TITLE : ドイル傑作集
ドイル傑作集 X ボクシング編
コナン・ドイル 著
延原 謙 訳
目 次
クロクスリの王者
ファルコンブリッジ公
バリモア公の失脚
旅団長の罪
ブローカスの暴れん坊
解説
ドイル傑作集 X
―ボクシング編―
クロクスリの王者
ロバート・モンゴメリイは失望落胆のあまり、両手で頭をかかえこむようにして、デスクの前にすわって両ひじをついていた。目のまえにはオールデカ博士の診療所の処方をぎっしり書きこんだ元帳がひろげてある。手近の木のぼんのなかには、いくつにも仕切りをして、よじれた封ろうのかたまり、コルクのせんなどが入れてあり、前のほうの台のうえには空の薬びんが行列をしていた。だが彼は仕事をする気になれないほど元気がなかった。りっぱな肩もたれ、頭を抱えこんでただじっと座っていた。
戸外には、診察室のきたない窓ごしに、どす黒くよごれたレンガやスレート、サイクロプス(ギリシャ神話にある一つ眼の巨人―訳者)のような煙突の列の、いまにも降ってきそうな黒ずんだ雲を支えるかのように立っているのが見られた。いつもなら週六日は煙を吐いているのだが、きょうは日曜日だから、ボイラが休止しているのだ。人間のどん欲さのため毒されたこの地方の空には、きたならしい憂うつさがたちこめていた。四囲には元気づけてくれるものは何もなかったが、いまこの医学書生の精神にのしかかっているのは、この陰気な環境以上のものだった。
彼の悩みはそれどころでなく深いものだが、一身上の問題でもあった。冬の学期が始まろうとしているのだ。医学士の学位を得るための最終学年を完了しに大学へ帰ってゆかねばならないのだが、困ったことに授業料をおさめる金がない。といってこれから手に入れる方途も思い浮かばない。学業を完成するために必要なのは六十ポンドだが、今の彼には金策の目あてのないことは何千ポンドだって同じことだ。
そこへオールデカ博士がはいってきたので、モンゴメリイの黙想はやぶられた。大柄でひげをきれいにそっておるりっぱな人物で、態度はかたくるしく、厳格な顔をしている。この開業医はこの地区の教会の利益のための後援があったのですばらしく繁栄したものであり、自分でも生活の信条として、言行ともに他人の感情を害することのないように努めてきた。品位や風采《ふうさい》の目標とするところはきわめて高く、書生にたいしてもそれを期待していた。だからその言行ともに、常になんとなく博愛的であった。そこで元気のない書生も急にでき心をおこした。先生の博愛心がどう働くか、ためしてみようというのである。
「あの、先生にお願いがあるのですが、」と腰を浮かしながらいった。「きいて頂けますでしょうか?」
受けたオールデカ先生の態度はいささか心もとない。口を急に一の字にむすんで、眼を伏せた。
「何ですか、モンゴメリイさん?」
「ご承知のとおり、卒業までにはあと一学期残っています。」
「そういう話でしたな。」
「私としてはそれがきわめて大切なことなのです。」
「もちろんでしょうね。」
「ところが授業料です。先生、それに六十ポンドばかりいります。」
「私はちょっと往診しなければならんところがありますのでね。」
「ちょっとお待ちください。これは私の希望なのですが、ここで借用証に署名して、利子をさしあげたら、それだけのお金を前借させて頂けないでしょうか? かならず返済いたします、間違いなく返済いたします。それとも卒業後もこちらで働いてお返ししたほうがよろしいでしょうか?」
先生の口はいよいよかたく、一文字にむすばれて細い一線となった。そして眼をあげたが、こんどは憤然として、きらきらと輝いていた。
「そのお頼みは法外ですね、モンゴメリイさん。そんなお話を聞くとは驚きいります。考えてもみてください。この国には医学生が何千人いると思います? 申すまでもなくそのなかには授業料の工面のつかない人も数多くあることでしょう。それらの人にたいして私がいちいち立てかえるのですか? それともあなただけが特別なのですか? あなたにそういう要求をつきつけられて、残念ながら拒絶しなければならんという私の立場を、深く悲しむとともに、私は失望するものです。」といってオールデカ先生はくるりと向きなおり、威厳をきずつけられたと言いたげに診察室から出ていってしまった。
書生のモンゴメリイはにが笑いをして、毎朝の仕事になっている調剤にとりかかった。つまらない仕事で、どんな男にもできるくだらないことなのだが、こっちははちきれんばかり元気で、筋骨たくましいのだ。とはいうものの、おかげで一週一ポンドの食費がたすかるし、夏のあいだをこれで安楽にすごしたうえ、冬までには二三ポンドの貯蓄もできようというものだ。しかし授業料というものがある。この金をどこから工面したらよいか? 乏しい給料ではとても賄えない。オールデカ先生は前借を承知しないという。どこからどんな方法で工面したらよいのか? 頭はかなりよいのだが、このくらいの頭なら世間にいくらもごろごろしている。彼のとくにすぐれているのは体力だけだが、この体力はどこへいったら通用するだろう? だが運命というは妙なもので、通用する世界が手近にあったのである。
「やいやい!」戸口で声がした。
大きい耳ざわりな声だったので、モンゴメリイは顔をあげた。若い男が入口に立っているのだった。がっしりと首の太いこのへんの若い炭坑夫が、ツイードの一張らを着て、とてもはでなネクタイをしている。人相のよくない男で、黒っぽい眼も横柄に、あごや首すじはブルドッグのそれのようである。
「やいやい!」その男はくりかえして、「どういうものでお前さんは、先生さまのいわっしゃる通りの薬を調合してくれないのかね?」
モンゴメリイはこの北部地方の労働者の野卑な率直さになれていなかった。だから初めのころは憤ったものだが、そのうちに耳にたこができた形で、気にならなくなった。まったく横柄で、そのうしろに肉体的な威圧を思わす我慢のならない無礼さがある。
「名まえは?」彼は冷然とたずねた。
「バートン――とこういえば分かるだろうが、家内の薬をすぐに作ってもれえてえ。ぐずぐずしていると、ただはおかねえぜ。」
モンゴメリイは微笑した。内心ほっとするものがあったからである。さっきからの心の悩みが、ありがたいことに安全弁からすっとどこかへ出ていってしまった。怒らせるにもほどがある。いきなりむかむかっときて、彼は忍耐もなにもできないほどになった。充たしていた薬びんに名をかき、封印すると、そっと台のうえにおいてから、坑夫のほうを向いていった。
「やいやい! お宅の薬はその順番がきたらこさえて、届けるよ。診察室には誰もはいることならん。待つのなら、そとの待合室で待ってもらいたい。」
「おい若えの、ここで家内の薬を作るのはお前の役目だ。おれの見ているまえで早くすぐにな。でないとお前に薬をくらわせてやるから、そう思え。」
「けんかを売るのはよしたほうがよかろう。」モンゴメリイは歯をくいしばって切り口上でいった。むかむかするのを押さえるのでけんめいなのだ。「おとなしくあっちへ行けばよし、さもないとひどい目にあうぞ。え、どうだ? いやならこれでもくらえ!」
ほとんど相うちだった。猛烈なスイングがモンゴメリイの耳をかすめたし、こっちのストレイトは坑夫のチンにみごと命中した。幸運は書生のほうにあった。アッパーカット気味のストレイトであったが、受けたほうは自分の相手がいかに恐るべき人物であるかを十分思い知らされた。坑夫が相手を見くびっていたとすれば、相手のほうも坑夫を見そこなっていた。それでなければ、こんなに致命的な打撃は加えなかったであろう。
ストレイトを受けるとともに、坑夫は後頭部を診察室のたなの角にぶちあて、そのままどさりとその場に倒れた。そして曲った足を少し立て気味に動かず、両手は大きくひろげたまま、あごから血を出して、その血がタイルの床《ゆか》に流れていた。
「もうたくさんか?」書生は鼻血をどくどく出しながら、荒いいきをした。
返事はなかった。気を失なっているのだ。そうと知って書生は自分の立場のあぶないのに気がつき、相手に劣らず青くなった。聖《きよ》き日曜日ではあるし、汚れなきオールデカ先生は信心ぶかいときているのに、患家の人と乱暴なケンカをしたのだ。このことが知れたら、先生に追いだされるにきまっている。この仕事の口そのものは大したことはない。しかしここで先生に汚点をつけられたら、代りの仕事を見つけることはできまい。照会されたとき先生がよくいわないにきまっているからだ。学費がなければ、学校も出られず、仕事にはありつけない。それではどうなるのだ。完全な破滅でしかない。
しかし結局は露見しないですんだ。人事不省の相手をつかまえて、部屋の中央へ引きずりだし、カラをゆるめて診察室の海綿を顔のうえで絞ったのである。しばらくすると顔をしかめてうなりだした。
「畜生! ネクタイがだめになったじゃないか!」といって胸にこぼれた水を払いのけた。
「すまなかったな。それほど強く打つつもりはなかったのだ。」モンゴメリイはあやまるようにいった。
「ひどく打ちやがったな! これじゃ町へも出られやしねえ。いいとこをまともにくらわせやがった。このおれをノックアウトしたと威ばれるんだから、てめえも運のいいやつさ。ところでどうだ、家内の薬を調合してはくれめえかの?」
モンゴメリイは喜んで薬を調製し、坑夫に渡してやった。
「まだ気分がすぐれないかね? ここでしばらく休んでいったらどうだ?」
「家内が薬を待ってるからな。」といって、坑夫は戸口からよろめき出ていった。
それを見送った書生は、坑夫が心もとない足どりで街を歩いてゆくうち、知りあいに出あい、その男と腕を組んで歩いてゆくのを見た。坑夫は北部地方特有の粗暴らしさはあったが、ノックアウトされたのを遺恨に思う様子もなかったから、モンゴメリイはあとくされを感じなかった。ノックアウトしたことを何も先生に報告する必要はないのだ。モンゴメリイは流れた血をふきとり、診察室のなかをきちんと整理して、あぶないところだったと首をすくめる思いで、中断された仕事にとりかかった。
その日終日彼はなんとなく不安な気持であったが、午後おそくに、三人の紳士が会いたいといって待合室に来ていると知らされたときは、どうしてよいやら分からないほど驚いた。裁判問題となり検死でも始まるというのか、それとも探偵の手入れでもあるのか、あるいは肉親のものが怒ってなぐりこんできたのか、あらゆる場合を予想して彼はおびえた。顔をこわばらせて、おずおずと会いに出てみた。
はなはだ妙なとりあわせの三人だった。どの人にもモンゴメリイは見おぼえがあった。だがこの三人がつれだってくるとは、いったい何ごとであろう? 何よりも不審なのは、いったいこの三人は何を期待してやってきたのだろう?
第一の男はノンパレイ炭坑の所有者の息子《むすこ》のソアリ・ウイルスンである。まだ二十歳の威勢のよい門閥《もんばつ》の若もので、財産の相続人だが大のスポーツ好きであり、モードリン・カレッジ(ケンブリッジ大学の一学寮―訳者)へいっているのだが、いまはイースタ休みで帰っているのだ。彼はテーブルに腰かけて黒いちょびひげをひねりながら、だまって注意ぶかくモンゴメリイを見つめていた。
第二はパーヴィスといって、名のあるビヤホールを持つ銘酒屋のボスであり、この地方では腰かけの胴元として知られていた。顔をきれいにそった下等な男で、はげしい赤ら顔は象牙《ぞうげ》いろのはげ頭とよい対照をなしていた。うす青い眼をずるそうに光らせて、いすから乗りだし気味に、むっちりした赤い手を両ひざについて、若い書生を批判の眼で注視している。
第三の男、調馬師のフォセットも同じで、カーキ色のラシャの乗馬用ゲートルをつけた細くて長い脚を前へなげだし、毛むくじゃらの骨ばった顔を緊張させて、乗馬むちを片手に歯をむきだして眼を光らせていた。銘酒屋のボスも、おしゃれの若ものも調馬師も、一様に口をとじたまま熱心に批判の眼を彼にむけていた。モンゴメリイは三人のなかに着座して、順々に彼らを見やった。
「ところで皆さん、ご用は?」ときいてみたが、誰も答えなかった。
座が白けかけた。
「だめだ。こりゃだめだ。」しまいに調馬師がいった。「ものにならねえ。」
「立ってみな。立ったところを見せてくんねえ、若えの。」こんどは銘酒屋である。
モンゴメリイは立った。とにかくいう通りにしてみせれば、何の話で来たのだか分かるだろうと思ったのである。彼は立って、服の仕立て屋でするように、ゆっくり回ってみせた。
「だめだ! これだからだめだ!」調馬師がわめいた。「これじゃ王者にかかったらたちまち、ひざを突かされちまう。」
「ほらもいい加減にしろ!」若いケンブリッジ大学生がいった。「フォセットはいやなら手を引いてもいいよ。僕は一人になってもやってみせらあ。こうなったら後へは引かないぜ。第一人物が気にいった。テッド・バートンもいいが、あれよりはだんちだぜ。」
「しかしねえ、バートンのあの肩がねえ。」
「肩が盛りあがっているからといって、強いとは限らないよ。問題は胆力と闘志と血統だ。それが勝敗を決するのだ。」
「そうです。そこでがさあ!」ふとっちょで赤ら顔の銘酒屋が牛のようなだみ声でいった。
「十パウンドはたっぷりたりないな。」調馬師がうなった。
「いずれにしてもウエルタ級(一三五―一四七パウンド―訳者)だ。」
「いいとこ百三十はあるな。」
「百五十が一オンスでも欠けたら、お目にかからねえ。」
「王者もそれよか重くはなかろう。」
「百七十五パウンドある。」
「ぜいたくに暮らしていたときゃ、それくらいあったが、その後はたらいたので油がきれたから、今じゃ二人に大きな違いはあるまい。モンゴメリイさん、近ごろ体重を計ってみたかね?」
ここで初めて直接に質問をよせられたわけだが、まるで品評会に出された馬のようにみんなの中に立たされていたモンゴメリイは、これは怒るべきなのか笑っていればよいのか、わけがわからなくなった。
「百五十四ポンドちょうどですよ。」
「だからウエルタ級といったのさ。」
「しかしトレーニングのほうは、やったことがあるのかね?」銘酒屋がいった。
「いつでもトレーニングしているよ。」
「まあふだんトレーニングはしているのさ。」調馬師がいった。「でもいくら毎日トレーニングしているからって、専門家についてやるのとはまるで違うからな。ウイルスンさんにもご意見はおありでしょうが、私のみるところでは、こりゃ十パウンドは脂《あぶら》がのってまさあ。」
若いケンブリッジ・ボーイは指で書生の二の腕をつまんでみて、べつの手で相手の手首をとるなり肘《ひじ》を曲げ気味にぐっと押してみた。すると二の腕がクリケットのボールのようにふくらむのが指さきに感じられた。
「さわってみろ!」
いわれて銘酒屋も調馬師も、おそるおそるモンゴメリイの腕にさわってみた。
「大したものだ! これならやれる!」パーヴィスはうめいた。
「みなさん、」とモンゴメリイがいった。「私が今まで忍耐をかさねてきたことは、みなさんもお認めくださることと存じます。私の外見についてみなさんがいろんなことをいわれるのを、私はおとなしく聞いてきました。こんどは私のほうから、それが何のためであるかをお尋ねする権利をお認めねがいたいと存じます。」
三人はむずかしい顔をしておとなしく腰をおろした。
「話はかんたんですよ、モンゴメリイさん、」と太い声の銘酒屋が口をきった。「しかしそのまえにいっておきたいことは、いまさら何もいう必要はないのじゃないかということだ。ウイルスンさんは話したがっている。フォセットさんは、そのいうことも聞いてやらなければならないけれど、自身かけ手でもあり、委員でもあるわけだが、反対の考えをもっている。」
「私は軽すぎると思ったんだ。いまでもその考えに変りはないがね。」調馬師のフォセットが、むちの柄についている金で前歯をこつこつたたきながらいった。「とはいっても何とかやれるかも知れない。からだもなかなかよいようだし、ウイルスンさんもこいつにおかけになるんなら……」
「むろんそうするよ。」
「それでパーヴィス君は?」
「一度かけたものを後へ引くようなことはしないさ。」
「こっちもかけたものは押し通すとしよう。」
「そういうだろうと思ったよ。」パーヴィスがいった。「アイザック・フォセットともあろうものが、興をそぐようなことをしたとあっちゃ、それこそ物わらいだからな。それじゃこうしようじゃねえか。仲間で百だけかけるんだ。もっとも若《わけ》えのが承知したらの話だがな。」
「モンゴメリイさん、こいつらのたわごとをかんべんしてくださいよ。」大学生がおだやかな声でいった。「話の切りだしかたは悪かったが、すぐに分かってきますよ。そして僕たちのいうことに同意してくださるといいと思うんです。まずさいしょに、あなたはけさある男をノックアウトしましたね? あれはバートン――有名なテッド・バートンという男なのです。」
「そうでさあ。」銘酒屋のパーヴィスがいった。「おめえさんはあいつをたったの一ラウンドでノックアウトしなすったんだから大したものだ。何しろ百四十六パウンドのモーリスでさえ、バートンを眠らすには手こずったほどだからね。そこへゆくとおめえさんの手なみは、まことにみごとだった。おめえさんさえその気になりゃ、もっとみごとにやってのけられらあな。」
「テッド・バートンなんて名は、薬びんのラベルで知ってるだけで、見たこともありませんよ。」
「じゃ改めて教えるが、やつは人殺しなんだ。」調馬師のフォセットがいった。「おめえさんはけさ、やつにいいところを一発教えてやんなすった。何かというと手を出す野郎だからね。口だけなら裁判にかけたって五シリングですむ。おかげでこれからは、ゆきあたりばったり誰にでも手を出すこともあるめえ。といってそこにも、ここにもいる男でないのはたしかだがね。」
モンゴメリイは当惑しきって、三人の相手を見つめてばかりいた。そして、ついに、
「お願いだから、私に何をしろというのだか、それを話してくださいよ。」とどなった。
「サイラス・クラグズと闘ってもらいたいんだ、クロクスリの王者といったほうが分かりが早いだろうがね。」
「それはなぜです?」
「こんどの土曜日にテッド・バートンのやつが闘うはずだった。やつはウイルスン炭坑のチャンピョンだった。相手はクロクスリ製錬所の坑夫仲間の王者だ。そこでこっちはバートンが勝つものと見て、百ポンドかけた。ところがお前さんはバートンをのめした。おかげでやつは後頭部に二インチもの傷をこさえたから、そんな試合には出られねえ。こうなったらお前さんにこの試合に出てもらうよりほかに方法がねえ。テッド・バートンに勝ったお前さんなら、クロクスリの王者だってマットに眠らせられねえはずはねえ。それともお前さんがいやだとなりゃ、こちとらはあがったりだ。何しろこの地区にバートンと肩をならべる男はいねえのだからな。試合は二十ラウンドで二オンスのグラヴを使い、ルールはクイーンズベリ・ルール(一八六八年同人が起草した―訳者)だ。そして最後までノックアウトのないときは判定によるとある。」
しばらくは話のばかばかしさでモンゴメリイの頭のなかはいっぱいであった。ところがたちまち急激な反動がきた。百ポンド! 学業をつづけるために必要とするものがころがっているではないか! 問題は手を出して拾いあげるだけの力が彼にあるか否かにある。けさもこの体力を金にかえる手段はないものかと頭をしぼったばかりではないか! 方法はあった! この体力を用いれば、頭脳では一年かかっても得られないものが、わずか一時間あまりで得られるのだ。しかし冷静な疑問がわき起こった。
「炭坑の代表として闘うことになるのでしょうが、私は炭坑には何の関係もありません。」
「関係は大ありだ!」銘酒屋のパーヴィスが叫んだ。「“炭坑に関係あるもの”とちゃんと書いてあらあ。オールデカ先生は炭坑クラブの医者だ。そしてお前さんはその助手だ。これならちゃんとした炭坑関係者で、どこに文句のつけようがある?」
「そうだ、それで条件は十分だな。」ケンブリッジ・ボーイがいった。「それにわれわれの困っているとき助けてくれるのも、それ自身りっぱなスポーツだと思いますがね、モンゴメリイさん。それにあなたとしても百ポンドの現金を受けるのはおいやかも知れませんが、それならそれで、あなたが勝ちさえすれば、ご意向をくんで時計なりメダルなりカップなり、そのほかお好きなものにしてもよいのです。それにあなたとしても、こっちのチャンピョンを倒して台なしにしたことでもあるし、私どもとしては出場をお願いする権利があるとさえ思うのです。」
「ちょっと考えさせてください。何しろとつぜんの話ではあり、それに先生のお許しがなかろうと思うのですよ。ええ、私が出るといったって、先生は決してお許しになりませんね。」
「何も知らせることはありますまい。少なくとも事前にはね。こっちは試合するものの名を先方へ知らせておく義務はないのです。試合当日にウエイトが制限内でありさえすれば、それで万事オーケーです。」
試合そのものもスリルがあるしモンゴメリイには金も魅力であった。この二つには抗しかねた。
「みなさん、」と彼は三人を見まわして、「僕やりますよ!」
三人はおどりあがって喜んだ。銘酒屋はモンゴメリイの右手をとるし、調馬師は左手へむしゃぶりつき、ケンブリッジ・ボーイは背なかをぴしゃりとたたいた。
「ありがたい! すばらしいぞ!」銘酒屋がどら声でまずわめいた。「これで王者に勝ったとなりゃ、お前さんもただのお医者じゃなく、ここからブラッドフォドにかけて、誰よりも有名になるだろう。お前さんのことだ、負けっこないよ。それでいよいよクロクスリの王者をマットに眠らせたとなりゃ、これからお前さんの生がい、フォア・サックス(四つの袋の意だが、ここでは銘酒屋のいとなんでいるビヤホールの名―訳者)で好きなだけのビールをただで飲んでいいよ。」
「とにかくこんなに正々堂々たる話は聞いたこともないですよ。」ウイルスンのせがれがいった。「まったく君が勝ちさえすれば、ご希望によっては経済上の援助も得られるのですからね。君は僕のうちの離れ家を知っていますか?」
「道路からすぐのですか?」
「それですよ。僕はあそこをテッド・バートンのためジムに改造しました。あそこへゆけば、欲しいものは何でもあります。こん棒でも、パンチ用のボールでも、バールでも、ダンベルでも、そのほか何でもそろっています。そのほか君としてはスパーリングの相手がいるわけですが、いままでバートンのためにはオーグルヴィがつとめていました。しかしこんどはあの男では体重も少し不足だし、バートンは君のことを少しも恨んではいません。知らない人には少し片意地なところもあるけれど、元来が気のよい男なんですからね。けさは知らない人だったけれど、いまは君のことがよく分かったと申しています。君のスパーリングならいつでも相手をつとめるといっていますから、いつこいと君から指定してさえくだされば、よろこんでお相手をつとめますよ。」
「ありがとう。いずれお知らせします。」とモンゴメリイが応じたので、委員たちは喜びいさんで帰っていった。
医者の書生はそのあとで座ったまましばらく考えこんでいた。ボクシングなら大学で、昔ミドル・ウエイト(一四七―一六〇パウンドで、ライト・ヘヴィとウエルタとの中間―訳者)のチャンピョンだった男に根元から教わり、トレーニングもしたものだ。脚はおそいし、筋肉はかたくなったし、その教師が全盛時代のおもかげもなくなっているのは確かだが、それでも彼にはなかなか手ごわい相手だった。しかしのちにはその教師にも引けをとらないようになった。そして大学のメダルをとったし、多くの学生に教えていた教師も、お前の重量でこれだけ強い男を教えたことがないと断言するようになった。
アマの選手権戦に出てみろと強く勧誘されたが、彼にはそういう方面への興味はあまりなかった。一度だけお祭りのとき掛け小屋のなかでグラヴを交えたことがあり、花やかな三ラウンドであった。勝負は彼の負けであったけれど、この有名な懸賞ボクサを相当手こずらせたものだった。これだけが彼のボクシング歴の全部であった。そしてこれが彼にクロクスリの王者と決戦するの勇気を起こさすものであるか? 王者などの名はついぞ聞いたこともないが、この数年勉学にアルバイトにはげしい毎日をすごしてきた彼は、リングにはすっかり疎遠になっている。だが要するにそんなことはどうでもよいではないか。勝ちさえすれば、金になるのだし、その金がなんともありがたいのだ。負けたらリングでのたうつだけのことだ。それは罰としていさぎよく受けよう。その点は覚悟ができていた。百に一つでも勝つチャンスがあるなら、彼としてはやってみるまでだ。
オールデカ先生がけばけばしい祈とう書をキッド皮の手袋をはめた手に持って、黙然と教会から帰ってきた。
「礼拝に出席しなかったようですね、モンゴメリイさん?」冷やかな言葉だった。
「はい、少し用事がたまっていたものですから。」
「家庭内ではよいお手本を示すことが、つねに私の念頭をはなれない。この地区には教養のあるものがたいへん少ないから、お互いの責任はきわめて大きい。お互いが最高の日常をすごさなんだら、この地区の労働者どもは誰が導くことになります? この教区の人たちが宗教上のつとめを怠たって、グラヴをはめての打ちあいにばかり興じるのは、考えても恐ろしいことです。」
「グラヴをはめての打ちあいですか?」モンゴメリイはうしろめたかった。
「そういうのではありませんか? 患者から聞いたのですが、この地区はその話でもちきりだという。この地区のならずものどもが、それも患者のうちにはちがいなかろうが、はるばるクロクスリのボクシング屋と試合をするのだという。どうしてそういう品格の下劣な見せものの興行を許しておくのか、なぜ法律で取り締まらないのか、不思議でなりません。事実懸賞ボクシングなのですか?」
「グラヴをはめた打ちあいと仰っしゃいましたね?」
「法律への言いぬけのため二オンスのグラヴをつけて打ちあうのだという話だが、そうなると警官も干渉できないそうですね。この勝負にはお金がかかっているのだという。まったく恐ろしい、驚くべきことです。そうは思いませんか? この平和な家庭から数マイル以内のところで、そういういやなことが行なわれるとはねえ! それでもね、モンゴメリイさん、一方にそういううちひしがねばならない悪効果のある今こそ、私たちは最高の日常を生活しなければならないのではないでしょうか?」
この書生どの以前に両三度最高の生活というやつを試みて、思いがけなくも造作なく、ある程度その目的を達しているのでなかったら、オールデカ先生のこのお説教は、もっと効果的だったに違いない。とにかくモンゴメリイは、この種の試合に関係する多くの人――主催者、かけ手、見物人などのなかで、もっとも重要で光栄あるのは、じっさいに試合をする男だと思った。試合をするということは、良心にはまったく無関心でいられた。耐久力と勇気こそは大切であって、少しも恥ずべきではなく、この際めめしくあるよりは、むしろ残忍性をこそ発揮すべきだと思った。
近くの街角に小さなタバコ屋があって、モンゴメリイはいつもそこで愛用のタバコを買ったり、町のうわさ話を聞いたりしていた。番頭がおしゃべりな人物で、しかもこの土地のことなら何でも知っていたからである。で、お茶のあとで彼はぶらりと出かけてゆき、何げなくクロクスリの王者という名を聞いたことがあるかと尋ねてみた。
「聞いたことがあるか、ですって! クロクスリの王者の名を?」小男の番頭は驚きを包みきれないで、「何といってもあなた、この地区では第一人者ですよ。その名はウエスト・ライディング(ヨーク州の一地区―訳者)ではダービ(ロンドン近郊のエプソムで毎年五月最終または六月最初の水曜日に行なわれる大競馬―訳者)の勝者と同じほどに評判になりましたよ。ところがね、あなた、」とここで彼は話をやめ、新聞紙の山をかきまわして何かをさがし、「テッド・バートンとの試合については、いろんなことをいって騒ぎたてるものがありましてね、それについてはクロクスリ・ヘラルド紙に彼の経歴と試合記録が出ていたはずですが、ああ、ここにありました。ご自分で読んでごらんなさい。」
うけとった新聞をひろげてみると、木版画をとりまいて、あちこちに説明の文句が組みこんであった。木版画のほうは横じまのジャージを着たボクサの肩からうえをかいたもので、人相は悪いけれど強そうな顔をしていた。身を持ちくずしたヒーローといったところで、ひげは少しもなく、まゆがいかつくて、眼がするどく、大きく張ったけんか腰のあごの下には、皮のたるんだ野獣的なのどがあった。陰気できかん気らしいほおは、悪意ある細い眼の下にかけて、ぽっと血の気がさしている。両耳からまっすぐに下がった線がそのままに太い首になり、さらに両肩にふくらんでゆくところは、いなか画家にしてはめずらしく、みごとに描きわけている。画の上部には“サイラス・クラグズ”とあり、下には“クロクスリの王者”と書いてあった。
「よく描いてありますよ。」タバコ屋がいった。「この男にかかっちゃ、かなう者なんかありゃしませんよ。かないませんとも。この土地からこんな男の出たのは大したものでさあ。これで脚さえいためなきゃ、イギリスのチャンピョンにもなれたんですがね。」
「脚をいためたのですって?」
「ええ、それもひどくね。だからかげではみんな、K《ケー》脚のおやじといってますよ。二本の脚がKの字がたに見えるからです。そのかわり腕のほうは、そうですね、よくいうようにもし両ほうともしばりあげられたら、それこそイギリスのチャンピョンどころへいったんだということになりますよ。」
「どうもありがとう。じゃこれはもらってゆきますよ。」モンゴメリイはその新聞をポケットに入れて、家へ帰ってきた。
帰ってから詳しく読んでみると、王者のレコードは決して愉快なものではなかった。多くは勝ち、負けも少しはあったが、クロクスリの王者の前歴が詳しく書いてあった。
「一八五七年の生れだから、サイラス・クラグズの本名よりもクロクスリの王者の名でよく知られている彼は今年四十歳になるわけだ。」とそこには書いてあった。
「畜生! おれはたった二十三だぞ!」モンゴメリイは胸中に叫んだ。
「若くしてこの競技に驚異的技能あることを認められ、朋輩《ほうばい》中にあって頭角をあらわし、やがて地区のチャンピョンと認められ、ついに現在の栄誉あるタイトルを握るにいたれり。されど彼はこの地方的声名のみにては満足せず、後援者を得て一八八〇年五月に、バーミンガムなるジャック・バートンとロイタラス・クラブにおいて第一回戦を交えたり。当時クラグズは百四十二パウンドにて優勢のうちに十五ラウンドの試合をすすめ、この中部地方人を判定にて降せり。つづいてロザハイズなるジェームズ・ダン、グラスゴーなるカメロンにつづき、ファニイと名のる青年を退けたるがため人気沸騰して、北部イングランドなるミドル級チャンピョンたるアーネスト・ウイロックスと好敵手ならんと目され、試合したる結果悪戦苦闘の末十ラウンドにてこれをノックアウトしたり。かくてリング最高の栄誉を手中にするは近きにありと目されたるこのヨーク州人も、不測の事故のためそれは一時たな上げの止むなきに至れり。すなわち馬に太股《ふともも》をけられたるため、一年にわたり休養の止むなきに至りしなり。療養をおわりてリングに立ちかえりたるときは、骨の結合完全ならず、活躍はいちじるしく阻害されたり。これによりさきに撃破したるウイロックスとのタイトル奪還試合には七ラウンドにして敗れたり。のちロンドンなるジェームズ・ショウにも敗れたるが、同人は王者を評してかつて見ざる不屈のやっかいな相手なりしといえり。自己の悲運にも落胆することなく、王者は肉体の廃疾を克服して試合をすすめる要領を会得し、再び勝利の座につきたるもの――すなわちノートン(黒ちゃん)、ボビ・ウイルスン、ヘヴィ級(一七五パウンド以上―訳者)のレヴィ・コーエンなどを敗りたり。ついで自分よりも重く、二百八十パウンドもある有名なるビリ・マクワイヤと試合して引き分けとなり、のち五十ポンドの賞金つきにてサム・ヘアをロンドンなるペリカン・クラブに敗りたり。一八九一年にオーストラリアのジム・テーラとのタイトル戦にて不正打ありと判定されるや、これを不満としてボクシング界を引退したり。以来彼は正規の試合をすることほとんどなく、ただその土地において酒場の紛争にもとづくなぐりあいと、科学的に研究されたる打ちあいとの相違を知りたしと求むるものあるときは、相手をつとむるに止めたり。これらのうち最近のものはウイルスン炭坑の野心家よりの申し出にして、百ポンドの賞金を設けんとの条件なり。炭坑を代表してじっさいに試合にのぞむ人物につきては各種の風説あるも、もっとも有力なるはテッド・バートンと称する男なるが、何分にもかかる試合に出場するは初めてのことにもあり、かけの率は王者の七に対するわずか一にして、それも炭坑社会の世論を正しく反映しおるものならん。」
モンゴメリイは二度くり返して読んだが、おかげで容易ではないぞという顔をした。つい片足つっこみはしたものの、たしかにこれは容易ならぬことだ。土地の評判に気をよくしている、乱暴でめちゃくちゃなけんか好きとは、試合するも何もない。公認記録によると、彼は第一級の戦士――少なくともそれに近いらしい。こっちの有利な点も少しはあるのだから、そこを極力利用しなければならぬ。その第一は年齢の点――こっちの二十三に対して相手は四十だ。リングには古くからの格言がある――“年には勝てぬ”というのだが、ボクシング界の記録をみると、これには無数の例外がある。冷静な勇気と技能を身につけたたくましいリングのヴェテランなら、十年か十五年はその優位をたもつだろうし、青二才など問題ではない。だからモンゴメリイとしても、年齢的な有利さにばかり、たよることはできないと彼は思った。しかしべつに脚の悪いという弱点がある。これは相当に有利とふんでよいのではないか。そして最後に、王者はこんどの相手をみくびっているかも知れず、トレーニングにもはげまないかも知れず、相手が強くないと思えば日常生活の節制にも気をつけないかも知れぬ。この年齢と日常の習慣をもつ男としては、これはきわめてありそうなことだ。モンゴメリイはそうあってくれるようにと祈った。
