シャーロック・ホームズの事件簿
コナン・ドイル/延原謙訳
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目 次
高名な依頼人
白面の兵士
マザリンの宝石
三破風館
サセックスの吸血鬼
三人ガリデブ
ソア橋
這う男
ライオンのたてがみ
覆面の下宿人
解説
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高名な依頼人
「もう弊害《へいがい》はあるまいよ」
というのがシャーロック・ホームズのそのときの意見だったが、私はこの十年ばかりの間に十回くらいも、これから話す事件を公表する許しを求めて、やっと承諾《しようだく》を得たわけなのである。こうしてようやく私は、ある意味では彼《かれ》の生涯《しようがい》の最高の時機ともいうべきこの事件の発表を許されたのである。
ホームズも私も、トルコ風呂《ぶろ》ときたら目のないほうだった。風呂からあがって、休憩室《きゆうけいしつ》で汗《あせ》のひく間、快い疲労《ひろう》のうちにぐったりしてタバコをやっているときは、彼もいくらか口が軽く、よほど人間味をおびてくるのだった。
ノーサンバランド大通りのトルコ風呂屋の階上に一カ所、ほかとは妙《みよう》にかけ離《はな》れた場所があって、寝椅子《ねいす》が二つならべておいてある。この話のおこりは、一九○二年の九月三日に、この寝椅子にならんで横になっていた時にさかのぼる。私から近ごろ何かおもしろい事件はないかと尋《たず》ねたのに対して、彼は口で答えるかわりに、かぶっていたシーツの間から長くて細い神経質な腕《うで》をにゅっと出して、そばに掛《か》かっている上衣《うわぎ》のポケットをさぐって一通の封書《ふうしよ》をとりだした。
「大したことでもないのに、ひとりで騒《さわ》ぎたてているのか、それともほんとに生死の問題なのか、今のところこれに書いてあることだけしか知らないのだがね」
といってその封書を私に渡《わた》した。見るとカールトン・クラブで書いたもので、日付けは前夜になっていた。内容はつぎの通りである。
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シャーロック・ホームズ様
拝啓《はいけい》、未《いま》だ拝眉《はいび》の栄を得ませぬが、ここに敬意を表します。さて唐突《とうとつ》ながらきわめて慎重《しんちよう》を要する重大事につきご相談申しあげたく、明夕四時半お訪ねいたします故《ゆえ》、なにとぞご会見くださるようお願いいたします。なおカールトン・クラブまで電話にてご都合お知らせいただければ誠《まこと》に幸甚《こうじん》です。
[#地付き]サー・ジェームズ・デーマリ
[#ここで字下げ終わり]
「むろん承諾の返事をしておいたがね」とホームズは私の返した手紙をうけとりながらいった。「君はこのデーマリという男について、何か知っているかい?」
「社交界ではよく名が通っているということだけだね」
「じゃ僕《ぼく》のほうがいくらかよく知っているわけだ。新聞に出されたくないやっかいな事件を、巧妙《こうみよう》にさばくので信望がある。君は覚えているかどうか、ハマーフォードの遺言状事件《ゆいごんじようじけん》について、ジョージ・ルイス卿《きよう》と協議したのがこの男だった。上流社会に出入りする男としては、天性外交の才がある。だから今日もってくるという相談ごとにしても、ひとり合点《がてん》のから騒ぎじゃなく、ほんとにわれわれの助力を必要とする問題なんじゃないかと、期待をかけざるを得ないのさ」
「われわれ?」
「そうさ、やってくれるだろう?」
「こっちからお願いしたいくらいだ」
「じゃ四時半だよ。それまではこの問題は忘れてしまうことにしようよ」
そのころ私はクイーン・アン街に住んでいたが、指定の時刻まえにべーカー街へ詰《つ》めかけていた。正四時半になると、サー・ジェームズ・デーマリ大佐《たいさ》が来訪した旨《むね》とりつがれた。
卿については、いまさらここに説明するまでもあるまい。あの度量大きく、あっさりして正直な人がら、ひげのない大きな顔、わけてもあの豊かな快い声は、多くの人が知っているはずだからである。アイルランドふうの灰いろの眼《め》には淡泊《たんぱく》さがあふれ、たえず微笑《びしよう》をふくんだ軽い口もとには、じょうきげんさをたたえている。ぴかぴかのシルクハット、黒のフロックコートから、黒サテンの蝶《ちよう》ネクタイにさした真珠《しんじゆ》のピン、よく光る靴《くつ》の上にはいたうす紫《むらさき》のスパッツなどの細かいところに至るまで、もともと彼は衣服に気をつかうので有名なのだが、それを物語っていた。見るからに大きく偉《えら》そうな貴族がはいってきたので、小さな部屋は圧倒《あつとう》された形である。
「やあ、やっぱりワトスン先生もご同席でしたな」ていねいに頭をさげながら、デーマリ大佐はいった。「ホームズさん、相手は暴力など平気だし、じっさい何ものをも顧慮《こりよ》しない男なのですから、ワトスン博士のご協力はきわめて必要だろうと思いますよ。ヨーロッパ広しといえども、こんな危険な人物はありますまい」
「お言葉のような愉快《ゆかい》な人物なら、私も数人相手にした経験があります」ホームズはにっこりして、「タバコは……おやりにならない? では失礼して、パイプをやらせていただきます。あなたのおっしゃる人物が、死んだモリアティ教授や、まだ生きているセバスチャン・モーラン大佐よりも危険な人物だとしますと、たしかに相手にとって不足はありませんな。名前は何と申しますか?」
「グルーナー男爵《だんしやく》の名をお聞きおよびですか?」
「オーストリアの殺人者のことですか?」
デーマリ大佐は笑いながら、キッドの手袋《てぶくろ》をはめた両手をあげて、
「どんなことでも、あなたの眼はのがれられないと見えますな。大したものだ! じゃホームズさんは、あの男が殺人者だということも、すでにご存じなのですな?」
「大陸の犯罪事件を詳《くわ》しく調べておくのは、私の仕事の一つになっています。|プ《*》ラハ【訳注 今はチェコになったが、この話のころはオーストリアの都市】のあの事件の記録に目をとおしたものなら、あの男の犯行だと信じないものがどこにありましょう。しかもあの男が罪を免《まぬ》がれたのは、争点が純然たる法律的技術問題であったのと、証人の一人が疑わしい死を遂《と》げたがためでした。彼の妻はシュプリューゲン峠《とうげ》で『不慮の事故』のため死んだことになっていますが、ほんとうは彼が手を下して殺したものであること、この眼で見たのとおなじに断言できるのです。それにまた、私は彼がイギリスへ来ていることも知っていますし、私としてはいつかあの男を相手にしなければならないのも覚悟《かくご》していました。そのグルーナー男爵が何をやったというのですか? まさか昔《むかし》の悲劇問題をここでむしかえそうというのじゃないでしょうね?」
「いや、もっと重大問題です。いったい犯罪は、おこったのを罰《ばつ》するのも大切ですが、これを未然に防止する問題はいっそう重大です。ねえホームズさん、いやな問題、言語に絶する状態が目の前で醸成《じようせい》されてゆくのを見ていながら、しかもその結果についての明らかな見通しまで持ちながら、それを防止できないとしたら、こんな恐《おそ》るべきことはありませんよ。人道上これ以上つらい立場があるでしょうか」
「それはそうですな」
「と申すと、私が代理として参った人物に対して御同情願えるわけですね?」
「あなたが単なる仲介者《ちゆうかいしや》だったとは知りませんでした。ご本人はどなたです?」
「ホームズさん、どうかその点はあまり責めないでいただきたい。その人の名誉《めいよ》ある名前は話のうちに出なかったと、帰って報告できないでは困るのです。その人の動機はあくまでもりっぱな、義侠的《ぎきようてき》なものなのですが、名は出したくないというのです。だからといって報酬《ほうしゆう》の点でご迷惑《めいわく》は決してかけませんし、行動の自由を少しでも束縛《そくばく》するものでないことは申すまでもありません。してみれば実際の依《い》頼者《らいしや》が誰《だれ》であろうとも、差しつかえないかと思いますが?」
「お気の毒ですが、私は秘密は一端《いつたん》だけということにしているのです。それが両端にあったのでは、混乱をきたすもとです。お気の毒ながらそれではお引受けいたしかねますな」
客はひどく当惑した。その大きな感じやすい顔が、困惑と失望で暗くなった。
「そんなことをされたらどんな結果を来《きた》すか、何もおわかりにならないと見えますな。おかげで私は重大なるジレンマにおちいります。何しろここで私が事実を打ちあけたら、ホームズさんとしても喜んで引受けてくださるのは間違《まちが》いないところと思いますが、約束《やくそく》があってそれができないのですからねえ。どうでしょう、許されている範囲内《はんいない》で事情を申しあげますから、お聞きとりくださらぬでしょうか?」
「お聞きしますとも、そのため私が何ら拘束《こうそく》をうけるものでないという条件でならばね」
「それは了解《りようかい》しました。まず最初に、あなたはド・メルヴィル将軍の名をご承知でしょう?」
「カイバー峠で有名なド・メルヴィルですか? あの人なら聞いています」
「あの人に令嬢《れいじよう》があります。ヴァイオレット・ド・メルヴィルといって、お金があって若く美しく教養もある、どの点からいっても非の打ちどころのない人です。私たちがいま、悪魔《あくま》の毒手から守ろうと努力しているのは、この愛らしい純真な女性なのです」
「ではその人が、グルーナー男爵に急所をおさえられているとでもいうのですか?」
「そうです。それも女性にとっては最も強力に――愛の力で引きつけられているのです。お聞き及《およ》びかと思いますが、あの男は世にも珍《めずら》しい好男子なうえに、心を蕩《とろ》かすような態度といい、やさしい声音《こわね》といい、女性には何よりの魅力《みりよく》になるロマンティックで甘《あま》いところをそなえているのです。聞くところによると、あの男はどんな女性をも思いのままにし、それを自分の仕事にさんざん利用しているのだといいます」
「それにしてもそういう男が、どうしてヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢のような身分ある人に近づき得たのでしょう?」
「地中海をヨットで回遊中のできごとなのです。会員はみな選《え》りぬきの人たちでしたけれど、会費自弁でしたから、いわば誰でも参加できたのです。主催者はむろん男爵の正体を知らぬから参加を認めたのですが、気がついたときはもう遅《おそ》すぎたというわけです。
悪人め、令嬢につきまとって、ついに彼女《かのじよ》の心を完全に自分のものにしてしまいました。彼女ののぼせかたといったら、言葉にはつくせません。まるで溺愛《できあい》と申しますか、何かに憑《つ》かれたような有様で、彼がいなければ一日もすごせないという始末です。
悪い評判のあることなど、いくらいってもてんで耳に入りません。まるで狂気《きようき》のさたですから、何とかして眼をさまさせたいと、あらゆる努力を傾《かたむ》けましたが、ついに効果はありませんでした。そうして、結局のところ、来月は彼に結婚《けつこん》を申し込《こ》むのだといいます。令嬢もすでに成人していますし、意志の強い人ですから、もはや手のほどこしようがありません」
「令嬢は男爵のオーストリア事件を知っているのですか?」
「なにしろ悪がしこい男ですから、かんばしくない自分の過去の世間に知れている部分を洗いざらい令嬢に打ちあけているのですが、ただどれもこれも、自分に罪はない、自分のほうが被害者《ひがいしや》なのだと巧《たく》みに話してあるのですな。それで令嬢はすっかりそれを信じていて、はたから何といっても、てんで受けつけないのです」
「おやおや、それはお困りですね。でもおかげで依頼者の名はわかりましたよ。ほかならぬド・メルヴィル将軍ですね?」
客は椅子の中でしりをもじもじさせた。
「そうですと肯定《こうてい》してあなたをあざむくのは容易ですけれど、じつはそうではないのです。ド・メルヴィル将軍は半病人です。剛毅《ごうき》の軍人もこんどはすっかり気おちがしてしまいました。戦場では決して見せたことがないのに、こんどばかりは気おくれがして、よぼよぼのただの老人になってしまい、あのオーストリア人のような才気ある強力な悪人を向こうにまわす力なんかは思いもよりません。
私に依頼した人というのは、将軍とは長年の親友の間がらな上に、この令嬢が子供のころからわが子のようにかわいがってきた人なのです。それですからこんどのような悲劇には、腕をこまぬいて傍観《ぼうかん》していられないのですね。といって警視庁を煩《わずら》わす問題とも違います。そこであなたにお願いしたらというのは、その人がいいだしたことなのですが、さきほども申すとおり、個人として自分がこの事件に巻き込まれないことという、かたい約束条項があるのです。
この人が何ものであるか、むろんあなたの偉大《いだい》なる実力をもってすれば、ぞうさもなく突《つ》きとめられるのは疑いませんが、これは名誉問題ですから、どうかそれはご遠慮ねがいたく、あばきたてるようなことはなさらないでいただきたいと、私としては強くお願いせざるを得ません」
ホームズは妙な微笑をうかべた。
「そのことでしたらご安心くださってよいと思います。それに事件そのものにも興味をおぼえますから、お引受けしてもよいです。あなたに連絡したいときは、どうしたらよろしいですか?」
「私はカールトン・クラブにおります。でも急ぎのときは、XXの31というのが私の電話番号ですからどうぞ」
ホームズはメモ帳に控《ひか》えると、それをひざの上にひろげたまま、まだ微笑しながらいった。
「グルーナー男爵の現住所をどうぞ」
「キングストンにちかいヴァノン・ロッジという家です。大きな家に住んでいますが、いかがわしい投機で当てましてね、資産を作りましたよ。それだけにまた敵にまわすとやっかいなやつなのです」
「現在その家に住んでいるのですね」
「そうです」
「いまお話しくださったことは別として、ほかになにかこの男のことについてお聞きしておくことはありませんか?」
「ぜいたく好みの男でして、馬が道楽です。ひところはハーリンガムのポロに凝《こ》っていたのですが、例のプラハ事件でうわさがたかくなったものですから、身を引かなければならなくなりまして、いまは古書と絵画の収集に凝っています。芸術的な天分も相当あるのですな。たしか中国の陶器《とうき》にかけては定評のある権威者《けんいしや》で、その道の著書もあります」
「複雑な性格ですな。大犯罪者はすべてそうしたものです。私のよく知っているチャーリイ・ピースはヴァイオリンの名手でしたし、ウエーンライトなんかもバカにならぬ芸術家でした。そのほか実例はいくらもあげられますが、それではお帰りになったらどうぞ、私がグルーナー男爵を相手にする気になったと、依頼者にお伝えください。それ以上のことは、ただいま申しあげられませんが、私のほうにも問い合せをする心当りはありますから、何とか問題を打開する手段はあるだろうと思いますよ」
客が帰ってゆくと、ホームズはながい間私の存在すら忘れたように、深い黙想《もくそう》にふけっていたが、やがて我にかえって、
「ああワトスン君か、意見があるかい?」ときいた。
「そうだね、まずこの若いレイディーに会ってみたらよかろうと思うよ」
「何をいうのだ。半病人のようになっている年とった父親にさえ説得できないものが、赤の他人の僕なんかが行ったって説き伏《ふ》せられるものかね。もっともほかの方法がみんなだめだとわかったら、君のいう通りにしてみるのもよかろうが、最初はなんといっても、ほかのほうから手をつけてゆかなければね。まあさしあたりシンウェル・ジョンスンが役にたつだろうと思うんだ」
私はホームズの活動のうち後期のものは、今まであまり筆にしなかったので、シンウェル・ジョンスンのことを回想録でとりあげる機会がなかった。今世紀の初頭のころから、この男はホームズにとってきわめて有力な助手となったのである。
ジョンスンは遺憾《いかん》ながら最初はきわめて危険な悪人として名をなし、パークハースト監獄《かんごく》で二度も服役《ふくえき》している。それから改心してホームズと手を組み、大ロンドンの暗黒社会に彼《かれ》の手先として入りこんで、情報の収集につとめたが、こうして得た情報が決定的な効果をあげたこともしばしばある。これがもし警察の諜者《ちようじや》であったのなら、たちまちあばかれていたろうが、彼の関係するのがいつでも、直接|法廷《ほうてい》に持ちだされるようなものでなかったから、その活躍《かつやく》は少しも仲間のものに気取《けど》られなかったのである。
それには何といっても二度まで入獄してきたという前歴が大いに物をいって、彼はどんなナイト・クラブにも安宿にもまた賭博場《とばくじよう》にも自由に出入りできたし、観察が鋭《するど》くて頭脳の働きが早いときているので、情報を集めてくる手先としては理想的だった。シャーロック・ホームズがいま利用しようとしているのはこの男なのである。
私はあいにくと本職のほうにさしせまった用事があって、それからすぐ活躍にうつったホームズと行動をともにするわけにゆかなかったが、あらかじめ約束しておいて、その晩シンプスン料理店で彼に会った。表の窓ぎわの小さなテーブルに向かって、ストランドの通りを流れてゆく人の群を見おろしながら、彼はその日の経過を話してくれたのである。
「ジョンスンはいましきりに嗅《か》ぎまわっているから、暗黒社会の隅《すみ》から何か銜《くわ》えてくるかもしれない。男爵の秘密をさぐりあてるには、罪悪の根本をさがすべきだからね」
「それにしてもすでに知られている男爵の非行も、ヴァイオレット嬢は非行と認めないというから、たとえ君がどんな新事実を発見したところで、彼女の決意をひるがえさすだけの力はあるまい」
「そんなことわかりゃしないさ。女の心は感情も理性もこめて、男性には解きがたきなぞだ。人殺しでさえ許すことがあるかと思うと、つまらないことに心を痛めることもあるものだ。グルーナー男爵もいっていたが……」
「えッ! 男爵と話したことがあるのかい?」
「そうだった、僕《ぼく》の計画をまだ話していなかったねえ。ワトスン君、僕はあの男に直接ぶつかりたかったのだ。面と向かって眼と眼を見あわせ、どんな材料でできた男だか、親しく見てとりたかったのだ。そこでジョンスンに指図をあたえてしまうと、キングストンへ馬車をとばしたわけだが、男爵はきわめて愛想がよかったよ」
「君だということがわかったかい?」
「わかるもわからないもない、名刺《めいし》をだして取次ぎを頼《たの》んだのだもの。相手にとって不足はない。氷のように冷静で、上品な声をしていて、君の同業のよく流行《はや》る医者のように物柔《ものやわ》らかなくせに、コブラのように有毒なやつだ。彼は素質がある。表面は午後のお茶でものむような様子でいて、背後に地獄《じごく》の残忍性《ざんにんせい》を忍《しの》ばせた、これこそほんとの犯罪貴族なのだ。僕はアデルバート・グルーナー男爵に注目することにしたのはよかったと、喜んでいるよ」
「愛想がよかったそうだね?」
「捕《と》れそうなねずみを見てのどをならす猫《ねこ》というか、ある種の男の愛想のいいのは、粗野《そや》な男の暴力よりも恐ろしいものだ。まずあいさつからして特色があった。『いつかお目にかかることになるものと思っていましたよ』というあいさつだ。『たぶんド・メルヴィル将軍の依頼で、令嬢ヴァイオレットと私の結婚を止《や》めさせるためいらしったのでしょうね? ちがいますか?』
僕は無言で肯定した。するとおっかぶせて、
『それはせっかくのあなたの名声を地におとすことになるだけですよ。こればかりはあなたの手にあう問題ではありません。働き損になるばかりか、かえってある種の危険を招くことにもなりましょう。すぐ手をお引きになるよう、強く忠告申しあげたいです』
『それは奇妙《きみよう》ですね』と私は答えた。『それとまったく同じことを私もあなたに忠告するつもりでしたよ。あなたの頭脳には敬服していましたが、こうして初めてお目にかかっただけでも、その考えは少しも変りません。そこで、男と男の間の話として申しますが、過去のことをあばきたてて、不当にあなたに不愉快な思いをさせようなどとは、誰も思ってはいません。みんな済んだことで、あなたも現在は平穏《へいおん》におすごしでしょう。しかしながら、あなたがあくまでもこの結婚を固執《こしつ》なさるなら、有力な反対者が八方に立ちあがって、あなたとしても結局イギリスにいたたまれなくなるばかりですよ。そうまでして頑張《がんば》るほどの価値があると思いますか? ここは黙《だま》ってあの女《ひと》から手を引くのが賢明《けんめい》ですよ。あなたの過去の事績があの女《ひと》の知るところとなっては、いかにも面白《おもしろ》くないでしょうからね』
男爵《だんしやく》は鼻下にちょっぴりと髭《ひげ》をたて、それをワックスで固めているので、まるで昆虫《こんちゆう》の短い触覚《しよつかく》のようだった。それをひくひくさせながらさも面白そうに僕のいうことを聞いていたが、ここでついに穏《おだ》やかに笑いだした。
『笑っては失礼だが、あなたのすることを見ていると、まるで手にカードをもたずにゲームをしているようで、おかしくてたまらないですよ。これだけ巧みにやれるものはちょっとなかろうとは思いますが、それにしてもいささか悲壮《ひそう》ですね。これという切り札《ふだ》はなく、いや、あなたの持っているのは愚《ぐ》にもつかぬカードばかりじゃありませんか』
『あなたがそう思っているだけです』
『私にはよくわかっているのですよ。はっきり事実を教えてあげましょう。私はいい手がついているのですから、見せてもかまわないです。幸いにして私はあの女《ひと》の愛を完全にかち得ました。これは私の過去の不幸なできごとをすっかり打ちあけた上でのことですよ。それからまた、いまにどこかの意地わるく腹に一物ある人物が――ご自分のことを思いだしてくださいよ――現われて、そういうことをおおげさにしゃべりたてることだろうが、そのときはどう扱《あつか》ったらよいかも話しておきました。
あなたは催眠術《さいみんじゆつ》の後続暗示のことをお聞きおよびでしょうね? それならそれがどんな作用をするものであるか、いまにおわかりでしょう。個性の強い人物は、下品な古い手やばかげたことをやらなくても、催眠術はかけられるものですからね。彼女はあなたの行くのを待ちかまえていますよ。行けばきっと会ってくれます。それというのもあの女《ひと》は父親の意志にきわめて柔順《じゆうじゆん》なのですからね――たった一つの、この小さな問題をのぞいては』
というわけでね、ワトスン君、これじゃとても話になりそうもないから、できるだけ体面を損じないようにして、引きあげることにしたが、ドアの把手《とつて》に手をかけたとたんに、男爵がよびとめていうには、
『ときにホームズさん、フランスの探偵《たんてい》でル・ブルンという人を知っていますか?』
『知っていますよ』
『あの人がどうなったかということも?』
『モンマルトルで|ア《*》パッシュ【訳注 パリ市中のごろつき】の襲撃《しゆうげき》をうけて一生障害者になったと聞いています』
『その通りです。不思議な暗合で、あの男はその一週間前から、私の身辺を捜査《そうさ》しかけたばかりのところでした。ホームズさんもそんな目にあわないようになさいよ。あまりぞっとしないですからね。そうと思い知った人も一人や二人じゃありません。あなたはあなたの道を進むかわりに、私には私の道を選ばせておおきなさい――これがあなたに贈《おく》る最後の言葉です。さようなら!』
というわけなのさ。いまのところここまでしか進んでいない」
「険悪な男らしいね」
「おそろしく険悪なやつだ。嚇《おど》し文句なんかにはびくともしないけれど、あいつは口でいう以上のことを実行する男だからね」
「どうしても干渉《かんしよう》しなきゃならないのかい? あいつがヴァイオレット嬢《じよう》と結婚しては、そんなに困ることがあるのかい?」
「あいつが前妻を殺したのが事実だとすると、結婚なんかさせちゃ大変だよ。それに依《い》頼者《らいしや》が依頼者だからねえ。いや、それはまあ、かれこれいうまでもなかろう。そのコーヒーを飲んでしまったら、いっしょに僕の家へ来たほうがいいね。元気もののシンウェルがきっと報告を持ってきているにちがいないよ」
行ってみると果して、大きな図体《ずうたい》で下品な赤ら顔の、壊血病《かいけつびよう》にでもかかっているような男が待っていた。活気のある黒眼《くろめ》だけが、内心の悪がしこさを面《つら》に現わしている。得意の世界に潜《もぐ》りこんできたらしく、そのしるしをそばのソファに控えさせていた。きゃしゃな、燃えるような若い女である。青じろい情熱的な若い顔はしているが、罪悪と悲嘆《ひたん》の生活に疲《つか》れはて、ライ病めいた痕跡《こんせき》さえのこして、永く荒《すさ》んだ生活をしてきたことが見てとれる女であった。
「こちらはミス・キティ・ウィンターです」とシンウェルはまるっこい手を振《ふ》って紹介《しようかい》した。
「この女の知らないことなんか――いや、ま、それは本人がいうでしょう。私はお知らせをうけてから一時間とたたないうちに、この女を捜《さが》しあてましたぜ」
「私を捜すのなんか造作ありゃしないよ。この地獄、いやさロンドンから出たことなんかありませんのさ。そこはデブのシンウェルと同じでね。私ゃこのデブちゃんとは古いなじみですのさ、ねえデブちゃん。でもねえ、私ゃいっときますがね、世の中に正義というものがあるのなら、地獄も私たちよかずんと深いところへ落ちていい人だってあるんですよ。その人のことでしょう、ホームズさんが追いまわしているの?」
ホームズはにっこりした。「私たちに好意を寄せていただけるらしいですね、ウィンターさん?」
「あいつを行くべきところへ送りこんでやれるのなら、私ゃどんなお手伝いでも喜んでいたしますよ」女ははげしい剣幕《けんまく》でいった。
彼女《かのじよ》の白い、決意にみちた顔や、ぎらぎら光る眼つきには、はげしい憎悪《ぞうお》があった。男には決して見られない顔つきである。
「私の過去なんて尋《き》くことはありませんよ。いいえ、この場だけじゃなくさ。ただね、こんな女になったのも、アデルバート・グルーナーのためなんだもの、あいつを引きずり落してやれさえしたら!」と何かにつかみかかるように両手を上にあげて、「あいつが次から次と女を突き落した地獄穴へ、引きずりこんでやれさえしたら!」
「事情はわかっているでしょうね?」
「デブのシンウェルから聞きましたよ。またしてもバカな女のあとを追いまわして、こんどは結婚《けつこん》するのだといってるそうじゃありませんか。それを止《や》めさせたいのでしょ? それというのもあなたはあの鬼《おに》めのことをよく知っていらっしゃるからこそ、良家の娘《むすめ》さんが正気であいつと牧師さんの前に立とうとしているから、そいつを予防したいというんでしょ?」
「彼女は正気じゃないんですよ。恋《こい》に半ば気が狂《くる》っているのです。あの男のことは何もかも聞き知っているのに、気にもとめないのです」
「人殺しのこともですか!」
「もとよりです」
「おやおや、たいした神経だこと!」
「陰口《かげぐち》だと思って、取りあわないのです」
「証拠《しようこ》を突きつけて、目をさまさしてやるわけにゃゆかないんですか?」
「そうするから、手を貸してくれますか?」
「この私というものが、いい証拠じゃありませんか? 私が会って直接《じか》に、どんな目にあわされたか話してやったら……」
「それをやってくれますか?」
「やってくれるかですって? やらなくってさ!」
「たしかにやってみる値打ちはある。しかしあいつは自分の悪いことをすっかり告白して、彼女から許されているのだから、そんな話には乗ってこないと思うのですがね」
「あいつのまだ言っていないことを、教えてやりますよ」とミス・ウィンターはいった。「人殺しだって世間で騒いだのは一つだけだけど、ほかにもうすうす私の知っているのが一つ二つあります。
はじめ誰《だれ》かのことを、あのねこなで声でうわさしていると思ったら、すまして私をじっと見ながら、『あの男の生命《いのち》もあと一カ月だね』と、それもまゆ一本動かさずにいうのですよ。でも私は大して気にもとめなかった――何しろそのころはあいつに首ったけでしたからね。こんどのおバカさんと同じで、私はあいつのすることは一も二もなくいいと思っていたんですよ。
そのうちに一度、これはと思うことが起こりました。そりゃもう、あのときあいつのいやらしいうそ八百の口車でごまかされさえしなければ、私はその晩のうちにも逃《に》げだしていたんですがねえ。それはあいつの持っていた本――茶いろの皮表紙で錠《じよう》がついていて、表に金で自分の紋章《もんしよう》が入れてある本です。あの晩はお酒が少しはいっていたのだと思います。でなきゃあんなものを私に見せるはずがありません」
「というと、何の本なのですか?」
「それがねえ、ホームズさん、この男は女を収集しているんですよ。ほかの人なら蝶《ちよう》や蛾《が》を集めるところを、あいつは女の収集を自慢《じまん》にしているんです。その収集帳なのです。スナップ写真をつけて、名前から何から、いちいち詳《くわ》しく書いてあります。汚《けが》らわしいったら、どんな下等な人にだって、あんなものが作れるものですか! それだのにアデルバート・グルーナーのやつはそんなものをちゃんと持っています。わがため身を亡《ほろ》ぼせる霊《れい》≠ニでも表題をつければよい本ですよ。でもこんなことどうだってよござんすね。だってあなたのお役にたつ本でもないし、たとえお役にたつとしても、手に入れられやしませんもの」
「どこにおいてあるのです?」
「いまどこにあるか、私にわかるものですか! あの男と別れてから一年以上になります。あのころは置き場所を知っていたけれど、万事《ばんじ》とてもきちょうめんで、きれい好きな男ですから、ひょっとすると今でも、奥《おく》の書斎《しよさい》の古いデスクの棚《たな》にのせてあるかもしれませんね。あいつの家を知っていらっしゃいます?」
「書斎へはいったことがあります」
「おや、そうですか? けさ仕事を始めたばかりにしちゃ、手回しが悪くないわね。アデルバートもこんどは油断ができますまい。表の書斎というのは、中国の陶器《とうき》を飾《かざ》った部屋で、窓と窓の間に大きなガラスの戸棚がありますが、そこのデスクのうしろのドアの中が、奥の書斎で、ここは小さな部屋だけれど、あいつはいろんな書類だの何だのしまっていますよ」
「どろぼうを恐《おそ》れていますか?」
「アデルバートはそんな臆病《おくびよう》ものじゃありません。よくよく仲のわるい相手でも、それだけは反対しないでしょう。自分の身は自分で守れます。夜は警報器がありますし、それにどろぼうのねらうようなものなんかありゃしません。あるのは珍《めずら》しい陶器くらいなものですから」
「そんなものだめだ」シンウェル・ジョンスンが、いかにも玄人《くろうと》らしいところをみせた。「鋳《い》つぶしてしまうこともできず、そのままじゃもちろん売れないような品物を、どこの故買屋が買いとってくれるものかね」
「それはそうだ」ホームズがいった。「ではウィンターさん、あすの夕がた五時に、もう一度ここへ来てくれませんか。それまでにあなたのいうように、この婦人に会っていただく手はずをなんとか講じてみたいと思います。あなたのご協力をふかく感謝いたします。いうまでもありませんが、依頼者も謝礼の点については……」
「よしてくださいよ、ホームズさん」若い女は大声でいった。「私はお金なんか欲《ほ》しくて、こんなことするのじゃありませんよ。あいつがどろの中へ突《つ》き落されたら、それだけで十分です。どろの中であいつの憎《にく》い顔を、この靴《くつ》でふみにじってやりたい。それで私は満足します。明日はおろか、あなたがあいつを相手になさるかぎり、いつでもお手伝いに参ります。私のいどころなら、このデブちゃんがいつでも心得ています」
これで別れたきり、翌日の晩まで私はホームズに会わなかった。その晩にふたたび私たちはストランドの例の料理店で食事をともにした。そこで私が彼女との会見の模様をたずねると、彼《かれ》は肩をすくめて、つぎのような話をしてくれた。ただし彼の話しぶりはいかにも無味《むみ》乾燥《かんそう》で実生活にそぐわないから、ここには少しばかり編集して、柔らかみをつけて述べることにした。
「会うのはなんの造作もなかった。それというのもこんどの婚約からきた現在の不和の埋《う》めあわせには、それ以外のあらゆる第二次的なことについては、子としての絶対的な服従を喜んでしているからだ。
将軍からお待ちしているという電話があったし、ミスWも約束《やくそく》どおりやってきたので、僕《ぼく》たちが老将軍の家のあるバークリー・スクェアの百四番で馬車を降りたのは五時半だった。おそろしく古びて、なみの教会なんか足もとへも寄れないほどのすごいロンドンの城の一つだった。取次ぎのものが、黄いろいカーテンをかけた大きな客間へ通したが、みるとそこに令嬢はちゃんと待ちうけていた。殊勝《しゆしよう》げな、青い顔した近づきがたい、まるで山の雪人形のように取りつきにくい女性だ。
何といったらいいか、僕には彼女のおもかげをはっきりと説明することができないがね、ワトスン君、事件が片づくまでには、君も会う機会があると思うから、すべて君の文才にまかすよ。たしかに美人だが、たえず高いところばかり見つめている狂信者《きようしんしや》の、この世のものならぬ美しさだ。中世の名家の手になる絵でしばしば見たことのある顔だ。あのような獣人《じゆうにん》がどうしてそんな女に魔手《ましゆ》をのばし得たのか、想像もつかないが、神聖なものと畜類《ちくるい》と、野人と天使という具合に、両極端《りようきよくたん》は求めあうものなんだねえ。それにしてもこんなに極端なのはないと思う。
彼女はむろん僕たちの行った目的を知っていた。あの悪人めが、早くもわれわれの悪口を彼女に吹《ふ》きこんでいたからだ。ウィンターという女の行ったのには、さすがに驚《おどろ》いたようだが、まるで敬虔《けいけん》な尼《に》僧院長《そういんちよう》がライ病|患者《かんじや》を迎《むか》えでもしたように、僕たちをそれぞれ席に招じた。君も高慢ちきにしようと思えば、ミス・ヴァイオレット・ド・メルヴィルを見ならうことだね。
『よくいらっしゃいました』彼女はまるで氷山から吹いてくる風のように冷やかにいった。
『お名前はよく存じあげております。今日《こんにち》いらっしゃいましたのは、私のフィアンセのグルーナー男爵を謗《そし》るためでございましょうね? 私がお目にかかりますのも、父の頼《たの》みだからこそでございます。あらかじめお断りいたしておきますけれど、どんなお話をうかがいましても、私の心は少しも揺《ゆる》ぎはいたしません』
僕は彼女がかわいそうになったね、ワトスン君。しばらくは自分の娘《むすめ》か何かのような気さえした。僕はあんまり雄弁《ゆうべん》なほうじゃない。感情にとらわれることなく、頭でものをいうのだ。しかしこのときばかりは、僕の性質としてできるかぎりの温かい言葉を使って、彼女をかき口説いた。結婚してみて初めて男の品性に目ざめる女の立場の、いかに怖《おそ》るべきものであるか、血にけがれた手、好色な唇《くちびる》の愛撫《あいぶ》のままに忍従《にんじゆう》しなければならぬ女の、いかにみじめであるかを説き聞かせたのだ。
どんなことも出し惜《お》しみはしなかった。侮辱《ぶじよく》、恐怖《きようふ》、苦悶《くもん》、絶望――この結婚の内包するあらゆる予見を話してやった。だがいかに口を酸《す》っぱくして話しても、彼女の象牙《ぞうげ》のようなほおには血の気さえ浮《う》かばず、夢《ゆめ》みるような双眼《そうがん》には何の感動もあらわれなかった。僕は今さらのように、あの悪人のいった催眠術の後続暗示の強さにおどろいた。彼女は上空《じようくう》でうっとりと夢みる生活を営んでいるとしか思われなかった。しかも彼女の答えははっきりしたものだった。
『ずいぶん我慢してお話をうかがっておりましたけれど、私の気持ははじめに申しあげておきました通り、少しも変りございません。私のフィアンセ、アデルバートはずいぶん変化の多い道を歩いてきましたのですから、ひとさまからはげしい憎しみやら、不当な悪評をうけていますことは、よく承知いたしております。いろんな人が現われてあの人のことを悪口してゆきましたけれど、それもあなたでお終《しま》いでございましょう。たぶん悪意はおありではないのだと思いますけれど、あなたはお金で雇《やと》われた探偵《たんてい》だと聞いております。お金しだいでは反対に男爵《だんしやく》の味方にもおなりになる方でございましょう。
いずれにしましても、私はあの人を愛しておりますし、あの人も私を愛していますから、世間から何といわれましょうとも、窓の外で小鳥がさえずるほどにも感じませんことを、とっくりとご承知ねがいとうございます。あの人の気高い品性がたとえ一時でも曇《くも》るようなことがありませば、その曇りを払《はら》いのけて、たかい真価を発揮させますのが私の役目だと存じております』とここで彼女は僕のつれの女を振りかえって、『この若い婦人はどなたでございますか?』といった。
僕がそれに答えようとすると、女がまるで旋風《せんぷう》のようにまくしたてだした。火炎《かえん》と氷が相対《あいたい》したというのは、このときの二人だろう。
『どなたですかって、それは私の口からいいますよ』彼女はいきなり椅子《いす》から立ちあがって、激情《げきじよう》にはげしく口をねじまげながら、叫《さけ》んだ。『私はね、こないだまであの男の情婦《いろ》だったんですよ。あの男に引っかけられて、さんざ玩弄《おもちや》にされたあげくが、芥箱《ごみばこ》へぽいと捨てられた何百という女のうちの一人なのさ、お前さんもどうせいまにそうなるんだけどね。お前さんの捨てられるのは、芥箱じゃなくてたぶん墓場になるだろうけれど、そのほうがいいやね。私ゃいっときますがね、おばかさん、こんな男と結婚したが最後、きっと殺されてしまうんだよ。胸がはりさけるか、首の骨を折るか、どっちを選ぶかあの男が決めてくれるでしょうよ。
こんなことをいうのも、お前さんが好きだからじゃありませんよ。お前さんなんか死のうと生きようと、私の知ったことじゃありゃしない。あの男が憎いばかりですのさ。腹いせに、あいつが私にしたと同じことをして、思い知らせてやりますのさ。でもそんなことどっちでもかまやしない。お前さんもそんなふうに私を見るこたァないでしょうよ、お嬢さん。お前さんだってどうせ目がさめてみたら、いまの私なんかよりずっと堕落《だらく》してたなんてことにならないとも限らないんですからね』
『ここでそんなことを言いあうのは止《よ》しましょう』ド・メルヴィル嬢《じよう》は冷やかにいった。
『ただひと言だけいっておきますが、あの人の生涯《しようがい》には三つの時期があって、ある時期にたくらみある女に係りあったことは私も知っていますし、そのためにもし何かまちがいを犯《おか》したことがあるにせよ、いまは心から悔《く》い改めているのです』
『へん、何が三つの時期だ!』と僕の連れが金切り声で叫んだ。『ばか! 手のつけられないおばかさん!』
『ホームズさん、これでお引取りねがいとうございます』令嬢はいよいよ冷やかにいった。
『あなたにお目にかかるようにとの父の希望には従いましたけれど、この婦人の狂乱の雑言まで聞く必要はないと存じます』
これをきくとミス・ウィンターは猛然《もうぜん》と躍《おど》りかかったが、とっさに僕が手首を捕《とら》えて引きもどさなかったら、おそらく気も狂うばかり憎い相手の髪《かみ》の毛につかみかかったことだろう。
僕は幸いにしてやじ馬などにたかられないうちに、何とか彼女を馬車に押《お》しのせられたのは幸運だった。それというのも彼女がひどく怒って気が狂ったようになっていたからだ。僕自身だって、狂わしくこそならないにしても、かなり憤慨《ふんがい》したよ、ワトスン君。せっかく救ってやろうとしている令嬢が、いかにも冷たく無関心で、ばかていねいな態度を見せたのが、いいようもなく不愉快《ふゆかい》だったからだ。
というわけで、これまでの経過は君にもすっかりのみこめたろうが、いうまでもなく、この手がだめだったからには、べつに新手《あらて》を案出しなければならない。ついてはワトスン君、いずれ君にひと役買ってもらわなければならないのは必至だと思うから、君と連絡を保ってゆきたい。もっともこんどは向こうの指手《さして》で勝負が再開されるものと思うがね」
果してその通りだった。向こうから――まさか内々で彼女《かのじよ》が関与《かんよ》しているものとは思えないから、アデルバート・グルーナーから勝負をいどんできたといおう。私はあのとき、新聞売子の持っているプラカードをふと見て、魂《たましい》の底まで恐怖にゆらいだあの地点を、いまでもこの敷石《しきいし》の上だと、はっきり指摘《してき》することができるように思う。グランド・ホテルとチャリング・クロス駅の中間に、一本足の新聞売子が夕刊の店をひろげている場所がある。日どりは、前記の会話があってから二日後のことだった。黄いろい紙の上に、黒々と怖るべきことが書いてあった――
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シャーロック・ホームズ氏暴漢の襲撃《しゆうげき》を受ける[#「シャーロック・ホームズ氏暴漢の襲撃を受ける」はゴシック体]
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それを見て私はしばらくあっけに取られて立ちつくしていたように思う。それから何でも引ったくるように夕刊を取ったこと、代金も払わずに取ったので売子から文句をいわれたこと、金を払うまももどかしく、薬屋の店さきに立って、問題の場所を折りかえして、夢中《むちゆう》で読み入ったことなどを、ばらばらに思いだす。そのときの記事はつぎのようなものだった。
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有名な私立探偵シャーロック・ホームズ氏は今朝暴漢の襲撃を受け、気の毒にも死にそうなほどの重傷をうけた由《よし》、まだ詳報《しようほう》はないが、前夜十二時ごろのことで、場所はリージェント街のカフェ・ロイヤルの前だという。加害者はステッキを持った二人組の男で、ホームズ氏は頭部と体を強打され、医師の言によれば負傷の程度は容易ならぬ由。すぐにチャリング・クロス病院へ担《かつ》ぎこんだが、本人のたっての希望でべーカー街の自宅へ移された。加害者は身形《みなり》いやしからぬ男だったらしく、やじ馬をかきわけてカフェ・ロイヤルへはいり、裏通りのグラスハウス街方面へ逃走《とうそう》した。日ごろ氏の明敏《めいびん》なる活動に悩《なや》まされていた連中の一味にちがいなかろう。
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この記事に目を通すと私がタクシー馬車にとびのって、ベーカー街さして急いだのはいうまでもない。行ってみると有名な外科医サー・レスリー・オークショットがホールにいて、その人の馬車が表で待っていた。
「いまがいまどうということはありません」というのが彼の意見だった。「頭部に裂傷《れつしよう》が二カ所と、ほかにかなりの打撲傷《だぼくしよう》があります。幾針《いくはり》か縫合《ほうごう》が必要でしたが、モルヒネ注射をしておきましたから、このまま安静にしていなければなりません。数分間くらいの面会ならば、強《し》いて禁止することもありますまい」
許しを得たので、私は暗くした部屋へすべりこんでいった。患者はすっかり眼《め》がさめていて、かすれたような低い声で私の名を呼んだ。ブラインドが、四分の三ばかりおろしてあったが、斜《ななめ》に日差しが一本流れこんできて、繃帯《ほうたい》をした頭を浮きあがらせていた。白リネンの湿布《しつぷ》の間に、赤く血がにじんでいる。私はまくらもとに腰《こし》をおろして、そっとのぞきこんだ。
「大丈夫《だいじようぶ》だよ、ワトスン君。そんなに怯《おび》えることはないんだ」彼はひどくよわよわしい声でつぶやくようにいった。「見かけほど悪かないんだ」
「それはよかったねえ!」
「君も知っている通り、僕は棒術にはいささか心得がある。もっぱら防衛にだけ努めてきたのだが、二人がかりで来《こ》られたので、持てあましたのだよ」
「僕にできることがあるかい、ホームズ君? むろんあいつのさし金にちがいないよ。君がいいとさえいえば、僕は乗りこんでいって、あいつの面《つら》の皮をひんむいてやりたいね」
「ワトスン君ありがとうよ。だが警察が乗りだしてくれないかぎり、われわれだけじゃどうにもなりゃしないよ。それにしても逃げ道の用意はよかったねえ。あれはあらかじめ考えていたものに違《ちが》いないよ。まあしばらく待ってくれたまえ。僕にも考えがある。第一にやるべきことは、僕の負傷を誇張《こちよう》していい触《ふ》らすのだ。みんなは君のところへ様子を尋《たず》ねにくるだろう。そうしたら重くいうのだ。一週間もったらいいほうだとか、脳震盪《のうしんとう》だとか、精神|錯乱《さくらん》状態だとか、でたらめを並《なら》べたてるさ。どんなに重くいっても、すぎるということはない」
「だってサー・レスリー・オークショットというものがあるぜ」
「あの人はいいのだ。あの人には僕の悪い面だけを見せておく。その点はうまくやるから大丈夫だよ」
「ほかに何かすることはないかい?」
「そうだね、シンウェル・ジョンスンに、あの女に身を隠《かく》さすように伝えてくれたまえ。あの連中いまごろはウィンターを捜《さが》しているものと思う。それというのもあの女が僕の味方になったことを知ったからだが、僕に襲《おそ》いかかるくらいだから、あの女を放《ほ》っときそうなはずがないからね。急を要する。今晩のうちに伝えてくれたまえ」
「これからすぐ行ってくるよ。ほかに用はないかい?」
「僕のパイプをテーブルへ出しといてくれたまえ、|タ《*》バコ・スリッパー【訳注 ホームズはペルシャ・スリッパーをたばこ入れに使う習慣がある】もね。そう、それでいい。そして毎朝ここへ来てくれたまえ。戦略を練ることにしよう」
その晩のうちにジョンスンに会って、ミス・ウィンターを静かな郊外にかくまい、危険のなくなるまで潜伏《せんぷく》さすように頼んだ。それから六日間、世間ではホームズは生死の境にあるものと思っていた。発表される容態書はきわめて容易ならぬ状態を告げ、新聞の記事も思わしくなかった。だが毎日たずねてゆく私には、それほど悪くはないことがよくわかった。彼の強い体質と強固な意志力とが驚異的《きよういてき》な働きを示したのである。
回復があまり早いので、彼は私にさえ隠そうとしているが、そのじつ自分でも意外とするほど早くよくなっているのではないかと、時には疑ってもみたものである。この男には妙《みよう》に物を隠しだてする傾向《けいこう》があって、それが多くの劇的効果をもたらしもするのだが、もっとも親しい友人にさえ、何を計画しているのか教えようとしないのはよくない癖《くせ》だ。謀計《はかりごと》は密なるを尚《たつと》ぶという原則を極度まで押しすすめるのだ。誰《だれ》よりも私は彼に近しいのに、それでも二人の間にはみぞのあるのを常に感じていた。
七日目に抜糸《ばつし》をしたけれど、その日の夕刊には反対に、丹毒《たんどく》を併発《へいはつ》したと出ていた。同じ夕刊に、彼の容態いかんにかかわらず、ぜひとも知らせなければならない記事があった。金曜日にリヴァプールを出帆《しゆつぱん》するキュナード社船ルリタニア号の船客の中にアデルバート・グルーナー男爵の名が見えたのである。目前に迫《せま》っているド・メルヴィル将軍の独り娘ヴァイオレット嬢との挙式の前に、ぜひとも片づけておきたい経済問題がアメリカで待っているのだという、など、など。ホームズは冷やかな青い顔で一心に聞いていたが、このニュースにはひどく打撃を受けたらしかった。
「なに、金曜日だって? まる三日しかない。あいつ危ないと覚《さと》って逃《に》げだすのだな。逃がすものか! ぜったいに逃がしゃしないよ! さあ、ワトスン君、きみにぜひやってもらうことがある」
「何でもいってくれたまえ」
「じゃね、これから二十四時間、中国|陶器《とうき》の研究に努力を集中してくれたまえ」
それについて彼はなにも説明してくれなかったし、また私からも質問はしなかった。長い間の経験で、私は服従の賢明《けんめい》なのを学びとっているのである。そのまま表へ出ると、何だってこんな変な命令を遂行《すいこう》しなければならないのだろうと、思案をめぐらしながらべーカー街を歩いていった。あきらめて私はセント・ジェームズ・スクェアにあるロンドン図書館へ馬車を乗りつけ、副司書をしている友人ロマックスに事情をうちあけて、相当な量の参考書を抱《かか》えて帰った。
弁護士が、月曜日に専門家を証人にたてて尋問《じんもん》できるようにと、せっかく必死になって詰《つ》めこんだ知識を、土曜日になるともう忘れてしまったという話がある。私は陶器の大家を気取る気はないけれど、それから夜にかけてちょっと休んだだけで、翌日も午前中はもっぱら本について知識を吸収し、いろんな名を記憶《きおく》にたたきこんだ。
私の学んだのは偉大《いだい》なる装飾芸術家《そうしよくげいじゆつか》の刻印や、不思議でならない年号のこと、洪武《ホンウー》の記号、永楽《ヨンロー》の美しさ、唐英《タンイン》の文様、宋《ソン》や元《ユアン》などの上古における隆昌《りゆうしよう》など、いろいろある。つぎの日の晩にホームズを訪《おとず》れたときは、これらの知識を頭にいっぱい詰めこんでいた。
新聞情報だけにたよっている人は思いもよらぬことだけれど、行ってみると彼《かれ》はベッドをはなれていた。お気にいりのひじ掛《か》け椅子《いす》にふかぶかと腰をおろし、繃帯だらけの頭に肘《ひじ》つえをついていた。
「なあんだ、ホームズ君、新聞では君は死にかけていることになっているぜ」
「うん、それこそこっちの望むところなんだ。ところでワトスン君、研究はできたかい?」
「まあ一応はやってみたがね」
「それはよかった。その問題について人と話しても、理解ある受け答えができるだろうね?」
「まあ何とかやれるだろう」
「じゃマントルピースの上のあの小さな箱《はこ》をちょっと取ってくれたまえ」
彼は小箱のふたをとり、中から何か美しい東洋の絹でていねいにくるんであるものを取りだした。それをとくと、世にも美しい濃青色《のうせいしよく》の精巧《せいこう》な小皿《こざら》が現われた。
「ていねいに扱《あつか》ってくれたまえよ。これは真正の明朝《ミンちよう》の軟磁なんだ。クリスティーの店でもこんな美しいのを扱ったことはない。ひと組完全にそろっていたら、捕虜《ほりよ》になった国王の身代金《みのしろきん》ほどの価値がある。事実|北京《ペキン》の王城以外に、完全にそろったのがあるかどうか疑問だがね。真の鑑賞家《かんしようか》はひと眼見ただけで、気ちがいのように騒《さわ》ぎだすだろう」
「これを僕《ぼく》にどうしろというのだい?」
ホームズはハーフ・ムーン街三六九番 医師ヒル・バートン≠ニした名刺《めいし》を私によこした。
「これが今晩の君の名だ。これをもってグルーナー男爵を訪問するのだ。あの男の日常はちょっと知っているが、八時半には用をすませて家にいるはずだ。あらかじめ手紙を届けて、今晩たずねて行くことと、そのとき明朝の磁器のすばらしい逸品《いつぴん》をひと組持っているから、その見本を携《たずさ》えてゆくといってやるのだ。君を医者としたのは、そのほうが生地《きじ》でゆけるから、かえって都合がよかろう。ただ君がコレクターであること、偶然《ぐうぜん》この逸品を手に入れたこと、男爵も同好の人と聞いて来たが、値段によっては譲《ゆず》ってもよいと申しいれるのだ」
「いくらと言おう?」
「よくぞ気がついた。自分の持ってきた品物の値を知らなかったら、それこそひどく失敗するのはたしかだろう。この皿はサー・ジェームズが手にいれてくれたものだが、たぶんあの人の患者《かんじや》のコレクションだろうと思う。世界に比類のない品だといっても、誇張になる心配はない」
「じゃひと組にそろえて専門家の鑑定にまかすといったらどうだろう?」
「うまい! 今日はばかに頭がいいね、君は。それにはクリスティーかサザビーの名をあげるといい。用心ぶかく、君からは値段を切りださないのだね」
「それにしても会ってくれなかったら?」
「大丈夫、会うよ。彼のコレクションマニアは病膏肓《やまいこうこう》にはいっているほうだからね。それも陶磁器ときたら人からも権威《けんい》を認められているくらいなんだ。まあ坐《すわ》りたまえ。手紙の文句を口述する。返事はとらなくていい。ただ訪問するということと、目的さえいってやればね」
簡単でていねいで、いかにも鑑賞家の好奇心《こうきしん》をそそるような、みごとな手紙だった。すぐにメッセンジャーに頼《たの》んで持たせてやった。そして夜になるのを待って、ヒル・バートン博士の名刺をポケットに、貴重な小皿をもって私は単独での冒険《ぼうけん》に出かけたのである。
グルーナー男爵《だんしやく》の美しい邸宅《ていたく》は、サー・ジェームズのいうように、いかにも彼が富裕《ふゆう》なのを思わせた。両がわに美しい植込《うえこ》みのある弓なりの道をしばらくはいってゆくと、彫像《ちようぞう》をいくつも飾《かざ》った砂利敷《じやりじ》きの広場へ出た。ここは南アフリカの金山王が好況時代《こうきようじだい》に建てたもので、四隅《よすみ》に小塔《しようとう》を配した低く横ひろがりの建物は、建築学上からいえば変なものだが、大きさといい堅固《けんご》さといい堂々たるものだった。僧正《そうじよう》の席にもふさわしいような執事《しつじ》が出てきて、ビロードの制服をつけた従僕に引きつぎ、私は男爵のいる部屋へと通された。
男爵は窓の間にすえた、中国関係のコレクションの一部を飾ってある大きな戸棚《とだな》の戸を開けてその前に立っていたが、私がはいってゆくと茶いろの小さな壺《つぼ》を手にしたまま振《ふ》りかえった。
「先生、どうぞお掛けください。ちょうどいま私の貴重なコレクションを見渡《みわた》しながら、まだ何か手に入れられるかどうかと思案していたところですよ。どうです、この小さな唐代《とうだい》の参考品は? これは七世紀から伝わったものですが、あなたには興味がおありでしょう。細工といい光沢《こうたく》といい、これだけのものはちょっと見あたりませんよ。ところで、お話の明朝の小皿はそこへお持ちですか?」
私はていねいに包みを開いて、小皿を手わたした。すると彼はデスクに向かって腰をおろし、だいぶ暗くなってきたのでランプを引きよせ、ゆっくりと研究しはじめた。黄いろいランプの光を顔いっぱいに受けているので、その間に私は思いのままにこの男を観察することができた。なるほど彼はすぐれた美男であった。ヨーロッパじゅうに美男の名をとどろかしただけのことはある。体格はむしろ中以下だが、作りがいかにも優雅《ゆうが》で、発剌《はつらつ》としていた。顔のいろはほとんど東洋的といってもいいほど浅ぐろく、大きな黒いうっとりしたような眼――これではてもなく女性を悩殺《のうさつ》するわけだ。
頭髪《とうはつ》も髭《ひげ》も漆黒《しつこく》で、髭はほそくぴんとはねてワックスで固めてあった。ただ一つ唇《くちびる》のうすい口もとが一文字に引きしまっているのをのぞいたら、顔のつくりは端正《たんせい》で愛嬌《あいきよう》があった。人殺しの口もとというものがあるなら、正にこの口である。顔のなかにぐいと切りこんだ痕《あと》とでもいうか、堅《かた》くむすんで血も涙《なみだ》もなく、怖《おそ》るべき口である。そこに髭なぞはやしているのは、犠牲者《ぎせいしや》への自然の危険信号となるのだから、彼としては思慮《しりよ》がなさすぎるというものだ。
声には魅力《みりよく》があるし、態度も申し分がなかった。年は三十になったばかりと踏《ふ》んだが、あとで知ったが四十二だという。
「美しい。じつに美しい!」しばらくあかずながめてから彼が嘆声《たんせい》をもらした。「これと同じものが六つあるのですね? これほどの逸品があるのに、今まで話にも聞いたことがなかったのは、どうも不思議ですよ。これに匹敵《ひつてき》するものが一つだけイギリスにあるのは知っているが、それは売りになぞ出る筋合のものではない。こんなことをお尋ねしては失礼ながら、どこからこれを手にお入れでしたか、ヒル・バートン先生?」
