シャーロック・ホームズ最後の挨拶
コナン・ドイル/延原 謙訳
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目 次
ウィステリア荘
ボール箱
赤い輪
ブルース・パティントン設計書
瀕死の探偵
フランシス・カーファクス姫の失踪
悪魔の足
最後の挨拶
解説
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ウィステリア荘
一 ジョン・スコット・エクルズ氏の怪奇《かいき》な体験
手帳をみると、これは一八九二年の三月も終りにちかいころ、冷たい風のふきすさぶ日のこととなっている。昼食をとっているところへ、ホームズあての電報がきた。彼《かれ》はすぐに返電を書いて打ったが、そのことについては何もいわなかった。
それでもその問題が気になるとみえて、食後も暖炉《だんろ》のまえに立ってパイプをやりながら、何か考えるらしく、ときどき電報に眼《め》をやっていたが、ふいに私のほうを振《ふ》りむき、いたずらっぽく眼を輝《かがや》かせた。
「ワトスン君、きみは文学者といわなくちゃなるまいが、怪奇《グロテスク》という言葉をどう定義するね?」
「不思議《ストレンジ》とか、|世の常ならぬ《リマーカブル》とか……」
彼は頭をふって私の定義を否認《ひにん》した。
「それ以上の意味がふくまれている。悲劇的な、恐《おそ》ろしさを思わすものが、その奥《おく》に感じられる言葉だ。君ががまんづよい世間の人を悩《なや》ました多くの物語、あのなかのあるものを思いだしてみても、怪奇がこうじてしばしば犯罪に発展しているのがわかるだろう? たとえばあの赤《*》髪の男の事件だ。【訳注 『冒険』のなかの「赤髪組合」参照】あれなんか、最初はずいぶん怪奇《グロテスク》な事件だと思ったが、終りは大胆不敵な夜盗事件になっている。まだある。|オ《*》レンジの種五つの事件だ。【訳注 『冒険』参照】あれなんか、はじめは怪奇《グロテスク》きわまるものだったが、結局殺人をともなう陰謀《いんぼう》事件だった。だからこの言葉には油断ができないのだ」
「その電報にあるのかい、怪奇という字が?」
彼は電報を読みあげた。
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信ジガタキ怪奇ヲ体験シタ。調査|依頼《イライ》シタシ。都合シラセ。チャリング・クロス局留。
[#地付き]スコット・エクルズ
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「男かい、女かい?」
「むろん男さ。女は返信料つきの電報なんて打ちゃしないよ。それよりも自分で訪ねてくる」
「会ってみるつもりかい?」
「会うかって、君、カラザース大佐をぶち込《こ》んでからというもの、僕《ぼく》がどんなに退屈《たいくつ》しているか、わかっているじゃないか。僕の知性は空転するエンジンみたいなものだ。仕事をさせるために製作されたのに、その仕事が与《あた》えられなかったら、破裂《はれつ》してこなごなになってしまう。
人生は平凡《へいぼん》で陳腐《ちんぷ》だ。新聞は空疎《くうそ》だし、犯罪社会には豪胆《ごうたん》な熱も夢《ゆめ》も、永遠にあとを断《た》ったのかねえ。それだのに君は、たとえどんなつまらなさそうな事件でも、僕が断わるとでも思っているのかい? おお、僕がまちがってなければ、どうやら依頼人がきたらしい」
整然たる足音が階段をのぼってくると思ったら、やがて通されたのは、がっしりと背の高い、半白のほおひげのある人品いやしからず、重みのある紳士《しんし》であった。まじめくさった顔つき、もったいぶった態度などを見れば、およそどんな経歴の人物かは想像がつく。靴《くつ》につけたスパッツから金ぶちの眼鏡まで、これは保守派であり国教信者であり、どこまでも因習と伝統のなかに生きる善良なる市民である。
ただしなにか異常な体験に遭遇《そうぐう》して、その生来の落ちつきをかき乱されたらしく、頭髪《とうはつ》を乱し、ほおを怒《いか》りに紅潮させ、態度もひどく慌《あわ》てうわずっている。彼はいきなり用件を切りだした。
「どうもえらい不愉快《ふゆかい》な目にあいましてな、ホームズさん。こんな目にあったのは生まれて初めてです。不作法とも何ともはや、言語道断です。どうあってもこれは釈明してもらわねばならん」大きな声をだして、ぷりぷりしている。
「ま、お掛《か》けください、スコット・エクルズさん」ホームズはおだやかになだめた。「まずお尋《たず》ねしますが、なぜ特に私を選んでお出《い》でになったのですか?」
「警察へ届けるような事がらとも違《ちが》いますからな。そうかといって、話をきいてくださればわかりますが、打っちゃっておくわけにもゆかない。私立探偵《しりつたんてい》という種族には、ぜったいに同感がもてないのだけれど、それでもあんたの名だけはかねてから……」
「なるほど。つぎにお尋ねしたいのは、なぜすぐに来なかったのですか?」
「それは何の意味です?」
ホームズは懐中時計《かいちゆうどけい》をちらと見ていった。
「いま二時十五分です。電報をお打ちになったのは一時ごろと思いますが、あなたのその頭髪の乱れや服の着かたをみれば、起きぬけから問題が起こっていたのは、ひと目でわかりますからね」
客はくしめの入らぬ頭髪をなであげ、ついでにあごの無精《ぶしよう》ひげにさわってみて、
「いやア、おっしゃる通りですよ。朝の身じまいをすっかり忘れていましたよ。それというのも、あんな家には一刻でもいるのがいやになりましてな、大急ぎで飛びだしたわけですが、こちらへうかがうまえにも、あちこち問いあわせて回ったものですから……
まず不動産屋のところへ行きましたな。ところが不動産屋の話では、ガルシアは家賃もちゃんと払《はら》っているし、ウィステリア荘に関してはなにも不都合はないという」
「待ってください、エクルズさん」とホームズは笑っていった。「あなたはこのワトスン博士と同じですよ。ワトスン君ときたら、ものを前後《あとさき》ごたごたにいう悪い癖《くせ》がありましてね。どうか気を落ちつけて、順序よくお話しください。
あなたが頭にくしもあてず、背広に礼装《れいそう》用のブーツをはいて、チョッキのボタンをかけちがえてはめたそんな姿で、急いで私のところへ相談においでになった事情は、いったいどういうのですか?」
客はあわれな顔で、自分の奇抜《きばつ》な姿を見おろした。
「なるほど、これは妙《みよう》な格好ですが、なにしろこんなおかしな目にあうのは、生まれて初めてのことですからな。よくよく事情をお聞きとり願えば、なるほどそれでは無理もないとおわかりくださるにちがいありませんよ」
だが、いよいよというところで、客の話は中断されてしまった。このとき廊下《ろうか》が騒《さわ》がしくなったと思うと、主婦のハドスン夫人がドアをあけて、役人ふうのがんじょうそうな男を二人通したのである。
一人は私もよく知っている警視庁のグレグスン警部――精力的で男らしく、得意の方面で働かせたら、なかなか腕《うで》のたつ男である。彼はホームズと握手《あくしゆ》をかわし、つれの男をサリー州警察のベインズ警部だと紹介《しようかい》した。
「共同で追跡《ついせき》しているところなんですがね、ホームズさん。その星がどうやらこちらのほうへ逃《に》げこんだ形跡があるんですよ」とグレグスンは、先客のほうをじろりと見ていった。
「あなたはリー町のポパム荘のジョン・スコット・エクルズさんじゃありませんか?」
「そうです」
「けさからずっと追跡していたところだ」
「ははあ、電報から足がついたんですね?」ホームズがいった。
「そうですよ。チャリング・クロス局でかぎあてて、やってきました」
「何のため私をそう追跡なさるんです? 何のご用ですか?」
「エシャー村のウィステリア荘のアロイシャス・ガルシア氏が昨夜死んだことに関して、あなたの説明が聞きたいのです」
客は眼を丸くして立ちあがった。その顔は驚《おどろ》きで色を失なっている。
「死んだ? 彼が死んだのですか?」
「そうです。彼は死にました」
「どうして? 何か事故でも?」
「殺されたのです。一点疑いをいれる余地はありません」
「へえ! これは驚いた! それでまさか私が疑われているのじゃないでしょうね?」
「死体のポケットにあんたの手紙があった。それによると、あんたはゆうべあの家へ泊《とま》る予定になっていた」
「泊ることは泊りましたよ」
「ふむ、やっぱりね」
ここで警察手帳がとりだされた。
「グレグスン君ちょっと待ってください。君としては率直《そつちよく》な話さえ聞けたらよいのでしょう?」ホームズが制した。
「ただし、陳述は後にいたって、本人に不利な材料として随時《ずいじ》使用されるかもしれないことを、職務上の義務として予告しておきます」
「エクルズさんはいま、その話をなさろうとしているところへ、あなたがたがはいってきたのですよ。ワトスン君、エクルズさんにブランディでも一|杯《ぱい》あげてくれたまえ、ソーダ水をつけてね。ではエクルズさん、不意のお客で話の出ばなを挫《くじ》かれたけれど、聞き手がふえただけのことですから、そんなものにはかまわずに、落ちついて初めから詳《くわ》しくお聞かせ願いましょうか」
客はブランディを一気に飲みほしたので、やっと顔いろが普通《ふつう》になった。そこで彼は警部の手にする手帳を、怪訝《けげん》な眼つきでちらと見やって、つぎのような異常な話をはじめたのである。
「私は独身のうえに生来交際好きなものですから、友人はつい多くなります。そのたくさんの知りあいのうち、メルヴィルといって、いまは隠退《いんたい》していますが醸造業《じようぞうぎよう》をやっていた人の一家があります。家はケンジントン区のエルビマール住宅館《マンシヨン》ですが、二、三週間まえのこと、この人の家へ招《よ》ばれていったとき、ガルシアという若い男と心安くなりました。
ガルシアはスペイン系の家がらだと思いますが、大使館のほうへ何かで関係しているようでした。言葉は完全な英語で、行儀《ぎようぎ》作法も心得ているし、それにすばらしい美貌《びぼう》の持主でした。どういうものかこの男とは話があって、急にたいへん親しくなりましたが、向こうは初めから私にほれこんだらしいのですな。知りあってから二日目にもう、あの男はリーの私の家へ遊びにきました。
世のなかのことは、一つほぐれると、つぎつぎとほぐれてゆくもので、この訪問がきっかけとなって、こんどはガルシアのほうから、エシャーの村とオックスショットの中間にあるウィステリア荘という自分の家へ、二、三日|滞在《たいざい》にこないかと招待をうけました。
そこで私はきのう、そのときの約束《やくそく》に従ってエシャーへ出かけて行ったのです。家庭の模様は行くまえから、ガルシアに聞いてあらまし知っていました。彼は忠実な下男を使っての独りぐらし、下男はやはりスペイン人で、これがいっさいの世話をしているのです。英語も話すし、家事の切りもりまでやらせてあるとのことでした。そのほか、話によると、混血のすばらしいコックがいて、これは旅行先で見つけてつれて帰ったのだが、とてもごちそうをたべさせてくれると自慢《じまん》していました。
ロンドンから十数マイルしか離《はな》れてはいないといっても、サリー州の中心の片《かた》田舎《いなか》に、こんな構成の家族が住んでいるとは、何だか不思議な気がするだろうとガルシアがいいますので、全くだねと私も相づちをうっておいたのを思いだしましたが、行ってみると想像以上に不思議な家だったので、まったく驚きました。
その家まで馬車を乗りつけたのですが――家はエシャーの村から南へ二マイルばかりのところにあります――ウィステリア荘というのはかなりの大きさのある家で、道路からすこし引っこめて建ててあり、両がわを常緑樹《ときわぎ》の植えこみで仕切った弓なりの馬車道で、門からはいってゆくようになっていました。
しかし、大きさこそはあるけれど、古くて、おそろしく荒《あ》れはてたうえに、修繕《しゆうぜん》も加えてなく、とてもひどい家でした。草ぼうぼうのなかに馬車をとめさせて、風雨にさらされてはげちょろけになった玄関《げんかん》のドアを見たとき私は、昨今の近づきというだけで深くも知らない男を訪ねてきた自分の愚《ぐ》を思って、いやな気持になりました。
それでもガルシアは自分で玄関を開けて現われ、とても大げさな身ぶりで誠意を示して迎《むか》えてくれました。そこから下男の案内で、かばんをもってくれ、決められた寝室《しんしつ》へはいりましたが、この下男がまた暗い顔をしたいろの黒い男で、何から何まで気のめいるような家でした。
夕食も二人きりの寂《さび》しいもので、ガルシアは主人役に、しきりともてなしに努めてくれるのですが、何か気にかかることがほかにあるらしく、いうことがあやふやだったり見当はずれだったり、こっちはまごついてばかりです。
彼は指さきでテーブルをコツコツとたたいて拍子《ひようし》をとってみたり、つめをかんでみたり、そのほかたえず神経質な落ちつきのない様子を示します。食事そのものも、給仕にしても料理にしても、決してよいとはいえませんし、あのむっつりした下男の陰気な給仕では、座が引きたつわけもありません。その晩私は話しながらも心のなかでは、何か口実を工夫《くふう》してリーの家へ帰れないものかと、なんど考えたか知れないくらいです。
いまふと思いだしたのですが、警察で調べていらっしゃる問題に関係のありそうなことが一つあります。そのときはむろん何とも感じなかったのですが、食事が終りにちかづいたころ、下男が短い手紙をガルシアに手わたしたのです。その手紙を読んでから、ガルシアの上《うわ》のそらな妙な態度がいっそうひどくなったのを認めました。私の話相手になるふりをするのはもう止《や》めて、ひっきりなしにタバコばかり吸いながら、何かじっと考えているのですが、そうかといって手紙の内容のことをいって、私に弁明するでもないのです。
十一時ごろに、お開きになって寝室へ引きあげたときは、やれやれと思いました。しばらくたってから、ガルシアがドアをあけてのぞきこみ――そのとき部屋は真っ暗でした――ベルを鳴らしたかと尋ねますから、鳴らさないと答えますと、それはおそいのにお邪魔《じやま》してすまない、もう一時だといって帰ってゆきました。まもなく私はぐっすり眠《ねむ》ってしまいました。
これからがいよいよ驚くことばかりなんですが、翌朝眼がさめてみると、もう陽《ひ》がたかくなっていました。時計をみると九時まえです。八時に起こしてくれと特にたのんでおいたのにこれですから、まず第一に驚きましたが、とび起きてベルを鳴らしたのに、誰《だれ》もきません。二度、三度ならしますが、いっこうに来てはくれないので、これはベルが壊《こわ》れているのだと決め、急いで服をつけると、内心ぷりぷりしながら、湯をもらいに急いで下へおりてゆきました。
ところがどうです、階下には誰もいないのです。大きな声でどなってみましたが、誰も出てきません。そのへんを捜《さが》してみても、どの部屋にもいません。ガルシアの寝室は前夜きいていましたから、たたいてみましたが、ここも返事がありません。勝手にあけてはいってみますと、やはり無人で、しかも寝台には寝《ね》た形跡がありません。主人がみなをつれ、客をおきざりに、どこかへ行ってしまったのです。
外国人の主人に外国人の下男と外国人のコック、三人とも一夜のうちに消えてしまった! これが私のウィステリア荘訪問の結末だったのです」
ホームズはこの奇怪な出来事を、彼の変ったエピソードのコレクションに加えたので、両手をこすり合せながらふくみ笑いをした。
「それはたしかに類のない、前代未聞《ぜんだいみもん》のご経験でしたな。それであなたはどうしました?」
「すっかり腹をたてました。まず考えたことは、とんでもないいたずらにひっかかった、ひどい慰《なぐさ》みものにされたということです。このままではすまされません。私は荷物を片づけると、玄関のドアを思いきり強くしめて、かばん片手にエシャーの村さして歩いて帰りました。
村で大きいアラン・ブラザーズ社という不動産屋のところへ行って尋ねてみますと、あの家はここで管理しているといいます。よく考えてみると、こんどのことは単に私を愚弄《ぐろう》して喜ぶだけが目的とは受けとれません。家賃を踏《ふ》みたおして私に塗《なす》りつけようという魂胆《こんたん》にちがいないとにらんだのです。もうじき三月も終りで、二十五日の四季支払日もちかいことですからね。
ところがこれがどうやら見当はずれで、不動産屋で尋ねてみると、ご注意はありがたいが、あの家なら家賃はまえ払いで、来季分もはいっているという返事です。
そこで私はロンドンへ出てきて、スペイン大使館へ乗りこみました。だがここでも、そんな男は知らないという話です。
ここにいたっては最後の手段で、最初ガルシアと知りあったメルヴィルの家を訪ねてゆきました。ところがあの一家も、ガルシアのことはよく知らない――この私のほうがよく知っているくらいなのです。そこで、ホームズさんから電報の返事はあったし、困ったときはかならず適切な助言をしてくださるかたと聞いていますから、こちらへうかがったしだいです。
ところが警部さん、さきほどのお話の模様では、そちらにも何かお話があるようで、悲劇がおこったとかいうことですが、いま私の申したことには、毛頭も偽《いつわ》りはありませんし、またガルシアがその後どうなったか、私としては絶対になにも知らないのです。このうえは、私で役にたつことでしたら、どんなことでも喜んですると誓《ちか》いましょう」
「いや、よくわかりました」とグレグスン警部がきわめて穏《おだ》やかにいった。「はっきり申せばお話は、こちらの認知《にんち》した事実と一致《いつち》する点が多いのです。たとえば食事中にきたという手紙ですが、あれがその後どうなったか、もしやあなたは知っていませんか?」
「ガルシアがまるめて、炉《ろ》のなかへ投げこみました」
「ベインズ君、どうです?」
田舎警部ベインズは、がっしりと肥《ふと》ったあから顔の男だった。いかにも愚鈍《ぐどん》にみえる顔つきだが、盛《も》りあがった額とほおのあいだの割れめから、わずかにのぞいている著《いちじる》しく鋭《するど》い双眼《そうがん》によって救われていた。にぶい微笑《びしよう》をうかべながら、彼《かれ》はポケットからうす汚《よご》れた紙きれをとり出した。
「炉格子《ろごうし》のおかげですよ、ホームズさん。ガルシアは力あまって見当がくるったのですな。炉格子の向こうがわにはさまって、焼けずに残っていましたから、私が拾ってきました」
ホームズは賞賛の微笑をうかべた。
「そんな小さな紙きれさえ見おとさなかったとは、よくよく綿密に家のなかを捜査《そうさ》したものとみえますね」
「いつものことですからね。グレグスンさん、読みあげますか?」
ロンドンの警部がうなずいた。
「クリームいろの普通の用紙で、すかしははいっていません。四つ切りの一|片《ぺん》です。小さいはさみで二度に切ったもので、三度折って紫《むらさき》の封《ふう》ろうでいそいで封じてありますが、封ろうのうえは長円形の平たいもので押《お》さえてあります。
あて名はウィステリア荘《そう》、ガルシア様。本文は、『わが色は緑と白。緑は開、白は閉。表階段、第一廊下、右七ツ目、緑の掛布。成功祈る。D』女の筆蹟《ひつせき》で、さきの細いペンで書いてありますが、あて名のほうは別のペンか、または違う人の手です。このとおり太くて達筆です」
「たいへん注目すべき手紙です」ホームズはさっと目を通していった。「それにベインズさんの観察がまた微細な点にまで及《およ》んでいるのには敬服しました。なお二、三の蛇足《だそく》を加えれば、長円形の封印にはカフスボタンを使ったのですよ。ほかにこんな形のものは、ちょっと思いだせません。それからはさみは、刃《は》の曲ったつめ切りばさみです。切り口は二つとも短いのに、どちらも同じように、ほんの少し弓なりになっています」
ベインズ警部は苦笑をうかべた。
「特性はすっかり見てとったつもりでしたが、やっぱり見おとしがありましたな。ところで正直なところ、この手紙、何か曰《いわ》くがありそうだとは思いますけれど、この事件もごたぶんにもれず、うしろに女がいるということ以外には、私には何もわかりません」
話のあいだ、エクルズはしきりにもじもじしていたが、このとき口をだした。
「この手紙を見つけてくださったのはありがたいですよ。私の話を裏がきすることになりますからな。しかしガルシア氏やそのほかあの家のものは、どうなりましたか? まだうかがっていませんが?」
「ガルシアだけははっきりしています」グレグスンが答えた。「自宅から一マイルばかり南のオックスショットの原で死んでいたのです。砂を詰《つ》めた重い袋《ふくろ》かなにかで、頭部を強打されたのですな。外傷はないけれど、内部がぐしゃぐしゃにつぶれている。
現場は寂しい場所で、四分の一マイル以内には家が一|軒《けん》もないです。背後からの最初の一|撃《げき》で死んだと思うのに、加害者はそのあとでさんざん打ちのめしています。目もあてられぬむごたらしいことをやったものだ。足跡《あしあと》その他犯人の手掛《てがか》りになるものは、何も残っていません」
「物を盗《と》られているのですか?」
「いいえ、それが盗られてはいないのですな」
「かわいそうに! ひどいことをやったもんですね」エクルズは怒《おこ》ったようにいった。「それにしても困ったことになりました。あの男がそんな夜なかに、何をしにそとへ出ていって、しかもそんな目にあったのか、私は何も知らないのですからな。なぜその私が巻きぞえを食わなきゃならないのです?」
「その理由は簡単です」ベインズ警部がいった。「死体のもっていた唯一《ゆいいつ》の文書は、凶行《きようこう》当夜訪ねてゆくという文意のあなたの手紙です。被害者《ひがいしや》の住所|姓名《せいめい》のわかったのも、この手紙のおかげなんですからね。私が被害者の家へいったのは、けさ九時をすぎていましたが、行ってみると家のなかには、あなたはもとより誰もいない。そこでロンドンであなたを押さえてもらうように、グレグスンさんに電報手配しておいて、あの家の捜査をすませてその足でロンドンへ出てきたというわけです」
「いずれにしても」グレグスンは腰《こし》をあげながらいった。「手続きだけはちゃんとしておくのがよいでしょう。エクルズさんはちょっと署まで同行してください、供述書を作成しますから」
「承知しました。すぐ行きましょう。しかしホームズさんには、やはり調査をお願いしておきますよ。費用はいといませんから、真相を明らかにするためどうか十分お骨折りをねがいます」
ホームズはベインズ警部に向かっていった。
「私も捜査に参加させていただけましょうね?」
「どうぞ。あなたをお迎えできれば光栄です」
「早速ですが、あなたの処理はテキパキとたいへん敏速《びんそく》で、結構だったと思います。ところで凶行の時刻ですが、何かそれを知る資料はありませんか?」
「死体は一時ごろから、現場に放置してあったのですな。ちょうどそのころ雨が降りましたが、死体は降るまえからそこにあったのは明らかです」
「いや、そんなはずはぜったいにありません」エクルズが強く否定した。「あの男の声は、まちがうはずはないです。ちょうどそのころには、私の部屋をのぞいて声をかけたのですが、それがガルシアであったことは断言できます」
「それは聞き流しにできない話ですな。しかしぜったいにありえぬことではありませんね」ホームズが微笑した。
「何かお考えがありそうですな?」グレグスンが尋《たず》ねた。
「事件としては、表面的には大した複雑性もない、ちょっと変った面白《おもしろ》みはありますがね。しかし、もう少しよく事実を知ってからでないと、決定的な意見はうっかりいえません。ときにベインズさん、家宅捜索《かたくそうさく》をしてみて、この手紙のほかに何か目についたものはありませんか?」
警部は妙《みよう》にホームズの顔をじっと見た。
「たいへんおかしなものを二、三見つけています。署のほうの仕事を片づけたら、現地へお出かけになりませんか。それに関するご意見がぜひうかがいたいです」
「喜んでうかがいましょう」といってホームズはベルを押した。「お客さまをお見送りしてください、ハドスン夫人。それからこの電報を打たせてください。返信料を五シリングつけて打つのです」
客の帰ったあと、私たちはしばらく黙《だま》って坐《すわ》っていた。ホームズはやたらタバコばかり吸って、眉《まゆ》にしわをよせ、首を前へつき出すような、独特の姿勢でじっと考えこんでいた。
「ねえ、ワトスン君」と彼はとつぜん私のほうへ顔をねじむけ、「君はどう思う?」ときいた。
「スコット・エクルズの話なら、すっかり煙《けむ》にまかれてるよ」
「しかし犯罪のほうは?」
「被害者の仲間が姿を消したというから、これはその連中がどの程度か関係しているので、法の手を逃《のが》れるため逃亡《とうぼう》したのじゃないかな」
「それはあり得《う》る推定だね。しかし表面にあらわれた限りでは、二人の下男が主人に反逆をくわだてたのはよいとして、選《よ》りによってお客のある晩を選んで手を下すというのは、いかにも妙だとは思わないかい? やる気なら、邪魔のはいる心配のない晩にやったらよさそうなものじゃないか」
「関係のないものが、なぜ逃げたのだい?」
「たしかにその通りだ。なぜ逃亡したか? ここに大きな問題がある。もう一つの大きな問題は、スコット・エクルズの不思議な体験だ。この二大事実に適合するような説明を考えだすのは、人間業《にんげんわざ》には不可能だろうか? もしこの二つが説明でき、しかもあの不思議な文句の手紙をも包容し得るほどのものだったら、それをもってさしあたっての理論的な仮の説明とする価値は十分じゃないか。
そうしておいて、この仮説が、今後うかびあがってくる新事実とも矛盾《むじゆん》が起こらないようなら、それがしだいに正しい解答の色彩《しきさい》をおびてくる」
「そんなことをいうが、かんじんの仮説はどういうのだい?」
ホームズは眼《め》を半眼にとじて、椅子《いす》にふかぶかともたれかかり、
「エクルズの考えたような、冗談《じようだん》やいたずらでないことは、断わるまでもなかろう。容易ならぬ事件が進行中なことは、その後ガルシアが殺されたのでもわかる。しかもそれが、エクルズを甘言《かんげん》をもってウィステリア荘までおびきよせたことと、何の関連があるというのだ?」
「あり得る関連として、どんなものが考えられるだろう?」
「一歩一歩考えをすすめてゆこう。まず外見から判断してみるのに、この若いスペイン人と年配のスコット・エクルズとが、妙な因縁《いんねん》から急速に親密さを加えていったのには、どこか不自然さが感じられる。積極的に働きかけたのはガルシアのほうからだった。ガルシアはエクルズを知ると、その翌日にはもう、ロンドンでも反対がわの郊外にあるエクルズの家を訪問して、それから引きつづき交際を重ね、とうとうエシャーの自分の家まで引っぱりだしている。
ではガルシアはエクルズに何を求めたか? エクルズは何を与《あた》え得るか? エクルズはあのとおり、さっぱり面白くもない男だし、機知に富むラテン系民族のガルシアと気のあうほど、とくに才知にたけているというのでもない。それだのにガルシアは、多くの知りあいのなかから、なぜエクルズを選んだか?
どこが目的にかなうと見たのか?
エクルズには、なにか顕著《けんちよ》な特性があるだろうか? 僕《ぼく》はあると答える。彼はごく典型的なイギリス人らしい重みがある。この男が証人にたっていうことなら、ほかのイギリス人が誰でもみんな納得《なつとく》するだろう。君も現に、あの不思議な話を、二人の警部がすこしも疑いをいだかずに、そのまま受けいれるのを見たろう?」
「それはわかるが、何の証人にたつというのだ」
「何もない――ことになった。すべての予定が狂《くる》って、思いもよらぬ方向へ進展していったのだ、と僕はこの事件を見る」
「そうか、アリバイかなにかをやらせようとしたのだね?」
「そのとおり。アリバイならやれたわけだよ。いま、話をすすめるために、ウィステリア荘の連中が全部|共謀《きようぼう》で、何かを計画していたとしてみよう。計画の内容は、まア、何でもよいが、夜なかの一時まえに実行されるはずだったとしよう。柱時計に少し細工すれば、エクルズをほんとうの時刻よりも早く、もう晩《おそ》いと思わせて寝室《しんしつ》へ追いやるのは、何でもなかろう。とにかくガルシアがエクルズの部屋をのぞいて、もう一時だといったときは、まだ十二時にもなっていなかったのだろう。
もしガルシアが予定の何事かを実行して、その時刻までに帰っていたのだったら、問題の起こった場合、強力にそれと対抗《たいこう》できる。自分には外国人だという引け目があるけれど、ここにれっきとしたイギリス紳士《しんし》がいて、どこのどんな法廷《ほうてい》に出ても、ずっと家にいたと証明してくれるのだ。だからこれは、最悪の場合にたいする一種の備えだったのだね」
「そうだね。それはよくわかるが、ほかの二人のいなくなったのは、どういうことだろう?」
「材料がまだ出そろわないから、何ともいえないが、それも説明のできないはずはないと思う。だが自分だけの資料をちゃんと持っている君の前で、それを論ずるのは止《や》めておこうよ。君はその資料を、自分の仮説にあうように、徐々《じよじよ》にねじ曲げてしまっているんだものね」
「だけどあの手紙はなんだろう?」
「どういう文句だったかな? 『わが色は緑と白』競馬関係かな? 『緑は開、白は閉』これはたしかに信号だ。『表階段、第一|廊下《ろうか》、右七ツ目、緑の掛布』これは指定だ。この裏にはねたみにもえる良人《おつと》でもいるのかな? あぶない橋を渡《わた》ろうというのだ。でなかったら女のほうから『成功祈る』なんていうまいよ。『D』――これは手びきにちがいない」
「ガルシアはスペイン人なんだから。Dはスペインの女によくある名まえのDolores【ドロレス】の頭文字じゃなかろうか?」
「面白いね。面白いけれど、賛成はできない。スペイン人がスペイン人に出す手紙ならスペイン語で書くだろう。あの手紙の筆者はかならずイギリス人だよ。いずれにしても、あの優秀な警部の帰ってくるまで、辛抱《しんぼう》して待つよりほかないね。まア退屈《たいくつ》でたまらないところを、二、三時間でも救われた幸運には、大いに感謝していいよ」
ベインズ警部の帰ってくるまえに、ホームズへ電報の返事がきた。彼は読み終ると手帳のあいだへ納めようとしたが、ふと、見たそうな私の眼つきに気がついて、笑いながら私のほうへひょいと投げてよこした。
「話が高貴な人たちのほうへ移動してきたぜ」
電報は人の名と住所ばかりずらりと並《なら》べたものだった。
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――ハリングビイ卿《きよう》ディングル荘、ジョージ・フォリオット卿オックスショット塔《タワー》、治安判事ハインズ=ハインズ氏パーディ荘、ジェームズ・ベーカー・ウィリアムズ氏フォートン荘、ヘンダースン氏ハイ・ゲーブル荘、ジョシュア・ストーン牧師ネザー・ウォルスリング荘」
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「これで作戦地域が明確に限定されるわけだ。頭の整然としているベインズのことだから、むろんこれに類する手配はすでにやっていることと思うがね」
「僕には何のことだかよくわからないよ」
「わからないかねえ。ガルシアが食事中に受けとった手紙が、面会を約束《やくそく》する――密会といってもいいが――一種の指定書であることは、すでに僕たちが到達した結論だ。
あの文句を字義どおりに解釈すれば、指定をうけたものは表階段をのぼって、七ツ目のドアをめざすことになる。ということは、その家が非常に大きいのを意味する。
つぎにこの家がオックスショット町から一、二マイル以内にあるということも、まちがいのないところだ。というのは、ガルシアがそっちへ向かって歩いているのだし、すでにわかっている事実に照してみて、彼がアリバイを作りあげるためには、一時ごろまでにはウィステリア荘へ帰っていなければならず、また彼としてはそれができるつもりでいたと思われるからだ。
オックスショットに近くて、しかも大きい家となると、数はしれている。そこで僕は何でもない方法だが、スコット・エクルズのいっていた不動産屋へ電報をうって、そういう家の一覧表をとりよせたのだ。それがこの電報なのさ。この中にこそ、このもつれ糸の糸口が潜《ひそ》んでいなければならないのだ」
私たちがベインズ警部といっしょに、サリー州の美しい村エシャーへ着いたのは、その日の夕がた六時ちかくだった。
ホームズと私は、泊《とま》る覚悟《かくご》で夜のものを用意していたが、幸い雄牛《ブル》旅館というのに格好の部屋を見つけて落ちついた。ひと休みしてから、警部の案内でウィステリア荘へと出かけることになった。三月の寒くて暗い宵《よい》のことで、肌《はだ》をさす風とこぬか雨が顔にふきつけて、うす気味わるいことのあった家へ行く道は、寂《さび》しい原を横断しており、道具だてはそろっていた。
二 サンペドロの虎《とら》
寒いなかを暗い気持で二《*》マイル【訳注 約三・二キロ】ばかり歩いてゆくと、栗《くり》の木のうっとうしい並木《なみき》に面して、高い木の門があった。弓なりの暗い馬車道をはいってゆくと、石板《せきばん》いろの空を背景に、屋根のひくい家が、くろぐろと見えてきた。玄関《げんかん》の向かって左手の表の窓から、弱いあかりが漏《も》れてまたたいている。
「巡査《じゆんさ》を一名おいてあるのです。窓をたたいてみましょう」
ベインズ警部が草を踏《ふ》んで窓ぎわへ歩みより、ガラスをたたいた。なかでは一人の男が、驚《おどろ》いて火のそばの椅子から立ちあがるのが、曇《くも》ったガラスごしにぼんやりと見え、鋭《するど》い叫《さけ》び声が聞こえた。すぐに、まっ青な顔をして息をはずませた巡査が玄関に現われた。手にしたろうそくがふるえてゆらめいている。
「どうした、ウォルターズ?」警部がするどくとがめた。
巡査はハンカチを出して額の汗《あせ》をふき、ほっと安堵《あんど》のため息をもらした。
「警部どのに来ていただいて安心しました。何しろ時間のたつのが長くて……私の神経はいつものようではありません」
「神経だって、ウォルターズ? 君の体に神経があるなんて思うんじゃなかったね」
「その、何しろ人声一つしない寂しい家で、おまけに台所で妙なものを見たものですから。そこへ窓をたたかれたので、また来やがったかと思いましてね」
「また来たとは、何が来たんだ?」
「悪魔《あくま》ですよ、てっきり。窓のところへ現われたんです」
「窓に現われた? 何が? いつ?」
「二時間にもなりましょうか、そろそろ暗くなりかけていました。私は椅子にかけて、本を読んでいたんですが、何ということなしにふと顔をあげてみますと、窓の下のガラスのところに、こっちをのぞきこんでいる顔がみえます。その顔がじつに何ともはや! 夢《ゆめ》に見そうです」
「何だ! 何という話しぶりだ! それでも君は巡査なのかい?」
「わかってます。それはわかってるんです。でもそれを見たらぞッとしましてね。うそをいったって仕方がありません。黒でもなければ白でもないし、なんだか得体のしれない色なんです。粘土《ねんど》にミルクをぶっかけたとでもいいましょうか。それにその大きさです。警部どのの顔の二倍はありましたからね。しかもその顔つきが、大きな目玉がギョロッとして、餓《う》えた野獣《やじゆう》みたいに白い歯をむきだしています。
警部どのの前ですが、まったくのところ私は指一本動かすこともできず、そいつがすうっと消えてなくなるのを、息をつめて見ていたようなわけですよ。やっといなくなったので、すぐ表へとびだして、草の茂《しげ》るなかを捜《さが》してみましたが、何もみえなかったのでほっとしました」
「君がふだんよくやるのを知っているからいいようなものの、そんなことじゃ黒星だね。たとえそれがほんとうに悪魔だったとしても、巡査というものは、ひっ捕《とら》えもしないで、ほっとしてなぞいちゃ困るね。まさか君は、ありもしないことを幻想《げんそう》に見たのじゃなかろうね?」
「そいつは容易に決定できますよ」とホームズがいいながら、ポケット・ランタンに火を入れた。そして草地をすこし調べてみて、すぐに、「ありますよ。十二号の靴《くつ》らしい。これだけの靴をはくにふさわしい男なら、よほどの大男ですね」
「その男はどうなったでしょう?」
「灌木《かんぼく》をかきわけて、道路のほうへ出たらしい」
「まあそれは」とベインズ警部はわれにかえって厳粛《げんしゆく》な顔になった。「そいつが何もので、何の目的でやってきたか知らんが、もう逃《に》げてしまったのだ。それよりも差しあたり、こっちはやることがある。ホームズさん、それでは家のなかをご案内しましょうか」
いろんな寝室や居間があったが、これといって捜査《そうさ》の対象となるものはなかった。借り手はあまり自分たちのものを持ちこむことなく、すべての大きい家具はむろんのこと、小さい家具類も家つきのもので間にあわせていたらしい。ロンドンのハイ・ホルボーンのマルクス商会製のマークのついた衣類がたくさん残っていた。
このマルクス商会については、電報照会の返事がすでに来ていたが、支払《しはら》いのよい客という以外には、何もわからなかった。そのほかこまかいもの、パイプ類、小説本(うち二冊はスペイン語の)、旧式の打針式ピストルが一個、ギター一つなどが私物に属する品であった。
「このなかには何もありません」ベインズはろうそく片手に部屋から部屋へと、もったいぶってあるき、最後に、「ではホームズさん、一つ台所を見ていただきましょうか」といった。
台所は家の裏手に面した天井《てんじよう》のたかい陰気《いんき》な部屋で、すみのほうに敷《し》きわらが積んであるのは、コックの寝《ね》るところだったのだろう。テーブルの上には最後の晩食の残りである食べかけの皿《さら》や汚《よご》れた皿が重ねてあった。
「これを見てください。何だと思います?」
警部は調理台の奥《おく》に立てかけてある何とも知れぬ妙なものへ、ろうそくをさし向けた。
しなびてしわだらけになっており、もとは何であったのか、ちょっと見当もつかない代物《しろもの》である。表面は黒っぽい革《かわ》のようで、どこか人間の小さいのといったところがある。
はじめ私はそれを調べてみて、黒人の赤ん坊をミイラ化したものかと思ったが、よく見ると猿《さる》のようでもある。だが最後には、人間か動物であるというのも疑わしいと考えた。要するに何ものともわからないが、まんなかあたりに白い貝がらをつないだ帯を二重にしめている。
「面白《おもしろ》いね。たいへん面白い」ホームズはこの気味のわるい記念物をのぞきこみながらいった。
「ほかになにかありますか?」
警部はだまって流し台のところへゆき、ろうそくをつきつけた。何の鳥か、羽根のまま乱暴に引きちぎった白い大きな鳥の手脚《てあし》や胴体《どうたい》が、そこに散らばっていた。ホームズはちぎれた頭部の肉垂れをさしていった。
「白い雄鳥《おんどり》だ。面白い。これはまったく非常に変った事件ですよ」
だがベインズ警部はおかまいなしに、気味のわるいものを全部出しきるまでは止めぬつもりと見える。彼《かれ》はつぎに、流しの下から亜鉛《あえん》のバケツを出してみせたが、中には血がたまっていた。それからテーブルの上のお盆、それには黒こげの骨が盛《も》ってある。
「何かを殺して、焼きすてたんですな。これはその料理用の炉《ろ》からかきだしたのです。けさは医者もきていましたが、見せたら人骨ではないということでした」
ホームズは手をこすり合せながら、にこにこした。
「こんなに特色のある有益な事件を担当する警部さんはしあわせですよ。失礼ながらあなたの実力をもってすれば、普通《ふつう》の事件なぞやらせておくのは、もったいないですからね」
ベインズ警部の小さな眼はうれしそうに輝《かがや》いた。
「まったくです。われわれこうして田舎《いなか》にくすぶっているのですが、こうした事件こそいいチャンスです。何とかこいつを物にしたいものですよ。ところでこの骨をどうお考えです?」
「子羊《こひつじ》か、それとも子山羊《こやぎ》ですかね」
「ではあの白い鳥は?」
「珍《めずら》しい。じつに珍しいですね。ちょっと類がないですよ、これは」
「どうもこの家にいた人たちは、奇妙《きみよう》なことをする奇妙な連中ですよ。なかでも一人は殺されている。仲間があとをつけていって殺したのでしょうか? それならかならず捕えてみせます。港々には非常線もはってありますからね。しかし私の考えはちがいます。違いますとも! まったく別の意見なんですがね」
「ほう、では何か見込《みこ》みでもあるのですか?」
「そいつを洗ってみようと思うんですよ、私は。それも手柄《てがら》にしたければこそです。あなたはもう名声のあるかたです。私はこれから働きとらねばならない。あとになって、ホームズさんの力をかりないで、独力で解決し得たのだといい得たら、こんなうれしいことはありませんからねえ」
ホームズは気さくに笑ってみせた。
「けっこうですよ、警部さん。私も自分の思うとおりやってみます。私の調べ得た材料は、よろしければいつでもあなたに提供しますよ。遠慮《えんりよ》なくそういってください。じゃこの家にはもう見せていただくものもないようですから、どこかほかの場所で時間を有効に使うとしましょう。ではしばらくさようなら。幸運をいのりますよ」
口ではいい表わしにくいし、また、ほかの人には感知できないだろうが、多くの微妙《びみよう》な徴候《ちようこう》から私は、ホームズがいま有力な手掛《てがか》りを握《にぎ》っているのを知ったのである。
何げなく見る人には、ふだんと変りない冷やかな態度と思われるだろうが、生き生きと光をましてきた眼《め》つき、動作の活気をおびてきたことなどの中に、内心の逸《はや》りと緊張《きんちよう》が看取され、獲物《えもの》が近いのを思わすものがあるのである。
いつもの習慣で、彼はなにもいわない。私からも何もたずねないのが習慣だ。心もおどるスポーツをともにし、獲物を捕えるのにいくらかでも手を貸し得たら、それで私は十分に満足なのだ。余念なき思索《しさく》に、いらざる邪魔《じやま》だてをすることはない。いずれ何もかもわかるときはわかるのだ。
だから私はだまって待った。だが、いつまで待っても何もはじまらないので、私の失望はしだいに深刻になっていった。それも少しばかり待ったのではない。来る日も来る日も、彼はいっこうに踏みだそうとしないのである。
ある朝、彼はロンドンへ出ていった。あとで何でもない言葉のはじからわかったのだが、大英博物館へいったらしい。このとき一度外出らしい外出をしただけで、あとはながいこと、ときにはひとりで散歩したり、じき仲よくなった村の人たちとむだ話をしたりに日を送っていた。
「こうした田舎生活の一週間は、君には非常にためになるんだよ」ある日彼がいった。「生《い》け垣《がき》に新緑の芽がふいたり、榛《はしばみ》の木に花が咲《さ》きだしたりするのをながめていると、いかにも楽しいじゃないか。小さな移植ごてと胴乱と初等植物学の本をもって歩くのは、じつに有益な一日だよ」
彼はみずからこれを実行した。だがどこを歩いてくるのか、夕がたもって帰ったのをみると、じつに貧弱《ひんじやく》な植物|採集《さいしゆう》にすぎなかった。
いっしょにぶらぶら歩いているうちに、ベインズ警部と出あうことがちょいちょいあった。あいさつするとき警部は肥《ふと》ったあから顔に微笑を浮かべ、小さな眼を輝かした。事件のことはあまり口にしなかったが、そのほんの僅《わず》かの言葉のはじから彼もまた事の成行に不満を感じてはいないのを、私たちはうかがい知った。
しかし殺害事件から五日ばかりたって、ある朝新聞をひろげて次のような大見出しの出ているのを見たときは、正直なところ私は少々おどろいたのである。
オックスショット事件解決か[#「オックスショット事件解決か」はゴシック体]
殺害容疑者|逮捕《たいほ》さる[#「殺害容疑者逮捕さる」はゴシック体]
この見出しを読みあげたら、ホームズは何かに刺《さ》されでもしたように、椅子からパッと立ちあがった。
「へえ! ベインズが捕えたというのかい?」
「そうらしいね」と私は、つぎのような記事を読みあげたのである。
[#ここから1字下げ]
オックスショット村の殺人事件は昨夜にいたってついに容疑者の検挙をみた由《よし》で、エシャーの村および付近はどっと沸《わ》きかえっている。既報のとおりウィステリア荘《そう》のガルシア氏は目もあてられぬ惨殺《ざんさつ》死体となってオックスショットの原に倒《たお》れており、同夜以来下男とコックが行方不明《ゆくえふめい》になっているところから同人らの関与《かんよ》するところと見られていたが、原因は被害者《ひがいしや》が同家に貴重品を保有していたため犯人はこれをねらったものといわれるがまだ確証はない。
犯人は遠く逃げてはおらずあらかじめ準備された付近の隠《かく》れ家《が》に潜伏《せんぷく》中と思われる有力な理由があるので、係りのベインズ警部は八方手をつくして捜査に努力をつづけた。もっとも犯人中コックのほうは二、三の出入商人が窓ごしにちらと見たところによれば外見にはなはだしい特徴のある人物――黒白混血の恐《おそ》るべき大男で顔いろは黄いろだが明白なアフリカ黒人型の男であるから早晩逮捕をみるべきは初めから確実だったといえる。
しかもこの人物は犯行後に姿をあらわしている。すなわち死体発見の翌晩不敵にもウィステリア荘に立回ったのをウォルターズ巡査に発見され追跡《ついせき》をうけた事実がある。これは何か目的があって立回ったものでなければならず、従ってかならず再挙をくわだてるものとみたベインズ警部はわざと同家の警戒《けいかい》をとき潜伏|監視《かんし》をおいて張込み中のところ、昨夜ついに網《あみ》にかかってまんまと逮捕をみたものである。
格闘《かくとう》中ダウニング巡査は犯人にかみつかれて重傷をうけた。犯人はいったん治安判事に引渡《ひきわた》されるが警察がわは再監禁を申請《しんせい》し身柄引取りのうえさらに捜査をつづけるものと見られる。いずれにしてもこの逮捕により事件は急速なる展開をみるものと期待される。
[#ここで字下げ終わり]
「これはすぐベインズに会わなきゃならない。引きあげないうちに捉《つかま》えて会わなくちゃ」ホームズは急いで帽子《ぼうし》をつかんだ。
われわれが村の道を駆《か》けつけてみると、はたして、ベインズ警部は宿舎を出かけるところであった。
「ホームズさん、新聞を見ましたか?」ベインズは新聞をとって私たちに突《つ》きつけた。
「見ましたよ。失敬だが、友人としてご注意したいですね」
「注意ですって?」
「この事件は相当念いりに調べてみたのですが、あなたのやっていることは、見当はずれだと思うのです。よほどの確信がないかぎり、うっかり変なほうへ深入りしないがいいですよ」
「ご親切ありがとう」
「あなたのためを思っていうのですよ」
その瞬間《しゆんかん》、ベインズ警部の小さな片眼がウインクしたようにみえた。
「二人はめいめいの方針に従って仕事をすすめることに、話しあいがついているじゃありませんか。それによって私はやっているだけですよ」
「それはそうです。どうか悪く思わないでくださいよ」
「そんなことはありません。ご好意はよくわかっているのです。しかし当局には当局の方式がありましてね。あなたもそれはお持ちでしょう。私もこれで、小さいながらね」
「その話はもう止《よ》しましょう」
「私の知ってることでしたら、喜んでお伝えしますよ。この野郎《やろう》じつに猛悪《もうあく》です。力ときたら馬車馬のように強くて、悪魔のように恐ろしいやつです。とり押《お》さえるとき暴れましてね、ダウニングのおや指をほとんど食いきるところでしたよ。英語は一言も知らないらしいです。何をきいてもうなっているばかりで、返答しません」
「それを主人殺しの犯人とみるには、何か証拠《しようこ》をお持ちなんですか?」
「そんなことをいった覚えはありませんよ。ま、人にはそれぞれ流儀《りゆうぎ》というものがあります。あなたはあなたの流儀を、私は私流、そういう約束《やくそく》だったじゃありませんか」
私たちはそのまま帰ってきたが、歩きながらホームズは肩《かた》をすくめて、
「あれじゃいくらいってもわかりっこない。無我《むが》夢中《むちゆう》で突進《とつしん》しているんだからね。まアあの男のいうとおり、どんなことになるか、めいめい思うところをやってみるしかない。しかしベインズ警部はなにか僕《ぼく》にもよくわからないものを持っているらしいね」
雄牛《ブル》旅館へ帰ってきて、部屋へ納まるとホームズは改めてこんなことをいいだした。
「ま、その椅子へ腰《こし》をおろしたまえ。こんばん君の手を借りるかもしれないから、一応|状況《じようきよう》を知っておいてもらいたいのだ。僕の見きわめ得ただけのことを話してみよう。主要な外見は簡単なのだが、それでいていざ犯人を押さえるとなると、驚くばかりの困難にぶつかる。その点まだまだ埋めなくてはならない空白があるというものだ。
まずガルシアが、殺された日の夕食中にうけとった手紙のことから考えてみよう。ガルシアの召使《めしつか》いたちが関係しているというベインズの考えかたは、捨ててよいと思う。それを証明するものは、あの日スコット・エクルズを来させるようにしたのが、ガルシア自身だという事実だ。エクルズを呼んだ目的は、アリバイの確立以外にはあり得ない。してみれば、あの晩何事か、おそらく犯罪計画をして、それの遂行《すいこう》半ばにして殺されたということになる。犯罪計画だというのは、アリバイを必要とするのは、犯罪|行為《こうい》にかぎるからだ。
では、そういうガルシアの生命を断《た》ったのは何ものか? むろん犯罪計画の相手かただとするのが、もっとも妥当《だとう》だろう。ここまではまずあぶなげない推論だと思う。
つぎに、ガルシアの召使いどもの失跡の理由を考えてみよう。彼らはすべて、ガルシアの犯罪計画の共謀者《きようぼうしや》だった。計画が成就《じようじゆ》してガルシアが帰ってくれば、万一なにかの疑いがかかることがあっても、イギリス人の証人がいて、防止してくれるから、万事《ばんじ》は無事におさまるはずだ。
しかしこの計画はきわめて危険の多いものだから、予測された時刻までにガルシアが帰ってこないようならば、彼自身が命を落としたものと考えてよい。だからそういう場合には、彼らはかねての計画に従って、時をうつさず一定の場所に身をひそめ、予想される捜査の手をのがれるとともに、再挙をはかることになっていたのだ。この説明でりっぱにつじつまがあうではないか、どうだね?」
なるほどこれで、あの不可解な紛糾《ふんきゆう》も、みごとに整理されて、明白になった。いつものことながら、なぜこれくらいのことがわからなかったのだろう?