一方彼の相手が、ロープを躍りこえてリングに現われるほどの、この道にすぐれた男であるならば、こっちの任務もおのずから明白である。注意ぶかく準備にはげみ、いやしくも機会を逸してはならない。できるかぎりの努力をつづけるのだ。しかしどんなスポーツでも同じことだが、拳闘《けんとう》にはアマとプロとのあいだに相違のあることを彼はよく知っていた。落ちつき、パンチの強さ、わけても猛打が何よりも物をいった。みごとに発達したこのゴムのような腹筋は、普通のものなら一発で倒れてのたうちまわるような一撃を受けても、びくともしないことであろう。しかし今から一週間で、そういう状態になれといわれても、及びもつかないが、要は一週間でできる限りの訓練をすることだ。
医学書生は出発点からしっかりした基礎をもっていた。身長は五フィート十一インチで――ふるくからボクシング界でよく言われるところだが、二本足としては十分の高さだ――柔軟かつ身軽で、ひょうのような敏活さがあり、体力には本人さえいまだかつて試したことのない底知れぬ強さがある。筋肉の発達もいちじるしいものがあるが、彼のはむしろ計り知れぬ胆力にあった。鼻は美しい線を描き、眼はぱっちりとして、弱虫には見られないところであり、その背後には一つの大きな推進力が働いていた。すなわち自分の前途が、こんどの競技の結果いかんの一事にかかっているという意識である。
翌朝ウイルスンのジムでモンゴメリイが練習用のボールを打つのを見て、三人の後援者たちは手をこすりあわせてご満悦だった。調馬師のフォセットはリーズへ手紙を出して、こんどのかけを売りつないでいたが、急に電報でそれを取り消し、そのうえ七対一の市中相場でもう五十ポンドだけ買い増すことにした。
モンゴメリイの主たる困難は、いかにしてオールデカ先生の干渉をうけることなく、訓練の時間を得るかにあった。仕事のためには一日の時間の大部分を要したが、患家を訪ねるのは歩いてゆくのだし、距離も相当にあったから、そのこと自体が訓練になった。その他の時間には揺れボールを打ち、朝夕は一時間ずつダンベル体操をした。それから一日に二回、テッド・バートンを相手にジムでスパーリングをし、ラッシュや左右の強打についてできるだけのものを習得した。バートンは彼の技巧と手早さの点では賞賛をおしまなかったが、強さの点では不安をいだいた。自分が強打型だから、モンゴメリイにもそれを期待したのだ。
「先生さん、百五十パウンド以上もある男として、そんなパンチじゃしようがねえな!」彼はよくいった。「王者がそれと気のつくまえに、うんと強いところを一発くらわせてやらないじゃね。それ、それ、その調子!」とこれはモンゴメリイがバートンをリングのコーナに追いつめて、カウンタの強いのを一発くらわせたので、たちまちごきげんになり、「こいつはいいや。うむ、これならいけるぜ。」コーナに追いつめられておりながら、にやにやして、「すばらしくなった。おかげでこっちは足がまるきり利かなくなっちまった。さ、もう一本、もう一本くらわせてごらんよ。」
モンゴメリイの猛練習に関連してオールデカ先生の気のついたのは、その食事のことだけであった。それを見て先生はいたく頭をひねった。
「モンゴメリイさん、注意までに言っときますが、あなたはこのごろ妙に口が変ってきたようですね。そういう若いうちの一時の気まぐれは、決して身のためになりません。食事のたびにトーストを食べるようですが、これはどうしたものですか?」
「私は生《なま》パンよりもトーストのほうが合《あ》うのです。」
「そういうことをされると、台所に余計な手数をかけます。それにこのごろ気がつきましたが、あなたはじゃがいもにさっぱり手をつけませんね。」
「食べたくないのです。」
「それにしてもビールももう飲まないのですか?」
「はい。」
「それにしてもそういう気まぐれというか、むら気はたいへんよくないですね。世のなかにはほしくてもじゃがいももビールも手にはいらない人がたくさんあるのですよ。」
「それはそうですね。でもいまのところ私はほしくないのです。」
二人きりでランチを食べていたのであるが、書生は試合のために一日の休みをもらうよう頼むによい機会だと思った。
「先生、土曜日に一日だけお休みをいただけるとありがたいのですけれど……」
「何しろ忙しい日だから困りますねえ。」
「その代り金曜日に二倍働いて、すっかりお膳だてをしておきます。それに帰りはそうおそくならないつもりです。」
「お気のどくですけれど、休みはあげられますまいよ。」
これは不意打ちだった。よし、休みが与えられなければ黙って出てゆくばかりだ。
「先生、私がこちらへご厄介になるときまったとき、まい月一日だけはお休みを頂けるという了解のあったのを思いだしてください。私は今日《こんにち》まで一度も休んだことはございません。ですからこんどはぜひ、土曜日にお休みを頂きたいのです。」
オールデカ先生はしぶしぶと折れて出た。
「そうまでかた苦しいことを言われると、こちらは何も申すことがなくなるわけですが、それでは私の日常なぞどうあろうとよく、診療事業のほうにも無関心だというようにも聞こえますな。ほんとにその通りですか?」
「はい。」
「分かりました。気ままにしたがよろしい。」
オールデカ先生はかんかんに怒っていたが、モンゴメリイは有能な助手で、落ちついており、才能もあるし、よく働く男だから、いまこれを手ばなす気にはなれなかった。この書生が哀訴している授業料の前払いくらいしてやってもよいが、そうすると書生の資格を認めることになるから、自分の不利益になる。もともと薄給に甘んじてせっせと働いているのだから、先生としては現在の従属的な地位にとどめておきたかった。しかしこの青年の非情な固執、断固として土曜日の休暇を要求するところには何かありそうで、先生は好奇心をそそられた。
「モンゴメリイさん、あなたの希望を不当に弾圧する気は少しもありませんけれどね、土曜日にはリーズ(ヨーク州の工業都市、人口五十万余―訳者)へでも行くつもりなのですか?」
「そんなことはありません。」
「田舎まわりでもするつもりですか?」
「まあね。」
「それはたいそう賢明です。野の花のなかで静かな一日を送るのは、英気をやしなうのに極めて有効です。どっちの方向へゆくか、考えてあるのですか?」
「クロクスリのほうへ参るつもりです。」
「なるほど。でもあちらには製鉄所があるし、あれからさきは気持のよいところじゃありませんよ。それよりもフェル川の岸にでも寝ころがって日なたぼっこをしたり、それに何か有益な本でも持っていったら、こんな愉快なことはありませんよ。それともセント・ブリジェット教会の遺跡を見物にゆくのもよいですな。ノーマン時代初期のたいへん面白い神聖な遺物ですよ。ついでながら、あなたがこの土曜日にクロクスリへ行くについて、私は異議があるのです。聞くところによると、その日は乱暴者どものボクシング試合があると言います。そんな日にクロクスリなんかへ行こうものなら、よた者どもが集まっているでしょうから、巻きぞえになって、とんだ目にあうかも知れませんよ。」
「とんだ目にあうなら、あってもよいと思います。」
その週の金曜日の晩というと試合の前夜になるわけだが、モンゴメリイの三人の後援者たちはジムに集まって、筋力のしなやかさを保つため彼が軽く練習するのを視察していた。彼はたしかに上乗のコンディションにあり、皮膚は健康そうに光沢があったし、眼には活気と自信のほどがうかがわれた。三人はそのまわりに歩みよって大いに喜びあった。
「こりゃすばらしいの一語につきる。」大学生がいった。「君はすっかり真ものになったぜ、まったく。全身が鉄のかたまりのようだ。これなら必死になって闘える。」
「ちったあよくなったようだな。」銘酒屋がいった。「腰がちっとばかりよくなったと思うな。」
「今日の体重はどうだ?」
「百五十一パウンドです。」
「そうすると一週間のトレーニングで減量はたったの三パウンドということになる。」調馬師がいった。「してみるとコンディションはよいと自分で言ったのも、うそじゃなかったわけだな。なるほど、こりゃほんものだ。だがこれだけでゆけるかってなると、そりゃ何ともいえねえな。」と調馬師は馬でも見るときのように、モンゴメリイに一本指を突きつけて、「王者は公式の計量で百六十何パウンドかあるということだ。」
「それにしてもやつだって勝ちてえだろうし、勝って涼しい顔がしてえのだろう。なんでもやつにビールを断たせるのに、連中はえらく骨を折ったそうだよ。あれでもし赤毛のあの女《あま》っこがいてくれなかったら、手におえなかったろう。あの女《あま》っこのやつ、ビールのガロン瓶《びん》をもってきたチェッカズのボーイの顔を、いきなりひっかいたというからね。なんでもあのあばずれ女は、王者のスパーリングの相手もするし、情婦《い ろ》でもあるってんで、正妻《おかみ》さんは毎日泣きの涙だという。――お、若《わけ》えの、何か用かね?」
そのときジムのドアがあいて、十六歳ぐらいのうすよごれて煤煙と鉄粉とで顔も手もまっ黒にした少年が、ランプの黄いろい明るさのなかへ踏みこんできたのだ。テッド・バートンはいきなりえり首を押さえて、
「やい、やい、このがきめ、ここは公開の場所じゃねえ。手前のようなスパイに来られてたまるかい!」
「だって、ウイルスンさんに用があって来たんです。」
「なに、なに、なんの話だ?」若いケンブリッジ学生が進みでた。
「試合のことです。王者のことについて、だんなに話したいんで。」
「忙しいんだ。くだらない陰口なぞ聞いているひまはないよ。王者のことなら何でも分かっているんだ。」
「なんでもですか? そんなことあるもんですか。これは僕とお母さんのほか、誰も知ってやしませんよ。それでだんなにそのことを教えてあげようと思うんです。あいつにひと泡《あわ》ふかせてやりたいんです。」
「なに、王者にひと泡ふかせたいのだって? それはこっちだってそうだ。で、知らせるってどんなことなの?」
「この人が試合に出るんですか?」
「さあ、そうだったら?」
「そうだったら、この人に僕は知らせておきたいんです。王者は左の眼が見えないんですよ。」
「バカなことを!」
「いいえ、ほんとうなんです。まるっきり見えなくはないけれど、すごくかすんでるんです。他人《ひ と》にはそれを隠していますけれど、お母さんと僕は知ってるんです。ですから左へ左へと回ってゆけば、あなたは決して打たれやしません。試合をしてみればよく分かりまさあ。左へ左へと回っていって、王者の右がさがったとき、一発くらわせてやるんです。王者の得意はライトのアッパーカットです。それでいつも勝負をきめるんです。あいつをまともにくらったら、恐ろしいことになりますよ。」
「いいこと教えてくれた。ありがとうよ。これであの男の値うちは分かった。」ウイルスンがいった。「だが、そんなことまでお前《めえ》はどうして知っているんだね? お前《めえ》は何ものだ?」
「息子《むすこ》なんです、王者の。」
ウイルスンはヒュウと口笛をふいて、「ここへは誰にいわれて来たんだね?」
「お母さんです。早くお母さんのところへ帰らなきゃなりません。」
「さ、この半クラウンをお前《めえ》にやるよ。」
「いりませんよ。僕そんなものが欲しくって来たんじゃないんで……そんなもの……」
「愛するから来たのかい?」銘酒屋のパーヴィスがいった。
「憎むからです。」と少年はいって、やにわに暗い表へとびだしていった。
「赤毛の女《あま》のやつ、相当のことをやるとみえるな。」パーヴィスがぽつんといった。それから言葉をつづけて、「ところでモンゴメリイさん、今晩のところはこれで十分だから、あとは帰って寝るばかりだが、試合の前の晩に九時間以上眠るのは、何よりのトレーニングになる。こんどこそは、あすの晩百ポンドをポケットにして帰ってこられるぜ。」
炭坑も製鉄所も午後一時で仕事はぱっさり打ちきりになった。試合は三時からという取りきめである。クロクスリ製錬所から、ウイルスン炭坑から、ハーツイーズ鉱業所から、ドッド製作所から、リヴァワース溶鉱所から、工員たちが群れをなして押しよせてきた。みんな思い思いにフォックステリヤ犬だの、雑種の猟犬だのを身近にひきつれている。労働と苦役に足腰まがったうえ、窮屈な炭坑内での一週間にわたる労役でさらに曲った男たちだの、または多年にわたり白熱の溶解金属のまえで働きつづけてきたため、半盲にちかいまで視力の衰えた男たちだが、彼らは酷烈で望みなき生活を、せめてスポーツに傾倒することによって彩《いろ》どろうとしているのだ。それは彼らにとって一つの救いであった。あさましい環境から心をそらし得る唯一のものであったし、彼らを取りまくまっ暗な世界にあって、それが興味をもたらすものでもあったのだ。文学美術科学などというものは、彼らの理解力のおよぶところでない。しかし競馬、フットボール試合、クリケット、ボクシングなどになると彼らにも分かるし、事前には賭《か》けをし、事後になってはいっぱしの批判もする。ときには残酷にわたることもあり、ときにはグロテスクなものもあるが、スポーツを愛好する精神こそは、わがイギリス国民の福祉に寄与してきたところ大きい媒介なのである。この精神こそはわが国民性の根源に深く根ざしているのであって、教育によって高揚され洗練されてゆくのであるが、かの世界中にいとも深い感化をおよぼしたいみじくもたくましいイギリス魂とはべつのものである。この試合を一見せんものと、それぞれ犬をひきつれて集まった粗野なこれらの工人たちの一人一人が、すなわちこの民族を真に代表するものなのである。
雲間から強烈な日光がもれてくるかと思うと、横なぐりの猛雨になるなど、五月だというのに気のくるったような天気だった。モンゴメリイは午前中診療室にたてこもって、せっせと薬の調合にはげんでいた。
「どうもお天気がさだまらないようですね、モンゴメリイさん。」先生がいった。「あなたの田園めぐりは延期したほうがよいと思いますね。」
「お言葉ですけれど、今日ゆかなければなりません。」
「折りあしくポタさんから来てほしいと伝言《ことづけ》がありましてね。家はアングルトンの向こうですがね、これには一日かかると思うのです。そんなにながく診療所に誰もいないとなると、はなはだまずいと思いますがね。」
「すみませんけれど、どうあっても行かなきゃなりませんので。」書生はあとへ引かなかった。
先生はこれ以上説得してみてもむだだと見てとって、ぷりぷりしながら使命の達成にと出かけていった。先生がいなくなると、モンゴメリイはほっとして、二階の自分の部屋へとあがってゆき、ランニングくつ、ボクシング用ズボン、クリケット・サッシュなどを小さなかばんへ詰めこんだ。そして降りてみると、ウイルスン君がきて診療室で待っていた。
「先生はお留守だそうですね?」
「ええ、今日は一日帰ってこないらしいです。」
「どっちにしても大した問題じゃないと思いますね。どうせ晩には耳にはいるでしょうからね。」
「そこが問題なのです。勝ちさえすれば何もいうことはありませんけれどね。構わないから言っちまいますけれど、賞金の百ポンドは私にとって大問題なのです。負けでもしたら、職を棒にふることになりますからね。だってあなたもおっしゃるように、試合のことをどこまでも秘密にはできやしませんもの。」
「平気ですよ。君のことは僕たちで何とかしてあげます。それよりも先生の耳へはいっていないのが不思議でなりませんよ。何しろ君がクロクスリのチャンピョンと試合するという話は、このへんで大評判になっているのですからね。それについてはアーミテージともちゃんと話をつけましたよ。あの男は王者の後援者なのです。それで君が適格であるかどうかに疑念をいだいていたのです。王者のやつがそう言っていましたがね。何しろアーミテージのやつは金をかけていますからね、できれば一もん着おこしたかったのでしょう。しかし僕から、君が試合には資格内にあると知らせてやったので、アーミテージも承知したようなわけでした。向こうじゃぼろい試合を引きうけたと思って、甘く考えているんですよ。」
「とにかくこっちはベストをつくしてやるだけです。」とモンゴメリイはいった。
二人は中食をともにしたが、これからのことが胸にあるから、モンゴメリイにとっては味も分からなかったし、ウイルスンも失なってはならない大金を賭けているのだから、気が気ではなかった。
ウイルスンの二頭だて馬車が玄関に待たせてあった。馬はその耳に青と白との花かざりをつけていたが、これはウイルスン炭坑の団体色なのであって、フットボール競技などのときしばしば見られるところである。門を並木路のほうへはいってゆくと、数百人の坑夫たちが、なかには細君をつれたのも待っていて、大歓声をあげた。書生どのにとっては夢みるような驚くべきことであり、生まれて初めてという経験であったが、男として面白くもありスリルもあって、思わず夢中になるのであった。オープンの馬車にふかぶかと背をもたせかけて、坑夫の家々の戸口や窓からハンカチがひらひらするのを眺めていた。ウイルスンは青と白の花かざりを胸にピンでとめているが、会う人がすべてモンゴメリイを今日の闘士と知っていた。
「幸運を祈っていますぜ! お前さんにもな!」会う男がみんな、路傍から声をかけた。モンゴメリイはなんだか自分が中世の平凡な騎士で、いま果たし合いの場所へと急いでいるような気がしたが、いずれにしてもこんどのことは、いくらか騎士道めいたところがないでもないのだ。こんどの試合は自分のためでもあるが、同じくらいに他人さまのためでもあるのだ。技術が拙なくて、また力がたりなくて敗れるようなことはあるかも知れないが、気の弱さのゆえに負けることがあっては決してならないと、モンゴメリイは心にかたく決するところがあった。
ちょうどそのころ調馬師のフォセットは、大きな車輪をつけた二輪の軽馬車を引きだして、サラブレッドを一頭つけたところであった。むちを一振り、うねりをくれてから、前の席へ乗りこんだ。そのまま馬を走らせてゆくうちに、トマトのような顔をした銘酒屋のパーヴィスに追いついた。晴れ着のボンネットをかぶった細君をつれている。二人もそのまま行列に加わって、七マイルあるクロクスリ街道を行進することになったが、二人の乗っている二頭だての花かざりをつけた馬車は、ぞろぞろと人がついてくる形になって、彗星《すいせい》の核《かく》のような役をなしていた。道中横町という横町からは坑夫たちの乗った二輪荷馬車、わいわいと口はやかましく悪いが、腹は案外悪くない連中を乗せた、うす汚れてみすぼらしく壊れかかった車などが出て来て、つぎつぎと行列に加わった。その列はわいわいがやがやと歓声をあげ、むちを鳴らしながら、半マイルもつづいた。そのあいだを騎馬でとばすもの、半ば走るように徒歩でゆくものなどもあった。そのとき、この付近で年次訓練を実施していたシェフィールドの義勇農騎兵の一団が、近くのあき地から流れこんできて、がやがやと行列に合流し、馬車を護衛してゆく形になった。いちめんに舞いあがる砂ほこりをとおしてモンゴメリイは、きらめくしんちゅうのヘルメット、晴れやかなコート、勇みたつ軍馬のあたま、それにまたがる兵士たちの陽《ひ》にやけた歓喜の顔などを見た。すべてがいよいよ夢みる気持である。
やがてビン型をなした異様な建てものに近づいたが、これぞクロクスリの溶鉱所なのであって、そこからほこりだらけの小路がうねくねと向こうへ続いており、その奥に路をさえぎるように第二の建てものが、もっと大きくひろがっていた。本道はそれとは別にあって、二つの建てものの入り口はそっちにあるのだが、そのあたりは二輪の軽馬車でごったがえしていた。ウイルスンの連中はそこで進行をとめて、ほかのものの通りすぎるのを待ちあわせた。製鉄所の工員たちは歓声をあげ、それぞれの気分のおもむくがままにどなりあげたりして、相手がたの通りすぎるのを見送った。荒っぽいひやかしやからかいの言葉が、鉄のナットか石炭の破片のように、前後に乱れとんだ。「いよいよ連れてきやがったのかよう!」「帰りの棺馬車は用意してきたろうな?」「K《ケー》脚親分の元気さを知ってるかよう?」「やい、やい、今のうちに写真をとっとけ、もとはこんな顔じゃなかったという思い出にな。」「それで試合に出るのかい、半できの医者のくせしやがって!」「試合の終らないうちに、クロクスリのチャンピョンの介抱をうけることになるんだってさ。」
一方の人波がどんどん進行するのに、一方はじっと静止している。この二つの人波は互いにヤジリあった。はじめがやがやとざわめくだけであったその声は、しだいに高まって、どなり声にまで発展してゆき、やがて四頭の馬が、一台の大型四輪遊覧馬車を引いて、黄いろみをおびたピンクのリボンをなびかせながら、ごうごうと騒々しい響きをたててやってきた。御者をつとめる男は、ピンクの造花のバラをかざった白い帽子をかぶっている。そばの一段高い席には一組の男女が掛けており、女は男の腰に手を回していた。モンゴメリイは通りすがりにちらりと見ただけだったが、男のほうは毛皮の運動帽をまぶかにかぶり、大きな粗紡毛の外とうを着て、ピンクの長い毛糸のえりまきをのどに巻いていた。女のほうはあばずれらしく、赤い髪の毛をしてぽっと上気しており、興奮して笑いつづけていた。王者は――この男のほうこそ王者なのだが――通りすがりにじろりとモンゴメリイをにらみつけた。そして威嚇するように、すきまだらけの歯をみせてにたりとした。ごつごつした青いあごに、強情な長いほお、それに冷酷な眼つきなど、つむじ曲りの無情な顔だった。そのうしろにはいっぱいパトロンが――顔をほてらした製鉄工員の親方、各部の先導者、支配人などがつづいた。そのなかの一人は水筒から酒をのんでおり、通りすぎるときモンゴメリイにその水筒を高くあげてみせたが、そのあたりから行列がまばらになったので、ウイルスンの一味はそのあとに流れこんで、りゅう騎兵その他のものを従え行進をおこした。
道は石炭と鉄の探鉱者によってかき乱され、荒された緑の小山のあいだをうねくねとつづいていた。ここらあたり一帯ははらわたをぬかれ、くずものをうずだかく積みあげたのや、からみの山があって、人間の労働がもたらしたおびただしい空洞《くうどう》が地下にあるのを思わせた。道はしだいに左へ曲って登っており、そのさきに大きな建てものが、屋根もなく崩れかかったなりで立って、窓のない四角な穴から光りがもれていた。
「あれがもとのアロウスミス工場、あそこで試合するのですよ。」ウイルスンがいった。「どうです、気分は?」
「ええ、ありがとう。気分はかって経験しないほど最高ですよ。」
「ほほう! 大した度胸ですね。」ウイルスンは早くもそわそわと上気している。「一戦を頼みますよ、どんなことになるにしてもね。あの右に見えるのが事務所です。着がえ所と計量室にとってあるのです。」
小山の中腹からわいわい歓声のあがるなかを、馬車は建てものへと乗りつけた。うねくねした坂道にから馬車や軽馬車の行列が止まっており、荒廃した工場の入口には、群衆がまっ黒に殺到していた。座席券は五シリング、三シリング、一シリング、犬は半額と大きく掲示してあった。総売りあげから経費を差し引いたものは勝者に与えられるとあるから、百ポンドの賭《か》けどころではないのは明らかだ。入口ではわいわいがやがや大変な騒ぎであった。労働者たちは犬を無料入場させたいのだ。とっ組みあいがはじまった。犬はほえたてた。群衆は唯一の出口である壁のせまい割れめのほうへと、殺到していった。
湯気をたてている四頭だての大型馬車は、さけ色の吹きながしをなびかせて、入口のまえにからのまま立っていた。ウイルスンもパーヴィスもフォセットもモンゴメリイも、みんな入場したのだ。
はいってみると、がらんとした四角い大きな部屋で、工場時代には絵やこよみなど張ってあったであろう壁も、小ぎれいに継ぎはぎしてあり、床にはくたびれたリノリュームを敷きつめてあるが、家具といったらベンチが幾つかと、水差しと洗面器をおいた松板のテーブルが一つあるだけで、ガランとしていた。二方のすみをカーテンで仕切って、中央に計量台が一つおいてある。そこへひどく肥えて、さけ色のネクタイにぽちぽち模様のある青いチョッキを着た男が、せかせかと出てきた。牧畜業兼肉屋のアーミテージで、このあたり何マイルにもわたって、思いやりのある男、ライディング地方ではスポーツに対して気前よいパトロンとして知られた男である。
「へえ! つれておいでなすったね?」だみ声でいった。
「つれてきましたよ、手ごろで強いのをな。モンゴメリイ君です。こちらはアーミテージさん。」
「初めてお目にかかります。どうぞよろしく。思いきって言っちまいますがね、われわれクロクスリのものは、君の勇気に賛嘆していますよ、モンゴメリイさん。それにこうなったら公正に試合をして、どっちにひいきするというのではなく、強いほうに勝たせたいとな。クロクスリがわのものの、これは正直な気持ですよ。」
「私もおんなじ気持でいます。」医学書生がいった。
「このうえなく立派《りつぱ》なお言葉です。こんどはどえらい契約をなすったわけだが、大きな契約というものは、なんとかやりとげられるものだ、わしの商売を知っているものなら誰でも証明してくれるようにな。ところで王者は計量の用意ができていますぞ!」
「用意なら私もできています。」
「裸でなければいかん。」
モンゴメリイは、窓のそばに立って外を見つめている背のたかい赤毛の女を気にして、そっと横目で見やった。
「構いませんよ。」ウイルスンがいった。「あのカーテンの後へはいって、着がえしてください。」
モンゴメリイはいわれた通りにした。そしてカーテンの奥から出てきたのを見ると、白いゆるやかなズロースにズックぐつをはき、腰には有名なクリケット・クラブの飾り帯をつけていた。からだは頭から足のさきまで絹のような光沢があり、広い肩から腕へかけての動きにつれて美しい筋肉がさざ波のように躍動していた。手のあげさげにともなって、あるときはくねくねと長い曲線を描き、またあるときは象げの玉のようにふくらんだ。
「どう思うね?」テッド・バートンがセカンドである窓の女に尋ねた。
女は人を小バカにしたように若い運動家を見やって、
「なにがお前さん、あんな若造なんざ、もみくちゃにしてやるといいよ。お前さんなら片手だけで十分だよ。」
「ふん、そんなものかな。いや、それほどでもないか知んねえ。」バートンはにえきらなかった。「天にも地にもおらあ二ポンドきりねえ。そいつをはたいてあの男に賭《か》けちまったんだ。賭《か》けつなぎなんざできやしねえ。だがあの若えの、なかなかりっぱな体格してるな。」
懸賞けん闘者はカーテンの奥から、ずんぐりした恐るべきからだを現わした。胸や腕は怪物のようで、曲った脚でわずかにびっこを引いていた。しかし皮膚にはモンゴメリイの新鮮な清潔さは少しもなく、うす黒くてしみがあり、もじゃもじゃの黒い胸毛のなかに大きなほくろが一つあった。王者のウエイトはその強さとは何の関係もなかった。いやしくも身をボクシング界に投じたものとして、この盛りあがった肩の筋肉や、巨大な腕、くろぐろとハンマのようなこぶしなどは、どんな重量選手にもふさわしいものであったが、そこへゆくと脚腰などはいささかお粗末だった。これに反してモンゴメリイは、ギリシャの彫像に見るように、均整がとれていた。この相違は、一つのスポーツにだけ特に適している人間と、どんなスポーツでも可能な男とのちがいである。二人は奇妙な顔をして互いに見あった。一方はブルドッグであり、他は純血で姿勢のよいテリヤであるが、気合はいずれも十分である。
「ごきげんいかがですか?」
「こんちは。」王者はまたもやニヤリとしたので、歯なみの悪い三本の前歯がちらりと見えた。あとの歯は過去二十年間の試合で完全にたたき抜かれてしまったのだ。いきなり足もとへツバキを飛ばしておいて、「試合にはもってこいの天気だな。」
「すばらしい。」モンゴメリイはみじかく応じた。
「大好きな気持のいいものさ。」ふとっちょの肉屋がぜいぜい声でいった。「いい若ものだ、どっちもな。一等品だ、骨つきといい肉ののりかたといいな。これはいうところがない。」
「向こうがおれをダウンさせたら、神よ栄光を与えたまえ。」王者がいいかけると、
「こいつをこっちがダウンさせたら、神よ助けたまえ。」女が口をだした。
「黙ってろ、あまっこめ!」王者が気みじかにどなった。「おれの話に口出しするてめえは、いってえ何ものだ? おれだって面《つら》の前で手を十字に組むかも知れねえんだぞ。」
女は文句をいわれて気にもとめないで、
「これくらいの男なんぞ、お前さんにあっちゃ造作もないよ、ジョック。あたしなんかに食ってかかるよりも、早いとこマットに眠らせておしまいよ。」
愛人どうしの口げんかはこのとき、えりに毛皮をつけたオーバを着て、ひどく光るシルクハットをかぶった紳士がはいってきたので、中断された。ロンドンのハイドパークから五マイル以内でも、あまり見かけないほどつやつやとよく光るシルクハットである。そいつをひどくあみだにかぶっているから、つばの下面が、ぬけあがった幅ひろい前額、鋭い眼、しわだらけながらもの優しい顔に一種のわくを作っていた。リングの王者が登場するときのような、落ちつきのある静かさのうちに、彼ははいってきた。
「ロンドンからみえたレフェリイのステープルトンさんだ。」ウイルスンがいった。「ステープルトンさん、ごきげんいかがです? 私はいつぞやピカデリのコリンシアン・クラブで大きな試合のあったとき、紹介をうけた者です。」
「あ、それは、」と相手はすぐに握手をしながら、「それがねえ、あんまりたくさんの人を紹介されたものですから、いちいちは覚えきれないのですよ。ウイルスンさん、はあそうでしたか。いや、しばらくでしたなウイルスンさん。ステーションに馬車がなかったものだから、こんなに遅れてしまったのですよ。」
「それはそれは。」アーミテージがいった。「ボクシング界にこんなによく知られたかたに、こんどの公演にご出張がねがえて、われわれ一同感激しとりますわい。」
「なんのなんの。ボクシング界のことなら何はおいてもな。それで準備はよいのですか? 双方とも計量はすませたのですか?」
「いまやっているところでさあ。」
「あ、それはよい具合だから、私も立ちあいましょう。クラグズ君、きみには一度会ったことがあるな。ウイルコクスとの二度目の試合のときだ。あの男はまえに一度負かしたのだが、カムバックしてきた。指針はどうかね――百六十三パウンドか。服の分を二パウンドとるから、正味百六十一パウンドだな。ねえ、そちらのお若いの、そこでちょっとこの台へあがってみせてほしいな。ところが念のためきくが、その着ているものは何かね?」
「アノニミ・クリケット・クラブの正規の服装です。」
「君はそれを着ていい権利があるのかね? あのクラブなら私も会員の一人なのだが。」
「私も入会しています。」
「すると君は、ボクシングにはアマなのですね?」
「そうです。」
「きょうの試合には賞金がかかっているのでしょう?」
「そうです。」
「自分のすることの意味は分かっているのでしょうね? 今をさかいに、君はプロになるのですぞ。今後試合に出るとすれば……」
「今後はいっさい試合をしません。」
「試合がしたくなりさえしなきゃね。」女がここでまたもや口をだしたので、王者はじろりと恐ろしい眼でにらみつけた。
「ところで私が何をしに来たかは、よくお分かりのことと思う。さあ、台へあがってみせたまえ。百五十一パウンドか。風袋を二引くと正味は百四十九パウンドだな。さしひき十二パウンドだが、その半面若さとコンディションの違いというものがある。さて、そうときまったら早速はじめたほうがよい。何しろ私はヘリフィールド七時発の急行で帰りたいのでね。一ラウンド三分、一分間の休みをはさんで二十ラウンド。規則はクイーンズベリ・ルールによる。条件は以上の通りでしたな?」
「はい。」
「よろしい。でははじめよう。」
二人の闘争者はオーバを肩にひっかけていた。一同は、後援者、選手、セカンド、レフェリイ、とうちそろって部屋を出ていった。表へ出てみると巡査が一人待っていた。手帳を手にしている。ロンドンのタクシ馬車の御者でさえ恐れるしろものである。
「みなさんのお名まえをうかがっておかなきゃなりません。万一安寧秩序の乱された場合にそなえましてな。」
「まさか試合を中止させようというのじゃないでしょうな?」アーミテージが憤然として叫んだ。「私はアーミテージです、クロクスリのな。それにこちらはウイルスンさん。二人で責任をもって、すべて公正に事をはこびますよ。」
「それでも上申の必要にそなえて、お名まえだけは控えておくことにします。」巡査は冷たかった。
「だって私の名はよく知ってるはずじゃないか。」
「お前さんが医者か、たとえ判事さんだったとしても、見のがすわけにはゆかんな。法律だからな。何もいうことはない。試合にはグラヴを使うというから、わしは試合場にははいらぬつもりだが、関係者全員の名だけは控えておくつもりさ。サイラス・クラグズ、ロバート・モンゴメリイ、エドワード・バートン、ロンドンからきたジェームズ・ステープルトン。それにサイラス・クラグズのセカンドをつとめるのは?」
「あたしだよ。」女がいった。「何だね、じろじろ見たりして。それがあたしの役目なんだよ。誰にまかされるものかね。名まえはアナスタシアと申しますのさ。」
