TITLE : ドイル傑作集 冒険編
ドイル傑作集 W 冒険編
コナン・ドイル 延原 謙 訳
目 次
ヒラリ・ジョイス中尉の初陣
ガスタ山の医師
借りものの情景
アーケーンジェルから来た男
ブラウン・ペリコード発動機
開かずの部屋
解  説
ヒラリ・ジョイス中尉の初陣
マーディ主義(一九世紀末にエジプトの英領地方を風びした宗教運動、一時革命をおこした―訳者)が大湖地方やダーファ(英領エジプトの一地方―訳者)地方から国境線まで広がり、最高潮に達してからやがてやや平静の気配の見えてきたころの話である。ぼっ発のころは恐ろしい勢いであった。まずヒックス軍を席巻し、ゴードンとカートゥムを攻略して、イギリス軍がナイル河沿いに退却するのよりも早く後方にまわり、アスワン(エジプト北方の一地区―訳者)の近くまで北上してきた。それがこんどは東西にのびて一方は中央アフリカ、一方はアビシニア(現在のエチオピア―訳者)までのび、少し引いてエジプト領内に留まった。この退潮期は十年ほどつづき、そのあいだ前線の守備隊員たちはただドンゴーラ(イギリス領エジプトの一地方―訳者)のはるかなる青い丘を望見するのみであった。丘にたなびく紫のかすみのかなたにこそは、血と恐怖の土地があるのだ。ゴムと象《ぞう》牙《げ》の物語りに魅せられた冒険家たちが時おり、もやにとざされたこの山丘地帯へはいってゆくが、帰ってきたためしがない。一度は不具になったエジプト人が、一度はギリシャ女が、飢えと恐怖に半死半生の姿となり、前線にたどりついたことがある。暗黒の土地から帰ってきたのは、この二人きりであった。夕陽が遠いかすみのたなびきを紅にそめることがあると、山々は血の海に浮かぶ島のように、黒々とみえるのであった。ワディ・ハルファ(イギリス領エジプトのスーダンのナイル沿岸の商都―訳者)のとりでのある小山のうえからみると、南の空に浮かぶ恐ろしい象徴とも見られるのであった。
カルトゥムでの押えがたい渇望の十年、カイロでの黙々たる十年、かくしてすべての準備がととのい、文明が再び南方へと旅をなし得る時機となり、軍用列車で出かけられるようになった。準備万端、最後のラクダの背にのせる最後の荷物までととのった。だが憲法にそわない政府ゆえの利点もあって、だれ一人それに気のついたものはなかった。一人の偉大なる為政者に説得され、統御されおだてられたのだ。そして一人の偉大なる軍人によって組織され、計画されて、ピアストル(トルコの貨幣単位、四セントくらい―訳者)がポンドほど有効に使われたのだ。それからある夜、この二人は会合し、手を握りあったが、そのあとで軍人のほうは用務をおびてどこかへ姿を消していった。ちょうどそのころ、イギリス歩兵マーロウ連隊を解任されたヒラリ・ジョイス中尉が臨時第九スーダン隊付きとなって、カイロへ初めて姿を現わしたのである。
大きな名声は東方諸国においてのみ得られるものだというのはナポレオンの言であるが、ジョイス中尉もこれは心に留めていた。今や彼はブリキ製のカバン四つとウイルキンスン・サーベルと、ボンドのざら弾ピストルと、それにグリーンの「アラビヤ研究入門」一冊をもって、その東方の国へやって来たのだ。このような発足と、全身に若い血がみなぎっているのだから、前途は易々たるものに思えた。将軍のことは前から耳にして多少おそれてもいたし、若い将校にはきびしいという評判に少しおじけてもいたが、それとても機知と丁寧な応対とで何とか切りぬけてゆけるだろうと思っていた。だから荷物をシェパード・ホテルへあずけると、自身司令部へと出頭した。
司令官は何かの用件で出張中とのことで、応対に現われたのは情報長であった。背のひくい、目鼻だちのはっきりした将校で、やさしい声音と平静な顔つきはしているが、内面には鋭い精力的な精神を包んでいるらしかった。静かに微笑しており、態度も明朗ではあるが、これでいて東方国民のこうかつ極まる謀略をうち砕いてきたのだ。タバコを指にはさんだまま、彼は新来の客の前に立った。
「貴官が到着したのは聞いておる。残念ながら長官はご不在です。前線のほうへ行かれたのでね。」
「自分の連隊はワディ・ハルファにおるはずであります。ただちにそちらへ参るべきでありましょうか?」
「いや、別命が出ておる。」と壁の地図のところへジョイスをつれてゆき、タバコのさきで差し示しながら、「これを見たまえ。ここがクルクールのオアシスだ――少しさびしいが、空気はよろしい。貴官はただちに出発し、できるだけ早くこの地へ行ってもらいたいのだ。ここには歩兵第九中隊と騎兵が半個大隊いるはずだ。貴官はその指揮をとることになる。」
ジョイス中尉は二本の黒線の交差点にしるされたその地名をながめた。そこから数インチ(一インチは二・五四センチ―訳者)はなれたところに黒い点がついている。
「村落でありますか?」
「いや、井戸のある記号だ。いい水ではないようだが、天然ソーダ水だから、じきなれるさ。ここはキャラヴァンの通路の交差地点でね、重要なところだ。貴官も知っているように、あらゆるキャラヴァン路は往来禁止になっているのだが、それでも何者がやってくるか、予断はゆるされない。」
「敵襲を防ぐのがわが隊の任務でありますか?」
「いや、ここだけの話だが、敵襲らしいものはまったくない。密使や伝令の通るのを防止するくらいが任務だ。彼らはどうしても水辺に立ちよる必要がある。もちろん貴官は着任したばかりだから無理だが、それでも今のところ民心が安定しとらんくらい、察しとるじゃろう。カリーファ(一八四六―一八九九年。マーディ主義の首領―訳者)はいま同志と連絡をとろうとしておる。それにセヌーシ(回教徒の首領、一七九一―一八五一―訳者)にも似たような動きがある。」とタバコを西のほうへ振って、「カリーファはこの路から密使を送りこむかも知れん。とにかく貴官の任務は、この地点を通過せんとするものをことごとく捕え、よく取り調べてから釈放するにある。貴官はアラビヤ語には通じとらんじゃろうな?」
「いま勉強ちゅうであります。」
「よしッ! あっちへ行けば、勉強する時間は十分ある。土民出身の将校もいるが、アリ何とかというのと、ほかにも英語を話すのがいるから、通訳にことは欠くまい。ではさようなら――貴官から申告のあったことは閣下に申し伝えておく。できるだけ早く任地へ行くことだな。」
バリアーニ(エジプト中部、ナイル河岸の町―訳者)までは汽車があった。そこからアスワンまでは郵便船。それからアバダ族の土人を案内人にラクダの背でリビヤ沙《さ》漠《ばく》を横断し、三頭の荷物用ラクダを一列に後にして、腹だたしいまでのんびりした足どりで進んだ。しかしながら一時間二マイル半というとじれったいようだけれど、時がたてば積みかさなり、三日目の夕がたにはジェベル・クルクール(ジェベルは山の意のアラブ語―訳者)とよばれる岩だらけの丘に着き、ジョイス中尉はそこから遠くヤシの樹の群がる一点を見おろしていた。そして恐ろしい黒と黄いろの世界にあるその緑いろの一団をながめて、こんなに美しい色彩があったのかと目を輝かせたのである。一時間もするとこの小さなキャンプに乗りつけていた。歩《ほ》哨《しよう》が現われて敬礼し、土民出身の部下たちもりっぱな英語で挨《あい》拶《さつ》したので、気分がすっかり落ちついてきた。
ここは長く陽気な気分でいられるような場所ではなかった。大きな鉢《はち》がたの、草の生えたくぼ地が一つあって、褐色で塩気のある水をたたえていた。ヤシ樹の茂みもあって、見ているのは美しかったが、もっとも日影を必要とする土地に、もっとも葉の少ないこんな植物をそだてておく自然の皮肉は腹だたしいものがあった。枝を大きくひろげた一本のアカシアだけが、唯一の救いであった。ジョイス中尉はここで暑いあいだは昼寝をし、涼しくなってからスーダン兵たち――四角い肩にひょろ長いすね、陽気な黒い顔と豚肉パイ型の略帽(中折帽の頂部を平らにしたような形―訳者)をかぶった連中を閲兵した。ジョイスは訓練にはきびしかったが、黒人兵たちは教練好きだったので、たちまち彼らの人気を得てしまった。だが、一日はつぎの一日とまったく変らなかった。天候、風景、用務、食事――すべてが同じだった。三週間がすぎると、自分がもう数えきれぬ年月ずっとここにいるような気がしてきた。するとそこへ、この単調さを破るようなことが起こったのである。
ある日の夕がた、太陽の沈みかけたころ、ジョイス中尉は古いキャラヴァン路を、ゆっくり馬を駆っていた。大きな石のあいだの狭い路をくねり登るのは面白かった。地図でみてこれが、はるかなるアフリカ大陸の中心部へと伸びてゆく道の一つだと知っていたからである。数しれぬラクダの隊商が幾世紀にわたって、この道を踏みならしてきたのだ。だからいまは誰も通らずに打ちすてられているけれども、やはり道は道で一フートの狭さで踏みかためられ、この先なお二千マイルもくねり続いているのだ。あの南のほうから旅人がやって来なくなってからもうどれほどになるだろう? 考えながらふと目をあげてみると、一人の男がこちらへ道をたどってくるではないか。
はじめそれは部下の一人であろうかと思ったが、目をこらしてみて、そんなはずはないと分かった。その人物はぴったりした短いカーキの軍服ではなく、アラビア風の長衣を着こんでいた。とても背がたかく、そのうえターバンを巻いているので、巨人のように見えた。頭をぐっとあげて大またに歩いてくる姿は、恐れを知らぬ風体である。
いったい何者であろう、あの未知の国からやって来るこの巨人は? 遊牧民集団のやり持兵の先駆者ででもあろうか? それにしてもどこからこうして徒歩で来られたのだろう? いちばん近い水場だって、ここから百マイル以上はなれているのだ。いずれにしてもクルクールの警備隊は気まぐれな訪問者など歓迎しているひまはない。ジョイス中尉は馬首をたてなおすと、野営地へ駆けこんで警報を発した。そうして二十騎の部下をそろえると、改めて状況視察にと出発したのである。
そういう敵意ある処置をみても、平気で歩みつづけてくる。騎兵隊を目にしたときだけは、ちょっとためらったが、逃がれるすべはないと思ったのか、悪ふざけをする男がよくやるように、いやに平気で歩いてくる。そして二人の騎馬兵に肩を押えられても何の反抗もせず一言も発せず、そのまま二頭の馬にはさまれて、警備隊まで平気で歩いてきた。まもなくパトロール隊が帰ってきた。その報告によると、どこにもダーヴィッシュ(回教の托鉢僧―訳者)のかげもないという。してみるとこの男は一人っきりなのだ。キャラヴァン路から少しはなれたところに、みごとなラクダが一頭死んでいるのが見つかった。それでこの不思議な男がどうやって来たかは判明した。しかしなぜ、どこから、どこへ?――熱心な士官ならそういう質問を発するのが当然であり、その解答も要求すべきであろう。
ジョイス中尉は、ダーヴィッシュは影も見えないというので、失望した。ここで一働きやれば、エジプトにおける初陣を大いに飾れるというものだ。しかし現在のままでも、上官に強い印象を与え得るえがたい機会なのはたしかだ。情報長に自分の働きぶりを見てもらいたいと思っていた。いや情報長ばかりでなく、部下の機敏さを見のがしたことがなく、たるんでいれば厳しく評価するといわれる厳格な長官に、ぜひとも見せたいものと思っていた。いま捕えた男の服装や顔つきを見るのに、なかなかの重要人物らしい。それに卑しい連中なら、あんなに純粋種の騎乗用ラクダは使わないものだ。ジョイス中尉は冷たい水で頭をひやし、強いコーヒーを一杯のんでから、陽よけヘルメットでなく堂々たるトルコ帽をかぶると、あのアカシアの樹の下の尋問所へ出ていった。
二人の黒人伝令を従え、エジプト人の士官を一人ひきつれた自分の姿は、故郷の人たちに見せてやりたいほどに思った。キャンプ・テーブルの前に着席すると、厳重な警戒のもとに捕虜が引きだされた。なかなかりっぱな顔だちで、大胆な灰いろの目と黒くて長いほお髭《ひげ》がある。
「なんだ!」ジョイスはどなった。「この野郎おれに向かってからかい面をしていやがる。」
捕虜の顔がさっと変ったが、ほんの瞬間のことだったので神経的にぴくりとしただけかも知れない。いまはもう典型的な東洋的落ちつきを見せている。
「どこの何者であるか、また何の用事があってこんなところへ来たのか尋ねてみろ。」
土民である士官がそのことを尋ねたが、捕虜は何も答えなかった。ただの例のけいれんのようなものがさっと顔面をかすめただけである。
「よしッ! どうするか見てろ!」ジョイスはかっとなった。「何という無礼なやつだ! 本官に向かってそ知らぬ顔をしておる。貴さまは何ものだ? ありていに白状しろ! 聞こえぬというか?」
それでも長身のアラビヤ人は、アラビヤ語による尋問と同様、英語にたいしても無反応だった。エジプト人の士官がくりかえしその尋問を試みた。捕虜は不可解な目つきでジョイスを見かえし、ときどき顔面をぴくぴくと動かしたが、どうしても口は割らなかった。ジョイスは困りはてて頭をかいた。
「よいか、モハメット・アリ、何とかしてこやつの素姓を洗いださねばならん。書いたものは一枚も持っとらんのだな?」
「はい、さがしましたが、何も持っておりません。」
「手掛かりは何もないのだな?」
「はい、この男は相当遠くから来たものに違いありません。乗用ラクダは容易なことで死ぬものではないのです。少なくともドンゴーラあたりから来たものと見ます。」
「うん、それにしても何とかして口を割らせないことにはな。」
「ひょっとしたらおしでつんぼなのかも知れませんな。」
「そんなことはあるまい。これだけの顔つきをした男を本官は見たこともない。」
「アスワンへ送りつけてはどんなものでしょう?」
「それで向こうの連中に手柄を立てさすのかい? まっぴらだよ。こいつは本官の手に落ちたカモなんだからな。それにしてもどうやってこいつに口を割らせたものかな?」
エジプト人の暗い目が野営地のほうへ向けられ、炊事用の火のところで止まった。
「隊長どののお許しさえありますれば、ひとつ――」といいかけて捕虜を見やり、その目を燃えているまきのほうへ移した。
「いや、そいつはいかん。そいつはぜったいに行きすぎだ。」
「ほんのちょっとばかり……」
「いかん、いかん。この地では普通のことかも知れんが、本国のフリート街(ロンドンの新聞社の多くある所―訳者)にでも伝わったら、たいへんな騒ぎになる。しかしだな、」と声を小さくして、「ちっとばかり嚇かしてやるか。それなら害はあるまい。」
「害はありませんです。」
「あの男のガラビーア(エジプト人の用いる長衣―訳者)を脱がすようにいえ。そして蹄《てい》鉄《てつ》を火に入れて赤くしろ。」
捕虜はその命令が実行にうつされるのを、不安というよりは楽しげな様子で見まもっていた。黒人の軍《ぐん》曹《そう》が二本の銃剣のさきに赤く焼けた蹄鉄をはさんで近よるのを、平然として見ていた。
「さあどうだ?」中尉はあらっぽくいった。
捕虜はおだやかに微笑して、ほお髭をなでおろした。
「ええい、そんな猫《ねこ》っかぶりはよせ!」怒りに思わず腰を浮かせながら、「こいつはおどかしてみたってダメだ。ほんとうにやりはしないと、タカをくくってやがる。だがな、いざとなればむち打つくらいやってやれなくはないのだぞ。よいか、こいつに話してやれ、あすの朝までに口を割らないようだと、背なかの皮が赤むけになるほどむち打ってやるぞとな。――いいか、ちゃんと伝えたか?」
「はい、ちゃんと申し伝えました。」
「よしッ、よい子だ。寝ながらよく考えろ。一晩ぐっすり眠ったら、また考えも変るだろう。」
取り調べは延期になった。捕虜は少しも動ずることなく、衛兵に導かれて米飯と水の夕食をとりにいってしまった。
ジョイス中尉は心のやさしい男だったから、その夜床についてからも、あす加えねばならぬ処刑のことを考えると、なかなか眠つかれなかった。クーアバシュ(エジプトなどで刑に使う革むち―訳者)と革むちを見せただけで捕虜が降参してくれるとよいがと願った。それからなお、もしあの男がほんとうにお しだったら、それこそたいへんなことになるぞとも思った。その可能性がないでもないと思うと身震いがつき、いっそのこと夜があけたら無傷のままでアスワンへ送りつけてやろうかとも思った。それにしてもそれではあまりにも元気のない、平凡な扱いというものではないか! ところが、こうしてアンガリーブ(この地方で使われる長いす風のベッド―訳者)に横たわりながら、あれこれ思い悩んでいるところへ、この問題はとつぜん、手ぎわよく片づいてしまったのである。モハメット・アリがテントへとびこんできた。
「捕虜がいなくなりましたッ!」
「いなくなったと?」
「はい。そして隊長どのの上等な乗用ラクダも一頭。テントに大きな裂け目ができていますから、夜明けにあそこから脱出したものに違いありません。」
中尉は全力をつくした。騎馬隊を八方に派遣した。ワディ(雨期にだけ水のある河床―訳者)の砂地に逃亡者の足跡がありはしないかと斥候に調べさせたが、何のあともなく徒労におわった。あの男はどこかへ消えてしまったのだ。ジョイス中尉は心も重く、いっさいの公式報告を記録してアスワンへと送った。五日たって長官から、報告のため当方へ自身出頭すべしという至って簡単な命令がきた。他人はおろか自分にたいしても厳しいあの将軍のことだからと、中尉は最悪の場面を心に描いた。
そしてその予想はまさに実現したのである。旅のよごれと疲れにまみれ、夜になってから彼は将軍の部屋に出頭した。書類や地図でうずもれたテーブルの向こうで、将軍は参謀長とでしきりに計画をねっているところだった。二人の応対は冷たかった。
「ジョイス中尉、報告によると貴官はきわめて重要なる捕虜に逃亡されたというではないか。」将軍がいった。
「申しわけありません。」
「もちろんだ。だがな、そうはいっても過ちはかえらん。逃走されるまえに、少しは何か情報を握ったのか?」
「何も握っておりませぬ。」
「それはいったいどういうことだ?」
「何も自白せぬうち逃走しましたので。」
「自白させるように骨はおらなかったのかね?」
「はい、できるだけのことは致したつもりです。」
「どんなことを?」
「そのう、拷問を加えるぞとおどかしました。」
「何かいったかね?」
「いいえ、何も申しません。」
「どんな風な男だったね?」
「背がたかくて、何となく狂暴そうな男でした。」
「手掛りになりそうな人相は?」
「長くて黒い髭がありました。目は灰いろです。そして顔をぴくぴく動かしていました。」
「よいか、ジョイス中尉、」と将軍はきびしい声音で、「貴官のエジプト軍における初陣の業績はあまりかんばしくないようだぞ。こっちへ配属になっとるイギリス人士官は、いずれも優秀なものを選抜してあるのだ。イギリス軍全部のなかから引き抜いてよいことになっとる。従って全員があくまで最高のりっぱな行動をとってほしいのだ。明らかに熱意を欠き、知性の疑われるものがいたのでは、本国の士官たちに相すまん。貴官はたしかロイヤル・マーロウ隊から転属になったのだな?」
「はいッ!」
「貴官が原隊に復帰するとなれば、連隊長はご満悦だろうな。」
ジョイス中尉は聞いていてすっかり沈んでしまい、言葉も出なかった。
「最後の処置はあすの朝知らすことにする。」
ジョイスは敬礼をして、かかとをかえした。
「寝ながら考えたがよかろう。そして一晩ぐっすり眠れば、また考えも変るだろう。」
ジョイス中尉は当惑して振りかえった。どこかで聞いたような言葉だ。はて、誰のいったことだろう?