「しかし召使いの一人はなぜ帰ってきたのだろう?」
「それはこうも考えられる。逃亡《とうぼう》の混雑にまぎれて、なにか貴重なものを、どうあっても手放すに忍《しの》びない大切なものを、あの家へおきわすれていったのだ。だからこそ、一度で懲《こ》りないで、またしてもやってきたのだ。どうだね?」
「ふむ、でつぎの問題は?」
「つぎの問題はガルシアのうけとった手紙だ。あの手紙は、差出人という共謀者の存在を明示している。ではその共謀者はどこにいるのか? それのいるのは大きな家でなければならず、大きな家は数がかぎられていることは前にいった。
僕はこの町へきた当座、植物採集に日を送った。そのあいまに、付近の大きい家を全部|踏査《とうさ》して、ついでにそこに住んでいる家族の来歴を調べた。その中の一|軒《けん》だけが僕の注意をひいた。『ハイ・ゲーブル』という名で呼ばれ、このへんでは有名なジェームズ一世時代からの農場つきの屋敷《やしき》で、オックスショットの原からは向こうへ一マイルばかり、ガルシアの殺されていた地点まで半マイルとはない。
ほかの家の連中はみんな、なんの変哲《へんてつ》もないしかし尊敬すべき人たちばかりで、およそロマンスなどには縁《えん》もゆかりもない。そこへゆくと『ハイ・ゲーブル』に住むヘンダースンだけは、どうみても妙な男だ。なにか妙な事件にでも巻きこまれそうな男だ。だから僕はこの男とその一家の動静に注意を集中することにした。
妙な一家だよ、あれは。なかでも主人が人一倍かわっている。もっともらしい口実を設けて一度会ってみたが、ふさぎこんでいるような、暗くおちくぼんだあの眼は、僕のほんとの職業をすっかり見ぬいたのじゃないかと思う。
五十がらみの元気で丈夫《じようぶ》そうな男で、頭は白くなっているが、毛ぶかい眉《まゆ》はくろぐろとしていた。軽快な足どりで、まるで皇帝《こうてい》のような態度――羊《よう》皮紙《ひし》のようなあの顔のおくに熱烈《ねつれつ》な精神をやどした、もっとも恐るべき才能ある男だと思う。外国人であるか、さもなければ長らく熱帯地方に住んでいたことは、顔いろが腸糸《ガツト》を思わす強じん性をもって黄いろくしなびているので知れる。
友人|兼《けん》秘書のルーカスは明らかに外国人だ。皮膚《ひふ》はチョコレートいろで気持のわるいほど言葉つきの穏《おだ》やかな、それでいてどこかにずるさのある猫《ねこ》みたいな男だ。そこで注意を要するのは外国人問題だ。この事件で僕たちは二組の外国人に出くわした。一組はウィステリア荘で、一組はハイ・ゲーブルだ。しだいに核心《かくしん》に近づいてくるじゃないか。
ヘンダースンと秘書ルーカス、肝胆《かんたん》あいてらす仲のこの二人が一家の中心だが、いまの僕たちの眼からすれば、むしろこのほうが重要ではないかと思われる人物が、もう一人いる。ヘンダースンには二人の子供、十三と十一になる女の子があるが、それの家庭教師にバーネット嬢《じよう》という四十ばかりのイギリス婦人がいるのだ。
そのほか忠実な下男を一人くわえて、これだけがほんとの家族のような一家をなしている。というのは、ヘンダースンはこの一家をひきつれて旅行ばかりしている男で、ほとんどじっとしていたことがない。こんどもつい二、三週間まえに、一年ぶりでハイ・ゲーブルへ帰ってきて落ちついたばかりなんだ。
なおついでながら、ヘンダースンはたいへん金もちで、どんな気まぐれでも、金ですむことなら何の造作もなく果せる身分だ。そのほか家のなかには執事《しつじ》や取りつぎや女中や、大して用もないのにごちそうだけは人なみ以上に食べて、ごろごろしている連中のいることは、一般《いつぱん》のイギリスの田舎|紳士《しんし》の大邸宅《だいていたく》となんの異《ことな》るところもない。
以上は町でひろったうわさと、自分でみてきたところを総合したものだ。暇《ひま》をだされて不平をいだいている召使いくらい、役にたつものはないからね。僕は幸運にも、そいつを一人見つけたのだ。幸運にもとはいったが、さがしていたからこそ見あたったので、向こうから名のりをあげて転がりこんだわけではない。ベインズじゃないが、みんなそれぞれ方式があるのだ。専横な主人から腹だちまぎれに暇をだされた元ハイ・ゲーブル荘の庭男ジョン・ワーナーを見つけたのは、これは僕の方式がさせた業《わざ》だ。
彼《かれ》は主人にたいする恐怖《きようふ》と憎悪《ぞうお》の点で話のあう仲間を、内働きの召使いのなかに持っていた。ここにあの家のなかの秘密をたぐりだす僕の鍵《かぎ》が秘められているのだ。
妙な一家なんだよ。まだ僕にもわからない点があることはあるけれど、とにかく妙な一家だ。家の構造は建物が左右|両翼《りようよく》に分かれていて、一棟《ひとむね》のほうには召使いたちが、もう一つには家族のものが住んでいる。そのあいだの連絡といえば、ヘンダースン直属の下男が一人いるだけで、家族の食事はすべてこれが運ぶのだ。そのほかにはまったく交渉《こうしよう》がない。必要なものは、一定の戸口まで運ばれる。それが唯一《ゆいいつ》の連絡所なのだ。家庭教師も子供も、庭へ出る以外にはまったく外出をしない。ヘンダースンも決して一人では出歩かない。出るときは黒人の秘書が、影《かげ》のようにつき添《そ》っている。召使いたちのひそひそ話では、主人は何ものかをひどく恐れているのだという。
『銭《ぜに》と引きかえに、魂《たましい》を悪魔に売ったんだね。買い手が現物をうけとりにくるのを、いまかいまかとびくついているのさ』とワーナーはいっているがね。どこから来たどういう素姓《すじよう》の人たちなんだか、誰《だれ》も知るものはない。性質はきわめて乱暴だ。ヘンダースンは犬の鞭《むち》で人を打ったことが二度もある。あるにまかせてたっぷり賠償金《ばいしようきん》をだしたので、なんとか告訴沙汰《こくそざた》にはならないですんだのだ。
さて、いまこの新らしい情報をもって、これまでの情勢を判断してみるとしよう。まず、あの手紙はこの家から出たもので、ガルシアに、かねての計画の実行をすすめたのだとする。誰が書いたのか? 筆者はあの家のなかにいる女だ。女といえば家庭教師のバーネット嬢以外にはない。あらゆる推理がそこへ落ちつく。
とにかくこれを理論的に根拠《こんきよ》のある仮説としてとりあげ、そこからどんな帰結が誘導《ゆうどう》されるか、検討を加えてみよう。ついでながらバーネット嬢の年齢《ねんれい》と性格から推《お》して、はじめに僕が考えたとおり、この問題に恋愛はまったく関係がないと考えて差しつかえないと思う。
彼女《かのじよ》があの手紙の筆者だとすれば、ガルシアの味方であり、同類であると考えてよかろう。然《しか》らば、そのバーネット嬢はガルシアの死を知って、どんな行動に出るだろうか? もしガルシアがよからぬことをたくらんで、生命をおとしたのならば、彼女は口をとざしているだろう。しかも心中は穏やかではなく、殺害者にたいして深い恨《うら》みをいだき、できれば復讐《ふくしゆう》をとげたいと念ずるだろう。
では彼女に会って、それをこちらへ利用することはできぬだろうか? まず第一に僕の考えたのはこれだった。
だが、ここにまた不思議なことがある。ガルシアが殺されたあの晩以来、誰もバーネット嬢の姿を見たものがないのだ。あの晩以来、彼女はふっと消えてしまった。生きているのだろうか? 手紙で呼びだした男とおなじ運命を、おなじ晩のうちにたどったのだろうか? それともどこかへ監禁されてでもいるのか? ここにも今から決定しなければならない問題がある。
形勢がいかに困難であるか、これで君にもわかったと思う。逮捕令状の発給を請求しようにも、根拠となるものがなんにもないのだ。治安判事にそんなものを申請すれば、なにをたわけたことをと、一笑に付されるだけだ。彼女の姿がみえないというだけでは、理由にはならない。世のつねでないあの家のことだ、そのなかの一員が一週間くらい外部に姿をみせないのも、日常のことともいえるのだ。
とはいうものの、こんな話をしている現在、彼女の生命は危険にさらされているのかもしれないけれど、僕として為《な》しうるすべては、みずからあの家を監視する一方、手先となったワーナーを門前に張りこませることくらいしかない。だが、こんなことをいつまでも続けてはいられない。法の力が頼《たよ》りにならないとすれば、われわれが危地にとび入るよりほかはないのだ」
「何をしようというのだい?」
「どこが彼女の部屋か、僕は知っている。納屋《なや》の屋根から手が届く。こんばん君と二人で、神秘の内陣《ないじん》に踏《ふ》みこんでみようと思うのだ」
告白するが、あんまり気のりのする話ではなかった。何となく物騒《ぶつそう》な、不気味な空気のたなびく古い家、住んでいるのは気味のわるい恐ろしい人たちだし、近づきがたい不安な感じ、そのうえこちらの行動が法律的に不穏《ふおん》であることを思えば、私は気おくれがするばかりであった。
だがホームズの冷静水のごとき推論には、いいだした冒険《ぼうけん》にたいしてしりごみするのを許さない体《てい》の何物かがあった。かくして、いやかくすることによってのみ、解決に到達《とうたつ》しうるのであることを知る私は、だまって彼の手を握《にぎ》った。骰子《さい》は投ぜられたのである。
だが運命は、私たちの調査の最後を、そんなあぶない冒険でむすばせることをしなかった。時刻はもう五時ごろで、三月の夕やみはあたりに這《は》いおりかけていたが、このとき慌《あわ》ただしく駆けこんできたものがある。
「ホームズさん、逃《に》げだしましたよ! 終列車でみんな発《た》ってゆきました。先生だけは逃げてきたので、馬車に乗せて階下《した》へつれてきてあります」
「おおワーナー、それはよかった!」ホームズは思わず立ちあがった。「ワトスン君、急速に核心に近づくよ」
馬車のなかには一人の婦人が、気力もつきはてた様子で、いまにも倒れんばかりにぐったりしていた。中だかのやつれた顔は、なにかいわくありげである。私たちが近づいたので、それまでものうげにうなだれていた彼女は、顔をあげてこちらを見あげた。その眼《め》は、灰いろの虹彩《こうさい》ばかり大きいなかに、瞳孔《どうこう》がくろい点のように小さくなっていた。アヘンをのまされているのだ。
「旦那《だんな》にいわれた通り、門のところで見はっていたんです」わが密使、失業の庭男ワーナーが鼻をうごめかした。「すると馬車が出てきたから、あとをつけて、駅まで行きました。先生はまるで眠《ねむ》りながら歩いているというふうだったが、みんなして汽車に乗せようとすると、急に正気づいたように、暴れだしました。かまわず押しこむと、また出てきました。そこを私が捕《とら》えて馬車にたすけ乗せ、おつれ申したんです。
逃げてくるとき、汽車の窓からこっちをにらみつけてたあの顔の恐ろしかったことといったら! あの連中にねらわれたら、長生きはできませんや、あの眼玉のくろいしかめっ面《つら》の黄いろい悪魔《あくま》にね」
私たちは彼女を二階へ助けあげ、ソファにねかして、特別こいコーヒーを二|杯《はい》ばかりのませてやると、ようやく麻薬《まやく》のもやもやがとれて、彼女は頭がはっきりしてきた。
ホームズはベインズ警部をよんで、手みじかに事情を説明した。
「やア、これはどうも! 私のねらっていた証人を手に入れちまいましたね」警部は気持よくホームズの手をとった。「最初からねらいはあなたと同じだったんですよ」
「えッ! あなたもヘンダースンに眼をつけていたというのですか?」
「だってホームズさん、あなたがハイ・ゲーブル荘の草むらのなかを這っているのを、私は頭の上の樹《き》の枝《えだ》から見おろしていたんですよ。問題はどっちが先に、この証人を手にいれるかだったんです」
「それではなぜあの混血の黒人なんか捕えたんです?」
ベインズはくすりと笑った。
「ヘンダースン――とみずから名のっている男は、疑われているなと覚《さと》ってはいますが、いよいよあぶないと感じるまでは、鳴りをひそめて見おくっているでしょう。ここでまちがった男でも何でも捕えてみせれば、向こうは疑いが晴れたものと安心し、おりをみて高飛びとくるでしょう。そのときこそバーネット嬢を手にいれる機会だと、こう思ったのです」
ホームズは警部の肩に手をおいて、
「あなたはきっと出世しますよ。すばらしい本能と直覚力だ」
警部はうれしいはにかみで顔をあからめて、
「あれからずっと私服を一人駅へ張りこませておきました。ヘンダースン一家のものが、どこかへ行くときは、あとをつけろと命じておいたのですが、バーネット嬢に逃げられたのには、さぞ困ったでしょう。
しかしあなたの手先の手におちたのは結構でした。この証人の証言がなければ、逮捕《たいほ》するわけにもゆかないですから、供述は一刻もはやく取ったほうがいいですね」
「だんだん快復してくるようだ」ホームズは家庭教師のほうを見やっていった。「しかしベインズ君、ヘンダースンはいったい何者ですか?」
「ヘンダースンはサンペドロの虎《とら》とよばれたこともあるドン・ムリロですよ」
サンペドロの虎! この名を聞いて私は、この人物の経歴を稲妻《いなずま》のように思いうかべた。文明の仮面のもとに一国に君臨しながら、彼のごとくみだらで血にかわく暴君の名を一世にとどろかしたもの、古今を通じてその比をみない。強固にして恐れをしらず、精力的な彼の性格は、十年から十二年の長きにわたって、よく自己の非行を覆《おお》い、畏服《いふく》せる人民のうえに暴虐《ぼうぎやく》のかぎりをつくしてきたのであった。彼の名は中央アメリカ全域をおそれおののかしめたのである。
だがついに、全面的|反抗《はんこう》の気勢が水のみなぎってくるように頭をもたげた。彼は残忍《ざんにん》でもあったが、わるがしこかった。反抗の最初のきざしを見てとると、秘《ひそ》かに財宝を船に積み、腹心の部下を乗りこませて海上に脱出《だつしゆつ》した。だからむほん人たちが乱入したときは、宮廷《きゆうてい》は一日の差でもぬけの殻《から》だったのである。独裁者と二人の子供と腹心の秘書は、財宝とともに姿を消してしまっていたのだ。
その日以後、この世から消えてしまった彼の消息は、ヨーロッパの新聞でもしばしば論議の種となったものである。
「サンペドロの虎といわれたドン・ムリロなんですよ。お調べになればわかりますが、サンペドロの国旗はあの手紙にあった緑と白です。ヘンダースンと名のってはいますが、私はあの男の足跡《そくせき》を逆にたどって、パリ、ローマ、マドリード、バルセロナまで調べました。 バルセロナへ船で着いたのが、一八八六年です。むほん人の連中は復讐のため、あれ以来|行方《ゆくえ》を尋《たず》ねていましたが、ようやく最近になって、どうやら突《つ》きとめたのです」
「いいえ、見つけたのは一年まえでした」いつのまにかしゃんと起きなおって、一心に話を聞いていたバーネット嬢が、このとき口をだした。「いちど襲《おそ》われたのですけれど、悪運つよく生命だけは助かりました。こんどもまた、あの立派な、侠勇《きようゆう》のガルシアが倒《たお》れ、憎《にく》むべき男はまたしても逃げさりました。でもこのままでは終りません。正義のうち樹《た》てられる日まで何度でも、裁きの刃《やいば》はうちおろされましょう。それは明日の太陽がのぼるのと同じに、まちがいのないことです」
彼女は細い拳《こぶし》をかたく握りしめ、はげしい憎悪にやつれた顔面をまっ青にこわばらせた。
「それにしてもあなたは、どんなことからこの問題に関係をもつようになったのですか? あなたのようなイギリス婦人が、こんな殺伐《さつばつ》な事件に荷担《かたん》するわけがわかりません」ホームズがいった。
「それよりほかに正義をつらぬく途《みち》がないから荷担しました。いく年かまえ彼がサンペドロで川と流した人の血、あるいは船に満載《まんさい》して奪《うば》いさった財宝にたいして、イギリスの法律は何をしてくれましょう? あなたがたにとって、これらの犯罪は地球以外の惑星で行なわれた犯罪とおなじです。
でも私たちはちがいます。私たちは悲しくも苦しい体験をもって、事実を知っているのです。私たちにとって、ホアン・ムリロは地獄《じごく》の悪魔以上のものです。犠牲者《ぎせいしや》の復讐の叫《さけ》びの聞こえるかぎり、私たちに安らかな生活はありません」
「よくわかります。彼はたしかにその通りの男です。その話は私もかねて聞いていました。だがあなたとの関係は?」
「すっかり申しあげましょう。この悪漢の方策は、将来自分の競争者になる虞《おそ》れのあるものはつぎからつぎと、何かの口実を設けては殺すことでした。私の良人《おつと》は――私のほんとうの名はヴィクター・デュランド夫人です――サンペドロ国のロンドン公使でした。私たちはロンドンで知りあって結婚《けつこん》したのです。またとない立派な人でした。
不幸にも、ムリロが良人の傑出《けつしゆつ》した人物なのを知りました。口実を設けて本国へよびもどし、射殺したのです。それを予感した良人は、私をつれては帰らなかったのです。良人の財産は没収《ぼつしゆう》され、私にのこされたものは悲嘆《ひたん》とわずかばかりの扶助料《ふじよりよう》でした。
そこへ暴君の失脚がきました。彼はいまあなたが説明されたとおりに脱走しました。けれども彼のため致命的《ちめいてき》に破滅《はめつ》させられた人たち、近親者や最愛のものが彼のため死の苦しみをうけ、または生命を失なった人たち、その多くの人たちには、それですましてはおかれません。その人たちは強く団結しました。目的をとげるまでは決して解けることのない強い結合です。
没落の暴君がヘンダースンとして世を忍《しの》ぶ姿を発見してから、その家庭に入りこんで同志との接触《せつしよく》を保つのが、私にあたえられた役でした。幸い子供の家庭教師の地位をえて、私はその役を完全になしとげました。
ヘンダースンは食事ごとに顔をあわす女が、かつて一時間の予告をもって、自分で生命を断《た》ったものの妻だとは、夢《ゆめ》にも気がつきません。私は彼に笑顔《えがお》をみせ、家庭教師としての義務をはたし、機の熟するのを待ちました。
パリで一度襲いましたけれど、これは失敗に終りました。私たちはヘンダースンに従い、追跡者の目を断つためあちこちと急速にヨーロッパを移動したあげく、最後にここの家へ落ちつきました。これは最初に彼がこの国へ逃《のが》れてきたとき、手にいれておいたものです。
しかしここにも正義の使徒は待ちかまえていました。サンペドロの元高官の息子ガルシアが、いつかはかたきの帰るのを信じて、ひくい身分ながら忠実な二人の同志とともに、待ちうけていたのです。いずれ劣《おと》らぬ復讐の念に燃える三人です。
ムリロはたいへん用心ぶかく、いまは腰《こし》ぎんちゃくのルーカスとなっていますが、その昔《むかし》はロペスの名で権勢をはったあの男といっしょでなければ、決して外出しませんから、昼のあいだはガルシアも手が出せません。夜はしかし、独りで眠りますから、復讐者には機会があります。
ある晩、かねての打合せに従って、私は最後の指令を同志に送りました。ムリロはすこしも油断と申すものがなく、たびたび部屋をとり替《か》えるからです。戸締《とじま》りの模様をたしかめたうえで、馬車道に面した窓に緑か白の光をだして、決行すべきか延期すべきかを知らせるのは、私の役目でした。
でもいっさいが手違いとなりました。ロペスがなぜか私に疑惑《ぎわく》をいだいたのです。彼は私のうしろに忍びより、私が手紙を書き終ったところへ躍《おど》りかかって、ねじ伏《ふ》せました。それからムリロと二人で私の部屋へ引きずってゆき、むほん人の判定を下しました。
彼らとしては、その場ですぐ刺《さ》し殺したかったのですけれど、あとのことを思えば、あと始末が容易でないのを考えれば、うかつに手は下せません。さんざいい争ったあげくに、私を殺すのは危険だから止《や》めるかわりに、ガルシアのほうは、将来も心配のないように片づけなければと申すことになりました。
二人して私にさるぐつわをはませ、ムリロが私の腕《うで》をねじあげて拷問《ごうもん》し、ガルシアの住所を白状させました。あんなことになると知っていましたら、腕がねじ切られても、いうのではなかったのにと、残念でなりません。ロペスは私の書いた手紙を封筒《ふうとう》にいれ、自分のカフスボタンで封印をして、下男のホセに持たせてやりました。
それから二人がどんなにしてガルシアを殺しましたのか、私は存じませんけれど、ロペスは私の見張りにのこっていましたから、じっさい手を下したのがムリロだと申すことだけはわかっています。うねうねした原の小径《こみち》づたいにくるガルシアを、ハリエニシダのしげみのなかに待ちぶせていて、うち倒したものでしょうか。
はじめ二人は、ガルシアが家のなかへはいるのを待ってうち殺し、どろぼうを殺したといい張るつもりでした。でもそれでは、自分たちの素姓が公《おおや》けにされ、第二第三の敵が現われるのは必定です。これに反してガルシアが、人しれず殺されれば、敵は怖《おそ》れて近づかず、そのうち断念するようにもなるという考えだったのです。
私と申すものがいて、彼らのしたことを知ってさえいなければ、二人の計画は都合よく運んだわけです。ですから私の生命も、どうなってゆきますことか、知れたものではありません。私はひと間へとじこめられ、恐《おそ》ろしい脅迫《きようはく》と残酷《ざんこく》な虐待にあい、気力もほとほと尽《つ》きはてました。この肩《かた》の突き傷をみてくださいまし。両の腕はこのとおり赤あざだらけです。あるとき窓をあけて、大きい声で助けを求めましてから、さるぐつわさえはめられることになりました。
からだや気力を支えてゆくだけの食物も与《あた》えられませんで、この残酷な監禁《かんきん》は五日つづきました。きょうの午後になりましてようやく十分な食事が与えられましたが、それを食べ終ったとたんに、薬を盛《も》られたのを知りました。
夢のような気持のうちに馬車にのせられ、駅へつれてゆかれて、汽車に乗せられました。汽車が動きだしそうになりましてから、ふと私は、逃げるならば今だと気がつきました。それで汽車の車両から飛びだしたのですが、二人は私をひきもどそうとします。この人が助けてくださらなければ、むろん私はどうなりましたことかわかりません。この人のおかげで馬車にのせられ、ここまで連れてこられましたのです。この人がいなければ、逃げられなかったでしょう。おお神さま! 私はあの人たちの手から永久に救われました!」
この異常な物語に、息づまる思いで私たちは耳を傾《かたむ》けた。話が終ってもしばらくは誰も口をきかなかったが、その沈黙《ちんもく》をやぶったのはホームズだった。彼は首をふりながらいった。
「困難がさったとはまだいえません。警察の仕事としてはこれで一応終ったわけですが、ひきつづき法律的活動がはじまるのです」
「まったくだ」私がいった。「弁論の巧妙《こうみよう》な弁護士にかかったら、正当防衛で片づけられるかもしれないね。かげではいろいろと悪いこともしていたにしたところで、裁判で問題になるのは、このガルシア殺しの一点にあるのだからね」
「まあ、まあ」ベインズ警部は快活にいった。「法律のことなら私のほうが詳《くわ》しいですよ。世に正当防衛というものはあります。しかし殺害の目的で計画的におびきだした以上、たとえ相手の人物にどれほど危険を感じていたにしても、それとは別のことです。そんな正当防衛があるものですか! ま、いずれにしても、このつぎの|ギ《*》ルドフォード市【訳注 サリー州の首都】の巡回《じゆんかい》裁判に、ハイ・ゲーブル荘《そう》の連中が被告にたてば、われわれが正当だとみとめられるでしょうよ」
だが、いまは思い出話となったけれど、サンペドロの虎が罪の報《むく》いをうけるのは、すぐというわけにゆかなかった。大胆《だいたん》巧妙にも、彼《かれ》は一味をつれてロンドンのエドモントン街の下宿屋に入り、裏口からカーゾン・スクェアへ抜《ぬ》けて追跡の目を断ったきり、ついにイギリスからその姿を消してしまったのである。
それから六カ月ばかり後に、マドリードのホテル・エスキュリアル内の自室で、モンタルヴァ侯爵《こうしやく》とその秘書ルリ氏が殺された。虚無《きよむ》主義者の犯行だといわれたが、犯人はついに挙《あが》らなかった。
ある日ベインズ警部が、ベーカー街に私たちを訪れて、二人の人物の印刷写真をみせてくれた。一人はいろの黒い秘書、ひとりは黒眼に魅力《みりよく》があり、眉の濃《こ》い威張《いば》りかえった男である。少しおくれはしたけれど、正義はついに行なわれたのである。
「混沌《こんとん》とした事件だったね」ホームズは、晩のパイプをやりながらいった。「君の好きなきちんとした簡潔な一編にまとめあげるのは、まずできない相談だろうよ。問題は両大陸にまたがり、神秘にとざされた家が二|軒《けん》もあって、そのうえスコット・エクルズという怪《あや》しいところの少しもない人物が一枚加わって、いよいよ複雑化されている。
ついでながらあのエクルズを抱《だ》きこんだというのは、死んだガルシアがいかに知謀《ちぼう》にたけた人物だったか、いかに卓抜《たくばつ》な自衛本能をもっていたかを示すものだ。まアこの事件の特異な点といえば、どういうふうにも解される疑問のなかに立たされた僕《ぼく》らが、むろんあの尊敬すべき警部の協力はあったのだけれど、よく要点を見きわめ、曲りくねった細道を踏みはずすことなく、最後のゴールに達したということくらいのものだろう。なにかほかに、わからない点でもあるかい?」
「あの混血の黒人コックは何をしに帰ってきたのだろう?」
「それは台所にあったあの妙なものが原因だと思う。あの男はサンペドロの未開地から出てきたばかりの原始的な蛮人《ばんじん》で、あれはあの男の守り本尊だったのだ。
あらかじめ用意された隠《かく》れ家《が》へ逃げこむについて、仲間の男からそんなやっかいな、足のつきやすい物はおいてゆけといわれて、その通りにはしたけれど、どうしてもあきらめきれないので、つぎの晩たちもどってみたが、窓のなかに巡査がいるので、そのまま逃げてしまった。
それから三日まって、迷信《めいしん》に導かれるままにまたやってきたのだ。
ベインズ警部は抜けめなく、僕にはさあらぬ体《てい》をよそおってみせたものの、内心は大いに重大視しており、わなを仕かけた。そのわなに彼はまんまと掛《かか》ったのだ。なにかほかにあるかい?」
「ひき帥《むし》った鳥や血のはいったバケツや黒こげの骨、そのほかあの気味のわるい台所はなんだろう?」
ホームズは微笑しながら、手帳の記入|事項《じこう》を見た。
「僕は大英博物館で半日つぶして、そのことや、他のことについて少し調べてきたがね。ここにエッカーマンの『ヴーズー教と黒人の宗教』から抜粋《ばつすい》しておいた一節がある――
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真のヴーズー教礼拝の徒が、何か重大なことを行なわんとするときは、かならず不浄な彼らの神に生《い》けにえを捧《ささ》げるものである。極端《きよくたん》な場合は、この儀式《ぎしき》は人身を生けにえとし、続いて人肉味食が行なわれる。普通《ふつう》は白い雄鳥《おんどり》をもってし、生きながら八ツ裂《ざ》きにするが、また黒《くろ》山羊《やぎ》を用いる場合は、のどを切って胴体《どうたい》は焼かれる。
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だからあの男は儀式の伝統を忠実に守ったわけだよ。怪奇《グロテスク》だね」とホームズは静かに手帳をとじて「だからいつかもいったように、怪奇《グロテスク》と恐怖《ホリブル》とは、一歩の差にすぎないのだよ」
[#地付き]―一九〇八年九・十月『ストランド』誌発表―
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ボール箱
シャーロック・ホームズの特筆すべきすぐれた才能を説明するため、典型的な事件を選ぶにあたって、私はできるだけセンセーショナルなところがすくなく、しかも彼《かれ》の本領の十分に発揮されたものをと、意をもちいたつもりであるが、いかんせん犯罪にセンセーションはつきものであるので、伝記作者としては、問題にたいする印象の曲げられるのを覚悟《かくご》のうえで、話をすすめるには必要な細目の一部を割愛《かつあい》するか、あるいはまた、みずから求めたものではなく、偶然《ぐうぜん》のいたすところとして、実状を詳述《しようじゆつ》するか、板ばさみの窮地《きゆうち》にたつのである。
と簡単に前おきしておいて、不思議な、一段と恐《おそ》ろしい事件に発展していった一連の物語にとりかかることにしよう。
やけつくような暑さの八月のある日、ベーカー街はまるで炉《ろ》のなかにいるようだった。向かいの家の黄いろい煉瓦《れんが》の照りかえしで、眼《め》がぎらぎらと耐《た》えがたい苦しみだった。これが冬のあいだの霧《きり》にとざされたあのうっとうしい壁《かべ》とおなじものだとは、ほとんど信じられないほどであった。ブラインドを半分おろし、ホームズはソファにとぐろをまいて、その朝の便できた一通の手紙を、くりかえし読んでいたが、私としてはインド勤務のおかげで寒さよりは暑さのほうがしのぎよく、九《*》十度【訳注 これは華氏、英国では華氏を用いる。摂氏では三十三度弱】くらいは苦にもならないのだった。
だが新聞はいっこうに面白《おもしろ》くなかった。議会も閉会になったし、ロンドンに留《とど》まっている人なぞなかった。ニュー・フォレストの森林地帯か、サウスシーの海にでもいってみたいものだと思ったが、こう金がなくてはそれも望めなかった。ホームズときたら、山にも海にもなんの魅力《みりよく》をも感じる男ではなかった。
彼は人口五百万のロンドンのまんなかにがんばって、神経を八方に働かせ、未解決の犯罪事件に関するあらゆる風説なり疑念なりにたいして、身構えているのが好きなのだ。彼の才能は多方面だけれど、自然|鑑賞《かんしよう》の能力だけは、少しも見あたらないのである。彼の唯一《ゆいいつ》の気分|転換《てんかん》といったら、ロンドンの悪人どもから、思いを田舎《いなか》にいる兄のもとにはせるときくらいのものだ。
ホームズが、話しかけるにはあまり手紙に気をとられすぎているのを知ったので、私は面白くもない新聞をなげすて、椅子《いす》にうずくまって忘我《ぼうが》の黙想《もくそう》にはいった。と、ふいにホームズの声がせっかくの黙想をやぶった。
「そのとおりだよ、ワトスン君、こいつは議論に決着をつける方法としちゃ、ちと不合理だね」
「不合理もはなはだしいさ」と私は断じたがふと、黙《だま》って考えていたことがどうしてホームズにわかったろうと気がついて、居ずまいをなおすとともに、驚《おどろ》いてまじまじと彼の顔を見つめた。
「どうしたというんだい、ホームズ君? おどろいたなア。想像もつかない」
ホームズは私のあっけにとられた顔をみて、腹の底から笑った。
「いつぞやポーの文章の一節を読んで聞かせたのを覚えているだろう? あのなかに、細心なる推理家はよく友人が胸のなかで考えていることも言いあてるものだとあったのにたいして君は、著者の単なる芸当にすぎないといったね? そして僕《ぼく》が、それくらいのことなら、いつでもやってみせるといったら、君はほんとうにしなかった」
「そんなことはいわないさ」
「そりゃ口にだしてはいわなかったろうが、顔にちゃんとそう書いてあった。それで、いま君が新聞をすてて、何か考えだしたから、これはあいつを実演してみせるのにちょうどよい機会だと喜んだわけだが、どうだい、君の考えていることを見破ったんだから、これこそ僕が精神感応のやれる証拠《しようこ》じゃないか」
だが私はこんな説明でごまかされはしない。
「君の朗読したポーの例では、推理家は相手の動作から結論を得たのだぜ。たしか石ころにつまずいて、星を見あげてどうとかしたとあった。だが僕は、静かにじっと椅子にかけていただけだ。手掛《てがか》りになるような動作は、一つもやっていないじゃないか」
「それは君のほうがまちがっているというものだ。人間の眼や口は、その人の感情をあらわす道具として考えられているのだが、君のはとくに忠実に、その使命をはたしているよ」
「じゃ僕の顔いろで、頭のなかで考えていることがわかったというのかい?」
「そうさ、ことにその眼からね。君はどんなふうにして黙想をはじめたか、自分でも覚えちゃいないのだろう?」
「いないねえ」
「じゃ僕からいってみよう。新聞を投げすててから――こいつで僕は君に注意を向けだしたのだが――三十秒ばかり君はぽかんとしていた。それからこんど君が新らしく額にいれたゴルドン将軍の肖像《しようぞう》に眼をやった。そしてこのころから君の顔がかわってきたので、ははあ黙想がはじまったなと思った。
しかしそれはあまり続かなかった。つぎに君の眼は、まだ額にいれないで本の上においてある|ヘ《*》ンリー・ワード・ビーチャー【訳注 米の宗教家。一八一三―八七年】の肖像のほうへ移り、ちらりと壁を見あげたが、その意味はむろん明らかだ。これを額にいれたら、壁のあいているところへ掛けるにちょうどよいし、それにゴルドン将軍との対照もよいなと思ったのだ」
「うーむ、すっかり見ぬかれたね」
「そこまでは何の苦もなくすらすらとわかった。だが、そこで君の思索《しさく》はまたビーチャーにもどった。そしてその顔かたちから性格でも研究するように、じっと眼に力をいれて見つめていたが、やがてその力だけはぬいたけれど、依然《いぜん》としてそこから眼は放さず、何か考えこむ様子だった。ビーチャーの生涯《しようがい》を考えていたのだ。
ビーチャーの生涯といえば、南北戦争に彼が北軍のためにつくした使命のことを、君として見のがすわけにゆくまい。なぜなら、君はこの有名な説教家の徳義が一時疑われて、査問に付されたことのあるのを、ひどく嘆《なげ》いていたのを僕は覚えているからだ。君はあのことを考えずにはビーチャーを思えないほどのつよい感じを、あれにたいして抱《いだ》いているのだ。
そのあとで君の眼がビーチャーを離《はな》れたとき、僕は君が南北戦争のことを考えているなと思った。そして君がきっと口をむすび、眼をかがやかせ、両手を握《にぎ》りしめているのを見て、あの両軍必死の戦争で、多くの戦士の示した武勇ぶりをしのんでいるのだなと思った。
だが、それからまた君の顔は悲しげな表情にかわった。そして頭さえふるわせている。むろんこれは戦争の悲惨《ひさん》さ、恐ろしさ、人命の浪費《ろうひ》を思ってのことだ。君は無意識にふるい傷あとへ手をやって、にッと唇《くちびる》をほころばせた。
これは君が国際問題を戦争によって解決することの不合理さを思っているのだと、僕は教えられた。この点で僕は君に同意を表して、不合理だといったのだが、幸いにして僕の推断は誤っていなかったようだね」
「だんぜん誤っていない。説明をきいて、ますますどうも驚きいったな」
「なあに、きわめて浅薄《せんぱく》なことだよ。君がいつぞや僕のいうことを信用してくれなかったから、ちょっと説明しただけのことなんだ。ところでいまここに、ちょっとした問題があるんだがね。こいつを解決するのは、いまの読心術のような簡単なわけにゃゆくまいと思うよ。クロイドン市のクロス街に住むカッシング嬢《じよう》あてにとどいた妙《みよう》な内容の小包郵便に関するけさの新聞記事を読んだかい?」
「さあ、気がつかなかったねえ」
「きっと見おとしたんだね、短い記事だから。ちょっとその新聞をほうってくれないか。ほら、ここに出ている、経済欄《けいざいらん》の下にね。すまないがちょっと読みあげてみてくれないか」
ホームズの投げかえした新聞を拾って、私は指された記事を読みあげた。「気味のわるい小包」という題で、つぎのような内容である。
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クロイドンのクロス街に住むミス・スーザン・カッシングにたいしていまわしいいたずらをやったものがあるが、もしこれがいたずらでないとすると、裏面《りめん》に恐るべき犯罪が伏在《ふくざい》することになるので、当事者間では大騒《おおさわ》ぎになっている。
昨日午後二時ごろ同嬢あてに茶いろ紙|包装《ほうそう》の小さな小包郵便が配達されたが、開封《かいふう》してみると中はボール箱で荒塩《あらじお》がいっぱい詰《つ》まっており、これを取り除いてみると塩のなかから生々しい人間の耳が二つまで現われた。
小包は前日の朝|ベ《*》ルファスト【訳注 アイルランド北方の海岸都市】局から差出されたもので差出人の名はどこにも書いてなかった。なお不思議なことにミス・カッシングは五十|歳《さい》になる未婚《みこん》の婦人で身寄りも知人も少なく隠居《いんきよ》生活をおくっているのだから、平素から郵便の出し受けはほとんどしたことがないという。
もっとも数年前|ペ《*》ンジ【訳注 ロンドン近郊都市。クロイドンも同様】に住んでいたころ三人の若い医学生に部屋を貸していたが、あまり騒々しくて生活が不規則なのでやむなく断わったことがある。当局の見解では今回の暴挙は当時の学生がこの問題を根にもって解剖室《かいぼうしつ》から持ちだした材料で同嬢をふるえあがらせたのだろうという。
現にこの説を裏がきする材料の一つとして前記学生の一人はアイルランド北部の出身で、ミス・カッシングの記憶《きおく》によればたしかベルファストだったという事実がある。いずれにしても本件は警視庁の敏腕《びんわん》なレストレード警部が目下厳重に調査中である。
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「デイリー・クロニクルの記事はそれだけだが」とホームズは、私が読みおわるといった。「べつにけさレストレードから短い手紙がきた。それによると、『本件は貴下の領域かと存じます。当局としても解決の見込みはじゅうぶんありますが、さしあたりどこから手をつけるべきか多少その方途《ほうと》に迷《まよ》わないではありません。もとよりベルファスト局へは電報照会しましたが、当日は小包郵便物の引受事務が混雑していたので、特定の小包を確認できず、また差出人についても記憶がないとのことです。
ボール箱はどこにもあるハネデュウ・タバコの半ポンド入りの箱で、手掛り材料とはなりがたい品です。医学書生のいたずら説はいまなお小生のもっとも有望視するところですが、貴下が数時間をさいて本件捜査に参加くだされば、もっとも歓迎《かんげい》いたすところです。小生は本日クロイドンの同家にあるか、あるいはクロイドン署にいる予定です』とあるが、どうだいワトスン君。この暑さでもクロイドンくんだりまで足をのばす元気があるかい? ひょっとすると君の材料になるかもしれないぜ」
「なにかすることはないかと、待ちかまえていたところだよ」
「じゃちょうどいい。ちょっとベルを押《お》して、靴《くつ》をもってこさせてくれたまえ。ついでに馬車もよばせよう。僕はちょっとこのガウンを着かえて、葉巻入れをいっぱいにしてくる」
汽車に乗っているあいだにざあざあ降りになったので、クロイドンではロンドン市内よりよほどしのぎよかった。ホームズが電報を打っておいたので、あい変らず小柄《こがら》できびきびと、筋金いりの白イタチのような感じのレストレード警部が、駅へ出迎《でむか》えていてくれた。ミス・カッシングの住むクロス街までは歩いて五分ばかりだった。
クロス街は小ぢんまりした煉瓦建ての二階家のずらりと並《なら》んだながい街路で、それぞれ入口に白い石段があり、エプロン姿の女たちが、あちこちの入口にかたまっておしゃべりをしているといったふうなところだった。
その通りを半分ばかりも行くと、レストレードはとある入口で停《と》まり、石段をのぼってノックをした。すると、小柄な女中がドアをあけた。ミス・カッシングは表の間に坐《すわ》っており、そこへ私たちは通された。大きなおだやかな眼をした落ちついた顔つきの女性で、半白の髪《かみ》が両のこめかみに垂れさがっていた。できかけの椅子の背覆《せおお》いをひざの上におき、そばの台の上には色絹の小切れを入れた籠《かご》をおいている。
「みんなそとの物置へやってありますよ。あんな気味のわるいもの、はやく持っていってくださいまし」彼女《かのじよ》はレストレードの顔をみるといった。
「そうしましょう。ここにあるうち、あなたの眼の前で、私の友達のホームズさんにいちど見ていただきたかったものですからね」
「おや、私の眼の前でないといけませんの?」
「ホームズさんが、なにか質問でもあるかと思いましてね」
「私に質問なぞなすって、何になりましょう? 私はなにも存じませんと、あれほど申したじゃございませんか」
「それはそうですよ」とホームズが一流のものなれた軟《やわ》らかい調子でなだめにかかった。「こんどの問題では、あなたもとんだご迷惑《めいわく》なことでしたね」
「ほんとでございますよ、あなた。私は隠居同様に、世間さまのことは何もしりませず、静かに暮《く》らしているんでございますよ。それがあなた、急に新聞に名が出ますやら、警察のおかたがお見えになるやら、ほんとにこの年になって変ったことばかり見せていただきますよ。あの気味のわるいものでしたら、あんなもの家のなかへ持ちこむのはいやですよ、レストレードさん。見たければ物置へいらしたらよろしいでしょ」
裏手のせまい庭に小さな物置小屋があった。レストレードがそのなかへはいって、黄いろいボール箱、茶いろの包み紙、ひもなどを持ちだしてきた。庭の小路《こみち》のつきるところにベンチがあったので、私たちはそれへ腰《こし》をおろし、ホームズがレストレードから渡《わた》されたそれらの品物を一つずつ調べていった。
「このひもはたいへん面白い」ホームズはひもを明るいほうへかざして見てから、においをかいでみた。
「レストレード君、どう思います?」
「タールが塗《ぬ》ってあるようです」
「そう、タールを滲《し》みこませた麻《あさ》ひもです。それにこれはミス・カッシングがはさみで切っている。この端《はし》は二重《にじゆう》にほつれているくらいだからね。これが大切なところです」
「そんなもの、どこが大切なんですかね?」レストレードは問題にもしていない。
「大切なのはね、結び目がそのまま残っていることです。この結び目には一風かわった特徴《とくちよう》がありますからね」
「たいそうきちんと結んである。その点は私も記録にとどめておきましたがね」とレストレードは、得意そうにいった。
「ひものことはそれだけとして、つぎは包み紙ですが」とホームズは微笑《びしよう》をうかべていった。「この茶いろの包み紙はコーヒーのにおいがする。え? 気がつかなかった? これはたしかにコーヒーのにおいですよ。あて名の文字はたどたどしい活字体で書いてある。『クロイドン市クロス街ミス・S・カッシング』Jペンかな、太い字で粗悪《そあく》なインキが使ってある。|Croydon《クロイドン》のyをはじめiと書いて、あとからyとなおしている。
この筆跡《ひつせき》は男だから差出人は男だ。それもあまり教育のない、クロイドンを知らない男だ。そこまではよいとして、箱はハネデュウ・タバコの半ポンド入りの黄いろいボール箱で、これという特徴はないが、底の左すみにおや指の指紋《しもん》が二つついている。中にいっぱい詰めた塩は、獣皮《じゆうひ》の貯蔵そのほかの商業用に使われる粗悪な塩だ。その中にこの奇怪《きかい》なものが埋《う》めこんであった」
ホームズは独りでしゃべりながら、塩の中から人間の耳たぶを二つつまみだし、ひざのうえにおいた板にならべて、細かに点検した。レストレードと私は両がわからのぞきこみ、その恐ろしい遺品とホームズの思慮《しりよ》ぶかいひたむきな顔つきとを見くらべた。そのうち彼は、塩づけの耳をボール箱に納めておいて、なおもじっと何ごとかふかい黙想をつづけていたが、
「むろん君も気がついたと思いますが、この二つの耳は一人のものではない」
「そうです。その点は私も認めました。しかしこれが医学書生のいたずらだとすれば、解剖教室からべつべつの耳を持ちだすことなんか、容易なわざでしょうからね」
「それはそうだが、これは決していたずらではありません」
「なにか確証をお持ちなんですか?」
「推定がつよくそれを否定しているのです。解剖教室の死体には、防腐剤《ぼうふざい》が注入してあるものですが、この耳にはその形跡がまったくありません。それにまだ生々しいし、切れない刃物《はもの》で切断してあります。医学生ならこんな不手際《ふてぎわ》なことはしません。さらにまた、医学の心得のあるものなら、防腐の目的には石炭酸かアルコールを使うでしょう。こんな荒塩づけになんぞしませんよ。これは決していたずらではありません。裏面に重大な犯罪が伏在していることを知らねばなりません」
ホームズの言葉を聞き、厳粛《げんしゆく》なその顔つきを見ていると、私は何となく身ぶるいをおぼえた。発端《ほつたん》からしてこんなに残忍《ざんにん》なのだから、これを調べていったら、その裏にはどんなにか奇怪な、思いも及《およ》ばぬ恐《おそ》ろしいことが潜《ひそ》んでいるのではあるまいか? だがレストレード警部は、まだ十分|納得《なつとく》がゆかないらしく、首をふっていった。
「いたずら説には、なるほど難点があります。といって犯罪説にも、より有力な異論がありますよ。このカッシングさんは、ペンジ時代からここへ転居後を通じて、この二十年間いたって穏《おだ》やかに地道《じみち》に暮らしてきているのです。そのあいだ一日として家をあけたことなんかありません。
それがあなた、どんな犯人だかしらないが、自分の罪の証拠ともいうべき耳を、とつぜん送りつけてくるわけがないじゃありませんか。ことに彼女が名女優ならともかく、われわれ同様本人も何のことだかまったくわけがわからないと申したてています」
「何のことだか、それを調べるのがわれわれの役目というものです。私は私で、自分の推論が正しいものとして、すなわちどこかで二人の人間が殺されたという前提のもとに、仕事をすすめてゆくつもりです。この耳は、一つのほうは小さくてうすく、イアリングの孔《あな》があって、女のものですが、一つは男の耳で、陽《ひ》にやけて色がかわっており、やはりイアリングの孔があります。この二人はおそらく死んでいるでしょう。生きていて耳をきり落とされたとしたら、その話が私たちの耳に今まではいらないはずはありません。
今日は金曜日です。小包がベルファストの郵便局へ持ちこまれたのは木曜日の朝です。してみれば殺人の行なわれたのは水曜日か火曜日、あるいはそれ以前ということになります。人が二人も殺されたとして、その記念品をミス・カッシングのところへ送ってくるものが、下手人以外にあると考えられるでしょうか? われわれの探すべき人物は、小包の発送者だと考えてまずまちがいはありますまい。
だがその下手人が、こんなものを小包にしてミス・カッシングに送ったというのは、なにかそこに強い理由がなければならない。その理由はなにか? それは殺したことをミス・カッシングに知らせるのが目的にちがいない。あるいは苦しめるのが目的といってもよろしい。それならば彼女には相手がわかっていなければならない。彼女は知っているだろうか? 私は疑いをもちます。その理由は、もし彼女が知っているなら、警察になぞ届けでることはせずに、黙《だま》ってどこかへ埋めてしまい、誰《だれ》にもいわずに口をぬぐっているはずです。
もちろんこれは、彼女が犯人を庇《かば》う場合の話であって、彼女にかばう気がなければ、はじめから名をいうはずです。ここに解釈を要するなぞが一つ秘められているわけです」
ホームズは庭のへいの上あたりに眼《め》をやって、宙を凝視《ぎようし》したまま早口の高い声でここまでしゃべってきたが、ここで急に立ちあがると、なにを思ったか家の中へはいっていった。
「ミス・カッシングにすこし尋《たず》ねたいことがある」
「では私はひと足さきに失礼します。ほかにもちょっとした事件がありますのでね。私のほうはカッシングさんからききだすことは、もうありませんから。じゃ私は署のほうにいますから……」
レストレードがいった。
「駅へゆきがけに声をかけます」ホームズが答えた。
私たちはレストレードに別れて、表の間へはいっていった。ミス・カッシングは無関心なさまで、相かわらず静かに手芸をやっていた。彼女はその針仕事をひざにおいて、はいっていった私たちを、飾《かざ》りけのない青い眼でじろりと見た。
「こんどのことは、何かのまちがいにきまっています。あんな小包、私にあてて出したものじゃありませんね。警視庁の人にそのことをいくらいっても、笑っているばかりで相手にしてくれません。私は世のなかに敵というものを持ちませんもの。こんなひどい目にあわされる覚えなんかありませんわ」
「どうもそうらしく思われてきましたね」とホームズは彼女のそばへ腰をおろしながら、「むしろそれより、私の考えとしては……」
ここで急に言葉を切ったので、おやと思って振《ふ》りかえってみると、何のことだ、彼《かれ》は老嬢の横顔を妙にまじまじと、穴のあくほど見つめているのである。もっとも彼がそうやって、さも満足らしい顔つきをみせたのは、ほんの一呼吸のあいだのことで、相手がだまりこんだのでどうしたのかと、ミス・カッシングが見かえしたときは、もうなに食わぬ顔ですましかえっていたのである。
ホームズは何をみてあんなに心を動かしたのだろうか? 私は一心に彼女の横顔を見つめたが、ぴったりとした半白の髪にも、小ぎれいな帽子《ぼうし》にも、小さい金メッキのイアリングにも、おだやかな顔つきのどこにも変ったところは発見できなかったのである。
「一つ二つお尋ねしたいことがあるのですが」
「まだ質問があるんですの?」と彼女はいらいらして叫《さけ》んだ。
「女のご姉妹《きようだい》が二人おありですね?」
「どうしておわかりになりますの?」
「この部屋へはいるとすぐに、マントルピースの上の写真が眼につきましたが、三人のうち一人はむろんあなただし、あとの二人とたいへんよく似ていらっしゃるから、きっとご姉妹だと思ったのです」
「おや、お眼のはやい! 妹のセーラとメアリーですの」
「それからこちらにもう一枚写真がありますが、リヴァプール港でとったものですね。お妹さんと、そばにいる男の人は、この制服で見ると船の客室係《スチユワード》ですか。これはまだ結婚まえの写真のようですね」
「まあ! お眼のたかい!」
「職業ですからね」
「おっしゃる通りでございますよ。でもブラウナーさんと式をあげます二、三日まえの写真ですの、これは。そのころは南米航路の船に乗っていましたけれど、妹をたいへん愛していましたから、ながく別れているのが辛《つら》いからって、その後ロンドンとリヴァプールを往《ゆ》き来《き》する船にかわりました」
「ああ、あのコンカラー号ですね?」
「いいえ、メーデー号とか申しましたよ、最後に聞きました船の名は。ジムはいちどここへ訪ねてくれたことがございます。そのころはまだ禁酒していましたけれど、まもなく誓約《せいやく》をやぶって、上陸するとお酒をのむようになりました。すこし飲みますと、まるで気が狂《くる》ってしまいます。
ああ、ちゃんと誓約までしましたのに、なぜまたお酒なぞ飲みはじめたのでしょうねえ! まず私と絶交して、まもなくセーラともけんかしてしまいました。いまではメアリーも手紙一本くれませんから、あの夫婦もどこでどうして暮らしていますやら!」
この話は、ふだんから彼女が苦にやんでいることなのに違いなかった。寂《さび》しく暮らしている人の例にもれず、彼女もはじめは遠慮ぶかく控《ひか》え目にしていたが、のちにはすっかり打ちとけて、何でも話した。船のスチュワードをしている義弟のことも、細かいことまで何くれとなく話してくれた。
それから話はまえに部屋を貸していた医学生連中のことに移ってゆき、そのふしだらぶりをさんざ並べたてたうえ、名まえや通っていた病院まで教えてくれた。ホームズはときどき質問をはさみながら、何でも熱心に聞いていた。
「上の妹さんのセーラさんですが、お二人とも結婚はなさらなかったのだから、なぜいっしょにお暮らしにならなかったのでしょう」
「それがねえ、あなたはセーラの気質をご存じないから、そんなふうにお思いになるのでしょう。クロイドンへ引越《ひつこ》してきてから、セーラを呼んでいっしょに住んでいましたのに、ついふた月ほどまえに、とうとう別れてしまいました。妹の悪口をいいたかありませんけれど、何にでも口はだすし、ほんとに困った人ですわ」
「セーラさんはリヴァプールにいらっしゃるお妹さん一家ともけんかしたのですって?」
「一時はとても仲がよかったのです。だって近所に住むのだといって、わざわざリヴァプールの町へ引越していったほどですの。それが今ではあなた、ジム・ブラウナーのことといったら、悪口さえいわなくなってしまったんですよ。
私のところを出てゆく半年ばかりまえまでは、お酒をのむと癖《くせ》がわるいの、だらしないのって、悪口ばかりいっていたんですのにねえ。それというのも、セーラがあんまりうるさくいうので、ジムも黙っていないで、ぴしぴしきめつけるといったようなことが始まりなんでしょうねえ」
「ありがとう、カッシングさん」ホームズは立ちあがって、頭をさげた。「セーラさんはウォリントンのニュー街にお住いとおっしゃいましたね? ではさようなら。おっしゃるとおり、まるきり関係もない問題のため、何だかだと、とんだご迷惑なことでしたね」
そとへ出ると、おりよく辻馬車《つじばしや》が通りかかったので、ホームズはすぐ呼びとめた。
「ウォリントン村は遠いかね?」
「一マイルくらいなもんでしょう」
「じゃ駆《や》ってくれ。さ、乗りたまえ、ワトスン君。鉄は熱いうちに打つべきだからね。なに、簡単な事件なんだが、それでも二、三たいへん教訓的なところはある。御者《ぎよしや》君、途中《とちゆう》に郵便局があったら、ちょっと停めてくれたまえ」
ホームズは郵便局でみじかい電報を一通うったが、それからは馬車の座席にもたれかかるようにして、帽子を鼻のうえまでずりおろして日光をさえぎりながら、黙りこくっていた。
馬車はやがて、いま私たちの出てきたカッシング嬢《じよう》の家と同じような一|軒《けん》のまえに停められた。ホームズは御者にむかって、待っているようにと命じておき、降りて玄関《げんかん》にたち、ノッカーに手をかけたが、そのとたんに中からドアがあいて、黒服によく光るシルクハットの医者らしい風采《ふうさい》の若い男が出てきた。
「ミス・カッシングはご在宅でしょうか?」ホームズがすかさず尋ねた。
「セーラ・カッシング嬢は重態です。昨日から重い脳症《のうしよう》を起こしていますから、主治医としての責任上、どなたであっても面会は許せません。十日くらいたってから、改めてご来訪なすったらよいでしょう」といって医者は手袋《てぶくろ》をはめ、ドアを閉めておいて、おもむろに立ち去った。
「せっかくだが、会えないものは仕方がない」ホームズは残念そうでもなかった。
「むりに会ってみたところで、話すことなんかできなかろうよ」
「なあに、話なんか聞かなくてもいいんだ。顔をみるだけでよかったんだが、知りたいことはどうやら手に入ったようだ。御者君、食事をしたいから、どこか手ごろなホテルへやってくれたまえ。そのあとで警察へ回ってレストレードに会うことにしよう」
簡単な食事を愉快《ゆかい》にすませたが、そのあいだホームズはヴァイオリンのことしか話さず、いまもっているストラディヴァリウスは少なくとも五百ギニーの値うちのものだが、それをトテナム・コート通りのユダヤ人の質屋でわずか五十五シリングで買ったいきさつを、大得意で語った。それから話がパガニーニのことになって、一本のクラレットを楽しみながら一時間も対座するうちに、彼はこの名ヴァイオリニストの逸話《いつわ》をつぎからつぎと聞かせてくれた。
陽《ひ》もだいぶ傾《かたむ》いて、警察へ顔をだしたのは、焼けつくような暑さもさすがにゆるんだころだった。レストレードは入口のところで私たちを待ちうけていた。
「ホームズさん、電報がきていますぜ」
「あ、そりゃ返電ですよ」ホームズは封《ふう》をきってざっと眼をとおすと、まるめてポケットへ押《お》しこんだ。「これでいい」
「なにかわかりましたか?」
「なにもかもわかりましたよ」
「何ですって!」レストレードはびっくりして顔をみつめた。「冗談《じようだん》ばっかり」
「冗談なものですか! 大まじめですよ。恐るべき犯罪が行なわれたのですが、私はそいつを詳《くわ》しくさぐり出しました」
「そして犯人は?」
ホームズは名刺《めいし》の裏に何やら走りがきして、それをレストレードに投げた。
「それが犯人の名ですが、早くても明日の晩までは逮捕《たいほ》できますまい。ただ私としては、解決に困難のともなうときだけ捜査《そうさ》に参加することにしたいですから、この事件に関しては私の名を出さないでほしいです。ワトスン君、さあ行こう」
ホームズの渡した名刺をうれしそうに、いつまでも見入っているレストレードをその場に残して、私たちは駅をさして大またに歩みさったのである。
「この事件はね」とその晩ベーカー街へ引きあげて、葉巻を楽しみながらホームズは説明してくれた。「君が『緋色《ひいろ》の研究』とか『四つの署名』とかの題で記録してくれた事件とおなじで、結果をみて原因にさかのぼって推理をすすめなければならない例の一つだった。
細目の点でいまでもわからないことがあるが、これは犯人を押さえさえしたらわかることだから、レストレードに手紙を出して知らせてくれと頼《たの》んである。あの男も推理のほうはからっきしだめだけれど、逮捕するだけなら信頼《しんらい》してまかせておける。やるべきことさえのみこんだら、まるでブルドッグのように粘《ねば》りづよいからね。警視庁で頭角をあらわしたのも、この根づよさのおかげなんだよ」
「じゃこの事件はまだ片がつかないのかい?」
「実質的にはまあ片がついたようなもんだね。いやなことをやった人間はわかっている。ただ被害者の一人がわからないだけだ。むろん君にも独自の結論があるだろうがね」
「するとやっぱりこのリヴァプール通いの船のスチュワードのジム・ブラウナーを君は疑っているわけなんだね?」
「疑っている以上だよ」
「でも僕《ぼく》はまだぼんやりとそんな気がするだけだね」
「ぼんやりどころか、僕にはこんな明らかなことはない。だいたいの荒筋《あらすじ》をたどってみよう。まずこの事件には、われわれは白紙の状態で手をそめた。このことがいつでも有利なんだ。先入観というものがないからね。われわれはただ観察して、そこから何かの結論を引きだすため現場へ出かけた。
そこで何を見たか? およそ隠《かく》しごとなぞできそうもない落ちついた立派な老婦人と写真を見た。その写真はお婆《ばあ》さんに妹が二人あることを教えてくれた。それを見てすぐに僕は、あの箱《はこ》はほんとうは二人の妹のうちどっちかに送ってきたものじゃないかと思った。だがそれはいずれあとでどっちとも立証できることだから、ひとまずそっとしておいて、庭へ出てゆき、小さな黄いろい箱のひどく変った内容を実見した。
あのとき見たひもは、船のうえで帆《ほ》の補修につかうのと同じものだから、この事件は海のにおいがするぞと思った。そのうえ結び目が船員のよくやる結びかただったり、差出地が海港だったり、男の耳にイアリングの孔があったり――これは陸上の人はあまりやらないけれど、船員にはめずらしくないのだから、事件の役者はすべて船員のなかに求められるなと確信した。
つぎに小包の宛名《あてな》のところを調べてみると、ミス・S・カッシングとあった。ミス・カッシングといえば、むろん長姉もそれに該当《がいとう》するけれど、名まえにSの頭文字のつくのは彼女《かのじよ》ばかりではない。なるほど彼女はスーザンだから頭文字はSだけれど、妹のうち一人はセーラで、これも頭文字はSだ。
