シャーロック・ホームズの帰還
コナン・ドイル/延原 謙訳
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目 次
空家の冒険
踊る人形
美しき自転車乗り
プライオリ学校
黒ピーター
犯人は二人
六つのナポレオン
金縁の鼻眼鏡
アベ農園
第二の汚点
解説
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空家の冒険
ロナルド・アデヤ卿《きよう》が不可解きわまる情況《じようきよう》のもとに殺害されて、ロンドン中の興味をわきたたせ、上流社会を震《ふる》えあがらせたのは、一八九四年の春のことだった。警察の捜査《そうさ》のなかに現われてくる事件の内容は、すでに一般《いつぱん》に知れわたっているのであるが、この事件では犯罪事実があまりに決定的なので、断罪のためにはその全部を取りあげる必要がなく、当時かなり多くの部分が公表禁止となったのである。
あれから十年ちかい今となって初めて、あの事件を真に異常なものたらしめたともいうべき未公表の部分の発表が、私に許されたのであるが、あれは、それだけでたしかに興味ふかい事件であったには違《ちが》いないけれど、その興味も私にとっては、その後に起こったまったく思いもかけぬ続編に比したら、何でもないことだった。それほどこの続編というのは、私の冒険的|生涯《しようがい》中のどの事件にもまして、意想外であり驚愕的《きようがくてき》であったのである。あれから久しい年月が経過しているのであるが、今でも思いだすと戦慄《せんりつ》をおぼえ、当時私の心をひたしたとつぜんの歓喜、驚異、疑惑《ぎわく》などの感情がそのままに、油然《ゆうぜん》とわきおこるのを禁じ得ないのである。
ここで私は、従来ちょいちょい発表したきわめて異常な人物の思想と行動に関する小編に、いくらか興味をよせてくれた世間の人たちに申しあげたいが、この事件に関する知識の全部を今まで披瀝《ひれき》しなかったことを、どうか責めないでいただきたい。その男の口から堅《かた》く口止めさえされていなかったら、いち早く筆にするのが私は何よりの義務だと心得ているのであるが、何をいうにもつい先月の三日に、やっと解禁されたばかりなのだから致《いた》しかたがない。
シャーロック・ホームズとの親交が、私に犯罪にたいする深い興味を持たせるようになり、彼《かれ》が行《ゆく》方不明《えふめい》になってからも、世間に発表されるいろんな事件を決して見逃《みのが》さずに、注意していたことはよくわかるだろう。自分だけの満足のためではあったが、そしてあまり成功はしなかったけれども、実際それらの問題解決に、彼の流儀《りゆうぎ》を応用してみたことも一再に止《とど》まらなかったのである。しかし、一つとしてこのロナルド・アデヤ卿の悲劇事件ほど心を引かれるものはなかった。調書を読んでみて、それは結局一人もしくは数人による故殺という陪審団《ばいしんだん》の評決に終っているのだが、|シ《*》ャーロック・ホームズの死がいかに社会の損失であったか、今さらながらつくづくと感じたのである。【訳注 ホームズの死については、「ホームズの思い出」中の最後の事件参照】
この事件には、ホームズならばきっと興味を持つと思われる点がいくつかあったから、彼が生きていたら警察は助かったに違いない。いや、ヨーロッパで初めて現われたこの私立《しりつ》探偵《たんてい》の訓練された観察と、機敏《きびん》な頭脳をもってすれば、警察以上のことをやっていたと思うのである。私は患家《かんか》を回診《かいしん》しながらも、一日じゅう事件のことを考えてみたが、ついに満足すべき説明には到達《とうたつ》できなかった。少し陳腐《ちんぷ》のきらいはあるけれど、法廷《ほうてい》の審理《しんり》により世間の人に知られた当時の事実を、以下要点だけふりかえってみよう。
ロナルド・アデヤ卿は、当時オーストラリア植民地の知事の一人であったメイノースの伯爵《はくしやく》の次男で、折から白内障《そこひ》手術のため帰朝していた母君および妹のヒルダとともに、パーク・レーンの四二七番の家に住んでいた。ロナルド青年は交際|範囲《はんい》も選《え》りぬきの人たちだけだし、知られたかぎりでは敵もなく、また不行跡《ふぎようせき》なところもなかった。前からカーステヤーズのエディス・ウッドリ嬢《じよう》と婚約《こんやく》の仲であったが、事件の数カ月まえに、双方《そうほう》合意のうえでこれは破約になった。
しかしそのために、深い感情のわだかまりをあとへ残したと思われるような徴候《ちようこう》は何もなかった。そのほか卿の日常生活は、おだやかな、感情に走ることのない性格から、かぎられた範囲の平凡《へいぼん》な人たちとの接触《せつしよく》があるだけだった。それだのにこの安易な青年貴族のうえに、思いもかけぬ、いとも奇怪《きかい》なる死が訪《おとず》れたのである。時日は一八九四年三月三十日の夜十時から十一時二十分までの間のことであった。
ロナルド・アデヤ卿はカードが好きで、しょっちゅうやっていたが、それとて自分を危《あや》うくするほど大きなかけかたは決してしなかった。卿はボールドウィン、カヴェンディシュ、バガテルの三カードクラブの会員で、殺された日は夕食後バガテルクラブで|ホ《*》イスト【訳注 二人ずつ二組にわかれて勝負を争うやり方】の三番勝負をやっていたことがわかっている。その日は午後にもそこでカードの勝負をやっている。相手をした人たち――マレー氏、サー・ジョン・ハーディ、モーラン大佐の三人――の供述によれば、勝負はホイストで、勝ち負けは小さかった。ロナルド卿は五ポンドくらいは負けたかもしれないが、決してそれ以上ではなかったという。卿は相当の財産があるのだから、五ポンドくらい負けたからどうということは決してない。ほとんど一日として、どこかのクラブでカードを手にしない日はなかったが、勝負は手がたいほうだから、いつも勝っていた。調書によれば、その二、三週間まえにも、モーラン大佐と組んで、ゴッドフリ・ミルナーとバルモーラル卿を相手に、一晩で四百二十ポンドも勝っている。以上が法廷で明らかにされた卿の殺される直前の身辺情況である。
殺された日、卿は晩の正十時に帰ってきたが、母君と妹とは、親戚《しんせき》へ行っていて留守だった。女中の証言によれば、卿がふだん居間にしていた表三階の部屋へ入る気配をたしかに耳にした。その部屋は、宵《よい》に彼女《かのじよ》が暖炉《だんろ》に火を入れたが、燻《いぶ》ったので窓を開けておいたという。それが三月三十日の夜の正十時のこと。それから十一時二十分に、母君たちが帰ってくるまで、三階ではコトリとも音がしなかったという。
帰ってきた母君は、令息にお寝《やす》みをいうため、部屋へ行ってみたが、なかから鍵《かぎ》がかかっていて、叩《たた》いても返事がない。なおみんなで叩いたり、大きい声で呼んでみたりしたが、それでも返事がないので人を呼び、無理にドアを押《お》し破ってはいってみると、気の毒なことに卿はテーブルの近くにうち倒《たお》れているのだった。頭部が拳銃弾《けんじゆうだん》の扁平《へんぺい》になった奴《やつ》で、見るも無惨《むざん》に砕《くだ》かれている。しかも部屋のなかには、凶器《きようき》と名のつくものは何一つなかった。テーブルのうえには二枚の十ポンド紙幣《しへい》と、金銀貨とりまぜて十七ポンド十シリングの金が、それぞれ額のちがういくつかの山に積んであるほかに、一枚の紙片《しへん》に何人かのクラブ友だちの名前と、その名前に対して数字を書きこんだものが乗せてあった。これでみるとおそらく卿は、死の直前までカードの勝ち負けを計算していたものと推定される。
しかし、調べれば調べるほど、この事件は錯乱《さくらん》してくる一方だった。第一に、卿は何のためになかから部屋の錠《じよう》をかったか、その理由が発見されない。加害者が錠をかったのちに、窓から逃《に》げたという説明も考えられないではないが、窓は高さ少なくとも二十フィートはあり、しかも下は満開のサフランの花壇《かだん》であった。花壇は花も地面も少しも乱れてはいず、また家と道路との境のほそ長い芝生《しばふ》にも異状は認められなかった。ということは、部屋のドアになかから錠をかったのはロナルド卿自身らしいのを意味するのだが、では卿は誰《だれ》に殺されたのか?
窓へよじ登って部屋へ入るには、かならず形跡が残る。では窓ごしに射《う》ったとしたら? 拳銃一発であれだけの傷を与《あた》えうるとは、よほどの腕前《うでまえ》といわねばならない。それにパーク・レーンは人通りの多い通りだし、家から百ヤードと離《はな》れていないところに、街馬車の客待ち場所もあるのに、一人として銃声を耳にした者がないとはどうしたものだろう?
しかも卿の死は厳然たる事実なのだ。弾丸も、先端《せんたん》に被甲《ひこう》のない弾丸はみなそうだが、物にあたって頭部が茸《きのこ》の傘《かさ》のように平らになった弾丸もあるのだ。あれにやられては、おそらく即死《そくし》だったことだろう。ロナルド・アデヤ卿殺しのパーク・レーン事件の実状はざっと右の通りであるが、なおそのうえ卿には敵がないのだし、室内の金銭その他の貴重品に手をつけていないし、殺害の動機というものが全然見あたらないので、事はますます面倒《めんどう》になってくるのである。
私はこれらの事実を繰り返し思いうかべて、あらゆる事実に適合するような合理的説明を発見してやろうと、終日努力した。またホームズがいつも、事件の探究には一番の弱点から出発するのだといっていたのを思いだして、その弱点はどこだろうと考えてもみたが、残念ながら何の進展もなかった。
夕方、ぶらりと出かけて公園をぬけ、六時にはパーク・レーン通りのオックスフォード街寄りのはずれに立っていた。通りには一群のヒマ人がいて、みんなある家のある窓を見あげているので、私の見にきた家はすぐにそれと知れた。いろ眼鏡《めがね》をかけた背のひょろ高い男が、私服刑事《しふくけいじ》にちがいないとにらんだが、まわりに集った人たちに向かって、事件にたいする自分の考えを得々と喋《しやべ》りたてているので、できるだけそばへ寄って聞いてみたが、観察がでたらめで、あまりバカバカしかったから引きさがろうとしたら、とたんに、うしろにいたよぼよぼの老人にぶつかって、老人の抱《かか》えていた五、六冊の本を下へ落させてしまった。
あわてて拾いあげてやったなかに、ちらりと見たのだが、「樹木|崇拝《すうはい》の起原」というのが一冊あったのを、今でもおぼえている。老人はあわれな愛書家で、商売か道楽かはしらぬが、世に埋《うも》れた名もない書物を収集しているのに違いないと思った。私は粗相《そそう》をていねいに詫《わ》びたけれど、この老人にとっては私のたたき落した書物がよほど大切なものだったと見えて、口汚《くちぎたな》い呪詛《じゆそ》を投げつけておいて、くるりと踵《くびす》をかえして立去った。私は老人の曲った背なかと白いほおひげが人なかへ隠《かく》れるまで、あきれてあとを見送った。
ロナルド卿の殺されたというパーク・レーン通り四二七番の家を実地に見ても、何の得るところもなかった。低い塀《へい》と手すりとで道路からは仕切られているが、塀と手すりを合せても高さが五フィート以下だから、はいりたければごく簡単に庭へははいれる。しかし窓は絶対に手がつけられなかった。手がかりとなるべき水道鉄管や雨どいの類もないし、どんなに身軽なやつだって、あれをよじ登ることは不可能だ。ますますわからなくなったので、私はケンジントンの家のほうへと引きかえすことにした。
書斎《しよさい》へ入って五分間もたたぬうちに、女中がやってきて、面会人があるという。はいってきたのを見ると、驚《おどろ》いたことに、さっきの書物収集老人である。見たところ十二冊はくだるまいその大切な書物を右手で小わきに抱えて、白毛《しらが》のなかからずるそうなしぼんだ顔をのぞかせている。
「びっくりしたでしょう」妙《みよう》にしわがれた声である。
私はその通りだと承認《しようにん》した。
「気が咎《とが》めましてな。ぶらぶら歩いてくると、この家へおはいりになったんで、ちょっとあの親切な紳士《しんし》にお目にかかって、お詫《わび》やらお礼やら申したいと……さっきはどうも、ちと愛嬌《あいきよう》がなさすぎたようだけれど、何も悪気があったんじゃないんで……それに本を拾っていただいたりして、すみませんでしたな」
「それはごていねいに、かえって恐縮《きようしゆく》でしたな。ところでこの私をどうしてご存じなのです?」
「なアに、ついご近所におるものでしてな、そこのチャーチ街の角のちっぽけな本屋が私の店なんで、以後どうぞお見知りおきを。お見うけするところ、あなたも集めていらっしゃるようですな。『英国の鳥類』『カタラス詩集』『神聖戦争』などあるようですが、みな掘《ほ》り出しものですな。あの本だなの二段目のすきは、もう五冊もあると埋まるんですがな。あれじゃちと不体裁じゃありませんかね」
私はそういわれたので、うしろのたなを振《ふ》りかえったが、顔をもとへもどしてみると、そこにシャーロック・ホームズが、テーブルをへだてて、微笑《びしよう》をふくんで立っているのである。思わず腰《こし》を浮《う》かして、数秒間は呆然《ぼうぜん》とその顔を見つめていたまでは覚えているが、そのまま気絶してしまったものらしい。臍《ほぞ》の緒《お》きって初めてでもあり、おそらく二度とこんなことはやるまい。眼《め》のまえがぼうっとしたと思ったらそれきりで、気がついた時はカラーの前がひらいており、唇《くちびる》にはブランディの刺《さ》すような後味が残っていた。ホームズがフラスコを片手に、いすのうえから私をのぞきこんでいる。
「ワトスン君、気がついたね。いや、まったくすまなかったよ。こうまで感動するとは思わないもんだから……」聞きなれたホームズの声である。
私は思わず彼の腕をしっかりつかんだ。
「ホームズ君! ほんとにホームズ君かい? まさか、君が生きていようとは! いったいどうしたら、あの怖《*おそ》ろしい深淵《しんえん》からはいあがれたんだい?」【訳注 一八九一年五月四日、ホームズはライヘンバッハの滝の断崖から転落して死んだはずなのである】
「待ちたまえ。いま話をして、大丈夫《だいじようぶ》かい? 劇的に姿を現わすなんて、僕《ぼく》が余計なことをしたもんだから、すっかり驚かしちまった」
「もう大丈夫だ。それよりも僕は、自分の眼を疑いたくなるよ。人もあろうに、君がこの書斎に現われるなんて!」
私はもう一度彼の腕にさわってみた。細いが筋ばった彼の腕が服の下に感じられた。
「やっぱり幽霊《ゆうれい》じゃないんだね。君が帰ってきたなんて、僕は狂喜《きようき》するばかりうれしいよ。まア掛《か》けないか。そしてあんな怖ろしい断崖《だんがい》から落ちて、どうやって生きかえれたのか、そいつを聞かせてくれたまえ」
ホームズは私と向かいあって腰をおろし、例の無頓着《むとんじやく》さで紙巻に火をつけた。着ている服こそ見すぼらしいフロックだけれど、白毛の仮鬘《かつら》やつけ髭《ひげ》や古本や、貧弱《ひんじやく》な古本屋の主人としての小道具は、テーブルのうえに積んである。少しやせて、ますます俊敏《しゆんびん》さを加えたようだが、鷲《わし》のようなその顔にはなま白さが見え、近ごろ生活があまり健全でないなと思わせた。
「手足を伸《の》ばせるようになって、ほっとしたよ。背のたかい者が、何時間もつづけて、一フィートもからだを縮めているなんて、酔興《すいきよう》でできることじゃないよ。なぜこんな事をしているかというと、実は今晩むずかしくて危険の伴《ともな》う仕事があるんでね、君さえ承知ならまた一緒《いつしよ》に夜の冒険に出かけてもいいんだが、いっさいの説明は、その仕事がすんでからでよかろうね?」
「僕は好奇心でいっぱいだよ。説明はいまのほうがいいねえ」
「じゃ、今晩やってくれるかい?」
「やるとも! 時と処《ところ》のいかんを問わず、君のいう通りにするよ」
「まるで昔《むかし》とそっくりだな。出かけるまでには、食事をかきこむ時間もあるんだから、よし、それじゃ説明しよう。断崖からはいあがるのは、何の造作もないことだったよ。理由は簡単さ。もともと僕はあそこへ落ちはしなかったんだからね」
「えッ、落ちなかったって?」
「そうさ、落ちなかったよ。僕の遺《のこ》したおき手紙、あれは偽物《にせもの》でもなんでもない。たしかに僕の書いたものだ。書いた気持にも嘘《うそ》いつわりはない。
ライヘンバッハのあの山のなかで、安全なほうへ行ける狭《せま》い小路《こみち》に、死んだモリアティ教授の立っているうす気味のわるい姿を認めたときは、僕の生涯《しようがい》もこれで終りだとはっきり悟ったよ。彼の灰いろの眼のなかに、頑《がん》として不動の目的を僕は見てとった。だから僕は、二、三彼と言葉を交えて、あとで君の見たあの書きおきを書く礼儀ある許しを得たのだ。僕はそれをアルペンストックとシガレットケースと一緒にしてそこへおき、狭い小路を歩いていった。モリアティ教授はすぐ後からついてくる。路の行きどまりまで追いつめられて、僕は立ちどまった。モリアティは武器は何も出さなかった。武器を出すかわりに、僕に躍《おど》りかかって、長い両腕で抱《だ》きついてきた。
彼は自分の悪運のつきたことをよく知って、何とかして僕に復讐《ふくしゆう》したがっていたのだ。二人は取っくみあったまま、滝壺《たきつぼ》の断崖のうえでもみあって、よろめいた。僕は日本のジュウジュツを少し知っていたから、それまでにも何回かずいぶん役に立ったものだが、巧《たく》みに彼の腕をすり抜《ぬ》けた。とたんにモリアティは姿勢をくずして足が浮いたので、怖ろしい悲鳴をあげて、足を躍らせ虚空《こくう》をつかんで、踏《ふ》みなおそうとしたが及《およ》ばず、バランスを失って落ちていった。
僕はすぐがけのふちから覗《のぞ》いてみたが、はるかしたへ落ちてゆき、岩にあたって跳《は》ねかえり、しぶきをあげて水のなかへ落ちこむのが見えた」
ホームズが煙草《たばこ》の煙《けむり》の中から語りだすこの説明に、私は驚異《きようい》の眼を見はって耳を傾《かたむ》けていたが、言葉が切れると思わず乗りだした。
「でも足跡《あしあと》が! 二人の足跡が降りていったきり、帰った足跡がなかったのは、僕がこの眼でちゃんと見届けているよ」
「それはこういうわけだよ。モリアティが落ちたとたんに、ふと僕は考えついたのだが、これは何という幸運を神は与えてくれたことだろう! 僕の生命をねらっているのは、決してモリアティ一人ではない。首領の死を知って、僕への復讐の念願をいよいよ強くするやつが、少なくとも三人はあるのを僕は知っている。三人ともこのうえなく危険な人物だから、そのなかの誰かが目的を達するに違《ちが》いない。それに反して、ここで僕が死んだものと世間に信じさせておけば、自然彼らは解放されたつもりで、仕事をはじめるに違いない。仕事をはじめたら、遅かれ早かれ僕はそいつを取って押さえて、そこで初めてまだ生きていたぞと名乗りをあげるのだ。人間の頭脳の働きというものは、実に速いものだね。僕はモリアティがライへンバッハの滝の底へ落ちるまでに、これだけのことを考えついたよ。
僕は起きあがって、うしろの岩壁《いわかべ》を調べてみた。あの時のことを書いた君の美しい文章には、あれから何カ月か後になって、面白《おもしろ》く拝見したが、切りたった断崖と書いてあるけれど、あれは文字通り正しくはなかった。あそこには小さな足掛《あしがか》りも少しはあったし、たなのようになった場所もあった。しかし高いことはずいぶん高くて、攀《よ》じのぼるなんて到底《とうてい》不可能だったし、そうかといって、湿《しめ》った小路のほうは、足跡を残さぬように引返すのはこれまた不可能なことだ。こういう場合によくやったように、靴《くつ》を反対にして足につけるという手もあることはあるけれど、そうすると足跡が三人分になるから、たちまちごまかしだと見破られてしまうだろう。
結局、危険を冒《おか》してあの崖《がけ》を登るのが一番だということになる。うしろでは、滝の音がものすごくとどろいているし、それは決して気楽な仕事ではなかった。僕は決して空想家ではないけれど、モリアティの声が深淵《しんえん》の底から、呼びかけているような気がしたものだ。一つ誤ったら、それっきりだった。つかんでいる草の根が抜けたり、濡《ぬ》れた岩角にかけてる足がつるりと滑《すべ》ったことも一度ならずであったが、そのたびに失敗《しま》ったッと肝《きも》をひやしたことだ。
それでも僕はもがきつづけて、ついに、五、六フィートの深さのある岩のたなになった場所までたどりついた。一面に柔《やわ》らかいこけで覆《おお》われて、どこからも見つけられることなしに、らくらくと手足をのばしていられる。君たち一行がやってきて、僕の死んだ前後の事情を、同情するばかりで一向に効果のあがらぬ方法で調べているあいだ、僕はじっとそこで横になっていたのだよ。
結局君たちが当然だが、ただし全然誤った結論に到達して、ホテルのほうへ引きあげていったので、僕はひとりそこへ残された。これで万事はうまくいったと思ったが、あにはからんや、まったく思いもかけぬ事が起こって、僕はまだまだ驚きたりないのだと知らされた。そのとき途方《とほう》もなく大きな岩が上のほうから転がってきて、うなりをたてて僕のそばをすぎ、小路にあたって跳ねあがりながら、がけから滝壺のほうへ落ちていったのだ。
はじめ僕は、岩は何かのはずみで自然にくずれ落ちてきたものかと思った。しかしひょいと上を見ると、暮《く》れかけてうす暗くなった空を背景に、人間の頭が見え、第二の大きな岩が落ちてきて、僕のいるたなの端《はし》の、頭から一フィートとは離れぬところに当ったではないか。僕はすぐにその意味をさとった。モリアティは独《ひと》りではなかったのだ。仲間が――その仲間がいかに怖るべきやつであるかは、ちらと見ただけでも十分わかった――その仲間がモリアティの僕に襲《おそ》いかかるのを見張っていたのだ。遠くから、僕に見られないように、モリアティが死んで、僕だけ助かったのを見届けていたのだ。そして機会を待って、迂回《うかい》して僕のいる断崖のうえに現われ、モリアティのやり損じを自分の手でとりもどそうと企《たく》らんだのだ。
これだけのことを考えるのに、そう手間どったわけじゃない。うえを見るとまたあのすごい顔がのぞきおろしている。また岩の落ちてくる前兆《ぜんちよう》だから、僕は急いでしたの小路へはい降りることにした。落着いて悠々《ゆうゆう》と降りたなんてうそはいわない。降りるのは登るよりは百倍も骨が折れた。危いなんてことも考えちゃいられない。たなからぶらさがったとき、第三の岩が落ちてきたのだ。中途で手足が滑ってしまったが、天運というか、谷底へ落ちもせず、皮膚《ひふ》を擦《す》りむいてあちこち血は出たが、小路に降りることができた。そしてまっ暗な山のなかを十マイルも逃げだして、一週間後にはイタリアのフローレンスにたどりついていた。もちろん世界中に誰ひとりとして、そんなことを知っている者はありっこないのだ。
僕はひとりだけに事情をうち明けた。兄のマイクロフトだ。君にはまったく相すまないけれど、僕は世間から死んだと思われることが、絶対に重要だった。それに君に知らせたら、僕の遭難談《そうなんだん》をあれまでまざまざと迫力《はくりよく》をもっては書けないからね、君という人は。
あれから三年、僕は君に手紙を書こうと思って、何度ペンをとったかしれないが、そのつど思いとどまったのは、僕に対する親愛の情が、この秘密を暴露してしまうというような軽率なことを君にさせはしないかと、恐れたからだ。同じ理由で、きょう君が僕の書物を落させたときも、急いで君から離れてしまったのだが、あのとき僕は危険な立場にいたのだから、万一君に騒《さわ》ぎたてられると、僕だということがばれて、取りかえしのつかぬ残念なことになるところだったのだ。
マイクロフトのほうは、金の必要にせまられて、何とも止《や》むを得ず打ちあけたのだよ。一方ロンドンでの事件の経過は、あまり望ましいものではなかった。裁判の結果、モリアティ一味のうちで、最も危険な人物が二人、それが最も執念《しゆうねん》ぶかい僕の敵なんだが、罪にならなかった。だから僕は二年間チベットへ行ってきた。そのあいだ|ラ《*》サ【訳注 チベットの仏門聖地】へも行って、面白かったし、ラマの長と数日を過したこともある。ジーゲルソンというノルウェー人の非凡《ひぼん》な探検記を、君は読んだかもしれないが、あれが君の親友のニュースだとはまさか気がつかなかったろう。
それから僕はペルシャを通過して、メッカをちょっとのぞき、エジプトのハルツームで回教王《ハリハ》をも訪問したものだが、それらのことは外務省のほうへ報告を出しておいた。
フランスへ帰って来てからは、南フランスのモンペリエのある研究所で、コールタール誘導体《ゆうどうたい》の研究をやったが、数カ月で満足すべき成果を得たし、ロンドンには敵が一人しかいなくなっていると知ったので、帰国しようと思っている矢先へ、こんどのパーク・レーン事件だ。これは事件そのものに心をひかれたのも事実だが、同時にある特定の人物に関するある種の機会が得られそうな気がしたので、大急ぎで帰ってきたわけだ。
ロンドンへ着くと、まずベーカー街の旧居へ自身乗りこんで、おかみさんのハドスン夫人を気絶せんばかりに驚かしてしまった。旧居は兄のマイクロフトの骨折りで、書類などもそっくりそのまま、以前の通りに保存されていた。というわけで、きょうの午後二時には、昔なつかしいあの部屋の坐《すわ》りなれた肘掛《ひじかけ》いすに僕は納まったわけだが、親友ワトスン君が昔どおり、おなじみのいすに掛けていないのだけが物足りなかった」
以上が今から十年ちかいまえ、そしてホームズの失踪後《しつそうご》三年目の四月のある宵《よい》、彼《かれ》から聞かされた話であるが、語る本人の、二度と会えると思わなかった背のたかい、やせたからだと、相かわらず俊敏で真摯《しんし》な顔とを眼《ま》のあたり見ているのでなかったら、とても信じられることではなかった。私の孤独《こどく》の悲哀《ひあい》については、いくぶんきき知っていたらしい。彼の同情は言葉よりもむしろ態度のほうにそれが現われていた。
「悲しみには仕事が最良の解毒剤《げどくざい》だ。今晩これから二人でやれる小さな仕事がある。これが成功すれば、一人の男がこの世に生き永《なが》らえていた意義が見出《みいだ》せるというものだ」
もっと詳《くわ》しいことを聞かせてくれと頼《たの》んでみたが、ホームズは応じてくれなかった。
「朝までには何もかもわかるよ。それよりもこの三年間の積る話がある。九時半になったら、めざましい空家の冒険《ぼうけん》に出かけるんだから、それまでは積る話でたくさんじゃないか」
さて時間がくると、私は昔と全く同じに、ポケットに拳銃《けんじゆう》、胸には高鳴る期待を抱いて、ホームズと並《なら》んで二輪馬車《ハンサム》に腰をおろしているのだった。ホームズは冷やかで、近づきがたく、黙然《もくねん》としていた。街灯の光でその顔をのぞきこんでみると、眉根《まゆね》をよせうすい唇をかたくむすんで、考え沈《しず》んでいるのだった。犯罪都市ロンドンの暗黒ジャングルから、どんな猛獣《もうじゆう》を狩《か》り出そうというのか、私にはまだ何もわからないけれど、名猟人《めいかりゆうど》の態度から、今晩の冒険が容易ならぬ重大なものであるのが十分に看取された。そして苦行者的なその暗い顔に、ときどき浮かべるほろ苦い微笑が、今晩の捜査《そうさ》のよい前兆だとはほとんど思われなかった。
はじめ私はベーカー街の彼の家へ行くのかと思っていたのに、ホームズはカヴェンディシュ広場で馬車を停《と》めた。馬車を降りるとき、左右へ細心の注意を払《はら》っていたし、歩きだしてからも彼は、曲り角へくるたびに、後をつけてくる者がありはしまいかと、非常な苦心をしていた。そして歩く道すじがまた、異様であった。
ホームズがロンドン市内のぬけ道に明るいことは、真に驚くべきものがあった。この晩も彼は何のためらうところもなく、私なぞは存在すら知らなかったような厩舎《きゆうしや》のあいだをぬけて足ばやに歩き、古い陰気《いんき》な家のたち並ぶ小さい通りへ出たと思ったら、そこからマンチェスター街へ、そしてブランドフォード街へと出た。と思ううちまた素《す》ばやく狭い通路へとびこんで、木の門を潜《くぐ》り、人けのない裏庭に入ると、鍵《かぎ》をだしてとある家の裏戸をあけ、二人がなかに入ると急いであとを閉めた。
中はまっ暗だったが、空家であることだけはすぐわかった。床《ゆか》は厚板ばかりで敷物《しきもの》もなく、くつがガタガタ鳴った。手をのばしてみると、壁にさわったが、紙がリボンのようにいくつもぶらさがっているようだ。ホームズの痩《や》せた冷たい手が私の手首を握《にぎ》って、ながい廊下《ろうか》をぐんぐん奥《おく》へ引張っていった。
ドアのうえの欄間窓《らんままど》に、ごく微《かす》かな光がさしている。と思ったらホームズは、そこで急に右へ曲って、四角い大きなあき部屋へ私をつれこんだ。四すみはまっ暗だけれど、中央の部分だけは、街路から射《さ》しこむ光でほのかながら物が見える。とはいっても、街灯は近くにはないし、窓はほこりだらけで曇《くも》っているから、やっとおたがいの姿を認めうるという程度にすぎない。ホームズは私の肩《かた》に手をおいて、耳へ口をよせてささやいた。
「ここがどこだかわかるかい?」
「おお、ベーカー街じゃないか!」私はほこりだらけの窓からそとをのぞいてみた。
「その通り。ここはカムデン・ハウスだよ。そら、僕たちの家のま向かいにあったろう?」
「ふむ、何だってこんな処へ来たんだい?」
「あの美しい建物が、ここからだと非常によく見えるからさ。すまないがワトスン君、もう少し窓のそばへよって、姿を見られないようによく気をつけてね、僕たちおなじみの部屋を見あげてみたまえ。いつも僕たちの冒険の出発点となったあの部屋をさ。三年留守にしたあいだに、僕は君を驚《おどろ》かす力がまるでなくなったかしら」
私はそっと窓へ近づいて、なつかしの部屋を見あげた。そのとたんに、あっと叫《さけ》んだきり息をのんだ。ブラインドはおろしてあるが、室内はま昼のように明るかったので、そのブラインドに男の影絵《かげえ》がうつっているのだ。いすにかけて、完全な横顔ではないが、斜《ななめ》にくっきりと浮かびあがっているその頭の傾けかたといい、その鋭《するど》い顔だちといい、それは完全なホームズの再生なのである。あまりの驚きに私は思わず手をのべて、そこにほんもののホームズのいるのを確かめてみたほどだった。ホームズは声をたてずに笑いころげている。
「どうだい?」
「いや、驚いた! じつに不思議だねえ」
「歳月《さいげつ》も習慣も、どうやら僕の才能を腐《くさ》らせる力はなかったらしいね」
こういった彼の声音には、芸術家が自己の作品に対してもつ歓喜とほこりとに似たひびきのあるのを私は認めた。
「どうだね、僕以上にホームズそっくりだろう?」
「僕はてっきり君だとばかり思ったよ」
「製作の名誉《めいよ》はグルノーブルのオスカー・ムニエのものだ。彼は原型だけに数日を費している。蝋製《ろうせい》の半身像なんだよ。あとの細工は、きょうあの家へ行ったとき、やってきた」
「しかし、君は何のためにこんなことをするんだい?」
「それはね、ある人物に対して、僕があそこにいないのに、いるように思わせたい強い理由があるからなんだ」
「すると君はあの部屋が監視《かんし》されているとでもいうのかい?」
「たしかに監視されているのを僕は知ったのだ」
「何者だろう?」
「旧敵さ。その連中の首領は、ライヘンバッハの滝の底に沈んでいる。彼らだけは、僕の生きているのを知ってるんだよ。いつか僕があの部屋へ帰ってくると知ってるんだ。だからあれから絶えず監視をつづけていたんだが、けさ、僕は帰ったところを見られてしまった」
「どうしてわかる?」
「窓からちらと、見はり役の姿を見たのだよ。なに、こいつはパーカーといってね、大した奴《やつ》ではない。のどを締《し》めて追いはぎを働くのが稼業《かぎよう》でね、口琴《*びやぼん》【訳注 金属のフレームに針金を張った原始的な弦楽器、歯のあいだにはさみ、指先で弦をはじいて音を出す】の名手だが、こんな男は歯牙《しが》にもかけてやしない。だが背後にひとり、侮りがたい強敵がいるんだ。モリアティの親友でね、ライヘンバッハでがけのうえから岩を落してよこした奴だが、ロンドン中でも最も悪知恵にたけた怖《おそ》るべき人物の一人だ。こいつが今晩|僕《ぼく》のあとをつけて来たんだが、いまは反対にこっちがねらっているとは夢《ゆめ》にも知っちゃいまい」
ホームズの計画は次第《しだい》にわかってきた。このお誂《あつら》えむきの隠《かく》れ家《が》は、主客を転倒《てんとう》させてしまったのだ。監視者が監視され、追跡者《ついせきしや》が逆に追跡されることになった。あのうえの窓の骨ばった影絵はおとりで、私たちは猟人《かりゆうど》なのだ。
私たちは無言のまま、まっ暗ななかに立って、窓のそとを急ぎ足に往《ゆ》き来《き》する人たちをじっと見張っていた。ホームズはほとんど身動きもしなかったが、心は油断なく研《と》ぎすまされ、眼《め》のまえを往来する人たちのうえに、注意を吸いつけられているのがよくわかった。
うす寒い荒れ模様の晩で、風が街路に吹きすさみ、往き来の人たちは多く服の襟《えり》をたて、マフラーで襟もとを包んで急ぎ足に通りすぎる。そのなかに私は、一、二度同じ人を見かけたようであったし、またことに、少し離《はな》れた家の玄関口《げんかんぐち》に、風を避《さ》けるようにして立っている二人の男を認めたので、ホームズにそのことを注意しようとしたが、彼はもどかしげな声を出しただけで、なおも街路から眼をはなさなかった。いくども足をもじもじさせたり、指先で急調に壁をたたいたり、少し気がかりになってきたのらしい。計画が思ったとおりに運ばないので、焦《じ》れているのだ。
そのうちに十二時ちかくなると、さすがに人通りは少なくなってきた。彼は制しきれぬ心の動揺《どうよう》のため、部屋のなかをあちこちと歩きまわった。私は言葉をかけようとして、ふと向うがわの明るい窓を見あげたとたんに、またしても非常な驚きを味わった。私はホームズの腕《うで》に手をかけて、上の窓を指さした。
「おい、あの影は動いたぜ!」
窓にうつるホームズの影は、もはや横顔ではなく、こちらに背を向けているのである。「むろん動いたろうさ」彼の無愛想さというか、自分よりも知能の低い者にたいする時の性急な気質は、三年たっても少しも緩和《かんわ》されてはいなかった。「一見して人形とわかるようなものを立てておいて、それでもってヨーロッパ有数のわる賢《がし》こい連中を欺《あざむ》けると、僕が思ってるとでもいうのかい? もうここへ来てから二時間になるが、ハドスン夫人が八回あの像を動かしてくれてる。十五分に一回の割だ。夫人はあかりの向うがわからそれをやれるから、決して窓に影がうつることはない。あッ!」
ホームズは何かに驚いて、急に息をのんだ。そして異常な緊張《きんちよう》に全身をこわばらせ、首を前へだすのを、私はうす暗いなかに認めた。さっきの二人は玄関口へ蹲《うずく》まりでもしたのか、もう姿は見えなかった、街路も暗いばかりで何事もなく、ただ向かいがわの窓だけが、黄いろいなかに黒くホームズのシルエットを浮《う》きあがらせているばかりである。
と、極度の静けさのなかに、私は微かな声を聞いた。それはホームズがはなはだしい興奮を押さえようとして漏《も》らしたものだった。とつぜん、彼は部屋の隅《すみ》の暗いところへ、私を引きずりこんで、声を出すなとその手を私の唇《くちびる》におしあてた。その指は震《ふる》えている。ホームズがこれほどの感動を現わしたのは、未《いま》だかつてないことである。だが、暗い街頭はただ何事もなく風が吹いているばかりである。
そのとき私も、ホームズの鋭い感覚が早くも感知していたものを、ようやく耳にとめた。低い、忍《しの》びやかな物音がしている。ただしそれは表のベーカー街のほうではなく、私たちの隠れている家の裏口のほうから聞こえてくるのだ。ドアがあいて、また閉められた。と、人の足音が廊下を近づいてくる。忍び足ではあるのだが、森閑《しんかん》とした空家のなかだから、大きく反響《はんきよう》した。
ホームズが壁にもたれて蹲まったので、私もピストルをしっかり握りしめて、それにならった。暗がりのなかをじっと見つめていると、やがて、開けはなたれた入口に、人間の姿が黒く現われた。しばらくそこに立っていたが、からだをかがめるようにして、じりじりとなかへはいってきた。私たちから三ヤードのところまで近づいてきたから、躍《おど》りかかったら相手になるつもりで身構えたが、相手は私たちの存在に気がついていないのがわかった。
彼は私たちのすぐそばを通って、窓へ近づくと、静かに、音のしないように、それを五インチばかり開けた。姿勢を低くして、窓のあいたところまで顔をさげたので、街路からはいる光線が、汚《よご》れたガラスごしでなく直接それを照らしだした。この男も興奮で無我夢中《むがむちゆう》であるのらしい。双《そう》の眼は星のようにキラキラと輝《かがや》き、顔はヒクヒクと痙攣《けいれん》している。相当の年輩《ねんぱい》で、鼻がほそくて高く、額ははげあがり、鼻下に半白の太い髭《ひげ》がある。オペラ帽《ぼう》をあみだに、前をひろげた外套《がいとう》の下からは、夜会服のシャツが白く見えている。やせたドス黒いその顔には、残忍《ざんにん》なしわが深くきざまれていた。
この男はステッキらしいものを手にしていたが、それを下におくとき、金属性の音がした。つぎに彼は外とうのポケットから、かさばったものを取りだすと、しきりに何かやっていたが、スプリングかボルトでも嵌《はま》ったような鋭い音が大きく聞こえて、この仕事は終ったらしい。しかし彼はなおも膝《ひざ》をつき、全身の重みをてこのようなものにかけて、力をこめ、こするような連続的な音をさせていたが、この仕事もカチリという大きな音とともに終ったらしい。
そこでこの男は立ちあがったが、見ると手にしているのは、妙《みよう》な格好をした台じりをもつ一種の銃《じゆう》であった。銃尾《じゆうび》をひらいて何か詰《つ》めると、尾せんを閉じて、再び蹲まり、開けた窓のふちに銃身をのせた。それから太いひげを銃床《じゆうしよう》につけながら、照準してみて満足そうに頷《うなず》き、銃床を肩にねらいをつけたが、何と驚いたことに、彼のねらっているのは、例の明るい窓にみえるホームズの黒い影だったのである。
彼はしばらくのあいだ、微動《びどう》だにしなかったが、やがて引金をひいたのであろう、ヒュッという高い音につづいて、ガラスの砕《くだ》ける甲《かん》だかい音があたりに響《ひび》きわたった。その瞬間《しゆんかん》、ホームズは猛虎《もうこ》のような勢いでその男の背後から襲《おそ》いかかり、うつ伏《ぶ》せに床のうえにたたきつけたが、相手はたちまち跳《は》ね起きると、物すごい勢いでホームズののどくびにつかみかかってきた。しかし、そのとき私がすかさずピストルの台じりで、頭を一つガンと喰《く》らわせたので、再び倒《たお》れてしまった。
私がすかさず曲者《くせもの》を押《お》さえつけるし、ホームズは鋭く呼子を吹きならした。すると舗道《ほどう》を駆《か》けてくる靴《くつ》の音がして、二人の制服|巡査《じゆんさ》と一人の私服とが、正面玄関からとびこんできた。
「レストレード君ですね?」
「ホームズさんでしょう? 自分で出かけてきましたよ。よくロンドンへ帰って来ましたねえ、ホームズさん」
「非公式な助力も少しは必要かと思ってね。迷宮入《めいきゆうい》りの殺人事件が一年に三つでは、困りますよね。しかしあのモールセイ事件だけは日ごろの君にも……いや実にお手際《てぎわ》でしたよ」
私たちはみんな立ちあがった。曲者は屈強《くつきよう》な巡査に左右を守られて、息をはずませている。表には早くもやじ馬が集りかけたようだ。ホームズは窓を閉めて、ブラインドをおろした。レストレードが蝋燭《ろうそく》を二本だしたし、巡査が角灯の覆《おお》いをとったので、私たちは初めて曲者の顔をよく見ることができた。
こっちへ向けたその顔をみれば、驚くほど男性的で、しかも驚くほど凶悪《きようあく》な相を備えている。学者のようなひろい額と、好色家の大きなあごとを持つこの男は、善にも悪にも大きな能力を発揮《はつき》するのに違《ちが》いない。だが、冷笑的にたれさがったまぶたのおくの残忍な青い眼にしろ、怖ろしく攻撃的《こうげきてき》な鼻や、威《い》嚇的《かくてき》な深いしわのあるその額を見たら、何人《なんぴと》といえどもそこに創造の神の率直《そつちよく》な危険信号を感知しない者はあるまい。彼は私たちに目もくれず、憎悪《ぞうお》と驚嘆《きようたん》の等分にまじった顔つきで、ホームズばかりを凝視《ぎようし》していた。
「悪魔《あくま》! このちょこざいな悪魔めがッ!」彼はぼやきつづけている。
「やア、大佐どの」ホームズはカラーの乱れをなおしながら、「旅路の終りは愛人のめぐりあいと古い芝居《しばい》の科白《せりふ》にはあるけれど、とんとしばらくお目にかかれませんでしたな。ライへンバッハの滝《たき》のうえの、がけの中途《ちゆうと》で寝《ね》ていて、ご配慮《はいりよ》にあずかって以来じゃありませんか」
何といわれても大佐と呼ばれた男は、まるで精神機能の停止した人のように、ぼんやりホームズの顔を見つめたままで、「このずるい悪魔めが!」とつぶやくばかりだった。
「まだ諸君にはご紹介《しようかい》しなかったが、この紳士《しんし》はセバスチァン・モーラン大佐どのといって、かつてはわが大英帝国インド軍の名誉ある将校であり、かつまた猛獣狩《もうじゆうが》りにかけては、わが東方帝国《とうほうていこく》の生んだ最大の名手です。そうですな、大佐? 虎射《とらう》ちでは、まだ君の記録を破った者はないのですな?」
それでもまだこのあらっぽい老人は、何もいわずにただじっと、ホームズの顔を凝視しているばかりだった。そのこわい眼光と剛《こわ》いひげを見ていると、この老人自身が虎になったように私には感じられた。
「こんな老練な狩猟家《しゆりようか》が、簡単な謀略《ぼうりやく》にかかるとは、むしろ不思議でならない。君もやったことがあるはずだが、木の下に子やぎをつなぎ、樹上に鉄砲《てつぽう》を持って隠れていて、えさに誘《さそ》われて虎がくるのを待った覚えがあるでしょう? この空家が樹《き》で、君が虎なんだ。虎が一頭じゃなかったり、あるいは、こんな仮定はどうかとは思うが、射ちそこなった場合に備えて、おそらく君も予備銃を用意されたろうが、これが」とホームズはぐるりと私たちのほうへ手を振《ふ》って、「僕の予備銃だ。両者の対比はぴたりと一致《いつち》する」
モーラン大佐はこのとき、激怒《げきど》の罵声《ばせい》とともに、すさまじい剣幕《けんまく》でホームズに躍りかかろうとしたが、たちまち左右の巡査に押えられてしまった。怒《おこ》った形相は、見るも恐ろしいばかりだった。
「正直なところ、僕も一つだけ、ちょっと意外なので驚かされた。この空家の、この都合のいい窓を、君自身が利用しようとは、思いもかけなかったですよ。君は道路から実施《じつし》するものとばかり思っていた。だから表にはレストレード君と有能な部下が待ちうけていたのだが、そのほかの点は、すべて予想のとおりだった」
モーラン大佐はレストレードのほうへ向きなおって抗議《こうぎ》した。
「君はわしを逮捕《たいほ》する正当な理由をお持ちかもしれんが、わしがこの男の際限ないあざけりを忍ばねばならん理由だけはあるはずがない。法の手で逮捕したのなら、万事法の示すところに従ってもらいたい」
「なるほど、それはもっともな話だ。じゃホームズさん、連れてゆきますが、もう何もおっしゃることはありませんか?」
ホームズは落ちていた強力な空気銃を拾いあげて、構造を調べていたが、
「驚嘆《きようたん》すべき武器だ。無音で非常に強力で、世界無比の銃だ。死んだモリアティ教授の注文でこれを作ったドイツの盲目《もうもく》機械技師フォン・へルデルは僕も知っているが、長年この銃の実在は承知していながら、実物を手にするのは、きょうが初めてだ。レストレード君、それじゃこの銃を確《しか》とお預けしますよ、弾丸《たま》もね」
「どうぞ私どもを信頼《しんらい》してください。ところでまだ何かお話があるでしょうか?」レストレードは皆《みな》とともに戸口のほうへ行きかけて尋《たず》ねた。
「大佐をなんの容疑者として連れてゆくつもりか、それだけ聞いておきたいですね」
「それは、むろん、シャーロック・ホームズ殺害|未遂罪《みすいざい》ですよ」
「それはよくない。僕はこの事件にいっさい名を出したくないのです。この犯人逮捕の栄誉は君に――君だけに帰属すべきものです。実際君の働きなんですからね。いつもながらの巧妙《こうみよう》で豪胆《ごうたん》な働きが、君に金的を射あてさせたのですよ」
「金的を? それは何のことですか?」
「警察が全力をあげながら、まだ逮捕の目的を達し得ないでいる犯人――先月の三十日に、パーク・レーンの四二七番の表三階の開けはなたれた窓ごしに、空気銃のダムダム弾《だん》で、ロナルド・アデヤ卿《きよう》を射殺した犯人セバスチァン・モーラン大佐をさ。これがこの男のほんとの罪名ですよ。ではワトスン君、窓ガラスが壊《こわ》れたから、寒い風ははいるだろうが、がまんして僕の部屋で三十分ばかり、葉巻でもやってゆかないかい? 何か面白《おもしろ》い話もあるかもしれないよ」
私たちの昔《むかし》いた部屋は、マイクロフト・ホームズの管理と、ハドスン夫人じきじきの注意とで、以前と少しも変っていなかった。じっさいはいってみると、部屋の中は片づきすぎるくらいきれいになっていたが、調度にしても家具にしても、ちゃんとそれぞれの場所にそのままだった。一隅《いちぐう》に化学実験の場所もあるし、酸で汚れた松板《まついた》ばりの実験台もあるし、たなのうえには恐るべき切抜帳《きりぬきちよう》や参考書の類《たぐい》が並《なら》んでいる。これはロンドン市民のなかにも、焼きすてたがっている連中が少なくないのだ。それから図表類、ヴァイオリンのケース、パイプ架《かけ》、ペルシャのスリッパまでが、そのなかに煙草《たばこ》がはいっているのだが、ひと目で見てとれた。
部屋のなかには二人の人物がいた。一人はハドスン夫人で、私たちを見ると笑顔《えがお》で迎《むか》えてくれた。もう一人のほうは今夜の冒険《ぼうけん》に重要な役割を演じた奇妙《きみよう》な等身大の人形である。まったくホームズに生きうつしというか、寸分ちがわぬ出来の蝋《ろう》いろの像である。それへホームズのほんもののガウンを着せて、小さな脚台《あしだい》のうえにすえてあるのだから、これではそとから影を見てだまされるのは無理もない。
「注意事項はすっかり守ってくれたでしょうね、ハドスン夫人?」
「おっしゃったように、ひざで歩いて致《いた》しましたよ」
「結構でした。なかなか立派なできばえでしたよ。ところで弾丸《たま》はどこへあたっていますか?」
「立派な像を台なしにしてしまって……頭をつきぬけて、壁《かべ》にあたって敷物《しきもの》のうえに落ちました。ここに拾っておきましたけれど、こんなに尖端《さき》が平らになっていますよ」
ホームズはそれを受取って、私に見せながら、
「ね、ピストルのダムダム弾だよ、ほら。天才的なところがあるじゃないか。まさかこれを空気銃で射ったとは、誰《だれ》も思いつかないからね。いや、ハドスン夫人、ご苦労でした。ところでワトスン君、まアその椅子《いす》に腰《こし》をおろしてみせてくれないか、昔みたいに。二、三君と論じあいたい点もあるんだから」
ホームズはみすぼらしいフロックを脱《ぬ》ぎすてて、半身像から取った鼠《ねずみ》いろのガウンを着たので、すっかり昔の彼《かれ》にもどってみえた。
「老射手先生やっぱり神経も視力も衰《おとろ》えてはいなかったね」ホームズは胸像の砕けた前額を調べてみながら、笑って、「後頭部のまん中にあたって、脳みそを潰《つぶ》している。何しろインドでは第一の名射手だったのだから……ロンドンにもこの男の右に出る者はおそらくあるまい。君もモーランの名は聞いたことがあるだろう?」
「いいや、一向に知らなかったね」
「ふむ、評判なんだがな。もっとも君はたしか、世紀の最も偉大《いだい》なる知者ジェームズ・モリアティ教授の名も知らなかった男だからね。ちょっとその本だなから、僕編集の伝記|便覧《べんらん》をとってくれたまえ」
彼はいすの背によりかかって、葉巻の煙《けむり》を盛《さか》んにはきながら、のらくらとページをくって、
「|M《エム》の部は秀逸《しゆういつ》ぞろいだな。モリアティは全巻を通じての大ものだが、そのほか毒殺業者のモルガンがあるし、ここには思いだしても胸の悪くなるメリデューがあるし、マシューズがいる。こいつはチャリング・クロス駅の待合室で、僕の左の犬歯をたたき折った奴だ。それから、ああ、ここに今夜の先生がいた」
こういってホームズが本を渡《わた》してよこしたので、私はその項《こう》を読んでみた。
「モーラン――セバスチァン。退役大佐。元ベンガル第一工兵隊。一八四〇年ロンドン生まれ。父は元ペルシャ駐在《ちゆうざい》英国公使第三級バス|勲章 従男爵《くんしようじゆうだんしやく》オーガスタス・モーラン。イートン校|及《およ》びオックスフォード大学に学ぶ。ジョワキ戦役。アフガン戦役に従軍。チャラシアブ(派遣《はけん》)、シャープール、カブール等に勤務。著書に一八八一年版『西部ヒマラヤの猛獣狩』一八八四年版『ジャングルの三カ月』あり。住所、コンジット街。所属クラブ、英印クラブ、タンカヴィル・クラブ、バガテル・カード・クラブ」
余白にホームズのきちょうめんな字で「ロンドン第二の危険人物なり」と書きこんである。
「驚《おどろ》いたねえ」私は本をホームズの手に返しながら、「軍人として立派な経歴《けいれき》を持っているじゃないか」
「それは事実だよ。ある時期までは、正しくやって来たんだ。元来が鉄のような神経の持主でね、手傷を負った人食虎を追跡《ついせき》して、下水溝《げすいこう》をはいずった話は、今でもインドでは有名な話題になっている。樹木にもある高さまではまっすぐに生長したのが、急に見苦しい形にねじれてくるのがあるだろう? 人間にもしばしばそれが見られる。個人はその生長過程のうちに、祖先の踏《ふ》みきたった全過程を再現するものであって、善悪いずれの方向へも、急激に変化するというのは、その人の血統のうちに導入されている強い影響《えいきよう》を表示するものだという持論を僕《ぼく》は持っている。いわば個人は家族史の縮図にすぎないというのだ」
「なんだか少し奇抜《きばつ》すぎるようだね」
「ま、そんな事はどうでもいい。固執《こしつ》するわけじゃない。何が原因か知らないが、モーラン大佐は悪のほうへぐれだした。そしてスキャンダルがぱっとするところまではゆかなかったけれど、インドには居たたまれなくなったので、退役してロンドンへ帰ってきた。帰ってはきたが、またしても悪評を立てられることになった。
そこへ現われたのがモリアティ教授で、大佐はモリアティに見出《みいだ》されて、一時はその幕僚長《ばくりようちよう》の関係にあった。モリアティの方でも大佐に潤沢《じゆんたく》に金をあたえて、普通《ふつう》の犯罪者では役に立たないような、ごく高級な仕事にだけ、一、二度彼を使った。一八八七年にラウダのスチュアート夫人の死んだ事件を、君は思いだすだろうが、え、知らない? 知らなくてもいいが、あの事件の裏面《りめん》にはたしかにモーランがいるのに、何としても証拠《しようこ》がない。何しろモリアティ一味が壊滅《かいめつ》したときも自分だけは尻尾《しつぽ》を押さえさせなかったほど、大佐は身を隠《かく》すのが巧妙な男だった。|い《*》つぞや君の家へ行ったとき【訳注 「思い出」の中の最後の事件参照】、僕が空気銃を恐れて窓の鎧戸《よろいど》を閉めたのを君は覚えているかい? あのとき君は僕のことを、夢想家《むそうか》だと思ったろうが、僕としてはこの怖《おそ》るべき空気銃の実在を信じ、それを持っているのが世界的な名射手だと知っているから、当然の用心をしたまでなんだよ。あれから僕たちがスイスへ行ったら、大佐はモリアティと二人で尾行してきた。そのあげくがライヘンバッハの滝の断崖《だんがい》で、脂汗《あぶらあせ》の五分間を僕に経験させたのも、この男に違いないのだ。
僕がフランス滞在中《たいざいちゆう》に、新聞に注意していたことは、君もわかるだろう。何とかして大佐を捕《とら》える機会がないものかと気をつけていたのだ。この男がロンドンでのさばっているかぎり、僕の生活は実に生きがいのないものだ。昼も夜も僕をつけねらって、結局は機会をつかむにきまっている。ではどうしたらよいか? 見つけしだい打ち殺すか? それではこっちが被告席《ひこくせき》に立たなければならない。では当局に訴《うつた》え出るか? 当局は根拠《こんきよ》もない疑念くらいにしか思わないだろうから、そんな話は取りあげられっこない。
仕方がないから僕は、いつかは取って押さえられる時のくるのを信じて、毎日の新聞の犯罪ニュースに注意していた。そこへこのロナルド・アデヤ殺しだ。機会はついにきた。僕の知っているだけの予備知識があったら、この犯人がモーラン大佐なのは誰にだってわかるだろう。大佐はロナルドとカードの勝負をした。そのあとでクラブから家までつけていって、あいた窓から射ったのだ。もはや一点の疑いの余地もない。弾丸だけで、大佐を絞首台《こうしゆだい》へ送るのに十分な証拠になる。
僕はすぐロンドンへ帰ってきた。そして見張りの者に見つかってしまったが、見張りからの報告をうけた大佐は、僕のとつぜん帰ってきたのを、自分の犯行に結びつけて考え、大いにあわてもするし、自分の身を守ろうとするに違いない。それには時をうつさず、僕を亡《な》きものにする決心を実行にうつし、あの恐るべき武器を持ちだすだろう。そこで僕は大佐のため、この窓に絶好の的をあてがっておいて、必要を予想したから、警察に連絡をとった。――そういえば余談だが、君は目ざとくも張りこみの連中を玄関口《げんかんぐち》に認めたようだったね――そして僕は監視《かんし》の場所を巧妙に選んだつもりだったが、同じものを大佐が襲撃《しゆうげき》の拠点に利用しようとは、夢《ゆめ》にも思わなかった。というわけだが、ワトスン君、まだどこか説明の足りないところがあるかい」
「あるね。モーラン大佐はなぜロナルド・アデヤ卿《きよう》を殺したか、その動機については何も説明がなかったね」
「ああそれか。その点になるともはや臆測《おくそく》の領域だから、どんなに論理的な頭脳をもってしても、絶対にまちがわぬとはいえないのだ。提示されただけの証拠材料のうえに、めいめいの仮説が立てられるだろう。君の説も僕の説と同じくらい正確だといえるのだ」
「君はもう何か見当がついているんだね?」
「一応の説明をつけるのは、むずかしくないと思う。調書によれば、ロナルドは大佐と組んで、かなりの金額を勝っている。大佐はカードでインチキをやるのだ。そのことはずいぶん前から僕は気がついていた。思うに殺された日、ロナルドはそれを見破ったのだ。そこで彼が大佐と二人きりのとき、クラブを自発的に脱退《だつたい》して、今後カードを手にしないと誓約《せいやく》しなければ、不正を公開するときめつけたとするのは、きわめてありそうなことだ。ロナルドのような若い者が、そういう場合、ずっと年うえでもあり、身分もある相手にたいして、いきなり世間に公表して忌《いま》わしい恥《はじ》さらしをさせるとは、まず考えられない。おそらくそっと警告を与《あた》えたことだろう。
大佐のほうはカードの不正収入で生活しているのだから、クラブを放逐《ほうちく》されたら身の破滅《はめつ》だ。そこでロナルドを殺してしまったわけだが、ロナルドは殺されるとき、パートナーの不正で勝った金を着服するのはいやだから、いくら返済したらよいか、それを計算していたのだ。女性に入って来られると、人の名を書いて金を勘定《かんじよう》したり、変なことをしているのだから、うるさく追及《ついきゆう》されるのを恐れて、平素の習慣に反して部屋には鍵《かぎ》をかけておいたのだ。――これでどうだい?」
「ふむ、たしかにそれが真相に違いあるまいね」
「真偽《しんぎ》はいずれ法廷で立証されるだろう。いずれにしても、フォン・ヘルデルの有名な空気銃はロンドン警視庁の博物館を飾《かざ》ることになり、僕たちはもはやモーラン大佐に煩《わずら》わされる心配はなくなった。そこでシャーロック・ホームズは再び、ロンドンの複雑な生活が、つぎつぎと豊富にかもしだす興味ある問題の探求に、彼の生涯《しようがい》を捧《ささ》げることが出来るというものさ」
[#地付き]―一九〇三年十月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
踊る人形
ホームズは数時間も黙《だま》りこくって坐《すわ》ったまま、細長い背をまるめて化学容器のうえに被《かぶ》さるようにして、おそろしく悪臭《あくしゆう》を放つものを生成していた。首を深く垂れて、私のところからみると、まるでくすんだ灰いろの羽毛《うもう》で鳥冠《とさか》の黒い、妙《みよう》に痩《や》せた鳥のように見えた。それが突然《とつぜん》口をきいたのである。
「そうすると君は、この南《なん》ア株券へ投資するのは止《や》めにしたんだね?」
私はびっくりさせられた。いくら彼《かれ》の不思議な才能には慣れている私でも、こうやぶから棒に、胸底の秘奥《ひおう》をズバリといいあてられては、驚《おどろ》かざるを得ないのである。
「どうしてまた、そんな事がわかるんだい?」
彼は腰掛《こしかけ》のままくるりと向きなおった。煙《けむり》のたちのぼる試験管を手にしたままで、くぼんだ眼《め》が嬉《うれ》しそうに輝《かがや》いている。
「降参したらどうだい、驚いたと?」
「驚いたよ」
「それならそれで、降参の一札《いつさつ》を入れておいてもらうべきだな」
「どうして?」
「五分もたつと君は、なアんだ、そんな事かというに決まってるからさ」
「決してそんなことは口にしないよ」
「そんならいうがね」と彼は試験管を架《たな》に立てかけておいて、まるで学生に講義する教授のような調子で、「個々の推理は簡単なもので、そのすぐ前からのつづきにすぎないのだが、これを一連の推理体系に組みあげるのは、そう困難なものではない。いったんこの体系が組みあがったら、中心になる推理をたたき捨てておいて、出発点と結論だけを人に聞かせれば、相手を驚かす効果は容易にあげられるだろう。もっとも気障《きざ》にはなるかもしれないがね。だから今だって、君の左手のひとさし指とおや指のあいだの凹《くぼ》みをよく見れば、君が金鉱へ小資本を投資する気のないのは、そうむずかしくなくわかるんだよ」
「その関連が僕《ぼく》にはわからない」
「まアわかるまいね。だが、簡単にその関連が説明できるんだよ。第一に、君はゆうべクラブから帰ってきたとき、ひとさし指とおや指のあいだにチョークをつけていた。第二に、チョークは、君が撞球《たまつき》をするときキューにつけるのがついたのだ。第三に、君はサーストン君以外の者とは撞球をしない。第四に、四週間まえの君は、サーストンが南アのある会社の株券に関して、一カ月間だけ特権を持っていて、君にも一口乗らぬかとすすめられていると話したこと。第五に、君の小切手帳は、僕の引出しに入っているが、一向に鍵《かぎ》を貸せといわないこと。第六に、だから君は、そのほうへ投資の意志がないということになる」
「なアんだ、ばかばかしい!」
「そうだとも!」とホームズは少し不機嫌《ふきげん》に、「どんなことでも君は一度説明を聞いたが最後ばかばかしくなるんだ。ここに説明なしの問題がある。こいつをどう解釈するか、自分でやってみたまえ」
彼は一枚の紙片《しへん》をテーブルのうえにほうりだして、再び化学|分析《ぶんせき》にとりかかった。
紙片にはわけのわからぬ人形がならんでいるだけだから驚いた。
「なアんだ、子供の描《か》いた絵じゃないか」
「君の考えるのはそんなところだ」
「じゃ何だというんだい?」
「そいつをノーフォーク州のリドリング・ソープ荘園《しようえん》の主人ヒルトン・キュビット氏がたいへん知りたがっているのさ。この難問をまず手紙でよこしておいて、キュビット本人は次の汽車で来ることになっている。そういえばベルが鳴っているようだ。きっとキュビット氏だろう」
階段に重い足音がして、やがてはいってきたのは背のたかい、あから顔をきれいにそった紳士《しんし》で、その冴《さ》えた眼、血色のよいほおは、霧《きり》ふかいベーカー街なぞとははるかに隔《へだ》たりのある生活を思わすものがあった。何だかこの人がはいってくると、東部海岸地方の新鮮《しんせん》で爽快《そうかい》な空気を身につけて運んで来たかと思われた。握手《あくしゆ》をすませて席に着こうとすると、いま私の調べていた奇妙《きみよう》な絵のある紙片が、机のうえに出ているのが眼にとまった。
「おお、ホームズさん、こいつをどうお考えになりますか? あなたは何でも不思議なことがお好きだとうかがっておりますが、これだけ不思議なものはちょっとありますまい。あらかじめお考え願えたらと思って、先にお送りしておいたのです」
「たしかに奇妙な作品ですね。一見するところ、子供のいたずら描《が》きとも見られます。いくつかのおかしな人形が、一列に踊っているだけのことですからね。いったいあなたはなぜこのへんてこな物に、そう重大な意味を付与《ふよ》なさるのですか?」
「私じゃありません。妻なんですよ。妻が死ぬほど怖《おそ》れているのです。口に出して何もいいはしませんけれど、眼のなかにそれが現れています。それで私は、徹底的《てつていてき》に調べてみたいのです」
ホームズは紙きれをとりあげて、日光を紙面いっぱいに受けるようにした。手帳から引きちぎったもので、鉛筆で次のような人形が描いてあった。――
[#挿絵(img\044.jpg、横70×縦477、上寄せ)]
彼はしばらく検《あらた》めていたが、ていねいに折りたたんで、手帳の中に納めた。
「これはたいへん面白《おもしろ》い、異様な事件のようです。ヒルトン・キュビットさん、お手紙で一応事情は承《うけたま》わってはいますが、このワトスン博士のため、恐れいりますが初めからもう一度ご説明願えると、たいへんありがたいのですが」
「話は上手《じようず》なほうじゃありませんが」と客は大きくて強そうな手を神経質に握《にぎ》ったり開いたりしながら、「おわかりにならないところはどうぞご遠慮《えんりよ》なく質問してください。最初に昨年私が結婚《けつこん》したことから申しあげようと思いますが、そのまえに申しておきたいのは、私は金《かね》はありませんけれど、私の家はおよそ五世紀も昔《むかし》から続いていましてね、リドリング・ソープのキュビット家といえば、ノーフォーク州では第一の名家になっていることです。
昨年の五《*》十年祭【訳注 一八九七年のヴィクトリア女王即位五十年祝賀祭】には私もロンドンへ出てきましてね、教区牧師のパーカーさんのいた関係で、ラッセル・スクェアの下宿屋に滞在《たいざい》しました。同じ宿にパトリックさんというアメリカの若い婦人がいました――エルシー・パトリックという婦人です。ふとしたことから、私たちこの人と親しくなりましてね、予定の一カ月が終らぬうちに、私はこの人を熱烈《ねつれつ》に愛するようになりました。それで登記所でこっそり結婚しましてね、晴れて夫婦としてノーフォークへ帰ってゆきました。旧《ふる》い家柄《いえがら》の者として、その過去も家族関係のこともわからない一婦人と、そんな風にして結婚するのは、狂気《きようき》のさたとお考えになるかもしれませんけれど、一度本人に会って、どんな婦人だか見てくだされば、ご了解《りようかい》がゆくと思います。
もっともエルシーはその点きわめて率直《そつちよく》でした。私さえその気になれば、いつでも結婚は思い止《とど》まれるように彼女《かのじよ》は仕向けてくれたのです。『私にはとっても厭《いや》な交際の思い出がありますの。いまはその事をみんな忘れてしまいたいと思っています。私、過去にはいっさい触《ふ》れたくありませんわ。とても苦しいんですもの。私と結婚なさるのは、過去に人格的に疚《やま》しいところのない女を妻になさることです。でもそのことは、私の言葉だけで満足していただかなければなりません。あなたの妻になるまでの過去については、いっさい申しあげないのを許していただかなければなりません。もしこの条件がお嫌《いや》でしたら、寂《さび》しい私なんかに構わないで、どうぞ黙ってノーフォークへ帰ってください』彼女がこんなことをいったのは、結婚の前の日のことでした。私はその条件に同意のうえ結婚するのだといい聞かせました。そしてきょうまで、その言葉は守りとおしてきました。
さて、結婚して一年になりますが、私たちはたいへん幸福に過してきました。ところがちょうど一月ばかりまえ、六月の終りごろになって、私は面倒《めんどう》なことの起こりそうな最初の萌《きざ》しに気がつきました。ある日妻のところへアメリカから手紙が来たのです。アメリカのスタンプでした。妻はまるで死人のようにまっ青になって、読むと火のなかにくべてしまいました。
後になっても妻は、そのことにはひと言《こと》も触れませんし、私も何もいいません。約束《やくそく》は約束ですからね。でもそれからのち、妻はかた時も寛《くつ》ろいだことがありません。いつも不安そうな顔をしていました。何かを予期するような顔つきです。私を信頼《しんらい》してくれたらよいのに、私が何よりの味方になってやるのにと思うけれども、妻のほうから切りださない限り、私からは何もいえません。
ホームズさん、妻は正しい女です。過去にどんな問題があったとしても、かならず妻の責任ではありません。私は単純なノーフォークの田舎《いなか》地主にすぎませんけれども、家名を重んずることにかけては、イギリス中の誰《だれ》にも引けはとらぬつもりです。そのことは妻もよく知っています。結婚するまえから、よく知りぬいているのです。決して私の家名を傷つけるようなことはない。それは断じてありません。
さて、これからがいよいよ奇妙な話になるのですが、一週間ばかりまえ、先週の火曜日ですが、窓敷居《まどじきい》のうえに、この紙にあるようなばかな踊り人形がいくつか描《か》いてあるのを私は見つけました。チョークで描いたものでした。厩舎《きゆうしや》の若者の悪戯《いたずら》かと思いましたが、まったく覚えがないといいます。いずれにしても夜のうちに描いたものです。すぐに洗い落させましたが、妻には後で、これこれだったと話して聞かせました。ところが驚いたことに、妻はそれをたいへん気にして、こんどそんなことがあったら、ぜひ見せてくれるようにと申しました。
その後一週間ばかりは何事もなくすぎて、昨日の朝、庭の日時計のうえでこの紙を私が見つけたのです。エルシーに見せますと、どうしたものか卒倒《そつとう》してしまいました。そして気がついてからも、まるで夢《ゆめ》でも見ているように、半ば茫然《ぼうぜん》として、眼にはいつも恐怖《きようふ》のいろを潜《ひそ》めています。それで、手紙を書き、この紙をつけてあなたにお送りしたのです。
こんなことは警察に訴《うつた》えるわけにもゆきません。訴えれば笑われるだけです。しかしあなたなら、どうしたらよいか教えてくださると思います。私は金はありませんけれど、妻を嚇《おど》かすものがあるのでしたら、最後の一銭まで叩《はた》いてでも、その危険から妻を守ってやりたいと思います」
立派な男だ。これこそ生粋《きつすい》のイギリス男児である。大きくて真摯《しんし》な碧《あお》い眼で、大柄な顔だちのよいこの男は、単純で率直で寛容《かんよう》で、妻への愛と信頼の念が面貌《おもて》に溢《あふ》れている。ホームズはこの話にじっと注意を集中して聞きいっていたが、話がすんでもしばらく無言で考えこんでいた後に、
「どうでしょう、一番よいのは直接|奥《おく》さんによく頼《たの》んで、秘密を打ち明けてもらうことではないでしょうかね」
ヒルトン・キュビットは大きな頭を横に振《ふ》って、
「約束は約束ですからね。もしエルシーにうちあける意志があるなら、今までにも打ちあけているでしょう。私から強要するわけにはゆきません。しかし、私が私として独自の手段を講じるのは、不当でないと思います。いや、講じるつもりなのです」
「そういうことでしたら、極力ご援助《えんじよ》しましょう。まずお尋《たず》ねしますが、ご近所で見なれぬ人物を見かけたような話を耳にはなさいませんか?」
「いいえ、聞きませんね」
「たいへん閑静《かんせい》なところだと思いますが、見なれぬ人でも来れば、かならずうわさの種になるでしょうね?」
「すぐ近所へ来ればね。でもあまり遠くないところに、小さな湯治場《とうじば》がいくつもありましてね、農家では部屋を貸したりしていますから」
「この妙な絵は、たしかに意味がありますね。これが全然でたらめのものだったら、意味を解くのは不可能でしょうが、それに反して組織的に描かれているのだったら、かならず完全に解釈できると思います。しかしこの見本だけでは、あんまり量が少なくて、どうすることもできませんし、お話はうかがったけれど漠《ばく》としていて、調査の基礎《きそ》がありません。ですから私としておすすめしたいのは、ひとまずノーフォークへお帰りになって、厳重に見張りをしていて、この人形がまた現われるでしょうから、そいつを正確に写しとっていただくのですね。窓敷居にチョークで描いてあったものの写しのないのが返すがえすも残念です。
