にうつったものがあまりに意外であり恐ろしかったので、もう少しで木からころげ落ちるところであった。
一フィートか二フィートの近さから、一つの顔がじっと私を見つめているのだ。その顔の主は寄生植物のうしろにうずくまっていて、ほとんど私と同時にあたりを見ようと顔をのぞけたのだ。人間の顔だった――少なくともこれまでに見たことのあるどんなさる[#「さる」に傍点]よりも人間に近かった。白っぽくて長い顔でにきび[#「にきび」に傍点]だらけ、鼻はつぶれており、下あごがつき出ていて、あごのまわりにはあらいひげがあった。太く濃いまゆの下の目は人間のようではなく狂暴であった。口をあけて私に向かってうなったとき、それはのろうようなひびきだったが、曲って鋭い犬科の歯をもっているのが見えた。その瞬間、目にも憎悪と威嚇をみた。するとぱっと恐怖のひらめきが現われた。そして大きな枝の折れる音がして、緑の葉のなかへ隠れてしまったが、そのとき赤ちゃけた豚のような毛だらけのからだがちらりと見えた。そしてそのものは葉と枝のあいだへ見えなくなってしまった。
「どうしたんだ?」ロクストンが下から声をかけた。「何かまちがいでもあったのか?」
「あれが見えたかい?」私は枝にしがみつきながら、全神経をうずうずさせていった。
「足でも踏みはずしたような騒ぎだった。いったいどうしたんだ?」
思いがけなく妙なところでこの|猿《えん》|人《じん》が現われたので、このままいったん下へ降りて見たもののことを一行に話すべきかどうかと思って、私はちょっとためらった。しかしこの巨木へ相当の高さまで登っているのだから、いまさら使命もはたさずに降りてゆくのは屈辱のようにも思われた。
だから相当ながく休んだことにはなるが、呼吸をととのえ勇気をふるい起こすと、また登りはじめた。一度腐った枝に体重をかけて、両手でぶらさがったようなこともあるが、大体において登るのは楽だった。しだいにまわりの葉がまばらになって、顔にあたる風の具合から、森のなかのどの木よりも高く登っているのに気がついた。しかし登れるまで上へ登ってからでなくてはあたりを見まいと決心したから、枝がたわむまでになった。そしてそこの具合よく枝が三つまたになったところにしっかり身を落ちつけて、とりこになっているこの妙な土地の不思議なパノラマを見まわしたのである。
太陽は西の地平線上にあって、日没まえの大気は明るく澄んでいるので、眼下には段地の全区域が足下に手にとるように見わたせた。この高みから見た段地は卵がたの輪郭をもち、長さ三十マイルに幅二十マイル(約四八キロに三二キロ―訳者)くらいあった。全体がじょうご形に中くぼみで、周囲からしだいに中央へ下り坂になっており、その中心にはかなりの湖があった。湖の周囲は十マイルくらいあるだろうか、緑の美しい夕陽のもとに静かに横たわり、周囲には深くあしが生い茂り、ところどころ黄いろい砂丘があって、柔らかな夕陽をうけて金いろに輝いている。この砂丘のふちにわに[#「わに」に傍点]にしては大きすぎ、カヌーにしても長すぎる黒っぽいものがあった。双眼鏡をつかってそれが生きものであることは分かったが、どんなものであるかはまったく分からなかった。
段地の私たちのいるがわからは、ところどころ空地のある森林地帯がしだいにさがって、湖のふちまで五マイルか六マイルつづいている。足もとには禽竜の空地があるし、その向こうには木のなかに丸い空地があって、そこは翼手竜の沼地であった。しかし湖をこして向こうがわでは、段地の様子は大いに変っていた。すなわち外がわの玄武岩のがけと同じようなものが内がわにもあって、二百フィートほどの急斜面をなし、その下は木の多い傾斜地になっている。この内がわの赤いがけの根もとに添うて、下からいくらかあがったところに、黒い穴がいくつかあるのが草をとおして双眼鏡で見られる。ほら穴の口なのだろうと思った。この入り口の一つに何か白く光るものが見えるが、何であるかは分からなかった。腰をおちつけて土地の状況を書きとっていると、太陽が没してこまかいとこが見えなくなったので、木を降りたところ、根もとで一行は熱心に待ちうけていた。この時ばかりは私も探検隊の勇士であった。ひとりで思いつき、ひとりで実行したのだ。図面というものがあるから、これさえあればどんなものがいるかあるか、わけの分からない土地を一カ月もかかって歩きまわる必要はもうないのだ。みんなで私に握手を求め、図面について論じようとしたが、私はそれを制して、まず木のうえで|猿《えん》|人《じん》に会ったしだいを語らなければならない。
「ずっとそこにいるのですよ。」と私。
「どうしてそんなことが分かる?」ロード・ジョンがたずねた。
「何だか悪意を抱くものが、こっちの様子をうかがっているようだったからさ。チャレンジャ教授にはまえにその話をしましたね。」
「何だかそんな話じゃったな。この人はこのなかでも、そんなことに敏感なケルト人|気質《かたぎ》に生まれついておるからな。」
「そもそも精神感応というものは……」サマリイがパイプにタバコを詰めこみながらいいかけると、チャレンジャが、
「ここで論ずるにはあまりに問題が大きすぎる。」と押さえつけるようにいって、司教が日曜学校の生徒にでもいうようにつけ加えた。「もしやその動物が親指を手のひらへ折りまげるところを見なんだかね?」
「いいえ、見ませんでしたね。」
「しっぽはあったかね?」
「いいえ。」
「足は|把《は》|握《あく》できたかね。」
「足で握れなかったら、ああ早く枝につかまって逃げることはできなかったろうと思います。」
「南アメリカには、わしの記憶によれば、三十六種類の――サマリイ教授はわしの観察を査証してもらいたい――さるがおるが、類人|猿《えん》はまだ知られておらん。それでもこの地に生存することはたしかで、毛の長いゴリラ風のものではない。これはアフリカと東洋に見られるだけじゃ。(私はケンジントンでそのいとこを見たことがあるから、よほど口出ししようかと思った。)ここにいるのはほおひげがあって色のない型じゃ。この色のないということは、それが樹間に隔絶して生活しとるのを示しとる。わしらの当面する問題は、これが人類とさるのどっちに近いかという点じゃ。もし人類に近いとすれば、野卑な男が『中間動物』というたものにほぼ近いじゃろう。この問題を解くのがわしらの当面の仕事じゃ。」
「そんなことはない。」サマリイが突如としていった。「マローン君の知力と活動によって(この言葉はとくに引用しておかなければならない)地図が得られたのだから、われらとしてはいかにしてこの恐るべき段地から脱出するか、その研究を第一義としなければならない。」
「文明時代の肉なべ(聖書出エジプト記一六章一三節参照―訳者)か。」チャレンジャがうなるようにいった。
「いや文明時代のインキつぼだ。見たものを記録にとどめて、つぎに来るものへ残すのはわれらの仕事だ。そのことはマローン君が地図を作るまえに、みんな承知していたはずだ。」
「うむ、この探検の成果が、わしらの友人の手に届いたと分かれば、心の安まるのはたしかじゃ。この段地をどうして降りるかについては、いまのところ成案はなにもない。しかしどんな問題にぶつかっても、工夫に富むわしの頭で解決できなんだことはない。あしたはここを降りる問題に注意を向けることを諸君に約束する。」
というわけで、話はひとまず打ちきりになった。だが晩になるとたき火のあかりと一本のろうそくをたよりに、この失なわれた土地の第一の地図ができあがった。私が望楼からざっとひかえてきた図によって、こまかい関係位置が清書されたのである。チャレンジャの鉛筆が中央の空白へ大きな湖をかきしるしたのである。
「ここを何と呼ぶかね?」教授がいった。
「君の名を不朽のものにするに、こんなよい機会はないではないか?」サマリイがいった。例によって毒をふくんだ言いかたである。
「わしの名はもっとほかのことで後世に残るものと信じとる。」チャレンジャがきびしくいった。「いかなる愚者でも、その名を山や河に冠すれば、価値なき名を後世に残すことができる。わしはそんな記念碑を必要とせん。」
サマリイが口をまげて微笑し、さらに何か切り出そうとしたとき、ロード・ジョンが割って入った。
「それは君の役だ。何よりも最初に見つけたのも君なのだし、『マローン湖』としたら、誰も文句はなかろうじゃないか。」
「ぜひともそうしよう。この若い人の名をつけるのじゃ。」チャレンジャがいった。
「それなら、」と私はあえていうが、赤くなりながら、「グレディス湖としてもらいましょう。」
「中央湖としたほうがより説明的ではないのか?」サマリイがいった。
「私はグレディス湖をとりたいな。」
チャレンジャは好意ある目で私を見て、困ったものだというように大きな頭を振って、「若い人は若い人じゃ。グレディス湖とするがよい。」
一二 森の中はこわかった
前に書いたように――それとも近ごろ記憶力がよく悲しいいたずらをやるから、まだだったか――こうした三人から救われたことを、少なくとも大きな助けになったことを感謝されると、いささか得意だった。単に年が若いばかりでなく、経験、人格、知識、その他男としてあらゆる点で至らぬ私は、はじめから日陰の身だった。それが今や男として面目を保つことになったのだ。そう思うと心あたたまる思いだった。ああ! おごる者は倒れる! そのひとりよがりの小さな自己満足ゆえに、自己過信も加わってその夜、生まれてから初めての恐ろしい経験をし、今考えても胸がむかむかするようなショックをうけることになったのだ。
そのしだいはこうであった。私は木のうえの冒険で過度に興奮していたから、眠れないように思えた。サマリイは夜直についている。小さなたき火に背を曲げて妙な形にあたりながら、銃をひざにして、とがったやぎひげをふるわせてあちこちへ眼をくばっている。ロード・ジョンは南米で用いられるポンチョと呼ぶ毛布にくるまって横になり、チャレンジャはねがえりを打ちながら、森までひびくほど大きくいびきをかき、のどをごろごろいわせている。満月はこうこうと照りわたり、空気は身のひき締まるほど冷たかった。夜の散歩にはもってこいの晩である。すると「何がいけないのだ?」という考えが浮かんだ。静かに歩み出る。そして中央湖のほうへ歩みおりてゆく。朝食までには何かの所見をもって帰ってくる。そうなれば私はいっそうりっぱな一員となれるのではないか? それからもしサマリイが勝利を得て、脱出の方策が見つかり、ロンドンへ帰ることになれば、この段地の主なる神秘を胸にいだいて帰るのは、このなかで私だけということになるのだ。私はグレディスのことを思い、「私たちの周囲は勇壮なことだらけ」といった言葉も思いだした。あのときの声までそのままに聞く思いだった。またマカードル氏のことも思った。三段ぬきの記事とはどうだ! 昇進の出発点ではないか! つぎの大戦の通信員は私の望みのままだろう。私は銃をとりあげた――ポケットは薬包でいっぱいだ――入り口のいばらをかき分けてそとへもぐり出た。これが最後とふりかえると、前後不覚のサマリイが、夜直としては何の役にもたたないわけだが、くすぶるたき火のまえで妙な器械のようにこくりこくりやっていた。
百ヤードとゆかないうちに、早まったことと深く後悔した。私はこの記録のどこかで、あんまり空想的だから真の勇士にはなれないが、何かを恐れているように見えるのをとても気にするという意味のことを書いたと思う。これがいま私を前進させる力となった。何もせずにのめのめとは帰れないのだ。一行が私のいないのに気がつかなくても、また私の弱点を知らないとしても、私自身の内部に堪えがたい恥ずかしさとして残るだろう。それでも私は自分のおちいった立場を思って身ぶるいし、面目を失なわずにここを抜けだせるなら、持っているものを何もかも放りだしてもよいとさえ思った。
森のなかは恐ろしかった。木はあつく繁茂し、あちこちに高い枝の入りまじった葉のあいだから星空が見えているだけで、そのほかは月も見えなかった。目が暗さになれてくるにつれて、森のなかのやみには度合いの違いのあることが分かってきた。ある場所ではおぼろながら物が見えるのに、そのあいだにはほら穴の入り口のように、ほんとにまっ暗で何も見えるどころではないから、身もちぢむ思いで通りすぎた。私は禽竜が死の苦痛に絶望的に叫ぶのを思った。森にこだましたあの苦悶の叫びである。またロード・ジョンの投げつけたたいまつの光でちらりと見た、いぼがあり血だらけでふくれあがったあの口もとを思った。いまでも私はその猟場にいるのだ。いつなん時物かげから、世に知られないあの恐るべき怪物が、おどりかかって来るかも知れないのだ。私は歩みをやめてポケットから薬包を一つつまみだし、銃尾をあけた。あけてみてびっくりしたが、これは散弾銃であって、旋条銃ではないのだ!
またしても帰りたい衝動が起こった。ここに私の失敗の何よりの理由があった――この理由があるから、誰も私のことを軽く見るものはあるまい。ここでもまたおろかな自負心がこの言葉とたたかった。私は失敗することはできない――してはならない。要するにゆきあたるかも知れぬ危険にたいしては、旋条銃であろうと散弾銃であろうと、役にはたたないであろう。今から銃をとりかえに引きかえすとすれば、キャンプ地へ見つからずに出はいりするのはまず不可能だ。見つかればどこへ何をしに行くかを言わなければならず、この計画は私ひとりのものではなくなる。ちょっととまどいはしたが、勇気をふるい起こして用をなさぬ銃を小脇に、前進をつづけた。
森の暗さは尋常でなかったが、禽竜のいる空地は月光が白くみなぎっていて、もっと恐ろしかった。草やぶに身を潜めて、私はそこをのぞき見た。恐ろしい怪物は一つも見えない。あの一匹がやられたので、ほかのものはみんなこの草場を逃げだしたのであろう。霧のかかった銀いろの夜の空地には、生きもののいる気配はなかった。だから私は勇気をふるい起こし、すばやく空地を横断し、向こうがわの森へはいっていった。そこには道案内になる小川もあった。ごぼごぼさらさらと流れて、少年のころ夜|釣《つ》りに出かけた故郷の川のようで、気持よい道づれであった。この川についてゆけば、湖へゆけるに違いなく、帰りも同じようにしてキャンプへ帰れるだろう。かん木が生い茂っているので、たびたび小川を離れたが、流れの音でまったく見失なうことはなかった。
傾斜をおりるにつれて森はしだいに浅くなり、ところどころ大木のある草やぶになった。だから進行ははかどり、ほかからは見られることなく、こっちからはよく見えた。翼手竜の沼地の近くを通ったが、通りすがりにぱりぱりと乾いた羽ばたきが聞こえ、大きなのが一匹――翼から翼まで少なくとも二十フィートはあった――がすぐそばから空中へまいあがった。それが月の面をかすめると、膜質の翼がすけてみえ、まるでがい骨が飛んでいるようだった。私はかん木のあいだへ身をかがめた。この怪物が一度声をたてると、何十匹というものが飛びたつことを、前の経験で知っていたからである。飛んでいたのが地上におりるのを待って、私は忍び足に前進をはじめた。
夜はことのほか静かであるが、進むにつれて前方にたえずごろごろと低い音が連続的に聞こえてきた。この音はしだいに高くなり、すぐ近くにはっきり聞こえるようになった。立ちどまってじっと耳をすますと、音は一定で、どこかきまったところから来るらしかった。やかんが煮えているか、それとも大きななべが沸騰しているもののようだった。正体はすぐに分かった。小さく開けたところに池――それとも水たまりといったほうがよかろうか、何しろロンドンのトラファルガ・スクェヤの噴泉の水盤くらいしかないのだ――といってもたまっているのはまっ黒なもので、その表面はガスを噴いているのでふくれたりへこんだりしている。その上方の空気は熱のためちらちらと光っており、まわりの土地は熱くて手もさわれなかった。ここが噴火口で、この妙な段地をこさえたのもこれであり、それが今もなお休止することなく、弱いながら噴出をつづけているのだ。黒い岩や溶岩の小さく盛りあがったのなど、繁茂する植物のあいだにいくらも見てきたが、ジャングルのなかのこのアスファルトの池は、太古の噴火口の斜面に現存する活動力の現われとして見た最初のものである。朝までにキャンプへ帰らなければならないから、いま詳しく調べている余裕はない。
恐ろしい歩程だった。記憶力のある限りいつまでも心に残るだろう。明るい月に照らされた空開地のへりにそってかげをこっそり歩いていった。ジャングルのなかを身をかがめてはうように歩いてゆくと、野獣が歩いているらしく枝の折れる音がするので、そのたびに心臓をどきどきさせながら立ち停った。ときどき大きなかげがぼんやりと見えたと思うと、すぐ消えてしまった――柔らかい足でえさをあさっているらしい声なき大きなかげである。もう引きかえそうかと、何度立ち止まったことか。しかしそのたびに自負心が恐怖にうち勝って、目的の達成されるまではと歩をはこんだ。ついに(私の時計は午前一時を示していたが)ジャングルの切れ目に水が光っているのを見た。それから十分、私は中央湖の岸に生い茂るあしのなかに立っていた。ひどくのどが渇くので、その場へ腰をおろして腹いっぱい飲んだが、冷たくて新鮮だった。その場所は広い道がついており、いろんな足あとがたくさんあったから、ここは動物の水飲み場なのに違いない。水ぎわからすぐのところに、溶岩の大きなかたまりが一つあった。この上にのぼり横になると、四方がよく見わたせた。
最初に目についたものは私を仰天させた。大木のうえから見たものを書いたとき、はるかながけの下に黒っぽい点がいくつかあって、ほら穴の入り口らしいといっておいた。いま岩のうえからこの穴を望むと、汽船の|舷《げん》|窓《そう》のような円い光るものが暗いなかにいくつも見られた。一瞬、火山活動の溶岩かなと思ったが、そんなことはじっさいに有りえない。火山活動ならば下のほうのくぼみにこそ起こるはずで、岩のあいだの高いところに起こるはずがない。では何だというのか? 不思議な光だが、じっさい厳存するのだ。赤く光るのはほら穴のなかの火の反映したものでなければならない――火は人間の手によってのみ燃されるものだ。するとこの段地には人間がいるということになる。私の探検が正当づけられたのだから、りっぱなものではないか! これでロンドンへのみやげの報道ができたというものだ!
