四つの署名
コナン・ドイル/延原 謙訳
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目 次
第一章 推理学
第二章 事件の発端
第三章 奇怪な馬車
第四章 禿男の話
第五章 ポンディシェリー荘の惨劇
第六章 ホームズの論証
第七章 樽のエピソード
第八章 ベーカー街特務隊
第九章 連鎖断たる
第十章 島人の最期
第十一章 アグラの大財宝
第十二章 ジョナサン・スモールの奇怪な物語
解説
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第一章 推理学
シャーロック・ホームズはマントルピースの隅《すみ》から例の瓶《びん》をとりおろし、モロッコ革《がわ》のきゃしゃなケースから皮下注射器をとりだした。そして神経質な白くてながい指さきで、ほそい注射針をととのえて、左手のワイシャツの袖《そで》をまくりあげ、いちめんに無数の注射針のあとのある逞《たくま》しい前腕《ぜんわん》から手首のあたりをじっと見ていたが、やがて鋭《するど》い針をぐっと打ちこみ、小さなピストンを押《お》しさげて、ほうっと満足そうな溜息《ためいき》をもらしながら、ビロードばりの肘掛《ひじかけ》椅子《いす》にふかくよりかかった。
この数カ月というもの、私は日に三度ずつこの注射を見てきたが、いくら見なれても、気持のいいものではない。それどころか、見るたびに気がいらいらしてくるのだが、そのくせ抗議《こうぎ》する勇気もないのを、毎夜うしろめたく感じていた。どうにかしてそれをやめさせたいと思い、いくたびか心に誓《ちか》うのだが、ホームズの冷やかで無頓着《むとんじやく》な態度には、どこで何が起っても平気だといわんばかりの、非常にしぶといところがあって、ついそれもできかねたのである。彼《かれ》の偉大《いだい》なる力、悠々《ゆうゆう》たる態度、それに、しばしば見せつけられたすばらしい手なみは、彼にさからうのをつい遠慮《えんりよ》がちに、控《ひか》え目にさせる。
ところがその午後はどういうものか、昼食のときに飲んだ|ボ《*》ーヌ・ワイン【訳注 ブルゴーニュ産の強いワイン】のせいか、それとも彼のあまりに悠長な態度についむかむかしたためか、私は我慢《がまん》がしきれなくなった。
「きょうはどっちだい? モルヒネかい、それともコカインかい?」
ホームズは読んでいた古い字体の書物からものうげな眼《め》をあげて、
「コカインさ。七パーセントの液だ。君も一本やってみないかい?」
「まっぴらだ」私はそっけなく辞退した。「それでなくてもアフガン戦争の影響《えいきよう》からまだ十分回復していないんだ。このうえからだを痛めつけられてたまるものかね」
私がむきになったので、ホームズはにやりと笑って、「もっともだ。しかしこいつは、からだにはよくないかもしれないが、精神をひきたてて、すっきりさせること受け合いだよ。だから副作用なんか意とするにたりないね」
「しかしだ、結果を考えてみたまえ。精神はなるほど昂揚《こうよう》し、ひきたちもするだろうが、元来が人工的な、病的な方法なんだから、組織変化の増進をきたして、結局はからだを弱くするばかりだ。わるい反動のくるのもわかっているのだし、こんな割のわるいことはないよ。なんだって君は一時の気まぐれから、せっかく持って生れた大きな才能をすりへらすような事をするんだろう? これはただ友人としてではなく、医者としての僕《ぼく》が多少の責任をもたなければならない君の健康を思っていうのだから、そのつもりでまじめに聞いてくれなければ困るよ」
ホームズは気をわるくするどころか、まるでよそごとのように、椅子の肘掛に両肘をおいて、両手の指さきをかるくつきあわせながら、いかにも普通《ふつう》の座談でも楽しむといった調子で、「どうもこのごろは気持が沈滞《ちんたい》していけないよ。何か問題はないかな。おもしろい仕事はないものかな。不可解な疑問か暗号でも持ってきて、本来の僕の気分にしてくれないものかな。そうすれば注射なんかしやしない。こうだらだらした日常はだいきらいさ。意気あがらざること久しい。僕がこうした職業にはいる――というよりも創始したのもそれがためなんだよ。なにしろ僕は世界でたった一人この職業にしたがっている人間なんだからね」
「世界|唯一《ゆいいつ》の私立|探偵《たんてい》というわけかね?」私は眉《まゆ》をあげていった。
「世界唯一の私立探偵さ。探偵事件の最高にして最後の受理者は僕なのさ。グレグスンやレストレードやアセルニー・ジョーンズなどの手におえなくなると、先生がたはいつもそれなんだが事件は僕のほうへ回ってくるのさ。そこで僕は専門的な見地からデータを精査して、独特の意見を発表する。だがそんなときにも僕はけっして手《て》柄顔《がらがお》はしない。僕の名が新聞にはなばなしく出たこともない。自分独特の力によって事件を解決してゆくという愉快《ゆかい》な仕事そのものが、僕にとっては無上の報酬《ほうしゆう》なんだ。僕のやりかたがどんなものだか、君もジェファスン・ホープ事件ですこしはわかっているだろうがね」
「まったくだ!」私は心から同意した。「生れてから今まであれほど大きな感動をうけたことはないよ。『緋色《ひいろ》の研究』というちょっと幻想的な題で、短い物語にまで書きあげたくらいだ」
ホームズはかなしげに頭を振《ふ》って、「僕もちょっと見たがね、正直なところ、あれはあんまり褒《ほ》められた出来じゃない。探偵するということは、一つの厳正科学なんだ――であるべきはずなんだ。したがって冷静に、無感情な態度でとり扱《あつか》われなければならないところを、君はロマンティックな味つけをしているから、まるでユークリッド幾何学《きかがく》の第五定理に、恋愛《れんあい》物語か駆落《かけお》ちの話をもちこんだような結果になっている」
「しかしあれにはロマンスもあったよ。事実は枉《ま》げられないからね」私は抗議した。
「多少の事実は切りすてなければ。すくなくとも均斉《きんせい》をたもつことを忘れてはならない。ただ説明に値《あたい》するのは、僕がいかにして事件の解決に成功したかという、結果によって原因をもとめうる解析《かいせき》的な理論の巧妙《こうみよう》さあるのみだよ」
私は彼自身を満足させるためとくべつに書いた作品のことで、議論するのがばからしくなってきた。じつをいうと、私が彼の仕事のことを書きつづるのが、当然なさるべき価値あることででもあるかのように、彼が自負しているのも、すこし業腹《ごうはら》でなくもなかった。その後も彼とともにベーカー街で暮《くら》した数年の生活中に、彼のもの静かな、人を子供扱いする態度のおくに、ささやかな自負を認めたことは一度ならずあったのだが、このときは何もいわずに、私は傷ついた脚《あし》をいたわりながら黙《だま》ってすわっていた。しばらくまえに私は、脚にジェゼール銃弾《じゆうだん》の貫通創をうけたので、歩くにはさしつかえなかったが、気候のかわり目ごとにずきずき痛んで悩《なや》まされるのである。
「僕は最近大陸まで手をのばしたよ」しばらくたってから彼はブライヤーの古いパイプに煙草《たばこ》をつめながらいった。「このごろフランスの探偵界にすこし名の知られてきた例のフランソア・ル・ヴィラールから先週相談をうけたんだ。あの男はケルト系らしく、鋭い直覚力はあますところなく備えているが、この種の仕事の発展には絶対必要な、広範囲《こうはんい》にわたる正確な知識に欠けている。事件はある遺《ゆい》言状《ごんじよう》に関するちょっとおもしろい問題だったが、僕の知らせてやった二つの事件、一八五七年のリガの事件と、一八七一年のセントルイスの事件とが、解決にだいぶ参考になったらしい。ご指導を感謝するといって、けさこの礼状がきたよ」
そういって彼は外国製の書簡用紙の皺《しわ》くちゃになったのをほうりだした。見ると、宏大《マグニフイク》だの奇策縦横《クウ・ド・メートル》だの|偉大なる事業《ツール・ド・フオース》だのと、フランス人らしい熱誠こめた讃辞《さんじ》がごてごてとならんでいる。
「まるで門弟が先生に捧《ささ》げる文句だね」
「うん、僕の助力をすこしたかく買いかぶりすぎているようだ。あの男は独力でも相当やれる。理想的な探偵として必要な条件が三つあるうち、二つまで備えている。観察力と推理力はあるけれど、ただ知識がたりない。しかしそれもそのうちには得ることになろう。あの男はいま、僕のちょっとした著作をフランス語に訳しているがね」
「君の著作だって?」
「うん、まだ知らなかったのかい?」ホームズは笑って、「じつは僕の畑のものを若干《じやつかん》いたずらしてみたんだがね。たとえばこの『各種煙草の灰の鑑別《かんべつ》について』なんかその一つだよ。このなかには百四十種の葉巻と紙巻と刻みとの外観を列記して、その灰の区別がカラー図入りで説明してある。こいつは犯人|捜査《そうさ》中にしばしばぶつかる問題だし、重大な手掛《てがか》りになることも時々はあるからね。たとえば、ある殺人事件で犯人がインドのルンカ煙草をのむ男だと確認《かくにん》できたとすれば、それだけ捜査の範囲がせばめられたことは明らかだからね。慣れたものから見れば、トリチノポリ煙草の黒っぽい灰と、バーズ・アイ印の白くてふわふわした灰とを判別するのは、キャベツとポテトとの区別よりも容易なことなんだ」
「君はこまかいところに、いやによく気のつく男だねえ」
「すべて些細《ささい》なことが重要なのを僕は認める。ここにある小論文は、足跡《あしあと》の詮索《せんさく》を論じて、その保存に石膏《せつこう》を応用する問題に言及《げんきゆう》したものだ。それからこっちにあるのはすこし変ったやつで、職業が手の形におよぼす影響を論じ、スレート職人、水夫、コルク切り工、植字工、織物工、ダイヤモンド研磨工《けんまこう》の手の形を研究したものだ。これらは科学的探偵術の運用上、とくに身許《みもと》不明の死体を調べるときとか、犯人の前科の有無《うむ》を調べたいときなど、きわめて有利なものだ。しかし、勝手なことばかり喋《しやべ》りつづけて、さぞ退屈《たいくつ》したろう」
「ちっとも退屈なことなんかないよ。たいへんおもしろい。ことに僕は、君がそいつを実用に応用するところをたびたび見ているんだからね。ところでいま観察と推理の話が出たが、この二つはある程度まではおなじもので、そう明らかに区別できるものじゃないね」
「どういたしまして」ホームズは肘掛椅子のなかで行儀《ぎようぎ》をくずして、ぐっとうしろへ身をもたせながら、濃《こ》く青い煙《けむり》をはいた。「たとえば観察は僕に、君がけさウィグモア街郵便局へ行ったことを知らせてくれるが、そこで君が電報を一本うったことを教えてくれるのは推理のほうだ」
「あたった!」私は思わず叫《さけ》んだ。「両方ともあたった! しかし、どうしてそれがわかるんだい? けさは急に思いたって、誰《だれ》にもいわずに出かけたのにね」
「簡単そのものさ」ホームズは私が驚《おどろ》いたのを見てにやりとして、「説明を要しないほど簡単なんだが、観察と推理との限界の説明には役にたつだろう。観察によれば、君の靴《くつ》の甲には赤土がすこしついている。ウィグモア街はこのごろ敷石《しきいし》をおこして土を掘《ほ》りかえしていて、局へ行くには必ずそのうえを踏《ふ》んで通らなければならなくなっている。この妙な色の赤土は僕の知るかぎりでは、ほかで見られない色だ。ここまでが観察で、これからさきが推理になる」
「それで、電報をうったとわかったのは?」
「けさはずっと君と向いあっていたけれど、手紙を書いた様子はなかったし、それにあけはなしになっていた君の引出しには、切手もはがきもたくさん見えていたからさ。それでも局へ行くというのは、電報よりほかないじゃないか。すべてのありえないことをとり捨ててゆけば、あとに残ったのが必ず真相でなければならない」
「なるほどこの場合はそうにちがいない」私はしばらく考えてから、「それは君のいうとおり、いかにも簡単だが、それじゃもっと難問を出してみるが、かまわないかい?」
「いいどころか、そうしてくれればコカインの二本目をやらないですむ。どんな難問でも出したまえ」
「君はいつか、人間というものは日常使っている品物に、どこか個性のあとがあらわれるから、熟練した観察者ならば、それによって容易に鑑別がつくものだといったね? 僕は近ごろこんな懐中時計《かいちゆうどけい》を手にいれたが、この時計のもとの持主がどんな性格や習慣をもった人物だったか、それを当ててみたまえ」
とてもできない話だと思ったから、私はちょっといい気持になってその時計をホームズにわたしてやった。ときどき見せる独断的な、自分よがりにはよい戒《いまし》めになると思ったからである。彼は時計の重さを手ではかってみたり、文字盤《もじばん》を見つめたり、裏蓋《うらぶた》をあけて機械をしげしげと見たりしていたが、ついに強力な凸《とつ》レンズを出して、仔細《しさい》に調べた。それからパチンと蓋を閉じて私の手にかえしたが、私は悄然《しようぜん》としたその顔を見て、思わず微笑《びしよう》のうかんでくるのを禁じえなかった。
「ほとんど材料がない。近ごろ掃除《そうじ》がしてあるから、手掛りになりそうな材料がすっかりなくなっている」
「そうさ。僕のところへよこすまえに、掃除させたんだ」私は彼が男らしく、わからないと兜《かぶと》をぬがないのがいまいましかった。掃除してない時計だって、彼に何がわかるものか!
「もっとも、満足とまではゆかないが、僕もまったく失敗したわけじゃない」彼はぼんやりと夢《ゆめ》みるような眼つきで天井《てんじよう》を見あげながらいった。「ちがったら訂正《ていせい》してもらうとして、この時計は君のお父さんから兄さんに伝わっていたものだと思う」
「裏にH・Wと彫《ほ》ってあるからだろう?」
「そうさ。Wは君の姓《せい》だ。製作日付は五十年ばかりまえで、彫りこんだ頭文字《イニシヤル》もおなじくらい古くなっている。つまりこれは、われわれの親の代の代物《しろもの》なんだ。貴重品というものは親から長男にゆずられるのが普通で、その長男は父親とおなじ名をあたえられていることが多い。君のお父さんはたしか、だいぶ前に亡《な》くなったとか聞いている。だからこの時計は、君のいちばん上の兄さんが持っていたのだ」
「そこまでは間違いない。それだけかい?」
「兄さんは不精《ぶしよう》な人――ひどく不精でずぼらな人だった。いい前途《ぜんと》をもちながら、いくたびか機会を逸《いつ》し、時には金まわりのいいこともあったが、たいていは貧乏《びんぼう》で、おしまいには酒を飲むようになって、亡くなった。わかるのはそんなところだね」
私はおもわず椅子からとびあがった。そして悲痛のあまり痛さも忘れて、傷ついた足でせかせかと部屋のなかを歩きまわった。
「ホームズ君、君にも似あわないね。君がそんな人身|攻撃《こうげき》をする人だとは思わなかった。君は死んだ兄のことをかねてから調べておいて、それをいま時計でいいあてたような顔をしているんだ。こんな古時計から読みとったような顔をしたって、誰が真《ま》にうけるもんか! あんまりだよ。はっきりいっていんちきじゃないか」
「ワトスン君」ホームズはおだやかに、「どうか許してくれたまえ。僕はこれをひとつの抽象的《ちゆうしようてき》な問題とみて、その解決にばかり熱中したあまり、それが君の悲しい思い出にふれるということを忘れていたんだ。まったく君からその時計を僕の手にわたされるまで、君に兄さんがあるか――あったかすら、僕は知らなかったんだよ」
「じゃどうしてそれがわかったんだい? すべての点において事実通りだぜ」
「運よくあたったのさ。僕はただ|確 率《プロバビリテイー》の法則の示すとおりをいっただけなんだが、こうまでピタリと的中しようとは思わなかった」
「じゃ単なる推量じゃなかったのかい?」
「僕はあて推量なんかしたことはない。あて推量はおそるべき悪習だ。論理的才能に大害をおよぼす。君はただわけもなく不思議がるけれど、それは僕の思索《しさく》の筋道がわからず、重大な推定の基礎《きそ》となる小さな事実の観察をおこたるからだよ。たとえば、僕は君の兄さんをずぼらな人だといったが、時計の下部を見ると、二カ所ばかり凹《へこ》んだ痕《あと》があるし、また銀貨だの鍵《かぎ》だの堅《かた》いものといっしょくたにポケットへ入れておくとみえて、いたるところ小さな瑕《きず》だらけだ。五十ギニーもする時計を、こんなに乱暴に扱うような人は、ずぼらと断じたからって、自慢にゃなるまい。のみならず、こうした高価なものを遺《のこ》されるほどだから、ほかにもかなりの資産を遺されたものとみても、けっして不自然じゃあるまい」
私はうなずいて、彼の推論に同感の意を表した。
「イギリスの質屋《しちや》では、時計を質にとると、ピンのさきでふたの内側に質札《しちふだ》の番号を彫りつけておくのが普通の習慣になっている。そうしておけば紙札のようにはがれて紛失《ふんしつ》したり、いれちがったりして間違《まちが》う危険がないからたいへん便利だ。レンズで見ると、そういう番号が四つだけある。そこで君の兄さんは、ときどき金に困ったという推論が出るのだ。時々は金まわりがよくなったこともある。そうでなければ質草を出せない。それから最後に、ねじを巻く孔《あな》のある中蓋を見てくれたまえ。孔の周囲は鍵をさしこみそこねてつけたかき瑕だらけだ。素面《しらふ》の人がこんな瑕をつける道理がないじゃないか。酔《よ》っぱらいの時計には、必ずこの瑕がある。おぼつかない手つきで、夜巻くものだから、こんな瑕をこしらえるのだ。こう考えてくれば、僕のいったことにすこしも不思議はないだろう?」
「よくわかった。君にはすまないことをしたね。君の驚くべき才能をもっと信頼《しんらい》すべきだったと思う。ところで、いま何か手をつけている事件があるかい?」
「なんにもない。だからコカインをやっているのさ。僕は何かしら頭を働かせる問題なしじゃ生きていられない。考えること、それをのぞいてどこに人生の意義があるというのだ? この窓のところへ来てみたまえ。こんなもの寂《さび》しい、陰惨《いんさん》な、つまらない光景があるだろうか? 黄いろい霧《きり》があんなに舞《ま》い降りて、うす暗い家も街路もおし包んでいる。おそろしく殺風景で、無趣味《むしゆみ》な光景じゃないか。ねえ君、力があっても、それを働かせるべき舞台《ぶたい》がないのじゃ、まったく始まらないよ。このごろは犯罪も平凡《へいぼん》だし、われわれの生活も平凡だ。まったくいっさいが平凡で退屈ずくめだよ」
そういって感慨《かんがい》にふけるホームズに、私が答えようとしたとき、コツコツとドアをノックして主婦《おかみ》のハドスン夫人が真鍮《しんちゆう》の盆《ぼん》に名刺《めいし》をのせてはいってきた。
「若いご婦人がご面会でございます」とホームズに盆をさしだす。
「ミス・メアリー・モースタン」ホームズは名刺を読みあげて、「ふむ、聞いたことのない名だな。通してください。ワトスン君、逃《に》げなくてもいい。ここにいてくれたほうがいいのだ」
第二章 事件の発端《ほつたん》
モースタン嬢《じよう》はしっかりした足どりで、臆《おく》したふうもなくはいってきた。ブロンドの若い女性で、小柄でなよやかなからだつきに、衣服の好みも上品であった。しかし上品とはいっても質素であっさりしているところからみて、さして裕福《ゆうふく》な家庭の人とは思えなかった。着ているものは地味なグレイがかったベージュで、飾《かざ》りも襞《ひだ》もなく、頭には片がわに申しわけばかりの白い羽根をつけたおなじ色あいのターバンをつけていた。顔だちもとくによいというではなく、色も冴《さ》えてはいなかったが、表情には愛嬌《あいきよう》があってかわいかった。そして大きな青い瞳《ひとみ》が不思議に知的で、やさしかった。これまでに見た多くの国々や三大陸の婦人のうちでも、これくらい垢《あか》ぬけのした利発な顔をもつ婦人を私は知らない。唇《くちびる》と手さきとを震《ふる》わせながら、シャーロック・ホームズのすすめる椅子についたとき、私は彼女《かのじよ》が心中に大きな悩みをいだいているのを見てとった。
「ホームズさん、私が今日《きよう》うかがいましたのは、いつぞやあなたが私の雇《やと》い主のセシル・フォレスター夫人のちょっとした家庭のもめごとを解決してくださったのを思いだしたからでございます。夫人はあなたのことを、たいへんご親切で老練なおかただと、いつもお噂《うわさ》していらっしゃいます」
「セシル・フォレスター夫人と」とホームズは考え考えくりかえして、「あれはたしか、ちょいとしたつまらない事件でしたよ」
「いいえ、夫人はそうは思っていらっしゃいません。でも私のお願いにあがりましたのは、けっして簡単な事件ではございません。こんな不思議な事件は、どこをさがしましても、ほかにはございませんでしょう」
ホームズは揉《も》み手《で》をしながら両眼を輝《かがや》かし、異常な興味をそそられた様子で、鷹《たか》のような鋭《するど》い顔を緊張《きんちよう》させて、からだを前にのりだすようにした。
「事件を承《うけたまわ》りましょう」歯ぎれのよい事務的な言葉である。
私はその場にいては邪魔《じやま》だと気がついて「僕《ぼく》は失礼しよう」と立ちかけると、意外にもその若い婦人は、手袋《てぶくろ》をはめた手をあげて私をひきとめた。
「あなたにもいらしていただきますほうが、都合がよろしいのでございますけれど……」
そこで私はふたたび腰《こし》をおろした。
「かいつまんで申しますと、こうなのでございます」彼女は説明をはじめた。「私の父はインドのある連隊の将校でしたが、私は幼いころに内地へ送りかえされました。母はもうそのころ亡くなっておりましたし、こちらには身よりのものもございませんので、エディンバラの寄宿学校へはいりまして、十七の年までそこにおりました。
一八七八年に、そのころ連隊の先任|大尉《たいい》になっていました父が、一年間の休暇《きゆうか》で帰ってまいることになりました。父はロンドンに着きますと、私に電報をよこしまして、ランガム・ホテルへすぐ来るようにと伝えてまいりました。その電文はやさしさと愛情にあふれていたことを記憶《きおく》しております。すぐに出発してロンドンへ着きますと、馬車でそのホテルへまいりました。するとホテルでは、モースタン大尉はたしかに泊《とま》っておられるが、前夜外出したきりまだお帰りにならないと申します。そのままホテルで一日待ちくらしましたけれど、父は帰ってもまいりませず、なんの消息《たより》もございませんので、その晩ホテルの支配人のすすめで警察へ届けたうえ、つぎの日の新聞全部に広告を出しました。けれどもその甲斐《かい》もなく、その日かぎり不幸な父の行方《ゆくえ》はわかりませんでした。父は静かな休暇を楽しみに帰ってまいりましたのに……」
彼女は片手を咽喉《のど》へやってむせび泣きながらの話なので、終りのほうはよく聞きとれなかった。
「それはいつのことですか?」ホームズは手帳をひろげて鉛筆《えんぴつ》をかまえた。
「一八七八年の十二月三日でございますから、やがて十年にもなります」
「お父さんのお荷物はどうでした?」
「ホテルに残してございましたが、そのなかには手掛りになりそうなものは、何一つございませんでした。――衣類と書物がすこしと、アンダマン島で集めました珍《めずら》しいお土産《みやげ》がどっさりありましたばかりでございます。父はその島で囚人《しゆうじん》警備隊の将校の一人だったのでございます」
「ロンドンには友人がありましたか?」
「わかっていますのは、おなじ連隊の、ボンベイ歩兵第三十四連隊にいらしたことのありますショルトー少佐とおっしゃるかたお一人だけでございます。少佐はそのすこしまえに退役《たいえき》になって、イギリスへ帰ってアッパー・ノーウッドにお住いでございました。むろんそのおかたにも問いあわせましたが、父が帰国したのすらご存知ないとのことでございました」
「不思議ですな!」ホームズは呟《つぶや》いた。
「まだ不思議なことがあるのでございます。いまから六年ほどまえ、正確に申しますと一八八二年の五月四日のことでございます。タイムズ紙に広告が出まして、ミス・メアリー・モースタンの現住所が知りたい、至急申しでたほうが有利だとございましたが、肝心《かんじん》の広告主の住所姓名が出ておりません。そのころ私はセシル・フォレスター夫人の家庭教師にはいったばかりでございましたが、夫人にすすめられましておなじ新聞にこちらの住所を広告いたしました。
するとその日のうちに、私あてに小さなボール箱《ばこ》が一つ、小包郵便で届きましたから、あけてみますと、たいへん大きな美しい真珠《しんじゆ》が一つはいっておりますだけで、手紙のようなものは何も添《そ》えてございませんでした。それからと申しますもの、毎年おなじ日になりますときっと、おなじような箱でおなじような真珠が参りますけれど、すこしも送り主の手掛《てがか》りはございません。真珠はたいへん珍しい種類のもので、価《あたい》もよほど高価なものだとか、専門家が申しております。ご覧くださいませ。こんなに美しゅうございます」
彼女はそういって平たい箱をあけ、見たこともないほど美しい六|粒《つぶ》の真珠を見せてくれた。
「たいへんおもしろいお話です。そのほか何かありましたか?」ホームズがたずねた。
「はい、けさほどのことでございます。こんな手紙を受けとりましたので、そのためこうしてご相談にあがりましたのです。まあご覧くださいませ」
「どれ、いや封筒《ふうとう》もどうぞ。――ロンドンの南西区局の消印で七月七日づけか。ふむ、男の親指の指紋《しもん》が隅《すみ》についている。たぶん郵便屋のだろう。最上質の用箋《ようせん》に、一|束《たば》六ペンスの封筒だ。文房具《ぶんぼうぐ》にこる男だな。差出人の署名なしか。『今夕七時、ライシアム劇場そとの左より三本目の円柱まで来られよ。あなたは不当に不幸な仕打ちを受けている女性だから、正義の補償《ほしよう》をうけるべきである。疑わしければ二人の友人を同伴《どうはん》されよ。ただ警官を伴《ともな》ってはいけない。そんなことをすればすべては空《むな》しくなるだろう。あなたの未知の友より』――なるほど、こいつはおもしろい。じつに不思議だ! それであなたはどうなさるおつもりですか?」
「さあ、それをご相談にあがりましたの」
「では、私がお供しますから、いらっしゃるのですね。あなたと私と、そうだ、ワトスン君に行ってもらいましょう。手紙には二人つれてこいとありますからね。ワトスン君はこれまで私といっしょに仕事をしてきた人です」
「でもおいでくださいますでしょうか?」声にも顔にも行ってほしさがいっぱいだった。
「まいりますとも。お役にたつことなら、喜んでまいりますよ」私は力をこめていった。
「お二人とも、まことにありがとうございます。私はあまり世間も知りませず、力になっていただくかたもございませんものですから……それでは六時にこちらへまいればよろしゅうございましょうね?」
「それより遅《おく》れないようにね。――それからもう一つ伺《うかが》っておきますが、真珠の小包の宛名《あてな》の筆跡《ひつせき》は、これとおなじでしたか?」
「包み紙を持ってまいりました」そういって彼女は六枚の紙を出してみせた。
「あなたは模範《もはん》的な事件|依《い》頼者《らいしや》ですよ。まったくいい直覚力です。どれ拝見しましょう」ホームズは包み紙をテーブルのうえにひろげて、順にすばやく眼《め》をとおしながら、「手紙のほかは全部、ことさらに筆跡がかえてある。しかし同一の筆者であるのは疑いをいれません。eの字をギリシャふうにくずしたところ、文字の最後にあるsの字のまがり加減など見れば、どうしても同一人だ。モースタンさん、こんなことを申して、あなたをぬかよろこびさせてはお気の毒ですが、この筆跡はあなたのお父さまの筆跡に似たところはありませんか?」
「まるきり違いますの」
「そうだろうと思いました。では六時にお待ちしています。この手紙はこちらへ拝借しておきましょう。あとでもっと詳《くわ》しく調べてみたいですから。いま三時半になったばかりですね。では後ほど」
「失礼いたします。では後ほど」彼女は輝かしく温かい眼で私たちを見かえして、真珠の箱を胸にしまいこみ、急いで帰っていった。
私は窓のそばに立って、元気のよい足どりで歩いてゆく彼女のうしろ姿を、グレイのターバンと白い羽根が人ごみのなかに見えなくなるまで見おくっていた。
「何という魅力《みりよく》のある婦人だろう!」私はホームズをふりかえった。
「そうだったかい、あの婦人が? 僕は気がつかなかったな」彼はパイプを口にし、椅子《いす》にもたれこんで、眼瞼《まぶた》をたれたまま、うるさそうにいった。
「ほんとに君は自動人間――計算機だな。どうかすると君は、まるで人間ばなれのしたところがあるよ」
ホームズはおだやかな微笑《びしよう》をうかべて、「最も重要なことは個人の特質によって、事件の正しい判断をあやまらないようにすることだね。僕なんか、依頼者もまた単に、問題にたいする材料の一つであるにすぎぬと思っている。感情のうえの好悪《こうお》というものは、明快なる推理とは相容《あいい》れない。僕の見たうちで最も心をひかれた美人というのは、保険金ほしさに三人の子供を毒殺して、死刑《しけい》になった女だった。それから男でいちばんいやなやつだと思ったのは、ロンドンの貧民《ひんみん》のため二十五万ポンドちかくも使った慈善家《じぜんか》だった」
「しかし、こんどの場合だけは……」
「僕は例外というものを認めない。例外は法則を紊《みだ》すものだ。君は筆跡《ひつせき》の研究をしたことがあるかい? この走り書きをどう思うね?」
「規則ただしくて、わかりやすい字だ。事務的な習慣があって、人格もしっかりした男なんだろうね」
ホームズは頭を振《ふ》って、「このなかの長い字を見てみたまえ。十分うえへ伸《の》びていないじゃないか。dはまるでaのようだし、lはeにもみえる。人格者なら、いかに字が下手だからって、長い字と短い字とははっきり区別して書くよ。kという字なんか、すこぶる怪《あや》しくて、大文字にはうぬぼれがあらわれている。――ところで僕はすこし調べたいことがあるから、ちょっと出てくるよ。そのあいだにこの本でも読んでみたまえ。珍しい本だ。ウィンウッド・リードの『人類の苦悩《くのう》』というのだ。――一時間で帰ってくる」
私はその本を手にして窓ぎわに腰をおろしたけれど、思いはとおく書物をはなれて、さっきの客のうえに馳《は》せた。彼女の微笑、深くてゆたかな声、そして彼女の生涯《しようがい》を包む奇怪《きかい》なる運命――。父の失踪《しつそう》したのが十七のときだとすると、いまは二十七のはずだ。楽しい年ごろ――ようやく己《おの》れに目ざめて、さまざまな経験もつみ、いくらか分別もついてくる年ごろだ。と、そんなことをあれこれ黙想《もくそう》しているうちに、危険な考えまで頭にわいてきたので、いそいで自分の机へ駆《か》けよって、最近の病埋学論文にかじりついた。私としたことが、金もなく、脚《あし》のわるい一介《いつかい》の退役軍医の身で、そんなことを考えるなんて、何という身のほど知らずだろう! 彼女はまったく「事件の材料の一つ」にすぎないのだ。私の未来にしてもし暗黒であるのなら、暗黒のままにあらしめよ! 鬼火《おにび》にも似た架空《かくう》の光明なぞ求めるべきではない。
第三章 奇怪な馬車
ホームズの帰ってきたのは五時半だった。彼《かれ》は晴れやかで元気にみちていた。だがそうした気分が彼にあっては、やがてくる暗い憂鬱《ゆううつ》な発作の前提となるのだ。
「この事件にはたいして不思議はないね」私がついでやったカップをとりあげながら彼はいった。
「事件の説明はたった一つしかないようだ」
「えッ、もう解決したのかい?」
「解決といっては、すこしいいすぎる。僕はある暗示的な事実を発見したにすぎないのだ。ただしその暗示はすこぶる有力だがね。タイムズのふるい綴《と》じこみを調べてみると、アッパー・ノーウッドの元ボンベイ第三十四連隊付ショルトー少佐は、一八八二年の四月二十八日に死んでいることがわかった」
「僕には何のことだかわからないが、それがどうしたというんだい?」
「わからないって? これア驚《おどろ》いた。だって一八七八年の十二月に、モースタン大尉が失踪したとき、ロンドンで大尉が訪ねたろうと思われる唯一《ゆいいつ》の人物はショルトー少佐じゃないか。ところで少佐は当時、モースタン大尉がロンドンへ帰ってきたことすら知らないといったという。それから四年後の一八八二年に当のショルトー少佐は死んだのだ。そしてそれから一週間とたたないうちに、モースタン大尉の娘《むすめ》が高価な贈物《おくりもの》をうけ、その贈物が数年間くりかえされたあげくに、こんどの、不幸な女よ云々《うんぬん》の手紙となったのだ。
『あなたは不当に不幸な仕打ちを受けた』というが、彼女にとって父親の失踪くらい不幸なことがあろうか? しかも贈物はショルトー少佐が死ぬとすぐに始まっているのはどうしたものだ? すなわち少佐の遺族が何らか裏面《りめん》の秘密を知っていて、償《つぐな》いをしようとでもしたのじゃあるまいか? それとも君はこの事実にたいして、何かほかの説をたてられるとでもいうのかい?」
「でも変な償いだな! しかもなんという妙《みよう》な手段をとったのだろう。それならそれで、六年まえにショルトー少佐の死んだとき、手紙をよこすべきだろう。それにあの婦人の正当な権利といったって、何のことだかわけがわからないじゃないか。あの婦人の父親がいまなお生きているとは思えないし、話を聞いただけでは、何も不当なことなんか行われていそうもないじゃないか?」
「そこがむずかしいところだ。たしかにむずかしい」とホームズは考えこんで、「でも今晩の冒険で、何もかもわかるだろう。そういえば表に四輪馬車がとまったようだ。なかにモースタン嬢《じよう》の姿も見える。用意はいいね? よかったらすぐに出かけないと、すこし刻限に遅れたようだ」
私は帽子《ぼうし》をかぶって太いステッキを手にしたが、ホームズは引出しからピストルをとりだして、ポケットへ忍《しの》ばせた。彼は今晩の仕事をよほど重大視しているのにちがいない。
モースタン嬢は黒っぽい外套《がいとう》にくるまって、その敏感《びんかん》な顔におちつきはみせていたけれど、さすがに色は青かった。こうした奇妙な行動に、女の身として不安を感じるのはもとより無理もないところだが、しかし彼女はすこしもとり乱したふうはなく、シャーロック・ホームズのもち出した二、三の質問にもすらすらと答えた。
「ショルトー少佐は父のお友達《ともだち》のうちでも特別のかたでございました。父の手紙にはいつでも少佐のことばかり書いてございました。父とはアンダマン島でおなじように軍隊の指揮をとっていらしたので、たいへんお親しくしていたのでございます。そうそうそれから、父の机のなかから誰《だれ》にもわからない妙な紙きれが出てまいりました。大切なものではないかもしれませんけれど、あなたがご覧になれば、何かのお役にたつかと存じまして、ここへ持ってまいりました。これでございます」
ホームズは受けとって注意ぶかくひろげ、膝《ひざ》のうえで皺《しわ》をのばしてから、二重レンズを出して精細に調べた。
「インド産の紙だ。ピンで板にとめてあったものらしい。多くの広間と回廊《かいろう》や通路のある大きな建物の一部分の平面図のようだな。一カ所赤インキで小さな十字をしるして、そのうえのほうに『左より三、三七』と鉛筆で書いてあるのがぼんやりと見える。左手の隅に変な十の字みたいなものを四つ、一列にまっすぐに、横棒をつきあわせてならべた妙な符号《ふごう》のようなものがあって、そのそばにひどく乱暴な字でぞんざいに、『四つの署名《サイン》――ジョナサン・スモール、マホメット・シン、アブズラ・カーン、ドスト・アクバル』とある。わからない。これが事件とどう関係があるのかな? しかし大切な書類にはちがいなかろう。両面ともきれいなところを見ると、手帳のあいだにでも大切にしまっておいたのだな」
「はい、手帳のあいだから見つけましたんですの」
「何か役にたつことがあるかもしれませんから、大切にしまっておおきなさい。ことによるとこれは最初に思ったよりも事件が紛糾《ふんきゆう》して、案外|奥深《おくぶか》く捕《とら》えがたいものになるかもしれませんよ。もうすこし考えなおしてみなくちゃ」
ホームズは馬車のなかで、ぐっとうしろへ寄りかかった。眉《まゆ》をひそめて、ぼんやりと一つところを見つめているその様子で、彼が一心に考えこんでいるのがわかった。モースタン嬢と私は今晩の奇妙な冒険《ぼうけん》のことや、それがどういう結果になるだろうかといったような問題を、ひくい声で話しあっていたが、ホームズは馬車がとまるまで、ついに一言《ひとこと》も口をきかなかった。
それは九月の宵《よい》のことで、約束《やくそく》の七時にはまだ間があったが、しめっぽく陰気《いんき》で、ロンドンは濃《こ》い霧《きり》に包まれていた。重苦しい雲は泥濘《ぬかるみ》の往来にひくくたれさがって、ストランド街にたちならぶ街灯の光は霧のなかでもうろうとし、泥《どろ》だらけの舗道《ほどう》のうえに弱い光線をなげている。