それからまた、近所に見なれぬ人物が現われるかどうかも、用心ぶかく調べてください。そして何か新しい材料が手に入ったら、改めてお出《いで》を願うのですね。いまのところ、これだけのことしか申しあげられません。もしまた事態が緊急《きんきゆう》な発展でもした場合は、いつでもノーフォークのお屋敷へ駆《か》けつけてさしあげます」
この会見はシャーロック・ホームズをひどく考えこませてしまった。それから二、三日のあいだ、手帳にはさんだ例の紙きれをとりだしては、おかしな形の人形にじっと見入っているのを、何度も見かけたものだった。しかし口に出しては何もいわなかったが、それから二週間あまりたったある日の午後、外出しようとすると、ホームズが呼びとめた。
「ワトスン君、家にいた方がいいよ」
「なぜ?」
「けさヒルトン・キュビットから電報が来たからさ。覚えているだろう、踊る人形のヒルトン・キュビットだ。一時二十分にリヴァプール街の停車場へ着いたはずだから、もう来るころだ。電報でみると、重大な事件が起こったらしい」
待つほどもなく、ノーフォークの大地主は停車場からまっ直《すぐ》に辻馬車《ハンサム》を飛ばしてやってきた。悩《なや》ましそうにうち沈《しず》んで、疲《つか》れた眼つきをして、額をくもらせていた。
「ホームズさん、もうもう私はくさくさしてきましたよ」と彼は疲れはてたように肘《ひじ》かけいすに腰《こし》を落して、「眼に見えない得体の知れぬ人間が、身のまわりを取りまいて、何事かをたくらんでいるのを感知しているのは、まったくやりきれませんよ。おまけにそいつが妻を一寸きざみに殺してゆくと知っては、血と肉でできた人間にはとても我慢《がまん》なんかできません。妻はだんだんに弱りはててゆきます。日に日にやせ衰《おとろ》えてゆきます」
「奥さんはまだ、何もおっしゃらないわけですね?」
「申しません。それも、打ちあけたいと思うことはたびたびあるらしいのですが、どうも思いきれないのですね。思いきって切りだせるように、こっちから仕向けてもやりましたけれど、どうも不器用なものですから、かえって怖れさせてしまいました。妻のほうから、私の祖先のことだの、田舎《いなか》での一家の名声だの、汚《けが》れのない家名の誇《ほこ》りというようなことを話しだしますので、これは問題の要点に近づいてゆくなと気はついているのですが、いつの間にか話がわきへそれてゆくのです」
「でもあなたは、何かご自分で発見なすったでしょう?」
「それはたくさんありますよ。例の踊り人形の絵の新しいのを持って来ましたから、お調べ願いたいですが、それよりもっと大切なのは、その男を私が見たのです」
「えッ? 人形の絵を描《か》いた男ですか?」
「ええ、描いているところを見たのです。しかし、ま、順序を追って申しあげましょう。このまえこちらへ伺《うかが》って、帰ってから、翌朝まっ先に踊る人形の新しい収穫《しゆうかく》がありました。道具ごやの黒い木のドアにチョークで描いてあったのですが、この道具ごやは庭の芝生《しばふ》の横にあって、表の窓からまる見えなのです。写しをとっておきましたが、これです」
といって彼は紙をひろげ、テーブルのうえにおいた。次にその象形文字を掲《かか》げる――
[#挿絵(img\051-1.jpg、横70×縦381、上寄せ)]
「ふむ面白い! それで?」
「写しをとってから、その絵はふき消しておいたのですが、二日めの朝、また新しいのが描いてありました。その写しはこれです」
[#挿絵(img\051-2.jpg、横70×縦383、上寄せ)]
ホームズは手をこすり合せ、うれしそうにくつくつと笑った。
「材料が急に集りましたね」
「それから三日めに、こんどは紙きれに描いて、小石を重しにして日時計のうえにおいてありました。これですが、ご覧《らん》のとおり、こいつは最後のものとまったく同じです。
この事があってから私は、待ち伏《ぶ》せする決心をしました。ピストルを持ちだして、芝生や庭の見とおせる書斎《しよさい》の窓ぎわに坐《すわ》っていたのです。すると夜なかの二時ごろに、そとには月光がありますけれど、あたりはまっ暗なのに、ふとうしろで足音がします。化粧《けしよう》ガウンをまとった妻でした。妻はどうぞもう寝《ね》てくれといいますが、こんなばかなまねをするのは何者だか見届けてやるのだと、正直にいいますと、つまらぬ悪戯《いたずら》だから、気にすることはないといいます。
『ねえ、そんなにこれがお気になるなら、二人でどこかへ旅に出ましょうよ。そうすれば、うるさいことも避《さ》けられますわ』
『悪戯のために自分の家を追いだされるのかい? そんなことをしたら、界隈《かいわい》の物笑いになるよ』
『とにかく、もうお寝《やす》みなさいな。話は朝ゆっくりできますわ』
妻がこういったときとつぜん、月の光のなかでさえ、妻の顔いろがさっと変ったのを私は認めました。私の肩《かた》においている手にも、ぎゅっと力がはいりました。見ると道具ごやの蔭《かげ》に何か動いているのです。黒い人かげがこやの角をはってまわりこみ、ドアの前にうずくまりました。
私はいきなりピストルをつかんで、躍《おど》りだそうとしましたが、妻が両手で抱《だ》きついて、恐《おそ》ろしい力で引きとめました。振りきろうとするのですが、必死にしがみついているので、なかなか放してくれません。やっとの思いで自由になったけれど、ドアをあけて出てみたときは、もう姿は見えませんでした。
しかし、たしかにそいつのいた痕跡《こんせき》は残してゆきました。ドアのうえに踊り人形の絵が描いてあるのです。しかもそれは前に二度も現われたのとまったく同じ配列で、つまりこの紙に写してあるものなのです。私は庭じゅうを探してみましたけれど、ほかには何の痕跡も残していませんでした。しかも呆《あき》れたことには、そいつはそのあいだじゅうやっぱり庭に潜んでいたに違《ちが》いないのです。朝おきてみましたら、こやのドアには前夜見た一行の下に、新しい人形が描き足してありました」
「その新しい人形の写しがありますか?」
「あります。ごく短いものですが、写しておきました。これです」
といって彼《かれ》はさらに一枚の紙きれをとりだした。新しい人形は次のようなものであった。
[#挿絵(img\053.jpg、横70×縦272、上寄せ)]
「どうでしょう、キュビットさん」というホームズの眼《め》には、興奮のいろが見てとれた。「これはさきに描いたものへの追加でしょうか? それともまったく新たな、別のもののようでしたか?」
「前のとは別の鏡板に描いてありました」
「面白い! それが捜査上《そうさじよう》もっとも重要なのです。いよいよ有望です。ではキュビットさん、お話のつづきをどうぞ」
「もう何も申しあげるほどのことはありません。ただ、その晩私は妻に腹を立てました。飛びだすところを妻が止めだてさえしなければ、曲者《くせもの》を捕《とら》えていたところですからね。妻は私に怪我《けが》でもあってはいけないと思って止めたといいますが、そのときふと私は、妻が怪我の心配をしたのはその男のことではないかと、そんな考えがちらと頭をかすめました。妻はこの男が何者であるか、この不思議な記号が何を意味するか、ちゃんと知っているのだなと感じたからです。
しかしホームズさん、そうはいっても妻の話しぶりといい、眼いろといい、そんな疑いを持てないものがあるのです。だからやはり、私のことを心配してくれたのだとしか思われません。これで申しあげることは全部申しあげました。私はこれからどうすべきか、あなたのご意見をうかがわせてください。私の考えとしては、農場の若い者を五、六人|茂《しげ》みのなかにでも伏せておいて、こんどあいつがやって来たらうんと鞭《むち》で打ちのめして、二度と私たちを騒《さわ》がせないようにしてやろうかと思うのですが」
「そんな手軽な処置ですむような、簡単なわけにはゆかぬかと思いますよ。あなたはロンドンにいつまで滞在できますか?」
「きょう中に帰らなきゃなりません。ひと晩でも、妻を独りでいさせたくないのです。本人もひどく神経質になって、ぜひ帰ってくれと申していました」
「無理もありません。もしご滞在が可能なら、一両日中には私もお伴《とも》できるかと思ったのですが。とにかくこの紙はお預かりしておきます。近いうちにお訪ねして、事件のほうも何とか目鼻がつけられるのじゃないかと思っております」
シャーロック・ホームズは、客が帰るまでは冷静に、職業的態度を持《じ》していたが、その実すっかり興奮しているのが、彼をよく知る私には容易に見てとれた。ヒルトン・キュビットの幅《はば》ひろい背なかがドアのそとに消えるやいなや、彼はテーブルに飛びついて、人形の描いてある紙を全部そこに並《なら》べ、何だかこみ入った熟慮に没頭《ぼつとう》した。
まる二時間というもの、私のいることなぞてんで忘れた様子で、何枚も紙を出しては文字や数字を書きちらした。ときどきは仕事がうまくゆくらしく、口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いたり鼻うたをうたったりするかと思うと、当惑《とうわく》しきった様子でまゆをしかめ、ぼんやりした眼つきで長いことじっとしていることもあった。
最後に、満足そうな嘆声《たんせい》とともにいすからとび起きて、しきりに手をこすり合せながら、室内を歩きまわった。それから海底電信の頼信紙に長い電文を認《したた》めてからいった。
「こいつの返事が僕《ぼく》の注文どおりだったら、君の記録のうちにすばらしい事件を加えることになるよ。あしたはノーフォークへ行って、あの男の悩んでいる秘密に関して、決定的なニュースを提供できると思う」
正直にいうと、私は好奇心《こうきしん》でいっぱいだったが、ホームズは自分の好きなとき、自分の好きな様式で種明しをするのが好きなのをよく知っているから、黙《だま》っていた。彼の都合のよいとき、打ちあけてくれるのを待つよりほかないのだ。
だが電報の返事は遅《おく》れた。じりじりしながら二日間も待たされた。呼びリンの鳴るたびに、ホームズは耳をそばだてていた。二日めの夕がた、ヒルトン・キュビットから手紙がきた。べつに変ったことはないが、その朝、日時計の台石のうえに例の象形文字の長いのがおいてあったといって、写しを封入《ふうにゆう》してあった。次にそれを掲げる――
[#挿絵(img\056.jpg、横70×縦700、上寄せ)]
ホームズは二、三分間も、この奇怪な帯模様のうえに、のしかかるようにしていたが、とつぜん立ちあがって、驚《おどろ》き慌《あわ》てた声を発した。心痛で顔いろまで変っていた。
「うっかりして事件を発展させすぎたようだ。北ウォルシャム行きの汽車はこんばんまだあるかしら?」
私は鉄道案内を繰《く》ってみた。終列車が出てしまったところである。
「では朝食を早くして、一番列車で行くことにしよう。緊急に僕たちのいることが必要なのだ。――おお、待っていた海底電信が来た。ちょっと待ってください。ハドスン夫人《さん》、返事を出すかもしれないから。いや、返事はいりません。ふむ、予想のとおりだ。この返電で、いよいよぐずついていられないのがわかった。一刻も早くヒルトン・キュビットに情況《じようきよう》を知らせてやらなければ。あの単純なノーフォークの地主の巻きこまれている網《あみ》は、通常でない危険なものなんだからね」
まったくその通りであった。子供だましの、単に奇妙《きみよう》な話とだけ思っていた私は、陰惨《いんさん》な結末を知るに及《およ》んで、いいしれぬ恐怖を感じたのである。いま思いだしてもぞっとする。読者諸君に伝えるにはもっと明るい結末をもってしたいと願わぬではないが、これは事実談なのであるから致《いた》しかたがない。リドリング・ソープ荘園《しようえん》といえば当時イギリス全土の人たちの話題となったこの事件を、奇妙な出来ごとのつながりをたどって、あの陰惨な大詰《おおづめ》まで物語ることにしよう。
北ウォルシャムの停車場に降りて、行く先を告げるや否《いな》や、駅長が飛んできた。
「ロンドンからおいでの探偵《たんてい》のかたですね?」
ホームズはちょっと迷惑《めいわく》そうな顔をして、
「どうしてそんなことがおわかりです?」
「ノーウィッチ市からマーチン警部が今しがたお着きでしたから。でもお医者さんかもしれませんな。夫人はまだ生きています。さっき聞いたのでは、まだ死んでいないそうです。まだ間に合うかもしれません。助かってもいずれは絞首台《こうしゆだい》行きでしょうがね」
ホームズは心配そうな暗い顔をした。
「リドリング・ソープ荘園へ行くことは行くのですが、何があったのか、まだ話を少しも聞いていないのです」
「いや、実に恐ろしいことです」駅長が教えてくれた。「二人とも――ヒルトン・キュビットさんも奥さんも、両方とも射《う》たれたのです。奥さんがまずご主人を射って、それから自分を射った――と召使《めしつか》いたちはいっています。ご主人は絶命されました。夫人の方は生命|危篤《きとく》ということです。どうでしょう、ノーフォーク州第一の旧家で、名門なのですがねえ」
ホームズは返事もしないで、急いで馬車へ乗りこんだが、それから七マイルという長い道中を、ひと言も口を利《き》かなかった。彼がこれほど悄気《しよげ》たのを見たことがない。ロンドンから来る途中《とちゆう》も気にかかるらしく、しきりに朝刊を心配そうに引っくり返すのを見たが、ここへ来て、彼の恐れていた懸念《けねん》が事実となったことを知らされ、ぼうぜんと暗い気持になってしまったのである。座席により掛《かか》って、沈痛《ちんつう》なもの思いにふけっている。
しかも途中は、英国中でも珍《めずら》しい田園風景であるから、私たちの興味を引くものはたくさんあるわけなのだった。あちこちに点在するちいさな家は、近代の人口増加を示すものだが、そのなかに、どっちを向いても平坦《へいたん》な緑のながめのなかから聳《そび》えたつ、四角い大きな塔《とう》のあるあまたの教会は、昔《むかし》の東アングリアの栄光と繁栄《はんえい》を物語るものなのである。
やがて、ノーフォーク海岸の緑の地平線のうえに、北海が菫《すみれ》いろの線となって見えてきた。馭者《ぎよしや》はむちをあげて、れんがに木を交ぜて作った二つの古い破風《はふ》が木の枝《えだ》の上に見えるのを指して、
「あれがリドリング・ソープ荘園です」といった。
柱廊造《ちゆうろうづく》りの玄関《げんかん》へ乗りつけるとき、玄関の前のテニス用の芝生のわきに、私たちに妙な係《かかわ》りあいとなっている黒い道具ごやだの、台石つきの日時計などのあるのを私は見てとった。
髭《ひげ》を脂《あぶら》でかためた小柄《こがら》な、きびきびと敏捷《びんしよう》な男が、ちょうどいま高い二輪の小型馬車から降りたところで、ノーフォーク州警察のマーチン警部だと自ら名のったが、ホームズの名を聞くと少なからず驚いていた。
「ほう、犯行はけさの三時に行なわれたばかりなんですが、ロンドンにいてよくこんなに早くわかりましたねえ! 私でさえやっといま着いたところなんですのに」
「こんなことになってはいけないと思いましてね、未然に防止するつもりでやって来たのですよ」
「とおっしゃると、私どもの知らない重要事実も、定めしご承知でしょうな。何しろここの夫婦はたいへん折りあいがよかったといいますから」
「私の持っている事実は踊り人形だけです。これは後ほど詳《くわ》しく説明しますが、こうして惨劇防止には間にあわなかったのですから、せめて私の知っている事実を利用して、事の黒白《こくびやく》だけは公正に明らかにしたいと熱望します。ついては、あなたの捜査《そうさ》に私も参加させていただけましょうか、それとも私は私で別個にやったほうがよろしいですか?」
「あなたにご協力願えれば光栄のいたりです」警部は熱意をこめて答えた。
「それなら一刻もはやく関係者の取調べをしたり、邸内《ていない》の捜査をしたいものです」
マーチン警部はなかなか理解のある男で、ホームズに勝手に捜査にあたらせ、自分はその結果を綿密に手控《てびか》えるだけで満足した。ちょうどそこへ土地の外科医が、白毛《しらが》の老人だったが、ヒルトン・キュビット夫人エルシーの部屋から降りてきて、夫人の容態は重傷ながら、生命危篤とまではゆくまいと伝えた。しかし弾丸《だんがん》は前額部を貫通しているので、意識を回復するには相当の時間を要するという。
夫人は自分で射ったのか、誰《だれ》かに射たれたのかの問題については、老外科医は決定的な意見を述べようとしなかった。いずれにしても、きわめて短距離《たんきより》から発射されたことだけは、まちがいなかった。また、倒《たお》れていた部屋にはピストルは一つしか落ちていなくて、弾丸は二発だけ発射されていた。
ヒルトン・キュビットは心臓を射貫《うちぬ》かれていた。この場合ピストルは、二人の中間に落ちていたのだから、ヒルトン・キュビットが夫人を射ってから、自殺したとも考えられるし、同じことを夫人がやったという考えかたも、成立するわけだった。
「キュビット氏のほうも移しましたか?」ホームズが尋《たず》ねた。
「夫人以外のものは動かしていません。負傷してまだ息のあるものを、放《ほう》っておくわけにはゆきませんから」
「先生はいつごろここへいらしたのですか?」
「四時から来ています」
「誰かほかに来ている人は?」
「土地の巡査《じゆんさ》が一人来ています」
「何も手は触《ふ》れなかったのですね?」
「ええ、別に――」
「たいへん結構でした。誰がお迎《むか》えに行きましたか?」
「女中のソーンダースです」
「その女中が最初に発見したのですか?」
「コックのキング夫人と二人です」
「いまどこにいますか?」
「台所でしょう、きっと」
「ではすぐに、この二人の話を聞くほうがいいですね」
樫《かし》の腰《こし》羽目《ばめ》をめぐらした窓のたかい古風な玄関の広間が、取調べの部屋にあてられた。ホームズは大型の古風ないすに席をしめ、やせおとろえた顔に眼ばかり冷たく光らせている。その眼のなかに私は、せっかく依頼《いらい》を受けながら、みすみす死なせてしまったキュビットのために、身命をなげうっても正邪《せいじや》を明らかにしないではおかぬ固い決意を見てとったのである。
きちんと取りすましたマーチン警部とごま塩ほおひげの老外科医と私、それにのっそりしたいなか巡査、これだけの妙な一座が取調べる側である。
女中とコックと、二人の話はきわめてはっきりしていた。二人は銃声《じゆうせい》で眠《ねむ》りをさまされたが、一分ばかりたって、もう一つの銃声がした。二人は隣《とな》りあわせの部屋を与《あた》えられているが、キング夫人のほうが女中ソーンダースの部屋へ駆《か》けこんで、二人で階段を降りてみると、書斎のドアが開けっぱなしで、テーブルのうえにろうそくが燃えていた。
主人が部屋の中央にうつ伏せに倒れて、こと切れており、窓のそばには夫人が、壁《かべ》に頭をもたせかけるようにして、蹲《うずく》まっていた。たいへんな傷で、顔の半面はべっとりと血で赤く、肩で息をしてはいるが、口は利けなかった。
部屋のなかから廊下へかけて煙《けむり》がたちこめ、煙硝《えんしよう》のにおいが漂《ただよ》っていた。窓は閉まっており、内がわから戸締《とじま》りもしてあった。この点まちがいないと二人とも断言した。二人はすぐさま医者と巡査を迎えにゆき、馬丁《ばてい》と厩舎《きゆうしや》の若者に手伝わせて、傷ついた夫人を寝室《しんしつ》へはこんだ。
主人も夫人もいったん寝台にはいった形跡《けいせき》があった。夫人は普通《ふつう》にドレスを着けていたが、主人のほうは寝衣《ねまき》のうえからガウンを羽織っていた。夫人を二階へはこんだだけで、書斎のなかは少しも手をつけてない。彼らの知る限りでは、夫婦げんかなぞ一度もなかった。召使いたち一同、たいへん仲の睦《むつ》まじい夫婦だと思っていた。
二人の供述の要点はだいたい右の通りであった。なお補足としてマーチン警部の質問に答え、ドアはどこも内部から締りをしたままだったから、誰か屋内から逃《に》げだしたということはあり得ないと明言した。またホームズの質問に答えて、銃声を聞いて、最上階の自分たちの部屋を飛びだしたときすでに、煙硝のにおいに気がついたと申したてた。それを聞いてホームズが、マーチン警部に向かっていった。
「この事実は十分|記憶《きおく》しておくのがよいと思いますね。ところで、こんどは部屋のなかをよく調べることにしますか」
書斎は三方の壁に本を並べた小さな部屋で、庭に面した普通の窓に向かって、書きもの机《づくえ》がすえてあった。まっ先に眼についたのは、中央に長くのびている不幸な地主の大きな死体であった。着衣の乱れは、眠っていたのが急に起きだしてきたことを思わせた。弾丸は前面から発射されたもので、心臓を貫《つらぬ》いて体内に留《とど》まっている。即死《そくし》であり、苦痛はなかったと思われる。手にもガウンにも火薬ガスの痕跡《こんせき》は付着していなかった。土地の外科医の話によれば、夫人のほうは、手にはないけれど、顔面にはそれが見られたそうである。
「手に痕跡がないといって、何も決定的なことはいえませんよ」ホームズがいった。「もしあれば、いろんなことが考えられますがね。薬包が薬室に合わなくて、後方に噴気《ふんき》でもしないかぎり、何発うっても手を汚《よご》すことなんかありません。この死体はもう動かしてもよいかと思います。先生、夫人を傷つけた弾丸の摘出《てきしゆつ》はまだでしょうね?」
「それには大手術を要しますから。それよりもピストルにまだ四発残っていますよ。二発射って二人傷ついているのですから、勘定《かんじよう》は合っているわけです」
「そうも思えましょうがね。すると先生は、この窓のふちにみごと命中している弾丸の説明も、おつけになれるのでしょうな?」
ホームズはくるりと向きなおって、下がわの窓わくの、下から一インチばかりのところを射ぬいている穴を、細長い指先でさした。
「や、や、どうして見つけました?」マーチン警部が驚いた。
「探していたからです」
「これは驚いた!」と老外科医。「たしかにあなたのいう通りですて。してみると第三弾が発射されているのだから、第三の人物がいたことになる。いったい何者でしょう? どこから逃げ去ったのでしょう?」
「そこがわれわれのこれから解決すべき問題なのです」とホームズがいった。「マーチン警部さんは、女中が部屋を出たときすでに煙硝のにおいに気がついたといったので、この事実は十分記憶しておくほうがよいと私が申したのを、覚えておられるでしょう?」
「それは覚えていますが、その意味がどうもよく……」
「それはね、発砲《はつぽう》したとき、この部屋は、ドアはもとより窓もあいていた、ということを暗示したつもりなんですよ。そうでなければ、爆発《ばくはつ》ガスがそんなに速く、家のなかに行きわたるはずがありません。速くゆきわたるためには、この部屋の風とおしがよくなければならない。もっとも、ドアも窓も、ほんの短時間あいていただけですけれどね」
「どうしてそんな事がわかります?」
「ろうそくが片燃えしていません」
「なアるほど! なアるほど!」警部がしきりに感嘆した。
「凶行《きようこう》当時窓があいていたものとしてみると、第三の人物が介在《かいざい》して、窓のそとからピストルを射ちこんだかもしれないと考えました。この人物に対して、室内から発射すれば、窓にあたる場合もありうると考えられます。そこで私は、それを探しました。と、果して、ここに弾丸のあとがあったというわけです」
「しかし、窓を閉めて締りまでしてあったのは、どうしたものでしょう?」
「夫人が本能的に、窓を閉めて締りをすることを考えたのでしょう。――おや、これは何だろう?」
ホームズの注意を引きつけたのは、テーブルのうえにあったハンドバッグである。鰐皮《わにがわ》に銀金具の小形の気のきいたもので、ホームズが内容品をとり出してみると、イングランド銀行の五十ポンド紙幣《しへい》が二十枚、ゴムバンドをかけてあるだけで、ほかには何もはいっていなかった。
「これは公判で物をいうでしょうから、大切に保管しておかなければ」とホームズは中味をおさめてハンドバッグを警部に渡《わた》して、「さて、それではつぎに、この第三弾のことを少しはっきりさせる必要があると思いますが、これは木の裂《さ》け具合から見て、室内から射ったものであることは間違《まちが》いないと思います。コックのキング夫人にもう一度|尋《き》きたいのだけれど……ああ、キングさん、大きな銃声で眼《め》がさめたという話だったが、これはそのつぎの二発めのよりも大きな音だったという意味ですか?」
「はい、なにぶんその音で初めて眼をさましましたので、はっきりした事は申しあげられませんですけれども、何せたいへん大きな音でございました」
「どうだろう、二発いちどきに鳴ったというふうには考えられませんかね?」
「さア、何とも申されませんでございますよ」
「私はそれに違いないと信じています。それではマーチン警部さん、ここはもう調べるところもないように思いますから、ご足労ですが庭へ出てみようじゃありませんか。何か新しい証拠《しようこ》があがるかもしれません」
庭は書斎《しよさい》の窓の下からずっと花壇《かだん》になっていたが、戸外へ出てそこへ近づいた私たちは、いっせいに驚きの声をあげた。花は踏《ふ》みにじられ、花壇の柔《やわら》かい土のうえは足跡《あしあと》だらけなのである。男の大きな足跡で、妙に先の長くとがった靴《くつ》である。ホームズは手負いの鳥を追いまわすレトリーバ犬のように、草葉のあいだを探しまわっていたが、うれしそうな声をあげてからだを屈《かが》め、小さな真ちゅうの円筒《えんとう》をつまみあげた。
「やっぱりそうだった。ピストルには撥《は》ね出し装置《そうち》があったのです。これが第三弾の薬莢《やつきよう》ですよ。マーチン警部、これでこの事件は大体完結したと思います」
ホームズの迅速《じんそく》で巧妙《こうみよう》な捜査ぶりに、田舎《いなか》警部は驚嘆《きようたん》したらしい。初めのうちこそ警部も、いくらか自己を出したがる様子を見せたが、いまはホームズにすっかり心服して、ホームズのすることには一言もなく、いつでも追随《ついずい》するのだった。
「嫌疑者《けんぎしや》は何者ですか?」
「そのことは後まわしにしましょう。まだ私にも説明のつかない点がいくつかあるのです。しかし、ここまでやってきたのですから、もう少し私の考えている方向に進んでみるのがよいと思いますがね。そのうえで一挙に、徹底的《てつていてき》に事件を解明しましょう」
「犯人さえ挙げられれば、ホームズさんの思う通りやってください」
「べつに隠《かく》すつもりはありませんが、いまこの忙《いそが》しい捜査の最中に、ながながと込《こ》みいった説明をしてはいられませんからね。私としてはこの事件の手掛りはすべて握《にぎ》っていますから、たとえキュビット夫人が意識を回復しなくても、ゆうべの事件の経過を指摘して、正邪を明らかにできます。まず第一に私の知りたいのは、この付近にエルリッジという名の宿屋があるでしょうか?」
召使いたちを問いつめてみたが、誰も知っている者はなかった。最後に厩舎《きゆうしや》の若者が、やっと思いだしたのは、東ラストンのほうへ数マイルのところに、そんな名の農夫が住んでいることだった。
「人里はなれた場所かね?」
「とても寂《さび》しいところなんで」
「ではたぶん、ゆうべのこの家の騒《さわ》ぎをまだ知るまいね?」
「知っちゃいますまい」
ホームズはちょっと考えていたが、妙な笑いを浮《う》かべて、
「馬に鞍《くら》をおいてくれたまえ。エルリッジのところへ、手紙を届けてもらいたいのだ」
ホームズはポケットから、例の踊《おど》り人形を描《か》いた紙きれをいろいろと取りだして、書斎のテーブルのうえにならべ、その前に坐《すわ》ってしばらく何かやっていたが、やがて一通の手紙を書きあげると、若者に渡して、封筒《ふうとう》の名宛《なあて》の人物に直接手渡すように、特にどんな質問を受けても、絶対に何も答えてはならないといいつけた。私はその封筒の表に、いつものホームズの正確な字とは似てもつかぬくしゃくしゃの筆蹟《ひつせき》で、次のように書いてあるのを見た。――ノーフォーク州東ラストン村エルリッジ農場エイブ・スレーニー様(Abe Slaney)。
「ところでマーチン警部」とホームズがいった。「護送の警官を電報でお呼びになるほうがよいと思いますよ。私の見こみにまちがいがなければ、とくに危険な容疑者を、州刑務所《しゆうけいむしよ》まで送っていただくことになるかと思いますから。この手紙を持ってゆく若者に、ついでに電報をお打たせになってもよいです。ワトスン君、午後のロンドン行き列車があったら、それに乗ろうじゃないか。僕《ぼく》はちょっと面白《おもしろ》い分析《ぶんせき》をやりかけているから、帰ってそいつを早くやりあげたいんだ。ああそれから、この事件はばたばたと片づくよ」
若者が手紙を持って出発すると、ホームズは召使いの者たちに指令を与えた。それはもしヒルトン・キュビット夫人を訪ねてくる者があっても、夫人の現在の状況《じようきよう》については一切《いつさい》口外することはならない。黙《だま》って、すぐに客間へ通せというのであった。彼《かれ》はこれらの要点につき、熱心に念を押《お》して申し渡した。
それがすむと彼は、これでちょっとする仕事もなくなったからと、私たちを客間へつれこみ、この先どんなことが起こるか、待つあいだの時間をできるだけ有効に利用しようではないかといった。老外科医は患家《かんか》へまわるからと帰っていったので、客間にはホームズのほか警部と私だけになった。
「それではこれから一時間ばかり、面白く有益に過させてあげましょうかね」とホームズはテーブルの前へいすをひきよせ、例の妙《みよう》な踊り人形を描いた何枚かの紙片《しへん》をならべて、「ワトスン君には、無理もない好奇心《こうきしん》を、ながいこと満足させないで放ったらかしておいた罪を、幾重《いくえ》にもわびなければならない。それから警部さん、あなたにはこの事件が全体として、職掌上《しよくしようじよう》よい参考になると思いますよ。まず最初に、警部さんに説明しておかなければならないのは、このヒルトン・キュビットさんがべーカー街の私のところへ相談を持ちこんできた興味ある事実です」
といって彼は手短かに、前に述べた事情を話し聞かせてから、
「ここにこんな奇妙な作品がありますがね、これがこんどの怖《おそ》ろしい悲劇の前ぶれだとわからなければ、誰だって一笑《いつしよう》に付してしまうでしょう。私は暗号文の形式には慣れているし、それについては小論文の著述もありますが、その本には百六十種の暗号記法を分析してあります。しかしこいつばかりはその私にもまったく新規なものでした。この暗号記法を創案した人物の意図は、この絵に意味のあることを隠して、子供のいたずら描きと思わせるところにあると思います。
しかし、いったんこの絵がアルファベットの文字を代表していることがわかれば、すべての暗号記法に通ずる法則をあてはめて、容易に解読することができます。
最初私の手に入った通信文は、あまりに短くて[#挿絵(img\069.jpg)]が|E《*イー》だということが、かなりの自信をもっていえるだけでした。ご存じのとおり、|E《イー》の字は英語のアルファベットでは一番よく出てくる字で、ごく短い文句の中でさえ、一番多く使われると考えてよいくらいです。【訳注 この問題については、ポーの「黄金虫」を参照】
最初の暗号文の十五の人形のなかに、同じものが四つあります。だからこれを|E《イー》と押さえるのは、不合理ではありません。それから人形のあるものは旗を手にしており、同じ人形が他《ほか》の場所では持っていませんが、この旗の配置の模様を見ると、これは文章を一語ずつに区切るのに使われているらしい。私はこれを取りあえず仮定としておいて、[#挿絵(img\069.jpg)]が|E《イー》を表わすものとしたのです。
さて、こんどはいよいよむずかしくなりました。英文の綴《つづ》りで、|E《イー》のつぎにどの字がもっとも多くくるか、その順位はそう明確ではありません。たとえ印刷物について平均をとって、順位をきめてみても、ごく短い章句になると、適用されないばかりか、反対になる場合もあるのです。
|E《イー》とは関係なく、英文で使用|頻度《ひんど》の多い文字は、おおざっぱにいって T,A,O,I,N,S,H,R,D,L となりますが、このなかでも初めの四文字 T,A,O,I はほとんど互角《ごかく》です。で、これをいちいち組合せてみて、意味の出てくるまでやっていたら、際限がありません。だから私は、新しい材料の来るのを待つことにしたのです。
二度めに会ったとき、ヒルトン・キュビットさんは二つの短い暗号文と、ごく短いのを一つ提供してくれました。この最後のものには旗が一つもありませんから、一つの単語だと考えられます。これです。[#挿絵(img\070.jpg)] 人形の数は五つあります。このなかの二番目と四番目は、前の研究で|E《イー》とわかっています。五文字の英語で、二番と四番に|E《イー》のある字を考えてみますと、Sever(断《た》つ)Lever(梃子《てこ》)Never(決して)などがあります。何か頼《たの》んできたのに対する返事だとすれば、最後のものが最も当っているらしいのは、異論のないところでしょう。しかも前後の事情から推《お》して、この五文字はこやのドアに描き残されていた要求に対する、キュビット夫人の返事を思わせるのです。で、これを正しいとすると[#挿絵(img\071.jpg)]はそれぞれN,V,R を表わすということになります。
ここまできても、まだ困難は容易ならぬものがあります。ところが、ふとよい考えが浮かんで、ほかの字がいくつかわかることになりました。もしこの暗号文が、私の予想どおりに、夫人の若いとき親しくしていた人物からのものだとすれば、そのなかに夫人の名まえが出ていてもよいはずだと、ふと気がついたのです。
夫人の名まえエルシー(ELSIE)は|E《イー》を両端《りようはし》にして、そのあいだに未知の字の三つはさまった五文字からなっています。調べてみると、三度くりかえし現われたという暗号文の最後がこの組合せになっています。この暗号文はたしかに、|《*》ELSIE【エルシー】に向かってなされた何かの要求に違いありません。こうしてL,S,I の三字がわかりました。
だが、要求とはいったいどんな要求なのでしょう? |《*》ELSIE【エルシー】の前にある単語はたった四字からなり、最後は|E《イー》で終っています。そんな単語は COME(来れ)に違いありません。ほかに|E《イー》で終る四文字の単語をみんな考えてみましたが、この場合に適するのは一つも見あたりません。
これでC,O,Mの三字がわかり、前からのを合せて|E《イー》のほかに九文字だけわかったことになります。そこで、第一の暗号文を改めて検討してみました。まず全体を四つの単語に分割して、わかっている文字だけ当てはめ、わからない文字には○を使って並《なら》べてみると次のようになりました。
○M ○ERE ○○E SL○NE○
ところで、最初の文字は|A《エー》とするよりほかありません。これはたいへん役にたつ発見です。これだけの短い章句のなかに三回も出てくるのですからね。そこから第二の単語の欠字が|H《エツチ》だということも明らかです。で、前のものにこの二つを入れると、こんな風になります。
AM HERE A○E SLANE○
この中で最後の単語二つは人の名まえですから、欠字を補うとつぎの通りになります。
AM HERE ABE SLANEY(我ここに在り――エイブ・スレーニー)
だいぶたくさんの文字がわかりましたから、こんどは相当の自信をもって、第二の暗号文にぶつかることができました。これはわかっている文字を入れると、こんなふうになります。
A○ ELRI○ES
ここで少し頭を働かして、欠字に|T《テー》と|G《ジー》を入れてみると、どうやら意味が通じます。
AT ELRIGES(エルリッジ方にて)
これは筆者の泊《とま》っているどこかの家か、それとも宿屋の名まえだと考えればよいわけです」
マーチン警部も私も、複雑をきわめた研究の経路を、いとも明快に詳《くわ》しく物語るホームズの説明に、異常な興味をもって聴《き》きいった。この研究の成果があったればこそ、この難事件もみごとな解決へと導き得られたのである。
「それからどうなすったのですか?」警部が先を促《うなが》した。
「あらゆる理由から私は、このエイブ・スレーニー(Abe Slaney)という人物はアメリカ人だと推定しました。第一この|エ《*》イブというのはアメリカふうの略しかたです【訳注 エイブはエイブラハムを省略した愛称】。それに事の起こりというのが、そもそもアメリカから来た一通の手紙が始まりなんですからね。それにまた、この事件には裏面《りめん》に犯罪上の秘密が伏在《ふくざい》していると考えてよい十分な理由がありました。夫人が自分の過去について妙なことを口走ったり、また良人《おつと》に対しても打ちあけない秘密を持っていたのが、二つながらそれを物語るものです。
そこで私は、ニューヨーク警察局の友人ウィルソン・ハーグリーヴに電報を飛ばして、エイブ・スレーニーという人物を知っているかと問い合せました。ハーグリーヴはロンドンの犯罪知識で何度か私の世話になっている男です。ここに彼の返電がありますが、『シカゴにおける最も危険なる悪漢』とあります。この返事を受けとった日の晩に、ヒルトン・キュビットさんから最後の暗号文を送ってきました。わかっている文字だけ入れてみると、暗号文はこんなふうになります。
ELSIE ○RE○ARE TO MEET THY GO○
これに|P《ピー》と|D《デイ》を補えば、完全なものになります。
ELSIE PREPARE TO MEET THY GOD(エルシーよ、冥土《めいど》行きを覚悟《かくご》せよ)
これでみると悪漢は、口説き落しの手をやめて、脅迫《きようはく》をはじめたようです。しかも相手はシカゴで名の売れた悪漢とわかっているのです。急速に実行に移る恐《おそ》れが十分にあります。私は直ちにこの協力者ワトスン博士を伴《とも》なって、こちらへ駆《か》けつけましたが、来てみると不幸にして、最悪の事態が起こってしまった後だったというわけです」
「あなたと共同で事件|捜査《そうさ》にあたるのは、光栄です」とマーチン警部は熱意をこめていった。「しかしながら、率直《そつちよく》に申しあげるのをお許しください。あなたはご自身だけの責任でおやりになりますが、私には上司に対する責任というものがあるのです。もしこのエルリッジの家にいるエイブ・スレーニーが殺人犯人だとしますと、私がここでぼんやりしていて逃亡《とうぼう》でもされましては、重大な責任問題になってきます」
「ご懸念《けねん》には及びません。逃亡などする気は起こしますまい」
「どうしてそんなことがおわかりになります?」
「いまになって逃亡するのは、犯行を自白するのと同じだからです」
「では逮捕《たいほ》に出向きましょう」
「いや、もう本人がここへ来るころです」
「どうしてこんなところへ来ます?」
「来るように手紙をやっておきましたから」
「そんなわけにゆくものですか! あなたが来いといったって、なんで来ましょう! そんなことをいえば、感づかれて、逃《に》がすだけじゃありませんか?」
「私も手紙の書きかたくらい心得ているつもりですよ。おお、そういえばどうやらその本人が、門をはいって来たようです」
一人の男が玄関《げんかん》へ通じる小径《こみち》を歩いてくるのが見えた。いろはあさ黒いが背のたかい好男子で、ねずみいろのフランネルの服にパナマ帽《ぼう》、ぴんとした黒い顎鬚《あごひげ》があり、攻撃的《こうげきてき》な大きい鉤鼻《かぎばな》、それがステッキを振《ふ》りふりはいってくるところである。まるで自分の家のように、威張《いば》りかえって歩いてくる。やがてはばかりもなく強く呼びリンを鳴らすのが聞こえた。
「みんなドアのかげに身を潜《ひそ》めたほうがいいですね」ホームズがそっといった。「こんな男を相手のときは、できるだけの用心をする必要がある。警部さん、手錠《てじよう》の用意はいいですね? 話は私にまかせておいてください」
一分間、私たちは息を殺して待っていた。忘れようとて忘れられない一分間の一例である。ドアがあいて、その男が一歩踏み入れた。間髪《かんはつ》をいれず、ホームズが相手の頭にピストルをぴたりと突《つ》きつけ、マーチン警部はすかさず手錠をかけてしまった。実に巧妙迅速であった。あッと思ったときは、もう動きのとれぬことになっていたのである。男は燃えるような黒い眼で、私たちをにらみまわしていたが、とつぜん、大きな声で苦笑いしだした。
「いや、こんどはうまく出鼻《でばな》をくじかれました。何だか面白くない事になったようだな。私はヒルトン・キュビット夫人の手紙を見て、ここへ来たんだが、夫人もいっしょじゃありますまいな? まさか夫人が、こんな罠《わな》にかける手伝いをしたわけじゃありますまいな?」
「ヒルトン・キュビット夫人は重傷で、生きるか死ぬかの瀬戸際《せとぎわ》だ」
するとその男は、家中に響《ひび》きわたるほど大きな声で、悲痛に叫《さけ》んだ。
「そんなバカなことが! 傷ついたのはキュビットだ。夫人ではない。誰《だれ》があのかわいいエルシーを傷つけたりなぞするものか! 申しわけないが、おどしつけはしたかもしれない。だが、あのかわいい髪《かみ》の毛一本だって、手をふれようとは思わない。取り消せ! 傷ついたのは彼女《かのじよ》ではないといえ!」
「夫人は良人の死骸《しがい》のそばに、重傷で倒《たお》れていたのだ」
彼は深くうめいて、長いすにくずれ落ち、手錠つきの両手に顔を埋《うず》めた。五分間ばかりもそのまま黙りこんでいたが、ふと顔をあげると、絶望からくる冷やかな落ちつきのうちに語りだした。
「あんたがたに隠そうとは思いません。なるほど私はあの男を射《う》ったかもしれないけれど、向うも私を射っているのだから、これは謀殺《ぼうさつ》ではありません。ただ、私があの女を傷つけたようにお考えになったら、それは私たちを知らないというものです。世のなかに、私があの女を愛したほどの愛情をもって、女を愛した者は決してありますまい。私には権利があったのです。数年前、あの女は結婚《けつこん》の約束をしています。その二人の仲へ割りこんできたこのイギリス人は、いったい何者です? 私こそはあの女に対して結婚の優先権があるのです。私は正当の権利を要求したにすぎないのです」
「夫人は君の人柄《ひとがら》を知って、絆《きずな》を振りきったのです」ホームズは怖《こわ》い顔でいった。「君を避《さ》けるため、アメリカを逃《のが》れて、このイギリスへきて立派な紳士《しんし》と結婚したのです。それを君は付きまとってイギリスまで追っかけ、愛し敬《うやま》っている良人《おつと》を捨てて、恐れ憎《にく》んでいる君と逃げさせようとして、夫人の生活を悲惨《ひさん》なものにした。そのあげくに気高い人物を死なせ、その妻に自殺までくわだてさせることになった。これがこの事件で演じた君の役割りです。これに対する法律上の責任は、君が負うべきものでしょう」
「エルシーが死にでもすれば、私はどうなろうと構いません」
とエイブ・スレーニーは片っぽうの手をひらいて、手の中でくしゃくしゃになっている手紙をじっとながめた。
「ちょいとうかがいますがね」彼は不審《ふしん》でたまらないという眼《め》つきで、「まさか、こんなもので嚇《おど》かして、どうかしようというんじゃありますまいね? 夫人がもし、あんたがたのいうような重傷だとしたら、この手紙はいったい誰が書いたんです?」
エイブ・スレーニーは手紙をポンとテーブルの上へ放《ほう》りだした。
「私がかいたのです。君にきてもらうためにね」
「あんたが? 踊り人形の秘密を知る者は、世界中でも仲間以外にはないはずです。どうしてあんたは描けるようにおなりです?」
「人間の発明したものなら、人間に解けないはずはありません」ホームズが答えた。「君をノーウィッチへ連れてゆく馬車が来ることになっているが、まだ時間はあるから、今のうちに、君が他人に与《あた》えた誹謗《ひぼう》の償《つぐな》いを少しばかりしてゆくといいね。君は知っているかどうか、ヒルトン・キュビット夫人は良人殺しの疑いを強く受けているのだ。幸いに私がきたのと、その私がたまたまある事を知っていたので、まだ正式な嫌疑者《けんぎしや》にはなっていないけれどね。夫人が直接にも間接にも、良人の悲惨な最期《さいご》には絶対に関係のないことくらい、夫人のため世間に証明《あかし》を立てておくべきですね」
「それは願ってもない事です。自分のためにも一番よいのは、ありのままの真実をさらけ出すことです」
「私の義務として注意しておくが、そんなことをすると、後に君のため不利な材料に使われるかもしれないよ」マーチン警部が、イギリス刑法の雄大荘厳《ゆうだいそうごん》な公平さを示していった。
しかしエイブ・スレーニーは、肩《かた》をすくめただけで語りだした。――
「それは運にまかせましょう。まず皆《みな》さんに知っていただきたいのは、私があの婦人を子供のころから知っているということです。
シカゴでは、私たちの仲間は七人いました。エルシーの父親が首領でした。利口な老人でね、名まえをパトリックといいました。この暗号を考えだしたのもこの男ですが、あんたには見破られたけれど、誰でも子供の悪戯画《いたずらが》で見逃してしまいます。
さて、エルシーも少しは仲間の仕事を見習いかけたのですが、嫌《いや》で耐《た》えられなかったのです。彼女は素性《すじよう》の正しい金を多少持っていました。それで私たちの眼をかすめて、ロンドンへ逃げてきたのです。
彼女は私と婚約の仲でした。私が商売がえをしていたら、いつでも結婚する気だったのです。ただ、曲ったことに与《くみ》するのは、あくまで反対だったのです。私がようやく居どころを突きとめた時は、彼女はこのイギリス人と結婚した後でした。手紙を出したが、返事がない。それでこっちへ渡航《とこう》してきましたが、いまさら手紙を出しても無駄《むだ》だから、眼につく場所へ暗号文を残してきました。
こちらへ来てから、もう一カ月になります。ずっとあの農家にいますが、部屋は階下だから、夜は誰にも知られず、自由に出入りできます。何とかなだめて連れだしたいと、あらゆる手段をつくしました。暗号文を読んだことは確かです。一度なぞ私の描《か》いたやつの下へ、返事を描いたくらいです。
だが私は我慢《がまん》ができなくなったので、おどしにかけました。すると手紙をよこして、どうぞここを立ち退《の》いてくれ、万一良人が人聞きの悪い世評の巻きぞえでも食ったら、悲嘆《ひたん》のあまり死ぬかもしれないとありました。それから、おとなしくこの土地を立ち退いて、以後彼女を苦しめないと約束《やくそく》するなら、良人が眠《ねむ》ってから、夜なかの三時に、一番はじの窓越《まどご》しに話だけはしようともありました。
彼女は約束どおり、寝室《しんしつ》から降りてきましたが、金で懐柔《かいじゆう》するつもりだったのです。それを知って私はかっとなりました。腕《うで》をつかんで窓から引きずり降ろそうとしているところへ、主人がピストルを手に飛んできました。エルシーが床《ゆか》の上にくずれこんだので、男どうしが鼻を突きあわせることになりました。
ピストルなら私も持っていました。もっとも威嚇《いかく》しておいて逃げだすつもりで構えたのです。ところが向うは射ってきました。当らないけれど、ほとんど同時に、私も引金をひきました。相手は倒れました。私は庭を突っきって逃げました。うしろで窓を閉める音がしました。
みなさん、これはまっ正直な話です。一言半句も嘘《うそ》はありません。あとはどうなったか、何も知らないでいるところへ、あの若いのが手紙を持って、馬を乗りつけたわけです。手紙を見て椋鳥《むくどり》みたいに、のこのこ歩いてきてみたら、まんまとあんたがたの手に落ちたわけです」
話のうちに、つじ馬車が来ていた。制服巡査《せいふくじゆんさ》が二人乗っていた。マーチン警部は席を立って、犯人の肩に手をおいて、
「さア、出発だ」
「行くまえに、彼女に面会できませんか?」
「だめだね、まだ意識がない。シャーロック・ホームズさん、今後も重大事件のあった際は、ぜひご協力をお願いいたしたいものです」
私たちは窓ぎわに立って、馬車が去るのを見送った。窓ぎわをはなれると、スレーニーがテーブルのうえに放り出していった丸めた紙が私の眼についた。ホームズが彼《かれ》を誘《おび》きよせた手紙である。
「どうだ、ワトスン君、読めるかい?」ホームズがにやにやしながらいった。
ひろげてみると、文字は一語もなくて、次のような人形が一列に踊《おど》っていた。
[#挿絵(img\080.jpg、横70×縦466、上寄せ)]
「僕《ぼく》の説明した暗号表を使えば、簡単にわかるが、『すぐ来い』(Come here at once)というのだよ。こんな暗号文の手紙が、夫人以外のものから来るとは夢《ゆめ》にも思うまいから、この招待にはかならず応じるものと確信していた。この踊り人形も、さんざ悪事に荷担《かたん》させられてきたが、これで良い方面に使われて、最後を飾《かざ》ったことになる。と同時に、君の記録のうちにすばらしい事件を加えるといった僕の約束も、これで果たしたわけだ。汽車は三時四十分発だったね。夕飯までにはベーカー街へ帰れるだろう」
一言|あとがき《エピローグ》を。――
アメリカ人エイブ・スレーニーはその冬、ノーウィッチ市の巡回裁判で死刑《しけい》の宣告をうけたが、酌量《しやくりよう》すべき情状があるのと、ヒルトン・キュビットのほうが先に発砲《はつぽう》したのが確認《かくにん》された結果、懲役刑《ちようえきけい》に改められた。
ヒルトン・キュビット夫人に関しては、その後全快したが、今もって未亡人でとおし、もっぱら救貧《きゆうひん》事業と亡夫の遺産管理に専念していると聞いているだけである。
[#地付き]―一九〇三年十二月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
美しき自転車乗り
一八九四年から一九〇一年まで、シャーロック・ホームズはたいへん忙《いそが》しく働いた。この八年のあいだ、公的《おおやけ》に処理された事件で少しでもむずかしいところのあるものは、一つとして彼《かれ》の意見を求められなかったのはないといって差しつかえないし、また私的事件も何百とあって、中にはとても入りくんだ異常な性質のものもあったが、いずれもそのなかで彼は、輝《かがや》かしい卓絶《たくぜつ》した役わりを演じたのである。多くの驚《おどろ》くべき成功と、少数の止《や》むを得ない失敗と、これがこの期間の絶えざる努力の結果であった。
私はこれらすべての事件を詳細《しようさい》にノートしているが、その多くには親しく関与《かんよ》しているのだから、さてそのなかからどれを選んで公表すべきか、その選択《せんたく》が容易でないのはわかってもらえるだろう。だが私は、前からの方式に従って、事件の残忍性《ざんにんせい》のゆえに面白《おもしろ》いものよりも、解決法の巧妙《こうみよう》でまた劇的なものを選ぶことにしよう。
この意味で私はここに、チャーリントンの美しき自転車乗りヴァイオレット・スミス嬢《じよう》に関する事実と、それを手繰《たぐ》ってゆくうちつぎつぎと奇妙《きみよう》な事柄《ことがら》が展開され、それが最高潮にたっしたとき意外な悲劇に終ったという事件の顛末《てんまつ》を、読者諸君のまえにご披露《ひろう》におよぼうと思う。私の友人を有名ならしめた多くの目ざましい事件を、どれでも勝手に書くのは許されない事情にあるが、この事件は、いつも私がこうした短い物語を書くとき取材することにしている尨大《ぼうだい》な記録のうちでも、とくに目立つ点をいくつか備えているのである。
一八九五年の記録を繰ってみると、私たちが初めてヴァイオレット・スミス嬢のことを知ったのは、四月二十三日の土曜日となっているが、彼女《かのじよ》の訪問はホームズにはひどく迷惑《めいわく》だったのを覚えている。というのは当時彼は、有名な煙草《たばこ》長者ジョン・ヴィンセント・ハードンを中心とする奇怪《きかい》なる強迫《きようはく》事件のひどくむずかしい問題に没頭《ぼつとう》していたからである。何よりも思索《しさく》の正確と統一とを愛した彼は、現に自分の手がけている問題から注意をそらされるのをひどく憤《いきど》おった。しかも生まれつき気のやさしい彼の性格として、夜おそくベーカー街を訪《おとず》れてきたこの若く美しく、背のたかい品位ある婦人から、補佐と助言とを懇請《こんせい》されてみると、話をきくのを断りきれないのである。
この若い婦人としても、自分の話をホームズに聞いてもらうべくかたい決心で来ているのだから、彼の手がすっかりふさがっていると聞かせたくらいでは、何の効果もなかった。どんな力をもってしても、いうことを言ってしまわないうちは、部屋からそとへ追いだすこともできないのは明らかだった。断念したらしく、もてあまし気味の微笑《びしよう》を浮《う》かべて、ホームズはこの美しき侵入者《しんにゆうしや》にいすをすすめ、彼女の悩《なや》みというのを聞こうといった。
「少なくとも健康上の問題ではありませんね。あなたのように自転車に熱心な人なら、元気|旺盛《おうせい》なはずですからね」ホームズの鋭《するど》い視線が彼女を万遍《まんべん》なく射た。
彼女はハッとして足もとに目を落とした。靴底《くつぞこ》の横が自転車のペダルの端《はし》で擦《す》れて、少しざらついているのが私にも認められた。
「はい、自転車にはよく乗ります。きょう伺《うかが》いましたのも、そのことにいくぶん関係がございますの」
ホームズは彼女の素手《すで》をとって、科学者が何かの標本に向かったときのように、少しの感情をも交えることなしに、細心の注意をもって検《あらた》めた。
「どうも失礼しました。これは私の職業でしてね」と彼はその手をはなして、「もう少しでタイプライターと間違《まちが》えるところでしたよ。これはむろん音楽です。ワトスン君、指先が箆状《へらじよう》になっているだろう? これはこの職業に共通な現象なんだよ。しかしこの場合は顔にどこか精神的なものが現われている」と彼は婦人の顔を静かに灯火《あかり》のほうへ押《お》し向けながら、「これはタイピストにはない現象だ。この婦人は音楽家だよ」
「はい、わたくし音楽を教えております」
「田舎《いなか》でね、そのお顔いろでは」
「はい、サリ州のはずれのファーナムの近くでございます」
「美しいところです。面白い思い出がいっぱいあります。ワトスン君は、偽金造《にせがねづく》りのアーチー・スタンフォードを捕《とら》えたのがあの付近だったのを覚えているだろう? ところでスミスさん、そのサリ州のはずれのファーナムの付近で、いったいどういう事があったのですか?」
そこでこの若い婦人は、非常に沈着《ちんちやく》に、かつ明晰《めいせき》に、次のような奇怪なる陳述《ちんじゆつ》を行なったのである。
「ホームズさん、わたくしの父ジェームズ・スミスはもう亡《な》くなりましたけれど、生前はあのなつかしい帝国劇場《ていこくげきじよう》でオーケストラの指揮者《コンダクター》をいたしておりました。あとに残されましたのはわたくしと母と二人だけ、身寄りとてもございませず、たった一人の叔父《おじ》ラルフ・スミスは二十五年まえにアフリカへ参りましたきり、以来音信不通になっております。父が亡くなりましてから、わたくしどもはたいへん貧しく暮《く》らしておりましたが、ある日タイムズ紙にわたくしどもの行方《ゆくえ》を探す広告の出ていますのを教えられました。それがわたくしどもをどんなに刺激《しげき》しましたことか、お察しくださいまし。わたくしどもは誰《だれ》かが遺産を贈ってくれたものと思ったからでございます。
すぐに、広告に出ていました弁護士を訪ねて参りますと、そこでわたくしどもは二人の紳士《しんし》――南アフリカから帰ってご滞在中《たいざいちゆう》のカラザースさんとウッドリーさんに紹介《しようかい》されました。このお二人から、お二人が叔父の友人であること、叔父は南アのヨハネスブルグで数カ月前に貧しく死んでいったこと、死にぎわに叔父は苦しい息の下から、イギリス本国へ帰ったら身寄りの者を探しあてて、もし困っているようならば、面倒《めんどう》を見てくれるようにと頼《たの》んだことなど聞かされました。ラルフ叔父が、生きているあいだは見向きさえしないでおいて、死んだ後のわたくしどものことを気づかってくれますのは、少し変だと思いましたけれども、カラザースさんの説明では、叔父はわたくしの父の亡くなったことをつい近ごろ知って、わたくしどもへの責任を感じていたのだそうでございます」
「ちょっと待ってください、いつのことですか、その会見は?」ホームズが質問した。
「昨年の十二月でございますから、四カ月まえになります」
「どうぞ先をつづけてください」
「ウッドリーさんのほうは、たいへんいやらしいかたのように思われました。絶えず私に変な眼《め》つきをして、下品な、肥《ふと》ってむくむくした顔に赤いお髭《ひげ》があって、こってり油をつけた頭髪《かみ》を額の左右になでつけて、こんな人と知りあいになっては、第一にシリルが厭《いや》がるでしょうと思いました」
「そのシリルさんというのは、あなたの彼氏なんですね?」ホームズがにっこりした。
若い婦人はぽっとほおを染めて笑った。
「はい、シリル・モートンと申しまして電気技師で、この夏の終りごろ結婚《けつこん》いたすはずでございますの。あら、どうしてこんなお話になりましたのでしょう。わたくしの申しあげたいのは、ウッドリーさんはたいへんいやらしい人でございますけれど、カラザースさんのほうは、お年もずっと上ですし、そんなでもございませんでした。毛の黒っぽい、浅ぐろい顔をきれいにそって、口数は少のうございますけれど、態度はていねいで、笑顔《えがお》のよいかたでございます。父の亡くなりました後のことをお尋《たず》ねになりますので、わたくしどもがたいへん貧しく暮らしていますことを申しあげますと、それでは自分の家へきて、十になる独り娘《むすめ》に音楽を教えたらとおっしゃってくださいました。
母を独り家に残すのはいやでございましたけれど、それなら週末に家へ帰ったらよかろう、一年百ポンド出すとおっしゃってくださいました。これはむろんたいそうよい俸給《ほうきゆう》でございますから、しまいにわたくしも折れまして、それをお受けいたして、ファーナムから六マイルばかりのチルターン農場と申すそのお屋敷《やしき》へ参ることになりました。
カラザースさんは男やもめで、ディクソン夫人と申す年輩《ねんぱい》の、とてもよい家政婦さんが家事いっさいをとり仕切っていますし、子供も可愛《かわい》い子で、万事都合よくゆきそうでございました。カラザースさんはたいへんおやさしくて、だいの音楽好きでございましたから、夜はたいへん愉《たの》しゅうございました。そして週末には、母に会いにロンドンへ帰って参りました。
こうしたわたくしの幸福に、最初にひびのはいりましたのは、赤顔のウッドリーさんがいらしったことでございました。一週間の滞在でございましたけれど、わたくしには三月にも思われました。誰にでも威張《いば》りちらす人でございますのが、わたくしにはたまらなくいやな人でございました。わたくしに横恋慕《よこれんぼ》して、財産の自慢《じまん》をしたあげくに、結婚すればロンドン中で一番美しいダイヤモンドを買ってやるとまでおっしゃるのでございます。そしてしまいには、わたくしがどうしても相手にしないものですから、ある日夕食後に両手でわたくしを抱《だ》きとめて、わたくしがキスしないうちは放さないとおっしゃるのです。それがとても怖《おそ》ろしい力でございますの。ちょうどそこへカラザースさんがはいってきて、放させてくださいましたけれど、こんどはカラザースさんに打ってかかって、うち倒《たお》したうえ顔に怪我《けが》までさせてしまいました。申すまでもなく、それきりでウッドリーさんは帰っておしまいでございました。
つぎの日カラザースさんはわたくしにわびて、二度とこんな危い目にはあわせないからとおっしゃってくださいました。ウッドリーさんにはそれから一度もお目にかかりません。
さてホームズさん、これからが今日《こんにち》わたくしのご相談にあがることになりました妙な事情でございますけれど、わたくしは毎週土曜日に、十二時二十二分の汽車でロンドンへ帰るために、自転車でファーナムの駅まで参りますの。チルターン農場から駅までは寂《さび》しいところでございますが、なかでもひとところ、一方がチャーリントンの原で、一方がチャーリントン屋敷をかこむ森になっています場所が一マイルばかり、とりわけ寂しゅうございます。あんなに寂しい場所はどこにもございますまい。クルックスベリー・ヒルに近い街路へ出ますまでは、荷馬車一台、お百姓《ひやくしよう》ひとりにすら会うことはございません。
二週間まえの土曜日に、わたくしはこの場所を通っていまして、ふと後を振返《ふりかえ》りますと、二百ヤードばかり後を一人の男が自転車で来るのが見えました。短い黒っぽい顎鬚《あごひげ》のある中年の男でございましたが、ファーナムの近くで振りかえって見ましたときは、もう姿は見えませんでしたから、そのことは気にもとめないでおりました。でも、月曜日に帰ってゆきますとき、同じ場所で同じ人を、同じようにして見うけましたときは、妙なこともあるものと少し変に思いました。ところが、そのつぎの週の土曜日と月曜日にも、それとまったく同じことがありましたので、ますます変だと思うようになりました。何も致《いた》すわけではございませんし、話しかけるのでもなく、ただ一定の間隔《かんかく》を保って後をつけて来るだけでございますけれど、それでもたしかに気持の悪い話でございます。
カラザースさんにその話をいたしますと、たいへん興味をもって、馬と簡単な馬車を注文しておくから、こんどからあんな寂しい場所を独りで通ってはいけないとおっしゃってくださいました。
馬車は今週に間にあうはずでございましたのに、何かわけがあってできて参りませんでしたので、わたくしはまた自転車で出かけなければなりませんでした。けさほどのことでございます。チャーリントンの原まで参りますと、後を見ないではいられません。するとどうでございましょう、やっぱり先週と同じに、いるではございませんか。離《はな》れていますから、顔ははっきり見えませんけれど、たしかにあの男でございます。黒っぽい服にハンチングをかぶって、あの黒い顎鬚《あごひげ》がはっきり見えております。
でもきょうはさほど怖ろしいとも思いません。怕《こわ》さよりも好奇心《こうきしん》のほうが強うございました。どんな人で、どんなつもりで後をつけてくるのですか、たしかめてやる気になりました。で、自転車をゆるめますと、その男も同じようにゆるめます。停《と》めて待っていますと、やはり停ってしまいました。
これでは埒《らち》があきませんので、計画を思いつきました。少し先に路《みち》が急に曲っているところがございますから、そこまで急いで参って、角を曲ったところで急に停って待っておりました。向うは知らないで、急いで角を曲ってきて、あっと思っても間にあいません。でも、待てども待てどもなかなか姿を現わしませんので、そっと引返して角を曲ってみますと、路は一マイルも先まで見とおしですのに、その男の姿は見えません。それに不思議でなりませんことには、そのあたりには逃《に》げこむ横路が一つもないのでございます」
ホームズはうれしそうな笑いをもらして、手をこすり合せながら聞いていたが、
「たしかに異色ですな、この事件は。あなたが角を曲って隠《かく》れてから、道路上に誰もいないのを見届けるまでに、どれくらい時間の経過がありましたか?」
「二分か三分でございます」
「では一マイルもさきまで引きかえす時間はありませんね? それに横路はないということですね?」
「ございません」
「では必ずどちらがわかの細い野路《のみち》に入ったに違いありません」
「それにいたしましても、チャーリントンの原のほうでしたら、見えたはずでございます」
「そうすると、消去法の原則に従って、チャーリントン屋敷のほうへはいりこんだという結論に到達《とうたつ》します。チャーリントン屋敷は、道路に沿うた広い地所のなかにあるのでしょうね? ほかに何かおっしゃることは?」
「もう何もございません。ただ途方《とほう》に暮れまして、あなたにお目にかかって、助言していただきますまでは安心ができないと存じまして……」
ホームズはしばらく黙考《もつこう》していたが、
「あなたの婚約のかたは、どちらにいらっしゃいますか?」
「カヴェントリーのミッドランド電気会社におります」
「あなたを驚かすため、不意に訪ねてゆくようなことはなさらないでしょうね?」
「あらッ、そんなことをする人ですかどうですか、わたくしが知らないようなことを!」
「ほかに誰か、あなたを好きな人がありますか?」
「シリルを知りますまえには、幾人かございました」
「それ以後は?」
「あの怖ろしいウッドリーさんくらいのものでございますわ」
「ほかにはありませんね?」
美しい客は少し困って見えた。
「誰ですか?」ホームズが畳《たた》みかけた。
「これはわたくしの思いすごしかもしれませんけれども、カラザースさんが、わたくしに関心をお持ちになりすぎると思うことがときどきございますの。わたくしたち少し接触《せつしよく》が多すぎます。夜ぶんはいつもわたくしが伴奏《ばんそう》いたしますし、申し分のない紳士でございますから、何もおっしゃりはいたしませんけれども、女は敏感《びんかん》でございますから……」
「ほう、何をして暮らしている人ですか?」ホームズはむずかしい顔をした。
「お金持でございますから、別に……」
「それにしては馬車も馬も持っていないのですね?」
「でも、かなり裕福《ゆうふく》でございます。ただ毎週二、三回ロンドンへお出かけになりますけれども、南アフリカの金鉱の株式にたいへん関心を持っていらっしゃいます」
「それでは何か新しい発展があったら報《し》らせてください。私はいまたいへん忙しいのですが、何とか都合をつけて、調べてあげましょう。しかしそれまでは、私に断りなしに、何かしないでいてください。ではさようなら、どうぞお気をつけて。間違いのないことを祈《いの》ります」
ヴァイオレット・スミス嬢が帰ってゆくと、ホームズは瞑想用《めいそうよう》のパイプを引きよせて、「あんな美しい娘につきまとう者のあるのは、自然の常法というものだ。寂しい田舎道を自転車に乗ったからばかりじゃあるまい。いずれにしても人知れず胸を焦《こ》がしている奴《やつ》だ。しかし奇妙な、暗示的な点もたしかにあるね」
「変な男が一定の場所にだけ現われるという点だろう?」
「その通りだ。まず手はじめには、チャーリントン屋敷には何者が住んでいるのか、それを知らなければならない。つぎに、カラザースとウッドリーとはまるで肌《はだ》あいの違う男らしいが、この二人がどんな関係にあるかだ。この二人が二人とも、ラルフ・スミスの遺族のことでなぜそう熱心になるのか? それからもう一つ、家庭教師には世間の相場の二倍も俸給を出しながら、駅から六マイルもあるところに住んでいて、馬の一頭もおかないとは、この男の家政はいったいどんなことになっているかだ。妙じゃないか、ワトスン君、どうも妙だね」
「出張するだろう?」
「行けないんだ。きみ行ってみないか。どうせちょっとした謀《たくら》みかもしれないんだし、僕《ぼく》はいまこいつのために、ほかの大切な調べを中断してはいられないんだ。月曜日に早めにファーナムへ出かけて、チャーリントンの原で隠れているんだ。どんなことになるか自分で観察して、あとは臨機応変にやってみるんだね。それからチャーリントン屋敷の居住者のことを調べて帰って、僕に報告してくれたまえ。いいね? じゃ何か有力な踏石《ふみいし》が見つかって、この事件が解決されそうな目あてがあるまでは、もう何もいわないことにしようよ」
スミス嬢《じよう》は、月曜日の朝九時五十分ウォルター駅発の汽車に乗るということだったから、私は早く出て九時十三分発のにまにあった。
ファーナム駅からチャーリントンの原への路はすぐにわかった。スミス嬢のいう場所も、ヒースの繁《しげ》る荒《あ》れ地と、水松《いちい》の古い生垣《いけがき》のなかに巨《おお》きな木の見える庭園のあいだを路が通っているので、すぐにそれと知れた。屋敷には大きい入口があり、こけむした石門の両がわの柱には紋章《もんしよう》を彫《ほ》りつけてあったが、この門のほかにも生垣にはきれ目がいくつもあり、細い路で中へはいれた。屋敷の建物は路からは見えず、庭はいったいに暗く、荒れていた。
反対がわのヒース草の原のほうは、ところどころにハリエニシダの黄金《こがね》いろの花が咲き、春の明るい陽光を浴びて輝《かがや》いていた。このハリエニシダの適当な株のうしろに、屋敷の門と路が左右とも見られる場所を選んで私は身を潜《ひそ》めた。そのときは路上に人影《ひとかげ》は見られなかったが、やがて、私の来たのとは反対の方向から、自転車で来る者があった。黒っぽい服を着ている。黒い顎鬚も見えだした。この男はチャーリントン屋敷のはずれまでくると、ひらりと自転車から降りて、生垣の切れ目からなかへはいり、私のところからは見えなくなってしまった。
十五分ばかりすると、第二の自転車が現われた。例の若い婦人で、こんどは駅のほうからである。彼女《かのじよ》はチャーリントン屋敷の生垣にかかるとしきりにあたりを見廻《みまわ》した。と、例の男が生垣の隠れ家から現われて、自転車にとびのると、後を追いだした。ひろびろとした野外に、動くものとてはただこの二人だけ、しとやかな品位ある彼女は、自転車のうえでしゃんと身体《からだ》を起こして先頭をきり、それを追いかける男はハンドルのうえに身を伏《ふ》せて、妙に人目をしのぶ様子である。