このゆらめく赤い光をながめて、私はながいことそこへ横になっていた。十マイルくらい離れていると思うが、それでもその前を人でも歩くか、つねにちらちらと光が強くなったり、消えそうになったりしている。あそこまではいあがって、奇妙な場所に住む人種の外見や性質を一行に報告できたら、どこがいけないというのか? 一時はそんなことができるものではないと思ったが、それでもこの問題につき何らかの確かな知識を得るまでは、この段地を立ち去るわけにはいかないのだ。
グレディス湖――私の大切な湖だが――は水銀のような水をたたえ、その中心で月光を反射している。水は浅かった。あちこちに砂州が低く頭を出しているから分かる。静かな水面には至るところ生物のいるしるしが現われていた。ときどき水面に輪が現われ、波紋がつたわってゆくばかりか、ときには魚が白い腹をみせて空中にとびあがり、何とも知れぬ怪物だが曲って灰いろの背なかを見せて過ぎていった。黄いろい砂州のうえに大きな白鳥のようなものを見た。不細工なからだつきで、長い首をしなしなさせて水ぎわを歩いていたが、すぐ水のなかへ飛びこんで、アーチ形の首だけ水面に現わしていた。と思ううち水中にもぐりこみ、それきり姿は見えなくなってしまった。
私の注意は遠景から自分の足もとで行なわれていることへと移っていった。二匹の大きなアルマジロ(夜行性の哺乳動物。角質のよろいでおおわれ敵にあえば球状になって身をまもる―訳者)のような動物が水飲み場へ降りてきたのだ。水ぎわにうずくまって、赤いリボンのような長いしなやかな舌を出して水をすすりだした。枝のある角をもつ大しかが一頭、王者のようなやつが雌を一頭と子じかを二頭つれて降りてき、アルマジロにならんで水を飲みだした。カナダ産のオオシカにしても北欧産のものにしても、私の見たのはこいつの肩までしかあるまいから、これは地球上に住むしかとしては最大のものであろう。やがてそれは警戒の鼻息を一つすると、家族をつれてあしの中へはいってしまった。それにつれてアルマジロも急いでかくれがへ逃げこんだ。きわめて奇怪な動物が通路を降りてくるのだ。
このぶざまな形、三角のぎざぎざのある曲った背なか、鳥のような妙な形の頭部を地につけるようにしている動物を、どこで見たろうかと、しばらく妙な気がした。すると思いだした。これは剣竜なのだ。メープル・ホワイトがスケッチ・ブックに描き残していたあの動物ではないか! それがチャレンジャの注意を第一にひいたのだ! それがちゃんといるのだ――おそらくあの米人画家がゆきあった見本そのものなのであろう。大きな体重のために地面も振動し、ごぼごぼと水を飲む音は静かな夜気にひびきわたった。五分間ばかり私のいる岩のすぐそばに、手をのばせば背なかの気味わるく波だつ三角のとんがりに触れそうであった。そのうちにのっそりと歩いて、玉石のほうへ姿をかくしてしまった。
時計を見ると二時半だったから、帰途につくことにした。帰る方角については何も困難がなかった。来るとき小さな流れを左にしてきたのだし、この流れは私のいるところから石を投げれば届くほどのところで、玉石のあいだを中央湖へ流れこんでいるのだ。そこで私はふるいたって帰途についた。今夜はよい仕事をしたと思うし、一行にりっぱな報告を持って帰れると思うからである。もちろんその中でもっとも重要なのは、火の燃えるらしいほら穴を見たことと、そこに穴居人らしいもののいることである。だがそのほかにも、経験から中央湖について話すこともできる。そこには変った動物のいっぱいいることも、誰もまだ見たことのない原始陸生物についても証言することができる。私は歩きながら、世界でもこんな変った一夜をすごしたものはないであろうし、そのあいだに人知に貢献したものはないであろうと考えたりした。
こんなことを考えながら、ゆるい坂をとぼとぼと登ってゆき、キャンプまで半分くらい来たときだった。うしろで妙な音がするので、われにかえった。いびきのような、うなり声のような、低く深く、何ともいわれず威嚇的である。妙な動物がやってくるらしいが、姿は見えなかったので、私は歩を早めた。半マイルかそこいら行ったころ、またあの声がおこった。やっぱりうしろだが、こんどは音も大きく、いっそう威嚇的でもあった。何ものとも知れないがたしかに私のあとを追っているのだと思うと、心臓も止まるばかりだった。皮膚は冷たくなり、頭髪は逆だった。こういう動物がたがいに相手を八つ裂きにするのは、生存競争の変った闘争の一つをなすのだが、彼らが現代人に立ち向かってき、卓越した人類のあとを慎重につけて、ついにものにするのだと思うと、じつに恐ろしかった。キャンプのそとの空地でロード・ジョンの突きつけたたい松のあかりで見た血だらけの顔を思いだした。ダンテ(イタリアの詩人、一二六五―一三二一―訳者)の地獄編の地獄の底からでも出てきたように恐ろしかった。ひざががくがくするのを立ち停まって、今きた道を月光に照らして見わたした。夢のなかの風物のように、何もかも静まりかえっていた。銀いろに輝く空地、そのなかに点在する黒黒としたかん木の群れ――そのほかには何も見えなかった。するとその静寂を破って、切迫した脅迫的な声がまた低く聞こえてきた。まえよりずっと大きい、のどにかかるしわがれ声である。もはや疑いの余地はない。何ものかが私のあとをつけて、刻一刻と近づいているのだ。
今きた道をまだ見つめたまま、私はしびれたように立っていた。するととつぜん見えた。通ってきた空地の向こうのはずれのかん木のなかに動くものがある。大きな黒っぽいものが、明るい月光のなかにぴょんぴょんと飛んでくる。わざと「ぴょんぴょんと」といった。そのものは大きな強い後足で直立して前足は前方に折り曲げたままぶらさげ、カンガルーのようにとび歩いたからである。大きさも力強さも象が立ったようだが、その動きはそんなに大きいのに、ひどくす早かった。これが禽竜なら、何もしないからよいがと思っていたが、私はよく知らないながら、そうではないらしかった。指が三本あって葉食の、しかのような頭をしたおとなしいのではなくて、これはキャンプを騒がせたやつのように、がまのような顔をして幅のひろいずんぐりしたものだった。狂暴な声や追ってくる体力の恐ろしさからみて、これが恐るべき肉食の恐竜、この地球上に生存するもっともすさまじい動物であることはたしかだった。このものはぴょんぴょん走りながら、二十ヤードごとに前足をおろして鼻を地につけるようにした。私の足跡をかいでいるのだ。ときどき見失なうが、またかぎつけて大きく飛びながら、すばやく私の跡をつけてくる。
今でもあの時の恐ろしさを思うと、額に汗が浮かぶ。私に何ができたろう? 鳥うち銃は手に持っているが、こんなものでは役に立たない。岩か木でもないかと必死にあたりを見まわすが、いまいるところはかん木のジャングルのなかで、ひと握りくらいの若木があるばかりなのに、相手は普通の大木くらいはあしのように無造作に押し倒してしまうやつだ。こうなったら逃げるしか助かる途はないのだ。荒れたでこぼこの土地だから早くは走れなかったが、やけくそであたりを見まわすと、よく踏みかためた道がはっきりと前方に走っているのが見えた。こういうのは探検中によく見たものだが、野獣の通路なのだ。元来脚は速いほうだから、場合が場合だし、これなら助かると思った。役に立たない銃を投げすて、あとにもさきにもないという半マイル・レースを強力にはじめた。手足は痛み、胸は苦しいし、のどは空気を求めて破れそうだったが、それでも恐ろしいものが後にせまっているのだから、走りに走った。ついに動けなくなって、歩をとめた。これで怪物を振りきったかと一時は思った。うしろの道はひっそりしている。だがとつぜん、ばりばりと物すごい音とともに、大きな足で地を踏む音と怪物の息をきらしているのが聞こえ、またしても私はつかまってしまった。もう助からない。
さっさと逃げもしないで、あんなにまごまごしていたのは、正気のさたではなかった。今までは臭いで私を追っていたのだから、動きはにぶかった。だがこんどは走りだした私の姿を認めたのだ。通路というものがあって、私の逃げた方向が分かる。弓なりに曲った道に姿を現わした怪物は大きくバウンドして突進してきた。月が明るいので、大きくとびだした目や、開いた口もとに並ぶ大きな歯を照らしている。短いが力強い前足のつめも光っている。私は悲鳴をあげてくるりと振りむき、いっさんに駆けだした。うしろからは怪物のあらい息づかいが、しだいに大きく聞こえてくる。重い足音はすぐあとにせまってきた。いまに背なかへ前足がかかるかと、気が気ではなかった。するとだしぬけにどしんときた――どこかへ落ちこんだのだ。あたりはまっ暗で音もない。
気がついてみると――失神していたのは二分か三分以上ではなかったと思う――あたりには刺すような、いやな臭いがたちこめていた。片手をのべてさぐってみると、何か大きな肉のかたまりのようなものに触った。もう一つの手はこれも大きな骨らしいものに触った。頭のうえには丸く星のみえる部分があって、私はどうやら深い穴のなかに落ちたらしかった。ゆっくりと立ちあがり、からだじゅうをさわってみた。頭から足のさきまでこわばって、ひりひりと痛むが動かせないところはなく、関節にもどこといって異状はなかった。落ちた衝撃で混乱していた頭が静まるにつれ、怪物ののぞきこむ頭部のシルエットが星空を背景に見えるのではないかと、おそるおそる見あげた。だがそんなものは見えなかったし、音も声も上からは聞こえてこなかった。そこで運よくもあわやというとき落ちこんだこの奇妙な場所は何であろうかと、四方を手さぐりながら歩きまわってみた。
前にもいったようにここはたて穴だった。四方は急傾斜の壁で、底は水平で幅が二十フィート(六メートル余―訳者)くらいあった。そして底には大きな生肉のかたまりがまきちらされており、その多くは腐敗寸前の状態にあった。空気は悪臭をおび、不快だった。こういう腐りかかった肉塊につまずいたり、どけたりしながら歩きまわっていると、とつぜん何か固いものに行きあたった。穴の中央に柱がまっすぐにしっかり立ててあるのだった。上までは手の届かないほど高いものだが、グリースがぬってあるらしかった。
ポケットにろうマッチの小さなカンのあるのをふと思いだした。それをだして一本すってみると、落ちこんだこの穴が何であるか、少し分かってきた。その本質には疑問の余地がなかった。落とし穴――人間の手で作った落とし穴だ。中央の柱は、九フィートくらいあるが、さきがとがらせてあり、突きささった動物が血で黒くなっていた。散らかっている肉はその残がいだった。つぎに落ちこんでくるやつに備えて、切ってどけたのだ。チャレンジャがかつて、この段地には怪物がのさばっているから、これといった武器もない人間の生存はあり得ないといったのを思いだす。だがいまは生存し得ることが明らかとなった。何ものであるかは分からないが、彼らは怪物の出入りできない入り口のせまいどうくつに住みついて、思考力が進んでいるだけに怪物の往来する場所へこんなわなをしかけ、枝でかくすことをしたのだ。これではいくら力があり、敏活でも亡びてゆくしかない。やはり人類は王者だ。
穴の壁は傾斜しているから、元気な男なら登れないことはないが、もう少しでやられるところだったあの怪物が近くにいると思うから、しばらくは思いきったまねもできなかった。近くのやぶのなかに潜んで、私の出てゆくのを待っていないとどうしていえよう? だがチャレンジャとサマリイの話していた大とかげ類の習性のことを思い起こして、気をとりなおした。なんでも彼らはほとんど頭脳というものがなく、|頭《ず》|蓋《がい》|腔《こう》も小さくて推理力のある余地がないから、この世から姿を消したのもそのためで、状況に応じて動くということができないからだという。
私を待ち伏せしているとすれば、私がどうなったかを判別し得たからということになるが、そうすると原因と結果を判断する力があったことになる。ばくぜんたる略奪本能だけで動いている頭脳のない動物なら、私の姿が見えなくなったら、追跡をやめるのが自然だし、しばらくは驚いてその場へ立ちすくむかも知れないが、すぐほかのえさを求めてどこかへいってしまうのではあるまいか? 私は小さながけをよじ登って、穴の入り口からあたりを見まわした。星は光がにぶり、空は白みかけている。朝の涼風が顔をなでた。敵の姿も見えなければ、何の音もしなかった。そっと外へ出て、もし敵が現われたらいつでも逃げこめるように、しばらくその場へ腰をおろしていた。しだいに明るくなってくるし、こそりとも音がしないので、勇気を振いおこして来た道をそっと引きかえしていった。少しいったところで銃を拾うし、なおゆくと道案内の小川もあった。そこでこわごわで何度もあとを振り返りながら、キャンプめざして私はかえっていった。
するととつぜん、あるものが残してきた一行のことを思い起こさせた。澄みきった朝の空気をゆるがせて、一発の銃声が鋭くなりわたったのである。動くのをやめて耳をすませたが、一発きりであとはなかった。何かとつぜんの危険におそわれたのではあるまいかと思って、一時はショックだったが、より簡単で自然な説明が心に浮かんだ。いまやまったくの白昼である。一行は私が森のなかで方向を失なったと思い、道しるべの意味で発砲したのだ。発砲厳禁ということに取りきめてきたのも事実であるが、私に危険がせまっていると見れば、そんなことにこだわってはいられまい。私としてはできるだけ急いでキャンプへ帰り、みなを安心させる必要がある。
私は疲れきってへとへとだったから、思うように早くは歩けなかった。それでも見おぼえのある地域まではたどりついた。左手に翼手竜の沼地のあるところまできたし、行く手には禽竜の空開地も見える。もうチャレンジャ城までは森一つぬければよいのだ。一行の不安を一掃しようと思って私は歓声をあげてみた。だが心細いことに、不気味な静寂はそのままである。歩調を早めて駆けだした。いばらのさくは私の出てきたときのままであるが、入り口は開けはなしになっている。私はいきなり駆けこんだ。早朝の冷気のなかで私の見たものは、恐るべき光景であった。所有物が地上に散乱し、一行の姿は見あたらない。そしてたき火の残りのくすぶるそばには、見るも物すごい血の池がある。
このとつぜんのショックで、しばらく放心したようになったに違いない。キャンプのまわりの森のなかを、一行の名を呼びながら駆けまわったのを、悪夢のように思いだす。むろんあたりは静まりかえって、どこからも返事は聞こえなかった。二度と一行を見ることはないのではあるまいか、この恐ろしい段地に脱出の望みもなく、ただ一人とり残されるのではあるまいか、この夢魔の国に死ぬまで一人で暮らさなければならないのではあるまいかと思うと、絶望の淵へ追いやられた。私は失望のあまり髪の毛をかきむしり、頭をなぐりつけたくさえ思った。今となって初めて、私がどんなに一行にたよっていたか、チャレンジャの一点の曇りもない自信に、ロード・ジョンのおうへいでユーモアのある冷静さにおぶさっていたかが分かった。それがなければ私は暗やみに放りだされた子供のように、頼りなく無能であった。どっちへ行って、まず何をすべきかさえ分からなかった。
しばらくは途方にくれて腰をおろしていたが、やがて気をとりなおすと、どんな不幸が一行をみまって、どうなりいったかを調べてみようと思った。キャンプの乱れからみて、何ものにかおそわれたらしいことは分かった。あの銃声はそのときのものに違いない。一発しか聞こえなかったのは、すべてが一瞬に終ったことを示している。銃はいまも地上に投げだされているが、その一つ――ロード・ジョンのだ――は銃尾にからの薬包を残したままだ。チャレンジャの毛布とサマリイのが火のそばにあるのは、二人ともそのとき眠っていたのを示している。弾薬箱と食糧箱が、不幸な写真機や感光板入れとともに、そのへんに散乱しているが、紛失したものはないようだ。これに反してむきだしの食糧品は――そういうのがかなりあったのを覚えているが――なくなっていた。そうするとこれは人間ではなく動物なのだろうか? 侵入したのが人間だとすれば、何もかも持っていったろう。
これに反して来襲したのが動物、それもただ一匹だったとすれば、一行はどうなったのだろう? 狂暴な動物なら、殺しはするだろうが死がいまでどうかするということはあるまい。不気味な血の池のあるのは事実だし、これは暴力のふるわれたことを示している。ゆうべ私を追っかけたような怪物なら、ねこがねずみをくわえてゆくようなもので、死体をはこぶのも造作あるまい。それならほかのものがその犯人を追っかけるということもありうる。しかしそれなら追っかけるのに銃を持ってゆくだろう。混乱し疲れた頭でいろいろと考えるのだが、ますます分からなくなってくるばかりだった。森のなかもさがしてみたが、これといって結論の出せるような材料は何もなかった。一度などは道に迷ってしまったが、幸運にも助かった。すなわち一時間ばかり森のなかをさまよったあげくに、ようやくキャンプを発見したのである。
ふとある考えが浮かんで、急に心のやすらぐのを覚えた。ここでは絶対的孤独の身だが、がけの下には呼べば届くところに忠実なザンボーがいるのだ。すぐに段地のはじまでゆき、のぞきおろした。いるいる。キャンプの火のそばに毛布をかぶってうずくまっている。しかし驚いたことに、向かいあって第二の男がいる。いったんはうれしさの余り小躍りしたというのは、一行の一人が無事下降したかと思ったのだが、よく見ると喜んではいられなかった。太陽がのぼって、その男の皮膚を照らした。土人なのだ。私は大きな声をあげて、ハンカチを振った。ザンボーが見あげて片手を振り、腰をあげて岩の塔を登りだした。まもなく塔のうえに姿を現わした彼は、近づいて私の話を聞き、深く嘆いた。
「悪魔にさらわれたのですよ、マローンさん。悪魔の国へ踏みこんだのですよ。それでさらっていったのです。悪いことは申しません。早く降りてきなせえ。でないとマローンさんまでさらわれますぞ。」
「どうしたら降りられるかね?」
「木につる[#「つる」に傍点]がからんでいるから、それを取ってくるのです。そして一つの端をここへ投げなさい。私がこの切り株へしっかりつなぎとめます。それで橋ができるというものです。」
「そのことは考えてみた。しかしここにはそれに堪えるほど丈夫なつる[#「つる」に傍点]はないのだよ。」
「それではロープをとりにやりなさい。」
「やるといって誰を? どこへ?」
「土人の部落へやるのです。土人は革のロープをたくさん持っています。この下に土人が一人いますから、それをやればよいです。」
「一人いるって、いったい何ものだね?」
「わしらの仲間ですよ。ほかの者がぶって、もらった金を取りあげてしまいました。それでここへ引き返してきたのですが、今は手紙も持ってゆくし、ロープでも持ってくるし、何でもやりますよ。」
手紙を持ってってくれる! 悪いはずがないではないか! それに救助者だってつれてきてくれるかも知れない。いずれにしても私たちにムダ死にをさせはしなかろう。また私たちが科学のために勝ちとった報道を、故国の友へもたらすことができるのだ。私はすでに書きあげた通信を二つ用意している。この上はきょう一日をついやして、最近の報道を詳しく扱った第三のものを書こう。土人にこの通信を持たせて下界へくだらせよう。そこでザンボーに命じて夕がたもう一度ここへ来るように言いつけ、たった一人で終日、前夜の冒険のしだいを書きつづった。それからもう一通手紙を書いて、商人でも汽船の船長でもよいから白人を見かけたら渡せと命じ、生死の問題だからぜひロープを送るように手配してくれと依頼しておいた。夕方これらをザンボーに投げあたえ、ついでに三ソヴリンのイギリス貨幣のはいった財布も投げ与えた。これらはもちろん土人に与えるためであるが、ロープを持って帰ってきたらこれの二倍を与えるとも約束した。
そういうしだいですから、マカードルさん、この通信がいかにしてお手もとへ届いたか、今はご了解下すったことと思いますし、今後もし通信がお手もとへ届かなかった場合、悪運の通信記者がどうなりいったか、真相をお分かり下さることと信じます。今夜私はひどく疲れているうえ、気がふさいでいますので、今後の計画が立てられません。あすこそはこのキャンプと連絡を保ちながら、一方ではどこかに気の毒な一行の手がかりはないものか、さがしまわるつもりでいます。
一三 とても忘れ得ぬ光景
太陽が沈んで陰気な夜のとばりの降りかかったとき、下界を見おろすと土人がただ一人、大平野の一端にぽつりと見えていた。ただ一つかすかな救いの希望であるこの男が、はるかなる河とこことのあいだに横たわるバラいろの夕もやのなかへ消えてゆくのを見まもった。
荒らされたキャンプへ引きあげるときは、もうかなり暗くなっていたが、去りがけに見た最後のものはザンボーのたき火の光だけで、私の暗い心に忠実な存在となっているこの光は、広い下界における唯一のものであった。しかも私はこの壊滅的打撃をうけてから、かえって心のやすらぎをおぼえた。世界は私たちの為したことを知るべきであり、私たちの名は肉体とともに消えさることなく、その業績と関連して子孫へ伝えられるべきだと思えば、心がやすらいだからである。
不幸なキャンプでただ一人眠るのは恐ろしいことだったが、それかといってジャングルのなかで眠る勇気はなかった。どこかで眠らなければならないのだ。一方では賢明さが警戒をゆるめてはならないと命ずるし、他方生理は、とんでもないことだ、とにかく眠らなければという。いちょうの大木の枝にのぼってみたが、そこは丸みがあって、もし眠りでもしようものなら下へ落ちて首の骨を折るのがたしかに思われた。そこでさっさと降りて、どうしたものかと黙考にふけった。それで最後に、いばらのさくの入り口をとざし、三角形の頂点の三カ所で火をもし、たらふく夕食をたべてから、深い眠りに入ったが、その眠りから奇妙な、ありがたい覚めかたをした。早朝、明けがたであったが、腕を押さえるものがあるのではっととび起きてみると、全神経がぞくぞくするなかに、さしのべた手に銃がさわり、うす明るい冷気のなかにロード・ジョンがそばにひざをついているので、歓声をあげた。