ショーウインドーの黄いろい光は、むしむしする霧の舗道に流れ出て、人通りの多い往来をうすぼんやり照らしていた。こうしたうす暗い光のなかにうごめくおびただしい人間の悲しげな、またうれしげな、あるいは窶《やつ》れはてた、または楽しそうな顔、それらが暗がりから明るみへ、また暗がりへと出つ入りつしている有様は、それ自体が人生の姿であるように私には眺《なが》められた。
私はつまらないことを気に病《や》む男ではないが、こうしたうっとうしく重苦しい夕、こうした奇怪な使命をおびてきたことが、妙に私の心を気よわく、陰鬱にさせたのである。モースタン嬢もおなじ思いに悩《なや》んでいるらしいことは、その態度でわかった。ひとりホームズのみは、膝のうえに手帳をひろげて、ポケットランタンの光をたよりに、何かしきりに心おぼえを書きつけている。
ライシアム劇場へ来てみると、横がわの入口はもう群衆でいっぱいだった。正面の上等席入口のほうには、二輪馬車や四輪馬車がひっきりなしに到着《とうちやく》して、礼装の男や、ショールやダイヤモンドで飾《かざ》った女たちをおろしては去っていった。指定された第三の柱の下まで行くか行かないうちに、一人の小柄《こがら》な、黒い馭者《ぎよしや》の服を着た男が声をかけた。
「あなたがたはモースタン嬢のおつれさんですか?」
「モースタンは私です。このお二人は私のお友達です」
馭者は妙に疑わしげな眼つきで、私たちをじろじろ見ていたが、強情《ごうじよう》そうな態度で、
「失礼ながら、このお二人が警官でないことを誓《ちか》っていただくことになっております」
「そのことでしたら私が保証いたします」
モースタン嬢がそういうと、馭者はひと声するどく口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いた。するとどこからともなく一人の浮浪《ふろう》少年が、四輪馬車をひいてきて戸をあけた。私たちがそれへ乗りこむと、最初に話しかけた馭者ふうの男が馭者台にとびのって、ひと鞭《むち》くれたので、馬車はぎくりとするほど猛烈《もうれつ》に、霧ふかい街路を駆けだした。
考えてみればまことに変なものだった。私たちは未知の使命をおびて、未知の場所へ、未知の男によってつれてゆかれつつあるのだ。うまく一杯《いつぱい》食わされているのじゃなかろうか? ――まさかそういうことがあるとは思えないが、いずれにしても今晩は重大な結果に到達するのにちがいないことだけは考えられる。モースタン嬢の態度は、しかし、依然として落着いてしっかりしていた。
私はアフガン戦争の懐旧談《かいきゆうだん》など試みて、彼女《かのじよ》をなぐさめようとしたが、そのじつ私自身が現在の立場に気をとられ、行きさきへの好奇心でいっぱいで、話にすこしも身がはいらなかった。そのとき私は、連発銃《れんぱつじゆう》が深夜のテントをのぞきこんで、私が虎《とら》の子をそれに向って発射したという、とんちんかんなことをいったといって、いまもって彼女から冷やかされるのである。
初めのうちこそ、馬車がどっちへ向って走ってゆくのか、街々の名もわかっていたが、霧はふかいし、もともとロンドンは慣れない私のことだし、たちまち方角もわからなくなってしまい、ひどく遠いところへつれてゆかれるということだけしかわからなくなった。しかしシャーロック・ホームズは、広い四つ角へ出たり、曲りくねった横丁をぬけるたびに、まちがえずにその名を教えてくれた。
「ロチェスター通りだ。ここはヴィンセント広場《スクエア》だ。ヴォクスホール橋通りへ出た。河を渡《わた》ってサリー州へ行くんだな。そら、もう橋へかかった。見たまえ、水面がちらちら光っているだろう?」
なるほど、テムズ河のひろい水面がほのかに街灯をうつして、音もなく暗く流れている。と思うまもなく、馬車はひたはしりに駆けて、やがて向う河岸《がし》の名も知らぬ街へと、はいってしまった。
「ワンズウォース通りだ。プライオリ通り、ラークホール小路《こうじ》、ストックウェルの広場、ロバート街、コールドハーバー小路、――あんまりぞっとしないところへつれこむな」
馬車はほんとにいかがわしくも、怪《あや》しげな街区へと乗りこんでいた。両がわには暗い煉瓦《れんが》づくりの建物が続いて、わずかに角々の酒場だけが、けばけばしく下品に照り輝《かがや》いているばかりだった。それぞれ小さな前庭をもつ二階建の家なみがあるかと思うと、そのつぎには煉瓦の色もま新しい新築の建物が、はてしなく続いている。――それはおそろしい勢いで市外へ発展してゆく大都会の巨大《きよだい》な触角ともいうべきものだった。そしてついに、この新開地に建てられた一群の家の三|軒目《げんめ》の門口《かどぐち》へ馬車はとまった。
となり近所はすべて空家で、三軒目のその家も、台所の窓からたった一つのほのかな灯火《あかり》がもれているだけで、そのほかは近所の家とおなじにまっ暗である。それでも案内を乞《こ》うとすぐに玄関《げんかん》はあいて、黄いろいターバンを巻き、だぶだぶの白い服に黄いろい帯をしめたインド人の召使《めしつか》いが姿をあらわした。こうした郊外の三流どころの住宅の玄関に、東洋人の召使いを見かけるとは、まったく思いもかけないことだった。
「旦那《だんな》がお待ちかねだあ」召使いのいいも終らぬうちに、奥の部屋から甲高《かんだか》い声が聞えた。
「お通し申せ。ずっとこちらへお通し申せ」
第四章 禿男《はげおとこ》の話
インド人のあとについてうすぎたない、飾りつけなども貧弱《ひんじやく》な小暗い廊下をはいってゆくと、右がわのとある部屋のドアを彼はあけた。すると黄いろい光がぱっとさして、そのあかりのなかに小柄でおそろしく頭のながい男が立っていた。その頭はまわりにだけかたい赤い毛が生えていて、その上にてかてかとはげ上った頭の先がつき出ているところは、まるで樅《もみ》の木の上に裸《はだか》の山がそびえているようだった。
突《つ》ったったまま両手をもみあわせながら、たえず顔面をぴくぴくさせて、笑いかけるかと思うとしかめてみたり、すこしもおちつきがない。生れつき反りかえった唇《くちびる》のあいだから、黄いろく不揃《ふぞろ》いな二列の歯が見えたが、つとめてそれを隠《かく》そうとし、たえず手を口のあたりへ持っていった。頭こそみごとに禿げてはいるが、見たところまだ若いらしい。事実まだ三十になったばかりなのである。
「よくおいでくだすった、モースタンさん」甲高くて力のない声で、彼は何度もくりかえし、「あなたがたもようこそ。さ、どうぞ私の小さな私室へおはいりください。狭苦《せまくる》しいところですが、私の好みで飾りつけました。この南ロンドンという荒漠《こうばく》たる砂漠のなかに作った美術のオアシスです」
部屋へ踏《ふ》みこんでみて、私たちは驚きの眼《め》をみはった。まるで最上等のえりぬきダイヤモンドを真鍮《しんちゆう》の台にちりばめたとでもいうか、そこはこの寂《さび》しい陰気な家のなかでは、不釣合《ふつりあ》いなほどみごとなものであった。
贅《ぜい》をつくした立派なカーテンやタピストリーは、あたりの壁《かべ》をおおって、あちこちのひもでたくし上げたところからは、美しく飾った額や、東洋の花瓶《かびん》などが見えている。琥珀《こはく》いろに黒の模様の敷物《しきもの》はふかく柔《やわ》らかで、厚い苔《こけ》でも踏むような足ざわりの快さがあった。向いあわせに置かれた大きな二枚の虎の皮は、片隅《かたすみ》の台にたてかけた巨大な水煙管《みずぎせる》とともに、東洋ふうの贅沢《ぜいたく》さをしのばせた。鳩《はと》の形につくった銀のランプが、ほとんど眼に見えないほど細い金色《こんじき》の針金で、天井《てんじよう》の中央から吊《つる》してあった。そのランプの燃えるにつれて、えもいわれぬ香気《こうき》が室内にたちこめていた。
「サディアス・ショルトーと申します」小柄な男はやはり顔をぴくぴく動かしながら、微笑《びしよう》をうかべていった。「あなたはむろんモースタンさんですね? してこちらは……」
「シャーロック・ホームズさんに、こちらはワトスン医師《ドクトル》でございます」
「おう、お医者さまですか?」ショルトーは急に眼を輝かして、「聴診器《ちようしんき》をお持ちでございましょうか? いかがでございましょう、ちょっとご診察ねがえますでしょうか? 私は大動脈弁は大丈夫《だいじようぶ》と思いますが、僧帽弁《そうぼうべん》の具合がひどくわるいように思いますので、ぜひ先生のご診察をお願いいたしたいものでございますが……」
請《こ》われるがままに、私はひととおり診察してやったが、心臓にはすこしも別状はなかった。でも何かしら異常な恐怖《きようふ》にとらえられているのか、全身がたがた震《ふる》えているのは事実であった。
「べつにわるくはないようです。ご心配はありません」
「どうも失礼いたしましたな、モースタンさん」と彼はほっとしたふうで、「じつはずっとまえから心臓がわるいと思って心配していましたんで。先生のご診察で異状のないのがわかって安心いたしました。モースタンさんのお父さまも心臓にあんなに負担がかからなかったら、まだお達者だったかもしれませんでな」
モースタン嬢の胸に新しい悲しみの思い出を、まるで冷やかに、こともなげに口にする彼の横面《よこつら》を、私は撲《は》りとばしてやりたいほどに思った。モースタン嬢は椅子《いす》に腰《こし》をおろしたが、その顔は唇までまっ青になっていた。
「父はもうこの世にいないものと、覚悟《かくご》はいたしておりました」
「詳《くわ》しいことは私が知っております。のみならず、私はあなたに正義をとりもどしてあげられます。バーソロミュー兄などが何と申したとて、かまうことではありません。よくお友達をおつれくださいましたな。このおかたたちには、あなたの保護者としてのほかに、これから私の申すこといたすことの証人にもなっていただきます。私たち三人いれば、バーソロミュー兄にも思いきってぶつかってゆけます。でもほかの部外者には――警察や役人などには、何としても知らさないことにしましょう。三人いれば、どんな問題でも存分に処理できますし、それにバーソロミュー兄は、世間の人に知られるのを何よりもいやがりますからな」
彼《かれ》は低い長椅子にすわりこんで、うるんだような弱々しい眼でこちらの意向をさぐるように、ちらりと私たちを見あげた。
「私としてはあなたが何をいおうとしていられるのかわかりませんが、他言はしませんよ」ホームズがいうあとについて、私もうなずいてそれに同意であることを示した。
「それは結構、結構。――モースタンさんはキャンティかトカイ・ワインをお一ついかがですかな? ――あいにくそれしかありませんので。一本ぬきましょうか? ほう、おいやでございますか? それでは失礼して私は煙草《たばこ》をやらせていただきます。香《かお》りのたかい東洋の柔《やわ》らかい煙草です。すこし気がたっておりますので、こういうときはこの水煙管《みずぎせる》で一服やりますと、たいへんおちつきますでな」
彼は大きな雁首《がんくび》に火をつけて、薔薇水《しようびすい》をごぼごぼいわせてうまそうに吸った。私たちは小柄で気のよわいこの男の大きな禿頭を半円形にとりまいて、三人ともからだを前へのり出し、手に顎《あご》をのせて話のはじまるのをじっと待ちかまえた。
「はじめて手紙をさしあげる決心をしましたとき、じつはこちらの住所をもお知らせするとよろしかったのですが、あなたが私の申すことなぞ無視して、ろくでもない人たちをおつれになるといけないと思ったので、わざとお知らせはしないで、下男のウィリアムズを途中《とちゆう》までお迎《むか》えにさしあげたような次第《しだい》です。あの男ならまかしておけますでな。行ってみて様子がおもしろくないようならば、深いりせずにそっと戻《もど》ってくるようにと申しふくめておきました。そんな用心をいたしました失礼をどうぞお許しください。私はこうして浮世《うきよ》はなれたおだやかな、どちらかと申せば風雅《ふうが》な暮《くら》しをいたしておりますので、無風流な警察などに飛びこまれましてはまったく閉口しますでな。どうも荒《あら》っぽい実利主義とは生れつき性《しよう》があいません。ですからあまり人なかへも出ませず、ご覧のとおり部屋のなかなどもいくらか風雅に飾りつけておきますので、私はその、美術品が道楽でございましてな。あの風景はまがいなしのコローで、こちらのサルヴァトル・ローザなどは玄人《くろうと》は何と申すかわかりませんけれど、あのブーグロオはたしかな物でございます。私は近代フランス派が大好きでございまして……」
「お話中でございますが」モースタン嬢が話をさえぎった。「今晩はわたくしにぜひ話したいことがあるとのお言葉でまいりましたので、もう時刻もたいそうおそうございますし、なるべくお早く、簡単にそれを伺《うかが》いとうございます」
「どうしても、時間は相当かかりますな。と申しますのはこれから皆《みな》さまで、ノーウッドのバーソロミュー兄のところへ会いに行かなければならないからです。私が正しいと思ってしたことに兄は反対で、たいへん怒《おこ》っておりますから、昨晩もじつはだいぶ口論いたしました。兄は怒りますと、それは恐《おそ》ろしい男なんでございますよ」
「ノーウッドへ行くのでしたら、すぐに出かけたほうがよいでしょう」私が思いきっていってみると、ショルトーは耳たぶがまっ赤になるほど笑って、
「それはだめです。とつぜんあなた方をおつれ申したら、兄は何といって怒るかしれません。兄と私とがどういう関係になっておりますか、それもあらかじめ皆さまに申しあげておかなければなりませんし、また、この話のなかには私のまったく知らない点もたくさんあるということも、ご承知おき願わなければなりません。とにかく私の知っていますことだけ、お話し申しあげましょう。
私の父は、もうお察しのことかと存じますが、もとインドの軍隊におりましたジョン・ショルトー少佐でございます。父は十一年ばかりまえに退役《たいえき》になりまして、帰朝しましてからアッパー・ノーウッドのポンディシェリー荘《そう》に隠居いたしておりました。インドで成功しまして、かなりの資産とたくさんの珍奇《ちんき》な品を集めまして、数人の原地人を召使いとしてつれて帰ってまいったのです。そしてノーウッドに家を買っておちつきますと、ゆたかに暮しておりましたが、子供は私と双生児《そうせいじ》の兄のバーソロミューの二人きりでございました。
モースタン大尉《たいい》の失踪《しつそう》されましたときの騒《さわ》ぎは、私もよく記憶《きおく》しております。詳しいことが新聞にも出ましたし、父のお友達《ともだち》だったと知りまして、父のまえでも兄弟でいろいろとお噂《うわさ》をいたしたものでございます。父も私たちといっしょになりまして、どうなすったのだろうと、不思議がったり臆測《おくそく》したり、議論をたたかわしたりしましたものでございます。と申すようなわけで、その秘密が父の胸のなかに畳《たた》みこまれていましょうとは――それどころか父以外には、アーサー・モースタン大尉の生死の真相を知るものは一人もないのだとは、私どもとしまして夢《ゆめ》にも知らないことでございました。
とは申しながら、父の身には何か不思議なことが、重大な危険が迫《せま》っているのだということだけは、私たちも気がついておりました。父は一人で外出するのをたいへんこわがりまして、ポンディシェリー荘にはいつもプロボクサーが門番として二人も雇《やと》ってあったほどでございます。今晩あなたがたを馬車でご案内いたしましたウィリアムズと申すのもその一人でございます。ウィリアムズはこの国のライト級のチャンピオンにまでなったことのある男でございます。
父は何をそんなに恐れますのか、そんな話はけっして私たちにはきかせませんでしたが、なんでも木の義足をつけた男をひどくきらっておりました。あるときなど、木の義足をつけた男にピストルをあびせかけたことがございますが、あとでそれがただの行商人で、注文とりに来たのだとわかって、たいへんなお金を出してもみ消したこともございました。私たち兄弟はそれを、父のほんの一時の気まぐれだくらいにしか思っておりませんでしたけれど、そうではないのだと思わなければならないようなことが、やがて次第に起ってまいりました。
一八八二年の初めに、父はインドから一通の手紙を受けとりましたが、朝食のときそれを読みましてたいへん驚《おどろ》いて、まっ青になって気を失いそうになりました。そしてその日から床《とこ》につくようになって、とうとうそのまま亡《な》くなったのでございます。手紙には何が書いてありましたのか私どもにはついにわかりませんでしたけれども、はじめにちらと見ましたところでは、走り書きのごく短い手紙のようでございました。
父にはまえから脾臓肥大症《ひぞうひだいしよう》があったのですが、それから急に病勢がすすみまして、四月の末にはもうだめと医師の宣告を下されることになり、そこで父は私たちに遺言《ゆいごん》したいと申しました。
兄弟そろって病室へはいってまいりますと、父はベッドのうえに起きなおって、クッションによりかかって苦しそうに喘《あえ》いでおりました。病室のドアに鍵《かぎ》をかけさせましてから、私たちをベッドの両がわへ呼びよせまして、手をとりながらじつに思いもよらぬ話をはじめましたが、声は病苦と興奮とでとぎれがちでございました。これから父の口調をそのまま、そのときの話を申しあげましょう。
『この場になってわしは、たった一つ気にかかることがある。それは死んだモースタンの孤児《こじ》のことだ。欲のふかいおれは、半分だけでもあの子にやるべき財宝を、みんな横領してしまった。貪欲《どんよく》ほど恐ろしいものはない。横領してみたとて、みんなつかってしまえるわけでもないのに、自分が持っていたいというただそれだけの考えから、おれは他人に分けてやる気にはなれなかったのだ。キニーネの瓶のそばの真珠《しんじゆ》の数珠《じゆず》な、あれもモースタンの子にやるつもりで出しておいたのだが、いざできあがってみると、あんなものすらやる気にはなれなかった。だからお前たちはあの孤児に、アグラの財宝をたっぷり分けてやってくれ。だが、おれの生命のあるうちは、なにひとつやることはならん。あの数珠もな。とにかくわしより悪くても回復した人もあるんだからな。
モースタン大尉がどうして死んだか、それを話しておこう。あの男はまえから心臓がわるかったのだが、人にはそれを隠していた。わしだけはそれを知っていたのだ。インドにいるとき、わしら二人はある妙《みよう》なことから、かなり莫大《ばくだい》な財宝を手にいれた。その財宝はおれが一足さきに、内地へ持ちかえっていたのだが、モースタンは遅《おく》れてロンドンへ着いたその晩、その足で自分の分けまえをとりに、ここへやってきたのだ。あの男は駅からここまで歩いてやってきて、いまは亡くなったが忠実なラル・チャウダー爺《じい》やのとりつぎではいってきた。
モースタンとおれとは財宝の分配について意見がちがって、だいぶ口論をやった。そしてあの男は激怒《げきど》に震えながら椅子《いす》から立ちあがったかと思うと、顔いろが急に土のようになって、片手でわき腹を押《おさ》えたまま、あお向けに倒《たお》れたのだ。驚いて抱《だ》きおこしてみると、倒れる拍子《ひようし》に財宝をおさめた箱《はこ》の角に頭をうちつけて、すでにこと切れていた。
どうしたらよかろうと、わしはしばらく茫然《ぼうぜん》としてすわっていた。むろん最初に頭にうかんだのは、人を呼ぶことだが、そうすると誰《だれ》が見ても、わしが殺したとしか見えない。口論の最中に倒れて、頭をうって死んだとは誰も思ってくれまい。疑いがわしのうえにかかるのは知れきっている。しかも警察へ出て事情を陳述《ちんじゆつ》するとなれば、わしが生命よりも大切に秘し隠してきた財宝のことをもちださなければならない。大尉はおれのところへ来ることは誰にも話してないといっていたが、してみれば誰ひとり知らぬことを、ことさら人に知らせるにも及《およ》ばぬではないか。
あれこれと思いまどいながら、ふと眼をあげると、召使いのラル・チャウダーが入口のところに立っている。チャウダーはそっと中へはいってくると、うしろ手にドアをしめてからいった。「心配なさることはありません。旦那《だんな》が殺したことは誰も知りゃしませんから、とにかくこれはそっと片づけてしまうに限ります」
「おれが殺したんじゃない」というとチャウダーは首を振《ふ》ってにやにやしながら、「すっかり聞いちまいました。喧嘩《けんか》の声も殴《なぐ》りつける物音もね。でも私ゃ誰にも喋《しやべ》りゃしませんよ。家のやつらはみんな寝《ね》こんでいますから、早いとこいっしょに片づけてしまいましょうよ」
わしは考えた。自分の召使いでさえわしの潔白を信じてはくれないのに、陪審員《ばいしんいん》席に控《ひか》えている十二人もの男にどうして事実を信じさすことができよう。――そこでわしはラル・チャウダーを相手に、その晩のうちに死体の始末をつけてしまったが、二、三日するとロンドンじゅうの新聞に、モースタン大尉の不思議な失踪という記事が大きく出はじめた。
というわけなので、このわしにほとんど罪のないことは、これでよくわかってくれたろうな? 死体ばかりでなく、モースタン大尉に分配すべき分まで、財宝をそっくり隠しこんでしまったところに、わしの過《あやま》ちがあった。だからわしはお前たちに、この賠償《ばいしよう》をしてやってほしいのだ。耳をかしてくれ。財宝の隠してあるところはな……』
とここまで話してくると、父は急に恐ろしそうに顔いろをかえて、眼を大きく見ひらき、『追いだせ! けしからんやつだ! 追いだせ!』とどなりましたが、そのときの声はいまだに耳の底にのこっております。
私たちはすぐにふりかえって、父の見つめています窓を見ました。すると暗いなかにこっちをのぞきこんでいる顔が浮かんでいます。窓のガラスに鼻息がかかって、白く曇《くも》っています。髯《ひげ》がもじゃもじゃして、眼つきの野卑《やひ》な、にくにくしく残忍《ざんにん》な表情をしておりました。私たちはとっさに窓ぎわへ駆《か》けよりましたが、もうその男の姿は見えませんでした。そして父の枕《まくら》もとへ戻ってみますと、がっくりと頭をたれて、脈がすでにたえておりました。
その晩のうちに庭をさがしてみましたけれど、怪《あや》しい男は影《かげ》も形も見えませんでした。ただ窓の下の花壇《かだん》に、足跡《あしあと》がたった一つあっただけでございます。そのたった一つの足跡さえなければ、私たちの見ました恐ろしい顔は、心の迷いか何かだろうで片づけられたかもしれないくらいのものでございます。
しかし間もなく私たちは、何かしら秘密の組織につけ狙《ねら》われているような、恐ろしい別の実証を発見いたしました。と申しますのは、つぎの朝になってみますと、父の部屋の窓があいていて、戸棚《とだな》だの箱のなかだの引っかきちらかしたうえ、父の遺体の胸に『四つの署名』と走り書きした紙きれが留めてありました。
四つの署名とはなんのことか、誰がなんのために置いていったのか、さっぱり見当もつきません。調べてみますと、父の持物は一つのこらず引っかきまわしてありますが、それでいて何一つ盗《ぬす》まれてはいません。それで私たちは、父が生涯《しようがい》あんなに恐れていたものは、これだったのにちがいないと話しあいましたが、それでは何がどう恐ろしかったのか、その不思議は今日《こんにち》にいたるまで私たちには解きがたい謎《なぞ》なのでございます」
サディアス・ショルトーはうつむいて、水煙管《みずぎせる》をつけなおすと、何か考えこみながら、しばらくそれを吸っていた。私たちはこの異様な話にすっかり釣《つ》りこまれて、緊張《きんちよう》して聞きいっていた。モースタン嬢《じよう》は父親の最期《さいご》の状況《じようきよう》をはじめて耳にして、失神するのではないかと思われるほどまっ青になったが、私がそばの台のうえのヴェニスふうの水差しから、コップに水をとって飲ませてやったので、どうにかおちついた。
椅子《いす》の背に背中をもたせたシャーロック・ホームズは、気のないような顔をして、ほそめた眼瞼《まぶた》のあいだから、それでも眼を光らせていた。その顔を見て私は、彼がきょう人生の単調さをひどくこぼしていたのを思いだした。ああしかし、いよいよあらゆる知恵《ちえ》を絞《しぼ》らなければならぬ事件にめぐりあわせたのだ!
サディアス・ショルトー氏は自分の話に聞きとれている私たちを、得意そうに見まわして、大きなパイプをぷかぷかやりながら、さらに話しつづけた。
「申しあげるまでもなく私たち兄弟は、父が臨終の床ではじめて明かしかけました財宝につきましては、ひどく心をひかれました。そして何週間も何カ月間もかかりまして、庭のなかをあちこちと掘《ほ》りおこしてみましたけれど、いっこうそれらしいものは見あたりませんでした。父の最期の瞬間《しゆんかん》に、その唇《くちびる》にのぼりかけました財宝の所在が、あのまま葬《ほうむ》られてしまったことを考えますと、私たちは気も狂《くる》おしくなるばかりでございました。
その財宝と申すのが、父の遺《のこ》しました真珠の数珠のみごとさから考えてみましても、莫大なものだということがわかりましたが、この数珠については二人ですこし口論いたしました。真珠がたいへん高価なものだとわかっておりましたので、バーソロミュー兄はそれを惜《お》しがるのでございます。
この場かぎりの話でございますが、金銭のこととなりますと、兄はすこし父に似たところがあるようでございます。それに兄の考えますには、この真珠を人手にわたしますと、それから噂がひろまって、面倒《めんどう》なことが起るおそれがあると申すのでございます。しかたがありませんから私はモースタン嬢のいどころをたずねあてて、数珠をといて真珠をばらばらにし、あいだをおいて一つずつお送りして、せめて貧しい思いだけはさせたくないということで、ようやく兄を承知させたのでございます」
「ご親切なお心づかいをありがとうございます」とモースタン嬢が熱心にいうと、ショルトーは気の毒そうに手を振って、
「私としましては、モースタンさまのものをお預かりしまして、ただ保管しておるだけのつもりでございましたけれども、バーソロミュー兄はそうは思っていないようでございます。べつに父の遺してくれましたお金も相当にございますし、私はもうこのうえほしいとは思いませんでした。のみならず、年わかい婦人をそんなひどい目におあわせするのは、けっして気持のよいものではございません。『悪趣味《あくしゆみ》は罪のもと』とフランス人はまことに穿《うが》ったことを申しております。
兄弟でありながら、この問題では意見がわかれましたので、このうえは自分の思うとおりにしたほうがよいと思いまして、私はさきほどのインド人の爺やとウィリアムズとをつれて、ポンディシェリー荘を出てしまいましたのです。ところが昨日になりまして、たいへんなことが起ったのがわかりました。財宝の所在がわかったのでございます。
それですぐにモースタンさまのところへ手紙をさしあげましたようなわけで、これですっかり事情はおわかりと存じますが、このうえはこちらの――モースタンさまの分けまえを受けとりに、ノーウッドの兄のところへ出かけるばかりでございます。このことは昨晩も兄には申しておきましたから、よい顔はいたさないまでも、兄は待っていると存じます」
サディアス・ショルトーは話をむすんで、贅沢《ぜいたく》な椅子のなかで、またしても顔をぴくぴくさせつづけた。私たちはしばらく口もきけなかった。そうでなくても妙な事件に関係することになったと思っていたのに、話を聞いてみれば、ますます奇妙《きみよう》なことになってきたようだ。ホームズがまず立ちあがっていった。
「いや、あなたのなすったことは、終始立派なものです。このお礼には、あなたのまだおわかりにならない事柄《ことがら》を、すこしばかりわからせてあげられるかと思いますが、いまもモースタンさんの心配されるように、時刻がだいぶおそくなりましたから、一刻も早く出かけたほうがよいですね」
サディアス君は水煙管の管《くだ》をいとも丁寧《ていねい》に巻きおさめると、カーテンのうしろから、襟《えり》と袖口《そでぐち》にアストラカン皮をつけたばかに長い派手な外套《がいとう》を出して着こみ、このむし暑いのにボタンをすっかりかけて、カバーつきの兎《うさぎ》皮のハンチングをかぶり、神経質な憔悴《しようすい》した顔のほかすっかり包んでしまった。
「私はからだがすこし弱いものですから、ちょっと出るにもひどく健康を気にします」彼《かれ》はさきにたって玄関《げんかん》へ出ていった。
馬車はちゃんとそとで待っていたが、かねて命令してあったものと見えて、私たちが乗りこむやいなや、行きさきもきかずに駆《か》けだした。ショルトーは間断なく、車輪のきしりよりも甲高《かんだか》い声で話しつづける。
「バーソロミュー兄は利口でございますよ。どうやって兄が財宝をさがしあてたとお考えになります? まず財宝が必ず家のなかにあるという結論を得ましてね、建物の容積を測りはじめました。一インチもゆるがせにはしませんで、すっかり測りあげてみますと、まず家の高さは七十四フィートありますのに、二階三階と部屋の高さをみんな寄せ、それへ床に孔《あな》をあけて測った厚さを加えて、どんなに多く見積っても七十フィートにしかならないことがわかりました。その差の四フィートの開きは、建物の頂上にしかもってゆき場がございません。
そこで最上階の部屋の木摺《きずり》と漆喰《しつくい》とでかためた天井《てんじよう》に孔をあけてみますと、驚いたことには、そこがちゃんと物置になっているではございませんか。この誰も気のつかない場所の中央の二本の梁《はり》のうえに、財宝の箱が隠《かく》してあったのでございますよ。箱は孔からとりおろしてございますが、みんなでは五十万ポンド以上のものだと、兄は申しておりました」
私たちはこの莫大な金額を聞いて、みんな眼《め》を丸くした。私たちがうまく彼女《かのじよ》の権利を守ってあげられれば、モースタン嬢は貧しい一家庭教師の身から、一躍《いちやく》イギリス随一《ずいいち》の女金持になれるのだ。知った人がこうした喜びにひたるのは、ほんとにうれしい。
だが恥《は》ずかしながら、利己的な私は心が鉛《なまり》のように重くなるのをどうすることもできなかった。私はつっかえながら半ば口のうちで祝辞だけはどうにか述べたものの、それからさきはクッションにからだを沈《しず》めたままうなだれこんで、ショルトーの話もよくは耳にはいらなかった。
彼はたしかにおもい神経衰弱《しんけいすいじやく》にかかっているのにちがいなかった。いろんな徴候《ちようこう》をつぎからつぎへと並《なら》べたてたり、たくさんのいかさま特効薬の処方や適応症への効能を教えろとせがんだり、そのあるものは自分でも革《かわ》ケースに入れてつねに携帯《けいたい》しているといって、出してみせたりしたのを、夢うつつに覚えているが、さぞとんちんかんな返事をしたことだろうから、どうぞ彼がその返事を覚えていてくれなければよいと思う。そのとき私が蓖《ひ》麻子油《ましゆ》は二|滴《てき》以上のむのはきわめて危険で、鎮静剤《ちんせいざい》にはストリキニーネを大量にのむがよいと教えたのを耳にはさんだといって、ホームズはあとで冷やかした。
だが馬車がひとゆり揺《ゆ》れてとまり、馭者《ぎよしや》がとびおりて戸をあけたときには、私も気をとりなおして、もうしゃんとしていた。
「モースタンさん、これがポンディシェリー荘《そう》ですよ」とショルトーは彼女をたすけおろした。
第五章 ポンディシェリー荘の惨劇《さんげき》
この夜の冒険《ぼうけん》の最後の舞台《ぶたい》にわれわれがついたのは、もう十一時に近かった。そこは霧《きり》ふかい大都会をはなれた美しい夜の郊外《こうがい》だった。暖かい西風が吹《ふ》いて、黒い雲のゆるく流れるあいだからは、思いだしたように半月がのぞいていた。霧がないので、かなり見とおしはきいたが、それでもショルトーは馬車の側灯を一つはずして、私たちの足もとを照らしてくれた。
ポンディシェリー荘は一|軒《けん》だての家で、頂にガラスの破片《はへん》を植えこんだ高塀《たかべい》がめぐらしてあった。入口は鉄製の金具もいかめしい片開戸《かたびらきど》のせまいのが一つあるだけだった。そこまで来るとショルトーは、郵便屋のような一風かわった調子で、コツコツと案内を乞《こ》うた。
「誰だ?」あらあらしい声がなかから聞えた。
「私だよ、マクマード。もう私のノックぐらいおぼえてもいいだろうに」
やがてガタガタと音がして、鍵《かぎ》の鳴るのがジャラジャラと聞えた。そしてドアがおもおもしく内がわから引かれると、そこに背の低い、胸の厚い男が、黄いろく輝《かがや》くランプを手にして、じろじろと胡散《うさん》くさげな顔をつきだすように現わした。
「ああ、サディアスさまで。お連れさまはどなたです? 旦那《だんな》からはお連れさんのことは何も伺《うかが》っていませんよ」
「聞いてない? これは驚《おどろ》いた! お友達《ともだち》といっしょに来るってことは、ゆうべ話しておいたんだよ」
「旦那はきょうお部屋へ閉じこもったきり、朝から一度もお顔を見せないんで、何も伺っちゃおりません。ご存じのとおり、私の一存じゃ計らいかねますでな。あなただけおはいりください。ほかのかたはちょっと困ります」
思いもよらぬ障害が起った。サディアス・ショルトーは当惑《とうわく》して、情けなさそうに今さらあたりを見まわした。
「それは困るよ。私が請《う》けあうから、それでいいじゃないか。それに若いご婦人もいらっしゃるのだし、この夜ふけに往来に待たせることはできないよ」
「まことにお気の毒さまで」と、それでも玄関番は頑《がん》として聞きいれなかった。「あなたにゃお友達だか知らねえが、こちらの旦那にゃ何ということもねえ。旦那は私が言いつけをよく守るんで、私を大切にしてくださるんだから、私もいよいよ旦那の言いつけはよく守るんでさ。お友達のこたア私ゃ知りませんぜ」
「知らないはずはないがな」とシャーロック・ホームズがとつぜん、元気よく話しかけた。「おれを忘れたのかい、マクマード? 四年まえの夜、アリソン館でのお前の後援《こうえん》興行で、お前と三ラウンド闘《たたか》ったアマチュアのこのおれを、よもや知らないはずはあるまい?」
「やあ、これはシャーロック・ホームズさんじゃありませんか!」プロボクサーはわめきたてた。「どうもとんだお見それをやらかしたもんで! そんなところへこっそり立ってなぞいなさらねえで、いきなりこのジョーへあんたのダブル・パンチでもくらわしてくれたら、すぐに思いだすんだったのに。ところで旦那は才能をだいなしになすったと見えるね。あれからみっちりやってれば、ぐんとのしあがっていたろうになあ!」
「どうだいワトスン君、僕《ぼく》はほかのことにすべて落第したとしても、まだこうした技術を要する職業の一つにはいれる機会がのこっているんだね」とホームズは笑って、「おかげで、もうこんな吹きっさらしの往来に立っていなくてもよいことになるだろうよ」
「さあどうぞはいってください――皆《みな》さんどうぞ。どうも相すみません、サディアスさま。なにしろ旦那の言いつけがきびしいもんで……はなっからわかってれば、何のことはなかったんですがね」
内がわは殺風景な庭で、砂利《じやり》をしいた小路がうねって、向うに見える大きな四角い平凡《へいぼん》な建物のほうへつながっている。その建物はすべて暗黒のうちに包まれて、わずかに一隅《いちぐう》を照らす月光が、天窓のガラスに照りはえているばかり、建物の大きな姿と、陰気《いんき》にひっそりとしたさまとは、見るだけでもぞっとするほど不気味であった。サディアス・ショルトーでさえ気味がわるいのか、手にしたランプがガタガタ音をたてるほど震《ふる》えていた。
「合点《がてん》がゆかない。何かまちがいでもおこったかな? 今晩来ることは、バーソロミュー兄にはっきり話しておいたのに、兄の部屋に灯火《あかり》が見えません。はて、どうしたのでしょう?」
「兄さんは用心のため、いつもこういうふうに、家のなかをまっ暗にしておくのですか?」ホームズがたずねた。
「はい。父の習慣のとおりにやっております。兄は父のお気にいりでございましたから、何か父から特別に聞かされているのではないかと、どうかしますと私は、そんなふうに気をまわすこともございます。あの、月のさしていますあの窓が、兄の部屋でございますよ。明るく光ってはおりますけれど、あれは中に灯火《あかり》がともっているのじゃないように思われます」
「灯火《あかり》はついていませんね」ホームズがいった。「でもこっちのドアのそばの小窓には、かすかに灯火《あかり》が見えていますよ」
「あれは家政婦の部屋でございます。バーンストン夫人があそこに控《ひか》えておりますから、夫人にたずねてみましたら、様子がわかりましょう。恐《おそ》れいりますが、ほんの一、二分だけここでお待ちください。夫人はまだ、私たちの来るのを知らされていないのかもしれませんから、とつぜんどやどやと行きますと、ひどく驚くといけません。――おや! あれはなんでございましょう?」