そこでこの問題をはっきりさせたいと思って、僕は家のなかへはいっていった。そしてお婆さんに、これには思いちがいがあると思うといおうとして、僕がふと口をつぐんだのは、君もみていた。あれはあのときあることに気がついて、はっと思ったからだが、おかげでそれからの調査の範囲はぐっと狭《せば》められることになった。
君は医者だからよく知っているだろうが、人体のうちで耳ほど変化のはげしいものはない。どの耳をとってみても、原則としてそれぞれ著《いちじる》しい特徴《とくちよう》があり、他のどんな耳とも違っているものだ。去年の『人類学会雑誌』をみてくれれば、この問題について僕の書いた短い論文が二つばかり出ているはずだ。
だから僕はあの箱のなかの耳を、専門家の眼でよく見て、解剖学的な特徴をしっかり頭にきざみこんだ。だから部屋へはいっていって、カッシング婆さんの耳が、いまみてきたばかりの女の耳にそっくりなのを認めたときの僕の驚《おどろ》きといったら! これは決して偶然《ぐうぜん》の相似《そうじ》なんかじゃない。耳翼《じよく》のつまっているところといい、上辺のゆるい曲りかたといい、内軟骨《ないなんこつ》の旋回《せんかい》のしかたといい、まったく同じなのだ。あらゆる要素からみて、二つはまったく同じ耳なのだ。
もちろん僕はこの観察のきわめて重大なのをさとった。被害者《ひがいしや》は婆さんの血縁《けつえん》、それもきわめて近いことが明らかだ。そこで僕は家族のことに話をもっていったのだが、君も聞いていた通り、あんなに貴重な資料をすらすらと与《あた》えてくれた。それをここで繰《く》りかえしてみれば、第一に妹の名がセーラであること、最近まで同居していたことなどだが、これではまちがいのおこるのも明らかだし、あの小包はもともとセーラにあてたのだということがわかる。
それから末の妹が船のスチュワードと結婚《けつこん》したこと、このスチュワードがひところは義姉のセーラときわめて親しくし、そのためセーラはリヴァプールのブラウナー一家のそばへ引越していったほどだったが、のちには仲たがいした。それ以来何カ月か音信不通になっているから、ブラウナーがもしセーラに何か送るとすれば、もとの家あてにするにちがいないことなどがわかった。
ここまでくれば、問題はおどろくほど明らかになってきた。われわれはそのまえに、ブラウナーという直情的でかつ情熱的なスチュワードの存在を知っている。この男は妻とながく別れているのがいやさに、南米航路のいい職を放棄《ほうき》してさえいるうえに、ときどき大酒をやる癖《くせ》がある。
だからこの男の妻が殺され、同時におそらく船員と思われる男も殺されたと考えるのは、あながち根拠《こんきよ》のないことではない。もちろんこの場合殺害の動機には嫉妬《しつと》が考えられる。それにしてもその証拠《しようこ》をなぜセーラのところへ送らなければならないのか? おそらく彼女がリヴァプールにいるころ、こんどの悲劇をひき起こすようなことを、なにかやったものと思われる。
このロンドン―リヴァプール航路の船は、ベルファスト、ダブリン、ウォーターフォードに寄港する。だからブラウナーのやったこととして、かつ犯行直後に乗船のメーデー号で出帆《しゆつぱん》したものとすれば、彼があの恐るべき小包を発送するためには、ベルファストが第一の寄港地ということになる。
だがこの段階では、第二の解釈もなりたたないわけではない。僕としては極《きわ》めてありそうもないことだとは思ったが、第一の説を押しすすめるまえに、その点を研究してみることにした。道ならぬ恋《こい》に破れた男が、ブラウナー夫婦を殺したかもしれないという考えだが、そうすると男の耳のほうはブラウナーのものということになる。この説には重大な欠陥《けつかん》がたくさんあるのだが、それでも一応は頷《うなず》けないでもない。
そこで僕はリヴァプール警察にいる友人アルガーに電報して、ブラウナー夫人は家にいるか、ブラウナーはメーデー号で出帆したか調べてくれと頼んでおいて、それからセーラに会いにウォリントンへ向かったのだ。
僕は第一に、家族の耳の特徴がどこまでセーラの耳に現われているか、見るのを楽しみにしてもいたが、むろんそのほか有力な手掛《てがか》りが得られるかもしれないと思った。だが手掛りのほうはあまり当《あて》にもしていなかったがね。
なにしろ小包のことはまえの日からクロイドン中の評判になっているのだから、セーラはもう知ってもいるだろうし、彼女だけはほんとうは誰《だれ》にあてて送ってきたものか、承知しているはずだと思っていた。彼女がもし正義に味方する気なら、とっくに警察へ届け出ているだろうとも思った。それにしても彼女に会ってみるのは、明らかにわれわれの義務だと思ったから、とにかく出かけたのだ。
行ってみると、小包のきたことを知って彼女はきのうから脳症を起こして倒《たお》れていることがわかった。彼女が小包のことを知ったのと発病の時とが一致《いつち》しているのでそれはわかる。これで彼女が事情をすっかり承知していることがますます明らかにもなったが、同時に彼女の助力を得ることが当分むずかしいこともわかった。
だが彼女の助力はもう必要でなかった。アルガーからの返事が、指定どおり警察で待っていたからだ。こんな決定的な返事はない。ブラウナー夫人の家は三日まえから閉めきりで、近所の人は親戚《しんせき》をたずねて南方へいったらしいといっている。ブラウナーのほうは、船会社へ問いあわせたら、メーデー号に乗りこんで出帆したというのだ。メーデー号がテームズ河へはいってくるのはあすの晩になる勘定《かんじよう》だ。着いたら頭はにぶいが断乎《だんこ》たるレストレードが待ちかまえているのだから、細かい点まですっかり補足されることは疑いないね」
シャーロック・ホームズの期待ははずれなかった。それから二日目に、彼《かれ》のところへぶ厚い封書がとどいた。中はレストレードからの短い手紙と、|フ《*》ールスカップ【訳注 約四十三センチ×三十三センチの大きさの洋けい紙。もとは道化師帽のすかしが入っていた】数ページにわたってぎっしりタイプした記録とであった。
「レストレードが首尾よく捕《とら》えたよ」ホームズは私をチラとみた。「何といってきたか、君にも面白《おもしろ》いだろうから読みあげてみよう」
[#ここから1字下げ]
シャーロック・ホームズさま
われわれのたてた仮説の当否を試《ため》すため、われわれの作成した計画にしたがい――われわれずくめが面白いじゃないか、ワトスン君――私は昨夕六時アルバート波止場《はとば》へ出張しリヴァプール、ダブリン・アンド・ロンドン郵船会社所属のメーデー号に踏《ふ》みこみました。調べてみると同船にはジェームズ・ブラウナーと申すスチュワードはいるが、彼は航海中挙動があまり異様なので、船長はやむなく仕事を休ませてあるとのこと。船室へ降りてみますと、衣料箱に腰《こし》かけて両手で頭をかかえこみ、からだを前後にゆり動かしています。ひげはきれいにそってあり、強そうな大男で色は浅黒く――偽洗濯《にせせんたく》屋事件で当局を援助《えんじよ》してくれたアルドリッジにどこか似た男です。私の職掌《しよくしよう》を知るととびあがりましたから、近くの水上署員の応援を求めるため呼子《ホイツスル》を口へもってゆきましたが、同人はまるで魂《たましい》のぬけた男のように、おとなしく手錠《てじよう》をうけました。
とにかく同人は留置場に送り、何かの証拠でもはいっているかと腰かけていた箱も押収《おうしゆう》してきましたが、船員のよく持っている大きな鋭《するど》いナイフが出てきたのみで、せっかくながら期待はずれでした。しかるに事情は一転し、もはや証拠物件を必要としないことになりました。
すなわち同人を署の警部のまえに引出しましたところ自由に供述したいと申しますので、ただちに速記をとりタイプで三通の供述書を作成しましたから一通だけここに同封します。事件は私の予想にたがわずきわめて簡単なものですが、捜査中ご助力をいただいたことをここに厚くお礼申しあげます。
[#地付き]敬具
[#地付き]G・レストレード
[#ここで字下げ終わり]
「うむ! 捜査はまったく簡単だったんだ」ホームズがいった。「だがレストレードも最初ここへ来たときは、そうも思っていなかったと思うがねえ。それにしてもジム・ブラウナーはどんなことをいっているのかな? これはシャドウェル署のモンゴメリイ警部にたいしての供述書だが、言葉通りになっているから都合がいい」
[#ここから1字下げ]
「なにかいうことがあるかって? あるのなんのって、うんとありまさ。何もかもぶちまけちまわなくっちゃ。それで死刑《しけい》だというんなら、それもよかろうし、打っちゃっておくというんなら、それでもいい。そんなことはどっちでもかまわないけれど、じつをいうと、あれをやってからというもの、眠《ねむ》っても眼《め》さきにちらついて、これからだって、この身を始末しちまわないことには、同じだと思いますがね。たいていは彼女の顔だけれど、どうかすると男の顔もちらつきます。とにかくたえずどっちかがちらつくんです。男のほうは暗いしかめ面《つら》ですが、彼女はびっくりした顔をしています。そりゃそうでしょう、愛情のこもった顔しか見せたことのないこの私が、殺気をふくんで現われたんですからね。白い仔羊《こひつじ》みたいなあの女が驚くのはあたりまえですよ。
しかしそれはセーラがわるいのです。傷心の男ののろいであの女に疫病《えきびよう》をとりつかせ、からだ中の血を腐《くさ》らせてやりたいくらいです。そういったからって、私に悪いところがないというのじゃない。また酒を飲みはじめて、もとの私のように飲んだくれると獣《けだもの》みたいになったのも悪いのはよく知っています。でもメアリーは許してくれました。セーラが私たちの生活を暗くさえしなければ、メアリーは滑車《かつしや》にからむ綱《つな》のように、私にしっかりかじりついていたことと思うんです。というのはセーラが私にほれましてね、それがそもそもまちがいのもとなんですが、ほれやがったのはいいとして、私があんな女には鼻もひっかけねえで、メアリーばかりを愛していると知ってからというもの、逆転して私を憎《にく》み恨《うら》むようになったのです。
みんなで三人姉妹でした。上はただ人がいいだけの女でしたが、中は悪魔《あくま》で、末は天使でした。私と結婚したとき、メアリーは二十九でセーラは三十三でした。二人で家をもちたてのころは、ただもう幸福で、ひろいリヴァプール中をさがしても、メアリーのような女はないと思っていました。そのうち一週間ばかりのつもりでセーラに遊びにきてもらいましたが、一週間が一カ月になり、あれこれしているうちに、セーラは家のもののようになってしまいました。
そのころ私は酒をたっていましたので、金も少しはできてきましたし、何から何まで新しい銀貨のように晴れやかでした。それがこんなことになろうとは誰が思うでしょう? 夢《ゆめ》にも思わないことでした。
週末はたいてい家に帰ることにしていましたが、どうかして積荷の都合で本船が停留になると、一週間もぶっつづけて家にいることもありました。そういう関係から義理の姉のセーラもよく知るようになったのです。セーラはすらりと背のたかい女で、髪は黒く怒《おこ》りっぽく気みじかでした。いつもつんと気どって歩く癖《くせ》があり、その眼には火打石の火花のような輝《かがや》きがあります。でもメアリーというものがある以上、私は彼女のことなぞ問題にもしていませんでした。その点はどこへ出てもいい切ることができます。
どうかすると彼女は私と二人だけになってみたい様子で、散歩につれだそうとすることもありましたが、私はそんなことは考えたこともありません。でもある晩私ははじめて眼をさまされました。その日、本船から帰ってみると、メアリーはいなくて、セーラだけが家にいました。『メアリーは?』とたずねますと、『勘定《かんじよう》を払いにいったわよ』という返事です。
いらいらして部屋のなかを歩きまわっていますと、『ジムったら、五分間でもメアリーがいないと落ちつかないのね。私というものがいるのに、ちょっとの間も辛抱《しんぼう》ができないなんて、失礼しちゃうわ』『そ、そんなことないさ』といって私がなだめるように彼女のほうへ片手をだしますと、彼女は急いでその手を両手で握《にぎ》りしめました。その手のあついことといったら、熱でもあるかと思うばかりです。
彼女の眼を見て、私はその意味をすっかりさとりました。何もいわなくたって彼女の気持はわかります。私は顔をしかめて、その手を引っこめました。彼女はしばらく黙《だま》って立っていましたが、こんどは手をあげて私の肩《かた》をたたき、『しっかりなさいな、ジム!』といってあざけるような笑いをのこして、ぷいと部屋を出てゆきました。
それ以来セーラは心から私を憎むようになったのです。あれはほんとに人を憎みぬける女です。そんなになっても彼女を家においたのですから、私は馬鹿《ばか》でした。底ぬけの大馬鹿です。でもメアリーには何もいわないでおきました。いえば心を痛めさせるだけですからね。
それから何事もなく平穏《へいおん》に日がたってゆきましたが、しばらくして私は、メアリーの様子がすこし変なのに気がつきました。今まではまるで無邪気《むじやき》で私を信頼《しんらい》していたのに、妙《みよう》に疑《うたぐ》りぶかくなって、やれどこへ行ってきたの、何をしてきたの、その手紙は誰から来たの、ポケットに何を入れているのと、くだらぬことをやたら知りたがります。日がたつにつれてそれが激《はげ》しくなり、いらいらしてばっかり、私たちは何でもないことでけんかがたえぬようになりました。
私はほとほと困りぬきました。セーラは私を避《さ》けるようにしていますが、メアリーとは切っても切れぬほど仲よくしています。いまから考えればセーラがメアリーの心を私から背《そむ》かせるように、ありもしないことをあれこれと吹《ふ》きこんでいたことは確かなのですが、当時はそんなこと夢にも気のつかないほど私は馬鹿でした。
そんなことから私はまた酒をやるようになりましたが、メアリーさえあんなふうにならなければ、禁酒はつづけられたと思うのです。そうなると彼女も私に愛想をつかすことになり、夫婦のあいだのみぞはしだいに深くなってゆきました。そこへこのアレク・フェアベアンというものがとびこんできたものですから、ことはますます悪いほうへ傾《かたむ》きました。
はじめてのときはセーラに会いにきたのですが、交際上手でいたるところ友だちを作るほどの男のことですから、のちには私たちとも親しくなりました。スマートで髪がカールして、威勢《いせい》のいい元気者で如才《じよさい》がなく、世界中半分くらいは渡《わた》り歩いていて、そいつをまた面白おかしく話すやつでした。客としてはたしかに上の部でした。そのことは否定しません。船乗りにしちゃ珍《めずら》しく礼儀《れいぎ》を心得た男で、水夫室じゃなく、上甲板の船員生活のほうが多いやつなんだろうと私は思っていました。
私の家へ出入りするようになってからかれこれ一カ月ばかり、このおだやかで交際上手の男のため、ひどい目にあうことになろうとは夢にも思いませんでした。そのうち私はふと疑惑《ぎわく》にとらわれるようになり、それ以来一日として心の休まる日はないことになりました。
ほんのちょっとした、つまらないことなんです。
ある日私はとつぜん客間へはいっていったことがあります。入口のところでちらと見たメアリーの顔は、いそいそとうれしそうに輝いていましたが、はいっていったのが私だと知って、その顔は急に曇《くも》ったばかりか、さもがっかりしたように、そっぽを向いてしまいました。それだけで私には十分でした。メアリーが私の足音を聞きちがえたのは、アレク・フェアベアンのそれしかありません。
あの男がその場にいたのでしたら、おそらく殺していたろうと思います。私は怒るとまるで気ちがいのようになる男だからです。メアリーはただならぬ私の眼つきに気がついて、走りよって私の腕《うで》に手をかけていいました。『いけませんジム、お願いだわ』『セーラはどこにいる?』『お台所ですわ』『セーラ!』とそこで私は台所へはいってゆきながら、『あのフェアベアンという男に二度とこの家の敷居《しきい》をまたがせないでもらおう』『あら、なぜ?』『おれの命令だ』『あら、私のお友だちがこの家へ来ていけないのだったら、私だってここにいちゃいけないわね』『それはどうなり勝手にするさ。ただね、フェアベアンのやつが二度とここへ面《つら》を見せやがったら、やつの片耳を切り落として、記念にお前に贈ってやるから、そう思っていろ!』こういった私の形相におそれをなしたのでしょう、セーラはそれきり言葉を返さなかったばかりか、その晩のうちに私の家から出てゆきました。
いったいこの女は心からわるいことが好きなだけなのか、それともメアリーをそそのかして不行跡《ふぎようせき》を働かせ、それによって私がメアリーをきらうようにさせるつもりなのだか、いまもってわかりませんが、そのとき私の家を出たセーラは、二町ばかりはなれたところに一|軒《けん》借りて水夫相手の下宿をはじめました。フェアベアンもよく泊《とま》っていたようですが、メアリーは何しろ姉のことですから、ちょいちょいお茶に行っていました。
どのくらいしげしげ行っていたか、私は知りませんけれど、ある日あとをつけて行きまして、いきなり玄関《げんかん》から押《お》し入ってやりますと、フェアベアンは裏庭のへいをのりこえて、こそこそと逃《に》げてゆきました。そこでメアリーに向かって、今度あの男といっしょにいるところを見つけたら、お前なんか生かしちゃおかないぞと嚇《おど》しつけて、まっ青になってふるえながら泣くやつを、引きずって帰ってきました。こうなったら夫婦の愛情なんてあったものじゃありません。メアリーが私を憎み恐《おそ》れだしたのがよくわかります。それを見るにつけ私は酒をあおるし、それがまたメアリーに私をけいべつさせることになりました。
そうするうちにセーラは、リヴァプールにいたのでは暮《く》らしが立たないとわかって、どっかへ行ってしまいましたが、むろんクロイドンの姉のところへ転げこんだのでしょう。おかげでこっちはどうやら平穏になりましたが、そこへ今週になって、何もかもめちゃめちゃになるようなことが起こったのです。
こういうわけです。メーデー号は七日の予定で出帆しましたが、大樽《おおたる》が一つ転がりだして、船板が一カ所ゆるんだものですから、そのまま帰港して修理に十二時間かかることになりました。そこで私は下船して、こんなに早く帰ったら、さぞメアリーがびっくりして喜んでくれるだろうと思いながら、家へ帰ってきました。
そればっかり考えながら、家のある通りへ曲がってゆきますと、そのとき一台の辻馬車《つじばしや》がそばを通りました。みるとその馬車にメアリーがフェアベアンと相乗りで、ぺちゃくちゃとさも楽しそうに興じあっています。私が歩道にたって見送っていることなんざ夢にも気がつきません。
うそも隠《かく》しもない、そのときから私は自分でも何をするかわからなくなりました。いまから考えても夢のような気がします。ちかごろまた大酒をやるようにもなっていたのですが、その矢先ですから頭がすっかり狂《くる》ってきたのだと思います。いまだにここのところがズキンズキンとしていますが、その朝はまるで耳のなかがナイヤガラの滝《たき》のようにゴーッと鳴っていました。
さて、それを見て私はすぐに踵《くびす》をかえし、馬車のあとを追いました。手には太い樫《かし》のステッキをもっていますし、激怒《げきど》でかっとなっているのです。でも少し走るうち、あまりそばまで行ってはさとられるというくらいの知恵《ちえ》はうかびました。
馬車はまもなく鉄道の駅で停《と》まりました。出札所のあたりは黒山の人ですから、私は気づかれないように、かなり近くまでゆけました。二人はニュー・ブライトンまでの切符《きつぷ》を買いました。私も同じ切符を買って、三つばかりうしろの車両に乗りこみました。
目的地へ着くと二人は遊歩道を歩いてゆきますから、私は百ヤードとは離《はな》れずについてゆきました。すると二人はボートを借りてこぎだしました。とても暑い日でしたから、沖《おき》へ出ればいくらか涼《すず》しかろうと思ったのでしょう。
これは二人が私の手のなかへ転げこんだようなものです。海上はうすい霧《きり》がかかって、二、三百ヤードさきは見とおしがききません。そこで私もボートを借りだして、二人のあとを追いました。向こうのボートはぼんやり見えているのですが、なかなか早くこいでいるとみえて、容易に追いつけません。これじゃとり押さえるまでには二、三マイルも沖へ出ることになりましょう。
沖は霧がふかくて、まるでカーテンを張りめぐらしたようでした。そのなかにいるのは私たち三人だけです。近づいてきたボートに乗っているのが私だと知ったときの、あいつらの顔といったら! メアリーのやつは声をたてました。フェアベアンのやつは気ちがいのように猛《たけ》りたって、オールで私に突《つ》っかかってきました。私の眼のなかに殺気をみてとったからにちがいありません。
そいつをかわしておいて、ステッキの一|撃《げき》を食《く》らわせますと、やつの頭はまるで卵のようにぐしゃりとつぶれてしまいました。メアリーのほうは、いくら私が夢中《むちゆう》だからって、助けてやるつもりもあったのですが、こともあろうにあいつは倒《たお》れたフェアベアンのやつに両手ですがりついて『アレク! アレク!』と泣きながら呼びつづけます。ええいと私はまたステッキを振《ふ》りおろしました。メアリーは男のそばに伸《の》びてしまいました。
こうなると血の味を知った野獣《やじゆう》のようなものです。もしセーラがその場にいたら、むろん道づれにしていたことでしょう。そこで私はナイフをとりだして……あとはいうまでもありますまい。あの女がこいつを見て、自分のおせっかいがどんなことになったか知ったら、どんな思いがすることだろうと、考えただけでもぞくぞくと、へんに残酷《ざんこく》なよろこびで胸がわくわくしました。
それから私は死体をボートに括《くく》りつけて、船板を一枚はがし、沈《しず》むのを見とどけてその場をこぎさりました。貸しボート屋は、霧のため方向を失なって外海へ流されたものと思うにちがいないのです。私は身なりをなおして上陸すると、何くわぬ顔で本船へ帰ってゆきました。二人がどうなったか、誰《だれ》一人知るものなんかありゃしません。その晩セーラ・カッシングあての小包をこしらえて、翌日ベルファストで発送したのです。
以上がうそも隠しもないところです。死刑になりと何なりとしてください。もう罰《ばつ》は十分うけているのですから、平気なもんです。私はあれ以来二人の顔が眼さきにちらついて、夜もおちおち眠れないのです。霧のなかからぬっと現われた私を見たときの二人の顔! 二人はその顔でたえず私をじっと見つめています。私はひと思いに二人を殺したのですが、二人はじりじりと私をとり殺すのです。このままじゃあすの朝までに死んでしまうか、気が狂ってしまうかです。留置所へ入れるなら、お慈悲《じひ》です、どうか独房《どくぼう》にしないでください。さもないとあなたがただって、いまにこの苦しみを味わうことになりますぞ」
[#ここで字下げ終わり]
「これは何を意味するんだ、ワトスン君?」ホームズはその供述書を下において、おごそかにいった。「この苦難と暴行と不安の循環《じゆんかん》は何の役をはたすのだ? 何かの目的がなければならない。さもなくばこの世は偶然《ぐうぜん》によって支配されることになる。そんなことは考えられない。では何の目的があるというのか? これは永遠の問題としてのこされる。人知のおよぶところではない」
[#地付き]―一八九三年一月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
赤い輪
「さあねえ、あなたがそう心配なさる理由はないと思いますがねえ、ワレン夫人。わけもわかりませんし、これで私もいくらか忙《いそが》しい身ですから、出る幕じゃないと思いますよ。ほかにしなければならない用事があるのです」
こういってシャーロック・ホームズは、最近の資料を整理して索引《さくいん》をつくっていた大型のスクラップ・ブックのほうへ向きなおった。
それでも下宿の主婦はねばり強く、それに女らしいずるさも持っていた。どうしても後へは引かないのである。
「昨年あなたは私どもの、ある下宿人の事件を解決してくださいました」と彼女はいった――「フェアデール・ホブズさん、ね」
「そうでしたね。なに、簡単なことでしたね」
「でもホブズさんは、とてもご親切なかただって、いまでもおうわさをなさるんですよ。困りぬいているところを、あなたのおかげで助かったってねえ。それでこんどのようなことになりますと、私も、いちばんにあなたさまにと思いつきましたんでございますよ。その気にさえおなりくだされば、あなたさまには何でもないことでございますものねえ」
ホームズはおだての利《き》く男でもあるが、公平にいって親切でもある。さすがの彼《かれ》もこの二つに動かされて、あきらめのため息をほっともらして糊《のり》ばけを下におくと、椅子《いす》をうしろへずらした。
「しようがないから、ではお話をうかがいましょう。タバコをやってもいいでしょうね? じゃ……ワトスン君、そのマッチ。――こんど来た下宿人が、部屋にとじこもったきり姿をみせないのが不安だというのですね? そんなことをいうけれど、たとえば私のようなものを下宿させたとしたら、つづけて二、三週間も顔を見せないことはよくあることだと思いますよ」
「それとこれとは違《ちが》いますわ。私は恐《こわ》くてしようがありません。夜分もよく眠《ねむ》れないくらいですの。朝ははやくから夜おそくまで、部屋の中で足音だけはしますのに、姿といったら影《かげ》さえ見せないのですもの。もうもうたまらなくなりましたわ。
夫もおなじで変に思っていますが、彼は昼間は働きに出ていますからまだいいのですけれど、私ときたら夜も昼も休みなしなんですからねえ。ことに昼間は若い女中がいることはいますけれど、家の中はあの男《ひと》と私だけになりますでしょう? 考えるとたまらなくなりますの」
ホームズはからだを乗りだすようにして、その細い手をおかみの肩《かた》にそっとおいた。彼は欲《ほつ》すれば催眠術《さいみんじゆつ》でもかけたように、人心を落ちつかせる力をもっていた。彼女《かのじよ》の眼《め》からはたちまち怯《おび》えたところがなくなり、顔つきも普通《ふつう》のおだやかさになってきた。彼女はホームズがさし示した椅子に腰《こし》をおろした。
「お引きうけするからには、詳《くわ》しくお話をうかがわなければなりません。ゆっくりとよく考えて話してください。ごく小さくみえて、じつはたいへん大切なこともあり得《う》るのですからね。その男のきたのは十日まえで、二週間分の部屋代と食費を前金で払《はら》ってはいったのだといいましたね?」
「条件はって尋《き》かれましたから、一週五十シリング頂きますって申しあげましたの。てっぺんの部屋なんですけれど、小さいながら居間のほかにちゃんと寝室《しんしつ》もついているんですのよ」
「それで?」
「するとその人は、『こちらの条件をいれてもらえれば、一週五ポンド出す』といううまい話です。私は貧乏《びんぼう》でございましょ。それに夫のかせぎもいくらにもなりませんし、五ポンドと聞いてはのどから手が出ます。その人は十ポンドのお札《さつ》を一枚だして、その場で私によこして、『条件さえ守ってくだされば、二週間に一回、ずっとこれと同じに払いますよ。いけなければ、それまでですがね』といいます」
「条件というのは?」
「それがねえ、第一に玄関《げんかん》の鍵《かぎ》を渡《わた》してほしいというのです。それはかまいませんのです。下宿人に鍵を持たすことはよくあるのですからね。それから、どんなことがあっても、絶対に部屋へはいってきちゃいけないと申しますの」
「それだって驚《おどろ》くほどのことじゃないですね」
「それはね、理屈《りくつ》はそうですけれど、世の中は理屈ばかりじゃございませんわね。来てからきょうでもう十日になりますけれど、私はもとよりのこと、夫にも女中にも一度だって姿を見せたことがありませんの。それに朝でも昼でも夜でも、部屋の中をせかせかと歩きまわる足音をさせるだけで、来た日の晩に外出したっきり、それからは外へなんか一度も出ないんですのよ」
「ほう、来た日の夜外出したんですね?」
「それも帰ったのはずっとおそくて、私たちとっくに寝《ね》たあとでしたわ。はじめ部屋のとりきめをするときの話で、今晩は外出するから、玄関にかんぬきをおろさないでおいてほしいということでしたから、その通りにしておいたのですが、帰った足音を聞いたのは、夜なかすぎでございましたよ」
「食事はどうしているんです?」
「それがまた妙《みよう》な注文なんですのよ。ベルを鳴らしたら、食事はお盆《ぼん》にのせて、部屋のドアのそとに置いていってくれ、すんだらまた椅子の上においてベルを鳴らすから、さげにきてほしいというのですの。もしまた何かほしいものがあったら、紙きれに活字体で書いて椅子の上へおくからってね」
「活字体で?」
「はい、鉛筆《えんぴつ》で活字体で書いてあるんですの。その単語だけで余計なことは何も書かないでね。お眼にかけようと思って少し持って参りました。これには石けんSOAPとあります。こちらはマッチMATCHとあります。これは来たつぎの朝あったもので、デイリー・ガゼットDAILY GAZETTEとあります。それ以来まい朝お盆といっしょにデイリー・ガゼットをお届けしております」
「おやおや」とホームズは、下宿の主婦がだしたフールスカップの切れっぱしを、珍《めずら》しそうにながめて、「これはたしかに普通じゃないね、ワトスン君。人を避《さ》けて閉じこもっているのはわかるとして、なぜこんな活字体の字でなんか書くのだろう。こんな面倒《めんどう》なことをしないで、ちゃんと書いたらいいじゃないか。こんな字でなんか書くのは、何か意味があるのかね、ワトスン君?」
「筆跡《ひつせき》を知られたくないからだろう」
「何のために? 下宿の主婦に一字や二字筆跡を見られたからって、どうということもないじゃないか? まてよ、それも一理あるかな? それにしても電報みたいなこの注文はなんだろう?」
「そうなると想像もつかないな」
「これは知恵《ちえ》くらべの面白《おもしろ》い問題になってきた。この字は先の太い紫《むらさき》いろという珍しい鉛筆で書いてある。この紙は字を書いてから、ここのところが破りとってある。SOAPという字のSの字のうえが、すこしなくなっている。暗示するものがあるじゃないか、ワトスン君?」
「警戒《けいかい》したわけかな?」
「そのとおり。なにかの手掛《てがか》り――おそらく自分の正体のわかる指紋《しもん》でもついたため、ここを破りとったのだ。ところでワレン夫人、その男は中肉中背であごひげがあるとかいいましたね? 年はいくつくらいですか?」
「まだ若く――そうですね、三十にはなっていませんわね」
「もっと何か特徴《とくちよう》はありませんか?」
「言葉つきはりっぱな英語ですけれど、アクセントにくせがありますので、外国のかたかなと思いました」
「服装《ふくそう》もちゃんとしていたのですね?」
「たいそうりっぱで、ちゃんとした紳士《しんし》でございますよ、まあね。服は黒っぽくて、とりたててどうということもございませんでした」
「名前はいわないのですね?」
「はい、うかがっておりません」
「手紙かお客のきたこともないのですか?」
「ありません」
「でも朝なんか、あなたか女中さんが掃除《そうじ》しに部屋へはいるのでしょう?」
「いいえ、何もかもご自分でなさいます」
「おやおや、よくよく変っていますね。荷物なんかはどんなです?」
「大きな茶いろのかばんを一つ持っていらしたきりでございます。ほかにはなんにも」
「これじゃどうも材料が不足ですね。その部屋からはなにも出てきたものがないのですね、絶対に?」
こういわれて彼女はハンドバッグから封筒《ふうとう》をとりだし、そのなかからマッチの燃えさしを二本と、巻きタバコの吸いがらを一つテーブルの上へ振《ふる》いだした。
「けさお盆のうえにこれがございました。あなたさまはつまらない物から、大切なことを導きだすかただとうかがっておりますので、持って参りましたの」
ホームズは肩をすくめた。
「これは何にもなりませんね。マッチはむろんタバコをつけるのに使ったのです。マッチがいくらも燃えていないのでそれがわかります。パイプや葉巻をつけるには、マッチが半分以上燃えてしまいますからね。おや、待ってくださいよ。この吸いがらはへんだぞ! その男は口ひげのあるうえに、あごひげもはやしているといいましたね?」
「はい」
「これは妙だ。これを吸ったのはひげのない男でなければならない。ねえワトスン君、きみのような短い口ひげだって、こんなに吸ったらこげるだろう?」
「シガレット・ホルダーを使ったのだろう」
「いやいや、それにしちゃこの吸いがらの端はよごれている。その部屋には人が二人いるのじゃないでしょうね、ワレン夫人?」
「いいえ。食事もほんの少ししかあがりませんし、よくこれで生きてゆけると思うくらいでございますよ」
「とにかくもう少し材料が手に入るのを待つしかありませんね。あなたとしちゃ、なにも不服なぞいうことはないはずです。下宿料は前金でとってあるのだし、たしかに普通とちがったところのある男だけれど、ちっともうるさくはないのですからね。それどころか、高い下宿料をだすいいお客ですよ。それが人目を忍《しの》んでいるからといって、あなたには少しも関係のないことです。
私たちとしても、何かそこに犯罪的な理由のないかぎり、隠《かく》れ家《が》へむやみに押《お》し入る口実はありゃしませんよ。とにかく私もお引受けしたのですから、これから眼をつけていることにします。何か変ったことがあったら知らせてください。必要があればいつでも助けにいってあげますから、ご安心なさい」
下宿の主婦が帰ってゆくと、ホームズはいった。
「この問題はたしかに面白い点があるね。もちろんこれはごくつまらない、個人の奇癖《きへき》かなにかかもしれないが、また表面に現われない重大事件をはらんでいるのかもしれない。第一に考えられるのは、いまその部屋にいるのは、初めに契約《けいやく》した男とは違うのじゃないかということだ」
「なんだってそんな変なことを考えるんだ?」
「それはね、吸いがらの問題はさておいて、その下宿人のたった一度だけ外出したのが、来た直後だったというのが暗示的だと思わないかい? すべての証人が寝たころになって、帰ってきたというが、出ていったのと同一人物が帰ってきたとする証拠《しようこ》はなにもない。
さらにまた、部屋を借りにきた男はりっぱな英語を話したというが、この紙にはmatchesと複数で書くのが正しいのに、この通りmatchと単数ですましている。これはきっと字引を見て書いたのだと思う。字引には名詞はかならず単数形で出ているものだ。ほしいものの名まえだけ書いてよこすというのは、英語を知らないのを隠すためだと思う。ね、ワトスン君、こう数えあげてみると、下宿人が入れ替《かわ》っているのじゃないかと考える理由がわかるだろう?」
「それにしても目的がわからないね」
「目的? そこがわれわれに課された問題なのさ。それにはいい方法がある」
といって彼は、ロンドン中のいろんな新聞から切りぬいて日付けの順にはりこんだ大きなファイルをとりおろして、ページを繰《く》った。
「どうだい、まるでうめき声と哀訴《あいそ》と嘆願《たんがん》のコーラスだね。それぞれ事情のある事件でごったがえしている。異常事の研究者にとっては、見のがしがたい恰好《かつこう》の猟場《りようば》だよ。この人物はいま単独でいるのだ。しかも必死となっておし隠しているその秘密性を損なわないかぎり、むやみと手紙などで連絡をとるわけにゆかない。それでは外部からこの人物に通信連絡するにはどうしたらよいか? もちろん新聞広告を利用するのだ。ほかに方法は考えられない。
ところが幸いなことに、われわれは一種類の新聞にだけ注意しさえすればよい。ここにこの二週間のデイリー・ガゼット紙からの切りぬきがある。『プリンス・スケート・クラブにいた黒いボアの婦人に……』これはパスしてよかろう。『ジミーよ、母を悲しませないでください……』これも見当ちがいだ。『ブリクストン行きバス中で卒倒した婦人に告ぐ……』これも用はない。『日ごとわが心は君を思いこがれ……』何をたわけたことを! ……おや、これは少し有望だぞ。いいかい、『辛抱《しんぼう》せよ。やがて通信の途《みち》は開かれん。それまでは本欄《ほんらん》にて―G』というのだ。この広告はワレン夫人のところへ問題の下宿人がきてから二日目の新聞に出たものだ。なんだか有望じゃないか。これでみると隠れている下宿人は、英語を書くほうは苦手だとしても、読むほうはどうやらわかるらしいね。
同じものがもっとないかな? おや、あるよ。三日あとだ。『準備は着々と進行中。辛抱と用心が大切。やがて雲は晴れん―G』この広告が出てからずっと何もなくて、一週間たってこんどはずっと明確なのが出ている。『道は開かれんとす。機いたらばかねて打合せの暗号により通信せん。一はA二はB以下これに準ず。近く通信開始すべし―G』これはきのうの新聞だが、きょうのには何も出ていない。
これはどうもワレン夫人の下宿人が目あてらしくも思われるが、もう少し待っていれば、きっとはっきりすると思うよ」
ホームズの予想ははずれなかった。翌朝居間へ出てみると、ホームズは暖炉《だんろ》に背を向けて立ち、さも満足らしい微笑《びしよう》を浮《う》かべていたのである。
「これはどうだい、ワトスン君?」彼はテーブルのうえの新聞を拾いあげて、「いいかい、『白き石の飾《かざ》りある赤レンガの高き家。三階の左から二つ目の窓。日没《にちぼつ》後―G』とある。これではっきりした。朝食をすませたら、ワレン夫人の家の近所をすこし踏査《とうさ》する必要がある。――おやワレン夫人、朝からどんなニュースをもってきたのですか?」
わが依頼人《いらいにん》はだしぬけに、たいへんな勢いでとびこんできたのである。なにかよほど重大な新展開を来《きた》したものとみえる。
「たいへんなことになりましたよ、ホームズさん。これは警察ものですね。もうとても辛抱できません。すぐにも荷物をまとめて出ていってもらいますわ。直接《じか》にそのことを話しにゆこうかと思ったのですけれど、まずあなたのご意見をうかがってからにしたほうが公平だと思って……もうもう辛抱できるものですか! なにしろあなた、夫に襲《おそ》いかかったりされましては……」
「ご主人に襲いかかったのですか?」
「ひどい目にあわされましたんですよ」
「誰《だれ》がそんなことをしました?」
「それがわかりさえしましたらねえ。じつはこうなんですの。夫はトテナム・コート通りのモートン・アンド・ウエイライトで作業時間係りをつとめていますから、毎朝七時まえには家を出なければなりません。
けさも早くに家を出まして十歩ばかりも歩いたかと思いますと、うしろから二人も男が襲いかかって、いきなり外套《がいとう》を頭からかぶせて、そばで待っていた馬車のなかへ押しこんでしまいましたの。そうして馬車をさんざ乗りまわしたあげく、一時間もたったころ道ばたへ放《ほう》りだしてしまったんでございますって。
放りだされた夫は何のことやらわからずにまごまごしていますうち、馬車はどっかへ行ってしまって、気がついてみましたらハムステッド・ヒースの原のなかにとり残されていましたのですって。それで馬車を頼《たの》んで家へ帰ってきまして、いまソファで休んでおりますが、そのあいだにと私、大急ぎでこちらへお知らせに参りましたの」
「ふむ、それは面白い。どんな連中だったのですか? その連中がどんな話をしていたか、ご主人はなにか聞いていないのですか?」
「いいえ、気が転倒してしまって、まるで魔法《まほう》の力で抱《だ》きあげられて、魔法の力で放りだされたような気がするんでございますって。二人だと思うけれど、三人だったかもしれないと申しております」
「あなたとしては、あの下宿人と関係があるものとお考えなのですね?」
「私ども十五年もあそこに住んでおりますけれど、ついぞこんなことはあったためしがございませんものねえ。もうもうあの人にはこりごりです。お金なんぞどうだってようございますから、今日のうちに出ていってもらいますわ」
「まあまあお待ちなさい。そう早まってはいけません。この問題は初め考えたよりも、ずっと重大だという気がしてきました。あなたの家の下宿人の一身に、なにかの危険がせまっていることは明らかです。同時にまた、下宿人をねらう敵がお宅の玄関さきに張りこんでいて、朝霧《あさぎり》がふかいものだから、出てきたご主人を下宿人とまちがえて襲いかかったことも明らかだと思います。
馬車を駆《はし》らすうちこのまちがいに気がついて、そいつらはご主人を放りだしたのです。これがまちがいでなくて、もしも下宿人が捕《つか》まったのだったら、どんなことになったことか、ただ臆測《おくそく》するしかありませんけれどね」
「ではホームズさん、私どうしたらよろしいでしょう?」
「その下宿人にぜひ会ってみたいものですがねえ」
「ドアを打ち壊《こわ》してはいりでもしないかぎり、どうしたら会えますか私にもわかりません。お盆をおいて降りてきますとき、いつでも鍵をはずす音が聞こえますものねえ」
「お盆をとりいれるためには、ドアを開けなければなりませんからねえ。どこかに隠れていて、そこを見るわけにはゆきませんか?」
「さあ、廊下《ろうか》の反対がわに物置き部屋がございますから、鏡でも具合よくとりつけて、ドアのかげにいらっしゃれば……」
「それはうまい! おひるは何時《なんじ》に食べるのですか、下宿人は?」
「一時ごろになります」
「じゃそれに間にあうように、ワトスン博士と二人でゆきます。では後ほどまた……」
十二時半に、私たちはワレン夫人の家の玄関に立っていた。大英博物館の東北がわにあたるグレート・オーム街という狭《せま》い通りで、黄いろいレンガづくりのひょろ高い建物だった。街角にちかく建っているので、いくらかましな家のならぶハウ街が見わたされた。ホームズはにっとして、その中の一|軒《けん》、棟《むね》わりの住室《フラツト》になっているいやでも眼《め》につくやつを指さした。
「わかるだろうワトスン君? 『白き石の飾りある赤レンガの高き家』だぜ。これが信号所なんだ。これで場所は突《つ》きとめたが、符号《ふごう》のほうはまえからわかっている。あとの仕事は簡単だよ。あの窓には貸し室の札《ふだ》がはってある。してみると相手は空き住室《フラツト》を使っているんだね。――おやワレン夫人、都合はどうなっています?」
「はい、ちゃんと用意いたしておきました。どうぞおはいりくださいまし。ご案内いたしますから階段の下で靴《くつ》をおぬぎになって……」
ワレン夫人の用意してくれたのは、すばらしい隠れ場所だった。暗いなかに腰《こし》かけていれば、向こうの部屋のドアが手にとるように鏡にうつって見えた。私たちがそこへ納まるのを見て、ワレン夫人は降りていった。
しばらくすると遠くでベルが鳴った。するとワレン夫人がお盆を手にして現われ、閉めきったドアのまえの椅子《いす》の上におくと、大きい足音をたてて降りていった。私たちはドアとは斜《なな》めのほうを向いて身を低く、じっと鏡の中をのぞきこんでいた。
主婦の足音が消えていったと思うと、とつぜん鍵をまわす音がして、ハンドルが動き、二本のほそい手がにゅっと出て椅子の上の盆をとりあげた。だがその手はせっかくとりあげた盆をすぐに椅子へもどし、色の浅黒い美しい顔が、物に怯《おび》えたように、ほんの少しあいている物置のドアのほうをじろりと窺《うかが》うのが見えた。と思うとドアはぴたりと閉《とざ》され、鍵をまわす音がして、あとはしんとなってしまった。
ホームズが私のひじをつつくので、私はたちあがって彼《かれ》のあとからそっと降りてきた。
「晩にまたきます」彼は大いに期待してまっていたワレン夫人に告げて、「ワトスン君、話は帰ってからのことにしよう」
「やっぱり僕《ぼく》の推測があたっていたね」ホームズは自分の安楽椅子にふかぶかと納まっていった。「下宿人は入れ替っている。ただ女だとは気がつかなかったよ。それも普通《ふつう》の女ではない」
「僕たち見つけられたよ」
「どこか様子がおかしいと感じたんだ。それはまちがいない。おかげでだいたいの様子はわかったじゃないか。夫婦というか、二人の男女が恐《おそ》るべき火急の危険からロンドンで身を隠そうとしている。その危険の程度が大きいから、厳重な警戒を励行《れいこう》しているのだ。
男のほうは、何かの仕事をもっていて、それをすますまで、女をぜったい安全にしておきたい。といってもそれは容易な業《わざ》ではないが、男は独特の方法を案出した。この方法は食事を運ぶ主婦にさえなにも知られないですむほど有効なものだった。これでわかったが、注文の品を活字体で書いたのは、筆跡で女だと見破られないための用心だったのだ。
男のほうは、敵に居場所を教えることになるのをおそれて、女のところへは寄りつきもできない。といって直接通信する方法もないので、男は新聞の三行広告欄を利用したのだ。ここまでは明らかだ」
「そもそも何が原因でこんなことになったのだろう?」
「ああ、また始まった。君はどうしてそう実際主義なんだろう? 何が原因だろう? なぜだろう? ワレン夫人のもちこんだ気まぐれな事件は、どうやら拡大されて、調べのすすむにつれていまや思わぬ不祥《ふしよう》事件の様相を呈《てい》してきたのだ。とにかくこれだけのことはいい得《う》る。これは普通の駆落《かけおち》事件なんかじゃないとね。あの女の顔には危険にたいする恐怖《きようふ》が現われていた。それに下宿の亭主《ていしゆ》が襲われたというが、これはむろん下宿人とまちがえられたのだ。
そういう非常事件や、二人が必死に隠れているところなどからして、問題は生死に関するものだということがわかる。下宿の亭主を連れさったところをみると、敵は何ものだかわからないけれど、下宿人がすり替っているのを知らないでいると見える。じつに奇妙《きみよう》で複雑な事件じゃないか」
「どういうわけでこんな事件に深いりするのだい? 解決してみたって得るところなんかないじゃないか?」
「ないだろうかね? 仕事のための仕事さ。君だって誰かを診療《しんりよう》するときは、料金のことなんか考えずに、必死に病気と取っくむだろう?」
「自分の教育になるからね」
「教育に終りはない。教程の連続で、最後には最大のものが控《ひか》えているのだ。これなんかなかなか為《ため》になる事件だ。金も名声も得られるわけではないけれど、それでも何とかして解決はしたいのだ。日が暮《く》れたら、この調査も一歩すすんでいることと思うよ」
ふたたびワレン夫人の部屋へ私たちが行ったのは、ロンドンの冬のうっとうしさが濃《こ》くなり、灰いろのカーテンが垂れこめたようになってきたころだった。すっかり単調に暮れたなかに、窓々が四角く黄いろに輝《かがや》き、ガスの街灯だけがそちこちにぼうっと浮かんでいる。暗くした下宿の居間の窓からのぞいてみると、高いところにもう一種類かすかに光るものがあった。
「あの部屋で誰か動いている」ホームズがやせた顔を窓ガラスに押しつけるようにして、きっとなって低い声でいった。「うむ、影《かげ》がみえる。あ、また現われた。ろうそくをもっている。窓からのぞいている。彼女《かのじよ》が待ちうけているかどうか確かめたいのだな。や、閃光《せんこう》信号をはじめたぞ。君もあれを読んでくれたまえ、ワトスン君。あとで比べてたしかめよう。
閃光一つ――これはAだ。こんどは? 君はいくつ見た? 二十? 僕もおなじだ。二十はTだ。するとATだな。おや、またTが現われた。これは第二語のはじまりなんだろう。……こんどはTENTAだ。やめてしまった。これで終りのはずはないね。ATTENTAじゃ意味をなさないよ。それともAT TEN TAと三つに分けるのかな。『十時にT.A.』となって、 T.A.は人の名でも表わすのだろうか? おや、またはじめた。
こんどは何だ? ATTE……なんだ、おなじ信号の繰りかえしじゃないか。妙だな。どうも妙だよ、ワトスン君。またやめてしまった。いや、ATT……また始めたが、おんなじことの繰りかえしだ。ATTENTAをこれで三度やった。何度くりかえすつもりだろう? おやこんどこそほんとに止《や》めてしまったぜ。窓から身を引いてしまった。ワトスン君、これをどう思うね?」
「暗号通信なんだろう」
ホームズはわかったというように、とつぜんにこっとした。
「暗号にしても簡単だよ。なぜって、これはイタリア語なんだ。終りにAのあるのは、相手が女だからさ。『気をつけろ、気をつけろ、気をつけろ』というのだ。どう思う?」
「たぶんそれが正解だね」
「まちがいはない。火急の通信だ。三度もくりかえして、その点を強調している。何に気をつけろというのだ? 待ちたまえ。また窓に現われたぜ」
ぼんやりしたシルエットは身をかがめるようにして、弱い光を窓に出したり引っこめたり、また送信をはじめた。こんどは前よりもずっと早く、うっかりすると従《つ》いてゆけないくらい早く明滅《めいめつ》させた。
「PERICOLOだ。ペリコロって何だったかね、ワトスン君? 危険という意味じゃなかったかな? そうだ、たしかに危険を意味する名詞だ。おや、また始めたぜ。PERI……あっ、どうしたんだ?」
光はぱっと消えてしまって、窓がまっ暗になったのである。その高い建物は多くの窓が明るく輝くなかに、四階だけが黒い帯でもしめたように、まっ暗である。信号は終りになってとつぜん中断された。どうしたのだろう? 誰が中断したのだろう? その瞬間《しゆんかん》、二人の考えることは同じであった。ホームズは寄りそっていた窓からがばと離《はな》れたった。
「これは大変だ。何かよからぬことが起こったのだ。でなくてあんなふうに急に中止するわけがない。こうなったら警視庁に連絡すべきだね。といっていまここを離れるわけにはゆかないし、困ったことになった」
「僕が行って来ようか?」
「それにしても状況《じようきよう》をもう少し見さだめる必要がある。こう見えて、案外単純なことなのかもしれないからね。ワトスン君、来たまえ。やれるかやれないか、僕たちだけであそこへ乗りこんでみよう」
ハウ街を急いで歩きながら、私はいま出てきた建物を振《ふ》りかえってみた。最上階の窓に、ぼんやりと人の頭が見える。女だ。息もつめるばかりに緊張《きんちよう》して、中断された信号の再開されるのを待って、夜空を凝視《ぎようし》しているのだ。
ハウ街のその家の入口には、えりまきと外套にくるまった男が、手すりによりかかっていたが、近づく私たちが門灯の光のとどくところまでゆくと、おどろいて手すりをはなれ、
「や、ホームズさんじゃありませんか!」と叫んだ。
「おや、グレグスン君!」ホームズはこの警視庁の警部と握手《あくしゆ》をかわしながらいった。「旅路のはては愛人の再会でめでたしめでたしですか。こんなところで何をしているんです?」
「たぶんあなたと同じものを追っているんですよ。あなたがどうしてこれを知ったのか、私には見当もつきませんがね」
「べつべつの糸を手繰《たぐ》ってゆくうち、同じもつれ瘤《こぶ》にたどりついたのですよ。私は今まで信号を傍受《ぼうじゆ》していました」
「信号ですって?」
「あの窓から出していたのだが、中断されたから、その理由を調べにやって来たのです。でもあなたが手がけているのだったら、私たちはもう用なしです」
「待ってください!」グレグスンは慌《あわ》て気味にいった。「正直のところ、いつの事件にだって、あなたがついていると思えばこそ、どんなにか心強い思いでした。この家には出口は一カ所しかありませんから、苦もなくそいつは捕まえますよ」
「いったい何ものですか?」
「おや、こんどばかりは勝たしてもらいましたかな。観念してもらいましょう」といってグレグスンはステッキでつよく地面をうった。
するとそれを合図に、通りの向こうがわに停《と》まっていた四輪の辻馬車《つじばしや》から、御者《ぎよしや》がむちを手にしたままで、ぶらりと降りてきた。
「シャーロック・ホームズさんをご紹介《しようかい》します。ホームズさん、こちらはアメリカのピンカートン探偵《たんてい》局のレヴァートンさんです」グレグスンが紹介した。
「ロング・アイランド洞窟《どうくつ》事件の立役者のレヴァートンさんですね? お初にお目にかかります」ホームズがいった。
もの静かでてきぱきしたその若いアメリカ人は、立役者といわれて、ひげのないとがった顔をぱっと紅《あか》らめながらいった。
「私は生命《いのち》がけの仕事をしています。ゴルジアーノを首尾《しゆび》よく捕え得たら……」
「えッ! 赤い輪のゴルジアーノですか?」
「おや、ヨーロッパまで名が響《ひび》いていますか? アメリカでの行跡《ぎようせき》ならすっかりわかっているのですが、少なくとも五十件の殺人に関係しているとわかっていながら、これという証拠《しようこ》がないのです。
こんどはニューヨークから追跡してきましてね、この一週間ロンドンで眼をはなさずに、なわをかける口実のできるのをねらっているところですよ。今晩はグレグスンさんと二人でこの大きなアパートまで追いつめてきましたが、ここは出入口が一カ所しかないから、抜《ぬ》けだされることはありません。あいつがここへはいってから、三人ばかり出ていったものがあるけれど、そのなかには決していなかったです」
「ホームズさんは信号がどうとかいっていますがね、例によってわれわれの知らないことをいろいろ知っているらしいですよ」
グレグスンがこういうので、ホームズは今までの事情を簡単に説明した。するとアメリカの探偵は無念そうに手を打って、
「さては覚《さと》られたかな」
「なぜそう思うんですか?」
「そうとしか思われませんよ。やつは同類に通信していたのです。ロンドンには多数いますからね。ところがです、あなたのいうように、危険信号をしているうちに、とつぜんそれを中断した。それは何を意味するかというと、窓から私たちの姿を認めたか、それとも通信さえしていられないほど危険が切迫《せつぱく》していることを何かで知ったのだとしか考えられませんよ。これはたいへん、ぐずぐずしちゃいられないってわけですな。ホームズさんはどうお考えです?」
「すぐに踏《ふ》みこんでみましょう。そうすれば何もかもわかることです」
「でも逮捕《たいほ》令状がまだないですよ」
「空家に侵入《しんにゆう》して怪《あや》しげなことをやっているのです」グレグスンが口をだした。「さしあたりそれだけで理由は十分ですよ。いったん捕《とら》えておいて、ニューヨーク警察のほうに何かないか、すぐ照会しましょう。とにかくいま逮捕するのには、私が責任をもちます」
警察の連中は、知恵《ちえ》のほうは怪しいものだけれど、勇気の点ではひけは取らない。グレグスンは警視庁の階段をのぼるときのような平然たる態度で、必死の殺人犯を捕えに、もの音も立てず事務的に昇《のぼ》っていった。ピンカートン探偵局の男が追い越《こ》そうとしたけれど、グレグスンは断乎《だんこ》としてひじでそれを制止した。ロンドンのことはロンドンのものに委《まか》せておけというのであろう。
四階の廊下の左がわの住室《フラツト》のドアが細目にあいていた。グレグスンがそれを大きく押《お》しあけたが、なかはまっ暗でひっそりとしていた。私はマッチをすって、探偵の持っていたランタンに火をうつした。
はじめちらちらしていたほのおがしだいに燃えたつにつれて、私たちはあっと声をのんだ。敷物《しきもの》もない松板《まついた》の床《ゆか》のうえに、点々と血の足跡が見えてきたからである。足跡はドアの閉まっている奥《おく》の部屋から出て、こっちへ向かっている。グレグスンはそのドアをさっと押しあけると、ランタンをさしむけた。私たちはいっせいに彼の肩《かた》ごしに中をのぞきこんだ。
見るとその空き部屋の中央に、大きな男が体をまげて倒《たお》れており、ひげのない黒い顔を恐ろしくゆがめ、その頭のまわりは血の海になり、そのそとがわにまだ乾《かわ》かない血で、白い板の上に太くまっ赤な円を描《えが》いていた。両ひざを引きつけ、両の手を苦しみのうちにのべ、仰《あお》むきの太い黒い首のまん中に、ぐさりと深くつき刺《さ》したナイフの白い柄《え》だけが見えている。いかにも巨大漢《きよだいかん》であるが、この一|撃《げき》にあっては、畜殺斧《ちくさつおの》を打ちこまれた牝牛《めうし》のように、どさりと倒れたことであろう。その右手にちかく、恐るべき角柄のもろ刃《は》の短剣《たんけん》とキッドの黒《くろ》手袋《てぶくろ》とが落ちている。
「やっ、これは黒ゴルジアーノですよ! 誰《だれ》かに先まわりされました!」
「この窓にろうそくがおいてありますよ、ホームズさん」グレグスンがいった。「おや、何をするんです?」
ホームズはそばへ寄ってろうそくに火をうつし、それを窓ガラスのところへ出したり引っこめたりした。そして暗いそとをすかしてみて、ろうそくを吹《ふ》きけし、床の上に投げすてた。
「いまのが大いに役にたつと思うよ」といって彼はこっちへ歩いてきて、二人の探偵が死体を検《あらた》めるのを見おろしながら、じっと考えこんだが、しばらくしていった。
「下で張りこんでいるあいだに、この家から三人出ていったといいましたね? その人たちをよく見たんですか?」
「見ましたよ」
「そのなかに三十くらいの中肉中背で、くろいあごひげのある男はいませんでしたか?」
「いましたよ。その男なら最後に出てゆきました」
「そいつが犯人だったのだと思いますね。人相は私が知っているし、足跡もそこにちゃんとあるから、捜査《そうさ》の材料は十分なはずです」
「そうでもないですよ、何百万というロンドン人のなかのことですからね」
「それもそうですね。だから少しは役にたつかと思って、この婦人を呼んだのですよ」
ホームズの言葉で、私たちはいっせいに振りかえった。すると戸口のところに背のたかい美しい婦人――ブルームズベリーの不思議な下宿人が立っているのだった。しずかに進みよる彼女の顔は青く、おそろしい不安に眉《まゆ》をひそめ、じっと凝視する眼《め》はそこに倒れている姿からはなれなかった。
「殺したのですね? おお神さま、あなたがたが!」と彼女は低くいって近づいたが、急に大きく息をすいこんだかと思うと、うれしそうな声をだして躍《おど》りあがった。そして手をたたいて踊《おど》りながら、彼女は部屋のなかをぐるぐると、黒い眼を喜びにかがやかせ、口をついて出るイタリア語の美しい感嘆詞《かんたんし》をつぎからつぎと……人が殺されているというのに、女の身でとめどなく喜びにひたるのは、見ていてあきれもするし、恐ろしくさえあった。だが、そのうちぴたりと彼女はたちどまると、さも不審《ふしん》そうにじっと私たちを見まわした。
「あなたがたは警察のかたでしょう? あなたがたがジュセッペ・ゴルジアーノを殺したのでしょう、そうでしょう?」
「私たちは警察のものです、マダム」
彼女はすみずみの暗がりへ眼をやって、
「それでジェナロはどこにいますの? 私の良人《おつと》のジェナロ・ルカは? 私はエミリア・ルカと申しまして、ニューヨークのものですの。ジェナロはどこにいますの? いまこの窓から私を呼びましたから、大急ぎで駆けて参りましたのに……」
「お呼びしたのは私です」ホームズがいった。
「あなたが? どうしてあなたに……」
「あなたがたの暗号はやさしかったですよ。ここへお出《い》でを願ったほうがいいと思ったから、ろうそくでVieni【訳注 イタリア語で「来れ」の意】と信号したのです。かならず来てくださることを信じてね」
イタリア美人はホームズを畏敬《いけい》の眼で見た。