「姓はクラグズかね?」
「ジョンスン――アナスタシア・ジョンスンと申しますのさ。王者といっしょなら、監獄へでもどこへでも行きますわよ。」
「バカ! 誰が監獄の話なぞしたい?」王者はどなりつけておいて、「さてと、アーミテージさん、あっしゃさっきからうずうずしているんですぜ。」
これで巡査も行列にまきこまれて進み、一同丘のうえをめざしていった。そうなったら彼も最前列の席で法を守護する一方、個人としては三十シリングばかりを七対一の条件でアーミテージ氏に賭《か》けさせてもらえるわけだ。両がわに人がきのざわめく狭い通路を進み、木の階段をプラットフォームへのぼってゆくと、そこには四すみに立てた柱から腰の高さにロープが張ってあった。モンゴメリイは気がついてみたら、勝敗を決するリングのうえに、いつのまにか押しあげられていた。一つのすみの柱のうえには青と白との吹き流しが飾ってあった。肩からオーバをかけたなりでバートンにつれられてそのすみへ行き、彼は木製の粗末な腰かけに腰をおろした。バートンともう一人の男が、いずれも白のセータを着てそばに立つ。リングというのは、一辺二十フィートの四角な場所であった。反対のすみには人相のよくない王者が、赤毛の女と下品な顔つきの男につき添われて待機していた。リングのすみにはどちらにも、金属製の洗面器と水差しとスポンジが備えてあった。
入口をはいってくるとき、わいわいがやがやと、あたりがあまりに騒がしかったので、モンゴメリイはおろおろするばかりで、何が何やらさっぱり分からなかった。しかし今は、レフェリイもうしろでもぞもぞやっていることだし、しばらくの猶予がある。そこで彼は静かにあたりを見まわした。それは一生、思いだすたびに悩まされそうな光景であった。客席には木の腰かけが、遠くなるほど高く、壁まで設けられていた。天井のあるはずのところには何もなくて、灰いろの雲の四角くみえるなかに、幾羽かのカラスがゆっくり飛んでいた。客席は最後列の高いところまで人でうずまり、一張らのは前のほうに、コールテンや綿ビロードを着たのは後列にならんでいた。どの顔も彼のほうを見ている。そしてパイプから吐きだす煙で場内はもうもうとしており、安ものの強いタバコの刺すような悪臭で場内は満たされていた。どこを向いても人と人のあいだには犬の頭が見えた。その犬どもはやかましくほえたてた。こうも多数の人が集まると、誰が誰といちいち判別はできないけれど、それでもモンゴメリイの眼には、ここまで護衛してきてくれた十人の義勇農騎兵が、ひざにおいている真ちゅうのヘルメットの光るのが見えた。リングのすぐそばには五人の新聞記者のいるのが、そのうち三人は地方紙記者で、二人はロンドンからはるばる来ているのだが、見えた。それにしてもかんじんのレフェリイはどこにいるのだろう? 入口ちかくの騒ぎのうずへ巻きこまれてでもいるのだろうか、どこにも姿は見えなかった。
ステープルトン氏は、試合に使用するはずのグラヴを検査したので、選手よりもおくれて入場した。そして人がきのなかの狭い通路をリングへと進んだが、そのときにはすでにウイルスンがわの選手が紳士であるという話がひろまると共に、レフェリイも紳士だとのうわさもぱっと伝えられていた。そこでクロクスリがわには疑惑のかげがひろまっていた。彼らとしてはレフェリイは仲間うちから出したかった。知らぬ者にはやらせたくなかった。彼はリングへゆこうとする道をはばまれてしまった。興奮した群衆が身をもって道をふさいだのだ。そして彼らはステープルトンの鼻さきにこぶしを突きだし、悪態をついた。ある女は耳もとで聞くにたえない悪口をいった。あるものはコウモリで打ってかかった。「ロンドンへ帰りやがれ。手めえみたいなものに用はねえぞ。帰れ、帰れ!」口をそろえてどなりたてた。
ステープルトンは光る帽子をあみだに、はりだした額のもじゃもじゃの眉《まゆ》の下の眼であたりを見わたした。野蛮で何をしでかすか分からない群衆の中心にいるわけだ。そこで彼は時計を出して、文字盤を上に手のうえにおいて、
「今から三分間以内に、試合開始を宣言します。」といった。群衆は怒ってまわりに詰めよった。それでも平気な顔をしているのと、ピカピカ光るシルクハットが気にくわなくて、粗野な工員たちはますますじれてきた。まっ黒にうすよごれた手を振りあげたものもある。しかしあくまでも平然としている男を、いきなりなぐりつけるわけにもゆかなかった。
「二分以内に試合開始を宣言します。」
彼らはいっせいに悪口雑言をあびせかけた。ある男のやにくさい息は、レフェリイの青白い顔に直接かかるほどだった。節くれだったきたないこぶしが、鼻さきでちらちらした。「はっきりいうが、ここは手めえなんかに用のある所じゃねえ。とっとと帰《けえ》れ。」
「あと一分で試合開始の宣言をします。」
あくまで冷静な主張が、統制なく移り気で激しい群衆にうち勝った。
「おい、通してやれ。でないと試合が流れちまうぞ。」
「通してやれ。」
「ビルのバカ野郎、そこを通してやれ。流れちまっちゃ、手めえだっていやだろう。」
「レフェリイに道をあけてやれ。ロンドンからわざわざやってきたのだぞ!」
半ば押され、半ば抱きかかえられるようにして、彼はリングへ押しあげられた。リングの一端にいすが二つあった。一つはレフェリイ用で一つは計時員用である。彼はそれに腰をおろして両手をひざに、帽子をいよいよあみだに、感情に動かされることなく、それでいて厳粛に、責任の重大さを感ずる人らしくに控えていた。
ふとった肉屋のアーミテージがリングにあがって、ふとった両手をあげて指環を光らせながら、静かにしてくれと合図して、
「紳士諸君!」とわめき、漸高音でもう一度、「紳士諸君!」
「ならびに淑女のみなさま!」とだれかがどなった。まったくのところ会場にはかなりの婦人がはいっているのだ。
「話をはじめろ!」また声がかかった。「ポーク・チャップはいくらだ?」うしろのほうで声があった。どっときて、犬もほえだした。アーミテージは両手をあげて、騒ぎを静めるようにゆっくり左右に振った。まるでオーケストラを指揮するようだった。やがてざわめきはどうにかおさまっていった。
「諸君、」また彼ははじめた。「試合はクロクスリの王者といわるるサイラス・クラグズと、ウイルスン炭坑のロバート・モンゴメリイ君とのあいだで行なわれます。試合は百六十二パウンドで行なうはずでありましたが、ただいま計量いたしましたところ、クラグズは百六十一パウンド、モンゴメリイは百四十九パウンドでありました。試合条件は三分間二十ラウンドで、二オンスのグラヴを使います。最後までダウンのないときは、判定により勝負を決定します。レフェリイにはロンドンで名を知られたステープルトンさんを煩わすことになっております。ウイルスンさんも私も、これは双方の後援者を代表するものでありまするが、このステープルトンさんには深き信頼をよせるものであります。どうか以上のとりきめに、諸君が異議なくご承服をたまわらんことをお願いいたすものであります。」
こういっておいてアーミテージは、二人の闘者にそれぞれ手を振ってみせた。
「モンゴメリイ君――クラグズ君。」いちいち手をあげながらアーミテージは紹介した。
群衆はぴたりとざわめきをとめた。犬でさえほえるのをやめた。大きな会場には一人も人がいなくなったように思われた。小さな白いグラヴをつけて、二人の男はさっきから立ちあがっている。おのおのコーナから進み出て握手をかわした。モンゴメリイは厳粛な顔をしており、クラグズは微笑を浮かべていた。そのまま二人は分かれて位置についた。群衆は息をのんだ――千人にあまる人たちが興奮の息を大きく引いたのだ。レフェリイはいすを足でうしろへ押しやっておき、むっつりと二人を見くらべた。
闘いは力対活動力のそれであった。そのことは初めから明らかであったのだ。王者はのっそりとK《ケー》脚のうえに立っていた。これが恐るべき脚なのだ。この男がノックダウンされるとは、夢にも思われない。この脚を中心に彼は異常な早さで回転することができる。そのかわり前進や後退とくるとそうはゆかない。しかし体格はいかにも大きくて、厚みなんか書生どのの比ではなく、まっ黒な大きい顔なぞいかにも決然としており、威嚇的だから、それだけでウイルスンがわの連中はひそかに気力を失なった。そのなかにあって、ただ一つだけ元気のなくならない心臓があった。ほかならぬロバート・モンゴメリイのそれである。
この場におよんで、おどおどする気持なんかは完全に振りきっているのでもあろう。ここに決定的なものがある。この人相のわるい、ハーキュリーズ(ギリシャ神話の大力無双の英雄―訳者)を不具にしたような男、いわくある前歴をもつこの男を負かしてやるのだ。彼はこれから始まる活動のことを思ってからだがほてってきた。全身の神経が躍動した。彼は相手に面して小さく出たり引いたりのステップをふみ、手さぐり気味にあるいは左に、あるいは右に足を踏みだした。そのあいだクラグズは、悪意あるにぶい眼をむけたまま、悪いほうの足を中心にゆっくり左右に回りながら、左手を半ばのばしたまま、右手は低く構えていた。モンゴメリイはまず左を出した。また左を出した。いずれも軽くではあったけれど、的を打っていた。また手を出してみたが、こんどは王者もカウンタの用意をしていた。モンゴメリイはす早く身を引いたからよかったが、そうでなければ自分のよりも強い一打をうけるところであった。女セカンドのアナスタシアが黄いろい声をはりあげて励ました。すると情夫はライトを大きく振った。モンゴメリイはすばやくダックしてのがれた。つぎの瞬間二人はクリンチになっていた。
「ブレーク! ブレーク!」レフェリイが命じた。
王者が別かれぎわにアッパーを振ったので、モンゴメリイは一発くらった。そのときゴングがなった。活気のある第一ラウンドであった。観客席は意見を述べたりかっさいしたり、ざわめいた。モンゴメリイはいきいきと元気であったが、王者のほうは毛だらけの胸を出したり引っこめたり、息が少し荒かった。アナスタシアがその胸のまえでタオルをはためかすし、べつの男は頭に海綿をあてがった。「ねえさん、ごくろう!」客席から声がかかった。
二人は再び向かいあった。王者はものすごく用心ぶかいし、モンゴメリイは小ねこのように敏しょうであった。王者がふいにラッシュしてきた。不自由な脚を引きずるようにしてだが、それにしては案外す早かった。書生どのはサイドにステップしてそれを避けた。王者は攻撃を中止して、にやりとして頭をかしげた。それから彼は片手をあげてモンゴメリイを招くようにした。モンゴメリイは踏みこんでレフトを振ったが、そのとたんに相手のライトのカウンタをあばらにしたたか受けた。そのためモンゴメリイはちょっとよろめいた。そのため王者はここぞとばかり打ちかかってきたが、モンゴメリイはそれ以上の早さで防衛して難をさけた。そのうちにゴングがなった。平凡なラウンドであったが、判定は王者のほうに利があった。
「王者にかかっちゃ問題じゃないね。」製鉄工が隣の男にささやいた。
「でもあの若いのもなかなかやるぜ。まあ見ていようよ。フットワークがすばらしいからね。」
「そんなこというけれど、王者のパンチはすごいよ。いまにすばらしいパンチを一発くらわせるよ。」
二人はまた向かいあった。どちらも顔を水と汗で光らせている。モンゴメリイは直ちに行動をおこし、ライトの一撃をしたたかに相手の前額にくらわせた。炭坑夫のなかからはどっと歓声がおこった。「静かに!」レフェリイから言葉がかかった。モンゴメリイはカウンタをよけておいて、レフトを一発みまった。また歓声がおこり、レフェリイは憤然として、「試合中の発言は禁じます。」とにらみつけた。
「いまに見ろ!」王者がどなると、レフェリイは怒って、
「試合中にものをいうやつがあるか! ファイト!」と命じた。
モンゴメリイが突進して、よいところを口に一発あびせたので、王者はよろよろと自分のコーナへ後退して、怒った熊のような顔をした。このラウンドは彼によいところは少しもなかった。
「どうだい、七対一で?」銘酒屋のパーヴィスがわめいた。「何なら六対一でもいいや。」
誰も賭《か》けるというものはなかった。
「じゃ五対一だ!」こんどは賭け手が数人あらわれた。パーヴィスはぼろぼろの手帳へそれらを書きこんだ。
モンゴメリイはうれしくなった。掛けたなりで両脚をひろげて前へつきだし、柱へもたれて、片手をグラヴごとロープにかけていた。ラウンドごとにこうして一分間休むのだが、それが何ともいえずよい気持だった。この調子で損害をうけることなくラウンドをすすめられたら、二十ラウンドをまたずしてこの男を退けることができるにちがいないと思われた。彼はせっかくの力が何の効果もあらわさないほど、のろのろしていた。「勝ったぞ! この勝負はこっちのものだ。」テッド・バートンが耳のそばでささやいた。「慎重にやれ。チャンスを見のがすな。もう勝ったようなものだからな。」
しかし王者はずるく巧妙だった。あの不具なからだで幾たびとなく闘ってきたので、それをいかに使いこなすべきかをよく知っていた。用心ぶかくゆっくりと彼はモンゴメリイを中心に回り、一歩、つづいて一歩と踏みこんでいった。モンゴメリイは止むなく自分のコーナへさがっていった。とつぜん王者の顔に勝ちほこった色があらわれ、にぶい眼がきらりと光った。王者が襲いかかってきた。モンゴメリイは横へとびのいたが、そこにはロープがあった。王者はおそるべきアッパーカットを食わせた。書生はそれを半ばブロックしておいて、反対がわへステップした。しかしそこにも厳重なロープがあった。モンゴメリイはロープのすみへ追いつめられてしまったのだ。王者はつぎの一撃をはなってきた。何ともいえず汚ない一撃であったが、それでもまだ体力をたくわえていることを語るものではあった。モンゴメリイはダックしたが、完全にかわすことはできず、左のジャブをうけた。やむなく王者にしがみついていった。「ブレーク! ブレーク!」レフェリイから声がかかった。手をはなして別かれようとするところを、耳に一発スイングをくらった。このラウンドはいかれてしまった。クロクスリの連中は喜んで大きな声をあげた。
「諸君、この騒ぎはなんですか?」ステープルトンが大きな声でいった。「私はおとなしいクラブでの司会にはなれていますが、くま園のそれにはなれません。」額の大きなところへシルクハットをあみだに被ったこの小男は、これだけ集まった工員たちを威圧してしまった。まるで悪童たちの校長のようなものだった。彼はあたりを見まわしたが、誰も視線をあわせようとはしなかった。
王者が腰をおろすと、アナスタシアがキスした。「ねえさん、えらいぞ。しかし一度でいいや。」観衆がどっとくるうちに、王者は怒って、タオルをはためかす彼女にグラヴの手を振りあげてみせた。モンゴメリイは疲れをおぼえ、しゃくにさわったが、意気が消沈するほどではなかった。以後は気をつけて、危険をおかすまいと思った。
それから三ラウンド、得点はほぼ五分五分であった。モンゴメリイのは手が早いし、王者の打撃はたまにはいると強力であったのだ。今までの経験のおかげで、モンゴメリイはつとめてオープンへまわり、つとめてコーナへ追いつめられないようにした。王者はどうかすると、彼を広いロープに押しつめたが、そのたびにモンゴメリイは横に逃げるか、クリンチしてすぐはなれた。「ブレーク! ブレーク!」というレフェリイの単調な声は、ゴム底ぐつの軽い足音にまじって聞こえ、そのあいだにときどきどさりと鈍い打撃音が、疲れた二人の荒い息づかいのなかに聞こえた。
第九ラウンドは二人ともまだかなり好条件で闘った。モンゴメリイはコーナで強くうたれてから、耳鳴りがしつづけているし、一方の手はおや指が脱臼《だつきゆう》したらしく、ひどく痛んだ。王者のほうはこれといって弱った様子はなかったが、呼吸づかいだけは荒く乱れており、レフェリイの手にしている紙片には、書生のほうにずっとよい点が与えられていた。しかし王者の一撃はモンゴメリイの三打にも匹敵した。これでもしグラヴなしの試合だったら、彼は三ラウンドともたないなと思った。この男の猛打にくらべたら、自分がアマチュアとして練習してきた打撃なんかは、ねこのちょっかいみたいなものだった。
第十ラウンドになった。これで半分まで進んだわけだ。賭《か》けのほうは三対一まで相場がさがってきた。ウイルスン炭坑がわの闘士が期待以上に善戦してきたからである。しかしこの老闘士のリング上の技法とか、耐久力を知っているものは、彼が勝利をにぎるのはまだ容易でないのを知っていた。
「気をつけろよ。」リングの中央へ送りだしながら、バートンは耳もとでささやいた。「油断するな。あいつペテンにかけるかも知れないからな。」
モンゴメリイは相手が疲れてきたなと思った。そんな気配がみえたような気がする。疲れてものうげであり、左右の手もいくらかさがってきた。これに反して彼の若さとコンディションはいよいよ効果を発揮してくるような気がする。彼はいきなり踏みこんであざやかなレフトを一発おみまい申した。王者のカウンタにはいつものさえがなかった。またモンゴメリイは一発きめておいて、早いとこさがった。つづいてこんどはライトを打つと、王者は下へはねのけるようにしたが、うまく目標に命中した。
「低い! 低いぞ! 反則だ! きたないぞ!」客席から口口に声がかかった。
レフェリイは冷笑的な眼でゆっくり客席を見わたして、「この建てものはレフェリイでぎっしり詰まっているようですな。」といった。
お客はどっときて、拍手を送るものもあった。しかしほめられても怒られても、彼には少しもひびかなかった。
「拍手はいけませんな。ここは劇場ではありません!」レフェリイは大きな声でいった。
モンゴメリイは大いにうれしかった。敵は明らかにだいぶ弱ってきた。だからだいぶ点をかせいだし、今もリードをつづけている。この調子だと日の照るうちに勝負をつけてしまえそうだ。王者のやつはまるで混乱している。モンゴメリイは踏みだして王者の青いあごに一撃を加え、カウンタを受けることなく引きさがった。すると王者はとつぜん、両手をさげて自分のももをさすりはじめた。ははあ、分かったぞ! ももの筋肉がひきつれたのだ。
「今だ! 踏みこめ!」テッド・バートンがわめいた。
モンゴメリイはいきなり飛びだしていった。だがつぎの瞬間には首の骨が折れたような気がして、リングの中央に半ば失神して倒れていた。
このラウンドは、王者の有名な右アッパーカットの届く距離内に彼をおびきこもうとする術策に終始した。疲れはてた気のない様子も、ももの引きつれたような様子も、すべてこのためでこそあったのだ。それと見て張りきって踏みこんだモンゴメリイは、血も肉も堪え得られないような打撃に身をさらすことになった。百六十一パウンドの王者が鉄腕に力こめて打ちだす一撃を、モンゴメリイはまともにあごへ受けたのである。くるりとからだが一回転するように、彼はへなへなとその場へ倒れた。観客席からはうめき声ともため息とも、わけの分らぬ嘆声がおこった。彼らは口あんぐりと、ぴくぴくのたうちまわる姿を注視した。
「さがって! うしろへさがって!」起きあがったら止めの一撃を加えようと、王者がそのうえにのしかかるように立っているので、レフェリイは鋭く命じた。
「さがって! いますぐにだ、クラグズ!」また命令がでた。
王者はいやいや両腕をさげて、倒れている相手からいまいましそうな眼をはなさないで、ロープまでさがった。計時員が秒よみをした。十かぞえるまでに起きあがれなかったら、モンゴメリイの負けが決定するのだ。バートンは両手をもみ合せながら、気が気ではなく自分のコーナを踊りあるいた。
夢のように――恐ろしい夢だが――書生は計時員の声を耳にしていた。――スリー――フォア――ファイヴ――彼は手をついて半身を起こした――シックス――セヴン――彼はひざまで起きた。胸がむかついて、頭はふわふわするけれど、起きあがろうという決心だけはあった。エイト――モンゴメリイは起ちあがった。すると王者が猛然と襲いかかって、両手で打ってかかった。これを見ていたお客は息をのみ、試合はあわれな幕ぎれになるのではないかとはらはらした。
しかし人間の頭脳というものは、妙に無意識のうちに働くものだ。意識することなく、また何らの努力をすることなくして、この打ちひしがれ、半ば知覚を失なったよろよろの男は、自分を救う途の一つだけあることを思いだしたのである。ほかでもない、王者は眼が悪いといったせがれの言葉である。外見では分からないけれど、たしか左の眼が見えないといったと思う。そこで彼は左へ左へと回りこんでいったが、肩に強い一撃をくっていたので、半ばふらふらになりながらであった。
「それ! 倒しちまえ!」女がわめいた。
「黙って!」レフェリイが命じた。
モンゴメリイはどこまでも左へ左へと回っていった。しかし王者は手にあわないほど敏速であった。彼は腕を振りまわし、ついにブレークしようとするモンゴメリイの顔面をしたたかまともに打った。そのためモンゴメリイはひざが怪しくなり、うめき声をたてて倒れた。こんどはしかし失神することなく、やられたと思った。激しい苦痛のうちに手さぐりしてみて彼は、とても自力では起ちあがれそうもないと思った。多衆のざわめきのなかに、計時員が秒読みをしているのがおぼろに聞こえた。
「ワン――トウ――スリー――フォア――ファイヴ――シックス――」
「タイム!」レフェリイがいった。時間ぎれである。
抑圧されていた観衆の感情はこれで一時に解放された。クロクスリがわは失望のふかいため息をもらすし、ウイルスンがわは喜びのあまり、みんな起ちあがって歓声をあげた。まだチャンスは残っているわけだ。さっきはもう四つ数えられたら、泣いても笑ってもカウント・アウトになるところであった。しかし今は一分間の休憩時間があるのだ。そのあいだに快復すればよい。レフェリイは顔いろをやわらげ、眼に笑いをふくんであたりを見わたした。彼はこの種の荒っぽい試合が、粗野な英雄の養成所がだい好きなのであり、あなやのせとぎわに、自分が救いの手をさしのべてやれたのがうれしくてならないのだ。いすと帽子を極端にかたむけており、計時員と顔を見あわせてニヤリとした。テッド・バートンともう一人のセカンドとはリングに躍りだして、モンゴメリイのひざと腰の下に手を入れ、腰かけのところへ担ぎかえった。彼はぐんなりと頭を肩につけていたけれど、水を一ぱい浴せられると、ぞくりとしてあたりを見まわしだした。
「大丈夫だぞ!」まわりから声がかかった。「えらい! えらい! そんじょそこらの若えもんとは違うぞ!」
バートンはブランディを少し口のなかへ注ぎこんだ。するとモンゴメリイの頭にかかっていたもやが少しずつ晴れてきて、自分がいまどこにいるのか、これから何をなさねばならぬかが分かってきた。しかしまだまだ気力はなく、あと一ラウンドとは保《も》ちそうもないと思われた。
「セコンド・アウト!」レフェリイの声がかかり、つづいてゴングが鳴った。
クロクスリの王者は勢いよくコーナから躍りだした。
「接近するな! 少し気楽にやれ!」バートンがいったので、モンゴメリイは再びこの男と対決するため、ゆっくり出ていった。
モンゴメリイは二つの教訓を得ていた。一つはコーナへ追いつめられたとき得たものであり、もう一つはつりこまれてこの強敵とつい乱闘を演じてしまったことへの反省である。これからは油断なく慎重にやろうと決心した。もう一発いいとこを食ったら、おしまいである。そんな危険をおかしてはならないと思った。王者はこの好機を逸してはならないと心中に期するものの如くに、左右の乱打をあびせてきた。しかしモンゴメリイには若さと敏活さがあり、それにつかまりはしなかった。それには脚もしっかりしてきたし、頭もすっかり回復してきた。見るからに勇敢な光景であった。戦艦が圧倒的な舷側《げんそく》いっぱいにフリゲート艦へのしかかってゆくと、フリゲートのほうは巧みに行動して、それをかわしてゆくのである。王者は身につけたあらゆる技巧を応用する。偽装したすきをみせて出撃をさそうかと思えば、たちまち猛烈な勢いでロープへ追いつめる。かくしてそれから三ラウンドというもの、何とかして捕えんものと、いろいろと技巧をろうするうち、しだいに疲れてきた。そのあいだモンゴメリイは、刻々自分が力を回復してくるのをおぼえた。アッパーカットでうけた背骨への衝撃も、いまはほとんど残っていない。ただ首の骨にわずかの異常を感じるのみだ。ダウンをくったつぎのラウンドは、もっぱら防禦に専念した。王者の火のような猛撃をかわすことができさえしたらよいとした。第二ラウンドには、ときどき軽いカウンタをはなった。第三ラウンドになると、相手のすきをみては一撃を加え、ニタリとして引きさがった。ラウンドの終るごとに声援者たちは歓声をあげた。敵がわである製鉄工員たちまでが、元気よく声援するようになった。真のスポーツがかもしだす没我精神からである。大半は世俗的であり、想像力のゆたかでない連中である彼らには、この姿態美しき若いアポロが、破局から立ちなおり、意識をとり戻してからは自分に与えられた仕事の何であるかをさとって奮闘するのは、かつて見たことのない大事件だったのである。
生まれつき気むずかしい王者は、めざす打倒が容易でないとみて、ますます凶悪なあせりが出てきた。三ラウンド前には、勝利は手のうちにあったのだ。今では初めからやりなおさなければならない。この男はラウンドごとにかえって力を回復してくる。第十五ラウンドには手足もしゃんとするし、呼吸もおだやかになった。しかし用心ぶかいアナスタシアはしめたと思うものを発見した。
「さっきあばらを打ったのがこたえたよ、ジョック。」小さい声でいった。「でなきゃブランディをあんなにがぶ飲みするものかね。いまだよ。踏みこんで打てば倒せるよ。」
モンゴメリイはとつぜんバートンの手からフラスコをもぎとって、大きく一杯口へうつした。少し顔を赤くし、何かを意図する様子で、そのためにレフェリイが眼つきを鋭く凝視したが、第十六ラウンドを闘うべく立ちあがった。
「相手はカモだぞ!」銘酒屋が決意のこもった顔をみて声をかけた。
「あしらっとけ! むきになるな!」製鉄所がわが口口にどなった。
すると自分たちのヒイキするほうがよりタフであり強力で優位をたもっていると知って、歓喜のざわめきが起こった。
じっさいどちらにも、さして強いパンチは出ていなかった。どちらからもグラヴは出るのだが、これという決定打はなかった。王者の片眼はひどく充血してきた。モンゴメリイはボディに二三の青あざのようなマークをこさえ、顔いろはやや青ざめて、ブランディのためできた両ほおの赤みだけが目だっていた。王者と対立してからだを前後左右に少しだけゆすぶっていた。するとグラヴの重みをたえがたくでも感じたのか、王者は両手をさげた。いうまでもなく王者は消耗しつくして、すっかり弱っているのだ。ここで一発くらわせたら、致命的であるのはいうまでもない。いいとこへ一発命中したら、それに耐えるだけの余力のないはいうまでもなく、巨人を倒すのにこんな好機がまたとあるだろうか。ここがこの試合のヤマだろう。このラウンドで勝敗の決着をつけなければならない。「あしらっとけ! むきになるな!」製鉄工員たちは口口に叫んだ。レフェリイがにらみつけたくらいでは静まらなかった。
ついにモンゴメリイに好機がきた。今までにこの経験ふかい敵手から、いろんなことを学びとっていた。いまここで襲いかかって、試合をものにしてはどこがいけないのだ? 疲れたことも疲れているけれど、見せかけほどでもないのだ。さっきのブランディが余力をふるい起こしてくれた。もはや敗退するしかなく、よろめいていたものが、いまや血わき肉おどるの思いだった。進退ともにあっぱれであった。王者のほうは相手を組みしやすしと見くびっていた。このへんでカタをつけてしまおうと、見ぐるしくも突進して出た。そしてレフト、ライトとしゃにむに襲いかかってモンゴメリイをロープに追いつめていった。
だがモンゴメリイはむざむざとその殺人的アッパーカットをくらうほど気持をとり乱してはいなかった。ガードをかたくフットワークを生かし、ときにはす早くダックして強打をさけた。それでも彼は、どうにもならぬまで打ちこまれたふりをしていた。雨あられと放った自分の強打のため疲れていた王者は、相手を見くびる気持もあり、ほんのちょっとではあるが両手をさげた。その瞬間を失なわず、モンゴメリイのライトの強打が命中した。
みごとな一撃であった。ずばりとあざやかに、十分腰のはいった一撃であった。ねらった通り、青くざらざらしたチンにしたたか命中した。こんな強打をうけては、なま身のものが堪えられるわけがない。王者はくるりと回転して腹ばいに伏し、戸でも倒れたような大きな音をたてた。同時に観客席からはわめき声がおこった。どんなレフェリイをつれてきても、あれがとめられるものではあるまい。つづいて王者は仰むけにもがいて、ひざを少し引いた。大きな胸がはげしくあえいでいる。手足をぴくぴく動かし、もがいているが、起きあがることはできない。一二度両足でリングを掻くようにしたが、何にもならない。完全にのびてしまったのだ。「エイト――ナイン――テン!」計時員の声が消えると、数千の観衆がどよめき、耳をろうするばかりの拍手がおこり、クロクスリの王者はもはや王者でも何でもないことを物語った。
モンゴメリイは半ばぼう然としてその場に立ったなりで、無感覚に倒れている巨体を見おろしていた。彼は試合が終ったのだということさえ気がつかないように、レフェリイが片手をあげて歩みよってくるのがぼんやり見えた。八方のリングの下から彼の名を呼ぶ声が聞こえた。すると誰か自分のほうへ駆けよってくる者のあるのに気がついた。まっ赤な顔をして赤い頭髪をなびかせた女の姿がちらりと眼にはいったと思ったら、素手のこぶしで眼のあいだを一撃されたので、のびている敵手のそばへ仰向けに倒れてしまった。一方、十人あまりの後援者たちがすぐに飛びだして、狂気のようになっているアナスタシアをとり押さえて、なだめにかかった。レフェリイの怒ってどなりつけるのと、女の金切り声、観衆のわめき声が聞こえた。それから張りすぎたバンジョウの糸の切れるような気がして、それきり底知れぬ深みにでも落ちてゆくように、失神してしまったのである。
着がえをするのも夢うつつ、王者が勇猛な顔でにやりと、三本だけ残っている前歯を見せているのもぼんやり。しかし彼は心よくモンゴメリイの手を握って、
「こうしてお前《めえ》と握手することになろうたあ、さっきまでは考えてもいなかったぜ。といってお前《めえ》を悪く思っているわけじゃねえ。何しろおれをダウンさせたのは、すばらしいパンチだったぜ。八十九年にビリ・エドワーズとの二度目の試合をやったとき以来のことだ。これでお前《めえ》もこの道で身をたてる気にもなるだろうが、もしそうなら、トレーナがいる。トレーナだったらこのおれくれえ役にたつのはいねえ。それともずっと旧式にいって、このおれと素手でやってみるというか。いずれにしても製鉄所あてに手紙をくれれば、いつでも連絡はつくぜ。」
しかしモンゴメリイはその種の野心はないからと断った。自分の取り分――百九十ポンドだった――を入れたズックのかばんを渡された。そのなかから彼は十ポンドだけ王者に渡してやったが、王者としてもべつに入場料の何分かを得ているのだ。それから彼はウイルスン青年につき添われ、反対がわにはパーヴィス、荷物をもったフォセットをしたがえ、勝ちほこって待たせてあった馬車までゆき、そこから七マイルのあいだ、両がわにいけがきのように並んだファンの歓呼をあびとおしで、出発点まで帰っていった。
「こんなことは生まれて初めてだ。何しろすばらしい!」この日の大事件で有頂天になってウイルスン青年は叫んだ。「バーンズリのさきにうぬぼれの強いやつがいる。あいつと一戦やってみませんか。そして君の力をみせてやるのです。われわれは有りったけ賭《か》けようじゃないか、パーヴィス君。賭《か》け手にことは欠かせないぜ。」
「あの体重じゃ、あいつに勝ち目はないね。」銘酒屋がいった。
「おれもそう思う。」フォセットがいった。「何しろミドル・ウエイトの世界チャンピョンだなんていったって、この人のいるあいだは、大きなこといってもらいたくないね。」
だがモンゴメリイはだまされなかった。
「いや、私には仕事がありますから……」
「ほう、いったい何です?」
「この金で医学の学位をとるのです。」
「医者なんて世間には掃きすてるほどいますが、このライディング地方でクロクスリの王者をリングに眠らせたのは君ばかりですからね。とはいうものの、自分のことをいちばんよく知っているのは君自身でしょう。医者になったらぜひこの地方へやって来たまえ。ウイルスン炭坑がいつでも両手をひろげて待っていますよ。」
モンゴメリイはあちこち回り路をさせられて診療所へ帰ってきた。入口のそばには馬がつないであり、さかんに湯気をたてていた。オールデカ先生が今しがた出さきから帰ってきたのだ。留守中に患者が何人もきたということで、先生はごきげんが悪かった。
「とにかく帰ってきたのだから、私としても喜ぶべきでしょうがね、モンゴメリイさん。」と先生はどなりつけた。「こんどから休みをとるには、こんな忙しい時は避けてもらいたいものですよ。」
「ご迷惑をかけて、すみませんでした。」
「そうですとも。ひどく迷惑でしたよ。」ここで初めて書生のほうを見て、「おや、モンゴメリイさん、その左の眼はどうしたのです?」
それはアナスタシアが抗議の一撃を加えたあとである。
モンゴメリイは笑って、「これですか。なんでもありませんよ。」
「それにあごにもあざができていますよ。私の代理ともあろうものが、そういう見ぐるしい形《なり》で患家を回られては困りますな。どうしてそんな目にあったのですか?」