それはロード・ジョンであるが、またあの男ではなかった。私の出かけるときの彼は挙動おだやかで、人柄は穏当、服装もきちんとしていた。いま見ると青い顔に大きく目を見ひらいて、長距離を駆けてきた人のように息を切らしている。やつれた顔にはかき傷があり血が流れており、着ている服は裂けてぼろがぶらさがっているし、帽子はなくしていた。驚いて見なおしたが、質問のすきを与えず、そこらにある品物をかき集めながらいった。
「急ぐんだよ、君。一刻を争う。銃をとりたまえ、二つともだ。ほかの二つは僕がもってゆく。薬包をできるだけ集めたまえ。ポケットにはいるだけだ。それから食物だ。かん詰で六つもあればよかろう。それでよい。話したり考えたりの余裕はない。すぐここを出ないと、やられてしまう!」
まだほんとに目の覚めぬ私には、何のことだか分からなかったが、気がついてみたら森のなかを彼のあとについて走っていた。両わきに銃を一つずつ抱えこんで、両手にはいろんなものを山と持っていた。彼は雑木林の深いところを潜ったり出たりしながら走っていったが、ついにひときわ茂っているところへはいっていった。いばらも構わずそのもっとも深いところへ入りこむと、私をそばへ引きよせた。
「ここだ。」と息をきらしながら、「ここなら大丈夫だと思う。やつらはかならずキャンプへ行く。第一にそれを考えるのだ。こことは知らないから、とまどうだろう。」
「いったい何事なんだ?」私は息が静まるとたずねた。「教授たちはどこにいるんだ? それに私たちを追っかけているのは何ものだ?」
「類人|猿《えん》さ。畜生! 何という残忍な! 大きな声を出しちゃいけない。やつらは耳が鋭いからね。目も鋭い。だが鼻はきかない。僕の判断する限りではね。だからかぎつけられることはない。君はどこへ行っていたんだ? いなくてよかったよ。」
手みじかに私はしてきたことを小声でいった。
「ひどい目にあったね。」恐竜と落とし穴のことを聞いて彼はいった。「安静療法なんかするどころじゃないよ。なに? だって僕はこの悪魔につかまるまで、どんなことになるのか思ってもみなかったんだ。パプア(ニューギニアの土人―訳者)族の食人種につかまったことがあるが、ここのやつらにくらべたら、まるでチェスタフィールド(イギリスの都市―訳者)の貴族だったよ。」
「いったいどうだったんだ?」
「早朝のことで、学のある二人はもう起きかかっていた。といってもまだ議論ははじめていなかった。とつぜん類人|猿《えん》が雨のように降ってきた。まるでリンゴが木から落ちるようなものだった。暗いなかに集まってきて、頭上の大きな木は枝もたわむばかりになったのだと思う。その一匹の腹部を撃ちぬいてやったが、何が何だかわからないうちに、こっちはみんな仰向けの大の字にころがされてしまった。類人|猿《えん》といったが、棒きれや石を手に持つことができるし、きゃっきゃと互にしゃべりあっていた。結局われわれは何かのつるで後手にしばられてしまったから、この土地で見た動物のうちでもっとも進化したものだと思う。猿人――であるわけだが――中間的存在で、いつまでも中間的であってほしいものだ。傷ついたやつをみんなでどこかへ連れていってしまった――豚のように血を流しているやつをね。そうしておいて、われわれをとりまいて座ったが、まるで殺意を氷りつかせたような顔をしていた。大きなやつでね、人間くらいあり、力もぐんと強そうだった。赤い房毛の下にガラスのような目がにぶく光っていて、ただ座って小気味よさそうにながめている。チャレンジャは決して弱虫ではないが、あの人すらおびえていた。身をもがいてどうにか立ちあがると、早くこの始末をつけろとばかりわめきたてた。何しろとつぜんのことだから、さすがに頭へきたらしい。まるで気ちがいのようにわめいたり毒づいたりした。相手が好物の記者群だったとしても、ああまで下等な言葉で毒づくことはできなかったろう。」
「それで結局どうなった?」私は相手が耳もとでささやく思いもよらぬ話に、心を奪われた。相手はそのあいだもたえず鋭い目を八方にくばり、手は打ち金を起こした銃を握りしめていた。
「これでこの世の終りかと思った。ところが局面は新しい方向に展開していった。怪物どもはがやがやと何か話しあっていたが、そのうちになかの一匹が出てチャレンジャのそばに立った。そう、君はにやにやするけれど、あれは、あの一人と一匹はまるで親類同士のようだった。この目で見たのでなければ、僕もそんなことをいうわけがない。この老猿人は――これが首領なのだが――まるでチャレンジャを赤くしたようだった。あの人の美しいところを少し強調しているだけで、すべて備えているのだ。背が低くて肩がはって、胸が大きく首がまるでないようで、赤っぽいひだ飾りのような大きなひげがあって、『こら、何用があって来た?』といっているような目つき、何から何までそっくりだ。猿人がチャレンジャのそばへいって前足を肩にかけたので、芝居は完成した。サマリイは少しヒステリ気味で、笑いだしたがその笑いは泣き声になった。猿人も笑った――でいけなければ少なくともべちゃべちゃいった――それからみんなで僕たちを森のなかへ連れこむ仕事をはじめた。銃やほかのものには手も触れなかったが――危険だとでも思ったのだろう――ばらの食糧はとっていった。サマリイと僕は途中で少し手荒な取り扱いをうけた。それを示すのが皮膚の傷と服の破れかただ。何しろ森のなかを歩かすんだからね。猿人どもの皮膚は革のようなのだ。しかしチャレンジャだけはべつだった。四匹で肩のあたりに担いでゆくのだから、まるでローマ皇帝のような扱いだ。や、あれは何だ?」
遠くでかちかちと妙な音がする。カスタネットに似たところがなくもない。
「あそこを行く!」といって第二の二連発エキスプレス銃に弾ごめをした。「すっかり弾ごめをするのだぜ、君。生けどりされてはたまらんからな。そうは思わないかね? あれはやつらが激したときにやる騒ぎだ。畜生! おれたちをとっつかまえたら、少しは激することにもなろうて。どこかのうすのろの歌じゃないが、『竜騎兵第二連隊の最後の防衛』や『戦死者や重傷者の輪のなかに、こわばる手に銃を取りて』になってはたまらないからな。どうだ、こんどはあの声が聞こえるだろう?」
「非常に遠くにね。」
「あれっぽちの人数じゃ大したことはない。でも今ごろは探索隊が森のなかを探していることだろうがね。ところで悲しい話の続きだが、僕たちはすぐ彼らの町へ連れてゆかれた――がけに近い大きな森のなかに、枝や葉でこさえた千軒ばかりの小屋があるところで、ここから三マイルか四マイル(一マイルは一・六キロ―訳者)ある。やつらは僕のからだじゅうをいじくりまわした。おかげでこの汚れは生涯清まることはなかろうと思う。それから僕たちは縛りあげられた――僕を縛ったやつはまるで船の甲板長のように縛るのが上手だった――そのまま僕たちは木の下に死んだように転がり、大きなやつが一匹、こん棒を手にして見張っていた。僕たちというのはサマリイがいるからだが、チャレンジャは木のうえでパイナップルを食ったり、さんざいい思いをしていた。もっともそのあいだに降りてきて、自ら僕たちのなわ目をといてくれたり、くだものをくれたりしたことも言っておかねばならない。それから木の上で双生児の兄弟と仲よく何かやったり、例のとどろきわたるバスで、『はげしく鐘をうち鳴らせ』をうたっていた。歌ならどんなのを聞かせても、やつらのきげんがいいからだ。君は笑っているが、こっちはあんなところで謡ったりするどころではなかったのだよ、分かってくれるだろうがね。やつらは限度こそあっても、チャレンジャには何でも好き勝手にやらせていたが、僕たちにはかなりきびしい線を判然と画していた。そのなかにあって君がやつらの手におちずに、記録を保管していると思うと、心は大いに安まった。
さて、そこで、こんどは君の驚く話だ。君はこの段地に人間のいる徴候を、燃し火や落とし穴やそのほかのものを見たという。ところが僕たちは徴候ではなく、人間そのものを見たんだよ。あわれなやつらだ。うなだれたような小さなやつらだがね、そうなるだけの理由があった。この段地の一方の半分――君がほら穴を見たというあっちだがね――だけを領有し、こっちの半分は猿人がいるらしくて、この二つのものは常にはげしく戦っているのだ。僕の解するかぎりでは、事態はそうなっている。さてきのう、猿人どもはここの人間を十人あまりとりこにして、ここへ連れて帰った。あんなにわいわいがやがやいうのは、君も生まれてから聞いたことがないだろう。人間のほうは小柄で赤っぽいやつで、さんざひっかいたりかみつかれたりしているものだから、歩くのがやっとだった。猿人はその場でうち二人を殺してしまった。――一人のほうなんか腕をひっこ抜かれてしまった。人間にはできないことだね。みんな元気のあるやつでね、きゅうともきゃあともいいはしなかった。こっちは見ていてすっかり気持が悪くなった。サマリイは気を失なった。チャレンジャでさえやっと踏みこたえている始末だった。どうだい、やつらはどこかへ行ってしまったようじゃないか?」
私はじっと耳をすましたが、鳥の声がするばかりで、森のなかは静まりかえっていた。ロード・ジョンは話をつづけて、
「君も命びろいをしたと思うね。君というものをすっかり忘れてしまったのは、こうして人間を捕えたからなのはたしかだ。そうでなかったら猿人どもは、君を捕えにキャンプに引きかえしたにちがいない。もちろん君もいうように、やつらは初めから木のうえで僕たちを見ていたのだ。そして一人たりないのもよく知っていた。だがやつらはこの新しい獲もののことしか頭になかった。というわけでけさ飛びおりて君を起こしたのは猿人ではなく、僕だったわけだ。さてそれから恐ろしい思いをした。ああ、まるで悪夢にうなされたようなものだった。この下のアメリカ人のがい骨のあった場所に、大きな竹のさきが針のようにとがっていたのを思いだすだろう? あそこは猿人町のま下にあたる。つまり捕虜を飛びおりさせる場所なのだ。あそこをよく捜せば、がい骨の山がみつかると思う。あの部分の段地には閲兵式場のような広い空地があって、やつらはそこで儀式がかったことをやるのだ。つかまったものはそこで一人ずつ飛びおりさせられる。儀式というのは飛びおりたものがただ粉ごなに砕けてしまうだけか、それとも竹のやりにつきささるかを見るにある。やつらはそれを見せようとして僕たちをつれ出した。部落のものが全員がけぷちに一列にならんだ。そして土人が四人飛びおりたが、みんなバタに針をさすように竹の針につきささった。あのとき死んだアメリカ人があばら骨のあいだに竹がつきささっていたのも不思議ではない。恐ろしいことではあるが、面白くもある。このつぎには僕たちが飛びこまされるかも知れないのに、みんなでつぎからつぎと飛びこむのを手に汗にぎって見ていた。
ところがそうではなかった。やつらはきょうの分として土人を六人用意していた――僕はそう解釈したのだ――だが僕たちは単にこの行事に立会わされただけだったらしい。チャレンジャはべつかも知れないが、サマリイと僕とはちゃんと予定にはいっていた。やつらの話の半分は手まねにすぎないが、それを理解するのはそうむずかしくもなかった。それでそろそろ逃げだす時がきたと思った。まえからそのことは考えていたのだが、心中一つ二つは思うところがあった。サマリイは役にたたないし、チャレンジャも似たりよったりだから、これは自分でやるしかない。二人は顔さえあわせれば、わけの分からない話ばかりしていた。それというのが僕たちを捕えたこの頭の赤いやつらを、科学的にどう分類するかで意見があわなかったからだ。一人がジャワのドリオピテクスだといえば、相手はピテカントロプス(直立猿人という―訳者)だとやりかえす始末だ。正気のさたじゃない――気ちがいといってもよい。だがあえていうが、僕は役にたちそうなことを一つ二つ考えていた。第一はこいつらは空開地を駆けさせては人間にかなわないということだ。第二の点は銃に関する知識がまったくないということだ。脚が太くて短く、からだも重いのだ。やつらのうち脚の早いやつでも、百ヤード駆けさせたら、チャレンジャにすら五六ヤードはおくれる。君や僕にかかってはまるで問題じゃない。僕が撃って負傷させたやつが、どうしてそうなったかさえ知っちゃいまい。これで銃さえ手に入れば、どうすればいいか、いまさらいうまでもない。
そこでけさ早く、見張りのやつの腹をけ倒して伸びさせておいて脱出し、キャンプめざして駆けだしたのさ。そこで君というものと銃とを手に入れて、ここまで来たというわけなのさ。」
「それで二人の教授はどうなったの?」私は胆をつぶしてたずねた。
「そうさ、これからあの場所へ引っかえして、二人を救出しなければならない。逃げるとき連れてこれなかったからね。チャレンジャは木のうえにいたし、サマリイは自力で動ける状態になかった。唯一の方法は銃を手に入れてから、救出にかかるにあった。もちろんやつらは報復に二人を殺すかも知れない。それにしてもチャレンジャには手を出さないかも知れないが、サマリイのことは何ともいえない。だがいずれにしても殺したがってはいるだろう。その点はたしかだ。僕が逃げだしたために事態が悪化したということはない。しかし僕たちは名誉からいっても帰ってゆき、二人を救い出すか、少なくとも二人がどうなったかを見届けなければならない。晩までにはどっちか分かるのだから、君も今から覚悟しておくとよい。」
私はロード・ロクストンの気まぐれな、短くて強い語句、半ばユーモラスで半ば人もなげな話しぶりを、そのままに再現しようと試みてきた。だが彼は生まれながらの指導者だ。危険のせまるにつれて、そののん気ぶった挙動は強まってくるし、話しぶりは活気づいてき、冷やかな双眼はいきいきと燃えたち、ドン・キホーテのような口ひげはうれしい興奮でぴんと立ってくるのだ。危険への愛好、冒険劇への強い愛着――強く封じこめられるほどはげしくなる――人生のあらゆる危難はすべて一種のスポーツであるという一貫した意見、人間と運命とのあいだのはげしい勝負であり、死をかけての争いであるという考えが、いざとなると彼をすばらしい相棒にするのだ。一行の運命についての気づかいさえなかったら、こういう人物とこういう事件のなかへ飛びこんでゆくのは、私にとって積極的な喜びだったのだが。かん木の茂みのかくれ場からそろりそろりと腰をあげていると、不意にロード・ジョンが腕をつかむのを感じた。
「畜生! こっちへ来やがるよ!」小さな声である。
腰をおろしている場所から、緑の幹や枝でアーチ形になった茶いろの通路が見えていた。この通路を一群の猿人が歩いているのだ。一列縦隊になって曲った脚で背なかをまるめ、ときどき手を地面にふれながら、左右に頭を動かして歩いてゆく。かがむようにして歩いているから背は低く見えるが、身長は五フィート(約一五二センチ―訳者)くらいで手が長く胸が巨大だった。多くのものは棒を手にしているが、遠くから見ると毛むくじゃらで不具の人間のようだった。ちょっとであったけれど、はっきりと見ることができた。だがまもなく彼らはかん木のなかへ見えなくなってしまった。
「いまはいけない。」銃をとりあげていたロード・ジョンがいった。「最上の機会は彼らが捜索を断念するまで静かに伏せていればくる。そうなったら彼らの町へ行って、彼らに大損害を与えられるかどうかも分かるだろう。それまで一時間かそこいら、自由に歩かすことにしよう。」
そのあいだにとかん詰を一つあけて、朝食をとった。ロード・ロクストンは前日の朝からくだ物を少し食べただけだったから、がつがつして食べた。それからついに、ポケットに薬包をいっぱい詰め、両手に銃を一つずつ持って、救出の使命をおびて出発した。かん木の茂みの隠れ場を出発するに先だって、そこをよく調べキャンプとの関係位置を詳しく見さだめた。必要とあらばまたここへ逃げこむためである。かん木のなかを無言のままこっそり歩いてゆくと、キャンプに近い段地のがけっぷちへ出た。そこで一時歩をやすめた。するとロード・ジョンが計画の大要を話してくれた。
「深い森のなかにいるあいだは、やつらにはかなわない。向こうはこっちを見られるが、こっちは見えないからだ。しかし空開地では話が違う。空開地ではやつらよりも敏活に動きまわれるからだ。だからできるだけ空開地にいるようにしなければならない。段地のはじは奥地よりも大木が少ない。だからこれが進撃の線だ。ゆっくり進もう。目を大きくあけて銃を手から放さないようにな。何よりも大切なのは、一発でも薬包のあるあいだは、決して捕えられてはならないことだ。以上が君に与える最後の注意だ。分かったね?」
がけぶちへ着いたとき見おろすと、好漢ザンボーは岩に腰をおろしてタバコをのんでいた。よっぽど声をかけて、いまの立場を話してやりたかったのだが、それでは猿人に聞こえるかも知れず危険だと思った。森のなかは猿人だらけなのだ。現にきゃあきゃあいう妙な声が聞こえている。そういう時は近くのかん木の茂みへとびこんで、声の聞こえなくなるまでじっとしていた。だから前進ははかどらなかったし、ロード・ジョンの用心ぶかい動作でいよいよ目的地が近いなとさとるまでには、少なくとも二時間はたったと思う。彼はそっと伏せていろと身振りをしておいて、自分ははって進んだ。すぐに帰ってきた彼の顔は興奮でふるえていた。
「来いよ! すぐ来いよ! おそすぎないように神に祈るのみだ!」
彼のそばへはい寄ってからだを伏せ、前方にある空開地をかん木ごしに見わたした私は、興奮にふるえていた。
その光景は死ぬまで忘れることがあるまい――いかにも不気味で、とてもあり得ないことに思われるのだが、どういって説明したらよいか私にも分からない。生きながらえて再びロンドンのサヴェージ・クラブの安楽いすに座り、どろいろにがっしりした河岸通りでもながめることになれば数年のうちには、あんなこともあったなと思うようになるであろう。そのときは悪夢であるか熱に浮かされたのだと思うだろう。それでもこれは、記憶のうすれないうちに書いておかなければならない。もしうそでも書けば、少なくとも一人は、私のそばのじとじとした草のうえに伏している男が、それをうそと指摘してくれるだろう。
前方には広い空開地――幅は数百ヤードある――があった。がけぶちまで一面の芝生で低いしだ[#「しだ」に傍点]がまじっている。この空開地をとりまいて半円形に樹木があり、そのあいだに枝をわけて木の葉を積み重ねた妙な形の小屋がいくつもあった。岩山の巣がみんな小さな家になっているとでもいったら、もっとも分かりがよいであろうか。これらの小屋の入り口や木の枝には猿人が群をなしているが、その大きさからみて女や子供であろうと思われた。この猿人どもがこの場の背景をなし、私たちが夢中になりあっけに取られているその同じ光景を一心に見つめているのだ。
空開地のがけぶちに近いところに、赤毛の毛むくじゃらの動物が群をなしていて、多くは巨大なやつだが、みんな見るからに恐ろしいやつだ。やつらのなかにもある程度の訓練はあった。一匹として列を乱すやつがないのだ。並んでいる前面には一団の段地土人がいた――小柄で手足に毛のない赤っぽいやつで、皮膚は強い太陽光線をうけて磨きあげたブロンズのように光っている。そのそばに背のたかい、ほっそりした白人が立っていた。頭をたれ腕ぐみをしているが、全体に恐怖と落胆の様子を現わしている。やせこけたところはまちがいもなくサマリイ教授だ。
この元気のない段地土人のまわりには猿人がいて、逃げられないようにすぐ近くで見はっていた。つぎにこれとはずっと離れてがけぶちに近く、妙な姿が二つ、場合が場合だけに私にはおかしくさえ見えたが、立っているのが私の注意を引いた。一人は一行のなかのチャレンジャ教授である。上衣のなごりのボロが肩からさがっているが、ワイシャツはむしりとられ、大きなあごひげは幅ひろい胸に生いしげる胸毛と入りまじっている。帽子はなくなり、ながの探検行でのび放題の髪の毛はもじゃもじゃと風にゆれている。たった一日のことだが現代文明の最高峰の容姿から、南米の極端な野蛮人になりさがっていた。そばに立って圧しているのは猿人の王者である。これはロード・ジョンがいうように、あらゆる点で教授にそっくりで、違うのは皮膚のいろが黒くなく赤いだけである。同じように背が高くなく、ずんぐりとして肩幅がひろくて、両腕が前へ曲っていて、毛むくじゃらの胸にこわいあごひげがたれている。まゆから上だけが、猿人のほうは額というものがほとんどなく、すぐに傾斜して頭部になっているのに、チャレンジャのは幅ひろくふくらんで、ヨーロッパ人特有の|頭《ず》|蓋《がい》をなしているところが相違である。そのほかの点ではこの王者は教授におかしいが生きうつしであった。
すべてこれらは、書いてみるとながたらしくなったが、数秒を出でずして私の脳裏にきざみこまれた。それから私たちはまるでべつのことを考えなければならなかった。一つの活劇がはじまっていたからである。猿人が二匹、集まっている段地土人のなかから一人をつかまえて、がけぶちへ引きずっていった。王者が片手をあげて合図をした。すると猿人は二匹でその段地土人の手足をとって、前後に手荒く三度ゆさぶってから、恐ろしい勢いで力まかせにがけのほうへ放りなげた。あまり勢いよく投げたので、土人はいったん空中たかくカーヴをえがいてから落ちていった。その姿が見えなくなると、見はりのものを除いて全員がけぶちに駆けよった。それからしばらく絶対の沈黙がつづいたが、狂ったようなうれしがりの声でその沈黙は破られた。彼らは毛だらけの長い腕を高くあげて、うれしがってわめきたてた。一同はがけぶちをさがり、一列になって第二の犠牲者を待ちかまえた。
こんどはサマリイだった。二匹の見はりが手首をとって、手荒く前へ引っぱりだした。サマリイは細いからだに長い手足をもがいて、かごから引きずりだされるひよっこのように盛んに抵抗した。チャレンジャは王者のほうへ振りむいて、気の狂ったように両手を振った。相棒の命ごいをし、抗弁し、嘆願しているのだ。猿人はあらあらしくそれを押しのけて、頭を横にふった。それがこの世において行なった最後の意識的動作だった。ロード・ジョンの銃がズドンと鳴って王者は沈みこむように、へなへなとその場へ倒れ伏した。赤い手足がぶざまに伸びている。
「集まっているやつらへ撃ちこめ! 撃ちこめ! 撃ちこめ!」つれの男が叫んだ。