ショルトーは震える手で側灯をたかくかかげ、私たちのまわりをぐるっとひと回りふりまわした。モースタン嬢は私の手首につかまった。みんなは胸をおどらせながら、じっと耳をそばだてた。まっ暗な大きな家のなかから、悲しくも痛ましい泣き声が、夜の沈黙《しじま》をやぶって聞えてくる――ものに怯《おび》えた女の恐ろしい泣き声である。
「バーンストン夫人です。この家にはほかに女はいないはずですから。……ちょっとここでお待ちください。すぐに戻《もど》ってまいります」
ショルトーは急いで玄関口へ行って、例のおかしなノックをした。すると背のたかい老女がなかから現われて、そこに立っているのがショルトーだったので、うれしそうに迎《むか》えいれるのが見えた。
「あら、サディアスさま。よくおいでくださいました。まあ、ほんとによくおいでくださいました」と彼女はくりかえしたが、やがて戸がしまったので、あとは何やらぶつぶつとひくい声がするばかりで、話は聞きとれなかった。
ショルトーがランプを置いていったので、ホームズはそれをとって静かに振《ふ》りかざしながら、家のほうをじっとうかがったり、大きな塵溜《ごみため》のような庭のなかを見まわしたりした。
モースタン嬢と私は、手をとりあってじっと立っていた。愛とはなんと不思議なものであろう! この日まではたがいに言葉を交《か》わしたことはもとより、やさしい視線をまじえたこともなく、たがいの存在すら知らなかった二人であるのに、わずか一時間ばかり苦労をともにするうち、手までとりあうことになってしまった。
いまでも私はこの不思議な縁《えん》には驚いているのだが、そのときはそうなったことに何の不審《ふしん》をも感じなかった。彼女も、あのときは本能的に私の手をとることによって、何となく心強さを感じたのだと、その後にいつもいうのである。私たちは二人の子供のように、手に手をつないで、不気味なはずの闇《やみ》のなかに、安らかな気持で立っていたのである。
「変なところですのね」彼女はあたりを見まわした。
「まるでイギリスじゅうの土竜《もぐら》を集めて、庭へはなしたみたいですね。私はオーストラリアのバララト金山の付近で、これとおなじような光景を見たことがありますが、一攫千金《いつかくせんきん》を夢《ゆめ》みる連中が、丘《おか》の中腹をさかんに掘《ほ》りおこしていましたよ」
「これもやっぱりその遺跡《いせき》なのさ。なにしろ六年間もさがしつづけたというからね。砂金採集の穴のようになるのも無理はないよ」ホームズがいった。
このとき入口のドアがさっとあいたと思うと、サディアス・ショルトーが両腕《りよううで》をまえへさしのべ、恐ろしそうに眼を見ひらいてとびだしてきた。
「バーソロミュー兄がどうかしたらしいです! ああ恐ろしい! どうかしてください!」
彼は恐怖《きようふ》のあまり泣きべそをかき、大きな外套《がいとう》のアストラカン皮の襟《えり》から、ピクピクする顔をのぞかせて、まるで子供の怯えたような表情をうかべていた。
「はいってみましょう」ホームズはおちつきのある、しっかりした声でいった。
「どうぞ! 私にはどうしてよいか、まったくわかりません」
三人はホームズについて入口の左がわの、老家政婦バーンストン夫人の部屋へはいってみると、彼女は恐怖にみちた顔をして、のべつ指を動かしながら室内を歩きまわっていたが、モースタン嬢《じよう》の姿を見ていくらかおちついた様子で、
「まあ、ようこそ! あなたがいらしてくださいましたので、そのおちついたお顔を見て、たいへん心丈夫《こころじようぶ》になりました。ほんとにきょうはひどい目にあってしまいました」彼女はまたヒステリックにうわずった声で、泣きだしそうにいった。モースタン嬢がそのやせて荒《あ》れた手をとってさすりながらやさしい慰《なぐさ》めの言葉をかけてやると、顔いろにもいくらか血のけがさしてきた。
「旦那さまは終日《いちにち》お部屋へ閉じこもって、なかから錠《じよう》をかったきり、お呼びしてもさっぱり返事もなさいません。ときどき独りきりでじっとしていらっしゃるのがお好きでございますから、いまにもお呼びがありますかと、朝からお待ちしていましたのに、一度もお呼びになりません。
それで一時間ばかりまえにも、何かまちがいでもあったのではないかしらと存じまして、あがってゆきまして鍵穴からのぞいてみましたが、そのお顔と申しましたら! サディアスさま、どうぞ行ってみてくださいまし。旦那さまにはもう十年もご奉公《ほうこう》申しあげておりますけれど、あんなこわいお顔をなすったのは、一度も存じあげません」
サディアスがブルブルと、歯の根もあわぬほど震えているので、ホームズはみずからランプをとって先にたった。私は膝《ひざ》がしらをガクガクさせているサディアスの腕《うで》をとり、抱《だ》くようにして階段をのぼらなければならなかった。
二つ目の階段をのぼるとき、ホームズはポケットからレンズをとりだして、椰子《やし》の毛を織った敷物《しきもの》のうえにあった埃《ほこり》のかたまりとしか見えない痕跡《こんせき》を仔細《しさい》にあらためた。それからはランプをグッと低めて足もとを照らしながら、左右にするどく眼をくばって、一段一段と彼はゆっくりのぼっていった。モースタン嬢はこわがる家政婦といっしょに下にのこった。
三つ目の階段をのぼりつめると、ちょっとした廊下《ろうか》があって、右がわの壁《かべ》には大きな模様をあらわしたインド産のタピストリーがかけてあり、左がわにはドアが三つあった。ホームズはどこまでもおちついた足どりで、ゆっくりと進んでゆく。すぐあとに続く私たちの影法師《かげぼうし》が、ながくうしろにゆらめいた。三つ目のドアがめざす部屋だった。ホームズはノックしたが返事がないので、ハンドルに手をかけて押してみたがあかなかった。ランプをかかげてよく見ると、内がわから丈夫な錠がおろしてあることがわかった。錠はおりているが、鍵がすこしまわしてあるので、鍵穴はまったく塞《ふさ》がれてはいなかった。ホームズはしゃがんで、そこからなかをのぞいてみて、驚いたらしく大きく息を吸いこんで立ちあがった。
「これはたいへんだ!」彼がこんなに驚いたのを私は見たことがない。「見てくれたまえ、ワトスン君。これをどう思う?」
私は鍵穴からなかをのぞいてみて、のけぞらんばかりに驚いた。月光が流れこんで、そこここに不安なかげをつくりながらも、うすあかりに照らしだされた部屋のなかに、私たちの同伴者《どうはんしや》サディアス・ショルトーその人の顔が、下半身はかげのなかに隠れてはっきりとは見えないが、浮《う》きあがったように、まざまざとこっちを向いているのである。たかく禿《は》げぬけて光る額、禿げのこりの紅《あか》い頭髪《とうはつ》、血のけの失《う》せた頬《ほお》、しかも気味わるく、無理に歯をむきだして、にやっと笑《え》みをふくんだその容貌《ようぼう》は、見ただけでぞっと身ぶるいがきそうだった。
私は思わずそばのサディアスをふりかえった。するとその顔も、部屋のなかのサディアスに劣《おと》らずうす気味わるかった。そしてこのときはじめて私は、この二人が似ているのも道理で、双生児《そうせいじ》だったことを思いだした。
「たいへんだ! どうしたもんだろう?」私はホームズの顔を見た。
「何はおいてもまず、ドアをあけなければならない」ホームズは満身の力をこめてドアにぶつかった。ドアはおそろしい音をたてるばかりで、びくともしなかった。でもみんなで呼吸をあわせて一時にぶつかると、その勢いでついに錠がこわれ、私たちは重なりあって部屋のなかへよろけこんだ。
部屋のなかは化学実験室としての設備ができていた。正面の壁《かべ》にはガラス栓《せん》のついた瓶《びん》が二段に配列してあり、テーブルのうえにはブンゼン灯や試験管、レトルトなどが散らかっている。隅《すみ》のほうにはかご入りの酸類の大瓶《おおびん》が置いてあった。そのうちの一つが洩《も》るのかこわれたのか、どすぐろい液が流れ出て、タールのような刺激《しげき》性の臭気《しゆうき》が部屋の中に満ちていた。
また一方の木摺《きずり》と漆喰《しつくい》との散らかったなかには、踏台《ふみだい》が一つあって、そのうえの天井《てんじよう》に、人が十分出入りできるくらいの大きな穴があった。踏台の下には、ながいロープがまるめて放《ほう》り出してある。ものすごく奇怪《きかい》な微笑《びしよう》をうかべたこの部屋の主人は、テーブルのわきの木の肘掛《ひじかけ》椅子《いす》にだらしなくすわり、頭を左の肩《かた》にかたむけて、冷たくなっていた。明らかに死後数時間を経過している。
顔ばかりかと思ったが、近寄ってみると、四肢《しし》ともに変にゆがんでいるらしかった。テーブルのうえの手近なところに、妙《みよう》な道具があった。褐色《かつしよく》の堅《かた》い木の一端《いつたん》にハンマーのように石の頭をつけ、ごつごつした麻糸《あさいと》で乱暴にしばりつけてある。そのそばには用箋《ようせん》の切れはしが落ちていた。ホームズはそれをとりあげて、ちょっと見てから私にわたしてよこした。
「ほら、ね?」ホームズは癖《くせ》で、眉《まゆ》をつりあげた。
「四つの署名」私は手さげランプの光でその文字を読んでみて、ぞっと身ぶるいした。「いったいこれは何のつもりだろう?」
「殺人を意味するのさ」ホームズは死体をのぞきこみながら、「ああ、やっぱりそうだ。これを見たまえ」と死体の耳のうえのところに刺さった大きな木の釘《くぎ》のようなものを指さした。
「矢らしいね」
「矢さ。抜《ぬ》いてみたまえ。毒がついているから気をつけてね」
二本の指でつまんで引いてみると、苦もなく抜けてきた。あとにはぽっちりと血のあとが残っただけである。
「どうも僕にはすべてのことが不可解な謎《なぞ》だ。だんだんわかってくるどころか、だんだんわからなくなってくる」
「僕はその反対で、ますますよくわかってくるよ。この事件も、もうあと二、三の不明な点がのこっているだけだ」
このときまで私たちは、サディアスの存在をすっかり忘れていた。彼は入口のところにつっ立ったままで、はいってこようとはせず、恐怖を絵に描《か》いたように両手をもみ絞《しぼ》ったり、うめいたりしていたが、ここでとつぜん、訴《うつた》えるように鋭《するど》くわめいたものである。
「や、や、財宝がなくなった! 盗《ぬす》んでいきよったのです! あの穴から箱《はこ》をおろすとき、私も手つだいました。あれが兄にとって、人に会った最後だったのです! 昨夜かえりますとき、階段を降りてゆきますと、うしろで部屋に錠をおろす音が聞えましたが、ああ、あれが最後になろうとは!」
「それは何時《なんじ》のことです?」
「十時でございました。それがいま死んでいるのですから、警察が来たら私に嫌疑《けんぎ》をかけるにちがいありません。きっと私が疑われます。でもあなたがたは私を信じてくださいますでしょうね? 私が殺したのでしたら、あなたがたをこんなところへ連れてくるものですか! ああ神さま、私はどうしたらよろしいのです? 私は気が狂《くる》いそうです!」
彼《かれ》はほんとに気でも狂ったように、腕を振ったり、地だんだを踏んだりした。
「ショルトーさん、心配することなんかすこしもありません」ホームズはかるくその肩に手をかけて、やさしくなぐさめた。「これからすぐに警察へ行って、すっかり事情をうちあけてよくご相談なさい。私たちはそれまでここでお待ちしていますから」
サディアスはなかば茫然《ぼうぜん》として、無言でその場を去った。やがてくらい階段をよろめき降りてゆくらしい乱れた足音が聞えてきた。
第六章 ホームズの論証
「ところでワトスン君」とホームズは両手をこすりあわせながら、「三十分は余裕《よゆう》があるだろう。そのあいだをうまく利用しようよ。さっきもいったように、僕はだいたいの見当はついているが、自信|過剰《かじよう》で失敗するようなことがあっては、おもしろくない。いまのところ事件は簡単なようでも、何かまだ底がないともかぎらないんだからね」
「簡単なんだって?」私は思わず叫んだ。
「そうさ」と彼は臨床《りんしよう》講義の教壇《きようだん》に立った教授のような調子でいった。「やたらに足跡《あしあと》をつけて、僕の調査の邪魔《じやま》をしないように、あの隅《すみ》にでもすわっていてくれたまえ。さ、それでは始めよう。まず第一に犯人どもはどこからはいって、どこからどうして逃《に》げたかだ。ドアはゆうべしめたままだというから、これはよい。窓はどうなっているかな?」
彼はランプを手に持って窓のそばへ行った。観察したことをいちいち口に出していいつづけているのは、私にではなく自分にいい聞かせているらしかった。
「窓は内がわから栓がさしてある。枠《わく》もしっかりしているし、蝶番《ちようつがい》はない。あけてみよう。近くに雨樋《あまどい》はない。屋根はたかくて手も届かない。それなのに誰《だれ》だか窓のところへ乗ったものがある。ゆうべは雨がすこし降ったからね。窓敷居に泥《どろ》の足跡が一つある。そしてここには丸い泥の跡がある。ああ、部屋のなかにもここにある。テーブルのそばにもある。見たまえ、ワトスン君、これはまったく明瞭《めいりよう》な証拠《しようこ》だよ」
ホームズの示したのは、輪郭《りんかく》のはっきりした丸い泥あとであった。
「足跡じゃないじゃないか」
「足跡よりもっと役にたつのさ。これは木の棒のあとなんだよ。見たまえ、窓敷居のうえには靴《くつ》のあとが、しかも踵《かかと》に大きな金具をうったボテ靴のあとがある。そのそばにあるのは木の義足のあとなのさ」
「じゃ木の義足をつけた男なんだね?」
「そうさ。もっともそいつ一人じゃない。きわめて役にたつ共犯者が一人あったんだ。ワトスン君、きみはこの壁がのぼれるかい」
私はあけはなってある窓のそとをのぞいてみた。月はやはり美しく、壁面《へきめん》をまともに照らしている。窓は地上からたっぷり六十フィートはたかく、どこを見ても足掛《あしがか》りになるものは一つとして見あたらず、煉瓦《れんが》の壁には手をかけるべき亀裂《きれつ》ひとつなかった。
「ぜったい不可能だ」
「ひとりではだめさ。しかし試みに、相棒がこのうえにいて、あの隅にある丈夫《じようぶ》な太いロープを壁のこの大きな鐶《かん》にむすびつけて、垂らしてくれたとしたらどうだ? 身の軽い男なら、足の一本くらいなくたって、十分のぼれると思うがねえ。帰るときは、むろん同じようにして降りればよい。そのあとで相棒がロープをひきあげて、鐶から解き、窓をしめて内がわから栓をさし、自分は来たのと同じところから降りてゆく。
それからこれはあまり重大な事柄《ことがら》ではないが」と彼はロープをいじりながらつづけた。「木の義足の男はうまくロープをよじのぼりはしているが、水夫|稼業《かぎよう》の男ではない。手のひらがちっとも堅くないのがその証拠さ。あのロープをレンズで調べてみると、血の跡がいくつもついているが、ことに端《はし》の方に多い。これはその男があんまり早くすべり降りたので、手のひらの皮をすりむいたのだ」
「それはいいとして、事件はますます迷宮《めいきゆう》にはいってくるじゃないか? その不思議な相棒というのはどうしたやつだろう? どこからどうしてこの部屋へ忍《しの》びこんだのだろう?」
「うむ、相棒のやつねえ」ホームズはじっと考えこんで、「こいつなかなかおもしろい特徴《とくちよう》をそなえている。こいつが関係しているので、この事件も平凡《へいぼん》の域を脱《だつ》するわけなんだ。この共犯者がわが国の犯罪記録に出てくるのは、たぶんはじめてだと思う。もっとも似たような事件がインドにあったし、それから僕《ぼく》の記憶によれば、セネガンビアにあったと思うよ」
「ではそれが、どうしてこの部屋へ忍びこんだのだろう?」私はかさねてたずねた。「ドアはしまっていたのだし、窓には手も届かないし、煙突《えんとつ》からもぐりこんだとでもいうのかい?」
「暖炉《だんろ》の火格子《ロストル》がこまかいから、とても抜けられない。その点は一応|考慮《こうりよ》してみたんだ」
「じゃどうしてはいったのだい?」
「僕がかねがねいっていることを、君はさっぱり適用してくれないんだね」とホームズはさも残念そうに頭を振《ふ》って、「すべての条件のうちから、不可能なものだけ切りすててゆけば、あとに残ったものが、|たとえどんなに《ヽヽヽヽヽヽヽ》|信じがたくても《ヽヽヽヽヽヽヽ》、事実でなくちゃならないと、あれほどたびたびいってあるじゃないか。ドアからはいったのでなく、窓からでなく煙突でもない。そしてこの部屋にはどこにも隠《かく》れる場所はないのだから、あらかじめ忍んでいたのでもないとすると――どこからはいったのだろう?」
「天井の穴だ!」と私は叫《さけ》んだ。
「むろんのことさ。それよりほかにはいるところはない。ちょっとランプを持っていてくれたまえ。天井のうえを調べてみよう、財宝が隠してあったという場所をね」
ホームズは踏台にのぼると、両の手を梁《はり》にかけて、ひょいと身軽に天井裏へとびあがった。そして腹ばいになって私の手からランプを受けとり、ついで私があがるまで、それで照らしていてくれた。秘密室は六フィートに十フィートばかりの小さな場所で、床《ゆか》は梁と梁のあいだに木摺《きずり》をはって、うすい漆喰《しつくい》をぬってあるだけなので、歩くには梁から梁へと渡《わた》らなければならなかった。頭のうえには傾斜《けいしや》をもつ天井があったが、これは明らかにこの家の屋根の裏側にちがいなかった。家具類は一つもなくて、床には長年の塵埃《じんあい》がたまっていた。
「ちょっとこれを見たまえ」ホームズは傾斜のある屋根に手をふれて、「これは屋上へ出られる天窓なんだ。このとおりあくだろう? うえはゆるい傾斜の屋根だ。すなわち第一号の犯人はここからはいったんだ。何か手掛りをのこしているかもしれない。調べてみよう」
こういってホームズはいったんランプを下に置いたが、その瞬間《しゆんかん》、またもや彼の顔に驚愕《きようがく》のいろが現われた。その視線をたどってみて私は、全身に冷水をあびたようにぞっとした。床のうえには一面に、裸足《はだし》の足跡がみだれているのである。しかも、はっきりと完全にしるされているが、その大きさは普通《ふつう》の大人のやっと半分もないぐらいなのである。
「ホームズ君」私は声を殺してささやいた。「これは、この恐《おそ》ろしい罪を犯したやつは、子供なんだね」
ホームズはすぐにふだんの沈着《ちんちやく》さをとりもどして、
「ちょっと驚《おどろ》かされた。しかし、何も不思議はないんだ。僕はつい忘れていた。こんなことくらい、見ないうちからちゃんとわかっていたはずなんだからね。だがここはもう見るものもない。さあ降りよう」
「じゃあの足跡がどうだというのだい?」私は下へ降りるとすぐにたずねた。
「どうしたって? すこしは自分で考えてみたまえ」ホームズはすこし癇癪《かんしやく》をおこしたらしく、「僕のやりかたはよく知っているはずじゃないか。そのとおりやってみたまえ。そうすればすこしはわかりそうなもんだ」
「だって僕には、この事実はまるっきり説明がつかないんだよ」
「いまにわかるさ」ホームズはすこし面倒《めんどう》くさそうに、「この部屋にはもう格別大切なものもないようだが、でも念のためもうすこし検《あらた》めておこうよ」
とポケットからレンズと巻尺をとりだすと、膝《ひざ》をついて、顔を床にすりつけんばかりにして大急ぎでそこいらじゅうを測ったり、比較《ひかく》したり、検めたりしはじめた。その様子はよく訓練された警察犬が、臭跡《しゆうせき》をかぎまわっているようでもあった。私はそれを見ていて、これだけの知力と精神力を犯罪|捜査《そうさ》のために使うのではなくて、もし犯罪をおかす方に向けられたら、どんなことになるだろうと恐ろしく思った。彼はあっちこっちと調べながら、たえずぶつぶつ口の中でなにやら呟《つぶや》いていたが、ついにうれしそうな大声をあげた。
「しめたッ! もう何も面倒なことはないよ。第一号のやつは不運なことに、クレオソートのなかへ片足を踏みこんでいる。ほら、このいやな臭《くさ》いべとべとしたもののそばに、小さな足跡がはっきり見えるだろう? 大瓶《おおびん》がこわれて、中身が流れ出ていたんだ」
「それがどうしたというのだい?」
「どうもこうもあるものか。これでやつをつかまえられる。それだけさ。僕はこの臭気をどこまでも尾《つ》けてゆく犬を知っている。こんな強い臭気だもの、どこまでだってのがしっこないよ。これは数《*》学の三率法【訳注 三つの既知数から一つの未知数を求める比例】の問題みたいなもんだ。答えは一瞬にして――おや! 警察の諸君がやってきたらしいよ」
おもい足音と、そうぞうしい大きな声が、階下から聞えてきた。と、玄関《げんかん》のドアをバタンと手あらくしめるのが聞えた。
「あの連中が来るまえに、ちょっと死体の手足にさわってみてくれたまえ。どうだい?」
「筋肉がすっかり硬直《こうちよく》して、板のようになっている」
「そのとおり。まったくひどい硬直だね。普通の死後硬直はこんなものじゃない。この顔のゆがめ具合は、ヒポクラテスのいわゆる死相的微笑というか、|痙攣的笑い《リスス・サルドニクス》というか、何かそこから判断はつかないかい?」
「そうだね。何か強力な植物性アルカロイド毒による死だろう。ストリキニーネふうの痙攣《けいれん》性の毒物だね」
「僕もこのねじれた死顔を見た瞬間にそれを考えた。だから部屋へはいると第一に、毒物がどこから体内にはいったか調べてみたんだ。すると君も見たとおり、矢がかるく頭部に打ちこんであった。見たまえ、矢の打ちこまれている部位は、この男が椅子にしゃんと腰《こし》かけていれば、ちょうど天井の穴のほうへ向くだろう? ちょっと矢を調べてみたまえ」
私はそっと矢をつまんで、ランプの下へ持っていってみた。黒色のながくて鋭い矢で、先端《せんたん》は樹脂《じゆし》か何かでなめらかに仕上げてある。太いほうの端はナイフで削《けず》って、角を丸めてあった。
「イギリスふうの矢だろうか?」
「いや、イギリスではこんな矢は使わないね」
「ふむ。これだけの材料があれば、君にだって何か結論が出せるだろう? だが本職のお歴々がみえたから、こっちはそろそろ勇退するとしようよ」
だんだん近づきつつあった足音が、このときついにドアのそとまで来たのである。そしてグレイの服を来た頑丈《がんじよう》な、恰幅《かつぷく》のよい男が足音あらく踏《ふ》みこんできた。多血質のたくましい赤ら顔に、小さなよく瞬《まばた》く眼《め》が、たるんだ頬《ほお》のうえで鋭く光っている。すぐあとから、制服の巡査《じゆんさ》が一人とサディアス・ショルトーが続いた。
「うん、これだね! なあるほど、こいつはひどい!」と彼は不《ふ》明晰《めいせき》なしゃがれ声でこういったが、私たちのいるのに気がついて、「ところでそこに立っているのは誰だ、なぜこの家は兎《うさぎ》小屋のようにたくさん人がいるんだ?」
「お忘れのはずはないと思いますがねえ、アセルニー・ジョーンズさん」ホームズがおだやかにいった。
「おう、君ですか!」ジョーンズはちょっとあわて気味で、「名論家シャーロック・ホームズ君でしたね。忘れるもんですか! ビショップゲートの宝石事件のときの、原因推理結果のすべてにわたる君の講演は、なかなか忘れられるもんじゃありません。あのときは君の講演に啓発《けいはつ》されたのもたしかに事実だが、いまとなってみれば、われわれの成功の原因はあなたの指導のよろしきを得たというよりも、むしろ幸運に負うところのほうが多かったのを、君も認めるでしょう?」
「なに、あれはごく簡単な推理だったのです」
「ほう! ほう! 事実を認めるのは恥《はじ》ではありませんよ。ところでこれはどうした事件ですかね? やあ、これはひどい! これは一目瞭然《いちもくりようぜん》だ。これにゃ理論もくそもないて。僕はほかの事件で偶然《ぐうぜん》ノーウッド署へ来ていて、まったく運がよかった。まだ署にいるところへ使いをうけたもんだから……君はこの男の死因を何だと思います?」
「これは私があれこれ理論を組みたてるような事件ではありませんよ」ホームズは冷やかにいった。
「そうだろう。しかし君はしばしば奇功《きこう》を奏する男だから油断がならない。さてと、ドアはしまっていたそうだし、五十万ポンドの宝石が紛失《ふんしつ》したという。ふむ、窓はどうかな?」
「窓はしまって、内がわから栓《せん》がさしてあったのに、窓敷居《まどじきい》には泥足のあとがあります」
「窓の締《しま》りがしてあったんなら、足跡はまったく無関係にきまっている。そんなことは常識の問題だ。この男は病気――急病の発作《ほつさ》で死んだのかもしれない。だがそれにしては宝石が紛失しているというし……ああ、わかった! 僕はときどき天来の神音というやつが湧《わ》きおこるんだ。巡査部長、ちょっと席をはずしていてくれたまえ、そのショルトーさんもだ。ホームズ君とお連れはいてもよろしい。ところでホームズ君、これをどう思いますね? ショルトーはゆうべここへ来ていたと自白しておる。来ておるうちに兄が急病で死んだものだから、財宝を持ってそっとずらかったんだ。どう思います?」
「ではそのあとで、この死人がご親切にも起きあがって、ドアに錠《じよう》をかったわけですね?」
「なるほど、そこに欠点があるな。一つ常識で考えてみよう。このサディアス・ショルトーという男は、兄のところへ来ていた。そして口論した。そこまではわかっている。それから兄のほうが死んで、財宝がなくなった。これもわかっとる。サディアスが帰っていってから、誰も兄の姿を見かけたものはない。寝床《ねどこ》はきちんとしていて、寝た様子がない。サディアスは明らかに、ひどくとりみだしている。彼《かれ》の外貌《がいぼう》は、そうさ、あんまり愛嬌《あいきよう》のあるほうじゃないよ。僕はサディアスに疑いをかけているんだからな。だんだん証拠があがってくる。君はどう思いますか、僕の考えを」
「あなたには事件の内容がまだよくわかっていないのですよ。この木製の刺《とげ》には、たしかに毒がぬってあったと信ずべき理由があるのですが、こいつが死体の頭部に刺《さ》さっていたのですよ。ほら、これがその痕《あと》です。それからこの妙《みよう》な字を書いた紙きれがテーブルのうえにあったし、そのそばには石の頭をつけたこの不思議な道具がありました。あなたの説ではこれらをどう説明しますか?」
「いよいよ証拠歴然だ」肥《ふと》った警部は傲然《ごうぜん》といい放った。「この家にはインドの珍《めずら》しい品がいっぱいある。そのなかからサディアスがこいつを持ちだしてきたんだ。刺も毒がぬってあるとすると、むろん殺害に使ったものだろうが、サディアスでないという証拠はない。紙きれにいたっては、ごまかし細工か何かだろう。問題はただ、彼がいかにしてこの部屋から出ていったかだが……ああ、天井に穴がある!」
肥っているにもかかわらずジョーンズ警部は、猿《さる》のように敏捷《びんしよう》に踏台へとびあがって、屋根うらへもぐりこんだ。とすぐに、天窓があるとうれしそうに叫ぶのが聞えた。
「あんな男でもときには理知の理の字くらい働くこともあるもんだから、どうかすると何か見つけるんだ」ホームズは冷笑をうかべたが、あとはフランス語でいった。「ばかのくせにえらがるやつほど始末のわるいものはない」
「見たまえ」アセルニー・ジョーンズは踏台へ降りてきながら、「事実はついに名論以上だ。僕はもうちゃんと推定がついた。あのうえに天窓があって、しかも半開きになっている」
「あれをあけたのは私ですよ」
「君が? へえ! じゃ君もあれに気がついたんですかい?」といささか出鼻をくじかれた形で、
「だが、誰が見つけたっていいさ。とにかく犯人があれから逃《に》げたことは確実なんだ。おい、きみ!」
「はい」と廊下から返事があった。
「ショルトー君をこちらへよこしてくれたまえ。――ショルトーさん、これは職務上の義務として注意しますが、ただいまからあなたのいうことはすべて、あなたに不利な材料として使用することになるかもしれませんよ。私は兄殺害の容疑者として、女王陛下の御名《みな》によってあなたを逮捕《たいほ》します」
「それごらんなさい! だからいわないことか!」小柄なサディアスは絶望的に両手をなげだし、私たちの顔を見くらべながら恨《うら》めしそうに叫んだ。
「ご心配はありません。この嫌疑《けんぎ》は私が晴らしてあげます」ホームズは騒《さわ》がなかった。
「あんまり大きな口はきかぬがよろしいぞ、名論家君。やす請《う》けあいはせぬがよろしい。口でいうほど簡単にはゆかないよ」警部が口ぎたなく罵《ののし》った。
「この人の嫌疑を晴らすばかりじゃなく、ジョーンズ君にはゆうべこの部屋へはいりこんだ二人の人物のうち、一人の名前と人相とをただで聞かせてあげましょう。名前はジョナサン・スモールというのだと信ずべきたしかな理由があります。スモールは教育のない、小柄ながら敏捷な男だが、右脚《みぎあし》がなくて、そこに内がわの減った木の義足をつけている。左足にはさきが太くて、踵《かかと》に幅《はば》のひろい鉄鋲《てつびよう》をうった粗末《そまつ》な靴《くつ》をはいている。中年の日に焦《や》けた男で、前科がある。
これだけ説明したうえになお、その男の手のひらの皮がかなりひどくむけているという事実をつけ加えたら、君には相当に参考になることと思う。それからもう一人のほうは……」
「ふん! もう一人のほうはなんですかい?」とジョーンズは鼻であしらったが、心のなかではそのじつ、ホームズの言葉があまりに微《び》にいり細にわたるので、少なからず驚いているのが、容易に見てとれた。
「もう一人のほうはすこし変ったやつですがね」とホームズはくるりと向きをかえて、「近いうちに二人ともご紹介《しようかい》できると思っていますよ。ワトスン君、君にすこし話したいことがあるんだ」
彼は私を階段の降り口までつれだして、
「こんな思いがけないことが起ったので、われわれがここへ来た当初の目的からすこしそれたようだね」
「僕もいまそれを考えていたところなんだ。モースタン嬢《じよう》をこんなひどい事件のあった家に、いつまでもおいとくのはよくないよ」
「たしかによくない。君が送っていってやりたまえ。ロワー・カンバーウエルのセシル・フォレスター夫人の家だから、そう遠くはない。君が引返してくるまで、僕《ぼく》はここで待っていよう。それとも、くたびれて、ここへ引返すのはもういやかい?」
「いやじゃない。大丈夫《だいじようぶ》さ。もうすこしこの事件の謎《なぞ》がとけてくるまでは、休む気になんかなれそうもないよ。僕もいくらか人生の暗黒面を見てきたけれど、今晩のように、それからそれへと不思議なことの連続に出くわしてみると、すっかり気も転倒《てんとう》してしまったが、どうせこうなったら、どこまでも君といっしょに、この謎のとけるまで働いてみたいよ」
「君がいてくれれば、僕も大いに助かる。僕たちは独自の立場でやってゆこうよ。ジョーンズなんかには、勝手に見当ちがいの藪《やぶ》でもつつかせておくさ。きみはモースタン嬢を送りとどけたら、ランベスの河岸をすこし行ったところのピンチン横丁の三番まで行ってくれないか。右がわの三|軒目《げんめ》に鳥の剥製《はくせい》屋がある。シャーマンという名だ。ウインドーに、小さな兎《うさぎ》を捕《とら》えているイタチの剥製が出ているからすぐわかる。シャーマン老人をたたき起してね、僕の名をいって、大至急にトビイが入用だからって借りうけて、馬車にのせてつれてきてほしいんだ」
「トビイって、犬だろうね?」
「そうさ。へんちきりんな雑種犬だがね、驚くべき嗅覚《きゆうかく》をもっている。このさいロンドンじゅうの探偵《たんてい》を集めたより、一|匹《ぴき》のトビイのほうが役にたつんだ」
「承知した。借りてこよう。いま一時だから、馬の元気な辻馬車《つじばしや》さえ見つかったら、三時までには帰ってこられる」
「そのあいだに僕は、バーンストン夫人やインド人の召使《めしつか》いを調べてみよう。インド人のほうはとなりの屋根部屋に寝るのだとサディアスがいっていた。それがすんだらジョーンズ先生のやり口でも拝見して、あんまり品《ひん》のよくない嫌味《いやみ》でも承《うけたまわ》るとしようよ。『自分の理解できないものを嘲笑《ちようしよう》するのは人生の常である』と、ゲーテはいつでも穿《うが》ったことをいうね」
第七章 樽《たる》のエピソード
ジョーンズの一行が馬車を用意してきていたので、私はモースタン嬢をそれで送りとどけることにした。そばにいるものが自分よりも弱い場合、わが身の苦しみにはじっと耐《た》えしのんで、これを護《まも》るという女性に特有の美しい天性から、いってみるとモースタン嬢は、恐怖《きようふ》にとらわれた家政婦のそばで、おちついて快活に話していた。でも馬車にたすけ乗せると、彼女はたちまち失神したようになり、ついで感情がたかぶって咽《むせ》び泣きはじめた。それほど彼女は宵《よい》のうちから気がはりつめていたのだ。
彼女はのちになって、あのときの私の態度がなんとなくよそよそしく冷淡《れいたん》だったと怨《うら》みごとをいったが、それは私の胸中のひそかなる懊悩《おうのう》を、必死に自制していたことに、彼女が気づかなかったからである。彼女にたいする私の同情と愛とは、そのすこしまえに暗闇《くらやみ》の庭に立っていたときと、すこしも変りはなかったのだ。
私は思った。世間なみの交際をいくらながく続けたとしても、この奇怪《きかい》な一日ほどに、彼女の美しく雄々《おお》しい気質を知ることはできなかったであろうと。しかも、この場になっても私は二つの考えに阻《はば》まれて、唇《くちびる》まで出かかった愛の言葉をさし控《ひか》えたのである。というのは、彼女はよるべなく、気も心も転倒しているばかりでなく、もっと悪いことには、彼女は莫大《ばくだい》な資産を得た。ホームズの捜査が成功しさえすれば、彼女は非常に大きな遺産をうけつぐことになるのである。
ふとした機会から知りあったのをよいことに、一介《いつかい》の休職軍医にすぎない身で、そうした富に近づくのは、褒《ほ》むべき立派なことであろうか? 彼女は私を、欲に眼のくらんだ卑《いや》しむべき男と思いはしないだろうか? 私は彼女の心のなかに、ちらりとでもそうした考えを起させたくない。思えばホームズの捜査の的であるこのアグラの大財宝は、私たちのあいだの越《こ》えがたき障壁《しようへき》なのであった。
セシル・フォレスター夫人の家へ着いたのは二時にちかかった。召使いたちはもうとっくに寝室《しんしつ》へさがっていたが、夫人だけはモースタン嬢の帰りを案じて、寝もやらずに待っていた。彼女はみずからドアをあけて、私たちを迎《むか》えいれてくれた。夫人は中年のしとやかな人柄《ひとがら》で、やさしくモースタン嬢を抱《だ》きよせ、慈愛《じあい》にみちた声で話しかけるのを見て、私はこのうえもなくうれしく思った。それらの様子から、モースタン嬢が家庭教師という単なるひとりの雇人《やといにん》としてではなく、友人として手厚く扱《あつか》われていることが察しられたからである。
私の名を聞くと、夫人はぜひ奥《おく》へ通って、詳《くわ》しい話を聞かせてくれと望んだが、私はまだ大切な役目のある身だからと説明し、あらためての訪問を約してそこを辞しさった。
走ってゆく馬車のなかからそっとふりかえってみると、むつまじげに寄りそって立つ二人のしとやかな姿、半開のドア、ステンドグラスを通して輝《かがや》くホールのあかり、晴雨計、美しく磨《みが》きこんだ階段のじゅうたん押《お》さえなどが見えていた。このような平和にみちた純イギリスふうの家庭の様子を一瞥《いちべつ》したことは、われわれをとりまく殺伐《さつばつ》とした陰惨《いんさん》な事件の最中にあって、ただそれだけでも私の心に少なからぬなぐさめをあたえた。今夜のことを考えれば考えるほど、私の心は乱れ、暗くなっていった。私は静まりかえって、ガス灯のみ寂《さび》しく輝く街を馬車にゆられながら、今夜の異常なできごとを初めから考えなおしてみた。まずモースタン嬢のもちこんできた最初の問題だが、すくなくともこれに関するかぎりはすでに解決している。モースタン大尉《たいい》の死、真珠《しんじゆ》の贈与《ぞうよ》、新聞広告、手紙――これらのことはすでに、それぞれ明らかになっている。
だがこれはほんの発端《ほつたん》にすぎず、つづいて起ったより奇怪な悲劇への道しるべだったのである。インドの大財宝、モースタン大尉の荷物のなかから発見された不思議な図面、ショルトー少佐の奇怪な死の場面、財宝の発見、つづいて起ったその発見者の死、犯行に付随《ふずい》する異常性、小さな足跡《あしあと》、不思議な凶器《きようき》、モースタン大尉の図面にあったのとおなじ文句をつらねた紙きれ――などなどこう数えてくると迷宮《めいきゆう》だ。これではホームズのごとき不思議な能力をあたえられているものでなければ、犯人を突《つ》きとめることなんかは、断念するほかあるまい。
ピンチン横丁はランベスの下《しも》のほうの、みすぼらしい二階建の煉瓦《れんが》長屋のならぶところだった。三番の家を起すのに、私はしばらくノックしつづけなければならなかった。やっと二階のブラインドのかげに蝋燭《ろうそく》のあかりがさして、窓から誰《だれ》か顔を出した。