「どうでもよい事ではありませんか?」私はできるだけ何でもなく受けながした。「品物のたしかなことはおわかりくださったと思います。価格の点は、専門家の評価にまかせます」
「どうもふにおちませんな」と彼は黒眼にちらりと疑惑《ぎわく》をひらめかしていった。「このような高価なものですから、取引の前に詳《くわ》しいことを知っておきたいのは当然のことです。なるほど品物の純正なことはわかっています。その点少しも問題はありません。しかしですね、私としてはあらゆる可能性を考慮にいれておかなければなりませんが、もしこれが後になって、あなたに売る権利のない品とわかったらどうします?」
「その種の問題の決して起こらないことは、私が保証しますよ」
「そうなると当然、あなたの保証にどれだけの価値があるかが問題になってきます」
「それには私の取引銀行が責任をもちます」
「なるほどね。それにしても私には、この取引は尋常《じんじよう》でない気がしてなりません」
「強いてお買取りくださらなくてもよいのです」私はわざと何げなくいった。「あなたがこの道の玄人《くろうと》だとうかがったものですから、第一にお目にかけたまでです。買い手はほかにいくらもあると思っています」
「私が収集家だということを、誰からお聞きになりましたか?」
「その方面の著書までおありと承知していますよ」
「お読みくださったのですか?」
「いいえ」
「おやおや、これはますますふに落ちないことになってきた! あなたは玄人でもあり、同時に、こんな貴重な品まで手にいれるほどの玄人でいらっしゃる。それでありながら、現にあなたの持っていらっしゃる品の真価を知るべき唯一《ゆいいつ》の本を参照しようともなさらないとはねえ! これはいったいどうしたことですか?」
「たいへん忙《いそが》しい身なものですからね。私は開業医なのです」
「それではお答えになりませんな。道楽のあるものは、ほかのことはどうなろうと、あくまでそれを追求するものです。お手紙には玄人だとありましたが?」
「ええ、そうです」
「失礼ながら試験のため二、三の質問をさせていただきましょう。お話をうかがえばうかがうほどふに落ちなくなるばかりと申すほかありませんよ、先生――しばらくお医者だということにしてね。
まずお尋ねしますが、聖武天皇《しようむてんのう》について何かご存じですか? それから奈良の正倉院《しようそういん》との関連は? おやおや、これくらいのことがおわかりになりませんか? では北魏《ウエイ》朝と、それが陶器史上どんな地位を占《し》めるか、ご説明ください」
私は怒ったふりをして、いきなり立ちあがった。
「これは聞きずてになりませんぞ! 私はあなたに良いものをお見せしにうかがったのです。学校生徒のような試験をされにきたのではありません。これらの問題に関する私の知識は、あなたには及《およ》ばぬかもしれませんが、それにしてもこんな無礼な尋《き》きかたをされたのでは、答える気になんか絶対になりませんよ」
彼はじっと私を見つめた。その眼《め》からうっとりしたところが消えさり、ぎろりと光った。残忍《ざんにん》なうすい唇の間からは、白い歯をむきだした。
「何しにきた? スパイだな! ホームズの密使なのだろう。おれをだましにきたのだ。あいつは死にかかっているというが、それでおれを見張るために、こんな手先をよこしゃがったのだ。ふん、勝手にこんなところへはいってきやがって! 畜生《ちくしよう》! はいったときのようにやすやすと帰れると思うと、あてがはずれるぞ!」
ぬっと立ちあがったので、私は思わず後ずさりして、身がまえた。気の狂《くる》ったように怒っているから、何をするかしれたものじゃない。初めから私を疑いの眼で見ていたのかもしれないが、反対尋問によって真相を見ぬかれてしまった。いずれにしてもこの男をあざむき通せるものではなかったのだ。彼はデスクの引出しをあけて手を突《つ》っこみ、あらあらしく何やらひっかきまわしていたが、ふと何かの物音にでも気がついたか、じっときき耳をたてた。
「あっ!」と叫《さけ》んで彼はうしろのドアから、奥の部屋へとびこんだ。
私は開けっぱなしの戸口へ二歩で飛んでいった。そしてそのとき見た室内の光景は、いつまでも忘れることができない。庭へ出られる窓は大きく開けはなたれ、そのそばに、怖ろしい幽霊《ゆうれい》かなにかのように、血だらけの繃帯《ほうたい》を頭にまいたシャーロック・ホームズが立っているのである。
だがそう思ったのは瞬間《しゆんかん》のことで、彼はもう窓を躍《おど》りこえ、外の月桂樹《げつけいじゆ》の植えこみにがさりと音をさせた。それと見てこの家の主人は怒号《どごう》し、やにわに窓へ駆《か》けよった。
そのときである。ほんのちらりとではあるけれど、私はありありと見てとった。女の腕《うで》が一本、月桂樹の枝《えだ》の中からにゅっと現われたのである。それを見た瞬間、男爵はあっと叫んだ。いまでも耳底にのこっている恐《おそ》ろしい声である。彼は両手で顔を押《お》さえ、狂ったように部屋じゅうを駆けまわり、あちこちの壁《かべ》に頭をはげしく打ちつけた。それからカーペットの上に倒《たお》れると、家じゅうにひびきわたる叫び声をあげながら、のたうちまわった。
「水! 水をくれ! 助けてくれ、水だ!」
私はサイド・テーブルの上にあった水差しをつかんで駆けよった。同時に執事や数人の従僕がホールから駆けこんできた。私がその場へひざをついて、負傷者の恐るべき顔をランプのほうへ向けたのを見て、従僕の一人が失神したのを思いだす。顔じゅうを硫酸《りゆうさん》が腐蝕《ふしよく》して、耳やあごからポタポタとたれているのである。一方の眼はもう白くうつろになって、もう一つのほうは赤くただれていた。ついさっき私が賛嘆をおしまなかった顔は、美しい絵の上を画家がぬれて汚《よご》れたスポンジでなでまわしたようになっていた。汚《きた》なく色あせて、残酷《ざんこく》にも恐るべき顔である。
私は硫酸あびせのことだけ、簡単に、見た通りを説明してやった。するとあるものは窓をのりこえたりして、芝生《しばふ》へ飛びだしていったが、外は暗いし、雨さえ降りだしていた。その間に男爵はヒイヒイ泣き叫びながらも、復讐者《ふくしゆうしや》をのろい罵《のの》しった。
「キティ・ウィンターの悪たれ女め! 畜生! 悪魔! 覚えていろ! きっと仕返しはしてやるぞ! あ、痛い! とても我慢《がまん》はできない!」
私は彼の顔に油をぬり、皮のむけたところへは脱脂綿《だつしめん》をあてがって、モルヒネの注射を打ってやった。このショックでいまは私への疑惑もすっかり晴れたのだろう、私の手にすがりつき、私にいまさら開眼の力でもあると思ってか、死魚のそれのような眼でじっと私を見あげた。何も知らなければ大いに同情するところだが、こんな痛ましいことになったのも、さんざん非道なことを重ねてきたからだと、はっきり私は知っているのだ。
もえるような熱い手ですがりつかれるのにはいささか閉口だったが、かかりつけの医者が専門医をつれてきたので、やっと解放された。そこへ警部がやってきたので、私は本当の名刺を渡した。警視庁ではホームズに劣《おと》らず顔が売れているのだから、もう一つのほうを出すのは愚《おろ》かでもあるし、むだなことだからである。それから私はこの恐るべきいやな家を去って、一時間たらずでべーカー街へと帰ってきた。
帰ってみるとホームズは青じろい疲《つか》れきった顔をして、いつもの椅子におさまっていた。自分の怪我《けが》のことはべつとして、今晩の騒ぎにはさすがの彼も神経に打撃《だげき》をうけたことだろう。男爵の相好《そうごう》がまったく変ってしまったと私が話すのを、怖ろしそうに聞いていたが、
「罪の報《むく》いだね、まったく。早晩こうなるはずだったのだ。さんざん罪の上に罪を重ねてきたのだからねえ!」といってテーブルの上から茶いろの本をとりあげた。「これがあの女の話していた本だよ。これで結婚《けつこん》が阻止《そし》できなかったら、ほかに方法なんかありゃしない。しかしまあこれで大丈夫《だいじようぶ》だよ。必ず阻止できる。いやしくも自尊心のある女なら、我慢できるはずはないからね」
「あの男の恋愛日記《れんあいにつき》だね?」
「情欲日記とよぶべきだろう。まあ名前なんかどうだっていいが、こいつのことをあの女から聞いて、それが手にはいりさえすれば、すばらしい武器になると気がついた。あの時は、うっかりあの女にしゃべられては困ると思ったから、そんなことは勤気《おくび》にも出さなかったが、ひそかに思案をめぐらしていたのだ。そこへあの襲撃《しゆうげき》をうけたので、機会が訪《おとず》れた。おかげで男爵は、僕に対する警戒をゆるめることになったのだ。うまくいったというべきだ。ほんとをいうと、もう少し待っていたかったのだけれど、アメリカへ行くというから、急ぐことにした。そんな危ない記録をあとへ残してゆくはずはないだろうから、すぐに行動を起こさなければならない。
彼も用心はしているのだから、夜盗《やとう》のまねはできない。しかし夕方など、彼の注意をほかへ外《そ》らしておくことができれば、そこにチャンスがある。そこで君とあの青い小皿《こざら》とに用ができてきたわけだ。しかし僕としてはこの本のある場所をあらかじめ知っておく必要があるし、第一僕に与《あた》えられる時間は、君の陶器《とうき》に関する知識によって制限をうけるのだから、数分間しかないこともわかっている。だから考えた末、最後にあの女を利用することにした。それにしてもマントの下へさも大事そうに持っていた小さな包みが、あんなものだとはどうして気がつこう? 僕はあの女は僕を手伝うためにだけ行ってくれたものと思っていたが、彼女《かのじよ》は自分でも目的を持っていたんだね」
「あいつは僕を君の使いだと見ぬいたよ」
「そんなことになりゃしないかと思っていたが、それにしても君がうまくやってくれたので、見つからずに逃《に》げだす暇《ひま》はなかったが、本をさがしあてる余裕《よゆう》だけはあったよ。――やあ、サー・ジェームズ、いいところへいらっしゃいましたね」
この優雅な友人は、あらかじめ呼び出されていたから来たのだった。彼はホームズの物語る事件の経過に注意ぶかく耳を傾《かたむ》けていたが、その話が終ると叫んだ。
「たいへんな働きでしたな、ホームズさん! でもその傷害がワトスンさんの話のように重いとすれば、この恐るべき本を使うまでもなく、結婚阻止の目的は達せられましょう」
ホームズは頭を振った。
「ド・メルヴィル嬢《じよう》のようなタイプの婦人は、そうはゆきません。危害をうけた殉難者《じゆんなんしや》として、ますます深く愛するようになります。そうではなくて、私たちはあの男の身体《からだ》でなく、精神的に破滅《はめつ》させなければならないのです。この本があれば、あの婦人もきっと眼がさめましょう。これよりほかに、そんな力のあるものを知りません。これはあの男の自筆ですから、いくらあの婦人でもやすやすとは無視できないでしょう」
サー・ジェームズはその本と貴重な小皿とをもって立ちあがった。私も、帰らねばならぬ頃《ころ》なので、いっしょに表へ出ていった。出てみると卿《きよう》の自家用馬車が待っていた。卿は、身軽にとびのり、制服の御者《ぎよしや》に急げと命じて、そのまま走りさった。そのとき卿は窓からオーヴァーを半分たらし、ドアの外についている紋章《もんしよう》をかくすようにしたが、それでも私はホームズの家のドアの上の窓からさす光《あか》りで、ちらりとその紋章を見てとった。私はことの意外さにあっと驚《おどろ》き、そのまま引きかえして階段をかけあがり、ホームズの部屋へとびこんだ。
「依頼人《いらいにん》の正体がわかったよ! 依頼人は……」
と一大ニュースを伝えようとすると、ホームズは片手をあげてそれを制した。
「忠実にして侠気《きようき》ある紳士《しんし》さ。いまはそれだけにしておこう。将来だってそれでたくさんじゃないか」
あの動かぬ証拠《しようこ》の本がどう使用されたか、いまでも私は知らない。とにかくサー・ジェームズが然《しか》るべく計らったのだろう。問題がきわめて微妙《びみよう》だから、彼女の父親にいっさいが託《たく》されたとするほうが当っているかもしれない。いずれにしても、効果は希望するとおりだった。
三日後のモーニング・ポスト紙に、アデルバート・グルーナー男爵とヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢の結婚がとりやめになったという意味の記事が出た。同じ新聞は、ミス・キティ・ウィンターにたいする硫酸あびせの重い容疑事件の訴訟手続《そしようてつづき》として、軽罪裁判所で第一回|審問《しんもん》が行なわれたことを報じていた。審理の進行につれて、酌量《しやくりよう》すべき事情のあることが明らかになったので、宣告はこの種の犯罪としては、あの通りもっとも軽いものであった。
シャーロック・ホームズは窃盗罪《せつとうざい》で告発すると嚇《おど》かされたが、目的が正しくて依頼者が高名な人である場合には、さしも厳格なイギリスの法律も、人間味と弾力性を発揮するものとみえて、ホームズはいまもって法廷《ほうてい》の被告席《ひこくせき》には立たないですんでいるのである。
[#地付き]―一九二五年二・三月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
白面の兵士
私の友人ワトスン君の考えは、限界はあるけれども、きわめて執拗《しつよう》である。長いこと前から彼《かれ》は私に、冒険談《ぼうけんだん》を自分で書いてみろといって悩《なや》ましつづけている。私が従来彼の書くものが浅薄《せんぱく》なのをしばしば指摘《してき》し、厳正なる事実の記述のみに止《とど》めないで、大衆の興味に阿《おもね》るものだと攻撃《こうげき》を加えてきたものだから、自然私に対してそういう迫害《はくがい》を加えることにもなったのであろう。
「じゃ自分で書いてみたまえ、ホームズ君」こう反撃されてペンはとったものの、書くとなるとやはりできるだけ読者に興味を与《あた》えるようにしなければならないということに、いまさら気のついたことを告白せざるを得ないのである。これから述べる事件は、ワトスンの備忘録《びぼうろく》にははいっていないけれど、私の扱《あつか》った事件のうちでも最も奇怪《きかい》なものであるから、その点で失敗はまずなかろうと思う。
ワトスンの話が出たから、この機会に述べておくが、私が今日《こんにち》まで多くのつまらない事件にこの古い友人であり伝記作者でもある男と行動をともにしてきたのは、感傷や気まぐれからではない。ワトスンにはワトスンなりに著《いちじる》しい美点があるからであって、彼は謙譲《けんじよう》な性格から、私の実績を誇張《こちよう》して評価するのあまり、自分のことにはあまり思い至らないのである。
自分で結論を出したり、これからの行動を予見したりするような男と行動をともにするのは、つねに危険であるが、事件の展開するごとに眼《め》をみはるような男、さきのことは何一つわからないような男こそは、じつに理想的な協力者というべきである。
手帳をみると、私が大柄《おおがら》で姿勢がよく、日にやけた元気そうなイギリス人ジェームズ・M・ドッド氏の来訪をうけたのは、一九○三年一月、ボーア戦争の終結直後のこととなっている。当時ワトスンは私を置きざりに結婚《けつこん》していたが、知りあってから後にもさきにも、これがただ一度の自分本位な行動であった。私は一人ぼっちだったのである。
私は窓に背を向けて坐《すわ》り、客には光《あか》りを正面から受けるように、その反対がわの椅子《いす》をすすめる習慣だった。ジェームズ・M・ドッド氏はどう話を切りだしたものか、ちょっと当惑《とうわく》する様子だったが、私はそれに対して強《し》いて助け船を出そうともしなかった。向こうが黙《だま》っていてくれれば、それだけゆっくり観察できるからである。だが依頼人《いらいにん》には私が有能であるという観念を印象づけておくのが賢明《けんめい》なのを知っていたから、まず結論の二、三を紹介《しようかい》することにした。
「南アフリカからお出《い》でになりましたね?」
「そうなんで」ちょっとびっくりしたようだ。
「国防騎《こくぼうき》兵隊《へいたい》のかたでしょう?」
「その通りです」
「ミドルセックス隊にちがいありませんね?」
「まさにその通りです。まるで魔術師《まじゆつし》のようですね」
眼をぱちぱちやっているので私は微笑《びしよう》していった。
「イギリスではぜったい見られないほど日にやけた男らしい紳士《しんし》が訪ねてきて、ハンカチをポケットでなく袖口《そでぐち》に押《お》しこんでおられたら、たいていどこの方だかわかりますよ。それに短いあごひげがありますから、正規兵でないことがわかります。服の裁《た》ちかたは馬に乗る人のものです。ミドルセックス隊と申したのは、名刺《めいし》にスログモートン街の株式仲買人とありましたが、あそこの人ならあの隊にはいるに決まっていますからね」
「何でも見ぬく人だ」
「見るだけはあなたがたと同じですが、私はただそれをよく注意するように訓練をつんでいるのです。それはさておきドッドさん、けさお出でになったのは観察学を論ずるのが目的ではありますまい。タクスベリー・オールド・パークで何があったのですか?」
「ええッ?」
「いや驚《おどろ》くことはないのです。お手紙にはあそこの用箋《ようせん》が使ってありましたし、今日いらっしゃるのもたいそう緊急《きんきゆう》な用件のような文意でしたから、なにか重大事が突発《とつぱつ》したものとわかったのですよ」
「なるほど、その通りでした。あの手紙は午後書いたものですが、あれからあとで、まだいろんなことがありました。エムズオース大佐《たいさ》が私を追いだしさえしなければ……」
「あなたを追いだしたのですって?」
「追いだしたも同然ですよ。ずいぶんがんこですからね、エムズオース大佐ときたら。若いころは軍隊でも規律が厳格なので通っていましたし、口が荒《あら》いったらなかったですよ。ゴドフリーのことがなかったら、私も我慢《がまん》なんかできなかったんですがね」
「そのお話をもっとわかるようにいっていただけませんか」私はパイプに火をつけて、椅子に背をもたせた。依頼人は悪戯《いたずら》っぽくにやりとした。
「いわなくても何もかもわかってくださるような気がしましてね。では事実だけ申しますから、わかるものでしたらそれが何を意味するのか、教えていただけるといいのですがねえ。昨晩は一睡《いつすい》もせずにあれかこれかと頭をしぼってみましたが、考えれば考えるほどわからなくなってくるばかりです。
一九○一年ですから二年まえの一月に私が入隊してみたら、ゴドフリー・エムズオースも同じ中隊へはいってきました。クリミヤ戦争でヴィクトリア・クロス勲章《くんしよう》をもらったエムズオース大佐の一人|息子《むすこ》のことで、生れながら闘志《とうし》のつよい青年でしたから、志願したのも当然なのです。連隊でも一といって二とは下らぬ好青年でした。
私たちは親しくなりました。生活をともにし、喜びも悲しみも分かちあった者のみが持ちうるあつい友情でむすばれたのです。彼は私の戦友でした――この言葉には軍隊では特別の意味があるのです。私たちは至るところ激戦《げきせん》のうちに一年間をすごしました。そこで彼はプレトリア市|郊外《こうがい》のダイヤモンド・ヒルの闘《たたか》いで象銃《ぞうじゆう》の弾丸《だんがん》をうけて負傷しました。それきり別れたのですが、ケープタウンの病院から一本と、サウザンプトンから一本手紙をもらったきり、以後ぱったり消息がとだえてしまいました。それから六カ月以上になるのに、もっとも親しい友人のはずなのが、うんともすんとも便りがないのです。
さて、戦争が終ったので、私たちはみんな本国へ帰ってきました。そこで私はエムズオース大佐に手紙をだして、子息のゴドフリーはどうしているか尋《たず》ねてやりました。返事がありません。しばらく待って、もう一度手紙を出してみましたところ、こんどは返事がありました。短くて荒っぽい文面ですが、ゴドフリーは世界漫遊《せかいまんゆう》の旅に出たから、ここ一年くらいは帰るまいと、ただそれだけです。これでは納得《なつとく》がゆきませんよ。どこからどこまで、おそろしく不合理です。あの気のいいゴドフリーが、仲よしの友だちをこんなふうに突《つ》っぱなすはずがありません。どうもこれはゴドフリーらしくないやり口ですよ。
それにまた、たまたま私は知っているのですが、彼は大きな遺産の相続人であるのに、肝心《かんじん》の父とどうも反《そり》の合わないことが多いのです。父の大佐はどうかすると辛《つら》くあたるのですが、若いゴドフリーがまた、それを黙っているような意気地《いくじ》なしじゃありません。
ですから私はどうにも納得できないので、この問題はどこまでも黒白をつけてやろうと決心しました。ところが何しろ二年間も家をあけたあとのことですから、自分のほうにもあれこれと片づけなければならない用件が山積していて、その暇《ひま》がありません。やっと今週になってゴドフリー問題をとりあげられることになったわけです。しかし私としては、いったんこの問題をとりあげた以上、真相がわかるまでは何もかも放《ほう》りだしてかかるつもりです」
ジェームズ・M・ドッド氏は敵にまわしたらやっかいなかわりに、味方にもてば頼《たよ》りになるといった人物らしかった。青い眼が決然として、物をいうとき角ばったあごにぎゅっと力がはいった。
「それであなたはどうしました?」と私はきいた。
「第一歩はベドフォードに近いタクスベリー・オールド・パークという彼の実家を訪ねていって、実状を見届けるにあります。それでまず母親に手紙を出して――父親なんてケチなものは相手になりゃしません――正面攻撃と出ました。ゴドフリーの親友だが、いろいろ当時の面白《おもしろ》い話もあるから、話にいってもよい。それには幸い近くそちらのほうへ行くついでもあるので、ご都合はどうであろうか、云々《うんぬん》というわけです。するとすぐに親切な返事があって、お待ちしているから泊《と》まりがけのつもりで寄ってほしいとありました。そこで私は月曜日に出かけていったのです。
タクスベリー・オールド屋敷というのは交通不便なところでした。どこから行くにも五マイルは歩かなきゃならないのです。駅に降りてみると、軽便馬車一台ないので、スーツケース片手にてくてく歩かされてしまいましたが、向こうへ着いてみたら暗くなりかけていました。かなり大きな庭園の中に建っている統一のない家でした。土台のほうは木組を見せたエリザベス朝式で、ヴィクトリア朝ふうに柱廊《ちゆうろう》があるという、じつに雑然とした建てかたで、内部はぐるっと腰《こし》羽目《ばめ》を張りめぐらしたところへ、タピストリーや古ぼけて消えかかった絵など掛《か》けつらねて、うす暗く気味のわるいような家です。
ラルフという執事《しつじ》がいましたが、これがまた家の古さに負けぬくらい年とっていて、それよりなお年上らしい妻もいました。彼女《かのじよ》はゴドフリーの乳母《うば》をつとめたのだそうで、母に次いで愛しているとゴドフリーが話していたので、見るからにうす気味わるいような婆《ばあ》さんでしたが、私は何となく心をひかれました。母親というのも、おとなしい小柄な白鼠《しろねずみ》のようないい人でした。ただ一人いやなのは大佐だけです。現に着く早々いやなことがありまして、私はよほどそのまま駅めざして帰ろうかと思いましたが、それでは自分から向こうの思うつぼにはまるようなものだから、じっと我慢したのです。
私はまっすぐに大佐の書斎《しよさい》へ通されましたが、みるとねこ背の大柄で皮膚《ひふ》のよごれた、半白のあごひげのまばらな男が、散らかしたデスクに向かって坐っていました。赤い血管の浮《う》かんだ鼻が突き出ているのが、まるでハゲタカのくちばしのようで、もじゃもじゃの眉《まゆ》の下の灰いろの眼で鋭《するど》く私をにらみつけています。これだからゴドフリーも父のうわさはあまりしなかったのだなと、このとき覚《さと》りました。
『うむ、ほんとうは何が目的で来なさったのだな?』ぎりぎりするようないやな声でいきなりこうです。そのことなら奥《おく》さんに手紙で申しいれてある通りだと答えますと、
『そうそう、君はアフリカでゴドフリーと知りあったということだったな。しかしそれは君がそういうだけで、べつに証明はない』
『ポケットにゴドフリーのくれた手紙を持っていますよ』
『それを見せてくださらんか?』
大佐は私の渡《わた》した二通の手紙にざっと眼を通すと、ポイと投げかえしていいました。
『ふむ、それで?』
『私はゴドフリーが大好きでした。私たちはいろんな絆《きずな》や思い出で結ばれているのです。それが急に彼から手紙一本よこさなくなったのですから、不思議に思って、いったいどうしたのだか知りたくなるのは、無理のないところじゃありませんか?』
『そのことならいつぞや手紙で、あれがどうしているか知らせてあげたはずだ。せがれはいま世界漫遊の旅に出ています。アフリカで無理をしたとみえて健康を害しているので、あれの母親とも相談したのだが、この際十分保養させる必要があるということになりましたのじゃ。せがれの友人でほかにも心配してくださるかたがあったら、どうか君からそのことを伝えてもらいたい』
『承知しました。それにしてもゴドフリーが乗った船の名や航路、出帆《しゆつぱん》の日取などをお教えねがえませんでしょうか。追っかけて手紙を出したいと思います』
私のこの頼《たの》みには大佐も持てあますらしく、太い眉をよせて、テーブルの上をいらいらと指で叩《たた》いていましたが、チェスで痛い手をさしてきた相手を見あげて、どう受けるか腹をきめたとでもいうように、じっと私を見かえしました。
『君のようにそう執拗《しつこ》く出られたら、たいていの人が立腹しますよ。あんまり押しつけがましいのは不作法というものですぞ』
『しかしこれもひとえにご子息への愛情ゆえですから、お見逃《みのが》し願わなければなりません』
『それはそうでしょう。そう思えばこそさんざん我慢もかさねてきたのだ。だがいまのお尋ねだけは撤回《てつかい》してもらわねばならん。どこの家庭にも内情というものがあって、いくら善意の人にでも、局外者には明かされないことがあるものじゃ。それよりも私の妻が、ききたがっているゴドフリーの過去のことを、彼女に話してくれる立場に君はあるのだから、早く話してやってください。ただ現在や未来のことだけは尋《き》いてくださるな。尋いてみてもロクなことはないばかりか、私たちを窮地《きゆうち》におとしいれるばかりだからな』
こういわれちゃ、話はおしまいです。打開の途《みち》なんかありゃしません。表面は大佐の言葉に従うとみせて、腹の中では、あくまでゴドフリーの安否を確かめないではおくまいと決心しました。
何とも退屈《たいくつ》な晩でしたね。大佐|夫婦《ふうふ》に私を交えて三人、陰気《いんき》に色あせた部屋で静かに食事をとりました。老夫人はなにかと熱心に息子のことを尋ねましたが、大佐のほうはむっつりと元気がありません。私は退屈でならないので、食事がすむと失礼にならない程度に早めにあいさつして、与えられた寝室《しんしつ》へ引きとりました。
そこは一階にある大きな、なんの飾《かざ》りもない部屋でしたが、陰気なことはほかの部分と同じです。でも一年も南アフリカの草原で暮《く》らしてきた身には、そんなことは気にもなりません。
カーテンをあけて庭をながめましたが、半月《はんげつ》がさえて美しい夜でした。私は音をたてて燃えている火のそばへ腰《こし》をおろし、ランプを引きよせて、気ばらしに小説を読みはじめました。するとまもなく老執事のラルフが補充《ほじゆう》の石炭を持ってやってきました。
『夜分お入り用かと存じまして……こんな季節でございますし、こちらのお部屋はとくにお寒うございますから』
そういって石炭入れをおいても、なぜか彼はすぐに出てゆこうとしない様子ですから、振《ふ》りかえってみますと、しわだらけの顔になにか物たりないような表情を浮かべて、こちらへ向いて立っていました。
『あの、失礼でございますが、お食事のときあなたさまが、ゴドフリー坊《ぼ》っちゃまのことをおっしゃいましたのが、つい耳にはいってしまいました。ご承知のとおり、坊っちゃまは家内が乳母をつとめましたので、私も育ての親だと申してよいかと存じます。それでついよそ事ならず存じますのですが、あの、あちらではたいそうな働きがございましたそうで?』
『連隊一の勇敢《ゆうかん》な男でしたよ。現に私なんかもボーア人の鉄砲《てつぽう》にねらわれたのを、彼に救出されたことがある。あのときゴドフリーに救《たす》けられなかったら、いまこうして話なんかしていられないわけだね』
老執事はやせこけた手をもみあわせていいました。
『さようでございましたか。いかにもゴドフリー坊っちゃまらしいお働きでございましたな。お小さいときからたいそうご勇敢で、ここのお庭なんかにも坊っちゃまが登ったことのない樹《き》は一本もございませんよ。こうとおっしゃったら、誰《だれ》が何と申しあげても止《や》めるかたじゃございません。まことに立派な坊っ――いえ、おかたでございましたのに』
私はとび上りました。
『おい! 何だって?』私は叫《さけ》びました。『ございましたのにといったね? まるでゴドフリーは死んでしまったように聞こえるじゃないか? いったいどうしたのだ? ゴドフリー・エムズオースはどうなったのだ?』
私は老人の肩《かた》を押さえてゆすぶりましたが、彼《かれ》はしりごみするばかりで、
『お言葉がよくわかりませんですけれど、ゴドフリーさまのことでしたら、どうぞ主人にお尋きくださいまし。私は何も存じません。私などの出しゃばる筋ではございません』
といって出てゆこうとしますから、私は腕《うで》をとらえて引きとめました。
『ねえラルフさん、たった一つでいいから答えてもらいたいことがある。返答を聞かないうちは、一晩じゅうでもこの手を放さないから、そう思ってもらいたい。ゴドフリーは死んだのかね?』
老人は私の眼を見かえすこともできず、まるで催眠術《さいみんじゆつ》にでもかかったように、のろのろと答えました。じつに意外な、怖《おそ》るべき答えです。
『それでしたら、ほんとによろしいのですけれど!』と叫ぶと、私の手を振りきって、逃《に》げていってしまいました。
この言葉を聞いて私が、がっかりして椅子へもどっていったことはおわかりくださるでしょう。老人の言葉には、たった一つしか解釈はありません。明らかにゴドフリーは何かの犯罪事件に掛かりあったか、少なくとも家名を汚《けが》すような不名誉《ふめいよ》な問題をおこしたに違《ちが》いありません。それでそのことが世間にぱっと知れないうちに、厳格な父親がどこかへ送って、隠《かく》してしまったものに違いありません。ゴドフリーは向こうみずな男で、容易に周囲の感化をうけやすいのです。悪い奴《やつ》らにそそのかされて、身の破滅《はめつ》を招いたのでしょう。もしそうなら誠《まこと》に困ったものですが、まだ何とか彼を捜《さが》しあてて、できることなら助けてやるのが私の義務です。そこであれこれと思案しつづけましたが、そのうちふと顔をあげてみると、眼《め》の前にゴドフリー・エムズオースが立っているじゃありませんか!」
依頼人《いらいにん》のジェームズ・M・ドッド氏はここで深い感情にとらわれたようにちょっと言葉を切った。
「どうぞ先を話してください。たいへん珍《めずら》しい事件のようです」と私はいった。
「彼は窓の外に立って、ガラスに顔を押しあてて私を見ているのです。はじめこの部屋へはいったとき、窓から外を見たと申しましたが、そのときほそく開けたカーテンがそのままになっていたのです。その隙《すき》をふさぐように彼は立っているのですが、窓は床《ゆか》まであるのですから、全身が見えたわけですけれど、とくに私の注意をひいたのはその顔です。
まるで生気がなくまっ白です。あんな顔って見たことがありません。幽霊《ゆうれい》というのはこんな顔をしているものでしょうか? しかしこのとき視線があいましたが、眼はたしかに人間の眼です。しかも私に見られたと知ると、彼はいきなり飛びのいて、そのまま暗いところへ姿をかくしてしまいました。その姿には何かしらゾッとするものを感じました。それは単に夜眼にも白く、チーズのようにぼっとしていた顔のことばかりではありません。そんな単純なものではなく、何か人目をはばかるような、後めたいと申しますか、あの率直《そつちよく》な男らしいゴドフリーにも似あわない素振りです。私はいやあな気持になりました。
しかし、ボーア人を相手に一年以上も軍隊生活をしてくると、誰でも少々のことには驚《おどろ》きもせず、出足が早くなります。ゴドフリーが姿を消したのと、私が窓ぎわへ駆《か》けよったのはほとんど同時でした。やっかいな掛金《かけがね》などがあるので、開けるにちょっと手間どりましたが、すぐに庭へ出ると、ゴドフリーの行ったと思う方向へ小道を駆けだしてゆきました。
道はかなり長く、その上あたりは暗いのですが、前方を誰か逃げてゆくような気がしました。私は追いかけながら、ゴドフリーの名を呼んでみましたが、返事もありません。
しばらく行くと道がいくつにもわかれていて、おのおのその先に離《はな》れ屋のあるところへ来てしまいました。さてどっちへ行ったものかと、ちょっとそこでまごついていますと、バタンとドアの閉まる音がはっきり聞こえました。それはいま出てきた母屋《おもや》のほうではなく、たしかに前方の暗い中から聞こえてきたものです。これでさっきのが幻《まぼろし》でないことがはっきりしました。ゴドフリーは私に見られたと知って離れ屋へ逃げこんで、ドアを閉めきったのです。その点まちがいはありません。
それ以上私はどうすることもできないので、心のなかで繰《く》りかえし、この不思議な事実をどう説明したものか考えながら、不安な一夜をおくりました。そして翌日は、大佐《たいさ》もいくらかきげんがなおっていましたし、夫人から近所に面白い場所のある話なぞ出ましたので、それを機会に、もう一晩泊めてほしいものだと切りだしました。
いやな顔はしながらも、大佐は強《し》いて反対するでもなかったので、私はまる一日がかりで観察することができました。ゴドフリーがどこか近いところに隠れていることは、もはや疑いの余地はありません。何の理由でどこに隠れているかがわからないだけです。
大佐の屋敷はばかばかしく大きな家で、一個連隊の兵隊でも隠れていられそうなほどです。この家の中に秘密があるのでしたら、とても私なんかの手にはあわなかったでしょう。しかし前夜聞いたドアの閉まる音は、たしかに家の中ではありませんでした。そこで私はまず庭園の探索《たんさく》から手をつけるべきだと思いました。それには老夫婦がそれぞれ自分の用事にかまけて、私をほったらかしてくれたので、たいへん好都合でした。
小さな離れ屋はいくつもありましたが、庭のはずれに一つやや大きいのが、庭師や猟場番《りようばばん》の住めるくらいのがありました。ドアを閉める音はここから聞こえたのではなかろうか? そう思ってあてもなく庭内を散歩しているようなかっこうで、何げなく私はその家に近づいてゆきました。
すると小柄《こがら》であごひげのある威勢《いせい》のよい、黒い服に山高帽《やまたかぼう》をかぶった男が、つまり庭師らしいところなんか少しもない男ですが、その家から出てきました。しかも驚いたことには、その男は出たあとドアに錠《じよう》をかって、鍵《かぎ》をポケットにおさめたじゃありませんか。そうしておいてこっちへ向いたところ、そこに私が立っているので、びっくりした様子で、
『こちらのお客さまですか?』とききました。
私はこの屋敷へ来ている客だと答え、なおゴドフリーの友だちなのだとつけ加えました。
『ゴドフリーも会えばきっと喜んでくれるのに、旅に出たとは残念でなりませんよ』
『まったくね。それは残念でした』と彼はどこか後めたそうにいいました。『そのうちに折をみて、出なおしていらっしゃるのですな』
といって彼は立ちさりましたが、しばらくたって振りかえってみると、庭のはずれにある月桂樹《げつけいじゆ》のかげに立って、半分身をかくすようにして私の様子をうかがっていました。
私は通りすがりにその家をよく見てやりましたが、窓には厚いカーテンがかかっていて、見たところ人のいる気配はありません。といってあまり図々《ずうずう》しいまねでもすると、まだどこからか見張っている様子ですから、虻蜂《あぶはち》とらずになるばかりか、場合によってはこの屋敷からつまみ出されないとも限りません。そこでゆっくり母屋へ引きあげ、日の暮れるのを待って改めて調べにゆくことにしました。
夜になってあたりが静まってから、私は窓から抜《ぬ》けだして、足音を忍《しの》ばせて例の不思議な離れ屋へと向かいました。離れ屋の窓には厚いカーテンがおりていたと先ほど申しました。行ってみますとこんどはよろい戸まで閉めてありましたが、一カ所室内から灯火《あかり》の漏《も》れているところがありましたから、よく見ると、幸いにもカーテンがぴたりと閉まっていないで、しかもよろい戸に割れ目があるものですから、室内の様子がすっかり見てとれます。なかなか気持のよい部屋で、ランプがあかあかと輝《かがや》き、炉には盛《さか》んに火が燃えていました。みると今朝の小柄な男がこちらを向いて腰をおろし、パイプを口にして新聞を読んでいます」
「何新聞でしたか?」私がたずねた。
依頼人は話の腰を折られて、いやな顔で、
「何か重大なことですか?」ときいた。
「それが最も重大です」
「じつは注意しなかったです」
「でも大型の新聞だか、週刊ものにみるような小型だったかくらいはお気がついたでしょう?」
「そうおっしゃると大型ではなかったですね。『スペクテーター』だったかもしれません。でもそのときは、そんなこまかいことに気を配っている暇《ひま》はなかったのです。というのは窓に背をむけてもう一人の男がいたからですが、これがゴドフリーにまちがいないのです。顔は見えませんけれど、彼の肩の線に見覚えがあります。いかにも憂《ゆう》うつでたまらない様子で、ひじを突《つ》いて火のほうへ体をくねらせています。さてどうしたものかとためらっているところを、だしぬけに肩をたたかれました。みるとエムズオース大佐が立っているのでした。『こっちへ来たまえ』大佐は低い声でいってそのまま黙《だま》って家のほうへ歩いて行きますから後についてゆきますと、私の寝室へはいってゆきました。彼はホールから時刻表を持ってきていました。『八時半にロンドン行きの汽車がある』と彼はいいました。『八時に軽便馬車を玄関《げんかん》へ回しておく』
大佐は怒《いか》りでまっ青になっていますが、こうなっては私も処置なく、支離《しり》滅裂《めつれつ》な弁解をするばかりで、これもゴドフリーの身が案じられるからしたことだからと陳謝《ちんしや》につとめました。すると大佐はぶっきらぼうにいいました。
『話す余地もない。君のしたことは私の一家の秘事に立ちいるというもっとも破廉恥《はれんち》な行為《こうい》ですぞ。客をよそおってこの家へ来ながら、来るとスパイになってしまった。何もいうことはない。二度と君なんかの顔を見たくない』
こうまでいわれては、私も思わずかっとなって、はげしく言い返してやりました。
『私はたしかにゴドフリーを見かけました。あなたは何か勝手な理由から、ゴドフリーを隠しているに違いない。こんなふうに世間から切りはなす理由がどこにあるのか知らないけれど、これではもうゴドフリーの自由は奪《うば》われているというものです。ねえエムズオース大佐、はっきり申しておきますが、ゴドフリーの身の安全を確かめるまでは、私はどこまでも事件の真相追及《しんそうついきゆう》を断念しませんよ。あなたがどんな言動に出ても、それに怖れて後へ引く私ではぜったいにないことを申しておきます』
それを聞くと大佐は極悪非道《ごくあくひどう》な形相になって、いまにも私につかみかかるかと思われました。はじめにも申した通り、大佐はやせてこそいるものの荒《あら》っぽい巨漢《きよかん》ですから、私だって弱虫じゃないつもりですけれど、これに対抗《たいこう》するのは容易なことじゃなさそうです。でも大佐はさんざん私をにらみつけたあとで、急に踵《くびす》を返すとぷいと出ていってしまいました。そこで私は、翌朝の指定された列車で、手紙でもお願いしておきましたように、ロンドンへ着いたらまっすぐにこちらへうかがって、これからどうしたらよいか、助言と助力をお願いしようと、そればかり考えながら帰ってきたのです」
この客の持ってきた問題というのは、ざっと以上の通りだった。明敏《めいびん》なる読者はとっくに見抜いているものと思うが、この問題の解決にはさしたる困難はない。事の真相と考えられるものは、限られた範囲内《はんいない》に求められるからだ。それにしても、初歩的なりとはいえ、私がここに記録するだけの興味と斬新《ざんしん》さがないでもないのである。よって以下いつもの論理的《ろんりてき》解析《かいせき》を応用して、可能な解答に迫《せま》ってゆくことにしよう。
「使用人は幾人《いくにん》いますか?」まず尋《たず》ねた。
「私の見たかぎりでは、老執事《ろうしつじ》とその細君だけですね。大佐夫妻はごく簡素な生活をしているらしいです」
「では離れ屋のほうには使用人はいないのですね?」
「あのあごひげの男がそうでないとすれば、一人もいないわけですね。しかしあの男はなかなか身分のある人のように思います」
「それはたいへん暗示的ですね。家から家へ食事を運ぶらしい形跡《けいせき》を見ましたか?」
「そういわれて思いだしましたが、ラルフがバスケットを持って庭の道をあの離れ屋のほうへ歩いてゆくのをたしかに見ましたよ。そのときは食物だとは気がつきませんでしたけれどね」
「土地の人に何か尋《き》いてみましたか?」
「尋いてみました。駅長や村の宿屋の亭主《ていしゆ》などですが、戦友ゴドフリー・エムズオースのことを何か知らないかって、簡単に尋ねたところ、二人ともゴドフリーなら世界漫遊《せかいまんゆう》に出たと答えました。除隊で帰ってきたかと思うと、すぐに出かけてしまったというのです。どうやら世間でもそう思っているらしいです」
「そこに疑惑《ぎわく》のあることは言ってみなかったのですか?」
「いいませんでした」
「それは賢明《けんめい》でした。しかしこれはぜひ調べてみるべきですね。ごいっしょにタクスベリー・オールド・パークへ出かけましょう」
「今日ですか?」
ちょうどそのころ私は、友人ワトスンがのちにアベイ学校事件という題で筆にしたグレイミンスター公爵《こうしやく》にふかい関係のある事件を探索中だったし、その上トルコ皇帝《こうてい》から委託《いたく》された事件もあって、このほうは放《ほう》っておくと政治上|由々《ゆゆ》しい結果を来《きた》すおそれがあるから、火急に処置を講ずる必要があった。というわけで、日記を繰《く》ってみると、私がジェームズ・M・ドッド氏とつれだってベドフォードシャーへやっと出かけられたのは次週のはじめだった。私たちはユーストン駅へ馬車をやる途中《とちゆう》で、荘重《そうちよう》で無口な、鉄灰色の容貌《ようぼう》の紳士《しんし》を拾いあげた。あらかじめ必要な打合せをしておいたのである。
「こちらは古い友人でしてね」と私はドッド氏に説明した。「来てもらうにおよばなかったということになるかもしれないけれど、反対に大いに役にたつかもしれません。いずれにしても今はこれだけ申すに止《とど》めておきましょう」
ワトスンの書いたものによって、いうまでもなく読者は、事件を捜査《そうさ》中は私がけっして余計な口をきいたり、あるいは腹の中を明かさぬという事実にお気づきのことと思う。このときもドッド氏はびっくりしてはいたが、べつに何もいわず、私たち三人はそのまま旅をつづけたのである。汽車の中で私はもう一度だけドッド氏に質問したが、それは一つには同伴者《どうはんしや》に返事を聞かせるのが目的でもあったのである。
「あなたは窓からのぞいた友人の顔をはっきり見たのですね? 人ちがいじゃないでしょうね?」
「その点はけっして間違いありません。窓ガラスに鼻を押《お》しつけて、ランプの光をまともに受けていたのですからね」
「よく似た人というものもありますよ」
「いやいや、たしかに彼《かれ》でした」
「でも顔が変っていたそうじゃありませんか?」
「色だけですよ。なんといいますか、まるで魚の腹のようにまっ白でした。漂白《ひようはく》でもしたようでした」
「顔じゅうが一様に青白かったのですか?」
「ちがいます。額を窓に押しつけていたものですから、とくにそこがよく見えたのです」
「声をかけたのですか?」
「そのときはびっくりしてゾッとしたものですから……でもすぐ後を追ったのに、駄目《だめ》だったのです」
これで事件はほとんど解決した。あとは小さな点に仕上げを要するだけだ。
かなりの道を馬車にゆられて、依頼人がいっていた妙《みよう》にだだっ広く古い家にたどりついたとき、まず玄関に現われたのは老執事のラルフだった。私は馬車を一日借りきりにしてきたので、呼ぶまで馬車の中で待っていてもらいたいと同伴の紳士《しんし》に頼《たの》んで、ドッド氏と中へはいっていった。
ラルフは小柄なしわだらけの老人で、黒の上衣《うわぎ》に霜降《しもふ》りズボンというお定《き》まりの服装《ふくそう》だったが、ただ一つだけ違《ちが》うところがあった。茶いろの皮手袋《かわてぶくろ》をはめていたが、私たちを見るとすぐにそれをとって、私たちがはいってゆくとホールのテーブルにおいたのである。
ワトスンがすでに言ったかとも思うが、私は感覚が異常に鋭敏《えいびん》であるから、このとき微《かす》かながら刺《さ》すような匂《にお》いに気がついたのである。どうやらホールのテーブルが匂いの中心らしい。私は引きかえして帽子をテーブルにおく拍子《ひようし》に、わざとその帽子を下へ落してやった。そして急いで拾いあげながら、鼻のほうを何気なく手袋から一フィートばかりのすぐそばへ持っていった。タールのような変な匂いのするのは、やっぱりその手袋だった。これで事件を完全に解決して、私はあとから書斎《しよさい》へはいっていった。いや、自分で話すとなると、うっかり手のうちを見せてしまうところだった。ワトスンがいつもフィナーレの俗受けで成功するのは、鎖《くさり》の中のこういう一環《いつかん》を伏《ふ》せておくからなのだ。
エムズオース大佐はその部屋にいなかったが、ラルフの知らせをうけて、すぐに姿をあらわした。廊下《ろうか》に足早な重い足音が聞こえたと思うと、ドアを荒々しく押しあけて、あごひげを逆だて顔をしかめてはいってきた。見たこともないほど恐《おそ》るべき老人である。老人は手にしていた私たちの名刺《めいし》をひき裂《さ》いてたたきつけ、足で踏《ふ》みにじった。
「二度と来ることはならんといって、追い返されたはずじゃないか、このおせっかい者めが! それがこのわしに無断でこの家にはいってきたからには、暴力を用いるのはこっちの権利と思ってもらおう。よし、射《う》ってやろう! 射ってやるとも! それから君だが」と私のほうを向いて、「やはり同じことを警告しておく。君の卑劣《ひれつ》な職業のことはよく知っとるが、評判の才能はどこかほかの方面で発揮したがよろしかろう。ここにはそんなものを働かす隙《すき》はないのだ」
「いいえ私は帰りません」私の依頼人《いらいにん》はがんとして後へ引かなかった。「ゴドフリーの口から、自由を束縛《そくばく》されていないと聞くまではね」
逆上した大佐《たいさ》はベルを鳴らして、
「ラルフ、警察へ電話して警部に、巡査を二人至急によこしてもらうように頼みなさい。強盗《ごうとう》がはいったといいなさい」
「お待ちなさい」私は押しとどめた。「ドッドさん、エムズオース大佐の主張は正当で、私たちにはこの家に止まる権利のないことを知らねばなりません。しかし一方からいえば、あなたの行動は令息の一身を思うがためであって、他意ないことを大佐にも認めていただかなければなりますまい。そこで私からお願いしますが、ここで五分間だけエムズオース大佐と話をさせていただけたら、この問題に関する大佐のご意見が変ってくるかと思うのです」
「そうやすやすと意見の変るものではない」老軍人はいった。「ラルフ、言いつけたことを早くしなさい。何をそんなところでぐずぐずしているのだ? 早く警察へ電話しなさい!」
「とんでもない!」私はドアにぴたりと背を押しつけて、「警察など介入《かいにゆう》させたら、それこそあなたの恐れている災難がくるばかりです」と手帳を出して一語書きつけ、破りとって大佐に手渡《てわた》した。「このため私たちはお訪ねいたしたのです」
大佐はひと目それを見ると、今までの憤激《ふんげき》はどこへやら、ただ眼《め》を丸くするばかりで、
「どうしてわかりました?」と崩《くず》れるように椅子《いす》に腰《こし》をおろした。
「ものを知るのが私の仕事です。それが職業なんです」
大佐は骨ばった手でもじゃもじゃのあごひげをしごきながら、しばらく黙然《もくぜん》と考えこんでいたが、あきらめたという身振《みぶ》りとともにいった。
「それほどゴドフリーに会いたければ、会わせましょう。私がそうしたくてするのではないけれど、君たちに強《し》いられて会わすのです。ラルフ、ゴドフリーとケントさんに、五分ほどしたら皆《みな》で行くからと伝えなさい」
然《しか》るべき間《ま》をおいて、庭の小道づたいに歩いてゆくと、やがて問題の家の前へ出た。あごひげのある小柄な男が入口に立っていて、さも驚いたという顔つきで私たちを迎《むか》えた。
「だしぬけにどうしたのです、エムズオース大佐? こんなことをすれば、計画がめちゃめちゃになるではありませんか?」
「仕方ないですよ、ケントさん。われわれが負かされたのです。ゴドフリーに会えますか?」
「中で待っていますよ」そういって彼は私たちを広い、簡素に飾《かざ》りつけた正面の部屋へ案内した。暖炉《だんろ》を背にして一人の男が立っていたが、ドッド氏はその姿をひと目みると、両手をひろげて走りよった。
「や、ゴドフリー! やっと会えたぜ!」
すると相手はそれを払《はら》いのけるようにした。
「触《さわ》っちゃいけないよ、ジミー。離《はな》れててくれ! よく見ろ! これがB中隊の伍長《ごちよう》勤務上等兵ゴドフリー・エムズオースにみえるかい?」
彼の様子はたしかに普通《ふつう》でなかった。かつてはアフリカの日に焼けた顔のくっきりとした美青年だったことが容易にうなずけるが、それがいまは黒い顔のあちこちに妙に白っぽい斑点《はんてん》が現われているのである。
「このために客を避《さ》けているんだけれどね、君ならかまわないよ、ジミー。それにしても一人で来てくれるとよかったねえ。友人をつれて来たのには何か理由があるのだろうが、何しろ不意うちだから困るよ」
「君に何事もないのを確かめて安心したかったんだ。いつかの晩窓から僕《ぼく》の部屋をのぞいているのをはっきり見てからというもの、どうしても事情を明らかにしないじゃいられなかった」
「君が来ているとラルフが教えてくれたものだから、僕は僕でのぞかないじゃいられなかった。見つからないようにと思ったのに、窓を開ける音がしたもんだから、急いで隠《かく》れ家《が》へ逃《に》げ帰ったのさ」
「それにしても、これはいったいどうしたわけなんだ?」
「あゝ、長い話じゃないさ」と彼はタバコに火をつけて、「ほら、東部鉄道沿線のプレトリア郊外《こうがい》のバフェルススプルートで戦闘《せんとう》のあった朝、僕が弾丸《たま》にあたったのを聞いたろう?」
「聞いた。結局|詳報《しようほう》は得られなかったがね」
「あの時われわれ三人、隊から離れてしまったのだ。あの通り起伏《きふく》の多い土地だったからね。シンプスン――はげのシンプスンと呼んでた男さ――それにアンダースンと僕だ。ボーア兵を追いちらしていたのだが、隠れているやつがあって、あべこべに三人ともやられてしまった。シンプスンとアンダースンは殺されたが、僕だけは肩口を象弾《ぞうだん》でやられただけで助かったから、鞍《くら》にしがみついてそのまま五、六マイルも飛ばしたろうか、いつか気が遠くなって振り落されてしまった。
気がついてみたら、夜になっていた。起きあがりはしたが、ふらふらして気分がわるい。見るとおどろいたことに、すぐそばに家がある。広い|ス《*》トゥープ【訳注 南アフリカ・オランダ語で、オランダ風の家の前または周囲にあるヴェランダ】があって窓がたくさんあるかなり大きい家だ。ひどく寒い。覚えているだろうが、夕がたになるとよく襲《おそ》ってきた凍《こご》えるような寒さ、ここらでみられる爽快《そうかい》な寒さとちがって、痺《しび》れるような病的な寒さだ。
僕は骨まで凍《こお》りつきそうで、この上は何とかしてあの家にたどり着こうと、それしか希《のぞ》みはなかった。そこでよろよろと立ちあがって、夢中《むちゆう》でそっちへ足を引きずっていった。いまから思うと何だか夢《ゆめ》のようだが、やっとの思いで階段をのぼり、開けはなしのドアから大きな部屋へはいってみると、ベッドがいくつも並《なら》んでいたから、その一つに身を投げてホッとした。ベッドは用意がしてなかったけれど、そんなことにかまっちゃいられない。震《ふる》える体にそこいらのものを掻《か》き集めてかぶると、そのまま深い眠りに落ちてしまった。
こんど眼がさめたのは朝だった。正気の世界に帰ったのではなくて、何だか不思議な夢魔《むま》の世界にとびこんだような気がする。カーテンもない大きな窓からアフリカの太陽がさんさんと差しこんで、がらんとした白塗《しろぬ》りの大きな部屋を隅《すみ》から隅まで浮《う》きあがらせている。僕の眼の前に、大きな南瓜頭《かぼちやあたま》の小人のような男が立って、茶いろの海綿みたいな気味のわるい両手を振りまわしながら、興奮してオランダ語で早口に何やらしゃべりまくっている。
その男のうしろにも一団の人間が立って、この光景を面白《おもしろ》そうに、固唾《かたず》をのんで見まもっていたが、それを見て僕は背筋がぞっとした。一人としてまともな人間はいないのだ。どれもこれも体が妙にねじれていたり、脹《ふく》れあがっていたり、どこかが奇怪《きかい》な不具になっている。そいつが笑ったときなんか、じつに何ともいえず恐ろしかった。
英語のわかるものは一人もないらしいが、それにしても何とかこの場を説明しなければならない。それというのも南瓜頭の男がカンカンに怒《おこ》りだして、何やらわけのわからないことを叫《さけ》びながら、不具の両手を僕の体にかけて、傷口からまた出血しだしたのもかまわずに、ベッドから引きずり降ろそうとしだしたからだ。怪物は小さいくせに牛のように力が強かった。そのとき明らかに何かの役人と思われる年輩《ねんぱい》の男が、騒《さわ》ぎを聞きつけて来てくれなかったら、僕はどんなことされていたかわからないと思う。その男がオランダ語で厳しく何かいうと、迫害者《はくがいしや》はたちまち縮みあがってしまった。そうしておいてその男は僕のほうへ向きなおったが、いかにも驚《おどろ》いたという顔つきでいった。
『いったいどうしてこんなところへ来ました? いや、お待ちなさい。だいぶお疲《つか》れのようだし、それに肩《かた》の負傷は手当しなければなりますまい。私は医者です。すぐ繃帯《ほうたい》をしてあげましょう。それにしてもこれは何ということです。こんなところへ来るくらいなら、戦場にいたほうが遥《はる》かに安全でしたよ。ここはライ病院です。あなたはライ患者《かんじや》のベッドで眠ったのですよ』
もう何もいう必要はあるまい。近く一帯が戦場になるという予想から、前の日に患者たちは病院をからにして避難《ひなん》していたのだ。だがイギリス軍が進撃《しんげき》して過ぎたので、一同はこの医者に管理されて帰ってきたのだね。医者の話によると、自分はこの病気には免疫《めんえき》になっているつもりだけれど、それでも僕のしたような真似《まね》をする気にはなれないという。彼は僕を私室へ入れて、親切に介抱《かいほう》してくれた。それから一週間ばかりで、僕は改めてプレトリアの総合病院へ移された。
これで僕の悲劇はわかってくれたわけだ。僕は万一を恃《たの》んだ。だがいまこの顔に現われているような怖《おそ》ろしい徴候《ちようこう》が出て、そら頼みだったとわかったのは、この家へ帰ってくるとすぐだった。どうしたらよいだろう?
幸いにしてここは寂《さび》しい家だ。心から信頼《しんらい》のできる召使いも二人いる。それにこの離れ屋は何とか暮《く》らしてゆける。外科医のケントさんが、秘密を守るという誓約《せいやく》のうえで、いっしょに暮らしてくれることになった。こうしていれば何でもないように思える。さもなかったら怖るべきことになるのだ。他人の中に隔離《かくり》されて、生涯《しようがい》出してもらうあてもなく暮らさなきゃならないとは!