彼女はふりかえって速力をゆるめた。すると男のほうも速力をゆるめた。彼女が停ると、男も、二百ヤードの間隔《かんかく》で停った。次の瞬間《しゆんかん》彼女のとった行動は、意外でもあり元気でもあった。不意にくるりと自転車を振りむけると、男に向かって一気に突進《とつしん》したのである。が、男のほうも負けてはいず、すばやく方向をかえると、一散に逃げていった。二人ともいったん視界を去ったが、やがてまず彼女が道路上に姿を現わすと、昂然《こうぜん》と頭をあげ、もうあんな無言の追跡者《ついせきしや》は眼中にないとばかり、颯爽《さつそう》として自転車をとばし去った。つづいて男のほうもひき返してきて、相かわらず二百ヤードの距離《きより》を保ってあとを追い、やがて二人とも道路の曲り角へ姿を隠してしまった。
私はしばらくそのままの位置に止《とどま》っていたが、たいへんよいことであった。男のほうがゆっくりと自転車でもどってきたからである。彼《かれ》はチャーリントン屋敷の門のなかへはいって、自転車から降り、二、三分そこに立っているのが樹木の間から見えた。両手をあげて何かしていたがネクタイの乱れをなおしたのらしい。やがて彼はふたたび自転車にまたがり、屋敷の奥《おく》へ入っていった。私は駆《か》けだして、樹木のあいだからのぞいてみた。チュードル式の煙突《えんとつ》の立つ灰いろの古い建物が、はるかにちらと見えるだけで、馬車路が灌木《かんぼく》の繁《しげ》みのなかへ曲りこんでいるため、自転車に乗った男の姿は見られなかった。
しかし私は、これで相当の収穫《しゆうかく》が得られたと思ったので、意気《いき》揚々《ようよう》とファーナムへ引きあげた。そしてこの地の家屋周旋人のところへ行ってチャーリントン屋敷のことを尋ねてみたが、何もわからず、ロンドンのペルメルにある有名な商社で尋《き》くようにと教えられた。
帰りにペルメルへ回って、その周旋屋へ寄ってみると、代表者が鄭重《ていちよう》に応対に出て、チャーリントン屋敷をこの夏借りようという希望は達せられないといった。ひと足おそかった。ひと月まえに貸借《たいしやく》の契約《けいやく》ができてしまった。借り手はウィリアムソンという立派な、年輩の紳士とだけで、あとは何も話してくれなかった。客のことをあまり立入ってしゃべるのはご法度《はつと》だからである。
その晩ホームズは、ながながしい報告に熱心にききいったが、ひそかに期待していた無愛想な賞賛の辞は漏《も》らさず、反対に、ふだんよりも渋《しぶ》い顔をして、私のしたこととしなかったことについて次のような批評をくだした。
「君は隠れた場所からして、選定を誤っているよ。反対がわの、生垣の中へ隠れているべきだったんだ。そうすれば、この興味ある人物をもっとよく見られたはずだ。君のように何百ヤードも離れていたのでは、スミス嬢だけの報告もできやしない。彼女は知らない男だと思っているが、僕はそうでないと信じる。さもなければ、彼女がそばへ寄って顔を見られるのを、そんなにも恐《おそ》れるはずがない。ハンドルのうえに身を伏せていたというが、やっぱり隠れようとしているじゃないか。ほんとに君はまずいことばかりやってきたよ。そのうえロンドンの周旋屋へ行ったりして!」
「じゃどうすればよかったんだい?」私は少しむっとした。
「近くの酒場へ行くのさ。田園ではそういう場所がゴシップの中心だ。地主の旦那《だんな》から台所女中にいたるまで、誰《だれ》のことでも喜んで話してくれるよ。ウィリアムソンか! そんな名まえなんか何の参考にもなりゃしない。年輩の男というんなら、あの若くて体格のいいスミス嬢に追われても、捕《つか》まらずに逃げおおせた自転車乗りとは別人だろう。
要するに君の遠征《えんせい》で得たところに何がある? あの女の話が事実だということだけじゃないか。あの話には初めから、僕は疑いは持っていなかった。それと、あの屋敷と自転車乗りとのあいだには、何かの関連のあること、この二つは初めから疑いなかった。いま屋敷にはウィリアムソンという男が住んでいるというが、それが何の役にたつと思う? が、まアいいよ、そんなに悄《しよ》げた顔をすることはないさ。土曜日まではほとんどすることもないのだ。それまでに僕は僕で、少し調べてみることがある」
翌朝スミス嬢から短い手紙がきた。前日私の見てきたことを、簡潔に、正確に記述してあったが、それよりも急処は、次のようなその追って書きにあった。
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……秘密はお守りくださることを信じて申しあげます。わたくしはこんど主人から結婚を求められ、たいへん苦しい立場におかれることになりました。浮《う》わついたお気持でないのも、よくわかりはいたしますけれども、それと決まった人のある身でございます。はっきりお断りいたしますと、たいへん打撃《だげき》をお受けになったように見うけられましたけれど、わたくしへの態度はおだやかでございます。でもそれは表面のこと、事情が少しく緊迫《きんぱく》して参ったこと、ご推察におまかせ致します。
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「だいぶ立場が苦しくなってきたね」ホームズは読み終ると考えぶかくいった。「これは最初考えていたより案外|面白《おもしろ》くもあるし、まだ大きくなってゆく可能性がある。静かで平和な田園の一日も悪くないから、考えついていることも一、二あるし、午後から出かけて、それで説明がつくかどうか、やってみるとしよう」
ホームズの静かで平和な田園における半日は、妙なことになった。晩になって彼はくちびるに怪我をし、額に青こぶをこさえ、加うるに彼自身警視庁のお尋《たず》ね者にもふさわしいような無頼《ぶらい》の風態《ふうてい》でベーカー街へ帰ってきたのである。その日の冒険《ぼうけん》がおかしくてたまらないらしく、彼ははらの底から笑いころげながら、きょうの経験を話し聞かせてくれた。
「僕はふだんあまり運動なぞやらないから、たまにやるととても面白いよ。君も知っているとおり、僕はイギリス古来のスポーツたる拳闘《けんとう》にいくらか熟達しているつもりだが、それが役にたったこともあった。たとえば今日なんか、拳闘を知らなかったら恥《はじ》さらしな目にあうところだったよ」
私はいったいファーナムで何があったのか、話してくれと要求した。
「ファーナムでは、君にも注意したとおり、酒場をさがして、用心深く調査にとりかかった。まず帳場のところへゆくと、おしゃべりな亭主がいて、こっちの知りたいことを何でも教えてくれた。ウィリアムソンは白い顎鬚《あごひげ》のある男で、少数の召使《めしつか》いをおいて、チャーリントン屋敷《やしき》に独り暮《ぐ》らしをしている。牧師だとか、だったとかいううわさもあるというが、あの屋敷へきて間もないのに、話を聞いてみると二、三どうも牧師らしくない点がある。そのまえに僕は僧職《そうしよく》あっせん所へいって調べておいたのだが、牧師有資格者のなかに、たしかにその名まえの男で、妙に経歴のはっきりしないのがあったという。
亭主はなお話をつづけて、屋敷には毎週末にお客が来るという。賑《にぎ》やかな連中でさ、と亭主はいってたが、中でも常連のひとりの赤髭《あかひげ》のウッドリーさんが特にはげしかったという。ここまで話したところへ、当のうわさの主がのっそりやってきたものだ。先生酒場でビールを飲みながら、話をすっかり聞いていたんだね。貴様は何者だ。何しにきた。何だって根ほり葉ほりいろんなことを尋《き》く。というわけで、相当耳ざわりな形容詞を使ってまくしたてたあげくに、ひどい悪罵《あくば》とともに手の甲打《こうう》ちの一撃を食わせたが、僕はそいつを完全にかわしそこねたのだ。それからの二、三分間が面白かったが、結局打ってかかる奴に、僕の左ストレートがみごとに入って決まった。そして僕はごらんの通りのざまで帰ってくるし、ウッドリーは百姓《ひやくしよう》馬車に乗せられて帰った。というわけで、僕の田園ゆきは面白いことは面白かったけれど、残念ながら君以上の効果はあげられなかった」
木曜日に、再びスミス嬢から手紙がきた。
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ホームズさん、わたくしはこんどカラザースさんのお宅を辞《や》めることに致《いた》しましたと申しあげましても、お驚《おどろ》きにはなりますまいと存じます。現在のわたくしの立場の苦しさは、どんなに俸給《ほうきゆう》をいただきましても緩和《かんわ》されはいたしません。土曜日にロンドンへ帰りましたら、それきりこちらへは参らないつもりでございます。馬車はできて参りましたから、あの寂《さび》しい路の危険は、もし危険があると致しましても、いまは心配ございません。
わたくしが辞めます理由は、カラザースさんとの関係が緊迫したことばかりではなく、あの厭《いと》わしいウッドリーさんがまた現われたことにございます。あの人は何か奇禍《きか》でもありましたものか、あの恐ろしい顔がいっそう醜《みにく》くなっています。窓から見かけましただけで、顔をあわさずにすんだのは何よりと喜んでおります。カラザースさんと何ごとかながく話をしていましたが、カラザースさんはそのあとでたいへん興奮していらっしゃるようにお見うけ致しました。
ウッドリーさんは昨晩この家へは泊《とま》りませんのに、今朝も早くから庭の灌木《かんぼく》のなかをこそこそと歩いていますのをちらと見かけましたから、たぶん近所に住んでいるものと存じます。あの人の怖《おそ》ろしさ厭わしさは筆紙につくしかねます。カラザースさんがあんな人を許していらっしゃるお気持がわかりません。でもわたくしの悩《なや》みもこの土曜日までの辛抱《しんぼう》でございます。
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「そうありたいもんだね。ぜひそうありたいもんだ」ホームズは沈《しず》んだ調子でいった。「あの可憐《かれん》な婦人の周囲には、何かしら容易ならぬ陰謀《いんぼう》がたくらまれているのだから、この土曜日には彼女の最後の小旅行に間違《まちが》いのないように、保護してやる義務がある。ワトスン君、当日は朝からいっしょに出かけていって、この奇妙《きみよう》な、要領を得ない事件がやっかいなことにならないように片付けてやる必要があるね」
実をいうと私は、このときはまだこの事件を、そう重大とも考えていなかった。危険が伴《とも》なうというよりも、むしろ怪奇《かいき》な事件と思っていたのである。あんなにも美しい婦人なら、男が途中に待ちかまえていて後をつけるくらい、そう珍《めずら》しい話でもない。しかもそれが言葉をかけるどころか、女のほうから近づこうとしたら急いで逃《に》げたという心臓では、大して怖るべき相手ではあるまい。
悪漢ウッドリーはまったくそれとは違う男だ。もっとも彼も、スミス嬢を悩ませたのは初対面のときの一回だけで、その後は何事もなく、最近カラザースの家を訪ねても、彼女の前へは立ち現われようともしないというが。
自転車の男は、酒場の亭主のいい草じゃないが、チャーリントン屋敷の週末組の一人であることは、間違いなかろう。ただ彼が何者で、何を求めているかがわからないだけだ。という次第《しだい》で私は、出かけるときのホームズの態度の緊張ぶりと、彼がポケットにピストルを忍《しの》ばせたことによって、おやおや奇妙なことばかりあると思っていたら、この事件にも悲劇が予想されるのかなと、このとき初めて気がついたようなわけだった。
前夜の雨がなごりなく晴れて、ハリエニシダのそちこちに群れ咲《さ》くヒースの原の田園風景は、ロンドンのこげ茶いろと淡褐色《たんかつしよく》と石板いろの単調さになれた眼《め》には、ひとしお美しいものであった。私はホームズとともに、朝の新鮮《しんせん》な空気を心ゆくまで吸いこみながら、小鳥の音楽に興じ、春の香《かぐ》わしい微風《そよかぜ》を楽しみつつ、砂まじりの広い田舎路《いなかみち》を歩いていった。
路はのぼりとなり、クルックスベリー・ヒルの肩《かた》のところまでゆくと、樫《かし》の老樹のあいだから、不気味な屋敷の屋根の聳《そび》えているのが見えた。樫の木も相当の老樹だが、それでもこの屋敷の年代にくらべたら、まだ若いといえる。|そ《*》れほどこの建物は古いのだ【訳注 英国史でチュードル朝というのは一四八五年から一六〇三年まで】。ヒースの原の褐色と新緑の森のあいだを、赤みがかった黄いろい帯となって長くうねっている路を、ホームズは指さした。はるかに、小さな点となって、一台の乗物がこっちへ近づいてくるのである。彼はもどかしげに叫《さけ》んだ。
「三十分だけ余裕《よゆう》を見ておいたんだが、あれが彼女の馬車だとすると、いつもより早い汽車に乗るつもりだな。この分だと、僕たちが行きあうまえに、チャーリントン屋敷を通りすぎてしまうかもしれないね」
坂をのぼりきってしまうと、もう乗物は見えなかったが、私たちはぐんぐん路を急いだ。あまり急いだので、職業がら歩きつけない私はしだいに参ってきて、ついに後へとり残されてしまった。だがホームズは常に練習をつんでいた。彼はくめどもつきぬ強い精力を蓄《たくわ》えていた。彼の軽快な歩調は少しもゆるまなかったが、百ヤードばかりも私をひき離《はな》したとき、不意に立ち停《どま》ったと思ったら、失望と悲嘆《ひたん》を現わすように、手を高くあげた。ほとんど同時に、一台の簡単な二輪馬車が、乗り手のないのに手綱《たづな》を引きずって角を曲って現われ、急速にこっちへ駆けてくるのが見えたのである。
「おそかったよ、ワトスン君、おそかった」息を切らしながら私が追いつくと、ホームズはくやしがった。「もっと早い汽車を選ぶことに思いつかなかったとは、僕は何という馬鹿《ばか》だろう! 誘拐《ゆうかい》されたんだ。殺されたかもしれない。おい君、路をふさいで、馬を停めてくれたまえ。ようし、もういい、大丈夫《だいじようぶ》だ。さあ乗りたまえ。この大失策のもたらす結果をうまく取り繕《つくろ》えるかどうか、やってみよう」
私たちが馬車にとびのると、ホームズは馬を回して鋭《するど》いひとむちをくれ、田舎路を矢のようにとばしていった。角を曲ると、ヒースの原とチャーリントン屋敷のあいだの路が一直線に眼前にあった。私はホームズの腕を押《お》さえて、さけんだ。
「おい、あの男だ!」
一台の自転車乗りが、頭をさげ、背なかをまるめて、満身の力をペダルにかけて、やってくるのである。まるで自転車競走のような速さだ。とつぜん彼は顎鬚《あごひげ》のあるその顔をあげて、私たちをまぢかに見ると、車をとめてとび降りた。まっ黒な顎鬚は青白い顔いろと怪奇な対照をなし、双《そう》の眼は熱でもあるかと思われるばかり燃えている。しばらく私たちや馬車を凝視《ぎようし》していたが、たちまち驚きのいろをみせ、自転車で路をふさぐようにしながら喚《わめ》きたてた。
「おい、停まれ! どこでその馬車を取ってきた? 停めろ!」彼はポケットからピストルをとり出した。「停めないかッ! こらッ! 停めないと馬を射《う》つぞ!」
ホームズは手綱を私のひざに投げておいて、馬車からとび降りた。
「君に会いたいと思っていたんだ。ヴァイオレット・スミス嬢はどこにいる?」ホームズははっきりした早口で詰問した。
「こっちが尋きたいことだ。君たちは現に彼女の馬車に乗っている。知らぬとはいわさぬぞ」
「馬車は途中《とちゆう》で拾ったのだ。誰も乗っていなかった。彼女を助けに急いで引っかえしたのだ」
「いや、それは大変だ! 失敗《しま》ったなア!」彼は絶望的にさけんだ。「あいつらの仕業《しわざ》です。ウッドリーの悪鬼と牧師野郎です。さ、来てください。ほんとに彼女の味方なら、来てください。手伝ってください。たとえチャーリントンの森に屍《しかばね》をさらすとも、必ず助けずにはおきません」
彼は気でも狂《くる》ったように、ピストルを握《にぎ》ったまま、生垣の破れからなかへ駆《か》けこんでいった。ホームズに続いて私も、路傍《ろぼう》の草をはむ馬を捨てておいて、その後を追った。
「ここから逃げこんでいますよ」と彼は泥《どろ》のうえに残っているいくつかの足跡《あしあと》を指さしたが、「おや、ちょっと待ってください。あの茂《しげ》みのなかに誰かいますよ」
コール天のズボンにゲートルをつけた馬丁風《ばていふう》の、年ごろ十七くらいの男が、ひざをそろえて仰向《あおむ》けに、灌木《かんぼく》の茂みのなかに倒《たお》れているのである。頭にひどい怪我《けが》をして気を失っているが、死んではいない。ひと目で、骨まで届く傷ではないのがわかった。
「おや、ピーターだ。馬丁のピーターだ。彼女を乗せていったピーター。引きずりおろして棍棒《こんぼう》でなぐり倒したのだな。ま、臥《ね》かしておきましょう。いまはどうすることもできない。それどころか、あの娘はどんな怖ろしい目にあっているか! うまく救いだせればよいが!」
木のまを縫《ぬ》う小径《こみち》を私たちは気の狂ったように駆けていった。すると建物をとりまく灌木の茂みのところへ出たが、そこでホームズが立ち停った。
「家のなかじゃない。その左のほうに足跡がある。こっちの月桂樹《げつけいじゆ》の茂みのわきに。あッ、やっぱりそうだ!」
女の悲鳴が、恐怖《きようふ》にもの狂わしくふるえる悲鳴が、前方の濃緑の茂みのほうから聞こえたのである。しかもその声は、最高調からとつぜん、窒息《ちつそく》するような一種の喉音《こうおん》になるとともに、ぱったりと止《や》んでしまったのである。
「こっちだ! こっちです! 球戯場《きゆうぎじよう》のほうにいるんです」自転車乗りの男は叫びながら、茂みのあいだへ突《つ》っこんでいった。「畜生《ちくしよう》め! さ、早く来てください! 遅い! 遅い! さ、早く!」
とつぜん、眼前がひらけて、老樹にかこまれた美しい芝生《しばふ》へ出た。芝生の向うがわに、巨大《きよだい》な樫の木の下に、奇怪な三人の人物が立っているのだった。一人はわがスミス嬢《じよう》で、口のまわりをハンカチで巻かれ、絶えいりそうな姿である。それに向かいあって立っているのは、下品で鈍重《どんじゆう》な顔に赤髭《あかひげ》のある若い男で、ゲートルをつけた両脚《りようあし》を広く踏《ふ》みひらき、片手を腰《こし》にあててひじをはり、片手には乗馬用の鞭《むち》を持って、傲然《ごうぜん》と立っているさまは、意気揚々と虚勢《きよせい》をはっているのらしい。この二人のあいだに立っているのは灰いろの顎鬚のある年輩《ねんぱい》の男で、スコッチの軽装《けいそう》のうえに白の短い法衣を着けているのは、どうやら二人の結婚式《けつこんしき》をすませたところらしい。ちょうど彼《かれ》が祈祷書《きとうしよ》をポケットにおさめ、気味の悪い花婿《はなむこ》の肩を叩《たた》いて、景気よく祝意を表したところへ、私たちが現われたのである。
「や、や、あの二人は結婚したぜ」私は目を丸くした。
「畜生! さア来い!」
自転車乗りは一目散に芝生を突っきって駆けだした。ホームズと私も遅《おく》れじと後を追う。私たちの近づくのを見て、スミス嬢はよろめき、木の幹に縋《すが》ってようやく身を支えた。元牧師のウィリアムソンは愚弄的《ぐろうてき》な丁寧《ていねい》さで私たちのほうへ頭をさげた。卑劣漢《ひれつかん》ウッドリーは下品な声で喚き、勝ちほこった大きな笑声とともに進みでた。
「そんな髭なぞ取っちまえよ、ボブ。ちゃんと知ってるんだ。ところで、ちょうどいいところへ来てくれた。お前の仲間にもいっしょに紹介《しようかい》してやるが、こちらがウッドリー夫人だ、わっはっはっ」
それに対する自転車乗りの返答こそ、変っていた。彼はまず、それまでの変装だった黒い顎鬚を帥《むし》りとると芝生へ投げすて、きれいに剃《そ》った血色の悪い面《おも》ながの素顔《すがお》を現わしたものである。それから静かにピストルをあげて、脅威《きようい》の鞭《むち》を振《ふ》り振り詰《つ》めよってくる悪漢にぴたりと銃口《じゆうこう》を突きつけて、
「いかにもおれはボブ・カラザースだ。私の眼の黒いうちは、指一本この娘の権利に指させることじゃない。この娘に手出しをしたら私がどうするか、ちゃんと言ってある。私は伊達《だて》に啖呵《たんか》は切らないのだよ」
「遅かったよ。生憎《あいにく》だが、この女はおれの女房《にようぼう》だ」
「バカいえ、きさまの寡婦《ごけ》だ!」
轟然《ごうぜん》とピストルが鳴り、ウッドリーのチョッキの胸にさっと血が迸《ほとば》しるのが見えた。彼は悲鳴とともにキリキリと舞《ま》って、仰向けに倒れた。凶悪《きようあく》なあから顔はみるみるまだらな死の蒼白《そうはく》に変っていった。
このときまで法衣のまま黙《だま》って突ったっていたウィリアムソンは、世にも怖ろしいのろいの言葉を口走りながら、ピストルを取り出したが、それを構えるひまはなかった。いつのまにかホームズのピストルが眼前に突きつけられていたのである。
「もうたくさんだ。そのピストルを捨てろ!」ホームズが冷静に命じた。「ワトスン君、ピストルを拾って、この男の頭にねらいをつけてくれたまえ。そう。カラザース君はそのピストルをこっちへよこしたまえ。もう暴力|行為《こうい》はたくさんだ。さ、早く渡《わた》したまえ」
「そういう君は何者ですか?」
「シャーロック・ホームズという者だ」
「あなたが!」
「名まえは知っていたと見えるな。警官がくるまで私が代行する。オーイ!」
ホームズはいつのまにか息を吹《ふ》きかえして、芝生のはずれに現われて恐《おそ》るおそるこの騒《さわ》ぎを見物していた少年馬丁に声をかけて呼びよせた。
「こっちへこい。これを持って、大急ぎでファーナムまで馬車を飛ばしてくれ」と手帳を引きさいて何か二、三行走り書きして、「警察へ行って、署長さんに渡すのだ。――警察から人の来るまで、君たちの身柄《みがら》は私が監視《かんし》にあたります」
ホームズの力強い、独断的な性格の力が、悲劇の現場を支配して、あとの者は人形のように彼の意のままに動いた。ウィリアムソンとカラザースとは協力して、重傷のウッドリーを家の中へかつぎいれた。私は怯《おび》えているスミス嬢をたすけて、これも家のなかへつれこんだ。ホームズの要求に従って私は、二階の自分の寝台《しんだい》に寝《ね》かされているウッドリーを診察《しんさつ》してきた。そして古いタピストリーで飾《かざ》られた食堂で、二人の俘囚《ふしゆう》を監視していたホームズに、その結果を報告した。
「生命は取りとめるだろう」
「えッ!」カラザースはびっくりして腰を浮《う》かした。「二階へ行って、止《とど》めをさしてきましょう。天使のようなあの娘《むすめ》が、一生ジャック・ウッドリーのような奴《やつ》にしばりつけられるという法はありません」
「そのことなら、君が心配しなくてもよろしい」ホームズがたしなめた。「どんなことをしても彼女《かのじよ》がウッドリーの妻にはならないという立派な理由が二つある。第一は結婚式の司祭者たるウィリアムソン君の資格の問題です」
「わたしは僧職《そうしよく》を授《さず》けられておる」
「しかし、いまは解任されている」
「いちど牧師になれば、生涯《しようがい》牧師ですて」
「私はそう思わない。それに結婚許可証は?」
「ちゃんとこのポケットにはいっとる」
「だまして手に入れたのだ。いずれにしても、強制結婚は結婚と認められないばかりか、重罪犯だ。そのことはいずれ君の処置の決定を見るまえに知らされるだろうが、私の見るところでは、君はまず十年間は、その問題をとくと熟考する時間を与《あた》えられるだろうと思う。カラザース君に関しては、君はピストルなぞ持ち出さない方がよかったと思う」
「私も今になって、そんな気がしてきましたよ、ホームズさん。私はあの娘の身を守るため、あらゆる予防法を講じたのです。それは、私があの娘を愛するからです。愛とはどんなものか、この年になって初めて知りました。それだのに、彼女が南アフリカでも名うての残忍《ざんにん》な悪漢の自由にされるのかと思うと、すっかり気が狂ってしまいました。あのウッドリーという男は、南《なん》アのキンバリーからヨハネスブルグにかけて、名を聞いただけでも怖れられた悪い奴なのです。
こんなことを申しても、ホームズさんはほんとになさらないかもしれませんが、私はあの娘を雇《やと》ってからというもの、一度でもこの家の近所を独りで歩かしたことはありません。この家にはこの悪人どもがいつもうかがい寄っているのを知っているから、間違いのないように、かならず自転車で後をつけたものです。もちろん少し距離《きより》もとるし、顎鬚《あごひげ》をつけて、覚《さと》られないように気をつけました。たいへん賢《かし》こくて元気のよい娘ですから、この田舎路で私がそんな真似《まね》をすると知れば、私の家に永くはいてくれないのに決まっているからです」
「危いことをなぜ本人に知らせてやりません?」
「知らせれば、やはり私の家にはいてくれません。それが私には耐《た》えられなかったのです。たとえ向うは愛してくれなくても、あの優《やさ》しい姿、美しい声が家のなかにあるだけで、私にはどんなに楽しかったかしれません」
「あなたは愛と呼んでいるが、それは自分勝手というものです」私がきめつけた。
「両方でしょう。いずれにしても私にはあの娘が手ばなせなかったのです。それにこの連中のこともありますし、彼女の身ぢかに誰《だれ》かが番をしていることは、必要でもあったのです。そこへ海底電信が来たので、いよいよこの連中が何か始めるなと思いました」
「海底電信が?」
「これです」
カラザースはポケットからきわめて簡単な電報を出して見せた。
――老人死ス。
「ふむ」ホームズは静かにいった。「これでだいぶ様子がわかってきた。なるほどこの電報を見たら、色めきたったでしょうな。だが、どうせ待っている時間があるのだから、君の口から説明を聞きたいですね」
するとこのとき、白い法衣姿の老悪漢が、にわかにいきりたって、悪態の連発をはじめた。
「やい、ボブ・カラザース、おれたちのことをしゃべってみろ! ジャック・ウッドリーと同じ目に、このおれがあわせてやるぞ! お前があの小娘のことで、気のすむような泣言を並《なら》べるのは勝手さ。おれの知ったことじゃないからな。だが、仲間のことをこの私服|刑事《けいじ》どもに告げ口でもしてみろ、こっぴどい目に遭《あ》わしてやるからそう思え」
「いや、牧師さん、そんなに興奮なさることはありますまい」ホームズはゆっくり煙草《たばこ》に火をつけて、「この事件で君たちの悪いのは、争う余地もない。私はただ自分の好奇心《こうきしん》から、細かい点で二、三知りたいことがあるだけです。しかし、君たちのほうで話しにくいというなら、私の口から話してみるとしよう。そうすれば、隠《かく》そうとしてもどこまで隠しおおせるものか、君たちも得心がゆくでしょう。まず第一に、君たち三人――ウィリアムソン、カラザース、ウッドリーの三君がこの仕事のため南アフリカから帰ってきた」
「うそ第一号だ」老人がいった。「ふた月まえまで、おれはこんな連中は知らなかった。それにアフリカなんかへ行ったことはないぜ。そんなたわごとはパイプに詰めて煙《けむり》にしちまうんだな」
「いや、この男のいうことは事実です」カラザースがそばから保証した。
「なるほど、では二人が帰ってきた。牧師さんのほうは内地製だ。で君たちはアフリカでラルフ・スミスを知っていた。しかもスミスはもう永くは生きられない理由があった。死ねば大きな遺産がめいのものになるのを知った。どうですね、ここまでは?」
カラザースはうなずき、ウィリアムソンはうなった。
「彼女が最近親者で、しかもスミス老人が遺言状を書かないのもわかっていた」
「読み書きができないんでね」カラザースが説明した。
「そこで帰ってきて、二人でね、彼女を探しにかかった。計画は二人のうち一人が彼女と結婚して、一人は分け前だけもらうはずだった。何かの理由で、その結婚にはウッドリーのほうがあたることになった。――その理由は何でした?」
「船のなかで彼女をかけてカードの勝負をしたら、ウッドリーが勝ったのです」
「なるほど。で彼女を探しあてたので、君が雇いいれて、ウッドリーが求婚することになったが、利口な彼女はウッドリーが怖《おそ》ろしい酔《よ》いどれであるのを見ぬいて、てんで相手にもしようとしない。一方君は、自分で彼女を愛するようになってしまったので、取りきめた話が台なしになってきた。この悪人に彼女をゆずる気なんかなくなってしまった」
「むろんですとも! 誰があんな奴に!」
「そこで二人のあいだにけんかがあって、ウッドリーは憤怒《ふんぬ》のあまり飛びだして、君とは別個に自分の計画を立てることになった」
「驚《おどろ》いたね、ウィリアムソン、このかたは何でも知ってござる」カラザースは苦笑して、「そうです。けんかして、あいつは私をなぐり倒しました。ま、その点はこれで互角《ごかく》になったわけですがね。それっきりあいつは姿を見せませんでしたが、そのときこの牧師どのと知りあったんですな。
二人が彼女の駅へ行く通り路《みち》にあたるこの家へ世帯を持ったのを知って、これは何かよからぬことをたくらんでいると思ったから、それ以後彼女から一刻も目をはなさないことにしたのです。二人が何をたくらんでいるか何とかして知りたかったから、私はときどき会っていました。
二日まえに、ウッドリーがこの電報を持ってやって来て、ラルフ・スミスがとうとう死んだから、手を打たぬかといいましたが、はねつけてやりました。すると、ではお前が結婚してもよいから、分け前だけはくれといいました。できさえすればそうしたいが、肝心《かんじん》の本人が承知しないから話になりません。
するとあの男は、『とにかく結婚さしちまおうよ。一週間か二週間もすれば、女だから少しは気持も変ってくるだろう』といいますが、私は暴力なんか好みません。あの男はぷりぷりして口汚《くちぎたな》く罵《ののし》り、そんなら自分で何とかしてみせると啖呵《たんか》をきって帰ってゆきました。
今週かぎりで彼女は辞《や》めることになりました。私は馬車を用意して、駅まで送りだしましたが、心配でなりませんから、自転車でそっと後を追っかけました。しかし、出てみたときはもう姿が見えず、だいぶ急ぎましたが追いつかぬうちに、とうとう悪いやつに捕《つか》まったのです。あんたがたが彼女の馬車でやってくるのを見て、はじめてそれを知ったようなわけです」
ホームズは腰をあげて、煙草の吸殻《すいがら》をポンと暖炉《だんろ》の中へ投げすてた。
「僕《ぼく》もずいぶん鈍《にぶ》かったよ、ワトスン君。きみが報告のなかで、自転車乗りの男が屋敷《やしき》の門のなかでネクタイを直したといったあの一事で、僕は万事を知らなきゃならなかったんだ。ま、しかし、奇妙《きみよう》な、ある意味では特異な事件を経験したんだから、満足するとしよう。おう、警察の連中が三人、いま門をはいってきたようだ。それにあの少年馬丁も三人におくれず歩いてくるようだから、怪我は大したこともないと見える。あのこっけいな花婿どのも生命に別条ないというし、結構なことだ。
それからワトスン君、すまないが医者としてスミス嬢の様子を見てやってくれないか。本人がいいといえば、われわれがロンドンの母親の家まで送ってゆくと伝えてくれたまえ。もしまだ十分回復していないようだったら、ミッドランド会社の青年電気技師に電報を打つところだとほのめかしてみたまえ、たちまちしゃんとするから。それからカラザースさんは、不祥《ふしよう》の密計に参画はしたけれど、一応改心しておられるものと思います。ここに私の名刺《めいし》をあげておきますが、裁判のとき私の証言が役にたつようでしたら、自由に利用してください」
私たちは次から次と目まぐるしく活動をつづけているので、読者諸君もたぶんおわかりのこととは思うが、物語りを最後まで書きあげたり、また、最後のまた最後の細かいことまで書きしるして、好奇心のある人の期待に添《そ》うというのは、なかなか困難な場合が多い。一つの事件は次の事件の前奏曲なのだから、ひとたび重大局面をすぎると、そこに活躍《かつやく》した役者たちは、忙《いそが》しい私たちの日常から忘れ去られてしまうのである。
しかしこの場合は、幸いにして事件記録の末尾《まつび》に簡単な覚えがきがある。それによるとヴァイオレット・スミス嬢は巨額の遺産を相続し、いまは電気技術のほうでは有名なウエストミンスターのモートン・エンド・ケネディ事務所の所長であるシリル・モートン氏の夫人となっている。ウィリアムソンとウッドリーはともに誘拐《ゆうかい》暴行罪に問われ、前者は七年、後者は十年の刑に処せられた。カラザースの運命については記述がないが、私の信ずるところでは、ウッドリーが非常な凶悪犯人の声が高かったから、法廷であまり重大視されることなく、法の要求を満たすため二、三カ月の刑ですんだのではないかと思う。
[#地付き]―一九〇四年一月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
プライオリ学校
ベーカー街の私たちの小さな舞台《ぶたい》には、職業がらいろんな人物がずいぶん劇的な登場や退場をしたものだが、ここに述べる文学士、哲学《てつがく》博士、等々の肩書《かたがき》を持つソーニクロフト・ハクステーブルが初めて現われたときほど突然《とつぜん》で、しかも度胆《どぎも》をぬかれたことはなかった。
学問的な堅苦《かたくる》しい称号や肩書をところ狭《せま》しとならべたてた名刺《めいし》がまず取り次がれ、つづいてすぐに本人がはいってきたのだが、とても大柄《おおがら》で、尊大で、もったいぶって、まことに沈着堅実《ちんちやくけんじつ》の権化《ごんげ》かと思われる人物だった。しかもまず何をしたかというと、はいってきて後手《うしろで》にドアを閉めるなりテーブルにつき当ってよろめき、足を辷《すべ》らせて暖炉《だんろ》の前の熊《くま》の皮の敷物《しきもの》の上へその大きなからだで倒れ伏して、気を失ってしまったのである。
私たちは驚《おどろ》いて同時に立ちあがったが、しばらくはただ茫然《ぼうぜん》として、人生の大洋のはるかな沖《おき》あいで突如《とつじよ》おこった運命の大あらしを思わすこの不格好な難破物を見おろして、あっけにとられるばかりであった。が、気がついてホームズは急いでクッションを頭の下にあてがい、私はブランディを取って口へ流しこんでやった。
いろの白い大きな顔には憂悶《ゆうもん》の皺《しわ》が幾本《いくほん》もふかく刻まれ、閉ざした目の下の皮膚《ひふ》のたるみはどす黒く、半開の唇《くちびる》の端は傷《いた》ましく両方へたれ、丸い顎《あご》には鬚《ひげ》がのびている。シャツとカラーは長旅で垢《あか》じみ、形のよい頭は櫛《くし》を入れぬ頭髪《とうはつ》が蓬《よもぎ》のように乱れて逆だち、眼前に横たわるのは傷ましくもうちひしがれた人の姿であった。
「どうしたんだろうね、ワトスン君?」
「極度の疲労《ひろう》だね。たぶん単なる空腹と疲労だけだろう」私は脈をとりながら答えた。生命の流れは微弱《びじやく》であった。
「北イングランド地方のマクルトンからの往復きっぷの片割れを持ってるよ」ホームズはその男の時計入れポケットからつまみだしたきっぷを見ていった。「まだ十二時まえだから、よほど早く出てきたんだね」
しわのある眼瞼《まぶた》をぴくぴくさせだしたと思ったら、このとき彼《かれ》は空虚《くうきよ》な灰いろの眼をぽっかりあけて、私たちを見あげた。と、急いでもぞもぞと立ちあがり、恥《はず》かしさでまっ赤になった。
「いや、これはとんだ失礼をしました。少し無理をしすぎたのです。ホームズさん、はなはだ申しかねますが、ミルクとビスケットを少々頂だいできませんか。それをやったらきっと元気になります。実はね、ホームズさん、あなたにご出張が願いたくって、電報ではこの絶対的な緊迫状態《きんぱくじようたい》はわかっていただけないし、自分で出てきたような次第《しだい》です」
「もっと元気を回復なすってから……」
「いいえ、もう大丈夫《だいじようぶ》です。いったいどうしてこんなに弱くなったものですか……それよりもホームズさん、次の列車でマクルトンまでおいで願いたいのですが……」
ホームズは頭を振《ふ》った。
「ここにいるワトスン博士に訊《き》いてくだすってもわかりますが、いま非常に忙《いそが》しいからだなのです。ファラースの証書事件も未解決だし、アバゲヴニの殺人事件の公判も近く始まります。よくよくの重大問題でない限り、いまはロンドンを離《はな》れられないのです」
「重大問題とおっしゃる!」と客は掌《てのひら》を上にして大きく両手を投げだし、「あなたはあのホールダーネス公爵《こうしやく》のたった一人の令息の誘拐《ゆうかい》事件をまだお聞きじゃありませんか?」
「えッ、あの前内閣閣僚の?」
「そうですとも。新聞には出ないように手を打ちましたが、昨夜のグローブ新聞にそのうわさがちらと出ましたから、もうお耳にはいっているかと思いました」
ホームズはやせた長い腕《うで》をいきなりのばして、人名百科辞典の|H《エツチ》の巻をぬきとった。
「ホールダーネス。六代目公爵、ガーター一等|勲章《くんしよう》、枢密顧問官《すうみつこもんかん》――半分は肩書ばかりだ――兼《か》ねてビヴァリー男爵、カーストンの伯爵《はくしやく》――おやおやまだあるぜ――一九〇〇年以来ハラムシャー州副知事、一八八八年チャールズ・アプルドァ従男爵の女《むすめ》エディスと結婚《けつこん》。嗣子《しし》は唯一《ゆいいつ》の男児サルタイヤ卿《きよう》。所領約二十五万エーカー。ランカシャー及《および》ウェールズに鉱山を有す。住所はカールトン・ハウス・テラス。ハラムシャーのホールダーネス屋敷《やしき》。ウェールズのバンゴア港カーストン城。一八七二年海軍大臣。国務大臣として……なるほど、これでは現陛下の重臣のひとりだ」
「最大の、おそらく最も富裕《ふゆう》な重臣です。ホームズさん、あなたがご自身の職業にきわめて誇りを持っておられること、また仕事のためにこそ仕事に専念しておられるのは承知いたしておりますが、実際のことを申しあげますと、公爵閣下は令息の所在を報《し》らせてくれた者には五千ポンド、なお誘拐者の名を知らせてくれればさらに千ポンドを謝礼に出すと申しておられます」
「さすが大貴族ですな。ワトスン君、ハクステーブル博士にくっついて北イングランドまで出かけてみるかね。ではハクステーブル博士、そのミルクを召《め》しあがったら、いついかにして発生したか、事件の概要《がいよう》をお話し願いましょうか。そしてマクルトンにちかいプライオリ学校のソーニクロフト・ハクステーブル博士は事件とどんな関係があるか、またなぜ事件発生後三日も経過してから、これはあなたの顎の鬚の状態でわかるのですが、私なんかにご依頼《いらい》になるかということも併《あわ》せてご説明願いましょう」
客はミルクとビスケットを片付け終ると、眼にも生気を回復し、顔いろもよくなって、てきぱきと元気よく説明をはじめた。
「まずご承知おき願いますのは、プライオリ学校は予備学校で、かく申す私が創立者|兼《けん》校長であることです。『ハクステーブルのホレース側面観』という書名を申しあげたら、あるいは私を思いだしていただけるかもしれません。
プライオリ学校は、異論なくイギリス第一等の、選《え》りぬきの予備学校です。リヴァストーク卿、ブラックウオータの伯爵、サー・カスカート・ソームス――これらの名流から信頼を受けて、それぞれ子息を託《たく》されているほどです。しかし、今から三週間まえに、ホールダーネス公爵が秘書のジェームズ・ワイルダー氏を派して、独りむすこであり相続者である当年十|歳《さい》のサルタイヤ卿の教育を私に託されるご意向を伝えられたときは、私としては我が校最大の名誉《めいよ》であると感じました。これが私の生涯《しようがい》を破滅《はめつ》せしめる不幸の前奏曲となろうとは、夢《ゆめ》にも思わないことでした。
五月一日に、子供は学校へ到着《とうちやく》しました。あたかも夏の学期の始まる日です。愛らしい少年で、校風にもすぐ慣れました。ここで申しあげておきますが、いや、こうした場合|生半可《なまはんか》な隠《かく》しだては意味ないですから、申しあげても軽率《けいそつ》の誹《そし》りは受けまいと思いますが、家庭におけるこの少年は必ずしも幸福ではなかったのです。公爵の結婚生活が決して平和なものでなく、結局合意の別居生活になり、夫人が南フランスに居を定められたことは公然の秘密になっています。
この破局はごく最近のことで、少年の思慕《しぼ》は強く母夫人のほうへ傾《かたむ》いているといわれます。はたして、夫人がホールダーネス屋敷を去ってから、うつうつとして元気がないので、それがため公爵も決心して私の手許《てもと》へ送られることになったのです。二週間もたつうち、少年はすっかりわれわれになついて、見受けるところきわめて幸福そうでした。
いなくなったのは五月十三日、この月曜日の夜中です。部屋は三階で、ほかの少年の二人いる大きい部屋を通ってはいるようになっています。この二人の少年が何も見かけないし、物音も聞かないと申しますから、こっちから出たのでないことは確実です。これに反して窓はあいていて、壁《かべ》には太い蔦《つた》が地面からはいあがっています。地面に足跡《あしあと》はなかったけれど、これしか出口はあり得ないと思います。
失踪《しつそう》を発見したのは翌《よく》火曜日の朝七時で、寝台《しんだい》はいったん寝《ね》た形跡《けいせき》がありました。出かけるまえに学校の制服になっている短いイートン・ジャケツにこいねずみいろのズボンをはいて、きちんと自分で身なりを整えています。部屋のなかへは誰《だれ》もはいった様子はないし、そのことは、奥《おく》の部屋に寝ている少年のうち年上のほうのカウンターというのが、ごく目ざとい少年なのですがさけび声とか格闘《かくとう》の物音とかは聞かないと言っていますから、確実だといえます。
サルタイヤ少年の姿の見えないのがわかると、私はすぐに全員の点呼をとってみました。子供も先生も従業員も全員です。すると逃《に》げたのはサルタイヤ少年だけではないのがわかりました。ハイデッガーというドイツ人の先生の姿が見えないのです。ハイデッガー先生の部屋はやはり三階の、サルタイヤ少年とならびの一番はずれにあります。こちらもやはり寝台は乱れて、一度寝た跡がありましたが、ワイシャツと靴下《くつした》が残っていましたから、こちらは十分身なりを整えないで行ったものと思われます。明らかに蔦を利用して、窓から降りたもので、窓の下の芝生《しばふ》に足跡が残っていました。なお、ハイデッガー先生はこの芝生の横の小さなこやに自転車をおいていましたが、これが見えなくなっています。
ハイデッガー先生は学校へ就任して二年になります。立派な推薦《すいせん》書類もありましたが、気むずかしい無言《だんまり》やですから、同僚《どうりよう》にも子供にも人気はあまりなかったです。それが火曜日の朝のことで、以来極力|捜査《そうさ》につとめましたが、二人の脱走者《だつそうしや》については何の手掛《てがか》りもなく、きょうはもう木曜日なのに、ようとして行方《ゆくえ》が知れません。
ホールダーネス公爵家へはむろんすぐに照会しました。学校から数マイルの距離《きより》にすぎないのですから、急に家が恋《こい》しくなって、父親の手許へ帰ったのではないかと思ったのですが、そんな形跡はまったくありませんでした。公爵も非常に心痛せられますし、私としても不安と責任感とに痛めつけられて、神経《しんけい》衰弱《すいじやく》になってしまいましたのは、来る早々おめにかけた醜態《しゆうたい》でご覧《らん》のとおりです。ホームズさん、あなたも仕事に全力を打ちこまれるのでしたら、いまこそそれをやっていただきたいと懇願《こんがん》しますよ。何しろこれほど価値のある大事件は、生涯を通じて二つとありますまいからねえ」
シャーロック・ホームズは最大の注意力をもって、この不運な校長の語るところを傾聴《けいちよう》していた。引きよせたまゆ、そのあいだに刻まれたふかいみぞなどは、いまさら勧められるまでもなく、彼がこの事件に注意力を集中しているのはもとより、事件にふくまれるすばらしい興味はまったく別にして、物事のもつ錯綜性《さくそうせい》と変則性への嗜好《しこう》を直接に刺激《しげき》されていることを物語っていた。彼は手帳を出して、何やら一つ二つメモを書きつけて、きびしくいった。
「もっと早く私のところへ来なかったのは、大きな怠慢《たいまん》でしたな。おかげで私の調査には、重大なハンディキャップがつきました。たとえば、つたや芝生などは、老練な者の手にかかれば、全然資料を提供しなかったとは信じられないからです」
「それは私の責任じゃないのですよ、ホームズさん。閣下は世間に風評の立つのを極力|避《さ》けたいご希望でした。家庭内の不和のうわさが世にひろまるのを怖《おそ》れられたのです。何ごとによらず、この種の問題をふかく嫌悪《けんお》されます」
「でも、警察の取調べはあったのでしょう?」
「ありました。結果は失望だけでした。いちど手掛りらしいものがあったのです。その朝若い男と少年と二人づれで、付近の駅から早朝の汽車に乗るのを見た者があるというのですが、昨晩になって、その二人づれをリバプールまで追跡して調べた結果、まったく人違《ひとちが》いだったと判明しました。絶望と焦燥《しようそう》で私はほとんど眠《ねむ》られぬ一夜をあかして、早朝の汽車であなたをお訪ねした次第です」
「その人違いの人物を追及《ついきゆう》するあいだ、土地の警察は安心して捜査の手をゆるめていたのでしょうね?」
「全然|放棄《ほうき》していました」
「そんなことで三日間も空費したのです。その手ぬるいやり口がじつに残念でした」
「私もそう感じます。たしかにそうです」
「とはいっても、究極は解決できなければなりません。承知しました。喜んで調べてあげましょう。少年とドイツ人教師とのあいだに、何かの関連は見いだせませんか?」
「まったく何もありません」
「少年はその教師の受持ちクラスですか?」
「いいえ、私の知る限りでは、言葉を交《かわ》したことすらありません」
「それはちょっと妙《みよう》ですな。少年は自転車を持っていましたか?」
「いいえ」
「ほかに自転車の紛失《ふんしつ》はありませんか?」
「いいえ、紛失していません」
「たしかですね?」
「まちがいはありません」
「ふむ、するとあなたは、そのドイツ人教師が深夜に、少年を小脇《こわき》にかかえて自転車で逃げたとでもいわれるのですか?」
「そんなことは考えもしません」
「では、あなたのご意見は?」
「自転車は一種の欺瞞《ぎまん》かもしれません。どこかへ隠しておいて、二人は徒歩で逃げたのです」
「なるほど。しかし欺瞞にしては少し子供だましのようじゃありませんか。こやのなかにはほかにも自転車が入れてありますか?」
「五、六台はありましょう」
「自転車で逃げたように見せかけたかったら、いっそのこと二台持ちだして、隠しそうなものじゃありませんか?」
「なるほど、そうするでしょうね」
「むろんそうしますよ。だから欺瞞説は成立しません。ただし捜査の出発点としては立派なものですがね。いずれにしても自転車なぞ、隠すにしても壊《こわ》してしまうにしても容易じゃありませんからね。もう一つお尋《たず》ねしますが、失踪の前日に、誰か少年に会いにきた者はありませんか?」
「ありません」
「手紙は来ませんか?」
「一本だけ来ました」
「誰から?」
「父公爵からです」
「生徒の手紙は開封《かいふう》するのですか?」
「いいえ」
「開封しないで、どうして父親からだとわかりました?」
「封筒に紋章《もんしよう》がはいっていましたし、筆蹟《ひつせき》も特徴《とくちよう》のある公爵の堅苦《かたくる》しい書体でした。なおそのうえ、閣下も書いたのを思いだされました」
「そのまえには、いつ来ました?」
「五、六日来なかったようです」
「フランスからは来ますか?」
「いいえ、一度も来ません」
「こうした質問の趣旨《しゆし》は、むろんおわかりと思いますが、少年は暴力的に連れだされたか、あるいは自分の意志で脱走したか、後者とすれば、何しろこういう年端《としは》もゆかぬ少年のことですから、外部に糸を引く者がいたと見るのが自然でしょう。誰も面会にこないとすれば、指示は手紙できたと見なければなりません。それで手紙の相手をこんなにお尋ねするのです」
「残念ながらその点、あまりお役にたちそうもありません。サルタイヤ卿の文通の相手は、私の知る限りでは父上だけでした」
「その父上から、失踪の前日に手紙が来ているのですな? 父子仲はだいたいよかったのですか?」
「公爵閣下は誰とでも、特別親密にされるということはありません。それよりも大きな、社会的な問題に没頭《ぼつとう》しておられますし、普通《ふつう》の感情とはちょっと縁どおいかたです。しかしサルタイヤ卿に対しては、いつでも閣下流におやさしかったです」
「しかし少年の気持は、母親のほうへより多く傾いていたのでしょう?」
「そうです」
「少年から聞いたのですか?」
「いいえ」
「公爵からですか?」
「まさか!」
「ではどうしてわかります?」
「閣下の秘書のジェームズ・ワイルダー氏と打ちとけて話しあったことがありますが、そのときサルタイヤ卿の気持について情報を得たわけです」
「わかりました。ところで公爵のその手紙というのを、探してみましたか? 部屋に残っていましたか?」
「いいえ、持って出たらしいです。ではホームズさん、もうそろそろユーストンの駅に行かないと……」
「馬車を呼ばせましょう。十五分だけ待ってください、支度《したく》をします。もし電報をお打ちになるのでしたら、あなたの周囲の人たちには、捜査はまだリバプールなり、その他適当なところへ向けられているように思わせておくほうがよいですよ。そうしておいて、私はこっそり捜査をすることにしましょう。少し時機は失したけれど、このワトスン君と私と二人がかりでやれば、何か手掛りが得られなくはないでしょう」
その晩のうちに、ハクステーブル博士の有名な学校の所在地である山岳《さんがく》地帯の、はださむい爽快《そうかい》な空気のなかに私たちはいた。着いたのはもう暗くなってからだったが、ホールのテーブルのうえに名刺《めいし》が一枚おいてあり、出迎《でむか》えの執事《しつじ》が何事か博士の耳にささやくと、博士は元気のない顔に不安を浮《う》かべて私たちを顧《かえり》みた。
「公爵が見えているそうです。秘書のワイルダー氏と書斎《しよさい》のほうに居られるそうですから、じゃ、ご紹介《しようかい》しましょう」
むろん私はこの有名な政治家は写真でよく知っていたが、実物は写真とはだいぶ感じが違っていた。背のたかい堂々たる偉丈夫《いじようふ》で、きちんと服装《ふくそう》を整え、やせたしかめ面《つら》に鼻がへんに長くて曲っている。死人のようにいろ青ざめて、時計の鎖《くさり》の光る白チョッキの胸に垂れさがる鮮《あざ》やかに赤く貧弱《ひんじやく》になった顎鬚《あごひげ》と、驚《おどろ》くほど対照的であった。ハクステーブル博士の書斎の暖炉《だんろ》のまえの絨毯《じゆうたん》の中央に突《つ》ったって、石のように無表情に私たちを凝視《ぎようし》したのは、こういう堂々たる人物だったのである。寄りそってたいへん若い男が立っているが、個人秘書のワイルダーなのに違いない。このほうは小柄《こがら》で気のきく顔つきに、うす青い眼《め》の聡明《そうめい》そうな、神経質で抜目《ぬけめ》なさそうな男である。すぐに、鋭《するど》い積極的な調子で、この男のほうから話しかけてきた。
「ハクステーブル先生、ロンドン行きをお止めしに今朝ほどうかがいましたが、まにあいませんでした。シャーロック・ホームズさんを招いて、こんどの事件をご依頼が目的とうかがいましたが、閣下はあなたがご相談もなしに、そういう処置を取られたのには驚いておられます」
「警察のほうが失敗しましたので……」
「閣下は警察が失敗とは、まだお決めになっていませんよ」
「でもその、ワイルダーさん……」
「ハクステーブル先生、閣下が世間ていの悪い風評の立つのをたいへんお気になさるのは、あなたもよくご承知のはずです。秘密を明かす人物はできるだけ少数に止《とど》めたいのが閣下のご意向なのです」
「まだとり返す方法はあります。シャーロック・ホームズさんには明朝の汽車で帰っていただきましょう」威圧《いあつ》されて博士はすっかり怖《お》じけてしまった。
「いやいや、それは待ってください、ハクステーブル博士」ホームズがごく穏《おだ》やかな声でいった。「この北方の空気はたいへん爽快で元気づけられますから、二、三日|逗留《とうりゆう》させていただいたり、できるだけ考えてみたいと思います。宿はお宅でお世話になってもよいし、村の宿屋でもよし、あなたのご決定に従います」
気の毒な博士はどうしてよいやら、決断に迷ってもじもじしていたが、このとき赤鬚公爵《あかひげこうしやく》の食事の合図のどらを思わす深い、大きな声でやっと救われた。
「ハクステーブル博士、私もワイルダー君に同意します。やはり一応私に相談してくれたほうが賢明《けんめい》でした。だがホームズ君にこうして打ち明けてしまった以上は、ご尽力《じんりよく》ねがわぬのも愚《おろ》かなはなしだ。ホームズ君、宿屋なんかへ行くことはありません。お差支《さしつか》えなくば私の屋敷《やしき》へ泊《とま》ったらよろしかろう」
「ありがとうございますが、調査の目的から申して、むしろ現場に止《とど》まるほうが賢明《けんめい》かと考えます」
「ではご随意《ずいい》に。何か知りたいことでもあれば、私なりワイルダー君なりに、遠慮《えんりよ》なく尋ねてください」
「いずれお屋敷のほうへうかがうことになると思いますが、ただ今さしあたりお尋ねいたしたいのは、令息の不可思議な失踪について、閣下に何かお心あたりのようなものでもございますでしょうか?」
「いや、それが全然ないのです」
「立ちいったことをとご不興かとも存じますが、避けられませんからお尋ねいたします。こんどの問題は、公爵夫人と何か関係がございますでしょうか?」
この質問には、大政治家もたじろいだが、しばらくたって、
「関係はあるまいと思います」
「それでないと致《いた》せば、普通に考えられることは、身代金《みのしろきん》が目的の誘拐《ゆうかい》ですが、閣下にそういう要求をした者は、まだございませんでしょうね?」
「ありません」
「ではもう一つお尋ねいたします。問題の起こった当日、閣下は令息に手紙をおあげになりましたそうですね?」
「いいや、あれはその前日でした」
「そうです。しかし令息は当日お受取りになったのでございましょう?」
「そうです」
「そのお手紙のなかに、何か令息を不安にするとか、こんどのような挙に出させるようなことが書いてありましたか?」
「そんなことは書きませんよ」
「ご自身|投函《とうかん》されましたか?」
貴族の返答は、秘書によってさえぎられた。秘書の調子は少し激昂《げつこう》していた。
「閣下はご自身手紙の投函なぞなされません。その手紙ならば、ほかのといっしょにお書斎のテーブルの上にありましたから、私が郵便袋《ゆうびんぶくろ》に入れておきました」
「たしかにそのなかにあったのですか?」
「この眼で見たのですから、まちがいありません」
「その日閣下は何通くらい手紙をお書きになりましたか?」
「二、三十通も書きましたかな。私は手紙は多いのです。だが、そういう問題は少し筋が違いはしないかな」
「必ずしもそうとばかりは申されませんので」ホームズがいった。
「私としては、南フランスのほうへ注意を転向するように、警察へ助言を与《あた》えておきました。公爵夫人がこのような怪《け》しからぬ行動を慫慂《しようよう》するとは思わぬのは、さきほども申したとおりだが、あの子はたいへん不心得なところがあって、ドイツ人教師とかに教唆《きようさ》されると、母親のところへ逃《に》げてゆくようなことをやりかねないところがあるのです。ハクステーブル博士、では、私たちはこれで屋敷へ引きあげることにしますよ」
ホームズがまだ尋《き》きたいことのあるのは、私にはよくわかったが、公爵にいきなりこうやられては、会見はそれまでだった。生来|極端《きよくたん》に貴族的な公爵には、肉親の問題を他人と論じあうのは堪《た》えがたいところであったし、一問は一問より鋭《するど》く、用心ぶかくぼかしてある公爵家の過去に意地わるい照明を加えられるのを恐《おそ》れたのは明らかだ。
公爵が秘書を従えて出てゆくと、ホームズは早速《さつそく》、彼《かれ》独特の熱意をもって調査にかかった。
サルタイヤ少年の部屋は、綿密に調べたけれども、得るところがなかった。窓から出ていったのが絶対に確実だとわかっただけである。ドイツ人教師の部屋と持物にも手掛りはなかった。このほうは壁の蔦《つた》が体重で損傷を受けており、角灯で調べてみるとその下の芝生に、降りたときの踵《かかと》の跡《あと》が残っていた。この短い緑の芝のうえに印されている凹《くぼ》み一つが、不可解な夜の脱走の後に残された唯一《ゆいいつ》の有形な証跡である。
そのあとでホームズは独りでどこかへ出かけたが、十一時ごろ帰ったときは、この付近の大きな軍用地図を一枚手に入れていた。この地図を私の部屋へ持ちこみ、寝台《しんだい》のうえにひろげて、ランプをその中央に工夫《くふう》してすえ、煙草《たばこ》を吸いながら地図をながめて、煙《けむり》のでている琥珀《こはく》の吸い口でときどき興味ある事物を指しながらしゃべった。
「ワトスン君、僕《ぼく》はこの事件がだんだん気に入ってきたよ。たしかに面白《おもしろ》いところがある。君もいまのうちに、地理をよく呑《の》みこんでおいてもらいたい。調査上それがたいへん役にたつと思うからね。
[#挿絵(img\132.jpg)]
地図をみてみたまえ。この黒い四角なのがプライオリ学校だ。ピンを立てておこう。この線が村の大通りで、このとおり学校のまえを東から西へ走っている。そして学校から東西とも一マイルくらいは横道がない。逃げた二人が道路を通ったとすれば、この道しかないわけだ」
「そのとおりだ」
「ところが不思議な幸運で、その晩この道を通った者が、ある程度調べあげられるのだ。というのは、いま僕のパイプのさわっているこの点に、その晩十二時から六時まで、巡査《じゆんさ》が一名立番していたのだ。このとおり学校から東へいって、第一の横町のある場所だが、この巡査が、勤務中一刻といえどもこの地点を離《はな》れなかったけれど、子供も大人も、一人も人は通らなかったというのだ。現にその巡査に会ってきたが、十分|信頼《しんらい》のできる人物だった。だからこっちはこれで問題はない。
つぎはこっち側だが、こっちにはここに赤牛旅館という宿屋がある。ここでは主婦が病気で、その晩はマクルトンの村へ医者を呼びにやったが、医者は生憎《あいにく》と別の患者《かんじや》のところへ往診《おうしん》していて留守だったので、朝まで来なかった。宿屋の者は来るか来るかと夜どおし気を張っていたし、誰《だれ》か一人二人は絶えず往来のほうへ眼をくばっていたが、誰も通らなかったといっている。この証言がまちがいないとすれば、西の道も問題ないことになる。つまり二人は道のほうへは逃げなかったといえるわけだ」
「だって、自転車だぜ」私は異議があった。
「そこだよ。いまに自転車のこともいうが、そのまえに話のつづきとして、この二人が道路を通らずに逃げたとすれば、南か北か、野なかを逃げたことになる。
これは確実だ。では南か北か、比較《ひかく》研究してみよう。
南はこの通りひろびろとひらけた耕地だが、現場へいってみると、石のへいで小さく区切ってある。これでは自転車は通れない。だから、問題とするにおよばない。次は北だが、北にはここに、地図に『疎林《そりん》』と出ている小さな林がある。その先は『下《ロワ》ギル荒《あ》れ地』とある大きな荒れ地が十マイルもひろがっていて、多少の高低をもってうねりながら、しだいに高くなっている。この荒れ地の北のはずれがホールダーネス屋敷で、道路を回れば十マイルもあるが、荒れ地を通れば六マイルしかない。
この荒れ地は妙《みよう》に人跡《じんせき》まれなところで、わずかに少数の荒れ地農夫が狭《せま》く土地を借りて、羊や牛を飼《か》っているにすぎない。それをのけたらチェスターフィールド街道《かいどう》へ出るまでは、千鳥と鴫《しぎ》が住んでいるくらいのものだ。そこまで出れば、教会も一つあるし、二、三の小さな家や宿屋も一|軒《けん》ある。それから先は丘《おか》が険しくなっている。だから北のほうにこそ、われわれの調査は向けられなければならないのだ」
「だって自転車だぜ」私はこれを固執《こしつ》した。
「わかってるよ!」ホームズはじれったそうに、「上手な者なら大きい道路でなくてもいいんだ。荒れ地には縦横《じゆうおう》に小さな道がついてるし、ちょうど満月だったんだ。おや、何だろう?」
いらだたしくドアをノックする者があって、つづいてはいって来たのはハクステーブル博士だった。庇《ひさし》に白い山形のマークのある紺《こん》のクリケット帽《ぼう》を手にしている。
「ついに手掛《てがか》りがありました。とうとう手蔓《てづる》になるものが見つかりましたよ。これがあの少年の帽子です」
「どこにあったのですか?」
「ジプシーの荷車のなかです。荒れ地にはジプシーがキャンプしていましたが、火曜日にどこかへ行ってしまいました。警察がきょうその行くえを突きとめて、家財運搬用《かざいうんぱんよう》の荷車を調べたら、これが出てきたのです」
「ジプシーは何と弁明しています?」
「うそばっかり……火曜日の朝、荒れ地で拾ったというのです。なアに、少年の居場所を知っていますよ。もう大丈夫《だいじようぶ》です、鍵《かぎ》のかかるところに押し込めてありますから。法律の力か、公爵の財力か、どちらかが口を割らせるに決まっていますよ」
「それはそれとして」とホームズは、有頂天《うちようてん》になった博士が出てゆくと、落着いていった。「少なくとも、われわれの成果の期待できるのは北がわだという説の証明にはなる。警察はこのジプシーを捕《とら》えただけで、ほかのことは何一つできてやしないんだ。見たまえ、荒れ地には水路がある。地図に出ているこれがそうだが、水路がひろがって、いったいに沼地《ぬまち》になっている場所もある。ホールダーネス屋敷と学校のあいだが、とくにその傾向《けいこう》が強い。この晴天つづきでは、ほかの場所は探しても無駄《むだ》だが、この沼地だけは何かの痕跡《こんせき》発見の希望が持てるのだ。あしたの朝は早く起こすから、この謎《なぞ》が解けるかどうか、大いにやってみようじゃないか」
眼をさまして、まくらもとにホームズのひょろ長い姿を認めたのは、夜のあけがたであった。もうちゃんと服を着けているばかりか、いちど出てきたのらしい。
「芝生《しばふ》と自転車ごやを見てきた。それに疎林もひとまわり歩いてみたが、次の間にココアの用意ができてるよ。きょうはだいぶ忙《いそが》しいんだから、急いでもらいたいね」
ホームズの双眼《そうがん》は輝《かがや》き、ほおは、仕事を眼前にした名匠のように、歓喜で紅潮していた。ベーカー街にいるときの内省的な、青じろき夢《ゆめ》みるホームズとはまったく別人の感ある敏捷《びんしよう》な、積極的な彼であった。気力の充実《じゆうじつ》したしなやかな身体《からだ》を見あげて、きょうこそは張りきろうと私も心に決したのであった。
だが、ふたをあけてみると、待っていたのは暗黒な失望だけであった。私たちは希望に燃えて、羊の通うこみちの縦横にある赤褐色《せつかつしよく》の泥炭質《でいたんしつ》の荒れ地を進んで、ホールダーネス屋敷とのあいだに横たわって、はっきりそれとわかるうす緑の広い沼地のところまで行ったが、もし少年が屋敷へ帰ったとすれば、かならずここを通るはずであり、通ればかならず跡を残すはずであるのに、少年もドイツ人教師も通った形跡がないのである。沼地のふちを大股《おおまた》に歩きまわって、こけの生えた地面を熱心に調べるホームズの顔は、しだいに暗くなっていった。そのへんには羊の足跡がたいへんたくさんあったし、牛の足跡も、数マイル下手《しもて》だが、一カ所あったけれど、ほかには何の得るところもなかった。
「一巻の終りだ」ホームズは起伏《きふく》ある荒れ地を、浮かぬ顔で遠く見わたした。
「ここから括《くび》れて、あのさきがまた沼地になっている。ほら、ほら、これは何だ!」
ほそく黒っぽいこみちへ出てみると、その中央に、湿《しめ》った土のうえに自転車の輪の跡がはっきりと残っているのである。
「万歳《ばんざい》! あったぞ!」
私は思わず叫《さけ》んだが、ホームズは首を横に振《ふ》った。その顔には困惑《こんわく》があり、浮かれるどころか、何ものかへの期待があった。
「自転車にはちがいないが、あの自転車ではないよ。タイヤの跡なら四十二種類だけ熟知しているが、これはご覧《らん》のとおりダンロップ製だ。ハイデッガーのタイヤは縦《たて》に長いしまのあるパーマー製だった。アヴェリングという数学の教師が、はっきり覚えていた。だからこれはハイデッガーの自転車ではないよ」
「じゃ少年だろう」
「あの少年が自転車を持っていたとすれば、その推定は成立するけれど、いまのところ少年が自転車で逃げた証明は全然ない。だがこの車輪の跡は、学校の方から来ているね」
「学校の方へかもしれないよ」
「それは違《ちが》うよ。この深いほうの跡が、体重のかかる後車輪だが、この通り前車輪の浅い跡に重なって、それを消している場所がいくつもあるだろう。だからこれは学校のほうから来ていることは間違いないのだ。この自転車の跡は、こんどの事件と関係があるかないかまだわからないけれど、とにかく来たほうへ逆にたどっていってみよう」
そこから二、三百ヤードもたどってゆくと、湿潤地帯《しつじゆんちたい》がつきて、それから先は自転車の跡が残っていなかった。しかし、なおもそのこみちをたどってゆくと、小さな泉がちょろちょろとこみちを横断している場所があって、ここに牛の足跡でほとんどふみ消されてはいるが、自転車の跡があった。それから先は、こみちは学校の背景をなしている疎林のなかへはいっているが、再び跡は見られなかった。この林のなかから、自転車で乗り出したものに違いなかった。
ホームズはそこにあった玉石に腰《こし》をおろして、両手に顎《あご》をのせたきり考えこんで、私が煙草を二本も吸い終るまで、動こうともしなかった。
「そうだな、悪知恵のある男なら、自転車のタイヤをとりかえてごまかすくらいはやりかねまい。そういう考えの浮《う》かぶくらいの犯人なら、相手にとって不足はない。だがこの問題は未決定のままにしておいて、もう一度沼地へ引っかえしてみよう。まだ見残したところがたくさんある」
それから私たちは、荒れ地の水気のある部分を丹念《たんねん》に調べてまわった。そしてその忍耐《にんたい》はたちまち、大きく報《むく》いられたのである。
沼地の低い部分に、泥《どろ》ふかいこみちがあって、それに近づいたホームズが歓声をあげたので、見るとこみちの中央に電話線を束《たば》ねたような跡が残っている。パーマー製のタイヤの跡である。
「ハイデッガー君だよ。僕の推理は相当なものじゃないか、ワトスン君」ホームズは満悦《まんえつ》である。
「お手柄《てがら》だよ」
「いや、まだまだ。途《みち》は遠きにありだ。こみちをよけて歩いてくれたまえよ。この跡をたどってみよう。この跡はそう遠くまで続いてはいまいと思うけれどね」
だが、この付近は水気の多いところがちょいちょいあって、時に轍《わだち》のあとを見失いはしたけれど、すぐその先につづきを発見するのだった。
「ワトスン君、このへんはスピードを出して走っているが、わかるかい? まちがいない事実だよ。その跡を見たまえ、両車輪ともはっきり出ているだろう? ほとんど同じ深さの溝《みぞ》になっている。これはね、スピードを出すために上半身を伏《ふ》せて、ハンドルに重みをかけた場合のみに起こる現象なんだ。おや、転んだな!」
そのあたり何ヤードかは、幅《はば》ひろく不規則に泥が乱れていて、つづいて足跡が二つ三つあり、その先が再びタイヤの跡になっていた。
「横すべりしたんだね」と私。
ホームズは花のついたハリエニシダの小さな枝《えだ》の押《お》しつぶされたのを拾いあげた。驚《おどろ》いたことに、黄色い花が赤くそまっているではないか! なお、こみちにも、よく見るとヒースの中にも、赤黒く血の凝固《ぎようこ》しているのが見られる。
「これはいけない! ワトスン君、気をつけるんだよ、余計な足跡をつけないようにね。さて、これを何と判じたものか。ここで転んだが起きて、怪我《けが》のまま自転車に乗ってなおも進んでいる。ほかの者の足跡はない。このわきみちに牛でもいて、角で突《つ》かれたのだろうか? そんなことはあり得ない。何しろほかの足跡がまったくないのだ。先へ行ってみなければならぬ。血と車輪の跡をたどってゆけば、こんどこそ逃がしっこはない」
捜査《そうさ》は手間どらなかった。タイヤの跡が湿って光るこみちのうえを、妙にくねくねと曲っていると思ったら、ふと前方のハリエニシダの深い茂《しげ》みのなかに、何か金属の光るのが目についた。引きずりだしてみると、パーマー製のタイヤをつけた自転車で、一方のペダルが曲り、前部が血潮でべっとり汚《よご》れていた。
茂みの反対がわから、くつが片足つき出している。駆《か》けよってみると、自転車の主が倒《たお》れているのだった。背のたかい男で、顎鬚《あごひげ》が広く、めがねをかけているが、そのめがねは玉が片方なくなっていた。死因は頭部の打撲傷《だぼくしよう》で、傷は骨に達している。これだけの傷を受けて、なお自転車に乗り、いくらか走れたのは、よほど元気で持続力のある男でなければならぬ。くつははいているが、くつしたはなしで、はだけた上衣《うわぎ》の胸からは、寝衣《ねまき》がじかに見えていた。むろん例のドイツ人教師にちがいない。