「あっちへ行け、酔《よ》っぱらいの宿なしめが!」その顔が罵った。「もういちど叩《たた》いてみろ! 犬《いぬ》小舎《ごや》をあけて、四十三匹の犬をいっぺんに嗾《けしか》けてやるぞ!」
「いや、一匹だけでいいんだ。それで私の来た用はすむ」
「行っちまえ! 行かなきゃこの袋《ふくろ》のなかの毒蛇《どくへび》を頭のうえから落すぞ!」
「いや犬だ。犬が一匹いるんだ」
「ぐずぐずいうない! いいか、そこを動くでないぞ! 一、二の三で毒蛇を落してやる」
「シャーロック・ホームズ君が……」私がいいかけたこの名前は、まるで一種の魔力《まりよく》でももつようだった。急に二階の窓がしまったかと思うと、一分とたたないうちに桟《さん》をはずす音がして、入口の戸が内がわからあけられたのである。シャーマン君はひょろ長い、腰《こし》のまがった老人で、すじばった首をして青い眼鏡をかけていた。
「シャーロック・ホームズさんのお友達《ともだち》なら、いつでも歓迎《かんげい》しますだ。さあはいらっしゃい。アナグマのそばさ寄らねえようにさっしゃい、噛《か》みつくだからね。よしよし、お前は旦那《だんな》をひとかぶりやりてえのかい?」
と老人は、赤眼《あかめ》のいやらしい頭を箱《はこ》の鉄棒のあいだからのぞかしている貂《てん》をこう叱《しか》りつけて、
「心配《しんぺえ》ねえだよ旦那、そいつはアシナシトカゲだ。どうもしやしねえ。牙《きば》がねえだからね。だからこいつを部屋のなかさ放しておくだ。ばかどもがおっかながっていいだからよう。旦那、さっきのこたア気にしねえでおくんなさい。餓鬼《がき》どもがまた来やがったと思ったもんだから……またしても横丁さ来やがって、年寄りを起しやがるでね、それかと思っただ。シャーロック・ホームズの旦那ア何がいるというだね?」
「お前さんとこの犬を一匹貸してほしいんだ」
「ならトビイだべ」
「そう、トビイといったっけ」
「トビイなら左がわの七号にいるだ」
シャーマン老人は、群がり集まる多くの珍しい動物のあいだを、蝋燭を片手にそろそろと進んだ。ほのかな蝋燭の光のなかに、私はそこいらじゅうからのぞきおろしている爛々《らんらん》たる獣《けもの》の眼をかすかに見た。頭のうえの梁《はり》にまで、家禽《かきん》類の籠《かご》がならんでいたが、私たちの話し声に眠《ねむ》りをさまされて、不精《ぶしよう》らしく棲《とま》り木《ぎ》の足をことことと取りかえていた。
トビイは毛のながい、耳の垂れた醜《みにく》い犬だった。スパニエルとラーチャーとの雑種、色は白に茶のぶちで、歩きぶりはよたよたと不細工だった。老人が私にわたしてくれた角砂糖をやると、しばらく考えてから食った。それでもう私とは仲よしになり、私について馬車に乗り、やすやすとつれてこられた。
ポンディシェリー荘《そう》へ帰りついたとき、宮殿《パレス》の大時計が三時をうつのを聞いた。
帰ってみると、もとプロボクサーのマクマードが共犯者として逮捕され、ショルトーとともに署へ護送されたということだった。せまい門には二人の巡査《じゆんさ》が立ち番をしていたが、ジョーンズの名を告げると、犬をつれたまま中へ通してくれた。ホームズはポケットに両手をつっこんで、パイプを口に入口の石段のうえに立っていた。
「やあ、ご苦労さま。トビイ、よく来たな。アセルニー・ジョーンズは帰っていったよ。君のいないあいだの騒ぎというものは、たいしたもんだった。ジョーンズはサディアスのみか、門番も家政婦も、インド人の召使いまで一網打尽《いちもうだじん》に逮捕していったよ。あとは階上《うえ》に巡査部長が一人いるっきりさ。犬をここへつないでおいて、上がってきたまえ」
私たちはトビイをホールのテーブルの脚につないでおいて、また階上へ上がっていった。遺体に大きなシーツがかけてあるだけで、部屋のなかはさっきとすこしも異なるところはなかった。巡査部長が一人、退屈《たいくつ》そうに隅《すみ》のほうへもたれかかっている。
「巡査部長さん、手さげランプを貸してください」とことわっておいてホームズは私に向かい、「このひもを僕の首にむすびつけて、ランプが胸にぶらさがるようにしてくれたまえ。ありがとう。ところで僕は靴も靴下もぬがなきゃならない。すまないが君こいつを下へ持っておりといてくれないか。僕はちょっと屋根屋のまねをするんだ。ああそれから、僕のハンカチをクレオソートに浸《ひた》してくれたまえ。そう、よろしい。それじゃちょっと天《てん》井裏《じよううら》までついて上がってみたまえ」
私たちはまたしても、例の穴から天井裏へもぐりこんだ。ホームズはさっきの足跡に手さげランプの光をさしつけて、
「この足跡をとくに注意してみたまえ。何か変ったことはないかい?」
「これは子供か、小柄な女の足跡だね」
「大きさの問題をはなれて、何かないかい?」
「普通《ふつう》の足跡とまったく違《ちが》うところはないようだがねえ」
「ところが大違いさ。ここを見たまえ。この埃《ほこり》のなかにあるのは右足の跡だ。そのそばへ僕の裸足《はだし》の跡を一つつけてみよう。そら、どこがどう違う?」
「君のは指さきがくっついているが、これはひどく開いている」
「そうさ。そこだよ。この事実をよく肝《きも》に銘《めい》じておきたまえ。それからちょっとあそこへ行って、天窓の開き戸の木のはじを嗅《か》いでみてくれたまえ。僕はここでそのハンカチを持っているから」
私はいわれたとおり窓のこぐちを嗅いでみた。それは強いタール性の臭気《しゆうき》があった。
「犯人が逃げるとき、そこへ足をかけたんだ。君でも臭《にお》いがわかるくらいだから、トビイならわけもない。じゃ下へ降りて、トビイを放してやりたまえ。そして|ブ《*》ロンダンの芸当を下から見物していたまえ【訳注 ブロンダンはフランスの有名な軽業師】」
トビイをつれて庭へ出てみると、ホームズは屋根へ上がっていた。そして大きなつち蛍《ぼたる》のように、そろりそろりと棟《むね》をはい渡《わた》っていた。いちど煙突《えんとつ》のかげに隠《かく》れて、すぐまた現われたと思うと、また向うがわへ見えなくなってしまった。そこで私も庭をまわって向うがわへ行ってみると、彼《かれ》は庇《ひさし》の曲り角に腰をおろしていた。
「ワトスン君、どこだい?」
「ここにいるよ」
「ここがその場所なんだがね、そこに見える黒いものは何だい?」
「水の樽だ」
「蓋《ふた》があるかい?」
「ある」
「どこかに梯子《はしご》は見えないかい?」
「ないねえ」
「いまいましいな! ここがいちばん危険なところだ。しかしあいつが登ったくらいなんだから、降りるくらいは僕にだって降りられないはずはない。雨樋《あまどい》はかなりしっかりしているな。よし、とにかく降りてやろう」
脚が一本もがもがやっていると思ったら、やがてランプが壁《かべ》をつたわって、だんだん降りてきた。そしてついにひょいと樽のうえに飛びうつり、そこから改めて地上へとホームズが身軽に飛びおりた。
「やつの通った場所はすぐにわかった」と彼は靴下をつけ靴をはきながら、「なにしろそこだけ瓦《かわら》がゆるんでいたからね。しかも急いだもんだから、こんなものまで落していった。こいつがあったので、君たち医者の表現でいえば、僕の診断《しんだん》がいよいよ確実ということになる」
こういって彼が見せたのは、色染の草で編んだ小さな函《はこ》のようなものだった。けばけばしいビーズを飾《かざ》りつけてあり、形や大きさから考えて、まず葉巻入れというところだが、あけてみると、バーソロミュー・ショルトーの頭に刺《さ》さっていたのとおなじ、一端《いつたん》がするどくとがり一端が太く丸められた黒い木製の刺《とげ》のようなものが半ダースばかりはいっていた。
「こいつが恐《おそ》るべき凶器なんだ。指でも刺さないように気をつけたまえ。やつの持っていたのはこれだけなのかもしれないから、これが手にはいったのはとにかくありがたい。それだけこの恐るべき矢を、不意に打ちこまれる危険が少なくなったわけだからね。この矢ときたら、マーティーニ銃《じゆう》で狙《ねら》われるよりも恐ろしいよ。ところでワトスン君、君はこれから六マイル、てくてく歩く元気があるかい?」
「あるとも!」
「脚《あし》がわるいのに、大丈夫かい?」
「大丈夫さ」
「それじゃ。――トビイ、いいかい! さ、これを嗅ぐんだ。ようく嗅ぐんだ」とホームズがクレオソートに浸したハンカチを鼻さきへもってゆくと、トビイは、有名な鑑識家《かんしきか》が葡《ぶ》萄酒《どうしゆ》の品さだめでもするように、まがった脚を踏《ふ》みひらき、いとも滑稽《こつけい》な顔つきを、もっともらしく傾《かたむ》けてみせた。ホームズはそのハンカチを力をこめて遠くへ投げておき、丈夫な紐《ひも》をトビイの首輪につけて、水樽の下へつれていった。するとトビイは甲高《かんだか》いふるえ声で鳴きつづけ、鼻を地に、尾《お》をぴんとたかく振《ふ》りながら、私たちを強く引きずって歩きだした。
東がしだいに白みかけて、肌《はだ》さむいうすら明りのなかに、いつかあたりの様子がだいぶ見えるようになっていた。四角い大きな家は、まっ暗でうつろな窓と、むきだしの高い壁とを見せて、私たちの背後にそびえていた。トビイは財宝をさがすので掘《ほ》りかえされ、土くれだらけになった庭を横ぎり、穴や溝《みぞ》を迂回《うかい》して、右のほうへと進んだ。きたなく荒《あ》れはてて、雑木が一面に繁茂《はんも》した庭の光景は、邸内《ていない》で行われた惨劇にふさわしいといえるくらい、陰惨なものであった。
トビイは塀《へい》の根もとを走りまわっては、あちこちと臭《にお》いを嗅いでいたが、ついにブナの若木の生えている一隅《いちぐう》へ来て止った。そこは二つの塀の出あったところで、いくつかの煉瓦がぬきとられ、そのあとへできた穴の下がわが摩滅《まめつ》して角が丸みをおび、たびたび梯子の役をつとめたことを物語っていた。ホームズは塀によじのぼり、私からトビイを抱きとって向うがわへおろしてやった。
「ここに木の義足をつけた男が手をかけた跡がのこっている」私が塀にのぼってホームズとならんだとき、彼がいった。「白い漆喰《しつくい》のうえに、うっすらと血のあとが見えているだろう? きのうからたいした雨のなかったのが何より幸いだった。逃走《とうそう》後二十八時間もたってからの追跡《ついせき》だけれど、おかげでまだ路面には臭気が十分のこっているだろう」
じつをいうと私は、ロンドン市内の交通の頻繁《ひんぱん》さを思って、心中この追跡の成否はいささか疑っていた。けれどもその心配は必要ないことがわかった。おろされたトビイはいささかも躊躇《ちゆうちよ》することなく、おかしな格好でぐいぐい私たちを引っぱりはじめたのである。クレオソートの刺激《しげき》性の臭気が、ほかのどんなものよりもよく臭ったのにちがいない。
「ところでワトスン君、犯人の一人が偶然《ぐうぜん》クレオソートのなかへ足を踏みこんでくれたという単にそれだけのことをたよりに、僕《ぼく》が捜査《そうさ》をやっているのだなどと思ってくれちゃ困るよ。犯人を追いつめる方法なら、いまじゃほかにいくらも心得ているんだ。しかし、いまとっているこの方法は、もっとも容易な手段なんだから、せっかく手にはいったものを、みすみす捨てて顧《かえり》みないのは怠慢《たいまん》というものだ。だがそのかわり、もっと脳ミソをしぼらされるおもしろい事件かと思っていたのに、案外つまらないことになってきたよ。なにしろこんな明白な手掛《てがか》りがあったんじゃ、せっかく骨を折ってみても、たいした名誉《めいよ》にもなるまいからねえ」
「いや、骨折り甲斐《がい》は大いにあるよ。いっておくがね、こんどの事件での君の行動には、僕は|ジ《*》ェファスン・ホープの事件【訳注『緋色の研究』】のとき以上に驚嘆《きようたん》している。こんどの事件のほうが僕にははるかに深刻で、むずかしいように思われるものね。たとえば木の義足をつけた男のことなんか、どうしてああもはっきりと知ったんだい?」
「ふん! そんなこたア簡単そのものさ。僕は芝居《しばい》がかりはきらいだ。それはすべて明々白々なんだよ。囚人《しゆうじん》警備隊の指揮をとっている二人の将校が、隠された財宝に関してある重大な秘密を知る。彼らのためにそれに関する一枚の地図が、ジョナサン・スモールというイギリス人によって作成された。この名前がモースタン大尉の持っていた図面にあったことは、君もすでに知っているとおりだ。彼は自分のため、また一味のもののため、それに署名をした。四つの署名と彼がすこし芝居気をだしていったあれさ。
この図面によって、二人の将校は、あるいはそのうちの一人かもしれないが、財宝をとりだして、イギリスへ持ちかえった。そして察するに、それをとりだすについての条件をはたさなかったのにちがいない。それではスモールは、なぜ自分で財宝をとりださなかったかというとその答えはきわめて簡単だ。図面の日付はモースタン大尉が囚人たちとふかい関係を生じたころの日付になっている。スモールとその一味は、ともに囚人だったから、それをとりだして持ち逃《に》げすることは不可能だったのだ」
「しかしそれは想像にすぎないのだろう?」
「想像以上のものだ。いろんな事実と矛盾《むじゆん》しない仮定はこれよりほかにない。この仮定がこれからの結果といかにぴたりと符合《ふごう》するか、それはおいおいにわかってくるだろう。ショルトー少佐はこの財宝の所有者たることを楽しんで、何年かをながらえた。するとそのうちインドから、彼を恐怖《きようふ》におとす手紙が届いた。その手紙の内容は何だったと思う?」
「少佐に裏切られた連中が、釈放されたことを知らせてきたのだろう」
「釈放でなく、あるいは脱走《だつそう》だったかもしれない。そう考えたほうが確実らしい。というのは、ショルトー少佐は囚人の刑期《けいき》を知っていたはずだから、放免《ほうめん》ならいまさらそう驚《おどろ》くことはない。そこで少佐はどうしたか? 急に木の義足をつけた男を警戒《けいかい》しだした。むろん白人だよ。なぜなら、少佐は白人の商人をその男と見あやまって、ピストルで射《う》っている。
図面のなかには白人の名は一つしかなくて、あとはみんなインド人かマホメット教徒の名ばかりだ。そこで木の義足の男は、名前をジョナサン・スモールというのだと断言できるのだ。どうだね、この推論のどこかに欠点があると思うかい?」
「いや、すこぶる明快だ」
「じゃこんどは、ジョナサン・スモール自身の身になって考えてみよう。彼は自分に権利があると信じるものを手にいれることと、自分を不当に扱《あつか》ったやつに復讐《ふくしゆう》したいということ、この二つの考えをもって内地へ帰ってきた。帰ってきたスモールは、まずショルトー少佐の住所をつきとめて、たぶんだれか内部のものを手なずけたのだろう。僕らは会う機会がなかったが、執事《しつじ》にラル・ラオという男がいるそうだ。こいつはバーンストン夫人も悪人だといっている。
しかし財宝の隠してある場所は、少佐ともう一人、これはとっくに亡《な》くなったが忠実な召使《めしつか》いのほかには、知ったものがないのだから、スモールにはわかりっこない。そのうちにスモールはとつぜん、少佐が死にかかっているのを知って、死なれては何もかもわからなくなるから、ひそかに邸内に忍《しの》びこんで、病室の窓の下まで来てみたが、二人の息子《むすこ》がそばへ付ききりなので、はいるのは思いとどまる。
やきもきするうち少佐が死んでしまったので、財宝の隠し場所はまず永久にわからないことになった。しかし死んだ少佐のことはあくまで遺恨《いこん》に思って、その晩邸内へ忍びこんで、財宝の手掛りでもあるかと、書類をひっ掻《か》きまわしてみるが何もないので、ついに自分の来たことを知らせるため例の紙きれだけ残して去る。
彼は少佐を殺害するときにはきっと、死体のそばにその殺害が普通の殺人でないという意を示す標示をのこしてゆくつもりだったのだろう。四人の一味からみれば、そこに何か正義の制裁というものがあったのかもしれない。妙《みよう》に気まぐれともみえるこの考えかたは、犯罪記録のうえには、きわめてありふれたことなんだ。そして犯人をさがすほうからいえば、それが有利な手掛りになるのが普通なんだ。どうだ、わかるかい?」
「わかる。よくわかるよ」
「さて、それでは、こんどはスモールのその後の行動だ。彼はどうにかして、その後の財宝の捜査の模様をそれとなく監視《かんし》する。おそらくときどきロンドンへ様子を見にかえってくるほかは、ふだんはどこかわきの土地へ立ちのいていたことだろう。
そのうちついに財宝が発見されたという情報を入手する。むろんそれには内部に加《か》担者《たんしや》があったのだ。スモールは足が悪くて、バーソロミュー・ショルトーのたかい部屋までは登ってゆかれない。そこですこし妙な相棒をつれてゆく。その相棒が彼の困難を克服《こくふく》してはくれたが、クレオソートのなかへ素足《すあし》をつっこむという失敗を演じたものだから、トビイのご厄介《やつかい》になって、アキレス腱《けん》のわるい休職軍医が、六マイルも引きずりまわされるという羽目になったわけだ」
「しかし犯行を演じたのはその相棒のほうで、スモールじゃないだろう」
「もちろん。しかも部屋へはいってみて、足を踏みならしている様子から考えて、殺害はスモールの意志に反して行われたらしい。バーソロミュー・ショルトーにはなんの怨恨《えんこん》もないのだから、スモールとしては、ただ縛《しば》りあげるだけにしておいて、仕事がしたかったのだろう。自分の生命が惜《お》しいからね。しかし、どうすることもできなかった。相棒が野性を発揮して、はいってみたら、もう毒の矢をつかってしまったあとだからね。そこでジョナサン・スモールは例の紙きれをのこして、財宝の箱《はこ》を持って逃げたんだ。
以上が僕の明らかにできた事実だ。むろん彼の人相については、スモールが中年の男であるのは明らかだし、アンダマン島のような暑いところにいたのだから、日に焦《や》けているにちがいなかろう。そして背丈《せたけ》は歩幅《ほはば》で推定できるし、かつ、頬髯《ほおひげ》のあることもわかっている。サディアス・ショルトーが窓のそとに見たという顔は、髯だらけなのが唯一《ゆいいつ》の特徴《とくちよう》だったんだものね。そのほかのことは、まだ何にもわかっちゃいない」
「相棒のほうは?」
「相棒か。このほうはたいした不思議もない。もうじきわかるよ。――気持のいい朝だね。見たまえ、まるで巨大《きよだい》なフラミンゴのあかい羽毛のような雲が浮《うか》んでいるじゃないか。雲のあついロンドンの空にも、あかい太陽が出ようとしているのだ。太陽は多くの人々を慈《いつく》しむが、そのなかにも僕たちほど不思議な使命を帯びたものはないだろうねえ。ああ、人間てなんというちっぽけなものだろう。こうした小さな功名や競争意識で動いているなんて、自然の偉大《いだい》なる威力《いりよく》にたいして、なんという情けなさだろう? 君はジャン・パウルはよく読んだろうね?」
「かなり読んでいる。カーライルの評論からはいっていったのだ」
「それじゃ渓谷《けいこく》をさかのぼって、水源の湖をきわめたようなものだ。彼は一つの奇妙な、それでいて深刻な言葉をのこしている。人間の真に偉大なるゆえんの主たる証明は、自己の弱小さを認識《にんしき》しうるところにあるというのだがね。つまり、それ自身すでに貴《とうと》いものである比較力《ひかくりよく》と認識力のことをいったものだ。ジャン・パウルは思想の糧《かて》をあたえてくれる。――ところで君は、ピストルは持ってこなかったろうね?」
「ピストルはないが、ステッキがある」
「やつらの巣窟《そうくつ》へ行ったら、そうした武器の必要がきわめて起りそうだからね。まあジョナサン・スモールのほうは君にまかせておこう。もっとももうひとりのほうが騒《さわ》ぎでもすれば、僕が射殺してやるがね」
ホームズはピストルを出して二発だけ弾丸《だんがん》を込《こ》め、上着の右ポケットにおさめた。
そのあいだも私たちはトビイに引かれて、寂《さび》しい場末の町をロンドン市中のほうへと歩きつづけていたのだが、このあたりまで来ると、路上には労働者や造船工たちの姿がちらほら見えだし、町すじにはだらしないふうをした女どもがブラインドをあけたり、入口の石段を掃除《そうじ》したりしていた。
たったいま店をあけたばかりの角の酒場からは、恐ろしい顔つきをした連中が、朝酒をひっかけた髯だらけの口のあたりを袖口《そでぐち》でふきながら出てきた。どこからか変な犬が飛びだしてきて、私たちの通るのを胡散《うさん》くさそうに見送ったりした。だがわがトビイ君はそんなものには眼《め》もくれず、地べたに鼻をすりつけんばかりにして、ひたすら先を急いだ。でもときどき鼻をあげて、うれしそうに吠《ほ》えたてたが、それはとくに臭気《しゆうき》のたかいところなのであろう。
私たちはストリータム、ブリクストン、カンバーウエルを突《つ》っきり、オーヴァル競技場の東がわを抜《ぬ》けてついにケニントン小路まで来た。犯人は逃げ場を求めてさまよい歩いたのだろうか、おそろしく変なふうにジグザグに歩いていた。だいたい大通りと平行の裏町のあるところは、そこばかりを選んで歩いているらしかった。
ケニントン小路のはずれを左へ、ボンド街からマイルズ街へ出て、ナイツ・プレイスへ曲ろうというところで、トビイは急に立ちどまったと思うと、うしろへ走ったり前へ行ってみたり、片耳をたて片耳を垂れて、思案にあまるという格好だった。そしてよくよく困りはてたらしく、ちょいちょい私たちを見あげながら、そのあたりを円く歩きまわった。
「いったいこの犬はどうしたというんだ? やつらが馬車に乗るわけもなかろうし、それとも飛行船で逃げたとでもいうのかい?」ホームズがぼやいた。
「きっとここで、しばらく立ちどまったんだろう」
「や、うまいうまい! また歩きだしたよ」ホームズは生きかえったように叫《さけ》んだ。
トビイはそのあたりをひとわたり嗅《か》ぎまわると、急に決心がついたように活溌《かつぱつ》に、まえにもまして確信にみちて、勢いこんで走りだした。臭気がしだいにつよくなってくるとみえ、もう鼻を地につけようともせずに、ぐいぐい紐《ひも》を引いて駆《か》けていった。ホームズの眼は生気をとりもどし、こんどこそはいよいよ敵に近いのを彼《かれ》も信じているらしかった。
コースはナイン・エルムズを駆けぬけ、ホワイト・イーグル酒場をちょっと過ぎたところにあるブロドリック・アンド・ネルソン会社の大きな材木置場へ来た。するとトビイはいよいよ狂気《きようき》のようにいきりたって、もう木挽《こびき》たちが仕事にかかっている構内へ横口のほうからいきなり飛びこんでいった。鋸屑《おがくず》や鉋屑《かんなくず》が散りしいている狭《せま》い通路や、山のように積みあげた材木のあいだを走りぬけて、ついに、手押《てお》し車に積んだまま置きっぱなしてあった大きな樽《たる》をめがけて、勝ちほこったように吠《ほ》えついた。そしてその樽のうえに飛びあがると、舌を垂れ眼を輝《かがや》かしてどうだといいたげに私たちの顔を見くらべた。褒《ほ》めてもらいたいのにちがいない。
樽の横腹や手押し車の車輪には、どす黒い液がこびりついて、そこら一面にクレオソートのつよい臭気《しゆうき》がただよっている。ホームズと私は唖然《あぜん》として顔を見あわせたが、同時に、こみあげてくる笑いに腹を押えて笑いくずれた。
第八章 ベーカー街特務隊
「どうしたんだろう? トビイはすっかりバカになったんじゃないか?」
「トビイはおのれの信ずるところに従って行動したまでさ」ホームズは犬を樽から抱《だ》きおろして、材木置場を出ながらいった。「一日のうちにロンドンの市中を、どれほど多くのクレオソートが持ちはこばれるか、考えてみたまえ。僕たちの追跡していた臭気が、どこかでほかのおなじものと交差したって、そう不思議でもあるまいよ。このごろはクレオソートはあちこちで使うが、ことに木材の防腐《ぼうふ》には必需品だからね。トビイばかりを責めるのはかわいそうだよ」
「じゃ改めて出なおして、ほんとの臭跡をたどるんだね」
「そうさ。それは幸いなことに、そうあと戻《もど》りしなくてもいいんだ。ナイツ・プレイスでまごついたとき、二つの臭跡がいれ交ったのにちがいない。あそこでまちがったのだから、あそこから出なおせばいいわけだ」
いかにもホームズの言葉のとおりだった。まちがいをしでかしたところまでつれ戻ると、トビイのやつは、大きな円を描《えが》いてふたたび嗅ぎまわっていたが、やがて新しい方向を見つけて、そのほうへまっしぐらに駆けだした。
「こんどは、クレオソート樽が来たほうへ行かせないように注意しなければね」
「僕もそれを考えた。しかし見たまえ、こんどはトビイ先生歩道を行くだろう? クレオソートの樽なら車道を通ったはずだから、こんどこそほんものだよ」
追跡はベルモント広場からプリンス街を通って、テムズの河岸《かし》に近づいた。そしてブロード街のはずれを右へ曲ると、とうとう小さな木製の波止場《はとば》のある河岸っぷちへ出てしまった。トビイはその波止場の突端《とつたん》まで行って、眼前の濁水《だくすい》を見おろして唸《うな》りだした。
「これはいけない。ここから舟《ふね》に乗ったんだ」ホームズがいった。
小さな平底船やはしけが、桟橋《さんばし》のまわりにいくつもつないであった。その小舟を順にトビイに嗅がすと、トビイはいちいち熱心に嗅ぎまわりはしたが、ついに何の反応をも現わさなかった。
桟橋のそばに小さな煉瓦建《れんがだて》の家があって、二階の窓から木の袖看板《そでかんばん》が出ていた。「モーディカイ・スミス」と大きく書いた下に、「貸船、日貸、時間貸」とあった。なお入口のドアのうえのほうに、汽艇《ランチ》の備えもあると書いてある。見ると、なるほど桟橋の一隅《いちぐう》には、コークスが山と積んである。静かにあたりを見まわしたシャーロック・ホームズは、腹だたしげな困惑《こんわく》のいろをうかべた。
「どうもまずいことになった。やつらは案外はしっこい。どうやらあとをくらましてしまったようだな。あらかじめこの場所を準備していやがったものらしい」
彼が船宿の戸口へ近づいてゆくと、なかからドアがあいて六つばかりのちぢれ毛の男の子が飛びだしてくるのを、肥《ふと》ったあから顔の女が、大きなスポンジを手にして追っかけてきて大声でどなった。
「ジャックってば! 顔を洗うんだよ! しようのない子ねえ! いうことを聞かないと、お父《とつ》つぁんが帰ってきたら、すっかりいいつけるよ!」
「坊《ぼう》や、坊や!」ホームズがすかさず呼びかけた。「坊やはいい子だねえ。おじさんが何をあげよう?」
子供はしばらくためらっていたが、
「おじさん、一シリングおくれ」
「たったそれっぽっちかい」
「じゃ二シリングのほうがいいや」腕白小僧《わんぱくこぞう》はしばらく考えてから答えた。
「さああげるよ。落すんじゃないよ。――スミスのおかみさん、いい子だねえ」
「あらまあ、すみませんねえ。ほんとに手におえなくて、しようがないんですよ。それにうちの人がここんとこ、ずうっと留守なもんですからねえ」
「おや、スミスさんはいないのかい?」とホームズはがっかりした調子で、「そいつは困ったな。スミスさんに話があって来たんだからな」
「きのうの朝出かけたっきりなんですがね。じつはあたしもすこし気になりだしたんですよ。でも旦那《だんな》がた、船のことでしたらあたしでも話はわかりますよ」
「じつは汽艇《ランチ》が借りたくってね」
「それはおあいにくさまで。汽艇《ランチ》はうちのが乗ってゆきましたよ。それで気をもんでいるんですがね。なにしろあなた、ウーリッチあたりへ行ってくるくらいっきゃ、石炭を積んでいなかったんです。伝馬《てんま》で出たんなら心配なんかしませんけどねえ。遠方といえばずいぶんグレイヴズエンドあたりまでも、たびたび行くんだし、それに向うで仕事がありゃ、幾日《いくにち》でも逗留《とうりゆう》することもありますけどさ、汽艇《ランチ》じゃ石炭がなかったら、どうにも動きがとれませんものねえ」
「石炭は行くさきの河岸で買うだろうさ」
「そりゃあそうですがね、旦那、うちじゃ今までよそで石炭を買うなんてこたあ一度もしないんですよ。すこしばかりの不足分を積みこむとき、値のことでうちのがやかましく掛《か》けあっているのも、たびたび聞いてますしね。それにあの木の義足をつけた男の気味のわるい顔つきったら。変な訛《なま》りがあってね。ふんとにあの人ったら、いつも何しに来るのかしら?」
「木の義足をつけた男だって?」ホームズはなにげなくききかえした。
「そうなんですよ、旦那。あから顔の猿《さる》のようなやつでね、ちょいちょいうちのに会いに来るんですよ。そいつですよ、きのうの朝はやく、うちのをたたき起したのは。そればかりかうちのはそいつの来るのをちゃんと知ってたとみえて、汽艇《ランチ》に火をいれたままつないでおいたんですよ。いい加減のでたらめなんかいいやしませんよ。あたしもそれですこし心配になりだしたんですがね」
「だっておかみさん、何もおかみさんの心配することなんかありゃしないよ」ホームズはとんでもないといわんばかりに肩《かた》をすくめて、「だいいちきのうの朝たたき起した男だって、ほんとにその男かどうかわかりゃしないじゃないの? そんなことをいって騒ぐ気持が知れないよ」
「声で知れまさあね。あたしはあの男のしゃがれたドラ声をよく知ってるんです。夜あけの三時ごろでしたろうかね、やつが窓をたたいて、『大将、起きてくれ! いよいよ始まりだ』っていうと、うちのジム――総領ですがね――ジムを起して、あたしには何もいわずに、二人で出かけたんです。木の義足が石のうえをコツコツ鳴るのをあたしゃちゃんと聞いたんですよ」
「木の義足の男が一人で来たのかい?」
「さあ、どうでしょう。ほかには声も聞かなかったようですがねえ」
「そいつは困ったよ、おかみさん。じつは私も汽艇《ランチ》が借りたくて来たんだからねえ。それに汽艇《ランチ》ならここのがいいって聞いてきたんだが、ええと、あれは何丸とかいったっけな?」
「オーロラってんですがね」
「ああ、黄いろい筋のはいったあの古い緑いろのやつだね、横幅《よこはば》の広い?」
「いいえさ、河すじじゃ珍《めずら》しくきれいな船ですよ。あらたに黒くぬりかえたんですよ、赤い筋を二本いれてねえ」
「そうかい? でもスミスさんもいまに帰ってくるだろうよ。私もこれから河を下るんだから、もしオーロラを見かけたら、おかみさんが気をもんでいるって、そういってあげようよ。煙突《えんとつ》はまっ黒だとかいったね?」
「いいえさ、白筋の一本はいった黒煙突なんですよ」
「そうそう、黒いのは船の横っぱらだったね。じゃおかみさん、さようなら。ワトスン君、そのはしけに船頭がいるようだから、あれで河を渡《わた》ることにしよう」
「ああした手合いとの掛引に大切なのはね」とホームズはその船に乗りこんでからいった。
「向うのいうことが、こっちにとって大切なんだということを覚《さと》らせないことだよ。下手をしてそれを覚られると、あの手合いは牡蠣《かき》のように口をつぐんでしまうからね。ああいうふうにいいなおさせているうちに、知りたいことの要領をつかんでしまうのさ」
「これから先は、もうわけないようだね」
「じゃどうするんだい?」
「べつの汽艇《ランチ》を雇《やと》って、オーロラの行方《ゆくえ》をさがせばいいじゃないか」
「冗談《じようだん》いっちゃいけない。そいつはたいへんな仕事だよ。ここからグリニッジまでのあいだ、両岸のどの桟橋へ着けているかもわかりゃしないし、それに橋から下は何マイルというもの、そこらじゅう桟橋だらけで、まるで手がつけられやしない。君一人でかかったら、幾日あったって足りゃしないよ」
「それだったら警察へたのむさ」
「いやなこった。僕《ぼく》も最後の段階では、アセルニー・ジョーンズを呼ぶつもりだ。ジョーンズも悪い男じゃない。だから仕事のうえであの男の立場を害するようなことは、しないつもりだ。それよりもせっかくここまでやりかけたんだから、なんとかして僕は最後まで独力でやりとげたい」
「そんなら舟着場の管理人に知らせてくれるようにと、広告を出してみたらどうだろう」
「ますますまずいよ。そんなことをしたらやつらは手のまわったのを知って、国外へ高飛びしてしまうよ。それでなくてさえやつらは飛びたがっているんだからね。しかし危険がないと思って安心しているあいだは、べつにあわてもしなかろう。そこでジョーンズ先生の大活躍《だいかつやく》が大いにありがたいというわけだ。こんどの事件についてのジョーンズの意見というやつが、きっと新聞に大きく出るから、それを読んで、みんなとんでもない見当違《けんとうちが》いの方面ばかり探っていると思って、やつらは安心するにちがいないからね」
「それではこれから僕たちは、どうするんだい?」と私がたずねたとき、はしけはちょうどミルバンク刑務所の近くの波止場へ着き、私たちはそこへ上陸した。
「この辻馬車《つじばしや》で家へ帰って、朝食をとってから、一時間ばかりぐっすり寝《ね》よう。今夜もまた徹夜《てつや》かもしれないからね。馭者《ぎよしや》さん、途中《とちゆう》に電信局があったら、ちょっと止めてほしいね。ああ、トビイは家へつれて帰ろう。まだ用があるかもしれないからね」
グレート・ピーター街の郵便局で馬車を止めさせて、ホームズは電報をうった。
「誰《だれ》にうったと思う?」馬車が走りだしてから、彼がたずねた。
「そんなこと知らないよ」
「探偵《たんてい》界のベーカー街特務隊というやつを覚えているだろう? ほら、いつかのジェファスン・ホープ事件で僕のつかったあれさ」
「あれなら覚えている」私は思わず笑った。
「あれがまた大いに役にたつと思うのさ。もしだめだったら、ほかに方法はいくらもあるけどね。まあとりあえず、あれを使ってみよう。電報はわが垢《あか》じみたる少年|中尉《ちゆうい》ウィギンズにうったのさ。朝食のすまないうちに、部下を大勢引率してやってくるぜ」
時刻はちょうど八時すぎであった。夜をこめて異様な興奮を続けてきた私は、いまさらのように疲《つか》れが出て、身も心も疲労困憊《ひろうこんぱい》しつくし、気分がぼーっとしていた。私としてはホームズほどの職業的な情熱ももちあわさず、また事件を単なる推理上の興味からのみ見る冷静さもなかった。バーソロミュー・ショルトーの死にしても、べつに彼に味方しなければならぬ理由ももたなければ、加害者をとくに嫌悪《けんお》するという気にもなれなかった。
しかし、財宝となると話はべつである。財宝は、あるいはその一部は、モースタン嬢《じよう》に正当な所有権があるのだ。それをとりもどすことができる機会があるかぎり、私は身命を賭《と》してでもそれをやり通すだけの気はもっている。しかもいったん財宝を手にいれてしまえば、彼女《かのじよ》はもう私などの手の届かぬ高嶺《たかね》の花となるのを承知のうえでの話だ。それがいやさにこの事件から手を引くようなことでは、それはちっぽけな自分勝手な愛というものだろう。ホームズはもっぱら犯人|逮捕《たいほ》の方面に働くがよい。私は財宝の捜査のために努力すべき十倍もつよい理由をもっているのだ。
ベーカー街へ帰って風呂《ふろ》にはいり、衣服をとりかえると、私は急にひどく元気づいた。下の部屋へ降りてみると、もう食事の用意ができていて、ホームズはコーヒーを注《つ》いでいた。
「出ているよ」彼は笑いながら、ひろげてある新聞を指して、「活動的なジョーンズ君と、どこにでもいる新聞記者とが、すっかり話をこしらえあげてしまった。しかし君は先刻ご承知の話なんだ。こんなものにはかまわないで、まずハム・エッグでもやりたまえ」
私はホームズの手からそのスタンダード紙を受けとって、「アッパー・ノーウッドの惨劇《さんげき》」と標題をうった短い記事を読んでみた。
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昨夜十二時ごろアッパー・ノーウッドにあるポンディシェリー荘《そう》に住むバーソロミュー・ショルトー氏は自室内で死亡していたが、周囲の状況《じようきよう》から見て他殺であるらしい。わが社の探知したところによると、死体には暴行のあとは見られないが、被《ひ》害者《がいしや》が亡父から相続した多額のインド宝石が全部|紛失《ふんしつ》しているという。最初事件を発見したのは被害者の実弟サディアス・ショルトー氏ならびに同氏とともに同家を訪問したシャーロック・ホームズ氏およびワトスン博士だが、幸い警察界に有名なアセルニー・ジョーンズ氏がおりよくアッパー・ノーウッド署にいあわせたので、訴《うつた》えをうけて三十分以内に同家へ急行した。氏は豊富なる経験と熟練によってただちに犯人|捜査《そうさ》に乗りだしたが結果はすこぶる満足すべきものがあり、被害者の弟サディアス・ショルトーと家政婦バーンストン夫人が、執事《しつじ》をつとめるインド人ラル・ラオ、門番マクマード等とともに早くも嫌疑者《けんぎしや》として引致《いんち》された。加害者が同家の案内に十分通じていたことは明らかで、ジョーンズ氏はその専門的知識と鋭敏《えいびん》なる観察によって犯人はドアまたは窓から潜入《せんにゆう》したものでなく、屋上の天窓から凶行《きようこう》現場である居室に忍《しの》び入ったものと断定した。このように明確に決定されたこの事実は、この犯行がけっして偶然《ぐうぜん》に行われたものでないのを示すものである。捜査当局のこのような敏速《びんそく》にして強力なる活動があったことから見て、このような場合には一個の強力にして巧妙《こうみよう》な人材の存在がいかに有利であるかを如実《によじつ》に例証するものであろう。この事実はまた、警察事務の能率をいっそう発揮させるには、中央集権制を排《はい》すべしという一部の論者にたいして、有力なる参考資料を供するものであるのを疑わない。