「ご存じかと思いますが、きょうはクロクスリでグラヴをはめての試合がありましたのでね。」
「それであなたがその野蛮な連中のなかに巻きこまれたというのですか?」
「まあね。」
「暴行をはたらいたのは何者です?」
「闘士の一人です。」
「どっちがわの?」
「クロクスリの王者のほうです。」
「ほう! きっと口出しでもしたのでしょう。」
「じつを申せば、少し手を出しました。」
「モンゴメリイさん、私のような業務に従事しているものは、この小さな社会の最高にしてもっとも進歩的な分子と密接の関連があるのでして、決して……」
そのときコルネット奏者の主調音をさがし求めるさわがしい音が二人の耳をふさぎ、ウイルスン炭坑のブラス・バンドが診察室の窓のそとで「見よ世紀の征服者が」の曲をいっせいに奏しはじめた。旗が窓ガラスのそとをなびき、坑夫たちのいっせいにどら声をあげるのが聞こえた。
「いったいこれは何ごとです?」怒ったオールデカ先生は詰問した。
「私にできるたった一つの方法で、教育をうけるのに必要なお金をかせいだのです。私の責任としてご注意申しあげますが、私は大学へ帰ろうと思います。すぐにも私の後任をお定めになったがよろしいでしょう。」
ファルコンブリッジ公
リングにつながる伝説
イギリスのチャンピョンであったトム・クリブは、強敵モリノウとの有名な二試合を一期《ご》にリング生活を引退し、ロンドンのヘイマーケット区のパントン街の角にあるユニオン・アームズという宿屋をかねた居酒屋へ落ちつくことになった。この宿屋のバーの奥に緑のラシャ張りのドアがあって、開けると赤い敷きもののある大きな客間で、赤い壁紙をはりめぐらせたなかに、スポーツ関係の多くの印刷物、多数のカップ、ベルトなぞが飾ってあった。みんな有名な懸賞ボクサが輝かしい経歴のあいだにかち得たものである。当時の都人士はこの特別室へ集まってトム・クリブのふるまうブドー酒をやりながら、過去の試合を論じあったり、現在のニューズのくるのを待ったり、将来の新しい試合について画策しあったりしたものである。さらにまた、ここには彼の仲間のボクサたちも、とくに貧窮しているのや悩みのあるのが、集まってきた。チャンピョンのふとっ腹は定評となっているところであって、いやしくも同職業のものなら、励ましの言葉や十分の食事のおかげで窮状を打開できるかも知れないのだから、この家に背を向けるものはないのである。
問題の日の朝――一八一八年八月二十五日だが――この有名な客間には二人の人物しかいなかった。一人はクリブその人で、七年まえに最後の試合にそなえてトレーニングをしていた時代、バークレイ大尉に従ってハイランド地方の道路を一日に四十マイルも走っていたころにくらべたら、すっかり肉がついていた。長身で肩幅もひろく、胸の厚い彼は二百八十パウンド(約一二六キロ―訳者)がほんのわずか切れるだけだったが、強く陰気な顔にライオンの眼をもったところは、居酒屋の亭主ぐらしをして太ったいまもなお、懸賞ボクサ時代の精神は失なわれていないのを語っていた。まだ十一時まえだというのに、眼のまえのテーブルにはにがビールの大ジョッキをおいて、彼は圧搾した黒タバコを切りくだいて、その破片をつののように硬い指でしきりにもんで粉にしていた。あれほど死物狂いの試合をしてきた男とも思われず、現在の彼は思いやりある品行方正な家長であり、法律をよく守り、やさしく仕合せに、家業の繁昌している男なのである。
だが相手をしているのはどこから見ても、そういう安易な境遇にあるわけではなく、顔つきもまるきり違っていた。チャンピョンよりも十五くらい年少であろうか、背も高くて体格もよく、傲然《ごうぜん》とかまえた顔つきや美しく張った肩などは、全盛時代のクリブがそれで名を売った男性美の何ものかを思わすものがあった。この男の顔つきを見たものなら、一見してそれが職業的闘士であるのを見あやまるものはなく、気まぐれな判定者でも、身長が六フィート(約一八二センチ―訳者)あり、筋肉質の体重百八十パウンド(約八十一キロ―訳者)、均整のとれた体格を見ては、よくぞこの世界へ身を投じたものと思わぬはなく、大胆な後援者が得られたら、まだまだ上達し強くなることもたしかと見るであろう。トム・ウィンタ――あるいは自称のとおりスプリングでもよいが(ウィンタは冬をスプリングは春を意味する―訳者)――はヘリフォドシャの故郷にかなりの成績をのこして上京してきた。すなわちロンドンから来たヘヴィ・ウエイトの強敵に二度まで勝利をおさめたのであるが、三週間まえに有名なペインタという男に負けて、それがこの若者の元気をひどくくじいたのである。
「元気をだせ。」チャンピョンはもじゃもじゃの眉の下から、しょんぼりした相手を見やって、「何といっても、お前はむずかしく考えすぎるよ。」
若ものはうーんといったきり、何とも答えなかった。
「負けたものはお前のまえにいくらもある。それでものちにはチャンピョンになっている。現にこのおれがそうだ。ちゃんと選手権者のタイトルを持っている。おれは一八〇五年にジョージ・ニコルズとブロードウオータ・ルールで試合をして負けたではないか? それからどうなったか? おれは闘いつづけた。そして今日《こんにち》を築きあげたのだ。大男のブラックがアメリカから来たとき、相手に選ばれたのはもはやジョージ・ニコルズではなかった。だからわしは言うのだが、何はおいても、試合をつづけることだ。お前こそおれの後をつげるものだと思う。」
トム・スプリングはかぶりを振って、「とんでもない! 試合をしてみたって、とてもそこまではゆけやしませんよ、おとうちゃん。」
「おれだってタイトルをいつまでも保持できるものではない。理屈ではないのだ。来年になったらファイヴズ・コーツでみなを前に譲りわたそうと思う。それにはお前に渡してやろうと思うのだ。トレーニングで体重を減量するたって、それもできやしねえ。おれの時代は去ったのだ。」
「そんなこと私の口からはいえませんよ。おとうちゃんが引くと言いだすまではね。でもそうなったら、それはそのときの事にしましょうよ。」
「とにかくここで一息いれて、機会のくるのを待つんだな。それまではこの家にいつでもお前のため寝床とパンを用意しておくからな。」
スプリングは握りこぶしでひざを打って、「わかりました。ファウンソープから出てきたときから、いつも私はおとうちゃんのような気がしていたんです。」
「誰が最後の勝利者になるかくらい、おれにだって分かるからな。」
「へッ、りっぱな最後の勝利者でさあ! ネッド・ペインタに四十ラウンド試合で打ちのめされたんですぜ。」
「はじめはお前のほうが打ち勝っていた。」
「畜生! もう一度やって打ちのめしてくれなくちゃ!」
「それがよかろう。ジョージ・ニコルズは二度とおれに機会を与えてくれまいからな。何もかも知ってやがるのだ。ブリストルに肉屋の店を買って、ずっとうまくやってやがる。」
「私も何とかしてもう一度ペインタとやりますよ。でも文なしなんです。後援者が私を信頼しなくなっちまったんです。おとうちゃんという人がいなかったら、私は犬小舎《ごや》へでもはいるしかなかったんです。」
「無一文になったのかね?」
「一回の食事代すらありません。キングストンのリングで何もかも、名声まではぎとられてしまいました。こうなったら、どこかで試合をするしか生きてゆく途はありませんが、誰が後援者になってくれるというのです?」
「そんなことを言うもんじゃない。後援者はかならずある。ネッド・ペインタというものがあるにしても、とにかくお前は筆頭にランクされているのだ。だが男が金を取るには何も試合をすると限ったことはない。けさもある上流婦人がここへ見えてな。といって何もそんな赤い顔をすることはない。飛びきり完全な上流婦人でな、公式馬車には飾りもの(貴族であることを意味す―訳者)がついていた。それがお前に用があるというのだ。」
「へえ! 私に? 上流婦人がですか?」若いボクサ《ピユジリスト》は驚いて思わず立ちあがった。眼には恐怖のいろさえ現われている。「まさかそれが――」
「冗談でもからかっているのでもない。その通りうけとってくれたらよいのだ。」
「私でも金がとれるようなお話でしたな。」
「そうさ、まあ取れると思うのだ。現在の落ち目を乗りきれるくらいのものはな。何かしらそういう匂《にお》いがするのだ。試合に関係のあることでな。お前の身長や体重のことをおれに尋いてた。それにこれからの見とおしもな。お前のためにならないようなことは何もいわなかったから、安心するがいい。」
「私に試合をさせようと言うんじゃないでしょうな?」
「そんな気がなくもなさそうだったな。ジョージ・クーパのこと、黒のリチモンドのこと、トム・オリヴァのことなぞ尋いていたが、そのたびに話はお前のことに戻ってくる。つまりお前がそれよりも強いかどうか、頼みになるかどうだというんだな。ほかの話もあった。お前という人物が信頼してよいかどうだっていうんだ。トムよ、お前がもしボクシング界の天使だったとしても、おれのいったような人物にはとてもなれめえ。」
そのときバーのボーイが顔をだして、「だんな、さっきの馬車が戻ってきやしたぜ。」
チャンピョンは長いパイプを下において、「あの婦人をこちらへお通し申せ。」と命じておき、若ものの腕をとって横窓へ引っぱってゆき、「ほら見ろ! あれよりすばらしい馬車を見たことがあるか? それにあのクリ毛の二頭だてのりっぱさだ。一頭二百ギニ(一ギニは二十一シリング―訳者)はするだろう。まだある。御者と馬丁だが、どっちも強そうじゃないか。そら、婦人が降りてくる。お前はここで待ってろ。おれはわが家の名誉を受納してくるからな。」
トム・クリブはそっと出ていった。スプリング青年はひとり窓ぎわに残って、落ちつきなく指でガラスをたたいていた。お人よしのいなかもので、女性のことといったら何も知らず、どんなことになるのか知れない大都会の不安があったからである。富裕な女性が気まぐれにボクサを拾いあげ、まるで退廃期のローマで奴隷や捕虜を剣士として獣類とたたかわしめたように、ポイと捨て去ったような話がいくらも流布していたからでもあるが、だから背のたかいその女がヴェールをつけて部屋へはいってくるのを見たときは、いくらか疑惑も持ったし、内心は大いに恐れをなしていたのである。けれどもそのすぐあとに大柄なトム・クリブのつづいているのを見て、会見は二人きりでないのを知り、少なからず安心した。二人が部屋へはいってドアが閉ざされると、婦人はゆっくりと手袋をぬぎ、ダイヤモンドのきらめく手をあげてヴェールをめくり、ほどよく調節してから、はじめてスプリングのほうへ顔をむけて、
「この人でございますの?」といった。
二人はお互いに興味をもって相手を見つめあううちに、二人の顔には相手を賛美する温かい気持が現われてきた。婦人の見たものはイギリスの呈示し得る青年としては最高の美しいものであるばかりか、態度には控え目の内気さがあり、そのため両のほおにポッと赤みのさしている好ましさがあった。スプリングの見たのは、三十歳ばかりで背がたかく、毛髪や眼が黒ずみ、女王さまのように堂々としたなかに、かわいらしい顔をしており、どう見ても生まれよく内心のほこり高い女であった。高貴の生まれで内心は強く命令的にできているのだが、女らしいやさしさがその内心の強さをかくしているのであろう。トム・スプリングは見ているうちに、こんな美しい人は夢の世界ですら行きあわせたことはないなと感じたが、それでも本能的に抱《いだ》いた警戒心をゆるめる気にはなれなかった。そう、美しい人だ。世のなかにこんな美しい顔があったとは信じられぬくらいだ。それでも内容は善良であろうか? 思いやりがあるだろうか? 誠実さはどうであろう? 美しさに見とれるなかに、彼は潜在意識のなかで妙に反感をいだいた。一方婦人のほうは、この若い男をボクサであると見る考えかたは捨てて、一定の目的のためこさえられた機械として、批判的な眼で見ていた。
「お目にかかれてよかったと思います、スプ――スプリングさんでしたね?」馬を買おうとしている人のように、じろじろと念いりに相手を見ながらいった。「お話に聞いたのよりも背はたかくないようですね、クリブさん。たしか六フィートあると聞いたように思いますが。」
「ありますよ、奥さん。あることはたっぷりありまさあ。見かけは高くても豆の茎《くき》ではダメです。見て下さい、私もこれで六フィートあるのですが、こうして並んでみると、二人の頭は平らじゃありませんか、私の髪の毛はもじゃもじゃと少し出ていますがね。」
「胸まわりはどうですか?」
「四十三インチ(約一一八センチ―訳者)でさあ。」
「それではたしかに強そうね。試合をさせてみてもそうだわね?」
「それは私の口からはいえませんよ。」スプリングは両肩をすくめてみせた。
「私から申しましょう。」クリブがいった。「三週間まえのスポーツ・クロニクル誌をごらん下されば、ネッド・ペインタとの一戦が詳しく出ておりますが、この男はしまいに感覚がまったくなくなるまで、勇敢に闘っています。あん時は私がセカンドをつとめましたから、よく知っていますが、なろうことならここで私のチョッキをお目にかけたいくらいですよ。受けた強打がどんなものだったか、それによく堪えたことを知って頂くためにもね。」
婦人はその説明を払いのけるようにして、
「それでも負けたのではありませんか。」と冷やかにいった。「勝った男のほうがよいのです。」
「こう申しては何ですが、それは違います。ジャクスンさんはべつとして、リング上の判定でしたら、私は誰にも負けません。この男はまえにペインタを負かしたことがございます。これからだって、御前《ごぜん》さまがファイト・マネの心配さえして下さるなら、負かせてお目にかけられますよ。」
婦人はぎくりとして、怒ったようにチャンピョンをにらみつけながら、
「なぜそんな呼びかたをします、私のことを?」
「相すみません。癖になっておりますんでつい。」
「これからそんな言葉は使わないように命じます。」
「へえ、承知いたしやした。」
「私はお忍びで来ているのです。二人とも男の顔にかけて、私が何ものであるかを尋ねるのは許しません。尋ねないとかたい約束が得られないなら、この話はこれで打ちきりにいたします。」
「かしこまりました。私のことはそれでよろしいとして、こちらのスプリングですが、もちろん異存はないと存じます。それにしましても酒場のボーイや雑役が、あなたさまの使用人と話をするのまで差しとめる力は私にはございませんが。」
「御者と馬丁はあなたと同じくらい知っているだけです。それはそうと、私はこんなことをしているわけにゆきません。急いで話をきめなければ。それではスプリングさんは、今のところ入り用のものがないわけですか?」
「その通りなんで。」
「クリブさんから聞きましたが、あなたはどんなウエイトの人とでも闘う気があるのですって?」
「相手が二本足でさえあればね。」チャンピョンがいった。
「誰と試合させようってんで?」若いボクサがたずねる。
「そんなこと、あなたの知ったことではありません。ほんとに誰とでも闘う気さえおありなら、相手の名などはどうでもよいことです。こちらこそそれを伏せておくにはわけがあります。」
「かしこまりました。」
「トレーニングを休んでからほんの二三週間だということですが、最高のコンディションに持ってゆくには、どれくらいかかりますか?」
「三週間か一カ月です。」
「ではね、トレーニングの費用として週二ポンドだけ支払いましょう。ここに契約の保証として五ポンドだけあげておきます。私が準備はよいと見たら、そして都合がよいとなったら、闘うのです。勝てば五十ポンドだけあげますが、その条件で満足しますか?」
「ようがす。すばらしいや。」
「それからね、スプリングさん、私があなたを選んだのは、あなたが強いとみたからではありませんよ。現にこれについては二つの反対意見があったくらいなのです。私としてはね、あなたが信頼のできる穏当な人だと思うからなのです。この試合の諸条件はすべて秘密なのですよ。」
「へい、わかりました。誰にもいやしません。」
「この試合はわたくしごとなのです。それだけのことです。あすからでもトレーニングをはじめて下さるでしょうね?」
「かしこまりました。」
「トレーニングはクリブさんにお願いします。」
「よろこんで務めまする。それで失礼ながら、負けた場合はどうなりましょう?」
女は感情の動きのため顔面をぴくぴくと動かし、両手がぎゅっと握りしめられたので手から血が引いてまっ白になった。
「負けでもしたら一銭も出しません、一銭もですよ。」はげしい言葉だった。「負けてはなりません。決してですよ。」
「わかりました。」スプリングが応じた。「こんな試合は聞いたこともありませんがね。でもご心配は無用、今じゃすっかり落ちぶれていますしね。何しろ物もらいに選りごのみは禁物っていいまさあ。お言葉の通りにしますよ。トレーニングだってもうよいとお言葉のあるまで励みますし、よしとなったらどこででも闘いますよ。一つ大試合にして頂きたいものです。」
「それは大試合になるでしょうよ。」
「場所はロンドンから離れてですか?」
「百マイル(約百六十キロ―訳者)以内です。まだ何か話がありますか? 私はもう時間がせまりました。」
「ちょっとお尋ねしますが、」とチャンピョンは本気で尋ねた。「いよいよとなったら、私がこの男のセカンドをつとめてもよろしいでしょうか?」
「いけません。」ピシャリといって彼女はくるりと後むきになり、そのまま出ていってうしろ手にドアを閉めた。そしてそれからすぐに、手いれの行き届いた馬車がヘイマーケットのほうへ走り去るのが窓のそとにちらりと見えた。馬車は人ごみにまぎれて、すぐに見えなくなってしまった。
二人の男は無言のまま顔を見あっていたが、
「鶏のけあいじゃあるまいし、何たることだ!」しまいにトム・クリブがいった。「とはいっても、五ポンドくれたことはたしかなんだ。おかしな話さね。もらったことはたしかなんだが。」
相談の結果トム・スプリングはハムステッドの原のキャスル・イン(インは宿屋小旅館を意味する。多くは酒場を兼営―訳者)でトレーニングすることになった。ここならクリブが馬車でいって監督するにもひと走りだ。そこでスプリングはパトロンに会見した翌日からそこへ行って、薬品やダンベル、休息所などを用意して、トレーニングにとりかかった。しかしどうも身がはいらず、好人物のトレーナにしても同じことがいえた。
「タバコを忘れてきちゃいましたよ。」トレーニングをはじめてから三日目の午後だったが、腰かけてひと息いれているとき若いほうのボクサがいった。「パイプくらいやったって、害はなかろうと思いますがねえ。」
「うん、そいつは少し気がとがめるが、タバコ入れならここにもってるし、陶製の長パイプもある。」チャンピョンがいった。「だがな、ウライのバークレイ大尉にトレーニング中の男がタバコをやるところを見られたら、何というか知らねえ。あの人がお前にトレーニングをやらせてるんだがな。あの人はおれがブラックと二度目の試合をやるとき、二百二十パウンドから百八十まで(約九十五キロから八十一キロ―訳者)落させてくれたんだ。」
スプリングは早くもパイプをとって火をつけ、うしろへ寄りかかるようにしてもうもうと煙をはきだしながら、
「おとうちゃんの場合は試合の相手がわかっていたんだから、厳重なトレーニングをうけるのも、さしてむつかしくはなかったろう。相手も場所も日どりまで決まってたんだものな。一月以内に一万人という客のまえでリングにあがり、その客は合せて十万という賭《か》け金をふところにしていたんだのに、こっちの場合はまるで違う。こっちの知っているのはあの女の気まぐれだけで、勝ってみたって何にもなりゃしない。もしこれが真剣だというんなら、こんなパイプなんか、とっくにぶち壊していらあ。」
トム・クリブは困った顔をして頭をかき、
「その通りには違いないが、それでも金をよこしているんだからな。考えてみるとしかし、リストに名の出ている男でお前と闘って三十分もつのが何人いる? ストリンガはお前が負かしたことがあるんだから、問題はない。それからクーパだが、これはニューカスルへ行っているから、あの男ではない。つぎにリチモンドだが、あれならお前は上衣を着たままでも相手になれる。それからガスマンもいるが、あれは百七十パウンド(約七十七キロ―訳者)はなかろう。そうだ、ブリストルのビル・ニートがいた。あれだよ。あのご婦人は、お前をガスマンかビル・ニートと闘わすつもりなんだよ。」
「だってそれならそうと、なぜいわないんでしょう? ガスマンとやるんなら、その気でトレーニングにはげみますし、相手がビル・ニートだったらなおのことやりますが、こんどのように、相手が誰だかわからず、誰とでも闘えるようにというんじゃ、トレーニングにも身がいりませんやね。」
二人のから評議にはとつぜん邪魔がはいった。ドアがあいて、かの婦人がはいってきたのである。二人の姿を見ると、彼女のあさ黒く美しい顔にぽっと怒気の赤みがさした。そして軽侮の色をうかべてじっと見つめられて、二人は卑劣な顔つきでそっと腰を浮かし、立ちあがった。おのおの煙の出る長いパイプを手にして、もじもじとうなだれて立ったところは、女主人にしかられた大きな二匹のマスチフ犬のようであった。
「わかりましたわ!」彼女は烈火のように怒って、じだんだを踏みながら、「これがトレーニングだったのね!」
「相すまんことで。」チャンピョンはきまりわるそうに、「まったくどうも、まさか……」
「私が見にくるとは思わないで、トレーニングもせずに私のお金をだまし取っていたというのですか? そうはゆきませんよ。ゆくものですか! バカ!」彼女はかっとなって、急にトム・スプリングに向かい、「あなたは負けるでしょう。どうせそんなことに決まっています。」
若いスプリングは怒った顔で見あげた。
「どうか言葉に気をつけて頂きたいですね。私にだって自尊心はあります、あなたとご同様にね。なるほどトレーニング中にタバコをのんだのは悪かったとあやまります。しかしね、いまあなたのはいってきたとき、私はこのトム・クリブに向かって、あなたが私たちを子供あつかいしないで、私の闘う相手が誰であるのか、何者とどこでやらせるおつもりなのか教えて下すったら、万事ずっとやりやすくなると思うのです。」
「ほんとですよ。」チャンピョンも口をだした。「相手はガスマンかビル・ニートに違いないとは思います。ほかにはありゃしませんよ。ですから遠まわしにでも教えて下さい。そうすりゃ当日はこの男を牡牛《おうし》のように大奮闘させてお目にかけますよ。」
婦人はせせら笑いをして、
「それで生活している人にしかボクシングはできないと思っているのですか?」
「なあんだ、それじゃアマだ!」クリブはあっけにとられて、「まさか優雅な遊び人《にん》とやらせるために、トム・スプリングに三週間もトレーニングをさせるのじゃないでしょう?」
「相手が誰であるかは申しますまい。あなたがたの知ったことではないからです。」婦人はきりりと答えた。「私にいえることは、あなたがたがトレーニングをしないなら、見すててしまって、トレーニングをしてくれるべつの人と話をつけるまでです。女だと思ってバカにしてはいけません。試合のことならどんな男にも負けぬくらい知っているのです。」
「そんなことは最初のおひと言からわかっていました。」クリブがいった。
「ではそのことを忘れないで。二度とこんな注意はいたしません。いけないと見たら、黙ってべつの人を選ぶまでです。」
「そして誰と闘うのだかはおっしゃって頂けないのですか?」
「決して申しません。でもトレーニングにはげんで、最上のコンディションになったときは、自然にわかるおりがきましょう。さ、すぐに仕事におかかりなさい。二度と怠けているところなんか見せるのじゃありませんよ。」こういって尊大な眼で二人を見すえると、くるりと身を翻えして出ていってしまった。
チャンピョンは閉めていったそのドアを見てヒュウと口笛をならし、赤いサラサの大型のハンカチで額の汗をふきながら、まごまごするスプリングを見やりながら、
「驚いたな、おい。きょうからは真剣だぞ。」
「はい。」スプリングもきまじめに答えた。「きょうからは真剣にやります。」
それから二週間のあいだに数回、かの婦人は、自分の選んだ男が来るべき闘いにそなえて正しく準備をしているか否かを見に、不意にやってきた。いまごろまさかと思いもかけないときに、彼女はトレーニングのジムへはいってくるのだが、一度でもたるんでいたことはなかった。グラヴをつけてのさんざんのわざ、三十マイル(約四十八キロ―訳者)にわたるロードワーク、しかもそのうち最後の一マイルはサラブレッド馬をつけた郵便車のあとへついての駆け足、さてははてしないなわ飛び、その結果、最後の一塊まで脂はとれたから、トレーナたるチャンピョンとしては「これでいつでも命をかけて闘える準備ができた」とほこらかに公言できるようになった。
たった一度だがかの婦人は、人をつれて視察にやってきた。つれの人というのは若くて背のたかい人で見るからに上品、ものごしは貴族的で、どこで怪我したのか鼻がすっかり曲っているが、それさえなかったらすばらしい好男子だった。ふきげんな眼つきで腕ぐみをしたまま、黙って立っていた。腰からうえ全裸の懸賞ボクサが、ダンベルでトレーニングするのを見ているのだ。
「これならやれそうではありません?」かの婦人がいった。
好男子は両肩をすくめて、「頂けませんな。お世辞にもそんなことはいえませんよ。」
「いけませんわ、ジョージさん。私はかたくこれに決めているのですもの。」
「これはイギリス風じゃありませんね。ルクレチア・ボルジアとでもいうか、とにかく中世のイタリヤ風ですよ。女性にとって愛情と憎悪とは常に同じですが、こんどの場合の表現は、私には十九世紀のロンドンでの話とは思われませんよ。」
「でも教訓が必要ではなくって?」
「それはそうですけれど、ほかに方法がありそうなものですな。」
「ですからあなたがおやり下すったのですけれど、その結果はどうでして?」
若い男はにが笑いをしてカフスをたくしあげ、手首にある縮れたような傷あとをのぞきこみ、
「それはたいして効果はなかったですな。」
「せっかくの企てもむだになりました。」
「そう、それは認めなければなりませんね。」
「ではどんな手段が残されてますか? 法律ですか?」
「それは大変、法律は役にたちませんよ。」
「そうなればこんどは私の出るばんですよ、ジョージさん。私は邪魔だてされたくないのです。」
「あなたの邪魔なんか誰にもできやしませんよ。私にしてからが、そんな気は少しもありゃしません。そうかといって、お手だすけする気にもなりませんけれどね。」
「そんなことお願いするものですか。」
「そう、たしかにそんな話はありませんでした。あなたは独りでやってゆけるのです。ところで、失礼ながらボクサへの用がおすみでしたら、馬車をロンドンへ返そうじゃありませんか。私としては何としても、オペラ座のゴルドーニ嬢を見おとしたくないのです。」
こんなことで二人は帰っていった。トレーニングにはげむ二人を残して、男のほうはぶらりと無関心に、女は世にも真剣な顔つきをして。
やがてクリブの、コンディションの調節が万端できましたと、自信をもって金主に報告できる日がきた。
「これ以上はないという最高です。今なら国を賭《か》けても闘えます。このまま一週間つづけたら、過労になっちまいます。」
かの婦人はいっぱしの鑑識家のように、しばらくスプリングを見まわしてから、
「なるほどりっぱなお仕込みだと思います。きょうは火曜日です。明後日試合をしましょう。」
「かしこまりました。どちらへ行かせますか?」
「それは私から詳しく申します。いまから私の申すことをよく聞いて、正確なノートをとって下さい。クリブさんはこの人をつれて水曜日の朝九時までにチャーリング・クロスのゴールデン・クロス屋《イン》まで行って下さい。そしてこの人はブライトン行きの乗合馬車にのって、タンブリッジ・ウエルズで降りるのです。降りるとそこにロイヤル・オーク本陣というのがありますから、そこで食事をするのですが、その内容は、試合のまえの日にはどんなものを食べたらよいか、そのことはあらかじめあなたから注意しておくのです。食事がすんだらそのまま待っていると、くわの実模様の仕着せを着た下男が現われて、口頭でか文書でか伝言《ことづて》をつたえます。これが最後の指令なのです。」
「それで私は行かないでよいのですか?」
「そうです。」
「それにしてもタンブリッジ・ウエルズまでは行ってもよくはありませんか?」クリブは抗弁した。「せっかくここまで仕上げたものを、ここで突っぱなしてしまうのはいかにも心ぐるしくって。」
「しかたがありませんね。あなたはあんまり知られすぎています。あなたが来たとなると、町じゅうに知れわたって、私の計画にひびがはいります。ですからあなたが行くなぞ、もってのほかなのです。」
「それではお言葉の通りにいたしますけれど、殺生ですなあ。」
「それでも試合用のショート・パンツとスパイクぐつくらいは持ってゆかせて下さるでしょう?」スプリングがいった。
「いいえ、せっかくですが職業がらの分かるようなものは持たないで下さい。服もはじめてお会いしたとき着ていたの、職工か技術者の着そうなあれを着ていって下さい。」
トム・クリブの青い顔には絶望のいろが現われた。
「セカンドもなし、服もなし、くつもなし――これじゃまともな勝負はできませんね。あなたの前ですがね、私はこんな勝負にまきこまれたのを恥かしく思いますよ。第一セカンドなしじゃ試合といえるかどうかも分かりゃしませんよ。これじゃ何のことはない、ただのなぐりあいでさね。少し深いりしすぎたと思いますよ。こんなことなら初めから話にのらなきゃよかった。」
チャンピョンとその弟子《でし》は心もとながったけれど、婦人の専横な意志のほうが勝ちをしめて、すべては彼女の命令どおりに運ばれた。すなわち翌朝の九時には、トム・スプリングはブライトン行きの乗合馬車内の席について、がんじょうなトム・クリブに向かって別れの手を振っていた。クリブはゴールデン・クロス屋《イン》の入口の石段のうえに立って、旅館主やボーイたちの輪をつくったなかでそれを見送っていた。気候は夏から秋にうつってゆく気持よいときで、ブナの木やシダのなかには黄葉したものがちらほら見えていた。元来がいなか育ちのスプリング青年には、サウスワークやルイスハムの町のあきあきするような家なみを出はずれると、急にはればれとした気持がおとずれ、六頭の連銭《れんせん》あし毛に引かれる馬車のなかからながめるノールの村の古典的な風物や、リヴァサイド丘のふもとをめぐってケント州ウイールドのひらけた農地を見ては、ほのぼのとした気持になるのであった。
馬車はタンブリッジをすぎ、サウスボロをあとに、急な坂道を両がわに奇妙な砂岩の露頭を見ながらうねくねと降りてゆき、最後の指令にあった名の出ている大きな旅館の前へとまった。彼はそこで馬車を降り、そこの喫茶室へはいって、クリブにいわれた通りなま焼けのテキを注文した。それを食べ終るか終らないところへ、くわの実模様の服を着た下男風の男が、まるきり無表情な顔で近づいてきた。
「失礼でございますが、あなたさまはスプリングさま――ロンドンからいらしたトーマス・スプリングさまで?」
「そのとおりですが。」
「それでは申しあげまするが、あなたさまは食後一時間ここでお休みになりましたら、表へお出ましになりますと、私めがお馬車でお待ちしておりまして、あなたさまを正しい場所にお連れ申すことになっております。」
若いスプリングはリングの中でなら、どんな事があってもびくともしたことはなかった。賭《か》け手たちの手あらな激励、多くの観衆のざわめきや奇声、闘う相手の姿などは、いつでも彼の勇敢な心をはげまし、その場のヒーローたるにふさわしいことを立証した。しかしここはたった一人で心細く、どうなりゆくかの不安は致命的であった。それでそこにあった馬毛織りの寝いすに身を投げてまどろもうとしたが、それには心があまりに落ちつきなく興奮していて、眠るどころではなかった。やむなく起きあがって、人気《ひとけ》のない部屋を歩きまわった。するとふと、半ば開いたドアのかげから、こっちを大きな赤ら顔がうかがっているのに気がついた。相手は気どられたと見て、部屋のなかへはいってきた。
「失礼でございますが、トーマス・スプリングさまで?」
「お眼のたかいことで。」
「やっぱりそうでございましたか! こんなむさくるしいところへ、よくおいで下さいましたな。私はコーダリと申しまして、この宿の亭主《ていしゆ》でございます。やっぱり私の眼は狂っていませんでしたな。私はボクシングのパトロンでございましてな。大したこともできませんけれど、できないなりにな。昨年九月、マウスリでロウクリフのジャック・ストリンガをお敗りになったときも参りましたが、たいへんおみごとでしたな。たいへん生意気を申すようですが、あれはまったくの快勝でした。ケント州やサセクス州では毎年数多くの試合がありますが、このコーダリが出席しなかったのは一つもありませんから、私もいっぱしのことは言わせて頂きます。ホルボーンで大衆食堂をやっているグレグスンさんにきいて頂きますれば、このジョウ・コーダリがどんな男だか、すぐお分かりになりましょう。それはそうとスプリングさん、あなたがこの地方へおいでになったのは、ただの用事ではございますまい。あなたが十分のトレーニングができていることは、誰が見たってひと眼でそれと分かりますからなあ。事務所のありかさえ教えてくだされば、ひとはだぬぎますぜ。」