ごく平凡な男の魂にも、妙な赤い底があるものだ。私は生来心のやさしい男だから、傷ついたうさぎ[#「うさぎ」に傍点]の悲鳴を聞いても、目をうるませたことが何度だか知れない。それでも今や全身の血が煮えかえった。私はいつのまにか立ちあがって、弾倉をからにしていた。つづいて一発。かちりと銃尾をひらいて弾ごめし、ぱちりとしめ、そのあいだ純粋な蛮行と畜殺のよろこびから歓声をあげたり、どなったりした。二人は四つの銃によって大いに暴れた。サマリイの見張りは二匹とも倒れた。サマリイその人はあまりのことに酔っぱらいそっくりによろめき歩き、自分が自由の身であることに気のつかぬ様子だった。密集した猿人どもはこの死のあらしがどこから来るのか、何を意味するのか分からないがままに、困惑状態のうちに右往左往に走りまわった。彼らは倒れているものをのぞきこむように、ゆすぶったり手まねをしたり、声をあげたりした。それから急に衝撃をうけたように、みんなものすごい一団となって、隠れ場のある木立ちのほうへ駆けこみ、空開地には傷ついた仲間だけが点々と残された。二人の捕虜はそのあいだにぽつんと立っている。
頭の早いチャレンジャは、早くも事態を見てとった。途方に暮れているサマリイの腕をとって、二人で私たちのほうへ駆けてきた。見張りのものが二匹そのあとを追ったが、ロード・ジョンが二発で仕とめた。私たちもそれを迎えるため空開地へ駆けだしてゆき、おのおの一つずつ銃を渡した。だがサマリイは気力がつきはてていた。よちよちと歩くことさえできない有様だった。猿人どもはもう落ちつきをとり戻してきていた。かん木のなかから出てきて、私たちのあいだを引きはなそうとしていた。チャレンジャと私は両方からサマリイを支えて走った。そのあいだロード・ジョンはかん木の茂みから頭をのぞける猿人どもを銃でおどかして援護してくれた。一マイルあまりは猿人どもががやがやと騒ぎながら後をつけてきた。だがいまはこっちの力を知ったし、確実な銃には対抗する気がないから、追跡は緩和された。キャンプまでたどりついて後を振りかえってみると、もう追跡者はいなかった。
そう私たちには思われた。しかしこれは誤りであった。いばらのさくの入り口をふさいで、まずは安心と握手をかわし、息をきらしながら泉のそばへ横になると、入り口のそとでぱたぱたと足音が聞こえ、あわれっぽいおだやかな叫び声がおこった。ロード・ロクストンは銃を片手に飛びだし、入り口をあけはなった。生きのこった赤くて小柄な段地土人が四人、そこへ腹ばいになっているのであった。私たちを恐れて震えながら、保護を哀願しているのだ。そのなかの一人が大きく両手をまわしてまわりの木立ちのほうを指し、危険でいっぱいなのだというらしい。それから飛びだしてきてロード・ジョンの脚に抱きつき、そのうえに顔を伏せた。
「こりゃどうだ!」ロード・ジョンは困りきって口ひげを引っぱりながら、「おい――この連中をどうしたものだろう? 起きろ、小さいの、おれのくつから顔をはなしてくれ。」
サマリイは起きあがってパイプにタバコをつめていたが、
「助けてやらないじゃ。おかげで死をまぬがれたのだからな。たしかにりっぱなものだったよ。」
「りっぱなものじゃった。」チャレンジャがいった。「りっぱじゃ。わしら個人の問題ではなく、総合的にいうてヨーロッパ科学全体の浮沈にかかわる。君たちのしたことに対して感謝の念でいっぱいなのじゃからな。わしはためらうことなくいうが、サマリイ教授やわしが消え失せたら、近代動物学史上に相当の空白ができるのじゃからな。この若い人たちのやってくれたことは、じつにみごとなものじゃった。」
といって教授は温情あふれる微笑を浮かべて私たちを見たが、その選ばれたる子供たち、未来の希望の綱たちが、頭髪を乱し、胸をはだけ、服といったらぼろぼろになっているのを見たら、ヨーロッパの科学も少しはあきれるであろう。彼は腰をおろして肉のかん詰をひざのあいだへはさみ、オーストラリア製の冷羊肉の大きなやつを一つ摘まんでいる。段地土人は顔をあげてそれを見ると、小さな悲鳴をあげて地に伏し、ロード・ジョンの足にしがみついた。
「よしよし、恐がることはない。」ロード・ジョンは土人のもじゃもじゃの頭をかるくたたいて、「チャレンジャさん、この男はあなたのその外見がなじめないのです。それに違いありませんよ。よしよし、あの人も人間なんだ、おれたちと同じにな。」
「そうじゃとも!」
「それにしてもあなたは運がよかったですよ。少し普通と違うところがね。もしあなたがあんなに王者に似ていなかったら……」
「たしかにロード・ジョン・ロクストンは、言葉がちとすぎるようじゃな。」
「と申してもそれが事実なのですから。」
「たのむから話題をかえてもらいたい。君のいうことは見当はずれで、わけが分からん。当面の問題はこの土人をどうするかじゃ。まずやるべきは、こいつらの|家《うち》が分かったら、そこまで送り届けてやることじゃ。」
「そんなことはむずかしくもありませんよ。」私がいった。「こいつらは中央湖の向こうがわのほら穴に住んでいるのです。」
「この若い人はこいつらの住みかを知っとるという。相当の距離があるのじゃろうな。」
「二十マイルはたっぷりあります。」
サマリイはうめき声をだして、「私にはとても行けんな。それにあの猿人どもがまたぎゃあぎゃあ後を追ってくるのも聞こえとる。」
そのとき森のなかの暗いところから、猿人のがやがやと騒ぐのが遠く聞こえた。段地土人どもは力ない恐怖の声をあげた。
「移動しなければ、早くね。」ロード・ジョンがいった。「マローン君、きみはサマリイさんを助けてあげたまえ。この土人には品物を運ばせよう。用意がよければ見つけられないうちに出かけようよ。」
三十分以内に私たちはかん木の茂みのかくれ場所へもぐりこんでいた。終日キャンプのほうから猿人の興奮した声が聞こえていたが、こっちへ押しよせてくる模様はなく、疲れきった待避者は赤いのも白いのも深く眠りこんだ。夕がた私がまどろんでいると、そでに触るものがあるので目をあけてみると、チャレンジャがそばにひざをついているのだった。
「君はこんどのことを日記につけとるようじゃが、結局はそいつを出版するつもりじゃろうな。」とおごそかにいった。
「私は記者として来ているだけなんです。」
「そりゃそうじゃ。そこでたずねるが、君はロード・ジョン・ロクストンが何か間抜けなことを言うたのを覚えとるかね? その、似たところがあるとか何とか……」
「ええ、聞きましたよ。」
「いうまでもないことじゃが、そういうことを発表するのは――こんどのことを発表するにあたって少しでも軽率をすると、わしはひどい害をうけることになるのじゃ。」
「書くのは事実だけに止めます。」
「ロード・ジョンの所見は往々にしてひどく気まぐれなところがある。もっとも未開な種族は、威厳と人柄にたいして常に尊敬を示すものであるが、それにあの男はバカらしい理くつをつける。わしのいう意味は分かるな?」
「よく分かりますよ。」
「あとは君の分別にまかす。」といって口をつぐんだが、しばらくたって、「猿人の王者はもっともりっぱなやつじゃった――美しゅうて、頭もすぐれとった。君はそう思わなんだかね?」
「すばらしいやつでしたね。」
そこで教授は心を安んじ、再び眠りについたのである。
一四 これぞ真の征服
私たちは追っ手の猿人がかん木の茂みの隠れがを知らないものと思っていたが、その誤りであることが間もなくわかった。森のなかには音もなく――木の葉のそよぎもなく、あたりは静まりかえっていた――ひっそりしていたが、さっきの経験で、あいつらがいかにこうかつに、またいかに辛抱づよく機会のくるのを待っているかを知っておくべきだったのだ。これからの一生をどんな運命がおとずれるにしても、この朝ほど死に近づくことはあるまいと思う。何はおいても順序を追って事のしだいを語ることにしよう。
前日は恐ろしい目にあったし、食物も豊富でなかったので、目のさめたときは疲れはてていた。サマリイなどは立ちあがりもできないほどに弱っていたが、負けたということを言いたがらないへんに剛胆なところがあった。会議を開いた結果、一時間か二時間この場で様子を見ながら、そのあいだに待望の朝食をしたため、それから段地を横断して中央湖をまわり、私の観察で土人が住むと思われるほら穴のほうへ行くことになった。それには、助けてやった土人の仲間がかならずや好意をもって迎えてくれるに違いなかろうという期待もあった。それから、使命を達成し、メープル・ホワイト段地の秘密について十分の知識を得たうえで、ここを脱出し帰国するという生命にかかわる問題に全力を傾注することになったのである。チャレンジャでさえそのときは一同でこの地へ来た目的は達成されたのであり、そのうえは一行の発見した驚くべき事実を文明世界へ持ち帰るのが第一の義務であることを認めたのである。
今私たちは助けてきた土人を、気楽にながめることができた。みんな小さくて筋張って、敏活で体格がよく、黒くてちぢれない髪の毛を後頭で革ひもによってたばね、革の腰まきをしている。顔には毛がなく、整っていて愛想がよかった。耳たぶがぎざぎざで血が流れているのは、穴をあけて何か飾ってあったのを、捕えられたときむしり取られたらしい。話す言葉は私たちには分からなかったけれど、おたがいのあいだでは流ちょうだった。そして互いに指ざしあっては「アカラ」と何度もいっていたが、これは土人の国を意味するものと思われた。それから恐怖と憎悪で顔を引きつらせながら、森のほうへこぶしを振りながら、たびたび「ドダ! ドダ!」と叫んだのは、たしかに猿人をさすものだろう。
「チャレンジャ先生はどう思います?」ロード・ジョンがいった。「私には一つだけはっきりしたことがある。あの前頭部をそったやつは、このなかの頭目ですよ。」
明らかにこの男はほかのものから離れて立っているし、ほかのものが話しかけるときはかならず深い尊敬の態度をもってした。なかでもいちばん若いらしいのだが、それでも人がらはほこり高く、チャレンジャがその頭へ手をのせると、拍車をかけられた馬のようにぴくりとして、黒い目をきらりとさせ、すぐ教授からはなれていった。それから片手を胸におき、威厳のある態度で「マレタス」という言葉を数回くりかえした。教授は平気なもので近くにいた土人の肩を捕え、それを教室で学生に示すびん詰か何かのように、それについて講義をはじめた。
「これらの種族の型は、」と声たからかに、「頭蓋容量から判断しても、あるいは顔面角度からいっても、その他どの点からみても、低級なものとはいえん。これに反して南米の種族は、わしに名をあげられるものだけでもたくさんあるが、そのなかでもこれはかなり高度のものとせんければならん。この土地にかかる種族の進化したことについての推定は、いまのところわしらにはでけん。それに関連していえば、ここの猿人とこの段地に生存しつづけてきた原始動物とのあいだには、まことに大きな隔たりがあるから、この土地で進化したものとは考えられん。」
「それでは一体どこから降ってわいたものでしょう?」ロード・ジョンがたずねた。
「その問題はもとよりヨーロッパの科学界においてまじめに論議さるべきである。この事態におけるわし自身の見解をいえば、」と教授は大きく胸をはり、ごう然とあたりを見まわして、「この土地における進化は、特異なる段地の状況のもとに|脊《せき》|椎《つい》動物の段階まで進んだが、古い型の動物も新しいものといっしょに生存した。かくしてわしらはばく[#「ばく」に傍点]――これはなかなか古い系統をもつものじゃが――とか大しかとかありくい[#「ありくい」に傍点]とかが、ジュラ紀の|爬《は》虫類と共存しとるのを見た。そこまでは明白じゃ。ところがここに猿人と段地土人とが現われた。彼らの存在を科学的にはどう考えるべきであるか? わしとしては外部から侵入したものとしか考えられん。考えられるのは南米に類人猿がおって、いつのころにかこの土地へ入りこみ、久しい期間にわしらが見たような動物にまで進化したのじゃ。なかには、」とここで私の顔をにらみつけるようにして、「容ぼうといい姿といい、通信記者に同伴するときは、現存のいかなる人種にも劣らんものもある。つぎに土人であるが、これはより後代に下の世界から移住してきたものであるのは疑いない。彼らは飢きんとか征服とかの圧迫によって、この地へ逃げてきたのじゃ。見たこともない恐るべき動物がおるので、この若い人の見たというほら穴に逃げこんだが、野獣を敵として自分たちを守るためには、相当の苦戦をつづけてきたことであろう。ことに猿人は彼らを侵入者と見なし、大きい野獣にない悪知恵をもって容赦なく攻めてきたことであろうからな。じゃから人数に限りがあるのじゃ。さて諸君、これでなぞはとけましたかな? それとも質問したい点がありますかな?」
サマリイ教授もこんどばかりは意気消沈して論議なぞする気になれなかったが、全体に異存であるしるしに強く頭を振った。ロード・ジョンはうすくなった頭をかいただけで、自分は体重がたりないから、とても一戦を交える気はないといった。私自身についていえば、土人が一人いなくなっていることを告げて、話を散文的実際的なほうへ引きおろした。
「水を汲みにいったんだよ。」ロード・ロクストンがいった。「牛肉のあきかんを一つやったら、それを持ってでかけたんだよ。」
「もとのキャンプへかい?」私がたずねた。
「いいや、小川だ。そこの木立ちのなかを流れている。二百ヤードとはあるまい。それにしてはおそいな。」
「私がいってみてきよう。」といって私は銃をとりあげ、小川のほうへ歩いていった。あとには一行が貧弱な朝食をとっていた。ここで私が力とたのむ雑木林をあとにしたのは、たとえ近距離だとはいえ分別がないといわれるかも知れないが、猿人部落からは何マイルもはなれていることだし、彼らは私たちの隠れがを知らないことが分かっているのだし、いずれにしても私の手には銃があるのだから、恐れることはないと思っていた。じつは彼らの悪がしこさや力がまだ分かっていなかったのだ。
どこか前方に小川のせせらぎが聞こえるが、木が茂っているし雑木もあるから見えはしない。その木を押しわけて進んでゆくと、残してきた一行の姿の見えなくなってからであるが、一本の木の下に何か赤いものがかん木のなかにあるのに気がついた。近づいてみると段地土人の死体であったのではっとした。手足をちぢめて横向きに倒れて、首を不自然に曲げているから、肩ごしに何かを見ているような形だ。私は大声をあげて何かよからぬことの起こったのを一行に知らせ、駆けよって死体をのぞきこんだ。そのとき守護天使がそばにいたに違いない。恐怖本能によるものか、それとも葉ずれのかすかな音であったか、私はふと頭上を見あげたのである。頭上をおおっている深い枝葉のなかに、赤い毛におおわれた二本の長くたくましい腕がゆっくり降りてくるのを見た。つぎの瞬間には私ののどにからもうとしているのだ。私はうしろへ飛びさがった。かなりす早くしたつもりだが、手のほうはそれよりも早かった。急所こそ押さえられなかったが、片手はえり首に、もう一つの手は顔にかかった。私は両手をあげてのどを防いだが、すると大きな手は顔をすべり降りて私の手にかかった。そしてかるがると私は地面からつりあげられた。たえがたい力で頭をうしろへねじ曲げられるので、首の骨が折れそうになってきた。私は気が遠くなってきたが、それでも夢中でかきむしり、相手の手をあごからはなした。見あげると、冷たく仮借ないうす青いろの目が私の目を見おろしていた。この恐るべき目には何かしら催眠的なものがあった。私にはもはや戦闘余力はなかった。相手は私がぐったりしたのを知ると、口の両がわに白い犬歯をちらりとみせ、私のあごをうしろに押さえている手に力をこめた。私の目のまえにはうすいもやがかかり、耳には小さな銀の鈴を振るような音が聞こえた。にぶい銃声がかすかに聞こえ、おやと思うと私は地上に落ち、そのまま気を失なってしまった。
気がついてみると私は雑木林のなかの草のうえに仰向けになっていた。誰が小川の水を汲んできたのか、ロード・ジョンがそれを私の頭にかけ、チャレンジャとサマリイは心配そうに私の上半身を起こした。彼らの科学の仮面のうしろに、ちらりと人間味を感じた。私をうちのめしたのは傷害ではなく、ショックであったから、三十分ほどすると起きあがって、まだ頭はいたむし、首はこわばっているけれど、さあこいという気持になった。
「それにしても命びろいをしたね。」ロード・ジョンがいった。「君の声がしたので駆けだしていってみると首を半分ねじ切られて、両足をばたばたやっているので、一行が一人へるのかと思ったよ。あわてたのであいつは撃ちそこなったが、それでも君を落としておいて一目散に逃げていった。畜生! 銃を持つものが五十人もいたらなあ。いまいましいやつらを全滅して、この段地をきれいさっぱりにしてくれるんだがな。」
どうしてやったか分からないけれど、猿人どもが私たちの居場所をつきとめたのは明らかだ。いまは四方から監視されているのだ。昼まはあまり心配もないが、夜はみんなで押しよせるかも知れないから、なるべく近いところにいないほうがよい。いまいるところは三方が森だから、どこで待伏せされるか分からない。だが一方は――湖のほうへ下りになっているが――低い雑木林になっていて、ところどころ大木もあるが空開地もある。そこはこのまえ一人で来たとき通ったところでもあり、そのまま土人のほら穴へ通じている。してみると行く道はこれしかないことになる。
一つ気がかりなことがあった。キャンプをあとにすることだ。食糧の蓄えのあることばかりではなく、ザンボーとの連絡すなわち下界との縁のきれることだ。しかし弾薬は十分あるし、銃も人員だけはそろっているから、当分は困ることもないし、当座を何とかしのいでゆけば、そのうちキャンプへ帰りザンボーと連絡のとれる機会もあるだろう。彼は現在の場所に留まると約したのだから、その言葉に忠実であろうことは疑うまでもない。
移動を開始したのは午後早くであった。若い首長が案内として先頭にたった。彼は荷物を背負ってゆくことを断固として拒絶した。そのあとには生きのこりの土人が二人、私たちの残り少ない荷物を背負ってつづいた。私たち白人は四人とも、弾ごめした銃を手に最後についた。出発すると後の密林からとつぜん、猿人どものなき声がどっと起こった。勝利の歓声なのかまたは逃げたと見てあざけったのであろうか。うしろを見かえると、密林にとざされているが、長く尾を引く叫び声によって、いかに多くの猿人どもが集まっているかが分かった。しかし追跡してくる様子はなく、私たちは彼らの力のおよばぬ空開地を歩いていったのである。
しんがりについてとぼとぼ歩いてゆくと、前をゆく三人の姿をみて思わず微笑がこみあげてきた。これがあの晩アルバニで豪華なペルシャもうせんに埋もれ、色ガラスのうす紅いろの光を受けた絵画のなかに座っていたぜいたくなロード・ジョン・ロクストンであるのか? またこれがエンモア・パークの大きな書斎で大きなデスクをまえに堂堂と座っていたチャレンジャ教授であったのか? それから最後に、これがあの動物学会の会合で演壇に立ちあがった形式ばってきびしかったあの人物だったのか? サリあたりの横町で見かける浮浪者にしても、この三人ほどあわれに見すぼらしいのはあるまい。私たちがこの段地へ来てから一週間かそこいらにすぎないのは事実だが、着換えの類はみんな下のキャンプに残してあるし、この一週間は苦難にみちたものだったのだ。もっとも私だけは猿人の虐待を忍ばずにすんできた。ほかの三人はみんな帽子をなくなすし、ハンカチを頭にまいて、服といったらぼろぼろにさがり、かみそりを使わないから、誰がだれだか見わけもつかないほどだ。サマリイもチャレンジャもひどくびっこを引いているし、私は私でけさのショックからきた弱りで足は重いし、首すじはおそろしい力でねじられたので板のようにしこっていた。何とも哀れな一行である。これではさきに行く土人が恐れあきれて何度も振りかえって見るのも無理はあるまい。
午後おそく湖の一端に達した。かん木の茂みから出てゆくと前方に水面の横たわるのが見え、土人どもはうれしさに声をあげて前方を指さした。いかにもすばらしい光景だった。ガラスのような水面にはカヌーの一隊があって、まっすぐにこっちへこいでくる。はじめ見たときは何マイルもさきだったが、たちまちこぎよせて、こぎ手にこっちの顔が識別できるまでになった。と思うまに雷のような歓声がおこった。見ると向こうは立ちあがり、かい[#「かい」に傍点]ややす[#「やす」に傍点]を高くあげて気の狂ったように振りまわした。それから再び一心にこぎはじめ、へだての水面を渡って砂浜にカヌーを乗りあげると、私たちのところへ駆けよって大きな歓声をあげながら、若い首長のまえに平伏した。結局そのなかの一人、ぴかぴか光る大きなガラスの腕環と首かざりをして、こはく色のまだらの獣皮を肩からさげた中年の男が進みよって、私たちの救った若い男にやさしく抱きついた。それからこの男は私たちを見て何か質問してから、重い威容をみせて歩みより、一人ずつ抱擁した。それがすむとこの男の命令により、一同地に伏して敬意を示した。私自身はこの大げさな礼拝には居心地の悪いくすぐったさを感じたが、ロード・ジョンとサマリイは似たような気持らしかった。ただチャレンジャだけは花が太陽をうけでもしたように、ふくらんでみえた。
「これらは未開の類型かもしれんが、」とチャレンジャはひげをなでながら土人たちを見わたして、「優越者にたいする現在の行動は、進歩したわがヨーロッパ人の一部にたいしても教訓になるじゃろう。自然人の直覚の正確さには驚くな。」
これらの土人が戦いのため出てきたのは明らかだった。各人がやり――長い竹のさきに骨をつけたものだったが――を持っているし、弓矢をもち、一種のこん棒や石の|戦《せん》|斧《ぷ》を肩からつるしている。私たちの出てきた密林を見るときの怒りをこめた黒い目や、「ドダ」という語をしばしば繰りかえすところから、これらの土人は老首長のむすこ――若い男はそれに違いないと思ったが――を救出しまたは復しゅうのための救援隊なことは明らかだった。土人はみんな車座にうずくまって会議をはじめた。私たちは少しはなれたところにある平らな玄武岩に腰をおろして、その様を見ていた。二人か三人の戦士が何か話をして、最後に例の若い男が元気よく熱弁をふるったが、表情に富み、身ぶり手ぶりがはいったから、言葉は分からないながらその言っていることはよく理解することができた。