[#ここで字下げ終わり]
「たいへんなことになったもんだね」ホームズはコーヒーをかきまぜながらいった。「君はどう思う?」
「われわれもいまに逮捕されそうな危険を感じるよ」
「僕もそう思う。精力的なジョーンズの活躍が一転すれば、われわれといえどもけっして安全とはいえないね」
このとき呼鈴がはげしく鳴りひびいて、下宿のおかみハドスン夫人がすこし急《せ》きこんで、だんだん声《こわ》だかになりながら、下で誰かといい争うのが聞えた。
「これはたいへんだ!」私は腰《こし》をうかした。「ほんとうに踏《ふ》みこんできたらしいぜ」
「なに、あわてなくてもいいよ。警察じゃない。例のベーカー街特務隊がやってきたのさ」
ホームズの言葉がまだ終らないうちに、階段を裸足《はだし》でばたばたのぼる足音だの、がやがや喋《しやべ》りあう大きな声だのが聞えて、ぼろを着たきたならしい浮浪《ふろう》少年どもが十人あまりも、なだれこんできた。彼《かれ》らにも多少の規律はあるものとみえ、がやがやとはいってはきたが、すぐにこちらを向いて列をつくり、命令でも待つ形で一列にならんだ。するとそのなかでいちばん背が高く年うえのが、やせこけてみすぼらしいみなりながら、おかしな威厳《いげん》をつくって前へ進み出た。
「電報を見たから、みんなをよび集めて、つれてきたよ。切符《きつぷ》代は三シリングと六ペンスだ」
「それではこれが切符代だ」ホームズはいくらかの銀貨をわたしてやりながら、「これからはみんなウィギンズに報告して、ウィギンズだけがここへ報告に来るんだぜ。こんなに大勢ぞろぞろはいってこられちゃ困る。だがせっかく来たのだから、きょうはおれから皆《みな》に命令しよう。――オーロラという汽艇《ランチ》の行方が知りたいのだ。モーディカイ・スミスという人の持船で、船体は赤い筋の二本はいった黒ぬりだ。煙突は白い筋が一本あって、やはり黒ぬりだ。大河のどこかにいるはずだ。誰か一人ミルバンクの向う河岸《かし》のモーディカイ・スミスの桟橋を見はっていて、汽艇《ランチ》が帰ったら報告するといい。そのほかのものはみんな手わけして、両河岸ともさがすんだ。見つかったらすぐに報告してくれ。わかったね?」
「わかったよ」ウィギンズが代表して答えた。
「駄賃《だちん》はいつものとおりだ。汽艇《ランチ》を見つけたものには、べつに一ギニーやる。さ、一日分まえ渡ししとく。すぐに行ってくれ」
ホームズがめいめいに一シリングずつ渡してやると、彼らはどやどやと降りていった。そしてすぐに往来を向うへ歩いてゆくのが、窓から見えた。
「ああやっておけば、汽艇《ランチ》が河すじにいるかぎり、必ず見つけてくる」ホームズは食卓《しよくたく》をはなれて、パイプに火をつけながら、「あの連中はどんなところへでもはいりこんで、何でも見られるし、誰にでもきけるからね。夕がたまでにはつきとめるだろう。それまではじっとして待っているばかりだ。オーロラかモーディカイ・スミスか、どっちかを見つけるまでは捜査の線は断たれたまんまだ」
「トビイにこの残りものを食べさせてやろう。そして君は寝るかい?」
「寝ない。ちっとも疲れていないから。僕は妙《みよう》なんでね、のらくらしていると、たまらなく疲れるが、仕事をして疲れたと思ったことは一度もないよ。これから煙草《たばこ》でもやりながら、あの美人のもちこんできた不思議な問題をとっくり考えてみるんだ。木の義足をはめた男も、世の中にそうざらにはいないが、その相棒の男ときたら、これこそ世にも珍しいやつなんだよ」
「またしても相棒の男かい?」
「なにも君に隠《かく》しておく気はないけれど、君だってすこしは自分で考えてみなきゃだめだよ。材料を取捨してさ。小さな足跡《あしあと》――爪《つま》さきの開いた、つまり靴《くつ》をはいたことのない足――しかも裸足――石の頭をつけた棍棒《こんぼう》――おそるべき身軽さ――毒の矢――これらの材料から君はどう考えるね?」
「原地人だ!」私は思わず口走った。「ジョナサン・スモールの一味のインド人の一人じゃないだろうか?」
「そんなものじゃあるまい。僕も最初変な武器を見せられたときは、そうかとも思ったが、足跡の特徴《とくちよう》を見て考えなおした。インド半島の住民のなかには背の低い人種もないではないが、それにしてもあんな特徴をもつのはない。ヒンズー族の足は元来ながくて幅《はば》がせまい。マホメット教徒は、サンダルをはくので、革《かわ》のひもを指のまたにはさむから足の拇指《おやゆび》が大きくて、ほかの指からはなれている。それにあの短い矢の使いかたにしても、吹矢《ふきや》でなければ飛ばすことはできない。とするとこれは、いったいどこの原地人だろう?」
「南米じゃないかい?」私はでたらめをいってみた。
するとホームズは手をのばして、棚《たな》から厚い本を一冊とりおろした。
「これは目下出版されつつある地名辞典のうちの第一巻だがね、最近の権威とみていい。なんと出ているかな? ははあ『アンダマン諸島、スマトラの北方三百四十マイル、ベンガル湾《わん》にあり』なるほど。なになに『気候|湿潤《しつじゆん》にして珊瑚礁《さんごしよう》あり』ふむ、そのほか鱶《ふか》多く、ブレア港は……流刑囚《るけいしゆう》収容所……ラトランド島……白楊樹《はくようじゆ》……と、ああ、あったあった。『アンダマン島原住民は地球上最小の人種であろう。二、三の人類学者は南アのブッシュ人、アメリカの掘食《デイガー》インディアン、フェゴ島のテラ人等をもって最小であるとするが、本島の原住民は平均身長四フィート以下で、成人でもはるかにこれに満たぬものもある。一度|信頼《しんらい》すると、きわめて厚い友情を示すこともあるが、一般《いつぱん》には残忍獰猛《ざんにんどうもう》で気むずかしく、親しみにくい人種である』とある。これが大切なんだよ。それからまだ、『なお彼らの容貌《ようぼう》は醜悪《しゆうあく》で、頭部は奇形《きけい》的に長く眼《め》は凶暴で、その他一般に外貌《がいぼう》はゆがんでいる。ことにその手足がいちじるしく小さいのが特徴である。その性質が残忍凶暴であることは、イギリス官憲のいかなる努力もついにこれを帰順させることができないのでもわかる。彼らは難破船を襲撃《しゆうげき》してその生存者を石頭の梶棒で殴殺《おうさつ》し、毒矢を放つのでつねに航海者に恐《おそ》れられる。これらの虐殺《ぎやくさつ》により彼らは食人肉祭を行うをつねとする』
どうだいワトスン君、愛すべき立派な民族じゃないか。もしこいつらに勝手なまねをさせといたら、この事件はどんなものすごいことになるかわからないぜ。いままでの結果だけでも、ジョナサン・スモールはこいつを使ったのを、よほど後悔《こうかい》していることだろうよ」
「それにしてもスモールは、どうしてこんな変なやつを仲間にしたのだろう?」
「そいつは僕にもわからないね。しかしスモールはアンダマン島にいたのだから、仲間にしたからってそう不思議とはいえないよ。そういう点も、いずれは明らかにしてみせる。ワトスン君、君は疲れたようだね。そのソファに横になりたまえ。僕が眠らせてあげるよ」
いわれたとおり横になると、ホームズはへやのすみから例のヴァイオリンをとりあげて、夢《ゆめ》みるような自作のしらべを低く奏《かな》でだした。彼は即興楽《そつきようがく》にたいしてすぐれた天分があるのだ。私は彼のほっそりした手足や、まじめくさった顔つきや、弓のあげさげを眺《なが》めながら、その快いリズムに聞きいるうちに、うとうとと甘美《かんび》な音楽の世界に引きいれられて、いつしか夢路をたどり、うえからのぞきこむメアリー・モースタン嬢のえもいわれぬ笑顔《えがお》を眺めているのだった。
第九章 連鎖《れんさ》断たる
私がすっかり元気を回復して眼をさましたのは、もう太陽がよほど傾《かたむ》いてからであった。シャーロック・ホームズはやはりおなじ姿勢ですわったまま、ヴァイオリンこそ下に置いていたが、一心に書物に読みふけっていた。私がもぞもぞしだしたので、眼をあげてこちらを見たが、その顔は妙に暗く沈《しず》んでいた。
「よく寝たねえ。ずいぶん大きな声で話したのに、まるっきり眼がさめなかった」
「ぐっすり寝て、何も知らなかった。じゃ何か新しい情報でもあったのかい?」
「それがねえ、何かあるといいのだが、案外なので失望しているところなんだ。今ごろまでには何かわかるつもりだったんだがねえ。いまもウィギンズが来て、汽艇《ランチ》の手掛《てがか》りがさっぱりないという。いまは一刻を争う場合なんだから、まったく困っちまったよ」
「何か僕にできることでもないかねえ。すっかり元気を回復しちゃった。また徹夜したって平気だよ」
「何って、べつにしてもらうこともないね。ただ待っているしかない。外出したあとへ誰か来たりすると、時機を失することになるからね。君は何か用事でもあるのなら、勝手に何でもやってくれたまえ。僕《ぼく》はここでじっと待っていることにする」
「そんなら僕は、カンバーウエルのセシル・フォレスター夫人でも訪ねようかな。きのうもぜひ来てくれといっていたから」
「へえ! フォレスター夫人をかい?」ホームズは眼で笑いながらいった。
「そうさ。そのついでにモースタン嬢もさ。二人ともあれからどうなったか、大いに心配していることだろう」
「僕ならあの人たちにはあんまり喋らないね。女はとかく安心ができない。よほど立派な女でもねえ」
私はこんな皮肉屋の相手になって、議論なぞしている気はなかった。
「一時間か二時間で帰ってくるからね」私はいった。
「いいとも! 幸運を祈《いの》るよ! それから、河を渡《わた》るなら、ついでにトビイを返してやってくれないか。もう用がなさそうだから」
私はトビイをつれて、ピンチン横丁に老動物学者を訪ね、半ソヴリンの金貨をそえてその手へ渡してやった。カンバーウエルへ行ってみると、モースタン嬢はゆうべの冒険《ぼうけん》にすこし疲労していたが、それでも熱心にその後のなりゆきいかんを聞きたがった。フォレスター夫人もおなじように、好奇心《こうきしん》でいっぱいだった。私はあまり残忍だと思われる点は、なるべく省略して、何もかも詳《くわ》しく話してきかせた。だからショルトーの殺されたことだけは話したけれど、その方法や現場の模様などには一言もふれなかったのだが、それでも二人の驚《おどろ》きかたはひととおりでなかった。
「まるで小説を読むようでございますわ」フォレスター夫人は溜息《ためいき》をついた。「美人の受難、五十万ポンドの財宝、黒い食人族、木の義足をつけた悪者、――龍《ドラゴン》や騎士《ナイト》や意地悪|伯爵《はくしやく》などの出てくるありきたりなのではないお膳《ぜん》だてが、ちゃんとそろっていますのねえ」
「そして二人の騎士がその悪者を退治なさるのね」モースタン嬢も眼を輝かせて私を見あげた。
「あら、なんですねえメアリーさん、あなたはその宝物が出てきたら、たいへんな身分になるかたではありませんか! それだのにあなたってば、そんな冗談《じようだん》なぞいって、よく平気でいられますわね。たいへんなお金持になって、世の中の人を足もとに見くだすことを考えてごらんなさいよ。どんなでしょうねえ」
こう夫人からいわれても、モースタン嬢が得意そうな顔も見せないのを見て、私は胸のおくにうれしさがこみあげてくるのをおぼえた。たいへんな金持になるということが、まるで他人《ひと》ごとででもあるかのように、ただ誇《ほこ》り高く頭をふるだけであった。
「わたくしそれよりも、サディアス・ショルトーさまのことが心配になります。ほかのことなぞ、どうなってもかまいません。あのかたは、それはそれはわたくしに思いやりぶかく、よくしてくださいました。あのかたのいわれのない嫌疑《けんぎ》を晴らしてあげますのが、わたくしどもの務めでございますわ」
私がカンバーウエルの家を辞したのは夕がただったから、ベーカー街へ帰りついたときは、あたりがすでにすっかり暗くなっていた。ホームズの読んでいた本とパイプは彼の椅子《いす》のわきにあったが、本人の姿はどこにも見あたらなかった。何か書きおきでもあるかと、さがしてみたが、それもない。
「ホームズ君は出かけたのでしょうね?」ハドスン夫人がブラインドをしめにきたので、私はきいてみた。
「いいえお出かけじゃございませんよ。お寝室《へや》へいらしたのでございましょう。ご存じなかったのでございますか?」といったが夫人は急に声をおとして、「おからだは大丈夫《だいじようぶ》でございましょうねえ?」
「どうかしたのですか?」
「ええ、すこし変でございますのよ。あなたがお出かけになりましてから、いつまでもいつまでもお部屋をこつこつ歩いてばかりいなすって、ほんとにうるさいくらいでございましたよ。それからご自分のお部屋へおはいりになりましてからも、何かしきりに独りごとをおっしゃってでございましたが、玄関《げんかん》でベルが鳴るたびに階段のうえまで出ていらして、『いまのは何ですか、ハドスンさん?』て、いちいちおききになるんでございますよ。いまもやはりお部屋でこつこつ歩いていらっしゃるようでございます。ご病気にでもならなければようございますがねえ。わたし熱さましでもおあがりになったらと申しあげましたら、こわいお顔をなすったので、びっくりして後をも見ずに逃《に》げてきましたんでございますよ」
「いや、心配はないでしょうよ。こんなことは以前にもあったんだからね。何かちょっとした考えごとでもあって、それでいらいらしているだけですよ」
私は親切で人のよいおかみによけいな心配をかけまいと、なるべく何げなく話してはおいたが、内心はこつこつ歩きまわる彼の足音が終夜耳について、彼の鋭敏《えいびん》な神経がこの強《し》いられた無為《むい》の一夜をいかに憎《にく》んでいるかを考えると、自分でもいささか不安を感じないではいられなかった。朝食のときに見ると、彼の疲《つか》れきって憔悴《しようすい》した両の頬《ほお》には、からだに熱でもあるような色が出ていた。
「自分でからだをこわすようなことをしてはいけないねえ。ゆうべは夜間行軍の足音がしていたじゃないか」
「眠《ねむ》れなかったんだ。このいまいましい事件のやつ、僕をすっかりまいらせやがる。ほかのことはすっかりわかっているのに、こんなささいな穴につまずくなんて、じつにばかげているよ。犯人もわかっているんだし、汽艇《ランチ》だってわかっているし、何もかもすっかりわかっていながら、さらに進展しない。ほかの手さきもさしむけてあるし、そのほかあらゆる手段を思うさま講じて、河すじは両岸とものこる隈《くま》なく捜査させたんだが、さっぱり効果がないし、スミスのかみさんのところへも、ご亭主《ていしゆ》から何の消息《たより》も来ないという。汽艇《ランチ》の底に穴でもあけて、沈めてしまったんじゃないかとまで考えてみたが、それもできない理由があるんだからねえ」
「それともスミスのおかみさんが、嘘《うそ》を教えたんじゃあるまいねえ?」
「いや、それはないと思う。あちこち問いあわせてみたが、そういう汽艇《ランチ》のあるのは嘘じゃないんだ」
「河をどんどん上流へのぼっていったんじゃないかね?」
「それも一応は考えたから、べつに一隊を出してリッチモンドまで調べさしている。もしきょうじゅうに何も報告が来なければ、あしたは自分で出かけようと思っているところだ。しかし、きょうは必ず何か報告が来るにちがいない」
だが報告はついに来なかった。ウィギンズからもほかの手さきからも、なんとも連絡はなかった。一方そのあいだも多くの新聞は、ノーウッドの惨劇《さんげき》について書きたてていた。その記事はどの新聞を見ても申しあわせたように、サディアス・ショルトーに不利な扱《あつか》いであったが、検屍官《けんしかん》の審問《しんもん》があす開かれるということのほかには、これという新事実の報道はなかった。
夕刻私はふたたびカンバーウエルを訪《おとず》れて、成功の見こみがはなはだ少ない旨《むね》を話して帰った。帰ってみるとホームズは元気がなく、すこし不機嫌《ふきげん》な顔さえしており、こっちから話しかけてもろくに返事もしないで、熱心に化学の実験に没頭《ぼつとう》していた。実験は主としてレトルトによって、何かの蒸気を蒸溜《じようりゆう》するらしかったが、ついに、家をとびだそうかと私に思わせたほど、いやな臭気《しゆうき》を発散させた。そしてその夜は翌朝の二時、三時にいたるまで、試験管のがちゃつく音をさせていた。
明けがたはやく夢をやぶられた私は、水夫の服をつけ、首に下品な赤い布を巻いたホームズが枕《まくら》もとに立っているので、びっくりした。
「ワトスン君、僕はこれから河すじの捜査《そうさ》に行ってくるよ。いろいろと考えてみたが、このうえはただこの一途《いつと》あるのみだ。何はおいても、これだけはやってみる価値があると思う」
「じゃ僕も行っていいね?」
「いや、君は僕の代理として、ここに残っていてくれたほうがいい。ウィギンズはゆうべは萎《しお》れていたけれど、きょうこそは何か報告をもってくるにちがいないから、じつは僕も出かけたくないくらいなんだ。報告の手紙か電報が来たら、みんな開封《かいふう》してくれたまえ。処置はその場合の君の臨機の判断にまかせる。やってくれるね?」
「いいとも。承知した」
「どこへ行くか、自分でもわかっていないのだから、僕に電報をうってもらうことはできない。しかし、うまくゆけば、案外はやく帰れるかもしれない。帰るまでにはきっと何か報告が来ると思う」
朝食までには、何も報告は来なかった。しかしスタンダード紙をひろげてみると、この事件に関する新しい記事が出ていた。
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アッパー・ノーウッドの惨劇に関しては、当初の見こみに反して内容が案外複雑でかつ神秘的であると信ずべき理由がある。サディアス・ショルトー氏がこの問題に無関係なことを証する新事実が発見されたのである。そのため氏は家政婦バーンストン夫人とともに昨夜釈放されたが、当局は真犯人の手掛りを得た模様で、警視庁のアセルニー・ジョーンズ氏が全力をあげて捜査に努めているというから、遠からず真犯人の逮捕をみるものと期待される。
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「こうくるのが当然さ」私は思った。「とにかくショルトー君はこれで助かった。だが新しい手掛りとはいったい何だろう? 警察がへまをやったときの、例のきまり文句じゃないのかな?」
私は新聞をテーブルのうえに放《ほう》り出したが、そのとたんにふと三行|広告欄《こうこくらん》の広告に眼《め》をとめた。つぎのような文句である。
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尋《たず》ね人――船頭モーディカイ・スミスおよびその息子《むすこ》ジムの両名は、火曜午前三時ごろランチ「オーロラ」(黒に赤線二本、煙突《えんとつ》は黒に白線一本)でスミス宅|桟橋《さんばし》を出航したが行方《ゆくえ》不明となった。スミスとオーロラの所在を、スミス夫人またはベーカー街二二一番Bへお知らせの方には金五ポンドを呈《てい》す。
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ホームズが出した広告であることは明らかだ。ベーカー街うんぬんがそれを証明してあまりある。私は巧《たく》みな広告文に感心した。これなら逃走者《とうそうしや》が見ても、スミスのおかみがご亭主の身を案じて出したとしか思うまい。この一日が私にはずいぶんとながく感じられた。玄関にノックの音の聞えるたび、表にあわただしい足音のするたびに、ホームズが帰ったのか、広告を見て誰《だれ》か来たのかと、気もおちつかなかった。書物を手にしてみたが、思いは遠く不思議な探索《たんさく》や、凶悪《きようあく》な犯人のうえにのみ馳《は》せて、読む気なぞてんで起らなかった。
ホームズの推理には根本的な錯誤《さくご》がありはしないだろうか? 彼《かれ》は出発点からすでに誤っているのではあるまいか? とんでもない迷想《めいそう》を描《えが》いているのじゃあるまいか? 自分の慧敏《けいびん》さや推理力に力まけがして、誤った前提のもとにとんでもない推理を組みたてている虞《おそ》れはないだろうか? なるほど未《いま》だかつて、彼の推理に誤りのあった例を知らない。だがいかに鋭敏な理論家でも、ときに錯誤を演ずることがないとはいえまい。彼はより平易な、より平凡《へいぼん》な説明を下しうる場合でも、好んで理屈《りくつ》っぽく巧妙《こうみよう》な解釈をしたがる男だが、そのためかえって錯誤におちいるのではあるまいか? しかもこの事件では、私はいろいろの証跡《しようせき》をまのあたり見せつけられ、彼の推理もだいたいのことは聞いている。そのどこに矛盾《むじゆん》を発見しうるというのか?
しかしながらさまざまの奇怪《きかい》なできごとを回想してみるのに、その一つ一つはいかにも取るにたらぬささいなことであるのだが、それらのすべてが歩調をそろえて、一つの方向をさしているではないか! たとえホームズの見解が誤っているにしても、この事件の真相は必ずやきわめて異常な、驚異《きようい》すべきものであるのにちがいない。
午後の三時だった。玄関のベルがあらあらしく鳴りわたって、ホールで横柄《おうへい》な声がしたかと思うと、驚いたことには警視庁のアセルニー・ジョーンズがはいってきた。しかし私の前へ来た彼の態度には、アッパー・ノーウッドで常識論をふりまわしたとき示したような無作法きわまる尊大さはすこしもなく、かえってうち沈んでばか丁寧《ていねい》でさえあった。
「こんにちは、ワトスンさん。先日はどうも。シャーロック・ホームズさんはお出かけだそうですね?」
「はあ、いつ帰るかもわからないのですが、お待ちになるのでしょう。まあお掛《か》けください。そちらの椅子がいいでしょう。葉巻をどうぞ」
「ありがとう。では待たせていただきましょう」と彼は赤い大きな絞《しぼ》り染めのハンカチを出して、しきりに顔をふいた。
「さあどうぞ。ウイスキー・ソーダでもいかがですか?」
「ありがとう。ではグラスに半分だけいただきましょう。きょうはいやに暑いようですが、すこし季節はずれですな。それに気ばかりもめるものですから、とんと元気がありません。あなたはこんどのノーウッド事件についての私の意見をご存じでしょうな?」
「そう、いつか伺《うかが》いましたね」
「ところがあいつをすっかり考えなおさなければならなくなりましてね。ショルトー氏にちがいないという見こみで、すっかり周囲をかためているところを、するりと抜《ぬ》けられちまいました。動かしがたいアリバイをもっていやがったのです。というのが、被《ひ》害者《がいしや》の部屋を出てからのあの男に、行動不明の時間というものが一分間もないのです。したがってあの男が屋根へ上がって、天窓から忍《しの》びこんだはずはないのです。そうなるとまったく不可解な事件で、私の職業的声望も危《あや》うくなってきました。この際いくらかでも援助《えんじよ》していただければたいへんありがたいです」
「人は誰でも援助のほしい時があるものですよ」
「シャーロック・ホームズさんはじつにすばらしい人です」ジョーンズは心から感服しているらしく、「尋常普通《じんじようふつう》の人間には及《およ》びもつかぬ人です。まだ若いのに、あの人が手をつけて解決しなかった事件は、一つもありませんからねえ。捜査の方法は変則ですし、見こみのたてかたがすこし速断にすぎるきらいはあるけれど、あの人がもし警察界にでもはいれば、前途きわめて有望な幹部になれたでしょう。そのことはどこへ出ても公言してはばかりません。じつはけさホームズさんから電報がありましてね。どうやらこんどのショルトー事件に有力な手掛りを握《にぎ》ったらしいです。これがその電報ですよ」
彼はポケットから電報をとりだして、私に手わたした。十二時にポプラ局からうったものである。
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スグベーカー街ヘコラレタシ」モシ小生不在ナラバ帰宅ヲ待テ」ショルトー事件犯人ヲ追及《ついきゆう》中」大詰《おおづめ》ニ立チアイゴ希望ナラバ、今晩ノ手入レニ同行サレタシ。
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「これはうまい。また手掛りを見つけたのにちがいない」
「へえ! じゃホームズさんもやっぱり、一度は失敗したんですか?」ジョーンズはうれしそうに叫《さけ》んだ。「僕たちが全力をあげてやっても、どうかすると振《ふ》りきられることもあるんですからねえ。この電報にしたって、案外ホームズさんの思いちがいかもしれませんよ。でもまあ、いかなる機会をも逸《いつ》しない心掛けが、警察官たるものの本分ですからねえ。――おや、誰か来たようです。ホームズさんかもしれませんね」
重い足音が、ぜいぜい苦しそうな息づかいとともに、階段を上がってくる。よほど苦しいとみえて、階段の中途で一、二度立ちどまってから、やっと部屋へはいってきた。
たどたどしい足音にふさわしい老年の船員ふうの男で、ふるい粗布《あらぬの》の水夫服のボタンを咽喉《のど》までかけている。背中は曲り、膝《ひざ》はがたがた震《ふる》え、喘息《ぜんそく》性の苦しそうな息を吸いこむとき、樫《かし》のふとい棒にすがっている肩《かた》が波うった。首に巻いた色もののスカーフに顎《あご》をうずめ、額には白くながいふさふさとした眉毛《まゆげ》がさがって、両頬にはゴマ塩の頬髯《ほおひげ》がながくのびているので、妙《みよう》に鋭《するど》い黒眼のほかには、顔はほとんど見えなかった。一見してよる年なみと貧乏《びんぼう》に動きのとれなくなった海の古勇士《ふるつわもの》といった印象をうけた。
「爺《じい》さん、何か用かね?」まず私がきいた。
彼は老人特有の気のながさで、ゆっくりあたりを見まわしてから、
「シャーロック・ホームズさんはこちらですかい?」
「留守なんだが、私が代理のものだ。ホームズさんへ用なら、私が聞いておくよ」
「直接《じか》に話してえんで」
「だからさ、私が代理だといっているじゃないか。モーディカイ・スミスの船のことで来たのかい?」
「船のいるところはもちろん、ホームズさんのさがしている連中のいる場所もちゃんと知ってるんだ。それに財宝のあるところもさ。おれは何もかも、ちゃんと知ってるだよ」
「そんなら早く話したらよかろう。私からホームズに取りつぐ」
「うんにゃ、直接《じか》でなくちゃなんねえ」彼は老人らしい気むずかしさでいい張った。
「それでは帰るのを待つしかなかろう」
「いやなこった! 他人《ひと》さまのために一日つぶすなんざあ、まっぴらだね! ホームズさんがいねえなら、ホームズさんが自身でさがしてくるがいいだ。お前さんたちがどんな顔をしてみせたって、金輪際《こんりんざい》話すこっちゃねえ」
老人は戸口のほうへよろめき進んだ。すると、アセルニー・ジョーンズがその前へ立ちはだかった。
「とっつぁん、ちょっと待ってくれ。お前さんはたいへんなことを知っている。いまこのまま帰られてなるものか。いやだといったって、ホームズさんの帰るまで、帰しゃしないよ」
老人は小走りに戸口へ駆《か》けよろうとしたが、それを見てジョーンズが大きな背中をドアにぴたりと押《お》しつけてしまったので、とても無益と知って、杖《つえ》で床《ゆか》を叩《たた》きながらわめきちらした。
「なんてひどいことをするだ? おれは紳士《しんし》に会いに来ただのに、まるで見も知らねえお前さんたち二人で寄ってたかって、こんなことをするとは、あんまりじゃねえか!」
「悪いようにはしないよ」私はなだめにかかった。「手間をとらせただけのことはきっとするから、まあこのソファにすわって、しばらく待っていておくれ。もうじき帰ってくるにちがいないからね」
老人はいやいやながら引返して、ソファに腰《こし》をおろすと、両手に顔をうずめてしまった。ジョーンズと私はそれで安心して、また葉巻をやりながら話の続きをはじめた。とふいに聞きなれたシャーロック・ホームズの声がきこえた。
「僕にも葉巻くらいすすめてくれてもよさそうなもんだな」
私たちは椅子《いす》からとびあがらんばかりに驚《おどろ》いた。見るとホームズは満足そうな顔で、私たちのすぐそばに腰をおろしているのだった。
「ホームズ君! ああびっくりした。いつ帰ったんだい? それにしてもさっきの老人はどうしたろう?」
「老人はここにいるさ」と彼はひとつかみの白髪《はくはつ》を示しながら、「かつら、頬髯、つけ眉毛、これが老人の正体だよ。僕は変装《へんそう》にはいささか自信があったが、それでもきょうのこの試験に合格しようとは思わなかったよ」
「これは驚いた!」ジョーンズはうれしそうに叫んだ。「ホームズさんは役者になれますよ。しかも名代《なだい》の名優にね。咳《せき》からして養老院特有のものだし、その足の震え具合ときたら、一週十ポンドの値うちは確実ですぜ。それでも私はホームズさんの眼の輝《かがや》きはよく知っているつもりだったから、われわれだってそう簡単にだまされやしませんよ」
「きょうは一日この扮装《なり》で働いてきた」ホームズは葉巻に火をつけながら、「このごろ悪人どもがだいぶ僕《ぼく》の顔を知ってきたんでね。ことにワトスン君が僕の手がけた事件を書いて出版するようになってからというもの、それが目だつ。だからやむをえず、こうした簡単な変装で仕事に出るのさ。電報がいったでしょう、ジョーンズ君?」
「ありがとう。それでじつはお伺いしているわけです」
「君のほうの捜査はよほどはかどりましたか?」
「さっぱりです。容疑者を二人まで釈放させられましたよ。しかもあとの二人にも、これという極《き》め手《て》があがらないのでね」
「安心したまえ。お代りを二人さがしてあげますよ。しかし私の命令に従ってくれないと困るんですがね。公けにはみなあなたの功名にしていいけれども、きょうばかりは私の指図どおりに動いてくれないと困るんです。どうです、この条件を承知してくれますか?」
「委細承知です。ただその男を逮捕させてさえくださるならばね」
「よろしい。ではまず第一に、速力の出る警察船――汽艇《ランチ》を七時までにウエストミンスターの岸壁《がんぺき》へまわしてもらいましょう」
「おやすいことです。あのへんにはいつでも一|艘《そう》くらいはいるはずですが、でも念のため、あとで電話をかけておきましょう」
「それから抵抗《ていこう》されると困るから、腕節《うでつぷし》のつよい男を二人貸してください」
「汽艇《ランチ》にはそんなのが二、三人乗っているはずです。ほかには?」
「犯人を捕《とら》えたら財宝はもどります。それをワトスン君に、あの若い美人のところへ持って行かせてやりたい。そのうちの半分は、当然|彼女《かのじよ》に権利があるのだからね。箱《はこ》はまっさきに彼女に開かせることにしようじゃないか、え、ワトスン君?」
「ぜひそうしたいもんだね」
「そいつはすこし変則ですな」とジョーンズは頭をかたむけたが、「でもまあ、すべてが変則なんだから、ついでにそれも大目にみておきますか。しかし財宝はそのあとすぐ官憲にわたして、調査の終るまでは保管させてもらわないことには困ります」
「よろしい。それは何でもない。それからもう一つ、私は事件についてジョナサン・スモール自身の口からぜひ聞きたいことがある。ご承知のとおり、私は細かい点まで明らかにしておきたいのでね。だから場所はこの部屋か、どこかほかの場所でもいいが、スモールと非公式に話したいのです。十分な監視《かんし》をつけさえしたら、さしつかえないでしょうね?」
「この事件はなんといったってあなたが立役者です。私はそのジョナサン・スモールとかいう人物の存在すら知らない始末なんですからね。のみならず、その人物を捕えるのはあなたなんだから、それに異議を申しいれる権利はないでしょう」
「じゃたしかに承知してくれましたね?」
「承知しましたとも。それだけですか?」
「あとはここでいっしょに食事していただくことくらいのものです。三十分で支度《したく》ができます。牡蠣《かき》と雷鳥《グラウス》が一番《ひとつがい》、それに、ちょっといける白ワインもあります。どうだいワトスン君、家政上の僕の手腕《しゆわん》については、君だってまだ知らないだろう?」
第十章 島人の最期《さいご》
食事は愉快《ゆかい》に進行した。ホームズは気が向けばずいぶんよく話すほうで、その晩はばかに調子がのっていた。すこし興奮している様子さえあった。こんなに彼が溌剌《はつらつ》として元気のよかったのは、私はまだ一度も見たことがなかった。つぎからつぎと、いろんな問題について彼は語った。――中世の奇蹟劇《きせきげき》の話、中世の陶器《とうき》の話、ストラディヴァリウスのヴァイオリンの話、セイロン島の仏教の話、未来の軍艦《ぐんかん》のことなど、いちいち専門的に研究したことでもあるかのように、縦横《じゆうおう》に論じるのだった。
彼のはればれとしたユーモアは、つづいていた近ごろの憂鬱《ゆううつ》からの反動なのである。アセルニー・ジョーンズもくつろいでみると、なかなかの社交性を発揮し、食事を共にするには陽気な男だった。私自身も、事件が終結に近いのを思って、気もはればれとホームズの話に興じた。そして食事中は、事件そのものについては、誰も一言も口にはしなかった。テーブルが片づけられると、ホームズは時計を出してみて、三つのグラスにポート・ワインをなみなみと注《つ》いだ。
「今夜の成功を期して乾杯《かんぱい》しよう。そしてもうそろそろ出かける時刻になった。ワトスン君、きみはピストルを持っているかい?」
「引出しのなかに昔《むかし》つかった軍用のがある」
「じゃそれを持っていったほうがいい。備えあれば安心だからね。やあ、馬車も来ているようだ。六時半と頼《たの》んでおいたからね」
ウエストミンスターの波止場《はとば》へ着いたのは七時ちょっと過ぎだった。汽艇《ランチ》はちゃんと来て待っていた。ホームズは注意ぶかくそれを見ていた。
「この船にはどこかに警察用だという眼《め》じるしがありますか?」
「あります、左舷《さげん》の緑のランプがそれです」
「じゃそれをとりはずしてください」
緑のランプはホームズの注文によってとり除かれ、私たちが乗りこむと、船は岸壁をはなれた。ジョーンズとホームズと私とは船尾に座をしめた。舵手《だしゆ》が一人に機関士が一人、それに船首に坐《ざ》した二人の頑丈《がんじよう》な警察官を加えて、一行の総勢は七人である。
「どっちへやりますか?」ジョーンズがたずねた。
「塔《タワー》へ。――ジャコブスン船渠《ドツク》の向うがわへ着けるようにいってください」
船は快速をもっていた。荷を満載《まんさい》している伝馬船《てんません》のながい列を、まるで先方が止ってでもいるかのように、どんどん追いこしてゆく。川蒸気に追いついてそれを抜くたびに、ホームズは満足そうな微笑《びしよう》をもらした。
「河に浮《うか》んでいるものなら、どんなものでも捕えられるくらいでないと困るんだ」
「どんなものでもとはゆかないにしても、この船に勝てるやつはそうざらにはないです」
「これからオーロラを追っかけるんだけれど、なにしろ相手は快速艇《かいそくてい》の名をとっているやつだからね。ワトスン君、君に現在の状態を話しておこうか? 君は僕がつまらないことで、どんなに苦労したか、覚えているだろう?」
「よく覚えている」
「それで僕は化学の実験に没頭《ぼつとう》して、心をすっかりおちつけたんだよ。あるえらい政治家が、『仕事の転換《てんかん》は最良の休息法なり』といったことがある。まったくそのとおりだ。僕はあのときやっていた炭化水素の分解に成功してから、あらためてショルトー問題へもどって、新しく事件を初めから考えなおしたんだ。
あの子供たちは、河岸《かし》を両がわともたずねまわっても、ついに何も見つけられなかった。してみると汽艇《ランチ》はどこの河岸へも着かず、また家へも帰っていないということになる。そうなるといちばんにうかぶ考えは、跡《あと》をくらますために、沈《しず》めてしまったんじゃないかという考えかただが、これはいかにもありそうなことに見えて、そのじつ僕はありえないことだと思った。スモールというやつがひととおりの悪《わる》知恵《ぢえ》をもっているのはわかっているが、あいつはけっして緻密《ちみつ》な策略などのできる男ではない。高等戦術には、つねに高等教育を必要とするものなんだ。