だがこれには絶対の秘密ということが必要だった。こんな静かな田舎《いなか》だけれど、知られたら大騒ぎになって、おきまりのライ病院へ追いやられることになるのだ。いくら親友のジミーにだって、このことは知らしてはならないのだ。それを父がどうして折れたのだか、僕にはまるでわからない」
エムズオース大佐は私を指さして、
「私を攻略《こうりやく》したのはこの紳士だ」といいながら私がライ病≠ニ書いて渡した紙をひろげた。「そこまで知っているのなら、いっそすっかり打ちあけたほうが安全だという気がしたのだ」
「それはそうですよ。かえってよい結果が得られるかもしれないのですからね」私が答えた。
「診察《しんさつ》なさったのはケントさんだけなのだろうと思いますが、失礼ながらあなたはこの種の病気の権威者《けんいしや》ですか、ケントさん? 私の見るところでは、これは熱帯性または半熱帯性のものかと思いますが?」
「私も医者ですから、一応の知識はもっているつもりです」ケントはちょっとけわしい顔をした。
「いや、あなたの能力を疑うわけでは決してありませんが、ただこんな場合には、第三者の意見も聞いてみるべきだという点にはご同意くださるものと信じます。第三者に診《み》せると、隔離を要求されてあなたが困ることになるから、故意にそれを回避されたのでしょうね?」
「その通りです」大佐が代って答えた。
「それを予想しましたから、私は私の友人で絶対に信頼のできる医師を同行しました。この友人はいつか私が職業的に奉仕したことがあるので、今日は医者としてでなく、友人として助言してくれるはずです。その人は名をサー・ジェームズ・サンダーズと申されます」
このときのケント氏は、ロバーツ卿《きよう》に謁見《えつけん》できそうだと知った下級|属僚《ぞくりよう》もかくやとばかり、満面を歓喜と興奮に輝《かがや》かして、つぶやいた。
「それは、それは、まことに光栄の至りです」
「ではジェームズ卿にこちらへ来ていただきましょう。いま表の馬車の中で待っておいでです。それにしてもエムズオース大佐、診察がすむまでわれわれはあちらの書斎で待とうじゃありませんか。その間に私から必要な説明をいたします」
こうなってくるとワトスンのいないのが悔《くや》まれる。彼がいてくれたら、急所の質問をしたり嘆声《たんせい》を発したりして、常識を組織化したにすぎない私の簡単な技巧《ぎこう》を、一大不思議にまで高揚《こうよう》してくれるところだ。自分で筆をとるとなると、そういう援助《えんじよ》がないから困る。とはいうものの、このとき大佐の書斎で、ゴドフリーの母親をも交えた少数の聴衆《ちようしゆう》を前に語った程度には、ここに思索《しさく》の経過を記しておこうと思うのである。
「方法はまず第一に、不可能なものをすべて除去してしまえば、あとに残ったものが、たとえいかに不合理に見えても、それこそ真実に違《ちが》いないという推定から出発するのです。この場合二つ以上の説明が残っても、それは少しもかまいません。それなら一つ一つ検討を加えて、もっとも信ずべき支持のあるものを選びだします。そこでこの原則を、こんどの場合に適用してみましょう。
はじめに私は話を聞いて、ゴドフリー君が父上の邸内《ていない》の離れ屋に蟄居《ちつきよ》または幽閉《ゆうへい》されているとして、それには三つの説明が可能だと思いました。第一は何かの犯罪に関連して身を隠しているのだとするもの、第二は発狂《はつきよう》したが家族の人たちが精神病院へ送るのを避《さ》けているのだという説明、第三は何かの病気になったがため隔離しているのだという考えかたです。この三つの場合以外に、納得《なつとく》のゆく説明があろうとは考えられません。そこでこの三つを篩《ふるい》にかけ、比較《ひかく》検討しました。
犯罪説は検討するまでもありません。この地方に未解決の犯罪事件はちかごろ報告されていません。その点は確信があります。またもし未発覚の犯罪だったとしても、それならば家族の人たちにとって、その過失者を家のなかへ匿《かくま》うようなことをせずに、外国へでも落してやったほうが有利であるのは明らかです。
発狂説のほうが、これに比べたらもっともらしく考えられます。離れ屋に誰《だれ》かもう一人いるというのも、監視人《かんしにん》を思わせます。しかもそれが出てゆくとき、ドアに鍵をかけたというのですから、監禁を思わせるものがあり、この疑いを強められます。しかし一方にこの監禁はあまり厳重なものでないのがわかっています。厳重であれば夜中に抜《ぬ》けだして友だちをのぞきになんか来《こ》られないはずです。
ドッドさんは覚えているでしょうが、ここで私は要点にさぐりの手をのべてみました。たとえばケントさんが読んでいたのが何だったかという点です。これがもし『ランセット』だとか『英国医学雑誌』とわかっていたら、私もよほど助かったのですがね。
しかしながら発狂者を個人の邸内に監禁しておくのは、有資格者がつきそい、かつ当局に然るべく届出ておくかぎり、決して違法行為《いほうこうい》ではありません。ではなぜこのようにひた隠しに隠そうとするのか? こう考えてくると、この推定もまた事実に合わないことになりました。
残るところは第三の場合だけですが、これはあまり例のないことでもあり、あまりに突飛《とつぴ》なように思われますが、あらゆる状況《じようきよう》がぴたりと符合《ふごう》します。南アフリカではライは珍《めずら》しくありません。ゴドフリー君はよほどの偶然《ぐうぜん》から、それに感染《かんせん》する機会をもったかもしれない。隔離病院へつれてゆかせたくはないから、家族にとっては定めし大恐慌《だいきようこう》だったでしょう。うわさがたつと当局の干渉《かんしよう》をうけることになりますから、ぜったい秘密にする必要があります。
金さえ十分に出せば、特志の医者に患者の身を託《たく》するのは、さして困難ではありますまい。夜間は患者の自由を束縛しなければならない理由もありません。皮膚《ひふ》の白くなるのはこの病気に通有のことです。
こう考えてくると、この想定はきわめて有力でした。そこで私としてはこれがりっぱに立証された事実であるかのように行動したのです。こちらへ着いてみると、食事を運ぶラルフが消毒薬を浸《ひた》した手袋《てぶくろ》を使っているので、私は最後の疑念も消えました。そこであなたの秘密を見破ったことをたった一語でお知らせしたのです。あのとき口でいわずに、書いてお見せしたのは、私がかならずしも事を荒《あら》だてるものでないことを示すためでした」
私がこの簡単な説明を終ろうとしているときドアがあいて、皮膚科の大家が飾らぬ厳《いか》めしい姿を現わした。いつもはスフィンクスのように無表情なこの人も、だが、今日ばかりは顔をほころばせて、眼もとにも温かい人情を浮かべていた。大またにエムズオース大佐のそばへ歩みよって、いきなり握手《あくしゆ》を求めながらいった。
「私はしばしば凶《わる》いお知らせをもたらす回りあわせで、よいお知らせをすることはほとんどない男ですが、今回はお喜びいただけます。これはライではありません」
「えっ」
「一種の疑似《ぎじ》ライで、鱗癬症《りんせんしよう》の明白な一例です。皮膚が醜怪《しゆうかい》な魚鱗状《ぎよりんじよう》を呈《てい》する頑固《がんこ》な病症《びようしよう》ですが、不治ではなく、伝染性もありません。ホームズさん、偶然にしてもはなはだしい暗合でしたな。いや、これを暗合といってしまってよいものかどうか? われわれの知らないような微妙《びみよう》な力が働いているのではないでしょうか? 感染の危険に身をさらしてからの、この青年の恐怖《きようふ》と不安はむろん怖るべきものがあったでしょう。そのことが肉体的に作用して、疑似症状を呈するということは、考えられることじゃないでしょうか? いずれにしても私は医師としての名誉《めいよ》にかけて……おや、夫人は気絶されましたな。歓喜のあまりショックをうけたのでしょうから、この手当はケントさんにお委《まか》せしましょう」
[#地付き]―一九二六年十一月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
マザリンの宝石
ワトスン博士にとっては、かくも多くの目ざましい冒険《ぼうけん》の出発点となったべーカー街の家の二階の乱雑な部屋を、久しぶりに訪《おとず》れるのは心うれしいことだった。壁《かべ》にかかげた科学図表や酸で焦《こ》げている薬品|棚《だな》、すみにもたせかけてあるヴァイオリン・ケースや、以前はパイプやタバコ入れをよく入れてあった石炭入れなどを彼《かれ》は見まわした。それからその眼《め》を最後にビリー少年の元気な笑顔《えがお》に落ちつけた。この利口で気転のきく給仕は、あのむっつりと陰気《いんき》な大探偵《だいたんてい》の孤独《こどく》と寂《さび》しさを慰《なぐさ》めるのにいくらか役だってきたのである。
「何もかも相かわらずだね、ビリー。君も変らないよ。ホームズにも変りはないだろうね?」
ビリーは何かしら気にかかるらしく寝室《しんしつ》のドアをちらりと見やって、
「先生はお寝《やす》みのようですよ」といった。
それは美しい夏の夕がた七時のことだったけれど、旧友の時間の不規則なのをよく知っているワトスン博士は、意外とも思わなかった。
「すると事件があるのだね?」
「はい、いま事件で一生懸命《いつしようけんめい》なんです。お体が心配ですよ。顔いろはだんだん悪くなるし、やつれてくるばかりで、何も召《め》しあがりません。『お食事はいつなさいます?』ってハドスン夫人が尋《き》いたら、『あさっての七時半に』とこうなんですよ。ワトスン先生は事件に熱中している時の先生のやり方はごぞんじですね」
「そう、ビリー。知っているさ」
「誰《だれ》かを追いまわしているんです。きのうは職さがしの労働者になって外出なさいました。今日はお婆《ばあ》さんでした。私まですっかり担《かつ》がれてしまいましたよ。先生の手はよく知っているはずなんですがねえ」といってビリーはソファにもたせかけてあるぶくぶくのパラソルを指さした。
「あれがお婆さんの小道具の一つです」
「いったいどうした事件なのだい?」
ビリーはまるで国家の大事でも語るように声をおとした。
「ワトスン先生なら話してもかまいませんけれど、誰にもしゃべっちゃいけませんよ。あの王冠《おうかん》ダイヤの事件ですよ」
「えッ! あの十万ポンドの盗難《とうなん》事件かい?」
「そうなんです。ぜひとも取りもどさなきゃというので、総理大臣や内務大臣まで見えて、そのソファに坐《すわ》ったんですよ。ホームズさんはたいへん親切に、できる限りやってみるからって、お二人をすぐに安心させましたが、そこへあのカントルミヤ卿《きよう》が……」
「えッ?」
「カントルミヤ卿ですよ。それが何を意味するかおわかりになるでしょう? 言っちゃ悪いけどあれはいやなやつですね。総理大臣は付きあいやすそうな人ですし、内務大臣もていねいで愛想のよい人らしいから文句はありませんけれど、カントルミヤ卿には我慢《がまん》がなりません。ホームズさんだってそうなんです。何しろホームズさんを少しも信用しないで、事件を依頼《いらい》するのも反対なんです。むしろホームズさんが失敗すればよいと思っているんですよ」
「ホームズ君はそれを知っているのかい?」
「ホームズさんは何でも知らないということはありません」
「ふむ、それじゃホームズに成功させて、カントルミヤ卿の鼻をあかしてやりたいもんだな。ときにビリー、あの窓に掛《か》けてあるカーテンはどうしたのだい?」
「ホームズさんが三日前にあそこへ掛けたんです。あのうしろに面白《おもしろ》いものがありますよ」
ビリーは歩みよって、張出し窓の空所を仕切っている厚いカーテンをはねのけた。
ワトスン博士は思わずあっといった。そこにガウン姿よろしく旧友そっくりの人形がおいてあって、体はひじ掛け椅子《いす》にふかぶかと腰《こし》をおろし、顔は四分の三だけ窓のほうへ、下むき加減にして、ありもしない本を読んでいるのである。ビリーは人形の首をぬきとって高く掲《かか》げた。
「生きているように見せるために、ときどき顔の向きをかえるんです。もっともそとのブラインドがおろしてないときは、決して触《さわ》りませんけれどね。ブラインドがおりていなければ、道の向こうがわからこれがよく見えますよ」
「まえにも一度こんなものを利用したことがあったよ」
「私の来る前ですね」とビリーはカーテンを細目にあけて、通りを見おろしながらいった。「あの向こうから誰かここを見はっていますよ。ほら、あの窓の所に。ちょっと見てごらんなさい」
ワトスンが一歩前へ出たとき、寝室のドアがあいて、ひょろ高いホームズが、青い顔をしかめて姿を現わしたが、その動作には少しも衰《おとろ》えはみえなかった。彼はひと跳《と》びに窓のところへゆくと、ブラインドをおろしてしまった。
「これでいいんだよ、ビリー。生命《いのち》があぶないところだった。いまお前に万一のことがあっちゃ困るよ。いやあワトスン君、よく道を忘れずに来てくれたね。しかも君はきわどいところへ来たわけだ」
「そうらしいね」
「ビリーはあっちへ行っていい。あの子は問題だよ、ワトスン君。どこまで危険にさらしてもよいものかねえ」
「どんな危険にだい」
「急死さ。今晩なにかありそうなんだ」
「何かって?」
「殺されるようなことがさ」
「なあんだ! 冗談《じようだん》いっちゃいけないよ!」
「僕《ぼく》がいくらユーモア感覚が鈍《にぶ》いからって、冗談ならもっと何とかしたことをいうよ。それはそれとして、しばらく寛《くつ》ろぎたいね。アルコールやってもいいのかい? |ガ《*》ソジン【訳注 ウイスキーの中に炭酸水を注入するサイフォンの一種】も葉巻も昔《むかし》と同じところにある。まあ昔よく掛けたひじ掛け椅子に納まってみせてくれたまえ。僕はあいかわらずパイプで哀《あわ》れなタバコをやっているが、いやになってやしないだろうね? ちかごろ食事のかわりにこれをやっているんだ」
「どうして物を食べないのだい?」
「空腹時のほうが頭が冴《さ》えるからさ。ワトスン君も医者だからよくわかっているはずだが、消化のために血液を費せば、それだけ頭脳のほうがお留守になるわけだからね。僕は頭脳そのものだ。ほかの部分は付属物にすぎないのさ。だから頭だけは大切にしなきゃね」
「それにしても何が危険だって騒《さわ》いでいるのだい?」
「ああそのことか。いよいよそいつが実現したときのことを考えると、君も加害者の住所|姓名《せいめい》くらい知っていてくれたほうがいいね。僕の追憶《ついおく》と告別の記念に、それを警視庁へ知らせてくれるといい。シルヴィアスという名だ。ネグレト・シルヴィアス伯爵《はくしやく》――書いておきたまえ。西北区ムアサイド・ガーデンの一三六番だ。わかったね?」
ワトスンは正直な顔を心配でぴくぴくさせていた。彼はホームズがつねにいかに大きな危険を冒《おか》す男であるかを知りすぎるほど知ってもいたし、またそのいうことが誇張《こちよう》よりも、むしろいつでも控《ひか》え目であるのを心得ていたからである。ワトスンはつねに活動的である。この時もたちまち難局に立ちむかっていった。
「僕を加えてくれたまえ。ここんとこ二、三日は手がすいているんだ」
「君の徳性は向上するどころか、うそまでつくようになったのかい? どこからみても、患者《かんじや》のたえぬ忙《いそが》しい医者だということはすぐわかるぜ」
「それほどの重患なんかありゃしないよ。ところで、君はそいつを逮捕《たいほ》するわけにゃゆかないのかい?」
「やろうと思えばできる。だから向こうも気をもんでいるのさ」
「できるのになぜやらないのだい?」
「ダイヤの所在がわからないからね」
「ああ、ビリーもいっていたが、王冠ダイヤを探しているんだって?」
「そう、黄いろいマザリンの大宝石さ、網《あみ》を投じて魚は捕《と》ったが、宝石は手にはいらない。ということになったら、何になる? なるほどあいつらを投獄《とうごく》してやったら、この世はずっと住みよくはなるだろう。だがそんなことは僕の出る幕じゃない。僕はあの宝石が手に入れたいのだ」
「シルヴィアス伯爵というのがその魚の一|匹《ぴき》なのかい?」
「そう、それも鮫《さめ》だね。かみつくよ。そのほかボクサーのサム・マートンという男もいるけれど、こいつは大したことはない。伯爵が手先に使っているだけだ。鮫という柄《がら》じゃない。体こそ大きいが、のろまでおろかな|カ《*》マツカ【訳注 コイ科の淡水魚。すぐ釣られるのでのろまの意に使われる】にすぎない。いずれにしても網のなかでばたばたしているだけだよ」
「それでシルヴィアス伯爵というのはどこにいるんだい?」
「午前中はずっと彼のあとをつけていた。お婆さんに化けてさ。とてもうまくいったよ。一度など僕のパラソルを拾ってくれてさ、『落ちましたよ、マダム』ってね。半分イタリア人との混血だがね、きげんのいいときは南方人らしく愛想がいいけれど、怒《おこ》ったとなると悪魔《あくま》の化身《けしん》みたいになる。人生はじつに面白いことがおこるものだね」
「あるいは悲劇になったかもしれない」
「うむ、そうもいえるだろう。僕はあとをつけてシティのミノリズのストラウベンツェの工場までいった。この工場は空気銃《くうきじゆう》を製造している。なかなか精巧《せいこう》なものだが、いま現に向かいの家の窓にすえてあるだろうと思う。こっちの窓の人形を見たかい? ああ、ビリーが見せたんだね? あのみごとな頭部へ、いつなんどき弾丸《たま》が当るかもしれないよ。おうビリー、何か用かい?」
少年は盆《ぼん》の上に一枚の名刺《めいし》をのせてはいってきたのである。ホームズは名刺をちらと見ると眉《まゆ》をあげ、愉快《ゆかい》そうに微笑《びしよう》した。
「本人がきたよ。こいつは思いがけなかった。一戦を覚悟《かくご》するんだね。なかなか胆力《たんりよく》のあるやつだ。知っているだろうが、猛獣狩《もうじゆうが》りでは名射手の名をうたわれている。僕をうまく仕とめて、獲物袋《えものぶくろ》に加えられたら、大成功の記録をとどめることになるだろうさ。それというのも僕の手を身辺に感じてきた証拠《しようこ》だね」
「警察を呼びたまえ」
「いずれはそうなるだろうが、まだ早い。窓からそっとのぞいてみて、街をぶらぶらしている奴《やつ》はないか確かめてくれたまえ」
ワトスンは気をつけてカーテンの端《はし》をめくってみた。
「玄関《げんかん》さきに乱暴そうな男がうろついている」
「サム・マートンだろう。忠実なばかりで愚鈍《ぐどん》なやつだ。ビリー、お客さんは?」
「待合室です」
「ベルを鳴らしたら、こっちへ通してくれ」
「はい」
「私がこの部屋にいなくても、かまわず通していいのだよ」
「はい」
ワトスンはドアが閉まるのを待ちかねたように、親友に詰《つ》めよった。
「ホームズ君、こいつは黙《だま》っていられないよ。相手はやけくそで、どんなこともやりかねない男だ。ひょっとしたら君を殺すつもりで来たのかもしれやしない」
「そんなことは覚悟の上さ」
「じゃ僕は君のそばを離《はな》れないよ」
「ひどく邪魔《じやま》になるなあ」
「|あいつ《ヽヽヽ》の邪魔にかい?」
「いいや、ねえ、きみ、僕の邪魔なんだよ」
「でも僕にはほっとけないよ」
「いや、ほっとけるさ。君は今まで一度だってうまくやってくれなかった事はないじゃないか。こんどだってうまくやってくれるだろう? この男は何か思わくがあって来たのだろうが、こっちにも考えがあるから引きとめておく」といって手帳をだし、なにか二、三行走りがきしてワトスンに渡《わた》した。「警視庁へひとっ走り馬車をとばして、これを刑《けい》事部《じぶ》のユーガル君に渡して、連れてきてくれたまえ。あいつをご用とやるんだ」
「喜んで引きうけたよ」
「帰るまでには、宝石の所在を突《つ》きとめておけるつもりだがね」といってホームズはベルを押《お》した。「寝室をぬけて出ることにしよう。この出口があるので大いに助かるよ。向こうに見られないで、鮫の様子を見てやりたいのだ。覚えているだろう、あの方法を?」
というわけで、まもなくビリーがシルヴィアス伯爵を通したとき、その部屋はからっぽだった。この有名な狩猟家《しゆりようか》でスポーツマンのあそび人は、色の黒い巨漢《きよかん》で、おそるべき黒いひげのかげに残酷《ざんこく》なうすい唇《くちびる》があり、その上に鷲《わし》のくちばしのような曲った鼻が突きだしている。
服装《ふくそう》はりっぱだが、派手なネクタイ、光るピン、きらめく指環《ゆびわ》などがけばけばしかった。はいってきてうしろでドアが閉まると、彼はどこかにわなでも仕掛けてありはしないかと怪《あや》しむように、鋭《するど》い不安な眼であたりを見まわした。そして窓のそばのひじ掛け椅子から、動かぬ頭部やガウンのカラーなどがのぞいているのを見て、ぎくりとした。それも初めは純粋に意外な表情をうかべただけだったが、すぐに黒い残忍《ざんにん》な眼を忌《いま》わしい期待に輝《かがや》かし、もう一度あたりを見まわして誰も見ているもののないのを確かめてから、太いステッキを半ば振《ふ》りあげ気味に、つま先だってそっちへ忍《しの》びよった。そして身を屈《かが》めてまさに躍《おど》りかかろうとしたとき、開け放った寝室の戸口から、嘲《あざけ》るような冷やかな声が聞こえてきた。
「毀《こわ》さないでくださいよ、伯爵! それを毀されちゃ困りますよ」
暗殺者はぎょっとして踏《ふ》みとどまり、顔じゅうを痙攣《けいれん》させて振りかえった。そしてその鉛《なまり》を詰めたステッキを振りあげて、人形を捨てておいて改めてご本尊に襲《おそ》いかかりそうな気勢を示したが、落ちつき払《はら》った灰いろの眼と嘲るような微笑にあって、その手は自然と下へおりてしまった。
「なかなかよくできていますよ」ホームズは人形のほうへ歩みよりながらいった。「フランスの人形師タヴェルニエの作です。ろう人形にかけては、あなたの友人のストラウベンツェの空気銃に劣《おと》らぬ腕《うで》がありますよ」
「空気銃だって? それは何の話です?」
「まあ帽子《ぼうし》とステッキをそちらのテーブルにおいてください。ありがとう。どうぞお掛けください。そしてピストルも出してそこへお置きねがいたいものですね。いや、ピストルの上へ腰をおかけになりたければ、それでもかまいません。よいところへお出《い》でくださいました。ぜひ少しお話ししたいと思っていたところですよ」
伯爵は威嚇的《いかくてき》な太い眉をぴくりとさせて顔をしかめた。
「私からも少し話したいことがある。そのため今日は出向いたのだが、いま君を殴打《おうだ》しようとしたのもあえて否定するものではないね」
ホームズはテーブルの端にかけた片足をぶらぶらさせながらいった。
「あなたにその種のお考えのあるらしいことは知っていましたが、なぜまた私なんかに眼をつけたのですか?」
「君の行動に逸脱《いつだつ》があって、こっちが迷惑《めいわく》するからさ。部下に私を尾行《びこう》させてみたりね」
「部下ですって? そんなことは断じてありませんよ」
「ばかな! 尾行したことはちゃんと知っているのだ。いまにかならずあの返礼はするつもりだぜ、ホームズ」
「つまらないことをいうようですが、お話はもう少しちゃんとした言葉でお願いしたいものです。私の名なんかも呼びすてでなくね。あらかじめご諒承《りようしよう》ねがっておきますが、私は仕事の手順の上から、目ぼしい犯罪人の半数くらいとはお互いに呼びすての仲の者もおりますが、例外は不快であるということにご同意願いたいものです」
「なるほどね。ではホームズさん」
「それで結構です! しかしいまのお話の私の部下というのは、あなたの思いちがいですよ」
シルヴィアス伯爵は鼻で笑った。
「眼《め》が利《き》くのは自分だけだと思うと違《ちが》いますぞ。きのうは老ばくちうちだったが、今日は老婆《ろうば》でしたな。彼《かれ》らは終日私から眼を放さなかった」
「これはどうも恐縮《きようしゆく》ですな。老ドウスン男爵は死刑《しけい》の前夜に、法が得をしただけのものを、劇壇《げきだん》は損をしたといいましたが、つまらない扮装《ふんそう》がお誉《ほ》めにあずかって、まったく恐縮ですよ」
「えッ、あれは君――君自身だったのか?」
ホームズは首をすくめた。「あのすみにあるパラソルが、ミノリズであなたが親切に拾ってくださったものですよ。あのときはまだ怪《あや》しいとお気がつかなかったのですな」
「そうと知っていたら、二度と君を……」
「むさくるしいこの家へ帰すのじゃなかったとおっしゃるのでしょう。その点はよく知っていましたよ。とかく好機は逸してあとで悔《くや》むことになりやすいものです。あの時もあなたが気がつかなかったので、ここでこうしてお目にかかれたわけですよ」
伯爵は威嚇的な眼の上の太い眉をますます強くよせた。
「そうと聞いてはますます穏《おだ》やかでない。部下ではなくて、おせっかいにも自分で乗りだしたとは! 何の用があって私を尾行したりなんぞするのだ?」
「何の用があってといわれますがね、伯爵。あなたはよくアルジェリアでライオン狩りをおやりになった」
「それがどうした?」
「なぜでしょう?」
「なぜ? スポーツだよ。興奮と危険の伴《ともな》うスポーツだよ」
「それにまた、国家のため有害物を除くという意味もありましょう?」
「その通りだ」
「私の理由も一言で申せばそれですよ」
伯爵はぬっと立ちあがると、無意識にしりのポケットへ手をやった。
「お坐《すわ》りください。まだほかに実際的な理由もあるのですよ。私はあの黄色ダイヤがほしい!」
シルヴィアス伯爵は腰《こし》をおろして、うしろへ反《そ》りかえり、意地わるく微笑した。
「とんでもない!」
「私があなたを追いまわすのもそのためであるのを、あなたはよく知っておいでだ。今晩ここへ来た真の目的は、私がこの問題をどこまで深く知っているかをたしかめ、私を葬《ほうむ》ることがどの程度重要であるかを見きわめるにあったのです。それについて、あなたの立場を申しておきますが、私はすべてを知りつくしているのですから、除去することが絶対に必要なのです。私の知らないことは一つだけありますが、それもこれからあなたに教えてもらうのです」
「ははあ、してその一つだけとは何だね?」
「王冠《おうかん》ダイヤが現在どこにあるかです」
伯爵は鋭く相手を見やった。
「ははあ、それが知りたいのだね? そんなこと、どうして私が知っていると思うんだね?」
「いや知っているはずだ。早くお言いなさい」
「ふんだ!」
「ごまかしてもだめです」ホームズの双眼《そうがん》は相手をじっと見つめるうちに、しだいに集中し光をまして、二つの鋼鉄の威嚇する先端のように輝いてきた。「あなたは完全に板ガラスです。私には心の裏まで見とおせます」
「それじゃダイヤのある場所もわかるはずだ」
ホームズは手を打って喜び、嘲るように相手を指さした。
「やっぱり知っているのだ。ついに白状しましたね」
「私は何も白状なんかしていない」
「ねえ伯爵、あなたさえその気になれば、ここで取引きができるのですがね。さもなければ怪我《けが》のもとですよ」
シルヴィアス伯爵は天井《てんじよう》を見あげて、
「はったりをいうのかね?」とうそぶいた。
ホームズはチェスの名手が最上の手を考えでもするように、じっと考えながら相手を見つめていたが、机の引出しをあけて小さくて厚ぼったい手帳をとりだした。
「この中に何が収めてあると思います?」
「そんなこと知るものか!」
「あなたが収めてあるのです」
「私が?」
「そうです。あなたがです。この中にあなたのよからぬ行動がすべて収録してあります」
「なにをばかな、ホームズ!」伯爵《はくしやく》は眼をいからせて叫《さけ》んだ。「私の忍耐《にんたい》にも限度がある!」
「漏《も》れなくここに書いてあるのですよ。たとえばハロルド夫人の死の真相などもね。せっかく遺《のこ》されたブライマーの資産も、ばくちでたちまちなくなったようですけれど」
「ふん、何か夢《ゆめ》でもみたのだろう」
「それからミニ・ワレンダー嬢《じよう》の生涯《しようがい》の完全な記録もあります」
「ちえッ、そんなものが何になるものか!」
「そのほかまだいろいろあります。ああ、ここには一八九二年二月十三日にリヴィエラゆきの豪華《ごうか》列車内で行なわれた強盗《ごうとう》事件があります。それからこちらは同年のリヨン銀行の偽《にせ》小切手事件」
「そいつは何かのまちがいだ」
「ではほかのは事実なわけですね。ところであなたはカードの名手です。他人に切札《きりふだ》を全部もたれたら、持ち札をあっさり投げだしたほうが、時間の節約になりますね」
「そんな話が君のいう宝石とどう関係があるのだ?」
「お静かに! そう逸《はや》ってはいけません。私の話しぶりは退屈《たいくつ》でしょうが、順次要点にはいりますから聞いてください。いま申すとおり、あなたの非行はことごとくわかっていますが、わけてもこの王冠ダイヤに関するあなた並《なら》びにあなたの好戦的な暴漢の行動はすっかりわかっているのです」
「ふんだ」
「あなたをホワイトホールまで送っていった馬車の御者《ぎよしや》も、そこから帰った時の御者もわかっているのです。そのとき陳列《ちんれつ》ケースのそばであなたを見かけたという|守 衛《*コミツシヨネア》【訳注 退役軍人で組織されている組合員、制服を着て門番、受付、守衛などの役をする。信用がある】までわかっています。なおアイキー・サンダーズがダイヤを分割してくれというあなたの依頼《いらい》を拒絶《きよぜつ》したこともわかっています。アイキーが密告したのですから、勝負あった、ですよ」
伯爵は額にひどく血管をうきあがらせた。感情の乱れを制するためぎゅっと握《にぎ》りしめた毛ぶかく黒い手を痙攣《けいれん》させ、何かいおうとするが、言葉になって出てこなかった。
「これが私の手のうちです。それをすっかりテーブルに曝《さら》しました。そのうち一枚だけ足りないカードがある。ダイヤのキングです。私にはダイヤがどこにあるかわからないのです」
「そんなことがわかってたまるものか」
「そうでしょうか? よく聞きわけてくださいよ、伯爵。あなたの立場をよく考えてください。二十年くらいは投獄《とうごく》されることになりますよ。サム・マートンも同じです。あんなダイヤを持っていて、何になると思うのです? 得るところなんかありゃしませんよ。
しかし私に渡してくだされば、そうですね、この罪を見逃《みのが》してあげましょう。あなたやサムを罰《ばつ》してみても始まりません。私のほしいのはあのダイヤモンドです。あきらめてはきだしておしまいなさい。そうすれば私に関するかぎり、あなたは自由の身です、今後の行動を慎《つつ》しむ限りはね。今後もし非行があった場合は、そうですね、それで終りということになりましょう。しかし今のところ私が委託《いたく》されているのはダイヤの回収であって、あなたをどうしようというのではありません」
「私が拒絶したら?」
「そうですね、その場合は残念ながら、ダイヤは断念するかわりに、あなたの身柄《みがら》で我慢《がまん》することになりましょう」
そのときビリーがベルに応じて姿をみせた。
「伯爵、この話にはあなたのほうもサムを列席させたらと思います。結局はあの男の利害にも関係のあることですからね。ビリー、玄関《げんかん》の前に大きな見苦しい人がいるからね、ここへ来るように頼《たの》んでおくれ」
「来るのはいやだといったら、どういたしましょう?」
「乱暴なことをしちゃいけないよ。言葉もよく気をつけてね、シルヴィアス伯爵がそうおっしゃったといえば、かならずくるよ」
「いったい何をしようというのだ?」ビリーが姿を消すと伯爵がたずねた。
「さっきまでワトスン君がここにいましてね、鮫《さめ》とカマツカが網《あみ》にはいったと私から話したところですよ。その網をこれから揚《あ》げるのです。両方とも手捕《てど》りにできるわけですね」
伯爵は立ちあがって、片手をうしろへ回した。ホームズはガウンのポケットから何やら半ば引きずりだしていた。
「君はベッドの上では死ねないね、ホームズ」
「私もよくそんな気がしますよ。どっちみち大したことじゃありませんがね。それよりも伯爵、あなたこそ横《*》にならずに立ったまま退場すること【訳注 絞首刑でこの世を去る意】になりそうですよ。しかし、さきのことをくよくよするのは不健全というものです。なぜ現在のかぎりなき享楽《きようらく》に身を投じないのです?」
とつぜん、この大犯罪者の威嚇的な黒い眼のなかに、野獣《やじゆう》のような何かがきらめいた。ホームズの緊張《きんちよう》し身構えた体は、急に背が高くなったようにみえた。
「ピストルなんかひねくってみてもむだなことですよ」彼は静かにいった。「たとえ私に隙《すき》があって、それをポケットから出せたとしても、あなた自身使う気なんかありもしないくせに! 大きな音はするし、こんなやっかいなものはありゃしません。やっぱり空気銃《くうきじゆう》にかぎりますな。あ、尊敬すべきパートナーの優美な足音が聞こえてきましたよ。マートンさん、今日《こんにち》は。往来に立っているのも退屈だったでしょうね」
愚鈍《ぐどん》なくせに強情《ごうじよう》そうな平べったい顔つきの大きな若いプロ・ボクサーは、おずおずと戸口にたって、困ったような顔つきであたりを見まわした。こんなもの柔《やわ》らかなあいさつをうけるのは初めての経験だが、うすうすながら敵意は感じとったものの、さて何といって対抗《たいこう》したものか言葉も知らなかった。そこでそんなことには抜《ぬ》け目のない相棒のほうへ救《たす》けを求めた。
「話はどうなっているんですかい、伯爵? この野郎なんだっていうんですかい? 何がおこったんで?」耳ざわりな太い声だった。
伯爵は肩《かた》をあげただけで、答えたのはホームズであった。
「ひと口にいってよければね、モートンさん、もうすっかり勝負がついたのですよ」
ボクサーはしかし、やっぱり仲間にむかって話しかけた。
「こいつは冗談《じようだん》をいってるんですかい? 冗談なんかいま聞きたくもありませんぜ」
「そうでしょうとも」とホームズがいった。「それにだんだん夜の更《ふ》けるにつれて、ますますそんな気分じゃなくなると思いますよ。ところでね、シルヴィアス伯爵、私は忙《いそが》しい身ですから、空費する時間なんかありません。ちょっと寝室《しんしつ》へ引きあげますが、その間どうぞ気楽になさってください。そして私の不在なんかにかまわず、マートンさんに目下の成りゆきを説明してあげるのですね。私はヴァイオリンでホフマンの船歌でも奏しましょう。五分たったら、最後のお返事を聞きに出てきます。話はわかっていますね? あなたがたを捕《とら》えるか、それともダイヤを返していただくか、二つに一つですよ」
ホームズは一隅《いちぐう》にあったヴァイオリンをとって、寝室へ姿を消した。やがてドアを閉めきった寝室から、あの心につきまとうすすり泣くような長い調べが微《かす》かにきこえてきた。
「どうしたというんですかい?」伯爵がふり返ったのとマートンが不安そうに尋《たず》ねたのがほとんど同時だった。「あいつダイヤのことを知っていやがるんですかい?」
「知りすぎるくらい知っていやがる。何もかも知らないことはないらしい」
「うむ、畜生《ちくしよう》!」ボクサーの黄白色の顔が心なしか白くなった。
「アイキー・サンダーズが裏切ったのだ」
「へえ、あの野郎がねえ! よし、こんど会ったら小っぴどい目にあわせてやらなきゃ。そのためこっちが死刑《しけい》になったってかまうこたない」
「いまさらそんなことをしても始まらないよ。それよりもこれからどうしたものか、そいつを決めてかからなくちゃ」
「ちょいと待ったり」ボクサーは寝室のドアをうさんくさそうに見やっていった。「油断のならねえ野郎だからね。まさか立ち聞きしてるんじゃなかろうな?」
「ヴァイオリンを奏《ひ》きながらの立ち聞きという芸当もできなかろう」
「それもそうだ。カーテンのうしろに誰《だれ》かいやしないかな? いやにカーテンばかりありゃがる」といって見まわすうち、初めて窓の人形に気がついて、ぎょっとしたらしく、口の利けないままにそっちを指さした。
「ばかだな! 人形じゃないか!」
「ほんとうかね? ああ驚《おどろ》いた! マダム・タッソウだってこうはゆくめえ。まるで生き写しですぜ。ガウンから何からそっくりだ。それにしてもこのカーテンが気にくわねえな」
「カーテンにばかりこだわるな! ぐずぐずしちゃいられない。時間がないんだ。悪くするとあのダイヤのために食《く》らいこむことになる」
「野郎そんなことをいうんですかい?」
「物《ぶつ》のあるところさえいえば、見逃してくれるという」
「なに、あれを吐きだすんですかい? 十万ポンドもするものを?」
「でなきゃ監獄《かんごく》へゆくしかない」
マートンは短く刈《か》った頭をかいた。
「あいつ一人なんでしょう? 片づけちゃいましょうよ。あいつさえバラしちまえば、何も恐《おそ》れるこたァありゃしねえ」
伯爵はかぶりを振った。
「パチンコも持ってるし、油断がないからな。こんなところでぶっ放したんじゃ、逃《に》げられやしない。それにどんな証拠《しようこ》を握ったか知らないが、もう警察へ知らせたかもしれないのだ。おや、あれは何だ?」
窓のほうから微かな音が聞こえたようだった。二人はパッと立ちあがったが、それっきりで何のこともない。例の奇妙《きみよう》な人形が椅子《いす》に掛《か》けているだけで、たしかにほかには誰もいない。
「表ですぜ」マートンがいった。「ところで大将、お前さんは知恵者《ちえしや》だ。何とか考えがあるに違《ちげ》えねえ。腕《うで》ずくでいけねえというんなら、何とか考えておくんなさいよ」
「あんな奴《やつ》よりもっと利口なやつでも旨《うま》くあしらってきた俺《おれ》だ。ダイヤはちゃんとこの秘密ポケットにあるんだ。めったなことで他人《ひと》に渡《わた》すことじゃない。今晩のうちにもイギリスを抜けだして、日曜までにはアムステルダムで四つに切ってしまうことにする。あいつもヴァン・セダーは知りゃしないよ」
「ヴァン・セダーは来週出発するのだと思ってましたがね」
「そうだったんだ。しかしこうなったら、すぐにも発《た》ってもらわなきゃ。お前かおれかどっちかが、ライム街までダイヤを届けて、話をしなきゃなるまい」
「でも二重底の用意がまだできていませんぜ」
「こうなったら何とかさせるさ。選《え》り好みをいっちゃいられない。一刻を争うわけだからな」スポーツマンの本能になっている警戒心《けいかいしん》で、またもや伯爵はじっと窓のほうを見つめた。うむ、やっぱり往来のほうから微かな物音が聞こえてくる。
「ホームズのやつだが、あんなものをだますのは造作ないことだ。ダイヤさえ手にはいりゃ、あいつはおれたちをどうもしやしない。だから渡すと約束《やくそく》だけしてやろう。うそを教えてやるんだ。そしてうそだったとわかるころには、ダイヤはオランダヘ渡っているし、おれたちもこの国にはいないという寸法だ」
「そいつは巧《うま》いな」サム・マートンはにやりとした。
「お前はあのオランダ人のところへいって、事を急ぐようにと伝えてくれ。おれはあの青二才にあって、でたらめの告白をしてやろう。ダイヤはリヴァプールにあるとでもいうんだな。ああ、うるさいヴァイオリンだ。じりじりしてくる。リヴァプールを調べて、ないとわかるころには、ダイヤは四つになっているし、われわれは海の上だ。もっとこっちへ寄ってろ。そこは鍵穴《かぎあな》からまっすぐだ。ダイヤはこれ、この通りだ」
「よくそれを持ち歩いていますね」
「身につけているのが何より安全さ。ホワイトホールからだっておれたちは持ちだしたんだ。おれの家なんかへ置いたんじゃ、誰が盗《と》ってゆかないものでもない」
「ちょいと見せておくんなさいよ」
シルヴィアス伯爵は仲間の顔を冷たい眼《め》で見やっただけで、相手の出した汚《よご》れた手なんかは見むきもしなかった。
「ちえッ、私が引ったくるとでも思うんですかい? ふん、いつものこととはいえ、いやんなっちまうな」
「まあそうムキになるな、サム。ケンカなんかしているときじゃない。このすばらしい宝を見たいなら、まあ窓のところへ来《こ》い。明かるいほうへかざすぜ、ほら」
「ありがとう!」
人形のいる椅子からホームズがひょいと躍《おど》りあがって、いきなり宝石をつかみとった。そうして片手でそれを握ったまま、もう一つの手で持ったピストルをぴたりと伯爵の頭に突《つ》きつけた。二人の悪漢はあまりのことにたじたじとなった。そしてようやく我にかえったときには、ホームズが早くもベルを押《お》していた。
「お静かに! 紳士方《しんしがた》、乱暴はご遠慮《えんりよ》ねがいますよ。家具を壊《こわ》されちゃ困りますからな。両君の立場がもはや手もつけられないのはよくおわかりのことと思います。警官が階下で待機しているのですからね」
伯爵は当惑《とうわく》のあまり怒《いか》りも不安も忘れ、
「それにしてもいったいどうして……」と、あえぎながらいった。
「ご不審《ふしん》はきわめてごもっともです。お気づきでないようだけれど、寝室からべつのドアがあって、あのカーテンの向こうがわへ出られるのです。人形を動かすとき、音を聞かれるかとちょっと心配したけれど、幸運は私のほうにあったようです。おかげで私が聞いていると知ったら、とうてい口にするはずのないような、貴重なお話をうかがわせていただきました」
伯爵はあきらめたような身振《みぶ》りでいった。
「君にあっちゃかなわない。まるで悪魔《あくま》そのもののような男だ」
「そんなものかもしれませんな」ホームズは上品な微笑《びしよう》をうかべた。
愚鈍なサム・マートンにも、このころやっと情況《じようきよう》がのみこめてきた。おりからあらあらしく階段をのぼってくる足音に、もう黙《だま》ってはいられなくなった。
「巡査《じゆんさ》だ! だがあのヴァイオリンのやつどうしたというのだ? まだ聞こえている!」
「いや、たしかに変ですな。だがまあやらせておくんですな。ちかごろ蓄音器というすばらしいものが発明されましたよ」
警官がどやどやとはいりこんで、カチリと手錠《てじよう》の音をさせ、やがて二人とも待たせてあった馬車へ引かれていった。ワトスンはホームズとともに残り、彼《かれ》の月桂冠《げつけいかん》に新たにさし加えられたこの一葉を祝福した。そこへ何ものにも驚かないビリーが、またしても盆《ぼん》に名刺《めいし》をのせて取りついだので、二人の話は妨《さまた》げられた。
「カントルミヤ卿《きよう》がいらっしゃいました」
「お通し申してくれ。――これは最高方面の利益を代表する高名な貴族なのだ。人物もすぐれているし、忠誠な人だけれど、いささか旧弊《きゆうへい》だ。どうだ、少しもんでやるかね。少々ばかり遠慮なく振舞《ふるま》ってもいいだろう? まだなんにも知っているはずはないだろうからね」
ドアがあいて、やせ形のいかめしい人物がはいってきた。ギスギスした顔にスベスベした黒いヴィクトリア中期風のほおひげのたれたところは、背が曲って歩きつきも心もとない様子と、およそ不似合であった。ホームズは愛想よく迎《むか》えて、反応の少ない握手《あくしゆ》を交《かわ》した。
「カントルミヤ卿、ごきげんいかがですか? 季節のわりにはお寒いようですが、家の中にいますと、さほどにも感じません。オーヴァーをお取りいたしましょうか?」
「ありがとう、それには及《およ》びませぬ。オーヴァーは脱《ぬ》ぎますまい」
ホームズはなおも卿の袖《そで》に手をかけながらいった。
「どうぞお許しください。私の友人ワトスン博士も、こういう温度の激変《げきへん》には油断がならないと申すでしょう」
卿は不興らしくホームズの手を払《はら》いのけた。
「いや、これでよろしい。長くいるつもりはありません。あんたが勝手に引きうけたこの仕事がどうなっとるか、ちょっと様子を見に立ちよっただけじゃからな」
「むつかしい仕事ですな。たいへんむつかしいです」
「そうお言いじゃろうと思うとりました」
宮中の老臣は言葉にも態度にも明からさまに侮蔑《ぶべつ》のいろを見せた。
「人には限界というものがありますでな、ホームズ君、それがあるのでまあ、うぬぼれという弱点が矯《た》められてゆきますのじゃ」
「まったくでございますな。私もすっかり途方《とほう》にくれております」
「そうじゃろう」
「わけても一つのことがらについて、何とか卿のお力ぞえをいただけないものかと思っております」
「今になってわしの助言とはどうしたものじゃな。あんたには独自の行き届いた手段がおありのことと思うとりました。とはいうものの力を貸さぬと申すのではないがな」
「それではですね、カントルミヤ卿、じっさい宝石を盗《ぬす》んだ犯人は、法に照らして処罰《しよばつ》できますね」
「捕えたうえはだな」
「さようで。しかし私の疑問は、宝石の収受者をどう扱《あつか》うかの問題です」
「そんな問題を論ずるのは早すぎはせんかな」
「あらかじめ計画を立てておいたほうがよろしいかと考えます。そこで宝石の収受者としての決定的な動かぬ証拠は何だとお考えになりますか?」
「現に宝石を所持しているということだな」
「それでは宝石の所持者は逮捕《たいほ》してよいとお考えでございますか?」
「いかにもそれが当然じゃろう」
ホームズはめったに笑わぬ男である。しかしこのときばかりは、年来の友ワトスンの知るかぎりでは、彼の顔に笑いに近いものが浮《う》かんだのである。
「そういうことでございましたら、閣下、まことに心苦しいことではございますが、あなたの逮捕を請求《せいきゆう》いたさなければなりませぬ」
カントルミヤ卿はかっと立腹した。血色のわるい顔に、ほのかに血が燃えあがった。
「何という無礼なことを! 五十年の公生活にも、このようなことは初めてじゃ。わしは重大な用件にたずさわる忙しい身でな。そのようなおろかしい冗談を聞く暇《ひま》もなければ、趣味《しゆみ》もありませんぞ。はっきりいうておきますが、わしは初めからあんたの力量なんかを信用してはおらん。この種のことは正規の警察の手にゆだねておくほうが安全だという意見に、終始変りはない。君の行為でわしの信念に誤りのなかったことが明らかになった。それではさようなら」
ホームズは身をひるがえして、この貴族とドアのあいだに立ちふさがった。
「ちょっとお待ちください、閣下。マザリンの宝石をそのままお持ち帰りになるのは、一時的にお持ちになるのと違いまして、容易ならぬ罪になりますぞ」
「もう耐《た》えられん! そこを通しなさい!」
「オーヴァーの右ポケットに手をお入れになってください」
「何のことかね?」
「さ、早く。私の申すとおりになさってください」
一瞬《いつしゆん》ののち、カントルミヤ卿は震《ふる》える手に黄いろい大きなダイヤをのせて、ぽかんとして眼をぱちくりやっていた。
「な、なんです、これは? ホームズさん、これはいったいどうしたことかね?」
「いや、相すまぬことでした、カントルミヤ卿。どうもどうも」とホームズは大声でいった。「このワトスン君にお尋《き》きくださってもわかりますが、私はつい茶目ないたずらをする癖《くせ》がありましてね。それにドラマティックな場面に抗しがたい誘惑《ゆうわく》を感じるのです。私は無礼にも――大変無礼にもわれわれの会見がはじまったとき、ついそのダイヤをあなたのポケットへ忍《しの》ばせたのです」
老貴族はダイヤを見つめていた眼を、顔前のホームズの笑顔《えがお》へと転じた。
「すっかり慌《あわ》てました。しかしたしかにこれはマザリンのダイヤです。じつに何とお礼を申してよいやら。お言葉のとおり、君の茶目な心はちと悪用されましたな。それに折りが折りでもあるし、ちと利《き》きすぎましたが、君の驚くべき手腕《しゆわん》にたいして加えた批判は、すっぱりと取消します。それにしてもどうしてこれを……」
「事件はまだ半分しか片づいておりません。細かいことはどうかしばらくお待ちください。しかし閣下、これからお帰りになりまして高貴のおかたにこのダイヤをお返しし、この喜ぶべき結果を報告なさるときの愉快《ゆかい》さを思えば、私のいたずらも少しは償《つぐ》なわれようかと存じます。ビリー、閣下をお見送り申しあげたら、ハドスン夫人にね、用意のできしだい二人前の夕食を出してほしいと伝えておくれ」
[#地付き]―一九二一年十月『ストランド』誌発表―
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三破風館
シャーロック・ホームズとはずいぶん多くの事件を共にしたけれども、ここに述べる三破風館の事件ほど突発的《とつぱつてき》で、しかも劇的なものはあるまい。
ホームズにはしばらく会わないでいたから、彼《かれ》がどんな方面に活動の手をのべているか、私はまるで知らなかったのだが、その朝は妙《みよう》に話好きになっていて、訪ねていった私を暖炉《だんろ》のわきの使い古した低いひじ掛《か》け椅子《いす》に請《しよう》じ、自分はパイプをくわえて炉をはさんだ席にとぐろを巻いて、さてというところへその客がきたのである。気の狂《くる》った牡牛《おうし》がとびこんできたといったら、その時の印象をもっとも明確に伝えることができるだろう。
ドアがいきなり開け放たれたと思ったら、黒人の巨漢《きよかん》がおどりこんできたのである。もしそれがおそろしい顔でなかったら、喜劇中の人物とも見えたろう。というのは思いきってはでなグレイのチェックの服に、サーモン・カラーのネクタイをぶら下げていたからである。それが鼻の低い大きな顔を突《つ》きだすようにして、悪意ある黒い眼《め》もけわしく私たちを見くらべながらいったものである。
「どっちがホームズさんだね?」
ホームズはしぶしぶ微笑《びしよう》してパイプをあげてみせた。
「おう、あんたがそうかね?」といって、その男は不愉快《ふゆかい》な忍《しの》び足でテーブルを回ってそばへ寄ってきた。「ホームズさん、他人のことにちょっかいを出してもらいたくないね。他人は他人だ、何をしようがほっといてもらいたい。わかったかね?」
「そこで止《や》めないで、もっと話してほしいね。なかなか面白《おもしろ》い」ホームズがいった。
「ヘん、面白いって?」野蛮人《やばんじん》がいがみかかった。「おれに締《し》めあげられたら、面白がってばかりもいられまいよ。お前みてえなやつは以前にも相手にしたことがあるが、おれに伸《の》しあげられたときは、あんまり面白そうな面《つら》もしていなかったな。ホームズさん、こりゃどうだね?」
こういって彼は節くれだったこぶしをホームズの鼻さきへ突きだしてみせた。ホームズはさも珍《めずら》しそうにしげしげとそのこぶしを見やりながら、
「生れつきこうなのかい? それともだんだんにこうなったのかね?」といった。
ホームズが平然として少しも動ずる色がないためか、それともそのとき私が火かき棒を手にとる微《かす》かな音が聞こえたためか、客のはでな態度はいくらかおさまった。
「とにかくいうだけの事はいっとく。おれの友だちにハーロウのほうに関係のある男がいる。こういえば何のことだかお前さんにゃわかるはずだが、その男はお前さんなんぞに邪魔《じやま》されたんじゃ困るといっている。わかったね? お前さんは法律じゃねえし、おれだって法律じゃねえんだ、どっちもな。それでももしお前さんがやる気なら、そん時にゃこのおれが相手になる。覚えていてもれえてえね」
「以前からお前に会いたいと思っていたところだ」ホームズがやり返した。「お前の匂《にお》いがいやだから、掛けろとはいわないが、ボクサーのスティーヴ・ディキシーとはお前のことだね?」
「そうさ。ディキシーはおれだが、ナマあいうとひでえ目にあうんだぜ」
「それはお前のことだろう」ホームズは相手の怖《おそ》ろしい口もとを見ながらいった。「ホルボーン・バーの前で若いパーキンズを殺したのも……おや、帰るんじゃなかろうね?」
黒人がさっと顔いろをかえて、うしろへ飛びさがったのである。
「やかましいやい。おれがパーキンズをどうしたというんだい? あの小僧《こぞう》がごたごたを起こしたときゃ、おれはバーミンガムのブル・リングでトレーニングをやってたんだぜ」
「そんなことは判事に向かっていったらよかろう。こっちはお前とバーニイ・ストックデールに目をつけていたのだが……」
「そんな、ホームズさん……」
「いいからこんな話はもう止《よ》そう。いざとなったら、いつでも捕《とら》えにいってやる」
「えへへへ、ホームズさん、おれが来たので怒《おこ》っているんじゃなかろうね?」
「誰《だれ》に頼《たの》まれて来たか、それさえいえば許してやる」
「そんなことなら隠《かく》しだてすることもない。いまお前さんのいった人に頼まれたのさ」
「ふむ、ではそのバーニイには誰が命じた?」
「堪忍《かんにん》してくれ。おれも知らねえんで。ただあの男にスティーヴよ、ホームズのところへいって、ハーロウの一件に手でも出すと、生命《いのち》があぶねえぞって言ってこい≠ニいわれて来ただけで、うそもかくしもねえ、それだけの話さね」
そういったかと思うと、つぎの言葉もまたずに、はいってきたのと同じように、われわれの客は大あわてで逃《に》げるように出ていってしまった。ホームズは苦笑しながらパイプの灰をたたきだした。
「あいつの縮れ毛頭をなぐりつけなくてよかったよ。君は火かき棒で身構えていたけれど、なあに、あいつはまったく無邪気な男なんだ。力は強いけれど頭がないから空《から》威張《いば》りするだけで、あの通りすぐ嚇《おど》しのきくやつさ。スペンサー・ジョンというギャングの一員で、最近の悪事にもひと役買ったはずだから、暇《ひま》ができたら洗ってやろうと思っている。
兄貴分のバーニイは、これは少しは目はしの利《き》くやつだ。暴行、恫喝《どうかつ》、その他これに類することが専門だが、僕《ぼく》の知りたいのは、こんどの事件には誰が黒幕にいるかということさ」
「しかし何だってあんなことをいって、君を嚇かしにきたのだろう?」
「このハーロウ・ウィールド事件のためさ。こうなるとこの問題を手がける気になるね。誰だかしらないが、こんなことをして僕を嚇かそうとするからには、何かあるにちがいないからね」
「ハーロウ・ウィールド事件て何だい?」
「その話をしようと思っているところへ、さっきの喜劇役者がとびこんできたのさ。ここにメーバリー夫人の手紙がある。君もいっしょに行く気があるなら、電報を打っておいて、すぐに出かけるとしよう」
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シャーロック・ホームズさま
とつぜんながら一筆さし上げます。いま住んでいます家屋のことに関連して私の身に妙なことがつぎつぎと起こりますので、ぜひあなたさまにご相談申しあげたいと存じます。明日お越《こ》しくださいますれば、何時《なんどき》でもお待ち申しております。家はウィールドの駅から歩いても近うございます。亡夫モーティマー・メーバリーも昔《むかし》あなたさまにお助けいただいたことがございます。
[#地付き]かしこ
[#地付き]メアリー・メーバリー
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住所はハーロウ・ウィールドにて三破風館となっていた。
「というわけなんだ。君、都合できたら行ってみようじゃないか」
少しばかり汽車に乗り、少しばかり馬車を走らせると、草ふかい荒《あ》れ地の中に建っている木造に煉瓦《れんが》を配した別荘《べつそう》ふうの一戸建のその家へ着いた。二階の窓の上に申しわけばかりについている出張りが、三破風館の名のいわれを示している。背後は陰気《いんき》な小松林《こまつばやし》で、全体の印象はうらぶれてみすぼらしかった。それにもかかわらず家の中へはいってみると、これは何としたことか、家具なども上等の品を飾《かざ》りつけ、出てきた老婦人はきわめて愛嬌《あいきよう》もあるし、どうみても教養ある洗練された人がらだった。
「ご主人のことはよく覚えておりますよ」ホームズがまずいった。「もっともちょっとした問題で私がご用をつとめたのは、ずいぶん前のことですけれどね」
「せがれのダグラスの名は、多分もっとご存じですわね」
ホームズはひどく興味をもったらしく夫人を見た。
「おや、それではダグラス・メーバリー君はあなたのご子息でしたか? 私はちょっと存じあげておるだけですが、あのかたならロンドンで知らないものはありません。じつにごりっぱなかたですからねえ。今どちらにいらっしゃいますか?」
「亡《な》くなりました。ホームズさま、息子《むすこ》は亡くなりましたの。ローマ大使館に勤めておりましたのですが、先月あちらで肺炎《はいえん》で亡くなりました」
「それはお気のどくな! あんなにお元気なかたが亡くなられますとはねえ! とてもお丈夫《じようぶ》そうで、はちきれそうなかたでしたがねえ」
「元気がありすぎました。それがいけなかったのでございます。あなたは快活なすばらしい子とだけ思っていらして、いつのまにかむっつりと気むずかしく、考えこんでばかりいる子になったのはご存じないのでございます。何か悲しい目にあいましたのか、わずか一カ月ほどの間に、あの快活な子が疲《つか》れはてたような皮肉な男になってしまったのでございますよ」
「恋愛《れんあい》事件でもあったのですか?」
「あるいは悪魔にとりつかれましたのかもしれません。おや、あの子の話をしようというのでお出《い》でねがいましたのではございませんのに!」
「ワトスン君と二人で、どんなご相談にでも乗ってさしあげます」
「たいそう妙なことばかりございますの。この家へ参りましてから一年あまりになりますけれど、もう隠居《いんきよ》のつもりでございますから、ご近所ともあまりご交際はいたしておりません。
三日ばかり前に、家屋仲介業《かおくちゆうかいぎよう》だとおっしゃるかたが訪ねてみえまして、あるお客から探してほしいと頼まれている家に、この家がうってつけだから、譲《ゆず》ってはくれまいか、お金に糸目はつけないがと、まことに妙なお話でございますの。近くに適当な空家もたくさんございますでしょうに、おかしな事だとは思いましたけれど、悪い話でもございませんから、よろしければと、買い値よりも五百ポンドだけお高く切りだしてみましたの。そういたしますとそのかたはすぐに、それでよいから譲りうけたいが、お客は家具ぐるみ欲《ほ》しいということだから、ついでにそのほうもお値段をいってもらいたいとのことでございます。家具の中には、もとの家から持って参ったものもございますし、ごらんの通りごく上等の品でございますから、思いきった端数《はすう》のないお値段を申してみましたところ、これもすぐ話がまとまりました。私はかねてから旅行がいたしたいと思っておりましたが、このお話は一生なに不自由なく暮《く》らせますほど結構ずくめのお話でございました。
ところが昨日そのかたが、契約書《けいやくしよ》をこしらえて改めて訪ねていらっしゃいました。幸い私にはハーロウにお住まいのスートロさんと申す顧問弁護士《こもんべんごし》がございますので、お目にかけましたところ、『これはたいへんな書類です。こんなものに署名したが最後、あなたは法律上なに一つ家から持ちだせないことになりますよ。身のまわりのものまでです』と注意をうけました。それで仲介の人が晩に出なおして見えましたとき、そのことを申しまして、こちらは家具だけのつもりなのだと申しました。するとそのかたは、
『それは困りますよ。なにもかも一切《いつさい》です』
『衣類や宝石までもですの?』
『そうですね、身のまわりのものはいくらか譲歩《じようほ》してもよいですが、それでもこの家から持ちだすには、一応眼を通させていただかなければなりません。買い主はお金のことは大まかですけれど、気まぐれで、いいだしたら後へはひかぬ気象なのです。何もかも譲りうけるか、それがいけなければ止めるという人です』
『では止めにしていただきますわ』と私が申しましたので、このお話はそのままになってしまいましたけれど、どう考えてみましても、まことにおかしな話でございますので、これはいっそのこと……」
ここで意外なことのため話は中断された。
ホームズはふと片手をあげて相手を制しておき、大またに歩みよって、とつぜんドアをさっと開けはなったかと思うと、背の高いやせぎすな女の肩《かた》を押《お》さえて、部屋の中へ引きずりこんだのである。女はまるで小屋《こや》からぎゃあぎゃあとつかみだされた鶏《にわとり》かなにかのように、みぐるしく身をもがきながらはいってきた。
「放してください! 何をするんです?」と彼女《かのじよ》は金切り声で叫《さけ》んだ。
「あらスーザン、どうしました?」
「まあ、奥《おく》さま、お客さまがたがお昼を召《め》しあがるのかうかがいに参りましたら、このかたがいきなり飛びついて……」
「さっきから五分間も、この女の気配には気がついていたのですが、お話があまり面白いのでさし控《ひか》えていたのですよ。君は喘息《ぜんそく》の気でもあるのかい、スーザン? 立ち聞きなんかするには、ちとのどのぜいぜいが邪魔になるね」
スーザンは脹《ふく》れ面《つら》をしながらも、おどろいてホームズの顔を見なおした。
「それにしてもあなたは何です? なんの権利があってそんなに私を引っぱるんです?」
「なに、お前のいるまえで、少しばかり質問したいことがあったからさ。メーバリー夫人、あなたは私に手紙を出して相談なさることを、誰かにお話しになりましたか」
「いいえ、誰にも申しはいたしませんわ」
「手紙は誰が投函《とうかん》したのですか?」
「スーザンに頼みました」
「そうでしょう。ねえスーザン、奥さんが私に相談なさることを、手紙でか使いを出してか、いったい誰に知らせたのかね?」
「うそです。誰にも知らせはいたしません」
「よくお聞き、スーザン。ぜいぜい息切れのする人は、長生きはできないものだよ。うそをつくのは、罪深いことだよ。誰に知らせたのかい?」
「これ、スーザン!」夫人が金切声をだした。「お前が裏切り女だとわかったわ。お前が垣根《かきね》ごしに誰かと話しているところを見たのを、いま思いだしましたよ」
「誰と話をしようと、大きなお世話ですよ」女は脹れ面で口ごたえした。
「誰だかあててみようか。バーニイ・ストックデールだろう?」ホームズがいった。
「知っているなら、尋《き》くことなんかないでしょう?」
「どうかと思っていたのだが、それではっきりした。ところでね、スーザン、バーニイをうしろで操《あやつ》っているのは誰だか、それを教えてくれたら私から十ポンドあげるがねえ」
「あなたが十ポンドくれるごとに、向こうさんは千ポンドくださるんですよ」
「ほう、そんなに金のある男なのかい? おや笑ったね――じゃ女なのかねと訂正《ていせい》しよう。そこまでわかったらもう一息だ。あっさり言って十ポンドもうけたらどうだね?」
「ヘン、それをいうくらいなら、地獄《じごく》へゆきますよだ」
「これスーザン! 何という口をきくのです!」
「私はこんな家はもうご免《めん》ですよ。あんたがたにはうんざりだ。あす荷物を取りによこしますからね」彼女はさっさとドアのほうへいった。
