バスカヴィル家の犬
コナン・ドイル/延原 謙訳
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目 次
第一章 シャーロック・ホームズ君
第二章 バスカヴィル家の祟り
第三章 問題の鍵
第四章 ヘンリー・バスカヴィル卿
第五章 三度目も失敗
第六章 バスカヴィルの館
第七章 博物学者ステープルトン
第八章 脱走の殺人犯
第九章 暗夜の怪光
第十章 怪しい女の名は
第十一章 岩上の怪人物
第十二章 沼沢地に死ぬ
第十三章 網をはる
第十四章 魔の犬の正体
第十五章 追想
解説
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親しきロビンソン君
この小説の思いつきは、君から聞いた西部イングランド地方の伝説にはじまる。細かい点で援助《えんじよ》をうけたことと共に、ここに謝意を表する。
[#地付き]A・コナン・ドイル
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第一章 シャーロック・ホームズ君
しばしばやる徹夜《てつや》のときのほかは、きまって朝寝坊《あさねぼう》のシャーロック・ホームズ君が、その朝はどうしたことか、もうちゃんと食卓《しよくたく》に陣《じん》どっていた。私はストーヴのまえに敷《し》いた絨毯《じゆうたん》のうえに立って、ゆうべの客がおき忘れていったというステッキを手にとってみた。それは俗にペナンローヤーといって、ペナン島産の堅《かた》い棕櫚《しゆろ》の一種でつくった立派な細身のステッキで、球形の握《にぎ》りがついており、握りのすぐ下のところには、幅《はば》一インチもあろうかと思われる銀のふとい帯をまいて、それに「王立外科医学協会準会員ジェームズ・モーティマー君へ、C.C.H. の友人たちより」と彫《ほ》りつけ、そのわきへ一八八四年と年号がいれてあった。古風な開業医が患家《かんか》を回診《かいしん》するおり持ち歩いたであろうと思われる、丈夫《じようぶ》で気品があり、どこか頼《たの》もしげな感じのステッキである。「どうだね、ワトスン君、それをどう思う?」ホームズは私へ背をむけて食卓についていて、私からは何もいいはしないのにこれである。
「僕《ぼく》のしていることがどうしてわかるんだい? まるで背中に眼《め》がついてるみたいだね」
「僕の前に磨《みが》きのかかった銀のコーヒーポットがあるんだぜ。そんなことはまあどうでもいいが、君はそのステッキを見てどう思うね? ゆうべはあいにく二人とも留守だったから、どんな用事があってきた客だかわからないが、こうなってみるとこの忘れ物が、たいせつな参考品になってくる。君はそのステッキをみて、持主をどういうふうに推定するね?」
「そうだね」と私はホームズのいつものやりかたをできるだけ真似《まね》ながらいった。「モーティマー博士は相当の年輩《ねんぱい》の、評判のよい、よくはやる医者だと思う。というのは知人たちからこうした感謝の贈《おく》りものを受けているところから見てだがね」
「ほう! おみごと!」
「それから開業地は田舎《いなか》で、回診のため日常テクテクと非常によく歩く男だということもおそらくいえるだろう」
「どうして?」
「このステッキを見ればさ、初めはいかにも立派な物だったらしいのに、こんなにひどくなっているところをみると、ロンドンの開業医とはまず思えないねえ。見たまえ、この鉄の丈夫な石突《いしづき》のへり加減を。これはよほど持ち歩いた物に違《ちが》いないよ」
「たしかにそうだ」
「つぎにまた、『C.C.H. の友人たちより』の解釈だが、僕は何かの狩猟会《しゆりようかい》(Hunting)か何かじゃないかと思う。その地方の狩猟会の会員たちが、治療上《ちりようじよう》とくべつの好意を受けたため、感謝の意をこめて、ちょっとした記念品を贈ったというようなことじゃなかろうか」
「ほう、うまいものだね」食べおわったホームズは椅子《いす》をうしろへずらし、巻きタバコに火をつけながらいった。「今日までの僕の小さな業績は、みんな君の助力のおかげなんだが、しかし遠慮《えんりよ》なくいわしてもらえば、君は習慣的に君自身の才能を見くびりすぎてきた傾《かたむ》きがあるよ。君は君自身で輝《かがや》かないまでも、少なくとも光を伝える能力はあるんだ。ある種の人は、たとえ自身天才でないまでも、天才を刺激《しげき》し発揮《はつき》させる異常な力をそなえているものだ。僕は君に負うところの多いのを、ここに改めて感謝するよ」
ホームズがこんなことを言いだしたのは初めてのことである。従来は私がどんなに彼《かれ》の才能をほめても、また彼の苦心して成功した探偵談《たんていだん》をかき綴《つづ》って出版してやっても、かつて微笑《びしよう》の一つすら見せたことはなく、どこを風が吹《ふ》くといった態度だったので、少なからず腹のたつこともたびたびだったのだが、こうした感謝の言葉を聞くと、白状するがひどくうれしかった。それに、こうした賞賛の言葉を聞くまでに、彼の推理法を応用するみちを会得《えとく》したと思うと、そこにも一種の矜持《ほこり》が感じられたのである。
彼は私の手からステッキをとって、しばらくじっと肉眼で検《あら》ためていたが、妙《みよう》に顔を緊張《きんちよう》させ、火のついたタバコをわきへおくと、窓ぎわの明るいところへいって、凸《とつ》レンズで改めてステッキを仔細《しさい》にしらべた。
「ふむ、おもしろいな、いささか初歩的だけれど」と窓ぎわをはなれて、ソファのいつもの場所へ腰《こし》をおろしながら、「このステッキには一、二の注目すべき点があるよ。そこからいろんな結論がでてくる」
「何か僕が見落したかね?」私は内心いくらか得意だった。「見落しというほどのことはしていないつもりだがね」
「ワトスン君、気のどくだが、君の下した結論は大部分間違っているよ。僕はさっき、君が刺激をあたえてくれてありがたいといったが、正直のところをいうとあれは、君の誤りを正してゆくうちに、知らず知らず真実のほうへ引きよせられてゆくこともあるという意味だったんだよ。いや、この場合は君の説がすべて誤っているとはいわないがね。なるほどモーティマーという男は田舎医者にちがいあるまい。そしてテクテクとよく歩くというのも事実だ」
「じゃ僕のいう通りじゃないか」
「そうさ、そこまでは正しい」
「だって、それが結論の全部なんじゃないか」
「どうして、どうして、全部なもんか。けっして全部じゃない。そんならいうがね、医者への贈り物といえば、狩猟会(Hunting)からというよりも病院(Hospital)からと考えたほうが自然で無理がないよ。そこまで考えてくると、頭につけた C.C. は|チ《*》ャリング・クロス【訳注 ロンドン下町の中心、そこに有名な病院あり】じゃないか、とすぐ頭にうかんでくる」
「そりゃ君のいう通りかもしれない」
「まずそのほうが確度が高い。そしてこの仮定を正しいものとすれば、そこから、この見知らぬ客がどんな男かということについて、さらに第二の推定を下すことができる」
「なるほど、それではしばらく C.C.H. はチャリング・クロス病院を意味するものとしておいて、そうすればいったいどんな第二の推定が得られるんだい?」
「わからないかねえ。それ、例の僕の方法を知っているじゃないか。あれを応用してみたまえ」
「田舎で開業する前には、ロンドンにいたことがあるということだけしか、僕には思いつかないねえ」
「もう一歩すすめて考えてもよいと思う。こういう考えかたをするんだね。そうした贈り物をするというのは、どんな場合にもっともありがちなことだろうか? 友人たちが申しあわせて、誠意を見せるのは、どんな場合だろうか? いうまでもなくモーティマー博士が病院づとめをやめて、自身開業しようというときだろう。記念品が贈呈《ぞうてい》されたのはこの通り事実だ。そしてモーティマー博士は病院の医員から、田舎の開業医に変ったものと信じられる。それでは一歩をすすめて、このステッキはその際の記念の贈り物だと推定することに、大きな無理はあるまい?」
「まずそんなところだね」
「さらに推理の歩をすすめれば、彼は病院にはいたけれど、幹部の位置にいたのではけっしてない。なぜかというと、チャリング・クロス病院の幹部になるほどの医者なら、ロンドンでも指折りの人物だから、病院をやめても、田舎へひっこむ道理がないからね。ところがこの人は田舎で開業している。そんなら彼は病院で何をしていたか? 病院にはいたけれど幹部ではないといえば、おそらくは住みこみの医者、まず医学書生に毛のはえたくらいのところだろう。そしてステッキの日付によると、彼が病院を退いたのが五年前だ。五年前まで病院住みこみの代診をつとめていた田舎医者――ワトスン君、お気のどくながら君のいわゆる『相当の年輩の、評判のよい、よくはやる医者』は何だか影《かげ》がうすくなってきたよ。そのかわりに心に浮《うか》ぶのは、まだ三十にもならない人好きのする、青年の野心なんか失なってしまった、うっかり者だね。そして犬を一|匹《ぴき》かわいがっているが、その大きさはテリヤよりは大きく、マスティフよりは小さいとだけ、ぼんやりといっておこう」
そういってソファに背をもたせかけ、タバコの輪を小さく天井《てんじよう》へむけてはいているシャーロック・ホームズを、私は笑いとばした。
「犬のことはうそかほんとか、調べる手段もないが、モーティマー君の年齢《ねんれい》や職業上の経歴くらいなら、調べるのは造作もないことだよ」
私は自分の医書をおさめてある貧弱《ひんじやく》な本だなから医師録をとり下ろして、ひろげてみた。モーティマーという名の医者は何人かあったが、問題の人はすぐにわかった。私はその項を読みあげた。
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ジェームズ・モーティマー 王立外科医学協会準会員、一八八二年入会、デヴォンシャー、ダートムア、グリンペン現住。一八八二年より八四年までチャリング・クロス病院外科医として住みこみ勤務。論文「疾病《しつぺい》は復帰性を有するか?」によって比較病理学《ひかくびようりがく》のジャクソン賞を受ける。スウェーデン病理学協会通信会員、「隔世遺伝《かくせいいでん》の変態について」(一八八二年ランセット版)「人類は進化するか?」(一八八三年三月号心理学会雑誌)等の著あり。グリンペン、トースリー、およびハイバーロウ教区|嘱託医《しよくたくい》。
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「狩猟クラブのことは何も出ていないようだね、ワトスン君」ホームズはいたずらっぽい微笑をうかべていった。「しかしご明断の通り田舎医者にはちがいなかった。それにしても僕の推定もかなり正しかったと思うよ。僕はさっき、人好きのする、青年の野心なんか失なってしまった、うっかり者だといったね。僕の経験によれば、この世で表彰《ひようしよう》の記念品でも贈られようというには、必ず人好きのする人物でなきゃならないし、ロンドン生活をすてて、田舎医者に引っこむといえば、野心のなくなった男にきまってるね。それにひとの部屋で一時間もぼんやり待っていたあげくが、帰りに名刺《めいし》でもおくどころか、かえってステッキを忘れていくなんていうのは、よくよくうっかり者じゃないか」
「犬のことはどうしてわかったんだい?」
「犬はこのステッキをくわえてお供をする習慣になっている。ステッキが重いものだから、中央をしっかりくわえるとみえて、みたまえ歯形がはっきり見える。歯形と歯形の間隔から考えて、テリヤにしては大きすぎるし、マスティフにしては小さすぎる。そうだね、まあ毛の縮れたスパニエルというところかな」
彼は話の中途《ちゆうと》から立ちあがって、部屋の中を歩きまわっていたが、このとき引っこんだ窓のところで歩をとめた。そしてその最後のあたりが、いやに確信にみちた響《ひび》きを持っていたので、私は思わず顔をあげた。
「おやおや、ばかに自信があるんだね」
「なあに、その犬がいま戸口に見えるからさ。そら、犬の主人が呼鈴《よびりん》をならしている。いや、ワトスン君、そこにいてくれたまえ。客は君と同じ畑の人だ。君がいてくれると、何かと都合がいいだろう。さあ、運命の瀬戸《せと》ぎわだよ、ワトスン君。階段をのぼってくる足音で、吉《きち》か凶《きよう》か判断はつかないかね。科学畑の人ジェームズ・モーティマー君が、犯罪学の専門家シャーロック・ホームズにうかがいたいというのは、いったいどんなことだろう? や、どうぞおはいりください!」
よくある型の田舎医者の風姿を心に描《えが》いていた私は、入ってきた客の姿を見て、まるで意外だった。ばかに背のひょろ高い男で、嘴《くちばし》のように高く鼻が突出《とつしゆつ》し、鋭《するど》い灰いろの眼があい寄って、金縁《きんぶち》の眼鏡のおくできらりと光っている。職業がらフロックコートは着ているが、あまり服装《ふくそう》にかまうほうでないのか、上衣《うわぎ》はうす汚《よご》れてズボンにはしわがよっていた。まだ若いくせに背がすこし曲がって、歩くにつれて首をひょいひょいと前へ突《つ》きだすようにしたが、どこか貴族的な鷹揚《おうよう》さが見られた。はいってくるなりホームズの手にしているステッキに眼をとめて、うれしそうな声をあげて小走りに歩みよった。
「おう、これはよかった。ここに忘れたのか、それとも船会社で忘れたのかと思って、迷っていたところです。どんなことがあっても紛《な》くしてはならない大切な品ですからね」
「記念の贈りものですね」ホームズがいう。
「そうなのです」
「チャリング・クロス病院からの?」
「結婚《けつこん》するとき、あそこの二、三の友人がお祝いにくれたのです」
「おやおや、これはいけない」ホームズは頭を振《ふ》った。
「え? 何がいけないのですか?」モーティマー博士はすこし変な顔をして、眼鏡のおくで眼をしばたたいた。
「いえなに、おかげで私たちのちょっとした推理が狂《くる》っただけのことです。ご結婚の記念なんですね?」
「はあ、結婚して病院をやめたものですから、診察して適当な医師を紹介《しようかい》するだけの顧問医師《こもんいし》になる夢も放棄《ほうき》したわけです。家庭を持たなきゃならなかったものですからね」
「なるほど、なるほど、それじゃ僕たちの推理もまったく誤っていたわけじゃないね」とホームズは私のほうを振りかえっていった。「それでジェームズ・モーティマー博士、あなたは……」
「いえ、博士じゃありません。ただの王立外科医学協会の準会員にすぎないのですから……」
「それではごく几帳面《きちようめん》なお人がらのわけですな」
「科学をほんの少しばかりかじっただけのことですよ。いわば科学という未知の大海原《おおうなばら》の波うちぎわに立って、ほんの貝殻《かいがら》の二、三|片《ぺん》も拾いあげてみただけのことですよ。失礼ながらあなたがシャーロック・ホームズさんですね? そしてこちらは……」
「友人のワトスン博士です」
「これは初にお目にかかります。お名前はホームズさんと関連して、たびたび承《うけたまわ》っております。ところでホームズさん、あなたのお頭《つむ》は立派なものですねえ。あなたほどの長径|頭顱《とうろ》を見たことがありません。これほど上眼窩《じようがんか》の発達の著《いちじる》しい例を知りません。失礼ですがちょっと、あなたの顱頂部縫合《ろちようぶほうごう》にさわらせてくださいませんか。あなたの頭蓋骨《ずがいこつ》は、現物が手に入るまでしばらくは模型でもいいですから、人類学博物館へ出せばじつに立派な陳列品《ちんれつひん》です。いえ、まったくお世辞ではありません。正直なところ私はあなたの頭蓋骨がほしくてなりません」
さすがのシャーロック・ホームズもこれには参って、ともかくも椅子をすすめた。
「あなたもご自身の専門のことにかけては、私同様にずいぶんとご熱心のようにお見受けします。ひとさし指の様子から拝見するに、あなたはタバコをご自身巻いてあがるらしいですね。さ、どうぞご遠慮なくおつけください」
モーティマーは紙とタバコをとりだして、おそろしく器用に一本巻きあげた。細くて長いその指はたえずうち震《ふる》え、まるで昆虫《こんちゆう》の触角《しよつかく》のように敏感《びんかん》で、少しもじっとしていなかった。
ホームズは何もいわなかったが、ちらりちらりと刺《さ》すようなその眼《まな》ざしで、この不思議な客に彼が少なからず興味をそそられているのを私は知ったのである。しばらくして彼はいった。
「ところであなたが昨晩もおいでになったのに、今朝もこうしてお訪ねくださったのは、単に私の頭蓋骨を調べるのが目的ではあるまいと思いますが?」
「いえいえ、それもやらせていただければ、こんなうれしいことはありませんが、きょう私がうかがいましたのは、自慢《じまん》ではありませんが、元来私は実行力のない男だと自覚しているところへ、こんどとつぜん重大な難問に直面することになったからです。ところがあなたはその方面にかけてはヨーロッパ第二のかただと思うものですから……」
「ほう、なるほど、失礼ながらヨーロッパ第一というのは誰《だれ》なのでしょう?」ホームズはちょっと開きなおった。
「綿密な科学的批評眼をもってすれば、フランスのベルティヨン氏の仕事をつねに第一に推《お》さなければなりません」
「ではこの問題はベルティヨン氏にご相談なさったらよいでしょう」
「綿密な科学的批評眼をもってすればベルティヨン氏だと申したのです。しかし実際問題の上では、やはりあなたが第一人者ですよ。うっかりしたことを申して、お気をわるくなさったかもしれませんが……」
「すこしはね。ところでモーティマー先生、そんなことはどうでもよいとして、簡単にいってあなたのご相談をなさりたいのは、いったいどんな問題なのですか?」
第二章 バスカヴィル家の祟《たた》り
「私はこのポケットに書類を一つ持ってきていますが……」
「それは入っていらしたときから気がついていました」
「たいへん古い書類です」
「十八世紀のはじめのものでしょう、偽物《にせもの》でなければね」
「そんなことがどうしておわかりです?」
「さきほどからお話をしている間、ずっとあなたのポケットから一、二インチはみ出ていましたよ。この種の書類の年代の鑑定《かんてい》が、十年か二十年以上もちがうようでは、玄人《くろうと》とはいえません。あるいはお目にとまったかもしれませんが、この問題に関してはちょっとした論文を発表したこともあるのです。あなたがお持ちのものを、私は一七三〇年と踏《ふ》んでいます」
「正確なところは一七四二年です」とモーティマーは胸のポケットから書類をとりだしていった。「この伝来の書類はデヴォンシャーのチャールズ・バスカヴィル卿《きよう》から預かったものですが、このかたは三月ばかり前にとつぜん不思議な死にかたをされまして、デヴォンシャーでは今もっぱら評判になっています。私はチャールズ卿とは医者と患者《かんじや》という関係をはなれて、個人としても親しかったのです。この人はまったく意志の強固な、賢《かしこ》くて実際的な人物で、私などと同じに迷信《めいしん》なんかには惑《まど》わされない人でした。それでもこの書類だけは妙《みよう》に気にしていたところをみると、どうやらこんどの非業《ひごう》の最期《さいご》を虫が知らせたとでもいうのでしょうか?」
ホームズは手をのばして書類を受けとると、ひざの上でひろげた。
「見たまえ、ワトスン君、Sという字を一つおきに短く書いたり、昔風《むかしふう》に長く書いたりしてあるこの筆跡《ひつせき》を。これも時代をいいあてる材料の一つになったんだがね」
私はホームズのうしろからのぞきこんで、黄いろく変色した書類を見た。上部に『バスカヴィル館《やかた》』とあって、その下に大きな字で『一七四二年』と走りがきしてある。
「何かの陳述のようだね」
「そうです。これはバスカヴィル家に古くから伝わるある伝説を記録したものなんです」
「しかしあなたが相談なさりたいのは、もっと近代的な、実際問題なんでしょう?」
「そうです、もっとも近代的で、もっとも緊急《きんきゆう》な実際問題なのです。二十四時間以内に何とか解決をつけなければなりません。しかしこの記録はそう長くもありませんし、それに問題の事件とはきわめて密接な関連があるのですから、お許しをえて一応ここで読みあげたいと思います」
ホームズは椅子の背にもたれこんで、いつもの癖《くせ》の、両手の指さきを突《つ》きあわせたまま眼《め》を閉じて、気のない様子でじっとしていた。モーティマー君は書類を明るみのほうへ向けると、すこし震えをおびたよく透《とお》る声で、その古い不思議な物語を声高く読みあげた。
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バスカヴィル家の犬物語の出所|因縁《いんねん》については、世上さまざまな説があるが、余は父ヒューゴー・バスカヴィル正統の嫡子《ちやくし》として、祖父から父へ語り継《つ》がれた物語を、余もまた父より聞き継いだので、これはまことに起きたものと信じて、事の真相を伝えるべくここに書き残す次第である。罪を罰《ばつ》する神もあれば、慈悲《じひ》深く罪を許したもう神もあるというではないか。息子たちよ、いかに恐《おそ》ろしい呪《のろ》いといえども、祈《いの》りと悔《く》い改めることによってとり除かれない筈《はず》はない。されば余がいまここに語ろうとする物語を読んでも、それは過去の凶事《まがごと》であって、何ら恐れるには及ばず、むしろ将来に対し慎重《しんちよう》な用意を為《な》せば、わが祖先をかくも苦しめ悩《なや》ませた禍根《かこん》を絶つことも容易であることを、自ら覚《さと》るであろう。
さて、かの大《*》反乱時代【訳注 一六四二年英王チャールズ一世の悪政にたいする反乱より一六六〇年その子チャールズ二世の復古にいたるまでの革命時代】のころであった。(この間《かん》の史実については、博学なるクラレンドン卿の説に最も傾聴すべきものあり)当バスカヴィル領はヒューゴー・バスカヴィルの領有であったが、この者は気性荒《きしようあ》らく神をおそれぬ男であったという。当時この地方は聖者の恩恵《おんけい》を受けることが少なかったので、それくらいのことならば隣人《りんじん》たちも大して意にとめなかったであろうが、彼ヒューゴーの神を冒涜《ぼうとく》すること尋常《じんじよう》一様ならず、加うるに性質は野蛮《やばん》、残酷《ざんこく》であったので、西部地方ではその悪名を知らぬ者はないまでに指弾《しだん》されるに至ったという。
このような時、彼はバスカヴィル領にほど近いある小地主の娘《むすめ》を愛するようになった。(かくもけがらわしい欲情を、愛という美しい名で呼び得《う》るものだろうか)しかしいとも貞淑《ていしゆく》で近隣の評判も良いこの娘は、ヒューゴーの悪名を知ってこれを恐れ、つねに彼を避《さ》けて応ずる気配もなかった。するとある年の九月ミカエル祭の日に、ヒューゴーは娘の父親はじめ家人の留守をねらって、無頼《ぶらい》の徒党五、六人を引き連れひそかに彼女《かのじよ》の家に忍《しの》び入り娘を奪《うば》い去った。
こうして彼らは娘をヒューゴーの館に運びこむや、階上の一室に幽閉《ゆうへい》して、自分らは階下に集まり、毎夜のごとく長い酒宴《うたげ》を始めた。あわれにも娘は階下からの部屋も破れんばかりの放歌|叫声《きようせい》、罵詈怒号《ばりどごう》を聞いて生きた心地《ここち》もなく途方にくれるのみ、ただわなわなとふるえおののくのみであった。まことにヒューゴー・バスカヴィルが酔《よ》いしれて口にする呪いの言葉は、聞くだけでも戦慄《せんりつ》をおぼえるばかりであったと今なお語り伝えられるほどであった。娘はついに怖《おそ》ろしさに耐えかねて、屈強《くつきよう》な男でもためらうであろうに、南側の壁《かべ》に生《お》い茂《しげ》る蔦《つた》(これは今も茂っている)をたよりに、必死の覚悟《かくご》で窓をつたい降り、危《あや》うくも逃《のが》れ出て父のもとへ九マイルの沼沢地《しようたくち》をただ一人、かよわき足で走り去ったのである。
ほどなくしてヒューゴーは客人を残して娘のもとへ飲食物を(おそらくはそれ以外に忌《いま》わしい邪心《じやしん》をも抱《いだ》いて)運んでいったが、籠《かご》の鳥は逃がれてもぬけの空《から》であった。彼は悪鬼のごとくたけり狂い、階段をひと飛びにかけ降りて酒席に乱入するや、客人が囲む大テーブルの上に突《とつ》として躍《おど》り上がり、酒びん、皿《さら》を蹴散《けち》らしてわれ鐘《がね》のごとき声を張り上げ、明日といわず今宵《こよい》のうちに娘を取り返すことさえできれば、この身と心を悪魔《あくま》の前に捧《ささ》げてやると怒号した。
満座の者どもは、荒神が狂うようなヒューゴーの姿を、ただ呆然《ぼうぜん》と見まもるのみであったが、中に誰《だれ》よりも猛々《たけだけ》しい者、いな誰よりも泥酔《でいすい》した者というべきかが、猟犬《りようけん》を放って娘を追わせろと叫《さけ》んだ。それを聞くとヒューゴーは、馬に鞍《くら》おけ、犬舎の戸を開け放てと呼ばわりつつ、悪鬼の形相ものすごく前庭に躍り出るや、娘が残したハンカチを犬どもに嗅《か》がせ、己《おの》れは悍馬《かんば》に一|鞭《むち》を加えると犬と共に月光|冴《さ》える沼沢地をさして飛ぶがごとくに走り去った。
さて、満座の酔漢《すいかん》どもは、意外な椿事《ちんじ》にしばし呆然としていたが、やがてこの荒れ果てた沼沢地に何事が起ころうとしているのかに気がつくと、一同|騒然《そうぜん》として席を蹴って立ち、ある者はピストルを求め、ある者は馬をと叫び、あるいはさらに酒を酒をとわめく者もあり、とかくするうちに心もすこし落着くとともに用意もととのい、総勢十三|騎《き》、くつわを並べて追跡に向かった。皎々《こうこう》たる月光のもと、家路をさして逃れゆくあわれな娘がたどったと思われる方向をさしてひた走った。
やがて一、二マイルほど追ってゆくうちに彼らは沼沢地に夜をすごす羊飼《ひつじか》いに行き会ったので、もしやこのあたりで追跡する猟犬の群れを見なかったかと問いかけると、かの男は恐怖のあまりすぐには答えられない程であったが、やがて、あわれな娘とあとを追う猛犬《もうけん》の一群を見たと答えた。「しかしわしが見たのはそれだけではない」と男は言葉をついで、「ヒューゴー・バスカヴィルが黒毛の馬に跨《またが》って駆けてゆく後からは、神も放つを禁じ給《たも》うという地獄《じごく》の犬が嵐《あらし》のように追いかけて行くのを見た」と。
酔いどれの一団は、口々に羊飼いを罵《ののし》りちらして、なおも馬を飛ばしてゆくと、まもなく彼らは慄然として冷水を浴びたようになった。主《ぬし》なき黒毛の馬が一頭、白い泡《あわ》を口から吹《ふ》いて空《から》の鞍に手綱《たづな》を長く後ろに引き、沼沢地を疾駆《しつく》してくるのにあったのだ。彼らはもし一人であったならすぐにも逃《に》げ帰ったであろうが、衆をたのみ相寄って一団となり、おそるおそる進みゆくと、ついに猟犬の群れを見いだした。けれども犬どもは日ごろの猛々《たけだけ》しさにも似ず、頭をたれ尾《お》を巻いて群れ、物おじしたように逆毛を立て、眼下の深い窪地《くぼち》をのぞきこんでは後ずさりしている様子は、ただごととは見えなかった。
いまは一団の者どもは館を出たときの酒気もさめはて、前の元気はどこへやら、大かたの者は前進をためらったが、中でももっとも気性の荒くれた者三人、いやもっとも泥酔した者というべきか、意を決して窪地へ馬を乗り入れた。窪地の底は案外に広く、中に二つの巨大《きよだい》な巌《いわ》が屹立《きつりつ》していた。これはいつともわからぬ遠い昔、このあたりに住んでいた人々が運んできたものと伝えられている。月は明るく照りわたり、巌の間には怖れと疲労《ひろう》のために、あわれにも命絶えた娘が倒《たお》れ伏《ふ》していた。
ああしかし、彼ら三人の猛者《もさ》が慄然としてうちふるえたのはその娘の死体ではなかった。また娘の近くに倒れているヒューゴー・バスカヴィルの死体でもなかった。それは犬の形をしているけれどもどんな犬にもまして巨大で獰猛《どうもう》な黒い獣《けもの》が、いまやヒューゴーの死体に乗りかかり、喉《のど》もと深く食い入っている物凄《ものすご》い光景であった。しかもその怪物《かいぶつ》はヒューゴーの喉笛を食いちぎるとともに、その下あごに血潮を滴《したた》らせつつ、らんらんたる眼光するどく三人をにらみつけたのである。さすがの荒武者《あらむしや》どもも恐怖のあまり悲鳴をあげてやっとの思いで逃れ去ったが、その中の一人はその夜のうちに生命を落とし、他の二人も魂《たましい》が脱《ぬ》けたような状態になって、廃人《はいじん》として余生を送ったという。
息子たちよ、これがわがバスカヴィル家|累代《るいだい》の怖るべき呪《のろ》いとなった物語の顛末《てんまつ》である。余が特にこれを記録にとどめ置こうとするのは、呪詛《じゆそ》の由来をはっきりと知れば、これを知らずに悩むよりも数段まさると信ずるからである。わが家の正統を継ぐ者の多くが、突如《とつじよ》として神秘なる横死をとげたことは否定できないけれども――願わくは神の無限の慈悲《じひ》がわれらをお守りくださらんことを――神の怒りは三代四代にして解くべしと聖言にもある通り、ふかく神を信じて行為をつつしめば、いかなる呪いものがれられぬということはないであろう。息子たちよ、用心して暗い夜に沼沢地を過ぎてはならぬ。暗いところには必ず悪魔が跳梁《ちようりよう》するであろうから心せよ。
(以上はヒューゴー・バスカヴィルより我《わ》が子ロジャーおよびジョンに、二人の妹エリザベスには何ごとも知らせてはならぬという命令のもとに伝えるものである)
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モーティマー君はこの不思議きわまる物語を読みおわると、眼鏡を額におしあげてシャーロック・ホームズの顔をじっと見やった。ホームズはあくびを一つもらして、巻きタバコの吸殻《すいがら》を火のなかへなげこんで、「それで?」とこともなげに尋《き》いた。
「おもしろいとはお思いになりませんか?」
「そう、お伽話《とぎばなし》の研究家にとってはね」
モーティマー君はこんどは折りたたんだ新聞をポケットからとりだした。
「それではホームズさん、もすこしなまなましいところを一つお耳にいれましょう。これはこの六月十四日のデヴォン新報です。その数日まえにおこったチャールズ・バスカヴィル卿《きよう》の死に関する簡単な記事が出ています」
心もちからだを乗りだしたホームズの顔には、急に熱心のいろが見えてきた。モーティマー君は眼鏡をなおしてその記事を読みあげた。
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次期選挙には中部デヴォンシャーから自由党候補として立つものと予想されていたチャールズ・バスカヴィル卿の最近の急死は、同地方|一般《いつぱん》に暗雲を投じることとなった。卿のバスカヴィル館での生活は比較的《ひかくてき》短期間であったけれども、その温和《おんわ》寛大《かんだい》で人好きのする性格は、彼を知る誰もが尊敬と親密の念を抱かずにはいなかった。近頃《ちかごろ》世をあげて華美浮薄《かびふはく》にながれるなかにあって、悪運のもとに沈《しず》んだ旧大家子孫としてバスカヴィル卿が、独力よく家運の復興に努力していたのは、まったく頼《たの》もしいかぎりであったが、まことに惜《お》しい人をなくしたものである。卿は人も知るごとく南アにおける企業《きぎよう》に大成功をおさめ、巨万の富をなし得た人で、多くの企業家が運に見放されるまで欲をだしてついにその身の潰滅《かいめつ》をまねくのを常とするに反して、よく機をみて適時に事業を切りあげて帰朝したのはじつに明敏《めいびん》というべく、卿がバスカヴィル館に定住することになってから二年にしかならないけれど、諸般の復興に改良に、いろいろと画策していたところ、その大半は氏の逝去《せいきよ》とともに頓挫《とんざ》することになった。子供のない卿は生命のあるかぎりその全財産をあげて地方公共のため尽《つく》すのだとしばしば公言していたから、こんどの急死にあってそれぞれ衷心《ちゆうしん》から哀悼《あいとう》している。なお卿が生前地方公共慈善事業につくしていたことは、しばしば本紙の報道したところである。
卿の急死に関する状況《じようきよう》は、検死でも十分明らかにされなかったといわれるが、少なくともこの地方に行なわれる迷信から流布《るふ》された風評だけは根拠《こんきよ》のないのが明らかとなった。またどの点からみても他殺を思わす理由は認められず、卿の死はあくまでも自然死としか考えられない。卿は先年夫人を失なってから、精神的にいくらか常軌《じようき》にあわない状態にあったといわれる。巨万の富を有するにかかわらず、その日常生活はきわめて簡素、邸内《ていない》の召使《めしつかい》もバリモアという夫婦《ふうふ》ものがいるだけで、夫は執事《しつじ》をつとめ、妻は家政婦として働いていた。バリモア夫妻や卿の友人のいうところを総合すると、卿はまえから健康を害していたものらしく、ことに心臓の故障で顔色すぐれず、呼吸困難があって、はげしい神経衰弱《しんけいすいじやく》の発作《ほつさ》におそわれることがあったという。この点は卿の友人で主治医たるジェームズ・モーティマー氏の証言も一致《いつち》している。
卿の急死の状況は簡単である。チャールズ・バスカヴィル卿は毎夜就眠前に、邸内の有名な水松並木《いちいなみき》の路《みち》を逍遥《しようよう》する習慣があった。このことはバリモア夫妻も証言しているが、六月四日、卿は翌日ロンドンへ行くつもりだといい、バリモアに手荷物の準備を命じた。そしてその夜も例のとおり葉巻を手にして夜の散歩に出ていったが、そのまま永久に帰らなかったのである。バリモアは十二時になっても玄関《げんかん》のドアが開け放しになっているのを見て疑念をおこし、角灯をつけて主人を捜《さが》しに出かけた。その日は雨がすこし降ったので、庭の小路に卿の足跡《あしあと》がはっきり残っていたが、この小路のなかほどに沼沢地のほうへ出られる小門があって、そのあたりには卿がしばらく立ちどまった形跡《けいせき》があった。しかし足跡はそこからなおも小路をすすんでいて、その小路のつきるところに卿は死体となって倒れていたという。
なお不思議なのは、小門のあたりから足跡の様子がひどく変っていて、卿は爪先《つまさき》で歩いたらしいとバリモアは証言している。その夜ちかくの沼沢地にいたマーフィというジプシーの馬商人は、たしかに叫び声を聞いたといっているけれど、同人はひどく酔っていた様子で、その声がどっちの方角から聞こえたかという点になると、はっきりしない。死体には暴行を受けた形跡はない。ただ顔面にはいちじるしい苦悶《くもん》のあと――モーティマー医師もはじめは死体を友人であるチャールズ卿と認めないほど顔が変っていた――があるが、これは呼吸困難や心臓疲弊《しんぞうひへい》による死の場合にはめずらしくない現象だといわれる。死体解剖《したいかいぼう》の結果、内臓が宿痾《しゆくあ》に冒《おか》されていることがわかったので、検死《けんし》陪審団《ばいしんだん》も医師の診断《しんだん》にもとづいて「他殺ニアラズ」の評決を下した。一日も早く後継者《こうけいしや》がバスカヴィル館に定住し、この不幸のため一時中絶のやむなきに至った卿の事業を継続されることが強く望まれるのだから、卿の急死に問題のなかったのは何よりである。いずれにしても今回の卿の急死に関連して流布された非現実的なうわさも、判官諸公の明断によって根本的に打破されたからよいようなものの、さもないかぎりバスカヴィル館は住み手がなくなるのではないかと危《あや》ぶまれた。遺産は故チャールズ卿にもっとも近い血縁者《けつえんしや》として、令弟の子息ヘンリー・バスカヴィル氏が相続することになっているが、氏は最近の消息が不明になっており、さきごろまでアメリカにいたともいわれるので、目下各方面を調査中の由《よし》。
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読み終ると、モーティマーは新聞をたたんでポケットへもどしながらいった。
「ホームズさん、チャールズ・バスカヴィル卿の死に関して、世間に知られていることはまずこれだけなのです」
「いや、ありがとう。おかげでこれは調べてみたら、たしかにおもしろくなりそうです。当時の新聞でちょっと見ることは見たのですが、ヴァチカンのカメオ事件というちょっとした事件で忙《いそが》しく、ローマ法王を何とか安心させてやりたいと一生懸命《いつしようけんめい》だったので、イギリスでのおもしろそうな事件をいくつかとり逃してしまいました。それで、公表されているのは、そこに出ている事実で全部なのですね?」
「そうです」
「それではつぎに、公表されていない事実のほうを聞かせてください」とホームズは椅子《いす》の背にもたれて、両手の指さきと指さきをつきあわせ、平然と身がまえた。
「お話はいたしますが」とモーティマーはある強い感情の動きをみせていった。「これはまだ誰《だれ》にも、検死官の前ですら話さなかったことなのです。というのは、科学者の立場にある私が、通俗な迷信《めいしん》を是認《ぜにん》すると、世間から考えられるのを恐《おそ》れたからです。それにもう一つ、新聞にもあります通り、そうでなくてもとかく噂《うわさ》のあるところへ、この上余計なことをいっては、バスカヴィル館《やかた》の後継者になり手がなくなると思ったからです。というわけで、なるべく口数をつつしんでいたわけですが、あなたには何事もつつみ隠《かく》す必要はありませんから、すっかり申しあげましょう。
いったいその沼沢地方はいたって住民の少ないところでして、自然、近所づきあいはごく盛《さか》んです。おなじ理由で私はチャールズ・バスカヴィル卿とは頻繁《ひんぱん》に往来していました。ラフター邸《てい》のフランクランドさんと博物学者のステープルトン君を除けば、その界隈《かいわい》何マイルというもの、教育のある人は皆無《かいむ》といってよいのです。チャールズ卿は隠退《いんたい》の身ですけれど、病気をみてあげたのが縁で、おたがいに科学に興味を持つところから共鳴して、とくに親しくしていたわけです。ことに卿は南アフリカからもち帰った科学上の話題をたくさん持っていましたので、ブッシュ族とホッテントット族の比較解剖学を論じあったりして、愉快《ゆかい》な一夜をすごしたこともたびたびありました。
最近の二、三カ月というもの、チャールズ卿の神経組織が極度の危険にひんしていることが、私にはよくわかっていました。そしてさきほど読んでお聞かせした伝説物語をひどく気にしましてね、屋敷《やしき》の中の散歩だけはあい変らず止《や》めませんでしたけれど、夜分沼沢地へ出てゆくようなことは、どんな場合にもありませんでした。ホームズさん、あなたには信じられないでしょうが、自分の家系にはのがれがたい呪《のろ》いの悪運がつきまとっているものと信じきって、せっかく先祖の書きのこしてくれた書類もほとんど役にはたちません。たえず怪《あや》しいもののけの影《かげ》が眼《め》さきにちらついて、夜分に往診でもしますと、そのへんで何か怪しいものでも見るか、犬の吠《ほ》えるのを聞かなかったかと、おそろしそうに私にたずねたことも、一度や二度ではありませんでした。ことに犬の声のことを尋《き》くときは、いつでも声がいくらか震《ふる》えるほどの興奮をみせました。
こんどのことのある三週間ばかり前のある晩、私が館へ馬車を乗りつけたときの光景は、いまでもはっきりと覚えています。そのときチャールズ卿は偶然《ぐうぜん》入口のドアのところにいあわせて、私が馬車を降りて卿と向きあって立ちますと、ひどい恐怖《きようふ》にがたがた震えながら私の肩《かた》ごしに、じっと向こうを見すえていますので、何事かと思ってよくよく見ますと、そのとき大きな仔牛《こうし》のような黒いものが、私の馬車のわきを通るのがちらりと見えました。チャールズ卿があまり騒《さわ》ぐので、私はその怪物のみえた場所まで出ていって、あたりを見回しましたが、もうそのときは何もおりませんでした。でもそのためにチャールズ卿の受けた精神的|打撃《だげき》はひどいものでした。その晩はずっとそばについていましたが、さきほどお聞かせした妙《みよう》な書類の保管を托《たく》されたのもそのときのことです。この何でもないことは、つづいて起こった悲劇に重大な関係があるように思われますから、お話しておく次第《しだい》ですが、当時は何だつまらない、何をそんなに大騒ぎをするのだくらいにしか思っていませんでした。
チャールズ卿がロンドン行きを思いたったのは、まったく私の助言によるものでして、なにぶん心臓が弱っているところへ、ねてもさめても不安な思いにとざされていては、たといその原因はつまらぬことであっても、健康上もっとも憂《うれ》うべきは明らかですから、二、三カ月都会生活をして、心機を一転すれば、生まれかわったようによくなると思ったのです。おたがいの友人ステープルトン君も、卿の健康ということにはだいぶ心を痛めてくれましたが、結局私と同じ意見でした。それでいよいよロンドンへ出ることになったのですが、それがたった一日の差で、取りかえしのつかないことになってしまいました。
チャールズ卿の逝《な》くなった晩に執事のバリモアが――この男が最初に死体を発見したのですが――馬丁《ばてい》のパーキンズを馬で私のところへよこしてくれましたので、ちょうど私はその晩おそくまで起きていましたから、事件後一時間以内にバスカヴィル館へ到着《とうちやく》できました。そして誰彼の話を一応ききとったうえで、いちいち調べてみました。まず足跡をたどって水松《いちい》の並木路へ出てみますと、なるほど沼沢地《しようたくち》のほうへ出る小門のところで、しばらく立ちどまったらしく、足跡が乱れていました。そしてそれからさきは、足跡の様子が変っていました。ほかの足跡としてはバリモアのものがあるばかりでした。それだけのことを確かめてから、死体を注意ぶかく調べてみました。死体は私のゆくまで誰も手を触《ふ》れてはいませんでした。チャールズ卿はうつ伏せになって両腕《りよううで》をのばし、手は地面をつかむようにしていましたが、顔ははげしい感情の激動《げきどう》にひきつれて、ひと目みたときは、これがチャールズ卿かと怪しんだほどです。からだには一カ所も傷はありませんでした。その点は確実ですが、バリモアは検死官の査問のとき、一つだけ間違《まちが》った答弁をしています。と申すのは、死体の付近の地上には何の痕跡《こんせき》もなかったとバリモアは答えましたが、これは気がつかなかったのですね。私は、少しはなれたところですけれど、新しくてはっきりした痕跡のあるのを見つけました」
「足跡ですか?」
「ええ、足跡です」
「男のですか、女のですか?」
モーティマーは変な顔をして私たちをちょっと見てから、急に声を落として、ほとんどささやくように答えた。
「ホームズさん、それがじつは巨大な犬の足跡なんですよ!」
第三章 問題の鍵《かぎ》
白状するが、私はこれを聞いてぞっと身ぶるいがした。モーティマー君の声も震えをおびていたのをみれば、彼もまた自分の話にふかく動揺しているのだろう。夢中《むちゆう》になってからだを前へのりだしたホームズの眼も、鋭《するど》く輝《かがや》いてきた。ホームズのこの眼つきは、いつでも彼《かれ》が強く関心を持ったことを示すものなのだ。
「あなたは見たんですか?」
「正真正銘《しようしんしようめい》、これっぽっちも間違いはありません」
「そのことは誰《だれ》にも話してないでしょうね?」
「話しても無益なことです」
「誰もそれに気がつかなかったというのは、どうしてでしょう?」
「その足跡は死体から二十ヤードばかりも離《はな》れたところにあったので、気にもとめなかったのですね。私にしてもこの伝説を知っていなかったら、もちろん気はつかなかったと思います」
「沼沢地には、牧羊犬がたくさんいるでしょうね?」
「もちろんそれはいます。でもあれは決して番犬の足跡ではありませんでした」
「大きかったといいましたね?」
「おそろしく大きな犬の足跡でした」
「しかしそれはチャールズ卿の身辺に近づいてはいなかったのですね?」
「そうです」
「その晩はどんな晩でした?」
「しめっぽくて、うすら寒い晩でした」
「しかし降ってはいなかったのですね?」
「そうです」
「並木路というのはどんなところです?」
「八フィートくらい幅《はば》のある路の両側に、高さ十二フィートくらいの水松《いちい》の古い生垣《いけがき》がありまして、生垣は間をくぐりぬけられないほど水松が密生しています」
「生垣と路との間はどうなっています?」
「そこは両側とも幅六フィートばかりの芝生《しばふ》があります」
「すると生垣は小門以外のところは通りぬけられないわけですね?」
「そうです。沼沢地へ出られる小門があるだけです」
「ほかには出口はまったくないのですね?」
「ありません」
「してみると、反対に、その並木路へ入るには、屋敷のほうから行くのでなかったら、その小門を通って沼沢地から入るしかないわけですね?」
「屋敷とは反対側の、並木路のはずれにある東屋《あずまや》を通っても入れます」
「卿はそこまで行っていましたか?」
「いいえ、そこから五十ヤードばかり手前のところで倒《たお》れていました」
「ふむ、なるほど。ではモーティマーさん、これは大切なことですが、あなたが見たという足跡は、路にだけあって芝生のうえにはなかったのですね?」
「芝生には足跡がのこりませんから……」
「足跡は路のどっち側にありました? 沼沢地側ですか?」
「そうです。小門のあるほうの側の路のふちにありました」
「ふむ、ますますおもしろい。ではもう一つ、小門は閉まっていましたか?」
「閉めて錠《じよう》をかってありました」
「門の高さはどれくらいです?」
「四フィートくらいです」
「そんなものは、誰にでも飛びこえられますね?」
「もちろんです」
「それで、門のそばにはどんな痕跡がありました?」
「べつに痕跡はありませんでした」
「おやおや、誰も調べてはみなかったのですか?」
「いいえ、私が自分で調べてみました」
「しかし何も見あたらなかったのですね?」
「そのへんはめちゃめちゃになっていました。チャールズ卿がそのへんで五分か十分も立ちどまっていたものと見えます」
「どうしてそんなことがわかります?」
「そのあたりに葉巻の灰が二カ所もおちていたからです」
「うまい! ワトスン君、この人はたしかにわが党の士だね。それで足跡のほうは?」
「チャールズ卿はそのへん一面に、小さく地面のむきだしになった上に足跡をのこしていました。ほかの人の足跡はまじっていなかったと思います」
シャーロック・ホームズはもどかしげにひざをぴしゃりとたたいた。
「僕《ぼく》がその場にいさえしたらなあ! そこがもっとも興味のふかいところなんだ。科学的な熟練をつんだものには、無限の好機だったんだがなあ。僕がいあわせさえしたら、その砂文字からどんなことでも読みとったものを、あれ以来雨にうたれたり、物見だかい百姓《ひやくしよう》の木靴《きぐつ》で踏《ふ》みにじられたり、いやじつに惜《お》しいことをしました。モーティマーさん、どうしてそのときすぐに私を呼んではくれなかったのです? これはあなたの大きな責任ですよ」
「来たくても来れなかったのですよ。来れば世間に秘密がぱっと広まりますし、さきほども申す通り、それは困る理由があります。それに……それに……」
「それに何ですか? いってごらんなさい」