将軍はまっすぐに立っていた。参謀長と二人で笑っている。ジョイス中尉はその背のたかい姿、しゃんとした態度、不可解な灰いろの目などを凝視した。
「おお、これは!」
「よい、よい、これで五分五分だな、ジョイス中尉!」将軍が手をさしのべながらいった。「あのまっ赤に焼けた蹄鉄で十分間もおどかされた時は閉口したぞ。これでお返しはできたというものだ。わしは貴官をロイヤル・マーロウなんかへ返す気は少しもないぞ。」
「ですけれども、閣下、いったい――」
「質問は少ないほどよいものじゃ。だがこれにはちとびっくりしたようだな。わしはカバビシュにちょっとした私用ができてな、自分で行かねばならんことになった。それでその帰路に貴官の駐兵地を通った。それで貴官と二人だけで話しあいたいと思い、幾度も目くばせしたのじゃ。」
「はッ、お言葉で少しく分かって参りました。」
「あの黒人兵たちの前で、自分の素姓を明かしたくなかった。そんなことをしたら、この次からつけ髭やアラブ服が通用しなくなる。しかたがないから、貴官部下のエジプト士官にだけ事情を明かして、脱出に協力させたのじゃ。」
「あッ! あのモハメット・アリのやつが!」
「何もいうことならんと命令しておいた。貴官に借金ができたでな。お返しをせにゃならん。どうだ、ジョイス中尉、今晩八時に食事をすることになっとる。陣中のことで、べつだんの馳《ち》走《そう》もないが、クルクールで食べるのより少しはましかも知れん。どうだ、食べていっては。」
ガスタ山の医師
一 カークビ・マルハウスへその女が来たのは
カークビ・マルハウスは荒涼たる、寒風の吹きすさぶ小さな山村で、山はきびしく険阻であった。灰いろの石を積み、スレートの屋根をふいた家が一列にならんでいるだけで、あとはハリエニシダの生えるにまかせた荒れ地が起伏しているだけだった。
このさびしい辺ぴなところに私、ジェームズ・アパトンは一八八五年の夏にやってきた。村には何の慰めとてもなかったけれど、何ものにもまして私の求めてやまないもの――いま従っている高度の深い思索を乱されないような自由と孤独がそこにはあった。ところが宿のおかみが私のことをうるさく尋ねたがるのに閉口して、どこかに新しい住居はないものかと求めるようになった。
たまたまいつもの散歩のおり、荒れ地のなかにぽつんと一軒あき住宅のあるのを見つけ、手に入れてやろうとすぐ決心した。もと羊《ひつじ》番人の家だったという二室きりの小さい家だが、ながいこと空き家になっていて、急速に廃屋化へと向かっていた。冬の出水期になると、ガスタ山を流れくだるガスタ川があふれて、小屋の壁の一部をこわしていた。屋根もひどくいたみ、はがれたスレートがあちこち草のあいだに散らかっていた。それでも幸いなことに骨組みはしっかりしているので、修理するのにさほどの面倒もなかった。
二つの部屋は大いに違えて設計した。私は元来がスパルタ風のきびしく簡素な性向があるので、表の間はそれにあわせて飾りつけた。料理にはバーミンガムのリピンギル製の石油のストーヴ一つで万事用が足りたし、食糧も麦粉とポテトの大袋一つずつおけば、外部からの補給はなしですんだ。食事に関しては前からピタゴラスの哲理に追随する菜食主義者であったから、ガスタ川の岸辺で針金のような草の芽を食む脚のながいやせこけた羊どもも、この新入りを少しも恐れる必要はなかった。九ガロン入りの石油だるが食器だなの役をはたしたし、あとは松板のいすが一脚とテーブル一つ、それに車輪つきの寝台が一台で持ちこみの家具はそろった。家つきの寝いすの頭のところに白《しら》木《き》のままのたなが二段あり、下段にはさらや台所道具の類をおき、上段には肖像画を二つ三つ――今は見すてたが富裕をめざしてこつこつと、うんざりするほど長いこと働いた時代の名ごりなのである。
この居間のほうはむさくるしいほど簡素なものだが、その代りに、書斎に使うつもりの次の間は、ぜい沢といってよいほどりっぱに飾りつけた。研究はそれに調和するものに取りかこまれて行なうのが最良であり、最高至純の思想は、目や感覚をくつろがせるところにのみ育つ、というのが昔からの私の信念なのだ。幽玄な研究のため特別にしつらえたその部屋というのは、思想や大きな念願にふさわしいように、できるだけくすんで荘重なものにした。壁と天井はできるだけあざやかで光沢のある黒い紙をはりめぐらし、そのうえに赤みがかって鈍い金いろの唐草模様を描いた。ひし型のガラスを入れたたった一つの窓は、黒いビロードのカーテンで被い、同じ材料の厚くて柔らかいカーペットを敷きつめて、思想の流れのとぎれたとき部屋のなかを歩きまわっても、足音のしないようにした。なげしに沿うて金の棒を張り渡し、そこから六枚の絵をつるしたが、そのどれもがくすんだ色の想像画なので、私の空想とよく共鳴してくれた。
それにもかかわらず、この静かで小さな避難所へ移り住むさきに、私もまた人間族の一員であり、ほかの連中とのきずなを断ちきろうとする企ての、よからぬことなのを思い知らされたのである。移転の日と心にきめたのよりわずか二晩まえのことであった。階下が急に騒がしくなり、重い荷物でも運びあげるためか階段がギイギイ鳴ったり、歓迎と喜びを抑えかねたおかみの大声などが聞こえてきた。その大きな声のあいだに、ここ数週間この地方の谷間の住民の荒っぽい言葉になれた私の耳をくすぐるような、柔らかな声が聞こえてきた。階下の話声は一時間もつづいたろうか、高音と低音の話声にまじって茶わんやスプーンのがちゃつく音も聞こえていたが、しまいに軽やかな足音が私のいる書斎の前を通りすぎたので、新しい下宿人が定められた部屋に落ちついたのを知った。
このことのあった翌朝、いつものように早起きしてふと窓をのぞいてみると驚いたことに、新しい同宿人はもっと早起きしているではないか。彼女は山からのうねくねした細い道を降りてくるところで、ほっそりした背の高い女だが、おとがいを胸にうずめ、両腕には朝の散歩で集めた野の花をいっぱい抱きかかえている。白とピンクの着ているもの、幅びろで垂れている帽子につけた赤いリボンが、あたりのこげ茶いろの風景のなかで、面白い色の対照をなしていた。はじめこの女に目をとめたときは、かなり離れていたのだが、その姿には何となく洗練された気品があって、このへんの谷合に住む連中とは違っていたから、これこそきのうこの家に下宿した人に違いないと一目で悟ったのである。見ているうちに女は軽やかな足どりです早く坂道を降りてくると、木戸を通りぬけて下宿の庭のはずれ、私の窓のま向かいの土手に腰をおろして、花を座《ひざ》の前へ投げだし、整理にとりかかった。
そうやって土手に坐り、のぼる太陽を背にうけて、朝の輝きが品のある頭のまわりに広がってゆくのを見ては、じつに美しい人だと思わないでいられなかった。顔だちはイギリス風というよりも、どちらかといえばスペイン風だった――うりざね顔でうすいオリーブいろの地はだ、黒く輝くひとみと、甘い敏感な口びるがあった。つばの大きな麦わら帽の下からは、黒くてつやのある髪が二本のふといカールになって、優美なうなじの両がわに垂れていた。よく見ると彼女のスカートやくつが、朝の散歩というよりは、登山でもしてきたという風にみえるので驚いた。軽装はよごれ、ぬれて泥だらけだし、くつは山地の黄いろい泥をいっぱいつけていた。美しい顔にも疲れた表情が見られ、若々しい美しさも心中の悩みのため曇りがちだった。見つめているうちにも彼女はとつぜん涙をはらはらとこぼして泣きだし、花の束を投げだして家のなかへ駆けこんでしまった。
心は研究のことでいっぱいであり、世のなかのことなどにはあきあきしている私だったが、この見知らぬ美しい婦人の絶望的な哀しみに捕えられたのを見ては、同情の念に思わず心の痛みをおぼえたのである。ひろげている本に目はおとしたものの、心はそこになく、あの誇りたかく引きしまった顔、野露にぬれた服、うつむいた頭《こうべ》、哀しみをこめて元気のない顔などが目に浮かぶのである。
おかみのアダムズ夫人がいつも私のため質素な朝食をはこんでくる習慣になっているが、そのときつまらぬおしゃべりなどしてこちらの大切な思索を乱したりはさせないことにしている。しかしこの朝ばかりはこっちもおしゃべりの相手になる気構えをみせ、ちょっと気を引いてみると、おかみはたちまちあの美しい客のことを一気にしゃべりまくったのである。
「ミス・エヴァ・キャメロンというお名まえなんですよ。ですけれど、どこから来たどうしたかたかということになると、あなたと同じに何もわかりませんの。このカークビ・マルハウスなんかへ来たのだって、あなたと同じお気持からかも知れませんわね。」
「あるいはね。」と私の気持などを探りだそうとするようなおかみの言葉には答えないで、「しかしこのカークビ・マルハウスなんてところが、若い婦人にとって何の魅力があるのか、さっぱり分かりませんよ。」
「それがね、あなた、不思議なんですよ。あのご婦人はフランスからわざわざおいでになったのでして、あのかたのご家族が、どうして私というものをお知りになったのですか、ほんとに妙なんですよ。一週間もまえでしたかしら、男のかたが訪ねてみえましてね、立派なかたですから、一目で紳士だと思いましたよ。『あなたがアダムズ夫人ですね。ミス・キャメロンのため部屋を予約したいのですが。』という話です。『本人は一週間もたったら来ますがね。』と部屋代のことも何もきかずにいきなりこうなんですよ。そうしたらきのうの晩あのご婦人がおいでで、うつむきがちで言葉つきがやさしく、少しフランスなまりがありますけれど……あれまあ、早くいってお茶でもあげませねば。知らぬ土地で目をさまして、独りぼっちじゃ、かわいそうですものね。」
二 ガスタ山へ行った次第
私がまだ朝食をたべているとき、さらの鳴る音がしておかみが新しい下宿人の部屋へ急ぐ足音が私のドアの前を通りすぎた。すぐにばたばたと大きな足音がして、おかみが目を丸くして両手をあげてとびこんできた。「はれまあ、いきなり飛びこんできたりして、お騒がせしてすみませんけれど、あのご婦人がお部屋にいらっしゃらないのですよ。」
「なあに、あそこにいるさ。」と私は腰をあげて、開き障子ごしに見おろしながら、「土手へ花を残してきたので、取りにいったのですよ。」
「あらまあ、あの服とくつの汚れていますこと! お母さまがここにおいでですとよろしいのに――ほんとでございますよ。どこへおいでだったか知りませんけれど、ゆうべはベッドにお眠《やす》みでなかったようでございますよ。」
「きっと気持が落ちつかないので、時刻としちゃたしかに変だが、散歩に行ったのでしょう。」
アダムズ夫人は口をとがらせ、頭をふった。だが彼女がそうして障子戸のまえに立っているのを、若い娘は明るい笑顔で下から見あげ、窓をあけてくれとうれしそうに手を振ったのである。
「私のお茶そこにありまして?」フランス語なまりのある、ゆたかなはっきりした声で尋ねた。
「お部屋においときましたよ。」
「でも、このくつを見てちょうだい、アダムズ夫人!」スカートの下からくつをのぞけて見せながら大きな声で、「このへんの谷はとてもおそろしいところですのね。ぞっとする《エフロイヤブル》わ。一インチも二インチ(一インチは二・五四センチ―訳者)も深くて、こんな泥って見たことがありませんわ。ドレスもこんな、ほら!」
「ほんとにひどい目におあいでございましたわね。」泥だらけになった姿をつくづく見おろしながら、「さぞお疲れで、お眠うございましょうね。」
「いいええ。」と娘は笑いながら、「眠くなんかありませんわ。眠りって何でしょうね? ちょっとのあいだ死んでいることよ。そうじゃありません? 歩いたり、走ったり、空気を呼吸したり、それが私には生きることですもの。疲れなんかしませんわ。ですから私夜っぴてヨークシャの谷を歩きまわってやりましたわ。」
「おうやまあ! それでどこまでおいでになりましたの?」
娘は西のほうの地平線全体をおおうように大きく手を振って、「あっちよ。あそこの丘は哀しく荒れて! でも花はこんなに集めてきましたわ。お水をくださらない? しおれないようにしてやらなくちゃね。」ひざのうえに花束をかき集めたと思ったら、たちまち階段に軽い足音をたてて登ってきた。
というわけでこの変った娘はひと晩じゅう山地にいたのだ。部屋にいれば気持よく暖かいものを、どんな動機から吹きさらしの山などへ行ったものだろう? 単に気持が落ちつかないためか、それとも若い娘にありがちの冒険心からであろうか? あるいはこの夜歩きには、もっと何かの深い理由が秘められているのだろうか?
私の研究する対象も深く、かつ神秘的なところはあったが、いま眼前に現われた人間的問題もまた、少なくとも目下のところ私の理解の及ばぬものであった。その日の午前中は荒れ地を歩きまわったが、帰りに私の住む寒村を見おろす高みまでたどりつくと、少しさきのハリエニシダの茂みに同宿の娘のいるのを見かけた。軽い画架をまえにしてキャンバスもかけ終り、眼前にひろがる岩と荒れ地の雄大な風景を描こうと身がまえたところである。見ていると彼女は左右をしきりに見まわしている。さいわい私のいるそばに水たまりがあったので、携帯フラスコからコップをはずして水を一杯くみ、娘に近づいていった。
「キャメロンさんでしたね? 私は同じ家に下宿しているものでアパトンと申します。こんなところですから自分で名のりあげないかぎり、いつまでも他人でいなくちゃなりません。」
「おや、それではやはりアダムズ夫人の家に! こんな土地なので、私のほかはみんなお百姓ばかりかと思っていましたわ。」
「私もこの土地のものではありません、あなたご同様にね。私は研究者なものですから、それに必要な安らぎのある静かなところを求めて、ここへ来たのです。」
「静かですこと、ほんとうに!」小さな百姓家が灰いろの一列に下へつづいており、それを包む荒れ地は静寂そのものであるのを見まわして娘はいった。
「しかしじっさいはそれほどでもないのですよ。」と私は笑いながら、「それですからもっと完全に静かな場所を求めて、荒れ地の奥へ押しやられることになっています。」
「では荒れ地へお家を新築なさいましたの?」と娘はまゆをつりあげた。
「手にいれましたから、引っ越しは二三日のうちにするつもりです。」
「それは残念ですこと! それでお建てになりました家、どちらでございますの?」
「あっちのほうです。ほら、ずっと向こうの荒れ地に銀の帯のように光っている流れがあるでしょう! あれがガスタ川です。ガスタ谷をずっと流れているのです。」
娘はハッとして私のほうを振りむき、大きくて黒い、もの問いたげなヒトミをこちらへ向けたが、そこには驚きと懐疑と、恐怖に近い何ものかがわれこそはと争っていた。
「ではガスタ谷にお住みになるおつもりですの?」
「そう計画したのです。ですがキャメロンさん、あの谷のこと何かご存じなのですか? このへんの土地には不案内でいらっしゃると思っていましたが。」
「はい、このへんへ来ましたことは一度もございませんの。でも兄からヨークシャの荒れ地のことはよく聞かされましたわ。今おっしゃった荒れ地のことは、たしかそのなかでも一番未開で恐ろしいところだと聞いたように思います。」
「たしかにそうでしょうね。まったくわびしいところですよ。」私は気にもとめないでいった。
「ではなぜ、そんなところへいらっしゃいますの? お寂しいでしょうし、あたりには何の潤いもなく、これといった慰めも手助けもないところへ? 少なくとも手助けは必要でしょう?」
「手助けですか? ガスタ山のようなところで、何の手助けがいりましょう?」
娘は目を伏せて両肩をつぼめ、「病気はどんなところにいても、起こるときは起こるものですわ。もし私が男であっても、ガスタ谷で独り住まいなんかは致しませんわ。」
「私はもっとあぶないところをも、ものともせず過ごしてきましたからね。」と笑いながら、「それよりもその絵がだめになるといけません、雲が低くなってきましたからね。はやぽつぽつ落ちてきたようです。」
じっさいその時は一刻も早く雨やどりをすべきだった。話しているうちにもとつぜん、さっと降ってきたからである。明るい笑い声をあげながら、娘はショールを頭からかぶり、画架とキャンバスをつかむと、ハリエニシダの繁る丘を雄シカのような素早い足どりで駆けおりていった。私は残されたキャンプ用のいすと絵具をとって、それにつづいたのである。
*    *    *    *
カークビ・マルハウスの下宿を出る前日の夕がた、私たちは下宿の庭の緑の土手に腰をおろしていた。彼女は夢みるような黒い目で哀しげに、寂しい荒れ地の風光をながめているし、私はひざに本をおいたまま、ひそかにその美しい横顔をぬすみ見ては、まだ二十そこそこなのに、いったいどこでどうしてあのように哀しげな、憂わしい表情をおぼえたのであろうかと思いまどっていた。
「あなたはなかなかの読書家ですね。」ついに私は口をきった。「このごろの女性は、お母さんの時代には思いもかけなかったほどの暇がもてるようになりましたからね。もっと学問をする気がおありですか? それとも大学に学んで学問で立つおつもりですか!」
「私には目標なんかありませんし、野心もありません。私の将来はまっ暗――混乱していて、こんとんですわ。私の人生って、ここの荒れ地の道と同じですわ。ご存じでしょう、アパトンさん。はじめは平らでまっすぐで、きちんとしていますけれど、でも少しゆくと右へ左へ曲ったり、岩のあいだを抜けたり登ったり、しまいにぬかるみのなかへはいってしまうのですわ。ブラッセルにいたころは、私の前途は平たんでした。それがいま、ああ、このさきどうなりゆくことか、誰にも分かりません。」
「そんなことは、キャメロンさん、何でもありゃしませんよ。」二十も年うえのものらしく、父親めいた口ぶりで、「将来のことを占えとおっしゃるなら、そうですね、あなたはいずれ女性の踏む路をたどることになる――一人の善良な男性を幸福にし、あなたというものを知って以来私の与えられた楽しみを、ふんだんにふりまくようになるとね。」
「私、結婚なんかしませんわ。」きっぱりとした決断をもって彼女がいったので、私は意外でもあり、いくらかは面白くも思った。
「結婚しない? それはなぜです?」
敏感な顔を妙な表情がかすめ、足もとの草を神経質にむしっていた。
「できっこありませんわ。」感情がたかぶって、こんどは声がふるえた。
「できっこないって?」
「自分のためじゃありませんわ。私にはほかにしなければならないことがありますの。さっき申しました路のことね、あそこをたった独りで歩いてゆかなきゃなりませんの。」
「でも、それは不健全です。あなたの運命だけが私の妹たちや、そのほかたくさんの若い令嬢たちと違う理由はないでしょう。そうではなくて、あなたはおそらく男性に対して不信と疑惑をいだいていらっしゃるのでしょう。結婚は幸福をもたらしますけれど、たしかに危険も伴いますからね。」
「危険は私と結婚した男の人のほうにつきまといますわ。」と叫んだが、しゃべりすぎたと思ったのか、すっと立ちあがるとマントをからだにまとって、「夜風は冷えますわね、アパトンさん。」というなり、さっさと立ち去ってしまった。残された私はこの娘の口から漏れたさっきの妙な言葉に思いなやんだ。
明らかに今や私はここを立ち去るべきだ。歯をくいしばって心に誓った。あしたこそはこの新しく生じた人間関係の絆《きずな》をたちきって、荒れ地に待つ孤独の住居にまちがいなく行こうと。朝食が終るか終らぬうちに、近所の農夫が粗末な手押し車を玄関口にもってきた。数少ない私の荷物を新居へ運ぶためである。同宿の人は部屋にとじこもったままだった。それでも別れのあいさつの一言くらいあってもよいではないかと、いささか失望を感じた。書物を積んだ手車ははや出発して、アダムズ夫人とも別れの握手をかわしたし、手車のあとを追おうとしていると、階段を急いで降りてくる足音がして、急いだため息をきらして彼女が私のそばへきた。
「ではいらっしゃる――ほんとにいらっしゃるのね?」
「研究がありますからね。」
「それもガスタ山へですの?」
「そうですとも。そのために用意した小屋です。」
「そこで独り暮らしをなさいますの?」
「何百という相手があの車に積んであります。」
「あら、本を相手ですの!」とやさしい肩をちょっとすくめて、「でも約束をして下さいますわね?」
「約束とは何をです?」
「つまらないことですの。ちゃんと約束を守って下さいますわね?」
「ただ約束とおっしゃっただけでは分かりませんが?」
美しい顔に何とも真剣ないろを浮かべ、上半身をのりだすようにして、「夜はドアに錠をかって下さるわね?」この奇妙な言葉にたいして何も答える間をあたえず、どこかへ行ってしまった。
それでも順当に孤独の新しい住居に落ちついてみると、妙な気持だった。ここで私をとりかこむものといっては、見るかぎりあちこちにハリエニシダの繁みの点在するやせた草のある荒れ地で、そのあいだにゴツゴツした岩山があちこちに見えるばかり、これ以上陰気で不毛の地は見たこともない。だがこの単調さがまた何ともいえぬ魅力であった。
ところがこのガスタ山ですごした第一夜から、早くも妙なことがあり、私の頭をあとに残してきた世界へとつれ戻したのである。
その夕がたは西のほうに大きな鉛《なまり》いろの雲土手が現われ、むし暑くて陰うつだった。夜も更けるにつれて、小さな小屋のなかはますますむし暑く息苦しいまでになった。頭や胸に重しがのしかかってくるようだった。はるかのかたからは雷鳴がごろごろと荒れ地を渡ってくる。眠れないままに服をつけ、玄関に立ってあたり一面の黒い静寂を見わたしていた。
ここの川ぞいに走るヒツジの小路をぶらぶらと何百ヤード(一ヤードは一メートルに近い―訳者)か歩き、同じ路をひきかえしてくるころは、月はついにまっ黒な雲のなかに隠れてしまい、足もとの路はもとより、右手の川も左にある岩山も見えなくなってしまった。それで立ちどまって、うす暗がりを手さぐりしていると、とつぜん雷鳴が聞こえ、稲妻がきらめいたので、草も岩も荒れ地一帯は明らかに照らしだされた。といってもそれは瞬間のことであったが、それでも私はどきんとし、驚いてしまった。私のゆく小路、それも二十ヤードとは離れないところに女の姿が浮かびあがったからである。見たのは一瞬間であったが、顔や着ている服のこまかいところまで浮かびあがらせた。
あの黒っぽい眼やしとやかな姿は、見まちがうわけもなかった。彼女――二度と会うことはあるまいと思ったエヴァ・キャメロンである。ちょっとの間ぽかんと立ちつくし、ほんとに彼女であるのか、それとも興奮した頭脳が作りあげた虚構のものであるのかと戸惑った。それから姿の見えたほうへ、大声で名を呼びながら駆けだしたが、返事はなかった。もう一度名を呼んでみたが答えはなく、物悲しいふくろうの鳴き声がするばかりだった。二度目の稲妻があたり一帯を照らし、そのうちに月も出てきたが、荒れ地をすっかり見通せる小山のうえにまで登ってみたのに、不思議な夜の散歩者の姿はどこにも見られなかった。それから一時間の余も荒れ地を歩きまわり、ようやく小屋へ戻りつきはしたが、それでもまだあれがほんもののキャメロンであったのか、それとも幻影にすぎなかったのか、はっきりしなかった。
三 谷合の陰気な小別荘
新しい小屋に引きうつってから四日か五日目のことだったが、そとの草地に足音がすると思ったら、つづいてステッキでドアをたたくらしい音がするので、何事だろうかと驚いた。恐ろしい機械が爆発したとしても、こんなには驚かなかったろう。せっかく外界のすべてのわずらわしさと縁を断ちえたと思っていたのに、村の酒場じゃあるまいし、何の会釈もなくいきなりドアをガタガタやるやつがあるとは! かっとなって書物を投げすて、いきなりドアの掛け金をはずして開けてみると、相手はもう一度ドアをたたこうと、ステッキを振りあげたところであった。背のたかいがっしりした男で、黄褐色のあごひげがあり胸が厚くて、体裁よりも着心持を主に仕立てたツイードのゆったりした服を着ている。ちらちらする太陽のなかで、目鼻だちまですっかり見てとった。大きくて多肉質の鼻、落ちついた青い眼、太くてたれさがったまゆ、ひろい額にはいくつもしわが刻まれていて、全体の若々しい感じとそこだけが何となく調和していない。風雨にしみのできたフェルト帽をかぶり、色ハンカチを太くし褐色の首にまきつけてはいるけれど、これは育ちもよく教養もある人物だとひと目で見てとった。道に迷ったヒツジ飼いか気のきかない浮浪者くらいだろうと予測していた私は、すっかりあてが外れたようだ。
「びっくりしていますな。」とにっこりして、「この世で孤独を好むのは自分だけかと思っていたのですか? この荒れ地には、あなたのほかにも隠者がいるのですよ。」
「するとあなたもこの辺にお住まいですか?」少しも好意はみせないで尋ねた。
「あっちのほうへな。」とちょっと後を振りむきながら、「お隣り同士ですからな、アパトンさん、ちょっとのぞいてみて、何かお手助けすることでもあるかと思いましてな。」
「それはありがとう。」ドアの掛け金に手をおいたままで冷淡にいった。「至って簡素な生まれつきですから、何もお願いすることはありません。私の名まえをご存じのようですが、それだけでもあなたのほうが有利なわけです。」
私の不愛想な態度に少し興ざめした様子で、
「ここで働いていた石屋から聞いたのです。私のことを申せば医者、ガスタ山の医者です。このへんではみんなそう呼んどりますがな、まあ本名みたいなものでしょうて。」
「ここではあまり患者はないでしょうね?」
「このあたり何マイルというもの、あったとしてもあなたくらいのものですな。」
「あなたこそ何かと手助けもいりましょう。」日に焼けたほおに、何か強い酸でもかかったか、白く大きなしみのあるのを見ながらこういった。
「これは何でもありませんよ。」相手はそっけなくいって、そのしみを隠すように顔を振りむけながら、「さあ、もう帰らなければ。待っている相手があるのでな。何かしてあげることがあったら、どうかぜひ知らせて下さい。川ぞいに一マイルかそこいらのぼってゆけば、わしのところはすぐ分かります。ドアには内がわから掛け金をかけていますか?」
「まあね。」この質問は意外であった。
「じゃかならず掛けておきなさいよ。ここの山地は妙なところでな。どんなものがうろつくか分かりません。用心にしくはありません。ではさようなら。」といって帽子をあげ、くるりと向きなおると、小川の土手をぶらりぶらりと登っていった。
私はドアの掛け金に手をかけたまま、しばらくはこの思いもかけない客の後姿を見送りながら、自分だけかと思っていたこの荒れ地に、ほかにも住む人がいたのかと、意外の感にうたれたのである。この男の歩いてゆく路のかなりさきに、大きな灰いろの丸石が出ており、この石に一人のしなびたような小柄な男がよりかかっていたが、背のたかい男の近づくのを見ると立ちあがって、迎えるように歩みよった。二人は立ちどまって一分間あまり何か話しあっていたが、そのあいだ背のたかいほうが何度も私のほうをあごで指しているのは、どうやら私のところへ来た次第を話しているのらしい。やがて二人はつれだって歩いてゆき、荒れ地の低みに見えなくなったと思ったら、しばらくしてさらに遠くの登り坂をつれだってあがってゆくのが見えた。背のたかい男は小柄で年うえの男を抱くようにして歩いてゆくが、愛情から出たことなのか、坂が急なので力をかすわけなのか分からなかった。がっしりと太った姿と、しぼんで細い連れとの姿は、青い空を背景にはっきり見えていたが、二人ともちょいちょいこっちを振りかえっているようだった。見ていてまた引きかえしてこられてはと思い、ばたんとドアを閉めきった。だが少しして窓からのぞいてみると、二人はいってしまったらしく、姿はもう見えなかった。
いま研究中のエジプトのパピラス紙の古文書と終日とっくんでいたが、メンフィス(古代エジプトの大都―訳者)の古代哲学者の高遠な哲理も、私の心を現実の出来ごとから引きはなしてはくれなかった。あきらめて仕事を押しやるころには、日も暮れてきた。余計なものが飛びこんできやがってと、胸のうちはにがにがしかった。小屋のそばを流れる小川のほとりに立って、熱した頭を冷やしながら、きょうあったことをもう一度考えなおしてみた。この小屋のあたりには何かしらの不思議が漂っているにちがいない。だからこそ私は心がこうもかき乱されるのだ。この不思議さえ解明すれば、研究の邪魔はとりのぞかれるのだ。それならば彼らの住まいのほうへぶらぶら歩いてゆき、どんな人物で何をしているのか、気づかれないように様子をうかがってみてどこが悪い? きっと彼らの生活様式は平凡なものだとわかるだろう。いずれにしても今夜は気もちよく晴れているから、ひと歩きしてくるのは、からだのためにもよく気持をほぐしてくれるだろう。パイプに火をつけ、彼らの姿を消した方向にぶらぶらと歩きだした。
荒い谷を少しさがったところに、こぶだらけでいじけたかしの木が何本か立っている小さな林があった。その向こうにうすい黒煙が静かな夕空に立ちのぼっている。これこそわが隣人の住居なのに違いない。左へ切れこみ、一列の岩かげに添って忍びより、見つかることなくその家を見られる場所へとたどりついた。小さな、スレートぶきの小屋で、そばにある丸石とくらべても、さして変らぬくらいであった。私の小屋と同じに、これはもと羊《ひつじ》かいが住むのに作られたものらしいが、これは手を入れたり広げたりして、住みよくしたあとはないようだ。小さなのぞき窓が二つ、ひび割れて雨ざらしのドア、雨水うけに置かれた色あせたたるが一つ、なかに住んでいる人を偲《しの》ぶとすれば、そんなものしかなかった。それでも尾根づたいになおも近づいてゆき、窓には太い鉄棒がならべてはめこんであり、古びたドアにも割りこみを作り同じ材料で補強をしてあるのを見ては、あれこれと考える資料はあった。あたり一体が荒れて寂しいうえに、小屋がこうも厳重に用心をかさねてあるところをみると、ここに住んでいるのはよくよく運の悪い人が、おどおどして暮らしているのに違いない。パイプをポケットにおさめ、四つんばいになってハリエニシダやシダの生いしげるなかを進んでゆき、小屋の入口から百ヤードのところまで近づいた。これ以上近づけば見つかると思ったので、その場所へしゃがみこんで見張りについた。
するとまだ腰も落ちつけないのに、小屋のドアがさっと開いて、自らガスタ山の医師だと名乗った男が出てきたが、帽子もかぶらず両手でくわを持っている。入口の前に小さな菜園があって、じゃがいもや青豆や、そのほかの野菜が作ってあったが、この男はそこへはいって忙しく働きだし、少し調子はずれの大きな声で歌いながら、手入れをしたり草をむしりとったりした。背を小屋へ向けて仕事に没頭しているのだが、そのとき半ば開いていた戸口から、やはりけさ見かけたあのやせた老人が出てきた。いまよく見るとこの老人は年のころ六十すぎ、しわだらけで腰が曲って弱々しく、髪はうすくちぢれて面ながの顔いろは青ざめている。遠慮がちにおずおずと近よっていったが、相手はすぐそばへ来るまで、それに気づかないでいた。しかしあまり近づかれて、わずかな足音か息づかいでも感知したのであろうか、働いていた男はふと振りかえった。とたんに挨《あい》拶《さつ》でもするように互いに一歩あゆみよったが――あのときの驚きはいまでも忘れない――背のたかい男が駆けよって相手をなぐり倒し、からだを肩にかついで小屋のなかへ走りこんだ。
いろんなことを経験してきて、たいていのことでは驚かぬ私ではあったが、この暴力には思わず身ぶるいがついた。老いの身の弱々しく、万事下手に出ているものを、何たることだとばかり怒りがこみあげてきて、思わず立ちあがり、素手ではあるが、小屋へ押し入ろうとしたとき、なかから話し声がもれてきて、老人が息をふきかえしたと分かった。太陽は水平線のかなたに没し、あたりはうす暗くなりかけていたが、ペニジェント山の頂きにだけは一条の赤いものが見えていた。その夕やみにまぎれて、そっと入口に近づき、どんな事になっているのかと耳を傾けた。老人の高くぐちっぽい声にまじって、深くて荒っぽく単調な声が聞こえ、それに金属的な騒々しい音がまじっていた。するうちに医者が出てきてドアに錠をおろしておき、気の狂った人のように髪の毛をかきむしり、両手を振りまわしながら、夕暮の荒れ地をあちこちと歩きまわった。それから意を決したように谷を登ってゆき、やがて夕やみのなかに姿は見えなくなってしまった。
その足音が遠ざかると、私は小屋へ近づいていった。閉じこめられた人は、まだごとごとと何やらつぶやいており、そのあいだにどこか痛みでもするか、しきりにうめいている。近づくにつれてつぶやきは祈っているのだと分かった――危険のさし迫ったことを知る人のする能弁な、熱のこもった祈りである。ただ独り厳粛に嘆願しているこの祈りの奔流は、聞くにたえないばかり恐ろしいものであり、夜の静寂のうちに耳ざわりにひびきわたった。この問題に割りこんだものかどうか思案しているところへ、遠くから医師の帰ってくる足音が聞こえた。それで鉄棒のはまった窓にのびあがって、ヒシ型のガラス越しにのぞきこんでみると、小屋のなかは、あとで化学炉からだったと分かったが、ぼうと物すごい明るさだった。その明るさでテーブルのうえはレトルトや試験管、凝縮器などが林立しており、無気味な影を壁に投じていた。向こうには鶏かごに似た木のわくがあって、そのなかでさっきから声のしている老人がひざまずいて熱心に祈っている。仰むいたその顔は赤い光りをうけて、うしろの暗がりのなかに浮かびあがり、レンブラントの絵を思わすよう、こわばった顔のしわが一本一本はっきり見てとれた。といっても見たのはほんのわずかの間で、すぐに身を引いて窓をはなれ、岩だらけの草地をぬって急ぎ、自分の小屋までひと息に逃げ帰った。そして寝いすに身を投げだし、しばらくは何を思うでもなく、ただただ胸さわぎがして震えていたのである。
雷雨の晩に見かけたのが、果たして前に同宿していたあの娘であるのかどうかは、翌朝になって判明した。荒れ地への小道をぶらぶら歩いていると、土の柔らかい場所があって、そこに足跡の一つあるのを見つけた――小さくて上品で、形のよいくつ跡である。かかとが小さくて、土踏まずの深くえぐれたところは、カークビ・マルハウスの同宿人だったあの娘以外の何者のくつでもありえない。この足跡をたよりに少し歩いてゆくと、どうやらこれはあの寂しく気味のわるい小屋のほうへ行っているらしい。あのおとなしそうな娘が、吹き降りの暗いなかを、何の用があってこんなところを歩いていったものだろう?