ホームズは死体を丁寧《ていねい》にひっくり返して、注意ぶかく検《あら》ためていたが、終るとじっと考えこんでしまった。額にしわをよせているのは、この気持のわるい意外な発見も、彼として、捜査のうえに何の光明をももたらさないのを物語っていた。
「これからの行動を決めるのが、ちょっとむずかしいね。僕の気持としては、このまま捜査をつづけたい。だいぶ時間をむだにしたから、これ以上ぐずぐずしてはいられないのだ。一方にまた、われわれはこの発見を警察に報《し》らせて、気の毒な死体を処置する義務がある」
「何なら僕が報告に帰ろうか?」
「いいや、僕は君にいっしょにいて、助けてもらいたいのだ。待ちたまえ。あそこに泥炭を切り出している男がいる。あの男をつれて来たまえ。警官を案内させよう」
私は農夫に会って、連れてきた。ホームズは短い手紙を書いて渡《わた》し、おじけている男をハクステーブル博士のところへ行かせた。
「さて、ワトスン君、けさは手掛りを二つ見つけたね。一つはパーマー製のタイヤの跡で、これは最後まで見届けてしまった。もう一つはダンロップ製のポツポツのあるタイヤの跡だ。こいつを実地に調べる前に、いまわかっていることが何と何だか、一応|温習《おさらい》をしてみよう。それによって資料を十分利用できることにもなるのだし、本質的なものと付随的《ふずいてき》なものとの区別も明らかになる。
まず第一に、少年は自由意志で脱走《だつそう》したのだという点を、僕は強調したい。自分で窓から降りて、単身だったか、連れがあったかは別として、抜《ぬ》けだしたのだ。この点は確実だ」
私は同意を表した。
「つぎはこの気の毒なドイツ人教師だ。少年は抜けだすとき、ちゃんと服を着けている。ということは、予《あらかじ》めそのつもりでいたことを示している。これに反してハイデッガーは、くつ下さえはいていない。これは非常に急いで出かけたことを示すものだ」
「むろん、そのとおりだ」
「ではなぜ彼《かれ》は出かけたのか? 寝室の窓から、少年の抜けだすのを見たからだ。追いついて、連れもどすつもりだったのだ。自転車を引きずりだして、少年を追っかけた。追っかける途中《とちゆう》で、死んでしまったのだ」
「そうらしいね」
「さてつぎに、いよいよ僕の論証の眼目だが、大人が小さな少年を追っかける場合、普通《ふつう》ならばただ駆けてゆくだろう。容易に追いつけると思うからだ。ところがこのドイツ人は、駆けてゆかないで自転車を持ちだしている。自転車が非常に上手な男だとは聞いたが、少年が逃《に》げるのに、非常に速い手段をとったのを見たのでない限り、まさか自転車で追っかけはしなかろうと思う」
「もう一台の自転車だね」
「ま、もう少しこの話をつづけよう。ハイデッガーは学校から五マイルも先で死んでいる。死因は弾丸《だんがん》ではない。弾丸ならば少年でも射《う》って射てなくはないが、これは力のこもった腕力《わんりよく》による強い一撃《いちげき》でやられている。してみると、少年には連れがあったのだ。しかも自転車に熟練した男が、追いつくのに五マイルもかかったとすれば、逃げるほうもかなり速かったことがわかる。
この殺害の現場付近を捜査して、われわれは何を発見し得たか? 牛の足跡《あしあと》が少しあるだけで、ほかには何一つないではないか。僕《ぼく》は実際この付近を詳《くわ》しく調べたが、五十ヤード以内にはほかのこみちはない。つまりもう一台の自転車は、ハイデッガー殺しとは関係がないということになるのだ。といって付近には、人の足跡も全然見あたらない」
「なんだ、そんなこと不可能じゃないか!」
「そのとおり! よく気がついた。僕のいったようなことは不可能だ。有り得ない。従って僕の話にはどこかに誤りがあるのだ。そこに君は気がついた。どこが悪いのだろう?」
「自転車から落ちたとき、頭を砕《くだ》いたんじゃあるまいね」
「何をいってるんだ。ここは石も何もない荒れ地だぜ」
「こうなると僕にはまったくわからない」
「ちえッ! もっと難問でも解決してきたわれわれなんだがねえ! が、まア材料はたくさんあるのだ。問題はそれを使いこなすことにある。じゃあ、パーマー製タイヤのほうは使いつくしたから、ダンロップ製のポツポツのあるタイヤの方が何を提供してくれるか、やってみようじゃないか」
ダンロップ・タイヤの跡を学校とは反対のほうへたどってゆくと、荒れ地はゆるやかな登り坂となり、水路を離れて、ヒースの茂る高みへ出たので、タイヤの跡も次第《しだい》に消えがちで、もはや多くの期待は持てなくなった。
タイヤの跡の消えたあたりから、斜《なな》め左へ進めばホールダーネス屋敷《やしき》で、二、三マイル隔《へだ》てて屋敷の堂々たる塔《とう》が望まれるし、斜め右へ行けば、灰いろの低い集落があり、チェスターフィールド街道の位置を示していた。
私たちは集落のほうへと進み、ドアの上に闘鶏《とうけい》の看板のある汚《きたな》くていやな宿屋の近くまでいったとき、ホームズはとつぜんあッとさけんでよろめき、私の肩《かた》につかまって身体を支えた。彼は足首の筋をひどくふみ違えて、一歩も動けなくなることがあった。びっこを引きながら、宿屋の戸口まではいったが、戸口ではずんぐりした色のくろい初老の男が、黒い陶製《とうせい》のパイプで煙草《たばこ》をふかしていた。
「やア、ルーベン・へイズさん、こんちは」
「どちらさんでしたっけ? よく私の名がわかりましたね?」その男はずるそうな眼《め》で、私たちをうさん臭《くさ》げにじろりと見た。
「あんたの頭のうえにちゃんと出ていたもんだからね。一家のご主人となると、やっぱりどこか違うところがあってねえ。ときにお宅には、馬車のようなものはありますまいね?」
「さア、ありませんね」
「こっちの足が地につけただけでも痛むもんだから」
「じゃ、つけなさらぬことだね」
「それじゃ歩けない」
「仕方がない、片足とびだね」
闘鶏旅館の主人ルーベン・へイズ君の態度は、はなはだ愛嬌《あいきよう》を欠いていたが、ホームズは感心するほど上機嫌《じようきげん》で相手になった。
「いや、冗談《じようだん》じゃないんだ。ほんとにこんな困ったことはない。費用はかまわないんだがねえ」
「こっちもかまわねえ」どこまでも不機嫌なおやじだ。
「いや、真面目《まじめ》な話なんだよ。どうだろう、自転車を一台貸してもらえたら一ソヴリン出すが」
亭主《ていしゆ》は一ソヴリンと聞いて、心が動いた。
「どこまで行きなさる?」
「ホールダーネス屋敷まで」
「御前《ごぜん》さまの友だちなんだね?」おやじは私たちの泥まみれの服をじろじろと皮肉に見渡したが、ホームズはおとなしく笑って、
「行けば喜んでくださる」
「なぜね?」
「いなくなった子供のことで話しに行くのだからさ」
おやじはひどく驚いたらしい様子を見せた。
「えッ! 若様の居場所がわかりましたかい?」
「リバプールへ行ったことがわかっている。いまにも捕《つか》まったと報《し》らせが来るはずだ」
肥《ふと》った鬚面《ひげづら》にはふたたびさっと表情の変化が起こった。こんどは打って変って愛想よくなって、
「私は少しわけがあってね、あの公爵《こうしやく》のことなんざ、それほど心配もしませんのさ。それというのも、あそこの馬丁頭《ばていがしら》を勤めたことがありますがね、まったくひでえ目に遭《あ》わされましたよ。嘘《うそ》っぱちな雑穀屋《ざつこくや》のいうことなぞ取りあげて、証明書もよこさねえでお払《はら》い箱《ばこ》でさ。だが若様がリバプールへ行ったとわかったたアめでてえから、知らせに行きなさるなら、加勢しますぜ」
「ありがとう。だがまず何か食べさせてもらおう。自転車はそれからで結構だ」
「うちには自転車はありませんぜ」
ホームズはソヴリン金貨を一枚出して見せびらかした。
「だって、ないものはねえんで。それよかあのお屋敷までなら、馬を二頭お貸ししましょう」
「そうさなあ、その話は何か食べてからのことにしようよ」
石を敷きつめた台所に通されて、二人きりになると、くじいたはずのホームズの足首がケロリとなおったのには驚かされた。そろそろ暮《く》れかけてきたが、早朝から何も食べていない私たちは、ここで食事のために若干《じやつかん》の時間を費した。
ホームズはじっと考えこんでいたが、一、二度立って、窓のそとを熱心にながめた。窓のそとは汚《きたな》らしい中庭で、向うの端《はし》に鍛冶場《かじば》があり、うす汚い少年が何か仕事をしていた。反対がわは厩舎《きゆうしや》だった。ホームズは何度か窓のそとを見てきては、いすのうえで考えこんでいたが、とつぜん腰をあげると、大きな声をあげた。
「わかったッ! ワトスン君、どうやらわかってきたよ。そうだ。それに違いない! ワトスン君、きょうきみは牛の足跡を見た記憶《きおく》があるかい?」
「いくつもあったよ」
「どこに?」
「至るところに。沼地にもあったし、こみちにもあったし、ハイデッガーの死体のそばにもあったよ」
「そのとおり。ところできょう荒《あ》れ地で君は牛を何頭見かけたね」
「一頭も見なかったようだね」
「おかしいじゃないか。どこへ行っても足跡はあったのに、見渡すかぎり一頭も目につかないというのは、いかにもおかしいじゃないか」
「そういえば、たしかに変だね」
「いいかい、ワトスン君、よく考えてみたまえ。思いだしてみたまえ。こみちにあった足跡が思い浮かべられるかい?」
「思い浮かべられるよ」
「あそこでは[#挿絵(img\147-1.jpg)]こんな風になっていたが、思いだせるかい? それからまた[#挿絵(img\147-2.jpg)]こんな風なのもあったし[#挿絵(img\147-3.jpg)]こんな風になっている場所もあった」
とホームズは、パンのくずを拾っていろいろとテーブルのうえに並《なら》べかえてみせた。
「どうだい、思いだしたかい?」
「いいや、思いだせない」
「僕はちゃんと覚えているんだ。まちがいはない。いずれついでのときに、行って確かめることにしてもいい。あれを見ておきながら、結論が下せなかったとは、なんて頓馬《とんま》なんだろう、僕は!」
「どんな結論だい?」
「歩いたり、煥足《だくあし》したり、疾駆《ギヤロツプ》したりするとは珍《めずら》しい牛だというだけのことさ。だがこんなごまかしは、いなかの宿屋の亭主の頭くらいじゃ考え出せっこないよ。いまちょうどあの鍛冶屋の小僧《こぞう》だけで、誰《だれ》もいないようだから、何があるか様子を見にゆこう」
荒れた厩舎には粗毛《そもう》の、手入れの悪い馬が二頭いた。ホームズはその一頭の後脚《あとあし》をあげてみて、声をあげて笑った。
「古い蹄鉄《ていてつ》を新しく打ったものだ。くぎが新しい。これでこの事件も、傑作《けつさく》の列に入る資格は十分あるよ。じゃ、あっちの鍛冶場へ行ってみよう」
鍛冶場では少年が、私たちには無関心に仕事をつづけていた。あたりに散らかる鉄材や木材のうえを、ホームズの眼がすばやく動きまわった。だがこのときとつぜん、うしろに足音がして、亭主が姿を現わした。太いまゆをひそめて眼をむき、まっ赤になった顔を怒《いか》りで痙攣《けいれん》させている。
先端《せんたん》に金属をつけた短いステッキを手にして、凄《すご》い剣幕《けんまく》で迫《せま》ってこられたときは、ポケットにピストルを忍《しの》ばせているのをしみじみ心丈夫《こころじようぶ》に思ったほどであった。
「地獄《じごく》の犬め! そこで何をしている?」
「これはおかしい、ルーベン・へイズさん。そんなことをいうと、何か見られて悪い秘密でもあるように聞こえるよ」
へイズはけんめいの努力でやっと自分を押さえ、心にもない作り笑いに気味のわるい口もとを緩《ゆる》めたが、その笑顔《えがお》のほうが渋面《じゆうめん》よりもかえって怖《おそ》ろしかった。
「さアさア鍛冶場が見たけりゃ、いくらでもよく見ておくんなさい。だがね、旦那《だんな》がた、許しも受けねえで家ン中アうろつくような人を、私アどうも好かねえんでね。さっさと勘定《かんじよう》を払ったら、出てってもらうほうが、私にゃア嬉《うれ》しいんですがね」
「いいとも、何も悪気があったわけじゃない。ちょっと馬を見せてもらっただけさ。だが、結局歩いてゆくことにしたよ。そう遠くもないんだしね」
「門まで二マイル足らずだからね。その路《みち》を左のほうへおいでなさい」
私たちが出かけるまで、へイズはむずかしい顔で眼をはなさなかった。
だが私たちはいくらも歩かなかった。路が自然に曲って、宿屋の亭主から見えなくなると、ホームズが立ちどまったのである。
「あの宿屋にいたあいだは、子供の言葉でいえば、暖かだったが、出てきたらあそこを遠ざかるほど寒さが身に染《し》みてきた。そうだ、これは絶対に離《はな》れないぞ!」
「あのルーベン・へイズという奴《やつ》が、何もかも知ってるに違《ちが》いないと思うよ。見るからに悪党だ」
「おお、君もそんな印象を受けたかい。馬はいるし、鍛冶場はあるし、ふむ、たしかに興味ある場所だよ、あれは。気《け》どられないように、もう一度行ってみようと思う」
うしろは丘《おか》で、ゆるい傾斜《けいしや》がつづき、灰いろの石灰石がごろごろしていた。道路を避《さ》けて、この山腹《さんぷく》づたいに闘鶏旅館のほうへ引返してゆくうち、ふとホールダーネス屋敷のほうを振《ふ》りかえった私は、道路上を一台の自転車が飛ばしてくるのを認めた。
「ワトスン君、しゃがんだ!」
ホームズも気がついたか、私の肩をぐいと圧《おさ》えつけた。急いでからだを潜《ひそ》めると、そのとたんに、自転車は矢のように速く、眼の下の道路上を通りすぎていった。もうもうと立ちこめる砂塵《さじん》のなかに、青じろく興奮した顔をちらと見た。口を開き、きッと前方をにらみつけ、恐怖《きようふ》にみちた顔つきであった。なんだか昨夜会っためかし屋のジェームズ・ワイルダーの妙《みよう》な戯画《ぎが》でも見るようだった。
「公爵の秘書じゃないか! さ、ワトスン君、何をするか、見にゆこう」
岩づたいにはいよって、宿屋の入口の見えるところまで行くと、ワイルダーの自転車が入口のわきの壁《かべ》に寄せかけてあるのが見えた。だがあたりには人の動きもなく、どの窓にも人の気配はなかった。太陽はホールダーネス屋敷のたかい塔のかなたに沈《しず》んで、次第にたそがれが這《は》いよってきた。そのうす暗がりの中に、とつぜん、厩《うまや》のほうで馬車の側灯が二つともされた。つづいて蹄《ひづめ》の音が聞こえ、一台の馬車が表の道路にひきだされて、チェスターフィールドのほうへと物狂《ものぐる》わしい速力で飛ばしていった。
「あれを見てどう思う?」ホームズが低い声でいった。
「まるで逃げるようだったね」
「男一人しか乗っていなかったようだが、ジェームズ・ワイルダーでないことはたしかだ。あの男なら戸口に立っている」
四角く流れでる黄いろい光を背にうけて、くろぐろと立っているのは秘書のワイルダーであった。首をのばすようにして、そとの暗がりを透《す》かしみているのは、誰かの来るのを待っているのらしい。果して、まもなく道路のほうに足音がして、第二の人影《ひとかげ》が現われ、ちらとあかりを浴びたが、すぐにドアが閉められたので、あたりはまっ暗になってしまった。
それから五分ばかりたつと、二階の一室にあかりがついた。
「この宿屋にしては、妙な客だねを持っているようだね」ホームズが首をかしげた。
「バアなら反対がわだよ」
「そうさ。あの連中はいわゆる特別客というやつだろう。それにしてもいったいワイルダーは、こんな時刻にこんな宿屋で何をしているのだろう? 後からワイルダーに会いに来たのは、いったい何者なのだろう? これは少々危険を冒《おか》しても、もっと詳《くわ》しく調べておく必要があるね」
道路へはい降《お》りて、戸口へ忍びよってみると、自転車はまだ壁に寄せかけてあった。ホームズはマッチを擦《す》って、後車輪を照らしてみたが、ポツポツのあるダンロップ製だったので、ニヤリと嬉しそうな笑《え》みをもらした。頭のうえはあかりのついた部屋の窓である。
「あの窓のなかをのぞかなきゃならないのだが、君、すまないが背なかを曲げて、壁につかまっててくれないか。あとは僕がうまくやる」
ホームズは私の肩のうえに登ったが、登ったと思ったらすぐ降りてしまった。
「きょうは朝からずいぶん働いたし、集められる限りのものは集めてしまった。学校まではだいぶ遠いのだから、なるべく早く出かけたほうがよい」
荒れ地をてくてく帰る途中、ホームズはほとんど口を利《き》かなかったが、帰りついても学校へははいらないで、電報を打つのだといって、その足で独りマクルトン駅のほうへ出かけた。
その夜おそく、教員の不慮《ふりよ》の死でうちひしがれたハクステーブル博士を、しきりと慰《なぐ》さめるホームズの声を聞いたが、そのあとで私の部屋へはいってきたのを見れば、朝荒れ地を調べに出かけたときと変らぬ元気で、生き生きしていた。
「万事好都合にいっているよ。この事件もあしたの夕方までには、立派に解決してみせる」
翌朝の十一時に、私たちはホールダーネス屋敷の有名な水松《いちい》の並木路《なみきみち》を、玄関《げんかん》に向かって歩いていた。エリザベス朝式の広壮《こうそう》な玄関に立って案内を乞《こ》うと、公爵の書斎《しよさい》へ通された。ここでジェームズ・ワイルダー秘書にまじめくさって丁重《ていちよう》に迎《むか》えられたが、彼の落着かぬ目つきや、ときどき痙攣する顔つきには、ゆうべの激《はげ》しい恐怖のなごりがうかがわれた。
「閣下にお会いになりたいのですね。お気の毒ですが、閣下はたいへんお気分が勝《すぐ》れないのでして、あの悲報のため精神的に大衝撃《だいしようげき》をお受けになったのです。昨日午後、ハクステーブル博士から、あなたがたの発見されました悲報をしらす電報がありました」
「ワイルダーさん、私はぜひお目にかからなければなりません」
「でも、私室へおはいりになったきりなのですが」
「ではそちらへ参ります」
「たぶんお寝《やす》みかと思います」
「かまいません」
冷やかに動じないホームズの態度で、秘書にも止めてみてもむだだとわかったらしい。
「よろしゅうございます。あなたのお見えになったことを申しあげてみましょう」
三十分も待たしてから、公爵は出てきた。一日のうちにやせて、ますます青ざめ、背なかも曲って、きのうの朝とはまったく別人のように老いこんでみえた。威厳《いげん》のある丁寧さで私たちを迎え、つくえに向かって席を占《し》めたが、その赤い顎鬚《あごひげ》は長く垂れてつくえまで届いていた。
「ホームズさん、ご用件は?」
公爵に促《うな》がされてもホームズは、主人のいすのそばに立っている秘書から眼をはなさないで、
「閣下、ワイルダーさんのいらっしゃらないほうが、お話が致《いた》しやすいように考えますが」
ワイルダーはさっと青くなって、悪意ある眼でちらとホームズを見た。
「閣下のお望みとありますれば……」
「よし、よし、君は遠慮したがよい。ではホームズさん、何のお話ですかな?」
ホームズは秘書が出ていった後をぴったり閉めきるのを待ってから、
「閣下、実を申しますと私ども――ここにおりますワトスン博士と私は、この事件には懸賞金《けんしようきん》がついているように、ハクステーブル博士の保証を得ておりますが、そのことを閣下のお口から直接に確かめておきたいと存じます」
「確かにその通りです」
「令息の所在をお知らせ致した者には五千ポンドくださるとうかがっておりますが?」
「その通りです」
「令息を誘拐監禁《ゆうかいかんきん》した者の名をお知らせ致せば千ポンド追加せられるともうかがっております」
「それも間違いありません」
「後者の場合は、むろん、令息を誘拐した者ばかりでなく、現に監禁している共謀者《きようぼうしや》をも含《ふく》むと解してよろしゅうございますね?」
「よろしい。その通りだ」と公爵はいらだたしげに、「仕事さえ立派にやりとげてくれたら、決して吝嗇《けち》な扱《あつか》いはしません」
ふだん金銭に恬淡《てんたん》な性質のホームズが、これを聞いていかにも嬉しそうに、細い指を揉《も》みあわせたので、私は意外の感にうたれた。
「そのおつくえの上にあるのは、閣下の小切手帳のように拝見します。恐《おそ》れいりますが、それでは六千ポンドの小切手をお作り願いましょうか。横線《*おうせん》【訳注 横線小切手。銀行に対してだけ支払われる小切手。表面に二本の横線がある】で結構でございます。私の取引銀行はキャピタル・エンド・カウンティ銀行のオックスフォード街支店でございます」
公爵はからだを起こしてキッとなり、ホームズの顔を凝視《ぎようし》した。
「冗談ですか、ホームズさん? 場合がちと違いますぞ」
「どう致しまして、閣下、私はあくまでまじめで申しあげております」
「ではどういう意味ですかな?」
「懸賞金を頂だい致したいと申しあげております。私は令息の所在を知っておりますし、また、令息を誘拐して現に監禁しておる人物を、全部とは申しませぬが承知致しております」
公爵の顔いろはいよいよ青く、それに対照して赤い顎鬚がますますどぎつく目立ってきた。
「どこにいます?」公爵は息が乱れた。
「ただいまは、いえ、少なくとも昨夜は、ここから二マイルばかり東のほうにあります闘鶏《とうけい》旅館と申す宿屋におられました」
公爵はくずれるように、いすの背にもたれこんだ。
「して犯人は?」
ホームズの返答こそ実に意外であった。彼《かれ》はつかつかと進み出て、公爵の肩《かた》にかるく手をおいて言ったものである。
「あなたを指名いたします。では閣下、恐れ入りますが小切手をどうぞ」
いすからとびあがり、深淵《しんえん》に落ちかかった人のように、虚空《こくう》をかきむしったこのときの公爵の表情を、私は忘れることができない。いったんは慌《あわ》てたが、しかし、公爵は貴族らしい自制心で、ようやく落着きをとりもどすと、いすに腰《こし》を落として両手に顔を埋《う》めてしまった。しばらくそのままでいてから、顔はやはり隠《かく》したままでいった。
「どの程度君は知っているのですか?」
「昨晩私は、閣下が令息とごいっしょのところをお見かけ申しあげました」
「君たちお二人以外に、誰かそれを知っていますか?」
「誰にも申しません」
公爵は震《ふる》える手にペンをとりあげて、小切手帳をひろげた。
「約束《やくそく》は守らねばなりますまい。君のもたらした報告が、どんなにありがたくないものであったとしても、小切手は書きます。最初に賞金の話を持ちだしたときは、こんな結果になろうとは夢《ゆめ》にも思わなかったのです。だが、君にしてもワトスン博士にしても、十分の思慮判断はお持ちでしょうな?」
「お言葉の意味を解しかねます」
「はっきり申しましょう。君たち二人がこのことを知ったからといって、それがすぐ世間に漏《も》れる理由はありますまい。ここで君たちに一万二千ポンド支払《しはら》えば、それですむのですな?」
ホームズは微笑《びしよう》して、頭を振った。
「閣下、事はそう簡単には参らぬかと存じます。あの学校教師の死ということも、考慮に入れておきませねば」
「でもそれは、ジェームズの関知しないことです。あのことに対しては、責任を問うてはなりませぬ。不幸にもあれの雇《やと》った残忍《ざんにん》な悪漢のしたことです」
「私の意見を申しあげますと、人が一つの犯罪に関係した以上は、それによって派生する他のあらゆる犯罪に、徳義上責任あるものと考えざるを得ません」
「徳義上はですな。いかにも君のいうことは正しい。だが、法律の眼《め》からすれば違います。人は現場に居合わさぬ犯罪のため、断罪されることはありません。いわんやその罪を忌《い》みきらい、犯行の意志のまったくない場合においてをやです。ハイデッガーの殺されたことを知るとすぐに、ジェームズは一切《いつさい》を私に告白しました。それほど彼は驚《おどろ》きもし、また後悔《こうかい》もしたのです。現に一時間と猶予《ゆうよ》せずして、人殺しの悪漢とは関係を断ちました。ホームズさん、どうぞあの男を助けてやってください。お願いです。どうぞ助けてやってください」
公爵はわずかに保っていた自制心も今は捨ててしまい、顔面をひきつらせ、両の拳《こぶし》を空《くう》に振りまわしながら、部屋のなかを歩きまわったが、しばらくしてようやく激情《げきじよう》を押《お》さえ、ふたたびつくえの前に腰をおろした。
「君が何人《なんぴと》にもこの事を語ることなく、まず私のところへ来てくれた処置には感謝します。少なくともそれによって、このいまわしいスキャンダルの暴露《ばくろ》をどの程度に食いとめ得《う》るか、協議の余地ができたというものです」
「仰《おお》せの通りでございます。しかし、閣下、それはおたがいのまったく隔意《かくい》ない率直《そつちよく》な話しあいのうえにのみ成立しうる事かと存じます。私は力のおよびますかぎり、ご協力申しあげたいと考えておりますが、それには事件の全貌《ぜんぼう》を詳細《しようさい》に承知いたす必要がございます。ジェームズ・ワイルダーさんに関する閣下のお言葉は、よくわかりましたし、また、あの人を殺害犯人だとは考えておりません」
「ほんとの下手人は逃亡《とうぼう》しました」
ホームズはおだやかな微笑を浮《う》かべて、
「失礼ながら閣下は、私のうわさを少しもお聞き及《およ》びございませんな。でなければ、そんなに無造作に逃《に》げられるものとお考えにはなりますまい。ルーベン・へイズは昨晩十一時に、私からの通告によってチェスターフィールドで取押さえられました。けさ出かけて来ますまえに、土地の警察署長から知らせの電報が参りました」
公爵はふたたび感嘆《かんたん》して、うなりながらホームズを凝視した。
「君の力は人間業《にんげんわざ》とは思われません。そうですか、ルーベン・へイズが逮捕《たいほ》されましたか? それを聞いてたいへん嬉しく思います。ただそのためにジェームズの一身がどうかなりさえしなければね」
「秘書のジェームズ・ワイルダーさんですか?」
「いいえ、あれは私の伜《せがれ》です」
こんどはホームズが驚く番だった。
「それは思いもよらぬことでした。どうかもっと詳《くわ》しい説明をうかがいとうございます」
「君には何事も隠しますまい。こんな苦しい羽目におちいったのも、おろかなジェームズのしっとからですが、かくなったうえはどんなに苦しくとも、君のいわれるとおり、率直に万事をうち明けて話すのが最上の策と思います。
ホームズさん、私は若いとき、人の一生にただ一度というあの激しい恋愛《れんあい》をしました。むろん私はその婦人に結婚《けつこん》を申しこんだのですが、相手は身分ちがいの結婚は私の生涯《しようがい》を不幸にするからと、承知してくれませなんだ。この婦人が生きてさえいてくれたら、私は誰《だれ》とも結婚なぞする気持はなかったのです。
彼女《かのじよ》は死にました。彼女は子供を一人のこして死にました。私は彼女への思い出のため、この子を愛《いつく》しみ育てました。はっきり親子を名乗ることは、世間体が許さなかったが、できるだけ立派に教育もするし、成年になってからは手許《てもと》へひき取ることにしました。
ところが彼はこの秘密を知ってしまったのです。それからというものは私の弱点につけこみ、私のもっとも怖れる秘密暴露を武器にして、無法なことばかり要求します。私の結婚生活が不幸な過程にあるのも、一つには彼の存在が関連しているのです。とりわけ彼は、私の幼ない法定相続人に対して初めから、しつこく憎悪《ぞうお》を抱《いだ》いておりました。
そういう事情にありながら、なぜ依然《いぜん》として手許におくかと、定めし君は不審《ふしん》がられるだろう。それは彼の顔のなかに死んだ婦人の面影《おもかげ》が見られるからです。彼女の思い出のために、私はあらゆる苦しみも忍《しの》んできたのでした。彼女の美しいところをことごとくあれは備えていた。それがいちいち彼女を思い出させてくれるのです。私にはどうしても彼を手放す気になれなかった。しかし私は怖れた。万一幼ないサルタイヤに何か害を加えることはないかと。それで思いきって、あの子供をハクステーブル博士の手許へ預けることにしたのです。
ジェームズがルーベン・へイズという男と知りあったのは、借家人と管理人という関係からでした。あの家は元来私のもので、ジェームズに管理をさせておいたのです。へイズはもとからの悪人なのですが、どういうものかジェームズはそれと親密になってしまったのです。あれは妙に下層社会の者と気が合います。それでサルタイヤの誘拐を思いついたとき、その手先にあの男を利用したのです。
あの前日に、私がサルタイヤに手紙を出したのを覚えていますね? ジェームズはあの手紙を開封《かいふう》して、なかへ、学校の裏手の疎林《そりん》で待っているから、出てこいという自分の手紙を入れて投函《とうかん》したのです。むろんそのなかには私の妻の名を利用したので、子供はそれにつられて出てきたのです。ジェームズは自転車で出かけてゆき、疎林で子供に会って――後でジェームズの告白した通りを私は話しているのです――母親がたいへん会いたがっていること、荒《あ》れ地のほうで待っていること、夜中にもう一度ここへ来れば、馬を用意した男が待っていて、母親のところへ案内してくれることなど話しました。
サルタイヤは約束どおり、夜中に忍んできてみると、へイズが小馬を用意して来ているので、それに乗ってへイズの後についてゆきました。それから――これから先はジェームズも昨日になって知ったのですが、二人は追跡《ついせき》されました。へイズはこの追跡者を棒で打ったので、追跡者は死んでしまいました。
へイズは子供を闘鶏旅館とかいう自分の宿屋へ連れてきて二階に閉じこめ、家内を監視につけました。この家内はやさしい女なんだけれど、悪い亭主《ていしゆ》のためまったく自由に操《あやつ》られているのです。
以上が、二日まえに君にお会いしたときの状況《じようきよう》だったのです。ただし、この真相を少しも知らなかったのは、君たちとまったく同じです。
ではジェームズがこのようなことをした動機はどこにあるかと、君は反問されるだろう。その答えには、サルタイヤに対するジェームズの憎悪に、たいへん不条理な狂信的《きようしんてき》なものがあったことを挙げましょう。ジェームズは自分が私の全財産の相続人であるべきだと勝手に思いこみ、それのできない社会の定則にたいへん怒《いか》りを抱いていたのです。
それにまた、明確な直接の動機もありました。彼は私が世襲財産《せしゆうざいさん》を廃止《はいし》することを熱心に望みました。私に廃止の権限があると信じて、彼は私と商取引をする気だったのです。私が世襲財産を廃止すれば、遺言《ゆいごん》によって自分が相続できることになるから、サルタイヤを返還《へんかん》するというのです。どんなまねをしても、そのため私が警察に訴《うつた》える心配はないと、ちゃんと知りぬいていたのです。
以上は、あれが私に対してそういう取引話を持ちだす気であったというのであって、実際その話を切りだしたわけではない。事情があまり急速に進展したために、計画を実施《じつし》する余裕《よゆう》がなかったのです。
ジェームズのこの悪計を微塵《みじん》にうち砕《くだ》いたのは、君がハイデッガーの死体を発見したことです。あれはそれを知って、恐怖《きようふ》に捕《とら》われました。ちょうどこの部屋に二人でいるところへ、ハクステーブル博士の打った電報が届いたのでした。あれの悲嘆と激動《げきどう》にうちひしがれかたがあまりにひどいので、前から抱いていた私の疑惑《ぎわく》が確信にかわりました。それで叱責《しつせき》を加えると、進んで一切を告白したのです。
告白後に彼は、三日間だけ秘密を守ってくれと嘆願しました。そのあいだに共犯者に生命の助かる機会を与《あた》えようというのです。私は譲歩《じようほ》しました。あれに泣きつかれて譲歩するのは、いつものことです。彼はすぐに闘鶏旅館へ飛んでいって、へイズに危険を伝え逃走《とうそう》の手段を与えたのです。
さすがに日中は人の口がはばかられたけれど、日の暮《く》れるのを待って私は子供に会いに行きました。子供は無事でいてくれたけれど、まのあたり見せられた怖《おそ》ろしい事実のため、極度に怯《おび》え切っています。約束だから、不満ではあるけれども、三日間だけヘイズの家内に預けておくことにも同意しました。子供がここにいたことだけを警察に知らせて、ハイデッガー殺しの下手人を知らぬというわけにはゆかぬし、またその下手人だけを処罰《しよばつ》して、ジェームズにわざわいの及ばぬようにする方法も見あたらぬ以上、致しかたありますまい。
さてホームズさん、君は隔意なく率直にいえとのことであったから、そのお言葉に従って婉曲《えんきよく》ないい回しをさけ、一切を明らさまに話しました。こんどは君のほうから率直な、隔意ないお話をうけたまわりたいものです」
「かしこまりました。申しあげましょう。まず第一に閣下は、法的に見てたいへんむずかしい立場に、ご自身をおかれたと申さねばなりません。閣下は重罪犯を見過ごされました。殺人犯人の逃走を援助《えんじよ》されました。それは、ジェームズ・ワイルダー君が共犯者の逃走を助けるため与えた金は、閣下のお手許から出ているものと信じるからでございます」
公爵は頭をさげて、肯定《こうてい》の意を示した。
「これは実に容易ならぬ問題でございますが、つぎに、これ以上に不穏当《ふおんとう》かと考えられますのは、閣下のサルタイヤ卿《きよう》に対するなされかたでございます。閣下は三日間も、卿をあの陋屋《ろうおく》へ残して来られました」
「堅《かた》い約束が……」
「この種の人たちとの約束が何でしょう! 令息がふたたび誘拐されないという保証はございますまい。罪ある年長の令息の意を迎《むか》えるため、閣下は年少|無垢《むく》の令息を不必要な危険に曝《さら》されました。これは断じて許すべからざる行為《こうい》でございます」
ホールダーネスの名誉《めいよ》ある公爵《こうしやく》が、広壮《こうそう》なる自己の邸内《ていない》で、かくも厳重な叱責《しつせき》を受けるのは初めてであった。一瞬《いつしゆん》、公爵の広い額には血がのぼったが、さすがに良心が沈黙《ちんもく》を守らせた。
「ご助力はいたしますが、条件がございます。その条件は、閣下に呼びリンで取り次ぎを呼んでいただきまして、私に思うままの命令をさせていただくことでございます」
公爵が黙《だま》って呼びリンを押すと、一人の召使《めしつか》いが入口に現われた。
「たいへんめでたいことだが、サルタイヤ卿が見つかったのだ。すぐに馬車を出して、あの闘鶏旅館からお迎えして来るように、閣下のご希望です」
ホームズは召使いが喜んで立ちさると、さらに言葉をつづけて、
「さて、これで将来が固まりますから、過去はそう厳しくとがめだてするにも及びますまい。私の立場は官憲ではございません。正義の結末さえつきますれば、知っていますことを何でも暴露するにも及びません。
ルーベン・へイズについては、何も申しますまい。あの男には絞首台《こうしゆだい》が待っておりますけれど、その救助に手を出す気持はございません。法廷《ほうてい》で何を口外するかわかりませんが、何事も黙っているほうが有利だと了解《りようかい》さすことも、閣下さえそのお気持ならば、できないはずはないと信じます。警察方面では、彼が身代金《みのしろきん》を目的に単独で誘拐《ゆうかい》したとの解釈もつきましょう。もし警察がその解釈に気づかないと致《いた》しましても、私から見解について指導してやらねばならぬ理由はございません。ただ一つご注意までに申しあげておきますが、ジェームズ・ワイルダー氏を引きつづきお手許にお置きになりますのは、将来に禍根《かこん》をのこすのみかと考えられます」
「そのことなら私もわかっているから、あれも永久にこの家を去って、自分の運を開拓《かいたく》するためにオーストラリアへ行くことに話がついているのです」
「それならば、閣下、結婚生活の不幸はワイルダー君の介在《かいざい》に原因するとおっしゃいましたが、奥様《おくさま》にたいして何か補償《ほしよう》をなさることを、不幸にも中断されています以前の関係を再開なさることをおすすめ致しとうございます」
「もう手配ずみです。けさ手紙を出しました」
「それならば」ホームズは腰をあげながら、「私どものこんどの北部地方への小旅行が、いろいろと幸福をもたらし得たことを、まことに喜ばしく存じます。このうえはただ一つだけ、ごく小さな事がらながら、私としてはっきりさせておきたいことがございます。へイズという男は、自分の馬に牛の足跡《あしあと》のつく蹄鉄《ていてつ》を打ちましたが、この驚くべき巧妙《こうみよう》な工夫《くふう》は、ワイルダー君から教えられたのでございますか?」
公爵はひどく驚いた顔で、立ったまましばらく考えていたが、ドアを開けて私たちを次の間へ案内した。そこは収集品|陳列室《ちんれつしつ》であった。公爵は片隅《かたすみ》のガラス箱《ばこ》のところへと私たちを導き、それに出ている次のような説明文を黙って指さした。
「この蹄鉄は当屋敷の外壕《がいごう》中より発掘《はつくつ》されたるものにして、馬に用いられたるものなれども、裏面は分趾蹄《ぶんしてい》の形をなし、追跡者《ついせきしや》をくらます。中世時代|略奪《りやくだつ》を事とせるホールダーネスの豪士《ごうし》の使用したるものと推定せられる」
ホームズは箱をあけて、指先を湿《しめ》して蹄鉄の上をすっと撫《な》でてみた。指先にはごく新しい泥《どろ》のあとがうすく残った。
「ありがとうございました」ホームズは静かに箱のふたを閉じて、「これは私がこちらへ参りましてから、最も興味あるものの第二でございました」
「ほう、してその第一は?」
ホームズはさっきの小切手を折りたたんで、ていねいに紙入れの中へおさめ、
「私は貧乏《びんぼう》でございますから」
と大切そうに紙入れを軽く叩《たた》き、内ポケットの奥ふかく収めたのである。
[#地付き]―一九〇四年二月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
黒ピーター
一八九五年度ほど、精神的にも肉体的にもシャーロック・ホームズの好調だった年はなかった。名の売れるにつれて、恐《おそ》ろしくたくさんの仕事がもちこまれた。名まえをここに明かしては、不謹慎《ふきんしん》の譏《そし》りを免《まぬ》がれまいから、暗示的にもいうわけにはゆかぬが、中にはずいぶん著名な人たちも幾人《いくにん》か、ベーカー街の陋屋《ろうおく》を訪《おとず》れたのである。しかしホームズは、すべての芸術家がそうであるように、自己の芸術のために生きているのだから、ホールダーネスの公爵《こうしやく》の場合は別として、このうえなく大きな仕事をしておきながら、多くの報酬《ほうしゆう》を要求したことはほとんどない。
事件そのものが気にいらないと、相手が有力者であろうと、金持であろうと、調査を拒絶《きよぜつ》することも珍《めずら》しくはなかったし、そうかと思うと事件の性質が尋常普通《じんじようふつう》でなく、空想力を刺激《しげき》されたり、巧妙《こうみよう》な相手であったりすると、報酬など初めから期待のできぬ貧乏《びんぼう》な依頼者《いらいしや》の事件であっても、幾週間もぶっ通しで熱心にそれへ打ちこむという調子で、実に脱俗的《だつぞくてき》――気まぐれというか――であった。
この忘れがたい一八九五年には、枢機卿《すうききよう》トスカの急死に関する彼《かれ》の有名な研究――これはローマ法王聖下の特別要求によって手をくだしたものであった――につづいて、名うてのカナリヤ教練師ウィルソンの逮捕《たいほ》――これはロンドンの貧困街《イーストエンド》の癌《がん》を除去するものだった――と、実に奇妙《きみよう》な事件が連続的にホームズを忙殺《ぼうさつ》したものだったが、この二つの有名な事件に引きつづきやってきたのがウッドマン・リーの惨劇《さんげき》である。ピーター・ケアリー船長の死をめぐるいと不明瞭《ふめいりよう》な情況《じようきよう》である。この異常をきわめた事件の記述なくしては、ホームズの行動録は決して完全とはいえないのである。
この年七月の第一週に、ホームズはしばしば長時間単独で外出したから、また何か事件を手がけているのだなとわかった。留守のあいだに人相のよくない連中が幾人も、ベージル船長はいるかと訪ねてきたので、ホームズはまた例のいくつもある変名と変装《へんそう》の一つに身をやつして、仕事をしているなと思わせた。彼はロンドン市内の各所に少なくとも五カ所の小さな隠《かく》れ家《が》を持っていて、自由に姿をかえられるのである。
そうなっても彼は、事件については何も口にしなかった。また私からも強《し》いては尋《き》きださない習慣になっていた。このホームズが、現在|携《たずさ》わっている事件の方向を、初めて私に明かしたのは、実に奇妙なことからだった。その日彼は朝食前単独で出かけて行ったが、私がひとりで食事をしているところへ、のっそりと帰ってきた。見れば帽子《ぼうし》も被《かぶ》ったままで、縹《あご》のある大きなやりをコウモリがさのように小脇《こわき》にかいこんでいるのである。
「どうしたんだ、ホームズ君! まさか君はそんなものを持って、ロンドン市中を歩きまわったんじゃあるまいね?」
「肉屋まで馬車で行ってきたのさ」
「肉屋へ?」
「おかげですっかり腹がへったよ。やっぱり朝飯まえの運動はすばらしく効果的だね、ワトスン君。僕は賭《か》けてもいいが、どんな形式の運動だったか、君にはわかるまいよ」
「賭けようたって、かいもくわからないよ」
ホームズはくすくす笑いながらコーヒーをついで、
「いまかりに、君がアラーダイスの店の奥《おく》をのぞけたら、上衣《うわぎ》をぬいだ紳士《しんし》がこのやりをとって、天井《てんじよう》のかぎにつるした死んだ豚《ぶた》を、夢中《むちゆう》になって突《つ》き刺《さ》しているのが見られたんだがね。その元気|旺盛《おうせい》な紳士がすなわちかくいう僕《ぼく》さ。おかげでどんなに気ばってみても、ひと突きでは豚を刺し通せないのがわかって、僕は満足した。どうだ、君もやってみては?」
「ご免《めん》こうむるよ。だが何だって君は、そんなまねをしたんだい?」
「ウッドマン・リーの事件に間接の関係があると思うからさ。――あ、ホプキンズ君、電報はゆうべ見たよ。待っていたところだ。さ、こっちへ来ていっしょにやらないかい」
訪ねてきたホプキンズと呼ばれる客は、三十ばかりの非常に敏捷《びんしよう》そうな男で、地味なスコッチの服を着ているが、態度には制服を着なれた者にみるしゃんとしたところがあった。私はすぐに若い警部のスタンリー・ホプキンズと認めた。ホプキンズはホームズが大いに前途《ぜんと》を期待している青年であり、彼の方でもこの有名な私立|探偵《たんてい》の科学的な捜査法《そうさほう》に、師事せんばかりの尊敬と称賛とを抱《いだ》いているのである。
ホプキンズはさえぬ顔で、しょんぼりと腰《こし》をおろした。
「ありがとう。でも食事は出るまえに済ませました。実はゆうべのうちにロンドンへ着いていたのです。報告のために」
「どんな報告ですね?」
「失敗しました。まるっきり失敗でした」
「あれから進展しないのですか?」
「しません」
「おかしいね。一つ調べてみたいもんだ」
「ホームズさん、お願いですから、そうしてください。これは私に与《あた》えられた初めての大きなチャンスなんですから、途方《とほう》にくれてしまいました。お願いですから、いっしょに行って、手を貸してください」
「ちょうど幸いと、僕は関係書類は手に入る限り全部|眼《め》を通しているし、検死官の報告も見ている。ところで君は、あの犯罪の現場で発見された煙草入《たばこい》れをどう思います? 手掛《てがか》りにはなりませんかね?」
ホプキンズは意外な面持《おももち》で、
「あれは被害者《ひがいしや》のものでした。内がわに頭文字《かしらもじ》が入っています。しかも海豹《あざらし》皮ですが、あの男はもとは海豹船の乗組員ですからね」
「しかしパイプは持っていなかった」
「いくら捜《さが》しても出て来ないのです。だからあまり煙草はやらないのでしょう。それともお客のために、煙草だけ用意しておいたのかもしれません」
「なるほど。いやね、私はただ、もし私がこの事件を手がけるのだったら、その点を捜査の出発点とすべきだと思って、ちょっといっただけですよ。だが、ワトスン君はこの事件を少しも知らないのだし、僕にしても初めからもう一度聞くのは、決して悪くはないから、要点だけ簡単に説明してくれませんか」
スタンリー・ホプキンズはポケットから紙片《しへん》をとり出して、説明をはじめた。
「ここに日付を控《ひか》えておきましたが、これで死んだピーター・ケアリー船長の経歴はわかります。彼は一八四五年の生まれですから、五十|歳《さい》ですね。もっとも果敢《かかん》でもあり成功した海豹|及《およ》び鯨《くじら》の漁獲者《ぎよかくしや》でした。一八八三年にはスコットランドの海港ダンディーのシー・ユニコーン号という海豹蒸気船の船長をしていました。そして続けて数航海に大成功を納めたので、翌一八八四年に隠退《いんたい》しました。隠退後は数年間旅行のみしていましたが、最後にサセックス州のフォレスト・ロウに近いところにウッドマン・リーと呼ばれる小さな土地つきの家を買って落着きました。ここに六年間|暮《くら》して、先週のきょう死んだのです。
このピーター・ケアリーという男は、誠《まこと》に妙な性格の人物でした。日常の生活は厳格な清教徒《ピユーリタン》で、口数の少ない陰気《いんき》な男です。家庭は妻と二十になる娘《むすめ》と女中が二人。この女中はしょっちゅう変りました。そのわけは、この家庭が決して愉快《ゆかい》なところでなく、時にはとても辛抱《しんぼう》できないようなことがあったからです。
ピーター・ケアリーは周期的に大酒をのんで、ひどく酔《よ》っぱらいます。酔っぱらったとなると、まるで悪魔《あくま》です。ま夜中に妻や娘を戸外へ追いだして、庭中追いまわしてむちで打つので、屋敷《やしき》のそとの村中の人が、悲鳴に眼をさまされたということです。
いちど村の老牧師に手荒《てあら》な暴行を加えた廉《かど》で、召喚《しようかん》されたことがあります。牧師は彼の行ないに忠告を与えようとして訪ねていったのでした。要するに類のない危険な人物で、聞くところによると、この性質は船長をつとめていた時代から同じだといいます。そして同業者間には、黒《ブラツク》ピーターの綽名《あだな》で知られていましたが、これは顔いろや大きな顎鬚《あごひげ》の黒いためばかりではなく、周囲の者を怖《おそ》れさす彼のこの気質から出た綽名だったのです。ですから申すまでもなく近所の者からはこぞって忌《い》みきらわれ、つま弾《はじ》きされていましたし、こんどこんな死にかたをしても、誰《だれ》ひとり悔《くや》みのひとこともいう者はないという始末です。
あの男の船室《キヤビン》のことは、ホームズさんは検死官の報告書でお読みになったことと思いますが、ワトスンさんはまだご存じありますまい。ピーター・ケアリーは庭内に一|軒《けん》の離《はな》れ家を木造で建てて、それを船室《キヤビン》と呼んでいました。母屋《おもや》からは数百ヤードも離れた場所にあって、彼は毎夜そこに眠《ねむ》っていたのです。十六フィートに十フィートの一室だけの小さなこやです。かぎはいつも自分のポケットに入れていて、寝台《しんだい》をなおすのも自分でするし、掃除《そうじ》も自分でするし、誰ひとりこの離れの敷居《しきい》をまたぐことを許しません。
部屋の両がわには小さな窓が一つずつあり、カーテンがかかっていて、一度も開けたことはありません。この窓の一つが往来のほうに面していて、夜なかに灯火《あかり》がつくと村の人たちはそでひきあっては、黒《ブラツク》ピーターはいったいあのなかで何をしているのだろうと、不思議がったものでした。ホームズさん、この窓ですよ、検死廷《けんしてい》で、少ない確証の一つを与えてくれたのは。
ホームズさんは覚えていらっしゃるでしょうが、事件の起こる二日まえの夜の一時ごろに、石工《いしく》のスレーターという男がフォレスト・ロウからの帰りにここを通りかかって、木の間を通してこの窓から四角に明かりが漏《も》れているので、立停《たちど》まりました。窓には男の横顔の影《かげ》がはっきり映っていたが、それはブラック・ピーターではなかった。ピーターならよく知っていると彼は断言しています。
影の男にも顎鬚はあったけれど、これは短くて、ピーターのとは違《ちが》って前のほうへ逆立ち気味だったといっています。ただしこの石工は二時間も居酒屋で飲んだ帰りでしたし、距離《きより》も少しありましたから、その点は考慮《こうりよ》に入れる必要があります。それにこれは月曜日の晩のことで、犯罪の行なわれたのは水曜日です。
火曜日に、ピーター・ケアリーはまたしても気がすさんでいました。酒乱でまるで野獣《やじゆう》のように荒《あ》れ狂《くる》っていました。家のまわりをうろつくので、女たちはその声を聞いて逃《に》げてまわりました。
夜おそくなって、彼は自分のこやへ帰ってゆきましたが、夜なかの二時ごろに、窓を開けて眠っていた娘が、こやのほうで怖ろしいわめき声のするのを聞きました。しかし酒を飲んだとき父親が大声で怒鳴《どな》ったりさけんだりするのは珍しくもなかったので、気にもかけませんでした。
朝の七時に、起き出た女中の一人が、こやのドアの開いているのを認めましたけれど、何しろ怖ろしいので、おひるごろまでは誰ひとり行ってみようとする者もなかったのです。でもあまり出て来ないので、どうしているのかと、みんなで恐るおそるのぞいてみて、まっ青になって村へ報《し》らせに走りました。
それから一時間以内に、私が現場に急行し、事件の捜査を担当することになった次第《しだい》です。
さてホームズさん、私はかなり気丈《きじよう》な方ですが、こんどばかりはこの小さなこやのなかをひと目見て、身ぶるいが出てしまいました。金ばえや青ばえがわんわんいっていますし、床《ゆか》も壁《かべ》もまるで畜殺場《ちくさつじよう》そっくりです。
ピーターはこれを船室《キヤビン》と呼んでいたと申しますが、なるほど、たしかに船室《キヤビン》です。ここへはいると、まるで船に乗っているような気がします。
一方には作りつけの寝床《バンク》があるし、海員用の大箱《おおばこ》、地図、海図、シー・ユニコーン号の写真、棚《たな》のうえには航海日誌がならび、すべてが船長室を思わせる道具だてです。しかもその中央にピーター自身が、永遠に地獄《じごく》に落ちて拷問《ごうもん》を受けた人のように、顔面を苦痛にねじまげ、大きなまだらの顎鬚を苦痛にピンと立てて死んでいるのです。幅《はば》ひろい胸のまん中を鋼《はがね》の銛《もり》が貫《つらぬ》いて、余勢で背後の羽目板に深く突きささっています。まるでピンでカードに留めた甲虫《かぶとむし》そっくりです。むろん死んでいることは申すまでもありませんが、断末魔の悲鳴をあげたそのときから、ここに磔《は》りつけられていたものに違いありません。
ホームズさんのいつもの方法は知っていますから、早速《さつそく》それを応用してみました。まず、いっさいのものに手をつけることを禁じておいて、屋外からはじめてこやのなかも調べましたが、足跡《あしあと》は見あたりません」
「ほんとに一つもないのですか?」
「ほんとに一つもありません」
「ホプキンズ君、私はずいぶん犯罪はたくさん見てきたけれど、空を飛ぶ犯人というのは、まだお目にかかったことがないねえ。犯人が二本足で立っている以上、科学捜査にかけたら必ずちょっとした凹《くぼ》みとか、ものの擦《す》れた跡とか、あるいは物の位置がかわっているとか、何かないはずはないと思う。その血だらけの部屋に、捜査のかぎになるべき痕跡《こんせき》が一つも残っていないというのは、ちょっと信じられない。といって審問《しんもん》書類を見ても、君が見落したものといってはべつにないはずだしね」
ホプキンズはホームズの皮肉まじりの批評に少したじろいで、
「すぐあなたをお願いしなかったのは、私がバカでした。しかし過ぎさったことは、どうにもなりません。そうです、部屋のなかには特に注意を引くものがいくつかありました。その一つは凶行《きようこう》に用いた銛《もり》です。それは壁の銛架《もりかけ》から外しとったもので、三本のうちの一本です。二本残って、一本分だけ銛架が空いていました。柄《え》に『ダンディー港シー・ユニコーン号』と彫《ほ》ってありました。思うに発作的|激怒《げきど》の凶行です。手近な凶器として銛をつかみとったものと思われます。
凶行が午前二時に演じられたにもかかわらず、被害者ピーター・ケアリーがきちんと服を着ていたという点から、加害者は突然侵入《とつぜんしんにゆう》したのではなく、被害者《ひがいしや》との間に来訪の約束《やくそく》があったものと考えられます。そのことは、テーブルのうえにラム酒のびんが一本と汚《よご》れたコップが二つ残っている点からも確実です」
「その推定は二つとも当っていると思います。ラム以外に何か酒はなかったのですか?」
「ありました。海員箱のうえに酒びん台があって、ブランディとウィスキーがはいっていました。しかしどちらも一ぱいはいっていて、手をつけてなかったですから、重要視するに及びません」
「現場にあるものは一つとして、重要でないものはありません」ホームズはチクリとやりこめておいて、「が、まア、そのほかどんなものが関係品として君の注意を引いたか、それを聞きましょう」
「それから例の煙草入れがテーブルのうえにありました」
「テーブルのどのへんに?」
「まん中にありました。粗《あら》い、直毛《ちよくもう》の海豹《あざらし》皮で、革《かわ》のひもで口を締《し》めるようになっています。垂れぶたの裏に|P《ピー》・|C《シー》と頭文字があって、なかには強い海員用の刻み煙草が半オンスばかりはいっていました」
「面白《おもしろ》い! それから?」
ホプキンズはポケットから、淡褐色《たんかつしよく》の表紙の手帳をとり出した。外がわは相当|手擦《てず》れているし、なかも紙のいろが変っている。第一ページをあけると「J・H・N」という頭文字があって、一八八三年と書いてある。ホームズはそれをテーブルのうえにおいて、彼一流の入念な態度で検《あらた》めていった。ホプキンズと私は、肩《かた》ごしにのぞきこむ。第二ページには「C・P・R」とあり、以下数ページにわたって数字ばかり記入してある。またアルゼンチンとかコスタリカとかサンパウロとかの見出しの下に、それぞれ何ページか割《さ》いて記号やら数字やらが書き入れてある。
「何だと思います?」ホームズがいった。
「株式取引所の証券関係の一覧表《いちらんひよう》らしいです。J・H・Nというのは仲買人の頭文字でC・P・Rのほうは客の名じゃないかと思います」
「カナダ太平洋鉄道《パシフイツクレイルウエイ》はどうです?」
ホプキンズはううとうなって、げんこでひざをたたいた。
「何て私はバカなんだ! そうです、それに違いありません。そうすれば、あとはJ・H・Nさえわかればいいんです。古い株式取引所|名簿《めいぼ》を調べてみましたが、一八八三年版には取引員にも場外仲買人にもこの頭文字に該当《がいとう》するのはありません。しかし、いまのところこの手掛りが最も有力だと思うんです。この頭文字が現場にいた第二の人物、すなわち加害者のものであり得ることには、ホームズさんも異論ございますまい。同時に私は、多量の有価証券が事件の表面に現われてきたということは、犯罪の動機に関してある種の示唆《しさ》を与えるものであると主張したいです」
ホームズもこの新しい展開には、不意を突かれたらしい顔つきだった。
「その点は二つながら、認めなければなりますまいね。実をいうとねホプキンズ君、検死廷には持ち出されなかったこの手帳が現われたので、僕は多少まとまりかけていた意見も変ってきましたよ。今まで考えていた犯罪の説明だけでは、この手帳の持ってゆき場のないことになりました。君はここにある証券のどれかについて、探《さぐ》ってみましたか?」
「いま役所の方でしきりにやっていますが、この南米関係の会社の完全な株主名簿は南米でなければ手に入りますまいし、結局こいつを調べあげるには相当の日数を要するかと思います」
ホームズは手帳の表紙を拡大鏡で調べていたが、
「ここがちょっと変色していますな」
「そいつは血痕なんです。何しろ床のうえから拾いあげたのですから」
「どっちが上になっていました?」
「血のついた方が下です」
「ということは、凶行後にそこへ落ちたということになる」
「仰《おお》せの通りです。犯人が慌《あわ》てて逃げる際に落したものと推察します。入口に近く落ちていましたものね」
「ここに書いてある株券は、被害者の遺品のなかにもなかったでしょうな?」
「ありません」
「強盗《ごうとう》を思わす材料はありませんか?」
「ありません。何一つ手をつけた形跡《けいせき》がないです」
「ふむ、こいつはたしかに面白い事件だ。それから、ナイフがあったはずだが……」
「さやつきのナイフで、さやのまま被害者の足もとにころがっていました。被害者の妻が、良人《おつと》のものに違いないと証言しています」
ホームズはしばらく黙考《もつこう》をつづけていたが、
「うん、行くとしよう。行って現場をよく見せてもらいましょう」
ホプキンズは躍《おど》りあがって喜んだ。
「ありがとうございます。これで心の重荷がとれました」
ホームズはひとさし指でホプキンズ警部をたたきつけるように手を振《ふ》りながら、
「これで一週間まえなら、仕事は容易だったんだが、ま、今からでも全然役にたたぬということもありますまい。ワトスン君、もし暇《ひま》があったら、いっしょに行ってほしいね。ちょっと四輪馬車を呼んできてくれませんか、ホプキンズ君。フォレスト・ロウ行きの支度《したく》は十五分以内にやっておきます」
片《かた》田舎《いなか》の小さな停車場で汽車を降りた私たちは、広い森の遺蹟《いせき》をぬけて数マイルも馬車を駆《か》っていった。このあたりはその昔《むかし》サクソン族の侵入を食いとめた有名な森――ブリテンのとりでとして六十年の久しきにわたり、不抜《ふばつ》をほこった有名な大森林のあった場所である。その後この地方がわが国最初の製鉄業中心地となったため、鉱石|溶解用《ようかいよう》に多くの木は伐採《ばつさい》され、大森林は消え去った。しかも現在は、その後に発展した北部地方の富鉱に事業の中心を奪われたので、荒廃《こうはい》した小森林が各所に見られるのと、今も地上に残る大きな掘《ほ》り跡のほかには、なに一つ昔をしのぶものとてないのである。
この開伐地域の一つである緑のおかの中腹に、低い石造の家があって、曲りくねった車路が畑のなかを通じている。近づくにつれて、三方を茂《しげ》みでとりまかれた一軒の離れ家が、窓と入口とをこちらに見せて立っていた。これぞ人殺しの現場なのである。
スタンリー・ホプキンズ警部は、私たちをまず母屋《おもや》へ案内して、やせこけた白毛《しらが》の老女に紹介《しようかい》した。被害者の細君である。おどおどした縁《ふち》のあかい眼、しわのふかく刻まれたやつれ顔を見れば、久しい歳月の虐待《ぎやくたい》と辛苦に耐《た》え忍《しの》んだ有様がよくわかった。付き添っていた金毛の顔いろ勝《すぐ》れぬ娘は、私たちに向かって反抗的《はんこうてき》な眼を輝《かがや》かして、父が死んだのはむしろ嬉《うれ》しい、父をうちたおしてくれた人をむしろ祝福するといった。
なんというこれは怖ろしい家庭であろう。私たちは太陽の輝く表へ出てほっとした気持で、被害者のふみ開いた小径《こみち》づたいに離れ家のほうへと歩いていった。
離れ家というのは、一重屋根に板ばりのきわめて簡単なもので、扉《とびら》にならんで窓が一つ、反対がわにも窓が一つあるだけだった。ホプキンズはポケットからかぎを出して、かぎ穴のところへ身を屈《かが》めたが、何に驚《おどろ》いてか急にその手をとめた。
「誰かここをいじった者があります」
たしかにそれに違いなかった。木の部分に切りこみがあり、ペンキにも白くかききずが残っているのである。ホームズは窓を調べていたが、
「窓もこじ開けようとしてある。いずれにしても失敗してはいれなかったところを見ると、よくよくへまなどろぼう先生だね」
「いやこれはとんでもないことです。ゆうべまではたしかにこんなきずはなかったのです」
「村の好奇心《こうきしん》の強いやつがやったのでしょう」私がいった。
「ところがそうではありません。船室《キヤビン》にはいるどころか、村の連中ときたら庭へふみこむのでさえ怖れているんです。ホームズさんはこれをどうお考えになりますか?」
「僕《ぼく》らはたいへん幸運だと考えますよ」
「この人物が再びやってくるとお考えなのですか?」
「きわめてその可能性が強いですね。ドアが開いているつもりで来てみたら、閉まっているので、ごく小さなペンナイフでやってみたが、だめだった。とすると、この男どうするでしょう?」
「次の晩を待って、道具の用意をして来るでしょう」
「私もその説に賛成しますよ。それを待ちうけていないという手はありません。だが、とにかくなかを見せてくれませんか」
惨劇《さんげき》の現場は跡始末してあったけれど、家具の類はそっくり当時のままを残してあった。
二時間というもの、ホームズは細心の注意力をもって部屋のなかのものを一つずつ順次|検《あらた》めていったが、顔いろ判断ではこの捜査《そうさ》は決して成功ではなかった。ようやく彼《かれ》は捜査の手をとめて、ホプキンズに話しかけた。
「この棚から何か持ちだしましたか、ホプキンズ君?」
「いいえ、何も動かしませんよ」
「何かなくなっている。このたなの隅《すみ》のところが、ほかとくらべてほこりの薄《うす》いのは、本が乗せてあったのかな。それとも何かの箱かしら。ま、いずれにしても、ここはこれまでだね。ワトスン君、あの美しい森を二、三時間散歩して、小鳥や花のお相手でもしようじゃないか。ホプキンズ君、あとでここで落ちあいましょう。そして夜の訪問をした紳士《しんし》と近づきになれるかどうか、一つやってみるんですな」
その夜私たちが配置についたのは十一時をすぎていた。ホプキンズはこやのドアを開けておこうといったが、それでは相手に疑念を抱《いだ》かせるからと、ホームズが反対した。錠《じよう》はごく簡単なもので、ちょっと力をいれてこじれば開けられる程度だった。
これもホームズの意見で、私たちはこやのなかに隠《かく》れているのはやめ、入口の反対がわの窓のそとの茂みのなかに、身を潜《ひそ》めることになった。ここにいれば、曲者《くせもの》がきて部屋のなかで灯火《あかり》をともしたら、その行動がよく見えるし、何が目的で来たかもよくわかるというものだ。
この不寝番《ふしんばん》はくさくさするほど退屈《たいくつ》なものであった。しかも一方では、池のほとりに潜んで、渇《かわ》きをいやしに来る野獣を待ちうける猟師《りようし》のそれにもにた一種のスリルがあった。この暗黒のなかを忍びよってくるのは、いったいどんな曲者であろう? 稲妻《いなずま》のようにきらめくつめやきばと闘《たたか》うのでなければ取押《とりお》さえられない猛虎《もうこ》のような姿であろうか? それとも、弱い無防禦《むぼうぎよ》のものだけを襲《おそ》うというあの忍びやかな豹《ひよう》の類であろうか? 絶対無言のうちに私たちは、茂みのなかにうずくまって、何が来るか知らないが、待ちつづけたのである。
はじめのうちこそ、遅《おそ》くなった村の人たちの足音や、村のほうから聞こえてくる遠い話声などに少しはまぎれもしたが、しだいにそれらの物音も遠のいて、やがてあたりは絶対の静寂《せいじやく》にとざされてしまった。ときどき遠くの教会の鐘《かね》が時を知らせてくれるのと、細かい雨が頭上にかぶさる木の葉を打つ微《かす》かな音が聞こえるばかりである。
二時半の鐘が鳴った。あけそめるまえの一段と暗さの濃《こ》いときである。折しも門のほうにあたって、カサリと低いが鋭《するど》い物音が聞こえたので、私たちは思わず腰《こし》を浮《う》かした。
だが、再びあたりは静まりかえってしまった。何かの聞きちがいであったかと、気をゆるめかけたとき、ふと、こやの入口のほうから忍びやかな足音が聞こえてきた。つづいてカチカチガリガリと金属性の微かな音がした。錠を毀《こわ》そうとしている!
こんどは手際《てぎわ》がよかったか、道具がよかったか、カチッという音がして、蝶番《ちようつがい》のきしるのが聞こえた。と、マッチをすって蝋燭《ろうそく》に火をうつしたので、こやの内部は急に明るくなった。窓にかけた紗《しや》のカーテンを通して、私たちの眼《め》はこやの内部にくぎづけにされた。
深夜の客はまだ若く、弱々しいやせた男だった。黒《くろ》い口髭《くちひげ》のあるのが、青じろい顔いろをいっそう青じろく見せている。二十をいくつも越《こ》していないだろう。哀《あわ》れにも、これほど恐怖《きようふ》におののく人を私は見たことがない。歯の根は目に見えてガタガタ鳴っているし、手足も震《ふる》えている。しかし風体は紳士で、バンドつきの上衣《うわぎ》にゴルフズボンをはき、ハンチングをかぶっている。
見ていると、怯《おび》えた眼つきであたりをみまわしていたが、短い蝋燭をテーブルのうえに立てておき、一方の隅へ行ったので私たちの視野からは消えたが、まもなく本を一冊持って現われた。たなにならんでいる航海日誌のうちの一冊である。
テーブルによりかかって、彼はこの日誌のページをめくっていたが、求めるものが見あたったらしく、拳《こぶし》をかためて怒《おこ》ったような身振《みぶ》りをしてから、日誌を閉じてもとの場所にもどしておき、蝋燭を消した。そしてこやを出ようとするところを、ホプキンズのためにえり首を押さえられたのである。
捕《とら》えられたと知って、彼は闇《やみ》のなかで恐怖のうめき声を発した。改めて蝋燭をともしてみると、この男は警部にかたくつかまれて、小さくなって震えているのだった。海員箱に腰を落して、私たちを絶望的な眼つきで見あげた。
「おい、お若いの、君は誰《だれ》です? 何が欲《ほ》しくて来たんだね?」ホプキンズがいった。
若い男は気をとりなおし、つとめて落着きを示しながら、
「警察のかたですね? ピーター・ケアリー船長の死と私を結びつけてお考えでしょうが、私はまったく関係がありません」
「それはいずれわかることだ。それよりもまず、君の名を聞こう」
「ジョン・ホプリー・ネリガンです」
ホームズとホプキンズは目くばせを交《かわ》した。
「ここで何していた?」
「内密に話をお聞き願えませんかしら?」
「そんなことはできない」
「どうしてもここで話さなきゃならないんですか?」
「返答しなければ、審問《しんもん》のとき不利益になるかもしれないね」
若い男はたじろいだ。
「じゃ話しましょう。話して何がいけないんです? ただね、私は古い恥《はじ》さらしをむしかえすのがいやだったんです。あなたはドウソン・エンド・ネリガン商会の名を聞いたことがおありですか?」
顔つきで、ホプキンズの知らないのはわかった。だがホームズは強く興味を惹《ひ》かれたらしい。
「西部の銀行業者のことじゃないですか? あれなら百万ポンドの欠損を出して、コーンウォール州の家庭の半数を零落《れいらく》させたあげくに、ネリガンは失踪《しつそう》してしまったはずだ」
「その通りです。そのネリガンは私の父でした」
どうやらこれで何かの手ごたえはあったらしいが、それにしても銀行家の失踪と、自分のもりで壁《かべ》にくぎづけされたピーター・ケアリー船長の死との間には、まだ相当の溝《みぞ》があるようだ。私たちは熱心にこの男の話すことに耳を傾《かたむ》けた。
「実際関係のあるのは父だけでした。ドウソンは引退していたのです。当時私はたった十|歳《さい》でしたけれども、あのときの恥辱《ちじよく》と恐怖とは十分にわかりました。世間では、父がすべての有価証券を拐帯《かいたい》して姿をくらましたとなっていますが、違《ちが》います。
社会がしばらく時を貸し、ある計画を実行させてくれるなら、すべての債務《さいむ》を完全に果し得るというのが、父の信念でした。父は小さなヨットを仕立てて、逮捕令状《たいほれいじよう》の出るちょっと前にノルウェーへ向けて出発しました。最後の晩に母に別れを告げたときのことは、今でも忘れません。父は持ってゆく証券の一覧表を残してくれました。そして必ず名誉《めいよ》は回復して帰ってくること、自分を信じてくれる人には決して迷惑《めいわく》はかけぬと、繰返《くりかえ》し堅《かた》く誓《ちか》って出かけてゆきました。
しかし、父からはそれきり何の音《おと》沙汰《さた》もありませんでした。ヨットも父も、どこかへ消え失《う》せてしまったのです。私たちは、私と母とは、持っていった証券もろとも、父は海底の藻屑《もくず》となったのだろうと信じるようになりました。
しかし、私たちには信頼《しんらい》のできる味方がありまして、実業家ですが、ある時この人から、父の持っていった証券の一部がロンドンの市場に現われたと知らされました。私たちの驚きをお察しください。
私はそれから幾月《いくつき》もかかって、その証券の出処の探査をはじめました。そして多くの曲折と困難のあげくに、このこやの主人ピーター・ケアリー船長の手から出ていることを突《つ》きとめました。
当然の順序として、私はこの男のことを調べました。この男は捕《ほ》鯨船《げいせん》の船長で、父がノルウェーに向かって出発した当時、北極海から帰航の途中にあったことがわかりました。あの年の秋はあらしが多く、南の強風が吹《ふ》きつづけていました。父のヨットが北方へ吹き流され、ケアリー船長の船に遭遇《そうぐう》したということも、十分有り得ると思われます。もしそれが事実だとすると、父の運命はどうなったことでしょうか?