「世の中には、いかに老巧《ろうこう》熟練な探偵《たんてい》にも、不可解な神秘というものもありますからね」
「というとあなたは、これを超自然的《ちようしぜんてき》な事件だとおっしゃるのですか?」
「必ずしもそうと断言はしませんが……」
「断言はしなくても、内心そう信じているんですね?」
「あの事件以来、自然の法則ではどうしても説明しがたいことを、いろいろと耳にするものですから……」
「たとえば?」
「現にこんどの事件のおこるまえに、沼沢地で、バスカヴィル家の祟《たた》り犬らしい怪物《かいぶつ》の姿を見たものがたくさんあるそうですが、だいいちそれが今日の動物学上知られていない怪物なのです。見た者に聞いてみますと、ぼうっと青く光る大きな動物だと一致《いつち》しています。私はその連中によく問いただしてみましたが、一人は頑固《がんこ》な田舎者《いなかもの》、一人は獣医《じゆうい》、もう一人は沼沢地の百姓でして、そのいうところは一様に、バスカヴィル家の伝説にある地《じ》獄犬《ごくいぬ》の姿に一致していました。ですから今ではあの地方の人たちはまったく恐怖に捕《とら》われて、よくよく剛胆《ごうたん》な男でも、夜中に沼沢地を通過する者はない有様です」
「そして科学者であるあなたまでが、その怪談をすっかり信じこんでいるのですね?」
「私は何を信じてよいかわかりません」
ホームズは肩をすくめた。「私はいっさいの研究を現実の範囲内《はんいない》ということに限定してきました。私は謙虚《けんきよ》に悪と闘《たたか》ってきましたけれど、悪魔をとって押《お》さえようというのは、ちと野心がふかすぎますからね。それにしても、その足跡だけは現実にあったのでしょう?」
「物語の中の犬は、人間の咽喉笛《のどぶえ》にかみついたというほど具体的なものですが、しかもやはり魔性《ましよう》を発揮《はつき》していますからね」
「あなたもずいぶん超自然派なんですね。それでいったい、そういうあなたが、私のところへ相談においでになったのはなぜですか? ご自身チャールズ卿《きよう》の死は説明不可能の問題だという口の下から、私にその説明をあたえろとおっしゃるのはどうしてです」
「いえ、必ずしもそこまでお願いしたいと申したわけではないのです」
「では、ご相談とおっしゃるのはいったい何です?」
「ご相談と申しますのは、つまりヘンリー・バスカヴィル卿をどういうふうにしたらよいか、ご意見がうかがいたかったので」とモーティマーは懐中時計《かいちゆうどけい》を出してみながらいった。「いまから一時間十五分後に、ウォータールー駅へ着くことになっているのです」
「相続する人ですね?」
「そうです。チャールズ卿が亡《な》くなりましたので、みんなであちこち問いあわせた結果、カナダで農業に従事しているとわかったのです。手に入った説明によりますと、申し分のないりっぱな若紳士《わかしんし》のようです。これは一人の医師としてではなく、故チャールズ卿の遺言執行者《ゆいごんしつこうしゃ》として申しておるわけです」
「ヘンリー君以外に相続の配分を受ける権利者はないのですね?」
「一人もありません。ほかに故人の血縁者《けつえんしや》として私どもの知り得たかぎりでは、ロジャー・バスカヴィルという人があるばかりでして、この人はチャールズ卿をかしらに三人兄弟のうち末弟なのです。二番目は早く亡くなりましたが、こんどのヘンリー君はそのかたの子息なのです。末のロジャーというのは一家のもてあましもので、バスカヴィル家の専横な祖先の悪い血を受けて生まれたとみえまして、顔かたちまでヒューゴーの肖像《しようぞう》にそっくりだということでしたが、とうとうイギリスにもいたたまれなくなって、中央アメリカへ走り、そこで黄熱病にかかって一八七六年に亡くなったといいます。ですから現在ではバスカヴィル家の血を受けた人といっては、ヘンリー君ひとりきりなのです。そのヘンリー君がいまから一時間五分後にはウォータールー駅へ着くのです。けさサウザンプトンへ着いたという電報がきてますが、ホームズさん、これからいったいどういう処置をとったらよいでしょう?」
「ヘンリー君はそのまま自邸《じてい》へ入ればいいじゃありませんか」
「それがいかにも当然のことのようではありますが、でもバスカヴィル家に入る者には、必ず不吉《ふきつ》な悪運のつきまとうことを考えてみてください。チャールズ卿も死ぬまぎわに私と話ができたら、由緒《ゆいしよ》ある旧家の一粒《ひとつぶ》だねで、しかも巨万《きよまん》の富の相続者たる人を、こんな恐《おそ》ろしい家へ住まわせるのは見あわせるようにと、必ず注意したかったことと思います。ところが一面から考えてみますと、ヘンリー君があの館《やかた》に住みつくか否《いな》かは、領内|一般《いつぱん》の安危にかかわる問題でもあることは否定できません。あの館に住み手がなくなれば、せっかくチャールズ卿が手をつけた公共の事業もダメになってしまいます。この難問を解決するのには、私は少しでも私情をはさんではならないと思いますので、それでこうしてあなたのご意見がうかがいたくてあがったのです」
ホームズはしばらく黙考《もつこう》してからいった。「一言でいえばあなたのご意見は、ダートムアの地には悪魔がいるから、バスカヴィル家の人には危なくて住めない、とこういうのですね?」
「少なくとも、それについてはりっぱに証拠《しようこ》をあげることもできると思っています」
「なるほど。しかしかりにあなたの超自然的説明があたっているとすれば、ヘンリー君はロンドンにいてもデヴォンシャーの館にいるのと同様に、悪運にみまわれ得《う》るはずではありませんか。教区牧師みたいに、悪魔の通力がある一区域だけにしか働き得ないとするのは、信じられませんからね」
「ホームズさん、あなたは問題に直接の関係がないので、そういうことをおっしゃるけれど、じっさい事件|渦中《かちゆう》の人物になってみたら、なかなかそうはまいりますまい。それではあなたはヘンリー君はデヴォンシャーへきても、ロンドンにいるのと同様に安全だとおっしゃるのですね? もう五十分しかありません。いったいどうしろとおっしゃるのです?」
「あなたはこれから馬車をよんで、表で待ちくたびれてドアをがりがりひっ掻《か》いているスパニエル種の犬をとき放して、ヘンリー・バスカヴィル君を迎《むか》えにウォータールー駅へおいでになったらよいでしょう」
「それで?」
「それでヘンリー君には、私がよく考えて心の決まるまで、何もいわないでおいたらよいでしょう」
「それにはおよそどのくらいの時間がかかりますか?」
「二十四時間です。モーティマーさん、明日の午前十時にここまでご足労ねがえますと、たいへん好都合です。なおそのときヘンリー・バスカヴィルさんをご同伴《どうはん》ねがえましたら、私として将来の計画に大いに役だつと思います」
「お言葉にしたがいます」
モーティマーはワイシャツのカフスの上に約束《やくそく》の走り書きをしてから、何か一心に考えこむらしく、放心したような態度で急いで出ていった。するとホームズはそれを階段の上まで追って呼びとめた。
「モーティマーさん、もう一つだけうかがいますが、チャールズ卿の亡くなるまえに、沼沢地《しようたくち》で怪《あや》しいものの姿を見たという人は、幾人《いくにん》もあるといいましたね?」
「三人ありました」
「その後に見た者がありますか?」
「そんな話は聞いておりません」
「ありがとう。それでは……」
自分の席へもどったホームズの顔いろは、内心の満足で和《やわ》らいでいた。これは仕事が気にいったことを物語るものだった。
「ワトスン君、出かけるのかい?」
「用があるなら、出かけなくてもいいよ」
「いや、君の手を借りるのは、いよいよ仕事にかかってからさ。しかしこんどのはすばらしい。ある点からいえば、まったく特異な事件だよ。ブラッドリーの店の前を通ったら、いちばん強いシャグタバコを一ポンド届けさせてくれないか。たのむ。それに晩まで帰ってこないような都合にしてくれるとありがたいのだがな。そして晩には、いま聞いたおもしろい問題に対する二人の感想を比較《ひかく》してみるのもきっとおもしろいと思うよ」
あらゆる証拠の小さい部分を考察し、いくつもの仮定をつくってその比重をあらため、どの点が重要で何が取るにたらぬかを決定するために、精神を集中してふかい黙想にふけるときには、ホームズにとって孤独《こどく》の籠居《ろうきよ》がなによりも必要なのだということをよく知っているから、私はその日は終日クラブですごして、晩までベーカー街へは帰らなかった。再び私が居間に戻《もど》ったのは九時にちかかった。
帰ってきて、部屋のドアをあけたとたんに、さては火事かと思った。テーブルの上においたランプがかすむほど、室内はもうもうと煙《けむり》がたちこめていたからである。しかし入ってみると、それはむせて咳《せ》きいるほどの安タバコの刺激的《しげきてき》な煙だとわかって、ほっとした。煙をすかしてみると、ホームズはガウンにくるまって黒い陶製《とうせい》のパイプを口に、ひじ掛《か》け椅子《いす》の中にとぐろをまいているのだった。あたりには紙を巻いたものが散乱している。
「ワトスン君、風邪《かぜ》でもひいたのかい?」
「なに、このひどい煙のせいだよ」
「なるほど、そういえばだいぶ煙っているね」
「煙っているとも! これじゃたまらないよ」
「じゃ窓を開けたまえ。今日は一日クラブにいたね?」
「えッ、どうしてわかるんだい?」
「あたったろう?」
「大あたりだ。しかしいったいどうして……」
私が不思議がるのを見て彼《かれ》は笑った。
「君はばかに元気なようだが、そうなるとちょっとばかり推理力を活用してみたくもなるんだよ。いいかい、ここに紳士がいる。雨ふりつづきで路《みち》のぬかるむ日に外出しながら、帰ってきたのを見ると帽子《ぼうし》も靴《くつ》も雨や泥《どろ》によごれていないとすると、その紳士は終日どこかへ閉じこもっていたと見てよかろう。しかるにその紳士には親しい友人なんかない。ではどこに潜《もぐ》りこんでいたのだろう? どうだい、これでわかったかい?」
「わかりすぎたよ」
「世のなかは誰《だれ》にでもわかることで満ちているのに、誰も十分|眼《め》がとどかないだけのことさ。僕は今日何をしていたと思う?」
「やっぱり閉じこもっていたんだろう?」
「おおちがい。デヴォンシャーまで行ってきたよ」
「魂《たましい》だけがかい?」
「そうさ、からだだけは一日じゅうこうしてひじ掛け椅子にいたさ。気がついてみたら、魂の留守中にコーヒーを大きなポットに二|杯《はい》と、タバコをびっくりするほどたくさん喫《の》んでいたよ。君が出かけてから、僕はスタンフォードの店から軍用のデヴォンシャー地図をとりよせて、魂だけは一日じゅうそこの沼沢地方を彷徨《ほうこう》していた。ちっとも迷わずに自由に往来できたからたいしたもんだ」
「縮尺の大きい地図なんだろうね?」
「うんと大きいのだ」と彼はその一枚をひざの上でひろげた。「見たまえ、これが問題の地方だ。中央にバスカヴィルの館がある」
「周囲に森があるだろうね?」
「ある。水松《いちい》の並木《なみき》というのは、名前は出ていないけれど、ここのところが沼沢地だから、その左側のところに、たぶんこういうふうにあるのだと思う。ここのところに家が少しばかり集まっているのがグリンペンの寒村で、モーティマー博士の家のあるところだ。見たまえ、ここから五マイル以内には家もほとんどないさびしい場所だ。これがさっきの話のラフター邸だ。こっちのこの家がステープルトンとかいった博物学者の家なんだろう。ここに沼沢地の百姓の家が二|軒《けん》出ている。ハイ・トールとフールマイヤーというのだ。十四マイルさきにはプリンスタウンの刑務所《けいむしよ》がある。ここらあたり一帯が人気《ひとけ》の少ない荒涼とした沼沢地で、僕たちの活動を待つ悲劇の舞台《ぶたい》なんだ」
「さびしい荒《あ》れ地らしいね」
「そうさ、背景は申し分がない。もし悪魔がわるさをする気になったら……」
「おやおや、超自然説にかぶれてきたね」
「待ちたまえ。悪魔はいないにしても、悪魔の手先のような人間はいくらもいるからね。そこでまず問題は二つあることになる。第一は、はたしてここで犯罪が行われたのかどうか、第二は、犯行があったとして、どんな犯罪がいかにしてなし遂《と》げられたかだ。もしもモーティマー君の憶測《おくそく》があたっていて、自然の法則をもって律することのできない魔物の力が働いているのなら、もちろんわれわれの出る幕ではない。しかしいよいよそれと決まるまでは、いろんな憶測は全部これを排除《はいじよ》してかからなければならない。ワトスン君、もう窓を閉めようじゃないか。少し突飛《とつぴ》かもしれないが、僕は空気を集中させることが、精神の集中に役だつと思う。熟考するためにみずから箱《はこ》のなかへ入る、というところまではいかないにしても、これは信念からきた理論的結論なのだ。ときに君は事件を詳《くわ》しく考えなおしてみたかい?」
「今日一日じゅうよく考えた」
「それでは結局のところどう思う?」
「ほとほと持てあましたね」
「たしかに難問は難問だね。しかし判然とわかっている点もある。たとえば足跡《あしあと》の変化なんかそうだが、あれを君はどう思う?」
「モーティマーは水松の並木路の一部を、爪先《つまさき》だって歩いているといっていたね」
「あの男はどこかのまぬけが査問廷《さもんてい》でいったことを、そのままいっただけのことさ。並木路を散歩するのに、爪先だって歩く男がどこにいるものかね」
「じゃどうしたというのだい?」
「走ったのさ。むやみと走ったのさ。命がけで走って、ついに心臓が破裂《はれつ》してぱったり俯《うつ》ぶせに倒《たお》れたのさ」
「なんのため走ったのだろう?」
「そこが考えるべき問題なのさ。走りだす前は、恐怖《きようふ》のため夢中《むちゆう》になっていた形跡《けいせき》がある」
「なぜそんなことがわかる?」
「恐怖の原因は沼沢地からきたものと思われるが、本当にそうだとすれば、そしてそれが最も事実らしく思われるのだが、屋敷《やしき》のほうへ逃《に》げないで、反対のほうへ走りだしたというのは、よくよく正気を失なっていたものと思わなければならない。ジプシーの証言を正しいものとすれば、悲鳴をあげながら救いをもとめて、救われそうな見こみの最も少ない方角へむかって走ったことになる。次に考えなければならないことは、では彼はそこで誰を待っていたのか? またなぜ家のなかで待っていないで、わざわざ水松《いちい》並木まで出かけて待っていたのか?」
「君はチャールズ卿が誰かを待っていたと考えているのかい?」
「チャールズ卿は年も年だし、健康がすぐれなかった。その人が晩になってから散歩するというのは頷《うなず》けるが、雨あがりでうすら寒く、そとは道のわるい晩だった。そういう晩に、モーティマー君が柄《がら》にもなく葉巻の灰から推定したように、五分も十分も目的なしに立っていたというのは、少し不自然じゃなかろうか?」
「だって卿は毎晩散歩する習慣だったというじゃないか」
「しかし毎晩小門のところに佇《たたず》んでいたというのは少し変だね。それどころか、証拠によれば、卿は沼沢地を避《さ》けてさえいたという。それにもかかわらず、その晩はそこに佇んでいたという。翌日はロンドンへ向けて出発するはずだった。どうだいワトスン君、だんだんに何かがまとまってくるじゃないか。それよりもちょっとそのヴァイオリンを取ってくれたまえ。これからさきのことは、あしたの朝モーティマー君がヘンリー・バスカヴィル卿を連れてくるまでのお楽しみに残しておこうよ」
第四章 ヘンリー・バスカヴィル卿《きよう》
私たちは朝食を早くすませた。ホームズは約束《やくそく》の客を待つためガウンを着こんでいた。客はきちんと約束の時刻にたずねてきた。時計が十時を報ずるのと、案内を受けたモーティマー医師が若いヘンリー従男爵《*じゆだんしやく》【訳注 バスカヴィル家は従男爵です。この爵位は世襲です】をともなって入ってきたのとほとんど同時であった。ヘンリー卿は小柄で身がるで瞳《ひとみ》のくろい三十くらいの紳士《しんし》で、しゃんとしたからだつきの、眉毛《まゆげ》は黒く太く、気の強そうな風貌《ふうぼう》であった。赤っぽいツイードの服を着ているが、日にやけたその顔は野外の生活をしてきたことを物語っていた。にもかかわらずその落ちついた眼《め》つきと静かな態度は、紳士であることを示していた。
「ヘンリー・バスカヴィル卿です」モーティマーが紹介《しようかい》した。
「初めてお目にかかります。じつはホームズさん、私はモーティマー先生に連れて来られなくとも、おうかがいするつもりでいました。ご名声はかねて承《うけたまわ》っておりましたし、じつは今朝ほど合点《がてん》のゆかぬことが起こったものですから……」
「まあお掛けください。お話はロンドンへご到着後《とうちやくご》に、なにか異常なことでも起こったというのですか?」
「なあに、つまらないことなんですがね。じつは手紙――というのも変なくらいなんですけれど、今朝こんなものを受けとったのです」
といって従男爵は封筒《ふうとう》に入ったものをテーブルの上においた。私たちはみんなでそのまわりに額をあつめたが、それは灰いろがかった普通《ふつう》の封筒で、ノーサンバランド・ホテル気付ヘンリー・バスカヴィル卿と下手な字で宛名《あてな》が書いてあった。前夜のチャリング・クロス局の消印がおしてある。
「あなたがノーサンバランド・ホテルに宿をとることを誰か知っていましたか?」ホームズは相手の顔を鋭《するど》く見つめた。
「誰も知っているはずはないのです。モーティマーさんに駅でお目にかかってから、そこに宿をとることにきめたのですから」
「でもモーティマーさんは、むろんそこへ泊《と》まっておいでなのでしょう?」
「いいえ、私は友人の家へ泊まっているのです。ですから私がヘンリー卿をそのホテルへ案内するということを、誰ひとり知るはずはないのです」
「ふむ! あなたがたの行動をきわめて熱心に監視している者があると見える」
ホームズは封筒の中から半截《はんせつ》のフールスカップを四ツ折にした紙を取りだして、テーブルの上にひろげた。見るとその中央にただ一文『生命を惜《お》しむの理性があらば、沼沢地に近づくなかれ』と、印刷された文字を切りぬいて、一字ずつ糊《のり》で貼《は》りつけてあった。そしてその中の沼沢地(moor)という字だけがペンで書いてある。
「ホームズさん、一体これは何でしょう? 私にはさっぱりわかりませんが、私の一身上の問題にこうも干渉《かんしよう》するのは何者でしょうか?」
「モーティマー先生はどうお考えです? とにかくこうなってみると、超自然的《ちようしぜんてき》なところはないようですね」
「ありませんね。それにしてもこれは、事件を超自然的に解している者から送ってきたのかもしれませんよ」
「事件とは何の事件ですか?」ヘンリー卿がすかさず尋《き》きかえした。「何だか私の一身上の問題に関して、あなたがたのほうがはるかにお詳しいように考えられますが?」
「お帰りまでにはわかりますよ。何なら約束してもよいです。それよりもまずこの興味ある手紙のほうから片づけましょう。この手紙は昨晩つくりあげて出したものにちがいありませんね。ワトスン君、昨日の『タイムズ』なかったかねえ?」
「部屋のすみにあるよ」
「ちょっと取ってくれたまえ。中のページの、そうさ、社説欄《しやせつらん》だな」とホームズはそのページの上から下まで眼をはしらせた。「ああ、この自由貿易に関する論説だな。ちょっと拾い読みしてみよう。――『保護関税法を実施《じつし》すれば、特殊《とくしゆ》の貿易なり産業なりの発達を促進《そくしん》し得《う》るかのごとく思いこみがちであるが、すこし理性をはたらかせれば、このような制度が惜しむらくは国家を窮乏《きゆうぼう》に近づかせ、輸入の価値を減退させ、ひいてはこの島国民|一般《いつぱん》の生命をも脅《おび》やかすことになることがわかるであろう』どうだいワトスン君、じつにうまいことを考えだしたもんだね!」ホームズは大いに元気づいて、満足そうに両手をこすりあわせた。
モーティマー医師は職業的興味をいだいた様子でホームズの顔をみつめた。ヘンリー・バスカヴィル卿は当惑《とうわく》げにその黒い眼を私のほうへ向けて、救いを求めるようにいった。
「私は関税率のこととか、そういう方面のことはあまり存じません。それにしてもその社説は、目下の問題からは少し外《そ》れているように思われますが……」
「ところが正反対です。われわれはいま問題のどまん中にいるのですよ。このワトスン君はあなたがたに比べたら、私のやりかたをよく知っているほうですが、それですらこの記事の意味をほんとに理解しているかどうか、怪《あや》しいもんだと思いますけれどね」
「正直のところ、僕《ぼく》には関連性がわからない」
「ところが関連性は大あり、一方は一方から抜《ぬ》きだしたものなんだよ。この手紙にある生命、惜しむ、理性、近づく、などの字をどこから切り抜いたか、わかりそうなものじゃないか?」
「なあるほど! でもあんまり器用すぎるじゃありませんか?」ヘンリー卿が頓狂《とんきよう》な声をあげた。
「多少の疑念があるにしても、『生命を』で一|片《ぺん》になり、『惜しむ』で一片になっているのを見れば、もはや決定的といえます」
「なるほど、うむ、それはそうですねえ」
「ホームズさん、あなたにこれほどのご明断があろうとは、失礼ながら今まで思いもよりませんでした」モーティマー医師は眼をまるくしてホームズを見つめた。「これが新聞から切りぬいたというだけなら、さほど驚《おどろ》きもしませんが、新聞の名をいいあてた上に、社説欄だということまでひと目で看破《みやぶ》れるにいたっては、実に驚きいるのほかありません。いったいどうしてわかったのですか、お聞きしたいものですねえ」
「モーティマー先生は、黒人とエスキモー人との頭蓋骨《ずがいこつ》は容易に判別できるでしょうね?」
「それは何でもないことです」
「どうして判別します?」
「それは私の道楽でもあるからです。明らかな相違点《そういてん》があります。眼窩上《がんかじよう》の隆起線《りゆうきせん》、顔面角度、顎骨《がくこつ》の曲線、それに……」
「そうでしょう。同じようにこれが私の道楽なのです。やはり明らかな相違があります。あなたに黒人とエスキモーの頭蓋骨の区別が明らかなように、私の眼には『タイムズ紙』の九ポ活字とやすい夕刊紙の粗悪な印刷とでは、大きな違《ちが》いがあるのです。活字の判別ということは、犯罪学入門の一科目です。もっとも私はずっと若いころ、『リーズ・マーキュリー紙』と『ウェスタン・モーニング紙』を間違えた失敗もやっていますけれど、『タイムズ』の社説欄は何といっても間違う余地はありません。この字は決してほかのところから切りぬいてきたものじゃないです。それにこの細工は昨日やったことがわかっているのですから、昨日の新聞から切りぬいたとにらむのはきわめて自然でしょう」
「なるほど、そこまではよくわかります。誰かがこの文字を鋏《はさみ》で切って……」とヘンリー卿がいいかけたのをホームズは引きとっていった。
「つめきり鋏ですな。よく見るとごく小さな鋏で切ったことがわかります。この『惜しむ』という字の長いほうは、鋏を二度つかってあるでしょう?」
「なるほど、そうですね。すると何者かがごく小さな鋏で切りとって糊で貼りつけて……」
「ゴム糊です」ホームズがまた訂正《ていせい》した。
「ゴム糊で大きい紙に貼りつけたわけですね。しかし沼沢地という字だけがなぜペンで書いてあるのでしょう?」
「その字だけが新聞に見あたらなかったからです。ほかの字はごく普通につかう字ですから、毎日の新聞に出ていますが、沼沢地という字は、めったに用のない字ですからね」
「なるほど、それで説明はつきますね。そのほかこの手紙について、何かお気のついたことはありませんか?」
「注目すべき点の二、三ないではありませんが、手掛《てが》かりを残さないように、よくよく苦心していますね。宛名はこの通り乱暴な字で書いてありますけれど、『タイムズ』は高等教育をうけた人物でないと、あまり手にしない新聞ですからね。したがってこの手紙は教育のある人物が、無教育をよそおって作ったもので、筆跡をかくそうとしているのは、この者の筆跡はあなたがたが知っているか、または将来知るようになると考えられる人物ということになりますね。次にこの切り貼り細工をみると、行がそろわないで、あるものは高くあるものは低く、たとえば『生命』という字なんかは、こんなに横へずれています。そもそもこれは不注意からきているのか、それとも貼りつけるとき心が動揺《どうよう》したか、またはひどく急いだためとも見られましょう。私にいわせれば、これは不注意のためではありますまい。ことは重大なのだから、不注意や粗忽《そこつ》があろうとは思えないからです。では急いだのかというと、早朝までに出しさえすれば、ヘンリー卿がホテルを発《た》つまでには必ず届くはずなのですから、なぜそう急いだかという点が、興味ある問題となります。邪魔《じやま》の入るのをおそれたのでしょうか? では誰《だれ》が邪魔をするのでしょうか?」
「こうなると問題は少々|憶測《おくそく》になるように思えますね」モーティマー医師がいった。
「いや、あらゆるあり得べき場合を想像して、その中からもっとも確実なものを選びだすのです。想像力を科学的に利用するのです。もっとも、想像とはいっても、そこには何らかの有力な根拠《こんきよ》があって、その根拠から出発した想像なのです。あなたはむろん憶測だというでしょうが、この封筒の宛名はどこかのホテルで書いたものだということを私はまず断言しますね」
「どうしてそれがおわかりです?」
「よく注意して調べてごらんなさい。ペンもインキもよほど使いづらかったことがわかります。ペンは一字書くうちに二度もひっかかって、インキをはねているし、長くもない宛名を書くのに、三度もインキの切れたことがわかります。インキ壺《つぼ》の中にインキがほとんどなくなっていたのですね。個人のものはペンでもインキでもこうまで悪くなっていることは稀《まれ》です。ことに両方ともそんな状態になっていることはね。ホテルではペンもインキもめったにとり換《か》えないのが普通ですからね。こうなれば躊躇《ちゆうちよ》なくいえますが、チャリング・クロス付近のホテルの屑籠《くずかご》を調べるだけです。そして社説欄に切りぬいたあとのある『タイムズ』を見つけたら、その部屋にいる男をこの不思議な手紙のさしだし人としてとり押《お》さえるだけのことです。おや、おや、これは何かな?」
ホームズは脅迫《きようはく》めいた文句を貼りつけたフールスカップを、顔につけんばかりに近づけて、ていねいに調べていたが、
「どうしました?」ときかれて、
「いや、何でもありません」といってそれを投げだした。「ただのフールスカップの二つ切りです。すかし模様ひとつ入ってはいません。これでこの妙《みよう》な手紙から引き出せることはいっさい終りました。ところでヘンリー卿、ロンドンへお着きになって以来、このほかに何か変ったことでもありましたか?」
「そうですね。いえ、何もなかったようです」
「誰かあなたを尾行《びこう》するか、監視《かんし》している様子はなかったですか?」
「なんだか私は急に三文小説中の人物にでもなったような気がしますね。私を尾行したり監視したりするものがあるはずはないじゃありませんか?」
「いまにわかってきます。それではこの問題を調べる前にうかがっておくことは、もうほかには何もないわけですか?」
「さあ、どんなことが、お話ししておく価値があるとお考えになるのでしょう?」
「何でも日常の慣例にないことがあったら、それをお話しくださればよいのです」
ヘンリー卿は微笑《びしよう》をうかべて、「私はこれまでほとんどアメリカとカナダで暮《く》らしてきましたから、イギリスの日常生活にはあまりなれていないのですが、靴《くつ》を片足なくすようなことは、この国でもやはり変ったことのうちなのでしょうね?」
「なに、靴を片足なくしたのですって?」
「困りますね」モーティマー医師が眉《まゆ》をひそめて強くたしなめた。「置きちがいですよ。ホテルへ帰ってみれば、出てきましょう。そんなつまらないことでホームズさんを煩《わずら》わしたってしようがありません」
「でも何でも日常にないことは話せとおっしゃるから……」
「その通りです。どんなにばかげて見えることでもよいのです。とにかく靴が片足みえなくなったのですね?」
「置き忘れたのでも、それはかまいませんが、ゆうべ部屋のドアの外へそろえておいたのが、今朝みると片っぽうしかないのです。靴みがきの男にきいてみましたが、何も知らないといいます。しかもその靴はじつのところ、ゆうべストランドの大通りで買ったきり、まだ一度もはいてないのです」
「一度もはかない靴を、なんだって磨《みが》かせるように、外へなど出しておいたのです?」
「タン革《がわ》の靴で、まだ一度もクリームをぬってなかったので、それで外へ出しておいたのです」
「するとあなたは、昨日ロンドンへ着いてホテルをきめるとすぐに、靴を買いに行ったのですか?」
「かなりいろんなものを買いましたよ。このモーティマーさんにいっしょに行っていただきました。私も田舎《いなか》の大地主ということになれば、身分相応の身形《みなり》をととのえなければなりません。それにアメリカを発つとき気がきかなくて用意のない品もありますし、いろいろと買いものをしたうち、その茶色の靴も六ドル出して買いましたが、一度もはかないうちに片足だけ盗《ぬす》まれてしまいました」
「そんなものを盗んでみても、何にもならないと思えますがねえ。モーティマー先生もおっしゃる通り、きっとすぐに出てきますよ」
「そうするとこれで、もともと多くもない私の知っていることは、すっかり申しあげたつもりですが」とヘンリー従男爵はちょっと改まっていった。「さきほどのお約束どおり、私どもがいったいどういう立場におりますのか、あなたのほうからご説明いただきたいものです」
「ごもっともなお話です。モーティマー先生、これは私から申すよりも、あなたのお口からあのお話をもう一度、ここでお話しくださるのがよいかと思いますが……」
すすめられてモーティマー医師は、例の書類をまたポケットからとりだし、きのうの朝私たちに話したのと同じ物語の一部始終をくりかえした。ヘンリー・バスカヴィル卿《きよう》はときどき驚嘆《きようたん》の声をもらしながら、いとも熱心に耳をかたむけた。
「そうすると私は因縁《いんねん》つきの家を相続することになるのですね」長い物語の終ったとき卿がいった。「もちろん犬の話は幼いころ聞かされていました。しかしそれは一家に伝わるおもしろい話として聞いていただけで、そんなたいへんな意味がこもっているとは夢《ゆめ》にも知りませんでした。そしてこんどの伯父《おじ》の死に関しては、頭のなかが掻《か》きまわされるような気がするばかりで、さっぱり訳がわかりません。あなたがたとしても、これは警察へもちだすべきか、宗教家のところへ相談にゆくべきか、まだ決心がおつきにならないわけですね?」
「そうなのですよ」
「そこへ私あてのこんな手紙がホテルへきたのですから、何だか関連がありそうにも考えられますねえ」
「これでみると、沼沢地《しようたくち》で何がおこっているのか、私たちより詳《くわ》しく知っている者があるように思えますね」モーティマー医師がいった。
「しかも危いぞと警告してくれているのですから、あなたに対して悪意はないらしいです」ホームズが言葉をそえた。
「それともほかに何か目的があって、私を追い払《はら》おうとしているのかもしれません」
「そう、それも考えられますね。モーティマー先生、おかげでいろいろに解釈のできるおもしろい事件をお知らせくださって、ほんとにありがとう。しかしヘンリー卿、ここで決めておかなければならない実際問題は、あなたがバスカヴィル館へ行くほうがよいか、行かないほうがよいかの問題ですね」
「行くとどうしていけないのでしょう?」
「あなたの身辺が危険らしいからです」
「というと、この物語の危険ですか、それともまた実在の人物からの危険ですか?」
「さあ、そこが研究を要するところです」
「いずれにしても、私の心は決まっています。悪魔《あくま》などいうものが実在するわけはありませんし、誰がなんといっても、私が自分の領地の自分の館《やかた》へ帰るのを拒《こば》むことはできません。私はそう固く決心しています」ヘンリー卿は黒い眉をよせ、日にやけた両の頬《ほお》を紅潮させた。バスカヴィル家の最後の一人として、伝来のはげしい気性をあきらかにうけ継《つ》いでいるのだ。「いずれにしてもいまのお話は、まだよく考えてみる余裕《よゆう》もありませんが、一つの問題をその場で熟考して即座《そくざ》に決定するということは、誰しもはなはだ困難なことです。ひとりで静かに熟考してから、肚《はら》を決めたいのです。ではホームズさん、この通りもう十一時半になりますから、ひとまずホテルへ引きとることにいたします。つきましては二時にワトスン博士とごいっしょにホテルまでおいでくださいませんか? 何もありませんが食事の用意をしてお待ちいたします。そのときにはこの問題に関する私の気持というようなことも、少しは具体的に申しあげられるかとも思います」
「ワトスン君、きみの都合はどうだね?」
「結構だね」
「ではよろこんでおうかがいします。――馬車をお呼びしましょうか?」
「いいえ、この問題で少し混乱しましたから、歩いて帰ることにします」
「ちょうどよい、散歩なら私もごいっしょに」モーティマー医師がいった。
「それでは二時に。さようなら」
二人の足音が階段をおりてゆき、玄関《げんかん》のドアの閉まる音が聞こえるや否《いな》や、いままで半分|眠《ねむ》ったようだったホームズが急に活動的になった。
「ワトスン君、靴をはいて帽子《ぼうし》をかぶりたまえ。早く! 一秒を争うんだ!」といいながらガウン姿のホームズは、自分の部屋へかけこんだかと思うと、たちまちフロック・コートを着こんであらわれた。そして私たちは大急ぎで階段をかけおりて表へでた。モーティマー医師とバスカヴィル新従男爵《しんじゆだんしやく》が、二百ヤードばかり先をオックスフォード街のほうへと歩いてゆくのが見えた。
「走っていって呼びとめようか?」
「ばかをいっちゃいけないよ。道づれは君だけで少しも不服はないんだ、君さえいやでなかったらね。あの二人は利口だよ、散歩にはもってこいの朝じゃないか」
ホームズは二人との距離《きより》が半分くらいに接近するまでは、歩調を早めて歩いたが、それからはいつも同じくらいの間隔《かんかく》をたもって、オックスフォード街からリージェント街へと曲っていった。やがて先にゆく二人は、ある店の前でちょっと止って、飾窓《かざりまど》の中をのぞきこんだ。ホームズもそこまでゆくと、同じように窓をのぞいてみた。と、とつぜん彼《かれ》がうれしそうな小さい声をだしたので、その視線をたどってみると、道の向こう側に停《とま》っていた二輪の辻《つじ》馬車が、おなじ方向にそろそろと走りだすところだった。中には一人の男が乗っている。
「あの男だよ、ワトスン君。来たまえ。いまは手が出せないにしても、せめてどんな男かよく見てだけはおこうよ」
そのときその馬車の横窓から、黒いひげのもじゃもじゃした男が、鋭《するど》い眼《め》でじろりと私たちのほうをにらみつけるのが見えた。そしてその刹那《せつな》に、御者台《ぎよしやだい》との仕切りの戸がかたりと開いたと思うと、何か御者に命じたとみえて、馬車は気の狂《くる》ったような速さで、リージェント街をかけぬけていった。ホームズはあわててあたりを見まわしたが、あいにくとそのへんに辻馬車のあいたのが一台も見あたらないので、交通のはげしい往来を、そのまま跡《あと》を追ってかけだしていった。だが馬車はどこへ行ったことやら、もうまったく見うしなってしまった。
「しまったな」ホームズは呼吸《いき》ぎれと口惜《くや》しさで青くなって、織るように往来する馬車をよけながら、いまいましそうに引きかえしてきた。「運もわるかったが、下手なことをしたもんだ。ワトスン君、きみが正直な男なら、このこともかならず書きこんで、僕《ぼく》の成功談に泥《どろ》をぬってくれるといいよ」
「あの男は何者だろう?」
「僕にもさっぱりわからない」
「スパイかな?」
「さあ、話の模様では、バスカヴィルの従男爵がロンドンへ着いてからというもの、何者かによって厳重《げんじゆう》に尾行されていることだけは確かだ。そうでもなければ、卿がノーサンバランド・ホテルを選んだことが、こうも早くわかるはずがないからね。到着《とうちやく》第一日に尾行した以上、今日だってかならずやるにちがいないとにらんだのだ。君も気がついたろう、モーティマー先生がながながと物語を読みあげているうちに、二度も僕が窓のそばへ歩みよって、そとを見おろしたのを?」
「うむ、そうだったね」
「あのとき僕は、往来をうろついている奴《やつ》でもあるかと思ったのだが、そんな者は見あたらなかった。ワトスン君、この相手はなかなかの利口ものだよ。これは容易ならんことになってきた。この相手は敵だか味方だか、まだ見きわめはつかないが、腕《うで》と頭でならいつでもござれだ。さっき二人が帰ってゆくとすぐにあとを追ったのは、尾行者を見きわめるつもりだったんだが、じつに狡猾《こうかつ》な奴だね。徒歩ではあぶないと見て、馬車を利用しやがった。馬車ならのろのろと尾行したり、急に追いぬいて注意を外らすこともできる。それに馬車ならば、もしあの二人が途中《とちゆう》で馬車を雇《やと》うようなことがあっても、おくれをとらない利点があるからね。しかし、それには一面不利なところもあるにはあるんだ」
「御者に弱点をにぎられるというのだろう?」
「それなんだ」
「馬車の番号を見ておかなかったのはまずかったね」
「ワトスン君、いくら僕がぼんやりだからって、馬車の番号くらい見ておかなかったと、ほんとに思っているのなら、そりゃすこしひどいよ。二七〇四号さ。しかしそんなことはこの際なんの役にもたちやしない」
「だって、ほかにうまい方法もなかったじゃないか」
「馬車に気がつくとすぐに、くるりと反対のほうへ歩いてゆくべきだったよ。そうすればゆうゆうと別の馬車を雇って、適当な間隔で尾行させることもできたし、もっといいのはノーサンバランド・ホテルへ先回りして待っていればよかったんだ。そしてあの男がバスカヴィル卿を尾行して帰ったら、こんどは逆手をつかって、われわれがあの男のゆくところまで尾行してやればよかった。ところが相手があんまり敏捷《びんしよう》であざやかなところを見せるもんだから、軽率《けいそつ》にもはやまって、見すかされ、逃《に》げられてしまうことになったんだ」
話しながら私たちはリージェント街をゆっくり歩いていった。モーティマー医師たちの姿はもうとっくに見失なっていた。
「もうあの二人なんかどうでもいいよ。尾行者はどこへいったんだか、もう帰ってはこないだろう。こうなったら何とか別の手を考えだして、こんどこそは決然と出なおすしかない。君は馬車にのっていた男の顔をおぼえているかい?」
「はっきりしているのはあごひげだけだね」
「僕もそうだ。しかしあれはどう考えてもつけひげだと思うよ。こうした危い仕事をするほどの男のすることだ、人相をかくす目的以外には、あんなあごひげなんかに用はないはずだ。ワトスン君、ちょっとここへ寄ってゆこう」
ホームズは通りがかりにメッセンジャー会社の事務所へ入っていった。すると支配人があいそよく出迎《でむか》えた。
「やあ、ウイルスンさん。いつぞやのちょっとした事件をまだ覚えていると見えますね。あれはまったく幸運のたまものだったんだけれど」
「あれを忘れてなるものですか。すんでのことに名誉《めいよ》もなにもなくしてしまうところをお助けいただきましたんですから、命の恩人とも思っております」
「そう煽《おだ》ててくれても困りますよ。今日はね、この前のときカートライトとかいって、たいそう役に立つ少年のいたことを思いだして、それでやってきたんですがね」
「はいはい、あれでしたらまだ手前どもにおりますよ」
「ちょっと呼んでもらえませんかね。そう、ありがとう。それからちょっとこの五ポンド札《さつ》をこまかくしてくれませんか」
まもなく呼ばれてきたのは、明るく利口そうな顔つきの十四|歳《さい》になる少年だった。少年は有名な探偵《たんてい》の前に出ると、異常な尊敬をもってその顔を見あげた。
「ちょっとホテル案内をもってきておくれ」ホームズはすぐに要談をきりだした。「ありがとう。ねえカートライト、この通りチャリング・クロスの界隈《かいわい》にはホテルが二十三|軒《けん》あって、ちゃんと名前が出ているだろう?」
「はい」
「お前にこれを一軒ずつ回ってもらいたいのだ」
「はい」
「ホテルへいったらまず第一に、玄関番に一シリングずつやるのだよ。さ、二十三シリングだけ渡《わた》しておくからね」
「はい」
「そしてね、きのうの紙くずを見せてほしいと頼《たの》むのだ。大切な電報をまちがえて配達したから、それを捜《さが》しているんだといってね、いいかい?」
「はい」
「しかしほんとうはね、捜すものはきのうの『タイムズ』の本紙で、中に鋏《はさみ》できりとった穴のある分なんだ。ここに『タイムズ』の見本がある。このページを切ってあるんだ。だからあればすぐわかるはずだね?」
「はい、わかります」
「玄関番はどこでも、ホールのポーターを呼んでくるだろうが、そうしたらそれにも一シリングやるのだ。さ、もう二十三シリング渡しておく。ことによると二十三軒のうち二十軒くらいは、きのうの紙くずは燃やしてしまったとか、ほかへやったとかいうかもしれないけれど、三軒くらいは紙くずの山を見せられるかもしれないからね、そうしたらその中から『タイムズ』のこのページを捜すのだ。見つかる率は非常にすくないと思うけれどね。思わぬことで要《い》るかもしれないから、べつにこの十シリングを渡しておく。結果は晩までにベーカー街へ電報でしらせておくれ」そしてホームズはこんどは私にむかっていった。「じゃワトスン君、あとは二七〇四号の御者を調べてもらうように電報でたのむだけだから、それをすませたらボンド街あたりの画廊《がろう》にでもいって、二時にバスカヴィル卿のホテルへゆくまでの時間をつぶそうよ」
第五章 三度目も失敗
シャーロック・ホームズは自分の思い通りに、どうにでも勝手に気分を転換《てんかん》できる不思議な能力を持っている。たった今までわれわれが悩《なや》まされていた奇怪《きかい》きわまる問題はすっかり忘れてしまって、それから約二時間というもの彼は、そこに陳列《ちんれつ》された多くの近代ベルギー画家の傑作《けつさく》にまったく心を吸いよせられていた。話すことも美術の話しかしようとしなかった。そのまた彼の美術眼なるものがきわめてお粗末なもので、私は画廊を出てようやくノーサンバランド・ホテルにたどりつくまで、さんざん閉口させられたのである。
「サー・ヘンリー・バスカヴィルが二階でお待ちかねでございます」ホテルのフロント係は私たちを迎えてこういった。「お二方がおみえになりましたら、すぐにお部屋へお通し申しあげるようにと仰《おお》せつかっております」
「ちょっと宿泊名簿《しゆくはくめいぼ》を見せてもらえませんかね?」ホームズは妙《みよう》なことをいいだした。
「さあどうぞご覧《らん》ください」
出された宿泊名簿で見ると、ヘンリー卿《きよう》のあとに投宿したのは二組あった。一組はニューカッスル市のシオフィラス・ジョンソン氏とその家族、あとの一組はオールトン港のハイロッジに住むオールドモア夫人とその女中である。
「ああこのジョンソンというのは、私の知っているジョンソン君に違《ちが》いあるまいと思う」ホームズはなにげなくポーターにいった。「弁護士だが、あたまが白くて、歩くとき少し片足をひきずる人じゃないかい?」
「いいえ、違います。ジョンソンさまは炭鉱をお持ちのかたで、たいへんお元気な、ちょうどあなた様くらいのお年のかたでございます」
「でも職業は君の思いちがいだろう?」
「いいえ、そんなことはございません。このおかたは長年《ながねん》のお得意さまでございまして、私どもではよく存じあげているかたでございます」
「ああ、それじゃ話はわかった。しかしこのオールドモア夫人というのも、なんだか聞いたような名だね。うるさく尋《たず》ねるようだが、ホテルでは人をたずねてきて、べつの知りあいを偶然《ぐうぜん》見つけることは、よくあるものだからね」
「奥《おく》さまはご病身なかたでございます。旦那《だんな》さまはひところグロスターの市長をなさっていらっしゃいました。奥さまはロンドンへいらっしゃれば、いつでも手前どもへお越《こ》しくださいます」
「ありがとう。どうやらこれも私の知りあいのオールドモア夫人とは違うようだね。ワトスン君、これできわめて重大な問題を片づけたんだよ」と二階へあがる途中ホームズは小さい声でいった。「ヘンリー卿をねらっている男が、このホテルに泊《とま》っていないということがこれでわかったわけだ。ということは、あんなに熱心にヘンリー卿をつけねらってはいるけれど、ヘンリー卿に姿を見られるのをひどく怖《おそ》れていることがわかる。これはおもしろいヒントだよ」
「なにを暗示するのだい?」
「ほら、つまりさ……おや、どうしました?」
階段を登りつめてみると、そこにヘンリー・バスカヴィル卿がぬっと突《つ》ったっていたのである。泥だらけの古靴《ふるぐつ》の片っぽうだけを手にして、まっ赤になってぷりぷりしている。激怒《げきど》に煮《に》えくりかえって、口も満足にはきけないらしい。やっと物をいったかと思うと、今朝の様子とは似てもつかぬ乱暴な、西部なまりまるだしであった。
「馬鹿《ばか》にするなってんだ、ここのホテルじゃおれを何だと思ってるんだい? すこし気をつけろ! あの野郎、靴をさがしてきやがらねえと、こっちにも覚悟《かくご》があるから、そのつもりでいるがいい。……おや、ホームズさん、冗談《じようだん》のわからない私じゃありませんがね、こうなると少し度がすぎるというものですよ」
「まだ靴をさがしているのですか?」
「そうですとも。本気で見つけるつもりですよ」
「それにしても、見えなくなったのは、たしか新しい茶色の靴だとかいいましたね?」
「それは昨日のことですよ。こんどは黒の古い奴なんです」
「えッ? まさかまたですか?」
「また見えなくなったんですよ。私は天にも地にも、靴はたった三足きりないのです。茶色の新しいのが一足と、古い黒靴が一足、それにいま穿《は》いているエナメル靴です。それがゆうべは茶色の新しいのが片足ぬすまれて、今日また黒いのが片っぽうやられたんです。やい、おまえが盗《と》ったのか? だまってちゃわからないじゃないか、木偶《でく》の坊《ぼう》じゃあるまいし!」
「いいえ、ホテルじゅうさがしましたけれど、誰《だれ》も知らないと申します」ドイツ生まれの従業員がおどおどと弁解した。
「とにかくあの靴が日暮《ひぐ》れまでに出てこなきゃ、支配人に話をして、こんなホテルはとっとと出て行くから、そのつもりでいろ」
「ないはずはございません。かならず捜し出してお目にかけますから、どうかしばらくご辛抱《しんぼう》なすってください」
「その言葉を忘れるな。あれが出てこないようなら、もうこんな盗人《ぬすつと》の住家みたいなホテルはごめんだぞ」とどなりちらしてからいった。「いやホームズさん、つまらないところをお目にかけてしまいまして……」
「つまらなくはないと思いますよ」
「ほう、妙に重大視なさるんですね」
「あなたはこれをどう解釈しておいでですか?」
「どうって、べつに考えてもみませんが、こんなばかばかしい奇妙な目にあうのは初めてですよ」
「そう、まったく奇妙ですね」ホームズは考えこんだ。