小川が谷を流れて私の小屋のそばを通っていることは前に述べた。このことがあってから一週間あまり後のことである。窓のそばに腰をおろしていると、何か白いものがゆっくり小川を流れているのに気がついた。はじめは羊がおぼれているのだろうと思い、助けてやるつもりでステッキを持って川ばたへゆき、引っかけて岸へあげてみると、大きな布でぼろぼろに引裂け、すみのほうにJ・Cと頭字がぬいこんであった。しかも奇妙なことに、はじからはじまで変色しているのである。
小屋のドアを閉めると、私は谷を医師の小屋のほうへ登っていった。しかしいくらも行かないうちに、向こうから当の本人が降りてくるのを見た。ハリエニシダの草むらを棒でたたきちらし、気違いのように大きな声でわめきちらしながら、丘の中腹をどんどん歩いてくるのだ。まったくのところその姿を見ると、狂人なのではないかと疑ったのが、実証されたような気がした。
近づくにつれて、この男の左腕がつりほう帯でつってあるのが分かった。私の姿を認めると、どうしようかと迷っている様子であったが、私としては会って話なぞするのはいやだったから、さっさと通りすぎた。すると向こうもやっぱりどなりちらし、棒で草をなぎ倒しながら、そのまま歩いていってしまった。その姿が荒れ地のかなたに見えなくなると、どうなっているのか何か手掛りでもないかと、問題の小屋のほうへ降りていった。小屋へ近づいてみると、驚いたことに、鉄板ばりのドアが開け放ちになっている。そしてすぐそとの地面には格闘でもしたらしい跡が残っている。室内をのぞいてみると、化学装置や家具の類がめちゃめちゃに打砕かれている。何より気になることは、例の恐るべき木のおりにはべっとりと血がついており、なかの人物はいなくなっているのだ。もうあの小がらの老人を見ることはないのだと思うと、心は重くなるのだった。
小屋にはあの医師の身分を明かすような品物は何もなかった。あるのは化学用具ばかり、片すみの小さな本だなに並べられた本は、よく選んだ科学書ばかりであった。もう一つのすみには、石灰岩層から集められた地質学の標本が積みかさねてあった。
帰り途でも医者の姿は見なかったが、小屋へはいってみると、驚いたことに、そしていまいましくもあったが、留守ちゅうに何者かがはいりこんだらしいのだ。寝台の下から箱は引っぱり出してあるし、カーテンの様子も変っているし、壁ぎわにおいたいすは中央に引きだしてある。乱暴ものは書斎へまではいったものらしく、大きなくつあとがまっ黒なじゅうたんのうえに、はっきり残っている。
四 夜中に来た男
突風の多いあれ模様の夜だった。月はちぎれ雲でかくれがちであった。風は陰気な力づよさで泣くように、またため息をつくように荒れ地を吹きすぎ、ハリエニシダのやぶをみんな鳴らしていった。雨がぱらぱらと窓ガラスをたたいた。夜半ちかくまで起きてアレキサンドリアのプラトン学者アイアンブリカス(二世紀シリアの学者―訳者)の不滅の断章を拾い読みしていた。ジュリアン大帝をして、生まれたのはプラトンよりおくれたが、実質は彼をしのぐといわしめたアレキサンドリアのプラトン学者である。それでもついに本を閉じてドアを開け、荒涼とした荒れ地とそれにも増して暗い夜空とを見わたした。頭を戸口からのぞけると、一陣の風が吹きつけてパイプから赤い灰をきらきらとやみのなかへ吹きとばしていった。そのとたんに月が雲間から出てきて、二百ヤードとは離れない山の中腹に、ガスタ山の医師と名のった男が腰をおろしているのを見たのである。ヒースの繁るなかにうずくまって両ひじをひざに突き、両手であごを支えて動かざること石のごとく、わが家のドアをじっと見つめている。
縁起でもないこの見張り人を見て、不安と恐怖の悪寒が全身をかけめぐった。というのもこの男との気味のわるい不可解な関連と分かっていたし、時といい場所といいそれに一致していたからである。しかしながら男としての反発心と自信とでそんなつまらぬ恐怖心はすぐに追いはらい、私は戸口を出て敢然としてその男のほうへ向かって歩きだした。近づいてゆくと立ちあがってこっちを向いたが、あごひげのある落着いたその顔に月はまともに照りつけ、目が青く光っていた。「いったい何の用だ?」そばまで行ったのでどなりつけてやった。「何の権利があって私のことをスパイするのだ?」
相手はありありと怒気をおもてに現わしながら、「いなかにいると礼儀まで忘れてしまうものと見えるな。この荒れ地では誰がどこへ行こうと勝手だよ。」
「そのつぎには、家もどこへはいるのも勝手だというつもりだろう。」私はかっとなって、「それでとうとうがまんがならなくなって、きょうの午後は私の家のなかまでかき捜したのだろう。」
男は驚いたらしく、ひどく興奮した顔をして、「それは決してわしじゃないと断言する! お前の家のなかなんかへは、一歩だって踏みこんだ覚えはない。いいかね、これだけはちゃんと言っておくが、君の身には危険が迫っておるのだから、ぜひ用心したがよろしい。」
「もうたくさんだ。誰も見ていないと思ったろうが、あんなだまし打ちなんかしやがって、ちゃんとこの目で見とどけているのだぞ。あの時、こっちもお前の小屋にいて、何もかも見てしまった。もしこのイギリスに法律というものがあれば、お前のようなことをしたものは縛り首だぞ。私のほうは軍隊にいたこともあるし、手元にはちゃんと武器もある。これからもドアに錠はおろさないが、もしお前なり仲間のものなりが敷居をまたぎでもしたら、あとはどうなるか覚悟をしたほうがよいな。」こう言い放っておき、くるりと回って私は自分の小屋へ大またに帰ってきた。
それからの二日間は風がますます強まり、たえずスコールがやってきたが、三日目の夜にはこれまでイギリスのどこでも経験したことのないほどの激しいあらしになった。これではベッドについても眠れたものではなかろうし、本をひろげてみても落ちついて読書なぞできたものではないと思ったから、ランプを少し小さくしていすに背をもたせ、黙想にはいったが、そのあいだ時の観念を失っていたに違いない。思索とうたたねのあい半ばする状態でどれくらいそうしていたのか、全く思いだせないからである。とにかく明けがたの三時か四時ごろでもあろうか、はっと我にかえった――いやそればかりか、感覚や神経のすっかり緊張しているのに気づいたのである。だがほの暗い室内を見まわしても、何がこのような不意のおののきをもたらしたのか、全く分からなかった。質素な、ごくありふれた部屋、雨でかすんだ窓、あら削りのドアとももとのままで、何の変ったところもない。見かけた夢にうなされたのかなと思いかけたとき、はっとその原因に気がついた。音だ――かくも寂しいところにあるわが家のそとに、人の足音がするのだ。
雷雨と風のなかにも、はっきり聞きとれた。にぶい忍び足で草のうえを歩くかと思うと、こんどは石のうえをだ。どうかすると全く止まってしまうかと思うと、また歩きだし、しだいにこっちへ近づいてくる。私は息を殺して坐ったまま、うす気味わるいその足音に耳を澄ました。と、ドアの前まで来て止まった。そしてこんどは足音のかわりに、長道を急いで来た人のするような荒い息づかいが聞こえた。
消えそうにゆらめくランプの光りのなかで、ドアの掛け金が、そとからそっと押しているらしく、ぴくぴく動くのが見えた。静かにゆっくり掛け金は上へあがり、やがて留め金からはずれてしまった。そこで十五秒か二十秒くらい間があったろうか。そのあいだ私は目を大きく見開いて、ひき抜いたサーベルを握ったままじっと坐っていた。それからごく静かにドアが開きはじめ、すき間から夜風がさっと吹きこんできた。ドアはひどく用心して押しあけられているので、さびついたちょうつがいさえ音をたてないほどだった。すき間が大きくなるにつれて、敷居のうえに立った黒い人影ばかりか、青ざめた顔がこっちをのぞきこんでいるのさえ見えるようになった。顔つきは人間だったが、両眼はそうでなかった。やみのなかで自ら緑がかった光を放つかに見え、その悪意ある盗み見のなかには、人殺しの気《き》魄《はく》を感じた。それを見ると私は席を立ち、抜きはなった剣を振りあげた。そのとたんに大きな声がして、第二の人物がドアへ走りよった。すると最初の侵入者はあっといってそとへ飛び出したきり、打たれた犬のように悲鳴をあげながら荒れ地へと逃げていった。
たったいまの恐怖におののきながら、逃げてゆく二人の叫び声をまだ聞く思いで、私は戸口に立ってやみをすかして見た。そのとき大きな電光がぱっとま昼のようにあたりを照らしだした。その光で遠くの丘の中腹を、ひどい速さで二人が走ってゆくのが見えた。えらく遠いのだが、二人の対照から誰であるかよく分かった。さきにいるのはもう死んだと思っていた例の小柄な老人で、それにつづくのがわが隣人の医師だ。一瞬のあいだ二人は無気味な光りにくっきりと姿を浮かびあがらせたと思うと、つぎの瞬間にはやみがあたり一面をつつみ、二人の姿は見えなくなってしまった。部屋へ戻ろうとすると、敷居のところで足にさわったものがある。うつむいてよく見ると直刀で、それもすっかり鉛《なまり》でできており、ごくやわらかく、かつもろいから、人殺しの刀としては妙な材料を使ったものだ。それに、もっと安全なように、先が四角に切り落としてある。それでも刃だけは跡を見ればわかるように、石で丹念にといであるから、人殺しを決心した人に持たせたら、けっこう危険なものに違いなかった。
では一体これは何を意味するのか? と問われるであろう。これまで送ってきた放浪生活では、こんどのに劣らず奇怪で顕著な事件にいくつも遭遇したが、読者にはすまぬながら、究極的にはいつも解明のできぬままだった。運命こそは物語りの偉大なる創造主であるが、原則として文学の規定には従わず、それを無視して神秘のまま打ちきってしまうのである。ところがこんどの場合は、いま手もとに一通の手紙があるから、何らのつけ足しをも加えることなく、これをそのままここに全文紹介することにしよう。それがすべてを明らかにしてくれると思う。
カークビ精神病院にて
一八八五年九月四日
拝啓――あなたのお選びになった隠退的生活を騒がす、最近に奇妙な、あなたとしては不可解なでき事がありましたが、それについて、ご説明申しあげたり、ぜひおわび申しあげたりしたいと存じます。本来は父が再逮捕になりました日の翌朝お訪ねいたすべきでありましたが、あなたがお客ぎらいでいらっしゃるのと、それに――こんなことを申しては失礼ながら――ご気性がはげしくていらっしゃることを考え、手紙で申しあげたほうがと考えなおしました次第です。
私の父は勤勉な医師としてバーミンガム市で開業いたしておりましたから、あの地では今なお記憶され尊敬されております。それが十年ばかり前から精神異常の徴候をみせはじめました。過労と日射病に起因するものと私どもは断じました。かような重大症状に発言の資格は私にないと存じ、バーミンガムとロンドンの最高権威者の診断を求めました。わけても著名なる精神病医フレーザ・ブラウン先生は、父の症状は間歇《かんけつ》的なものではあるけれど、激烈なる発作を起こした際は危険であると申され、「殺人の方向をとることもあろうし、宗教的な方面に走ることもあろう。あるいはその両方面に傾く場合もある。幾カ月もお互い同様に何の異状もなく過ぎるかと思うと、突然発作をおこす。ですから監視をおこたると、とんでもない責任をおうことになりますぞ。」と申されました。
これ以上何も申しあげることはありません。正気のときは精神病院にいるのを死ぬほど恐がった父のため、私たち兄妹があのような生活をおくらせていたため降ってわいたあのように恐ろしいことも、これでお分かり下すったことと存じます。私たちの不幸なできごとのため、あなたの静かな生活をお騒がせいたしたことを深く遺憾に存じ、私と妹の名において、深くおわび申しあげます。
敬具
J・キャメロン
借りものの情景
それはダメだ。民衆が堪えられまい。私はよく知っている。試したことがあるのだからな。――ジョージ・バロウ(一八〇三―一八八一年イギリスのジプシ語研究家。詳しくは巻末参照―訳者)の未刊の著作から引用
いやたしかに私も試してみたのです。この経験はちょっと面白いかも知れませんから話してみましょう。そこでまず、はじめにご承知おき願いたいのは、私がジョージ・バロウ(一八〇三―一八八一年イギリスの言語学者で多くの著書あり―訳者)にすっかりかぶれた男だということ、わけてもその著「ラヴェングロ」と「ジプシ紳士」が大好きで、自分の思想から身ぶりまでわが師そっくりにまねたばかりか、はては師の著書にあるような生活がやってみたくて、ある夏のこと、実際に家をとび出したということです。そこでいま、サセクス州のある駅からスワインハースト村への街道に私がいるものとお考えください。
ぶらぶら歩きながら、サセクス州の開拓者たちのことを考えて楽しんだり、力強い海賊のチェルデック(サクソン王統の開祖といわれる、五三四年頃死―訳者)、それにその息子でほかの連中よりもヤリの穂さきだけ丈が高かったと古い放浪詩人の歌ったエラのことなどを考えたりね。街道で会った百姓に二度ばかり、そのことを口にしてみましたが、一人は丈の高い、そばかすだらけの男でしたけれど、こそこそと通りすぎると、そのまま駅のほうへ駆けていってしまいました。もう一人は小柄で年うえのようでしたが、私がサクソン古謡の「そのとき四十四ひろの長船にてレイジャ来りければ、軍兵はたち出でて迎え討てり」ではじまる一節を朗詠してやりますと、そこへ立ったなりでうっとりと聞きとれていました。そこでこの古謡はセント・アルバンズ(一六八四年に死んだイギリス朝臣―訳者)配下の僧の書いたものに、ピータボロウ地方の僧が加筆したものだと説明してやりますと、話のすまぬうちに相手はいきなり門を飛びこえて逃げてしまいました。
スワインハーストの村は初期イギリス風の半木造の家のばらばらと並んでいるばかりのところで、よくみるとそのなかに一軒ほかのよりも高くて、外見はもとより前にかかった看板からいっても、村の宿屋にちがいないと思われるのがありました。何しろロンドンを出てからというもの一度も食事をしていないので、まずそれへ近づいてゆきました。丈は五フィート八インチ(約一七〇センチ―訳者)くらいで小太りの男が、黒い上衣にうすねずみ色のズボンをはいて入口に立っていましたから、そばへいってわが師にまねて話しかけました。
「いかでバラなるぞ、はたまた王冠なるぞ?」看板を見あげて尋ねたのです。
妙な顔をした男で、風体がまた変っていました。「なぜいけねえんですい?」と反問して少し後ずさりしました。
「王者のしるしなり。」
「そりゃね。王冠は誰だってそうとしか考えませんや。」
「しからばいずれの王なりや?」
「私が知るわけがねえや。」
「あれなるバラこそはチュードル王家のしるしとお判じあれ。ウエールズの山中より出でて(一四二二年ヘンリ五世が死んだので、女王はウエールズ人オウエンを迎えて王家を再興した―訳者)しかもついにイギリス王朝の基をきずきし人。これなるチュードルこそは、」と相手が屋内へはいりたがっているらしい宿屋の入口に立ちふさがりながら、「有名なる首長オウエン・グレンドアが血つづきにして――ただしこれなる首長は海のマドックが父、オウエン・ギニネドとまごうべからず。これなるは古き詩人が有名なる古謡に歌いてしものにして、ウエールズ語にていわば――」
ダフィド・アプ・ギリン(十四世紀ウエールズ詩人バロウの訳あり―訳者)の有名な一節を朗唱しかけますと、それまで変な顔をしていた男は、いきなり私を押しのけて中へはいってしまいました。「なるほどねえ、」と大きな声でいってやりました。「たしかにここはスワインハーストだ。名まえの通り豚の森だもの。」(スワインハーストは文字通りいえば豚の森になる―訳者)いいながら男のあとについて中へはいってみますと、片すみの大きないすを前にしてもう腰をおろしているではありませんか。中央のテーブルではいろんな身分のものが四人、ビールを飲んでいるし、からの壁炉のまえには光る黒服を着た小柄なすばしこそうな男が立っていましたが、こいつを宿の亭《てい》主《しゆ》と見ましたので、食事はどんなものができるかと尋ねました。
ところがこの男は笑うだけで、分からないと申します。
「だけどね、すぐ出せるのはどんなものかね?」
「そうきかれたって答えられませんや。でも宿の主人なら答えられましょうよ。」といってベルを鳴らすとべつの男が出てきましたので、こいつに同じ質問をくりかえしました。
「何がお望みなんで?」
と申しますからこれが亭主なのだろうと思い、わが師のことに思いをはせ、豚の脚の冷肉をビールとお茶で流しこみたいと申しました。
「ビールにお茶とおっしゃるので?」
「そうだよ。」
「この商売をやって二十五年になりやすが、ビールにお茶というご注文は初めてですわい。」
「このかたは冗談をいっておいでなのさ。」光る黒服を着た男が口をだしました。
「それとも……」と片すみの老年の男が申しますから、
「それとも何かね?」
「何でもねえ。何でもねえですよ。」と打ち消しましたが、この男の態度はどうも変でしたよ――ほら、さっき私がダフィド・アプ・ギリンのことを話してきかせた相手です。
「やっぱり冗談なんで。」と亭主が申します。
そこでわが師ジョージ・バロウの作品を読んだことがあるかと尋ねてやりました。するとないという返事です。それではいうが、わが師の著わした五巻の書には、どこをさがしても冗談のジの字もありはしないぞといってやりました。それにわが師がお茶とビールを一緒に飲んだことも、その書のなかに出ているのです。ところでお茶のことは古い軍談《サーガ》でも吟唱詩人の残した詩集でも、読んだことがなかったのでね、亭主が料理をとりにいった間に、みなにアイスランド軍談を聞かせてやりました。くまのハロルドが長髪の息子ガナ(ヴォルサンガ軍談中の人物―訳者)のビールをたたえるところをね。それから原語では意味の分からない連中もいるだろうと、私の翻訳を聞かせてやりました。その最後の行はこうです――
よしビールは少なくとも
ジョッキこそは大いなるものたれ。」
それから皆は国教派の教会へゆくのか、それともべつの派の礼拝堂《チヤペル》へゆくのかとききました。この質問には皆が驚いたらしく、とくに片すみの例の男がそうでね、私に秘密を読みとられたと悟ったらしくて、こっちがにらみつけていますと、時計箱のうしろへこそこそ隠れようとします。
「教会ですか? それとも礼拝堂ですか?」
「教会ですよ。」あえぎながら答えました。
「どちらの?」
ますます時計のうしろへすくみながら、「そんなこと尋《き》かれたの初めてで。」
私はその男の秘密を見ぬいたぞという顔で、「ローマは一日にしてならず。」
「彼! 彼!」と呼んで、私が振りかえりかけたとき時計箱のうしろから頭をのぞけて、額を人さし指でたたきましたよ。火のない壁炉の前に立っていた男も、同じことをやりました。
豚の脚の冷肉をたべおわって――ふうちょうぼくのつぼみの酢づけをそえた羊肉をのけたら、これにまさる料理があろうか?――ビールとお茶も飲みほすと皆に向かって、この食事こそはわが師が「亭主殺し」と呼んだもので、リヴァプールの商人たちと大いに愛用したものであるのだと話して聞かせました。そういう話をしてからローペ・デ・ヴェーが(一五六二―一六三五年のスペインの劇作家で詩人―訳者)の一・二節を唱してやってから、勘定を払うと、このバラと王冠亭をあとにしました。戸口を出ようとすると、亭主が私の名と住所を尋ねます。
「それはまたどうして?」
「あなたのことで審問があるかも知れませんからね。」という返事です。
「なぜ私のことを審問せねばならん?」
「そりゃ分かりませんがね。」亭主は何か考えながら、こう申しました。そこでやつをバラと王冠亭の戸口へ残したまま歩きだしましたが、そのとき中で皆の大笑いするのが聞こえました。たしかに「ローマは一日にしてならず」ですよ。
スワインハースト村の大通りは、昔風の半木造の家がならんでいるのですが、その屋並を出はずれると、まったくのいなか道になります。こういうところにこそ路傍の思いもかけぬ経験があるのだと、目をきょろつかせていました。わが師の言にも、イギリスの街道というところは、野の黒イチゴのように、面白いことのごろごろしているところとあります。ロンドンを出るまえにボクシングを少し練習しておきましたので、からだの大きさや年齢のこれぞと思うような旅人に出会ったら、上衣をぬいでもらって、イギリス古来の戦いかたで話をつけてみたいと思ったわけです。そこで牧場のさくのそばで、誰か通りかからんものかと待っていますと、ぞくぞくするような身ぶるいがつきました。これはわが師も谷あいで経験したところですが、とにかく私はイギリス特産のオークの木で作ったさくの横木につかまっていました。あのぞくぞくする身ぶるいの恐ろしさ! さくの横木につかまりながら、私はそんなことを考えましたね。ビールのせいか、それともお茶が悪かったのか? 亭主や、すみの変な男の合図に答えていた黒服のいったことが正しかったのか? だがわが師もやはりビールとお茶を飲んで、やはりぞくぞくする身ぶるいを感じたのだ。こんなことを考えながら、さくのいちばん上の段の横木につかまっていました。ものの三十分もそうしていたでしょうか。やっと納まりはしましたが、何だか心細くなってきましたので、横木を握ったままじっとしていました。
そうやって横木にすがりついていますと、ふとうしろに人の足音がしますから、ふりかえってみますと、さくの向こうがわに細い道が街道から通じていまして、その道を一人の女が歩いてくるところです。これぞわが師があんなにもしばしばペンにしているジプシ娘に違いないではありませんか。彼女の来る方角のかなたに、深く小さな谷合から一条の煙がたちのぼっているのは、彼らの一族が露営をしていることを示しています。彼女そのものは高くも低くもない中背で、色が黒くてそばかすだらけです。決して美人とはいえませんけれど、わが師をのぞいてはイギリスのいなか道で美人に出会うなんてこと自体が無理な話でしょう。そういう次第ですから、私としては何とかうまくこれを利用するあるのみで、こういう場合の話しかけに、いんぎんさとずうずうしさの必要なのは、さんざ読んで心得たものです。それですから女がさくのところまで来ると、片手をさしのべてそれを越えるのを助けてやりました。
「スペインの詩人カルデロン(一六〇〇―一六八一年のスペイン詩人―訳者)は何と申せしや? あの有名なる対句がかく訳されおるは、お聞きおよびもござろう。
ああ乙女よ、うやうやしく願う
あなたの道のお助けにならんと」
女は顔を赤らめただけで、何も申しません。
「ジプシ男とジプシ娘はいずこに?」
女は顔をそむけたまま黙っています。
「私はジプシではないけれど、ジプシの書物なら少しは知っていますぞ。」といってその証拠に一節だけ歌って聞かせました。
娘は笑っただけで、何とも申しません。見たところどうやら、運勢占い即《すなわ》ち師のいうダカリングその他競馬場など人の集まるところで占いをやって生活をたてているらしく思われました。
「あんたダカリングするかね?」
娘は私の腕をぴしゃりとたたいて、「まあ、あんたって元気がいいわねえ!」
たたかれて、かの無双の美人を思いだし、私はごきげんでした。「なんならメルフォードを使ってもいいよ。」これはわが師によると合戦を意味するのです。