「いまから帰ってどうするのだ?」と彼はいう。「おそかれ早かれやらねばならないのだ。君たちの同志は殺されたのだ。ここでおめおめと帰ってきたおれがどうした? おれたちにもはや安全はないのだ。ここに幸い同志は集まり、戦闘準備もよい。」といってから私たちを指ざし、「この人たちはわが味方だ。戦いには強いし、おれたち同様に猿人を憎んでいる。この人たちは、」と天を指ざして、「雷と電光を自由に支配する。こんなよい機会がまたとあるだろうか? 進撃しようではないか。そしてこのまま死ぬか、それとも将来の安全を確保するか? このままでは女たちにも恥ずかしくて帰れぬではないか?」
小柄で赤い戦士たちはこの声をしゅんとして聞いていたが、終るといっせいに称賛の声をあげ、手にした武器を高く振りまわした。すると老いたる首長は私たちのほうへ進みより、二三の質問をしながら密林のほうを指ざした。ロード・ジョンはその返事はちょっと待っておれという身振りをしてから、私たちに向かっていった。
「これからどうするかを決めるときがきた。私自身としてはあの猿人どもに借りを返してやらないじゃ。そのためにはこの地球上から彼らを掃滅することになっても、悔いることはないと思う。私はこの赤ちゃんといっしょに進撃して、一匹残らずやっつけてやりたい。君はどうするね、マローン君?」
「むろん行くよ。」
「してチャレンジャさんは?」
「わしも進んで協力する。」
「サマリイさんは?」
「それでは探検の目的からだいぶ外れるようだな、ロード・ジョン。ロンドンで教授席をはなれるとき、これが類人猿を侵略する野蛮人に荷担するためだとは、夢にも思わなかったな。」
「そんなさもしい使命をおびて来たのか。」ロード・ジョンは微笑をふくんで、「しかし今はのっぴきなりません。結局のところどうします?」
「あくまで疑問のある行動だと思う。」サマリイはどこまでも議論がましくいったが、「しかしみんなが行くというなら、私だけ踏みとどまるわけにもゆくまい。」
「それで事はきまった。」とロード・ジョンは首長のほうへ向きなおって、うなずいてみせ銃を軽くたたいた。老人は私たちにいちいち握手するし、部下はまえより高らかに歓声をあげた。その夜は進撃するにはおそすぎたので、土人たちは粗末な野営をすることになった。四方でたき火がめらめらと燃え、煙をたてた。土人のうち何人かが密林へはいっていったと思ったら、すぐ帰ってきたのを見ると、禽竜の子供を一匹つれている。これも肩のところにアスファルトの汚れがあるが、一人の土人がそばへ歩みよって、何かを承諾するような素振りを示したので、これは畜殺者に殺すことを承諾したのだなと分かった。これでみるとここの禽竜などには文明国の家畜のように所有権があり、肩についているアスファルトはそのしるしなのだなと思われた。どうすることもできず、のろまで草食のこの動物は、大きな手足をもちながら頭脳の小さな彼らは、子供にでもかり集めたり追い動かしたりできるらしい。たちまちこの大きな動物は肉片になり、十カ所あまりのもし火であぶられた。それとはべつに湖でやりを使って取ったうろこのある大きな魚もあぶった。
サマリイは砂のうえに横になって眠ったが、私たちほかのものはこの妙な土地のことをもっと知りたいと思って水ぎわを、あてもなく歩きまわった。翼手竜の沼地で見たような、青い粘土質の竪穴を二度見た。これらは古い噴火口のあとで、なぜかロード・ジョンの興味をひどくそそった。これに反してチャレンジャの注意をひいたのは、ごぼごぼと泥水をふいている噴泉だった。何か妙なガスが表面にあぶくを作っている。そのなかへあしの管を一本つっこんで、出てくるガスにマッチの火をかざしたところ、ぽっと音がして青いほのおをあげて燃えたので、チャレンジャはすっかり喜んで声をあげた。だがあしの管のさきにとりつけた小袋をふくらませ、宙にはなすと空中に浮きあがるのを見たときの喜びようといったらなかった。
「可燃性ガスじゃ。空気よりもだいぶ軽い。大部分が遊離水素じゃと思われる。G・E・Cの知謀は底知れずじゃわい。なお偉大なる精神がいかに大自然を自在に駆使するものであるかをお目にかけよう。」といって何かひそかなる目的を抱いてそりかえったが、口に出してはそれ以上何もいわなかった。
眼前に横たわる湖面はひろびろとしてすばらしいものだったが、その湖岸には何もなかった。がやがやと大勢いるので、生きものは恐れてみんな逃げてしまった。ただ数匹の翼手竜が腐肉を求めて頭上たかく輪を描いているほかは、みんな遠くへは去らずキャンプのまわりに待機していた。だが中央湖のバラ色の水面はちがっていた。そこは変った生物でもくもくと沸きかえっていた。大きな灰いろの魚で大きなのこぎり状の背びれのあるのが、銀いろの腹をみせて飛びあがり、からだをくねらせながら落ちて水中深くもぐっていった。はるかな砂州には点点と、ぶざまに腹ばいになった何かの姿、大きなかめ、妙な形のとかげなどがいた。それから黒く脂じみた革の敷物みたいな平らな生きものが一つ、のろのろと湖のほうへゆっくり移動していた。湖面にはあちこちにへびの頭が高く出ていて、首のまわりには前に小さな輪をつくり、うしろに泡の水脈を引き、白鳥のように優美に上下しながら進んでいる。それらの動物の一つが二、三百ヤードさきの砂州へのたりあがり、たるのようなからだと大きなひれ状の脚を見せたところでチャレンジャとサマリイがやってきて、驚異と感嘆の二重唱をはじめたものである。
「|蛇頸竜《だけいりゅう》だ! 淡水性の蛇頸竜だ!」サマリイが声をあげた。「生きながらえて、こんなものが見られるとは! チャレンジャ君、この世が始まって以来のどんな動物学者よりも二人は恵まれているな!」
これは夜のとばりのおりるまでのことで、蛮人どものたく火が、暗いなかに赤く輝くようになってはじめて、二人の科学者を中生の湖の魅力から引きはなすことができた。岸の暗がりに寝ころんでいても、湖に住む大きな動物の元気な鼻いきや、湖にとびこむ水音が間断なく聞こえてきた。
暁とともにここのキャンプは活気づいていた。そして一時間後には私たちは忘るべからざる遠征の途にのぼっていた。私はこれまで自分が従軍記者になった夢をしばしば見てきた。それならばどんなに烈しい戦役に従軍してそれを報告すべき運命に私はあったのか? そこで戦場から急送する第一の報告が以下の通りだ。
わが軍は夜のうちにほら穴から一団の援軍がきたので強化されていた。進撃を開始したときには総勢四、五百人になっていたろう。まず斥候の先兵が前方に出され、本隊は一団となって長いかん木の坂地を密林にむかって登っていった。密林にかかるとやり兵弓兵にわかれて長い横隊に散開した。ロクストンとサマリイは右翼につき、チャレンジャと私は左翼に加わった。戦いに向かう石器時代の軍勢のなかにあって私たちだけが、ロンドンのセント・ジェームズ街やストランドで手に入れた銃器を手にしているのだ。
長く待つことはなかった。密林のはじからそうぞうしい叫び声がおこって、こん棒や石をもった猿人どもが飛びだしてきて、土人の散兵線の中央めがけて突進してきた。勇ましいといえば勇ましいけれど、おろかな行動だった。脚の曲った畜生どもはのろいのに、相手はねこのように敏速だからである。口からあぶくを吹き目をぎらつかせた猿人どものとびつきつかみかかるのは、見ていても恐ろしかったが、相手はすばやく身をかわすばかりか、つぎつぎと矢がとんできてつきささった。一匹の大きなやつがあばらと胴体に十数本の矢をうちこまれ、苦痛にうめきながら私のそばを走りすぎた、かわいそうだから銃で頭を打ちぬいてやったら、一発でうかい草のなかへ倒れていった。だが撃ったのはこの一匹だけだった。敵襲はわが軍の中央線に加えられ、土人たちはそれを撃退するのに私たちの助力を必要としなかったからである。空開地へおどり出てきた猿人のうちで、密林へ逃げこんだものは一匹もなかろうと思う。
木のあるところへ私たちのはいっていったとき、ことは重大になった。木立ちのなかへはいって行ってから一時間あまり、私たちはわずかに持ちこたえたほどの死闘がつづいた。雑木林からおどり出た猿人は、大きなこん棒をもって土人に打ってかかり、やりをもって対抗するのだが、その届かぬさきに三、四人をまとめて打ち倒すこともしばしばだった。猿人の恐るべき強打は、あらゆるものを粉砕した。一匹の猿人のごときはサマリイの銃をめちゃめちゃにし、土人がすばやく心臓をさしぬかなかったら、第二撃で頭をめちゃめちゃにするところだった。ほかの猿人は木のうえから石や丸太を投げおとし、ときどきはこっちの散兵線のうえにとびおりてきて、結局殺されはしたが気の狂ったように戦った。一度土人軍は敵の攻撃をうけて崩れかけたが、私たちの銃のおかげであぶなく助かった。そして老首長の命令で勇敢に再び集合したので、猿人どもの旗色は悪くなった。サマリイは武器がなくなったが、私は一心に弾ごめしては発射した。そして遠くの側面からは、私の盟友たちのうつ銃声がしきりに聞こえた。そこへろうばいとつづいて壊滅がきた。泣き叫びながら猿人どもは四方の雑木林へ敗走していった。土人は歓声をあげながら追跡していった。幾代にもわたる宿恨が、この狭い土地での憎悪と残虐が、虐待と迫害のいっさいの記憶が、ここにこの日を期して洗い流されるのである。ついに人類が最高のものであり、類人猿は永遠にそれに従うべきことが分かったのだ。逃げたとはいっても、猿人どもは敏活な土人にくらべたら問題でなく足がのろかったから、深い密林のあらゆる方面から歓声、弓づるのひびき、木のうえに隠れているのが落されるどさりという音などが聞こえた。
私はあとからついてゆくと、ロード・ジョンとサマリイとに落ちあった。
「すんだよ。」ロード・ジョンがいった。「あとは土人にまかせておけばよかろうと思う。あんなのはあまり見ないほうがよく眠られるだろうからね。」
チャレンジャの目は畜殺の押さえがたい欲望で輝いていた。
「こうなるのは分かっとった。」彼は闘鶏のようにそりかえって歩きまわりながら、「歴史上の典型的な戦闘の一つじゃな。世界の運命を決する戦闘じゃ。一つの国民が他の国民を征服することの意義は何じゃと思う? 無意味じゃ。どれでも結果は一つじゃ。しかしながら時代の明けがたに穴居人が自己保全のためとら族とはげしく戦う、あるいは象が自分たちを支配するもののあるのを発見したとき、これらは真の征服である――これらは計算にあう勝利といえる。運命の不思議なめぐりあわせによって、ここにわしらはそういう勝負に手を貸しかつこれを見物した。こうなればこの段地は永久に人間のものじゃ。」
こうした乱暴な手段を正当化するには、粗野な信念を必要とした。密林のなかを一団になって進んでゆくと、やりや矢で突き刺された猿人があちこちに群をなして倒れていた。そこここには二三の土人がうち殺されているので、強い猿人が追いつめられて、最後の抵抗をこころみた場所だなと思われた。前方には叫んだりどなったりの声がたえず聞こえていた。土人の追撃の方向を示すものだ。猿人はその町へ追いつめられ、そこで最後の抵抗をしているのだが、ついに支えきれず、私たちが空開地へたどりついた時はその最後の場面だった。八十匹か百匹くらいの雄が、これが生きのこりの全部だが、二日まえに見た段地のがけぶちに追いつめられていた。土人は半円形にやりぶすまを立て、敵にせまるところであったが、一分間で勝負はついた。三十か四十はその場で殺された。あとのものは悲鳴をあげ、宙をひっかきながら垂直にちかいがけへ突きおとされ、以前に虜囚がやったように六百フィート下の鋭い竹に向かって落ちていった。チャレンジャの言ったとおりだった。メープル・ホワイト段地は永遠に人間の統御するところとなったのである。雄はこれで根だやしになった。猿人国は亡びたのである。雌と子供は奴隷として生きてゆくべく追いはらわれた。幾世紀にわたる対抗は血なまぐさい終局をつげたのである。
この勝利は私たちに大きな利益をもたらした。第一に私たちはキャンプへ帰って、残してきた品物を手にすることができた。そしてザンボーとまた連絡をとることもできた。彼ははるかに猿人が雨のようにがけから落ちてくるので、おびえきっていた。
「逃げてきなさい! 逃げてきなさい!」彼は目もとびだすほど恐怖におののいていた。「そこでまごまごしてると、悪魔にさらわれますぞ!」
「あれは正常の声だ。」サマリイが確信をもっていった。「冒険はもうたくさんだ。われわれの性格からみても立場からいっても適当ではない。チャレンジャ君、私はどこまでも君の言葉を信頼する。今から全力をあげてこのうす気味わるい土地から脱出して、文明社会に帰れるよう努力してくれたまえ。」
一五 この目で不思議を見た
私はこの通信を一日一日と書いているが、終りまで書かないうちに、雲間から光がさして来るということになるのではないかと思う。さしあたり脱出の目当てもなくこの地に閉じこめられており、そのことにはひどくいらだっている。それでもいつかは、心にもなくこの地に閉じこめられ、この不思議な土地を、そこに住む動物の驚異を見たのを喜ぶ日のいつかは来るのを思うことができる。
段地土人の勝利と猿人の絶滅は、私たちの運命の分岐点となった。このとき以後、私たちは段地の真の支配者となった。土人が彼らの世襲的敵軍を不思議な力で絶滅してやった私たちを、恐怖と感謝のまじった気持で見あげたからである。彼らとしてはおそらく、恐るべく底の知れない私たちのこの地を去るのはうれしいに違いないが、それでもどうしたら下の平野へ帰れるかを教えようとはしなかった。彼らの身振りで分かったかぎりでは、どこかにトンネルがあって下へ降りられるらしい。その下の口はいつか下から見たあれだろう。この通路によって、時代は違うと思うが、土人も猿人もこの地へ来たものに違いなかろう。メープル・ホワイトも同伴者をつれて、ここから上がってきたのだ。しかしながらたった一年まえに大地震があって、上の穴は完全にふさがってしまった。私たちが降りたいという意志を示しても、土人たちはかぶりを振り、肩をすくめて見せるばかりだった。彼らには降りられないのかも知れないが、同時に私たちを助けおろしたくもないのだろうか。
野戦が勝利におわると、生き残りの猿人族は段地の一カ処に追い集められ(その号泣はあわれであったが)土人のほら穴の近くに場所をきめて住まわされ、ここで土人の監督のもとに奴隷の生活に入ることになった。まさにバビロンにおけるユダヤ人、エジプトにおけるイスラエル人虐待の粗野で生硬な原始的再現である。夜になると密林のなかから長く尾を引いた叫び声が聞こえ、太古のエゼキール(ヘブライの大予言者―訳者)が偉業の亡びたのを悲しみ、今はない猿人町を思いおこしているかに思われた。木|挽《び》き水汲みなどがこれから彼らに課せられる仕事である。
戦闘が終って二日目に、私たちは何人かの土人を連れてキャンプへ帰り、材料をもってきて土人のほら穴の下に新しいキャンプを構えた。土人はほら穴に同居させたがったが、ロード・ジョンが断じてそれには反対した。もし土人が裏ぎりでもしたら、彼らの意のままにされるというのである。だから独立を保ち、非常時に備えて武器はいつでも使えるようにした。一方土人とはきわめて友好を保った。またほら穴をしばしば訪ねた。人工によるものか天然のほら穴であるか分からなかったが、きわめて驚くべきところだった。穴はたくさんあるがいずれも同じ地層のうえにあり、赤みがかったがけをなす火山性玄武岩のなかの軟質の岩をくりぬいたもので、穴の底は硬い花こう岩になっていた。
入り口は地上約八十フィートのところにあり、大きな野獣には登れないほど狭くて急な石段をのぼってゆくようになっていた。内部は暖かで乾燥していた。深さはまちまちだが直線的に奥へ進んでおり、なめらかで灰いろの両壁は木炭で描いたいろんな段地動物の絵で飾ってあった。もしこの地の動物が一掃されても、将来の探検者はこのほら穴の壁に、この地に最近までいた動物相――恐竜、禽竜、魚とかげなど――を見ることができるであろう。
大きな禽竜に所有者があって、家畜として飼われており、歩く食肉にすぎないのだと知ってから、土人たちは素ぼくな武器しか持たないながら、この段地の支配権を確保してきたことを認めた。だがすぐに、そうではなくて、ただ寛容によって生存をつづけているにすぎないと分かった。キャンプを土人のほら穴の近くに移してから三日目に、その悲劇はおこった。その日チャレンジャとサマリイは湖へ出かけていた。そこでは土人が何人か、二人の命令によってもりで大とかげの標本をとっていた。ロード・ジョンと私はキャンプに残り、何人かの土人はほら穴の前の傾斜した草地でいろんなことをしていた。とつぜん急を知らせる叫び声がどこかで起こり、百人にあまる人の口から「ストア」という語が聞かれた。四方八方から男や女や子供が狂ったように逃げてきて、先を争って石段をのぼりほら穴にかけこんだ。
見あげると彼らは岩のうえから両手を振って、早く逃げてこいといっている。どんな危急なことが起こったのかと、私たちは連発銃をひっつかむなり走り出た。近くの木立ちのほうから十人あまりの土人が、命からがら逃げてくるあとから、いつか私の追いかけられたような怪物が二匹、追っかけてくる。形は大きながまで、ひょいひょいと飛ぶように動いているが、大きさが大型の象よりも大きいという途方もないやつである。これまで夜にしか見たことがなく、本来夜行性の動物なのだが、この場合のように寝所を乱されればべつである。からだにはいぼ[#「いぼ」に傍点]があってしみだらけで、魚のようににじ[#「にじ」に傍点]色の皮膚は日光をうけてたえず変化するので、私たちはぽかんとして見物していた。
だがぽかんと見てばかりもいられなかった。あっというまに怪物は逃げる土人に追いついて、ものすごい虐殺をはじめたからである。その方法は全体重をもって押し倒し、圧死させておいてつぎへ移るのである。哀れな土人は恐怖の悲鳴をあげたが、止まるところを知らぬ怪物の恐るべき活動にあってはどうすることもできなかった。私たちが救援に乗りだすまでには、一人二人とやられて、もう五六人しか逃げる土人は残っていなかったろうか。救援に乗りだしたといったが、効果はほとんどなく、かえって私たちの身が同じような危険にさらされることになった。二百ヤードばかりの距離から弾倉をからにするほど銃火をあびせかけたのに、紙つぶてを投げつけたほどのこともないのである。鈍重な|爬《は》虫類の性質として傷には平気で、活動力も害されなかった。特別の脳中枢というものがなく、|脊《せき》髄に分散されているから、近代武器でやられてもさほどに感じないのであろう。私たちにできる最大のことは、銃の|閃《せん》光と爆音によって注意をそらして、進行をはばみ、そのあいだに土人も私たちも安全なほら穴へ逃げこむ時間をかせごうというのである。だが二十世紀の円錐爆弾も土人の毒矢、きょう竹とう科の植物の汁に浸してから腐肉のなかにつけたものほどの効果はなかった。そういう毒矢が野獣狩りに有効でないのは、循環ののろい体内では作用の現われるのがおそく、体力の弱るまえに攻撃者におそいかかるからである。だがいま、二匹の怪物が石段のあがり口まで私たちを追いつめたところで、頭上のがけの割れ目という割れ目から、毒矢がうなりをなして雨のように降りかかった。たちまち怪物はみのを着たようになったが、少しもへこたれた様子はなく、無気力な怒りをみせて石段に手をかけよたよたと登りかけた。だが不器用に二三段のぼると、どさりと音をたてて下へ落ちてしまった。ついに毒がきいてきたのだ。一匹のほうは深くとどろくうめき声を発して、巨大で扁平な頭を地に落とした。もう一匹は鋭い鳴き声をたててそこいらを丸い環を描いてのたうっていると思ったら、はげしい苦痛に身もだえして、そのまましゃちこばって動かなくなってしまった。土人たちは歓声をあげてほら穴から出てき、群をなして石段を降り、怪物の死体をとりまいて熱狂的におどりくるった。敵のうちもっとも危険なやつをまた二匹殺したので、うれしくてならないのだ。その夜のうちに死体は切りさいてわきへ運んだが、食べるためではない――毒がまだ利いているから――害毒を生じないようにというのである。だが大きな|爬《は》虫動物の心臓は座ぶとんほどの大きさがあり、ふくれたり縮んだり、まだその場所で静かにゆっくりと鼓動して、恐ろしい生命力を見せていた。神経中枢が衰弱して、恐ろしいものがまったく動かなくなったのは、それから三日後であった。
いつの日にか私は肉かんよりもつくえによいものが、ちびた鉛筆の代りが、そしてぼろぼろのノートの代りが手にはいったら、アカラ土人のことをもっと詳しく書きたいと思う。土人のあいだでの私たちの生活を、驚くべきメープル・ホワイト段地で私たちの経験した変った状況の見たままを書きたい。記憶は少なくとも私に生命のあるかぎり、決して失なわれないであろうこと、子供のころの最初の変ったできごとをはっきり覚えているようなものだ。どんな新しい印象も、これほど深く印せられたものをぬぐい消すことはできない。時がきたらあの月明の夜のすばらしい大湖のことを書こう。あのときは魚竜の子――見たところあざらしのようでもあり魚のようでもあり、鼻づらの両側に骨をかぶった目があって、頭のうえにも第三の目がある不思議な動物だが――が土人の網にかかって、あやうく私たちのカヌーをひっくりかえされるところを、うまく岸へ引きあげたものだった。同じ晩には緑いろの水へびがあしのあいだから出てきて、チャレンジャのカヌーのかじ取りをとぐろのなかに巻きこんで、どこかへつれ去った。それに夜の大きな白いもの――獣であったか|爬《は》虫類であったかはいまだに分からない――とにかく湖東のきたない沼地に住んでいて、暗夜にかすかな|燐《りん》光をはなちながら飛びまわっていたもののことも書かねばならない。土人はこれをひどく恐れて、その場所には近づこうともしなかった。私たちは二度探検に出かけ、二度ともそこを見はしたけれど、沼が深いのでその住んでいる場所を通りぬけることはできなかった。私にいえることは、それが牛よりも大きいらしく、じゃ香のような妙なにおいのすることぐらいのものである。それからある日、大きな鳥にチャレンジャが追っかけられて、岩かげに逃げこんだことがある――だ鳥よりも大きな走行鳥で、はげたかのような首で残忍な頭をしていたから、そのまま歩く死だといってよかった。チャレンジャが安全な場所へはいあがるのを、追っかけてきたその鳥は乱暴にも曲った口ばしでそのくつのかかとを一気につみとってしまった。まるでのみで切りとったようである。こんどはしかし近代武器の勝ちであった。大きなやつは、頭から足まで十二フィートはあったろうが――息をきらしながらも喜んでいる教授に従えば、フォロラクスという鳥類だそうだ――羽根をばたばたさせ、足をもがき、無慈悲な黄いろい目を光らせながら、ロード・ロクストンの銃弾のもとに倒れた。生きのびてこの獲ものがオルバニの彼の部屋に記念品として、平べったい邪悪な頭骨となって飾られるのを見たいものだ。最後にトキソドンのことを、十フィートもあるテンジクネズミで、のみのようなとび出した歯をもつ動物のことを書きたいが、これは早朝のほの暗いころ湖のほとりで水をのんでいるところを殺してしまった。