いずれにしても、ピーター・ケアリーに会って、彼がこの証券を市場に売りだしたしだいを証明させ得たら、父が売りだしたのでない証明にもなり、また、父がそれを持ち出したのが私利を満たすためでなかった点もはっきりするというものです。
そういうわけで私は、ケアリー船長に会いにこのサセックス州までやって来ましたが、来てみるとあの恐《おそ》ろしい惨劇の起こったところで、船長は殺されてしまいました。しかし検死官の報告書を読んでこのこやのこと、またそのなかに船長が古い航海日誌を保存していることを知り、それによって一八八三年八月にシー・ユニコーン号で何があったかがわかれば、父の運命に関する謎《なぞ》も解けるのではないかと思いました。
実はゆうべもこの航海日誌を見に来たのですが、ドアが開かなかったものですから、今晩改めて出なおして来たのです。しかし、肝心《かんじん》のその年の八月のところは、ページが切りとってありました。ちょうどそのときでした、私があなたの手に捕《つか》まってしまったのは」
「それだけかね?」ホプキンズがいった。
「それだけです」といって若い男は視線をそらした。
「もう何もいうことはないのかい?」
彼はちょっとためらって、
「ありません」
「ゆうべ来たのが初めてだというんだね?」
「はじめてです」
「ではこれはどうしたもんだ?」
ホプキンズは小形の手帳を出してみせた。第一ページにこの男の名まえの頭文字が書いてあり、表紙に血のついた例の手帳である。
ジョン・ホプリー・ネリガンは風船がしぼむように、一度にくじけてしまった。両手に顔を埋《う》めて、ガタガタ震えだした。
「どこにありました? ちっとも知らなかった。宿屋でなくしたとばかり思っていたのに」
「恐れいったろう!」ホプキンズは荒々《あらあら》しくどなりつけた。「あという事があったら、法廷《ほうてい》でいうんだ。いまは警察までおれといっしょに行くんだ。じゃ、ホームズさん、ワトスンさんも、遠路わざわざありがとうございました。おいでを願うにも及《およ》ばなかったわけで、こんなことなら私ひとりでも十分やり得ましたよ。しかし、お二人には非常に感謝しています。ブランブルティ・ホテルに部屋が取ってございますから、村までごいっしょに歩いて参りましょう」
「ねえ、ワトスン君、きみこれをどう思う?」
翌朝ホテルを引きあげて帰る途《みち》すがら、ホームズがいった。
「君が満足していないと思う」
「そんなことないよ。僕は完全に満足している。満足はしているが、スタンリー・ホプキンズのやりかたには、よい印象を受けなかったよ。あの男には失望させられた。もっといいところのある男かと思っていたがねえ。人は常に起こり得べき変化に対する心構えを持って、対策を抱いていなければならない。これは犯罪捜査学の第一原則だ」
「変化とはどんな変化だい?」
「僕が追及《ついきゆう》していた捜査の線さ。これは失敗に終るかもしれない。いまは何ともわからないのだ。しかし、それでも僕は最後までやってみるつもりだがね」
ベーカー街へ帰ってみると、ホームズあての手紙が何通かきていた。彼はそのなかの一通をひったくるように取って、封《ふう》を切ったが、たちまち勝ちほこるように笑《え》みくずれた。
「しめたッ! 二者択一《にしやたくいつ》が発展してきたぜ、ワトスン君。電報頼信紙あるね? ちょっと二本ばかり書いてくれないかい。一本はラットクリフ・ハイウェーのサムナ回漕店《かいそうてん》あてで、本文は『アス朝十時マデニ三人ヨコセ』というのだ。差出人はベージル――その方面での僕の通り名なんだ。もう一本のほうはブリクストンのロード街四六、スタンリー・ホプキンズ警部あてで、本文は、『アス朝九時半、朝食ニ来《キタ》レ、重大事ニツキ差シツカエアレバヘン』というのだ。差出人はシャーロック・ホームズ。このいまいましい事件のやつめ、十日間も僕を悩《なや》ませやがったが、これでどうやら眼の前から追っ払《ぱら》ったよ。あしたはいっさいの話が聞けると思うから、それで完結だ」
指定の時刻きっかりに、スタンリー・ホプキンズ警部が姿を現わした。私たちはハドスン夫人調理するところの、すばらしい朝食をともにした。少壮《しようそう》警部ホプキンズはこんどの成功で意気大いにあがるものがあった。
「君はほんとに、この解決に間違いなしと信じているんですか?」ホームズがいった。
「これ以上完全な説明って考えられないじゃありませんか?」
「僕は決定的だとは思わなかった」
「これは驚いた。これ以上の説明を求めるのは、無理というものですよ」
「君の説で、あらゆる点を説明し得ると思いますか?」
「むろんですよ。調べてみると、ネリガン青年は凶行《きようこう》の当日ブランブルティ・ホテルに投宿しています。表面はゴルフをしに来たとなっていますが、部屋が一階ですから、いつでも忍んで出られます。あの晩彼はウッドマン・リーへ出かけていって、こやでピーター・ケアリーに会って話のあげくにけんかになって、もりで刺《さ》し殺したのです。
しかし、さすがにわれながら恐ろしくなったので、逃《に》げだしますが、そのときピーター・ケアリーに詰問《きつもん》するため準備してきた手帳を落したのです。あなたもご覧《らん》になったと思いますが、あの手帳のなかの証券のあるものには のしるしがついており、大部分はついていませんが、しるしのあるのはロンドンの市場に現われたのを突きとめた分です。大部分のしるしのないのは、まだケアリーの手許《てもと》にあるものと信じて、何とかして父の債権者《さいけんしや》に弁済したいとはネリガン自身の供述にもありますが、それを取戻《とりもど》したいと願っていたのです。
いったん逃げだしたとなると、恐ろしくて、しばらくはこやへ寄りつきもしませんでしたけれど、ついに勇気を出して、必要情報をあつめにやってきたのです。実に簡単|明瞭《めいりよう》じゃありませんか」
ホームズは微笑《びしよう》を浮かべて、静かに頭を振った。
「その説明にはたった一つだけ欠陥《けつかん》がある。それは、そんなことは本質的にあり得ないという欠点です。ホプキンズ君はもりを突き刺してみたことがありますか? ない? それはいけない。こういう細かい点に十分注意しなきゃだめですよ。ワトスン君もよく知っているけれど、僕はこの実験にひと朝をつぶしているのです。あれはなかなかむずかしい。相当の熟練と腕力《わんりよく》を要する仕事だ。
この船長殺しは、もりの頭部が深く壁にささるほどの、猛烈《もうれつ》な勢いでやってあるが、あの貧血症《ひんけつしよう》のひょろひょろした青年に、そんな荒仕事《あらしごと》ができると思いますか? そんなま夜なかに、黒ピーターと仲よくラム酒を飲みあったのを、あの青年だと思いますか? 凶行の二日まえの晩、窓に横顔の影絵《かげえ》がうつったというのも、この男だというのですか? いや、いや、ホプキンズ君、僕らはもっとべつの、怖《おそ》ろしい人間に目をつけなきゃ駄目《だめ》ですよ」
ホプキンズの顔は、ホームズの話のすすむにつれて、だんだん縦に寸《すん》がのびてきた。前途にたいする希望も抱負《ほうふ》もいまは粉砕《ふんさい》されてしまったのである。だが彼は、最後の奮戦もなくみすみす引きさがるような男ではなかった。
「ネリガンが当時現場にいあわせたことは、ホームズさんも否認できますまい。手帳という証拠《しようこ》があります。あなたがいろいろと欠点《あら》さがしをなすっても、私としては陪審員《ばいしんいん》を承服さすだけの証拠は押さえていると思いますよ。それに、何といっても私のほうでは、容疑者をすでに押さえているんです。あなたのいう怖ろしい人間とやらは、いったいどこにいます?」
「たぶん階段のあたりにいると思う」ホームズは澄《す》まして答えた。「ワトスン君はピストルを手のとどく場所においとくほうがいいと思うよ」と立って、何やら書いた紙をサイド・テーブルのうえにおいて、「これで用意はできた」といった。
戸のそとで、あらあらしい声で何か話していると思ったら、下宿のハドスン夫人がドアをあけて、ベージル船長にといって三人の男が訪ねてきていると告げた。
「一人ずつ通してください」ホームズがいった。
最初にはいってきたのは、血色のよいほおにやわらかな白い頬髯《ほおひげ》のあるリブストンの冬リンゴのような感じの男だった。ホームズはポケットから手紙を出してみて、
「名まえは?」と尋《き》いた。
「ジェームズ・ランカスターです」
「ランカスター君か、気の毒だが、もう満員なんだ。せっかくだから、足代としてこの半ソヴリンをあげよう。こっちへはいって、ちょっと待っていてくれたまえ」
つぎにはいってきたのは、背のたかい無愛想な男で、血色のわるい顔に髪《かみ》の毛が細くてすなおだった。名まえはヒュウ・パティンズといった。この男も採用にはならず、足代の半ソヴリンをもらって待たされることになった。
三番目の男は、目につく風貌《ふうぼう》を備えていた。頭髪《とうはつ》も顎鬚《あごひげ》ももじゃもじゃに乱れたなかから、ブルドッグのような烈《はげ》しい顔をのぞかせ、ふさのように垂れた太いまゆ毛の下から大胆《だいたん》な眼が光っている。彼《かれ》はあいさつをすますと、海員風に帽子《ぼうし》を両手でぐるぐる回しながら立っていた。
「名まえは?」ホームズの質問がはじまる。
「パトリック・ケアンズ」
「銛打《もりう》ちだね?」
「へえ。二十六航海も出てまさ」
「ダンディー港だね?」
「へえ」
「探検船だが、すぐ出られるか?」
「へえ」
「給料は?」
「月八ポンドもらいてえんで」
「すぐに出られるね?」
「道具さえそろやア、いつでも出まさア」
「証明書は持っているね?」
「へえ」といってこの男は、ポケットから汚《よご》れて脂《あぶら》じみた書類をとり出した。ホームズはちょっと目を通してから、すぐ返した。
「君こそ探していた人間だ。そっち側のテーブルに契約書《けいやくしよ》があるから、ちょっと署名してくれたら、それで万事きまるわけだ」
怖ろしい顔つきの海員はのそのそ歩をはこんで、ペンをとりあげた。
「これへ署名するんですかい?」テーブルにかがみこんで彼は尋《たず》ねた。
ホームズは海員のうしろからおおいかぶさるようにして、両手を首のわきから差しこんだ。
「これでいい」
私はカチリという金属性の音とともに、牡牛《おうし》の怒《おこ》るようなうなり声を耳にした。次の瞬間《しゆんかん》ホームズと海員はもつれあって床《ゆか》の上にころがった。
海員はすばらしい怪力《かいりき》を持っていた。ホームズが巧妙《こうみよう》に手錠《てじよう》をかけたにもかかわらず、ホプキンズと私が急いで加勢に出なかったら、すんでのことで反対にホームズをうち拉《ひし》ぐところであった。私がピストルの冷たい銃口《じゆうこう》をこめかみに押《お》しつけたので、はじめて抵抗《ていこう》の無益であるのをさとって、おとなしくなったのである。ひもでこの男の足首をしばって、やっと立ちあがったときは三人とも息を切らしていた。
「ホプキンズ君には全くすまないことをしたよ。せっかくのスクランブルドエッグが冷めちまったかもしれない。しかし、これでかえって後は、いっそううまく食べられるかもしれないね。そうじゃありませんか、こうして君はこの事件を大勝利のうちに解決したことになるのだから」
スタンリー・ホプキンズは驚《おどろ》きのあまり、急には口も利《き》けないらしかった。
「ホームズさん、私は何と申したらよいか……」と彼はまっ赤になって、「初めからバカなまねばかりやっていたようです。いまこそわかりましたが、私は探偵《たんてい》一年生で、あなたは大先生です。これは生涯《しようがい》忘れてならないことだったのです。しかし、こうしてあなたのやることを目《ま》のあたり見ていながら、どんなにしてやったのか、またどういう意味なのか、皆目《かいもく》私には見当もつかない始末です」
「それがわかったら結構ですよ」ホームズは上機嫌《じようきげん》でいった。「何事も経験で覚えるのです。この事件で君の学ぶべき点は、つねに変化を見失ってはならないということです。君はネリガン青年というものに夢中《むちゆう》で、ピーター・ケアリー殺しの真犯人ケアンズのことには、まったく思いもよらなかった」
「ちょいと旦那《だんな》がた」とこのとき海員の塩辛声《しおからごえ》が話のなかへ割りこんできた。「私アこんな扱《あつか》いを受けたって、別に文句はいわねえが、変なもののいいかただけは止《や》めてもらいてえね。旦那はピーター・ケアリーを殺したといいなさるが、私は眠《ねむ》らせたといいますのさ。大変なちがいさ。もっとも旦那がたにゃ、私の話はわからないかもしれねえ。でたらめをいうとしか思いなさるめえがね」
「どうしてどうして。お前の話というのを一つ聞かせてもらおうじゃないか」
ホームズがいった。
「じゃ話しましょう。断っておくが、これにはうそはこれんばかりもありませんぜ。黒ピーターですがね、あいつナイフを出しやがったから、もりをいっぱいに打ちこんでやったんでさ。でなきゃこっちが殺《や》られるところでさ。であいつは眠ったが、旦那がたは殺したといいなさる。私にしてみりゃどっちみち、あのとき黒ピーターのナイフで心臓をやられるところを、首のまわりになわを巻かれて死ぬだけのことでさ」
「どうしてそんなことになったのかい?」ホームズが尋《き》いた。
「初めから話しましょうよ。ちょいと起こしておくんなさい、これじゃしゃべりにくくって。事のおこりは一八八三年の八月でさ。黒ピーターがシー・ユニコーンの船長で私アもり打ち予備員でさ。北極海の氷山の間から帰ってくるところでね、一週間も南の向かい風をまともに受けていたっけが、ふと、南のほうから流されてきた小さな船を一|艘《そう》見つけてね、乗ってるのはたった一人、しかも海員じゃねえ。
何でも乗組の連中は、本船が浸水《しんすい》で沈没《ちんぼつ》すると見たんで、小舟《こぶね》でノルウェーの海岸さして逃げたというんだが、まアみんなおぼれて死んじまったろう。
とにかく本船へ助けあげてね、その男をさ。船室へはいりこんで船長と二人でながいこと話していたっけが、荷物といったらブリキの箱《はこ》が一つあるっきりで、何もねえ。その男の名まえだって、私アついに一度も聞かなかったってわけでさ。
ところが、二日めの晩に、この男、煙《けむり》のように消えちまった。自分で海へとびこんだか、それともこの時化《しけ》だから、足でも滑《すべ》らして落っこちたんだろうという話だったが、どっこいたった一人だけ、ほんとうの事を知ってる者がいた。かくいう私でさ。何しろ船長がまっ暗な深夜直《しんやちよく》のとき、男の足をとって舷側《げんそく》から海へ放《ほう》りこむところを、この眼《め》でちゃんと見たんだからね。シェットランドの灯台の見えだす二日まえのことでさ。
だがそんなこたア胸に畳《たた》んで、どうなってゆくか私アじっと見ていたね。スコットランドの港へ帰り着いた時は、うまく口止めしたと見えて、誰《だれ》もそんなことを尋く者なんざねえ。赤の他人が災難で死んだだけのこった、根ほり葉ほりせんぎだてしてみたって始まらねえ。
そのうちピーター・ケアリーは船乗り稼業《かぎよう》の足を洗って、陸《おか》へ上っちまったまんま、どこにいるんだか、ながいこといどころもわからなくなっちまった。何でもあのブリキの箱のために、あんな事もやらかしたに違《ちげ》えねえと思うんだが、それならそれで口止め料のたんまり出せねえはずもなかろう。
そのうちにロンドンであの男に会ったって船員から聞いて、居場所だけはわかったから、私ア早速搾《さつそくしぼ》りに出かけたね。会ってみると、最初の晩は話もわかって、船乗りの足を洗えるだけのものは出そうてえことになった。
中一日おいて次の晩、取引をすますことになってたんだが、行ってみるてえと、もういい加減|酔《よ》っぱらっててね、とても気が荒えのさ。とにかくというんで酒になって、差しむかいでやりながら昔話《むかしばなし》なぞやらかしたもんだが、どうも面白《おもしろ》くねえ。野郎《やろう》が飲めば飲むほど、私ア面《つら》を見るのも気に食わなくなってきた。
見ると商売道具のもりがかかってる。こいつは話のすまねえうちに、もりが要《い》ることになるんじゃあるまいかと、ふとそんなことを思ったもんだが、果せるかな野郎、私に食ってかかりだしやがった。わめきながら殺気をおびた眼つきで、大きな折込《おりこ》みナイフを手にとって、掛《かか》って来やがったから、こっちは野郎にさやも払わせねえで、もりを打ちこんでやったのさ。ああ、あの時の野郎の喚《わめ》き声といったら! それに野郎の面が、いまもって朝に晩にチラつきやがる。
私は野郎の血を浴びたまんま、しばらくはぼうぜんと突《つ》っ立っていたが、あたりはひっそりと静まりかえっている。それで元気をとり戻して、部屋のなかを見まわすと、たなのうえのブリキの箱が眼についた。この箱にゃ私だって黒ピーターと同じだけの権利があるんだから、そいつを持ってこやを抜《ぬ》けだしたが、バカなことをしたものさ、テーブルの上へ煙草入《たばこい》れなぞ忘れて来ちまってね。
だが、話はこれで終らねえ。ひょんなことがありますのさ。こやを出るてえと、まっ暗ななかに誰だかこっちへやってくる者がある。こりゃいけねえと、早えとこ木のなかに隠《かく》れて見てるてえと、どこの男だか忍《しの》んで来やがって、こやのなかへへえったが、まるで化物でも見たようにキャッといったっきり、息を切らして一目散にどっかへ逃げてっちまったね。どこのどんな男が何しに来たんだか知らねえが、ま、あれを見ちゃおったまげもしましたろうさ。私はそのまま十マイルも突走って、タンブリッジ・ウエルズから汽車に乗って無事にロンドンへ逃げ帰ったがね、いいあんばいに誰にも見とがめられやしなかった。
ところがね、折角とってきたブリキの箱を開けてみるてえと、金なんざ一文だってへえってやしねえ。何だか株券みてえなものばかりへえっていたが、そんなもの売るわけにもいきやしねえ。ピーター・ケアリーという舫索《もやい》は切れちまうし、私ア一文なしでロンドンで坐礁《ざしよう》しちまったアね。こうなりゃ身についた稼業《かぎよう》に帰るしかねえ。ちょうど幸いともり打ちをいい給料で雇《やと》い入れるって広告を見たから、早速|周旋屋《しゆうせんや》へ行って、ここの番地を教えられましたのさ。
これで話アいっさい済んだ。私アなるほど黒ピーターのやつを眠らしはしたが、お上からお礼をもれえてえくらいだね。なんたって旦那、これでお上もロープ代が一人分助かったというもんだからね」
「いや、よくわかった」ホームズが立ちあがって、パイプに火をつけながらいった。「ホプキンズ君はこの先生を早く安全な場所へ移してもらいたいものですね。この部屋は監房《かんぼう》にゃちと向かないし、それにこのパトリック・ケアンズ君にこう広く絨毯《じゆうたん》を占領《せんりよう》されちゃ、ちょっと閉口ですからね」
「ホームズさん、何といってお礼を申してよいか、感謝の言葉も知りません。しかし、どうしてあなたがこの成果を得られたか、いまだに私は五里《ごり》霧中《むちゆう》ですよ」
「なアに、運よく最初から正しい手掛りをつかんだからに過ぎませんよ。私だって、この手帳のことをもっと早く知っていたら、ずいぶん君と同じ方向に考えかたをすすめていたかもしれません。しかしあの手帳以外の話は、すべて一つの方向を示していました。驚くべき力の強さ、もりの使いこなしの熟練、ラム酒と水、強い刻み煙草の入った海豹《あざらし》皮の煙草入れ、これらはすべて海員、それも捕鯨《ほげい》船員を指していますからね。
煙草入れにあった|P《ピー》・|C《シー》の頭文字《かしらもじ》は、ピーター・ケアリーにも適合するけれど、本人はほとんど煙草はやらないし、第一パイプもないしするから、これは偶然《ぐうぜん》の一致《いつち》と信じました。覚えていますか、ラムのほかに酒がなかったかと尋いたら、君はウィスキーとブランディがあったといった。そういう酒がそばにあるのに、ラム酒ばかり飲むというのは、陸《おか》の人間には少ない。この点からも犯人は海員だというのは、疑いの余地がなかったですよ」
「それではどうやってあの男を探しあてたのですか?」
「それは君、ここまでわかれば、問題は簡単ですよ、海員だとすれば、黒ピーターといっしょにシー・ユニコーンに乗りこんでいた男に決まっている。私の聞いた限りでは、黒ピーターはあの船以外の船に乗っていないんだからね。ダンディー港との電報の往復に三日かかったが、結局あの年のシー・ユニコーン号の乗組員|名簿《めいぼ》がわかった。そのなかにもり打ちでパトリック・ケアンズという名を見たとき、私の捜査《そうさ》は終了《しゆうりよう》したようなものだった。煙草入れの頭文字に該当《がいとう》する名まえですからね。この男たいていはロンドンにいて、どこかへ高飛びしたがっているとにらんだから、二、三日もイースト・エンドの貧困街へ通って調べたあげく、探検船の話を案出して、ベージル船長の名で飛びつきそうな条件の下《もと》にもり打ちを募集したわけですよ。あとは君がご覧《らん》の通りです」
「恐《おそ》れ入りました! 実に巧妙だ!」
「それよりも、ネリガンを一日も早く釈放してやりたまえ。あの男には君としても、ちょっと面目ないことになったわけだが、その代り例のブリキの箱を返してやるんですね。ピーター・ケアリーが売りとばした分は、いまさら取りかえすわけにもゆくまいけれど。じゃ、表に馬車がいるはずだから、この男を連れてってください。もし裁判に私の証言が要るようだったら、いつでもどうぞ。多分このワトスン君といっしょにノルウェーのほうへ行っているだろうと思うけれど、詳《くわ》しいことはいずれ手紙で報《し》らせます」
[#地付き]―一九〇四年三月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
犯人は二人
これから話す事件というのは、数年まえに起こったものなのだが、それにしてもいざ話すとなると、ためらうのである。どんなに手心を加えるにしても、事実の真相を公表するなどは、久しいあいだ思いもよらぬ事だったのだけれど、いまや事件の立役者が、人間の掟《おきて》でどうにもならない埒外《らちがい》の人になったのだから、筆に適度の制約さえ加えるなら、何人《なんびと》をも害することなしに、事件の全容を話すことができるのである。それはシャーロック・ホームズの生涯《しようがい》にとっても、また私にとっても、まったく特異な経験であった。以下話をすすめるにあたって、じっさいの事実をつきとめる材料になりそうな日付や、そのほか細かな点を伏《ふ》せておいたことを、読者は許されたい。
その日ホームズと私はいつもの散歩に出て、夕がた六時ごろに帰ってきたが、霜《しも》のおりるらしい冷たい夕刻だった。ホームズがランプの焔《ほのお》を大きくしたので、テーブルのうえに名刺《めいし》が一枚おいてあるのが眼《め》についた。彼《かれ》はその名刺をつまみあげてちらと見ると、いかにも不快そうな声をもらして、床《ゆか》のうえに投げすてた。私がそれを拾いあげて読んでみると、前頁のようなものであった。
[#挿絵(img\201.jpg)]
「誰《だれ》なんだい?」
「ロンドン一の悪いやつさ」ホームズは腰《こし》をおろして、両脚《りようあし》を火のほうへのばしながら、「名刺のうらに何か書いてあるかい?」
私はうらをかえしてみた。
「六時半にお訪ねします、C・A・Mとある」
「ふむ、ではもう来るころだな。ワトスン君、きみは動物園へいってへび――あのくねくねと毒をふくんだ動物のまえに立って、悪意ある平べったい顔に怖《おそ》ろしい眼を光らせているのを見たら、思わずぞっとしないかい? 僕《ぼく》はあの男からそういう印象をうけるんだ。これまで僕の相手にしなきゃならなかった殺人者は五十人にもおよぶが、そのなかの最悪のやつでさえ、ミルヴァートンほどの嫌悪《けんお》は感じさせなかった。しかも僕として、いまだにこの男と手を切るわけにゆかない――というのは、何をかくそう、僕から呼びだしをかけたんだものね」
「それにしても、どうした男なんだい?」
「どうしたもこうしたも、恐喝《きようかつ》の王者なのさ。ミルヴァートンに尻尾《しつぽ》をつかまれた男は、女ならなおさらだが、もううだつがあがりっこない。にこにこ顔のねこなで声のくせ、鉄のような心臓で相手を絞《しぼ》って絞って、からからになるまで絞りあげるんだ。その道にかけては一種の天才なんだから、地道《じみち》な商売をやらせても、おそらく相当のところまでは行ったろうと思う。その手口はこうだ。まず、金か地位のある人を困らすような手紙があったら、いつでも彼が高価に買ってくれるといううわさをたてる。そうした手紙は恩しらずの執事《しつじ》や女中から買うこともあるし、良家の婦人たちが気をゆるして付合った不良|紳士《しんし》から手にいれる場合もある。買いっぷりも思いきったものだ。僕の知っている例でいえば、ある人のたった二行の手紙に、その人の従僕に七百ポンド払《はら》ったが、結果はその貴族一家の没落《ぼつらく》となった。
どんな売りものでも、一度はかならずミルヴァートンのところへ持ちこまれる。その名を聞いただけでまっ青になる人が、大ロンドンには何百人とあるのだ。
いつどんなところでこの男の魔手《ましゆ》がのびてくることか、誰にもわからない、というのは生活に困らないだけの十分の資産もあるし、とても利口だから、右から左へと材料を使うようなことはしない。切り札《ふだ》は何年でもあたためて、獲物《えもの》のいちばん多い時機をねらって打ちだすのだ。僕はさっき、彼こそロンドン一の悪党だといったが、すでにいいかげん脹《ふく》らんでいる財布《さいふ》を、いやがうえにも脹らませようと、勝手気ままに整然と人の精神を苦しめ、神経を悩《なや》ます男と、カッとなって仲間を殴《なぐ》り倒《たお》すような男とでは、まるで比較《ひかく》にもならないじゃないか!」
ホームズがこうまでつよく感情をこめて物をいうのは、珍《めずら》しいことだった。
「でもそれほどの男なら、法律で制裁が加えられそうなものだな」
「理屈《りくつ》はむろんそうなるがね、実際問題としてそれができないのだ。早い話が被害者の婦人にしても、ミルヴァートンを数カ月くらいろうへぶちこむのは造作もないことだが、出獄《しゆつごく》したが最後、こんどは自分の身の破滅《はめつ》が必至だとすれば、こんな損な話はないじゃないか。
だからみな泣き寝《ね》いりになるのだ。ただもし彼が何の弱みもない人を恐喝したら、そのときこそ取っちめてやれるんだが、まるで悪魔のようにずるいから、なかなか尻尾はださない。だからこの闘争《とうそう》には、なにかべつの方法をさがすしかないのだ」
「それにしても、ここへは何しに来るんだい?」
「ある高名の婦人がミルヴァートンにさんざ苦しめられて、処置を僕に一任してきたからさ。ほかでもない去年のシーズンに初めて社交界に出たエヴァ・ブラックウェルだが、二週間するとドヴァーコートの伯爵《はくしやく》と結婚《けつこん》することになっている。ところがこの悪魔め、彼女《かのじよ》の軽率《けいそつ》な手紙を数通手に入れた。いいかい、軽率以上の何ものでもない――というのは、田舎《いなか》の若い貧乏《びんぼう》地主に書き送ったものにすぎないのだが、それでもこんどの婚約を破棄《はき》させるだけの力はある。ミルヴァートンのやつは大きな金を要求して、応じなければその手紙を伯爵のところへ送ると嚇《おど》かしているのだ。そこで僕はかわって彼に会って、できるだけ有利に話をつけてほしいと頼《たの》まれたわけだ」
そのとき窓のそとの往来に蹄《ひづめ》の音と轍《わだち》のきしるのが聞こえたので、見おろすと、堂々たる二頭だての馬車が停《とま》るところで、たくましいくり毛のまるまると光沢《こうたく》のよいしりのあたりを、明るい側灯が照らしだしていた。制服の従僕がとびおりて馬車のドアをあけると、小柄《こがら》ながらがっしりした体躯《たいく》をもじゃもじゃのアストラカン外とうにくるんだ男が降りたった。一分後には、その男は私たちの部屋へはいってきた。
チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンは年のころ五十ばかり、大きな知的な頭をもち、むっちり肥《ふと》った髯《ひげ》のない丸顔にはいつも微笑《びしよう》をたたえていた。それに灰いろの鋭《するど》い眼が、大きな金縁《きんぶち》のめがねのおくで光っている。見たところディケンズの小説にあるピクイック氏の仁慈《じんじ》を思わすものがあったといいたいけれど、たえず微笑をうかべていて何となく油断のならない感じがするのと、落ちつきのないくせに刺《さ》すように鋭い眼光とが承知しなかった。はいってくるなり、まるっこい小さな手をさしのべながら歩みよって、さきほどはお留守で残念だったと低い声でいったが、その声も顔つきにおとらずおだやかだった。
ホームズは相手のさしのべた手は無視して、冷たくかたい表情でじっと顔を見つめた。ミルヴァートンはそれでも微笑をやめなかったが、握手《あくしゆ》がだめだと見て肩《かた》をすくめ、外とうをぬいでていねいに畳《たた》み、椅子《いす》の背にかけておいて、やおら席についた。そして、私のほうに手をやって、
「このかたのことですが、かまいませんか?」
「ワトスン博士は私の親友でかつ協力者です」
「わかりました。あなたの依頼者《いらいしや》のためを思ってお尋《たず》ねしたまでです。何しろ事はいたって微妙《びみよう》なのでして……」
「そのことでしたら、ワトスン博士はすでに知っているのです」
「ではすぐ用件にうつりましょう。あなたはエヴァ嬢《じよう》の代理だとおっしゃるが、あの人は私の出した条件を承認《しようにん》なすったのですか?」
「どんな条件です?」
「七千ポンドです」
「もし応じない場合は?」
「それをこの席で詳《くわ》しく論議するのは忍《しの》びないものがありますが、要するに今月の十四日までにこの金がいただけませんと、十八日の結婚《けつこん》はかならずお流れになるのです」ミルヴァートンは、憎《にく》むべき微笑をいちだんとひろげる。ホームズはしばらく考えていたが、
「私にはお考えがちと甘《あま》すぎるような気がするが、どうでしょう? むろん手紙の内容も私にはよくわかっているのだし、エヴァ嬢はかならず私の助言に従います。私としては、いっさいの事情をうちあけて、未来の良人《おつと》の寛容《かんよう》に訴《うつた》えるよう勧告しますよ」
「あなたは伯爵の人物をご存じないから、そんなことをいわれるのですな」ミルヴァートンはニヤリとした。
ホームズの顔に当惑《とうわく》のいろが浮《う》かんだので、彼が伯爵の人物を知らないどころか、よく知っているのだなと私は思った。
「どんないけないことが書いてあるというのです?」
「快活なものです。ひどく陽気です。あの人は手紙がたいへん上手なんですな。しかしドヴァーコート伯爵は決してそうは感じませんよ。とは申すものの、あなたのご意見は反対なのですから、事はそれまでです。これは議論ではなく、純粋《じゆんすい》に一個の取引なのです。この手紙を伯爵の手に渡《わた》すのが、あなたの依頼者にとって最良の策だとお考えになるのでしたら、大金を払ってまでとりもどすのはばかげたことに見えましょう」ミルヴァートンは立ちあがって、アストラカン外とうを手にとった。
ホームズは激怒《げきど》と屈辱《くつじよく》にまっ青になったが、
「お待ちなさい。それでは気が早すぎる。こうしたデリケートな問題を扱《あつか》うのは、スキャンダルを防止するため、おたがいあらゆる努力を傾《かたむ》けるべきです」
ミルヴァートンはまた席にもどって、
「そう話のわかってくださるものと、初めから信じていましたよ」
「とはいうものの、エヴァ嬢は決してお金持ではない。まず二千ポンドがせいいっぱいです。お話のような額では、とても力のおよぶところじゃない。ですから要求を緩和《かんわ》してほしいのです。いま申した額が可能の最高なのですから、それで手紙をもどしてほしいのです」
ミルヴァートンはいよいよ笑《え》みくずれ、眼を光らせて、
「エヴァ嬢の資力は、だいたいお言葉のとおりと承知しておりますが、こんどの結婚は、親戚《しんせき》知友としてあの人の幸福のため若干《じやつかん》の尽力《じんりよく》をするによい機会ではないでしょうか? 結婚祝いに何を贈ったら喜ばれるだろうかと、今ごろは気をもんでいる人も多いことでしょう。そういう人たちに向かって、この小さな手紙の束《たば》があの人にとっては、ロンドン中のろうそく立てとバター皿《ざら》をもらったよりもうれしいのだと、教えてあげたいものですよ」
「そんなわけにはゆきません」
「おうやおや、それは困りましたね」ミルヴァートンは厚ぼったくふくらんだ紙入れをとりだし、
「婦人たちはエヴァ嬢のため尽力してはならないと、あやまった助言をうけているとしか思われませんよ。これを見てください」と紋章入《もんしようい》りの封筒《ふうとう》をつかった手紙を一通とりだして、「これはある……いや、明朝までは名まえを明かすのはさし控《ひか》えますが、一夜あけたらこの手紙はその人の良人の手にわたされます。それというのも、その婦人が数あるダイヤのうちの一つを模造品にとりかえれば、造作なく工面できるはずの眼くされ金をすら惜《お》しんだ結果なのです。まことにお気のどくなものです。ところでマイルズ嬢とドーキング大佐の婚約がとつぜん破約になったのはご存じでしょう? 挙式の二日まえになって、モーニング・ポスト紙に破約のことが三行ばかり出ただけでした。あれはどうしてでしょう? ほとんど信じがたい話ですが、わずか千二百ポンドという金があれば、あんなことにはならなかったのです。まったくお気のどくじゃありませんか。しかるにです、あなたのような分別のあるかたが、依頼者の将来と名誉《めいよ》が危機にひんしているいまになって、条件をとやかくおっしゃるとは、私には合点がゆきませんよ、ホームズさん」
「私はうそのないところを言っているのです。そんな金は都合がつきません。この婦人の生涯をふみにじってみても、一銭にもならないのだから、むしろ私の提案をうけいれて、実利をおさめるほうが得じゃありませんかね?」
「そこが思いちがいですよ、ホームズさん。暴露《ばくろ》は間接に大きな利益を私にもたらしてくれるのです。いま同じような事件を八つか十くらい手がけていますがな、もしこんどのエヴァ嬢が私のためどんな目にあったかということが、この人たちに知れわたれば、私としてもその人たちを説き伏せやすくなりますからな。おわかりでしょう?」
ホームズは跳《と》びあがるように椅子から立って、
「うしろへ回ってくれたまえ、ワトスン君。この男を部屋から出さないようにするんだ。ようし。さあ君、その手帳の内容を見せてもらいましょう」
ミルヴァートンは鼠《ねずみ》のような敏捷《びんしよう》さで、部屋の一隅《いちぐう》へのがれ、壁《かべ》を背にして突《つ》ったった。そして上衣《うわぎ》のえりをかえして、内ポケットに忍ばせた大型ピストルの台じりをちらつかせながら、
「ホームズさん、あなたのことだから、話をつけるにも何か新機軸《しんきじく》を出されるかと期待していましたが、これじゃあんまり手が古すぎますよ。そんな手に乗るものですか。それに私はちゃんと武装《ぶそう》していますし、法律はいつでも私を支持してくれるという自信のうえに立って、この武器を使う心構えもできていますよ。のみならず、私が手紙を手帳にはさんでいるかと思っていらっしゃるのでしたら、大まちがい、私はそんなばかはしやしません。ところで今晩はもう一人二人会う人がありますから、これで失礼しますよ。ハムステッドまではかなりありますからね」といって進みでると、外とうをとりあげ、ピストルを片手に、ドアのほうへ歩みよった。
それを見て私は椅子に手をかけたが、ホームズが頭を横にふったので、その手をそっと放した。そのあいだにミルヴァートンのやつは、微笑をふくんで頭をさげ、眼をきらりと光らせて出ていってしまった。しばらくするとバタンと馬車のドアを閉める音が聞こえ、轍の音が遠ざかっていった。
ホームズは両手をズボンのポケットにふかく突っこみ、暖炉《だんろ》のそばに腰をおろして、あごを胸にうずめて身うごきもせずに、まっ赤なオキ火を見つめていた。黙《だま》って動かぬこと三十分、やっと何か決心がついたらしく、元気に立ちあがると、寝室《しんしつ》へはいっていったが、やがて出てきたのを見ると、やぎ鬚《ひげ》のある若い小粋《こいき》な労働者に変装していた。ランプで陶製《とうせい》のパイプを吸いつけると、
「ワトスン君、ちょっと出てくるよ」といったきり、階段をおりて夜のやみに姿を消していった。彼がいよいよチャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンにたいして戦闘《せんとう》の火ぶたをきったことはこれでわかったけれど、この闘《たたか》いがあんな奇妙《きみよう》な進展をみせようとは夢《ゆめ》にも思わなかったのである。
それから数日、ホームズは出るも帰るもいつでもこの姿を常用していたが、行きさきはハムステッドにちがいなく、相当の成果をあげていることは疑いないのだが、はたしてどんな事をやっているのだか、私にはまるでわからなかった。だがついに、そとでは強い風が吹《ふ》きまくり、しきりに窓をガタガタいわす大あらしの晩に、そとから帰ってくると、まず変装をときさり、火のそばに腰をおろして、彼一流のもの静かさではらのそこから笑いころげた。
「君は僕のことを、結婚したがっているとは思わないだろうね、ワトスン君?」
「思わないとも!」
「その僕に婚約ができたと聞いたら、びっくりするだろうね?」
「えッ! そいつはおめで……」
「相手はミルヴァートン家の女中さ」
「おやおや、なんだってまた……」
「聞きこみがほしかったんだよ」
「それにしても、婚約とはちと深入りしすぎたよ」
「止《や》むをえない措置《そち》だったんだ。まず景気のいい鉛管工《えんかんこう》になったのさ。名まえはエスコットというんだ。毎晩彼女を散歩につれだしてね、のべつおしゃべりをしたものさ。うっふ、ベちゃくちゃ、ベちゃくちゃだ! だがおかげで、知りたかったことはみんなわかった。ミルヴァートンの家のなかは、まるで自分の手のひらをさすほど詳しく知っている」
「だってその娘《むすめ》がかわいそうじゃないか」
「しかたがなかったんだ」ホームズは首をちぢめて、「場《ば》にこんないい札《ふだ》の出ているときは、全力をつくして札を打たなきゃならない。だが僕としては、ちょっとでもすきを見せたが最後、かならず切りつけてくるような手ごわい相手を持っているかと思うと本望だよ。今晩はすばらしい夜だな」
「こんな天気が好きなのかい?」
「僕の意図に打ってつけなんだ。ワトスン君、今晩僕はミルヴァートンの家へ盗《ぬす》みにはいるつもりだよ」
つよい決意のもとに、ゆっくり言いきったホームズの言葉に、私は息もつまる思いで、からだがぞくぞくした。夜の稲妻《いなずま》で、見わたす山野がこまかいところまで、一瞬《いつしゆん》にうかびあがるように、このような行為《こうい》の結果くると思われるもの――探索《たんさく》、逮捕《たいほ》、そして今日までの栄誉ある半生を償《つぐな》うことのできない失敗と屈辱のうちに閉じ、憎むべきミルヴァートンのまえに哀《あわ》れな姿をさらすホームズ――そうしたものが眼前にうかぶ思いであった。
「お願いだからホームズ君、ようく考えてほしいね」
「安心したまえ、これはあらゆることを考えぬいたうえなんだ。僕《ぼく》はけっして軽率には行動しない。ほかに方法がありさえすれば、こんな乱暴な、危険な手段を選ぶものかね。それよりもまず問題をようく考えてみよう。この手段が法的には許されないにしても、道義的には正しいのは君も認めてくれると思う。ミルヴァートンの家へ押《お》し入るのは、例の手帳を力ずくで取りあげるためだ――そのためには、君もいすを振《ふ》りあげて僕に力を貸そうとしてくれたじゃないか」
「そうさ」そういわれて私もちょっと言葉につまったが、「不法な手段に使おうとしているものだけが目的であるかぎり、道義的には正しいといえる」
「そこだよ。道義的に正しければ、残るところは個人の危険という問題だけだ。だがいやしくも紳士というものは、絶望のどん底に沈《しず》んだ貴婦人から助けを求められたら、自分の危険なぞ顧《かえり》みているべきじゃなかろう?」
「そのためこんどは君の立場が危《あや》うくなる」
「僕のいう危険にはそれも含《ふく》まれているのさ。だがほかに手紙をとりもどす方法はない。エヴァ嬢は金をもっていないし、打ちあけて頼《たよ》るべき人もないのだ。猶予《ゆうよ》期間はあしたでつきるのだから、今晩のうちに手紙を手に入れないことには、あの悪人め公言を履行《りこう》して、彼女を破滅させてしまうことになる。だから僕としては頼まれがいもなく、彼女を見すててしまうか、それとも最後の切り札を使うかということになる。この場かぎりの話だがね、ワトスン君、こいつはミルヴァートンと僕との一騎《いつき》うちなんだよ。君も見ていたとおりに、最初の一撃《いちげき》はあいつに取られたが、僕は自尊心と名声にかけても、かならず仕とめるまで闘ってみせるよ」
「どうも気がすすまないけれど、やるしかなかろうね。いつ出かける?」
「君は来なくてもいいよ」
「そんなら君も行かせないよ。僕は断じていうが、今晩の冒険《ぼうけん》に僕をつれてゆかないというなら、まっすぐに警察へ馬車を乗りつけて、君のことを訴えてやる。決しておどかしなんかじゃないよ」
「君は行っても用がないのだよ」
「どうしてそんなことがわかる? 何が起こるかしれないじゃないか。いずれにしても決心はできているんだ。自尊心は君の専売じゃないよ。名声だってそうだ」
ホームズは困った顔をしていたが、思いなおして晴れやかになり、私の肩をぽんとたたいて、
「わかったよ。じゃそういうことにしよう。何年も一つ部屋で暮《く》らしてきたんだから、同じ監房《かんぼう》ではてるのも一興だろう。君だからいうけれど、僕はこれまでわれながらきわめて有力な犯罪者にもなれると思っていた。こんどは生まれて初めてそいつを実践《じつせん》する機会にめぐまれたわけだ。これを見たまえ」と彼は引出しから小さくきちんとした皮のケースをとりだし、二つにひらいて、ぴかぴか光る道具をたくさんひろげてみせた。「こいつは最上等で最新のどろぼう用具だよ。ニッケル・メッキの金梃《かなてこ》、さきにダイヤをつけたガラス切り、万能合いかぎ、そのほか文化の進展に歩調をあわせた近代的道具類がそろっている。こっちに角灯もある。あらゆるものが整備されているんだ。君はゴム底の靴《くつ》をもってるかい?」
「テニスぐつがゴム底になっている」
「それでいい。覆面《ふくめん》はどうだい?」
「黒絹でわけなく君のもこしらえられるよ」
「生まれつきそういう方面には才能があるようだね、君は。ちょうどいいから、じゃマスクをこしらえてくれたまえ。出かけるまえに何か冷たいものでも食べることにしよう。いま九時半だが、十一時になったらチャーチ街まで馬車でゆくことにする。そこからアプルドア・タワーズまでは歩いて十五分くらいだ。十二時まえには仕事にかかれる。ミルヴァートンはぐっすり眠《ねむ》る男で、毎晩きまって十時半には床《とこ》につく。うまくいったら二時には、エヴァ嬢の手紙をポケットにして、ここへ帰ってこられるだろう」
ホームズも私も礼装に着かえて出かけた。これは芝居帰《しばいがえ》りの二人づれと思わすためである。オックスフォード街で二輪馬車をひろって、ハムステッドのある番地を告げて乗りこんだ。目的の場所へつくと、馬車をすて、寒さは寒し、肌《はだ》をさす風に外とうのえりをたてて、ヒースに添《そ》って歩いていった。
「よほど慎重《しんちよう》にやる必要があるよ。手紙の類はあいつの書斎《しよさい》の金庫におさめてあるが、その書斎というのがやつの寝《ね》ている部屋の前室になっているのだからね。だがその反面、ミルヴァートンは何不足なく暮らしている小柄でがっしりした男にありがちの睡眠《すいみん》過多症《かたしよう》だ。アガサ――というのが僕の婚約者の名だが――それの話によると、これはいくら起こしても起きない主人に、召使《めしつか》いたちの奉《たてまつ》った名称だそうだ。
ミルヴァートンは秘書を一人つかっているが、こいつがとても義務に忠実で、ひるまは終日書斎から一歩も出ないという。だからこうして夜を選んだわけだ。それからあいつは犬を一頭|飼《か》っていて、これが庭をうろうろしている。ここ二晩つづけて僕は夜おそくアガサに会いにいったが、そのためアガサは僕が自由に入れるように、犬をつないでくれた。この家がそうだ、この一戸だての大きな家が。門をはいったら右へ、この月桂樹《げつけいじゆ》のなかへはいろう。ここでマスクをつけたほうがよかろう。ほらね、どの窓にも灯火《あかり》は見えないだろう? 万事おあつらえむきだよ」
黒絹の覆面で顔をかくすと、忌《い》むべき夜盗姿《やとうすがた》に早がわりした私たちは、暗く静まりかえっている建物のほうへ近づいていった。建物の一方には、タイル張りのヴェランダのようなものがあって、その奥《おく》にいくつかの窓と二つのドアが見えていた。
「あれがミルヴァートンの寝室なんだよ」ホームズがささやいた。「このドアのなかがすぐ書斎なんだから、ここからはいるのがいちばんよいけれど、かぎをかけたうえボルトまで差しこんであるから、開けようとすると相当の音をたてることになる。こっちへきたまえ。ここに温室があって、客間につづいているのだ」
温室の入口にも鍵《かぎ》がかかっていたが、ホームズはガラスを丸く切りとって、手をさし入れて簡単にあけてしまった。そしてなかへはいると、急いでドアを閉めたが、これで私たちは法律的にはりっぱに罪人になったわけである。むっとする温かい空気のなかに、エキゾチックな植物のむせぶような芳香《ほうこう》がまじって、息づまりそうだった。暗いなかでホームズは私の手をとって、ぐいぐいと進んでゆく。私は木の小枝《こえだ》に顔をなでられたが、ホームズは暗中で物が見えるという特殊《とくしゆ》の能力を、長年の注意深い鍛練によって作りあげていた。
片手で私の手をとったまま、彼《かれ》はドアをあけた。そのなかへはいると、どうやら大きな部屋であるらしく、つい今しがた葉巻を吸ったらしい香気《こうき》がただよっていた。半ば手さぐりで家具のあいだを通りぬけ、彼は第二のドアをあけた。そこにはいるとホームズは初めて私の手をはなし、ドアを静かに閉めた。手をさしのべてみると、壁にいくつも衣類がかけてある様子なので、私は廊下《ろうか》だなとさとった。
廊下を少し歩いてゆくと、ホームズは右手のドアをごくそっと開けた。そのとたんに何者か私たちめがけて飛びだしてきたので、私はギクリとしたが、ねこだとわかったので、思わずふきだしそうになった。その部屋には暖炉がまだ燃えていて、やはり煙草《たばこ》の煙《けむり》がたてこめていた。ホームズは爪《つま》さきだってはいってゆくと、私のはいるのを待ってそっとドアを閉めた。ここはミルヴァートンの書斎だ。向うの壁に帳《とばり》のおりているのが、寝室の入口なのだろう。
暖炉はまだよく燃えており、そのため部屋のなかはほの明るかった。入口のちかくに、電灯のスイッチが光っていたが、電気をつけても危険はないとしても、その必要はなかった。壁暖炉の横に重い幕のたれているところは、そとから見えていた出窓になっているらしく、反対がわにはヴェランダへ出られるドアがあった。書斎の中央にはデスクをすえ、そのまえによく光る赤皮の回転いすがおいてあった。その正面は大きな書だなで、うえにアテネの大理石の胸像がかざってある。この書だなの横に、背のたかい緑いろの金庫があって、磨きこんだしんちゅうのハンドルが、暖炉の火光をうけて光っていた。
ホームズは足音を忍《しの》ばせて金庫へ近づき、じっと見ていたが、こんどは寝室の入口のドアのまえに行って、小首をかしげて耳をすました。寝室からは何も聞こえてこない。そのあいだに私は、退散するときの出口として、ヴェランダへの戸口を確保しておくほうが賢明《けんめい》だと思い、ドアをしらべてみた。ところが驚《おどろ》いたことに、かぎもしてなければボルトも差しこんでないのである。私はそっとホームズの腕《うで》に手をかけて、そのことを知らせた。すると彼はマスクをかけた顔をそっちへむけて、ぎくりとしたようだった。彼も意外であったのにちがいない。
「変だね。わけがわからないよ」彼は私の耳に口をよせてささやいた。「だがいまは一刻もむだにはできないのだ」
「僕のすることがあるかい?」
「あのドアのところに立っていて、誰《だれ》かくるようだったらボルトを差しこみたまえ。僕たちはいま来た口から逃《に》げよう。またあっちの戸口から誰かきたら、仕事がすんでいたらヴェランダへ逃げるし、まだだったら窓のたれ幕のうしろへ隠《かく》れることにしよう。わかったね?」
私はうなずいて、ドアのそばへ配置についた。はじめにあった恐怖感《きようふかん》はきえて、法の反逆者ではなく守護者であったときに味わったよりも、はるかに大きな歓喜にぞくぞくする思いだった。私たちの使命のけだかさ、己《おの》れを空《むな》しゅうする騎士《きし》精神のあらわれであるという自覚、相手の性格の下劣《げれつ》さなどがあるから、その夜の冒険のスポーツ的なおもむきはひとしおである。よからぬことをしているという観念などは少しもなく、その危険のなかにあって胸もときめくばかり興じたものである。私は感嘆《かんたん》の眼《め》をもって、細密な手術をする外科医の沈着《ちんちやく》と科学的正確さで、道具箱《どうぐばこ》をあけて工具を選んでいるホームズを見まもった。
彼が金庫破りを独自の道楽としていることは、かねてよく知っていたから、いまこの緑と金の怪物《かいぶつ》に――その胃袋《いぶくろ》のなかに多くの貴婦人たちの秘密をのみこんでいる怪物と対決する喜びには、ふかい理解がもてた。彼はまず礼服のそでをまくりあげ――そのまえに外とうはいすのうえにおいていた。――錐《きり》を二本とかな梃《てこ》と数個の合いかぎを道具箱からだして、そばに並《なら》べた。私は中央の戸口に立って、万一にそなえて両方の戸口を油断なく見まもった。とはいっても、その万一がおこった場合、どういう処置をとるつもりかといわれると、返答に窮《きゆう》する次第《しだい》だった。三十分ばかりも、ホームズはあれこれと道具をとりかえて、うんと力をいれたり、熟練した工人にみる巧妙《こうみよう》な手さばきで、必死に働いていたが、ついにカチッと音がして緑いろの大きなドアがあいた。のぞいてみると、なかにはたくさんの書類が、いちいちひもでからげて封《ふう》をし、上書きをして入れてあった。
ホームズはその一つを手にとったが、ちらちらする火あかりでは上書きがよみとれないので、角灯をとりだした。となりでミルヴァートンが寝ているのだから、あぶなくて電灯のスイッチをひねるわけにはゆかないからである。だが彼はそのときはっと手をとめて、じっと耳をすましていたが、急いで金庫のドアを閉め、外とうを手にとって、道具類をポケットにねじこみながら、私にも合図をして、窓の幕のうしろへとびこんだ。
つづいて幕のうしろへ飛びこんでから初めて、私は耳ざといホームズが何に驚いたのかを知った。どこか家のなかで物音がしているのである。遠くのほうでバタンとドアを閉める音がした。つづいて濁《にご》ってはっきりしない話声がきこえ、そのまま重い足音が近づいてきた。足音は廊下を、私たちの隠れている書斎の入口まできて止まった。やがてそのドアがあけられ、スイッチをひねる音がカチッと聞こえて、部屋いっぱいに電灯がともされた。ドアを閉める音がして、強い葉巻のにおいが鼻をうった。つづいて私たちの隠れている幕から数ヤードのところを、右に左に歩きまわる足音が聞こえたが、やがて椅子《いす》のきしむ音がして、足音のほうはぴたりと止《や》んだ。
それからかぎをまわす音がカチッとして、ガサゴソと紙の音がきこえた。それまで私はのぞき見などする勇気はなかったが、このとき幕の合せめをひろげて、そっとのぞいてみた。ホームズのからだが、私の背なかにのしかかってきたので、おなじすきまから彼ものぞいているのを知った。眼前の、ほとんど手もとどきそうなところに、ミルヴァートンのがっしりした丸い背なかが見えていた。私たちは明らかにその夜の彼の行動を誤算していたのだ。彼はまだ寝ていなかったのだ。私たちはその窓を見なかったが、あちらのはずれの喫煙室《きつえんしつ》か、それとも撞球室《たまつきしつ》で起きていたものにちがいない。
白毛《しらが》まじりの大きな頭が、まっ正面に、てっぺんのうすくなったところを光らせている。そして赤皮のいすにふん反りかえって、両足をなげだし、まっ黒な葉巻のながいやつを、口から斜《はす》に立てているが、着ているのは赤がかった紫《むらさき》いろの軍服風の喫煙服で、えりにビロードがつけてある。手にはながい何かの証書らしいものをもって、漫然《まんぜん》と眼をとおしながら、葉巻の煙を輪に吹いている。その落ちつきはらった、気楽そうな様子からみて、急に立ちさりそうもなかった。
ホームズは私の手をさぐって、何とかなるから心配するなというように、ぐっと強くにぎった。しかし私のいるところからは、金庫のドアが完全にしまっていないこと、いつなんどきミルヴァートンがそれに気づくかもしれないことが、よくわかっているのだが、ホームズはそれを承知なのだろうか、心もとない限りだった。だから私は、もし、ミルヴァートンの眼つきで、金庫の異状に気づいたことがはっきりしたら、躍《おど》りだして頭から外とうをかぶせて羽がいじめにし、あとはホームズにまかそうと、ひそかに決心していた。だがミルヴァートンはいつまでも顔をあげなかった。何となく手にした証書類に興味をひかれるらしく、一枚一枚めくっては、読みいっていた。この調子では、書類をすっかり見てしまって、ついでに葉巻をすいきるまでは、寝にゆかないのだろうと私は思った。だが、そのどちらも終らないうちに、思いもよらない事態がおこって、私たちの考えかたを変えさせることになってしまった。
ミルヴァートンはたびたび時計をだしてみたし、一度なぞ腰《こし》をあげかけたりして、何かいらいらしている様子だった。しかし時刻が時刻だし、まさか誰かを待ちうけているのだとは、ヴェランダでかすかな物音のするまでは、私たちは夢《ゆめ》にも思い及《およ》ばなかったのである。その物音を耳にすると、ミルヴァートンは書類をもつ手をさげて、きちんと坐《すわ》りなおした。また物音がして、そっとノックするのが聞こえた。ミルヴァートンは立って、ヴェランダに通ずるドアをあけた。
「何です。三十分ちかくもおくれていますよ」不機嫌《ふきげん》なあいさつである。
これでヴェランダのドアにかぎがしてなかったことも、ミルヴァートンがおそくまで起きていたことも、その理由がわかった。婦人服の衣《きぬ》ずれの音が静かに聞こえてきた。そのまえにミルヴァートンの顔がこっちを向いたので、私はいったん幕のすきをなくしていたのだが、このときまた思いきってすきをつくってみた。彼はもとのいすへもどって、口じりに不遜《ふそん》な葉巻をくわえていた。その正面に明るい電灯の光を全身にうけて、すらりと背のたかい婦人が立っている。髪《かみ》の毛はくろっぽく、ヴェールに顔をつつみ、マントのえりにあごをうずめていた。息をはずませ、しなやかな全身がわなわなと細かく震《ふる》えている。
「おかげで私は安眠《あんみん》を台なしにされてしまいましたよ。それだけの償《つぐな》いはしていただきたいものですね。ほかの時刻においで願うわけにはゆかなかったのですか?」
婦人はだまって頭《かぶり》をふった。
「ふむ、じゃしかたがない。伯爵《はくしやく》夫人の仕うちがひどければひどいで、いまこそ仕かえしができるのです。おや、なにをそんなに震えているのです? 大丈夫《だいじようぶ》ですよ。しっかりなさい。用件にとりかかりましょう」とミルヴァートンはデスクの引出しから一通の手紙をとりだして、「あなたはダルベール伯爵夫人の名まえにかかわる手紙を五通おもちなんですな? そしてそれをお売りになりたい。私は買いうけたい。ここまでは話はわかっているが、問題はその値だんです。むろん私としては一応拝見してからでないと……や、や、これは! あなたでしたか?」
婦人がヴェールをはねあげ、マントのえりをおろして、顔をあらわしたのである。ミルヴァートンに直面しているのは、彫《ほ》りのふかい端正《たんせい》な浅ぐろい婦人であった。反りをうった鼻、ごく黒っぽい眉《まゆ》のかげから、二つの眼が鋭《するど》く光り、うすいくちびるをきっとむすんだ口もとは、危険をはらむ微笑《びしよう》さえうかべている。
「ええ、わたくし。――あなたのため身を亡《ほろ》ぼされた女です」
ミルヴァートンは笑った。だが不安と恐怖のため、ひきつれたような笑い声しか出なかった。
「執拗《しつよう》なかたですね。こんなことなら、なぜあなたは私に、最後の手段にうったえさすようなことをしたのです? 私だってすき好んで殺生《せつしよう》をしたくはありませんよ。でも男は誰しも仕事をもっていますからね。どうすればお気に召したのです? 私としては、あなたの資力の範囲内《はんいない》で値をつけたのですよ。それだのにあなたは払《はら》うのはいやとおっしゃった」
「それであなたは手紙を良人《おつと》にお渡《わた》しになりました。それで良人は――たぐいなく気高い、私などはそのくつのひもをむすぶ資格もないほどの良人は、失望のあまりこの世を去りました。あの最後の晩に私があの戸口からはいってきて、あなたに嘆願し、お慈悲《じひ》をとねがったのを、よもやお忘れではありますまい。あのときあなたは笑いとばしておしまいでした。おなじ笑いをいまもなさりたいのでしょうが、くちびるがぴくぴくするだけなのは、さすがに心が怯《おじ》けづいたからでしょう。そう、あなたはよもや私が二度とここへ来るとは思わなかったのです。でも、あの晩の経験が、どうしたらあなたと二人だけで会えるかを教えてくれました。ねえ、チャールズ・ミルヴァートンさん、何とかいったらどうですの?」
「あなたなんかに嚇《おど》かされて、たまるもんですか!」ミルヴァートンは立ちあがりながら、「人を呼びさえすれば、何のことはありません。召使いが駆《か》けつけたら、あなたをとり押さえさせるのです。しかし、みずから招いたこととはいいながら、あなたの立腹もわからぬではない。何もいわないから、とっととお帰りなさい」
婦人は片手を胸にふかく入れたまま、口のあたりに気味のわるい微笑をうかべて立っていた。
「あなたなんかに二度と人の身を亡ぼさせはしませぬ。胸を苦しめ悩《なや》まさせはしませぬ。この世に害毒をながすものは、わたしがとり除いてやるのです。覚悟《かくご》をしなさい、犬め! これでもか! これでもか! これでもか! これでもか!」
彼女《かのじよ》は胸のおくからとりだした小さなピストルを、ミルヴァートンの胸から二フィートのところで、つづけざまに打ちこんだのである。ミルヴァートンはとっさにしりごみしたが、そのままデスクに倒《たお》れ伏《ふ》し、はげしくせきいりながら、書類を散乱させてもがきまわった。そしてよろめくようにいったん立ちあがったが、もう一発うたれて、どっと床《ゆか》に倒れ、「うむ、やったな!」と漏《も》らしたきり、動かなくなった。
彼女はその様子をじっと見おろしていたが、足をあげて、仰《あお》むきの顔をくつでふみにじった。そうしておいてまた様子をうかがったが、ミルヴァートンは動きもしなければ、うめき声ももらさなかった。そのときさやさやと音がして、夜風が暖かい部屋のなかへさっと流れこむのを私は感じた。復讐者《ふくしゆうしや》がたちさったのだ。
とめだてしても、ミルヴァートンの運命は阻止《そし》できなかったであろうけれど、抵抗力《ていこうりよく》もなく逃げだしもしないミルヴァートンのからだに、一|弾《だん》また一弾とピストルがうちこまれるのを見て、私は思わず飛びだそうとしたが、ホームズの冷静な手にぐっと手首をおさえられた。そのつよく制止する握力《あくりよく》のなかに、私は彼の意中をすぐ了解《りようかい》した。これは私たちの知ったことではないのだ。一個の悪漢に、正義の制裁がおりただけのことだ。私たちには独自の任務がある。至上の目的を見失ってはならない。
だがホームズは、女がたちさるやいなや、すばやく飛びだして廊下の戸口へと足音を忍ばせて急ぎ、ドアにかぎをかけた。ほとんど同時に、どこか家のなかで人声がきこえ、誰かこっちへ駆けてきた。銃声《じゆうせい》で眼をさましたのだ。ホームズは少しも騒《さわ》がず、金庫へ歩みよって、両腕にひと抱《かか》えの書類を暖炉《だんろ》のなかへ投げこんだ。一回二回、金庫のなかが空になるまでそれをつづけた。
誰か廊下のドアのハンドルをがちゃつかせ、つづけざまに激《はげ》しくたたきだした。ホームズはすばやくあたりを見まわし、ミルヴァートンにとって死の前駆《ぜんく》となった書類が、血にまみれてデスクのうえに残っているのを認めると、書類の燃えあがっている暖炉のなかへ、それをも投げこんだ。それがすむとホームズは、ヴェランダのドアのうちがわに差しこんであったかぎをとって私を押《お》すようにしてそとへ出ると、ドアをしめてそとからかぎをかけた。
「ワトスン君、こっちへ来たまえ。こっちの塀《へい》はわけなく越《こ》えられるよ」
警報がどうしてこんなにも早くゆきわたったものか、まったく思いもよらないことだった。振《ふ》りかえってみると、大きな家のなかは、どの窓もあかあかとあかりがついている。表《おもて》玄関《げんかん》はあけはなたれ、人影《ひとかげ》が門のほうへ駆けてゆく様子。庭中に人があふれている。私たちがヴェランダからとびだすところでも見つけたのだろう、おっかけてくるやつが一人あった。しかしホームズはよく勝手を知っているとみえ、小さな樹《き》のあいだを縫《ぬ》って駆《か》けだした。私もおくれじとそれに続く。追手の先頭は息をきらしてせまってきた。
六フィートの塀がゆく手をさえぎっていた。ホームズはとびついて、ひらりと躍りこえた。私もつづいてそれに見ならったが、下から片手で足首を捕《とら》えられたので、蹴《け》とばしておいて、頂上にガラスの破片《はへん》を植えこんだその塀を躍りこえた。四つンばいに落ちたところは、草むらだったが、ホームズがすぐに助けおこしてくれた。そしてつれだって、ハムステッド・ヒースのひろい原っぱを駆けだしていった。二マイルくらいは夢中《むちゆう》で走ったろうか、ホームズはようやく歩をとめて、じっと耳をすました。誰も追ってくる様子はない。うまく振りきったらしい。もう大丈夫だ。
この大活躍《だいかつやく》の翌朝、質素な居間で食後のパイプを楽しんでいるところへ、警視庁のレストレード君が、ひどくむずかしい顔をしてやってきた。
「ホームズさん、お早う。ワトスンさん、お早う。たいへんお忙《いそが》しいですか?」
「お話をうかがっていられないほどじゃありませんよ」
「昨晩ハムステッドで大きな事件がありましてね、とくにお忙しいのでなかったら、ご協力ねがいたいと思ってうかがったのです」
「ふむ、ハムステッドでね。どんな事件ですか?」
「殺しです。それもきわめて劇的で風がわりな事件ですがね。あなたならきっと非常に興味をおもちだと思うものですから、恐《おそ》れいりますけれどアプルドア・タワーズまでご足労ねがって、ご意見をお聞かせ願いたいのです。これはただの殺しじゃありません。いったいこのミルヴァートンという男には、まえから眼をつけていたのでして、この場かぎりの話ですが、いずれかといえば悪い奴《やつ》なのです。いろんな書類をもっていましてね、そいつをたねに恐喝《きようかつ》をやっていたらしいのですが、犯人たちはその書類をみんな焼いてしまいました。そして金めのものは何一つ紛失《ふんしつ》していないことからみても、犯人たちは相当の地位ある人物で、秘密の暴露《ばくろ》を防止するだけが目的じゃないかと思うのです」
「犯人たちというと、一人じゃないのですね?」
「犯人は二人でした。もうひと息で現行犯を押さえられるところだったのです。でも足跡《あしあと》や人相はわかっています。九分どおりそのほうから逮捕《たいほ》できるとは思いますが、一人はなかなか敏捷《びんしよう》なやつでしたけれど、もう一人のほうは庭師の手つだいがいったん捕えたのに、格闘《かくとう》になって逃げられてしまいました。こいつは中背ながらがっしりした体格で、顎《あご》がはって首がふとく、髭《ひげ》があってマスクをつけていました」
「それだけではつかみどころがありませんね。そう、ワトスン君のようなやつだともいえますね」
「ほんとにね」警部はひどく面白《おもしろ》がって、「まったくワトスンさんそっくりですね」
「せっかくですが、レストレードさん、これはお手つだいできませんね。というのは、このミルヴァートンという男を私は知っているのです。あれはロンドンでも有数の危険人物の一人でしたし、この世には法律ではどうにもならない犯罪というものがあります――ということは、個人の復讐《ふくしゆう》というものも、ある程度みとめねばなるまいと思うからです。いえ、何とおっしゃっても、私の腹はきまっています。私は被害者に同情するまえに、加害者に共感をもちます。だからこの事件には関係したくないのです」
私たちの目撃《もくげき》した悲劇について、ホームズは一言も口にしなかったけれど、その朝|彼《かれ》は妙に考えこんでばかりいた。そしてうつろな眼つきやたましいのぬけたような挙措《きよそ》から、何かを思いだそうと努めているらしく思われた。はたせるかな、ひるの食事の途中《とちゆう》で彼はとつぜん腰をあげてさけんだものである。「あっ、そうだ! ワトスン君、わかったよ! 帽子《ぼうし》をかぶって、ついてきたまえ!」それから表へとびだすと、全速力でべーカー街を駆けぬけ、オックスフォード街を、リゼント街ちかくまで駆けて、左がわのとあるかざり窓のまえで止まった。ウインドウのなかには当代の名士や美人の写真がいっぱいかざってある。そのなかの一枚にホームズの眼が釘《くぎ》づけになったので、視線をたどってみると、参内用の礼服姿美しいりゅうとした婦人が、ダイヤを配した頭かざりに威厳《いげん》を示しているのだった。すんなりと反った鼻、特徴《とくちよう》のあるこい眉、ま一文字にむすんだ口、その下の小さいが力づよいあごの線には見おぼえがあった。写真の下の説明で、この婦人が由緒《ゆいしよ》ある貴族であり、大政治家でもある人の夫人だと知って、私は思わず息をのんだ。しずかに横をむくとホームズと視線があった。ホームズは口に手をあてて何もいうなとの意をかよわせた。私たちはそのまましずかに窓をはなれていったのである。
[#地付き]―一九〇四年四月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
六つのナポレオン
警視庁のレストレード君が夜分など、私たちの下宿へやってくるのは、そう珍《めずら》しくもなかったが、シャーロック・ホームズもそれを大いに歓迎《かんげい》した。というのは、そのため警視庁で手がけている事件の模様が、いちいちわかるからである。かくしてニュースを聞かせてもらうかわりにホームズのほうでも、レストレードの関係している事件の話は喜んで詳《くわ》しく耳を傾《かたむ》けたし、ときには、自分ではすこしも実地に探偵《たんてい》したわけではないのに、彼《かれ》一流の深遠な知識や豊富な経験にてらして、きわめて有効適切な助言なり暗示なりを与《あた》えることも少なくはないのである。
その晩もレストレードは天気のこと、新聞のことなどぽつぽつ話していたが、急にだまりこんで、何かふかく考えながら葉巻の煙《けむり》をぱっぱっとはきだしたので、ホームズは目ざとくもその様子を見とがめた。
「何かかわった事件を手がけていますね?」
「なあに、ベつだん大した事件というわけでもないんですがね」
「じゃそれを詳しく話したまえ」
レストレードは笑って、「ホームズさんのことだし、隠《かく》す必要もありませんが、いま胸中ある問題で悩《なや》んでいるのは事実ですよ。ただあんまり下らないことなんで、あなたを煩《わずら》わすのもどうかと思ってね。だが一方から考えると、下らないには違《ちが》いないけれども、不思議なこともたしかに不思議な事件なんでしてね、通常でない事柄《ことがら》とさえいえば、あなたが大いに興味をお持ちなのもよくわかっているから、話だけはしてもよいけれど、これはむしろわれわれの畑じゃなくて、ワトスンさんの領分かもしれないと思うんですよ」
「病気に関連したことですか?」私がたずねた。
「とにかく精神病ですね。しかも不思議な精神病なのです。ナポレオン一世をにくむのあまり、眼《め》につくかぎりの像をかたっぱしからぶち壊《こわ》したくなるという男が、いまどき生きているとは思われないじゃありませんか?」
「僕《ぼく》の出る幕じゃないな」ホームズはいすの背にからだを沈《しず》めてしまった。
「まったくですよ。だから私もそういったんです。しかしですね、その男が自己の所有でない像まで壊すために、夜盗《やとう》を犯《おか》したとなると、問題は医者の手をはなれて、警察の所管にうつるわけですからね」
ホームズはまたからだを起こして、
「夜盗をやったんですか? そいつは少し面白《おもしろ》くなったな。もっと詳しく話してくださいよ」
レストレードは警察手帳をとりだして、ページをくって記憶《きおく》をあらたにしながら、
「報告の出ている事件で最初のは四日まえです。場所はケニントン通りで、絵や彫像《ちようぞう》を売っているモース・ハドスンというものの店ですが、店員がほんのちょっと奥《おく》へはいっているあいだに、店でガチャンと何かの壊れる音がしたので、急いで駆《か》けつけてみると、ほかの美術品といっしょにカウンターにおいてあったナポレオンの石膏《せつこう》の胸像だけが、こなみじんに砕《くだ》け散っているのです。すぐ表へとびだしてみますと、通りあわせた人のなかに、いま店から変なやつが飛びだしてどこかへ逃《に》げたのを見たという人が幾人《いくにん》もありましたが、そのときはもう影《かげ》も形もなく、どうすることもできませんでした。どうやらよくある不良少年かなにかの、無考えな乱暴らしかったので、巡査《じゆんさ》のまわってきたときそのとおりを届けでたわけですが、それにしてもせいぜい二、三シリングの石膏像ですから、大騒《おおさわ》ぎしてせんぎだてするほどのこともなかったのです。
けれども二番目の事件はこんな児戯《じぎ》に類するものではなく、はるかに怪奇《かいき》なものでした。それもつい昨夜のことです。
おなじケニントン通りで、しかもモース・ハドスンの店からわずか数百ヤードのところに、バーニカット博士といって有名な開業医が住んでいます。この人はテムズ河以南ではもっともよくはやる医者の一人なのです。このケニントン通りにあるのは本院と博士の住宅で、二マイルばかり離《はな》れた下ブリクストン通りにも分院があります。ところでこのバーニカット博士というのが大のナポレオン崇拝家《すうはいか》で、家へいってみるとナポレオンに関する本や絵や記念品でいっぱいという熱心さなのですが、この人が先日モース・ハドスンの店から、フランスの彫刻家ドヴィヌの有名なナポレオンの胸像の石膏の複製を二個買いもとめて、一つをケニントン通りの家のホールに、一つを下ブリクストンの分院の暖炉《だんろ》だなのうえに飾《かざ》っておきました。
ところがけさ、博士が寝室《しんしつ》から降りてみますと、驚《おどろ》いたことには夜のあいだに泥棒《どろぼう》がはいって、何も盗《と》られたものはないけれど、ホールにあったナポレオンの胸像だけがなくなっているじゃありませんか! しかも調べてみると、胸像はそとへ持ちだして、庭のへいにたたきつけたものとみえて、こなみじんになってへいの根もとに散らかっているという始末です」
「たしかにこいつは非常にめずらしい」ホームズは両手をしきりにもみあわせた。
「あなたはきっとお気に入ると思っていましたよ。しかし話はまだあるんですよ。バーニカット博士はきょう十二時に分院へ行くことになっていましたが、行ってみるとここでも夜のあいだに窓をおし破って、部屋中を石膏だらけにしているのを発見したときの、博士の驚きは想像にあまりあるでしょう。胸像は暖炉だなにおいたままで、こなみじんに粉砕《ふんさい》されていたのです。いずれの場合にも、この不法|行為《こうい》をやった犯人だか狂人《きようじん》だかの手掛《てがか》りとなるべき材料は、何一つありません。どうです、ホームズさん、よくおわかりになりましたか?」
「こいつはグロテスクとまではゆかないにしても、たしかに珍しい事件です。バーニカット博士の本院と分院で壊された胸像は、二つともモース・ハドスンの店で壊されたものと、まったくおなじ複製なのですか?」
「みんな同じ原型からとった複製です」
「してみるとこれは、胸像を壊したやつがナポレオンにたいして、総括的《そうかつてき》に憎悪《ぞうお》をいだいているのだという説は、すこし怪《あや》しくなるな。ただナポレオン像といえば、ひろいロンドンには何百何千となくあるだろうが、一個の偶像《ぐうぞう》破壊者《はかいしや》がおなじ胸像ばかり三つも偶然に襲《おそ》ったと考えるのは、あまり偶然の暗合を信じすぎるというものだ」
「私もそれを考えたんです。しかしねえ、あの付近で胸像でも売る店といったら、モース・ハドスンだけで、しかもあの家で扱《あつか》ったナポレオンの胸像はこの二、三年を通じてその三つだけだったんですからね。そりゃアおっしゃるとおり、ひろいロンドンにゃナポレオンの彫像は何千となくあるでしょうけれど、あの付近にはその三つだけしかなかったと考えるのも一理ある考えかたですよ。だからその狂人が付近のものだとすれば、まずあの三つを手はじめにするでしょう。あなたはどうお考えです、ワトスンさん?」
「偏執狂《へんしつきよう》というやつは際限のないものでしてね。近代のフランスの心理学者が固定観念《イデ・フイクス》とよんでいるのなどは、性質からいえばごく軽微《けいび》なものかもしれませんけれど、固定観念以外の点では精神状態は完全に健全なのです。ナポレオンをふかく研究した人とか、あるいはナポレオンの大戦によって先祖が危害をうけたとかいう人物が、そうした固定観念にとらわれるというのはありそうなことでもあり、また、そうした固定観念のもとにある人物なら、どんな夢幻的《むげんてき》な乱暴をはたらかないとも限りません」
「それはちがうよ、ワトスン君」ホームズは頭をふって、「固定観念をどんなに多く積んでみたって、胸像のある場所がわかるわけがないじゃないか」
「じゃ君ならどう説明をつけるんだい?」
「僕は説明をつけようとなんかしないさ。僕はただこの男の変った行為には一定の方式のあることを認めるだけさ。たとえばバーニカット博士の住宅では、眼をさまされるのを恐《おそ》れて、庭へもちだしてから壊しているけれど、分院のほうじゃその心配がすくないから、その場でぶち壊している。事件はとるにも足らぬばかげた問題のようにも見えるけれど、僕の扱った模範的《もはんてき》事件のうちには、発端《ほつたん》の一見してきわめてつまらないものだった場合がいくつもあることを思うと、どんな小さなことだってうっかり見のがすことはできないよ。
ワトスン君は覚えているだろうが、あのアバネティ一家の恐るべき事件は、夏の暑い日にパセリがバターのなかへ沈んだその深さに僕が気がついたのが始まりだったんだからね。だからレストレード君、この三つの胸像事件だって、僕にゃ笑ってすますことなんかできないんですよ。事件に新しい展開でもあったら、その都度ぜひ知らせていただきたいもんですね」
ホームズの頼《たの》んだ報告は、彼自身も意外とするほど早く、そして思いもよらぬ悲劇的な形をとってやってきた。翌朝私がまだ寝室で身じまいをしているところへ、戸をたたく音がして、ホームズが一通の電報を手にはいってきたのである。彼はその電報を読みあげてくれた。
――ケンジントン区ピット街一三一番へスグコイ――レストレード
「いったい何だろう?」
「わからない――何かあったんだろう。ことによると例の彫像事件のつづきかもしれないが、そうだとすると偶像破壊者先生こんどはひどく河岸《かし》をかえたもんだな。ま、とにかく行ってみよう。コーヒーがテーブルに用意してあるよ。そして馬車もちゃんと表に待たせてある」
三十分でピット街に到着《とうちやく》した。ここはロンドン有数の賑《にぎ》やかな通りからちょっと横へそれた小さな淀《よど》みのようなところで、一三一番というのは、あたりいったいがどれもこれも奥行のない、ひどく事務的に切りつめてはあるが、いずれも相当の家のならんでいるなかの一|軒《けん》だった。馬車を乗りつけてみると、家のまえには多くのやじ馬が地下室のさくにすがりついてひしめいていた。ホームズはかるい驚きをみせて、
「おやおや、こいつは少なくとも殺人未遂《さつじんみすい》くらいな内容はあるな、きっと。でなきゃ容易なことでは道草はくわないロンドンのメッセンジャー・ボーイが、やじ馬のなかに加わるわけがない。あの男の背なかの丸めぐあいといい、首ののばしかたといい、明らかに暴力問題を指示するものだ。おや! 石段は乾《かわ》いているのに、最上の一段だけが水で洗ってあるぜ。やあ、正面の窓にレストレードの姿がみえる。あの男がいまよく説明してくれるだろう」
レストレードはおそろしく重苦しい顔をして私たちを迎《むか》え、居間へ案内してくれた。居間では相当|年輩《ねんぱい》の男がひとり、フランネルのガウンを着たまま、頭の毛をくしゃくしゃにして、うわの空でそこいらを歩きまわっていた。この家の所有主、中央通信組合のホレース・ハアカー氏だと私たちは紹介《しようかい》された。
「またしてもナポレオンの胸像事件ですよ」レストレードがいった。「ゆうべはだいぶ興味がおありのようでしたし、事件としても重大な展開をみせたことでもあり、およびしたらと思ったのです」
「どんなふうに展開したのですか?」
「殺人事件です。ハアカーさん、この人たちに事情をありのまま話してあげてくださいませんか?」
ガウンの男はいとも暗い顔を私たちのほうへ向けて話しだした。
「私はこの年になるまで、他人の消息ばかり集めてきましたが、こんどという今度は自分で自分のことを報道でもしなきゃならないような、どうもとんでもないことが持ちあがっちまったんで、すっかり面くらっちゃって、いやはやどうも、通信どころか一行半句だって書けそうもありませんて。もっともこれで、新聞記者として現場へきたとなりゃ、自分で自分に会見して、各夕刊に二段ずつは記事が送れるというものだが、事実はつぎからつぎと出てくるいろんな人に、繰《く》りかえし話させられるんで、貴重な材料がふいになっちまって、さっぱり役にゃ立たなくなっちまいますよ。しかしシャーロック・ホームズさん、あなたのお名前は私もよく承知していますから、初めからすっかり話してあげましょう。そのかわりどうか、この謎《なぞ》みたいな事件をぜひ解いていただきたいものですな」
ホームズは腰《こし》をおろして、ハアカー氏の話をきくことになった。
「問題の中心はどうやら、この部屋にかざるつもりで四月ばかりまえに買ったナポレオンの胸像にあるらしいです。ハイ・ストリート・ステーションから二軒目の、ハーディング兄弟の店でやすく掘《ほ》りだしてきたものですがね。いったい私の仕事は夜がおもでして、明けがたまで書いていることもよくあります。今日も現にそれで、最上階の裏がわにある書斎《しよさい》にこもってやっていますと、三時ごろに下で物おとがしました。じっと耳をすましてみたが、音はいちどきりで止《や》んでしまったもんですから、じゃそとだったのかなと、それにきめこんでしまいました。するとそれから五分ばかりたって、とつぜん、世にもおそろしいさけび声がきこえました。そりゃア怖《おそ》ろしい声でした。一生わすれられますまい。
あんまり気味がわるいので、一、二分間はいすにくぎづけになっていましたが、気になるから暖炉の火かき棒をつかんで、下へおりてきました。そしてこの部屋へはいってみると、窓がいっぱいに開いていて、暖炉だなのうえの胸像が紛失《ふんしつ》しているのに気がつきました。どろぼうのやつ何だってあんなもの一つくらい盗《と》ってゆくんだか、わけがわかりません。ただの石膏像で、金目のものでも何でもありゃしませんからな。
その開いている窓へのって、うんとまたをひろげてふんばれば、玄関《げんかん》のふみ石へ足の届くのは、ご自身やってごらんになってもわかりますが、造作もないことです。むろんどろぼうのやつもそうしたに違いありません。でも私は部屋をまわって玄関をあけて、まっ暗ななかへ出てゆきますと、たちまち、そこに倒《たお》れていた死体に躓《つまず》いて、よろけかかりました。急いであかりを取ってきてみますと、かわいそうにのどをふかく刳《えぐ》られて、あたり一面血の海にして倒れている男があります。仰《あお》むけになってひざをまげ、あんぐり口をあけて倒れている態《ざま》は、みるも怖ろしいほどでした。これからしょっちゅう夢《ゆめ》で悩まされるに違いありません。とにかく私は非常用の警笛《けいてき》をふいたことだけは覚えておりますが、そのままばったり倒れたものとみえ、気がついてみますと、家のホールに倒れている私のそばに、一人の警官が立っていました」
「ふむ、殺されたのはどこの男ですか?」ホームズが尋《たず》ねた。
「身もとのわかるものが何一つないのでしてね」レストレードが引きとって、「死体は仮置場へはこんでありますが、今までのところ何もわかっていません。背のたかい日にやけた強そうな男で、三十にはまだなりますまい。服装《みなり》はみすぼらしいですが、労働者とも思えません。血だまりのなかに、角の柄《え》をつけた海軍ナイフが落ちていました。加害者の遺棄《いき》したものか、それとも被害者のものだか不明です。衣服には名まえが一つも見あたらず、ポケットにはリンゴが一つ、糸、やすいロンドン地図、それに写真が一枚あっただけです。これがその写真です」
それは小形のカメラで撮《と》ったスナップらしかった。敏捷《びんしよう》そうな、まゆのこい、さるのような感じの抜《ぬ》け目なさそうな男で、ことに顔の下半分が狒々《ひひ》の口もとのように、妙《みよう》に前へとびだしていた。
「それで胸像はどうなりました?」ホームズは念いりに写真を見てからいった。
「あなたのお出《い》でになるちょっとまえに報告がありました。カムデン・ハウス通りの空家の前庭で発見されたそうです。こなみじんになってね。これからそこへ行ってみるところですが、いっしょにいらっしゃいますか?」
「ええ、もちろん。そのまえにここを一応見ておかなければ」とホームズは敷物《しきもの》と窓とを調べてみて、「犯人は非常に脚《あし》がながいか、さもなければよくよく身がるな奴《やつ》です。窓のそとに凹庭《エーリア》があるのに、それを越《こ》えて窓わくに手をかけて、この窓をあけるというのは、なまやさしい放れわざじゃありませんよ。出てゆくときは比《ひ》較的《かくてき》らくですけれどね。ハアカーさん、あなたも胸像の残骸《ざんがい》を見に、ごいっしょにどうです?」
くさりきった記者先生は、ひとり机にむかって坐《すわ》っていて、動こうとはしなかった。
「なんとかこいつを物にしておかなければ。むろん夕刊の第一版はもう詳報《しようほう》をのせて発行されているに違いないけれど……ああ、私ゃいつだってこれなんだ! ドンカスターで観《ス》覧台《タンド》がおちたのを覚えていますか? あのとき私はスタンドにいた唯一《ゆいいつ》の新聞記者だったんです。しかも私ンとこの新聞が、その記事を出さなかった唯一の新聞だったんです。私があんまり驚いたんで、記事を書いてなんかいられなかったんですよ。こんどだって自分の家の玄関さきで行なわれた殺人事件に、おくれを取りそうなんですからなあ」
ハアカーのペンが|フ《*》ールスカップ【訳注 約四十三センチ×三十三センチの大きさの洋けい紙。もとは道化師帽のすかしが入っていた】のうえにがりがり音をたてるのを聞きながら、私たちはその部屋を出た。胸像の破片の発見されたという場所は、そこから二、三百ヤードしか離れていなかった。ここで初めて私たちの眼は、この未知の男の脳裏《のうり》にかくも狂乱の、破壊的憎悪の念をおこさしめたと見るべきナポレオン大帝《たいてい》の登場に接したのである。像はこなごなの破片となって、草のうえに散乱していた。ホームズはそのうちのいくつかを拾いあげて、細かに点検した。その熱のこもった顔つきと、様子ありげな態度から、私はついに彼がなにか手掛りを得たのだなと思った。
「どうです?」レストレードがたずねた。
ホームズは肩《かた》をすくめて、「まだまだ道はとおい。しかし……しかし……活動を開始すべき暗示的な事実なら二、三あるわけです。このつまらない胸像を手にいれるということが、この奇怪な犯人にとっては、人命にもかえられないほど大切なことだった。これが一つの事実です。それから、もし胸像を破壊するだけが目的なのだとすれば、彼がそれを家のなかで、もしくは家を出るとすぐ壊してしまわなかったというのは、いかにも不思議です。これが第二の事実です」
「もう一人の男にばったり出会ったんで、すっかりうろたえて、あんなことをやったんでしょう。自分でも何をしているか知らず、夢中でやっちまったんですね」
「そう、それもそうかもしれませんね。だが庭で胸像の壊されたこの家の位置に、とくに注意していただきたいもんですね」
レストレードはあたりを見まわして、
「この家は空家だから、それで犯人は、この庭なら邪魔《じやま》が入るまいと思ったんですね」
「そうです。空家がよければ、ここまでくるには当然まえを通ったはずのがもう一軒、ずうっとこの先にあります。胸像なんかもって歩けば、誰《だれ》かに出あう危険が一歩ごとに加わるばかりなのに、なぜそこの庭で壊さなかったのでしょう?」
「参った。私にはわかりません」レストレードが降参した。
ホームズは頭のうえの街灯を指さして、
「ここなら自分のやっていることが見えるけれど、あっちはまっ暗です。これがわざわざここまで運んできた理由です」
「なるほど! それにちがいない。そういわれて考えてみると、バーニカット博士の胸像も、玄関の赤ランプから遠くないところで壊《こわ》していましたよ。ところでホームズさん、この事実をわれわれはどう考えたらよいのでしょうね?」
「覚えておく――記録しておくことです。いまに何かこれに関連した事実にぶつかるかもしれません。ところでレストレード君、きみはこれからどういう方針で進むつもりですか?」
「私の考えでは、被害者の身もとを洗うのがいちばん手取《てつとり》ばやいでしょうね。それにはなんの造作もありません。被害者がなにものであるか、どんな交友をもっていたかがわかれば、被害者がゆうべピット街で何をしていたか、ホレース・ハアカーの玄関口で出あって、これを殺したのが何ものであるかを知るうえに、好都合な出発点が得られるというものです。そうじゃありませんか?」
「むろんそうですよ。しかし私の考えている方法は、それとはまったく違《ちが》うんですがね」
「じゃどうやってゆくおつもりなんです?」
「それをいうのはよいけれど、そのためにそっちの方針がぐらついても困る。そっちはそっち、こっちはこっちで、めいめいこれと思う道を進もうじゃないですか。あとで結果をくらべあって、おたがいに足りないところを補うことができれば、いっそう好都合です」
「大いに結構です」
「これからピット街へ引きかえすのだったら、ホレース・ハアカーさんに私からといって伝えてください。いよいよホームズのはらはきまった。ゆうべあなたの家へ忍《しの》びこんだのは、たしかにナポレオンに関してあるまぼろしをいだいている危険きわまる殺人狂なのだとね。きっと記事をこしらえるのに役だつでしょうよ」
「まさかほん気でそんなことをお考えじゃないでしょう?」レストレードは眼《め》をまるくした。
「さあね」とホームズは微笑《びしよう》して、「あるいはそうかもしれませんよ。しかしそういってやれば、ホレース・ハアカーも喜ぶし、中央通信の読者も喜ぶにきまっていますよ。さ、ワトスン君、今日はこれからすることがうんとある。しかもなかなか面倒《めんどう》な仕事だ。レストレード君、今晩六時に繰りあわせてベーカー街へおいで願えると、大いにありがたいんですがね。それまで死体のもっていたこの写真は貸しといてください。私の推理に誤りがなければ、今晩ちょっとした遠征《えんせい》をやることになるかもしれませんから、その際はあなたにもいっしょに行って、加勢していただきたいものです。まずそれまでは、さようなら! 幸運をいのります」
シャーロック・ホームズと私はつれだってハイ・ストリートへゆき、ハアカー氏が胸像を買ったというハーディング兄弟店へ入っていった。店には若い店員が一人いて、ハーディングは午後でないと来ないと告げ、自分はちかごろはいったばかりだから、何もわからないといったので、ホームズの顔には失望と困惑《こんわく》があらわれた。
「ま、しかたがない。そうそうこっちの思うとおりすらすらとはかどるわけもあるまいよ。ワトスン君、ハーディングさんがいなければ、出なおして午後くるよりほかないね。君も気がついているだろうが、僕は胸像がこんな奇怪《きかい》な運命をたどるのはなぜか、それを説明する何物かがあるのじゃないかと思うから、胸像の出所を逆にさかのぼって突《つ》きとめようと思うんだよ。じゃケニントンのモース・ハドスンの店へいって、何かこの問題に光明をあたえてくれないものか、やってみようじゃないか?」
ケニントンのモース・ハドスンまでは馬車で一時間ばかりだった。主人のハドスンは小柄《こがら》でふとったあから顔の、気みじからしい男であった。
「はいはい、そうでございますよ。このカウンターのうえでね。こう乱暴ものに店へとびこまれまして、勝手に商品をたたき壊されたんじゃ、やれ国税だそれ地方税だと、なんのために高い税金を払《はら》わされているんだか、てんでお話にもなりやしません。はいはい、バーニカット先生に胸像を二つお願いしましたのは、手前でございますがな。ほんとにひどいことをしましたもので! あれはニヒリストのしわざでございますよ。手前はそれに違いないと思っております、はい。無政府主義者ででもなければ、胸像なぞ壊すものがどこにおりましょう! 赤い共和党員、それに違いございません。胸像をどこから仕入れたかとおっしゃるんで? そんなこと調べてみたって、なんの足しにもなりやしませんよ。え? ほんとにお知りになりたい? あれはステプニ区のチャーチ街のゲルダ商会から仕入れた品ですがね。ゲルダ商会といえばその方じゃ名がとおっていますよ。もう二十年もやっています。
何個仕入れたかと仰《お》っしゃるんですか? 三個――二個と一個ですから三個、そのうち二つはバーニカット先生にお売りして、一つはひるひなかこの店でたたき壊されたんでさ。この写真の男を? さあ、存じませんねえ――待ってください、わかりましたよ。これはベッポです! ベッポはイタリア人ですが、手間仕事みたいなことを、この店でやらしていた男で、いたって役にたつ重宝なやつです。彫刻《ちようこく》もすこしはやれますし、額ぶちの金張りでも、そのほか何でもこまごました仕事をやります。先週ひまをとって出てゆきましたが、その後なにをしていますか、さっぱり話をききません。いいえ、どこから来たんだか、私ンところを出てからどこへ行ったんだか、まるっきり存じません。ここで働いているあいだ、これという不都合はありませんでしたが、そうです、ひまを取ったのは胸像の壊される二日まえのことです」
「モース・ハドスンからこれ以上聞きだすのは無理だね」店を出るなりホームズがいった。「ケンジントン区の被害者《ひがいしや》ホレース・ハアカーと、ハアカーには売っていないがケニントン区の胸像屋モース・ハドスンとに共通の因子として、このベッポのあることがわかった。これだけで十マイルも馬車をとばして来たかいがあったというものだ。じゃワトスン君、こんどはステプニ区にこの胸像の製造元ゲルダ商会を訪ねることにしよう。ゲルダ商会でなにか有力な発見をしえなかったら、それこそ不思議だと思うよ。かならずなにかある」
流行のロンドン、ホテルのロンドン、劇場のロンドン、文学のロンドン、商業のロンドン、そして最後に海運のロンドンと、私たちはたてつづけにいろんな街をすぎて、ついにヨーロッパ中の食いつめものどもの集っている、悪臭《あくしゆう》鼻をつくむさ苦しい棟割長屋《むねわりながや》のたてこんだステプニ区へときた。
求める工場は、かつては市内に店舗《てんぽ》をもつ立派な実業家たちの住居のならんでいた、この区の目抜《めぬき》の大通りにあった。屋外のかなりひろい空地では、記念碑《きねんひ》の石工《せつこう》がいっぱいに行なわれており、なかへはいってみると、大きな工場で五十人あまりの工員が彫刻したり型をとったりして働いていた。ブロンドでからだの大きいドイツ人の支配人が、ていねいに私たちに応接し、ホームズの質問にいちいちはっきりした返答をあたえてくれた。帳簿《ちようぼ》に照らしてみると、このドヴィヌのナポレオン像を大理石に複製した胸像からは、何百となく石膏像《せつこうぞう》が製作されていたが、モース・ハドスンの店へ一年あまりまえに卸《おろ》した三個は、そのとき六個口として作ったものの半分で、あとの半分はケンジントンのハーディング兄弟店へ送られていることがわかった。
この六個が、ほかのものと違う理由は少しもないという。その六個をとくに壊したがっているものがあるなんて、想像もつかない――といって支配人はホームズの質問を笑殺《しようさつ》した。卸し値は六シリングだが、小売ではおそらく十二シリング以上するだろうとのこと。製作法は二つの型によって、顔の左右をべつべつに石膏で作り、それをつなぎ合せてはじめて完全な胸像となる。仕事はこの部屋で、普通はイタリア人の手でなされる。完成したものは廊下《ろうか》へ出してテーブルのうえに並《なら》べて乾燥《かんそう》させ、そのうえで倉庫にいれる。――これだけが支配人の話してくれたことの全部である。
ところが、ホームズが写真をだしてみせると、おどろくべき効能があった。支配人は満面に怒気《どき》をみなぎらせ、ドイツ人特有の青い眼のうえにまゆをよせてさけんだのである。
「ああ、こいつが! はい、よく知っていますとも。私のところはこれまで一度だって問題をおこしたことなんかないのに、こいつのために初めて警察ざたなんか起こされちまったのです。もう一年以上になりますが、こいつは街上でおなじイタリア人を刺《さ》して、巡査《じゆんさ》に追われながらここへ逃《に》げこんで、工場のなかでとうとう捕《つか》まっちまったのです。ベッポという男ですが、姓《せい》はなんというのですか、私は知りません。私がこんな顔つきの男を雇《やと》いこんだばちでさあ。でも仕事にかけちゃ、いい腕《うで》をもっていました。一流どころでした」
「それでこの男はどうなりました?」
「刺された男が助かったので、一年ですみました。いまごろはもう出獄《しゆつごく》していると思いますが、さすがにここへは一度も顔を出そうとしません。従兄弟《いとこ》がこの工場にいますから、それに尋ねてみたら、いまどこにいるかわかるかもしれませんね」
「いやいや、従兄弟には何も知らさないでください。お願いです。じつは非常に重大な問題なのですが、お話をうかがったり、調べれば調べるほどますます重大になってくるようです。いまあなたが帳簿をしらべるときちらと見たのですが、この胸像を倉出しした日が去年の六月三日とありましたね。ベッポの捕まった日はおわかりになりませんか?」
「賃銀支払表をみれば、だいたいのところはわかりましょう。ええと……」と支配人はページをめくって、「ベッポの最後に賃銀をうけとったのが五月二十日となっています」
「ありがとう。どうもお邪魔《じやま》しました」とホームズは最後に、私たちの調べにきたことを口外せぬようにと頼《たの》んで、工場を出てふたたび西のほうへと引っかえした。
とあるレストランへ入って、急いで昼食をかきこんだのは、昼もよほどすぎた時分だった。入口に『ケンジントンに大事件起こる、狂人《きようじん》の殺人』と新聞の重要記事の見出しが書きだしてあった。内容をみると、ホレース・ハアカーがついに自分の事件を記事にしたのだとわかった。ハアカー先生大いに名文をふるって、きわめて扇情的《せんじようてき》に、華《はな》やかに、二段にもわたって詳《くわ》しく書きまくっている。ホームズは薬味台に新聞をたてかけ、食べながら読んでいたが、一、二度くすくすと笑った。
「こりゃアいいよ。ワトスン君、いいかい、聞いていたまえ。――『本件につき意見の相違《そうい》をみないのはきわめて喜びとするところで、警視庁きっての敏腕家《びんわんか》とうたわれるレストレード警部と、有名な私立|探偵《たんてい》シャーロック・ホームズ氏とは口をそろえて、奇怪なる犯行をくりかえしたあげく、ついにこの惨劇《さんげき》となったのは、計画的犯罪ではなくむしろ狂人の行為《こうい》と見るべきだという結論に一致《いつち》したのである。精神異常者の仕わざとみるほか、なんとしても説明はつかないのである』新聞というものはね、ワトスン君、その利用法を知ってさえいれば、きわめて重宝な機関だよ。じゃ食事がすんだらケンジントンへ帰って、ハーディング兄弟の店で何というか、それを聞いてみるとしよう」
ハーディング兄弟の大きな店を創立した主人は、きびきびと威勢《いせい》のよい小柄な男で、頭もよく弁舌《べんぜつ》も達者な、眼から鼻へぬけるような人物だった。
「はいはい、その事件でしたら夕刊で承知しております。ホレース・ハアカーさまは手前どものお得意さまで、しばらくまえにその胸像をお売りいたしたんでございます。あれはステプニ区のゲルダ商会へ三個だけ注文しましたんで、三個ともいまは売れてしまいました。誰へとおっしゃいますんで? ちょっとお待ちくださいまし、いま売りあげ帳を調べまして、すぐにお答えいたします。ああ、ここにございました。一つはハアカーさんですから、これはよろしいとして、あとはチジックのレバナム・ヴェールのレバナム荘《そう》で、ジョサイヤ・ブラウンさんに一つと、レディングの下《しも》グローヴ街のサンドフォードさんに一つでございますな。いいえ、この写真に見るような男は存じません。いえ、これは忘れられる顔つきじゃございますまい。こんな醜男《ぶおとこ》はたんとございませんからな。イタリア人をでございますか? 雑役《ざつえき》や掃除夫《そうじふ》にはいくらも使っておりますが、見ようと思えばこんな売りあげ帳なぞ、いつでも見られますでしょう。ベつだんこんなものを見はっていなければならない理由もございませんからな。ははあ、それは大そう変ったお仕事でございますな。で何かお役にたつことでもございましたですかな?」
ホームズはハーディングの話のあいだに、何度か手帳へかきとめた。しらべが順調に展開してゆくとみえて、彼《かれ》はきわめて満足そうに見うけられた。でも、急いで帰らないとレストレードとの約束《やくそく》におくれるということのほか、彼は口をつぐんで何もいわなかった。
まったくその通りで、ベーカー街へ帰ってみると、レストレードはもうちゃんと来て待って――すっかり痺《しびれ》をきらせて、部屋のなかをこつこつと独りで歩きまわっていた。すこぶるもったいぶった顔つきをしているのは、彼にもなにか収穫《しゆうかく》があったらしい。
「やあ、うまいことがありましたか、ホームズさん?」
「きょうは非常に忙《いそが》しかったです。そしてまんざらむだ骨でもなかったですがね。小売店を二軒ともしらべ、製造元へも行ってきたから、各胸像の出所系統がすっかりわかりました」
「胸像ですか! まあまあ、あなたにはあなたの遣《や》りかたがあるんだ。それを私がとやかくいうことはありません。しかし私はどうやらあなたよりはよい仕事をしてきたつもりですよ。被害者の身もとを突きとめましたからね」
「えッ! ほんとうに?」
「身もとばかりじゃなく、殺害の動機まで明らかにしましたよ」
「おみごとだ!」
「私のほうにサフロン・ヒルをはじめイタリア人街を専門にしている警部がいますが、この被害者は首にカトリック教の紋章《もんしよう》いりのものをかけていましたし、顔いろの黒いところなどから私も南方からきたものとにらんでいましたが、そのイタリア人係りのヒル警部に死体をみせたら、ひと眼でなんだこの男かということになりました。被害者はネープルス生まれのピエトロ・ヴェヌチといって、ロンドンきっての凶悪漢《きようあくかん》です。社員が命令に違反《いはん》するとすぐ殺してしまうという例の政治的秘密結社マフィアの一員です。と申しあげたら、どういうところからこの事件がおこったか、よくおわかりでしょう?