「何なと勝手にしたがよかろう!」といってまた私を打ちました。
「あんたはほんとに美しい娘さんだ。あんたを見ているとヤルマールの娘グルネルダを思いだすよ。ほれ、島の王様から金の鉢を盗みだしたあの娘をね。」
娘はいやな顔をして、「あんた、すこし口を慎んだがいいね。」
「べつに悪気はないのでね、ただ古い軍談にある娘になぞらえただけなのさ、美《ベ》人《ル》さん。ほら、その目は氷山に輝く太陽のごとくにて、とあるあれにさ。」
ここで娘はちょっと笑顔をみせましたから、この例えは気にいったらしいのです。「私の名はベルじゃねえ。」といってすましています。
「じゃ何というの?」
「ヘンリエッタ。」
「女王さまのような名だ。」私は大きな声でいいました。
「それで?」
「チャールズ王妃だ。この人のことは詩人ワラー(一六〇六―一六八七年のイギリス詩人―訳者)が――イギリスにだって詩人くらい居ますからね。ただバスク人(スペインにいる一種族―訳者)にあっちゃとてもかないませんがね――そのワラーがこういっています。
彼女が女王たりしは神《かみ》業《わざ》にこそ
続く人はその事実を認容するのみ。」
「まあ! お口のたっしゃな!」
「そうと分かったら、あんたが女王さまである証拠をみせたんだから、こんどはあんたがチューマをくれる番ですよ。」――これはジプシ語でキスの意味です。
「耳の穴のうえにでもするかね。」
「じゃああんたと一つレスリングするか。もしこっちを押えつけたら、負けた証拠にアルメニア(西南アジアの独立国だったが今はソ連領―訳者)語のアルファベットを教えてあげよう――ああこのアルファベットという言葉自体が、イギリス語はギリシャ語からきたことを示している。またもしこれに反してわたしが勝つようなことになると、あんたはチューマをくれるのだ。」
ここまでしゃべって、娘がさくを乗りこえて逃げだしそうにしたとき、街道を一台の箱馬車がくるのを見ました。スワインハースト村のパン屋のものに違いなく、馬は栗《くり》毛《げ》で手尺十五(約一メートル五〇―訳者)に足りぬ小さな、雑種らしい毛なみですから、ニュウ・フォレストあたりの産でしょう。何しろ馬のことはわが師の知識にとても及ばぬから、毛なみが栗毛だとだけいっておきます――それに馬もその毛なみのことも、この話とは何の関係もないことですしね。ただつけ加えると、こいつは小さな馬とも大きなら馬ともいえるとだけ言っておきましょう。さてこの話には何の関係もない馬のことなんかはこれだけにして、ここらでその御者のほうへ目を転じましょう。
大きな血色のよい顔に茶いろのほおひげのある男で、がっしりしたからだに肩の肉がもりあがっていて、左眉《まゆ》のうえに赤みをおびた小さなホクロがあります。ビロードの服を着て鉄の金具を打った大きな深ぐつをはいた足を車の泥よけに踏んばっています。谷の娘としゃべっているさくのところまでくると、馬車をとめて、パイプに火をつけるのにマッチを貸してくれませんかと、ていねいに申しました。私がポケットからマッチを出すと、手綱を泥よけに投げすて、大きなくつをもちあげて、やおら街道へと降りたちました。がんじょうな男ですけれど、少し太りすぎで息ぎれがしています。昔は街道の路傍でボクシングの勝負をするのが盛んでしたが、この男ならその相手に打ってつけだと思われました。よし、この男と一勝負してやろう。谷の娘はそばに立っていて、それライトだ、こんどはレフトだと声援を送ってくれ、もし不運にも私がダウンさせられるようなことでもあれば、抱きおこしてもくれるだろうではないかと思いました。
「ロング・メルフォードにするかね?」
男はちょっと驚いたらしく、どんな混合でもかまわないと答えました。
「ロング・メルフォードというのはね、タバコの混ぜかたじゃなくて、わが祖先が大いに珍重したボクシングの技法をさすのだ。当時はこれを業とする有名な男、たとえばガリイ大人のごときは国家の最高官吏にも選ばれたものだった。当時はイギリスのけん闘家にもりっぱな人物がたくさんいてね、そのなかでもヘリフォドのトムなどはとくにすぐれていた。この人物はトム・スプリングの名でよく知られているが、父親の名はウインタというのだそうだけれどね(傑作集ボクシング編中ファルコンブリッジ公参照―訳者)。しかしこんなことは現在の問題と何の関係もない。現在の問題は、わしと一戦をまじえることにある。」
赤ら顔のその男は、こう聞いてひどく驚いてみえ、師の感化によって私がごく普通なことと思いこんでいるこんな冒険には、まったく不慣れであるらしく見えました。
「一戦をまじえるって? どんなことかね?」
「古くからイギリスの伝統となっているが、一戦によってどっちが強いかきめるのだ。」
「あんたと一戦をまじえねばならんわけは何もないがね。」
「こっちだってそうだ、何もない。だから一戦をまじえるのは、愛するがためとしよう。古くは盛んに使われた言葉だ。ハロルド・シグヴィンスンの書いたものによると、デンマーク人(十世紀のころイギリスへ侵入した―訳者)は愛のためおのででも闘うのが普通だったという。同じ人のルーネ(北欧の古代詩集―訳者)の第二編に出ている通りにね。だから上衣をぬいで、さあ勝負しよう。」いいながらこっちも上衣をぬぎました。
男の赤ら顔はいくらか赤みがひいて、「けんかはしねえ。」
「そうはゆかないね。上衣はこの若い娘さんに預けておけばよかろう。」
「何たらバカげたことを!」とヘンリエッタはいいました。
「それに愛のためには勝負したくないというなら、これのためにならどうだね?」と金貨を一枚出してみせて、「これはお前さんに頼もう。」と上衣をヘンリエッタに出しました。
「金貨のほうを持ったげる。」
「いや、それはいかん。」と男はコールテンのズボンのポケットへ金貨を落としこんで、「さあ、この金貨をかせぐにゃ、どうしたらいいね?」
「たたかうのだ。」
「どうやってやるね?」
「両手をあげるのだ。」
男はいわれた通り両手をあげはしたが、どうしたらよいのかさっぱり見当もつかぬといった哀れな格好で立ったままです。そこで少しばかり怒らせてやれば、やる気になるだろうと、帽子をたたき落としてやりました。これは普通にビリ・コックとよんでいる黒くて固い帽子です。
「あれ、おめえさん、何でそんなまねしなさる?」
「お前を怒らせるためだ。」
「よし、そんなら怒ったぞ。」
「そんなら帽子はかえす。それから勝負だ。」
しゃべっているあいだ、帽子は私のうしろにころがっていましたから、振り向いて拾おうとうつむいて手をのばしたとき、したたかな一撃をくらって立ちあがりもできず、そうかといってその場へ坐りこみもならず、という有様です。ビリ・コック帽を拾いあげようとしたとき受けたこの一撃は、普通のこぶしによるものではなく、さっき馬車の泥よけに休めているのを見ておいた、あの鉄を打った深ぐつなのです。身を起こすことも坐りこむこともならず、さくの横木につかまったまま、あまりの痛さに大声をあげてうめきました。やっと身を起こしてみますと、赤っ面の男は馬車ごと走り去っていて、影も形もみえませんでした。谷の娘はさくの向こうがわに立っていて、それとは別にぼろ服の男が一人、煙のあがっている方から、畑のなかをこっちへ駆けてくるのが見えました。
「どうしてあぶないって知らせてくれなかったんだ、ヘンリエッタ?」私がききました。
「そのひまはなかった。あのときうしろを向くなんて、なんというバカなことをしたもんだ。」
そのとき、さくのそばで話している私たちのそばへ、ぼろ服の男がやってきました。ここでこの男の言葉をそのままに写しとるのはやめましょう。わが師も方言を軽べつはしなかったけれど、ある男の言葉つきを現わすには、あちこちへその特徴ある言葉を入れるだけにしているからです。谷の男の言葉といえば、まるでアングロ・サクソン(ノルマン征服以前にイギリスに住んだ民族―訳者)が、かの僧ビード(六七三―七三五年イギリス神学者―訳者)のはっきり示すごとく、自分たちの首長を馬と雌馬の意味のエンジストとオルサという語で呼んだのとそっくりの言いかたでした。
「なんであいつはなぐっただ?」と谷の男はたずねました。ひどいぼろ服を着て、がっしりした骨ぐみ、茶いろの面ながの顔、手にオーク材の棒を持っています。声がまた、戸外でばかり暮らす人によくみるように、ひどくしわがれていました。「あの男、あんたをなぐったね。なんでなぐったりしただ?」
「なぐれって頼んだからよ。」とヘンリエッタがいいました。
「頼んだって?――なんでまた?」
「なぐれって頼んだのさ。そうすれば金貨を一枚やるってさ。」
「そりゃ何という!」ぼろ服の男はあきれた様子で、「だんながげんこを集めてるんなら、わしなら半値で一つあげますぜ。」
「こっちの用意のできないうちにやられたもんだからね。」
「帽子をたたき落とされてみれば、そうするしかなかったわ。」谷の娘が口をだしました。
このころには私も、さくの上段の横木につかまって、どうやらまっすぐに立っていられるまでになっていました。それでシナの詩人ロー・タン・アンの詩句、一撃ははげしくとも、さらに強きものもあり得なん、というところを心中引用して、自身を元気づけながらあたりを見回しましたが、上衣はどこにもありません。
「ヘンリエッタ、私の上衣をどうした?」
「いいかね、だんな、」と谷の男が申します。「そう気やすくヘンリエッタ、ヘンリエッタと言わんどくれや、同じことならな。こいつあわしの家内だでな。この女をヘンリエッタと呼ぶお前さんは、いったい何ものかね?」
そう呼んだのも決して彼女を軽べつしたわけではないのだと、谷の男に弁解して、「この人はモート(ジプシ俗語で娘の意―訳者)だと思ったもんでね。ロマニイ(ジプシのことをいう―訳者)男の細《リ》君《ア》は、私にとって常に神聖です。」
「どう見てもバカな人だ。」と女。
「いつかあんたがたを谷へ訪ねてゆき、わが師がロマニイについて書いた書物を読んで聞かせますよ。」
「ロマニイたあ何だね?」と男。
私――ロマニイとはジプシのことですよ。
男――わしらはジプシでねえ。
私――じゃあ何です?
男――百姓よ。
私(ヘンリエッタに)それではジプシについて私のしゃべったことが、どうして分かったね?
ヘンリエッタ――分からなかったよ。
もう一度上衣のことをきいてみたが、あれはあの左眉のうえにホクロのある赤っ面の男にけん闘を申しいれるまえに、自分であの馬車の泥よけにおいたものに違いありません。それでペルシャの詩人フェリデティン・アタールが詩句、衣服は脱ぐとも皮膚までも脱ぐなかれというところを口ずさみ、谷の男とその妻に別れを告げてスワインハーストの村へとたち戻り、そこの古着屋で代りの上衣を手に入れ、停車場へ出てそこからロンドンへと向かったわけなのです。ここで私として書き落としてならないのは、村から停車場へ行く途中ずっと、ほとんど村じゅうの人についてこられたことで、そのなかにはあの光る黒服の男も時計箱のうしろにこそこそと隠れた妙な男もまじっていました。話がしたくてしっきりなしに振りかえり、歩みよるのですが、どういうものかその度に彼らは逃げてゆきます。ただ一人村の巡査だけはそばへ来て一緒に歩き、こっちの話に耳を傾けてくれるものですから、フニョージ・ジャノス(一三八五―一四五六年、ハンガリの国民的英雄―訳者)のことを話したり、コルヴァイヌス(一四四〇―一四九〇年ハンガリの王様―訳者)ともからすぶりとも呼ばれたあの英雄と、マホメッド二世とのあいだで――いまはコンスタンチノプルですがキリスト以前にはビサンチンとして知られた都市をおとしいれたあのマホメッド二世です――そのあいだで起こった戦争中のできごとなどを話してやりました。巡査と二人で停車場へはいってゆき、客車に腰をおちつけるとポケットから紙をとり出して、自分の経験したことをすっかり紙に書きつけようとしましたが、それというのも今《こん》日《にち》にあってはわが師の行なったところを、そのままたどることのいかに大変であるかを示したかったからです。書いてゆくうちに、あの巡査が駅長に話をするのが耳にはいりました。赤いネクタイをした小太りで中背の男です。巡査はこの男に、私がスワインハーストでやった冒険について話して聞かせています。
「それにあの人は紳士ですよ。ロンドンでは大きな家(精神病院を指すか―訳者)に住んでなさるのでしょう。」
「いやまったく、でかい家に違いあるまいて。」と駅長は手を振って、発車の合図をしました。
アーケーンジェルから来た男
一八六七年三月四日、二十五歳というのに、胸中のさまざまな苦悩や動揺のはて、私はつぎのような文章をノートのはじめに書きのこしている。(アーケーンジェルはソ連北西部の海港―訳者)
太陽系は、大きさにおいてこれに劣らずかつ数知れぬ多くの他の天体系とともに、ヘラクレス座の方向へと、空間を静かに運行し続けている。このように構成された大宇宙は、無限の空間をたえず、音もなくただ回転しつづけているのだ。それらのうちでもっとも小さく、いたってつまらない存在、液体と固体の集合にすぎないものを、われらは地球と名づけている。わが生まれるはるか以前から回転しつづけ、わが死後も回転しつづけるであろう――その回転は神秘につつまれ、どこから来てどこへ行くのか、誰も知らない。この動く塊《かたま》りの外皮には数多くの小動物がはいうごめき、私すなわちジョン・マクヴィティもそのなかの一人なのであり、無力無能、なんの目当もなくおし流されているにすぎない。かくのごときがわれらの現状であり、私はとぼしい精力やおぼろげな理知の働きをあげて、金属の小円盤を入手するにつとめ、それによって常に衰えてやまぬ体力組織を更新すべき化学成分を購入したり、気候のきびしさから免れるため頭上に屋根を頂いたりするのだ。かくして私をとりまく生命にかかわる重大問題を追及する暇もなく、思いもおよばず打ちすぎてゆく。かく哀れな存在にすぎない私も、ときにはある程度の幸福を感じ得ることもあり、そればかりかときには――神よ、許したまえ――自己の重要さを考えて胸ふくらますこともあるのだ。
まえにも述べたようにこれらの言葉は、ノート・ブックに書きつけたもので、当時たえず心底に根をおろし、毎日のすぎゆく感情のなかにも変ることのなかった私の思想を、そのままに現わしているものだ。しかしながらグレンケアンのおじマクヴィティがとうとう死んだ――かつては下院の委員会で委員長をつとめたこともあるあの人物だ。彼は持っていた大きな資産を数多くのおいたちに分配したが、その結果私も、これからの一生を安らかにすごすことのできるだけのものを手に入れたばかりか、ケイスネス(スコットランド東北部の州名―訳者)の沿岸にある寂しい土地の持主になったのである。もっともここは砂ばかりの、何の値打もないところであるから、おじは私を愚弄する気持からここを譲ったものに違いないと思う。あの老人はそういう陰気なユーモアの好きなところがあったのだ。この時まで私はイギリスの中部地方で弁護士をしていたのだが、今や自分の思想を実現する時がきたと思った。そこでりっぱなのもつまらないのも、すべての目標を投げすてて、全力をあげて自然の神秘の研究へと向けることを思いたったのである。
イングランドの家からの出発は、ある事情でかえって早められることになった。それというのも私はひどく短気なところがあって、怒ったとなると自分の力の限度を忘れてしまうところがあり、それであるときけんかの果てに、一人の男を半殺しの目にあわせてしまったのだ。事件そのものは法廷に持ちだされることなくしてすんだが、新聞紙は私にほえつくし、町の人たちは私の姿を見てさえ逃げ腰になった。それでそんな人たちやばい煙だらけの町もいやになって、急いで北方の所有地に移り、孤独ななかに自由な研究と思索に専念しようという気になったのである。出かけるまえに元金のなかから少しばかり引きだし、もっとも精選した哲学書や、隠退生活に必要の起こるかも知れぬ化学装置などを買い求めた。
私の相続した土地は、ケイスネス州のマンジイ湾ぞいに二マイル(一マイルは一・六キロ―訳者)ほど延びた細長い地帯であり、ほとんどが砂地ばかりである。この細長い土地には、灰いろの建物がだらだらと長くのびている。いつごろ何のために建てたのだか、誰も知るものがない。これを修繕してはいったわけだが、私のように簡素な趣味のものには、それで十分に用はたりた。ひと部屋は書斎兼実験室とし、つぎの部屋を居間、第三の傾斜した屋根の下にはハンモックをつって、そこで寝ることにした。ほかに三部屋あったが、いずれも空けたままにしておいた。ただそのうち一つだけには、家事をやってくれる老婆をおくことにした。ファーガスみさきを回ったところに、漁夫のヤングとマクラウドの二家族がいるが、そのほかは右にも左にも何マイルというもの、人っこ一人住んでいない。家の前は大きな湾であり、背後には二つの長い荒れた丘があって、それがさらに高い山にとつづいている。二つの丘の中間は谷になっていて、陸のほうから風のある日には、この谷をもの哀しげな音をたてて吹きおろしてくる風が、私の屋根うら部屋の窓の下にあるモミの木の枝をならした。
私は人間ぎらいだ。公平にいうとすれば、人間どものほうでもたいていは私をきらっていると、付言しなければなるまい。そのうじゃうじゃしていることを、その月並紋切り型なのを、その偽《ぎ》瞞《まん》性を、その狭くるしい正邪の念などを憎む。世間の連中は発言が率直無遠慮だといって私をとがめ、彼らの不文律を無視するといってはせめ、あらゆる制圧に反抗するといっては批難する。マンジイの寂しい書斎にとじこもり、好きな書物や薬品に埋まっていれば、政治や発明やおしゃべりのなかに過ぎゆく人生の大きな流れなど我関せずと、落ちついてしかも幸福でいられるのだ。とはいってもただ埋もれてくすぶっているわけではない。私は私なりに仕事をして、しかもその研究ははかどっていたのである。どうもドルトン(一七七六―一八四四年のイギリスの化学者―訳者)の原子学説は基礎的に過誤があるとしか思われないし、水銀が一個の原素であるとも考えられない。
ひるのうちは薬物の蒸溜や分析で忙しい。食事するのもしばしば忘れてしまい、マッジ婆さんにお茶だと呼ばれて行ってみると、夕食が手つかずでテーブルに残っていたりする。夜はよくベーコン(イギリスの政治家、哲学者、一六二六年死す―訳者)デカルト(フランスの哲学者、一六五〇年死す―訳者)カント(ドイツの哲学者、一八〇四年死す―訳者)などの、不可知の領域をのぞき見た人の本を読む。この連中は空虚で、実質的成果もない仕事を、やたらに長い言葉を使って仕あげただけという感じで、ちょうど金鉱を掘るにあたってたくさんのうじ虫を掘りあて、そのうじ虫どもを並べたてて、これこそ自分のさがしていたものだと自慢するようなものと思われた。時おり心がいらだってくると、休みなしに朝食もたべず、三・四十マイルも歩きつづけた。こうしたとき、やせこけて無精ひげをはやし、服装や頭髪も乱れがちな私がいなかの村々を通りすぎると、母親たちは急いで道路にとびだして子供を屋内へ引っぱりこむし、いなか者たちは小さな家から出てきて、じろじろと私をながめる。どうやら私は「マンジイの気違いだんな」として相当ひろく知れわたっているらしい。ただしこんな風にいなかの村々へ脚をのばすのはごくまれで、たいていは持地内の浜辺の散歩にかぎり、そこで強いタバコをふかし、大洋をわが友とも仲間ともして心を慰めるのであった。
大いなる、たえず息づく大海ほどよき友があろうか? これと合致し共感し得ぬ人の心など、この世に存在するだろうか? その明るいひびきに耳をすまし、波がしらを陽ざしに光らせた長い緑の波が浜に走りくるのをながめる時ほど、心の晴れることはあるまい。かと思うと灰いろの波が怒りに髪をふり乱し、風がそのうえに叫び声をあげてその狂おしい動きをさらにかりたてるとき、暗たんたる心の人は「自然」にもやはり自分の心中に劣らぬ暗うつな要素のみなぎっているのを感じるだろう。波の静かなときのマンジイ湾は、銀の板をのべたように明るく澄んでいる。しかし岸べから少しはなれた一カ所にだけ、眠れる怪物の背なかを思わす、黒くて長い一線が水面からつき出ている。これは漁夫たちが「マンジイの浅瀬」とよぶ危険な岩礁の頭部である。風が東から吹きつけると、波は雷鳴のようにとどろきながらそこに砕けて、しぶきはわが家の屋上を越えてうしろの丘まで吹きつける。湾そのものはりっぱな品のよい形をなしていたが、北と東の強風に正面きって立ち向かっており、それにこの岩礁は恐ろしかったから、船乗りにはほとんど利用されなかった。この寂しい地点については少し脱俗的なところがある。
私は風波のおだやかな日には、ボートをこぎだして中に寝ころび、舷《げん》側《そく》から海中をのぞきこんで、ずっと底のほうにたくさんの魚のひらめくのをながめる――私にはそれが生物学者も知らない珍種ばかりに思われ、そこの海底を太古の荒い世界へと想像力は見たてるのであった。いつだったかごく静かな晩に浜に立っているとき、大きな叫び声が、それも女性の哀切きわまりない泣き声が海の深みからわきおこり、高まるかと思えば低くとぎれ、ひっそりした夜気のなかにものの三十秒もつづいたことがあった。この耳でほんとうに聞いたことである。
この人里はなれた土地にあって、じっと永遠に変らぬ丘を背おい、永遠に変らぬ大海を眼前にして、私は二年あまりの年月を、世間の人たちにわずらわされることなく、研究と思索の日々をすごした。あの老いたる女中にも無言の日を送る習慣を教えこんだから、その口を開くこともほとんどなくなった。もっとも年に二度はウイックにいる身寄りを訪れたから、そのときの数日間は彼女の舌も普段の埋めあわせに大いに活躍したことであろう。そろそろ自分が人間族の一員であることを忘れかけ、死せる人たちの書物とともに暮らしはじめたのであるが、そのとき意外なことが起こり、思索の方向をすっかり変えられてしまった。
六月にはいって三日間、荒天がつづいたが、それから平穏な日が訪れた。その日の夕暮はそよとの風もなかった。太陽は紫いろの雲のたなびく西の空のかなたに沈み、湾内のなめらかな海面は真紅の筋で色どられていた。浜べにそって大波の残していった水たまりが、黄いろい砂のなかに血のしたたりのように並んでいる。まるで傷ついた巨人があえぎゆき、その痛ましい傷あとから血を落としていったかのようだった。夕やみのせまりくるにつれて、東の地平線に平たく横たわっていた雲の群が合体し、大きく不規則な積雲に変った。草はまだ倒れ伏し、何となく不吉なことの起こりそうな気配がした。九時ごろ、にぶいうめき声が海のほうから聞こえてきた。さんざ苦しめられた生きものが、またその苦しみの時のきたのを知って嘆くような声だった。十時、鋭い風が東のほうから吹き起こった。十一時、それはしっ風に変り、真夜なかになるころには、この荒い浜べでもまだ経験したこともないような暴風雨になった。
寝床へゆくころには砂粒や海草が屋根うら部屋の窓をたたき、風は一吹きごとに迷える魂のごとくに悲鳴をあげた。だがもうあらしにはなれっこになっているから、そんな音も私にとっては子守り歌でしかなかった。家は古いけれど、灰いろの壁はどんな風をもはね返したし、外界でどんなことが起ころうと、さしたる関心は持たないのだ。老いたるマッジも日常は私に劣らず無神経なほうである。だから夜あけの三時というに、寝室のドアを音たかくたたく音と、老家政婦のぜいぜい声の興奮した叫びに起こされたときは、まったく意外だった。ハンモックからとび降りて、いったい何ごとだと荒っぽくたずねた。