そこで僕は考えた。こいつはしばらくロンドンにいたやつだから――彼《かれ》がたえずポンディシェリー荘《そう》をうかがっていたという事実がそれを証明する――けっして即座《そくざ》にロンドンから逃《に》げだすわけにはゆくまい。逃亡《とうぼう》までにはきっと多少の日限を、たとえ一日でも準備のため送る必要があるだろう。そう考えるのが、まず妥当《だとう》な考えかただ」
「なんだかすこし変だな。スモールは仕事にかかるまえに、あらゆる必要な準備をととのえておいたと見るほうが、より妥当な考えかたじゃあるまいか?」私は反対してみた。
「いや、僕はそうは考えない。スモールの隠《かく》れ家というのは彼にとって、いつでも利用のできるきわめて有利なものなんだから、いよいよ不用になったことが確実になるまでは、そう容易に見すてるはずがないのだ。
それからさらに、スモールは相棒の妙ちきりんな風貌《ふうぼう》が、どんなに外套《がいとう》なんかで隠していたにしても、いったん人に見られたら評判になって、ノーウッド事件に結びつけられるおそれがあるぐらいは、よく知っているはずだ。仕事に行くときは闇《やみ》にまぎれて行ったし、帰りも夜明けまえにひきあげるつもりだったのだろう。
ところがスミスのおかみのいうのには、彼らが河岸まで戻《もど》りついたのが三時ごろだというが、三時といえばかなり明るくなって、もう一時間もすればそろそろ人が起きだす時刻だ。だから彼らはあんまり遠くへは行っていないと僕は考えたのだ。
スミス父子《おやこ》に口止め料を十分つかませて、汽艇《ランチ》を最後の逃亡に備えて隠させておいて、自分たちの隠れ家へ走ったものと思う。そしてこの二晩そこに潜伏《せんぷく》して新聞の記事に注意し、警察の捜査《そうさ》方針をうかがったが、どうやら自分たちが疑われている様子も見えないところから、今夜あたりは闇にまぎれて忍《しの》び出て、アメリカか植民地へ逃走の目的で、ちゃんとその手筈《てはず》のととのっている汽船に、グレイヴズエンドかダウンズあたりで乗りこむ気なのにちがいない」
「それにしてもオーロラは? まさか隠れ家まで持ちこむわけにゃゆくまい?」
「それはそうさ。だから汽艇《ランチ》は、どこだかまだわからないが、そう遠くないところに隠してあるにちがいないと思うのだ。それで僕はスモール自身の身になって――あいつだけの能力しかないものとして、考えてみたんだ。むろん彼も、汽艇《ランチ》をどこかの河岸へ舫《もや》っておけば、もし足のついた場合早く手がまわるくらいのことは考えたろう。
ではそれをどこへ隠して、しかもいざというときすぐ手もとへ呼びよせるには、どうすればよいか? それにはたった一つの方法しか考えつかない。汽艇《ランチ》をどこかの造船所か修理工場へでもわたして、少しばかり模様がえでも命じておくことだ。これならきわめて確実で、二、三時間もまえに連絡さえすれば、いつでも出航させられるだろう」
「いかにもそいつは簡単だ」
「この簡単なところが、一面からいうと見のがしやすいところなんだ。そこで僕はこの方針のもとにあたってみることにして、この無難な海員の服装で、河すじの造船所を片っぱしから訪ねてまわった。十五カ所むだ足をふんで、十六カ所目の船渠《ドツク》で――ジャコブスンというのだが――オーロラが二日まえから、ちょっとした舵《かじ》の故障で、木の義足をはめた男から修繕《しゆうぜん》を頼まれて入渠《にゆうきよ》しているということを聞きだした。
職長のいうのには、『舵は何ともありゃしねえんだ。あそこに入《へえ》っている赤い筋のはいったのがそれだがね』このときそこへぶらりとやってきたのが誰《だれ》だと思う? 行方《ゆくえ》不明になっているモーディカイ・スミスさ。だいぶお酒をきこしめしていた。むろん僕は初対面だが、向うから牛のような声でスミスだと名のってさ、汽艇《ランチ》の名まで教えてくれたよ。おまけに、『今夜八時に出るんだ。八時きっかりにな。いいかい? ぐずぐずしちゃいられねえ客人が二人あるもんだからね』とまでいった。明らかに、しこたま握《にぎ》らされているんだね。しきりに金を見せびらかして、職工たちに銀貨をつかみ出してくれてやったりしていた。
すこしあとを跟《つ》けてみたけれど、先生酒場へもぐりこんじまったから、とって返して、途中《とちゆう》であった手さきの少年を汽艇《ランチ》の番人にのこして帰ってきたわけだ。汽艇《ランチ》の出るときは少年が水ぎわに立って、ハンカチを振《ふ》る約束《やくそく》になっている。それまでこの艇は付近を流していればいい。ここまできて、やつらを財宝ぐるみ捕えられなかったとしたら、それこそよっぽどどうかしているというものだ」
「それはたいへん巧妙《こうみよう》な計画ですねえ。そいつが真犯人かどうかはべつとしてね」ジョーンズがいった。「しかし私ならこの際は、まっすぐにジャコブスン船渠《ドツク》へ踏《ふ》みこんで、艇に乗りにやってきたところを、一挙に押《おさ》えてしまいますがね」
「そいつはだめです。スモールというやつは、なかなか抜《ぬ》かりのないやつなんだから、まず偵察《ていさつ》をよこしてみて、すこしでも不安があれば、ひとまず逃走は延期しますよ」
「そんならモーディカイ・スミスをうまくだまして、隠れ家へ案内させたらどうだい?」私はいった。
「そんなことをしたら、いつまでたっても埒《らち》があかないよ。スミスが隠れ家を知っていることは、百に一つもないだろうからね。スミスとしては酒が飲めて、金のあるあいだは彼らに用はないのだから、隠れ家なんか聞いておく必要もないし、また彼らとしても、用があればスミスに使いを出しさえすれば、十分用はたりるのだよ。僕はあらゆる方法を考えてみたうえで、結局これが最善の策だということにおちついたのさ」
こんな話をしているうちも、私たちの船はテムズにかかった橋をいくつもくぐりぬけた。そして市の中心をはなれようとするとき、ふりかえってみるとセントポール寺院のいただきの十字架《じゆうじか》のうえに、夕陽《ゆうひ》がまぶしく照りはえているのが見えた。ロンドン塔に着く前にはもうたそがれだった。
「あれがジャコブスン船渠《ドツク》さ」ホームズはサリー州がわの河岸に林立する帆柱《ほばしら》と帆綱《ほづな》をさして、「このはしけの列のかげに、このへんをうろついていよう」とポケットから夜間用《ナイト》双眼鏡《グラス》をとりだして、しばらく河岸を見つめていたが、「僕の番兵の立っているのが見えるが、まだハンカチの合図はない」
「ではすこし下《しも》へさがって、どこかに着けていましょうよ」ジョーンズが熱心にいった。
私たちはみんな興奮し、緊張《きんちよう》していた。いくらか事情を知った巡査《じゆんさ》や船員たちまでがそうであった。
「さあ、そいつはどうですかな?」ホームズが答えた。「あいつが河をくだるのは、九分九|厘《りん》まちがいあるまいが、たしかにそうだと断言はできません。ここなら船渠《ドツク》の入口はよく見えるし、先方からは見られる心配がありません。今夜はよく晴れているから、見とおしはききます。やっぱりここにいたほうがいい。見たまえ、あそこのガス灯に照らされたなかを、大勢ぞろぞろ歩いていますよ」
「船渠《ドツク》の連中が帰るところです」
「きたない形《なり》をしているな。しかもあれで、それぞれ不滅《ふめつ》のなにものかを、身うちに包んでいるのだなあ。ああいう連中を見ただけでは、そんなことは感じないだろう。最初からこうだと決めつけるわけにはゆかないんだ。人間てじつに不思議な謎《なぞ》だねえ」
「人間とは動物にやどった霊魂《れいこん》であるといった人がある」私がいってみた。
「この問題はウィンウッド・リードが穿《うが》ったことをいっている。人間は個々に見れば不可解の謎だけれど、集約的に見るときは、一個の数学的確性をもつというのだ。たとえば、各人が何をするか、誰のことをでもいちいち予言することはできないけれど、平均数が何をするかということになれば、これは確言することができる。個人は多種多様であるけれど、そのパーセンテージはつねに一定である――とこれが統計学者リードの論旨《ろんし》だが、――なんだかハンカチが見えるようじゃないか。ほら、あそこで白いものがひらひらしている」
「見える、見える! はっきり見える!」
「オーロラが出てきた! 悪魔《あくま》のように出てきた! 機関士君!」ホームズはすこしうわずった声で叫《さけ》んだ。「全速《フルスピード》、前進《アヘツド》! あの黄いろいライトを出した汽艇《ランチ》を追っかけるんだ! 畜生《ちくしよう》! とっつかまえないでおくものか!」
オーロラが船渠《ドツク》の出口を出るところは、こっちからは見えなかったので、私たちが艇を認めたときは、もう二、三の小さい伝馬船をぬいて、全速になって河岸ぞいに矢のように流れをくだっていた。ジョーンズはむずかしい顔をして、じっとそれを睨《にら》みつけていたが、悲しそうに首を振って、
「おそろしく速いな。つかまりますかね?」
「つかまえるんです!」ホームズは歯をくいしばった。「石炭をうんと食わせろ、火夫たち! 罐《かま》いっぱいに蒸気をあげろ! 船が焼けてもいいからつかまえるんだ!」
こちらの船はかなり遅《おく》れていた。大きな鉄の心臓のように、汽罐《きかん》はうなり、エンジンはあらしのような音をたてた。するどい舳《へさき》は静かな河水を切って、高いうねりを左右へおくった。エンジンの震動《しんどう》につれて、私たちは全身をつよく揺り動かされた。
船首にかかげた唯一《ゆいいつ》の|黄 灯《イエローランプ》は、ゆくてに大きくゆらめく扇形《おうぎがた》の光をなげている。正面の暗やみの中にぼんやりと見える影《かげ》はオーロラである。船尾《せんび》に白い波を蹴《け》たてて、その速力のなみなみならぬのを示している。私たちは小舟《こぶね》やはしけや伝馬や商船を何ばいも追いぬいた。闇のなかからどなり声をあびせるものもあった。しかもオーロラは依然《いぜん》として暗い中に驀進《ばくしん》を続けている。私たちの船もむろん死力をつくして追跡《ついせき》を続けた。
「石炭をぶちこめ、石炭を!」ホームズは機関室をのぞきこんでどなりつけた。彼の火のような鋭《するど》く緊張した顔に、下からはげしい現実の火気が噴《ふ》きあげた。「罐《かま》が破裂《はれつ》するところまで圧力をあげろ!」
「いくらか接近したようです」ジョーンズはオーロラにじっと眼をつけたままでいった。
「そうだ。もうひと息ですね」私が相槌《あいづち》をうった。
あっ! しかしその時であった。三|艘《そう》の達磨船《だるません》を曳《ひ》いたタグ・ボートが、私たちのあいだへ割りこんできたのである。衝突《しようとつ》をさけるためには、とっさに私たちの船は下舵《さげかじ》いっぱいに引くほかなかった。
やっとタグ・ボートを迂回《うかい》して、進路をもどしてみると、オーロラはたっぷり二百ヤードも逃げのびていた。しかし船影《せんえい》はまだはっきり見えている。そして暗くかすんだようなたそがれはいまや、かえってはっきりと遠見のきく、晴れわたった星月夜になろうとしているのだった。ボイラーは限界まで気圧をあげられ、小さな船はおそろしい勢いで運転を続けているエンジンの振動でぎいぎい鳴った。
|プ《*》ール【訳注 ロンドン橋とカッコーズ・ポイントの間のテムズ河の称】を過ぎ、西インド造船所をあとに、ながいながいデットフォードの河区をくだって、|犬 の 島《アイル・オブ・ドツグス》の出鼻をまわった。おぼろげだったオーロラの船影も、いまはかなりはっきりそれとわかるようになった。そこへジョーンズがサーチライトを向けたので、甲板上の人物までよく見えてきた。船尾に腰《こし》かけた一人の男は、膝《ひざ》のまえに何か黒いものを置いて、それをのぞきこむようにしている。そのそばにはニューファウンドランド種の犬ともみえる黒い影がうずくまっていた。
スミスは伜《せがれ》に舵をまかせておいて、自分はまっ赤に焼けた罐《かま》のまえに立ち、腰からうえまっ裸《ぱだか》で必死に石炭を投入している。初めは私たちの船に追跡されていると気づいてはいなかったにしても、いまこうして彼らの舵の向くほうへ、刻々と迫《せま》ってゆくのを見ては、もう明白にそれと覚《さと》っているのにちがいない。
グリニッジでは、私たちは三百ヤード遅れていた。ブラックウォルまで来るとそれが二百五十ヤードにちぢまった。私はこれまで多くの国々で、さまざまの狩《か》りを試みたが、このときテムズ河上で行なった手に汗《あせ》にぎる人間狩りくらい途方もなく壮快《そうかい》な狩りはなかった。
一ヤード、一ヤードと私たちは敵に向って近づいてゆく。夜の沈黙《しじま》のうちに、もはやオーロラの機関の喘《あえ》ぎさえはっきりと聞くことができた。船尾にうずくまった男は、あいもかわらず忙《いそが》しそうに両手を動かしつづけ、ときどき顔をあげては、私たちとの距離《きより》を目測するらしかった。
距離は刻々と縮小した。ジョーンズは大声をあげて停船を命じた。おそろしい速力をあげて航走する両船の距離は、もうわずか四|艇身《ていしん》にたりなかった。そこは両岸のひらけたところで、左岸はバーキング・レヴェル区、右岸はプラムステッド・マーシェズ区であった。こっちがわっと声をかけたので、船尾にいた男はとびあがって、両のこぶしをつき出しながら、大きな調子はずれの声で、にくたらしくわめきたてた。からだも大きく、力のつよそうな男だが、立ちあがって両脚《りようあし》を踏んばったのを見ると、右脚の腿《もも》から下が木の棒であった。
この男の甲《かん》ばしった怒号《どごう》に、足もとの甲板にうずくまっていた黒いものが、むくむくと起きあがった。起きたのを見ると、それは小柄《こがら》でまっ黒な男である。こんな小さな男は見たことがない。頭だけが不釣合《ふつりあ》いに大きく、頭髪《とうはつ》がもじゃもじゃに縮れている。
ホームズはいつのまにかピストルを手にしていた。私もその獰猛《どうもう》な異形の男を見て、すぐにピストルをとりだした。男は黒い大外套だか毛布だかにくるまって、顔だけしか見せていなかったが、その顔を見ただけで、見るものをぞっとさすほど気味がわるかった。私はあんなに残忍《ざんにん》な、野獣《やじゆう》性をもった人間を見たことがない。小さな眼《め》をぎょろりと気味わるく光らせ、厚い唇《くちびる》をむいて歯を見せ、半ば動物的な激怒《げきど》をうかべて、私たちにいがみかかるのだった。
「あいつがもし手をあげたら、容赦《ようしや》なく射《う》つんだよ」ホームズがおちついた声でいった。
このとき船はわずか一艇身にたりぬまでに迫って、獲物《えもの》はまさに手のうちだった。二人の人物の姿ははっきり見ることができた。ジョナサン・スモールのほうは、両脚を踏みひらいて、悪態をわめきちらし、あさましい小人《こびと》は黄いろい歯をむきだし、恐《おそ》ろしい顔をしていがみつづけるのが、われわれのライトで手にとるようによく見えた。
私たちがこの小人《こびと》の姿をはっきりと見ることができたのは幸運だった。彼は私たちの見ているまえで、着衣の下から定規のような丸い棒をとりだして、口もとへ持っていったのである。それと見て、私たちのピストルは同時に鳴った。と、彼は両腕《りよううで》を前へつきだし、締《し》め殺されるような叫び声とともに、もんどりうって河のなかへ落ちこんだ。水煙《みずけむり》のなかに、威嚇《いかく》的な気味のわるい眼差《まなざ》しがちらりと見えた。
その瞬間《しゆんかん》、義足の男は舵にとびついて、下舵いっぱいに引いた。船はあやうくその船尾にこちらの船首の衝撃《しようげき》をうけそうになりながら、わずかに免《まぬ》がれ、そのままテムズの南岸さしてま一文字に驀進した。
むろん私たちの船も即座に舵をとりなおしたが、そのときすでに敵は河岸近くまで行っていた。そのあたりの河岸は一面に荒涼《こうりよう》たる沼地《ぬまち》で、人気《ひとけ》はなく、よどんだ汚水《おすい》と腐《くさ》れかかった汚物のうえに、こうこうたる月が照りわたっていた。
敵の船がにぶい音をたてて、船尾に飛沫《ひまつ》をあげ、船首を空ざまに、泥洲《でいす》へ乗りあげたと思うと、とっさに義足の男は船をとび降りた。だが降りた拍子《ひようし》に木の義足が、ずぶりと根もとまで泥のなかへはいってしまった。もがきあがいて苦しんだが、あとへも先へも一歩もうごけなくて、やたらにどなりつづけながら彼は、片っぽうの足で狂気《きようき》のように泥を蹴たてた。だがもがけばもがくほど、義足はますます泥ふかくもぐってゆくばかりだった。
私たちが船をそばへよせたとき、彼はすっかり泥のなかに身動きもできなくなっていて、肩《かた》に綱をかけて大きな魚のようにかつぎあげてやらなければならなかった。
スミス父子は渋面《じゆうめん》をつくって、船に茫然《ぼうぜん》とつっ立っていたが、命じるとおとなしくこっちの船へ乗りうつった。オーロラは引きおろして、こっちの船尾にしっかりつなぎとめた。
オーロラの甲板上に、インド製の頑丈《がんじよう》な鉄箱《てつばこ》が据《す》えてあった。疑いもなくショルトーの財宝をおさめた箱である。その鍵《かぎ》は見あたらなかったが、ともかく、かなり重いのを気をつけて私たちの船室《ケビン》へうつした。それから船をまわして河をのぼりながら、あちこちと探照灯でさがしてみたが、島の男の姿はついに見あたらなかった。この珍《めずら》しい男の骨は、永久にテムズ河底のどこかで泥のなかに埋《うも》れていることであろう。
「これを見たまえ。ピストルを放ったのは、まったく間一髪《かんいつぱつ》というところだったよ」
ホームズが昇降口《ハツチ》をさしていった。なるほど、私たちの立っていたすぐそばに、例の恐るべき毒矢が一本、ぐさりとつき刺《さ》さっているのである。ピストルを発射するのとほとんど同時に飛んできたものにちがいない。ホームズはにっこり笑って、例のとおり肩をあげたが、私はその矢を見て、いまさらのように戦慄《せんりつ》を禁じえなかったのである。
第十一章 アグラの大財宝
いまははかなくも囚《とら》われの身となったジョナサン・スモールは、苦心|惨憺《さんたん》、ようやく手にいれたばかりの鉄の箱をまえに、じっと船室《ケビン》内にすわっていた。陽《ひ》に焦《や》けた、眼つきの剽悍《ひようかん》な男で、皺《しわ》だらけのその黒い顔は、労苦の多かった多年の戸外生活をしのばせた。
顎髯《あごひげ》の生えた顎のあたりは、いかにも執念《しゆうねん》ぶかそうな気性をあらわしている。年のころは、黒く縮れた髪《かみ》がかなり白髪《しらが》になっているのを見れば、どうしても五十はすぎているであろう。大きな額ときかぬ気の顎とは、いちど怒《おこ》ればさっき見せたような恐ろしい形相を呈《てい》するが、こうして静かにおちついているところを見れば、さほど不快というほどの男でもなかった。
手錠《てじよう》をはめられた手を膝に、頭を垂れてすわりながら、凶行《きようこう》の原因だったその箱を、鋭《するど》く光る眼で眺《なが》めている。自己をおさえてじっとすわっているその顔には、憤怒《ふんぬ》というよりはむしろどこか哀愁《あいしゆう》にちかいものがうかんでいるように思われた。ちらりと眼をあげて私を見たが、その眼のなかに私はユーモラスな輝《かがや》きさえ認めた。
「おい、ジョナサン・スモール」ホームズは葉巻に火をうつしながら声をかけた。「こんなことになって、まことに残念だったな」
「大きにね」とスモールは気さくに答えた。「こんなことでおれは首を絞められるたア思いませんぜ。神さまに誓《ちか》って申しますが、ショルトーさんはおれが手にかけたんじゃねえんで。トンガの鬼《おに》めが呪《のろ》いの矢を吹きこんだのでさあ。まったくおれの知らねえことなんだ。おれアそれを知ったときは、身うちのものが殺《や》られたくらい悲しかった。だからロープのはじであの鬼めをさんざひっぱたいてやりましたよ。だができたことは、いくらおれがトンガをひっぱたいてみたって、もとのとおりにゃなりませんや」
「葉巻はどうだね?」ホームズがいった。「それにこれは私のフラスコだが、こいつをぐっと一|杯《ぱい》ひっかけたらよかろう。ひどく濡《ぬ》れているようだから、寒いだろう。お前がロープをのぼってゆくあいだに、よもやあの小柄な黒人がショルトーさんをじっとさせていられるとでも思ったのかね?」
「旦那《だんな》はまるで現場を見ていたようによく知ってなさるねえ。じつはあの部屋に誰《だれ》もいないとき、忍《しの》びこむつもりでいたんでさあ。おれアあの家の様子はよく知ってるが、あの時刻にはショルトーさんはいつも夕飯を食べに下へ降りてゆくんでさあ。
隠《かく》さずすっかり申しあげちまいましょう。ほんとのことを申しあげるのが、おれにゃいちばんいい申しひらきになるんだ。相手があのおいぼれ少佐のやつなら、首を絞められるなア覚悟《かくご》のうえで、生命《いのち》をもらわずにゃおきませんよ。やつをナイフで刺し殺すことなんざ、この葉巻をすうぐれえなんでもないことでさ。だがなんの遺恨《いこん》もねえ息子《むすこ》のショルトーさんのことで、四の五のいわれちゃ浮《うか》ばれませんからねえ」
「お前は警視庁のアセルニー・ジョーンズさんの手におちたんだ。そのジョーンズさんがこれから、お前を私の家へ案内してくださるから、そのうえで詳《くわ》しい話を聞かせてもらいたい。包まず話すんだぜ。そうすれば、お前のため悪いようにはしない。あの毒は、お前があの部屋へのぼりきらないうちに、からだじゅうへまわったほど、それほど速くきいたということくらい、私からちゃんと証明してやれる」
「まったくそのとおりだったんですよ、旦那。おれが窓からもぐりこんでみると、あの人はそっくり返っておれを睨みつけていましたっけが、あんな恐ろしい顔って見たことがないね。まったく驚《おどろ》いちまった。トンガの野郎、手もとをすり抜《ぬ》けて逃《に》げさえしなきゃ、半殺しにしてやるんだった。だからあわてて、棍棒《こんぼう》と毒矢を忘れてきたんだって、あとでトンガのやつ文句をいってましたがね。そのおかげで、旦那も早く目星をつけられたってわけさ。もっともどうやっておれというものに眼をつけなすったか、そこんところはさっぱりわからねえがね。といって、そのことで、おれは旦那をちっとも恨《うら》んでなんざいませんが、ただ不思議でならねえのは」とここで急に苦笑をうかべて、「五十万ポンドの財宝の分けまえをとる権利のあるこのおれが、生涯《しようがい》の半分をアンダマンの防波堤工夫で暮《くら》し、これからさきの半分をダートムア監獄《かんごく》の溝掘囚《みぞほりしゆう》でおくるのかと思うと、ちょいと妙《みよう》なもんでがすよ。
おれがふとしたことから商人アクメと知りあって、アグラの大財宝に係わりあうようになったのが、そもそも運の末だったんだ。あれを持ってるものにろくなこたアねえ。アクメは殺されるし、ショルトー少佐はそれを手にいれながら、生涯罪と恐怖《きようふ》にびくびくしとおすし、おれアおれで生涯|天日《てんぴ》も見られねえことになっちまった」
このときアセルニー・ジョーンズがその大きな首と肩を、小さい船室《ケビン》につっこんでいった。
「だいぶお睦《むつ》まじそうですな。私も一杯よんでもらいましょうか。おたがいに、祝杯をあげていいわけですからね。もう一人を生け捕《ど》りにできなかったのは残念だったけれど、でも欲はいいますまい。それにしてもホームズさん、まったく間一髪だったと思いませんか。われわれは汽艇《ランチ》で追っかけるだけが精いっぱいでしたからねえ」
「終わりよければすべてよしというものですよ」とホームズはいった。「しかし私はオーロラがああまで船足が速かろうとは思わなかった」
「スミスはいっていますよ。オーロラはテムズでも珍しいほど速い船だから、もし助手がもう一人いてくれたら、けっしてつかまるんじゃなかったってね。しかしあの男はこの事件には何の関係もないのだといっています」
「スミスの知ったことか!」スモールがはきだすようにいった。「おれはオーロラが速い船だと聞いてあれにしたまでで、やつには何も知らしちゃいねえよ。もっとも船賃はうんと握《にぎ》らせたし、グレイヴズエンドで首尾《しゆび》よくブラジル行きのエスメラルダに乗りこめたら、そのうえたっぷり遣《や》ることになっていたんだ」
「何も悪いことをしていないのなら、お咎《とが》めをうけないですむようにしてやる。おれたちが悪いやつを捕《とら》えるのが敏速《びんそく》だからといって、なにも処刑《しよけい》までが早いというわけじゃないのだ」
尊大ぶるくせのジョーンズが、もう虜囚《りよしゆう》に向っていばりちらかすのは、見ていておもしろかった。シャーロック・ホームズも頬《ほお》に微笑《びしよう》をうかべていたから、同感なのにちがいない。
「まもなくヴォクスホール橋に着けさせますから、ワトスンさんは箱を持ってひとまず上陸なすってください。申すまでもありませんが、こういうことをするのは私として大きな責任があるわけですから、どうかその点をお忘れないように。まったくのところこれははなはだしい違反行為《いはんこうい》なのですが、約束《やくそく》は約束ですからね。そのかわり私も責任上|巡査《じゆんさ》を一人つけさせていただきます。むろん馬車でいらっしゃるでしょう?」
「ええ、馬車でなくちゃ……」
「ところで困ったことには、箱の鍵《かぎ》がありません。鍵があると、一応ここであけて内容を調べてみるのですが……よろしい、箱をこわしておあけください。おい、鍵はどうした?」
「河の底だよ」スモールはぶっきらぼうに答えた。
「ふむ、よけいなことをするやつだ。何だってそう手数ばかりかけさせるんだ? ではワトスンさん、くどいようですが、十分お気をつけくださいよ。おすみになったら、箱ごとベーカー街のほうへお持ち帰りをねがいます。私たちあそこでお待ちしてから、署のほうへひきあげることにします」
私は重い鉄の箱を持って、武骨で陽気な巡査といっしょにヴォクスホールで上陸した。セシル・フォレスター夫人の邸《やしき》までは馬車で十五分ばかりだった。
出てきた召使いは、訪問にしてはあまり時刻がおそいので、怪訝《けげん》な顔をして私たちの顔を見た。夫人は夕がたから出かけて留守、帰りはおそくなるはずだという。でもモースタン嬢《じよう》はちょうど客間にいたので、私は巡査に馬車のなかで待っていてもらって、箱をかついで客間へはいっていった。
彼女《かのじよ》は襟《えり》と腰のあたりに緋《ひ》いろの飾《かざ》りのすこしある白い軽羅《うすもの》をまとって、あけはなった窓のそばにすわっていた。シェードで包まれたランプが、籐《とう》椅子《いす》によりかかった彼女の、やさしく淑《しと》やかな顔に柔《やわ》らかい光をなげ、ふっくらと束《たば》ねた金髪の巻き毛に照りはえていた。片っぽうの白い腕《うで》を椅子の横に力なく垂れた彼女の姿勢は、何がなしに悲しみに閉ざされているのを思わせた。しかし私の足音を耳にすると、パッと身を起し、同時に驚きと喜びとで青じろい頬をぽっと染めた。
「馬車の音がいたしましたから、フォレスター夫人が、たいそうお早くお帰りになったとばかり思っておりましたの。あなただとは、夢《ゆめ》にも存じませんでした。どんなお報《しら》せでございますの?」
「お報せよりも、もっとよいものを持ってきました」私は箱をテーブルのうえにおきながら、心はおもかったけれど、声の調子ははればれと快活にいってのけた。「どんなお報せよりもよいものを持ってきましたよ。これです。このなかにあなたの巨万《きよまん》の果報がはいっているのです」
彼女は鉄の箱をちらりと見ただけで、
「ではあの、これがあの財宝ですの?」とよそごとのように冷やかだった。
「そうです。アグラの大財宝がこれです。これの半分はあなたのもので、あとの半分はサディアス・ショルトーさんのものです。お一人数十万ポンドずつです。考えてもごらんなさい。一年一万ポンドの年金とおなじです。若い婦人で年収一万ポンドという人は、イギリスにもめったにいませんよ。すばらしいじゃありませんか!」
私はそのときよろこびの表現を、誇張《こちよう》しすぎたと思う。彼女としても私の祝詞のなかに空虚《くうきよ》なものを感じたのにちがいあるまい。というのは、このとき彼女が眉《まゆ》をすこしあげ、変な顔をして私をちらりと見たのに気づいたからである。
「もしこれが私のものになるのでしたら、それはみんなあなたのおかげでございますわ」
「どういたしまして。私ではありません。シャーロック・ホームズ君のおかげです。ホームズ君の分析《ぶんせき》の才能をもってしても、手掛《てがか》りをつかむのは容易ではなかったのですから、私などどんなにやきもきしてみても、物の役にはたちませんでした。現にいよいよというどたん場になっても、あやうくとり逃がすところでした」
「どうぞお掛けになって、詳しくお話を伺《うかが》わせてくださいまし」
私はこのまえ彼女を訪ねてきたとき以後のできごとを、簡単に話してきかせた。――ホームズの新しい捜査《そうさ》方法、オーロラの発見、アセルニー・ジョーンズの来訪、テムズ河上の待ちぶせと命がけの追跡。彼女は口をかるく開いたまま、双眼《そうがん》を輝かせて私の冒険《ぼうけん》談に聞きいった。幸いにして的をそれた毒矢が、私たちの足もとに刺さっていたと語ったときなど、彼女はまっ青になって、いまにも気絶するかと気づかわれた。
「いいえ、大丈夫《だいじようぶ》でございます」私が驚いて、急いで水を飲ませようとすると、「もう大丈夫ですの。私のためにあなたがたが、そんな恐ろしい目におあいになったのをうかがって、ほんとにショックでしたの」
「それもしかし、もうすんだことです。もともとたいしたことではなかったのですからね。こんなおそろしい話はよして、もっと愉快《ゆかい》な話をしましょう。これがその財宝です。すばらしいじゃありませんか! 何よりさきにあなたにお目にかけなければと思って、許しを得て持ってきたのですよ」
「私もぜひ拝見しとうございますわ」と彼女はいったが、その調子にはすこしも熱がなかった。私たちが非常な努力で手にいれた財宝だから、よそよそしくしては相すまぬと考えての挨拶《あいさつ》だからなのであろう。
「まあ美しい箱でございますこと!」と彼女は箱に顔を近づけながら、「インドの出来でございましょうね?」
「そうです。ビナレズの金属細工でこしらえたものです」
「たいへん重うございますこと!」とこんどは箱に手をかけてみて、「箱だけでも相当の値うちがございましょうね? 鍵はどこにございますの?」
「鍵はスモールがテムズ河へ投げこんでしまいました。火《ひ》掻棒《かきぼう》をお借りしますよ」
箱の正面に、座仏の像をうちだした大きくて頑丈な掛金がついていた。その下に火掻棒のはじをさしこんで、外がわに抉《こじ》ると、かちりと大きな音がして、掛金がはずれた。震《ふる》える手で私は箱の蓋《ふた》をとった。と同時に、二人は驚愕《きようがく》のあまり、唖然《あぜん》としてしばらくは顔を見あわすばかりだった。箱はすっかりからっぽなのである。
箱の重かったのも道理、それは四|壁《へき》とも厚さ三分の二インチもある鉄板製だったのである。頑丈でしかも精巧《せいこう》に、とくに貴重品をいれて運ぶため作られたものらしかったが、そのなかには宝石はおろか、鉛《なまり》のかけら一つはいってはいなかった。それはまったく文字どおり空虚だったのである。
「財宝はなくなっていますのね」モースタン嬢は騒《さわ》ぎもせずにいった。
この言葉を聞き、その意味をはっきりと意識したとき、私は一つの大きな暗いかげが、魂《たましい》のなかから飛びさってゆくのを感じた。私はその瞬間《しゆんかん》まで、アグラの大財宝がそれ程までも私の心を圧《おさ》えつけているとは気づかなかった。いまになって私は知った。それは私の勝手ずくであった。不実であった。よこしまな心の影《かげ》であった。だが二人のあいだの障壁だったこの財宝は、おかげで空に帰したのだ。
「神さま、ありがとうございます!」私は心の底からこう叫《さけ》んだ。
彼女はちらりと私のほうを見ながら、訝《いぶか》しげな微笑をうかべていった。
「あらなぜでございますの?」
「なぜって、あなたがまた、私がふたたび近づくことができる人に戻《もど》ってきたからです」私は彼女の手をとっていった。彼女はその手を私にまかせていた。「私はあなたを愛しているからです。どんな男にもまさって、私は心からあなたを愛します。この財宝のあるあいだは、それをいい出せませんでしたけれど、財宝がなくなったとわかったいまは、私がどんなにあなたを愛しているか、うちあけてよいことになりました。それだから、神さまありがとうと申したのです」
「では私も神さまにお礼を申しあげましょう」
彼女のささやくのを聞いて、私はぐっと彼女を抱《だ》きよせた。財宝など失うものは失うがよい。私はこの夜、世にもまれなる至宝を手にいれたのである。
第十二章 ジョナサン・スモールの奇怪《きかい》な物語
ずいぶん手間どったのに、じっと馬車のなかで待っていてくれた巡査《じゆんさ》は、よほど辛抱《しんぼう》づよい男だった。箱の空なのを見せると、彼は急に顔をくもらせた。
「賞与《しようよ》がふいになりましたよ。金のあらざるところ、報酬《ほうしゆう》なしです。この箱に財宝さえありゃ、今夜の仕事でサム・ブラウンと私は十ポンドずつにゃなったんですがね」
「サディアス・ショルトーさんはお金持だから、財宝の有無《うむ》にかかわらず、お礼くらい出るでしょう」私がなぐさめても、巡査はどこまでもうかぬ顔で、頭を振《ふ》りながら、
「つまらない! アセルニー・ジョーンズさんだって、きっと同感ですよ」
巡査のこの予言は的中した。なぜというのに、ベーカー街へ帰りついて空の箱を見せると、ジョーンズは唖然としてしばらくは言葉もなかったからである。彼らは予定を変更《へんこう》して、途中《とちゆう》で警察へたちよって一応の報告をすませ、たったいま帰りついたばかりだという。
ホームズは例のとおりものうげに肘掛《ひじかけ》椅子《いす》におさまっているし、その正面には木の義足を丈夫なほうの膝《ひざ》にのせたスモールが、ぽかんとしてすわっていた。私が空の箱を見せると、スモールは椅子のなかで反りかえって、からからと大声で笑った。
「お前のやったことだな?」ジョーンズは怒気《どき》をふくんでどなりつけた。
「そうだとも! お前さんがたの二度と手の届かねえところへ隠しましたのさ」スモールは得意そうだった。「あれはおれの財宝なんだ。おれの手にはいらねえくらいなら、誰にわたすもんですかい! アンダマンの囚人収容所にいる三人の男とおれのほかにゃ、この世であの財宝を手にする権利のあるものは、一人だってありゃしねえんだ。
こうなっちまえば、仲間のものはむろんのこと、おれにだって持ってたって何にもならねえ。おれア自分のためでもあるけれど、三人の仲間にかわって今日が日まで骨を折ってきたんだ。おれたちの仲間じゃ、いつでも四つの署名ってことになってたんですからね。仲間のものだって、おれのしたことに異存はねえはずだ。財宝をショルトーやモースタンの親類|縁者《えんじや》の手にわたすくれえなら、テムズの河底へ放《ほう》りこんだほうがいいっていってくれますよ。アクメを眠《ねむ》らせたな、その連中を金持にしてやりてえためじゃありませんからね。財宝はいまごろ鍵《かぎ》といっしょに沈《しず》んでまさあね、トンガのやつもいっしょにね。おれア旦那の汽艇《ランチ》に追いつかれると思ったから、財宝をすっかり安全なところへ投げこんじまったんだ。だからお気の毒だが、せっかく追っかけてはきなすったけれど、一ルピーにだってなりゃしませんぜ」
「嘘《うそ》をつけ!」ジョーンズが手きびしくやりこめた。「財宝をテムズへ投げこむのだったら、箱ごと投げこんだほうが手っとり早いはずだ!」
「投げこむのに手っとり早いかわり、お前さんがたが拾いあげるにも手っとり早いやね」スモールはじろりと狡猾《こうかつ》な横眼《よこめ》をつかって、「おれを嗅《か》ぎつけて追っかけるくらい利口な旦那《だんな》にゃ、河の底から鉄の大きな箱《はこ》を拾いあげるくらい、造作もねえことだ。今ごろは五マイル以上にもわたって、ちりぢりに流れてるから、こうなっちゃさがそうたってちょっと骨だね。
だが捨てるなあおれも惜《お》しくてたまらなかった。追っかけられてると気のついたときゃ、気が狂《くる》いそうだったが、ま、いまごろ悔《くや》んでみたって始まらねえ。おれも一生のうちにゃ七ころび八起き、いい時もありゃ悪い時もあった。どんなことになろうとも、後悔《こうかい》はしねえことにしていますのさ」
「これは笑いごとじゃないぞ、スモール!」ジョーンズは口惜《くや》しそうにどなりつけた。「こんなばかなまねをしないで、お前が正義の味方をしていれば、裁判のとき酌量《しやくりよう》もしていただけたんだがな」
「正義だって!」スモールは開きなおった。「へん、立派な正義じゃねえか! この財宝がおれたちのものでなかったら、いったい誰《だれ》んだっていうんですかい? とる権利もねえものにくれてやるのが、何で正義なんでえ!