これらのことはいつの日か、もっと詳しく書くつもりだが、そのときはこの目の回るような毎日のなかにあって、この美しい夏の夕ぐれのことや、深みある青い空の下で密林のはずれの長い草の上に仲よく寝ころびながら、頭上をかすめてゆく奇妙な鳥や、森に近い隠れ場からこっちをうかがっている珍奇な初めて見る動物に目を見はったりしたことなぞ書きたい。一方では頭上の大きな枝に香りたかい果実がたわわにみのり、地上には草のなかに見たこともない美しい花がのぞいていた。またあの月の美しい夜に湖上へ出ると、気まぐれな何とも知れぬものが突然水面へおどり出るので、大きなさざ波の環がひろがってゆくのに驚いたりもした。あるいは水中深く暗いなかに妙な動物がいて、緑がかったきらめきを認めたりもした。
しかし諸君は反問せられるであろう、お前たち一行はいかにしてその秘境を脱出し、外界に立戻るべきかその手段方法を日夜攻究すべき時にありながら、なぜそのような見聞に日を送っていたのかと。その答えはこうである。私たち一行は一人としてその目的のため身を入れないものはなかったのだけれど、それが一つとして成功しなかったのだと。一つの事実を私たちは早くも発見していた。土人が私たちを助けるようなことは一つもしないのだ。ほかのことではあらゆる点で私たちの味方だった――献身的な奴隷だとまでいってもよかった――しかしがけの割れ目へわたす板を作ったり運んだりを頼むとか、私たちの助けになるロープを作るための革ひもかつる植物を所望するかすると、悪い顔こそされなかったがかならず断わられた。まずにこにこして目に愛きょうを浮かべてみせるが、それきりで頭を横に振っておしまいである。老首長もがん強に拒否したし、私たちの助けてやった若いほうの男マレタスもいやいや身振りで示したところによると、望みをかなえられぬのは残念だとあった。猿人に輝かしい勝利をおさめてからというもの土人は私たちのことを、妙なつつ形の武器によって勝利をおさめる超人と見、私たちがこの地に留まるかぎり幸運は彼らのものだと信じこんでいた。故郷を忘れて幾久しくこの段地に住みついてくれるなら、小さくて皮膚の赤い妻と専用のほら穴を私たちのそれぞれに与えようとも提案してきた。私たちの真の希望がどうであれ、みんな親切ではあったが、脱出の実際的計画はかたく秘密にしておく必要を感じた。彼らが力ずくで私たちをこの地に抑留するかも知れないとおそれたからである。
恐竜の危険をおかして(この危険も夜以外は大きくない。前にも書いたと思うがこのものは夜行性だからである)私はこの三週間に二度、がけの下で見張りをつづけている黒人に会うためもとのキャンプへ行った。私は目をこらして、祈りつづけてきた救援の手をはるかなるかたに見はしまいかと、大平原を見わたしたが、あちこちにさぼてん[#「さぼてん」に傍点]のある大平原は何のこともなく、遠くの竹林の水平線まで空白だった。
「マローンさん、もうすぐ来ますよ。一週間とたたぬうちに、土人はロープをもって帰ってきて、あんたがたを降ろしてあげますよ。」わがザンボーはこういってはげましてくれた。
この第二回目のときは一晩をキャンプですごすことになったが、その帰りに妙なことを経験した。よく知っている道を帰ってゆき、翼手竜のいる沼地から一マイル以内のところを歩いているとき、途方もないものが近づいてくるのを見た。竹を曲げて作ったわくのなかに人がはいって歩いてくるのだ。四方をつり鐘がたにかこんだなかに人がはいっているのだが、近づいてみるとその人というのがロード・ジョン・ロクストンなのであった。私を認めると彼はその妙な防衛物からぬけ出してきて笑いながら私のほうへ歩みよってきた。笑ってはいるがその様子にはいくらか取り乱したところがあった。
「やあマローン君、こんなところで君に遭おうとは思わなかったよ。」
「いったい何をしているんです?」
「翼手竜君に会いにゆくところさ。」
「それはまた何のために?」
「おもしろい動物だからね。そうは思わないかい? ただ無愛想な先生だよ! 知らないものが行くとたまらなく乱暴をするやつだ、君も覚えているだろうがね。それでこのわくをこさえたんだが、これがあればそうひどい目にあうこともあるまい。」
「それにしても沼地なんかへはいっていって、何がしたいのです?」
彼はひどくもの問いたげな目で私を見たが、そこにはためらいがあった。
「教授以外の人間だって、ものを知りたいのだとは思わないかい?」しばらくしていった。「僕はあのかわいいやつを研究してやろうと思うのだ。これだけいえば君にはわかるだろう。」
「わる気はありゃしませんよ。」
彼はきげんをなおして笑った。
「そう、わる気はね。僕は悪魔の子供を一匹つれてきて、チャレンジャに進呈しようと思うのさ。これからの仕事のうちだがね。なあに、君が来てくれることはないさ。僕はかごのなかにいるから安全だが、君はそうはゆかない。じゃさようなら。晩までにはキャンプへ帰るよ。」
そういって彼は去った。見送ると、おかしなかごのなかにはいって、木立ちをよちよちとぬけてゆくところだった。
このときのロード・ジョンの行動が変っていたとすれば、チャレンジャのそれはこれに輪をかけたものだった。彼は土人の女にたいして異常な魅力をもっていたように思う。いつでも大きくひろがったやしの葉をもっていて、女たちがあまりうるさくつきまとうと、はいでも払うようにそのやしの葉で追いはらった。コミック・オペラのサルタン然と、威信の表象を手に、黒いあごひげをぴんと前へ出して、一足ごとにつまさきをあげながら、目の大きな黒いすんなりした衣服をまとった土人娘をぞろぞろあとに従えながら歩いているところは、私の記憶のなかへたたんで帰るいろんな風景のうち、もっとも珍妙なものの一つだった。サマリイについては、段地におけるこん虫ならびに鳥類の生活に夢中で、時間の大半を(相当の部分を、チャレンジャが目前の困難を打開しようと努力しないといって、ののしるのに費したが)その標本の整理と取りつけに暮らした。
チャレンジャは毎朝単身でぶらりと出かけてゆき、大きな企画を双肩に担った人のように、苦りきった不吉な顔をしては帰ってきた。ある日やしの葉を片手に、教授が好きでたまらない娘たちをぞろぞろと従えて、私たちを隠れた仕事場へつれてゆき、秘密の計画をうちあけた。
その場所はやし林のなかの小さな空開地だった。ここにはすでに述べたどろ水のぶくぶく泡をふいている|間《かん》|歇《けつ》|泉《せん》の一つがあった。そのまわりに禽竜の皮を切って作った革ひもが何本か散らばっており、湖でとれた魚とかげの胃袋をこそげて作ったと思われる膜様のものが一つ、ぺちゃんこになって落ちていた。この大きな袋は一端をぬいあわせ、反対がわには小さな口があいていた。この口には竹くだが何本かさしてあり、竹の他端は|円《えん》|錐《すい》形の粘土のじょうごにさしこんであって、このじょうごには泥の噴泉からふきあげるガスが集まるようにしてあった。まもなくぐにゃぐにゃの物体は静かに膨張しはじめ、上昇しようとする傾向を見せたので、チャレンジャは袋につけてあるひもをそばの木の幹につなぎとめた。三十分ばかりでかなり大きな気球ができあがって、革ひもがぐんぐん引っぱられるところを見ると、かなりの浮力があるらしい。チャレンジャは初生児を前にした父親のようににこにこして、ひげをしごきながら黙って立っていたが、自分の頭脳の創作物を見て満足しているらしかった。まず沈黙を破ったのはサマリイである。
「それで空へ昇る気じゃなかろうね、チャレンジャ君?」辛らつな調子でいった。
「こいつの力を十分証明してみせるつもりじゃったがな、サマリイ君、こうして物を見たのじゃから、いまは信頼するに少しもちゅうちょはないじゃろうな。」
「そんな考えはすぐに頭から捨てるとよい。」サマリイはきっぱりといった。「私ならどんなことがあっても、そんなバカなことを思いつきはしない。ロード・ジョン、君だってこんな気違いめいたことに賛成はしないでしょう?」
「これはすばらしい思いつきだと思う。」わが貴族はいった。「これがどんな具合に作用するか見たいものだな。」
「それはいまに見られる。」チャレンジャがいった。「わしはここ数日というもの、知力をしぼって、どうしたらこのがけを降りられるかの問題ととっくんできた。このがけがただでは降りられんことも、トンネルなんかないことも十分たしかめた。ここへ来たときのように、あのとがり岩に橋のかけられんこともよう分かっとる。それでどうしたら一行を運び去ることができるか? しばらく前にわしはこの若い友人に、|間《かん》|歇《けつ》|泉《せん》から遊離水素の出とることに気のついたことを言うたことがある。それで気球のことを思いついたのじゃ。とはいうものの、気球にする袋を見つけるのにはたと行きづまった。じゃがここの|爬《は》虫類の巨大な内臓のことに思いついて、問題は解決した。その結果を見てもらいたい!」
片手をぼろぼろのジャケツのポケットに突っこみ、もう一つの手をさっとあげた。このときまでに気球は相当ふくらみ、ひもをぐんぐん引っぱっていた。
「愚の骨頂だ!」サマリイが笑いとばした。
ロード・ジョンはこの思いつきを喜んだ。「老人やるじゃないか?」私に小さい声でいって、「乗りかごはどうします?」
「乗りかごはつぎの問題じゃ。どう作ってこれに取りつけるか、案はちゃんとある。いまはただわしの装置がうまいこと諸君を支えられるかどうか、その点だけお目にかけるとしよう。」
「みんな乗るのですか? 大丈夫ですか?」
「いいや、わしの計画では一人ずつパラシュートで降りるじゃ。気球はそのたびに引きもどすのじゃが、これは何の困難もない。一人の体重を支えて静かに下降しさえすれば、それで要求は満たされたことになる。ではその意味でこれに能力があるかどうか、お目にかけるとしよう。」
チャレンジャはかなりの大きさの玄武岩を持ちだして、気球のひもに結びつけやすいように中央にすえた。このひもはとがり岩に登るとき使ったのを持ってきたものである。長さは百フィートあって、太くはないけれどきわめて強かった。彼は犬の首輪のようなものを用意していたが、この革の首輪にはひもがたくさんついていて、首輪を気球にかぶせるとひもが四方にぐるりと垂れたのを、下で一つにまとめて結んだ。こうしておけば荷重が広く分散されるわけだ。それから玄武岩のかたまりをひもの結び目にくくりつけ、木の幹に結んであるひもを解いて、教授の腕に三度まきつけた。
「ではこれから、」とチャレンジャはうれしい予想ににこにこしながら、「わしの気球の運送力を立証してお目にかけよう。」といって木の幹につないであるひもをナイフで切りはなした。
わが探検隊が全滅にひんするこんな危険にさらされたことは一度もなかった。水素ガスでふくらんだ気球はその瞬間非常な速度で上昇をはじめた。同時にチャレンジャはそれに引かれて足が宙に浮いた。すかさず私はその腰に抱きついたが、その私まで宙につりあげられた。その両脚にロード・ジョンがいきなりしがみついた。だがそれでもダメで、やはり宙に浮いてゆくようだった。私ははっとして、四人がソーセージみたいにつながって、探検していた土地の上空にのぼってゆくのかと思ったが、幸いにもロープの耐力には限度があった、いまいましいながら気球の上昇力にはそれがないかに思えるけれど。プツリと音がしてつなが切れ、私たちはどさりと地に落ち、ロープの残りがその上へ落ちてきて輪を作った。よろよろと起きあがってみると、青い空のはるかのところに、黒っぽい点が見えていた。玄武岩が速度をはやめて上昇しているのだ。
「みごとじゃ!」剛胆なチャレンジャがいためた腕をさすりながら叫んだ。「申しぶんのない実証じゃった。これほどまでうまいことゆくとは夢にも思わなんだ。一週間以内に第二の気球を作りあげて、帰国の第一歩を安全確実に踏みだすことを約束するからな。」
ここまでは、上記のできごとの一つ一つを起こるがままに書いてきた。だがこれからは、長いことザンボーの待っているがけ下のもとのキャンプにいて、頭のうえにそびえる赤いがけの上に、あらゆる困難も危険も夢のように捨ててきて、話をまとめあげようとしているのだ。思いもよらぬ方法ではあったが、私は無事に段地を脱出した。みんな丈夫である。六週間か二カ月でロンドンへ帰れるだろう。この原稿も私たち自身よりもそう早く到達することはなかろうと思う。心ははずみ、魂はなつかしの故国へ、ロンドンへと飛ぶ思いだ。
私たちの前途に変化をもたらしたのは、チャレンジャの手製の気球によるあぶない冒険をしたその日の晩であった。段地を脱出したいという私たちの希望にいくらかでも同情の色を見せた男が一人あるといったが、これは私たちの命を助けてやったあの若いほうの首長である。彼だけは私たちを段地に引きとめておこうとするような意志は見せていなかった。しきりにいろんなことを身振り手振りで話しかけていた。その晩に暗くなってからキャンプへやってきて私に(どういうものかいつでも私にだけは人なつこかった。年齢的にもっとも近いからであろうか)小さな木の皮をひろげたものを見せて、それからおごそかに頭上のほら穴の列を指さし、秘密のしるしに口びるに指をあててみせ、そのままそっと自分たちのところへ帰っていった。
私はその皮の切れっぱしを火あかりにかざし、みんなものぞきこんだ。一フィート角くらいのもので、内がわに妙なものが書いてあった。それをここにうつしておく。
[#画像入る。誰か画像つけて放流し直して。お願い。]
木の皮の内面の白いところに木炭で巧みに書いてあり、ざっと書いた楽譜か何かに見えた。
「何だか分からないけれど、私たちにとって重要なものであることは、たしかですね。」私がいった。「そのことはあの男の顔で読みとれましたよ。」
「悪ふざけでないとすればだな。」サマリイがいった。「悪ふざけというやつ、人類の発展段階ではごく初歩のものだからね。」
「いや、あきらかに何かの文書なのだと思う。」チャレンジャがいった。
「一ギニ懸賞の題のようだな。」ロード・ジョンが首をながくしてのぞきこんだが、とつぜん手をのばしてその判じ物をつかんだ。「分かった! マローン君のいったのがあたっている! 見たまえ! このすじはいくつある? 十八だ。あのほら穴の数が十八あることを思いあわせてみたまえ。」
「そういえばこれを私にくれたとき、あの男は上を指ざしたな。」私がいった。
「だからさ、それできまった。これはほら穴の図面なんだ。十八が一列になって、浅いのもあるが、あるものは深い。枝のあるのもある。すべてこないだ見てきた通りだ。これは地図なんだ。
しかもここにはバッテンがある。バッテンは何のためだろう? しかもほかよりも深いのについている。」
「下へぬけられるのです!」私が叫んだ。
「この若い友人がなぞを解いた。」チャレンジャがいった。「このほら穴が下へぬけられるのでなかったら、わしらに好意をもつと思われるあの男が、わしらの注意をひくようなことをするはずがない。じゃが穴はぬけとるとしても、その口はこっちの口と高さがそう違うわけはないから、がけを百フィート以上降りる必要はないじゃろう。」
「百フィートねえ!」サマリイが不平そうにいった。
「でもロープは百フィート以上ありますよ。」私がいった。「大丈夫降りられますよ。」
「穴のなかの土人の様子はどうかな?」サマリイはそれでも不安である。
「穴のなかに土人はいませんよ。みんな物置きに使っているのです。これからすぐに行って、内部を調べても少しもかまいません。」
段地には乾燥した油質の木――植物学上は南米すぎというのだが――があって、土人はいつもたい松に使っていた。私たちは手に手にこれを一束もって、雑草のはえた石段を図にバッテンで示されたほら穴へと登っていった。まえにはいったようにそこはがらあきだった。ただおびただしい数のこうもりがいて、はいってゆく私たちの頭のあたりを飛び回った。意図を土人に知られたくなかったから、暗いなかを手さぐりで、何度か曲りくねってかなり進んでからはじめてたい松に火を点じた。乾燥した美しいトンネルで、灰いろのなめらかな両方の壁には土人が何かのしるしを描いていた。頭のうえはアーチ形をなし、下は白く光る砂だった。気のはやった私たちはわれがちにと急いだが、がっかりしたことにはまもなく行き止まりへ来てしまった。前方は切りたった岩壁で、ねずみ一匹はいこむすきはない。ここからは脱出できないのだ。
思いもかけぬ障害に失望落胆して空しく立っていた。いつかのように穴がつぶれたわけではない。ここはまったくの行止まりなのだ。
「心配することはないよ、きみ。」チャレンジャは不屈だった。「わしのかたく約束した気球というものがまだあるからな。」
サマリイはただうめいた。
「ほら穴をまちがえたんでしょうか?」私がいった。
「そんな心配はないよ。」ロード・ジョンが図面を指でおさえて、「右から十七番目で、左から二番だ。これでいいのだ。」
私は彼の指でおさえているしるしを見たが、急によいことに思いあたった。
「分かったと思いますよ。こっちです! こっちへ来てください!」
私はいま来たところを急いで引きかえし、「ここですよ。」とたい松を地に落ちているマッチの棒にさしつけた。「ここであかりをつけたのです。」
「それはそうだ。」
「そこでこれは枝のあるほら穴としてしるしがついているのです。たい松をつけるまえに、暗いなかで分岐点をそれと知らずに通りすぎてしまったのです。これを戻ってゆくと右手により深いほら穴の入り口がかならずありますよ。」
その通りだった。三十ヤードとは行かぬうちに、大きな穴がくろぐろと壁にあいていた。すぐそこへはいっていったが、こっちは穴がぐんと広かった。そこを息をきらして急いでゆくと、数百ヤードとはゆかないうちに、とつぜん行く手の暗いなかに赤黒い微光がみえてきた。おやと思ってじっと見つめた。一面に静かに燃えるような光が行く手をふさぐように見えた。私たちは無言でそのほうへ急いだ。音もなく熱もなく、そこからは動きも感じられなかったが、ただぼうっと明るい大きな幕をはったようで、あたり一面が銀いろに感じられ、足もとの砂はきらきらと宝石のように光り、さらに近づくと丸くりんかくが見えるようになった。
「やあ、月だ!」ロード・ジョンが叫んだ。「突きぬけたぞ! 出られるのだ!」
がけにあいた穴からまっすぐに見えているのは満月なのだった。小さな、窓くらいの大きさの割れ目だが、出るには十分の大きさだった。首をのぞけて見おろすと、降りるのもそう困難ではないようだ。下界まではそう遠くもない。この部分ではがけが彎曲をなしているから、下からは穴の口が見えず、登ってみる気も起こらなかったから、これでは下からでは何も分からなかったのも不思議ではない。これならロープを使えば降りられるとみて満足し、あすの晩の実行を準備するため、よろこび勇んでひとまずキャンプへ引きあげることにした。
どたん場へきても土人は何とか引きとめるかも知れないから、ことは迅速かつ秘密に行なう必要があった。銃と弾薬のほかはすべて置いてゆくことにした。ただチャレンジャはやっかいな荷物があって、ぜひ持ってゆきたいというので、特別荷物を一つ作ったが、その内容のことは言わないでおくけれど、これには何よりも骨を折らされた。一日はながく感じられたが、それでも暗くなるころには出発準備はすっかりできていた。荷物を石段の上へあげるのにはうんと骨がおれたが、あげてしまってからこの変った土地をこれが最後だと思って見わたした。ここはやがて有名になり、狩猟家や鉱山師に荒らされ俗化することだろうが、私たちにとってはどこまでも神秘とロマンスの夢の国であり、いろんなことがあり、苦しみかつ学んだものだ――私たちの国といつまでもやさしくこう呼ぶことにしよう。左のほうへ並ぶほら穴からは、それぞれ赤みがかって陽気な火の光が暗がりに流れ出ており、下の斜面からは土人の笑いや歌声が聞こえてきた。向こうには一帯の森があり、その中央には大きな湖が、怪物どもの母なる光が暗いなかにぼんやり光っていた。見ている間にも不気味な動物の呼び声である叫びがやみのなかに聞こえた。メープル・ホワイト段地が私たちにさよならをいっているのだ。私たちは向きなおって、母国への第一歩をほら穴のなかへと踏みだした。
二時間のちには、荷物など所有物いっさいをもって、私たちは無事がけ下へ降りたっていた。チャレンジャの荷物をのけたら、何らの困難はなかった。荷物をそっくりその場へおいて、すぐにザンボーのキャンプしているところへ向かった。その近くへ到達したのは早朝であったが、見ると驚いたことに火は一つでなく、十以上も燃えている。救援隊が到着したのだ。二十人ばかりの土人が河のほうから棒やロープや、そのほかとがり岩から橋をかける材料をもって来ていた。こうなったら残してきた荷物の運搬のことも心おきなく、あしたはアマゾン河に向かって帰途につける。
というわけで私は控え目な、感謝にみちた気持でこの原稿をむすぼうとしている。私たちの目は世にも奇妙なものを見てきたし、魂は私たちの堪えてきたものによって鍛えられた。各人はそれぞれの方向でよりよき人、より深みある人間になった。パラへ着いたら、身支度その他を整えるためしばらく滞在するかもしれない。そうなったらこの原稿はさきに発送しよう。そうでなかったら私と同時にロンドンへ着くことになる。いずれにしても、親愛なるマカードル氏よ、遠からずしてあなたと握手できるものと信じます。
一六 行進! 行進!