「だんなさま、だんなさま!」と彼女はいやな方言で叫んでいる。「お起きなせえまし、はよう! 大きな船が岩礁に乗りあげて、乗組員ががやがやと助けを求めとります――放っとけばおぼれ死んじまいます。マクヴィティのだんな、早うおいで下され!」
「ちと黙ってろ!」私はかっとなってどなりつけてやった。「人がおぼれようと助かろうと、お前の知ったことではない! 早く寝床へいって、私を独りにしてくれ。」と私はハンモックに戻って毛布をひっかぶった。
「この人たちはすでに死の恐怖を半ば経験したわけなのだ。」私はハンモックのなかで考えた。「ここで助かれば、幾年かのちにはまた同じことを経験しなければなるまい。だからいっそここで死んだほうがよいのだ。そうすれば死そのものよりも恐ろしい死の寸前の恐怖を二度とくりかえさずにすむではないか。」こんなことを考えながらまた眠ろうとした。それというのも人生の永遠に変転する姿にくらべれば、個人の死そのものは小さなできごとにすぎないという私の哲学は、同時にまた外界のできごとに対する私の好奇心をすっかりなくしてしまったからだ。しかしながらこのときはまだ古い要素が私の内部にうずまいていたと認めざるを得ない。ハンモックのなかで幾度か寝がえりを打ちながら、この幾月学んできた思想の命ずるがままに、人間的な衝動を押えつけようとしたが、やがて風の叫びのなかに鈍いとどろきを聞くと、あれは信号の号砲だと知って、ついに衝動を押え得ずして立ちあがり、服を身につけパイプに火をつけて海岸へと出ていったのである。
外へ出てみると真のやみである。風はひどい勢いで吹いたから、砂地づたいに歩いてゆくには両肩をつっぱっていなければならなかった。吹きつける砂や小石のため顔はひりひりずきんずきんしたし、パイプからは赤い火の粉がうしろの暗いなかへパッと飛び散った。大波のうち寄せる波うちぎわまでおりてゆき、しぶきのかからないように両手で目のうえを被いながら、じっと沖のほうをすかしてみた。何一つ見わけはつかなかったけれど、どうやら人のどなったり、意味の聞きとれない叫び声をあげるのが、あらしに乗って運ばれてくるようだ。じっと見つめていると突然、ちらりと光が目にうつった。つづいて湾内と浜全体が青く輝きわたった。船の甲板で青い信号灯をともしたのだ。船は岩礁のまんなかに坐礁していてぐらっと傾き、いまにも転覆せんばかりであり、甲板の板がまる見えである。二本マストの大きな帆船で、外国風の帆装であり、波打ちぎわから百八十ヤードか二百ヤードのところに坐礁している。帆げたも綱もくねる索具も、前甲板のもっとも高い部分からぱっときらめく青みがかった光りに、くっきりと照らしだされている。そののろわれた帆船のむこう、巨大なやみのなかからは、黒い波の長い列がうむこともなくたえず、頭上に泡の髪を逆だてて押しよせてくる。その大きさと力とをさらに加えて、速度もはやめるかに、最後はうなり声をあげて犠牲者におそいかかる。甲板には張り綱に十二・三人のおじけづいた船員たちのつかまっているのがはっきり見られた。信号灯の光が私の姿を浮かびあがらせると、青ざめた顔をいっせいにこちらへ向け、哀願するように両手を振った。
哀れに震えあがっているこれらの虫どもの姿を見ると、胸がむかむかしてきた。こんな連中ときたらきまって、人間界の偉大で高貴な人たちのたどった道をさけようとするのだ。そのなかにただ一人興味を引く男がいた。背のたかい男で、ほかの連中とは離れてただ一人前甲板に立って、綱や舷檣《げんしよう》にすがりつくのはいやだとばかり、踏んばっているのだ。両手をうしろで組み、深くうなだれているが、そうした元気のない様子からさえ、しなやかさと決断の力がうかがわれ、その姿や動きからは容易に絶望に屈せぬ男だなと思われた。ときどき上下やあたりを素早く見まわすなかに、何とか生きる機会を求めているのだなと思われたが、それでいて荒れ狂う波ごしに浜辺にいる私の姿を見るのにも、自分の誇りか何かの理由からであろう、決して嘆願の様子など見せないのであった。黒くおし黙ってはかり知れぬ姿で立ち、運命が自分にもたらすものをじっと待ちかまえているのだ。
問題はまもなく片づくかに思われた。見ていると途方もなく大きい波が一つ、羊《ひつじ》の群れを追う羊飼いのように後から迫ったと思うと、どかりと船に襲いかかった。前マストがぽきりと折れ、横静索につかまっていた男たちはハエの群れのようになぎ払われてしまった。引きさくような音をたてて、船は竜骨がマンジイ岩礁にくいこんでいるところから、二つに割れはじめた。前甲板にいた一人ぼっちの男は、急いで甲板を走りぬけ、前から気づいていながら何とも分からないでいた白い束ねたものをつかんだ。持ちあげたのを見ると、光にさらされたので、人間――女だと分かった。丸太がからだと腕の下にしばりつけてあり、海に落ちても頭が水面に出るようにしてあるのだ。やさしく女を船ばたまでつれてくると、そこで二・三分間なにか話をしていた。この船にはこれ以上踏みとどまっていられないのだと言いきかせたのだろう。それに対する女の返事が変っていた。ゆっくり身がまえて、相手の顔をはっしと打ったのだ。それで男はいったん口をつぐんだが、すぐにまた話しかけた。身ぶりから、水にはいったらどう行動すべきかを教えているのらしい。女はしりごみしたが、男の両手で抱きすくめられた。男はかがみこむようにして、女の額に口びるを押しつけるらしい。そのとき大きな波がきて、船の破れた腹から吹きあがってきたので、男は海水のふくれた頭に、まるで赤ん坊を揺りかごに乗せるように、そっと女をのせた。その白い服が暗い大波のなかに光りただよい、光が弱まるにつれて、裂けた船とそこに残った一人の男は見えなくなってしまった。
それらのことを見るほどに、私の男らしい勇気が哲学を打ち負かし、直ちに立って行動を起こそうという激しい衝動を感じた。私は冷笑哲学をかなぐり捨てた。こんなものは暇なときだけ着ればよいのだ。私はボートとかいのある場所へと飛んでいった。ボートは水もれのするしろものだが、それがどうしたというのだ? いまや私はアヘンびんに向かって残りおしげな、不安な視線を投げつけておいて、万一の可能性をたのみ、危険をおかそうとしているのではないか? 私は気の狂ったように力まかせにボートを波うちぎわに引きずってゆき、それに飛びのった。はじめはこのわきかえる波のなかでボートがもつかどうかあやぶまれたが、必死にこぎ進むうち水が半ばまではいる始末ながら、なんとか浮かんでいられた。いまや砕けぬ波のゆすぶるところまで出ていって、広くて黒い波のてっぺんまで押しあげられたかと思うと、こんどはぐんと下へ落ちこみ、見あげる暗い空にぐるりと水のあわが光るばかりになる。はるかな背後で老マッジが狂気のようにわめき叫ぶのが聞こえた。ボートで乗りだしたのをみて、私の狂気もついにほんものになったかと思ったのだろう。こぎながら肩ごしに見まわしているとついに、こっちへ押しよせてくる大波の腹のあたりに、白くぼんやりした女の輪郭がみえた。ぐっと身をかがめて、女がボートのわきを流れ去る瞬間にひっつかんだ。そしてうんと力をこめて、水びたしの女をボートへ引きあげた。つぎの大波がボートをぐぐんと運んで波打ちぎわに押しあげてくれたから、こぐ必要はなかった。ボートを危険のないところまで引きあげ、女を抱いて家へ運びこんだ。老マッジは大きな声で祝福とほめ言葉をわめきちらしながら、あとについてきた。
この大仕事をしたあとで、その反動がやってきた。運んでくる途中は女の脇腹が私の耳のあたりにあり、かすかに鼓動が聞こえていたから、この荷物は生きているなと知った。これを知ると、マッジがあらかじめ燃しておいた暖炉のそばへ、まるでまきの一束でもおろすように、できるだけなさけ容赦なくおろした。女が美しいかどうか、見ようともしなかった。女の顔などに興味をもたなくなってから何年にもなる。階上のハンモックへ横になると、老マッジが女の膚を暖ためようとこすりながら、歌うようにつぶやくのが聞こえた。「はれ、きれいな娘だよ! まあいとけない!」それでこのジェトサム(海難のとき船脚を軽くするため海へすてる荷物―訳者)が若くて美しいのを知ったのである。
あらしの翌朝は静かに晴れわたっていた。長い砂浜を歩きまわっていると、海の遠なりが聞こえた。これは沖の岩礁によせてうずまく波の音であって、浜にはさざ波がやさしく打ちよせているだけだった。あの帆船は影もなく、岸には破片も見あたらなかったが、このあたりの海には強い底潮のあるのを知っているから、それも不思議ではなかった。翼の大きなかもめが二羽、船の難波した現場の上空をゆっくりと舞っていて、まるで波の下に異様なものが、鳥には見えるかのようだった。お互いに見たものについて話しあうのか、時おりはしゃがれた声も聞こえた。
散歩から帰ってみると、入口のところで女が私を待っていた。その顔を見たとたんに、ああ助けてやらなければよかったと思うようになった。これで静かな独り暮らしはおしまいだからである。彼女はごく若く――せいぜい十九くらいで、あおざめたなりにどこか品のある顔だち、それに黄いろい頭髪、明るい青い眼と光る歯なみとをもっていた。天使のような美しさであった。いたって色白く優美で、しとやかであるから、私はまるであらしの水泡の精を拾いあげたようなものだった。マッジ老婆のありあわせの服を身にまとっているが、変てこではあっても不似あいなことはなかった。玄関への道を大またにはいってゆくと、子供っぽい身ぶりで両手を前にさしだし、助けられたことに感謝する気持なのであろうが、こっちへ駆けよってきた。それでも私は片手を振って押しのけるように、ずんずん通りすぎた。それには気を悪くしたらしく、目に涙をいっぱい浮かべたが、それでもあとをつけて私の部屋へはいってくると、哀しそうに私を見つめた。「どこの国から来たのですか?」とだしぬけに私はたずねた。
こっちが口をきくのを見て、彼女は微笑したが、頭を振るだけで何も答えなかった。
「フランスからですか? ドイツからですか? それともスペインですか?」――そのたびに頭を振るばかりであったが、そのうち急にひと息にしゃべりだしたけれど、その言葉は私には一言もわからなかった。
それでも朝食をすましたあとで、女の国籍を知る糸口がみつかった。もう一度浜べを歩いていると、沖の岩礁のさけ目に材木が一本はさまっているのを見つけたのである。ボートをこぎだして、それを引いてきた。船尾材の一部でそのうえに、というよりはそれに打ちつけた板のうえに、妙な字体で「アーケーンジェル」とペンキで書いてあるのだ。「では、」と私は浜をゆっくり戻りながら思った。「あの色白娘はロシア人だったのか。ツァーには似あいのものだし、白海の岸にもふさわしい!」それにしてもあのように洗練された気品のある娘が、あのような貧弱な船で長旅に出るなんか妙なことだと思った。帰ってくると娘に向かって、アーケーンジェルという言葉をいくたびか、違った抑揚で発声してみたが、娘には通じる様子もなかった。
午前中は書斎兼実験室に閉じこもって、当時つづけてきた炭素と硫《い》黄《おう》の同素体の研究にふけった。ひるごろ食事のため出てみると、彼女はテーブルのそばに坐り、もう乾いた自分の服を針と糸でつくろっていた。彼女がまだ家にいるのは腹だたしかったが、まさか自分で居所をきめろと、浜へ追いだすわけにもゆかなかった。ほどなく彼女は今まで私の知らなかった性質を現わしはじめた。自分と遭難の場所とをさし、それから指を一本立ててみせたので、これは助かったのは自分一人かと尋ねているのだと了解した。その通りだとうなずいてみせると、娘は歓喜の叫びをあげていすから飛びあがり、つくろっていた衣類を頭上にかざして、身の動きにつれて左右にゆらめかしながら、羽根のようにかるがると部屋じゅうを踊りまわった。そしてそのまま開いていた戸口から日のあたる戸外へ踊り出ていった。踊りまわりながら、彼女は哀調のある甲だかい声で、無器用で耳ざわりな歌をうたいはじめた。歓喜の表現なのである。「こら、こっちへはいれ。しようのないやつだ。はいって静かにしていろ!」と私は大声でどなったが、彼女はなおも踊りつづけた。それからだしぬけに私のほうへ走りよると、引っこめるまもなく私の手をとり、キスしたのである。食事のあいだに私の鉛筆を一本さがしだし、それで紙のうえに「ソフィ・ラムージン」という二語をかいた。そしてそれが自分の名だというように、自分の胸をさした。それから私の名も教えろとばかりに、その鉛筆をさし出したが、こっちはそれをとりあげてポケットへしまいこみ、もうこれ以上の交渉など欲しないという意図を示してやった。
それからはこの女を救った自分の軽率さがたえず悔まれるのであった。この女が死のうと生きようと、それが私にとって何だというのだ? あんなことをするほど、自分は若くも熱しやすくもないのだ。本来マッジというものを家におくさえかなわぬと思っているのだ。ただあの老婆は年をとっているし、少しも美しくはないから、まあ無視していられるのだ。だがこんどの女は若くて活力にあふれ、もっと重大な思索に向けられるべき私の気持も、つい乱されがちだ。この娘をどこへ送って、どう処置したものだろう? このことをウイクに通告したら、役人どもは大勢で押しかけてあちこち家じゅうをのぞきこんだり、しゃべったりうるさいことだろう。考えただけでもうんざりする。やっぱり娘をここへ置くほうがまだましだ。
ところがまもなく、幾つかの新しい面倒がもちあがってきた。人間族などという小うるさくうごめくものの一員であると、静かにいこう場所なんかまったくないと観念すべきか。夕がた、太陽がうしろの丘に沈んでその黒い影を遠くまで投げ、しかも砂浜や海面を美しい金色に染めあげるころ、いつものように浜へ散歩に出た。こういう場合、本を手にしてゆくことがよくある。この日もそうで、砂丘のうえに長々と横たわり、読書をはじめた。はじめてみると、太陽と私のあいだを一つの影がさえぎっているのに気がついた。見まわすとひどく驚いたことに、ほんの数ヤードはなれたところに、丈の高い強そうな男が立っているのだ。しかもそれが私の存在などまったく無視して、私の頭ごしにきびしい顔つきでじっと湾やマンジイ岩礁を見つめているのだ。顔いろはあさ黒く、黒い髪、短くうねったひげ、ワン型の鼻、耳には金の耳環をつけている――全体の感じは粗野でいてしかもどことなく気品がある。色あせたビロードのジャケツに赤いネルのシャツを着こみ、ももの半ばまである漁師用の長ぐつをはいている。ひと目で前夜の難破船で甲板に残っていた男だと知れた。
「やあ!」私は不満そうに声をかけた。「やっぱり無事に海岸へたどりつきましたね?」
「そうですよ。」とりっぱな英語で答えた。「私のせいではなかった。波が押しあげてくれたのです。おぼれ死んだほうがよかったのに!」少し外国なまりがあったが、かえって耳にこころよく響いた。「あの出っぱりの向こうに住んでいる二人の親切な漁夫が、私を引きあげて面倒をみてくれました。しかし正直のところ、心から有りがたいとは思っていませんがね。」
「おや、おや、ここにもわが同類がいるぞ!」と思ったが、口に出しては、「どうしてまた、おぼれ死にたかったのですか?」
「それはね、」と長い両腕を絶望的にさしあげながら、「あそこに、あの青くほほえんでいる海に、私の魂が――私の愛し、そのためにこそ生きてきた宝が横たわっているからです。」
「そうかも知れませんが、人間は毎日死んでゆくのです。いちいち騒ぎたてても始まりません。ちょっとお知らせしますが、あなたの歩いているこの土地は私のものです。一刻も早くここを出て下されば、それだけありがたいわけです。あなたのような人は、一人だけで私はたくさんですよ。」
「一人だけで?」
「そうですとも。ついでにあの娘も連れてって下されば、これに越したことはありませんがね。」
ちょっとの間、こっちが何をいったのか分からない顔つきでじっと見つめていたが、たちまちわっと声をあげるとともに、砂のうえを家のほうへ向かって大急ぎで駆けていった。あとにもさきにも、人間があんなに早く走ったのを見たことがない。だしぬけに家へ侵入されてはかなわないから、私も遅れじとけんめいに後を追ったのだが、こっちが家に着くまえに男は開いていた戸口から姿を消していた。なかからは大変な悲鳴が聞こえ、さらに近づくと男の太い声がはや口に声たかく何かをしゃべりまくるのが聞こえた。家にはいってみると娘のソフィ・ラムージンは、そむけた顔やちぢこまったからだつきに、恐怖とけん悪の情をまざまざと浮かべながら、片すみにうずくまっている。男のほうは黒みがかった目を光らせ、つきだした両手を激情に震わせながら、はげしい嘆願の言葉をはきつづけている。私がはいってゆくと男はひと足進み出たが、娘のほうはなおも後ずさりし、うさぎがいたちに喉を食いつかれた時のような悲鳴をあげた。
「もし!」と私は男を娘から引きはなしながら、「なんという騒ぎです! どうするつもりです? ここを路傍の宿屋か何かだとでも思っているのですか?」
「ああ、申しわけありません。この女は私の家内なのです。おぼれ死んだものと思っていましたが、おかげで生きかえった思いです。」
「君は何者ですか?」私はあらっぽく尋ねた。
「アーケーンジェルから来たもので、ロシヤ人です。」
「お名まえは?」
「ウルガーネフです。」
「ウルガーネフさん――こちらはソフィ・ラムージンだから、夫婦ではありませんね。それにこちらは結婚指環もはめていないようだ。」
「二人は神の認めたもう夫婦なのです。」ウルガーネフは上をあおぎ見ながらおごそかに言った。
「地上のものならぬ高いおきてで結ばれているのです。」こういっている間に彼女はそっと私のうしろに回り、手をとると助けを求めるように握りしめた。「妻をここから連れ去らせて下さい。」
「いいですか、名まえのことはともかくとして、」と私はきびしくいった。「私はこの娘にここにいてもらいたくない。こんな人には会わなければよかったと思います。死んでいたとしても悲しいとも思わない他人です。ですがあなたに渡すという段になると、この人はあなたを恐れきらっているという点もあるし、そうはゆきません。だからあなたは大きな図体をここから消して、私に本を読ませてもらいたい。あなたの顔なんか二度と見たくありません。」
「この女を渡さないというのですね?」しゃがれ声だった。
「あなたが地獄へでも落ちてからね。」
「では力ずくでゆくか?」わめいた男の黒い顔はいっそう黒くみえた。
私の血は猛悪に逆流した。まきを一本壁炉のそばから取りあげると、「出てゆけ。」低い声でいった。「早く出てゆけ。さもないとひどい目にあうぞ!」男はちょっとだけためらっていたが、やがて出ていってしまった。しかしすぐに戻ってきて戸口に姿を現わすと、私たちをにらみつけていった。
「自分のしたことを考えてみろ。その女はおれのものだ。きっととり戻してみせる。闘うだんになれば、ロシヤ人はスコットランド人なんかに負けはしないからな。」
「やってみれば分かる。」と叫ぶなり私はパッと飛びだしたが、男はたちまち走り去り、夕やみせまるなかに丈の高い姿が遠ざかりゆくのみであった。
このことがあってから一カ月以上平穏にすぎた。私はロシヤ娘に口をきかなかったし、向こうも話しかけはしなかった。時たま実験室で何かやっていると、彼女はそっとはいってきてそこに坐り、黙って大きな目で私のすることを見まもっている。はじめこの邪魔だてには困ったが、そのうちに娘が気分をこわすようなことは何もしないと分かったので、しだいに苦にはならないようになってきた。この許諾に娘は元気づいたか、自分の坐る腰掛けをだんだん実験テーブルに近づけ、毎日少しずつそうすること数週間、ついには私のそばに並び、実験を隣りからながめるようになった。こういう状態のなかにあって、あくまでも邪魔をするという感じを起こさせることなく、私にペンや試験管やびんを渡してくれたり、じつに利口にこっちの欲しいものをそれと察して取ってくれたり、大いに役立つ手助けをはじめた。相手を人間としては考えず、ただ一個の便利な自動人形とのみ見て、私はしだいに彼女の存在になれていったのであり、しまいには女のいない時などさがし求める気にさえなるのであった。私には仕事をしながら声に出して何かいう癖がある。実験の結果などを心に銘記するためだ。ところが娘は音声に対して驚くほどの記憶力があるらしくて、こちらが思わずもらした言葉を、もちろん意味は分からぬながら、そっくりそのまま繰りかえすのである。どうかすると彼女がこうした化学方程式や代数学上の記号などをマッジ婆さんにしゃべりたて、婆さんのほうはそれをロシヤ語とでも思ってか、分からないと首を振っているのを見て、思わず笑いだしてしまった。
娘は家から数ヤード以上は決してはなれず、それも外に誰もいないのを窓から確かめてからでなければ、戸口から一歩も出はしなかった。それであの同国者がまだこのあたりにいるものと思い、いつ連れだしに来るかと恐れているのだなと思った。娘は意味ありげなこともした。私は実弾つきの古いピストルを一個持っていた。ながいことがらくたのなかに放りこんだままである。ある日娘はこれを見つけだすと、さっそく掃除をして油をさした。そのピストルを戸口のそばに掛け、実包は小袋に入れてそばにつるし、私の散歩に出るおりにはきっと取りおろし、持ってゆけとせがむのだった。私の留守のあいだは必ずドアにかんぬきをおろした。こうした不安をのぞけば、かなり幸福そうで、私のそばにいないときは、マッジの手助けをしていた。家事にかけてもなかなか器用できちんとしていた。
彼女の疑惑にはどうやら根拠があり、アーケーンジェルの男は近所をうろついているらしいのが分かってきた。ある夜、眠れないままに立って窓から外をのぞいてみると、いくらか曇ってはいるが、水平線や浜においた私のボートなども見える。目がなれてくるにつれて砂のうえや玄関のすぐ前にも、何やら黒っぽいものが見えてきた。前の晩にはたしかになかったものだ。ひし形の窓ガラスの前に立ち、何だろうとなおも目をこらしていると、大きな雲塊がゆっくり動きすぎたのであろう、月が顔をだして、冷たく澄んだ月光が静まりかえった湾や、長くて人《ひと》気《け》のない浜を照らしだした。そしてわが家の玄関さきをうろつくものの姿を見たのである。あのロシヤ人だった。大きながまのように、両脚を折って東洋風に坐りこみ、その目は明らかに若い娘と家政婦の眠っている部屋の窓にそそがれている。
あお向けた顔に月光が落ち、わしに似たその顔の気品、眉間に深くきざまれた心配のしわ、激情的な性質を思わす反りかえったひげなどを見た。初めは不法侵入者として射ち殺してやろうかと思ったが、見ているうちに、立腹は哀れみと軽べつに変った。「おろかなものよ。」と私はひとりごとした。「死をまえにしてあれほど平然としていたこの偉丈夫が、すべての思考や野心をこの哀れな小娘ひとりに向けて、我を忘れるとはどうしたことだ? たいていの女はお前を愛する――あさ黒い顔とたくましいからだを見ただけでもな――それだのに千人に一人で、しかもお前をきらう娘の後を追っかけるとは!」寝床へかえってからも、この考えは私をおかしがらせた。わが家の窓は丈夫で、かんぬきも強かった。だから男が夜中を玄関のまえで過ごそうと、幾百キロのさきにいようと、朝になってうろついてさえいなければ、少しも気にはならなかった。予想どおり、朝起きて出てみると、影も形もなく、夜中に見はっていた形跡も残ってはいなかった。