「どうしてあれがおわかりになりましたのでしょう? ジュセッペ・ゴルジアーノは誰の手でこんな……」彼女はここで言葉を切ったが、たちまち誇《ほこ》らしげにいった。「わかりましたわ! ジェナロです。私を庇《かば》いとおしてくれたジェナロです。あの人がこの怪物《かいぶつ》を殺したのです。おおジェナロ! すばらしいわ! あなたのように立派なかたにふさわしい女なんて、ぜったいにいませんわ」
「ルカ夫人とおっしゃいましたね」散文的なグレグスンは、ノッティング・ヒルの不良少女でも扱《あつか》うように、無感動に彼女の腕《うで》に手をおいた。「あなたが何者であるか、また何をした人であるかまだよくわかりませんが、いまのお言葉によって警視庁へ同行ねがう理由は十分あると思います」
「ちょっと待ってください、グレグスン君」ホームズが割ってはいった。「このかたはそんなことをしなくても、進んで説明してくださると思いますよ。ねえ奥さん、あなたのご主人がここに倒れている男の死因に関して逮捕され審理されるべきであることはおわかりなんですね? お答えは証拠として使われることもあるかと思いますが、ご主人の行為《こうい》が犯罪的な動機から出たものでなく、またそれを明らかにするのがご主人の希望なさるところでもあるとお考えなのでしたら、すっかり事情をお話しくださるのが、ご主人のため最善だと思いますよ」
「ゴルジアーノが死にましたのですから、私たち何も恐《おそ》れはいたしません。この男は悪魔《あくま》で怪物です。それを殺したからって、良人を罰《ばつ》する裁判官はこの世にいないでしょう」
「それでしたら私から提案しますが」とホームズはグレグスンたちのほうを見ていった。「ここはそっくりこのまま、ドアに鍵をかけておいて、この婦人といっしょにこのかたの部屋へいって、よくお話を聞いたうえで、われわれとしての意見をきめようじゃありませんか?」
三十分後には私たち四人、ルカ夫人の小さな居間にひざをならべて、彼女の口から、以下記す恐るべき物語――その幕切れだけは偶然《ぐうぜん》、私たちも目撃したのだが――に耳を傾《かたむ》けていたのである。彼女の話しぶりはよどみない早口であったが、ただ英語としてはかならずしも型にはまったものでなかったので、わかりやすいように私が文法にあうよう手をいれたことを断わっておく。
「私はナポリに近いポジリポで生まれました。父アウグスト・バレリは裁判官で、のちにはその地方から代議士に出たこともございます。ジェナロは父に使われていた人ですが、私はこの人を愛するようになりました。どんな女の人でも、ジェナロを知ればかならず愛するでしょう。お金も地位もなく――美しさと強さと気力をのぞけば、何もない人でした――父はこの結婚《けつこん》には反対でした。
私たちは手をたずさえて出奔《しゆつぽん》し、|バ《*》リ【訳注 南イタリアのバリ・デルレ・プーリエ】で結婚しました。それから私の持っていました宝石類を売ってアメリカゆきの旅費をこしらえました。いまから四年まえのことですが、それからずっと私どもはニューヨークにおりました。
はじめはたいそう順調でございました。ジェナロはあるイタリア紳士《しんし》のところで働いておりました。これは、ジェナロがボワリーと申すところで悪者に苦しめられているそのかたをお助けしたのが縁《えん》で、それから有力な味方となってくださったのです。
このかたはティト・カスタロッテさんといって、ニューヨーク屈指《くつし》の果物輸入商カスタロッテ・アンド・ザンバ商会の共同経営者の一人でした。もう一人の経営者のザンバさんが病身のため、三百人もの人を使っている商会の業務は、カスタロッテさんが一人で切りまわしているのでした。
この人がジェナロを拾いあげて、商会のある部の主任にとりたてたり、あらゆる点に好意を示してくださいました。カスタロッテさんは独身でございましたから、ジェナロがわが子のように思えたのでございますね。私たちのほうでもお父さまのような気持で愛しておりました。
ブルックリンに家を手に入れまして家具もそなえましたし、これで将来も不安ないものとほっとしましたのも束《つか》の間《ま》で、とつぜん黒い雲が現われて、私たちの頭のうえに覆《おお》いかぶさることになりました。
ある晩ジェナロは一人の同国人をつれて、勤めさきから帰って参りました。ゴルジアーノといって、やはりポジリポの人でございました。死体をごらんになったのですから、おわかりでございましょうが、たいへん大きな人で、ただからだが大きいばかりでなく、何もかも大きくてグロテスクで、恐ろしいほどでございました。その声なんかも、私どもの小さな家のなかで、まるで雷《かみなり》のようにひびきわたりました。話をするのにも、その大きな腕を振りまわして身振りをするには部屋が狭《せま》すぎるほどの感じでした。
またその考えかた、感情、好悪《こうお》など、すべてが誇張《こちよう》されて大げさでございました。話しぶりもまるでどなるようで、聞いているほうは圧迫《あつぱく》を感じて、おとなしく耳を傾けるしかないほど精力的で、ぎろりとした眼ににらみつけられましたら、彼の思いどおりになるしかありません。なんとも恐ろしく、驚《おどろ》くべき人でございました。その人が死にましたのですから、私は神に感謝します。
この人はそれからたびたび訪ねて参るようになりました。私もいやでしたけれど、ジェナロはこの人がくるのが、とてもいやらしゅうございました。ただ青い顔をしてうわのそらで、その人の話題は政治や社会問題なのでございますが、のべつにとめどなく大きな声でまくしたてるのを、黙《だま》って聞いておりました。
ジェナロは何も申しませんけれど、その心をよく知っています私には、その顔に今までついぞ見せたことのないある感情の現われているのがわかりました。はじめは憎悪《ぞうお》かと思いましたけれど、それ以上のものだとわかって参りました。恐怖《きようふ》なのです。人知れず縮《ちぢ》みあがるような深刻な恐怖なのです。その晩に――それが恐怖だとわかった晩に私は良人の首に両手ですがりついて、どうしてあの巨大漢が恐《こわ》いのですか、私を愛しているのでしたら、どうか打ちあけてくださいと嘆願しました。
聞いてみますとそれは心臓が冷たくなるような話でございました。ジェナロは放埒《ほうらつ》時代に――世に容《い》れられぬ不満のため半狂人《はんきようじん》のようになっていました時代に、ナポリの『赤い輪』と申して、ふるくあった|カ《*》ーボナリ【訳注 共和党の秘密結社】と関連のある結社にはいりましたのです。その誓約《せいやく》と秘密のおそろしく厳重な結社でございますが、いちどはいりましたら、逃《のが》れることはできません。
良人はアメリカへ逃《に》げてきたのですから、結社とも永久に縁が切れたものと安心していましたが、恐ろしいことに、ナポリで入会させてくれた巨漢ゴルジアーノと街でぱったり会ってしまいました。ゴルジアーノはひじまで血で赤くなるほど人を殺していますので、南イタリアでは『死神』のあだ名さえついている男です。
ゴルジアーノはイタリア警察の追及《ついきゆう》をうけてニューヨークへ逃げてきたのですが、その家にはもう恐ろしい結社の支部さえ作っていました。ジェナロはこうした事情をすっかり話したうえ、その日うけとった支部からの召喚状《しようかんじよう》も見せてくれました。うえに赤い輪を入れて、これこれの日に支部の会合を開くから、出席すべしという命令書でございました。
これだけでも大変なことですのに、もっと悪いことになってきました。
ゴルジアーノは毎晩のように来ていましたが、来るとしきりに私に話しかけ、ジェナロに話しているときでも、そのぎらぎらした恐ろしい野獣《やじゆう》のような眼は私に向けられているのに、まえから私は気がついておりました。ある晩そのわけがわかりました。私を見て彼《かれ》の胸のなかに、彼は愛というでしょうが、道ならぬ私への恋《こい》が芽ばえたのです。それは獣《けもの》の――野蛮人《やばんじん》の愛です。
その晩ジェナロがまだ帰らないところへ、彼が訪ねてきました。どんどんはいってきまして、大きな腕のなかに私を抱《だ》きすくめ、顔中にキスしながら、いっしょに逃げてくれと口説くのでした。私がもがき叫《さけ》んでいますところへ、ジェナロが帰ってきて、すぐ引きはなしてくれました。するとゴルジアーノはジェナロをなぐって気を失なわせて逃げたきり、さすがにそれから二度とは来られなくなりました。こちらとしましては恐ろしい敵を作ってしまったことになります。
二、三日で会合の日がきました。そこから帰ってきましたジェナロの顔をみて、私はなにか恐ろしいことが起こったのを知りました。事態は思いもよらず悪化していました。結社の基金に、富裕《ふゆう》なイタリア人を脅迫《きようはく》し、出さなければ暴力に訴えると嚇《おど》かしてお金を集めていたのです。それには私どもの恩人のカスタロッテさんもねらわれたらしゅうございますが、カスタロッテさんは脅迫には応じないとはねつけて、その脅迫状を警察に届け出たのです。
結社の会合では、ほかの犠牲者《ぎせいしや》たちがこれにまねて反抗《はんこう》しないように、ここで見せしめの前例をつくることに話がきまりました。それには家もろともカスタロッテさんをダイナマイトで爆破《ばくは》することになりました。そしてその実行者をきめるためのくじ引がありました。
ジェナロはくじの袋に手をいれますとき、ゴルジアーノが意地わるい顔にすごい微笑《びしよう》をうかべているのを見たと申します。何かはじめから細工がしてあったのに違《ちが》いありません。ジェナロのとりだした円板には、赤い輪がかいてありました。殺人の命令です。
結社の命令に従って大恩ある人を殺すか、それがいやならば妻もろとも自分が結社員の仕返しをうけるかです。この結社の恐ろしい規則の一つとして、結社内に不安なものや憎《にく》まれものがあるときは、罰として本人を害するばかりでなく、その人が愛しているものにも危害を加えることになっています。そのことを知っていますので、ジェナロは恐れていたのですが、いまや心配のため気も狂《くる》わしくなるばかりでした。
その晩は抱きあったまま寝《ね》もやらずに、前途《ぜんと》に横たわる困難を思ってたがいに力づけあいました。計画の実行はその翌晩と定められていました。それでその日のお昼ごろには、私たちはロンドンへの途上にありましたが、そのまえにもちろん恩人にむかって詳《くわ》しい事情を知らせ、また警察にたいしても将来カスタロッテさんの生命を守ってくれるように依頼《いらい》しておくのを忘れませんでした。
それからさきのことは、あなたがたのご承知のとおりでございます。敵が影《かげ》のようにあとを追ってくることはよくわかっていましたし、ゴルジアーノには個人的にも報復の理由がありましたから、とにかく彼がどんなにか残酷《ざんこく》で悪がしこくて執念《しゆうねん》ぶかいことと覚悟《かくご》はいたしておりました。
この凶悪《きようあく》な力をそなえた男の話は、イタリアにもアメリカにも知れわたっております。こんどというこんどこそ、その本領を発揮することでございましょう。
出発が早かったため二、三日の余裕がありましたのを利用して、良人《おつと》は私のために決して危険のない隠《かく》れ場所をしつらえてくれました。良人としましては、アメリカやイタリアの警察と連絡をとるためにも、自分は身を隠すことをしたくなかったのです。今までどこでどうして暮《く》らしてきましたのか、私はまったく存じません。私の知っていますことは、新聞の広告欄《こうこくらん》を通じてだけでございました。
でも一度、二人のイタリア人がこの家を見はっていますのを窓から見まして、どうしてかゴルジアーノが隠れ家をさぐりあてたのを知りました。
やっとジェナロから、新聞を通して、ある家の窓から信号を送ると知らせて参りました。でも送ってきます信号は、気をつけろと申すだけのことで、それも中途でぷつりと切れてしまいました。私には良人がゴルジアーノが迫《せま》ってきたのを知り、それに備えるためであったのが今ははっきりとわかりました。
ここであなたがたにおうかがいいたしますが、私どもは法を恐れる必要がございましょうか? ジェナロのしましたことに対して、どこの裁判官が有罪を宣告できますでしょうか?」
「どうです、グレグスンさん」とアメリカの探偵《たんてい》が警部の顔を見かえっていった。「イギリス人としてのご意見は私にはわかりませんけれど、ニューヨークではこの婦人のご主人のしたことは、各方面からかなりの感謝をもって迎《むか》えられることと思いますね」
「私としては警視庁へ同行ねがって、上司に会っていただくのですね」グレグスンが答えた。「いまのお話が確認《かくにん》されさえすれば、このかたもご主人もさしてご心配なさるに及《およ》びますまい。ですがホームズさん、あなたはどういうところからこの事件に巻きこまれたのですか、その点がどうしても私にはわかりませんよ」
「研究ですよ、グレグスン君。ふるい大学でいまもって知識をみがいているのです。ワトスン君はその収集のなかに、またしても悲劇的でグロテスクな一例を加えたわけだね。ときにまだ八時まえだが、カヴェント・ガーデンでワグナーをやっているはずだ。いまから急げば二幕目には間にあうだろうよ」
[#地付き]―一九一一年三・四月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
ブルース・パティントン設計書
一八九五年十一月の第三週、ロンドンは濃《こ》い霧《きり》がふかくたれこめていた。月曜日から木曜日にかけて、ベーカー街の私たちの部屋の窓から、街路をへだてた向こうがわの家が、ぼんやりとでも見えたことは一度だってないように思う。
最初の日はホームズも、大きな資料簿《しりようぼ》に縦横に索引《さくいん》をつけてすごした。二日目と三日目は、ちかごろ道楽にしている中世の音楽の問題でおとなしく送った。だが四日目の木曜日ともなると、朝食のあと椅子《いす》をうしろへずらして、どんよりと重くるしいもやがまだ去らず、窓ガラスに油っぽく水滴《すいてき》の凝集《ぎようしゆう》しているのを見ては、気みじかで活動的なホームズとして、生活の単調さにうんざりしてしまったらしい。ありあまる精力をもてあまして、つめをかんでみたり家具をたたいてみたり、無為《むい》にいらだって、部屋のなかをせかせかと歩きまわっていた。
「新聞にも面白《おもしろ》いことは出ていないだろうね、ワトスン君?」
ホームズが面白いことといえば、犯罪事件の面白いのにきまっているのだ。新聞には革命のニュース、戦争の可能性、政権の交代のせまっていることなど、いろいろ出ているけれども、そんなのはホームズの眼中にないのである。といって犯罪事件としてはみんな平凡《へいぼん》でつまらないものしか見あたらない。ホームズは嘆声《たんせい》をもらして、なおも歩きつづけた。
「ロンドンの悪漢はまったくだらしがない」まるで獲物《えもの》をうちもらした狩人《かりゆうど》のように不平たらたらである。「この窓からそとを見てみたまえ。ぼんやりと人影《ひとかげ》があらわれて、かすかに見えているかと思うと、たちまち厚い霧のなかへ姿をかくしてしまう。どろぼうや殺人者にしても、こういう日にこそ、虎《とら》がジャングルに出没《しゆつぼつ》するように、ロンドンを歩きまわれるのだぜ。いよいよ躍《おど》りかかるまでは誰《だれ》にも見られないで、襲《おそ》われて初めて被害者《ひがいしや》だけは知るというわけなんだ」
「こそどろならいくらも出没しているようだ」
と私がいうと、ホームズは鼻であしらって、
「この偉大《いだい》にして暗黒の舞台《ぶたい》は、そんなケチなもののためにあるのじゃないさ。僕《ぼく》が犯罪者でないのを、社会は祝福すべきだよ」
「それはまったくだね」私は心から同意した。
「かりに僕がブルックスなりウッドハウスなり、そのほか僕の生命をねらう理由をもっている五十人ばかりのうちの誰かだったとしてみてさ、僕は僕自身の追跡《ついせき》のためどれくらい生きていられたか疑問だと思うよ。いちど呼出しをうけるとか、うその会合の約束《やくそく》だとかで、一巻の終りなんだからね。あの暗殺の横行するラテン諸国には霧の日がなくてしあわせだと思うよ。おや! ついに何だかきたぜ、この単調をやぶってくれるものが!」
下宿の女中が電報をもってきたのだった。ホームズはすぐに封《ふう》を切ってみて、たちまち笑いだした。
「おや、おや。何なのだろう? 兄のマイクロフトが来るというよ」
「かまわないじゃないか?」
「かまわないじゃないかって、それはまるで田舎《いなか》みちで市電に会ったようなものなんだ。マイクロフトにはちゃんと軌道《きどう》があって、それからはずれたことがない。ペルメルの家からディオゲネス・クラブ、それからホワイトホールの役所、これを循環《じゆんかん》するだけなんだ。一度、たった一度だけここへ来たことがある。どういう風の吹《ふ》きまわしで脱線《だつせん》することになったのかな?」
「電報には何もいってないのかい?」
ホームズは兄の電報を私に渡《わた》してよこした。
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――カドガン・ウエストノ件ニツキ話アリ。スグユク。マイクロフト
[#ここで字下げ終わり]
「カドガン・ウエストって聞いた名だな」
「僕はなにも思いださないね。それにしてもマイクロフトがこんなふうに軌道を踏《ふ》みはずすとはねえ! これじゃ惑星《わくせい》だって軌道をはずすかもしれないぜ。ときに君はマイクロフトってどんな男だか知っていたっけ?」
『ギリシア語通訳事件』のとき説明をきいたのを、おぼろげながら私は思いだした。
「どこか政府の小さい部局を受けもっているとか君から聞いたよ」
ホームズは声をださないで笑った。
「あのころは君というものをよく知らなかったからね。国家の大事を語るには慎重《しんちよう》を要する。兄が政府のもとで働いていると考えるのは当っている。だがある意味では、兄は政府そのものなんだといっても、まちがいではない」
「政府そのものだって?」
「驚《おどろ》くだろうと思った。マイクロフトは年俸《ねんぽう》四百五十ポンドの下級|官吏《かんり》に甘《あま》んじ、どんな意味でも野心なんか持たず、名誉《めいよ》も肩書《かたが》きも望みはしないが、それでいて国家にとって欠くことのできない人物なのだ」
「ほう、どんなふうに?」
「そうさね、まずその地位が特異なものだ。自分で作りあげたものだが、前例もなければ、おそらく今後も踏襲《とうしゆう》する人は現われないだろう。頭がじつに整然としていて、事実を記憶《きおく》する力にいたっては当代その右に出るものはない。同じ大きな能力を僕は犯罪の捜査《そうさ》に向けているが、兄はこの特殊《とくしゆ》な仕事に注いでいるのだ。
各省で決定したことは、すべて兄のところへ回付されてくる。中央|交換局《こうかんきよく》というか手形交換所というか、均衡《きんこう》を保つところになっているのだね。ほかのものもすべて専門家ばかりだが、兄の専門は全知というところにある。たとえばいま、ある大臣が海軍、インド、カナダ、あるいは金銀両貨複本位制の問題に関する知識を必要とするとしよう。もちろんこの大臣は各省から個々の問題についての報告なり助言なりは得られるが、そいつを集中的に報告し、即座《そくざ》におのおのの関連を指摘《してき》し得《う》るのはマイクロフトあるのみなんだ。
そこでみなは、手っ取早くもあるし便利なので兄を利用するようになった。いまではなくてはならない人物になっている。兄の偉大なる頭脳のなかには、あらゆる問題が整理分類されていて、すぐに取りだせるようになっている。マイクロフトの一言が国家の政策を決定したことが幾度《いくど》だか知れない。兄はそこに生命をうちこんでいるのだ。決してほかのことは考えない。ただどうかして僕がつまらない事件の相談でも持ちこんだときだけは、知力の鍛練《たんれん》という意味で、その節を曲げるくらいのものだね。
そのジュピターがきょうは下界に降りてくるというのだ。いったい何を意味するのだろうね? カドガン・ウエストって何者だろう? マイクロフトとどう関係があるのだろう?」
「わかったッ!」私はソファのうえにちらかっている新聞をかきまわして、「ほら、ここにある! やっぱりそうだ。カドガン・ウエストというのは、火曜日の朝地下鉄で死体になって発見された青年だよ」
ホームズは口へもってゆきかけたパイプを中途《ちゆうと》でとめて、きっとなって坐《すわ》りなおした。
「こいつは重大だぜ。マイクロフトに平素の習慣を破らせるというのは、ただの死体ではないよ。いったい何でそんなものに関心をもたねばならないのだ? あれにはこれという特色はなかったと思う。たぶん列車から落ちて死んだのだろう。何も盗《と》られてはいないというし、とくに他殺を思わす理由はなかったと思うが、そうだったろう?」
「検死|審問《しんもん》があって、いろんな新事実が現われた。その様子では、たしかに不思議な死体というべきだと思うよ」
「兄が軌道を踏みはずすのだから、よくよく重大事件にちがいないと思うね」ホームズはひじ掛《かけ》椅子に身を沈《しず》めながら、「もっと詳《くわ》しく事実を教えてくれたまえ」
「その青年の名はアーサー・カドガン・ウエストといって年は二十七、まだ独身で、ウーリッチの官営兵器工場の職員だ」
「公務員だね。そこに兄との関連がある!」
「月曜日の夜、とつぜんウーリッチをあとにした。最後に彼《かれ》を見たのは婚約者《こんやくしや》のヴァイオレット・ウエストベリー嬢《じよう》で、その晩七時半ごろに、霧のなかでとつぜん彼女《かのじよ》に別れ去ったのだという。けんかをしたわけでもないので、なぜ彼がそんなふうにして別れ去ったのか、彼女にもわけがわからない。
そのつぎに彼が姿を現わしたのは、地下鉄のオルドゲート駅のすぐそとで、線路工夫のメースンという男が、死体になっているのを発見したのだった」
「いつのことだい?」
「死体の発見は火曜日の朝六時だ。地下鉄がトンネルから出てきて、オルドゲートの駅へはいろうとするところで、東へ向かう線路の左がわのところにあった。頭がぐしゃりとつぶれて、まあ列車から落ちでもしたのだろうというような状況《じようきよう》だった。そうでもなければ、死体がそんなところにあるはずがないのだ。付近の街から運んでくるとすれば、改札口《かいさつぐち》を通らなければならないが、そこには駅員がずっと立っていたのだ。この点だけは絶対うごかないと思う」
「なるほど。それで決定的だ。ウエストは生きたままにもせよ死んでからにもせよ、列車から落ちたか突《つ》き落されたものだ。そこまでは僕にも明らかだ。それから?」
「死体のあった線路のとなりの線は、列車が西から東へ走るものだが、通るのはメトロポリタン線のほかに、ウィルズデンやそのほか遠くから来るものもある。だからこの青年は、当夜おそくなってからこの線に乗っていて死んだのだということになるが、どこで列車に乗りこんだものか、その点は明らかでない」
「切符《きつぷ》を見ればそんなことはわかるだろう」
「ポケットを調べたが、切符をもっていないのだ」
「切符をもっていないって? それは容易ならぬことだ。僕の経験では、地下鉄のメトロポリタン線のホームには、切符なしではどうしてもはいれないよ。だから察するにその青年も切符は持っていたんだが、乗車駅を知られるのを恐《おそ》れて取りさったのだろうか? それはあり得る。それとも本人が列車内で紛失《ふんしつ》したのか? これも考えられるところだ。いずれにしても興味のある問題だ。物を盗られた形跡《けいせき》がないといったね?」
「ないらしい。所持品の一覧表がここに出ている。財布《さいふ》には金が二ポンド十五シリングはいっていた。ほかにキャピタル・アンド・カウンティ銀行ウーリッチ支店の小切手帳が一冊あった。この小切手帳によって身許《みもと》がわかったのだ。それからまたウーリッチ劇場のその前夜の特等席切符が二枚と、ほかに工業技術上の書類がひと束《たば》あった」
ホームズはここで満足そうな声をだした。
「うむ、それだよ! イギリス政府――ウーリッチ兵器工場――技術関係の書類――マイクロフト、これで鎖《くさり》のつながりは完成されるわけだ。おや、どうやらそのマイクロフトが来たらしいよ、自分で説明しにね」
ホームズの言葉の終るのを合図のように、背がたかくてでっぷりしたマイクロフト・ホームズが通された。大きくていかにも堂々としてはいるが、どこか粗野《そや》で遅鈍《ちどん》なところの見える体格である。だがこの異様なからだのうえに乗っているのは、ひろい額、深くおちくぼんだ鉄灰色の鋭《するど》い目、きりっとした口もと、表情のこまやかな顔で、ひと目これを見たものはからだつきの妙《みよう》ちきりんなことなぞ忘れて、知能のすぐれていることに打たれるのである。
このマイクロフトのあとにつづいて、警視庁のレストレードがやせた栄《は》えない姿をあらわした。二人とも暗い顔をしているので、重大な話をもってきたことが予知された。警部は無言で握手《あくしゆ》をかわし、マイクロフトは窮屈《きゆうくつ》そうに外套《がいとう》をぬいで、ひじ掛椅子に腰《こし》をおろした。
「はなはだいやなことになったよ、シャーロック。僕としてもふだんの習慣を破るのはいやでならないが、情勢がそんなことを許さないのだ。シャム国の現状からすると、僕が役所を留守《るす》にするのははなはだ困る。でもこれは現実に危機だからね。総理大臣がこんどのように慌《あわ》てたのは見たことがない。海軍本部のほうは、そうさ、はちの巣《す》でもつついたように騒《さわ》いでいる。新聞を読んだかい?」
「いま二人で読んだところです。技術上の書類というのは何ですか?」
「それが問題なのだ。新聞に漏《も》れなかったのはしあわせだが、この青年がポケットにしていたのは、ブルース・パティントン式|潜水艦《せんすいかん》の設計書なのだ」
マイクロフト・ホームズは厳粛《げんしゆく》な調子で話した。その話しぶりで問題をいかに重大視しているかがうかがわれた。彼の弟と私はだまって話のつづきを待った。
「お前も話に聞いてはいるだろう? 誰でも話だけは知っていると思う」
「名前だけはね」
「その重要さは、口ではいいきれないほどのものだ。政府の機密のなかでも、もっとも厳重な警戒《けいかい》のもとに防衛されてきた。ブルース・パティントン潜水艦の行動半径内では、敵にとってもはや海戦が不可能になるものと考えてくれて差しつかえない。
二年前に国家予算から大きな金を機密のうちに支出して、この発明の独占《どくせん》権を買収したのだ。これに関する機密の保持には、あらゆる努力が払《はら》われた。設計はきわめて複雑なものだが、三十いくつの独立の特許からなり、その一つ一つが全体の作用に欠くべからざるものなので、兵器工場に隣接《りんせつ》する戸や窓に盗難《とうなん》よけの装置をした秘密事務所のなかの精巧《せいこう》な金庫に保管してあった。
だからどんな事情があろうとも、この設計書の持ちだしは禁ぜられてきた。海軍の建艦《けんかん》主任でさえ、設計書を見たいときはウーリッチまで出張することになっていたくらいだ。これほど取扱《とりあつか》いを厳重にしていたにもかかわらず、この設計書が下っぱの事務員の死体のポケットから、しかもロンドンのどまん中で発見されたのだ。役所としてはただただあきれはてたという一語につきる」
「でも現物は取りもどしたのでしょう?」
「ちがうんだ。そこが急所なんだが、回収はできていないのだよ。ウーリッチから持ちだした設計書は十枚だが、カドガン・ウエストのポケットにあったのはそのなかの七枚だけだ。なかでもっとも重要なものが三枚だけ、盗《ぬす》まれたというか、紛失しているのだ。
だからシャーロックは万事《ばんじ》を放棄《ほうき》してやってもらいたい。お前がいつもやっている軽罪裁判所むきの事件なんか、ほったらかせばよい。これはきわめて重大な国際的問題なのだ。カドガン・ウエストはなぜ書類を盗んだか? なぜ一部が紛失しているのか? 彼はどうして死んだのか? 死体はどうしてあそこにあったのか? この不《ふ》祥事《しようじ》をいかに善処すべきか? これらの疑問にすべて解答を与《あた》えてくれたら、お前は国家に大きな貢献《こうけん》をすることになる」
「なんだって自分でやらないんです、兄さん? 兄さんなら僕に負けないほど眼《め》がきくじゃありませんか?」
「そうかもしれないがね、問題は細かい資料の収集にあると思う。お前が集めた資料をよこしてくれたら、僕はひじ掛椅子にいて、お返しに老練な意見を提供するよ。
あちこち走りまわったり、鉄道員を尋問《じんもん》したり、レンズをもって腹ばいになったり、そういうことは苦手なんでね。この解決はお前にかぎるよ。このつぎの定期|叙勲《じよくん》にお前の名を出してほしかったら……」
シャーロックは微笑《びしよう》をうかべて頭を振《ふ》った。
「私は仕事のために仕事をするのですよ。とにかくこの問題にはたしかに興味を感じるから、喜んで調べてみましょう。ほかに聞いておく事実があればどうぞ」
「もっとも大切な点は必要のありそうな人物の住所もふくめて、この紙に書きとめておいた。書類の保管責任者は政府の有名な専門家サー・ジェームズ・ウォルターだ。肩書きや勲章をいちいちならべたら、人名録の二行分はたっぷりあるだろう。
いまでは頭も白くなっているほど多年役所で働いてきた人で、ほんとの紳士《しんし》だ。お招きをうけて高貴のお屋敷《やしき》の客になることもあるくらいで、まして愛国心を疑われるような人物ではない。金庫の二つある鍵《かぎ》のうち一つをこの人物が持っている。
なお付言すれば、月曜日の執務《しつむ》時間中は、書類はたしかに役所にあった。サー・ジェームズは三時ごろに、鍵を持ったままロンドンへ出かけた。そしてこの事件の起こったその晩は、バークレイ・スクェアのシンクレア提督《ていとく》の家にずっといたのだ」
「その点は立証されましたか?」
「うん、卿《きよう》がウーリッチを出たことは、弟のヴァレンタイン・ウォルター大佐の証言があるし、ロンドン到着《とうちやく》はシンクレア提督が証言している。だからサー・ジェームズは直接関係者から除外してよいわけだ」
「もう一つの鍵は誰がもっているのですか?」
「事務主任で製図者をかねるシドニイ・ジョンスンだ。年は四十で細君と子供が五人ある。口かずの少ない気むずかしい男だが、役所での成績は概《がい》してりっぱなものだ。同僚《どうりよう》の気うけはよくないが、勤勉家だ。本人の自供によると、これは細君の裏づけ証言だけしかないけれど、月曜日の晩は役所から帰ってずっと家にいたし、時計のくさりにつけた鍵を一度もはずした覚えはないという」
「カドガン・ウエストはどうなんです?」
「これは役所へ十年勤続して、成績はいい。せっかちで怒《おこ》りっぽいという評判はあるが、まっすぐで正直な男だ。これという悪い話をきかない。役所での席次はシドニイ・ジョンスンのつぎだ。仕事の関係で設計書には毎日接していた。ほかにはこれを扱うものはないのだ」
「その晩金庫へおさめたのは誰ですか?」
「シドニイ・ジョンスンだ」
「では設計書を持ちだした人物ははっきりしていますよ。現にカドガン・ウエストの死体が持っていたのですからね。決定的じゃありませんか?」
「そうなんだよ。しかも説明のつかないことがたくさんある。第一に彼はなぜ持ちだしたか?」
「高価なものだからだと思いますね」
「金がほしければすぐ何千ポンドかにはなる」
「すぐ売ってしまわないで、ロンドンへ持ってくる動機がなにか考えられますか?」
「そんなものは考えつかないね」
「ではここで差しあたっての仮定として、ウエストが持ちだしたものとしてみましょう。それには合鍵があって初めて可能ですが……」
「合鍵も一つじゃだめだね。まず建物にはいる鍵がいる。つぎにその部屋にはいる鍵がいる」
「じゃそれを全部もっていたとしましょう。彼はそれを取りだして秘密だけ売り、翌朝発覚するまえに、もとへもどしておくつもりだったのです。ところがロンドンで謀叛《むほん》行動中に死んでしまった」
「どんなふうに?」
「用事をすませてウーリッチへ帰る途中で死んで、列車から放《ほう》りだされたものとしましょう」
「ウーリッチへ帰るのならロンドン橋をとおるはずだが、死体はそっちへ行く乗換《のりかえ》地点をはるかに通りこしたオルドゲートで発見されている」
「ロンドン橋を見のがすような事情はいろいろ想像されましょう。たとえば列車のなかで誰《だれ》かに会って、夢中《むちゆう》で話しこんでいるうち、つい乗りこすということもあります。この話しあいがついに暴力ざたになって、彼が一命をおとすような場合も考えられますし、あるいは彼は車室から出ようとして、線路の上に落ちて落命したのかもしれない。この場合は相手がドアを閉めてしまえば、霧《きり》がふかいから、誰にもわかりはしません」
「この段階では、それよりよい説明はあるまいな。しかし考えてごらんよ、お前のまだ言及《げんきゆう》しない点がたくさんあるよ。いま議論のため、カドガン・ウエストは書類をロンドンへ持ちだす気になったとしてみよう。彼は外国の手先とあらかじめ会合の約束《やくそく》をして、その晩はあけておいたことだろう。それなのに現実には、当夜の芝居《しばい》の切符を二枚手にいれて、しかも婚約者を途中まで連れだしておいて、にわかに姿をかくしてしまっている」
「目つぶしですな」少しじれったそうに話を聞いていたレストレードが口をだした。
「へんな目つぶしですな。とにかくそれが欠陥《けつかん》の第一。第二には、ウエストはロンドンへ出てきて、秘密の手先と会ったものとしよう。書類は朝までに持って帰らなければ、悪事が露見《ろけん》してしまう。持ちだした書類は十枚だが、死体のポケットには七枚しかなかった。あとの三枚はどうなったのか? むろん自分の意志で、一部を人に渡《わた》したままにするはずはない。
そこでこの裏切りの代償《だいしよう》はどこへいったのかが、ふたたび問題になってくる。普通《ふつう》ならば死体のポケットから莫大《ばくだい》な金が現われるものと思われる」
「その点は明らかですよ」レストレードがまたいった。「その間《かん》の事情については、疑問の余地がありません。売るつもりで書類を持ちだした。密偵《みつてい》に会った。ところが代価の点で折り合いがつかないので、ウエストはそれを持って帰ることになり、密偵も同道した。
ところが列車のなかで密偵はウエストを殺して、書類のうちもっとも重要な部分だけ奪《うば》いとって、死体を車外にけおとした。これですべての事実が説明できるじゃありませんか」
「切符のなくなっているのはなぜでしょう?」
「切符をのこしておくと、密偵の家がどの駅に近いかわかるから、死体のポケットから取っておいたのですね」
「うまい!」ホームズがいった。「レストレード君の説明で、つじつまはあいますよ。これが真相だとすると、事件はそれまでですね。売国奴《ばいこくど》は死んでしまっているのだし、盗られたブルース・パティントン潜水艦の設計書はおそらくとっくに大陸へ渡っているでしょう。われわれに残された仕事といったら……」
「行動だよ、シャーロック! 行動開始さ!」マイクロフトはがばと立ちあがって叫んだ。「今の説明には僕《ぼく》の本能が承服しない。全力をつくしてぶつかるのだ。現場へ行ってくれ。関係者を尋問するのだ。あらゆる手段をつくせ。今こそお前は祖国に最大の貢献をする機会を与えられたのだ」
「わかった、わかった」シャーロック・ホームズは肩《かた》をすくめた。「ワトスン君、来たまえ。それにレストレード君も一、二時間おつきあい願えませんか? まずオルドゲート駅から捜査《そうさ》をはじめましょう。兄さん、さよなら。夕がたまでには報告しますけれど、あらかじめ申しておきますが、あまり期待しないでくださいよ」
一時間後に、私たち――ホームズとレストレードと私は、地下鉄がトンネルを出てオルドゲートの駅に入るすぐ手まえあたりの線路の上に立っていた。あから顔の礼儀《れいぎ》ただしい紳士が鉄道会社を代表して立ちあっていた。
「ここに死体があったのです」といって彼は線路から三フィートばかりのところを指した。「上から落ちてきたものでないことは、あのとおりここは壁《かべ》でふさがれていますから、確実です。ですから列車から落ちたものということになりますが、今までの調査では月曜日の真夜中ごろの列車だと考えられます」
「その車両は検査しましたか? 暴行の跡《あと》でもありましたか?」
「跡はありませんでした。切符が落ちているかと思いましたが、それもありません」
「ドアが開け放しになったのなどは?」
「ございませんでした」
「けさになって、新事実が現われました」レストレードがいった。「月曜日の夜の十一時四十分ごろに、普通のメトロポリタン線でオルドゲートを通過した一乗客から、駅へはいる手まえで、どさりと死体でも落ちたような音を聞いたという申し出があったのです。霧が深いので、何も見えなかったといいます。それをけさになって届け出たのです。――おや、ホームズさんはどうかしましたか?」
ホームズは一心になって、トンネルからカーヴしながら出ている線路の上をじっと見つめているのである。オルドゲートは分岐《ぶんき》駅なので、そのあたりはポイントだらけなのである。そのポイントの上を、ホームズのいぶかしげな眼がじっと見おろしている。ぎゅっと口をむすび、鼻の孔《あな》をふるわせ、太い眉《まゆ》をよせた例によって鋭い顔つきである。
「ポイントがねえ……」
「ポイントが? どういう意味です?」
「これほどポイントの多いところはあるまいと思うのですがね」
「そうです、ごくわずかですね」
「そのうえカーヴがある。ポイントとカーヴ。うむ、やっぱりそうなんだな!」
「何ですか、ホームズさん? 何か手掛《てがか》りをつかんだのですか?」
「思いつきですよ。一つの示唆《しさ》にすぎません。しかし事件としては興味がふかくなりました。特異な、完全に特異な考えかただが、それがどうして悪い? 線路に血の跡がありませんね?」
「初めからほとんどなかったです」
「でも死体は重傷をうけていたのでしょう?」
「骨は砕《くだ》けていましたけれど、大きな外傷はなかったのです」
「それにしても出血がまったくなかったとは思われません。霧のなかでどさりと物の落ちる音を聞いたという客の乗っていた列車を調べさせていただけませんか?」
「それはむずかしいですよ。あの列車はもう連結をといて、各車両はあちこちに分散していますからね」
「その列車でしたら、めんみつに調べたのです。私自身がそれにあたりました」レストレードがいった。
自分より知能の低い人間のしたことを信頼《しんらい》しないのは、ホームズの悪い癖《くせ》である。
「そんなことだと思った」ホームズは苦い顔をした。「私の見たいと思ったのは車両じゃなかったのですがね。ワトスン君、ここにはもう用がないね。レストレード君もご苦労さまでした。これからウーリッチのほうを調べようと思います」
ロンドン橋でホームズは兄に電報をうった。こんどは出すまえに私に見せてくれたが、つぎのような電文だった。
[#ここから1字下げ]
カスカニ光明ヲ認メタガ、アルイハ消エルカモシレヌ。ワガクニニイルト思ワレル外国スパイナラビニ国際密偵ノ住所|姓名《セイメイ》一覧表ヲツカイニ託《タク》シテベーカー街ヘオ届ケネガウ――シャーロック
[#ここで字下げ終わり]
「こいつがあると役にたつと思うんだ」ウーリッチゆき列車に乗りこんでからホームズがいった。「マイクロフトのおかげで、きわめて面白《おもしろ》い事件が経験できそうだよ」
彼《かれ》の熱した顔には、緊張《きんちよう》し高揚《こうよう》した表情がまだ現われていた。これはなにか新奇《しんき》な、暗示的な事態が生じて、彼の思索《しさく》を刺激《しげき》したのにちがいない。耳をたれしっぽをまいたフォックスハウンドが犬小屋のあたりをのそのそしているのと、同じ犬が眼をかがやかし、張りきってにおいを追うのと――けさからのホームズはこれくらいの差があった。たった数時間まえに、霧に閉じこめられた部屋のなかを、灰いろのガウンを着て落ちつきなく歩きまわっていた、だらけきったホームズとは、まるで別人の感がある。
「材料のあるところ、見込《みこ》みありだ。そういう可能性に気がつかなかったとは、僕は間抜《まぬ》けだったよ」
「そういわれても、僕にはさっぱりわからない」
「僕にも最後まで見通しがあるわけじゃない。だがぐっと進展しそうな思いつきだけは持っている。ウエストはどこかほかのところで死ぬか殺されるかして、列車の屋根にのってあそこまで運ばれたのだ」
「屋根のうえだって?」
「変っているだろう? しかしよく考えてみたまえ。ポイントのため列車の動揺《どうよう》のはげしい場所に死体が落ちていたというのは、単なる偶然《ぐうぜん》だろうか? 屋根のうえにおいた物が落ちそうな場所といえば、あそこじゃなかろうか? ポイントは車内のものには影響《えいきよう》がないはずだ。だから死体は屋根からずり落ちたか、さもなければ非常にめずらしい偶発事件があったのだと考えるしかない。
だがここで血の問題を考えてみたまえ。どこかほかの場所で出血してしまったのだとすれば、あの線路に血の流れていなかったのも不思議ではない。おのおのの事実は、それだけでも暗示的だが、それが累積《るいせき》されるといよいよ有力になってくる」
「切符《きつぷ》のなかったことも、それで説明がつくね」
「そうさ。切符のことは今まで説明がつかなかったが、こう考えれば説明がつく。すべての事実がつじつまがあうことになる」
「かりにそれが事実だとしても、どこでどうして死んだかは依然《いぜん》としてなぞだね。問題は簡単になるどころか、かえって不可解になってきた」
「おそらくは……」ホームズは考えこんでしまった。そしてそのふかい黙想《もくそう》は、のろい列車がウーリッチ駅へつくまで続いたのである。そこで下車するとホームズは辻馬車《つじばしや》を呼び、マイクロフトのよこした紙をポケットから出した。
「だいぶあちこちと訪ねるところがあるが、まずサー・ジェームズ・ウォルターから始めよう」
この有名な役人の住宅は、テームズ河の岸まで青い芝生《しばふ》のつづく別荘《べつそう》ふうの美しい家だった。ここへ私たちの着いたころには、霧がようやく晴れかけ、うす陽《び》がさしていた。ベルを鳴らすと執事《しつじ》が現われた。
「サー・ジェームズにご面会ですって!」と彼は厳粛《げんしゆく》な顔でいった。「だんなさまはけさほど亡《な》くなられましてございます」
「なんですって? どのようにして亡くなられたのです?」ホームズはびっくりした。
「どうぞおはいりくださいまし。弟さまのヴァレンタイン大佐がいらっしゃいます」
「それはぜひお目にかかりたい」
うす暗くした客間に通された。すぐにごく背がたかく、ハンサムでうすいあごひげのある五十ばかりの人がはいってきた。血ばしった眼《め》つき、汚《よご》れた顔、乱れた頭髪などが、この家にとつぜん降りかかった不幸を物語っていた。話しぶりも乱れがちである。
「こんなことになったのも、こんどのいまわしい事件のためです。兄は名誉《めいよ》にはきわめて敏感《びんかん》でしたから、こんな事件には堪《た》えられなかったのですな。よほどこたえたとみえます。自分の部の成績を誇《ほこ》っていたところへこれですから、がっくりと参ったのですな」
「じつは今度の事件を解明するについて、なにか参考になることをうかがえるかと思って参ったのですが、残念でした」
「われわれ同様に、兄にもまるで心当りはなかったのです。警察から求められて、知っているだけのことは話してしまったのです。むろんカドガン・ウエストの仕事だと信じていましたが、それ以上のことは想像もつかないといっていました」
「あなたご自身何かご存じじゃないでしょうか」
「私としては新聞に出ていること、人から聞いたこと以外には何も知りません。まことに失礼ですが、ご承知のとおりただいま取りこんでおりますので、ほかにお話もないようでしたらこれで……」
「まったく思いもよらないことになったもんだね」とホームズは、馬車にとって返してからいった。「自然死なのかね? 自殺したのじゃないかな? もし自殺だとすれば、職務|怠慢《たいまん》を自責の結果とみてもいいわけだ。この問題はいずれ取りあげるとしても、こんどはカドガン・ウエストのほうを調べてみよう」
町はずれの小さいながら手入れのゆきとどいた家に、遺族である母親を訪ねてみたが、彼女《かのじよ》はすっかり悲しみに打ちひしがれていて、ものの役にはたたなかった。そばに色の白い若い婦人がいて、カドガンの婚約者《こんやくしや》のヴァイオレット・ウエストベリーだと名のった。生きているカドガンを最後に見た女性である。
「私にもわけがわからないんでございますの、ホームズさん。あれから一睡《いつすい》もせずに考えて考えて、昼も夜も考えつづけていますけれど、どうしたことなのですか、わけがわかりませんの。アーサーほど誠実で婦人を大切にし国を愛する人はありません。保管している国家の機密を売るくらいなら、右腕《みぎうで》を切り落とされるほうを選ぶ人です。あの人をすこしでも知っている人には、こんな途方《とほう》もない馬鹿《ばか》げたことは信じられません」
「でも事実は……ウエストベリーさん」
「そうですの。ですから私にはわけがわかりませんと申しあげていますのよ」
「金に困っていたのですか?」
「いいえ。そうお金のいることもございませんし、給料だって少なくはなかったのです。貯金も何百ポンドかありましたし、わたくしたち新年には式をあげることになっておりました」
「なにか精神的に動揺している様子はなかったですか? 私どもには絶対に隠《かく》しだてしないでくださいよ、ウエストベリーさん」
ホームズの敏感な眼は、彼女の様子がちょっと変ったのを見のがさなかった。彼女はあかくなって、もじもじしていたが、
「そうですね、なにか気になることがあるらしいとは感じていました」
「ずっと前からですか?」
「一週間くらい前になりましょうか。彼はなにか考えがちで、心配ごとでもあるらしゅうございました。いちど私はそのことを追及してみましたけれど、彼はなにかがあることは認めましたが、それは公式の仕事に関係があることで、『あまりにも重大なことなので、あなたにさえ話すことはできない』と彼はいいました。私はそれ以上きくことはできませんでした」
ホームズはむずかしい顔をして、
「どうぞその先を話してください。たとえウエストさんに不利と思われることでもです。そこからどんなことがわかるかもしれませんからね」
「話せとおっしゃっても、もう何もございませんわ。一、二度なにかいいそうにしたことはございますけれどね。ある晩なんか、その機密はたいそう重大なもので、外国のスパイが大金をかけてねらっているにちがいないとか申していたのを覚えております」
ホームズはますますむずかしい顔をして、
「ほかになにか?」
「お役所はいいかげんだから、売国奴が設計書を盗《ぬす》みだそうと思えば、わけないことだとか申しておりました」
「最近にそんなことをいったのですか?」
「はあ、つい最近のことですわ」
「ではあの最後の晩のことをお話しください」
「わたくしたちは劇場へゆくところでございましたの。霧《きり》がふかくて馬車は役にたちませんから、歩いて参りました。お役所のちかくまで参りますと、あの人はとつぜん霧のなかへ駆《か》けだしてゆきました」
「何もいわずにですか?」
「あっといったきりでございました。私はしばらくその場所で待っておりましたけれど、それきりもどってきませんので、私はそのまま家へ帰りました。朝になってお役所がはじまりましてから、みなさん調べにいらっしゃいました。それで心配していますうち、十二時ごろになりまして、凶《わる》い知らせが参りました。ああ、ホームズさん、お願いでございますから、アーサーの名誉を回復してやってくださいまし。あの人が何よりも大切にしていました名誉を!」
ホームズは悲しげに頭をふった。
「ではワトスン君、もっとほかを調べるべきだね。こんどは書類を盗《と》られた役所へ行ってみるとしよう」
「もともとこの青年は怪《あや》しいのだが、調べてみるとますます怪しくなったね」ごとごとと動きだした馬車のなかでホームズがいった。「ちかく結婚のはずだったということだが、犯罪の動機にはなる。金が欲《ほ》しかったろうからね。それに口にだしていったくらいだから、そんな考えも頭のなかにあったろう。そのことを口にしたということは、売国|行為《こうい》にもう一歩で彼女を共犯にするところだったといえる。まずいねえ」
「そんなことをいうけれど、ホームズ君、性格というものも考えなければならないだろう。それにまた、重罪を犯そうというのに、なぜ往来のまん中で婚約者を振《ふ》りすてて駆けだすようなまねをしたのだろう?」
「そこだよ! その点はたしかに異論のあるところだ。しかし二人にとっては手ごわい仕事にかかろうというところなんだからね」
役所では主任事務員のシドニイ・ジョンスンが現われて、どこへ行ってもそうだが、ホームズの名刺《めいし》をみてていねいに応対した。やせて気むずかしそうな眼鏡をかけた中年の男である。ほおがおちくぼみ、精神の過労から手さきをぶるぶるふるわしていた。
「困りましたよ、ホームズさん。さんざんです。部長が亡くなりましたが、お聞きですか?」
「いまお宅へうかがってきたところです」
「ここはめちゃめちゃです。部長は亡くなるし、カドガン・ウエストは死ぬし、大切な書類は盗まれるしですからね。月曜日の夕がたここを閉めたときには、ほかの役所にけっして引けはとらない成績をあげているつもりだったのに……考えただけでも恐《おそ》ろしいことです。よりによってウエストがこんなことを仕でかすとはねえ」
「ほう、ではやっぱりウエストのやったこととお考えなんですね?」
「そうとしか考えられませんよ。あの男にかぎってと今でも思っていますけれどね」
「月曜日には何時《なんじ》にここを閉めましたか?」
「五時です」
「あなたが閉めたのですか?」
「いつも私が最後に退出します」
「そのとき設計書はどこにありましたか?」
「金庫の中です。私がおさめました」
「ここには守衛はいないのですか?」
「います。でもほかの建物も受けもっているのです。兵隊あがりの信頼のできる男ですが、異状はなかったといっています。濃霧《のうむ》はおりていましたけれどね」
「カドガン・ウエストが退庁後にはいろうと思えば、設計書を手にするまでには、鍵《かぎ》が三ついるわけですか?」
「そうです。三ついります。表戸の鍵と事務室の鍵と金庫の鍵がね」
「その鍵をもっているのは、あなたをのぞいたらサー・ジェームズ・ウォルターだけですか?」
「私は表戸の鍵は持っていません。金庫のだけです」
「サー・ジェームズは日常の習慣のきちんとした人でしたか?」
「そうだと思います。三つの鍵については、あのかたが同じ鍵|環《わ》につけていたのを私は知っています。たびたび見ていますから……」
「その鍵環をもったままロンドンへ行ったのですね?」
「そう聞いています」
「一方あなたは一度も鍵を手放したことはないのですね?」
「そうです」
「するとウエストが犯人だとすれば、合鍵を持っていたことになりますね! ところが死体にはそんなものはなかった。それからこれは別の話ですが、この事務所につとめているものが、設計書を売る気なら、こんどのように原図を盗みださないで、コピーをとったほうが簡単じゃないでしょうか?」
「役にたつようなコピーをとるには、相当に専門的な知識を必要とするでしょう」
「サー・ジェームズやあなたやウエストなら、それくらいのことはできるでしょうね?」
「それはいうまでもありませんけれど、私をそのなかへ引き入れるのだけは許していただきたいものですね。原図がじっさいにウエストのポケットから出ているのですから、この上そんな推測なんかするのは無駄《むだ》じゃないでしょうか」
「それにしてもウエストとしては、人知れずコピーもとれるし、結構それで間にあうはずなのに、原図を盗みだすような危険なまねをするとは、たしかに不思議ですよ」
「それはたしかに不思議です。でも事実は盗みだしているのですからね」
「この事件は調べれば調べるほどわからなくなってきます。まだ三枚だけ出てこないといいますが、これは最も肝要《かんよう》な部分だそうですね?」
「そうなんですよ」
「というのは、この三枚さえあれば、あとの七枚はなくても、ブルース・パティントン潜水艦《せんすいかん》は作れるというのですか?」
「そういう意味の報告を私から海軍省に出しておきました。しかし今日もう一度よく図面を調べてみますと、かならずしもそうとはいえないようです。自動|調整孔《ちようせいこう》の二重ヴァルヴの図面が、もどってきたなかにあるのです。この図面がないとすると、それを発明考案しないかぎり、艦は建造できませんね。むろん何とかこの困難は打破するだろうとは思いますけれど」
「それにしても紛失《ふんしつ》した三枚の図面が、もっとも重要なんですね」
「もちろんです」
「ではお許しを得て、現場を一応見せていただきましょう。ほかにお尋《たず》ねしたい事はありませんから」
ホームズは金庫の錠《じよう》、入口のドア、最後に窓の鉄製のよろい戸とあらためたが、眼につくものはない様子だった。最後にそとの芝生へ出て、はじめて何やら興味をひかれたらしい。窓のそとに月桂樹《げつけいじゆ》の植えこみがあって、その枝《えだ》が折れたりねじれたりしているのである。
彼はレンズを出してていねいにそれを調べ、その下の地面にある何かの跡《あと》をあらためた。それから主任事務員にたのんで鉄のよろい戸を閉めてもらい、私を顧《かえり》みてそれが中央でぴったり合っていないことを指摘《してき》し、これじゃ室内で行なわれていることが、そとにいてわかるといった。
「三日もたっているので、跡がうすれてしまった。何かを意味するのか、何でもないのかわからなくなっている。ところでワトスン君、ウーリッチにはもう見るところもないようだ。収穫《しゆうかく》もほんの少ししかなかったが、こんどはロンドンへ帰って調べることにしよう」
それでもウーリッチの駅をあとにするまでには、もう一束《ひとたば》を収穫のなかに加えることができた。駅の出札《しゆつさつ》係が、見知りごしのカドガン・ウエストが月曜日の晩に、八時十五分のロンドン橋ゆきの列車へ乗ったということを、確信をもって教えてくれたのである。そのときは一人で、三等切符を一枚だけ買ったという。ひどく興奮してそわそわしていたばかりか、手がふるえてうまく釣銭《つりせん》がつまみあげられないので、出札係が手つだってやったほどだった。時刻表をくってみると、婚約者を七時半に振りきって姿をかくしたウエストが、ロンドンゆきに乗るとすれば、その八時十五分発のが最初のものであるのがわかった。
「ワトスン君、これは建てなおしをやってみるんだね」三十分もだまりこんでいたあげくに、ホームズがいった。「われわれが共同|捜査《そうさ》をはじめてから、こんどくらい掴《つか》みどころのない事件にぶつかるのは初めてだと思うよ。一つ山を越《こ》えたかと思うと、またそのさきに新しい山が横たわっているんだからね。これでも少しは進展したことはたしかだと思うけれどねえ。
ウーリッチでの捜査の結果は、ぜんたいとしてカドガン・ウエストに不利なものだった。だがあの窓に現われたところは、彼《かれ》に有利な推測をさせるものがある。たとえば、かりに外国のスパイが彼に接近したと考えてみよう。むろんそんなことを口外しないという誓約《せいやく》のもとに接近したと考えられるのだが、それでも婚約者にそれを仄《ほの》めかしたのでもわかるように、だいぶそれが気になっていた。そこまではわかる。
さてそこで、婚約者をつれて芝居へゆく途中霧のなかでふと彼は、スパイが役所のほうへ行くのを見かけたとしてみよう。なにぶんせっかちで、気のはやい男だから、責任感のため何もかもほったらかしておいて、この男の後を追ってゆき、スパイが設計書を盗むところを窓から見てしまった。そこで、泥棒《どろぼう》を追跡《ついせき》したのだ。こう考えてくれば、コピーがとれるはずだから原図を盗みだす必要はないという異論には説明がつく。外部のものなら、原図を盗むしかないのだからね。ここまでは筋道がたっている」
「それで?」
「それからさきで困難にぶつかるのだ。そうした現場を見つけた場合、カドガン・ウエストとしては何よりも悪人をとり押《お》さえ、人を呼ぶのが当然と考えられる。なぜ彼はそうしなかったのか? 持ちだしたのが上役ででもあったのだろうか? それならウエストの行動は説明がつく。それともまた部長が霧のなかでウエストをまいたので、ウエストは家へ帰さないためロンドンへさき回りしていったのだろうか? この場合彼がその家を知っていたとしてだがね。
とにかく霧のなかへ説明もせずに婚約者をおきざりにしたくらいだから、よくよくさし迫《せま》った必要があったのに違《ちが》いない。だがここまできて、手掛《てがか》りはぷつりと切れてしまう。いまいったいずれの仮定をとるにしても、それとウエストの死体――七枚の設計書をポケットにして、メトロポリタン線の列車の屋根にあった死体とのあいだには、深いギャップがあるのだ。
こうなったら僕《ぼく》は逆のほうから調べてやろうと思う。マイクロフトに頼《たの》んでおいたスパイの住所一覧がきていれば、それによって見当をつけて、一方ばかりでなく、両面捜査をやろうと思う」
ベーカー街へ帰ってみると、ちゃんと手紙が待っていた。役所の小使が大急ぎで持ってきたものだった。ホームズは急いで眼をとおすと、すぐに私に投げてよこした。
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小物は多いけれど、こんな大事件を手がけるものはいくらもいない。考慮《こうりよ》の価値あるものを列記すれば、ウエストミンスター区グレート・ジョージ街一三番のアドルフ・マイヤー、ノッティング・ヒルのカムデン住宅館のルイ・ラ・ロティエール、ケンジントン区コールフィールド・ガーデンズ一三番のフーゴ・オバーシュタインの三人のみ。後者は月曜日に市中にいたとわかっているが、いまはいない。光明を認めたる由《よし》、快事とす。内閣は決定的な報告を鶴首《かくしゆ》している。さる最高の方面からも緊急《きんきゆう》提案が出されている。必要とあれば国家は全力をあげて君を後援《こうえん》するだろう。
[#地付き]マイクロフト
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「どうもね」とホームズは笑いながらいった。「女王陛下の馬や兵隊をすっかり貸してもらっても、この問題には役にたちそうもないね」
彼は秘蔵の大きなロンドン地図をひろげて熱心にのぞきこんでいたが、たちまちさも満足げな声をもらした。
「うむ、少し思うように展開してきたようだ。この様子じゃたしかに勝利はこっちのものだと、かたく信じるよ」
と急に陽気になって私の肩《かた》をポンとたたいた。
「僕はちょっと出てくるよ。ただ偵察《ていさつ》だけさ。信頼《しんらい》する同志でしかも伝記作者がいっしょでなくちゃ、大事を行なう気は決してないよ。たぶん一時間か二時間で帰ってくるから、君は留守番をしていたまえ。退屈《たいくつ》になったらフールスカップをひろげて、いかにして僕らが国家の危機を救ったかの物語りでも書きはじめるんだね」
ホームズはよほどのことでもなければ、はしたなく騒《さわ》ぎたてる男でないのをよく知っているから、それがこう得意そうにはしゃぐのを見て私もうれしくなってきた。十一月の夜ながを、私はじりじりしながら彼の帰るのを待った。すると九時すぎになって、やっと彼から短い手紙が届いた。