帰途アマゾン流域の人たちから示された絶大なる好意と厚遇に対して、ここに深く感謝の記録を残したい。特にペナロサ氏以下ブラジル政府の役人が特別の配慮によって援助されたことに感謝し、パラのペレイラ氏にも謝意を表したい。この人の深慮によってこの町であらかじめ用意されていた品によって身支度を改めることができ、見苦しくなく文明世界へ降りてゆくことができたのである。主人役や恩人をあざむいたのでは、重々の親切をうけた身には帰るに帰られないようにも思われるが、事情が事情であるから何とも致しかたなかった。私たちの歩いてきた道をさかのぼってみようとするのは、時間と金の空費になるだけだということを、改めてここに明言しておきたい。こんどの探検行については地名さえ変えてあることだし、どんなに綿密に調べたって、私のいう秘境からは千マイル以内に近づくことさえできないであろう。
私たちの通過してきた南米のこれらの地方にまき起こした興奮は、きわめて局地的なものだと思っていたし、またイギリスにおける友人たちにも言っておきたいが、一行の経験がヨーロッパ中にまき起こした単なるうわさが、大騒ぎとなっているなどとは少しも知らなかった。イヴェルニア号がサザンプトン港から五百マイル以内のところまで帰航すると、新聞社や通信社がつぎつぎと無線電信をよこして、こんどの事績につき簡単な返電をくれるなら、多額の謝礼をするといってくるまで、学界のみならず一般公衆までがいかに緊張しているかは知らないでいた。しかし私たちは、そもそもこんどの探検の使命を与えられたのは動物学会である以上、そこへの報告をすますまでは、新聞社などへ明確な声明を発すべきでないというに意見の一致をみていた。かくしてサザンプトンへ帰港してみると、港は新聞記者でごった返していたが、私たちは情報の供与を絶対に拒否し、十一月七日夜と発表されていた学会へと自然に大衆の関心を集中することになったのである。私たちの仕事はじめの場所と予定されていた動物学会ホールはあまりに手狭だと分かったので、リジェント街のクイーンス・ホールしか便宜の会場はないということになった。後援者がアルバート・ホールへあたってみたとしても、これまた手狭であるというのは、今は誰でも知っている。
大会は私たちの帰着後二日目の晩ときめられていた。第一に私たちはいずれも、没頭しなければならぬ私用を控えていたこというまでもない。私のことについては今はいえない。問題が私から遠ざかるに従って、考えられもしようし、感情に捕えられずに話すこともできるようになろう。この物語のはじめのほうで、行動の源泉となったもののことを語った。だからこの話をすすめるとともに、その結果を明示するのが正しいかも知れない。しかし語るしかないという日も来ることだろう。少なくとも私は押しやられてこの驚くべき冒険に参加したものであるが、いまは私を押しやったその力に感謝しないではいられない気持だ。
さてここでわが冒険の最高点のことにたち戻らなければならない。それをどう説明したものかと頭をしぼっていると、十一月八日のわが社の朝刊に、同僚であり友人であるマクドーナがすばらしいペンで詳しくそれを報じているのが目にとまった。見出しから何からそれを転写する以上の文章が私に書けるだろうか? その事に関するかぎり記事の内容は華麗であったと認めるが、他紙もこれに勝るとも劣らぬものを出していた。以下マクの報ずるがままを書き写そう。
[#ここから2字下げ]
新世界
クイーンス・ホールにおける大集会
大騒動の光景
異常の事件とは何か?
リジェント街の夜の騒乱
(特別記事)
[#ここで字下げ終わり]
「南米大陸に有史以前の生物がいまなお存続するというチャレンジャ教授の主張を実地検討するため、昨年同地へ特派された調査委員会の報告を聴取するため召集された動物学会の問題の会合は、昨夜クイーンス大ホールで開催されたが、この会合の進行は出席者の|何《なん》|人《ぴと》もおそらく忘れ得まいと思われるほど異常で人騒がせなものであったから、思うにこの日は将来科学史上の祭日ともなるであろう。」(記者仲間のマクドーナよ、何という恐ろしい書きだしをしたものだ!)「入場券は原則として会員とその友人に限定されたが、後者はまことに弾力的で、行事の開始時刻に予定された八時よりも久しい前から大ホールの各部分は満員となった。しかし一般大衆は入場を拒否されたことにいわれなき不満をもち、八時十五分まえに入口に殺到、しばらく押しあいとなりH分署のスコーブル警部の脚部骨折という不幸をふくめて相当数の負傷者をだすに至った。この不当なる乱入によって通路という通路に人があふれたのみならず、記者席にまで押し寄せるに至ったが、このため場内にあって遠路帰来した客の入場を待ちうける客は総数五千に近いと見積られるにいたった。やがて入場した一行は、わが国のみならずフランス及びドイツの一流科学者の待ちうける演壇の前列に着席した。スエーデン代表も列席していたが、その名をあげればウプサラ大学の有名な動物学者セルギウス教授である。四人の主役の入場は大歓迎の表示の合図となり、一同は立ちあがって歓声は数分間鳴りもやまなかった。しかし目のするどい人なら聴衆のなかにそれに不同意の表示をするもののいることに気づき、この会合がかならずしも平和裏に経過せず、相当荒れるものと予想したであろう。さりながら|何《なん》|人《びと》にも、実際の経過があれほどまでに荒れようとは予想できなかったであろう。
四人の放浪者の外見については、先般来各紙に写真が出つづけているから、詳しく述べる必要はあるまい。彼らはさまざまの困難をなめてきたというが、その形跡はほとんど見られない。チャレンジャ教授のひげはいくらかもじゃもじゃの度を加えたといえようし、サマリイ教授はいくらか禁欲的なところが強化され、ロード・ジョン・ロクストンの姿はいくらかほっそりしたように見えるだけで、三人ともさきに母国をあとにした時に比して色が黒くなりはしたが、どの人も健康には申し分がないようだった。つぎにわが社の代表であり、有名なる運動家でもあり国際ラグビ選手であるE・D・マローンは徹底的の鍛錬をうけたらしく、上きげんの微笑をもって聴衆を見わたした顔は、正直ではあるがじみなものだった。」(よしッ、マック、一人のところをつかまえるから待ってろ!)
「場内が静粛になり、探検家たちを大騒ぎして歓迎した聴衆が席につくと、ダーラムの公爵である議長が開会を宣した。『議長はこの多数の会衆とその前にならべられたごちそうとのあいだを、長くじゃましようとは思わぬ。委員会のスポークスマンであるサマリイ教授のいわんとするところを先まわりして述べるつもりはないが、世間のうわさによればこんどの探検行は異常の成功をおさめたということである。』(拍手かっさい)『ロマンスの時代はいまだ亡びぬらしく、小説家の奔放きわまる空想も、真実探究者の事実に即したる科学的調査の結果と一致するものがあると考えられる。本議長は席に戻るにさきだって一言だけ述べておきたいが、これらの紳士諸君が困難なる事業を完成して、からだを損なうことなく無事帰還せられたことを議長は喜ぶものである。――来会の諸君とて同様であろう。――かかる探検にいかなる災害といえども伴なうときは、動物学に取り返しがたい損失をきたすものであるのは否定しがたい事実だからである。』(大かっさい。これにはチャレンジャ教授も親しく加わっているのが見られた)
「サマリイ教授の起立は、第二の異常な熱狂の突発する合図となり、それは教授の発言中まをおいて相次いで起こった。発言の内容はこの欄には詳報しない。探検隊の冒険の詳しいことは、わが社特派通信員のペンによって付録として発行されることになっているからである。だからここには一般的状況をいくらか述べれば十分であろう。まず一行の旅の起因を述べると、友人であるチャレンジャ教授への推賛の辞を呈し、その主張は今や全面的に正しいと立証されているが、疑念を抱いたことを謝してから、実際の旅程を、好奇にもこの驚くべき段地を突きとめようとする公衆に手掛りを与えないよう注意を払いながら、説明した。河畔を出発してから絶壁のふもとに達するまでの旅程の大体を説明してから、何とかそれを登ろうと努力し苦心を重ねるが失敗ばかりした話で聴衆を魅了し、最後に必死の努力が成功しはしたが、そのために献身的だった二人の混血土人が生命を絶った次第を物語った。」(この驚くべき見解は、この会合で疑問をもたれるようなことがあってはならないというサマリイの配慮の結果である)
聴衆を想像力のうえで頂点に導いておき、橋が落ちたことによってそこに孤立させておいて教授は、その驚くべき段地における恐怖と魅力のことを述べた。個人的な冒険にはあまり触れなかったが、もっぱら段地の動植物鳥類虫類の観察について、科学上の豊富な収獲を開陳した。わけても甲虫類|鱗《りん》|翅《し》類については詳しく、数週間の観察によって一方は四十六、一方は九十四の新種標本を手に入れた次第を語った。しかしながら大衆の興味の中心はより大きな動物、ことに久しいまえに絶滅したと考えられている大きな動物のことに無理もなく集中した。これらについてはりっぱな一覧表が用意されていたが、地域を入念に調査するときは、幾多の追加がなされるであろうことも疑いなかった。教授ならびに一行は少なくとも十種以上のそういう動物を見かけたが、いずれもある距離をへだててではあったけれど、いずれも現在の科学で認められていないものであった。これらはそのうちに分類し研究されるであろう。教授は一つのへびを引例した。そのぬけがらは濃い紫いろで、長さが五十一フィートあった。また|哺《ほ》乳類と考えられる白い生物の例をあげて、これは暗いところではあざやかな|燐《りん》|光《こう》を放った。また黒い大きな|蛾《が》の例をあげて、これに刺されると猛毒があると土人は信じているともいった。これらまったく新しい動物のことはしばらくおき、段地には現在科学的に知られている有史前の動物、ジュラ紀の初期の動物がきわめて多数いる。なかでも巨大でグロテスクな剣竜のことに触れた。これは湖畔で水を飲んでいるところをマローン君が認めたものであり、かの米人画家兼冒険家がこの未知の地に初めて踏みこんだ際スケッチ・ブックに描き残したものでもあった。つぎに禽竜と翼手竜にも言及したが、これは一行が最初に見かけた驚異であった。それからまた食肉性の恐るべき恐竜を説明して聴衆を震えあがらせた。これは一再ならず一行中の誰かを追っかけたやつで、段地で出あった動物のうちでもっとも恐るべきやつだった。ついで巨大な猛鳥フェロラカスのことを述べ、いまなお段地上に横行するおおしかのことに及んだ。だが聴衆の感興と熱狂をかきたてたのは中心湖の神秘を説いたときだった。気のふれているわけでもない実質的な教授が、冷静かつ正確に、三つ目の魚とかげやこの魔の湖水に住む巨大な水へびの話をするのだから、聞くものは自分をつねってみて夢でないのを確かめねばならなかった。つぎに教授は土人のことに触れ、類人猿の途方もない集団のことに言及、これはジャワの直立猿人の進化したものと見られるし、だから系列上欠けているものと思われる仮説的生物にいかなる既知の形よりも近いということになる。最後に教授はいくらか起こった笑声のうちに、チャレンジャ教授の巧妙ではあるがきわめて危険を伴なう航空上の発明のことに触れ、委員たちがついに文明世界へ帰還する方法を発見した忘るべからざる一節を述べて講演のむすびとした。
講演はこれで終り、ウプサラ大学のセルギウス教授の動議によって、感謝と祝辞の投票がそれに続くものとみなは思っていたが、事はそう円滑にはこばなかった。反対のある徴候はずっと見えていたのであるが、ここでエディンバラ大学のイリングワース博士がホールの中央で立ちあがった。そして決定するまえに修正を加えるべきかどうかというのだ。
議長『修正の必要があればですな。』
イリングワース博士『閣下、その必要を認めます。』
議長『では直ちにその動議を採択します。』
サマリイ教授(おどりあがって)『お許しを得て説明いたしたいが、この人物は「季刊科学誌」において深海性物質の真の性質につき論争いたして以来の個人的論敵であります。』
議長『個人的問題はここでは取りあげぬことに致したい。』
探検家に味方するものが猛烈に反対するので、イリングワース博士のいうことは一部分しか聞きとれなかった。博士を力ずくで座につかせようとするものもあった。しかし博士は法外に強い体力があり、声にも力があるので、騒ぎを押さえ、発言をつづけてそれをむすんだ。博士の立ちあがったときから、場内には味方や同調者のいることが明らかだったが、大聴衆にくらべたらその数はわずかなものだった。大多数の動向は注意ぶかく中立を守るにあった。
イリングワース博士はチャレンジャ教授ならびにサマリイ教授の科学上の業績をたたえる旨の発言からはじめた。『ところがまったく科学上の事実への探究心からのみ述べたところを、個人的偏見によるかのごとく見られるのは遺憾である。事実自分の立場は前回の会合においてサマリイ教授のとったところと実質上同一である。前回の会合においてチャレンジャ教授はある種の主張をなし、同調者から疑問をいだかれた。いまやこの同じ同調者は同じ主張をひっさげて立ち、疑問なく通過するものと期待したのである。これが合理的であろうか?(然り、否の声が起こり、しばらく発言が妨げられた。このあいだに記者席では、チャレンジャ教授が議長にイリングワース博士を往来へ放り出せといっているのが聞こえた)一年まえにある男があることをいった。いま四人の男がそれとは違うが真に驚くべきことをいった。これは問題が革命的ともいうべき途方もないことであるのに、決定的な証拠となるのであろうか? 未知の国から旅行者がある種の話を持ちかえり、それがあまりにも容易に受けいれられた近ごろの例はある。ロンドン動物学会は問題をかくのごとく扱うのであるか? 委員会の構成員はいずれも人格の士であるのを認める。しかしながら人間性は複雑である。教授といえども有名になりたさの故には踏みはずしもするであろう。|蛾《が》のごとくにわれらはあかりのなかでばたばたやるのを好む。狩猟家は猟がたきの手柄話の上をこしたがる。記者にしても目ぼしい特ダネがあれば、いやではあるまい。たとえ一部想像を加えねばならぬ場合でもだ。委員会の各員は、おのおの結果をかざりたい動機があった。(『恥を知れ! 恥を知れ!』)何も人の気持を害しようというのではない。(『お前は害するぞ』の声あり、しばらく中断)これらの驚くべき話には、確証ともいうべきものは、きわめて薄弱である。何があったか? 写真が何枚かあった。写真に巧妙なる操作の行なわれる現代において、これを証拠として採用してもよいものであるか? それ以上何があるか? ロープによってがけを降り脱出したがために、多くの標本を失なったということであるが、まことに巧妙ではあるけれども信ずるには足りない。ロード・ジョン・ロクストンはフォロラカスの頭がい骨を持っているといわれたやに了解するが、自分としては見せてほしいものだというだけである。』
ロード・ジョン・ロクストン『この男は私のことをうそつきだというのか?』(場内騒然)
議長『これは言語不穏ですぞ! 秩序を忘れないで! イリングワース博士、早く結論を出して、修正案の提出を命じます。』
イリングワース博士『まだ発言は残っておりますが、あなたの判定には従います。では提案しますが、サマリイ教授にはその興味ある講演に感謝するとともに、すべてはいまだ立証せられざる事柄として、大がかりな、より信頼すべき研究委員会にかけらるべきものと考えます。』
この動議によって会場が混乱におちいった模様を詳しく書くのはむずかしい。聴衆の少なからぬ部分が、旅行者に加えられたこのような非難にたいする憤慨を、異議の大声や、『委員会付託はいかん!』『引っこめ!』『つまみ出せ!』などの叫び声に表わした。一方不平分子は――これがかなりの数にのぼったことは否定できないが――動議にかっさいし、『秩序を保て!』『議長!』『公明正大に!』などの叫び声が起こった。後列のほうでは乱闘がはじまり、医学生たちの密集しているところではこぶしが乱れ飛んだ。騒ぎが大混乱におちいらないですんだのは、多数出席していた節度ある婦人の感化のおかげであった。それでもふいに場内が静かになり、しんとしてきた。チャレンジャ教授が立ちあがったのである。その顔つきや態度には妙に人を引きつけるものがあり、片手をあげて聴衆を制すると、場内は何ごとを言いだすのかと水を打ったようになった。チャレンジャ教授は口をきった。
『このまえの会合において一席講演するの栄を得ましたわしとしまして、今回と同様のおろかにして無礼なる場面のありましたことは、列席の諸兄の記憶のなかに存することと信じます。あの際はサマリイ教授が主たる反対者でありました。今は同教授も洗練され悔いておられますが、あの件は忘れ去ることができないのであります。今晩もまた同様のことを耳にしましたが、これはより以上に不快なものであり、いま着席されましたる人物の異見ありますなれど、この人物の心的水準まで自己を引きさげるは内心の努力容易ならぬものを要しても、|何《なん》|人《びと》の内心にも潜むことのあるべき論理的疑念をはらすため、進んでそれを実行してみる所存であります。』(笑声、しばらく中断)『委員会の長であるサマリイ教授は、今晩発言のためまずここに立ったのでありまするが、それでもこの問題にたいする真の原動力たるはこのわしなのでありまして、この委員会に何らかの業績ありとしまするならば、それは主としてこのわしの功績であること申すまでもないのであります。わしはすでに述べたる地点へとこの三人の紳士を導き、お聞きのごとくわしの前回の探検行で得たる資料の正確であったことを信ぜしめたのであります。わしらは帰国にあたって、|何《なん》|人《びと》もわしら共同の結論に論ばくするごときことはないものと信じたのでありまするが、まえの経験に照らして、理論的な人をも納得せしむるに足る証拠を持たずして帰国いたしたわけではないのであります。サマリイ教授によって説明されたがごとくに、わしらのカメラは猿人にキャンプを略奪されたとき、めちゃめちゃに荒され、ネガは大半ダメになりました。』(あざけりやじり、笑声が聞こえ、「もう一席」という声がうしろのほうから聞こえた)『いま猿人のことを申したが、いまわしの耳に達した物音のあるものは、この興味ある動物を経験したときの記憶をまざまざと思い起こさせるもののあることを言わざるを得ん。』(大笑い。)『かくも多数の貴重なるネガが破損したにもかかわらず、段地における生物の状況を示す確証的写真の相当数が収集品のなかに残っとる。これらの写真もまた偽造品であるというのであるか?』(「然り」の声あり、かなりのあいだ話は中断されたが、あげくに五六人が場外へつまみ出された)『ネガはその道の大家の手によって検討されておるが、これ以上いかなる証拠が必要であるというのであるか? 脱出のときの状況の関係上、大きな荷物の搬出は不可能であったが、サマリイ教授の収集になる|蝶《ちょう》およびかぶと虫類の多くの標本はこれを救い得た。このなかには多数の新種がある。これでも証拠とはいえぬであろうか?』(「ノー」の声があちこちに起こった)『ノーというたのは誰であるか?』
イリングワース博士(立ちあがりながら)『私どものいうのは、かかる収集は有史以前の段地以外でも可能だというにあります。』(かっさい。)
チャレンジャ教授『もちろんであります。お名まえは広く知られていないようでありますが、貴下の科学者としての泰斗ぶりには大いに敬意を表せねばなりません。しからば写真も|昆虫《こんちゅう》学上の収集品もしばらくおき、つぎにわしらが持ち帰ったところの、もっとも変化に富みしかも正確なる資料を提供すると致そう。これはいまだかつて公開されたことなき資料である。たとえば翼手竜の(よただの声あり場内、騒然)翼手竜の日常の習性であるが、これを明らかにしたい。この動物の生態を模写したものが折りかばんにはいっておるから、これをお目にかけて……』
イリングワース博士『絵では何事も信じられませんな。』
チャレンジャ教授『そのものを見せろといわれるのですか?』
イリングワース博士『もとよりです。』
チャレンジャ教授『お見せしてもよろしいが、何事も引きうけますか?』
イリングワース博士『もちろんです。』