それでも久しからずしてこの男にお目にかかることになった。ある朝ボートをこぎに行った。ながくこごんでいたのと、前の晩に有毒な薬品を吸いこんだため頭が痛んでならなかったからである。浜ぞいに数マイル進んだところでのどがかわいてきたので、澄んだきれいな水が海にそそぎこんでいるところへボートをつけた。この小川は私の領地を流れているのだが、海にそそぐ川口は、いま私の立っているところだが、領地外になっている。水を飲みおわって顔をあげると、あのロシヤ人と顔をつきあわせているのに気づいて、これはと思った。向こうもそうだが、いまやこっちも他人の土地侵入者なのだ。そのことは相手もよく心得ているらしい。
「あなたに少し話があるのですが……」と彼のほうから重々しくいった。
「じゃ早くしたまえ。」私は時計を見ながら、「おしゃべりに耳をかしてるひまはない。」
「おしゃべりだって!」と怒ったように、「ああ、なるほど、スコットランド人って変ってるな。あなたも顔つきはきびしく、言葉は荒い。その点は私を助けてくれ家においていてくれる親切な漁夫も同じことだ。外見のほかにやさしい正直さを秘めている。あなたも外見は荒っぽいが、そのじつ親切なのだと思う。」
「つべこべいうな! いうことがあるなら早く言っちまって早く向こうへゆけ。お前なんか顔をみるのもうんざりだ。」
「どうしてそうつっけんどんなんだ? これ、これを見てください!」とビロードのジャケツの下からギリシャ正教(旧ロシアで行なわれたキリスト教の一派―訳者)の十字架をとりだして、「これを見てください。おたがいの宗教は形式において違っているが、この同じしるしを見れば、そこに何か通じあう思想や感情があるはずだ。」
「さあ、どうだか。」
男は考えこむように私を見つめて、
「まったくあなたは変っている。私には分からない。あくまでも私とソフィのあいだを邪魔だてするのですか? そんなことをするのは危険ですよ。ほんとうです。いまに取りかえしのつかないことになりますよ。あの女を手に入れるため私がどんなことをしてきたか――どんなにこの身を危険にさらし、どんな思いをしてきたことか! これまでに私の乗りこえてきた障害にくらべれば、あなたなどは小さなものにすぎない――あなたなぞナイフのひと刺しか、石のひと打ちで、永久に私の面前からのぞかれるのだ。だが神さま、どうかそんなことになりませぬよう。私は深く――深くはいりすぎている。どうかそんなことになりませぬように。」
「早く国へ帰ったほうがよいな。こんな砂山をうろついて私の安穏な生活を乱すよりはな。あなたがいなくなった証拠があがれば、私はこの女をエディンバラのロシヤ領事に引きわたして保護をたのむことになるでしょう。それまでは私が保護するのです。あなただろうとどんなロシヤ人だろうと、渡すことはできません。」
「いったい何が目的でソフィと私のあいだを引きさくのです? 私が彼女に傷害を与えるとでも思うのですか? それどころか、彼女にちょっとでも害を及ぼすようなことは、命がけで防ぐつもりです。何だってあなたはどんなまねをするのですか?」
「楽しみなのです。自分の行為の弁解なんか誰にもしませんよ。」
「いいか!」と相手はとつぜん怒りに燃えあがって叫び、髪をふり乱して、まっ黒な手を握りしめながら一歩前へ踏みだし、「あの娘にけがらわしい思いなど寄せたと分かったら――もし卑しい目的であの娘を引き留めていると考えられる理由を認めたら――おまえの心臓をこの手で引きずりだしてくれる!」こう考えるとますます男はいきりたったらしく、顔をひどくゆがめ、両手をけいれんのように握ったり開いたりした。こっちののど笛に飛びつこうとしているのだ。
「近よるな!」私はピストルに手をかけながら、「指一本でもさわったら、射ち殺すぞ。」
男がポケットに手をいれたので、武器を出すつもりだなと思ったら、そうではなくてタバコをとりだし、火をつけると忙しく煙を吸いこんだ。明らかに経験によって、これが激情をおさえるもっともよい方法だと知っているのだ。
「まえにもいったが、」と震え声で、「私の名はウルガーネフ――アレキシス・ウルガーネフです。生まれはフィンランドながら、今では世界じゅうのあらゆる所へいっています。じっとしていられない性分で、一つところに住みつくようなまねはできなかったのです。自分の船を持つようになってから、アーケーンジェルからオーストラリアまで、寄港しなかった港は一つもありません。私は荒っぽくて気ままで自由でした。ところが故郷に一人、こぎれいで、取りすました白い手とやさしい言葉つきをして、女の好むお世辞なら何でも上手な男がいましてね。この若い男が手くだと策略を用いて、私の愛する娘の心を盗んだのです。その娘をそのときまで自分のものとばかり思い、娘のほうも私の情熱を受けいれてくれていたのです。そのとき私はハマフエスト(ノールウェイ北部の海港―訳者)へゾウゲを積みに行っていたのですが、帰ってみると意外にも、私の誇りであり宝でもある娘が、このやさ肌《はだ》の男と結婚することになっており、しかもその日にみなで教会へ行ったというのです。その時には頭がどうかしてしまい、何をしてよいかも分からない始末です。私は乗組員たちと連れだって上陸したわけですが、みんな長年航海をともにしてきた連中で、鉄のように誠実な友情をもつ仲間です。みなでその教会へゆきました。二人は牧師の前に立っていましたが、誓約の式はまだの様子です。私は仲に割って入り、娘の腰をしかと抱きとめました。乗組員たちは驚く花婿や仲間のものをたたき伏せました。
それから娘を波止場からボートで本船へ運び、いかりをあげてすぐ出帆すると、アーケーンジェルの屋根が水平線のかなたへ沈むまで、白海の沖へ出ていったのです。彼女には私の船室と寝台を、そしてあらゆる便宜を与え、自分は前甲板の水夫部屋で寝ました。それから今に彼女の怒りもとけ、イギリスでかフランスでか、とにかく私との結婚を承諾してくれるものと思っていたのです。いく日もいく日も航海をつづけました。北のみさき(アイスランドのフーナ湾にあり―訳者)が遠く消えさるのも見ましたし、灰いろのノールウェイ海岸めぐりもしました。あらゆる努力もむなしく、娘はあの生っ白い男との仲を引き裂かれた恨みを忘れようとしないのです。そして最後にあの恐ろしいあらしがきて、私は船も希望も、すべてのものを失い、はてはこんなにまであらゆるものをかけた娘に会いさえできないでいる始末です。それでもいつかは彼女も私を愛してくれるようになりましょう。あなたも、」と男はものほしそうに、「いろんな経験をしてきた人のようにお見受けします。どうでしょう、あの娘もあの男を忘れて、いつかは私を愛するようにならないものでしょうか?」
「そんな話はもううんざりです。」と私は背なかを向けながら、「私にいわせれば、あなたは大バカものですね。この恋愛がいつかはみのるものと思うなら、その日のくるのを楽しみに待てばよいのだし、もしその反対なのなら、いっそのどでもかき切ったらよいでしょう。それが一番の近道ですからね。とにかくこんなことで、これ以上時間つぶしはできません。」こう言いのこすと、私は足ばやにボートのところへ歩みおりていった。一度もあとは振りかえらなかったけれど、それでも彼が後を追ってくる重い足音だけは聞こえていた。
「話のはじめの部分はお聞かせしたわけだが、その結末の部分はいつかお知らせできるでしょう。娘は立ち去らせたほうがよろしいぞ。」
それには一言も答えず、私はボートを押し出した。かなりこぎだしてから、振りかえってみると、黄いろい砂のうえに立ってじっとこっちを見ている背のたかい姿が見えていた。しばらくしてからまた振りかえってみると、もうその姿は消えさっていた。
このことがあってから久しいあいだ、私は難船さわぎのまえと同じに規則ただしい、単調な生活を送っていた。時おりはアーケーンジェルの男も立ち去ってしまったのかなとも思ったりしたが、砂のうえにはっきりした足跡があったり、家をよく見とおせる小山の岩のうえにタバコの灰の残っているのを見つけては、やはりこのあたりをうろついているなと警戒するのだった。ロシヤ娘との関係はまえのままだった。老マッジははじめ娘のことをねたみ、わずかながら持っている自分の権威がおかされはしないかと、おそれているようだった。ところが私が娘に何の関心も持たないと知るにつれて、しだいに現状を認めるようになり、前にも述べたように、かえってそれを利用するようになった。娘が家事をよくてつだったからでもある。
さて私はこの手記を誰のためというより自分の趣味で書いているのだが、どうやらそれも終りに近づいてきた。二人のロシヤ人が演じたこの不思議な物語りの終末は、その始まりと同じく突然な、荒あらしいものだった。たった一夜のできごとによって、今はこれまでの困惑から解放され、侵入者の来るまえのような、書物と研究との毎日に戻ったのである。それではその模様を語ろう。
その日は長く苦しい仕事をしたので、夕がたになってかなり遠くまで散歩をしようと思いたった。家を出たとき、海の様子がいつもと変っているのに気づいた。さざ波一つたたないので、海面はまるで一枚のガラスのように穏やかであった。それでいて空中には、まえにも述べたことがあるが、怪しいうめき声がみちている。この油断のならぬ大海の底に住む妖《よう》精《せい》たちが、地上の肉親にむかって来るべき哀しいわざわいを予報しているかのようだった。浜に近く住む漁夫の妻たちはこの無気味な音の意味するものを知って、沖から帰ってくる茶いろの帆を心配げに見やっている。私は音を聞くと家へ駆けこんで、気圧計を見た。二十九度以下にさがっている。今夜は荒れるなと思った。
その夕がた私の散歩した丘のふもとはうすら寒くてうっとうしかったが、頂上は沈みゆく夕陽でバラいろにそまり、海面はかがやいていた。空にはさしたる雲もなかったが、にぶいうめき声は大きく強くなるばかりである。はるかな東方では二本マストの帆船が、第一マストの帆をおろしてウイックのほうへ進んでいた。あれの船長も私と同じに天候の変調を読みとったのだ。船のむこうは長く無気味なもやが立ちこめて、水平線は見えなかった。「少し急いだほうがよいかな。でないと風が出て帰れなくなるだろう。」私はひとり考えた。
家から少なくとも半マイルはあるところだったと思う。私はとつぜん足をとめ、息をころして耳をすました。耳はすでに自然の騒音、風のといきや波のすすり泣きになれっこになっていたから、ほかの音となるとひどく遠い音でも聞きとれた。全身を耳にしてじっと待った。ああ、また聞こえる。長く尾を引いた絶望の高い叫び声だ。助けを求める声が丘のほうから砂地をこえて聞こえてくる。私の家のほうからだ。私は身をひるがえして全速力で砂丘をこえ、小砂利のうえを走った。何が起こったのか、おぼろげに察しがついた。
家から四分の一マイルほどのところに高い砂丘があり、そのうえからならあたり一面が見わたせた。その頂上まで達したとき、ひと息いれた。灰いろの古い家がみえ、浜にはボートがある。何もかも私が残してきたままだ。だが見ているうちに、甲だかい叫び声が前にもまして高く聞こえてきた。と思ううちに背のたかい姿が私の家の玄関口に現われた。あの船乗りのロシヤ人だ。あの若い娘の白い姿を肩にしており、男はひどく急いでいるなかで、やさしく大切に扱っているらしい。娘は必死の叫び声をあげ、何とかのがれようともがいているようだ。二人のうしろから老いたる女中が出てきた。老犬のように忠実で、もはや侵入者にかみつくことはできなくとも、歯のない歯ぐきをむきだしてうなっている。誘かい犯人のあとからよろめき出てくると、細くて長い両腕をふりまわし、スコットランド特有の言葉でののしりわめいているらしい。犯人がボートをめがけて逃走していることは、ひと目でわかった。何とか途中でさえぎれないものかと、急に希望が胸に浮かんだ。それで浜をめがけてあらん限りの力で走った。走りながらピストルに弾をこめた。これでつかまえたら、ただはおかぬぞと思った。
だがまにあわなかった。水ぎわまでいってみると、向こうは百ヤードも海へ出て、強い腕で引くオールの一こぎごとに遠ざかっていった。私は無念の怒りにあらあらしく叫び、狂人のように砂浜で地だんだを踏んだ。彼はふりかえってこっちを見た。座席から立ちあがると、品のよいおじぎをして片手を振った。その様子は勝ちほこったものでもなければ、嘲笑《ちようしよう》的でもなかった。怒り狂った私の頭にも、おごそかで丁寧な別れのあいさつだと分かった。それがすむと席にもどってオールをとり、ボートはみるみる湾の沖あいへ出ていった。太陽はもう沈んでおり、一条のにぶい赤みが海面にのび、水平線あたりの紫いろのもやにとけこんでいた。ボートはこの赤い筋をよこぎってゆくにつれて小さくなり、やがて夜の影がそのまわりに集まってくると、ほんの薄いしみのようになってしまった。それからこの薄いしみも消えさってゆき、あとにはやみが――二度と夜あけを知らぬやみがひろがったのである。
だがいったいどうして私は、子を取られた母《はは》狼《おおかみ》のように、怒りに燃えてひとりさみしく浜を歩きまわるのか? あのロシヤ娘を愛したがためであろうか? いや、千べんでも力をこめていうが、そんなことはない。私は白いはだや青い目のために自分をあざむき、思想や生きかたを変えてしまう人間ではない。本心は決して変らなかったのだ。ただ自分の誇り――ああ、それが手ひどく傷つけられたのだ。私に保護を求め、私だけを頼りにしたか弱きものをさえ守ってやれなかったのだ! その点で心は沈み、耳が血で鳴るのだ。
その夜、大風が沖から吹きよせ、恐ろしい波が浜を大洋へさらってゆきそうなほど荒れ狂った。耳をつんざく風の叫びや波の音は、いきりたった私の心にふさわしいものだった。白くくだける波を見たり、あらしの音に耳を傾けたりしながら、しぶきや雨にぬれそぼち、ひと晩じゅう私は歩きまわった。心はあのロシヤ人への怒りでいっぱいだった。吹きあれる風のなかに力ない声をあげて、「あいつが戻ってきさえしたらな!」と両手をきつく握りしめながら叫んだ。「戻ってきさえしたらな!」
やつは戻ってきた。東の空いったいに灰いろの朝の光がひろがって、黄いろくうねる海原を照らし、そのうえを茶いろのちぎれ雲のただようころになって、私は彼をもう一度見たのだ。浜ぞいの数百ヤードさきに、荒波にうちあげられたらしい長くて黒い物体が見えた。私のボートだ。あちこち壊れている。その少しさきに妙なものが、砂や海草にまみれたまま浅瀬に浮いて、ゆれただよっている。ひと目であのロシヤ人だと分かった。うつぶせに浮いて死んでいる。海のなかへとびこんでゆき、波打ちぎわへ引きあげた。そしてあおむけにしてみて初めて気づいたのであるが、娘もその下にいたのだ。男の死せる両腕はなおも娘を抱きしめ、その傷だらけの身でなお娘を暴力からかばっているようだった。猛烈なドイツ海はこの男から生命を奪いさったが、それでもこの執念の男から愛する女まで奪いさることはできなかったらしい。また二人の様子から察するに、恐ろしい夜をとおして、さすが移り気な女の心もついに、自分をやさしく守ってくれようとする男の真情と、強い腕の値打に目ざめたらしく思われる。それでなければどうして娘の小さな頭が、男の広い胸にこんなにいとしげに休んでいるわけがあろう? またその金髪が、男ののびたひげに、どうしてこのようにからまっているはずがあろう? そうでなければまた、男の黒い顔にどうしてあのような幸福と勝利の、言うにいわれぬ明るい笑いが残っているわけがあろう? 彼にとって生よりも死のほうがうれしかったのであろうと私は思った。
マッジと二人で死体を北海の寂しい浜べに埋葬した。彼らは黄いろい砂の下ふかく、一つの墓に眠っている。彼らをめぐってさまざまなことが起こるであろう。いくつもの帝国がおこっては亡び、幾代かの王朝も消えさり、大戦争もはじまっては治まるであろう。だがそれらのことにもわずらわされることなく、二人は抱きあったまま永遠に、このとどろく大洋のかたわらの寂しい聖地に眠ることであろう。時おり私は、湾の荒れた海面のうえを二人の魂がかもめのように飛びまわるのを思う。十字架も墓標も二人の安息所にはおかなかった。老マッジは時おり野の花をそこに置く。私は毎日の散歩で新しい花が砂のうえに散っているのを見ると、はるかなる国からやってきて、わが固くるしい生活の単調さをしばし破った不思議な二人のことを思うのである。
ブラウン・ペリコード発動機
五月のうそ寒くて霧のあるいやな晩のことだった。ストランド街では光がにじんでいるので、そこに街灯があると知れるばかりだ。明るい商店のウインドウも、この厚くて濃い大気を通しては、何となく鈍いかがやきとなってまたたくのみである。
川ぞい公《エンバツクメント》園までずっと続く家々は、どれも暗く灯を消しているか、あるいは番人のゆらめくランプにほの暗く照らしだされるのみである。ただ一軒だけ、三階の三つの窓から明るい光のもれているのがあって、テラスの陰気な単調さを破っている。道ゆく人々は物めずらしげに見あげ、その赤らんだ光のことを話しあう。それというのもここがあの発明家で電気技師のフランシス・ペリコードの住まいだと知っているからである。毎晩夜のふけるまで輝いているその窓の光こそは、彼をたちまち当代一流の技術者に仕あげたたゆまぬ努力と精神を、よく示している。
その部屋には二人の男が坐っていた。一人はペリコード自身で、とがって骨っぽい顔に、黒い頭髪と活気のある表情からみて、ケルト人(アイルランド、スコットランド、ウエールズなどの人―訳者)の出だとすぐに分かった。もう一人のがっしりと厚みがあり、眼の青いのはジェレミ・ブラウンで、これも世に名を知られた機械技術者なのである。二人はこれまでに幾つもの発明に協力しており、片方の発明の才能はもう一方の実際的、具体的知識のためつねに助けられてきたのである。友人たちのあいだでは、はたしてどっちがほんとに有能なのであろうかと、つねに論議のまとになっていた。
この夜もブラウンがこんなにおそく訪ねてきたのは、ただの気まぐれや偶然からではなかった。大切な仕事があるからで、それもこの何カ月かの苦労が成功するか失敗か、二人の名声や今後の動向をも左右する仕事を行なうためなのだ。二人は強い酸類ですっかり汚れいたんだ長いテーブルを中にしており、そのうえには強い薬品を入れるかご入りのビン、フォールの蓄電池、ヴォルタ電《でん》堆《つい》、針金の巻いたの、不伝導の磁器の大きな山などが散らかっていた。こうしたがらくたの中央に一個のうなりを上げて回転している機械があって、二人の目はそれにくぎづけになっている。
四角い金属の小さなソケットがあって、多くのワイヤで鋼の幅ひろい腰板に連結されており、両端に強力な突起ジョイントがついている。腰板は静止しているが、小さな腕をのばしているジョイントは、一定の間をおいて数秒ごとに早く回転する。それを動かす動力は明らかに金属容器からくるのだ。オゾンのかすかな臭いが空中にただよっていた。
「フランジの具合はどうかね、ブラウン?」発明者がたずねた。
「大きすぎて持ってこれなかった。七フートに三フートあるからね。しかしこれだけの力があれば、十分動作するよ。その点は保証する。」
「銅の合金を加えたアルミニュームだったな?」
「そう。」
「どうだ、みごとに動くじゃないか。」ペリコードは細い神経質な手をのべて、機械にあるボタンを押した。ジョイントは回転がゆるまり、やがてぴたりと止まってしまった。すると彼はまた一つべつのバネに手をふれた。延びた腕の部分がふるえ、また勢いよく回転をはじめた。「実験者は腕力など使うことはない。ただこうして頭だけ使えばいいわけだ。」
「わしの発動機のおかげだ。」ブラウンがいった。
「われわれの発動機だ。」すかさず相手が口をだした。
「もちろんだ。」協力者はいらだたしげだった。「君が考案し、わしが実地に製作した発動機だからな。なんとでも呼んでいいさ。」
「僕はブラウン・ペリコード発動機と名づけるね。」と発明家は黒っぽい目に怒りのほのおを見せながら叫んだ。「細部の部品など君が作りだした。しかし最初の原理は僕のもの、僕だけのものだからな。」
「原理だけではエンジンは動かんよ。」ブラウンもあとへは引かなかった。
「だからこそ君を協力者にしたのだ。」と相手も負けてはいず、テーブルをせっかちに指でたたきながら、「僕が発明する。君が製作する。これはりっぱな分業じゃないか。」
ブラウンはその点大いに不満だという風に、口びるを突きだしたが、これ以上口論しても何にもならないと知って、機械のほうへ注意を向けた。機械はいまぶるぶるとゆれ動きながら腕を振りまわしていて、もうわずかの力があればテーブルから飛びだしそうな様子である。
「すばらしいじゃないか!」ペリコードが叫んだ。
「まあまあだ。」イギリス人の陰気さをたっぷり持った相手がいった。
「ここに永遠の生命力が動いている!」
「いや、大金が動いているのだ!」
「われわれの名はモンゴルフィヤ(気球を発明したフランスの兄弟―訳者)の名とともに後世に伝わるだろう。」
「ロスチャイルド(ユダヤ系の財政家、金持の代名詞―訳者)の名とともにと言いたいね。」
「いや、いや、ブラウン、どうも君は物質的な見かたと取りすぎるよ。」と発明家は声をたかめ、機械から協力者のほうへ光る目をうつして、「財産なんてつまらぬものだよ。金ということになれば、この国にたくさんいる薄のろの金満家と肩をならべるだけだ。僕の希望はもっと高いね。われらの真の賞状は、人類の善意と感謝の名のもとに贈らるべきものだよ。」
ブラウンは肩をすくめて、「そんな賞状なぞ君がひとりでもらうがいい。わしは実際的な人間だからな。そんなことより、まず第一にこの発明をテストしなければならん。」
「どこでやったらよかろう?」
「そこが相談なのだ。まず第一にぜったい秘密な場所でなければならん。われわれ所有の土地があれば、事は簡単なのだが……どうもロンドンにはそんな隠れた土地はない。」
「いなかへ持ってゆくしかあるまい。」
「こんな案はどうだろう。」ブラウンがいった。「わしの兄がサセクス州のビーチヘッド(みさきで白亜の絶壁に燈台がある―訳者)に近い高原に土地をもっている。その家に近いところにたしか、大きくて高い納屋があるんだ。兄はいまスコットランドにいるが、かぎはいつもわしの自由にまかされている。どうだろう、あすにも機械をはこんでいって、その納屋でテストしては?」
「それがいいね。」
「一時にイーストボーン(サクセス州の海港で海水浴場でもある―訳者)行きの汽車がある。」
「じゃ停車場で会おう。」
「君はこの機械を持ってきたまえ。わしはフランジを持ってゆくから。」と機械技師のブラウンは腰をあげながら、「さて、あすこそはわれわれが幻影を追っていたのか、それとも財産が足もとへころがりこむか、判明するわけだ。では一時にヴィクトリア停車場で。」と足ばやに階段を降り、やがてストランド街に流れている退屈で薄ぎたない人間どもの流れへたちまち吸いこまれてしまった。
*    *    *    *