「さようなら、スーザン。鎮静剤《ちんせいざい》でものむことだね……さてと」ホームズはスーザンがぷりぷりしながら出ていってドアを閉めると、陽気な顔を急に厳粛《げんしゆく》にした。「このギャングは大きなことを目論《もくろ》んでいます。じつに水も漏《も》らさぬ周到《しゆうとう》ぶりです。お手紙には午後十時の消印がありましたが、それでもスーザンはもうバーニイに知らせ、バーニイは雇《やと》い主に報告してその指示をうける余裕《よゆう》がありました。それが男か女か――私が男といったら、スーザンは私が大きな思いちがいをしていると思ってニヤリとしましたが、あれでみると女だと思われます。この女がいっさいの計画をたてるのです。まず黒人のスティーヴを引きいれて、翌朝十一時には私のところへ脅迫《きようはく》によこしています。手の回しかたはたいへん早いです」
「でも何が目的なのでございましょう?」
「そこが問題ですよ。この家は誰の所有だったのですか、あなたの前には?」
「ファーガスンとかいう隠退した船長さんでございますの」
「その人について何か変った話を聞いていませんか?」
「いいえ、何も存じませんわ」
「邸内《ていない》に何か埋《う》めでもしたのではないかと思ったのです。もちろん今ではそういう場合は、多くの人が郵便局の金庫を利用します。しかし世の中には変った人もありますからねえ。またそんな人でもいなけりゃ、この世は面白くありませんよ。というわけで、初めは何か大切なものが埋めてあるだろうと思ったのです。でもそうすると、買手はなぜ家具まで欲しがるのでしょう? まさかラファエルとか、シェークスピアのフォリオ初版が、それと知らずにこの家にあるのじゃありますまいね?」
「いいえ、この家にありますもので珍しいものと申せば、ダービーの王冠《おうかん》じるし茶器のセットくらいなものでございますわ」
「それだけじゃこんな手数までかけそうなはずはありませんね。それに欲しいものがあるなら、はっきりそれと言ったらよいじゃありませんか。茶器が望みなら、いくらいくらで譲ってはもらえまいかといえばよいのです。なにも欲しくもないものまでそっくり買うことはありゃしません。これはきっと、あなたは気がつかないけれど、気がついたら決して手放しそうもないものを、この家にお持ちなのに違《ちが》いありませんよ」
「僕もそうだと思うね」私がいった。
「ワトスン君もああいいますし、それに違いありませんよ」
「でもホームズさん、いったい何でございましょう?」
「それではこれから純粋《じゆんすい》の心理|解剖《かいぼう》によって、それが突《つ》きとめられないものか、やってみましょう。あなたはこの家に移って一年におなりなのでしたね?」
「二年ちかくなります」
「なおさらよろしい。そのながい間、あなたの物を買いたいという人は一人もなかったのに、この三、四日来急にそういう人が現われて、ぜひにという金に糸目をつけない申し出でした。この事実からどんなことが考えられますか?」
「それはつまり、欲しい品が、どんな物だか知らないが、近ごろになって、この家に生じたということを意味すると思う」私がいった。
「それでまた一つ決定したね」ホームズがいった。「ところでメーバリー夫人、近ごろ何かこの家に届いた品がありますか?」
「いいえ、今年になりましてから何一つ買ったものはございません」
「ははあ、それは不思議です。それではこの問題は、もっとはっきりした資料が手にはいるまで、そっと成行きを見ることにして、あなたの顧問弁護士は有能なかたですか?」
「スートロさんはたいへん腕利《うでき》きでいらっしゃいます」
「女中さんはほかにもいますか? スーザンはいま玄関《げんかん》をバタンと閉めて出ていったようですが、あれ一人なのですか?」
「もう一人若い娘《むすめ》がおります」
「ではスートロさんに一晩か二晩|泊《と》まってもらうようになさるのですね。保護者のほしい事態が起こるかもしれませんよ」
「どんな危険でございますの?」
「そんなことはわかりません。それだけ問題がまだぼんやりしているのです。向こうのねらっているものがわからないとすれば、反対のほうから近づいていって、主犯を押さえるしかありませんが、家屋の仲介業者の住所はわかっていますか?」
「ただ名前と職業だけの名刺《めいし》で、それには競売|並《なら》びに評価業ヘインズ・ジョンスンとございました」
「商工人名録を見ても、そんな名はありますまい。正直な商人なら、営業所を隠《かく》したりするわけはありませんけれどね。では、また何かありましたら、どうかお知らせください。とにかく捜査《そうさ》はお引受けいたしますが、お引受けしたからには、得心のゆくまで調べてさしあげますからご安心ください」
ホールを通って出てくる時、どんなものをも見逃《みのが》したことのないホームズの眼《め》が、一隅《いちぐう》にトランクや箱《はこ》の類がたくさん積みあげてあるのを見つけた。みんなラベルが貼《は》りつけてある。
「ミラノにルツェルンか。これはイタリアから来たものだな」
「死んだダグラスのものでございますの」
「まだ荷をお解きにならないのですね? いつ着きましたか?」
「先週とどきました」
「でもあなたのお話では――うむ、これがなぞをとく鍵《かぎ》かもしれませんね。この中に、ひょっとしたら大切なものがはいっているかもしれないじゃありませんか?」
「そんなはずはございませんわ。可哀想《かわいそう》なダグラスは俸給《ほうきゆう》のほか、ほんの少しばかり年金があるばかりでございましたもの。大したものなぞ持っていたはずがございませんわ」
ホームズはしばらく考えこんでいたが、
「猶予《ゆうよ》すべきではありません。この荷物はすぐにも二階のあなたの寝室《しんしつ》へ運びあげておおきなさい。そして早く中味を調べてみることですね。明日その結果を承《うけたまわ》りにうかがいます」
三破風館《さんはふかん》が厳重な監視《かんし》のもとにおかれていることは確かだった。というのは小路《こうじ》を出て高い垣根を曲ってみると、そこの物かげに例の黒人ボクサーが立っていたのである。とつぜんのことではあるし、寂《さび》しい場所なので、その姿を見るのはうす気味わるかった。ホームズはすぐポケットに片手をやった。
「ホームズさん、ピストルを探しているのですかい?」
「なあに、香水《こうすい》のびんを探しているのさ」
「お前さんもおかしな人だね」
「私に目をつけられたとすれば、面白《おもしろ》がってばかりもいられまいよ。けさ注意しておいたばかりじゃないか」
「さあ、そのことだけどね、ホームズさん。お前さんのいったことをようく考えてみたが、わたしゃパーキンズの一件の話だけは願いさげにしたいね。その代りわたしでできることなら、何でもお手助けをしますぜ」
「ふむ、じゃこの問題でお前たちの黒幕になっているのは誰《だれ》だか、それをいうがいい」
「そいつは困ったなあ。けさもいった通り、わたしゃ何も知らねえんです。うそじゃない。バーニイ親分にいわれた通りをしているだけなんだから」
「よし、それじゃ言っとくがな、スティーヴ、あの家の奥さんはもとより、あの家のものはちりひとつでも私の保護のもとにあるのだから、そのことを忘れないでもらいたい」
「わかりました。忘れやしねえ」
「しっぽを押さえられたので、すっかり震《ふる》えあがっているのだよ」ホームズは歩きだしながらいった。「こんどの勧進元《かんじんもと》のことだって、知ってさえいれば口外したのだろうがね。スペンサー・ジョン一味のことや、スティーヴが一味の一人であるのを知っててよかったと思うよ。ところでね、こいつはどうやらラングデール・パイクものらしいから、ちょっと行ってくるよ。あの男に会えば、問題がだいぶはっきりしてくると思う」
その日はそこでホームズに別れたきりになったが、ラングデール・パイクというのは社交界のスキャンダルの生字引のような男だから、その一日を彼《かれ》がいかに有効に費したかは、想像にかたくなかった。
この不思議な怠《なま》けものは、起きている間じゅうをセント・ジェームズ街のクラブの出窓のところにがんばっていて、大ロンドンじゅうのスキャンダルの受信局|兼《けん》放送局をつとめているのだ。人のうわさによれば、せんさく好きな大衆に阿《おも》ねる赤新聞に寄稿《きこう》して、毎週数千ポンドの報酬《ほうしゆう》を得ているのだといわれる。混濁《こんだく》をきわめるロンドン生活のどん底に、もし何かのうずまきでも生ずると、それはこの人間ダイアルによって自動的な正確さをもって、表面に描《えが》きだされるのである。ホームズはこの男に慎重《しんちよう》に知識を補給するかわりに、ときどき力を借りているのである。
翌朝はやく彼の部屋へいってみて、私は彼の態度から、すべて都合よく運んでいるなと見てとったが、それにもかかわらず、はなはだ面白くない意外さにおそわれたのである。というのはつぎのような電報がまいこんだのだ。
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スグオイデネガウ」昨夜メーバリー夫人邸ガドロボウニミマワレ、警察ノ取調べ中」スートロ
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ホームズはヒュッと口笛《くちぶえ》をならした。「ドラマは思ったより早く佳境《かきよう》にはいってきたね。昨日聞いてきたから、もう驚《おどろ》きはしないけれど、この問題の背後には大きな原動力が働いているのだよ。このスートロという発信人は、むろんメーバリー夫人の弁護士だろうが、こんなことならいっそのこと昨夜《ゆうべ》君にあの家へ泊まってもらわなかったのは、僕《ぼく》の手落ちだった。この男はこれじゃまるで頼《たよ》りにならないじゃないか。こうなったら、もう一度ハーロウ・ウィールドへ出向くしかない」
きのうまでは静かで整然としていた三破風館が、行ってみると打ってかわった有様になっていた。庭の門にはやじ馬が少し集まり、二人の巡査《じゆんさ》が窓やゼラニウムの花壇《かだん》を調べていた。家の中へはいってゆくと、白毛《しらが》の老人が出てきて、自分が弁護士だと名のった。もう一人の赤ら顔のせかせかした警部のほうは、ホームズも顔なじみだった。
「やあ、ホームズさん。こいつはあなたを煩《わずら》わすほどの事件じゃないようですぜ。ただの平凡《へいぼん》なコソドロですから、へっぽこ警察だけで何とか処理できますよ。専門家の出る幕じゃありませんな」
「いいかたの係りになったものですよ。ただのコソドロだということでしたね?」ホームズがいった。
「そうですとも。ホシはわかっていますから、すぐにアゲてごらんにいれますよ。バーニイ・ストックデールの一味ですが、なかに黒人の大男もいましてね、この付近で現に見かけているのです」
「それはうまい。何を盗《と》ってゆきました?」
「それがね、大したものを盗《ぬす》んでいないのですよ。メーバリー夫人をクロロフォルムで眠《ねむ》らせておいて、家の中を……ああ、ちょうど夫人が出てきました」
きのうの夫人が青い顔をして元気なく、若い女中の肩《かた》につかまって部屋へはいってきた。
「昨日せっかく忠告してくださったのに、私その通りしませんでしたの」夫人は悲しげな微笑《びしよう》を浮《う》かべていった。「スートロさんを煩わすのもと思いまして、一人で寝《やす》みました」
「私はけさ初めてそのことをうかがったようなわけです」スートロ弁護士がそばから説明した。
「ホームズさんがせっかく誰かに泊まっていただくようにと忠告してくださったのに、それを等閑《なおざり》にしましたので、たちまち罰《ばち》があたりました」
「たいへんお気分がわるそうですが、それでは昨晩のことを説明していただくのも、ご無理でしょうね?」ホームズがいった。
「そのことなら、すっかりこれに書きとめておきましたよ」警部が厚ぼったい手帳をたたいた。
「せっかくですから奥《おく》さんがあまりお疲《つか》れでなければ……」
「ええ、話と申しましてもごく簡単でございますの。あのスーザンめが手引きしたものにちがいございませんわ。ですから家の中の様子は何から何まで心得ていたものと存じます。
クロロフォルムに浸《ひた》した布《きれ》で口もとを押《お》さえられましたのだけは覚えておりますけれど、それきりどのくらい長く気を失なっていましたものですか、少しもわかりません。
気がついてみますと、一人の男がベッドのそばに見張っていまして、もう一人が息子《むすこ》の荷物の中から何やら取りだして立ちあがるところでございました。荷物は一部分解いて、中のものがあたりに散乱しておりました。それで私は思わず跳《と》びおきて、その男にしがみついてやりましたの」
「それは危ないことをしたものですよ」警部がいった。
「でもすぐ振《ふ》りはなされまして、もう一人のほうに叩《ぶ》たれましたので、またしても気を失なってしまいました。そのときこのメアリーが物音で眼をさまして、窓から大きな声で助けを求めましたの。それで巡査のかたが駆《か》けつけてくれましたけれど、そのときはもう悪ものは逃《に》げたあとでございました」
「どんなものを盗られましたか?」
「大切なものはなにも盗られていないと存じます。息子のトランクには大したものがはいっているわけもございませんものね」
「何か手掛《てがか》りになるものを残してゆきましたか?」
「私がしがみつきましたとき、どろぼうの持っていましたのを据《も》ぎとりましたのか、紙が一枚あとに落ちていました。しわくちゃ紙でございますけれど、それには息子の筆跡で何か書いてございました」
「ということは、大して役には立たないといえますね、これは」と警部がいった。「犯人の筆跡ならば……」
「それはそうです」ホームズが引きとっていった。「そんなことは常識ですよ。それにしてもそれを見たいものですね」
警部は手帳の間から、折りたたんだフールスカップを一枚とりだした。
「私はどんな細かなものも見のがしゃせんですよ」と彼は得意そうにいった。「ホームズさんにもその点はご忠告しますね。これは二十五年の経験によって得た私の教訓ですよ。指紋《しもん》の現われることもあるし、何か得るところもあるものです」
ホームズはその紙を調べてみた。
「これをどう思いますね。警部さん?」
「私のみるところでは、妙《みよう》ちきりんな小説の結末か何からしいですな」
「そうです。これはたしかに変な話の末尾《まつび》らしいところもあります。ページの上部に番号がうってありますね。二四五。――このまえの第二四四ぺージはどこにあるのでしょう?」
「犯人が持っていったのでしょうね。いいものを盗ってきたと、定めし喜んでいることでしょうよ」
「こんなものを盗るために、よその家へ押《お》し入るとは、おかしなことですよ。これについて何か思いあたることはありませんか、警部さん?」
「そうですな、思いあたることといって、急いだあまり、手あたり次第にそこにあったものをひっ攫《さら》って逃げたのでしょう。あとで取ってきた品を見て苦笑しているでしょうよ」
「どうして息子のものなどに手をつけたのでございましょうね?」夫人がきいた。
「それはね、階下に目ぼしいものがないので、二階はどうかと上がってきたのでしょうよ。私はそう思うのですが、ホームズさんのご意見はどうです?」
「よく考えてみなくちゃね。ワトスン君、窓のところへ来てみたまえ」そこでホームズはその紙に書いたある文章を読みあげた。それはセンテンスの中途《ちゆうと》からはじまっていたが――
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「……切傷や打撲傷《だぼくしよう》で顔面は出血していたが、心の出血にくらべたら、そんなものは何でもなかった。愛らしい顔、彼の生命までも捧《ささ》げて愛したその美しい顔が、彼のうけた苦悶《くもん》と屈辱《くつじよく》をじっと見おろしているのを見る胸の痛みにくらべたら、じつに何でもなかった。彼女《かのじよ》は微笑した。おお神よ! 見あげる彼の顔を、悪魔《あくま》のような無情さでじっと見おろし、彼女は微笑した。その瞬間《しゆんかん》さすがの愛も消えさり、憎悪《ぞうお》が芽ばえたのである。男は目的なしには生きられないのだ。そなたの抱擁《ほうよう》のためでないのならば、そなたの滅亡《めつぼう》とわが完全なる復讐《ふくしゆう》のためにこそ生きてゆこう」
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「妙な文法ですね」ホームズは読み終った紙を警部の手にかえしながら微笑していった。
「文章の中で彼≠ェとつぜんわが≠ノ変っているのに気がつきましたか? これは筆者が書いてゆくうちつい夢中《むちゆう》になって、それが最高潮にたっしたとき、自分が主人公のつもりになってしまったのですよ」
「大して役に立ちそうもありませんね」警部は手帳の間へしまいこみながらいった。「おや、もうお帰りですか、ホームズさん?」
「あなたのようなかたが係りなら、私なんかの出しゃばる余地はありませんからね。ときにメーバリー夫人、あなたは旅行がしたいとおっしゃいましたね?」
「それは私の長年の夢《ゆめ》なんですの」
「どこへ行きたいですか? カイロですか、マデイラですか、それともリヴィエラですか?」
「お金さえありませば、世界じゅうを回りとうございますわ」
「なるほど。世界|漫遊《まんゆう》はいいですね。じゃさよなら。晩までには手紙をさしあげるかもしれませんよ」窓の下を通るとき、警部がにやにやしながら、首を傾《かし》げているのがちらりと見えた。「利口な男はどこか気ちがいめいたところがあるて」警部の顔はそういっているように私には見てとれた。
「さて、もうひと踏《ふ》んばりだよ、ワトスン君」ロンドンの中心部の雑踏《ざつとう》の中へ帰りついたとき、ホームズがいった。「このまますぐに問題を片づけてしまったほうがいいと思うのだが、それには君にも行ってもらうと都合がいい。何しろイザドラ・クラインのような女が相手のときは、証人のあったほうが安全だからね」
そこで馬車を雇《やと》って、グロヴナー・スクェアのある家へと急がせることになった。馬車の上でもホームズは何ごとか深く考えこんでいたが、急にむっくり起きなおると、
「ところで君は、すっかりわかっているのだろうね?」といった。
「残念ながらわからない。この事件の黒幕の女のところへ行くのだということだけはどうやらわかっているけれどね」
「なあんだ! でもイザドラ・クラインの名を聞けば何か思いあたるだろう? むろん例の有名な美人さ。あれだけの美人はかつてなかった。純粋《じゆんすい》のスペイン人で、十六世紀に中南米を征服《せいふく》した有力者の家柄《いえがら》の出で、その一家は数代にわたってブラジルのペルナンブコ州の指導者をつとめてきた。彼女は老年のドイツ人でクラインという砂糖王と結婚《けつこん》したが、そのおかげで人もうらやむ金持になるとともに、たちまち絶世の美しい未亡人になってしまった。それから暇《ひま》と好みにまかせて、したい放題の大胆《だいたん》な乱行がはじまったわけだが、多くの愛人をこしらえた中に、ロンドンでも男にさえ騒《さわ》がれたダグラス・メーバリーもその一人だったのだ。
ダグラスにとっては、それはしかし火遊び以上のものだった。彼は決してよくある社交界の浮薄《ふはく》なだてものではなかった。すべてを与《あた》えるかわりに、すべてを要求する、強く高い誇《ほこ》りをもった男だったのだ。それに対して彼女のほうは、小説によくあるつれなき美人≠セった。彼女の気まぐれが満たされると、それで万事《ばんじ》は終りだった。しかも相手が自分の言葉に従わない時は、どうすべきかをよく心得た女なのだ」
「それじゃあれは彼自身の話だったのだね?」
「ああ、やっとのみこめてきたね。彼女はいま、息子といってもよいほど年のちがうローモンドの公爵《こうしやく》と結婚しようとしているという。年齢《ねんれい》のちがいだけなら公爵のお母さんも眼《め》をつぶってくれるだろうが、こんなスキャンダルが明るみに出たのでは、そんなわけにゆかない。これはどうしても……おや、ここだよ」
そこはウエスト・エンドでも指折りのりっぱな角家だった。名刺《めいし》をだすと機械仕掛けのような侍僕《じぼく》がいったん受けとったが戻《もど》ってきて、夫人は不在だと告げた。
「じゃお帰りまで待つことにしよう」
ホームズは愉快《ゆかい》そうにいった。すると機械はたちまち故障をおこして、
「ご不在と申しましたのは、あなたにだけ不在という意味でございます」といった。
「それはいい。待つに及《およ》ばないわけだからね。すまないが女主人にこれをちょっと渡《わた》してもらいたい」
ホームズは手帳を裂《さ》きとって二、三語走りがきしたものを折りたたんで取次ぎに渡した。
「何と書いてやったのだい?」私はたずねた。
「なあにでは警察に告げましょうか≠ニだけ書いてやったのさ。大丈夫《だいじようぶ》、これで中へ通すよ」
その通りだった。効果はおどろくほど迅速《じんそく》だった。私たちはすぐに、あちこちにピンクの電灯をかざって、半ばうす暗くした大きくてすばらしい、まるでアラビアン・ナイトにでも出てきそうな客間へ通された。夫人もさすが年には勝てず、絶世の美人もうす暗いところのほうを好む≠謔、になっているのだとみえる。
私たちがはいってゆくと、彼女はソファから立ちあがったが、背の高い、女王のように誇らしげな、非のうちどころのない姿に、美しい仮面のような顔をこちらへ向け、すばらしいスペイン風の眼で私たちを悩殺《のうさつ》した。
「何のご用でございますの、こんなものをよこしたりして?」紙きれをひらひらさせて彼女はきいた。
「説明の必要はないでしょう、マダム。明敏《めいびん》なあなたには説明などかえって失礼かと――。もっとも正直に申せば、その明敏も近ごろはすっかり怪《あや》しくなったと思いますけれどね」
「どんなところがでございますの?」
「たとえばごろつきを差しむけたりして、それで私が恐《おそ》れて手を引くかと思っていらっしゃるようなことです。危険などを恐れるようでは、こんな職業には一日もたずさわっていられませんよ。若いメーバリー君のことを調べる気を私に起こさせたのはあなただったのですよ」
「なんのお話ですか、私にはさっぱりわかりませんわ。私がごろつきを頼《たの》んで何かしたとおっしゃいますの?」
ホームズはうんざりしたようにそっぽをむいていった。
「あなたの明敏も底がみえていますね。ではさようなら」
「お待ちなさい! どこへ行くのです?」
「警視庁へね」
玄関《げんかん》まで行かないうちに、彼女が追いすがってきて、ホームズの腕《うで》をとって引きとめた。彼女はたちまちのうちに鋼《はがね》からビロードに軟化《なんか》してしまったのである。
「こちらへきてお掛《か》けくださいな。よく話しあいましょう。あなたになら何ごとも腹蔵なくお話しいたしたいと存じますわ。ホームズさん、あなたは紳士《しんし》としての感情をお持ちのかたでございます。女の直感で、そんなことはすぐにわかりますわ。私、お友だちのつもりで何もかも申しあげますわね」
「こちらはそんなお約束《やくそく》はいたしかねますね、マダム。私は法律ではありませんけれど、これでも正義の代弁者のつもりでおります。一応お話をうかがった上で、私としてとるべき途《みち》を申しあげましょう」
「私、あなたのような雄々《おお》しいかたを嚇《おど》かそうとしたりして、ほんとに愚《おろ》かだったのですわ」
「何が真に愚かだったかといえば、マダム、あとで脅迫《きようはく》したりあるいは裏ぎったりするかもしれない悪漢の一味に弱点を押さえられたことですよ」
「いいえ、ちがいます! 私だってそれほど単純じゃございません。すっかり申しあげますとお約束しましたのですから申しますけれど、バーニイ・ストックデールと妻のスーザンのほかには、どこからお金が出ているか知っているものは一人もございません。あの夫婦《ふうふ》のことでしたら、少しも心配はございません。こんどが初めてではございませんし……」彼女は親しげになまめかしくにっこりと微笑してうなずいてみせた。
「ははあ、試験ずみというわけですね」
「二人ともほえないで走る猟犬《りようけん》ですわ」
「そういう猟犬はいずれは、飼主《かいぬし》の手にかみつくものです。彼《かれ》らはこんどの夜盗《やとう》のため逮捕《たいほ》されることになるでしょう。警察がすでに活動をはじめていますからね」
「それは当然のことでいたしかたありませんわ。そのためにお金をやってございますもの。私の名が出るようなことはございません」
「私さえ黙《だま》っていればね」
「あら、あなたは紳士ですもの。女の秘密をあばくようなかたではございませんわ」
「それにはまずあの原稿《げんこう》を返していただかなければなりません」
彼女は小さくほほと笑って、暖炉《だんろ》のところへ歩いてゆき、火かき棒で燃えかすのかたまりを突《つ》き崩《くず》しながら、
「これお返しいたしましょうか?」私たちの前に立っていどみかかるような微笑をうかべてこういった彼女の姿のいたずらっぽいあでやかさは、ホームズが相手にした犯人すべての中で、これほど彼にとってやりにくい人間は他にいないのではないかと、思うほどであった。だが彼は感情には負けていないで、冷やかにいった。
「それはあなたの運命を決するものでした。あなたは行動がたいへん敏速ですが、こんどばかりは少しやりすぎでしたね」
彼女はがらりと火かき棒を投げすてた。
「まあ、何てわからずやなのでしょう! すっかり申しあげましょうか?」
「いいえ、そのことならこちらから申しあげられるくらいよくわかっています」
「でもホームズさん、私の身にもなって見てくださらなければいけませんわ。一生の野心がいま一歩というところで破れそうになった女の身になってお考えくださらなければねえ。そうした場合わが身を守りますのが、どこが悪いのでございます?」
「もとを質《ただ》せば罪はご自身にあるのですからねえ」
「ええ、それは認めます。ダグラスはかわいい青年でした。でも不幸なことに私とは心構えがちがっておりました。あの人は結婚する気なのです――結婚ですよ、ホームズさん。無一物の平民のくせに、そんなことができますものか、考えてもごらんくださいまし。私が不承知と見てあの人はしつこくなりました。一度あたえられたら、いつまでも自分が独占《どくせん》できるものと思ったらしいのでございますね。たまったものじゃございませんわ。それで私とうとう本心を知らせてやりましたの」
「乱暴者を使って、この家の前でなぐらせることによってね」
「何でも知っていらっしゃるのね。その通りですわ。バーニイが部下をつれて、追い払《はら》いましたの。少し行きすぎだったのは認めますけれど、それであの人が何をしたとお思いになりまして? あれがかりにも紳士といわれる人の行動でしょうか? いっさいのことを小説に書きあげたのです。むろん私はオオカミで、あの人は小ヒツジになっています。それでも仮名にはなっていますけれど、読めばロンドンじゅうの人にわかってしまいますわ。そんなことをしてよろしいものでしょうか、ホームズさん?」
「そうですね、書くのは彼の自由でしょう」
「きっとイタリア風にかぶれて、イタリアの古い残虐《ざんぎやく》精神が植えつけられたのでございましょうね。そのことを手紙に書いて、小説のコピーを送ってまいりましたわ。きっと私がさきを見越《みこ》して苦しむと思ったのでございましょう。コピーは二部あって、一つを私に、一つを出版社へ送るのだとございました」
「出版社の分がまだ送ってないとどうしてわかりました?」
「出版社が私にはわかっておりました。あの人が小説を書いたのはこれが初めてではございませんもの。それで出版社に問いあわせてみますと、イタリアからまだ何もいってきていないことがわかりました。そこへダグラスのとつぜんの死でございましょう?
もう一つの原稿の存在するかぎり、私は安心していられません。むろんこの原稿はほかの遺品といっしょに、お母さまのところへ送り届けられているに違《ちが》いございません。
それで私はギャングに仕事を命じました。その中の一人があの家へ女中になって住みこみましたの。私としては公正な手段で目的を遂《と》げたくもあり、たしかにその通りいたしました。あの家を家財道具ぐるみそっくり買いとる用意があったのです。向こうさんのおっしゃる値段で買いうけることにしたのです。
でもその計画がだめになりましたので、いたしかたなく非常手段に訴《うつた》えることにもなりましたのですわ。ねえホームズさん、ダグラスに対する私の仕打ちがひどすぎたとしましても――そのことはほんとに悪かったと後悔していますけれど、私の将来が危なくなっています際、ほかに方法がございましょうか?」
シャーロック・ホームズは肩《かた》をすくめた。
「なるほど。ではまたしてもこんな重い罪を見逃《みのが》さなきゃならないのですかねえ。乗りものも宿もファースト・クラスで世界を一周するには、どのくらいかかるでしょう?」
夫人は眼を丸くしてホームズの顔を見つめるばかりである。
「五千ポンドもあれば足りるでしょうか?」
「さあ、そんなものでございましょうね」
「よろしい。ではそれだけの小切手をお書きください。私からメーバリー夫人に届けます。あなたはあの人を保養に出してあげる義務がおありですよ。それはそうとね、マダム」とホームズは人さし指を振《ふ》って警告を与えた。「用心しないといけませんよ。鋭《するど》い刃物《はもの》をもてあそんでいると、いつかはその美しい手に怪我《けが》をすることになりますよ」
[#地付き]―一九二六年十月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
サセックスの吸血鬼
ホームズは最終便で配達された手紙を注意ぶかく読んでいたが、にっとして――彼《かれ》としてはこれで笑ったわけなのだが――その手紙を私のほうへよこした。
「現代と中世、現実とおそるべき夢幻《むげん》との混合としては、たしかにその極に達していると思うよ。いったい何だと思うね?」
手紙はつぎのようなものだった。
[#ここから1字下げ]
十一月十九日 オールド・ジュリイにて
吸血鬼に関する件
拝啓《はいけい》 我が社の顧客《こきやく》であるミンシン小路《こうじ》の茶仲買商ファーガスン・アンド・ミュアヘッド商会のロバート・ファーガスン氏より、本日付の当社|宛《あて》手紙にて、吸血鬼に関して照会がありました。我が社は機械類の査定を専門としておりますので、右の件は営業科目の範囲外《はんいがい》でありますから、貴殿《きでん》を訪問のうえ、ご相談なさるようファーガスン氏にご勧告《かんこく》申しあげました。当社は貴殿がマティルダ・ブリッグス事件を成功裡《せいこうり》に解決なされた御《ご》手腕《しゆわん》を、今なお失念してはおりません。
[#地付き]敬具
[#地付き]モリスン・モリスン・アンド・ドッド商会
[#地付き]代表 E・J・C
[#ここで字下げ終わり]
「マティルダ・ブリッグスといったって若い女の名じゃないぜ、ワトスン君」ホームズは古いことを追想しながらいった。「スマトラの大ねずみに関係のある船の名なんだ。この話はまだ世間に知れ渡《わた》っていないがね。それにしても吸血鬼《ヴアンパイヤ》についてわれわれは何を知っているだろう? こいつは僕《ぼく》たちにも営業科目外じゃないかな? まあ退屈《たいくつ》しているよりはましだが、何だかグリムのおとぎばなしの世界へ引っぱりこまれたような気がするね。ちょっと手をのばしてくれないか。Vの部に何があるか調べてみよう」
私はうしろへ体を伸《の》ばして、ホームズの求める厚い索引簿《さくいんぼ》を棚《たな》から取りおろした。彼はそれをひざの上で平衡《へいこう》を保ちながらひろげて、ゆっくりと、なつかしそうな眼《め》つきで、終生かかって蓄積《ちくせき》した見聞や知識の中に混っている古い事件の記録をたどっていった。
「グロリア・スコット号」の航海《ヴオエージ》か。いやな事件だったな。こいつはたしか君が書いたと思うが、でき栄《ば》えはあんまり香《かんば》しくなかったようだぜ。ヴィクター・リンチ、偽造者《ぎぞうしや》。有毒のトカゲ。手ごわい事件だったな、こいつは。それからサーカス美人のヴィットリアに、金庫破りヴァンダヴィルトか。|まむし《ヴアイパーズ》にハマースミスの怪物《かいぶつ》ヴィゴアか。おや! おやおや! やっぱりこの索引はいいね。おろそかにできないよ。いいかい? ハンガリーにおける吸血鬼伝説とある。それからこっちには|ト《*》ランシルヴァニア【訳注 旧ハンガリーの一地方。現在はルーマニア領】の吸血鬼とある」
といって彼はページをめくり、しばらく熱心に黙読《もくどく》していたが、読みおわるとさも失望したらしく、なあんだと索引を投げだした。
「何だ、くだらない! ワトスン君、じつにくだらない! 死体が歩き回るのは、心臓に杭《くい》を打ちこまなきゃ止まらないなんて、何の話だ? 気ちがいざただよ」
「しかしね」と私はいった。「吸血鬼といったって、なにも死人と決まったわけじゃあるまい? 生きながらそういう習性をもったものがいないとも限らない。たとえば僕は、老人が青春を持続するために、子供の血を吸うという話を何かで読んだことがあるよ」
「なるほどそういうこともあるな。この参考|事項《じこう》の一つにある伝説を説明するものだ。しかしそんな事を真面目《まじめ》にとりあげるべきだろうか? この事務所は大地にしっかり足をおろしているのだ。今後もそうでなければならない。世の中は広いのだ。幽霊《ゆうれい》まで相手にしてはいられない。どうやらロバート・ファーガスン氏の話を本気で取りあげる気はしないね。この手紙はおそらくファーガスン氏から来たものだろうが、読んでみたら何に悩《なや》んでいるのか、少しは事情がわかるだろう」
ホームズは第一の手紙に気をとられたあまり、テーブルの上に忘れられていた第二の手紙をとりあげて封《ふう》を切った。そして初めのうちはさも面白《おもしろ》そうに、にやにやしながら眼をとおしていたが、しだいにその顔から微笑《びしよう》をひっこめ、非常な興味をもって一心に読んでいった。
読みおわると、しばらくはその手紙を手にしたまま、何ごとも忘れてじっと考えこんでいたが、ふとわれに返っていった。
「ランバリーってどこだっけ? ランバリーのチーズマン屋敷《やしき》というのだがね」
「それはサセックス州だよ。ホーシャムの南のほうだ」
「あまり遠くはないね? そしてチーズマン屋敷というのは?」
「あのへんの田舎《いなか》はよく知っているがね。何世紀も前に建てた人の名がついて、古い家がいっぱい残っているところだ。オドリー屋敷だとかハーヴィー屋敷だとかカリトン屋敷だとかいって、建てた人たちはどうなったことか、名前だけは家とともに残っているわけだ」
「その通りだ」ホームズは冷やかにいった。これは自尊心たかく負けずぎらいの彼の性格の特殊性《とくしゆせい》であって、どんな新知識でもすばやく整然と頭の中へ納めるくせに、それを教えてくれた相手に礼をいうということがないのである。「いずれはランバリーのチーズマン屋敷について、詳《くわ》しい知識を得ることになるだろうがね。手紙はやっぱりロバート・ファーガスンからだったよ。なお、この男は君を知っているといってるぜ」
「この僕を?」
「読んでみたまえ」
といってホームズは手紙を私によこした。差出地は前に述べた通りである。
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シャーロック・ホームズ殿
弁護士の推薦《すいせん》によって貴下のご意見を求めたいのですが、問題があまりにも微妙《びみよう》なため、どこから申しあげてよいか、ほとほと当惑《とうわく》するほどです。
問題は私の友人の身の上に関することですが、この友人は五年ばかり前にペルー国の一婦人と結婚《けつこん》いたしました。相手は友人が硝石《しようせき》の輸入に関連して知りあったペルー商人の息女なのです。
たいそう美しい人ではありましたけれど、もともと外国の生れのうえ宗教を異にしていますので、ことごとに趣味《しゆみ》と感情に疎隔《そかく》をきたし、結婚後しばらくして友人は妻への愛情のさめるのを覚え、自己の結婚の失敗であったのを感ずるようにもなりました。友人は妻の性格のうちにまったく理解しがたい一面のあるのを感じました。この事実は、妻として彼女《かのじよ》が男冥利《おとこみようり》につきるばかりの愛情を――どうみても絶対に心からの愛を捧《ささ》げているとしか見えないだけに、いっそう痛ましくも悲惨《ひさん》でした。
これらの点はお目にかかって詳しく申し述べたいと思いますが、ここには事情の概略《がいりやく》をお知らせし、はたして貴下がこの問題を取りあげてくださるか、ご意向をうかがうため本書状をさしあげる次第《しだい》です。
さて夫人は最近にいたって、日ごろの愛らしく温雅《おんが》な性向にも似ず、妙な素振《そぶ》りを示すようになりました。友人にとって彼女は二度目の妻で、先妻との間に一子があります。これは今年十五の魅力《みりよく》ある愛らしい少年ですが、不幸にも幼時の不慮《ふりよ》の災禍《さいか》のため身体不自由の身です。ところが夫人はこの少年に何の理由もなく打擲《ちようちやく》を加えている現場を二度も見られました。一度などはステッキで殴打《おうだ》したので、腕《うで》に大きな赤痣《あかあざ》をのこしたほどです。
しかしこれは生後一年にもならぬ彼女自身のかわいらしい赤《あか》ん坊《ぼう》に対する仕打ちに比べれば、何でもありません。いまから一カ月ばかり前のあるとき、乳母《うば》がほんのしばらくこの赤ん坊のそばを離《はな》れていますと、どこか痛みでもあるのか、ふいにけたたましい泣き声が聞こえるので、彼女は急ぎ戻《もど》り、部屋へ走り込《こ》むと、夫人が赤ん坊の上にのしかかるようにして、首のあたりにかみついているのを見たのです。
よく見ますと首に小さな傷ができて、血が流れています。乳母は驚《おどろ》いて主人を呼ぼうとしましたが、夫人は泣かんばかりに頼《たの》んでそれを押《お》しとめ、そのうえに口どめ料として五ポンドを与《あた》えました。しかも事情については何の説明もせずに、とにかくその場はそれなりになりました。
しかしながら、このことは乳母に恐《おそ》ろしい印象をのこし、その時から夫人には少しも油断をせず、かわいらしい赤ん坊の守護に気をくばりました。でも彼女が夫人を監視《かんし》しているのと同じように、夫人のほうでも彼女を監視しているらしく、一刻でも赤ん坊のそばを離れなければならなくなるのを、夫人は待っているようにさえ思われました。
夜となく昼となく、乳母は赤ん坊を守りつづけましたが、夫人のほうもまた、小羊をねらうオオカミのように、日夜|隙《すき》をうかがっているように見えました。こんな話は信じられないとおっしゃるかもしれませんが、赤ん坊の生命と良人《おつと》の精神が脅《おび》やかされていることは事実なのですから、どうか真剣《しんけん》にお考えください。
さて、この事実をもはや良人に隠《かく》してはおけない怖《おそ》るべき日が来てしまいました。乳母がついに気がくじけてしまったのです。彼女はもうこの緊張《きんちよう》にたえられなくなって、いっさいの事情を主人に打ちあけてしまいました。
主人にとっては、いまおそらく貴下がお考えになっているのと同じように、荒唐無稽《こうとうむけい》な話に聞こえました。彼女は彼のやさしい妻であり、ときどき義理の息子《むすこ》をいじめはするけれど、ふだんはやさしい母親なのをよく知っています。こともあろうにそれがわが子を傷つけたりするでしょうか?
そこで彼は乳母にむかって、お前は夢《ゆめ》でも見ているのだろう。そんな疑いをおこすほうが気ちがいじみている。以後|奥《おく》さまのことをそんなふうに悪口したりすると、許してはおかぬぞとたしなめました。
二人が話しているところへ、赤ん坊のけたたましい泣き声が聞こえますので、乳母も主人も驚いて駆《か》けつけましたが、どうでしょう、ホームズさん、主人が見ると妻は揺《ゆ》りかごのそばにひざまずいていたのが立ちあがり、赤ん坊の首から血が流れてシーツをまっ赤に染めているではありませんか!
主人はわっとわめきながら、妻の顔を明かるいほうへ向けさせてみますと、口のまわりに血がついています。もはや何の疑うところもなく、この母親はわが赤ん坊の血を吸ったのです。
およそ右のような事情ですが、彼女はいま自室に閉じこめてあります。いまもって一言の弁明もいたしません。良人は半狂乱《はんきようらん》の状態です。彼も私も、吸血鬼伝説についてはほとんど何も知るところがありません。どこか遠い国のとりとめもない夢のような話とばかり思っていましたのに、ここイギリスもサセックス州の中心に――詳しくは明朝お目にかかり申しあげたいと存じますが、ご面会くださいますでしょうか? この気も狂《くる》わんばかりの男子のため、何分の力をお貸しくださらないでしょうか? 幸いご承知いただけますならば、どうかランバリーのチーズマン屋敷、ファーガスンまで電報|賜《たま》わりたく、さすれば明朝十時には当方よりお訪ね申しあげます。
[#地付き]敬具
[#地付き]ロバート・ファーガスン
追伸《ついしん》 ご友人ワトスン氏がブラックヒースのラグビー選手をしておられた当時、私はリッチモンド・チームのスリークォーターをいたしておりました。しいて申せばこのことが貴下に対する私の唯一《ゆいいつ》の個人的|紹介《しようかい》です。
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「むろん覚えているよ」私は手紙を下へおいていった。「大男のボブ・ファーガスンは、リッチモンド・チームの有した最良の名スリークォーターだった。おとなしい男だったが、友人のことでこんなに心配しているのなんかは、いかにもあの男らしい」
ホームズは考えぶかく私を見つめていたが、「人ってわからないものだねえ」と感心したようにいった。「君にしてもまだまだ僕の知らない一面を持っているらしい。じゃすまないが電報を一通書いてくれないか。――貴下ノ事件調査ヲ引キウケル≠ナいいだろう」
「貴下の≠セって!」
「この事務所に頭の鈍《にぶ》い連中がそろっているように思わせちゃならないからね。むろん彼自身の事件だよ。その電報を打ったら、問題はあすの朝までお預けとしよう」
翌朝の十時きっかりに、ファーガスンがのっそりとはいってきた。私の記憶《きおく》にのこるファーガスンはのっぽで、身幅《みはば》がうすく、からだが柔軟《じゆうなん》でスピードがあって、そのため相手がたのバックをいく度か悩ましたものだった。かつてはすばらしい運動家だった人のおとろえた姿を見るほど、その人の全盛時代《ぜんせいじだい》を知るものにとって、痛ましいものはなかろう。彼の偉大《いだい》な体格はいまや見るかげもなく、亜麻《あま》いろの美しかった頭髪《とうはつ》はうすく、背なかも曲りこんでいるのである。私の姿を見て、彼も同種の感慨《かんがい》にうたれたのではないかと思う。
「よう、ワトスン君」とそれでも声ばかりは今なお太く、元気だった。「君も変りましたねえ。オールド・ティア・パークで君をロープ越《ご》しに観衆の中へたたきこんだことがあるが、あのころの面影《おもかげ》はまるでありませんよ。だから僕も変ったことでしょう。ことにこの二、三日、すっかり老いこみました。ホームズさん、電報を拝見して、友人の身の上のようなふりなんかしてもむだなのを知りましたよ」
「話は直接のほうが簡単なものです」
「それはむろん仰《おお》せのとおりです。でも保護し援助《えんじよ》してやらねばならないはずの女のことを話すとなると、どんなに辛《つら》いものだか、どうかお察しください。私はどうしたらよいのでしょう? こんな話を警察へ持ちこむわけにもゆかず、さればといって子供たちのことも放《ほう》ってはおかれません。気が狂ったのでしょうか? 血の中に何かあるというのでしょうか? 似たような事件を経験なさったことがおありですか? 私はほとほと途方《とほう》にくれてしまいました。何とかお知恵《ちえ》をお貸しください。お願いです」
「きわめてごもっともです。まあこちらへお掛《か》けになって、気をとりなおして、私のお尋《たず》ねすることに明確にお答えください。私はけっして途方にくれてなどいませんし、かならず解決できるものと確信していますから、ご安心ください。まずお尋《たず》ねしますが、その後どんな処置をおとりでしたか? 奥さんはやはり子供さんがたに接しているのですか?」
「思いだしてもぞっとします。妻はじつに愛すべき女です。ほんとうに魂《たましい》をうちこんで私を愛しています。あの怖《おそ》るべく信じがたい秘密を発見されて、悲嘆《ひたん》にくれました。一言もそれについては弁明しようとしません。私の叱責《しつせき》にあっても、狂気《きようき》じみた絶望的な眼で私を見つめるばかりで、一語も答えません。そして自分の部屋へ駆けこんだきり、中から鍵《かぎ》をかけて、私がいっても受けつけません。妻には結婚まえから使っているドロレスという女中がいますが、これに食事を運ばせている始末です」
「ではお子さんに今のところ危険はないわけですね?」
「乳母のメースン夫人が、昼夜目をはなさずにいると申してくれますので、その点は絶対に安心していられます。それよりもジャックのほうが、手紙でも申しあげましたように二度も打《ぶ》ったほどですから、心配になります」
「でも怪我《けが》をするほどではなかったのですね?」
「はあ、乱暴に打っただけですが、罪もないからだの不自由な子ですから、余計かわいそうでしてね」とこの子のことを話すときは、ファーガスンも相好《そうごう》をゆるめた。「あの子のからだの状態をみれば、誰《だれ》だって気が折れるはずだという点をお考えください。幼いとき高いところから落ちて背骨が曲っているのですが、気のやさしいかわいらしい子なのです」
ホームズはきのうの手紙をとりあげて、読みかえしてみながらいった。
「そのほかお宅にはどんな人がおいでですか」
「女中が二人いますが、どちらも近ごろ雇《やと》いいれたものです。それからマイケルという馬の世話をする男、これは夜は母屋《おもや》で寝《やす》みます。それから妻と私と子供のジャックと赤ん坊とドロレスと乳母のメースン夫人、これで全部です」
「結婚なさったときには、まだ奥さんの人がらをよくご存じなかったらしいですね?」
「ええ、二、三週間の交際で結婚しましたから」
「ドロレスという女中が奥さんについてからどのくらいになりますか?」
「数年になりましょう」
「では奥さんの性格はドロレスのほうが、あなたよりもよく知っているわけでしょうね?」
「まあそうもいえましょう」
ホームズは手帳にノートした。
「ここでお話をうかがっているよりも、一度ランバリーに出向いたほうがお役にたちそうです。明らかに個人の研究問題ですからね。奥さんがお部屋へ閉じこもっていらっしゃるとすれば、私がうかがっても奥さんのご迷惑《めいわく》にはならないと思います。むろん夜は宿屋へ引きとりますしね」
ファーガスンはほっとしたらしく、
「そうお願いできれば、これに越《こ》したことはありません。お出《い》でくださるのでしたら、ヴィクトリア駅二時発というごく都合のよい列車があります」
「むろん参りますよ。このところちょっと暇《ひま》ですから、あなたの問題に専念することができます。ワトスン君もむろん同道してくれます。それにしても出発まえにあらかじめ確かめておきたいことが二、三ありますが、奥さんはおかわいそうに、ご自分の赤ちゃんも大きいほうのお子さんも、どちらに対しても乱暴なことをなさるのでしたね?」
「そうです」
「ひと口に乱暴といっても、やりかたは違《ちが》うわけですね? 大きい坊《ぼ》っちゃんのほうは打ったのでしたね?」
「一度はステッキで、一度は手でひどく打ったのです」
「なぜ打ったか説明はなさらないのですね?」
「はあ、ただジャックが憎《にく》らしいというだけでした。そのことは何度も申しました」
「それは継母《ままはは》にはありがちのことで、先天的しっととでもいうものでしょう。奥さんはねたみぶかいかたですか?」
「それはねたみぶかいですね。南国の強い愛情いっぱいの力でしっとするのです」
「しかし大きい坊っちゃんのほうは――十五ということですが、からだが不自由なだけに、おそらく知力のほうは発達していることと思いますが、この乱暴について何も説明はなさらないのですか?」
「ええ。ただ理由はないというばかりです」
「ふだんはお母さんとも仲がいいのですか?」
「いいえ、どちらにも愛情なんかありません」
「でも坊っちゃんは愛らしいかただというお話だったじゃありませんか?」
「あんなにかわいい息子はありません。私は命にもかえがたく愛しています。あの子も私のいったりしたりすることには夢中《むちゆう》です」
ここでまたホームズは何やらノートして、しばらくは何もかも忘れて考えこんでいた。
「申すまでもなくあなたが再婚なさるまでは、坊っちゃんと二人だけだったわけで、ずいぶん仲よくやっていらしたのでしょうね?」
「そりゃあね」
「そして坊っちゃんはそんなに愛情がふかいとすれば、むろん亡《な》くなったお母さんの思い出が心を去らないことでしょうね?」
「いつもそれを考えていますね」
「たしかに興味のあるお子さんらしいですね。もう一つこの乱暴のことでお尋ねしますが、赤ちゃんをどうかしたのと、坊っちゃんを手にかけたのは、同じころのことですか?」
「はじめの場合は同じころでした。まるで逆上でもしたように、ちょっとしたことで二人に当りちらしたのですね。二度目のときは、虐《いじ》められたのはジャックだけです。メースン夫人も赤ん坊のことは何もこぼしはしませんでした」
「そうなると問題が複雑化しますね」
「お言葉の意味がよくわかりませんが……」
「そうでしょうね。誰でもこんなときは暫定的《ざんていてき》に見当をつけておいて、時がたつにつれてその黒白がわかるなり、あるいはもっと資料を得て自説に訂正《ていせい》を加えるなりするのです。悪いくせですよ。でも人間は弱いものですからね。あなたは旧友ワトスン君から、私の科学的方法について誇張《こちよう》した見解を聞かされているのじゃありませんかねえ。しかし私としては現在の段階では、あなたの問題は解決不可能だとは思っていないということだけしか申しあげられませんね。それでは二時にヴィクトリア駅でお目にかかりましょう」
ランバリーのチェッカーズという名の宿屋へいったん荷物をおいてから、長い曲りくねったサセックス粘土《ねんど》の細道に馬車をとばして、ファーガスンの住む古い農家の一|軒屋《けんや》にたどりついたのは、霧《きり》ふかい十一月のうっとうしい夕暮《ゆうぐれ》だった。大きくて不統一な建物で、中央の部分はきわめて古いけれど、両翼《りようよく》は新しく建てましてあり、チュードル式の煙突《えんとつ》がたかくそびえ、傾斜《けいしや》の急なホーシャム石板の屋根にはところどころこけがむしていた。
玄関《げんかん》の石段は擦《す》りへって中央がくぼみ、ポーチをかこむ古いタイルには、この家を建てた人のものであろう男女の判じ絵による紋章《もんしよう》が入れてあった。はいってみると、天井《てんじよう》には太い樫《かし》のはりが何本も走り、平らでない床《ゆか》はあちこち落ちこんでいた。要するに古い腐朽《ふきゆう》のにおいにみちた屋敷《やしき》である。中央に思いきって大きな部屋があって、ファーガスンはそこへ私たちをつれこんだ。ここには大きい古風な暖炉《だんろ》があり、鉄の仕切りの裏がわに一六七○年と彫《ほ》りこんであったが、丸太が勢いよく燃えさかっていた。
見わたせば、ここはいろんな時代とさまざまな地方色の雑然と入りまじった部屋である。まず半幅の腰《こし》羽目《ばめ》を張ってあるのは、たぶん十七世紀の郷士《ごうし》の名残《なご》りであろうし、その上のほうには精選された近代|水彩画《すいさいが》がずらりと掲《かか》げてあるし、またその上方の樫材の部分を黄いろいしっくいで塗《ぬ》りつぶしたところに、南米の器具や武器の収集を美しくかけつらねてあるのは、いわずと知れた二階にいるペルー生れの夫人のものであろう。
ホームズは席をたって、彼《かれ》一流の鋭《するど》い知性から、急に好奇心《こうきしん》がおこったのか、やや注意ぶかくそれらを検《あら》ためた。それから何かふかく考えながら席にもどってきたが、
「おう、おいで、おいで」と声をかけた。
すみの籠《かご》の中にスパニエル種の犬が一頭うずくまっていたが、呼ばれて歩きにくそうによちよちと主人のほうへきた。しっぽをたれ、後足の運びかたが不規則である。ファーガスンのところへ来てその手をなめた。
「ホームズさん、どうしました」
「この犬ですがね、どうかしたのですか?」
「獣医《じゆうい》にもわからないらしいのですが、一種の麻痺《まひ》なんですね。脳脊髄膜炎《のうせきずいまくえん》だろうといっています。でも経過はいいのです。すぐよくなるでしょう。――そうだね、カルロ?」
だらりと不景気にたれたしっぽをわずかに振《ふ》って、犬は同意を示した。そして悲しげな眼《め》つきで私たちを見まわした。自分の病気が話題になっていることがわかるのだろう。
「とつぜんこんな病気になったのですか?」
「たった一晩でした」
「いつごろのことです?」
「四カ月くらいになりましょう」
「それは面白《おもしろ》い。たいへん暗示的ですね」
「何を意味するとお考えになりますか?」
「私の考えていたことが正しいのを立証するものだと考えます」
「後生ですからホームズさん、どんなことを考えていらっしゃるのですか? どうか包まず教えてください。あなたには知的なパズルにすぎないかもしれませんが、私にとっては生死の問題なのです。妻は殺人犯人になるかもしれず、子供はたえず危険にさらされているのです。焦《じ》らさないでください。私は真剣《しんけん》なのです。必死なのです」
大柄《おおがら》の元ラグビー選手はわなわなと全身をふるわせた。ホームズは宥《なだ》めるようにその腕《うで》に手をおいていった。「解決がどういうことになるにしても、あなたは心を痛めることになりそうですねえ。そうならないように、できるだけ努力しますと、いまはそれだけしか申しあげられませんが、この屋敷を去るまでには、何とかはっきりしたことをお知らせできるつもりでいます」
「ぜひそうなるようにと、神さまに祈《いの》っています。それではちょっと失礼して、二階の妻が変りはないか、見舞《みま》ってやりましょう」
ファーガスンが中座すると、ホームズはまたしても壁《かべ》に飾《かざ》ってある珍《めずら》しい収集品を見てまわった。まもなくファーガスンが帰ってきたが、うなだれたその顔つきから、事態がいいほうへ向かっていないのが見てとれた。彼について、ほっそりと背が高くて、色の黒い娘《むすめ》がはいってきた。
「お茶の用意もできているからね、ドロレス。何ごとによらず、奥《おく》さんの望みに逆らわないようにしておくれよ」ファーガスンがいった。
「奥さんたいへんお悪い」娘は怒《おこ》ったように主人をにらみつけていった。「奥さん、何も食べたくありません。たいへんお悪いです。お医者さんいります。お医者さんもなしで、一人でついているのは、わたしこわい」
ファーガスンは訴《うつた》えるような眼つきで私を見た。
「僕《ぼく》でよければ診察しましょう」
「奥さんはワトスン先生に診《み》ていただくだろうね」
「わたし連れてゆく。きいてみることない。ぜひお医者さん診てもらいたい」
「では早く行きましょう」
思いあまる感情に震《ふる》えている女中のあとについて二階へゆき、古風な廊下《ろうか》を歩いてゆくと、行きどまりに金具を打った厳重なドアがあった。それを見て私は、これじゃファーガスンがいかに押《お》し入ろうとしても、ちょっとむつかしいはずだと思った。
女中がポケットから鍵をだして、樫のがんじょうなドアをぎぎいときしらせて開けたので、私は中へはいっていったが、女中はすばやく続いてはいり、ドアをぴたりと閉めきって、締《し》まりまでしてしまった。
見るとベッドの上には一人の女性が、明らかに高熱と思われる状態で横になっていた。うつらうつらしていたらしいが、私がはいっていったので怯《おび》えたような美しい眼をあげて、不安そうに私を見つめた。そして見たことのない男だとわかって、かえって安心したらしく、ほっと溜息《ためいき》をもらして枕《まくら》に頭をつけた。
私は相手を安心させるように柔《やわ》らかく言葉をかけながら、そばへ歩みよって、静かに脈をとり熱の具合をみたが、それでも彼女《かのじよ》はおとなしくしていた。脈は早く熱も高かったが、私のうけた印象では、肉体的にどこが悪いというよりは、一種の精神的な興奮状態にあるらしかった。
「奥さん、一日、二日、こんなふうに寝てる。奥さん死ぬかもしれない」女中が訴えた。
「良人《おつと》はどこにいまして?」患者《かんじや》は熱っぽく美しい顔を私の方へ向けた。
「階下《した》です。あなたに会いたがっていられますよ」
「いいえ、たくさん。会いたくありませんわ」といったきり彼女はまた熱にうかされた状態になったらしい。「悪魔《あくま》! 鬼《おに》! この鬼をどうしたらいいのかしら?」
「私にできることでしたら、何かお力になりましょう」
「いいえ、どなたの手にもあいません。もうすんだことです。何もかもおしまいです。私があんなに苦労したのに、何もかもめちゃめちゃになってしまいました」
この女はなにか妙《みよう》な妄想《もうそう》にとらわれているのだ。あの善良なボブ・ファーガスンが、悪魔とか鬼の性質をもっているとは思えない。
「奥さん」と私はいった。「ご主人は心から奥さんを愛しているのですよ。だからこんどの問題にはふかく胸をいためているのです」
彼女はまたしても美しい眼で私を見ながら、
「それはわかっていますわ。でもそんなことをおっしゃいますのは、私が主人を愛していないとでも思っていらっしゃいますの? 自分を犠牲《ぎせい》にしてまで、主人の心を傷つけたくないと願っています私は、あの人を愛していないのでしょうか? 私はそれほどあの人を愛していますのに、それだのにあの人は、私のことをそんなふうに考え、そんなふうに申していますのね?」
「ご主人はよく合点《がてん》のゆかない中に、すっかり悲嘆《ひたん》にくれているのです」
「それは合点がゆかないでしょうけれど、信じてくれさえすればよいのです」
「会ってよくお話しになったら?」私はすすめてみた。
「いいえ、会いたくございません。あの恐《おそ》ろしい言葉や顔つきを忘れやしませんわ。もうお引きとりくださいまし。何もあなたにお願いいたすこともございません。ただ一つ、赤ちゃんをこちらへよこすようにおっしゃってくださいまし。私の子ですもの、権利がございますわ。これだけどうぞお伝えくださいまし」といって彼女は壁のほうへ顔をむけたまま、二度と口をきこうとしなかった。
そこで私は階下の部屋へ引きあげてきたが、みるとファーガスンとホームズはまだ火のそばに坐《すわ》っていた。夫人との会見の模様を話して聞かせると、ファーガスンは浮《う》かぬ顔で聞いていたが、
「赤ん坊《ぼう》をよこせったって、どうしてやれるもんですか!」といった。「どんなことであの不思議な発作《ほつさ》を起こすか知れたものじゃありません。揺《ゆ》りかごのそばから、口をまっ赤にして立ちあがったあの姿が、どうして忘れられましょう!」当時を思いだして今さらに身震いした。「赤ん坊はメースン夫人に預けてさえおけば安全です。安心していられます」
そこへ気のきいた女中が、この家で見た唯一《ゆいいつ》の当世風の存在だが、お茶をはこんできた。女中がお茶をくばっているところへ、ドアがあいて、一人の少年がはいってきた。顔いろ青じろく髪《かみ》の毛のいろもうすく、激《げき》しやすい青い眼をもったすばらしい少年だが、そこに思いがけなく父の姿を発見して、歓喜に眼をかがやかし、駆《か》けよってまるで恋《こい》する少女のように両手で父の首にしがみついた。
「お父さん、お帰んなさい。僕ね、まだまだお帰りじゃないと思ってたんだよ。こんなことならここで待っていればよかった。お父さんが帰って、僕とてもうれしいよ」
ファーガスンはちょっと困った顔をしたが、やさしく息子《むすこ》の手をときはずして、亜麻《あま》いろの頭にそっと手をおきながらいった。
「坊や、お父さんはね、このホームズさんとワトスン先生を説きふせて、来ていただくことになったから、それで早く帰れたんだよ。お二人とも晩までいてくださる」
「ホームズさんて探偵《たんてい》のホームズさんなの?」
「そうだよ」
少年は鋭い眼で私たちを見た。私には敵意をふくんでいるように思えた。
「もう一人のお子さんはどうしました? 赤ちゃんともお近づきになっておきたいものですね」ホームズがいった。
「メースン夫人に赤ん坊をつれてくるように言っておいで」ファーガスンが命じると、少年はよちよちと引きずるような足どりで出ていった。医者の眼には明らかに背骨のわるいことがわかる歩きかたである。まもなく少年は、赤ん坊を抱《だ》いた背の高いやせた女をつれてきた。赤ん坊は黒眼|金髪《きんぱつ》で、サクソンとラテンの美しい混血ぶりをみせていた。ファーガスンはもとより眼の中へ入れても痛くないほど熱愛しているらしく、すぐ自分の胸へ抱きとって、おだやかにあやした。
「こんなかわいいものを傷つけるなんてねえ」と赤ん坊ののどにある小さく赤い炎症《えんしよう》をのぞきこみながら小さい声でいった。
そのときであるが、何気なくホームズのほうを見ると、どうしたことか彼はひどく緊張《きんちよう》した表情をうかべていた。古い象牙《ぞうげ》の彫刻《ちようこく》のような顔をかたくして、その眼は、ファーガスン親子のほうをちらりと見やってから、ふかい好奇の色をうかべて、反対がわの何ものかをじっと凝視《ぎようし》しているのである。その視線をたどってみると、雨に濡《ぬ》れて陰気《いんき》な庭を窓ごしにながめているとしか思えない。窓にはよろい戸が片がわだけ閉まっていて、視界が十分でないけれど、彼が注意を集中して見つめているのは、たしかにその窓にちがいなかった。やがて彼はにっこりして、赤ん坊のほうへ視線をうつした。そして丸々と肥《ふと》ったのどにある小さなぷつりとしたものを、だまって注意ぶかく検《あら》ためていたが、彼の眼の前で振《ふ》りまわしている赤ん坊のえくぼのできた握《にぎ》りこぶしを揺すった。
「バイバイ、ぼうや。あんたの人生行路もずいぶん妙なスタートを切ったものだな。ときに乳母《うば》さん、あんただけにちょっと内密で話したいことがあるのですがね」
といって彼は乳母を小脇《こわき》につれてゆき、しばらく真剣《しんけん》になにか話していた。私には最後にいったあんたの心配も、ほんのしばらくだよ≠ニいう一語が聞きとれただけである。
乳母は気むずかしく口数のすくない女らしかったが、それで赤ん坊を抱いてさがっていった。
「メースン夫人はどんな性質の方ですか?」ホームズがたずねた。
「ごらんの通り、いたって愛想のない女ですけれど、あれで気立はごくいいのです。それに赤ん坊をよくかわいがってくれます」
「ジャック君はどう? 乳母さん好きかい?」
ホームズはふいに少年のほうへ向きなおって尋《たず》ねた。少年は感じやすく表情に富む顔をさっと曇《くも》らせ、かぶりを振った。
「ジャッキーはとても好悪《こうお》のはげしい子でしてねえ」とファーガスンは片手でわが子を抱くようにしながらいった。「幸いにして私はこれのお気にいりの一人です」
少年は甘《あま》たれて父の胸に頭を押しつけた。ファーガスンはやさしくそれを離《はな》しながら、
「さ、あっちへ行っといで」といって、少年の姿が見えなくなるまで、かわいくてたまらないという眼つきで見送った。やがてそのうしろ姿がまったく見えなくなるといった。