この晩の最大の扇情的場面のおこったのはこの時であった――科学的会合の史上にいまだかつてその比を見ないセンセーショナルな場面である。チャレンジャ教授は片手をたかくあげて何かの合図をした。するとわが同僚E・D・マローン氏が席をたって演壇の裏へはいってゆくのが見られた。彼はすぐに大柄な黒人と二人で現われ、こんどは大きな四角い荷づくり箱を二人で運んできた。よほど重いとみえて、よちよちと運びいれるとチャレンジャ教授の足もとへ置いた。場内はしんとなり、みんな目をすえてそれを見ている。チャレンジャ教授は横へすべるようになっている箱のふたをとった。教授は箱のなかをのぞきこみ、何回か指をならしたが、「よし、よし、いい子だな」とあやしているのが記者席へ聞こえた。そのすぐあと、がたがたいう音とひっかくような音がして、胸のわるくなるような恐ろしい動物が現われ、箱のふちにとまった。あまりのことにダーラム公爵はオーケストラ席へころげ落ちたが、大勢の聴衆は仰天してしまって、そんなことはまるで心にとめなかった。その怪物の顔は、中世の狂った建築家が空想を表現したガーゴイルにも比すべき醜怪なものであった。二つの目を炭火のように光らせて、悪意ある恐ろしい顔をしている。半ばあけたままの長い口からは、ふかのような鋭い歯が二列に並んでみえた。肩が丸っこく盛りあがって、そこへ色あせた灰いろのショールのようなものをまとっていた。子供のころ聞かされた悪魔そのものだった。聴衆は騒然となった――悲鳴をあげるものもあるし、前列の婦人が二人、席についたなりで失神した。演壇からも議長につづいてどやどやとオーケストラ席へ降りてゆくものがあった。満場は恐慌におちいる危険があった。チャレンジャ教授は動揺を静めようと両手を高くあげたが、この動きはかえってそばの怪物を刺激した。怪物は妙なショールのようなものをあげると、革のような翼をひろげた。とっさに教授は手をのばしてその脚をつかもうとしたが、及ばなかった。とびたった怪物は、十フィートの革の翼をひろげて、クイーンス・ホールのなかをゆっくり飛びまわった。腐ったようないやな臭気が場内に満ちた。二階席の聴衆は、光る目や恐ろしい口ばしがすぐそばまでくるので、恐れて声をあげたが、その声が怪物を興奮させた。しだいに早く、逆上してやみくもに壁やシャンデリアにぶつかりながら飛びまわった。『窓を! たのむから窓を閉めてもらいたい!』教授は演壇からわめいたが、心配でならないらしく、おどったりはねたりしながら手をもみあわせた。だが、残念ながらこれもおそすぎた。壁にそってガス灯のかさのなかの大きな|蛾《が》のように、どしどしぶつかりながら飛んでいた怪物は、口のあいているところへくると、恐ろしいからだをそのなかへ押しこんで、出ていってしまった。チャレンジャ教授はいすへしりもちをついて、両手に顔を埋めてしまった。聴衆はこれで一応無事におさまったと知って、ほっと長い安心のため息をもらした。
それから――おお、それから起こったことをどう描写したらよいであろうか――大多数のあふれんばかりの喜びと、少数の反発者とが一つになって熱狂的な大きい波となり、うしろのほうからさかまき、しだいにその数をましてオーケストラ席を一なめにし、演壇をうずめて、四人の英雄たちを波頭にあげて運びさった。」(マックよ、よく書いた)「聴衆は今まで公正に欠けるところがあったとしても、これで十分つぐないはできた。総員立ちあがっていた。みんな動きまわり、声をあげ、何か身振りをしていた。四人の旅行者をまっ黒にとりまいた。『胴あげ! 胴あげ!』という百人もの声がかかった。あっというまに四人は群衆の頭のうえにさしあげられていた。皆は何とか押しわけて外へ出ようと骨折ったがダメだった。名誉の座に閉じこめられた形のままなのである。いくらあせっても、降ろしてもらうことはできそうもなかった。それほどまわりをとりまく群衆の層があついのである。『リジェント街へ! リジェント街へ!』という声がかかった。ぎっしりつまった群衆のなかにうず巻きがおこった。そして四人を肩にしたまま、ゆるい流れが入り口のほうへ向かった。いったん表へ出ると異常な光景が展開した。十万を下らぬ群衆が待ちうけていたのだ。密集した人だかりはランガム・ホテルの向こうがわからオクスフォード・サーカスまで続いていた。四人の冒険家が人々の肩のうえにかつがれて、ホールのそとの明るい電灯のもとに現われると、どっと歓呼の叫びがどよめきとなって迎えた。『行進! 行進!』の声がかかった。街路いっぱいにあふれた群衆は密集したまま行進を起こし、リジェント街からペルメル、セント・ジェームズ街、ピカデリの主要街路のほうへ行進した。ロンドンの中心区の交通はすっかり断たれ、示威運動者と巡査やタクシ運転手のあいだに、あちこちで紛争が起こったという。それでも最後には、夜半をすぎてからだったが、オルバニのロード・ジョン・ロクストンの部屋の入り口で四人は解放され、元気あふれる群衆は『みんな陽気なよい連中』を合唱してから、『ゴッド・セーヴ・ザ・キング』の国歌をうたってからプログラムを終った。ロンドンがしばらくぶりに見た異常なひと晩はかくして幕をとじたのである。」
以上がわが友マクドーナの書いた記事であるが、書きぶりのはでなところはあるにしても、前後の情景はかなり正確であると思ってよい。多くのことはあっけにとられるほど聴衆には意外であったろうが、私たちにとっては言うを要せぬことながら、そうでもなかった。読者は私が護身用のわく[#「わく」に傍点]のなかにはいったロード・ジョン・ロクストンに会ったとき、彼がチャレンジャ教授のため「悪魔のひよっ子」を取りに行くのだといったことを覚えておられるだろう。それに段地を脱出するとき教授の荷物に手こずったことも暗示しておいた。帰りの航海の模様を私が詳しく書いたなら、いまわしい同伴者の食欲を腐りかけた魚でなだめるのに、どんなに苦労したかも言わなければならなかったろう。このことにつき多くをいわなかったのは、もちろん教授の熱望によるもので、もし私たちのつれ帰っている答えるわけにゆかぬ問題につき、論敵をやりこめるまえにうわさの流れるようなことがあっては困るというのである。
ロンドンへきた翼手竜のことについて一言しておく。この点については何も確実なことはいえない。二人のおびえた婦人が、あれはクイーンス・ホールの屋根に、まるで悪魔の像のように数時間とまっていたと証言している。つぎの日の夕刊には、コールドストリーム近衛連隊のマイルズという兵が、マールボロウ・ハウスの外で勤務中に、許可なくして勤務地をはなれ、軍法会議に付せられることになった。マイルズ兵のいうには、ふと顔をあげると月とのあいだに悪魔が見えたので、銃を捨てておいてペルメルのほうへ逃げだしたというのだが、軍法会議では認められなかった。それでも問題点に直接関係があるのかも知れない。このほか私のあげ得る唯一の証拠は、フリースランドという汽船の航海日誌であるが、これはオランダ―アメリカ航路の定期船で、あの翌朝九時にスタート、みさきを右げん船首にみて十マイルの速度で航海していると、やぎとも大こうもりともつかぬものが高く飛びゆくのを見たというのだ。西南の方向へ異常な速さでとんでいったという。帰巣本能が正しい路線をたどらせたとすれば、ヨーロッパ最後の翼手竜は大西洋のあら海のどこかで見られることだろう。
つぎにグレディスだが――おおわがグレディスよ!――神秘の湖グレディス湖は、いまや中央湖と名を改めなければならない。私は彼女の性質のなかにこつんとくるもののあるのをいつも見ていなかったか? 彼女は私を通じて不滅性を発揮するとは思えないからである。私は、誇りをもって彼女の命令に従っていた時代にも、恋人を命を失なうかその危険へ追いやるとは、哀れな恋愛だと思っていたではないか? 私は本心から、顔の美しさなど払いのけ、彼女の胸の奥をのぞいてみるとき、いつでもその裏に移り気と利己的なわがままとがぼんやりと見え、払えども去らなかったのを覚えていないだろうか? 彼女はまた英雄的なものや劇的なものを、それが貴いものであるが故に愛したろうか? それとも何らの犠牲を払うことなしに、それが彼女に反映してくる光栄のために愛したのであろうか? あるいはこれらの考えは、事のあとへくる空しき知恵なのであろうか? とにかく私にとっては生涯のショックであった。そのため一時私はすねものにされた。しかしもうあれから一週間がすぎた。そしてロード・ジョン・ロクストンと重大な会見をした。その結果――いや、事はもっと悪くなることだってあるのだ。
簡単に話そう。サザンプトンへ着いてみたら、手紙も電報も待ってはいなかった。ただごとならずと私は半狂乱になり、その夜の十時ごろにストリータムの小さな別荘へ駆けつけた。彼女は死んだのか生きているのか? 彼女の気まぐれを満足さすため命をかけた男を迎えるひろげた両腕と笑顔と賞賛の辞とは、期待するほうの夢であったのか? 私は高いがけを飛び降りて、大地にがっしりと立っていた。それでも何かよい理屈があって、もう一度雲のうえへあげられまいものでもない。私は庭の小路を急いで、ドアをたたいた。なかでグレディスの声がするので、目をみはる女中を押しのけておいて、居間へはいりこんだ。ピアノのそばのかさのついたスタンドの下の長いすに座っていた。私は三歩でそれに近づき、両手で彼女の両手をとった。
「グレディス! グレディス!」
彼女はびっくりした顔で見あげた。どこともいえず様子が変っている。両眼の表情、見あげるかたい顔、きゅっとむすんだ口びるが私に向けられている。彼女は手を引っこめた。
「どうなさるおつもり?」
「グレディス! どうしたことだ? 君は僕のグレディスではなかったのか――わがグレディス・ハンガトンでは?」
「いいえ。わたしグレディス・ポッツよ。ご紹介します、これがわたしの夫です。」
人生とは何とバカげたものだろう! 気がついてみると私は機械的に、私の専用だったはずの腕かけいすにそれまで深く納まっていた小柄で赤毛の男に頭をさげ、握手をかわしていた。たがいにひょいと頭をさげ、うす笑いをした。
「父がここに居させましたの。私たちの家はもうすぐできますわ。」
「そうですか。」
「ではパラで私の手紙ごらんになりませんでしたの?」
「いいえ、そんなもの受取りませんでしたよ。」
「まあ、お気のどくな! あれをごらんになれば、何もかも分かりましたのに。」
「いや、手紙は見なくても分かりましたよ。」
「ウイリアムにはあなたのことをすっかり話しました。私たち秘密は何もありません。あなたにはお気のどくでしたけれど、でも大したことではありませんわね、私をひとりここへ残しといて、世界の向こうがわまでも行っておしまいになれるあなたなんですもの。お気を悪くしていらっしゃらないわね?」
「いや、そんなことはありませんよ。さあ、そろそろ帰りましょう。」
「飲みものでも差しあげましょう。」小男はこういってから、さも打ちとけたように、「いつでもこうだったんでしょ? あなたが一夫多妻主義者なら話はべつでしょうがね、お分かりでしょう?」といって、私がドアのほうへ行くのにバカのように笑声をたてた。
戸外に出たら急に気まぐれな衝動がおこったので、うまくやったライヴァルのところへ引きかえしたら、もじもじとベルのボタンを見つめていた。
「一つおたずねしたいのですが。」
「筋道のたつことなら答えましょう。」
「どうやって成功したのです? 隠れた宝をさがしていたのですか? それとも偶然ですか? あるいは海賊のまねをしたのですか? 海峡を飛びこえたのですか? いったいどうしたのです? ロマンスの魔術はどこにあるのです? どうやってものにしました?」
男は人のよい愚鈍でいじけた小さな顔に困ったような色を浮かべて、じっと私を見ながら、
「それは少し個人問題に立ちいりすぎると思いませんか?」
「じゃ一つだけたずねましょう。あなたは何です、職業は?」
「弁護士事務所の書記です。チャンサリ・レーン四一番のジョンスン・エンド・メリヴェールの次席書記です。」
「さようなら!」と一こといって私は、うらがなしく打ちひしがれたヒーローのようにやみのなかへ消えていった。胸の底には悲しみと怒りと爆笑とが、煮えたぎる湯のように沸騰していた。
もう一つちょっとした場面を。それで私の書くことは終りだ。ゆうべ私たちはロード・ジョン・ロクストンの部屋へ集まって食事をともにしたが、そのあとで仲よくタバコをやりながら、すぎさった冒険のことを語りあった。こうしたちがった環境のもとに、よく知りぬいた顔や姿を改めて見るのは妙なものだった。チャレンジャがごう然たる笑みを浮かべている。上まぶたがたるみ、偏狭な目をしている。けんか腰のあごひげ、大きな胸部、サマリイに向かって法則を説き来たり説きさるところは例の通りである。一方サマリイも、うすい口ひげとやぎひげのあいだにブライアのパイプをくわえ、やつれた顔に熱意をみせて押しだすように、チャレンジャの発言の一語ごとに食ってかかる。最後にこの部屋の主人だが、しかめつらの鋭い顔に冷たい青い目を鋭く光らせ、いたずらっぽく見えはするがその底にはいつもユーモアをたたえているのだ。これが三人の最後の印象で、私はいつまでも忘れない。食後に彼の書斎――ピンクに輝き、数知れぬ記念品にかざられた部屋だが――へはいるとロード・ジョンは私たちに話すことがあるという。古い葉巻の箱をとりだして、テーブルのうえの自分に近くおいた。
「このことはもっと早くお話すべきだったでしょうが、私としては立場をもっとはっきりさせてからにしたかったのです。希望をもたせておいて、突きはなすようなことをするのはよくありません。しかしこれは事実です。単なる希望ではありません。いつだったか沼地で翼手竜の群生地を発見したときのことを覚えているでしょう、どうです? ところであのとき私はある種の地勢のことに気がつきました。あなたがたはお気づきがなかったと思うから、こうして申しあげるのです。あれは青い粘土のいっぱいつまった火山性の穴でした。」
二人の教授は思いだしたか、うなずいた。
「ところで私は、青い粘土のある火山性の穴を一カ所だけ知っています。それはキンバーリのド・ビアスというダイヤモンド鉱山です。お分かりですか? そこでダイヤモンドのことが頭にきたのはお分かりでしょう。私はあの鼻もちならぬいやな動物をさけるため、妙なものを工夫しました。小さなショベルをもってあのなかへはいり、あそこで幸福な一日をすごしました。そのとき手に入れたのがこれです。」
こういって葉巻箱のふたをとって傾け、ただの石としか思えないものを二十か三十テーブルのうえへ出した。小さいのは豆くらい、大きいのはくりの実くらいある。
「それならそうと、あのときすぐに言うべきだったとおっしゃるでしょう。それはそうでしょうが、私としては用心しないと、いろんなおとし穴があると思ったのです。大きさはいいのですが、色や堅さをはっきりさせないと、これは価値のないものかも知れません。そこでひとまず持って帰って、こちらへ着いたその日のうちにスピンクスの店へ一つだけ持っていって、ざっと磨いて評価してくれと頼みました。」
こういってポケットから丸薬入れをとりだし、そこから美しいダイヤモンドを一つこぼし出してみせた。見たこともないほどの美しさである。
「これがその結果です。みんなで二十万ポンド(一ポンドは今のカワセレートで約千円―訳者)だと評価しました。もちろんこれは私たちみんなで公平に分配すべきものだと思います。それでなければ承服できません。どうです、チャレンジャさん、五万ポンド手にしたら何に遣いますか?」
「気前のよいその計画を、あくまで実行するといわれるなら、わしは私設博物館を設立したい。ながいあいだわしの夢じゃったものな。」
「サマリイさん、あなたは?」
「教員をやめて、白|堊《あ》層化石の分類に生涯をささげたい。」
「私はよく整った探検隊を組織して、」とロード・ジョン・ロクストンがいった。「あのなつかしの段地をもう一度探検する費用にしたいと思います。そして君は、マローン君、もちろん幸福な結婚生活に入る気だろうね?」
「まだそこまではね。」と私はくやしい微笑をうかべて、「君さえ承知してくれるなら、そのときは君と行をともにしたいね。」
ロード・ロクストンは何もいわなかったが、日にやけた手をテーブルごしに私のほうへのべて握手を求めてきた。
解説
シャーロック・ホームズ物語の作者コナン・ドイル(一八五九―一九三〇)にはほかにも小説の著作は多い。分量ではおそらく数倍に達するであろう。大別して歴史小説、スポーツまたは冒険小説、科学小説に分けることができる。ここに訳出したのは科学小説のなかのThe Lost World(一九一二)の一編である。
科学小説というものは、科学そのものが時代とともに進歩するから、これを面白く書くのはむずかしい。昔フランスにジュール・ヴェルヌ(一八二八―一九〇五)という作家があって、科学小説をたくさん書き好評を博した。そのなかに「八十日間世界一周」という作があり、日本にも訳され評判になったものだった。当時にあっては八十日で世界を一周するというのは驚きであったろうが、いまは八十時間を要しないで一周できるであろう。これなどはよい例といえよう。
イギリスにH・G・ウェルズ(一八六六―一九四六)という作家があった。科学小説をたくさん書いたが、そのなかにThe Invisible Man(一八九七)というのがある。映画化されて「透明人間」という題で日本でも上映されたから、見た人もあろう。ドイルのこの作は前記ウェルズの作品に刺激されて書いたのだといった人があるが、真相はわからない。一八九七年と一九一二年では時代がちとへだたりすぎるから、おそらく真相はそうではあるまい。
この小説は十年ほど前にも映画化されたようだが、こんどまた映画化されて東京では昨年暮ごろ封切られたようだ。こんどもまた訳者は見る機会がなかったが、映画ではヘリコプタなど使ってなかなか大がかりなものだったらしい。しかしそんなものを使ってはある意味ではぶちこわしだろうと思う。脱出不可能という不安が解消してしまうからである。
科学小説は科学そのものの進歩発展によって無意味なものになるといったが、この小説に限ってそんな不安はない。出てくる動物は有史以前のものだが、これは化石類から解明されたもので、今後科学がいくら進歩しても新しい化石の発見されぬ限り、有史以前の動物の実態にそう大した発展はないと思うからである。
もう一つこの小説には竹のことが出てくる。イギリスには竹は自生していないから、作者はがけから落ちた人体が竹につきささったと書いているが、国内至るところ竹が自生していてその生育状況をよく知っている日本人の目でみると大いにへんだ。ドイルはおそらく竹細工か何かを見ただけで、自生の状況は知らずにこれを書いたものだろうと思う。後年彼は世界中を講演して回ったから、自生している竹を見る機会はあったろうと思う。そしてこの小説に書いたことの誤りを知ったろうけれど、それでも訂正は加えなかった。このことは「シャーロック・ホームズ物語」にもある。読者からの指摘によって明らかに誤りとわかっていても、つべこべと強弁して自説をまげないのだ。私が旧制の中学生のころ、そういう弁明が「ストランド」という雑誌に出ているのを見た。シャーロック・ホームズは最初の中編二つを除いてすべて、当時創刊されたこの雑誌に出たのだが(戦後は廃刊)たしか「美しき自転車乗り」のなかに、自転車のタイヤの跡によってその走った方向がわかるとあるのを、読者からそんなことのわかるはずがないといってきたのに対する弁解の文章だったようだ。まちがっていても一度書いたものは改めないというのがイギリス風のフェアプレイというものであろうか。
最後にもう一つ、この小説はむずかしい議論があったり有史以前の動物が出てきたり、だいぶしちめんどうなように思われるが、すべて滑稽小説だと思って読むのがよいと思う。へんにくすぐり小説になっていないところがイギリス流なのだと思う。ロクストンという男も一風変った人物なのだが、へたに訳すとくすぐり小説になると思って、訳文は少し加減したから、この点は読者におわびしなければならない。
この小説にはチャレンジャChallengerという人物が出てくる。これは実際にはあまりない姓のようであるが、姓でなく普通名詞と考えれば「|挑戦《ちょうせん》者」という意味がある。では作者はどうしてこんな妙な姓を与えたのかというと、その理由はつぎに述べる「チャレンジャ探検隊」からきたのではないかと思う。イギリスでは政府援助のもとに探検船を出して、太平洋、大西洋、南極洋の物理学的、生物学的調査をしたことがある、それぞれの大学教授の乗りくんだ大がかりなもので、その船をチャレンジャ号といって、一八七二年から七六年にかけて行なわれ、一八九五年に正式の報告書が出されている。なかなか野心的なものであったから。それでこれをとってこの小説の主人公の名にしたのだろうと思う。
一九六一年八月
[#地から2字上げ]訳者
本作品中、今日の観点からみると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに歴史性、また訳者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。(編集部)
この作品は昭和三十六年九月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
ドイル傑作集 [ ―失なわれた世界―
発行  2002年1月4日
著者  コナン・ドイル(延原 謙 訳)
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861158-6 C0897
(C)Katsuko Nobuhara 1961, Coded in Japan