その朝は明るくて春の日ざしであった。ロンドンの上空にはうす青い空がひろがり、白いちぎれ雲が少し、ゆったりと浮かび流れていた。十一時に、ブラウンらしい人物がわきの下に書類や設計図などを抱えて特許局へはいってゆくのを、そこにいあわせた人たちは見かけたであろう。十二時に、彼は微笑しながら現われ、紙入れをひろげると、政府発行の小さな青い紙片を大切そうにしまいこんだ。一時五分前に、彼のタクシ馬車はヴィクトリア停車場へかけこんできた。凧《たこ》に見える大きなカンヴァス包みが二つ、御者の手で馬車の屋根から取りおろされ、荷物係の手に渡された。プラットフォームではペリコードが、やせてくぼんだほおを赤くして、腕を振りふり大またに、落ちつかなげに行ったり来たりしていた。
「うまくいったか?」とたずねると、ブラウンは答えるかわりに荷物を指さしてみせた。
「こっちは発動機も付属品も貨車に積みこんだ。おい赤帽、気をつけてくれ。きわめて貴重な、こわれやすい機械なんだからな。さあ、これで安心して出発できるよな。」
イーストボーンでこの貴重な発動機は四輪馬車に積みこまれ、二つの大きなフランジは屋根のうえにあげられた。長い道のりを乗ったすえ、かぎをあずかる家につき、それから荒れた砂丘のほうへ出発した。目的とした納屋はごく普通の白ぬりの建物で、まわりにばらばらとうまやや離れ屋があり、白亜の断がいからだらだらとさがった芝地に立っている。使っていたときでも陽気さのない家であったろうが、いまは煙の出ない煙突や破れた窓ガラスなどのせいか、ことさら陰気にみえた。持ち主はまわりにから松やもみを植えたようだが、海からくる塩からいしぶきのために、どれも枯れてしまって、しおれた頭を力なく垂れている。無気味な、人のなじめない土地だ。
発明者たちはしかし、そんな小事に気持を乱されはしなかった。場所が寂しければ、それだけ目的にかなっているのだ。二人は御者に手つだわせて小道づたいに荷物をおろし、うす暗い食堂へ運びいれた。太陽は沈みかけ、馬車の遠ざかりゆく車輪の音で、二人はようやく二人きりになれたのを知った。
ペリコードがよろい戸をあけると、柔らかな夕べの光が、色のかわった窓から流れこんだ。ブラウンはナイフを出して、カンヴァス包みをしばってあるひもの結び目を切った。うす茶いろの包みをひらくと、黄いろい金属の羽根が二つ現われた。注意ぶかく壁に立てかけた。つぎにガードル、連接帯輪、発動機などがつぎつぎと荷どきされた。すべての準備がととのった時は、あたりが暗くなっていた。ランプがともされ、その光で二人はねじをしめたり、リヴェットを打ちこんだり、実験の最後の準備を完成した。
「さあ、これでいい。」とついにブラウンが言い、後ずさって機械を見まわした。
ペリコードは黙っていたが、顔は誇りと期待にかがやいている。
「何か少し食べなくちゃね。」とブラウンは自分で持ってきた食物の包みを開いた。
「あとのほうがいいよ。」
「いや、いまだ。」がっしりした機械屋のほうがいった。「もう飢え死にしそうだよ。」彼はテーブルに向かうとしきりに食べはじめたが、そのあいだケルト人の発明家のほうは、指をまげてみたり目をあちこち走らせたりして、いらいらと歩きまわった。
「さあてと、」ブラウンはぐるりと振りむいて、ひざからパンくずを払いおとしながら、「だれが乗るね?」
「僕さ、」と相手は急に乗り気になって、「今夜これからやることは、歴史に残ることだからね。」
「しかし危険もあるぞ。」とブラウンが忠告した。「この機械がどんな風に動くか、まだ確実には分かっていないのだからな。」
「そんなことが何だ!」ペリコードは手をひと振りしていった。
「しかし何も無理に危険をおかすことはあるまい。」
「じゃどうする? どうせ二人のうちどっちかがやらねばなるまい。」
「そんなことはない。発動機はもしどんな生命のないものが乗っても、同じに動作するよ。」
「それもそうだな。」ペリコードが考えこんだ。
「納屋のそばにれんがが積んである。ここに袋があるから、これに入れて、人間の代わりをさせようよ。」
「いい思いつきだ。異議はないよ。」
「ではとりかかろう。」かくして二人はそれぞれ機械の部分品を担って出かけた。時おりちぎれ雲が表面をかすめはしたが、月は冷たく澄んでいた。砂丘地帯は静まりかえっていた。納屋にはいるまえに二人は立って耳をすませてみたが、ただ海がにぶく鳴っているのと、遠くで犬がほえているだけだった。ペリコードが必要な部品をかついで行ったり来たりしているあいだに、ブラウンはせっせとれんがを細長い袋につめた。
用意がすっかり整うと納屋のドアを閉じ、ランプをあき箱のうえにおいた。れんがの袋が二脚のうまのうえに置かれ、幅ひろい鋼のガードルが取りつけてあった。それに大きなフランジ、ワイヤ、それに発動機をおさめた金属容器などが順次そのフランジへ取りつけられた。最後に魚の尾に似た形の、平べったい金属製の方向舵《だ》が袋の下にとりつけられた。
「小さな円を描いて飛ぶようにしなきゃね。」ペリコードはまわりの高いあら壁を見まわしながらいった。
「かじを片っぽうさげてつけるのだ。」とブラウンがいった。「さあ、これでできた。連結部を押せば、いよいよ出発だ。」
ペリコードはその長いやせた顔を興奮にふるわせながら、前のめりになった。その白い敏感な両手は多くのワイヤのあたりをあちこち動いた。ブラウンは批判的な目つきで冷静に立っている。機械がごうごうと鋭い音をたてだした。黄いろい大きな翼は、けいれんするように羽ばたいた。また羽ばたく。三度目はさらに大きく、ゆっくりと強く羽ばたく。四度目は納屋いっぱいに風を起こした。五度目になると、れんがの袋がうまのうえで踊りだした。六度目、袋は空中に飛びあがり、土のうえに落ちそうになったが、七度目の羽ばたきがそれを救い、空中にぐっと出た。ゆっくりと浮きあがり、まるで不格好な大鳥のように重々しく羽ばたきながら、円を描いて回りはじめ、納屋のなかはそのぶんぶんという音でいっぱいになった。ランプの弱く黄いろい光のなかで、異形のものがぐっと現われたり、影のなかに飛びさったり、そしてまたせまい光の筋のなかへ舞いもどってきたりするのを見るのは、不思議な気持であった。
二人の男はしばらく黙って立っていた。ペリコードのほうが両手を空中にあげて叫んだ。
「飛んだ! ブラウン・ペリコード発動機は動作するぞ!」うれしさのあまり狂人のようにあたりを跳ねまわった。ブラウンはきらりと目を光らせ、口笛を吹きはじめた。
「ほれ、あんなに楽々と飛ぶじゃないか、ブラウン! それにあのかじだ。じつによく利く! あすすぐに登録しよう。」
相手の顔は暗く引きしまった。「もう登録したよ。」といって無理に笑った。
「登録したって? え、登録をすませたのかい?」はじめは低い声で、二度目は叫ぶようにかん高かった。「おれの発明を登録したとは、いったいどこの何者の仕業だ?」
「わしだよ、けさな。何も興奮することはないさ。大丈夫だよ。」
「僕の発動機を登録したって! 誰の名でだ?」
「わしの名でさ。」とブラウンはぶっきら棒だった。「この権利はほぼわしにあると考えたんでね。」
「僕の名はどこにも出さなかったのかい?」
「出さなかったけれど……」
「この悪党!」ペリコードはどなりつけた。「このぬすっとの悪党! 僕の発明をぬすみたいのか! 僕の権利をごまかす気か? お前ののどをかき切ってでも、その登録権はとりかえしてみせるぞ!」両眼には暗い火がもえ、はげしい感情に両手を思わずがっきと組みあわせた。ブラウンもおく病ではなかったが、相手に前へ進み出られると、思わずはっとたじろいだ。
「手を出すな!」とブラウンはポケットからナイフを出しながら、「かかってきたら、こっちも自己防衛をするぞ。」
「おどかす気か?」と叫んだペリコードの顔はまっ青だった。「きさまはぺてん師であるばかりか、ならずものだな! 特許を渡すか?」
「いやだ。渡すものか!」
「ブラウン、いいか、あきらめてしまえ!」
「なんの。あれはわしの考案だ。」
ペリコードは目をもやし指を曲げて猛然と飛びかかった。相手はつかみかかる手をのがれはしたが、空箱にぶつかり、そのうえに倒れた。ランプが消え、納屋はたちまちやみに包まれた。細いわれめを通して一条の月光がさしこみ、そのなかを大きな翼を羽ばたかせて、不思議な発動機はいく度もすぎさるのであった。
「特許権をあきらめるか、ブラウン?」
答えはなかった。
「あきらめるかどうだ?」
やはり答えはなかった。頭上をきしりうなって通りすぎる音のほか何も聞こえない。恐怖と疑惑の冷たい痛みがペリコードの胸をつらぬいた。思わずやみのなかをまさぐると、指さきに人の手らしいものがさわった。冷たくて手ごたえがない。怒りは氷りつくような恐怖とかわり、彼はマッチをするとランプを立てなおし、火を点じた。
ブラウンは空き箱のむこうがわに、まるくなって倒れていた。ペリコードは夢中で両腕をつかみ夢中で抱きおこした。すると相手の無言でいるなぞが解けた。右手をからだの下に曲げたまま転んだので、自分の重みでからだに深くナイフを刺してしまったのだ。声もたてずにこと切れていた。悲劇はだしぬけであり、恐ろしくて決定的だった。
ペリコードは空き箱のはじに腰かけたなりで、ぼんやり下を見つめ、おこりにでもおそわれたようにぶるぶる震えていたが、そのあいだも偉大なる発明品ブラウン・ペリコード発動機は頭上をぶんぶん飛び回っていた。そこにどれくらい坐っていたことか、まったく分からない。数分間であったか、それとも数時間であったろうか。そのあいだ幾つものもの狂わしい計画が、混乱した頭のなかにひらめいたり、消えていったりした。自分が手を下したわけではなく、間接の原因になったにすぎないのは事実である。だが誰がそれを信じてくれるだろうか? 血だらけの自分の服を見まわした。すべては自分に不利な証拠ばかりだ。無罪を信頼して自首するよりも、逃げたほうがよい。二人がどこへ行っていたか、ロンドンのものは誰も知らない。この死体さえ始末すれば、疑いのかかるまで数日は自由に動けるだろう。
とつぜんがしゃんと大きな音がしたので、われにかえった。飛行袋が一回転ごとに高まっていったらしく、天井のはりにぶつかってしまったのだ。その衝撃で連結ギヤがはずれ、本体がどさりと地上へ落ちてきた。ペリコードはガードルをはずした。発動機はこわれていなかった。それを見ているうちに、ふと妙な考えが浮かんだ。機械がいまわしいものに思われてきた。そうだ、死体をふくめてこの機械を、どんな人間にも分からないように片づけてしまおう。
彼は納屋の戸を開くと、月光のなかへ同僚の死体を運びだした。外にはちょっとした丘がある。その頂きへ死体をていねいにおろした。つぎに納屋から発動機、ガードル、フランジなどを持ちだしてきた。ふるえる指さきで鋼帯を死体の腰にまきつけた。それから翼をソケットにねじ留めした。その下に発動機箱をとりつけ、ワイヤの類をつなぎ、ボタンを押した。一、二分間は黄いろい大きな翼がばたばたと動くだけだった。それから機体は丘の中腹をはねるように動きはじめ、やがて勢いを得るにつれて空中に浮きあがり、月光のなかに重おもしく舞いあがっていった。方向舵《だ》はつけなかったが、頭部を南のほうへ向けておいた。この無気味なものはしだいに速度を加えながら高くあがり、はては断がいから静かな海のほうへと飛びだしていった。ペリコードが青ざめてやつれた顔で見おくるうちに、海上にたゆたう霧につつまれ、金色の翼をもつ黒い鳥のように、小さくなっていった。
*    *    *    *
ニューヨーク州立精神病院に、姓名も出身地も不明の患者がひとりいる。その人物の精神は、医師のいうところによると、何かの突然のショックによって狂ったものらしいが、いったいどんな性質のショックであったかになると、決定的なことは何も分かっていなかった。「何かきわめて精密な機械が、とつぜんこわれるかどうかしたらしいね。」と医師たちは言い、その証拠にはと、この患者がごく落ちついているときには熱心に製作する、複雑な電気機械や、すばらしい飛行機の類をさし示すのである。
開かずの部屋
活動的な習慣をもち運動好きでもある弁護士が、職業のためとはいえ、朝の十時から夕がたの五時まで、四つの壁に仕切られた事務所に閉じこもっていなければならないとすれば、せめて夕がたには何とか運動をとりたいと思うのも当然であろう。かくして私は夜のながい散歩にふける癖がついてしまい、アブチャーチ横丁の汚れた空気から五体を洗うのだと称して、ハムステッドやハイゲートの高台を訪ねるのであった。さて、こうしたあてのない散歩の途次に、フェリクス・スタニフォドにはじめて会ったのであり、またその結果、自分の生涯でももっとも異常な冒険というものに出くわすことになったのである。
ある晩――たしか一八九四年の四月か五月はじめのことだった――ロンドンもずっと北のはずれまで歩いていったことがあった。このあたりはたえず郊外へと延びひろがるロンドンという大都会のつくる新しい町で、高いれんが建てのりっぱな家なみが続いている。空気のすんだ気持のよい春の夜で、雲一つない空には月が美しく輝いていた。もうかなりながく散歩を続けてきたので、そろそろ足どりをゆるめ、あたりをながめ回しながら歩いていた。まあそんな黙想的な気分のせいであろうか、通りがかりの一軒の家にふと注意をひかれたのである。
大きな建物で、道路から少しひっこんだ敷地にたっている。外見はモダーンな建てかたなのだが、それでもそのあたりに新築された生々しいほど新しい家にくらべると、ずっと古びてみえた。左右均整のとれた庭も、月けい樹の植わった芝生が乱しており、それを前景に大きくてうす黒い家がぬっとそびえている。きっとロンドンの金持ち商人が田園の別邸として建てたものにちがいないと思われた。それもはじめは付近一マイルくらいは家の一軒もないころに建てたものだろうが、それが今ではロンドンという大だこの赤れんがの触手によってすっかりとり囲まれているのだ。やがては飲みこまれて消化吸収されてしまい、安っぽい建築業者が年八十ポンド払い程度の家を一ダースも庭前に建ててしまうことだろうと思った。こんなことをぼんやりと考えていると、奇妙なことが起こって、たちまちそのほうへすっかり気をとられてしまったのである。
四輪のタクシ馬車、ロンドンの名折れである例の馬車ががたがたと勢いよくやってくるし、別のほうからは自転車の黄いろい光が近づいてきた。月に照らされた長い道路に動いているものといっては、この二つのものしかなかったのだが、それでいて両者は、大西洋の大海原で二隻の汽船がぶつかるのと同じ意地の悪い正確さで、衝突してしまった。自転車乗りのほうが悪かったのだ。馬車の前方を横ぎろうとし、距離をはかりそこねて馬の肩にぶつかり、つんのめってしまったのだ。自転車の男は起きあがってどなった。御者のほうも何かののしり返した。それから自分の車の番号がまだ読みとられていないと気づいて、馬にむちを入れてそのまま走り去ってしまった。自転車男は倒れている車のハンドルをとったが、だしぬけにうめき声をあげて、その場へ坐りこんでしまった。「ああ、痛い!」
私は道を横ぎってそばへ走りより、「どこかけがでもしたのですか?」
「くるぶしです。ひねっただけだと思うんですが、とても痛みます。すみませんが、ちょっと手を貸してくれませんか?」
彼は自転車灯の投ずる黄いろい輪のなかに倒れていたのだが、助け起こして立たせてみると、なかなか容姿のりっぱな若もので、うすくて黒い口ひげがあり、大きな茶いろの目をしたひ弱そうな顔だちで、ほおのこけたところはどうやら病身らしい、などいうことまで見てとったのである。仕事のためかそれとも心配か、その細く黄いろい顔にはしわがいくつも走っている。腕をとってやると立ちあがりはしたが、片足は宙にあげたままで、動かすたびに悲鳴をあげて、
「足を地につけられませんよ。」といった。
「お宅はどこですか?」
「ここですよ!」と庭の奥に見えている大きな暗い家のほうへあごをしゃくって、「門のほうへ道路を横断しようとしたら、あのばか馬車がぶつかってきたんです。あそこまで送って頂けませんか?」
それは何でもなかった。門の内がわに自転車をおくと、馬車回しの道をこの男を助けて進み、玄関の階段をあがった。どこにもあかりは見えず、まるで人の住まない家のように暗く静まりかえっていた。
「ここでけっこうです。どうもありがとうございました。」と言いながら、かぎをじょうに差しこんだ。
「いや、なかまでお送りさせて下さい。このままでは気がすみません。」
よわよわしく簡単な異議の言葉をはいていたが、結局私の助けがなければどうにもならないと気がついた。玄関のドアを開くと、なかはまっ暗なホールであった。若ものは私の腕にすがりながら、よろめき進んだ。
「この右手のドアです。」暗いなかを手さぐりしながらいった。
私がドアを開けると同時に、彼がマッチをつけた。テーブルにランプがあり、二人でそれをともした。「さあ、もう大丈夫です。どうぞお引きとり下さい。ではさようなら!」言い終るとともにどさりとソファへ倒れこみ、気を失ってしまった。
私の立場は妙なものになった。若ものはひどく青い顔をしているから、死んでしまったのかと疑われるばかりであった。それでも見ていると口びるがふるえ、胸がふくれたりつぼんだりした。だが両眼はやはり白い線でしかなく、顔いろときたらぞっとするほどだ。こんな責任を私ひとりで背おうわけにはゆかない。そこでベルのひもを引いてみたが、どこか遠くでおそろしく大きな音をたてることはたてているのに、誰もやってくる様子はない。そのベルもやがて鳴りやんで、あとはことりという音もしない。しばらく待ってからまた鳴らしてみたが、結果は同じことだった。誰かいないはずはあるまい。こんな大きな屋敷にこの若紳士がひとりきりで住んでいるわけはあるまい。家族なり召しつかいなりに早くこのことを知らせなければ。ベルで用がたりないなら、こっちから捜しにゆくしかない。私はランプをつかむと、部屋をとびだした。
出てみて驚いた。ホールはがらんとしている。階段は敷物もなくむきだしで、ほこりに黄いろくなっている。ドアが三つあった。あけてみるとどれも広い部屋だが、じゅうたんや窓掛けはなく、なげしからは灰いろのくもの巣がたれさがり、壁には地ごけのバラ模様が見えている。どれも静まりかえって、私の足音ばかりが大きくひびいた。それなら台所や召しつかいの部屋にくらい誰かいるだろうと考え、廊下をぐんぐん進んでいった。たとえば管理人といったようなものが、どこか引っこんだ部屋にでもいるだろうと思うのだが、どこにもまったく人《ひと》気《け》がない。なんとか手助け得たさに、べつの廊下にはいったのだが、そこでとても妙なことに出あったのである。
その廊下のつきあたりには、大きな茶いろのドアがあった。そのドアのかぎ穴の上のほうに五シリング銀貨ほどの大きさの赤ろうの封印がしてあった。ひどく汚れて色あせているところからみて、よほど前につけたものらしい。そうやってなお見つめて、このドアはいったい何をかくしているのだろうと怪しんでいると、うしろのほうで私を呼ぶ声が聞こえた。それで走りもどってみると、あの若ものがソファに身をおこしていて、暗やみのなかにひとりとり残されたままなのに驚いている。
「いったいどうしてランプを持っていっちまったんです?」
「誰か手助けの人を捜しにいったのですよ。」
「めっかるものですか。この家には僕ひとりきりなんですよ。」
「病気にでもなったら困るでしょうね。」
「気を失なうなんて、ばかでした。心臓の弱いのは母からの遺伝ですが、どこか痛んだり興奮したりすると、ああなるんです。母もそうでしたが、いつかはこれでやられることでしょう。あなたはお医者さんではありませんね?」
「いや、弁護士ですよ。フランク・アルダと申します。」
「僕の名はフェリクス・スタニフォドです。いま弁護士さんに会うなんて妙ですね。僕の友人のパーシヴァルさんが、近くどなたか頼むようになるといっていた時ですからね。」
「それはどうも。」
「まあ、あの人に聞かなければ分かりませんけれどね。あなたはランプをもって、一階だけはすっかり見て歩いたのですか?」
「ええ。」
「すっかりですか?」若ものは言葉をつよめて、じっとこっちを見つめた。
「そうでしょうな。誰かいないものかと、あちこち見てまわりましたから。」
「どの部屋へもみんなはいったのですか?」やはりきつい目でこっちを見つめながらたずねた。
「そう、はいれる部屋はどれもね。」
「ああ、ではお気がつきましたね!」というと、どうにもしかたがないといった風に肩をすくめてみせた。
「何に気がついたというのです?」
「ほら、あの封印したドアのことですよ。」
「ああ、あれなら気はつきました。」
「なかに何があるか、不思議に思わなかったですか?」
「そうねえ、ちょっと普通じゃないような気もしましたね。」
「どうです、あなただったらこの大きな家にたったひとりで住んで、それも幾年も幾年もですよ、しかもあの部屋のなかに何があるかといつも思いわずらいながら、それを見ないで暮らすなんてこと、できますか?」
「というと、あなたもあのなかに何があるか、知らないのですか?」
「あなたと同じにね。」
「それではなぜ開けてみないのです?」
「それはいけないのですよ。」
その言いかたが仕方なしに打ちあけるという調子だったので、こちらはどうやら微妙なところまで踏みこんだなと思った。自分では隣り近所の人にくらべて特に好奇心が強いとも思っていないが、この場合は何かしら好奇心の大いに刺激されるのを感じた。しかしながら若ものの意識を回復したいま、これ以上この家に留まっている理由もないので、私は腰をあげた。
「お急ぎなのですか?」相手がたずねた。
「いや、べつに急いでいるわけではありませんがね。」
「ではもう少し居のこって下さると有りがたいのですが。ほんとうを申すと、僕はまるで坊さんみたいに独りきりで、世捨て人のような暮らしかたをしているのです。ロンドンじゅうを捜しても、こんな生活をしている者は、まあほかにはないでしょうね。その僕に話し相手ができたなんて、まったく珍しいことですよ。」
私はこの小さな部屋のなかを見まわしたが、片すみにソファベッドがあるだけで、ろくな家具もない。それからこの大きな裸の家や、色あせた赤い封印のある気味のわるいドアなどを思いだした。どうもここには妙な、怪奇な何かがあるようで、私はもっと事情が知りたくなった。もう少しがんばっていたら、あるいは知れるのかも知れない。喜んで居とどまると私は告げた。
「あの側卓にウィスキとソーダ水があります。主人のくせに何のおもてなしもできなくて、申しわけありませんが、お許しください。葉巻もそこの盆にあります。僕も一本やりましょう。それではあなたは弁護士さんだったのですね、アルダさん?」
「そうなんですよ。」
「ところが僕はただのごくつぶしです。世のなかでも始末におえない人間ですよ、これでも百万長者の一人息子なんですがね。大きな財産家の後とり息子として生まれたのですが、今はただの貧乏人で、職業ももちません。そのうえにこんな大きな屋敷をしょいこんでいるのです。とても自分の力では保持してゆくだけでも大変なのにね。ばかばかしい境遇ではありませんか? 僕がこんな家に住むなんて、まるでただの行商人が高価な競馬うまに荷車を引かせるようなものですよ。行商人にはろ馬でたくさんだし、僕には小さな家がふさわしいのですがね。」
「それではなぜこの屋敷を売らないのですか?」