ここで実状をこの男にうちあけたら、ほかでは得られない情報が手にはいるに違いないという考えが、ふとスプリングの頭をかすめた。しかし彼は約束を重んずる男だったから、ここで金主との約束を思い浮かべた。
「静かないなかで休もうと思ってやって来たのですよ、コーダリさん。それだけのことです。」
「おやおや、てっきりそうと睨《にら》みましたがなあ。スプリングさん、私はこういう方面にかけちゃ鼻がきくのです。たしかにそういうにおいを嗅《か》いだと思いましたがなあ。しかしあなたのことはご自分が何よりよくご承知だ。どうです、おひるからホップ栽培園をごいっしょに馬車で回ってみませんか、シーズンもちょうどいいときです。」
スプリングはごまかすのが巧みでなかった。しどろもどろの弁明は、宿屋の亭主《ていしゆ》を説伏するだけの力はなかったろうが、それでもしまいには、はじめつけた狙《ねら》いが狂っていたことだけはどうにか納得させ得た。しかし話の終らないうちにボーイがはいってきて、表で馬車が待っていることを告げた。すると亭主《ていしゆ》は疑惑と好奇心に急に眼をかがやかせた。
「この土地にお知りあいは一人もないというお話でしたな、スプリングさん?」
「たった一人、親切な友人があるのですよ。その人が小さな一頭びき二輪車をよこしてくれたのでしょう。たぶん今夜の夜行馬車でロンドンへ帰るようになると思います。たぶん一時間か二時間したらここへ帰ってきますから、ごいっしょにお茶でもやりましょう。」
そとへ出てみると、くわの実模様の男が馬車にのって待っていた。ごく小さな馬車で、前後に二人ずつかけられるようになっていた。トム・スプリングがそれへ乗って、前方の席へ並んで腰かけようとすると、後部席へ乗せるように命ぜられているのだと小さい声で下男がいった。いわれるがままに後部へ腰をおろすと、馬車は走りだした。いよいよ好奇心をかきたてられた宿の亭主は、これはますます臭いというわけで、馬丁に声をかけながらうまやへと急ぎ、数分の後には火のようになって追跡をはじめた。四つ角のあるたびにしばし立ちどまって、あの馬車の音がすると耳をすますのだ。
そのあいだにかの馬車は、クロウバロウのほうへまっしぐらに進んでいた。クロウバロウをすぎて数マイル、急に街道からそれて、ブナの葉が黄いろくアーチをなしている狭い横道へはいっていった。このトンネル道のなかを、背のたかいしとやかな婦人が馬車に背をむけて歩いていた。馬車がこの婦人に追いつくと、婦人はわきへ寄って馬車を見あげた。馬車はそこで停められた。
「コンディションは最高なのでしょうね。」婦人はひとごとならずボクサを見あげて、熱心にいった。「自分ではお気持はどうですの?」
「ありがとう。なかなかよいので、満足しています。」
「私もそこへ乗せてもらいますよ、ジョンスン。まだ少し行かなければならないのです。ロワ・ウォレンのほうへやって下さい。そしてグラヴェル・ハンガのへりを通る小道へはいってゆくのです。停めるところは私が言います。まだ二十分以上あるのだから、ゆっくりやって下さい。」
万事を奇怪な夢のような気持で、若いボクサは人里はなれた道を右に左にと揺られていったが、やがて馬車はとあるくぐり門の前でとめられた。なかはもみの木の林で、びっしりと厚く下はえがしげっている。ここでかの婦人は降りて、スプリングにも降りてくるように手招きした。
「そのへんの小道で待っていなさい。私たちはしばらくかかります。ではスプリングさん、こちらへ来て下さい。お約束は手紙を出しましたから、できているはずですね。」
婦人はうねくねと細い小道づたいに立木のなかを進み、土橋を渡って、再び木立のなかへはいっていった。キジの類が大きな声でないていた。行く手は起伏のある自然公園か、個人の狩猟場になっていて、あちこちにカシの木が立っており、そのさきにはエリザベス朝風の堂々たる大邸宅が見えていた。前方は斜めに一段低くなっていて、そこへ欄干つきのテラスがはりだしていた。この庭園を横ぎって森のほうへ歩いてゆく男の姿が見えた。
「あの人が相手ですよ。」婦人はスプリングの手首をぐっとつかんだ。
このとき二人は木立のなかにたっていたので、こっちは見られないで、相手の姿はよくみえた。まだ百ヤードほどはなれているが、スプリングは眼をすえてじっと見た。背のたかい強そうな男で、紺の服を着ており、金ボタンが陽の光りをうけてきらきらしていた。白いひも飾りをつけた紺の半ズボンに乗馬ぐつをはいている。元気な足どりで歩いているが、ほとんど二三歩ごとに、手首につけている犬むちでスネをたたいている。その姿にはどこか意志の強さと活力とを思わすものがあった。
「どうしてどうして、紳士じゃありませんか!」スプリングがいった。「こりゃどうみても、私なんかの出る幕じゃありませんよ。恩も恨みもない人だし、向こうだって同じでしょう。私にあの人をどうしろとおっしゃるのですか?」
「闘うのです。たたきのめすのです。そのためにこそあなたはここへ来たのです。」
トム・スプリングは苦い顔をしてくるりと後むきになり、「それはたしかに試合のために来ました。しかし私としては闘う気のない人をなぐりつける気にはなれないというのです。やめときますよ。」
「あの人の顔が気にいらないと言うのですね。」婦人は怒って、「あなたはいま、その道の達人を眼前にしているのですよ。」
「それはそうでも、私の知ったことじゃありませんよ。」
「バカ!」婦人はじれて腹をたてた。「ここまできて話がこわれるとは! さ、五十ポンドあります、この紙のなかに。これもいらないと言うのですか?」
「ひきょうな話だなあ。どうも気が乗りませんよ。」
「ひきょうですって? あの人はあなたよりか三十パウンドも重いのです。あの人はイギリス中のアマならば、誰にも負けません。」
若いボクサはほっと安心した。結局この五十ポンドが正当に手に入れたかったら、この男に勝つしかないのだ。それにしてもこの男に闘う意欲と能力があればよいのだが。
「どうしてあなたはそんなによく知っています?」
「知っているはずです。私はあの男の妻ですもの。」
こういうと婦人はくるりと向きなおり、矢のように木立のなかへ駆けこんでしまった。このとき男はかなり近くまで歩みよっており、トム・スプリングの気おくれもそれを見てうすらいできた。三十歳くらいであろうが、肩はばの広い強そうな男で、顔つきも陰気に下品で、まゆはもじゃもじゃと太く、口もとはいやに引きしまっていた、体重は二百十パウンド(約九十五キロ―訳者)はあろう。十分訓練された運動家のような歩きぶりである。ぶらぶら調子をとって歩くうち、ふと木立のなかにスプリングの姿を認めて、足を早め、二人の中間にあった小溝をおどりこえて近づいてきた。
「おい、こら、」彼は二三ヤードのところで立ちどまると、頭のうえから足もとまで相手を見おろしながら、「お前は何ものだ? そしてどこから来やがった? おれの領地でいったい何をしていやがるんだ?」
言葉つきもそうだが、態度ときたらもっと不愉快だった。スプリングは怒りでほおを染めた。
「ことわっておきますがね、もっとあたりまえの言葉をつかっても、言葉に税金はかかりませんよ。二度とそんな口のききかたはしないで下さい。」
「何をいやがる、このごろつきめが! ここはおれの領地だ。道が分からなきゃ、くつのつま先で追いだしてやる。きさまおれの領地へことわりなしにはいってきやがって、このおれに口ごたえしようっていうのか?」とこわい顔して歩みより、むちを途中まで振りあげ、「さあ、行くかどうだ?」とそのむちを空中にうならせた。
トム・スプリングはからくも身を引いてそれをかわしながら、
「まあそうムキにならないで。あなたこそ何ものだか明らかにしたほうが公平でしょう。私は懸賞ボクサのスプリングです。名まえくらい聞いたことがあるかも知れない。」
「その職業は表むきだけで、どうせゴロツキだろう。以前にもお前のようなのを一二度始末したことがあるが、おれにむかって五分間ともちこたえたやつはない。どうだ、きさまもやってみるか?」
「そのむちで打ちでもしたら……」
「よし! そらどうだ?」いうなり肩にしたたか打ってかかった。「これなら闘う気になるか?」
「ここへは闘うために来たのです。」トム・スプリングは乾いた口びるをなめながら、「じゃ相手になってやるから、そのむちは捨てろ。おれはトレーニングもできているし、覚悟もあるぞ。そっちの用意はいいか。ぐずぐずいうな。」
相手は紺の上衣をかなぐりぬぐところだった。肩幅のひろい上半身には小枝模様のシュスのチョッキを着ていた。それも脱いで、上衣といっしょにハンの木の枝にかけた。
「ふむ、トレーニングしているって? それならおれも一つトレーニングしてやろう、おれを倒せるものなら倒してみろ!」
不公平に有利な条件のもとにこの男をたたき伏せるのでは面白くないがというトム・スプリングの懸念は、相手の自信ありげな態度や、みごとな肉体を見るに及んで、けしとんでしまった。黒シュスのネクタイを、中央に打ちこんだ大きなルビをつけたピンごととりさり、肉づきのよい首から白いカラをとり去ると、肉体のよいことはいっそう明らかに見てとれた。男はつづいて金《きん》のカフスボタンをたんねんに外し、シャツのそでをまくしあげて、彫刻家のモデルにしてもよいような筋肉の発達した毛むくじゃらの腕を出した。
「あの垣根《かきね》のそばまで来い。あそこならいくらか空地がある。」
若いボクサは恐るべき相手に負けずに手早く準備した。帽子と上衣とチョッキをとって、下草のうえへ投げだし、さて、指示された場所へ歩みよった。
「果たしあいか、それともただの試合か?」アマから冷静に尋ねた。
「ただの試合だ。」
「よろしい。しかし手だけは見せろ。何か持っているのじゃあるまいな、スプリング?」
二人は森を出る小道をなかにした草原のうえで、向かいあって立っていた。アマのほうの顔からは尊大さが消えさり、口もとには苦笑のようなものが浮かんでおり、太いまゆの下の眼はするどく輝いていた。かまえかたから見ても、この道の名手であるのは明らかである。トム・スプリングは右に左にステップしながら、きっかけをねらううち、ストリンガや恐るべきペインタにしても、これほどテキパキした相手と闘ったことはないに違いないと思った。アマはレフトを前へ出し、ガードを低く上体を後へそらし気味に、頭部を引いて危険区域から遠ざけている。スプリングはみぞおちをねらって軽くレフトを出し、つづいてライトであごをねらったが、そのあいだに向こうは続けざまのブロウをくりだしてきたので、こんどは防衛に忙殺された。彼は飛びさがった。しかし強打の旋風はさけられなかった。まず一撃でガードがくずれた。二撃は肩へ命中した。三撃目はスプリングのほうから、相手の脳天へくらわせて、その瞬間二人は躍りあがり、またもとの構えにかえって、互に相手をにらみつけた。
アマチュアのほうが体重もあるばかりか、強打の持主でもあり、耐力にもまさっているのは争えなかった。二度までも彼はスプリングを打ち倒した。一度は強打のウエイトによって、一度は接近してなだれかかり仰向けに倒された。そこまでいためつけられたら、たいがいの男ならまいってしまうところだが、トム・スプリングにとっては日常のことにすぎなかった。あざができ、息ぎれはしたけれど、彼はすぐに起きなおった、口からは血が出てきたけれど、眼つきはしっかりしており、精神は少しもひるんでいないのを示していた。
いまは相手のラッシュ戦法がのみこめたから、こっちもそれに備えることにした。第四ラウンド――アタックは同じだけれど、防禦《ぼうぎよ》は大いに違ってきた。いままではスプリングの負け気味で、ダウンもくった。しかしこんどはそうはゆかなかった。相手が猛然とラッシュしてきたので、彼は強烈な左のストレイトを、満身の力をもってくり出した。カウンタなのでその効果は倍加された。じっさいその打撃は恐るべきもので、自分も草のリングから跳ねとばされたほどだった。相手はよろめきさがって、木の幹に身をもたせ、片手をあげて顔をおおった。
「こっちへ来て手をさげろ。でないとコショウをぶっかけるぞ!」スプリングがいった。
相手は何やらわけの分からないタンカをきるばかりだったが、やがて口一ぱいの血をはきだした。そして、
「さあこい!」といった。
ここまできてもスプリングは、これからが容易じゃないと思った。今までの失敗にこりて、アマチュアはラッシュ戦法によって勝利を一挙に自分のものにしようとはしなくなったし、このボクサはいなかのお祭りなどで威勢のよいあんちゃんを片づけたような具合にたたき伏せようとはしなかった。手もむろん使うのだが、それよりも足と頭を使ってきた。スプリングも胸のなかで、この男は正式にトレーニングをしたら、恐るべき相手になるに違いないと思った。ガードは強固だし、カウンタときたら電光石火だし、打ってもまるで鉄のように少々では動じない。うまく接近できると、いつでも彼はスプリングに壊滅的な打撃をあたえて、地上にたたき伏せた。しかし初めにうけた目も回らんばかりの強打から、こいつは油断のならない相手だという考えが、つねに頭をはなれなかった。そのため挙措が敏速さを欠き、打撃にも力がはいらなかった。
悪いことに彼の相手をしているのは、一世に名をなしたほどのボクサのなかでも、もっとも冷静で負けることを知らぬほどの人物なのだ。徐々に、ラウンドを重ねるにしたがって、この冷静でステップよく手の早い相手に対して彼は疲れてきた。しまいには息ぎれがして顔は紫いろに、くたくたになってしまった。人間の堪え得る限界に達したのだ。ついに相手はステップをとめて、あざはこさえているけれども、冷静に、必要とあればいつでも出撃するぞと身がまえながらいった。
「もうよしたほうがよかろう。まいっているじゃないか。」
しかし相手の体面がそれを認めさせなかった。凶暴なうなり声をあげながら、方法も何もなく左右の手でめちゃくちゃに打ちかかってきた。これにはスプリングも一時圧倒されたが、すばやくサイド・ステップして、したたかに打ちかえしたので、アマチュアは両腕をあげ、その場にだらしなく倒れて、顔を空に大の字に大きな手足をなげだしてしまった。
一瞬間、スプリングはこの気絶した相手を見おろしていた。すると温かくやわらかい手を腕に感じた。かの婦人が腕に手をかけているのだ。
「いまのうちですよ!」黒っぽい眼がきらりと光った。「踏みこんで、とどめをさすのです!」
スプリングはいまいましそうにそれを払いのけたが、婦人はすぐにすがり寄るようにして、
「七十五ポンドにします……」
「試合は終りました。これ以上は手を出せません。」
「では百ポンドです。きっかり百ポンドあげます。ここに持っているのです。百ポンドでもいやだといいますか?」
スプリングはくるりと後を向いた。すると彼女はするりとそばをすりぬけて、失神して倒れている人の顔を足で蹴《け》ろうとした。そうと見てスプリングは蹴《け》殺されないうちに手あらく引きもどした。
「そばへ寄ってはいけません!」と婦人のからだをゆさぶった。「倒れている人に危害を加えるとは何ごとです!」
するとその人はうーんとうめいて、横むきにねがえった。それからそろりそろりと上半身を起きなおり、汗ばんだ手で顔をなでてから、ゆっくり立ちあがった。
「うむ、フェアな闘いだった。」と広い両肩をさげてから、「おれのほうに何も文句はない。おれはジャクスンの愛弟子《まなでし》だったが、お前には勝ちをゆずったのだ。」といったが、ここでかの婦人のくやしそうな顔に目をとめると、「おや、ベティじゃないか! お前にもお礼をいわなきゃならないか! あの手紙で察しとるべきだったのだ。」
「そうでございますよ、ご前《ぜん》。」と彼女はひざを曲げて、わざとあざけるような一礼をしながら、「お礼をおっしゃって頂きませねば。みんなあなたのかわゆい妻が、かげで細工したのでございますものね。私はあの木のうしろで、あなたが犬のようにうち倒されるのを、すっかり見ておりましたよ。私の計画しましたことは、これで終りではございませんけれど、それでもこれで、どんな女でもが外見だけであなたを愛することはしなくなりましょう。いま申したことお分かりでございましょうね。いつまでも覚えていて下さいますか?」
男はしばらくぽかんとしたまま立っていたが、ここで草のうえに落ちていたむちを拾いあげると、太いまゆの下からきっと婦人を見つめた。
「こりゃ悪魔にちがいない。」
「お屋敷の女家庭教師は何と申しましょう?」女はうそぶいた。
これを聞くと男は気の狂ったように怒って、むちを振りあげて襲いかかった。その前にトム・スプリングが両手をひろげて立ちはだかった。
「いけませんよ。だまって見てはおられませんからね。」
男はスプリングの肩ごしに、自分の妻をにらみつけた。
「ははあ、かわいいジョージのためだな、これは。」と苦笑して、「だが鼻まがりのジョージもいよいよ窮したとみえるな。そこで商売人をよんできたというわけか? 自分で気にいった男を選んでつれてきたのかい?」
「うそつき! うそです!」といったきり、婦人はあとがつづかなかった。
「はは、奥がたさま、さすがにお気にさわったようだな。どうだ? よし、土地侵入罪と傷害罪で二人とも被告席に立たせてやるからそう思え。何というざまだ! ふむ、何たる!」
「あなたにそんなことができるものですか、ジョン!」
「やってやらなくてさ! やれるかやれないか、ここで三分間待ってろ。」というなり、ハンの木のうえに投げだしてあった上衣の類をひっつかんで、自分では駆けているつもりであろう、口笛を吹きながらよろよろと歩みさった。
「早く! 早く!」婦人は気ぜわしく叫んだ。「一秒でもぐずぐずしてはいられません。」彼女の顔は真剣であり、不安のためからだがこまかく震えている。「村じゅうの人を集めるでしょう。おそろしいことになります!」
婦人は曲りくねった小道をやにわに駆けだしていった。スプリングも衣類を身につけながら、そのあとを追った。遠く右手のほうでは、猟場番が鉄砲を手にして、口笛のなるほうへと急いでいた。別のところでは乾し草を車に積んでいた二人の労働者が仕事をやめて、三つまたくま手を手に、きょろきょろあたりを見まわしていた。しかし表の道には人かげはなく、乗りすてた馬車だけがぽつんと残っており、馬が路傍の草をはんでいた。御者はその席でうとうとしているらしい。婦人はすばやく馬車に乗りうつり、手まねでスプリングに、そばに立つようにと伝えた。
「では五十ポンド。」と紙包みを手渡しながら、「せっかくの好機があったのに、これを百ポンドにしなかったあなたはおバカさんね。これで縁きりですよ。」
「そんなことをいって、私はこれからどこへ行ったらよいのです?」スプリングは曲りくねった道を見わたしながら、心細そうにいった。
「地獄へでも行くのですね。ジョンスンや、ではやっておくれ。」
二頭だての四輪軽馬車は動きだし、やがて道が曲っているので見えなくなってしまった。トム・スプリングはたった一人でとり残されたわけである。
さびしい田園のあちこちから、わめき声や口笛が聞こえてきた。こうして彼女が彼と侮辱的運命をともにすることを避け、逃げさった以上、彼がどんな目にあおうと、金主はもはや無関心なのだ。彼は死にそうなほど疲れていた。打たれたり、倒れたときぶつけたりで、頭は痛むし、闘いの名残《な ご》りでからだじゅうがヒリヒリ、ズキズキした。小道をあてもなく何ヤードか歩いてみたが、タンブリッジ・ウエルズへはどの道をどっちへ曲ればよいのかも分からなかった。遠くで犬のほえるのが聞こえ、追跡が始まったらしいのを思わせた。そうとすればとてものがれられないのだから、ここで座って待つのも同じことだ。垣根から太い棒を一本とって、彼は不きげんにその場へ座りこんだ。どうなることかと思えば、胸のなかは物騒である。
だが最初に現われたのは敵ではなく、味方であった。小道の角を曲って小型の一頭だて二輪馬車(通常二座席である―訳者)が現われたのである。くり毛のコブ馬がつけてあり、はや足で駆けてくる。乗っているのはかのロイヤル・オーク本陣の赤ら顔のおやじで、むちを手にひっきりなしに後をふりかえっている。
「スプリングさん、とび乗りなさい!」手づなを引きしぼりながら大きい声でいった。「みんな追っかけてきますよ、犬も人も! さあこい! 赤よ頼むぜ!」あとは何もいわずに、レースのような早さで二マイルの小道を駆けぬけ、スプリングを乗せた小馬車は無事にブライトン街道へとたどりついた。そこでおやじは手づなをゆるめて馬の背にのせておき、トム・スプリングの肩をポンとたたいていった。
「おみごとでござりましたなあ!」感嘆のあまり顔は輝くばかりである。「まったくどうもおみごとなことで!」
「何が? あの試合を見たのですか?」
「初めから終りまで残りなく見せてもらいました。まったくどうも、あんなみごとな試合を見せて頂きましょうとはなあ! まったくどうも殿さまが脊髄《せきずい》を切られた(牛馬を殺す方法がある―訳者)雄牛のように打ち倒されるところを、奥方がハンの木のかげにしゃがんで、手をたたいて見ているところまでな。どうも何かありそうだと思いましたから、ずっとあなたの後をつけたのです。そのうちあなたが止ったから、私は赤を木立のなかへ入れて、手ごろなところへつないでおいたのです。そして森のなかを這《は》うようにあなたに近づいてゆきました。そうしてよかったと思いますよ。何しろ教区じゅうの人が総決起していますからなあ。」
トム・スプリングは馬車に腰をおろしたなりでゆられながら、あっけにとられてコーダリの顔を見つめるばかりであった。
「殿さまですか?」
「そうですとも! あの人はファルコンブリッジ公、裁判長で州長代理で、上院に席のある貴族なのです。あなたの相手はそういう人物だったのです。」
「へえ!」
「ご存じじゃなかったのですか? 知っていたらああ強くは打てなかったでしょうから、かえってよかったかも知れませんね。しかし念のために申しますが、ご存じなかったとすれば、気をつけることですね。こんどは向こうから打ちかえす番ですからね。この州ではあの人に立ちむかえる者はありません。密猟者やジプシなら、二三人一たばになって向かってもダメです。あの人はこの地方の恐怖のまとです。でもあなたはよくやって下さいました。まったくおみごとでした。」
話を聞いてトム・スプリングは気も遠くなる思いで、馬車の席でぽかんとしているばかりであった。このことは馬車が本陣へ着くまで続いた。本陣へ無事に着くと、彼はまず入浴して腹いっぱい食事をすると、亭主《ていしゆ》のコーダリを呼びにやった。スプリングはこんなことになったいきさつを詳しく話して、これはいったいどうしたことであるのか、教えてくれと頼んだ。コーダリはいと興味ふかそうに、ときどきは含み笑いをしながら聞いていたが、話がすむと部屋を出てゆき、やがて一枚のしわだらけの新聞紙を手に帰ってくると、ひざのうえでしわをのしていった。
「これはパンタイル・ガゼット紙で、こんなにゴシップを扱う新聞はありません。ですからきょうのことに関連しても、何かほじくり出しているに違いないと思うのです。でも私たちは何もしゃべりませんし、奥方ばかりか、殿さまも無言でしたが、ただ殿さまだけは腹だちまぎれにきょうのような騒ぎをおこして、あなたを困らせたわけなのです。ああ、ここにありましたよ、スプリングさん。読みあげますから、あなたはパイプでもおやりになっていて下さい。日付は去年の七月となっています。
上流生活の乱れ――数年来フ―公とその美しき奥がたとのあいだに介在してきたといわれる不和が、ここ数日表面化してきたのは周知の秘密である。公はスポーツに傾倒し、かつうわさによれば屋敷内の身分いかがわしき者への情熱が疎外されたるフ―夫人の愛情を冷却してきたともいわれる。そのため夫人は最近ここにジョージ・W――と仮名する紳士にわずかに慰安と友情を求めていたのだという。女殺しをもって鳴るこの紳士は、容姿均衡のとれたイギリスきっての好男子で、親切にもやるせなき婦人を慰さめてきたものである。されどその結果は奥がたの気持をも公の美点をもいちじるしく害した。男女二人の友人は邸宅の近くで会合ちゅうを、多くの召使いを引きつれたフ―公によってあばきたてられた。奥がたの悲鳴を耳にしながらも、フ―公はその場で自己の力量と技巧を存分に利用して女たらし紳士に懲罰を加え、その外見ではもはやどんな婦人でも見かえりもしないであろうほどの損傷をあたえた。フ―奥がたは直ちに公のもとを去り、ロンドンに出ていまは傷つきたる美男子の介抱にあたっているという。この事件のため二人のあいだに決闘の行なわれるは必定ともっぱらの取りざたであるが、詳細は本紙締切りまでには入手できなかった。
亭主《ていしゆ》は新聞紙を下において、「あなたはたいへんよいことをなすったわけですよ、トーマス・スプリングさん。」
ボクサはさんざん打たれた顔に手をやって、「いや、私はそんなによいことをしようとは思いませんよ、コーダリさん。」
バリモア公の失脚
社会史家で、サ・チャールズ・トリゲリスとバリモア公という二人の威勢のよいだて男が、イギリス王国の社交界の支配権をめぐって久しくはげしい暗闘をつづけてきたことを、口や筆にしないのはほとんどあるまい。その闘争は当時のロンドンの社交界を二分していたほどである。それが何の予告もなく、とつぜん公が引退して、平民であるサ・チャールズが無競争でとって代わったのだと伝えられている。どんなわけでこんなにとつぜん明星の日食作用がおこったのであるか、本編によってのみ知ることができるであろう。
あの有名な暗闘の行なわれていたころのある朝、サ・チャールズ・トリゲリスは、すこぶる手のかかる朝の化粧をやっていた。着つけ化粧のもっとも整った紳士という評判をとって久しい人のことだから、従者のアンブローズが仕あげのてつだいをしていた。ふとサ・チャールズはネクタイの仕あげ半ばに手をとめて、色つやのよい大ぶりなみめ形のよい顔に怒りと驚きをみせて耳をかたむけた。階下のほうでジャーミン街のお上品なざわめきのなかに、玄関のドア・ノッカをたたく金属的な断音が聞こえてくるのである。
「だいぶ騒がしいが、あれはうちの玄関だな。」サ・チャールズは、声に出してものを考える癖をだしていった。「さっきから五分間もやっとる。パーキンズは何をしとるのかな。」
主人のそぶりを見てアンブローズはバルコニへ出てゆき、用心ぶかく頭をのぞけてみた。下から声がかかった。のろのろとではあるが、はっきりしている。
「まことにはばかりさまだが、この戸を開けてもらえないものかね?」
「誰だね? 何ごとだ?」あきれ顔のサ・チャールズが、ネクタイをもったひじを上へあげたなりでいった。
アンブローズは礼儀のうえで彼の身分が許すかぎりの驚きをあさ黒い顔に現わして帰ってきた。
「若い紳士でございます。」
「なに若い紳士だと? この広いロンドンにもわしが午《ひる》まえには誰にも会わぬのを知らぬ者はないはずだ。お前の知った男かね? どこかで見かけたことのある人物かね?」
「お見かけしたことはございませんが、存じあげておりますお方に、たいへんよく似ていらっしゃいます。」
「似ておる? ふむ、誰に似ておるな?」
「あの、たいへん失礼でございますが、下を見ましたとき一番に思いましたのは、これはあなたさまではないかと……少しお小さくてお若うございますが、お声と申しお顔と申しものごしと申し……」
「ふむ、それは兄のせがれで、ごくつぶしのヴェリカに違いない。」サ・チャールズは身じまいをつづけながら小さい声で、「わしに似たところのあるのは聞いているけれど、オクスフォードから手紙をよこして、訪ねてくるとあったが、わしは来るに及ばぬ、会いとうないというてやった。それでも来おったのか。よし、教訓を与えてやる必要がある。アンブローズ、ベルを引いてパーキンズを呼べ。」
大柄の従僕が憤慨した顔つきではいってきた。
「おお、パーキンズ、玄関の騒ぎは何ということだ!」
「相すみませんでございます。若い紳士が見えまして、何とおことわりしましてもお帰りになりませんので。」
「帰ろうとしないって? 帰ってもらうのがお前の役目ではないか。命令されていないというのか? わしが午前中は人に会わないといわなかったのか?」
「申しましたのです。何と申しましても玄関を押しあけて、はいって来ようとなさいます。それで私はそのかたの鼻さきへ、ドアをぴしゃりと閉めてしまいました。」
「それはよかったぞ、パーキンズ。」
「それでもその、そのかたは皆が寄ってくるほどの騒ぎをなさいます。おかげでお玄関さきは黒山の人だかりでございます。」
階下からはノッカをたたく音がカタカタカタと聞こえてくる。それもしだいに高くなり、笑いのコーラスと元気づけようとするヤジリ声も聞こえてくる。サ・チャールズは怒気で顔が赤くなってきた。辛抱にも限度というものがある。
「雲模様いりの琥珀《こはく》のステッキがあの角《すみ》にある。それを借してやる。思う存分にやるがよい。あれで二つ三つくらわせてやったら、やっこさん話が分かるようになるだろう。」
大男のパーキンズはにこりとして、ステッキを手に引きさがっていった。階下ではドアを開ける音がして、ノッカをたたくのは聞こえなくなった。それからしばらくするとあとを引くうめき声につづいて、敷物でもたたくような音が聞こえてきた。サ・チャールズは笑顔で耳を傾けていたが、その善良な顔からはしだいに笑いが消えてきた。
「ちとやりすぎたようだな。あいつの行為はともかく、危害まで加えさすつもりはなかったのだが……アンブローズ、バルコニからとっとと帰るように言いなさい。ちと薬がすぎたようだ。」
従者がバルコニまで行かないうちに、軽快な足音が階段をのぼってくると思ったら、目鼻だち整った青年が、流行の先端をゆく服装で、開けはなった戸口へ姿を現わした。態度といい、顔つきといい、なかでも大きな青い眼にたたえられた奇妙な、いたずらっぽい踊るような光りといい、すべては有名なトリゲリス家の血統を物語っていた。サ・チャールズ自身だって二十年前にはそうだったのであって、若気と向こう見ずの力により、短い期間のうちにロンドンである地位を得たもので、後にブラメルがその地位から引きずり降ろそうとしたが、空しかったほどだ。青年は晴れやかな笑顔で苦りきっている叔父《お じ》に向かい、琥珀《こはく》のステッキの折れはじを手のうえに進みでた。
「叔父さまの召使いをこらすのに、お大切な品をつい損じまして相すみません。こんなことになりはしまいかと、大いに懸念はしておりましたのですが。」
サ・チャールズは苦りきってこの無礼な男をにらみつけた。にらみつけられた青年は叔父の態度をさもおかしそうに見かえした。アンブローズがバルコニから見て報告したとおり、二人はたいへんよく似ていた。ただ若いほうが幾分小がらで、ほっそりしており、なよなよしたところの見えるだけである。
「お前は甥《おい》のヴェリカ・トリゲリスだな?」
「その通りでございますよ。」
「オクスフォードからよくない報告が来ておる。」
「そのことでしたら、知らぬわけでもございません。」
「言語道断ではないか。」
「そういう話でございます。」
「ここへは何用があって来なすった?」
「有名な叔父さまにお目にかかりたいと思いまして。」
「玄関に人だかりするほどの騒ぎをおこし、従僕を打ったうえ、無断ではいってきた。」
「はい。」
「わしの手紙は見たのだろうな?」
「はい。」
「あれには面会はかなわぬとあったはずだ。」
「はい。」
「こんな無礼なことといったらないぞ。」
若ものはにっこりして、さも満足そうにもみ手をした。
「同じ無礼でも気転によって救われる場合もある。」サ・チャールズはきびしくいった。「また土百姓ゆえの無作法もある。お前も年をかさねて少し利口になれば、そのあいだの違いが識別できるようにもなろう。」
「その通りでございますよ。」若ものは心からいった。「無礼と申すことの細かい分析は限りなくむずかしいものでございまして、ただわずかに経験と、世に認められた支配階級の人」――ここで叔父に向かって頭をさげてみせ――「の社会においてのみ可能なことでございます。」
サ・チャールズは朝のチョコレートをのんでから一時間というもの、ひどく怒りっぽくなる人だった。そのことはあえて隠そうともしなかった。
「こんなせがれをもって、兄さんも気のどくだな。わしにしてもトリゲリス一家のため、大きくは国家のため有用な人物になることを望んでいたがな。」
「長い眼で見ていただきますれば、これでも……」
「あきあきする経験を正当化できる見こみはまずあるまいな。それよりも来てはならないところへ、禁断の時刻に訪ねてきたのだから、そろそろ引きあげるべきだな。」
若ものは愛想のよい笑顔をみせただけで、一向に帰りそうもない。
「ちょっとお尋ねいたしますが、」と彼はごく普通の調子で話しかけた。「叔父さまは私のカレッジのマンロー校長を覚えておいででしょうか?」
「そんなもの覚えちゃいない。」つっけんどんに答えた。
「ご多用ですから無理もありませんけれど、向こうじゃよく覚えていますよ。きのうあの人と話をしましたが、その際私が軽薄なくせに強情なところのあるのは、叔父さまを思い出さすといっていましたよ。私の軽薄なところはもうお眼にかけましたから、あとはもう強情なところをご覧ねがうだけです。」といって戸口に近いいすに腰をおろして腕ぐみをし、にこにこしながら叔父を見つめた。
「では何か、帰らないというのかね。」サ・チャールズは苦い顔をした。
「ええ、帰りませんよ。」
「アンブローズ、ちょっと階下《し た》へいって強そうな男を二人ばかり呼んでこい。」
「それはお止しになったらどうです。怪我をするといけません。」
「わしはこの手でお前を追いだしてやろう。」