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いまケンジントン区グロスター通りのゴルディニ・レストランで食事中。すぐ来援されたし。組立式かなてこ、ダーク・ランタン、タガネ、ピストルを持参のこと。
[#地付き]――S・H・
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善良なる市民にとって、こんな物騒《ぶつそう》な品物を持って歩くのは、街には霧がおりているとはいえ、どんなものか? 私は用心ぶかくすべて外套《がいとう》の下におしつつんで、指定の場所へ馬車を急がせた。ホームズはそのけばけばしいイタリア料理店の入口にちかい小さな丸テーブルに席を占《し》めていた。
「なにか食べるかい? じゃキュラソー・コーヒーを付きあいたまえ。この店で出した葉巻を一本やってみたまえ。案外わるくもないよ。道具は持ってきたろうね?」
「ここに持っている、外套の下に」
「結構だ。僕のやったことを簡単に話しておこう。これからやることの指示もふくめてね。君にもわかっているだろうが、ウエスト青年は死体になって、列車の屋上におかれていたものだ。そのことは、あの死体が車内から落ちたものでなく、屋根の上から落ちたのだと知った瞬間《しゆんかん》に、僕にはわかった」
「橋の上から落ちたのじゃないだろうか?」
「そんなことはあり得ないと思う。調べてみればわかることだが、列車の屋根はすこし丸味をおびていて、手すりなんかはついていない。だからカドガン・ウエストの死体は、そっとその上に置いたものに違いないのだ」
「どうやって乗せられたのかな?」
「そこがこれから解決しなきゃならない問題なのさ。それには方法は一つしかない。君も気がついているだろうが、地下鉄はウエスト・エンドのどこかで、いったんトンネルから出るところがある。ぼんやりした記憶《きおく》だけれど、僕は地下鉄に乗っていて、坐《すわ》っている頭のすぐ上のところにどこかの家の窓が見えていたのを思いだす。列車がそういう窓の下に停《と》まっているとき、その窓から死体を屋根の上におくのは、造作もないことだろう?」
「ありそうもないねえ」
「ほかのあらゆる可能性がすべてだめだとなったら、いかにありそうもないことでも、残ったものが真実なのだという例のふるい原理を、ここで思いだす必要がある。この場合、ほかの偶然《ぐうぜん》はすべてだめだとわかったのだ。しかるに最近ロンドンを去ったという国際スパイの巨頭《きよとう》が、地下鉄に隣接《りんせつ》する家の一つに住んでいるとわかったんだから、君が眼《め》を丸くするほど浮《う》き浮きもしようじゃないか」
「へえ、そうだったのかい?」
「そうさ。コールフィールド・ガーデンズ一三のフーゴ・オバーシュタインに僕はねらいをつけた。そこでまずグロスター通り駅から仕事をはじめた。きわめて調法な駅員がいてね、いっしょに線路づたいに歩きながら、はなはだ満足すべきことを教えてくれたよ。
それによると、コールフィールド・ガーデンズの家の裏階段の窓が、線路に面しているばかりか、もっと大切なことには、幹線鉄道が付近でこの線路と交差しているため、地下鉄列車はこのあたりでしばしば数分間停車を余儀《よぎ》なくされるというのだ」
「そいつはすばらしい! ついに目的を達したじゃないか!」
「いまのところはね。だがまだ完全とはいえないのさ。たしかに前進はしているが、ゴールはまだ遠い。さて、コールフィールド・ガーデンズの家の裏がわを見た僕は、表へ回って、かもがすでにとび去っていることを確かめた。
そこはかなり大きな家だが、上のほうの部屋は家具なんか飾《かざ》りつけてないらしい。オバーシュタインは執事《しつじ》を一人だけ使ってそこに住んでいるが、この執事も信頼のおける同類らしい。
ここで忘れてならないのは、オバーシュタインは獲物《えもの》を処分しに大陸へとびはしたが、これきり帰らない気ではないということだ。なぜといって、逮捕状を恐《おそ》れなければならない理由はないのだし、素人《しろうと》の家宅|捜索《そうさく》をうけようなどとは夢《ゆめ》にも思っていないだろうからね。ところがどっこい、そいつをこれからやってのけようというわけなんだ」
「許可証をとって、合法的にやるわけにゆかないのかい?」
「証拠《しようこ》がなにもないのでね」
「何を目あてなんだい?」
「どんな往復文書があるやら、今から予想はつかないね」
「ホームズ、僕はいやだぜ」
「そういわずに、君は表で見張りをしていてくれればいい。不法|行為《こうい》のほうは僕が引きうける。いまは小事にこだわっているべきじゃない。マイクロフトの手紙になんとあった? 海軍省や内閣の憂慮《ゆうりよ》を考えてみたまえ。最高の人の心痛をさ。どうあっても敢行《かんこう》すべきだよ」
私の返事は腰《こし》をあげることだった。
「君のいう通りだ。なるほど敢行するしかあるまい」
ホームズはいきなり立って私の手をとった。
「最後にはしりごみするような君じゃないと思っていたよ」ホームズの眼のなかには、今までにない温かいものがあったが、それも瞬時で、たちまちいつもの尊大で実践《じつせん》的な彼にかえってしまった。
「半マイル近くあるが、急ぐわけでもないから歩いてゆこう。道具を落とさないように頼むよ。ここで君が挙動|不審《ふしん》で捕《つか》まりでもしたら、ことが面倒《めんどう》になってくるからね」
コールフィールド・ガーデンズというのは中期ヴィクトリア朝にロンドンのウエスト・エンドあたりに盛《さか》んに建てられた柱廊玄関《ちゆうろうげんかん》のある家だった。隣家で子供のパーティーがあるらしく、幼児たちの陽気なざわめきやピアノの音が夜気のなかに漏《も》れていた。霧《きり》はまだ晴れず、私たちの姿をほどよく包んでくれた。ホームズはランタンに火をいれて、おもおもしい玄関さきを照らした。
「こいつはちとやっかいだな。錠をおろした上にかんぬきまで差してある。凹庭《*エーリア》【訳注 地下室と路面のあいだの凹所】からやったほうがよい。そのほうがあそこにはかっこうなアーチがあるからおせっかいな巡査に邪魔《じやま》だてされないですむ。ちょっと手を貸してくれたまえ。君が降りるときは僕が手を貸す」
たちまち私たちはエーリアに降りていた。暗い陰《かげ》に身をかくしたと思うと、頭のうえの霧のなかに巡査の足音が聞こえた。その柔《やわ》らかなリズムが遠くへ去ると、ホームズは低いドアに向かって仕事をはじめた。背なかを丸めてしきりに何かをやっていると思ったら、カチリと音がしてドアがあいた。
私たちは中へはいってドアを閉め、暗い通路をすすんでいった。ホームズがさきにたって、カーペットのない回り階段をのぼってゆく。ランタンの小さな扇形の黄いろい光が低い窓を照らしだした。
「ここだよ。この窓がそうに違いない」
ホームズがその窓をあけはなつと、どろどろと低い音が聞こえてきたが、みるみるそれは大きな響音《きようおん》となって、暗いなかを列車が通過していった。
ホームズがランタンで照らした窓敷居の上は、エンジンのすすでまっ黒に覆《おお》われているが、そのくろい表面には、こすれてうすくなったところがあった。
「ね、死体をいったん置いた場所なんだよ。おや、これは何だろう? うむ、明らかに血のあとだよ」窓わくについている微《かす》かな汚《よご》れをさして、「この石の階段にもある。証拠は歴然たるものだ。列車がここに停まるまで待っていてみよう」
ながく待つにもおよばなかった。そのつぎの列車がトンネルから物すごい音をたてて出てきたと思うと、しだいに速力をゆるめ、ブレーキをきしらせながら、すぐ眼の下で停止したのである。窓から列車の屋根までは四フィートとは離《はな》れていない。ホームズは静かに窓を閉めた。
「これで一応は証明できたというものだ。君はどう思うね?」
「傑作《けつさく》だね。こんなすばらしい成果を見るのは初めてだ」
「そうまで自負はしないがね。死体が列車の屋根から落ちたなんていうことは、大して不思議でもないのだが、それに気がついてから、あとはこうなるのが必然だったのだ。もしこれが国家の重大事を内包するのでなかったら、事件としてはこれまでのところはくだらないものだろう。これからがむずかしいところだ。でもこの家で、何か役にたつものが見つかるだろうよ」
台所の階段をのぼって、私たちは二階の続き部屋《べや》へはいった。一つは食堂だが、簡素に飾りつけてあり、これといって興味をひくものはなかった。第二は寝室《しんしつ》で、これも問題はない。もう一つの部屋はなんとなく有望そうに見えるので、ホームズは組織的に捜査をはじめた。書籍《しよせき》や書類が散乱しているところをみると、書斎《しよさい》にしているのだろう。敏速《びんそく》に秩序だって、彼は引出しを一つ一つひっくりかえし、戸だなを片っぱしから捜《さが》したが、その渋《しぶ》い顔はいっこう成功に輝《かがや》いてはこなかった。一時間ばかりかかって、結局得るところはなかった。
「ずるいやつめ、跡をすっかりかき消している。問題になるようなものを一つも残していないのだ。焼きすてたか持ち去ったのか、あぶない往復文書が一つもない。これ一つが最後の望みだ」
ホームズが手をかけたのは、デスクの上のブリキ製の小さな金庫である。タガネでこじあけてみると、くるくるっと巻いた紙がいくつかはいっていた。数字をいっぱい書きちらし、何かの計算をしてあるが、説明がないから何のことやらわからない。ただ『水圧』だとか『毎平方インチ圧力』とかいう字がたびたび出てくるのが、潜水艦《せんすいかん》に関係があるといえばいえた。
ホームズがもどかしそうにそれをはねのけると、あとは小さな新聞の切りぬきのはいっている封筒《ふうとう》が一通あるだけだった。彼はそれをテーブルの上で逆さに中身を振《ふ》りおとしたと思うと、急に双眼《そうがん》を輝かした。
「これは何だろう、ワトスン君? え? なんだと思う? 新聞広告に出た一連の通信だよ。紙質と印刷からみて『デイリー・テレグラフ』紙の三行広告だ。ページの右うえすみだね。日付はないが、通信文そのものが順序を示している。これが最初にちがいない。
『連絡待ちかねた。条件承知。カードの宛名《あてな》へ詳報《しようほう》たのむ――ピエロ』
つぎはこれだ。『複雑ゆえ記述は困難。詳報要す。品物|渡《わた》せば即時《そくじ》交付す――ピエロ』
そのつぎは、『事態|切迫《せつぱく》す。契約完了《けいやくかんりよう》せざれば申込|撤回《てつかい》の他《ほか》なし。面会日通知せよ。広告にて確認《かくにん》す――ピエロ』
最後に、『月曜日夜九時以後。二つたたけ、他人を交えず。疑惑《ぎわく》の要なし。品物と引替《ひきかえ》に現金わたす――ピエロ』
どうだい、これで記録は完全なものだ。この広告の相手を捕《とら》えさえしたらなあ」といってホームズはテーブルをこつこつたたきながら深く考えこんでいたが、やがて勢いよく立ちあがった。「まあ要するにさほど困難じゃないだろうよ。ここはもう用もないようだから、これから『デイリー・テレグラフ』社へ馬車で寄って、きょうの仕事にくぎりをつけるとしよう」
打合せにしたがって翌日朝食後にマイクロフト・ホームズとレストレードがやってきた。シャーロック・ホームズはきのうの行動を話して聞かせた。するとレストレードは職掌《しよくしよう》がら、夜盗《やとう》のまねをした一条には首を傾《かし》げて、
「われわれにはそんなことまでは出来ないですよ。それじゃわれわれ以上の成果があがるはずですね。しかし今にやりすぎて、ご自分ばかりかワトスンさんまで窮地《きゆうち》におとしいれることになりますぜ」
「愛する祖国のためだ、ねワトスン君? 祖国の危難に殉《じゆん》ずる犠牲者《ぎせいしや》かな。兄さんはどう思います?」
「すばらしいものだ、シャーロック! 感服するよ。だがそれをどうしようというのだい?」
ホームズはテーブルの上にあった『デイリー・テレグラフ』をとりあげていった。
「きょうのピエロの広告を見ましたか?」
「なに、また出ているのか?」
「ここにありますよ。『今夜。時と所はおなじ。二つたたけ。事はきわめて重大。君の安危にかかわる――ピエロ』というのです」
「ほほう! この広告を見てやってきたら、すぐ捕まるじゃありませんか!」とレストレードが叫《さけ》んだ。
「そのつもりで私が出したのですよ。お二人とも時間を繰《く》りあわせて、今晩八時ごろにコールフィールド・ガーデンズへお出《い》でねがえれば、解決に一歩近づけるかと思いますが……」
シャーロック・ホームズの非凡《ひぼん》な性格の一つは、もう働いても利するところがないと見たら、いつでも頭を休め、ほかの軽いもののほうへ心を向け得《う》る能力をもっていることだった。その忘るべからざる日にも、それから以後の時間を彼《かれ》はまえからやっていたラッススの多声聖歌曲に関する小論文の完成に没頭《ぼつとう》していた。私としてはそんな超越力《ちようえつりよく》はないから、その一日がたえられないほど長く感じられた。問題の国家的重大性、最高首脳者たちの不安と憂慮、われわれがこれから実施《じつし》しようとしている試みの冒険性――そうしたものが私の神経を悩《なや》ました。やっと軽い夕食をすませて、探索に出かけることになってほっとする思いだった。
約束《やくそく》どおりレストレードとマイクロフトはグロスター・ロード駅のまえで落ちあった。オバーシュタインの家のエーリアのドアはまえの晩から開けはなしたままになっていた。マイクロフトがへいをのりこえることなどはまっ平だというので、私はそこからはいって玄関のドアを開けてやらなければならなかった。九時には、私たちは書斎に腰をすえて相手の現われるのをじっと待っていた。
一時間たち、また一時間が空《むな》しくすぎた。十一時を打った。教会の大時計の整然と時をきざむ音は、私たちの希望への挽歌《ばんか》かとも思われた。レストレードとマイクロフトとは気をもんで、一分間に二度くらいも時計をみていた。ホームズは落ちついて無言で控《ひか》えている。眼は半眼にとじているけれど、全神経は針のように鋭《するど》くなっているのだ。ふと彼は頭をぐいとあげた。
「来たよ」
こそこそとひそやかな足音が、いったん玄関を通りこして、また引返してきた。つづいて引きずるような足音がして、ノッカーを二つたたくのが聞こえた。ホームズは私たちに坐《すわ》っているようにと合図しながら立っていった。
あかりといってはホールにガス灯が一カ所ついているだけである。彼は玄関をあけ、黒い人影《ひとかげ》がすべりこむと、あとを閉めて鍵をかけた。「こちらへ!」彼のいうのが聞こえた。
やがてその男は私たちの前にたっていた。すぐあとにつづいたホームズは、その男が驚《おどろ》いて声をあげ逃《に》げようとするのを、えり首を捕えて室内へ突《つ》きとばした。そしてよろけているあいだに、ホームズはドアを閉めて、ぴたりと背なかを押《お》しあてた。
男はあたりを見まわし、よろめいたと思ったら、気を失なってその場へ倒《たお》れた。その拍子《ひようし》につばびろの帽子《ぼうし》がとび、口もとを覆っていたマフラーがはずれて、まばらな長いあごひげのあるやさしく、ハンサムでデリケートな、ヴァレンタイン・ウォルター大佐の顔がそこに現われた。
ホームズは驚いてヒュッと口笛を鳴らした。
「こんどはワトスン君、僕《ぼく》のことを馬鹿《ばか》と書いてもいいよ。こんな獲物が網《あみ》にかかろうとは思いもしなかった」
「何者なんだ、これは?」マイクロフトが乗りだすようにして一心に尋《たず》ねた。
「死んだサー・ジェームズ・ウォルターの弟ですよ。潜水艦部の部長のね。そうだ、手のうちが見えてきた。どうやら正気づくようですよ。この男の調べは私に任せてくださるほうがいいですね」
伸《の》びたままソファへ運んでおいたのだが、その男は起きあがって、恐怖《きようふ》にうたれた顔であたりを見まわし、自分の感覚を疑うかのように額に手をあてた。
「どうしたというのです? 私はオバーシュタイン君を訪ねてきたのに……」
「何もかもわかっているのですよ、ウォルター大佐」ホームズがいった。「イギリス紳士《しんし》ともあろうあなたが、どうしてこんなことをやったのか、私には理解できかねますが、あなたとオバーシュタインとの関係や文通の内容は、すっかりわかっているのです。カドガン・ウエスト青年の死の事情も同様です。とはいうものの、細かな点であなたの口からうかがわなければわからないところもあるのだから、私としてご忠告申したいのは、この際|悔《く》いあらためて告白し、少しでも心証をよくしたほうがよいということです」
大佐はうめき声をあげて、両手で顔をかくした。待っていたけれど、いつまでも黙《だま》っているので、ホームズは重ねていった。
「大筋はすっかりわかっているのですよ。あなたが金につまったこと、兄さんの持っていた鍵の型をとったこと、オバーシュタインと文通をはじめたこと、オバーシュタインからの返事は『デイリー・テレグラフ』の広告欄《こうこくらん》をとおしてなされたことなど、みんなわかっているのです。
それからなお、月曜日の晩に濃霧《のうむ》のなかをあなたが役所へいったこと、かねて何かの理由であなたに疑いをもっていたカドガン・ウエストにそれを見つけられ、尾行《びこう》されたことも私たちは知っています。ウエストはあなたの犯行を目撃《もくげき》したけれど、兄さんから頼《たの》まれてロンドンへ持って出るのかもしれないから、その場で騒《さわ》ぎたてることもできなかった。
そこで彼は一人の善良なる市民らしく、私事は放《ほう》りだしておいて、夜霧のなかあなたを尾行し、ついにこの家まで来ました。そしてここで初めてあなたの非行に介入《かいにゆう》したので、あなたは国を売ったばかりか、殺人の大罪まで犯《おか》したのです」
「私じゃない! 私がやったのじゃありません! 誓《ちか》って私じゃありません」とあわれな犯人は叫んだ。
「ではあなたが死体を列車の屋根にのせたカドガン・ウエストはどうして死んだのですか?」
「申しましょう。誓って真実を話しましょう。ほかのことは私がやったことを告白します。あなたのいう通りです。株式取引の借金を払《はら》わなければならなかった。私は金につまっていた。オバーシュタインは五千ポンド出すという。それだけあれば破滅《はめつ》をまぬがれます。しかし人殺しだけは、覚えのないことです」
「ではどういうことだったのですか?」
「ウエストは前から私に疑惑をいだいていた。それで私を尾行したのもお言葉の通りです。しかしここの玄関へくるまで、少しも私は知らないでいた。霧がふかくて、三ヤードさきは見えないのですからね。二つノックすると、オバーシュタインが出てきました。するとそのときウエストは駆《か》けよってきて、あの書類をどうするつもりかと詰問《きつもん》しました。
オバーシュタインは短い護身棒を肌身《はだみ》はなさず持っていました。ウエストが私たちのあとから家のなかまではいってくるので、オバーシュタインはその棒で頭に一撃をくらわせたのです。ひと打ちでした。ウエストは五分ばかりで死んでしまいました。ホールに倒れた死体を見おろして私たちは途方《とほう》にくれました。
そのときオバーシュタインが、裏手の窓の下に停《と》まった列車の屋根に、死体を棄《す》てることを思いついたのです。そのまえに彼は私の持っていった書類にまず眼《め》をとおしました。そしてそのうち三枚は大切だから、自分がもらっておくと申しました。
『そんなわけにはゆかない。これはウーリッチへ返しておかないと、たいへんなことになる』
『いいや、もらっておく。写しをとるったって、あんまり専門技術的だから……』
『それでも今晩中には返しておかないと困る』と申しますと、しばらく考えていたが、わかったと叫んで、
『三枚はやっぱりもらっておくが、あとはこの男のポケットへねじこんでおこう。そうすればすべてはこの男の仕業《しわざ》ということになる』
ほかにいい考えもないし、いう通りにしました。三十分ばかり窓のところで待っていると、列車が停まりました。幸い霧がふかくて何も見えないから、ウエストの死体をうまく列車の屋根へおろしたのです。私に関するかぎり、これでおわりです」
「それで兄さんは?」
「兄は何も申しませんでした。しかし鍵のことで一度小言をいったことがありますし、あるいは疑惑をいだいたかと思います。眼つきにもそれが現われていました。しかしご承知のとおりの始末になってしまいました」
部屋は沈黙に包まれた。それを破ったのはマイクロフト・ホームズであった。
「罪のつぐないをしてはどうだな? 良心の苦しみも軽くなるだろうし、処罰《しよばつ》のほうも……」
「私にどんなつぐないができるでしょうか?」
「図面をもってオバーシュタインはどこへ行ったのです?」
「知りません」
「彼はあなたに住所を教えなかったのですか?」
「手紙はパリのオテル・デュ・ルーヴルあてに出せば届くといっていました」
「じゃまだ君はつぐないをする力があるわけだ」シャーロック・ホームズがいった。
「私にできることなら何でもやります。あの男に好意を示す義理はありません。いや、あいつこそ私を破滅させたやつです」
「ここにペンと紙があります。このつくえに向かって、私のいう通り書いてもらいましょう、封筒のあて名はいまいったのを書きこんで。よろしい。つぎに手紙の文句は『拝啓《はいけい》、今回の取引に関し、重要な部分図が一枚欠けているのに今ごろはお気づきのことと信じますが、私の手許《てもと》の複写図があれば完全なものになります。しかしこれを入手するには新たな手数を要したので、さらに前金五千ポンドを頂かねばなりません。
郵便送金は安心できませんから、金貨または紙幣《しへい》で受領したいと思います。といって今私が国外に旅行すればとかくのうわさのたねとなりますから、それもできません。よって土曜日の正午チャリング・クロス・ホテルの喫煙室《きつえんしつ》でお会いしたいと思います。なおかならずイギリス紙幣か、金貨でお願いいたします』
それで結構です。これでこの男が釣《つ》りだされなかったら、こんな意外はありませんよ」
みごと釣りだされた。このことは歴史上の事実である――一国の秘史は公《おおや》けの記録よりもはるかに面白《おもしろ》いことがしばしばだが――オバーシュタインは生涯《しようがい》の大事業を完成させたさのあまり、誘惑《ゆうわく》にかかり、イギリスの牢獄《ろうごく》に十五年間つながれることになった。そのかばんの中からかの貴重なブルース・パティントン設計書は発見された。ヨーロッパの海軍界に競売に出されていたものである。
ウォルター大佐は刑期《けいき》の二年目の終りごろ獄死《ごくし》した。ホームズについては、ラッススの多声聖歌曲の研究を再開し、やがてこれは印刷に付されて私的に頒布《はんぷ》されたが、専門家はこの問題に関する決定的な仕事だといっている。
数週間後になって、ホームズがウインザー宮殿《きゆうでん》で一日をすごしたことを、私は偶然《ぐうぜん》知った。帰ったときはすばらしいエメラルドのネクタイ・ピンを飾《かざ》っていた。買ったのかと聞いたら、|あ《*》る祝福すべき貴婦人【訳注 イギリスでは一八三七年から一九〇一年までヴィクトリア女王が統治】から、幸運にもちょっとしたご用をうまく果したお礼に贈《おく》られたのだと答えるだけだった。だが私にはその貴婦人の尊い名は推測できた。このエメラルドのピンが、ブルース・パティントン設計書事件のときのホームズの功績を永遠に表彰《ひようしよう》するものであることを少しも疑わないのである。
[#地付き]―一九〇八年十二月『ストランド』誌発表―
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瀕死の探偵
シャーロック・ホームズの下宿のおかみハドスン夫人は、辛抱《しんぼう》づよい女である。二階には時をえらばず妙《みよう》な人たちが、ときには好ましからざる人物が押《お》しかけるばかりでなく、この平凡《へいぼん》でない下宿人がまた変りもので、日常がおそろしく不規則ときているのだから、まったくたまったもんじゃないだろう。
話にならないほどだらしがないうえに、とんでもない時刻に音楽に熱中するし、ときには室内でピストルの射撃《しやげき》練習をしたり、気味のわるいだけならいいが、どうかするとたまらない悪臭《あくしゆう》をはなつ実験はやるし、彼《かれ》のまわりには乱暴で危険な空気がつきものなのだから、これはロンドンでも最悪の下宿人というべきだろう。
しかしその反面、支払《しはら》いだけは王侯《おうこう》なみに払った。私といっしょに暮《く》らした何年間かに払った下宿代だけで、優にこの家は買えたろうと思う。
ハドスン夫人は心から彼を尊敬していた。どんなに彼の行動が乱暴でも、決して逆らうことをしなかった。彼が好きでもあったのだが、ホームズは女性にたいしては優《やさ》しく礼儀《れいぎ》ただしいからだろう。彼としては女はきらいで、信用しなかったが、相手になるときはいつでも礼儀正しかったのだ。
私が結婚《けつこん》生活に入ってから二年目のある日、ハドスン夫人が訪ねてきて、ホームズの健康状態がおとろえているというので、夫人の彼への心遣《こころづか》いの純粋《じゆんすい》さを知っているから、私はよそごとならず耳を傾《かたむ》けたのである。
「こんどは助かりませんね、ワトスン先生。この三日、衰弱《すいじやく》が加わるばかりで、あと一日は保《も》つまいと思うんでございますよ。お医者を呼ばせないんですものね。今朝もいってみますと、ほおがこけて骨と皮になり、大きな眼《め》ばかりぎょろりとさせて、私もう見ていられなくなりましたわ。『あなたが何とおっしゃっても、すぐに先生をお呼びいたしますよ』って申しあげますと、『じゃワトスン君にしてください』っておっしゃるんでございますよ。一時間とは待てません。すぐにいらしてくださいまし。でなければ死に目にもお会いになれませんわ」
ホームズが病気だとは初耳なので、私はびっくりした。大急ぎで外套《がいとう》と帽子《ぼうし》を手にとったことはいうまでもない。馬車のなかで詳《くわ》しいことをきいてみた。
「私にもよくはわかりませんのでございますよ。事件でロザハイス――テームズ河を下ったところにあるあの町へ行っていらっしゃいましてね、病気をしょいこんでお帰りになりましたのですよ。水曜日の午後からお寝《やす》みになったきりなんでございます。これで三日、何も召《め》しあがりません」
「それはいけない。なぜ早く医者にみせないのです?」
「いらないとおっしゃるんでございますよ。なにしろあのわがままさでございますもの、手がつけられやしませんわ。でも一目ごらんになればわかりますけれど、もう長いことはございませんね」
なるほどたいへんな事になっていた。霧《きり》のかかった十一月のうす暗い光の中で、病室はひとしお陰気《いんき》でもあったが、やせ衰《おとろ》えた彼がベッドからじっと私を見あげているのには、思わずぞっと悪感《おかん》をもよおした。
眼には熱をおびた光があり、両ほおには熱の花が現われており、唇《くちびる》には黒いかさぶたのようなものがついていた。上掛《うわが》けの上に投げだしたやせた手がぴくぴく間断なく痙攣《けいれん》して、声もかすれてふるえをおびている。ぐったりと横たわっていたが、それでもはいっていったのが私だということはわかったらしい。
「ワトスン君、とうとういけないらしいよ」よわよわしい声でいったが、それでもどこか例のむとんじゃくな様子はのこっていた。
「冗談《じようだん》じゃないよ」私は近づいていった。
「離《はな》れていたまえ。そばに寄っちゃだめだ」危急の場合などよく見せた激《はげ》しい調子でいった。
「ワトスン君、そばへ寄ったら、出ていってもらうよ」
「どうしたんだ?」
「そうしてもらいたいんだ。理屈《りくつ》じゃない。それだけでいいじゃないか」
やっぱりハドスン夫人のいう通りだ。手のつけられないわがままものになっている。だが私は彼の衰弱を見るに忍《しの》びなかった。
「なんとか楽にしてあげたいと思ってね」
「それだよ。僕《ぼく》のいうようにしてくれるのが一番いいんだ」
「わかったよ」
「怒《おこ》ったんじゃあるまいね?」やっと渋面《じゆうめん》をゆるめて、苦しそうに息をしながらいった。
こんな哀《あわ》れなさまで臥《ね》ているもののいうことなど、誰《だれ》が怒ったりなどするものか!
「君のためを思っていったんだよ、ワトスン君」
「僕のためだって?」
「この病気はよくわかっているんだ。スマトラの苦力《クーリー》がかかる病気がうつったのさ。オランダ人はよく知っている。もっとも研究はあまりしていないようだがね。一つだけわかっているのは、それが死を免《まぬ》がれないことと、おそろしい伝染力《でんせんりよく》をもつことだ」
妙に熱っぽい元気さで、痙攣するながい手を近よるなと振《ふ》りながらいうのだった。
「接触伝染《せつしよくでんせん》だ。だから離れていたまえ。そばへ寄りさえしなきゃいいんだ」
「冗談じゃないぜ、ホームズ君。そんなことくらい僕が恐《おそ》れるとでも思うのかい? 普通《ふつう》の患者《かんじや》の場合だって、僕は何とも思やしない。ましてほかならぬ君だもの、僕が世話をやくのは当然のことだよ」
そういって私はまた進みよった。すると彼はおそろしいけんまくで私を追いかえした。
「そっちに立っているなら、話くらいはするけれど、でなかったら出ていってもらおう」
私としてはホームズの非凡な才能にふかく敬意を抱《いだ》いていたから、その意志にはわかってもわからなくても、けっして逆らったことがなかった。しかしこの場合は職業本能から黙《だま》ってはいられない。ほかの場所でならとにかく、病室では私のいうことに従うべきだろう。
「ホームズ君、きみはふだんの君ではないのだよ。病気のときは子供とおんなじなんだから、手当は僕に任せておきたまえ。君が何といおうと、僕は病状を診察《しんさつ》して、それによって手当を加えるんだ」
ホームズは恐ろしい眼つきで私をにらみつけた。
「もしどうしても医者にかかる必要があるのなら、すくなくとも僕が信頼《しんらい》できる医者にきてもらうよ」
「僕じゃ信頼がもてないというのかい?」
「友人としてはたしかに信頼するよ。しかし事実は事実だからね。君は経験も少ないし、これという専門ももたないただの開業医にすぎないじゃないか。眼のまえにおいてあけすけにいうのも気の毒だけれども、これも君がむりに言わせたのだよ」
私はひどく自尊心を傷つけられた。
「君らしくもないごあいさつだね、ホームズ君。それにつけても僕にはいまの君の精神状態がはっきりわかる。でも君が信頼しないというなら、なにも無理に診察しようとはいわないよ。そのかわりサー・ジャスパー・ミークでもペンローズ・フィッシャーでも、そのほかロンドン一の医者を誰でも呼ぼうじゃないか。とにかく誰かの診察はうけなきゃね。これだけは決定的だよ。僕が自分で診察して手当を加えるでもなければ、誰か名医を呼ぶでもなく、ここで手をつかねて君の死ぬのを見ているとでも思ったら、友人を見そこなったというものだよ」
「君の善意はわかっているんだ」病人は泣くようなうめき声をだした。「君の無学ぶりをさらけ出さなきゃならないのかい? タパヌリ熱って何だか知っているかい? 台湾の黒爛病《こくらんびよう》って何だか知っているかい?」
「そんな病気は聞いたことがないね」
「東洋にはまだ多くの未知の病気や、病理学上の問題がのこされている」彼はしだいにおとろえてゆく力を集中しながら、一言ごとに休み休みいった。「僕もちかごろ犯罪病理学を研究しているうちに知ったのだ。この病気にとりつかれたのも、その研究中のことなんだが、これには療法《りようほう》がないのだ」
「そうかもしれないが、偶然《ぐうぜん》にも僕は、熱帯病では現存する最大|権威者《けんいしや》といわれるエインストリー博士がロンドンに滞在《たいざい》中なのを知っている。何といっても君が諾《き》いてくれないから、僕はこれからこの人を呼んでくるよ」私は決然としてドアのほうへ向かった。
あんなに驚《おどろ》いたことはなかった。死にかけている男が猛然《もうぜん》と躍《おど》りあがって私をさえぎったのである。ピーンと鍵《かぎ》を回す音がしたと思ったら、もう彼は寝台へよろめき帰って、急激《きゆうげき》に元気をだしたのでひどく疲《つか》れて、ぜいぜい息をはずませている。
「まさか力ずくでこの鍵をとるとはいうまい? もうこっちのものさ。もう出しゃしないよ。僕のいいというまで、いつまでもここにいるさ。そのかわり君の気をわるくするようなことはしないよ」と息をきらして、きれぎれにいった。「心から僕のことを思ってくれるのは君ばかりだ。それはよくわかっているさ。だから帰さないといやしないよ。ただ僕が元気になるまで、しばらく待ってもらいたいんだ。いまはだめ。そうさ、いま四時だから、六時まで待ってくれたまえ」
「正気のさたじゃないよ」
「たった二時間のことだよ。六時にはかならず帰す。待っててくれるかい?」
「どうも仕方がない」
「そう、たしかにね。いいや、寝具なら自分でなおせる。そばへ寄らないでいてくれたまえ。それにもう一つ条件があるんだ。さっき君がいった人じゃなく、僕の選ぶ人物を呼んできてほしい」
「よろしい、承知した」
「この部屋へはいってから初めてわけのわかった口のききかたをしたね。そのへんに何か読む本があるだろう。僕は少し疲れた。不良導体に電流をながすとき、電池はどんな気がするだろうね? 六時だよ、ワトスン君。それまで話はやめよう」
だが話はそれよりもずっと早く、さっきホームズがドアにとびかかったときにも劣《おと》らず私を驚かす状況《じようきよう》のもとに、再開される運命だった。私はしばらく無言のホームズを見おろしていた。彼の顔はほとんど夜具でおおわれ、どうやら眠《ねむ》っているらしかった。本を読む気にもならないので、私は静かに部屋のなかを歩きまわって、四方の壁《かべ》をうずめている有名な犯罪者の写真などながめていた。最後に何気なくマントルピースのところへやってきた。パイプやらタバコ入れやら、注射器、ペンナイフ、ピストルの薬莢《やつきよう》、そのほかこまごましたものが散らかっている。その中に黒と白ですべりぶたのついている小さな象牙《ぞうげ》の小箱《こばこ》があった。精巧《せいこう》なものらしいので、もっとよく見ようと思って手をのばしたとき――
恐るべき叫《さけ》び声を、表の往来まで聞こえたろうと思うほど大きな声をホームズがたてたのである。私はぎょっとして、髪の毛が一本ずつ逆立ちする思いだった。振りかえってみると、ホームズが顔をしかめ、気ちがいのような眼つきをしている。私は小箱を手にしたまま、その場へ立ちすくんだ。
「それを置きたまえ! 早く! すぐそこへ置くんだ!」ホームズは私がそれをマントルピースへもどすと、やっとまくらに頭をおちつけて、ほっと安心のため息をもらした。「僕のものに触《さわ》ってもらいたくないのだ。よく知っているじゃないか。どうも君はいらいらさせて困るよ。君は医者のくせに、患者を精神病院へ追いやるようなことをするじゃないか。まあ腰《こし》をおろしてくれたまえ。でなきゃ僕は休むこともできやしない」
このことはいかにも不愉快《ふゆかい》な印象を与《あた》えた。なんでもないことに、ひどく興奮したあげくがこの毒舌《どくぜつ》である。いつものおだやかさなんか、どこへいったことか、これだけでも私には彼の精神の混乱がいかに深いかがわかった。およそ何が悲惨《ひさん》だといって、精神の高潔さを失なったくらいみじめなものはない。
私はいやな気持で、約束《やくそく》の六時のくるのを黙って待つことにした。ホームズも時計ばかりを見ていたのに違《ちが》いない。六時になるやならずに彼はやっぱり熱に浮《う》かされたような調子で元気よく話しかけてきた。
「ワトスン君、ポケットに小銭《こぜに》あるかい?」
「あるよ」
「銀貨だぜ?」
「かなりある」
「半クラウンはいくらある?」
「五つあるね」
「少ないねえ! それっぽちか! そいつは困ったよ。でも仕方がない。それを時計ポケットに入れたまえ。そのほかの金《かね》はみんなズボンの左ポケットへ入れるんだ。それでいい。それで釣《つ》りあいがとれるというものだ」
精神|錯乱《さくらん》のタワゴトである。彼はぶるぶるっと身をふるわせて、咳《せき》ともすすり泣きともわからぬ音をたてた。
「ワトスン君、ガス灯をつけてくれたまえ。ただしね、ちょっとでも半分以上の明るさにしちゃいけないよ。いいかい、気をつけるんだよ。うん、それでいい。いや、ブラインドはおろすに及《およ》ばない。それからね、そのテーブルの僕の手の届くところへ、手紙と用紙をおいてくれたまえ。それからマントルピースのうえのがらくたを少し、そうありがとう。
それからそこに砂糖ばさみがあるだろう? それであの象牙の小箱をはさんでね、その紙のところへおいてくれたまえ。そう。それでいいから、ロワー・バーク街十三のカルヴァートン・スミスという人を呼んできてくれたまえ」
実をいうと、私は医者を呼びにゆく気がなくなりかけていた。こう精神錯乱しているものを、ひとり残して出てゆくのは危険だと思ったからである。だがこんどは彼のほうが、さっき反対したのと同じ強硬《きようこう》さで、どうしても呼んでこいといってきかなかった。
「聞いたことのない人だね」
「そうだろうね。君は意外に思うだろうが、この病気にもっとも精通している人物というのは、医者じゃなくて農園主なんだ。カルヴァートン・スミスはいまロンドンへきているが、スマトラでは有名な居留者だ。
医療|施設《しせつ》のない彼の農園にこの病気が発生したところから、自分で研究に着手したのだが、それが大きな結果をもたらした。きわめて規則的な人物だから、六時まで待ってもらったのは、それより早くいっても研究室にいないことがわかっているからだ。これから君がいって、何とか説得してつれてきてくれたら、この病気にたいする特異な研究を生かして、かならず助けてくれるものと思う」
私はホームズの語ったところを、まとめてここに話しているのである。じっさいの話しぶりは、息ぎれでとぎれたり、どこが苦しいのか両手をぎゅっと握《にぎ》りしめたりだったが、それをいちいち描写するのはやめておく。
二時間ばかりついているうち、彼の様子はますます悪くなった。熱の花はいよいよ目だってきたし、眼はおちくぼんでぎらぎらと、額には冷汗《ひやあせ》さえ浮かんできた。それでも話だけはあくまでも気どって、最後まで弱気はみせまいとした。
「スミスに会ったらね、僕の容態をはっきり告げてくれたまえ。見てきた通りをありのままに話すんだね――死にかけて精神錯乱しているってね。それにしても僕は大洋の海底がなぜびっしりと牡蠣《かき》で埋《う》まらないのか不思議でならないよ。あれほど繁殖力《はんしよくりよく》が強いのにねえ。どうも不思議でならない。人間の頭脳はどうやって頭脳を制御《せいぎよ》できるのだろう? あああ、僕はいま何をいってた?」
「カルヴァートン・スミスに何と話をもってゆくか……」
「そうだった。思いだしたよ。僕の生死はその一事にかかっているのだ。よろしく嘆願《たんがん》してくれたまえ。僕にあまりよい感情をもっていない。あの男の甥《おい》がね、そう、不正|行為《こうい》があると疑ったのだが、あの男に始末をまかせてやった。ところがその甥が変死をとげたのだ。それ以来あの男は僕を恨《うら》んでいる。その点もうまくなだめてね、頭をさげて嘆願してくれたまえ。なんとしてでも連れてきてほしいのだ。僕の生命を救いうるのはあの男だけなんだ」
「どうしてもだめだったら、馬車に押しこめてでも連れてくるよ」
「そんなことをしちゃいけない。何とか来てくれるように説得するんだ。承知させたら、君はひと足さきに帰ってくる。なんとか口実をもうけて、連れだってくるのは止《や》めたまえ。それを忘れないでね。僕を失望させないでくれたまえ。今までだってそんなことは一度もなかったんだ。そりゃ生物には増殖を阻止《そし》する自然の敵があるさ。君と僕と、おのおの本分をつくしてきたんだ。そうなると世界は牡蠣《かき》であふれることになるじゃないか! いやいや、そんな恐ろしいことがあってたまるものか! じゃ君の感じていることを、そっくり向こうへ伝えてくれたまえ」
偉大《いだい》なる知能の主が、まるで子供のようにおろかなことを口走るのに心を引かれながら、私は出てゆかねばならなかった。鍵を手渡《てわた》してくれたので、これ幸いと、中から鍵をかけて私を閉めだしでもすると困るから、それを持ってゆくことにした。廊下《ろうか》に出てみると、ハドスン夫人が泣きながらふるえていた。私が出てくるうしろから、ホームズの甲《かん》だかいほそい声が錯乱状態で単調な歌をうたうのが聞こえた。
階下へおりて、玄関《げんかん》に立って口笛《くちぶえ》で辻馬車《つじばしや》を呼んでいると、霧の中から一人の男が姿をあらわして、
「ホームズさんはどんな具合です?」ときいた。
知りあいの警視庁のモートン警部である。ツイードの私服をきている。
「だいぶ悪いですよ」
警部は妙《みよう》な顔をして私をみた。ドアのうえの明りとり窓からさす灯光《あかり》で見たその顔は、あやうく喜んでいるのじゃないかと思うばかり、何とも妙ちきりんな表情にゆがんでいた。
「そんなうわさを耳にしたもんでね」
そこへ辻馬車が寄ってきたので、私はすぐそれに乗って彼《かれ》とは別れた。
ロワー・バーク街というのは、ノッティング・ヒルとケンジントンの境界のあたりにあって、りっぱな家のならんだところだった。御者《ぎよしや》が車をつけたのは、古風な鉄さくやどっしりした両開き戸に、しんちゅう金具のぴかぴかしている静かで小ぎれいな体裁《ていさい》のよい家だった。案内をこうと現われた執事《しつじ》の、着色電灯の光を背にうけてうす赤くぼうっと光ってみえるもったいぶった様子と、すべてがよく調和していた。
「は、カルヴァートン・スミスさまは在宅でございます。ワトスン先生でございますね。は、かしこまりました。お名刺《めいし》をどうぞ」
私の名も肩書《かたがき》も、カルヴァートン・スミスを動かす力はなかったらしい。半分閉めのこしたドアのすきまから、よくとおる甲だかく気むずかしい声が聞こえてきた。
「どうした方《かた》かね? なんのご用だ? これステープルズ、研究時間中は邪魔《じやま》してはならんとあれほどいってあるではないか!」
執事の何かとりなすおだやかな声が聞こえた。
「いや、お目にかかりたくない。こんなことで仕事を妨《さまた》げられるのは困る。今日は面会日でないと、そういいなさい。どうしても会いたければ、午前中に来てもらいたいとな」
それからまた何やらごそごそと話声がしていたが、
「やっぱりそう伝えてもらおう。出なおして朝くるか、それがいやならこなくてよい。とにかく仕事を妨げられるのは困るのだ」
私は病気でうなっているホームズのことが思いやられた。いまかいまかと、私がこの男をつれて帰るのを一刻千秋の思いで待っていることだろう。いまは遠慮《えんりよ》なぞしている場合でない。彼の生死は一にかかって私の機敏《きびん》さにあるのだ。出てきた執事が恐縮《きようしゆく》して弁解をはじめるまえに、私はそばをすりぬけて奥《おく》の部屋へ突進《とつしん》した。
椅子《いす》によりかかっていた男が、憤然《ふんぜん》と叫んで立ちあがった。きめの荒《あら》い脂《あぶら》ぎった大きな黄いろい顔、だぶだぶと二重にくびれたあご、不機嫌《ふきげん》な灰いろの眼《め》がもじゃもじゃの砂いろの眉《まゆ》の下から、私を威嚇《いかく》するようににらみつけている。はげあがった頭にはビロードの小さな喫煙帽《きつえんぼう》を、小粋《こいき》にうす赤い頭の横へかしげてかぶっていた。頭は馬鹿《ばか》でかいのだが、眼を下へやってみると意外なほどそのからだは小さく繊弱《せんじやく》で、子供のとき佝僂病《くるびよう》をやったとみえて背なかが曲がっていた。
「いったい何だ?」きいきい声でどなりつけた。「なんで断わりもなくはいってくるんです? 明日きてもらいたいと、取りつぎのものにいわせたじゃないか!」
「すみません。でも問題がさし迫《せま》っているものですから。じつはシャーロック・ホームズ君の病気が……」
ホームズの名を聞いて、この小さな男はただならぬ反応を示した。その顔から怒《いか》りがふっと消えて、ただ異様な緊張《きんちよう》だけがのこったのである。
「ホームズの代理ですか?」
「いま別れてきたばかりです」
「ホームズがどうかしましたか?」
「危篤《きとく》におちいっています。それでおうかがいしたのです」
彼は身振《みぶ》りで私に椅子をすすめ、自分も改めて坐《すわ》りなおした。そのときマントルピースの鏡にうつってちらりと見えたのだが、悪意のあるいまわしいうす笑いを浮かべていた。でも座についてこっちへ向きなおったときには、心から心配そうな色をうかべているので、私が押《お》しかけたので神経が動揺《どうよう》したためだろうと、気にかけぬことにした。
「それはお気の毒です。私としてはちょっとした取引のことで知りあっただけだが、あの人の才能や人柄《ひとがら》にはたいへん敬服しています。私も素人《しろうと》医者だが、あの人も素人犯罪学者でね。私は細菌《さいきん》が相手だが、あの人は悪人相手です。私のはこれが牢獄《ろうごく》でしてな」と彼はサイドテーブルのうえにならべたびんや壺《つぼ》をさしていった。「このなかのゼラチン培養基《ばいようき》を舞台《ぶたい》に、世界でも有数の悪いやつが懲役《ちようえき》に服しとるですよ」
「ホームズ君があなたにお出《い》でねがいたいというのも、その専門知識がおありだからですよ。あなたを高く評価して、自分を助けられるのはロンドンであなただけだと信じているのです」
小さな男はびっくりして飛びあがった。その拍子《ひようし》にはでな喫煙帽が下へすべり落ちた。
「どうしてです? どうしてホームズさんは、私に病気がなおせるというんです?」
「あなたが東洋の病気にお詳《くわ》しいからです」
「ホームズさんがかかっているのが東洋の病気だとはどうしてわかります?」
「それは仕事のことで、ドックへ出かけて中国人水夫に立ちまじって働いたからです」
カルヴァートン・スミスはきげんのよい微笑《びしよう》をうかべて、足もとの帽子を拾いあげた。
「おう、そうでしたか。でもあなたが心配するほど重くなければよいが、いつから悪くなったのですか?」
「三日ばかり前からです」
「うわごとをいいますか?」
「ときどきいいます」
「ほう、それは面白《おもしろ》くないな。頼《たの》まれたのに見舞《みま》わないのも不人情だし、いったい仕事中を妨げられるのは大きらいなのだが、まあこんどばかりは特別です。すぐお伴《とも》しましょう」
ここで私はホームズの禁制を思いだした。
「私はほかに用事がありますから……」
「そうですか。じゃ一人でゆきましょう。いえ、番地は控《ひか》えてあります。おそくも三十分以内にはかならずゆきます」
帰ってきてホームズの寝室《しんしつ》へはいるとき、私は心が暗かった。留守《るす》のあいだに万一のことでも起こってなければよいと思ったからである。だが反対に、だいぶよくなっていたので、ほっとした。見た眼こそやっぱり幽霊《ゆうれい》じみてはいるけれど、精神錯乱はあと形もなく、話す声こそよわよわしいけれど、はきはきと明るく澄《す》んだふだんの調子をとりもどしていたのである。
「や、会ってきたかい?」
「もう来るよ」
「それはよかった! お手柄《てがら》だよ。お使いの役は君にかぎるね」
「僕《ぼく》といっしょに来るというのさ」
「それがいけないんだ。ぜったいに駄目《だめ》なんだ。それでどこが悪いのかと尋《き》いたろう?」
「イースト・エンドで中国人から染《うつ》ったのだといっておいたよ」
「それはよかった。やっぱり持つべきものは友人だね。これで君は舞台をさがっていいよ」
「いいや、僕は待ってて、意見を聞くんだ」
「むろんそうしたいだろう。だがね、ほかに誰もいないと思わしとけば、より率直《そつちよく》に、有益な意見を聞かせてくれると思われる理由があるのだ。幸いこのベッドの頭のほうに、ちょっとした空《あ》き場所があるから……」
「そんな、ホームズ君!」
「ほかに方法がないのだよ。隠《かく》れるには適当なところといえないけれど、どうせ疑惑《ぎわく》をもつことはあるまいから、いいだろう。さあワトスン君、そうしてくれたまえ」といったホームズはやつれた顔を緊張させて急に起きあがった。「それ、馬車の音が聞こえてきた! 早く! 僕を思ってくれるならさ! 動いちゃいけないよ、どんなことがあってもね。いいかい、どんなことがあってもだよ。声を出したり動いたりしないで、ただじっと耳を澄ましていたまえ」
こういったかと思うと発作《ほつさ》的な元気はたちまち消えさり、つよく押しつけがましい話ぶりも、うわごとめいた訳のわからないつぶやきに変ってしまった。
急いで逃《に》げこんだ隠れ場所から耳をすましていると、誰か階段をあがってくる足音に続いて、寝室のドアを開けたてするのが聞こえた。だが意外にも、話し声は聞こえてこない。病人のおも苦しい息づかいと、うめき声が聞こえるばかりである。客はまくらもとに立って、病人の苦しむのをただ見おろしているのだろうか? やがてこの不気味な沈黙《ちんもく》は、眠っているものをしきりに呼び起こす声で破られた。
「ホームズ! おいホームズ! 聞こえないのかホームズ?」病人の肩をつかんで荒っぽくゆすぶるらしい様子である。
「あっ、ああ、スミスさんですか? 来てはもらえないものと思っていたのに……」
「来る気なんかなかったがね」といって相手は笑った。「でもこの通りちゃんと来た、仇《あだ》に恩だ。仇に報《むく》いるに恩をもってすだよ」
「ご親切なことで……見あげた精神です。なにしろ特殊《とくしゆ》な学識がおありだから……」
「ふふふ」客はかるく笑って、「それを知っているのは幸いにしてロンドンでは君ばかりだ。病気がなんだかわかっているのかね?」
「例のやつですよ」
「ふむ、その徴候《ちようこう》が出ているのかね?」
「疑いの余地はありません」
「うむ、意外でもないて。例のやつだとしても、驚《おどろ》くにはあたらないことだ。ほんとにそうなら、よくない警告だよ。ヴィクターは四日目にはもう死んでいた。ピチピチと丈夫《じようぶ》な青年だったのにな。ロンドンのまん中で、東洋のへんぴなところにある病気にかかるとは、君もいうようにたしかに不思議なことだった。しかもその病気をとくに私が研究しているときてはな。不思議な暗合もあったものだ、ホームズ。しかしそれに気のついた君の明知も相当なものだが、そこに因果関係があるというのは少し酷《こく》というものではないかね?」
「あんたのやったこととはっきりわかっていた」
「なに、わかっていた? そんなことをいったって、証拠《しようこ》があるまい。それに私のことをあんなふうにさんざんいいふらしておきながら、自分がその病気にかかると、私のところへ手を合せて救いを求めてくるとは、どうしたもんだね? いったい何というざまだ、え?」
ぜいぜいと苦しそうな病人の息づかいが聞こえた。
「水……水を一ぱい……」
「もうすぐ死ぬんだが、それまでに少し話がある。だからこの水ものましてやるのだ。さ、こぼさないで。そう、それでいい。私のいうことがわかるかね?」
ホームズはうめいて、
「何とかしてくれませんか? すんだことはすんだこととしてね。私は何もかも忘れてしまう。どうかこの病気を治してください、あのことは誓《ちか》って忘れることにするから」
「あのことって何だ? 何を忘れるというんだね?」
「ヴィクター・サヴェージの死のことだ。あんたはたったいま、殺したことを認めたも同様だが、それを忘れよう」
「そんなこと忘れようと忘れまいと、こっちは平気だ。どうせ二度と生きて|証 人 台《ウイツトネス・ボツクス》に立てる身じゃないんだからね。君のためにはまったく形のちがう箱《ボツクス》が用意されるはずだ。甥《おい》がどうして死んだかなんてことを、今さら君に知られたって何ともなりゃしない。問題は甥のことじゃない。君のことだよ」
「ああ……ええ……」
「私を呼びにきた男、名まえを忘れたが、あの男の話ではイースト・エンドで水夫からこの病気をもらったというではないか?」
「ほかに思いあたるふしがないので……」
「君は頭がよいとうぬぼれているじゃないか? え、そうだろう? ところがどっこい、そうはゆかないよ。よくよく思いかえしてみろ。この病気になった原因が、ほかに思いあたるところはないかね?」
「わからない。私にはもう考える力もないのだ。お願いだから助けてもらいたい」
「よし、助けてやろう。どうしてこんな病気になったか、思いださせてやるよ。死ぬまえに、それを思い知らせてやりたいのだ」
「何とかしてこの苦しみをやわらげてほしい」
「苦しいか? そうだろう。苦力《クーリー》でさえ死が近くなると泣き叫《さけ》ぶくらいだからな。どうだ、からだが締《し》めつけられるようだろう?」
「締めつけられるようで苦しい」
「ふむ、それでも私のいうことはわかるだろう? よく聞け。この徴候の現われるまえに、なにか変ったことが起こらなかったか?」
「いや、何もなかった」
「よく考えてみろ!」
「苦しくて、考えるどころじゃない」
「よし。じゃ助け船を出そう。何か郵便でこなかったか?」
「郵便で?」
「箱のようなものでも?」
「ああ気が遠くなる――死ぬらしい!」
「おい、よく聞け!」死にかけているものをゆすぶるらしい気配なので、隠れている私は気が気でなく、じっとしているのがやっとだった。「よく聞けったら! 聞かなきゃ駄目だ! 箱を思いだしたろう、象牙の小箱だ。水曜日に届いたはずだ。君はそれを開けてみた――な、思いだしたろう?」
「そう、開けてみた。中にはとがったスプリングがあって、誰《だれ》のいたずらだか知らないが……」
「いたずらじゃないことが、生命と引きかえにわかったろう? 馬鹿めが! 捕《とら》えようと思って、かえって病気にとっつかれたのだ。頼みもしないのに私の邪魔をするからだ。余計なまねさえしなければ、こんな目にあわせやしないものを!」
「思いだした」ホームズのあえぐのが聞こえた。「スプリングだった。血がすこし出た。この箱だ、このテーブルの上にある……」
「そう、たしかにこれだ。ここにおいてもいいが、これは私がポケットにおさめておこう。これさえ取りあげてしまえば、証拠はなくなる。そのかわり真相を教えてやったのだ。私に殺されたと知って死んでゆくさ。君はヴィクター・サヴェージの死の真相を知りすぎているから、それにあやからせてやったのだ。そろそろ最期《さいご》だな、ホームズ。私はここに坐って、君の死ぬのを拝見するとしよう」
ホームズの声はほとんど聞きとれないくらい細く、かすれていった。
「なになに? ガスの灯《ひ》を? 大きくしてくれ? ふむ、そろそろ視力がよわってきたんだな。よし大きくしてやる。そのほうが私もよく見えていい」足音がして、部屋のなかが急に明るくなった。「これでいいか? ほかに何かしてほしいことがあるか?」
「タバコとマッチを」
私は喜びと驚きのあまり、もう少しで声をあげるところだった。こういったホームズの声は、少し小さいだけで、ほとんどふだんと変りなかったからである。しばらく沈黙がつづいた。カルヴァートン・スミスはあっけにとられて、立ったまま黙《だま》ってホームズを見おろしているらしい。
「これはいったいどうしたというんだ?」しばらくしてスミスのいきりたつのが聞こえた。
「最高の演技をするには、役になり切ることなんだよ。うそじゃないが、この三日間ひとかけの物も口にせず、牛乳すら飲まなかったのだ。さっき君が飲ませてくれた水が初めてさ。だが苦しかったのはタバコだね。ああ、ここにあった」とマッチをする音をさせた。「ああうまい! これでやっと落ちついたよ。おやおや、足音が聞こえてくるようだな」
廊下《ろうか》に足音がして寝室のドアがあき、モートン警部が姿を現わした。
「すっかり準備ができました。この男がそうですよ」
警部はおきまりの注意を与《あた》えてから、
「ヴィクター・サヴェージ殺しの容疑により逮捕《たいほ》する」と結んだ。
「それにシャーロック・ホームズ殺し未遂《みすい》という一|項《こう》も加えてほしいですね」ホームズはにやりとした。「カルヴァートン・スミスさんは病人の手数をはぶいて、ガス灯を明るくして親切にも合図までしてくれましたよ。なおこの男は上衣《うわぎ》の右のポケットに小さな箱を入れていますが、取りあげておくほうがいいでしょうね。ああそれです。もっとそっと扱《あつか》うほうがいいですよ。ここへおいてください。裁判のときはこれが一役買うはずです」
急に格闘《かくとう》がおこったが、金物のガシャンという音とともに、痛いという悲鳴が起こった。
「暴れるとますます痛くなる。おとなしくしているほうがいい」警部がこういって、手錠《てじよう》をカチリとはめるのが聞こえた。
「よくもわなにかけたな! こんなことをして、罪になるのはお前のほうだぞ、ホームズ! 病気を治してくれと頼むから、かわいそうだと思って来てやったのだ。こうなったら私がああいった、こういったと、勝手なことをでっちあげて、狂《くる》った頭に浮《う》かぶままの疑惑を立証しようというつもりだろう。何とでも勝手なうそをいうがよかろう。こっちはうそも偽《いつわ》りもないのだぞ!」
「おやおや、すっかり忘れていた。ワトスン君、じつにすまなかったね。君のことを忘れるなんて! さあ出てきたまえ。カルヴァートン・スミスさんには夕方にどこかで会ったはずだから、いまさら紹介《しようかい》でもないね。馬車は下に待たせてあるでしょう? 警察でも私の説明がいるでしょうから、着がえをしてすぐ降りてゆきます。
なにしろこんなに腹のへったのは初めてだ」ホームズは着がえのあいまに一杯のクラレットとビスケットを詰《つ》めこみながら、「もっとも知っての通り、ふだんから生活の不規則な僕のことだから、普通《ふつう》の人ほど苦にはならなかったがね。
何といってもハドスン夫人に、ほんとに死にそうなんだと思いこますのが、何より大切だった。君のところへ訴《うつた》えにいってもらい、こんどは君があの男を呼びにゆくという順序になるのだからね。怒《おこ》らないでくれたまえよ。
君はいろいろ勝《すぐ》れた才能をもっているけれど、そらとぼけてみせる芸だけは、決してできない男だからね。もし君に秘密を知らせたら、スミスを飛んでこさせるのがこんどの計画の主眼なのに、とてもそんなことはできやしないよ。あいつはとても執念《しゆうねん》ぶかい男だから、自分の細工の仕上がりを見にくるのを僕は確信していた」
「でもあの顔はどうしたんだ? どうみたって病気としか思えなかったぜ」
「三日も飲まず食わずでいれば、誰だってああいう顔になるさ。ほかのことはスポンジ一つで直る細工ばかりだ。おでこにワセリンを塗《ぬ》って眼《め》にベラドンナをさしてさ、ほお紅をつけて唇《くちびる》に蜜蝋《みつろう》をぬっておけば、きわめて満足すべき結果が得られる。仮病《けびよう》というやつ、小論文にまとめてみたいと思うことがよくあるが、半クラウンだとか牡蠣《かき》だとか、かけ離《はな》れたことをでたらめにしゃべってみせると、面白いほど精神|錯乱者《さくらんしや》の効果がだせるものだよ」
「それにしても伝染病《でんせんびよう》でもないのに、なぜ僕をそばへ寄せつけなかったのだい?」
「よくそんなことがきけたものだな。僕が医者としての君の才能を、それほど見くびっているとでも思うのかい? いくらか弱っているとはいっても、脈も熱もあがっていないものを、死にかかっている男だなんて、明敏《めいびん》な君が承知するはずがないじゃないか。四ヤードも離れていればこそ、ごまかしもきいたのだ。いったんからくりがばれたら、スミスは誰がおびきだすんだ?