もう一人の、加害者のほうもやはりイタリア人で、マフィアの一員に違いありません。それがなにかで結社の規定に違背したのでしょう。被害者のポケットにあった写真がおそらくその男で、人ちがいをしないように、ちゃんと写真を用意していたのです。でピエトロがその男を尾行《びこう》するうち、ハアカーの家にはいっていったので、そとで待ちうけていて刺そうとしたところ、あべこべに殺されてしまったのです。ホームズさんはこの意見をどうお考えになります?」
ホームズが賛成の拍手《はくしゆ》をおくった。
「みごとだ! 実にみごとですよ、レストレード君。だけどあなたの説明では、胸像の壊されたことに少しも触《ふ》れていなかったようですね」
「また胸像ですか! あなたはどこまでもこの胸像が頭にこびりついて、離《はな》れないんですね。要するに胸像なんか、なんでもないんですよ。小さな窃盗罪《せつとうざい》ですから、六カ月がせいぜいです。われわれの第一の目的とするところは、この殺人犯人の逮捕《たいほ》です。そしてお気のどくながら、事件解決の糸はみんな私の手もとへ手繰《たぐ》りこまれてきているんです」
「そして今後の手はずは?」
「きわめて簡単です。イタリア人係りの警部といっしょにイタリア人街へゆき、写真の男をさがして殺人罪で逮捕するばかりです。どうです、見物にきませんか?」
「まあ見あわせておきましょう。それよりももっと簡単な方法で目的は達せられると思うんですがね。まだはっきりしたことは言えない――というのがね、まったくわれわれの力では何ともならないある事情のために、ことが支配されるからですが、今晩いっしょに来てさえくだされば、かならずその男を捕《とら》えさせてあげられるだろうと、私としては大いに有望視しているわけです。賭けるとすれば二対一で賭《か》けてもいいですな」
「やっぱりイタリア人街ですか?」
「いや、たぶんチジックのほうがよかろうと思う。今晩チジックへきてくだされば、あしたは君についてイタリア人街へゆくと約束してもいいです。イタリア人街のほうは少しくらい遅《おく》れたって、ベつだん差支《さしつか》えはないでしょう。まずそれまでは、出発は十一時以後で帰りは朝になるでしょうから、二、三時間眠って、十分からだを休めておくほうがいい。レストレード君もここで夕飯をくって、出発までソファで眠ってください。それからワトスン君、すまないがそうしているあいだにベルを鳴らして、特急のメッセンジャーを呼んでもらってくれたまえ。すぐ届けなければならない大切な手紙があるんだ」
ホームズはその夜、まるまる一部屋をふさいでいる古い新聞のとじこみを、しきりにひっくりかえしていたが、降りてきたときは、口にだしてこそ何もいいはしなかったけれど、勝利の満足を両眼にうかべていた。私はこの難事件のいきさつをたどる彼の方法を一歩一歩と追想してみて、最後の解決こそわかりはしなかったが、ホームズは、この奇怪な犯人がのこりの二つの胸像をも壊しにくるものと思っているのだなと知った。
そういえば残り二つのうち一つはチジックにあるのだ。今晩チジックへゆくというのは、犯人の現行を押《お》さえるために違いない。それを思えば、犯人に安心してひきつづきあとの胸像を壊しに来させるため、故意にまちがった捜査《そうさ》方針を夕刊にださせたホームズの巧妙《こうみよう》さには、ひたすら感嘆《かんたん》するほかはない。だから私は、出発のときホームズからピストルを用意してゆくようにいわれた時も、さらに驚《おどろ》きはしなかった。彼自身はお気にいりの、鉛《なまり》をいれた狩猟用《しゆりようよう》のむちをもっていった。
四輪のつじ馬車が表へきたのは十一時だった。私たちはそれに乗ってハマースミス橋の向うがわまで走らせ、そこで降りて御者《ぎよしや》には待っているように命じた。そして少し歩くと、住み心地よさそうな一戸建ての家のならぶ静かな通りへでた。その一|軒《けん》の門柱に「レバナム荘」とあるのが、街灯のあかりで読めた。家人はみんな寝《やす》んだとみえ、家のなかはまっ暗で、ただ玄関《げんかん》のドアのうえの欄間《らんま》からホールの灯火《あかり》が流れでて、庭の小路をただひと所ぼんやりと照らしているだけである。道路に面した板塀《いたべい》の内がわが、ひときわ暗くなっているので、私たちはそこへ入ってうずくまった。
「よほど待たされるかもしれないよ」ホームズがささやいた。「何しろ雨がふっていないのがありがたい。時間つぶしの煙草《たばこ》もうっかりやっちゃいけませんよ。そのかわり、二つに一つはこの骨折りが報《むく》いられるはずなんだから」
けれども私たちの寝《ね》ずの番は、ホームズが嚇《おど》かしたほど長くはなかった。まったく突然《とつぜん》、思いもよらぬ終局をむかえたのである。不意に庭の門がさっと開いて、身がるなくろい人影《ひとかげ》が、さるのように敏捷《びんしよう》に小路を駆《か》けこんでいった。そして一度だけ、欄間からおちてくる光のなかを通るとき、ちらりと姿がみえたが、すぐ家のかげの暗いところへはいってしまった。それから大分まがあったけれど、息をころして待っていると、ぎりぎりと静かにもののきしるのが聞こえてきた。窓をあけているのだ。と、その音がやんで、またしばらくたった。家のなかへ忍《しの》びこんでいるのに違《ちが》いない。しばらくすると突然、家のなかで角灯の光が見えた。だがそこには探すものがなかったらしく、こんどは別の部屋のブラインドに灯火がうつった。そしてまた別の部屋とそれは移っていった。
「開いている窓の下で待っていて、出てくるところをいきなり押さえてやりましょう」レストレードがささやいた。
けれども私たちがまだ行動を起こさないうちに、曲者《くせもの》はその窓から出てきた。例のほの明るいところまで来たのをみると、何やら白いものを抱《かか》えている様子、そっとあたりを見まわしていたが、表を歩く人の気配もないので安心してか、私たちのほうへ背なかを向けてそこへ荷物をおろしたかと思うと、がんという音がし、つづいてばらばらと石膏の砕《くだ》けちる音がきこえた。そして私たちが草のうえをふんでそっと忍びよったのも、自分のすることにあまりに気をとられていた彼にはわからなかった。
とらのように、ホームズは曲者のうしろから飛びついた。つづいてレストレードと私が両方からその利腕《ききうで》を捕えた。そしてたちまち手錠《てじよう》がはめられた。ひき起こしてみると、青黄いろい猛悪《もうあく》な顔をした男だが、憤怒《ふんぬ》の形相ものすごく私たちをにらみつけた。しかもそれは別人ならぬあの写真の男である。
曲者は捕えたが、ホームズはそのほうは見むきもしないで、入口の段にしゃがんでいる曲者の持ちだしてきたものを、いとも綿密にしらべた。それはおなじ日の朝見たのとおなじナポレオンの胸像で、あのときとおなじ状態に粉砕《ふんさい》されていた。ホームズはその破片《はへん》を一つ一つとりあげては、注意ぶかく光りにかざして見ていたが、どう見てもただの石膏《せつこう》の破片と少しも異《ことな》るところはなかった。像の破片をすっかり調べおわった時分に、ホールのなかがぱっと明るくなって玄関のドアがあき、この家の主人がまるまると肥《ふと》ったからだにシャツとズボンだけつけて、陽気に現われた。
「ああ、ジョサイヤ・ブラウンさんですね?」
「そうです。あなたがシャーロック・ホームズさんでしょうな? メッセンジャーにお託《たく》しのお手紙、たしかに拝見しました。どの部屋もすっかり中から戸締《とじま》りして、待ちかまえていたんです。まあまあ曲者が捕まったのは結構でした。さ、みなさまどうぞおはいりくだすって、お茶でもあがってください」
けれどもレストレードが、一刻もはやく犯人を安全な留置場へ送りたがっているので、それから二、三分間のうちに馬車を呼んで、四人で引返すことになった。犯人はひとことも口をきこうとはしないで、乱れた髪《かみ》のかげから私たちをじろじろにらみまわしていたが、一度私の手がどうかしたはずみにそばへいったら、まるで餓《う》えた狼《おおかみ》のようにがぶりとかみつこうとした。
警察へいってからしばらくそこにいるうち、身体検査の結果、二、三シリングの金と、柄《え》になまなましい血のついた長い匕首《あいくち》一ふりのほかには、何も出てこなかったと聞かされた。
「そんなこたアちっともかまいませんよ」わかれる時レストレードがいった。「イタリア人係りの警部にきけば何でも知っていますから、名まえもすぐわかります。見ててごらんなさい、私のマフィア説がすべてを解決してくれますから。それにしても、いかにも鮮《あざ》やかにこの男を捕えてくだすったホームズさんには、ふかく感謝します。どうしてこう上手に捕えられたものか、私にゃさっぱりわかりませんけれどね」
「今日はもうおそいようだから、この説明は見あわせておきましょう。それにまだ仕上げを要することも一、二あります。こいつは最後までやっておく価値のある事件ですからね。明日の六時にもう一度、私のところまで来ませんか。そうすれば君はまだこの事件の真相を知らないでいることを――この事件が犯罪史上ぜったいに前例のない価値を持っているわけを説明してあげますよ。ワトスン君はまだ僕《ぼく》の小事件を記録するつもりならいっとくが、このナポレオンの胸像事件はすばらしいものが出来あがるだろうから、ぜひこいつを書くことにしたらよかろう」
つぎの晩に会ったとき、レストレードは犯人のことをもっと詳しく教えてくれた。名まえはベッポというらしいが、姓はわからない。イタリア人街でも名うてのやくざもので、もとは熟練な彫刻師《ちようこくし》として正直に暮《く》らしていたのであるが、ふと邪道《じやどう》へふみこんでから、二度も刑務所《けいむしよ》へいってきた。一度はつまらない窃盗罪で、一度は同国人を刺した事件だった。英語は完全に話す、胸像を壊《こわ》した理由はまだ不明だが、この問題に関してはかたく口をとざして何も答えない。
しかしこの男はゲルダ商会の工場でこの方面の仕事をしていたことがあるから、これらの胸像は、あるいは彼自身の手になるものであるかもしれない見こみである。――多くはすでに私たちの知っていることばかりであるのに、ホームズは行儀《ぎようぎ》よく耳をかたむけていた。けれども彼をよく承知している私には、耳をかたむけていると見せてその実、彼がべつのことを考えているのがよくわかった。そして好んでかぶっているその仮面のおくに、一種の不安と待ちどおしさとを包んでいるのを看破したのである。だがその時彼はとつぜん、いすのなかでからだを起こして、両眼《りようめ》を輝《かがや》かした。そのとき表のベルが鳴ったのである。と、つづいて階段に足音がきこえ、あから顔にごましおの頬髯《ほおひげ》のある年輩《ねんぱい》の男が部屋へとおされた。右の手に古めかしい旅行鞄《りよこうかばん》をもっていたのを、まずテーブルのうえにおいてから、
「シャーロック・ホームズさんはいらっしゃいますか?」
「レディングのサンドフォードさんですね?」ホームズはにっこりして頭をさげた。
「はい、どうも少しおそくなりましたようで。なにしろ汽車がおくれましたものでな。何か私の胸像のことでお手紙をいただきましたが……」
「いかにも」
「お手紙はここに持って参りましたが、『小生ドヴィヌのナポレオン像の複製一個入手|致《いた》したく存じおり候《そうろう》ところ、貴殿《きでん》ご所有の品お譲《ゆず》り下され候えば、金十ポンド差しあげ申すべく候』とあります。これは事実でございますかな?」
「まったく事実です」
「お手紙を拝見いたして、たいへん驚きいりました。私がそれを持っているのを、どこからお聞きおよびになりましたかと思いましてな」
「さぞびっくりなすったでしょうが、その説明はごく簡単です。ハーディング兄弟店のハーディングさんが、最後にのこったのをあなたにお売りしたといって、あなたのお所を教えてくれたのです」
「ああそうでしたか。それでわかりましたよ。でなんですか、ハーディングは私がこれをいくらで買ったか、値段を申しましたか?」
「いいえ、値段は聞きませんでした」
「そうですか。私はたいしてお金持でもないかわり、正直な人間です。この胸像はじつはたった十五シリングで買った品です。十ポンドでお譲りするのはよいが、そのまえに一応このことを申しあげておくべきだと、こう考えましてな」
「いや、見あげたご精神です。ですが、いったん申しあげたことですから、私はどこまでもそれでお譲りねがいたいと存じます」
「ほう、あなたこそ見あげたご精神。お言葉のとおり像はこれへ持って参りました。どうぞご覧《らん》ください。これです」
サンドフォードは鞄をあけた。そしていままで何度も見たけれど、いつもみじんに壊されたものばかりだったナポレオンの、こんどこそは完全な像のテーブルのうえにおかれたのを、つくづくと私たちは見ることができたのである。
ホームズはポケットから一枚の紙をだし、べつに十ポンドの札《さつ》をテーブルのうえにおいた。
「サンドフォードさん、この二人の証人の見ているまえで、どうぞこの紙に署名してください。単にあなたが今日までお持ちのこの像の、あり得べきすべての権利を私に譲るというだけの文句です。私はいったいに几帳面《きちようめん》な人間ですし、それに今後どんなことが起ころうとも、あなたはぜったいに……ありがとう。ではこの金をお納めください。そしてどうぞご自由に……そうですか、ではさようなら」
客が帰ってからのホームズのすることが、じつに妙《みよう》だった。まず箪笥《たんす》から白いきれいな布をだしてテーブルのうえにのせ、その中央へ買ったばかりの胸像を安置した。それから例の狩猟用の鞭《むち》をとって、英雄《えいゆう》ナポレオンの頭上にガンとはげしい一撃《いちげき》をくらわせたものである。ナポレオンはその一撃によって、たちまちみじんに玉砕《ぎよくさい》した。するとホームズはそのままテーブルに身をかがめて、がつがつした態度でその破片をしらべた。そしてすぐ大きな声で勝鬨《かちどき》をあげ、プディングに入っている乾葡萄《ほしぶどう》のように、くろくて丸いものの食いこんでいる石膏の一片をたかくあげた。
「紳士《しんし》諸君! ボルジア家の有名なる黒真珠《くろしんじゆ》をご紹介《しようかい》申しあげます!」
レストレードも私も、いったんは茫然《ぼうぜん》としていたが、芝居《しばい》の緊張《きんちよう》した場面をでも見るように、たちまち夢中《むちゆう》になって拍手した。ホームズは青じろい顔を紅潮させ、舞台《ぶたい》で観客の敬意をうける大劇作家のように、私たちにむかって頭をさげた。彼《かれ》がちょっとだけ推理機械であることをやめ、人にほめられかっさいされてよろこぶ人間味をみせるのは、こんな時くらいのものだ。俗うけというものを軽蔑《けいべつ》する、へんに自尊心のつよい彼の性質も、一人の友人の心からなる驚嘆《きようたん》とかっさいには、やはりふかい感動を起こすことができるのである。
「諸君! これは世界に現存する真珠のうちで、もっとも有名なものです。私は幸運にも、一連の帰納的推理によりまして、これなる真珠がデカー・ホテルにおいて、イタリアの貴族コロナ公爵《こうしやく》の寝室《しんしつ》より紛失《ふんしつ》いたし、ステプニ区なるゲルダ商会の工場において製作されましたる六個のナポレオン像中最後の一個、すなわちこれなる胸像中に葬《ほうむ》らるるにいたりましたる次第《しだい》をたどり得たのであります。
レストレード君は覚えているでしょう? この黒真珠の紛失した当時の騒《さわ》ぎや、ロンドン警視庁がやっきになって探したけれど、とうとうわからなかったことを。あのときは実は私も相談をうけたのに、ついに何らの光明をも投ずることができなかったのです。当時公爵夫人つきの女中だったイタリア女に疑いがかかって、その女にはロンドンに兄のいることまでわかりましたが、兄と妹のあいだに連絡のあった証拠《しようこ》はとうとうあがらなかったのです。女中の名はルクレチア・ヴェヌチといいました。一昨夜殺されたピエトロこそ、彼女《かのじよ》の兄であるに違いないと私は信じるものです。
そこで新聞によって日時をしらべてみると、真珠の紛失したのは、ベッポが傷害罪でつかまる二日まえのことでした。これはあたかもこれらの胸像の製作されていた当時のことで、このとき工場内である事件がおこりました。これだけ話せば、事件のいきさつが順序をおってすっかりわかるでしょう? もっとも私は逆に、結果からだんだんに源《みなもと》へとさかのぼっていったんですがね。つまりベッポが真珠をもっていたのです。彼がそれをピエトロから盗《ぬす》んだのか、あるいは二人は初めから共謀《きようぼう》していたのか、それともまたベッポは単にピエトロ兄妹の橋わたしをつとめただけなのか、そのへんの事情はいずれが正しいにしても、結果的には大した影響《えいきよう》はありません。
重要な点は、ベッポが真珠をもっていた、そしてちょうどそれを身につけている時に、巡査《じゆんさ》に追われたので、自分の働いている工場へ逃《に》げこんだが、とうてい逃《のが》れられぬと知りました。逃れられぬとすれば、せっかく手にいれた大きな金めの真珠も、捕《つか》まって身体検査をされるとき、発見されるにきまっている。といって、ゆっくり隠《かく》している暇《ひま》はない。わずか数分の余裕《よゆう》しかない。みると廊下《ろうか》にナポレオン像が六個ならべてあって、その一つはまだなま乾《がわ》きで柔《やわ》らかい。そこで腕《うで》の達者な職人であるベッポは、柔らかい像に手ばやく穴をあけて、真珠を押しこみ、さっと二、三度そのうえを撫《な》でて穴をふさいでしまいました。じつに巧妙なかくし場所です。おそらく誰《だれ》にも発見されることはありますまい。
けれどもベッポは暴行のため一年の刑《けい》に処せられました。この入獄中《にゆうごくちゆう》に、そのときの六つのナポレオンは、売られてロンドン市中に散逸《さんいつ》してしまいました。六個の像のうち、どれに真珠がはいっているかは、見ただけでは彼にもわかりません。壊してみるほかはないのです。真珠をかくしたとき、石膏像はまだ濡《ぬ》れていたのですから、乾燥《かんそう》するとともに真珠は孔《あな》のなかへ固着して、振《ふ》ってみたとて恐《おそ》らくはわからなかったでしょう。事実このとおり真珠は固着しています。
ベッポは絶望して投げだしはしませんでした。彼は巧妙に、そして忍耐《にんたい》づよく捜索の歩をすすめました。まず第一にゲルダの工場で働いている従兄弟《いとこ》の手をとおして、あの六個のナポレオンを買った小売店の名をしらべました。そしてモース・ハドスンの店へ店員に入りこんで、三個の像の行方をつきとめました。けれどもその三個のなかには真珠はなかった。そこでこんどはハーディング兄弟の店のイタリア人にたのんで、あとの三個のナポレオンの売りさきを調べてもらいました。その第一がハアカーのところです。ところがここに、かつては相棒であったピエトロが、真珠のなくなったのはベッポの罪だと尾行《びこう》してきました。そして格闘《かくとう》の結果、ベッポはピエトロを刺《さ》して逃げたのです」
「だって相棒だったものが、なんだって写真なんか持っていたのだろう?」私は不審《ふしん》だった。
「追及《ついきゆう》するうち第三者に尋《たず》ねるときの用意に持っていたのさ。わかりきったことだよ。ところでさっきのつづきですが、ベッポはピエトロを殺したのだから、自分の身が危《あや》うくなったわけですが、ほとぼりの冷めるまでこの宝さがしの手をゆるめるか、それとも大急ぎであとの二つを壊してみるかというと、私は彼が後者を選ぶだろうと考えました。真珠の秘密を警察に看破されはしまいかという不安を感じて、さき回りされないうちにと、彼は急いでこれを行なうに違いないのです。
むろん、ハアカーのナポレオンに真珠がなかったと断言はできません。それどころか像のなかにあるのが真珠だということも、まだ確実だとはいえないのです。しかしベッポが何ものかを探していることだけは明らかです。それはベッポが途中《とちゆう》に暗い庭ならいくらもあるのに通りこして、わざわざ明かりのさしている家の庭へ持ちこんで壊しているので知れます。ハアカーのナポレオンは三個のうちの最初の一つだから、そのなかに真珠のありうる機会は、きょうもいった通り三つに一つです。ハアカーのところになかったとすれば、残りは二つだが、ベッポがまず手ぢかの、ロンドン市内にあるのから手をつけるのは、想像にかたくありません。そこで私はその家の人に第二の惨劇《さんげき》をおこさせぬよう注意をあたえておいて、網《あみ》をはりにいった結果、首尾よくベッポを捕《とら》えたのです。
あのときにはむろんもう私には、ベッポのさがしているのがボルジア家の真珠だとわかっていました。殺された男の名まえピエトロ・ヴェヌチが、この事件と黒真珠の紛失とを私にむすびつけさせてくれました。で、のこるところはたった一つ、レディング市のサンドフォード氏のものだけです。真珠はそのなかにあるに決まっています。私は両君の眼前でこれを買いとりました。そしてこの通り真珠が出てきたのです」
私たちはしばしは感にたえず、口もきけなかった。
「なあるほど!」しばらくたってレストレードがやっといった。「私は今日まであなたの取りあつかった事件はいくつとなく見てきましたが、これほど巧妙《こうみよう》に解決されたものはまだなかったと思います。警視庁はけっしてあなたをねたむものではありません。それどころか、あなたのあることをむしろ誇《ほこ》りとしているものです。明日もし警視庁へおいでくだされば、もっとも老練な警部から、末は若輩《じやくはい》の一巡査にいたるまで、あなたの功名に感謝と称賛の握手《あくしゆ》を、心から進んで求めないものは一人としてありますまい」
「ありがとう」といって頭をそらせたホームズの顔に、いつになく温かい感動のうかぶのが認められたが、それも一瞬《いつしゆん》にして消えてしまい、たちまち彼は冷静な理路一点ばりの思考機械にもどってしまったのである。
「真珠を金庫へしまってくれたまえ、ワトスン君。そしてついでにコンク・シングルトン偽造《ぎぞう》事件の書類を出してくれたまえ。じゃさようなら、レストレード君。何か問題でもあったら、いつでも相談にきてください。喜んで解決のヒントを与《あた》えてあげますよ」
[#地付き]―一九〇四年五月『ストランド』誌発表―
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金縁の鼻眼鏡
一八九四年の一年間に私たちのなしたる仕事を記録した、かさばった三冊の手記を手にとってみて、かくも豊富な材料のなかから、どの事件をえらびだせば、はたして読者諸君にもっとも興味があるだろうか、そしてまた、私の友のあの異常な才能をいちばんよく示しうるだろうかと、じつは私も少なからず困難を感じるのである。ページをくるに従って、私はまずあの忌《いま》わしい赤蛭《あかひる》の事件だの、銀行家クロスビーの惨死《ざんし》事件だのの記録を発見する。それからまたアドルトンの悲劇や、イギリス古代塚《こだいづか》の奇怪《きかい》な物語などもこのなかに記載《きさい》されているのである。あの有名なスミス・モーティマーの相続事件もこの年のことである。ブールヴァールの刺客《しかく》ユーレ追跡《ついせき》ならびに逮捕《たいほ》の顛末《てんまつ》もまたしかりである。
この最後にあげた事件においては、ホームズはフランス大統領から自筆の礼状と、|フランス大勲章《レジヨン・ド・ヌール》とを贈られている。これらのどの事件をえらんでも、一つの物語にはなるであろう。しかしながら、ヨックスリーの古館《ふるやかた》のエピソードほど、怪奇にして興味ある点を多く備えているものはないのである。この事件においては、若きウイラビー・スミスの悲しい最期《さいご》があるばかりではなく、犯罪の諸原因に世にも奇怪なる光を投げかけるような発展が順ぐりに起こってくるのである。
それは十一月も終りにちかい、ひどいあらしの夜であった。ホームズと私とは黙々《もくもく》としてその夕方を坐《すわ》りつくしていた。彼は羊皮紙のうえにいったん書いて消したもとの文字を読みとるために、強度のレンズをのぞきとおしていたし、私は私でまた、外科手術に関する最近の論文に読みふけっていた。戸外はといえばベーカー街に風が狂奔《きようほん》し、雨ははげしく窓をうっている。私たちはいま、四方十マイルあまりも人工の極致《きよくち》をつくした市街のただ中にいるはずである。それでいながら鉄のような自然の把握《はあく》を感じ、偉大《いだい》な自然の力のまえには、全ロンドン市も土竜塚《もぐらづか》にもひとしく、ただ地上の一点にすぎないのだなどと、いまさらのように気がつくのは、いかにも奇妙《きみよう》な話である。私は窓のそばへ歩みよると、荒涼《こうりよう》たる街を見わたした。ときどきランプの光が、ひどいぬかるみや、輝《かがや》いている舗道《ほどう》のうえをてらしてすぎる。一台の馬車がオックスフォード街のはずれから、どろをはねながらやってきた。
「ねえ、ワトスン君、今夜は外出しないでよかったね」ホームズはレンズをわきへ押《お》しやり、羊皮紙を巻きおさめながら声をかけた。「家にひっこんでいたにしては、十分の仕事を僕《ぼく》はやったよ。何しろ眼《め》の疲《つか》れる仕事だからね。しかし今までに発見したところでは、十五世紀の後半以来かきつづられた寺院の記録は、さほど面白《おもしろ》いものではないね。おや! おやおや! なんだろう、あれは?」
そうぞうしい風のなかから、馬のひづめの音と、辺石《ふちいし》にきしる車輪の音とが聞こえてきたのである。私のさっき見た馬車が、私たちの家の表で停《と》められるところだった。
「いったい何の用事だろう?」馬車から一人の男が降りたのを見て、私はさけんだ。
「用事! そうだ、僕たちに用があって来たんだ。そして僕たちのほうも、外とうやえり巻や雨ぐつや、この天候と戦うため人類の発明したあらゆる道具に用ができたんだ。しかし、ちょっと待ちたまえ、馬車はかえっていったね。しめしめ、助かったかもしれないぞ。僕たちを迎《むか》えにきた客なら、馬車は待たせておくはずだからね。君、すまないが下へいって、戸をあけてやってくれたまえ。善良な人間なら誰《だれ》だって、もうとっくに寝床《ねどこ》へはいっている時分だからねえ」
ホールのランプの光が、この深夜の訪問客のうえに落ちたとき、私はそれが誰であるかすぐにわかった。それは前途《ぜんと》を期待されている探偵《たんてい》スタンリー・ホプキンズ青年で、彼《かれ》のこれまでの経歴中において、ホームズはしばしば実際的な助力をあたえてやったことがある。
「ご在宅ですか?」彼は心配そうにたずねた。
「あがってきたまえ」ホームズ自身がうえから声をかけた。「しかし今夜のような晩には、なるべく僕たちを煩《わずら》わさないでおいてほしいもんだなあ」
探偵は階段をのぼっていった。部屋へはいるとその防水服がぐっしょりぬれて光っているのに気がついた。私は手つだってそれを脱《ぬ》がせてやった。そのあいだにホームズは、炉《ろ》のなかの丸太を動かして、火をかきたてる。
「さあホプキンズ君、近くよって足さきでも暖ためたまえ。ここに葉巻もある。いまにワトスン君が、レモン入りのあつい飲みものでも処方してくれるでしょう。こんな晩にはあいつが何より薬になるからね。それはそうと、こんなひどいあらしのなかを、わざわざやって来たところをみると、よほど重大な用事なんだろうな」
「まったくなんですよ、ホームズさん。きょうの午後といったら、まるで眼がまわりそうでしたよ、ほんとに。最終版の夕刊で、ヨックスリー事件をなにかごらんになりましたか?」
「きょうは十五世紀以降のことは何一つ見ていないな」
「なあに。標題もない短い記事で、おまけにまちがいだらけなんだから、見なくたっていいんです。私は大活躍《だいかつやく》でしたがね。場所はケント州でチャタム市から七マイル、鉄道線路から三マイルといういなかなんです。私は三時十五分に招電をうけて、五時にヨックスリーの古館へ着き、そこで捜査《そうさ》をすませたうえ、終列車でチャリング・クロス駅へ帰ってくると、その足ですぐ馬車をここへ飛ばしてきたというわけです」
「というと、君の手では解決の見こみがないというんですね?」
「というよりは、どこが頭やら尻尾《しつぽ》やら、私にはさっぱり捕《とら》えどころがないんです。これまでの経過からみて、いままで私の手がけてきた事件のなかで、もっともこんがらがっているものらしいです。それでいて見たところは、まちがえようもないほど簡単なんです。動機というものがまったくわからないんです。私の頭を悩《なや》ましているというのも、その点にあるんですが、つまり動機にとらえどころがないのです。ここに一人の男が死んでいる――これは誰しもうち消せない事実です――ところが、私の調べたかぎりでは、何人《なんぴと》といえどもその男を害することを欲するような理由が、どこにもまったく見あたらないんですからねえ」
「もっと詳《くわ》しく話してみたまえ」ホームズは葉巻に火をつけ、いすにふかくもたれかかった。
「事実は詳しく正確にしらべたんですがね、ただこのうえは、それらの事実がなにを意味するのだか、それが知りたいだけなんです。私の調べたかぎりでは、話というのはつまりこうです。数年まえにコーラム教授と名のる老人が、このいなかのヨックスリー古館を買いとって移ってきました。教授というのは病弱で一日の半分は寝床でくらし、あとの半分は杖《つえ》をたよりに邸内《ていない》をぶらついたり、車いすに乗って、それを庭男に押させて庭を見まわったりしている人です。
訪ねてくる近所の人は二、三人しかありませんが、その人たちには好かれていましたし、付近でも学者だという評判がありました。家族ともいうべきは年とった家政婦のマーカー夫人と、それに女中のスーザン・タールトンの二人きりです。この二人は教授が移ってきたときからいるので、どちらも気立はよい婦人のようです。
ところが、教授はなにかむずかしい本を書いているんですが、一年ばかりまえに、どうしても秘書を一人おかなければならない必要にせまられました。試みに二人ほど雇《やと》ってみたのですが、どちらもうまくゆきません。しかし三人目のウイラビー・スミスという、大学を出るとすぐやって来たごく若い青年が、どうやら教授の気にいりました。仕事は午前中は教授の口述を筆記することで、夜はたいてい翌日の仕事に役だちそうな参考書を読んだり、章句をあさったりしていました。このウイラビー・スミス青年は、アピンガム学院の生徒としても、ケンブリッジ大学の学生としても、いささかも恥《はず》かしからぬ男で、私は彼の推薦状《すいせんじよう》を見ましたが、昔から上品でもの静かでなかなかの勤勉家で、欠点というもののない男なんです。しかもそれが今朝、教授の書斎《しよさい》で、人に殺されたとしか思えない死にかたをしているのですよ」
風はますます猛《たけ》り狂《くる》い、窓をはげしくうち鳴らした。私たちは火のそばへいすをひきよせて、この若い警部のぽつりぽつりと語る不思議な話にきき入った。
「あなたがたが、たとえイギリス中をさがしまわったとしても」とスタンリー・ホプキンズ青年は語りつづける。「あれほど世間とかけはなれて、自己流の生活をしている一家は見あたりますまい。何日たっても、家の人は庭からそとへは一歩も出ることがありません。教授は仕事に没頭《ぼつとう》したきり、仕事以外には存在しない人です。秘書のスミスは近所にひとりも知りあいがありませんから、まるで教授と似たりよったりの隠遁的《いんとんてき》な生活をしておりました。二人の婦人も外へ出なければならないような用事をもちません。
車いすを押す庭男のモーティマーは軍隊の恩給のついている、ごく善い男です。クリミヤ戦争に行ってきたのです。これはみなとは別に、庭のすみの三間あるこやに住んでいます。これだけがヨックスリーの古館に住んでいる人の全部です。なおこの家の門はロンドンからチャタムへ行く街道《かいどう》から百ヤードばかりはいったところにあって、門といっても低い柴折戸《しおりど》のようなものに、ちょっと掛金《かけがね》をかけてあるだけですから、はいろうと思えば誰にでも造作《ぞうさ》なくはいれます。
つぎに女中のスーザン・タールトンの供述を申しあげましょう。この事件で何かしら積極的なことをいい得るのは、この女だけなんです。午前の十一時から正午までのあいだでした。そのときスーザンは二階の表の寝室《しんしつ》でカーテンをかけていました。コーラム教授は天気のわるい日には正午まえに起きることはめったにないので、そのときもまだ寝床のなかにいました。家政婦のマーカー夫人は裏のほうでなにか用事をしていました。秘書のウイラビー・スミスは自分の寝室にいました。そこを彼は居間にも使っていたのです。ちょうどそのとき女中のスーザンはスミスが部屋を出て、自分のいる寝室のま下にある書斎へゆく足音を耳にしました。姿を見たのではないけれど、しっかりした早い足音で、秘書さんに違《ちが》いなかったと女中は断言しています。
書斎のドアをしめる音はしなかったそうですが、はいっていって一分余りもたったかと思うころ、不意にま下の部屋から恐《おそ》ろしい悲鳴が聞こえました。かん高い、のどにからまるような妙《みよう》な声で、男の声とも女の声ともわからないくらいだったそうですが、それにすぐ続いて、家じゅうを屋鳴り震動《しんどう》させるほど烈《はげ》しく、どさっと何かの倒《たお》れる音がして、あとはまたしんと静まりかえったといいます。
女中はちょっとのま化石したようになっていましたが、勇気をふるいおこして、下へ駆《か》けおりました。降りてみると書斎のドアは閉っていました。あけてみると、そこに若いウイラビー・スミスがながくなって倒れているのでした。べつに怪我《けが》をしている様子もないので、抱《だ》きおこそうとすると、首筋の下がわから血がどんどん出ているのを発見しました。傷口はごく小さいのですが、非常に深くて頸動脈《けいどうみやく》が切れていました。それに用いた凶器《きようき》はすぐそばの敷物《しきもの》のうえに転がっていました。古風なデスクのうえなどによく見かける、象牙《ぞうげ》の柄《え》のついた刃《は》のかたい、封蝋《ふうろう》用の小さなナイフの一種で、コーラム教授の机の上の備品の一つです。
はじめ女中は、スミスはもう死んでいるのだと思いました。でも水さしの水をすこし額にそそいでみると、ちょっとだけ眼をあけて、『先生、あの女です……』とかすかな声をもらしました。この通りの言葉だったと、これも女中が断言しています。スミスはなおもしきりに何か言おうとしましたが、何もいうことができず、右の手をたかくあげただけで、そのままうしろへ倒れて息がたえてしまいました。
一方、家政婦のマーカー夫人もその場へかけつけましたが、これはスミスのいまわの言葉を聞くには間にあわなかったそうです。家政婦は死体をスーザンにまかせておいて、教授の部屋へ駆けつけました。教授は騒ぎを聞きつけて何か恐ろしいことが起こったと知って、おろおろして寝台のうえに起きなおっていました。そのとき教授はまだ寝衣《ねまき》のままだったとマーカー夫人が断言していますが、じっさい教授はモーティマーの手を借りなければ着がえはできないので、その日モーティマーは十二時に手つだいに行くようにと申しつかっていました。教授自身はとおくで悲鳴を聞いたけれど、それ以上のことは何も知らないと断言しています。そしてスミスの最後にもらした『先生、あの女です……』という言葉がなにを意味するか、まったく判断がつかないけれど、想像するに単なる譫語《うわごと》ではあるまいかといっています。
教授はまた、ウイラビー・スミスに敵なんかあろうとは信じられないし、なんでこんなことになったのか、まったくわからないといっています。教授がこの惨事《さんじ》を知って最初にとった行動は、庭男を土地の警察へ走らせたことです。少したって、刑事《けいじ》部長から私に迎えがきました。私のいった時はまだ現場には少しも手がつけてなく、家に通ずる小路《こみち》はけっして誰も歩いてはならぬと厳命されていました。ですからホームズさん、これはあなたの持説を実地に応用するには絶好の機会なんです。すべて欠けるところがないんですからね」
「シャーロック・ホームズ君が欠けているだけでね」とホームズはいくらか皮肉な微笑《びしよう》をみせて、「ま、そのさきを聞きましょう。それで君はどういう処置をとったんです?」
「そのまえにホームズさん、この略図をみてください。教授の書斎の位置や、その他事件に関係のあるいろんな点がわかりますから、私の話をお聞きくださるのに参考になります」
[#挿絵(img\272.jpg)]
スタンリー・ホプキンズ警部はここに掲《かか》げたような略図をだして、ホームズのひざのうえにひろげた。私は立ってホームズのうしろへ回り、肩《かた》ごしにそれをのぞきこんだ。
「これはむろんだいたいの見とり図で、私が重要だと思ったところだけしか書いてありません。あとは向うへいってから、ご自分でごらんになってください。そこで、まず第一に犯人がそとから入りこんだものとすると、どこからはいったでしょうか? むろん庭の小路からきて裏口からはいったものです。そこからはいれば書斎に直通の廊下《ろうか》があります。ほかのところからきたのでは、こう簡単にはゆきません。
逃《に》げるのも、むろんここから逃げたのです。なぜというに、この書斎からの逃げみちは裏口をのぞいて二つありますが、その一つである階段は、駆けおりてくる女中スーザンのため阻《はば》まれていますし、もう一つはまっすぐ教授の寝室に通じているからです。そこで私はまず庭の小路に注意をむけました。小路はこの雨でしっとり水を含《ふく》んでいますから、通ったものがあればかならず足跡《あしあと》があるはずです。
調べてみた結果、犯人は注意ぶかい、そういうことには場数をふんだやつだということがわかりました。小路には一つも足跡がないのです。しかも、小路をふちどる草のうえを歩いたものがあって、それは足跡をのこさないため故意にそうしたのであることは、一点疑いの余地がありません。はっきり足跡だといえるものは一つもありませんが、草がふみにじられて、たしかに誰か歩いたものと思われます。その朝は庭男をはじめ誰もそこを歩いた者はないといいますし、雨はまえの晩夜に入ってから降りだしたものですから、それが犯人であるのは明らかです」
「ちょっと待ってください」ホームズが言葉をはさんだ。「この小路はどこへ通じているんです?」
「街道へです」
「どのくらいあります?」
「百ヤードかそこいらです」
「小路の門のところには、足跡が見つかったでしょう?」
「ところが不幸なことに、小路はそこのところだけタイルが敷《し》いてあるんです」
「じゃ街道には?」
「街道は足跡だらけで、ぐちゃぐちゃです」
「ちえッ! しようがないな。じゃ草のうえの足跡は出た跡ですかはいった跡ですか?」
「どっちともいえません。足跡といっても輪郭《りんかく》なんかないんですから」
「大きい足跡ですか? 小さいのですか?」
「それもわかりません」
ホームズはたまりかねて舌うちした。「それ以来ずっと雨が降ったり暴風が吹《ふ》きあれているんだ。いまはあの羊皮紙を読むよりもむずかしいだろうな。まあ仕方がない。そこでホプキンズ君、なに一つ確かめられないと確かめてから、君はいったいどうしました?」
「いや、私はかなりいろんな問題を確かめたつもりですよ。まず第一に、何ものかがきわめて注意ぶかく、家のなかへ入りこんだことを知りました。そしてつぎに廊下を調べました。廊下は椰子表《やしおもて》をしきつめてありますから、足跡なんか一つもありません。廊下から書斎へはいってゆきました。書斎はがらんとした家具のすくない部屋で、大箪笥《おおだんす》つきの巨大《きよだい》なつくえ一つが主なものです。この大箪笥は中央に小さいとだながあって、両がわは引きだしになっています。引きだしはあいていましたが、中央の戸だなにはかぎがかけてありました。引きだしには大切なものがはいっていないので、いつも開けてある様子です。戸だなのほうには大切な書類がはいっていますが、これは開けようとした様子はなく、教授はなにも紛失《ふんしつ》したものはないといっています。事実金品を盗《ぬす》んでいないことは確かです。
こんどは死体です。死体は大箪笥のそばにありました。ちょうどこの図面にあるとおり、その左がわです。刺《さ》された場所は首筋の右がわで、傷は後方からななめに前へ向かっています。ですから自殺でないことだけは確かです」
「ナイフのうえに倒れたのでない限りね」ホームズが注釈を加えた。
「ほんとです。私も一度はそれを考えたのですが、ナイフは死体から数フィートもはなれたところに落ちていましたから、そんなことはあり得ません。いわんや死にぎわに口にした言葉もあることです。そして最後に、きわめて重大な証拠品《しようこひん》がここにあります。死体がかたく手に握《にぎ》っていたものです」
こういってスタンリー・ホプキンズ警部は、小さな紙包をポケットから出した。紙をひろげたのをみれば、黒い絹ひもの切れっぱしが二本ついた金縁《きんぶち》の鼻《はな》眼鏡《めがね》である。
「ウイラビー・スミスはすぐれて眼のいい男でした。これは犯人の顔からか、あるいは胸へぶらさがっているのを帥《むし》りとったものに違いありません」
シャーロック・ホームズは眼鏡をとりあげて、注意ぶかくきわめて熱心に検査した。それから自分でそれをかけて何か読んでみ、窓のところへいってそとをながめ、こんどははずしてランプのそばでもう一度ていねいに調べ、最後に会心のふくみ笑いをしながらテーブルに向かって一枚の紙を広げ、何かを数行かきつけ、それをスタンリー・ホプキンズに押《お》しやった。
「これが君のためになし得る最善のことです。たぶん何かの役にはたつと思いますがね」
若い警部は面くらって、大きい声でそれを読みあげた。つぎのような文句である。
[#ここから1字下げ]
尋《たず》ね人――応対話しぶりよき貴婦人風の女、鼻《はな》いちじるしく肥厚《ひこう》し両眼の位置鼻に接近す。額にしわありてものを凝視《ぎようし》する癖《くせ》あり、ねこ背《ぜ》ならん。最近数カ月内にすくなくとも二回眼鏡商に足をはこびたる形跡《けいせき》あり、眼鏡はいちじるしく強度にして眼鏡商はその数さして多からざるものなれば、捜査には困難なかるべし。
[#ここで字下げ終わり]
ホームズはホプキンズの面くらっているのを見てにやりとした。その微笑はたちまち私の顔に反映して、不思議そうな表情となったにちがいない。
「なあに、この推定なんか単純そのものなんだよ。いったい眼鏡くらい推定の材料にいいものは、ちょっとほかには見あたるまいと思うね。しかもこんなに著《いちじる》しい特徴《とくちよう》まである眼鏡なんだものねえ。これが女持ちだということは、その華奢《きやしや》な点と、それにむろんスミスの死にぎわの言葉から推定できる。その女が上品で服装《ふくそう》がいいというのは、これみたまえ、この眼鏡の金縁はメッキじゃない。これくらいの眼鏡をかける女なら、ほかの点でみすぼらしいはずがないからだ。
それから、かけてみればわかるが、鼻をつかむ部分の幅《はば》がたいへん広い。これすなわち女の鼻が、上部で非常に横にひろがっていることを示すものだ。この種の鼻はみじかくて下卑《げび》ているのが普通《ふつう》だが、ずいぶん例外もおおいことだから、この場合そこまで独断するのは控《ひか》えておこう。僕《ぼく》の顔は細面《ほそおもて》のほうだが、それでもこの眼鏡の左右の玉の中心|距離《きより》は僕にはせますぎる。だから女の眼は、よほど鼻のほうへ寄っているものと思われる。ワトスン君見たまえ、この眼鏡は近眼鏡で、それもいちじるしく強度だ。視力が長いあいだこんなに弱い女というものは、そういうものに独特の肉体的特徴があらわれる。その特徴はひたいや眼瞼《まぶた》や背なかに現われるものだ」
「そうだね。君のいうことはいちいちもっともだ。しかし眼鏡屋へ二度いっているというのだけは、どうして知れるんだか、僕にはわからないねえ」
「見たまえ」ホームズは眼鏡をつまみあげて、「止め金には鼻へのあたりを柔《やわ》らげるため、うすいコルクがはってある。そしてその一方はすこし色がついて擦《す》れているが、一方はまだ新しい。新しいほうは脱《と》れたから、つけかえさせたんだ。ところが古いほうのもまた、つけてから数カ月はたたないものと僕は判定する。しかも二つはまさに同種のもので、ちゃんとそろっている。だから同じ店へ二度なおさせに行ったものと推定したんだ」
「ふむ、じつに驚嘆《きようたん》すべき明察です!」ホプキンズが感じいって嘆息した。「私はちゃんと証拠を握っていながら、それに気がつかなかったとは、なんという! もっともロンドン中の眼鏡屋をまわってみようとは私も考えていたところですけれどねえ」
「むろんそうするんですね。ところでまだ何か話してくれることがありますか?」
「ありません。これで私の知っていることはすっかりご承知になったはず……いや、私以上にご承知になったことでしょう。付近の街道筋や駅などで、見なれぬ人を見かけたものはないか、調べてみましたけれど、いまのところそんなものは現われていません。私のいちばん苦しんでいるのは、犯人の目的がまったく不明なことです。これっぱかりも動機というものがわからないんですからねえ」
「ふむ、その点になると、僕もどうしてあげることもできないなあ。しかしあす現場へいってくれというわけなんでしょう?」
「ご迷惑《めいわく》でしょうが、ホームズさん、どうかお願いいたします。チャリング・クロス駅から六時にチャタムゆきが出ます。それでゆけば、八時すぎ、九時までにはヨックスリーの古館《ふるやかた》へ着けるでしょう」
「じゃそれで行きましょう。この事件はたしかにたいへん面白《おもしろ》いところがある。僕は喜んで参加しますよ。どれ、もう一時まえですね。すこし眠《ねむ》っておくほうがいい。暖炉《だんろ》のまえでソファに横になって、よろしくやってください。ゆくまえにアルコール・ランプでコーヒーを入れて、ごちそうしますよ」
翌日は風もすっかりおさまっていたが、それでも私たちには辛《つら》い朝発《あさだ》ちであった。ながい陰気《いんき》なテムズ下流の区域、それに接する陰惨《いんさん》な沼地《ぬまち》のうえから、冷たい冬の太陽のあがるのを見た。こうした光景をみるといつでも、私たちの共同生活の初期のころ、ここで|ア《*》ンダマン島の土人を追跡した折のことが【訳注 「四つの署名」参照】連想される。――ながい、あきあきするほどの乗車ののち、私たちはチャタムから数マイル手まえの小さな駅で汽車を降りた。駅の宿屋で馬車の用意をしてくれるあいだに、急いで朝食をかきこみ、すぐに仕事にかかれる用意をととのえて、いよいよヨックスリー古館へと向かった。着いてみると館の門のところに巡査《じゆんさ》が待っていた。
「や、ウィルスン君、なにか新事実があがりましたか?」ホプキンズが声をかけた。
「いいえ、なんにもございません」
「不審《ふしん》な人物に関する報告も?」
「はい。駅では、昨日は顔を知らぬ客の乗降はなかったといっています」
「宿屋は調べてくれましたか?」
「はい、調べましたけれど、不審な人物は一人もおりませんでした」
「ふむ、チャタムまでなら歩いたってそう遠いわけでもないから、どんな者が宿屋へ泊《とま》りこむかもしれず、またそっと汽車で逃げても困る。一つそっちを頼《たの》むよ。――これが私の申した小路ですよ、ホームズさん。昨日ここに足跡のなかったことは、私が保証します」
「草のうえをふんだ跡というのは、どっちがわですか?」
「こちらがわです。小路と花壇《かだん》とのあいだの、このせまい草のうえです。いまは跡形もありませんが、昨日ははっきり残っていたんです」
「そうでしょうね。ふむ、誰《だれ》が歩いたんでしょう」とホームズは草のうえに身をかがめながら、「あの婦人はよほど注意ぶかく草のうえを拾って歩いたのに違いない。ちょっとふみはずせば一方は足跡がのこる小路だし、一方は花壇で土が柔かいからいっそう危い」
「そうですよ。よほど心の落ちついた女にちがいありませんよ」
「逃げるときもここを通ったにちがいないといいましたね?」ホームズの顔にちらりとむずかしい表情の現われるのを私は見た。
「そうです。ここよりほかに逃げ路はないんですからねえ」
「このほそい草の帯のうえをねえ?」
「むろんそうですよ」
「ふむ、それは注目すべき芸当だな。きわめて注目すべき芸当だ。ところで小路はこれで見つくしたようだから、さきへ行ってみましょう。この庭口の戸はいつも開けてあるんでしょうね? するとこのお客さん、造作もなくなかへはいりさえすればいいわけだ。女は殺すつもりで来たのではなかった。殺すつもりなら、なにか凶器《えもの》をもってくるはずだが、つくえのうえのナイフでやっている――この廊下づたいに奥《おく》へゆく。椰子表《やしおもて》がしいてあるから、足跡はのこらない。そしてこの書斎《しよさい》にはいる。ここにはどのくらい居たものかというと、それを判定すべき方法がない……」
「数分間以内ですよ。いうのを忘れていましたけれど、家政婦のマーカー夫人がそのすこしまえまで、十五分くらいまえだといっていますが、ここを掃除《そうじ》していたのだそうですから」
「なるほど、それで時刻は限定できる。そこで女はこの部屋へはいった。そしてどうするか? まずつくえのところへゆく、何のために? 引きだしのなかのものが目的ではない。なにか盗《と》る価値のあるものが入れてあるなら、かぎをかけておかないはずがない。そうでなく、あの戸だなの中の物が目的だったのだ。おや! 表面に引っかいたきずのあるのはどうしたことだ? ワトスン君、ちょっとマッチをすってくれたまえ。ホプキンズ君、どうしてこれを話してくれなかったんです?」
ホームズの注意をひいたのは、かぎ穴の真ちゅうの部分からはじまって、ニスをぬった表面を四インチばかりかきおこしたきずである。
「気がついていたんです。しかしかぎ穴のまわりにはいつでもきずはあるもんですからねえ」
「このきずは新しい。ごく新しい。きずの部分の真ちゅうが光っているのを見たまえ。ふるいきずならこんなに光らないで、表面とおなじ色をしているはずですよ。ちょっとこのレンズでのぞいてみたまえ。畑の畝《うね》のように、ニスがまだ両がわに盛《も》りあがっていますよ。――マーカーさんはいませんか?」
声に応じて、陰気な顔つきの初老の婦人がはいってきた。
「マーカーさん、きのうの朝、この大箪笥《おおだんす》にはたきをかけましたか?」
「はい、かけましてございます」
「そのときこのきずに気がつきましたか?」
「いいえ、気づきませんでした」
「そうでしょう。はたきをかければ、ニスのくずなんか飛んでしまうはずですからね。この大箪笥のかぎはだれがもっていますか?」
「先生が時計のくさりにつけていらっしゃいます」
「普通のかぎですか?」
「いいえ、チャブ式のかぎでございます」
「ありがとう。もうあっちへ行ってもよろしい。すこしずつわかってきましたね。女はここへはいってきて、まっすぐに大箪笥のところへゆく。そしてそれを開けたか、または開けようとする。そこへウイラビー・スミスがとつぜんはいってくる。急いでかぎをぬこうとして、このきずをこさえる。スミスはいきなり女につかみかかる。すると女は手ぢかのものをつかんで、手をはなしてもらいたさに、やにわにスミスを突《つ》く。偶然《ぐうぜん》にもそれがこのナイフだったので、女の一撃《いちげき》はスミスに致命傷《ちめいしよう》となり、倒《たお》れるのを見すてて女は逃げる。目的の品を手に入れてか、また入れ得ないでか、それはまだわからない。――スーザンはいますか? ああ、君が悲鳴をきいてから、ここへ駆《か》けつけるまでに、誰かその戸口から逃げだす余裕《よゆう》があったと思いますか?」
「いいえ、そんな暇《ひま》はございません。階段を降りますまえにも、うえからこの廊下が見とおしなんでございますから。それにまた、ドアがあきますれば音が聞こえますはずですのに、私はそんなものは聞きませんでした」
「それでこの出口は決定した。すると女は来たときとおなじ口から逃げたものに違《ちが》いない。そしてこっちの廊下は教授の部屋へしかゆけないんだね? それともどこかに出口でもあるの?」
「いえ、ございません。先生のお部屋で行きどまりでございます」
「じゃそっちへいって、教授にお目にかかるとしよう。や、や、ホプキンズ君! これは見のがせませんぞ! ぜったいに見のがせません。教授の部屋へゆく廊下にも、椰子表がしいてある」
「そうです。それがどうしましたか?」
「事件に関係があるとは思いませんか? ふむ、ま、しいて固執《こしつ》するのは見あわせておきましょう。私がまちがっているのかもしれない。それにしても私の眼には暗示的にうつりますがねえ。さ、それじゃ教授に紹介《しようかい》してください」
廊下は庭へ出るほうのと同じくらいの長さだった。それを行きつくすとちょっとした階段があって、のぼりつめたところにドアがあった。ホプキンズはノックしてからそれを開け、私たちを教授の寝室《しんしつ》へ通してくれた。
そこはおびただしい書籍《しよせき》をぎっしりと並《なら》べた大きな部屋だった。たなにあまったのは隅々《すみずみ》に山と積んだり、たなによせかけて床《ゆか》のうえにずらりと並べたりしてあった。寝台は部屋の中央にすえて、この家の主人がそのなかに、枕《まくら》や多くのクッションに支えられて、からだを起こしていた。私はこんな異様な人物をあんまり見たことがない。私たちのほうへ振《ふ》りむけられたのは、やせた、鷲《わし》のような顔で、眼《め》はくろみがかって鋭《するど》く、ふさふさ垂れたまゆ毛の下の洞穴《ほらあな》の奥ふかく潜《ひそ》んでいる。かみもひげもまっ白だが、ひげのほうが口のまわりだけ妙《みよう》に黄いろく染まっている。そして垂れさがった白毛《しらが》のなかで、巻|煙草《たばこ》の火がぽっと弱く光っているのである。部屋のなかは空気が煙草の煙《けむり》でにごって臭《くさ》く、ホームズにさしのべた手をみれば、それもニコチンで黄いろく染っていた。
「ホームズさんは煙草をおやりでしょうな?」教授は洗練されたなまりのない英語に、すこし気どったアクセントをつけていった。「どうぞ巻煙草をおとりください。あなたもどうぞ。これはアレキサンドリアのイオニデス商会に注文してとくに巻かせたものですから、悪くありません。一時に千本ずつ取りよせますが、困ったことに二週間ごとに送らせなければならない始末でしてな。からだには悪いです。よくないと承知はしているものの、老人にはほかに楽しみもありませずな。煙草と仕事――いまではこれだけが楽しみですわ」
ホームズは巻煙草に火をうつして、ちらりちらりと、部屋中まんべんなく鋭い視線をはせていた。
「煙草と仕事と申しましたが、それもいまは、煙草だけになってしまいました。ああ、なんという情けないことになったものでしょう! こんな恐《おそ》ろしい災難に見まわれると誰が予想しましょう? 思いがけなくもあんな立派な青年が! わずか二、三カ月の訓練で、あの男は感服すべき助手になってくれたほどです。ホームズさんはこの事件をどうお考えになりますかな?」
「まだ何とも考えはきまりません」
「すべてわれわれは五里《ごり》霧中《むちゆう》なのですから、そこへあなたが光明を投じてくだすったら、こんなありがたいことはありません。私のように哀《あわ》れな、病弱な本の虫は、こんな打撃をうけるとどうしたらよいやら、ただ茫然《ぼうぜん》とするのみです。あれ以来私は、考える力も失《う》せたような気がしますよ。しかしあなたは活動家です。事件には慣れていらっしゃる。あなたにはこんなことは、日常茶飯事《にちじようさはんじ》にすぎません。どんな危急の場合にも、びくともなさるかたではない。あなたのようなかたにおいでいただいた私どもは、ほんとうにしあわせというものです」
老教授のしゃべり続けているあいだ、ホームズは部屋のなかを、一方の壁《かべ》に沿《そ》って往《い》ったり来たり、しきりに歩いていた。私は彼《かれ》が非常にはやく、どんどん煙草をふかしているのに気がついた。この家の主人の好みの巻きたてのアレキサンドリア煙草が、大いに気にいったのにちがいない。
「まったくですよ。立ち直れない程の打撃というものです」老人はまたしゃべりつづける。「そこの小机に積んであるのが、私の大著述ですが、シリアおよびエジプトのコプト派|僧院《そういん》で発見された文書を分析《ぶんせき》するのでして、天啓教《てんけいきよう》すなわちユダヤ教とキリスト教の根本にむかって深くきりこむ労作なのです。それがこんなことで助手を捩《も》ぎとられてしまっては、何しろこの通り健康をいちじるしく害してはいるし、生きているうちに完成するかどうかも怪《あや》しくなりました。――おやおや、ホームズさん、あなたの煙草のあがりかたの早さには、いかな煙草ずきの私もかないませんな」
「私はこれでも煙草は玄人《くろうと》ですよ」ホームズはにっこりしてまた一本――これで四本目だ――箱《はこ》からつまんで吸いがらから直接火をうつしながら、「あなたは当時|寝《ね》ていらしたということで、何もご承知ないはずだと思いますから、くどくどお尋ねして煩《わずら》わすつもりはありませんが、ただ一つ、死んだ秘書が最期《さいご》にあたって漏《も》らした『先生、あの女です』という言葉は何を意味するとお考えになりますか、その点だけお伺《うかが》いしたいと思います」
教授は頭をふって、「スーザンはいなか娘《むすめ》です。ああいった種類の女のうそのような愚《おろ》かしさは、あなたもよくご承知でしょう。スミスがなにかとりとめもない譫語《うわごと》を口走ったのを、スーザンがそんな勝手な文句に聞きとりでもしたのじゃろう」
「なるほど。するとあなたはなぜこんなことになったか、想像もおつきにならないのですね?」
「おそらくあやまちですよ。この場かぎりの話ですがな。もしかしたら自殺かもしれん。若いものは人にいえない悩《なや》みをもっているものです。心の悩み――おそらくわれわれにも永久にわからない悩みですな。そのほうが他殺と考えるよりも、はるかに有りうべき想像ですな」
「でもあのめがねは……?」
「ああ、私は単に一学究――夢《ゆめ》を追う人間にすぎません。私には人生の実際問題など解明する力はないのです。しかしですな、愛の葛藤《かつとう》というものが、ときに意外なかたちをとって現われるものだくらいは、わからぬでもありません。ま、どうぞ、もっと煙草をおとりください。この煙草をこんなにもお認めくださるかたがあるとは、じつに愉快《ゆかい》です。扇《おうぎ》、手袋《てぶくろ》、めがね――ひとりの人間が生を終ろうという時のことです。どんな品物を形見として身につけていることか、または秘蔵していることか、そんなことは誰にもわかることじゃありますまい。このかたは草のうえの足跡のことをいわれるが、要するにそうしたものは見あやまりやすいものです。ナイフのことにしてもです。スミスが倒れる拍子《ひようし》にとおくへ飛ぶことだって、ありうるでしょう。子供のようなことをいうとお考えかもしれませんが、私にはウイラビー・スミスはわれとわが命を縮めたのだとしか考えられません」
ホームズはこの説にいたく感銘《かんめい》をうけたらしく、なおしばらくはつぎからつぎと煙草を煙にしながら、じっと考えこんで、部屋のなかを往きつもどりつしていたが、
「コーラム先生、書斎の大箪笥の戸だなのなかには何がはいっているのですか?」
「泥棒《どろぼう》のほしがるようなものは一つもはいっていません。私一家に関する文書の類や、亡妻の手紙や、名誉《めいよ》の大学の学位|免状《めんじよう》などがはいっているのです。ここにかぎがありますから、どうぞ自由にごらんください」
ホームズは教授のさしだしたかぎを手にとって、ちょっと見ただけで、すぐに返した。
「いや、拝見しても無益でしょう。それよりも一度庭へ出て、事件ぜんたいを静かに頭のなかで考えなおしてみたいと思います。あなたのおっしゃる自殺説にたいしても、何とか申しあげなければなりますまい。どうもお邪魔《じやま》いたしました。それではひるご飯のおすみになるまでは、どうぞごゆっくりお休みください。二時になったら参って、その後のことを報告申しあげます」
ホームズはへんにうわの空であった。私たちは黙《だま》って、彼のするなりにしばらく庭の小路を往ったりきたり歩いていたが、ついに私は我慢《がまん》がしきれなくなった。
「ホームズ君、何か手掛《てがか》りはあるのかい?」
「手掛りは僕のすった煙草しだいだ。とんでもない見当ちがいということもあり得《う》るけれど、いずれにしても煙草がそれを明らかにしてくれる」
「えッ、なんだって? いったいどうして……」
「まあまあ、いまにわかるよ。まちがったとしても、害を流すようなことはない。むろん、いけないとなればいつでもめがね屋の調べから出なおすという手はあるが、できさえしたら近道をとることだ。ああ、家政婦のマーカー婆さんがきた。何か教えられることがあるだろうから、五分間ばかり相手になってやろうよ」
ホームズは、気が向きさえすれば、妙にうまく女にとり入る術《すべ》を心得ており、きわめてやすやすと打ちとけさすことは、まえにも説明したことがあるかもしれない。いまも五分間の半分もたたないうちに、すっかり家政婦と仲よしになってしまい、年来の友だちであるかのように談笑しているのであった。
「はいはい、おっしゃる通りでございますよ、ホームズさん。それはそれは、あきれかえるほど煙草をめしあがります。一日じゅう、どうかしますとひと晩じゅうあがっていますよ。いつかも朝お部屋へ参りますと、なんて申しますか、そうです、まるでロンドンの霧《きり》のようでございましたよ。亡《な》くなりましたスミスさんも、やはり煙草はあがりました。でも先生ほどにひどくはございませんでした。おからだに――さあ、煙草はおからだにどうでございますか、私にはわかりませんです」
「ふむ、だが食欲はたしかに殺《そ》がれるね」
「さあ、どうでございましょうか?」
「先生はほとんど何も召《め》しあがらないだろうね?」
「そう、むらがございますね。こんどそう申しあげてみましょう」
「ひとつ賭《か》けをしようか? 先生は今朝はなにも食べなかったし、あんなに煙草をやったあとだから、きっと昼ご飯も手さえつけないに違いないね」
「ほほほ、ちがいましたよ。けさなんかびっくりするほどたくさん召しあがりました。あんなに召しあがったのは、私もついぞ存じあげませんわ。そしてお昼には、カツレツをたくさん出せとおいいつけでございました。私なんか昨日あのお部屋へいって、スミスさんの倒れているのを見てからというもの、食べるものを見るのもいやなくらいですのにねえ。でも十人|十色《といろ》とか申しますから、先生はあんなことで食欲をなくしたりなんかなさらないんでございましょうね」
私たちは庭をぶらぶらして午前中を過ごした。スタンリー・ホプキンズはチャタム街道《かいどう》で前日の朝、見なれぬ女を見かけた子供たちがあるといううわさをたしかめに、村へ出かけていった。ホームズはといえば日ごろの精力はどこへやら、すっかりめいりこんでいる。彼が事件を扱《あつか》うのに、こんなに気のない態度をみせたことは、ついぞその例がなかった。
ホプキンズが帰ってきて、子供をさがしあてて尋《たず》ねたら、ホームズのいったのとぴたりの人相の、鼻眼鏡だか耳眼鏡だかの女を確かにみかけたということだったと報告したが、それでもホームズは一向つまらなそうにしていた。それよりも昼食の給仕をしてくれたスーザンが、スミスさんはきのうの朝散歩にでて、その事件の三十分ばかりまえに帰ったばかりだったと思うという話をやりだした時のほうが、まだしもはるかに気をいれて聞いていたくらいだった。それが何を意味するのか、私にはわかりもしなかったが、ホームズがその事実を頭のなかで組みたてている事件のなかへ、適当に織りこみつつあるのだということだけはわかった。と、不意にホームズは席をたって、時計を見てさけんだ。
「諸君、二時になった。さ、教授の部屋へいって、ひと談判しなけりゃならない」
老教授はちょうど昼飯をすませたところだった。空になった皿《さら》をみて、教授の食欲がいいといった家政婦の言葉の、偽《いつわ》りでないのが知れた。はいっていった私たちのほうへ、まっ白な頭とらんらんたる眼をむけた教授の形相は、うす気味わるかった。年中はなしたことのない煙草は、いまも口さきで燻《いぶ》っている。いつのまにかちゃんと服を着て、暖炉《だんろ》にちかいひじかけいすにおさまっていた。
「どうですホームズさん、まだ事件のなぞはとけませんかね?」
教授はテーブルのうえの、煙草のはいっている大きなブリキかんをホームズのほうへ押《お》しやった。ホームズは同時に手をのばして、大きなかんをとろうとしたが、どうしたはずみかひっくり返してしまった。私たちは大急ぎでひざをついて、途方《とほう》もないほうまでころげていった巻煙草を拾いあつめた。すっかり集めて立ちあがったとき、私はホームズの双眼《そうがん》が怪しくかがやき、両頬《りようほお》がぽっと紅潮しているのをみた。こうした戦闘旗《せんとうき》のかかげられるのは、いよいよ事態のさしせまった場合にのみ見られることなのだ。
「コーラム先生、いまこそなぞはとけましたよ」ホームズはしずかにいった。
スタンリー・ホプキンズと私はびっくりして眼を見はった。老教授のやつれた顔には、何かしら冷笑ににたものがうごいた。
「ほほう、庭でねえ?」
「いいえ、ここです」
「ここで? いつ?」
「たったいまです」
「冗談《じようだん》をいっておいでなのだろうが、それならそれで致《いた》しかたないから、ご注意までに申します。これは冗談をいうには、あまりに重大問題ですぞ」
「私は鎖《くさり》のひと環《かん》ひと環を鍛《きた》えに鍛えて、万全を期しているのです。ぜったいに間違いではないのです。あなたにどんな動機があったか、はたまたこの奇怪《きかい》な事件にどの程度まで関与《かんよ》しておいでですか、それは私にもまだわかりません。その点はこれからあなたのお口を通して承知できるものと考えます。それに先だって、あなたのため、事件の経過を私から述べることにいたしましょう。そういたせば、私のまだ知らないことが、何と何であるか、あなたにはおわかりになりましょうからね。
昨日、一人の婦人があなたの書斎《しよさい》にはいりました。目的はあの大箪笥《おおだんす》のなかにある、ある文書を手に入れることにあります。かぎはべつに持っていました。たまたま私はあなたのかぎを拝見する機会を得ましたが、大箪笥の金具のニスにきずをつけたためできたはずの変色が見られませんでした。ゆえにあなたは従犯ではなく、婦人は、証拠《しようこ》の示すところに従えば、あなたには無断で文書を盗《ぬす》みにきたものと考えられます」
「これははなはだ興味あるお話をうかがうものですな」教授は煙草の煙をぱっとはいて、「お話はそれだけですか? その婦人の行動がそこまで突きとめられたのなら、それから先どうなったかも、おわかりになりそうなものじゃないですか?」
「だんだんに申しあげるようにします。でまず書斎において、その婦人はあなたの秘書スミスにつかまりました。そこで逃《のが》れるためスミスを刺《さ》したのです。この悲劇は一個の不幸なる偶発《ぐうはつ》事故だと私は見なすものです。その理由は、その婦人にはこのような極悪の害意は、はじめからなかったと信じるからです。殺意をいだくものならば、素手《すで》でくるはずがありません。婦人は自己の行為《こうい》におどろくあまり、その場を夢中で逃《に》げだしました。が、不幸なことに争闘中めがねを失いましたが、極度の近眼ですから、めがねがなくてはどうすることもできません。くるとき通ったと思う廊下《ろうか》を駆けだしてゆきますが、両方とも椰子表《やしおもて》がしきつめてあるので、ちょっと間違いに気がつきません。気のついたときはもう遅《おそ》すぎて、進みも退きもできません。どうしたらよいでしょう? 退路はすでに断たれていますから、いまさら後へはひけません。といって廊下にぐずぐずしてもいられない。ただ先へ進んでみるの一途あるのみです。彼女《かのじよ》は進みました。階段をのぼって戸をあけました。そしてこの部屋へはいってきたのです」
老教授は坐《すわ》ったなり口をあけて、穴のあくほどホームズの顔を見ていた。表情の多い顔に驚《おどろ》きと不安がきざみつけられていた。だがようやくそれを制すると、肩《かた》をすくめてふてくされた態度で、作り笑いをしながら、
「りっぱなお説です。しかしその立派なお説のなかにも、たった一つだけほんの小さな欠点がありますな。この部屋には当日私がいました。しかも一度もそとへは出なかったのですよ」
「それはよく承知しております」
「とおっしゃると、私はその寝床《ねどこ》に横になっていながら、その婦人のはいってきたのに気がつかなかったとでもいうのですかな?」
「そうは申しておりません。あなたはお気がついた。その婦人と話もなすった。その婦人が何ものであるかご承知でした。そしてその婦人を助けて、逃がしてやったのです」
教授はふたたび甲《かん》だかい声で笑った。そのときは立ちあがっていたが、両眼は火のように燃えていた。
「あなたは気ちがいだ! 気ちがいのたわごとだ! 私が女を助けて逃がしたッ? ではその婦人はいまどこにいるというんですッ?」