「それならできましょう。叔父さまですから、私は手向かう気はありませんからね。しかし私を階段から突きおとされるまえに、三十分ばかり私の話をお聞き下すってもよくはないかと思うのです。」
サ・チャールズはにっこりした。しないではいられなかったのだ。自分の若いころの行動のなかにも、無礼で多事だった思い出はいくらもある。それにまた思い出への反抗と自己への屈服によって緩和されもしたのだ。彼は鏡に向かって、アンブローズに仕事をつづけるよう合図した。
「とにかくお化粧のすむまで待ってくれなければいかんな。すんだらどんな理由があってこんな時刻に飛びこんできたか、そのわけを聞こう。」
しばらくたって従僕が部屋をさがってゆくと、サ・チャールズは再びやくざな甥《おい》のほうへ注意を向けた。甥はそれまでこの有名なしゃれものが着つけをするのを、まるで秘教の侍僧が秘事をとり行なうのをでも見るような眼つきで、こまかな点まで見まもっていたのである。
「さてと、それでは話を聞くかな。要点だけ話しなさい。わしはほかに大切な用事がたくさんある。今げんにカールトン・ハウスではプリンスがわしをお待ちのはずだしな。話はできるだけ簡単。お前の望みはなんだね?」
「一千ポンドですよ。」
「なになに、それだけかね?」サ・チャールズはまた酸っぱい顔をした。
「それからブリンスリ・シェリダンさんはお知りあいのはずですから、紹介して頂きたいので。」
「なんで紹介なぞいるのだ?」
「あのかたはドルーク・レーン座へ顔がきくと聞いておりますが、私は俳優になりたい希望があるのでして、友人たちも私のことをその方面に、りっぱな才能があるといってくれます。」
「わしはチャールズ・サーフェースそのほかにやけたくせに尊大なことだけが条件のどんなところにいても、お前をはっきり見わけられる。お前は動かなければ動かないほどよい。それにしても、いまいったような道を進むなぞ、もってのほかだ。お前の父上に申しわけがない。すぐにオクスフォードへ帰って、学業をつづけなさい。」
「それができないのです!」
「はて、どんな障害があるのかね?」
「それについては私が昨日校長と会見したことを、さきに申しあげるべきだったと思いますが、結局大学当局としては私を許容できないということになりました。」
「停学を命ぜられたのかね?」
「そうです。」
「してみるとこれはもちろん、久しく悪事をかさねた結果なのだな。」
「それに類することであるのは私も認めます。」
われにもあらずサ・チャールズはここで、この若く美しい厄介ものに、再び気を許しはじめた。この若ものの包み隠しのない率直さが、あら探しをやめさせたのである。話をつづけるにあたって、彼は声までが情け深くなってきた。
「そんな大金が何にいるのかね?」
「大学を出るまえに、これまでの借金を返しておくためです。」
「お前のお父さんは金持ではないな。」
「そうです。ですから父には頼めないのです。」
「それでよく知りもせぬ私のところへ来たというわけか?」
「ちがいます! あなたは私の叔父さまであるばかりか、私の理想でありお手ほんであります。その叔父さまのところへ私はまいったのです。」
「かわいいことを言いおる。しかしな、ヴェリカ、私をおだてて千ポンド出させようと思ったら、あてがはずれるぞ。わしはお前に金は出さない。」
「もちろんおありにならなければ……」
「金がないとは言っとらん。出すのがいやなのだ。」
「おありになるのでしたら、お出し下さりそうなものだと思います。」
サ・チャールズは微笑して、レースのハンカチでそでを払った。
「お前はなかなか面白いやつだ。もっと話を聞かせてくれ。そんな大金をどうしてわしが出すと思ったのかね?」
「私がそう考えた理由は、叔父さまには一千ポンドの値うちのあるご用が、私につとめられると思ったからです。」
サ・チャールズは驚いてまゆをあげ、
「ゆすろうというのかね?」
「叔父さま、」とヴェリカは愉快な厳しさのうちに、「びっくりさせなすってはいけません。私がそんなことをするような血をうけて生まれたものでないのは、よくご承知のはずです。」
「お前が正しいと考えることにも限界があると聞いて、安心しました。考えてみると、今までお前の行動を少しも知らなかった。そこでこんどは私にとって千ポンドの値うちのあることをしてくれようというのだな?」
「はい。」
「してそれはどんなことをしようというのかな?」
「バリモア公を世間の物笑いにするのです。」
サ・チャールズはわれにもあらで、しばし心の平静さを失なった。ひどく驚いて、そのことはありありと顔いろに現われていた。この大学も出ない青二才が、どんな恐ろしい本能によって、公の弱点を発見したのであろうか? 久しいあいだロンドンの社交界における優位に挑戦《ちようせん》しつづけてきたこのもっとも危険なるライヴァルを排除するためなら、何千ポンドでも払う気のあることを、彼は心の奥ふかく秘め、誰にも知られないできたのである。
「お前はこの妙案を携えて、オクスフォードからわざわざ訪ねて来たのかね?」しばらくして尋ねた。
「そうじゃありませんけれど、ゆうべ偶然あの人に会いましたところ、恨みをいだきましたから、かたきを打ってやろうと思うのです。」
「どこで会ったかね?」
「私は昨晩ヴォクスホール遊園へ行きました。」
「なるほど。」
「ところがバリモア公も行っていたのです。牧師風の男がお供についていましたが、聞くところによりますと、この男は牧師なものですか、『ブリキ屋のフーパ』と申しまして、公の用心棒として手向かうものを用捨なく打ちのめすのだそうです。二人は中央通路を歩いてゆきましたが、そのあいだ婦人を侮辱したり、男を威嚇したりしつづけでした。そして私まで乱暴に押しのけてゆきました。私は腹がたって腹がたって、もう少しでその場で問題を解決しようとしたほどです。」
「手出しをせんでよかったな。懸賞ボクサにはかないっこないからな。」
「そうばかりでもあるまいと思います。」
「ははあ、するとお前は優美な芸能のほかに、ボクシングもできるのかね?」
若ものは愉快に笑って、
「母校で私の教授といえば、ウイリアム・ボールさん一人ですが、あの人が私のことをほめてくれたことがありますよ。オクスフォードのペットといったほうが、わかりがよい人ですけれどね。ごく控目にいって、十二ラウンドくらいなら、あの人とやっても私はひけをとりませんよ。しかしゆうべは文句もつけずに、いやなことを我慢しておきましたよ。同じようなことは毎晩あるのだといいますから、やる機会はいつでもあると思いましてね。」
「そのやるというのは、どんなことなのかね?」
「それを詳しく申すのは、まあさし控えておきますが、要するにバリモア公をロンドンじゅうの笑いものにしてやるのです。」
サ・チャールズはちょっと思案して、
「バリモア公に恥をかかせれば、どうしてわしが喜ぶと思うのかね?」
「いなかにいたって、上流社交界の雲ゆきくらい知っていますよ。叔父さまとこの人物との対抗の模様は、社交新聞のいたるところに詳しく出ていますからね。ロンドンの社交界はあなたがた二人のあいだで二分されているのです。この人物に対するちょっとした悪評でも、それが叔父さまのお気に入らないわけがないではありませんか。」
「抜けめなく筋はとおっておるな。」サ・チャールズは微笑して、「まあお前のいうことが一応正しいものとしておこう。それでこの望ましい結果を得るのに、お前はどんな手段を講じようというのかね?」
「あいつのためには多くの女がひどいめにあっているのですとだけ申すに止めておきましょう。そのことは誰でも知っています。もしそういう女が一人でも公けに訴えたら、局外者の同情はたちまちそのほうへ集まって、公の立場は相当みじめなものになることでしょう。」
「してお前はそういう女を一人でも知っているのかね?」
「まあ何とかなると思っています。」
「よし、面白い。そういう計画があるなら、何もわしがバリモア公と怒れる美人との仲にたって、かれこれ仲裁せねばならんことはない。しかしそれだからといって、それが千ポンドに価するものかどうか、この場で約束はしかねるけれどな。」
「その点の審判は、叔父さまにおまかせ致しておきましょう。」
「わしの審判はきびしいよ。」
「けっこうです。私は点をあまくして頂こうとは思いません。しかし私の望みどおりに事が運びましたら、公は今後一年間はセント・ジェームズ街に姿を見せなくなると思います。そこで、よろしければここで叔父さまへの訓令を発することに致します。」
「なに、訓令だと? これはどうしたことだ? わしはこの問題に少しも関係がないのだぞ!」
「叔父さまは審判者ですから、その場にいあわさなければなりません。」
「いあわせたって、手出しは少しもできないぞ。」
「その場にいて下さるだけでよいのです。何もして頂こうというのじゃありません。」
「訓令訓令というが、そう呼びたければ、それでよいとして、その内容は?」
「今晩の九時きっかりに遊園へ来て下さるのです。そして中央通りを歩いてゆきますと、アフロダイト像のそばに飾りつけのないベンチがありますから、そこで休んでいて下されば何かがおこりますから、よく見て頂くわけです。」
「よろしい。その通りにしよう。これでどうやらトリゲリス家を有名にした要素がいくらか分かってきたような気がするよ。」
その晩にサ・チャールズが手綱を馬丁に投げ渡して、背のたかい黄いろな軽四輪馬車から降りたったのは、九時をうち始めたころだった。馬車はそのまま、それぞれの主人を待つ社交界の馬車の長い列に加わるため走りさった。当時ロンドンの遊興と歓楽の中心であった遊園の門をはいってゆくと、サ・チャールズはドライヴ用の短いマントのえりを立て、帽子を目ぶかに引きさげた。これから起こるらしいスキャンダルにまきこまれたくなかったからである。しかしそうまでして顔を隠そうとしたのに、有名なだて男の歩きつきや馬車というものがあるので、多くの人の眼をひき、手をあげて無言のあいさつを送るものも少なくなかった。彼はそのまま歩きつづけて、遊園の中心にある有名な彫像のそばの丸木づくりのベンチに腰をおろし、これからどんな喜劇の幕があくのか、楽しいような不安のうちに、じっと待ちうけた。
遊園の休憩所――そこから小路が八方へ通じているのだが――からは近衛歩兵連隊の楽隊の旋律が聞こえてくるし、木の枝に設けられた色ランプの光で、旋回する踊り手の混乱した姿が見られた。とつぜん音楽がやんだ。カドリールが終りになったのだ。
たちまち近くの中央通りは、底ぬけ騒ぎをする人でごったかえした。淡黄色、プラム色、紺といろいろさまざまに飾りたてた群衆にまじって、町のだてものたちが、腰とはやりのスカートの線も美しく、ボンネットをかざった美人と腕をくんで、行ったり来たりした。
といって上品な人たちというのではない。男たちの多くは赤い顔をしており、騒々しかったが、酒席からまっすぐに来た連中なのだ。女たちもまた負けずに声がたかく、けんか腰であった。娘たちがいっせいに奇声をあげ、そのつきそいの男たちが陽気な笑い声を発するなかに、いやしからぬ若ものたちの一隊がときどきうず巻きをなして突進し、この人ごみをかきわけて横断していった。ここは気取った人や形式ばった人たちの来るところではなく、どんな荒々しさも許されるのだが、ここに集まった人たちのなかには陽気な歓楽の精神があった。
とはいっても、これほど奔放な人たちの集まりにも、その行動には一定の限度というものがあった。飲んで騒ぎながら歩いている二人の通ったあとには、怒ってぶつぶついう声が起こった。いや、二人といったけれども、尊大に無礼をはたらいているのは一人だけで、あとの一人は酔っぱらいに勝手なことをさせる便宜を与えていただけだから、一人の飲んだくれがといったほうがよかったかも知れない。
その酔っぱらいはひどく背のたかい、やせてとがった顔だちの男で、少しのすきもない流行の服装をしており、その顔は酒と思いあがりのため紅潮していた。人ごみのなかをあらあらしく肩で押しわけて歩き、いやらしい笑いを浮かべて女たちの顔をのぞきこんだり、つれの男が弱そうだと見ると、手を出して通りすがりの娘のほおや首にさわり、娘がおそれて身をちぢめると、大きな声で笑ったりした。
それにすぐ続いているのは、お雇いの随行者であり、これは一種の思いあがりと、群衆の先入観へのけいべつから、下品ないなか牧師の服装をしていた。この男が顔をしかめ、けんか腰の眼つきをして前かがみに歩くところは、まるでおそろしい人間ブルドッグのよう、それが着ふるした長い法衣のそでから節くれだった両手を出し、突き出た下あごをゆっくり左右にふりむけながら、悪意ある眼でみなを威嚇しているのだ。こまかに観察した人なら、この男の顔にはもう無気力なしまりのなさの現われているのを見てとったであろう。これは肉体的衰退の前駆的現われなのであって、数年を出でずしてこの男は廃人となり、自分の名さえ口にすることもできず、ロンドン市中の歩道のうえに身を横たえることになるのがおちである。しかし現在のところまだそれほど弱ってはおらず、リングの王者として恐れられ、そのえんぎでもない顔が悪名たかい主人のあとに現われると、あちこちで振りあげられたステッキもおろされ、出かかった罵声も消えてしまい、それに代って、「フーパだ! みんな気をつけろ!」という小さい声があちこちに起こるのだ。それを聞いたものは、そうでなかったら起こったかも知れないもっと悪い状態を、それによってあらかじめ防ぐことができる。ブリキ屋およびその一味の細工でヴォクスホール(ロンドンのテムズ河ぞいの地区、有名な遊園があった―訳者)から手足をもぎとられたり、その他の損傷をうけてどこかへ運びさられた人も多いのだ。
人を人とも思わぬ足どりでのろのろと人ごみの中を歩いていたお雇い壮士と雇い主とは、サ・チャールズの座っているベンチの近くまでやってきた。この付近で路は大きく広がり、円形の空地となっており、あかあかと照明されたなかに、まわりには古びたベンチが配してあった。このときそのベンチの一つから、頭髪を巻毛にしあついヴェールをかぶった初老の婦人が急に立ちあがって、肩で風きって歩くその貴人の行く手に立ちはだかった。そして耳ざわりな声でがなりたてたので、付近のざわめきは急に静まり、みんなきき耳をたてた。
「結婚してやって下され、ご前さま! お願いでござります。ふつつかではござりまするが、このアミーリアをお嫁さんにな。」
バリモア公はあっけにとられた。四方から人が寄ってきて、肩ごしにのぞきこむ。はじめは押しかえそうとしたが、くだんの老婦人が両手を飾りたてた胸にあてて、押しもどしてきた。
「お願いでござりまする。どうぞお見すてなさいませぬよう。うしろに控えたありがたい牧師さまのお勧めをおきき下さりませ。信義を重んずる人として、どうぞこのご結婚を!」
老婦人は片手を出して、ずんぐりした若い女を前へ押しだすようにした。女はすすり泣きながら、ハンカチで両眼を押しぬぐった。
「うるさい!」バリモア公は烈火のごとくに怒ってどなりつけた。「この娘はどこのなにものだ? お前ら二人とも、どこでも一度も見かけたことさえないぞ!」
「アミーリアは私の姪《めい》でござります。ご前《ぜん》さまはリッチフィールドのウッドバイン・カテージでお目にかかりましたアミーリアをお忘れだとおっしゃいますか?」
「わしはリッチフィールドなんかへ行ったことは一度もない!」貴人は声をあららげた。「ありもしないことを申したててかれこれいうと、むちで打ってひどい目にあわせてやるぞ!」
「うるさいですって? これ、アミーリアや!」老婦人は遊園じゅうに聞こえるような大声でやりかえした。「早くご前《ぜん》さまのかたくななお心をほぐしておくれ。ご前《ぜん》さまにお願い申して、そんな悪い娘でないことを分かって頂くのですよ。」
ずんぐりした娘は不意によろめきかかって、くまのようにバリモア公に抱きついた。公はステッキを振りあげようとするが、両腕はぴたりとわきについたままでどうすることもできない。
「フーパ! これフーパ!」娘がキスしようとするらしいので、慌てた貴人はそれを逃げようと首をのばしながら叫んだ。
だが駆けよろうとする拳闘《けんとう》家は、老婦人に行く手をはばまれた。
「奥さん、どいて下さい。どくのです!」といってあらあらしく押しのけようとした。
「まあ! なんという乱暴な!」と叫ぶなり武者ぶりついていった。「この人は乱暴に私を押しのけるんですよ。見たでしょう、皆さん? 乱暴なったらありゃしない! 牧師のくせに! 何です、ちゃんとした婦人に向かって! くやしいから打《ぶ》ってやりたいわ! くやしい、くやしい、くやしい!」
といいざま、その一語ごとに異常なすばやさで彼女の手のひらは懸賞拳闘家のほおを打った。
見ていた群衆は驚いたり、喜んだりちょっとざわめいた。
「フーパ! フーパ!」始末におえず、それでいて色っぽいところもあるアミーリアにますます強く抱きつかれて、ほとほともてあましたバリモア公は、ふたたび泣き声をあげた。
聞きつけたお雇い壮士は、助けにゆこうと押して出たが、老婦人にはばまれた。頭をあとへ引いて左手をのばしたところは、驚いたことに熟練したボクサの仕ぐさにそっくりだった。
懸賞ボクサは粗暴な本性を現わしてきた。女であろうとなかろうと、このブリキ屋の行く手をはばむものがどんな目にあうか、ざわめく群衆に見せてやるのだ。彼女のほうから打ってかかった。よし、それなら目にもの見せてくれよう。さきに手出しをした以上、ただではすまされないのだ。彼はタンカとともに、ライトを大きく振った。するとボンネットにひょいとダックしてその腕をかわし、同時にレフトを振ったので、眼の下にかみそりで切ったような傷ができた。
ぐるっと幾重にもまいた群衆からは、うれしがりと声援がおこった。彼女はにせ牧師のまわりを踊りまわりながら強力な一打がくるとひょいとダックして腕の下をかい潜り、切りかえして巧妙な一撃を加えた。一度彼女はつまずいて、自分のスカートの上にころんだが、すぐに起きなおって立ちむかった。
「卑きょう者!」彼女は一歩とびのきながら、「ふがいない女を打《ぶ》つのですか? これでもくらえ! まあ何という卑きょうな、育ちの悪い男でしょう!」
お雇い壮士のフーパは生まれて初めて、これはという恐ろしい目にあっておじけづいてきた。相手はまるで影のように神出鬼没なのだが、それでも自分は打たれてあごのさきから血がたれているのだ。相手があまりにうす気味わるいので、あきれ顔で大いにひるんだ。そう思ったとたんに、たんかも出なくなってしまった。うまくいっているうちは、何とか出たものだが、こうなっては制止も何もない。群衆のなかには、この雇われ壮士やその雇い主にたいして前から不満をもっていないものはあまりなく、あだ打ちのできる機会を待っていたのである。
激怒にがやがやいいながら、二人をとりまく群衆の輪は縮まっていった。たけり狂う人たちはうずをなし、その中心にいるのはやせて赤い顔をしたバリモア公と、ブルドッグのようなあごをもつフーパであった。と思うと二人とも地上に倒れ伏し、そのうえにステッキが雨あられと打ちおろされた。
「起こしてくれ! これじゃ殺されてしまう! たのむから起きさせてくれ!」あわれな悲鳴が聞こえた。
フーパはブルドッグらしく、無言で奮闘していたが、ついに気を失なってしまった。
あざのできるほど打たれ、けられ、さんざんな目にあった二人は、これほどひどい目にあった者はこの遊園がはじまってから一人もなかったほどである。しかしその傷の痛みにもましてバリモア公の心中は、少なくともあと一週間はロンドン中のあらゆるクラブや客間で、アミーリアともう一人の女のことが話題になり、笑いものにされるのだと思えば、ずきずきと痛んだ。
サ・チャールズは腹をよじって笑いながら、見おろしていたベンチの上に立ちあがった。群衆を掻きわけて、待たせてあった黄いろい馬車まで帰ってみると、その後部座席にはもう二人の女性がおさまって、くつくつと笑いこけているので、驚いてしまった。しかも二人はお供の馬丁もまじえて、少しも婦人らしからぬ態度で当意即妙な応答をしているのである。
「いたずらものめが!」サ・チャールズは手綱をとりながら、顔だけふり返っていった。
二人の女はくすくすと笑って、年長のほうがいった。
「チャールズ叔父さま、こちらはブレーズノーズ・カレッジのジャック・ジャーヴィス君です。これからどこかへ夕食につれて行って頂きたいものですな。何しろ疲れる演出でしたからね。あすご都合がよろしければ、お屋敷へうかがいますが、そのときは千ポンドの受取りを持参いたします。」
旅団長の罪
フランス陸軍にも人は多いが、ウエリントン部下のイギリス軍人が、いつまでも変りない強固な憎しみを抱いたものが一人だけある。フランス軍にも略奪をするものはある。そのほか暴力をふるうもの、ばくちを打つもの、決闘をするもの、遊とうをするものなど、いろいろとある。しかしこれらは何もフランス軍人に限ったことではなく、イギリス軍のなかにもあることだから、何も特に憎悪するにはあたらない。だがマセーナ将軍(ナポレオン部下のフランス元帥―訳者)の部下たるある士官は、言語に絶し、聞いたこともないような忌まわしい罪を犯した。それは夜もふけ、二本めの酒びんがみなの口をほころばせてきてからだけ、毒舌とともに話が出ようというものである。この話はもともとフランスでのことを、イギリスへ持ちかえって語り伝えられたもので、その話を聞いたいなか紳士はもとより戦争の実態をあまり知らぬところから烈火のごとくに憤るし、義勇農騎兵のなかにはそばかすだらけのこぶしをあげて天をさし、長嘆息したものもあった。しかもこの恐るべき行為をなしたのは誰あろう、ほかならぬ我らが友、浮き浮きした馬のりであり、貴婦人たちと軽騎兵六旅団の人気もの、人のよいコンフランの軽騎兵隊の旅団長エティアンヌ・ジェラールその人だったのである。
さて、この話のうちで変っているのは、この勇敢なる紳士が、この憎むべきことをやってのけながら、わが国語のどんなものをもってきても明確に表現はできないような罪を犯すことになるのだとも知らないで、自分を半島(ここではスペイン半島を意味する―訳者)一の不評判男にしてしまったことである。彼も年には勝てず物故したが、何しろ自信過剰で、それが自慢でもあり、そのために評判を悪くした面もあった男のことだから、多くのイギリス人が自分たちの手で締め殺してやりたいほどに憎んでいたとも知らないで死んでいったのである。それどころか彼は、幾つかある世につくした功績とこの事件を同列に考え、みすぼらしいカフェなどでまわりに集まった連中を相手に、得意になって話し聞かせたことも幾度だかしれない。そういうとき彼は、夕食とドミノ遊びとのあいだに、涙と大笑いとの伴奏つきで、フランスが震えあがる大陸(ヨーロッパ大陸―訳者)のまえに悪魔の天使のごとくに、堂々とそしてものすごい勢いで立ちむかった想像もつかないほどの旧ナポレオン時代の様相を物語ったのである。以下彼の話を、独特の見地から独特の語法によって語るがままに耳を傾けることにしよう。
あれは一八一〇年も押しつまってからであったが、我が輩やマセーナ将軍以下のわが軍は、ウエリントン軍を巻きかえして、もう一歩で何もかもテーガス(スペインを東西に流れ、ポルトガルのリスボンで大西洋にそそぐ最大の河。スペイン語ではターホーという―訳者)へ追い落とすというところまできた。ところがリスボンまであと二十五マイルというところまできて、わが軍はだまされていたことが分かった。というのはこのイギリス人が何をしたかというと、トルリーズ・ヴァスラーシュという場所に、大きな堡塁の線を築いて、わが軍に突破できなくしたのだ。この防衛線は半島全体にわたって築造されていたから、わが軍は大いにとまどい、戦況逆転の危険をおかしてまで進撃するものはなかったし、そうでなくてもこの相手が容易な軍でないのは、ブーサコ山の戦闘でいやというほど経験しているのだ。それではどうしたらよいか? ただここで敵とにらみあったまま対立し、敵の進出をおさえるだけしかないのか? わが軍はその地点に六カ月駐留した。そのあいだの不安と辛労は容易なものではなく、マセーナ将軍のごときはあとになって、体毛が一本として白くないのはなくなったといっているほどだ。そこで我が輩何をしていたかというに、戦局のことはあまり気にすることなく、専ら馬の面倒を見ていた。馬は大いに休養を要したし、飼料の心配をしてやる必要もあったのだ。あとは地酒を大いにくらったり、できるだけ気ままに過ごすだけだった。サンターレムに美しい婦人がいてね――いや、これは禁断の話だった。何もいわないのが色男の本分だ。たとえ話すことは山とあってもな。
ある日マセーナ将軍から我が輩をよびにきた。行ってみると彼は大きな地図をテーブルにピンでとめて、テントのなかへ納まっていた。そして刺し通すような片眼で無言のまま我が輩を見つめた。将軍の顔つきからみて、何か重大な話だなと思った。そわそわと妙に落ちつきがなかったが、我が輩の態度を見て、少し元気づいたようだ。勇気のある人物に接するのはよいことだからな。
「エティアンヌ・ジェラール大佐、いつも聞いておるのだが、きみは勇敢で冒険心の盛んな将校なそうじゃな。」
我が輩としてこういう報告を確認するわけにはゆかないが、さればといって否認するのも愚だから、拍車をかちりと鳴らせて、敬礼だけしておいた。
「それに乗馬も手にいったものじゃという。」
これだけは認めておいた。
「また剣客としても六つある軽騎兵旅団で第一じゃという。」
将軍の持っている情報の正確なのは有名だった。
「ところでこの地図じゃが一見して、わしが君に何をやってもらいたいか、すぐお分かりのことと思う。ここがトルリーズ・ヴァスラーシュの防衛線じゃ。この通り広大な地域にわたっておる。しかしこの防衛線も、イギリス軍はここやここなどでその目的をはたせるに過ぎんのがすぐに分かる。ひとたびこの線を突破すれば、あとはリスボンまで二十五マイルの広大な地域がひらけておる。そこでわしのぜひとも知りたいのは、ウエリントンがこの地域の兵の配備をどうしているかという点にある。その点を君に調べてきてもらいたいのじゃ。」
我が輩はこれを聞いて平然としていた。
「はッ、軽騎兵大佐がスパイになり下がるとは、あるまじきことにございます。」
将軍は笑いとばして我が輩の肩をたたき、
「君も短気ものでなかったら、軽騎兵にはならなんだじゃろうな。まあよう話を聞いてくれたら、わしがスパイをやれというたのでないのが分かるじゃろう。ところであの馬をどう思うな?」
と将軍は我が輩をテントの出口のところへ連れていった。そこには一名の追撃兵が、まことにみごとな馬を右に左に乗りこなしていた。連銭《れんせん》あし毛の馬であまり大きくはないが――十五掌《しよう》(馬の高さをはかる単位、四インチ即ち約十センチ―訳者)を少しこえるくらいだろう――顔が短かくてアラブ系らしく首は美しい曲りかたをしていた。肩と腰は筋肉たくましく、それでいて足はすんなりと美しく、見るだけでぞくぞくするほどうれしかった。よい馬と美しい女は、七十回の冬をかさねて血潮の冷えきった今でも、我が輩は見るからに心を動かさないではいられない。それが十年(一八一〇年のこと―訳者)のことだから、どんな思いだったか、ご推察にまかすばかりだ。
「これは軽業馬《ヴオルテイジヨウル》といって、わが軍切っての早い馬じゃ。ここできみに頼みたいのは、今晩出発して敵の側面から潜入し背面を横断し、他の側面から脱出して、配置の状況を報告してもらいたいのじゃ。制服でゆくのじゃから、捕えられることがあっても、スパイとして処断される心配はない。敵の哨兵《しようへい》はごくまばらじゃから、おそらくきみは誰何《すいか》されることもなく敵線を突破できるじゃろう。ひとたび敵の背面へまわれば、昼間なら何ものに出あっても無事に乗りきれるし、道路をさけて歩けば、おそらく誰にも気づかれはせんじゃろう。あすの晩になっても報告がなければ、おそらくつかまったものと見て、ペトリイ大佐との交換を敵に申しいれるつもりじゃ。」
我が輩はこの馬にひらりととび乗って、右に左にその辺を駆けめぐらせたが、それは我が輩の馬術を将軍に見せるのが目的なのはもちろんながら、心中は歓喜にあふれていた。将軍は、いやかくいう我が輩もすばらしく上きげんだった。マセーナのごときは手を打ってはやしたてたほどだ。そのとき、勇ましい馬も勇ましい乗りてを得てはじめて生きてくるものだといったのは、我が輩ではなく将軍だったのだ。それからそのとき三度目に、羽根の前立てとマントのそでをなびかせながら、将軍のそばを駆けぬけるときよく見ると、険しい老顔には適材を選んだという満足のいろを浮かべていた。そこで我が輩は軍刀を抜きはなち、つかを口びるのところへあてて敬礼し、そのまま自分の営舎のほうへ駆けていった。我が輩が特別任務についたという報道は、もうかなりぱっとしていたから、部下のやつらがわっと歓声をあげてテントからとび出してきた。ああ、彼らがどんなに誇らかな気持で大佐どのを出迎えたことか、思えば老眼にも涙が浮かんでくる。我が輩としても、りっぱな部下をもったと、大いに誇りとしているのだ。彼らも勇猛な部隊長をもつ資格は十分だったのだ。
その晩はあらしにでもなりそうだったが、これは大いに好むところだ。もしイギリス軍が我が輩の分遣されたことを知れば、何か重大なことが突発するものと推察するのは明らかだから、出発は極秘に行ないたかった。だからまず馬に水でも飲ませるように、哨兵線までつれてゆかせ、我が輩はあとからついていって、そこから乗ることにした。我が輩は地図と磁石、それに将軍からの命令書をポケットの底に秘め、腰にはサーベルをおびていた。いよいよ冒険へのり出すのだ。
小雨がぱらついており、月は出ていなかった。だから決して快適でなかったのは申すまでもない。だが我が輩は与えられた任務の栄誉と、それをやりとげたときの光栄とを思って心がはずんだ。こんどの任務は、従来のいくつかのそれと積みかさなって、我が輩のサーベルを司令杖《しれいじよう》にかえさせるものなのだ。ああ、我が輩ら青春のバカものどもは、いかに夢み、成功を期して飲んだことか! 六万人のなかから選ばれた人として当夜の我が輩が、一カ月百フランの恩給のもとに、キャベツを作って老後を送るようになると誰が予想し得たであろうか! だが運命の車輪はめぐって止まるところを知らない。諸君、許したまえ。老人には老人の弱味があるのだ。
ところで我が輩の進路は、トルリーズ・ヴァスラーシュの高原を横ぎり、小川を渡って、焼けおちて今は一個の目標たるにすぎぬ農家のわきをすぎて、コルクがしわの林を抜け、イギリス軍最左翼の目じるしたるセント・アントニオ修道院へとたどりついた。ここで道を南方へと転じ、草原の丘陵地帯を静かに降りていった。というのはマセーナ将軍として、この地点こそ見とがめられることなく敵陣を突破するに最適だと見ていたからだ。自分の手も見えないほどの暗がりだから、我が輩はきわめてそろりそろりと進んでいった。こんなとき我が輩はいつでも手綱をはなして、馬に自由に歩かすのだ。ヴォルティジョウルは大胆に歩きつづける。我が輩はその背におさまってあかりを避けながら、四囲を凝視していた。こうして三時間も進んだろうか、ついにいっさいの危険とは縁切りになったと考えられるにいたった。それで夜あけまでに全線の背後を通過したいと思ったから、大いに歩調を早めた。この地方にはブドー畑が多いのだが、これは冬になると葉が落ちてしまい、つるも切りつめられるので、乗馬のものにとってはほとんど障害にならない。
だがマセーナはイギリス軍の奸知《かんち》を少し見くびりすぎていた。というのは彼らの防衛線は一線だけでなく、三線あったのだ。そして第三線がもっとも恐るべきで、このとき我が輩はこれを通過するところだったのだ。これまでの成功に得意になって馬をすすめてゆくと、不意に前方から角灯をさしつけたやつがある。それのみかよく磨いた銃身がぴかりとし、赤い軍服がきらめいたではないか。
「誰か?」とどきんとするような声だ。すぐに右へ切れて、気ちがいのように駆けさせたが、暗いなかから火弾が十幾発、耳もとをかすめて飛んでいった。バカな新兵のように恐れもしないし、かといって好きでもないが、この音にはなれている。だから少なくとも、この音にさまたげられて物を考えていられないということはなかった。それでこれは、けんめいに馬を駆足《ギヤロツプ》させて、どこかうまく安全地帯を求めるしかないと思った。我が輩はイギリス軍の哨点《しようてん》を回避していった。するとそれらに関する声も音もまったく聞こえなくなったので、これは敵線を突破できたのだなと思うようになった。それから五マイルというもの、ときどきほくちの光でポケットの磁石を見ながら、まっすぐに南へ南へと駆けさせた。するととつぜん、声も出さず、馬がぱったり倒れて、我が輩を乗せたまま死んでしまった。
知らないでいたが、さっき歩哨《ほしよう》に撃たれたとき、弾があたっていたにちがいないのだ。勇敢な馬はひるみもせずここまで駆けてきて、ついに命数がつきたのだ。一度はマセーナ軍一の速い、美しく上品な馬にまたがっていたのに、いまそれは横ざまに倒れて、革だけの値だんでしかない。我が輩は途方にくれて、そのそばにぽかんと立っているばかりだ。馬を失なった軽騎兵! 拍車をつけた長ぐつをはいて、サーベルを引きずったこのざまで何ができよう? いまは深く敵中にはいっているのだ。味方の陣内へ帰れる見込があろうか? 我が輩は失望落胆のあまり、死んだ馬に腰をおろして、両手に顔をうずめた。もう東の空が白みかけてきた。三十分以内に明けはなれるだろう。あらゆる障害をのりこえ、いよいよという時になって、敵のなすがままになり、任務は破滅し、自分は捕虜となる――これでは武人の腹わたをえぐるに十分ではないか!