「ねえホームズさん、どうもこれはあなたにむだ足をふませたような気がしてなりませんよ。あなたに同情していただいただけのことで、これといってやっていただくこともないようじゃありませんか? しかしこれはあなたなんかの眼にも、よくよく微妙《びみよう》な、錯雑《さくざつ》した事件でしょうねえ」
「微妙なことは事実ですね」ホームズはさも面白《おもしろ》そうに微笑《びしよう》した。「しかし今のところ錯雑性はないと思いますよ。これは初めから知能の推理の問題ですが、最初の知的推理が、いくつかの独立した事項《じこう》によって一つ一つ確かめられると、主客が転倒《てんとう》することになって、ゴールに到達《とうたつ》したのだと確信をもっていえるようになるのです。私はベーカー街を出てくるとき、すでにこのゴールに到達していました。それ以後のことは、観察によって裏づけを求めただけのことでした」
ファーガスンは額にしわをよせたところへ大きな手を押しあてて、しゃがれた声でいった。
「ホームズさん、お願いです。この問題の真相がわかっておいでなのでしたら、焦《じ》らさずにどうか早く教えてください。私の立場はどうなるのでしょう? これからどうしたらよいのでしょう? ほんとに真相がおわかりなのでしたら、どこからどうしておわかりになったのか、そんなことは私としては問題じゃありません」
「いや、私としてはかならずあなたに説明すべきですし、いずれは申しあげるつもりです。しかしそれにしても、問題の処理方法は私におまかせくださるでしょうね? ワトスン君、夫人の状態は僕がお目にかかりに行っても大丈夫《だいじようぶ》だろうか」
「夫人は病気だが、話のできないほどじゃない」
「それはありがたい。奥さんの面前でないと話はつきません。さあ、ごいっしょに参りましょう」
「私には会ってくれません」ファーガスンは泣き声をだした。
「大丈夫、お会いになりますよ」といってホームズは紙きれに何やら二、三行走りがきした。
「ワトスン君、すくなくとも君は入室の許可を得ている。すまないがこれを奥さんに渡《わた》してきてくれないか」
私はまた二階へあがっていって、おずおずとドアを開けたドロレスに、ホームズの書いたものを渡した。するとまもなく部屋の中に、歓喜と驚《おどろ》きのいりまじった叫《さけ》び声がおこり、ドロレスがふたたび顔をあらわした。
「奥さんは皆《みな》さんにあいたい。奥さんは話をききたい」と彼女はいった。
私に呼ばれて、ファーガスンとホームズがあがってきた。われわれが部屋へはいってゆくと、ファーガスンはベッドの上に起きあがっている妻のほうへ二、三歩あゆみよったが、夫人がそれを拒《こば》むように片手をあげたので、彼《かれ》はそのままひじ掛《か》け椅子《いす》に腰《こし》をおとした。ホームズも驚いて眼を見はる夫人にかるく目礼してから、彼のそばへ着席した。
「ドロレスさんには席をはずしてもらってもいいのですが」ホームズがいった。「おや、そうですか。奥さんがそうおっしゃるのでしたら、いてもらってもいいのです。さてファーガスンさん、私は来客の多い忙《いそが》しい身です。話は簡単|直截《ちよくせつ》とゆきましょう。外科手術は手ばやくすればそれだけ苦痛が少ないですからね。まず手はじめに、ご安心のいくことから申しましょう。奥さんはたいへん温良で愛情ふかいかたなのに、ひどく虐待《ぎやくたい》されていらっしゃるのですよ」
ファーガスンはそれを聞くと、うれしそうな声をあげて坐りなおした。
「ホームズさん、その証明を聞かせてください。ご恩は一生忘れません」
「いいですとも。しかしそのためには、べつの方面であなたを深く傷つけることになりますよ」
「妻の潔白が立証されるのでしたら、私は何ものをも恐れはしません。それにくらべたら、どんな事もとるに足りません」
「ではまず、ベーカー街で私の胸に浮かんだ推理の過程から申しあげましょう。吸血鬼《きゆうけつき》という考えかたは、一顧《いつこ》の価値もないと思いました。イギリスの実際犯罪にはあり得べからざることです。しかるに、あなたの明確な観察があります。奥さんが口をまっ赤にして揺りかごのそばに立ちあがるところを、あなたは目撃《もくげき》しているのです」
「たしかにこの眼《め》で見届けました」
「そのときあなたは、出血した傷口を吸ったのは血をのむためでなく、なにかほかに目的があるということに、お気がつかなかったですか? イギリスの歴史にも、毒を吸いだすために傷口を吸った女王陛下があるではありませんか」
「なに、毒ですって?」
「南アメリカに関係のふかいご一家です。階下の壁《かべ》に飾《かざ》ってあるような武器の類があるにちがいないことは、まだ見ぬ前から直覚的に私にはわかっていました。事実はほかから来た毒なのかもしれないけれど、そのときはまずそれを思ったのです。
ところがこちらへうかがってから、壁に飾った小さな鳥弓のそばの矢づつが空《から》になっているのを見て、自分の予想が的中しているのを知りました。もし赤ん坊が、|ク《*》ラレ【訳注 南米原住民が毒矢に塗る】またはこれに類する猛毒《もうどく》のついている矢でチクリと刺《さ》されたら、その毒を早く吸い出さないかぎり、死んでしまいます。
それにあの犬をごらんなさい! もし誰《だれ》かが毒を使おうとすれば、その効果が失なわれていないか、まず試験してみたくならないでしょうか? 犬のいることは予想しませんでしたが、それを見てはすぐに合点がゆきましたし、また事実の跡《あと》づけにぴたりと合致《がつち》するものでした。
もうおわかりになったでしょう? 奥さんはそういう手出しをふだんから怖《おそ》れていたのです。そして現場を目撃したので、赤ちゃんの生命を救うため急いで毒を吸いとったのです。でもあなたには事実を打ちあけかねた――なにしろ坊《ぼつ》ちゃんへのあなたの可愛《かわい》がりかたがひと通りではないから、それをいえばあなたがどんなにか心を痛めると思ってねえ」
「あっ、ジャッキーが!」
「さっきもあなたが赤ん坊をあやしているとき、私はジャックの顔をよく見ました。よろい戸の片がわが閉まっていたので、その窓ガラスに映って、ジャックの顔はよく見えました。あんなに深いそねみ、けわしい憎悪《ぞうお》にみちた顔は見たこともないほどでしたよ」
「おおジャッキーがねえ!」
「事実と対決しなければなりますまいね、ファーガスンさん。ゆがめられた愛情、あなたやおそらくは亡《な》き母上への病的にまで強められた愛情が、こうした行動を喚起《かんき》したのです。ジャックの精神はあのすこやかな赤ん坊への憎悪で消耗《しようもう》しつくしたのです。自分の不自由なからだに対して赤ん坊の健康とかわいらしい美しさが憎《にく》くてならなかったのです」
「うむ、そんなことは信じられん!」
「奥《おく》さん、私の申したのが事実でしょうね?」
夫人は枕に顔をうずめてすすり泣いていたが、こういわれて顔を起こし、良人《おつと》の方へ向きなおった。
「私の口からどうしてそんなことが申されましょう? あなたがどんなにか心配なさるだろうと、私はそれがお気の毒だったのです。ですから私でなく誰かほかの人の口から、あなたにわかるのを待つほうがよいと思ったのです。それで魔術師のようなこのおかたが、さきほど、自分は何もかも知っていると書いておよこしになりました時は、ほっといたしましたわ」
「ジャッキー君は一年ほど海岸にでもゆかせてあげるのですね。これが私の処方です」ホームズは腰をあげていった。「奥さん、一つだけまだわからないことがあります。ジャッキー君を折檻《せつかん》なすったお気持は、私たちよくわかります。母としての我慢《がまん》にも限度がありますからね。それにしてもこの二日間、赤ちゃんを手もとへおかないで、よくいられましたねえ」
「メースン夫人にはすっかり打ちあけました。あの人は何もかも知っているのです」
「なるほど、私もそんなことだろうと思っていました」
ファーガスンはベッドのそばへよって、のどをつまらせながら、ふるえる両手をさしのべた。
「このへんで引きさがろうよ」ホームズが低い声で私にいった。「ドロレスのやつはちと忠実すぎるようだから、君|片腕《かたうで》をかいこんでくれたまえ。反対がわは僕《ぼく》が引きうける。それ!」と女中を廊下《ろうか》へつれだすと、ドアを閉めながら、「こうしとけば、あとは二人でいいように話をつけるだろうよ」
この事件については、あともう一つだけ注釈をつけておけば足りる。それはこの事件の発端《ほつたん》をなした手紙にたいしてホームズの書いた返事である。つぎのとおりだ。
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十一月二十一日 ベーカー街にて
吸血鬼について
拝啓《はいけい》 十九日付|御《ご》来信《らいしん》に関して、貴社|顧客《こきやく》であるミンシン小路《こうじ》の茶仲買商ファーガスン・アンド・ミュアヘッド商会のロバート・ファーガスン氏の事件調査をいたし、満足すべき結着を得ましたのでここに報告申しあげます。貴下のご推薦《すいせん》をあつく感謝しつつ
[#地付き]敬具
[#地付き]シャーロック・ホームズ
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三人ガリデブ
これは喜劇といってもよいし、悲劇と呼ぶこともできると思う。おかげで大の男が推理をやらされたし、私は流血をやらされ、さらにもう一人の男にいたっては法の制裁をうけることになった。それでいて事件にはたしかに喜劇の要素もあった。いずれが正しいかは、読む人の判断にゆだねよう。
私はこの事件の起こった年月をよく覚えている。いつかは詳《くわ》しい事のしだいを発表してもよいけれど、ホームズが功により士爵《ナイト》に列せられるのを辞退したのと同じ月に起こった事だからである。この辞退問題はことのついでにちょっと言及《げんきゆう》したまでであって、彼《かれ》の親友でありかつ協力者の立場にある私としては、不謹慎《ふきんしん》にわたる言辞は努めて避《さ》けなければならないのである。
しかしながら、重ねていうが、このことのために年月をはっきりいうことができるのであって、それは南アフリカ戦争の終結直後、すなわち一九○二年六月|末《すえ》のことであった。そのときホームズはしばしばくりかえす癖《くせ》で四、五日もベッドの中で暮《く》らしたあげくに、その朝やっとのことで起きだし、手に大きなフールスカップの書類を一枚もって、厳格な灰いろの眼《め》もとを面白《おもしろ》そうに輝《かがや》かしていったものである。
「ワトスン君、きみに金もうけのチャンスがころげこんだよ。ガリデブという姓《せい》を聞いたことあるかい?」
私は耳にしたことがないと答えた。
「残念だな。ガリデブという男を見つけさえすれば、金になるんだがねえ」
「なぜだい?」
「そいつを話せば長い話になるが、酔狂《すいきよう》な話でもある。これまで人間の複雑性を探求してきた中でも、これほど奇怪《きかい》な事件にぶつかるのは初めてだと思う。まもなくその男が反対《はんたい》尋問《じんもん》をしにここへ現われると思うから、詳しいことはそれからにするが、とにかくガリデブという男を探せばいいのだ」
テーブルの上に電話帳があったから、大して望みはかけなかったが、私はそれを繰《く》ってみた。すると驚《おどろ》いたことに、この妙《みよう》な名がそこにちゃんと出ているではないか。私は思わず勝利の声をあげた。
「あったよ、ホームズ君、ここに出ている!」
ホームズは電話帳を私の手からとってみて、
「N・ガリデブ、ロンドン西区リトル・ライダー街一三六番。気の毒だが、このガリデブは当の本人なんだよ。この手紙にちゃんと住所が書いてある。べつのガリデブを探さなきゃだめなんだ」
そのときハドスン夫人が盆《ぼん》に名刺《めいし》をのせてはいってきた。私は名刺をとりあげた。
「おや、またガリデブだぜ! しかも名前の頭文字《かしらもじ》がちがっている。アメリカ・カンサス州ムアヴィル、弁護士ジョン・ガリデブとある」
ホームズは名刺をみてにっこり笑った。「ワトスン君、きみは別のを探す努力をしなければならないよ。この紳士《しんし》もちゃんと筋書のなかへはいっているのだ。もっともこの人がけさ訪ねて来るとは思っていなかったがね。とにかく会ってみよう、知りたいことがかなり明らかになると思うから」
やがて本人がはいってきた。弁護士のジョン・ガリデブ氏は背のひくい、ひげはなく元気のよい丸顔で、アメリカの実務家によく見るタイプの男である。全体の感じはずんぐりして、どこか子供っぽいところがあり、それが満面に何となく下卑《げび》た微笑《びしよう》をうかべたところは、年よりもずっと若い印象をあたえた。
しかしながら、その眼は注意をひくものだった。およそ人間の顔についている眼で、これほどその内心の動きをはっきりと現わすものを私はあまり見たことがない。それほど生き生きとして油断なく、心の動きにつれて変化しているのである。言葉つきにはアメリカなまりがあったが、それほど耳ざわりなところはなかった。
「ホームズさんは?」と彼は私たちの顔を見くらべながらきいた。「ああ、あなたですね? やっぱり写真は争われないものとでもいいますかね。私の同姓者ネーサン・ガリデブさんから手紙をお受けとりになったでしょう?」
「どうぞお掛《か》けください。いろいろとお話がたくさんあるようです」とシャーロック・ホームズはさっきのフールスカップをとりあげていった。「むろんあなたが、この書類にあるジョン・ガリデブさんですね? それにしてもあなたはずっと前からイギリスにいらっしゃるらしいですね?」
「どうしてそんなことが言えます?」といった彼は、よく物をいうその眼の中に、にわかに疑惑《ぎわく》のいろをうかべたようだった。
「お支度《したく》がすべてイギリス風だからです」
ガリデブ氏は強《し》いて笑いながら、「あなたのその早業《はやわざ》は、本では読んでいますが、まさか自分がその材料にされようとは夢《ゆめ》にも思いませんでしたよ。どこからわかったのですか?」
「そのコートの肩《かた》の裁《た》ちかたや、靴《くつ》のつま先など、誰《だれ》にだってひと目でわかりますよ」
「おやおや、そんなにイギリス風になっているとは、ちっとも思いませんでしたよ。仕事の関係でしばらくこちらへ来ているものですから、それでお言葉のようにイギリス風になっているのかもしれません。しかしあなたもお忙《いそが》しいからだでしょうし、私も上衣《うわぎ》の裁ちかたを論じに来たわけではない。お手にあるその手紙のことを話しあおうじゃありませんか?」
どういうものかホームズの態度に客はいらだってきたらしく、その丸っこい顔は苦りきってみえた。
「まあ、まあ、忍耐《にんたい》が肝心《かんじん》ですよ、ガリデブさん!」ホームズはおだやかに宥《なだ》めた。「ワトスン博士に聞いてくださってもおわかりになりますが、私のこうした脱線的な言辞は、どうかすると後になって、事件とつながりのあったことがわかることもあるのですよ。それはそれとして、ネーサン・ガリデブさんをなぜ同道なさらなかったのですか?」
「あの男は何だってあんたのような人を引っぱりこまにゃならんのだ?」客は急に怒《おこ》りっぽくなって尋《たず》ねた。「またあんたとしてもどうするというんです? これは二人の紳士間の商取引なのに、その一方が探偵《たんてい》を頼《たの》むとは何たることです? けさあの男に会ったところ、あんたに頼むようなばかなことをしたというから、それで来てみたのだが、しかしまったく不愉快《ふゆかい》ですな」
「あなたに対する非難なんか少しもなかったですよ、ジョン・ガリデブさん。あの人としては目的を貫《つら》ぬきたさのあまり、私に相談したにすぎないのです。その目的というのは、あなたに取っても重大なことだというじゃありませんか。私ならいろんな情報を得る手段のあることを知って、あの人が相談をもちかけたのは、ごく自然のことだと思いますね」
客は怒った顔をしだいにゆるめた。
「そんなら話はべつですがね。けさあの男を訪ねたら、探偵に依頼《いらい》したというから、ここのアドレスを聞いて、すぐにこっちへやって来たのです。私は個人問題に警察の干渉《かんしよう》など受けるのはいやですよ。でもあんたが私たちに協力して、その男を探してくれるだけだというのなら、支障はないわけですからね」
「ま、そんなところですがね。そこで折角おいでになったのですから、あなたの口から詳しい事情をうかがおうじゃありませんか。このワトスン君なんか、細かいことは何一つ知らないのでね」
ガリデブは気を許さぬ眼つきでじろじろ私を見て、
「この人に知らす必要があるのですか?」ときいた。
「二人はいつもいっしょに仕事をしているのです」
「ふむ、べつに秘密ってわけでもありませんがね。じゃなるべく手短かに話しましょう。あんたがカンサス州の人だったら、アレギザンダー・ハミルトン・ガリデブといえば、ははアあの人かとわかるはずなんですがね。はじめは土地で金をつくった人ですが、のちにはシカゴの小麦相場でもうけました。しかしその金で彼はフォート・ドッジの西のほう、アーカンサス河の流域に、そう、優にお国の一つの州に相当するくらいの広い土地を買いました。牧場あり伐木地《ばつぼくち》あり、耕作地あり採鉱地あり、そのほか持主にドルをもたらすあらゆる種類の土地がその中にあります。
それでいて親類縁者《しんるいえんじや》というものが一人もない――いや、あるのかもしれないが、私はそんな話を聞いたことがない。それでも自分のおかしな名前に一種の誇《ほこ》りをもっていましたな。それがために私とも親しくするようになったのです。当時私はトピーカ市で弁護士をしておりましたが、ある日この老人の訪問をうけました。自分と同姓の人があると知って、飛びたつ思いだというのです。
そのことは老人の気まぐれな道楽でもあったわけですが、世のなかにガリデブ姓を名のるものがもっといないか、何とかして探したい決意をもっていました。私は、忙しい体だから、ガリデブ探しなんかに暇《ひま》をつぶして世界じゅうをまわっている余裕《よゆう》はないと断りました。すると、『そんなことをいうけれど、もし事がわしの思うとおりになってみろ、あんただってかならず探しに出るにちがいないのだ』といいましたが、私は冗談《じようだん》だろうと思っていました。ところがこの言葉には重大な意味のあったことが、まもなくわかりました。
というのは、老人はそれから一年たらずで死にましたが、あとで発見された遺言状《ゆいごんじよう》というのが、カンサス州はじまって以来の妙な遺言状で、全財産を三つに分けて、その一つを私にくれるというのですが、それには条件がついています。というのはガリデブという男をもう二人だけ発見したら、その二人に残りの三分の一ずつを与《あた》えるとともに、私も三分の一の所有が認められるというのです。三分の一で五百万ドルの価値があるのですが、三人そろわぬことには指一本|触《ふ》れることもできないわけです。
何しろ大きなチャンスですから、私は事務所を閉ざして、ガリデブ探しに乗りだすことにしました。そしてアメリカじゅうを探したがついに一人も発見できません。それこそしらみつぶしに探しまわったのですがねえ。
そこで大陸のほうへ手をのばすことにしたのですが、やっぱりロンドンですなあ、電話帳にちゃんと出ていましたよ。そこで一昨日でしたか訪ねていって、詳しく説明してきました。ところがこの人も私同様に独りもので、女の親類はあるけれど、ほかにガリデブ姓の男はいないというのです。何しろ遺言状には、男の成人が三人となっているのですからね。だからもう一人だけ足りないというわけですが、あなたのお力でもう一人ガリデブを探していただけたら、喜んで料金はさしあげますよ」
「どうだね、ワトスン君」とホームズは微笑をうかべていった。「だから僕《ぼく》は酔狂な話だといったろう? これは新聞の三行広告を利用なさるのがいちばん近道だと思いますがねえ、ジョン・ガリデブさん」
「もちろんもう出しましたよ。ところがさっぱり手答えがありません」
「ヘえ! そいつは不思議ですなあ。なお念のため暇をみて調べておきましょう。ところであなたがトピーカ市のかただとうかがってなつかしくなりましたよ。私はあそこにちょっとした知りあいがありましてね。いまは亡《な》くなりましたが、ライサンダー・スタール博士といって、一八九○年には市長をつとめていました」
「ああ、スタール老博士ですか。あの人の名はいまだに記憶《きおく》されていますよ。それじゃホームズさん、私のほうでできることは、あなたと連絡を保つことくらいのものですが、いずれ一両日のうちに、何かお知らせできるかと思います」
こういってアメリカ人は一礼して、帰っていった。
ホームズはパイプに火をうつして、妙な笑いを浮《う》かべてしばらく坐《すわ》っていた。
「どうしたんだ?」と私が尋ねると、
「どうも妙だよ。おかしくてならない」
「何がさ?」
ホームズは口からパイプをはなしていった。
「あの男はいったい何のため、取りとめもないうそっぱちをながながとしゃべっていったのか、いったいその目的はどこにあるのか、不思議でならないのだよ。あやうく彼にきいてみるところだった――というのは、真正面からの攻撃《こうげき》が最上策であることがしばしばあるからだが、まあまあだまされたような顔をしておくほうが有利だろうと思いなおして、さし控《ひか》えたのだ。
ここに一人の男があって、一年も着ふるしたとみえてイギリス仕立の服のひじはすり切れ、ズボンはひざが出ているのに、この手紙や本人の話によると、アメリカの田舎《いなか》もので、最近ロンドンヘ着いたばかりだという。それに新聞に三行広告なんか出てやしなかった。その点は君にもよくわかるだろうが、あれは僕にとって得がたい猟場《りようば》だからね。そんな獲物《えもの》がいれば、僕が見のがすはずがないやね。それにトピーカ市のライサンダー・スタール博士なんて僕は知りゃしないよ。というわけで、どこをとってみても、あの男のいうことはうそだらけだ。
あの男がアメリカ人であるのだけは、うそじゃなかろう。だが長いロンドン生活で、なまりはすっかりぬけている。じゃ彼は何をたくらんでいるのか? ガリデブ探しなんてとてつもない話の裏には、どんな動機がひそんでいるのか? とにかくこれは一応注目する価値があると思うのは、あいつが悪いやつだとして、なかなか腹のくろい巧妙《こうみよう》な人物であることはたしかだからね。そこでこのうえは、もう一人のガリデブ、すなわちこの手紙をよこしたネーサン・ガリデブもやはり悪いことをするやつかどうか確かめなければならない。ちょっと電話してみてくれないか、ワトスン君」
いわれた通りに電話をかけてみると、細い震《ふる》え声が聞こえてきた。
「はいはい、私がネーサン・ガリデブです。ホームズさんはそこにいらっしゃいますか? ちょっとお話ししたいことがあるのですが」
ホームズに受話器を渡《わた》したので、あとは断片的《だんぺんてき》にしか話は聞けなかった。
「ええ、見えましたよ。あなたはお知りあいじゃないのですね? ……いつから? ……たった二日ですか? ……ええ、もちろんうまい話ですよ。今晩はご在宅ですか? あの人は来《こ》ないでしょうね? ……わかりました。じゃうかがいます。あの人のいないところでお話がしたいのです。……ワトスン博士も同道しますよ。……お手紙を拝見して、あまり外出はなさらないとわかっていたのですが……じゃ六時ごろにうかがいますが、あのアメリカ人弁護士にはお話しにならないように……わかりました。じゃさよなら」
心地《ここち》よい春の日没《にちぼつ》どきのことで、エッジウエアの大通りから横にはいった、あのいやな思い出をもつ|タ《*》イバーン・ツリー【訳注 昔ここのタイバーン河岸のにれの枝で絞首刑を行なった】から目と鼻の間のリトル・ライダー街でさえ、沈《しず》みゆく太陽の斜光をうけて、金色にすばらしく輝いていた。私たちの目ざす家は大きくて古風な初期ジョージ王朝式の建物で、れんがづくりの正面は平坦《へいたん》な中に、一階の二つの出窓だけが深く出ばっていた。
わが依頼人はこの一階を住いにしていた。はいってみると低い窓のあるのはだだっ広い表の間で、起きている間はここにいるらしい。ホームズははいるとき、あの妙な名を彫《ほ》りこんだ小さな真鍮《しんちゆう》板を指さした。
「相当古いものだね」とその変色した表面を見ながら、「とにかく|彼の《ヽヽ》本名なんだな。このことは覚えといていい」
家には共同の階段があって、ホールにはいろんな人の名が、中には事務所の名や借間人らしい人の名も出ていた。ここは普通《ふつう》のアパートではなく、ボヘミアン独身者の住居になっているらしい。訪《おと》なうと依頼人がみずからドアを開けてくれ、雇《やと》い女が四時には帰ってしまうものだからと言訳けをした。
ネーサン・ガリデブ氏はひどく背が高くて、しまりのないからだつきの人だった。やせて背なかが曲り、六十をすぎているのだろう、頭もはげていた。運動などはしないとみえて、顔いろは死人のように青ざめている。それが大きな丸い眼鏡をかけ、突《つ》き出た山羊《やぎ》ひげをちょっぴりはやしているところは、前こごみの姿勢とともに、いかにも好奇心の強い人物という印象をあたえる。とはいっても全体の感じは、偏屈《へんくつ》ではあるらしいが、人好きのする人物だった。
ネーサン・ガリデブは以上の通りだが、その住んでいる部屋がまた相当のものだった。まるで小さな博物館である。幅《はば》も奥行《おくゆき》もかなり大きいのだが、大小の戸棚《とだな》や陳列《ちんれつ》棚をやたらにおいて、地質学と解剖学《かいぼうがく》の標本がぎっしり詰《つ》めこまれている。入口の両がわには蝶《ちよう》や蛾《が》の標本をおさめた箱《はこ》が積んであるし、中央の大きなテーブルには、あらゆるがらくたが散乱し、その中に強力な顕微鏡《けんびきよう》のながい真鍮管が立っている。
見わたしたところ、私はこの男の興味の普遍的《ふへんてき》なのに驚いてしまった。こっちには古代貨幣《こだいかへい》の箱があるかと思うと、そっちの陳列棚には燧石《ひうちいし》関係の収集がある。また中央のテーブルのかげには化石骨の戸棚があるし、上方にはネアンデルタールとかハイデルベルヒとかクロマニョンとか記号のついた石膏《せつこう》の頭蓋骨《ずがいこつ》がずらりとならんでいる。
とにかくいろんな題目について研究していることが知られる。私たちの前に立った彼《かれ》は、右手にセーム皮の一片を持っていたが、それで今まで貨幣をみがいていたのであろう。
「|シ《*》ラクサ【訳注 古代カルタゴ人の都市】の貨幣です、全盛期《ぜんせいき》のね」と彼は指につまみあげて見せながら説明した。「後期にははなはだしく劣悪《れつあく》になりましたが、全盛期のものはさすがにいいですよ。もっともアレキサンドリア系のほうを採《と》る人もありますがな。
そこいらに椅子《いす》があるでしょうから、どうかお掛けください、ホームズさん。失礼してこの骨をちょっと片づけます。それからあなた――そう、ワトスン博士でしたな――すみませんがその日本の花びんをちょっとわきへおよせください。こうして趣味《しゆみ》の品をまわりに集めておくわけでしてな。医者は外出しないことについてお説教しますが、こんなに私を引きとめる品がたくさんあるのに、それを振《ふ》りすてて外出なんかするものですかね。この陳列棚一つのものでも、整理して適当なカタログを作るとなると、たっぷり三月はかかりますからな」
ホームズは珍《めずら》しそうにあたりを見回していった。
「外出は絶対《ヽヽ》になさらないのですか?」
「ときたまサザビーやクリスティーの店へ馬車でゆきますがな。そのほかには外出することはまずありません。あまり体が丈夫《じようぶ》なほうじゃないし、それよりも研究に夢中《むちゆう》なものですからな。ところでホームズさん、こんどの途方《とほう》もない幸運の話をきいたとき、それが私にとって恐《おそ》ろしい――うれしい話じゃあるが、やはり恐ろしいショックであったのはおわかりくださるでしょう。
もう一人ガリデブという男がいさえすれば、それでいいというのだが、こりゃかならず見つかりますよ。私にも兄弟が一人いたことはいたけれど、死んでしまいました。女では資格がないということで……だが広い世の中には、一人くらいきっといますよ。
かねがねあなたは変った事件を扱《あつか》うのが専門と聞いておりましたから、それで手紙をあげたわけですがな。むろんこのアメリカ紳士《しんし》のいうことももっともで、まずあの人の注意を守るべきだったかもしれんが、私としてはいちばんよいと思ってそうしたまでですよ」
「そうですとも、あなたのなさったことはもっとも賢明《けんめい》でした」ホームズがいった。「でもあなたはほんとうにアメリカにある土地を手にいれたいとお望みなのですか?」
「なんの、なんの。どんなうまい話があっても、この収集品を手ばなしてまで行く気なんかありませんよ。でもあの人は、遺産|請求《せいきゆう》が成立のあかつきは、すぐ私の取り分を買ってくれるといいますでな。五百万ドルという話でした。いま私の収集の中に欠けているもので売りに出ている標本が一ダースばかりありますが、たった数百ポンドの金がないために買えずにいるのです。ここで五百万ドルもあったらと思うとねえ。私は国民的収集の中心になりますよ。さしずめ現代の|ハ《*》ンス・スローン【訳注 十八世紀イギリスの大博物学者】ですよ」
ネーサン・ガリデブは大きな眼鏡の奥で眼《め》をかがやかした。明らかにネーサン・ガリデブは、ガリデブをもう一人探すためなら、どんな労苦をも厭《いと》わぬつもりでいるらしい。
「私はただ一度あなたにお目にかかっておきたいと思っておうかがいしただけで、あなたのご研究をお妨《さまた》げする気なんか少しもありません」ホームズがいった。「ご依頼をうけたかたには、一度お目にかかっておくほうがいいものですからね。問題については詳《くわ》しいお手紙をポケットに持っていますし、あまりお尋ねしたいこともありません上に、アメリカのガリデブさんが私をお訪ねくださったので、わからないことはそちらからもうかがいました。あなたとしては最近――今週までアメリカのガリデブさんのことはご存じなかったのでしょうね?」
「そうです。この火曜日に初めて訪ねてきたのです」
「あの人は今日私に会ったことを、あなたにいいましたか?」
「帰りにここへ寄りましてな、ひどく怒っていましたよ」
「何を怒ったのでしょう?」
「名誉《めいよ》を傷つけられたと思ったらしいですな。でも帰るときには、すっかりきげんがなおっていましたよ」
「今後どうするつもりだというようなことを、なにか漏《も》らしてゆきましたか」
「そんなことは何もいいませんな」
「あなたからお金を受け取るとか、あるいは要求するようなことはなかったですか?」
「いやあ、そんなことはありませんよ」
「あの人は何か目的を抱《いだ》いているのだと思いませんか?」
「自分で言っていること以外に、目的があるとは思いませんね」
「さっきあなたと電話で打ちあわせしたことをあの人にいいましたか?」
「そりゃいいましたな」
ホームズはじっと考えこんだ。いささか途方にくれたらしい。
「こちらの収集品の中に、なにか高価なものがおありですか?」
「ありませんな。私は金持じゃないから、りっぱな収集じゃあるけれど、とくに著《いちじる》しく高価なものといっては一つもありませんよ」
「では盗難《とうなん》の心配なんかありませんね」
「さらにありません」
「こちらにはいつからお住まいですか?」
「もう五年ちかくなります」
ホームズの質問は、しきりにドアをノックするものがあるので中断された。部屋の主人が立っていって掛《か》け金をはずすや否《いな》や、アメリカのガリデブが興奮して転げるようにはいってきた。「やあ、まだいましたね」と弁護士のガリデブは頭の上で一枚の新聞紙を振りまわしながらいった。「間にあえばいいがと急いでやってきましたよ。ネーサン・ガリデブさんおめでとう! あなたは大金持になりましたよ。これで仕事は無事おわりました。大成功のうちにな。それからホームズさん、あなたにはむだなお手数をかけて、誠《まこと》にお気のどくでしたな」
彼は部屋の主人のガリデブに新聞を渡した。渡されたガリデブはしるしをつけた広告のところを見つめるばかりである。私たちはその肩《かた》ごしに広告をのぞきこんだ。つぎの通りである。
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ハワード・ガリデブ
農業機械製作業
刈禾《かりいね》結束機、刈取機、手動および汽動|耕耘機《こううんき》、条播機《じようはき》、耙砕機《はさいき》、農用荷車、四輪馬車、その他農用機器一式。掘抜《ほりぬき》井戸《いど》見積いたします。
ご用の方はアストンのグロヴナー・ビルへ
[#ここで字下げ終わり]
「万歳《ばんざい》!」主人のガリデブは歓声をあげた。「これで三人そろったわけですな」
「私はバーミンガムのほうまで問いあわせの手をのばしていたのです。ところがあちらの代理人から、この広告の出ている地方新聞を送ってきたのです。こうなったら急いで話をまとめなきゃなりません。さっそくこのガリデブに手紙を出して、あすの午後四時にあなたが事務所へ訪ねてゆくからと……」
「私《ヽ》に行けというのですか?」
「ホームズさんはどうお考えです? そのほうが賢明じゃないでしょうかね? 私のようなアメリカ人の風来坊《ふうらいぼう》が、人も驚《おどろ》くほどの妙《みよう》な話を持ちこんで、そのまま信じてくれるでしょうか? そこへゆくとあなたはれっきとしたイギリス人ですから、あなたが話すことには彼だって耳をかすに違《ちが》いありませんよ。何なら私もお伴《とも》してもいいのですが、あいにくとあすはひどく用事がたてこんでいましてね。万一話がわからないようなら、いつでも後から駆《か》けつけてあげますよ」
「さあ、私は何年もこんな遠方へ出かけたことがないのでねえ」
「なに、わけはありませんよ。ちゃんと手はずは考えてあります。十二時の汽車でたてば、二時すぎには向こうへ着いて、その晩のうちに帰ってこられます。あなたとしてはこの男に会ったら事情を説明して、実在の宣誓書《せんせいしよ》をとってくればいいのです。それになんです!」とここで急に熱をおびて、「私なんかアメリカくんだりからはるばるやって来たのです。それを思えばここへきて最後の仕上げに百マイルばかりの旅行がなんです!」
「それはそうですな」ホームズがいった。「このかたのおっしゃるのが本当だと思いますよ」
ネーサン・ガリデブ氏は浮かぬ顔で肩をすくめた。「ぜひにということなら行きましょう。私の生活にこんな輝《かがや》かしい希望をもたらしてくれたことを考えれば、あなたの言葉にはいやとも言われませんでな」
「じゃそれで話は決まりました」ホームズがいった。「できるだけ早く、私にも知らせてくださるでしょうね?」
「何とかしましょう。さて」とアメリカ人は時計を出してみて、いい足した。「私はこれで帰りますが、ネーサン君、あすはバーミンガム行きをお見送りにやってきますよ。ホームズさん、いっしょに帰りませんか? そうですか、じゃさようなら。明日の晩あたりはたぶん吉報《きつぽう》をお聞かせできますよ」
アメリカ人が帰ってゆくと、ホームズの顔は急に晴れやかになったようだった。あの当惑《とうわく》して考えこんだ様子はもうどこにもない。
「ガリデブさん、収集品を一度みせていただきたいですねえ。私のような職業をしていると、あらゆる雑学の知識が役にたちます。この部屋は失礼ながら知識の宝庫のようなものです」
依頼人《いらいにん》はうれしそうに笑《え》み崩《くず》れ、眼鏡の奥で両眼をかがやかした。
「いつもうわさをうかがっていますが、あなたはたいそう聡明《そうめい》なおかただそうで、お忙しくなければ、ゆっくりお目にかけましょう」
「あいにくといまはそうしてはいられないのでしてね。しかしこの標本はきわめてよく分類されているうえ、いちいちラベルがはってあるようですから、あなたの説明をうかがうまでもなくわかりますよ。明日はちょっと暇《ひま》がありそうですから、お寄りして見せていただきたいと思いますが、お差しつかえないでしょうか?」
「どういたしまして。いつでもごらんください。ここは閉まっていますけれど、四時前でしたら地下室にサンダーズ夫人がいますから、鍵《かぎ》も持っていますし、声をかけてくだされば開けてくれます」
「じゃあす午後おうかがいすることにします。あなたからもサンダーズ夫人に一言おっしゃっておいてください。ときにこの家の周旋人《しゆうせんにん》は何という人ですか?」
ガリデブはだしぬけに尋《き》かれて眼を丸くした。
「エッジウエア街のホロウエイ・アンド・スティール事務所ですが、それがどうかしましたか?」
「家のことになると、私もこれでいっぱし考証家でしてね」ホームズは笑いながらいった。「この建物はクイーン・アン朝式か、それともジョージ王朝式かなと迷っていたところですよ」
「ジョージ王朝式ですよ、申すまでもなく」
「そうですかね。私はもうちょっと古いかと思いますが、なに、すぐに確かめられますよ。じゃガリデブさん、さよなら。バーミンガム行きがあらゆる点で成功でありますように」
周旋人の事務所は遠くなかったが、行ってみるとこの日はもう閉まっていたので、そのままベーカー街へ帰ってきた。ホームズがこの問題を持ちだしたのは、夕飯のあとだった。
「どうやらこんどの問題も終結がちかいね。むろん君もだいたいの解決は心に持っているだろうがね」
「さあ、僕《ぼく》にはどこが頭だかしっぽだか、まったくわからないよ」
「頭だけははっきりしているのだが、あすはしっぽも明らかになるだろう。君、あの新聞広告に何か変なところは気がつかなかったかい?」
「そうさ。耕耘機(Plough)という字の綴《つづ》りがまちがっていた」
「おや、あれに気がついたのかい? ふむ、君はしだいに頭がよくなってくるね。イギリス人は使わないけれど、アメリカじゃああ書くのだよ。工場が原稿《げんこう》の通りに組んだのだね。それから四輪馬車(buckboard)というのがやっぱりアメリカ語だよ。それに掘抜井戸(artesian well)だが、こいつがまたイギリスじゃあんまりないけれど、アメリカじゃ普及《ふきゆう》している。要するにあれはイギリスの商会が出したように見せかけているけれど、そのじつ典型的なアメリカ広告なんだよ。いったいこれは何を意味するのだと思う?」
「あのアメリカ人の弁護士が出したものとしか考えられないね。その目的がどこにあるかまではわからないがね」
「それには二つの説明があると思う。いずれにしても、あの善良な化石じいさんをバーミンガムまで引っぱり出したかった。この点はきわめて明らかだね。あのじいさんに、ばかを見るだけだから行くのはよせと忠告してやってもよかったのだが、考えなおして、じいさんを行かせて舞台《ぶたい》を空《から》にしたほうがよかろうと思った。あすだよ。あすになれば自然にわかってくるよ」
翌朝ホームズは早く起きて、どこかへ出かけた。昼食のころ帰ってきたのを見ると、いかにも浮《う》かぬ顔をしている。
「ワトスン君、こいつは予想外の重大事件らしいよ。それをいえば、そうでなくてもこの危険にとびこみたがっている君の好奇心《こうきしん》を、いやが上にもかきたてるだけだけれど、黙《だま》っているのもフェアでないからいうのだ。ながい付きあいで君の人柄《ひとがら》はよくわかっているけれど、この事件には危険が伴《ともな》うのだよ。それを承知しておいてもらいたいね」
「危険を分かちあうのは初めてじゃないぜ。これが最後だなんてことにはならないように祈るがね。それでこんどのはどんな危険があるというのだい?」
「きわめて手ごわいやつが相手なんだ。ジョン・ガリデブの正体を突きとめたが、あれは邪悪《じやあく》な殺人で評判の殺し屋≠フエヴァンズなんだよ」
「といわれてもいっこうわからないね」
「そうだった。僕とちがって君は携帯用《けいたいよう》のロンドン監獄分類報《かんごくぶんるいほう》を頭の中へ入れとくのが商売の一部じゃなかったっけ。僕はレストレード君に会いに警視庁へいってきたところだ。あそこの連中ときたら、どうかすると直覚力に欠けているけれど、ゆき届いた調査とか整理にかけちゃ、世界に冠《かん》たるものだねえ。あのアメリカ人の記録も、ひょっとしたらあるんじゃないかと思っていたら、案の定、犯罪者写真|陳列所《ちんれつしよ》で、あの丸顔がにっこり笑いかけているじゃないか。ジェームズ・ウィンター、別名モアクロフト、またの名殺し屋<Gヴァンズと、その写真の下に書いてあったよ」
といってホームズはポケットから封筒《ふうとう》をとりだした。
「記録から要点を二、三書きとってきたが、シカゴ生れの年齢《ねんれい》四十四、アメリカ国内で三人の男を射殺、政治家の勢力を利用して刑務所《けいむしよ》を脱出《だつしゆつ》して一八九三年にロンドンへきた。一八九五年一月にはウォータールー通りのナイト・クラブでカードばくちのもつれから相手の男にピストルを浴びせた。この男はついに死んだが、ケンカはこの男のほうから仕掛けたということになった。しかもそれがシカゴの有名な貨幣《かへい》偽造者《ぎぞうしや》ロジャー・プレスコットだとわかったので殺し屋<Gヴァンズは一九○一年に釈放された。以来警察の注意人物になっている。要するにいつも武器を秘めていて、しかもいざといえば使うことを辞さない、きわめて危険な男なのだよ、わが相手というのはね」
「だがいったい何が目的なのだろう?」
「いまにわかってくる。僕は周旋所へいってきたが、ガリデブが五年前からあそこへ住んでいるというのはうそじゃない。その前には一年ばかり空いていたが、それまでいたのはウォドロンという紳士《しんし》だった。それがあるときふっと吹《ふ》き消すようにいなくなって、いつまで待っても帰っても来《こ》なければ、手紙その他の連絡もないのだという。
周旋所ではこの人の人相をよく覚えていたが、それによると背が高くて、色があさ黒くあごひげのある男だったという。ところが警視庁で尋いてみると、殺し屋<Gヴァンズに殺された偽造者のプレスコットがまた、背が高く色があさ黒くてあごひげがあったという。
そこで作業仮定として、アメリカの犯罪者プレスコットが、いまガリデブが小博物館にしている部屋にウォドロンという名で住んでいたものと考えてよかろうと思う。これでどうやら鎖《くさり》の環《わ》が一つだけ見つかったわけだ」
「してそのつぎの環は?」
「うむ、それはこれから大いに探さなければならないところだ」
ホームズはこういって引出しからピストルを出し、私に手渡《てわた》しながらいった。
「僕は愛用のがある。あのアメリカ人が綽名《あだな》の通りを実行しないともかぎらないから、こっちもそれに備えなきゃね。一時間だけ余裕《よゆう》があるから、昼寝《ひるね》でもしたまえ。それからライダー街の冒険《ぼうけん》とゆこうよ」
ネーサン・ガリデブの妙なアパートへ着いたのは、ちょうど四時だった。留守居をしていたサンダーズ夫人が帰るところだったが、何のためらいもなく中へ入れてくれた。ドアにはバネ錠《じよう》がついていて、閉めれば自然に締《し》まりができるようになっているので、ホームズが帰りにはまちがいなく閉めてゆくからと請《う》けあったからである。
やがて玄関《げんかん》を閉める音がして、帰ってゆく彼女《かのじよ》のボンネットだけが窓の前を横ぎった。つまりこれでこの家の一階にいるのは私たちばかりになったわけである。するとホームズは手ばやくあたりを調べてみた。そして暗い一角に戸棚《とだな》があって、壁《かべ》からすこし離《はな》しておいてあるのを見つけた。結局私たちはこの戸棚のうしろに踞《しやが》んでいることになったが、そこで彼《かれ》はこれからの意図をかいつまんで、小声で教えてくれた。
「あいつは愛すべきじいさんをこの部屋から追いだしたかったのだ。この点は議論の余地はないが、じいさんがまるで外出をしない人物なので、何とか方法を講じなければならない。そこで考えだしたのがガリデブの遺産という旨《うま》い話だ。あのじいさんの姓《せい》が妙ちきりんな姓なところから考えついたには違いないにしても、これはたしかに怖《おそ》るべき悪《わる》知恵《ぢえ》だったよ。しかもそれを驚くべき巧妙《こうみよう》さで実行している」
「それにしても何が目的なのだろう?」
「さあ、それを知るために今日はやって来たのだが、僕の見るかぎりでは、この部屋の主人公には関係のないことだね。殺した男――プレスコットに関係したことだと思うが、おそらく悪の仲間だったのかもしれない。それでこの部屋になにかよからぬ秘密でも潜《ひそ》んでいるのじゃないか? と僕はこうにらんだのだ。はじめ僕は、あのじいさんの収集品の中に、本人は知らないでいるけれど、悪いやつのねらいそうな案外高価な品でもあるのじゃないかと思った。だがあの悪名たかかったロジャー・プレスコットがこの部屋にいたことがあるとわかってみると、そんな単純なことじゃなく、原因はもっと深いところにあるという気がしてきた。だからワトスン君、この上はじっと辛抱《しんぼう》して、どんなことになるか待つしかないのだよ」
そうながく辛抱するにも及《およ》ばなかった。玄関を開けたてする音がしたので、私たちはより暗いほうへとにじり寄ったのである。やがて鍵をまわす鋭い金属性の音が聞こえて、例のアメリカ人が部屋へはいってきた。彼は静かにドアを閉ざすと、じろりとあたりを見まわし、誰《だれ》もいないのを見届けてから、やおらオーヴァーをぬぎ、何をどうすべきかをよく心得たもののように、つかつかと中央のテーブルに歩みよった。そしてテーブルをわきへ押《お》しやり、その下にあった四角い絨毯《じゆうたん》をめくり、くるくると筒《つつ》のように巻きとっておいて、内ポケットから短いカナテコをとりだし、そこへひざをついてはげしく何かやりだした。
やがて木のきしる音がして、ぽかりとそこの床《ゆか》に四角い穴があいた。殺し屋<Gヴァンズはマッチをすって短いろうそくをともし、私たちの視界から消えていった。
いまこそ好機である。ホームズは私の手首にさわって合図した。そこで私たちはそっと穴の口に忍《しの》びよったのである。しかしながら、十分気はつけていたのだが、古い床が足の下できしりでもしたのだろうか、アメリカ人が穴の中からぬっと首をあらわし、あたりの様子をうかがった。そして私たちの姿を見かけると、あわてて怒《いか》りの形相ものすごく、ハタとにらみつけたが、二挺《にちよう》のピストルが自分の頭をねらっているのを知って、しだいにその怒りをやわらげ、はては照れたような苦笑をさえ浮かべた。
「やあ!」彼は穴から出てきて冷やかにいった。「二人がかりとは恐《おそ》れいりましたな、ホームズさん。お前さんはこっちの目論《もくろ》みを見破って、はなから小僧《こぞう》っ子|扱《あつか》いしていたらしい。こうなったらお前さんに引きわたすよ。おれの負けだから……」
その瞬間《しゆんかん》、彼は胸からピストルをとりだすやいなや、つづけて二発うち放した。私はまっ赤に焼いた鉄を押しつけられたような痛みを股《もも》に感じた。同時にホームズがピストルの台じりでがんと相手の頭を打ちおろした。アメリカ人が顔に血をたらしながら床の上に伸《の》びるのと、ホームズが彼の体をさぐってピストルを取りあげるのを、私は夢《ゆめ》のような気持で見ていた。それからホームズの細いが強い腕《うで》が私を抱《だ》いて椅子《いす》に掛《か》けさせてくれた。
「ワトスン君、やられたのじゃなかろうね? 後生だから、そんなことはないといってくれ」
怪我《けが》が何だろう――もっとたくさんの怪我を受けても何でもない――マスクのような冷やかな顔のかげにこんなにも深い誠実と愛情を秘めているのだと知った今、私はそう思った。澄《す》んだ鋭《するど》いひとみもしばし曇《くも》り、かたくむすんだ唇《くちびる》は震《ふる》えていた。このとき初めて私は、頭脳の偉大《いだい》さにも劣《おと》ることなく、彼の心情のきわめて大きいのを知り得たのである。多年にわたる私の取るにたらぬ、しかし心からなる奉仕の生活は、この天啓《てんけい》の一瞬に頂点に達したのである。
「何でもないよ、ホームズ君。ほんのかすり傷だ」
ホームズはポケット・ナイフで私のズボンを切り裂《さ》いてみた。
「なるほど、ただ掠《かす》っただけだ」と安心のため息をもらしたが、上半身を起こしてきょとんとした顔をしているアメリカ人に気がつくと、急に冷たい顔になって、「神のめぐみでお前さんも助かったというものだ。もしワトスン君を殺しでもしていてみろ、生きてこの部屋を出しゃしなかったんだ。どうだ、何かいいわけでもあるのかい?」
悪漢はなにもいいわけなんかなかった。ただ苦りきって床の上にへたばっているばかりだった。私はホームズの腕によりかかるようにして、いっしょに穴の中をのぞきこんだ。エヴァンズの持っておりたろうそくがまだ燃えているので、さびついた何かの大きな機械、大きな巻取紙、散乱するびん、小さなテーブルの上にきちんと並《なら》べてあるいくつもの小さな紙束《かみたば》などが見えた。
「印刷機だ。――紙幣偽造の設備だよ」とホームズがいった。
「そうです」エヴァンズはよろよろと立ちあがったが、すぐ椅子に腰《こし》をおとした。「ロンドンはじまって以来最大の設備ですよ。プレスコットの機械ですがね。テーブルの上の束はプレスコットのこしらえた札《さつ》で、二千枚ありますが、どこへ持っていったって一枚百ポンドでりっぱに通用しますぜ。よかったら持っていきませんか? ねえ、それで手を打って、私を見のがしてくれませんか?」
ホームズは笑った。
「そんなわけにはゆかないね。この国にはお前さんの隠《かく》れるところなんかないのだ。プレスコットという男を射殺したのはお前さんじゃなかったのかね?」
「そりゃそうだが、そのために私は五年もくらいこんできたんだ、それも向こうがさきに手出しをしたのにね。五年ですぜ。――それどころか私はスープ皿《ざら》ほどあるメダルをくれてもいいはずだと思っているんだ。プレスコットの発行した札ときたら、イングランド銀行の札と誰にも見わけがつきゃしない。だから私があいつをアウトにしなかったら、ロンドンはプレスコットの札でだぶつくところだったんですぜ。
プレスコットがどこでその札を作っていたか、知ってるなア世の中で私ひとりだ。してみれば私がここをねらう訳もわかりましたろう? ところがここには妙《みよう》ちきりんな名の気ちがいじいさんががんばっていて、昆虫学者《こんちゆうがくしや》だか何だか知らないけれど、てこでも動こうとしない。そうなるとこっちも、じいさんを追いだすため一世一代の知恵を絞《しぼ》らなきゃならねえってわけでさあ。
いっそひと思いに眠《ねむ》らしちまったほうが賢《かしこ》かったかもしれませんがね。眠らすのは何の造作もありゃしねえが、こう見えて私はいたって気のやさしい男でね。相手がピストルを持ってでもいなけりゃ、決して射《う》ってかかる気にはなりませんのさ。だけどホームズさん、私がどんな悪いことをしたというんですかい? この機械を使ったわけでもなけりゃ、あの爺《じい》さんに害を与《あた》えたわけでもない。それだのにどこが悪くて私をひっ縛《くく》るというんですかい?」
「まあいってみれば謀殺未遂《ぼうさつみすい》というところだろう。だがそんなことはわれわれの知ったことじゃない。第二段の人たちが然《しか》るべくやってくれるだろう。いまわれわれの望むところは、おとなしくしていてもらうことだけだね。ワトスン君、警視庁へちょっと電話をたのむよ。向こうもまんざら予期しないことでもなかろうがね」
というわけで、以上が殺し屋<Gヴァンズとその発明になる三人ガリデブという話のいっさいである。その後耳にしたところによれば、たった一人のほんとのガリデブ老人は、夢の消え去ったショックからふたたび立ち直れなかったという。空中の楼閣《ろうかく》が崩壊《ほうかい》したので、あわれや彼はその下敷《したじき》になってしまったのである。なんでも最後はブリクストンの養老院にいるとかいう話だったが、それきり消息を聞かなくなってしまった。
プレスコットの偽造設備が発見されたことは、警視庁にとってたいへんな喜びであった。それのあることだけはわかっていながら、本人が殺されてしまったので、ながいこと捜査不能《そうさふのう》になっていたからである。
エヴァンズはその点大きな手柄《てがら》をたてたわけで、おかげで刑事部の有能な係員が何人か枕《まくら》を高くして眠れるようになった。それというのもプレスコットの偽造技術は断然優秀で、それだけ社会は危険にさらされていたからである。警視庁では、本人の漏《も》らしていたようなスープ皿ほどのメダルだって、喜んで贈《おく》るところだったが、物わかりの悪い判事はそれほど甘《あま》い見解をとらず、そのため殺し屋≠ヘ最近出てきたばかりの暗いところへ、逆もどりとなったのである。
[#地付き]―一九二五年一月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
ソア橋
チャリング・クロスのコックス銀行の地下金庫のどこかに、元インド軍付、医学博士ジョン・H・ワトスンとふたにペンキで書きこんだ、旅行いたみのしたガタガタのブリキの文箱《ふばこ》が保管されているはずである。この中には書類がぎっしり詰《つ》まっているが、その大半はシャーロック・ホームズ氏がいろんなことから捜査《そうさ》にあたった奇怪《きかい》な事件を記録したものである。そのあるものは、面白《おもしろ》いことに、まったく失敗だった。そういうものは、最後の解決がないのだから、まずお話にならない。解決のない問題というものは、研究者にとっては面白いかもしれないが、気楽に読もうという読者には退屈《たいくつ》でしかなかろう。
これら未完成の事件の中には、自宅へ雨傘《あまがさ》を取りにはいったきり、この世から姿を消してしまったジェームズ・フィリモア氏の話もある。また春のある朝、大したこともない霧《きり》の中へ帆走《はんそう》していったまま出てこなくなり、乗組員もろとも永久に消息をたってしまったアリシア号という小艇《カツター》の不思議な事件もある。
また第三の注目すべきものとしては、有名なジャーナリストであり、決闘者《けつとうしや》だったイザドラ・ペルサーノの事件がある。この人は科学界にもまだ知られていない珍《めずら》しい虫のはいったマッチ箱を前において、じっとそれを凝視《ぎようし》したまま発狂《はつきよう》しているのを発見されたのである。
こうした未解決の事件はべつとして、一家の秘密に関することで、それがもし活字になりでもすると、多くの上流家庭を恐慌《きようこう》におちいらせるようなものもいくつかはある。いうまでもないことだが、このような不信の行為《こうい》は許されるべきでもないし、この種の記録は事件の暇《ひま》を見てホームズに選《え》りわけてもらい、破棄《はき》するとしよう。
それでも残るところは、興味の大小こそあれ、かなりの件数にのぼるのであるが、これらはとっくに世間に発表して、何人《なんぴと》にもまして私の尊敬してやまない人の名声の上に反映させてもよかったのだけれど、あえてそれをしなかったのは、一にかかって諸君の食傷をおそれたがためにすぎない。それらのあるものには私が親しく関係したから、目撃談《もくげきだん》として語り得るものもあるし、また私は現場にいなかったか、関係しても一小部分にすぎず、第三者としてしか話を伝えられないものもある。これから話す事件などは私自身が経験したものに属する。
それは風の強い十月のある朝のことだった。私は起きて裏庭を飾《かざ》るたった一本のスズカケの木の残り少ない枯葉《かれは》が、ひらひらと風に舞《ま》いおちてゆくのを見ながら服をつけおわると、芸術家の常として環境《かんきよう》に気分を支配されやすいホームズは、さだめししょげていることだろうと、食事のため階下へ降りていった。
ところが意外にも、彼《かれ》は食事もほとんど終ったところで、気分もことのほか晴れやかに、そういった快活なときの癖《くせ》でうす気味わるいほどじょうきげんだった。
「ホームズ君、何かはじまったらしいね?」と尋《き》くと、
「推理の才能には伝染性《でんせんせい》があるのだね」という返事である。「おかげで僕《ぼく》の秘密をかぎあてたじゃないか。いかにも事件だよ。一カ月も平凡《へいぼん》と沈滞《ちんたい》に苦しめられたが、やっとどうやら軌道《きどう》に乗ってきた」
「僕も割りこんでいいかい?」
「君を煩《わずら》わすほどのこともないが、まあ新しいコックがわれわれのために作ってくれた二個の固ゆで卵を君が平げたら、ディスカッションをやってもいい。どうもこのゆで加減ときたら、きのうホールのテーブルで見た家庭雑誌≠ニ関係がないでもないらしい。卵をゆでるというだけのささいなことでも、時間の経過に気をくばるという注意力を必要とするんだね。あの結構な雑誌の恋愛小説《れんあいしようせつ》を読みふけっていては両立しないわけだ」
十五分ばかりたって、テーブルが片づけられると、私たちは改めて顔を向かいあわせた。彼はまずポケットから一通の手紙をとりだした。
「君は金山王のニール・ギブスンの名を聞いたことがあるかい?」と彼はいった。
「アメリカの上院議員のかい?」
「そう、西部から一度上院議員に出たことがあるが、それよりも世界一の金山王としてのほうが名が通っている」
「その男のことなら聞いている。たしかしばらく前からイギリスに住んでいるし、名前もひろく知られている」
「そう、五年ばかり前にハンプシャーでかなり大きな邸宅《ていたく》を買いとったのだね。では細君が気の毒な死にかたをしたのも聞いているだろうね?」
「むろん聞いた。そういわれていま思いだしたよ。名前が知られているのもそのためもあるね。しかしあの事件も詳《くわ》しいことは何も知らないがね」
ホームズは椅子《いす》の上においた新聞紙のほうへ手を振《ふ》って、「僕もこの事件のお鉢《はち》がまわって来《こ》ようとは少しも思わなかった。そうと知ったら切りぬきくらい用意しとくんだったよ。じつはね、この件はひどくセンセーショナルであったわりに、問題は何の困難があるとも思われなかった。被告の人柄《ひとがら》が面白いからといって、そのため証拠《しようこ》の明白さを曇《くも》らすものではなかった。というのは検屍《けんし》陪審団《ばいしんだん》の意見でもあるし、軽罪裁判所の記録にもそう出ているのだが、事件はいまウィンチェスターで巡回《じゆんかい》裁判にかかっている。どうも損な仕事のような気がするね。僕も事実を発見する力はあるが、事実そのものを曲げる能力はないからねえ。何か思いがけない新事実でも現われないかぎり、せっかくだが依頼人《いらいにん》も失望するしかないのじゃないかな?」
「依頼人というと?」
「ああ、話すのを忘れていた。どうも君のわるい癖がうつって、僕は話の前後をとりちがえるようになったらしいよ。まあこれから先に読んだほうがいい」
といって彼がよこしたのは、太い達者な字で書いた次のようなものだった。
[#ここから1字下げ]
十月三日 クラリッジス・ホテルにて
シャーロック・ホームズさま
神の創《つく》りたまいし最も良き婦人が空《むな》しく死にゆくのを、これを救うべき何らの手段を講ぜずして黙視《もくし》することは私にはできません。私は事の真相を知りません。いな、真相であろうかと思われるものさえ説明できません。知っているのはただダンバー嬢《じよう》がぜったいに潔白なことのみです。
国中のうわさになっているのに、一人として彼女《かのじよ》のため弁護しようとするものあるを聞きません。この不公正を見て私の心は狂《くる》わんばかりです。かの婦人の心情は一匹《いつぴき》の蠅《はえ》すらあえて殺し得ざるほどです。よって私は明日午前十一時貴下を訪問し、この暗黒に光明をもたらすべき手段がないか、ご意見を求めんとするものです。私は有力な反証を持ちながら、あるいは気づかずにいるのかもしれません。私は私の知るすべてを、持てるすべてを、そして名誉《めいよ》のすべてをかけて、ひたすら彼女が救出されることのみを相願うものです。なにとぞいまこそ全力をあげて懸命《けんめい》の努力を傾倒《けいとう》せられんことを。
[#地付き]敬具
[#地付き]J・ニール・ギブスン
[#ここで字下げ終わり]
「というわけなのだよ」とホームズは食後のパイプの灰をたたきだして、ゆっくりと新しく詰めかえながらいった。「この紳士《しんし》の来るのを待っているのだがね。話の筋道については、これだけの新聞にみんな眼《め》を通している余裕《よゆう》はなかろうから、君がこの訴訟事件《そしようじけん》にほんとに興味をもつというのなら、僕から簡単に話さねばなるまい。
この男は世界の経済界を牛耳《ぎゆうじ》っているが、性格は手におえぬほど激越《げきえつ》だということだ。細君というのは、こんどの事件の犠牲者《ぎせいしや》となったわけだが、すでに女盛《おんなざか》りはすぎた年ごろだということしか僕も知らないけれど、そこへもってきて二人の子供の教育を指導するため雇《やと》った家庭教師がたいへん美しい女だったということが、不幸のもとだったらしい。
関係者は以上の三人で、場所は歴史的なイギリスの領地の中央の広大な古い領主館《りようしゆやかた》の中だ。つぎに事件だが、この大実業家の妻が、ある夜|更《ふ》けてから、館から半マイルちかく離《はな》れた庭の中で、ディナードレスの肩《かた》にショールを巻いたまま、頭部をピストルで射ぬかれて死んでいたのだ。
射《う》ったピストルはもとより凶器《きようき》らしいものは付近に見あたらないし、犯人の手掛《てがか》りになるようなものも残っていなかった。凶器が付近になかったのだよ、ワトスン君。ここが肝心《かんじん》だよ。犯行は宵《よい》をずっとすぎてからのことらしく、猟場番《りようばばん》が死体を発見したのが十一時ごろのことだった。死体は家の中へ運びこむ前に、警察と医者によって検死をうけた。――これでは説明が簡単すぎるかい? それともわかることはわかるかい?」
「よくわかる。それがどうして家庭教師に疑いがかかったのだい?」
「それはね、まず第一にきわめて直接的な証拠があるのだ。というのは口径が死体の弾痕《だんこん》と一致《いつち》するばかりか、一発だけ射ってあるピストルが、彼女の衣裳戸棚《いしようとだな》の底から出てきたのだ」ここで彼はひとみをこらし、きれぎれに「彼女の――衣裳――戸棚の――底から――」とゆっくり繰《く》りかえしてみていたが、それきり黙《だま》りこんでしまった。
どうやら一連の思索《しさく》が始まったらしいので、いま何かいいだしてそれを妨《さまた》げてはならないと思い、私は黙っていた。するとだしぬけに彼はわれにかえって、また話しつづけた。
「ね、ワトスン君、ピストルが出てきたのだ。のっぴきならぬ証拠だ――と二人の陪審員が考えた。つぎに死んだ女は、その場所で会おうと書いた家庭教師の署名のある紙きれを身につけていた。これをどう思う? おまけに動機まであるのだ。ギブスン上院議員は魅力《みりよく》ある男だ。もしその妻が死ねば、そのあとを継《つ》ぎそうなのは、主人からすでに眼をかけられているこの若い婦人を除いて誰《だれ》があるか? 恋《こい》と金と力と、すべてが一人の中年女の生命にかかっている。醜悪《しゆうあく》だよ。じつに醜悪だね!」