「それではあなたはどういうふうにお考えなのですか、ホームズさん?」
「そうですね、私にもまだよくのみこめないところがあるが、これはよほど込《こ》みいった事情がありますね。伯父《おじ》うえの死に関連して考えると、私がこれまでに手がけた五百何件かのうちでも、これほど複雑なのはありません。でも手掛《てが》かりはいくつもあります。問題はどの手掛かりをたぐってゆけば、真相を究明し得《う》るかという点です。まちがった手掛かりにひっかかって手間どることはあっても、早晩正しい軌道《きどう》にのるのは間違いないところですがね」
それから愉快《ゆかい》な昼食がはじまった。その席では、私たちがこうして会食するにいたったそもそもの原因であるところの、例の事件については、誰もほとんど口にしなかった。食事が終って居間のほうへ席をうつしてから、ホームズはヘンリー卿の今後の意向をたずねた。
「バスカヴィルの館《やかた》へ入ろうと思いますよ」
「いつ行きます?」
「この週末にしたいと思います」
「だいたいそれが賢明《けんめい》でしょうね。私の眼《め》には、現在あなたがつけねらわれているという証拠《しようこ》がいくつも眼に見えているのですが、何百万もの人間がいるこのロンドンの市中では、どんな人物がどんな目的でつけねらっているのか、見やぶるのは困難です。もし悪意を抱《いだ》いているとすれば、何か危害を加えるかもしれませんが、残念ながらわれわれはそれを防ぎきれません。モーティマー先生、あなたがたが今朝《けさ》私の家を出ると尾行《びこう》がついたのはご存じないでしょうね?」
モーティマーはひどく驚《おどろ》いて、
「えッ、尾行が? 何ものですか、それは?」
「残念ながら私にもわかっておりません。ダートムアのあなたのお知りあいか近所の人で、まっ黒なあごひげをもじゃもじゃさせた人がありますか?」
「ありませんね。いや、待ってくださいよ。そうだ、バリモアがいる。故チャールズ卿の執事《しつじ》のバリモアは、まっ黒なあごひげのもじゃもじゃした男ですよ」
「ほう! そのバリモアは今どこにいます?」
「館の留守をあずかっていますよ」
「それを調べないといけないのですがね。ほんとに館にのこっているか、それともロンドンへ出てきているようなことはないか」
「どうして調べたらよいでしょう?」
「電報の頼信紙《らいしんし》を一枚ください。『ヘンリー卿ユク。ジュンビハヨイカ』これでいい。バスカヴィル館気付バリモアあてに出すのです。近くの電報配達局はどこですか? グリンペンですか。ではグリンペンの局長あてにもう一本打電するのです。『バリモアアテ電報ハ直接手ワタサレタシ。不在ナラバノーサンバランド・ホテル内ヘンリー・バスカヴィルへ返送タノム』こうしておけば晩までには、バリモアがたしかにデヴォンシャーの館に留守居しているかどうかがわかります」
「そういうわけですね。ときにモーティマーさん、バリモアというのはどういう男ですか?」ヘンリー卿がたずねた。
「なくなった父親が、やはり館の管理人をつとめておりました。バリモアでもう四代あの館に仕えることになります。私の知っているかぎりでは、あの夫婦《ふうふ》は界隈《かいわい》でも評判のよい夫婦ですね」
「同時にいまは館に誰も主人がいないのですから、用事はないしのんびりとやっていることも確かですね」とヘンリー卿がいった。
「ほんとにね」
「バリモアはチャールズ卿の遺言《ゆいごん》でいくらかもらったのですか?」ホームズがたずねた。
「夫婦とも五百ポンドずつもらいました」
「ほう! 夫婦はチャールズ卿の遺言のことを、かねてから知っていたのですか?」
「知っていました。チャールズ卿は日ごろから、遺言状の内容のことはよく口にしていましたからね」
「それはおもしろいですね」
「ホームズさん、遺産の分配を受けた者を、いちいち変におとりになってははなはだ困りますよ。現にこの私も千ポンドもらっているのですからね」
「おやおや、ほかにももらった人がいますか?」
「少しずつではありますが、個人としてもらった人もたくさんありますし、慈《じ》善団体《ぜんだんたい》で寄付を受けたのもかなりありました。あとはすべてヘンリー卿がお受けになります」
「その額はどれほどですか?」
「みんなで七十四万ポンドです」
「なるほど、そんなに大金だったのですか」ホームズは眼をまるくした。
「チャールズ卿はお金持だとは聞いていましたが、どれくらいあるのかは、こんど遺産を調べて初めてわかったのです。財産は全部で百万ポンド近くになりましょう」
「ほう! それでは乗るか反るか、ひと仕事やってみようと思いつくのも無理はありませんね。モーティマーさん、もう一つおたずねしますが、もしこのヘンリー卿に何事かあったとしたら――失礼な仮定ですが――相続人は誰になりますか?」
「チャールズ卿の弟のロジャーさんは未婚《みこん》のままで亡《な》くなりましたから、遠縁《とおえん》にあたるデズマンド家で嗣《つ》ぐことになりますね。ジェームズ・デズマンドさんというのが、年輩《ねんぱい》のかたですがいまウエストモアランド地方で牧師をしておいでです」
「よくわかりました。たいへん有益な事実です。あなたはそのジェームズ・デズマンドさんに会ったことがおありですか?」
「はい。いつかチャールズ卿を訪ねてみえたことがありますが、いかにも僧職《そうしよく》にふさわしい徳の高いおかたとお見うけしました。そう申せばあのとき遺産の話がでて、チャールズ卿が贈与の申し出をむりに押《お》しつけたのに、デズマンドさんが辞退なさったのを思いだします」
「なるほど、その欲のない牧師さんが、チャールズ卿の巨万《きよまん》の富を相続するかもしれないわけですね?」
「万一の場合には、相続法によって領地はこのかたが相続することになるのはもちろん、動産もいまはヘンリー卿の自由ですが、もしヘンリー卿が遺言によってほかの人に与《あた》えないかぎり、デズマンドさんのものになるわけです」
「あなたはもう遺言状をお作りになっていますか、ヘンリー卿?」
「いいえ、まだです。昨日ようやく事情を知ったばかりですから、まだそんな余裕《よゆう》はありません。しかし動産は領地とおなじに、当然|爵位《しやくい》に付随《ふずい》すべきものと思いますね。それが伯父の遺志なのでしょう。金がなくてバスカヴィル家の体面をどうして維持《いじ》してゆきますか? 家名と土地と金と、この三つは一体でなければなりません」
「それはそうですね。そこでヘンリー卿、私は遅滞《ちたい》なくデヴォンシャーへおいでになることをおすすめしますが、それには条件が一つあります。あなたは決して一人でいってはいけません」
「モーティマー先生と帰ります」
「でもモーティマー先生には医師としてのお仕事がありますし、お宅は館から二、三マイルもはなれていますから、どんなに好意があっても、いざという場合の間にあいません。ねえヘンリー卿、いつなん時でもあなたの味方をするように、信頼のできる人を誰かお連れにならなければいけませんよ」
「それではホームズさん、あなたがおいでくださるわけにはまいりませんか?」
「事態がいよいよ急をつげれば、むろん私も参りますが、ご存じのとおり多忙《たぼう》なからだのうえに、諸方面からたえずいろんな依頼《いらい》がくるのですから、無期限にロンドンを空けるわけにはゆかないのです。現にいまもイギリスでも名の知られたある高貴の人が、脅迫《きようはく》をうけていましてね、それが私が出なければ破滅的《はめつてき》なスキャンダルを防ぐことのできない状況《じようきよう》にあるのです。そういうわけで、私として今すぐダートムアへ行くことができないのはおわかりくださると思います」
「それでは誰がよろしいでしょう?」
ホームズは私の腕《うで》に手をおいた。
「このワトスン君がひき受けてくれるといちばんいいのですがね。いつもあなたの身辺についていて、いざという場合これほど信頼できる人はないと、確信をもっていえます」
とんでもないことをいいだすと思ったが、私が何ともいわないうちに、ヘンリー卿が私の手をとって、むりにそれと決めてしまった。
「ご親切まことに感謝にたえません。あなたでしたら私の事情も詳《くわ》しくおわかりのことですし、こんな心丈夫《こころじようぶ》なことはありません。ワトスン先生がバスカヴィル館へおいでくださって、私をお助けくだされば、このご恩は生涯《しようがい》わすれません」
私は冒険《ぼうけん》がありそうだと見ると、つねに押さえがたい誘惑《ゆうわく》を感じる。そのうえホームズの推薦《すいせん》の言葉もあり、ヘンリー卿の熱心な希望を受けてみると、もう拒《こば》めなくなった。
「よろこんでお供いたしましょう。こんな結構な役はまたとありません」
「行ったら僕《ぼく》に詳しい報告をくれたまえ」ホームズがいった。「たぶん何事かおこるだろうから、その時機の予想もね。そうすれば僕からそれに対する方策を知らせる。土曜日までには準備できるだろうね?」
「いかがでしょう、ワトスン先生、ご都合は?」
「結構です」
「では改めてご通知しないかぎり、土曜日の十時三十分発の列車にのることにして、パディントン駅でお待ち申しております」
そこで私たちは別れをつげて立ちあがったが、そのときヘンリー卿がうれしそうな声をあげて部屋の一隅《いちぐう》にとんでゆき、戸だなの下から茶色の靴を片足ひっぱりだした。
「靴がありましたよ!」
「そういうふうに万事《ばんじ》すらすらと解決してほしいものです」ホームズは浮《う》かぬ顔でいった。
「しかしずいぶん妙《みよう》ですねえ」モーティマー医師は腑《ふ》におちない顔でいった。「私は食堂へゆく前に、この部屋をていねいに調べたのですよ」
「私もですよ。隅《すみ》から隅まで調べたのです」ヘンリー卿も不思議そうである。
「そのときはたしかにこの部屋にはなかったですよ」
「それでは私たちの食堂へいっている留守に、ボーイがそっと置いていったのでしょう」
そこで念のため、例のドイツ生まれのボーイをよびよせて、尋ねてみたが、何も知らないという。あれこれ詮索《せんさく》してみたが、結局なにもわからなかった。昨日からわけのわからないことが、あとからあとからと起こってくるが、またしてもその数を一つここに増したことになる。チャールズ卿の死にまつわる気味のわるい話はしばらくおくとして、この二日間に遭遇《そうぐう》した不思議のかずかずをあげてみるならば、まず第一にあの妙な切り貼《ば》り細工の手紙、それから馬車の中のひげ男、新しい茶色の靴の消失、つづいて古い黒靴の紛失《ふんしつ》、そしていままた失なわれた茶色の靴が地から湧《わ》きでもしたように現われたのだ。
ベーカー街へ帰ってくる馬車の中で、ホームズは無言で坐《すわ》っていたが、その緊張した顔を見て私は、彼《かれ》が私に劣《おと》らずこの奇妙な、そしてなんの関連もなさそうな一連の小事件を、いかに組みたて、いかにして神秘のなぞを解こうかと、鋭《するど》く心を働かしていることを知ったのである。その午後から夜にかけて、彼は黙《だま》りこんでタバコとふかい思索にふけっていた。
夕食の直前に電報が二本きた。一つは次のような文句である。
『バリモアハ館ニアル由《よし》、バスカヴィル』
もう一本のほうは、
『二十三軒ゼンブ調ベタガ、切リヌイタタイムズ見アタラズ、カートライト』
「僕の張った網《あみ》は二つとも失敗に終ったよ。僕は仕かけた網に失敗すればするほど、勇気百倍してくる。こうなったら第三の網をおろさなきゃならない」
「まだあのひげ男をのせた馬車の御者《ぎよしや》があるね」
「そうさ、あの御者の名前と住所を知らせてくれるように、馬車会社へ電報しておいたから、いま鳴っているベルはそれかもしれない」
案内のベルが鳴ったのは返事の電報かと思ったら、それどころか、ドアをあけて入ってきたのはうわさの本人の粗野《そや》な顔つきの御者自身であった。
「本社のほうからこちらの旦那《だんな》が二七〇四号にご用だと申してきやしたもんで、へえ」御者はもみ手をしながら、「あっしゃこれで七年も御者をやってやすが、お客から苦情の一つもいわれたこたアねえんで。一つ旦那にぶつかって、どんな文句があるだかうかがってみてえと思いやして、車庫からまっすぐに参りやしたんで」
「まあお聞き。お前さんに苦情なんかいう気は毛頭ないのだよ。それどころかお前さんが私のいうことをよく聞いて、正直にありのままを答えてくれたら、半ポンドもあげようと思っているところなのさ」
「あっしゃ今日が日まで何一つ間違《まちが》いもしでかさず、じみちに渡《わた》ってきたものでさ」御者はにやりと歯をみせて、「それで旦那の聞きなさりてえってな、どんなことですかい?」
「また用事のあることができるかもしれないから、まず第一にお前さんの名前と住所とを聞いておこうか」
「バロウ区のターピー街の三番で、ジョン・クレートンといってくださりゃわかりまさあ。あの馬車はウォータールー駅の近くのシプリーの車庫から出すんでがす」
シャーロック・ホームズはそれを手帳に控《ひか》えた。
「それじゃ尋《き》くがねクレートンさん。けさの十時にこの家の前へきて見張りをはじめ、あとで二人の紳士《しんし》をリージェント街のほうへ跟《つ》けてゆかせたあのお客のことを詳しく聞かせてくれないかね」
御者は意外だったらしく、すこし当惑《とうわく》した。
「旦那アよくご存じのようだから、あっしから何もいうこたアありますめえ。じつはあの旦那ア探偵《たんてい》なんで、誰《だれ》にもあの旦那のことをいっちゃならねえってことになってますんで」
「クレートンさん、よくお聞き、これは重大問題だからね、私の前でかくしだてをすると、お前さんがひどく迷惑《めいわく》することになるだろうよ。それではあの客は、自分のことを探偵だといったのかい?」
「そういいましたよ」
「いつそれをいったんだい?」
「降りるときでさ」
「ほかに何かいわなかったかい?」
「名前をいいましたっけ」
ホームズはちらりと私のほうに眼をはせて、それみろという顔をした。
「ふむ、名前をいったんだね? そいつは軽率《けいそつ》だったな。何という名だったね?」
「その名はね、シャーロック・ホームズっていうんでさ」
御者のこの答えをきいたときほど、ホームズの狼狽《ろうばい》したのを私は見たことがない。しばらくは口もきけないほどあきれかえっていたが、やがておかしさがこみあげてきた。
「えらい! じつにえらいやつだね、ワトスン君。あっぱれの変通自在ぶりだ。みごと一本やられたね。ふむ、名前はシャーロック・ホームズだといったんだね?」
「そうでがす。それがあの旦那の名前でさあね」
「うむ! それでいつどこで乗せたんだね? そしてどんなことがあったのか、詳しく聞かせてもらいたいね」
「九時半にトラファルガーの広場で呼びとめられましてね、おれは探偵だが、きょう一日何もいわずに、おれの注文する通りにしてくれたら、二ギニーくれるってんでがす。こんなうめえ話ってありゃしませんや。最初にノーサンバランド・ホテルへいって待ってると、二人の紳士が出てきて、客待ちしてた馬車を雇《やと》ってどこかへ行くから、あとをつけてゆくと、何でもこのへんで停《と》まりましたっけ」
「この家だったんだよ」ホームズがいった。
「へえ、何だかはっきりしねえけれど、あのお客は何もかも心得ていたね。その馬車のとまったところからだいぶ離《はな》れてこっちの馬車をとめて、一時間半も待たされましたっけ。するてえとその二人の紳士が出てきたから、やりすごしておいて、歩いてゆく二人をつけてベーカー街をずっと……」
「知ってる」
「リージェント街を四分の三がたいったところで、客の旦那が急に小窓をあけて、大急ぎでウォータールー駅までやれって叫《さけ》ぶんで、あっしゃ馬にひとむちくれてやりましたが、早うがしたぜ。十分とかからなかったからね。それから旦那ア約束《やくそく》通り二ギニーくれて、さっさと駅へはいってゆきましたが、そのときでがさア、ちょっとあとを振《ふ》りむいて、『おれの名はシャーロック・ホームズというのだ。おぼえとけば、あとでおもしろいこともあるだろうよ』っていいましたっけ。それで旦那の名を知ったってわけでさ」
「ふむ。それっきりその客は見かけないね?」
「それっきり見かけませんねえ」
「それでそのシャーロック・ホームズという客は、どんな人だったね?」
御者は頭をかいた。「どうってちょっといいにくい人だが、年のころは四十だね。背たけは中くらい、旦那より二、三インチ低うがした。身形《みなり》でみるとえれえ人だね。黒いあごひげのさきを四角に刈《か》りこんで、青い顔した人だったが、おぼえているなアまずそんなところだね」
「眼《め》のいろは?」
「さあ、そいつは知らねえな」
「ほかになにかないかな?」
「まあこんなものだね」
「そう、じゃ半ポンドあげよう。また何か思いだして知らせにきてくれたら、べつに半ポンド出すよ。どうもご苦労さま」
「ありがとう。じゃ旦那、ごめんなすって」
ジョン・クレートンがにたにたしながら帰ってゆくと、ホームズは私のほうへむきなおり、苦笑をうかべていった。
「第三の網もだめだったね。これじゃ振りだしで足ぶみだ。それにしてもじつに悪がしこい奴《やつ》じゃないか。この家も知ったし、ヘンリー卿《きよう》が僕に相談にきたことも知ってしまった。リージェント街ではすぐに僕だと看破《みやぶ》るし、僕が馬車の番号をおぼえていて、御者を調べるということを予知して、あんな豪胆《ごうたん》な皮肉をやるし、ワトスン君、こんどというこんどは相手にとって不足のないやつが現われたよ。何しろ僕がロンドンの真ん中でひと泡《あわ》ふかされたんだからね。このうえはデヴォンシャーでの君の幸運をいのるばかりだ。僕はどうやら心細くなってきたよ」
「なにが?」
「君に行ってもらうことがさ。ワトスン君、これはちょっと骨の折れる役目だよ。危険な役目だよ。考えれば考えるほど、僕は君の身が案じられる。君は笑うかもしれないが、僕はいっておく、どうか間違いが起こらないで、君が無事にここへ帰って来られますようにとね」
第六章 バスカヴィルの館《やかた》
約束の日に駅へいってみると、ヘンリー・バスカヴィル卿とモーティマー医師とはもうちゃんと来て待っていたので、私たちは予定の通りデヴォンシャーへむけて出発した。シャーロック・ホームズは駅までいっしょの馬車で送ってきて、あれこれと最後の指図や注意をあたえてくれた。
「ワトスン君、僕は君の頭のなかに一種の先入感の入るのを避《さ》けるために、事件に関する僕の意見や予想めいたことは何もいわずにおくがね、向こうへ行ったらただ、できるだけ詳しく事実の報告だけをよこしてくれたまえ、意見なんか加えないでね。あとは僕がその報告をみて推理をたてるから」
「どういう種類の事実をだい?」
「どんなに間接的にでもいいから、この事件に関係のあることを何でも、とくにヘンリー卿と近所の人たちの交渉《こうしよう》だとか、チャールズ卿の死をめぐっての新発見なんか大いにいいね。僕がこの二、三日自分でやった調査は、すべて不結果に終わったようだが、ただ一つ確実らしいと思われるのは、遠縁《とおえん》になるとかいうジェームズ・デズマンド君は、つぎの推定相続人になってはいるが、きわめて愛すべき立派な老紳士だから、おそらくこんどの事件には無関係だろうということだ。だからこの人だけはまったく考慮《こうりよ》のうちにおく必要はあるまいと思う。のこるところは沼沢《しようたく》地方に住んで、文字どおりヘンリー卿をとりまく連中ばかりということになる」
「まず最初に、このバリモア夫婦《ふうふ》を館から追いだしたらどうだろう?」
「冗談《じようだん》いっちゃいけない。そんなばかなことはないよ。もしあの夫婦になんの罪もないのだったら、こんな残酷《ざんこく》な不法行為《ふほうこうい》はないし、万一罪があるとすれば、虎《とら》を野へ放つようなもので、先生がたは舌をだして喜ぶだけだよ。それよりもこの夫婦も一応|嫌疑者《けんぎしや》のうちに入れておくことだ。それから馬丁《ばてい》が一人いるはずだし、百姓《ひやくしよう》も二人いる。それからモーティマー医師だが、この人だけは絶対に信用してよかろうとは思うけれど、その夫人はどんな人か、まだわかっていない。それから博物学者のステープルトン兄妹《きようだい》がある。妹のほうはすこぶる美人だそうだよ。最後にラフター邸《てい》にフランクランドという地主がいるが、これまたわれわれには未知数だ。そのほかにも近所の人が二、三いると思うが、以上はとくに注意ぶかく観察してくれなくちゃならないね」
「できるだけやってみるよ」
「武器はもってきたろうね?」
「もってきたよ。やっぱりあったほうがよかろうと思ってね」
「そうだとも。ピストルは昼夜とも手もとを離さないようにしたまえ。けっして気をゆるめちゃだめだよ」
ヘンリー卿たちは、もう一等|切符《きつぷ》を買って、プラットホームへ出て待っていた。
「いいえ、その後なにも聞いていません」モーティマー医師がホームズの質問に答えた。「もっとも一つだけ、昨日と一昨日は誰《だれ》にもあとをつけられなかったのは確実です。外出のたびに十分気をつけていましたが、それらしい姿は一度も見うけませんでした」
「いつもお二人ごいっしょだったのですね?」
「きのうの午後だけはとくべつでした。私はロンドンへやってくるとかならず、一日だけは自分のたのしみに費《つい》やすことにしているので、きのうは半日外科大学の陳列所《ちんれつじよ》へいってきました」
「それでその間私は公園へいってみましたが、べつに何事もありませんでした」ヘンリー卿がそばからいった。
「何もなかったにしても、それは軽率でしたな」ホームズはゆっくり頭をふりながら、むつかしい顔をした。「どうかこれからは決して一人あるきをなさらないように。さもなければ、かならずたいへんな災難がおこります。それでもう一つの靴《くつ》はでてきましたか?」
「いいえ、黒いほうはとうとう見あたりませんでした」
「ほう、それはおもしろいです。それではお気をつけて――」とホームズは、そのとき列車がしずかに動きだしたので、追いかけていった。「ヘンリー卿、モーティマー先生が読んでくださった古い伝説の中にもあった通り、用心して暗き夜に沼沢地を過ぎてはならぬ。暗きところにはかならず悪魔《あくま》が跳梁《ちようりよう》するであろうから心せよ、ですよ。あれを忘れないようになさい」
走りゆく列車の窓からのぞいてみると、プラットホームに突《つ》ったって、じっと汽車を見送っているホームズの背の高い姿が、ぽつんといつまでも見えていた。
汽車の旅は快適であった。私はこの二人の新しい友人と親密さを加え、モーティマー医師のスパニエル種の愛犬とも仲よしになった。しばらく走るうちに、今まで黒茶色だった窓外の土のいろが、しだいに赤みをおびてきて、レンガづくりの家は田舎《いなか》風の花崗岩《かこうがん》の家に変り、きれいに生垣《いけがき》をめぐらした牧場の中で赤い牛が見送っていたり、青々とした草や生《お》いしげった樹木は、多少|湿気《しつけ》は多いにしても、土地が肥沃《ひよく》で気候のいいことを物語っていた。うつり変る窓外の景色を熱心にながめていたヘンリー卿は、なつかしいふるさとデヴォンシャーの風景に接すると、狂喜《きようき》の声をあげるのだった。
「私は故郷を出てからずいぶんあちこちと歩きましたがねえ、ワトスン先生、やっぱり故郷ほどいいところはありませんね」
「デヴォンシャーの人はみんなお国|自慢《じまん》のようですねえ」皮肉でなく私はいった。
「土地がいいばかりではありません。デヴォンシャーの人は血筋が独特だからです」モーティマー医師がいった。「このヘンリー卿をひと眼みてもわかるとおり、デヴォンシャーの人はケルト型のまるい頭をもっています。したがって、ケルト民族の情熱と執着力《しゆうちやくりよく》を受け継いでいるのです。故チャールズ卿の頭部は、なかばゲール型なかばイヴェルニア型という珍《めずら》しい頭でした。でもヘンリー卿がバスカヴィルの館を後になさったのは、ずいぶんお若いころのことではありませんか?」
「父が南海岸の小さな家に住んでいましたので、館を見たことはありません。十代の少年のころ父が亡《な》くなりますとそのまま、友人をたよってアメリカへ行ってしまったので、きょうのダートムアゆきは初めてのワトスン先生と同じで、沼沢地方を見るのを楽しみにしています」
「そうですか。それはちょうどよい具合です。そろそろ沼沢地が見えだしましたからね」とモーティマーは窓の外を指さした。
窓外には四角に区切られた青々とした畑地や、低く生いしげる木々のはるかかなたに、小山のいただきが鋸《のこぎり》の歯のようにぎざぎざと憂鬱《ゆううつ》にあわくかすんで夢《ゆめ》の中の不思議な景色のように、かすかにうすれていた。吸いよせられるようにそれを見いって、いつまでも眸《ひとみ》をすえているヘンリー卿を見て、私は彼《かれ》が初めて見る父祖伝来の山河に感慨《かんがい》ふかく、あやしくも心をうたれているのだと察した。アメリカなまりのある身にツイードの服をまとって、殺風景な車室の一隅《いちぐう》にさびしく腰《こし》をおろしてはいるが、感慨にしずんだその日にやけた表情ゆたかな顔を見ていると、なるほど気高く、はげしい貴族的な血統を受け継いだ人には、どこか争われぬものがあると、いまさらのように感じられるのである。濃《こ》い眉《まゆ》とデリケートな鼻と赤みをおびた茶いろの大きな眼とは、犯《おか》しがたい気品と男らしい胆力とがよく調和をたもっている。これでは、たとえ禁断の沼沢地にどんな危険や困難が横たわっていようとも、この友のためならば誰でもが、本人もすすんで危険なり困難なりを分担するという確信のもとに、よろこんで参加するだろうと思われた。
汽車がとあるさびしい田舎の小駅に停まると、私たちはそこで下車した。見ると低い白ぬりの柵《さく》の外に、二頭の馬をつけた田舎馬車が待っていた。小さな駅のことだから、私たちが三人も連れだってぞろぞろと降りたのは、よほどの大事件だったとみえて駅長みずから赤帽《あかぼう》を指揮《しき》して、よってたかって荷物をはこびだしてくれた。まったく質朴《しつぼく》な平和な小村であるが、表へ出ようとする私たちを、黒っぽい制服をきた兵隊風の男が二人、銃《じゆう》を手にしてじろりと鋭《するど》くにらんだので、ことの意外さに面くらってしまった。
気むずかしい顔つきの、節くれだった小柄《こがら》な御者《ぎよしや》は、バスカヴィル館の新しい主人ヘンリー・バスカヴィル卿にぎこちなくていねいな一礼をして、ひとむちくれると、まっ白に乾《かわ》ききった広い田舎道をいっさんに飛ばしていった。道の両側には青海原《あおうなばら》をみるような牧場が起伏《きふく》しながら、しだいに高くなっていった。そしてその間の鬱蒼《うつそう》たる樹々《きぎ》の間からは、破風《はふ》づくりの古い家がちらほら見えた。このめぐみふかい太陽のかがやかしく照りはえた平和な村のかなたには、ぎざぎざとうす藍《あい》いろにかすむ不気味な山々に区切られて、陰惨《いんさん》な沼沢地が夕空のもとに暗くひろがっているのだ。
やがて馬車はわき路《みち》へ入ると、いく世紀の昔《むかし》からの轍《わだち》のあとのある小路を、曲りくねってだらだらと登っていった。両側にはじめじめした鮮苔《こけ》や羊歯《しだ》類が生いしげった高い土手があった。青銅いろの蕨《わらび》や、斑《ふ》いりの茨《いばら》が、沈《しず》みゆくうす陽《び》に映《は》えて、路はどこまでも少しずつ登っていった。やがて小さな石橋をわたると、こんどは灰いろのなめらかな石の間を白い泡《あわ》をたて、はげしい音をたてて、矢のように流れる渓流《けいりゆう》にそって登ることになった。山路と渓流とこの二つの帯は、遠く樫《かし》と樅《もみ》との若木の密生する谷あいに続いていた。路の曲がるたびにヘンリー卿は歓声をあげ、あたりをきょろきょろと見まわしながら、受けきれぬほどの質問をあとからあとからと連発した。その眼には見るものすべてが美しく映ったのだ。しかし私は、年ごとに荒《あ》れゆく寂《さび》しい山村の風光を憂鬱な気持でながめた。朽葉《くちば》は路にも散りしいていたし、過ぎゆく私たちの頭上にもはらはらと降ってきた。そして轍のひびきすらおし殺す朽葉の堆積《たいせき》――バスカヴィル館の新しい主人の乗りこみだというのに、自然はなんという悲しい贈《おく》りものを用意しているのだろうと、私はますます心が沈むのだった。
「おや、あれは何だろう?」モーティマー医師が頓狂《とんきよう》な声をあげた。
見るとゆく手にヒースにおおわれた沼沢地の荒れ山の一支脈がみえ、その頂上に騎馬《きば》の兵士が一騎、銃を前腕に托《たく》して、まるで銅像のように黙然《もくねん》と立っているのである。私たちのいまたどりつつある山路を注視しているのだ。
「どうしたのかね、パーキンズさん?」モーティマー医師が声をかけた。
御者はなかば体を後ろへねじむけて答えた。
「プリンスタウンの監獄《かんごく》から逃《に》げた奴がありますだよ。もう三日になりますだが、つかまるどころか、まだ見つかりさえしねえです。街道も駅もみんな見張りがついてますがね。このへんの百姓どもは大迷惑《だいめいわく》してまさあ」
「ふむ、密告した者にはたしか五ポンドの賞金が出るはずだったね?」
「そうでごぜえますだがね、五ポンドくれえに目がくれて、のどさかっ切られちゃたまったもんでねえでがす。こんどなア、ただのどろぼうと違《ちげ》えますで、人を殺すくれえ何とも思ってねえだからね」
「誰《だれ》だね、いったい?」
「セルデンでがすよ、ノッティング・ヒルの人殺しの」
その事件なら私はよくおぼえていた。あれは犯罪史上にも珍しい凶悪《きようあく》な事件で、手口がひどく残虐《ざんぎやく》をきわめていたため、ホームズがとくに興味をもった事件だった。当然|死刑《しけい》の宣告を受けるはずのところを、犯行当時の精神状態に多少の疑点があったので、減刑されたのである。
馬車が坂道を登りつくすと、眼界が急にひらけて、あちこちに峨々《がが》たる堆石《たいせき》があり、その間に羊歯《しだ》のしげるひろやかな沼沢地が展開してきた。おりから一陣《いちじん》の冷たい風がさっと吹《ふ》きおろしてきたので、私たちは思わずぞくりとした。この人気《ひとけ》のない荒野《こうや》のどこかに、かの凶悪な逃亡《とうぼう》殺人犯人は、世をのろい人をうらみ、野獣《やじゆう》のようにどこかの洞穴《ほらあな》にでも身をひそめているのであろう。そう思うと荒涼《こうりよう》たる不毛の沼沢地と、うすら寒い風と、暮《く》れかかる夕空とが、ますます不気味な感じを加えるのだった。いままで陽気にさわいでいたヘンリー卿までが急にだまりこんでしまって、しきりに外套《がいとう》のえりをかきあわせた。
馬車はすでに荒野ふかくわけ登っていた。ふりかえってみると沈みゆく太陽のうす日に照りはえて、渓流は金色のひもと化し、新しく鋤《す》きおこされた土地は赤く、一帯の森のなかにそれと指摘《してき》できた。ゆく手を見れば、巨大《きよだい》な岩石の点々と散在する斜面《しやめん》一帯は、赤ちゃけた土肌《つちはだ》と草木のオリーヴいろとで斑《まだら》になり、満目蕭条《まんもくしようじよう》たるものさびしい荒地であった。ときどき見かける百姓家は、壁《かべ》も屋根も石塊《いしくれ》をつみあげた殺風景なもので、ざらざらしたその外形は、やさしみを加えるべき蔦《つた》をからませたものすらなかった。行くうちとつぜん、コップの底を見おろすような窪地《くぼち》が眼前にあらわれた。ふちに生えた樫や楡《にれ》は、幾年《いくとし》の風雨に曲がりくねっていじけている。そしてその木の間から、ひょろりと高い塔《とう》が二つみえた。それを御者はむちでさして、
「バスカヴィルの館《やかた》でがす」といった。
新しい主人ヘンリー卿は馬車の中で立ちあがって、熱心にそれを見いった。その顔には興奮の血潮がさしのぼり、眼《め》はするどく輝《かがや》いた。
それから二、三分で、馬車は館の門についた。門口には門番小屋があり、門扉《もんぴ》は夢《む》幻的《げんてき》な模様をとりいれた鉄格子《てつごうし》で、左右二本の苔《こけ》むした太い柱に支えられ、柱の頂上にはバスカヴィル家の紋章《もんしよう》である野猪《やちよ》の頭の彫刻《ちようこく》が風雨にさらされていた。門番小屋は黒花崗岩の廃墟《はいきよ》で、椽《たるき》もむきだしになっていたが、その正面にみえる新しい建物こそは、まだ完成してはいないが、故チャールズ卿が南アフリカからもち帰った巨万の富で、第一に着手した記念物なのである。
門をはいると並木路《なみきみち》で、馬車はふたたび落葉に轍《わだち》の音をうちけされ、両側から大きな老樹が枝《えだ》を張って、うす暗くトンネルをなしていた。ヘンリー卿ははるかかなたの、くらいトンネルの終端《しゆうたん》に幽霊《ゆうれい》のようにかすかに見えている館を見やって身ぶるいした。
「あれはここだったのですか?」卿はひくい声できいた。
「いいえ、水松《いちい》並木は向こう側にあるのです」
若い従男爵《じゆだんしやく》はくらい表情であたりを見回し、
「こんなところに住んでいれば、伯父《おじ》が何かよくないことが起こりそうな気がしたのも、無理はありませんね。誰だってそうなりますよ。私は半年以内に電灯を一列にならべてつけます。そして館の玄関《げんかん》まえに千|燭光《しよつこう》の白熱電灯を一個つければ、もう寂しくなんかなくなりますよ」
並木路を出はずれるとひろい芝生《しばふ》があって、そこに館の建物がたっていた。中央は大きな建物で、そこからポーチが出ばっているのが、薄暮《はくぼ》の中に見られた。正面はすっかり蔦でおおわれて、あちこちに窓や紋章のところだけが黒く見えている。この中央部からは、銃眼や小窓のたくさんある古風な塔が一|対《つい》、角《つの》のようにそびえたって、左右にはいくらか近代様式の黒花崗岩の建物が、翼《つばさ》のように出ばっていた。頑丈《がんじよう》な縦枠《たてわく》のある窓々からにぶい光がさして、急傾斜《きゆうけいしや》の屋根の上に高く突きでた煙突《えんとつ》から、一すじの黒い煙《けむり》がたちのぼっていた。
「ようこそおいでくださいました、ヘンリーさま。お館の一同つつしんでお迎《むか》え申しあげます」
ポーチの暗がりから、背の高い男が、馬車のドアをあけに降りてきた。そしてそこにはもう一人、女の姿がホールの黄いろい光を背にうけて立っていたが、これも降りてきて男に手伝って私たちの荷物をうけとってくれた。
「ヘンリー卿、私はこの馬車でこのまま家へ帰らせていただきますよ。家内が待っていますので」モーティマー医師がいった。
「でもちょっと食事だけでもなさったら?」
「いいえ、せっかくですけれど。あれこれと用事もたまっていると思いますし、じつはお邪魔《じやま》したついでに館の中もご案内するとよいのですけれど、それはバリモアのほうが適役でしょう。それでは失礼。ご用がありましたら、昼でも夜でもいつでもお使をくだされば参ります」
モーティマー医師は馬車を駆《か》って去った。私はヘンリー卿と連れだって玄関を入っていったが、うしろでドアのしまる大きな音がした。入ったところは天井《てんじよう》のたかい、広くてりっぱな部屋で、梁《はり》も時代がついて黒光りのする樫の木づくりだった。大きい古風な暖炉《だんろ》には、裸火《はだかび》が気持よく音をたてて燃えていた。長い馬車旅に冷えこんでいた私たちは、さっそくその火に手をかざした。それから、古いステンド・グラスをはめこんだ高い窓や、樫の木の羽目板や、牡鹿《おじか》の頭部の飾《かざ》りものや、壁にぬりこんだ紋章や、中央につるされたランプのほのかな光など、あたりの様子を見まわした。
「私の想像した通りでした」ヘンリー卿がいった。「よくある旧家の絵そっくりですね。この家の中で祖先が五百年来くらしてきたのかと思うと、何といってよいか、一種|荘厳《そうごん》な感にうたれますよ」
あたりを見まわす卿の黒い顔には、わかわかしい感激《かんげき》のいろがあった。そしてそこへ突ったった卿の影《かげ》は、壁から天井までもはいあがっていた。
そこへ、それぞれの部屋へ荷物をはこび終わったバリモアがやってきた。私たちの前へ出た彼は、よくしつけられていると見えて、ていねいな態度を失なわなかった。背の高いりっぱな体格で、顔だちもよく、黒いあごひげを四角に刈《か》りこんで、青じろい顔をしていた。
「お食事はすぐに召上《めしあ》がられますか?」
「用意はできているのかね?」
「すぐにできます。お部屋にお湯がとってございますから、ちょっとお支度《したく》くださいます間に、用意いたします。旦那《だんな》さま、私も家内も旦那さまがお館のことを新規におとりきめになりますまで、当分よろこんでお世話を申し上げます。でも旦那さまがいらっしゃいましたからには、これからはよほど使用人の数もお増しになりませねばと存じます」
「どういうわけでだね?」
「先代さまはほんのご隠居《いんきよ》同様のお暮らしでございましたから、私ども二人だけでどうやら用は足りておりましたけれど、旦那さまはご交際もお広くていらっしゃいましょうし、しぜんお館の模様も変ってまいることと存じまして」
「お前さん夫婦は暇《ひま》でもとりたいというのか」
「それは旦那さまの思《おぼ》しめししだいでございます」
「しかしお前さんたちは代々この家で働いてくれたんだろう? 私としてもそういう古い人たちとは別れたくないと思うよ」
私はこうした話のあいだに、執事《しつじ》バリモアの青じろい顔に、感情のうごくのを見てとったように思う。
「わたくしも家内もそうは存じますが、じつを申しますと、私どもは先代さまをたいへんお慕《した》い申しあげておりますところへ、あんなお気の毒とも何とも申しあげようのない事になりまして、見るもの聞くものがみんな思い出のたねでございます。これではこのお館にいますかぎり、私どもは心の休まるおりもあるまいかと存じます」
「それでこの先どうしようというのだね?」
「何かこう商売のようなことでもいたしたらと思っております。先代さまのお情《なさけ》で、どうにか資本《もとで》もございますので……おや、つい余計なおしゃべりをいたしまして。それではお部屋へご案内いたしましょう」
この古風な広間のうえには、四方とも手すりのついた回廊《かいろう》があって、二つ折れの階段で登っていくようになっていた。回廊の中央から長い廊下が左右に、建物の全長にわたってのびており、そこにたくさんの寝室《しんしつ》があった。私のあてがわれたのは、ヘンリー卿とおなじ側で、しかもほとんど隣《とな》りあっていた。これらの部屋は、建物の中央部よりはるかに近代的にできていて、美しく明るい色の壁紙に、多数のろうそくがまぶしく、この家に入ったときの陰気《いんき》さはどこにも見られなかった。
しかしながら、それから間もなく身支度をすませて広間につながる食堂へ降りてみると、そこはまた暗くて陰気なところだった。ほそ長い食堂は中央に段があって二つにわかれており、上段のほうには家族の人たちが、下段には雇人《やといにん》たちが坐《すわ》ることになっていた。さらに一端には楽師たちの坐る席が一段高く設けてあった。黒い梁が何本も頭上をはしり、その上に煤《すす》けきった天井があった。その昔、燃えあがる松明《たいまつ》をたて連ねた中で、殺伐《さつばつ》な歓喜の酒宴《しゆえん》を張るにふさわしかったであろうが、こうしていま二人のきまじめな紳士《しんし》が、ぽつんとただ一つともったランプの投げる狭《せま》い光のうちに坐らされてみると、声までがひそひそとなりがちで、つい魂《たましい》もめいってしまいそうだった。壁にはエリザベス王朝の騎士《きし》から、その後の摂政《せつしよう》時代のしゃれ者姿にいたるまで、さまざまの服装をしたこの家の祖先たちの肖像《しようぞう》がかかげられ、それが暗黙のうちに申しあわせて私たちを威嚇《いかく》しているようで、不気味さはひとしおだった。私たちはほとんど話もしなかった。やっと食事のおわったときは、私としてはやれやれと、ひそかに救われたような気さえした。それから私たちは近代的な球戯室《きゆうぎしつ》へいって、タバコを楽しんだ。
「どうも、あんまり気持のいい場所じゃありませんね」ヘンリー卿がいった。「これでも馴《な》れれば少しは住みよくなるかもしれませんけれどね。でも現在のところ何となく落ちつきませんよ。伯父もこうしたところにたった一人でいたのでは、神経をビクビクさせたのも無理ないと思います。仕方がありませんから、何でしたら今夜は早く寝《やす》みましょう。明日になってみたら、すこしは気も晴れるようになるかもしれません」
私はベッドに入るまえに、カーテンをあけて外をのぞいてみた。窓は館の前庭に面していた。そしてそこの雑草のしげるなかに二カ所ばかりある植えこみの木が、吹きはじめた風に揺《ゆ》れて、ざわざわと音をたてていた。流れる雲の切れ目からのぞく半月の冷たい光の中に、植えこみのかなたに、岩の切れ目を通して陰鬱な沼沢地《しようたくち》が遠くながめられた。これでぐっすり眠《ねむ》れるだろうと思いながら、私はカーテンをとざした。
だがそうはゆかなかった。疲《つか》れきっているのに、どうしてか眠れない。なんとかして眠れないものかと思って、輾転《てんてん》として寝《ね》がえりをうっていると、死んだように静まりかえった家の中の、どこか遠くのほうで、時計が十五分ごとに時を報ずるのが聞こえた。するととつぜん、その死んだように寝静まった家の中に、あるものがはっきりと聞こえてきた。それは女の忍《しの》び泣きだった。忍びやかに、押《お》しつつんではいるけれど、それは明らかに、堪《た》えがたい悲しみを、ひそかに嗚咽《おえつ》しているのに相違《そうい》なかった。声は遠くない。家の中であることも、いうまでもない。
私はベッドのうえに起きなおって、じっと耳をすました。するとその泣き声はハタと止まってしまった。それから三十分ばかり、全身の神経を耳に集中してじっと待っていたが、十五分ごとに時を報ずる時計の音と、壁にからまる蔦《つた》の葉が風にそよぐ音のほかは、もうなんにも聞こえなかった。
第七章 博物学者ステープルトン
清新な美しい朝の景色は、昨日この館《やかた》へ着いて以来の、陰鬱《いんうつ》で不気味だった印象を少しは和《やわ》らげてくれた。ヘンリー卿といっしょに朝食のテーブルについてみると、高い窓から朝日が流れこんで、窓ガラスにいれてある紋章のうるんだ影を美しく投じた。まっ黒だった羽目板は金色《こんじき》の朝日をうけてブロンズいろに輝き、これがゆうべあんなに不気味に思われたあの部屋なのだろうかと疑われるばかりだった。
「これはこの家が悪いのじゃなくて、われわれの気持が変になっていたのかもしれませんね」ヘンリー卿がいった。「なにしろ長い間汽車に揺られて疲れていたうえに、馬車ですっかり冷えこんだものだから、きっと気持のせいであんなに思われたんですよ。その証拠《しようこ》には、こうして疲労《ひろう》を回復してみると、もうふだんの通りですからね」
「でもあれは気持のせいばかりじゃないように思えますよ。たとえば、昨晩なにかお聞きになりませんでしたか、私は女の忍び泣きだったと思うのですが?」
「へえ、それは妙《みよう》ですねえ。じつは私も夢《ゆめ》うつつにそんなものを聞いたような気がするのです。変だと思って、よく気をつけてしばらく耳をすましてみましたが、何のこともありませんから、やっぱり夢だったのかなと思っていたのです」
「私ははっきり聞きました。あれはまったく女の忍び泣きに違《ちが》いありません」
「さっそく調べてみなければなりませんね」
ヘンリー卿はベルを鳴らしてバリモアをよび、その話をして、心あたりはないかと尋《たず》ねた。するとバリモアは、卿の言葉もおわらないうちに、その青い顔をいっそう青じろくしたように思われた。
「お館には女と申しましては二人しかおりません。一人は下働きの女中でございますが、これはずっとあちらの棟《むね》で寝《やす》むことになっております。もう一人は私の家内でございまして、家内にそんなことのあるはずはございません」
バリモアの答えはりっぱだったけれど、彼《かれ》はうそをいったのだ。なぜかというと、私は食事をすませてから長い廊下で、顔一面に日をあびているバリモアの細君に偶然《ぐうぜん》出あったが、そのときちらりと私のほうを見た彼女《かのじよ》の眼は、まっ赤になって瞼《まぶた》がはれあがり、すっかり事実を告白していたからである。してみれば、ゆうべ忍び泣いたのは、この鈍重《どんじゆう》な顔に口もとだけ引きしまった大柄《おおがら》の女だったのだ。それにしても亭主《ていしゆ》のバリモアがそれを知らないという道理はないはずである。にもかかわらず彼はこの明白な道理を無視して、やっきとなって包みかくそうとしている。なぜ隠《かく》すのだろうか? そして細君はなぜあんなに泣いたのだろうか?
あのまっ黒なあごひげのある青じろい美男の執事の身辺には、すでに前から疑問の暗雲がたれこめている。最初にチャールズ卿の死体を発見したのもこの男だし、卿が死ぬまえの情況《じようきよう》も、彼の口を通してわかっているだけである。けっきょくホームズと私とが、いつぞやリージェント街で馬車の中に見かけた男は、バリモアだったと考えてよいのだろうか? あごひげだけなら同じに思われる。あのときの御者《ぎよしや》の話では、あの自称シャーロック・ホームズはこの男よりも少し背が低かったようではあるが、ああした場合の印象は、間違いやすいものだ。はて、これはどうしたものだろうか? まず第一にグリンペンの郵便局長にあって、あの電報はほんとにバリモアに直接|手渡《てわた》したのかどうか、たしかめるとしよう。その結果がどうあろうとも、それまでのことをホームズに知らせなければならない。
ヘンリー卿は食事のあとで、いろんな書類を見る用事があって、手が離《はな》せなかったから、私の外出には好都合だった。郵便局まで四マイルの沼沢地に沿った道は、愉快《ゆかい》な散歩であった。グリンペンは貧弱《ひんじやく》な村で、目につく大きい家は宿屋をかねた居酒屋とモーティマー医師の家の二|軒《けん》だけだった。郵便局長は食料雑貨店をもかねた男だったが、あの電報のことははっきり覚えていた。
「はい、あの電報はご指定の通りに、ちゃんとバリモアさんにお届けしましたよ」
「誰《だれ》が配達にいったんです?」
「私の子供です。ジェームズや、お前先週のあの電報は、バスカヴィル館のバリモアさんにお届けしたな?」
「うん、届けたよ」
「直接本人に手渡したの?」私が尋《き》いた。
「それがね、ちょうどそのときバリモアさんは屋根部屋へあがってて、じかに渡すことができなかったから、かみさんに渡してきたんだよ。かみさんはすぐにバリモアさんに渡すっていったよ」
「お前、バリモアさんの姿を見たのかい?」
「いいえ。だって屋根部屋へあがってたんだもの」
「姿を見もしないのに、どうして屋根部屋にいることがわかる?」
「でもかみさんがそういったんだから、間違いないでしょう」父親が見かねて怒《おこ》りっぽくいった。「電報がつかなかったとでもおっしゃるんですかい? もしそうだとしたら、バリモアさんが何かいいそうなもんですよ」
こんな問答をいつまでやってみても始まらないが、シャーロック・ホームズの策略はすっかりはずれて、バリモアがロンドンへ行ったか行かなかったか、結局判然としないことになった。かりにすべてのことを肯定《こうてい》してみる。チャールズ卿《きよう》を手にかけたのも彼だ。そしてその新しい後嗣《あとつぎ》がイギリスへ到着《とうちやく》したのをロンドンに出迎《でむか》えて、つけねらったのも彼だ。としたらいったいどういうことになるのだ? 彼は誰かに頼《たの》まれてやったのだろうか? それとも自分一人の発意でやった仕事なのか? バスカヴィル家の人たちに迫害《はくがい》を加えて、どういう利益が得られるのだろう?