いや、ワトスン君、僕はあの箱には手なんかつけなかった。横のほうからのぞいてみれば、開けたら毒蛇《どくじや》の歯のような鋭《するど》い針が、スプリングで出るようになっているのがわかる。相続権の問題にからんでこの怪物《かいぶつ》がサヴェージを殺したのも、やっぱりこれに類する仕掛けを使ったのだろう。
僕のところへはいろんな郵便物がくるのは、君の知っている通りだが、だから僕は小包にはとくに警戒《けいかい》している。だが彼の計画が図にあたったと思わせておけば、案外告白するだろうと思っていたんだ。だからほんものの俳優そっちのけの名演技をやってのけたのさ。ありがとうワトスン君。ついでに上衣も着せてくれたまえ。警察で用をすませたら、シンプスンでなにか栄養になるものを食べるのも、この際|時宜《じぎ》を得ているといえるだろうよ」
[#地付き]―一九一三年十二月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
フランシス・カーファクス姫の失踪
「どうしてまたトルコなんかにしたんだ?」
シャーロック・ホームズは私のはいているブーツをじっと見つめながらきいた。そのとき私は背もたれを籐《とう》づくりにした椅子《いす》によりかかっていたのだが、投げだした足さきが、つねに活動をゆるめたことのないホームズの注意をひいたのである。だが私は少し意外に感じて、
「これはイギリス製だよ。オックスフォード街のラティマーの店で買ったんだ」
ホームズはもどかしそうな微笑《びしよう》をうかべた。
「バスのことだよ! 風呂《ふろ》さ! 何だってまた、だるくなるうえに高価なトルコ風呂なんかへいったんだ? イギリスふうのにすれば、からだが引きしまって元気がでるのに!」
「この二、三日リューマチの気味で老いこんだような気がするものだからね。トルコ風呂は医者のほうでは薬の代用品だというよ――新しい出発点になる体質の清浄剤《せいじようざい》とでもいうかな」
といったが私はふと気がついてたずねた。
「それにしてもホームズ君、このブーツとトルコ風呂との関係は、理論的な頭脳にとっては自明のことなんだろうが、なんならその説明を聞かせてほしいね」
「推理の過程はそれほどむずかしくはないのだがね」とホームズはからかうような眼《め》つきをしていった。「それはね、君はけさ誰《だれ》といっしょに馬車に乗ったのかと僕《ぼく》が尋《たず》ねるとするだろう。それにたいして与《あた》えるのと同じに、まったく初歩の推理にすぎないのだよ」
「まったく別のことをいって、それで説明に代えようたって、そうはゆかないよ」私は少し皮肉にいってやった。
「やったね! たしかに痛いところを突《つ》かれたよ。ええと、問題はなにか? まず手ぢかのほうから取りあげてゆこう。馬車だ。見ると君は服の左ひじと肩《かた》に跳泥《はね》がすこしあがっている。二輪馬車《ハンサム》の中央に乗ったのなら、跳泥《はね》をうけるはずがない。たとえついたとしても、左右同様であるべきはずだ。だから君は左へよって腰《こし》かけていたのだ。従ってつれがあったということになる」
「きわめて明白だ」
「馬鹿《ばか》げたほど常識的じゃないか」
「それでブーツとバスの関係は?」
「やっぱりたわいもないことさ。君はブーツのひもをむすぶのに一定の癖《くせ》がある。いまみるとそのひもはいつもの君にも似ずきちんとちょうむすびになっている。だから君はそれを一度ぬいだのだ。それを誰がむすんだか? 靴《くつ》なおしか、それともバスのボーイか? そのブーツはまだ新しいようだから、靴なおしじゃあるまい。とすると? バスだ。まるで馬鹿げたことじゃないか。だがそれにしても、トルコ風呂は目的にかなったとみえるね」
「どういう意味だい?」
「気分|転換《てんかん》がしたくて行ったのだろう? 気分転換法ならもう一つあるんだがね。|ロ《*》ーザンヌ【訳注 スイスの保養都市】はどうだい? 一等の切符《きつぷ》と豪勢《ごうせい》な費用つきなんだがね」
「それはすばらしいね! どういうわけで?」
ホームズはひじ掛《かけ》椅子に背をもたせかけて、ポケットから手帳を出してみながら、
「世のなかに何が危険だといって、友人もなくあちこちと流れ歩いている女性くらいにあぶないものはない。それ自身は無害であるばかりか、人生に有用な場合もしばしばあるのだが、他人に悪事を犯《おか》させることになるのも避《さ》けられない。頼《たよ》りない身のうえで、放浪《ほうろう》して歩く。金はあるから、この国からほかの国へ、ホテルからホテルへと渡《わた》り歩くにはこと欠かない。どうかすると怪《あや》しげな寄宿舎とか下宿屋のようなところへはいったっきり、消息がわからなくなる。きつねの世界へ迷いこんだひなのようなもので、むさぼり食われてしまっても、誰も気にもとめない。フランシス・カーファクス姫なんかそうした悪運にみまわれたのじゃないかと思うのだ」
むずかしい一般《いつぱん》論から、話が急に特定の人のうえに移ったので、私はやれやれと思った。ホームズはなおも手帳を見やって、
「フランシス姫は、故ラフトン伯爵《はくしやく》の直系としては唯一《ゆいいつ》の現存の人だ。遺産は君も知るとおり男系によって相続された。彼女《かのじよ》に与えられたのは少額にすぎないが、ほかに彼女がひどく好きだったふるいスペインふうの銀の飾《かざ》りに珍しいカットのダイヤモンドを配したものをもらった。これは彼女が非常に好きで、銀行の金庫へ預けもしないで、いつでも持ち歩いているほどだった。かわいそうな人だが美人で、やっと中年にはいったところ、二十年まえまではりっぱな家庭の人だったが、妙《みよう》な運命のめぐり合わせから、今では見棄《みす》てられた人になっている」
「その婦人がどうかしたのかい?」
「さ、どうしたのだろうね? 生きているのか死んだのか? そこが問題なのだ。生来きちょうめんな人で、四年まえから二週間おきに、いまではカンバウェルに隠居《いんきよ》している昔《むかし》の家庭教師ドブニー嬢《じよう》に手紙を出す習慣だった。
このドブニー嬢から僕は相談をうけたのだが、もう五週間も手紙がこないという。最後のはローザンヌのオテル・ナショナールから来たものだったが、もうそこにはいないらしく、行先も書いてはなかった。家族はたいそう心配して、非常な金持だから、捜《さが》しだしてくれれば費用は惜《お》しまぬといっている」
「ドブニー嬢しか何も知らないのかい? 姫はほかにも手紙を出す人があるのだろう?」
「一つだけ確実にあることはある。銀行だ。独身婦人は生活費がいる。銀行通帳は日記の圧縮のようなものだ。彼女はシルヴェスター銀行に口座をもっている。最後の一つ手まえの小切手はローザンヌで切っているが、金額が大きいから、支払《しはら》いをすませても現金が手許《てもと》へのこったはずだ。それからあと小切手は一枚切っているだけだ」
「どこで、誰にあてて?」
「マリー・ドヴィーヌ嬢となっているが、場所は書いてない。これは三週間ばかりまえに、|モ《*》ンペリエ【訳注 南仏の都市】のリヨン銀行で現金化されている。金額は五十ポンドだ」
「マリー・ドヴィーヌ嬢って何者なんだい」
「それもどうにかわかったが、彼女がひと時使っていた女中なんだ。何のためにこの小切手を与えたのか、それはわからない。しかし君の調査でいずれわかってくると思っているがね」
「僕《ヽ》の調査だって?」
「だからローザンヌへ転地の遠征《えんせい》じゃないか。アブラハム老人がいまのように生命の危機がせまっているあいだは、僕はロンドンを離《はな》れるわけにはゆかないのだ。それに原則として僕はこの国を留守《るす》にしないほうがいいのだ。僕がいなくなれば、警視庁も寂《さび》しがるだろうし、悪人社会を有害に刺激《しげき》することにもなる。だから行ってくれたまえよ。僕のつまらない助言でも大枚一語二ペンスも出す価値があると思うなら、昼でも夜でも遠慮《えんりよ》なく電報を打ってくれたまえ」
二日後に、私はローザンヌのナショナル・ホテルで、有名な支配人モゼ氏の手厚い歓待をうけていた。聞いてみると、フランシス姫は数週間ここに滞在《たいざい》していたが、知り合った人みんなから好かれていたという。四十ちかいけれどまだ美しさは失なわれず、若いころはどんなにか愛らしかったろうと思われるものを持っていた。
高価な宝石の類《たぐい》をもっていたかどうかはモゼ氏は知らなかったが、部屋女中の話によれば彼女の部屋においてある丈夫《じようぶ》なトランクには、いつでも細心に錠《じよう》がおろしてあったという。女中のマリー・ドヴィーヌも姫におとらず評判がよかった。この女はホテルの給仕長の一人と婚約《こんやく》していたし、その住所はすぐにわかった。モンペリエのリュ・ド・トラジャンの十一番である。早速《さつそく》かきとめておいたが、ホームズでもこう機敏《きびん》にいろんな事実をつかむことはできないだろうと思った。
わからないのは一点だけである。姫はなぜ急にローザンヌを去ったのか? いたって満足そうで、湖水を見おろすホテルの贅沢《ぜいたく》な部屋で、シーズン中をすごすつもりだとは、どの点から見ても信ずべき理由があった。それなのに急に発《た》つといいだし、向こう一週間分の部屋代をとられる規定なのに、翌日はもう出発したのである。
とつぜんの出発の理由らしいものを挙げ得たのは、女中マリーの愛人ジュール・ヴィバール一人だった。その一両日まえに、いろが黒くて背のたかい、あごひげのある男が訪ねてきたが、それがなにか関係があるのじゃなかろうかというのだ。「無作法な、ほんとにいやな人」だったとジュール・ヴィバールは顔をしかめた。
この男は町のどこかに泊《とま》っているらしく、湖畔《こはん》の散歩道でしきりに姫に話しかけているのを見かけたものがいる。それからホテルへ訪ねてきたのだが、姫は面会を拒絶《きよぜつ》した。イギリス人ということだけはわかっているけれど、名前は誰も知っているものがない。そのことがあった直後に、姫はホテルを発っていったのである。
ジュール・ヴィバールも、肝心《かんじん》のその愛人も口をそろえて、この訪問と出立とは原因と結果だといった。そのジュールも、いうのを避けることが一つだけあった。マリーが姫から暇《ひま》をとった理由である。それについて彼《かれ》は何も知らないか、知っていても言いたくないらしかった。強《し》いてこの点が知りたければ、モンペリエへいって彼女に直接たずねるしかない。
かくして私の調査の第一段はおわった。第二段はフランシス・カーファクス姫はローザンヌを去ってどこへ行ったかの問題である。これについては何か秘密があるらしく、誰かに後を追われるのを振《ふ》りきろうという意図のもとに、ホテルを去ったのが看取されるのである。さもなければ、ホテルを出るときからその荷物に公然とバーデンゆきの荷札《にふだ》をつけなかった理由がわからない。これはクック旅行社の出張所へいって、支配人から聞きだしたのだが、姫は荷物とともに回り路《みち》をとってライン河畔のこの温泉地へ行っているのである。
そこで私はホームズにあてて以上のことを電報したうえで、バーデンに向かったが、そのまえに彼からひやかし半分のほめた返電がきた。
バーデンへきてみると、フランシス姫の消息は大して骨もおれずにわかった。姫は英国旅館《エングリツシヤ・ホーフ》に二週間まえから滞在していた。そのあいだに南米からきた宣教師のシュレシンガー博士夫妻と知りあった。多くの孤独《こどく》な女性の例にもれず、フランシス姫も宗教に慰安《いあん》と仕事を見いだした。
シュレシンガー博士の非凡《ひぼん》な人格、全霊《ぜんれい》的なその信仰《しんこう》、伝道の実践《じつせん》中にかかった病気の回復期にあるのだという事実などが、いたく姫を感動させた。フランシス姫はシュレシンガー夫人を助けて、回復期にあるこの聖者の介抱《かいほう》にあたった。支配人が私に話してくれたところによれば、博士は両がわから世話する婦人につきそわれて、ヴェランダの安楽椅子で日を送っていたのである。
博士は執筆《しつぴつ》中のミディアン族王国に関連して聖地パレスティナの地図を作製中だったのだが、そのうち健康を回復したので、夫妻はロンドンへ帰ることになり、フランシス姫もそれと行をともにしたのである。
これが今からちょうど三週間まえのことで、ホテルの支配人はその後の消息はまったく聞かないという。そして女中のマリーは、その二、三日まえに、ホテルの女中たちに姫から暇を出されたといって、泣きながら家もとへ帰っていった。すべての勘定《かんじよう》はシュレシンガー博士が出発まえに払っていった。
「それにいたしましても」とホテルの主人は話にむすびをつけた。「フランシス・カーファクス姫のことを尋ねてみえましたのは、あなたさまばかりじゃございませんよ。つい一週間ほどまえにも同じことを尋ねにいらしったかたがございます」
「何という人ですか?」
「お名前はうかがいませんでしたけれど、たしかにイギリス人で、とても変っていらっしゃいましたな」
「無作法な人ですか?」ローザンヌのホテルで聞いたことを思いだして私は尋ねた。
「それでございますよ。そのお言葉がいちばん当っておりますな。大柄《おおがら》であごひげのある人で、日にやけて、上流のホテルなんかよりも、お百姓《ひやくしよう》の旅籠《はたご》にでも行ったほうが似つかわしゅうございましたよ。気の荒《あら》い人らしゅうございましたから、お気をそこねたら大変だと思いました」
霧《きり》がはれるにつれて人の姿がはっきりしてくるように、なぞはもう正体をあらわしてきた。この善良で信仰あつい婦人は、気味わるくしつこい男にあちこちと追いまわされているのだ。姫はこの男を恐《おそ》れた。それでなかったらローザンヌを逃《に》げだすわけがない。彼はなおも追跡《ついせき》をやめない。早晩追いつかれるだろう。今ごろは追いついているのではあるまいか? そのために音信がたえているのか? 姫の道づれになった良い人たちにも、この男の暴力なり脅迫《きようはく》を防いではやれなかったのか? かくも長途《ちようと》の追跡をつづけるこの男は、どんな恐ろしい目的、ふかいたくらみを抱《いだ》いているのだろう? こうした問題を私はこれから解明しなければならないのだ。
私がどんなに敏速確実に問題の根元に迫《せま》っていったか、詳《くわ》しくはホームズに手紙で書き送った。その返事として、ホームズは、シュレシンガー博士の左の耳はどんなかと電報できいてきた。ホームズの冗談《じようだん》は変っていて、どうかすると気にさわることもある。だから私はこの時機を考えぬおどけなんか気にもとめずにいた。じつをいうとこの電報のきたときは、女中マリーに会いにもうモンペリエに着いていたのである。
もとの女中を捜しあてるには何の苦労もいらなかった。知っているだけのことはすぐに話してもくれた。なかなか忠実な女で、フランシス姫には気にいられていたのだけれど、姫が善良な人たちにかこまれているのを確信したので、結婚も近づいてきたし、どうせ暇をとることになっていたのだという。ところが姫は、彼女のしぶしぶながら打ちあけたところによると、バーデン滞在中に彼女にたいして怒《おこ》りっぽくなり、一度なんか不正直なことでもしたようなことをいって責めさえした。それで少し早めに暇をとることにしたのだった。
姫からは結婚祝いとして五十ポンドをもらった。彼女は姫をローザンヌから追いたてた男にたいしては、私同様にふかい憎悪《ぞうお》をも抱いていた。あの男が湖畔の公共の散歩道で、姫の手首を乱暴にとらえたのを、彼女は現に目撃《もくげき》してさえいる。あれは粗暴《そぼう》な恐ろしい男だった。姫がシュレシンガー夫妻のすすめに応じてロンドンへ同行したのだって、あの男が恐ろしかったからに違《ちが》いない。姫はそのことについて何もいいはしなかったけれど、たえず不安におそわれていたことは、いろんな細かい事象によく現われているのが彼女にはわかった。ここまで話してきて彼女はびっくりして何かに恐れたようにとつぜん立ちあがって叫《さけ》んだ。
「あらッ! わるものがこんなところまで! いまの話の男があそこにいますわ!」
居間の窓ごしに、黒くてこわいあごひげのある色のくろい大きな男が、街路の中央をゆっくり歩きながら、家々の番号札をしきりにのぞきこんでいるのが見えた。やっぱりこの女中を捜しているのに違いない。時のはずみで私はいきなり表へとびだして、その男を呼びとめた。
「あなたはイギリスのかたですね?」
「そうならどうしたというんです?」はなはだ下劣《げれつ》につっかかってきた。
「お名前をうかがわせていただきたいものです」
「そんな必要はないさ」きっぱりはねつけた。
まずいことになったと思ったが、こんな場合は単刀直入がしばしば効を奏するものだ。
「フランシス・カーファクス姫の居場所をご存じありませんか?」
あっけにとられた様子で私の顔ばかりまじまじ見つめているので、
「あの人になんの用があるんです? なんでつけ回すんです? お返事をうかがいましょう!」と私は重ねて詰《つ》めよった。
すると相手は怒号《どごう》しながら、猛然《もうぜん》と私につかみかかってきた。私もけんかの場数は踏《ふ》んでいるが、この男は鉄の握力《あくりよく》をもって悪鬼《あつき》のようにいきりたっていた。いきなり両手で私ののどを締《し》めつけるので、あやうく気が遠くなりかけたが、そのとき向かいがわのキャバレーから青い仕事着を着た無精《ぶしよう》ひげだらけのフランス人労働者が、棒きれをもって飛びだしてきて、私を締めつけている男の前腕《まえうで》に一撃をくらわせてくれたので、やっと手をはなした。
相手は烈火《れつか》のように怒りながら、改めてつかみかかったものか迷っている様子だったが、何やらわめきながら、その場を振りきって、私のいま出てきた家へ駆《か》けこんでいった。それで私は、まだそばに立っていた命の恩人に礼をいおうと振りかえると、その男が、
「冗談じゃないぜ、ワトスン君、おかげでめちゃめちゃだよ。今夜の急行でいっしょにロンドンへ帰ったほうがよさそうだ」
一時間後にシャーロック・ホームズは、いつもの服装《ふくそう》に改めて、ホテルの私の部屋に坐《すわ》っていた。聞いてみると、あぶないところで運よくホームズの現われた経緯《けいい》は、きわめて簡単であった。ロンドンを留守にしてもよいことになったので、彼は私と合流するため、つぎに私が立回ると思われるこの地へくることにしたのだった。そして労働者に化けて、キャバレーに入りこんで私の現われるのを待っていたというのだ。
「それにしても君はずいぶん堅実《けんじつ》な調査をやってくれたもんだよ。ヘマなまねなんか一度もしていないといいたいところだが、君のやることは至るところで人に警戒心《けいかいしん》をおこさせて回っただけで、しかも得るところは一つもなかった」
「君だっておそらくこうは立派にやれ|なかった《ヽヽヽヽ》ろう」私も負けてはいなかった。
「おそらくの問題じゃないさ。僕《ぼく》はりっぱにやってのけたよ。現にこのホテルにフィリップ・グリーン氏が同宿していることを僕は知っている。この人を足がかりにすれば、調査は成功するものと思う」
そこへ盆《ぼん》に乗せた名刺《めいし》がとりつがれ、つづいて街上で私につかみかかったあごひげの乱暴ものがはいってきた。そして私を見るとぎくりとしていった。
「これはどういうことです、ホームズさん? お手紙を見てやって来ましたが、この男が問題と何の関係があるのです?」
「こちらは私の友人で同僚《どうりよう》でもあるワトスン博士です。こんどの問題にも協力してくれているのですよ」
ひげ男はちょっと謝《あやま》りながら、日に焼けた大きな手をさしのべた。
「お怪我《けが》はなかったですか? あの婦人を私が傷つけているようなことをいわれるものですから、ついかっとなりましてね。もっとも近ごろ私は、自分でも何をするかわからなくなっているのです。神経が剃刀《かみそり》のようになっていますのでね。こんなことになると、私はどうしていいかわかりません。それにしてもホームズさん、まずうかがいますが、私というものの存在がどうしておわかりになったのです?」
「私はフランシス姫《ひめ》のもとの家庭教師ドブニー嬢と連絡がありますからね」
「ははあ、あの|モ《*》ブ・キャップ【訳注 袋型の室内帽】をかぶったスーザン・ドブニー婆《ばあ》さんとねえ! よく覚えていますよ」
「向こうもあなたを覚えていますよ。あれは古いこと――あなたが南アフリカへ行く決心をするまえのことですからねえ」
「ふむ、何もかもご承知だと見えますな。こうなれば隠《かく》す気なんか少しもありません。ホームズさん、私は誓《ちか》っていいますけれど、私がフランシスを愛したほどの熱をもって女性を愛した男はこの世にありますまい。
なるほど私は乱暴な若者でした。とはいっても同じ階級のもののなかでは、ましなほうだったのです。しかし彼女の心は雪のように純潔でした。ほんの少しの粗野なことにも耐《た》えられなかったのです。ですから私の過去の行状を知ってからは、私には言葉さえかけてくれなくなりました。
それでも彼女は私を愛してはいたのです。人間というものは、何という不思議なものでしょう! その愛のために清い半生を独身でとおすことにもなったのです。
年月がすぎて、私は|バ《*》ーバートン【訳注 南アフリカの金鉱町】で金もできましたから、彼女を捜しあてればその心を柔《やわ》らげることもできようかと思いました。まだ独身をとおしているとも聞いていました。ローザンヌで首尾《しゆび》よくめぐりあわせ、知るかぎりの方法を試みたのでした。
彼女の心は迷うらしく見えましたのに、意志強固にも、二度目にホテルを訪ねてみますと、もうそこにいませんでした。後を追ってバーデンまでも行きました。そしてかれこれするうちに、女中がこの町にいることを聞いたのです。
私は荒っぽい男です。つい先ごろまで荒っぽい生活をしていたのです。ワトスン先生にあんなことをいわれまして、ついかっとなってあんな失礼なことをしてしまいましたが、お願いです、フランシス姫はどこにいるのでしょうか、どうか教えてください」
「それを私たちも知りたいのですよ」シャーロック・ホームズは妙《みよう》におもおもしくいった。「ロンドンはどちらへお泊まりですか?」
「ランガム・ホテルに泊まります」
「ではそちらへお帰りになって、いつでも連絡できるように、待機していてくださらないでしょうか? ここで気やすめなどいう気はありませんけれど、フランシス姫の安全を保つためには、可能なかぎりあらゆる手段を講ずることだけは保証します。
いまはそれ以上なにも申しあげられません。この名刺をさしあげておきますから、ご用の節はどうぞ。それじゃワトスン君、荷物の用意をするなら、そのあいだに僕はハドスン夫人に電報して、あすの七時半に、大いに腕《うで》をふるって腹ぺこの二人を待つようにと注文しとこうよ」
ベーカー街へ帰ってみると、一通の電報が待っていた。ホームズはすぐに眼《め》をとおすと、面白《おもしろ》そうに笑って、私によこした。電文は「裂《サ》ケテギザギザ」とあるだけ、発信地はバーデンとなっていた。
「これはなんだい?」
「あらゆることを意味するのさ、この聖職の紳士の左の耳がどうなっているかって、一見筋ちがいの問合せを僕がしたのを覚えているだろう? 君は返事をくれなかったじゃないか」
「あのときはもうバーデンにいなかったから、調べられなかったのだ」
「そんなことだろうと思って英国旅館《エングリツシヤ・ホーフ》の支配人に同文電報を打っておいた。その返事がこれなのさ」
「それが何を意味するのだい?」
「これはね、われわれの相手はまれにみる抜目《ぬけめ》のない危険な男だということを意味するのさ。南アメリカから来ている伝道師シュレシンガー博士というのは、ほかならぬ神聖《ホーリイ》ピーターズといって、オーストラリアの生んだ最も無法な悪漢なんだ――この国は新興国にしては完成したタイプの悪人を生みだしたものだ。
もっとも得意とするところは、孤独な婦人に近づいて、宗教感情でまるめて惑《まど》わすにあるが、その妻と称しているイギリス生まれのフレーザーという女がまた大した助手だ。
手口から察して、この男と見当をつけたのだが、その肉体的|特徴《とくちよう》――一八八九年にアデレイド市の酒場でけんかして、ひどくかみつかれたときのきず跡《あと》だが――それを知って、いよいよ確実になってきた。だからこの気の毒な女性は、何ものをも顧慮《こりよ》しない恐るべき二人組の手に落ちているのだ。おそらくもう死んでいると考えるのが、あたっているかと思う。
死んでいないにしても、一種の監禁《かんきん》をうけて、ドブニー嬢はもとよりどこへも手紙一本出せない状況《じようきよう》にあることは疑いない。ロンドンへは着いていないか、それとも素通りしてどこかへ行っているかとも考えられるが、おそらく前者ではあるまい。外国人登録制度の関係から、大陸では警察の眼をあざむくのが容易でないからだ。それでは後者はどうかというと、これも怪《あや》しいものだ。というのは、知らぬ土地へいって一人の女を拘束《こうそく》しておくようなことが、この悪人たちにできるはずはないからだ。
僕の直感では、かならずロンドンにいると思うが、いまのところどこと指摘《してき》するすべはない。いまは当然の順序として、まあ夕食でもくって気ながに構えることだ。あとで僕は、夜になってからでいいが、ちょっと警視庁へ出かけて、レストレード君に会ってくるつもりだ」
だが警視庁を背後にもつレストレードにも、小さいながらきわめて能率的なホームズの機構にも、問題解決の力はなかった。大ロンドンの何百万という人のなかのことだから、さがす三人の消息はまるで知れなかった。
新聞広告も利用したけれど、成功しない。手掛《てがか》りという手掛りは手繰《たぐ》ってみたが、効果はあがらなかった。犯罪者の多く出入りする場所で、シュレシンガーの立回りそうな場所は片っぱしから洗ってもみた。また昔《むかし》の仲間にはそれぞれ監視をつけたけれど、シュレシンガーとの交渉《こうしよう》はない様子だった。
一週間にもわたる不安と焦慮《しようりよ》の後に、とつぜん一条《ひとすじ》の光明がさしてきた。古いスペインふうのデザインの銀とダイヤモンドのペンダントが、ウエストミンスター街のベヴィントン質店《しちてん》に現われたのである。売りにきたのは僧徒《そうと》ふうのひげのない大男だったという。住所|姓名《せいめい》は明らかにでたらめであった。耳には気がつかなかったというが、人相はたしかにシュレシンガーである。
ランガム・ホテルで待機しているひげ男は、三度も様子を聞きにやってきた。三度目にきたのは、この新事実が判明してから一時間以内だった。大きなからだに、服がしだいにだぶついてくる様子だった。心配のあまり、日に日にやせてゆくのだとみえる。
「私にも何かやらせてくれませんかねえ」来るたびに彼《かれ》はこういって、じれったがった。
「宝石を入質しはじめましたよ、いまに捕《とら》えてみせます」ついにホームズも彼を喜ばすことができることになった。
「ということは、彼女《かのじよ》が危害にあった証拠《しようこ》じゃないでしょうか?」
「彼らが今日にいたるまでフランシス姫を監禁しているものとして、ここで姫を自由の身にしたが最後、自分たちの身があぶないのはわかっているはずです。だから最悪の場合も覚悟《かくご》していなければなりません」ホームズはおもおもしくいった。
「何か私にできることはありませんか?」
「彼らはあなたの顔を知らないでしょうね?」
「知りゃしませんよ」
「このつぎには、どこかほかの質屋へ現われるということも考えられます。そのときはこちらも改めて大いにやらねばなりませんが、彼はもともと面倒《めんどう》な質問もうけずに、よい値で質にとってもらっているのですから、こんど金の必要にせまられたら、おそらくやっぱりベヴィントン質店に現われると思うのです。手紙をつけてあげますから、あなたはベヴィントンの店に張りこんでいてくれませんか? もしあいつが現われたら、あとをつけて家をつきとめるのです。そのかわり決して軽率《けいそつ》なまねをしてはいけませんよ。ことに乱暴なんかは厳禁です。私に知らせ、同意を得ることなしには何もしないと、どうか約束《やくそく》してください」
それから二日のあいだ、フィリップ・グリーン氏(ちょっと説明しておくが、彼は|ク《*》リミヤ戦争【訳注 一八五三―五六年、イギリス他三国対ロシアの戦争】でアゾフ海艦隊の司令官だった有名な提督《ていとく》の子息なのである)からは何の知らせもなかった。三日目の晩に、青くなって、強力な全身の筋肉を興奮でふるわせながら、私たちの部屋へ駆けこんだものである。
「来ましたよ! 来ましたよ!」感きわまって、いうこともとりとめがない。
ホームズは言葉すくなにまず落ちつかせ、押《お》さえつけるようにひじ掛《かけ》椅子に掛けさせて、
「それでは順序を追って事の次第を話してください」
「つい一時間ばかりまえに来たばかりです。こんどは妻のほうでしたが、持ってきたのはこのまえのと対《つい》のペンダントでした。背のたかい顔いろの悪い女ですが、白イタチのような眼をしていました」
「その女です」
「店を出たので、後をつけてゆきますと、ケンニントン街を歩いてゆくうちに、ふとある店へはいってゆきました。それが何とホームズさん、葬儀《そうぎ》屋なのですよ!」
「えッ!」ホームズはぎくりとした。顔つきだけは冷静にしていても、胸のなかのはげしい動揺《どうよう》は、そのふるえをおびた声に現われていた。
「私もつづいてはいってみますと、彼女は店の女とカウンターのところで話していました。『おそいのねえ』とそんなことをいうと、店の女がしきりに謝まっていました。『もっと早くお届けできましたのでございますが、何しろ型が並《なみ》はずれなものでございますから、つい手間どりまして』そのとき二人は私に気がついて、妙な顔をするものですから、ちょいとしたことを尋《たず》ねて、店を出てきてしまいました」
「それは大出来でした。それからどうなりました?」
「女が出てきましたが、私は戸口のところに身を隠していました。でも女は変だと思ったのでしょう、しきりにあたりを見まわしていました。それから辻馬車《つじばしや》を呼びとめて乗りこみましたが、うまい具合にべつの馬車がやってきましたから、私はすぐそれで後を追いました。
女はブリクストン区のポウルトニー・スクェアの三十六番の家で降りましたから、私はいったん通りすぎてスクェアの角で馬車を降りると、その家を見はっていました」
「誰《だれ》か見かけましたか?」
「どの窓もまっ暗で、階下のが一つだけ灯火がついていましたけれど、ブラインドがおりていますので中は見えません。どうしたものかと迷いながら立っていますと幌《ほろ》つきの大きい荷馬車が一台乗りつけて、なかから二人の男が現われ、荷物をおろして玄関《げんかん》の石段を運びあげました。それがなんと、棺《かん》なのですよ、ホームズさん」
「ほう!」
「とっさに私は駆けよりました。すると玄関をあけて、荷物ごと二人の男をなかへ入れたのがあの女じゃありませんか。女は私がそこに立っているのを見て、さっきの男だとわかった様子で、びくっとして急いで玄関を閉めきってしまいました。そのとき私はあなたとの約束を思いだしましたから、こうしてやって来たのです」
「ますます大出来です」とホームズは紙きれに何やら書きつけて、「令状がなければ合法的にはどうもできないのです。だからこの手紙を当局にもっていって、よく話をしてそれをもらってきてください。むずかしいことをいうかもしれませんが、宝石を売ったことを説明すれば、理窟《りくつ》はたつと思います。細かいことはレストレード君が知っています」
「そんなことをしているあいだに、彼女を殺してしまいはしませんか? 何しろ棺を持ちこんだのですからね。彼女のためでなくて何でしょう?」
「できるだけの手は打ちますよ。いまは一刻を争うときです。あとのことは私たちにまかせてください」とホームズはフィリップ・グリーンを急《せ》きたてて警視庁へ行かせてから、私に向かっていった。
「あの男がゆけば、警視庁の正規部隊が活動を始めることになるだろうね。こっちは例によって不正規部隊として、独自の行動をとらなきゃならない。事態が切迫《せつぱく》しているから、たいていのことはやっても許されると思う。一刻もはやくポウルトニー・スクェアへ急ごう」
すぐに辻馬車を呼びとめて、議事堂のそばをすぎ、ウエストミンスター橋を駆けわたりながら、ホームズはいった。
「現在の事態を再現してみよう。あいつらはまず姫の忠実な女中に暇《ひま》を出させておいて、姫をうまくだましてロンドンへ連れてきた。姫は手紙を書いたとしても、みんな途中《とちゆう》で横どりされてしまった。
同類の手を通して、彼らはあらかじめ家具つきの家を借りておいた。そしてここへ落ちつくと、姫を監禁してしまって、初めからの目的だった高価な宝石類を手中に納めてしまった。しかも彼らはそれをぽつぽつ売りだした。フランシス姫がどうなったかなんていうことに関心をもつものがあろうとは夢《ゆめ》にも思わないものだから、売っても危険はないと信じきっているのだ。
とはいっても姫を自由の身にすれば、訴《うつた》えるにきまっているから、どうあっても解放するわけにはゆかない。さればといって、いつまでも監禁しておくことはできない。問題を解決するには殺してしまうよりほかない」
「それは明らかなようだね」
「そこでこんどはもう一つべつの推理をやってみよう。二つの異なる思索《しさく》をたどっていって、どこかで交差する点があれば、それがほぼ真実にちかいと思ってよいのだ。
そこで新しい考えかたとして、フランシス姫からでなく、棺から出発して逆に推理をすすめてみよう。棺を持ちこんだという事実は、残念ながら姫の死を明示するものだ。同時に適法の死亡診断書と埋葬《まいそう》許可書をともなう月並な処置を示すものでもある。もし姫を殺害したのだったら、彼らはおそらく裏庭にでも埋《う》めたろう。しかし今度のやりかたは大ぴらで正規なものだ。これはなにを意味するか? それは彼らが医者をあざむき自然死と思わせるような方法――おそらく毒によって殺したことを思わせる。しかもその医者が同類なのならともかく、だいたい医者に診《み》せるなどということがあり得《う》るだろうか? まず信じられない仕業《しわざ》だ」
「診断書を偽造《ぎぞう》したのじゃなかろうか?」
「それは危険だよ。非常に危険だ。そんなことをやったとは思われない。おっとここで停《と》めてくれたまえ、御者《ぎよしや》君。さっき質屋のまえを通ったから、これが問題の葬儀屋にちがいない。ワトスン君、ちょっと頼《たの》まれてくれないか。その風采《ふうさい》なら向こうも不審《ふしん》はいだくまい。ポウルトニー・スクェアの葬儀はあすの何時《なんじ》だか尋ねてもらいたいのだ」
はいって尋ねると、あすの朝の八時だと、すぐに店の女が教えてくれた。
「そらね、なんの変哲《へんてつ》もありゃしない。すべてはあからさまに行なわれている。何らかの方法で合法的に手続きがふんであるから、なんの不安もないと自信をもっているのだ。まあこれでわかったから、こうなったら正攻法によるしかない。君、武器の用意は?」
「ステッキがある」
「うん、それがあれば大丈夫《だいじようぶ》だろう。『けんかは理のあるほうが三人力』というからね。警察の来てくれるのをのほほんと待ってなんかいられないよ。法律のたてを振《ふ》りかざしてばかりいる連中なんかね。御者君、ここでいいよ。それじゃワトスン君、これまでにも時々やって来たように、立派にやってのけようぜ」
こういってホームズは、ポウルトニー・スクェアの中央の大きな暗い家の玄関を音たかくたたいた。するとすぐドアがあいて現われたのは、うす暗いホールの照明を背にうけた背のたかい女だった。
「なにかご用ですか?」女はきつい声でいって、暗いなかに立っている私たちをのぞきこんだ。
「シュレシンガー博士にお目にかかりたい」
「そんな人はここにいませんよ」といって女はドアを閉めようとしたが、ホームズがすばやく片足|突《つ》っこんでそれを防いだ。
「じゃ何と名のっているか知らないが、ここの主人に会いましょう」ホームズがいった。
女はちょっとためらったけれど、すぐにドアを開けひろげて、「ではおはいりください。私の良人《おつと》は人に会うのを恐《おそ》れるようなものではありません」といって私たちのはいったあとを閉め、ホールの右がわの部屋へ通し、ガス灯を大きくしておいて、「いますぐピーターズが参ります」といって出ていった。文字どおり彼女の言葉のとおりに、ほこりだらけでシミのくった部屋のなかをよく見まわす暇もないほど早くドアがあいて、大柄《おおがら》でひげがなく頭のはげた男が足どり軽くはいってきた。ほおのたれた大きなあから顔で、ぜんたいの様子は有徳そうにみえたが、残忍凶悪《ざんにんきようあく》な口もとがそれをぶち壊《こわ》していた。
「これは何かの誤解かと思いますが」といかにももの柔《やわ》らかなねこなで声でいった。「家でもおまちがえになったのじゃありませんかな。この通りをもっといったところをお探しになれば……」
「もうたくさんだ。そんなことを争っている時間はない」ホームズは断乎《だんこ》として、「あなたはアデレイド出身のヘンリー・ピーターズ、バーデンや南アメリカでは伝道師シュレシンガー博士で通っていた人です。そのことは私の名がシャーロック・ホームズであるのと同じくらい確実です」
ピーターズ――と以下呼ぶことにするが――はぎくりとしてこの強敵を見つめながら、
「ホームズさんならどうしたというのです?」と冷やかにいった。「良心にやましいところがなければ、なんといわれても平気なものです。なんの用事でお出《い》でになったのです」
「バーデンから連れだしたフランシス・カーファクス姫をあなたはどうしましたか? それが知りたいのです」
「あの人のことなら、私のほうでこそ消息が知りたいと思っていますよ」とピーターズは冷静な答えをつづけた。「私は彼女に百ポンド近い立替《たてか》えがありますが、それに対して見かけだけはいいペンダントを二つ預かっただけで、それも宝石商は問題にもしないような代物《しろもの》です。バーデンで家内や私に向こうから接近してきて(当時私が名前を変えていたのは事実ですが)とうとうロンドンまでついてきてしまったのです。ホテルの払《はら》いや切符《きつぷ》なども私が立替えたのです。それがロンドンへ着くと、とたんに姿をくらまして、いまも申すとおり立替え金の形《かた》に時代おくれの宝石を二つ残してどこかへ行ってしまったのです。あなたが見つけたのなら、恩に着ますよ、ホームズさん」
「私はあくまでも彼女を見つけるつもりです。見つかるまでこの家を調べとおすつもりだ」
「令状がおありですか?」
ホームズはポケットからピストルを半分ばかりのぞかせてみた。
「ほんものの来るまではこれで間にあわしておきます」
「それじゃただの強盗《ごうとう》じゃありませんか」
「なんとでもいうがよろしい」ホームズは明るくいった。「つれの男も何をするかもしれない悪党です。二人で家宅|捜索《そうさく》をします」
相手はドアをあけて、
「アニー、巡査《じゆんさ》を呼んできなさい!」と大きな声でいった。すると廊下《ろうか》にスカートがちらとみえ、つづいて玄関から誰か出てゆくのが聞こえた。
「ワトスン君、時間がいくらもない」ホームズがいった。「ピーターズさん、止めだてすると、ひどい目にあいますぞ。この家に持ちこんだ棺はどこにある?」
「棺をどうしようというのです? もう使ってある。死体がおさめてありますよ」
「その死体を見なければなりません」
「そんなことは私が同意しません」
「では勝手に見るまでです」ホームズは相手をぐいと押しのけて、ホールへ出ていった。すぐ眼《め》のまえに、半開きになったドアがある。はいってみるとそこは食堂で、うす暗くしたシャンデリアの下のテーブルのうえに、棺がおいてあった。ホームズはガス灯の明りを大きくしておいてふたをとった。
棺の底ふかく横たわるやせ衰《おとろ》えた姿がある。頭上の明るいシャンデリアに照しだされているのは年とってしなびた女の顔であった。饑餓《きが》、病気、残虐行為《ざんぎやくこうい》、そのほか考え得るどんな方法によっても、まだ美しさを失なっていないはずのフランシス姫《ひめ》が、こんな姿になるとは思われない。ホームズの顔には意外さと安心のいろが出ていた。
「ありがたいことに、人ちがいだ」
「とんだ大失敗をやりましたな、ホームズさん」あとについてきたピーターズがいった。
「これは誰の死体です?」
「しいて知りたければいいましょう。これはローズ・スペンダーといいましてね、妻の乳母《うば》なのですが、ブリクストンの養老|施療院《せりよういん》にいるのを知って、ここへ連れてきて医者にかけてキリスト教徒として手厚い看護を加えたのです。ファーバンク・ヴィラ一三のホーソム博士ですから、ちょっと控《ひか》えておいたらどうです?
ところが三日目に息をひきとりました。死亡証明書には老衰《ろうすい》死とありますが、これはホーソム博士の見解にすぎません。何で死んだか、あなたのほうがよくご存じでしょう。
葬儀はケンニントン街のスティムスン商会に頼んでありますが、あすの朝八時に埋葬してくれるはずです。どこかにまだアラがありますか? じつにばかげた失敗ぶりですな。いい加減にしっぽをまいて帰ったらどうです? さっきフランシス・カーファクス姫がいるかと思ってふたをとってみたら、意外にも九十|婆《ばあ》さんの死体だったので、あいた口がふさがらなかったあの顔を、写真にとっておけばよかったと思いますよ」
相手からこうまで痛烈《つうれつ》きわまる愚弄《ぐろう》を加えられても、ホームズは眉《まゆ》ひとつ動かさなかったが、それでも内心はよほどこたえたとみえて、両手をぎゅっと握《にぎ》りしめていた。
「家のなかを捜索させてもらいます」
「まだやるのですか?」とピーターズのいったとき、女の声につづいて重い靴《くつ》音が廊下のほうに聞こえた。「やれるかやれないかすぐにわかります。こちらへどうぞ、お巡《まわ》りさん。この人たちは私のところへ押しかけてきて、言っても帰ろうとしないのですよ。どうかつまみだしてください」
巡査部長が巡査を従えて入口に立っていた。ホームズは名刺《めいし》を一枚ぬきだした。
「私はこういうものです。こちらは友人のワトスン博士です」
「やあ、お名前はよく承知しとります」部長がいった。「でも令状がなければ、出ていただかなければなりません」
「わかってます。それはよく承知していますよ」
「逮捕《たいほ》してください」ピーターズがわめいた。
「逮捕すべきときには逮捕しますから、処置は私どもにお任せください」部長はいかめしくいった。「ホームズさんにはお引取り願わなければなりませんな」
「承知しました。ワトスン君、引きとるしかないね」
一分後、私たちは往来に出ていた。ホームズはすましているけれど、私は怒《いか》りと屈辱《くつじよく》とでじつに不愉快《ふゆかい》だった。すると部長もあとから出てきて、
「ホームズさん、お気の毒でしたね。でも法のうえではそうなっとるのです」
「それはそうです。ほかに処置がありゃしませんからね」
「あそこへお出でになったのには、ちゃんとした理由がおありのことと思いますが、私にできることがありましたら……」
「ある貴婦人の行くえが知れなくなったのですが、あの家にいると思うのです。もう令状がくるころだと思うのに……」
「では私があの連中から眼をはなさないでいましょう。それで何かあったら、すぐお知らせしますよ」
まだ夜の九時だったから、私たちはすぐに調査をすすめることにした。第一に行ったのがブリクストンの養老施療院だった。聞いてみると慈善家《じぜんか》夫婦が数日前にたずねてきたこと、頭のぼけている老女をみて、もとの召使《めしつか》いだと自称したこと、許可をうけてその老女をつれ帰ったことなど、すべて事実だとわかった。その老女がその後死亡したといっても、施療院ではべつに驚《おどろ》きもしなかった。
つぎは医者である。その女ならたしかに往診《おうしん》したが、病状は純然たる老衰で、臨終にもたちあったことだから、正規の死亡証明書も書いて渡《わた》したということだった。「すべてが完全に正常で、そのあいだに不正行為などの介在《かいざい》する余地はなかったですよ」ともいった。
そのほか家のなかに不審をおこすようなことは何もなかった。強《し》いていえば、あの階級の家庭でありながら、召使いが一人もいないことくらいのものだという。これ以上医者からは何も聞きだせなかった。
最後に私たちは警視庁へと急いだ。令状の発給については手続上の困難があった。すぐには間にあわないという。治安判事の署名があすの朝でなければ得られないというのだ。あすの朝九時にホームズがレストレードといっしょにくれば、ちゃんとしておくということになった。
かくして一日の行動は終ったわけだが、夜なか近くなってきょうの巡査部長がきてくれて、あの大きな暗い家の窓に、あちこち灯火がちらついていたが、誰も出たりはいったりしたものはないと教えてくれた。このうえはじっと辛抱《しんぼう》して、あすの朝を待つしかない。
シャーロック・ホームズは怒《おこ》りっぽくなって話もしていられないし、そわそわして寝《ね》にゆく様子もないので、私はさきに寝室《しんしつ》へひきあげた。彼《かれ》はタバコばかりふかしながら、太い眉をしかめて、細い神経質な指さきで椅子《いす》の腕《うで》をコツコツたたき、問題のあらゆる可能性に思いをひそめているのだった。
夜中にも彼が家のなかを歩き回る音がいくども耳についた。朝になって、私が起こされたばかりのところへ、彼はとびこんできた。ガウンは着ているけれど、青い顔いろや落ちくぼんだ眼をみれば、前夜|一睡《いつすい》もしていないのがよくわかった。
「葬儀は何時《なんじ》といったっけ? 八時じゃなかったかい?」むきになって私にきいた。「いま七時二十分だ。こりゃ大変だ。ワトスン君、神に授《さず》かった僕の頭はどうしたのだろう? 早く! 大急ぎだ! 生死の問題だぜ! 百の死にたいして、生のチャンスは一しかないけれどね。これに遅《おく》れでもしたら、僕は決して自分を許しちゃおかないつもりだ!」
五分とたたないうちに、私たちは二輪馬車《ハンサム》でベーカー街をとばしていた。そのくらいにしても、議事堂の大時計の下を通るときには八時までにあと二十五分しかなかった。ブリクストン街までいったら八時をうちだした。
だが遅れたのは私たちばかりではなかった。八時を十分もすぎているのに、霊柩車《れいきゆうしや》はまだあの家のまえに停《と》まっていた。そして私たちの馬が口をまっ白にしてそのそばへ停まったときになってやっと、三人の男に担《かつ》がれて棺が玄関《げんかん》に現われた。ホームズは駆《か》けよってそれを押《お》しとめた。
「かえせ! もとへもどすんだ!」彼は先頭の男の胸を押しかえした。
「何をばかなことを吐《ぬか》す! もう一度きくが、令状でもあるのか?」ピーターズが激昂《げつこう》してどなり返した。まっ赤な顔を棺の向こうに見せてにらみつけている。
「令状はいまくる。それまでこの棺を家から出すことはならない」
人夫たちはホームズの厳命に威圧《いあつ》されてみえた。ピーターズが家のなかへ駆けこんだので、人夫たちはついに命令に従った。棺がテーブルのうえにおろされるとホームズは、
「ワトスン君、さ、早く! ネジ回しはここにある! 君たちのもここにある! 一分でふたをあけたら一ソヴリンだ! 何も尋《き》くな! 開棺すればいいのだ! ようし! もう一本! もう一本だ! みんなで引っぱれ! そうだ! もう少しだ! ああ、やっと開いたぞ!」
みんなで力をあわせて棺のふたをこじあけた。すると中からクロロフォルムのにおいが息もつまるばかり強く鼻をおそってきた。なかには頭を綿でまいた死体が安置してあった。麻酔剤《ますいざい》はその綿にひたしてあるのだ。
ホームズが綿をむしりとると、中年婦人の神々《こうごう》しく美しい彫像《ちようぞう》のような顔があらわれた。ためらうことなく彼は背に腕をさしいれて、彼女《かのじよ》の上半身を抱《だ》きおこした。
「ワトスン君、死んでしまったのかい? まだ助かるかね? おそすぎたんじゃあるまいな?」
三十分ばかりは、手おくれとしか思えなかった。実際に窒息《ちつそく》しているうえに、クロロフォルムの毒気を吸いこんでいるのだから、フランシス姫の回復は絶望としか思われなかった。だが人工呼吸、エーテル注入と医学の教えるあらゆる処置を講じていると、ついに生命の脈動がかすかに感じられ、やがて眼《ま》ぶたがかすかにふるえ、口に近づけた鏡に曇《くも》りが現われ、生命をとりとめたことを示した。
そこへ一台の馬車が来て停まった様子に、ホームズはブラインドをあけてそとをのぞいた。
「レストレードが令状をもってきた。しかし目ざす鳥は逃《に》げたらしいがね。それから」と、重い急いだ足音を廊下に聞きつけて彼はいった。「この婦人の介抱《かいほう》には、僕たちよりはるかに権利のある人が来たよ。――お早う、グリーンさん。フランシス姫をなるべく早く連れていってあげてください。ところで葬儀は予定どおり執行《しつこう》するんだね。棺のなかにはまだお婆さんが残っている。たったひとりで早く永遠の休息所へつれていってあげたらよかろう」
「ワトスン君、この事件を君の記録のなかに加えるとしてもね、いかに優秀《ゆうしゆう》な頭脳も、ときに光輝《こうき》を一時|喪失《そうしつ》することのあるものだという実例にしかなるまいよ」その晩ホームズがいった。「そういう失敗は誰にでもあるもので、その錯誤《さくご》を自覚して、是正する人がえらいのだ。この意味でなら僕も一応はいばっていいと思う。
ゆうべひと晩僕は、手掛《てがか》りとかつじつまのあわぬこととか奇妙《きみよう》な現象などを目撃《もくげき》しておりながら、軽率《けいそつ》にも見落としたのではないかと反省して、さんざん思い悩《なや》んだ。ところが明けがたになって、ふと思いだした言葉がある。フィリップ・グリーンの報告にあった葬儀屋の女房《にようぼう》のいった言葉だ。『もっと早くお届けできたのですが、何しろ型が並《なみ》はずれなものでございますから、つい手間どりまして』というのだ。むろん棺のことをいっているのだが、並はずれの棺だという。特別寸法の棺を注文したものとしか考えられない。なぜか? なんのためそんな注文をしたのか?