「まったくねえ」
「では彼女はアリバイでも持っていたか? それどころか彼女はその時刻に自分がソア橋――というのが悲劇の現場なのだが――の近くへ行ったことを認めなければならなかった。通りかかった村のものに姿を見られているので、否認《ひにん》できなかったのだ」
「それでは決定的のようだな」
「しかもなおだ。それでいながらだよ、ワトスン君。この橋は中間に橋脚《きようきやく》のない石の幅《はば》ひろい橋で、両がわに欄干《らんかん》がついているが、邸内にある葦《あし》の茂《しげ》った長く深い池のもっとも狭《せま》くなった部分にかかっていて、門から玄関《げんかん》まで達するいわゆる馬車道《ドライブ》の一部をなしているわけなのだ。この池はソア池と呼ばれている。この橋のたもとに夫人の死体は倒《たお》れていたのだ。以上が主要な事実だが、だいぶ早すぎるようだけれど、どうやら依頼人がきたらしいぜ」
給仕のビリーがドアをあけた。だがここで取りつがれた人の名は、私たちの予期に反していた。マーロウ・ベーツ氏というのだが、これは私たち二人とも知らない人である。見るとやせこけた神経質な男で、おびえたような眼をして、態度もびくびくとためらい勝ちである。――医者としての私の眼から見ると、その男はまったく神経|衰弱《すいじやく》になる寸前であった。
「だいぶ興奮していらっしゃるようですが、まあお掛《か》けください。ベーツさん」ホームズがいった。「しかしせっかくですが、十一時にある人の訪問があるはずですから、ながくはお相手いたしかねるかと思いますけれどね」
「知っています」客は息切れでもするように、ぽつりといった。「ギブスンさんはもうすぐ見えます。私はあの人に使われているもので、屋敷《やしき》の管理をしております。ホームズさん、あの人は悪人ですよ。極悪非道《ごくあくひどう》の悪人です」
「だいぶきついお言葉ですな、それは」
「時間がありませんから、言葉は強くなります。ここへ来たことをあの人に知られたら大変です。いまにもあの人は来ると思いますが、私としてはこれより早くは来《こ》られない事情にあったのです。あの人がここへ来る約束《やくそく》になっていることは、秘書のファーガスンさんから今朝きいたばかりなものですからね」
「それであなたは管理人なのですね?」
「私は辞職を申し出ました。二週間たてばいまわしい束縛《そくばく》を振り払《はら》うことができます。あれは無情な男ですよ、誰にでもね。いろいろ慈善行為《じぜんこうい》をするのだって、すべて私生活の上の罪科をかくすためにすぎません。中でも最大の犠牲者は奥《おく》さんでした。奥さんへのあの人の仕打ちは残酷《ざんこく》でした。じつに残酷でした。どんなふうにして亡《な》くなったのですか、それは私にはわかりませんけれど、奥さんの生活を不幸なものにしたのはあの人です。奥さんは熱帯育ち――ご承知のとおりブラジルの生まれでした」
「ほう、それは初耳でした」
「生まれも育ちも熱帯地方です。太陽と情熱の娘《むすめ》です。そういう人の常として、奥さんは激情的にあの人を愛したのでした。でも肉体的な魅力が衰《おとろ》えるにつれて――若いころは非常な美人だったと聞いていますが、あの人を引きとめる力がなくなりました。
私たちはみんな奥さん贔屓《びいき》で肩をもつかわりに、その奥さんへの仕打ちをみて、あの人を憎《にく》んでいました。でもあの人はずるくて口が達者です。じつはこれだけのことをお耳に入れておきたかったのです。決して見かけ通りに受けとってはいけません。あの人にはいつも裏がありますからね。ではこれで失礼します。いえ、引きとめないでください! もうあの人が来るころです」
怯《おび》えたような眼つきで柱時計を見やると、この奇妙《きみよう》な客は文字どおり戸口へ駆《か》けてゆき、そのまま姿を消してしまった。
「おやおや!」ホームズがしばらくたっていった。「ギブスンはまったく忠実な使用人を持ったものだな。だが忠告はなかなか有益だった。これでいつ本人がきても大丈夫《だいじようぶ》だね」
約束の時刻きっかりに、階段に重い足音がして、有名な百万長者が部屋へ通された。私は彼を見ただけでいまの管理人の恐怖《きようふ》や憎悪《ぞうお》ばかりでなく、多年実業界の多くのライヴァルたちが彼の上に積みかさねた呪《のろ》いが理解できたのである。もし私が彫刻家《ちようこくか》で、鉄の神経と革《かわ》の良心をもつ実業界の成功者像をでも製作するのだったら、この人をモデルに選ぶであろう。
背が高く、やせて骨ばったその姿は、渇望《かつぼう》と貪欲《どんよく》を暗示するものだった。エブラハム・リンカーンの高尚《こうしよう》さをとり去って、それに下劣《げれつ》さを加えたような男といえば、いくらか形容しうるであろうか。顔は花《か》崗岩《こうがん》でも刻んだように骨ばって硬《かた》く、冷酷で、多くの恐慌《きようこう》を乗りこえてきた思い出のしわがふかく刻まれている。もじゃもじゃの眉《まゆ》の下から冷やかな灰いろの眼で私たちを見くらべた。そしてホームズが私を紹介すると、申しわけばかりに頭をさげ、それから自若《じじやく》たる横柄《おうへい》さでホームズのそばへ椅子を引きよせ、骨ばったひざをすりつけんばかりに近く腰《こし》をおろした。
「率直《そつちよく》にいうが、ホームズさん」と彼は始めた。「この事件は金など問題じゃありません。真相を解明するのに役にたつなら、札束《さつたば》に火をつけて燃してくれてもよろしい。あの女は何も知らないのです。だから何としても疑いをはらしてやらねばならん。ぜひお骨折りがねがいたい。いくら要《い》りますかな?」
「職業上の報酬《ほうしゆう》には、一定の規準を設けています」ホームズは冷やかにいった。「まったく申しうけないこともありますが、それ以外この規準をかえたことはありません」
「ふむ、金では左右されないというのだったら、名声はどうだな? この問題に成功すれば、イギリス並《なら》びにアメリカじゅうの新聞が君のことを誉《ほ》めたたえることになり、両大陸のうわさのたねにされるだろう」
「ありがたいですが、私はそんなに書きたてられたいと望んではいません。こう申せば意外だとおっしゃるでしょうが、私はむしろ名前を出さずに仕事をしたいのです。私が興味をもつのは事件そのものの性質です。ま、こんな話は時間の空費にすぎません。お話の要点をうかがおうじゃありませんか」
「要点のおもなものはすべて新聞に出ているようだ。私としてこれにつけ加えて参考に資することは別にないと思う。しかし君のほうで何か尋《き》きたいことでもあれば、何なりと答えよう。そのために私はここへ来たのですからな」
「では一つだけお尋《たず》ねしたいことがあります」
「何ですか?」
「あなたとダンバー嬢との関係は、正確に申してどうなのですか?」
金山王はきっとして半ば腰をあげたが、すぐにどっしりとした落ちつきを示していった。
「そういう質問をするのも君の権利――職業上の必要からなのかな?」
「まあそう思っていただきましょう」
「ではいうが、二人の関係はどこまでも雇い主と使用人、それも言葉を交《かわ》したこともなければ、子供の相手をしておるとき以外は顔をあわせたことすらない」
ホームズはおもむろに立ちあがった。
「私は至って忙《いそが》しい身でして、むだ話をしている暇はありませんし、その趣味《しゆみ》も持ちません。これでお引きとりをねがいましょう」
客もおなじように立ちあがったが、のっそりと背の高いからだはホームズの上にのしかかりそうだった。そしてもじゃもじゃの眉の下の眼に怒《いか》りをたたえ、色の悪いほおをやや紅潮させた。
「こりゃいったいどうしたことです? ホームズさん、あなたはこの事件を放棄《ほうき》しなさるのか?」
「とにかくお引取りをねがいましょう。私の言葉は明瞭《めいりよう》だったと思います」
「十分明瞭だった。しかし裏になにかあるのじゃないか? 報酬を釣《つ》りあげたいのか、手にあいそうもないというのか、それとも何だ? はっきりした返事を聞く権利がある」
「そう、たぶんあるでしょうね。ではお答えしましょう。この事件は初めから相当|錯綜《さくそう》している上に、偽《いつわ》りの情報によってますます解決が困難になると思われるからです」
「というと私が嘘《うそ》をついているというのだな?」
「さあ、私としてはできるだけ遠まわしに表現したつもりだったのですが、あなたがどこまでもその言葉に固執《こしつ》なさるのでしたら、あえて反対はいたしません」
私は思わず立ちあがった。この大富豪《だいふごう》がまるで悪鬼《あつき》のような相好《そうごう》を示し、大きな握《にぎ》りこぶしを振りあげたからである。だがホームズは無感動な微笑《びしよう》をうかべるだけで、パイプのほうへ手をさしのべた。
「お静かに願いますよ、ギブスンさん。朝食のあとではちょっとした議論をしても、すぐ心が乱れるものでしてね。朝の外気を吸いながら散歩でもなさって、少し冷静にお考えになったら、大いに得るところがおありになると思いますが」
金山王はつとめて怒りをしずめた。大いなる自制心をもって、燃えあがる激怒《げきど》をおさえ、一瞬《いつしゆん》にしてそっけない人をばかにしたような冷淡《れいたん》な態度にかえったのは、さすがはこの人と舌をまくしかなかった。
「よろしい、君の選択《せんたく》にまかせよう。仕事の運営については君にお考えがあることと思う。君の意志に反してまでこの事件を引きうけさせることは私にもできない。君は今日だいぶ損をしましたぞ。私は君なんかより強い男でも負かしてきたのだからな。私は今まで誰にも逆らわれた覚えがない。それで通してきたのだ」
「多くの人が同じようなことをいいますがね。さてどんなものでしょう?」ホームズは微笑をうかべていった。「ではさようなら、ギブスンさん。まだまだあなたが学ぶべきことがたくさんありますよ」
客はがたぴしと荒々《あらあら》しく出ていったが、ホームズは立ちもしないで夢《ゆめ》みるような眼で天井《てんじよう》を見つめたまま、黙って泰然《たいぜん》とタバコをふかしてばかりいた。しばらくたって、
「ワトスン君はどう思う?」ときいた。
「そうだね、僕《ぼく》は考えるのだが、あれは自分の通路に横たわる障害物は何でも強力に押《お》しのけてゆく男であるし、細君には秋風がたって、さだめし鼻についていたことだろうから、管理人のべーツという男のいったとおり、これはやっぱり……」
「そこだよ。僕にもそう見える」
「しかし家庭教師との関係は果してどうだったのだろう? 君は知っているような口ぶりだったがねえ?」
「はったりさ、ワトスン君、はったりだよ! あの手紙の情熱的で型やぶりで非事務的な調子と、本人の何となく打ちとけない態度と対照してみて、どうも死んだ細君よりも疑いをかけられている女のほうに、より深い関心を抱《いだ》いているのが明らかだった。問題の真相を知るためには、この三人の関係を正しく理解する必要があると思った。そこであの通り正面から切りこんでみたが、あの男は泰然とうけ流してしまった。これではいけないと、ほんとうをいうとほんの疑惑《ぎわく》にすぎないことを、さも確信があるようなことをいって、はったりをかけたのさ」
「ひき返してくるだろうね?」
「ひき返してくるさ。ひき返してこなければ|ならない《ヽヽヽヽ》よ。彼《かれ》は事件をいまのままに放《ほう》ってはおけないものね。ほら、いまのはベルじゃなかったかい? やっぱりそうだ、足音がする。――やあ、ギブスンさん、いまもワトスン君にあなたのお出《い》でがおそすぎると話していたところですよ」
金山王は出ていった時よりだいぶ従順になっていた。無念そうな眼をみれば、自尊心を傷つけられた口惜《くや》しさがまだ残っていたが、目的を遂《と》げたかったら、ここで屈伏《くつぷく》するしかないのを、常識によって教えられたことは確かだった。
「よく考えてみましたがね、ホームズさん、君の言葉をすこし誤解していたという気がしますよ。何事によらず、事実を知りたいという君の要求は、これは当然のことです。それでこそ立派な態度というものです。しかしダンバー嬢《じよう》と私の関係は、この問題にはまったく関連がありません」
「それを決めるのが私の役じゃありませんか?」
「そう、そういうものでしょうな。君はまるで外科医のようだ。容態を詳《くわ》しく聞いてからでないと、診断を下しなさらん」
「まったくです。そういえばはっきりします。それに外科医をあざむく目的をもった患者《かんじや》にかぎって、自分の容態を隠《かく》そうとするものです」
「それはそうかもしれません。しかしあなたも認めてくださるでしょうが、女性との関係をあけすけに質問されたら、たいていの男はたじろぐのではないでしょうか――たとえそれが真面目《まじめ》な気持からであってもね。多くの男は心のすみのどこかに、人にはあかさない秘密をもっていて、むやみにほじくられるのを喜ばないものだと思う。しかるに君はいきなりそこを突《つ》いてきた。とはいうものの君のは彼女《かのじよ》を救うためという目的が目的だから、深くはとがめないことにしましょう。さあこれで制止札はおろされた。門戸開放です。どこからでも踏査《とうさ》してください。何が知りたいのだな?」
「真実をです」
金山王は考えを整頓《せいとん》でもするように、しばらく口をつぐんでいた。しわの深いこわい顔はますます沈痛《ちんつう》に、重みを加えてみえたが、やがて話しはじめた。
「話はごく簡単です。それには申しづらくもあり、また申しにくいところもあるから、必要以上に深くは触《ふ》れないことにしよう。
私が妻を知ったのはブラジルで金鉱を探しまわっていた時代のことだった。マリア・ピントオはマナオスの役人の娘で、たいそう美人だった。そのころは私も若く元気な青年だったが、いま冷静に批判的になった眼《め》で当時を振《ふ》りかえってみても、彼女が世にもまれな美しい娘であったことは認められる。それに濃艶《のうえん》で情熱的で、生一本《きいつぽん》で熱帯的で気まぐれなところは、それまでに私の知っていたアメリカ女などにはまったく見られない魅力だった。
こんな話をしていては際限がないけれど、要するに私は彼女に恋《こい》し、結婚《けつこん》したのです。だが新婚の夢もさめてみると――それまでには何年かが流れていったが――私たち夫婦《ふうふ》には何一つ共通なものがないことを覚《さと》ったのです。私の愛は冷めた。向こうもそうであってくれたら、話はずっと簡単だったのです。だが女の愛というものはねえ! 私がどんなことをしても、彼女は私から離《はな》れてゆこうとしない。
私が彼女につらくあたったのも、ある人は残酷な仕打ちだとさえいうが、ただ一すじに彼女の愛を冷やし、できれば憎しみにかえたほうが、二人にとって幸福だと思えばこそです。だが何としても彼女の心は動かなかった。彼女は二十年前にアマゾンの岸辺《きしべ》で私を熱愛したとおなじに、いまもなおこのイギリスの森のなかで愛撫《あいぶ》するのをやめないのです。私がどんなことをしようとも、どこまでも私を熱愛してやまないのです。
そこへこのグレース・ダンバー嬢というものが現われた。広告を見て応募《おうぼ》し、二人の子供のため家庭教師になったのです。新聞で写真をごらんになったと思うが、これまた世にもまれな美人の折り紙をこぞってつけられました。ところでそういう点では私も世間なみの男であるにすぎない。そういう女性と一つ屋根の下に起き伏《ふ》しして、日々顔をあわせ言葉を交えていれば、強く心をひかれ恋情《れんじよう》を持たないではいられない。ホームズ君はそういう私を非難しますか?」
「そういう感情に対しては、私は何も申しません。しかしこの婦人はある意味であなたの庇護《ひご》のもとにあるわけですから、あなたがその愛情を表明なすったのなら、そのことはよくないと思います」
「うむ、多分ね」といった百万長者の眼の中には、ほんのしばしではあるがホームズの非難に対する怒りのいろが現われた。「私は良い子になろうとするものではない。私はこれまで、欲《ほ》しいものがあったら、いつでもそっちへ手をのべてきた男だ。だがこんどほど――この女の愛をかちとり、この女を独占《どくせん》したいという欲望にもまして大きな強い望みを抱いたことはなかった。そのことは彼女にも打ちあけたくらいです」
「あっ、そうでしたか! お話しになったのですね?」ホームズは感動するとひどく怖《こわ》い顔をしてみせる男である。
「できるものなら結婚したいが、私だけの力では何ともならない。金など問題ではないし、あなたの幸福のためなら、どんなことでもするつもりだと話したのです」
「それはたいそうな気前を見せましたね」ホームズはあざけりの笑いをこめていった。
「待ちたまえ、ホームズ君。私は証拠《しようこ》の問題で来たのであって、道徳問題で来たのじゃない。君の批判など聞かなくてもよろしい」
「私がこの事件をお引受けするのは、その若い婦人の上を思うからにすぎません」ホームズはきっとなっていった。「その婦人の容疑が何であれ、じっさいはあなた自身が認めた罪、つまりあなたが同じ屋根の下にいる頼《たよ》りすくない娘を破滅《はめつ》させようとした罪よりも一そう悪質なのかどうか、私は何も知りません。あなたがた富豪の中には、金さえ出せばどんな罪悪も償《つぐな》えると思っている人もあるようですが、世の中はそんなものでないことを教えられるべきだと思うのです」
意外にも、金山王はこの非難を落ちついて聞き流した。
「私もいまそれを感じているのです。私の考えが計画どおり実現しなかったのは幸いでした。ダンバー嬢はそれを受けいれないばかりか、すぐ辞《や》めるといいだしたのです」
「それがなぜ辞めてゆかなかったのです?」
「第一に彼女には扶養《ふよう》すべき家族があるから、自分の収入を犠牲《ぎせい》にするのは、その人たちの困ることを思えば、身がるには動けなかった。それで私が二度とこんなことで悩《なや》まさないと誓《ちか》ったので――私は誓いました――それで彼女は辞めるのを思い止《とど》まったのです。しかし理由はもう一つあった。彼女は自分が私に対して影響力《えいきようりよく》を、どんな力にもまして強い影響力を持っていることを知って、それを善いことに利用する気だったのです」
「どんなふうにですか?」
「そう、彼女は私の仕事のことをいくらか知っていた。私の仕事は大きい――普通《ふつう》の男にはちょっと信じられぬくらい大きいのです。私は相手を生かすも殺すも自由だった――多くは破滅さすほうだったけれど。それも個人ばかりが相手じゃない。団体のこともあり、都市のこともあり、国家が相手のことすらあった。事業は激《はげ》しい勝負です。弱いものは負けてしまう。私はいつでも全力をあげて勝負をいどみました。自分でも決して弱音ははかないかわり、他人がいかに悲鳴をあげようと容赦《ようしや》はしません。しかし彼女の考えかたはちがっていた。あるいはそのほうが正しかったのでしょう。
何万という人を路頭に迷わせておいて、必要以上の巨富《きよふ》を一人の人間が蓄積《ちくせき》すべきではない――彼女はそう信じかつ言っていました。そういうのが彼女の考えかただったし、じっさいにより永遠なもののほうへドルを流すようにも仕向けたのです。そこで彼女は、私が彼女の言葉をきき入れ従うのを知って、私の行動に制肘《せいちゆう》を加えることによって、社会に奉仕していると信じていたのです。それでふみ止まることにしたが、そこへこんどの事件です」
「それについて何か説明はありませんか?」
金山王はしばらく口をつぐみ、両手で頭をかかえてじっと考えこんだ。
「彼女にはたいへん不利です。それは否定しない。それに女は内面生活の複雑なもので、その行動にも男性の判断の及《およ》ばぬものがある。最初は私も不意をうたれてうろたえたあまり、平素の行状にも似ず、なにか異常な情況《じようきよう》のもとに、たいへんなことを仕でかしてくれたのかと思った。だがそのとき一つの説明が頭に浮《う》かんだ。それをありのままに申しましょう。
妻がはげしくねたんだことは申すまでもありません。いったい精神的なねたみというものは、人を狂気《きようき》じみさすことにおいては、けっして肉体的なねたみに劣《おと》るものでない。妻も後者についてはねたむべき原因がまったくなかった――そのことは本人がよく承知していたと思うのですが――それでもこのイギリス娘《むすめ》が私の心と行動とに対して、自分さえ持っていない強い影響力を持っていることに気づいたのです。それは善意の影響力だったのだけれど、そんなことで事態はおさまりません。妻は憎悪《ぞうお》で半狂乱になりました。彼女の血管にはいまもアマゾンの熱い血が流れていたのです。ダンバー嬢を殺してしまうことも考えたでしょう。それともピストルでおどかして、追いだす気だったとでもいいましょうか。いずれにしてもそこでつかみあいとなり、どうかしたはずみに弾丸《たま》が出て、それを持っていた女を射ぬいたのかもしれないと思うのです」
「そういう可能性には私も気づいていました。まったくのところ、たくらんで殺したものでなかったら、それが唯一《ゆいいつ》の考えかたです」
「しかしダンバー嬢はそれを極力|否認《ひにん》しているのです」
「といってそれで決定的というわけではない。そうでしょう? そういう怖《おそ》るべき立場におかれた女が、夢中《むちゆう》でピストルを手にしたまま家へ逃《に》げ帰り、気がついて夢見《ゆめみ》心地《ごこち》のままそれを衣裳戸棚《いしようとだな》へ投げこんでおく。ところが当然それがあとで発見され、追及《ついきゆう》をうけますが、どうせ弁解は不可能と見て、偽《いつわ》って何もかも否認するということもあり得るかと思うのですが、この仮説をくつがえすものが何かありますか?」
「それはダンバー嬢の人柄《ひとがら》です」
「はあ、なるほどねえ」
ホームズは時計を見ていった。
「今日のうちに必要な許可証をとって、夕方の汽車でウィンチェスターへ行けると思います。そしてこの若い婦人に会って話を聞いてみれば、この事件の解決には大いに有効だと考えます。ただし私の結論がかならずあなたのご希望に一致《いつち》するか、その点になると今からお約束はできかねますけれどね」
役所の手続きに案外手間どったので、その日はウィンチェスターへ行くかわりに、私たちはニール・ギブスン氏のハンプシャーの屋敷《やしき》ソア・プレースへ行った。ギブスン氏は同行しなかったが、最初にこの事件を手がけた土地の警察のカヴェントリー巡査部長《じゆんさぶちよう》の住所を聞いていった。
カヴェントリー部長は背が高く、やせて顔いろの悪い男で、妙《みよう》に口数すくなく、何か腹に持っていそうな様子があり、口外はしないけれど何か大きな疑惑でも胸にたたんでいるのじゃないかと思わせた。それに何か大切と思うことを話すときは、急に声をおとしてもったいぶる癖《くせ》があったが、聞いてみるとごく下らないことが多かった。こういう妙な癖はあるけれど、元来ごく正直で慎《つつ》しみぶかい男であるのがすぐにわかった。手にあわないくせに、もてあましているともいわず、他人の助力に顔をそむけるほど我《が》のつよい男ではなかった。
「いずれにしても、警視庁の人なんかよりは、あなたに来ていただいたほうがうれしいですよ、ホームズさん。警視庁の人にはいりこまれると、私たちは成功しても手柄にはならないで、万一失敗でもすればしかられるだけですからね。そこへゆくとあなたは話のわかるかただと聞いていますよ」
「私はまったく表面に顔を出す必要はありません」とホームズがいったので、この陰気《いんき》な部長|殿《どの》ほっとしたらしい。「もし捜査《そうさ》に成功しても、私の名を出してほしいなどと要求はしませんよ」
「それはたいそう気前のよいお話です。それにお伴《つ》れのワトスン先生も信頼《しんらい》できるかたとお見受けします。ではホームズさん、ご案内しますが、その前に一つだけお尋《たず》ねしたいことがあります。これは今まで誰《だれ》にも明かさないでいたのですが……」と彼《かれ》はいかにも言いたくないといった様子でそっとあたりを見まわした。「あなたはニール・ギブスン氏自身が怪《あや》しいとは思いませんか?」
「それを考えていたところですよ」
「ダンバー嬢にはまだお会いにならないそうですが、彼女はどの点からいっても立派な美しい人です。ギブスンが妻を邪魔《じやま》にしたのは当然ですよ。それにアメリカ人は、われわれと違《ちが》って何かというとすぐピストルですからね。しかもあれは彼《ヽ》のピストルなのですよ」
「その点は確かめてみたのですか?」
「確かめましたとも。あれは彼が持っていた一対《いつつい》のうちの片っぽうです」
「一対? あとの一つはどこにあります?」
「あの人はいろんな飛び道具をたくさん持っているので、あれと対のはついに見あたりませんでした。――しかし箱《はこ》はありました。一対おさめるようにできているやつです」
「一対になっていたとすれば、おそろいのがかならず見あたるはずですがねえ」
「とにかく有りったけあの家に並《なら》べてありますから、何でしたらご覧くだされば」
「いずれね。では出かけましょうか。さしあたり悲劇の現場から見ることにしましょう」
以上の話は、村の駐在所《ちゆうざいしよ》になっているカヴェントリー巡査部長の質素な家の表の間で交《かわ》されたものである。見わたすかぎり黄金色あるいは青銅色にいろあせた羊歯《しだ》のまじる吹《ふ》きさらしのヒースの原を行くこと半マイルあまりで、ソア・プレースの屋敷へはいる横門のところへ出た。そこから雉《きじ》の禁猟地《きんりようち》の中を、小道づたいに歩いてゆくと、やがて視界がひらけ、小高い丘《おか》の上に半ばテュードル式、半ばジョージ王朝式の半木造の館《やかた》が幅《はば》ひろく横たわっているのが望まれた。そして身近には葦《あし》の繁《しげ》る長い池があり、中央のくびれたあたりには石橋があって、正門からはいってくる馬車道がその上を通っていた。案内にたった巡査部長はこの橋のたもとで立ちどまり、地上の一点を指さした。
「そこがギブスン夫人の死体のあったところです。あの石は私が目じるしに置いたのです」
「あなたの来る前に誰か死体を動かしはしなかったのでしょうね?」
「そんなことはありません。何より先に私を呼びに走らせたのです」
「誰の処置ですか?」
「ギブスンさんご自身です。急を聞いて彼は屋敷から他の人を連れて駆《か》けつけると、すぐに警察から誰かくるまで何一つ動かすことはならないと命じたのです」
「それは賢明《けんめい》でした。新聞記事でみると、ごく近接して射《う》たれているとありますね?」
「そうです、至《し》近距離《きんきより》からです」
「右のこめかみのあたりですね?」
「こめかみのすぐ後です」
「死体はどんなふうに倒《たお》れていたのですか?」
「仰《あお》むけです。争った様子はありません。何の形跡《けいせき》もなく凶器《きようき》も見あたりませんでした。左の手にダンバー嬢からの短い手紙のようなものをつかんでいました」
「つかんでいたのですね?」
「指を開かすのに骨が折れました」
「それはきわめて重視すべきです。偽《にせ》の手掛《てがか》りを提供する目的のもとに、誰かが死後に手に持たせたのではないかという疑いが、それによって一掃《いつそう》されるわけです。ははあ、その手紙というのはごく短く『九時にソア橋でお待ちいたします――G・ダンバー』というのでしたね?」
「そうです」
「ダンバー嬢は自分の書いたものだと認めましたか?」
「認めました」
「それに対してどう弁明しているのですか?」
「答弁は巡回裁判まで留保されています。いまのところ何もいおうとしないのです」
「この問題はたしかに興味がある。それにしてもこの手紙はきわめてあいまいじゃありませんか?」
「さあ、生意気なことをいうようですが、私にはこの手紙が唯一の明らかな点だという気がしますがねえ」
ホームズは頭を振った。
「手紙が偽《にせ》ものでなく、たしかに本人の自筆だとしてもですよ、夫人が受けとったのはそこに書いてある時刻の九時よりも前、少なくとも一時間なり二時間なり前だったにちがいありません。それを夫人はなぜまだ左手に握《にぎ》っていたのでしょう? なぜ後生大事と持っていたのでしょう? 会見にはそんなものを持ちだす必要はなかったはずです。どうです、これは注目に値《あたい》すると思いませんか?」
「なるほど、そうおっしゃれば、そんな気もしますねえ」
「私はここへ腰《こし》をおろして、しばらく静かに考えてみたいと思います」
そういってホームズは石の欄干《らんかん》に腰をおろした。そして鋭《するど》い灰いろの眼を八方にくばっていたが、ふいに立ちあがると反対がわの欄干に駆けより、ポケットからレンズをだしてそこの石の表面を調べだした。
「どうも妙だな」と彼はいった。
「その傷には私も気がつきました。通行人がどうかしたのでしょうね」
欄干の表面はねずみいろだったが、一カ所六ペンス銀貨くらいの大きさに白くなったところがある。よく見れば、そこは何かの鋭い一撃《いちげき》にあって、欠けたものであることがわかる。
「これだけの傷は、ちょっと打ったくらいではつきません」ホームズは何か考えながら、持っていたステッキで数回橋の石の出っぱりを打ちおろしたが、少しも傷はつかなかった。
「やっぱり相当強く打ったのです。しかも妙なところを打ったものです。上から打ちおろしたのじゃなく、下から打ちあげている。見たまえ、この傷は石の出っぱりの下の角《かど》にありますよ」
「でも死体のあった場所から少なくとも十五フィートは離《はな》れていますからねえ」
「そう、十五フィートはありますね。だからこの事件には無関係なのかもしれないが、一応注意する価値はあると思います。じゃここにはもう何も見るものはないようです。足跡はまったくなかったといいましたね?」
「地面が鉄のように固いですからね。足跡も何もつきっこありゃしませんよ」
「じゃもうここはいいでしょう。まず館へいって、お話のピストルを見せていただきましょう。それからウィンチェスターへ行くことにします。これ以上捜査をすすめる前に、ダンバー嬢《じよう》に会っておきたいですからね」
ニール・ギブスン氏はまだロンドンから帰っていなかったが、今朝べーカー街へ訪ねてきた神経質なベーツ君がいた。その案内で、主人が長い冒険生活《ぼうけんせいかつ》のうちに収集したいろんな形と大きさの銃器《じゆうき》の怖るべき群を見てまわることができた。
「ご本人を知り、その遣《や》り口を知っているものには何の不思議もないことですが、ギブスンさんには敵がたくさんあります。ですから枕《まくら》もとの引出しには装弾《そうだん》したピストルがいつでもおさめてあります。気性のとても激しい人ですから、私たち一同びくびくすることがよくありました。亡《な》くなった奥《おく》さんなんか、威《おど》かされてばかりいらしたのだと思います」
「奥さんに肉体的な暴力をふるったのを目撃したことがあるのですか?」
「そうはいえませんが、それに近いような、冷酷《れいこく》で骨を刺《さ》すような侮辱《ぶじよく》の言葉を、使用人の前もかまわず投げつけるのをよく聞きました」
「この百万長者どの、私生活はあんまりぱっとしないようだね」駅のほうへ歩いてゆく途中《とちゆう》でホームズはこういった。「それはそうと、ここへ来たおかげでいろんなことを知った。中にはまったく新しいのもあるが、それでも結論を得るには至らないようだ。ベーツはだいぶ主人を憎《にく》んでいるようだが、それでも僕《ぼく》はあの男から、急を聞いたときギブスンは書斎《しよさい》にいたのだということを確かめてきた。夕食の終ったのは八時半で、そのときまではふだんと少しも変りはなかった。報《し》らせを受けたのはずっと後だが、悲劇はあの手紙に書いてある時刻ごろ起こったのだ。
ギブスンは五時にロンドンから帰ってきて以後、戸外に出たという証拠はまったくない。これに反してダンバー嬢は、橋のところで夫人に会うと約束《やくそく》したことを認めているという。そこまでは認めながら、弁護士の助言をうけて、あとは何もいわなくなったのだ。この婦人にはぜひ尋ねたいきわめて重要な質問がいくつもあるから、僕としては会うまでは気が気じゃないよ。じつをいうとね、彼女《かのじよ》の容疑は僕としても黒としか思えないのだが、ただ一つあの問題があるのでねえ」
「何だい、一つとは?」
「衣裳戸棚からピストルが出てきたことさ」
「何かと思ったら、僕はあれこそ彼女にもっとも不利な点だと思っていたよ」
「そうではないのだよ。僕は初め無責任に新聞を読んだときからすでに、この点がきわめて変だと思っていたのだが、捜査を引きうけてよく考えてみた今になっても、この点だけに望みを託《たく》しているのだ。捜査はすべて矛盾《むじゆん》の有無《うむ》に注意しなければならない。どこかに終始一貫しないものがあったら、偽《いつわ》りの存在を考えてみるべきだ」
「どうもよくわからないね」
「じゃあね、ワトスン君。いまかりに君を、冷静な熟慮《じゆくりよ》の上でライヴァルを亡きものにしようと決心した一婦人だと考えることにしよう。君は計画をたてた。手紙を届けた。相手はやってきた。君は凶器を用意している。目的はとげた。ここまではまことに手際《てぎわ》よく、完璧《かんぺき》だった。ここまではいかにも巧妙《こうみよう》に事をはこんでおきながら、凶器は手近の沼《ぬま》の中にでも打っちゃっておけば、葦の根が永久に包みかくしてくれようものを、せっかくの功をたちまち欠いて、そのまま家へ持ってかえり、事件の発覚とともにまっ先に捜査されるに決まっている衣裳戸棚なんかへ突っこんでおくだろうか? これじゃいくらひいき目に見ても、君のことを策士《さくし》だとはいえないね。いくら君だって、そんなお粗末《そまつ》なことをするとは思わないがね」
「心の平静を失なって……」
「だめ、だめ、何と考えてもありえないことだよ。犯罪が冷静に前もって計画されているとすれば、事後の逃避法《とうひほう》だって同じように冷静に前もって計画されているはずだ。だから僕たちはいま、重大なる錯誤《さくご》の中に立っているのだと思う」
「しかしそうとするには、説明を要する点がたくさんあるよ」
「だからさ、その説明をつけようじゃないか。いったん視点を変えてみると、今まで罪の確証にみえていたことが、こんどは逆に真実への手掛《てがか》りになる。たとえばあのピストルがそうだ。ダンバー嬢はまったく覚えがないといっている。新しい仮説の上に立って考えれば、彼女がそういうのは、事実を述べているのだ。だからピストルは衣裳戸棚に故意におかれたものだ。では誰がおいたのか? 彼女に罪をかぶせたいと願うものの仕業《しわざ》だ。ではそれが真犯人なのか? どうだ、これで捜査上もっとも効果の多い線が出てきたじゃないか」
手続きがまだ完全でなかったので、私たちはウィンチェスターでひと晩|泊《と》まらなければならなかったが、翌朝はダンバー嬢の弁護をまかされているいま売りだしの弁護士ジョイス・カミングズ氏たち会いのもとに、監房《かんぼう》に彼女を訪《おとず》れることを許された。私は今まで聞いた評判によって、彼女が美人であることは予期していたが、じっさい会ってみて同嬢からうけた印象は生涯《しようがい》忘れられないであろう。
さすがの傲慢《ごうまん》な百万長者も、彼女の中に自分以上に力づよい何物かを――自分を導き支配さえする何物かを認めたのもあえて不思議とするに足りない。人はまた、彼女の強い、くっきりとした、それでいて明知さをたたえた顔をみて、衝動的《しようどうてき》な行為《こうい》をもやりかねない女だと感じるかもしれなかった。それにもかかわらず見るからに彼女には生れつきの高貴な性質が、つねに周囲のものによい感化を与《あた》える気高い性質が感じられるのである。
彼女はブルネットで背が高く、上品な容姿で態度も堂々としていたが、その黒い眼《まな》ざしの中には、網《あみ》に捕《とら》われていくらあがいても逃《のが》れるすべのないのを知った動物の眼《め》をみるように、訴《うつた》えるような絶望的な表情があった。
だがいまや有名なホームズが救いの手をさしのべて現われたのを見て、青ざめたほおにはさっと血の気がさし、私たちのほうを見るひとみの中には、一筋の光明が輝《かがや》いたのである。
「ニール・ギブスンさんから、私たちのことお聞きになりましたでしょうね?」興奮をおさえた低い声でまず尋ねた。
「うかがいました」ホームズが答える。「しかしそういう点に話を持ちこんで、苦しい思いをなさるには及《およ》びません。あなたにお目にかかったので、私はギブスン氏のいったことを――あの人へのあなたの影響力《えいきようりよく》の点も、あなたとの関係が何でもないという点も、二つともそのまま信ずる気になりました。しかしなぜそのことを法廷《ほうてい》ではっきりさせなかったのですか?」
「まさかこんな疑いをうけることになろうとは、夢《ゆめ》にも考えませんでした。家庭内の痛ましい内情を明るみへ持ちだすまでもなく、放《ほう》っておけば真相が自然にわかるものと思っておりました。でも今となっては真相がわかるどころか、だんだんむつかしくなってきた事がわかりました」
「ねえお嬢さん」とホームズは必死になっていった。「甘《あま》い考えはどうか捨ててくださいよ。こちらのカミングズさんにお尋ねくださってもわかりますが、今のところ私たちはまったくの窮地《きゆうち》にいるのです。この窮地を切りぬけたかったら、できることなら何でもやらなければなりません。あなたの身は安全ですなどと口で申しあげるのは造作もないことですが、それでは残酷きわまる偽りというものです。ですから真相を突きとめるためには、あらゆる助力をしていただきたいのです」
「私、なにごとも包まず申しあげます」
「ではギブスン夫人との関係の真相を聞かせてください」
「夫人は私を憎んでいました。熱帯生れの情熱を傾《かたむ》けて私を憎んでいらしたのです。決してものごとを中途半端《ちゆうとはんぱ》にはしておかない人ですから、ご主人に対する愛の深さは、そのまま私への憎しみの強さとして跳《は》ねかえって参りました。私たちの関係を誤解なさったこともございましょう。私としては夫人の悪口を申すつもりではございませんけれど、ご主人を肉体的な意味で強烈《きようれつ》に愛していらっしゃいましたから、私との間に結ばれていました精神的な、あるいは心霊的《しんれいてき》なつながりなどはほとんど理解してくださるよしもなく、また、私があの家に止《とど》まっていましたのは、ギブスンさんを感化してよい方面にあの力を向けていただきたいためでございましたのに、それもわかってはくださらないのでございました。
いまでは私が悪かったのがわかりました。不幸の原因になりますような場所にいつまでも止まっていましたのは、何と申しても正しいことではございませんでした。もっとも、たとえ私がいなくなりましても、不幸は去らなかったことと存じますけれど」
「ではつぎに、当夜のことをどうぞ正確に話してください」
「知っていますことだけは、包まず申しあげますけれど、何一つ私には証明ができません。それに二、三の点では、そこがたいへん肝心《かんじん》なところと思いますのに、証明はおろか、説明をつけることすらできないのでございます」
「事実さえお話しくだされば、説明をつけてくれるものはほかにありましょう」
「でははじめに、あの晩私がソア橋へ参りましたことでございますが、あの朝私は夫人からお手紙をいただきました。勉強部屋の机の上に置いてございましたのですが、ご自分で置かれたのかもしれません。夕食後にあそこで会って大切なことを話したい。このことは誰《だれ》にも知られたくないから、返事はお庭の日時計の上に置いておくようにとございました。
人に隠《かく》れてお話しするほどのことはないと思いましたけれど、せっかくでございますから、お受けすることにいたしました。なお手紙には読んだら破棄《はき》してくれとございましたから、勉強部屋の暖炉《だんろ》で燃してしまいました。夫人はたいへんご主人を怖《こわ》がっていらっしゃいました。ご主人の仕打ちにも厳しすぎるところがございましたから、私はたびたびご注意申しあげましたほどでございます。ですから夫人がこんなふうに用心なさるのも、私たちの会いますことをご主人に知られたくないからだとばかり、そのときは思っておりました」
「それだのに夫人はあなたの返事の手紙を、しっかり手に持っていたわけですね?」
「はい、そのことを聞きまして、私はほんとに意外でございました」
「ふむ、それからどうしました?」
「お約束どおり出かけました。そして橋のところへ行ってみますと、夫人は待っていらっしゃいました。そのときまで私は、あの人はこんなにまで私が憎らしいのだとは夢にも知りませんでした。まるで気ちがいのように――いいえ、ほんとに気が狂《くる》っていらっしゃるのだと思いました。気が狂ってでもいなければ、あれほど乱れるわけがございません。さもなければ、胸のおくに私への憎悪《ぞうお》をあんなにも燃えつのらせながら、どうしてあんなに日々さりげなく顔をあわせていられましょう?
その時の夫人のお言葉をここで申しあげることはいたしません。ただ火のような恐《おそ》ろしい言葉でさんざん私をののしりなさいました。私は返す言葉もございません。お顔を見るのも恐ろしゅうございます。両手で耳をふさいで、一散に逃《に》げだしました。そのとき夫人は橋のたもとに立って、まだ私にのろいの言葉を浴せかけていらっしゃいました」
「あとで死体の発見された場所ですか?」
「そこから二、三ヤードの場所でございました」
「あなたが逃げだした直後に夫人は死んだものと考えられますが、それなのにあなたは銃声は耳にしなかったのですね?」
「はい、何も聞きませんでした。でもホームズさん、私はあまりのことに気が転倒《てんとう》いたしまして、早くお部屋へ逃げこみたい一心でございましたから、あとでどんなことがありましたのか、そんなことは少しも気をつける余裕《よゆう》がございませんでした」
「ご自分の部屋へ逃げこんだということですが、翌朝までそのままだったのですか?」
「いいえ、夫人が死んでいらっしゃると聞きまして、ほかの人たちといっしょに駆けだしました」
「そのときギブスン氏に会いましたか?」
「はい、橋からお帰りになりましたところでございました。すぐに警察とお医者へお使いをお出しになりました」
「ギブスン氏は慌《あわ》てていたでしょうね?」
「もともと性格の強い沈着《ちんちやく》なかたで、容易に感情をおもてに現わすかたではございませんけれど、よくあのかたを知っています私には、ふかく心痛していらっしゃるのがわかりました」
「さていよいよ肝心な点ですが、あなたの部屋から出てきたピストルのことです。あなたはいつかそれを見たことがありますか?」
「いいえ、決してございません」
「いつ発見されたのですか?」
「捜索《そうさく》の警官が翌朝見つけたのです」
「衣類の間にあったそうですね?」
「衣裳戸棚《いしようとだな》の中のドレスの下になっておりました」
「いつごろからそこにあったのか、おわかりにならないでしょうか?」
「前の日の朝まではそんなものはございませんでした」
「どうしてわかります?」
「そのとき私は戸棚を整理しましたからです」
「それは決定的です。あなたを罪におとしいれるため、誰かがそこに仕掛《しか》けたのですね」
「そうとしか考えられません」
「いつのことでしょう?」
「それができますのはお食事の時か、さもなければ子供たちと勉強部屋にいます時しかないと思います」
「つまり夫人の手紙を見たときですね?」
「はい、それから午前中ずっとでございます」
「ありがとうございました、ダンバーさん。ところで何かほかに、捜査の助けになりそうなことはありませんか?」
「何も思いあたりませんわ」
「あの石橋には乱暴した跡《あと》があるのですがね――死体と反対がわの欄干《らんかん》にま新しい傷があるのです。これについて何か思いあたることでもありませんか?」
「そんなものはただの偶然《ぐうぜん》でございましょう」
「不思議ですよ、ダンバーさん。じつに不思議というべきです。時も時なら、同じ場所にそんなものがあるというのはねえ」
「何の傷でございましょう? よほどの力でなければ、石に傷がつくことはないと存じます」
ホームズは答えなかった。そして青じろい顔を急に緊張《きんちよう》させ、何かに心を奪《うば》われたような表情をみせたが、これこそ彼《かれ》の天分が至高の活動をはじめた証拠《しようこ》なのを私は経験によって知っているのだ。彼の精神が重大な局面に対しているのを知っては、誰もあえて口を利《き》こうとしなかった。弁護士も容疑者も私も、無言のうちに息をころして彼の顔を見つめていた。
とつぜん彼は腰《こし》をあげた。神経をぴりぴりさせ、活動へのはげしい意欲でからだをゆすぶっている。
「さあワトスン君、来たまえ!」と彼は叫《さけ》んだ。
「どうなさいました、ホームズさん?」
「大丈夫ですよ、お嬢《じよう》さん。カミングズさんにはいずれ連絡します。正義の神の加護によって、イギリスじゅうを沸《わ》きたたせるような事実を報《し》らせますよ。あしたまでには何かお知らせできましょう。ダンバーさん、どうかそれまでは、雲は晴れかかっている、それを突破して真実の光がかならず照りわたることを確信している、という私の言葉を信じていてください」
ウィンチェスターからソア・プレースまではさして遠い旅でもなかったが、私にはもどかしく感じられたし、ホームズにしても果てしない思いだったに違《ちが》いない。見ていると彼はそわそわと落ちつきがなく、じっと坐《すわ》っていられないで、車内を行きつもどりつするかと思うと、座席のクッションを神経質な長い指でこつこつとたたいたりしていた。
だが、汽車が目的地に近くなったころ、彼は急に私の正面へきて坐り――そのときは一等車を二人で独占《どくせん》していたのだが――私のひざに片手をおいて、こういう気分のときの癖《くせ》で、妙《みよう》にいたずらっぽい眼つきで私の眼のなかをのぞきこんでいった。
「ワトスン君、きみはこうした冒険《ぼうけん》に出かけるときは、よく武器を忍《しの》ばせたような気がするがねえ」
私がそれをするのは彼のためなのだ。ホームズときたら、事件に心を奪われると、自分の安全をも顧《かえり》みない男だから、私のピストルが物をいったことも一度や二度ではない。私もこの事実を想起させてやった。すると彼は、
「そうだね。僕《ぼく》はそういうことになるとついうっかりするんだ。ところでいまピストルを持っているのかい?」
私はしりのポケットから、小型で手ごろだけれどすこぶる威力《いりよく》のあるやつを出してみせた。すると彼は鉤《つめ》をはずして薬包を抜《ぬ》きとっておき、注意ぶかく調べた。
「重い。なかなか重さがあるね」
「そうさ、作りがしっかりしているからね」
しばらくひねくりまわして考えていたが、
「わかるかい? このピストルが、いまわれわれの調べている問題と密接な関係をもつことになると思うのだがね」
「冗談《じようだん》いっちゃいけない」
「冗談なものか。まじめな話だよ。ワトスン君、これから実験をやるのさ。この実験が成功したら、すべてが明白になる。しかもその実験の成否は一にかかってこのピストルの行動いかんにあるのだ。一発だけ薬包をぬいておく。そしてあとの五発はもとの通り弾倉《だんそう》に詰《つ》めて、安全|装置《そうち》をかけておく。これでよしと。こうしておけば目方もつくし、実験には都合がよい」
彼が何を考えているのか、何のことをいっているのか、少しも私にはわからなかったが、黙《だま》って考えこんでいるうちに、汽車はハンプシャーの小駅に着いた。そこでがた馬車を雇《やと》って、十五分ばかりで例の巡査《じゆんさ》部長の家へたどりついた。
「手掛《てがか》りがありましたって? 何ですか?」
「それはワトスン君のピストルの働きいかんにあります。これですがね。ときに部長さん、ひもが十ヤードばかり欲《ほ》しいのですがね?」
村の店には丈夫な麻《あさ》ひもの一巻きがあった。
「これで必要なものはそろったようです。それでは出かけましょうか。これで最後の仕上げということにしたいものですよ」
太陽はまさに沈《しず》まんとして、ハンプシャーの起伏《きふく》多い沼地《ぬまち》はすばらしい秋のパノラマと化していた。カヴェントリー巡査部長はホームズの精神が健全であるかを深く疑うものらしく、いっしょに歩きながらも盛《さか》んに批判的な、また懐疑的《かいぎてき》な視線をちらつかせた。いよいよ現場に近づくにつれて、ホームズは日ごろの冷静さの底にふかいあせりの色をみせていた。
「そうさ」と彼は私の言葉をうけていった。「一度はあの通り的をはずしたがね。僕はこういうことには本能が働くのだが、それでもどうかすると本能に裏切られもする。ウィンチェスターの監房《かんぼう》でちらと頭をかすめたときは、確定的だという気がしたが、活動的精神の一つの弱味は、人はいつでもせっかくの手掛りもだめにするような、第二の説明を案出し得るものだということだ。だがしかし、そうはいっても……ま、やってみるしかないよ、ワトスン君」
歩きながらホームズはひもの一端《いつたん》をピストルの柄《え》にしっかり結びつけた。いよいよ悲劇の現場へたどりつくと、彼は巡査部長の助言のもとに注意ぶかく、死体の倒《たお》れていた位置に正確にしるしをつけた。それからヒースと羊歯《しだ》の草むらを探しまわって、かなりの大きさの石を拾ってきた。さっきのひもの他の一端をこの石にしっかり結《ゆわ》えつけ、橋の欄干から水面に垂らした。
これだけの用意ができると、橋のたもとから少しはなれた死体のあった場所に、ピストルを片手にして立った。ピストルと石とをつなぐひもは、石の重みでぴんと張っている。
「さ、いいかい?」と彼は叫んだ。
そういって彼はピストルを自分の頭に擬《ぎ》し、そのまま手を放した。するとピストルは石の重みに引かれてゆき、欄干にあたって鋭《するど》い音をたて、そのままそこを躍《おど》りこえて水の中へ落ちこんでしまった。ピストルが水中に沈むやいなや、ホームズは駆けよって欄干の前にひざをついたが、たちまちうれしそうな声をあげて、思ったとおりだったといった。
「これほど正確な実地証明があるだろうか? ねワトスン君、きみのピストルが問題を解決してくれたよ」といって彼は手すりの出っぱり石の下かどにできた、第一のものに形といい大きさといい寸分ちがわぬ第二の傷を指さしてみせた。
「今晩は二人で村の宿屋に泊《と》まります」起きあがると、おどろいている部長の顔をみて言葉をつづけた。「申すまでもなくかぎで水のなかを探してくだされば、ワトスン君のいまのピストルはわけなく揚《あ》がってきますが、そればかりではなく、ピストルとひもと重しがもうひと組出てくるはずです。この執念《しゆうねん》ぶかい女が、自分の罪を偽装《ぎそう》して、何も知らぬ婦人に殺人の罪をかぶせようとたくらんだ道具だてであることはいうまでもありません。ギブスンさんには、私が明朝お目にかかりたいと伝えておいてください。お目にかかった上で、ダンバー嬢のため無実の疑いを晴らす手続きをとることにしましょう」
その晩おそく、村の宿屋でパイプをやりながら、ホームズは事件の経過を手短かに話してくれた。
「このソア橋のミステリーを君の記録のうちに加えて発表してくれても、僕の名声に寄与《きよ》するところはさっぱりなかろうと思うよ。僕はまるで血のめぐりが悪く、僕の技術の根本をなしているはずの想像と現実の調和にまったく欠けていたんだからね。白状するが、あの欄干の傷を見ただけで、真相への手掛りは十分だったのだ。もっと早くそれに気がつかなかったとは、じつにふがいない話だ。この不幸な婦人の精神作用が、深くかつ捕えがたいものであったのは認めなければならない。それだけに彼女《かのじよ》の計画を見破るのは決して容易な業《わざ》でなかったのも事実だ。僕たちの今まで経験してきた多くの冒険の中でも、常軌《じようき》を逸《いつ》した愛情がもたらしたこんな珍《めずら》しい例にぶつかったのは初めてのことだと思う。
ライヴァルとしてのダンバー嬢が肉体的なものにしても、あるいは単なる精神的なものにすぎなかったにしても、彼女にしてみればひとしく許してはおけなかったのだ。彼女はあまりしつこい愛情を示すので、良人《おつと》がそれをきらってそっけなく遇《あし》らい、つれない言葉をかけられるので、それをそのまま罪もないダンバー嬢に跳《は》ねかえして、口汚《くちぎたな》くののしっていたにちがいない。そこで自殺してしまう決心をしたが、あとから考えて、同じ死ぬならばダンバー嬢を巻きぞえにして、ひと思いの死よりもはるかに恐ろしい目にあわせてやろうとなったのだ。
その計画は各段階ごとに明確にあとづけられるが、それは彼女の非凡《ひぼん》な陰険《いんけん》さを示すものだ。ダンバー嬢がみずからその場所を選んだように見せかけるため、巧《たく》みに手紙を書かせた。しかしせっかくの手紙を発見されなくてはという心配のあまり、手に握《にぎ》って死んでいたのは、いささかやりすぎだった。このことだけでも僕としては、もっと早く疑惑《ぎわく》をいだくべきだったのだ。
用意ができると彼女は良人のピストルの一つを取って――あの家にはあんなりっぱな兵器庫があるからね――自分用にあてた。べつにそれとお揃《そろ》いのものをとって、一発だけ発射してから、その朝ダンバー嬢の衣裳戸棚へ隠した。ピストルを発射するのは、邸内《ていない》の森へはいってやれば、人に知られずに容易にやれる。
それから時刻を見はからって橋のところへ出てゆき、自分の使ったピストルをなくするために、世にも巧妙《こうみよう》な仕掛けをした。そしてダンバー嬢がやってくると、それに向かって、これが最後とばかり思いきりののしり倒す。ダンバー嬢が音の聞こえないところまで逃げだしたところで、ズドンと一発おそるべき計画を実行したのだ。
これで環《わ》がすっかりそろって、一連の鎖《くさり》が完成された。新聞はおそらく、なぜ初めから池をさらわなかったのかと質問するだろうが、下司《げす》の知恵《ちえ》はあとからで、あとになってかれこれいうのは、いともやさしいことだ。それに何を探すというあてもなく、また場所もはっきりしないのに、葦だらけの広い池を探すのは、何といってもなまやさしい業《わざ》じゃないからね。
さて、ワトスン君、僕たちはこれで一人の非凡な女性と一人の畏《おそ》るべき男を救ったわけだ。もしこの二人が将来力を結合するならば、そういうことになりかねないと思うが、経済界は、われわれが浮世《うきよ》で学ばされる悲しみ≠ニいう教室でニール・ギブスン氏が何ものか学びとるところがあったのを知ることだろう」
[#地付き]―一九二二年二・三月『ストランド』誌発表―
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這う男
シャーロック・ホームズは私に向かって、二十年前に大学を騒《さわ》がせ、ロンドンの知識階級に大きく反響《はんきよう》したあのいまわしい風説をきれいにさっぱりと一掃《いつそう》したかったら、プレスベリー教授にからまるあの奇怪《きかい》なる事件を筆にすべきだと、いつも主張していた。
だがいざ書くとなると、中途《ちゆうと》にある種の障害が横たわっていて、この奇妙《きみよう》な事件の真相は、ホームズの扱《あつか》った多くの事件の記録とともに、ブリキ箱《ばこ》の底ふかく葬《ほうむ》られていたのである。それが今や許されて日の目を見ることになったが、これはホームズが隠退《いんたい》の直前のころ扱った事件の一つだった。発表するとはいっても、今もなおある程度の思慮《しりよ》と手心を必要とするのである。
私がホームズから簡単な電報をうけとったのは、一九○三年九月|初旬《しよじゆん》のある日曜日の夕刻のことだった。
都合ヨケレバスグコイ」ワルクテモコイ」S・H・
この時代の私たちの関係はすこぶる妙なものだった。ホームズは偏狭《へんきよう》な根づよい習慣に執着《しゆうちやく》し、それを崩《くず》さぬ男だから、私の存在そのものが、いつのまにか彼《かれ》の習慣の一つになりきっていた。たとえてみれば、私は彼にとってヴァイオリンや刻みタバコや、愛用の黒パイプや索引帳《さくいんちよう》や、そのほかそれ以下のロクでもないものと選ぶところはないのである。そして活劇が予想される事件がおきて、いくらか信頼《しんらい》するに足る豪胆《ごうたん》な相棒のほしいときには、私の役目はおのずから明らかである。
だがそんなこととは別に、私には用途があった。私は彼の心を研《と》ぐ砥石《といし》だった。刺激剤《しげきざい》だった。彼は私を前において、考えることを口に出してしゃべりながら、思索をすすめるのが好きだった。発言は私を目あてになされているのではない――大部分はベッドに話しかけているようなものだ――が、それにもかかわらず習慣になっているので、私が感情をあらわしたり、言葉をはさんだりするのが、どこか彼には役にたつところがあるらしい。
私は心知の働きが悠然《ゆうぜん》としていて、はたから見るとついもどかしくなるほど緩慢《かんまん》にも見えるのだろうが、そのために彼は火のような直覚力を刺激され、思考力が勢いよく燃えあがってくる。そこに、至らぬながらも二人の親和の上に私の役割があるのである。
べーカー街へ行ってみると、ホームズはひじ掛《か》け椅子《いす》におさまってひざを立て、パイプを口にしたまま、眉《まゆ》をよせて何か考えこんでいた。いうまでもなくよほどの難問にぶつかって、思い悩《なや》んでいるのだ。片手をあげてなつかしい私のひじ掛け椅子のほうへ振《ふ》っただけで、ものの三十分ばかりは、私の来たのも忘れてじっと考えこんでいる様子だった。ようやくしてふと我にかえると、例の悪戯《いたずら》っぽい微笑《びしよう》をうかべて、最近まで自分の家だったところへ来た私にあいさつした。
「すっかり考えこんでいて、失敬したね。この二十四時間というもの、妙な事実に悩まされどおしで、そのためにひいては一般的《いつぱんてき》な問題にまで思索が飛躍《ひやく》していたところなんだ。僕《ぼく》は探偵《たんてい》の仕事における犬の用途について小論文を書いてやろうかと、まじめに考えているよ」
「それはしかし、研究ずみじゃないか。ブラッドハウンドとか、スルースハウンドとか……」
「いや、ちがうんだ。なるほどそういう方面のことなら、よくわかっている。だが僕のいうのはもっと幽玄《ゆうげん》な方面のことなんだよ。君《*》一流のセンセーショナルなやり方でブナの木にからませて発表した事件【訳注 『冒険』の「ブナ屋敷」参照】で、僕が子供の心理の観察から、オツにすました表面は非の打ちどころのないその父親の犯罪性を発見し得たのを忘れやしないだろう?」
「うん、よく覚えているよ」
「犬についての僕の思考の方向はあれに似ているのだ。犬は家庭生活を反映する。陰気《いんき》な家庭には陽気にじゃれつく犬はいないし、幸福な家庭にはみじめな犬はいない。口汚《くちぎた》なく乱暴な人の犬はうなるし、危険な人の犬は危険なものだ。そのときどきの一方の気持は、刻々に一方へ反映する」
私は頭を振っていった。「そいつはいささかこじつけだね」
ホームズは私の批評にはおかまいなしに、パイプを詰《つ》めかえると坐《すわ》りなおした。
「目下調査中の問題が、いまいったことの実地応用に、きわめて密接なつながりがあると思うのだ。錯雑《さくざつ》した事件でね、いまその端緒《いとぐち》をさがしているのだが、その一つはプレスベリー教授の忠実な|ウ《*》ルフハウンド【訳注 猟犬の一種】のロイが、なぜ教授にかみつこうとしたか?≠ニいう問題にあるのじゃないかと思っている」
私は一種の失望を感じて、椅子の背にからだをもたせかけた。ではこんな小さな問題のために、わざわざ私は引っぱり出されたのか? ホームズはじろりと私を見かえした。
「ワトスン君は相かわらずだね。重大な成果は、最も小さなことから得られるものだということが、まだわからないとみえる。だが平静な年輩《ねんぱい》の学者――ケンフォードの有名な生理学者プレスベリー教授の名は聞いたことがあるだろう? ――ウルフハウンドをかわいがっているそうした人物が、その愛犬に二度もかみつかれたというのは、聞いただけでもただ事じゃないと思うだろう? どうだね?」
「犬は病気なんだろう?」
「そう、それも考えてみるべきだ。ところがね、犬はほかのものには掛かってゆかないし、主人にだってある特別の場合以外は、どうもしやしないのだ。不思議だよ。どう考えても不思議でならないよ。おや、玄関《げんかん》のベルが鳴った。ベネット青年にしては、約束《やくそく》より少し早いようだがね。この男の来る前に、もう少し君に話しておきたかったのに……」
急いで階段をのぼってくる足音がすると思ったら、鋭《するど》くドアをノックするものがあり、やがて新しい依頼者《いらいしや》がはいってきた。背の高い、三十ばかりの美しい青年で、服装《ふくそう》もよく上品だったが、どこか世間なれた落ちつきがなくて、学生などによく見られる羞《はに》かんだようなところがあった。まずホームズと握手《あくしゆ》してから、さも意外だという顔つきで私のほうを見た。
「この問題はきわめて微妙《びみよう》です。そうでしょう、プレスベリー教授にたいする私の立場を、公私ともに考えてみてください。私としては第三者の面前で話をする気にはなれないですよ」
「ご心配には及《およ》びませんよ、ベネットさん。ワトスン博士はきわめて思慮ふかい人です。それに私としてもこの事件にはぜひ助力者がほしいですからね」
「ではご随意《ずいい》になさってください。でも私としてはいくぶん遠慮のあることはおわかりくださるでしょう?」
「ワトスン君、このかたはトレヴァー・ベネットさんといってね、教授の助手をつとめながら同じ家に住み、教授のたった一人の令嬢《れいじよう》と婚約《こんやく》ができているのだといったら、君にも事情がよくわかるだろう? 教授にしてみれば、ベネットさんにあくまでも忠誠と献身《けんしん》を要求する権利のあることは、こっちも認めなければなるまい。しかしそれを示すには、この際この不思議を解明するに必要な手を打つことが最良の道なんだ」
「私もそれを期待します。それだけが私の目的なのですが、ワトスン博士は事情をご存じなのですか?」
「説明している暇《ひま》がなかったのです」
「では、新しい事態を申しあげるまえに、私から一応今日までのことを説明したほうがよろしいでしょう」
「それは私から話しましょう」とホームズは引きとっていった。「順序正しく覚えているかどうか聞いていただくためにも、そのほうがいいのです。このプレスベリー教授はヨーロッパでも名の知れた学者でね、ワトスン君、生涯《しようがい》を学究に終始した人だ。とかくのうわさにのぼるようなことは、一度だってあったためしがない。夫人に先だたれて、いまは一人|娘《むすめ》のエディスと二人|暮《ぐ》らしだが、きわめて男らしい積極的な性格だから、けんか好きと評する人もあるくらいだ。というのが、つい二、三カ月前までの状況《じようきよう》だった。
ところがこの生活の流れがとつぜん破られることになった。今年六十一|歳《さい》になるというのに、同僚《どうりよう》で比較解剖学《ひかくかいぼうがく》の講座をもっているモーフィ教授の令嬢と婚約ができたのだ。話を聞けばそれも年輩相応のおだやかな求愛ではなくて、青年のような気ちがいじみた情熱的なそれだった。これほど打ちこんだ恋愛《れんあい》ぶりはどこでもちょっと見られぬことだった。