「そこにいます」ホームズは一隅《いちぐう》のたかい本箱を指さした。
老教授は絶望的に両手をたかくあげた。そして気味のわるいすごい顔をおそろしく痙攣《けいれん》させ、そのままどかりと椅子《いす》にくずれこんだ。同時に、ホームズの指さした本箱の戸が蝶番《ちようつがい》でさっとあいて、なかから一人の女がとびだした。
「おっしゃる通りです!」彼女はおかしな外国なまりでさけんだ。「おっしゃる通りです。さ、出て参りましたよ!」
隠《かく》れていた本箱のなかでついたほこりとくもの巣《す》だらけになっていた。顔もあかまみれだが、洗っても決して美しくはならない顔だった。何しろホームズがまえに予想したとおりの肉体的|特徴《とくちよう》をもっており、そのうえに長くて片意地らしいあごをしているのだ。本来の眼のわるさのうえ、暗いところから急に明るみへ出たので、私たちがどこにいるのか、どんな人間であるのかを見さだめようとして、眼ばかりパチパチさせながらあたりを見まわした。
しかも、このような不利な状況《じようきよう》にありながら、彼女の挙措《きよそ》にはある気だかさがあり、傲然《ごうぜん》たるあご、昂然《こうぜん》とあげた頭には豪気《ごうき》さがうかがわれ、なんとなく侵《おか》しがたいところのあるのを感じさせた。スタンリー・ホプキンズは彼女の腕《うで》に手をかけて、逮捕《たいほ》する旨《むね》をつげたが、その手を彼女はしずかに払《はら》いのけ、一種の威厳《いげん》をもって、彼をそれに服従せしめさえした。老教授はいすのなかに埋《うず》もれて、顔面を苦しげに痙攣させながら、どうなることかと、きづかわしそうな眼で彼女を見まもっている。
「はい、私はあなたにとらわれた女です。あのなかにいて、何もかも聞いてしまいました。そしてあなたがたに真相を見破られたのを知りました。すっかり白状いたします。あの青年を殺したのは私でした。けれどもそれは偶然のあやまちだとおっしゃったのはどなたでしょうか、そのおかたのおっしゃるのが正しいのです。私は手に握《にぎ》ったのがナイフだということすら、気がついてはいなかったのです。絶望のあまり手にふれたものをつかんで、はなしてもらいたさ故《ゆえ》に打ったのです。けっしてうそではございません」
「それは私も事実だと信じています。しかし、なすったことは決してよいこととは申せないようです」ホームズがいった。
彼女はさっと土気いろになった。あかとほこりに顔がよごれているので、いっそう恐《おそ》ろしく見えた。寝台《しんだい》の一端《いつたん》に腰《こし》をおろして、彼女はなおも語りつづける。
「私はながくは生きていられない身です。でもほんとうのことだけは、ぜひあなたがたにお聞きいただきたいと存じます。私はこの男の妻です。この男はイギリス人ではございません。ロシア人です。名まえは――申しあげますまい」
このとき初めて老教授は騒《さわ》ぎたてた。
「アンナ! これアンナ! なにをいうのだ! ばか!」
アンナは軽蔑《けいべつ》しきった視線を老人になげて、
「セルギウス、あなたはなぜこんな恥《はじ》しらずの生活に執着《しゆうじやく》をもつのですか? 多くの人に害をあたえるだけで、誰《だれ》ひとりとして――あなた自身さえ益することはないのです。といって、神の定めたもう時のこぬまえに、このかよわい糸を断ちきるのは、私のしてはならぬことです。こののろわれた家の敷居《しきい》をまたぐときから、私は心に決するところがありました。でもそれはそれとして、話だけは早くしなければなりません。でないと間にあわないことになりましょう。
みなさん、私はこの男の妻ですと申しました。結婚《けつこん》しましたのは、良人《おつと》が五十、私は二十のおろかな娘のときでした。ロシアのある都市、ある大学でした――その場所の名は申しますまい」
「アンナ! ばか、なにを……」老人はまたぐずぐずいいだした。
「私たちは改革家でした。――革命家――虚無《きよむ》主義者なのです。良人や私や、同志はたくさんいました。あるときやっかいなことが起こりました。警察の役人が殺されたのです。多くの人がとらわれましたが、証拠が欠けていました。そのとき自分の生命が助かったうえ、多くの賞金を得るために、良人は自分の妻をはじめ多くの同志を売りました。はい、私たちはみんな、良人の自白によってとらわれたのです。そしてあるものは絞首台《こうしゆだい》に送られ、あるものはシベリアへ流されました。私もシベリアへ流された一人ですけれど、刑期《けいき》は終身ではありませんでした。良人は不正の利得をもってこのイギリスへ渡《わた》ってまいり、それ以来日かげの生活を安楽に送っておりますが、もし同志のものに居場所を突《つ》きとめられましたら一週間とたたないうちに正義の刃《やいば》が下るのは承知のはずでございます」
老人はふるえる手をのべて、煙草を一本とった。「私の生殺はお前の手中にある。今までは、いつも私によくしてくれたっけね」
「けれども良人には、これにもまして悪い行いがあるのです。同志のなかに、私の心の友が一人ありました。気だかく、無私で、愛にもえていました。良人とはまるで反対です。彼は暴力をにくみました。もしあのことが罪悪なのだとすれば、私たちはすべて有罪でしたけれど、彼だけはその罪すらないのでした。彼はいつも私に、そうした路《みち》を歩まないようにと説得の手紙をくれました。その手紙さえあれば、彼は助かるのです。
また私の日記によっても彼は助けられます。日記のなかに私は毎日、彼についての感想をしるし、また私たちのかわした意見を書きこんでいました。良人はそれを知って、日記も手紙もとりあげてしまいました。とりあげて隠したうえ、彼を亡きものにしようと口をきわめてざん訴《そ》しました。それだけは良人は失敗しましたけれど、アレキシスはいまシベリアへ流されて、こうしている現在でも塩坑《えんこう》で働かされているのです。それを考えてごらん、この悪もの! 悪漢! ああいまでもアレキシスは――あなたなんかはその名を口にする値うちもない人ですよ――あのアレキシスはいまでも奴隷《どれい》のように働かされ、奴隷のような生活をおくっているのです。私はあなたの生命を握っていますけれども、それでもあなたを自由にしておくのですよ!」
「お前は昔《むかし》から気だかい女だったからな」老人は煙草の煙《けむり》をふっと吹《ふ》いた。
女は立ちあがったが、すぐに、かすかな苦痛のさけびをあげて、くずれ伏《ふ》してしまった。
「話をすませなければなりません。私は刑期がみちたとき、あの手紙と日記をロシア政府に送れば、アレキシスは放免《ほうめん》になるのですから、まずそれを手にいれることにしました。良人がイギリスへ来ていることは知っていましたから、幾月《いくつき》もかかって探したあげく、やっと居所をつきとめました。私がまだシベリアにいますとき、良人は日記のなかの数節を引用して、手紙で私を詰《なじ》ってきたことがありますから、良人がまだあの日記を持っていることは知っていました。しかも良人は執念ぶかい性質ですから、くれと申しても決して渡すものでないのを私は知っていました。自分の力でとるしかありません。
この目的のために私は私立探偵《しりつたんてい》事務所から、一人の探偵をたのんできました。この探偵はこの家へ良人の秘書として住みこみました。――あの、ほれ、セルギウス、二度目にきた秘書で、慌《あわ》ただしく暇《ひま》をとっていったのがあるでしょう? あれがそうなんですよ。探偵は目的の品が大箪笥《おおだんす》の戸だなのなかにあることを知って、かぎの押型を手にいれてはくれましたけれど、それ以上のことをするのはいやだと申しました。そしてこの家の間どり図をかき、午前中は秘書が良人の部屋で口述筆記をするから、書斎には誰もいないはずだと教えてくれました。それで私は勇気をだして、自分でそれを取りにやってきたのです。目的は達しました。しかしなんと高価についたことでしょう。
手紙と日記をとりだして、戸だなにかぎをかけるところを、あの青年に捕《とら》えられました。あの人とはあの朝道であっていました。よもや良人に雇《やと》われている人だとは知りませんから、コーラム教授のお宅はどこでしょうかと、道で会ったときたずねたのです」
「そうです、その通りです!」ホームズが口をだした。「秘書は家へかえって、道で婦人に会ったらこれこれだったと教授に話したのです。だから臨終に、刺したのはあの婦人だ――たったいま話しあったばかりの婦人だといおうとしたのです」
「私に話させてください」彼女は命令的にいった。苦痛でもあるか、顔がひどくねじまげられている。「あの人が倒《たお》れたので、私は部屋をとびだしました。けれども戸口をまちがえたために、とうとうこの良人の部屋へ入ってしまいました。良人は私を巡査《じゆんさ》にひき渡すと申しました。ひき渡したければ渡すがよいけれど、私だって良人の生殺を握っているのだということを、説明してやりました。自らが法律の手に私を渡すのなら、私だって同志の人たちの手に良人を渡すことができるのです。それというのも生命が惜《お》しいからでは決してありません。目的を成就《じようじゆ》したければこそです。
私が口でいったことをかならず実行する女なのを、自分の生命がほんとうに私の手に握られているのを良人は見てとりました。それゆえに、ただそれだけの理由――わが身かわいさのゆえに、良人は私をかくまってくれることになりました。良人は昔を思いだす誰も知らないあの暗い隠れ場に私を押しこみました。良人はこの部屋で食事をしますから、その一部を私にわけてくれればよいのでした。巡査がいなくなるのを待って、夜ぶん私がそっとここを逃れだし、二度とは帰ってこないということに、双方の了解《りようかい》がついていたのです。けれどもどうしてわかったのですか、私たちの計画はあなたがたに見ぬかれてしまいました」
アンナは服の胸から小さな包みをとりだした。
「最後に申しあげますことは、ここにアレキシスを救う品があります。あなたがたの名誉《めいよ》と正義愛とに、この品を寄託《きたく》いたします。どうぞお受けとりください。ロシアの大使にお渡しくださればよろしいのです。これで私のつとめはすみました。このうえは……」
「あっ、止《や》めろッ!」ホームズはさけび、飛びついて彼女の手から小さな薬びんをもぎとった。
「もう間にあいません」女は寝台にどっと倒れながらいった。「もう間にあいません。私は隠れ場を出るまえに、毒をのんだのです。頭がふらふらしてきました。もう死ぬのです。どうぞその包みのことをお忘れなく……」
「簡単な事件ではあったが、それでも教えられるところはあった」ロンドンへの帰りの汽車のなかで、ホームズが感想をのべた。「事件は最初から鼻眼鏡しだいだったんだ。殺された男がとっさの場合|夢中《むちゆう》で鼻眼鏡をつかむという幸運な偶然がなかったら、この事件は解決し得たかどうかもわからないと思う。めがねの度のつよさからみて、このめがねを奪《うば》われたら盲目《めくら》も同然で、とられたものが活動力を失っているのは、僕《ぼく》にはよくわかっていた。草の帯のうえの足跡《あしあと》が、一歩もそれをふみはずしていないと君が力説したときに、覚えているでしょうが、僕はそれは注目すべき芸当だといったはずです。僕は胸中で、ありそうもないことだけれど彼女が予備の眼鏡があったのでないかぎり、不可能な芸当だと断じたのです。
だから僕は、彼女はまだ家のなかにいるという仮定を、いちじるしく重大視せざるを得なかった。それから現場へいって、ひどく似かよった二つの廊下のあるのを見るにおよんで、彼女が廊下をとりちがえることは、やりかねまいし、とりちがえたとすれば、教授の部屋へはいるしかないのもわかった。だから僕はこの仮定を支持してくれるものにふかく注意したのです。そして隠れ場所たりうるものはないか、あの部屋を詳《くわ》しくあらためたのです。絨毯《じゆうたん》には切れ目もつぎ目もなく、それにしっかりくぎでとめてあるから、床《ゆか》にあげ戸がありはしないかという疑いは、放棄《ほうき》しなければならなかった。本のうしろには空所があるのかもしれない。ふるい図書室にはよくそうした工夫《くふう》のしてあるのを見かけるものです。
よく見ると部屋は四方ともずらりと床のうえに本が積んであるのに、あの本箱《ほんばこ》のまえだけが何もおいてないのに気がつきました。してみるとこいつがその戸口なのかもしれない。それを裏がきするような痕跡《こんせき》はなにも見あたらなかったけれど、幸い絨毯がこげ茶いろだから、検査してみるのは何の造作もありません。
僕はあの上等の煙草《たばこ》をうんとすって、疑問の本箱のまえへ一面に灰をふりまきました。それから部屋を出て庭へ降りたのですが、ワトスン君には僕のいったことのほんとの意味はわからなかったようだけれど、コーラム教授の食がましたということを、君といっしょに聞きだした。――自分以外のものに分けてやるとすると、食がましたはずだと思ったのです。それから教授の部屋へあがっていったが、あのとき僕は煙草のかんをひっくりかえして、床のうえをよく見てやったのです。そして煙草の灰のうえに明らかに足跡のついているのをみて、われわれのいない間に、彼女が隠れ場から出ているのを知ったのです。さ、ホプキンズ君、チャリング・クロス駅へ着きました。事件を首尾《しゆび》よく解決できて、おめでとう。君はむろんすぐ警視庁へ帰るでしょう? ワトスン君、われわれはここからまっすぐにロシア大使館へ馬車をとばそうよ」
[#地付き]―一九○四年七月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
アベ農園
しきりに肩《かた》をゆするものがあるので眼《め》をさましてみたら、ホームズだった。一八九七年冬の、霜《しも》のおりたひどく寒い早朝のことである。手にした蝋燭《ろうそく》の光で、うつむきこんでいるホームズの顔つきが、ひどく緊張《きんちよう》しているのを見て、何かまちがいが起こったなと思った。
「ワトスン君、おきたおきた! 面白《おもしろ》いことになってきたんだ。なんにもいわずに服を着て、ついて来たまえ」
十分のうちには、チャリング・クロス駅にむかって私たちは、静まりかえった街路にタクシー馬車を走らせていた。明けそめた冬のひかりほのかに、乳いろの狭霧《さぎり》のなかに早出の労働者の姿がちらほらと見えた。ホームズは厚地の外とうにくるまって、だまって肩をすくめていた。何しろ身をきるように風がつめたいし、二人とも何もたべずに飛びだしてきたのだから、これ幸いと私もそれを見ならった。駅に着いて熱い茶をのんでから、ケント州ゆきの列車にのりこんだら、やっとからだが温まって、ホームズは話をする気に、私は黙《だま》って耳を傾《かたむ》ける気になれた。ホームズはポケットから手紙を一通とりだして、まずそれを読みあげた。
[#ここから1字下げ]
ケント州マーサーム、アベ農園にて、午前三時半
シャーロック・ホームズさま。――大きくなるものと予想される事件がおこりましたから、ぜひご来援《らいえん》たまわりたく、これはかならずお気に召《め》す事件だと思っております。夫人を釈放しただけで、現場はそのままに保存しておきますが、サー・ユーステスまでこのままながく放置するわけにはゆきませぬ故、一時もはやくご来援くださいますよう願いあげます。
[#地付き]敬具
[#地付き]スタンリー・ホプキンズ
[#ここで字下げ終わり]
「ホプキンズに応援をたのまれるのはこれで七回目だが、いつの場合でも僕《ぼく》に頼《たの》むのには頼むだけの理由があった。たしかこれらの事件はすべて君のコレクションに入れられていたと思う。いったい僕は君の物語の書きっぷりが気にいらないのだが、それをわずかに救っているのは君に一種の選択眼《せんたくがん》があるからだね。君のいちばん悪いくせは、物を見るのに科学的|鍛練《たんれん》と考えずに、物語的な立場からすることだが、おかげで有益な、古典的とさえいえる実地教示ともなるべきところを、すっかり駄目《だめ》にしている。センセーショナルな枝葉《えだは》の問題にばかり拘泥《こうでい》して、肝心《かんじん》の要点をぼかしてしまうが、それじゃ読者を興奮させるだけのことで到底《とうてい》教訓にはならないね」
「それじゃなぜ自分で書かないんだ?」私はむっとしていってやった。
「書くよ。かならず書く。いまはご承知の忙《いそが》しさだが、晩年にでもなったら、探偵学全般を一巻にまとめることに生涯《しようがい》をささげるよ。ところで今日の問題だが、やっぱり殺人事件らしい」
「じゃこのサー・ユーステスというのが殺されているというのだね?」
「まあそんなところだね。ホプキンズの手紙はだいぶ興奮して書いてあるが、あの男は元来少しのことではビクともしない男なんだ。だからこいつは暴力ざたの問題で、われわれに見せるため死体がそのままにしてあるのだと思う。ただの自殺なんかだったら、僕に応援を求めはしないだろう。夫人を釈放したというのは、凶行中《きようこうちゆう》部屋へ閉じこめられでもしたのだろうね。相手はどうやら身分のある一家らしい。このパリパリの便箋《びんせん》をみたまえ。F.B.という組合せ文字を入れたり、紋章《もんしよう》を入れたり、アベ農園という宛名《あてな》からも想像できるじゃないか。ホプキンズも名声に恥《は》じぬ働きをするだろうし、けさは面白いことになるぜ、殺されたのはゆうべの十二時まえだ」
「どうしてそんなことがわかる?」
「汽車時刻表をしらべ、時間を計算するとそうなるのさ。まず訴《うつた》えをうけて土地の警察が出張する、ロンドン警視庁へ報告する、ホプキンズが派遣《はけん》され、僕に応援を求めてきたという順序だろうが、それだけでたっぷりひと晩はかかるからね。やあ、ここはチズルハーストの駅だ。もうじき何もかもはっきりするよ」
せまいいなか道を二マイルばかり馬車にゆられてゆくと、大きな荘園《しようえん》の門についた。それをあけてくれた門番のやつれた顔にも、なにか大きな災難のあった様子がうかがわれた。広壮《こうそう》な庭のなかに、両側にふるい楡《にれ》の並木《なみき》のある道がついていて、それをはいってゆくと、正面に|パ《*》ラディオ【訳注 イタリアの建築家。一五一八〜八〇】風の石柱のある、低いけれど横にひろい家があった。中央部はよほど時代ものらしく、蔦に覆《おお》われていたが、大きな窓のあたりを見ると、近代風に手を加えたらしく、一つの棟《むね》はたしかにずっと後で建てましたものだった。からだつきも若々しいスタンリー・ホプキンズ警部は、引きしまった顔に熱意をうかべて、玄関口《げんかんぐち》へ出むかえた。
「ホームズさん、よくお出《い》でくださいました、それにワトスン先生も。しかし折角ですが、第二信をさしあげる時間の余裕《よゆう》さえありましたら、わざわざお出でを願うこともなかったんです。と申しますのは、夫人が意識を回復しましてね、一切《いつさい》の事情を話してくれましたが、これは明瞭《めいりよう》すぎて、どこにも問題はないとわかったからです。ホームズさんはルイスハムの強盗団《ごうとうだん》一味のことを覚えていらっしゃいますか?」
「あのランドールの三人組ですか?」
「そうですよ。父親と二人の息子《むすこ》のね。これはあいつらのやったことですよ。疑いの余地はありません。二週間まえにシデナムでひと仕事やったばかりで、そのとき人相を見られているのに、こんなに近くで、しかも間をおかずに仕事をするとは、すこし大胆《だいたん》すぎますが、それにしても問題なくあいつらの仕事です。しかもこんどのはつかまれば死刑《しけい》なんですからね」
「するとサー・ユーステスは殺されたんですね?」
「そうなんです。自分の家の火かき棒で頭を割られたのです」
「御者《ぎよしや》にきいたら、名まえはサー・ユーステス・ブラックンストールだといっていましたが?」
「そのとおりです。ケント州では指折りの富豪《ふごう》ですね。夫人はいま朝の居間にいますが、おそるべき経験をしたわけですよ。私がはじめ会ったときは、半分死んだようになっていました。詳《くわ》しいことは、ご自分で直接おききくだすったほうがいいでしょう。そのあとで私が食堂をご案内いたします」
ブラックンストール夫人は決して平凡《へいぼん》な女性ではなかった。これだけ優雅《ゆうが》で女らしく、顔の美しい人を私はほとんど見たことがない。白皙金髪《はくせききんぱつ》で眼は青く、ゆうべの恐《おそ》ろしい経験で顔をしかめ、やつれてはいるけれど、それがなかったら、おそらく完全な美貌《びぼう》というべきであろう。彼女《かのじよ》の被害は精神的なものだけではなかった。片っぽうの眼のうえが、いたましくも赤ぐろくはれあがり、背のたかい質朴《しつぼく》な女中が、水を割った酢《す》でせっせと冷やしている。夫人は弱りきってソファに寝《ね》ていたけれど、私たちが部屋へはいってゆくと、ちらりとす早い一瞥《いちべつ》をなげたことといい、美しい顔に油断のない表情をうかべていることといい、ゆうべの恐ろしい経験によっても、気力はすこしも弱っていないことがうかがわれた。青と銀のゆるやかなガウンにくるまっているが、黒いスパンコールをつけた夜会服はソファのうえにかけてあった。
「ホプキンズさん、知っておりますことはすっかりお話しいたしましたわ」夫人はうるさそうだった。「あなたから私に代わってお話しくださいません? そうですの? どうしてもとおっしゃるのでしたら、私から申しあげますけれど、こちら、食堂はもうご覧《らん》になりまして?」
「それよりも、奥《おく》さんのお話をさきにうかがったほうがよいと思いましてね」
「早く片づけてくださると、どんなにうれしいでしょう。まだ食堂に倒れたままにしてあるかと思いますと、おそろしくって……」夫人は身ぶるいして、両手で顔を覆ったが、そのときゆるいガウンのそでがぽろりとこぼれて、彼女の前腕《ぜんわん》があらわれた。するとホームズはびっくりして、
「おや、ほかにもお怪我《けが》をしていらっしゃいますね。どうなすったのですか?」あざやかな赤いはん点が二つ、白いふっくりした腕《うで》に見られた。彼女は急いでそれを隠《かく》し、
「何でもございません。これは昨晩の恐ろしいこととは関係ございませんの。それよりもどうぞお掛《か》けくださいまし。詳しくお話しいたしましょう。
私はサー・ユーステス・ブラックンストールの妻でございます。結婚《けつこん》しましてから一年ばかりになります。この結婚が私たちにとりまして幸福なものでなかったことは、隠してみましても始まりますまい。ご近所のかたが皆《みな》さんそれをおっしゃるでしょうから、私ひとりが否認してみましてもねえ。
罪は私のほうにありますのかもしれません。私は南オーストラリアの、伝統なぞあまり重んじません自由な空気のなかで大きくなりました。行儀《ぎようぎ》作法やかましく、かた苦しいイギリスの生活は性《しよう》があいません。でも主な理由はほかにございます。それは良人《おつと》の酒癖《さけぐせ》でございます。良人の常習的なでい酔《すい》ぶりは、知らぬ人もございません。こんな男とは一時間いっしょにいますのも不愉快《ふゆかい》でございます。それですのに敏《びん》しょうで気力さかんな女性にとって、日夜そういう男に縛《しば》りつけられていることがどんなものですか、おわかりでございましょうか? こんな結婚にまで拘束力《こうそくりよく》を認めるのは冒涜《ぼうとく》、悪事、いえ罪悪でございます。こんなひどい法律の許されている国はばちあたりの国です。神さまはこんな邪《よこしま》をいつまでも許しておおきになりますまい」
彼女は顔面を紅潮させ、上半身をおこした。いたましい額の傷の下で、両眼が火と燃えている。すると質朴《しつぼく》な女中がやさしく圧《お》さえつけるように、夫人の頭をクッションにつけさせた。夫人の激怒《げきど》はすすり泣きにかわった。そしてしばらく間《ま》をおいてから、
「昨晩のことを申しあげましょう。この家ではすべて召使いたちは新館のほうで寝《やす》むことになっております。この本館は私どもの使います部屋ばかりで、このうしろが台所、二階が私どもの寝室《しんしつ》になっております。私の世話をしてくれます女中のタリーザだけは、私どものうえの三階に寝みますけれど、ほかには一人もおりません。でございますから、少しくらい物音がいたしましても、新館のほうまでは聞こえません。泥棒《どろぼう》はこのことをよく知っていたのに違《ちが》いございません。でなければあんな事をいたすはずがございますまい。
良人は十時半ころに寝みました。召使いたちはもうみんな新館のほうへ引きさがりまして、タリーザだけが起きておりました。私が何かたのむかもしれませんので、三階の部屋で起きていたのでございます。私はこの部屋で十一時すぎまで一心に本を読んでおりましたが、もう寝もうと思いまして、家のなかを見まわりました。さきほども申しましたように、良人はあまりあてになりませんので、戸締《とじま》りなどは私が見てまわる習慣になっていたのでございます。
台所、食器室、銃器室《じゆうきしつ》、撞球室《たまつきしつ》、客間、食堂の順に見てまわりましたが、ここは厚いカーテンがおりていますのに、窓のそばへ歩みよりますと、顔にさっと風があたりましたから、窓があいているなと思いました。カーテンをさっと脇《わき》へはねてみますと、肩幅《かたはば》がひろくて強そうな、相当|年輩《ねんぱい》の男とばったり顔をあわせてしまいました。窓と申しましてもフランス式の、すぐ庭の芝生《しばふ》に出られます窓で、いまそこから入ってきたところらしゅうございます。私は寝室用のしょく台を手にしておりましたが、よく見ますとその男のうしろにもう二人、食堂へはいろうとしている男がおります。
私は思わず後すざりいたしましたが、それより早く男は私に襲《おそ》いかかりまして、はじめは手首を捕《とら》えられたばかりでございましたが、すぐにのどを締めつけられました。声をたてようといたしますと、眼のうえをしたたかに拳固《げんこ》でうたれましたので、その場へ倒れてしまいました。それきり気を失ったのでしょうか、気がついてみましたら、ベルの線をすっかり帥《むし》りとって、私は食堂の上座《じようざ》の樫《かし》のいすに縛《くく》りつけられておりました。身うごきもできませんほどしっかり縛りつけられましたうえ、ハンカチで口を塞《ふさ》がれていますので、声もたてられません。そこへ良人が入って参りました。
良人はきっと変な物音に気がつきまして、一応の支度《したく》だけはして降りて参ったのでございましょう。ワイシャツの下にズボンをはきまして、手には愛用の|りんぼく《ヽヽヽヽ》の棍棒《こんぼう》をもっておりました。いきなり一人のどろぼうめがけて躍《おど》りかかってゆきましたが、もう一人――最初の年よりの男が暖炉《だんろ》の火かき棒をとりあげまして、通りすぎますところを、激《はげ》しく打ちおろしました。良人は声もたてずに倒れまして、それっきり動かなくなってしまいました。私はそれを見ましてまた気を失いましたけれど、こんどはほんのしばらくだったかと存じます。気がついてみますとどろぼうは戸だなから銀器類を集めまして、べつにブドウ酒を一本ぬきましてテーブルのうえにおいておりました。そして三人ともグラスを手にいたしております。
まえに申しあげましたと思いますけれど、まだでございましたでしょうか、三人のどろぼうのうち一人は年もずっとうえで、ほおひげがございますけれど、あとの二人はまだ若い、ほんの少年でございました。年とったのが若い二人の父親なのかもしれません。三人は何やらこそこそと話しておりましたが、私の縛《いましめ》のゆるんでいないのを確かめてから、あとを閉めてフランス窓から逃《に》げてしまいました。
十五分ばかりもいろいろと工夫《くふう》しまして、口だけは自由になりましたから、声をたてますと女中がとんで参りました。そして新館のほうからも召使いたちが集って参りましたので、すぐに警察へ知らせました。ロンドン警視庁へはそちらから連絡があったのでございましょう。私の知っておりますことはこれだけでございます。こんな恐ろしいお話を二度と繰《く》りかえすのだけは、お許しいただきとうございますわ」
「ホームズさん、何かご質問は?」ホプキンズがたずねた。
「このうえ奥さまのお休みのところをお妨《さまた》げしたり、ことにお苦しめするようなことは慎《つつ》しみたいと考えます。ただ一つ、食堂を見せていただくまえに、あなたから話を聞かせていただけるとありがたいです」ホームズは女中を見やった。
「私は彼等《かれら》がなかへはいってきますまえに、あの人たちを見かけました。寝台のそばの窓ちかく腰《こし》かけていましたら、ご門のちかくに三人の男のいますのが、月あかりで見えましたけれども、そのときはべつに気にもとめませんでした。奥さまのお声の聞こえましたのは、それから一時間あまりもたちましてからでございます。急いで駆《か》けおりてみますと、奥さまはおかわいそうに、椅子《いす》に縛りつけられて、そして旦那《だんな》さまはそこらじゅう血だらけにして倒れていらっしゃいました。縛られたうえ旦那さまの血をあびてお召物が血だらけになりましては、どんなに気丈《きじよう》な女でも落ちついてはいられませんのに、奥さまはさすがにアデレイド市のメアリ・フレーザーお嬢《じよう》さまで、アベ農園のブラックンストール夫人でございます。それは凛《りん》として、まことにお立派でございました。さ、それでは奥さまのお話はこれで十分でございましょう。お休みにならなければなりません。タリーザがお部屋へおつれ申しあげます」
まるで母親のようにやさしく夫人を労《いた》わりながら、やせた女中はその肩に手をまわし、静かに出ていった。
「あの女中は夫人の子供のときからついているのだそうです」ホプキンズが説明した。「赤ん坊のときからですね。十八カ月まえに夫人がオーストラリアからイギリスへくるのにも、ついてきたというわけです。名まえはタリーザ・ライトというのですが、いまどき珍《めずら》しい女中ですよ。どうぞこちらへ、食堂をご案内いたしましょう」
表情ゆたかなホームズの顔は、はげしい興味を失ってみえた。なぞという問題に関するかぎり、この事件はすっかり興味のないものとなった。犯人|逮捕《たいほ》という問題はまだ残っているけれど、ホームズがわざわざ手をつけるには、あんまり平凡な悪人ばらではあるまいか? 深遠なる学識ある専門医が、招かれて行ってみたら患者《かんじや》は麻疹《はしか》だったという場合、医者は妙《みよう》な顔をするだろうが、そうした気持を私はホームズの眼のなかに読みとったのである。しかしアベ農園の食堂の内部の光景は、彼《かれ》の注意をひき、消えかけた興味をよびさますに十分な不可思議さをそなえていたのである。
食堂は天井《てんじよう》のたかい大きな部屋だった。樫の腰板に彫刻《ちようこく》つきの樫の天井板、周囲の壁《かべ》には角の美しいしかの頭や古代の武器がかざってある。入口の正面に、問題のたかいフランス窓があった。右がわにはそれに較《くら》べて小さい窓が三つならんで、冬の弱い光がさしこんでいる。左手には大きなふかい暖炉があって、どっしりした樫のマントルピースが張りだしていた。この暖炉のそばにひじかけと下に横棒のある樫の大きないすがあった。そのいすの裸《はだか》の木の部分にからまったり、一部は床《ゆか》のうえをはったり、両端《りようはし》をいすの下の横木に結びつけられている赤いひもが、前夜の騒《さわ》ぎを物語っていた。夫人をとき放ったとき、こんな風になったのであろうが、結び目はそのまま残っていた。もっともこうした細かなことは、あとになって気がついたので、はいったとたんには、私たちの注意は暖炉のまえへ敷《し》きつめたとらの皮のうえにのびている戦慄《せんりつ》すべき死体の上に集められたのであった。
四十|歳《さい》ばかりの背のたかい、体格のよい男の死体だった。仰向《あおむ》けに倒れて、短く刈《か》りこんだひげのなかから白い歯がみえている。両のこぶしを握《にぎ》りしめて頭のうえにあげ、そばには|りんぼく《ヽヽヽヽ》の棍棒《こんぼう》がころがっている。鷲《わし》を思わすあさ黒く美しい顔を怨《うら》めしそうにゆがめているのが、世にも恐ろしかった。眠《ねむ》っているところを物音で眼をさましたものらしく、刺繍《ししゆう》のある派手な夜のシャツを着て、ズボンから素足《すあし》がのぞいている。頭部が無惨《むざん》にうち砕かれている。その打撃《だげき》がいかに猛烈《もうれつ》なものであったかは、部屋中にありありと残っている痕跡《こんせき》が物語っている。そばにぐにゃりと曲った太い火かき棒がおちていた。ホームズはその凶器と、それで打たれた頭をあらためてみて、
「ランドールの親父《おやじ》というのは、よほど力のつよい男だ」
「そうなんですよ。私の手許《てもと》にも記録がありますが、狂暴《きようぼう》なやつです」ホプキンズがいった。
「そういう男なら逮捕に困難はありませんね」
「ありませんとも。かねてから警戒中《けいかいちゆう》だったのですが、アメリカへ高とびしたらしい疑いもあったりして、ちょっと行きづまっていたのですが、こうしてこちらにいるとわかった以上、もう逃がしやしません。各海港にはもう手配がいっていますし、晩までには懸賞金《けんしようきん》のことも発表になりましょう。それにしても、夫人に人相を見られているのですし、それによってわれわれに、犯人は何ものだかすぐに知れるのはよくわかっているのに、何ということをやったものでしょう?」
「ほんとにね。普通《ふつう》ならついでに夫人のほうも眠らせるところですがねえ」
「夫人が意識を回復しているとは気がつかなかったのかもしれないね」私が思いつきをいった。
「そんなとこかな。死んだようになっているものを、改めて殺すにも及《およ》ばないわけだ。それにしてもこの殺された男はどうなんです、ホプキンズ君? 何だか妙な話をきいたことがあるように思うけれど……」
「素面《しらふ》のときはいい男なんですけれど、飲んだとなると手がつけられません。それも腹いっぱい飲むことはほとんどないので、生酔《なまよ》いで暴れるんですな。そんなときこの男は、まるで悪魔《あくま》にでもつかれたように、どんなことだってやってのけたといいます。話に聞けば、金持でもあり身分もあるのに、まさに警察ざたになろうとしたことすら一、二回あるそうです。一度なぞ犬にどっぷり石油をかけて、火をつけたといいます。そいつが夫人の犬だったので、問題が余計むずかしくなったのを、やっさもっさのあげく、やっと何とか内分にしたのだといいます。それから女中のタリーザに酒の飾《かざ》りびんを投げつけたことがあって、こいつはだいぶ治《おさ》めるのに骨が折れたようです。要するに、ここだけの話ですが、この男のいないほうが、ここの家もどんなにか明るくなるでしょう。おや、何を調べているのですか?」
ホームズはひざをついて、夫人の縛られていた紅《あか》いひもの結び目を、注意ぶかく調べているのだった。このひもはベルのひもを泥棒が引きちぎって使ったのだが、結び目をすますとホームズは、|ひ《*》もの切れ目のほつれたところを、熱心にあらためた。【訳注 電気ベルではなく、紐を引いて鈴をならすベル】
「こいつを引きちぎれば、台所でベルが大きく鳴ったはずなんだがな」
「誰《だれ》にも聞こえやしませんよ。台所はこの裏手になっているんですからね」
「そっちには誰もいないということを、どろぼうはどうして知っていたんです? ベルのひもをむしり取るなんて、何だってこんな向う見ずなまねをしたものかな?」
「それですよ、ホームズさん。そいつを私は何度も考えてみたもんです。犯人は家のなかの様子をよく知ったやつにちがいありません。この家の日常の習慣といいますか、わりにはやく召使《めしつか》いたちが寝てしまうことや、だから台所でベルが鳴っても、誰にもわかりはしないといったようなことをですな。そうした日常のことを完全に心得ているところをみると、召使いのなかに内通しているやつがあるにちがいありません。ところが召使いは八人もいますが、みんな性質のいいやつばかりなんです」
「ほかの条件がおなじなら、主人に酒びんを頭へ投げつけられた女がいちばんに疑われて然《しか》るべきだけれど、それだと献身的《けんしんてき》に働いていた夫人への裏ぎりということも問題になる。が、まあこんなことは小さなことです。ランドールをとり押《お》さえさえすれば、共犯の問題ははっきりするでしょう。夫人の話したことは、もし確認《かくにん》が必要とあれば、ここに残っている材料から、いくらも確かめられるというものですよ」ホームズはフランス窓のところへいって、さっと押しあけた。「ここには何の痕跡もありませんな。地面がコチコチに固まっているというだけで、これじゃ痕跡ののこるわけがない。マントルピースのうえのこの蝋燭《ろうそく》はともっていたのでしょうね?」
「それと、夫人の持ってきた蝋燭の光をたよりに、泥棒は逃げていったのです」
「盗《ぬす》んでいったものは?」
「それがね、大したものを盗んでいないのですよ。戸だなから銀器を五、六枚とっただけです。夫人の話では、ほんとうなら家中をかきまわして物色するところだろうけれど、ユーステス卿《きよう》を殺したので、慌《あわ》てて逃げたのだろうといっています」
「それは慌てたでしょう。それにしてもブドウ酒はのんでいったのですね?」
「いっぱいやって、気をおちつけたのでしょう」
「なるほどね。戸だなのうえのこの三つのグラスには、誰も手を触《ふ》れていないでしょうね?」
「はあ、びんのほうもそのままです」
「ちょっと調べてみましょう。おやおや、これは何だろう?」
三つのグラスはひとまとめに集っており、どれも酒でよごれていたが、なかでも酒びんのうえに浮《う》くうすい膜《まく》の入っているのが一つあった。そばにあるびんは三分の二ほど酒がのこっており、よごれの染《し》みたながいコルクの栓《せん》もころがっている。酒びんは外見といい、ほこりをかぶっているところからみても、どろぼう風情《ふぜい》に飲めるような品ではなかった。
ホームズの態度がかわってきた。今までのものうげな様子はどこへやら、おちくぼんだ鋭《するど》い眼《め》つきは、いきいきとさえかえってきたのである。彼はそのコルクをつまみあげて、じっと細かにあらためながら、
「どうやってこれを抜《ぬ》いたものかな?」
ホプキンズは黙《だま》って、半びらきになった引出しを指さした。なかにテーブル・クロースといっしょに、大きなコルク抜きが見えている。
「夫人はこのコルク抜きを使ったといいましたか?」
「いいえ、コルクを抜いたときには、夫人はまだ気絶していたのですから……」
「そうでしたね。実際問題として、このコルク抜きを使ったのじゃありません。これはポケットせん抜きの、おそらくナイフと組みあわせになった一インチ半くらいの短いやつで抜いてあります。よく見てごらんなさい、三度も場所をかえてねじこみなおしてありますよ。ねじの部分が短いからです。この大きいコルク抜きなら、ねじが裏までつき通るから、一度で抜けるはずです。犯人を捕えたら、調べてご覧なさい。きっと七ツ道具つきのナイフを持っていますよ」
「恐《おそ》れいりましたな」
「それにしてもわからないのはこのグラスです。夫人は現に三人がブドウ酒をのんでいるところを見たといいましたっけ?」
「それは見たとはっきり述べていますよ」
「ではそれまでです。何もいうことはありませんよ。しかもねえ、この三つのグラスはきわめて注意すべきですよ。えッ! なにも変ったところはない? 困りましたね。まあいいや。僕《ぼく》みたいに特殊《とくしゆ》の知識や技能をもつと、何でもなく説明できることを、ついむずかしく考えすぎるものらしいですね。このグラスの問題にしても、ほんの偶然《ぐうぜん》にすぎないのかもしれません。じゃホプキンズさん、これで失礼しますよ。いても大してお役にたちそうもないし、それに君は君でちゃんと解決策をもっておいでのようですからね。ランドールを捕えるか、万一事件が進展するようなことでもあったら、ちょっと教えてください。いずれにしてもこの事件をりっぱに解決されるのも遠くないことと信じています。さあワトスン君、帰ろう。そのほうが時間を有効に使用できそうな気がするよ」
帰りの汽車のなかで、ホームズは見てきたことについて、なにかしきりに思いなやむ様子だった。またしても、えいとばかりに妄念《もうねん》を払《はら》いのけ、問題は解決されたのだという気持で話をはじめるが、たちまち疑念がむらむらと起こってくるらしく、まゆをひそめ、眼はうつろに、思いはいつしかアベ農園の食堂に、ゆうべ惨劇《さんげき》の行なわれた現場へと飛ぶ様子であった。そのうちに、汽車がとある郊外の小駅からごとんごとんと動きだしたときだったが、何を思ったかだしぬけに彼はプラットホームへとび降り、私まで引きずりおろしてしまった。
「ごめん、ごめん」ホームズはカーヴのかなたに消えてゆく汽車の最後尾《さいこうび》を見おくりながら、「気まぐれなでき心かもしれないことに、君まで道づれにまきこんで、まことにすまないわけだが、ただ何となく僕はこのままほっとくことは、どうあってもできないのだよ。あらゆる本能がやかましく反対をさけびつづけるんだよ。これはまちがっている。どこかにまちがいがある。ぜったいにまちがいがある。しかし夫人の話は非のうちどころがないうえに、女中の証言まであるし、こまかい点も符合している。それを僕がなんで異をとなえるのか? 要するにあの三つのグラスなんだ。僕があんな説明で満足さえしなかったら、あらゆるものを自信のある注意力をもって十分調べてさえいたら、あらかじめ用意していたでたらめな話にごまかされることなく、初めから先入観に捕われないで、事件を研究してさえいたら、別行動をおこすべき明確な事実を何かしら発見しないはずはなかったと思うのだよ。ま、このベンチに腰をおろしたまえ。いまにチズルハースト行きの列車がくるだろうから、それまで僕に証拠《しようこ》を列挙させたまえ。それには第一に、女中や夫人の言葉を頭から事実だときめてかかる先入観をすてさってね。夫人の魅力《みりよく》ある人柄《ひとがら》に、われわれの判断を狂《くる》わされてはならない。
夫人の話のなかには、冷静に聞けば、たしかに疑わしいものがあった。例の三人組の盗賊《とうぞく》は二週間くらいまえ、シデナム地方を相当あらしているのだ。その手口や人相などはある程度新聞にも出たから、架空《かくう》のどろぼうをつかってひと芝居《しばい》うとうという場合、誰でもすぐにあれを思いだすだろう。実際の話が、どろぼうはひともうけしたら、原則として当分はあぶない仕事には手を出さずに、こっそりとそのもうけで楽をするというのが普通だ。それにまた、まだよいのうちともいうべき十一時すぎなんかに、どろぼうが忍《しの》びこむというのも普通じゃないし、弱い女に声をたてさせないためなぐりつけるというのも普通じゃない。そんなことをすれば、かえって騒ぎたてられると考えるべきだからね。それにまた、こっちは三人もいるくせに、たった一人の男をいきなり殺してしまうというのも、常識じゃ考えられない。さらにまた手近なところにいくらも金目のものがあるのに、あれっぱかりの品物で満足して引き揚げたというのも妙だし、最後にその連中が酒を半分残していったというのもふにおちない。こうした異常さを君はどう思うね?」
「そう重ねられてみると、たしかに気になるけれど、一つ一つをとりだして考えてみれば、何でもないようだね。ただ僕のいちばん不思議だと思うのは、夫人がいすに縛《しば》りつけられたという点さ」
「僕はそうも思わないね。というのは、彼らにしてみれば夫人を殺してしまわない以上、逃げたあとですぐに警察へ届けたりされないためには、そうするよりほかなかったろう。それはともかく、僕のいったことで、夫人の話には肯定《こうてい》できない点のあるのがわかったろう? そのなかの最大のものは例のグラスだ」
「グラスがどうしたというのだい?」
「あのグラスが思い浮かべられるかい?」
「はっきり思いだせるさ」
「三人のどろぼうがそれでブドウ酒をのんだという話だったね? 変だとは思わないかい?」
「なぜだい? みんなブドウ酒でよごれていたじゃないか?」
「それはそうだ。しかしブドウ酒の表面に浮くうすい膜のはいっていたのは一つだけだぜ。その点を見おとしちゃ困る。このことから何か思いつかないかい?」
「最後に注いだグラスに膜が入ったのだろう」
「そんなことがあるもんか。ブドウ酒はびんにいっぱいあったのだ。はじめの二つには汚《よご》れが出ないで、第三のものにだけうんと膜が出たなんて、とても考えられないよ。これには二つの場合が考えられる。二つだけで、ほかには説明のつけようがない。その一つは、二つのグラスに注いでから、びんをひどく揺《ゆ》すぶったため、第三のグラスに膜が出たのだ。しかしそんなことはちょっとありそうもない。そうだ、これはたしかに僕の考えが正しいのだ」
「正しいって、何が正しいのだい?」
「実際につかったグラスは二つだけで、この二つのグラスに出た膜を、第三のグラスに捨てて三人いたように見せかけたという考えかたさ。そう考えれば、膜が一つのグラスにだけあったのも、合点がゆくじゃないか? それにちがいないと僕は確信する。小さな現象だけれど、僕のこの解釈が的を射ているものとすれば、これまで平凡《へいぼん》な事件だとばかり思っていたものが、にわかにきわめて重大なものになってくる。というのはブラックンストール夫人や女中がわざとわれわれにうその証言をしたことになるのだし、なにか強い理由があって、真犯人をかばっているので、その言葉は一つとして信じるに足りないことになるのだし、われわれとしてはあの連中の援《たす》けをかりないで、独自の立場から事件を究明しなければならないことになるからだ。これがわれわれの前途《ぜんと》に課された使命なのだ。おや、ワトスン君、チズルハースト行きの列車がきたよ」
アベ農園の連中は私たちが引返していったのにびっくりしていたが、ホームズはホプキンズ警部が本部へ報告のため出かけていたので、食堂を占領《せんりよう》して中から錠《じよう》をおろし、ものの二時間も、綿密な骨の折れる調査に没頭《ぼつとう》したのである。その結果であるかたい基礎《きそ》のうえにこそ、あの輝《かがや》かしき推理の殿堂《でんどう》が組みあげられたのであった。
私は片隅《かたすみ》の席におさまって、教授の実地教示を熱心に見いる学生のように、彼の非凡な捜査《そうさ》研究ぶりを眼で追っていた。窓、カーテン、カーペット、いす、ひも――一つ一つこまかくあらため、ふかい考慮《こうりよ》を加えてゆく。ユーステス従男爵《じゆうだんしやく》の死体だけはもう片づけてあったが、そのほかのものはけさ見たままの姿だった。
驚《おどろ》いたことに、ホームズはこんどは大きなマントルピースのうえにのぼった。頭のずっとうえに、赤いひもの切れっぱしが二、三インチ、そのさきの針金にくっついている。しばらく彼はそのひもを見あげていたが、もっと近くから見たいためであろう、壁に出ている木の腕木《うでぎ》に片ひざかけた。こうするともう二、三インチでひもの切れっぱしに片手が届きそうだった。しかしとくに彼の注意をひくのはひもではなく、腕木そのものにあるらしかった。やがて彼はうれしそうな声をあげて、下へとび降りた。
「もう大丈夫《だいじようぶ》だ。真相がわかったよ。われわれの経験したうちでも注目すべきものの一つだ。それにしても僕はなんという遅鈍《ちどん》さだろう? もう少しで一代の大失策をやらかすところだったよ。しかしこれであとほんの少しだけ欠けている鎖《くさり》の環を見つければ、完全に解決されるわけだ」
「犯人もわかったんだね?」
「それがね、たった一人なんだよ、しかも手ごわいやつだ。ライオンのように強力で――何しろ火かき棒が曲るほどだからね。背たけは六フィート三インチ、リスのように身がるで、しかも手先が器用だ。それにこんな巧妙《こうみよう》な作り話をまとめあげるくらいだから、知恵《ちえ》のめぐりも相当なものだ。というわけでワトスン君、これはとんでもない人物の小細工にぶつかったわけだよ。たった一つベルのひもに手掛《てがか》りをのこしてくれたからいいようなものの、さもなければまんまとゴマかされるところだった」
「ベルのひもの手掛りとは?」
「それはね、ベルのひもを下から引っぱったら、どこから切れると思う? そうさ、針金とのつなぎ目から切れるはずだ。それがあんなに繋《つな》ぎ目から三インチも下で切れているのは、どうしたものだろう?」
「そこが擦《す》れて損《いた》んでいたのだろう」
「そのとおり。このとおり端《はし》がほつれて損んでいる。だがこれは悪知恵にたけた犯人がナイフでこすって、こんな風にしたんだ。これの相手のあのうえのひもの端は損んでいない。ここからではよく見えないだろうが、マントルピースへのぼってみれば、すこしも損んでなんかいないのをぷつりと切ってあるのがよくわかるだろう。そこで、どういうことが行なわれたかというと、犯人はひもが必要だった。だが下から引きちぎったのでは、ベルが鳴るから困る。ではどうしたか? まずマントルピースにあがったが、まだ手が届かないので、あの腕木に片ひざをかけた――ほこりのうえにその痕《あと》がのこっている――それからナイフをだしてひもを切りとった。僕にはもう三インチばかりで、あそこまでは手が届かない。だから犯人は僕よりは少なくとも三インチは大きい男だと思う。あの樫《かし》のいすの、しりのあたる部分を見てくれたまえ。何の痕だろう?」
「血だね」
「明らかに血だ。これだけでも夫人の話のでたらめなことがわかる。ユーステスの殺されたとき、夫人がそのいすにいたものとすれば、そんなところへ血のつく訳がない。これはね、良人《おつと》の殺されたあとで、夫人は椅子《いす》にかけさせられたことを示すものだ。夫人のくろいドレスをよく調べてみれば、かならずしりに血がついていると思う。いずれにしてもウォータルーはまだだ。|い《*》まはマレンゴ、まず破れて、然るのち勝利に終るというわけだ【訳注 マレンゴはイタリアの一寒村。一八〇〇年ナポレオンはこの地にオーストリア軍を破った。ウォータルーの戦は一八一五年】。ここで女中のタリーザと話がしてみたい。それにはしばらくよほど気を引きしめていないと知りたいことも聞きだせないよ」
このしっかりしたオーストラリア生まれの老女中は、面白《おもしろ》い人物だった。無口で疑《うたぐ》りぶかく、愛嬌《あいきよう》のないこの女は、ホームズが愉快《ゆかい》な態度で接し、何でも相手のいうことをそうかそうかで受けいれてやっても、うちとけて話しだすまでには、しばらく骨を折らせた。彼女《かのじよ》は殺された主人への憎悪《ぞうお》を隠《かく》そうともせず話しだした。
「はい、お酒のびんを投げつけなすったのはほんとでございますよ。私のまえで奥《おく》さまの悪口をおっしゃいますから、奥さまのご兄弟でもここにいらしたら、まさかそんなことはおっしゃいませんでしょうと申しあげましたら、いきなりぶつけられました。美しい奥さまをお一人でおきましたら、一ダースでも投げつけられましたかもしれません。奥さまにひどくなさるのは、まえからのことで、奥さまとしましても、自尊心がございますから、じっと辛抱《しんぼう》していらしたのでございます。たいていのことは私にさえおっしゃいませんでした。けさほどご覧《らん》になりました腕の傷のことも、奥さまはおっしゃりはいたしませんけれど、私はよく存じております。あれは帽子《ぼうし》ピンで刺《さ》されなすったのでございます。
あのこざかしい悪魔《あくま》は――神さま、亡《な》くなりました人のことをこんなに悪くいいますのをお許しくださいまし、あれはたしかにこの世の悪魔でございました。はじめのころは、それはお優《やさ》しゅうございました。たった十八カ月まえのことでございますのに、私たちは十八年もまえのことのような気がいたします。あのころは奥さまもロンドンへいらしたばかりで、はい、イギリスはおはじめてで、それまではどちらへもいらしたことはございません。旦那《だんな》さまは肩書《かたが》きと財産とロンドン仕込《じこ》みのお上手とで、奥さまをわがものになすったのでございます。それが奥さまの過誤《しくじり》だったとしましても、償《つぐな》いは立派にしていらっしゃいます。旦那さまに初めてお目にかかりました月でございますか? あれはこちらへ参ってまもなくのことで、着きましたのが六月でございますから、七月でございました。そして昨年の一月に結婚《けつこん》なすったのでございます。はい、奥さまはお居間へ降りていらっしゃいます。お会いにはなれますけれども、でもどうぞあんまりしつこくお尋《き》きになりませんように。身も心もくたくたに疲《つか》れていらっしゃいますのですから……」
ブラックンストール夫人はやはりソファに半ば横になっていたが、けさよりもよほど元気にみえた。女中は私たちといっしょにはいってゆくと、またもや夫人の額の打身に湿布をはじめた。
「またしても私を尋問《じんもん》しに帰っていらしたのではございませんでしょうね?」
「いいえ」ホームズはできるだけ穏《おだ》やかに、「意味なく奥さまを苦しめるようなことは致《いた》しませんし、それどころか、私は奥さまのご安心なようにしてさしあげたいと願っているものです。と申すのは、あなたはずいぶん苦労をしていらっしゃると思うからです。奥さまが私のことを味方として十分|信頼《しんらい》してくださるなら、かならずそのご信頼の裏ぎられなかったのがおわかりになるでしょう」
「私に何をしろとおっしゃいますの?」
「ほんとのことをお話しねがいたいのです」
「まあ、ホームズさん!」
「いいえ、それは何の役にもたちません。私のことは評判くらいお聞きおよびかと思いますが、そのちっぽけな名声にかけて申します。あなたのお話は純然たる虚構《きよこう》です」
夫人も女中もまっ青になって、怯《おび》えたような眼つきでホームズを見つめた。
「なんて失礼な人でしょう。奥さまのことをうそつきだとおっしゃるの?」女中がまず食ってかかった。
ホームズは静かに立ちあがって、
「何もおっしゃることはありませんか?」
「すっかりお話し申しあげました」
「もう一度お考えになってください。率直《そつちよく》にお話しになったほうがよくはありませんか?」
夫人は美しい顔にほんのちょっとだけ躊躇《ちゆうちよ》のいろを見せたが、なにかつよく考えるところあってか、マスクをかぶったように表情をこわばらせた。
「知っていますことはみんなお話しいたしました」
「残念ですねえ」ホームズは帽子をとって、さも残念そうに首をすくめ、それっきり何もいわずに夫人の居間を、そして館《やかた》を出た。広い庭には池が一つあって、ホームズはそっちへ歩いていった。すっかり氷がはりつめているけれど、たった一羽いる白鳥のため、一カ所だけその氷が割ってあった。ホームズはしばらくそれをながめてから、歩をうつして表門のほうへいった。表門には門番ごやがある。ホームズはそこで何やらスタンリー・ホプキンズに手紙をかいて、門番に託《たく》した。
「こいつがヒットになるか、それとも的はずれか、そこはわからないけれど、こうして引っかえしてきたことを正当化するためには、ホプキンズに何かのこしておくべきだろう。いまのところすっかり打ちあける気はないにしてもね。われわれのつぎの行動|舞台《ぶたい》はアデレイド・サザンプトン航路の船会社になるだろうが、あれはたしかペル・メル街の一角にあったと思う。南オーストラリアとイギリスをむすぶ船会社はもう一つ小さいのがあるけれど、まず大きいのから手をつけるとしよう」
船会社で、支配人へホームズの名刺《めいし》を通じたら、ていねいに扱《あつか》われ、必要なことはすぐに知ることができた。一八九五年の六月に、オーストラリアから入港した社船は一|隻《せき》しかなかった。『ジブラルタルの岩』という名の、社船中最大の優秀船《ゆうしゆうせん》である。船客|名簿《めいぼ》をしらべてみると、アデレイドのフレーザー嬢《じよう》が女中をつれてこれに乗った事もわかった。この船はいまオーストラリアへ向けて航海中であるが、現在はたぶんスエズ運河の南方あたりを航海中のはずで、乗組の高級船員は、一人だけ例外はあるけれど、一八九五年と同じである。すなわち一等航海士ジャック・クローカー氏は船長に昇進《しようしん》、二日後にサザンプトンを出港する新造船『バス・ロック』号に乗りくむことになった。この人の家はシデナムだけれど、すこし待っていれば、けさは命令受領のためここへ来ることになっている。
いや会うには及《およ》ばないけれど、できれば経歴や人物について知りたいのです。
経歴は立派なものだった。この会社の船員中、一人として彼《かれ》にならぶものはない。人物は、職務上のことは信頼できるけれど、船外では乱暴で無鉄砲《むてつぽう》な男である。性急《せつかち》で激《げき》しやすいけれど、正直で親切で誠実である。
以上がアデレイド・サザンプトン線の船会社で聞き得たことの概略《がいりやく》であるが、そこを辞するとホームズは警視庁へタクシー馬車をとばした。しかし、馬車が着いても彼は降りようとはせずに、まゆをしかめてじっと考えこんでいたが、そのままチャリング・クロス電信局へ車をまわさせ、どこかへ電報を一本打ってから、べーカー街へともどってきた。
「いや、そうはゆかないんだよ、ワトスン君」部屋へはいるなりホームズはいう。「逮捕状《たいほじよう》が出てしまえば、もう救う途《みち》はないのだからね。僕《ぼく》が犯人を指摘《してき》したがために、その人物が犯行によって流した以上の実質的な害悪を流したことが一、二度あるように思う。だから気をつけることにしているんだ。自分の良心をもてあそぶくらいなら、この国の法律をちょっと曲げてやったほうがいい。とにかく行動をおこすのは、もっとよく知ってからのことさ」
夕がたスタンリー・ホプキンズが訪ねてきた。仕事はあんまりうまくいっていないらしい。
「ホームズさんはたしかに魔法つかいですね。とにかくあなたの能力は人間業《にんげんわざ》とは思われませんよ。被害の銀器があの池に沈《しず》んでいるなんて、いったいどこからわかったのですか?」
「わかってなぞいやしませんよ」
「だって調べてみろとおっしゃったじゃありませんか」
「じゃあったのですか?」
「ひき揚《あ》げましたよ」
「お役にたったのは何よりでしたな」
「お役にたったとおっしゃるけれど、おかげで事件はますます困難さをましましたよ。せっかく盗《ぬす》んだ銀器を、手近の池へ投げこむなんて、およそ変ったどろぼうじゃありませんか?」
「そりゃたしかに奇行《きこう》ですな。私は単に、ほしくもないのに銀器を盗《と》った、いわば欺《あざむ》くための手段として盗ったのだったら、一刻もはやく捨てさるだろうと考えただけのことですよ」
「なぜそんな変なことを思いついたのですか?」
「そういうこともあり得ると思ったのです。フランス窓から逃《に》げだしてみたら、眼の前に池があって、しかも氷に一カ所穴のあるのを見たのです。こんなうまい隠し場はないじゃありませんか」
「隠し場ですか? そいつは面白い! ふむ、なるほど、わかりましたよ! まだよいのうちで、人通りもあることだし、銀器なぞもって歩いたら、人目につくから、ひとまず池の底へ隠しておいて、ほとぼりの冷めたころ取りにくるつもりなんでしょう。なるほど、こいつはホームズさんの欺瞞説《ぎまんせつ》よりも、はるかに納得させるものがありますよ」
「たしかにね。それはまことに敬服すべき卓見《たつけん》ですよ。それにくらべたら私の考えなんか荒唐無稽《こうとうむけい》でした。しかしその荒唐無稽のおかげで銀器が見あたったことも忘れないでくださいよ」
「それはそうです。あれはあなたのお蔭《かげ》です。しかし私はすっかりつまずきましたよ」
「つまずいたとは?」
「それがね、ランドールの一味がけさニューヨークで逮捕されたのです」
「おやおや、それじゃゆうべケント州で人を殺したというあなたの説は、たしかに成りたたないことになりますね」
「決定的ですよ。議論の余地はありません。しかしですね、三人組のギャングはなにもランドールにかぎったわけじゃありませんし、われわれのまだ知らない新しい三人組があるのかもしれません」
「それはそうです。たしかにあり得《う》ることですね。おや、もうお帰りですか?」
「失礼します。この事件を徹底的《てつていてき》に突《つ》きとめるまでは、休んでなんかいられませんからね。何かお教えねがうようなことでもありませんでしょうか?」
「そうですね、一つだけヒントをあげたはずですよ」
「はあ、何でしょう?」
「欺瞞説です」
「だって、ホームズさん、あれは……」
「そうです、むろん問題はあるけれど、心にとめておくようにお勧めします。ひょっとするとそこから何かつかみだせるかもしれませんよ。どうです、夕飯をたべていっては? そうですか。ではさようなら。捜査の模様はお知らせねがいますよ」
夕食がすんで、テーブルが片づいたかと思うと、ホームズはまたこの事件の話をはじめた。パイプに火をつけて、スリッパをつっかけた足を、景気よく燃えている火のほうへのべていたが、ふと時計を見て、彼はいいだしたものである。
「ワトスン君、事件は進展すると思うよ」
「いつ?」
「ここ数分以内にだ。スタンリー・ホプキンズにたいするさっきの僕の態度はよくないと君は思ったろうね?」
「君の判断にまかすよ」
「うまく逃げたね。その問題はこういうふうに考えてくれなきゃいけない。僕の知っていることは非公式だが、ホプキンズの知っていることは公式だ。僕には個人的判断の自由があるが、彼はそうはゆかない。彼はあらゆるものを公開しなければ、汚職《おしよく》のそしりを免《まぬ》がれないことになる。不たしかな事件で彼を苦しい立場に追いこみたくはないから、僕自身が確信をいだくまでは、いろんなことを教えるのは控《ひか》えているのさ」
「その確信は、いつになったら得られるのだい?」
「その時機はすでに来た。いまにこの一風《いつぷう》かわった劇の最後の一場面が見られるよ」
そのとき階段に足音が聞こえたと思ったら、男性の標本ともいうべき立派な人物が入ってきた。こんな立派な男をこの部屋へ迎《むか》えるのは初めてだろう。非常に背のたかい青年で、金いろのひげに青い眼《め》、熱帯地方の太陽にやけて色はくろく、弾力《だんりよく》のある軽快な歩きかたから考えると、大きなからだは強いばかりでなく、敏捷《びんしよう》でもあるらしい。入ってくるとまずドアを閉めておいて、両手を握《にぎ》りしめ、胸をはって、はげしい感情を抑《おさ》える様子だった。
「クローカー船長、どうぞお掛《か》けください。私の電報はごらんになりましたね?」
客はひじかけいすに腰《こし》をおろし、不審《ふしん》げな眼つきで私たちを見くらべた。
「電報を見ましたから、ご指定の時刻にやってきたのです。会社のほうへもお出《い》でになったと聞きました。あなたの手は逃《のが》れられますまい。覚悟《かくご》をしました。それにしても私をどうするつもりですか? 逮捕ですか? どうなんです? ねこにとられたねずみじゃあるまいし、黙《だま》ってそんなところに坐《すわ》っていて、おもちゃにしちゃ困りますよ」
「葉巻をすすめてくれたまえ、ワトスン君。クローカーさん、まあそれでもあがって気をおちつけてください。あなたが通常の犯罪者だと思ったら、私もこうしてひざつきあわせて煙草《たばこ》などやる気はありません。そこはよくお考えください。何ごとも率直にお話しくださるのですな。そうすればいい考えが浮《う》かばないものでもありません。私は、騙《だま》そうとなされば、容赦《ようしや》はしませんよ」
「私にどうしろとおっしゃるのです」
「昨晩アベ農園で起こったことの真相をお話しねがいたいのです。いいですか、余計なことは少しもつけ加えず、あったことは少しも包まず話すのですよ。私はたいていのことはもう知っているのですから、あなたの話が少しでも本筋をはなれたら、この警笛《けいてき》を窓から吹《ふ》きならします。そうすれば問題は永遠に私の手をはなれるわけです」
船長はしばらく考えていたが、陽《ひ》にやけた大きな手でひざをたたいて、
「やってみましょう。あなたも約束《やくそく》は守る人、紳士《しんし》だと思いますから、すっかり話しましょう。ただ初めに一つだけ申しておきますが、私は少しも後悔《こうかい》しておりませんし、また何ものをも怖《おそ》れはしません。同じ事をもう一度でもやりますし、やったことを誇《ほこ》りとするものです。野獣《やじゆう》にのろいあれ! あいつがねこのように九つも生命をもっていたとしても、みんな私が取ってやります。ただ問題なのは彼女メアリです。メアリ・フレーザー――現在の忌《いま》わしい名でなぞ呼べるものですか! 彼女に迷惑《めいわく》をおよぼすことを思うと、彼女の愛らしい顔に微笑《びしよう》を浮かべさすためなら、よろこんで生命を投げだすつもりの私として、こんな残念なことはありません。しかも、それなのに、私に手をつかねて見ておられるでしょうか? 何もかもすっかり申しあげましょう。そのうえで、これが手をつかねて見ておれるものかどうか、男と男の話として伺《うかが》いましょう。
話はちょっともどります。あなたは何もかもご存じのようですから、私が彼女を知るようになったのは、私が一等航海士をしていた『ジブラルタルの岩』へ、彼女が船客として乗りこんできたときに始まるのもたぶんご承知でしょう。初めて会った日から、彼女は私にとってこの世で唯一《ゆいいつ》の女性でした。航海中日ごとに思いはつのるばかり、夜の当直の暗がりのなかでひざまずき、彼女の可愛《かわい》い足がふんだところと知るがゆえに、甲板《かんぱん》の一点にいくど口づけしたことでしょうか? 彼女は一度も約束をしてくれたことはありません。私にたいする態度は、あくまで公正でした。私として少しも不服はありません。恋《こい》しく思うのは私だけで、彼女はどこまでも友人として私を遇《ぐう》してくれただけです。ですから別れにあたっても、彼女の気持はまったく自由でしたけれど、私は決してそうはゆきません。
つぎの航海から帰ったとき、彼女が結婚したことを聞きました。好きな人があれば結婚してわるいという法はありません。かた書きと財産――彼女ほどそれのふさわしい女はありません。美しく優雅《ゆうが》であるためにこそ彼女は生まれついたのです。私はこの結婚を嘆《なげ》くものではけっしてありません。私はそれほど自分本位じゃありません。それどころか彼女が貧しい船員などに身をまかすことなく、幸運にめぐりあったことを喜んだものです。私としてはそれほどこのメアリ・フレーザーを愛していたのです。
さて、それから二度と彼女に会えるとは思っておりませんでしたが、このまえの航海から帰ってくると私は昇進しました。しかし新しい船がまだ進水していませんので、二カ月もシデナムの家で待機することになりました。ある日、私はいなか道でタリーザ・ライトに会いました。ふるくからの彼女の女中です。タリーザは彼女のこと、あいつのこと、そのほか何もかも私に話してきかせました。話をきいて私は気も狂《くる》いそうになりました。彼女のくつをなめる資格もない酔《よ》いどれ犬めが、あろうことか彼女に手をあげるとは!
その後またタリーザに会いました。それからメアリ自身にも、二度ほど会いましたけれど、そのあとでは、彼女は会おうとはしなくなりました。そのうちに私は出港が一週間以内にせまったと通告をうけましたので、そのまえにもう一度会っておくことにきめました。タリーザは終始私の味方でした。メアリを愛する彼女は、私に負けぬくらいこの悪漢を憎《にく》んでいたのです。そのタリーザから、アベ農園のことは聞いていました。メアリは階下の小さな自室で、わりにおそくまで本を読む習慣だと聞きました。
昨晩私はそこへ忍《しの》びよって、そとから窓をコツコツとたたきました。はじめ彼女は開けてくれませんでしたが、いまでは内心私を愛するようになっているのですから、霜《しも》のおりた寒さのなかに放《ほう》ってはおけないのがわかっています。彼女は表の大きな窓のほうへ回れと小さな声で教えてくれました。行ってみるとその窓があいていて、私は食堂へはいることができました。ここでもまた彼女の口からいろんなことを聞かされて、私の血は煮《に》えかえりました。そして愛する女性に酷《むご》い扱いをする野獣を心のそこからのろいました。
さて、私が窓にちかく彼女とならんで立っているところへ、そこに何のやましさもないのは神さまがご存じですが、彼がまるで気ちがいのようになって躍《おど》りこんできて、世にもおそろしい言葉で口ぎたなく彼女を罵《ののし》ったうえ、持ってきた棒で彼女の顔を打ちました。私は急いで火かき棒をとりあげました。双方《そうほう》得物をとっての公平な勝負です。ごらんください、この腕《うで》の傷はまず私が一撃《いちげき》をうけたのです。こんどはこっちの番です。まるで腐《くさ》った南瓜《かぼちや》のように、やっつけてやりました。
私が後悔したとでもお考えですか? とんでもない! あいつが死ぬか私が殺されるかだったのです。いや、そんななまやさしいことではありません。あいつが死ぬか、彼女が殺されるかだったのです。あんな気ちがいに、どうして彼女をゆだねておけましょう? こうして私はあいつを殺しました。私がまちがっていたでしょうか? ふむ、じゃ立場をかえて、お二人がその場にのぞんだら、どうなすったでしょうか?