そのときはっと思いだしたのは、あの棺が妙に深くて、しなびた婆さんが底のほうにちょこんと横たわっていたことだ。小さな老婆の死体をおさめるのに、なんだってあんな大きな棺を使ったのか? もう一体入れるためであるのはいわずと知れたことだ。こうすれば一枚の死亡証明書、一枚の許可書で一時に二人を埋葬《まいそう》することができる。僕の眼さえかすんでいなければ、とっくに看破できていたはずのことだ。八時にはフランシス姫が葬《ほうむ》られようとしている。このうえは出棺をさしとめるのが唯一《ゆいいつ》の残された望みだ。
生きたフランシス姫を発見し得《う》る望みは万に一つしかなかった。結果が示したように、万に一つは、絶無ということではなかった。あの二人は、僕の知るかぎり、今日まで人殺しだけはやったことがなかった。最後にいたっても現実に暴力を振《ふる》うことにはためらったのだ。埋葬してしまえば、最期《さいご》を目撃しないですむ。たとえ姫が発掘《はつくつ》されることがあっても、すぐにどうということはない。そういう考慮《こうりよ》を彼らは払っているのだと僕は思った。
あの場の光景を思いだしてみたまえ。階上に恐るべき小部屋があって、そこに彼女は監禁《かんきん》されていたのだ。時がくると彼らは押しいって、クロロフォルムの力で自由を奪《うば》い、階下へかつぎ降して棺におさめ、眼の覚めることのないようになおもクロロフォルムを注いで、手ばやくふたにネジくぎを打った。いかにも巧妙《こうみよう》な手口だ。犯罪記録上こんなのは僕も初めてだ。これでもしレストレードが元宣教師夫婦に手錠《てじよう》をかけ損じたら、将来どんな巧妙な手口を考えだすかもしれないと思うね」
[#地付き]―一九一一年十二月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
悪魔の足
シャーロック・ホームズとのながい親交のあいだに参加した不思議な経験や面白《おもしろ》い回想をつぎつぎと記録するにあたって、彼《かれ》が自分の名の出ることをきらうために、私はつねに困難に直面してきたものである。性格の陰気《いんき》で皮肉な彼にとっては、世のつねの賞賛などはいとわしいものでしかなく、一つの事件を解決したとき、その真相を正統派の当局にさらけだして引きわたし、彼らが一般《いつぱん》から見当ちがいの祝辞をうけるのを、あざけるような微笑《びしよう》をうかべて黙《だま》って聞いているくらい心たのしいことはないのだ。
近年私が事件の記録をあまり公表しなかったのも、じつをいうとホームズのこの態度が原因なのであって、興味ある材料が欠乏《けつぼう》してきたがためでは決してない。彼の事件の多くに参与《さんよ》するのは私にゆるされた特権であるが、それだけに私としては控《ひか》え目に、言行をつつしまなくてはならないのである。
ところがこの火曜日にそのホームズから電報がきたので――電報の届くところなら、彼は決して手紙なんかよこしたことのない男だ――まったく驚《おどろ》いたのである。『コーンウォールノ戦慄《センリツ》ヲナゼ発表セヌノカ。アレハボクガ手ガケタモットモ怪奇《カイキ》ナ事件ダ』という電文だった。
彼がどうした風の吹《ふ》きまわしでそんな古いことを思いだしたものか、またどんな気まぐれから私にその発表をすすめてきたものか、まったく見当もつかないが、取消し電報でもこないさきにと、私は事件の要点を正確に控えておいたノートを急いでさがしだし、ここにその物語を公開しようと思うのである。
さて、ホームズの鉄のような健康体が、たえず過労を強要されるところへ、ときに自らおかす不摂生《ふせつせい》も加わって、衰弱《すいじやく》の徴候《ちようこう》を示しはじめたのは、一八九七年の春のことだった。
ハーリー街の名医ムーア・エーガー博士――この人をホームズが知るようになった劇的事情のことは他日にゆずるけれど――から、有名な私立|探偵《たんてい》として引きうけているすべての事件から手をひき、完全に休養をとらないかぎり、とり返しのつかないことになると、積極的な宣告をうけたのが三月のことである。
彼の超俗《ちようぞく》ぶりときたら底ぬけだから、自分の健康状態がどうだなどということにはまったく無関心なのだが、それでもこのままでは永久に仕事のできないからだになると嚇《おど》かされて、しぶしぶながら転地|療養《りようよう》に同意することになった。かくしてその年の早春、私たちはコーンウォール半島の突端《とつたん》にあるポルデュ湾《わん》にちかい小さな家に落ちついたのである。
そこは一種かわったところで、ふきげんなホームズの気持にも妙《みよう》によく適していた。草の多い小半島のうえに高く建てられたその白ぬりの小さな家の窓からは、マウンツ湾の不吉な全景が半円形に見おろされた。くろいきばをむく急ながけと、波に洗われた暗礁《あんしよう》に数知れぬ船員が命をおとしたので、死のわなとして古来|帆船《はんせん》に恐《おそ》れられたところである。北の軟風のなかにそこは穏《おだ》やかに遮蔽《しやへい》されて、荒天《こうてん》に追われた船の避難《ひなん》してくるのを待っていた。
ひとたび風向きがかわると、南西の疾風《はやて》が荒《あ》れ狂《くる》い、錨《いかり》は引きずられ、風下《かざしも》の岸に吹きよせられ、白波のたつ激浪《げきろう》のなかに最後の死闘《しとう》がはじまるのだ。だから賢明《けんめい》な航海者はけっしてこののろわれた場所には近づかない。
陸上の環境《かんきよう》もまた海上におとらず陰気である。起伏《きふく》のある荒れ地で、見わたすかぎりこげ茶いろ一色の単調ななかに、ところどころ教会の塔《とう》がたかくそびえ、その下に古めかしい村落の存在を示している。どちらを向いてもこの荒れ地には、いまはまったく絶滅《ぜつめつ》した種族の遺跡《いせき》がのこされていた。唯一《ゆいいつ》の記録として彼らののこしているのは、奇妙《きみよう》な石の記念碑《きねんひ》、死者の遺骨を埋《う》めた不規則な塚《つか》、有史以前の闘争をしのばす珍《めずら》しい土塁《どるい》のあとなどである。
忘れられた民族のうす気味わるい記念碑にかこまれたこの土地のなぞが、ホームズの空想を刺激《しげき》したものとみえて、彼はながい散歩をしたり、荒れ地でぽつねんと黙想《もくそう》にふけったりに日を送った。
彼はまた古いコーンウォール語に心を引かれた。彼の考えに従えば、なんでも古代カルディア語に近いもので、主として往古フェニキアからきた錫《すず》商人によって伝えられたものだという。彼は言語学に関する書籍《しよせき》を取りよせて、この問題の展開に本腰《ほんごし》を入れようとしていたのだが、その矢さきに、困ったことには――ホームズは大ぴらに喜んでいたが――この夢《ゆめ》のような土地で、そのために私たちがロンドンにいられなくなったどの事件よりも強烈《きようれつ》で心を奪《うば》う、はるかに怪奇な事件に、いながらにして首を突《つ》っこむことになってしまったのである。私たちの簡素な生活も、平穏《へいおん》で健全な日課も、はげしくかき乱され、コーンウォールばかりでなくイングランド西部地方をあげて興奮の坩堝《るつぼ》に投じた一連の事件のまっただ中に巻きこまれてしまった。読者の多くは、ロンドンの新聞にはひどく不完全な報道しか現われなかったけれども、当時コーンウォールの戦慄≠フ名で騒《さわ》がれた事件を記憶《きおく》に止《とど》めておいでだろう。
あれから十三年たつが、私は以下あの思いもよらぬ事件の真相をここに詳《くわ》しく公表しようと思うのである。
あちこちに教会の塔があって、コーンウォールのこの地方に点在する村落の所在を示していることは、まえに述べた。そのうち近いのはトリダニク・ウォラス村といって、こけむした古い教会を中心にちらばる小さい家々に二百人ばかりの人が住んでいた。教区の牧師ラウンドヘイ氏はひとかどの考古学者で、だからホームズも知りあいになっていた。
でっぷり肥《ふと》った中年の、人好きのする人で、この地方の伝説などには詳しかった。牧師館へお茶に招かれたことがあるが、そのとき私たちはモーティマー・トリゲニスという人と知りあいになった。この人は働かなくても楽にくらせる身分の人で、だだっ広い牧師館の一部を借りて住み、牧師の乏《とぼ》しい財政をうるおしているのだった。
牧師は独身でもあったし、喜んでそうした取りきめに応じたのだった。もっとも二人に共通点はあまりなかった。寄宿人のほうはやせて色がくろく、眼鏡をかけて、ねこ背のところなんかは、どこか奇形の感じがあった。
そういえばほんのしばらく私たちのいたあいだにも、牧師はよくしゃべるのに、寄宿人のほうは妙に黙りこんで、眼《め》もあらぬほうへ外《そ》らし、内省的になにかくよくよと一人で思い煩《わずら》うというふうだった。
三月十六日の火曜日に、朝の食事をすませたばかりで、日課になっている荒れ道の散歩に出るまえ、タバコをのみながらひと休みしていた私たちの居間へ、この二人がとつぜん飛びこんできたのである。
「ホームズさん」と牧師がうわずった声でいった。「ゆうべ大変な問題が起こりましたよ。聞いたこともない事件です。この際あなたがこの土地にいてくださったというのも、神さまの特別の思召《おぼしめ》しとしか思われません。いま私たちの頼《たの》みとするのは、あなたばかりですからね」
私はとつぜん押《お》しかけてきたこの牧師に、いい顔はしなかったが、ホームズは猟師《りようし》の掛声《かけごえ》をきいて緊張《きんちよう》する猟犬のように、口からパイプをはなして、ちゃんと坐《すわ》りなおし、ソファのほうを手ぶりでさした。すると気も転倒《てんとう》した牧師と興奮したモーティマー・トリゲニスはそこへ並《なら》んで腰をおろした。トリゲニスのほうは牧師にくらべたら落ちついているといえるが、細い手さきをふるわせて黒い眼をぎらぎらさせているところをみると、内心の動揺はおなじなのだろう。
「私から話しましょうか、それとも……?」彼は牧師にたずねた。
「どんなことか知りませんが、それを発見したのはあなたで、牧師さんのほうはあとのようですから、あなたがお話しになったらよいでしょう」ホームズがいった。
牧師が慌《あわ》てて服をつけてきたらしいのにたいして、寄宿人のほうはきちんと身形《みなり》を整えているのを見ながら、私はホームズのこの簡単な推理に二人がさも意外そうな顔をしたのを、興味ふかくながめた。
「そのまえに私からひと言申しておくほうがよいでしょう」牧師がいった。「そうすればこのままトリゲニスさんから詳しい話を聞くべきか、または、急いでこの奇怪な事件の現場へ行くには及《およ》ばないか、おわかりになると思います。それでは説明いたしますが、このトリゲニスさんは昨晩、荒れ地のふるい石の十字架《じゆうじか》の近くのトリダニク・ワーサ村のご兄弟の家へ行ったのです。ご兄弟はオウエンさんとジョージさん、ほかに妹さんのブレンダさんがいます。
食堂のテーブルでカード遊びをしてから、きげんよく元気で帰途《きと》についたのが十時ちょっとすぎです。
けさは、トリゲニスさんは朝は早い人ですから、食事まえに、トリダニク・ワーサ村の方角さして散歩していますと、うしろからリチャーズ博士が馬車で追いこしざまに、トリダニク・ワーサからすぐ来てくれと迎《むか》えをうけたから、急いでゆくところだということです。モーティマー・トリゲニスさんは当然そこで、博士の馬車に乗せてもらって、いっしょに行ってみることにしました。
トリダニク・ワーサへ着いてみると、これはもうたいへんな騒ぎです。食堂は兄弟も妹さんもゆうべのままの状態で腰かけており、テーブルのうえにはカードが散らかったままだし、ろうそくは根もとまで燃えつくしています。ただ妹さんは腰かけたまま死んでいるし、その両がわに席をしめた兄弟はすっかり気が狂って、げらげら笑ったりどなったり歌ったりしている始末です。
三人とも――死んだ婦人も発狂《はつきよう》した男子も、みんなその顔に極度の恐怖《きようふ》をうかべていました。
恐怖に顔がひきつって、正視にたえないばかりの表情です。家のなかには三人のほか誰《だれ》もいる様子はなく、コック兼《けん》家政婦のお婆《ばあ》さんポーター夫人だけは別ですが、これはぐっすり眠《ねむ》っていて何も聞かなかったといっています。
また何一つ盗《ぬす》まれても、かき乱されてもいないので、一人の婦人を急死させたり、二人の強壮《きようそう》な男子を発狂せしめるほどの恐怖とはどんなものだったのか、まったく説明のつけようがありません。
というわけなのでして、何とかあなたのお力でこれを解明していただきたいと、折りいってお願いいたす次第《しだい》です」
何とかして私はホームズを、この土地へ転地してきた目的の静かな療養生活に引きとめておけないものかと気をもんだが、話を聞く彼の顔の緊張ぶりや、眉《まゆ》をひそめたところを見ては、もはやそういうことは望むべくもないとあきらめるしかなかった。私たちの静かな生活のなかへ割りこんできたこの奇怪なる悲劇を夢中《むちゆう》で考えこみ、しばらく彼は黙っていたが、
「調べてみましょう。お聞きしたかぎりでは、たいへん異常な事件らしいですが、あなたは直接現場をごらんになったのですか、ラウンドヘイさん?」
「いいえ。トリゲニスさんが牧師館へ帰ってきての話でしたので、取るものも取りあえずご相談に駆《か》けつけて参ったのです」
「その悲劇の家まではどれくらい距離《きより》がありますか?」
「一マイルばかり奥《おく》へはいったところです」
「ではごいっしょに歩いてゆきましょう。でもそのまえに、トリゲニスさんに二、三お尋《たず》ねしたいことがあります」
このときまでモーティマー・トリゲニスはずっと黙っていたが、はるかによく自制してはいるものの、内心の興奮は牧師があけすけに見せる興奮なんかの比でないのが私にはよく看取された。青い顔をしかめて、心配そうにホームズの顔を見つめたまま坐っていた。組みあわせた細い両手が痙攣《けいれん》している。肉親のうえを見舞《みま》った恐るべき事件の語られるのを聞く彼の色あせた唇《くちびる》はわなわなとふるえ、その暗い眼はその場の恐ろしさを反映するもののようだった。
「何なりとどうぞお尋ねください、ホームズさん」と彼は熱心にいった。「口にするのもいやなことですけれど、あなたにはありのままをお答えします」
「まずゆうべの様子から話してください」
「はあ、いま牧師さんからお話のありましたように、私は兄のところで夕飯をたべましたが、食後にジョージ兄がホイストをしようといいますので、九時ごろからみんなでテーブルを囲みました。そして十時十五分ころになって私は帰ることにしましたが、三人はまだ楽しそうにテーブルについたままでした」
「誰が玄関《げんかん》まで送って出ましたか?」
「ポーター夫人はもう寝《やす》んでいましたから、私は一人で玄関を開けて出ました。むろんそのあとドアは閉めておきましたが、三人のいる部屋の窓は閉まっていましたけれど、ブラインドは閉めてありませんでした。
けさ見ましたときは、玄関にも窓にも異状のないのはもちろん、誰かがはいってきたと考えられるような形跡《けいせき》はありませんでした。それなのに二人は坐ったまま恐怖のためすっかり気が狂っていますし、ブレンダは恐怖のあまり死んで、だらりと椅子《いす》のひじかけに頭をもたせているのです。あの場の光景は私として生涯《しようがい》忘れられないでしょう」
「お話しの事実は、たしかに異常なものです」ホームズがいった。「あなたとしても、そのことをどう解釈《かいしやく》すべきか、これという説明もお持ちにならないのですね?」
「恐ろしいことです。悪魔の仕業《しわざ》です。とにかくこの世のことじゃありません。何かが乗りうつって、みんなの頭から理性の光を奪いさったのです。人間業にできることじゃありません」
「人間業以上のことだとしたら、私にもどうしようもないかと思いますが、それにしてもそんなことをいってあきらめてしまうまえに、何とかして超自然でない説明がつけられないものか、努力を傾《かたむ》ける必要がありますね。あなたご自身のことですが、みなさんいっしょに暮《く》らしていらっしゃるのに、あなただけが別居していらっしゃるのは、なにかそこに訳がおありなのですね?」
「そうなんですよ。もう過去のことで、今では何でもなく片づいていますけれどね。私ども一家はレッドルースの錫《すず》の採掘《さいくつ》業者だったのですが、事業をある会社に売り渡《わた》し、生活費をまかなって十分の資産をもって引退《いんたい》したのです。その金の分配問題で、ある種の感情のこじれの生じたのもあえて否定はしませんけれど、それもしばらくのことで、今はみんな忘れてしまって、仲よくやっていたのです」
「ゆうべのことを振《ふ》りかえってみて、なにか思いあたるようなことはありませんか? よく考えてみてください、なにか参考になるような手掛《てがか》りでもありませんか?」
「それが何もないのです」
「みなさんは、いつもと同じようにお元気でしたか?」
「このうえなく元気でした」
「みなさん神経質なかたですか? なにかの危険にたいする不安な様子をみせたことでもありますか?」
「そういうことはありませんでした」
「ではほかに参考になりそうなことは、なにもないとおっしゃるのですね?」
モーティマー・トリゲニスはしばらく一心に考えこんでいた。
「そういえば一つだけ思いだしたことがあります」とやっと彼はいった。「そのとき私はジョージ兄と組んで窓を背にして坐っていましたが、正面に坐っているジョージ兄が、私の肩《かた》ごしに窓のほうをじっと見つめてますから、何だろうと振りかえってみました。窓は閉まっていましたが、ブラインドはまだ開けてあるので、芝生《しばふ》や植込《うえこ》みはおぼろげながらわかりました。するとそこに何やら動いているではありませんか。人間だか動物だかわかりませんけれど、とにかく何か動いています。兄に何を見ているのだと尋ねてみましたら、同じようにやはり何か動いたように思うといっていました。それだけのことなんですけれどね」
「そのとき調べてはみなかったのですか?」
「大したことでもないと思って、そのままにしてしまったのです」
「するとあなたは何の不吉《ふきつ》な予感もなく帰ってきたのですか?」
「そうですとも」
「けさはたいそう早くそのことがお耳に入ったらしいですが、そのへんの事情は?」
「私はふだんから朝は早いのでして、いつも食前に散歩をします。けさも散歩に出たばかりのところへ、リチャーズ先生が馬車で通りかかって、ポーター夫人が子供を使いによこして、すぐ来てくれとのことだというので、そのまま馬車の横に乗せてもらって行ったのです。
行ってみると、もうたいへんな騒ぎです。ろうそくも暖炉《だんろ》の火も何時間もまえに燃えつくしたまっ暗ななかに、気の狂った二人は坐ったままで夜あけを迎えたのに違《ちが》いありません。ブレンダは死後少なくとも六時間くらい経過しているということでしたが、暴力を加えた形跡はありません。あの恐ろしい表情で椅子のひじかけによりかかって死んでいました。
ジョージとオウエンはきれぎれの歌をうたいながら、まるで大きな猿《さる》のようにきゃっきゃっと騒いでいます。目もあてられません。私は見るにたえませんでしたが、リチャーズ先生も紙のようにまっ青になって、気でも失なったように椅子にたおれこんでしまいました。私はこちらの面倒もみなければならなかったほどです」
「異常だ――非常に異常だ!」ホームズは立って帽子《ぼうし》を手にしながらいった。「すぐにトリダニク・ワーサへ出かけたほうがよいと思います。初めからこんな奇怪な問題を投じている事件にぶつかるのは初めてですよ」
このときの第一日の朝は、捜査《そうさ》はあまり進展をみなかった。もっとも捜査の出鼻にちょっとしたことがあって、私たちはひどく不吉な印象をうけた。悲劇の家へゆくには、くねくねした細い田舎《いなか》道をはいってゆかなければならないのだが、そこを歩いてゆくと、馬車がごとごとと向こうから進んでくるので、道ばたによけてそれを遣《や》りすごした。
そばを通りすぎる馬車のなかから、二人の男が醜怪《しゆうかい》に引きゆがめた顔に気味のわるいうす笑いを浮《う》かべて、閉ざされた窓ごしにこっちを見ているのがちらりと見えた。くいしばった歯をむきだして、らんらんと眼を光らせている様は、恐るべき幻影《げんえい》のように眼のまえをすぎていった。
「兄たちです! ヘルストンへ連れてゆかれるところです」モーティマー・トリゲニスは唇の色もなかった。
がたがたと揺《ゆ》れながら走り去る黒い馬車のうしろ姿を、私たちは恐怖の眼で見送った。それから気がついて、あの人たちが奇怪な運命にみまわれた不吉な家をさして、私たちは再び歩をはこんだ。
そこは晴れやかな大きい家で、田舎家というよりは別荘《べつそう》とでもいったほうがふさわしく、広い庭には、さすがコーンウォール地方のことで、はや春の花が咲《さ》きみだれていた。
居間の窓はこの庭に面していて、モーティマー・トリゲニスの話では、兄たちを一瞬《いつしゆん》のうちに狂死せしめた魔物《まもの》はその窓からはいってきたものに違いないということだった。
ポーチからはいるまえに、ホームズは考えこみながら、ゆっくりと花の鉢《はち》のあいだや庭の小路《こみち》を歩きまわった。あんまり考えこんでいるので、如露《じようろ》につまずいてあたりに水を散らし、私たちの足や庭の小路まで水だらけにしてしまった。
家のなかへはいってゆくと、コーンウォール生まれの老家政婦のポーター夫人が出迎えた。彼女《かのじよ》は若い女中を助手にして、家事を切りまわしてきたのである。ホームズの尋ねることに、何でもはきはきと答えた。
夜中に異常な物音なぞ聞かなかった。主人の一家は近来まことにきげんがよく、こんなに元気で何不自由ない一家は珍しいと思っていた。ところがけさ食堂へはいっていって、浅ましい光景を見たときは、恐怖のあまり気絶したほどだった。
正気づいてから、急いで窓をあけて朝の空気を入れ、表へ駆けだしていって、百姓《ひやくしよう》の子供を医者の家へ走らせたのだった。お嬢《じよう》さんは、見たければ二階の寝台《しんだい》にねかしてある。主人兄弟を精神病院の馬車に乗せるには、屈強《くつきよう》な男が四人がかりだった。この家には一日も居るのがいやだから、午後になったらセント・アイヴズの家族のところへ帰るつもりだ――と彼女はいっていた。
私たちは二階へいって、死体を検分した。ブレンダ・トリゲニスはもう中年にちかい老嬢だが、かつては非常に美少女であったろう。いろはあさ黒いけれど、くっきりした死顔は端麗《たんれい》だった。もっとも死後もなおその美しい顔にどこか恐怖のあとをとどめているのは、死にぎわがよくよく恐《おそ》ろしかったものであろう。
彼女の寝室から、こんどの悲劇の現場である居間へ降りてきた。暖炉の火床《ひどこ》には終夜火の燃えていた残灰がくろく残っていた。テーブルのうえには、燃えつきてろう涙《るい》のたれたろうそくが四本たっていた。椅子だけは壁《かべ》ぎわに片づけてあるが、そのほかはすべて前夜のままに残してあった。
ホームズは軽い足どりですばやく部屋のなかを歩きまわった。椅子を前夜のとおりに並べなおし、あれこれと坐ってみて、庭がどの程度見えるかを確かめたりした。それから床《ゆか》、天井《てんじよう》、暖炉などをしらべたが、そのあいだに一度でも急に眼を輝《かがや》かしたり、あるいはぎゅっと口をむすんだりはしなかったので、暗中に光明を認めたとは思われなかった。
「なぜ火なんかたいたのかな?」ただ一度口をきいた。「春だというのに、この小さい部屋には毎日火を入れていたのですか?」
モーティマー・トリゲニスが、ゆうべは寒くて雨もあったからだと説明した。そのためモーティマーが来てから火を入れたのだという。
「これからどうなさいます、ホームズさん?」こんどはモーティマーのほうから尋ねた。
ホームズはにっこりして、私の腕に手をおきながらいった。「しょっちゅう君にしかられる喫煙《きつえん》過多の害、これからまたあれをくりかえすことになりそうだよ、ワトスン君。ここではもうこれという新事実も得られそうにありませんから、ご両君のお許しを得てこれからささやかなわが家へ帰らせていただこうと思います。今までに得た事実を頭のなかでよくぎんみしてみるつもりですがね、トリゲニスさん。それで何かわかったら、あなたや牧師さんにもかならずお知らせしますよ。ではひとまずさようなら」
ポルデュの家へ帰ってきてから、ホームズは黙《だま》ってじっと考えこんでいたが、それもそう長いことではなかった。自分用のひじ掛《かけ》椅子にとぐろを巻き、やつれた苦行者めいた顔もかすむばかりのタバコの煙《けむり》のなかで、濃《こ》い眉をひそめて額にしわをよせ、遠くを見るようなうつろな眼《め》をしていたのだが、それが急にパイプをおいたかと思うと、すっくと立ちあがったのである。
「こんなことじゃだめだ!」と彼《かれ》は笑っていった。「がけのところを歩いて矢の根石でも探そうじゃないか。こんどの問題の手掛りとはちがって、このほうならきっと見あたるよ。とぼしい材料で頭を酷使《こくし》するのは、エンジンを空転さすようなものだ。破裂《はれつ》してこなごなになってしまうのが落ちだ。海の空気と日光、それに忍耐《にんたい》だ――そうすれば何とかなる」
「ところでわれわれの立場はどうなっているのか、静かに考えてみよう」がけっぷちを歩きながら彼はなお言葉をつづけた。「現在わかっている事実といったら、多くないけれど、それをしっかり握《にぎ》っていて、つぎに現われてくる事実を、適当な場所へはめこまねばならない。
まず第一に、人間世界に悪魔なんていうものが割りこんでくるとは、君にしても僕《ぼく》にしてもまったく考えていない。そんな考えはまったく排除《はいじよ》して思索《しさく》をすすめてゆこう。よろしい。ここに意識してか否《いな》か人力が働いて、三人の人物が痛ましくも恐るべき打撃《だげき》をうけた。これは動かぬ事実だ。
さて、ではこのことは何時《いつ》おこったのか? モーティマー・トリゲニスのいうことを信ずるとすれば、それは彼の帰ったあとだ。この点はきわめて重要だ。それもおそらくは帰ってから数分以内のことだと考えられる。カードもまだテーブルのうえに出ているくらいだ。時刻もふだんの就寝時《しゆうしんじ》をすぎていた。しかも三人とも席を変更《へんこう》するどころか、椅子をうしろへずらしてさえいない。繰《く》りかえしていうが、だから、事の起こったのはモーティマーが帰っていった直後のことで、ゆうべの十一時以後ではない。
つぎにわれわれのやるべきことは、あの部屋を出てからのモーティマー・トリゲニスの行動をできるだけ突《つ》きとめることだ。これにはさしたる困難もないが、彼の行動には疑惑《ぎわく》の余地はないようだ。僕のやりかたをよく知っている君には、むろんあのとき僕が如露をけとばした意味がわかったことと思う。あのおかげでモーティマーの靴《くつ》あとをはっきり見ることができた。水をふくんだ砂の小路は、靴のあとをじつにはっきりと示してくれた。
ゆうべはあの通り雨が降ったから、足跡《あしあと》の見本を手に入れた僕としては、他人のに交っている彼の足跡をたどって、その行動をやすやすと追及《ついきゆう》することができた。
彼は家を出るとまっすぐに牧師館のほうへ帰っていた。それではモーティマー・トリゲニスは帰ってしまったのに、べつの第三者が介入《かいにゆう》して、部屋のなかの三人に影響《えいきよう》をおよぼしたということになるが、どうしたらこの第三者を突きとめられるか? また、かくも恐ろしい影響はいかにして与《あた》えられたものか?
ポーター夫人は除外してよいと思う。あれは明らかに無害な女だ。では何ものかが庭に面した窓にはいあがって、見るものを発狂させるほどの恐るべき影響力を与えたと信ぜられる証拠《しようこ》でもあるか? この点に関してはモーティマー・トリゲニスの与えた示唆《しさ》が一つあるだけだ。庭で何かが動いていると兄がいったというのだ。ゆうべは雨が降ったりして暗かったのだから、これはたしかに注意すべきことだ。
何者かがあの三人を嚇《おど》かそうと計画したとすれば、三人に見させるためには窓に顔を押《お》しつけるくらいにしなければなるまい。ところがあの窓の下は幅《はば》三フィートの花壇《かだん》になっているのに人間の足跡は一つもなかった。だから室外のものがあの三人にそんな恐るべき印象を与え得たとは考えられもしないし、また、そんな奇怪《きかい》な念入りな計画なんかする動機を見出《みいだ》すのに苦しむ。ここにこの問題の難点があるのは君にもわかるだろう、ワトスン?」
「それは僕にもわかりすぎるくらいわかる」私は確信をもっていった。
「だからもう少し材料さえあったら、この難点かならずしも突破《とつぱ》できなくはなかろうと思う。君の多岐《たき》にわたる記録のなかにも、初めはこの事件に劣《おと》らず不可解だったものがあるじゃないか。まあもっと正確な資料が手に入るまで、しばらくこの事件から遠ざかって、けさは石器時代人の研究でもしようよ」
ホームズの超俗《ちようぞく》ぶりには、まえにも触《ふ》れたことがあるかと思うが、コーンウォールの春のこの朝ほど、私はそれに呆《あき》れたことはないのである。恐るべき事件の解決が待たれているのも忘れたように、二時間にわたって彼はいとも気軽に、ケルト族、矢じり、土器の破片《はへん》などについて談じてあきるところがなかった。そして午後になってやっとわれわれの小家へ帰りつくまでそれは続いたのだが、帰ってみると客がきて待っていたのを知り、私たちの考えはたちまち事件のほうへ引き戻《もど》されたのである。
この客が何者であるかは、尋ねないでもすぐわかった。大きな体格、鋭《するど》い眼と鷹《たか》のような鼻の、凹凸《おうとつ》はげしくしわのふかい顔、われわれの小家の天井まで届きそうな半白の頭、あごひげ――はなしたことのない葉巻のニコチンで染ったところをのぞけば、口にちかいところは白く、まわりのほうは金いろである――などロンドンはもとよりアフリカの蛮地《ばんち》までも知れわたっているが、これぞ偉大《いだい》なるライオン狩《が》りの探検家として知られているレオン・スターンデール博士の大きな姿である。
博士がこの地方に住んでいることは私たちも耳にしていたばかりか、その巨大《きよだい》な姿を荒《あ》れ地の小路《こみち》で見かけたことさえあった。しかし博士は私たちに接近しようともせず、こちらからも交際を求めようなどとは夢《ゆめ》にも思わなかった。それというのも大旅行のあいだの期間の大部分を、とじこもっての独居を愛する博士はボーシャム・アリアンスの寂《さび》しい森にかくれた小さなバンガローで過ごすのだというのは、世間によく知られていたからである。ここで博士は書籍《しよせき》と地図に埋《う》もれて、簡易生活のすべてを自分で弁じ、近隣《きんりん》の人たちにはほとんど無関心に、絶対の孤独《こどく》を守っているということである。
だからその博士がホームズにたいして、こんどの事件の捜査がはかどっているかと熱心に尋《たず》ねるのを見て、私は大いに意外だったのである。
「土地の警察はまるで途方《とほう》にくれていますよ」と彼はいった。「でもあなたは経験もひろいことだし、何か然《しか》るべき説明がうかがえるかと思いましてな。
私としてこんなことをお尋ねするというのも、長らくこの土地に住むうちトリゲニス一家とは親しくなった――というよりも、じつをいうとコーンウォール生まれの母かたの関係で、あの一家は私にとっていとこにあたるので、こんどのことに非常な衝撃《しようげき》をうけたからです。現に私はアフリカへ行くつもりでプリマスまで行っていたのですが、けさ急を聞いて、何か捜査の手助けにもなろうかと、すぐ引返してきたわけです」
ホームズは眉《まゆ》をつりあげた。
「では船に乗りそこねたわけですか?」
「つぎの船に乗ります」
「ははあ、美しい友情です」
「いや、親類なのです」
「そう、母かたのいとこさんでしたね。お荷物は船に積みこんだのですか?」
「一部は積みこみましたが、大部分はホテルに残してあります」
「わかりました。でもこんどのことは、けさのプリマスの新聞にはまだ出なかったろうと思いますが」
「出てはいませんが、電報がきたものですからな」
「失礼ですが、どなたから?」
探検家のやつれた顔にさっと暗いかげがさした。
「ひどくせんさくしますね」
「せんさく好きは私の職業がらですよ」
スターンデール博士はやっと腹の虫をおさえた。
「いうのは少しもかまいません。電報で知らせてくれたのはラウンドヘイ牧師です」
「ありがとう。あなたの最初のお尋ねにたいする答えですが、私としてはこんどの事件はまだよくわからないところはありますけれど、いまに何らかの結論に達することはまちがいないと思っています。これ以上申しあげるのは、すこし早計かと考えます」
「それにしても、どの方面に疑惑をお持ちかくらいは、お話しくださってかまわないでしょう?」
「それはちょっとお答えいたしかねますね」
「それでは私は時間を空費したことになる。これ以上お邪魔《じやま》する必要はありませんな」
有名な博士はひどくきげんを損じて、大またに帰っていった。すると五分と間《ま》もおかず、ホームズが尾行《びこう》していった。
ホームズはそのまま夜になるまで帰らなかったが、疲《つか》れた顔でのっそりと帰ったのを見て、捜査が進展しないのだなと私は思った。彼は来ていた電報に眼をとおすと、すぐ丸めて暖炉のなかへ放《ほう》りこんでしまった。
「プリマスのホテルからの返電だよ。牧師からホテルの名を聞いて、レオン・スターンデール博士のいうことがほんとうかどうか問い合せてやったのだ。ゆうべはたしかにそこへ泊《とま》ったばかりか、荷物の一部はそのままアフリカへ送ることにして、自分はこの事件の調査に立ちあうため引返したというのは事実らしい。君はどう思うね、ワトスン君?」
「ふかい関心をもっているのだね」
「ふかい関心――そうさ。ここにわれわれのまだ握っていない糸の一端《いつたん》がある。これをたどってゆけば、もつれが解けるのかもしれない。元気をだしたまえ、ワトスン君。材料はまだ出つくしていないのだ。それをすっかり手に入れたら、困難はすぐに乗りこえられるに違いない」
ホームズのこの言葉が、かくも迅速《じんそく》に実現されようとは思いもよらず、またかくも奇怪な新展開があって、捜査に新しい道が開けようとは、夢にも思わないことだった。
翌朝窓に向かって剃刀《かみそり》をつかっているとき、表に馬のひづめの音が聞こえるので、のぞいてみると、二輪の小さな馬車が全速力で近づいてきて、私たちの家のまえで停《と》まった。すると牧師がとび降りて、庭の小路をころぶように駆《か》けてきた。ホームズはもうちゃんと服を着けていたので、私たちは急いで出迎《でむか》えた。
牧師はロクに口もきけないほど興奮していたが、やっとのことでいうのを聞くと、話はたいへんである。
「ホームズさん、私どもは悪魔に乗り移られていますよ。このあわれな私の教区ぜんたいがそうです」と彼は叫んだ。「サタンが教区を荒しまわっているのです。私たちはサタンの手に引渡《ひきわた》されてしまいました」
牧師は不安のあまりそのへんを踊《おど》りまわった。これでまっ青になって眼を引きつらせていなかったら、滑稽《こつけい》にさえ見えたろう。やっと彼は恐るべき新事実を口外したのである。
「モーティマー・トリゲニスさんがゆうべ亡《な》くなりました。しかも兄さんたちと全く同じ徴候《ちようこう》でです!」
ホームズは一瞬《いつしゆん》のうちに全エネルギーをこめてとびあがった。
「あなたの馬車に、私たち二人乗れますか?」
「お乗せできます」
「ではワトスン君、食事はあとにしよう。ラウンドヘイさん、まかせてください。急いで――急いで。現場がかき乱されないうちに行かなくちゃなりません」
モーティマー・トリゲニスは牧師館の角《かど》になっているところを二室つかっていた。一つは階上で、一つはそのすぐ下だった。階下は大きな居間になっていて、二階は寝室だった。そとはクロケット球戯《きゆうぎ》用の芝生《しばふ》で、芝は窓の下まできていた。
行ってみると、医者も巡査もまだ来てはいないので、現場はそっくりそのままの状態に保たれていた。三月のあの霧《きり》の朝見たその場の光景を、以下ありのままに描写《びようしや》しよう。私の頭には消えるべくもない印象がのこっているのである。
部屋の空気はおそろしく重たくて息苦しかった。最初にはいっていった女中がすぐに窓をあけ放ってくれたからよいようなものの、さもなければたまらない息苦しさだった。これは主として中央のテーブルにランプが点火したまま放置されて油煙《ゆえん》をあげているのが原因だった。そのそばにモーティマー・トリゲニスが椅子に背をもたせ、うすいあごひげをつきだすようにして、眼鏡を額に押しあげたまま死んでいるのだった。
肉のおちたあさ黒い顔を窓のほうに向け、妹のときとそっくりに、恐怖《きようふ》にねじまげている。手足も引きつっているし、指などは恐怖の発作《ほつさ》のうちに死んだものかゆがんでいる。服はちゃんと着けているけれど、どうやら大急ぎで着たらしい様子が現われていた。寝床《ねどこ》にはいっていったん寝た形跡《けいせき》があるということだったが、してみれば悲惨《ひさん》な最期《さいご》をとげたのは、けさ早くのことなのであろう。
この死の部屋にはいったとたんに、ホームズの態度は一変したが、これを見たものはだれでも、外見上は冷静な彼の心底に、火のような情熱が脈動しているのに気がつくだろう。たちまち彼は緊張《きんちよう》し機敏《きびん》になり、その双眼《そうがん》は輝き、顔はひきしまり、その手足は武者《むしや》ぶるいさえはじめた。
彼はまず芝生を見てから、窓から部屋へはいってくると、ひと回りしてから二階の寝室へあがっていった。それはまるで獲物《えもの》のかくれ場所へ突進する猟犬のようであった。
寝室へいった彼はすばやくあたりを見まわしてから、最後に窓をさっと押しあけた。そこに何か新たに興奮の原因を発見したらしく、窓からからだを乗りだすようにして、彼は歓声をあげた。それから階段を駆け降りて、ふたたび窓から芝生へ出ると、そこに腹ばいになった。
それから勢いよく起きあがると、また部屋のなかへとびこんだ。まるで獲物をまぢかに追いまわす狩人《かりゆうど》の張りきりかたである。
ランプはごく普通《ふつう》の型のものだったが、ホームズはそれを細心にしらべ、油つぼの寸法をはかったりした。それからレンズをだして、火屋《ほや》の上部にはめてある滑石《タルク》の覆《おお》いをくわしくしらべていたが、その上部の表面にこびりついている灰のようなものをかき落として封筒《ふうとう》におさめ、手帳のあいだにしまいこんだ。
それがすんだところへ医者や警察官が到着《とうちやく》したので、ホームズは牧師に合図して、われわれ三人で芝生へ出ていった。
「うれしいことに、捜査の結果はかならずしも皆無《かいむ》ではありませんでした。ここにいてあの人たちとかれこれ遣《や》りあっている暇《ひま》はありませんから、このまま帰ろうと思いますが、どうか警部によろしくお伝えください。ついでに寝室の窓と居間のランプに注意するようにってね。どちらもそれぞれ何かを暗示していますが、この二つを組合せて考えれば、ほとんど決定的だといえます。もしあの人たちがもっと詳《くわ》しく知りたければ、私の家でいつでもお目にかかります。それじゃワトスン君、ほかの方面を調べにゆこうよ」
警察はしろうとの出しゃばるのをよく思わないのか、それとも有力な手掛《てがか》りを得た自信でもあったのか、それから二日間というもの警察がわからは別に問いあわせもなかった。
そのあいだホームズは家にいてタバコをやったり、ぼんやり考えこんだりもしたけれど、多くは一人で田舎道を散歩してばかりいた。その散歩はずいぶん長時間にわたったが、帰ってきてもどこへ行ってきたとも言わなかった。
一度|妙《みよう》な実験をやったので、彼の調査の方向だけは私にも見当がついた。彼はあの朝モーティマー・トリゲニスの死体のそばで燃えていたのと同じランプを一つ買ってきた。それに牧師館で使っているのと同じ油を入れて、それが燃えつきるまでの時間を測った。もう一つの実験のほうはとても不愉快《ふゆかい》なもので、私には忘れられそうもない記憶《きおく》として残っている。
「君にもわかっているだろうが」とある午後彼はいいだした。「僕たちの入手し得たいろんな報告のなかに、一つだけ共通した点がある。それは悲劇の起こった部屋へ最初にはいったものに与えた部屋の空気に関するものだ。
モーティマー・トリゲニスは、医者の馬車に乗せてもらって兄たちの家へいったことを話したとき、医者が部屋へはいるなり気でも遠くなったように、椅子にたおれこんだといっていたね? 忘れたのかい? いや、たしかにそういっていた。
そしてあの家の家政婦のポーター夫人も、部屋へはいっていったら気絶してしまい、気がついてあとで窓をあけたといっていた。
これにたいして第二の事件――モーティマー・トリゲニス自身の死んだとき、先に女中が窓をあけ放っておいたにもかかわらず、僕たちが着いたとき、あの部屋がおそろしく息苦しかったのをまさか忘れてはいないだろう。きいてみるとあの女中は気分がわるくなって、あとで寝こんだほどだそうだ。
これらの事実がきわめて暗示的なのを認めるだろうね。いずれの場合にも、毒性の空気という事実がある。またいずれの場合にも、室内で燃焼が行なわれていた――初めの場合は暖炉《だんろ》が、あとの場合にはランプが。
暖炉のほうは火を必要としたのだが、ランプは――油の消費量からわかるのだが――すっかり夜が明けてから点火されている。これはなぜか? この疑問への回答はともかくとして、燃焼と空気の悪化と発狂《はつきよう》または死亡の三者のあいだに、何かの脈絡《みやくらく》のあることだけは確かだ。どうだね?」
「そうらしくも思われる」
「少なくともこれを実働的仮定として採用してよいと思う。ではここで、いずれの場合にも奇怪な中毒性のガスを発散する物質が燃されたものと考えてみよう。第一例、すなわちトリゲニス一家の場合は、この物質は暖炉のなかに装置《そうち》された。窓は閉めてあったが、燃焼ガスの相当量は煙突《えんとつ》から出ていったに違《ちが》いない。
だから第二例の場合に比して、室内に充満《じゆうまん》した有毒ガスの量は少なかったものと思われる。第二例では、室外に漏《も》れたガス量ははるかに少なかったのだ。そのことは結果にも現われていると思う。最初の場合には、おそらく体質が敏感《びんかん》だと思われる女性だけが死んで、男のほうは二人とも、一時的にか永久にか発狂するだけに止《とど》まっている。この現象はきっとこの毒物の第一効果なのだろう。
第二の場合には、毒物の効果は完全だった。だからこれらの事実は、燃焼によって効果を現わす毒物を使ったという説を裏がきするものだと思う。
頭のなかでこれだけの推理を組みたてていたから、僕《ぼく》はモーティマー・トリゲニスの部屋へ行ったとき、そういう毒物は残存していないかと注意した。捜《さが》すところはむろんランプの火屋《ほや》の滑石の覆いか油煙よけの部分だ。見ると果してかすのような物がこびりついているし、はじのほうには燃えのこりの茶いろの粉末がくっついていた。僕はこれを半分だけとって、封筒におさめてきた」
「なぜ半分だけにしたのだい?」
「ぼくだって警察の邪魔はしたくないからね、ワトスン君。発見した証拠《しようこ》は、すべて警察がわのため残しておいたのだ。彼らにそれだけの明敏ささえあれば、滑石についた毒物を発見できたはずなのだ。
それではこのランプに火を入れてみよう。ただし社会に有為《ゆうい》な人物が二人も早期に死んでは困るから、あらかじめ窓を開け放っておこう。君は開け放った窓ぎわのそのひじ掛《かけ》椅子に坐《すわ》っていたまえ。ただしどこかの利口な人のように、こんな問題に係わりあいたくないというのなら別だがね。なに、最後まで見届けたいって? そういってくれるものと思っていたよ。
この椅子を君と向かいあわせに、毒から同じ距離《きより》のところにおいて僕が坐る。ドアは少しあけておこう。こうすればお互《たが》いに相手の様子が見ていられるから、危険な徴候が現われたら、実験をすぐ中止すればいい。わかったね? じゃ封筒のなかの資料を、あるいはその残存物というべきか、火のついたランプのうえにおくよ。こういう具合にね。そして坐ったまま経過をまつのだ」
効果はすぐに現われた。椅子に腰《こし》をおちつけたと思うと、早くも私はむかむかするようなにおいをかすかに感じたのである。ぷんと感じたと思ったら、もう私の頭は自由を失なってしまった。眼《め》のまえにまっ黒な厚い雲が現われて渦《うず》まき、眼にはみえないけれどこの雲のなかから、ぼんやりした恐《おそ》ろしいもの、この世のものとも思えぬ異形のものが現われそうな気がした。
おぼろげなものが厚い雲のなかにもやもやして、そのどれもが威嚇《いかく》的であり、何かのくるのを警告していた。何とも名状すべからざるものが近づいて、そのため私は精神的に打ち倒《たお》されそうな気がするのである。
私は氷のような恐怖におののいた。髪は逆だち眼はとびだし、口はあいたままで舌が皮になったように感じられた。どこかがポキリと折れでもしたように、頭がすっかり混乱してしまった。私は声をたてようとした。だが出たのはしゃがれたような低い声だけで、それもどこか遠くのほうに聞こえた。
そのとき私は何とか逃《のが》れ出ようとする努力のうちに、この絶望の雲をつき破って、ホームズの顔をちらりと見た。まっ青な顔をこわばらせ、恐怖にしかめている――モーティマー・トリゲニスたちの死顔にそっくりである。
ホームズのこの顔をみて、私はハッと正気にたち返った。椅子からとび出してホームズを両手で抱《だ》きかかえ、もつれあうようにしてドアのそとへ出た。そしてつぎの瞬間《しゆんかん》私たちは芝生へ出て、並《なら》んで横になっていた。私たちを包む恐怖の雲をつき破って、輝《かがや》かしい陽光を意識するだけだった。
霧のなかから景色が現われるように、私たちの胸からしだいにあやしい雲がはれて、平静と理性がよみがえってきた。私たちは芝のうえに起きあがって、ねっとりとした額を拭《ふ》き、いまの恐るべき経験の跡《あと》がのこってはいないかと、不安のうちに顔を見あわせた。
「おどろいたねえ!」まだ落ちつかぬ声でホームズがやっといった。「なんともすまなかったし僕として感謝するよ。自分ひとりでもやってはならない実験に、君まで引っぱりこんだのだからねえ。まったくすまないことをしたよ」
「なあに、君に協力できるのは、僕の最大の喜びでもあり、特権だと思っているよ」ホームズがこんなに温かさを見せるのは初めてなので、私は感激《かんげき》した。
それきりで彼《かれ》は、半ばユーモラスで、半ば皮肉ないつもの態度にかえってしまった。
「僕たちを発狂さすには及《およ》ばなかったよ。率直《そつちよく》な観察なら、あんな乱暴な実験をするとは、もうすでに正気じゃないというだろうよ。だが正直のところ、効果があんなに早く、しかも激烈《げきれつ》だろうとは夢《ゆめ》にも思わなかったな」
といって彼は家のなかへ駆けこみ、まだ燃えているランプを手をいっぱいに伸《の》ばして持ちだしてくると、いばらの茂《しげ》みの中へ放りこんでしまった。
「あの部屋は空気の入れかわるまで、もう少し待とう。こうなったらワトスン君も、二つの悲劇がいかにして行なわれたか、もはや一点の疑念もないだろうね?」
「ないともさ」
「だがその原因については、まだ何もわかっていない。まあこの東屋《あずまや》へはいりたまえ。その点を二人で研究してみよう。僕はいまの毒ガスでのどがまだ変な気がするよ。
第一の事件のときは、あらゆる証拠がモーティマー・トリゲニスを犯人と指摘《してき》していたことを認めなければならない。だがそのトリゲニスも第二の悲劇では犠牲者《ぎせいしや》だった。
ここで思い出す必要のあることは、第一に、あとで仲直りはしたけれど、あの一家には一時兄弟げんかのあったことだ。そのけんかがどの程度はげしいものだったか、また仲直りが心からのものであったかどうか、われわれにはわからない。しかしあのこすっからい顔に、眼鏡のおくでガラス玉のような抜目《ぬけめ》のない眼を光らせていたモーティマー・トリゲニスのことを考えると、とくに寛大《かんだい》な性格の男だとは僕には思われない。
つぎにカード遊びをしているとき、庭で何か動いていたという一件だが、そのために一時悲劇の原因を勘《かん》ちがいしかけたあの話は、モーティマー自身の口から出たものだったね。してみると彼は僕たちに誤解をおこさせる動機をもっていたわけだ。
最後に、モーティマーが帰りぎわに炉のなかへ毒物を投げこんでいったのでないとしたら、いったい誰《だれ》がそれをしたのか? 中毒はモーティマーが帰っていった直後に起こっているのだ。あのとき誰か第三者が部屋へはいってくれば、家族はおそらく席をたっていると思う。のみならず、コーンウォールのような穏《おだ》やかな田舎で、夜の十時以後に訪問するものなどあるわけはない。してみるとあらゆる証拠が、モーティマー・トリゲニスが犯人だと指摘していると考えてよいと思う」
「では本人は自殺ということになるぜ」
「そこだがね。皮相的な見かたをすれば、そういう推測も成立しないことはない。肉親のものをあんな目にあわせたという心の重荷を負ったものなら、後悔《こうかい》のあまりそれくらいのことはやりかねないといえるだろう。しかし一方に、それを強く否定する有力な理由があるのだ。
幸いにしてこのことをよく知っている男が一人だけイギリスにいるが、その本人の口から今日の午後直接くわしい説明を聞くように、僕は手はずをしておいた。おや、約束《やくそく》より少し早くきたな。――レオン・スターンデール博士、どうかこちらへお通りください。あちらの部屋は化学の実験をやったものですから、とても高名なお客をお通しなんかできないような状態になっているのです」
庭の小門がカチッといったと思うと、アフリカ大探検家が巨大《きよだい》な姿を現わし、ちょっと驚《おどろ》いた様子で、私たちの坐っている質素な東屋のほうへはいってきた。
「お求めによって来るにはきましたがな、お手紙はつい一時間ばかりまえに受取ったばかりです。それにしてもなぜこの呼びだしに応じなければならないか、その理由が私にはわからんです」
「そのことでしたら、お帰りまでには何とか明らかになりましょう。それはそれとして、私の勝手なお願いをこころよくお聞きいれくださったことを、まず感謝します。こんな吹《ふ》きさらしの場所へお迎えする失礼はお許しいただきたいのですが、じつはこのワトスン君と私は、新聞がコーンウォールの恐怖≠ニいって騒《さわ》いでいる事件について、その結末にもうすこしで一章をつけ加えそうになったところなので、ここしばらく戸外のきれいな空気のなかにいたいと思いますのでね。それにまた、これから話しあう問題は、個人的にあなたにきわめて密接な関係があると思いますから、こうして盗《ぬす》み聞きされる心配の少しもない場所を選ぶのも、大いによいことだと思うのです」
大探検家は口から葉巻をとって、けわしい眼つきでホームズを見つめた。
「個人的に私にきわめて密接な関係があるといわれるが、いったい何の話をされるつもりか、私には見当もつきかねますな」
「モーティマー・トリゲニス殺しの一件です」
瞬間、私は武器を持っていればよかったと思った。スターンデールは恐ろしい顔をさっと赤ぐろくした。両眼はぎらぎら光り、額に青筋がうかんだ。そして両のこぶしをかためて、ホームズめがけて躍《おど》りかかろうとしたが、必死の努力で踏《ふ》みとどまり、厳として冷やかな態度をとりもどしたが、性急にいきりたっているよりも、おそらくこのほうが危険をはらんでいた。
「法律もなにもない蛮人《ばんじん》のあいだで長らく暮《く》らしてきたので、つい自分だけの料簡《りようけん》で事を処する癖《くせ》がついているのです。これは忘れないようにしてくださいよ。あなたに傷害を加えることなどは、決して私の本心ではないのですからな」
「その点は私だって同じですよ。何よりの証拠には、何もかも知っているのに、私が警察は呼ばずに、あなたをお呼びしたのでおわかりでしょう」
スターンデールはあえぎながら腰をおろした。その長い冒険《ぼうけん》的生活のうちに、威圧されたのはこれがおそらく初めてであろう。ホームズの態度には逆らうことのできない平静な自信があった。客は手を握《にぎ》ったり開いたりしながら、しばらく口ごもっていたが、やっといった。
「なにがいいたいのです? もしこれがはったりなら、あなたも悪い男を相手に選んだものですな。遠まわしないいかたはやめましょう。本当はなにをいいたいのです?」
「いいましょう」とホームズがいった。「それというのも、胸を開いて話せば、率直にお答えが得られると思うからです。私の今後の出かたは、全面的にあなたの答弁の性質いかんによります」
「私の答弁ですって?」
「そうです」
「何にたいして答弁するのです?」
「モーティマー・トリゲニス殺しの容疑にたいする答弁です」
スターンデールはハンカチで額の汗《あせ》を拭いた。「だんだん話がわかってくる。こんな馬鹿《ばか》々々しいはったりが成功すると思っているのですか」
「はったりは」とホームズは手きびしくいった。「そちらのことです、レオン・スターンデール博士。私はそんなことをした覚えはありません。その証拠に、私がこの結論を得た基礎《きそ》になっている二、三の事実をここで申しましょう。所持品の大部分をアフリカゆきの船に積みこんだままにしておいて、あなたがプリマスから急いでかえってきた件については私はなにもいいませんが、それをみて私は、こんどの劇《ドラマ》を再現する上で、あなたが必要な一員であったことを知ったとだけ……」
「私の帰ってきたのは……」
「その理由はすでに聞きましたが、私には納得《なつとく》できなかったのです。だがこの問題はふかく追及《ついきゆう》しますまい。あなたは私が誰を疑っているかと思って、様子をさぐりにここへ来た。私は答えるのを断わった。するとあなたは牧師館へいって、しばらくそとで待っていたが、やがて自分の家へ帰っていった」
「どうしてそんなことがわかります?」
「尾行《びこう》したのです」
「誰も見かけなかったが……」
「私は人を尾行するのに、見つかるようなヘマはしませんよ。あなたは家へ帰って、ひと晩寝もやらずに考えたあげく、ある計画をたて、早朝その実行にかかった。明けがたにあなたは家を出て、まず門のところで赤っぽい小石をいくつか拾ってポケットに忍《しの》ばせました」
スターンデールはぎくりとして、あきれ顔にホームズを見つめた。
「それから牧師館まで一マイルの道を急いだ。なおいえばそのときあなたは、いまはいているぎざぎざのあるテニスシューズとおなじものをはいていました。
牧師館では果樹園をぬけ、生けがきをくぐってモーティマー・トリゲニスの部屋の窓の下へ行きました。もう夜はすっかり明けているけれど、家のなかでは誰もまだ起きた様子がない。あなたはさっきの小石をだして、二階の窓をめがけて投げつけた」
スターンデールはすっくと立ちあがって、
「君は悪魔《あくま》そのものだ!」と叫《さけ》んだ。
ホームズはとんだあいさつににっこりした。
「トリゲニスが窓へ姿を現わすまでには、二にぎりか三にぎりも小石を投げたのでしょう。あなたは降りてこいと手真似《てまね》をしました。トリゲニスは急いで服を着けて、下の居間へ降りてきた。あなたは窓からはいりましたね。あなたとの会見が行なわれた。ほんの短かい会見だと思われますが、そのあいだあなたはたえず部屋のなかを歩きまわっていた。
それからあなたはひょいと窓からそとへ出ると、あとを閉めて、芝生《しばふ》に立って葉巻をふかしながら、どういうことになるかとじっと見ていた。そのうちトリゲニスが死んでしまったので、あなたは来たときのように帰っていった。
さてスターンデール博士、こういうあなたの行動を、どう弁明しますか? そしてその動機はどこにあったのです? 私を馬鹿にしたり、あるいはごまかそうとでもしたら、私は手を引くかわりに、あとのことはどうなっても知りませんよ」
こうまでいわれて、スターンデール博士の顔は死灰のようになった。両手にその顔をうずめて、しばらくじっと考えこんでいたが、ふいに衝動《しようどう》的な身振《みぶ》りをして胸のポケットから写真を一枚ぬきだし、私たちのまえの粗末《そまつ》なテーブルのうえに投げだした。
「あんなことをしたのも、このためです」
それは美しい婦人の半身像だった。ホームズはそれをのぞきこんで、
「ブレンダ・トリゲニスさんですね」といった。
「そうです。ブレンダ・トリゲニスです」と訪問者はくり返した。「ずっとまえから私は彼女《かのじよ》を愛してきました。彼女も何年ものあいだ私を愛していました。私がコーンウォールのような田舎に住むのを、世間では不思議に思っていますが、そこに秘密があったのです。私にとってこの世で何より大切なもの、そのそばへ私は引きつけられたのです。
彼女とは結婚《けつこん》できませんでした。それは私に妻があるからです。妻は数年まえに私をすて去りましたが、残念なことにイギリスの法律は私に離婚《りこん》の自由を与《あた》えてくれません。何年もブレンダは待ってくれました。私も待ちました。しかも待った結果がこれなのです!」
彼は大きなからだをふるわせて、はげしくすすり泣き、まだらいろのあごひげの奥《おく》ののどをかきむしった。それからようやく自分を制して語り続けた。
「牧師がよく知っています。あの人には何でも打ちあけてきたのです。尋《たず》ねてごらんなさい、彼女はこの世の天使だったというにきまっています。それだからプリマスへ電報もしてくれたので、私は引返してきたのです。最愛のものがそんなことになったと知っては、荷物やアフリカが何なんでしょう? あなたが私の行動でわからなかったすじみちがわかったでしょう、ホームズさん?」
「先をどうぞ」とわが友はいった。
スターンデール博士はポケットから紙に包んだものを出して、テーブルのうえにおいた。包みの表には《*》ラディクス・ペディス・ディアボリ=y訳注 悪魔の足の根の意】とラテン語で書いて、その下に赤い紙をはって毒物の標示がしてある。彼はそれを私のほうへ押《お》してよこした。
「あなたはお医者だと思いますが、こんな薬剤《やくざい》をご存じですか?」
「悪魔の足の根ですか? 聞いたことがありませんねえ」
「ご存じなくても、医者として名折れではありません。それというのも、|ブ《*》ダ【訳注 ブダペストのこと】の研究所に見本が一つあるだけで、ヨーロッパ中をさがしてもほかにはない品だからです。どこの薬局方にもまた、どんな毒物学の文献《ぶんけん》にも出たことはありません。
この根は人間の足のようでもあり、山羊《やぎ》の足に似たところもあるので、植物学の心得のある伝道師が奇抜《きばつ》な名をあたえたのです。西アフリカのある地方では禁厭師《まじないし》が神の裁断用の毒に使うので、彼らのあいだで秘密にされています。この見本はウバンギ地方で事情あって私が手に入れたのです」
話しながら博士は包みをひろげた。なかにはいっているのは赤茶色でかぎタバコのような粉末だった。
「それで?」ホームズがきびしく先をうながした。
「お待ちください。ありのままをいまお話しするところです。あなたがそこまで知っておられる以上、私としてはありのままを知っていただくのが有利であるのは、申すまでもないところですからね。
トリゲニス家と私の血縁《けつえん》のことはいつか申しあげました。妹との関係があるから、私は兄たちとも親しくしていました。あの一家は金銭のことで争いを生じ、そのためモーティマーだけは疎遠《そえん》になりましたが、まもなく和解した模様です。のちにはほかの人と同じように、私はモーティマーとも交わっていました。モーティマーはずるくてこそこそと策を用いるような男ですから、いろいろ疑わしいと思うようなこともありましたけれど、私としてはけんかをするまでにはなりませんでした。
ある日、つい二週間ばかりまえのことですが、このモーティマーが私の家へ来ましたので、アフリカの珍《めずら》しい品など出して見せました。その一つとしてこの粉末も見せて、その不思議な性質を話して聞かせました。恐怖《きようふ》感を司《つかさ》どる脳中枢《のうちゆうすう》を刺激《しげき》することや、種族の司祭からこの物質による試練をうけた原住民は、発狂《はつきよう》するか強ければ死ぬのだというようなことに加えて、ヨーロッパの科学者などは無力なもので、死体をみてもこの毒物が原因と見ぬくことはできないことなど話してやったのです。
そのとき私は一度も部屋から出なかったので、どうして盗《と》ったかわかりませんが、とにかく私が戸だなをあけたり、箱の上にかがみこんでいるすきに悪魔の足の根を少し盗んだに違《ちが》いないのです。今から考えてみれば、あのとき彼は分量だの効果の現われる時間などを、妙《みよう》にくどく質問しましたよ。まさかそんなたくらみがあろうとは夢にも思わないから、詳《くわ》しく答えてやりましたがね。
そのことは、プリマスで牧師の電報をうけとるまで、すっかり忘れていました。この悪者は、もう船は出帆《しゆつぱん》してしまい、しかも私はアフリカへ行ったきり何年か帰ってこないものと思って、安心して事を行なったのです。でも電報が間にあったので、私はすぐに引返してきました。もちろん詳しく聞けば聞くほど、私の毒が使われたことは疑いの余地がありませんでした。それでも念のため、ほかの可能性も考えられるかと思って、あなたをお訪ねしたのです。しかしそれは望むべくもないことでした。
モーティマー・トリゲニスが犯人であるのは、もはや断定的でした。原因は金ですが、一家のものがみんな発狂してしまえば、自分一人が全財産の管理をすることになるものと信じて、浅はかにも私から盗んだ悪魔の足の根の粉末を使い、二人の兄を発狂させたうえに、私が何ものにも代えがたく愛し愛されていた実妹のブレンダを殺してしまったのです。そういう罪状のモーティマーにどんな懲罰《ちようばつ》を加えるべきでしょうか? 法に訴《うつた》えるべきでしょうか? どんな証拠《しようこ》があるでしょう? 以上のことが事実であるのを私は知っていますけれど、いささか幻想《げんそう》的だから、この地方から選出される陪審《ばいしん》団が信じてくれるでしょうか? あるいは信じさせることに成功するかもしれないけれど、しかし私には失敗することはできなかった。
心のどこかで、しきりに復讐《ふくしゆう》を叫んでいます。私はさっきホームズさんに、法律の行なわれない世界に長らく住んできたため、とかく自分の料簡で事をきめる癖がついたと申しました。こんどもそれです。彼もまた兄妹《きようだい》たちと同じ運命を担《にな》うべきだと私は決めました。自らその道を選ばないなら、私の手で正義を樹立しようと決心したのです。いまのこの私ほど自分の生命を軽んじたものは、イギリス広しといえども、ほかにありますまい。
これでいうべきことは言いつくしました。あとはあなたがいわれたとおりです。お言葉のとおり私はひと晩まんじりともせず、明けがたに家を出ました。
彼の眼《め》をさますことの困難を予想しましたから、お話にあったとおり小石を少しもっていって、窓に投げつけました。すると降りてきて、窓をあけてくれたので、そこから居間へはいって私は彼の罪を面詰《めんきつ》してやりました。裁判官|兼《けん》死刑執行人《しけいしつこうにん》としてやってきたのだといって聞かせました。
卑劣漢《ひれつかん》は私がピストルを出したのを見て、腰《こし》をぬかして椅子にしりもちをつきました。そこで私はランプに火をいれ、そのうえに粉をおいて窓のそとに出て、もし逃《に》げだそうとでもすれば射《う》つぞと嚇《おど》かして監視《かんし》していました。
やつは五分間で死んでしまいました。ああ、その死にざまといったら! でも罪もない私の愛《いと》しいもの以上の苦しみを味わったわけでもないのですから、私の心は冷やかでした。
以上が私の話です。ホームズさんだって、もし女を愛していたら、これくらいなことはやったと思います。いずれにしても私はあなたの手中にあります。どうか存分の処置をお願いしましょう。さっきも申すとおり、いまの私くらい死を恐《おそ》れぬものは、世のなかにあるまいと思いますよ」
ホームズはしばらく無言でいたが、
「あなたとしては、どうなさるおつもりだったのですか?」と尋ねた。
「中央アフリカに骨を埋《う》めるつもりでした。仕事がまだ半分しか完成していないのです」
「では行って、あとの半分を完成なさるのですね。少なくとも私に関するかぎり、邪魔《じやま》だてはしません」
スターンデール博士は巨体を起こし、重々しく一礼して、東屋《あずまや》を出ていった。ホームズはパイプに火をうつし、そのタバコ入れを私によこしながらいった。
「毒性のない煙《けむり》を吸いこむのも、この際好ましい気分の転換《てんかん》だよ。君も同意すると思うが、こんどの事件はなにも干渉《かんしよう》してくれと頼《たの》まれて手がけたわけじゃなかった。捜査《そうさ》は独自のものだったのだから、行動も独自であるべきだ。あの男を告発しろとは君もいわないだろうね?」
「そんなこというものかね」
「僕は恋愛《れんあい》の経験はない。しかしもし恋愛したとして、相手の女がこんどのような目にあえば、やっぱりあの無法なライオン狩《が》りと同じことをやりかねないと思うよ。やらないと誰がいえるだろう?