私はこのとき「タイムズ紙」の社説欄《しやせつらん》から切りぬいてつくった不思議な警告状のことを思いだした。あれはやはりこの男のやったことなのだろうか? それともこの男の企図《きと》を阻止《そし》しようとする何者かの行為《こうい》なのであろうか? 想像できるかぎりの唯一《ゆいいつ》の動機ともいうべきは、ヘンリー卿もいっていたように、もしバスカヴィル家の人たちがこの館に近づかぬということにでもなれば、バリモア夫婦はいたってのんびりと、気楽にやってゆけるということだけである。このほかにはバリモアがこんな不敵なことを企《たくら》むべき動機は見出《みいだ》せないのであるが、ただそれだけのことでは、ヘンリー卿の身辺に眼《め》に見えない網《あみ》をはりめぐらそうとしているように思われるあの深い神秘な計画を説明するには不十分である。ホームズですらも、数おおい経験の中でこんなに複雑な事件は初めてだといっている。私は陰気なさびしい道をとぼとぼと帰りながら、早くホームズの体があいて、この双肩《そうけん》にかかる重荷をおろさせてくれないものかと、心ひそかに祈《いの》ったのである。
走馬灯《そうまとう》のようにあれこれと取りとめない思いにくれながら歩いていると、ふと私の名をよびながらうしろから誰か駆《か》けてくる足音に気づいて、立ちどまった。そしてモーティマー医師だろうと思って振《ふ》りかえってみると、見も知らぬ男だったので、いささか驚《おどろ》いた。ほっそりした小柄な男で、とりすましたような顔をきれいに剃《そ》りあげ、あごのとがった、亜麻《あま》色の髪の三十代の人物だった。鼠《ねずみ》いろの服に麦稈帽子《むぎわらぼうし》をかぶり、植物採集用のブリキの胴乱《どうらん》を肩《かた》からつるし、緑いろの昆虫網《こんちゆうあみ》を手にしている。
「はなはだ失礼ですが、あなたはワトスン先生でいらっしゃいますね?」その男は私のそばまでくると息を切らしながら言葉をかけた。「紹介《しようかい》もなくだしぬけにお呼びかけしましたが、このへんの沼沢地方では、誰もそんな堅《かた》くるしいことは申さぬことになっておりますので……たぶんモーティマー君からお聞きになっていると思いますが、私はメリピット荘《そう》のステープルトンです」
「その網と胴乱をみてそうだろうと思いましたよ。ステープルトンさんという博物学者がここにおいでのことは知っていましたしね。でもどうして私がおわかりになりました?」
「さっきモーティマー君のお宅にいますと、あなたがお通りになるのが診察室《しんさつしつ》の窓から見えたのを、あの人が教えてくれました。さいわい私の家もおなじ方角ですから、追いついて自己紹介をしたいと思いましてね。ヘンリー卿は遠路のお疲れもなく、お元気でしょうね?」
「おかげさまで、いたって元気のようです」
「チャールズ卿がああいうお気の毒なお最期《さいご》でしたから、新しい従男爵《じゆだんしやく》はここの館《やかた》へおはいりにはならないのじゃないかと思いましてね。こんな辺鄙《へんぴ》な荒れ地にわざわざ埋《う》もれにくるというのは、お金のある人には問題ですからな。しかし、土地の人たちにとっては、おいでくださらないとなると、申すまでもなく大問題です。ときにヘンリー卿は、この問題に関して迷信的《めいしんてき》な不安などお持ちじゃないでしょうね?」
「そんなことはないと思いますよ」
「それでもバスカヴィル家の祟《たた》り犬の話はむろんご存じなのでしょうね?」
「その話なら私も聞いています」
「このへんの百姓《ひやくしよう》どもの迷信ぶかさといったら、それはひどいもんです。あの話をすっかり信じきっているのですからね。誰にきいてみても、そういうものを沼沢地で見かけたと、本気になって断言します」ステープルトンは笑いながらいったが、彼の目のいろからかなり深刻にとっていることがわかった。「この話にはチャールズ卿もよほど神経をなやましたらしく、結局そうした神経が嵩《こう》じてのあの最期だったのに違いないと思いますよ」
「へえ! どういうふうにですか?」
「つまり神経にやんだ結果、犬さえ見れば致命的《ちめいてき》な打撃《だげき》をうけるほど、心臓が弱っていたのですね。あの晩従男爵は水松《いちい》の並木路《なみきみち》で、何かそうしたものを見たのじゃないかと思うのです。私はチャールズ卿とはごく親しくねがっていましただけに、なにか変事がおこらなければよいがと、ひそかに案じていたのですよ。何しろ心臓がおそろしく衰弱《すいじやく》していましたからね」
「どういうところから、それをご存じだったのですか?」
「モーティマー君から聞いていたのです」
「そうするとつまり、犬に追われて、その恐怖《きようふ》の結果死んだものとお考えなんですね?」
「そうとより考えられませんが、あなたは何かほかによい説明がおありですか?」
「私はまだこれという結論は得ておりません」
「シャーロック・ホームズさんはどうです?」
私はこれを聞いてハッと思った。しかし少しも変らぬ相手の青じろい顔いろや、落ちつきすました眼つきを見て、彼がべつに底意《そこい》あっていったわけでないのがわかった。
「ワトスン先生、私どものまえでお秘《かく》しになったり、ご遠慮《えんりよ》なさってはいけません。あなたがお書きになった探偵《たんてい》の記録はこのへんまで知れわたっています。ホームズさんの成功も、あなたあってのことですものねえ。さっきモーティマー君からあなたのお名前をうかがって、すぐにそれとわかったほどです。そのあなたがここへいらした以上、シャーロック・ホームズさんがこの問題に興味をお持ちだということがわかりました。ですからつい、ホームズさんがどんなご意見なのか、ちょっとうかがってみたくなったのですよ」
「さあ、どう考えておりますか、私にもちょっとわかりかねますよ」
「ホームズさんは、やはりご自身こちらへいらっしゃいますか?」
「ホームズ君はほかの事件で忙《いそが》しいですから、いまのところロンドンは離れられないでしょう」
「それは残念ですね。あのかたがおいでくだされば、私どもと違って、事件にいくらかの光明を与《あた》えてくださるでしょうに。でもあなたのご捜査《そうさ》の上で、私にできることがありましたら、どうか何なりとお申しつけください。こういう方面が疑わしいとか、これこれのことが調べたいというようなご意向をおきかせくだされば、いますぐでも知っているだけのことは申しあげますし、何かとお役にたつこともあろうかと思います」
「いえ、私はただ一人の友人としてヘンリー卿のところへ逗留《とうりゆう》にきているだけでして、どなたからもご助力いただくような必要はありません」
「いや、これは恐《おそ》れいりました。あなたが万事《ばんじ》に用心ぶかくていらっしゃるのは、これは当然のことですよ。私としたことがとんだ差し出口を申しあげて、まことに相すみませんでした。これからは、くだらないことを申しあげるのは慎《つつし》みましょう」
話しながら歩くうちに、草ぶかい小路が道路からわかれて、沼沢地《しようたくち》のほうへくねくねと通じているところまできた。右側にはその昔《むかし》花崗岩《かこうがん》を切りだしたという岩だらけの嶮《けわ》しい小山があって、山のこちら側は一面に羊歯《しだ》や茨《いばら》の繁茂《はんも》するうす暗い崖《がけ》になっている。そしてその向こうに遠くねずみいろの煙《けむり》がうすく一条たち登っていた。
「この小路を少しゆくと、私どものメリピット荘です。ちょっと一時間ばかりお割《さ》きねがって、妹にも会ってやってくださいませんか?」
はじめ私は、はやく帰ってヘンリー卿のそばについていなければと思った。しかし考えてみると私が出るとき、卿はいろんな書類や請求書《せいきゆうしよ》の類を書斎《しよさい》のテーブルのうえに山と積んで、いちいち目を通してそれぞれ処理していた。あれは私などの手つだえる性質のものではない。それにまたホームズからもとくに、この付近の人たちを研究するようにといわれている。そこで私はステープルトン君にすすめられるがままに、草ぶかい小路のほうへといっしょに歩いていった。
「沼沢地というところは、じつに不思議なところですよ」と彼は、えんえんと一面に波うつ草原の、ところどころにとげとげと鶏冠《とさか》のような花崗岩の小山が、まるで荒波《あらなみ》に洗いのこされた海中の岩山のように屹立《きつりつ》するあたりの光景を見まわしながらいった。「じつに想像もおよばぬ自然の秘密を内蔵していますから、いつまで見ていても飽《あ》きるということがありません。広漠《こうばく》として、まるで不毛で、まことに神秘的です」
「ではあなたは沼沢地のことにはお詳《くわ》しいでしょうね?」
「私はきてからまだ二年にしかなりません。ですから土地の人からみれば新来者ということになるでしょう。チャールズ卿が南アフリカから帰って定住されてまもなく、この地へ移ってきたのです。でも趣味《しゆみ》の上から、このへんの土地はのこる隈《くま》なく歩いていますので、いまでは誰にも負けぬほど、土地の事情に通じているつもりです」
「そんなにこの土地はわかりにくいですか?」
「ひと通りのわかりにくさではありません。たとえばこれから北のこの大平原ですが、ところどころ小山が見えていますね。なにか変った点にお気がつきませんか?」
「そうですね、ここで馬を飛ばしたら、さぞ愉快でしょう」
「ちょっとそう考えられるでしょう。ところがそのために生命を落とした人が、いままでに何人もあるのですよ。ごらんなさい、ああいうふうにほかのところよりも草が勢いよく繁《しげ》っているところが、あちこちに見えるでしょう?」
「ええ、あそこは地質がとくに肥えているからでしょうね?」
ステープルトンは笑いだした。「あれがグリンペンの大底なし沼《ぬま》ですよ。あやまってあそこへ踏《ふ》みこめば、人でも獣《けもの》でも死ぬばかりです。現に昨日も、この地方特産の小馬《ポニイ》が一頭あれへ迷いこんだのを見かけましたが、それっきり出てはきませんでした。だいぶしばらくは泥《どろ》の中から首だけもたげていましたが、それもとうとう泥の中へのまれてしまいました。乾燥期《かんそうき》ですら、これを通るのは危険があるくらいですから、秋雨のあとの今ごろは実におそるべきところです。それでも私は研究の結果あれの中心までいっても、無事に帰ってこられる道を発見しております。おや、それあそこにも小馬《ポニイ》が一頭、底なし沼に嵌《はま》りこんでいますよ」
青々とした菅《すげ》の草むらの中に、何だか褐色《かつしよく》のものがもくもくと動いている。と思って見ているうちに、首を高くのばして、死にもの狂《ぐる》いにもがきあがく馬の悲鳴が、ものすごく沼沢地をわたって聞こえてきた。あまりの恐ろしさに私はぞっと寒気をもよおしたが、ステープルトンはさほどにも感じないらしかった。
「見えなくなった。底なし沼にのまれたのですよ。これであの沼は二日間に二頭のんだわけです。これからもまだまだやられることでしょう。何しろ乾燥期に、あそこへ駆けこむ習慣がついていますからね。動物の悲しさに、脚《あし》を吸いとられるまで、ほかの安全な土地との区別がつかないのですよ。グリンペンの大底なし沼! まるで地獄《じごく》のようなところですね」
「でもあなたはあそこを通りぬけられるといいましたね?」
「敏捷《びんしよう》な人なら、通れる道が一つ二つあるのを、ちゃんと見つけてあります」
「しかし何だってあなたは、好んでそんな恐ろしいところへおいでになるんです?」
「さあ、それが、あそこに小山が見えていますね。あれはながい間に周囲を底なし沼にすっかりとり囲まれて、絶海の孤島《ことう》のようになっていますが、行ってみると非常に珍奇《ちんき》な植物や蝶《ちよう》の類がいるのですよ」
「それはおもしろい。いつか一度ためしてみましょう、私にも行けるかどうだか」
彼は驚いて私の顔をみた。「とんでもない! そんな無謀《むぼう》な考えをおこしちゃいけません。あなたが死ねば私の罪になります。万が一にもあなたが無事に帰ってこられることはないのですからね。私でさえ非常にむずかしい目じるしをたよりに、辛《かろ》うじて往来している始末なんですからね」
「おや! あれは何でしょう?」
私は思わず叫《さけ》んだ。ながく低く、なんともいいようのない悲しげな呻《うめ》き声が、どこからともなく聞こえてきたからである。その呻きはかなり明瞭《めいりよう》に聞こえはしたが、はたしてどの方角からくるものかわからなかった。それもはじめは、かすかな呻きであったのが、しだいに底力のある咆哮《ほうこう》に変ってゆき、しばらくするとまたすすり泣くように沈《しず》んだ調子にかすれていった。
「沼沢地はまったく不思議なところですよ」ステープルトンは妙《みよう》な眼つきで私の顔をのぞきこむようにした。
「でも何でしょう、あれは?」
「このへんの百姓は、バスカヴィルの魔《ま》の犬が餌《えさ》を求める声だといっております。私も一、二度聞いたことはありますけれど、こんなにはっきり聞こえたのは初めてです」
私は冷水でもあびたようにゾッとして、あちこちに藺草《いぐさ》の青々と繁るはてしない草原を見まわした。だがうしろの岩山で二羽の大鴉《おおがらす》が不吉《ふきつ》な鳴き声をあげているほか、見わたすかぎりそよとも動くものは見られなかった。
「あなたがたは無教育な百姓どもと違って、まさかそんなことを信用はなさらないでしょうが、あの奇妙《きみよう》な声のもとは、いったい何でしょう?」私がたずねた。
「沼地というものは、どうかすると妙な音をたてることがあります。つまり泥が陥没《かんぼつ》したり、地下から水が噴出《ふんしゆつ》したり、そのほかいろんなことが原因しているようです」
「しかし、いまのはたしかに生きものの声でしたね」
「そういえばそうかもしれません。あなたはサンカノゴイという鳥の鳴くのを聞いたことがおありですか?」
「いいえ、ありませんねえ」
「珍《めずら》しい鳥でして、イギリスではほとんど絶滅《ぜつめつ》したといってもよいのですが、この沼沢地はどんなことが起きても不思議はないのです。いまわれわれが聞いた叫び声もあるいは最後のサンカノゴイだとしても私は驚かないでしょう」
「聞いたこともないほど不思議な、気味のわるい話ですねえ」
「はい、たしかにうす気味わるいところでしょうね。あの小山の山腹をごらんなさい。あれを何だとお思いになります?」
見ると小山の急な斜面《しやめん》いっぱいに、灰いろの石を円形に積んだものがたくさん――二十くらいも点在していた。
「何ですか? 羊《ひつじ》小舎《ごや》ですか?」
「いいえ、あれはわれわれのりっぱな祖先の家ですよ。いったいこの沼沢地には、有史以前に人類がたくさん居住していたのですが、その後だれも住まず、したがって少しも人為的《じんいてき》に荒されていませんから、遺跡《いせき》はそっくりそのままに残っています。あそこに見えているのは、その時代の住居の屋根だけなくなったものですよ。あの中へ入ってみますと、当時の炉《ろ》や石床《いしどこ》がいまでも見られます」
「かなり密集して居住したものですね。いったいどの時代ですか?」
「新石器時代です。何年前か、正確なことはわかりません」
「どんな生活だったでしょう?」
「この山腹で牧畜《ぼくちく》をしていたのですね。それに錫《すず》を採掘《さいくつ》することを知って、それまでの石器にとって代って青銅の剣《けん》が現われてきました。反対側の山にある大きな壕《ごう》をごらんなさい。あれがその痕跡《こんせき》です。どうです、この沼沢地にはいろんな珍しいものがあるでしょう? あっ、ちょっと失礼、あれはたしかにシクロピディスです」
この時眼のまえをひらひらとすぎた蝶《ちよう》か蛾《が》を追っかけて、ステープルトンは非常な勢いで駆けだしていった。ところがあいにくなことに、昆虫《こんちゆう》はまっすぐに底なし沼のほうへとんでゆく。それを見て彼《かれ》はあきらめるどころか、青い昆虫網《こんちゆうあみ》をひらひらさせながら、草むらから草むらへと縫《ぬ》ってどこまでも追っかけていった。だんだんに遠ざかって、しまいにはねずみいろの服をきて右に左にとジグザグに駆けていく彼の姿そのものが、一|匹《ぴき》の蝶か蛾のように思われてきた。私はその場に立ちどまって、この異常な活躍《かつやく》ぶりを驚嘆《きようたん》の眼で見おくり、恐るべき底なし沼にでも踏みこんでくれなければよいがと、ひやひやしていると、ふと足音が聞こえた。振返《ふりかえ》ってみると、一人の女が小路《こみち》づたいに近づいてくるところであった。行く手に一条の煙《けむり》があがっているので、それとわかったメリピット荘《そう》のほうから来たのだが、地勢の起伏《きふく》のかげんで、すぐ近くに現われるまで気がつかなかったのである。
話にきくステープルトンの妹であることは、すぐにわかった。何しろこんな場所に教養ある女がそうざらにいるわけはなし、それに誰《だれ》からだったか美人だと聞いたのをおぼえているので、ひと目でそれと知ったのである。近づいてくるその婦人はまったく美しい人だった。そして滅多にないタイプであった。兄妹《きようだい》でありながら、兄のステープルトンとはいちじるしい相違《そうい》である。ステープルトンのほうは皮膚《ひふ》も灰いろで、髪《かみ》のいろはうすく眼も灰いろであるのに、妹は今までに見たどんな浅黒型《ブルネツト》よりも髪や眼のいろが濃《こ》く、すらりと背が高い。その顔は気だかく端正《たんせい》で、その黒い眼もとや口もとに人を魅《み》する愛らしさがなかったなら、無神経な冷たい印象をあたえると思われるばかりととのっていた。そしてそのしなやかな肢体《したい》に上品な服を着《つ》けたところは、沼沢地のさびしい小路には、どう見ても似つかわしからぬ存在であった。はじめ私が振りかえったとき、彼女《かのじよ》の眼はもっぱら兄のほうへそそがれていたが、やがて急ぎ足に私のほうへ近づいてきた。私はすぐに帽子《ぼうし》をとってあいさつし、事情を説明しようとすると、彼女は意外なことをいった。
「お帰りになって。すぐロンドンへお帰りになって」
私はポカンとして彼女を見つめた。彼女は懇願《こんがん》するように私を見つめ、じれったそうに片足でかるく地団駄《じだんだ》をふんだ。
「なぜ帰らなきゃならないのですか?」
「なぜでもですわ」彼女はひくい声に力をこめていった。妙に舌のもつれるところがある。「おねがいですから、私の申す通りになさって。どうぞお帰りになって、二度と沼沢地へいらしてはいけません」
「でも私はきたばかりですのに」
「そんなことおっしゃってはいけません。あなたのためを思って申していますのが、おわかりになりませんの? どうぞロンドンへお帰りになって! 今晩お発《た》ちになるのです。どんな犠牲《ぎせい》をはらっても、この土地をお離《はな》れにならなければいけません。あっ、兄がこちらへ参ります。いま申しあげたことは兄にはおっしゃらないでくださいね。あら、あそこにスギナモの中に蘭《らん》がありますわ。あれ取ってくださいません? 沼沢地には蘭がたくさんございますのよ。でもご見物には、季節がすこしおそうございますわ」
ステープルトンは昆虫を追うのをやめてひき返してきた。活躍がすぎたので息ぎれがして、まっ赤な顔をしている。
「おや、ベリル、来たのかい?」といったステープルトンの語調は、兄妹にしてもすこし乱暴すぎるように思えた。
「ええ、暑そうね、ジャック」
「ああいまシクロピディスを追っかけたんだ。たいへん珍しいうえに、こんなに涼《すず》しくなってから出ることは、めったにないのだよ。残念なことをした」
なにげなくはいっているけれど、小さな眼でたえず私と妹とを見くらべていた。
「もうごあいさつしたんだね?」
「ええ私ね、沼沢地のほんとの美しさを見物なさるには、少しおそすぎますって、ヘンリー卿《きよう》にいまそう申しあげていたところですの」
「えッ、お前このかたをどなただと思っているのだい?」
「だってヘンリー・バスカヴィル卿でいらっしゃるのでしょう?」
「いえ、違《ちが》いますよ」私はおどろいてうち消した。「私は従男爵《じゆだんしやく》なんかじゃありません。ヘンリー卿の友人で、ワトスンと申す医者です」
ベリル嬢《じよう》は美しい顔をさっと赤らめた。
「わたし困りましたわ。思い違いをしてお話をしていたんですもの」
「だって、何も話すような時間はなかったじゃないか」兄は依然《いぜん》として詰《なじ》るような疑わしげな眼で妹を見やった。
「わたしワトスン先生をお客さまだとは知らないで、ずっとこちらでお暮《く》らしになるのだと思ってお話していましたの。では蘭の季節に早くてもおそくても、そんなこと関係ございませんわね。でもワトスンさま、私どものメリピット荘へもお寄りくださいません?」
それからまもなく私たちはメリピット荘へ着いた。そこはもの寂しい一軒家《いつけんや》で、以前このあたりが栄《さか》えていたころ、ある牧畜家の農園だったのを、手を加えて近代的な住宅になおしたものだった。家の周囲は果樹園になっていたが、このあたりの常として樹《き》はいじけきって、いったいがわびしく憂鬱《ゆううつ》な印象をあたえた。しなびたような妙な老僕《ろうぼく》が、汚《よご》れた服を着て出むかえ、いかにもこの家にふさわしく思われたが、中へはいってみると大きな部屋がいくつもあり、この婦人の趣味だとみえて、いずれも上品に飾《かざ》りつけがしてあった。そこの窓から、見わたすかぎり地平線にいたるまで、花崗岩の点在する沼沢地《しようたくち》をながめていると、どうしてこんな教養のある男が美しい妹までつれて、こんな辺鄙《へんぴ》な地に埋《う》もれているのだろうかと、訝《いぶか》られるのであった。
「よりによって、妙な土地を選んだものでしょう?」とステープルトンは私の胸中を見ぬいたようにいった。「でも住めば都で、けっこう幸福にやっていますよ。ねえベリル?」
「そうですわ」と妹はいったが、その言葉つきには信念が感じられなかった。
「もと私は北部のほうで学校を経営していたのですが」とステープルトンは問わず語りに話しはじめた。「その仕事は私のような気質のものには単調でもあり、退屈《たいくつ》なものでしたけれど、ただ朝夕元気な青年と接したり、若い心に自己の人格や理想を移し植えて育てあげるのは、何ともいえぬ楽しみでした。ところが運命の神に見すてられたというのですか、校内にひどい流行病が発生しましてね、学生が三人も死にました。そのため回復しがたい打撃《だげき》をうけまして、資産もおおかた傾《かたむ》けつくしました。それでも学生たちさえ残ってくれましたら、また何とか挽回《ばんかい》の手段もあったのでしょうが……でも私は動植物学にふかい趣味をもっていますので、こちらへ来ても研究材料にこと欠くことはありませんし、妹もやはり自然の研究には一身を捧《ささ》げています。ワトスン先生、こうしてここの窓からご覧《らん》になるところを見ていますと、そうしたことは何もかもおわかりと思いますけれどね」
「ええ、それでもお妹さんは、あなたほどではないにしても、いくらか退屈をお感じになるでしょうね」
「いいえ、わたし退屈なんかいたしませんわ」ベリル嬢がいそいでうち消した。
「本もありますし、研究もあります。それにご近所がみんなよい人ですからね。モーティマー先生は医学のほうではりっぱな学者ですし、チャールズ卿もおもしろい話相手でした。あのかたとはとくに親しく願っていましたから、それが急に亡《な》くなられたので、がっかりしていますよ。今日午後からお訪ねしますから、ヘンリー卿にご紹介《しようかい》ねがいたいものですが、お邪魔《じやま》じゃないでしょうね?」
「それはヘンリー卿もさぞお喜びでしょう」
「それではお帰りになったらどうぞ、そのことをヘンリー卿にお伝えください。私どもも至らぬながら、できるかぎりヘンリー卿をお慰《なぐさ》めして、一日も早くこの新しい土地にお馴《な》れになるようにいたしましょう。ワトスン先生、それでは二階へおいでくださって、私の採集した鱗翅類《りんしるい》の標本を見てくださいませんか。南部地方でこれだけ完備した標本を集めている人はあるまいと自惚《うぬぼ》れていますよ。すっかり見ていただく間には、昼食の支度《したく》ができると思いますから……」
しかし私は一刻も早く帰って、ヘンリー卿のそばについていたかった。沼沢地の憂鬱な景色や、あわれな小馬《ポニイ》の最期《さいご》や、バスカヴィルの暗い伝説を連想させる不気味な声を聞いたりして、私はうち沈《しず》んだ気分になっていた。そこへ加えてさっきのベリル嬢のあわただしい、たしかに何か深い事情のあるらしい警告なので、ますます暗い圧迫《あつぱく》を感じてきたのである。それで、たってと止められるのを振りきるようにして、すぐに、いまきた草ふかい小路《こみち》をいそいで帰路についた。
だが考えてみると、このあたりの案内を心得たものには、どこか近道があるのに違いないと思われた。というのは、グリンペン街道《かいどう》の手前で、先回りしたベリル嬢が路傍《ろぼう》の岩に腰《こし》かけて、私のくるのを待ち受けていたからである。よほど急いできたものとみえて、彼女《かのじよ》は顔を美しく上気させていたが、片手を横にのべて私をさえぎるようにしながらいった。
「ワトスン先生、わたし先生に追いつこうと思いまして、近道をずっと走り通してまいりましたの。帽子をかぶっている暇《ひま》もないほど急いで飛びだしてまいりましたのよ。だってぐずぐずしていて、兄に見つかると止められるにきまっていますもの。わたしね、あなたにおわびがしたくて出てまいりましたの。あなたをヘンリー卿と間違えるなんて、よっぽどぼんやりですわね。どうぞわたしの申しあげましたことをお忘れになってね。あれはあなたには何の関係もないことなんです」
「でもそれは無理ですよ。ヘンリー卿は私の友人ですから、あの人の幸不幸は私にも大いに関係があります。あなたはどうしてヘンリー卿がロンドンへ帰ることを、あんなに強くお望みになるのですか、うちあけた話をお聞かせくださいませんか」
「あさはかな女の気まぐれですわ。ふとそんな気がしただけですの。わたしときどき自分でもなぜだかわからないことを申したり、したりすることがありますの」
「いえ、いえ、そんなはずはありません。あのときのあなたは声まで震《ふる》えていましたよ。眼つきだって普通《ふつう》じゃなかったですよ。それよりもベリルさん、お願いですからはっきりいっていただけませんか。私はこっちへきてから、何だか暗いものにつきまとわれているような気がしてならないのです。ちょうどあのグリンペンの大底なし沼《ぬま》のように、あちこちに眼に見えぬ沼があって、そこへ落ちこんだら最後なのはわかっているのに、どこにそれがあるやらわからないといったような気持です。ねえ、どうぞ教えてください。いったいどこに眼に見えぬ底なし沼があるのですか? 教えてくだされば私からかならずヘンリー卿に申しつたえます」
彼女の顔には、いおうかいうまいかと惑《まど》うらしい色がうかんだが、それはほんの瞬時《しゆんじ》で、すぐに固い決意を眼いろにあらわしていった。
「いいえ、それはワトスン先生の思いすぎですわ。兄もわたしもチャールズ卿がお亡くなりになったので、すっかり心が転倒《てんとう》してしまいましたの。何しろチャールズ卿は、沼沢地をわたしどもの宅まで散歩なさるのが大好きでしたから、ごくお親しくしておりました。ご先祖からの犬の祟《たた》りは、ずいぶんお気にしていらっしゃいましたから、それがあんなふうにお亡くなりになったと知りましたときは、それではやはり恐《おそ》れていらしたことに何かしら根拠《こんきよ》があったのではないかしらと思いましたわ。お後嗣《あと》のかたがいらしったとうかがって何となく心配で、危《あぶの》うございますよと一応ご注意申しあげておかなければと思いましたの。ただそれだけのことで、べつに深い意味なんてございませんのよ」
「でもその危いというのはどう危いのですか?」
「犬の話、ご存じでございましょう?」
「あんなばかな伝説なんか、私は信じません」
「でもわたしは信じていますわ。ヘンリー卿があなたのご忠告ならお諾《き》きになるのでしたら、家族のかたにつぎつぎと祟るあんなお館《やかた》は、はやくお捨てになるようにおっしゃってくださいませ。世界は広うございます。なにもあんな危いところに好んでお住みになることはないと思いますわ」
「危険だ危険だといわれると、なお住みたくなるのでしょう。ヘンリー卿ってそんな人ですよ。もっとはっきりした理由をお示しくださらなければ、あの人にこの地を立ちさらせることはできないでしょうね」
「だってべつに何も知っているわけではございませんから、はっきりした理由なんか申しあげられませんわ」
「ではね、ベリルさん、もう一つだけうかがいたいのですが、あなたのお話がただそれだけのことでしたら、なぜあのとき兄さんにその話を聞かれては困るといったのです? 兄さんにだって誰にだって、聞かれて少しも悪い話じゃないじゃありませんか?」
「このあたりのお百姓《ひやくしよう》たちのためにも、あのお館にはぜひともお後嗣《あと》のかたに来ていただかなければと、兄はもとからしきりに心配していますの。ですからもしわたしが少しでも、ヘンリー卿にあそこをお捨てになるようにとおすすめしたことが知れましたら、兄はたいへん怒《おこ》りますわ。でもわたしといたしましては、申しあげるべきことはこれで一応すみましたから、もう何も申しません。それよりもわたしはもう帰らなければなりません。でないと兄がわたしのいないのに気がついて、あなたにお会いしたことに気づくかもしれません。ではごめんくださいませ」
彼女はいった。そしてたちまちのうちに、散在する岩石のかげにその姿を消してしまった。私は漠然《ばくぜん》たる不安にとざされて、バスカヴィル館さしてとぼとぼと歩をはこんだのである。
第八章 脱走《だつそう》の殺人犯
これからさきは、冗漫《じようまん》な説明をさけて、この机の上にある私からシャーロック・ホームズにあてて書きおくった手紙を、そっくりそのままここに書き写して読者諸君のごらんに入れることにしよう。一枚だけ紛失《ふんしつ》しているが、あとはこの通りそっくり現存している。そのほうが怪《あや》しげな私の記憶《きおく》にたよるよりもはるかに正確に、当時の疑念にとざされた私の気持をよく表わしもするだろうし、事件の真相をあやまりなく伝えるに好都合だろうと思うのである。
十月十三日 バスカヴィルの館にて
親愛なるホームズ君へ
たびたびの手紙や電報で、神に見すてられたこの世界の一角の最近の事情には、かなり精通されたことと思う。ここは誰でも長く留《とど》まれば留まるほど、ますます気分が憂鬱になってくるところだ。それほどこの沼沢地は果てしもない茫漠《ぼうばく》さと、うす気味わるい一種の魅力とをそなえている。君が一度この地へきて、その気味のわるい沼沢地の奥《おく》深く入ってみるならば、栄《はえ》ある近代イギリスというものは忽然《こつぜん》として消失し、いたるところ有史以前の人類の住居跡《じゆうきよあと》や、工作物の遺跡《いせき》ばかりなのに驚《おどろ》くだろう。君が歩くところどこを見ても、これら忘れられたる原始人の住居か、その墓場や、寺院の跡を示すものだといわれている一本石《いつぽんいし》ばかりなのだ。そして大きな傷あとのような壕《ごう》のある小山の中腹に、灰いろの石室《いしむろ》を見あげるとき、にわかに時の観念を喪失《そうしつ》して、石室のひくい入口から、皮衣《かわごろも》をつけ火打ち石の矢尻《やじり》をつけた矢を半弓《はんきゆう》につがえた毛だらけの男がはいだしてくれたら、それこそその場の光景として君自身の存在よりもはるかに調和するのを感じるだろう。ただ不思議でならないのは、古来もっとも不毛であったろうと思われるこの地で、彼《かれ》らがかなり密集して居住したらしい形跡のあることだ。小生は考古学者ではないけれど、彼らは一種の闘争《とうそう》を好まぬ弱い種族であったため、他の闘争的種族に蹂躙《じゆうりん》され、駆逐《くちく》された結果、こうした何人《なんぴと》にも見すてられた土地を、永住の地として選ぶのを余儀《よぎ》なくされたものであろうと考える。
だがこんなことは、約束《やくそく》の使命とはなんの関係もないものであり、同時に、あるいは従って、君の鋭《するど》い観察眼からすれば、何の興味も喚起《かんき》せぬことと思う。かつて|ジ《*》ェファスン・ホープ事件【訳注 「緋色の研究」参照】のころだったか、太陽が地球の周囲をまわっていようと、地球が太陽の周囲をまわっていようと、いっこう差支《さしつか》えないし、またそんな問題には何の興味も感じないと君が放言したことは、いまだに私の忘れられないところだ。だからまず余談はおいて、何はともあれヘンリー・バスカヴィル卿に関係のある話にもどるとしよう。
この二、三日何の音《おと》沙汰《さた》もしなかったのは、あれから今日まで報告に値《あたい》するほどのことが何もなかったからだ。ところが、今日おどろくべき事件が突発《とつぱつ》した。それをこれから逐一報告しようと思う。だがそのまえに、予備知識といったようなものが少し必要だから、まずそれから始めてゆこう。
まずその一つは、今日までそれについてはあまり報告しなかったが、囚人《しゆうじん》が脱走してこの地にはいりこんだことだ。しかしそれはもう他へ逃《に》げさったと思われる有力な理由がある。だから今ではこの寂しい地方の人たちは、かなり枕《まくら》を高くすることができるようになった。というのは、脱獄《だつごく》してからもう二週間になるのに、いっこう姿をみせず、まるっきり消息をたっているからだ。もちろん、ただ潜伏《せんぷく》するだけならば、脱獄囚にとって何らの困難もなかろう。それどころか、あの多くの石室は最適のかくれ家《が》をあたえるものであろう。しかしながら、この地方に棲息《せいそく》する羊《ひつじ》でも捕《とら》えて屠殺《とさつ》するのでなかったら、食物をうる途《みち》のないことを考えてみるならば、彼はもはやこの地にはいないと断定するほかないことになる。おかげで土地の百姓は安堵《あんど》の胸をなでおろしたというしだいだ。
この館には私をはじめいま四人の屈強な男がいる。従って注意も十分にゆき届くが、ここに私のもっとも不安をいだくのは、例のステープルトン一家のことを思いうかべたときだ。あの兄妹はいざという場合、数マイル以内には助けを求めるべき相手を持たない。あの一家は主人兄妹のほか老僕一人女中一人の生活だが、主人ははなはだ屈強な男だとはいいかねる。万が一にも、脱走中のノッティング・ヒルの人殺しみたいな奴《やつ》に押《お》し入られでもしたら、あの一家の人たちの運命は心もとないかぎりだ。この問題に関しては私はもとより、ヘンリー卿《きよう》が少なからず心をなやまして、馬丁《ばてい》のパーキンズを夜だけ泊《とま》りに行かせようと申しでたが、ステープルトンはなぜか固辞してそれを受けなかった。
この問題が縁《えん》となって、わが友ヘンリー卿は美しきわが隣人《りんじん》に対して、相当の関心をいだくようになってきた。それは彼のような活動的な青年にとって、この寂寞《せきばく》とした僻遠《へきえん》の地の生活がいかに無聊《ぶりよう》であるかを思ってみれば、少しも怪しむにたらぬ事だろう。それも彼女《かのじよ》は恍惚《こうこつ》とするほどの美人なんだからね。じっさい彼女はどこか南国的でエキゾチックなところがあり、冷静で非情な兄とは不思議なコントラストをなしている。とはいっても、兄のほうも胸の底には情火を秘めているらしく思われるけれどね。この兄が妹に対していちじるしい影響力《えいきようりよく》を持っていることは注目すべきだろう。妹が何かいっては、まるでその発言の許しでも求めるように、ちらりちらりと兄の顔ばかり気にしているのを私は見受けた。兄のほうも妹にやさしくしてはいる。だが彼の眼つきには冷たい光があり、そのうすい唇《くちびる》はかたくひきしまって、専制的な、いくらか苛酷《かこく》なところさえある。君にとってはおそらくおもしろい研究材料だろう。
到着《とうちやく》の翌日、彼は早くもバスカヴィル館をたずねてきた。そしてその翌日には、かの不行跡なヒューゴー・バスカヴィルの伝説の発祥《はつしよう》の地といわれる場所へ、われわれ二人を案内した。この館からは沼沢地をぬけて数マイルのところだったが、なるほどあの種の伝説の生まれるにふさわしい気味のわるさだった。ごつごつした岩石の谷間をしばらくゆくと、綿の木の白く点々と実をむすぶやや開けた草地があって、その中央に二つの大きな岩石が、巨大《きよだい》な野獣《やじゆう》の侵蝕《しんしよく》された牙《きば》でもみるように、|鋸 状《のこぎりじよう》にいただきをそろえて突兀《とつこつ》と屹立《きつりつ》していた。どう見ても伝説にあるようなことの起こるにふさわしい場所ともいえる。ヘンリー卿はこれを見てひどくおもしろがり、一度ならずステープルトンにむかって、人間界にこのような超自然的《ちようしぜんてき》なことが実在し得《う》るものだろうかと尋《たず》ねていた。その質問ぶりは何気ない調子ではあったが、内心は大まじめであることはいうまでもない。しかしステープルトンは利口だ。明らかに彼は言葉をひかえ、従男爵《じゆだんしやく》の心中を察して、自分の意見をぜんぶ述べることは避《さ》けた。そのかわりに、どこそこにはこういう祟《たた》りがあって家族が苦しめられているというような、似よりの実例をいくつかならべたから、彼もまた一般《いつぱん》に信じられている迷信《めいしん》を、いくらかは信じているのだなという印象をうけた。
帰りには彼のメリピット荘《そう》で昼食を馳走《ちそう》になったが、このときヘンリー卿は初めてベリル嬢《じよう》と知りあったのだ。卿はひと目で強く彼女に魅《み》せられたようだが、この思慕《しぼ》は双方《そうほう》おなじであったと見て、まず狂《くる》いはなかろうと思う。それからバスカヴィル館への帰り途、卿はまたしても彼女のことを口にし、以来ほとんど一日としてこの兄妹と交渉《こうしよう》をもたぬ日とてはないことになった。今日は兄妹を館へ夕食に招待してある。来週はこっちから出かけてゆくような話も持ちあがっている。
このような縁は兄ステープルトンにとってもはなはだ歓迎《かんげい》すべきことだと誰《だれ》でも思うだろう。ところが、ヘンリー卿が彼女に対してある種の意思表示をするのを見て、ステープルトンがすこぶる不快そうな色を示すのを、私は一再ならず見受けているのだ。彼はいうまでもなく妹を深く愛している。そして彼女とともに孤独《こどく》を楽しんでゆきたいのだろう。それはよい。だが、もしそのため妹の輝《かがや》かしい結婚《けつこん》をあくまで阻止《そし》しようというのであれば、彼はこのうえない利己的な男だといわねばならない。しかも私は、二人の親交が恋愛《れんあい》にまで発展するのを、彼は決して望んでいないと断言する。現にあの二人が二人だけで語らいあうのを、ステープルトンが故意にさえぎった事実をしばしば見た。なおここに私が必然の結果として付言しなければならないのは、けっしてヘンリー卿のそばを一刻もはなれるなという君の注文は、ちかごろ私にとってきわめて過重な仕事になってきたことだ。
先日――はっきりいえば木曜日だが――モーティマー医師がきて食事をともにしたが、そのときの話に、先般来ロング・ダウンの古墳《こふん》を発掘中《はつくつちゆう》のところ、こんど有史以前の人類の頭蓋骨《ずがいこつ》を発見したということで、躍《おど》りあがって喜んでいた。あんなに生一本《きいつぽん》な熱心家はまたとあるまい。そこへちょうどステープルトン兄妹もやってきたので、ヘンリー卿の請《こ》うがままに善良なるドクトルは、一同を例の水松並木《いちいなみき》へ案内して、あの悲劇の夜の情景をくわしく説明してくれた。そこはよく刈《か》りそろえた水松のたかい生垣《いけがき》にはさまれて、両側に幅《はば》せまい芝生《しばふ》のある陰気《いんき》なながい小路《こみち》だった。並木のはずれには古びるがままに荒廃《こうはい》した東屋《あずまや》があり、中ほどには沼沢地へ出られる小門がある。例の葉巻の灰のおちていた場所だ。門は素木《しらき》づくりで挿錠《さしじよう》がつけてある。門の外はむろん一面の沼沢地だ。
私はそこで例の君の推理法を応用して、当時のありさまをまざまざと脳裡《のうり》にえがいてみた。まずかの老紳士《ろうしんし》が例のとおり夜の散歩にでてきて、この門のそばに立っていると、沼沢地のほうから何かやってくるものがある。何だかしらないがおそろしく彼はおどろいた結果、無我《むが》夢中《むちゆう》で走りだし、走って走って疲労《ひろう》とはげしい恐怖《きようふ》のあまり、ついにそのまま倒《たお》れて息をひきとる。走ったのは長い陰鬱《いんうつ》な水松のトンネルだ。――だが何をそんなに恐れたのか? この地方の羊《ひつじ》の番犬にか? 黒い黙々《もくもく》とした巨大な魔《ま》の犬にか? それともまたそこには誰か人間が介在《かいざい》するのか? 青い顔をした油断のないバリモアは、まだ口外しない秘密を何かいだいているのではあるまいか? これらのことはすべてモウロウとし漠然《ばくぜん》としてはいるが、そこに何かの魔手が背後にはたらいていることだけは事実であろう。
前便の報告を出したあとで、またまた新しい人物に会った。ラフター邸《てい》のフランクランドといって、ここから南方四マイルばかりのところにいる人物だ。白髪《はくはつ》で赤ら顔の怒りっぽい老人で、法律きちがいだ。かなりの資産の大部分を訴訟《そしよう》で使いはたしたのだという。彼のはただ闘争を楽しむために闘争をするので、時と場合によってはどちらの味方にでもつこうという代物《しろもの》だ。金のかかる道楽には違いなかろう。ときには通行権すら停止して、教区の住民からの説得も抗議《こうぎ》もはねつけたという。そうかと思うとまたある時は、他人の屋敷の門扉《もんぴ》をみずからとり壊《こわ》しておき、そこは太古から通路のあったところだからといって、その家の主人が家宅侵入《かたくしんにゆう》だととがめるのも馬耳《ばじ》東風《とうふう》だったこともあるそうだ。
なんでも古い記録だの荘園《しようえん》時代の規則のようなものに精通しているので、自分のいるファンウァーシ村のため大いに役だって、村人からたいへん感謝されることもあるが、またこれに反することをやって村人の顔をしかめさすこともあって、その平常は、最近の事跡《じせき》のいかんによって村人の大喝采《だいかつさい》のうちに大手をふって歩いたり、毛虫のように指弾《しだん》されたりを繰り返している。目下七件ばかりの訴訟に関係しているという話だが、それらの事件が解決するころには、わずかにのこる資産もことごとく使いはたして、毒針をぬかれた蜂《はち》も同様に、もう何ら他人に迷惑《めいわく》をかけることはあるまいと、村人たちはいいあっている。法律のことさえ口にしなければ、親切でまことにいい老人なのだ。周囲の人物はできるだけ詳細《しようさい》に報告するようにという君の注文だから、報告する次第《しだい》だ。
もう一つこの老人でおもしろいところは、元来この男は素人《しろうと》天文学者で、すばらしい望遠鏡を持っているので、いまはそれを持って自分の家の屋上にあがって横になり、あの脱走囚人を発見するのだといって、終日|沼沢地《しようたくち》をのぞきつづけている。それだけならば大いによい。ところが何でもうわさによると、モーティマー医師がロング・ダウンの古墳を発掘して、後期石器時代の人類の頭蓋骨を手にいれたと知ったものだから、最親近者の承諾《しようだく》をもとめずして墳墓をあばくとはけしからんとばかりに、告訴するといきまいているということだ。とはいうもののこの男が、沼沢地生活の単調さをやぶって、いちまつの喜劇的な慰安《いあん》をあたえてくれるのは、私にとってもありがたいことではある。
さて、以上で脱走囚やステープルトン一家やモーティマー医師やラフター邸のフランクランドのことなど、この地の最近の事情に君は十分精通したことになる。最後にバリモア夫婦《ふうふ》のこと、昨夜のおどろくべき新発見に言及《げんきゆう》して、今日の報告のむすびとしよう。
まず第一に、バリモアがじっさいこの地にいるか否《いな》かを確かめるため、君がロンドンから発した問合せ電報だが、あれがまったく失敗に帰して、在否いずれとも、当時のバリモアの行動を断ずべき資料とならなかったことは、郵便局長の口述とともに先便で報告したところだ。このことはヘンリー卿の耳にも一応いれておいた。すると卿はもちまえの率直《そつちよく》さで即座《そくざ》に彼をよびよせて、電報を直接受けとったのかと尋《き》いたものだ。バリモアはその通りだという。
「それではあの子の手から直接受けとったというのかい?」卿は一歩つっこんだ。
するとバリモアは意外だったらしく、しばらく考えてから答えた。
「いいえ、そのとき私は物置へあがっておりましたから、家内が受けとりまして、持ってまいりました」
「受けとりには自分で署名したのかい?」
「いいえ、家内に申しつけまして、代りに署名いたさせましたので」
そのときはそれですんだが、晩になってから、こんどはバリモアのほうから話をむしかえしてきた。
「旦那《だんな》さま、お言葉をかえすようではございますが、けさほどのお言葉は手前どうも合点《がてん》がまいりません。何か手前のいたしたことで、お気にさわるようなことでもございましたのでしょうか? ございましたらばどうか、何なりと仰《おお》せいただきとうございます」
これにはヘンリー卿もちょっと閉口した。そしてそういうわけではないと釈明するとともに、ちょうどロンドンから到着した衣裳鞄《いしようかばん》をあけ、着古しではあるが衣類をごっそりと与《あた》えて、バリモアのごきげんをとらねばならなかった。
それよりもバリモアのかみさんが興味ある女だ。がっしりした大女で、性質はごく内気、信頼《しんらい》すべき女だが、どっちかというと清教徒的なところさえある。そしてあんなに感動しにくい女はないと思う。それでいて先便にも報告したように、私は到着の夜|彼女《かのじよ》がすすり泣くのを聞いたのだが、その後も彼女の顔に涙《なみだ》のあとを見つけたのは一度や二度にとどまらない。何か深い悲しみを胸底にいだいているのにちがいない。それであるときは、なにか犯《おか》した罪の思い出に悩《なや》まされているのではないかと疑ってみたこともある。またあるときは、バリモアがああみえて、細君には暴君なのではあるまいかと思ったこともある。バリモアの性格にはどこか腑《ふ》におちないところのあるのを感じてはいたのだが、ついに昨夜一大事がおこったので、その疑いはいっそう深くなった次第だ。
といっても、べつにたいしたこともないではないかといってしまえば、そうかもしれない。
さて、私が夜あまり熟睡《じゆくすい》しない男であるのは、君もよく知っているとおりだが、重任をおびてこの館《やかた》へのりこんで以来、今までにないくらい眠《ねむ》りが浅くなっている。ところでゆうべ――正確にいえば今朝の午前二時ごろだが、私の寝室《しんしつ》の前を足音をしのんで通るものがあるのに、ふと眼《め》をさまされた。そっと起きあがって、ドアをあけてのぞいてみた。すると黒く長い影《かげ》が廊下《ろうか》にゆらゆらしているではないか。よく見るとその影の主は手にろうそくをもって、忍《しの》び足で廊下を歩みさるシャツとズボンだけの素足《すあし》の男だ。見たのはうしろ姿の輪郭《りんかく》だけだが、それがバリモアであるのは、背の高さからすぐにわかった。きわめて用心ぶかく、忍び足で歩く姿は、なぜともなくそこに何かよからぬ企《たくら》みか犯罪をつつんでいることを思わすに十分なものがあった。
建物の中央部にある広間には二階がなくて、二階の天井《てんじよう》がそのまま広間の天井になっており、その周囲にバルコニーがあって、こちらの棟《むね》の廊下からこのバルコニーをまわって、向こうの棟の廊下へ行けるようになっていることは、先便ですでに申しあげたとおりだ。そこで私はバリモアの姿が廊下を曲がって見えなくなるのを待って、そっと後を追った。そして広間を見おろすバルコニーのところまでいってみると、彼の姿は向こう側の棟の廊下のはずれまで行っているのが見えた。それから間もなくたくさんある部屋の一つに入ったらしく、その部屋のドアの間からろうそくのあかりがぼうっと漏《も》れている。ところでこれらの部屋は現在まったく使っていないのだから、家具なども入れてはなく、昼間でも用事のあるべきはずはないのだ。いよいよこれは怪《あや》しいとひとりでうなずくうちに、戸口から流れでる光と影とが静止して、入ったバリモアがそこでじっと立ちどまっているのを思わせた。そこで私は足音を忍ばせてそっと近づき、戸のすきから中をのぞいてみた。
バリモアは窓のところに身をかがめて、手にしたろうそくを窓ガラスにかざしている。なかばこちらへ向けたその横顔はひどく緊張《きんちよう》して、沼沢地に何かの現われるのを待ち受けてでもいるのか、息をころしてじっと暗黒の窓外にひとみをこらしている様子である。数分間その姿勢で緊張をたもって窓外を見つめていたが、やがてほっと太いため息をもらすと、じれったそうにろうそくをふっと吹《ふ》きけした。それを見てとっさに私は自分の部屋へひきかえし、じっと様子をうかがっていると、まもなくバリモアが足音をしのばせて帰っていくのが聞こえた。それからよほどたってから、うとうとしていると、どこかでドアの鍵《かぎ》をカチッと回す音がきこえたが、それはどの方角だったか判然としない。
要するに以上の事実は何を意味するのか? 私にはまるで腑に落ちないことばかりだが、いずれにしてもこの気味のわるい家のなかで、何かが秘密裡《ひみつり》に行われようとしていることだけは、争う余地のないところだろう。そして早晩それがわれわれの手で明らかにされねばならないことも、むろんだろう。
ともあれ事実の報告のみをというかねての君の注文にしたがって、私の見こみとか憶測《おくそく》とかの余計なことをここに並《なら》べるのは控《ひか》えておく。ヘンリー卿とはけさ長時間にわたって協議した。その結果、昨夜の私の見聞にもとづいて一つの戦略をたてることになった。それについては今はあまり多くをいうのは見あわせるが、いずれにしても次の便の報告をいっそう興味深い読物にすることができると思っている。
第九章 暗夜の怪光《かいこう》
十月十五日 バスカヴィルの館にて
親愛なるホームズ君へ
軽からぬ使命をおびてこの館に逗留《とうりゆう》してから、これという報告もなしえず、君の期待にそむくこと大なるものがあったと思うが、このところ着々と名誉《めいよ》を回復しつつあるのは、必ずや君も認めてくれることと信ずる。事件は重大な方面に押し進められてきた。
先便には夜中ひそかにろうそくを手にして、窓の前に立つバリモアのことを報じてむすびとしたが、その後私がしたことに大きな誤りがなければ、ちょっと君をおどろかすに足る材料を入手し得た。局面は私の予想もしなかった方面に展開をみた。この四十八時間内に、ある点はきわめて明らかになったけれど、またある点はますます錯綜《さくそう》してきている。ともあれここにいっさいを述べて、君自身の正しい判断に待つとしよう。
あの翌朝、食事まえに私は廊下づたいに、前夜バリモアの忍びこんだ部屋を精査してみたのだが、彼《かれ》がのぞいていたのは西むきの窓で、そこにはこの館のどの窓にも見られない一つの大きな特徴《とくちよう》があった。それはこの窓が沼沢地を一望《いちぼう》のもとに、しかも最も近くから見わたせるということだ。ほかの窓からでは、木立がじゃまになって、沼沢地はほんの一部しか見えないのに、ここからならば木と木の間から、すっかり見わたせるのだ。だからバリモアがとくにこの窓をえらんだというのは、彼が沼沢地のうちに何ものか、または何人《なんぴと》かを期待していたものだということを暗示するものだろう。
ゆうべはまっ暗だったのだから、彼のほうからなにかを見ようとしたのでないことは、いうまでもあるまい。と思ったとき私は、これはなにか情事に関する内証ごとではなかろうかと気がついた。そう考えてみれば、足音をしのばせて裸足《はだし》で歩いていたこともうなずけるし、細君が不安そうな様子だったのも説明がつく。彼はなかなかの好男子だから、田舎娘《いなかむすめ》をちょっと迷わすくらい何でもないことだ。してみるとこの仮定はすこぶる当を得ているように思われる。私が自分の部屋へ戻《もど》ったあとで聞こえた戸をあける音は、彼がその秘密の用件のため戸外へ出ていったことを意味するものだろう。私は食事前の観察から、以上のような結論を得たので、前の便にもその意味をちょっとほのめかしておいた。ところが今日になってみると、私のこの結論は根底からくつがえされることになってしまった。
バリモアの奇怪《きかい》きわまる行動の真意がどこにあるにしろ、私としてはこのことを自分一人の胸には納められなかったので、食後にヘンリー卿《きよう》をその書斎《しよさい》にたずねて、前夜見たところをいっさい打ちあけた。すると意外にも卿はおどろくどころか、おちついたもので、
「バリモアが夜中に館の中を歩きまわることは、私も知っていました。そのうちに忠告してやろうと思っていたところです。やっぱり同じ時刻に、廊下を歩いていって、しばらくして帰ってくるのを二、三度私も聞きました」
「それじゃきっと、まい晩あの窓のところへ行くんでしょうね」
「そうでしょうね、きっと。それなら後をつけてみれば、いったい何をしているのか見とどけられるでしょう。こんな場合ホームズさんだったら、どんな処置をおとりになるでしょうね?」
「あなたのいまおっしゃった通りにすると思いますね。バリモアの後をつけて、何をするか見とどけるのです」
「では二人でやってみましょう」
「でもきっと気づかれますね」
「いいえ、あの男は耳が少し遠いから、そこを利用すれば大丈夫《だいじようぶ》ですよ。今夜は私の部屋で眠らないで、あの男のくるのを待つことにしましょう」ヘンリー卿は思いたった冒険《ぼうけん》に胸がおどるのか、しきりに手をもみあわせた。無味単調な沼沢地の生活には、こうしたことも一つの大きな気晴らしであるのにちがいあるまい。
それはそれとして、ヘンリー卿は先代チャールズ卿にたのまれて新邸の設計をおこなった建築家や、ロンドンの請負業者《うけおいぎようしや》にいろいろと交渉《こうしよう》をはじめたから、この館もやがて面目を一新することと思う。そういえばプリマス市から室内|装飾家《そうしよくか》や家具屋もよびよせられた。いうまでもなく卿は、この家の威容《いよう》を復活し、一新しようとする大きな理想をいだいて、費用や労力は惜《お》しまない覚悟《かくご》のようだ。館の修築が成り、飾《かざ》りつけがおわれば、このうえは良縁《りようえん》をもとめて奥方《おくがた》を迎《むか》えなければ、竜《りゆう》を描《えが》いて睛《ひとみ》を点じないことになる。じっさいここだけの話だが、先方さえ拒《こば》まなければ、ヘンリー卿には十分その意志のあることを、私は確信をもって断言しうると思う。相手は美しき隣人《りんじん》ベリル・ステープルトン嬢《じよう》だ。ヘンリー卿がベリル嬢にうちこんでいるほどに、生《き》一本《いつぽん》に相手の婦人に傾倒《けいとう》している男を私はかつて知らない。しかも恋《こい》はくせものとやら、なかなか当事者の思うように順調には事がはこばない。げんに今日も思いがけなくも波瀾《はらん》がおこって、そのため卿はひとかたならぬ煩悶《はんもん》を味わわされたわけだ。
前述のバリモアに関する要談がおわると、ヘンリー卿は帽子《ぼうし》をかぶって外出の支度《したく》をはじめたので、私もむろんお供をするべく用意をした。すると妙《みよう》な顔をして私の顔を見ながらヘンリー卿がいった。
「おや、先生も行きますか?」
「沼沢地《しようたくち》のほうへお出かけなんでしょう?」
「そうです」
「それならなおさらですよ、私の役目ですからね。出しゃばりになっていやですけれど、ホームズ君があれほど熱心に、あなたのそばを離《はな》れてはならないといっていたし、沼沢地へいらっしゃると知っては、なおさらお供しなければなりませんよ」
ヘンリー卿はニッコリと私の肩《かた》に手をおき、
「しかしワトスン先生、ホームズさんがいくら知恵《ちえ》のかたまりだからって、私がこの館《やかた》へきてからどんなことが起こったか、それまで知ることはできますまい。どうかお願いします。不粋《ぶすい》な横車はおさないで、自由に出させてください」
こうまでいわれてみれば私としてもちょっと二の足をふまざるをえないではないか。私がどうしたものかとためらっている間に、卿はさっさとステッキをとって出かけてしまった。しかしふと我にかえってみて、理由のいかんにかかわらず、みすみす一人で出してやったということは、私として少なからず心にとがめた。君の注意をないがしろにしたため、万に一つの災難でもおこったら、何といって君に報告しよう。じつに合わせる顔もないしだいだ。そう思うといても立ってもいられず、不安と憂慮《ゆうりよ》とで頭がくらくらしてきた。そして今からでもおそくはない。きっと追いつけるだろうと、すぐさまメリピット荘《そう》さして出かけていった。
駆《か》けた。できるだけの力をだして駆けていったが、例の小路《こみち》の分岐点《ぶんきてん》までいっても、ヘンリー卿の姿は見えない。さては道が違《ちが》ったかと、やはり石を切りだしたあとの、近くの断崖《だんがい》をよじ登って、あたりの見わたせる小山の頂上へあがってみた。すると、卿がすぐにみつかった。卿は四分の一マイルばかり先の沼沢地の小路を歩いていた。そばに連れそうのはいわずと知れたベリル嬢だ。二人の間には約束《やくそく》があって、会う場所と時刻がきまっていたのに違いない。二人はしきりに何ごとかを語らいながら、静かに歩いている。彼女《かのじよ》は手を小さく早く振《ふ》って、何か熱心に話す様子だったが、それに対してヘンリー卿は頭をふりふり、相手の言葉を強く否定するらしかった。
岩の間に立ったまま、さてどうしたものかと私はしばらく途方《とほう》にくれた、追いすがって楽しい語らいの邪魔《じやま》をするのは、いかにも心ないわざだが、さりとて責任上一|瞬間《しゆんかん》でも卿を見失なうことは許されない。それにしても友人に対してその行動を監視《かんし》しなければならないことの心苦しさを、私はしみじみと思い知った。だがせめてこの小山の上から見張っているよりほかに方法があるまい。それも良心にとがめることだが、あとですっかり告白して埋《う》めあわせしよう。いまヘンリー卿になにかの危険がおそいかかったとしても、ここから駆けつけたのでは間にあわない。といってほかにとるべき手段もない困難な立場に私があることを、君もじゅうぶん察してくれることと思う。
二人は小路にたちどまって、しきりに何事かを話しあっていたが、そのとき私はふとたいへんなことに気がついた。二人の立ち話を見ているのは私ばかりではなかったのだ! 何やら青いものがひらひらすると思って、瞳《ひとみ》をこらしてよく見ると、それはくずれかかった岩のあいだに動いている兄ステープルトンの昆虫網《こんちゆうあみ》ではないか! ステープルトンは私よりもはるかに二人にちかい位置にあった。しかもだんだん二人のほうへ進んでゆく。
そのときヘンリー卿はとつぜん彼女を引きよせた。片手を背なかへまわしているのだが、ベリル嬢は顔をそむけて、そうはさせまいとしている。卿がキスでもするように顔をよせるのを、彼女は片手をあげて拒むらしかった。と思ったとたんに、二人はぱっと両ほうにわかれて、うしろ向きになった。その原因は兄のステープルトンだ。ステープルトンがおかしな網をなびかせて、あらあらしく二人のそばへ走りよったのだ。彼は興奮した身ぶりで、二人の前でほとんど地団駄《じだんだ》ふまぬばかりに何かいっているらしい。
いったいどうしたことなのか、私には少しもわからなかったが、なんでもステープルトンがヘンリー卿にたいして罵詈《ばり》雑言《ぞうごん》をあびせるのを、卿ははじめは弁解していたが、相手がそれでも聞きいれないので、ついに卿のほうも怒《おこ》りだしたように思われた。ベリル嬢はつんとしてそばに立っていた。結局ステープルトンはくるりとメリピット荘のほうへ足をむけ、振りかえって妹のほうへ横柄《おうへい》な態度で手招き、さっさと歩きだした。彼女はヘンリー卿の顔をみて、ちょっとためらうらしかったが、そのまま兄についていってしまった。ステープルトンが、卿ばかりではなく妹に対しても悪感情をいだいたことは、その身ぶりでわかった。ヘンリー卿はややしばらく二人のあとを見おくっていたが、悲しげにうなだれてしょんぼりと、もときた路をゆっくり引きかえしてくる。
仔細《しさい》はわからないけれども、こうした私事の場面を断りなしにぬすみ見たことが、かえりみてはなはだうしろめたく思われるので、私はいそいで小山を走りおり、ちょうど麓《ふもと》のところで卿に出あった。卿は憤怒《ふんぬ》のあまり顔をまっ赤にし、額には八の字をきざんで、どうしたらよいか途方にくれているらしく思われた。
「おや、ワトスン先生、どこから降《ふ》ってきたんです? あれほど頼《たの》んでおいたのに、まさか後をつけてきたんじゃないでしょう?」
そこで私は、いっさいを卿にうちあけた。どうしても一人で館にのこってなどいられなかったことから、やむをえずあとを追ってきて、何もかも見とどけてしまった次第《しだい》を説明したのだ。するとはじめはいまいましそうに私をにらみつけていたが、私のざっくばらんな告白に、卿の心もやわらいだか、はては悲しげに笑いだしさえした。
「この草っ原のまん中なら、大丈夫だれにも見つかりっこないと思いましたがねえ。なんだかよってたかって私のすることを見張っているような気がします。それで先生はどこにいたんです?」
「あの小山のうえですよ」
「ああ、あのうしろのあれですね? あの人の兄は前の山にいました。あの男が私たちのほうへ来るところは見えましたか?」
「ええ、見ましたよ」
「あの男があんなに狂《くる》っているということを知っていましたか、先生は?」
「そんな様子は一度も見せませんでしたね」
「私だってそうです。私は今まであの男はまじめな紳士《しんし》だと思っていましたが、あのざまは正気のさたではありません。それともこんなことをいう私のほうが、気が狂っているのでしょうか? それはまあ、先生の自由な判断にまかせますが、私がいったいどうしたというのでしょう? ねえワトスン先生、私は自分の愛する婦人のよき良人《おつと》になる資格に欠けるところがあるのでしょうか? この数週間いっしょに暮しているのですから、忌憚《きたん》のないところを聞かせてください」
「そんなことがあるものですか!」
「私の世間的な地位とか身分とかには、不満のあるはずはありませんから、そんなに怒るところをみると、私自身になにか不満な点があるのでしょう。いったい何が気にいらないというのでしょうか? 私はいままでに一度でも人を怒らせたりしたことはないつもりですが、あの男は妹に指一本だってさわらせないというのです」
「そんなことをいったのですか?」
「ええ、そればかりじゃありません。ねえワトスン先生、私はあの女《ひと》を知ってからまだ二、三週間にしかなりませんけれど、初めて会ったときから、これは自分の妻として生まれてきた女《ひと》だという気がしているのです。あの女《ひと》だってそうです。あの女《ひと》は私といっしょにおりさえすれば、いつでも幸福を感じるとさえいっているのです。いや、女の眼《め》はなまじっかの言葉よりも、はるかによくその意中をあらわすものですからね。それだのにあのステープルトン君はけっして私たちに自由をゆるしません。二人だけで話す機会を得たのも、じつは今日がはじめてなのです。あの女《ひと》は私に会えて喜んでいました。でもあの女《ひと》の口にするのは愛のささやきではなく、私にもそのことはいいださせないのです。そしてまたしてもいうことには、この地は危険だからぜひ立ちのいてくれ、そうでなければ永久に自分は悲しいというのです。
私は、あなたに会って以来この地を離れる気は決してなくなったのだから、あなたが真実それをのぞむならば、私といっしょに立ちのくことにしてくれるほかないといったのです。そして私は言葉をつくして結婚《けつこん》を申しいれたのです。けれどもその返事を聞かないうちに、ステープルトン君が狂ったような顔をして駆けつけてきたのです。あの男はまっ青になって、燃えるような眼をしていました。私がベリル嬢に何をしたというのでしょう? 彼女がいやがるようなことをしたとでもいうのでしょうか? それとも従男爵《バロネツト》であるがゆえに、勝手なまねをしていいと私が思っているとでもいうのでしょうか? あの男があの女《ひと》の兄でなかったら、あいさつのしかたもありますが、兄だからしかたがない、私はありのままに恥《は》じるところのない自分の心境をうちあけて、早く結婚の承諾《しようだく》をあたえてほしいといってやりました。あっさりとそういえば、あの男の誤解《ごかい》もとけるかと思ったのですが、いっこうそんな気色もみせないものですから、つい私もかっとなってしまって、あの女《ひと》のまえでは口にすべきでないことまでも、あるいはいってしまったかもしれません。それで結局ステープルトン君は、ごらんの通りあの女《ひと》をつれて帰ってしまったのです。ねえワトスン先生、これはいったいどうしたことなのでしょう? おねがいですから、忌憚のないあなたの意見をきかせてください」
私はあれこれと説明をこころみたが、じつをいうとわれながらこんなに困りきったことはない。ヘンリー卿は肩書きからいっても、資産からいっても、年ごろといい、性格といい、風采《ふうさい》といい、まったく申しぶんのない人物だ。しいて難をつければ、バスカヴィル家に伝わる暗い運命を背負っていることくらいのものだ。その人の申し出がこんなにも無下《むげ》に、しかも当事者であるベリル嬢の意志をただしてもみずにしりぞけられ、令嬢自身としても一言の抗弁《こうべん》もなく、だまって兄の命令に服したということは、じつに意外というほかはない。
だが午後になってステープルトン自身が館をたずねてきたことによって、これらの憶測《おくそく》は氷解することになった。彼は午前のぶしつけを詫《わ》びたうえ、ヘンリー卿と書斎にとじこもって長時間対談した結果、おたがいの感情もよく融和《ゆうわ》してきたらしく、そのしるしに、こんどの金曜日には私をも加えてメリピット荘で食事をともにしようというまでになった。
「よく話してみると、あの男も別に頭がおかしいわけでもないようですよ」あとで卿はいっていた。「けさ草っ原で私をめがけて駆けよってきたときの、あのものすごい眼つきは忘れられませんが、あんなにさっぱりと男らしく詫びられてみると、許さないわけにはゆきませんよ」
「何といって弁解しましたか?」
「あの男にとっては、妹がすべてであるというのです。もっとも、妹の価値をそれだけ理解しているわけですから、私としても大いにうれしいです。あの兄妹はずっといっしょに暮《く》らしてきたわけですが、ステープルトン君の言葉によれば、妹を唯一《ゆいいつ》の伴侶《はんりよ》として寂《さび》しく生活しているのだから、その妹を急に失なうのはたえがたい打撃《だげき》だというのです。それに私があの女《ひと》に思いをよせていることなど、夢《ゆめ》にもしらなかったものだから、とつぜんそれを見て、妹が自分から離れていくのではないかと、おそろしい脅威《きようい》を感じて、何をいったかしたかわからないくらい夢中《むちゆう》になってしまったというのです。
しかしそれはあとですぐに気がついて、後悔《こうかい》したのでしょう。自分でもあんなに美しい若い妹を、生涯《しようがい》じぶんのそばに引きつけておこうなどと、ばかげた利己的な考えはもたないといっていました。それのみか、どうせ手ばなさなければならないものなら、遠くへゆかれるよりも、私みたいな近所の人へおちついてくれたほうが好都合だともいっていました。しかしいずれにしても妹を失なうのはあの人には大きな打撃でしょうから、覚悟のできるまで相当の準備期間が必要でしょう。それで結局、三カ月の猶予《ゆうよ》をくれれば、その間に自分のほうでも心の準備をととのえるから、どうかそれまでは愛とか恋とかいわずに、ただの友人として妹を愛してやってくれというのです。事情はよくわかりましたから、それでめでたく話がついたわけです」
これで一つの問題はあっけなく片づいてしまった。このいまわしい沼沢地では、ものごとの真相を見きわめるのもじつに容易なことではない。ステープルトンが、その妹のえらんだ相手がヘンリー卿《きよう》のような立派な人物であるにもかかわらず、忌避《きひ》するかに見えた理由がこれで明らかになった。こうなったらもう一つの問題に突進《とつしん》して、その紛糾《ふんきゆう》を解《と》きにかからねばなるまい。いうまでもなく深夜のすすり泣きだ。バリモアのかみさんの涙顔《なみだがお》だ。夜半に西側の窓へ忍《しの》びよるバリモアの秘密だ。ホームズ君、喜んでくれたまえ。私はかならずしも君の信頼《しんらい》にそむくものではない。謎《なぞ》のいっさいをみごと一夜にして解決し得たのだからね。
ペンの勢いにまかせて一夜にしてといった。しかしはじめの一夜はまったく失敗におわったのだから、正確にいえば二晩かかったことになる。最初の一夜はヘンリー卿と二人で、卿の部屋に明けがたの三時ちかくまでがんばっていたが、階段のうえにかけた大時計の時をきざむ音のほかは、コソとの音もしなかった。二人はひどく元気を喪失《そうしつ》させる寝《ね》ず番のあげく、ついに椅子《いす》にかけたままいっしょに眠《ねむ》りこんでしまった。だが幸いにして二人とも勇気はくじけなかった。そしてふたたび同様の試みをつづけることに決して、次の夜は灯火を弱め、タバコをのみながら物音をひそめて待った。時間のたつのがいかに長く感じられたか! しかも二人は罠《わな》をかけて獲物《えもの》をまつ猟人《かりゆうど》の忍耐《にんたい》と緊張《きんちよう》とをもってそれを待った。一時は打った。やがて二時も。そしてふたたび失望をくりかえさなければならないのかと、こんどは勇気も挫《くじ》けかけたとき、とつぜん二人は申しあわせたように立ちあがって、困憊《こんぱい》しかけた全身の神経をするどく引きしめた。廊下《ろうか》にミシリミシリと足音がきこえてきたのだ。
極度にしのびやかなその足音は、しだいに遠のいていって、やがてまったく聞こえなくなった。すると静かにドアをあけたヘンリー卿につづいて、私もそのあとをつけた。足音の主はすでに廊下を曲がって、あたりは一面のやみであった。静かに二人は廊下を渡《わた》り、バルコニーをまわって玄関《げんかん》の向こう側の棟《むね》までいってみた。すると背の高い、あごひげの黒い曲者《くせもの》が首をちぢめて、ぬき足さし足あるいてゆくうしろ姿がみえた。と、曲者はいつぞやのあの部屋へすべりこんだではないか。
曲者の持つろうそくの黄いろい光がひとすじ、くらやみの廊下へ流れている。二人は一歩を踏《ふ》みだすごとにあらかじめ、そこの板張りをかるく踏んでみるくらいに、できるだけの注意をはらってその部屋へと近よっていった。すでに靴《くつ》はぬぎすてて裸足《はだし》になってはいたが、それでも古い板張りの廊下はややもすると足の下できしんだ。こんどこそは聞かれたかと、きもをひやしたことも何度だかしれない。幸いなことに彼《かれ》は耳がすこし遠かった。その上自分の仕事にまったく注意をうばわれてしまってもいたのだ。ついにどうやら戸口までたどりついて、のぞきこんでみると、ろうそくを片手に窓によりそい、青い顔を異常に緊張させて熱心にそとの暗やみを見つめていることは、一昨夜私が見た通りであった。
さて、二人は首尾《しゆび》よく戸口まで忍びよりはしたが、これから先いかなる手段にでるべきかまでは、まだ相談ができあがっていなかった。しかしヘンリー卿はなに事でも直進的な行動をとる人だから、いきなり部屋の中へつかつかと入っていった。するとバリモアはアッとおどろいて窓のそばをとびのき、ぶるぶる震《ふる》えながらその場に立ちすくんだ。そしてまっ青な顔に極度の恐怖《きようふ》と驚《おどろ》きのいろをあらわして、黒眼がちの眼でおそるおそる私たちの顔をみくらべた。
「何をしていたんだね、バリモア?」
「旦那《だんな》さま、何もいたしてはおりませんです」口もまんぞくには利《き》けないくらい狼狽《ろうばい》して、ろうそくをもつ手がぶるぶる震えるので、そこいらにできた影《かげ》がゆらゆらと踊《おど》りまわった。「ま、窓でございます。と、戸じまりを見てまわりますので……」
「二階の窓のしまりを見る必要があるのかね」
「は、はい、みんな見まわりますので……」
「よくお聞き、バリモア」とヘンリー卿は声をあらためていった。「私たちはほんとうのことを聞くつもりでいるのだから、早くいったほうがお前のためだね。さあ、うそはやめて、窓で何をしていたのか、いってごらん」
バリモアは絶望的な眼をあげて、ヘンリー卿と私を見ていたが、最後の慈悲《じひ》でも願うもののように手をあわせて、
「旦那さま、手前はなにも悪いことをいたしたのではございません。ただろうそくで窓を見ましたばかりでございます」
「そんならなぜあんなにろうそくを窓ガラスに突《つ》きつけていたのだ?」
「もうお許しください、旦那さま、そればっかりはお尋《き》きくださいますな。誓《ちか》って申しますが、あれは決して手前の秘密ではございません。そしてそれを申しあげることもできません。これが手前だけの関係でございましたら、なんで旦那さまに隠《かく》しなどいたしましょう」
このときふと考えついたことがあって、私はバリモアが窓のふちに立てたろうそくをとりあげた。
「バリモアはきっと何かの合図をしていたのですよ。合図に答えるものがあるか、ためしてみましょう」
といいながら、バリモアがやっていたように、高くそれをかかげて、外のやみをじっと見つめた。月が雲の間にかくれたので、そとは真のやみであったが、樹木や岩かどの輪郭《りんかく》だけはほのかに認められた。するとそのとき、窓わくによって四角に切りとられた外の暗やみのまん中に、星のような光が一点、かすかにまたたくのが見えたので、私は思わず狂喜《きようき》のさけび声をあげた。
「見える、見える!」
「いいえ、先生さま、そんなことはございません。何でもございません」バリモアは夢中になって打ちけす。「先生さま、けっしてそんな……」
「ワトスン先生、横に振《ふ》り動かしてごらんなさい。あ、向こうのもおなじように動きますね。こら、ばかめ! これでもまだ合図じゃないというのか? さあ白状しろ! あの相棒は誰《だれ》だ? 何をたくらんでいるのだ?」
こうなるとバリモアは公然と挑戦的《ちようせんてき》になった。
「私個人の問題で、旦那さまには何の関係もありはいたしませんから、申しあげるわけにはまいりません」
「ふむ、ではただいまかぎり解雇《かいこ》する。出ていってもらおう」
「よろしゅうございます。やむをえませんです」
「不心得ものめが! 恥《はじ》を知るがよい。お前の家族はこの館《やかた》で百年間も世話になって暮らしてきた。それなのにこんな不埒《ふらち》なまねをするとは、もってのほかではないか!」
「いいえ、旦那さま、決してあなたさまに背《そむ》くようなことはいたしておりません」
そのときとつぜん、うしろで女の声がしたので振りかえってみると、バリモアのかみさんが戸口へあらわれているのだった。彼女《かのじよ》は良人《おつと》よりももっと青くなって、わなわな震えている。その顔に感きわまった緊張があらわれていなかったら、大きな肥《ふと》ったからだにショールをまとってスカートをひいた彼女の姿は、場合が場合だけに一抹《いちまつ》の喜劇的な出現であったともいえよう。
「お暇《ひま》が出たんだよ、イライザや。何もかもおしまいだ。さっさと荷物をまとめるがよい」
「まあ、あなた、私のことからとんだことになって! 旦那さま、みんな私が悪いのでございます。私のために良人《たく》がしてくれましたのでございます。私から頼《たの》みまして……」
「それならそのわけを話すがよい。いったいどうしたというのだ?」
「私の弟が、かわいそうに沼地《ぬまち》で餓《う》え死にしかかっているのでございます。それをみすみす見殺しにすることは、私にはできませんので、旦那さまにかくれて食事をさせてやろうと存じまして、食事の用意のできましたのを知らすため、灯火《あかり》で合図をしていたのでございます。外に見えます灯火《あかり》は、食物を持ってゆく場所を知らす案内でございます」
「その弟というのは……」
「セルデンと申します。せんだって脱獄《だつごく》しました人殺しの……」
「それに相違《そうい》はございません」バリモアもそばから口をそえた。「さきほども申しあげましたとおり、手前のこととはちがいまして、家内の内証ごとでございますので、旦那さまにも申しあげかねたのでございます。でもお耳に入りました以上はお疑いもとけまして、手前がけっして旦那さまにむかって不埒なことをいたしたのでないのをおわかりくださいましたかと存じます」
これで深夜のしのび歩きもろうそくの秘密もあっけなく氷解したので、ヘンリー卿と私はいまさらのように驚嘆《きようたん》の眼でこの女を見た。すこし抜《ぬ》けたところのあるようなまっ正直なこの女が、あの凶悪《きようあく》きわまる殺人犯と血を分けた姉弟であろうとは、誰が知ろう!