「売ってはならないのです」
「では貸したら?」
「それもいけないことになっています。」
わけが分からないという私の顔つきをみて、相手は微笑しながら、
「お退屈でなければ、わけを話しましょうか?」
「退屈どころか、大いにうかがいたいです。」
「あんなにご親切にしていただいたのですから、せめてあなたの好奇心くらいは満足させてあげなくてはね。まずご承知おきを願いたいのは、私の父が銀行家スタニスラス・スタニフォドだということです。」
銀行家スタニフォド! 私はすぐ思いだした。七年まえにこの人物が国外へ逃亡したときは、スキャンダルでもあるし、たいへんなセンセーションを起こしたものだった。
「おぼえておいでのようですね。哀れな父は多くの友人の資金を思わく投資したのが失敗で、国外へ逃亡したのです。神経過敏な人でしたから、責任を背負いこんで、仰天したのですね。法律上は何の罪にもならなかったのですが、感情的には重荷にすぎたのでしょう。家族のものにも顔をあわせたくなかったらしくて、行方をくらましたまま、私たちにも居場所を知らせないままに死んでしまったのです。」
「死んだのですか?」
「死んだという証拠はありませんけれど、そうに違いないと思っています。なぜって思わくがその後あたってきましたから、もう逃げかくれする必要はどこにもないからです。もしどこかで生きているなら、帰ってこないはずはないのです。これはどうしてもこの二年のうちに死んだに違いありません。」
「この二年のうちというのはなぜです?」
「二年前に手紙がきたきりだからです。」
「そのときはどこで暮らしているか、手紙には書いてなかったのですか?」
「手紙はパリからのものでしたが、住所が書いてなかったのです。あれは母の死んだときでした。そのとき僕にあてて、指図したり忠告したりしてありましたが、それっきり手紙は来ません。」
「そのまえには?」
「もちろん来ましたよ。今夜あなたのぶつかった神秘のドアのことも、その手紙から起こった話ですからね。ちょっとその側卓をよこして下さい。そこに父の手紙がみんなしまってあるのです。そしてこれはパーシヴァルさんのほか、誰にも見せたことのないものなのです。」
「失礼ながら、そのパーシヴァルさんとは、どうした人なのですか?」
「父の腹心の秘書だった人ですが、その後もずっと母や僕の相談相手であり友人でもある人なのです。パーシヴァルというものがいなかったら、僕たちどうしようもなかったですね。彼にだけはこの手紙を見せましたが、そのほかの人には誰にも見せてありません。これが最初の手紙で、七年前父の逃亡した日に来たものです。ご自分でお読みください。」
いわれて読んだのがつぎのようなものだった。
愛する妻へ、
お前の心臓が弱く、それには精神的衝撃がきわめて有害であると、ウィリアム卿《きよう》から聞いて以来、事業方面のことは何もそなたには話さずにきた。だが私の仕事がうまくゆかなくなった今となっては、どのような危険をおかしてでも、一切のことをそなたに打ちあけるほかはなくなってしまった。そのためほんのしばらくではあるが、そなたのもとを去らねばならなくなった。だがぜったいに確言するけれど、すぐまたそなたに会える日がくる。この点どこまでも私の言葉を信じてほしい。お互いの別れはほんのしばらくなのだ。いとしき妻よ、だから心を煩わさずに、そして何よりもからだを害なうことのないように。それが私の何よりの願うところなのだ。
さて、そなたに一つの頼みがある。それもわれわれ夫婦のきずなにかけて、ぜひ私のいう通り実行してもらいたいのだ。庭の路のつきあたりに私が写真の現像に使った部屋がある。あの暗室のなかに、どんな人にも見られたくない品がある。そなたを苦しめたくないから言っておくが、それは決して恥ずかしいような品ではない。それでもそなたはもとより、フェリクスにもあの部屋へはいってもらいたくないのだ。かぎはかかっている。だからこの手紙をみたらすぐに、そのうえへ封印をし、そのままそっとしておいてほしいのだ。家を売ったり貸したりせぬように――私の秘密が暴露するおそれがあるからだ。そなたかフェリクスのこの家に止まるかぎり、私の願いは貫徹されるものと信じている。フェリクスが二十一歳になったら、あのなかにはいってよろしい――それまでは決してはいらないように。
さて、ではさようなら、いとしき妻よ! これでほんのしばらくは会えないが、何事かおこったら、パーシヴァル君に相談するがよい。同君にはすべてをまかせてある。そなたやフェリクスを残してゆくのは、たとえしばらくとはいえ、じつにいやだ。でもほかに方法はないのだ。
つねにそなたを愛する
スタニスラス・スタニフォド
一八八七年六月四日
「こんな純然たる家庭の私事をお聞かせしてご迷惑でしょうが、」と相手はわびるように、「ご職業がら依頼にきた者の話だくらいに聞いてください。僕はこの年月、誰かに聞いてもらいたかったのです。」
「いや、打ち明けたお話で、こちらは光栄に思います。それに内容がとても面白いです。」
「父はほとんど異常に近いまで真実を愛するので知られていました。知ったかぶりをするのかと思われるほど、何事にも正確でした。ですから母にはすぐに会えるだろうと言い、あの暗室には恥ずべきものは何もないと言った以上、あくまでそれは信じてよいと思うのです。」
「とすると、いったい何があるのですかねえ?」私は嘆声をもらした。
「母にも私にも想像もつきませんでした。手紙の通りに実行して、あのドアには封印をしました。それ以来ずっとそのままなんです。母は父がいなくなってから五年間ながらえました。当時どの医者もみんな、長くはもつまいと言っていましたけれどね。心臓がひどく悪かったのです。はじめの数カ月に父から手紙が二通きました。どちらもパリの消印でしたが、住所は書いてありませんでした。内容は短くて似たようなものでした。もうじき再会するのだから、あまりくよくよしないようにとありました。
それっきり便りがとだえて、母の死ぬまでは音さたなしでした。それからこんどは私あてのがきましたが、これはあまりに個人的な内容ですのでお見せできません。とにかく父のことを悪く考えてくれるなとあったり、よい忠告をしてくれたり、あの部屋は母の生きていた時ほどには重要でなくなったけれど、ドアを開ければやはり他人に苦痛を与えるであろうから、僕が二十一歳になるまで待ったほうがよかろう、時がたてば何事でもなめらかに運ぶものだ、なんてことをこまごま書いてありました。そういうわけで、父はあの部屋の管理を僕にまかせたものですから、ごらんの通りのありさまというわけです。こんなに貧乏していながら、この大きな屋敷を売りも貸しもならないというわけですよ。」
「抵当になら入れられるでしょう。」
「それは父がやってゆきましたよ。」
「ほう、じつに変っていますな。」
「母と僕はつぎつぎに家具を売るとか、召使いに暇を出すとかするしかなくなって、しまいにごらんのように今はこの部屋一つでひとり住まいというわけです。しかしそれもあと二カ月しかもちません。」
「というと?」
「それはですね。あとふた月すると僕は成年になるのです。そうしたらまず第一にあのドアを開けますよ。そのつぎにはこの家を処分するのです。」
「投下資本が回復してきたというのに、お父上はどうして帰ってはこないのですかな?」
「死んだに違いありませんよ。」
「あなたは父上が国外へ逃亡したとき、法律的には何ら違反はなかったと言いましたね?」
「そうですとも。」
「なぜ母上を同伴しなかったのでしょう?」
「さあ、分かりません。」
「なぜ住所を知らさないのでしょう?」
「分かりませんね。」
「母上がなくなっても、葬儀にさえ帰ってこなかったのはなぜでしょう?」
「分かりませんね。」
「いいですか、弁護士としての忠告のつもりで率直に申しますとね、父上は国外にいなければならない強い理由がある。そしてたとえそれが証明されないまでも、父上としては十分にその恐れがあるとお考えで、どうしても警察へ出頭するのは避けたいのだ――とこう考えますね。それ以外にいろんな事実をうまく説明する方法がない以上、そう考えざるを得ません。」
相手は私の言葉に同ずる様子もみせなかった。
「アルダさん、あなたは父のことをあまりご存じないから仕方がありませんがね。」と冷ややかである。「父のいなくなったのは、僕のほんの少年のころでしたけれどね、今でもまたこれからも僕は父を理想の人と仰いでゆくつもりです。しいて欠点をあげるとすれば、あまりにも感じやすく、利己的でなさすぎたことです。自分のせいで他人に損をかけたとなると、死ぬほどに苦しみました。名誉にかけてはじつに厳しかったですからね。何か恥じになることで父が姿をかくしたと考えるのは、まちがいですね。」
息子として父をこうまで強くかばうのは、聞いていて気持がよかったが、事実はそれと反対であり、彼として公平な見かたのできないのも仕方のないことに思われた。
「私は局外者として話をしているだけでしてね。さて、それではおいとましましょう。家までは相当歩かなければなりませんからね。お話はまことに興味しんしんでした。結果がわかりましたら話のつづきを知らせて下さるとありがたいですな。」
「名刺をください。」というから渡しておき、それから別れをつげて帰ってきたのである。
それからしばらくは、この事について何も耳にしなかったし、あれもよくあるその場だけの経験で、今後はじっさいに観察することもできず、希望や疑念だけの残る種類のことに終るのだろうと考えるようになっていた。ところがある日の午後、J・H・パーシヴァルという名刺がアブチャーチ横丁の私の事務所へ取りつがれ、つづいて小柄でひからび、明るい目をした五十年輩の人が書記のあとからはいってきた。
「私の名は若い友人フェリクス・スタニフォドさんからお聞きのことと考えます。」
「もちろん、おぼえておりますよ。」
「私の前の雇い主スタニスラス・スタニフォド氏の失そうのことや、お屋敷にある封印された部屋のことなどもお聞きおよびでしょうね?」
「ええ、聞きました。」
「あなたはこの問題について興味をお示しになりました。」
「ええ、非常に面白いと思いました。」
「それでスタニフォドさんは、息子さんの二十一歳の誕生日がきたら、あのドアを開けてよいと許可をあたえていることもご存じですな?」
「そんな話でしたな。」
「フェリクスさんの二十一歳の誕生日はきょうです。」
「では開けたのですか?」私は身をのりだした。
「まだです。」相手はおちついて、「あのドアを開けるには、証人のあったほうがよいと思います。あなたは法律家で、それにこの件の事情をよくご承知です。この問題の立会人になっていただけないでしょうか?」
「よろこんでなりましょう。」
「あなたは昼間はお忙しいかたです。私とても同様です。それで今夜九時に、あの家へおいで下さらないでしょうか?」
「よろこんで参りましょう。」
「ではあちらでお待ちしております。いずれ後ほど。」おごそかに一礼すると、立ち去っていった。
その晩、これから解決しようとする不思議な問題を、何とか解いてみようと空しく頭をなやましながら、約束の場所へ出かけていった。パーシヴァル氏とあの若い知人は、例の小さな部屋で待っていてくれた。若もののほうが青ざめてそわそわしているのは、べつに不思議でもなかったが、あの小柄な、ひからびた実業家までが、おさえてはいるけれど、ひどく興奮しているのを見て、これはと思った。ほおを赤らめ、両手をひねりあわせ、ひと時たりともじっと立っていられぬという風である。
スタニフォドは暖かく私をむかえ、わざわざ来てくれたことを感謝した。「ではパーシヴァルさん、」と仲間のほうにむかって、「もう何もぐずぐず待つ必要はないわけですね? さあ、早いとこ片をつけましょう。」
銀行家の秘書だった男はランプをとりあげて、先にたった。だが廊下をあのドアのまえまでくると一息いれたが、ランプを持つ手は震えだし、光は高い裸の壁に高く低くゆらめいた。
「スタニフォドさん、」ともと秘書はかすれた声で、「この封をとってドアを開けてみたとき、なかにどんなものがあろうとも驚かれないように、お心構えなさいよ。」
「だって一体なにがあるのでしょう、パーシヴァルさん? 僕をおどかそうというのですか?」
「いや、そんなことはありませんよ、スタニフォドさん。ただあなたに心の準備を……気をしっかり……どんなことがあっても取り乱さないように……」もと秘書がこのたどたどしい言葉のあいだに、口びるをなめてばかりいるのを見て私は、とつぜん当人から打ちあけられでもしたように、さてはこのドアのなかに何があるか知っているのだな、しかもそれは何か恐ろしいものなのだなとさとった。「さあ、スタニフォドさん、かぎはここにあります。ですがご注意申したことをお忘れなくな。」
そういって差しだしたかぎの束を、若ものはひったくるように受けとった。それからナイフを色あせた封の下にさしこみ、はがしとった。ランプはパーシヴァル氏の手のなかでことことと震えているので、私がうけとってかぎ穴にかざすと、スタニフォドはかぎを一つ一つあてがってみた。そのうちに一つのかぎが合ってガチリと回り、ドアがばたんと開くと、そのまま部屋のなかへ一歩ふみこんだが、たちまち恐ろしい叫び声をあげ、若ものは私たちの足もとへ失神して倒れたのである。
もし私が老秘書の注意をまじめにうけとらず、ショックにたいする用心をしていなかったら、きっとランプをとり落としていたことだろう。その部屋は写真用の暗室に使うため建てたものらしく、窓もなくがらんとしていて、かたすみに水道せんと流しがついていた。一方にはびん類やはかりや容器のたながあり、妙におもたるい臭い――化学薬品と動物性の臭いとの二つがいっぱいに漂っていた。正面にはテーブルといすが一脚おいてあり、そのいすには一人の男が何か書くような姿勢で向こうむきに掛けていた。その姿や輪郭はごく自然にみえたが、そこに光の落ちた瞬間、思わずぞっと髪の毛の逆だつ思いをした。その人の首すじが黒くしわだらけで、私の手首ほどの太さしかないのである。ほこりをいっぱいかぶっていた――黄いろいほこりがあつく髪に、両肩に、しぼんだレモンいろの両手にも。頭を胸に深くたれ、ペンはいろあせた紙のうえにまだとどまっている。
「ああ、ご主人! お気のどくな!」ともと秘書は叫び、両ほおから大つぶの涙をしたたらせた。
「ええ! これがスタニスラス・スタニフォドさんなのですか!」私は思わず叫んだ。
「七年間もこうして坐っておいでなのです。何でこんなまねをなさったのやら。お願いもしました。おがみもしました。ひざまずいて嘆願もしましたのです。それでも思った通りをなさるとおっしゃって……ほれ、テーブルのうえにかぎがありますでしょう? 内がわからかぎをおかけになったのです。そして何かお書きになりながら、おなくなりなのです。事実はありのままに認めなければなりません。」
「そうですとも! 事実はあくまで事実です。しかしお願いだからここを出ましょう。ここの空気は有害です。」私が叫んだ。「さあ、スタニフォドさん、いらっしゃい。」二人で腕をとって、恐れと驚きに倒れた若ものを自分の部屋へつれかえった。
「お父さんだった!」意識を回復すると叫んだ。「いすに掛けたまま死んでいました。パーシヴァルさん、あなたは知っていたのですか? だからはいるまえに、あんな注意をしたのですね?」
「はい、知っていましたよ。何事もよかれと思ってして参りましたのですが、私の立場はむずかしいものでございました。七年もまえから、あなたの父上があそこで死んでおいでのことを知っておりましたのです。」
「知っていながら、私たちには教えなかったのです!」
「お怒りにならないで下さい、スタニフォドさん。お願いです。つらい役を引きうけたものの立場をごしんしゃく下さい。」
「頭がぐらぐらする。さっぱり訳が分かりません。」若ものはよろめき立って、ブランディを自分でついだ。「お母さんや僕あての手紙は、偽物だったのですね?」
「いいえ、あれは父上がお書きになり、宛名もご自分で書いて私にあずけ、郵送させなすったのです。私はお指《さし》図《ず》の通りにいたしました。あのかたはご主人でした。命令には何事も従わねばなりません。」
ブランディが若ものの神経をどうやら静めた。「すっかり話して下さい。もう何を聞いても大丈夫です。」
「ではスタニフォドさん、お話し申しあげましょう。ご存じのように、あの恐ろしい時期がまいりましたとき、父上はご自分の失敗から多くの貧しい人々が貯金を失うものとお考えになったのでした。もともとまことにお心のおやさしい方でしたから、こう考えただけでもたまらなかったのでございますね。日夜お悩みになり、苦しまれた結果、自から生命を断たれることを決心されたのでした。ああ、スタニフォドさん、私がこのことでどんなにお父上へお願いし、どんなに言い争いさえしたかをお知りくだされば、きっと私をお責めにはならないでしょう! 逆にあのかたのほうでも私に、これまでどんな人にもなすったことのないほどの熱心さで、こん願なさいました。もう決心しているのだ。どんなことがあっても決行するのだ。ただし自分の死が世にも幸福で安楽なものとなるか、もっともみじめなものになるかは、一にかかってお前しだいだと仰っしゃるのです。ご主人が本心でおっしゃっていますのは、その目の色で分かりました。それでとうとうあのおかたのご希望に負けまして、お言葉のとおりに致すことにしましたのです。
ご主人のご心配されていましたのはこれでした。ロンドンでも一流の医師から、奥さまは心臓がお弱くてほんのわずかなショックにも耐えられまいと聞かされておいでだったので、その死を早めるようなことがあってはと、その点にお心を痛めておいでだったのです。と申してご自分がこれ以上生きてゆくのはとても耐えられない。奥様のご健康をそこなわずに自分の生命をたつには、どうしたらよいだろうか?
こう申せば、あのおかたがどういう手段をおとりになりましたか、お分かりのことと存じます。のちに奥さまのお受けとりの手紙をお書きになりましたが、あのなかには言葉のうえで真実でないものは一つもありません。まもなくお前に再会できるとお書きになりましたが、あれは奥さまの死期の近いことをほのめかしておられるのでして、あれから数カ月のいのちだと信じておられたのです。この点はかたく信じておられましたので、奥さまへ送る手紙は二通しかお残しになりませんでした。奥さまはあれから五年生きのびられましたが、私としましてはあれしかお送りします手紙がなかったのです。
べつに奥さまがなくなられましたら、あなたさまへお送りする手紙を一通、おあずかりしておりました。あのおかたが国外にいらっしゃるように見せかけるため、私はこれらの手紙をパリから発送いたしました。私に何もいうなとのことでしたので、それについて今日《こんにち》までひと言も申さずに参りました。あのかたに忠実につくして参った一使用人でございますからね。七年たってからなら、生き残った友人たちの驚きもさほど大きくはあるまいと、お考えになったわけです。いつも他人のことには思慮ふかいかたでしたからね。」
しばらくはみんな黙りこんでいた。それから若いスタニフォドが口をきいた。
「パーシヴァルさん、あなたを批難なんかしませんよ。あなたは母のショックを防いで下すったのです。そうでなかったら母は生きていなかったでしょうからね。その紙はなんですか?」
「父上のお書きになっていたものです。お読みしましょうか?」
「どうぞ。」
「私は毒を飲んだ。それが血管をめぐっているのを感じる。奇妙な感覚だが苦痛はない。この文章が読まれるころには、私の希望がそのままに実現されるなら、私の死後幾年もすぎた後であろう。私のために金を失った人たちも、そのころには一人として私をうらんではおるまい。そしてお前も、フェリクスよ、この一家の哀しいできごとを許してくれるだろう。神よ、この痛み疲れた魂に安息を与えたまえ!」
「アーメン!」私たちは口をそろえて叫んだ。
解  説
シャーロック・ホームズ物語の作者コナン・ドイル(一八五九〜一九三〇)にはそれ以外の作品もたくさんある。分量にしておよそ四倍ぐらいであろうか。長編も短編もあるが、長編のほうは多く時代小説で、今日の読者にはなじめないものが多いが、少なくとも六冊ある短編集のほうはそうでなく、一部をのぞいては時代ばなれというようなことはなく、面白く読める。
ドイルは死の前年の一九二九年に、これらの短編をばらばらにし、同じ種類のものを集めて五六編ずつの「冒険」「恐怖」等の十種にまとめ、さらにこれらをまとめて「コナン・ドイル・ストーリズ」という千二百ページの大冊として出版した。本編はそのなかの「冒険」と題する一組を訳したものである。
最初の「ヒラリ・ジョイス中尉の初陣」であるが、これにはヒラリの頭にビンバシという字がついている。これは現地語で千人の長という意味だから、旧日本軍でいえば少佐にあたるわけだが、読んでみるとこの人物の言動は少佐という柄ではないようだから、中尉としておいた。
つぎに「借りものの情景」だが、これにはジプシが出てくる。ジプシというのはヨーロッパ各国に普通に見られる民族で、本来はインド・アリアン族だといわれる。一定の住居なく馬車を家として各地を漂泊し、音楽や舞踊によって生計をたてている。いす、こうもりがさの修繕、いかけ屋などで渡世しているものもある。ヨーロッパ全体で百万人くらいいるらしい。アメリカにはいないらしいが、近年渡航したのがあるかもしれない。言葉はインド語系の特殊のものを用いている。
このジプシやジプシ語を研究した人にイギリス人ジョージ・バロウ(Borrow 1803〜1881)がある。ジプシ語字典その他の著作がある。この人は、この作品の主人公のような旅行もした人だが、この主人公はそれをナマハンカにまねているわけだ。バロウは人名であると共に、動詞に使って「借りる」という意味がある。だからこの題は「借りものの情景」という意味のほかに「バロウ的」情景の意味もある。ドイルにしてはめずらしいだじゃれだろうと思う。  これらの作品は作者がシャーロック・ホームズを書く以前に書いたものもあり、シャーロック・ホームズを書きだしてから書いたものもあるようだ。だからちょっと手を加えれば、シャーロック・ホームズものにもなり得るものがあるようだ。それともう一つ、若いとき書いただけに、ひどく感傷的なものもあるようだ。「アーケーンジェルから来た男」「開かずの部屋」などにそういう字句が見えるようだ。
一九六〇年五月
訳 者
本作品のなかには、今日の観点からみると差別的表現ないしは差別的表現ととられかねない箇所があります。しかし作者の意図は、決して差別を助長するものではないこと、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また訳者がすでに故人であるという事情に鑑み、底本どおりの表記としました。読者各位のご賢察をお願いします。〈編集部〉
Shincho Online Books for T-Time
ドイル傑作集 冒険編
発行  2000年10月6日
著者  コナン・ドイル(延原 謙 訳)
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861028-8 C0897
(C)Katsuko Nobuhara 1960, Coded in Japan