しかし勇気だよ、諸君! いくら勇気のある男でも、こうした弱気になることはあるものだ。しかし我が輩は鋼片のような精神を持っているから、曲げられれば曲げられるほど強く反発するのだ。発作的に失望することもあるが、やがて氷のような冷静さと、火のような情熱がよみがえってくる。まだ万策つきたわけではない。あれだけの危険を乗りきってここまで来られたのだから、もう一つの冒険くらい成功せぬはずはあるまい。我が輩は馬の死体から腰をあげて、どうするのが最善であろうか熟考してみた。
まず第一に、来た道をあともどりできないのはたしかだ。敵の防衛線を通過するずっと前に、夜が明けてしまうだろう。何でも日中はどこかに隠れていて、夜になるのを待って行動にうつるのだ。我が輩はヴォルティジョウルからくらとピストルの革袋、それに馬勒《ばろく》をはずして、そのへんの草やぶのなかへ隠した。こうしておけば、これがフランスの軍馬だということの分かるわけはない。それから馬をそこへ残したまま、日中を隠れてすごせる場所をさがしに出かけた。どっちを望んでも野営のかがり火が見えるし、はやそのまわりを動きまわる人影もある。早くしないと取りかえしがつかないことになる。
だがどこへ隠れたらよいのか? いまいるのはブドー畑で、柱は残っているがつるはなかった。だから隠れるところはない。それにあすの夜までには飲み水や食物も少しは必要だろう。我が輩はなんとかなるだろうと思いながら、うすらぎゆく暗やみのなかを、やみくもに急いでいった。すると効果はあった。機会というものは女性なんだな。だから雄々しい軽騎兵には目をつけるのだ。
さて、ブドー畑をよろめき進むうち、前方に何だかうす気味わるいものがぼんやり見えてきた。大きな四角い家で、別棟《べつむね》の長く低いのが一方に見える。そこは道が三叉路《さろ》になっていて、建てものはポサダ、即ち酒場のついた宿屋であるのがすぐに分かった。
窓には一つも灯火《あかり》がみえず、何もかもまっ暗であたりは静まりかえっていた。だがもとより我が輩は、こんな居心地のよい場所が占拠されないわけはないし、それも何か重要人物がおさまっているのだろうと思った。しかし危地に近ければ近いほど、そこには安全地帯のあるものだから、この隠れ場を去る気には決してならなかった。低いほうの建てものはいわずと知れた厩《うまや》だから、幸い掛け金はしてないし、我が輩はそのなかもぐりこんだ。厩のなかは去勢牛と羊《ひつじ》でいっぱいだった。これはもちろん略奪者の眼をのがれるために違いなかった。屋根部屋へゆく梯子《はしご》があったから、これをのぼって乾し草の俵のうえにらくらくと身を潜めた。この屋根部屋には小さな窓口が一つ設けてあったから、そこから宿屋の前面や道路を見おろすことができた。我が輩はそこにいて、どんなことになるか見ていることにした。
ここが重要人物の拠点になっているのだろうという推定の誤っていなかったのはすぐに明らかになった。夜が明けてからまもなく、一名のイギリス軍りゅう騎兵が至急便公文書をもってやってきたが、それからこの宿舎はてんやわんやの騒ぎになり、士官の出入がはげしくなった。そのたびに口にするのは「サ・ステープルトン」という人名だ。そのたびに宿の主人がブドー酒の大びんを持ちだして、それらの士官を歓待するのを、乾し草のうえに伏して指をくわえて見ているのは、決してらくではなかった。しかしそれらの士官たちの血色のよい、ひげをさっぱりと剃《そ》った、屈託のなさそうな顔を見ていると、こんな近いところに有名な人物が潜んでいると知ったら、どんな顔をするだろうかと、面白くもあった。そうして横になったまま注視しているうちに、とんでもないものを見てしまった。
これらのイギリス軍人の尊大さは、うそのようだった。諸君はウエリントンの御前が、マセーナ将軍にこの線で封鎖され、進撃できないと知ったとき、何をやらかしたと思うね? 我が輩からいろいろと暗示を与えよう。憤怒したというのもよかろう。絶望したというのも一案だ。その他軍を集めて、最後の一戦をやろうというので、軍人の名誉と祖国の将来について一席の訓示を与えたというのかね? みんな違う。そんなことはしやしなかったのだ。そのかわりに船隊を本国へ送って多数の猟犬をとりよせ、部下の士官たちと狐《きつね》狩りをはじめたのだ。これはまちがいのない事実なのだ。トルリーズ・ヴァスラーシュの防衛線の後方でこれらイギリスの気ちがいどもは、週に三日狐狩りをもよおしたのだ。このことは陣地にいるころから聞いてはいたが、今やその事実であることをこの眼で見たのだ。
というのは、いまいったこの道路を、これらの犬がやってくるではないか。白と茶いろのが三四十頭も、みんな同じ角度に尾を立てて、とんと皇帝の親衛隊が銃剣を立てたようだ。まったくのところ壮観だったな。そしてその群れのなかや後方に、とがった帽子に赤い服を着たのが三人、馬でやってくるが、これが狩猟をするのだなと思った。そのあとから、いろんな制服の男がたくさん騎馬で、二三人ずつかたまって何か話しては笑いながらやってくる。みんなだく足《トロツト》以上では走らせないようだが、これでは足ののろい狐ばかりねらおうというのだなと思った。しかし何をねらおうとも彼らの勝手で我が輩の知ったことではない。見ているうちにみんな小窓の前を通りすぎて、やがて姿が見えなくなってしまった。我が輩は何かのチャンスがくるかも知れぬと思い、表を見まもりながらじっと待つことにした。
すると一人の将校が、わが軍の遊撃砲兵に似ないでもない紺の制服を着て、ゆっくり駆けさせてきた。太った中年の男で、白いほおひげがある。この男はそこで止まって、宿屋の表に待っていたりゅう騎兵の当直老士官と話をはじめた。我が輩はこの時ほど、英語をならっておいてよかったと感じたことはない。二人の話がよく分かるのだ。
「肉《ミート》はどこだね?」まえの士官がいったから、ははあやっこさんビフテキにかつえているなと思った。だがきかれたほうはアルタラの近くだと答えたので、ミートは肉ではなく、会合の場所を意味するのだなと思った。
「遅刻しましたな、サ・ジョージ。」老士官のほうがいった。
「そう、軍法会議があったものでね。サ・ステープルトンはもうお出かけかね?」
この時窓の一つをあけて、美しい制服の若い好男子が顔を出した。
「やあ、マレー君、この書類のやつがあったもんでね。すぐあとから行くよ。」
「分かったよ、コトン君。もう遅刻になっているのだから、このまま行ってしまうよ。」
「馬丁に僕の馬を引いてくるように言ってくれないか。」若いほうが窓から頼むと、下の士官はそのまま道路を歩みさっていった。
伝令はどこか離れたところにある厩《うまや》へ馬で出かけていったが、まもなく帽子に前立てをつけたイギリス人の気のきいた馬丁が、手綱を引いて一頭の馬をつれてきた。いや、諸君、イギリスでも一流の猟馬を見ないうちは、馬というものがどこまで完成できるものだか分かるまいよ。この時引かれてきた馬はまったくすばらしいものだった。うわ背はあるしかつ幅はよいし、がん丈でしかもシカのように上品で軽快ときているのだ。いろはまっ黒で、首といい、肩といい、けづめの毛の具合といい、まったく何と形容したらよいか、言葉にはつくせぬほどすばらしかった。そのとき陽がさしてきたが、背なかはまるで黒檀《こくたん》のように美しくかがやいた。そしてひづめをちょっとあげたが、まるでダンスをでも楽しもうとするようであり、たてがみを振ってさももどかしそうにひと声いなないた。これほど力強くて美しく品位のある馬は我が輩も見たことがないほどだった。これまで我が輩はイギリス軍の軽騎兵がアストリア事件のとき、わが軍の軽騎兵の哨兵《しようへい》線をどうやって乗りこえ得たものかと、不思議でならなかったものだが、今こそそのわけが分かったと思った。
宿屋の入口には手綱をつなぐための、環が設けてあった。馬丁は馬をそこへつないでおいて、中へはいっていった。これこそ天の与えたチャンスと我が輩はおどりあがった。このくらにまたがりさえすれば、来たときよりも速く帰ることができるのだ。このみごとな馬にくらべたら、ヴォルティジョウルなんかものの数ではない。考えるということは、我が輩には実行を意味する。あっというまに我が輩は屋根部屋の階段を駆けおりて、表に出ていた。そして二度目にあっというまに、手綱を手にしてくらにまたがっていた。誰だか、馬丁だか主人だか知らないが、うしろで声をたてたものがある。そんな声くらいを構ってなぞいるものか! いきなり拍車をいれて、馬を走らせた。我が輩くらいの乗り手でなければ、とてもできるものではない。馬の頭だけ立てて手綱をゆるめ、あとは走るにまかせた。この宿屋を遠くはなれさえすれば、行きさきはどこだって構うことはないのだ。ブドー畑をまっしぐらに駆けて、またたくまに追跡者を数マイルもひき離してしまった。こんな場所で数マイルもはなれたら、どっちの方角へ逃げたか分かるものではない。もう大丈夫だと思ったから、我が輩は小高いところへ登ってポケットからノートと鉛筆を出し、見えるかぎりの敵陣の様子をスケッチして、付近の略図を書きあげた。
馬はすばらしくかわゆいやつだったが、ときどき両の耳をびんと立てたりゆるめたり、それに走りだそうとしたり、もどかしそうにわなないたりするものだから、乗っていて地図を書いたりするのは容易ではなかった。はじめ我が輩は馬のこの動きを理解できなかったが、そのうちにこれは下のほうのオークの森から「ヨーイ、ヨーイ、ヨーイ」というような、へんな声の聞こえるたびにやることが分かってきた。と思ううちにこの呼び声は、急に恐るべき叫び声に変ってきた。ごていねいなことにそれには、ひどいラッパの音まで加わっている。するとたちまちこの馬は狂ってきた。眼はぎらぎらしてくるし、たてがみは逆だって、地上に跳ねあがり、からだをひねって荒れ狂った。そのため我が輩の鉛筆はあっちへ飛ぶやら、手帳はこっちへ飛ぶやらの騒ぎだ。するうちにふと下のほうへ目をやると、大変なものを発見した。狩猟の追跡が奔流のように下のほうへ向かって行なわれているのだ。狐《きつね》は見えないけれど、犬はたくさん、鼻を地につけるように、尾を立てて密集してほえながら走っているから、まるで一枚の白と茶いろのカーペットが流れているようだ。そのうしろからは騎馬の連中が負けじと追っかけている。いや、その光景といったら! 一大軍団の示し得るあらゆるタイプを考えてくれたまえ。なかには狩猟服を着たものもあるが、大部分は軍服のままだ。紺のりゅう騎兵、赤いりゅう騎兵、赤いズボンをはいた軽騎兵、緑のライフル銃兵、砲兵、金いろの裏地をのぞけている槍《そう》騎兵、歩兵科のものも騎兵のように馬に乗っているからであろうが、赤、赤、赤、大部分が赤ばかりだ。おびただしい数、上手に乗りこなしているのもあれば、へたくそなのもいる。それがみんなできるかぎり早く飛ばしているのだ。中少尉も将官もなく、押しあいへしあい、拍車を使いむちをいれして、この愚にもつかない狐をものにしようと、ほかのことなぞ少しも考える余裕はなく、ただひた走りに走っているのだ。まったくイギリス人なんて、途方もない人種だ。
だがこういったからといって、我が輩はこの場の気ちがいめいた光景に、ぼんやりと見とれていたわけではない。みんな気の狂ったなかにあって我が輩の乗っている馬がもっとも気が立っていたからだ。お分かりだろうが、この馬はもともと猟馬なのだ。この馬にとってあのような犬の叫び声は、我が輩がどこかの通りで騎兵隊のラッパを聞いたようなものなんだ。犬の声は馬を興奮させ、気が立ってきた。またしても馬は前脚たかく空中におどりあがったが、そのうちにはみをかみしめてぐっと躍りだし、坂を駆けくだって犬のあとを追いだしたものだ。我が輩は毒づきながら手綱を引きしぼったが、どうにもならなかった。このイギリス将軍は小勒《しようろく》だけで乗っていたとみえて、馬の口は鉄のように硬くなっている。手綱を引いたくらいで引きとめられるものではない。まるでてき弾兵を酒びんから引き離そうとするようなものだ。我が輩は引き戻すのをあきらめて、くらに納まったまま、なるようになれと覚悟のほぞを堅めた。
これはまあ何という馬だろう! 我が輩も多年馬には乗ってきたが、こんなのをひざのあいだに挟《はさ》んだことは一度もない。一歩ごとに大きなしりの肉がぷりぷりするのだ。そして少しのゆるみもなく、まるでグレーハウンド犬のようにからだを伸ばして、矢のように走ってゆくから、我が輩は顔もあげていられないほど風があたり、耳もとでひゅうひゅう音をたてた。そのとき我が輩は通常軍装を着ていたが、これは簡単な黒っぽいもので――どんな制服でもはっきり区別できるように特徴があるものだが――用心のため帽子の長い前立てをはずしておいた。その結果ここで狩猟の仲間に加わっても、とくに人の眼を引くようなところはなかった。そうでなくても狩猟で夢中になっているこれらの連中が、我が輩に留意するわけがないのだ。自分らの仲間にフランス軍の士官が加わっていようなどいう考えは、てんではいってくる隙《す》きもない。駆りながら我が輩は思わず笑ってしまった。じっさい危険といえばたしかに危険のまっただなかにいるわけだが、それでも考えてみると何となくこっけいでもあった。
狩猟会の連中の乗りかたがひどくふぞろいなことは前にもいった。だから数マイルも飛ばしてゆくうち、彼らは突撃連隊のように一団にならないで、早いものは犬のすぐ後を走っているし、おくれたものはずっと後を行くといった具合で、かなりばらばらになってしまった。さて、我が輩も騎手としては何ものにも引けはとらないし、馬はどの馬にも譲らぬすぐれた馬だし、先頭をきるまでには何程もかからなかった。はじめ猟犬どもが一団になって広い見晴らしの場所を駆けてゆき、そのあとから赤い服の騎馬の猟犬係がつづいていたが、そこから我が輩までには七八騎いるばかりだ。するとその時妙なことが起こった。というのは我が輩エティアンヌ・ジェラールまで気が狂ってきたのだ。あっという間のことだった。このスポーツ精神、勝ちたいという欲望、狐《きつね》のやつめへの憎悪。いまいましい野獣のやつめ、われわれ人間に挑戦《ちようせん》しようというのか? のろわれた狐め、最後がきたのだぞ! ああ、何という気持! 狐のやつを馬に踏みつぶさすこの気持! やっぱりスポーツだな! というわけで我が輩はイギリス人にまじって狐を追っかけたものだ。それからまた、これはいつか話して聞かせるが、我が輩はブリストルのバスラとボクシングをやったことがある。スポーツというやつはすばらしいものだね。面白くもあるが人を熱狂さすものだ。
なおも馬を走らせてゆくと、猟犬のすぐあとについているのは三人だけになった。こうなったら見つかりはしまいかという心配なんか、どこかへふっ飛んでしまった。頭はかっとするし、全身の血がわきかえった。この世に生きてかいあることはただ一つ、この狐のやつに追いつくことだけのように思われた。一人の騎手を追いぬいた。我が輩同様に軽騎兵だった。あとは二人だけだ。先頭をゆくのは黒い服を着ているし、もう一人は紺の砲兵服を着た男で、これはさっき宿屋で見たことがある。白毛のほおひげを風になびかせているが、馬術はなかなか巧みだった。一マイルかもっとはこの順序で進んだが、土地が急な登り坂になったので、体重のない我が輩はたちまち二人をぬいて先頭に出てしまった。そして坂を登りつめたときは小男で人相の悪い猟犬係と並んでしまった。前にいるのは一群の猟犬だけで、その百歩ばかり前方に一握りの茶いろのものが飛んでいるばかり、これが極度にからだを伸ばして走っている狐だった。それを見ると我が輩の血はわいた。「さあ、もうのがさぬぞ! 覚悟しろ!」叫ぶなり、まかせておけとばかり猟犬係に手を振って見せた。
あと獲ものとのあいだを走っているのは犬だけになった。犬の役目は獲ものの所在を示すだけにあるのだから、今はむしろ邪魔だった。どうやって追いこしたらよいか分からないのだ。猟犬係もこの点は同じだとみえて、犬のあとから乗ってゆくばかりで、いっこう獲ものには近づけなかった。よく乗ることは乗るけれど、工夫がたりないのだ。では我が輩はどうかというに、これしきの困難にうち勝てないようではコンフランの軽騎兵の名を恥ずかしむるものだと思った。エティアンヌ・ジェラールともあろうものが、一団の犬くらいに阻まれてなるものか。愚にもつかぬことだ。我が輩は声をあげて、拍車をいれた。
「しっかり! しっかりつかまってなさい!」猟犬係から声がかかった。
この善良な老人、我が輩のことが不安なのだ。だが我が輩は手を振り、微笑をもって安心させてやった。前面の犬は道をあけてくれた。一頭か二頭は傷ついたかも知れない。だがオムレツを作るためには卵も割らなければならないのだ。猟犬係がうしろから我が輩の進出に祝意を表する叫声が聞こえた。もうひと息だ。犬はみんな追いぬいてしまった。前方を走るのは狐《きつね》だけになった。
そのときの喜びと得意さ。狐狩りは元来イギリスのスポーツなのに、そのイギリス人を負かしてしまったのだ。ここに三百人の人間が一匹の動物のため眼のいろをかえているのに、そいつをフランス人である我が輩が手に入れようとしているのだ。我が輩はわが軽騎兵旅団の戦友のうえを思い、母を、皇帝を、祖国フランスのうえを思った。我が輩はそれらのどれにも名誉をもたらしたのだ。刻一刻と狐に近づく。いよいよ手を下すときがきたと思い、まずサーベルを抜いた。そしてそれを高く振ると、勇ましいイギリス人どもは一様にかっさいの大声をあげた。
その時になって初めて我が輩は狐狩りのむずかしさを知った。切りつけても切りつけても、サーベルが狐にあたらないのだ。何しろからだが小さいし、すばやく剣をかわしてしまうのだ。サーベルの一振りごとに、うしろから喚声があがった。そしてもう一太刀《た ち》とはやしたてる。だがついに勝利は我が輩のものだった。身をかわそうとするところを、またしてもバックハンドできれいに仕とめたのだ。ロシア皇帝付武官を殺したのと同じ手法だった。胴体がまっ二つに切れて、頭としっぽとべつべつのほうへ飛んでいった。我が輩は振りかえって、血によごれたサーベルを高くあげて振ってみせた。我が輩は大得意であった――すばらしい!