「こうなりましては、何もかもうち明けて申しあげます。私の姓《せい》はやはりセルデンと申しまして、あれは実の弟なのでございます。それが小さいときにあまりかわいがられすぎまして、何でもいうなりにさせましたので、世の中のことは何でも思うようになると増長した考えを持つようになりまして、大きくなるにつれ悪い仲間はできますし、だんだんよくないことばかり覚えまして、とうとう母親はそれを苦にして亡《な》くなりますし、親兄弟の恥さらしになってしまいました。そして罪のうえに罪をかさねて次第《しだい》に悪いほうへ堕《お》ちてゆきまして、今はもう神さまのお慈悲でやっと死刑《しけい》だけは許されているようなわけなのでございます。
それでも旦那さま、私にしてみれば、お守《も》りしてやりましたかわいい巻き毛のころのことしか考えられないのでございます。あれが怖《おそ》ろしい脱獄をいたしましたのも、そのためでございます。私がここにおりますことも、ここへ来さえすれば、どんなにしても私には見捨てきれないことも、あれはよく承知しているのでございます。その弟がある晩、餓えと疲《つか》れに綿のようになったからだを引きずって訪ねてきましたときのことをお考えくださいまし。しかも追手の看守はまぢかに迫《せま》っているのでございます。私どもはあれをお館のなかへ引きいれまして、食物をあてがったり、いろいろと労《いた》わってやりました。ちょうどそこへ旦那さまのお着きがございましたので、ほとぼりの冷めますまで沼地にいさせるほうが安心でございますから、あそこへ隠れさせましたのでございます。二日目ごとにろうそくで安否をたしかめまして、もし合図に返事があれば、良人《たく》がパンと肉を少しばかり届けてやることにいたしております。一日もはやくこのへんから逃《に》げてくれればと願わぬ日はございませんけれど、でもこちらにおります間は、見捨てるなど思いもよりません。
これで何もかもすっかり申しあげてしまいました。神さまに誓って、決して偽《いつわ》りは申しあげません。こんどのことにつきましてお叱《しか》りを受けますならば、みんな私が悪いのでございます。良人《たく》はただ私の申しますことをきいて、その通りにいたしただけでございますから、この人に罪は決してございません」
彼女の言葉は一語一語確信をもってほとばしり出た。
「それに相違ないね、バリモア?」
「はい、すこしもうそはございません」
「よろしい。それならお前にとがめるところは少しもない。さっきのおれの言葉はさらりと忘れてくれ。二人とも部屋へひきとってよろしい。いずれ朝になったらよく相談をしよう」
バリモア夫婦《ふうふ》がひきとってから、私たちはふたたび窓の外をうかがった。ヘンリー卿がそれをさっと開けはなったので、冷たい夜風が吹《ふ》きこんで顔をなでた。小さな星のような黄いろい光が、まだちらちらとはるかかなたでやみの中に明滅《めいめつ》している。
「まだ合図をするとは、大胆《だいたん》な奴《やつ》ですね」ヘンリー卿がいった。
「ここからでなければ見えなくなっているのでしょう?」
「そうでしょうねえ。あそこまでどのくらいあるでしょう?」
「トアの谷の近くではないでしょうか」
「それなら一、二マイルしかありませんね」
「そんなにもないでしょう」
「バリモアが食物を持ってかようくらいですから、そう遠いはずはありませんね。いまあの灯火《あかり》のそばで、脱獄囚《だつごくしゆう》が食物のくるのを待っているのです。どうですワトスン先生、逮捕《たいほ》してやろうじゃありませんか」
じつのところ、私もおなじことを考えていた。バリモア夫婦には、われわれを同類のなかへ引きいれる考えはなかった。詰問《きつもん》にあってやむなく秘密をあかしたのだ。いっぽうあの脱獄囚は社会の公安を脅《おび》やかす悪人なのだから、一|片《ぺん》の同情にも一歩の仮借《かしやく》にも価《あたい》する奴ではない。この機会を利用して彼を捕《とら》え、安全地帯へ送還《そうかん》するのはむしろわれわれの義務である。今日われわれが手をつかねてこの凶暴きわまる男を見のがせば、明日にも誰かが彼のためにおそるべき被害者《ひがいしや》となるかもしれないのである。たとえばステープルトン一家などは、いつ彼の襲撃《しゆうげき》を受けるかもしれないではないか。こう考えて、ヘンリー卿は彼を逮捕してやろうという決心を、こんなにも急に固めたのであろう。
「私もゆきます」私は言下に応じた。
「それではピストルを持って、それから靴をおはきなさい。なるたけ早いほうがいいです。灯火《あかり》を消して逃亡《とうぼう》しないとも限りませんからね」
五分間のうちにわれわれは用意をととのえて戸口を出た。そして暗やみのうちに灌木《かんぼく》を踏みにじり、秋風がわびしくそよいで落葉のかさこそと鳴る中を、足を早めていった。ときどき月が雲間からのぞいたが、それもほんの一瞬時といってもよいくらいで、空はすっかり雲におおわれ、沼沢地《しようたくち》へ出たころには、小雨さえ降ってきた。灯火は依然《いぜん》として眼《め》のまえにちらつく。
「武器は持ってきましたか?」私がきく。
「猟銃《りようじゆう》を持ってきましたよ」
「すばやく肉薄《にくはく》しなければだめですね。何しろ相手は向こうみずのやつだというから、急におどりこんで、あっとおどろくところをとり押《お》さえてやりましょう」
「ねえワトスン先生、ホームズさんがこれを聞いたら、何というでしょう? 悪霊《あくりよう》が跳梁《ちようりよう》するこの暗い深夜に、われわれが探検に出発したといったら」
するとそのとき、それに答えるように、かつて私がグリンペンの大底なし沼の付近で聞いたのと同じような叫《さけ》び声が、陰《いん》にこもって暗い夜空にひびきわたった。夜の沈黙《ちんもく》をやぶってどことも知れず、風のまにまに長くふかい溜息《ためいき》のように聞こえるかと思うと、急に高くなる。と思うとこんどは、ふたたび恨《うら》みうったえるように長く尾《お》をひいて消えてゆく。そしてその声はくりかえし全空間に、気味わるく聞こえわたるかに思われた。さすがのヘンリー卿も私のそでにすがって、夜目にもわかるほど青くなっている。
「おおワトスン先生、あれは何でしょう?」
「私も知らないのです。あれは沼沢地で聞こえる声ですが、まえにも一度聞いたことがありますよ」
やがて声はぴたりとやんで、夜空はふたたび死のような沈黙にかえった。立ちどまって耳をすましてみたが、もはやそよとの音も聞こえなかった。
「ワトスン先生、あれは犬のなき声ですね」
ぞっとして、全身の血が一時に凍《こお》るかと私は思った。ヘンリー卿《きよう》も思いがけないその声に、よくよく神経をいためたものとみえて、声がかすれて震えていたほどだ。
「みんなはあの声をなんだといっています?」
「誰《だれ》がですか?」
「このへんの村人がです」
「このへんの百姓《ひやくしよう》どもはまったく無教育ですからね。なぜ村人の噂《うわさ》なんか気になさるんです」
「教えてくださいよ。何といってます?」
どう答えたらよいか、私はためらったが、いずれは答えなければならない質問である。
「世間ではあれをバスカヴィル家の魔《ま》の犬の遠吠《とおぼえ》だといっています」
卿はうめいた。そしてしばらくは口もきけなかったが、やっとのことでいった。
「そう、犬ですね、あれは。それにしても何マイルも先の、あっちのほうから聞こえたように思いますね」
「声はどこから起こるのかまったくわかりません」
「風につれてよく聞こえたり、かすれたりしましたね。グリンペンの大底なし沼はあっちのほうでしょう?」
「そうです」
「声はあっちから聞こえましたよ。ねえワトスン先生、先生だってあれを犬の遠吠と思っているのでしょう? 私も子供ではありません。ほんとのことを教えてくださっても大丈夫《だいじようぶ》ですよ」
「このまえあれを聞いたときは、ステープルトンさんがいっしょでしたが、あの人は怪鳥《かいちよう》のなき声かもしれないといっていましたよ」
「いいえ、あれはたしかに犬です。ああ、私の家に伝わる伝説には、いくらか真実性があるのでしょうか? こんなやみの夜に沼沢地へ出るのは、私にとってほんとに危険なのでしょうか? そんなはずはない。ねえワトスン先生、そんなことは信じられませんねえ」
「断じてそんなことがあるものですか」
「ロンドンで話を聞いたときは、まじめに考えるのもばかばかしい気がして、一笑に付してしまいましたが、いざこうして暗黒の沼沢地へ出て、現にあんな気味のわるい声を聞いてみると、まるでまた別のことのようです。ああ伯父《おじ》も! 伯父の倒《たお》れているそばに、犬の足跡《あしあと》があったといいましたね? すべてが符合《ふごう》しています。ワトスン先生、私は臆病《おくびよう》ものではないつもりですが、あれを聞くとなんだか全身がぞっとして、冷水をあびたような気がします。これこのとおり、ちょっと手にさわってみてください」
卿の手先は大理石の一片をでも握《にぎ》ったように、冷やかだった。
「なに、朝になればすっかりなおりますよ」
「いいえ、あの声は明朝はおろか、一生わすれられそうもありません。ねえワトスン先生、これから私たちはどうしたらよいのでしょう?」
「帰りましょうか、このまま?」
「いいえ、とんでもない! あの男を捕えにきたのですから、さあ行って逮捕してやりましょう。われわれは脱獄囚を追いまわす、そのあとから地獄の犬がわれわれをねらっているのかもしれませんね。さあ何でもこい。たとえ地獄の底をぶちまけて、この沼沢地が妖魔《ようま》の巣窟《そうくつ》になろうとも、調べるだけは調べてやるぞ!」
二人は暗黒の中に、のこぎりの歯のような輪郭をぼんやりと見せている小山にとりかこまれた道なき道を、はるかに明滅する黄いろい小さな光をめざして、つまずきよろけながら進んだ。漆《うるし》のような夜のやみに見る灯火《あかり》の距離《きより》くらい目測のむずかしいものはない。あるいははるか地平線のかなたに思われたり、ふと眼前数歩のところにあるような気がしたり、いっこうはっきりしない。
とかくするうちに、その位置がはっきり見えたが、そのとき二人は意外に敵に接近していることがわかった。ろうそくは岩のわれめに立てられて、ろうがたらたら垂れているが、そこは岩が両ほうにそで屏風《びようぶ》のように突《つ》きでて、風をよける役をするとともに、光が館の方角以外にもれぬようになっていた。幸いなことには大きな花《か》崗岩《こうがん》のかたまりが、われわれの接近する姿を遮蔽《しやへい》してくれていた。その岩かげに身を伏《ふ》せてのぞくと、そこには人の姿はなかった。ひろい沼沢地のまんなかで、岩かげに立てられた一本のろうそくが、わびしく明滅して、小さく黄いろい光をなげている有様は、何となく気《け》おされるような妙《みよう》な気持だった。
「これからどうしましょう?」卿がささやいた。
「ここで待ちましょう。曲者《くせもの》はこのあたりにいるに違いありません。じっとしていて、せめてひと目なりと見てやりたいものです」
私がいい終らぬうちに、曲者の姿がみえた。ろうそくを立てたわれ目のある岩の上から、恐《おそ》るべき凶悪な野獣性《やじゆうせい》をおびた黄いろい顔が、満面ににくにくしい悪意をふくんでぬっと現われたのだ。泥《どろ》と汗《あせ》とによごれ、針のようなもじゃもじゃのひげがあり、蓬《よもぎ》のように頭髪《とうはつ》の乱れたところは、太古にこのあたりの石室《いしむろ》に住んでいたという蛮人《ばんじん》が現われたのではないかと思ったくらいだ。黄いろい光を下からうけて、小さく狡猾《こうかつ》な眼をぎろりと光らせ、左右の暗黒の中を鋭《するど》く見まわすところは、猟人《かりゆうど》の足音を聞きつけた悪がしこい野獣とそっくりだった。
彼《かれ》はたしかに何かを気《け》どったのだ。バリモアのくるときは、なにか彼らだけの秘密の合図でもあるのかもしれない。われわれはむろんそんな合図を知るはずがない。それともなにかほかの理由で疑念でもおこしたのか、とにかく私は彼の顔にひどい恐怖《きようふ》のいろが現われているのを明らかに見てとった。そしていつ灯火《あかり》を消して、やみのなかへ姿をかき消すかもしれないことも見てとった。そこで私はとっさにおどりかかった。ヘンリー卿もつづいた。間髪をいれず、凶徒はなにかのろいの言葉を高く叫びながら、大きな石を投げつけた。石は私たちの隠《かく》れていた岩にはげしくぶつかった。と思うまもなくとびあがって逃げてゆく小さいが頑丈《がんじよう》な姿がちらりとみえた。
そのとき運よく雲がきれて、月が出たので、小山のいただきに駆《か》け登ってみると、凶漢がしゃにむに向こうへ逃げてゆくのが見えた。石ころがくずれてがらがらと大きな音をたてる。このとき私のピストルで追いうちをあびせかければ、かならずや彼の逃走力をそいで、難なくとり押さえることもできたろう。しかしホームズ君、私は武器を持たずに逃げてゆく者に、追いうちをあびせようというつもりでピストルを持ってきたのではない。このピストルは手向かうもののあったとき、自分の身をまもるためにだけ使うのだ。
私たちは走ることにかけては立派な腕《うで》、いや足を持ち、かなり熟練もしていた。それにもかかわらず、この男には追いつけないことがすぐにわかった。それでも力のおよぶかぎり追跡《ついせき》はしたのだ。しかし距離は刻々に大きくなるばかりだった。そして月光をあびて逃げのびる彼の姿は、はるかかなたの小山の中腹に、岩を縫《ぬ》って遠ざかっていった。とうとう私たちはすっかり息をきらして、そばの岩に腰《こし》をおろすのもやむをえない状態になってしまった。見ていると彼はしだいに遠く小さくなってゆき、ついにまったく姿が見えなくなった。
しかも事件はこれで終りではなかった。このとき二人はまたもや不思議な、思いもよらぬ事件に出くわしたのである。のぞみのない追跡を断念し、呼吸のしずまるのをまって、やおら腰をあげて帰路につこうとすると、上弦《じようげん》の月は右手にひくくおちて、突兀《とつこつ》たる花崗岩のいただきにひっ掛《かか》っているかと思われたが、見よ、そのいただきの上には、月光を背にあびて墨絵《すみえ》の影人形《かげにんぎよう》のように、一人の男がつったっていたではないか! 幻覚《げんかく》でもなんでもない、まざまざとこの眼に見えたのだ。
みたところ痩形《やせがた》の、背の高い男で、すこし股《また》をひらいて突ったち、腕を組んでじっとうつむいたところは、眼前に展開するさいげんなく広い泥と岩との海を前に、なにかふかく沈思しているかに思われた。これこそこの荒《あ》れ地の精霊《せいれい》なのかもしれない。
とにかく彼がいま逃《に》げた脱獄囚でないことだけは明らかだ。囚徒が姿をかくしたのとは、まるで方角違いである。のみならずこの男のほうがはるかに背が高い。私はおどろいたあまり、思わず声をたてた。そして顧《かえり》みてヘンリー卿のそでをひこうとすると、男の姿はこつぜんとしてかき消すように見えなくなった。あとにはただ花崗岩のいただきの鋭くぎざぎざした線のうえに、上弦の月がさびしくかかって、人の気配などはどこにも感じられなかった。
私はすぐにもそのほうへ駆けていって、あたりを調べてみたいと思ったが、そこまではかなり遠くもあり、かつヘンリー卿はあの不思議な声を聞いてから、バスカヴィル家に伝わる暗い物語でも思いだしたものか、意気まったく銷沈《しようちん》して、新しい冒険《ぼうけん》に向かおうという考えなんかは、すっかりなくしていた。それに卿は岩山のうえの不思議な男の姿を見なかったのだ。したがって私の受けた戦慄《せんりつ》に実感をもって共鳴することのできなかったのは無理もないところだ。
「監視人ですよ。あいつが脱獄してから、沼沢地にはたくさん監視人が入りこんでいますからね」と卿はすましたものだ。
そういえば、むろんそうかもしれない。しかし私はもうすこし確実な証拠《しようこ》をつかんでおきたかった。とにかく今日プリンスタウンの刑務所へ、脱獄囚を見かけたことだけは通知しようと思う。それにしてもこの男をわれわれの手で逮捕できなかったことは、かえすがえすも残念でならない。
以上は昨夜の冒険の顛末《てんまつ》だ。しっかりと報告する労だけは、ホームズ君も認めてくれることと思う。もっとも大部分は事件とは無関係であるかもしれないが、私としてはこの地のできごとを細大もらさず君の手もとまで報告して、その中から事件の解決に参考となるべき部分だけを、君の自由な選択《せんたく》にまかすのが最もよいと思う。
ともあれ、われわれは一歩一歩事件の解決に近づきつつあるのだ。バリモア夫婦のことに関しては、その不思議なふるまいの動機を発見したから、状況《じようきよう》がだいぶ明らかになったわけだ。しかし神秘な沼沢地の本質と、怪《あや》しむべき居住者のことは、まだ未解決のままだ。これらの点に関しても、次の便の報告までには、何とか光明を得たいものだと願っている。最良の方法は一日もはやく君自身がこの地へきてくれることだ。
第十章 怪しい女の名は
私がダートムアの沼沢地へいった当座、シャーロック・ホームズへ書きおくった報告はさきに引用した通りであるが、これから先は報告の再録ではだめだから、当時の日記によって記憶《きおく》をよびおこして、物語をつづけることにする。わけても日記の中には、生涯《しようがい》忘れられない印象を受けた二、三の事件が、細大もらさず書きとめてあるから、あの脱獄囚《だつごくしゆう》の追跡に失敗し、沼沢地の岩の上に怪しい人影をみとめて怯《おび》えた日の日記からはじめて、以下すこしこれを抜粋《ばつすい》することにしよう。
十月十六日[#「十月十六日」はゴシック体]――霧《きり》ふかくびしょびしょと時雨《しぐ》れて憂鬱《ゆううつ》な日だ。館《やかた》はたれこめた雲にとざされて、ときどき切れる雲の間から見わたすと、陰惨《いんさん》な沼沢地のおもては小山の中腹の草原が銀のような葉うらをみせ、遠く散在する岩石は雨にぬれて光り、内も外もものうい憂鬱な気がみなぎっている。ヘンリー卿はまだゆうべの不快な興奮がおさまらず、いっこうに浮《う》きたたない。僕《ぼく》自身もなんとなく圧《お》しつけられるような、さし迫《せま》る危険の予感に気分はめいる一方だった。ことに四六時中どこからくるともわからない危険のあるのは、その本質が明らかでないだけによけい耐《た》えがたい。
しかもこの沈《しず》んだ気持の原因はよくわかっているのだ。僕たちの周囲をめぐって、げんに絶えまなくいろんな気味のわるいできごとばかりもたらす事件を一つ一つたどってみれば、第一にこの館の先代の不思議な死にかたは、この家につたわる物語にぴたりと符合している。それから沼沢地に怪しい動物があらわれたという話は、近くの百姓たちによって、たびたび報告された。僕もこの耳で二度までも、犬の遠吠《とおぼえ》かと思われる声を聞いている。
しかしながら一面からみれば、自然の法則以外のできごとなどがあろうとは、どんなことがあっても信じられない。幽霊犬《ゆうれいいぬ》が足跡をのこしたり、遠吠をするなどとは絶対に信じられない。ステープルトンはそんな迷信《めいしん》におちているのかもしれない。モーティマー医師だってそうだ。しかし僕に一|片《ぺん》の常識あるかぎり、そんなことはまったく信じられないのである。それでは無教育な百姓とえらぶところがないではないか。彼ら百姓はたんに怪しい犬の姿を認めたというだけでは満足せずに、その口と眼《め》からおそろしい火をはいていたとかならずいう。ホームズとてもそんな虚構《きよこう》を信じるはずがあるまい。彼の特使である僕としてもむろんのことである。
しかし事実はどこまでも事実である。僕は沼沢地で二度まで奇怪《きかい》な犬の声を聞いている。しかしいまかりに、この地にすこぶる巨大な犬が、何かのはずみでまぎれこんでいるとしてみれば、すべてのできごとは簡単に説明がつくわけだが、そんならその犬ははたしてどこから来て、どこに隠れているのだろうか? どこから食物を得ているのか? またなぜ日中は姿をあらわさないで夜にかぎって人眼にふれるのか? 考えてみればこの仮定も多くの不可解な点を持つことにおいて、超自然説《ちようしぜんせつ》となんら選ぶところはない。
それに犬のことは別として、ロンドンでは怪しい魔《ま》の手が人間の姿でわれわれを怯《おび》やかしていたではないか。第一が馬車の中の人物、それからヘンリー卿に対して、沼沢地に接近するなかれという不思議な警告状をよこした覆面《ふくめん》の男。単にあれだけの事実から考えれば、彼はわれわれのことを思ってくれる味方であるともとれるし、また敵であるとも考えられる。彼はいまどこで何をしているのだろう? いまもなおロンドンにとどまっているのだろうか? それともわれわれとともに、はるばるこの地まで来ているのだろうか? ゆうべ小山の岩の上にいた怪しい男こそ、彼ではないのだろうか?
ゆうべあの男の姿を見たのは、ほんの一瞬時《いつしゆんじ》のことだった。しかも僕はその一瞥《いちべつ》で、あるたしかなものを把握《はあく》し得たと信じる。それは彼がこの土地の人間でないことだ。これは確信をもっていえる。僕はいまやこの土地のすべての住民に一面識はある。彼の姿はステープルトンにしては、はるかに背が高かった。ラフター邸《てい》のフランクランドに比して、ぐっと痩《や》せていた。バリモアとならやや似てはいたが、彼はわれわれの出かけるとき、館にのこっていたのだし、またわれわれを尾行《びこう》したとは信じられない。してみれば、ロンドンでも見たことのない男につけねらわれたが、ここでもやっぱりわれわれの知らぬ人物がつけねらっていることになる。僕がこの怪しい人物の正体を見やぶることができたら、この事件はたちどころに解決するのかもしれない。よし、それなら今日以後僕はこの問題の解決に全力をつくしてやろう。
僕はこの計画をまずヘンリー卿にうちあけるべきだと考えた。しかし再考してみて、これはできるだけ沈黙《ちんもく》をまもって、独りでことを運ぶほうが得策だと気がついた。卿は目下沈黙がちに、何ごとかを深くおもい悩《なや》んでいる。卿の全神経は夜の沼沢地で聞いた怪しい声に、すっかり乱れているのだ。このさい卿にいろんな話をもちかけて、このうえ苦労させるのは忍《しの》びがたい。そうだ、誰《だれ》にも相談せずに、身を挺《てい》してことの解決にあたるにかぎる。
この日朝食後に、ちょっとした事件がおこった。というのはバリモアがヘンリー卿になにごとか話したいことがあると申し出たので卿は、書斎《しよさい》へよびいれて、二人だけでしばらく話していた。そのあいだ僕は球戯室《きゆうぎしつ》にすわっていると、何やら声だかにいいつのるのが、ときどきもれ聞こえた。それで何の話だか僕にもよくわかった。しばらくすると卿が書斎のドアをあけて、僕をよんだ。
「バリモアがたいへん感情を害しているらしいのですがね」入ってゆくと卿がいった。「自分から進んで秘密をうちあけたのに、われわれが弟を逮捕《たいほ》しようとして追いまわしたのは公正を欠くというのです」
執事《しつじ》のバリモアは青い顔はしているが、泰然自若《たいぜんじじやく》として立っていた。
「とりのぼせまして、言葉がすぎましたかもしれません。どうぞお赦《ゆる》しくださいませ。でもお二かたが今朝ほどお帰りになりまして、セルデンを追跡なさったとうかがいまして、じつはびっくりしたのでございます。この上わたくしから追いうちをかけませんでも、あれは一人では背負いきれないほどの困難を背負いこんでいるのでございます」
「バリモア、お前はあのことを進んで話したというが、それは少し違うじゃないか。あれは私たちに問いつめられて返事ができず、やむをえずお前が、いや、お前の家内がうち明けたのではないか」ヘンリー卿がやりこめた。
「いいえ旦那《だんな》さま、手前は旦那さまがあれをそんなふうに利用なさろうとは夢《ゆめ》にも思いませんでした」
「しかしお前の弟は社会の敵なのだ。この沼沢地には家がバラバラに散在している。そこへもってきてあの男は何をするかわからない奴《やつ》だ。そんなことはひと眼みればわかる。たとえばステープルトンさんのところにしても、もし押《お》しこまれでもしたら、どうなると思う? あんな男は鍵《かぎ》のかかるところへ隔離《かくり》してしまわなければ、みんなは安心ができないのだ」
「いいえ旦那さま、あれはもうけっして押しいりなんかはいたしません。それは私が保証いたします。二度とこの土地で人さまにご迷惑《めいわく》はかけません。じつは支度《したく》がととのいましたら、二、三日中に南アメリカへ出発することになっております。旦那さま、どうぞお願いでございますから、あれがまだこの土地におりますことだけは、警察へお知らせになりませんように……お慈悲《じひ》でございます。警察ではもうこのへんにはいないものと思っておりますし、船のほうの手はずができますまで、ほんの二、三日じっとしておればよろしいのでございます。それにあれとの関係がわかりますと、家内はもとより手前もどんなことになりますやら、まことに心もとのうございます。旦那さま、どうぞ警察へだけはお知らせになりませんように、くれぐれもお願いいたします」
「ワトスン先生、先生のお考えはどうです?」
「なにごともなく海外へ逃げのびてくれさえしたら、みんなは大助かりでしょう」僕は肩《かた》をすくめた。
「しかしそれまでにだって、悪いことをしないと保証はできますまい」
「いいえ、ばかなまねをいたすはずがございません。ほしいと申すものは何でも工面してやっておりますし、それに悪いことをいたせば、すぐに所在《ありか》が知れてしまいますから」
「それはそうだな。ではまあ……」とヘンリー卿はいった。
「ありがとうございます。心のそこから厚くお礼を申しあげます。こんどもしあれが捕《つか》まるようなことでもございましたら、家内は死んでしまいますでしょう」
「これは重罪犯人の幇助《ほうじよ》になるような気がしますね、ワトスン先生。でも話を聞いてみると、いまここで捕《とら》えるのも不憫《ふびん》な気がするし、よろしい、助けてやりましょう。バリモア、安心してあちらへおいで」
バリモアは感謝の言葉を口にしながら、戸口のほうへゆきかけたが、ちょっとためらってから戻《もど》ってきた。
「旦那さま、このご恩がえしには、手前にできますことは何でもいたします。じつは旦那さま、手前|妙《みよう》なことを存じております。もっと早く申しあげるべきだったと存じますが、これは査問のずっと後になってから知りましたので、まだただの一人《ひとり》にも話したことはございません。ご先代さまがお亡《な》くなりになったことにつきまして……」
ヘンリー卿《きよう》と僕は思わず顔を見あわせて立ちあがった。
「どうして亡くなったか知っているというのかい?」
「いいえ、そんなことはいっこうに存じませんけども……」
「では何を知っているというのだね?」
「それは先代さまがなぜあんな刻限に、小門のところへお出ましになったかでございます。先代さまはあるご婦人にお会いになるため、あそこへお出ましになりましたのです」
「婦人に会うためだって? 伯父《おじ》が?」
「はい」
「その婦人の名は?」
「お名前はわかりかねますけれど、頭文字《かしらもじ》だけはわかっております。L.L. とおっしゃるご婦人で」
「どうしてそんなことがわかったのだ?」
「先代さまはあの朝お手紙をお受けとりになりました。あの通りご交際がおひろいうえに、ご親切なかたでございましたから、何かごたごたがありますと、みんなで先代さまへ持ちこんでまいります。ですから、ふだんお手紙はたくさん参りましたけれども、あの朝にかぎりましてなぜか一通しかございませんでした。それで珍《めずら》しいと思いましたので覚えておりますのですが、クーム・トレーシーの消印のございます女文字の手紙でございました」
「ふむ、それで?」
「それでそのことはそれっきり忘れておりましたのでございますが、家内が、ついこのごろになりまして、それも二、三週間前でございますが、亡くなられましてから一度も手をつけたことのございません先代さまのお書斎を掃除《そうじ》いたしておりますと、暖炉《だんろ》の火格子《ひごうし》のおくから焼けのこりの手紙が灰といっしょに出てまいりました。あらかた燃えきってはおりましたけれど、色が変っただけで残ったのがほんの少しだけございまして、それは手紙のおしまいの追って書きのところらしく、『紳士《しんし》としてこの文ごらんのうえはかならずかならずご焼却《しようきやく》くだされたく、十時にあの門にてのお待ちあわせくれぐれもお忘れなきよう』とございまして、その次に L.L. と署名してございました」
「その手紙はのこしてあるの?」
「いいえ、それは手に取りますまでもなく、くずれて灰になってしまいましてございます」
「その前にも、おなじ筆跡《ひつせき》の手紙がきたことがあったのかね?」
「お手紙をとくに注意して見てはおりませんでしたので、そのへんのことはわかりかねます。あれはあの朝お手紙が一通しかございませんでしたので、それで覚えておりますようなわけで」
「その L.L. とは誰だか、心あたりでもあるかい?」
「いいえ、それがまったくございませんので。何とかいたしましてこのご婦人のことがわかりますれば、先代さまのお亡くなりあそばした事情もよほどはっきりいたしましょうものを……」
「それにしてもお前は、そういう重大事をどうして今日までかくしておいたんだ?」
「はい、それは旦那さま、ちょうど手前どもにあの心配ごとができましたのと、ほとんどいっしょでございましたもので……それと一つには手前どもは先代さまをふかくお慕《した》い申しておりますので、あまりせんさくがましいことは……とりわけご婦人に関しますことは、十分考えなければと存じまして……」
「つまり伯父の名誉《めいよ》をきずつけるのをおそれたのだね?」
「はい、どうせよい結果はうまれまいと考えまして、……でもこうしてお情けぶかいお計らいをうけてみますと、存じておるだけのことは申しあげなければと思いまして、お話しいたしましたのでございます」
「よくわかった。ありがとう。もう引きとってよろしい」
バリモアがいってしまうと、ヘンリー卿は僕のほうに向きなおって、
「どうでしょうワトスン先生、先生はいまの話をどうお考えになります?」
「なんだかますますわからなくなってきますね」
「同感です。しかしこの L.L. という婦人を突《つ》きとめさえすれば、万事《ばんじ》が明瞭《めいりよう》になりそうですね。そこまでは進展したわけです。その女さえ探しだせば、何かを知っている人物がつきとめられるとわかったのですからね。これからいったい、どういう手段をとるべきでしょうかね?」
「ホームズにすぐ知らせてやりましょう。これはいい手掛《てが》かりだから、きっと自分でやってくると思いますよ」
僕はすぐ自分の部屋へかえって、ホームズあての詳《くわ》しい報告のペンをとった。彼《かれ》はちかごろひどく忙《いそが》しいとみえて、さっぱり手紙をよこさない。よこしてもほんの走りがきで、こっちからの報告にたいして何とも言及《げんきゆう》していないのみか、僕の行動にたいする注文のようなこともほとんど書いてない。例の恐喝《きようかつ》事件に全力を集中しているのだろうが、この報告をみては、いかに何でもじっとしてはいられまい。かならずやふかい興味にひかされて、とんでくるにちがいない。ホームズよ、早く来てくれ。
十月十七日[#「十月十七日」はゴシック体]――終日はげしい雨が蔦《つた》の葉をうち、雨だれの音がたえない。雨をしのぐ家もなく着る衣服もないあの脱獄囚が、晩秋のこの冷雨にぬれそぼつかと思えば、そぞろに哀《あわ》れをもよおす。いかに罪があるにもせよ、彼がいま受けつつある苦痛は、もはや十分にその罪をつぐなって余りあるといえるだろう。それにしてもロンドンで馬車の中に見かけたあの男と、夜の沼沢地の岩上にみたあの怪《あや》しい男とは、同一人物なのであろうか? そして彼もまたこの冷たい雨の中に、沼沢地をさまよいつづけているのであろうか?