どうしておれがこれを手にいれたか、聞いてもれえてえ。あの熱病の多い沼地《ぬまち》で、二十年があいだというもの、昼はいちんちマングローブの樹《き》の下で働きとおし、夜は夜できたねえ監房《かんぼう》につながれて、蚊《か》にはくわれるマラリアには責めさいなまれる。おまけに復讐《ふくしゆう》ずきな意地の悪い黒人巡査には威張《いば》りちらされる、とても話にもなんねえ艱難辛苦《かんなんしんく》をかさねて、やっとこのアグラの財宝は手にいれたんだ。それをなんの権利もねえあかの他人にわたすのがいやだといったからって、不正義よばわりをするのはやめてもらいてえ! 自分の銭《ぜに》で他人が左うちわの贅沢《ぜいたく》をするのかと思えば、二十回でも首をくくられるか、いっそトンガの矢を一本もらったほうが、いくらましだか知れやしねえ」
スモールはそれまでの自制の面をかなぐり捨てて、すっかりその本性《ほんしよう》をあらわし、蛮声《ばんせい》をあげてがなりたてた。その眼はあやしく輝き、手錠《てじよう》がかちかち鳴るほど手を振りまわした。その憤怒《ふんぬ》と激情《げきじよう》のすさまじさを見て私は、この男に狙《ねら》われていると知ったときのショルトー少佐の恐怖《きようふ》が、けっして無理ではなかったのを知ったのである。
「私たちはそのへんの詳《くわ》しい事情は何も知らないのだよ」ホームズが静かにいった。「お前さんの話を聞いたうえでなければ、どっちが正当だかわかりようがないじゃないか」
「旦那はおれにまともに口をきいてくれましたね。もっともこの手錠をはめられたな、旦那のおかげだってこたアよく承知しちゃいるが。といっておれはなにも旦那に恨《うら》みをいうつもりはねえ。何もかも運なんだ。おれの話が聞きてえとなら、話さねえでもねえ。おれの話には金輪際《こんりんざい》嘘いつわりは一言もねえつもりだ。なに、コップはそばへ置いてくださりゃようがす。咽喉《のど》がかわいたら、自分で口をもってって湿《しめ》しまさあね。
おれはパショアの近くで生れたウスターシャー州っ子でさ。いまでもあそこへ行ってみられれば、スモールの一族が栄えていますがね。おれもこれで、一度は帰ってみたいと思わねえこともねえが、正直のところこれだけの人間で、一家の名誉《めいよ》にゃあんまりならねえし、帰ってみたっていい顔はされまいと、二の足を踏《ふ》んだまでですのさ。みんな質朴《しつぼく》な、教会行きを欠かしたことのない小百姓《こびやくしよう》で、いつもごろごろしているやくざなおれなんかと違《ちが》って、田舎《いなか》じゃちったア名も知られた、ごく堅気《かたぎ》な暮《くら》しをしていますからね。
でもおれは十八の時でした。ある娘《むすめ》のことでごたごたを起し、それをのがれるたった一つの途《みち》として兵隊を志願したところ、ちょうどインドへ派遣《はけん》されることになってた第三連隊へ編入されたんで、もうそれからは家のものに迷惑《めいわく》をかける心配のないことになったわけでさ。
だがおれは兵隊には運がなかった。やっと歩調訓練がすみ、銃《じゆう》の扱《あつか》いを教わるようになったころ、ある日おれはガンジス河で泳ぐというばかをやっちまったんです。それでも運よく、おなじ隊の水泳の達人のジョン・ホールダー軍曹《ぐんそう》が河にいてくれたんで助かりました。
というのは、ちょうど河のまん中へんまで行ったところで、おれは鰐《わに》におそわれて、まるで外科医が切りとったように、右の脚《あし》をちょうど膝の上から食いきられちまったんです。もしあのとき軍曹がそれを見つけて、土手のうえへ助けあげてくれなかったら、もうとっくに出血とショックとで溺《おぼ》れ死んでたにちがいねえんです。おかげで五カ月も病院にいましたよ。そして膝にしばりつけたこの義足で、そこからよろめき出たときにゃ、ほかに使いみちのねえ廃兵《はいへい》になっちまってたわけでさ。
考えてもみておくんなさい。まだ二十《はたち》にもならねえ身そらで、ものの役にたたねえ体になっちまったおれの胸中を。――だがまもなくこの災《わざわ》いが転じてしあわせとなる時がきやしてね。そのころ藍《あい》の栽培《さいばい》を目的にやってきたアベル・ホワイトという人が、苦力《クーリー》の監督《かんとく》をさがしていたが、この人が偶然《ぐうぜん》にも、おれが怪我《けが》してから同情していろいろと面倒《めんどう》をみてくれていたある大佐と、懇意《こんい》だったってわけでさ。
詳しく話すとながくなるが、つまりその大佐がぜひといって、おれをクーリーの監督に推薦《すいせん》してくれたわけでさ。その仕事というのは、おもに栽培地を馬でまわることなんで、右足がないといっても、膝まではあるんだから、馬に乗るにゃこと欠きませんや。馬で栽培地をまわっちゃ、クーリーの働きぶりを見て、怠《なま》けてるやつを報告すればいいんでね。給料はいいし、居心地《いごこち》のいい宿舎はくれるし、まあおれとしちゃ栽藍《さいらん》農園のクーリーの監督に満足して、おだやかな一生をおくるつもりだったね。
アベル・ホワイトさんは親切ないい人で、よく馬をとめてはおれの小さな小舎《こや》へたちよって、いっしょに煙草《たばこ》をやっていったもんでさ。国を遠くはなれた白人同士は、故郷にいたのではけっして味わうことのできない温かさを、たがいの胸のなかにふかく感じあうもんです。
ところが、いつまでもいい目ばかりが続くかと思うと、そうはゆかなかった。とつぜん、まるきり藪《やぶ》から棒に、大暴動がおっ始まったんです。先月まではどこから見てもサリー州やケント州とちっとも変らねえくらいひっそりと、おだやかだったインドに、とつぜん二十万人の原地人が蜂起《ほうき》して、全インドがまるでこの世の地獄《じごく》と化しちまった。むろん旦那がたはよく知ってなさる。おれなんかと違って、書物をお読みなさるんだから、おれなんかよりゃずっとよくご承知でがしょう。おれアこの眼で見たことを知ってるだけさね。
おれのいた栽培地は西北部の州境に近いマトラというとこにあったが、くる夜もくる夜もバンガローの燃える炎の光が天を焦《こ》がし、昼は昼で毎日妻子をつれた白人の小人数の団体がいく組も、いちばん近い屯営地《とんえいち》のあるアグラの市《まち》へと急いで、栽培地の付近を通過していったもんです。
アベル・ホワイトという人は剛腹《ごうふく》だった。ことが大げさに伝わっているんだと思いこんでいて、この騒ぎは燃えあがったときとおなじように、いまにぱったりと熄《やま》ってしまうだろうとたかをくくっていたんだね。だから毎日ヴェランダに腰《こし》をすえて、酒をのみ煙草をふかしながら、四方に燃えあがる火の海を眺《なが》めていたもんだ。もちろんおれとドウソンは、逃《に》げだすわけにもゆきゃしません。ドウソンというのは、事務のほうをやったりホワイトさんの家事をみている夫婦ものでさ。
そのうちに、ある天気のいい日に最後がやってきやした。その日おれは遠くにある栽培場へと出かけていたが、夕がた家路をさして帰ってくると、ふと、ふかい水路の底に妙《みよう》なもののころがっているのが眼についた。なんだろう、よく見てやろうと、馬をそっちへ向けたとたんに、おれは全身に冷水でもあびたようにぞっとしやしたよ。それは一寸きざみにされたうえ、半分は豹《ひよう》と野犬に食いあらされたドウソンの妻の死骸《しがい》じゃありませんか! すこし行くとドウソンもうつ伏《ぶ》せに倒《たお》れていやした。見ると手には弾丸《だんがん》をうちつくしたピストルを握《にぎ》り、近くに四人の土民兵が折りかさなって倒れているんでさ。
おれはぐっと手綱《たづな》を引きしめたが、さて、どっちへ行ったものか、かいもく見当がつかねえ。だがそのときアベル・ホワイトさんのバンガローから濃《こ》い煙《けむり》が舞《ま》いあがって、屋根から火を噴《ふ》いているのが見えたね。何百という黒い悪魔たちが、赤い軍服をつけたままで、燃えあがる家のまわりをわめきながら踊《おど》りくるっている。そのうちの二、三のものが馬上のおれを見つけて、あれあれと指さしたかと思うと、早くも二発の弾丸《だんがん》がおれの頭のうえへヒューンと飛んできた。おれは|稲 田《パデイ・フイールド》を一目散に逃げて、その夜おそくアグラの城内へどうやらたどりつきやした。
だが、そこもあんまり安全といえないことがわかったね。インド全体、どこもかしこもまるで蜂《はち》の巣《す》をつついたような騒ぎで、イギリス人はあちこちで小さく集団をつくり、銃砲《じゆうほう》の力のおよぶ範囲《はんい》の土地だけを、せまく守ってるというだけ、逃げおくれて集団にはいりそこねたものは、どうすることもできない逃走者《とうそうしや》だった。百万人にたいする百人の闘争《とうそう》だね。わけても残忍《ざんにん》なのは私らのいた地方の敵だった。歩兵も騎兵《きへい》も砲兵もみんな、われわれが教育し訓練してやった精鋭《せいえい》で、そいつがわれわれの武器をつかい、われわれの喇叭《らつぱ》を吹きならして向ってくるんだからね。
アグラにはベンガルの第三フュージリア連隊といくらかのシーク兵と、騎兵が二個中隊と砲兵が一個中隊いやした。事務員や商人で義勇軍が組織されたので、おれも義足だったがそれへ加わったんです。
七月のはじめ、おれたちは暴徒と一戦やらかすつもりでシャーグンジへ出動しました。この闘《たたか》いでは一時は敵を撃退《げきたい》したけれど、弾丸がつきて、また城内へ逃げこまなきゃならなかった。
各方面からの情報は、一つとしてよいものはない。といってそれは無理もないところで、地図をひろげて見ればわかるとおり、おれのいたところは暴動の中心だったんだからね。ラックナウは百マイルも東になるし、カウンポアはやっぱりそのくらい南にはなれている。どっちを向いても恐《おそ》ろしい殺人と暴動ばかりだったんでさ。
アグラの市《まち》はいろんな狂信者《きようしんしや》や、悪魔《あくま》崇拝者《すうはいしや》がうようよしている大きなところでね、くねくねと細い市中の街上で、おれたちの仲間が何人となく行方《ゆくえ》しれずになっていった。そこでおれたちの隊長は川をこえて、このアグラの市にある古い要塞《ようさい》のなかへ本拠《ほんきよ》をうつすことにした。
旦那がたのうちにその古い要塞のことを本か話で知ってる人があるかどうか。あれはずいぶん不思議なところだったね。あんなへんてこなところは見たことがないし、だから大いにまごついちまった。まず第一にそこは途方もなく広いところでね、土地だけでも何エーカーという広さがある。そのなかに近年建てました部分があって、そこだけで守備隊も女子供も糧食《りようしよく》も、すっかり入れてもまだ部屋がたくさん余るほどだった。
しかも古いほうの建物はその幾層倍《いくそうばい》もある大きなもので、気味悪がって誰も行き手はなく、なかはサソリとムカデでいっぱいだった。荒《あ》れはてた大広間、出たりはいったり曲りくねった回廊《かいろう》や通路、そういうものが入りくんでいるので、いちどはいったが最後、容易なことじゃ出てこられねえ。だもんだから、時々は物好きな連中が炬火《たいまつ》を用意して探検に行くことはあっても、ほんとになかまではいったものはまずなかったね。
古い要塞のまえはすぐに河の急流で、自然の要害をなしていたが、両がわとうしろにはいくつも入口があるので、おれたちは自分たちのいるところを守る一方で、この方面も警戒《けいかい》しなければならない。しかし人員が少ないので、要塞の隅々《すみずみ》まで人を配置して、それに一人一人銃を持たせるなんかは及《およ》びもつかなかった。そのくらいだから、たくさんある入口の一つ一つに十分の警備員をおくことはできない。そこで要塞の中央に主力隊をおいて、各城門には一名の白人に二、三名の原地人を配して守備することになった。
おれは二人のシーク兵をつれて、要塞の西南に一つだけとびはなれている城門をうけもち、毎晩何時間かを警備することになった。もし警備中に何か異変があって、主力隊の応援《おうえん》を求めるには、発砲して合図しろという命令だ。でもそこは主力隊から二百歩以上もはなれているうえに、そのあいだには迷宮《めいきゆう》のように入りくんだ廊下があるから、いざという場合うまく間にあってくれるかどうか、ずいぶん心細い話でさね。
さて、ほやほやの新兵でしかも片足不自由な身でありながら、この小さな一支隊の指揮を命ぜられたのだから、おれはすっかり得意でした。ふた晩は部下とともに、ともかくも無事に任務をはたしやした。部下は二人とも背のたかい、獰猛《どうもう》な面《つら》がまえのパンジャブ生れの原地人で、一人はマホメット・シン、一人はアブズラ・カーンという名でした。どちらも喧嘩《けんか》ずきのオヤジで、ひところはチリアン・ワラで暴動を起したことさえあるやつだ。二人とも英語はかなりよく話せるのに、おれにはめったに話しかけず、よるじゅう二人だけで聞きなれぬシークの原地語で喋《しやべ》りあってばかり、おれは独りぽっちで城門のそとに突《つ》ったって、大きな急流を見おろしたり、灯火《あかり》の輝《かがや》く市街のほうを眺めたりしていたもんでさ。
太鼓《たいこ》をうちドラをならし、阿片《あへん》と喧噪《けんそう》とに狂いまわり、よるじゅう反抗《はんこう》の喚声《かんせい》をあげるのを聞いていると、向う岸の危険さが思いやられた。夜中の二時間ごとに、当直の士官が全部署の巡視にまわってきやした。
三日目の晩はいやな天気で、びしょびしょと細かい雨がつよく降っていた。その雨のなかを何時間も城門に立っているのは、ずいぶん辛《つら》い仕事でさ。おれは退屈《たいくつ》しては何度もシーク人に話しかけてみたけれど、やつらはいっこう話にのってくれません。午前二時に士官の巡視があってちょっとは気もまぎれたが、あいかわらずシーク人が話相手にならねえので、パイプをとりだして、マッチをするためちょっと銃をそばへ立てかけました。それを見ると二人が、いきなりおれに飛びかかってきた。そして一人がおれのフュージリア銃をとるなりおれの頭へ狙いをつけ、一人が大きなナイフをおれの咽喉《のど》に突きつけて、一歩でも動くと刺《さ》すぞと、食いしばった歯のあいだからおどかすんだ。
その瞬間《しゆんかん》、こいつらは暴徒の仲間で、おれがまず虐殺《ぎやくさつ》の血まつりにあげられるのだなと思ったね。いまインド兵どもにこの城門を奪《うば》われたら、この要塞は暴徒の手に落ちて、女子供たちはカウンポアのときとおなじ運命をたどることになるのにちがいない。してみれば自分の責任はかるくないのだぞと考えて、咽喉にナイフの刃《は》さきのさわるのを感じながらも、最後のひと声が主力隊に届いてくれよとばかり、夢中《むちゆう》で叫《さけ》ぼうとした。
するとおれを押《おさ》えていたやつがそれを知ってか急にひくい声で、『静かに! 要塞は大《だい》丈夫《じようぶ》だ。河のこっちがわにゃ暴徒はいねえよ』と耳のそばでささやきやした。その言葉つきにはまんざら嘘《うそ》とも思えない響《ひび》きがあった。しかもここで声をたてれば、そのまま殺されてしまうのはわかっている。その点やつらの茶いろの眼つきでよくわかった。そこでおれはやつらが何をいうつもりか、とにかく聞いてからのことだと思って、そのまま口をつぐんでいやした。
『まあ話を聞いてくれ、旦那』二人のうちでもからだが大きくて顔のすごいアブズラ・カーンがいった。『仲間になるか、それとも生命《いのち》がいらねえか、二つに一つだ。それも事が事だからぐずぐずしちゃいられねえ。味方になってくれますかい? それとも旦那の死骸を溝《みぞ》ンなかへ叩《たた》きこんどいて、河を渡《わた》って暴徒のなかへ加わっちまおうか、さあ、どっちにするね? 右か左か、道は二つしかないぜ。巡視《じゆんし》の来るまでに片づけてしまわなきゃなんねえだから、はやくきめてもらいてえ。考えるのに三分間だけ待とう』
『きめろたって、何をするんだか、それをいわねえじゃ、きめようがないじゃないか? もっとも聞いたところで、ちょっとでも要塞の安危にかかわるようなことだったら、おれはけっして荷担《かたん》はしねえんだから、このままぐっとナイフをぶちこんでもらおう』
『要塞の安危にかかわることなんかじゃねえ。あっしらの頼《たの》みというのはほかでもねえ。旦那たちはインドへ何しに来てなさるだ? それとおなじことをしてもれえてえというだけのことよ。金持になってもれえてえだ。旦那が今夜仲間になってくださりゃ、抜《ぬ》いたこのナイフの面目にかけても、旦那にたっぷり割り前を出すと約束《やくそく》しよう。財宝の四分の一は、きっぱり旦那のものだ』
『ふむ、財宝たあいったい何だね? 話によっちゃ、おたがい金持になるのは悪かねえからな』
『じゃ旦那は、お父つぁんの骨とお母《つか》さんの名誉とキリストの十字架《じゆうじか》にかけて、今夜のこたあけっして口外しないと誓《ちか》うだかね?』
『誓うよ、ただこの要塞を危うくするようなことにさえならなければな』
『ならいまから旦那を仲間にいれて、財宝のきっぱり四分の一を分けるとしよう』
『三人しかいないじゃないか?』
『ドスト・アクバルがいるだ。みんなの来るまでに、わけを話しとこう。おい、マホメット・シン、その城門で番をしていて、みんなが来たら知らせてくれ。旦那、ヨーロッパの人はよく約束を守るで、信用ができると思うだからあっしはこれをいうだ。万一旦那が嘘つきのインド人だったら、けっしてこんな話はしねえで、このナイフで始末して河のなかへ放《ほう》りこんどいてから、ゆっくり仕事にかかるだ。だがシーク人はイギリス人をよく知ってる。イギリス人もシーク人をよく知ってる。まああっしのいうことをよく聞いてもらいてえ。
北のほうのある地方に、領地はせまいがたいへん金持の王族《ラジヤ》がいる。先代がしこたま遺《のこ》したところへ、当主ももって生れた性分《しようぶん》から、ためる一方で、ますます財産は大きくなるばかり、こんどの騒動《そうどう》が起ると、やっこさん虎《とら》にも獅子《しし》にも――反徒がわにも植民会社がわにもよく思われたいと、ずるい考えを起したもんだ。
ところが初めのうちは、全土で白人が殺されたり、負けたとか白人がわの旗いろがわるいので、こりゃてっきり遠からず白人の天下は終りかと思いこんだものだ。それでもまだ用心ぶかい王族《ラジヤ》は、どっちの天下になるにしても、半分だけは財産が手にのこるという方法を考えだした。それは全財産のうち金銀だけをその邸宅《ていたく》にある地下室に隠《かく》し、宝石類は鉄の箱《はこ》におさめて、商人《あきんど》に身をやつした腹心に持たせ、そっとこのアグラの古い要塞のなかへ運びこんで、騒《さわ》ぎの鎮《しず》まるまで隠しとこうというわけだ。もし土民兵がわが勝てば金銀がのこるし、会社がわの天下になれば宝石類がのころうという、ふた途《みち》かけた計略だ。
こうして財産の始末をつけると、王族《ラジヤ》は近くの土民兵の優勢なのを見て、急にそのほうへ投じてしまった。ここが大切なところだよ。旦那。王族《ラジヤ》は立派な裏ぎりものだ。だからその財産はもうけっして王族《ラジヤ》のものじゃなくなっただ。
ところでその商人《あきんど》に化けた男というのは、名前をアクメといって、いまこのアグラの市中へやってきて、どうかしてこの要塞へはいりこもうと苦心しているだ。アクメはあっしとは乳兄弟《ちきようだい》のドスト・アクバルという男に事情をうちあけて、これを道づれにしているだが、そのアクバルが今夜要塞の裏からこの城門へアクメを案内してくることになっている。
いまに来るだろうが、来たらマホメット・シンとあっしとで二人を迎《むか》える。場所は要塞のなかでも荒れはてたこんなところだし、二人のことに気のつくものは一人だってありゃしねえ。そこでアクメをうまく片づけて、その財宝をこっちのものにして、みんなで分けようという寸法なのさ。どうだね、旦那、話というのはこうだが、味方になってくれるかね』
おれの生れ故郷ウスターシャー州では、人間の生命はこのうえもなく尊く聖《きよ》いものとされている。だが矢弾《やだま》のとぶ戦場では、話はまたべつのものだ。まごまごしているとこっちの生命があぶない。商人《あきんど》アクメが一人くらい死のうが生きようが、おれにとっちゃ空気よりもかるい問題でさ。
だが財宝の話になると、おれも胸がおどってきたね。もうそれが手にはいったようなつもりで、そいつを持って内地へ帰って何をしようかと、そんなことまで考えたもんでさ。昔《むかし》のやくざ者がポケットに金貨をじゃらつかせながら帰っていったら、村の人たちはどんな顔をすることだろう? 考えただけでもぞくぞくしまさあね。おれはすっかり肚《はら》をきめた。するとアブズラ・カーンはおれが尻《しり》ごみしていると見たか、もう一歩おして口説《くど》きにかかった。
『考えてもみなせえ、旦那、アクメは士官につかまったが最後、首を絞《し》められるか銃殺《じゆうさつ》されるにきまってる。そうなりゃ財宝は政庁《おかみ》へ没収《ぼつしゆう》されて、あっしらの手には一ルピーだってはいりっこない。やつをあっしらの手で捕《とら》えるからにゃ、政庁《おかみ》なみのことをしたって悪いはずはなかろう。会社の金庫へおさめるのも、あっしらがふところへ入れるのもおなじことだ。財宝は四人で分けてもたっぷりある。
それにここはほかとかけはなれているだから、あっしらが何をしようと誰《だれ》にもわかりっこねえ。こんなうまい仕事がまたとあるもんかね、旦那。どうするだね? 仲間に加わるか、それともあっしらは旦那を敵と思わんきゃなんねえのかね?』
『よし仲間になってやろう』
『そいつはありがたいだ』と彼《かれ》はおれに銃をかえしてくれながら、『あっしら旦那を信用するだ、どこまでもね。こうなりゃドスト・アクバルがアクメをつれてくるのを待つばかりだ』
『アクバルもこのことは――アクメを殺《や》ることは承知なんだな?』
『この計略を考えついたのがあの男さね。それじゃ城門へ行って、マホメット・シンといっしょに見張りにつくとしよう』
雨はまだしとしとと降っていた。ちょうど雨期のはじまりなので、空には黒い密雲が重く垂れこめて、百ヤードさきはもう見えないくらいだった。まえには深い壕《ごう》があるが、水が涸《か》れきっているので、それを渡るのはなんでもねえ。二人の獰猛《どうもう》なインド人とともに闇《やみ》のなかに立って、われから死にに来る男を待つ気持は、なんともいえず妙なもんでしたぜ。
ふと壕の向うがわに、カバーをつけたランタンからもれる光がちらりと見えだした。土手の小だかい陰《かげ》にいちど隠れたかと思うと、また現われて、静かに近づいてくる。
『来たぞ!』おれは張りつめた声でいった。
『旦那は規則どおり、やつを尋問《じんもん》しておくんなさい。こわがらせないでおくんなさいよ。おれたちをやつといっしょに中へ入れてくれれば旦那がここで見張っているあいだに、あっしらがうまく始末をつけるだ。ランタンのカバーをはずす用意をしておくんなさいよ、本人だかどうだか確かめるだからね』
灯火《あかり》は止ったり動いたりしながら、しだいに近づいて、ついに壕の向う土手に二つの黒い姿が見えるようになった。やつらが土手を降りて、水たまりをぴちゃぴちゃ渡り、こちらがわの土手を半分ばかり登ってくるのを見はからって、いきなり、
『誰だッ?』とおれは尋問した。
『味方です』と向うは答えた。
おれはランタンのカバーをのけて、光を二人のうえにあびせかけました。見ると先頭に立ったのはおそろしく大きなシーク人で、黒い顎髯《あごひげ》が腰帯《カマーバンド》のあたりまで垂れていた。まったくあんな大きい男は見たことがねえ。
うしろにつづくのは小柄《こがら》な、まるまると肥《ふと》った男で、大きな黄いろいターバンを巻き、肩掛《かたかけ》にくるんだ荷物を手にしていた。よほど恐ろしいとみえ、手は瘧《おこり》のように痙攣《けいれん》し、穴から出ようとする二十《はつ》日鼠《かねずみ》のように眼《め》を光らせてきょろきょろあたりを見まわしている。この男を殺すのかと思うと、おれはひやりとした。しかし財宝のことを考えたら、心は鬼になってくれまさ。やつはおれが白人だと知って、うれしそうな低い声をあげ、そばへ走りよってきた。
『お助けください、旦那、あわれな商人《あきんど》アクメをお助けください。アグラの要塞に匿《かく》まっていただこうと思って、ラジプターナの向うからはるばるまいったものでございます。私は会社派なものですから、金も品物も取りあげられたうえに、さんざなぐられたり、ひどい目にあいました。でもありがたい。今夜からはまた枕《まくら》を高くして寝《ね》られます。たったこれっきりになった荷物を抱《だ》いて、安心して寝られます』
『その荷物はなんだ?』
『鉄の箱でございます。これは人さまにはつまらなくても、私めにはたいへん大切な品がはいっております。でも私は乞食《こじき》じゃござりませんので……お助けくだされば旦那にはお礼をさしあげます。それに隊長さまにもな』
おれはその男とそれ以上話をしている自信がなかった。その男の丸い顔の恐怖《きようふ》にみちたところを見ていればいるほど、残酷《ざんこく》なことはとてもできそうもなく思われたからで、すこしでも早くすましてしまうに限ると思った。
『この男を本隊へつれてゆけ』と命じると、二人のシーク人はぴたりとその男の両がわにつき添《そ》い、うしろには例の大男がくっついて、城門をはいっていった。三方をこれだけひしひしと、死の手にとり囲まれた男があるだろうか。おれはランタンを手に、ひとり城門のそとに立っていた。やつらの足音は人気《ひとけ》のない廊下を遠ざかっていった。ふいにその足音がやんだと思うと、騒がしい人声がして、殴《なぐ》りあいの物音が聞えてきた。そしてそのつぎの瞬間に、はげしい息づかいと、脱兎《だつと》のようにこっちへ駆《か》けてくる足音が聞えるので、おれは竦《すく》みあがらんばかりに驚《おどろ》いた。まっすぐに向うへ走っている廊下にランタンの光を向けてみると、あの肥った男が顔を血だらけにして飛んでくるすぐあとから、髯の黒い大きなシーク人が片手にナイフを閃《ひら》めかして、虎のようにおどりかかってくる。
おれはこのときの肥った男ほど速く人の走るのを見たこたあないね。やつはみるみるシーク人を引きはなすんでさ。もしそのままの調子でおれのまえを通りすぎて、要塞のそとへ出ちまえば、もう永遠につかまることはねえでしょう。おれは彼のため心中ひそかに喜びやした。しかしそのとき、財宝のことがふと胸にうかんだんで、おれの気は変った。おれはやつがそばを過ぎさる瞬間、いきなりフュージリア銃をやつの股《また》のあいだへつっこみました。するとやつは弾丸《だんがん》にあたった兎《うさぎ》のように、二度もんどりうってころがった。起きあがろうとするところへ、追いついてきた大きなシーク人がおどりかかって、脇腹《わきばら》ふかくナイフを二度も打ちこんだ。
肥った男は一言も口をきかず、うめき声さえたてないで、その場にこと切れてしまったんでさ。おれはいまでも、あの男は倒《たお》れる拍子《ひようし》に首の骨を折ったのにちがいないと思ってまさあ。――ところで旦那がた、おれがちゃんと約束を守っているのはおわかりでしょうな? よかれ悪《あ》しかれおれはすっかりありのままを、正直に申しあげているんですぜ」
スモールはここで話をきって、ホームズの注《つ》いでやった水わりウイスキーのコップに、手錠《てじよう》のままの手を窮屈《きゆうくつ》にのべた。私は話を聞いて、彼の残忍《ざんにん》な行為《こうい》も行為だが、そればかりでなく、彼がぺらぺらと平気な態度で話すのに、異常な恐怖をおぼえた。こんな男にはどのような刑罰《けいばつ》が加えられようとも、私としてはすこしも同情の念なぞ起らないのである。
シャーロック・ホームズもジョーンズも、膝《ひざ》に手をおいていとも熱心に聞きいっていたが、その顔にはおなじように嫌悪《けんお》のいろが読みとれた。スモールはそれに気がついてか、言葉つきにも態度にも多少反抗的なところをみせて、話しつづけた。
「みんな悪いことだったなア、いうまでもありませんや。だがのどを切られるかどうかのあの場合、おれでなくたってその分け前のほしくないなんていうやつが、はたしてあるだろうか、承《うけたまわ》りてえもんでさ、それにいったんやつを要塞《ようさい》へ入れたからにゃ、殺しちまっとかねえことにゃ、わかったらこっちの命がなくなりまさあね。もしやつに逃《に》げられでもした日にゃ、仕事がばれておれは軍法会議へまわされて、まず銃殺はまちがいねえ。なぜといって、そうした暴動さわぎのなかじゃ、ちょっとのことも許しちゃおきやせんからね」
「話の続きのほうが聞きたいもんだね」ホームズが無愛想にうながした。
「そこで、アブズラとアクバルとおれの三人で、アクメの死骸《しがい》をなかへ運びこんだんでさ。背のひくいくせに、ばかに重うがしたよ。マホメット・シンだけはあとに残って、城門の番をしていやした。おれたちはやつらがかねて用意していた場所へ死骸を運んでゆきやした。そこは曲りくねった廊下《ろうか》づたいに、ちょっとかけ離《はな》れた大広間まで、まわりの煉瓦壁《れんがかべ》はさんざんにくずれていやした。そして床《ゆか》の一部が落ちこんで、自然の墓穴ができているんでさ。おれたちはアクメをその穴におろして、煉瓦の山で埋《う》めちまいました。そうしておいてから、財宝のあるところへ引きかえしやした。
宝の箱は、アクメが最後の一撃《いちげき》をうけた場所にころがっていました。その箱が、いま旦那がたのまえにあるこれでさあね。鍵《かぎ》は箱の蓋《ふた》のうえの、彫《ほ》りのある把手《とつて》に絹の紐《ひも》で結びつけてあった。その鍵で箱をあけてみると、少年のころ故郷のパショアで物語で読み、空想に描《えが》いていたような、すばらしい宝石がランタンの光をうけて、きらきらと眩《まぶ》しく輝《かがや》いた。その眩しさにいくらか慣れてから、おれたちはそいつをそっくり出して、一覧表をこさえました。
色といい光沢《こうたく》といい、一等品のダイヤが百四十三あって、そのなかには大きさからいって世界第二といわれている、たしか『モーガル大帝』という名までもったのもあった。それから美しいエメラルドが九十七個、ルビーが百七十個、なかには小さいのもあった。ガーネットが四十個、サファイアが二百十個、瑪瑙《めのう》が六十一個、そのほか緑柱石、オニキス、猫目石《ねこめいし》、トルコ玉など、いまでこそ覚えたが、そのころは名も知らねえ宝石がどっさり、いちいちは数えきれねえほどはいっていた。そのうえなお、ざっと三百にちかいみごとな真珠《しんじゆ》もあって、そのうちの十二個は黄金の宝冠《ほうかん》に鏤《ちりば》めてあったんだが、こんどこの箱をとりもどしてみると、この十二個だけはなくなっていましたよ。
宝石の調べがすっかりすむと、また箱におさめて、マホメット・シンに見せに、城門のところまで持って出た。そして一同立ちあいのうえで、この秘密はけっして漏《も》らすまいと、改めて厳粛《げんしゆく》に誓約《せいやく》し、財宝はそのままに、この騒動の鎮《しず》まるまでどこか安全な場所へ隠しておいて、世の中がおさまってから、そっと取りだして分配しようと相談がまとまった。その場で分配して、そんな高価なものがおれたちの手にあることが万一知れでもすると、どんな疑いを招かねえものでもねえし、また実際問題としても、要塞内にもどこにも、それだけの宝石を四人がめいめいに隠しておける場所は見あたらなかったからね。
そこでおれたちはまたもやその箱を、アクメの死骸を埋めた広間へ運んで、なるべくくずれていない壁を選んで煉瓦をぬいて穴をつくり、そのなかへ隠した。そしてその位置を詳《くわ》しく控《ひか》えて、つぎの日おれが四枚の平面図をこさえ、その下にめいめい署名して一枚ずつ分けた。これはいつでも四人共同してやる仕事で、だれも抜けがけなどしない誓いのためでさ。おれはいま胸に手をおいて考えてみて、きょうが日までこの約束を破ったおぼえはけっしてないと、誰はばかることなく公言することができまさあね。
さて、あのときのインドの大暴動がどうなったか、いまさら旦那がたのまえで話すまでもねえでしょう。ウィルスン将軍がデリーを占領《せんりよう》し、コーリン卿《きよう》がラックナウの救援《きゆうえん》に向うようになって、暴徒は背後がくずれてしまった。それに新しい援軍はどんどん来るし、反徒の大将ナナ大人《たいじん》は命からがら国境外に亡命する有様、アグラにはグレートヘッド大佐の率いる遊撃隊が到着《とうちやく》して、暴徒を一掃《いつそう》してしまったので、平和はやがて来復するものと思われた。それでおれたちも、例の戦利品を分配してひそかにこの地を立ちさる日も遠くはあるまいと、大いに喜んでいたんだが、いよいよというときになってその喜びは夢《ゆめ》と消えちまいました。アクメ殺しが発覚して、おれたちはそろって逮捕《たいほ》されちまったんでさ。
それはこういうわけですよ。アクメを選んで王族《ラジヤ》が財宝を託《たく》したのは、アクメが十分信用できる人物と見たからなんだが、東洋人は一般《いつぱん》に猜疑心《さいぎしん》がふかいものでね。この人物ならばと選《え》りに選ってアクメに財宝を託しておきながら、王族《ラジヤ》がべつに第二の腹心の家来を選んで、アクメの見張り人としたことも、けっして不思議じゃあないんでね。第二の男はけっしてアクメから眼を離してはならねえと命ぜられたので、影《かげ》のようにどこまでもその後をつけて、ついにアグラの市《まち》までやってきた。そしてあの晩も、アクメが要塞の門をはいるところまで見届けたんでさ。
むろんアクメは要塞のなかへ、安全な避難所《ひなんじよ》を求めて逃げこんだものと思ったので、翌日彼は許可を願い出て、許されて要塞へはいった。ところがアクメの姿がどこにも見あたらない。不思議でならないので、偵察隊《ていさつたい》の軍曹《ぐんそう》にその由《よし》を申しでた。軍曹は司令官に報告をした。即座《そくざ》に大捜査《だいそうさ》が行われた結果、死体が発見された。そこで、もう大丈夫《だいじようぶ》と喜び勇んでいたおれたち四人はたちまち捕えられ、そのうち三人はあの晩城門の警戒《けいかい》にあたっていたという理由で、アクバルだけはアクメと行動をともにしていた男だというので、殺人容疑者として裁判されることになっちまった。
王族《ラジヤ》は廃位《はいい》となって、国外に追放されたし、宝石のことはすこしも問題にならなかった。その存在すら知っているものは、四人以外にはまったくないことになったんです。しかしアクメを殺したことだけは立派な事実だし、おれたち一同のやったことにちがいないというので、三人のシーク人は終身|懲役《ちようえき》に、おれは死刑《しけい》の宣告をうけたが、のちに減刑されてほかのものなみの終身刑になりやした。