ああ、我が輩がこれら雅量ある敵将兵の祝辞をうけるため、この場に待ちうけることをいかに望んだか! いま見えているだけでも五十名はあるだろうが、一人として手を振り歓呼の声をあげていないものはない。イギリス人て必ずしも鈍重沈着な人種ではない。戦争でもスポーツにおいても、勇敢な行動は常に彼らの胸底に熱いものをもたらすのだ。老猟犬係だが、彼は我輩にもっとも近いところにいたから、いま見たことにいかに感動しているか、この目でしかと見届けることができた。彼はからだがしびれでもしたように、口をぽかんと開けたまま、手は指をひらいたまま、ただ高くあげている。しばしがあいだ我が輩は、ちょっと引きかえして抱きしめてやりたいほどに思ったが、さきほどから任務のことが気になりだしているし、スポーツのうえではいくら友情を示したといえ、このイギリス人どもは真相を知ったら我が輩を捕虜にするのは当然だと思った。そうなったら任務をはたすどころではなくなる。しかも我が輩としてはできる限りの努力はしてきたのだ。いまやマセーナ軍の前線はあまり遠くないところに見えている。というのは運よくも狐を追う方角がそうなっていたからだが、そこで我が輩はサーベルをあげて一礼すると、狐の死体を見すてて、ギャロップで馬をべつのほうへ走らせた。
だが勇敢な猟人たちは、そうやすやすと我が輩を見のがしはしなかった。こんどは我が輩が狐になったのだ。追跡は平野のうえに華やかにくりひろげられた。我が輩がわが前線に向かって駆けだしたときになって初めて、彼らはフランス人と知ったのだ。いまは一団となって追っかけてくる。このままゆけば味方も敵も我が軍の小哨の着弾距離のなかへはいってしまう。と思ううちに彼らは三々五々群をなして馬をとめたけれど、そのまま帰ってゆくことはせず、大きな声をあげて我が輩を呼び、手を振ってみせた。いや、敵意とか憎悪をこめたものとは思わぬ。そんなことよりも彼らは賞賛の情が胸にあふれ、敵中にあってかくもみごとに、勇ましく行動した異邦人をやさしく抱きしめたかったのだと思う。
ブローカスの暴れん坊
その年――一八七八年のことだが――中南部地方の義勇農騎兵はルートンの付近へ出ていたが、大がかりな野営の全員の最大の関心事は、近く起こることのあり得べきヨーロッパ戦争に備える問題ではなくて、軍馬係りの軍曹《ぐんそう》バートンを相手に十ラウンドを闘《たたか》いうるものを、いかにして求めるかにあった。「強打」のバートンの体重一九六パウンド(約八八キロ―訳者)は骨と筋肉とからなり、左右の手の平打ちはたいていのものを気絶さす力を秘めていた。彼のためにはどこかで好敵手を見つけてこなければならない。さもなければ彼の頭はしぼんでしまって、騎兵のヘルメットもかぶれなくなってしまう。そこでサ・フレッド・ミルバーン――というよりこの人はもぐもぐ屋といったほうが分かりが早いのだが――はロンドンへ派遣され、けん闘の同好者のなかに、胆力のすわった騎兵の連中の鼻っぱしらをへし折りに、出張してもよいという男がありはしまいか、さがして来ることになった。
当時懸賞けん闘界にはよからぬことが続いていた。ふるくからあった素手の試合は、スキャンダルや不面目のうちに衰微していた。賭《か》けをこととする弊害の多い群衆によって窒息せしめられ、機会あらば動きだして、まじめに試合をしようとする者に不名誉と破滅をきたそうと待ちかまえているのだ。まじめに試合をする者にとっては、つつましやかながら一個のヒーローなのであって、いまだかつて一度も引けをとったことはないのだから迷惑なはなしだ。スポーツを見るのを愛好して集まってくる正直な観客は、いつも悪人どもに扇動せられてばかりいる。もともと技術的には非合法なのだから、その扇動をはねかえす力はなかった。彼は街頭で衣類をはぎとられ、財布を奪いとられるのだ。抵抗でもしようものなら、頭を割られてしまう。リングサイドへ行くには、こん棒なり狩猟用のむちなりを使ってそこまでの道を切り開いて行く覚悟がいるのだ。いうまでもなく、今や伝統的スポーツは一文なしの連中だけによって支えられているのだ。
他面、まだ貸切りのビルやグラヴをはめての合法的試合の時代ではなく、闘士に対する人気も、へんな間接的な方法で盛りあがっていたのだ。それを取締る手段はなかった。といって禁止してしまうわけにもゆかない。なべてのブリトン人にとって、これほど直接な、強力な魅力あるものはなかったからである。だから厩《うまや》だとか納屋《なや》などでつかみあいの闘争が行なわれるとか、急いでフランスへ行ってくるとか、いなかの寂しい地を選んで暁の秘密会合が持たれるとか、すべてのことが逃避的に、また実験的に行なわれていたのである。取巻き連中もそうであったが、本人たちがそれでは満足できなくなった。もはや公開の公正な試合というものはなくなってしまい、大言壮語するものが番付のトップに立つことになる。そのとき大西洋を渡ってジョン・ローレンス・サリヴァンが現われ、前時代の最後の人たり、新しい時代の前駆をなすことになったのである。
四囲の状況がそうであったからスポーツ好きの農騎兵大尉は、ロンドンへは来たものの、どこのボクシング・サロンをのぞいてみても、スポーツ好みの酒場をさがしてみても、大柄の軍馬係り軍曹《ぐんそう》の相手のつとまりそうな男を見つけるのは容易なことでなかった。まず第一にヘヴィ・ウエイト(一七五パウンド以上―訳者)という条件がある。でもとうとうケント州のある町で発見したアルフ・スティーヴンズというものに白羽の矢を立てた。すばらしい新進のミドル・ウエイト(一四七―一六〇パウンド―訳者)で、いまだかつて負けたことがないばかりかチャンピョンにたいして挑戦の資格すら持っているのだった。恐るべき軍馬係りとの体重の差のごときは、プロとしての経験と技巧とによって確実に切りつめられるだろう。こういう希望のもとにサ・フレッド・ミルバーンはスティーヴンズと契約し、足の速いうす墨いろを二頭つないだ二輪馬車によって農騎兵の野営地へつれてゆくことになった。二人はある日夕刻に出発してグレート・ノース街道を飛ばし、セント・アルバンズに一泊して、翌日は目的地へ着くはずであった。
懸賞けん闘士のアルフはゴールデン・クロスでスポーツ好きの准男爵(世襲位階の最下級でナイトの上、名のうえにサをつけて尊称とする―訳者)にあった。そばには馬丁のベーツがはりきった馬の口をとっていた。アルフ・スティーヴンズは顔いろの青白い、目鼻だちのすっきりした若もので、雇い主とならんで馬車におさまり、集まってきたスポーツ好きの連中に別かれの手を振った。粗末な服にカラもつけていない荒っぽい連中である。「幸運を祈っているぞ、アルフ!」馬丁が馬の口をはなし、急いで後へとびのくと声がかかり、馬車はそのまま行進をはじめ、やがて角をまがってトラファルガ・スクェアへ見えなくなってしまった。
サ・フレデリクはオクスフォード街からエッジウェアにかけての交通のはげしい通りを巧みに縫い進むのに忙しくて、ほかのことを考える余裕はなかったが、ヘンドン近くでいなか道へかかり、左右ともレンガ建ての住宅の連続だったのが、いけがきに変るようになると、手綱をゆるめて馬を自由に走らせ、並んで腰かけている若ものに注意を向けてきた。もともとこの若ものを発見したのは、手紙で推薦されたからなのだが、こうしてそば近く吟味してみると、多少の好奇心なきを得なかった。薄暮はもう始まっているし、灯火はほの暗かったが、それでも准男爵にはよく見えるので満足だった。これは全身これ闘士だ。すっきりした顔だちに厚い胸、長くてまっすぐなほおに落ちくぼんだ眼、そこには強力な勇気があった。何よりも大切なことは、この若ものはこんど初めて雇われたのであって、まだ相当の自信を抱いているのだが、その自信も一度で負けたとなるとぐらつかざるを得なかろう。准男爵はこんなおみやげを持って帰ったら、軍馬係りの軍曹がどんな顔をするだろうかと思うと、思わず笑いがこみあげてきた。
「君はいまでもどんな方法でかトレーニングをやっているのだろうね、スティーヴンズ君?」
「はい、生涯けん闘をやるようにできておりますで。」
「そうだろうな。私もそう見ておる。」
「生活はいつでも規則ただしくやっておりますが、このまえの週末にマイク・コナと闘うはずで、百五十八パウンド(約七十一キロ―訳者)まで減量しました。すると向こうが違約金を払って解約してきました。いまコンディションは最高です。」
「それは運がよかったな。何しろ相手は百八十パウンド(約八十一キロ―訳者)に六フィート四インチ(約百九十三センチ―訳者)のからだでのしかかろうって男だからな。」
「あっしゃもっと大きいやつだって相手にしたことがありまさあ。」
「ふーん。しかしそればかりか、こんどの相手は勝負師だからな。」
「まあ、全力をつくしてやるだけでさあ。」
准男爵はこの若いけん闘士の慎みぶかい、それでいて自信ありげな態度が気にいった。そしてふと面白い考えが浮かんだので、からからと打ち笑いながら叫んだ。
「うんそうだ! 今晩あたり暴れん坊が出てくれたら面白いんだがな。」
アルフ・スティーヴンズは聞き耳をたてた。
「誰のことをおっしゃるんで?」
「みんながそういって尋ねるんだよ。あるものは見たと答えるし、あるものは作り話だという。しかしまったく実在の人物で、すばらしい拳《こぶし》を持っており、みごとにその跡をのこしてゆくというりっぱな証拠がある。」
「それでどこに住んでいるんですかい?」
「この街道にだよ。フィンチリとエルストリのあいだと聞いている。二人いてね、満月の晩に出てきて、通行人にグラヴを使わない旧式での勝負を挑《いど》むのだ。一人が声をかけて、あとの一人が試合をするのだ。しかし事実は二人とも闘えるものと考えられる。ある朝、顔をずたずたに切られた男たちがうつ伏せに倒れているのが発見された。暴れん坊がやったのに違いない。」
アルフ・スティーヴンズはこの話がすっかり気にいったようだった。
「あっしはかねがねグラヴを使わない旧式のけん闘がやってみたいと思っていましたが、ついそのおりがなくてねえ。グラヴを使うのよりあっしには持ってこいだと思っているんです。」
「じゃ暴れん坊が出てきたら、一戦やってもよいというんだね?」
「よいどころか! そのためなら十マイル離れていようと出かけますよ。」
「ほう、そりゃ豪勢だ! ところで今夜は満月だし、場所はどこかこのあたりのはずなんだがね。」
「お話のようなりっぱな人物なら、リングへ出してやるべきですよ。それともただのアマチュアで、そんなことをして面白がっているだけなら話はべつですがね。」
「どこかこのへんの宿屋の馬丁か、それとも調教所の競馬狂だろうというものもある。競馬のあるところにボクシングはつきものだからな。この話は納得したとして、この人物についてはまだまだおかしな、何とも得心のゆかないところがあるのだが、おや! 気をつけろ! 畜生! 気をつけろ!」
准男爵は驚いたのと怒ったので金切声をはりあげた。街道はこのあたりで盆地への下り坂になり、木がしげっているので、夜見るとまるでトンネルの入口のようだった。坂を降りきったところに大きな石の柱が二本立っており、昼ま見るとそれは苔《こけ》に被われ風雨にさらされて、どちらにも紋章らしいものがついているのだが、何しろ年代を経ているので、いまはただ石の柱らしいというにすぎない。その石柱に上品なデザインの鉄門が、ガタガタのちょうつがいでゆるく取りつけてあり、これぞブローカスの古館《ふるやかた》の栄華のなごりであった。ここから古館の玄関まで、並木の広い道がつながっていたのだ。この古門のあたりの暗がりから現実の人物がとつぜん姿を現わし、街道の中央へ出てきて、いとも巧みに馬の鼻をとり押さえたのである。馬は後脚でおどりあがり、前脚で空《くう》をひっかいた。
「やい、やい、ロウ、てめえこのやせ馬を押さえていてくれんか?」耳ざわりな金切声だった。「どこへ行く気だか知らねえが、そのまえにおれはこのぜい沢な遊び人《にん》に少し話がある。」
第二の男が暗がりからとび出して、ものをもいわずに馬の口を押さえた。背の低いずんぐりした男で、ひだの多い妙な格好のオーバを着ており、ひざまであるそのオーバの下にはゲートルをつけて深ぐつがみえていた。帽子はかぶっていなかったから、馬車の側灯まできたとき見ると、無愛想な赤い顔をしており、ひげのない下口びるが妙に醜く、その下に黒いネクタイをしているのが、馬車の二人には分かった。
この男が馬の革具に手をかけると、より活気のあるその相棒の男は、躍りだして節くれだった片手を泥よけにかけ、灯火《あかり》を顔いちめんに受けながら、鋭い青いろの眼で二人の旅人をにらみつけた。このほうは帽子を目ぶかにかぶっているが、それでもまともに光《あか》りを受けているので、顔はよく見えた。思わず縮みあがるほどの恐ろしい顔で、ごつごつしており、鼻はたかく、口もとには泣きごとなぞいわぬがん固なところがあった。年のころは、これだけの顔をしているのだから、からだはよく利くだろうし、一面十分世故にたけているなということしか分からなかった。冷やかで凶悪な眼はまず准男爵をゆっくり見てから、一転して隣の若い男のほうへ移された。
「ロウよ、これはおれのいった通りやっぱりすばらしい遊び人《にん》だ。」横を向いて肩ごしに相棒へ声をかけた。「だがこっちのやつはものになるな。水車場で働いているやつでさえなけりゃ、そうあるべきだろう。いずれにしても、さっそくやらかすとしようよ。」
「おいおい、お前はどこから来た男だか知らないが、無礼だぞ。」准男爵ミルバーンがやりかえした。「このむちでその面《つら》をひっぱたいてやろうか!」
「たわごとをいうのはやめてもらいてえ。そんな口のききかたをすると、ただじゃおかねえぜ。」
「お前のことはやり口まで聞いて知っている!」軍人が怒って叫んだ。「天下の公道でおれの馬を停めたかったら方法がある。こんどばかりは相手が悪かったようだ。いまにそのことを思い知らせてやる!」
「ご随意にというところだ。どうせ別かれるまでには、お互いに何もかも分かることだ。どっちでもいいから降りてきて、やっつけられないうちに、早く手をあげたらよかろう。」
スティーヴンズはひらりと馬車から飛び降りて、
「一戦を交えたきゃ、ちょうど打ってつけだ。こっちはそれが職業《しようばい》だからな。あとになって、こんなはずじゃなかったなんて言うなよ。」
相手はうんと満足そうにうめいて、
「おれのこの胸を打ってみろ! おい、これはやっぱり水車場のあんちゃんだぜ。こりゃなまくらじゃねえ。ほんものだとも。よう、お若えの、今晩は親方に行きあったのだぜ。ロードモア公がおれにむかって何といったか、聞いちゃいねえだろうな? お前をたたき伏せるには特別仕立の男でなきゃだめだ。ロードモア公はこういったのだぜ。」
「あれはブルというものの現われる前のことだった。」馬のかしらにいる男が初めて口をきいた。
「むだ口をたたくのはよせ。ブルのことをもう一言《こと》でもいってみろ、ただはおかねえから。なるほどあいつは一度だけおれに勝ったこともある。こんどどこかで出会ったら、こっぴどい目にあわせてくれる。ところでお若えの、おれをどう思うね?」
「相当のものだと思うよ。」
「相当たあ何が相当なのかね?」
「あつかましいというかね、こけおどかしというか、とにかくなま意気だよ。」
スティーヴンズのこの言葉は知らぬ男のうえに妙な効果をきたした。ももをたたいて馬のいななくような笑い声をたてたのである。しわがれ声の仲間もそれに雷同した。
「こけおどかしとはうまいこといったな。」背の低い男である。「なま意気とは気にいった。月はいいが、雲が出てきた。ランプの使えるうちは使ったほうがよかろう。」
この話のあいだ准男爵は驚いて、つのりくる驚きのうちに、知らぬ男のすることを見ていた。見れば見るほど、これはどこかの厩舎《きゆうしや》に関係のある男に違いないと思った。それにしてもこれはいかにも風変りで古風である。毛あしの長い海狸《かいり》皮製の、黄いろみをおびた白のシルクハットをかぶっているが、てっぺんがふくらんで、つばが波うっているから、これはどこかの四頭だて馬車の御者の好みだ。着ているものは胴の短いうす茶いろの燕尾服《えんびふく》で、鉄のボタンがつけてある。前ボタンをはずしているので、しま絹のチョッキが見えており、淡黄色のもみ皮製の半ズボンの下には紺のくつ下をつけ、浅いくつをはいている。その姿は針金のようにしなやかで活動性があったが、どこか角ばってたくましさがあった。このブローカスの暴れん坊はたしかに変った人物である。若い騎兵士官は、この旧世界の妙な人物の現われたこと、それが有名なロンドンのボクサからどのように打ち負かされたかのみやげ話を持ち帰ったら、どんなにか受けるだろうと思うと、思わず笑いがこみあげてきた。
馬を預かっている馬丁のビリは、がたがた震えて汗だらけになっていた。
「こちらへ。」ふとった男が門のほうへ動きだしながらいった。ぼろぼろに砕けた石柱があったり、木が頭のうえに生いしげっていたり、暗くてうす気味わるい場所である。准男爵もボクサも見るからにいやな気がした。
「それでどこへ行くのかね?」
「ここは試合なぞする場所ではない。」ふとった男がいった。「この門のなかに、見たこともないようなすばらしい場所がある。モールジの森なんか比べものにもならない。」
「おれは街道のうえでたくさんだ。」スティーヴンズがいった。
「しんまい男なら、ここでたくさんだが、お互いのような一流人となると、そうもゆかないて。」シルクハットの男がいった。「どうだ、お前は平気かい?」
「お前のようなものなら、十人かかってきたって平気だよ。」スティーヴンズがびくともしないでいった。
「よし、じゃおれといっしょに来て、正当に勝負しろ。」
サ・フレデリクとスティーヴンズは顔を見あわせた。
「よしッ、やるとも。」
「じゃ来い。」
四人は門をはいっていった。うしろでは暗いなかで馬が足をふみならし、後脚で立ちあがったりするのを、馬丁のとり鎮める声がした。草の生いしげる馬車道を五十ヤードばかり進むと、案内者は右へ曲って木の繁るなかへつれこんだ。やがてその木がなくなり、円形にひらけた草地へ出た。月が明るい。向こうは土手になっていて、そのさきに小さな石柱のあるサマ・ハウスがあった。かわいらしいジョージ王朝(一七一四―一八三〇年―訳者)の建物である。
「わっしが何といった?」ふとった男が得意げにいった。「ここから二十マイル以内に、こんなうってつけの場所があると思うかい? ここはそのために作ったものだ。さて、トムよ、そろそろ用意にかかったらどうだ。早いところお手なみ拝見とゆこうぜ。」
何もかもが異常な夢を見ているようであった。見知らぬ男たち、その異様な服装、奇妙な話しぶり、月光をあびた円形の草地、石柱のあるサマ・ハウスなどが、何かしら夢幻的な空気をまとめあげていた。そのなかにあって准男爵を平静にたちかえらせたのは、寸法の合わないツイードの服を着ているアルフ・スティーヴンズの姿と、ごくじみなイギリス人風のその顔だけであった。やせたほうの男は帽子をとり燕尾服の上衣をぬいだかと思うと、絹のチョッキ、さらにシャツまで太った男にぬがせてもらった。スティーヴンズは平然と落ちつきはらって、敵と調子をあわせて身ごしらえをしていった。準備ができると、二人は向かいあって立った。
だがスティーヴンズは、向かいあって立ってみてはてこれはと思い、つい声までたてた。帽子をぬいだので敵の頭部がまるだしになったわけだが、この男の前額部はへこんでいる。短かく刈りこんだ頭部と太いまゆとのあいだが、横一文字に幅ひろく赤くへこんでいるのである。
「うーむ、この男はどこが悪いのだ?」スティーヴンズはうめいた。
相手は落ちついたなかにも、かっとなったらしい。
「自分の頭に気をつけろ。気をつけてよかったと思わせてやる。おれのことなんかに構うな。」
これを聞くと太ったセコンドは、しゃがれた笑い声をたてて、「そうだ、そうだ。よくいったぞ、トム。月とすっぽんほどの違いがあるんだからな。」
トムといわれた男は、天然のリングの中央に立って、両手をあげていた。服を着ていてもなかなか大柄の男にみえるが、こうして服をぬぎすてたところは、いっそう大きく見え、たるのような胸、はすかいに傾いた肩、ゆるやかに筋肉の張っている腕などは、このゲームには理想的のものだった。奇形の額の下にある両眼を不気味に光らせ、きゅっとむすんだ口もとにうす笑いを浮かべているのも、かえって気味がわるい。実をいうとスティーヴンズはこの相手に近づくにつれて、こんな恐ろしい男を相手にするのは初めてだと思ったほどだった。しかしすぐに、胆力のすわった彼は、今までおれに勝った男は一人もないのだと思いなおした。そして負けずに微笑を浮かべ、両手をあげて身がまえた。
しかし続いて起こったことは、まったく経験にもないことだった。レフトですばやく打つふりをしておいて、ライトでスイングを送ってきたのである。それが何とも早くて強く、スティーヴンズは避けるひまもなく、つづいてのしかかってきたので、からくも怪しげなジャブを出しただけだった。かと思うと相手は骨ばった両腕でからみついてきて、そのままレスリングの腰投げのようにいったん空中へ抱きあげ、草のうえにどさりと落した。そしてスティーヴンズが怒ってまっ赤になりながら、何とか立ちあがるのを、相手は一歩さがって腕ぐみして見ていた。
「おい、おい、こりゃ何の試合だ?」
「反則だぞ!」准男爵もわめいた。
「何が反則なものか! きれいな投げわざだ!」太った男がやりかえした。「お前はどんなルールで試合をするつもりだ?」
「もちろんクイーンズベリ・ルール(一八六七年同人が起草した―訳者)だ。」
「そんなもの聞いたこともねえ。こっちはロンドン職業けん闘ルールだ。」
「じゃ、さあこい!」スティーヴンズは烈火のごとくに怒ってどなった。「ルールなんか何でも構わない。二度とその手は食わないぞ!」
まったくその通りだった。その次に相手がとびこんできたとき、スティーヴンズはしっかり抱きついてしまい、しばらくもつれあっていたが、こんどは同体に倒れた。こんなことが三度つづいた。そのたびに相手は太ったセコンドのところへ歩いてゆき、草の土手に腰をおろして休んでから試合をつづけた。
「この男をどう思うね?」そういう休止のとき准男爵がきいた。
スティーヴンズは耳から血をだしていたが、ほかには異常のところはなかった。
「よく知っていますな。どこで覚えたのだか知らないけれど、とにかくどこかで相当練習を積んでいますよ。顔つきはあの通りですがライオンのように力があって、打っても板のように手ごたえがありませんね。」
「とにかく接近しないでいるがよい。そうすれば負けることはあるまい。」
「さあ、どうでしょうか。とにかく全力をつくします。」
死にもの狂いの闘いであった。ラウンドを重ねるにつれて驚きあきれている准男爵にも、これが容易ならぬ好敵手であることは分かってきた。相手は出るのも引くのも実に巧妙で、そのたびに素早く一撃を加えてくるから、これは恐るべき好敵手だった。頭でもボディでも、打っても打ってもまるで無感覚のようで、口もとに浮かべた気味わるい微笑は、一刻といえども消えなかった。こぶしは火打ち石のように硬くて、それをあらゆる角度からびゅんびゅん打ってきた。とくに恐るべきはあごへのアッパーカットで、彼は一度ならずそれをほとんど命中させたが、ついにガードをはねとばしてしたたかに打ち、スティーヴンズをダウンさせた。それを見ると太った男は勝利の歓声をあげた。
「やったぞ、やったぞ! まるで赤子の手をねじるようなもんだな。もう一つやれば参っちまうよ。」
「これは少しすぎたようだな、スティーヴンズ。」と准男爵はスティーヴンズを支えてやりながら、「途中の道ぐさでたたきのめされたようなお前をつれて帰ったら、連隊じゃ何というだろう? もうこのくらいでこの男と握手して勝負を切りあげないと、かんじんの試合にさしつかえるね。」
「勝ちをゆずるのですって? あっしはいやです。」スティーヴンズはぷりぷりしている。「あの野郎うす笑いなぞ浮かべやがって! あいつを打ちのめして、泣きべそかかしてやらないじゃ!」
「それで軍曹のほうはどうするのかね?」
「この野郎に負けるくらいなら、いっそこのままロンドンへ帰っちまいたい。軍曹なんざどうなったって構うことじゃない。」
「どうだ、もうたくさんか?」このとき相手が土手から立ちあがりながら、冷笑するようにいった。
答えるかわりにスティーヴンズはいきなり躍りだして、残っていた力をふりしぼってラッシュしていった。ために相手はたじたじになり、たっぷり一分間はすっかり制圧されてみえた。しかし鉄の肉体をもつ彼は少しも疲労しなかった。ステップは素早く、強打は最後までゆるむことがなかった。スティーヴンズのほうがかえって疲れて、弱ってきた。相手は少しも弱ったところがない。ステップは敏活だし、打撃も最後まで少しも衰えをみせなかった。疲れとともにスティーヴンズの動作にはゆるみが見えてきたが、相手には少しもそれがみられなかった。それどころか猛烈な打撃を雨のように注《そそ》いできたので、さすがの闘士もガードがさがってきた。アルフ・スティーヴンズは力つきて、今にも地上にくずれ伏すかと思われたとき、奇妙な邪魔がはいった。
一同がこの草の生えたリングへはいってくるとき、木の繁みをぬけたといった。そのとき繁みのなかから、きゃっという叫び声、苦悶《くもん》の悲鳴が聞こえたのである。子供かそれともこの森のなかに住む何かの小さい生きものが、苦しさのあまり発した叫び声かも知れない。はっきり意味はとれないが、かん高い声で、名状しがたい物悲しさをおびていた。その声を聞くと試合の相手は、打たれて両ひざをついているスティーヴンズをほったらかしておいて、よろよろと後すさりをし、恐怖で途方にくれた顔をしてあたりを見まわした。さっきまでの微笑はかげもなく、極度の恐怖にあわれにも口びるをだらりとさせているだけであった。
「おい、またやってきやがったぜ。」
「追っぱらってしまいなよ、トム兄イ。一度はたたきつけたんだ。どうもできやしねえよ。」
「どうもできねえてかい! どうしてどうして! ああ、おれには面と立ち向かえねえ。」ボクシングの闘士も泣き声をあげた。「わかってる! おれにはよく分かってる!」
恐怖の叫び声とともに彼はかん木の茂みのなかへ、おどりこんでしまった。つれの士官は大きな声で毒づきながら、おいてある衣類を拾いあげると、けん闘選手のあとにつづいた。そのうしろ姿には暗いかげがつきまとっていた。
スティーヴンズは半ば無感覚にかん木のなかからよろめき出てきて、准男爵のかばんを枕に土手の芝生へ倒れ伏した。准男爵のほうはブランディのびんをらっぱ飲みしている。二人はそうしているうち、叫び声がますます大きく、かん高くなってきたのに気がついた。するとかん木のなかから、一匹の白い小形なテリヤがとびだしてきて、何かの臭跡でも追うつもりなのか、鼻を地につけるように、わんわんきゃんきゃん哀れっぽい声をあげながら、そのへんを走りまわりだした。土手の二人のほうは見ようともせず、雑草まじりの芝生を駆けぬけて、ものかげへ姿が見えなくなってしまった。そのあいだに二人はとび起きて、出入口のほうへ懸命に駆けぬけ、やがて小馬車へと逃げていった。二人は恐怖のため夢中であった。前後をもわきまえず抑制もきかないほどの恐怖であった。ガタガタふるえながら馬車へとび乗った。そして従順な馬がたっぷり二マイルくらい走り、あのえんぎでもない盆地をあとにしてからやっと、二人は言葉を交す気になった。
「あんな犬を見たことがあるかね?」といったのは准男爵である。
「ありませんね。えんぎでもない。二度とあんなもの見たくないものでさ。」スティーヴンズがいまいましそうにいった。
その夜おそく二人はハーペンデン公有地に近いスワン本陣に旅装をといた。そこの亭主は准男爵とは古くからの知りあいだったので、晩食後のポート酒の席には喜んで加わった。この亭主はスワン本陣のジョウ・ホーナ君といって有名なスポーツ好き、けん闘に関する伝説を新旧とりまぜ一時間もしゃべりまくろうという男なのである。アルフ・スティーヴンズの名はよく知っていたから、この男は異常の興味をもってその顔をじっと見つめた。
「ほほう、あなたはどこかで闘ってきましたね。そんな契約のできたことは、どうしたことかどの新聞にも出ていなかったようですがね。」
「そんな話はたくさんです。」スティーヴンズはつっけんどんに答えた。
「悪気でいったのではありません。悪く思わないでください。」亭主の顔からは微笑がきえて、急にしかつめらしくなってきた。「世間ではブローカスの暴れん坊といっていますが、こっちへ来る途中で、ひょっとしたらあいつに出あったのじゃありますまいね?」
「出会ったとしたらどうだというのです?」
亭主は興奮で緊張してきた。
「ボブ・ミドーズを半殺しにしたのもあいつですよ。ブローカスの古館《ふるやかた》の門前で呼びとめたのです。そのときは連れが一人ありました。ボブは骨のずいまで元気だったはずなのですが、門内のサマ・ハウスに近い芝生で発見されたときは、こてんこてんにやられていたのです。」
准男爵はふーんとうなずいた。
「やっぱりあそこへ行ったのですね?」亭主は奇声を発した。
「それがね、すっかり打ちあけてもよいけれど、」と准男爵はスティーヴンズの顔を見ながら、「じつはあそこへも行ったし、お話のような人物にも会ったのです。いやなやつでしたがね。」
「やっぱりねえ!」と亭主は急に小声になって、「ボブ・ミドーズの話はほんとうだったのです。そこいらのおじいさんのような格好をして、頭のてっぺんが凹《へこ》んでたとか申しますがね。」
「たしかに古めかしい服装だったし、頭も見たことのないほど妙な形をしていたな。」
「おうやおや! 有名なプロ・ボクサのトム・ヒクマンが、仲間で飾り屋のジョウ・ロウとやっぱりあそこで死にましたよ。あれは一八二二年のことでしてね、トムのやつそのとき酔っぱらっていて、大型の荷馬車を反対のほうへ飛ばそうとして死にましたよ。二人とも死んだのですが、ヒクマンのほうは頭を車に敷かれて、ぐしゃりとつぶれてしまいましたよ。」
「ヒクマンが? ヒクマンといえばガス屋じゃありませんか?」
「そうでさあ。みんなはヒクマンといわずに、ガスと呼んでいましたよ。みんなが『ほお打ち』と呼んでいた手で彼は勝ちつづけましたが、それでも最後にニート――ブリストルの牡牛《ブ ル》のことですが――に倒されるまでどんな男にも勝ちつづけたのです。」
スティーヴンズはチーズのようにまっ青になり、テーブルをはなれて立ちあがった。
「こんなところはもう出ましょうよ、息が苦しくなった。そして旅をつづけるんですね。」
亭主はスティーヴンズの背をポンとたたいて、
「はて、元気をお出しなされ! とにかくあいつを寄せつけなかったのだし、これは今まで誰にもできなかったことです。まあ、そこへ座ってもう一杯おやりなされ。とにかく今夜という今夜、この国で飲む資格のある人といったら、あなたをおいてほかにありませんからな。ガス屋にみみずばれをこさえたからには、相手が死のうと死ぬまいと、大金を払わせられることになります。あいつがこの部屋で何をやらかしたと思います?」
二人の旅行者はぎょっとした眼つきで、この結構な部屋を見わたした。部屋は石を敷きつめてオーク材の腰羽目が打ってあり、向こうの面には使っていない大きな壁炉が見えていた。
「さよう、この部屋でですよ。ちょうどその晩にいあわせた地主のスコタ老人から聞いたのですが、その日はシェルトンがジョシュ・ハドスンをセント・アルバン流に倒した日で、その闘いでガス屋はポケットにいっぱいお金を取りました。ガス屋は仲間のロウといっしょにここへ寄りましたが、そのときは気のへんになるほど酔っぱらっていました。それが台所用の大きな火掻棒を手にしてのっしのっしと歩きまわり、うす笑いをうかべた顔には明らかに殺気が読みとれるのですから、みんなは震えあがって部屋の角《すみ》やテーブルの下で小さくなっていました。お酒がはいるといつでもそうなのですが、向こう見ずで乱暴で平素から誰からも恐れられていたのです。あの男がその火掻棒で何をやらかしたと思います? そのとき小さな犬が一匹、テリヤだったと聞いていますが、いましたけれど、何しろ十二月のひどく寒い晩のことでしたから、火のそばで丸くなっていました。ガス屋のやつ火掻棒の一打ちでテリヤの背骨を折ってしまいました。そうしておいてちぢみあがっている連中に向かって笑いとばしながら悪態をついて、そのまま表に待たせてあった二輪馬車のほうへと出てゆきました。なんでもそのまま大型荷馬車に敷かれたので頭がゼリーのようになったのをそのままフィンチリへ運ばれていったということです。それから背骨を折られたテリヤのほうは、血を流しながらもそれからしばらくはブローカスのあたりに生きていて、加害者をさがすつもりなのか、うろついていたそうですよ。ところでスティーヴンズさん、あなたもガス屋とりっぱに渡りあったのだから、大したものですよね。」
「そうかも知れん。」若いけん闘屋は元気がなかった。「しかしあんな試合は二度とやりたくないね。相手にするなら軍馬係り軍曹でたくさんさ。ところで大尉さん、何ならこれからすぐに汽車でロンドンへ帰ろうじゃありませんか。」
解  説
コナン・ドイルにはシャーロック・ホームズもの以外の作品が、量でいっておそらくその数倍もある。そのなかには短編集も七冊くらいある。ドイルは一九三〇年に物故したが、その前年の一九二九年にドイルみずからこれらの短編集をばらばらにし、雑誌に出ただけで単行本になっていなかったものまで加えて、冒険、恐怖など五、六編ずつ十種類に分ち、全部を七十六編千二百ページの大冊にまとめてThe Conan Doyle Storiesとして出版した。本編はそのなかのTales of the Ringというグループを訳したものである。リングはむろんけん闘の競技場をさすものだが、そのほか競馬場、曲馬の演技場をさす場合もある。だから簡単にいってボクシング小説ということになるが、なかにはボクシングとあまり関係のないものもある。作者がなぜこういうものを組みいれたか、私には分からない。
拳闘《けんとう》が日本に持ちこまれたのはいつごろのことか、詳しいことは知らないが、昭和の初期にその興行を見た記憶がある。ジムなんかの設備はなかったので、野外であった。今はテレビが発達したから、血しぶきなど受けることなしに見られるのはありがたい。
けん闘にはボクシングとピュジリズムとある。詳しくは後述するとして、日本のけん闘はアマ、プロともにボクシングであって、アマの場合はそでなしシャツのようなものを着て、三ラウンドか四ラウンドくらい闘うが、プロは何も着ないで多い場合は二十ラウンドくらい闘うこともある。アマ、プロとも体重に一定の制限があって、あまり違いの大きい者どうしは闘わないことになっている。軽いほうから順にいうとフライ・ウエイトが一一二パウンド以下、バンタム・ウエイトが一一二パウンドから一一八パウンドまで、フェザー・ウエイトが一一八パウンドから一二六パウンドまで、ライト・ウエイトが一二六パウンドから一三五パウンドまで、ウエルタ・ウエイトが一三五パウンドから一四七パウンドまで、ミドル・ウエイトが一四七パウンドから一六〇パウンドまで、ライト・ヘヴィ・ウエイトが一六〇パウンドから一七五パウンドまで、ヘヴィ・ウエイトが一七五パウンド以上と八階級になっている。これはアマ、プロとも同じである。近来日本もメートル制になったが、〇・四五キロが一パウンドである。英米は相変らずパウンドを使っているが、フランスはどうしているか知らない。
以上はかなり科学的になってきた近代けん闘の場合であるが、そもそも発祥はギリシャ時代に護身術として起こったものらしい。当時は現今のようなラウンド制もなく、しかも素手で闘ったといわれる。なかには、その素手に指輪の大きいようなものをはめて、相手が半死の状態になるまで闘ったのもあるという。そして現代のようなダウン制もなく、相手が無能力になるまで闘ったのだという。それがイギリスへ伝来して、勝者に多額の賞金をかけて興行するけん闘が行なわれるようになった。これをボクシングといわず、ピュジリズムという。このころは休憩中セカンドのひざに腰かけて休むようなことをしたり、レフェリイ制なども現在のボクシングとはよほど違ったものだったらしい。ディケンズやコナン・ドイルにはこのころのけん闘をとり入れた長編小説もあるようだ。アマ・ボクシング・クラブの設立されたのが一八六六年だというから、そのまえのけん闘がどんなに凄愴なものであったかは想像されよう。日本にはピュジリズムはないようだ。しかしイギリスではボクサのことをピュジリストという場合もあるらしく、そう厳重に区別してはいないようだ。ただしこれはプロの場合であって、アマではボクサはどこまでもボクサというようだ。
一九五九年六月
訳  者
この作品は昭和三十五年一月『ドイル傑作集3』として新潮文庫版が刊行されたが、電子ブック版刊行を期に『同5』と改めた。
Shincho Online Books for T-Time
ドイル傑作集
発行  2001年6月1日
著者  コナン・ドイル(延原 謙 訳)
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.shinchosha.co.jp
ISBN4-10-861096-2 C0897
(C)Katsuko Nobuhara 1960, Coded in Japan