夕がた僕《ぼく》は防水服に身をかためて、つめたく顔をうつ雨、耳にはためく風のなかを、暗い思いにとざされて、ぴしゃぴしゃと遠く沼沢地を歩きまわってみた。神よ、いまあの大底なし沼《ぬま》に迷いおちようとするものがあれば、助けたまえ! 終日の雨にふだんは小高い堅固《けんご》な土地さえ、いまは沼のようになっております……
歩くうちあの腑《ふ》におちぬ怪しい男の姿をみとめた黒岩まできてしまった。そのけわしい頂上へのぼって、陰気な草原を見おろすと、見渡すかぎり荒涼《こうりよう》としたあれ地はひどい吹《ふ》きぶりにうたれ、低くたれこめたにぶい黒雲は、夢の中の景色のような山々のあたりすれすれまでさがるかと思われた。はるかに左手の窪地《くぼち》に、飛沫《ひまつ》にけぶって木の上からかすかに見える二本のひょろりと高い塔《とう》こそは、バスカヴィルの館である。しかもその館こそ、小山の中腹にいくらも散在する有史以前の人類の石室《いしむろ》をのぞいては、眼にうつるかぎりの物象のなかで唯一《ゆいいつ》の人間的なものであった。二日前の晩にみた例の怪しい人物ののこしたものなど、もとより何一つ見あたるわけもなかった。
帰ろうと歩いていると、一頭だての小さな馬車にのったモーティマー医師が追いついてきた。フールマイヤーの百姓家《ひやくしようや》のほうから、沼沢地の路《みち》をたどってきたのだ。彼はふかく僕たちのことを心にかけ、今日まで一日も欠かさず館をおとずれて、なにかと気をつけてくれる。しきりにすすめられるので、馬車に便乗すると、館のほうへ坂道をとばしてくれた。かわいがっていたスパニエル犬がいなくなったといって、ひどくしょげていた。なんでも沼沢地のほうへ出ていったきり、帰ってこないのだという。一応なぐさめてはおいたが、グリンペンの大底なし沼で、いつぞや小馬《ポニイ》が泥《どろ》におぼれたのを思いだして、たぶん同じ運命をたどったのだろうと思い、いかにも気の毒だった。
「ときにモーティマー先生、この界隈《かいわい》であなたの知らない人は一人もないでしょうね?」でこぼこ路にゆられながら僕はきいてみた。
「そうですね、まあ私の知らない人はないでしょうよ」
「ではうかがいますが、 L.L. という頭文字《イニシヤル》の婦人をご存じありませんか?」
しばらく考えていたが、「知りませんねえ。もっともジプシーや労働者の中には、私の知らない人も少しはありますが、百姓や相当の身分の人のなかには、そんな頭文字を持つ人はないようですよ。でも、はてな?」と彼はまた考えこんでいった。「あっ、ローラ・ライオンズがいますよ。これなら頭文字が L.L. ですね。しかし住んでいるのはクーム・トレーシーですよ」
「どういう人ですか?」
「フランクランドの娘《むすめ》ですよ」
「えッ、あの訴訟狂《そしようきよう》のフランクランドですか」
「そうです。沼沢地のスケッチにきたライオンズという画家と結婚《けつこん》したのですが、結婚してみてわかったのは、この男ならずものでしてね、結局ローラをすてて行方《ゆくえ》をくらました。私の聞いたところでも、罪はまったく男のほうにあるのですが、父親のフランクランドは、娘がいうことをきかずに勝手に結婚したのだからといって、構いつけないのです。もっとも理由はそれだけでなく、ほかにもあったのだろうと思いますが、だからローラは頑固《がんこ》な父親と無情な良人《おつと》の両方から見はなされて、ずいぶんかわいそうな目にあったわけです」
「それでいまどうして暮《く》らしているのですか?」
「たぶん父親のフランクランドが、少しずつ仕送りをしているのだと思いますが、父親だって手もとはくるしいのですから、たいしたことのできるはずはありません。ローラにどんな悪いところがあるにもせよ、このまま見殺しにするのはかわいそうです。でその話が知れわたったものですから、二、三の人が集まって、独りで暮らしてゆけるように、何かちゃんとした仕事をあてがったのです。ステープルトンさんも何かしてやったようですし、故チャールズ卿もやはり心配してやったはずです。私もじつは、タイプライターの仕事で身を立てたらと、少しばかり面倒《めんどう》をみてやったのです」
モーティマー医師は、なぜ僕がそんなことを尋《たず》ねるのか、その理由を知りたがったが、うっかりしたことはしゃべれないから、用心ぶかく逃《に》げておいた。この話は誰《だれ》にもうっかりは漏《も》らされない。
明朝さっそくクーム・トレーシーへ出かけるのだ。そしてローラ・ライオンズ夫人といういかがわしい評判のある女に会ったら、このわからないことだらけの事件に、一新生面をひらくことができるに違いない。しかし思えば僕もわる知恵《ぢえ》が発達してきたものだ。モーティマー医師が不思議そうな顔をして、しつこく食いさがってきたので、僕はさりげなく、フランクランドの頭蓋骨《ずがいこつ》が何型に属するかを質問し、それから馬車が館《やかた》へつくまでずっと、話を骨相学でもちきらせたのだ。シャーロック・ホームズと長く共同生活をしてきただけのことはあるもんだ。
今日は風雨が強く不愉快《ふゆかい》な日だったが、ここに記録しておくべきことがもう一つだけある。それはバリモアとのたったいまの会話だ。これもいずれ手繰《たぐ》ってみれば、有利な手掛かりが得られるにちがいない。
モーティマー君は館で夕食をたべることになり、それがすむとヘンリー卿としきりにカードのエカルテをたたかわしていた。僕は図書室にいると、バリモアがコーヒーを持ってきてくれたので、ちょうどいいおりとばかり、つかまえて二、三の質問をしてみた。
「バリモアさん、例の先生はもう出発したのかい? それともまだこのあたりをうろついているのかい?」
「どうもよくわかりませんです。ここでぐずぐずしていますと、ますますむずかしくなるばかりでございますから、早くいってくれればと思っておりますが、この前食物をとどけてやりましてから、いっこう姿を見せません。あれからもう三日にもなりますのに」
「そのときは会ったのかい?」
「いいえ、先生さま、会いませんのです。でもその次に手前が参ってみましたときは、おいてきました食物がなくなっておりましたから……」
「じゃ、やっぱりいるにはいるんだね?」
「そうでございましょう。ほかの男が食物をとったのでなければ」
僕はコーヒー茶碗《ぢやわん》を唇《くちびる》にあてたまま、思わずバリモアの顔を見かえした。
「それではあのへんに、ほかにも男がいるというのかい?」
「はい、沼沢地《しようたくち》にはもう一人男がおります」
「見たことがあるのかい?」
「いいえ、見かけたことはまだございません」
「見もしないのに、どうしてわかった?」
「セルデンがその男のことを話しておりましてございます。もう一週間以上にもなりますのに、その男もやはり隠《かく》れておりますのだそうで、でも囚人《しゆうじん》ではないらしゅうございます。どうも困ったものでございますよ、先生さま。まことに困ったことになりました」彼は急に胸がせまってきたらしく、声をふるわせた。
「ねえ、バリモアさん、よくお聞き。私はね、この問題にはなんの関係もなく、ただヘンリー卿の手助けにきているだけなのだから、何も心配することはないのだよ。すっかり話してごらん、なぜそれで困るのか、ありのままを包まずに話してごらん」
バリモアはうっかり口をすべらしたのを悔《く》いるのか、それとも自分の胸中をどう言葉にあらわしたらよいかと思いまどってでもいるのか、しばらくためらってから、ついに思いさだめたように沼沢地にむかったほうの雨にうたれている窓を指さしながらいった。
「それでございますよ。どこかに恐《おそ》ろしい企《たくら》みがあるような気がいたします。どんな不吉《ふきつ》な、悪事が起こってまいりますかわかりません。これだけは手前が断言いたします。いかがでございましょう、ヘンリー卿がロンドンへお帰りになりますようなご都合にはまいりませんでしょうか? そうなりますれば一同安心いたします」
「でも、お前はいったい何をそんなに恐れているのだい?」
「先代のチャールズ卿のご最期《さいご》を考えてごらんくださいませ。検死官はあんなことを申しましたけれど、あの亡くなりかたはただごとではございません。夜な夜な沼沢地でへんな声がいたします。日がくれましてからは、お金をもらって頼《たの》まれましても、外になど出る者はございませんです。そればかりではございません。見なれぬ男が沼沢地にひそんで、じっと見張っておりますが、あれは何でございましょう? 何を待っているのでございましょう? 手前どもにはさっぱりわけがわかりません。いずれにしましてもバスカヴィル家のおかたに、よくないことが起こりそうなことだけはたしかでございましょう。この上はせめて新しい召使《めしつかい》どもをお館にむかえまして、すっかり落ちつきましたら、どんなにか安心でございましょう」
「その不思議な男のことだがね、もうすこし何かわかってはいないかい? セルデンはなんといっていた? どこでどんなことをしていたか、少しはわかっているのだろう?」
「一、二度見かけたとか申しておりましたが、くえないやつで、うっかりしたことはしゃべらないと申します。はじめは見はりの巡査《じゆんさ》かとびくつきましたが、そうではなくてその男も、何か企んでいることがすぐにわかりましたそうで、見たところ紳士風《しんしふう》らしいけれど、何をしようとしているのか、そこはさっぱりわからないと申しておりました」
「どこに潜《ひそ》んでいるといったね?」
「小山の中腹の古い家――原始人の住んだとか申す石室《いしむろ》の一つだとか申します」
「食物はどうして手にいれているのだろうね」
「セルデンの申しますには、少年をひとり連れていまして、その少年がなんでも必要な品を運んできますのだそうで、たぶんクーム・トレーシーあたりから持ってまいりますのでございましょう」
「ありがとう。このことについては、いずれまた相談することもあるだろうよ」
バリモアがさがると、僕はくらい窓ぎわへよって、よごれて曇《くも》った窓ガラスごしにのぞいてみると、そとは雲が矢のようにはやく飛び、樹木は風に吹かれて大波のように揺《ゆ》れていた。家の中にいてさえいやに陰気《いんき》で気のめいる夜であるが、沼沢地の石室はどうであろう? こんな日に、こんな荒《あ》れはてた土地に出没《しゆつぼつ》するその男は、はたしてどんな怨恨《えんこん》を、どんな目的をいだいているのだろうか? 思えばあの荒廃《こうはい》した石室の中にこそ、僕たちをかくも悩《なや》ます問題の中核《ちゆうかく》がひそんでいるのに違いあるまい。僕は誓《ちか》う。その男に神秘の核心に突入《とつにゆう》されないうちに、明日にも問題を解決してやらなければならない。
第十一章 岩上の怪人物《かいじんぶつ》
前章にかかげた私の日記の抜抄《ばつしよう》にひきつづいて、ここに十月十八日のできごとを物語ろうとするのだが、この日、事件は急転直下のいきおいをもって、おそるべき結末への道程をたどったのである。
この日から二、三日間のできごとは、私の脳裡《のうり》に終生忘れられない印象をのこしている。だから当時の記録を参照しなくても、記憶《きおく》のままに語ることができるとおもう。前日、私が二つの重大事件にでくわしたことはすでに述べた。一つはクーム・トレーシーのローラ・ライオンズ夫人から故チャールズ卿《きよう》に手紙をおくって指定した時と場所とが、故人の最期《さいご》をとげた時と場所とにぴたりと一致《いつち》していることであって、もう一つは、沼沢地の石室にひそんで、そのへんを徘徊《はいかい》している怪しい人物のあることだ。この二つの重大事実をにぎっておりながら、事件に何らの光明をも投じ得なかったとしたら、私はよくよくの腰《こし》ぬけか、ぼんくらでなければならない。
さて、十月十七日の晩、すなわち昨夜だが、私はローラ・ライオンズ夫人のことを聞き知ったけれども、その晩はモーティマー君がおそくまでカードをたたかわしていたので、そのことをヘンリー卿の耳にいれる機会がなかった。だが朝食のとき私はその話をして、いっしょにクーム・トレーシーへいってみないかとさそってみた。すると卿ははじめはだいぶ乗り気であったが、考えてから一人でいったほうがよくはないかといいだし、私もなるほどと気がついた。私の訪問が表だてば表だつほど、土地の人は用心をして口をとじるだろうと思われるからである。ヘンリー卿を一人あとにのこしてゆくのは、いくらか良心にとがめはしたけれど、とにかく一人で出発した。
馬車がクーム・トレーシーの村につくと、私はパーキンズに馬をはずして休ませるようにいいつけておいて、疑問の女の居所をたずねた。彼女《かのじよ》の家はすぐにわかった。それは村の中央にあって、よくととのった家だった。ゆくと女中があらわれて、気さくに迎《むか》えてくれた。そして通された部屋には一人の婦人がレミントン・タイプライターの前に坐《すわ》って、しきりにそれを打っていたが、私をみて微笑《びしよう》をうかべていそいそと立って迎えた。だがよく見ると私が見たことのない男だったので、彼女は急にうなだれ、もとの座にかえりながら来意をたずねた。
彼女の第一印象は、すばらしく美しいことだった。眼《め》と髪はおなじような薄茶色で、顔にはかなり雀斑《そばかす》がありはしたが、両頬《りようほお》は黄バラの芯《しん》にひそむ紅《べに》いろに美しくはえて、えもいわれず美しいブルネット型の美人だった。くどいようだが、彼女の第一印象はまったく美しいという賛美の一語につきる。
だが、よく見るとやはり批判すべき点はあった。彼女の顔にはどこかおもしろくない趣《おもむ》きがある。表情になんとなく下品なところがあり、たぶん眼つきだろうが冷たさがあり、ことに口もとにしまりのないところは、なんといっても玉にきずである。しかしこれはむろん後でうまれた批判である。そのとき私は世にも美しい婦人の前にいて、彼女が私に来意をたずねていることしか意識しなかった。私はその瞬間まで自分の任務がいかに微妙《びみよう》な性質のものであるかを、まったく理解していなかった。
「私は父上をよく存じあげているものですが」
われながらいかにも不器用な切りだしかただった。ことに彼女の態度が、そうした気はずかしさを起こさせたのである。
「私は父とはまったく別なんでございます。少しも世話にはなっておりません。ですから父のお知りあいでも、私には何の関係もございません。亡《な》くなられましたチャールズ・バスカヴィル卿はじめ、ご親切なかたがありませんでしたら、父は少しもかまってくれませんでしたから、私は餓《う》え死にするところでございました」
「じつは今日うかがいましたのは、そのチャールズ・バスカヴィル卿のことに関してです」
彼女の顔は上気して、雀斑があらわれた。
「どんなことでございましょう?」彼女は神経質な指さきで、タイプライターのキーをもてあそびながらいった。
「あなたは故人をご存じだったでしょうね?」
「はい、ただいまも申しあげましたとおり、あのおかたにはたいへんご恩をうけております。私が今日《こんにち》どうやら無事にすごしておりますのも、あのかたが私のみじめな境遇《きようぐう》にご同情くださったからでございますの」
「手紙のやりとりをなさっていましたか?」
彼女は薄茶色の眼をあげて、ちらりと私を見た。そこには怒《いか》りの色があった。
「なんの目的でそんなことをお尋《き》きになりますの?」彼女の声は鋭《するど》かった。
「妙な風説のたつのを防ぐためです。問題が私どもの手で始末のつかぬようになってからでは仕方がありませんから、今のうちにそれをうかがっておきたいのです」
彼女はだまりこんでしまった。まっ青な顔をしている。しばらくすると、すてばちな態度で挑戦的《ちようせんてき》にたずねた。
「ではお答えいたしましょう。どんなお尋ねでございますの?」
「あなたは故チャールズ卿と手紙のやりとりをなさったことがおありですか?」
「お礼の手紙を一、二度さしあげたことがございます」
「その手紙の日づけがおわかりですか?」
「いいえ、おぼえておりません」
「チャールズ卿に会ったことはおありですか?」
「はい、このクーム・トレーシーにおみえになりましたとき一、二度だけ。何しろ引っこみ思案なおかたでございますから、慈善行為《じぜんこうい》をなさるにも隠れてなさるかたでございました」
「会ったり手紙をあげたりしたこともあまりないのに、あなたを援助《えんじよ》するほど、よく事情がおわかりになったものですねえ」
彼女は予期に反してすらすらと答えた。
「私の不幸な境遇を知って、力をあわせて助けてくださったかたが数人ございました。そのなかの一人のステープルトンさんが、チャールズ卿のご近所で、親しい友人なのです。ステープルトンさんはたいへんご親切なかたで、チャールズ卿は彼を通して私のことをお聞きになったんです」
私は故チャールズ卿が、しばしばステープルトンを通じて施《ほどこ》しをしていたことを知っているので、この女のいうことはすぐにのみこめた。
「チャールズ卿に手紙で面会を申しいれたことがおありですか?」私は質問をつづけた。
「まあ! それはあんまりなお尋ねではございませんか!」彼女はまた気色ばんだ。
「申しわけありません。でもぜひお答え願わなければなりません」
「では――そんなことけっしてございません」
「チャールズ卿の亡くなった当日にも?」
その瞬間《しゆんかん》、彼女の顔からさっと血の気がうせて、まっ青になった。そしてその乾《かわ》いた唇は「いいえ」という形にかすかに震《ふる》えた。
「たぶんお忘れになっているのでしょう。私はあなたの手紙の中の一節を知っています。それは『紳士としてこの文ごらんのうえはかならずかならずご焼却《しようきやく》くだされたく、十時にあの門にてのお待ちあわせくれぐれもお忘れなきよう』というのです」
彼女はいまにも失神するのではないかと思われたが、けんめいに踏《ふ》みこたえて、うめくようにいった。
「りっぱな紳士だと思ったのに!」
「いや、チャールズ卿を誤解してはいけません。卿はたしかに手紙を焼いたんですよ。しかし手紙というものは、焼けて灰になっても、くずれなければ読めることがあるものです。これだけ申せば思いだしたでしょう?」
「はい、たしかに書きました」胸のそこからほとばしるように言葉が出てきた。「はい、たしかに手紙をさしあげました。かくさねばならぬ理由はございません。すこしも恥《は》ずかしいことではございません。私はお助けをねがったのです。お目にかかってお願いすれば、かならずお助けくださるものと思って、面会をおねがいしたのです」
「でもどうしてあんな時刻を選んだのです?」
「あの次の日にはロンドンへお立ちになって、何カ月もお帰りにならないと知ったからです。そしてあれより早くはゆけない理由が、私のほうにあったのでございます」
「しかし面会なら家の中が当然だと思いますが、庭で会うとはどういう理由です?」
「奥《おく》さまのおありにならないかたを、あの刻限に女一人で玄関《げんかん》からお訪ねできましょうか、お考えになってくださいませ」
「で、会いにおいでになって、どうでした?」
「私まいりませんでした」
「ライオンズさん!」
「神さまに誓って申します。私は参りませんでした。少しわけがありまして、行けなくなったのでございます」
「どんなわけですか?」
「つまらない一身上のことでございますから、こればっかりは申しあげられません」
「それではあなたは、チャールズ卿の亡《な》くなったとおなじ時刻に、おなじ場所で卿に会う約束《やくそく》をしたことは認めながら、その約束を果たさなかったというのですね?」
「はい、それに相違《そうい》ございません」
それからいろいろに問いただしてみたが、質問がここへくるとぱったり行きづまって、ついに要領が得られなかった。
「ねえライオンズさん」私はついにこの長い、果てしない問答に見きりをつけて立ちあがりながらいった。「あなたはこの事件に関して、すっかり秘密をおあかしにならないと、ご自身の立場が困難なものになることはご承知でしょうね? それはもし私が警察の助力をもとめねばならなくなったときいちばんに、しかも痛切に判明しましょう。それにしてもあなたに疚《やま》しいところが少しもないのなら、あの日チャールズ卿に手紙をだしたことを、なぜ初めに否定なさったのですか?」
「つまらないことで、世間から誤解されてはと思ったからでございます」
「それではチャールズ卿に、手紙を焼いてくれと頼んだのは、どういう理由ですか?」
「それは、あの手紙をごらんになったのでしたら、おわかりでございましょう」
「私はあの手紙をすっかり読んだのではありません」
「でもあのなかの一節をおっしゃったではありませんか」
「あれは追伸《ついしん》です。本文は先刻も申す通り焼けてしまって、読めなかったのです。もう一度おたずねしますが、どういう理由でぜひ焼いてくれと頼んだのですか?」
「それはまったく一身上のことでございます」
「それではかえってその筋のとり調べをさけられますまい」
「では申しあげますが、もしあなたが私の不幸な身の上についてお聞きおよびでございましたら、私が軽率《けいそつ》な結婚《けつこん》をしまして、いまそれを悔《く》いています事情をご存じでいらっしゃいましょう?」
「そのことなら少しは聞いています」
「私は今日《こんにち》まで情《つれ》ない良人《おつと》のため虐《いじ》められ通してまいりました。法律上は良人のほうがどこまでも正当だとかで、同棲《どうせい》を強《し》いられはしないかと、私は毎日そればかり心配いたしております。それがあの時、すこしお金をかけましたなら私の自由が得られそうだとわかりましたので、そのことをチャールズ卿に申しあげたかったのでございます。私がどんなに自由をのぞんでまいりましたことか――おだやかな心の平和も、幸福も、女としての誇《ほこ》りも、いっさいのものを失なっていたのでございますから、いちずにチャールズ卿のお慈悲《じひ》におすがりしまして、私の口からじきじきお願いしましたら、おききとどけいただけるかと思ったのでございます」
「なるほど、それなのになぜ行かなかったのですか?」
「ちょうどそのとき、ほかに援助してくださるかたが現われたからでございます」
「ではなぜそのことをチャールズ卿に知らせなかったのです?」
「そのつもりでおりましたのに、翌朝の新聞に亡くなられたことが出ましたから」
よくよく聞いてみれば、彼女の話には少しも矛盾《むじゆん》がない。根ほり葉ほりうるさくいろんな質問をあびせても、彼女の答弁はすこしも混乱をみせず、秩序《ちつじよ》だっていた。この上はただ、あのころこの女がはたして離婚《りこん》の訴訟《そしよう》をおこしていたかどうか、それを調べてみるほかはない。
彼女があの晩バスカヴィルの館へ出かけたにもかかわらず、行かなかったと偽《いつわ》っているものとは考えられない。なぜならば、おそらく彼女は小馬車でなければ行けないだろうし、それにもし行ったとすれば、翌朝早くでなければ帰ってはこられないのだから、そんなにして出歩いたことが、この小さな村で知れないでいるはずがないからである。だから彼女のいうことはおそらく事実――たとえそれが全部事実でないにしても――であろう。私は鼻柱をくじかれて、途方《とほう》にくれてしまった。またしても冷たい壁《かべ》に前途をさえぎられたのだ。この壁は私が使命をはたすべく手をつけると、いたるところにひょこりひょこりと頭をもたげて、私の目的を阻害《そがい》する。
だがあの女の表情や態度には、考えてみればみるほど、何かを隠《かく》しているようなところが見える。彼女はあのとき、なぜあんなにまっ青になったのだろう? 問いつめられて退引《のつぴき》ならなくなるまで、なぜいっさいのことをつつみ隠しておこうとしたのだろう? チャールズ卿が非業《ひごう》の死をとげたときに、なぜ沈黙《ちんもく》をまもっていたのだろう? これらの点を思いあわせてみれば、彼女も口ほどには潔白でないのが事実かもしれない。だがさしあたり彼女のほうは、これ以上歩をすすめるのも困難なようだから、もう一つの問題である石室《いしむろ》のほうを――岩上の怪人物のほうを調べてみるとしよう。
といっても、これまたはなはだ漠然《ばくぜん》たる捜査《そうさ》である。帰るみちすがら気をつけてみると、どの小山もどの小山も、かつて有史以前の人類が住んだという石室ののこっていない山はない。バリモアはただ怪人物が石室の中にいるというだけである。このひろい沼沢地《しようたくち》に無数に散在する石室のどれをさがしたらよかろう?
もっとも私は、あの男の立っていた黒色の岩山だけは見おぼえがあるから、まずあれを中心にして捜査をすすめてやろう。あれを手はじめに、たくさんの石室をかたっぱしから虱《しらみ》つぶしに調べてゆくのだ。幸いにしてどこかの石室であの男を発見できたら、何のためにこうも執念《しゆうねん》ぶかくわれわれをねらうのか、直接その口から聞きだすこともできるというものだ。いざとなればピストルもある。彼《かれ》はロンドンのリージェント街では巧《たく》みに雑踏《ざつとう》の中へ姿をかくしてしまったが、このひろい寂《さび》しい沼沢地では、どうすることもできはしなかろう。もし潜伏地《せんぷくち》を見つけても、そこに彼がいなかったら、いつまででも、徹夜《てつや》でがんばってでも、帰ってくるのを待ってやろう。あいつにはホームズもロンドンでいっぱい食わされているのだから、幸いにして私がひとりで彼を押《お》さえられたら、ホームズに対しても大いに鼻が高いわけだ。
今日の出陣《しゆつじん》はどこまでも不運であったが、ついに運命の神は私のほうへほほえみかけた。幸運の使者はフランクランド老である。彼は、私のゆく道すじにあるその屋敷《やしき》の門口《かどぐち》で、あかい顔をしてごま塩のあごひげをなでながら、ぼんやりと立っていたが、私の姿をみると珍《めずら》しくも上機嫌《じようきげん》で声をかけた。
「やあワトスン先生、まあ一服して馬を休ませておやりなさい。そしてちょっとくらい家へ入って、ひと口この爺《じい》の健康を祝ってくださってもよろしかろうがの」
この男の娘《むすめ》に対する仕打ちを知ってから、私はこの男には好意が持てなくなっていた。したがってこの際彼のすすめに応ずるのは、心が決して進まなかったが、何とかしてパーキンズを一人で館《やかた》へ帰して、例の石室の探検にとりかかりたいものだと思っていた矢先なので、もっけの幸いと馬車をおりて、ヘンリー卿《きよう》に、夕食までには歩いて帰るからと伝えるように伝言をたのんで、パーキンズを先に帰してやり、フランクランドのあとについて食堂へと入っていった。
「今日はわしにとってめでたい日――わしの家の祝い日になりますのじゃ」とうれしそうににこにこしながらいった。「わしは二重勝利をものにしましたわ。つまりこのへんの意《い》気地《くじ》なしどもに、法の力というものを教えてやりますんじゃ。このへんには法の権威《けんい》を少しも気にとめぬ男がおりますでな。それでミドルトン老人の屋敷のどまん中を通って、ズバリと通行権を設定してやりましたわ。しかも老人の館の窓から百ヤードと離《はな》れぬところへな。え、どうです? あんな金持には、そうそう平民の権利を踏《ふ》みつけてばかりはいられないことを、思いしらせてやらないじゃね。あの野郎! それからもう一つ、ファンウァーシ村の者どもがいつも野あそびに行く森に、立入り禁止の高札《こうさつ》を立ててやりましたわ。ばかどもがあの森に所有権はないものと思って、どこでも勝手なところへ入って弁当をひろげようと、本を読もうと自由だと思うとったのじゃろ。なあワトスン先生、両方とも判決がくだりましたんじゃ、それもわしの勝訴でな。こんなめでたい日はまたとありませんわ。この前ジョン・モーランド卿が自分の養兎園《ようとえん》のなかで鉄砲《てつぽう》ぶっぱなしたとき、侵害罪《しんがいざい》で訴《うつた》えて勝ったことがあるが、あのとき以来のことですわ」
「へえ、それはどうしたことです?」
「まあその記録をごろうじろ。フランクランド対モーランド係争事件記録とありましょうが。これには二百ポンドもかかったが、ちゃんと勝訴になっとります」
「それが何かあなたの利益になったのですか?」
「いや、どうしてどうして。欲得ずくでないところが、捨てられんところですわい。徹頭《てつとう》徹尾《てつび》公益のためを思うてやっとる仕事じゃ。察するところファンウァーシ村の奴《やつ》らは、今夜はわしのわら人形でもつくって、焼きすてる気じゃろ。この前もそういういまわしいことのあったとき、やめさせてもらうように警察へ話をもちこんだのに、この州の当局ほどわからずやはありませんて。わしの当然うけるべき権利ある保護をあたえようとしませんのじゃ。まあよい、こんどのフランクランド対レジナ事件で何もかもわかる。わしはいうてやりましたんじゃ、そんなことをすると、いまに思い知るときがくるぞとな。いわんことじゃない、そろそろその時が来ますわ」
「それはどういうことなんですか?」私はきかざるをえない。
老人は得意になってしゃべりまくる。
「警察がやせる思いで知りたがっとることを、このわしがちゃんと知っとりますんじゃ、ははは、どんなことがあったって教えてなぞやるもんか!」
このときまで私は老人の他愛《たわい》もないむだ話にうんざりして、何とか口実をみつけて逃《に》げだしたいものと、内心思っていたのだが、この一語をきいて、こいつは聞きずてにならないと思った。それと同時に、この風がわりな老人の妙《みよう》な気性《きしよう》をすっかりのみこんだので、少しでも聞きたそうな顔をみせたら、かえって口をつぐんでしまうと思って、わざと何げなくいった。
「へえ、密猟者《みつりようしや》かなんか見つけたとでもいうんですか?」
「ははは、ワトスンさん、もうちっと重要なことですわい。あんたは沼沢地へ囚人《しゆうじん》が逃げこんだ話ご存じかな?」
私はわざと驚《おどろ》いてみせた。「へえ! あの脱獄者《だつごくしや》の所在を見つけたとでもいうのですか?」
「どこにおるか、ちゃんと現場を押さえたわけではないが、警察の手さえ借りれば、なんどきでも捕《とら》えてみせますわ。いったいああしたやつを捕えるには、食いものをどこから手にいれとるか、そいつを見つけて、そこから手繰《たぐ》ってゆけばよいのじゃ。どうじゃな、わしの考えは?」
いまいましいことに、この老人かなり際《きわ》どいところまで知っているらしい。
「なるほど。でもあの囚人が沼沢地にいることがどうしてわかりました?」
「使いのものが食いものを運ぶところを、ちゃんとこの眼《め》で見たんじゃから、間違《まちが》いはない」
私はバリモアが気のどくになった。この始末にわるい老人のおせっかいにしっぽを押さえられたら、ただではすむまい。と思ったが、よく話を聞いてみると、それはいささか杞憂《きゆう》にすぎたらしくもある。
「驚いちゃいけませんぞ。食いものは少年がはこびよるんじゃ。わしは毎日それを屋根の上から望遠鏡で見とるが、毎日おなじ時刻におなじ路《みち》をかようところを見ると、あの囚人のところでなくて、ほかに行くところのあるはずがないでな」
私はほっとした。バリモアのために、そして私のためにも大いに有利な情報だった。しかも私は相かわらず無関心なふうをよそおうのを忘れなかった。少年だという! 子供があの謎《なぞ》の怪人物《かいじんぶつ》の使いをしていることは、バリモアもセルデンから聞いたといっていた。してみればフランクランドが見かけたというのは、この少年なのだ。セルデンのところへゆくのではない。ここでこの老人から詳《くわ》しいことをさぐりだしてしまえば、骨をおって石室をいちいち探してまわる手数がはぶけるというものだ。ここが肝心《かんじん》のところ、あくまでも信じられない顔をし、無関心をよそおっていなければならない。
「それはこのへんの羊飼《ひつじか》いのせがれが、父親のところへ弁当でも運んでいるのでしょう」
ちょっと反対してみせただけで、がんこで一徹な老人を憤慨《ふんがい》させるには十分だった。老人はいまいましげに私をにらみつけ、ごま塩のほおひげを猫《ねこ》が怒《おこ》ったときのようにぴんと逆だてて、窓外にみえる茫漠《ぼうばく》たる沼沢地を指しながらいった。
「うんにゃ、あんた、あの黒岩が見えますじゃろ? そらあの茨《いばら》の茂《しげ》ったひくい小山な? あそこは沼沢地のうちでもいちばん岩の多いところじゃ。あんなところへ誰《だれ》が羊を放すもんですかい。あんたのいうことは、まったくばかげきっとる」
私はすなおに、なんにも深い事情を知らずにいったのだと弁解してみせた。それがいたく老人を満足させ、問わず語りに詳しい事情を話してくれたのである。
「わしは何でもちゃんとした拠《よ》りどころのないことはいいませんのじゃ。あの少年は毎日、どうかすると日に二度も包みをもって通いおる。じゃからわしは……おや、ちょっと待ちなされ、はて、わしの眼のせいかしらんて。ちょっとワトスン先生、あの小山の中腹になにか動いとるようじゃが、どうかな?」
それは数マイルも先だけれど、小さな黒いものが、草地のにぶい緑とうす黒い岩との間に動いているのが、私にもはっきり見えた。
「こっちじゃ。こっちへお登りなされ」とフランクランドは急いで階段を登りながら、「あんたのその眼でよう見てから、うそかまことか判断しなさるがよろしかろう」
あがってみると、途方《とほう》もない望遠鏡を三脚《さんきやく》にのせて、平屋根の上にすえつけてあった。フランクランドはいきなりそれへすがりついて、しばらくのぞいていたが、満足そうに叫《さけ》んだ。
「早う、早う、ワトスン先生、早うせんと小山のかげにかくれて見えなくなる!」
なるほど、たしかに見える。包みを肩《かた》に小柄《こがら》な腕白《わんぱく》少年が、エッサエッサと小山を登ってゆくのが見える。少年は頂上まで登りつめると、ぼろぼろの服をきた異様な姿を、晴れわたった青空にくっきりと見せて、追手をおそれる落人《おちゆうど》のようにあたりをひそかに見まわし、こそこそと小山の向こうがわへ姿を消していった。
「どうじゃ、わしのいうた通りでしょうがな」
「ほんとに、何か秘密のお使いにでもゆくといった格好の少年ですね」
「その秘密のお使いというのが、州警察の巡査《じゆんさ》には夢《ゆめ》にもわからんのですて。だがわしはひと言だって教えてやることじゃない。ワトスン先生もいうてはなりませんぞ。よろしいかな。けっして教えてはなりませんぞ」
「いうなとおっしゃれば、けっしていいはしませんよ」
「警察の奴らは、わしをひどい目にあわせおった。フランクランド対レジナ事件の判決がおりてごろうじろ、警察のやりかたに義憤の声で天下が沸騰《ふつとう》しますのじゃ。どんなことが起こっても、警察なんか助けてやるもんか! 警察の奴らは、野次馬どもがわしのわら人形どころか、ほんもののわしを火焙《ひあぶ》り台へ押しあげても、知らん顔をしとろうという奴らじゃ。おや、まだお帰りじゃありますまいな? いまもいう通り今日はめでたい日です。大いに飲《や》って、わしの勝利を祝うてくだされ」
しつこく引きとめるのをことわると、それでは館まで送ってゆくといいだして困らせたが、どうにか振《ふ》りきって、私はこの老人のもとを辞しさった。そして見送る老人の眼のとどくかぎりは、館のほうへと往来を歩きつづけてみせたが、視野を出はずれるといきなり沼沢地のほうへ切れこんで、岩山をよじ登ったり、草原をつっきったりして、あの少年が姿を消した小山をさして一直線にすすんだ。万事は都合よく運んでゆく。うまくしてやったという満足感のうちにも、運命の神がめぐんでくれたこの好機を、気力と体力のつづくかぎり利用しなければならないと、私はかたく心にちかった。
あの小山の頂上に達したときは、すでに太陽が沈《しず》みかかっていた。脚下にながれる山腹は片側は夕陽《ゆうひ》を受けて金緑色にうつくしく輝《かがや》き、かげの半面はすべて灰いろ一色につつまれて模糊《もこ》としている。はるかの地平線には靄《もや》が低くたれこめて、その上にベリヴァーとヴィクスンの断崖《だんがい》が夢のなかの景色のように頂きだけ見せていた。どちらを見ても茫漠たる中に、こそとの物音もなく、そよと動くものもなかった。
鴎《かもめ》か大杓鴫《だいしやくしぎ》ででもあろうか、大きな灰いろの鳥が一羽、青空たかく舞《ま》っている。この大きな天穹《てんきゆう》とその下にひろがる荒野とがつくる天地間に、いま生きているものはあの鳥と私だけなのであろうか? 満目荒涼《まんもくこうりよう》たる天地を前に、神秘な使命に思いをいたすとき、私は思わず心臓のつめたくなるのを覚えた。
少年の姿などどこにも見えはしないのだ。しかし、ふと足もとに眼をうつすと、谷あいにふるい石室《いしむろ》の小さな密集があって、その中央に一つだけ、このごろの雨をもどうやら凌《しの》げるだけの屋根ののこっているのが見えた。私はそれを見てハッと思った。これこそあの怪人物《かいじんぶつ》の巣窟《そうくつ》なのにちがいない。――私はしずかにそこまで降りていって、その石室の入口に立った。いまこそ彼の秘密も私の掌中《しようちゆう》のものとなろうとしているのだ。
木の葉に憩《いこ》う蝶《ちよう》に近づくステープルトンのように、私はしずかにその石室に歩みよった。見るとその石室には、果たして! 怪人物の住むらしい形跡《けいせき》があるではないか! 私はうれしさに心のおどるのを覚えた。怪《あや》しげな岩石の間のうす暗い通路をゆくと、荒廃《こうはい》した入口があって、内部はしんと静まりかえって物音一つ聞こえない。怪人物はいまも現にこの中に潜伏《せんぷく》しているのだろうか? それとも出て沼沢地をうろついているのだろうか?
私の心は冒険《ぼうけん》を予測して、思わず武者ぶるいが出た。まず手にしたタバコをなげすてると、ピストルをしっかり握《にぎ》りしめて、すたすたと入口に歩みよるとともに、中をのぞきこんだ。だが見よ! なかは藻《も》ぬけのからであった。
しかしともかくも私は見当を誤ってはいなかった。そこには人間の住んでいることを証するにたる材料がいろいろあった。確実にこれは怪人物の巣《す》である。新石器時代の人類が寝台《しんだい》に用いたといわれる石板のうえに、防水布でまいた毛布がころがっているし、そのほか粗末《そまつ》な炉《ろ》には火を燃やしたあとの灰がのこっている。そばにはこまごました台所道具のほか、半分ばかり水のはいったバケツもある。缶詰《かんづめ》のあき缶の散乱しているところからみると、相当前からここにいるのだろう。なお、とぼしい光線に眼《め》がなれてくるにつれて、小皿《こざら》や半分ばかり残った酒のびんがすみのほうにあるのも見えてきた。中央にはもう一つ平たい石があって、食卓《しよくたく》の用をなしているらしかった。そのうえに小さな包みがあった。これこそさっき私がフランクランドの望遠鏡でのぞいたとき、あの少年が肩にしていた包みなのに違いない。あけてみるとパンが一|塊《かたまり》、牛肉の缶詰が一つに桃缶《ももかん》が二つはいっていた。調べおわって、もとの通り包んでおこうとしたら、下に何やら書きつけた紙片《しへん》があるので、私ははっとした。手にとってみると鉛筆《えんぴつ》の走りがきで、
「ワトスン先生はクーム・トレーシーへ行っています」
しばらくのあいだ私はこの短信を手にしたまま、その意味を考えるというよりは、半ばぽかんとしてそこに突《つ》ったっていた。してみるとこの怪人物のつけねらっているのは、ヘンリー卿ではなくてこの私だったのか? そして、彼はみずから手をくだすことなく代理人を――おそらくはあの少年を――つかって私を尾行《びこう》させているのだ! これはその報告の一つなのだ! おそらく私がこの地へきてからの行動は、細大もらさずこの少年によってかぎだされ、報告されているのだろう。そういえば私たちは、何ともしれぬ圧迫感《あつぱくかん》と、おそろしく巧妙《こうみよう》な網《あみ》――いよいよその網にからめられるどたん場まで気づかないほどの巧妙さで、私たちの周囲に網が張りめぐらされていることだけは、気がついていたのだが、まさか、こんなこととまでは夢にも思っていなかった。
ここに報告が一つでもある以上、まだほかにもあるかもしれないと思われたので、私は石室の中をあちこち捜《さが》してみたが、それらしいものは一つも見あたらなかった。それのみか、この石室の主人公の素姓《すじよう》や潜伏の目的を示す材料は一つも見あたらなかった。ただ彼はスパルタ風の簡素で剛胆《ごうたん》な男だとみえて、ほとんど無味《むみ》乾燥《かんそう》と思われるほどに、生活の享楽《きようらく》ということを少しも意に介《かい》しない人物だということだけはわかった。やぶれてすきまだらけの屋根を見、あの大雨のことを思うと、彼がこうした荒涼たる荒《あ》れ小屋に忍《しの》んでいるというのは、よくよく強い大望を抱《いだ》いているのでなければなるまいと察した。それにしても彼は私たちに悪意をいだく敵なのだろうか? それともひょっとしたら守護神の使いなのだろうか? とにかくそれを見きわめるまでは、どんなことがあってもこの場は去るまいと私は意を決したのである。
外はもう太陽がすっかり沈んで、西の空は美しい黄金《こがね》いろに照りはえていた。その光ははるかのかなた、グリンペンの大底なし沼《ぬま》にも美しく反映して、それを赤ちゃけた斑紋《ぶち》にみせた。それからバスカヴィルの館の塔《とう》が二本見える。なお、はるかに煙《けむり》のたなびくのはグリンペンの村であろう。その中間のあの小山の向こう側には、ステープルトン一家の家があるのだ。何もかも美しく快い金色《こんじき》に照りはえてはいるが、私の心のみはこの自然の平和の中に同化することができないで、刻々とせまりくる怪人物との恐《おそ》ろしい、胸のおどる会見の予想ばかりが胸中を去来した。なやむ神経をしかりながら気をひきしめて、私は石室の陰気《いんき》な片隅《かたすみ》で、その主人公の帰りくるのを陰気な気持で待ちわびた。
しばらくたつと足音が聞こえてきた。はるかに遠く石にあたる鋭《するど》い靴音《くつおと》が、かすかに聞こえてきたのである。石にあたる音は二度三度、足音の主はだんだんと近づいてくる。私はいちばん暗い片隅に身をひそめて、ポケットの中でピストルの引金に指をかけた。そして彼の姿をしっかり認めるまでは、こちらは姿を現わすまいとひそかに心にきめた。足音はしばらく止まった。彼が立ちどまったのだ。と思ううちにふたたび近づいてきて、石室の入口に人影《ひとかげ》がさっとさすとともに、
「ワトスン君、夕やけが美しいね」聞きなれた声である。「そんな暗いところにいないで、出てきたまえ。外のほうがずっとはればれするよ」
第十二章 沼沢地《しようたくち》に死ぬ
私はわれとわが耳を疑い、しばらくは息もできなかった。やがて我にかえって心も落着き、声が出るようになるとともに、自分ひとりの肩にかかっていた重い重い責任が急にとりはずされて、心の軽くなるのをおぼえた。落着いた歯ぎれのよい、やや皮肉にも思われるあの声を、どうして私が忘れよう。
「ホームズ君、君だったのか!」
「出てきたまえ、ピストルに気をつけてね。暴発なんかしちゃいやだぜ」
のこのこと入口のところへ出てみると、彼《かれ》はそこの石の上に腰《こし》をおろしていたが、その灰いろの眼は驚いた私の顔を見て笑っている。やせこけて汚《よご》れているが、どこまでもきびきびと元気で、きりっとしたその顔は日にやけ風にさらされた跡《あと》がみえた。それにツイードの服にハンチングというその姿は、どう見てもこの沼沢地方の旅人といった扮装《いでたち》である。でも猫《ねこ》のように潔癖《けつぺき》でおしゃれな彼は、それが彼の特質の一つなのだが、ベーカー街にいるときとおなじに、ここでもあごをきれいに剃《そ》りあげて、シャツもカラーもさっぱりしたのをつけていた。
「ここで君に会うなんて、こんなうれしいことはないよ」私は彼の手をかたく握りしめた。
「というよりも、こんなに驚いたことはないというのだろう? え?」
「それはもとよりさ」
「驚いたのは君ばかりじゃないさ。よもや君がこのかくれ家《が》をつきとめようとは、いまがいま、ほんのこの入口の眼前二十歩のところへくるまで、僕《ぼく》も気がつかなかったよ」
「僕の足跡で気がついたんだね?」
「そうじゃないよ。足跡なんていうものは、そうやすやすと判定のつくものじゃない。もし君がどこまでも僕の眼をくらまそうと思うなら、タバコ屋を変えなくちゃだめだね。ロンドンのオックスフォード街のブラッドリー商会製造の商標のついた吸口をひろってみれば、ワトスン君ちかくにありということはすぐにわかるじゃないか。見たまえ、あそこに落ちている。この石室へ躍《おど》りこむとき捨てたんだね?」
「やられたね」
「それで僕はすぐ思った。例の頑固《がんこ》なワトスン君のことだから、武器をそばに主人公の帰るのを中で待ちぶせしているに違いないとね。僕のことを脱獄囚《だつごくしゆう》だとでも思っていたのかい?」
「誰《だれ》だかわからないから、それを確かめようと思ったんだ」
「さすがはワトスン君だよ。それでどうしてここを見つけたんだい? あっ、あの囚人を追っかけたとき、僕を見たんだね? あの晩僕は、うしろから月の出るのも知らずに、ぼんやり立っているようなばかをしたんだからね」
「あのときは見たよ」
「それから石室をかたっぱしから捜して、やっとここを突きとめたんだろう?」
「そうじゃないよ。君のつかっている少年を見つけて、ここの見当をつけたんだ」
「ああ、あの老人の望遠鏡だね、きっと。僕は初めてレンズのキラキラ光るのを見たときは、なんだかわからなかったよ」といって、彼は立ちあがって石室のなかをのぞいて見た。「ああ、カートライトがなにか持ってきてくれたな。おや、この紙はなんだろう? ああそうか、君はクーム・トレーシーへいってきたのかい?」
「そうさ」
「ローラ・ライオンズに会いにだろう?」
「よく知っているね」
「それはよかった。僕たちはちょうど平行線のように捜査《そうさ》をすすめていたのだ。二人の調べたことを総合してみれば、いろんなことがすっかりわかるだろう」
「君がきてくれたのでほんとに助かった。責任は重大だし、事件は不可解だし、僕はつくづく参っていたところだ。それにしても君は何を思ってここへ来たんだい? そして何をしているんだい? 君はベーカー街にいて、例の恐喝《きようかつ》事件に没頭《ぼつとう》しているものとばかり思いこんでいたよ」
「僕もそう思いこんでいてもらいたかったね」
「じゃ君は僕にむだ骨をおらせたんだね? 僕を信頼《しんらい》できないというんだね? これでも僕はかなり努力はしたつもりだよ」私は少し皮肉をこめていってやった。
「誤解しちゃいけない。君の功績はいつもながらたいしたものだよ。気にさわったら許してくれたまえ。僕は君をばかにする気は決してなかったんだ。それどころか、じつをいうと君のためを思ってやった事でもあるわけだ。なんだか君の身辺がだんだん危険になってくるように思われたから、それで僕は自分で調べてみるつもりで、出むいてきたんだよ。僕がもしヘンリー卿《きよう》や君のそばにいたとすれば、やはり君たちと同じ考えかたをしていたと思う。そのうえ僕が来たということになれば、敵は大いに警戒《けいかい》をはじめるからね。それに僕としてはヘンリー卿といっしょに館《やかた》にいたのでは、こんなに自由に歩きまわるわけにもゆくまいしね。だから僕はほかの事件で忙《いそが》しいから、ロンドンにいのこっていると見せかけて、万一の場合はいつでも全力をふるって飛びだすつもりでいたんだよ」
「だって、それならそれで、なぜ僕にそのことを知らせておいてくれなかったんだい?」
「君がそれを知ってたからって、別にどうっていうこともないからね。それどころか、そのために僕が見つけられる恐れがある。なぜといって、君はきっと僕のところへいろんなことを知らせにきたり、見舞を持ってきてくれたりするだろうからね。あぶなくてしようがない。そこで僕はカートライトを連れてきたんだ。あのメッセンジャー・ボーイのさ。おぼえているだろう? あいつが僕の簡素な生活の必要をみたしてくれる。パンと新しいカラーさえ手にはいれば、あとはなにが要《い》るものかね。それにあの子は足もたっしゃだし、眼も良いから、ずいぶん役にたってくれたよ」
「じゃ僕の報告はみんなむだだったんだね?」
私の声はふるえていた。あのたくさんの報告を、いかに苦心して作りあげ、しかも得々としていたことか! ホームズはポケットから手紙をひと束《たば》とりだしていった。
「ワトスン君、きみの報告はみんなここにあるよ。くりかえし読んだから、ずいぶん手あかでよごれている。ちゃんと手はずをつけておいたから、手に入るのが一日おくれるだけだった。この難局にあたって示した君の熱意と手腕《しゆわん》には、僕としてはただ舌をまいて驚《おどろ》きかつ感謝するほかないよ」
私はホームズにうまく一杯《いつぱい》くわされたと思って、このときまで心おだやかでなかったが、この賞賛と感謝にあって怒《いか》りだけはとけた。聞いてみれば彼のいうことはいちいち道理で、私はやはり彼が沼沢地へきていることを知らずにいたほうがよかったのだという気がした。
「それはそうと、ローラ・ライオンズ訪問の結果はどうだったね?」私の顔の柔《やわ》らぐのを見ながらホームズは話をかえた。「いや、君がクーム・トレーシーへいったのは、あの女に会うためだということはよくわかっている。あそこでこの事件に関連してわれわれに用のある人物といえば、あの女ひとりだからね。もし君が今日いっていなかったら、明日ごろ僕がいったかもしれない」
太陽はすでにまったく沈んで、沼沢地は夕闇《ゆうやみ》につつまれてきた。風が冷たくなったので、私たちは石室の中へ入っていった。そしてうす暗がりの中に対坐《たいざ》して、私はローラ・ライオンズとの会見のてんまつをホームズに話してきかせた。彼はひどくそれに興味を持ったらしく、あるところなどは二度もくり返して話さなければ承知しなかった。
「こいつが最も重要なところなんだぜ」私が話しおわると、ホームズはいった。「今の話はこの難事件でひどく僕の苦しめられていた点を説明してくれた。ねえワトスン君、きみはこの女とステープルトンとの間に、はなはだ親密な関係のあることに気がついただろうね?」
「親密ということもあるまいが……」
「いや、一点のうたがいもなしだ。二人は会いもし、手紙の交換《こうかん》もして、すっかり了解《りようかい》があるんだ。そこがわれわれにとって、たいへん有利なところだよ。そこを利用して、あの男と細君とをひき離《はな》すことができればね」
「なに、細君だって?」
「君がいろんな情報を教えてくれたお礼に、こんどは僕のほうから情報を一つ知らせよう。あのベリル・ステープルトン嬢《じよう》で通っている女は、妹じゃなくてじつはあの男の妻なんだよ」
「えッ、何だって? ホームズ君、それほんとかい? じゃなぜステープルトンは、ヘンリー卿と彼女《かのじよ》との関係をだまっているんだ?」
「ヘンリー卿が恋《こい》に落ちたからって、困るのはヘンリー卿ばかりだよ。ヘンリー卿が恋を実《みの》らせないように、ステープルトンがこまかく気をくばっていることは、君の知っている通りだ。くりかえしていうが、あの女はステープルトンの妹じゃなくて、細君なんだよ」
「だって、それじゃどうしてこんなに念入りに人を騙《だま》しておくんだろう?」
「それはあの女を独身と思わせておけば、非常に有利なことがあると見ぬいたからさ」
今まで私の心のそこに何とも知れずわだかまっていたものが、これを聞いて急にはっきりした形をとってきた。その中心はステープルトンである。麦稈帽《むぎわらぼう》をかぶって昆虫網《こんちゆうあみ》を振《ふ》りまわしてばかりいるあの無感覚な青じろい男が、急におそろしく感じられてきた。おそるべき害意を笑顔《えがお》でつつんで、あくまでも根気づよく、あきれるばかり奸知《かんち》にたけた男。
「じゃ敵はあいつなんだね? ロンドンでこっちをねらったのもあいつなんだね?」
「まあそうだとにらんでいる」
「じゃあの警告状はあの女がよこしたのだね?」
「そうさ」
今日までながいあいだ私を五里《ごり》霧中《むちゆう》に迷わせた恐ろしいものの姿が、なかば想像もてつだって、今や私はようやくわかった気がする。
「しかし君、それは確かだろうね? あの女が細君だということをどうして知ったんだい?」
「それはステープルトンが初めて君に会ったとき、うっかり口をすべらせて、身の上の一部をしゃべったからさ。あれ以来ステープルトンは、そのことを苦にしているだろうよ。あの男は北部で校長をしていたことがある。前歴が校長だとわかれば、あとはしめたものだ。イギリスには教員|就職紹介所《しゆうしよくしようかいじよ》がいくつもあるから、一度どこかで教員をつとめたことのある者なら、すぐに身もとがわかる。調べてみると北部のある学校がある事情で廃校《はいこう》になったとき、その校長が、名前は違っていたが、妻を連れて失踪《しつそう》したということがわかった。人相があっているし、その男が昆虫学に熱心だったとわかったが、これだけわかればもう十分じゃないか」
問題は解決されたようでもあるが、考えてみればまだわからないこともたくさんある。
「もしあの女がほんとに細君だとすれば、ローラ・ライオンズはどういう関係になる?」
「そこを君の研究が明らかにしてくれたんだ。君があの女に会ってくれたおかげで、そのへんのことがすっかりわかったのだ。僕はローラと良人《おつと》との間に離婚《りこん》の計画のあったことなど、少しも知らなかった。だが今考えてみると、ローラはステープルトンを独身者だと思いこんで、その細君におさまるつもりなんだね」
「しかもだまされていたと知ったら、どうなるだろう?」
「そこさ。そこであの女が役にたつことになるんだ。とにかく明日あってみる必要がある、二人でね。ところでワトスン君、君はだいぶ責任をおろそかにしたようだぜ。バスカヴィルの館で、君の任務が待ちくたびれている」
落日のなごりは西の空に消えさり、日はとっぷりと暮《く》れきって、紫紺《しこん》の空にはかすかに星が二つ三つまたたいていた。
「ホームズ君、もう一つだけ尋《き》きたいがね」と私は腰をあげながらいった。「君と僕の間で秘密にしておかねばならないことは一つもないはずだ。これはいったいどうしたことなのだろう? ステープルトンは何をしようというのだろう?」
ホームズは声をおとした。「殺人さ。巧妙《こうみよう》で残忍な、考えぬいた殺人だよ。こまかいことはいま尋かないでおいてほしい。僕の投げた網はだんだん狭《せば》められているし、相手の網もヘンリー卿をしだいに包んでいるのだ。しかし君のおかげで、僕の網はいま一歩というところまで迫《せま》っている。しかしただ一つだけの不安はある。それはあいつに先を越されはしないかという不安だ。明日、いや少なくとも明後日《あさつて》になれば、こっちの用意がすっかりできあがるから、それまでは赤ん坊《ぼう》を見まもる母親のような気持で、できるだけ用心ぶかく君の責任をはたしてくれたまえ。今日の行動はお手柄《てがら》ではあったけれど、僕にいわせれば、ヘンリー卿のそばについていてくれたほうがよかったね。――おやッ!」
このときおそるべき叫《さけ》び声――恐怖《きようふ》と苦痛との長い絶叫《ぜつきよう》が、沼沢地の夜の沈黙《ちんもく》をやぶって、するどくひびきわたったのである。私は全身の血が一時に凍《こお》るかと思った。
「おお、あの声は! 何だろう?」
ホームズはだまって立ちあがると、すばやく石室の入口にゆき、身をかがめて頭をつきだして闇《やみ》のなかをすかし見た。
「しッ、静かに!」
その叫び声は、あまりの強烈さゆえに大きく、暗い平原のどこか遠くのほうからなりひびいた。と思うと、こんどはすぐ近くにおなじ声がきこえた。いよいよせつないうめき声である。
「どこなんだろう?」ホームズが小さい声できいた。その声がかすかに震《ふる》えていたのは、さすがの鉄の男もよほどこたえたとみえる。「どこなんだろう、ワトスン君?」
「あそこじゃないか?」私は暗がりをさした。
「いや、違う。あっちだ!」
ふたたび、苦悶する声が夜の静寂をつき破り、それは前よりも大きく、そしてもっと近くきこえた。そして新しい音がそれにまじっていた。深くつぶやき、おびやかすような音で、上るかと思えば下がる海の絶え間ない低いざわめきのようであった。
「犬だ!」ホームズが叫んだ。「さ、ワトスン君きたまえ。たいへんだ、おくれたらたいへんだ」
彼は脱兎《だつと》のいきおいで闇のなかを駆《か》けだしていった。私もおくれじとつづく。するとこんどは私たちのすぐ眼のまえの暗黒のなかに、ひとこえ断末魔《だんまつま》のうめきとともに、ドサリとにぶく重い音がきこえた。私たちは立ちどまって耳をすました。だが荒野《こうや》の夜の沈黙はおもく、もう何も聞こえなかった。
ホームズは精神が錯乱《さくらん》した人のように、額に手をあてていたが、こんどは口惜《くや》しそうに地団駄《じだんだ》をふんでいった。
「ワトスン君、やられたよ。おそかったんだ」
「いやそんなことはない。そんなはずがない」
「手を控《ひか》えて大事をとりすぎて、ばかなことをした。ワトスン君、きみが任務を忠実にまもらなかった酬《むく》いだぜ! しかしできたことは仕方がない。こうなったら復讐《ふくしゆう》だ!」
私たちは暗やみの中を、岩にぶつかり石につまずき、ハリエニシダの草むらを掻《か》きわけて、小山をあえぎ登り、また駆けおりして、あのおそろしい声のした方角にむかって真一文字にいそいだ。小高いところへ登るたびに、ホームズは熱心にあたりを見まわしたが、まっ暗な夜の沼沢地には何ものの動く気配《けはい》も感じられなかった。
「何か見えるかい?」
「なんにも」
「しかし、ちょっと、あの音はなんだろう?」
ひくいうめき声が耳についた。こんどは左手のほうに聞こえたが、そこは山の隆起《りゆうき》が鋭《するど》く切りたって、見あげるような崖《がけ》になっていて、下は石ころの谷であった。そこになにか黒いものが見えるので、駆けよってみると、一人の男がうつぶせに倒《たお》れているのだった。
それは岩のうえからモンドリうって落ちたのであろう。首が折れて胴体《どうたい》の下になり、肩《かた》をすくめてうつ伏《ぶ》した姿は、じつに凄惨《せいさん》ともなんとも形容に絶する光景で、その一瞬《いつしゆん》、私はさっきのうめきが断末魔の声であったことが理解できないほどであった。
しかしその死体がもう完全にこときれていることは明らかで、うめきもしなければ、身もだえさえしなかった。ホームズは手をさしのべてそれに触《さわ》ってみたが、急におそろしげな声をあげて手をひいた。そして、急いで彼《かれ》のすったマッチのおぼろな光が、その男の血にそまった手先や、粉砕《ふんさい》された頭蓋骨《ずがいこつ》から血潮のながれたまった酸鼻《さんび》な姿をうつしだした。私たちは気が遠くなりそうだった。――それがヘンリー・バスカヴィル卿の死体だったからである。
この赤っぽいツイードの服は、卿がはじめて私たちをベーカー街におとずれた朝着ていたもので、私たちには忘れられないものだった。私たちがこれだけのことを見てとったとき、マッチは燃えつきた。ため息をもらしたホームズの顔は、夜目にもまっ青になっているのがわかった。
「残酷《ざんこく》だ! なんという残酷なことだ!」私はこぶしをうちふって叫んだ。「ホームズ君、僕《ぼく》がついていたら、こんなことにはならなかったのに! 残念だ!」
「いや、ワトスン君、僕のほうが悪いのだ。僕は手ぎわよく事件を片づけようとしたばっかりに、肝心《かんじん》の依頼者《いらいしや》を殺してしまった。これは僕の全生涯《ぜんしようがい》を通《つう》じて最大の失敗だ。しかしあれほどよく注意をあたえておいたんだから、まさか夜一人でこんなところへ出てくるような無謀《むぼう》なことはしないだろうと信じていたがねえ!」
「しかしさ、卿の断末魔の声をまざまざと聞いていながら、助けることができなかったとは、なんという因果なことだろう? ヘンリー卿を駆りたてて死の谷へ追い落した魔の犬はいったいどこへいったんだろう? きっとずうずうしくこのへんの岩の間にでも隠《かく》れているのだろう。それにステープルトンの奴はどこへいったんだ? この仇《かたき》をとらないでおくものか!」
「もちろんさ。そいつは僕がきっと引きうけたよ。伯父甥《おじおい》とも殺されたんだ。伯父は何かの動物をみて、伝説の中の怪獣《かいじゆう》だと信じて恐怖のあまり死ぬし、甥はやっぱりそいつに追われて夢中《むちゆう》で逃《に》げるうち、こんなところへ落ちこんで無惨《むざん》な最期《さいご》をとげたんだ。さあ、こうなったらその怪獣の正体と、ステープルトンとの関係を調べあげてやらなきゃならない。
ところがわれわれはそいつの吠《ほ》えるのを聞いただけで、まだ正体まで見とどけたわけじゃない。ヘンリー卿にしても食われて死んだわけじゃなくて、この通り崖から落ちて死んだのだからね。しかし大丈夫《だいじようぶ》だ。あの男にいくら知恵《ちえ》があろうとも、僕はあす一日たたないうちに、正体をあばいてみせる!」
私たちは惨死体を中にして、悲痛な思いで立っていた。ながい間の私たちの苦心が、この思いがけない惨事のためむなしく水泡《すいほう》に帰したということは、じつに諦《あきら》めきれぬ痛恨事《つうこんじ》であった。とかくするうち月が登ってきたので、私たちは薄幸《はつこう》の友の墜落《ついらく》した崖の上に登って、その頂上からあたりを見わたした。いま沼沢地《しようたくち》は月光をあびて、銀と黒との画然たる隈《くま》をなしている。数マイルもはるかのかなたグリンペンの方角にあたって、黄いろい光がただ一つきらめいているが、あれこそステープルトンのさびしい住居である。私はそれを見て思わずこぶしをにぎりしめ、のろいの言葉を口にせずにはいられなかった。
「明日といわず、いますぐあいつを捕《とら》えてどこが悪いのだい?」
「まだこっちの準備が完了していない。あいつはどこまでも用心ぶかい、狡猾《こうかつ》な奴だ。一歩行動をあやまれば、狐《きつね》はするりと指の間をぬけてしまう」
「じゃどうすればいいんだ?」
「明日になれば、することはうんとある。今夜はこの不幸な友を弔《とむら》うしかないね」
私たちはけわしい崖をくだって、月光を受けて銀いろにかがやく岩上に、くっきりと黒く、しずかに眠《ねむ》る亡友《ぼうゆう》のそばへ歩みよった。苦しみにねじまげられた友の死骸《しがい》をみて、いまさらに私は胸のいたむのをおぼえ、思わず涙《なみだ》に眼《め》のうるむのを禁じ得なかった。
「ホームズ君、誰《だれ》か呼びにゆこうよ。二人では館までとても運べないからね。おや、おい、気でも狂ったのかい?」
ホームズはなにごとか叫びながら死体をのぞきこんでいたが、とつぜん私の手を痛いほど強く握《にぎ》って、笑いころげながら躍《おど》りまわったのである。これがふだん厳格《げんかく》で自制心つよく、ものに動ぜぬわが畏友《いゆう》シャーロック・ホームズの正気な振舞《ふるまい》であろうか?