わかりすぎたことだから、説明なんかすると、君の才知を馬鹿にすることになるが、そんなつもりでいうのじゃない。僕の捜査の出発点は、窓わくのうえにあった小石だった。あれは牧師館の庭のものとはまったく違っていた。スターンデール博士というものに注意するようになってからはじめて、その家に同種のものがたくさんあることを知ったのだ。
それに夜が明けはなれているのにランプがついていること、火屋《ほや》の上部にかさかさしたかすのこびりついていることなどは、それぞれ推理の鎖《くさり》の一環《いつかん》をなすものだった。
じゃワトスン君、もうこんなにいまわしい問題は忘れさって、あくまで穏《おだ》やかな気持でカルディアの語根の研究を再開することにしようよ。偉大なケルト語の一分派たるコーンウォール語のなかに尾を引いているにちがいないのだからね」
[#地付き]―一九一〇年十二月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
最後の挨拶
シャーロック・ホームズの結詞《むすび》
それは八月二日の夜九時のことだった。世界の歴史上もっとも恐《おそ》るべきあの八月である。この堕落《だらく》した世界は、神ののろいに覆《おお》われていると人は考えたかもしれない。それというのも恐るべき静寂《せいじやく》のうち、息づまるようなよどんだ空気のなかに、ぼんやりした予感があったからである。
太陽はとっくに沈《しず》んで、遠くの西の空に新しい傷口をみるようなまっ赤な雲の裂《さ》け目がみえた。上空には星がきらめき、足下には船の灯火が湾《わん》の水面に照りはえている。
有名なドイツ人が二人、庭園の遊歩道の石の欄干《らんかん》のそばに立っていた。破風《はふ》の大きい低く横ながい家を背景に、二人は巨大《きよだい》な白亜《はくあ》の断崖《だんがい》のすそに弓なりにひろがる波うちぎわを見おろしている。流浪《るろう》の鷲《わし》のようなフォン・ボルクが、四年まえから安住している土地である。
二人は額を寄せあって、低い声で密談を交《かわ》している。下から見あげると、二人の吸っている葉巻の火が二つぽっかりと、やみを見おろす邪悪な魔神《ましん》のらんらんたる眼光のようにも思われるのだった。
このフォン・ボルクは非凡《ひぼん》な男だった。数多い|カ《*》イゼル【訳注 ドイツ皇帝】の忠実な密偵《みつてい》のうちでも、比肩《ひけん》するものもないずば抜《ぬ》けた存在だった。はじめ、彼《かれ》がどこよりも重要視されるイギリスへの使節に推挙されたのは、才能を見こまれたからであるが、いざ新らしい仕事をやらせてみると、新任務の真相を知るものはこの世でたった六人しかいないのだが、その才能はいやがうえにも真価を発揮してきたのである。
真相を知る六人――その一人はいま彼の相手にしている大使の書記官長フォン・ヘルリンク男爵《だんしやく》で、その人の百馬力という大型のベンツ製自動車は、細い田舎《いなか》道をいっぱいにふさいで、ロンドンへ帰る主人の乗車を待っているのである。
「僕の大勢判断によれば、君は一週間以内にベルリンへ帰ることになると思うよ」といったのは書記官長である。「帰ったらきっと、びっくりするほどの歓迎《かんげい》をうけることだろう。君がこの国であげた功績については、わが国の最高首脳部でも高く評価されている模様だからね」
書記官長は背がたかく、胸の厚い巨体をもち、ゆっくりと、おもおもしい口の利《き》きかたをした。これが長い外交官生活中の主な財産だったのである。
フォン・ボルクは笑った。
「イギリス人なんて、騙《だま》すのはわけないからね。こんな扱《あつか》いやすい、単純な国民はありやしないよ」
「それはどうかな」と相手は考えぶかくいった。「妙《みよう》に限界のあることはたしかだから、そこをよく見ぬかないとね。うわべが単純なものだから、なれないとつい嵌《は》められることになる。初対面の印象は、どれもこれもソフトだが、しばらくつき合ううちに、コチンとしたものに突《つ》きあたる。そこで限界にきたことがわかるから、こっちはその事態に適応しなきゃならないのさ。たとえば彼らの島国的な因襲《いんしゆう》だが、これなどはよく観察しておく必要がある」
「たとえば正しい作法≠ニいったようなことだね?」といって、それでさんざん悩《なや》まされてきたフォン・ボルクはそっと溜息《ためいき》をもらした。
「あらゆることに大英帝国≠フ偏見《へんけん》をもってのぞむことがさ。たとえていえば、これは僕《ぼく》の大失敗だけれど、僕が失敗ばかりやっている男でないのを君はよく知っていてくれるから、あえていうのだが、初めて着任したときのことだった。こちらのある閣員から週末の集会に田舎の家へ招待をうけたことがある。ところがみんなの話が途方《とほう》もなく破目《はめ》をはずしているのさ」
フォン・ボルクはうなずいて、「あの時は僕も出席していた」と冷淡にいった。
「そうだったね。そこで僕はむろんそのとき聞いた話の要点をベルリンへ報告したさ。ところが困ったことに、うちの大使はそういうことの扱いかたに少し頭が鈍《にぶ》いもんだから、その席上での話の内容を知っていることのわかるような発言をしちまったのさ。もちろんその材料の出処は僕だと、すぐイギリスがわに突きとめられてしまった。おかげで僕はさんざんな目にあわされたよ。そのときばかりはイギリス側の主催者にはソフトなところなんかこれっぽっちもなかったね。信用を回復するのに二年もかかったよ。そこへゆくと君なんか、運動家らしいポーズがあるから……」
「いや、ポーズだなんていわれちゃ困るね。ポーズは技巧《ぎこう》的なものだけれど僕のは自然なんだ。生まれつきのスポーツマンさ。僕は心からそれを楽しんでいる」
「ではますます効果があがるわけだ。ヨットの競争をしたり、狩猟《しゆりよう》をともにしたり、そのほかポロにしても、彼らに対抗《たいこう》できないスポーツはない。わけても四頭立馬車ときたら、オリンピアで賞をとれるだろう。若い士官とボクシング試合までやったというじゃないか。勝負はどうだった? 誰《だれ》も君のことをむずかしくなんか考えやしないよ。スポーツをやる面白《おもしろ》いやつ≠ニかドイツ人にしちゃ話せる男≠ニか、酒は強いし、ナイトクラブには詳《くわ》しいし、向こう見ずな町のだてものくらいにしか思ってやしない。
それがこんな田舎の家に住んでいて、この国の不幸の半分は根源をここに発しているのだからねえ! スポーツ好きの田舎|紳士《しんし》が、じつはヨーロッパでも腕《うで》っこきの秘密情報員だとはねえ! 天才だよ、フォン・ボルク君。たしかに天才だね」
「おだてるね、男爵。それはね、僕もこの国へきて四年になるけれど、まんざら無駄《むだ》にすごしたわけでもないと思う。今まで一度も僕の仕入れたものを見せたことはなかったね? まあこっちへはいってくれたまえ」
書斎《しよさい》のドアが直接テラスに開いていた。フォン・ボルクはそれを押《お》しあけて先にたち、カチッと電灯のスイッチをひねった。それからつづいて大柄《おおがら》なヘルリンク男爵のはいるのを待ってドアを閉めると、格子《こうし》つきの窓に厚いカーテンをおろして注意ぶかく調節した。これだけ細心の準備をして、そのうえ具合をたしかめてから、フォン・ボルクはやっと日にやけたその鷲のような顔を客に向けた。
「書類によってはもう移動させたものもある」と彼はいった。「きのう妻や召使《めしつか》いたちが|フ《*》ラッシング【訳注 オランダの海港ヴリシングのこと】へ向けて立ったので、あまり重要でない書類はそれに持たせたけれど、あとは大使館の保護を受けなければならない」
「君の名はもう私的|随員《ずいいん》ということに登録してあるから、荷物に面倒《めんどう》はないはずだ。もちろんわれわれが退去するに及《およ》ばない場合もあり得《う》る。イギリスはフランスを見殺しにするかもしれないからね。二国間に行動を拘束《こうそく》する条約が存在しないことは明らかなのだ」
「ベルギーはどうだろう?」
「そう、ベルギーだって同じことさ」
フォン・ボルクは頭をかしげた。「そんなはずはないと思うがなあ。条約はちゃんとありますよ。そんな屈辱《くつじよく》をうけたのじゃ、英国は二度と立ち直れないだろう」
「少なくともここ当分は平穏《へいおん》にすごせるさ」
「そんなことをいうが、国家としての名誉《めいよ》をどうします?」
「何をいうのだ。いまは実利主義の時代だよ。名誉なんていうものは中世の概念《がいねん》さね。それにイギリスは準備ができていない。こんなことはおよそ想像も及ばないことだが、わが国が五千万にのぼる特別軍事税を決定したのは、タイムズの一面に広告したほどはっきりと、わが目標を明示するものだと思うのに、イギリスはまだ惰眠《だみん》をむさぼっているのだからねえ。
なるほどあちこちに質問するものはある。それに何とか返答するのは僕の役目だ。またそちこちに憤怒《ふんぬ》の声も聞く。それを何とかなだめるのはおなじく僕の役目だ。だが大切なことは何一つ――軍需品《ぐんじゆひん》の貯蔵も、潜水艦攻撃《せんすいかんこうげき》にたいする備えも、高性能|爆薬《ばくやく》製造の手配も、一つとして行なわれていないのは確実だ。
そんな状態でイギリスはどうして起《た》ちあがれるか? ことにわれわれの手でアイルランドの内乱とか、婦人参政権問題とかいう痛いお祭りさわぎをやらかして、国内をひっかき回したら、国民ははちの巣《す》を突っついたような騒《さわ》ぎになるにきまっている」
「イギリスも国家の前途《ぜんと》ということになれば、よく考えるにちがいない」
「それは問題がべつだ。将来のことをいえば、わが国はイギリスにたいして確乎《かつこ》たる計画をもっているものと思うし、それには君の提供する情報がきわめて重要なものになってくる。ジョン・ブルとは早晩対決しなければならないのだ。向こうが望むなら、こっちは今でも準備はできている。あすになれば、準備はさらに完成される。
イギリスとしては単独で闘《たたか》うよりも、同盟勢力を味方に引きいれたほうが賢明《けんめい》なのはいうまでもないが、ま、それはこっちの知ったことではない。とにかく今週こそは彼らにとって運命の週間になるのだ――つい勝手なことをしゃべってしまったが、君から書類の話をきくはずだったな」
ヘルリンクはひじ掛《かけ》椅子《いす》に腰《こし》をおろして、はげあがった前額を電灯の光にてらてらさせながら、ゆったりと葉巻をくゆらした。
樫《かし》の羽目板と本だなにとりかこまれたこの大きな部屋の、向こうのすみにカーテンがおりていた。そのカーテンをはねると、真鍮《しんちゆう》金具の大きな金庫が現われた。フォン・ボルクは時計の鎖《くさり》から小さな鍵《かぎ》をはずして、しばらく錠前《じようまえ》を操作していたが、やがて重い戸をさっと引き開けた。
「どうです!」一歩さがって、手をふりながらいった。
電光が明るく金庫の内部を照らしだした。内部はこまかいたなに区分されて、書類がいっぱい詰《つ》まっているのを、大使館の書記官は一心に見いった。各区画にはいちいちラベルがついていて、書記官の眼《め》はそれをつぎつぎに読んでいった。――浅瀬《あさせ》∞港湾防備∞航空機∞アイルランド∞エジプト∞ポーツマス要塞《ようさい》∞英仏海峡《えいふつかいきよう》∞ロサイス≠ネど、そのほか二十ほどもあった。どの区画も書類や図面がぎっしり詰まっていた。
「すばらしいものだ!」ヘルリンクは葉巻をおいて、ふとった手でかるく拍手《はくしゆ》した。
「この四年間の成果ですよ。大酒のみで馬にばかり乗っている田舎紳士にしちゃ、まんざらの出来ばえでもない。だが僕のコレクションのなかの宝石はこれから到着することになっていて、入れる場所もちゃんと考えてあるけれどね」といってフォン・ボルクは海軍暗号≠ニ記されてある区画を指さした。
「しかしそこにはすでに、もうかなりの束《たば》の書類がはいっているじゃないか」
「こんなもの古くなって、今では紙屑《かみくず》にすぎない。どうしたわけか海軍省が警戒《けいかい》して、暗号をすっかり変えてしまったのだ。これは大打撃だったね。僕の活躍《かつやく》中でも最大のつまずきだった。でも小切手帳が物をいったのと、アルタモントのおかげで、今晩のうちにうまく収拾できることになった」
男爵は時計をだしてみて、うむと残念そうにのどをならした。
「せっかくだが、もうこれ以上は待っていられないね。君にもわかるだろうが、|カ《*》ールトン・テラス【訳注 第一次大戦前のドイツ大使館はカールトン・ハウス・テラスにあった】はいま諸般《しよはん》の計画が進行中なのだ。全員部署につく必要がある。君の大成功のニュースを持って帰れたらと、今まで待ってみたのだが、アルタモントは時刻の点は何もいってきていないのかね?」
フォン・ボルクは電報を読みあげた。
「新シイ点火プラグヲモッテ今晩カナラズ行ク――アルタモント」
「点火プラグだって?」
「彼は自動車技師で、僕はガレージいっぱいの車を持っている車主ということになっているんでね。二人のあいだでは、必要のありそうな言葉はすべて車の部品で表わすことに打合せができている。ラジエーターといったら軍艦《ぐんかん》のことで、オイル・ポンプは巡洋艦《じゆんようかん》という具合にさ。点火プラグは海軍の暗号書なんだ」
「ポーツマスから正午に打っている」書記官は電報を手にとってみて、「それにしても、いくら出してやったんだ?」
「この仕事に五百ポンド。もちろん月々のサラリーはべつにしてね」
「欲張りめが。やつら売国奴《ばいこくど》は役にこそたつけれど、それにしても、やたら金を欲《ほ》しがるとはいやなやつだな」
「僕としてはアルタモントを憎《にく》む理由は少しもない。すばらしく腕のたつ男だ。金さえ十分やっとけば、あいつの言葉でいうと、とにかく品物を引渡《ひきわた》してくれるんだからね。それにあの男は売国奴じゃない。反英感情という点では、最高の汎《はん》ドイツ主義的|国粋貴族《ユンカー》でも、この冷酷《れいこく》なアイルランド系アメリカ人にくらべれば、まだ甘《あま》ちょろい」
「ほう、アイルランド系のアメリカ人なのか?」
「言葉つきを聞いてみれば、すぐにわかる。どうかすると、何をいっているのかわからないことすらあるくらいだ。あの男は|英 国の王《イングリツシユ・キング》に反逆を宣しただけじゃなく、|純粋英 語《キングス・イングリツシユ》にも反旗をかかげているのかもしれない。え、どうしても帰るって? 彼はいまにも来ると思うんだがなあ」
「残念だけれど、すこし長居がすぎた。あしたの朝はやく君が暗号書を持って首尾よく|デ《*》ューク・オヴ・ヨーク記念塔【訳注 ヨーク公、すなわちジョージ三世の次男、フレデリック公を記念する塔。この西隣にドイツ大使館があったので、ここでは大使館をさしている言葉】の小さなドアにすべり込めさえすれば、イギリスにおける君の活動に勝利の終止をうつことになるだろう。なに、トカイワインじゃないか!」
ものものしく封《ふう》じたホコリだらけのびんと脚《あし》のたかいグラス二つが盆《ぼん》にのせて出されたのを、男爵は指さしていった。
「お帰りのまえに一|杯《ぱい》どうです?」
「まあ止《や》めとこう。それにしても豪勢《ごうせい》だね」
「アルタモントはワインにうるさい男でね、僕のとこのトカイワインが大好きなんだ。気むずかしい男だから、こうした細かいところできげんをとってやらないとね。気骨が折れるよ」
二人はまたテラスへ出てきた。そのはずれのところに待たせてあった男爵の自動車が、運転手がちょっと手をふれると、ぶるんとふるえだした。
「あの灯火《あかり》は|ハ《*》ーリッジ【訳注 エセックス州の英海軍基地】だね」と書記官はダスター・コートのそでに手を通しながらいった。「何という平穏さだろう。一週間以内には違《ちが》う灯火が燃えあがって、イギリス海岸も穏《おだ》やかじゃなくなるんだぜ。それに空だって、わがツェッペリンの約束が実現したら、すましちゃいられまいぜ。ときにあれは誰だね?」
背後には灯火のついた窓はひとつだけだった。そこにはランプがともり、そばのテーブルにむかって田舎ふうの帽子《ぼうし》をかぶった赤ら顔の老婆《ろうば》がすわっていた。彼女はしきりに編物をしながら、しばしば手を休めて、そばの腰かけにいる大きな黒猫《くろねこ》をなでていた。
「マーサさ。召使いのなかからあれ一人を残したんだ」
書記官はにやりとした。
「彼女はまるで大英帝国の権化《ごんげ》のようなものだね。自分のことだけに没頭して、快いねむ気の中に安住しているところは……。じゃさようなら、フォン・ボルク君」
別れの手を振《ふ》って、男爵が自動車にとびのると、ヘッドライトが金色の円錐《えんすい》をやみにつらぬいた。書記官は高級車《リムジン》のぜいたくなクッションに背をもたせて、切迫《せつぱく》しているヨーロッパの悲劇にふかく思いをいたしていた。だから高級車が村道を大きく曲ったとき、向こうから小さなフォードがやってきて、すれ違っていったのには気がつかなかった。
ヘッドライトの光が遠く見えなくなってから、フォン・ボルクは書斎に引きあげた。通りがかりに見ると、老家政婦はもう灯火を消して寝《ね》た様子だった。家族や召使いや、いままで大勢で暮《く》らしてきたので、こうしただだっ広い家のなかのまっ暗な静かさは、彼《かれ》には新しい経験だった。だが家族たちは安全に落としてやったし、残ったのは台所を動きまわっている老婆一人で、いまこの家にいるのは自分だけなのだと思えば、何となくほっとする気持だった。
書斎には整理しなければならないものが山とあったので、さっそくその実行にかかったが、しまいには鋭《するど》く美しい顔が焼却《しようきやく》する紙片《しへん》のほてりでぽっと赤くなってきた。テーブルのわきに皮のかばんがおいてあった。そのなかへ彼は金庫から出した貴重な書類を、きちんと順序だてて詰めこんでいった。
だがその仕事をはじめたかと思うと、遠くから自動車の音がひびいてくるのを、彼の鋭い耳は捕《とら》えた。彼はうれしそうな声をだして、急いでかばんに帯をかけ、金庫の戸を閉めてロックしておいて、テラスへ走り出た。
小さな自動車が門のところでライトを消すのが見えた。乗客がとび降りて、急いで近づいてくる。そのあいだに中年のがっしりした体格で、鼻下に灰いろのひげのある運転手は、ひと晩中待たされるものと覚悟《かくご》したもののように、ゆったりと坐《すわ》りなおしていた。
「どうだった?」フォン・ボルクは声をかけながら、走り出て客を迎《むか》えた。
答えるかわりに、客は茶いろの紙包みを得意らしく頭のうえで振ってみせた。
「今晩こそは喜んでもらえますぜ、だんな」と彼は叫んだ。「ついに手に入れましたよ」
「暗号書かい?」
「電報でお知らせした通りです。手旗信号も発火信号も無線信号も、なにもかもすっかりそろっていますよ。もっとも原本じゃなくて写しですがね。原本を持ちだすのはあぶなすぎる。写しだって間違いはないから、信頼《しんらい》して大丈夫《だいじようぶ》でさあ」
といって彼は荒《あら》っぽい親しみをみせて、ドイツ人の肩《かた》をぽんとたたいた。たたかれてフォン・ボルクは顔をしかめながら、
「まあはいるがいい。いま家のなかは私だけだ。こればかり待っていたのさ。そりゃ原本より写しのほうがいい。原本がなくなったら、向こうは暗号を変えてしまうからな。これだって気づかれはしなかったのだろうな?」
アイルランド系のアメリカ人は書斎にはいってひじ掛椅子に手足をくつろげた。背がたかくてやせこけた六十くらいの男で、くっきりした顔に小さなやぎひげがあり、そのため何となくアンクル・サムのカリカチュアに似たところがあった。火の消えた、吸いかけのしめった葉巻を口にしていたが、腰をおろすや否《いな》やマッチをすって火をつけにかかった。
「引越《ひつこ》しの準備ですかい?」とあたりを見まわして、カーテンがめくれているので金庫に眼をつけて、「おや、まさかあん中へ大切な書類を入れとくんじゃなかろうね?」
「入れといたらどこが悪い?」
「どこがって、こんな開けっぱなしの場所へ入れといたんじゃ、あぶないばかりか、スパイだと思わすようなもんでさ。気のきいたヤンキーならあんなものはカン切り一つで開けちまいますぜ。私の手紙なんかもあん中へ入れとくんだと知ってたら、ここへ手紙なんか出すんじゃなかったね」
「この金庫を開けるにゃ、どんな悪人だってちょっとてこずるだろうよ。どんな道具を持ってきたって、あの金庫は小さな穴一つあけられやしないのだからね」
「錠前を壊《こわ》せば何でもない」
「ところが二重字合せ符号の錠前なのだ。何のことだかわかるかね?」
「そんなこと知るもんか!」
「この錠は数字ばかりじゃなく、文字も合せなければ鍵《かぎ》が働かないように出来ているのだ」とここでドイツ人は立っていって、鍵穴のまわりに文字盤《もじばん》が二重になっているのを示しながら、「ここの外がわのやつで文字を、内がわで数字を合すようになっている」
「へえ、うまくできていやがるな」
「だから君が思うほど簡単にはゆきゃしないのさ。これを造らせてから四年になるがね、符号の文字や数字にはどんなものを選んで使っていると思う?」
「わかりっこないね」
「文字のほうは |August《オーガスト》【訳注 八月】、数字は1914【訳注 第一次世界大戦は一九一四年八月四日におこった。】を使っているのさ。どんなもんだい!」
アメリカ人の顔には感嘆《かんたん》のいろがあった
「へえ! なんて頭がいいんだ! ふむ、おそれいったもんだ!」
「われわれ少数のものには、そのころからこの年号が何を意味するか、ちゃんとわかっていたのさ。だがそれもこれも今日かぎりで、明日の朝はここも閉鎖《へいさ》することになっている」
「そんなら私のほうもきまりをつけてもらいたいもんですよ。こんな罰《ばち》あたりの国に、たった一人で放《ほう》りだされちゃたまったもんじゃない。私の見るところじゃ、ここ一週間かそこいらのうちにジョン・ブルは躍起《やつき》の騒ぎをはじめることだろう。ならば私は海の向こうから高見の見物とゆきたいね」
「だって君はアメリカ市民なのだろう?」
「アメリカ市民といえば、ジャック・ジェームズだってアメリカ人だけれど、いま現にポートランドで刑《けい》に服している始末だからね。イギリスの巡査《じゆんさ》に向かって、いくら自分はアメリカ人だといってみたって、何の役にもたちゃしませんや。『ここじゃイギリスの法律に従ってやるまでだ』といって相手にしてくれやしません。ところでだんな、ジャック・ジェームズで思いだしたが、あんたは部下をあんまりかばっちゃくれないらしいね?」
「何のことだ、それは?」フォン・ボルクは鋭く切りこんだ。
「何のことって、みんなあんたに雇《やと》われてきたんじゃないか? してみれば失敗しないように面倒を見てやるのは、あんたの責任だ。ところがいざという時、あんたが一度でも助けてやったことがあるのかね? 早い話がジェームズにしたって……」
「あれはジェームズが悪いのだ。君もよく知っているはずじゃないか。あいつはあんまり身勝手にやりすぎた」
「ジェームズはまぬけな失敗をやった。それは認めますがね。ホリスはどうかね」
「あいつは頭がへんだった」
「なるほど終りごろにゃ少しへんだった。それにしたって朝から夜までのべつに、すきさえあれば巡査に引き渡してやろうと手ぐすね引いているやつを百人も相手にしてたんじゃ、頭がへんになるのも無理はないや。それからまだある。シュタイナーときたら……」
フォン・ボルクはぎくりとして、赤ら顔も心もち青くなった。
「シュタイナーがどうしたというんだ?」
「とうとう捕《つか》まったというだけのことでさあ。ゆうべあいつの店に手入れがあって、書類ぐるみポーツマス監獄《かんごく》へ持ってゆかれましたぜ。あんたはどうせ見向きもしないんだろうから、かわいそうにやつは一人で責められることになる。生きて出てこられたら運のいいほうだ。だから私も、あんたがここを閉めるというんなら、海を渡っちまいたいのさ」
フォン・ボルクは強情《ごうじよう》で、容易に本心を見せない男だったが、いま聞いたニュースにはさすがに心中の動揺《どうよう》を包みかねた。
「どうしてまた、シュタイナーに手が回ったものかな。うむ、こいつは大打撃だ」
「シュタイナーなんざまだ序の口ですぜ。私にもどうやら手が回っているらしいからね」
「えッ! まさか!」
「まさかじゃありませんよ。フラットンの下宿のおかみが、取調べをうけたんですからね。そいつを聞いて私は、いよいよぐずぐずしちゃいられなくなったと思ったんだ。だが警察のやつどうしてこれをかぎつけやがったか、そいつが知りたいもんだ。私があんたと契約《けいやく》をむすんでから、警察へもってゆかれたのはシュタイナーで五人目だ。私がここで高飛びしなかったら、誰《だれ》が六人目になるか、わかりきっているんだ。どうしてくれるんですかい? 手下がつぎつぎとこんなことになって、あんたは恥《はじ》とも思わないんですかい?」
フォン・ボルクはまっ赤になっていきりたった。
「何という口をきくんだ!」
「これくらいの覚悟がなくて、あんたの手下なんかになれるものかね。だから私は心に思っていることは正直にいってしまうがね。あんたがたドイツの政治家は、手先が仕事をしてしまうと、あとはどうなっても、見向きもしないんだというじゃありませんか?」
フォン・ボルクはとびあがった。
「何ということを! 私が自分の手先を打っちゃったとでもいうのか?」
「そうまではいいきりませんがね。それにしても囮《おとり》だとか、そのほか回しものがあちこちにいるに違いない。そいつを早く見破って教えてくれるのがあんたの役じゃないかね。いずれにしても私は危ないことはもう止めた。オランダへ飛ぶんだ。それも早いだけいい」
フォン・ボルクは怒《いか》りを押《お》さえていった。
「おたがいに長いあいだいっしょに働いてきた仲だ。勝ちを眼のまえにして、いまさらけんかでもあるまい。君はよく働いてくれたし、あぶない橋も渡ってくれたことは、決して忘れやしない。何はおいてもオランダへ行くがよかろう。ロッテルダムからならニューヨークゆきの船もある。ここ一週間ばかり、ほかの航路はあぶないからね。じゃその暗号書はこっちへもらっておこう、ほかのものといっしょに荷造りしたいから」
アメリカ人はその小さな包みを手にしたまま渡す気配はみせずに、
「あのほうはどうなんですかい?」
「あのほうとは?」
「おぜぜでさあね。五百ポンドの報酬《ほうしゆう》さ。砲兵隊員のやつめどたんばになってケチなことをいいだしゃがって、それでもモノを手に入れなきゃ何にもならないから、百ドル追加するといってやったが、『とんでもない』といって取りあおうともしない。とうとうもう百ドル出してやっと話はつけましたがね。おかげで初めからの分を入れると二百ポンドかかったことになるから、ここで約束《やくそく》の五百ポンドをもらわないことにゃ、うっかりこいつは渡せないね」
フォン・ボルクは苦笑をもらして、「君にかかっちゃ私の信用も台なしだね。金をもらわなきゃ暗号書は渡さないというのかい?」
「商売は商売だからね」
「よし、ではそうしてやろう」といって彼はテーブルに向かって小切手を書き、小切手帳から切りとったが、すぐに相手には渡さないで、「だがアルタモント君、こういうことになった以上は、君が私を信用しなければ、私のほうでも君を信用しない。話はわかるね?」と振りかえってアメリカ人を見ながら、「小切手はこのテーブルのうえにおく。だがこいつを君がとるまえに、その包みの内容を私に検《あらた》めさせてもらいたい」
アメリカ人は無言のまま包みを渡した。フォン・ボルクは受けとってテーブルの上でひもをとき、二重に包んだ包み紙をめくった。そして出てきた小さな青表紙の本を、びっくりした顔で見つめた。表紙には金文字で実用|養蜂《ようほう》便覧≠ニあった。
このすぐれた諜報《ちようほう》部員が、見当ちがいの妙《みよう》な書名を見ていたのは、ほんの一瞬間《いつしゆんかん》であった。つぎの瞬間彼は強力な手で背後からえり首を押さえられ驚《おどろ》きもがく顔へ、クロロフォルムをひたしたスポンジを押しつけられていた。
「さあ、もう一杯だ、ワトスン君!」シャーロック・ホームズはインペリアル・トカイワインの瓶《びん》をさしだした。
さっきのずんぐりした運転手が、いまはテーブルに向かっていて、よろこんで手もとのグラスを押しやった。
「いいワインだね、ホームズ君」
「すばらしい品だよ。あのソファに伸びている男から聞いたのだが、シェーンブルン宮殿《きゆうでん》のフランツ・ヨゼフの特別酒庫から出たものだそうだ。ちょっと窓をあけてくれないか。クロロフォルムのにおいは酒の味を悪くする」
金庫の戸はあいていた。ホームズはそのまえにたって、つぎつぎと書類をだしては手ばやく調べ、フォン・ボルクのかばんへきちんと詰《つ》めこんでいった。ソファのうえのドイツ人は二の腕《うで》と足を縛《しば》られたまま、大いびきをかいて眠っている。
「急ぐことはないよ、ワトスン君。邪魔《じやま》のはいる心配なんかないのだからね。すまないがベルを押してくれたまえ。この家にいるのはマーサだけなんだ。彼女はじつによくやってくれた。僕《ぼく》が最初にこの事件に手をつけたときから住みこませたのだがね。あ、マーサ、喜んでおくれ、万事《ばんじ》うまくいったよ」
にこにこ顔の老婆が入口に姿を現わした。彼女《かのじよ》は微笑《びしよう》をふくんでホームズに頭をさげたが、ふと、ソファのうえに伸《の》びている姿をみて、心配そうに眉《まゆ》をひそめた。
「大丈夫なんだよ、マーサ。彼は少しもけがなどしてないのだ」
「それならば安心でございますけれどね。本性はこのかたもいいご主人でございましたよ。昨日奥《さくじつおく》さまがドイツへお帰りになるので、一緒にどうだとおっしゃってくださいましたけれど、それではあなたがお困りだと存じましてね」
「そう、そりゃそうさ。お前がここにいてくれるので私は安心していられたのだよ。しかし今夜は合図をだいぶ待ったよ」
「書記官さまがいけないのですよ」
「わかっている。途中《とちゆう》で自動車がすれ違っていったよ」
「お帰りにならないのじゃないかと思いましてね、それではあなたさまの計画が狂《くる》うと思って、気をもみました」
「ここへ泊《と》まられてたまるものかね。でも待ったといっても三十分かそこいらで、お前の部屋の灯火《あかり》が消えたときは、邪魔者がいなくなったと知ってほっとしたね。いや、詳《くわ》しいことはあすロンドンで聞こう。クラリッジ・ホテルへ来てもらいたい」
「かしこまりました」
「ここを立ちのく準備はすっかりできているのだろうね?」
「はい。今日は七通の手紙をお出しでしたから、宛名《あてな》はいつもの通り控《ひか》えておきました」
「それはご苦労、いっしょに明日見せてもらおう。じゃお寝《やす》み」といってホームズは老婆をさがらせておいて、「この書類はね、内容はとっくにドイツ政府に報告されているのだから、さして重要でもないのだ。危険で国外へ持ちだせない原本を保管していたにすぎないのだからね」
「じゃもう役にたたないわけだ」
「そうも言いきれないがね。少なくともこれで、向こうに知れたことと、まだ知れていないことの別はわかるわけだ。それにこのなかの相当量は、僕の手を通してここへ渡《わた》ったのだが、従っていうまでもなくみんな無価値なものばかりだ。僕の提供した機雷原《きらいげん》海図にもとづいて、ドイツの巡洋艦《じゆんようかん》がソレント海峡《かいきよう》でも通ってくれたら、僕は晩年を飾《かざ》ることができるというものだ。だが君は」と彼はやっていた仕事の手をとめて、その手を老友の肩におきながら「まだ明るいところでしみじみ君を見ていなかったが、その後どうして暮らしていたね? 見うけるところ少しも変らず楽しそうじゃないか?」
「二十年も若がえった気がするよ。君から電報で、自動車をもってハーリッジへこいといってきた時くらいうれしかったことはないね。それにしても君は、君だってあんまり変っていないけれど、その恐るべきやぎひげはべつとしてね」
「こいつは国家にたいして払《はら》う犠牲《ぎせい》さ」とホームズは貧弱《ひんじやく》なひげをなでながら「あしたからはいやな記憶《きおく》として残るばかりだ。このひげをおとしたり、そのほか二、三の外見をなおして、クラリッジ・ホテルへ現われるときは、このにせアメリカ人になるまえの、もとのホームズになってみせるよ。いや、アメリカなまりばかり出して恐縮《きようしゆく》だが、僕はイギリス語をすっかり忘れて、アメリカ語が身についてしまったのかしらん。アメリカ人になりすましていたものだからね」
「だって君は隠退《いんたい》していたはずだろう? サウス・ダウンの小さな農園で、養蜂と読書に隠退生活を送っていると聞いていたがねえ」
「その通りさ。暇《ひま》にまかせて書いた晩年の最大著作がこれだ」といってホームズはテーブルにあった本をとりあげ、その表題を読みあげた。
「実用養蜂便覧、付・女王|蜂《ばち》の分封《ぶんぽう》に関する諸観察%ニ力でやったのだ。その昔《むかし》ロンドンで悪人社会を監視したのと同じに、働き蜂の群を観察したりして、昼は忙《いそが》しく働き、夜は夜で深く考えたりした結果がこれなんだ。よく見てくれたまえ」
「それがどうしてこんな事件を手がけることになったんだ?」
「そいつには我ながら驚いているのさ。外務大臣だけなら、腰《こし》をあげる気はなかったんだが、総理大臣まで僕のささやかな家に足を運ばれるにいたってはねえ! じつはねえ、ワトスン君、そこでソファに伸びている紳士《しんし》、わが国にとっていささかありがたすぎたんだ。人物は断然|優秀《ゆうしゆう》だった。
一方いろいろと妙な現象が起こるが、その震源地《しんげんち》がどこにあるのか、誰にもわからなかった。手先どもに疑惑《ぎわく》がかかったり、なかには逮捕《たいほ》されたものすらあるが、調べているうちに、有力な秘密の中心勢力のある証拠《しようこ》が現われてきた。そこでこの中心の摘発《てきはつ》が絶対に必要だということになった。ここに至って僕に出馬するよう、つよい圧力が加えられたというわけだ。
この仕事には二年もかかったよ、ワトスン君。でもそのあいだおもしろいことが欠けることはなかったよ。僕はまずシカゴを振《ふ》りだしに巡礼に出たわけだが、バッファローでアイルランド系の秘密結社を卒業してから、スキバリーンで警察にひどい厄介《やつかい》をかけた。そのことが偶然《ぐうぜん》にもフォン・ボルクの手先の眼にとまって、見込《みこ》みのある男だというのでフォン・ボルクに推薦《すいせん》されたのだから、話がひどく込みいっている。
それからというもの腹心|扱《あつか》いをうけるようになったが、おかげでフォン・ボルクの計画を巧妙《こうみよう》に阻止《そし》できることにもなったし、腕のたつ手先を五人も監獄へ放りこんでやった。じっと眼をつけていてね、機が熟すると見るや摘発してやったのだ。――や、どこも何ともないでしょうね!」
最後の言葉は、さんざんうなったり眼をぱちくりやったりしてから、横になったままホームズの話に耳を澄《す》ましていたフォン・ボルクに向かっていったのである。そういわれてフォン・ボルクは激怒《げきど》に顔をしかめて、ドイツ語でさかんに毒舌《どくぜつ》をあびせかけた。ホームズは勝手に毒づかせておいて、さっさと書類に眼をとおしていった。そしてフォン・ボルクがさすがに疲《つか》れて口をつぐんでしまうと、
「音楽的ではないけれど、ドイツ語はどこの言葉よりも表現力に富んでいるね」といったが、一枚の複写図を箱《はこ》から出してすみのほうをあらためてみて「おやおや、ここにも逮捕状のいることになった男がいる。あの会計係がこんな事をするやつとは知らなかった。もっともいくらか臭《くさ》いと思わないではなかったがね。フォン・ボルクさん、何とか返事をしてもらいたいね」
捕《とら》われた男はちょっともがいてソファに起きなおると、驚異《きようい》と嫌悪《けんお》の複雑な表情でじっとホームズをにらみつけながら、ゆっくりと慎重《しんちよう》にいった。
「このお礼はかならずしてやるぞ、アルタモント! 一生かかっても、このあだはかならず討ってみせる!」
「おきまりのスイート・ソングだね。そんなものは若いときから聞きあきている。死んだモリアティ教授も好んで口にしたものだ。セバスチャン・モーラン大佐もよく歌ったという。しかも私はごらんの通りちゃんと生きながらえて、サウス・ダウンで養蜂をやっているのだ」
「こんちくしょう、二重スパイめ!」ドイツ人は縛られたまま身もだえして、殺気ばしった眼でにらみつけた。
「いや、いや、私はそれほど悪くはないさ」ホームズは微笑をうかべて、「いまの話でわかったと思うが、シカゴのアルタモントなんて実在の人物じゃないのだ。私がその名を利用しただけで、そんなものはどこにもいやしないのだ」
「では貴様はいったい何者なんだ?」
「私が何者であろうと、そんなことはどうでもよいのだが、あなたは気になるらしいからいうが、私としてはあなたがたの民族と知りあいになるのは、こんどが初めてではない。ドイツ国内でもだいぶ仕事をやっているから、私の名はたぶんよく知られていると思う」
「知りたいもんだ」ドイツ人は苦りきっていった。
「あなたのいとこのハインリヒが大使できていたころのことだが、アイリーン・アドラーと、死んだボヘミア王と手を切らせたのもこの私だし、虚無《きよむ》主義者のクロプマンが、あなたの母かたのおじさんにあたるクラフテンシュタイン伯爵《はくしやく》を殺そうとしたのを救ったのもこの私なのだ。それからまた……」
フォン・ボルクはおどろいて坐《すわ》りなおした。
「その人物なら一人しかおらん!」
「その通りです」
フォン・ボルクはうめいて、ソファに倒れこんだ。
「それでは私はその人物から、たいていの情報を得ていたのか! そんなものに何の価値があろう? 私は何をしていたのだろうか? ああ、私は永久に破滅《はめつ》だ!」
「あの情報はなるほどいささか信をおきがたいものだった。照合すべきものだったが、あなたには時間の余裕《よゆう》がなかった。貴国の提督《ていとく》は、いざふたをあけてみたら、わが主砲が予想よりも大きく、巡洋艦の速力が速いのを知って、驚くことでしょうな」
フォン・ボルクは絶望のあまり、自分ののどをつかんだ。
「そのほか細かい点で、いずれは明らかになることがあると思いますよ。しかしフォン・ボルク君、あなたはドイツ人には珍《めずら》しい特性をひとつもっておいでだ。それはあなたがスポーツマンだということですが、だから多くの人を出しぬいてきたあなたとして、いまついに逆に出しぬかれたと知っても、それがため私にたいして悪感情を抱《いだ》かれることはないものと信じます。
要するに、あなたは祖国のためベストをつくされた。私も私の祖国のためベストをつくしたのです。こんな当然のことはないじゃありませんか? それにまた」ホームズは自由を失なっている敵の肩《かた》に手をおいて、やさしくつけ加えた。「もっと卑劣《ひれつ》な敵の手に落ちるよりも、このほうがましだったといえるでしょう。――さあ、書類の始末はできたよ、ワトスン君。この人を自動車までつれてゆくから、ちょっと手をかしてくれたまえ。すぐロンドンへ引きあげることにしよう」
フォン・ボルクは力は強いし、死物狂いになってもいるので、自動車へつれてゆくには骨が折れた。それでも両方から腕をとって、二人はゆっくりと庭の道を降りていった。たった二、三時間まえに、有名な外交官の祝辞をうけながら、誇《ほこ》らかな自信にみちて歩をはこんだばかりの庭道である。
最後にまたひと暴れしたけれど、それでも手足を縛ったまま予備席に押しこんでしまった。彼の大切なかばんは彼のよこに押しこまれた。
「事情の許すかぎり、快適にと思っていますがね」準備がととのったところでホームズがいった。「葉巻に火をつけて口にはさんであげたら、勝手なことをしすぎるとおしかりをうけますかな」
だがいくら礼を厚くしてみても、怒ったドイツ人には無駄《むだ》なことだった。
「シャーロック・ホームズ君、こんな処置を君の政府が支援《しえん》しているのだったら、戦争を挑発《ちようはつ》するものだということをご承知なんだな?」
「貴国の政府はどうです、こんなことをしておいて?」ホームズはかばんを平手でたたいた。
「君は個人の資格でしかない。逮捕状も持ってはいないのだ。すべてがだんぜん不法で、暴虐《ぼうぎやく》だ」
「ぜったいにね」
「ドイツ帝国民《ていこくみん》の誘拐《ゆうかい》だ」
「それに私文書の窃取《せつしゆ》でもありますな」
「ふむ、何もかも承知のうえなんだな、同類まで連れて。村を通過するとき、大きな声をあげて助けを求めたら……」
「ちょっとご注意しますがね。そんなおろかなまねでもされると、村の限られた数の宿屋の名前に、ひとつ屋号をふやすことになるばかりですよ。ぶらさがるプロシア人≠ニいう看板でも出してね。イギリス人は辛抱《しんぼう》づよいですけれど、いまはいささか気がたっていますからね。あんまり刺激《しげき》しないほうがいいでしょう。
それよりも、フォン・ボルクさん、いまはおとなしくロンドン警視庁までご同行ねがいましょう。向こうへいったらご友人フォン・ヘルリンク男爵《だんしやく》に来てもらって、いまでもまだあの人の約束した大使館|随員《ずいいん》の資格があなたにあるか、尋《たず》ねてみるのですね。
それからワトスン君は、昔同様に僕の仕事を手伝ってもらえると思うから、ロンドンへだって行ってくれるだろう? まあここへきて、テラスへあがってくれたまえ。こんなに静かに話のできるのも、これが最後になるかもしれないからね」
二人の友人は、昔を思いだし、虜囚《りよしゆう》がいましめを脱《だつ》しようと空《むな》しくもがくのもよそに、しばらくはむつまじく語りつづけていた。やがて自動車のほうへ歩いてゆきながら、おりから月光に照らしだされた海面を指さして、ホームズは感慨《かんがい》ぶかげにいうのだった。
「東《*》の風【訳注 イギリスでは東の風は冷たく不快な風】になるね、ワトスン君」
「そんなことはなかろう。ひどく暖かいもの」
「相かわらずだねえ、ワトスン君は。時代は移ってゆくけれど、君はいつまでも同じだ。とはいうものの、東の風はくるのだ。いままでイギリスに吹《ふ》いたことのない風がね。冷たく激《はげ》しい風だと思うから、そのため生命をおとす人も多いことだろう。だがそれは神のおぼしめしで吹くのだ。あらしが治まったあとは、輝《かがや》かしい太陽のもと、より清く、よりよく、より強い国ができることだろう。
じゃエンジンをかけてくれたまえ。もう行かなきゃならない。僕は五百ポンドの小切手を持っているが、早く現金にしたいもんだ。でないと振出人が支払停止をくわすかもしれないよ、もしもできたらだがね」
[#地付き]―一九一七年九月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
解説
[#地付き]延原 謙
ここに訳出したのはホームズ物語の第四短編集たる His Last Bow の全部八編である。訳書では各短編の末尾《まつび》に最初発表された年月を明示しておいたから、参照してくださればわかるとおり、第三短編集までは毎月一編ずつ発表したのを、そのままの順序に収録して単行本にまとめてある。ただ例外として第二短編集『思い出』の第二話として発表されたものが、単行本にまとめるとき、割愛《かつあい》されているが、そのことは『思い出』のあとがきでちょっと説明しておいた。その一編はこの第四短編集の第二話として収載《しゆうさい》されているが、それについては後述する。
この第四短編集の一つの特徴《とくちよう》は、各編が毎月連続発表されたものでないのと、単行本としての配列が、発表の順序になっていないことである。もっと詳《くわ》しくいえば、第二話は前記の事情があるから別として、あとの七編は一九〇八年から一九一七年まで十年にわたって発表されているのである。このことは、一作ごとに新しいトリックを案出して未開拓《みかいたく》の原野を突進《とつしん》してきた作者も、ここまで来てさすがに疲《つか》れたのだと見るべきであろうか。第五短編集の十二編にも、四年休んで一九二一年から一九二七年まで七年を費していることからも、それはいえるであろう。(これが「需要」の減退によるものでないことは、当時のストランド誌がホームズものの短編というとまるで宝物扱《たからものあつか》いで掲載《けいさい》していたのでわかる)
この巻で注目すべき作は第八編の「最後の挨拶《あいさつ》」である。何度も述べた通りドイルはこれきりホームズを葬《ほうむ》ってしまうつもりでこれを書いた。しかし「最後の挨拶」という題を見て読者が期待したであろうような「挨拶」はホームズに述べさせなかったばかりか、六十|歳《さい》になったはずの彼《かれ》は少しも衰《おとろ》えをみせず、ただ何年かまえからワトスンとも別れて、かねての念願であった養蜂《ようほう》と読書の隠居生活《いんきよせいかつ》にはいっているというだけである。そうはいっても作者はまだホームズに働かすつもりだから、彼を思いきりよく殺してしまわなかったのだとうがった説をなす人もあるけれど、それは違《ちが》うであろう。作者はこのあとまだ十二編もホームズにご苦労ねがっているけれども、それはみんなずっと以前の事件ばかりなのである。
なおこの作で注意すべきことは、今まではすべてワトスンの一人称になっているけれど、これは三人称で書いてあることだ。第五短編集のなかにもそれはあるけれど、三人称で書いたのはこれが初めてである。
なおまたこの作の冒頭《ぼうとう》に歴史的な八月とあるが、いうまでもなくこれは一九一四年の八月である。第一次世界大戦中に、ドイツに対する憎《にく》しみをこめてこの作が書かれたことは、子息の一人を戦死させたドイルとしては無理もないことだったろう。念のためにいえば、第一次大戦には、一九一四年八月二日にドイツがロシアに宣戦し、同三日にフランスに宣戦、イギリスは八月四日にドイツに宣戦している。
この巻の第二話「ボール箱《ばこ》」が雑誌には『思い出』の第二話として発表されながら、単行本には加えられなかったことは何度も述べた。理由は残虐《ざんぎやく》でもあり不倫《ふりん》のにおいがするとの非難があったからである。この程度のものが果して排撃《はいげき》に価《あたい》するか否《いな》かは読者の判断にまかすとして、イギリスの作家が読者と一緒になって、不徳義を読みものから閉めだそうとする態度はりっぱだと思う。
しかし作者は後に『思い出』を単行本にまとめるとき、「ボール箱」のなかのそういう問題に関係のない部分を、「入院|患者《かんじや》」のなかに生かしている。ホームズがワトスンの挙動から、心中なにを考えているかをいいあてるところがある。それを二ページばかり「入院患者」のなかへ組みいれたのである。日本で最も流布《るふ》しているジョン・マレーの廉価版《れんかばん》では、『思い出』の第八話「入院患者」にはそういう余計なものがはいっているから注意を要する。同じジョン・マレーから短編と長編をまとめてそれぞれ一冊のオムニ版が出ているが、これには前記の部分がちゃんと「ボール箱」に戻《もど》してある。私はこれをテキストとしたから、そういうややこしい問題はない。すなわちこの訳書で五八ページの一〇行、「やけつくような……」から、六二ページの一五行「……ことなんだ」というところまでが、一時「入院」していたわけなのである。
もう一つ「最後の挨拶」のなかには盛《さか》んにアメリカなまりが出てくる。フォン・ボルクが、何をいっているのかわからないことがあるといっているくらい、なまりが出ている。作者が得意になってさえいることはよくわかるし、イギリス人の読者としてはそこが面白《おもしろ》くもあるのだろうが、その味を日本語に生かすことは私にはできなかった。作者はもとより読者にも相すまぬ次第《しだい》だが、日本語の性質として止《や》むを得ないところであろうか。
Wisteria Lodge.
The Cardboard Box.
The Red Circle.
The Bruce-Partinton Plans.
The Dying Detective.
The Disappearance of Lady Frances Carfax.
The Devil's Foot.
His Last Bow.
[#地付き](一九五五年四月)
改版にあたって
この度、活字を大きく読みやすくするに当たり、新潮社の意向により外国名、外来語のカタカナ表記の正確、統一を図ることになった。訳者が一九七七年に没しているため、訳者の嗣子《しし》である私がその作業に当たったが、現代においてはあまりに難解な熟語や、種々の古風すぎる表現も多少改め、不適当と思われる訳文を修正した。
あくまでも原文に忠実にを基本に置き、物語の背景であるヴィクトリア朝の持つ雰囲気《ふんいき》を伝える程度の古風さは残したいと考えつつ、もとの訳文の格調を崩《くず》さぬよう留意して作業したつもりであるが、読者諸氏の御理解を得られれば幸いである。
改訂に当たり、訳者の姪《めい》である成井やさ子、および、新潮文庫編集部の協力を得たので、ここに謝意を表する。
[#地付き]延原 展
[#地付き](一九九一年六月)