彼女はあいつに打たれたとき声をたてました。それでタリーザが降りてきたのです。戸だなの上にブドウ酒が一本ありましたから、私はそれを抜《ぬ》いて、メアリの口をわってすこし注ぎこんでやりました。彼女は死んだようになっていたからです。それから自分でも一|杯《ぱい》のみました。タリーザは氷のように冷静でした。あとの筋がきは私も考えましたが、彼女のつくったものです。まずいっさいをどろぼうの仕わざのように見せかけなければなりません。こしらえあげた話をタリーザがくりかえし彼女にかんでふくめるあいだに、私は攀《よ》じのぼってベルのひもを切りとりました。そして彼女をいすにくくりつけました。そしてひもの端《はし》は、自然に切れたように見せるため解《ほつ》れさせておきました。でないとどろぼうは何だって攀《よ》じのぼってひもを切ったのだろうと不審をおこさすと思ったからです。
それから銀の食器類をもちだしてどろぼうの仕業《しわざ》らしく見せかけ、十五分たったら騒《さわ》ぎたてるようにと言いのこしてそこを出ました。庭へ出るとまず銀器を池に投げこんでおいて、一生に一度のすばらしい仕事をなしとげた思いにはればれと、シデナムさして帰ってゆきました。これで何もかも正直に、のこりなく申しあげたわけです。この首にかけて偽《いつわ》りはありません」
ホームズはしばらく黙りこんで、煙草ばかり吹かしていたが、ゆっくり立ちあがると、客の前へ歩みよって、その手を握りしめた。
「私の考えていたのと同じです。お話は、なかに私の知らないことはほとんどありませんでしたし、すべて事実だと信じます。あの腕木をたよりに、たかいところにあるひもを切りうるのは、軽業師か船員にかぎります。またいすにむすびつけたひものむすびかたは、船員独特のものです。しかるにこの婦人が船員と接触《せつしよく》をもちえたのはたった一度きり、すなわちこちらへ来る航海中です。しかも彼女はこの船員を庇《かば》っているばかりか、愛してすらいる様子ですから、身分にあまり隔《へだ》たりのない人物だということもわかります。そこまで正しい線をさぐりあてたからには、あなたを尋《たず》ねあてるのは造作もないことがおわかりでしょう?」
「万が一にも警察にこの詭計《きけい》を見破られるとは思いませんでした」
「警察は見やぶり得なかったのです。私の考えでは、今後ともおなじことでしょう。ところでね、クローカーさん、あなたとしては、誰《だれ》しもある極端《きよくたん》な憤激《ふんげき》のあまりやったことだという点は私も認めますけれど、これは容易ならぬ問題ですよ。あなたの行為《こうい》に正当防衛が成立するかどうか、私には何ともいえません。それはこの国の陪審団《ばいしんだん》が決定することです。しかし私としてはあなたに同情しますから、これから二十四時間以内に姿を隠《かく》されるならば、何人もこれ以上|追及《ついきゆう》はしないと約束してあげましょう」
「そのあとで明るみに出されるのですか?」
「そうです。公表はされるでしょう」
船長は怒《おこ》ってさっと顔を紅潮させた。
「男子にたいして何という提案をなさるんです? 私も少しくらい法律は知っていますが、それではメアリが共犯の責をとわれます。彼女ひとりに貧乏《びんぼう》くじを引かせておいて、ひとりこっそり逃げるような男だとお考えですか? とんでもない! 私は思う存分の処置をうけますから、どうかホームズさん、何とかしてメアリだけは法廷《ほうてい》に立たないですむような方法はありませんか?」
ホームズはここで再び船長の手を握りしめながら、
「ちょっと試《ため》してみただけです。あなたはあくまでも正しいことがわかりました。これは私として非常に大きな責任なのですが、ホプキンズ君にはちゃんとヒントを与《あた》えたのです。それを利用し得なかったとしても、私の知ったことじゃありません。いいですか、それではここで、当然ふまれるべき法律的手続きをとることにしましょう。あなたは被告《ひこく》、ワトスン君は陪審員です。陪審員としてこれほど打ってつけの人物はまたとありません。私は判事です。さて陪審員諸君、諸君は証言を聴取《ちようしゆ》されました。被告は有罪ですか無罪ですか?」
「裁判長、無罪です」私がいった。
「民《たみ》の声は神の声なり。クローカー船長を放免《ほうめん》します。別の犠牲者《ぎせいしや》が現われないかぎり、あなたは再び捕《とら》えられることはありません。一年たったら、あの婦人のところへお帰りなさい。彼女とあなたの将来で、今晩私たちの下した判定の正しかったことが立証されますように」
[#地付き]―一九○四年九月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
第二の汚点
「アベ農園の冒険《ぼうけん》」を最後として、私はこれまで発表しつづけてきた友人シャーロック・ホームズ君の功名譚《こうみようたん》をうちきりにするつもりでいた。この決意は材料がたねぎれになったためではない。現に私の手もとには、今日まで少しも言及《げんきゆう》はしなかったけれど、幾百《いくひやく》という事件のノートがあるのだ。ではこの非凡《ひぼん》な人物の異常な人柄《ひとがら》や、特異な捜査法《そうさほう》にたいする読者の興味がうすれてきたためかというと、それでもない。ほんとうの理由は、その経験をつぎつぎと公表することを、ホームズがいやがりだしたからである。現役時代にこそ、成功談の発表は何といっても実用価値があったけれど、こうしてロンドンを引きはらい、サセックス州の高原に定住して研究と養蜂《ようほう》に打ちこむようになってからは、名の出るのが厭《いと》わしくなり、この問題に関するかぎり自分の意志を尊重してもらいたいと、断乎《だんこ》として要求するのである。
それにたいして私から、「第二の汚点の冒険」だけは時機が熟すれば発表すると約束《やくそく》してしまったことでもあるし、今日まで発表しつづけてきた数多くの冒険談のむすびとして、依頼《いらい》をうけたなかで最大の国際的事件を飾《かざ》るのは大いに当を得ていることを説き、ようやくにして、発表には十分|慎重《しんちよう》を期するという条件のもとに、彼の同意を得たのである。だから話のなかに、こまかい点でいくらかあいまいなところがあっても、そこにはちゃんとした理由があるのだということを、すぐに了解《りようかい》してもらえるものと思うのである。
ある年とだけで、千八百何十年代の事とすらいえないけれど、その年の秋の火曜日の朝、べーカー街の私たちの粗末な部屋へ、ヨーロッパでも有名な人が二人づれで訪ねてきた。一人のほうの、鼻たかく眼光するどく、威圧的《いあつてき》ないかめしい人は、二度まで大英|帝国《ていこく》の総理大臣をつとめた高名のベリンジャー卿《きよう》だった。もう一人の浅ぐろい顔の輪郭《りんかく》のととのった、上品な中年まえの、心身ともにきわめて美しく生まれついた人は、新進政治家の雄《ゆう》、ヨーロッパ省大臣のトリローニ・ホープ伯爵《はくしやく》だった。二人は新聞のちらかっているソファにならんで腰《こし》をおろしたが、疲《つか》れきった心配そうな顔つきから、よくよく重大な用件で訪ねてきたものとわかった。首相は血管のういたやせた手で、かさの象牙《ぞうげ》の柄《え》をしっかりつかんで、苦行者のようなやつれた顔で、ホームズと私を陰気《いんき》くさく見くらべた。ヨーロッパ大臣のほうはひげをひねってみたり、時計の鎖《くさり》につけた印章をおもちゃにしたり、そわそわしている。
「紛失《ふんしつ》に気のついたのは、今朝の八時でしたがすぐ総理に報告しました。こうしてそろってご相談に参ったのも、総理の思いつきなのです」
「警察へはお知らせになりましたか?」
「いいえ、知らせていません」首相がかわって、有名な短気さで決然と答えた。「知らすつもりはありません。警察に知らすのは、結局世間に公表するようなものです。これは特に世間に知られたくない問題ですからな」
「ははあ、なぜでございます?」
「問題の文書はきわめて重要なもので、これが知れわたるとヨーロッパは大紛争におちいる恐《おそ》れがある――いや、必ずおちいると思うからです。戦争と平和がこの問題にかかっていると申しても過言ではない。極秘《ごくひ》のうちにこの文書がとりもどせないくらいなら、この文書をとった輩《やから》の目的は、その内容を一般《いつぱん》に公表するにあるとしても、いっそとりもどさんでもよいとさえ思っております」
「わかりました。ではトリローニ・ホープさん、この文書紛失当時の状況《じようきよう》を、正確にお話しください」
「それはごく簡単です。書簡は――文書と申すのは外国君主からの書簡ですが、六日まえに受取ったものです。きわめて重大なものですから、金庫におさめておく気にもなれず、毎日ホワイト・ホール・テラスの自宅へ持ちかえりまして、状箱《じようばこ》に入れてかぎをかけ、寝室《しんしつ》においていました。昨晩はたしかにあったのです。現に晩餐《ばんさん》のまえの着がえをしながら、状箱をあけて書簡がたしかにあるのを確かめたほどですから、絶対にまちがいはありません。ところが今朝みると、それが紛失しているのです。状箱は晩は化粧台《けしようだい》の鏡のそばにおいてありました。
いったいに私は眼ざといたちで、妻もそうですから、夜中に誰《だれ》も寝室へはいったもののないのは、二人とも断言できます。それなのに書簡は紛失しているのです」
「お宅の晩餐は何時《なんじ》ですか?」
「七時半です」
「それからお寝《やす》みになるまでに、どのくらい時間がありましたか?」
「妻が芝居《しばい》にゆきましたので、私は起きて待っていてやりました。二人が寝室へはいったのは十一時半でした」
「では状箱は四時間だけ放《ほう》っておかれたわけですね?」
「寝室には誰も入れません。毎朝女中が掃除《そうじ》にはいるのと、そのほか執事《しつじ》と妻の小間使いが随時《ずいじ》はいるだけです。しかもこの三人はいずれも長く勤めているものですし、第一状箱に通常の役所の書類以上の大切なものがはいっていることなぞ、誰も知るわけがないのです」
「その書簡のあることを知っていたのは誰と誰ですか?」
「家のものは一人として知りませんでした」
「でも奥《おく》さんはご存じだったでしょう?」
「いいえ、今朝紛失を発見するまでは、妻にも話しはしませんでした」
首相は満足そうにうなずきながら、「公務における閣下の責任観念のつよさには、つとに敬服しておるところです。このような重大なる秘密の重要性は、もっとも緊密《きんみつ》なる家庭的きずなに先行するものかと信じております」
ヨーロッパ大臣は一礼して、「過分のお言葉|恐縮《きようしゆく》に存じます。今朝にいたるまで、妻にはおくびにも漏《も》らしはいたしませんでした」
「奥さまは推測でおわかりだったのではないでしょうか?」
「妻にかぎらず、そんなこと推測などしたくもできるものではありませんよ、ホームズさん」
「まえにも書類の紛失したことがおありですか?」
「いいえ」
「ひろく国内全般のうち、この書簡の存在を知っていたのは誰と誰ですか?」
「閣僚《かくりよう》には昨日報告がありましたが、閣議の内容はいつでも秘密になっていますけれど、昨日はとくに総理から厳重な警告がありました。ああ、それなのに、それから数時間のうちに私自身が紛失するとは!」ヨーロッパ大臣は端正《たんせい》な顔をはげしい絶望にゆがめ、両手で頭髪《とうはつ》をかきむしった。激情的《げきじようてき》で、ちょっと自然児にかえった形である。が、すぐに貴族的な平静な顔にかえって、声もおだやかに、「正規の閣員のほかに局員が二人、いや三人ですか知っていますが、ほかには国内にこれを知るものは一人もありません」
「でも外国にはあるのですか?」
「書簡の筆者以外には、それを見たものがあろうとは思われません。その国の大臣といえども……正規の手続きをふんで発信されたものではないのですから……」
ホームズはしばらく考えこんでいたが、「ではつぎに、この文書の紛失がなぜそう由々《ゆゆ》しい結果をもたらしますか、文書のことをもっと詳《くわ》しくうかがいましょうか」
二人の政治家はちらりと顔を見あわせた。首相は太いまゆをひそめて、
「うす青く、長くてうすい封筒《ふうとう》でしてね、赤い封蝋《ふうろう》をおいて、ライオンのうずくまっている印が押《お》してありました。あて名は太い字で大きく……」
「お話中ですが、そうした細かい点もむろん関係がありますし、むしろ必要とさえいえますけれど、私のお尋《たず》ねしていますのは、もっと根本的なものです。手紙の内容はどんなことなのですか?」
「それはもっとも重大な国家の機密です。遺憾《いかん》ながら内容については申しあげられませんし、またその必要もあるまいと考えます。あなたは優《すぐ》れた能力をおもちと聞きますが、いま申したような封筒を本文ごと発見してくだされば、国家に大きな貢献《こうけん》をすることになるし、またわれわれとしても、できるかぎりの謝礼はいたすつもりです」
ホームズはにっこりして立ちあがった。
「お二人とも大変お忙《いそが》しいご身分のかたですが、私もこれで小さいなりに依頼の客で繁忙《はんぼう》の身です。残念ながらこの問題はお引きうけ致《いた》しかねます。従いましてこれ以上お話をうかがいますのも時間の空費にすぎないと思いますから……」
首相はぬっと立ちあがって、それがため閣僚すらちぢみあがるといわれる落ちくぼんだ眼《め》をぎろりと光らせて、「そんなごあいさつは……」といいかけたが、すぐに怒《いか》りをおし静めて席についた。しばらくは双方《そうほう》無言だったが、やがて老政治家はあきらめたように肩《かた》をすくめて、
「その条件をいれるしかありません。むろんあなたのいう通りです。つつまず事情を話さないでおいて、引きうけてくれというのは、頼《たの》むほうが不当でした」
「私も総理のお言葉には同意いたします」ホープ大臣がそばからいった。
「ではあなた並《なら》びにワトスン博士の徳義に信頼して話をしますが、これが外部にもれると、国家にとって一大事となりますから、とりわけあなたがたの愛国心に訴《うつた》えたいのです」
「どうかご信頼ください」
「では、この書簡というのは、ある外国君主が、最近のわが殖民地《しよくみんち》の発展に刺激《しげき》されてよこしたもので、その君主一個の責任で急いで発信したのです。内偵《ないてい》によるとその国の大臣も知らないようですが、同時にはなはだ穏当《おんとう》を欠く文面で、挑発的《ちようはつてき》な字句さえ二、三見えますから、公表されるとわが国民感情をいたく悪化するのは明らかです。国内の世論は激昂《げつこう》して、一週間以内にこの国は大戦に引きずりこまれるのは必至だと申してはばかりません」
ホームズは紙きれにある人物の名を書きつけて、首相に手わたした。
「ずばりです。この人です。そしてこの人の手紙が、十億の財貨に価《あたい》し、十万の人命にも代わるべきこの手紙が、じつに不可解な紛失をしてしまったのです」
「差出人には通告されましたか?」
「暗号電報を発信しておきました」
「先方では公表されるのがお望みなのでしょう」
「そんなことはありません。その君主のほうでも、激情にまかせて軽率《けいそつ》なことをしたと、いまでは後悔《こうかい》しておられると信ずべき有力な理由があるのです。書簡が公表されたら、打撃《だげき》をうけることはわれわれよりも、その君主とその国家のほうが大きいのです」
「そうしますと、書簡の公表によって利益をうけるのは何ものですか? なんのためにそれを盗《ぬす》んだり、あるいは発表したりしたがるのでしょう?」
「それを理解するには、国際的高等政策から説明しなければなりませんが、ヨーロッパの現状を考えてみれば、動機を了解するのに困難はないはずです。いまヨーロッパ全体は一つの武装陣営《ぶそうじんえい》です。それが二つの同盟にわかれて、軍事的には均衡《きんこう》を保っている。わが大英帝国はそのどちらにも偏《かたよ》らず、中立を保っていますが、それがいったんどちらかの同盟と戦端《せんたん》を開始したとなると、もう一つの同盟は戦いに参加すると否《いな》とにかかわらず、優位にたつことになる。おわかりかな?」
「よくわかります。ではこの君主の敵がわにとっては、書簡を手にいれて公表し、その君主国とわが国の不和をはかれば有利だというわけですね?」
「その通りです」
「この書簡を手に入れたら、敵がたはどこへ送るものとお考えになりますか?」
「ヨーロッパ中どこの国の大臣でも歓迎《かんげい》するでしょうな。おそらくいま現に、交通機関の許すかぎりのスピードで、そこへ運ばれていることでしょう」
トリローニ・ホープ氏はがっくり頭をたれて大きくうめいた。首相はやさしくその肩に手をおいて、なぐさめた。
「これは災難だ。君が悪いのじゃない。君としてはあらゆる予防策を講じたことでもあるし、誰も君を責めるわけにはゆきません。ところでホームズさん、これで何もかも打ちあけたわけだが、どういう処置をとるべきだと思いますか?」
ホームズは悲痛な顔をゆっくり左右にゆり動かして、
「この文書がとりもどせなければ、戦争になるとお考えになりますか?」
「その公算がきわめて大きいと考えます」
「では戦争にお備えになるのですな」
「それはきついお言葉です」
「しかし事実をよくお考えください。手紙をとられたのは、夜の十一時半以後だとは考えられません。その時刻から、あさ紛失に気づくまでは、大臣閣下ご夫妻が寝室においでだったということですからね。してみますと、とったのは昨晩の七時半から十一時半まで、おそらく七時半にちかい時刻かと考えられます。とった人物としてはそこに手紙があると知って忍《しの》びこんだのですし、一刻もはやく手に入れたかったろうと思われるからです。さて、はたしてその時刻にとったものとしますと、手紙はいまどこにあるでしょうか? とったのが誰であるにもせよ、だまって懐中《ふところ》にあたためている訳はありません。それを必要とする人物の方へ、急速に伝達されたものと思われます。としますと、とりもどすのはもちろん、その行方《ゆくえ》をつきとめることすら覚束《おぼつか》ないのではありますまいか? もはや私たちの力ではいかんともしがたいのです」
首相はたちあがって、「お話はいちいちごもっともです。問題はたしかにわれわれの手にはあわないようです」
「論議のための仮定としまして、女中か執事がとったとしますと……」
「二人ともふるくからいる|ためし《ヽヽヽ》ずみの召使《めしつか》いです」
「お話によりまして、あなたがたの寝室は三階にあって、外部からははいれないし、内部からあがってゆけば、必ず人目につくとしますと、とったのは必ず内部のものということになります。ではそれを盗みだして誰の手に渡《わた》したか? 国際的スパイまたは秘密探偵《ひみつたんてい》の一人に渡したものと考えられますが、その連中の名まえはだいたい私にはわかっております。そのなかに首領と目《もく》されるものがいまロンドンに三人おりますが、まずその三人の現状を調べることから手をつけてみたいと思います。なかに行方の知れないのが――ことに昨晩以来姿を消したのがいましたら、手紙の行方について一応の見当をつけることはできるかと考えます」
「なぜ姿を消さねばなりません?」ヨーロッパ大臣が反問した。「どちらかといえば在ロンドンの大使館へ持ちこむでしょう」
「私はそうは考えません。スパイの連中はおのおの独立して暗躍《あんやく》しているのでして、大使館とは反目しあっていることすら、しばしばあるのです」
首相はうなずいて、「ホームズさんのいう通りです。こんな貴重な獲物《えもの》を手に入れたら、おそらく自分の手で本部へ持ちこみたいでしょう。ホームズさんの捜査方針にはしごく同感です。ところでホープ君、この災難にかまけて、おたがいにほかの任務をおろそかにしてはなりません。ホームズさんには、何か新しい進展でもあったら、その都度通報しますから、あなたのほうでも捜査の結果は連絡してください」
二人の政治家は一礼して、おもおもしく帰っていった。
この著名な客が去ると、ホームズは黙《だま》ってパイプに火をつけ、腰をおろしてしばらくは深い考えにふけった。そのあいだに私は朝刊をひろげて、前夜ロンドンにおこった人騒《ひとさわ》がせな犯罪の記事に没頭《ぼつとう》していた。するとホームズは奇声《きせい》を発して立ちあがり、パイプをマントルピースにおきながらいった。
「うんそうだ、これよりほかにうまい方法はない。状況はきわめて悪いけれど、まだ絶望するには早い。いまからでも、とったのが誰とわかりさえすれば、まだそいつの手中にある可能性がないでもないからな。要するにあの連中は金次第《かねしだい》なんだ。それには僕《ぼく》はイギリスの大蔵省といううしろだてがついている。買い手をさがしているのだったら、僕が買いとる――よしそのため所得税が増すようなことになるとしてもね。とったやつは、先方へ売りつけるまえに、こっちがいくらの値をつけるか、様子を見ているということも考えられる。そういう大胆不敵《だいたんふてき》な仕事のやれるものは、まず三人しかない。オバスタインとラ・ロティエールとエドゥアルド・ルーカスだ。僕はこの三人にあたってみるつもりだ」
「エドゥアルド・ルーカスというのはゴドルフィン街にいるやつかい?」私は新聞を見ながらいった。
「そうさ」
「会いにいってもむだだね」
「なぜ?」
「ゆうべ自宅で殺されたよ」
いままでの捜査《そうさ》の過程で、いつもいつも私はびっくりさせられてばかりいたから、きょうこそ彼が完全に度胆《どぎも》をぬかれたのを見て、じつに小気味がよかった。彼は眼をまるくしていたが、気がついて私の手から新聞をひったくった。彼が勢いよく立ちあがったとき、私が読みいっていたのは、つぎのような記事なのである。
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ウエストミンスターの殺人
ウエストミンスター寺院とテムズ河にはさまれた地点にあって、ほとんど議事堂のたかい塔《とう》のかげになり、十八世紀来の古風な家のたちならぶさびしいゴドルフィン街十六番の家で昨夜|奇怪《きかい》なる殺人が行なわれた。小さいながら極上等《ごくじようとう》のこの家には、エドゥアルド・ルーカス氏といって、わが国|屈指《くつし》の素人《しろうと》テノール歌手として声名があり、人柄《ひとがら》も魅力《みりよく》あるところから、社交界に顔のひろい紳士《しんし》が数年前から住んでいた。氏は独身で三十四|歳《さい》、老家政婦のプリングル夫人と執事のミットンの三人|暮《ぐ》らしであった。プリングル夫人は毎夜はやく最上階にさがって寝《ね》につくのが例で、執事のほうはハマースミスの友人の家へいって昨夜は不在だった。すなわち十時以後はルーカス氏一人が起きていたことになるが、そのあいだどんなことが行なわれたか、詳しいことはまだ判明していない。十一時四十五分ごろバレット巡査《じゆんさ》がゴドルフィン街を巡回中、十六番の玄関《げんかん》が半開きになっているのを見て、ノックしたが返事がない。しかし表の間に灯火《あかり》が見えるので、ホールへ入りこんでその部屋をノックしてみたがやはり返事がない。そこでドアをあけてなかへはいってみた。部屋のなかは乱雑にとりみだしていて、家具類は一方の壁《かべ》ぎわに押し集められ、中央にいすが一|脚《きやく》ひっくりかえっていた。そしてそのそばに、いすの脚《あし》をつかんだままこの家の主人が倒《たお》れている。心臓部を刺《さ》されているから、即死《そくし》だったものと考えられるが、凶器《きようき》は壁に飾《かざ》ってあった東洋の戦利品のなかのインドの彎刀《わんとう》である。室内の貴重品が物色されていないところから見て物盗《ものと》りが目的とは思われないが、エドゥアルド・ルーカス氏が社交界に人気のある知名の士であっただけに、この不可解な非業《ひごう》の死をとげたことは、ひろく同氏を知るものにとって傷《いた》ましい好奇心とふかい同情をおこさせることであろう。
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「ふむ、ワトスン君、この事件をどう思う?」ホームズはしばらくたって尋ねた。
「おどろくべき偶然《ぐうぜん》だね」
「偶然ねえ。この劇の役者と目せられる人物としてあげた三人のなかの一人が、劇の演出中と考えられる時刻に虐殺《ぎやくさつ》されたんだ。それを偶然の暗合というのはどうかねえ。まず問題じゃあるまい。これはね、ワトスン君、二つの事件は関連がある。必ずなければならないのだよ。その関連を見つけだすのが、われわれの役目なんだよ」
「それにしても今ごろは警察がちゃんと調べあげているだろう」
「どういたしまして! なるほど、ゴドルフィン街の事件はちゃんと調べあげているだろう。だがホワイト・ホール・テラスの事件のほうは何も知らないのだよ、将来もね。両方を知っているのはわれわれだけなんだ。それに僕としては、ルーカスに疑惑《ぎわく》をむけるべき明白な理由が一つある。ウエストミンスターのゴドルフィン街から、ヨーロッパ大臣の官邸《かんてい》のあるホワイト・ホール・テラスまでは、歩いて数分の距離《きより》しかない。三人あげたうちあとの二人の家は、ウエスト・エンドのはずれにあるんだ。だからルーカスはほかの二人よりも、ヨーロッパ大臣の一家のものと関係をむすぶにしても、あるいは通報をうけるにしても、容易な立場にあったといえる。これは小さなことだが、しかも二つの事件が短時間内に相接して起こっているのだから、見のがしてはなるまいと思う。おや、また誰《だれ》か来たのかな?」
下宿の主婦ハドスン夫人が、女性の名刺《めいし》をぼんにのせてはいってきた。ホームズは名刺をちらりと見て眼を瞠《みは》り、私に手わたしながらいった。
「ヒルダ・トリローニ・ホープ夫人に、どうぞお通りくださいと伝えてください」
その朝はどうしたことか、いまを時めく二人の大政治家を迎《むか》える光栄に浴したばかりの私たちの質素《しつそ》な部屋は、こんどはかたじけなくもロンドンでも指折りの美しい名流夫人の来訪を受けることになった。ベルミンスター公爵《こうしやく》の末娘《すえむすめ》の美しさはかねがね耳にしていたが、いくら説明を聞き、または写真などながめても、えもいわれぬ魅力ある実物の美しさは、とうてい会得《えとく》できるものでないのを知ったのである。しかもこの秋のある朝私たちの見た彼女《かのじよ》の美しさは、この婦人のほんとの美しさを十分に発揮《はつき》したものではなかった。美しい頬《ほお》もある種の感情で青ざめ、眼には輝《かがや》きがあるが、それは熱を帯びた光であった。敏感《びんかん》な口もとも自制心によって一文字にかたくむすばれている。ためらいがちに戸口で立ちどまった夫人の最初の印象は、美しさでなく恐怖《きようふ》であった。
「良人《おつと》がこちらへうかがいましたでしょうか、ホームズさん?」
「はあ、お見えでございました」
「では私がこちらへうかがいましたことは、良人にはおっしゃいませんように、お願い致します」
ホームズは冷やかに頭をさげて、手つきでいすをすすめた。
「それはたいへんむずかしいご注文ですが、どうぞこれへお掛《か》けくださって、どんなご希望ですか、お話をうかがわせていただきましょう。ただし、お断りいたしておきますが、私としては無条件でのお約束《やくそく》はいたしかねますよ」
彼女は部屋へはいってくると、ずっと奥《おく》へとおって、窓を背にして席についた。背がたかく優雅《ゆうが》で、しかもきわめて女らしいなかに、威厳《いげん》のある態度だった。
「ホームズさん」彼女は白い手袋《てぶくろ》をはめた手を握《にぎ》ったりひらいたりしながら話しはじめた。
「こちらが率直《そつちよく》に申しあげれば、あなたにもそうしていただけるかと思いますから、何ごとも打ちわって申しあげます。私と良人のあいだには、ただ一つのことを除きましたら、少しも隠《かく》しだてはございません。その一つとは政治むきのことでございます。政治むきのことになりますと、良人は口が堅《かと》うございます。何一つ私には教えてくれません。
さて、昨晩私どもでたいへん困ったことがおこりましたのを私は知っております。ある書類の紛失《ふんしつ》でございます。でもそれが政治むきの問題ですので、良人は私に何も教えてはくれません。でも私としましては、それを完全に理解します必要がございます。それが何よりも重要だと存じます。政治家以外では、真相を知っている人はあなただけでございます。ホームズさん、お願いでございますから、ほんとのことを、そしてそれがどんなことになりますのか、どうぞお聞かせくださいまし。どちらへも気がねなさるには及《およ》びません。良人がわかってくれますとよろしいのですけれども、私がすべての秘密を知りますことが、とりもなおさず良人の利益になるのでございますもの。盗まれましたのはどんな書類なのでございますか?」
「奥さん、お話の件はほんとに私には不可能なのです」
夫人はうめき、両手で顔を覆《おお》った。
「奥さん、この点はよくお考えくださらないといけません。ご主人があなたにすらお知らせするのは適当でないとお考えになったものを、職業上やむを得ないものとして教えられたにすぎない私の口から、申しあげられるものとお考えになりますか? 私をお責《せ》めになるのはまちがいです。ご主人にお尋《たず》ねになるのですね」
「良人にはもう尋ねました。こちらへは最後の頼《たの》みのつなとして伺《うかが》いました。でもはっきりとはおっしゃれないのでございましたら、せめて安心のためたった一つだけお教えねがいとうございます」
「何でございましょう?」
「この問題のために、良人は政治家として将来苦しむことになりそうでございますか?」
「そうですね、これが無事に収拾できませんと、必ず面白《おもしろ》くないことになりそうですね」
「ああ!」一縷《いちる》の望みも絶えはてたというように、夫人はふかく息を吸いこんで、「もう一つだけお尋ねいたします。こんどの災難がわかりましたとき、良人の見せました表情からみましても、この書類が紛失しますと、世間が大騒ぎになりますのでしょうね?」
「ご主人がそうおっしゃったのでしたら、私は否定いたしません」
「その騒ぎはどんな性質のものでございましょうか?」
「またしても奥さんは、私にお答えできない問題をお尋ねになりますね」
「では、これ以上お妨《さまた》げいたしても仕方がございません。あなたがもっとお気軽におっしゃってくださらないと申して、決してとがめだてはいたしません。そのかわり私が良人の意志に反してまで、心配をわかちたいと願っておりますことを、あなたのほうでもどうか悪くお考えになりませんように。重ねてお願いいたしますが、私のうかがいましたことはどうか内密にね」夫人は戸口のところで振《ふ》りかえったので、美しく悩《なや》ましげな顔、おびえた眼《め》つき、一文字にむすんだ口もとなどを、私はもう一度見ることができた。そして彼女が出てゆき、ぴたりとドアを閉めるとともに衣《きぬ》ずれの音が聞こえなくなると、ホームズはにやりと笑って、
「ワトスン君、女性は君のうけもちだ。あの夫人の目的はなんだと思う? 何がほしくてやってきたのだろう?」
「いうことははっきりしていた。心配するのもごく当然じゃないか」
「ふむ、あの様子を考えてみたまえ。あの態度、興奮をおさえて、たえずそわそわしていたこと、質問の執拗《しつよう》さなどをね。しかもあれは容易なことでは感情をおもてに現わさない階級の女なんだよ」
「たしかにひどく内心は動揺《どうよう》していたね」
「妻として何もかも知ることが、良人のためになることだといったときの、妙《みよう》に熱のこもったいいかた、あれはどういうつもりなんだろう? それに見おとしてならないのは、光線をうしろから受ける席を、巧《たく》みに選んだことだ。表情を読みとられたくなかったのだぜ」
「む、そういういすを選んで腰《こし》をおろしたね」
「とはいうものの、女の考えることばっかりはわからないものでねえ。同じ理由から僕が疑惑を抱《いだ》いた『マーゲートの女』の事件を覚えているだろう? 鼻の頭に白粉《おしろい》をひとはけもつけていない女――結局それが正解だとわかったが……何といっても流砂のうえに家は建てられないじゃないか。女はほんの些末《さまつ》な動きの中に、大きな意味があったり、とんでもないことをやらかすから、調べてみたらヘヤピン一本のためだったり、カール鏝《ごて》のためだったり、まったくわからないものだよ。ちょっと失敬」
「おや、出かけるの?」
「朝のうちにゴドルフィン街へいって、警視庁の連中にちょっと会ってきたい。書簡問題の解決が、エドゥアルド・ルーカスに関連していることは、まちがいない。それがどう関連しているのかは、こっから先もわからないけれどね。事実にさきだって理論だけ組みたてようとするのは大きなまちがいさ。すまないが留守番をたのむよ、また誰かくるといけないからね。できれば昼食までには帰るつもりだ」
その日とつぎの日と、そのつぎの日とを、ホームズはむっつりして、親しくないものにいわせたら不機嫌《ふきげん》であった。せかせかと出かけていったり、慌《あわただ》しく帰ってきたり、ひっきりなしに煙草《たばこ》をやるかと思うと、ヴァイオリンをかきならしてみたり、ふかい思索《しさく》にふけったり、とんでもない時刻にサンドイッチをむさぼり食ってみたり、どうかした拍子《ひようし》に私から話しかけても、ろくに返事もしなかった。もちろん調べることがうまく進行しないからであるのはわかっているが、彼は口にだしては何もいわなかった。たとえば殺されたルーカスの執事《しつじ》のミットンがいちどつかまったけれど、すぐに釈放されたことなんかも、私は新聞で知ったような始末だった。
検屍《けんし》陪審団《ばいしんだん》は『謀殺《ぼうさつ》』というわかりきった評決を下しただけで、犯人については何もわからなかった。第一に動機からしてさっぱりわからなかった。室内には高価な品がいっぱいあるのに、一つとして紛失していないのである。また殺されたルーカスの書類もかきまわした痕跡《こんせき》はない。それらの書類をたんねんに調べてみると、ルーカスは国際政略問題の熱心な研究家で、際限のないおしゃべりやで、非凡《ひぼん》な語学者で、かつ疲《つか》れを知らぬ手紙好きだったことがわかった。また数カ国の指導的政治家と親密だったこともわかったが、引出しいっぱいの書類から、これといって問題になるようなものは発見されなかった。
また婦人関係はでたらめながら、みんな表面だけで、深いものはないらしかった。顔見知りの程度ならば多いけれど、親しいといえるのは少なく、まして彼が愛していた女なぞなかったのだ。日常の生活は規則ただしく、身もちも悪くはなかった。そのルーカスが殺されたというのだから、わけがわからないが、おそらく迷宮《めいきゆう》に入るのではあるまいか。
執事ジョン・ミットンの逮捕《たいほ》であるが、これは警察無能の非難を避けるため、申し訳ばかりに行なわれたものだった。この告発は成立しない。あの晩彼はハマースミスに友人を訪ねたので、アリバイが完全である。バレット巡査《じゆんさ》がルーカスの殺されているのを発見したのは十一時四十五分ごろで、ミットンがその時刻よりさきにウエストミンスターの家へ帰りつけるはずの時刻に、ハマースミスの友人の家を出たのは事実だけれど、本人が途中《とちゆう》の一部を歩いたので帰りがおくれたのだと説明しているのも、その夜が天気のよい美しい夜であったことを思えば、いちがいにうそだともきめられなかった。じっさい彼の帰りついたのは十二時だった。そして思いもかけない変事がおこっているのを見て、仰天《ぎようてん》したように見えたという。
また平素から主人との折合いはよかったのだが、調べてみるとミットンの持物のなかから主人の品がいくつか――とりわけ小さな箱《はこ》いりのかみそりのごとき――現われたが、彼は主人から貰《もら》ったのだといい、家政婦もそれを確認《かくにん》した。ルーカスに雇《やと》われてから三年になるというが、一度も大陸へはお供をしたことがないというのは、ちょっと注目すべきであろう。ルーカスはどうかすると三月もぶっつづけにパリへ滞在《たいざい》することがあり、ミットンはいつもゴドルフィン街の家に留守番をさせられたのである。
家政婦については、当夜はなんの物音も聞かなかったから、もしお客があったとすれば、主人がみずから玄関をあけて招じいれたものと思うというだけだった。
というわけで、私が毎朝新聞で知りえたかぎりでは、三日間というもの謎《なぞ》は依然《いぜん》として謎のままであった。ホームズは何か知っていたにしても、私にはおし包んでいたが、彼もちょっと漏《も》らしていたように、レストレード警部が彼には捜査の秘密をうち明けていたのである。したがって事件の進展には密接な関係をもっていたに違いないのである。四日目になって、ながいパリ電報がデイリー・テレグラフにあらわれたが、それによって問題はすっかり解決されたように思えた。
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月曜の晩にロンドン、ウエストミンスターのゴドルフィン街で惨殺《ざんさつ》されたエドゥアルド・ルーカス氏の事件の秘密をとくべき発見が、パリ警察によってなされた。同氏が自室内で刺殺《しさつ》され、嫌疑《けんぎ》はいったんその執事にかけられたけれど、アリバイがあったので釈放になったことは読者の記憶《きおく》に新たであろう。ところがここにオーステルリツ街の小さな別荘風《べつそうふう》の家に住むアンリ・フールネイ夫人と呼ばれる一婦人が発狂《はつきよう》した旨《むね》、昨日|召使《めしつか》いのものから当局へ届け出た。診察《しんさつ》の結果同夫人は危険な不治の狂人であることがわかったが、警察の調べによると同人はこの火曜日に、ロンドン旅行から帰ったばかりで、殺されたルーカス氏に関係のあることがわかった。すなわち写真の比較《ひかく》によって同夫人の良人アンリ・フールネイ氏とエドゥアルド・ルーカス氏とは同一人物であり、同人はなぜかロンドンとパリで二重生活をしていたことが判明したのである。なおフールネイ夫人は南方の血統をひき、性質きわめて興奮しやすく、かつて嫉妬《しつと》のあまり発作的に半狂乱になったこともあるという。よってロンドンを騒《さわ》がした事件も同夫人が発作的に犯《おか》したのではないかと臆測《おくそく》されるわけで、月曜日夜の足どりについてはまだ明らかでないけれども、火曜日の朝人相の該当《がいとう》するそれらしい婦人がチャリング・クロス駅で服装《ふくそう》もみだれ、挙動が乱暴なため人目をひいたという事実もあり、同人発狂後の凶行《きようこう》であるか、あるいは凶行が原因となって発狂したものではないかとの見かたもある。目下彼女は筋道のとおった話はできない状態にあり、回復はまず絶望だろうと医師はいっている。なおまた月曜日の夜一婦人がゴドルフィン街の家を数時間見はっていたという証言もあり、これがフールネイ夫人だったかもしれないといわれる。
[#ここで字下げ終わり]
「これをどう思うね、ホームズ君?」彼が朝食をすますあいだに、私はこの記事を朗読してやってから意見をもとめた。すると彼はテーブルをはなれ、部屋のなかを歩きまわりながら、
「それはね、君としてはずいぶん辛抱《しんぼう》づよく待ったのだろうが、この三日間|僕《ぼく》がなんにもいわなかったのは、いうことがなかったからなんだよ。いまだって、パリからこんな電報がきても、大して役にはたたないね」
「しかし、あの男の殺された問題だけは、これで解決したわけだ」
「あの男の死なんか、この文書の行方《ゆくえ》を追及《ついきゆう》して、ヨーロッパを破滅《はめつ》から救うという大事業にくらべたら、まことに小さな事件にすぎない。この三日間におこった唯一《ゆいいつ》の大事件といったら、何もおこらなかったということだ。僕のところにはほとんど一時間おきに政府から報告がきているが、目下のところヨーロッパのどこにも、紛争のおこりそうな気配はない。そこでもしこの手紙が紛失したのなら――いや、紛失などしっこはないのだが――紛失したのでないとすれば、どこにあるのだろう? 誰がもっているのだろう? なぜ持ちっぱなしに抑《おさ》えているのだろう? その問題が僕の頭のなかでハンマーのように鳴りわたっている。手紙の紛失した晩にルーカスが殺されるとは、全くの偶然にすぎないのだろうか? 彼《かれ》は果して手紙を手に入れたのだろうか? それにしては家宅捜査《かたくそうさ》の結果出てこなかったのはなぜだろう? 気のちがった妻が持ちさったのだろうか? そうならパリの彼女の家にあるのだろうか? フランス警察に疑念をおこさせないで、彼女の家を捜査するにはどうしたらよかろう? こうなると犯罪者よりもむしろ法律のほうがわれわれには怖《こわ》いことになる。あらゆる人間が僕らの敵にまわっているが、成功すれば利するところは大きい。もしこの問題がうまく収められたら、一世一代ともいうべき無上の光栄をもたらすにちがいないのだ。おや、前線から最新の情報がきたな!」と彼は届けられた短い手紙に眼をとおして「やあ、レストレード君が何か面白い発見をしたらしいよ。さ、帽子《ぼうし》をかぶりたまえ、ウエストミンスターへ出かけてみよう」
こんどの凶行現場を見るのは、私には初めてだった。高さのわりに間口のせまいすすけた家は、建てられた世紀にふさわしく外形がかたくるしくできていた。レストレード警部のブルドッグ面《づら》が表の窓から私たちを見ていたが、大柄《おおがら》の巡査《じゆんさ》が玄関《げんかん》をあけてくれたので、はいってゆくと温かく迎えてくれた。通されたのはルーカスの殺された部屋だが、敷物《しきもの》のうえに不規則な形の気味のわるい汚点《おてん》があるだけで、ほかにそれらしい様子はのこっていなかった。中央にしいたこの敷物は部屋のわりに小さな正方形の粗毛|絨毯《じゆうたん》で、まわりにはよく磨《みが》きこんだ正方形のブロックを組みあわせた古風な美しい床《ゆか》が、はばひろく現われていた。暖炉《だんろ》の上方にはすばらしい戦利武器が飾《かざ》ってあって、その中の一つが凶器《きようき》として用いられたのだった。窓の前には贅沢《ぜいたく》なデスクがおいてあり、飾ってある絵画、敷物、壁掛《かべかけ》、その他あらゆるものが、女々《めめ》しいほどに豪華《ごうか》をきわめていた。
「パリ電報を見ましたか?」レストレード君がたずねる。
ホームズはただ頷《うなず》いてみせた。
「こんどはフランス警察に出しぬかれたようです。たしかに先生がたのいう通りですよ。彼女が訪ねてくる。――ルーカスは防水区画のつもりでいたんだから、不意をつかれたのですね。まさか表へ立たせてもおけないから、中へ入れる。女は探すに骨の折れたことなどいって、男にくってかかる。いちど言いだすと、苦情はあとからあとから出てきます。あげくのはてが手ぢかの短刀をとってぐさりとやっちまった。もちろんいっぺんにやっちまったわけじゃない。この通りいすがすっかり向うへ押しやってあるし、男は払《はら》いのけようとでもしたのですか、いすをつかんでいましたしね。これで眼《ま》のあたり見ていたように、はっきりしましたよ」
「それだのに私を呼んだのですか?」ホームズはまゆをあげた。
「いや、それはまた別のことですよ。つまらないことですがね、あなたは興味をお持ちになりそうですから……妙なことがあるんですよ、何だといわれるかもしれませんけれどね。いえ、問題の本筋とは関係のないこと、見たところまず関係のありえないことですがね」
「いったい何です?」
「この種の犯罪のあとでは、現場保存にはずいぶん注意しますが、こんどの場合にしても昼夜係員をおいて監視《かんし》させているほどで、何一つ動かしてはありません。けさ死体の埋葬《まいそう》もすみましたし、この部屋に関するかぎり捜査もおわりましたから、すこし部屋を片づけようと思ったのです。ところがこの敷物ですよ。ごらんのとおりただおいてあるだけで、びょうで床に留めてありません。何かの拍子にこいつをあげてみますと……」
「あげてみると?」ホームズは固唾《かたず》をのんだ。
「こいつばかりは、あなたが百年考えたって、わかりっこありゃしませんよ。この敷物に血痕がついているでしょう? 相当多量の出血があったものと思われますね?」
「もちろん出血は多かったですね」
「ところが敷物の汚点に該当する部分の白い床に、血痕がないのですよ」
「血痕がない? そんなはずが……」
「ええ、そうおっしゃるでしょう。ところが事実ないのです」
レストレード警部は敷物の角《すみ》をつまんでめくりあげ、自分のいう通りなのを見せた。
「でも敷物の裏にはこの通り表とおなじ血痕があるでしょう? これで床に血のつかぬはずがありません」レストレードは有名な探偵《たんてい》を困らせたのがうれしいらしく、にやりと笑った。
「ハハハハ、では説明しましょう。床のうえの第二の血痕はあるにはあるのですが、敷物と一致《いつち》しないだけです。ご自分でごらんください」と彼は敷物のほかの角《すみ》をめくってみせた。なるほど四角な白い木を組みあわせた古風な床のうえに、まっ赤な血のあとが大きくのこっている。
「どうですホームズさん、これをどうお考えになります?」
「そんなこと簡単ですよ。血のあとは一致するのだけれど、敷物のほうをあとで回しただけです。まっ四角で、しかも床に留めてないから、造作なくできるわけですね」
「敷物を回したからだくらい、ホームズさんを煩《わずら》わすまでもなくわかっていますよ。敷物をこちらへ回せば、血痕の形までちゃんと一致しますからね。私の知りたいのは、何ものがなんのために敷物を動かしたかという点です」
ホームズがむずかしい顔をしたのを見て、私は彼が内心の興奮にぞくぞくしているのを知った。
「レ、レストレード君、廊下《ろうか》にいるあの巡査はずっと張りこんでいたのですか?」
「ええ、ずっと張りこんでいました」
「じゃいいことを教えてあげましょう。あの巡査を詳《くわ》しく調べてみるんです。いいえ、僕たちの見ているところでないほうがいい。われわれはここで待っていますよ。奥《おく》の部屋へつれていって調べてごらんなさい。単独のほうが白状させやすいでしょうからね。何だって他人をこの部屋へ入れたり、独りっきりにしておいたりしたんだと詰問《きつもん》するんです。もしやこうではないかと、おだやかな尋問《じんもん》じゃだめですよ。頭からそうと決めて詰問するんです。誰《だれ》かはいったのは知ってるぞと、ハッタリを利《き》かすんです。こうなったら正直に自白するのが、寛大《かんだい》な処置をうける唯一《ゆいいつ》の途《みち》だとやるんです。いいですね、私のいった通りにやるんですよ」
「うーん、ほんとに誰かを入れやがったのなら、かならず白状させてやります!」とレストレードはいきりたって、ホールへとびだしていったが、しばらくすると奥の部屋から、われ鐘《がね》のような声が聞こえてきた。
「ワトスン君、いまだ!」ホームズは気ちがいじみた声をあげると、無関心な態度のそこに秘めていた悪魔《あくま》につかれたような精力を、せきをきったような勢いで爆発《ばくはつ》させた。まず敷物をはねのけると、たちまち四《よつ》んばいになって、床に張りつめてある四角な寄木《よせぎ》のますを、かたっぱしから調べてゆく。すると一つだけつめをかけて引くと横にずれるのがあって、蝶番《ちようつがい》であんぐりと蓋《ふた》があき、その下に暗い孔《あな》が現われた。ホームズは急いで片手をつっこんだが、舌うちとともにその手をひっこめた。なかは空っぽだったのである。
「早く、早く、ワトスン君、もとの通りにしとかなきゃ!」ふたをもとへもどして、ようやく敷物をのべ終ったところへ、ホールでレストレードの声がした。そしてはいってきたときには、ホームズは元気なくマントルピースによりかかり、諦《あきら》めた辛抱よさで、なまあくびを噛《か》みころしていたのである。
「お待たせしました。まったくうるさい事になったものですなあ。やっぱり白状しましたよ。マクファースン、こっちへはいってこい。そしてこのかたたちに、君の許すべからざる行動を申しあげろ!」
大男の巡査はあかくなって、しおしおとはいってきた。
「まったく悪気はなかったんで……ゆうべ若い女がとびこんできましてね、家をまちがえたんですけれど、つい話しこんじまったんで……何しろ一人で一日ここにいますと退屈《たいくつ》でもあり、寂《さび》しくって……」
「ふむ、それでどうしました?」
「話すうちに、人殺しのあったっていう部屋を見たいっていうんです。新聞なんかで読んだけれど、実物はまだ見たことがないからって……言葉つきも上品だし、ちゃんとした女だから、のぞくだけなら害もなかろうと思ったんですが、敷物のうえの血のあとを見ると、ぶっ倒《たお》れちまって、まるで死んだみたいになりましたから、奥へとんでって水をもってきてやりましたが、それでも正気にかえりません。しかたがないからその角を曲ったところにある『アイヴィ・プラント』までいってブランディをすこしもらってきました。ところが帰ってみると姿が見えないんです。きっとそのあいだに正気づいて、恥《はず》かしくなり、私に合せる顔がないと思って、こっそり逃《に》げたんだと思います」
「この敷物が動かしてあるのはどういうものです?」
「帰ってみたら少ししわになっていたのは事実ですけれど、女がそのうえに倒れたわけですし、床はつるつるに磨《みが》いてありますから、むりもないと思いまして、ちょっと直しておきました」
「これでおれをだませないのがわかったろう」レストレードは威厳《いげん》をみせて、「すこしくらい任務を怠《おこた》っても、わかりはしまいと高をくくったのだろうが、この敷物をひと目みただけで、誰かをこの部屋へ入れたなとおれにはちゃんとわかるんだ。まあ何も紛失《ふんしつ》していないからいいようなものの、さもなければお前の不首尾《ふしゆび》はただじゃすまないところだ。ホームズさん、つまらないことでお出《いで》をねがったりして、相すみませんでしたな。ただ両方の血痕の合わないのは、あなたには面白《おもしろ》かろうかと思いましてね」
「いや、ほんとにたいへん面白いですよ。お巡《まわ》りさん、その女は一度きただけですか?」
「はあ、一度だけで」
「どこの人ですか?」
「名まえはわかりません。タイプライター仕事の広告をみて、応募《おうぼ》するつもりできたところ、家の番号をまちがえたんだということで、若くてたいへん快活な、礼儀《れいぎ》正しい婦人でした」
「背のたかい美しい人ですか?」
「はあ、すくすくと発育のよい婦人でした。容貌《ようぼう》は美しいほう、人によってはたいへん美しい人というでしょう。『あら、お巡りさん、ちょっとだけのぞかせてちょうだいよ』といいましたが、何と申しますか、その、うまい調子にもちかけられまして、私もつい戸口からのぞかせるだけなら害にもなるまいと思いまして……」
「どんな服装でした?」
「地味ななりで……足さきまである長いマントを着ていました」
「何時《なんじ》ごろですか?」
「日ぐれがたで、ブランディをもらって帰るとき、あちこちで灯火《あかり》をともしていました」
「わかりました。ワトスン君きたまえ、ほかのところで大切な仕事が待っているようだから」
私たちはその家を出たが、レストレードは同じ部屋にいのこった。前非《ぜんぴ》を悔《く》いて小さくなった巡査が玄関をあけて、送りだしてくれた。そのときホームズは石段のうえで振《ふ》りかえり、手のなかのものを巡査に見せた。巡査はじっと見つめていたが、
「おや、それは……」と、あっけにとられてさけんだ。ホームズはすぐ口に指をあてて、発言を制し、片手をポケットへ突《つ》っこんだ。そして表へ出ると大きな声をあげて笑いだした。
「しめたね。さあ行こう。最後の場の幕があがるところだ。戦争にはならないし、トリローニ・ホープ伯爵《はくしやく》の輝《かがや》かしい前途《ぜんと》にきずもつかず、無分別な君主がその軽率《けいそつ》のゆえに痛い目にあうこともなく、総理大臣はヨーロッパ対策に悩《なや》まされることもないし、われわれがちょっと機転をきかせて処理すれば、ずいぶん不快な事件にもなりかねない問題を、誰にも損害をかけずに四方まるく納められるのだと聞けば、君も安心だろうよ」
「解決したというんだね?」私はこの卓絶《たくぜつ》した人物の手腕《しゆわん》に舌をまいて感嘆《かんたん》した。
「どうして、どうして。二、三の点はまだ一向にわかっていない。だけどわかった点はうんとあるのだから、のこるところもわからなければ、こっちが悪いのだ。まっすぐにホワイト・ホール・テラスへいって、一挙に解決してやろうよ」
ヨーロッパ大臣の官邸《かんてい》へつくと、シャーロック・ホームズはヒルダ夫人にといって面会をもとめた。すぐに私たちは夫人の居間へ通された。
「ホームズさん、あなたはまあ、なんて卑劣《ひれつ》なまねをなさるんです!」夫人は顔をみるなりまっ赤になって食ってかかった。「余計なおせっかいをすると思って、良人《おつと》がいやがりますから、私のお訪ねしましたことは秘密にとお願いいたしておきました。それですのにこんなところへいらしてくださっては困りますわ。私から捜査をお願いしましたことがわかってしまいます」
「残念ながら、ほかに方法がなかったのです。私はこのきわめて重要な文書の回復入手を委託《いたく》されております。つきましては、それを私の手にお渡《わた》しねがわなければなりません」
夫人は瞬間《しゆんかん》にさっと色を失って、立ちあがった。じっと一点を見つめ、よろめいた。気絶するかなと思ったが、必死の努力で気をとりなおすと、かぎりなき驚《おどろ》きと怒《いか》りだけをみせて、
「そ、それは無礼でございましょう」
「いけませんよ、奥さん、それはむだです。さっさと手紙を出しておしまいなさい」
「執事《しつじ》に玄関までお送りさせましょう」夫人は呼びリンのほうへ駆《か》けよった。
「鳴らすのはおよしなさい。さもないと、せっかくスキャンダルにしまいとした私のまじめな努力も水のあわです。手紙をお出しなさい。それで万事片づきます。私の申すとおりなさればまるくおさめてあげますけれど、さもなければ奥さんのことを発《あば》きたてるしかありません」
彼女は堂々たる威厳をみせて、挑戦的《ちようせんてき》に立ちつくした。その眼《め》はホームズの心の底を読みとろうとするように、顔からはなさない。手は呼びリンのうえにおいているが、あえて鳴らそうとはしなかった。
「私を嚇《おど》かそうとなさる。こんなところへいらしって、女を嚇かそうとなさるのは男らしくもないじゃございませんか。何か知っていらっしゃるようなお話ですけれど、どんなことでございますの?」
「まあ腰《こし》をおろしてください。そんなところで倒れでもなすったら、お怪我《けが》をしますよ。お掛《か》けにならなければ、何も申しあげられません。ありがとう」
「五分間だけ猶予《ゆうよ》いたしましょう」
「一分で結構です。あなたがエドゥアルド・ルーカスをお訪ねになったことを、私は知っています。それから昨晩も巧妙《こうみよう》な方法であの部屋をお訪ねになったこと、敷物の下の隠《かく》し場所から手紙を取っておいでになった様子などもよく知っております」
夫人は死灰のようになってホームズを見つめ、何かいおうとして二度もつばをのみ、やっとのことで、「あなたは気ちがいです! 気がちがったのです!」と金切声をあげた。
ホームズはポケットから小さなボール紙の一|片《ぺん》をとりだした。女の肖像《しようぞう》を顔だけ切りぬいたものである。
「これが役にたつと思って持ち歩いていたのですが、巡査に見せたらそうだと認知《にんち》しましたよ」
夫人は驚いて息をひき、頭をがっくりいすの背にもたせた。
「どうです奥さん。手紙はあなたがお持ちなのです。まだ収拾はできます。あなたを困らす気はすこしもありません。手紙をご主人の手にわたしたら、それで私の任務は終りなのです。悪いことは申しませんから、素直《すなお》にお出しなさい。それがあなたにとって唯一の好機なのです」
夫人の勇気は見あげたものだった。この場におよんでも彼女《かのじよ》は負けたと白状はしなかった。
「もう一度申しあげますけれど、あなたは何か思いちがいをしていらっしゃるのです」
ホームズはしずかに立ちあがって、
「お気の毒なものです。私としてはあなたのため全力をつくしたつもりですが、それもいまはむだだとわかりました」
といってベルを鳴らした。すると執事が現われた。
「トリローニ・ホープさんはご在宅ですか?」
「一時十五分まえにお帰りでございます」
「あと十五分ですね」ホームズは時計を見て、「じゃお待ちしましょう」
執事が出ていって、わずかにドアを閉めたかと思うと、ヒルダ夫人はホームズの足もとへひざまずき、両手を大きくひろげ、眼に涙《なみだ》をいっぱいためて美しい顔を仰《あお》むけた。
「ホームズさん、許してください! どうぞ許してください! お願いでございます、良人にはおっしゃらないで! 私は心から良人を愛しています。良人の生活に小さな暗影《あんえい》さえ投じたくはございません。これがわかりましたら、良人はやさしい胸をどんなにか痛めますでしょう!」夫人は気もくるわしくかき口説《くど》いた。
ホームズは夫人を助けおこして、「この最後のどたん場ながら、眼をさましてくださったのは、たいへん嬉《うれ》しいです。さ、時間がせまっています。手紙はどこです?」
夫人はデスクに駆けより、かぎをはずして、青い長方形の封筒《ふうとう》をとりだした。
「これでございます。こんなものが眼につかなければよろしかったのに!」
「さて、どうして返しますかな? 早く何とか方法を考えなければ! 状箱《じようばこ》はどこにあります?」
「まだ良人の寝室《しんしつ》においてございます」
「それはまたとない幸運です。早く、それをここへお持ちください」
まもなく夫人は赤いうすっぺらな箱をもって引返してきた。
「このまえはどうして開けました? あいかぎをお持ちですね? そう、むろんお持ちのはずです。お開けください」
胸の奥からヒルダ夫人は小さなかぎをとりだした。状箱のふたはあけられた。なかにはいろんな文書がはいっている。ホームズは青い封筒をその下のほうへ押《お》しこんで、ふたをしめ、かぎをかけて、主人の寝室へ返させた。
「これでいつお帰りになっても大丈夫《だいじようぶ》です。まだあと十分ありますね。奥さんのことは庇《かば》ってあげますから、その代りこの十分のあいだに、こんどの突飛《とつぴ》な事件の真相をお聞かせください」
「何もかも申しあげます。ホームズさん、私は良人に一刻でも悲しみをあたえますくらいならば、この右手を切りおとしたほうがよいとさえ思っております。ロンドン中をさがしましても、私ほど良人を愛している女はございますまい。でも良人がもし私の行ないを、余儀なくいたしました行ないを知りましたら、決して許してはくれますまい。とても体面をおもんじる人でございますから、忘れもしませんし、心得ちがいを見のがしてもくれは致《いた》しません。ホームズさん、どうぞお助けください。私の幸福も良人の幸福も、私たちの生活が危機にたっております」
「早くおっしゃってください。時間がだんだん迫《せま》ってきます」
「私の手紙のためでございました。私が結婚《けつこん》まえに書きました軽率な手紙――あまい少女のでき心で書きました愚《おろ》かな手紙でございます。悪いことは何も書いてないつもりでございますけれど、良人の眼には悪事に見えましょう。もしあれを読まれましたら、信頼《しんらい》は永久に失われてしまいます。何年もまえの手紙でございますから、すっかり忘れられたことと思っていましたのに、このルーカスとか申す男から書面で、手紙を手に入れたから、良人に見せるつもりだと申して参りました。私は驚いて慈悲《じひ》を嘆願しました。ルーカスからは折りかえして、良人の状箱にあるこれこれの書類をよこせば、引きかえに手紙を返すと申して参りました。お役所のほうへ入れてあるスパイから聞いたのだから、そういう書類がかならずあるはずだし、あれを渡しても私や良人にけっして迷惑《めいわく》はかけぬと保証すると申します。そのときの私になってお考えください。どう致せばよろしいでしょう?」
「ご主人にすっかり打ちあけるのです」
「それはできません。とても私にはねえ! こちらを向けば身の破滅《はめつ》、こちらには、良人の書類に手をつけるのがいかに怖《おそ》ろしいとは申しましても、政治むきのことはその結果までは私にはわかりませんけれど、愛と信頼の問題になりますと、結果はよくわかっております。私は愛と信頼を保つ道を選びました。まず良人のかぎの型をとりましてルーカスに送りましたら、それによって合いかぎをつくってよこしました。それで状箱をあけまして書類をとりだし、ゴドルフィン街へ運びました」
「するとどんなことになりました?」
「約束《やくそく》どおり玄関《げんかん》をノックしますと、ルーカスが出て参りました。そのあとについて部屋へはいってゆきましたけれど、あんな男の人と二人っきりになるのは心配ですから、ホールのドアは少しあけておきました。そのとき、表にどこかの女の立っていたのを覚えております。取引はすぐにすみました。私の手紙はデスクにおいてありましたから、書類を彼の手に渡しますと、向うも手紙をよこしました。このとき玄関の開く音がしまして、廊下に足音が聞こえました。それを聞くとルーカスは敷物の一部をめくって、書類をすばやくその下の穴のなかへ隠してから、敷物をもとどおりにのべました。
それからあとのことは、怖ろしい悪夢《あくむ》のような気がいたします。気ちがいじみた浅ぐろい女の顔と、金切声のフランス語で、『待っていたかいがあったわ! とうとう見つけてやった! 女と同棲《どうせい》してるところを見つけたわよ!』とさけんだのを覚えております。つかみあいになりまして、ルーカスはいすを振りあげますし、女の手には短刀が光っておりました。私は無我夢中でその怖ろしい場を逃げだし、そのまま家へ帰ってしまいました。手紙はとりもどしますし、自分のしましたことがどんなことになるやら知りませんから、その晩の私はほんとに幸福でございました。そして翌朝の新聞で初めて、怖ろしい争いの結末を知ったのでございます。
私の致しましたことが、一つの災難をのがれるために、新しい災難を背負いこんだのにすぎませんことが、翌朝になって早くもわかりました。書類の紛失を知りました良人の苦悶《くもん》ぶりが、私の胸を刺《さ》したのでございます。私はその場ですぐにも良人の足もとへひざまずきまして、自分のいたしたことを打ちあけたくてなりませんでした。でもそれでは過去の行ないを告白いたすことになります。それであの朝、自分の罪の大きさや性質をはっきり知りたくなりまして、あなたをお訪ねいたしました。それのわかりました瞬間から、私はそれをとりもどすことばかり必死に考えるようになりました。あれはあの怖ろしい女の入ってきますまえにルーカスが隠したのでございますから、いまでもまだあそこに在るにちがいございません。あの女の入ってきたおかげで、隠し場所はわかっております。ではどういたせばあの部屋へはいれますでしょうか?
二日のあいだ、あの家を見はっておりましたけれど、一度も玄関が開けはなしにはなりませんでした。それで昨晩は思いきって最後の手段に出ました。詳《くわ》しいことはもはやご存じでいらっしゃいますから、申しあげません。もち帰りました書類は、良人に罪の告白をしませんで返す方法はございませんから、焼きすてるつもりでおりました。あら! 階段に足音がいたします!」
そのときヨーロッパ大臣が駆けこんできた。
「ホームズさん、吉報《きつぽう》ですか? 何かわかったのですか?」
「いくらか望みがないでもありません」
「ありがたい!」ホープ大臣は急にうれしそうな顔をして、「きょうは総理と昼食をともにすることになっているのです。総理にもお話をきかせてあげてください。あの人は鉄の神経をもっていますけれど、こんどばかりは夜もほとんど眠《ねむ》れない様子です。ジェコブズ、総理にこちらへお通りねがってくれ。それからヒルダは、これは政治上の話なんだから、食堂のほうで待っていておくれ、すぐにゆきます」
首相の態度はおだやかであったけれど、眼光の妖《あや》しい鋭《するど》さや、骨ばった手さきの痙攣《けいれん》していることなどから、内心若い閣僚《かくりよう》におとらず心痛していることを私は見てとった。
「なにか報告がおありだということですが?」
「いまのところ消極的なものばかりですが……ありそうな方面をことごとく当ってみましたところ、憂慮《ゆうりよ》すべき危険の存在しないことだけは明らかになりました」
「ところがそれだけでは十分でないのですよ。われわれとして火山のうえで安心してはいられませんからな。なにか判然たるものがなければ困ります」
「判然たるものも得られる見込《みこみ》です。それがためこうしてうかがったのですが、考えれば考えるほど書簡は当家からそとへ出ていないのだと確信するにいたりました」
「まさか!」
「出ていれば、今ごろは当然公表されているはずです」
「そとへ持ち出しもしないのに、いったいなんのため盗《ぬす》んだのです?」
「誰《だれ》も盗んだわけではあるまいと考えます」
「盗まないものがなぜ状箱から消えてなくなったのです?」
「状箱から消えたものとは信じられません」
「ホームズさん、これは冗談《じようだん》をいっている場合ではありませんぞ。状箱から見あたらなくなったと、はっきり申したではありませんか」
「火曜日の朝以後に、状箱をお調べになりましたか?」
「調べもしませんが、そんな必要はないのです」
「お見おとしということもございましょう」
「絶対にないことを断言します」
「お言葉だけでは得心がゆきません。従来もそうした例はありました。状箱のなかにはおそらくほかの書類もはいっていましょうし、そのなかに紛《まぎ》れこむということもございましょう」
「いちばん上に入れておいたのです」
「誰かが状箱を振り動かしでもいたせば、上下入り乱れることもございましょう」
「なかのものをすっかり出して調べたのです」
「そんなことは簡単にわかるよ、ホープ君。その状箱をとりよせたまえ」首相が横から口をだした。
大臣はベルを鳴らして、執事に命じた。
「ジェコブズ、状箱をここへ持っておいで。ばかげた時間の空費にすぎませんけれど、ホームズさんがどうあっても満足できなければ、開けてみましょう。ありがとう、そこへおいてゆけばよろしい。かぎは時計の鎖《くさり》につけて、いつでも持っているのです。この通り書類はいろいろはいっています。マーロウ卿《きよう》の来簡《らいかん》、サー・チャールズ・ハーディの報告、これはベルグラードの覚えがき、露独穀物税通牒《ろどくこくもつぜいつうちよう》、マドリッドからの来簡、それにフラワーズ卿の書簡――おや、これは何だ! おおベリンジャー卿、総理、これは!」
首相はヨーロッパ大臣の手から青い封筒をひったくった。
「ああ、これだ! 中身もそのままだ。ホープ君、おめでとう!」
「ありがたい! ありがとう! これでほっとしました。しかし、思いもよらぬこと、不可解です! ホームズさん、あなたは魔法《まほう》つかいです。手品師みたいです! この状箱にあることがどうしてわかったのですか?」
「ほかの場所にはないとわかったからです」
「自分の眼を疑いたくなります」といって大臣は戸口へ駆けより、「奥《おく》さんはどこにいる? はやくこのことを知らせて安心させてやらねば。ヒルダ! ヒルダ!」夫人を呼ぶ声は階段のうえから聞こえてきた。
首相は眼をぱちぱちやりながらホームズを見て、
「ねえホームズさん、これは眼に見えないところになにかあるにちがいない。どうしてあの書簡は状箱へもどってきたのです?」
ホームズはにっこりして、不思議そうに鋭く見つめる首相の視線をかわしながら、
「私たちにも外交上の秘密がありましてね」と帽子《ぼうし》をつまみあげて戸口のほうへ歩みよった。
[#地付き]―一九○四年一二月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
解説
[#地付き]延原 謙
本冊はドイルのシャーロック・ホームズ物語の第三短編集たるThe Return of Sherlock Holmes の翻訳《ほんやく》である。
作者アーサー・コナン・ドイルが探偵《たんてい》小説作家と呼ばれるのを好まず、自分は歴史小説家であると称していたことは、べつのところで述べたが、そのためばかりではあるまいけれど、ホームズ物語が非常な成功をおさめ、経済的にも余裕《よゆう》ができたにも拘《かか》わらず(あるいはそれゆえに?)一八九三年十二月号の『ストランド』誌に出た「最後の事件」を最後として、以後ホームズ物語の執筆《しつぴつ》を打ちきるつもりでいたことは、「思い出」のあとがきでも述べた。ところがこれもすでに書いたように読者の要望もだしがたく、それから八年目の一九○一年にいたって長編「バスカヴィル家の犬」を書き、つづいて一九○三年にはホームズを「復活」させた(バスカヴィル事件は一八八六年のこととなっている)。厳正にいえばこれは復活でなく、ホームズは「最後の事件」のライヘンバッハの滝《たき》で危《あや》うく難をまぬがれ、東洋方面を漂泊《ひようはく》していたのがロンドンへ帰ってきたことに強弁《きようべん》したのである。この強弁は作者としてだいぶ苦しかったようだが、そこがシャーロッキアンの随喜《ずいき》するところであり、その発表当時の読者の喝采《かつさい》ぶりが思いやられるのである。
この巻で有名なのは、前記理由による「空家の冒険《ぼうけん》」はべつとして「六つのナポレオン」「金縁《きんぶち》の鼻眼鏡」などであろう。二つとも明治時代のふるくから自由訳や翻案が出ているばかりか、前者などは学生用の注釈本も出ていたと思う。後者はホームズ物語第一の傑作《けつさく》といまでも推《お》す人がある。
ホームズ物語のなかには作者ドイルの思いちがいによる誤りがあるということは「思い出」のあとがきにも書いたが、心理的なものはしばらくおいて、物象的な誤りはこの巻の「プライオリ学校」にもある。このなかにホームズが、自転車のわだちの重なり具合から、その進行方向がわかると説くところがある。これがウソなのである。自転車の輪の接地面には製造者名などを浮《う》きだしたのがある。これだと車輪のあとによって、その重なり具合とは無関係に進行方向のわかる場合もある。場合もあるというのは、その自転車が発見され、かつあとで車輪を反対につけかえる等の技巧《ぎこう》を弄《ろう》してないならばという意味である。しかしこの場合明記してあるように、トレッドが左右対称の幾何学《きかがく》模様であるかぎり、輪跡の重なり具合では進行方向はわかりっこないのである。これは明らかにドイルの錯覚《さつかく》であり、弁解の余地はないはずである。
日本でも同じことだが、探偵小説作家のところへは読者から盛《さか》んに投書がくる。この作が雑誌に出ると、読者からこの誤りを正してきた。しかしドイルは同じ誌上に数ぺージを費してくどくどと強弁し、何とかこじつけてついに自説を押《お》し通してしまった。だからやがて単行本になり、いまでは古典化してさえいるけれど、このまちがいは訂正《ていせい》してないのである。私がこれをいうのは作者のあげ足をとろうとするのでないのは申すまでもない。
ドイルほどの作者でもどうかすると思いちがいをするが、読者のほうは一層はげしい。その最大のものはホームズを実在の人物と思い、ホームズ物語を事実談だと錯覚することである。そのため探偵|依頼《いらい》のためべーカー街を訪ねたり、ドイルに紹介《しようかい》を頼《たの》んでくる人が跡《あと》をたたなかったと伝えられる。ホームズが滝壺《たきつぼ》へおちて行《ゆく》方不明《えふめい》になったので、読者が騒《さわ》いだのは、この心理が大いに働いているのであろう。なかではべーカー街二二一番Bのホームズの部屋をわざわざ見物にゆく人がある。誰《だれ》であったか日本人のなかにも行った人があると聞いているが、イギリス人にこれが多い。そこで篤志《とくし》のシャーロッキアンによって発表されているけれど、じつはべーカー街に二二一番Bという家は現存しないのである。一九三○年ごろにドクトル・ブリグズというシャーロッキアンが、ホームズとワトスンが共同生活していたのは、現在の一一一番の家であろうと発表した。その理由の一つとしてこの博士は、その家の正面にカムデン・ハウス(「空家の冒険」参照)というのが実在することを挙げている。くだくだしいからこのへんで打ちきるけれど、いかにホームズ物語が熱狂的歓迎《ねつきようてきかんげい》をうけているかが、これで窺《うかが》えるであろう。ドイルが実さいにべーカー街を視察してから書いたか否《いな》かは明らかでない。
なお作者はワトスンに、「その年にはA事件B事件C事件などあったが、いずれも差支《さしつか》えがあるからここにはD事件をとりあげた」というようなことを随所に語らせておきながら、A事件B事件C事件はついに公表しなかった。このような「書かれざる事件」がざっと七十ばかりあるが、そのなかの「第二の汚点《おてん》」事件というのなどは二度もワトスンが言及《げんきゆう》している。ドイルが「帰還《きかん》」の第十二の短編「アベ農園」を雑誌に発表し終ってペンをおいたとき、もっと読みたい読者から借りを返せと迫《せま》られ、二カ月おいてしぶしぶ「第二の汚点」を書いたのである。それで「帰還」は十三編という西洋人にしては珍《めずら》しい数になっているのである。一部の読者にはこんな因縁話《いんねんばなし》も面白《おもしろ》かろうかと思って書いた。
そのほかシャーロッキアン諸氏の好んでとりあげる問題には、ワトスンの呼び名と負傷の部位、ワトスンは三度|結婚《けつこん》したか、べーカー街の部屋の間取りはどうなっているのかなど、いろいろとある。結婚問題のことは、ワトスンは「四つの署名」事件で知りあったメアリ嬢と一八八七年に結婚したことになっているのに、べつの短編を見ると「これは私の結婚直後のことだが……」とあって、なお読みすすむとそれが一八九○年のこととなっているので、さては再婚! という他愛もないことなのだが、シャーロッキアン諸氏にはそれがこよなく面白いらしい。「空家の冒険」にあるとおりホームズは一八九一年から一八九四年までロンドンにいなかったはずなのに「最後の挨拶《あいさつ》」のなかの「ウィスタリア荘《そう》」事件などは一八九二年の事件となっている。これもシャーロッキアンのしばしば問題にするところである。つい先日も東京の新聞に、何とかいうアメリカ軍の将校が陣中《じんちゆう》のつれづれにホームズの部屋の平面図を描《か》きあげたとか出ていた。シャーロッキアンはいまなお世界の各地にいるのである。
本書十三の短編の原題を左に掲《かか》げておく。*のあるのはぺージ数の制限から割愛《かつあい》し、「叡智《えいち》」編におさめたものである。
The Return of Sherlock Holmes
The Empty House
*The Norwood Builder
The Dancing Men
The Solitary Cyclist
The Priory School
Black Peter
Charles Augustus Milverton
The Six Napoleons
*The Three Students
The Golden Pince-Nez
*The Missing Three-Quarter
The Abbey Grange
The Second Stain
ドイルは一八五九年エディンバラに生まれ、エディンバラ大学を出たドクトルであり、開業時代の専門は眼科であった。自分では歴史小説家を以《もつ》て任じていたようだが、そのほか科学小説やスポーツ冒険小説など多数あるけれど、いつまでも読まれるのはやはりホームズ物語であろう。彼《かれ》は近代探偵小説の型を作りあげた功績者《こうせきしや》である。
シャーロック・ホームズがエディンバラ大学の特異な性格の教授ベル博士をモデルとしたものであることは有名な事実だが、これらの作品は初めの二編を除いて、すべて『ストランド』という雑誌に掲載《けいさい》された。今日シャーロック・ホームズといえば、映画になっても一定の型ができているが、これはシドニイ・パジェットという画家が実在のベル博士をモデルにして、『ストランド』に描いた挿絵《さしえ》に起原しているのである。
ホームズものはみんなで次の九冊ある。全部読みたい人はなるべく発行順に読むほうが興味が深いであろう。*印は短編集である。
緋色《ひいろ》の研究(一八八七) 四つの署名(一八九○) *冒険(一八九二) *思い出(一八九四) バスカヴィル家の犬(一九○二) *帰還(一九○五) 恐怖《きようふ》の谷(一九一五) *最後の挨拶(一九一七) *事件簿《じけんぼ》(一九二七)
[#地付き](一九五三年四月)
ドイルの短編のなかにはちょいちょい作者の思いちがいによる誤りのあることは本書三八三ぺージでも述べたし、「思い出」の解説でも述べた。錯誤《さくご》といってもその探偵小説が理論的に成立たなくなるような致命的《ちめいてき》のものでないのは申すまでもないけれど、気のついた人には悪い後味を残すであろう。だからわかっている限り注意しておくのが訳者のつとめだと思っている。
同じような間違《まちが》いが本書「踊《おど》る人形」のなかにもある。それは人形のことだけれど、人形はジョン・マレエ版の原本から写真をとって版にしたのだから、本書だけの間違いではないわけだ。
本書七一ぺージにRを示す人形の形はちゃんと定めてある。然《しか》るに四四ぺージの五番目、五六ぺージの七番目|及《およ》び十一番目、八○ぺージの七番目などRであるべき人形がそうなっていないのである。これはドイルの書き誤りであるか、それとも図工の誤りであるかわからないけれど、間違っているのは事実だ。しかしそのためにこの小説が成立たないということのないのも明らかであろう。一言念のため書きそえる。
[#地付き](この項第四刷以下追記)
改版にあたって
この度《たび》、活字を大きく読みやすくするに当たり、新潮社の意向により外国名、外来語のカタカナ表記の正確、統一を図ることになった。訳者が一九七七年に没しているため、訳者の嗣子《しし》である私がその作業に当たったが、現代においてはあまりに難解な熟語や、種々の古風すぎる表現も多少改め、不適当と思われる訳文を修正した。
あくまでも原文に忠実にを基本に置き、物語の背景であるヴィクトリア朝の持つ雰囲気《ふんいき》を伝える程度の古風さは残したいと考えつつ、もとの訳文の格調を崩《くず》さぬよう留意して作業したつもりであるが、読者諸氏の御理解を得られれば幸いである。
改訂《かいてい》に当たり、訳者の姪《めい》である成井やさ子、および、新潮文庫編集部の協力を得たので、ここに謝意を表する。
[#地付き]延原 展
[#地付き](一九八九年二月)