「あごひげが! この男にはあごひげがある!」
「なに、あごひげだって?」
「うむ、ヘンリー卿《きよう》じゃないんだ。これは……これは今日まで僕の友人だった脱獄囚《だつごくしゆう》だ!」
私たちは急いで死体をひきおこしてみた。すると紛《まご》うかたなく、血糊《ちのり》にぬれたあごひげが冷たく月光に照らしだされた。突出《とつしゆつ》した前額からおちくぼんだ野性の眼つきまで、それは疑いもなく、いつぞや岩の上からおぼろなろうそくの光の中に私をにらみつけた脱獄囚セルデンの顔であった。
すべては一瞬のうちに私の胸にうかんだ。ヘンリー卿がかつてそのトランクの中から、着古した服をバリモアにあたえたと話していたのを思いおこしたのである。バリモアはセルデンの逃走《とうそう》をたすけるため、それをそのまま彼にあたえたのだ。靴からシャツ、ハンチングにいたるまで、すべてヘンリー卿のものを着用している。この男の惨死したことは、かわいそうには違いないが、もともと国法によって死を宣告されていた男なのである。私は躍りあがるほどの歓喜のうちに、いっさいの事情をホームズに語りきかせた。
「じゃ服がわざわいをなして、この男はかわいそうに生命を落としたのだ。それでわかったが、なにかヘンリー卿の手まわりのものを猛犬《もうけん》にかがせたのだね。――それがロンドンでなくなった靴だということは、まずまちがいのないところだ――だからこの男は追っかけられて、墜落したんだ。しかし一つ不思議なことはね、セルデンがあの暗がりで、犬のくるのをどうして知ったかという問題だよ」
「声を聞いたんだろう」
「この男のような度胸のすわった奴が、沼沢地で猛犬のほえるのを聞いたくらいで、あんなに声までたてるほど恐《こわ》がって、夢中で逃げだすわけはないからね。あの声で察すると、よほど長い間追っかけまわされたらしいが、どうして犬のくることを知ったろう?」
「いや、それよりも僕が不思議に思うのはその犬だよ。われわれの憶測《おくそく》がすっかりあたっているとしても……」
「僕はなにも憶測してないよ」
「だってそれじゃ、なぜその犬は今夜にかぎって放してあるんだい? 毎夜このへんに放してあるわけじゃなかろう? ステープルトンだって、ヘンリー卿がこのへんに来ることを知らなければ、放すはずはないだろう?」
「いや、僕の疑問のほうが根底がふかいよ。君の疑問はすぐ判明すると思うが、僕のほうのはどこまでも解けぬ謎《なぞ》としてのこると思う。ところで当面の問題は、この犠《ぎ》牲者《せいしや》の死体をどうするかだ。こんなところに放《ほう》っておいて、狐や大鴉《おおがらす》につつかせるに忍《しの》びないからね」
「いったん石室の中にでも入れておいて、警察に知らせたらどうだろう?」
「それがよかろう。二人じゃとても遠くまでは運べないからね。おや、おいワトスン君、何だあれは? 来たよ、彼が。おどろくべきずうずうしさだ。疑っているような様子を、そぶりにでも見せてはいけないよ。いいね? でないと僕の計画が根底からくずれてしまう」
沼沢地から人影《ひとかげ》が近づいてきた。その手にした葉巻がぽかりと赤く浮《う》いてみえる。月光にすかしてみると、それは小柄《こがら》で、歩きぶりのちょっと気どったステープルトンに違いなかった。彼は私たちを見かけると、いったん立ちどまったが、すぐ近づいてきた。
「おや、ワトスン先生! いまごろこんなところでお目にかかろうとは、夢《ゆめ》にも思いませんでしたよ。おや、おや、これは? 怪我《けが》でもしたのですか? まさかヘンリー卿じゃないでしょうね?」
彼は急いで私のそばをすりぬけ、死体をのぞきこんだ。するとひどく驚《おどろ》いて、思わず息をのむのが聞こえた。と同時に、手にした葉巻をとり落とした。
「誰です? これは誰ですか?」
「セルデンです。プリンスタウンから脱走した男ですよ」
こっちへ向けた顔は幽霊《ゆうれい》のようにまっ青であった。だが必死の努力で驚きと失望とをおしかくして、鋭い視線をホームズから私へとうつした。
「これはまあ! たいへんなことになったものですな、どうして死んだのでしょう?」
「あの崖から落ちて、首の骨を折ったものらしいです。私たちがこのへんをぶらぶらしていたら、叫び声がきこえました」
「叫び声は私も聞きました。それで出てみたのです。何となくヘンリー卿のことが気がかりなものですからね」
「どうしてヘンリー卿のことが気がかりなんですか?」私は尋《き》かないではいられなかった。
「なぜって、じつは今日ヘンリー卿をお招きしてあったのですが、いっこうにお見えがないので案じていましたら、沼沢地であの声でしょう? ところで……」とその鋭《するど》い視線を私の顔からホームズへとうつした。「叫び声のほかに何かお聞きになりませんでしたか?」
「いいえ。あなたはお聞きでしたか?」ホームズがききかえした。
「いいえ、聞きません」
「ではなぜそんなことお尋きになるんです?」
「ああ、あなたは百姓《ひやくしよう》どもが話しているまぼろし犬の話をご存じでしょう? 沼沢地では夜にその声が聞こえると申します。私は今晩声が聞こえたかと思ったので……」
「それらしいものは聞きませんよ」私がいった。
「いったいこの男はなぜ死んだとお考えになりますか?」
「捕《つか》まりはしないかという心配のあまり、頭が変になったのでしょう。そして夢遊病者か半狂人《はんきようじん》のようになって、このへんを走りまわるうち、ついこの崖をふみはずして、首の骨を折ったのでしょう」
「それがいちばん確からしい考えかたですね」とステープルトンはほっとしたらしい溜息《ためいき》をもらした。「あなたはどんなご意見ですか、シャーロック・ホームズさん?」
「よく私がわかりましたね」ホームズはかるく会釈《えしやく》していった。
「ワトスン先生がこちらへいらしてから、私どもはあなたがおいでになる日をお待ちしていましたから。それにしてもちょうど悲劇がおこったところへ来あわせられたものですな」
「まったくですよ。死因はやっぱりワトスン君のいう通りでしょうね。明日はこのいやな記憶《きおく》をいだいて、ロンドンへ引きあげようと思っていますよ」
「おや、明日お帰りになりますか?」
「そのつもりでいます」
「あなたのご訪問が、われわれの困惑《こんわく》している問題に、かなり光明をあたえてくださったのではないかと思うのですが」
ホームズは肩をすくめた。「人間はいつでも思い通りの成功をおさめるというわけにはゆきませんからね。事件の調査に必要なのは事実だけです。伝説や風評は役にたちません。この事件もどうやらうまくゆきそうもありませんね」
ホームズは例の通り率直《そつちよく》に、淡白《たんぱく》な態度でいってのけた。ステープルトンはじっとその顔を見つめていたが、こんどは私のほうへ視線をうつしていった。
「かわいそうですから、この男を私の家へはこんでやったらと思いますが、妹がさぞおどろくでしょうからそれも困りますし、いっそ顔になにかかけておけば、あすの朝までこのままでも大丈夫じゃないでしょうか?」
相談はまとまった。ステープルトンがぜひ寄ってゆけというのを断って、私はホームズをともなってバスカヴィルの館《やかた》へと帰路につき、ステープルトンは一人で帰っていった。振《ふ》りかえってみると、月光をあびて銀《しろがね》のような沼沢地を、彼はゆっくりと歩いてゆく。うしろには恐《おそ》ろしい運命のとりことなった憐《あわ》れむべき犠牲者が、さびしく横たわっていた。
「とうとう最後のどたん場まで切迫《せつぱく》してきたね」みちみちホームズが話しかけた。「なんという剛胆《ごうたん》な奴だろう! 死人の顔をみて、自分のかけた罠《わな》に間違ってほかの男がかかったと知って驚きながらも、ぐっと心をひきしめたところは偉《えら》いもんだ。ワトスン君、ロンドンでもいった通り、めずらしく手ごわい相手だよ」
「しかし君が見つかったのはまずかったね」
「僕もはじめそう思った。しかしあの場合やむをえないさ」
「君のきていることがわかったら、今後あいつはどんな計画をたてるだろうね?」
「いっそう大事をとるだろう。ことによると、かえって一か八《ばち》かに出るかもしれない。よくあることだが、知恵《ちえ》のある奴はとかく自分の才覚に知恵負けするもので、あいつも僕たちをうまくだましおおせたと思っているのかもしれない」
「なんだってさっき逮捕《たいほ》してしまわなかったんだい?」
「ワトスン君、君は生まれつき活動家だよ。いつでも何か元気よく活躍《かつやく》しなければいられない性分《しようぶん》だ。しかし早い話が、今晩あいつを逮捕したとしてだね、それからいったいどうするんだい? 証拠《しようこ》が一つもないじゃないか! あいつは驚くべき狡猾《こうかつ》な奴なんだ。もしあいつが人間の手先を使って事を行なっているとすれば、証拠を得ることもむずかしくはないが、相手が犬では、いかに大きな犬をひっぱりだしてみたところで、それだけじゃその主人の首に縄《なわ》をかけるわけにゆかないからね」
「だって事件は明らかに起きているじゃないか?」
「ところがそうでない。いや、わかっているというのもみんな、憶測《おくそく》にすぎないのだからね。おとぎ話みたいな説明や証拠をもちだせば、法廷《ほうてい》のもの笑いになるばかりさ」
「だってチャールズ卿の死というものがあるじゃないか」
「死体には外傷がなかったんだからね。僕たちこそ死因がはげしい恐怖《きようふ》にあると知ってはいるさ。その恐怖の原因もね。しかし十二人もずらりとならんだ頭のかたい陪審員《ばいしんいん》の前で、何といってそれを立証してみせるんだい? 猛犬が出たって証拠が、どこにあるんだい? 犬の歯のあとなんかありゃしなかったじゃないか。もちろん犬というものは、死体にかみつくものじゃない。チャールズ卿は犬にとびつかれない前に、見ただけで倒れたのだということは、われわれこそ知っているさ。しかし法廷では、それをすべて立証《ヽヽ》しなければだめなんだからね。ところが僕たちはまだそれの証明できるところまで進んでいない」
「じゃ今晩のことは?」
「今晩のことだっておんなじさ。セルデンの死と犬とには、やはり何の直接なつながりもないのだ。だいいち犬の姿なんか見ていないのだからね。ただ声を聞いただけさ。そしてあの男が犬に追っかけられたというが、これがやっぱり立証できないことだろう? 動物の説明がまったく欠けているんだ。だからね、ワトスン君、残念ながら僕たちはまだなんにもつかみ得ていないものと、諦《あきら》めるほかないんだ。そして何かしらしっかりしたものをつかむまでは、あらゆる危険をおかしても、全力をつくす覚悟《かくご》をしなければならないのだよ。それが絶対に必要なんだ」
「というと、どうすればいいのかい?」
「ローラ・ライオンズに真相を話してきかせたら、僕たちに対してどんな行動をとるか、それに大きな期待をかけている。そして僕にも計画はある。今日《こんにち》のことは今日にて足《た》れりというが、明日という日の過ぎぬうちに、すっかり解決してみせるよ」
ホームズはこれ以上なんと尋《たず》ねても話してくれなかった。そしてなにか深い思索《しさく》にしずみながら、バスカヴィルの館につくまで、ついに一言も口をひらかなかった。
「君も入るだろう?」
「入るさ。もう隠れている必要はない。ただ一つだけ注意しておくがね、ヘンリー卿《きよう》には犬のことはいわないでおきたまえ。セルデンの死については、ステープルトンが僕たちに吹《ふ》きこんだ程度のことを話しておくんだね。そのほうが明日の試練にも落ちついて対決できるだろう。君の報告にはたしか明日、食事によばれてゆくとあったね」
「明日は僕もゆくことになっているんだ」
「それは何とか口実をもうけて、辞退したまえ。彼《かれ》を一人で行かせなきゃいけない。それは簡単にできるだろう。ところで夕食には間に合わないとしても、夜食の用意くらいはできているだろうね?」
第十三章 網《あみ》をはる
ヘンリー卿は、ホームズを見て驚いたことも驚いたが、それよりもむしろ、あい次いでおこる最近の突発事件に、彼も必ずやってくるにちがいないと、三、四日も前から待ちわびていたところだから、双手《もろて》をあげて喜んだ。だがホームズが手荷物一つ持たず、まったくの手ぶらでぶらりとやってきながら、申しわけをするでもなく平然としているのを見て、卿は不思議そうに眉《まゆ》をあげた。とりあえず必要な衣類など二人で都合してやって、おそい夕食のテーブルにつくと、私は今晩の冒険《ぼうけん》について、ヘンリー卿の聞きたがると思われる部分だけ、さしつかえない範囲《はんい》で話してきかせた。
ところがそれについては、まずバリモア夫婦にセルデンの死を告げなければならなかった。その話をしたとき、バリモアはむしろほっとしたらしくも見えたが、細君のほうはエプロンに顔をうずめて、身も世もあらず泣きだした。世のあらゆる人たちから、野獣《やじゆう》か悪魔《あくま》のように怖《おそ》れられていたセルデンも、彼女《かのじよ》にとっては今なお抱《だ》いてやったり膝《ひざ》にすがりつかれたりして愛《いつく》しみ育てたいたずらっ児《こ》だったのだ。男はどんなになっても自分のために泣いてくれる女を一人だけは持つ。それを持たぬ男こそほんとの悪魔であろう。
「けさワトスン先生が出かけてから、私はいちにち家の中に閉じこもってぼんやりしていました」ヘンリー卿がいった。「ちゃんと約束《やくそく》をまもって家にいたんだから、ほめてくださってもいいと思いますよ。一人では外出しないなんて約束さえしなかったら、今晩はもっと愉快《ゆかい》だったろうと思います。というのはね、ステープルトンさんから招待のお使をもらいましたからね」
「それは愉快だったかもしれませんね」ホームズがそっけなくいった。「もっとも首の骨を折って倒《たお》れているあなたを発見して、私たちが悲嘆《ひたん》にくれているところは、想像しただけでも愉快だとは思えませんがね」
「それはいったいどういう意味なんです?」
ヘンリー卿は不思議そうに眼《め》をみはった。
「セルデンはあなたの古い服を着ていたのです。あなたの召使《めしつかい》がセルデンにあたえたのでしょうが、警察がこれを問題にしなければよいですがねえ」
「そんなことはないでしょう。あの服には私のだという記号《しるし》は何もないはずです」
「それはいい具合でした――みんなのためにもね。いったいこの問題に関するかぎり、あなたがたはみんな法律|違反《いはん》をやっています。良心ある探偵《たんてい》なら、何より先にあなたがたを、一人のこらず逮捕するところでしょうね。ワトスン君の報告は罪を決めるのに有力な文書ですよ」
「ところで事件をどうお考えですか?」ヘンリー卿が話をそらした。「なにか手掛《てが》かりでもおありでしょうか? ワトスン先生にしても私にしても、こっちへ来てから頭がすこし悪くなったのじゃないかと思いますよ。何しろ見当さえつかない始末ですからね」
「遠からず何とか解決できるものとは思っていますが、なにしろおそろしく複雑でむずかしい事件ですから、まだ十分にはわからない点が二、三あるのです。しかしそれもおいおいにわかってくるでしょう」
「ワトスン先生からお話があったことと思いますが、私たちは不思議な経験をしました。荒《あ》れ地で猛犬《もうけん》の声を聞いたのです。あの声を聞くと、魔の犬の話はぜんぜん迷信《めいしん》だといいきることもできないだろうと思います。犬のことなら私もアメリカにいたころ少し調べたこともありますから、声を聞けばどんな犬かたいてい見当はつきます。もしあなたがあの犬を捕《とら》えて口輪をはめ、鉄の鎖《くさり》でつないでくだされば、私はあなたに世界一の名探偵の尊称をささげますよ」
「口輪をはめるのも、鉄の鎖でつなぐのも、あなたのご援助《えんじよ》しだいです」
「あなたのおっしゃることでしたら、何でもいたします」
「わかりました。それについてお願いしておきますが、私の申すことは何でも、理由を尋《き》いたりしないで、盲目的《もうもくてき》に実行していただきたいのです」
「おっしゃる通りにいたします」
「私の申すことを諾《き》いてさえくだされば、解決は近いと信じます。私は決して……」
ホームズはとつぜん言葉をきって、対坐《たいざ》している私の頭ごしにじっと空間を見つめた。ランプはまともにその顔をてらしている。じっと瞬《まばた》きもせずに一心に何かを凝視《ぎようし》しているところは、あざやかに刻まれた古代胸像のようでさえあった。
「どうしました?」ヘンリー卿と私は異口同音にさけんだ。
やがて視線を落とした彼は、何かしら胸中の感動をじっとおし静めようとしているらしかった。どこまでも泰然《たいぜん》たる態度はくずさなかったが、その眼が歓喜にかがやいてみえた。
「これは失礼しました。じつはあの絵に見とれていたのです」と彼は向こう側の壁《かべ》にずらりとならぶ肖像画《しようぞうが》をさしていった。「ワトスン君は私のことを、絵が全然わからない人間だといって笑いますが、それは偏見《へんけん》です。私たちはめいめい見地を異にしているだけのことで、私だって絵はわかるのです。あの肖像画はみんな、じつにみごとなものですね」
「いや、おほめにあずかって恐縮《きようしゆく》です」ヘンリー卿はちょっと意外な顔つきでホームズをちらりと見ていった。「絵は私もあまり詳《くわ》しくはないのです。それよりも牛や馬の話のほうが自信がもてます。しかしあなたがこの際そんな方面に心をおむけになるほどの余裕《よゆう》がおありだとは思いませんでした」
「よいものはやはり眼につきますからね。これはじつに立派なものです。あの青い絹布《けんぷ》をつけた婦人はクネラーの筆にちがいありません。こちらの仮髪《かつら》をつけたふとった紳士はレーノルズですな。みんなご先祖の肖像なんでしょうね?」
「みんなそうです」
「みなさんのお名前をご存じですか?」
「バリモアが教えてくれましたから、たいていはわかるつもりです」
「あの望遠鏡を持った紳士《しんし》はどなたですか?」
「あれはロドニー将軍の部下として西インド方面で奮戦したバスカヴィル海軍少将です。それから青い服を着て巻ものを手にしているのがウイリアム・バスカヴィル卿で、ピット宰相《さいしよう》のもとで下院の議長をつとめた人です」
「この正面の黒ビロードの服に白レースの飾《かざ》りをつけた騎士《きし》は?」
「ああ、あれが問題の主人公で、厄介《やつかい》ごとの本家本もとです。バスカヴィル家に犬物語をのこしたヒューゴー・バスカヴィルです。この人ばかりは忘れられそうもありませんよ」
私は興味と多少の驚きをもってその肖像画をながめた。
「おやおや、この人はもの静かで柔和《にゆうわ》な人物らしいじゃありませんか。もっとも眼だけはどくどくしく濁《にご》っていますがね。私はもっと粗野《そや》な、みるからに荒《あら》くれた人かと思っていましたよ」ホームズがいった。
「この肖像の確実性には疑いの余地がありません。カンヴァスの裏に名前と一六四七年という日づけまでちゃんと入っています」
ホームズはそれからほとんど黙《だま》りこんでしまって、この古い貴族の肖像画にすっかり引きつけられたらしく、食事のおわるまでそのほうばかりながめていた。このときホームズが何を考えていたのかは、ずっと後になってヘンリー卿が自室へ引きあげてしまうまで私にはわからなかった。ヘンリー卿が引きあげると、ホームズは寝室用《しんしつよう》の燭台《しよくだい》を片手に、私を大広間にみちびいて、その壁にかけつらねてある古ぼけた肖像画にろうそくの光を向けながらいったものである。
「この絵をみて何か思いあたらないかい?」
私は羽根飾りのついた大きな帽子《ぼうし》や、美しくうずまいて肩《かた》にたれた巻き毛、白レースのカラー、そのカラーの上に見える厳格《げんかく》な顔などを注意ぶかく見あげた。そこには残忍《ざんにん》なところはなく、端然《たんぜん》とし、りんとして厳格そうで、うすい唇《くちびる》をきゅっとむすび、眼つきには狭量《きようりよう》な冷たさがあるだけだった。
「誰《だれ》か君の知っている人に似たところはないかい?」
「あごのあたりはヘンリー卿に似ているね」
「それもそうだ。ではちょっと待ちたまえ」と彼は椅子《いす》の上にあがって、ろうそくを左の手に持ちかえ、右の手をまげて大きな帽子と長くたれた巻き毛とをかくしてみせた。
「おお、なるほど!」私はびっくりした。
カンヴァスの上に浮《う》かびあがったのは、ステープルトンの顔ではないか!
「やっとわかったね。僕《ぼく》の眼はいろんな付属物をのぞいて、顔を素面《すめん》で見るように訓練されているんだ。変装《へんそう》を見やぶる能力は、犯罪研究家には第一の必要条件だからね」
「おどろいたねえ。あいつの肖像だといってもいいほどだ」
「そうさ。人間の遺伝作用のおもしろい一例だね。遺伝は肉体的にも精神的にもあらわれる。こうして先祖の肖像画を研究していると、人間は生まれ変わるという説の信奉者《しんぽうしや》になるよ。あいつはバスカヴィル家の血を受けているのだ。疑いの余地はまったくない」
「この家を乗っとるつもりなんだね?」
「その通り。偶然《ぐうぜん》この絵を見たおかげで、今まで僕たちのいちばん苦しんでいた点がわかった。ワトスン君、もうこっちのものだよ。僕は断言する。明日の晩までには、あいつは僕らの網の中でじたばたすることになるんだ。逃《に》がすものか! こんどはあいつが蝶《ちよう》になるわけだね。背中にピンをさしてコルクの台をつけて、翅《はね》をおさえつけてさ、ベーカー街の標本室にはまた新しいのが一つ加わるんだよ」
彼は絵のそばを離《はな》れながら、珍らしくも大笑いした。ホームズが声をたてて笑うのはめったにないことでもあり、それは必ず誰かへの凶兆《きようちよう》を暗示するものだった。
次の朝私はかなり早く起きたつもりだが、ホームズはもっと早く起きていた。私が服を着ていると、どこへ行ってきたのか、彼が門を入ってくるのが見えた。
「そうさ、今日はうんと用事があるからね」と彼はうれしそうに手を揉《も》みながらいった。「網の準備はいい。そろそろ引きはじめよう。顎《あご》のとがった大きなカワカマスを一匹ひっかけるか、それとも網をくぐって逃げるか、晩までにはわかるよ」
「もう沼沢地《しようたくち》へいってきたのかい?」
「グリンペンの村へいって、セルデンが死んだことをプリンスタウンへ報告してきた。あれについては誰にも迷惑《めいわく》はかからないですむと思う。それからあの忠実なカートライトに、僕の無事なことを知らせてやらないと、主人の不幸をなげく犬のようにおろおろして、石室《いしむろ》の入口のあたりをうろつくだろうと思って、それもかたがたね」
「じゃこれからの行動は?」
「ヘンリー卿にあいたい。うわさをすれば、そこへやってきたよ」
「ホームズさんおはよう。そうしていると幕僚《ばくりよう》をしたがえて戦略の研究をしている大将軍のおもむきがありますよ」
「その通りなんです。いまワトスン君が僕の命令を受けていたところですよ」
「それでは私も命令をいただきましょう」
「そうですね。あなたはたしかステープルトンさんのお宅へ、今日は夕食によばれておいででしたね?」
「はあ、ホームズさんもどうですか? あの兄妹《きようだい》はお客ずきで、たいへんよい人たちです。あなたがいらっしゃれば、きっと喜ぶでしょう」
「ところが私はワトスン君といっしょに、ロンドンへ帰らなければなりませんのでね」
「おや、ロンドンへお帰りですか?」
「そうです。目下の状況《じようきよう》では、いったんロンドンへ帰ったほうが、活動に都合がよいのです」
ヘンリー卿は失望の色をありありとうかべた。
「解決のつくまでは、ここにいてくださるものと思っていましたよ。この荒野《こうや》の中の館《やかた》に、たった一人で居残るのは、ぞっとしません」
「ヘンリー卿、あなたは全面的に私を信頼《しんらい》して、私のいう通りにしなければいけません。今晩ステープルトンさんのお宅へいったら、二人もここへくるのを楽しみにしていたのだけれど、残念なことに急用ができて、やむなくロンドンへ帰ったが、すぐに引っかえしてきたいといっていたと伝えてください。やっていただけますね?」
「ぜひにとおっしゃるなら、そう伝えます」
「この際それよりほかに方法がないのです」
ヘンリー卿の顔はくもった。私たちが帰るときいて、ひどく機嫌《きげん》を損じたのだ。
「いつ発《た》ちます?」卿はよそよそしく尋《き》いた。
「朝食をいただいたらすぐに、クーム・トレーシーまで馬車でゆきたいと思います。でもすぐ帰ってくるのですから、ワトスン君の荷物を抵当《ていとう》に残しておきます。ワトスン君、きみはこういう事情で、残念ながら今晩ゆけないということを、一筆ステープルトンさんに書きたまえ」
「私もロンドンへ連れていってほしいですね。なんだって私一人がここへ居残らなければならないのです?」
「それがあなたの任務だからです。あなたは何でも私のいう通りにすると、かたく約束したではありませんか。ですから私はいま命令するのです」
「わかりました。それなら私は残りましょう」
「もう一ついっておきますがね、あなたは今晩馬車でメリピット荘《そう》へゆくのです。そして向こうへついたらすぐに馬車を帰して、帰りは歩いてゆく気だなと思わせるのです」
「沼沢地を一人で歩いて帰るのですか?」
「そうです」
「だってそれはいけないと、あれほどたびたびあなたが注意をあたえてくださったことではありませんか?」
「こんどだけはその禁をおかしても安全なのです。あなたの勇気と胆力《たんりよく》を信じるからそう申すのですが、これはたいへん重要なことですから、かならずそうしなければなりませんよ」
「ではそうしましょう」
「しかし帰りにはよく気をつけて、メリピット荘からグリンペン街道《かいどう》へ出る小路《こみち》を、まっすぐに歩いて帰らないと危険ですよ」
「お言葉の通りにしましょう」
「それで安心しました。それでは夕がたまでにロンドンへ着かなければなりませんから、食事がすみしだい大急ぎで出発します」
私はホームズが昨夜ステープルトンに、用件は明日で終わるといっていたのを聞いてはいるが、それにしてもこの計画にはすっかり面くらってしまった。私まで連れて帰る気だとは、なおさらもって予期しないことだった。そればかりか、今日がこの事件のクライマックスだと自分でいっておきながら、いまさら慌《あわ》ただしく二人とも帰ってしまうというのは、いっそう理解に苦しむのである。しかしながらこの際、私としては絶対の信頼をもって彼の意志に従うしか方策はなかった。で、悲しそうに見送る卿《きよう》にしばしの別れをつげて、私はホームズとともに出発したのである。
二時間後に、私たちはクーム・トレーシーの駅につくと、馬車を帰してやった。するとプラットホームで待っていた一人の小さな少年が、つかつかとそばへよってきた。
「ご用は?」
「おお、カートライトか。お前はこんどの汽車でロンドンへ帰るのだ。そして向こうへ着いたらすぐにヘンリー・バスカヴィル卿に電報をうって――私の名でだよ――手帳を忘れてきたがもし見つかったら、書留でベーカー街あてに送ってほしいと頼《たの》んでくれ」
「はい」
「それからちょっとここの郵便局へいって、私あてに何かきていないか尋いてきておくれ」
まもなく少年は一通の電報を持って帰ってきた。ホームズはちょっと読んでから、その電報を私に手わたした。つぎのとおり――
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電ミタ 署名ナシノ逮捕状《たいほじよう》モチ五時四〇分チヤクデユク レストレード
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「けさの電報の返事がもうきた。この男は警察界じゃ腕《うで》のたつほうなんだ。きてくれるというから安心だ。ところでワトスン君、その間にこっちはローラ・ライオンズでも訪ねてみようじゃないか」
ホームズの肚《はら》が私にもだんだんわかってきた。彼はヘンリー卿を利用してステープルトンに、私たちがロンドンへ帰ったものと思いこませようとしているのだ。そして私たちはどこかに隠《かく》れていて、いざという場合にとびだそうというのだ。ロンドンから手帳のことで電報がきたとヘンリー卿が話せば、もしステープルトンがかすかながら疑念を持っていたとしても、たちまち疑いをはらすだろう。いよいよ網《あみ》は張られた。中では顎のとがった大きなカワカマスがしずかに呼吸をしている。私は考えただけで胸のおどるのを禁じえなかった。
ローラ・ライオンズは仕事を――タイプライターを打っていた。ホームズは率直《そつちよく》な調子で正面から切りだした。そのため彼女《かのじよ》は非常にあっけにとられたように見えた。
「私は故チャールズ・バスカヴィル卿の亡《な》くなった当時の事情をとり調べているものです。あなたのことはここにいる友人のワトスン君から聞きましたが、あなたはあの問題に関して何か隠していらっしゃるそうですね?」
「何を私が隠しているとおっしゃるのです?」彼女は挑戦的《ちようせんてき》に切りこんだ。
「あなたはチャールズ卿に、十時に門のところまで出てくれと手紙でいってやったといいましたね? それが時刻も場所も、チャールズ卿の死と一致《いつち》しているのです。その間の関係をあなたは秘《かく》しています」
「その間に関係などありません」
「二つとも偶然に一致したのだとすれば、これは容易ならぬことです。しかし私としては、よくお話してみれば、その間の関係を明らかにすることができるだろうと思います。ライオンズさん、話はおたがいに率直にしようじゃありませんか。じつはね、私たちはあれを殺人だと考えているのですよ。証拠《しようこ》ではあなたの友人のステープルトンさんばかりか、彼の奥《おく》さんも関与していると見られるのです」
「えッ、奥さんですって?」女はとびあがって驚《おどろ》いた。
「これはもう秘密にする必要はありません。今まで妹で通っていた人は、じつは彼の細君なのです」
ローラ・ライオンズはやっと腰《こし》をおろしたが、椅子のひじを固くつかんでいる手にはよほど力が入っているとみえ、ピンクの爪《つめ》の色がまっ白になっていた。
「奥さんですって?」彼女はまたそれをいった。「奥さんですって? いいえ、あの人は独身ですわ」
シャーロック・ホームズはお話にもならないとばかりに、肩《かた》をすくめてみせた。
「証拠をお見せください。証拠がありますか? そんなものがあったら……」彼女の燃えるようなひとみは、いかなる言葉よりも雄弁《ゆうべん》に彼女の胸中を語っていた。
「ちゃんと用意してきましたよ」ホームズはポケットから書類をとりだした。「ここにあの夫婦《ふうふ》が四年前にヨーク市でとった写真があります。裏には『ヴァンデリュル夫妻』とありますが、あなたがあの細君に会ったことがあるなら、この二人が何者だかすぐにわかるでしょう。ここに三通の証明書もあります。これはあの二人がヴァンデリュル夫妻としてセント・オリヴァーの私立中学校を経営していたころの知人が書いたものです。読んでごらんなさい、それでもあなたには信じられないかどうか」
彼女はその書類はちらりと見ただけで、すぐに私たちのほうへ向きなおり、落ちついた、しかし絶望的なまっ青な顔をみせていった。
「ホームズさん、あの人は私に、現在の良人《おつと》と離婚手続《りこんてつづき》をすませた上でという条件で、結婚を申しこみました。私をだましたのです。ひどい人! 私はすっかりだまされていました。あの人のいったことには、これっぽっちも誠《まこと》はなかったのです。いいえ私は、みんな私のためを思って、親切でしてくれることだとばかり思っていたのです。でもこうなってみますと、私は道具に使われたのだとしか思えません。その私があんな不人情な人に義理だてする必要がありましょうか? あの人が勝手に悪いことをしたのを、どうして私が庇《かば》うことがありましょう? さあ何なりとお尋《たず》ねください。なにもかも洗いざらい話しましょう。ただ一つ申しあげておきますのは、手紙を書きましたとき私は、あのご親切なご隠居《いんきよ》に露《つゆ》ほどもわるい心はいだいていなかったことでございます」
「私は絶対にあなたを信じます。この話をいまさら口になさるのは、あなたとしても苦痛でしょうから、私から代って申してみましょう。聞いていてもし重大な誤りがありましたら、どうかどしどし訂正《ていせい》してください。それでと、手紙をだすことはステープルトンさんがあなたにすすめたのですね?」
「あの人が命令したのです」
「あなたの離婚に要する訴訟《そしよう》費用の援助《えんじよ》を、チャールズ卿にもとめるためですね?」
「はい、その通りです」
「ところが手紙を出してしまってから、会いにゆくのを止《や》めさせたのでしょう?」
「その目的のために他人から金銭上の援助など受けるのは、あの人としても自尊心を傷つけられますし、この苦労は二人で背負うのが当然だから、自分は貧乏《びんぼう》だけれど、どんなことをしてでもそれだけの都合はつけるからと申しますの」
「たいへん立派な覚悟《かくご》のようですね。それであなたとしては翌日の新聞で、チャールズ卿の亡くなった報道を見るまでは、何も知らないでいたのでしょうね?」
「はい」
「それからあの男は、チャールズ卿との約束《やくそく》のことは口外してはならないといって、あなたにそれを誓《ちか》わせたのでしょう?」
「はい。死にかたがたいそう不思議だから、もし手紙のことが知れると、私たちの身に疑いがかかるといって、秘密をまもるように嚇《おど》かしたのでございます」
「なるほど。しかしあなたとしても変だと思ったでしょうね?」
彼女はちょっとためらって眼《め》を伏《ふ》せたが、「私には事情がわかっていました。でも私にこんなひどい仕打ちさえしなければ、私はどこまでもあの人に義理をたてたと思います」
「要するにあなたとしては危《あや》ういところを助かったわけですよ。あなたは彼の秘密をにぎっていて、そのことは彼もよく知っているのにもかかわらず、あなたは無事でいられたのですからね。この数カ月というもの、あなたは絶壁《ぜつぺき》のはじを歩きつづけてきたのですよ。それではライオンズさん、そろそろ失礼しなければなりません。しかし近いうちにわれわれから連絡《れんらく》がまたあると思いますよ」
「どうだ、困難な障壁《しようへき》が一枚ずつはがれて、しだいに問題の中心に接近していくじゃないか」プラットホームへ引きかえして、ロンドンからの急行列車を待ちながらホームズがいった。「近代犯罪史上に特筆すべきこの奇怪《きかい》な事件も、一編の首尾《しゆび》一貫《いつかん》した話にまとめあげられるのは近いうちだよ。犯罪学の研究家なら、一八六六年に小ロシアのグロドノウで、これに似た事件があったのを思いおこすだろう。そのほかアメリカのノース・カロライナ州のアンダースン殺しもあるけれど、こんどの事件にはそれらと違うまったく独自の点もある。それにこのおどろくべき深謀遠慮《しんぼうえんりよ》を持つ男のすることには、いまだによくわからない点がある。しかし見ていたまえ。今夜|寝《ね》る前にそいつが明らかにならなかったら、それこそどうかしていると思うよ」
まもなく急行列車がごうごうと音をたててはいってきた。そして列車がとまると、小柄《こがら》ながらブルドッグのように強そうな男が一等車からとびだしてきた。三人はすぐに握手《あくしゆ》をかわした。レストレード君のホームズにたいするうやうやしい態度をみて、この二人がいっしょになって仕事をしていた時分に、レストレード君がいかにホームズに教えられるところが多かったかを私は見てとった。優者の推論が期せずして自然に劣者《れつしや》の頭上にくわえる侮辱《ぶじよく》のため、人間がいかに刺激《しげき》をうけ、鼓舞《こぶ》され、そして発奮するものであるかを示す適切な実例を私は眼《ま》のあたりに見たという気がした。
「何かおもしろい話ですか?」
「近年にない大きな獲物《えもの》ですよ」ホームズが答えた。「手をつけるにはまだ二時間ひまがあるから、その間に食事をしておきましょう。それからレストレード君には、ダートムアのすがすがしい夜の空気で、ロンドンの霧《きり》でよごれたのどを洗濯《せんたく》させてあげますよ。え、来たことがない? そんなら生涯《しようがい》忘れられない印象が残るでしょうよ」
第十四章 魔《ま》の犬の正体
シャーロック・ホームズの欠点の一つは――もしそれが欠点といい得るならばだが――いよいよ実行という最後の瞬間《しゆんかん》までは、誰《だれ》にも胸中の計画をあかさないことである。もちろんこれは一面、彼《かれ》が周囲の人々に対してある種の優越感《ゆうえつかん》をいだき、最後にあっと驚《おどろ》かせたいという傲慢《ごうまん》さからきていることでもあるが、他の半面、それはあらゆる危険または失敗の機会をさけて、万全《ばんぜん》を期するという職業上の責任感にもよるのである。しかしその結果は、その助力者に対して非常な苦痛をあたえることになる。じっさい私もそのため、しばしば苦しみをなめてきてはいるが、こんどの事件ほど困ったことはかつて覚えがない。
今日まで私たちはつねに大きな試練を受けてきたのだが、苦心が実り、ここに最後の大活動によって、勝利の栄冠《えいかん》を得ることになったのである。とはいうもののホームズはやはり何もいってくれないので、私はただ事件の進展を想像と推測によって、わずかに胸にえがいてみるばかりであった。進むにつれて冷たい夜風に頬《ほお》をうたれ、いろいろの予感もあって私は身うちのぞっとするのを覚えた。路《みち》はしだいに狭《せま》くなって、馬車の窓から見る両側の暗澹《あんたん》たる風物は、私たちがふたたび沼沢地《しようたくち》に入りつつあることを物語った。馬のひづめの一足ごとに、馬車の車輪の一回転ごとに、私たちは大きな冒険《ぼうけん》の地に向かいつつあるのだ。
貸馬車を駆《か》っているので、御者《ぎよしや》に気をつかい、めったなことを口にするわけにゆかず、おどる胸をおさえおさえて、平凡《へいぼん》な世間話をしていなければならなかった。馬車がフランクランドの家のそばをすぎて、いよいよ敵地まぢかくなったとき、私は押《お》しつけられるような不自然な退屈《たいくつ》さから、やっとのがれた思いにほっと息をついた。
私たちはメリピット荘《そう》のずっと手前の、並木路《なみきみち》の入口で馬車をのりすて、御者には十分な賃銀をあたえたうえ、まっすぐにクーム・トレーシーへ帰るように命じて、そろそろとステープルトンの家をさして進んだ。
「レストレード君、護身の用意をしてきましたか?」
小柄《こがら》なレストレードはにっこりして、「ズボンをはいている以上、尻《しり》ポケットというものがありますからね。ポケットのある以上、そのなかに何ものかが潜《ひそ》んでいるという寸法です」
「それで安心です。ワトスン君も私も、ちゃんと用意しています」
「よほど事態がさし迫《せま》っているとみえますね。ホームズさん、仕事はなんですね?」
「待ちぶせですよ」
「ほう! しかしここはあんまり気持のいいところじゃありませんね」警部はぶるぶるっと身ぶるいして、陰気《いんき》な小山の山腹のあたりや、グリンペンの大底なし沼《ぬま》の上におりている濃《こ》い霧を見わたした。「この先に人家の灯火《あかり》が見えていますね」
「あれがメリピット荘といって、われわれの行く先です。ここからはもう爪先《つまさき》だって、足音のしないように歩いてください、話も大きい声は禁物です」
できるだけの注意をはらって進んだが、メリピット荘から二百ヤードばかりのところで、ホームズは私たちを制していった。
「このへんでいいでしょう。右側に隠れるのにちょうどよい岩がある」
「じゃここで待つんですね?」
「ここで待ちぶせするのです。レストレード君はこのくぼみへ入ってください。ワトスン君はあの家へいったことがあるから、間どりの様子はわかっているだろう? こちら側の格子《こうし》つきの窓の見える部屋はなんだね?」
「あれは台所の窓だろう」
「その向こうの明るい窓は?」
「あれが食堂なんだ」
「よろい戸はあいているね。ワトスン君はいちばんよく様子を知っているのだから、そっと這《は》いよって何をしているか見てきたまえ。決して気《け》どられちゃいけないよ」
私はひそかに忍《しの》びよって、貧弱《ひんじやく》な果樹を植えた庭にめぐらした低い塀《へい》を小だてに、それをめぐって灯火《あかり》のもれてくる窓の正面へとまわっていった。
見ると、食堂にはヘンリー卿《きよう》とステープルトンとがいるばかりである。二人は横顔をこちらに見せて、まるいテーブルに向かいあっていた。コーヒーと酒を前に、二人とも葉巻をのんでいる。ステープルトンは快活になにかしゃべっているが、ヘンリー卿はまっ青な顔いろをして、話にも実《み》のいらぬ様子であった。不吉《ふきつ》な沼沢地を一人で帰らねばならないということが、おそらく卿の気持を重くしているのであろう。
見ているうちに、ステープルトンは立ってどこかへ出ていった。するとヘンリー卿はぐっと杯《さかずき》をほして、葉巻をふかしながら椅子《いす》の背によりかかった。と、どこかでドアの開く音がして、砂のうえを靴《くつ》でふむ足音が聞こえた。足音は私の潜んでいるところとは反対の側の壁《かべ》のほうへゆくらしい。伸《の》びあがって見ると、ステープルトンが果樹園のすみの物置の前に立って何かしている姿がみえた。
かちっと鍵《かぎ》のはずれる音がしたと思うと、彼は物置の戸をあけて中へ入っていったが、中からは足を引きずるような妙《みよう》な音がきこえた。一分か二分もたったろうか、彼は出てくるとかちりとふたたび錠《じよう》をおろして、家の中へ入っていった。それからまもなく食堂へ姿をあらわしたところまで見とどけて、私はそっと這いだして待ちくたびれているホームズのところへ帰ってきた。
「それではワトスン君、あの婦人の姿は見えなかったんだね?」私の報告を聞きおわると、ホームズが念をおした。
「いなかったよ」
「どこへ行ったんだろう? 台所のほかには灯火《あかり》の見えるところはないじゃないか」
「どこにいたのかねえ」
グリンペンの大底なし沼の上に濃い霧のおりていることはさきにも述べた。見るとそれがしだいに私たちのほうへ押しよせてくる。しかもこっち側はくっきりとあざやかな輪郭《りんかく》がついて、まるで白い壁が押しよせてくるかと思うばかりだった。その低くたれこめた霧に、月光が美しく照りわたって、まるで大きな氷原を見るようだった。はるかにその上に頂きだけ見せている断崖《だんがい》は、氷のなかに植えこんだ岩かとも見えた。ホームズは静かにそれを見ていまいましそうにつぶやいた。
「あの霧はこっちへ拡《ひろ》がってくるね、ワトスン君」
「あれがくると困るのかい?」
「非常に困るんだ。あれさえこなければ、僕《ぼく》の計画が狂《くる》うことはない。もうしかし、出てきそうなものだな。ちょうど十時だ。あの霧が路《みち》までこないうちに出てくれなければ、せっかくの計画もうまくいくかどうか、ヘンリー卿の生命にもかかわるのだ」
私たちのいるところから見ると、美しくさえわたる空には、銀砂とまごう星が冷たくかがやいて、半月があたりを柔《やわ》らかく照らしている。眼前にはステープルトンのメリピット荘がこんもりとして、屋根の輪郭や煙突《えんとつ》の輪郭がくっきりと、星のきらめく夜空を区切っていた。そして下のほうの窓からもれる黄いろい光は、果樹園から沼沢地へとかすかな明るみをなげている。するとその窓の一つが急に暗くなった。疑いもなく召使《めしつかい》が台所を片づけおわって、そこを立ちさったのだ。もうあとは主客二人――悪魔の心をいだいた主人と、何もしらずにただ伝統的に沼沢地を気味わるがっている客と――が葉巻をのみながら食堂で話しこんでいるばかりである。
沼沢地のなかばを覆《おお》っている羊毛のような濃霧《のうむ》は、刻々とその家に押しよせてゆく。その先端《せんたん》はすでに一まつのうす煙《けむり》のようにせまって、窓からもれる四角な黄いろい光線をぼんやりと見せてきた。果樹園の塀も向こう側はもう見えない。果樹のこずえは白くかすんできた。やがてあたりは一面にうすぼやけて、しだいに霧のなかへまきこまれていったが、ことに白い霧がひくく地を這うので、建物の下半部のほうが早くも見えなくなり、二階や屋根がもうろうと、海にうかぶ奇怪な船のように見えるのであった。ホームズはもどかしがって足ぶみしたり、岩を手でひたひたとたたいたりした。
「もう十五分以内にヘンリー卿が出てくれなければ、路が見えなくなる。これじゃもう三十分もしたら、自分の手さえ見えなくなるよ」
「もう少し後へさがって、高いところで待っていようか?」
「それもいいね」
私たちは家から半マイルばかりさがったが、白い濃霧はどこまでもくっきりと一団となって、上面に月光をうけて銀いろにかがやきながら、徐々《じよじよ》におしよせてくるのだった。
「これではだんだん遠くなる。あまり遠くなりすぎて、いざという時の間にあわないと困る。これよりあとへは絶対にさがれないね」といいながらホームズはひざをついて耳を地につけてみた。「しめた! 足音が聞こえるようだ」
いそぎ足に歩く足音が、沼沢地の沈黙《ちんもく》をやぶって聞こえてきた。私たちはとある岩かげに身をひそめてうずくまりながら、銀の壁のような濃霧の先端をじっと見つめていた。足音はしだいに大きくなって、やがて銀の幕をたれたような濃霧の中から、待ちわびた人が姿をあらわした。卿はとつぜん濃霧を出はずれて、こうこうと冴《さ》えわたる月光をあびたので、おどろいてあたりを見まわした。それから急ぎ足に、私たちの隠《かく》れている岩の前を通って、だらだらと長い登り坂を、館《やかた》をさして帰っていった。歩きながらしきりに左右をきょろきょろしているのは、ひどく不安なのであろう。
「しッ!」とホームズは制して、ピストルの撃鉄《げきてつ》をカチッとはずした。「用心したまえ。きたよ」
濃霧のなかから、パタパタとかるい小さな足音が連続的に聞こえてくる。霧はすでに私たちから五十ヤードのところまで押しよせていた。どんな恐《おそ》ろしいものが飛びだしてくるのかと、固唾《かたず》をのんで私たちはじっと見つめた。となりのホームズをのぞいてみると、青い顔を緊張《きんちよう》させ、双眼《そうがん》は月光をうけてきらりと光っている。と思った瞬間、その顔はいちだんと緊張味をくわえ、眼を大きく見ひらき、仰天《ぎようてん》してあっと小さく声をもらした。同時にレストレードは恐怖《きようふ》のあまりうむとうなって、四つン這《ば》いになってしまった。
私も思わず立ちあがったが、濃霧のなかから異様な怪物《かいぶつ》が飛びだしてきたのを見て、手は反射的にピストルの柄《え》をかたく握《にぎ》りしめながらも、気が遠くなりそうだった。怖《おそ》るべき猛犬《もうけん》なのである。この世のものとも思われぬ巨大《きよだい》な、まっ黒な猛犬なのである。しかもそのがっとあけた口からは火をはき、双眼はらんらんと輝《かがや》き、あごから首の下にかけてぼうっと焔《ほのお》をふいているのである。凶悪《きようあく》とも残忍《ざんにん》ともたとえようのないこんな妖魔《ようま》がまたとあるだろうか?