それからのおれたちは、まったく妙《みよう》なことになっちまいました。四人はたがいに足をつなぎあわされて、どんなことがあってもふたたび娑婆《しやば》の光を見る望みはありゃあしねえ。娑婆へ出られさえすれば、王さまのような勝手気ままな暮《くら》しができるのに、みんなはその秘密を胸にたたんでいる。そとでは莫大《ばくだい》な財宝が、掘《ほ》りだしにきてくれるのを待っているというのに、横柄《おうへい》な役人どもに打ったり蹴《け》ったりされたうえ、食べるものといったら臭《くさ》い米とただの水ばかりで辛抱《しんぼう》しなきゃならないというのは、腸《はらわた》をかきむしられるほど情けなかったね。おれは気も狂《くる》いそうになった。しかし元来が強情《ごうじよう》ではひけはとらないほうだから、じっとこらえて、時節のくるのを辛抱づよく待っていた。
ついにその時がきた。おれはアグラからマドラスへ移され、そこからさらにアンダマン諸島のなかのブレア島へ送られた。この植民地は白人の囚人《しゆうじん》はごく少ないうえに、おれは最初から操行をつつしんだおかげで、特典をあたえられることになった。ハリエット山の中腹にあるホープ・タウンという小さな村に、小舎《こや》を一つあてがわれて、そこでかなり自由な月日を送ることになったんでさあ。
島はわびしい、熱病の多いところで、広くもない開拓地《かいたくち》のそとには、おりさえあれば毒矢を打ちこもうと狙《ねら》っている食人族がのさばっていた。仕事は壕《ごう》を掘ったり溝《みぞ》をつくったり、薯《いも》を植えたり、そのほかいろいろあるが、終日|忙《いそが》しいなかにも、夜になるとすこしは自分の時間もあった。
その忙しいなかで、おれは軍医から薬の調剤法を教わり、医学のこともいくらかかじりやした。そうしているうちにも、油断なく逃亡《とうぼう》の機会は狙っていたんでさあ。その島からほかの島へ渡《わた》るといっても、近いので何百マイルもあるし、あのへん一帯の海は、まるきりないといってもよいほど風の少ないところなので、逃亡は及《およ》びもつかぬほど困難だった。
サマトン博士――というのが、いま話した軍医だが、しっかりした運動ずきの若い人だったね。若い士官たちは夜になるとよくその人の部屋へ集まって、カードをして遊んでいた。おれがよく調剤をした手術室は、サマトンさんの居間のとなりになっていて、あいだに小窓が一つあった。退屈《たいくつ》になるとおれは、ランプを消して手術室を暗くしてその窓のそばに立ち、士官たちの話を聞いたり、勝負を見物したりしたもんでさ。
おれはカードをやるのは好きだが、人のやるのを見ているのも、なかなかおもしろいもんでね。勝負するのはショルトー少佐、モースタン大尉《たいい》、ブロムリ・ブラウン中尉などという、土民兵の隊長たちや、その軍医のほかには二、三の獄吏《ごくり》もまじっていた。獄吏はずるい老練家で、いつも安全な手ばかり打っていた。この連中は寄れば仲よく話したり勝負したり、なかなか気のあった愉快《ゆかい》な集まりだったね。
そのうちおれはあることに気がついた。それは軍人がわがいつも負けて、文官がわが勝ちつづけているんだ。といって、なにも不正があったとか何とかいうんじゃなく、ただ結果がそうだったんでさあ。いったい三人の獄吏たちはアンダマンへ来てからというもの、カードのほかにはほとんどすることがないので、相手の癖《くせ》をすっかりのみこんでしまったのに反して、軍人がわはただ時間つぶしのつもりで、多少いい加減にやっていたからでさ。
毎晩軍人がわは取られつづけたが、取られるものはますます勝負に熱中するものでね。なかでもショルトー少佐はいちばん手いたくやられたほうで、はじめのうちは金貨や札《さつ》で払《はら》っていたが、まもなくそれが約束手形《やくそくてがた》にかわって、その額もしだいに大きくなってゆくばかりでした。どうかすると二、三回つづけざまに勝つことがあって、ほっとひと息ついたかと思うと、たちまち運に逃げられて、まえよりいっそう手ひどく負けこむんだ。そして少佐は朝から晩まで雷《かみなり》のようにどなりちらし、やけ酒ばかり飲みすごすようになっちまいました。
ある晩、少佐は今までにないほど手ひどく負けた。おれが小舎にいると、モースタン大尉とつれだって、よろめきながら宿舎へ帰ってゆく少佐が通りかかった。この二人はたいそう親しい仲で、ほとんどはなれたことがないくらいだった。少佐はとられた金のことを、しきりにこぼしていた。
『万事休《ばんじきゆう》すだ。モースタン君、僕《ぼく》は退役《たいえき》願いを出さなきゃならないだろうよ。もう破産だ』
『ばかなッ!』と大尉は相手の肩を叩《たた》きながら、
『僕だってだいぶひどくやられたんだよ。しかし僕は……』
そのさきは聞えなかったが、おれにはそれだけで十分だった。それから二日のちに、ショルトー少佐が一人で海岸を散歩している時をうまく狙って、おれは話しかけた。
『少々ご相談ねがいてえことがありますんで』
『おう、スモールか、なんだね?』シェルート葉巻を手に持ちなおしながら、少佐はききかえした。
『隠《かく》してある財宝を掘りだしたら、その財宝はいったい誰《だれ》のものになるんだか、そいつが伺《うかが》いてえんで。あっしは五十万ポンドの財宝が埋めてある場所を知ってるんですが、自分じゃどうすることもできねえ。だからあっしは考えたんで。この財宝は誰か偉《えら》い人の手にわたすにかぎる。そうすればその人が、あっしの刑期を短くしてくださるにちげえねえとね』
『なに、五十万ポンドだって?』と少佐は眼《め》を丸くして、おれが正気でいっているかを疑うように、じっと顔を見かえした。
『そのとおりなんで。宝石と真珠で五十万ポンドは嘘《うそ》じゃねえんで。誰でも掘りだせるところにありやす。ところが妙なことに、その持主というのが、法律上公民権を失っているんだから、所有権を主張することができねえ。早いもの勝ち、誰でも掘りだしたものの物になるんです』
『政府のものだよ、スモール。そりゃ政府のものだ』少佐はいいましたが、ためらいがちなその口ぶりから、これは物になると見ぬきやしたね。
『じゃ少佐どのは、総督《そうとく》閣下に申しでるべきだというご意見なんで?』おれは静かにいいやした。
『まあまあ、あわてちゃいけない。せいては事を仕損じるというものだ。いったいどういう事情なのか、ここで詳しく話してみろ』
おれは場所をさとられぬように、すこしばかり手心を加えて、詳しく事情を話した。すると少佐は、おれの話がすんでもそこへつっ立ったまま、黙《だま》って何か考えていたが、唇《くちびる》をピクピクさせている具合から、少佐が内心はげしく動揺《どうよう》しているのがわかりやしたね。
『これは容易ならぬことだぞ、スモール。このことは誰にも口外してはならん。すぐ何らかの返事をするから、それまで黙って待っていろ』ついに少佐はこういった。
それから二日目の深夜に、少佐はモースタン大尉をつれ、ランタンを持っておれの小舎に忍《しの》んできやした。
『スモール、あの話をお前の口からもう一度、モースタン大尉に話してやってくれ』
いわれるがままに、おれはおなじ話を大尉のまえでくりかえした。
『どうだ、事実らしいだろう? ひと骨折ってみる価値はあるじゃないか?』
モースタン大尉はうなずいた。すると少佐は言葉をあらためて、
『よく聞け、スモール。おれはこのモースタン大尉と二人で、いろいろと話しあってみたのだが、お前の秘密はけっして政府の知ったことじゃないという結論に達したのだ。これはお前個人の秘密なのだ。だからお前の意志のままに自由に処置してよいということになる。そこでお前にたずねるが、お前はいくらでそれを譲《ゆず》ってくれるかね? おれたちはそれを掘りだしたい。お前との折合いさえつけば、すくなくとも調べるだけは調べてみたいと思っているのだがね』
少佐はおちついて、何げない調子で話そうとするのだが、その眼は興奮と欲とで燃えたっていやしたよ。
『その話でしたら』とこっちも表面はおちついて答えたが、胸のなかは少佐に負けぬくらいわくわくしてきやしたね。『こういう境遇《きようぐう》にあるものにとって、お話の仕方はたった一つしかありゃしません。というのは、あっしの身が自由になれるように、どうぞお力ぞえが願いたいんで。そしてついでにほかの三人のものもね。四人が自由の身になれたら、改めてあなたがたを仲間に加え、財宝の五分の一をお二人にさしあげることにいたしやしょう』
『ふむ、二人で五分の一か! あんまりぞっとしないな』
『お一人分が五万ポンドずつになりやすよ』
『だがどうしたら、お前たちを自由の身にしてやれると思う? お前はできないと知りつつ、ないものねだりしているのだぞ』
『そんなこたあありませんよ。あっしはさきのさきまで、すっかり考えぬいてあるんでさ。あっしらにこの島を逃げだせないってのは、この海を乗りきるだけの船のないことと、そのあいだの食糧《しよくりよう》の手にはいらないことでさ。カルカッタかマドラスへ行けば、快走船《ヨツト》でも小帆船《ヨール》でも、いくらも手にはいりまさあね。そいつを一つ持ってきてくださりゃ、夜のうちにそっと乗りこんで、そのまま出帆《しゆつぱん》して、どこでもいいからインドの海岸でおろしてくださりゃいいんです。それであっしのほうの願いは叶《かな》えてもらったことになりまさ』
『一人くらいだとなあ』
『四人そろってでないくらいなら、よしやしょう。あっしらは誓《ちか》いをたてて、四人はいつでも行動をともにすることになってるんでさ』
『どうだろう、モースタン君。スモールは約束を守る男だ。仲間を売るのはいやだという。この男を信じていいと思うが、どうだろう?』
『不正な仕事だね』一方が答えた。『しかし、君もいうとおり、それだけの金があれば、われわれは将校の地位を失わずにすむからねえ』
『ではな、スモール。お前の希望のとおるように、なんとか骨を折ってみよう。だがそのまえに、お前の話がほんとうだかどうか、調べてみなければならん。箱《はこ》の隠してある場所を、おれに教えてくれ。おれは休暇《きゆうか》をとって、定期船でインドへ渡って、詳しく調査してくることにする』
『そう急がねえでくだせえ』と、向うが熱心になればなるだけ、あべこべにこっちはおちついて、『一応三人の仲間に話してみまさ。あっしらは四人がそろって同意しなきゃ、なんにもしねえことになっているんですからね』
『ばかなッ!』少佐はどなりました。『黒い奴らが同意するもしないもあるもんか!』
『黒いか青いか知らねえが、仲間にゃちげえねえんですよ』
話はそのつぎに会ったとき、とにかくきまった。そのときはマホメット・シンもアブズラ・カーンもドスト・アクバルもみんな顔をだして、改めて相談しあったすえに、とにかく一つのとりきめができたんです。まずおれたちがアグラ要塞《ようさい》の略図に財宝の隠してある場所のしるしをつけてわたすと、ショルトー少佐がそれを持って、話の真偽《しんぎ》をたしかめに一人で現場へ行く。話がほんとうで、箱がそこにあったら、少佐はそれをそのままにして、食糧を用意した快走船《ヨツト》をすぐにラトランド島の沖までまわす。
おれたちがその快走船で脱走《だつそう》すると、少佐はそのまま任地へ帰って、黙って勤務する。そのあとでモースタン大尉が休暇《きゆうか》をねがい出て、アグラでおれたちとおちあい、そこでおれたちから少佐の分と二人まえの分配を受けとる。こういう手筈《てはず》にして、おれたちは神聖な誓いをたてたんです。おれはその晩|徹夜《てつや》で二枚の図面をつくりあげ、それに四つの署名――アブズラとアクバルとマホメットとおれの名を書きいれやした。
さて、話がだいぶながくなったから、旦那《だんな》がたもさぞお疲《つか》れのこってしょう。とりわけこちらのジョーンズ旦那は、ちっとでも早くおれを監房《かんぼう》へぶちこんで安心したいと、むずむずしていらっしゃる。あとはできるだけ手短かに話しやしょう。悪党ショルトー少佐はインドへ向けて発《た》ったっきり、ついに帰ってはこなかったんだ。モースタン大尉はそれからまもなく、新聞に出ている郵船の乗客|名簿《めいぼ》のなかに、ショルトー少佐の名のあるのを見せてくれた。少佐は伯父《おじ》さんが死んで、莫大な遺産が手にはいったので、軍隊を退《ひ》いたのだというんだが、それにしても五人の仲間を裏切って平気でいられるとはひどい奴《やつ》じゃねえですか。
それからまもなくモースタン大尉にアグラまで行ってもらったが、案の定財宝はもうなかったそうだ。少佐のやつはおれたちにあれほど堅《かた》く約束した条件の一つをも実行しねえで、財宝をそっくり盗《ぬす》んで逃《に》げやがったんだ。その日からおれは復讐《ふくしゆう》してやりたいばっかりに生きてきたんでさ。寝《ね》ても覚《さ》めても、思うのはただそのことばかり。ほかのことなんざ考えたこともありゃしねえ。法律なんてちっともこわかない。絞首台《こうしゆだい》だって平気なもんだ。脱走して草の根をわけてもショルトーのやつの居どころをつきとめて、恨《うら》みのひと太刀《たち》、そして止《とど》め――これしか考えるこたあなかった。ショルトー少佐のやつを殺すことにくらべれば、アグラの財宝なんか玩具《おもちや》みてえなもんに思えたね。
いったいおれはこれまでに、ずいぶんといろんなことを思いたったが、一つとしてやり遂《と》げなかったのはないんでね。でもいよいよという時機をまつには、たいへんな辛抱がいりやしたよ。おれが島にいるとき、医学のことを聞きかじったのは、まえにも話したが、ある日、サマトン軍医が熱病で休んでいるとき、囚人たちが森のなかでアンダマン原地人を一人拾ってきました。これは重病にかかったので、山のなかへ死にに来ていたんでさ。原地人は毒蛇《どくへび》かなにかのように、私には恐《おそ》ろしかったが、とにかく手当を加えてやると、二カ月ばかりで立派に全快して、自分で立って歩けるまでになった。
ところがそれ以来、そいつはひどくおれになついて、森へ帰るのはいやだといって承知せず、おれの小舎のあたりでごろごろしていやした。そうするうちにおれは彼《かれ》の話す原地人の言葉をすこし覚えたりしたんでそれがまたいっそう、彼をおれになつかせることになったわけでさ。
トンガ――というのがやつの名前ですが、トンガは船の扱《あつか》いがたいそう上手で、自分でも大きな丸木船《カヌー》を一つ持っていた。おれはトンガがなついて、おれのいうことなら何でも諾《き》くのをみて、これはいよいよ脱走の機会がきたと思った。
おれはトンガにその相談をすると、ある夜、これまでけっして見張りのついたことのない古い波止場《はとば》へその丸木船《カヌー》をまわしておいて、おれを乗せてくれるということになった。
おれはいくつかの瓢箪《ひようたん》に水をつめたのと、薯《いも》と椰子《やし》の実とさつまいもをどっさり船に積んでおくことを、彼に命じておいた。トンガは正直なかわいいやつだった。あんなに忠実な男はいないだろうよ。約束の晩にトンガは丸木船を古い波止場に回してくれた。ところがあいにくなもので、パタン人のいやな看守がそこへ来ていた。
そいつはおりさえあればおれをいじめたりなぶったりするやつで、おれはいつか仇《あだ》を討《う》ってやろうと思っていたんだ。それにはもってこいの機会というもんで、脱走のまぎわになって、向うから姿をあらわして、おれに年来の借金を払わせてくれるとは、なんという因縁《いんねん》かねえ。やつはカービン銃《じゆう》を肩《かた》にして、向うむきに岸に立っていた。おれはやつの頭を叩きわってやるため、手ごろの石はないかとあたりを見まわしたが暗くはあるし、あいにくと手ごろのが見あたらん。
ふとおれの心に妙《みよう》な考えがうかび、武器として使えるおもしろいものがあるのを思いつかせてくれた。おれは闇《やみ》のなかにすわって木の義足をはずし、一本足の三|跳《と》びで彼におどりかかった。
彼はカービン銃をとりなおしたが、とっさにおれは彼の頭を力まかせに叩きつけ、前額の骨を大きく凹《へこ》ませてやった。この義足のここんところへ、いまでもそのときの痕《あと》が残ってまさね。だが、一本足のおれは釣合《つりあ》いがとれねえで、やつといっしょになってぶっ倒《たお》れた。それでもおれはすぐに起きあがったが、やつは永久に倒れたなりだったよ。それからおれはすぐ船に乗って、一時間後には安全な外海へ出ていた。
トンガは自分のものはすっかり持ちだしてきていた――武器も神さまも。そのなかにながい竹槍《たけやり》とアンダマン椰子の蓆《むしろ》があったから、おれはそれで帆《ほ》をこしらえた。
十日間、おれたちは運を天にまかせて海上を漂流《ひようりゆう》したあげく、十一日目に、マレイの巡礼者《じゆんれいしや》を積んでシンガポールからメッカの港ジッダへ行く商船に救いあげられた。変なお客たちだったが、トンガとおれはそのなかへ割りこんで、なんとかおちつきやした。彼らにも一つだけいいところはあった。他人は他人で、何をしようと見て見ぬふりをするという性質でさあ。
さて、それからおれとトンガとが何をしてきたか、その冒険《ぼうけん》談をくだくだしく話すのは、旦那がたにご迷惑《めいわく》というもんだ。なぜといって、話しだしたら太陽が出るまで話しつづけても、終るまいと思うからね。おれたちはいろいろな障害にあいながら、ロンドンへ行きたい行きたいで、あっちこちと流れ歩いた。けれどもそのあいだだっておれは、目的だけは夢《ゆめ》にも忘れたことはなかった。いくどショルトーを夢に見たことか。夢のなかでショルトーのやつを殺した数は、何百回だか知れやしねえ。
ついにいまから三、四年まえになって、おれたちはとうとうイギリスへ渡ってきた。ショルトーの居場所をつきとめるには、たいして骨も折れなかった。
ショルトーはあの財宝を売り払ってしまったろうか? それともまだそのまま持っているだろうか? おれはまずそれから調べにかかった。そのためには手つだってくれる人と近づきになった。それが誰だか、名前は言いませんや。他人《ひと》さまに迷惑のかかるようなことはしたくねえからね。とにかくおれには、ショルトーが財宝をまだそのまま持っていることが、まもなくわかった。そこでおれはいろんな手段をつくして、あいつに近づこうとした。だがあいつもなかなか食えない男で、二人の伜《せがれ》とインド人の召使いがいるうえに、プロボクサーを二人も雇《やと》いこんで、警戒《けいかい》は厳重だった。
そうするうちある日、おれはあいつが死にかかっているという知らせをうけた。せっかく狙《ねら》っているものを、このまま死なせてはと、おれは気も狂《くる》いそうにいらだって、邸《やしき》の庭へ忍びこんだ。そして窓からのぞいてみると、あいつは二人の伜をベッドの両がわに立たせて寝ていた。飛びこんでのるかそるか、三人を相手に闘《たたか》ってやろうかと思っていると、がっくり顎《あご》を落しやした。それが最期《さいご》だったんだ。
その晩あいつの部屋へはいって、財宝の隠し場所を書いたものでもないかと、書付の類をさがしてみたが、とうとう何もないとわかったので、がっかりして出てきた。だが出るときふと考えたのは、今後もし仲間のシーク人どもに会うようなことがあったとき、あいつの死骸《しがい》のそばへ、何かおれたちのつきぬ恨みのしるしを残しておいたと聞いたら、シーク人たちも必ず満足してくれるにちがいない。――そこでおれはあの図面に書いたのとおなじに、紙きれへ四つの署名とぬたくって、胸へピンでとめておいてやったんだ。あいつくらい人を欺《あざむ》き、愚弄《ぐろう》したやつが、なんの恨みの記念もなく墓場へ行くなんてことが、あってたまるもんかね!
当時おれは、トンガを祭りやそのほかの盛《さか》り場《ば》へつれていって、食人族ということで見世物にして、すごしてきやした。トンガは生《なま》の肉を食ってみせ、自分たちの凱旋《がいせん》おどりを踊《おど》るんだが、一日働くと帽子《ぼうし》に一|杯《ぱい》ずつの銅貨が集まった。そんなことをしているあいだも、ポンディシェリー荘《そう》の様子はいちいちおれの耳にはいることになっていたが、遺族が財宝をしきりにさがしているということのほかには、この数年間は何も変ったことは起らなかった。
ところが待ちに待ったものが、ついにやってきた。財宝が発見されたんだ。財宝は屋根裏――バーソロミュー・ショルトーさんの化学実験室の天井裏《てんじよううら》にあったんだ。おれはすぐに駆《か》けつけてみたが、この足でたかい天井裏までどうして登れるだろう? だが屋根に天窓のあることと、ショルトーさんの夜食の時刻とがわかったから、トンガをうまく使ったら、なんとかなりそうに思われた。そこでおれはトンガの腰《こし》にながいロープを巻きつけてつれていった。
トンガは猫《ねこ》のように身軽なやつで、たちまち屋根へよじのぼって、天窓からショルトーさんの部屋へ降りていった。ああだが、なんという不運だったのか。バーソロミュー・ショルトーさんはそのときまだ部屋にいたんで、トンガは気をきかせたつもりで、ショルトーさんを殺しちまったんだ。おれがロープをつたって部屋まで登ってみると、トンガのやつは気どりかえった孔雀《くじやく》のような様子で、部屋のなかを歩きまわっていた。そしておれがロープのはじでうんとどやしつけてやると、さも意外だという顔をしていやしたよ。
おれは財宝の箱をとって地面におろし、自分もロープを辷《すべ》りおりやしたが、そのまえに財宝がついに正当な権利をもつものの手にはいったことを知らすため、例の四つの署名と書いた紙きれを机のうえに残しておいた。そのあとでトンガがロープを引きあげ、窓をしめておいて、もとのとおり天窓から出て降りてきたというわけだ。
これでもう話すことはなくなりやした。おれア船頭たちが、スミスの持船でオーロラって汽艇《ランチ》がばかに船足が速いと話しているのを小耳に挟《はさ》んだんで、こいつは逃げるにもってこいだと思って、さっそく老爺《おやじ》と話をつけて、首尾《しゆび》よく本船まで送りとどけてくれたら、お礼はたんまり出すことにしたんだが、老爺もなにやら様子のありそうな話だたア思ったろうが、おれの肚《はら》ん中までは見通せませんや。
この話には嘘《うそ》はこれっぱかりもありゃしませんぜ。こんなことを話すのも、もともとなにも旦那がたのお楽しみにってわけじゃありませんや。そんなことをする道理《いわれ》はねえんですからね。それよかおれア何ごとも包まずに話すのが、身のあかしを立てるにゃいちばんだと思ったまででさ。おれがショルトー少佐のためどんなひどい目にあわされたかってことと、バーソロミュー・ショルトーさんの死んだことにアおれに科《とが》はねえんだってことを、世界じゅうの人たちに知ってもれえてえばっかりなんでさあ」
「珍《めずら》しい話だ」シャーロック・ホームズがまずいった。「結末も、きわめておもしろい事件にふさわしいものだ。話の後半は、ロープはお前さんが持ってきたのだということをのぞけば、私には聞かなくてもわかっていた。あのロープの出所ばかりは、私にもわからなかった。ついでだが、トンガはあのとき矢はすっかりなくしたものと思っていたのに、汽艇《ランチ》のうえで私たちに一本|吹《ふ》いてよこしたね?」
「すっかり落しちまったんだが、筒《つつ》のなかに入れといたのが一本だけ残ってたんでね」
「ああ、なるほどね。そいつは気がつかなかった」
「まだ何かわからないことがおありですかい?」
「そうさ、もう何もないようだ」
「じゃホームズさん」とジョーンズが腰をあげた。「あなたは気むずかしいかたで、それにあなたが犯罪の鑑識家《かんしきか》であることは、われわれみな知っています。しかし任務は任務です。あなたやワトスンさんのお頼《たの》みはこれで十分はたしたと思いますし、私としてもこの男を早く入れるところへ入れて、ひと安心したいものです。馬車も待たせてありますし、二人の巡査もさぞ待ちくたびれているでしょう。ではお二人さんとも、いろいろとお世話さまでした。むろん裁判になったらご出廷《しゆつてい》を願うことになりましょう。ではさようなら」
「お二人さん、ではごめんなせえまし」ジョナサン・スモールも挨拶《あいさつ》した。
「さきに出ろ」用心ぶかいジョーンズが部屋の戸口でいった。「用心しないとアンダマン島でやったように、うしろから義足でくらわされちゃかなわんからな」
「ああ、これでわれわれのささやかなドラマの幕もおりたわけか」ジョーンズたちが出ていった後で、しばらく無言で煙草《たばこ》をふかしつづけてから私が感想をもらした。「君のお手並《てなみ》を拝見するのもこれが最後だと思う。モースタン嬢《じよう》は僕《ぼく》の妻になる承諾《しようだく》をあたえてくれたからね」
ホームズは悲しげにうめいて、
「そんなことになりゃしないかと思っていた。だが僕はおめでとうとはいわないよ」
私はすこし気にさわった。「君はこの結婚《けつこん》に不満な理由でもあるのかい?」
「そんなことはけっしてない。あんな愛らしい婦人はないとさえ思っている。それにあの人なら僕らの仕事を手つだってもらっても、ずいぶん役にたつと思う。そうした方面の才能にはめぐまれている人だからね。父親の遺《のこ》した多くの書類のなかから、アグラの図面だけ大切に保存していたのでもそれはわかる。しかし恋愛《れんあい》は感情的なものだからね。すべて感情的なものは、何ものにもまして僕の尊重する冷静な理知と相容《あいい》れない。判断を狂わされると困るから、僕は一生結婚はしないよ」
「だが僕の判断力は、その試練に耐《た》えられると思うよ」私は笑いながらいった。「しかし君はなんだか疲れてみえる」
「もう反動がきたんだ。これから一週間くらいぼろ切れのようにぐったりすることだろうよ」
「不思議だねえ。ほかの男ならば、まるで怠惰《たいだ》な男としか見えない時期と、あんなすばらしいエネルギーの発作《ほつさ》がきみの場合は交互《こうご》にあらわれるんだからね」
「まったくねえ。僕の胸のなかにはきわめて怠惰なものと、火のように活動的なものと、二つが同居しているんだ。僕はいつもゲーテを思いだす。
自然がお前をただ一人の人間にしかしなかったのが惜《お》しまれる。一人で偉人《いじん》にも無《ぶ》頼漢《らいかん》にもなれる素質があったのに。
ところでついでだが、ノーウッド事件のことだが僕の想像したとおり、スモールはやはり内部に共犯者をこしらえていたが、それは、執事《しつじ》のラル・ラオにきまっている。ジョーンズ先生もせっかく大網《おおあみ》をひろげたんだから、最後にこの魚を一|尾《び》ひっかけて、大いに名声をあげることだろうよ」
「それはいささか不公平のようだな。この事件はみんな君がやりあげたんだ。僕はおかげで妻まで得るし、ジョーンズは名声を博する。それで君自身はいったい何を得るんだい?」
「僕か、僕にはコカインがあるさ」といってその瓶《びん》をとるべく、シャーロック・ホームズはほっそりした白い手をのばした。
[#改ページ]
解説
[#地付き]延原 謙
ここに訳出したのは、ドイルとしてはホームズ物語の第二作にあたるThe Sign of Four であって、最初発表されたのは一八九〇年二月号の『リピンコット・マガジン』であった。そのときは Four のまえに the がついていたが、のちに単行本にするとき、作者がこれを取りさったといわれる。探偵《たんてい》小説にあっては、題名のつけかたも作者の苦心するところで、題名をみて内容のわかるようなのはむろん困るし、そうかといってまるで無関係な題もつけられない。そこでまあおや何だろう? と読者の好奇心《こうきしん》なり探索欲《たんさくよく》なりを刺激《しげき》するような題を選ぶことになるのであろう。
その意味でおそらく冠詞《かんし》をとりさったのであろうと思うのだが、日本訳の題名を『四つの署名』としたのもけっしてうまくないと考えている。サインにはほかの意味もあるので、「おや何だろう?」の原因にもなるが、署名という日本語にはほかの意味がないからである。それでも昔《むかし》やったように、『四人の署名』とするよりは、いくらかまさっているだろうか。
この事件のおかげでワトスンは結婚《けつこん》することになるが、ホームズ物語の熱心な愛好家(シャーロキアン)の綿密な詮索《せんさく》によると、ワトスンは前後三回結婚したことになっている。この事件での結婚は第一回であり、きわめてはっきりしている。期日は一八八七年十月一日ごろである。あとの二回は、「この事件は私の結婚後二、三週間後のこと」というように書きだしておいて、なお読みすすむとそれが一八九六年の事件であることがわかったりする。そこでホームズ流に推理をはたらかして、ワトスンは第二、第三回の結婚をしていると断定するという無邪気《むじやき》なものなのである。なお第二回目は一八九六年一月一日ごろ、第三回は一九〇二年の十二月ごろということになっている。その資料が何という短編に出てくるか、熱心な読者は探索してみるのも一興であろう。
つぎにワトスンの戦傷のことであるが、ホームズ物語の第一作、『緋色《ひいろ》の研究』のなかには、アフガン戦争に出て肩《かた》にジェゼール銃弾《じゆうだん》をうけたと、きわめて明白に書いてあるにもかかわらず、第二作以下では(短編にもちょいちょい出てくる)脚《あし》の負傷となっている。なぜ作者が急にこう変えたのか、単に思いちがいしただけなのか、なにか都合でもあったのか、とにかく読者には割りきれない感じがのこるのである。
つぎにベーカー街特務隊であるが、これの原語は Baker Street Irregulars であって、この訳語も訳者としては気にいらないが、いくらかその内容をも暗示する適訳がほかに見あたらなかったから使ったまでである。この語は全世界のシャーロック・ホームズ愛好家のクラブの名になっているほどだから、いっそう気になるのである。
この作で、警視庁の汽艇《ランチ》に巡査《じゆんさ》が二人乗りこんだとあって、これは読んでみるとただの平巡査にちがいないと思われるのだが、これを作者は Inspector と呼んでいる。インスペクターは警視と訳すべきだという人(東京警視庁のお役人)もあるけれど、作中に出てくる役がらからいって、巡査どころだと思われるし、このほうが何となく親しみぶかい(小説のうえでですよ。現実には接したことがありません)気がするので、すべてそう訳しておいた。
ところが不思議なのは、この編に出てくるアセルニー・ジョーンズを、作者は一度もインスペクターと呼んでいない。ディテクティヴと呼んでいるのである。しかも巡査のことをインスペクターと呼んでいる。しかるに、あとで書いた短編ではアセルニー・ジョーンズはインスペクターと呼ばれているのである。
これは思うに、作者が初期にはそうした役名の正式な呼び名(またはそれらしいもの)を知らなかったのではあるまいか。とにかくドイルにおくれて現われた作家は、警視庁のレストレード級の役人をインスペクターと呼んでいるのである。この編で汽艇《ランチ》に乗る二人のインスペクターを警部と訳したら、すこぶる妙《みよう》なものになるだろう。
以上、すこし英語の講釈めいたところがあって気がさすけれども、そういうつもりではない。
ほかの場所にも書いたが、ドイルがはじめてシャーロック・ホームズを書いたのは一八八六年のことで、発表されたのは翌一八八七年であった。一八八一年にエディンバラ大学の医科を卒業した彼《かれ》は、一年ほど北洋の捕鯨船《ほげいせん》の船医になったりしていたが、のちにポーツマス郊外サウスレーに眼科医院を開業した。だがどこでも見られるように患者《かんじや》はいっこう来てくれず、もともと乏《とぼ》しい生活はますます苦しくなるばかり、あり余る暇《ひま》をもてあます始末だった。そこで短編小説など書いてあちこちへ投稿《とうこう》するけれど、あまり金にはならなかった。
そのときふと思いだしたのが大学時代の恩師ベル博士である。この人はドイルの描《えが》いたシャーロック・ホームズそっくりで、観察と推理の早くて鋭《するど》いこと驚《おどろ》くべきものがあった。ドイルがシャーロック・ホームズに「手を見ればその人の職業がわかり、ズボンの膝《ひざ》を見れば靴《くつ》屋は知れる」という意味のことをいわせているのは、博士の言葉をそっくり頂戴《ちようだい》したものと思われる。
ドイルはそこで若いころ読んだポーやガボリオの小説にベル博士を持ちこんでシャーロック・ホームズを創造し、『緋色の研究』を書いたのである。だからホームズの性格は初めからあのとおり表にまでして明示することができたのである。ただホームズにコカインを愛用させたことだけは(後期の作品には出てこないけれども)『唇《くちびる》の捩《ねじ》れた男』のなかに出てくる阿片窟《あへんくつ》の描写《びようしや》とともに、作者は誤解からくる錯誤《さくご》をおかしていると思う。すくなくとも私の実験に従えば、阿片窟には「毒煙《どくけむり》がもうもうと渦巻《うずま》いて」はいないようである。
さて、ドイルは『緋色の研究』には自信があり、大きな希望を託《たく》していたけれど、あまり評判にもならなかったので失望し、以後シャーロック・ホームズ物語は書かないつもりでいたところ、それから二年たってアメリカの『リピンコット・マガジン』から前金まで添《そ》えての依頼《いらい》があり、喜んで書きおろしたのがこの『四つの署名』であった。それにつづいて一八九一年に創刊されたばかりの『ストランド』誌からも短編の注文があり、同年六月号から十二編発表した。これが『冒険《ぼうけん》』である。以後一九二七年までに書いた短編集四冊長編二編はすべて『ストランド』誌に発表され、文字どおり世界じゅうの読者から熱狂的《ねつきようてき》に歓迎《かんげい》をうけた。
[#地付き](一九五三年十二月)
改版にあたって
この度《たび》、活字を大きく読みやすくするに当たり、新潮社の意向により外国名、外来語のカタカナ表記の正確、統一を図《はか》ることになった。訳者が一九七七年に没《ぼつ》しているため、訳者の嗣子《しし》である私がその作業に当たったが、現代においてはあまりに難解な熟語や、種々の古風すぎる表現も多少改め、不適当と思われる訳文を修正した。
あくまでも原文に忠実にを基本に置き、物語の背景であるヴィクトリア朝の持つ雰囲気《ふんいき》を伝える程度の古風さは残したいと考えつつ、もとの訳文の格調を崩《くず》さぬよう留意して作業したつもりであるが、読者諸氏の御理解《ごりかい》を得られれば幸いである。
改訂《かいてい》に当たり、訳者の姪《めい》である成井やさ子、および、新潮文庫編集部の協力を得たので、ここに謝意を表する。
[#地付き]延原 展
[#地付き](一九九一年四月)