相手のアリス・モーフィ嬢は、容色も気だても非の打ちどころのない美人だから、教授がそこまで現《うつつ》をぬかしたのも決してむりとはいえなかった。それにもかかわらず、家族の人はかならずしもこの話には賛成でなかったのだ」
「あんまり突飛《とつぴ》なように思いましてね」客が口をだした。
「まったくね。突飛でもあるし、ちと乱暴で不自然ですよ。しかしプレスベリー教授は金持だし、相手かたの父親にはべつに異存もなかった。とはいうものの、令嬢には令嬢なりに意見があった。彼女《かのじよ》にはほかに求婚者が数人あって、世間的な名声でこそ教授の敵ではないけれど、少なくとも年齢《ねんれい》の点ではずっと適格だった。それでも令嬢は相手の奇矯《ききよう》さにもかかわらず教授を好いているようだった。問題はただ年がかけはなれていることだけなのだ。
そこへ正常だった教授の日常生活にとつぜんの不思議な変化が現われた。今までに例もないことをやりだしたのだ。たとえばどこへ行くともいわずに、ふらりと家を出て二週間も帰らず、帰ったのを見たら、すっかり旅疲《たびづか》れしていた。そしてふだんはぜったいに包み隠《かく》しをしない人なのに、この時ばかりは行きさきをまったく漏《も》らさなかった。
だがちょうどそのころここにおいでのベネットさんが、|プ《*》ラハ【訳注 今はチェコになったが、この話のころはオーストリアの都市】にいる学友から手紙をもらったが、その中に、こちらでプレスベリー教授に会えて、話こそできなかったけれど、たいへんうれしかったという意味のことが書いてあった。家の人たちはその手紙によって初めて、それではあの二週間に教授はプラハヘ行ってきたのかと知ったようなわけだった。
さて、これからが話の要点なのだが、このことがあってから以後、教授の様子には不思議な変化が現われた。こそこそと人目をはばかるようなところが見えだしたのだ。周囲の人たちの眼《め》には、彼がすっかり人間が変ってしまって、何に禍《わざわ》いされてか高秀《こうしゆう》な精神も曇《くも》ったように見えた。といっても知性が冒《おか》されたわけではない。講義なんかはあいかわらずはちきれんばかり才気があふれていた。
それでいて、つぎつぎと何かしら新しい、うす気味のわるい意外な言動があるのだ。親思いの令嬢は、どうかして昔《むかし》の父をとりかえし、仮面でもかぶっているような父の眼をさまさせたいものと、心を砕《くだ》いた。このベネットさんも力をあわせていろいろと骨を折ったけれど、効果がないということだ。さあベネットさん、それではお手紙にあった事件というのを、あなたから説明していただきましょうか」
「ワトスン先生、まずお断りいたしておきますけれど、教授は私に対しては少しも秘密はないのです。私が教授の子息か弟だったとしても、これほどの信任が得られるか疑問だと思われるくらいです。秘書ですから、教授あての手紙類はすべて私が処理するばかりか、開封《かいふう》して眼を通し、分類しておくことになっています。
ところが教授が旅行から帰って来てからは、この習慣が変えられました。切手の下に×の印《しるし》をした手紙がロンドンから来ると思うが、それがきたら自分だけで見たいから、開封しないで渡《わた》すようにとの命令です。
まもなくそんな手紙が何通か来ましたから、むろんすぐ教授に渡しましたが、それは|ロ《*》ンドンのE・C・【訳注 東中央局】の消印があって、あて名は無学らしい下手な字で書いてありました。それに対して返事を出されたかどうか、少なくとも私の手を通ったのは一通もありませんし、また、いつも私どもの出す手紙を入れておきますバスケットにも見えませんでした」
「そして箱《はこ》をどうしたとかいいましたね?」ホームズがいった。
「そうそう、箱ですけれどね。教授は二週間の旅行から帰ったとき、小さな木の箱を一つ持っていました。ドイツなどでよく見かける精巧《せいこう》な彫刻《ちようこく》がしてありましたから、その箱からも、こんどの旅行は大陸へ行ってきたのじゃないかという気がしました。
教授はこの箱を器械|戸棚《とだな》へしまいこんでしまいましたが、ある日私がカニューレ管を捜《さが》すので戸棚をあけたとき、ふとその小箱をとりあげますと、意外にもたいへんな立腹で、少しへんだと思うほど乱暴な言葉でしかられてしまいました。こんなことは初めてでもあり、私はとても不愉快《ふゆかい》でした。私としては何の気もなく手にしただけですから、そのことをよく言って弁解しましたけれど、教授はまだ心が解けぬかその晩じゅう私を見る眼が険《けわ》しかったです」とベネットはポケットから小型の日記帳をとりだしていった。「それが七月二日のことです」
「それをいちいち手帳に控《ひか》えておくとは、敬服すべき心掛けです。あとで見せていただくことになるかもしれません」
「この整頓《せいとん》も先生から学んだことの一つです。教授の行動の変態ぶりに気のついた時から私は、自分の義務としてこの病状に注目すべきだと思いました。というわけで、研究室から帰ってきた教授をホールでロイがかみついた七月二日から記録しはじめたのです。それから七月十一日に同じようなことがあり、同じく二十日にもあったと記録にあります。それ以後は止《や》むなくロイを馬小屋に閉じこめることにしましたが、元来よくなれたかわいい犬だったのですがねえ。――つい余計なことまで申しあげて、お退屈《たいくつ》でしたでしょう?」
ベネット氏はとがめるような調子でいった。明らかにホームズが耳を傾《かたむ》けていなかったからである。見ると彼は堅《かた》い表情をして、無心に天井《てんじよう》の一角を見つめているのだったが、こう皮肉をいわれてやっと我にかえり、
「不思議だ! じつに不思議だ!」と彼はつぶやいた。「ベネットさん、そういうことは初耳ですよ、私にはね。過去のことはようくわかったと思いますが、してみると新しい発展があったわけですね?」
客は快活にうちとけた顔を、いまわしい思い出で曇らせた。「いま申したのは一昨日の夜のことですが、夜中の二時ごろのこと、寝床《ねどこ》の中で眼をさましていますと、廊下《ろうか》のほうで何やらこそこそと忍《しの》びやかな物音がしますので、起きてドアを開けてそっとのぞいてみました。その前に教授の寝室《しんしつ》が廊下のはずれにあることを申しておくべきでしたが……」
「それは何日《いつ》のことですか?」
ベネットは見当ちがいの質問で話を中断されたのでいやな顔をした。
「いまも申すとおり一昨日、九月四日の夜のことです」
ホームズはにっこりうなずいた。
「どうぞ先を話してください」
「教授の寝室は廊下のはずれですから、階段へ行くには私の部屋の前を通らなければなりません。ところがどうでしょう、じつに恐《おそ》ろしい経験でしたよ、ホームズさん。物に動じないことにかけては私も人には負けないつもりですが、あの光景を見たときばかりはぞっと寒気がしました。
廊下は中ほどに窓があって、そこからわずかに光りがさしこんでいるだけで、あとはまっ暗です。そのとき私には、なにか黒いものがうずくまって、こっちへ這《は》いよってくるのが見えましたが、それが急に明かるいところへはいってきたので、見ると教授ではありませんか! それも這っているのです。廊下を這いずり歩いているのですよ! 這っているといっても、手とひざで歩いているわけじゃなく、手と足を地につけ、首をさげて這い歩いているのですが、それでちっとも苦しそうじゃないのです。
あまりのことに私は五体が痺《しび》れたようになって、ぼんやり見ているうちに、教授は戸口まで来てしまいました。そのとき初めて気がついて廊下へとびだし、どうかなすったのですかと尋《たず》ねました。ところがその答えが変っています。教授はいきなり立ちあがったかと思うと、乱暴な言葉を私に投げつけておいて、急いで通りすぎ、そのまま階段を降りていってしまいました。
それから一時間ばかり待ってみましたが、とうとう帰ってこなかったです。あれではおそらく帰りは明けがたになったことでしょう」
「ふむ、君はどう思うね、ワトスン君?」ホームズは病理学者が珍《めずら》しい標本でも呈示《ていじ》するような態度できいた。
「腰部《ようぶ》神経痛《しんけいつう》だろう。はげしい発作《ほつさ》がおこると立っては歩けないものだ。それにこんなかんしゃくのおこる病気はない」
「いいね、その説明は。君の観察はいつでも平板だよ。だが教授はすぐにしゃんと立って、歩いていったというじゃないか。腰部神経痛とは受けとれないね」
「教授の健康はかつてないほど上乗でした」ベネットがいった。「事実私が知ってから、いまほど体の調子のよかったことはないです。しかも事実はこうなんですからね。といって警察へ相談するような性質の問題でもないし、どうしたらよいやら、ほとほと途方《とほう》にくれているわけですが、それにしてもいまに何か災難が押《お》しよせてきそうな気がしてなりません。エディス――令嬢も同感なのですが、このまま安閑《あんかん》としてはいられないという気持です」
「たしかに不思議でもあるし、暗示に富む事件です。ワトスン君はどう思うね?」
「医者としての意見をいえば、これは精神病医の領域だと思う。老紳士《ろうしんし》の大脳突起が恋愛問題のため異変をおこしたのだ。海外旅行も情熱をさまし、気をまぎらすためだった。手紙や箱のことは、それとは関係のない何かの私事で、箱の中はおそらく公債《こうさい》とか株券でもはいっているのだろうと思う」
「するとウルフハウンドはむろんその財政上の取引きに不賛成だったというのかい? 違《ちが》うよ。これにはもっとも深い理由がある。いまいえることは……」
シャーロック・ホームズはここで何をいおうとしたのか、このときドアがあいて、若い婦人がはいってきたので、話が中断されてしまった。はいってきた婦人の姿をみると、ベネットは声をあげて飛びたち、両手をひろげて迎《むか》え、これも両手をさしのべた彼女の手をとった。
「エディスさん、何か起こったのじゃないでしょうね、まさか?」
「私、あなたのあとを追ってきましたの。だって一人でいるの恐ろしくて、とてもじっとしていられないのですもの!」
「ホームズさん、こちらがプレスベリー嬢――私の婚約者です」
「そうらしいと思っていたところです。ねえワトスン君?」とホームズは微笑しながらいった。「なにか新たに展開したので、それを知らせにいらしたのでしょうね、プレスベリーさん?」
よくあるイギリスタイプの明かるく美しい新来の客は、ホームズに微笑《びしよう》をかえしながら、ベネットのとなりへ腰《こし》をおろして、
「ベネットさんのホテルをお訪ねしてみましたらお留守でしたから、きっとこちらでしょうと思いましたの。あなたにご相談なさることは、かねて聞かされていましたしね。でもホームズさん、何とかして父をお助けくださいませんでしょうか?」
「何とかしてあげたいとは思いますが、まだはっきりしない点もありますのでねえ。あなたの持っていらしたお話をうかがえば、あるいはいくらか明瞭《めいりよう》になるかと思っています」
「昨晩でございますの。昨日は朝から父は変でございました。自分でも何をしたのか覚えていないことも、時々あるに違いございません。その間は不思議な夢《ゆめ》の世界に住んでいますのね。昨日がそれでございました。いっしょにいましても、父のような気がいたしません。外形は父に違いございませんけれど、心はまるで違ってみえました」
「それでどんな事があったのですか?」
「夜中《よなか》に犬がはげしくほえますので、ふと眼がさめました。ロイはかわいそうに、ちかごろでは馬小屋のそばに鎖《くさり》でつながれていますの。
それから私いつも寝室のドアには鍵《かぎ》をかけておきます。これはジャック――ベネットさんにお聞きくださってもわかりますが、私たち近ごろ危険がさし迫《せま》っているような気がするからでございます。私の部屋は三階でございますけれど、昨晩はブラインドが開いていましたので、月光が美しゅうございました。
犬がやかましくほえますものですから、その明かるい窓を寝床の上からぼんやり見ておりますと、そこに父の顔が現われまして私のほうをのぞきこみましたので、びっくりしてしまいました。ホームズ様、私は驚《おどろ》きと恐ろしさで気が遠くなりそうでございました。父は窓ガラスに顔を押しつけまして、片手で窓を押しあげようとする様子でございましたが、もしあのとき窓が開きましたら、私は発狂《はつきよう》していましたかもしれません。このことは決して夢や幻覚《げんかく》ではございません。ホームズ様、どうぞ誤解なさらないでくださいまし。
私は体が痺れたようになりまして、二十秒くらいもそのまま父の顔を見ていましたでしょうか。そのうちにふと父の顔が消えてしまいましたのに、それでも私にはベッドをとび降りて、あとを見送ることすらできませんでした。がたがた震《ふる》えながら、そのまま朝までまんじりともしませんでした。朝食のとき見ますと、父は厳格な顔をしていまして、昨晩のことなどまるで忘れたように何も申しませんでした。私も黙《だま》っていましたけれど、ロンドンに来ます許しだけ受けまして、こうしてうかがったのでございます」
ホームズはこの話によほど驚いたらしく、
「お嬢さんのお部屋は三階だということですが、お宅のお庭にはそんな長いはしごがあるのですか?」
「いいえ、ございません。ですからなおのこと不思議でなりませんの。そとから三階の窓までのぼる方法はございませんのに、父はたしかにのぞきこんだのです」
「日付は九月五日ですね」とホームズはいった。「その点が問題をいっそうややこしくさせますよ」
こんどは令嬢《れいじよう》のほうが驚いたようであった。
「あなたが日取りのことをお口になさるのはこれで二度目ですね、ホームズさん」とベネットがいった。「それがこの問題となにか関係があるのですか?」
「あり得るのです。きわめて密接にね。でも今のところ材料が出そろいません」
「おそらく月の満欠《みちかけ》と精神異常との間の関係でも考えていらっしゃるのでしょう?」
「そんなことではありませんよ。私の考えている方向はまったく違います。どうでしょう、その日記をおいていっていただけませんか? あとで日取りを詳《くわ》しく調べてみたいと思います。ところでワトスン君、今後の活動方針はきまったと思うよ。このお嬢さんの話によれば――お嬢さんの直覚力には全面的な信頼《しんらい》をおくものだが――教授はある時期に起こったことはほとんど、またはまったく覚えていないということだ。
だから僕《ぼく》たちは、約束《やくそく》があるような顔をして、そういう時期をねらって教授を訪問するのだ。教授は変だとは思っても、自分の記憶力《きおくりよく》の欠如《けつじよ》のせいだと思って、会ってはくれるだろう。こうしてまず相手に接近してから、いよいよ戦端《せんたん》を開くのだ」
「それは名案です」ベネットがいった。「でもご注意しておきますが、教授はどうかすると怒《おこ》りっぽく、乱暴することだってありますよ」
ホームズは微笑した。「私たちが訪問を急ぐのには理由があるのです。私の仮定があたっているとすれば、きわめて切実な理由です。ではベネットさん、明日ケンフォードでお目にかかりましょう。あそこはたしかチェッカーズ≠ニいう宿屋があって、ワインも並《なみ》以上だし、シーツもそう汚《きた》なくはなかったと思います。ワトスン君、二、三日は不自由を忍ばなきゃならないかもしれないよ」
翌月曜日の朝、私たちはあの有名な大学町へと出かけていった。身軽なホームズとちがって、当時業務の繁忙《はんぼう》だった私にとっては、急なことではあり、留守中のことも決めておかなければならず、眼のまわるような騒《さわ》ぎだった。ホームズは途中では事件のことは少しも口にしなかったが、ようやく彼《かれ》のいっていた古風な宿屋へ着いて、スーツケースを預けるといった。
「ワトスン君、昼飯まえに教授を訪問するとしようよ。彼は十一時から講義して、一度家へ休みに帰るはずだからね」
「どんな口実で訪問したらいいだろう?」
ホームズは手帳に目をやって、
「八月二十六日に興奮状態があった。そういう期間には自分のしたことをよく覚えていないだろうから、約束を守って訪ねてきたのだといい張れば、向こうも強《し》いて反対はできないだろうと思う。思いきってやってみるだけの心臓があるかい?」
「あるかどうか、当って砕けろだね」
「大いによろしい! |忙しい蜂《ビジイ・ビー》≠ニ|より《エキセル》|高きヘ《シヨア》=y訳注 エキセルショアはさらに向上を意味するラテン語でアメリカのモットー。ロングフェロウの同名の詩で有名になった】の合成だね。当って砕けろ――不動のモットーだ。親切な土地の人間が現われて誘導《ゆうどう》してくれるに違いないよ」
その土地の人間の一人が小ぎれいな二輪馬車《ハンサム》で、われわれを建ちならぶ古めかしい大学の校舎を通りすぎ、並木《なみき》のある馬車道へ折れこむとすぐに、芝生《しばふ》にとりまかれ紫《むらさき》の藤《ふじ》に被《おお》われたしゃれた家の戸口まで運んでくれた。プレスベリー教授の生活は快適なばかりか、なかなかぜいたくな空気にとりまかれているようだ。馬車が停《とま》ったと思ったら、表の窓から半白の頭がのぞいた。そればかりかもじゃもじゃの眉《まゆ》の下から、大きな角枠《つのわく》の眼鏡を通して二つの鋭《するど》い眼《め》が私たちをじろじろ見ていた。
やがて私たちは教授の部屋へ通された。その奇行《きこう》のため私たちをロンドンから出張させた不思議な老科学者は眼前に立っているが、態度にも顔つきにも変人めいたところは少しもなかった。顔の大きい堂々たる人物で、背が高く荘重《そうちよう》さがあり、フロックコートを着たところは大学の教授にふさわしい威厳《いげん》があった。中でも目につくのはその眼で、鋭く、観察力があり、狡猾《こうかつ》にちかいまでの利口さがうかがわれた。
「さあお掛《か》けください。どんなご用でしょう?」私たちの名刺《めいし》を見ながら切りだした。
ホームズは愛想のよい微笑を浮《う》かべた。
「それは私のほうからお尋ねしようと思っていたところです」
「この私に?」
「何かの行違いでしょうか? ある人からケンフォードのプレスベリー教授が私に何かご用がおありと聞いてうかがったのですが……」
「おや、そうでしたか?」教授の強い灰いろの眼には敵意がひらめいたように思えた。「そんなことをいったのは誰《だれ》でしょう、名前をお明かし願えませんか?」
「せっかくですが、それはちょっと申しあげられません。もし私の聞きちがいでしたら、まだご迷惑《めいわく》をおかけしたわけではないし、あっさりお詫《わ》びして引きさがることにいたします」
「なんの、なんの。それよりももっとよくお話をうかがいたいものです。なかなか面白《おもしろ》い。あなたの主張を裏づけるような手紙か電報か、書いたものを何かお持ちですか?」
「いいえ、持ちません」
「私が直接お出《い》でを願ったのだとまではおっしゃらないのですね?」
「ご質問にはお答えいたしかねます」
「よろしい。何もきくまい」とプレスベリー教授は言葉あらくいった。「だがいまの質問には、君を煩《わずら》わすまでもなく答えが得られます」
教授は部屋の反対がわのベルのところへ歩みよった。合図に応じてわれわれがロンドンで友人になったベネット氏が現われた。
「こっちへはいりたまえ、ベネット君。このお二人は私に招かれてロンドンから来たようなお話だ。私の手紙はすべて君が処理しているが、その中にホームズという名の人へあてたものが何かあったかね?」
「いいえ、ありませんでした」ベネットは赤くなりながら答えた。
「それで決定的だ」と教授は憤然《ふんぜん》としてホームズをにらみすえながら、テーブルに両手をついて、からだを乗りだすようにしていった。「こうなると君の立場はきわめて疑わしいものですな」
ホームズは肩《かた》をすくめて、
「私としてはいたずらにお騒がせしたことをおわびするしかありません」といった。
「それで済むと思いますか?」教授は容易ならぬ悪意を満面に現わし、甲《かん》だかい声でどなりつけると、ドアと私たちの間に立ちはだかって、もの狂《ぐる》わしく両手を私たちのほうへ振《ふ》りながら、「そんなことでやすやすとこの場を去らせはしませんぞ!」と顔をけいれんさせ、歯をむきだし、我を忘れるほどの怒《いか》りに震えて何やらわめいた。あれでベネット氏が間にはいってくれなかったら、腕《うで》ずくで帰るしかなかったろうと思う。
「先生! お立場を考えてください! 大学でスキャンダルになることを考えてください! ホームズさんは有名な方です。そんな失礼な扱《あつか》いかたをなさるものじゃありません」
ふくれ面《つら》をした主人が――招かれざる客なのだけれど――しぶしぶ退《ど》いてくれたので、私たちはやっとその家を出ることができた。そとの並木道へ出ると、ホームズはひどく面白そうな顔をして、
「教授の神経はいくらか狂っているね」といった。「こっちの出かたもいささか拙《まず》かったが、それでも本人に直接会ってみたいという希望だけはこれで遂《と》げたわけだ。おや、あとを追ってくるぜ。しつこいやつだ、まだ後をつけている」
誰か駆《か》けてくる足音がしたが、弓なりの馬車道から姿を現わしたのがあの忌《いま》わしい教授でなく、助手のベネットだと知って、われわれはほっとする思いだった。息を切らしながらそばまでくると、
「ホームズさん、どうもすみませんでした。おわびしたいと思いましてね」
「なんの、そんなご心配にはおよびませんよ。私のような職業にはありがちのことです」
「教授があれほど立腹したのを見るのは、私も初めてです。それにしてもあれよりもっと険悪な気分になることもあるのですよ。これでエディスや私の心配しているわけがおわかりでしょう? それでいて精神はあくまでも明快なのですからねえ」
「明快すぎるほどです。その点は私が誤算していました。記憶力なんかも予想外にたしかなようです。ところで帰る前に、令嬢の部屋の窓を見せていただけませんか?」
ベネット氏のあとについて、灌木《かんぼく》を押しわけて少しはいってゆくと、家の横手の見えるところへ出た。
「あれです。左から二つ目の窓がそうです」
「なるほど、あれでは寄りつけませんね。とはいっても下にはつるがからまっているし、上には送水管があるし、足場がないわけでもありませんね」
「私にはとても登れません」
「そうでしょうね。普通《ふつう》の人間にはとてもあぶない仕事です」
「もう一つ申しあげておきたいことがあります。教授がいつも手紙を出すロンドンの人の宛名《あてな》がわかっているのですが、けさも一本出したらしく、吸取紙に残っていた字でわかりました。これは信任されている秘書にもあるまじき行為《こうい》ですが、こうせっぱ詰《つ》まっては止《や》むを得ません」
ホームズはその吸取紙をちょっと見ただけですぐポケットへおさめた。
「ドラーク――妙《みよう》な姓《せい》ですね。スラヴ系のようですね。それにしても重大な連繋《れんけい》の一つです。では私たちは午後の汽車でロンドンへ帰ることにします。ここに留《とど》まっていても大した効果はなさそうですからね。犯罪をおかしたわけじゃないから教授を逮捕《たいほ》することはできないし、気の狂っている証拠《しようこ》もないから監禁《かんきん》することもできません。今のところ手がつけられませんよ」
「では私たちはどうしたらよろしいでしょう?」
「しばらくの辛抱《しんぼう》です。近いうちに事が進展をみせますよ。私の考えでは、こんどの火曜日あたりが重大な危機ですね。その日にはもう一度私たちもケンフォードヘやってきましょう。それまでのところは、皆《みな》さんの立場が不愉快《ふゆかい》なのは争われませんが、もし令嬢のロンドン滞在を長びかすことができれば……」
「それは何でもありません」
「ではもう大丈夫《だいじようぶ》ですと私たちのいうまで、そうなさるのですね。それまでは教授の好きなようにさせて、逆らわないことです。機嫌《きげん》よくさえしていれば、何も心配はありません」
「あっ、あそこに彼が出てきましたよ!」
ベネットはびっくりして声を殺した。枝《えだ》のあいだから透《すか》してみると、背の高いしゃんとした教授が玄関《げんかん》から姿を現わし、あたりを見まわすところだった。見ていると首を前へつきだすようにし、頭を交互《こうご》に左右に傾《かたむ》けながら、両手を水平に前方へ振りだした。それを見ると秘書は私たちのほうへ別れの手を振っておき、木の間へ飛びこんでいったが、やがて教授のそばへゆき、二人は何ごとか元気よく、むしろ興奮した様子すら見せて話しあいながら、つれだって家の中へはいっていった。
「あの老紳士《ろうしんし》はいろいろと総合して考えていたのだと思う」宿屋のほうへ歩きながらホームズがいった。「ちょっと話しただけだけれど、頭脳がとりわけ明快で理論的なのには驚いたよ。でもついに爆発《ばくはつ》してしまったが、本人にしてみればあのときは、誰か自分の行状を探偵しているものがあるのじゃないか? ことによったら家のものがそれをやっているのじゃないかと、胸にもやもやしたものがわだかまっていたのだね。今ごろはベネットが、いやな思いをしていることだろうよ」
途中《とちゆう》でホームズは郵便局へ立ちよって、電報を一通打った。夜になってからその返事がきた。ホームズは読みおわると私によこした。
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コマーシャル街ニドラークヲ訪ネタ」オダヤカナ老人」ボヘミア人カ」大キナ雑貨商ヲ営ム」マーサー
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「マーサーは君がいなくなってから使っている男だ。ありふれた用をたしたり、僕の手足になってよく働いてくれる。プレスベリー教授がそれほど秘しかくして文通している相手はどんな男だか、一応知っておく必要があるからね。ボヘミア人だとすると、教授のプラハ行きと関連がありそうだよ」
「何でもいいから関連のある事項《じこう》の見あたったのはありがたいよ」と私はいった。「今までのところ、おたがいに何の脈絡《みやくらく》もない不可解な事件ばかりの壁《かべ》につきあたったようなものだ。たとえば犬が怒るのと教授がボヘミア地方へ旅行したということには、いったいどんな関係があり得るというのだ? またそのことと、夜中に廊下《ろうか》を這《は》い歩く男との関係にしてもさ。それにしても君はしきりに日取りのことを問題にしているが、こいつが最大のなぞだね、僕には」
ホームズはにやりとして、しきりに手をこすり合わせた。いうのを忘れていたが、そのとき私たちは古風な宿屋の一室におさまって、ロンドンでホームズがうわさしていた有名なワインを一本なかにすえて坐《すわ》っていたのである。
「それではまず、日取りのことから取りあげてゆこう」と彼は両手の指さきを突《つ》きあわせ、まるで講義でもするようにいった。「あの優秀な青年の日記によると、七月二日に異変がおこって、たしか一度だけ例外はあったようだが、それから九日おきにずっとそれが起こっている。最近の発作《ほつさ》は九月三日の金曜日だが、その前のは八月二十六日だから、やはり九日目にあたるわけだ。これは決して偶然《ぐうぜん》の暗合じゃないね」
私はそれに同意しないわけにゆかなかった。
「そこでいま一つの仮定として、教授は九日目ごとに、一時的ではあるがきわめて毒性のたかい何かの強い薬をのんでいるとしてみよう。生来の激《はげ》しい性質が、そのために強化されるのだ。この薬をのむことはプラハへ行ったときに知り、いまはロンドンにいるボヘミア人の仲介《ちゆうかい》でひき続き供給をうけているのだ。こう考えてみると、すべてのことがつじつまがあうじゃないか!」
「でも犬のことや、窓から娘《むすめ》の部屋をのぞきこんだり、廊下を這い歩いたのなどはどう説明するのだい?」
「さあ、まだ目鼻がつきかけたばかりだからねえ。とにかくこんどの火曜日までは何も起こらないと思うから、それまではベネット君と連絡をたやさないようにして、この美しい町でゆっくり骨休めすることにしようよ」
翌朝ベネット氏が最近の情報をもってこっそりやって来た。ホームズの予想にたがわず、相当いやな思いをしたらしい。教授は私たちが訪問したことについて、明からさまにしかりつけようとはしないで、ことごとに口ぎたなくののしり、ひどく心を痛めているらしいという。しかしけさはそれもだいぶ落ちついて、教室にあふれる学生に向かって輝《かがや》かしい講義をしたということである。
「あの不思議な発作のあることをのぞけば、教授は今までになく元気で精力的ですし、頭もいたって明快です。でも何だか違《ちが》ってきました。教授はあんな人じゃなかったのですがねえ」
「少なくともここ一週間は、何も心配なさらないでよいと思いますよ」ホームズがなだめた。「私は忙《いそが》しい身ですし、ワトスン君も放《ほう》っておけない患者《かんじや》があるのです。こんどの火曜の、時刻も今ごろ、ここでお目にかかることにしようじゃありませんか。こんど来たら、帰るまでにはかならず事の真相を明らかにしてあげられると思いますよ、たとえあなたの苦労を除去するまでには至らないにしてもね。それまではどうぞ、何かあったら手紙でお知らせください」
それから二、三日は何事もなくてすぎたが、月曜日の晩になって、あす汽車で落ちあいたいという簡単な手紙がホームズからきた。ケンフォード行きの汽車の中で彼の語ったところによると、あれ以来プレスベリー教授の家は平穏《へいおん》で、教授の行状もいたって正常だという。その晩チェッカーズのおなじみの部屋へ訪ねてきたベネット氏の報告もその通りだった。
「きょうもロンドンから教授あての手紙がありました。手紙のほかに小さな小包もきましたが、どちらも例の開封禁止《かいふうきんし》の×が切手の下についていました。ほかには変ったこともありません」
「それは今にわかります」ホームズは恐《こわ》い顔をしていった。「ベネットさん、今晩こそは何かの結論が出てくると思いますよ。私の推理が正しいとすれば、問題を頂点に持ってゆく好機があるはずです。そうするためには教授の行動を見張っている必要があります。ですからあなたは今晩|眠《ねむ》らないで、警戒《けいかい》にあたってください。そしてもし教授が出てきても邪魔《じやま》をしないで、やりすごしてそっと後をつけるのです。ワトスン君と私は遠くないところにいることにします。それはそうと、例の小箱《こばこ》の鍵《かぎ》はどこにあるのですか?」
「教授が時計の鎖《くさり》につけています」
「箱を調べなきゃなるまいと思うのでね。ま、いざとなれば、錠《じよう》は何とかなるでしょう。邸内《ていない》にほかに体の利《き》く男がいますか?」
「御者《ぎよしや》のマックフェールがいます」
「どこで寝《やす》みますか?」
「馬小屋の二階です」
「あるいは何か頼《たの》むかもしれませんのでね。じゃあとは事の進展を待つばかりです。さようなら――いずれ朝までにはまたお眼にかかるようになると思いますがね」
真夜中に近いころになって、私たちはプレスベリー教授邸の玄関に向かいあった灌木の繁《しげ》みの中へ身を忍《しの》ばせた。空はよく晴れているが寒い晩だったので、暖かいオーヴァーを着ていってよかった。微風があり、流れる断雲がときどき半月《はんげつ》をおおった。期待と興奮に心を奪《うば》われたり、また私たちの注意を引きつけているこんどの事件も、おそらく今晩こそは終止符《しゆうしふ》を打つことになるだろうというホームズの言葉がなかったら、この夜の寝《ね》ずの番はずいぶんみじめなものだったろう。
「もし九日の周期説がほんとだとすれば、教授は今晩発作をおこすはずなんだ。この不思議な徴候《ちようこう》は教授がプラハヘ行ってきてから起こりだしたという事実、ロンドンのボヘミア人と秘密に文通していること、しかもきょうというきょうその男から小包のきたこと、これらの事実がすべて一点に集中している。
教授が何を何の目的で服用しているかは、まだわからないけれど、その源泉が何らかの意味でプラハにあることは明らかな事実だ。一定の指導のもとにこの九日制に従って服用をつづけているのだが、そのことが僕《ぼく》の注意をひいた第一の点だった。だがもっとも眼《め》につくのは教授の徴候だった。君は教授の指の関節を見たかい?」
残念ながら私はノーというしかなかった。
「厚くなって、いくらかごつごつしたような関節だったが、僕の経験によれば近ごろああなったのだ。人に会ったら何より先にまず手を見ることだよ。それから袖口《そでぐち》やズボンのひざや靴《くつ》だ。
あの奇妙《きみよう》な関節は、進化の形式で説明するしか……」といいかけてプツンと言葉を切ったが、とつぜん自分の額をポンとたたいた。「おう、ワトスン君、何という僕はばかなのだろう? ちょっと信じられないことだが、まさしくそれに違いないのだ! すべてがその一点を指している。どうしてこの観念の連繋に気がつかなかったろう? あの関節――うむ、何だってあれを見のがしていたのだろう? それに犬だ! そして蔦《つた》だ! これじゃいよいよ僕も夢《ゆめ》に描《えが》いている小さな農場へ隠退《いんたい》すべき時がきたらしいね。おや、ワトスン君、出てきたぜ! こんどこそこの眼で直接見られる機会に恵《めぐ》まれたわけだ」
玄関のドアが静かにあいて、ランプに照らされたホールを背に、すらりと高い教授が姿をあらわした。ガウンを着ている。それが光りを背にして、この前見たときと同じように、立ったまま体を前こごみにして、両腕をだらりと垂らしているのである。
やがて馬車道へ降りてきた彼《かれ》には、驚《おどろ》くべき変化がおこった。腰《こし》をおとしてうずくまるような姿勢になったかと思うと、両手を地につけて這い歩きだし、活力があふれ精力がありあまるとでもいうのか、ひょいひょいと跳《と》ぶような動作をひっきりなしに交えた。そうして家の表がわについて進み、まもなく角を回って姿を消してしまった。姿が見えなくなると、ベネットが玄関から静かに現われて、そっと後を追っていった。
「来たまえ、ワトスン君、はやく!」
私たちは足音を忍ばして繁みをくぐりぬけ、月光をいっぱいに浴びた家の側面の見えるとこへとたどりついた。蔦のからんだ壁の下に、教授のうずくまっているのがはっきり見えた。見ていると、教授は驚くべき身軽さをもって壁を登りはじめた。枝から枝ヘ、手さばきよく、足もとも危なげなく、とび移っては登ってゆくところは、これという目的があるわけではなく、自分の力を楽しんでいるとしか見えない。ガウンの袖やすそを左右にひらひらさせているところは、月光に照らされた壁に大きな四角い黒斑《こくはん》となって、まるで巨大《きよだい》な蝙蝠《こうもり》がぴたりと吸いついているのかと思われた。
やがてこの遊戯《ゆうぎ》にもあきたのか、枝から枝へと降りてきて、またもやさっきの姿勢になり、おかしなかっこうで馬小屋のほうへ這っていった。さっきからほえたてていたウルフハウンドは、馬小屋の外に出ていたが、このとき主人の姿を見つけて急に興奮の度をつよめ、気の狂《くる》ったようにほえたてた。鎖をぴんと張って全身を震わせながら、夢中《むちゆう》になってほえつづける。
教授はうずくまったまま鎖いっぱいに犬に近づき、いろんなことをしていどみかかった。小石をひと握《にぎ》り拾って犬の顔に投げつけたり、拾った棒の先で突っついてみたり、かみつこうとする鼻さき二、三インチのところで手をうってみたり、憤怒《ふんぬ》に手のつけられなくなっている犬を、いやが上にも猛《たけ》りたたせようと、あらゆることをして揶揄《からか》った。
私もこれまでいろんな冒険《ぼうけん》を経験してきたが、こんな奇妙な光景を見るのは初めてだった。無神経に蛙《かえる》のように地面に這いつくばい、それでいて威張《いば》りかえって、猛り狂う犬を虐《いじ》めからかい、手段をつくして巧妙《こうみよう》な残虐《ざんぎやく》を加え、後脚《あとあし》で立って気の狂ったように騒《さわ》ぎたてさせているのだ。
そうするうちに、だが、たいへんなことになった。鎖は何ともなかったが、首輪がニューファウンドランド種用の太いものだったため、すっぽりと抜《ぬ》けたのである。かたりと金属製のものが下に落ちる音がしたと思うと、つぎの瞬間《しゆんかん》には犬と人とがいっしょになって地上にころがり、猛りに猛る犬のうなり声と、恐怖《きようふ》におののく鋭《するど》い悲鳴が入りまじって起こったのである。
教授の生命は風前のともし火で、放っておけばあぶない。現に猛犬《もうけん》はのどにくらいついて、きばをしっかり立てているのだ。飛びこんで犬と人とを離《はな》してみると、教授はもう気を失なっていた。
私たちにしても、それはあぶない仕事だったのだが、ベネットの声を聞き姿を見ると、大きなウルフハウンドもたちまち聞きわけた。声を聞いて御者が眠そうな顔で馬小屋の二階から降りてきた。
「こんなことになると思いましたよ」彼は頭を振《ふ》りながらいった。「前にも見たことがありますがね。いつかはロイのやつが思いきったことをするだろうと思ってたんでさあ」
犬を繋《つな》いでおいて、みんなで教授を二階のベッドへかつぎあげた。そしてベネットは医者の資格もあったので、私にてつだってのどの手当をした。鋭《するど》いきばはわずかに頸動脈《けいどうみやく》をそれていたが、出血がはげしかった。三十分ばかりで危険を脱《だつ》したので、私がモルヒネの注射をすると、すぐ深い眠りにおちいった。かくして初めて私たちは顔を見あわせ、善後策を講ずることができたのである。
「一流の外科医を招《よ》んだほうがいいですね」まず私がいった。
「そればっかりは困ります」ベネットが必死に反対した。「いまのところ外部の人は誰《だれ》も知らないのです。私たちだけなら、何を知ってもどうということはありません。しかしいったん外部に漏《も》れたとなると、うわさは尾《お》ひれをつけてどこまで拡《ひろ》がるかわかったものじゃありません。大学における教授の地位、ヨーロッパ的な名声、そして令嬢《れいじよう》の心中などもお考えください」
「それはそうです」ホームズがいった。「この問題をわれわれだけで胸に葬《ほうむ》るのは何でもありませんし、また、じっさいわれわれの自由裁量にまかされてみると、その再発を防ぐのも難事ではありますまい。ベネットさん、ちょっとその時計の鎖についている鍵を。ありがとう。ここはマックフェールにまかせておいて、万一容態がかわりでもしたら、すぐ知らせてもらえばよいでしょう。じゃ教授の秘密の小箱に何があるか見にゆきましょう」
箱の内容は大したものもなかったが、われわれの目的には十分だった。空の小さな薬びんが一つ、九分どおり薬液のはいったのが一つ、皮下注射器、外国人らしい読みにくい筆跡《ひつせき》の手紙が四、五通はいっていた。封筒《ふうとう》の表面にあるしるしで、それらの手紙が秘書の日常をかきみだしたものであることがわかった。いずれも発信地はコマーシャル街となっておりドラーク≠フ署名があった。
この手紙の内容は単なる荷物発送案内で、新しいびんをプレスベリー教授あて送りだしたとか、金を受け取ったとかいうようなことばかりであった。その中に一通だけ、筆跡にも教養がみえ、オーストリアの切手にプラハの消印のあるのがあった。
「これだ、これだ!」と叫《さけ》んでホームズは中身をとりだした。
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敬愛する同学の士よ
先日ご来訪をうけて以来、種々考えてみました。学兄がこの療法《りようほう》を受けらるるには特別な事情がおありのことと拝察いたしますが、小生の実験の結果はある種の危険がないでもないことを示していますので、十分の注意を要請《ようせい》いたすものです。類人猿《るいじんえん》の血清のほうが好結果を来《きた》すものと考えられますが、過日も申しあげたように、材料入手の便宜上《べんぎじよう》黒面の尾長猿《ランガー》を使用することにしました。もとより尾長猿《ランガー》が木登りをし、地上では匍伏《ほふく》前進するのに反し、類人猿は直立歩行するくらいで、より人類に近いものです。なおこの処置法は未《いま》だ発表の時機でありません故《ゆえ》他に漏らすことなきよう、くれぐれもご注意ねがいます。イギリスにもう一人治療をうけている人がいますが、そんなわけでドラークという人物を代理人にしています。
毎週報告をください。
[#地付き]尊敬をこめて
プレスベリー学兄 [#地付き]H・ローエンシュタイン
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ローエンシュタイン! 私はこの名を見てはからずも短い新聞記事を思いおこした。どことかの学者が、不老若返りの秘法を研究しているといった記事である。プラハのローエンシュタイン! 彼こそは不思議な活力をもたらす液を与《あた》える男、その出所を明かさないため治療禁止をくった男だ。私が思いだしたことを手短かに話すと、ベネットは本棚《ほんだな》から動物学便覧をとりおろした。
「尾長猿《ランガー》――『ヒマラヤ斜面産《しやめんさん》の顔黒き大型の猿《さる》にして登攀種《とはんしゆ》中最も大きくかつ人間に近し』そのほか細かいことが出ているようですが、いや、ホームズさんありがとうございました。おかげでこの不祥事《ふしようじ》の原因を突《つ》きとめることができました」
「ほんとうの原因はね、もちろんあの老いらくの恋《こい》にあるのですよ」ホームズがいった。「性急な教授は、若返ることによってのみ、思いが遂《と》げられるものと思いこんだのですね。人は自然を征服《せいふく》しようとすると、かえって逆にうち負かされがちなものです。最高の形態をそなえた人でも、天命の正道を踏《ふ》みはずすときは、一般《いつぱん》の動物に戻《もど》ってしまいます」
こういってホームズは、手にした小さなびんの中の透明《とうめい》な液体をしばらくながめていたが、
「私からこの男に手紙をだして、怪《あや》しげな薬液を売りだす証拠《しようこ》を押《お》さえたが、これは刑法上《けいほうじよう》の責任があるぞといってやれば、それでこちらに後難はありますまい。もっともまたやるかもしれず、もっといい方法を発見するものが現われることもあるでしょう。しかしそれには危険がありますよ。人類に対するきわめて実際的な危険です。ねえワトスン君、考えてもみたまえ。野卑《やひ》で肉欲的で世俗的な人間がみんな、用もないのに生きながらえることになる。崇高《すうこう》な人間は、さっさとより高いところへ行くのをいとわないからだ。そうなれば世の中は生存の価値のないものばかりになる。それではこの世はまるで汚水《おすい》だめと選ぶところがないではないか!」
ここまでののしると夢想家ホームズは急にかげをひそめ、本来の活動家にかえって、勢いよく椅子《いす》から立ちあがった。
「もう何も申すことはないと思いますよ、ベネットさん。これでなにもかも思いあたることばかりでしょう。むろん犬は、あなたなんかよりずっと早く変化に気づいたのです。嗅覚《きゆうかく》で知ったのでしょう。ロイがかみついたのは教授ではなく猿です。木登りはあの動物の慰《なぐさ》みだったのです。令嬢の部屋をのぞいたのは偶然《ぐうぜん》の気まぐれにすぎないと思います。
ワトスン君、早朝のロンドン行き列車があるはずだが、その前にチェッカーズ≠ヨ寄ってお茶を飲んでからでも、十分間にあうと思うよ」
[#地付き]―一九二三年三月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
ライオンのたてがみ
ながい間の職業的経歴のうちにも、かつてその例を見ないほど難解で世の常ならぬ事件が、私の隠退《いんたい》後に、しかもいってみれば向こうから進んで飛びこんでくるとは、まことに奇異《きい》な話である。多年にわたるうす暗いロンドンのまっただ中での生活中も、おりにふれては、自然を相手の静かな生活を待ち望んでいたものだが、念願かなってサセックスにささやかな一家を構えて隠退することができた。そこへこの事件なのである。
このころワトスンは私の身辺からほとんど姿を消していた。週末などたまに訪ねてくるくらいなものである。そこでこの事件も私がみずから筆を取らねばならないことになった。ああ、あの男さえいてくれたら、どんなにかこの事件を面白《おもしろ》く書きまくり、あらゆる困難に打ちかって私が究極の勝利とやらを得たしだいを吹聴《ふいちよう》してくれることだろうに!
だがそういうしだいだから、拙《つた》ないながら私が筆をもって書きつづり、ライオンのたてがみのミステリーをさぐる私の前途《ぜんと》に横たわっていた困難を、私がいかに一歩ずつ探索《たんさく》していったか物語るしかないのである。
私の別荘《べつそう》は英仏海峡《えいふつかいきよう》を一望に見おろす南イングランドの南斜面《みなみしやめん》の白亜《はくあ》の高台にある。ここから見る海岸線はことごとく白亜のきりたった断崖《だんがい》で、海へ降りるにはすべりやすいけわしい道がたった一つあるばかりである。この小道を降りきったところは、満潮のときでも潮をかぶらない小石の浜《はま》が百ヤードばかりある。しかしこの浜にはあちこちに入《い》り江《え》やくぼみがあって、潮が引くごとに水の入れかわるすばらしい水泳プールをなしていた。このみごとな海岸は左右へおのおの数マイルもつづいているのだが、その間にただ一カ処だけ小さな入り江があって、そこがフルワースの村になっている。
私の家は一軒家《いつけんや》である。私と年とった家政婦と蜜蜂《みつばち》と、これが家族の全員である。だが、半マイルばかりのところに、ハロルド・スタクハーストの有名な訓練所ザ・ゲーブルズ≠ェある。ここはかなり大きな構内に二十人ばかりの青年が、数人の教師といっしょに住んで、いろんな職業教育をうけているのだった。スタクハースト自身は、若いころは大学の有名なボート選手で、万能《ばんのう》の優等生だった。私はこの海岸へ住みついて以来親しくしてきたが、ここでは夜など招待もないのにふらりと、どっちからでも訪ねていい唯一《ゆいいつ》の人物なのである。
一九○七年の七月末、ひと晩ひどい暴風があって、海面をわきたたせ、崖《がけ》のふもとを洗い、波の引いたあとには塩水湖をのこしていった。翌朝になると風はおさまり、あたりはすっかり洗われて、すがすがしくなっていた。こんな愉快《ゆかい》な日には仕事をする気にもならないので、私は新鮮《しんせん》な空気でも楽しもうと思って、朝食まえに散歩にでた。
浜へ降りる道につづく崖上の小道をぶらぶら歩いていると、うしろから呼ぶものがある。見るとハロルド・スタクハーストがうれしそうに手を振《ふ》っているのだった。
「すばらしい朝じゃありませんか、ホームズさん。きっとあなたに会うだろうと思っていましたよ」
「泳ぎにゆくところですね?」
「あなたの推理にまたやられました」と彼《かれ》はふくらんだポケットをたたきながら笑った。
「そうなんです。マクファースンが朝早く行きましたから、まだ泳いでいるだろうと思いますよ」
フィッツロイ・マクファースンは科学の教師で、すらりと姿勢のいい青年だが、リューマチ熱の予後に心臓病を併発《へいはつ》して、前途を台なしにしたのである。しかし生れながらの運動家で、過激《かげき》にならないゲームなら、何にでもすぐれていた。夏でも冬でも水泳は欠かしたことがなく、私もそのほうは好きなので、よく落ちあったことがある。
話をしているうちに、本人が姿を現わした。浜へ降りる道のところへ、まず頭がみえたと思ったら、やがて崖上に全身を現わしたが、どうしたことか酔《よ》っぱらいのようによろよろしている。おやと思うまもなく彼は両手をあげ、恐《おそ》ろしい悲鳴とともにパッタリとうつぶせに倒《たお》れてしまった。スタクハーストにつづいて私は駆《か》けより――そのあいだ五十ヤードくらいあったろう――仰《あお》むけに起こしてみた。明らかに息を引きとるところだった。落ちくぼんでどんよりした眼《め》つき、土気いろのほおなどを見れば、そうとしか思われない。一瞬《いつしゆん》の間、その面《おもて》には生の微光《びこう》があらわれ、何やら知らせようとするらしく、ぶつぶつつぶやいたが、いうことが不明瞭《ふめいりよう》で、私には最後にいったライオンのたてがみ≠ニいう言葉だけしか聞きとれなかった。
まるで見当ちがいの、わけのわからぬ言葉だが、私にはどうしてもそうとしか聞きとれなかったのである。それから彼は上半身を起こし、手をあげて虚空《こくう》をつかむようなしぐさをしたかと思うと、前のめりに横倒しになり、そのまま息を引きとってしまった。スタクハーストは突然の恐怖に呆然《ぼうぜん》としていたが、ご想像のとおり私は全感覚を緊張《きんちよう》させていた。私の職務として、いまやわれわれは驚《おどろ》くべき事件に直面しているのが明白であるのがすぐにわかった。
マクファースンはズボンの上にバーバリーのオーヴァーを着ているだけで、ズックの靴《くつ》はひもがむすんでない。倒れるひょうしに、肩《かた》にひっかけていただけのバーバリーが脱《ぬ》げて、はだかの上半身がむきだしになっていた。ところが驚いたことに、そのむきだしの背中には、細い針金の鞭《むち》でひどく打たれでもしたように、赤黒いみみずばれがいくつもできているのである。それもごく柔軟《じゆうなん》な鞭でやられたらしく、みみずばれは肩やわき腹へかけて長く曲りこんでいた。そして、苦悶《くもん》のうちに夢中《むちゆう》で下唇《したくちびる》をかみ切ったらしく、あごから血を垂らしている。その苦痛がどんなに堪《た》えがたかったかは、ゆがめた顔つきを見ればよくわかる。
私が死体のそばにひざまずき、スタクハーストがそばに立っているとき、ふと人かげがさしたので、見あげるとアイアン・マードックがそばに立っているのだった。マードックは訓練所の数学教師だが、背が高く色の黒いやせぎすの男で、ひどく無口のうえに超然《ちようぜん》としているものだから、友だちというものがない。普通《ふつう》の生活とはあまり関係のない、無理数や解析《かいせき》幾何学《きかがく》などの高い観念の世界にばかり住んでいるらしい。生徒たちからは変人扱《へんじんあつか》いをうけ、笑いものにされていたが、漆黒《しつこく》のひとみや顔の浅黒さに現われているばかりでなく、ときどきかんしゃくをおこして狂暴《きようぼう》としか形容のしかたのない様相を呈《てい》するところといい、どこか外国人の血が流れているのだった。あるときマクファースンの飼《か》っている小犬がうるさくほえついたといって、いきなりひっ捕《とら》えて上質ガラスをはめた窓にたたきつけたことがある。この時ばかりはスタクハーストも腹にすえかねて、くびにしたかったが、教師として得がたい人物だったので、思い止《とど》まったのである。
いまそばへ寄ってきたのは、そういう変った複雑な人物である。犬の事件から推《お》して、二人の間には友情などあるとは思えないのだが、それでもマードックはその場の光景に心底から驚いたらしい。
「どうしました? 気のどくな! 私でよければ何でもやります。命じてください」
「いっしょだったのですか? いったいどうしてこんなことになったのです?」
「いいえ、私はけさはおそくなったものですから、まだ浜へ行っていないのです。いまザ・ゲーブルズ≠ゥら出てきたところですよ。何か手つだいましょうか?」
「じゃ大急ぎでフルワースの警察へ行って、このことを報告してください」
返事もしないで彼は駆けだしていった。そこで私はいよいよ調査にとりかかったが、スタクハーストは思いがけない事故に呆然として、死体のそばに立ちすくんでいるばかりだった。
私のまずやったことは当然、浜に誰《だれ》がいるか確かめることだった。崖の降り口に立つと、浜はひと目に見おろされたが、遠くフルワースの村のほうへ歩いてゆく小さな人影《ひとかげ》が二、三見えるだけで、浜には人っ子一人いなかった。これだけ見とどけておいて、ゆっくり坂道を降りていった。
道は粘土《ねんど》または柔《やわ》らかい粘灰土に白亜まじりで、あちこちに同じ足跡《あしあと》があって、登り降りしている。けさはほかにこの坂を通ったものは一人もないらしい。一カ処、指をひろげて手を突《つ》いた跡があった。指さきが坂上に向かっているから、マクファースンが坂を登りながら倒れたものに違《ちが》いない。そのほかよろめいてひざを突いたらしい丸いくぼみが何カ処かあった。
坂を降りきってみると、潮の引いたあとに、かなり大きな潟《かた》ができていた。そのそばでマクファースンは裸体《らたい》になったとみえて、岩の上にタオルがおいてあった。きちんとたたんであり濡《ぬ》れてもいないから、マクファースンは結局水にははいらなかったのだろう。
一面に敷《し》きつめた小石の原をあちこち探すうちに、小さな砂地があって、マクファースンのズック靴《ぐつ》の跡の残っているのを発見した。そばに裸足《はだし》の足跡もある。これでみると水にはいる支度《したく》はすっかりできたのに、タオルの示すところによれば、結局はいらなかったらしい。
こうなってくると問題は明らかに限定された。今までぶつかったことのないほど奇怪《きかい》な事件である。マクファースンは浜へ降りて十五分とはたたなかったはずだ。スタクハーストがザ・ゲーブルズ≠ゥら後を追ってきたのだから、その点は疑いの余地がない。
彼は水泳の目的で浜へゆき、裸足の足跡が示しているとおり、服を脱いだ。ところがどうしたことか突然《とつぜん》、急いで服を身につけ――着かたは乱雑であり、ボタンやひもの類もしめてなかった――水にはいらなかったか、少なくとも体をふきもしないで帰途についた。このように目的を急に変更《へんこう》した理由はどこにあるのか? いうまでもなくあの残酷《ざんこく》きわまる折檻《せつかん》であろう。唇をかんで苦痛に堪え、最後の力をふりしぼって崖上まで逃《に》げのび、ついに力つきて倒れたのだ。このような狂暴なまねをしたのは誰であるか?
崖のふもとに小さなほら穴があるのは事実だけれど、まだ水平線上にのぼったばかりの太陽が中まで直接にさしこんでいるから、そこに人が隠《かく》れていればわからないはずはない。そのほか浜には遥《はる》かのかなたに二、三人見えるだけで、人影はない。彼らを犯人とするには、あまりに遠く隔《へだ》たりすぎているし、マクファースンが水浴しようとした潟は崖下までひたひたと水が浸《ひた》しているのに、遠くにいる人はその潟を隔てて反対がわにいるわけなのだ。海上にはさほど遠くないところに二、三の漁船が見えているが、これはそのうち暇《ひま》をみて乗り組んでいる漁師を調べることにしよう。調査の途《みち》はいくつかあるが、さてとなるとモノになりそうなのは見あたらないようである。
死体のあるところへひき返してみると、やじ馬がすこし集まって、それをとりまいていた。スタクハーストもむろんその中にいた。アイアン・マードックが村の巡査《じゆんさ》アンダースンを連れて帰ったばかりのところだった。アンダースンは鼻下に赤いひげをはやした大男で、いかにもサセックスの田舎《いなか》そだちらしくのっそりとしていた。お国がらで外見は鈍重《どんじゆう》だけれど、腹は悪い人間ではないのだ。私たちの話をひと通り聞いて、手帳に控《ひか》えると、私を小脇《こわき》へ引っぱっていってそっと言った。
「ホームズさん、知恵《ちえ》を貸してくださいよ。これは私には荷がかちすぎます。やりそこなうとまたルーイスの本署に油をしぼられますからねえ」
私はそこですぐに直属上官と医者に来てもらうこと、それまでは何ものをも動かしてはならないこと、むやみに足跡をつけてはならないことなどを忠告しておいて、自分では死体のポケットをさがしてみた。ポケットから出てきたのはハンカチ、大形のナイフ、折りたたみ式の名刺《めいし》入れなどであるが、名刺入れから小さな紙きれがのぞいていたのでそれを拡《ひろ》げてみてから巡査に渡《わた》した。その紙には女文字で、『私も参りますから、あなたもお間違いなくね。モーディー』と走りがきしてあった。場所も時刻もわからないけれど、どうやら愛人どうしの打合せらしいにおいがする。巡査は名刺入れにはさんで、ほかの品といっしょにバーバリーのポケットヘもどしいれた。
私はそれ以上参考になりそうなこともないので、浜のほうを綿密に調べるように頼《たの》んでおいて、朝食をとりにひとまず家へ帰っていった。
それから一、二時間すると、スタクハーストがやってきて、死体をザ・ゲーブルズ≠ヨ運んだこと、そこで検屍《けんし》審問《しんもん》が行なわれることなど話した。そのほか彼は決定的な重大ニュースをもっていた。予期にたがわず、崖下の小さいほら穴からは何も出てこなかったが、マクファースンの机の引出しを調べてみると、フルワース村のモード・ベラミー嬢《じよう》という人からきた親密な手紙が何通か出てきたというのである。これで死体が持っていた手紙の筆者がわかったわけだ。
「その手紙は警察が持っていってしまいましたから、いまお目にかけられませんけれど、まじめな恋愛《れんあい》であることは疑いありません。といってこんどのことに関係があるというのじゃありませんよ――娘《むすめ》さんのほうから彼にあう約束《やくそく》をしていますけれどね」
「といってあの水浴場はみんな行くところだから、まさかあそこをその場所に選んだわけじゃありますまいよ」
「マクファースンに生徒が一人もついてゆかなかったのは、ほんの偶然《ぐうぜん》ですよ」
「ほんの偶然でしょうかねえ?」
スタクハーストは額にしわをよせて考えこんだ。
「アイアン・マードックが生徒を引きとめたのです。朝食の前に代数学の実習をするといってきかなかったのです。かわいそうに、マードックはそのためにひどく胸をいためていますよ」
「だって二人はあまり仲がよくなかったのでしょう?」
「ひところはそうでしたけれど、この一年あまりマードックは誰よりもマクファースンと近しくしていました。元来がそう思いやりのあるという気質じゃありませんけれどね」
「私もそう思っています。しかし二人は犬を虐待《ぎやくたい》したとかで仲違《なかたが》いしたと、あなたから聞いたように思いますが……」
「あれはもう治《おさ》まったのです」
「でも感情の根はのこっていたでしょう?」
「そんなことはありません。すっかり仲なおりしていました」
「なるほど。じゃこの女性問題のほうですが、あなたは本人をご存じですか?」
「あの娘なら知らないものはありません。この付近きっての美人です。いや、どこへだしても人目をひくほんとの美人ですよ。マクファースンが心を引かれたのは知っていましたが、あの手紙に見るように交渉《こうしよう》が進んでいようとは夢《ゆめ》にも思いませんでしたよ」
「どういう娘さんなのですか?」
「フルワースでたった一軒、貸ボートや脱衣《だつい》小屋を持っているトム・ベラミー老人の娘でしてね。トム老人はもと漁師からたたきあげた男ですが、今じゃかなりの身代もあるようで、せがれのウイリアムと二人で商売をしています」
「これからフルワースまで歩いていって、彼らに会ってみようじゃありませんか?」
「どういう口実をつけます?」
「口実なんか何とでもつけられますよ。どう考えてもあの気の毒なマクファースンがあんな無残な方法で自分自身を虐待したとは思われない。あの傷が鞭によるものだとすれば、その鞭は何人かの手によって打ちおろされたものに違いありません。この寂《さび》しい地方における彼の知友の範囲《はんい》は知れたものです。その人たちをしらみつぶしに調べてゆけば、かならず動機がわかるでしょうし、動機がわかれば犯人を突きとめるのも困難はありますまい」
けさ見てきた悲劇で気がめいってさえいなかったら、フルワース村までの高台の道は、タイムの葉の芳香《ほうこう》たかく、心たのしいものだったろう。この村は海岸線の半円形にくぼんだ湾《わん》にそっていた。古めかしい寒村の奥《おく》の小高いところに、近代的な家がいくつかあって、その一軒にスタクハーストは私を案内していった。
「あの家ですよ。ベラミー一家はザ・へイヴン≠ニ呼んでいますがね。すみに塔《とう》のあるスレート屋根のあの家がそうです。あれなら悪かありませんよ、無一物の漁師から……おや、あれごらんなさい!」
ザ・ヘイヴン≠フ庭の戸を押《お》しあけて一人の男が出てきたのだが、その背の高い角ばった、ふらふらした姿は見まちがうはずはなかった。数学教師のアイアン・マードックなのである。やがて道路のまんなかでばったり顔をあわせた。
「やあ!」スタクハーストが声をかけた。するとマードックはかるく会釈《えしやく》して、妙《みよう》に黒い眼で私たちを横目で見ながら、そのまま行きすぎようとしたが、校長が呼びとめた。
「あそこで何をしていたのです?」
するとマードックは怒《いか》りにほおをそめていった。「校長、私はあなたの部下で、宿舎までごやっかいになっている身ですが、個人的なことまでお指図を受けるべきだとは思いませんでした」
それを聞くとスタクハーストは、今まで押さえていた堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が切れた。でなければもう少し辛抱《しんぼう》するところだったのだが、今やすっかりかんしゃくをおこしてしまったのである。
「この際その返答は失礼千万《しつれいせんばん》ですぞ、マードック君!」
「あなたのお尋《たず》ねこそそれに該当《がいとう》するものですよ」
「今までは見のがしておいたけれど、あなたの反抗《はんこう》的な態度はこれが初めてではない。もう許してはおきませんぞ! すぐとはいわないが、できるだけ早く別の就職口を探してもらいましょう」
「そのつもりでいたところです。ザ・ゲーブルズ≠住むに価《あたい》する所にしてくれたたった一人の友を今日失なったのですから」
そういって彼はゆっくり歩み去った。スタクハーストは怒りに燃える眼でその後姿を見送った。
「何という我慢《がまん》のならない男だろう!」と彼は叫《さけ》んだ。
ここで強く私の心を打ったのは、アイアン・マードックは犯罪の現場から早くも逃《に》げだそうとしているということである。ぼんやりとではあるけれど疑惑《ぎわく》が私の胸の中に形をとってきた。これでベラミー家を訪ねてみれば、何かわかってくるだろう。スタクハーストも気をとりなおし、私たちはそのままベラミーの家へはいっていった。ベラミー氏は燃えるように赤いあごひげのある中年の男だった。なぜかひどく腹をたてているらしく、ひげの色に劣《おと》らぬくらいほおを赤くそめていた。
「うんにゃ、詳《くわ》しいことも何も聞きたかありませんて。このせがれの意見もおなじだが」とすみのほうに控えている仏頂づらの強そうな若い男のほうをさして、「マクファースンさんのモードへの仕打ちときたら、ずいぶん失礼でさあ。結婚《けつこん》するなんてことは一度も口にださねえで、やたら手紙をよこしたり、引っぱりだしたり、これじゃ親としても兄としても、賛成はできませんやね。母親のいねえことでもあるし、気いつけてやらねえじゃね。どんなことがあっても……」
このとき当の娘がそこへ現われたので、話は中断された。どんな会合へ出ても、彼女《かのじよ》がそこの品位を一段とたかめ、空気を明かるくするだろうことは否定できなかった。これほどの名花が、かかる環境《かんきよう》のもとに、このような根から咲《さ》き出《い》ずるものとは誰が予想しよう?