この巨大な猛犬は火をはき、からだをうねらせながら、矢のようにヘンリー卿を追っかけていった。私たちはびっくりしたあまり呆然《ぼうぜん》としてなすところを知らず、はっと気がついたときには、もうかなり先まで走りすぎていた。ホームズと私はあわててピストルを一発ずつ放った。犬はものすごい声で吠《ほ》えた。少なくとも一発は命中したとみえる。だが犬は少しもひるまずにひた走った。
ヘンリー卿はと見ると、はるか先でこちらを振《ふ》りかえり、恐ろしさに気でも転倒《てんとう》したか、まっ青になって両手をあげて逃《に》げまどうのが、月光をあびてありありと見られた。
犬の悲鳴をきいた私たちは、恐怖を忘れて急に元気づいた。弾丸《だんがん》が命中して悲鳴をあげたのだから、むろん妖怪ではあるまい。とすれば射殺することもできるはずだ。
私たちはそれッと駆けだした。このときのホームズほど速く駆けた男を私は見たことがない。必死になって走るのだが、どうしても追いつけなかった。レストレードときたらドンジリで、私がホームズにおくれているくらいの間隔《かんかく》をもって私につづいてくる。
駆けながら見ると、向こうでヘンリー卿の悲鳴がつづけざまに聞こえた。それにまじって犬のおそろしい咆哮《ほうこう》もきこえる。見ている間に犬は卿に飛びついてひき倒《たお》し、のど笛《ぶえ》にかみついた。その瞬間に、ホームズは犬の脇腹《わきばら》めがけてピストルを五発までつるべ射《う》ちにあびせかけた。するとさすがの猛犬も、ひと声断末魔の悲鳴をあげてぴょんと宙にとびあがると、モンドリうってどっとばかり仰《あお》むけに地上に落ちてきて、苦しそうに、四肢《しし》をもがいていたが、そのままばたりと横に倒れて動かなくなってしまった。息をきらして駆けつけた私は、おそろしい焔をあげているその頭部にピストルをさしつけたが、もう引金をひくまでもなかった。犬はたしかに死んでいる。
ヘンリー卿は気を失って倒れていた。急いでカラーをはずしてしらべてみたが、どこにも怪我《けが》をしている様子はなく、救助はじつに間一髪《かんいつぱつ》というところで成功だったのを知って、ホームズも感謝の祈《いの》りを口にした。やがてヘンリー卿はまぶたをぴくぴくさせたかと思うと、つづいてかすかにからだを動かした。レストレードはブランディのびんをとりだすと、せんをぬいて卿の口におしあてた。すると卿はぱっちり両眼《りようめ》をあけて、私たちを見あげた。
「あ、ああ! なんですか、あの怖ろしいものは?」卿はよわよわしい声できいた。
「安心なさい。何だか知らないけれど殺してしまいました。これでバスカヴィル家に伝わる魔の犬は永遠にうち倒したわけです」ホームズがいった。
私たちの足もとに倒れている犬は、その大きさの点だけからいっても、じつに驚くべき巨大な猛犬だった。種類は純粋《じゆんすい》のブラッドハウンドでもなし、マスティフでもない。おそらく両方の雑種であろう。小さな雌《めす》のライオンほどもあって、ひょろりとやせた恐ろしく猛悪な犬である。こうして息の根も絶えて倒れているのに、その大きな口からはまだ青い焔をはき、小さく落ちこんだ残忍な両眼のうちには火の輪が燃えていた。眼や鼻のあたりを触《さわ》ってみた手を引くと、その手さきがぼうっと光るのに気がついた。
「燐《りん》だ!」
「うまいことを考えたね」とホームズは死体をかいでみていった。「上手に犬の嗅覚《きゆうかく》を害さないようにしてある。それにしてもまずおわびしなければならないのは、ヘンリー卿をこんな危険な目にあわせたことです。犬の出ることは覚悟《かくご》していたけれど、こんなに大きな犬だとは思わなかったのです。それにこの霧《きり》のため、犬がいきなり鼻先へとびだしたので、うっかりするともう一歩でとり返しのつかない失敗をするところでした」
「あなたは私にとって生命《いのち》の恩人です」
「いや、私があなたを危地におとしいれたのですから、それを救いだすのは当然の義務です。どうです、気分はしっかりしましたか? 立てますか?」
「ブランディをもう一|杯《ぱい》のましてください。そうすれば何でもできます。ありがとう。ちょっと手を貸してください、起きますから。さあ、もう大丈夫《だいじようぶ》です。何でもできます」
「いや、あなたはここに残っていてください。今夜はもうあなたに何かお願いするのは無理でしょう。少し待っていてくだされば、あとで私たちのうち誰《だれ》かが館までお送りします」
卿は気をはげまして一人で歩こうとしたが、顔もまだ死人のようにまっ青だし、踏《ふ》む足にも力がなくよろめいた。私たちは卿をたすけて、とある岩かげまで連れていって、そこに坐《すわ》らせた。すると卿はわなわなと震《ふる》えながら、両手に顔をうずめた。
「では私たちはもう行かなければなりません」ホームズがいった。「まだ仕事のあと始末が残っているのです。それも一刻を争います。もう事件は解決したようなもので、あとは犯人を捕《とら》えるだけなのですけれどね」
私たちは急いでメリピット荘のほうへひき返した。途《みち》すがらホームズは言葉をつづけて、
「ピストルの音で失敗に気づいたにちがいない。たぶんもう逃げてしまったろうよ」
「しかし相当に距離《きより》があるうえに、霧がふかいからね」
「いや、おそらくもう逃げてしまったろう。奴《やつ》はじっと家の中になどいやしなかったのだ。仕事をすませたら犬を連れて帰らなければならないから、あとを跟《つ》けてきていたんだ。これは確実だよ。しかし念のため家の中だけは捜査《そうさ》してみよう」
メリピット荘の玄関《げんかん》はあけっぱなしになっていた。私たちはいきなり飛びこんで、部屋から部屋をいそいで捜《さが》しまわった。玄関わきの廊下《ろうか》で出あった老僕は、何事がおこったのかとおどろいて、ぶるぶる震えながらまごついていた。家の中は食堂をのぞいたほかはまっ暗だったが、ホームズはそこのランプをとりあげて、家じゅう残りなく隅《すみ》から隅まで捜しまわった。しかし目ざす敵は影《かげ》も形も見せなかった。ただ二階へあがってみると、寝室《しんしつ》の一つにかたく錠のおりているのがあった。
「この中に誰かいる!」レストレードが声をはずませた。「動く気配がする。開けてみましょう」
中からはかすかなうめき声と衣《きぬ》ずれの音がきこえる。ホームズが錠のあたりを、靴の裏でドンとけると、ドアはいっぺんに壊《こわ》れてさっと開いた。手に手にピストルをかまえて、私たちはどっとなだれこんだ。
だが中は空っぽであった。そして私たちの眼前には、不思議なものが横たわっていた。狂暴《きようぼう》無比《むひ》な悪漢ステープルトンが、死にもの狂《ぐる》いで飛びかかってくるかと思っていた私たちは、その不思議なものを見て拍子《ひようし》ぬけがして、しばらくはぽかんと突《つ》ったっているばかりだった。
部屋の中は一個の小博物館をなしていた。壁という壁にはことごとく、蝶《ちよう》や蛾《が》の標本をおさめたガラスばりの箱《はこ》がかけ並《なら》べてあった。これこそあの狂暴な悪魔《あくま》が唯一《ゆいいつ》の慰安《いあん》ともし、また世をあざむく方便ともしたものである。
部屋の中央には一本のふとい柱がたっていたが、これは虫に食われた大梁《おおはり》のそえ木にと、あとからとりつけたものらしい。この柱にシーツをぐるぐると巻きつけて、ちょっと見たのでは男か女かわからない人間が一人しばりつけてあった。のどの下にタオルを通して、うしろの柱にしばりつけ、顔の下半部もべつのタオルでしっかりとまいて、声もたてられないようにしてあった。そしてその上から悲しみと恐怖にみちた二つの眼が、もの問いたげにじっと私たちを見つめているのである。
私たちは走りよって、またたくまに猿轡《さるぐつわ》や縄目《なわめ》をときはなった。するとぐったり床《ゆか》のうえにひざをついたのを見ると、まさしくステープルトン夫人ベリルであった。がっくりとうなだれた彼女《かのじよ》の首すじのあたりには、むちのあとが赤くあざやかにはれあがっていた。
「残酷《ざんこく》だ!」ホームズが口ばしった。「さあレストレード君、ブランディを。起こして椅子にかけさせてやりましょう。疲労《ひろう》と安心で気絶したんだ」
まもなく彼女は気がつくと、眼を大きくあけて、いちばんに尋《たず》ねた。
「大丈夫でございましょうか? 逃げられましたでしょうか?」
「いいえ、奥《おく》さん、逃げようたって逃がしはしませんよ」
「いいえ、違《ちが》います。良人《おつと》のことではございません。ヘンリー卿《きよう》のことでございます。あのかたはご無事でございますか!」
「大丈夫です」
「そしてあの犬はどうなりまして?」
「死にました」
彼女はほっと安心のため息をもらした。
「おお神さま、ありがとうございます! ほんとにひどい人でございました、あの人は。どんなに私は苦しめられましたことか!」彼女は両腕《りよううで》をのべ、顔をあげて神に祈りをささげた。おお、むきだしのその腕のむごたらしいこと! あざだらけである。「いいえ、あざくらい何でもございません。ええ、何でもございませんとも! いじめられ苦しめぬかれましたこの心にくらべましたら。でも私はそれを忍《しの》んでまいりました。どんな虐待《ぎやくたい》も、どんな寂《さび》しさも、どんないつわりの生活も、あの人の愛をつなぎとめられると思えばこそ、堪《た》え忍んでまいりました。でもいまはだまされていましたのが、道具につかわれていましたのがわかりました」と彼女はもの狂おしく咽《むせ》び泣いた。
「奥さん、あなたはもうあの男にはなんの好意も持たないでしょうね?」ホームズがいった。「それでしたらあの男がどこにいるか教えてください。あなたがあの男の悪事を、たとえ本心からではなかったにしても、少しでも助けたのだとすれば、この際それをいって私たちを助けてくださるのが、罪のつぐないというものでしょう」
「あの人の逃げたところはきまっています。底なし沼《ぬま》のまんなかの小山に、ふるい錫坑《すずこう》のあとがございますが、そこであの人は犬を飼《か》っていました。あそこには隠れ場の用意もございますし、あそこよりほかに逃げるところはございますまい」
窓の外には白い濃霧が綿をつんだようにたちこめていた。ホームズはランプをそのほうに差し向けながらいった。
「この通りです。今晩は底なし沼の中の通路を島までゆくのは、誰にもできることではありませんよ」
彼女は手をうって笑顔《えがお》をみせた。その眼と口もとにはいかにもうれしくてならない輝かしさがあった。
「いいえ、ゆくのはゆけましょう。でも帰れなくできます。この霧でもゆけますのは、道案内の目じるしがあるからです。あれは私たちが二人で植えた目じるしです。今日あれを抜《ぬ》きはらってしまえば、もう出てはこられません。あとはあなたがたの自由になります」
何しろこの濃霧がすっかり晴れるまでは、追跡《ついせき》も断念しなければならない。そこで私たちはレストレード一人をメリピット荘《そう》の番にのこしておいて、ヘンリー卿をひとまずバスカヴィルの館まで送りとどけることにした。
こうなってはもういっさいの事情を、卿にうちあけぬわけにはゆかなかった。卿はその愛した女性の身分にかかわる真相をきいて、心にうけた大きなショックをけなげにも踏みこたえた。しかしその夜の冒険《ぼうけん》がよほど神経を傷《いた》めつけたとみえて、館へ帰ると夜の明けぬうちにひどく発熱してうわ言を口にするやら、モーティマー君の手当をうけるやら、大騒《おおさわ》ぎだった。
その後、同君はヘンリー卿の健康を回復するため、連れだって世界|漫遊《まんゆう》の旅にのぼったが、ついに目的どおり卿は心身とも丈夫になってバスカヴィルの館へ帰り、めでたくこの呪《のろ》われた、いや今は平和な領地の主人公として、静かな日常をおくることになったのである。
さて、以上でこの奇怪《きかい》な長い物語は、急速に終局をむすぶことになった。私たちが長い間暗雲のうちに苦しめられた事件が、かくも悲劇的な終局を迎《むか》えたことに、諸君はさだめし驚《おどろ》かれることであろう。私たちがあの猛犬を射殺した翌朝、濃霧はすっかり晴れあがったので、私たちはステープルトン夫人の案内で、彼《かれ》ら夫妻がかねて目じるしをこしらえておいた路《みち》をたどり、沼地をぬけて中央の小山へと歩いていった。良人の行った路をいそいそと案内してゆく彼女の様子をみて、私たちには彼女の生活がどんなに悲惨《ひさん》なものであったかがわかり、深く同情したのである。
沼地の中に泥炭質《でいたんしつ》のかたい地質が半島のように細く突きでて、向こうのほうはしだいに泥《どろ》の中に沈《しず》んでおり、その向こうには汚《きたな》い水錆《みずさび》がうかんだり、名もしらぬ青い水草が漂《ただよ》ったりしている。その臭《くさ》い泥沼の間に散在する藺草《いぐさ》のむらがったいくらか乾《かわ》いた地をぬって、ジグザグに目じるしの棒がたててあった。私たちはその洲《す》のはじに夫人を残しておいて、泥沼の中へ踏みこんだ。
繁茂《はんも》した葦《あし》や、泥をかぶったまま水々しく育った水草の間から、物の饐《す》えたような不快な臭気《しゆうき》が鼻をうった。どうかしてうっかりその泥のなかに片足踏みこむと、ずぶりと腿《もも》のあたりまではいって、そのあたり数ヤードもの泥の表面が、ぶくぶくと泡《あわ》をたてた。そして靴《くつ》の先からはねばねばした泥がいつまでもぽたぽたと垂れた。泥の中に足を踏みこんだときは、なにか怪《あや》しい魔の手が底しれぬ泥のなかへ引きこむようなとでもいうか、何ともいえぬ気味わるさを感じた。
しかしこの危険な路を、最近なにものかの通った形跡が、たった一カ所だがあった。ふと見ると向こうのワタスゲの草むらに、なにか黒いものがひっ掛《か》かっている。ホームズはそれを取ろうとして、腰《こし》のあたりまで泥の中へはいりこんでしまった。私たちがそばにいなかったら、いつぞやの小馬《ポニイ》のように彼は永久にこの泥沼に吸いこまれていたにちがいない。それでも彼はその黒いものだけは、しっかり手に握って高くさしあげていた。見るとそれは黒い古靴の片足で、なかに「|ト《*》ロント市マイヤース靴店」というマークがついていた。【訳注 トロント市はカナダにもオハイオ州にもある】
「沼の中へ落ちたかいがあったよ。これはヘンリー卿がロンドンでなくした靴だ」ホームズがいった。
「ステープルトンが逃《に》げながら投げこんだのだね」
「そうさ。あとを跟《つ》けさせるため犬にかがせてからも、捨てないで持っていたんだ。いよいよだめだと知って逃げだすとき、やはり手にしていたが、ここまで来てもう用はないと投げすてたんだ。これでみると、ともかくもここまでは逃げてきたことがわかる」
しかしここまで逃げてきて、さてそれからがどうなったか、どうにでも推測はできるが、はたしてどうなったか、その真相は知るよしもない。足跡《あしあと》のくぼみもすぐに盛《も》りあがって消えてしまう軟《やわら》かい泥なのである。でもどうにかその軟かいところを渡《わた》りきって、向こうの小山の固い土地にたどりついたとき、私たちは足跡を見つけようと熱心にさがしまわった。だがどこにもそれらしいものは見あたらなかった。
昨夜のあの濃《こ》い霧の中を、この泥海をよこぎってはたして無事にたどりついたとするならば、一つくらいは足跡のないはずはあるまい。それのないところを見ると、おそらくこの泥海のどこかへ吸いこまれて、ながい恨《うらみ》を残したのではあるまいか? この小山に霊《れい》があるなら、あの残忍《ざんにん》な悪魔が昨夜の濃霧《のうむ》に道をふみあやまり、底のない泥沼のどこかに吸いこまれた次第《しだい》を語ってくれるであろうものを!
泥沼にとりかこまれた島のようなこの丘《おか》には、ステープルトンが猛犬をかくまっていた跡が、あちこちにいくつも見られた。前にも述べた通りかつて錫《すず》を掘《ほ》りだしたこの小山には大きな動輪だの、泥でなかば埋《うも》れた竪坑《たてこう》だのがあって、廃坑《はいこう》の位置を示していた。そのそばには坑夫たちの住んだらしい小屋もくずれかかって残っていた。周囲の泥沼の発散する悪臭に閉口して、逃げだしたものであろう。小屋の一つをのぞいてみると、丸鐶《まるかん》つきの鎖《くさり》がほうりだしてあり、あたりにはかみくだいた骨がちらばっていて、疑いもなくあの猛犬をつないでいたところとわかった。よく見ると、骨のなかには褐色《かつしよく》の毛のついたままの髑髏《どくろ》が一つころがっていた。
「犬だよ!」ホームズが叫《さけ》んだ。「ちぢれ毛のスパニエル種だ。かわいそうにモーティマー医師の愛犬なんだよ。これで今までわからなかったことがすっかりわかった。ステープルトンはここへあの犬をつないで隠《かく》していたが、ほえるのだけは止《や》めさせられなかった。だから日中でもいやなあの犬の声が聞こえてきたのだ。やむをえなければメリピット荘へ連れて帰って、あの物置小屋へかくすこともできたろうが、それではとても危険だから、いざという場合までは連れて帰らなかったのだ。
この缶《かん》にのこっている糊《のり》のようなものは、犬にぬりつけた燐《りん》だ。もちろんこれはバスカヴィルの犬物語から思いついたものだが、チャールズ卿の心臓の弱いところから、驚死《きようし》さすのがねらいで、ついに本望をとげたわけだ。かわいそうに、あのセルデンが悲鳴をあげて逃げまわったのも無理はないさ。ヘンリー卿も、いやわれわれにしたってあんな怪物に暗い中でとつぜん追いかけられたら、肝《きも》をつぶすにきまっている。まったくうまいことを考えついたものだよ。考えてもみたまえ、こうした怪異を沼沢地《しようたくち》で見かけたからといって、このへんの百姓《ひやくしよう》どもが、それを深く突っこんで調べてみようとするはずはないからね。だからワトスン君、ロンドンでも話したことだが、この泥沼の底に沈んでいる男くらい恐《おそ》るべきやつを相手にしたのは、あとにも先にも初めてだよ」――といってホームズは長い腕をあげて、とおく赤ちゃけた荒地《あれち》のほうまでつづく泥沼の、ところどころ緑いろの水草をうかべた表面を、なでるように振《ふ》りまわした。
第十五章 追想
十一月も末のある霧ふかい夜であった。ホームズと私はベーカー街の例の一室で、気持よく燃えさかる暖炉《だんろ》を両ほうからはさんで坐《すわ》っていた。デヴォンシャーへの出張が悲劇的な結末を告げてから、ホームズは二つの重大事件に関係していた。その一つはノンパレル・クラブのカード不正事件に関連してアプウッド大佐の非行をあばいたことで、もう一つというのは、モンパンシエ夫人が義理の娘《むすめ》カレール嬢《じよう》という若い婦人を殺したという疑いを受けたのを晴らしてやった事件で、カレール嬢は殺されたどころか、ちゃんと生きていて、ニューヨークで結婚《けつこん》しているのがそれから六カ月たって判明した。
こうしてホームズはそれからそれと引きつづき、困難な事件に片っぱしから成功しているので、きわめて上きげんであった。だから私はあのバスカヴィル事件に関するこまかい点の説明を聞きだすことができたわけである。
じつをいえば新しい事件に没頭《ぼつとう》している際に、過ぎ去った事件の話など持ちだして、眼前の仕事のさまたげをされるのを彼《かれ》はひどくきらって、絶対にそういうことはしないという約束《やくそく》になっていたし、それに話をもちだしてみたところで、明晰《めいせき》で理論的な彼の精神を、現在の仕事からひきはなすのは不可能だと思われたから、私はしんぼう強く機会のくるのを待っていたのである。ところがちょうどその日の午後に、ヘンリー卿《きよう》の保養のため漫遊に旅だつのだといって、モーティマー医師が卿を同伴《どうはん》して私たちを訪ねてくれたので、うまく話題がそっちへ落ちていったのである。
「ああ、あの事件のいきさつかい」ホームズは燃えあがる暖炉の火をながめながらいった。「あれはステープルトンと名のっていた男の立場から見れば、すこぶる簡単で直行的《ちよつこうてき》なものだったのだが、僕《ぼく》たちにしてみればはじめは、あの男の行動の動機というものを知るわけもなく、結果の片鱗《へんりん》を見るだけだったのだから、非常に複雑な事件のように思われたのだ。僕はステープルトン夫人に二度あって話をしたから、なにもかも明瞭《めいりよう》になって、いまでは何ひとつわからないことはない。索引《さくいん》つきの書類つづりの中のBの部に、ちょっとした覚え書きもあるはずだ」
「覚えているだけでいいから、ひと通り話を聞かせてくれたまえ」
「いいとも。しかしすっかり覚えているかどうかな。強い精神集中作用を得る要領は、なんでも過ぎ去ったことは忘れてしまうことだからね。事件に精通してたくみに弁論した弁護士でも、その事件がすんでしまったら、一、二週間も法廷《ほうてい》に出入りしているうちに、あれほど通暁《つうぎよう》していた事件の内容を、ことごとく記憶《きおく》の外へたたきだしてしまうものだ。僕は古い事件はつぎつぎと忘れてしまうことにしているんだ。現在はカレール嬢がバスカヴィルの記憶をすっかり曇《くも》らせている。明日はまた何かほかの事件が、あの美しいフランス婦人や、にくむべきアプウッドを記憶から洗い落とすことだろう。まあ思いだせるだけ話してみようが、もし忘れていい落とすようなことでもあったら、遠慮《えんりよ》なく注意してくれたまえ。
先祖の肖像画《しようぞうが》はやっぱり偽《いつわ》らなかった。調べてみたらステープルトンはバスカヴィルの血を受けていることがわかった。あれはチャールズ卿の弟のロジャー・バスカヴィルの子だったのだ。ロジャーはさんざんな悪評にいたたまれなくなって南アメリカへ逃げ落ち、そこで独身のまま死んだことになっているが、ほんとうはちゃんと結婚して一子をもうけたのだ。
この子は父親とおなじロジャーという名まえだが、中央アメリカのコスタリカでベリル・ガルシアというスペイン系の美人と結婚して、相当な額の公金を拐帯《かいたい》して、名前をヴァンデリュルと変えて、イギリスへ逃げかえり、ヨークシャーの東部で私立学校をおこしたのだ。妙《みよう》な仕事をはじめたものだと思うだろうが、これは帰りの船の中で偶然《ぐうぜん》、肺病もちの教育家と知りあって、この男を利用して一仕事しようともくろんだ結果なのだ。ところが学校がしだいに隆盛《りゆうせい》になりかけたところで、フレーザーというその肺病もちの教育家が死んだので、学校の評判がぐっと落ちてしまった。
そこで夫婦《ふうふ》相談の上またしても名前をステープルトンと変えて余財をまとめ、将来の方針を決めてその地を立ちのくことになったが、昆虫学《こんちゆうがく》に趣味《しゆみ》のあるところから、あの南部地方へ落着くことになったのだ。大英博物館で調べてきたことだが、ステープルトンは昆虫学では一家をなした権威者《けんいしや》で、ことにヨークシャー時代に発見して学界に報告した蛾《が》には、彼の名誉《めいよ》のためヴァンデリュルの名を冠《かん》したのがあるそうだ。
ここまでは少し余談めいているが、これからがわれわれにとってもっとも興味のあるところだ。もちろん彼は自分の家系についていろいろ調べてみて、二人の人物――チャールズ卿とヘンリーというものさえなければ、あの大きな資産と領地は自分のものになるということを知ったのだ。デヴォンシャーへいったころは、計画といってもきわめて漠然《ばくぜん》としたものだったと思うけれど、それにしても初めからよからぬ考えを持っていたことだけは確実で、妻を妹といつわって連れていったのでそれはわかる。こまかい点は具体的な計画もできていなかったろうが、妹を、いや妻を囮《おとり》につかうことだけは考えていたのだろうね。最後はバスカヴィル家を乗っとるつもりで、そのためには手段をえらばず、危険もおそれずという覚悟《かくご》だったのだ。まず第一にできるだけ先祖伝来の家に近いところに居をさだめて、次にチャールズ卿以下村の人たちと交際をむすぶことに取りかかった。
ところがチャールズ卿は、自分のほうからステープルトンに、バスカヴィル家の犬物語の伝説を話してきかせたのだから、なんのことはない自分の墓穴《ぼけつ》を掘ったことになる。ステープルトンは――この名で呼んでおくことにするが――老卿の心臓がたいへん弱いのを見てとり、すこし驚かしてショックをあたえれば、容易に殺せると見ぬいたのだ。そのへんのことは、モーティマーにあたって確かめもしたが、同時にチャールズ卿が迷信家《めいしんか》で、あの伝説をひどく気にしていることも知った。そこで機敏《きびん》なあの男は、チャールズ卿の生命をちぢめる方策をすぐに案出した。うまいことを思いついたものさ。まったくあれほど巧妙《こうみよう》な殺人法はちょっとないからね。
ことがそう決まると、きわめて手際《てぎわ》よくそれの実行にかかった。普通《ふつう》の人物ならばここでただの猛犬《もうけん》を使うところだが、それをあの男はいっそうものすごくするため、さらに一段と工夫をこらしたところに、悪いことにかけて天才的なひらめきがみえる。犬はロンドンのロス・エンド・マングルズといって、フラム街にある畜犬商《ちくけんしよう》から買ったものだ。当時その畜犬商の持っていた中で、いちばんの猛犬をえらんだのだ。そしてまっすぐに連れて帰れば、すぐに発見されるおそれがあるから、北デヴォンシャー線の汽車ではこんで、非常な大回りをして沼沢地の裏側から、遠いところを歩いて帰ってきたのだ。もちろんそのころは、昆虫採集のためグリンペンの大底なし沼《ぬま》をわたって島へゆく路《みち》を発見していたから、これ幸いとそこへ隠して、いろんな準備をすすめながら、機会のくるのを待っていた。
ところがいい機会がなかなかこない。いろいろにして誘《おび》きだそうとしてみるが、チャールズ卿は日が暮れるとけっして館《やかた》から一歩もふみださない。ステープルトンは館のまわりを犬を連れて幾夜《いくよ》むなしくうろついたことだろう。そうした失敗をくりかえしているうちに彼が、いや彼の犬がたびたび百姓の眼《め》について、ちかごろバスカヴィル家の地《じ》獄犬《ごくいぬ》が出るといううわさがたつようになった。
ステープルトンの考えでは、妹に仕立ててある妻に、何とかしてチャールズ卿をおびき出させようとするのだが、意外にも妻がいうことを聞かない。老紳士《ろうしんし》の心の琴線《きんせん》をくすぐって、破滅《はめつ》においやるのはいやだというのだ。おどかしてみたり、ときにはかわいそうに手荒《てあら》なこともしてみるが、どうしてもいうことを聞かない。そんなことに荷担《かたん》するのはごめんだというのだ。ステープルトンははたと行きづまってしまった。
いろいろ頭をなやましているところへ、うまい話がとびこんできた。何かというと、チャールズ卿が、むろんそのころはすでにだいぶ親しくなっていたからでもあるが、ローラ・ライオンズの不幸を救うためステープルトンに代理をたのむことになったのだ。そこでステープルトンは独身をよそおって、ローラを完全に手にいれてしまった。ローラが現在の良人《おつと》とうまく離婚《りこん》ができたら、あらためて結婚しようといううまい話をにおわせたんだね。
ところがそこへたいへんな問題が突発《とつぱつ》した。チャールズ卿がモーティマー医師の意見にしたがって、しばらくロンドンへゆくことになったのだ。行かれてはことが面倒《めんどう》になるから、すぐ着手しなければならない。そこでローラ・ライオンズに命じてむりやりにあの手紙を書かせたのだ。そしてそれを出しておいてから、もっともらしい話でせっかく申しこんだ会見にゆかせないで、ついに待ちに待った機会をつくりあげたのだ。
その晩クーム・トレーシーから馬車をとばして帰ると、さっそく例の犬を連れだして燐をなすりつけ、チャールズ卿の出てくるはずの小門までひいていった。卿が出て来ると嗾《け》しかけたものだから、犬は小門を跳《おど》りこえてそのあとを追いかけた。ああいううす気味わるいほど立木の覆《おお》いかぶさったトンネル路で、大きなまっ黒い怪物《かいぶつ》が口から焔《ほのお》をはき、火のような眼をして飛びだし、あとを追われてみたまえ。チャールズ卿でなくたってワッといって逃げだすにきまっているよ。それで並木のはじまで逃げてついに倒《たお》れたのさ。
犬は追っかけるとき、路のまんなかを通らないで芝《しば》の上を走ったから、あの路には足跡が残らなかった。倒れたチャールズ卿をかいでみて、死んでいるのでどうもしないで戻《もど》っていった。そのとき少し足跡を残したのを、あとでモーティマーが見たのだろう。
ステープルトンは犬をよび戻して、いそいでグリンペンの大底なし沼の中の島へ連れていって隠してしまったから、事件は警察をなやますことになり、土地の人のうわさをよび、どうにもならなくなり、ついにわれわれのところへ持ちこまれることになったのだ。
チャールズ卿が死んだときの事情は、これで明らかになったと思うが、じつに巧妙なやり口だね。これを他殺だと見やぶるのすら、ほとんど不可能なんだからね。唯一《ゆいいつ》の共犯者は畜生のことだから、秘密をもらすおそれは絶対にないし、だいいちやり口そのものが常人の想像もおよばないほどグロテスクだから、いっそう効果的でもあった。
もっとも細君とローラ・ライオンズとがステープルトンのすることに、つよい疑惑《ぎわく》をいだいていたのは事実だ。細君はステープルトンがチャールズ卿に対して何かよからぬことを企《くわだ》てているということと、犬の隠してあることは知っていたろうし、ローラはそれは知らないにしても、ステープルトンだけしか知らないはずの、例の不履行《ふりこう》におわった約束《やくそく》の時刻に、おなじ場所でチャールズ卿が死んだということについては、何かしら疑惑をいだいたにちがいない。しかしこの女たちは二人ともステープルトンに完全にあやつられているのだから、彼としては少しも心配する必要はなかった。これでステープルトンとしては、まず第一の問題だけは解決できたわけだが、より困難な第二の問題がひかえていた。
というのは、チャールズ卿の推定相続者がカナダに現存するということは、ステープルトンとしては初めは知らなかったにしても、まもなくモーティマー君からそのことを聞いて知ったにちがいない。そこでいよいよヘンリー卿が帰ってくることに決まると同時に、こいつはデヴォンシャーまでこないうちに、ロンドンで片づけてしまえると最初は思ったろう。ところがチャールズ卿のとき、あの老紳士をおびきだすのを断わられてからというもの、ステープルトンは細君を少しも信頼《しんらい》できなくなって、自分が長くロンドンへ行って細君をひとり残しておいては、その間にどんなことで細君が逃げだすか、それとも裏切られはしないだろうかと案じられた。そこでやむなく細君を連れてロンドンへ出ていったのだ。
ロンドンでの宿はクレーヴン街のメキスボロという特《*》定ホテル【訳注 知人か被紹介者以外の者は泊めない】だった。これは証拠をつかむため、僕の配下が訪れたホテルだ。そして彼はあごひげなどで変装《へんそう》して、モーティマー医師をここまで尾行《びこう》してみたり、ヘンリー卿の着いたときは駅へも行ったし、ノーサンバランド・ホテルへ尾行したりして出歩いている間、細君はホテルの居間に監禁《かんきん》しておいたのだ。
細君のほうでも良人の計画をうすうす知ってはいるが、恐ろしさ――残酷《ざんこく》な目にあうのが恐ろしくて、あえて警告の手紙も書けなかった。手紙を書いているところを良人に見られでもしようものなら、細君の生命も決して安全とは保証できないのだからね。そこで君も知っているとおり、例の鋏《はさみ》と糊《のり》で警告文をつくりあげて、筆跡を変えて上書きも書きあげた。そいつがヘンリー卿の手に入った最初の警告なのさ。
しかしステープルトンは犬を使うとすれば、臭《にお》いをかがせて跡をつけさすため、どうしてもヘンリー卿の身のまわりのものを何か手にいれる必要がある。そこであのとおり大胆《だいたん》に、機敏にも二度まで靴をとったわけだが、これはホテルのボーイかメイドに鼻薬でもやったのに違いない。初めのは新品で役にたたないものだから、それを返して古いのととりかえたのだ。ここが最も興味あるところだ。このことがあってから僕は、事件には現実の犬が関係しているなと見当をつけた。新しい靴には用がなくて、古い靴がぜひほしいというのは、そうとしか考えられないじゃないか。事件が怪奇であればあるだけ、いっそうふかく注意してみる価値がある。事件のもっとも困難だと思われる点に、十分考察をくわえ、科学的な分析《ぶんせき》をほどこしてみるのが、もっとも早く全体を明らかにする道なのだ。
それから次の朝、ヘンリー卿とモーティマー医師がここへ訪ねてきたが、あのときもステープルトンは馬車で尾行してきた。ステープルトンはこの家を知っていたり、僕の名も心得ていたりするところから、またそのほかいろいろの彼《かれ》の行動から考えてみて、イギリスへ帰ってきてからの彼の犯罪は、決してバスカヴィル事件ばかりじゃなかろうと思う。考えてみるとこの二、三年に、西部イングランド地方で四つほどの大きな盗難《とうなん》事件に、まだ犯人が逮捕《たいほ》されていない。最近のはこの五月のフォークストン・コートの事件だが、声をたてた給仕を覆面《ふくめん》した単独の夜盗がピストルで射殺して逃げたのだ。こいつがどうもステープルトンじゃないかと思う。ああいう男のことだから、生活が苦しくなると、ときどきそんなことをやっていたので、いっそう気持がすさんでいたのではないかねえ。
彼のわる知恵《ぢえ》が発達していることは、あの朝僕たちの尾行をたくみに振り切って逃げたのでもわかるし、御者《ぎよしや》を僕が調べるだろうと予測して、ちゃんと僕自身の名をいっておいたなどは、じつに頭の機敏なところを示しているじゃないか。あれ以来僕が事件を引き受けたのを知って、ロンドンではとても手をくだす機会がないと見てとったので、ダートムアへ帰ってヘンリー卿の到着《とうちやく》を待つ気になったのだ」
「ちょっと、ちょっと待ってくれたまえ」私はいそいで割りこんだ。「君の話で前後の関係はよくわかったが、一つだけ腑《ふ》におちないことがあるんだ。ステープルトンがロンドンへ出ている間、犬はどうしといたのだろう?」
「そのことも一応調べてみたよ。たしかに重大な問題だからね。もちろんこれには共犯者があったのだ。もっともあの男のことだから、秘密をすっかり打ちあけて、弱点を握《にぎ》られるようなことはしなかったろうがね。
メリピット荘《そう》には、アントニーという老僕がいた。この男とステープルトンとの関係は、もう五、六年にもなるがヨークシャーで学校をはじめたころからのことだ。したがってアントニーは主人たちが兄妹といっているが、じつは夫婦であることも知っていたのさ。あの老僕はあれっきり逃亡《とうぼう》して、行方《ゆくえ》が知れなくなった。
だいたいアントニーというのはイギリスにはあまりない名だが、アントニオならスペインや|ラ《*》テン・アメリカ【訳注 コスタリカはラテン・アメリカの一共和国】ではごく普通の名だ。といえば話はわかるだろう? アントニーもステープルトン夫人におとらず英語はうまかったが、二人ともどうかするとアクセントの怪《あや》しいことがあった。僕はこのアントニーが例のステープルトンの発見した路《みち》を通って、グリンペンの底なし沼の中の島へわたるところを、目撃《もくげき》したことがあるのだ。だから主人の留守中はあの男が犬の世話をしていたのだ。ただ何のためにそんなものを飼《か》っているのか、真の目的は知らなかったろうがね。
それでステープルトンがデヴォンシャーへ帰るとまもなく、君はヘンリー卿たちについて館へはいったわけだが、それから先はご承知の通りだ。ただ一つその間僕がなにをしていたか、それをいっておこう。
あのとき貼《は》りつけ細工の手紙を僕が非常に綿密に調べたのを覚えているだろう? あれを眼のそばへもってきてよく調べていると、白ジャスミンという香水《こうすい》のにおいがかすかにするのに気がついた。いやしくも探偵《たんてい》だというからには、かならず鑑別《かんべつ》できなければならない香料が七十五種ある。僕の経験からいっても、においを敏速に鑑別し得たために事件が解決したことは二度や三度でない。でこの場合にも事件の関係者の中に香水をつかう婦人のあることに気がついたから、僕はいよいよステープルトンに目星をつけたのだ。
そういう次第《しだい》で、僕はデヴォンシャーへゆかないうちから、この事件には現実の犬がいることも知っていたし、犯人の目星もちゃんとつけていたわけだ。
それからの僕の仕事は、ステープルトンを見張ることだった。しかし見張るといっても、君といっしょに行ったのでは、向こうがすぐに用心するから、なんの役にもたちはしない。そこで僕はうそをついた。もちろん君もだましたさ。ロンドンにいるような顔をして、そのじつずっと沼沢地《しようたくち》へいっていたのだ。
しかし君が心配してくれるほど僕は困りはしなかったよ。それにこまかな不便や不快を苦にしていやがるようじゃ、この仕事はできやしないからね。ふだんはクーム・トレーシーにいて、必要に応じて、沼沢地へ出かけていったのだ。カートライトを連れていったが、田舎《いなか》の少年に変装して、じつによく働いてくれた。食物や着がえのシャツなど、みんなあの子が運んでくれたのだ。そして僕がステープルトンを見張っているときには、カートライトはちょいちょい君を見張って、僕がつねにあらゆる方面に接触《せつしよく》をたもっていられるようにしてくれた。
いつかも話した通り、君の報告はベーカー街から直接クーム・トレーシーへ回してもらったから、敏速に僕の手に入って、大いに役にたったものだ。ことにステープルトンの経歴に関する一項なんか、僕の調べたのとぴたりと一致《いつち》して、僕の方針を決めるのに大いに役にたった。あいにくとセルデンなんていう奴《やつ》がとびこんできて、その上それがバリモアとからまったため、事件はひどく混雑してきたが、この点も君の報告で解決ができた。もっともあれは結局おなじ結論に達するまで、僕のほうでも調べはすすんでいたがね。
というわけで、沼沢地で君に見つかったときは、僕には事件の内容はすっかりわかって、陪審団《ばいしんだん》を納得《なつとく》させるための証拠《しようこ》だけ手に入れればよいことになっていたのだ。あの晩ステープルトンは、かわいそうにセルデンをヘンリー卿と誤認《ごにん》して殺してしまったが、あのこともただあれだけでは、ステープルトンが殺したのだという証拠にはならない。動かぬ証拠を握るためには、現場を押《お》さえるしかないと思ったから、やむなくヘンリー卿を利用して、孤独無援《こどくむえん》と見せかけてステープルトンを釣《つ》りだしたのさ。
もっともそのために、肝心《かんじん》の事件|依頼者《いらいしや》たるヘンリー卿に、あんなひどい精神的ショックをあたえはしたけれど、ステープルトンを自滅に追いこんで、ともかくも事件は解決した。ヘンリー卿をあんな目にあわせたことについては、僕も責任を感じるけれども、あんな恐《おそ》ろしい猛犬《もうけん》が現われるとは夢《ゆめ》にも思わないし、それにおりあしくあんな濃霧《のうむ》がおりて、いきなり眼の前に飛びだすまで、犬が見えないようなことになろうとは、誰《だれ》だって予想もしないことだものね。
この事件に成功した裏には、ヘンリー卿の大きな犠牲《ぎせい》があったけれど、あの病状も一時的なもので、じきに健康を回復できるとは、モーティマー医師も立会いの専門医も断言している。しばらく漫遊《まんゆう》をつづけているうちには、からだもよくなるだろうし、それに例の心の痛手も忘れられることだろう。ヘンリー卿のあの婦人に対する愛情はまったく熱烈《ねつれつ》なものだった。卿としてはこんどの事件でいちばん悲しかったのはあの婦人にあざむかれたことだろう。
あとはステープルトン夫人の役割だけいえば終りだね。いったいステープルトンという男が、細君に対しておそろしく強い影響力《えいきようりよく》を持っていたのは明らかだが、それは細君のほうからいえば良人《おつと》を愛していたためなのか、それとも恐れていたためなのかはわからない。この二つの感情は両立し得ないものではないから、むしろ両方だといったほうが正しいかもしれない。影響力が絶対のものだったことだけは間違いない。現に彼の命令で妹に化けることまで承知したくらいだからね。しかし絶対とはいってもその影響力に限度のあることは、殺人の助力をさせようとしたとき拒《こば》まれて以来、ステープルトンも気がついていた。
細君のほうでは累《るい》を良人におよぼさない範囲《はんい》で、できるだけヘンリー卿に警告をあたえたいと考え、再三それを実行にうつした。ところがステープルトンはかえって嫉妬《しつと》を感じて、卿が細君にいいよろうとすると、それが自分の思う壺《つぼ》であったくせに、気が狂ったようになってどなりたてないではいられなかった。上手に猫《ねこ》をかぶってはいたが、そこに内心の怒《おこ》りやすさを暴露《ばくろ》したといえよう。それでもとにかく親密の度を増してゆけば、卿もちょいちょいメリピット荘へくるようになるだろうし、遠からず待望の好機はくるものと見ていたのだ。
ところがいよいよその機会のきた日に、細君が急に反旗をひるがえした。それはセルデンの死から何かを感づいていた矢先、ヘンリー卿が夕食に招かれてくることになり、しかも例の犬が物置に連れこまれたのを知って、ステープルトンにむかって悪事を思いとどまってくれと責めた。それからははげしい口論となったが、そのときステープルトンは初めてローラのことを口にし、細君を侮辱《ぶじよく》した。そうなるとさすがの細君もはげしい憎悪《ぞうお》を見せたので、ステープルトンは裏切りの危険を感じ細君をしばりあげて、万一にも卿につげ口をされない用心をした。ステープルトンの考えではもちろん、予想の通り土地の者が卿の死を例の魔《ま》の犬の呪《のろ》いだと信じたあとで、一つの既成事実《きせいじじつ》として事後承諾《じごしようだく》の形で細君に沈黙《ちんもく》を強《し》いるつもりだったのだろう。
しかし僕の考えでは、この点でステープルトンは誤算をやっていたと思う。あの場合僕たちがいなかったとしても、彼の罪業《ざいごう》は決して発覚せずにはすまなかったろう。いったいあの細君のようなスペイン系の婦人は、そうした悪行にやすやすと眼をつぶっているものではないからだ。ところでワトスン君、これ以上は僕もそらではおぼえていないが、なにか重要な点をいいもらしたかね?」
「ヘンリー卿はチャールズ卿と違って、おばけ犬を見ただけで生命をおとすとは思えないがどうだろう?」
「あの犬は獰猛《どうもう》な上にうんと餓《う》えさせてあったのだからね。それにヘンリー卿は見ただけで驚死《きようし》するようなことはなかったにしても、少なくとも飛びつかれたとき抵抗《ていこう》する気力はなくしていたろうからね」
「それはそうだ。しかしもう一つだけ問題があるよ。ステープルトンはいよいよバスカヴィル家を継《つ》ぐことになったとき、後継者《こうけいしや》の一人でありながらそれと名のりもせず、変名で、しかも先祖伝来の家のすぐそばに住んでいたということを、何といって世間に弁明するつもりだったろう? 世間の疑惑を受けずに、うまくそこを切りぬけられる自信があったのだろうか?」
「それはおそろしく困難な問題だね。そこまで僕に説明させようとするのは無理というものだ。僕が相談を受けて調べるのは、過去から現在までの範囲だ。将来人が何をするかは僕にも予断はできないからね。しかしステープルトン夫人は、夫がその問題について論ずるのをしばしば聞いたそうだ。方法はまず三つあるという。その一つはまず南米へ走って、そこで相続権を要求する。そしてその地のイギリス当局の身許《みもと》証明をとって、イギリスへは帰ってこないでそのまま相続してしまうのだ。第二の方法はしばらくロンドンへ出て、そこで巧妙《こうみよう》な変装をして、あらためてダートムアへ乗りこむのだ。第三の方法としてはかえ玉をひとりつくって、それに必要な書類をわたして相続させ、その男からあらためて分配をとるのだ。いずれにしてもああいう頭のはたらく男のことだから、何かの方法で難関を突破《とつぱ》し得たに違いなかろう。
ねえワトスン君、われわれは数週間もはげしく働いたのだから、ここいらでひと晩、精神的休養をとろうじゃないか。僕は『|ユ《*》グノー教徒』【訳注 マイヤベーア(独)の歌劇】の切符《きつぷ》を持っている。君は|ド《*》・レシュケ【訳注 ポーランド人のテナー。一八五〇―一九二五】をきいたことがあるかい? じゃ三十分のうちに支度《したく》しないか。出がけにマルチーニへよって軽く夕食をとってゆこうよ」
[#地付き]―一九〇一年八月から一九〇二年四月まで『ストランド誌』へ分載―
[#改ページ]
解説
[#地付き]延原 謙
ここに訳出したのはホームズ物語の最大の長編 The Hound of the Baskervilles である。ドイルはこの作を一九〇一年から翌年にかけて『ストランド誌』に連載《れんさい》している。これは「緋色《ひいろ》の研究」と「四つの署名」はべつとして、「冒険《ぼうけん》」と「思い出」の二冊の短編集を書いたばかりのときである。つまりドイルとしては初期の作といえる。(最後の作品は一九二七年の短編「隠居《いんきよ》絵具師《えのぐし》」である)それまでの長編が二つとも(その後に書いた「恐怖《きようふ》の谷」もそうであるが)第一部第二部という形式をとっているのに、この作だけはそうなっていない。それでというわけでもないが、多くの評者がこの作をもって長編ホームズものの首位におくばかりでなく、世界|探偵《たんてい》小説のベストテンの一つに数えている。
試みにクイーンの選んだベストテンをみるに、この作に先んじて書かれているのは、わずかにポウの「モルグ街の殺人」とコリンズの「月長石《げつちようせき》」が出ているくらいのものである。それまでアフリカものなど書いていたフリーマンが初めて探偵小説を書いたのが一九〇七年の「赤い拇指紋《ぼしもん》」である。チェスタトンにいたっては一九一〇年以後のことである。
いったい探偵小説には叙景《じよけい》がきわめて少ないのを普通《ふつう》とする。なかには叙景は不必要なばかりか、謎《なぞ》を追及《ついきゆう》する気分を壊《こわ》すから有害だと極論する評家もある。是非《ぜひ》はしばらくおくとして、必要最小限度にとどめるのが普通のようである。
しかるにこの作は、西部イングランドの特殊《とくしゆ》地帯の叙景がかなり詳《くわ》しく出ている。というよりも叙景がプロットと渾然一体《こんぜんいつたい》をなしているともいえるのである。最後の場面などは濃霧《のうむ》という小道具までもちだして効果満点、肌《はだ》に粟《あわ》を生ぜしむるものがある。
叙景といえば「緋色の研究」の第二部や、「恐怖の谷」の第二部なども叙景は多いのだが、この作の場合はこの特殊地帯をつかって、一種の密室効果を出していることにも注意すべきであろう。なおこの作はドイルがある人からこの地方の伝説を聞いたことが動機となって組立てられたといわれる。
ドイルは三十数年間にわたってシャーロック・ホームズ物語を書きつづけ、その作品はいま短編集五冊長編四冊として残っているが、その愛読者会はいまでも世界の各地に結成されているけれど、生前の熱狂的歓迎《ねつきようてきかんげい》はものすごいほどであった。その端的《たんてき》な現われはホームズを実在の人物と思いこむことで、なかには、ホームズの住んでいることになっていたベーカー街二二一番Bの家をさがしにゆく人も少なくなかった。イギリス人のなかにもそれが少なくなかったといわれている。ところがベーカー街に二二一番という家は現存しないのである。もっともこれは市区改正でこの番号がなくなったのだという説もあるが詳《つまびら》かでない。
それはよいとして作者のドイルがホームズと混同せられるので、閉口させられるばかりか、ときには迷惑《めいわく》することもあったといわれる。実際の犯罪事件の捜査《そうさ》をドイルのところへ持ちこんでくるのである。なかには遠隔《えんかく》の地から手紙で、作品の出た『ストランド誌』気付で申しこんでくるものもあった。ここには犯罪とは関係がないけれど、読者のいたずらを一つ紹介《しようかい》しておこう。ドイルの回想録のなかに出ている話である。
あるときドイルが行きつけの撞球室《どうきゆうしつ》へ出かけてゆくと、ボーイが、これをドイルさんへといって置いていった人があると、小さな紙包みをさしだした。あけてみるとチョークが一個はいっていたので、ドイルはどこの方だか知らないがと、喜んでそれを使うことにしチョッキのポケットに入れた。
その後球を撞《つ》くたびにドイルはそのチョークを出して使っていたが、それから数カ月たってそのチョークを使っていると、ポロリと潰《つぶ》れてしまった。よく見るとそのチョークは中空になっていて、なかに小さな紙たまがはいっている。なんだろうと思って、ひろげてみると、なにやら字が書いてある。読んでみると、「アルセーヌ・ルパンよりシャーロック・ホームズへ」。念のいったいたずらをする人もあるものである。
[#地付き](一九五四年五月)
改版にあたって
この度《たび》、活字を大きく読みやすくするに当たり、新潮社の意向により外国名、外来語のカタカナ表記の正確、統一を図《はか》ることになった。訳者が一九七七年に没《ぼつ》しているため、訳者の嗣子《しし》である私がその作業に当たったが、現代においてはあまりに難解な熟語や、種々の古風すぎる表現も多少改め、不適当と思われる訳文を修正した。
あくまでも原文に忠実にを基本に置き、物語の背景であるヴィクトリア朝の持つ雰囲気《ふんいき》を伝える程度の古風さは残したいと考えつつ、もとの訳文の格調を崩《くず》さぬよう留意して作業したつもりであるが、読者諸氏の御理解を得られれば幸いである。
改訂《かいてい》に当たり、訳者の姪《めい》である成井やさ子、および、新潮文庫編集部の協力を得たので、ここに謝意を表する。
[#地付き]延原 展
[#地付き](一九九〇年四月)