私はつねに理性をもって感情を支配しているから、女などに心をひかれたことはまずないのだが、このくっきりと整った顔だちや、草原地帯に特有のあのにおやかなやわはだの新鮮《しんせん》な色を見ては、どんな青年でもかならず無関心ではいられまいと思われた。彼女はドアを押しあけて、眼《め》を大きく見開き、緊張してハロルド・スタクハーストに向かいあって立った。
「フィッツロイの亡《な》くなりましたことはもう知っております。どうぞご心配なく詳しいことをお話しくださいまし」
「そのことなら、もう一人のかたが知らせに来てくださったでな」父親がかわって説明した。
「なにもこんな騒《さわ》ぎに妹を引合いに出すことはなかろう!」息子《むすこ》のほうがほざいた。
「これは私のことですからね、ウイリアム」妹はきっとなって兄をにらみつけた。「私の好きなようにするから放っといてちょうだい。とにかく、人が一人殺されたのは事実ですから、せめて犯人さがしのお手つだいでもして、あのかたの冥福《めいふく》をいのりたいと思いますわ」
彼女はスタクハーストの簡単な説明にじっと耳を傾《かたむ》けていた。美しいことも美しいが、よほど性格がしっかりしているらしい。モード・ベラミー――彼女はもっとも完成された非凡《ひぼん》な女性としてながく私の記憶《きおく》にのこるであろう。彼女は私を見知っているらしく、最後に私のほうへ振《ふ》りむいた。
「ホームズさん、犯人たちを法にてらして罰《ばつ》してくださいまし。犯人が誰であっても、私はどこまでもあなたの味方でございます」こういう彼女は心なしか父と兄のほうをいどみかかるように横目で見たように私には思われた。
「ありがとう。こうした問題では婦人の直感を私は高く評価します。ときにあなたは犯人たちとおっしゃいましたが、関係者は二人以上だとお考えなのですか?」
「私はマクファースンさんのことはよく知っておりましたが、胆力《たんりよく》もあり体力にも恵《めぐ》まれたかたでございました。一人ではとてもそんな酷《ひど》いことができるものではございません」
「ちょっと二人だけで内密にお話しねがえませんでしょうか?」
「モード、つまらんことに深く掛《か》かりあうじゃないぞ!」父親がしかりつけた。
「何か私にできますでしょうか?」彼女は困ったように私の顔を見た。
「どうせ何もかもすぐ世間には知れてしまうのですから、ここで申しあげても少しもかまわないのです。どちらかと申せば内密にお話しいたしたかっただけのことで、お父さまがいけないとおっしゃるのでしたら、お父さまにもお口を慎《つつ》しんでいただくまでです」
と、ここで私は死体のポケットから出てきた手紙のことを話した。
「このことはかならず検屍審問のとき問題になります。ついてはここでそれに対する説明をうかがうわけにはゆかないものでしょうか?」
「そのことでしたらお隠しする理由もございません。私たちは婚約しておりました。ただフィッツロイのおじさんが、もうよほどのお年で、永くはないそうでございますけれど、その意志に反して結婚しますと、フィッツロイは遺産がもらえなくなるかもしれません。それで秘密にしていましただけで、ほかに理由なんかはございません」
「それならそれと、早くいえばいいものを!」父親が不服をもらした。
「お父さまさえもっと理解してくだされば、隠すつもりなんかありませんでしたのよ」
「わしの娘は身分ちがいの男なんかと結婚させるわけにゆかんのじゃ」
「そういうふうに彼《かれ》に対して偏見《へんけん》を持っていらっしゃるから、私なにも申しあげなかったのですわ。その手紙でしたら」と彼女はドレスをさぐって、しわくちゃの紙きれをとりだした。「この手紙への返事でございますの」
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『愛するものよ』とそのメッセージは始まっていた。『浜《はま》のいつもの場所で、火曜日の日没後《にちぼつご》に。それしか出られる時がないのです。――F・M・』
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「火曜日は今日です。今晩私はフィッツロイに会うはずでございました」
私はその紙をひっくり返してみて、「これは郵便できたものじゃありませんね。どこからあなたの手に届いたのですか?」
「そのお尋ねにはお答えしたくございません。あなたが調べていらっしゃる問題とは関係ないことでございますもの。関係のありますことでしたら、どんなお尋ねでもお答えいたします」
彼女はその言葉のとおり、何でもすらすらと答えてくれたが、これといって役にたつことは出てこなかった。マクファースンが隠れた敵を持っていたと考えられる理由は少しもなかったという。ただ自分に密《ひそ》かな思いをよせている男が何人かいることだけは、彼女も否定しなかった。
「失礼ながらアイアン・マードック君もその一人ですか?」
彼女はまっ赤になってもじもじしていたが、
「ひところそうらしいと思ったこともございますけれど、フィッツロイと私の仲を理解してからは、そんな様子は見られなくなりました」
この不思議な男マードックをとりまく影《かげ》が、ここでまたしても私の心に明確に浮《う》かびあがってきた。あの男の経歴を調べてみる必要がある。彼の私室をそっと捜査《そうさ》してやろう。スタクハーストも、心の中で疑惑をふかめていたから、よろこんで協力を約してくれた。そこで私たちは、事件解決の端緒《たんしよ》はつかみ得たつもりで、ザ・ヘイヴン≠辞して揚々《ようよう》と帰途《きと》についたのである。
一週間経過した。検屍官の審問でも何もわからないので、新しい証拠《しようこ》の現われるまで決定を一時延期することになった。
スタクハーストはひそかに数学教師の身辺を調査し、私室もざっと調べたが、何も出てこなかった。私も個人的に、物心両面にわたって詳しく調べてみたが、やはり得るところはなかった。私の扱《あつか》ったどの事件の記録を見ても、これほど自分の力の限界を知らされた場合はないのである。あれかこれかと空想を駆使《くし》してみるが、さてこれといって思いつくこともない。そこへ犬の事件がもちあがったのである。
最初これを聞いてきたのは年とった私の家の家政婦だが、彼女一流の不思議な無線受信機で、どこからか田舎|暮《ぐ》らしのニュースを集めてくるのである。
「旦那《だんな》さま、マクファースンさんの犬がかわいそうなことをいたしましたよ」ある晩彼女がいった。
私はこうした話にはあまり興味をもたないほうだが、この言葉はふと気になった。
「マクファースンさんの犬がどうかしたのかい?」
「ご主人のことを悲しむあまり死にましたそうで。かわいそうじゃございませんか!」
「誰《だれ》から聞いたの?」
「みんなその話で持ちきりでございますよ。あれ以来あの犬はおそろしく嘆《なげ》き狂《くる》って、一週間もなにも食べようとしなかったそうでございますが、それが今日になって浜で死んでいますのを――ほら、先生が亡くなりましたあの同じ場所で死んでいますのを、ザ・ゲーブルズ≠フ生徒さん二人が見つけたのだそうでございますよ」
「同じ場所で」この言葉が私の記憶の中にくっきりと浮かびあがった。そしてこれは重大事なのだぞというぼんやりした知覚力が心のどこかに働いた。犬が主人のあとを追って死ぬということは、忠実な美しい犬の性質からいって、さして不思議はなかろう。だが「同じ場所で」だという! なぜあんな寂しい浜で命をおとすようなことになったのか? 犬までねらうほどの執念《しゆうねん》ぶかい反目があり得ると考えてよいのか? それともまた……? この知覚はまだぼんやりとはしていたけれど、私の心の中にはすでに一つの考えがまとまりかけていた。私はそれからすぐにザ・ゲーブルズ<wの道を急いだ。行ってみるとスタクハーストは書斎《しよさい》にいた。私の求めに応じて彼は、犬を発見したという二人の生徒サドベリとブラントを呼んでくれた。
「ええ、プールの水ぎわに倒《たお》れていました。きっと主人のにおいを嗅《か》いで後を追ったのですね」一人の生徒が答えた。
私はその忠実な犬の死体を見せてもらった。種類はエヤデル・テリヤだった。ホールのマットのうえに臥《ね》かしてある。すでに固く硬直して、眼がとびだし、四肢《しし》をねじ曲げていた。どこをみても、苦悶《くもん》のあとがありありとしている。
ザ・ゲーブルズ≠ゥら私は浜の水浴場へ降りていった。太陽はもう沈《しず》んで、崖《がけ》の影が大きく水面に落ちて鉛《なまり》いろに鈍《にぶ》く光っていた。人かげはまったくなく、二羽の海鳥が鳴きながら頭の上で輪を描《えが》いているのをのぞけば、生きもののいる気配もなかった。うす暗くなりかけた中に、私はかろうじて犬の足跡《あしあと》を発見したが、それはマクファースンがタオルをおいた岩のまわりの砂の上だった。ますます暗くなる中に、私は長いこと立ちつくして、ふかい黙想《もくそう》にふけった。頭の中にはいろんな考えが駆《か》けめぐった。
夢のなかで、何か非常に大切な探しものをしていて、目の前にあることがわかっていながらどうしても手が届かないじれったさは、諸君も経験がおありだろう。その夕、死の場所に独りたたずみながら、私の味わったのがこの思いだった。さんざん思い悩《なや》んだあげくに、私は岩のそばを離《はな》れて、とぼとぼと帰途についた。
私がふとそれに思いあたったのは、急な坂を崖上まで登りつめたときだった。まるで稲妻《いなずま》のように、探し求めて得られないでいたものを思いだしたのだ。諸君はご存じだ――少なくともワトスンは書いたはずなのだ――が、私はつまらない知識をうんと持っていて、科学的には少しも系統だっていないけれども、仕事の上の必要に応じてそれがずいぶん役にたつ。
私の頭はいろんな荷物を詰《つ》めこんだ物置のようなもので、あまり数が多いので中には何があるか、ぼんやりしかわかっていないのもある。だからそこに何かこの事件に関係のありそうなもののあることはわかっていながら、ぼんやりしているのだが、少なくともそれをはっきりさせる方法はあった。ほとんど信じられぬことではあるが、つねに可能性はあるのだ。心ゆくまで調べてみよう。
私の小さな家には屋根裏部屋があって、本がぎっしり詰まっていた。私はこの中へ潜《もぐ》りこむと、一時間ばかり本を引っかきまわして、ようやくチョコレートいろと銀いろ装釘《そうてい》の本を一冊もって飛びだしてきた。そしておぼろな記憶をたどって一心にある章をめくった。じつに不自然な、おぼつかない仕事だったけれど、それをやってしまうまでは、落ちつかなかったのである。翌朝の仕事を待ちかねる気でその夜私が寝《ね》たのはだいぶおそかった。
だが翌朝の仕事には迷惑《めいわく》な邪魔《じやま》がはいった。早朝の茶も飲むや飲まずで浜へ出てゆこうとしているところへ、サセックス州警察のバードル警部の訪問をうけたのである。がっしりと落ちついた牛のような男だが、考えぶかそうな眼つきをしていた。それがすっかり困りぬいたという顔つきで私を見ていった。
「あなたの深いご経験には敬意を表します。しかしそんな話は非公式ですから、止《よ》しましょう。それよりもこのマクファースン事件にはすっかり音《ね》をあげましたよ。そこで問題は、逮捕《たいほ》したものかどうかですがね」
「逮捕するってアイアン・マードック君のことですか?」
「そうです。誰が考えても、あの男よりほかにありませんよ。そこが僻地《へきち》のいいところでしてね。嫌疑者《けんぎしや》といっても、ごく限られた範囲《はんい》にせばめられるわけですが、あの男でないとしたら、誰へ持ってゆきます?」
「どんな証拠があるというのです?」
この警部の考えたことは私と同じであった。マードックの性格、彼をとりまくようにみえる神秘性、犬の事件で示されたような狂暴性《きようぼうせい》の爆発《ばくはつ》、過去にマクファースンとケンカした事実、またマクファースンがベラミー嬢《じよう》に心をよせているのをよく思っていなかったと考えられる理由のあることなど、すべて私の考えと一致《いつち》していたが、マードックが近くこの土地を立ちさるべくあらゆる準備をしていたらしいことのほかには、これといって新事実はなかった。
「これだけの証拠がそろっていながら、万一|逃《に》げられでもしたら、私の立場はどういうことになります?」飾《かざ》りけがなくて鈍重《どんじゆう》なこの男は、それをひどく気に病んでいるのだ。
「しかし考えてごらんなさい」と私はいった。「それだけでは肝心《かんじん》のところが欠陥《けつかん》だらけですよ。第一当日彼にはりっぱなアリバイがあります。あの朝はずっと生徒といっしょにいたのですし、マクファースンが崖の下から現われてから二、三分以内に、うしろから――反対のほうから歩みよってきたのです。それから忘れてならないのは、ほかのことはともかくとして、自分と同程度の強い相手に、単身であれほどの暴行を加えることの絶対的な不可能さです。その上なお、あれほどの危害を加えるには、どんな凶器《きようき》を使ったかの問題もあります」
「しなやかな鞭《むち》のようなものを使ったとしか考えられませんよ」
「傷をよく見たのですか?」と私はきいた。
「見ましたよ。医者も見ていましたがね」
「私はレンズで詳しく調べてみましたが、あれは特異なものでした」
「どこがですか?」
私は机へ歩みよって、一葉の拡大写真をとりだした。
「こういう場合には、私は写真を利用します」
「なるほど。なさることが徹底《てつてい》していますな」
「これくらいにやらないと、いまの私ほどになるのはむずかしいです。ところで右肩《みぎかた》さきまで伸《の》びているこのみみずばれですが、何か目につくことはありませんか?」
「さあ、いっこうに……」
「強さが一様でないという点が、はっきりしています。ここのところは出血しています。こちらもそうです。こちらのみみずばれもやはり不均一になっていますが、これは何を意味するのでしょう?」
「わかりません。あなたにはおわかりなのですか?」
「まあわかっているつもりですが、あるいは間違《まちが》っているかもしれません。いまのところいえるのはこれだけです。いずれにしてもこの傷が何によって加えられたかがわかりさえしたら、そこから結局犯人は突《つ》きとめられると思うのです」
「こんなことをいうと笑われるかもしれませんが、まっ赤に焼けた金網《かなあみ》を背中へ押《お》しつければ、針金の交差するところはよく焼けるから、こんな傷がのこるかもしれませんね」
「なかなか巧妙《こうみよう》な比較《ひかく》です。それとも小さなこぶのある硬《かた》い九条鞭《くじようべん》とも考えられましょうね」
「ああそれだ、ホームズさん、それに違いありませんよ」
「まだまだ、それとはまったくべつの原因も考えられなくはないのです。いずれにしても、こんなことではまだ逮捕するわけにゆきませんよ。それにあの最後の言葉がありますしね、ライオンのたてがみ≠ニいう」
「あれはアイアン何とかといったのじゃないかと思いますが……」
「そう、それは私も考えてみました。しかしそのつぎの言葉がマードックの音《おん》に似てでもいればともかく、まるで違いますからね。ほとんど叫《さけ》ぶようにいったのですが、たしかに|タテガミ《メーン》といいましたよ」
「なにかほかに考えかたはないですか、ホームズさん?」
「あるとは思いますが、もう少し確実な根拠《こんきよ》をつかむまでは、かれこれいいたくないです」
「いつのことですか、そうなるのは?」
「一時間か、あるいはもっと早いかもしれません」
警部はあごをなでながら、疑わしそうに私の顔をぬすみ見た。
「あなたの考えていらっしゃることがわかるとよいのですが……沖《おき》にいた漁船でしょう?」
「ちがいますよ。あれは遠すぎました」
「ではベラミーの父子ですか? あの息子《むすこ》は大きくて強そうだし、二人ともマクファースンをよく思っていなかったようだから、危害を加えたのではないでしょうか?」
「何とおっしゃっても、こっちの準備のととのうまでは、口外しませんよ」私は微笑《びしよう》をふくんでいった。「それよりも警部さん、おたがい忙《いそが》しい身です。おひるごろ出なおしてここへお出《い》でくださらないでしょうか?」
ここまで話のすすんだとき、とつぜんすさまじい障害がはいって、それがそのまま事件終末の端緒となったのである。玄関《げんかん》のドアがばたんと開いたかと思うと、廊下《ろうか》に乱れた足音がして、アイアン・マードックがまっ青な顔をして、よろめきこんだのである。髪《かみ》はふり乱し、服もはだけて、骨ばった両手で家具にすがってわずかに身を支えながら、「ブランディを! ブランディを!」と叫んだかと思うと、そのままソファにぶっ倒れた。
気がついてみると彼《かれ》は一人ではなかった。すぐあとにスタクハーストが帽子《ぼうし》もかぶらず、息をきらして、マードックに劣《おと》らず放心した様子でつづいていた。
「それそれ! ブランディです! 気つけに一ぱいのましてください。やっとここまで連れてきました。途中《とちゆう》で二度も失神したほどです」
強い火酒を大きいコップに半分ばかりも生《き》で飲むと、ぐっと元気づいた。片手をついて起きあがると、上衣《うわぎ》をはねて肩をだし、
「何とかしてください! 油でもアヘンでもモルヒネでも!」と彼は叫んだ。「何とかこの地獄《じごく》の苦痛をとめてください!」
警部と私は思わずあっと声をあげた。むきだした肩には、フィッツロイ・マクファースンの死紋《しもん》になったのと同じような赤い網目がいちめんに現われているのである。
ひどく痛むらしいが、それも局部だけではなくて全身にわたるらしく、ときどき息もつまるほどで顔は紫《むらさき》いろになり、胸をかきむしってわずかに吐《は》く息も苦しく、額から玉の汗《あせ》が流れおちた。このまま悶死《もんし》するのではないかと思われ、私たちはぐいぐいとブランディをのどへ注ぎこんでやったが、そのたびにやっと死から呼びもどされるらしかった。
サラダ油に浸《ひた》した脱脂綿《だつしめん》をあてがってやると痛みがいくらか柔《やわ》らいだらしい。ついに頭をクッションに押しあてて静かになった。疲労《ひろう》の極にあった体力が、どうやら存続することになったのだ。半ば眠《ねむ》り半ば失神した状態だったが、痛みだけはおさまったようだ。
こういう状態だから、本人に何もきくわけにゆかなかったが、どうやら生命をとりとめたらしいとわかると、スタクハーストが私のほうを向いていった。
「驚《おどろ》きましたよ! どうしたのでしょう? 何でやられたのでしょう?」
「どこにいたのですか?」
「浜《はま》ですよ。マクファースンがやられたのと同じ場所です。この男もマクファースンのように心臓が弱かったら、ここまでは保《も》たなかったでしょう。連れてくる途中も、もうだめかと何度思ったか知れません。ザ・ゲーブルズ≠ワでは遠いですから、とにかくここへ担《かつ》ぎこんだのです」
「浜の水ぎわにいたのですか?」
「崖の上を散歩していましたら、叫び声が聞こえたのです。のぞいてみると、水ぎわを酔《よ》っぱらいのように千鳥足で歩いていますから、駆け降りて服を肩にかけたなりで、連れて帰ったのです。ホームズさん、お願いだから全力をあげてこの土地の祟《たた》りをのぞいてください。でなければここは人の住めない土地になってしまいます。世界的な名声のあるあなたの力をもってしても、何とかしていただけないのですか?」
「何とかできるつもりですよ。いっしょに来てください。警部さんもどうぞ。人殺しをあなたの手に引きわたしましょう」
前後不覚のマードックを私の家政婦にあずけておいて、私たち三人は恐《おそ》るべき潟《かた》へと降りていった。砂浜の上にマードックの服の一部やタオルが積みかさねて残されていた。ゆっくり私が水ぎわを歩いて回ると、あとの二人も一列になってついてきた。
潟は大部分ごく浅かったけれど、崖の下のところだけは深くえぐれて、四、五フィートも深さがあった。水晶《すいしよう》のように透明《とうめい》で美しく青い水をたたえたこの場所へ、水泳をする人が行くのは自然だった。崖下には岩がならんでいるので、私は岩の上を歩きながら、一心に足もとの水の中をのぞきこんだ。いちばん深く静かな場所までゆくと、探していたものが見つかったので、思わず大きな声をだした。
「サイアネアだ! サイアネア水母《くらげ》だ! これがライオンのたてがみ≠フ正体です!」
私が指さしたのは、ライオンのたてがみを千切ってきたとしか思われない妙なものだった。水面下三フィートばかりの岩の棚《たな》に、ゆらゆらと波うち、黄いろくふさふさした中に銀筋をまじえて、こまかく震《ふる》えながら脹《ふく》れたり縮んだり、ゆっくりと脈動している。
「こいつがさんざん悪いことをしたのです。もうたくさんだぞ! スタクハーストさん、手を貸してください、人殺しを永遠に葬《ほうむ》ってやりましょう」
足もとに大きな丸石がころがっていたから、二人で力をあわせて水の中へばちゃんと突き落してやった。波紋がおさまってから見ると、石は水中の岩の棚の上に納まっていた。石の下からひらひらした黄いろい膜状《まくじよう》のものがのぞいているから、うまく石で押さえてしまったらしい。やがて濃《こ》い油状の水あかのようなものが石の下から出て、水を染めながらしだいに表面へ浮《う》いてきた。
「これは驚いた! 何ですか?」警部が叫んだ。「私はこの地方で生れて、この土地で育ったものですが、こんなものは見たこともありませんよ。これはサセックス州のものじゃありませんね」
「サセックスにだっていていいですよ。おそらく南西の暴風に吹《ふ》きよせられたのでしょう。お二人とも私の家まで来てください。こいつに海でやられかけた男の怖《おそ》るべき体験談をお目にかけますよ」
帰ってみるとマードックはようやく元気を回復して、起きあがれるまでになっていた。意識はまだぼんやりして、ときどきおこる激痛《げきつう》の発作《ほつさ》に身を震わせていた。ポツリポツリと語るところによると、何がどうしたのか少しもわからないけれど、とつぜん全身に激痛がおこり、かろうじて岸へはいあがったのだという。
「ここに本があります」私は小さな一冊をとりあげていった。「この本のおかげで、永遠のなぞになるところだったこの事件に、解決の手掛《てがか》りを与《あた》えられたのです。有名な博物学者J・G・ウッドの野外生活≠ニいいましてね、著者自身がこの怪物《かいぶつ》に刺《さ》されて、あわや命を落すところだったので、きわめて詳《くわ》しく書いてあります。学名をサイアネア・カピラタといいまして、こいつにやられるとコブラへびにかまれたのと同様に生命の危険があるばかりか、はるかに痛いそうです。ちょっと抜《ぬ》き読みしてみましょう。
『水泳者がもし黄茶色の薄膜《うすまく》と細根ようのやや丸みある塊状物《かいじようぶつ》、あたかも一握《ひとにぎ》りのライオンのたてがみと銀紙のごときものを見たときは、十分な警戒《けいかい》を要す。これこそ恐るべき毒針を有するサイアネア・カピラタであるからだ』じつにあの怪物を巧妙に描写《びようしや》しているではありませんか?
彼はさらに筆をすすめて、ケント州の沖合で水泳中に自分がこのものに遭遇《そうぐう》した経験を語っていますが、それによるとこの毒くらげにはほとんど肉眼では見えないような足を五十フィートも遠く放射していて、その範囲内に近よると刺されて死ぬ危険があるそうです。ウッドはそこまで近づかなかったのに、ほとんど死ぬほどの目にあったとあります。
『これに刺されたときは皮膚《ひふ》にまっ赤な線が多数生ずるが、これを細かに点検すれば、微細《びさい》な点、すなわち小膿疱《しようのうほう》の連続であることがわかる。この小膿疱の一つ一つは、あたかも赤熱《しやくねつ》した針にて刺されたごとく、激痛をともなう』しかし局部の激痛はまだしも忍《しの》び得るのだと彼はいっています。『胸部の激痛はあたかも銃弾《じゆうだん》に貫《つら》ぬかれたように、私を打ち倒《たお》した。脈搏《みやくはく》は止まり、つぎに心臓は六、七回大きく躍動《やくどう》して、胸部から噴出《ふんしゆつ》するかと思われた』
彼がやられたのは狭《せま》いプールの静かな水中ではなく、波のあらい大洋のまん中でしたが、それでも危《あや》うく死ぬところでした。本人の言葉によると、あとで見たらあんなにまっ青になって顔がしわだらけにしなびたことは、かつてないという。その時はブランディをまるまる一本ほとんど息もつかずに飲みほしたが、そのおかげで生命をとりとめたらしいといっています。警部さん、この本をあげますから、よく読んでみてください。マクファースンの死の説明がすっかりこの中に書いてありますよ」
「同時に私への疑いをも晴らすものですね」アイアン・マードックが苦笑した。「警部さんにしてもホームズさんにしても、疑惑《ぎわく》をいだくのは自然ですから、私としては恨《うら》みはしません。今日私はマクファースンと同じようなこんな目にあったから助かったようなものの、さもなければ明日あたりは逮捕されるところだったと思いますよ」
「いや、それは違いますよ」私がいった。「私はすでに真相に到達《とうたつ》していたのです。計画どおりにけさはやく外出していたら、あなたにこんな恐ろしい経験をさせることなしに、救い得ていたろうと思いますよ」
「ではどうして真相がわかったのですか?」
「私は手あたりしだいに何でも読んで、しかも細かいことを妙によく記憶《きおく》している性質《たち》です。ライオンのたてがみ≠ニいう言葉が脳裏《のうり》を去らないで悩《なや》まされました。思いもよらぬところで読んだものだということだけはわかりました。何かの生物のことをいっていることはおわかりでしょう。マクファースンが見たのは、それが水面に浮いていたからなのは申すまでもありませんし、彼はこの言葉によるしか、自分を死にいたらしめた生物のことを私たちに知らせる方法がなかったのです」
「それではどうやら私の疑惑もはれたものと思います」マードックはゆっくり立ちあがりながらいった。「なお私からも二、三簡単に説明いたしましょう。あなたの調べがどの方面に向けられていたかわかっていますからね。
私があの婦人を愛していたのは事実です。でも彼女《かのじよ》がマクファースンを選んでからは、私の願いは彼女の幸福を祈《いの》るばかりでした。私は身を引いて、二人の仲だちになることで満足したのです。現に手紙を届けたこともたびたびありますし、それほど二人から信頼《しんらい》されていたのです。また私は彼女をふかく愛していますから、マクファースンの死んだことはいち早く知らせてやりましたが、これは心ない人に先回りされて、思いやりのない知らせかたをさせてはならないと思ったからです。
彼女はあなたがたに無用の疑惑をおこさせて、そのため私が苦しむのを恐れて、私たちの関係は口外しないと思います。では、お許しを得て私はザ・ゲーブルズ≠ヨ帰らしていただきたいです。自分のベッドほどいいものはありませんからね」
スタクハーストは手をさしのべた。
「私たちはすべて神経が変調をきたしていたのだ。過去は水に流してくれたまえ、マードック君。将来はよりよき理解のもとに再出発できると思う」
二人は仲よく腕《うで》を組みあって出ていった。警部だけはあとに残って、牛のような眼《め》で黙《だま》って私を見つめていたが、ついに、
「あっぱれなものですな!」と大声でいった。「あなたの話は読んだことはあるが、ほんとうにしていなかった。だがこれは実にすばらしい!」
私は首を振《ふ》らざるを得なかった。こういう称賛のしかたを受けいれるのは、自己の水準を低下させることになるばかりである。
「出だしは私も緩慢《かんまん》でした。とがめられるべき緩慢さでした。死体が水中で発見されたのでしたら、これほどの間違いは演じなかったものと思います。それにあのタオルが私を誤導しました。マクファースンはからだをふきもしないで逃《に》げてきたのですが、それを私は水にはいらなかったものと勘《かん》ちがいしたのです。それを水中の生物にやられたのだとは、どうして気がつくでしょう? そこに誤解の原因があったのです。警部さん、私はこれまで大胆《だいたん》にもしばしばあなたがた警察官を愚弄《ぐろう》してきましたが、このサイアネア・カピラタにはもう少しのところで警視庁に代ってかたきをとられるところでしたよ」
[#地付き]―一九二六年十二月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
覆面の下宿人
二十三年にわたるシャーロック・ホームズの活動のうち、十七年間というもの彼《かれ》に協力し、その業績を記録することを得たことを思えば、私が材料を山のごとく持っているのは、いわずと知れたことであろう。だから問題はつねに探索《たんさく》ではなく、選択《せんたく》にあった。本棚《ほんだな》には年鑑《ねんかん》がずらりと並《なら》んでいるし、書類箱《しよるいばこ》の中には記録がぎっしり詰《つ》まっていて、犯罪事件ばかりでなく、ヴィクトリア朝後期の社交界ならびに官界のスキャンダルが、研究者のため完全に収集されているのである。
この後者については特に一言しておくが、一家の名誉《めいよ》とか名ある祖先の声望とかの傷つけられんことを恐《おそ》れて、愁訴状《しゆうそじよう》をよこした人たちは安心するがよい。思慮《しりよ》の深さや職業的名誉を重んずることにかけては、ホームズは従来とても人後におちなかったのであるが、この良識はこうした思い出を物するにあたっても少しも変りはなく、信頼《しんらい》を裏切るようなことは決してないのである。
しかしながら私としては、最近これらの書類を入手して破棄《はき》しようとするたくらみがあったことには、強く反対するものである。この暴挙の張本人はわかっているから、もし重ねてこのような非行が起こるにおいては、私はホームズの名のもとに、ある政治家、灯台および調教された鵜《う》に関する件を世に公表してやるつもりである。こういえばわかる人が少なくとも一人はあるはずである。
これらの事件のすべてにホームズが、私が従来彼の思い出を書くにあたって強調してきたごとき、直覚力と観察力の珍《めずら》しい天分を発揮したものとするのは無理であろう。時には異常な努力の結果ようやく成果をあげ得たこともあるし、またときには労せずして向こうからころげこんだこともある。しかしながらもっとも怖《おそ》るべき人間悲劇は、親しく介入《かいにゆう》する機会を与《あた》えられなかった事件に関連してしばしば見られる。私がこれから述べようと思うのは、そういった事件の一つである。断っておくが、人名や地名にこそわずかばかりの手心が加えてあるとはいえ、事実そのものはあくまでありのままである。
ある朝――一八九六年も押《お》しつまってからのことだが――私はホームズからすぐ来てくれという急報を受けとった。行ってみると、タバコの煙《けむり》のたちこめる中でホームズはすわっていて、年輩《ねんぱい》でやさしそうな下宿の女主人タイプの小肥《こぶと》りな女と差しむかいで話していた。
「こちらはサウス・ブリクストンのメリロウ夫人だ」ホームズは片手を振《ふ》って紹介《しようかい》した。「メリロウ夫人はタバコを吸うのを許してくださった。不潔な習慣のある君にはありがたいわけだね。夫人はたいへん面白《おもしろ》い話を持ってお出《い》でになったのだが、君にも聞いてもらったほうがいいと思って、詳《くわ》しいことはお待ち願っていたところなんだよ」
「僕《ぼく》にできることなら……」
「メリロウさん、ロンダー夫人をお訪ねするとすれば、私としては立会人が一人ほしいのですよ。ですからあらかじめそのことを向こうさんに通じておいていただきたいですね」
「ええ、ええ、よろしゅうございますとも! とてもあなたにお会いになりたがっていらっしゃるのですから、教区じゅうの人を引きつれていらしても、大丈夫《だいじようぶ》でございますわ」
「では今日の午後、早めにうかがうことにします。その前に事実をよく確かめておきたいですね。そうすればワトスン君もよく事情がのみこめるというものです。さっきのお話ですと、ロンダー夫人は七年もお宅に下宿しているのに、あなたは一度しか顔を見たことがないとおっしゃるのですね?」
「あんな顔、二度と見たくはありませんわ」
「とおっしゃるのは、よくよく醜《みにく》いのですね?」
「あなたもご覧になったらきっと、あれを人間の顔とはおっしゃいませんわ。それほどひどうございますの。あるとき牛乳屋が、二階の窓からのぞいていらっしゃるのをちらと見て、思わず牛乳カンを取りおとして、前庭を牛乳だらけにしたくらいですわ。それほどの顔なんですのよ。私の見ました時は――向こうもうっかりしていらしたのですけれど――それと知って急いで隠《かく》して、『私が決してヴェールをとらないわけ、これで知られてしまいましたわね』とおっしゃいましたわ」
「どういう経歴の人ですか、何かご存じでしょう?」
「少しも存じません」
「初めて下宿する時は、紹介者があるとか、身許証明書《みもとしようめいしよ》のようなものを見せるとかしたのでしょう?」
「いいえ、そのかわりに現金を、それもたんまりくださいました。一季分の下宿代をきれいに前払《まえばら》いしたうえ、条件については何もおっしゃらないのです。近年のような不景気では、私のような貧しい女にこんなよい機会をとり逃《に》がすほどの余裕《よゆう》はございません」
「お宅を選んだ理由をなにかいいましたか?」
「私の家は往来から引っこんでいますし、よそさんよりひっそりしております。それに下宿人は一人しかおきませんし、家族もありません。ほかをあたってみて、私の家がいちばん気に入ったのだと存じます。あのかたの求めているのは人目につかないことで、そのためならお金に糸目はつけないのです」
「いちど間違《まちが》って見せたほかは、ぜったいに顔を見せないというのですね? ふむ、おもしろい! じつに不思議な話です。これではあなたがその訳を知りたくなるはずですね」
「いいえ、そんなことを考えたことはありませんわ。下宿料さえきちきちいただければ、何も申すことはございません。あんなに物静かな、手数のかからない下宿人はございませんもの」
「では何がそんなに困るのですか?」
「あのかたの健康ですの。だんだんやせ衰《おとろ》えていらっしゃいますし、何かよくよく心にかかることがあるのでしょうか、『人殺し! 人殺し!』と口走ったり、一度などは『畜生《ちくしよう》! 悪魔《あくま》!』と叫《さけ》ぶのを聞きました。夜中のことでしたけれど、家じゅうに響《ひび》きわたるほどの声で、私は思わずぞっといたしました。それで翌朝お部屋へうかがいまして、『なにか心配ごとがおありでしたら、牧師さまというものもございますし、警察もございます。どちらでもきっと力になってもらえるはずでございますわ』と申しますと、
『おねがい。警察は困ります。それに過ぎてしまったことは牧師さんの手にはあいません。でも死ぬ前にこの事をだれかに知っていただいたら、どんなにか心が休まるでしょう!』
『ではね、こうなすったら? 警察がおいやなら、私いつかある探偵《たんてい》のことを本で読んだことがありますけれど……』とここでね、ごめんなさいましよ、あなたのことを申しましたの。するとロンダー夫人はすぐに飛びついていらしてね、
『あのかたならいいわ。私どうして気がつかなかったのでしょう。メリロウさん、あのかたをここへお呼びしてください。もし断わられたら、私は猛獣《もうじゆう》つかいロンダーの家内だとおっしゃってね。それにアバス・パルヴァという名もいってみてください』といって、この通りアバス・パルヴァと書いてくださってね、『それをいえば、あのかたならきっと来てくださるわ』」
「なるほど、ご利益《りやく》あらたかですね。うかがいましょう。その前にワトスン博士と少し話したいことがありますが、それがお昼ごろまでかかると思いますから、そうですね、三時ごろにはブリクストンのお宅をお訪ねしましょう」
女客がよちよちと出てゆくや否《いな》や――メリロウ夫人の歩きかたを形容するには、こんな適当な言葉はなかった――シャーロック・ホームズは猛然として、部屋のすみに積みあげてある備忘録《びぼうろく》の中を漁《あさ》りはじめた。しばらくはしきりにぺージをめくる音をさせていたが、やがて探すものが見あたったか、満足そうな声をもらして、そのまま仏像か何かのように床《ゆか》の上へしりを落として坐《すわ》りこみ、まわりに多くの本を積んだまま、足を組んだひざに一冊をおいて、興奮した様子で読みはじめた。
「当時あの事件には悩《なや》まされたものだよ、ワトスン君。その証拠《しようこ》には、この本の欄外《らんがい》に、ほらこんなに書きこみをしている。じつをいうと僕にもわからなかったのだがね。それでも検屍官《けんしかん》の決定が誤っていることだけは固く信じていた。君、アバス・パルヴァの悲劇のことを記憶《きおく》しているかい?」
「おぼえてないねえ」
「あのころ君はいっしょに暮《く》らしていたのだがねえ。だがそういう僕にしても、ごく浅い印象しか残っていない。それというのも拠《よ》りどころが何もなかったし、連中のうち誰《だれ》も僕の助力を頼《たの》みにこなかったからだがね。ま、自分で読んでみたいだろう?」
「いや、要点だけ話してほしいね」
「おやすいご用だ。話してゆくうちに、君も思いだすだろうよ。ロンダーといえば、むろん誰でも知っている名だったし、ウォムウェルや当時有数の興行師だったサンガーの好敵手だった。しかし彼は酒好きだった証拠があり、この大悲劇の突発《とつぱつ》した当時においては、彼にしてもその統率《とうそつ》するショウにしても、人気が下り坂になっていた。
惨事《さんじ》のおこった晩、キャラヴァンはバークシャー州の寒村アバス・パルヴァで一泊《いつぱく》することになった。これは街道《かいどう》づたいにウインブルドンヘ行く途中《とちゆう》のことだが、ここは寒村なので興行しても引きあわないから、ただキャンプするだけだったのだ。
見世物の中には、北アフリカ産のすばらしいライオンが一頭いた。サハラ・キングという名で、ロンダー夫妻がその檻《おり》の中へはいって芸を演じてみせる習慣だった。ここに演技の写真があるが、これで見てもわかるとおり、ロンダーは豚《ぶた》のように体格の大きい男だが、妻のほうはすばらしい美人だ。検屍官の審問廷《しんもんてい》で明らかにされたところによると、ライオンには前から少し険悪な徴候《ちようこう》が見えていたということだが、慣れからくる侮《あなど》りから、いつものことと誰もあまり気にとめていなかった。
ライオンにはロンダーか細君かが夜|餌《えさ》をやる習慣だった。一人でゆくこともあり、夫妻そろって行くこともあったが、決して他人の手にはゆだねなかった。それというのも自分たちが餌を運んでやっている限り、ライオンだって恩人だと思って、危害を加えることはなかろうと信ずるからだ。その夜は、あれからもう七年になるが、夫妻そろって行ったところ、そこに恐るべきことが起こったのだ。しかしその詳しいことは、ついに明らかにされないでしまった。真夜中ちかく、キャンプの全員はライオンのうなり声と女の悲鳴に夢《ゆめ》を破られたらしい。各テントから飼《し》育人《いくにん》や団員たちが角灯をもって駆《か》けつけてみると、じつに怖るべき光景が展開されているのだった。
ロンダーは後頭部がぐしゃりと潰《つぶ》れ、頂部にふかい爪《つめ》あとを残して、開け放った檻から十ヤードばかりのところに倒《たお》れているし、檻のドアのそばには、細君が仰《あお》むけに倒れている体の上に、ライオンが坐って、うううとうなっているのだ。そればかりか彼女《かのじよ》は顔面を無残に掻《か》きむしられて、生命のほどもおぼつかなく思われた。
そこで一座のものは、力持ちのレオナルドや道化師《どうけし》のグリグズを先にたてて、ライオンを棒で追うと、ひらりと檻の中へ逃げこんだので、すばやく錠《じよう》をかった。だがどうして檻から出たのか、それがわからない。これは推測だが、夫妻は檻の中へはいるつもりでドアを開けた途端《とたん》に、ライオンのほうが躍《おど》りかかったのだろうというのだ。証拠として眼《め》をひくものは何も残っていなかった。ただ細君が、住家にしている車のほうへ運ばれながら、うわ言に『卑怯《ひきよう》よ! 卑怯よ!』と口走るのが注意を引いたくらいのものだった。どうにか彼女が証言台に立てるようになったのは、それから六カ月あとだった。そこで検屍官の審問が再開されたが、ロンダーの死は災難だという平凡《へいぼん》な評決が下されて、事件はあっけない終末をつげた」
「災難でないとしたら、どんなことが予想されるのだい?」
「君がそういうのはもっともだ。だがそれでもバークシャー州警察の若いエドマンズ君にとっては、ふにおちないことが二、三あった。なかなか頭のいい男だ! その後インドのアラハバッドへ転出したがね。この男がある時ぶらりと訪ねてきて、パイプをやりながら話してくれたものだから、それで僕もこの問題に頭を突《つ》っこむことになったわけだ」
「あの髪《かみ》の毛の黄いろいやせた男かい?」
「それ、それ。君もすぐ事件を思いだしてくれるものと思っていたよ」
「エドマンズは何がふにおちなかったのだい?」
「エドマンズばかりじゃない、僕もだがね。事件のあとをたどってみるのに、どうにも納得《なつとく》がゆかないのだ。かりにライオンの立場になって考えてみよう。彼は自由の身になった。そこで何をやったか? 五、六歩もとび跳《は》ねてロンダーに迫《せま》った。そのときロンダーは逃げだした。爪《つめ》の跡《あと》が後頭部にあるのでそれはわかる。だがライオンはロンダーを打ち倒した。
それからそのまま前方へ進んで逃げだそうとはしないで、檻の近くにいた細君のところへ引返して、これを打ち倒し、顔の肉をかみとっている。それにまた細君のうわ言だが、これは良人《おつと》がどうかして助けに来てくれなかったのを意味するように思われる。死んだものがどうして助けにこられる? というわけで納得がゆかないのだよ」
「なるほどね」
「まだあるのだ。話しているうち思いだしたのだが、ライオンのうなり声と女の悲鳴にまじって、男が恐怖《きようふ》の叫び声をあげるのを聞いたという証言もあるのだ」
「むろん亭主《ていしゆ》のロンダーだろう」
「ロンダーが頭を潰されていたとすれば、それが声をたてたとは考えられないね。ところが女の悲鳴にまじって、男の声を聞いたという証人が少なくとも二人あった」
「そのころは団員たちがてんでに叫んでいたことと思うね。そのほかの点では、僕に一つの解釈がある」
「考慮したいから聞かせたまえ」
「ライオンが檻から逃《のが》れたとき、夫婦《ふうふ》は十ヤードばかり離《はな》れたところでいっしょにいたのだ。ところが亭主のほうが後をみせて逃げかけたので、打ち倒された。細君のほうはとっさに、檻へ逃げこんで中からドアを閉めようと思った。それよりほかに難をさける方法はないからね。
そこで檻に向かって駆けよったが、やっとそこまで逃げたと思うと、躍りかかったライオンに打ち倒されてしまった。彼女は良人がうしろを見せたから、ライオンを勇気づけたのだと思って怒《おこ》った。逃げずに二人でにらみつければ、おとなしくなったかもしれないからね。だから運ばれながら、『卑怯よ!』と口走ったのだ」
「りっぱなものだ! だが君のその説には一つだけ隙《すき》があるよ」
「どんな隙だい?」
「二人とも檻から十歩のところにいるのに、どうしてライオンは抜《ぬ》けだしたのだろう?」
「誰かに恨《うら》まれるか憎《にく》まれるかして、そのものが放ったのだとは考えられないかな?」
「それにしても、ふだんから二人によくなついていて、檻の中で芸までしてみせるほどのライオンが、どうして急にそんな恐ろしいまねをしたのだろう?」
「檻から放ったやつが、何か怒らすようなことをしたのじゃなかろうか?」
ホームズはしばらく何もいわないで考えこんでいた。
「なるほど、君の説をとればこういう事はいえる。ロンダーは敵の多い男だった。飲むと荒《あら》っぽくなるとはエドマンズもいっていた。体も大きいし飲むと手がつけられなくなって、行きあたりばったりに誰でもかまわず口ぎたなくののしり倒したり、鞭《むち》打ったりしたという。
さっきメリロウの主婦《かみ》さんのいっていたロンダーの細君の口ぎたない夜の悲鳴なんかも、死んだ亭主を思いだしてのことなのかもしれない。だがこまかい事実をたしかめないうちは、こんなあて推量をしていても始まらない。それよりも戸棚《とだな》にヤマウズラの冷肉と|モ《*》ンラッシェ【訳注 仏コート・ドール産の白ワイン】のうまいワインが一びんあるはずだから、それで元気をつけてから、出かけるとしようよ」
二輪の小さいタクシー馬車をメリロウ夫人の家に乗りつけてみると、小肥《こぶと》りのこの主婦《おかみ》は粗末《そまつ》ながらひっそりしたその家の玄関《げんかん》をあけはなって、そこに立ちはだかって待ちかまえていた。彼女の主たる関心事が、この結構な下宿人を逃がしてはならないということにあるのは明らかで、私たちを通す前に、そういう好ましからぬ結果を招くような言動はさし控《ひか》えてくれと、懇願《こんがん》するのだった。よくわかった、大丈夫だと引きうけてやると、ようやく彼女は粗末なカーペットをしいたまっ直《すぐ》な階段をのぼって、私たちを問題の下宿人の部屋へ案内してくれた。
下宿人がほとんど外出しないと聞いて想像していた通り、閉めきって黴《かび》くさい、風通しのわるい部屋だった。動物を檻で飼っていた報《むく》いか何かで、いまは彼女自身が檻にとじこめられているという感じである。彼女はいま、うす暗いかたすみの壊《こわ》れたひじ掛《か》け椅子《いす》に腰《こし》をおろしていた。
多年にわたる閑居《かんきよ》で、姿かたちは荒れているけれど、ある時代には美しい姿だったに違いなく、いまなお豊満でなまめかしかった。顔は濃《こ》く厚いヴェールで覆《おお》っているが、上唇《うわくちびる》のあたりから切りとってあり、完璧《かんぺき》な美しい口もとや優美なあごの丸みが見えていた。ほんとに非常な美人であったものとうなずかれた。そして声がまたよく調節されたなごやかさだった。
「私の名はごぞんじでしょうね、ホームズさま。名前を申しあげましたらきっとお出でくださると思いました」
「その通りですけれどね。あなたの事件に私が関与《かんよ》したことを、どうしてご存じなのか私にはわかりません」
「傷がなおって州警察のエドマンズさんのお調べをうけましたとき知りました。あの時はすまないことをいたしました。エドマンズさんにほんとのことを申しあげたほうが賢《かしこ》かったと存じます」
「どんなときでも、真実を語るのが賢明《けんめい》です。あなたはなぜそうしなかったのですか?」
「ある人の運命が私の申したて一つにかかっていたからですの。取るにたりない人とはよくわかっていながら、それでも私ゆえにその人が破滅《はめつ》するのは、見るに忍《しの》びませんでした。それほど近しく――親しくしていたのです」
「しかし今はもうその障害もなくなったのですか?」
「はい。その人は亡《な》くなりました」
「では今からでも、知っていらっしゃることを警察へなぜお届けにならないのです?」
「考えてやらなければならない人がもう一人あるからですの。それはほかでもない私でございます。警察の取り調べのためにおこるスキャンダルや世間の評判になりますのは堪《た》えられません。私も先の長い身ではありませんから、おだやかに死にとうございます。でもどなたか思慮《しりよ》ふかいかたをさがして、そのかたにこの恐《おそ》ろしい話を聞いていただき、私の死後にはいっさいの事情がわかるようにしておきたいと存じましたの」
「ごあいさついたみ入ります。ですが私は同時に責任を重んずる男です。お話をうかがった上で、これは警察へ話すのが自分の義務だと考えないとはお約束《やくそく》いたしかねますよ」
「私はそうは考えません。私は何年かあなたのお仕事ぶりを見まもって参りましたから、お気質やなさりかたはよく存じております。運命が私に残してくれました楽しみは読書だけでございますから、世間のことは漏《も》れなく知っております。でもとにかく思いきって申しあげてみますから、それであなたが私を不幸になさるなら、それもいたしかたございません。申しあげましたら、それで気はすみます」
「二人とも喜んでうかがいます」
女は席をたって、引出しから一人の男性の写真をとってきた。明らかに職業曲芸師で、りっぱな体格の男だった。もりあがるような胸の上で、たくましい腕《うで》を組んでおり、太い口ひげの下にあふれるような微笑《びしよう》をたたえている。多くのものを征服《せいふく》した人の独善的な微笑である。
「レオナルドです」
「証人にたった力持ちのレオナルドですね?」
「はい。そしてこれ……こちらが私の良人です」
恐るべき面構《つらがま》え――人間豚というか、むしろ人間|猪《いのしし》というにふさわしい恐るべき獣性《じゆうせい》を示していた。怒ったときの歯をかみ鳴らし、泡《あわ》を飛ばす様子が、その下劣《げれつ》な口もとから思いやられたし、油断なくまっすぐに見つめた小さな眼は悪意に満ちていた。悪漢、暴漢、人非人《にんぴにん》――あごの大きく角ばった顔に現われているものは、すべてこれであった。
「この二枚の写真をごらんくだされば、私の話がよくおわかりになりますでしょう。私はサーカスに養われ、おがくずの上で育ったあわれな小娘《こむすめ》でございまして、十にもならぬうちから輪ぬけの芸当などさせられました。
年ごろになりますとこの男が私に恋慕《れんぼ》いたしました――あの色欲が恋慕といえますならばね。そしておぞましくも妻になってしまいました。その日から私は地獄《じごく》の生活で、この男に虐《いじ》めぬかれました。この男の仕打ちを知らぬものはサーカスの中に一人もおりませんでした。私を捨ててほかの女に手をだしたりもいたしました。それをとがめますと、私を縛《しば》りあげて、乗馬鞭でぴしぴし打ちます。みんな私に同情し、この男を憎みましたけれど、それが何になりましょう? みんなこの男が恐《こわ》いのです。いつも乱暴なことばかりして、お酒でも飲みますと手がつけられないほど狂暴《きようぼう》になります。人を打ったり動物を虐待《ぎやくたい》して、たびたび引っぱられましたけれど、お金がありますから罰金《ばつきん》くらいは何でもございません。
そんなことでいい人はみんな離れてゆき、ショウはしだいに落ち目になって参りました。それをわずかに支えていますのはレオナルドと私、それに道化師のジミー・グリグズだけでございます。かわいそうなやつ、グリグズは道化には不向きで、おかしくもないのですけれど、それでも何とか懸命《けんめい》に場つなぎをしてくれました。
そうしていますうち、レオナルドがしだいに私の生活の中へはいって参りました。何しろこの通りの男でございます。もっとも今となりましては、このすばらしい体格のうちに潜《ひそ》んでいますのが、案外の小心だということがわかりましたけれど、でもそのころは良人にくらべまして私には大天使ガブリエルのような人に映りました。彼《かれ》は私に同情し、何かと助けてくれましたが、その親密さがついに恋愛にまで発展いたしました。深いふかい情熱的な愛で、かねてあこがれながらこの世では味わえないものと思っていましたほんとの愛でございます。
良人は疑惑《ぎわく》をいだきましたが、乱暴こそしますけれど臆病《おくびよう》ものですから、レオナルドだけは恐ろしかったのだと思います。その腹いせに、良人はいっそう私をいじめるようになりました。ある夜私の悲鳴を聞きつけて、レオナルドが私たちの馬車へ駆けつけて参りました。その晩はほんとにもう一歩で悲劇になるところでした。そしてレオナルドも私も、早晩それは避《さ》けられないのだとすぐに覚悟《かくご》いたしました。良人は生かしてはおけない人です。私たちは良人を亡きものにする計画をめぐらしました。
レオナルドは頭がよくて、計画をたてるのが得意でした。これはあの人の悪口を申すのではありません。私もあくまであの人と歩調を合わせるつもりでいたのです。でも私にはあんな方法を考えつく気転はございません。私たち――レオナルドは太い捧を一本作りました。鉛《なまり》を仕込《しこ》んだその先に、彼は釘《くぎ》を五本打ちこんでその尖《とが》った先を出し、ライオンの爪の広がりにあわせました。これで良人を打って死なせ、しかもライオンを檻から出しておいて、ライオンのしたことのように見せかけようというわけです。
いつものように良人と二人でライオンに餌をやりに出て参りましたのは、漆《うるし》のようなまっ暗な晩でした。バケツの中に生肉を入れて参りました。レオナルドはその途中どうしても私たちが通らなければならないところにある大きな馬車のかげに隠《かく》れていました。でもぐずぐずしていますので、おそいかかるより先に私たちは通りすぎてしまいました。それで彼はつまさきだって後を追い、忍びよって良人の頭を太い棒でたたきつぶしましたので、ぐしゃっといやな音がいたしました。それを聞きますと私はうれしさで胸をはずませながら檻《おり》へ駆けよって、ドアの錠《じよう》をはずしました。
それからが大変でございました。お聞きになりましたでしょうか、野獣というものは人間の血のにおいに敏感《びんかん》で、それをかぐとひどく興奮いたします。この時も不思議な本能で、ライオンは誰《だれ》かが殺されたのをすぐに知りました。そして私が閂《かんぬき》をはずすとすぐに、ライオンは私に躍りかかって参りました。レオナルドはそれを助けられたはずです。あの時すぐに彼が駆けよって、棒で打っていてくれましたら、ライオンはおとなしくなったはずです。でも彼は気おくれがしました。おそろしそうな声をあげて、一散に逃《に》げてゆくのが見えました。それと同時にライオンは私の顔にかみつきました。
むっとするような熱い息に気が遠くなっていた私は、痛みも感じませんでした。湯気のたつ血だらけな猛獣《もうじゆう》のあごに両手をあてて押《お》しのけるようにしながら、声をあげて助けを求めました。キャンプが騒《さわ》がしくなってきて、レオナルドやグリグズはじめ大勢の人が駆けつけて、私をライオンの下から引きだしてくれたのをぼんやり意識しております。それから何カ月もつづいた退屈《たいくつ》な療養生活《りようようせいかつ》の間、覚えているのはこれだけです。
意識がもどりまして、私は鏡で自分を見ましたときあのライオンをのろいました。どんなに恨《うら》みましたことか! 私の顔から美しさをかみとったからではなく、いっそこの生命をかみつぶしてくれなかったのを恨んだのでございます。こうなりますと私にはもう一つの望みしかありませんでした。幸いその望みを満たしてくれるお金だけは持っていました。ほかでもありません、どこかに隠れて、この哀《あわ》れな顔を誰にも見られたくないという願いです。そして知り人に見られる心配のないところに住みたいという願いです。
これが私に残されたすべてで、そして私はその通りにいたして参りました。穴の中へ死ににはいこむ傷ついた野獣――これがユージニア・ロンダーの末路でございます」
不運な女の身の上話はこれで終ったが、私たちはすぐには口をきかなかった。しばらくたってホームズは長い腕をさしのべ、彼女の手を軽く叩《たた》き、私でさえあまり見たことのない同情を示していった。
「お気のどくにねえ! 人の運命というものはじつにわからないものです。そのうちに何かの埋《う》めあわせでもないようなら、この世はあまりに残酷《ざんこく》な茶番狂言《ちやばんきようげん》です。ところでこのレオナルドという男はどうなりました?」
「あれ以来会いませんし、消息も聞きません。あの人のことをあんなに恨みましたのは私のまちがいかもしれません。彼はライオンの食べかすのこんな私を愛するくらいなら、サーカスで連れ回っている畸型者《フリーク》の誰かでも愛したほうがましだったのでしょう。
でも女の愛はそうやすやすとさめるものではございません。彼はライオンのあごの下に私を見すてて逃げ去った男です。私の危急を見て助けようともしてくれなかった男です。それでも私としてはあの男を絞首台《こうしゆだい》へ追いやる気にはなれませんでした。自分のことでしたら、どうなろうとかまわないつもりでおりました。現在の私の生きかたよりも、もっと恐ろしいものが世の中にあるでしょうか? でもとうとう私はレオナルドを運命からかばってやったのです」
「その人がいまは死んだのですね?」
「先月マーゲイトの近くで水泳中に溺死《できし》したことが、新聞に出ておりました」
「お話の中で五本の釘を打った太い棒がいちばん変ってもいるし巧妙《こうみよう》だと思いますが、あれを彼はどうしたのですか?」
「存じません。キャンプの近くに白亜坑《はくあこう》――底に深い水が青くたまった竪坑《たてこう》がありましたから、多分あの水の底に……」
「まあ今となっては、あまり重要でもありません。事件は結審《けつしん》になっているのです」
「そうです」と女はいった。「この事件は結審ずみです」
私たちは席をたって帰りかけたが、女の声音《こわね》の中に、ホームズの注意を引く何かがあった。彼は急いで彼女のほうに向きなおった。
「あなたの命はあなただけのものではありません」と彼はいった。「それをお放しなさい」
「私の命が誰かのお役にたちまして?」
「勝手にそんな断定をしてはいけません。忍苦《にんく》の生活者の実例は、それだけで世の短気な人たちへのもっとも貴《とうと》い教訓ですからね」
それに対する女の答えは恐るべきものだった。彼女はヴェールをあげて、明かるいほうへつつと歩み寄ったのである。
「あなたなら、こんなになっても堪えられまして?」
じつに恐るべきであった。顔がなくなってしまったのだから、どんな言葉をもってしても、その輪郭《りんかく》の形容などできるものではない。それなのに二つの生気ある美しい茶いろの眼《め》だけが、恐るべき廃墟《はいきよ》の中から、悲しげにのぞいているので、いっそう恐ろしい印象をあたえた。ホームズは片手をあげて同情と阻止《そし》のジェスチュアを示しながら、私をうながしてその部屋を出た。
それから二日後にホームズを訪ねてみると、彼はマントルピースの上の青い小さなびんをいささか得意そうに指さした。つまみあげてみると毒薬標示の赤いラベルがはってある。せんをとるとアーモンドのようないいにおいが鼻をうった。
「青酸だね?」
「その通り。小包で送ってきた。『私の誘惑物《ゆうわくぶつ》をお送りいたします。お言葉に従う決心でございます』と添《そ》え手紙があった。これを送ってよこした勇気ある女性の名は、いわずともわかるだろうね、ワトスン君?」
[#地付き]―一九二七年二月『ストランド』誌発表―
[#改ページ]
解説
[#地付き]延原 謙
『シャーロック・ホームズの事件簿《じけんぼ》』は長編四冊、短編集五冊あるホームズ物語のうち、作者が最後に書いた The Case-Book of Sherlock Holmes の翻訳《ほんやく》である。各短編の原題は末尾《まつび》に掲《かか》げるとおりで、その発表年月は各編の終りに示しておいた。ただし「吸血鬼《きゆうけつき》」だけは雑誌に発表することなく、いきなりこの単行本に差加えて発表された。作品の配列は先行の短編集が発表順になっているのに対して、これは見られる通りかならずしもそうはなっていない。では何を標準に配列したのかというと、訳者にはわからないというほかない。
シャーロック・ホームズ探偵談《たんていだん》は、「最後の挨拶《あいさつ》」の一編を除いて、これまでワトスンが記述した形になっていたが、この巻にはホームズ自身が語る形式のものや、三人称で書いたものがある。これは目先をかえるという読者へのサーヴィスから試みられたことなのだろうと思う。ドイルがホームズ探偵談を書くのを何度も止《や》めようとしたのに、読者の熱望に引きずられて、初志を貫徹《かんてつ》し得なかったのは周知のことであるが、これは読者に飽《あ》きられるのを恐《おそ》れたのであり、かく目先をかえてみたのなども、その現われの一つではないかと思う。
周知のとおりドイルがホームズを創造したのは前世紀末のことで、電灯電話は普及《ふきゆう》しておらず、自動車もなかった。だからホームズは連絡に電報を利用するだけで、どこへでも馬車で揺《ゆ》られてゆく。だがこの『事件簿』を書いたのは一九二○年以後のことで、地球上には飛行機さえ飛ぶようになった。そこでドイルもこれには困ったものとみえて、このころの作品になると、きわめて控《ひか》え目ながらホームズに電話を使わせている。すぐ返事の聞ける電話というものが人間の生活に取りいれられたことは、探偵小説の組立に大きな影響《えいきよう》をもたらしたといえよう。そのほか人血の検出法は『緋色《ひいろ》の研究』のなかに出てくる「シャーロック・ホームズ法」に匹敵《ひつてき》するものはまだ発見されないらしいけれども、指紋法《しもんほう》は当時とは比較《ひかく》にならぬほど進歩しているようだ。作者が指紋のことを取りあげているのは『帰還《きかん》』のなかの「ノーウッドの建築師」くらいのもので、そのほかには、読んでいて、ここでなぜ指紋を持ちださないのかなと思うことがあるくらいのものだが、後に発達した知識を昔《むかし》にさかのぼって応用するという不正は決して採用していない。まったくフェアである。
ドイルが話術に巧《たく》みであることは多くの人の指摘《してき》するところだが、たくさんの探偵小説を読んでみると、彼《かれ》の作が何でもなく書き流してあるようにみえて、少しのむだもなく最後のクライマックスに向かって集中的に書かれていることが賛嘆《さんたん》されるのである。そして前世紀末から三十年間も書きつづけていて、少しでも衰《おとろ》えをみせるどころか、「ソア橋」のような新しいトリックさえ発見しているのである。その反面、多くの作品のなかには同じトリックをいろいろに変えて使ってあるのを発見するものもある。たとえばこの本のなかの「三人ガリデブ」は「赤髪《あかげ》組合」や「株式仲買店員」などと同じトリックを使って書いたものである。それだから面白《おもしろ》くないと申すのではないが、探偵小説の研究者にとっては見逃《みのが》してならないことであろう。
この短編集は元来つぎに示す十二編からなるものであるが、ここには紙幅《しふく》に制限があるため終りの二編だけを割愛《かつあい》してある。『冒険《ぼうけん》』『思い出』『帰還』などの短編集からも数編割愛してあるから、これら割愛したものをべつに一冊にまとめ、この文庫本のシャーロック・ホームズ全集は十冊をもって完成することになっている。読者の寛容《かんよう》を願う次第《しだい》である。
The Case-Book of Sherlock Holmes
The Illustrious Client.
The Blanched Soldier.
The Mazarin Stone.
The Three Gables.
The Sussex Vampire.
The Three Garridebs.
Thor Bridge.
The Creeping Man.
The Lion's Mane.
The Veiled Lodger.
*Shoscombe Old Place.
*The Retired Colourman.
右のうち*印のものはぺージ数の関係で割愛したが、これらはいずれも『叡智《えいち》』のなかにおさめてある。
[#地付き](一九五三年十月)
改版にあたって
この度《たび》、活字を大きく読みやすくするに当たり、新潮社の意向により外国名、外来語のカタカナ表記の正確、統一を図ることになった。訳者が一九七七年に没しているため、訳者の嗣子《しし》である私がその作業に当たったが、現代においてはあまりに難解な熟語や、種々の古風すぎる表現も多少改め、不適当と思われる訳文を修正した。
あくまでも原文に忠実にを基本に置き、物語の背景であるヴィクトリア朝の持つ雰囲気《ふんいき》を伝える程度の古風さは残したいと考えつつ、もとの訳文の格調を崩《くず》さぬよう留意して作業したつもりであるが、読者諸氏の御理解を得られれば幸いである。
改訂《かいてい》に当たり、訳者の姪《めい》である成井やさ子、および、新潮文庫編集部の協力を得たので、ここに謝意を表する。
[#地付き]延原 展
[#地付き](一九九一年四月)